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Z80
Z80 は、米国ザイログによって製造された 8ビット・マイクロプロセッサーである。1976年に発表され、1980年代の中頃までは、パーソナルコンピューターのCPUを中心に幅広い用途を支えてきた。その後、特にセカンドソースメーカーから周辺デバイスを集積した製品も開発された。Z80は、今日(2022年)でも、同社により製造されている極めて息の長いCPUのひとつである。組み込み用途などではFPGAのIPコアとして利用されることが多い。 嶋正利らインテルを退社したIntel 8080の開発スタッフが設計を行っており、8080とはバイナリーレベルで「ほぼ」上位互換性がある。 ザイログオリジナルの製品としてクロック周波数が2.5MHzのZ80から20MHzの派生製品まで、各社からセカンドソースや互換製品が製造されている。2007年現在は実チップではなく、FPGAやASIC用のIPコアとして活用されている。パチンコの主基板向けプロセッサーに使われているNECのμPD70008 IPをはじめ、商用の互換コアは20社以上存在し、オープンソースのIPコアも5種類以上存在している。 当初、Z80とその互換CPUはより高速な8080互換CPUとして応用され、S-100バス互換機にもこぞって搭載されるなど、黎明期のパーソナルコンピューター市場を支配した。日本国内においても、1970年代の末から80年代前半頃にかけてビジネス用のオフィスコンピュータなどの他、各社のホビーパソコンにも搭載された。 また、組み込み用としては21世紀に至るまで応用され続けて来ており、多数の機器に搭載されたほか、初期のゲーム専用機などにも搭載されていた。パチンコ・パチスロの抽選を司る主基板部分のコアCPUには暗号機能を付与したZ80ベースのカスタムLSIが使われており、消費量の多い分野の一つである。このLSIはCPUとメモリの間で交換するデータを暗号化し、プローブを当ててもプログラムやデータが読み取れない様にしている。 8080がコンパニオンチップである8251 (USART)、8253 (CTC / PIT)、8255(PPI)でファミリーを構成していたのに対応して、Z80もZ80SIO、Z80CTC、Z80PIOや、Z80DMAでZ-80ファミリーを構成する。また、これらを1チップに集積したマイコンがある。 開発者の間では、しばしば「ゼッパチ」と略して呼ばれる。同社にはZ8というマイクロコントローラーもあるが、「ゼッパチ」の呼称はもっぱらZ80に対して使われる。 Z80はインテルの 8080マイクロプロセッサの改良型といえる製品であり、他のインテル系CPUと同じくリトルエンディアンである。8080に対して若干の拡張、電源の 5V単一化、より高いクロック周波数への対応などが図られた。メモリ空間は16ビット幅のアドレスバスで示される64KiBで、それ以上のメモリ空間を操作する場合には、外部にバンク切り替え回路やMMUなどを追加する必要がある。 NMOS版の最大動作クロック周波数は品番の末尾のサフィックス(アルファベット)の有無と種類で識別できる。Z80が2.5MHz版、Z80Aが4MHz版、Z80Bが6MHz版、Z80E若しくはZ80Hが8MHz版など。トランジスター数は8,200個。CMOS版ではZ84C0006が6.17MHz、Z84C0008が8MHz、Z84C0010が10MHz、Z84C0020が20MHz動作となっている。Z80H(40ピンDIPプラスチックパッケージ)の価格は1982年当時1000個ロット時で19.95ドルであった。Z80Hに対応するZ8500周辺ファミリがサポートされ、Z8530シリアル・コミュニケーション・コントローラ、Z8531非同期シリアル・コミュニケーション・コントローラ、Z8536カウンタ/タイマ・パラレルI/Oユニット、Z8538バスコントロールI/Oインターフェイス、Z8060 FIFOエキスパンダ、Z8516 ダイレクト・メモリ・アクセス・ユニットなどがある。 8080に対して、8ビット汎用レジスタを2セット備え切り替え可とする、IXとIYの2つのインデックスレジスタを使用したメモリ操作を含む命令の増強、DRAMのリフレッシュ(情報を維持)する機能の内蔵とそのためのRレジスタの追加、割り込みモードの追加、相対アドレスによるジャンプ命令の追加、ワイヤードロジックによる命令の実行、などの追加や変更が行われている。 また、正式には命令表に無い未定義命令があり、多くが命令のフォーマットに準ずる動作をした。機能的に既存の命令と重複するものが多かったが、16ビット固定のインデックスレジスタを8ビットレジスタとして使うものなど一部はZ280のマニュアル中で正式にドキュメント化されている。但し、Z-80においては飽くまでも非公式の命令であるため互換プロセッサの一部では期待どおりの動作をしないケースもある。 ハードウェア上の非公開の機能として、Z80のNMOS版、CMOS版には通常のリセットの他に、特別なリセット(スペシャルリセット)が存在し、Zilog社に在籍していた嶋正利、フェデリコ・ファジン、ラルフ・アンガーマンの3氏による米国特許4486827として1984年12月4日に成立している。スペシャルリセットは通常のリセット同様、リセット入力ピンを利用するが、通常リセットより短いリセットパルス幅(2クロック以内)が与えられる必要がある。スペシャルリセットが有効になるとPC(プログラムカウンター)のみがリセットされ、他のレジスタは一切変わらない。特許や他のリソースに示されているスペシャルリセットの応用はエミュレータやマルチタスキング等である。 製造には、この頃使われ始めたイオン打ち込み技術が使用された。当時、互換品の製造にあたりライセンス契約を結んでセカンドソースとなったり、クリーンルーム設計による独立実装によるのではなく、チップの顕微鏡写真からマスクを起こしてデッドコピーを行う一部の日本企業があったため、イオン打ち込み技術はその対策のためにも使われた。イオン打ち込みにより、エンハンスメント(ノーマリーオフ)に見えるが実はディプリーション(ノーマリーオン)というトランジスタを6個ほど仕組み、素直にデッドコピーしたのでは正しく動作しなくなるようにして時間稼ぎをした。 8080との差別化のため、命令の1サイクル目(M1サイクル)では他のサイクルに比べて所要ステート数が少なくなっている。通常のメモリサイクルが3ステート必要なのに対しM1サイクルでは2ステートである。タイミングチャート上はM1サイクルには4ステート必要なように見えるが、後半の2ステートはリフレッシュ機能のために使用され、通常のメモリアクセスとは関係がない。 通常のリードライトサイクルが3ステート(T1/T2/T3)なのに対し、IN/OUT命令では、自動的にウェイトサイクル(TW)が挿入され、4ステート(T1/T2/TW/T3) となる。ウェイトサイクル中に、/WAIT(active low) 信号がサンプリングされ、アサートされている限りウェイトサイクルを継続することで、応答が遅いIOデバイスに対応することが可能となっている。 これは同じ命令を実行しても8080よりも高速に実行するためのZ80の売りの一つだった。反面、このM1サイクルだけのために速いメモリが必要になり、ハードウェア設計者からは不評を買っていた。 Z80には「ある処理を行う際に、特定の命令の組み合わせを用いると、普通に命令を書いた場合よりも実行にかかるクロック数や命令の総バイト数を少なくできる」というテクニックが多数存在し、これらは「最適化」「クロック削り」などと呼ばれた。例えば、Z80にて追加されたブロック転送命令やインデックスレジスタ命令は、一連の処理に必要なプログラムサイズを節約できる反面、他の命令で代用する場合よりも所要クロック数が増大するといったデメリットもあり、命令のメモリ空間上の占有量と処理速度とのトレードオフの関係にあった。 またZ80は、同時期に新規に開発された他社製の8ビットCPUと比較すると、相対ジャンプは可能であるもののジャンプ先の範囲が狭く、PC相対アドレッシングが無いなどリロケータブルな構成をとりづらく、バイナリ化したコードをリロケータブルに配置して動作させるドライバやデバッガ、オペレーティングシステム等の環境を作るには不向きとされた。リロケータブルでない一般的なバイナリは、配置アドレスを変更する度に再コンパイルや再リンクが必要となった。またアドレス参照時のオフセットも汎用レジスタ使用時には指定できず、インデックスレジスタ使用のオフセット指定も-128〜0〜127の範囲で制限されるため、C言語のポインタとの相性がよくない面があった。 アドレッシングモードが少ないこともあり、オペコードおよび命令フォーマットを暗記して、直接機械語を記述することも、さほど難しいものでもなかった。 A,B,C,D,E,H,Lは8080の同名レジスタと同じ機能を持つ。 Fは8080上位互換のフラグレジスタである。 これらの8ビット汎用レジスタとアキュムレータ、フラグレジスタはZ80では切り替えて使える裏レジスタが用意された。 但し、裏表どちらのレジスタであるかを判断する命令はない。 Rはリフレッシュカウンタで、オリジナルのZ80では下位7ビットが変化し、最上位ビットは初期値不定で、値を書き込むとその最上位ビットが保持される。周辺LSI統合CPU・上位互換CPUでは、リフレッシュカウンタを8ビットに拡張し、最上位ビットが保存されないものもあるほか、リフレッシュ機構をCPUから完全に切り離してRレジスタが変化せず書き込んだ値が保存されるものもある。 8080に存在する命令についてはパリティフラグを除く挙動とバイナリは同一となり、基本的には上位互換であるため非互換部分に留意すれば同一のバイナリを動作させる事も可能である。 Intelによる8080の上位互換プロセッサであるIntel 8085とは拡張部分の命令セットや挙動が違うため非互換である。 バイナリこそ互換性があるものの、ザイログ社が定義したZ80のニモニックは、インテル版と全く異なるものとなっている。記述の容易さが勘案され、より整理されたものとなった。但し、これは初心者にも判りやすいとされる反面、他のCPUのニモニックと比較して、アドレッシングモードや実際の命令がはっきりせず、単純化された結果、使えない組み合わせのオペランドの区別がしにくいなどの状況が発生している。オペランドの順番は、ディスティネーションが前でソースが後である。また、オペコードの仕様上、HLレジスタとインデックスレジスタ間での処理は組み合わせに制限がある。 ここではZ80で追加された命令のみ示す。8080からある命令についてはIntel 8080#命令セットを参照。また、IXとIYについては同等の命令が存在するが、ここではIXのみを示す。 8086のストリング命令、80186/V30のI/Oストリング命令に相当する。LDIRが最もよく使われる。 Z80には8080と同じくメモリアドレスとは別に0からFF(255)までのI/Oポートアドレスを持つ。ポートアドレスはメインメモリーのアドレスデコーダーを流用していたのか、アドレスバスの下位8ビットに出力されたが、上位8ビットにも同時に値が出力される仕様になっていた。この値にはI/OアドレスをCレジスタで指定する命令の場合はBレジスタ、それ以外の命令はAレジスタの値が用いられる。 この仕様を利用するとI/Oポート空間を16ビットアドレスで取り扱うことができ、VRAMをここに割り当てることで、メインメモリーがVRAMによって圧迫されることを防ぐことができる。そのような構成をとった日本製パソコンには、シャープのX1、ソニーのSMC-777、BUBCOM80などがある。シャープMZ-1500ではオプションのRAMファイル(MZ-1R18、容量64KB)のアクセスにこの仕様を使用している。 しかし、通常に16ビットアドレスをデコードしてI/Oのハードを構成してしまうと、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令の時にアドレスバス上位8ビットにはAレジスタの内容が出力されてしまうため、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令を用いることが出来なくなってしまう。そこで、SONYのSMC-70では、I/Oアドレスの上位8ビットを下位に、下位8ビットを上位にアドレスデコードした。こうして、多くのI/Oアドレスの割り付けが必要なところでは上位8ビット・下位8ビット両方をデコードしてBCレジスタアドレシングのOUT命令でアクセス、他のI/Oアドレスでは元の下位アドレスのみをデコードしてデバイスに割り付けることにより、通常のOUT命令を使用できるようにした。 なお、ブロック入出力命令の場合はBレジスタをデクリメントするため、16ビットアドレスとしては使用しにくい。逆にこれを利用することにより残り回数を周辺デバイスなどが知ることができる。ただし、出力の場合は処理の順番はアドレス出力よりもBレジスタのデクリメントが先のため、アドレスの上位8ビットを利用する場合は1小さい値が出力されることに留意する必要がある。なお、入力の場合はアドレス出力が先である。 セカンド・ソース契約に基づいてピンコンパチブルな互換製品が他社で生産された。こうした製品には、シャープの「LH0080」モステックの「MK3880」などがある。一方、日本電気(NEC)が独自に互換性のある「μPD780」を出荷したことに対し、ザイログはこれをチップ著作権侵害として訴訟を起こしたが、最終的には両者は和解して製造販売が継続された。 もともとはNMOSプロセスで製造されたが、一部のセカンド・ソースの製造者からは、NECのZ80A互換「μPD70008AC-4」Z80H互換「μPD70008AC-8」、シャープ「LH5080」、東芝「TMPZ84C00」など、独自にCMOSプロセス化し消費電力の低減を図った製品も出荷されている。 また、2002年にシャープがシステム液晶のデモンストレーションとしてガラス基板上にZ80を形成し、MZ-80CのCPUと交換し動作させた。 この他にも東欧諸国で、例えば東ドイツのU880、ルーマニアのMMN80CPUや、ソ連のT34など、ライセンスによらないクローン製品があった。 ナショナル・セミコンダクターからは、CMOS化とともに、Intel 8085のようにアドレスバスの下位とデータバスとをマルチプレックスさせ、Z80とソフトウェアの互換性を持つ「NSC800」が製造された。ただし8085とはピン配置が異なり、置き換えることはできない。 2003年現在でも制御、組込用として、メモリおよび周辺機器の制御用回路を単一のパッケージに集積したLSIが製造されており、ASICのIPコアとしてZ80の互換プロセッサを用意するデバイスメーカーも多い。Z80 IPコアは、本家の「ALUが4ビットのため、多くの演算で複数クロックを必要とする」「レジスタがダイナミック動作をするため、クロックを停止できない」「LDx、LDxRのような繰り返し実行する命令やインデックスレジスタを使う命令等、組み込み用途では不要な複雑な命令がある」といった欠点を解消した物も提供されている。 以下にZ80互換のCPUのうち、ザイログ以外の会社で開発された上位互換性を持つものを示す。高速化を図ったものや、周辺デバイスを集積したものである。 ザイログ自身の開発による上位互換CPUを以下に示す。 Z80は、8080とバイナリレベルで互換性があり、そのDOSであるCP/M、及びCP/M上で動作する各種のソフトウェアが利用可能である。以下はCP/M上の動作を前提に供給されたものの一部である。
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"title": "I/Oポート" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この仕様を利用するとI/Oポート空間を16ビットアドレスで取り扱うことができ、VRAMをここに割り当てることで、メインメモリーがVRAMによって圧迫されることを防ぐことができる。そのような構成をとった日本製パソコンには、シャープのX1、ソニーのSMC-777、BUBCOM80などがある。シャープMZ-1500ではオプションのRAMファイル(MZ-1R18、容量64KB)のアクセスにこの仕様を使用している。", "title": "I/Oポート" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし、通常に16ビットアドレスをデコードしてI/Oのハードを構成してしまうと、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令の時にアドレスバス上位8ビットにはAレジスタの内容が出力されてしまうため、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令を用いることが出来なくなってしまう。そこで、SONYのSMC-70では、I/Oアドレスの上位8ビットを下位に、下位8ビットを上位にアドレスデコードした。こうして、多くのI/Oアドレスの割り付けが必要なところでは上位8ビット・下位8ビット両方をデコードしてBCレジスタアドレシングのOUT命令でアクセス、他のI/Oアドレスでは元の下位アドレスのみをデコードしてデバイスに割り付けることにより、通常のOUT命令を使用できるようにした。", "title": "I/Oポート" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、ブロック入出力命令の場合はBレジスタをデクリメントするため、16ビットアドレスとしては使用しにくい。逆にこれを利用することにより残り回数を周辺デバイスなどが知ることができる。ただし、出力の場合は処理の順番はアドレス出力よりもBレジスタのデクリメントが先のため、アドレスの上位8ビットを利用する場合は1小さい値が出力されることに留意する必要がある。なお、入力の場合はアドレス出力が先である。", "title": "I/Oポート" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "セカンド・ソース契約に基づいてピンコンパチブルな互換製品が他社で生産された。こうした製品には、シャープの「LH0080」モステックの「MK3880」などがある。一方、日本電気(NEC)が独自に互換性のある「μPD780」を出荷したことに対し、ザイログはこれをチップ著作権侵害として訴訟を起こしたが、最終的には両者は和解して製造販売が継続された。", "title": "Z80の互換CPU" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "もともとはNMOSプロセスで製造されたが、一部のセカンド・ソースの製造者からは、NECのZ80A互換「μPD70008AC-4」Z80H互換「μPD70008AC-8」、シャープ「LH5080」、東芝「TMPZ84C00」など、独自にCMOSプロセス化し消費電力の低減を図った製品も出荷されている。", "title": "Z80の互換CPU" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、2002年にシャープがシステム液晶のデモンストレーションとしてガラス基板上にZ80を形成し、MZ-80CのCPUと交換し動作させた。", "title": "Z80の互換CPU" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この他にも東欧諸国で、例えば東ドイツのU880、ルーマニアのMMN80CPUや、ソ連のT34など、ライセンスによらないクローン製品があった。", "title": "Z80の互換CPU" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ナショナル・セミコンダクターからは、CMOS化とともに、Intel 8085のようにアドレスバスの下位とデータバスとをマルチプレックスさせ、Z80とソフトウェアの互換性を持つ「NSC800」が製造された。ただし8085とはピン配置が異なり、置き換えることはできない。", "title": "派生品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年現在でも制御、組込用として、メモリおよび周辺機器の制御用回路を単一のパッケージに集積したLSIが製造されており、ASICのIPコアとしてZ80の互換プロセッサを用意するデバイスメーカーも多い。Z80 IPコアは、本家の「ALUが4ビットのため、多くの演算で複数クロックを必要とする」「レジスタがダイナミック動作をするため、クロックを停止できない」「LDx、LDxRのような繰り返し実行する命令やインデックスレジスタを使う命令等、組み込み用途では不要な複雑な命令がある」といった欠点を解消した物も提供されている。", "title": "派生品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下にZ80互換のCPUのうち、ザイログ以外の会社で開発された上位互換性を持つものを示す。高速化を図ったものや、周辺デバイスを集積したものである。", "title": "他社によるZ80上位互換CPU" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ザイログ自身の開発による上位互換CPUを以下に示す。", "title": "後継CPU" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Z80は、8080とバイナリレベルで互換性があり、そのDOSであるCP/M、及びCP/M上で動作する各種のソフトウェアが利用可能である。以下はCP/M上の動作を前提に供給されたものの一部である。", "title": "主な開発環境" } ]
Z80 は、米国ザイログによって製造された 8ビット・マイクロプロセッサーである。1976年に発表され、1980年代の中頃までは、パーソナルコンピューターのCPUを中心に幅広い用途を支えてきた。その後、特にセカンドソースメーカーから周辺デバイスを集積した製品も開発された。Z80は、今日(2022年)でも、同社により製造されている極めて息の長いCPUのひとつである。組み込み用途などではFPGAのIPコアとして利用されることが多い。
{{出典の明記|date=2018年7月}} [[ファイル:Z0840008PSC_01.jpg|thumb|Z80 CPU(1993年第45週製造品)]] '''Z80''' は、[[アメリカ合衆国|米国]][[ザイログ]]によって製造された [[8ビット]]・[[マイクロプロセッサー]]である。[[1976年]]に発表され、[[1980年代]]の中頃までは、[[パーソナルコンピューター]]の[[CPU]]を中心に幅広い用途を支えてきた。その後、特にセカンドソースメーカーから周辺デバイスを集積した製品も開発された。Z80は、今日(2022年)でも、同社により製造されている極めて息の長いCPUのひとつである。[[組み込みシステム|組み込み]]用途などではFPGAのIPコアとして利用されることが多い{{efn|一例として[[パチンコ]]では、[[保安通信協会]]による規制で[[記憶装置|メモリ]]等の制限が厳しいため、メインの制御CPUはそれに適したZ80が使われ続けている<ref>[http://hardware.slashdot.jp/story/13/09/17/0514223/パチンコパチスロ台ではいまだZ80が主流、そのため技術者が高齢化? パチンコ/パチンコ/パチスロ台ではいまだZ80が主流、そのため技術者が高齢化?]</ref>。}}。 == 概要 == [[嶋正利]]ら[[インテル]]を退社した[[Intel 8080]]の開発スタッフが設計を行っており、8080とは[[バイナリー]]レベルで「ほぼ」上位互換性がある。 ザイログオリジナルの製品として[[クロック|クロック周波数]]が2.5[[メガヘルツ|MHz]]のZ80から20MHzの派生製品まで、各社から[[セカンドソース]]や互換製品が製造されている。2007年現在は実チップではなく、[[FPGA]]や[[ASIC]]用の[[IPコア]]として活用されている。[[パチンコ]]の主基板向けプロセッサーに使われているNECのμPD70008 IPをはじめ、商用の互換コアは20社以上存在し、[[オープンソース]]のIPコアも5種類以上存在している。 当初、Z80とその互換CPUはより高速な8080互換CPUとして応用され、[[S-100バス]]互換機にもこぞって搭載されるなど、黎明期のパーソナルコンピューター市場を支配した。日本国内においても、1970年代の末から80年代前半頃にかけてビジネス用のオフィスコンピュータなどの他、各社の[[ホビーパソコン]]にも搭載された。 また、組み込み用としては[[21世紀]]に至るまで応用され続けて来ており、多数の機器に搭載されたほか、初期のゲーム専用機などにも搭載されていた。パチンコ・パチスロの抽選を司る主基板部分のコアCPUには暗号機能を付与したZ80ベースのカスタムLSIが使われており、消費量の多い分野の一つである。このLSIはCPUとメモリの間で交換するデータを暗号化し、プローブを当ててもプログラムやデータが読み取れない様にしている。 8080がコンパニオンチップである8251 ([[UART|USART]])、8253 ([[CTC]] / [[:en:Programmable interval timer|PIT]])、8255([[パラレルポート|PPI]])でファミリーを構成していたのに対応して、Z80もZ80SIO、Z80CTC、Z80PIOや、Z80[[Direct Memory Access|DMA]]でZ-80ファミリーを構成する。また、これらを1チップに集積したマイコンがある。 開発者の間では、しばしば「'''ゼッパチ'''」と略して呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=Insider's Computer Dictionary:Z80 とは? - @IT|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/icd/root/37/5785237.html|website=atmarkit.itmedia.co.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>。同社には[[Z8 (コントローラ)|Z8]]というマイクロコントローラーもあるが、「ゼッパチ」の呼称はもっぱらZ80に対して使われる。 == ハードウェア == Z80は[[インテル]]の 8080[[マイクロプロセッサ]]の改良型といえる製品であり、他のインテル系CPUと同じく[[エンディアン#リトルエンディアン|リトルエンディアン]]である。8080に対して若干の拡張、電源の 5[[ボルト (単位)|V]]単一化、より高い[[クロック周波数]]への対応などが図られた。メモリ空間は[[16ビット]]幅のアドレスバスで示される64[[キビバイト|KiB]]で、それ以上のメモリ空間を操作する場合には、外部に[[バンク切り替え]]回路や[[メモリ管理ユニット|MMU]]などを追加する必要がある。 NMOS版の最大動作[[クロック周波数]]は品番の末尾のサフィックス(アルファベット)の有無と種類で識別できる。Z80が2.5MHz版、Z80Aが4MHz版、Z80Bが6MHz版、Z80E{{efn|シャープLH0080/AにHがついたものは、DIPパッケージで使用温度範囲を拡大したものである。}}若しくはZ80Hが8MHz版{{Sfn |ASCII 1982年12月号|p=75}}など。トランジスター数は8,200個。CMOS版ではZ84C0006が6.17MHz、Z84C0008が8MHz、Z84C0010が10MHz、Z84C0020が20MHz動作となっている。Z80H(40ピンDIPプラスチックパッケージ)の価格は1982年当時1000個ロット時で19.95ドルであった{{Sfn |ASCII 1982年12月号|p=75}}。Z80Hに対応するZ8500周辺ファミリがサポートされ、[[Zilog SCC|Z8530シリアル・コミュニケーション・コントローラ]]、Z8531非同期シリアル・コミュニケーション・コントローラ、Z8536カウンタ/タイマ・パラレルI/Oユニット、Z8538[[バス (コンピュータ)|バス]]コントロールI/Oインターフェイス、Z8060 [[FIFO]]エキスパンダ、Z8516 [[Direct Memory Access|ダイレクト・メモリ・アクセス]]・ユニットなどがある{{Sfn |ASCII 1982年12月号|p=75}}。 8080に対して、8ビット汎用レジスタを2セット備え切り替え可とする、IXとIYの2つの[[レジスタ (コンピュータ)#インデックスレジスタ|インデックスレジスタ]]を使用した[[主記憶装置|メモリ]]操作を含む命令の増強、[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]のリフレッシュ(情報を維持)する機能の内蔵とそのためのR[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の追加、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]モードの追加、相対アドレスによるジャンプ命令の追加、[[ワイヤードロジック]]による命令の実行、などの追加や変更が行われている。 また、正式には命令表に無い未定義命令があり、多くが命令のフォーマットに準ずる動作をした。機能的に既存の命令と重複するものが多かったが、16ビット固定のインデックスレジスタを8ビットレジスタとして使うものなど一部はZ280のマニュアル中で正式にドキュメント化されている。但し、Z-80においては飽くまでも非公式の命令であるため互換プロセッサの一部では期待どおりの動作をしないケースもある。 ハードウェア上の非公開の機能として、Z80のNMOS版、CMOS版には通常のリセットの他に、特別なリセット(スペシャルリセット)が存在し、Zilog社に在籍していた嶋正利、フェデリコ・ファジン、ラルフ・アンガーマンの3氏による米国特許4486827<ref>https://patents.google.com/patent/US4486827</ref>として1984年12月4日に成立している。スペシャルリセットは通常のリセット同様、リセット入力ピンを利用するが、通常リセットより短いリセットパルス幅(2クロック以内)が与えられる必要がある。スペシャルリセットが有効になるとPC(プログラムカウンター)のみがリセットされ、他のレジスタは一切変わらない。特許や他のリソース<ref>http://www.primrosebank.net/computers/z80/z80_special_reset.htm</ref>に示されているスペシャルリセットの応用はエミュレータやマルチタスキング等である。 製造には、この頃使われ始めた[[イオン注入|イオン打ち込み]]技術が使用された。当時、互換品の製造にあたりライセンス契約を結んでセカンドソースとなったり、[[クリーンルーム設計]]による独立実装によるのではなく、チップの顕微鏡写真からマスクを起こしてデッドコピーを行う一部の日本企業があったため、イオン打ち込み技術はその対策のためにも使われた。イオン打ち込みにより、エンハンスメント(ノーマリーオフ)に見えるが実はディプリーション(ノーマリーオン)というトランジスタを6個ほど仕組み、素直にデッドコピーしたのでは正しく動作しなくなるようにして時間稼ぎをした<ref>嶋正利『マイクロコンピュータの誕生』p. 142</ref>。 == 特徴 == 8080との差別化のため、命令の1サイクル目(M1サイクル)では他のサイクルに比べて所要ステート数が少なくなっている。通常のメモリサイクルが3ステート必要なのに対しM1サイクルでは2ステートである。タイミングチャート上はM1サイクルには4ステート必要なように見えるが、後半の2ステートはリフレッシュ機能のために使用され、通常のメモリアクセスとは関係がない。 通常のリードライトサイクルが3ステート(T1/T2/T3)なのに対し、IN/OUT命令では、自動的にウェイトサイクル(TW)が挿入され、4ステート(T1/T2/TW/T3) となる。ウェイトサイクル中に、/WAIT(active low) 信号がサンプリングされ、アサートされている限りウェイトサイクルを継続することで、応答が遅いIOデバイスに対応することが可能となっている<ref>{{cite web |title=Z80 CPU User Manual |url=http://www.zilog.com/docs/z80/um0080.pdf |website=zilog.com |date=2016 |access-date=December 8, 2020 |page=11 |first= |last= |url-status= |archive-url= |archive-date=}}</ref>。 これは同じ命令を実行しても8080よりも高速に実行するためのZ80の売りの一つだった。反面、このM1サイクルだけのために速いメモリが必要になり、ハードウェア設計者からは不評を買っていた。 Z80には「ある処理を行う際に、特定の命令の組み合わせを用いると、普通に命令を書いた場合よりも実行にかかるクロック数や命令の総バイト数を少なくできる」というテクニックが多数存在し、これらは「最適化」「クロック削り」などと呼ばれた。例えば、Z80にて追加されたブロック転送命令やインデックスレジスタ命令は、一連の処理に必要なプログラムサイズを節約できる反面、他の命令で代用する場合よりも所要クロック数が増大するといったデメリットもあり、命令のメモリ空間上の占有量と処理速度との[[トレードオフ]]の関係にあった。 またZ80は、同時期に新規に開発された他社製の8ビットCPUと比較すると、相対ジャンプは可能であるもののジャンプ先の範囲が狭く、PC相対アドレッシングが無いなど[[リロケータブル]]な構成をとりづらく、バイナリ化したコードをリロケータブルに配置して動作させるドライバやデバッガ、オペレーティングシステム等の環境を作るには不向きとされた。リロケータブルでない一般的なバイナリは、配置アドレスを変更する度に再コンパイルや再リンクが必要となった。またアドレス参照時のオフセットも汎用レジスタ使用時には指定できず、インデックスレジスタ使用のオフセット指定も-128〜0〜127の範囲で制限されるため、[[C言語]]の[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]との相性がよくない面があった。 [[アドレッシングモード]]が少ないこともあり、オペコードおよび命令フォーマットを暗記して、直接機械語を記述することも、さほど難しいものでもなかった。 == レジスタ == [[ファイル:Z80-CPU_register_set.png|thumb|right|300px|Z80-CPUのレジスター一覧]] A,B,C,D,E,H,Lは8080の同名レジスタと同じ機能を持つ。 Fは8080上位互換のフラグレジスタである。 これらの8ビット汎用レジスタとアキュムレータ、フラグレジスタはZ80では切り替えて使える裏レジスタが用意された。 但し、裏表どちらのレジスタであるかを判断する命令はない。 Rはリフレッシュカウンタで、オリジナルのZ80では下位7ビットが変化し、最上位ビットは初期値不定で、値を書き込むとその最上位ビットが保持される。周辺LSI統合CPU・上位互換CPUでは、リフレッシュカウンタを8ビットに拡張し、最上位ビットが保存されないものもあるほか、リフレッシュ機構をCPUから完全に切り離してRレジスタが変化せず書き込んだ値が保存されるものもある。 : フラグレジスタのビット位置(*は8080から拡張されたビット) :: b7:S 符号 :: b6:Z ゼロ :: b5:未使用 (0に固定) :: b4:H AUXキャリー([[パック10進数|パックBCD]]演算用) :: b3:未使用 (0に固定) :: b2:P/V * パリティ・オーバーフロー(8080ではP パリティ) :: b1:N * 減算(ADD命令で0、SUB命令で1になる。8080では未使用、0に固定) :: b0:C キャリー == 命令セット == 8080に存在する命令についてはパリティフラグを除く挙動とバイナリは同一となり、基本的には上位互換であるため非互換部分に留意すれば同一のバイナリを動作させる事も可能である。 Intelによる8080の上位互換プロセッサである[[Intel 8085]]とは拡張部分の命令セットや挙動が違うため非互換である。 バイナリこそ互換性があるものの、ザイログ社が定義したZ80のニモニックは、インテル版と全く異なるものとなっている。記述の容易さが勘案され、より整理されたものとなった。但し、これは初心者にも判りやすいとされる反面、他のCPUのニモニックと比較して、アドレッシングモードや実際の命令がはっきりせず、単純化された結果、使えない組み合わせのオペランドの区別がしにくいなどの状況が発生している。オペランドの順番は、ディスティネーションが前でソースが後である。また、オペコードの仕様上、HLレジスタとインデックスレジスタ間での処理は組み合わせに制限がある。 ここではZ80で追加された命令のみ示す。8080からある命令については[[Intel 8080#命令セット]]を参照。また、IXとIYについては同等の命令が存在するが、ここではIXのみを示す。 * rは8ビットレジスタA,B,C,D,E,H,Lまたは''(HL)''を表す。 * rrは16ビットレジスタBC,DE,HL,SPを表す。 * rxは16ビットレジスタBC,DE,IX,SPを表す。 * nは8ビットの即値を表す。 * nnは16ビットの数値(即値またはメモリアドレス)を表す。 * bはビット位置0~7を表す。 * dはインデックスレジスタの変位(符号つき8ビット)を表す。 * eはプログラムカウンタの変位(符号つき8ビット)を表す。 === 転送・交換命令 === ; LD r,(IX+d) ; LD (IX+d),r : インデックスレジスタを用いたメモリとレジスタの転送。rに(HL)は指定できない。 ; LD (IX+d),n : メモリに即値をストアする。 ; LD IX,nn : インデックスレジスタに即値をロードする。 ; LD IX,(nn) : メモリの内容をインデックスレジスタにロードする。 ; LD (nn),IX : インデックスレジスタの内容をメモリにストアする。 ; LD BC,(nn) ; LD DE,(nn) ; LD SP,(nn) : メモリの内容を16ビットレジスタにロードする。8080ではHLレジスタでしかできなかった。 ; LD (nn),BC ; LD (nn),DE ; LD (nn),SP : 16ビットレジスタの内容をメモリにストアする。8080ではHLレジスタでしかできなかった。 ; LD SP,IX : インデックスレジスタの内容をSPレジスタに転送する。 ; EX AF,AF' : AFレジスタとAF'レジスタを交換する。 ; EXX : BC,DE,HLレジスタとBC',DE',HL'レジスタを交換する。 ; LD A,I ; LD I,A : 割り込みベクタレジスタとAレジスタの転送。LD A,Iを使用するとき、特にNMOS品ではこの命令を実行中に割り込みがかかった場合、元の割り込み状態に関わらず割り込み禁止になる場合がある<ref>{{Cite web|和書|date=1997-06-17|url=http://www.vector.co.jp/soft/data/hardware/se056089.html|title=Z80・割り込みフラグの不具合に関するレポート Z80のIFF2に関するトラブル体験談|publisher=下間 憲行|accessdate=2018-01-16}}</ref>。このバグ([[エラッタ]])はNMOS品は全般にある。CMOS品でも、東芝TMPZ84Cxx・日立HD64180 R0マスク・他にはこのバグがある。ザイログのものは修正されている。HD64180はR1マスクおよびZバージョンで修正済み。シャープLH5080も修正済みの模様。NEC μPD70008は不明。 ; LD A,R ; LD R,A : リフレッシュレジスタとAレジスタの転送。オリジナルのZ80においてRの下位7ビットは常に変動しているため、LD A,Rは簡易な乱数発生器としてよく使われる。互換CPUでは、8ビット全てが変動したり、変動しないものもある。 : LD A,Rについては、チップのバージョンにより前述のLD A,Iと同様の割り込み禁止となる問題が発生する場合がある。 === 算術演算命令 === ; ADD IX,rx : 16ビットレジスタの内容をインデックスレジスタに加算する。 ; ADC HL,rr : 16ビットレジスタの内容とCフラグをHLレジスタに加算する。ADD命令は8080から存在した。 ; SBC HL,rr : 16ビットレジスタの内容とCフラグをHLレジスタから減算する。なお16ビットのSUB命令はない。そのため8ビットの算術演算命令のうちSUB命令だけAを表記しない。 ; INC IX : インデックスレジスタの内容をインクリメントする。 ; DEC IX : インデックスレジスタの内容をデクリメントする。 ; NEG : Aレジスタの[[2の補数]]をとる。 === ローテート・シフト命令 === ; RLC r ; RLC (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容とCフラグを連結して左ローテートする。RLC Aと8080からあるRLCAとではフラグの変化が異なる。 ; RRC r ; RRC (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容とCフラグを連結して右ローテートする。RRC Aと8080からあるRRCAとではフラグの変化が異なる。 ; RL r ; RL (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容を左ローテートする。RL Aと8080からあるRLAとではフラグの変化が異なる。 ; RR r ; RR (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容を右ローテートする。RR Aと8080からあるRRAとではフラグの変化が異なる。 ; RLD ; RRD : Aレジスタの下位4ビットとHLを連結して4ビット単位でローテートする。BCD用の命令。 ; SLA r ; SLA (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容を左に算術シフトする。 ; SRA r ; SRA (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容を右に算術シフトする。 ; SRL r ; SRL (IX+d) : レジスタまたはメモリの内容を右に論理シフトする。 === ビット操作命令 === ; BIT b,r ; BIT b,(IX+d) : レジスタまたはメモリの特定のビットをテストする。 ; SET b,r ; SET b,(IX+d) : レジスタまたはメモリの特定のビットをセットする。 ; RES b,r ; RES b,(IX+d) : レジスタまたはメモリの特定のビットをリセットする。 === ジャンプ・コール・リターン命令 === ; JR e : 無条件相対ジャンプ。 ; JR NZ,e ; JR Z,e ; JR NC,e ; JR C,e : 条件付相対ジャンプ。 ; DJNZ e : Bレジスタをデクリメントして0でなければ相対ジャンプする(Decrement and Jump if Non Zero)。ループに使う。 ; JP (IX) : インデックスレジスタの内容をPCに転送する。 ; RETI : 割り込みからのリターン。 ; RETN : NMIからのリターン。 === スタック操作命令 === ; PUSH IX : インデックスレジスタの内容をスタックにプッシュする。 ; POP IX : スタックトップの内容をインデックスレジスタにポップする。 ; EX (SP),IX : インデックスレジスタとスタックトップの内容を交換する。 === 入出力命令 === ; IN r,(C) ; OUT (C),r : CレジスタまたはBCレジスタによる間接指定の入出力。rに(HL)は指定できない。 === CPU制御命令 === ; IM x : 割り込みモードを設定する。xの値は0〜2。 === ブロック命令 === 8086のストリング命令、80186/V30のI/Oストリング命令に相当する。LDIRが最もよく使われる。 ; LDI/LDD/LDIR/LDDR : ブロック転送。HLレジスタの指すメモリの内容をDEレジスタの指すメモリへ転送することを、DE,HLレジスタをインクリメント/デクリメントしながらBCレジスタの回数だけ繰り返す。LDIRとLDDRは転送元と転送先の領域が重なる場合に使い分ける。 ; CPI/CPD/CPIR/CPDR : ブロックサーチ。AレジスタとHLレジスタの指すメモリの内容を比較することを、HLレジスタをインクリメント/デクリメントしながらBCレジスタの回数だけ、あるいは比較結果が一致するまで繰り返す。 ; INI/IND/INIR/INDR : ブロック入力。Cレジスタの指すI/OポートからHLレジスターの指すメモリに入力することを、HLレジスタをインクリメント/デクリメントしながらBレジスタの回数だけ繰り返す。 ; OUTI/OUTD/OTIR/OTDR : ブロック出力。HLレジスタの指すメモリからCレジスタの指すI/Oポートに出力することを、HLレジスタをインクリメント/デクリメントしながらBレジスタの回数だけ繰り返す。 == I/Oポート == Z80には8080と同じくメモリアドレスとは別に0からFF(255)までのI/Oポートアドレスを持つ。ポートアドレスはメインメモリーのアドレスデコーダーを流用していたのか、アドレスバスの下位8ビットに出力されたが、上位8ビットにも同時に値が出力される仕様になっていた。この値にはI/OアドレスをCレジスタで指定する命令の場合はBレジスタ、それ以外の命令はAレジスタの値が用いられる。<!--8080ではアドレスバス下位8ビットと同じ値が上位8ビットにも同時に出力される。8086ではアドレス下位8ビットを指定した場合は、上位8ビットは0になる。--> この仕様を利用するとI/Oポート空間を16ビットアドレスで取り扱うことができ、[[VRAM]]をここに割り当てることで、メインメモリーがVRAMによって圧迫されることを防ぐことができる。そのような構成をとった日本製パソコンには、シャープの[[X1 (コンピュータ)|X1]]、ソニーの[[SMC-777]]、[[FM-8#BUBCOM80|BUBCOM80]]などがある。シャープ[[MZ-1500]]ではオプションの[[RAMディスク|RAMファイル]](MZ-1R18、容量64KB)のアクセスにこの仕様を使用している<ref>「MZ-1500 オーナーズマニュアル」(付属説明書)に具体的な記述あり。</ref>。 しかし、通常に16ビットアドレスをデコードしてI/Oのハードを構成してしまうと、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令の時にアドレスバス上位8ビットにはAレジスタの内容が出力されてしまうため、アドレス指定にBCレジスタを指定しないOUT命令を用いることが出来なくなってしまう。そこで、[[ソニー|SONY]]の[[SMC-70]]では、I/Oアドレスの上位8ビットを下位に、下位8ビットを上位にアドレスデコードした。こうして、多くのI/Oアドレスの割り付けが必要なところでは上位8ビット・下位8ビット両方をデコードしてBCレジスタアドレシングのOUT命令でアクセス、他のI/Oアドレスでは元の下位アドレスのみをデコードしてデバイスに割り付けることにより、通常のOUT命令を使用できるようにした。 なお、ブロック入出力命令の場合はBレジスタをデクリメントするため、16ビットアドレスとしては使用しにくい。逆にこれを利用することにより残り回数を周辺デバイスなどが知ることができる。ただし、出力の場合は処理の順番はアドレス出力よりもBレジスタのデクリメントが先のため、アドレスの上位8ビットを利用する場合は1小さい値が出力されることに留意する必要がある。なお、入力の場合はアドレス出力が先である。 == Z80の互換CPU == [[セカンドソース|セカンド・ソース契約]]に基づいてピンコンパチブルな互換製品が他社で生産された。こうした製品には、[[シャープ]]の「LH0080」[[モステック]]の「MK3880」などがある。一方、[[日本電気]](NEC)が独自に互換性のある「[[μCOMシリーズ#.CE.BCCOM-82|μPD780]]」を出荷したことに対し、ザイログはこれをチップ著作権侵害として訴訟を起こしたが、最終的には両者は和解して製造販売が継続された。 [[ファイル:Sharp LH0080A.jpg|thumb|LH0080A]] [[ファイル:UPD780C-1.jpg|thumb|μPD780C-1]] [[ファイル:UPD70008AC-4.jpg|thumb|μPD70008AC-4]] もともとは[[NMOSロジック|NMOS]]プロセスで製造されたが、一部のセカンド・ソースの製造者からは、NECのZ80A互換「[[NEC Vシリーズ|μPD70008AC-4]]」Z80H互換「μPD70008AC-8」、シャープ「LH5080」、[[東芝]]「TMPZ84C00」など、独自に[[Complementary Metal Oxide Semiconductor|CMOS]]プロセス化し消費電力の低減を図った製品も出荷されている。 また、[[2002年]]に[[シャープ]]が[[システム液晶]]のデモンストレーションとしてガラス基板上にZ80を形成し、[[MZ-80#MZ-80C|MZ-80C]]のCPUと交換し動作させた。 この他にも東欧諸国で、例えば[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[MME U880|U880]]、[[ルーマニア]]の[[MMN80|MMN80CPU]]や、[[ソ連]]の[[:it:T34_(microprocessore)|T34]]など、ライセンスによらないクローン製品があった。 == 派生品 == [[ナショナル・セミコンダクター]]からは、CMOS化とともに、Intel 8085のようにアドレスバスの下位とデータバスとをマルチプレックスさせ、Z80とソフトウェアの互換性を持つ「NSC800」が製造された。ただし8085とはピン配置が異なり、置き換えることはできない。 2003年現在でも制御、組込用として、メモリおよび周辺機器の制御用回路を単一のパッケージに集積した[[LSI]]が製造されており、[[ASIC]]のIPコアとしてZ80の互換プロセッサを用意するデバイスメーカーも多い。Z80 IPコアは、本家の「ALUが4ビットのため、多くの演算で複数クロックを必要とする」「レジスタがダイナミック動作をするため、クロックを停止できない」「LDx、LDxRのような繰り返し実行する命令やインデックスレジスタを使う命令等、組み込み用途では不要な複雑な命令がある」といった欠点を解消した物も提供されている。 == 他社によるZ80上位互換CPU == 以下にZ80互換のCPUのうち、ザイログ以外の会社で開発された上位互換性を持つものを示す。高速化を図ったものや、周辺デバイスを集積したものである。 [[ファイル:HD64180SY10.png|thumb|HD64180SY10]] [[ファイル:R800_02.jpg|thumb|R800 CPU]] [[ファイル:TMPZ84C015AF_01.png|thumb|TMPZ84C015AF]] ; [[LR35902]] : Z80のセカンドソースメーカーである[[シャープ]]がゲームボーイ用に開発したZ80のカスタムCPUである。1989年4月21日に発売されたゲームボーイに採用されたCPUのクロック数は4.19MHz、ゲームボーイカラーは8.39MHzと高速である。厳密には Intel 8080 と Z80 の中間の様な仕様になっているが、 Custom Z80 とか GB Z80 といわれている。 ; [[HD64180]] : [[日立製作所]](現[[ルネサス エレクトロニクス]])が開発。1984年に登場。高速化されたZ80バイナリーレベル互換命令とMMUを集積し、アドレス空間を512KB〜1MBにしたもの。乗算、TST命令などを追加している。IX/IYレジスタの8ビットアクセスには対応していない。尚、発売当初はZ80上位互換ではなく、CP/M-80互換CPUと説明した。68系周辺デバイスのバスサイクル(同期バス)に合わせた'''HD64180R1'''と、Z80用周辺デバイスのバスサイクル(非同期バス)を直接接続できる'''HD64180Z'''がある。ザイログからは、HD64180Zのセカンドソース品としてZ80180と派生製品が出荷され、2022年現在現行製品である。 ; μPD9002 : [[NEC Vシリーズ]]のひとつで、[[PC-8800シリーズ|PC-88VA]]が使用。V30が8086の上位互換であるのと同時に8080[[互換モード]]を持つように、この石は8086の上位互換であるのと同時にZ80互換モードを持つ。型番が示すとおりVシリーズの通常のラインナップ(μPD70〜)ではなく、カスタムモデルである。チップそのものはV30をベースに周辺回路を統合したV50を基本としているため、Intel 8086とのソケット互換性はないが、PC-88VA2/3においては、V30モード時に8087-1コプロセッサが稼動する数値演算プロセッサソケットが用意されていた。 ; [[R800]] : [[アスキー (企業)|アスキー]]が開発した、内部16ビットの高速版Z80互換CPU。1990年4月に発表。乗算命令を拡張しているが、使用するレジスターの組み合わせで計算結果が不正になる[[不具合]]があるため、実質使用できるレジスターが制限されていた。<!--不具合の詳細について情報をお待ちしています。→アスキーから出されていたMSXturboR向け資料に記載の内容がこれで、被乗数・乗数が同じレジスタの場合も不具合の発生する組み合わせに含まれるので、二乗も不正になりますby修正者-->また隠し命令のうち、IX/IYレジスタの8ビットアクセスを主とするいくつかの命令が正式命令としてサポートされる。Rレジスタが8ビット幅になっている。[[MSXturboR]]に搭載された。CPU機能を停止しメモリコントローラーとして動作するモードも持ち、同機で使用された。MMUやDMAを集積しているが、仕様がMSXのものとは異なるため使用されなかった。 ; TMPZ84C00 ; TMPZ84C011 : [[東芝]] CMOS版Z80CPU、Z80CTC、Z80PIO非互換パラレルI/Oを集積したチップ。 ; TMPZ84C013 : 東芝 CMOS版Z80CPU、Z80CTC、Z80SIO等を集積したチップ。 ; TMPZ84C015 : 東芝 CMOS版Z80CPU、Z80CTC、Z80PIO、Z80SIO、CGC、ウォッチドッグタイマー等)を集積したチップ。また、本家にあたるザイログからも同等のZ84C15が販売されている。ただし、ピン機能の一部が異なる。東芝TMPZ84C015は製造中止。 ; TMPZ84C112 : 東芝 CMOS版Z80CPU、Z80PIO非互換パラレルI/O、タイマー、256バイトRAM等を集積したチップ。 ; TMPZ84C710 : 東芝 CMOS版Z80CPU、ISDN基本インターフェイス、Z80SIO等を集積したチップ。 ; TMPZ84C711 : 東芝 CMOS版Z80CPU、ISDN基本インターフェイス、Z80SIO等を集積したチップ。Z84C710上位互換。 ; TMPZ84C810 : 東芝 CMOS版Z80CPU、Z80CTC、Z80SIO、パラレルI/O、DMA、MMU、DRAMリフレッシュコントローラー、ウォッチドッグタイマー等を集積したチップ。 ; KC80, KC82 : [[川崎マイクロエレクトロニクス]]のZ80互換の高速版CPU。KC80の改良版KC82をコアにMMUなどを追加した組み込み用ICとしてKL5C8012、KL5C8016、KL5C8020が販売されていた。なお、KC80 CPU単体の KL5C8400 も販売されていた。また、16ビット版で上位互換の[[KC160]]も販売されていた。2009年7月1日に一連の汎用マイコンの生産終了が発表された。 ; [[MSX-ENGINE]] : [[MSX]] 向けのカスタムCPU。MSXで使用する周辺LSIを取り込んで製品化されたもの。 ; [[Rabbit2000]] : Rabbit 2000は一部の命令の追加と削除をして高速化したZ80である。米国{{仮リンク|ラビット・セミコンダクター|en|Rabbit Semiconductor|preserve=1}}が開発・販売している。Rabbit2000、Rabbit3000、Rabbit4000、Rabbit5000のバージョンがあり、上位モデルのRabbit4000/5000では32bitとして動作する32bitアーキテクチャーとなっている。 Rabbit2000/3000/4000/5000はHD64180/Z180のアーキテクチャーを基にしており完全なバイナリー互換ではない([[:en:Zilog Z80#Derivatives]]のPartly compatibleを参照)。eZ80と同じく現行商品である。 == 後継CPU == ザイログ自身の開発による上位互換CPUを以下に示す。 ; [[Z180]] : 日立が開発した[[HD64180|HD64180Z]]についてザイログがセカンドソーサとなったZ64180の改良品。HD64180Z/Z64180とは仕様が微妙に異なる。Z80180やZ8S180がある。 ; [[Z800]] : Z80を16ビットCPUとして大幅に拡張するとともに周辺チップを集積したもの。命令体系拡張として、乗除算命令の追加、16ビットオペランド命令の増強、PC相対アドレッシングモードやSP相対アドレッシングモードの拡充などを行い、また従来隠し命令となっていたIX、IYレジスタを分割操作する命令などが公式にサポートされる。システムとしてはユーザーモード・スーパーパイザーモードの区別を持ち、内蔵MMUによるメモリ保護機能が提供される。256byteのRAMを内蔵し、ローカルメモリとして使用する他に、キャッシュとして使用することも可能である。外部バスは従来のZ80と互換性の高い8ビット幅のZ80-BUSと、16ビット幅のZ-BUSを選択することが可能で、またMMUの機能により512KBアドレス空間と16MBアドレス空間が選べる。このバスの種別とサポートするアドレス空間の種別により4つの製品 (Z8108,Z8116,Z8208,Z8216) が計画された。のちにC-MOS化されたZ280に引き継がれた。 ; [[Z280]] : あまり採用される事無く、消え去った。ほとんど生産されなかった[[Z800]]を[[CMOS]]化したもの。Z800のZ-BUSインターフェース・16MBアドレス空間サポート版であるZ8216の仕様をおおよそ引き継ぎ、起動時にコンフィギュレーションで他のバージョンの仕様もサポートする。 ; [[Z380]] : [[1993年]][[2月5日]]に発表されたZ80互換の32ビットCPU。レジスタは従来の汎用レジスターに加えて16ビット追加部分を含めたグループが4バンク存在する。4GBのアドレス空間をリニアにアクセス可能。DRAMリフレッシュコントローラやINT0~3の割込みが追加されている。[[Z8000]]との互換性はない。 ; [[eZ80]] : 3ステージ[[命令パイプライン]]を導入し、同一クロックのZ80に対して約3倍のパフォーマンスを持つ<ref>[http://www.zilog.com/docs/um0077.pdf "eZ80 CPU User Manual"]</ref>。最大クロックスピードは50MHz、アドレスレジスタを24ビットに拡張しており、16MByteアドレッシング可能。[[Rabbit 2000]]/3000/4000/5000と同じく現行商品である。 == 主な開発環境 == Z80は、8080とバイナリレベルで互換性があり、そのDOSである[[CP/M]]、及びCP/M上で動作する各種のソフトウェアが利用可能である。以下はCP/M上の動作を前提に供給されたものの一部である。 * [[BASIC]] ** BASIC80 * アセンブラ ** {{仮リンク|MACRO80|en|Microsoft MACRO-80}} ** MAC/RMAC * C言語 ** [[BDS-C]] ** [[LSI C|LSI C-80]] ** [[Hitech-C]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{Refbegin}} *{{Cite book |和書| last=嶋 |first=正利 |authorlink=嶋正利 |title=マイクロコンピュータの誕生:わが青春の4004 |publisher=[[岩波書店]] |date=1987-08 |isbn=400006021X }} *{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1982年12月号 |volume=6 |issue=12 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-12-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1982年12月号}} }} {{Refend}} == 関連項目 == * [[組み込みシステム]] == 外部リンク == *{{Kotobank|2=ASCII.jpデジタル用語辞典}} {{ザイログ}} {{Computer-stub}} {{Normdaten}} [[Category:マイクロプロセッサ]] [[Category:MSX]]
2003-02-17T08:39:49Z
2023-11-11T00:11:38Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Z80
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OS-9
OS-9(オーエスナイン)は、マイクロウェアシステム(英語版)によってモトローラの8ビットMPUである6809のために開発されたリアルタイムオペレーティングシステム(以下、RTOS)である。 当時マイクロウェアシステムはモトローラの依頼により共同でプログラミング言語BASIC09(英語版)を開発していた。この言語の開発・実行環境としてマイクロウェアが開発したのが OS-9 である。 その後680x0に移植され、さらにx86、PowerPC、SH、ARMなど幅広いCPUに対応した。 2001年にラディシス社によってマイクロウェアシステムが買収されて一部門となり、2013年に販社グループに売却されてマイクロウェアLP社として独立した。 OS-9は、プリエンプティブ・マルチタスク(詳細はプリエンプションも参照のこと)をおこなうRTOSである。 多くの組み込み用RTOSでは、全ての実行コードを単一のロードイメージにリンクしてメモリに展開・実行するので、並行実行されるタスクはスレッドモデルであることが一般的だが、OS-9では各タスクは独立したプログラムイメージ(プログラムテキストは複数タスクで共有可)を実行するプロセスモデルである。 プロセスモデルでは各タスクは論理的に独立しているのでタスク間のデータの共有や通信にコストがかかりがちだが、OS-9では「データモジュール」と呼ばれる一種の共有メモリ機能で高速なプロセス間通信を提供している。ただし、タスク間通信に不可欠なセマフォが提供されたのはかなり後のことである。また後のバージョンではPOSIXに準拠したプロセス内の複数スレッドをサポートする。 OS-9/6809レベル2ではMMUを使った仮想アドレス空間をサポートしたが、その他のバージョンでは単一のアドレス空間しか持たないフラットメモリモデルである。OS-9/6809レベル2及びOS-9/68030以降のバージョンではハードウェアによるプロセス間のメモリ保護機能がある。 OS-9での新プロセス作成はUNIX流の現在のプロセスのコピーではなく、(仮想アドレス空間を持つOS-9/6809レベル2でさえ)実行プログラムを指定するWindowsの「spawn」に近いモデルである。これは、ベース(セグメント)レジスタを持たないCPUアーキテクチャでフラットメモリモデルを採用する限りある程度必然であり、UNIXでも多くの場合せっかくコピーした子プロセスの元の実行イメージは捨てられてexecで新しい実行イメージに置き換えられることを考えれば効率的でもある(マイクロウェアはこれを逆手にとって「OS-9のforkはUNIXよりX倍速い」と喧伝していた)。 OS-9を構成するすべての部分は、モジュールと呼ばれる統一された構造を持っており、必要な機能だけを選択して使用することができ、自由度の高い構造になっている。これにより、OS-9は以下の特徴を有する。 カーネル以外の多くのモジュールが、システムの稼動中、任意の時点で追加、削除、更新が可能である。例えばデバイスドライバは任意の時点でメモリにリンク(ロード)/アンリンク(アンロード)が可能であるため、デバッグ中もカーネルを壊さない限りシステムの再起動を必ずしも必要としない。 またモジュールをメモリにリンク(ロード)するときにリンクカウントがインクリメントされるほか、モジュールを利用(オープン)する度にリンクカウントがインクリメントされ、プロセスでモジュールの利用が終わるとリンクカウントがデクリメントされる仕組みがある。よってモジュールを利用しているプロセスがある間は、故意にアンリンクしようとしてもアンリンク(アンロード)されない。またリンクカウントがゼロになるとモジュールがメモリからアンリンク(アンロード)される。 ハードウェアがMMUを持つ場合、メモリ保護機能が有効となる。システム空間とユーザ空間が分離され、また、各ユーザプロセス間も分離される。デバッグ中のユーザープロセスが他のプロセスやシステムを破壊することがない。OS-9/6809では特にLevel2と呼び、最大2MBのメモリを管理できる。 組み込み用途だけではなく、一般のコンピュータとして使用可能であり、UNIXと同様のマルチユーザの機能を備えたTSSの環境がある。ユーザ、グループ別にファイルやプロセスのアクセス権がある。なお、PC用のOSとして見た場合、8bitや16bit時代の一般的なユーザには、マルチタスク・マルチユーザのメリットが理解されなかった。 以上のようなRTOSの上で、UNIXライクな開発環境が構築されている。簡易なものであるがシェルも実装されており、ファイルシステムも階層構造を始めとしてUNIXに近い機能を実現している(ユニファイドI/O)。 OS-9には独自のLANとしてOS-9LANがある。LAN上の他のコンピュータの資源に対して、透過的にアクセスが可能な優れたものである。フルパスリストの先頭にコンピュータ名を追加するだけで、そのコンピュータのファイルやデバイスにアクセス可能で、例えばシェルからリダイレクトして、LAN上の他のコンピュータに接続されたプリンタに出力可能である。 なお、開発は当初星光電子により、OS-9/6809と富士通FM-11+ARCNetという構成でおこなわれた。 X68000用のOS-9LANは、マイクロボードより販売されていた。 OS-9/680x0には以下のようなウィンドウシステムが発売された。 OS-9は、モトローラの16ビットCPU68000に移植された。以後、6809用はOS-9/6809、68000用はOS-9/68000と呼称されるようになった。その後、68000が68020、68030とシリーズ展開されるようになると、それらに最適化したOS-9/68020、OS-9/68030が開発された。 これらOS-9/680x0は、産業用RTOSとして高いシェアを占めていた。これは、20世紀末には、産業用システムのMPU (CPU) に680x0が広く採用されていたこと、ハードウェア資源を効率的に扱う多くの特徴を持っていること、OS-9自体の移植(ポーティング)が容易なことから必然的にそうなったのである。 例えば、ドライバ・モジュールのサンプルコードが多数提供されたことで、個別のハードウェアに対するドライバ・モジュールの移植が容易であり、ドライバモジュールの中であれば割り込み処理を通常のサブルーチンまたは関数として記述できるなど制約が少なく、安全で柔軟なシステム設計ができた。 また、アプリケーションをセルフで開発できることも評価されていた。ある程度規模の大きな産業用システムではVMEバスベースのシステムが採用されることが多かったが、これら自体によるセルフ開発が可能である。OS-9は数少ない、ターゲット上でセルフ開発が出来るRTOSであった(ただし、登場時のUNIXと同程度のCUIを利用する必要があった。その後、クロス開発環境が一般的になるにつれ、CodeWarriorが採用された時期もあった。現在ではWindowsで動作するGUIのクロス開発環境 Microware Hawk もしくはEclipse によるクロス開発のみ)。 様々な機能の追加による肥大化もあって、多機能版カーネル(デバッグ機能つき)と小型版カーネル(アトミックカーネル)の2種類に分化した。 (68000版を除いて)Ver.3からはセマフォ、マルチスレッド機能も追加され、必要な場合はPOSIXスレッドを使用することも可能となった。 その後、OS-9は全体がC言語で書き直され、OS-9000としてIntel 80386、MIPS、SPARC、PowerPC、ARM、日立 SH-3、SH-4、SH-5等に移植された。アメリカではCで書き直されたOS-9000/68000も発売されたが、市場からは全く相手にされず短期間で販売を終了した。 現在商標は統一され、OS-9のみとなっている。6809用、680x0用OS-9の実体は従来のアセンブリ言語で書かれたOS-9、その他CPU用OS-9の実体はOS-9000である。 日本では、OS-9/6809が富士通FM-7/8シリーズ、FM-11シリーズに移植され富士通から発売、日立製作所のベーシックマスターレベル3シリーズやMB-S1にも移植された(開発はどちらも星光電子)。ベーシックマスターレベル3シリーズのうちMB-6890用OS-9 Level 1 Version 1.0は日立化成商事から発売され、画面分割型マルチウィンドウ採用、カナ文字サポート、コンカレント"BASIC09"が含まれていた。また、シャープのX68000シリーズには、独自のウインドウシステム (Personal Window) を装備したOS-9/680x0 Ver.2.4が、OS-9/X68000としてシャープから販売された(開発はマイクロウェアジャパン)。その後継製品として、マイクロウェアから、X68030用のOS-9/X68030 Ver.2.4.3も発売された。 他に、フォークスから、FM-11やFM-16β、PC-9801に68000ボードを搭載してOS-9/68000を稼動させる製品、FM-Rに68020ボードを搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。 初期のOS-9/68000の開発環境として著名なものが、星光電子を始めとした国内のデベロッパーが広く使用していたマイクロボード(マイクロウェアジャパンの親会社)の製品である。同社のVMEバスボードを筐体に収めてセット販売したもので、いわば純正品(?)である。同社からはVMEバスの各種カードが産業用として発売されたが、それ以外にも、PC/ATマザーボードと同規格の基板に68030を載せたPCスタイルの製品も発売された。 また、マイクロボード以外にも多くのメーカーのVMEバス(VXIバス)、マルチバス、PCI/CompactPCIバスのボードがOS-9に対応していた(いる)。例えば、モトローラ(代理店:丸文)、アドバネット、アバールデータ、オムロン、シャープ、橘テクトロン、タンバック、電産、東京エレクトロン デバイス、フォークス、フォース・コンピュータ(代理店:インターニックス)、マイクロクラフトなどの製品である。(五十音順) 米国では、Apple II用の6809カード (The Mill) がOS-9/6809を標準OSとしていた他、タンディカラーコンピュータ (CoCo)、MM/1等、また、PC/ATに68020カード(アルプス電気製)を搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。また、Macintosh用OS-9/68000も発売されていた。これは、すべてがスーパバイザモードで動作する当時のMacintosh OSをうまく利用し、TOOLBOXを利用可能としていた。 もともとオペレーティングシステムではなくマルチメディア関連のミドルウェアが目当てでマイクロウェアを2001年に買収したRadisysのウェブサイトでOS-9は[Microware OS-9]として紹介され、ライセンスの販売(そしておそらくはサポートも)は古くからOS-9を手がけてきたシステムビルダ3社による代理販売となっていたが、Radisysは最終的に2013年3月にOS-9とMicrowareに関わるブランドを含む全権利をこの3社による共同事業体 (Microware LP) に譲渡した。 誕生から30余年を経たOS-9は2015年現在も開発が続けられており、OS-9 v6.0のリリースが予定されている。
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OS-9(オーエスナイン)は、マイクロウェアシステムによってモトローラの8ビットMPUである6809のために開発されたリアルタイムオペレーティングシステム(以下、RTOS)である。 当時マイクロウェアシステムはモトローラの依頼により共同でプログラミング言語BASIC09を開発していた。この言語の開発・実行環境としてマイクロウェアが開発したのが OS-9 である。 その後680x0に移植され、さらにx86、PowerPC、SH、ARMなど幅広いCPUに対応した。 2001年にラディシス社によってマイクロウェアシステムが買収されて一部門となり、2013年に販社グループに売却されてマイクロウェアLP社として独立した。
{{混同|[[Mac OS 9]]}} {{Infobox OS |name = OS-9 |logo = |screenshot = |caption = |website = {{URL|http://www.microware.com/}} |developer = {{仮リンク|label=Microware|マイクロウェア|en|Microware}} |family = [[Unix系]] |released = [[1980年]] |source_model = [[クローズドソース]] |latest_release_version = 6.0 |latest_release_date = [[2015年]][[第4四半期]] |kernel_type = [[カーネル#マイクロカーネル|マイクロカーネル]] |ui = [[キャラクタユーザインタフェース|CUI]], [[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]] |license = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] |working_state = 開発中 |supported_platforms = [[680x0]], [[x86]], [[ARMアーキテクチャ|ARM]], [[SuperH|SH]], [[PowerPC]] |prog_language = [[C言語|C]]/[[C++]], [[Pascal]], [[COBOL]], [[BASIC]], [[Forth]], [[Java]] |language = [[英語]] |updatemodel = |package_manager = }} '''OS-9'''('''オーエスナイン''')は、{{仮リンク|label=マイクロウェアシステム|マイクロウェア|en|Microware}}によって[[モトローラ]]の[[8ビット]][[マイクロプロセッサ|MPU]]である[[MC6809|6809]]のために開発された[[リアルタイムオペレーティングシステム]](以下、RTOS)である。 当時マイクロウェアシステムはモトローラの依頼により共同でプログラミング言語{{仮リンク|BASIC09|en|BASIC09}}を開発していた。この言語の開発・実行環境としてマイクロウェアが開発したのが OS-9 である。 その後[[MC68000#680x0ファミリ|680x0]]に移植され、さらに[[x86]]、[[PowerPC]]、[[SuperH|SH]]、[[ARMアーキテクチャ|ARM]]など幅広い[[CPU]]に対応した。 2001年にラディシス社によってマイクロウェアシステムが買収されて一部門となり、2013年に販社グループに売却されてマイクロウェアLP社として独立した。 ==特徴== ===プリエンプティブ・マルチタスク=== OS-9は、[[マルチタスク#プリエンプティブ・マルチタスク|プリエンプティブ・マルチタスク]](詳細は[[プリエンプション#プリエンプティブ・マルチタスク|プリエンプション]]も参照のこと)をおこなうRTOSである。 ===マルチプロセス=== 多くの組み込み用RTOSでは、全ての実行コードを単一のロードイメージにリンクして[[記憶装置|メモリ]]に展開・実行するので、並行実行されるタスクは[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]モデルであることが一般的だが、OS-9では各タスクは独立したプログラムイメージ(プログラムテキストは複数タスクで共有可)を実行する[[プロセス]]モデルである。 プロセスモデルでは各タスクは論理的に独立しているのでタスク間のデータの共有や通信にコストがかかりがちだが、OS-9では「データモジュール」と呼ばれる一種の共有メモリ機能で高速なプロセス間通信を提供している。ただし、タスク間通信に不可欠な[[セマフォ]]が提供されたのはかなり後のことである。また後のバージョンでは[[POSIX]]に準拠したプロセス内の複数スレッドをサポートする。 OS-9/6809レベル2では[[メモリ管理ユニット|MMU]]を使った仮想[[アドレス空間]]をサポートしたが、その他のバージョンでは単一のアドレス空間しか持たないフラットメモリモデルである。OS-9/6809レベル2及びOS-9/68030以降のバージョンでは[[ハードウェア]]によるプロセス間のメモリ保護機能がある。 OS-9での新プロセス作成は[[UNIX]]流の現在のプロセスのコピーではなく、(仮想アドレス空間を持つOS-9/6809レベル2でさえ)実行プログラムを指定する[[Microsoft Windows|Windows]]の「spawn」に近いモデルである。これは、ベース(セグメント)[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]を持たないCPUアーキテクチャでフラットメモリモデルを採用する限りある程度必然であり、UNIXでも多くの場合せっかくコピーした子プロセスの元の実行イメージは捨てられてexecで新しい実行イメージに置き換えられることを考えれば効率的でもある(マイクロウェアはこれを逆手にとって「OS-9のforkはUNIXよりX倍速い」と喧伝していた)。 ===モジュール構造=== OS-9を構成するすべての部分は、[[モジュール]]と呼ばれる統一された構造を持っており、必要な機能だけを選択して使用することができ、<!--- マイクロカーネルは資源の抽象化というのも重要な要素であり、単なる動的モジュールによるカーネルの小型化はマイクロカーネルとは言わない - - -いわゆる[[マイクロカーネル]]と同様であるが、さらに --->自由度の高い構造になっている。これにより、OS-9は以下の特徴を有する。 ;[[移植性]]が高い :[[移植 (ソフトウェア)|移植]]に必要なモジュールだけを新たに作成すればよい。個々のモジュールも容易に作成可能。 ;アップグレードが簡単 :対象モジュールのみ交換可能。再起動を必ずしも必要としない。 ;外部[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を主記憶に常駐させる事が簡単 :[[主記憶装置|主記憶]] ([[Read only memory|ROM]]/[[Random Access Memory|RAM]]) 上のモジュールはモジュールディレクトリと呼ばれる[[ファイルシステム]]の[[ディレクトリ]]に似た構造で管理される。外部記憶上のプログラムも予めロードする事によりROM化されたモジュールと同様に主記憶上に常駐した状態にすることが可能<ref>ROM化されたモジュールはカーネルが起動時にROM領域を検索してモジュールディレクトリに登録する。</ref><ref>1つのディレクトリにファイル名が同じファイルを複数置けないのと同様に、モジュールディレクトリにモジュール名が同じモジュールを置く事が出来ない。モジュールディレクトリがシステムにひとつしかないOS-9(6809版と68000版)ではマルチユーザで運用する際に時々問題となったが、この対策としてOS-9000ではモジュールディレクトリに階層構造がサポートされた。</ref>。 ;[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]に強い :各モジュールに[[巡回冗長検査|CRC]]があり、モジュールをモジュール[[ディレクトリ]]へ登録する際にチェックされるため、正当なモジュールのみメモリにロード可能<ref>6809のような8ビットCPUにはモジュールのCRCチェックは重い負荷であったため、外部プログラムの実行開始がもたつく事があったが、必要なモジュールを予めロードすることでCRCチェックを先に済ませておく事が出来た</ref>。 ;デバッグが簡単 :OS自体が構造化されているため、問題点の切り分けが行いやすい。 ;リビジョン/エディション :モジュールにはリビジョン番号とエディション番号があり、同一名のモジュールがメモリ中に複数ある場合、最新のモジュールのみ有効となる。ROM化されたシステムをアップグレードする場合、古いモジュールを削除することなく、新しいモジュールのROMを追加するだけでよい(あるいは外部記憶上の新しいモジュールをRAMへロードするだけでも良い)。 ;[[Read Only Memory|ROM]]化可能 :すべてのモジュールが[[リロケータブル]](かつリエントラント)であることからROM化特有のアドレスを意識しないでプログラミングしたものを、そのままROM化できる。各モジュール(プログラム)は、すべて主記憶空間内のROM上で直接実行が可能である。 :プログラムが使用する変数・スタック領域はカーネルによって実行時に動的に割り当てられる。 ;再入可能([[リエントラント]]) :プログラムがリエントラントであることはOS-9において必須の条件であり、リエントラントでないコードは利用できない<ref>富士通FM77AVシリーズの日本語カード用漢字変換のようにOS-9のモジュールでない外部プログラムコードを利用していたケースがある。</ref>。プログラムは自身を実行中に書き換えてはならない(自己書き換えコードはリエントラントではない)。 ;メモリ使用効率が高い :プログラムがリエントラントであるため、コード領域を各プロセスで共有することが可能になり、メモリの利用効率が高くなる。また、OS自身がモジュールの集合であるので、必要なモジュールのみをロード(あるいはROM化)すればよい。 ;遅い :汎用性は高いが、専用に設計されたモノリシックOSに比べるとオーバヘッドが生じる。例えば[[デバイスドライバ]]はそれぞれ固有のスタティックストレージと呼ばれる大域変数領域を持つため、カーネルの機能を利用する際には単純な関数呼び出しではなく原則として[[ソフトウェア割り込み]]を伴う[[システムコール]]を用いる必要がある。 ====OS-9のモジュールの種類==== *カーネルモジュール **kernel(6809版を除くカーネル本体) **OS9p1 拡張モジュール(6809版ではカーネルのうち起動に最小限必要部分) **OS9p2(6809版ではカーネルのうちOS9p1に含まれない残り部分) **OS9p3([[インプットメソッド|漢字変換]]処理等の拡張で[[日本語]]版のみ) *ioman - I/Oシステムの総合管理(後に68000版でkernelに吸収されモジュールとしては存在しなくなったが、OS-9000では再び独立したモジュールとしてkernelから分離された) *[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]マネージャモジュール **RBF - Random Block File Manager ([[磁気ディスク装置]]、[[ディスクドライブ]]など) **SCF - Sequential Character File Manager ([[コンソール]]など) **SBF - Sequential Block File Manager ([[磁気テープ|テープ]]) **PipeMan - Pipe File Manager ([[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]) **IBF - [[IEEE 488]] Interface Bus File Manager (エーアールケーコーポレーション製) **PCF - PC-DOS equivalent File Manager([[PC-DOS]]ファイルの操作) **NVFM - non-volatile File Manager(CD-iのデータ保存のための、ディレクトリを持たず、[[バッファ|バッファリング]]しない[[ファイルシステム]]) **CDFM - Compact Disc File Manager **NRF - Non-Volatile RAM File Manager **UCM - User Communication File Manager **DSM - Display Support Manager **GFM - Graphics File Manager **MFM - MAUI File Manager **NFM - Network File Manager **SOCKMAN - Socket File Manager(OS-9/ISP - Internet Support Package に含まれている) **IFMAN - 通信インターフェース・ファイル・マネージャ **PKMAN - 仮想キーボード・ファイル・マネージャ **SPF - Stacked Protocol File Manager(LANComm/SoftStax ネットワーク・サブシステム) *デバイスドライバモジュール **(例)sc6821 - MC6821用汎用コンソールドライバ *デバイスディスクリプタモシュール **(例)t0 - デバイスのアドレス、設定値などを保持 *プログラムモジュール **(例)shell、標準ユーティリティプログラム **cc - Microware C Compiler<ref>当時、マイクロウェアはMicroware C Compiler をANSI準拠と称していた。実際にパーサーも改良され、ANSI準拠のライブラリも準備されたが、最期までプロトタイプが実装されず、実質はK&amp;R準拠のCコンパイラであった。</ref> / ucc - Ultra C Compiler<ref>Ultra C Compiler は ANSI X3.159-1989準拠のコンパイラである。</ref> *データモジュール **(例)init - システム初期化定数などを保持 *BASIC中間コードモジュール *共有ライブラリモジュール(サブルーチンモジュール) **runb - MW-BASIC/Basic09ランタイムライブラリ **cio - Microware C Compiler 用入出力ライブラリ・サブルーチン・モジュール **csl - C language shared library<ref>ANSI C準拠ライブラリモジュール。Micoware Ultra Cでコンパイルされたモジュールを実行するのに必要となる。</ref> **psl - presentation support library(CD-i用) *システム・モジュール **cache - メモリ・キャッシュの効率的使用 **ssm - System Security Module - MMU等を利用したメモリ保護機能 **fpu - 浮動小数点コプロセッサの利用(または演算ライブラリ) **vector - ハードウェア割り込み管理 (OS-9000) **ティッカ・ドライバ - 定周期割り込み **RTCドライバ - 時刻の取得・設定 **align - [[データ構造アライメント|アライメント]]エラーに相当するメモリアクセスの支援 ===ダイナミックローディング=== [[カーネル]]以外の多くのモジュールが、システムの稼動中、任意の時点で追加、削除、更新が可能である。例えば[[デバイスドライバ]]は任意の時点でメモリにリンク(ロード)/アンリンク(アンロード)が可能であるため、デバッグ中もカーネルを壊さない限りシステムの再起動を必ずしも必要としない。 またモジュールをメモリにリンク(ロード)するときにリンクカウントがインクリメントされるほか、モジュールを利用(オープン)する度にリンクカウントがインクリメントされ、プロセスでモジュールの利用が終わるとリンクカウントがデクリメントされる仕組みがある。よってモジュールを利用しているプロセスがある間は、故意にアンリンクしようとしてもアンリンク(アンロード)されない。またリンクカウントがゼロになるとモジュールがメモリからアンリンク(アンロード)される。 ===メモリ保護=== ハードウェアが[[メモリ管理ユニット|MMU]]を持つ場合、メモリ保護機能が有効となる。システム空間とユーザ空間が分離され、また、各ユーザプロセス間も分離される。デバッグ中のユーザープロセスが他のプロセスやシステムを破壊することがない。OS-9/6809では特にLevel2と呼び、最大2MBのメモリを管理できる。 ===マルチユーザ=== 組み込み用途だけではなく、一般のコンピュータとして使用可能であり、UNIXと同様のマルチユーザの機能を備えた[[タイムシェアリングシステム|TSS]]の環境がある。ユーザ、グループ別にファイルやプロセスのアクセス権がある。なお、PC用のOSとして見た場合、8bitや16bit時代の一般的なユーザには、マルチタスク・マルチユーザのメリットが理解されなかった。 ===UNIXライク=== 以上のようなRTOSの上で、[[Unix系|UNIXライク]]な開発環境が構築されている。簡易なものであるが[[シェル]]も実装されており、[[ファイルシステム]]も階層構造を始めとしてUNIXに近い機能を実現している(ユニファイドI/O)。 ===OS-9LAN=== OS-9には独自の[[Local Area Network|LAN]]として[[OS-9LAN]]がある。LAN上の他のコンピュータの資源に対して、透過的にアクセスが可能な優れたものである。フルパスリストの先頭にコンピュータ名を追加するだけで、そのコンピュータの[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]やデバイスにアクセス可能で、例えばシェルからリダイレクトして、LAN上の他のコンピュータに接続されたプリンタに出力可能である。 なお、開発は当初[[星光電子]]により、OS-9/6809と[[富士通]][[FM-11]]+[[アークネット|ARCNet]]という構成でおこなわれた。 X68000用のOS-9LANは、[[マイクロボード]]より販売されていた。 ===ウィンドウシステム=== OS-9/680x0には以下のような[[ウィンドウシステム]]が発売された。 *[[X Window System]]:マイクロウェアが移植。[[Motif (GUI)|Motif]]も付属。 *Personal-Window:マイクロウェアジャパンが、X68000のために開発。 *G-Windows: ドイツのGESPAC(代理店:フォークス)が開発。 *XiBase9: ドイツのXiSysが開発。 ===欠点=== *UNIXと異なり、[[仮想記憶]]機能が存在しないため、搭載された主記憶容量以上の記憶空間が使えない(もっとも、仮想記憶を利用するとリアルタイム性が担保できなくなるため、RTOSとしての意義がなくなる)。 *製品として販売した場合、極めて容易に分析、解析が可能である。また、実際にメモリ上にあるモジュールを保存することでコピーが可能であるため、いわゆる[[コピープロテクト]]が原理的に不可能である。 *ユーザプログラムがハードウェア資源に直接アクセスできる[[CP/M]]や[[MS-DOS]]などのOSに慣れたユーザは、アドレス空間をユーザとスーパバイザに分離したOSにおいて、ハードウェアへのアクセスにドライバが必要なことに不満を述べることが多い(アドレス空間を分離するか否かは、OS-9のレベルやバージョン、使用するハードウェアによる)。 *プロセス[[優先順位の逆転]]現象<ref>OS-9ではプロセスのプライオリティはタイムスライス事に加算されるエイジの初期値であり、スケジューラはエイジの値によって次にアクティブにするプロセスを決定する。CPU時間が割り当てられたプロセスのエイジは初期化されるが、優先度が高いプロセスは優先度の低いプロセスより大きなエイジ値が維持されやすいのでCPU時間が割り当てられる可能性が高い。優先度の低いプロセスもCPU時間が割り当てられない事でエイジ値が大きくなり、どこかの時点で優先度の高いプロセスのエイジ値を上回る事になる。この「優先度の低いプロセスにもいつかは必ずCPU時間が割り当てられる」事がOS-9のスケジューラの特徴であり、優先度が高いプロセスがレディ状態であってもより優先度が低いプロセスがアクティブになる事がある理由である(この点からOS-9はリアルタイムOSではないとする主張もある)。後にシステム変数によって優先度の低いプロセスのエイジ値の上限を設定できるようになり、ある程度の制御は出来るようになった。</ref>が存在し、マイクロウェア社が顧客向けに発行する機関紙 "Microware Pipelines" においては、優先したいプロセスのプライオリティを極端に低く設定する事例が頻繁に紹介されていた。 *2013年現在、OS-9単独では[[対称型マルチプロセッシング]]をサポートしていない。 ==OS-9/680x0== OS-9は、モトローラの16ビットCPU[[MC68000|68000]]に移植された。以後、6809用はOS-9/6809、68000用はOS-9/68000と呼称されるようになった。その後、68000が[[MC68020|68020]]、[[MC68030|68030]]とシリーズ展開されるようになると、それらに最適化したOS-9/68020、OS-9/68030が開発された。 これらOS-9/680x0は、産業用RTOSとして高いシェアを占めていた。これは、20世紀末には、産業用システムのMPU (CPU) に[[MC68000#680x0ファミリ|680x0]]が広く採用されていたこと、ハードウェア資源を効率的に扱う多くの特徴を持っていること、OS-9自体の[[移植 (ソフトウェア)|移植]](ポーティング)が容易なことから必然的にそうなったのである。 例えば、ドライバ・モジュールのサンプルコードが多数提供されたことで、個別のハードウェアに対するドライバ・モジュールの移植が容易であり、ドライバモジュールの中であれば[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]処理を通常のサブルーチンまたは関数として記述できるなど制約が少なく、安全で柔軟なシステム設計ができた。 また、アプリケーションをセルフで開発できることも評価されていた。ある程度規模の大きな産業用システムでは[[VMEバス]]ベースのシステムが採用されることが多かったが、これら自体によるセルフ開発が可能である。OS-9は数少ない、ターゲット上でセルフ開発が出来るRTOSであった(ただし、登場時のUNIXと同程度の[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]を利用する必要があった。その後、クロス開発環境が一般的になるにつれ、[[CodeWarrior]]が採用された時期もあった。現在ではWindowsで動作する[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]のクロス開発環境 Microware Hawk もしくは[[Eclipse]] によるクロス開発のみ)。 様々な機能の追加による肥大化もあって、多機能版カーネル(デバッグ機能つき)と小型版カーネル(アトミックカーネル)の2種類に分化した。 (68000版を除いて)Ver.3からは[[セマフォ]]、[[マルチスレッド]]機能も追加され、必要な場合は[[POSIX]]スレッドを使用することも可能となった。<!--- マルチスレッドはOS-9000の機能では? ---> ==OS-9000(マルチプラットフォーム化)== その後、OS-9は全体が[[C言語]]で書き直され、[[OS-9000]]として[[Intel 80386]]、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]、[[SPARC]]、[[PowerPC]]、[[ARMアーキテクチャ|ARM]]、[[SuperH|日立 SH-3、SH-4、SH-5]]等に移植された。アメリカではCで書き直されたOS-9000/68000も発売されたが、市場からは全く相手にされず短期間で販売を終了した。 現在商標は統一され、OS-9のみとなっている<ref>OS-9 Ver.3よりOS-9の名で[[RISC]]プロセッサをサポート。</ref>。6809用、680x0用OS-9の実体は従来の[[アセンブリ言語]]で書かれたOS-9、その他CPU用OS-9の実体はOS-9000である。 ==OS-9の稼動する汎用のコンピュータ== 日本では、OS-9/6809が富士通[[FM-7]]/[[FM-8|8]]シリーズ、[[FM-11]]シリーズに移植され富士通から発売、[[日立製作所]]の[[ベーシックマスター]]レベル3シリーズやMB-S1にも移植された(開発はどちらも星光電子)。ベーシックマスターレベル3シリーズのうち[[ベーシックマスター#シリーズ_2|MB-6890]]用OS-9 Level 1 Version 1.0は日立化成商事から発売され、画面分割型[[マルチウィンドウ]]採用、カナ文字サポート、コンカレント"BASIC09"が含まれていた{{Sfn |ASCII 1983年4月号 |p=92}}。また、[[シャープ]]の[[X68000]]シリーズには、独自のウインドウシステム (Personal Window) を装備したOS-9/680x0 Ver.2.4が、OS-9/X68000としてシャープから販売された(開発は[[マイクロウェアジャパン]])。その後継製品として、マイクロウェアから、[[X68000#X68030|X68030]]用のOS-9/X68030 Ver.2.4.3も発売された。 他に、[[フォークス]]から、FM-11や[[FM-16β]]、[[PC-9801]]に68000ボードを搭載してOS-9/68000を稼動させる製品、[[FM-R]]に68020ボードを搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。 初期のOS-9/68000の開発環境として著名なものが、星光電子を始めとした国内のデベロッパーが広く使用していた[[マイクロボード]](マイクロウェアジャパンの親会社)の製品である。同社のVMEバスボードを筐体に収めてセット販売したもので、いわば純正品(?)である。同社からはVMEバスの各種カードが産業用として発売されたが、それ以外にも、PC/ATマザーボードと同規格の基板に[[MC68030|68030]]を載せたPCスタイルの製品も発売された。 また、マイクロボード以外にも多くのメーカーの[[VMEバス]]([[VXIバス]])、[[マルチバス]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]/[[CompactPCI]]バスのボードがOS-9に対応していた(いる)。例えば、[[モトローラ]](代理店:[[丸文]])、[[アドバネット]]、[[アバールデータ]]、[[オムロン]]、[[シャープ]]、[[橘テクトロン]]、[[タンバック]]、[[電産]]、[[東京エレクトロン デバイス]]、[[フォークス]]、[[フォース・コンピュータ]](代理店:[[インターニックス]])、[[マイクロクラフト]]などの製品である。(五十音順) 米国では、[[Apple II]]用の6809カード (The Mill) がOS-9/6809を標準OSとしていた他、[[ラジオシャック#タンディ時代|タンディ]]カラーコンピュータ (CoCo)、MM/1等、また、PC/ATに68020カード([[アルプス電気]]製)を搭載してOS-9/68020を稼動させる製品が発売されていた。また、[[Macintosh]]用OS-9/68000も発売されていた。これは、すべてがスーパバイザモードで動作する当時のMacintosh OSをうまく利用し、TOOLBOXを利用可能としていた。 ==OS-9が採用された代表的な機器== *モトローラの[[携帯情報端末|PDA]]。 *デジタルサンプリング・シンセサイザー([[電子楽器]]) - [[フェアライトCMI]] (Fairlight CMI)。 *[[BMW]]・[[BMW・7シリーズ|750iシリーズ]]純正カーナビゲーションシステム。 *[[マスプロ電工]] カーナビゲーションシステム。 *[[ソニー]]と[[フィリップス]]が提唱した[[CD-i]](セットトップボックスの統一規格で、OS部分は [[CD-RTOS]] と呼ばれた)。 *日立製作所の銀行用[[現金自動預け払い機|ATM]]。 *[[レーザープリンター]]用エンジン。 *TCP/IP用[[ルーター]]。 *情報端末機器 - [[サクサホールディングス]]SAXA (TAMRA) DT-300 (OS-9/SH3, MAUI を搭載)。 *[[携帯電話]]。 *[[販売時点情報管理|POS端末]]。 *[[パチンコ]]台および玉の供給システム。 *[[ボウリング]]ピン制御。 *かつて[[メダルゲーム]]機を製造するシグマが開発したビデオスロット、ビデオポーカー、メカニカルスロットのゲーム基板(6809を2つ搭載)。 *スペースシャトルメインエンジン ==評価と現状== もともとオペレーティングシステムではなく[[マルチメディア]]関連の[[ミドルウェア]]が目当てでマイクロウェアを[[2001年]]に買収したRadisysのウェブサイトでOS-9は[Microware OS-9]として紹介され、ライセンスの販売(そしておそらくはサポートも)は古くからOS-9を手がけてきたシステムビルダ3社による代理販売となっていたが、Radisysは最終的に[[2013年]]3月にOS-9とMicrowareに関わるブランドを含む全権利をこの3社による共同事業体 (Microware LP) に譲渡した。 誕生から30余年を経たOS-9は[[2015年]]現在も開発が続けられており、OS-9 v6.0のリリースが予定されている。 ==関連書籍== ===洋書=== {{refbegin|2}} *{{Cite book |first1=Dale |last1=L. Puckett|first2= Peter |last2=Dibble |year=1985 |title=The Complete Rainbow Guide to OS-9|location=Prospect, Ky.|publisher=Falsoft|isbn=978-0-932471-00-0|oclc=12720876|ref=harv}} *{{Cite book |first1=Dale |last1=L. Puckett|first2=Peter |last2=Dibble |year=1987 |title=The Complete Rainbow Guide to OS-9 Level II, Volume I: A Beginners Guide to Windows|location=Prospect, Ky.|publisher=Falsoft|isbn=978-0-932471-09-3|ref=harv}} *{{Cite book |first=Paul |last1=S. Dayan|year=1992 |title=The OS-9 Guru/ 1, The facts. |location=Durham |publisher=Galacted Industrial Ltd, cop.|isbn=978-0-9519228-0-4|oclc=490029181|ref=harv}} *{{Cite book |first=Peter |last=C. Dibble |year=1992 |title=OS-9 insights : an advanced programmers guide to OS-9 |location=Des Moines |publisher=Microware Systems Corp |isbn=978-0-918035-03-5|oclc=787188754|ref=harv}} *{{Cite book |first=Peter |last=C. Dibble |year=1994 |title=OS-9 INSIGHTS : AN ADVANCED PROGRAMMING GUIDE TO OS-9 3rd.Ed.|location=Des Moines |publisher=Microware Systems Corp|isbn=978-0-918035-05-9|ref=harv}} *{{Cite book |first=Peter |last=C. Dibble |year=1999 |title=Microware: Enhanced Os-9 for 68K : Version 1.1|publisher=Microware Systems Co.|isbn=978-99904-89-59-0|ref=harv}} *{{Cite book |first=Mark |last=A. Heilpern |year=1994 |title=The OS-9 Primer |location=Des Moines, Iowa |publisher=Microwave Systems Corp.|isbn=978-0-918035-04-2|ref=harv}} {{refend}} ===和書=== {{refbegin|2}} *{{Cite book |和書 |author=有吉久 |authorlink= |coauthors= |year= |title=OS-9&amp;6809活用プログラミング|series=トランジスタ技術別冊 ソフトマインド (2) |publisher=[[CQ出版]] |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=金井隆 |authorlink= |coauthors= |year=1984 |title=FM-7・8 OS-9 Level 1 解析マニュアル I |series= |publisher=[[秀和システムトレーディング]] |location= |page= |id= |isbn=978-4-87966-033-6 |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=金井隆 |authorlink= |coauthors=箕原辰夫 |year=1984 |title=OS-9/6809 ユーティリティ |publisher=秀和システムトレーディング |location= |page= |id={{全国書誌番号|86013816}} |isbn=4-87966-032-9 |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=金井隆 |authorlink= |coauthors= |year= |title=OS-9/6809 Lebel2解析マニュアル |publisher=秀和システムトレーディング |location= |page= |id= |isbn=4-87966-033-7 |oclc=674526886|ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=箕原辰夫 |authorlink= |coauthors= |year=1985 |title=OS-9/6809 I/O解析マニュアル |series= |publisher=秀和システムトレーディング |location= |page= |id={{全国書誌番号|86025444}} |isbn=4-87966-034-5 |oclc= }} *{{Cite book |和書 |author=岡村周善 |authorlink= |coauthors= |year= |title=VMEシステム完全マスタ―68010ボード設計からOS-9の移植まで |series= |publisher=CQ出版 |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=千葉憲昭 |authorlink= |coauthors= |year=1988 |title=68000システムの製作全科(上) ―CPUの詳細からOS-9の移植開始まで― |series=HARDWARE BOOKS 6 |publisher= [[技術評論社]] |location= |page= |id= |isbn=978-4-87408-972-9 |oclc=674063566 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=千葉憲昭 |authorlink= |coauthors= |year=1988a |title=68000システムの製作全科(下) ―68000マシンの設計から製作まで|series=HARDWARE BOOKS 7 |publisher=技術評論社 |location= |page= |id= |isbn=978-4-87408-976-7 |oclc=674274126 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=デイルL.パケット |authorlink= |coauthors=ピーター・ディブル |year=1987|translator=西脇弘 |title=RAINBOW OS-9ガイド|origyear= |series= |publisher= |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=矢野公正 |authorlink= |coauthors= |year=1990 |title=OS-9/68000マルチユーザズガイド |series= |publisher=スピリットパブリッシング |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=後藤田昌男 |authorlink= |coauthors=遠藤敬治 |year=1984 |title=OS-9テクニカルガイド初級編 |series= |publisher=技術評論社 |location= |page= |id= |isbn=978-4-87408-264-5 |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=高澤嘉光 |authorlink= |coauthors= |year=1989 |title=OS-9/68000 |series= |publisher=[[共立出版]] |location= |page= |id= |isbn=978-4-320-02401-4 |oclc=47416254 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=中島浩司 |authorlink= |coauthors= |year=1991 |title=OS-9/68000プログラマーズハンドブック―第1巻 オペレーション編 |series= |publisher=[[ケルビンシステムズ]] |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=中島浩司 |authorlink= |coauthors= |year=1991a |title=OS-9/68000プログラマーズハンドブック―第2巻 Cコンパイラ活用編 |series= |publisher=ケルビンシステムズ |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author= |authorlink= |coauthors= |year= |title=OS-9/68000ユーザーズマニュアル |series= |publisher=秀和システムトレーディング |location= |page= |id= |isbn= |oclc=704035536 |ref=harv}} *{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年4月号 |volume=7 |issue=4 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-4-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年4月号}} }} <!--{{Cite book |和書 |author= |authorlink= |coauthors= |year= |title= |series= |publisher= |location= |page= |id= |isbn= |oclc= |ref=harv}}--> {{refend}} ==外部リンク== *[https://www.microware.com/ マイクロウェアオフィシャルサイト] *[http://www.renesas.com/jpn/products/mpumcu/tools/partner/rtos/os_radisys_preliminary.htm 株式会社ルネサステクノロジ - リアルタイムOS] *[http://www.aicp.co.jp/news/20040610_rtfiles.shtml 株式会社エーアイコーポレーション - 「OS-9向けに組込み用電源断対応ファイルシステム『RTFiles』の供給を開始」] *[http://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/wcs-bun.cgi?ID=52076&FORM=biztechnews nikkeibp.jp - 「日通工、電話やLANに接続できるタッチパネル式情報端末『Addシリーズ』を発売」] *[http://www.necinfrontia.co.jp/products/add/2_2_02.htm NECインフロンティア株式会社 - テレデータターミナル Addシリーズ] *[http://java.sun.com/products/consumer-embedded/whitepapers/javaresellers-wp.html#microware Sun Java Platform Resellers Deliver Java Technology for Embedded Devices - Microware] *[http://os9archive.rtsi.com/index.html Real-Time Services Inc. - OS-9 World Wide Archive] *[http://www.arkusa.com/www/price_list.html ARK Systems USA(旧ページ)] *[http://www.caravan.net/eis/Cover/hoshi.html Embedded業界紳士録 - 星 光行] *[http://jp.fujitsu.com/museum/products/computer/personalcomputer/fm11ad2.html 富士通株式会社 - 富士通ミュージアム - FM-11AD2+] *[http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0008.html 情報処理学会 - コンピュータ博物館 - 【富士通】FM-11] *[http://www.forks.co.jp/ 株式会社フォークス] *[http://www.saxa.co.jp/product/card/dt300.html サクサ株式会社 - ディスプレイターミナル DT300] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{リアルタイムオペレーティングシステム}} [[Category:リアルタイムオペレーティングシステム]] [[Category:組み込みオペレーティングシステム]] [[Category:1980年のソフトウェア]]
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MZ (コンピュータ)
MZ(エムゼット)は、1970年代から1980年代にかけてシャープが販売していたパソコンのシリーズ名。 MZシリーズの始まりは、1978年5月に発売されたマイコン博士MZ-40Kという4ビットマイコンのトレーニングキットである。MZ-40Kの名前の由来は風呂ブザー用に用意してあった登録コードを流用したものであった。 製品を発案した事業部は部品を販売する部署であり、計算機などを扱う部署との摩擦を防ぐ意味合いもあって、MZ-40Kに続いて技術者用のトレーニングキットという名目でMZ-80Kを半完成キットの形で発売した。これらとは別に、MZ-80Tというワンボードトレーニングマイコンも用意されていた。 シリーズとして以下のような特徴を持っている。 MZ-80Kも試作機では、BASICもROMで搭載されたコンピューターであったが、シャープがROMを外部調達する都合上、ROMに納めたプログラムにバグが発覚すればその原価から多大な損害が発生する。このリスクを回避するため実際に商品化された製品で採られた苦肉の策が、システム全体をROMとして持つのではなく、最低限の処理を収めたモニタのみを本体にROMで搭載し、基本プログラムはカセットテープなどのメディアで供給するという、後に「クリーンコンピューター」とうたわれるシステムであった。現実にはそれほど致命的なバグが露見することはなかったが、逆にマニアからすれば自分で自由にソフト開発ができる環境となっており、ハドソンソフトやキャリーラボをはじめとしてシャープ以外のさまざまなソフトハウスから言語、オペレーティングシステム等が発売されると共に、各種言語やシステムのリリースが行われたり、シャープ自身もハイスピードBASICなどのソフトウェア的なアップグレードを実施した。これらの状況から、苦肉の策の設計であったクリーンコンピューターは、ソフトウェア的にフレキシブルなシステムであることを、以降のMZシリーズの特徴的な設計として広告文句にも利用するようになった。この実装では、システムそのものを本体に持たないため、当時の標準環境であったBASICが利用可能になるまで、標準内蔵デバイスであるデータレコーダからの起動で数分を要するという欠点もあったが、FDDの利用で10秒前後に短縮できるほか、MZ-80B以降のIPL (Initial Program Loader) では、MZ-1R12等のメモリボードに予め起動するシステムを書き込むことでも改善することが出来た。同様にクリーン設計を採用したX1では、CZ-8RB01として予め拡張ボードに書き込まれたBASICも発売されていた。これらのSRAM若しくはROMボード上からの起動でも、それらは直接メモリ空間にマッピングされているわけではなく、IPLにより、メインメモリに「転送」されて起動する。 MZ-80Kではコマンド自体が6種しか実装されていないものの、実際にROMで実装されているモニタは現在のBIOSに相当し、文字表示や内蔵デバイスへの入出力、音の出力などのローレベルな処理が書き込まれており、最低限の物しか存在していないわけではない。MZ-80Bでは、本体基板にはIPLのみをROMで実装し、モニタも含むシステムプログラムは、全てRAMに展開されるようさらにその設計を推し進めたものになり、同社X1では更にアドレスデコードの工夫によって、IPL自身が直接読み込むことが可能な容量が増えている。これら、ソフトウェアを固定しないかたちで進められたその思想は、X1turboやMZ-2500では再度、複雑化したハードウェアをサポートするためのBIOS(IOCS)が本体に実装されるようになり、結果として先祖返りするかたちになっている。また、他の機種であっても、起動時にディスク対応のモジュールの読み込みを行ったり、ROM部分のバンク切り替えによるRAM化が可能になるなど、実質的には実装の差は、互換性を維持するために搭載されるBASIC-ROMの有無のみになっていった。 初期の同シリーズは、本体・ディスプレイ・キーボード・データレコーダーを一体とし、本体のみでシステムが最低限完結するように設計されていた。機種によって構造やパーツは異なるものの、筐体は底面のビスを外すことで背面の蝶番を支点として、車のボンネットカバーのように持ち上げることが可能になっており、内部に用意された支柱によって固定し、内部をメンテナンスできるようになっている。PCシリーズを祖とするMZ-3500、MZ-5500シリーズを除けば、MZ-2000やMZ-1200の世代まで受け継がれる外観にも現れる特徴的な設計となっていたが、ディスプレイのカラー化などの流れとコストのバランスの都合から、MZ-700以降は見られなくなった。 MZ-80Kの発売に合わせ、ブランドの確立のため、シリーズのシンボルマークとして勇気、未来、探求、憧れの象徴として、ギリシャ神話の物語からアルゴ号をモチーフに作られたデザインが制定された。その意匠デザインの由来については「MZ-80 SERIES BASIC解説」の冒頭に言及があり、Oh!MZ誌上でも、その一節は取り上げられた。このロゴマークは、当時家電メーカーとしてのイメージが強かったシャープでは社名のみではインパクトが弱く、多くの売れ筋製品の名前などの要素や、対象になるユーザーの嗜好などを考慮し、新しいベンチャーとしてのイメージを託すかたちで新設された。この象徴的なマークは最終機まで引き継がれ、MZ-2500、MZ-2861では特殊キーのひとつにこのロゴが描かれたキーが存在する。 MZシリーズの内蔵データレコーダは、専用に周辺回路が設計されていることもあり、競合製品のデータレコーダよりも高い信頼性を確保していた他、読み書きの速度も競合製品の平均的な速度よりも高速に設定されていた。記録されるデータはソフトウェア制御によるPWM変調で、同じデータの書き込みを繰り返し二回記録する。データの読み込みが失敗した場合は、二度目に記録したデータの読み込むを試みるようになっている。このフォーマットは速度の差はあるものの引き継がれた。また、ハードウェアでは、その機種の標準速度を基準に調整されているものの、ソフトウェアによって波形は生成されるため、ソフトウェアによってある程度の記録速度の調整を行うことが可能であった。 MZ-80Bではソフトウェアでも頭出しやデッキオープン、早送り、巻き戻し等の制御が可能になった。この電磁制御のデータレコーダは別部署からリリースされたX1でも標準の内蔵デバイスとして採用された。また、MZ-2500では録再ヘッドがステレオ仕様になり、片方にデータ、片方に音声を記録し、ロードしながら音声を再生、本体側から音声を頭出しし、再生するなどの利用も可能になった。この信頼性と高速性を持つデータレコーダに加え、他社の競合製品と比較し、純正FDDの標準価格が高価であることも手伝い、フロッピーディスクの標準搭載への対応が遅れる遠因となった。 FDDインターフェイスの初期回路設計において、本来、負論理のバッファを通すところを直結し、その設計を踏襲したため、直接は互換性のない機種においてもそのままディスクサイドの指定や、実記録されるデータが、標準的なディスクに対し反転している。また、初期の1Sドライブが片面35トラックであり、互換性を維持するため、純正FDDであるMZ-80BFではヘッドにストッパーが装着され、公式なトラック数が2Dでも片面35トラックとなっている。ただしコントローラーやドライブ自体はそれ以降のトラックも取り扱えるため、本来のドライブ側の仕様である80トラックを利用できるようにする改造や、仕様外のそれ以降を利用するソフトウェアも個人、雑誌レベルでは存在している。Hu-BASICでは、ソフトウェア的に反転させることにより、記録媒体レベルでのX1との互換性が実現されている。 プリンターインターフェースは初期の実装ではMZ-80K系、MZ-80B系列それぞれ異なる独自仕様になっていたが、MZ-2000以降は一般的なセントロニクス準拠仕様に変わっている。ただし、MZ-1500では互換性維持のため、本体背面にMZ専用仕様とセントロニクス準拠仕様とを切り替えるディップスイッチがあった。なお、最初に発売されたMZ-80P2は放電破壊プリンターだった。その後のMZ-80P3以降はドットマトリクスプリンターである。MZ-700には、専用内蔵プリンタが存在しており、その後継機であるMZ-1500にもそれを外付け可能にしたMZ-1P09が発売されている。このプリンタは、安価にボールペンによって本来高価であるカラーペンプロッターを実現していた。 元々部品事業部のトレーニングキット名目での製品であり、メモリの増設にもハードウェアに手を入れる必要があるという状況もあいまって、MZ-2200の時代まで本体の回路図、モニタのソースコード、Z80の命令表等、ハードウェア、ソフトウェアを製作するのに必要な情報が、標準添付のOwner's Manualに記載されていることも特徴であった。シャープ純正の言語や開発ツールは価格も高かったことから、これらのソースコードを使いこなしていたユーザーは多くはなかったが、シャープ社内開発担当者ではこれらの開発ツールが縦横無尽に有効活用されていたことが、前記モニタプログラムのソースコードから読み取れる。なお、MZ-1500の回路図およびROMモニタのソースコードは、工学社『MZ-1500 テクニカル・マニュアル』に掲載され、MZ-2500の回路図は、電波新聞社『Super MZ活用研究』、工学社『MZ-2500 テクニカル・マニュアル』〈Super Series 1〉、ソフトバンク『Oh!MZ』に掲載された。BIOSやBASICのソースリストは工学社から発売された。本体だけではなく、シャープ純正オプションの一部では付属マニュアルに回路図が記載されている。 系列としてはMZ-80K系(40×25文字のテキスト画面を持つ。グラフィックキャラクタを使用した80×50ドットのセミグラフィックが可能)、MZ-80B系(320×200のモノクログラフィックを最大2画面分、テキストと別プレーンで持つ)、MZ-2000系(640×200の解像度に加えカラー表示対応)、PC-3100系、MZ-5500系(MZ-3500系を16bit化)などがある。 なお、MZの名称は同社のMebiusとZaurusの頭文字に、分割して引き継がれていると宮永好道がコラムで語っている。 1982年MZ-80Kグループを開発した部品事業部から、情報システム事業部にパソコン事業を移管。 MZ型番は、シリーズ名に下二桁に00を持つ3〜4桁の数字。PC型番は、PCからMZにシリーズ名が変更になり、全体としての命名規則が変わった。同時に周辺機器の型番もリセットされ、シリーズ全体で、カテゴリごとに末尾1からの連番で割り当てられた。ホビー用途では部品事業部由来の製品が多く広告、販売されていたこともあり、MZとしてイメージされるのは部品事業部由来のシリーズである。同一シリーズにバリエーションがある場合は、その下位二桁である00の部分にバリエーションを示す数字が割り当てられた。 以降のパソコン開発に、部品事業部でMZ-80を設計していた技術者達は参画していない。 部品事業部が展開していた主にホビー向けの流れを受けたシリーズ。代を追うごとにホビー向けの機能が充実して行き、多くの人がMZとして思い出すのはこちらの系列である。 存続する事業部となった情報システム事業部が元々展開していたシリーズの後継機。ビジネス向けの一体型PC、PC-3100S/PC-3200の、本体・キーボード分離型にした新型機の型番をMZに移行したもの。5.25インチフロッピーディスクドライブを搭載(MZ-6550のみ3.5インチ)。 SHARP BASICとして、(後にS-BASICと呼ばれる)PET由来のコマンド群を持つBASICをカセットテープ並びにフロッピーディスクで標準添付、並びにオプションとして供給していた。演算精度の高いもの、漢字表示や特定デバイスのサポート、カラー表示のサポートなど、拡張機能を実装したBASICは、別途オプションとして提供されている。それらBASIC以外にも、リロケータブルバイナリ出力でユーザー定義のマクロ命令記述も可能なマクロアセンブラ(リンカ・シンボリックデバッガ・P-ROMフォーマッタ含む)アセンブリ言語、マシンランゲージモニタ(現在でいうバイナリエディタ)等も別売されており、テープメディアゆえ使い勝手に難ありといえども極めて強力な開発ツールであった。Floppy Disk Operating System(FDOS)には前記アセンブラのほかBASICコンパイラも同梱されており、Z80のセルフ開発環境としてはコストパフォーマンスを考慮すると当時のCP/M-80をも凌駕するものであった。 シャープ純正の言語は前記のとおりバリエーションが直交している場合が多かったため、プログラマーはさまざまな言語を選択できたかわりに、アプリケーション使用者はその言語を購入する必要がある場合もあった。
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MZ(エムゼット)は、1970年代から1980年代にかけてシャープが販売していたパソコンのシリーズ名。
{{出典の明記|date=2020-01-20}} '''MZ'''(エムゼット)は、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて[[シャープ]]が販売していた[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]のシリーズ名。 == 設計とシステム構成 == MZシリーズの始まりは、[[1978年]]5月に発売されたマイコン博士[[MZ-40K]]という4ビット[[マイクロコンピュータ|マイコン]]のトレーニングキットである。MZ-40Kの名前の由来は風呂ブザー用に用意してあった登録コードを流用したものであった<ref>『パソコン革命の旗手たち』 p73</ref>。 製品を発案した事業部は部品を販売する部署であり、計算機などを扱う部署との摩擦を防ぐ意味合いもあって、MZ-40Kに続いて技術者用のトレーニングキットという名目でMZ-80Kを半完成キットの形で発売した<ref>『パソコン革命の旗手たち』 p72</ref>。これらとは別に、MZ-80Tというワンボードトレーニングマイコンも用意されていた。<!--(MZ-80Tについて、事情が特殊なのでノート参照)--> シリーズとして以下のような特徴を持っている。 === クリーン設計 === MZ-80Kも試作機では、[[BASIC]]も[[Read Only Memory|ROM]]で搭載された[[コンピューター]]であったが、シャープがROMを外部調達する都合上、ROMに納めたプログラムに[[バグ]]が発覚すればその原価から多大な損害が発生する。このリスクを回避するため実際に商品化された製品で採られた苦肉の策が、システム全体をROMとして持つのではなく、最低限の処理を収めたモニタのみを本体にROMで搭載し、基本プログラムは[[カセットテープ]]などのメディアで供給するという、後に「クリーンコンピューター」とうたわれるシステムであった<ref>『パソコン革命の旗手たち』[[関口和一]] [[日本経済新聞社]] 2000年 73ページ</ref>。現実にはそれほど致命的なバグが露見することはなかったが、逆にマニアからすれば自分で自由にソフト開発ができる環境となっており、[[ハドソン|ハドソンソフト]]や[[キャリーラボ]]をはじめとしてシャープ以外のさまざまなソフトハウスから言語、オペレーティングシステム等が発売されると共に、各種言語やシステムのリリースが行われたり、シャープ自身もハイスピードBASICなどのソフトウェア的なアップグレードを実施した。これらの状況から、苦肉の策の設計であったクリーンコンピューターは、ソフトウェア的にフレキシブルなシステムであることを、以降のMZシリーズの特徴的な設計として広告文句にも利用するようになった。この実装では、システムそのものを本体に持たないため、当時の標準環境であったBASICが利用可能になるまで、標準内蔵デバイスであるデータレコーダからの起動で数分を要するという欠点もあったが、FDDの利用で10秒前後に短縮できるほか、MZ-80B以降のIPL (Initial Program Loader) では、MZ-1R12等のメモリボードに予め起動するシステムを書き込むことでも改善することが出来た。同様にクリーン設計を採用したX1では、CZ-8RB01として予め拡張ボードに書き込まれたBASICも発売されていた。これらのSRAM若しくはROMボード上からの起動でも、それらは直接メモリ空間にマッピングされているわけではなく、IPLにより、メインメモリに「転送」されて起動する。 ==== 実装の変遷 ==== MZ-80Kではコマンド自体が6種しか実装されていないものの、実際にROMで実装されているモニタは現在の[[BIOS]]に相当し、文字表示や内蔵デバイスへの入出力、音の出力などのローレベルな処理が書き込まれており、最低限の物しか存在していないわけではない。MZ-80Bでは、本体基板にはIPLのみをROMで実装し、モニタも含むシステムプログラムは、全てRAMに展開されるようさらにその設計を推し進めたものになり、同社X1では更にアドレスデコードの工夫によって、IPL自身が直接読み込むことが可能な容量が増えている。これら、ソフトウェアを固定しないかたちで進められたその思想は、X1turboやMZ-2500では再度、複雑化したハードウェアをサポートするためのBIOS(IOCS)が本体に実装されるようになり、結果として先祖返りするかたちになっている。また、他の機種であっても、起動時にディスク対応のモジュールの読み込みを行ったり、ROM部分のバンク切り替えによるRAM化が可能になるなど、実質的には実装の差は、互換性を維持するために搭載されるBASIC-ROMの有無のみになっていった。 === オールインワン設計 === 初期の同シリーズは、本体・[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]・キーボード・[[データレコーダー]]を一体とし、本体のみでシステムが最低限完結するように設計されていた。機種によって構造やパーツは異なるものの、筐体は底面のビスを外すことで背面の蝶番を支点として、車のボンネットカバーのように持ち上げることが可能になっており、内部に用意された支柱によって固定し、内部をメンテナンスできるようになっている。PCシリーズを祖とするMZ-3500、MZ-5500シリーズを除けば、MZ-2000やMZ-1200の世代まで受け継がれる外観にも現れる特徴的な設計となっていたが、ディスプレイのカラー化などの流れとコストのバランスの都合から、MZ-700以降は見られなくなった。 === アルゴマーク === MZ-80Kの発売に合わせ、ブランドの確立のため、シリーズのシンボルマークとして勇気、未来、探求、憧れの象徴として、ギリシャ神話の物語から[[アルゴー船|アルゴ号]]をモチーフに作られたデザインが制定された。その意匠デザインの由来については「MZ-80 SERIES BASIC解説」の冒頭に言及があり、[[Oh!MZ]]誌上でも、その一節は取り上げられた。このロゴマークは、当時家電メーカーとしてのイメージが強かったシャープでは社名のみではインパクトが弱く、多くの売れ筋製品の名前などの要素や、対象になるユーザーの嗜好などを考慮し、新しいベンチャーとしてのイメージ<ref>[https://web.archive.org/web/20160304202909/http://blogs.yahoo.co.jp/nagusa_kei/11766379.html?type=folderlist]開発者の回顧録より。</ref>を託すかたちで新設された。この象徴的なマークは最終機まで引き継がれ、MZ-2500、MZ-2861では特殊キーのひとつにこのロゴが描かれたキーが存在する。 === 内蔵データレコーダ === MZシリーズの内蔵データレコーダは、専用に周辺回路が設計されていることもあり、競合製品のデータレコーダよりも高い信頼性を確保していた他、読み書きの速度も競合製品の平均的な速度よりも高速<ref>同時期に販売されていたベーシックマスター、PC-8001は、300Baud。FM-8は1600Baud。</ref>に設定されていた。記録されるデータはソフトウェア制御によるPWM変調で、同じデータの書き込みを繰り返し二回記録する。データの読み込みが失敗した場合は、二度目に記録したデータの読み込むを試みるようになっている<ref>各機種、回路図並びに、Owner's Manualのモニタソースコードのデータレコーダ制御部で確認できる。</ref>。このフォーマットは速度の差はあるものの引き継がれた。また、ハードウェアでは、その機種の標準速度を基準に調整されているものの、ソフトウェアによって波形は生成されるため、ソフトウェアによってある程度の記録速度の調整を行うことが可能であった。 MZ-80Bではソフトウェアでも頭出しやデッキオープン、早送り、巻き戻し等の制御が可能になった。この電磁制御のデータレコーダは別部署からリリースされたX1でも標準の内蔵デバイスとして採用された。また、MZ-2500では録再ヘッドがステレオ仕様になり、片方にデータ、片方に音声を記録し、ロードしながら音声を再生、本体側から音声を頭出しし、再生するなどの利用も可能になった。この信頼性と高速性を持つデータレコーダに加え、他社の競合製品と比較し、純正FDDの標準価格が高価であることも手伝い、フロッピーディスクの標準搭載への対応が遅れる遠因となった。 === フロッピーディスクインターフェイス === FDDインターフェイスの初期回路設計において、本来、負論理のバッファを通すところを直結し、その設計を踏襲したため、直接は互換性のない機種においてもそのままディスクサイドの指定や、実記録されるデータが、標準的なディスクに対し反転している。また、初期の1Sドライブが片面35トラックであり、互換性を維持するため、純正FDDであるMZ-80BFではヘッドにストッパーが装着され、公式なトラック数が2Dでも片面35トラックとなっている。ただしコントローラーやドライブ自体はそれ以降のトラックも取り扱えるため、本来のドライブ側の仕様である80トラックを利用できるようにする改造や、仕様外のそれ以降を利用するソフトウェアも個人、雑誌レベルでは存在している。Hu-BASICでは、ソフトウェア的に反転させることにより、記録媒体レベルでのX1との互換性が実現されている。 === プリンタインターフェイス === [[プリンター]]インターフェースは初期の実装ではMZ-80K系、MZ-80B系列それぞれ異なる独自仕様になっていたが、MZ-2000以降は一般的なセントロニクス準拠仕様に変わっている。ただし、MZ-1500では互換性維持のため、本体背面にMZ専用仕様と[[IEEE 1284|セントロニクス準拠仕様]]とを切り替える[[ディップスイッチ]]があった。なお、最初に発売されたMZ-80P2は[[放電破壊プリンター]]だった。その後のMZ-80P3以降は[[プリンター#ドットインパクト方式|ドットマトリクスプリンター]]である。MZ-700には、専用内蔵プリンタが存在<ref>MZ-731以外の機種ではMZ-1P01としてオプション販売されている。</ref>しており、その後継機であるMZ-1500にもそれを外付け可能にしたMZ-1P09が発売されている。このプリンタは、安価にボールペンによって本来高価である[[プロッター|カラーペンプロッター]]を実現していた<ref>[[MZ-700#プロッタプリンターの内蔵|MZ-700]]の項も参照。</ref>。 == 回路図・ソースコード == 元々部品事業部のトレーニングキット名目での製品であり、メモリの増設にもハードウェアに手を入れる必要があるという状況もあいまって、MZ-2200の時代まで本体の回路図、モニタのソースコード、Z80の命令表等、ハードウェア、ソフトウェアを製作するのに必要な情報が、標準添付のOwner's Manualに記載されていることも特徴<ref>MZシリーズも規模が大きくなり、ユーザが自ら物を作ることが少なくなった[[MZ-1500]]以降は他社のPC製品同様、出版社等からこれらの情報が刊行される形に変更された。</ref>であった。シャープ純正の言語や開発ツールは価格も高かったことから、これらのソースコードを使いこなしていたユーザーは多くはなかったが、シャープ社内開発担当者ではこれらの開発ツールが縦横無尽に有効活用されていたことが、前記モニタプログラムの[[ソースコード]]から読み取れる。なお、MZ-1500の回路図およびROMモニタのソースコードは、[[工学社]]『MZ-1500 テクニカル・マニュアル』に掲載され、MZ-2500の回路図は、[[電波新聞社]]『Super MZ活用研究』、工学社『MZ-2500 テクニカル・マニュアル』〈Super Series 1〉<ref>この書籍の回路図は信号の行き先を示すページと座標を削除している為、分配先が複数に渡る場合は見逃す可能性がある。</ref>、ソフトバンク『[[Oh!MZ]]』に掲載された。BIOSやBASICのソースリストは工学社から発売された。本体だけではなく、シャープ純正オプションの一部では付属マニュアルに回路図が記載されている。 == 製品系列 == 系列としてはMZ-80K系(40×25文字のテキスト画面を持つ。グラフィックキャラクタを使用した80×50ドットのセミグラフィックが可能)、MZ-80B系(320×200のモノクログラフィックを最大2画面分、テキストと別プレーンで持つ)、MZ-2000系(640×200の解像度に加えカラー表示対応)、PC-3100系、MZ-5500系(MZ-3500系を16bit化)などがある。 なお、MZの名称は同社の[[Mebius]]と[[Zaurus]]の頭文字に、分割して引き継がれていると[[宮永好道]]がコラム{{いつ|date=2011年4月}}で語っている。 === 部品事業部によるMZ === [[ファイル:Mz80k.jpg|thumb|right|MZ-80K]] * [[MZ-80#MZ-80K系機種|MZ-80K]]系列 シリーズローエンドを担い、後にMZ-1200,700に繋がるシリーズ。 (CPU は Z-80(LH0080) 2MHz)<br/>MZ-40Kを祖とするマイコンキットから派生したグループで、MZシリーズの中では低価格普及機である(低価格とはいえ、MZ-80K/CにI/Oボックス、プリンター、FDD、PCGなどを揃えると100万円を越えた)。 ** [[MZ-80#MZ-80K|MZ-80K]] - [[1978年]]発売。20KB RAM搭載。オールインワン筐体・キーボード未組立のセミキット。標準価格198,000円。この機種はイギリスでも発売されTRS-80と人気を二分した。<ref>[http://d.hatena.ne.jp/hally/20040807 海の向こうのMZ物語]</ref> ** [[MZ-80#MZ-80C|MZ-80C]] - [[1979年]]発売。48KB RAM搭載・フルキーボード。モニターのグリーン化。部品も80Kに比べて高価なものがつけられていた。標準価格268,000円。 ** [[MZ-80#MZ-80K2|MZ-80K2]] - [[1980年]]発売。80Kの完成品販売版。32KB RAM搭載。標準価格198,000円。 ** [[MZ-80#MZ-80K2E|MZ-80K2E]] - [[1981年]]発売。32KB RAM搭載。80K2の廉価版。CPUにICソケットを使用せず、直接基板に半田付けされているなど、コストダウンが随所に見られる。標準価格148,000円。 * MZ-80B系列 シリーズハイエンドを担い、後にMZ-2000へ繋がるシリーズ。オプションを取り込み事業部移行後にも、MZ-80B2としてMZ-2000と併売されている。<br/>320×200ピクセルのグラフィックス画面を最大2画面サポートし、CPUは4MHz、データレコーダはソフトウェアによって制御可能になるとともに、2000baudに高速化された。 ** [[MZ-80#MZ-80B|MZ-80B]] - [[1981年]]発売。64KBオールRAM構成。 Bはビジネスの意味と言われているが、開発者達は「BIGのB」として開発に打ち込んだ究極のMZであった。標準価格278,000円。 === 情報システム事業部によるMZ === [[1982年]]MZ-80Kグループを開発した部品事業部から、情報システム事業部にパソコン事業を移管。 MZ型番は、シリーズ名に下二桁に00を持つ3〜4桁の数字。PC型番は、PCからMZにシリーズ名が変更になり、全体としての命名規則が変わった。同時に周辺機器の型番もリセットされ、シリーズ全体で、カテゴリごとに末尾1からの連番で割り当てられた。ホビー用途では部品事業部由来の製品が多く広告、販売されていたこともあり、MZとしてイメージされるのは部品事業部由来のシリーズである。同一シリーズにバリエーションがある場合は、その下位二桁である00の部分にバリエーションを示す数字が割り当てられた。 以降のパソコン開発に、部品事業部でMZ-80を設計していた技術者達は参画していない。 ==== ホビー向けMZ ==== 部品事業部が展開していた主にホビー向けの流れを受けたシリーズ。代を追うごとにホビー向けの機能が充実して行き、多くの人がMZとして思い出すのはこちらの系列である。 * MZ-1200系列(CPU は Z-80A 3.58MHz。64KB RAM 搭載) ** [[MZ-80#MZ-80A|MZ-80A]]([[MZ-80#MZ-1200|MZ-1200]]) - [[1982年]]海外仕様のMZ-80Aの国内版がMZ-1200である。国内では、同年7月に発売されている。グリーンディスプレイ、タイプライターキーボード採用。MZ-80K系の完全互換機、単色表示としては最後の機種。型番の1200はデータレコーダの速度に由来する。標準価格148,000円。 ** [[MZ-700]] - [[1982年]]11月発売。モニター一体型筐体を廃止、データレコーダ・プロッタを内蔵可能。MZ-80Kとバイナリレベルでほぼ互換性がある。モニター出力は単色の場合青地に白が基本。家庭用テレビへの出力にも対応。80K由来のシリーズで初めてカラー出力に対応した。 ** [[MZ-1500]] - [[1984年]]5月発売。320*200ドットグラフィック兼PCG、PSG音源搭載。データレコーダの代わりに[[クイックディスク|QD]](QuickDisk)を内蔵。 ** [[MZ-800]] - [[1984年]]-[[1985年]]発売。MZ-700の海外向け後継機種。展開時期は地域によって異なる。640*200ドットグラフィック搭載(※日本国内では未発売、[[:de:Sharp MZ-800]] および [[:pt:Sharp MZ-800]]も参照) * MZ-2000系列 ** MZ-80B2 - [[1982年]]発売。部品事業部のMZ-80BにグラフィックRAMを1プレーン標準実装した製品。事業部変更後、唯一前の命名規則で販売された製品。標準価格278,000円。 ** [[MZ-2000]] - [[1982年]]7月発売。ドットグリーン(モノクロ)ディスプレイ、高機能[[データレコーダ]]内蔵。オプションでカラーモニター対応可。 ** [[MZ-2000#MZ-2200|MZ-2200]] - [[1983年]]7月発売。コンポーネントタイプになったMZ-2000。拡張スロットと、カラー出力の機能を標準装備。 * [[MZ-2500]] - (SuperMZ) [[1985年]]発売。本体・キーボード分離型。Z80B(6MHz)搭載。400ラインに対応し、最大256色での描画に対応。MZ-80B/MZ-2000モードを持ち過去の資産も継承。 * [[MZ-2861]](MZ書院) - [[1987年]]発売。本体・キーボード分離型。MZ-2500[[互換モード]]をもつ8bit (Z80) & 16bit ([[Intel 80286|80286]]) CPU両搭載のハイブリッドマシン。16bitモードはMS-DOSのほか、付属のソフトウエアで[[PC-9801]]エミュレーションが可能。高機能[[データレコーダ]]は対応しない。MZのこちらのシリーズでは唯一の80286採用機。 ==== ビジネス向けMZ ==== 存続する事業部となった情報システム事業部が元々展開していたシリーズの後継機。ビジネス向けの一体型PC、PC-3100S/PC-3200の、本体・キーボード分離型にした新型機の型番をMZに移行したもの。5.25[[インチ]]フロッピーディスクドライブを搭載(MZ-6550のみ3.5インチ)。 * MZ-3500系列 - [[1982年]]発売。Z-80A×2基搭載、日本語表示。プログラム用RAM128Kbyte標準実装(最大容量256Kbyte)、オプションの追加により640x400ドットカラーグラフィック・漢字表示が可能、オプションのキーボードには、JIS配列、ASCII配列の2つのタイプが用意されていた{{Sfn |ASCII 1982年11月号|p=76}}。PC-3100S/PC-3200の上位機。 ** MZ-3531 - 5.25インチフロッピーディスクドライブを1基搭載。標準価格320,000円{{Sfn |ASCII 1982年11月号|p=76}}。 ** MZ-3541 - 5.25インチフロッピーディスクドライブを2基搭載。標準価格410,000円{{Sfn |ASCII 1982年11月号|p=76}}。 * MZ-5500/6500系列 ** MZ-5500 - [[1983年]]発売。16ビットの[[Intel 8086|8086]]CPUを搭載、CP/M採用。BOOT-ROM付[[MS-DOS]]が発売された。Window Display Controller を搭載し、オプションで[[intel 8087|8087]]を搭載可能、メモリは最大512KBまで搭載可、外付けフロッピーディスクドライブを2台拡張可(内蔵と合わせて4台){{Sfn |ASCII 1983年11月号 |p=98}}。 *** MZ-5501 - RAM128KB搭載。フロッピーディスクドライブはオプション。標準価格218,000円。 *** MZ-5511 - RAM128KB搭載。5.25インチフロッピーディスクドライブを1基搭載。標準価格288,000円。 *** MZ-5521 - RAM256KB搭載。5.25インチフロッピーディスクドライブを2基搭載。標準価格388,000円。 ** MZ-6500 - [[1984年]]発売。クロック周波数を8MHzに高速化。[[CAD]]向けとして販売。 *** MZ-6541 - 5.25フロッピーディスクドライブを2基搭載。標準価格650,000円。 *** MZ-6545 - 5.25フロッピーディスクドライブを1基&10MBハードディスク搭載。標準価格998,000円。 ** MZ-5600 - MZ-6500の海外モデル。 *** MZ-5631 - 5.25フロッピーディスクドライブを1基搭載。 *** MZ-5641 - 5.25フロッピーディスクドライブを2基搭載。 *** MZ-5645 - 5.25フロッピーディスクドライブを1基&10MBハードディスク搭載。 ** MZ-6500C - MZ-6500の後継機種。 *** MZ-6541C - 5.25フロッピーディスクドライブを2基搭載。 ** MZ-6550 - [[Intel 80286|80286]] CPU、縦置き筐体。 *** model 50 - 3.5フロッピーディスクドライブ2基搭載。 === PC/AT互換機 === * MZ-8000系列 - (AX286/AX386) 型番はMZだが、[[PC/AT互換機]]([[AX]])仕様に移行した。 == ソフトウェア == === 自社供給 === <!-- ==== MZ-80K系(SP系) ==== * BASIC SP-5001 ** MZ-80K 初代のBASIC * BASIC SP-5002 * BASIC SP-5010 ** SP-500x 系の処理速度を高速化した初代のBASIC * BASIC SP-5020 * BASIC SP-5030 ** MZ-80K/K2/C/K2E 系での最終版BASIC * DISK BASIC SP-6010 ディスク版BASICで倍精度演算を搭載していた。 * インタプリタ Pascal SP-4010 ** コンパイラを通さないインクリメントコンパイルにより即時記述・即時実行が可能だった。 ==== MZ-80B/2000/2200系 ==== * BASIC SB-5520/MZ-1Z001 * DISK BASIC MZ-2Z001 * [[倍精度]]BASIC SB-5521/MZ-1Z003 * RS-232C/GP-IB BASIC MZ-1Z010 * DISK BASIC SB-6520/MZ-2Z001 * Color DISK BASIC MZ-2Z002 * [[倍精度]]DISK BASIC SB-6521/MZ-2Z003 * 漢字Color DISK BASIC MZ-2Z010 * Quick Disk BASIC MZ-5Z007 * Pascal Interpreter SB-4510/MZ-1Z004 * Floppy Disk Operating System (FDOS) SB-7010/MZ-2Z004 * System Program MZ-1Z005 * Machine Language MZ-1Z006 * P-CP/M MZ-6Z001 (MZ-2500用) * BASIC M25 MZ-6Z002 (MZ-2500用) * BASIC S25 MZ-6Z003 (MZ-2500用)--> SHARP BASICとして、(後に[[S-BASIC]]と呼ばれる)[[PET_2001|PET]]由来のコマンド群を持つBASICを[[カセットテープ]]並びに[[フロッピーディスク]]で標準添付、並びにオプションとして供給していた。演算精度の高いもの、漢字表示や特定デバイスのサポート、カラー表示のサポートなど、拡張機能を実装したBASICは、別途オプションとして提供されている。それらBASIC以外にも、[[リロケータブルバイナリ]]出力でユーザー定義のマクロ命令記述も可能な[[アセンブリ言語|マクロアセンブラ]]([[リンケージエディタ|リンカ]]・[[デバッガ|シンボリックデバッガ]]・[[PROM|P-ROM]]フォーマッタ含む)[[アセンブリ言語]]、マシンランゲージモニタ(現在でいう[[バイナリエディタ]])等も別売されており、テープメディアゆえ使い勝手に難ありといえども極めて強力な開発ツールであった。Floppy Disk Operating System(FDOS)には前記アセンブラのほかBASIC[[コンパイラ]]も同梱されており、[[Z80]]のセルフ開発環境としてはコストパフォーマンスを考慮すると当時の[[CP/M-80]]をも凌駕するものであった。 シャープ純正の言語は前記のとおりバリエーションが直交している場合が多かったため、プログラマーはさまざまな言語を選択できたかわりに、アプリケーション使用者はその言語を購入する必要がある場合もあった。 === サードパーティによる供給 === ; [[ハドソン]] :* Hu-BASIC(マイクロソフトBASICに似た高機能BASICインタープリター) :* Hu-BASICコンパイラ(マイクロソフトBASICに似た高機能BASICコンパイラー) :** 数多くのバグを含んでいた。 :** MZ-80K系列のみの販売 :* Hu-G-BASIC(Hu-BASICのグラフィック機能実装版) :* GAL (GAME言語コンパイラ) :** ハドソン風に拡張したGAME言語だが、バグの存在や[[アスキー (企業)|アスキー]]社からのクレームにより回収処理された。 :** MZ-80K系列のみの販売 :* H-DOS :* Tiny Pascal PALL ([[Pascal]]言語コンパイラ) :** ハドソン風に拡張したTiny Pascal言語。MZ-80K用ゲーム開発言語として重宝された。 :** MZ-80K系列のみの販売 :* Tiny FORTRAN FORM ([[FORTRAN]]言語コンパイラ) :** ハドソン風に拡張したFORTRAN言語。 ; [[キャリーラボ]] :* BASE(BASIC記述風アセンブラ) :** WICSインタプリタはBASEで記述されていた。 :* [[WICS]](整数型高速BASICコンパイラ/インタプリタ) :** [[工学社]]刊の雑誌[[I/O (雑誌)|I/O]]、およびその別冊で、BASEで記述されたインタプリタのソースとWICS自身で記述されたコンパイラのソースが公開された。 ; [[アスキー (企業)|アスキー]](ACPアスキーコンシューマプロダクツ) :* GAME-MZ([[ゲーム (曖昧さ回避)#その他|GAME言語]]コンパイラ) :* TOS-80B(テープオペレーティングシステム) ; [[デービーソフト]] (dB-SOFT) :* dB-BASIC (MZ-2000/2200 BASICインタプリタ) :** ハドソンとデービーソフトがどちらも[[北海道]][[札幌市]]に本社を構えていたこともあり、当時Hu-BASICのある意味でライバル。 :* dB-IBASIC (MZ-2000/2200 BASICインタプリタ・コンパイラ) :** [[機械語]]へのコンパイルが可能。ソフトウェア的にPCGを実現するなど、画期的な言語だった。整数型BASIC。 ; [[COMPAC]](工学社) :* いずれもSB-5520の追加機能版。単体では動作しないので、SB-5520をロードした後、ソフトを読み込み、一旦上書きされたBASIC自身を別のメディアに保存する必要がある。 :** BASIC機能拡張(SB-5520にTRACE機能などをつけたもの) :** COMMAND UP([[機械語モニタ]]の高機能化) ; S-OS :* 雑誌[[Oh!X]]の連載で発表されたZ80をコアとした共通バイナリを動作させる試み。プログラミング言語や開発ツール、ゲーム、ユーティリティなどが毎月掲載された。詳細は[[Oh!X#THE SENTINEL|THE SENTINEL]]の項を参照されたい。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = 関口和一 |year = 2000 |title = パソコン革命の旗手たち |publisher = 日本経済新聞社 |isbn = 4-532-16331-5 }} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1982年11月号 |volume=6 |issue=11 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-11-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1982年11月号}} }} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年11月号 |volume=7 |issue=11 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-11-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年11月号}} }} == 関連項目 == * [[パソコンサンデー]] * [[Oh!X|Oh!MZ]] * [[祝一平]] * [[S-BASIC]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} * [http://www.scav.ic.cz/ Games for MZ-800, Download Sharp MZ-800] * [http://cwaweb.bai.ne.jp/~ohishi/index.htm Nibbles lab. HomePage 〜 Oh!石の研究室 〜] (研究室付属 シャープ博物館) * [http://hp.vector.co.jp/authors/VA011804/mz80c.htm PC博物館 MZ-80C] * {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/nagusa_kei |title=Yahoo!ブログ - MZ-80 パソコン開発物語 |date=20191101000000}} * {{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~ki2s-ucd/mz/index.html |title=うちだの世界 - MZシリーズ |date=20000417044431}} {{シャープ}} {{Computer-stub}} {{デフォルトソート:えむせつと}} [[Category:シャープのパーソナルコンピュータ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MZ_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF)
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モトローラ
モトローラ(Motorola, Inc.)は、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。 2011年1月4日をもって、二つの独立した公開会社であるモトローラ・モビリティ及びモトローラ・ソリューションズに分割された。本社所在地はシカゴ近郊のイリノイ州シャンバーグであり、分割以降はモトローラ・ソリューションズが引き継いでいる。 なお、モトローラ・モビリティは、レノボの100%子会社。 携帯電話やトランシーバーなどの携帯通信端末、無線通信インフラ、そしてマイクロプロセッサをはじめとする半導体チップ、などの製造が主要事業であった。日本では一般業務向け携帯無線機で著名である。企業スローガンは、"HELLOMOTO"及び"intelligence everywhere"であった。 1928年の設立初期の製品は、家庭用や車載用のラジオ(カーオーディオ)であった。 1958年の米国初の人工衛星エクスプローラー1号を端緒に、1969年の月面着陸機アポロ11号も含め、NASAの宇宙探査機の無線機器の主製造業者であった。 第二次世界大戦中に米軍が使用した「Walkie Talkie」(SCR-536)が携帯電話の前身といわれる。さらに、世界初の携帯電話による通話実演(1973年)、市販携帯電話DynaTAC(1984年)、フリップ式携帯電話MicroTAC(1989年)、折りたたみ式携帯電話StarTAC(1996年)の発売など、携帯電話端末開発のパイオニアである。RAZR(2003年)は大ヒット製品となった。 2000年頃から、携帯電話搭載のオペレーティングシステム (OS) としてSymbian OS / UIQや独自OS、Linux、Windows Mobileなど様々なOSを採用していたが、2008年のCEO交代後にプラットホーム選別を進め、オープンOSとしてGoogleのAndroidとLinuxを採用している。最新携帯電話の一部に Crystal Talk なる通話時騒音軽減システムを搭載している。 1974年、テレビ・ラジオ事業を松下電器産業(現パナソニック)に売却した。これにより松下は、北アメリカでのテレビ事業を拡大した。ブランドにQuasar があった。 モトローラは66機の衛星を使って世界で初めて全地球をカバーする衛星通信ネットワークを構築した。衛星通信事業を伸ばすために1990年代後半に設立したイリジウムコミュニケーションズが製造を行っていた。顧客の獲得に失敗し、1999年に倒産した。 2001年、事業の不振によりジェネラル・ダイナミクスへ売却した。 1999年8月4日、ディスクリート・標準アナログ・標準ロジックなどの半導体部門をオン・セミコンダクターとして分社化した。これは、イリジウムコミュニケーションズ倒産の損失をカバーするために分社化された。 2003年10月16日、組み込みシステム向けのチップを主力とする半導体部門をフリースケール・セミコンダクタとして分社化した。 以降、モトローラは半導体を製造していない。 2006年7月、自動車部品事業をコンチネンタルAGに16億ドルで売却した。4500人の従業員とテレマティクスシステム、エンジン・トランスミッション制御や車体制御の電子部品、ステアリングやブレーキ用のセンサ、およびパワーウィンドウ用の電子部品などの事業が売却された。 2008年10月、カリフォルニア州アナハイムに本社のあった生体認証事業をサフランに売却した。 1983年に世界初の商用携帯電話 とされる「DynaTAC8000X」を開発し、1989年には当時の日米貿易摩擦により始まった日米協議で北米標準のモトローラ方式(TACS方式)が認められたことでNTTが独占していた日本の移動電話市場にも参入し、小型携帯電話「マイクロタック」の大ヒットで1990年に一時はシェアでNTTを上回り、これに対抗してNTTもmovaを開発して世界最軽量最小をめぐる競争が起きた。1998年にノキアに抜かれるまでモトローラは携帯電話端末の世界での市場占有率は世界1位だったが、2008年には第4位 (8.3%) であった(第1位はノキアで38.6%、2位はサムスン電子で16.2%)。ノキアに抜かれてからは2位が定位置であったが、RAZR以降にヒットが出ないこともあって4位に転落した。2007年第4半期以降、携帯電話事業は極度の不振に陥り、2008年3月、モバイル事業の分社化計画を発表した。 2010年11月30日、「2011年1月4日に2社の独立した株式公開企業に分割する予定である」と発表した。同社の取締役会によって承認された内容は、"Motorola" から携帯電話とセットトップボックス事業を行う "Motorola Mobility Holdings" を分社化した上で、エンタープライズおよびネットワーク事業製品を継続して担当する "Motorola" は社名を "Motorola Solutions" に改めるというものであった。 ガートナーによる2010年の世界携帯電話販売推計では、Appleとリサーチ・イン・モーション(現ブラックベリー)の躍進にともない、モトローラの販売台数は約3855万台で、2.4%の市場占有率であった。 2011年1月4日、"Motorola Mobility" の最高経営責任者 (CEO) にはこれまでも共同CEOとしてモトローラを統括してきたSanjay Jhaが就任し、"Motorola Solutions" のCEOにはGreg Brownが就任した。ニューヨーク証券取引所での銘柄コードは、"Motorola Solutions" は "MSI" となり、"Motorola Mobility Holdings" は "MMI" となった。 分社化によって従来の株主は、"MOT" 普通株式8株に対して"MMI"の普通株式1株を得る。また、この新たな市場取引の開始までに、現有の "MOT" 普通株式7株が "MSI" 普通株式1株に変換される。 事業部門: ここでは主な携帯電話だけを記す。Motorola の端末一覧(英語)も参照のこと。 日本のキャリアへ供給した端末は以下の通りである。 (日本国内向けのみ) (日本国内向けのみ)
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モトローラは、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。 2011年1月4日をもって、二つの独立した公開会社であるモトローラ・モビリティ及びモトローラ・ソリューションズに分割された。本社所在地はシカゴ近郊のイリノイ州シャンバーグであり、分割以降はモトローラ・ソリューションズが引き継いでいる。 なお、モトローラ・モビリティは、レノボの100%子会社。
{{基礎情報 会社 | 社名 = モトローラ | 英文社名 = Motorola | ロゴ = Motorola.svg | 種類 = 分割された会社 | 市場情報 = | 略称 = Motorola, MOTO | 国籍 = {{USA}} | 郵便番号 = 60196 | 本社所在地 = [[シャンバーグ]] | 電話番号 = | 設立 = [[1928年]] | 業種 = 情報・通信業 | 事業内容 = [[携帯電話]][[端末]]などの[[製造]]・[[販売]] | 代表者 = | 資本金 = | 総資産 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.motorola.com/us/ | 特記事項 = }} '''モトローラ'''(Motorola, Inc.)は、かつて存在した[[アメリカ合衆国]]の企業である。 2011年1月4日をもって、二つの独立した[[公開会社]]である'''[[モトローラ・モビリティ]]'''及び'''[[モトローラ・ソリューションズ]]'''に分割された<ref>{{cite news | url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704111504576059863418814674.html | work=''[[ウォールストリートジャーナル]]'' | accessdate=2011/1/4 | title=Motorola Is Split Into Two}}</ref>。本社所在地は[[シカゴ]]近郊の[[イリノイ州]][[シャンバーグ]]であり<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=moto(Motorola)とはどこの国の会社?中国製のメーカー?[モトローラ] |url=https://www.gadgeblo.com/moto/ |website=Gadgeblo |date=2021-10-01 |access-date=2023-01-04 |language=ja}}</ref>、分割以降はモトローラ・ソリューションズが引き継いでいる。 なお、モトローラ・モビリティは、[[レノボ]]の100%子会社<ref name=":0" />。 == 概要 == [[携帯電話]]や[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]などの携帯通信端末、無線通信インフラ、そして[[マイクロプロセッサ]]をはじめとする半導体チップ、などの製造が主要事業であった。日本では一般業務向け携帯[[無線機]]で著名である。[[スローガン|企業スローガン]]は、"'''HELLOMOTO'''"及び"'''intelligence everywhere'''"であった。 1928年の設立初期の製品は、家庭用や車載用の[[ラジオ]]([[カーオーディオ]])であった。 1958年の米国初の人工衛星[[エクスプローラー1号]]を端緒に、1969年の月面着陸機[[アポロ11号]]も含め、[[NASA]]の宇宙探査機の無線機器の主製造業者であった。 [[第二次世界大戦|第二次世界大戦中]]に米軍が使用した「[[Walkie Talkie]]」([[SCR-536]])が携帯電話の前身といわれる。さらに、世界初の携帯電話による通話実演(1973年)、市販携帯電話[[Motorola DynaTAC|DynaTAC]](1984年)、フリップ式携帯電話[[:en:Motorola MicroTAC|MicroTAC]](1989年)、折りたたみ式携帯電話[[:en:Motorola StarTAC|StarTAC]](1996年)の発売など、携帯電話端末開発のパイオニアである。[[Motorola RAZR|RAZR]](2003年)は大ヒット製品となった。 2000年頃から、携帯電話搭載の[[オペレーティングシステム]] (OS) として[[Symbian OS]] / [[UIQ]]や独自OS、[[Linux]]、[[Windows Mobile]]など様々なOSを採用していたが、2008年のCEO交代後にプラットホーム選別を進め、オープンOSとして[[Google]]の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]とLinuxを採用している。最新携帯電話の一部に [http://direct.motorola.com/hellomoto/crystaltalk/ Crystal Talk] なる通話時騒音軽減システムを搭載している。 == 歴史 == * [[1928年]] - Galvin(ガルビン)兄弟が "Galvin Manufacturing Corporation"(ガルビン・マニュファクチャリング・コーポレーション)を設立した<ref name=":0" />。 * [[1930年]] - 世界初の[[カーラジオ]] Motorola 5T71型 を開発。"Motorola"とは、"Motor"(モーター、自動車)の"ola"(オーラ、音)という意味である。 * [[1947年]] - 社名をブランド名であった "モトローラ" に変更<ref name=":0" />。 * 1947年 - VT-71モデルより、テレビの製造を開始。 * [[1950年代]] - [[半導体]]部門設立。 * [[1958年]] - 米国初の人工衛星[[エクスプローラー1号]]の無線機器を担当。 * [[1974年]] -モトローラ初のMPU "[[MC6800]]" を発表。 * 1974年 - Quasarブランドの家庭用電子機器部門([[テレビジョン|テレビ]]など)を松下電器産業(現 [[パナソニック]])に譲渡。 * [[1979年]] - 初の32ビットMPU "[[MC68000]]" を発売した。 * [[1983年]] - 世界初の[[携帯電話]]端末 [[Motorola DynaTAC|DynaTAC]]を発表、翌年発売。 * [[1984年]] - MPU "[[MC68020]]"を発表。 * [[1989年]] - 携帯電話端末 "MicroTAC"(マイクロタック)を発売。 * [[1996年]] - 携帯電話端末 "StarTAC"(スタータック)を発売。 * [[1999年]] - 半導体の一部門が[[オン・セミコンダクター]]として独立した。 * [[2004年]] - 半導体部門が[[フリースケール・セミコンダクタ]]として独立。米国の携帯電話端末市場で好調な販売を記録した"[[Motorola RAZR|RAZR]]"を発売。派生モデルも含めると3年間で、7500万台の販売を達成した。 * [[2006年]] - ドイツの自動車部品メーカー[[コンチネンタルAG]]に対して[[車載エレクトロニクス]]事業を約10億ドルで売却した。 * [[2007年]] - 経営合理化計画を発表。合計7,500名のレイオフを実施した。 * [[2008年]][[3月27日]] - 携帯電話事業を別会社に分離すると発表した。4月、[[株式公開買い付け]]により、日本の[[バーテックススタンダード]]を傘下に収める(バーテックススタンダードはこれにより上場廃止) * [[2009年]][[2月27日]] - 日本国内向け携帯電話のサポートを終了。 * [[2010年]][[7月19日]] - 無線インフラ事業の大部分をノキアシーメンスに売却することを発表。約12億ドル * [[2011年]][[1月4日]] - 携帯端末・[[セットトップボックス]]事業の「[[モトローラ・モビリティ]]」と、その他の事業の「[[モトローラ・ソリューションズ]]」へ分割<ref name=":0" />。 == 分社化した事業 == === テレビ・ラジオ === 1974年、[[テレビ]]・[[ラジオ]]事業を松下電器産業(現[[パナソニック]])に売却した。これにより松下は、[[北アメリカ]]でのテレビ事業を拡大した。ブランドに[[w:Quasar (brand)|Quasar]] があった。 === 衛星通信=== モトローラは66機の[[人工衛星|衛星]]を使って世界で初めて全地球をカバーする[[衛星通信|衛星通信ネットワーク]]を構築した。衛星通信事業を伸ばすために1990年代後半に設立した[[イリジウムコミュニケーションズ]]が製造を行っていた。顧客の獲得に失敗し、1999年に倒産した。 === 政府・防衛事業 === 2001年、事業の不振により[[ジェネラル・ダイナミクス]]へ売却した。 === 半導体 === 1999年8月4日、ディスクリート・標準アナログ・標準ロジックなどの[[半導体]]部門を[[オン・セミコンダクター]]として分社化した。これは、イリジウムコミュニケーションズ倒産の損失をカバーするために分社化された。 2003年10月16日、組み込みシステム向けのチップを主力とする半導体部門を[[フリースケール・セミコンダクタ]]として分社化した。 以降、モトローラは半導体を製造していない。 === 車載システム === 2006年7月、自動車部品事業を[[コンチネンタルAG]]に16億ドルで売却した。4500人の従業員と[[テレマティクス]]システム、[[エンジン]]・[[トランスミッション]]制御や車体制御の電子部品、[[ステアリング]]や[[ブレーキ]]用の[[センサ]]、および[[パワーウィンドウ]]用の[[電子部品]]などの事業が売却された。 === 生体認証 === 2008年10月、[[カリフォルニア州]][[アナハイム]]に本社のあった[[生体認証]]事業を[[サフラングループ|サフラン]]に売却した。 === モバイル事業とその他の事業での会社分割 === 1983年に世界初の商用[[携帯電話]]<ref>{{cite news| url=http://wired.jp/2013/04/06/influential-cellphones/ |publisher=[[WIRED (雑誌)|WIRED]] | title=携帯電話の歴史に残る「世界を変えた」12台の名機 | date=2013-04-06 |first= |last= | accessdate=2016-10-28}}</ref> とされる「[[Motorola DynaTAC|DynaTAC8000X]]」を開発し、1989年には当時の[[日米貿易摩擦]]により始まった日米協議で北米標準のモトローラ方式([[TACS]]方式)が認められたことでNTTが独占していた日本の[[移動電話]]市場にも参入し<ref>{{cite news| url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc111140.html |publisher=[[総務省]] | title=平成27年版 情報通信白書第1部| date=2009-05-12 | accessdate=2018-03-04}}</ref>、小型携帯電話「マイクロタック」の大ヒットで1990年に一時はシェアでNTTを上回り<ref name=nikkeibp09512>{{cite news| url=https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090416/328559/ |publisher=[[日経BP]] | title=[1991年]NTTのムーバが爆発的人気に,モトローラ対抗で競争激化 | date=2009-05-12 | accessdate=2018-03-04}}</ref>、これに対抗してNTTも[[mova]]を開発して世界最軽量最小をめぐる競争が起きた<ref name=nikkeibp09512/>。1998年に[[ノキア]]に抜かれるまでモトローラは携帯電話端末の世界での[[市場占有率]]は世界1位だったが<ref>{{cite news| url=http://gigazine.net/news/20150723-goodbye-moto/ |publisher=[[GIGAZINE]] | title=モトローラはどこで間違ったのか?その歴史をマンガでたどる | date=2015-07-23 |first= |last= | accessdate=2016-10-28}}</ref>、2008年には第4位 (8.3%) であった(第1位はノキアで38.6%、2位は[[サムスン電子]]で16.2%)<ref group="注釈">2010年第3四半期の世界市場での携帯電話端末の利用者向け売上台数では第7位の市場占有率2.1%であった。ノキア、サムスン電子、[[Apple]]、[[LGエレクトロニクス|LG]]、リサーチ・イン・モーション(現[[ブラックベリー (企業)|ブラックベリー]])、[[ソニー・エリクソン]]、モトローラの順である。</ref>。ノキアに抜かれてからは2位が定位置であったが、RAZR以降にヒットが出ないこともあって4位に転落した。2007年第4半期以降、携帯電話事業は極度の不振に陥り、2008年3月、モバイル事業の分社化計画を発表した。 2010年11月30日、「2011年1月4日に2社の独立した株式公開企業に分割する予定である」と発表した。同社の取締役会によって承認された内容は、'''"Motorola" から携帯電話とセットトップボックス事業を行う "Motorola Mobility Holdings" を分社化した上で、エンタープライズおよびネットワーク事業製品を継続して担当する "Motorola" は社名を "Motorola Solutions" に改める'''というものであった。 [[ガートナー]]による2010年の世界携帯電話販売推計では、[[Apple]]とリサーチ・イン・モーション(現[[ブラックベリー (企業)|ブラックベリー]])の躍進にともない、モトローラの販売台数は約3855万台で、2.4%の市場占有率であった<ref>[http://www.gartner.com/it/page.jsp?id=1543014 ガートナー 2010年世界携帯電話販売台数推計]</ref>。 2011年1月4日、"Motorola Mobility" の[[最高経営責任者]] (CEO) にはこれまでも共同CEOとしてモトローラを統括してきたSanjay Jhaが就任し、"Motorola Solutions" のCEOにはGreg Brownが就任した。[[ニューヨーク証券取引所]]での銘柄コードは、"Motorola Solutions" は "MSI" となり、"Motorola Mobility Holdings" は "MMI" となった。 分社化によって従来の株主は、"MOT" 普通株式8株に対して"MMI"の普通株式1株を得る。また、この新たな市場取引の開始までに、現有の "MOT" 普通株式7株が "MSI" 普通株式1株に変換される<ref>[https://japan.cnet.com/article/20423592/ cnet.japan 「モトローラ、2011年1月4日から正式に2社分割へ」]</ref>。 === 無線ネットワークインフラ部門 === {{see|モトローラ・ソリューションズ#無線ネットワークインフラ部門の売却}} == 米本社 == '''事業部門:<ref name="motorola.com">[https://web.archive.org/web/20081113104254/http://www.motorola.com/content.jsp?globalObjectId=8892](2008年11月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>''' *'''エンタープライズ・モビリティ・ソリューション''':本社はイリノイ州[[シャンバーグ]]に所在。官公庁や公衆安全部門及び企業の移動体通信事業を行う。アナログ・デジタル2ウェイラジオ、音声・データ通信、モバイルコンピューティング製品、データ収集システム、[[無線基地局]]及び[[RFID]]事業など。2011年1月4日をもって、モトローラ・ソリューションズへ。 *'''ホーム&ネットワーク・モビリティ''':本社はイリノイ州[[アーリントンハイツ (イリノイ州)|アーリントンハイツ]]に所在。無線・有線媒体によるエンターテイメント・情報・通信サービス事業を行う。[[デジタルビデオ]]システム、[[セットトップボックス]]、音声及びデータ[[モデム]]、衛星放送や[[ケーブルテレビ]]のブロードバンドアクセスシステム、および有線・無線通信キャリア事業など。2011年1月4日をもって、セットトップボックス事業はモトローラ・モビリティへ、その他の事業はモトローラ・ソリューションズへ。 *'''モバイルデバイシズ''':本社はイリノイ州{{仮リンク|リバティービル (イリノイ州)|label=リバティービル|en|Libertyville, Illinois}}に所在。携帯電話等の製造事業を行う。携帯電話端末、無線端末、[[ブルートゥース]]製品及びこれらを統合した製品など。2011年1月4日をもって、モトローラ・モビリティへ。 == 日本法人※会社分割後 == === モバイル事業 === * 社名/[https://www.motorola.co.jp/home モトローラ・モビリティ・ジャパン合同会社](レノボ・ジャパン合同会社 子会社) * 所在地/101-0021 [[東京都]][[千代田区]][[外神田]]四丁目14-1 [[秋葉原UDX]] === ソリューション事業 === * 社名/[https://www.motorolasolutions.com/ja_jp.html モトローラ・ソリューションズ株式会社] * 所在地/108-0023 東京都港区芝浦四丁目6-8 田町ファーストビル * == 製品 == {{節スタブ}} === 携帯電話 === ここでは主な携帯電話だけを記す。[[w:List of Motorola products|Motorola の端末一覧]](英語)も参照のこと。 * [[Nexus 6]] - Googleとモトローラが作った端末である。 * {{仮リンク|モトローラ・マイクロタック|en|Motorola MicroTAC|preserve=1}} * {{仮リンク|Motorola V60|en|List of Motorola V series phones#V60|preserve=1}} - 金属のシェルをもつ携帯 * [[Motorola V66]] - かつて[[ソフトバンク|日本のボーダフォン]]が海外専用端末([[SIMカード]]を差し替えて渡航先で使用する)として3G契約者向けに販売していたことがあった。この他、NTTドコモでも「[[WORLD WING]]」用のレンタル端末として提供されていた。 * [[Motorola A1000]] * [[Motorola FONE F3]] - ディスプレイに電子ペーパーを採用した携帯 * [[Motorola RAZR V3]] - 薄型携帯電話のトレンドを起こしたモデル。現在までに、RAZRシリーズ全体で1億台以上販売された。 * [[Motorola MING]](A1200) - [[Linux]] OS搭載ペン型スマートフォン * [[Motorola PEBL]] - 海にある丸い石をイメージした形 * [[Motorola ROKR E1]] - 初のiTunes搭載携帯 * [[Motorola RIZR]] - スライド携帯 * [[Motorola SLVR]] - ストレート携帯[[iTunes]] (SLVR L7) や[[i-mode]]を搭載している機種もある * [[Motorola Q]] - QWERTY配列のプラスチックキーボードを搭載した[[Windows Mobile]]スマートフォン * [[Motorola DROID]] - QWERTY配列のプラスチックキーボードを搭載した[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]スマートフォン、[[タイム (雑誌)|Time]]のガジェットトップ10で[[iPhone 3GS]]を抑え1位を獲得。 日本のキャリアへ供給した端末は以下の通りである。 * TACS システム端末機 * [[DDIセルラーグループ]]・[[日本移動通信]]→[[Au (携帯電話)|au]]([[KDDI]])納入端末 ** MP-501 自動車電話 ** MP-501V 自動車電話ボイススクランブル付(モトローラ独自通話秘話機能) ** MP-502 自動車電話ローミング機能付き ** HP-501 / IDO Tokyo Phone T-61(MO) - 当時世界最小携帯電話 初代マイクロタック 携帯電話 質量約200cc ** HP-521 / IDO Tokyo Phone T-61II(MO) マイクロタックII - 初代の悪い点を主に日本市場の意見を米国へフィードバックし改良し消費電力を半減。 ** HP-531 / IDO TACS minimo T207 マイクロタックVIB - バイブレータ付き ** HP-10M / IDO TACS minimo T212 マイクロタックELITE ** HP-40M / IDO TACS minimo T217 スタータック ** IDO DIGITAL minimo D307 マイクロタックELITE ** [[CdmaOne (サービス)|cdmaOne]] [[C100M]] - 並行してC306M([[EZweb]]・[[Cメール]]に対応)を開発し、[[電気通信端末機器審査協会|JATE]]の認証を取得してテレビCMも製作していたが、開発が難航し最終的に発売中止となった。そのため、当時のcdmaOne端末の型番が「306」のみ欠番となっている。 ** au [[TBi11M|Motorola Xoom Wi-Fi TBi11M]](MOT11)- Wi-Fi通信のみ対応で、SIMカードスロットはあるが3G通信には非対応。 ** au [[ISW11M|Motorola Photon ISW11M]](MOI11) ** au [[IS12M|Motorola RAZR IS12M]](MOI12) * [[NTTドコモ]]グループ納入端末 ** [[Mova|デジタルムーバ]] M - 初代ムーバ(TZ-804)の開発には参画していなかったが、内部ソフトウェアがドコモ標準のものであり、例外的にアルファベット1文字の略号と「ムーバ」を名乗る権利を与えられた。 ** デジタルムーバ M101 HYPER ** デジタルムーバ M206 HYPER ** FOMA [[M1000]](A1000を元に開発された) ** FOMA [[M2501 HIGH-SPEED]]([[PCカード]]型) ** FOMA [[M702iS]](RAZR V3xxを元に開発された) ** FOMA [[M702iG]](RAZR V3xを元に開発された) * ボーダフォン→ソフトバンク納入端末 ** [[Vodafone 702MO]] ** [[Vodafone 702sMO]] ** SoftBank [[SoftBank 201M|MOTOROLA RAZR M 201M]] * [[ツーカー]] [[TH541]] マイクロタックデジタルELITE - ツーカー向けは本機種のみで撤退。 === PHS === *パルディオ311M(NTT中央パーソナル通信網・現[[NTTドコモ]]向け) === ポケットベル === [[ファイル:TokyoTelemessage_PHOENIX-fw_1.jpg|thumb|right|180px|東京テレメッセージ PHOENIX-fw]] *[[東京テレメッセージ]] **PHOENIX-fw *[[NTTドコモ]] **キッズベル **キッズベル ポリスくん === Bluetooth === (日本国内向けのみ) *[http://motorola.jp/hellomoto/S9-HD_ipodadapter/ モトローラS9-HD&iPodアダプタ(ステレオヘッドセット+ iPodアダプタ)] *[http://motorola.jp/hellomoto/S9-HD/ モトローラS9(ステレオヘッドセット)] 販売終了 *[http://motorola.jp/hellomoto/S605/ モトローラS605(ステレオヘッドセット)] *[http://motorola.jp/hellomoto/S605_ipodadapter/ モトローラS605&iPodアダプタ(ステレオヘッドセット+ iPodアダプタ)] *[http://motorola.jp/hellomoto/H620/ モトローラH620シリーズ(モノラルヘッドセット)] *[http://motorola.jp/hellomoto/H300series/ モトローラH300シリーズ(モノラルヘッドセット)] *[http://motorola.jp/hellomoto/H500/ モトローラH500(モノラルヘッドセット)] 販売終了 *[http://motorola.jp/hellomoto/H680/ モトローラH680(モノラルヘッドセット)] *[http://motorola.jp/hellomoto/HT820/ モトローラHT820(ステレオヘッドセット)] 販売終了 *[http://motorola.jp/hellomoto/S9/ モトローラS9(ステレオヘッドセット)] 販売終了 *[http://motorola.jp/hellomoto/S9_ipodadapter/default.htm モトローラS9&iPodアダプタ(ステレオヘッドセット+ iPodアダプタ)] === トランシーバー === (日本国内向けのみ) * 携帯型 ** GL2500R ** GL2000 ** GP328・338 ** GP3188・3688 ** Handie Talkieシリーズ ** MTS2000 ** VISARシリーズ ** XTS3000・5000 * 車載型 ** MCS2000 ** MD100C+・100P ** MIB9000 ** GM3188・3688 ** SENTRAX ** XTL2500 * 基地局設備 ** QUANTAR ** MTR2000 === 通信機用IC === * MC3357P === MPU === * [[MC6800]] * [[MC6802]] * [[MC6809]] * [[MC68000]] * [[MC68010]] * [[MC68020]] * [[MC68030]] * [[MC68040]] * [[MC68060]] * [[MC88000]] * [[PowerPC]] === [[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]] === * {{仮リンク|DSP56000|en|Motorola 56000}} * {{仮リンク|DSP96000|en|Motorola 96000}} === Macintosh互換機 === * {{仮リンク|StarMax|en|Motorola StarMax}} 3000/4000([[CPU|MPU]]は[[PowerPC]]603e/604e) === その他 === * [[au BOX]] (VIP-1830) (au向けIPセットトップボックス) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[CPU年表]] * [[IBM]] * [[Apple]] * [[モトローラ・モビリティ]] * [[アメリカ合衆国における携帯電話]] * [[MOTOMAGX]] == 外部リンク == {{Commonscat|Motorola}} *[https://www.motorola.co.jp/ モトローラ・モビリティ・ジャパン(日本)] *[https://www.motorolasolutions.com/ja_jp.html モトローラ・ソリューションズ(日本)] *{{Twitter|motorolajp|Motorola(Japan)}} *{{Facebook|MotorolaJP|Motorola Japan}} *{{Instagram|motorola_japan|Motorola Japan}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もとろおら}} [[Category:モトローラ|*]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国の電気機器メーカー]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国の半導体企業]] [[Category:アメリカ合衆国の音響機器メーカー]] [[Category:かつての携帯電話メーカー]] [[Category:コンピュータ・ネットワークの企業]] [[Category:NYSE上場企業]] [[Category:S&P 500]] [[Category:イリノイ州の企業]] [[Category:クック郡 (イリノイ州)]]
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日本レコード大賞
『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう、英: THE JAPAN RECORD AWARDS)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である。 略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』(かがやく にほんレコードたいしょう)。 1959年に創設され、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり、また賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。これにより賞の権威は大きく低下した。また、第36回(1994年)には大賞を受賞した歌手がミュージック・ビデオの撮影で渡豪していたため、授賞式に出席しないという異例の事態となった(2020年現在に至るまで、大賞を受賞した歌手が授賞式に出席しなかった唯一の例となっている)。 第56回(2014年)を例として掲載する(計23人) 戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、若者世代がコンサートを通じて新音楽を、年配世代がレコードを通じて歌謡曲をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた。 1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞であった。 しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担した。 古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している。 以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消した。初めの数年は賞自体の知名度が低く、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。 1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始。更に会場を帝国劇場に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。 三賞(最優秀新人賞・最優秀歌唱賞・大賞)ノミネートの作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら、および既に受賞が決定している歌手(大衆賞受賞者・企画賞受賞者・特別賞受賞者など)は楽屋ではなく、観客と共に客席で進行を見守っていた。三賞ノミネートの歌手がステージに現れる際は、奈落から迫りによって登場し、作品紹介と歌唱が行われた。 オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72〜73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、ビッグバンド(サクソフォーン5名・トランペット4名・トロンボーン4名・ピアノ・エレキベース・ドラムス各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器(エレキギター2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団:昭和40年代では第一ヴァイオリン8名・第二ヴァイオリン6名・ヴィオラ4名・チェロ4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の交響楽団に匹敵する)とハープの大々的使用、原曲のフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器(フルート、オーボエ、ホルン、ティンパニ、グロッケンシュピール、チャイムなど)、さらに混声合唱団(ソプラノ6名・アルト6名・テノール6名・バス6名の計24名)を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。番組の前半開始時とビッグバンド交代後の後半開始時には、字幕のみならず司会者高橋圭三による演奏者と指揮者の紹介が必ず盛り込まれており、人間が奏でる生の楽器演奏がいかに重要視されていたかがうかがえる。 審査会場の帝国劇場内「インペリアル・ルーム」と中継を結び、審査の進捗状況がTBSアナウンサー小川哲哉によって随時レポートされた。三賞の発表は高橋圭三が行ったが、特に大賞時は作品名・受賞者名が収まった筆書きの式辞用紙を審査委員長がうやうやしく届け、観客や視聴者・聴取者の期待と緊張をより一層高めた。ドラムロールが響く中、高橋圭三自身も開封する式辞用紙の手が大きく震えるほどであった。 大賞発表直後、客席で見守っていた受賞者(作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら)がステージへの登壇を促され、敬虔なBGMが流れる中、制定委員長・運営委員長から賞状、ブロンズ像(吉田芳夫作)、記念楯(東郷青児作)、副賞の目録が贈呈されるセレモニーが丁寧に行われた。また受賞者の身内や友人が駆けつけ花束を贈る場面も多かった。 音と演出に総力を注ぎ、さらに国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる。また、本賞の人気に刺激され、『日本歌謡大賞』をはじめ、民放各局で歌謡音楽賞が次々制定されるようになった。 賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ごろ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、さらにこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。 ホイチョイ・プロダクションズのテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)荻昌弘さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している。また、同著では第26回(1984年)の新人賞を辞退した菊池桃子を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している。 1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。 第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。 この頃からノミネート歌手がそれぞれ専属のバンドを起用することが多くなり、オーケストラは演歌系歌手のバックと式典音楽のみを担当するようになってきた。 1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。 第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された。 第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。歌手の伴奏はもはや打ち込みカラオケが主流となる。 第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。 第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。 1950年代 1959 1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969 1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979 1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989 1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999 2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009 2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014 - 2015 - 2016 - 2017 - 2018 - 2019 2020年代 2020 - 2021 - 2022 - 2023 各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される(写真を参照)。 いずれも第65回(2023年)時点のもの。 レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。 大賞を複数回獲得している歌手は、2022年現在以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。 発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(2023年はJRN全国5局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。 また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている。 TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。 第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。 TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。 JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。 静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた。 近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。 福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。 1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。 2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。 1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)、さらに2023年(第65回)は5局(TBSと琉球放送がフルネット、北海道放送・北陸放送・大分放送が19:00から途中飛び乗り)に留まっている。 JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。 青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。 福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である福井放送がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。 西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。 毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。 第6回では、この年(1964年)に流行した坂本九の「幸せなら手をたたこう」が、原曲がアメリカ民謡であることから選考の対象外となった。 第21回では、「第10回日本歌謡大賞」や「第8回FNS歌謡祭」でグランプリを受賞して社会現象になった西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、外国人の作曲作品のカバーであったため審査対象から外され、「勇気があれば」でのノミネートとなった。 第24回では、「第13回日本歌謡大賞」の大賞や「第8回日本テレビ音楽祭」のグランプリを受賞するなど、大ヒットした岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」は、作曲者が木森敏之単独から木森とジョン・スコットの共作へと急遽変更されたため、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当しノミネートを見送られた。 第60回では、DA PUMP の「U.S.A.」が2018年最大のヒット曲として大賞受賞が本命視されていたが、外国人の作曲作品のカバーであったため受賞を逃し、ノミネートの意義について批判が殺到した。 2015年に審査委員を務める産経新聞は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。 2015年、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している。 『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている。 2017年、『週刊文春』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の叶弦大が、「大手芸能事務所バーニングプロダクション社長の周防郁雄がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に週刊新潮も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの贈賄行為を働いており、中には受賞させたいタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている。 2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だったジャニー喜多川の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの福田裕彦は『アサヒ芸能』の取材に対して「もう25年以上前、既に『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない。」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している。 近年では大賞の発表が22時前に行われるため、13歳未満のアーティストは労働基準法および児童福祉法の都合上、20時までに会場から退出しなければならない(まれに大賞発表が23時前後の年もあり、18歳未満の者は22時までに退出することになる)。例として2019年に史上最年少で大賞を受賞したFoorinはメンバー全員が小中学生であり(当時の平均年齢は11.2歳)、発表時に不在だったため、代理の者が表彰を受けることとなった。さらに2006年から2009年までは最優秀新人賞の発表が21時を過ぎたことから(2008年は23時前に発表が行われた)、2007年の°C-uteも同じ理由で、プロデューサーのつんくが代理として表彰を受けている。 TBSでは、Xアカウントをレコード大賞の他、『音楽の日』や『日本有線大賞』と共有していたが、2017年に日本有線大賞が終了し、さらに2023年に『音楽の日』が新たにアカウントを取得したため、以降はレコード大賞単独のアカウントとなっている。
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"オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72〜73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、ビッグバンド(サクソフォーン5名・トランペット4名・トロンボーン4名・ピアノ・エレキベース・ドラムス各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器(エレキギター2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団:昭和40年代では第一ヴァイオリン8名・第二ヴァイオリン6名・ヴィオラ4名・チェロ4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の交響楽団に匹敵する)とハープの大々的使用、原曲のフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器(フルート、オーボエ、ホルン、ティンパニ、グロッケンシュピール、チャイムなど)、さらに混声合唱団(ソプラノ6名・アルト6名・テノール6名・バス6名の計24名)を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。番組の前半開始時とビッグバンド交代後の後半開始時には、字幕のみならず司会者高橋圭三による演奏者と指揮者の紹介が必ず盛り込まれており、人間が奏でる生の楽器演奏がいかに重要視されていたかがうかがえる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "審査会場の帝国劇場内「インペリアル・ルーム」と中継を結び、審査の進捗状況がTBSアナウンサー小川哲哉によって随時レポートされた。三賞の発表は高橋圭三が行ったが、特に大賞時は作品名・受賞者名が収まった筆書きの式辞用紙を審査委員長がうやうやしく届け、観客や視聴者・聴取者の期待と緊張をより一層高めた。ドラムロールが響く中、高橋圭三自身も開封する式辞用紙の手が大きく震えるほどであった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大賞発表直後、客席で見守っていた受賞者(作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら)がステージへの登壇を促され、敬虔なBGMが流れる中、制定委員長・運営委員長から賞状、ブロンズ像(吉田芳夫作)、記念楯(東郷青児作)、副賞の目録が贈呈されるセレモニーが丁寧に行われた。また受賞者の身内や友人が駆けつけ花束を贈る場面も多かった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "音と演出に総力を注ぎ、さらに国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる。また、本賞の人気に刺激され、『日本歌謡大賞』をはじめ、民放各局で歌謡音楽賞が次々制定されるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ごろ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、さらにこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ホイチョイ・プロダクションズのテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)荻昌弘さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している。また、同著では第26回(1984年)の新人賞を辞退した菊池桃子を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この頃からノミネート歌手がそれぞれ専属のバンドを起用することが多くなり、オーケストラは演歌系歌手のバックと式典音楽のみを担当するようになってきた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。歌手の伴奏はもはや打ち込みカラオケが主流となる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1950年代 1959 1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969 1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979 1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989 1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999 2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009 2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014 - 2015 - 2016 - 2017 - 2018 - 2019 2020年代 2020 - 2021 - 2022 - 2023", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される(写真を参照)。", "title": "各賞" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "いずれも第65回(2023年)時点のもの。", "title": "各賞" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "大賞を複数回獲得している歌手は、2022年現在以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(2023年はJRN全国5局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)、さらに2023年(第65回)は5局(TBSと琉球放送がフルネット、北海道放送・北陸放送・大分放送が19:00から途中飛び乗り)に留まっている。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である福井放送がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。", "title": "放送" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第6回では、この年(1964年)に流行した坂本九の「幸せなら手をたたこう」が、原曲がアメリカ民謡であることから選考の対象外となった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第21回では、「第10回日本歌謡大賞」や「第8回FNS歌謡祭」でグランプリを受賞して社会現象になった西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、外国人の作曲作品のカバーであったため審査対象から外され、「勇気があれば」でのノミネートとなった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "第24回では、「第13回日本歌謡大賞」の大賞や「第8回日本テレビ音楽祭」のグランプリを受賞するなど、大ヒットした岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」は、作曲者が木森敏之単独から木森とジョン・スコットの共作へと急遽変更されたため、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当しノミネートを見送られた。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第60回では、DA PUMP の「U.S.A.」が2018年最大のヒット曲として大賞受賞が本命視されていたが、外国人の作曲作品のカバーであったため受賞を逃し、ノミネートの意義について批判が殺到した。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2015年に審査委員を務める産経新聞は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2015年、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2017年、『週刊文春』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の叶弦大が、「大手芸能事務所バーニングプロダクション社長の周防郁雄がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に週刊新潮も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの贈賄行為を働いており、中には受賞させたいタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だったジャニー喜多川の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの福田裕彦は『アサヒ芸能』の取材に対して「もう25年以上前、既に『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない。」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "近年では大賞の発表が22時前に行われるため、13歳未満のアーティストは労働基準法および児童福祉法の都合上、20時までに会場から退出しなければならない(まれに大賞発表が23時前後の年もあり、18歳未満の者は22時までに退出することになる)。例として2019年に史上最年少で大賞を受賞したFoorinはメンバー全員が小中学生であり(当時の平均年齢は11.2歳)、発表時に不在だったため、代理の者が表彰を受けることとなった。さらに2006年から2009年までは最優秀新人賞の発表が21時を過ぎたことから(2008年は23時前に発表が行われた)、2007年の°C-uteも同じ理由で、プロデューサーのつんくが代理として表彰を受けている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "TBSでは、Xアカウントをレコード大賞の他、『音楽の日』や『日本有線大賞』と共有していたが、2017年に日本有線大賞が終了し、さらに2023年に『音楽の日』が新たにアカウントを取得したため、以降はレコード大賞単独のアカウントとなっている。", "title": "その他" } ]
『日本レコード大賞』は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である。 略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』。
{{半保護}} {{Infobox Award | name = 日本レコード大賞<br/><small>THE JAPAN RECORD AWARD</small> | image = New National Theatre, Tokyo 2010.jpg | caption = 発表会会場の[[新国立劇場]] | description = 優れた楽曲・歌手 | presenter = [[日本作曲家協会]] | country = {{JPN}} | location = [[新国立劇場]]・中劇場(2004年より) | year = 1959年12月27日 | year2 = 2022年12月30日 | website = https://jacompa.or.jp/record/ | previous = [[第63回日本レコード大賞|第63回]] | main = [[第64回日本レコード大賞|第64回]] | next = }} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名 = 輝く!日本レコード大賞 |画像 = |画像説明 = |ジャンル = [[音楽番組]] / [[特別番組]] |放送時間= |放送分 = |放送枠 = |放送期間 = [[1959年]][[12月27日]] - |放送回数 = 64 |放送国 = {{JPN}} |制作局 = [[TBSテレビ]] |企画 = <!--以下、スタッフ名は各回の記事へ記述--> |製作総指揮 = |監督 = |演出 = |プロデューサー = |出演者 = |音声 = [[ステレオ放送]](1978年より) |字幕 = |データ放送 = |OPテーマ = |EDテーマ = その年の大賞受賞曲 |外部リンク=https://www.tbs.co.jp/recordaward/ |外部リンク名 = 公式サイト |特記事項 = 詳細に関しては[[#放送]]を参照 }} {{基礎情報 ラジオ番組 |番組名 = 輝く!日本レコード大賞 |画像 = |画像説明 = |ジャンル = |放送 = |放送時間 = |企画 = |プロデューサー = |ディレクター = |パーソナリティ = |出演 = |テーマ曲 = |放送局 = [[TBSラジオ]] |ネットワーク = |制作 = |放送期間 = |放送回数 = |スポンサー = |公式サイト = |特記事項 = 放送回数・時間・内容などはテレビと同一 }} 『'''日本レコード大賞'''』(にほんレコードたいしょう、英: '''THE JAPAN RECORD AWARDS''')は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である<ref group="注">ここでいう「レコード」とは「記録」という意味ではなく20世紀中盤から後半にかけて使われた音楽記録メディアのことである。</ref>。 略称は「'''レコ大'''」(レコたい)。主催は[[日本作曲家協会|公益社団法人日本作曲家協会]]、後援は[[TBSテレビ|TBS]]である。[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]とその系列局が放送し、番組名は『'''輝く!日本レコード大賞'''』(かがやく にほんレコードたいしょう)<ref group="注">時期は不明だが、当初は「[[感嘆符|!]]」がなかった。[[民間放送|民放]]では数少ない[[テレビ]]・[[ラジオ]]の同時放送番組でもある。</ref>。 == 概要 == [[1959年]]に創設され<ref group="注">この年には、TBSテレビをキー局とするニュースネットワーク「JNN」も発足した。</ref>、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり<ref name="tsutaya">{{Cite web|和書| url=http://top.tsite.jp/entertainment/geinou01/i/26939079/| title=2015年「日本レコード大賞」、“「三代目JSB」VS「AKB48」”といわれる理由| work= TSUTAYA T-SITE NEWS| accessdate= 2016-01-05}}</ref><ref name="sankei">{{Cite web|和書| url=http://www.sankei.com/smp/entertainments/news/150110/ent1501100002-s.html| title=国民的番組『レコ大』の存在意義は視聴者に認められているか| work= 産経ニュース| accessdate= 2016-01-05}}</ref>、また賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった([[福山雅治]]、[[B'z]]、[[Mr.Children]]、[[ジャニーズ事務所]]所属歌手など)。これにより賞の権威は大きく低下した<ref name="sankei"/>。また、[[第36回日本レコード大賞|第36回]](1994年)には大賞を受賞した歌手が[[ミュージック・ビデオ]]の撮影で渡豪していたため、授賞式に出席しないという異例の事態となった(2020年現在に至るまで、大賞を受賞した歌手が授賞式に出席しなかった唯一の例となっている)。 === 審査委員 === {{main|[https://web.archive.org/web/20220629031632/http://jacompa.or.jp/record_soshiki.html 公式サイト]}} [[第56回日本レコード大賞|第56回]]([[2014年]])を例として掲載する(計23人) * 審査委員長:川崎浩([[毎日新聞]]) * 審査委員兼幹事(2人):[[サンケイスポーツ]]、[[日刊スポーツ]] * 審査委員 ** 新聞社社員(11人):[[産経新聞]]、[[時事通信]]、[[スポーツニッポン]]、[[デイリースポーツ]]、[[東京新聞]]、[[東京スポーツ]]、[[東京中日スポーツ]]、[[日本経済新聞]]、[[スポーツ報知|報知新聞]]、[[夕刊フジ]]、[[読売新聞]] ** TBS系列局社員<ref group="注">基本的には[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|5社連盟]]構成局のみだが、年によっては5社連盟に次いで有力な立場にある[[東北放送]]・[[中国放送]]も加わる。</ref>(4人):[[北海道放送]]、[[CBCテレビ]]、[[毎日放送]]、[[RKB毎日放送]] ** 音楽評論家・音楽プロデューサー(5人) == 沿革 == === 賞の創設 === 戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、若者世代がコンサートを通じて新音楽を、年配世代がレコードを通じて歌謡曲をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた{{Sfn|佐藤|pp=123-124}}。 1959年、[[古賀政男]]、[[服部良一]]らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『[[日本作曲家協会]]』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まった[[グラミー賞]]であった{{Sfn|佐藤|pp=122-123}}。 しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・[[日本レコード協会]])には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担した{{Sfn|佐藤|pp=124-125}}。 === 草創期 === 古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「[[黒い花びら]]」、歌手は本作でデビューの[[水原弘]]、作詞は放送作家の[[永六輔]]、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した[[中村八大]]という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している{{Sfn|佐藤|pp=129-131}}。 以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消した{{Sfn|佐藤|p=145}}。初めの数年は賞自体の知名度が低く{{Refnest|group="注"|[[水原弘]]は[[第1回日本レコード大賞|第1回]]のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったというエピソードがある<ref>引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、133頁。ISBN 4062122227</ref>。また、[[美空ひばり]]が出演しても客席がガラガラだった事もあったという。}}、放送時間は年末の昼間、会場も[[共立女子大学#共立講堂|神田共立講堂]]など小規模の会場であった。 === 黄金期 === 1969年、[[第11回日本レコード大賞|第11回]]から番組の構成を一新する。大晦日の『[[NHK紅白歌合戦]]』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、[[カラーテレビ|カラー]]での全国放送を開始。更に会場を[[帝国劇場]]に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの[[高橋圭三]]を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。 三賞(最優秀新人賞・最優秀歌唱賞・大賞)ノミネートの作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら、および既に受賞が決定している歌手(大衆賞受賞者・企画賞受賞者・特別賞受賞者など)は楽屋ではなく、観客と共に客席で進行を見守っていた。三賞ノミネートの歌手がステージに現れる際は、[[奈落]]から[[迫|迫り]]によって登場し、作品紹介と歌唱が行われた。 オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72〜73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、[[ビッグバンド]]([[サクソフォーン]]5名・[[トランペット]]4名・[[トロンボーン]]4名・[[ピアノ]]・[[エレキベース]]・[[ドラムス]]各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器([[エレキギター]]2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ([[弦楽合奏]]団:昭和40年代では第一[[ヴァイオリン]]8名・第二[[ヴァイオリン]]6名・[[ヴィオラ]]4名・[[チェロ]]4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の[[オーケストラ|交響楽団]]に匹敵する)と[[ハープ]]の大々的使用、原曲のフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器([[フルート]]、[[オーボエ]]、[[ホルン]]、[[ティンパニ]]、[[グロッケンシュピール]]、[[チャイム]]など)、さらに[[混声合唱]]団([[ソプラノ]]6名・[[アルト]]6名・[[テノール]]6名・[[バス (声域)|バス]]6名の計24名)<ref>{{Cite web|和書|title=【生き字引に訊け!】第1回 砂田実さん「輝く! 日本レコード大賞」プロデューサー |url=https://www.kayou-center.jp/12672 |website=全日本歌謡情報センター |access-date=2023-05-28 |language=ja |last=全日本歌謡情報センター}}</ref>を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の[[長洲忠彦]]が永らく指揮者を務めた。番組の前半開始時とビッグバンド交代後の後半開始時には、字幕のみならず司会者高橋圭三による演奏者と指揮者の紹介が必ず盛り込まれており、人間が奏でる生の楽器演奏がいかに重要視されていたかがうかがえる。 審査会場の帝国劇場内「インペリアル・ルーム」と中継を結び、審査の進捗状況がTBSアナウンサー[[小川哲哉]]によって随時レポートされた。三賞の発表は高橋圭三が行ったが、特に大賞時は作品名・受賞者名が収まった筆書きの式辞用紙を審査委員長がうやうやしく届け、観客や視聴者・聴取者の期待と緊張をより一層高めた。ドラムロールが響く中、高橋圭三自身も開封する式辞用紙の手が大きく震えるほどであった。 大賞発表直後、客席で見守っていた受賞者(作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら)がステージへの登壇を促され、敬虔なBGMが流れる中、制定委員長・運営委員長から賞状、ブロンズ像(吉田芳夫作)、記念楯([[東郷青児]]作)、副賞の目録が贈呈されるセレモニーが丁寧に行われた。また受賞者の身内や友人が駆けつけ花束を贈る場面も多かった。 音と演出に総力を注ぎ、さらに国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる{{Refnest|group="注"|テレビ中継の最高[[視聴率]]([[ビデオリサーチ]]調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)は[[第19回日本レコード大賞|第19回]]([[1977年]])の50.8%<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』133-136頁。</ref>。}}。また、本賞の人気に刺激され、『[[日本歌謡大賞]]』をはじめ、民放各局で歌謡音楽賞が次々制定されるようになった。 賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ごろ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、さらにこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。 [[ホイチョイ・プロダクションズ]]のテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)[[荻昌弘]]さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している<ref>『OTV』91-92頁</ref>。また、同著では[[第26回日本レコード大賞|第26回]](1984年)の新人賞を辞退した[[菊池桃子]]を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している<ref>『OTV』89頁</ref>。 === 衰退期 === 1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。 [[第27回日本レコード大賞|第27回]](1985年)から会場を[[日本武道館]]に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、[[第28回日本レコード大賞|第28回]](1986年)で視聴率が30%を割り込む。 この頃からノミネート歌手がそれぞれ専属のバンドを起用することが多くなり、オーケストラは演歌系歌手のバックと式典音楽のみを担当するようになってきた。 1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。 [[第32回日本レコード大賞|第32回]](1990年)から大賞を「[[ポップ・ミュージック|ポップス]]・[[ロック (音楽)|ロック]]部門」と「[[歌謡曲]]・[[演歌]]部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、[[第35回日本レコード大賞|第35回]](1993年)で廃止された<ref>「レコード大賞 復権へ再改革」『朝日新聞』1993年12月18日付東京夕刊、14頁。</ref>。 [[第36回日本レコード大賞|第36回]](1994年)では、大賞を受賞した[[Mr.Children]]が欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場が[[TBS放送センター]]に移る。歌手の伴奏はもはや打ち込みカラオケが主流となる。 [[第46回日本レコード大賞|第46回]](2004年)からは紅白歌合戦や『[[にっぽんの歌|年忘れにっぽんの歌]]』の出演で[[NHKホール]]([[渋谷区]])や[[新宿コマ劇場]]([[新宿区]])とを移動する出演者への配慮で、会場を[[新国立劇場]]([[渋谷区]])に移した。 [[第47回日本レコード大賞|第47回]](2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。[[第48回日本レコード大賞|第48回]](2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて[[12月30日]]に変更した<ref>紅白とのバッティングのほか、当時人気を博していた[[総合格闘技]]の[[大晦日興行]]である「[[Dynamite!! 〜勇気のチカラ〜|Dynamite!]]」を放送するという編成方針もあった(2010年まで)。</ref>。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。 === 年別詳細 === 1950年代 [[第1回日本レコード大賞|'''1959''']]<br /> 1960年代 [[第2回日本レコード大賞|'''1960''']] - [[第3回日本レコード大賞|'''1961''']] - [[第4回日本レコード大賞|'''1962''']] - [[第5回日本レコード大賞|'''1963''']] - [[第6回日本レコード大賞|'''1964''']] - [[第7回日本レコード大賞|'''1965''']] - [[第8回日本レコード大賞|'''1966''']] - [[第9回日本レコード大賞|'''1967''']] - [[第10回日本レコード大賞|'''1968''']] - [[第11回日本レコード大賞|'''1969''']]<br /> 1970年代 [[第12回日本レコード大賞|'''1970''']] - [[第13回日本レコード大賞|'''1971''']] - [[第14回日本レコード大賞|'''1972''']] - [[第15回日本レコード大賞|'''1973''']] - [[第16回日本レコード大賞|'''1974''']] - [[第17回日本レコード大賞|'''1975''']] - [[第18回日本レコード大賞|'''1976''']] - [[第19回日本レコード大賞|'''1977''']] - [[第20回日本レコード大賞|'''1978''']] - [[第21回日本レコード大賞|'''1979''']]<br /> 1980年代 [[第22回日本レコード大賞|'''1980''']] - [[第23回日本レコード大賞|'''1981''']] - [[第24回日本レコード大賞|'''1982''']] - [[第25回日本レコード大賞|'''1983''']] - [[第26回日本レコード大賞|'''1984''']] - [[第27回日本レコード大賞|'''1985''']] - [[第28回日本レコード大賞|'''1986''']] - [[第29回日本レコード大賞|'''1987''']] - [[第30回日本レコード大賞|'''1988''']] - [[第31回日本レコード大賞|'''1989''']]<br /> 1990年代 [[第32回日本レコード大賞|'''1990''']] - [[第33回日本レコード大賞|'''1991''']] - [[第34回日本レコード大賞|'''1992''']] - [[第35回日本レコード大賞|'''1993''']] - [[第36回日本レコード大賞|'''1994''']] - [[第37回日本レコード大賞|'''1995''']] - [[第38回日本レコード大賞|'''1996''']] - [[第39回日本レコード大賞|'''1997''']] - [[第40回日本レコード大賞|'''1998''']] - [[第41回日本レコード大賞|'''1999''']]<br /> 2000年代 [[第42回日本レコード大賞|'''2000''']] - [[第43回日本レコード大賞|'''2001''']] - [[第44回日本レコード大賞|'''2002''']] - [[第45回日本レコード大賞|'''2003''']] - [[第46回日本レコード大賞|'''2004''']] - [[第47回日本レコード大賞|'''2005''']] - [[第48回日本レコード大賞|'''2006''']] - [[第49回日本レコード大賞|'''2007''']] - [[第50回日本レコード大賞|'''2008''']] - [[第51回日本レコード大賞|'''2009''']]<br /> 2010年代 [[第52回日本レコード大賞|'''2010''']] - [[第53回日本レコード大賞|'''2011''']] - [[第54回日本レコード大賞|'''2012''']] - [[第55回日本レコード大賞|'''2013''']] - [[第56回日本レコード大賞|'''2014''']] - [[第57回日本レコード大賞|'''2015''']] - [[第58回日本レコード大賞|'''2016''']] - [[第59回日本レコード大賞|'''2017''']] - [[第60回日本レコード大賞|'''2018''']] - [[第61回日本レコード大賞|'''2019''']]<br /> 2020年代 [[第62回日本レコード大賞|'''2020''']] - [[第63回日本レコード大賞|'''2021''']] - [[第64回日本レコード大賞|'''2022''']] - [[第65回日本レコード大賞|'''2023''']] == 各賞 == 各賞受賞者には[[東郷青児]]作の楯が授与される(写真を参照)<ref group="注">かつてはTBS賞として[[新制作協会]]員の[[吉田芳夫]]作のブロンズ像が贈られていた</ref>。 いずれも第65回(2023年)時点のもの<ref>{{Cite Web|title=輝く!日本レコード大賞|TBSテレビ|url=https://www.tbs.co.jp/recordaward/|accessdate=2023-11-24}}</ref>。 *'''日本レコード大賞''' : 対象年度に発売されたすべての[[邦楽]][[シングル]]の中で「[[作曲]]、[[編曲]]、[[作詞|作詩]]を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な『'''作品'''』」「優れた歌唱によって活かされた『'''作品'''』」「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた『'''作品'''』」の3点に該当する『1作品』に贈る<ref>{{Cite web|和書|url=https://jacompa.or.jp/record/guideline/|title=活動〜日本レコード大賞 審査基準〜【公益社団法人 日本作曲家協会】|website=公益社団法人日本作曲家協会|publisher=公益社団法人日本作曲家協会|accessdate=2022-12-30}}</ref>。そのため、'''賞の授与は'''、'''作詞者'''・'''作曲者'''・'''編曲者'''・'''音楽プロデューサー'''・'''所属プロダクション'''・'''所属レコード会社'''・および'''作品の歌唱者'''が対象になる。審査対象は、「優秀作品賞」に選ばれた『作品』とする。以上のように日本レコード大賞は決して歌手だけが受賞するものではない。 : 対象年度以前に発売された作品でも、「対象年度に顕著な実績を上げた作品」であれば選考対象とされる。 : 過去には副賞としてテレビ番組スポンサーの1社(自動車メーカー)から車が贈られた。 : 過去にはその名が示すとおり、レコード→[[コンパクトディスク|CD]]が選考対象だったが、現在は[[音楽配信|配信]]楽曲を含めたすべての音楽ソフトが選考対象となっている。 : 歴代最多の大賞受賞アーティストは、4回の[[EXILE]]である。 *'''優秀作品賞'''(旧名:'''金賞'''、'''ゴールド・ディスク賞''') :大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた『作品』に贈る。「'''金賞'''」や「'''ゴールド・ディスク賞'''」という名称が使われていた時期もあったが、第50回(2008年)からは「優秀作品賞」に変更された。<!--出典:[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/12/02/06.html レコ大各賞発表「ポニョ」 「羞恥心」は特別賞]--> *'''最優秀歌唱賞''' : 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた『[[歌手]]』に贈る。審査対象は「金賞」に選ばれた作品の歌手としていたが、[[第50回日本レコード大賞|第50回]]([[2008年]])からは11月下旬から12月上旬にかけて行われる選考委員会で決定されることになった<!--出典:[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/12/02/06.html レコ大各賞発表「ポニョ」 「羞恥心」は特別賞]-->。放送では番組の後半に集中させる。この賞を受賞した歌手は紹介VTRの後に司会者とのやり取りを挟んで楽曲披露がある。歌唱の際には近年の音楽番組では減少傾向にあるオーケストラの生演奏がある。 *'''特別賞''' : 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ注目された『人』『楽曲』『作品』『現象』などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。 *'''特別国際音楽賞''' *'''作詩賞'''、'''作曲賞'''、'''編曲賞''' : 特に作詩・作曲・編曲の分野で独創的であると認められた『作品・作者』に贈る。作詞賞を「西条八十賞」、作曲賞を「中山晋平賞」としていた時期もある。 *'''新人賞'''、'''最優秀新人賞'''([[:en:Japan Record Award for Best New Artist|en]]) :対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し大衆に支持され、将来性を認められた『歌手』に贈る。放送では番組の前半に放送される。この賞を受賞した歌手は紹介VTRと楽曲披露の後に司会者と短いやり取りがある。「最優秀新人賞」は、「新人賞」の中から最も優秀と認められた『歌手』に贈る。 *'''企画賞''' : 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ大衆音楽に大きな貢献をした『作品』([[ミュージックビデオ]]を含む)に贈る。 *'''日本作曲家協会選奨''' : [[第48回日本レコード大賞|第48回]]([[2006年]])から「日本作曲家協会奨励賞」として新設された賞。[[日本作曲家協会]]が日本の心を伝え未来のある実力ある『歌手』に期待を込めて贈る賞。第56回(2014年)からは、魅力的な歌唱で大衆の支持を集めている『歌手』も受賞対象になると同時に、現在の賞名に変更。 *'''特別功労賞''' : 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした『故人』に贈る。 === 過去に存在した各賞 === *'''童謡賞''' : [[第1回日本レコード大賞|第1回(1959年)]]から[[第15回日本レコード大賞|第15回(1973年)]]まで子供向けの[[童謡]]や[[アニメソング]]に与えられた賞だった。建前としてはレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることになっていた<ref>[[長田暁二]]『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、[[1985年]]、139頁。ISBN 4324001243</ref>が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。[[ザ・テンプターズ]]の『[[おかあさん (ザ・テンプターズの曲)|おかあさん]]』がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという<ref>『昭和の童謡アラカルト―戦後編』160-161頁</ref>。[[第16回日本レコード大賞|第16回(1974年)]]にヤングアイドル賞の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。 *'''歌唱賞''' : 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。[[第11回日本レコード大賞|第11回(1969年)]]からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに[[第19回日本レコード大賞|第19回(1977年)]]までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった([[第17回日本レコード大賞|第17回(1975年)]]から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。[[第20回日本レコード大賞|第20回(1978年)]]からは金賞の導入により廃止された。 *'''大衆賞''' : 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで、大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。[[第47回日本レコード大賞|第47回(2005年)]]に1度だけ復活した。 *'''特別大衆賞''' : 1980年に引退した[[山口百恵]]のそれまでの実績を称え与えられた([[第22回日本レコード大賞|第22回・1980年]])。他に[[都はるみ]]([[第26回日本レコード大賞|第26回・1984年]])、[[中森明菜]]、[[瀬川瑛子]](ともに[[第29回日本レコード大賞|第29回・1987年]])が受賞している。 *'''ゴールデン・アイドル賞''' : [[第23回日本レコード大賞|第23回(1981年)]]から[[第25回日本レコード大賞|第25回(1983年)]]までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた。 *'''ベストアルバム賞'''、'''アルバム大賞''' : 対象年度に発売されたすべての[[邦楽]][[アルバム]][[コンパクトディスク|CD]]の中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。[[第50回日本レコード大賞|第50回(2008年)]]からは「優秀アルバム賞」「最優秀アルバム賞」として復活。 *'''吉田正賞''' : [[作曲家]]・[[吉田正]]の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。 *'''美空ひばりメモリアル選奨''' : 歌手・[[美空ひばり]]が[[戦後]]日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。初めて制定された[[第31回日本レコード大賞|第31回(1989年)]]当初は「美空ひばり賞」だったが、[[第35回日本レコード大賞|第35回(1993年)]]に「美空ひばりメモリアル選奨」に変更、[[第42回日本レコード大賞|第42回(2000年)]]を以て最後となる。 *'''ロングセラー賞''' : [[第21回日本レコード大賞|第21回(1979年)]]に新設された賞。その頃、金賞(現在の「優秀作品賞」)に選ばれていたのは、前年11月下旬 - 当年11月中旬に発売されたレコードに限られていたが、1979年には「夢追い酒」([[渥美二郎]])、「花街の母」([[金田たつえ]])、「みちづれ」([[牧村三枝子]])、「北国の春」([[千昌夫]])といった、発売されて数年経っている曲が立て続けに大ヒットしたため、この賞が新設された。その年の金賞の対象期間より前に発売され、その年に売上(通算)が100万枚に達したレコードに贈られていた。その後も「ロングセラー賞」は毎年選出されていたが、第25回(1983年)を最後に消滅。 *'''功労賞''' : 長年に亘り[[レコード]]やCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした『者』に贈る。 *'''優秀アルバム賞'''、'''最優秀アルバム賞'''([[:en:Japan Record Award for the Best Album|en]]) : 対象年度に発売されたすべての[[邦楽]][[アルバム]][[コンパクトディスク|CD]]の中で芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』に贈られる。 :「最優秀アルバム賞」は、「優秀アルバム賞」の中から最も優れた『作品』に贈られる。 *'''特別映画音楽賞'''、'''特別歌謡音楽賞''' : 社会的に世の中を賑わせ、注目された『音楽作品(特別映画音楽賞は映画音楽作品)』『人』に贈られる。第56回(2014年)から新設。 *'''特別栄誉賞''' : == 歴代大賞受賞曲 == *曲名、歌手名は[https://www.tbs.co.jp/recordaward/winner.html#winner 公式サイト]を参照。 * 第32回(1990年)から第34回(1992年)は、{{Legend2|pink|歌謡曲・演歌部門|border=solid 1px #aaa}}と{{Legend2|aqua|ポップス・ロック部門|border=solid 1px #aaa}}に分けられた。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"" !回 !年 ! 曲名 ! 歌手名 ! 作詞 ! 作曲 ! 編曲 ! 所属レコード会社 |- ![[第1回日本レコード大賞|第1回]] | 1959年 | [[黒い花びら]] | [[水原弘]] | [[永六輔]] | colspan="2" |[[中村八大]] | [[EMIミュージック・ジャパン|東京芝浦電気]] |- ![[第2回日本レコード大賞|第2回]] |1960年 | [[誰よりも君を愛す]] |[[松尾和子]]<br>[[和田弘とマヒナスターズ]] |[[川内康範]] |[[吉田正]] |[[和田弘]] | rowspan="3" |[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|日本ビクター]] |- ![[第3回日本レコード大賞|第3回]] | 1961年 | [[君恋し]]<ref group="•">元々は1922年に吹き込まれ、1928年に大ヒットした[[二村定一]]の楽曲で、1961年にフランク永井がカバーした。</ref> | [[フランク永井]] | [[時雨音羽]] | [[佐々紅華]] | [[寺岡真三]] |- ![[第4回日本レコード大賞|第4回]] | 1962年 |[[いつでも夢を]] | [[橋幸夫]]<br>[[吉永小百合]] |[[佐伯孝夫]] |colspan="2" |吉田正 |- ![[第5回日本レコード大賞|第5回]] | 1963年 | [[こんにちは赤ちゃん]] | [[梓みちよ]] | 永六輔 | colspan='2" |中村八大 | [[キングレコード]] |- ![[第6回日本レコード大賞|第6回]] | 1964年 | [[愛と死をみつめて#レコード|愛と死をみつめて]] | [[青山和子]] | 大矢弘子 | colspan='2" |土田啓四郎 |rowspan="2" | [[日本コロムビア]] |- ![[第7回日本レコード大賞|第7回]] | 1965年 | [[柔 (美空ひばりの曲)|柔]] | [[美空ひばり]] | [[関沢新一]] | [[古賀政男]] | [[佐伯亮 (音楽家)|佐伯亮]] |- ![[第8回日本レコード大賞|第8回]] | 1966年 | [[霧氷 (曲)|霧氷]] | 橋幸夫<ref group="•">初の2回目の大賞受賞。</ref> | [[宮川哲夫]] | [[利根一郎]] | 一ノ瀬義孝 | 日本ビクター |- ![[第9回日本レコード大賞|第9回]] | 1967年 | [[ブルー・シャトウ]] | [[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]] | [[橋本淳 (作詞家)|橋本淳]] | [[井上大輔|井上忠夫]] | [[森岡賢一郎]] | 日本コロムビア |- ![[第10回日本レコード大賞|第10回]] | 1968年 | [[天使の誘惑 (曲)|天使の誘惑]] | [[黛ジュン]] | [[なかにし礼]] | colspan='2" |[[鈴木邦彦 (作曲家)|鈴木邦彦]] | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝音楽工業]] |- ![[第11回日本レコード大賞|第11回]] | 1969年 | [[いいじゃないの幸せならば]] | [[佐良直美]] | [[岩谷時子]] | colspan='2" |[[いずみたく]] | 日本ビクター |- ![[第12回日本レコード大賞|第12回]] | 1970年 | [[今日でお別れ]] | [[菅原洋一]] | なかにし礼 | [[宇井あきら]] | 森岡賢一郎 | [[ユニバーサルミュージック (日本)|日本グラモフォン]] |- ![[第13回日本レコード大賞|第13回]] | 1971年 | [[また逢う日まで (尾崎紀世彦の曲)|また逢う日まで]] | [[尾崎紀世彦]] | [[阿久悠]] |colspan='2" | [[筒美京平]] | [[ユニバーサルミュージック (日本)|日本フォノグラム]] |- ![[第14回日本レコード大賞|第14回]] | 1972年 | [[喝采 (ちあきなおみの曲)|喝采]] | [[ちあきなおみ]] | [[吉田旺]] | [[中村泰士]] | [[高田弘]] | 日本コロムビア |- ![[第15回日本レコード大賞|第15回]] | 1973年 | [[夜空 (五木ひろしの曲)|夜空]] | [[五木ひろし]] | [[山口洋子]] | [[平尾昌晃]] | [[竜崎孝路]] | [[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間音楽工業]] |- ![[第16回日本レコード大賞|第16回]] | 1974年 | [[襟裳岬 (森進一の曲)|襟裳岬]] | [[森進一]] | [[岡本おさみ]] | [[吉田拓郎]] | [[馬飼野俊一]] | [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]] |- ![[第17回日本レコード大賞|第17回]] | 1975年 | [[シクラメンのかほり]] | [[布施明]] | colspan='2" |[[小椋佳]] | [[萩田光雄]] | キングレコード |- ![[第18回日本レコード大賞|第18回]] | 1976年 | [[北の宿から]] | [[都はるみ]] | rowspan='3" |阿久悠 | [[小林亜星]] | [[竹村次郎]] | 日本コロムビア |- ![[第19回日本レコード大賞|第19回]] | 1977年 | [[勝手にしやがれ (沢田研二の曲)|勝手にしやがれ]] | [[沢田研二]] | [[大野克夫]] | [[船山基紀]] | [[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリドール]] |- ! [[第20回日本レコード大賞|第20回]] | 1978年 | [[UFO (ピンク・レディーの曲)|UFO]] | [[ピンク・レディー]] |colspan="2" | [[都倉俊一]] |ビクター音楽産業 |- ![[第21回日本レコード大賞|第21回]] | 1979年 | [[魅せられて (ジュディ・オングの曲)|魅せられて]] | [[ジュディ・オング]] | [[阿木燿子]] | colspan='2" |筒美京平 | [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]] |- ! [[第22回日本レコード大賞|第22回]] | 1980年 | [[雨の慕情]] | [[八代亜紀]] | 阿久悠 | [[浜圭介]] | [[竜崎孝路]] | [[テイチクエンタテインメント|テイチク]] |- ![[第23回日本レコード大賞|第23回]] | 1981年 | [[ルビーの指環]] | [[寺尾聰]] | [[松本隆]] | 寺尾聰 | [[井上鑑]] | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] |- ![[第24回日本レコード大賞|第24回]] | 1982年 | [[北酒場]] | rowspan='2" |[[細川たかし]]<ref group="•">初の二連覇の快挙達成。</ref> | なかにし礼 | 中村泰士 | 馬飼野俊一 | rowspan="2" |日本コロムビア |- ! [[第25回日本レコード大賞|第25回]] | 1983年 | [[矢切の渡し (曲)|矢切の渡し]]<ref group="•">「矢切の渡し」は元々、ちあきなおみのシングル「酒場川」(1976年発売)のB面として発表された楽曲で、1982年には、ちあきのA面シングルとして発売されている。翌1983年に細川たかしがカバーし、レコード大賞を受賞した。</ref> |rowspan="2" | [[石本美由起]] | [[船村徹]] | 薗広昭 |- ![[第26回日本レコード大賞|第26回]] | 1984年 | [[長良川艶歌]] | 五木ひろし | [[岡千秋]] | [[斉藤恒夫]] | [[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]] |- ! [[第27回日本レコード大賞|第27回]] | 1985年 | [[ミ・アモーレ|ミ・アモーレ(Meu amor é…)]] | rowspan='2" |[[中森明菜]]<ref group="•">女性ソロとして初の二連覇達成。</ref> | [[康珍化]] | colspan='2" |[[松岡直也]] |rowspan="2" | [[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーパイオニア]] |- ![[第28回日本レコード大賞|第28回]] | 1986年 | [[DESIRE -情熱-]] | 阿木燿子 | [[鈴木キサブロー]] | [[椎名和夫]] |- ! [[第29回日本レコード大賞|第29回]] | 1987年 | [[愚か者]] | [[近藤真彦]] | [[伊達歩]] | [[井上堯之]] | [[戸塚修]] | CBSソニー |- ![[第30回日本レコード大賞|第30回]] | 1988年 | [[パラダイス銀河]] | [[光GENJI]] |colspan="2" | [[ASKA|飛鳥涼]] | [[佐藤準]] | [[ポニーキャニオン]] |- ! [[第31回日本レコード大賞|第31回]] | 1989年 | [[淋しい熱帯魚]] | [[Wink]] | [[及川眠子]] | [[尾関昌也]] | 船山基紀 |rowspan="2" | [[ポリスター]]<ref group="•">現在の音源元はUPFRONT WORKS/ライスミュージック。</ref> |- ! rowspan="2" | [[第32回日本レコード大賞|第32回]] | rowspan="2" | 1990年 |style="background:pink"|[[恋唄綴り]] | style="background:pink"|[[堀内孝雄]] | [[荒木とよひさ]] | 堀内孝雄 | [[川村栄二]] |- |style="background:aqua"|[[おどるポンポコリン]] |style="background:aqua"| [[B.B.クィーンズ]] | [[さくらももこ]] |colspan="2" | [[織田哲郎]] | [[BMG JAPAN|BMGビクター]]<ref group="•">現在の音源元は[[ビーイング|Being group]]。</ref> |- ! rowspan="2" | [[第33回日本レコード大賞|第33回]] | rowspan="2" | 1991年 |style="background:pink"|[[北の大地]] |style="background:pink"|[[北島三郎]] | [[星野哲郎]] | 船村徹 | [[南郷達也]] | [[日本クラウン]] |- |style="background:aqua"|[[愛は勝つ]] |style="background:aqua"|[[KAN]] |colspan="2" |KAN | KAN<br />[[小林信吾]] | ポリドール |- ! rowspan="2" | [[第34回日本レコード大賞|第34回]] | rowspan="2" | 1992年 |style="background:pink"|[[白い海峡]] | style="background:pink"|[[大月みやこ]] | [[池田充男]] | [[伊藤雪彦]] | [[池多孝春]] | [[キングレコード]] |- |style="background:aqua"|[[君がいるだけで/愛してる|君がいるだけで]] |style="background:aqua"| [[米米CLUB]] |colspan="2" |米米CLUB | 米米CLUB<br />[[中村哲 (作曲家)|中村哲]] | [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー]] |- ![[第35回日本レコード大賞|第35回]] | 1993年 |[[無言坂]] | [[香西かおり]] | [[市川睦月]] | [[玉置浩二]] | [[川村栄二]] | ポリドール |- ! [[第36回日本レコード大賞|第36回]] | 1994年 | [[innocent world]] | [[Mr.Children]] | colspan="2" |[[桜井和寿]] | [[小林武史]]<br />Mr.Children | [[トイズファクトリー]] |- ![[第37回日本レコード大賞|第37回]] | 1995年 | [[Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜]] | [[TRF|trf]] | colspan="2" |[[小室哲哉]] | 小室哲哉<br />[[久保こーじ]] | rowspan="4" |[[エイベックス]] |- ![[第38回日本レコード大賞|第38回]] | 1996年 | [[Don't wanna cry]] |rowspan="2" | [[安室奈美恵]]<ref group="•">女性ソロとして中森明菜以来2組目の2連覇。</ref> | 小室哲哉<br />[[前田たかひろ]] | colspan="2"rowspan="3" |小室哲哉 |- ![[第39回日本レコード大賞|第39回]] | 1997年 | [[CAN YOU CELEBRATE?]] |小室哲哉 |- ![[第40回日本レコード大賞|第40回]] | 1998年 | [[wanna Be A Dreammaker]] | [[globe]] | [[マーク・パンサー|MARC]]<br />小室哲哉 |- ! [[第41回日本レコード大賞|第41回]] | 1999年 | [[Winter,again]] | [[GLAY]] |colspan="2" | [[TAKURO]] | [[佐久間正英|MASAHIDE SAKUMA]]<br />GLAY | [[UNLIMITED RECORDS|アンリミテッド]] |- ![[第42回日本レコード大賞|第42回]] | 2000年 | [[TSUNAMI]] | [[サザンオールスターズ]] |colspan="2" | [[桑田佳祐]] | サザンオールスターズ<br />弦編曲:[[島健]] | [[ビクターエンタテインメント|ビクターEnt]] |- ![[第43回日本レコード大賞|第43回]] | 2001年 | [[Dearest (浜崎あゆみの曲)|Dearest]] |rowspan="3"|[[浜崎あゆみ]]<ref group="•">女性ソロとして、中森明菜、安室奈美恵以来3組目の連覇。</ref><ref group="•">史上初の3連覇達成。</ref> |rowspan="3"|浜崎あゆみ |rowspan="2" | [[浜崎あゆみ|CREA]]+[[D・A・I]] | [[鈴木直人 (音楽プロデューサー)|Naoto Suzuki]] |rowspan="3" | エイベックス |- ![[第44回日本レコード大賞|第44回]] | 2002年 | [[Voyage_(曲)|Voyage]] | [[島健]] |- ! [[第45回日本レコード大賞|第45回]] | 2003年 | [[No way to say]] | [[BOUNCEBACK]]||[[HΛL]] |- ! [[第46回日本レコード大賞|第46回]] | 2004年 | [[Sign (Mr.Childrenの曲)|Sign]] | Mr.Children<ref group="•">バンドおよびグループとして初の2回目の受賞。</ref> | colspan="2" |桜井和寿 | 小林武史<br />Mr.Children | トイズファクトリー |- ! [[第47回日本レコード大賞|第47回]] | 2005年 | [[Butterfly (倖田來未の曲)|Butterfly]] |[[倖田來未]] |倖田來未 | colspan="2" |[[渡辺未来]] | エイベックス |- ! [[第48回日本レコード大賞|第48回]] | 2006年 | [[一剣]] | [[氷川きよし]] | [[松井由利夫]] | [[水森英夫]] | 佐伯亮 | [[日本コロムビア|コロムビアMEnt]] |- ![[第49回日本レコード大賞|第49回]] | 2007年 | [[蕾 (コブクロの曲)|蕾]] | [[コブクロ]] |colspan="2" | [[小渕健太郎]] | コブクロ | ワーナー |- ![[第50回日本レコード大賞|第50回]] | 2008年 | [[The Birthday 〜Ti Amo〜|Ti Amo]] | rowspan="3" |[[EXILE]]<ref group="•">グループとして初の2連覇達成。</ref><ref group="•">浜崎あゆみ以来2組目の3連覇。</ref> | [[松尾潔]] | [[Jin Nakamura]]<br />松尾潔 | Jin Nakamura | rowspan="3" |エイベックス |- ![[第51回日本レコード大賞|第51回]] | 2009年 | [[THE MONSTER〜Someday〜|Someday]] | [[ATSUSHI (歌手)|ATSUSHI]] | miwa furuse||[[h-wonder]] |- ![[第52回日本レコード大賞|第52回]] | 2010年 | [[I Wish For You]] | [[michico]] | [[T.KURA|T. Kura]]<br />michico | T. Kura |- ![[第53回日本レコード大賞|第53回]] | 2011年 | [[フライングゲット (曲)|フライングゲット]] | rowspan="2" |[[AKB48]] | rowspan="2" |[[秋元康]] | [[すみだしんや]] | [[生田真心]] |rowspan="2" | キングレコード |- ![[第54回日本レコード大賞|第54回]] | 2012年 | [[真夏のSounds good !]] |colspan="2" | [[井上ヨシマサ]] |- ![[第55回日本レコード大賞|第55回]] | 2013年 | [[EXILE PRIDE 〜こんな世界を愛するため〜]] | EXILE<ref group="•">初の4回目の受賞。</ref> | ATSUSHI | Sean “PHEKOO” | POCHI | rowspan="3" |エイベックス |- ![[第56回日本レコード大賞|第56回]] | 2014年 | [[R.Y.U.S.E.I.]] |rowspan="2" | [[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE|三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE]] | [[STY]] |colspan="2" | STY<br />[[Maozon]] |- ![[第57回日本レコード大賞|第57回]] | 2015年 | [[Unfair World]] | [[小竹正人]] |colspan="2" | [[Mitsu.J]] |- ![[第58回日本レコード大賞|第58回]] |2016年 | [[あなたの好きなところ]] |[[西野カナ]]<ref group="•">単独アーティストとしては初の平成生まれの受賞者。</ref> |西野カナ | [[Carlos K.]]<br />[[Yo-Hey]] | Carlos K. | rowspan="5" |ソニー |- ![[第59回日本レコード大賞|第59回]] | 2017年 | [[インフルエンサー (曲)|インフルエンサー]] |rowspan="2" | [[乃木坂46]] | rowspan="2" |秋元康 | すみだしんや | [[APAZZI]] |- ! [[第60回日本レコード大賞|第60回]] | 2018年 | [[シンクロニシティ (乃木坂46の曲)|シンクロニシティ]] | colspan="2" |[[シライシ紗トリ]] |- ! [[第61回日本レコード大賞|第61回]] | 2019年 | [[パプリカ (曲)|パプリカ]] | [[Foorin]]<ref group="•">受賞者としては初めて全員が21世紀生まれ。</ref> | colspan="3" |[[米津玄師]] |- ! [[第62回日本レコード大賞|第62回]] |2020年 | [[炎 (LiSAの曲)|炎]] | [[LiSA]] | [[梶浦由記]]<br /> LiSA | colspan="2" |梶浦由記 |- ! [[第63回日本レコード大賞|第63回]] | 2021年 | [[CITRUS (曲)|CITRUS]] | [[Da-iCE]] | [[工藤大輝]]<br />[[花村想太]] | Kaz Kuwamura<br />中山翔吾 | 中山翔吾<br />[[TomoLow]] | エイベックス |- ! [[第64回日本レコード大賞|第64回]] | 2022年 | [[Habit]] | [[SEKAI NO OWARI]] | [[Fukase]] | [[Nakajin]] | SEKAI NO OWARI | ユニバーサル |- ![[第65回日本レコード大賞|第65回]] |2023年 | [[ケセラセラ (Mrs. GREEN APPLEの曲)|ケセラセラ]] | [[Mrs. GREEN APPLE]] | colspan="2" |[[大森元貴]] | 花井諒・大森元貴 | [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] |} {{Reflist|2|group="•"}} ==歴代最優秀新人賞受賞者== *歌手名、曲名は[https://www.tbs.co.jp/recordaward/winner.html#winner 公式サイト]を参照。 *第53回(2011年)以降は歌手のみ受賞。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"" !回 !年 !歌手名 !曲名 |- !rowspan="2" |第4回 |rowspan="2" |1962年 |[[北島三郎]] |[[なみだ船]] |- |[[倍賞千恵子]] |[[下町の太陽]] |- !rowspan="4" |第5回 |rowspan="4" |1963年 |rowspan="2" |[[舟木一夫]] |学園広場 |- |[[高校三年生 (舟木一夫の曲)|高校三年生]] |- |rowspan="2" |[[三沢あけみ]] |鳥のブルース |- |私も流れの渡り鳥 |- !rowspan="3" |第6回 |rowspan="3" |1964年 |rowspan="2" |[[西郷輝彦]] |[[君だけを (西郷輝彦の曲)|君だけを]] |- |17歳のこの胸に |- |[[都はるみ]] |[[アンコ椿は恋の花]] |- !rowspan="2" |第7回 |rowspan="2" |1965年 |[[バーブ佐竹]] |[[女心の唄]] |- |[[田代美代子]] |[[愛して愛して愛しちゃったのよ]] |- !rowspan="2" |第8回 |rowspan="2" |1966年 |[[荒木一郎]] |[[空に星があるように]] |- |[[加藤登紀子]] |赤い風船 |- !rowspan="2" |第9回 |rowspan="2" |1967年 |[[永井秀和]] |恋人と呼んでみたい |- |[[佐良直美]] |[[世界は二人のために]] |- !rowspan="3" |第10回 |rowspan="3" |1968年 |[[矢吹健]] |[[あなたのブルース]] |- |[[久美かおり]] |くちづけが怖い |- |[[ピンキーとキラーズ]] |[[恋の季節]] |- !第11回 |1969年 |[[池畑慎之介|ピーター]] |[[夜と朝のあいだに]] |- !第12回 |1970年 |[[にしきのあきら]] |[[もう恋なのか]] |- !第13回 |1971年 |[[小柳ルミ子]] |[[わたしの城下町|私の城下町]] |- !第14回 |1972年 |[[麻丘めぐみ]] |[[芽ばえ (曲)|芽ばえ]] |- !第15回 |1973年 |[[桜田淳子]] |[[わたしの青い鳥]] |- !第16回 |1974年 |[[麻生よう子]] |[[逃避行 (麻生よう子の曲)|逃避行]] |- !第17回 |1975年 |[[細川たかし]] |[[心のこり]] |- !第18回 |1976年 |[[内藤やす子]] |[[想い出ぼろぼろ]] |- !第19回 |1977年 |[[清水健太郎]] |[[帰らない/恋人よ|帰らない]] |- !第20回 |1978年 |[[渡辺真知子]] |[[かもめが翔んだ日|かもめが飛んだ日]] |- !第21回 |1979年 |[[桑江知子]] |[[私のハートはストップモーション]] |- !第22回 |1980年 |[[田原俊彦]] |[[ハッとして!Good|ハッとして!Good]] |- !第23回 |1981年 |[[近藤真彦]] |[[ギンギラギンにさりげなく]] |- !第24回 |1982年 |[[シブがき隊]] |[[100%…SOかもね!|100%…SOかもね!]] |- !第25回 |1983年 |[[THE GOOD-BYE]] |[[気まぐれONE WAY BOY]] |- !第26回 |1984年 |[[岡田有希子]] |恋はじめまして |- !第27回 |1985年 |[[中山美穂]] |[[「C」|C]] |- !第28回 |1986年 |[[少年隊]] |[[仮面舞踏会 (少年隊の曲)|仮面舞踏会]] |- !第29回 |1987年 |[[立花理佐]] |[[キミはどんとくらい]] |- !第30回 |1988年 |[[男闘呼組]] |[[DAYBREAK (男闘呼組の曲)|DAYBREAK]] |- !第31回 |1989年 |[[マルシア]] |[[ふりむけばヨコハマ]] |- !rowspan="4" |第32回 |rowspan="4" |1990年 |[[ヤン・スギョン]] |愛されてセレナーデ |- |[[晴山さおり]] |[[一円玉の旅がらす]] |- |[[たま (バンド)|たま]] |[[さよなら人類]] |- |[[忍者 (グループ)|忍者]] |[[お祭り忍者]] |- !rowspan="2" |第33回 |rowspan="2" |1991年 |[[黒木じゅん|唐木淳]] |やせがまん |- |[[Mi-Ke|Mi‐Ke]] |[[想い出の九十九里浜]] |- !rowspan="2" |第34回 |rowspan="2" |1992年 |[[永井みゆき]] |[[大阪すずめ]] |- |[[小野正利]] |[[You're the Only…]] |- !第35回 |1993年 |[[山根康広]] |[[Get Along Together]] |- !第36回 |1994年 |[[西尾夕紀]] |海峡恋歌 |- !第37回 |1995年 |美山純子 |桃と林檎の物語 |- !第38回 |1996年 |[[Puffy]] |[[アジアの純真]] |- !第39回 |1997年 |[[知念里奈]] |[[Precious・delicious|precious delicious]] |- !第40回 |1998年 |[[モーニング娘。]] |[[抱いてHOLD ON ME!|抱いてHOLD ON ME!]] |- !第41回 |1999年 |[[八反安未果]] |SHOOTIG STAR |- !第42回 |2000年 |[[氷川きよし]] |[[箱根八里の半次郎]] |- !第43回 |2001年 |[[w-inds.]] |[[Paradox (w-inds.の曲)|Paradox]] |- !第44回 |2002年 |[[中島美嘉]] |[[WILL (中島美嘉の曲)|WILL]] |- !第45回 |2003年 |[[一青窈]] |[[もらい泣き]] |- !第46回 |2004年 |[[大塚愛]] |[[さくらんぼ (曲)|さくらんぼ]] |- !第47回 |2005年 |[[AAA (音楽グループ)|AAA]] |[[BLOOD on FIRE]] |- !第48回 |2006年 |[[絢香]] |[[三日月 (絢香の曲)|三日月]] |- !第49回 |2007年 |[[℃-ute]] |[[都会っ子 純情]] |- !第50回 |2008年 |[[ジェロ]] |[[海雪]] |- !第51回 |2009年 |[[BIGBANG]] |[[ガラガラ GO!!|ガラガラGO]] |- !第52回 |2010年 |[[スマイレージ]] |[[夢見る 15歳]] |- !第53回 |2011年 |[[フェアリーズ|Fairies]] |rowspan="13"|{{Color|grey|なし}} |- !第54回 |2012年 |[[家入レオ]] |- !第55回 |2013年 |[[新里宏太]] |- !第56回 |2014年 |[[西内まりや]] |- !第57回 |2015年 |[[こぶしファクトリー]] |- !第58回 |2016年 |[[iKON]] |- !第59回 |2017年 |[[つばきファクトリー]] |- !第60回 |2018年 |[[辰巳ゆうと]] |- !第61回 |2019年 |[[BEYOOOOONDS]] |- !第62回 |2020年 |[[真田ナオキ]] |- !第63回 |2021年 |[[マカロニえんぴつ]] |- !第64回 |2022年 |[[田中あいみ (演歌歌手)|田中あいみ]] |- !第65回 |2023年 |[[FRUITS ZIPPER]] |} == 主な記録 == === 三冠達成者 === レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。 * [[都はるみ]]:[[第6回日本レコード大賞|第6回]]新人賞([[アンコ椿は恋の花]])、[[第18回日本レコード大賞|第18回]]大賞([[北の宿から]])、[[第22回日本レコード大賞|第22回]]最優秀歌唱賞([[大阪しぐれ]]) * [[細川たかし]]:[[第17回日本レコード大賞|第17回]]最優秀新人賞([[心のこり]])、[[第24回日本レコード大賞|第24回]]大賞([[北酒場]])、[[第26回日本レコード大賞|第26回]]最優秀歌唱賞([[浪花節だよ人生は]]) * [[北島三郎]]:[[第4回日本レコード大賞|第4回]]新人賞([[なみだ船]])、[[第28回日本レコード大賞|第28回]]最優秀歌唱賞([[北の漁場]])、[[第33回日本レコード大賞|第33回]]大賞([[北の大地]]) * [[氷川きよし]]:[[第42回日本レコード大賞|第42回]]最優秀新人賞([[箱根八里の半次郎]])、[[第45回日本レコード大賞|第45回]]最優秀歌唱賞([[白雲の城]])、[[第48回日本レコード大賞|第48回]]大賞([[一剣]]) * [[近藤真彦]]:[[第23回日本レコード大賞|第23回]]最優秀新人賞([[ギンギラギンにさりげなく]])、[[第29回日本レコード大賞|第29回]]大賞([[愚か者]])、[[第52回日本レコード大賞|第52回]]最優秀歌唱賞([[ざんばら|心 ざんばら]]) === 大賞複数回獲得者 === 大賞を複数回獲得している歌手は、以下の11組、そのうち連覇を達成した歌手は8組となっている。 * 4回(3連覇) ** [[EXILE]]:[[第50回日本レコード大賞|第50回]]([[The Birthday 〜Ti Amo〜|Ti Amo]])、[[第51回日本レコード大賞|第51回]]([[THE MONSTER 〜Someday〜|Someday]])、[[第52回日本レコード大賞|第52回]]([[I Wish For You]])、[[第55回日本レコード大賞|第55回]]([[EXILE PRIDE 〜こんな世界を愛するため〜]]) * 3回(3連覇) ** [[浜崎あゆみ]]:[[第43回日本レコード大賞|第43回]]([[Dearest (浜崎あゆみの曲)|Dearest]])、[[第44回日本レコード大賞|第44回]]([[Voyage (浜崎あゆみの曲)|Voyage]])、[[第45回日本レコード大賞|第45回]]([[No way to say]]) * 2回(2連覇) ** [[細川たかし]]:[[第24回日本レコード大賞|第24回]]([[北酒場]])、[[第25回日本レコード大賞|第25回]]([[矢切の渡し (曲)|矢切の渡し]]) ** [[中森明菜]]:[[第27回日本レコード大賞|第27回]]([[ミ・アモーレ|ミ・アモーレ{{lang|pt|〔Meu amor é・・・〕}}]])、[[第28回日本レコード大賞|第28回]]([[DESIRE -情熱-]]) ** [[安室奈美恵]]:[[第38回日本レコード大賞|第38回]]([[Don't wanna cry]])、[[第39回日本レコード大賞|第39回]]([[CAN YOU CELEBRATE?]]) ** [[AKB48]]:[[第53回日本レコード大賞|第53回]]([[フライングゲット (曲)|フライングゲット]])、[[第54回日本レコード大賞|第54回]]([[真夏のSounds good !]]) ** [[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE|三代目 J SOUL BROTHERS]]:[[第56回日本レコード大賞|第56回]]([[R.Y.U.S.E.I.]])、[[第57回日本レコード大賞|第57回]]([[Unfair World]]) ** [[乃木坂46]]:[[第59回日本レコード大賞|第59回]]([[インフルエンサー (曲)|インフルエンサー]])、[[第60回日本レコード大賞|第60回]]([[シンクロニシティ (乃木坂46の曲)|シンクロニシティ]]) * 2回(連覇無し) ** [[橋幸夫]]:[[第4回日本レコード大賞|第4回]]([[いつでも夢を]]・橋幸夫/吉永小百合)、[[第8回日本レコード大賞|第8回]]([[霧氷 (曲)|霧氷]]) ** [[五木ひろし]]:[[第15回日本レコード大賞|第15回]]([[夜空 (五木ひろしの曲)|夜空]])、[[第26回日本レコード大賞|第26回]]([[長良川艶歌]]) ** [[Mr.Children]]:[[第36回日本レコード大賞|第36回]]([[innocent world]])、[[第46回日本レコード大賞|第46回]]([[Sign (Mr.Childrenの曲)|Sign]]) === 大賞の副賞変遷 === * 第12回(1970年)-第13回(1971年)・第15回(1973年):[[トヨタ・セリカ|セリカ]]([[トヨタ自動車]]) * 第14回(1972年):世界一周旅行 * 第16回(1974年)-第27回(1985年):[[トヨタ・クラウン|クラウン]](トヨタ自動車) * 第28回(1986年):[[マツダ・ルーチェ|ルーチェ]]([[マツダ]]) == 放送 == 発表の模様は[[テレビ]](TBS系 ([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]) [[地上波]]全国28局ネット)と[[ラジオ]](2023年は[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]全国5局ネット)で[[生中継]]されている([[第42回日本レコード大賞|第42回]]([[2000年]])から[[第47回日本レコード大賞|第47回]]([[2005年]])まではTBS系[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル放送]]の[[BS-TBS|BS-i(現・BS-TBS)]]でも放送されていた)。 また、[[第44回日本レコード大賞|第44回]](2002年)からCS放送・[[TBSチャンネル]]で過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている<ref group="注"> TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、年によってはその部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている場合もある。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある。</ref>。 TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は[[渋谷公会堂]])が最古である<ref group="注">同年には開始10周年を記念した特別番組「10周年記念音楽会」(1968年12月28日放送。開催会場は[[サンケイホール]])が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明な[[カラーテレビ|カラー]]映像の完全版VTRが現存している。この為、第9回以前の受賞曲の紹介では、この時の映像が使用されることが多い。</ref>。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。 [[第20回日本レコード大賞|第20回]]([[1978年]])からTBSの[[音声多重放送]]の開始に伴い、テレビでの[[ステレオ放送]]が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。 TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。 ===放送データ=== {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"" |+'''「日本レコード大賞」各回のテレビ放送概要''' !rowspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|回 !rowspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|年 !rowspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|日 !colspan="4" style="background-color:#C0C0C0"|司会者 !rowspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|会場 !rowspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|平均視聴率 |- !style="background-color:#C0C0C0"|男性 !style="background-color:#C0C0C0"|女性 !colspan="2" style="background-color:#C0C0C0"|補助 |- |style="background-color:#f2f2f2"|1||1959||12月27日||[[鶴田全夫]]||rowspan="10" style="text-align:center; color:#808080" |不在||colspan="2" rowspan="11" style="text-align:center; color:#808080"|不在|||[[文京公会堂]]||rowspan="3" style="text-align:center; color:#808080"|記録なし |- |style="background-color:#f2f2f2"|2||1960||12月30日||rowspan="5"|[[芥川隆行]]||rowspan="2"|[[学校法人共立女子学園|神田共立講堂]] |- |style="background-color:#f2f2f2"|3||1961||12月28日 |- |style="background-color:#f2f2f2"|4||1962|| rowspan="2" |12月27日||rowspan="3"|[[日比谷公会堂]]||10.8% |- |style="background-color:#f2f2f2"|5||1963||20.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|6||1964||12月26日||14.6% |- |style="background-color:#f2f2f2"|7||1965||12月25日||rowspan="4"|[[三木鮎郎]]||神田共立講堂||14.2% |- |style="background-color:#f2f2f2"|8||1966||12月24日||日比谷公会堂||13.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|9||1967||12月16日||rowspan="2"|[[渋谷公会堂]]||12.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|10||1968||12月21日||10.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|11||1969|| rowspan="37" |12月31日||rowspan="8"|[[高橋圭三]]||([[浅丘ルリ子]])||rowspan="16"|[[帝国劇場]]||30.9% |- |style="background-color:#f2f2f2"|12||1970||([[佐良直美]])||colspan=2|([[堺正章]]、[[加藤茶]])||36.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|13||1971||[[山本陽子]]||colspan="2" rowspan="2"|([[沢田雅美]])||36.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|14||1972|| rowspan="5" |[[森光子]]||46.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|15||1973|| colspan="2" |[[玉置宏]]||44.1% |- |style="background-color:#f2f2f2"|16||1974|| colspan="2" rowspan="2" |[[小川哲哉]]||45.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|17||1975||43.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|18||1976|| colspan="2" style="text-align:center; color:#808080" |不在||41.9% |- |style="background-color:#f2f2f2"|19||1977|| rowspan="2" |高橋圭三<br />[[久米宏]]||rowspan="2"|[[黒柳徹子]]||colspan="2"|([[小島一慶]])||<span style="color:red">50.8%</span> |- |style="background-color:#f2f2f2"|20||1978|| colspan="2" rowspan="4" style="text-align:center; color:#808080" |不在||42.9% |- |style="background-color:#f2f2f2"|21||1979||高橋圭三||[[檀ふみ]]||43.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|22||1980|| rowspan="2" |高橋圭三<br />[[渡辺謙太郎]]||[[中田喜子]]||34.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|23||1981|| rowspan="4" |[[竹下景子]]||35.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|24||1982||高橋圭三、[[児玉清]]||colspan="2"|([[松宮一彦]])||31.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|25||1983||高橋圭三||colspan="2"|松宮一彦||32.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|26||1984|| rowspan="3" |[[森本毅郎]]||colspan="2" rowspan="7" style="text-align:center; color:#808080"|不在||30.4% |- |style="background-color:#f2f2f2"|27||1985||[[倍賞美津子]]||rowspan="9"|[[日本武道館]]||31.4% |- |style="background-color:#f2f2f2"|28||1986||竹下景子||29.8% |- |style="background-color:#f2f2f2"|29||1987|| rowspan="2" |[[関口宏]]||rowspan="2"|[[三雲孝江]]||29.4% |- |style="background-color:#f2f2f2"|30||1988||21.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|31||1989|| rowspan="2" |[[板東英二]]||[[楠田枝里子]]||14.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|32||1990||[[和田アキ子]]||12.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|33||1991||[[布施明]]、[[石田純一]]||rowspan="2"|黒柳徹子||colspan="2" rowspan="4"|[[山本文郎]]||14.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|34||1992||[[神田正輝]]||15.1% |- |style="background-color:#f2f2f2"|35||1993|| rowspan="2" |[[宮本亞門|宮本亜門]]||rowspan="2"|[[牧瀬里穂]]||13.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|36||1994|| rowspan="10" |TBS放送センター||15.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|37||1995||[[西田敏行]]、[[中山秀征]]||[[渡辺真理]]||colspan="2" style="text-align:center; color:#808080"|不在||17.2% |- |style="background-color:#f2f2f2"|38||1996|| rowspan="16" |堺正章||[[飯島直子]]||colspan="2" rowspan="3"|[[雨宮塔子]]||16.6% |- |style="background-color:#f2f2f2"|39||1997||[[草野満代]]||16.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|40||1998||[[江角マキコ]]||18.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|41||1999|| rowspan="2" |[[黒木瞳]]||colspan="2" rowspan="2"|[[進藤晶子]]||14.1% |- |style="background-color:#f2f2f2"|42||2000||14.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|43||2001||[[米倉涼子]]||rowspan="11"|[[安住紳一郎]]||rowspan="3"|[[小倉弘子]]||14.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|44||2002||[[菊川怜]]||13.3% |- |style="background-color:#f2f2f2"|45||2003|| style="text-align:center; color:#808080" |不在||12.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|46||2004||[[伊東美咲]]||rowspan="5"|[[小林麻耶]]||rowspan="20"|[[新国立劇場]]中劇場||10.4% |- |style="background-color:#f2f2f2"|47||2005||[[綾瀬はるか]]||<span style="color:blue">10.0%</span> |- |style="background-color:#f2f2f2"|48||2006|| rowspan="18" |12月30日||rowspan="2"|[[蛯原友里]]<br />[[押切もえ]]||17.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|49||2007||16.8% |- |style="background-color:#f2f2f2"|50||2008||[[上戸彩]]、[[松下奈緒]]||16.9% |- |style="background-color:#f2f2f2"|51||2009|| rowspan="3" |[[藤原紀香]]||rowspan="3"|[[枡田絵理奈]]<br />[[加藤シルビア]]||13.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|52||2010||15.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|53||2011||14.9% |- |style="background-color:#f2f2f2"|54||2012|| rowspan="12" |安住紳一郎||[[新垣結衣]]|| rowspan="3" |枡田絵理奈|| rowspan="4" |[[吉田明世]]<ref>「Yahoo!テレビ.Gガイド」の番組解説欄に記載。</ref>||16.6% |- |style="background-color:#f2f2f2"|55||2013||上戸彩||17.6% |- |style="background-color:#f2f2f2"|56||2014|| rowspan="2" |[[仲間由紀恵]]||15.6% |- |style="background-color:#f2f2f2"|57||2015|| rowspan="4" |[[江藤愛]]|||13.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|58||2016|| rowspan="2" |[[天海祐希]]||[[宇内梨沙]]||14.5% |- |style="background-color:#f2f2f2"|59||2017|| rowspan="2" |[[古谷有美]]||14.4% |- |style="background-color:#f2f2f2"|60||2018|| rowspan="2" |[[土屋太鳳]]||16.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|61||2019|| colspan="2" rowspan="5" |江藤愛||14.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|62||2020|| rowspan="2" |[[吉岡里帆]]||16.1% |- |style="background-color:#f2f2f2"|63||2021||12.0% |- |style="background-color:#f2f2f2"|64||2022||[[有村架純]]||10.7% |- |style="background-color:#f2f2f2"|65||2023||[[川口春奈]] ||{{color|gray|未放送}} |} * 視聴率は[[ビデオリサーチ]]調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。{{Color|red|赤数字}}は最高視聴率で、{{Color|blue|青数字}}は最低視聴率。 *第1回 - 第3回の視聴率はビデオリサーチ設立前につき記録なし。 * 第4回 - 第44回の視聴率の出典は『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』134-135頁。 * 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが第29・30回(1987・1988年)の三雲については進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。 * 19:00を境とした2部制で放送した年は、第2部の数値を示してある。 ; ラジオ中継実況 * ? - 第40回(1998年):松宮一彦(TBSアナウンサー→フリーアナウンサー)<ref group="注">松宮一彦は第39回(1997年)まではTBSアナウンサー。第40回(1998年)はこの年の6月にTBSを退社しフリーアナウンサーとしての担当。第41回(1999年)放送の直前に自殺。TBS時代の上司だった小島一慶が引き継ぐ形となった。</ref> * 第41回 - 第49回(1999年 - 2007年):小島一慶(元TBSアナウンサー) * 第50回 - 第53回(2008年 - 2011年):[[向井政生]](TBSアナウンサー) * 第51回(2009年):[[新井麻希]](当時TBSアナウンサー) * 第54回 - 第63回 (2012年 - 2021年):[[駒田健吾]](TBSアナウンサー)<ref>TBSラジオ広報誌「954press」2012年12月 - 2013年1月号5項に掲載</ref> * 第64回 - (2022年 - ):[[赤荻歩]](TBSアナウンサー)<ref>[https://www.tbsradio.jp/articles/62661/ 2022年 - 2023年 TBSラジオ年末年始番組のラインナップ決定!] TBSラジオ 2022年11月28日閲覧。</ref> ; 出演者補足 * 司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋が長く務めていたがその後は幾度か司会者が変更され、第38回([[1996年]])から第53回(2011年)までは堺が務めていた。アシスタントにはその年の人気女優やTBSの[[アナウンサー]]などが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する。 * ナレーションは第41回(1999年)から第51回(2009年)まで[[ケイ・グラント]]が担当しているが、第48回(2006年)のみ[[大塚明夫]]が担当した。第52回(2010年)から第54回(2012年)までは[[古野顕一]]が担当し、第55回(2013年)からは[[ジョン・カビラ]]が担当。 * 第11回(1969年)の浅丘と第12回(1970年)の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタントとしての役割を務めた。また第12回(1970年)の堺・加藤、第13・14回(1971・1972年)の[[沢田雅美]]、第24回(1982年)の[[松宮一彦]]アナ、第19回(1977年)の小島については観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。 * 第19回(1977年)より高橋は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、高橋の下に更に「司会」としてもう1人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形式になっていた。なお、それ以外の年(第21・25回(1979・1983年))もMC席には高橋1人が常在し、女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会とは異なる形となっていた。 === テレビでのネット局 === [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前は[[クロスネット局]]<ref group="注" name="JNN-Haita_kyoutei">JNN系列局は排他協定の規則により、現在はクロスネットが禁止となっている。</ref>が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]を同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。 [[静岡放送]]では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また[[南海放送]]([[愛媛県]]。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた<ref group="注">愛媛県では、[[1992年]]の第33回から、この年にTBS系新局として開局した[[あいテレビ]]でネットされている。</ref>。 近畿広域圏では[[1974年]]の第16回までは朝日放送(現:[[朝日放送テレビ]])にてネット。翌年([[1975年]])の第17回から[[毎日放送]]でのネットになる。 [[福島県]]では、[[1971年]]の第13回から[[1982年]]の第24回まで[[福島テレビ]](当時TBS系と[[フジネットワーク|フジテレビ系]]のクロスネット局<ref group="注" name="JNN-Haita_kyoutei"/>。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、[[1983年]]の第25回からはTBS系新局として開局した[[テレビユー福島]]でのネットになる。 1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。 2001-2005年の5年間は系列[[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]・BS-i(現・[[BS-TBS]])でも[[サイマル放送]]が行われていた。 === ラジオでのネット局 === 1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)、さらに2023年(第65回)は6局(TBSと[[琉球放送]]、[[CBCラジオ]]がフルネット、[[HBCラジオ|北海道放送]]・[[北陸放送]]・[[大分放送]]が19:00から途中飛び乗り)に留まっている。 JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。 [[青森放送]](RAB)ではかつて『[[TBSラジオ エキサイトベースボール|JRNナイター]]』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。 福井県ではテレビにJNN系列局が存在せず、JRN系列である[[福井放送]]がラジオだけで2022年まで放送。しかし2023年はネットを見送り、通常の土曜日の編成を行う。 [[西日本放送ラジオ|西日本放送]](RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。 毎日放送(MBS)では1975年の[[ネットチェンジ]]から[[2005年]]まではテレビと[[MBSラジオ|ラジオ]]で同時放送されていたが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されていない。 <!-- ;2013年のラジオ中継のネット局 *[[TBSラジオ]] *[[HBCラジオ|北海道放送]] *[[IBC岩手放送]] *[[ラジオ福島]] *[[北陸放送]] *[[福井放送]]※ラジオのみ放送 *[[静岡放送]] *[[CBCラジオ]] *[[大分放送]] *[[琉球放送]] --> == LP・CD == *'67年度日本レコード大賞受賞 栄光のグランプリ(1968年、[[キングレコード]] SKK-411) *:1967年の[[第9回日本レコード大賞|第9回]]各部門賞受賞作品の中から、キングレコード関連の作品を中心に収録。 *〜輝く日本レコード大賞15周年記念〜日本レコード大賞グランプリ・ヒット曲集 “黒い花びら”から“喝采”まで(1973年 AMON・東京レコード/[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]] CD4A-5001) *:第1回〜第14回の大賞受賞曲を、[[猪俣猛]]とアモンオールスターズの演奏、[[前田憲男]]の編曲により[[器楽曲|インストゥルメンタル]]としてカバー。 *J-GRAND PRIX Vol.1〜レコード大賞・歌謡大賞ヒストリー(1998年、[[ワーナーミュージック・ジャパン|ダブリューイーエー・ジャパン]]、WPC7-8581) *J-GRAND PRIX Vol.2〜レコード大賞・歌謡大賞ヒストリー(1998年、ダブリューイーエー・ジャパン、WPC7-8582) *:日本レコード大賞・[[日本歌謡大賞]]の各部門賞の受賞作品のうち、[[渡辺プロダクション]]所属の歌手の楽曲・[[渡辺プロダクション#グループ関連会社|渡辺音楽出版]]が原盤制作を手掛けた楽曲を収録。 *日本レコード大賞 50th Anniversary Vol.I (1959年-1984年) (2009年、ハーバーレコード NQCL-4007〜8) *:第1回〜第26回の大賞受賞曲をオリジナル音源で収録<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000056702 日本レコード大賞作品1959年~1984年をコンプリート]、BARKS、2009年12月21日。</ref><ref>[https://www.cdjournal.com/main/news/itsuki-hiroshi/28168 “レコ大”50周年。記念コンピレーション・アルバムが登場]、CDJournal、2009年12月22日。</ref>。  == 問題点 == === ノミネートについて === [[第6回日本レコード大賞|第6回]]では、この年(1964年)に流行した[[坂本九]]の「[[幸せなら手をたたこう]]」が、原曲がアメリカ民謡であることから選考の対象外となった<ref>「今年も“清純ムード” 日本レコード大賞」『[[朝日新聞]]』1964年12月4日付東京夕刊、9頁。</ref>。 [[第21回日本レコード大賞|第21回]]では、「第10回[[日本歌謡大賞]]」や「第8回[[FNS歌謡祭]]」でグランプリを受賞して社会現象になった[[西城秀樹]]の「[[YOUNG MAN (Y.M.C.A.)]]」が、外国人の作曲作品のカバーであったため審査対象から外され、「[[勇気があれば]]」でのノミネートとなった。 [[第24回日本レコード大賞|第24回]]では、「第13回[[日本歌謡大賞]]」の大賞や「第8回[[日本テレビ音楽祭]]」のグランプリを受賞するなど、大ヒットした[[岩崎宏美]]の「[[聖母たちのララバイ]]」{{efn2|1982年の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[火曜サスペンス劇場]]』テーマ曲。}}は、作曲者が[[木森敏之]]単独から木森と[[ジョン・スコット (作曲家)|ジョン・スコット]]の共作へと急遽変更されたため、外国人作家が製作した楽曲を対象外とする当時の日本レコード大賞の基準に該当しノミネートを見送られた。 [[第60回日本レコード大賞|第60回]]では、[[DA PUMP]] の「[[U.S.A. (曲)|U.S.A.]]」が2018年最大のヒット曲として大賞受賞が本命視されていた<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201901_post_188753/ 「U.S.A.」より乃木坂46の2連覇を選んだ『レコ大』その審査の裏側に何があったのか]エキサイト 2019年1月5日</ref>が、外国人の作曲作品のカバーであったため受賞を逃し、ノミネートの意義について批判が殺到した。 [[第65回日本レコード大賞|第65回]]では、[[YOASOBI]]の「[[アイドル (曲)|アイドル]]」が10月時点でストリーミング累積再生数が5億回を突破(オリコン史上最速)し、海外では米ビルボードのグローバルチャート「Global 200」(7月1日付)で日本アーティスト歴代最高となる7位にランクイン、同音楽チャートで21週連続1位を獲得<ref>{{Cite web |title=世界的大ヒットなのに…YOASOBIの「アイドル」がレコード大賞候補から外されたワケ{{!}}au Webポータル |url=https://article.auone.jp/detail/1/5/9/178_9_r_20231126_1700960761657349 |website=au Webポータル{{!}}最新のニュースをお届け! |date=2023-11-26 |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref>するなどしたにもかかわらずYOASOBIの「アイドル」が'''優秀賞作品'''にすら選ばれなかったことで物議を醸した。<ref>{{Cite web |title=日本レコード大賞、大賞候補からYOASOBI「アイドル」除外で物議…「大人の事情」浮き彫りで権威失墜に拍車 |url=https://www.cyzo.com/2023/11/post_359656_entry.html |website=日刊サイゾー |date=2023-11-24 |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref>審査基準はCDの売り上げのみならず、ネット配信の数字や世間への影響度も審査に加味されていることになっているが<ref>{{Cite web |title=世界的ヒットの『アイドル』がなぜ? まさかの大賞候補外で「レコード大賞」が問われる「存在意義」(FRIDAY) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/f218887c4053a1ae941530182678a4f07e5b477d |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref>、これに対しTBS[[安住紳一郎]]アナウンサーは、「売上枚数に比した成績ではない」と言及した。<ref>{{Cite web |title=「レコ大ってなんの賞?」YOASOBI「アイドル」ビルボード年間1位でより不可解に…安住アナは理解促す |url=https://www.cyzo.com/2023/12/post_360242_entry.html |website=日刊サイゾー |date=2023-12-08 |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref> === やらせ報道 === ==== やらせ疑惑 ==== 2015年に審査委員を務める[[産経新聞]]は、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した<ref name="sankei"/>。また、大賞常任実行委員で音楽評論家の[[富澤一誠]]はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた<ref name="sankei"/>。 ==== やらせ暴露 ==== 2015年、レンタルチェーン店を展開する[[TSUTAYA]]が自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた<ref name="tsutaya"></ref>。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の[[麻生香太郎]]は指摘している<ref>{{Cite web|和書| url=http://realsound.jp/2013/07/post-22_entry_2.html| title=評論家・麻生香太郎が音楽業界のタブーに切り込む!集中連載第2回| work= Real Sound| accessdate= 2016-01-18}}</ref>。 『[[週刊文春]]』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した[[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE|三代目J Soul Brothers]]が買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201611_jsb1/| title=三代目JSBの「レコード大賞1億円買収」で思い出される“審査委員長怪死事件”の深すぎる闇| work= exciteニュース| accessdate= 2018-12-31}}</ref>。 2017年、『[[週刊文春]]』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の[[叶弦大]]が、「大手芸能事務所[[バーニングプロダクション]]社長の[[周防郁雄]]がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に[[週刊新潮]]も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの[[贈賄]]行為を働いており、中には受賞させたいタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている<ref>{{Cite web|和書| url=https://lite-ra.com/2017/11/post-3603.html| title=レコード大賞最高責任者がバーニング周防社長を実名告発…周防社長「自分の獲らせたい歌手に決めることができる」と| work= LITERA| accessdate= 2020-12-30}}</ref>。 2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だった[[ジャニー喜多川]]の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの[[福田裕彦]]は『[[アサヒ芸能]]』の取材に対して「もう25年以上前、既に『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない。」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している<ref>{{Cite tweet|author=福田裕彦|user=YasuhikoFK|number=1148606623851544576|title=寝ようと思ったらジャニーさんの訃報。もう25年以上前、既に「××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない」の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です(事実)。綺麗事で生きていた人ではない。まさに大権力者。美辞麗句は似合いません。合掌。|date=2019-07-09|accessdate=2022-04-09|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://www.asagei.com/excerpt/130109| title=「レコ大」は出来レース!? 関係者が暴露した“ジャニー氏の恐るべき圧力”とは?| work= Asagei| accessdate= 2020-12-30}}</ref>。 == その他 == === 年少アーティストへの対応 === 近年では大賞の発表が22時前に行われるため、13歳未満のアーティストは[[労働基準法]]および[[児童福祉法]]の都合上、20時までに会場から退出しなければならない(まれに大賞発表が23時前後の年もあり、18歳未満の者は22時までに退出することになる)。例として2019年に史上最年少で大賞を受賞したFoorinはメンバー全員が小中学生であり(当時の平均年齢は11.2歳)、発表時に不在だったため、代理の者が表彰を受けることとなった。さらに2006年から2009年までは最優秀新人賞の発表が21時を過ぎたことから(2008年は23時前に発表が行われた)、2007年の[[℃-ute]]も同じ理由で、プロデューサーのつんくが代理として表彰を受けている。 === X(旧Twitter)アカウントについて === TBSでは、Xアカウントをレコード大賞の他、『[[音楽の日]]』や『[[日本有線大賞]]』と共有していたが、2017年に日本有線大賞が終了し、さらに2023年に『音楽の日』が新たにアカウントを取得したため、以降はレコード大賞単独のアカウントとなっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=佐藤剛|authorlink=佐藤剛 (音楽プロデューサー) |title=「黄昏のビギン」の物語 |date=2014年 |publisher=[[小学館]] |series=[[小学館新書]] |isbn=978-4-09-825214-5 |ref={{SfnRef|佐藤}} }} == 関連項目 == * [[音楽に関する賞]] * [[日本ゴールドディスク大賞]] * [[日本歌謡大賞]] - TBSテレビ以外の民放4系列局が、本賞への対抗として設立。 * [[日本有線大賞]] - フジテレビ→TBSで放送されていた音楽賞 * [[全日本有線放送大賞]] - 当初は「夜のレコード大賞」という名称で、深夜番組『[[11PM]]』の1コーナーであった。 * [[グラミー賞]](アメリカ) * [[ブリット・アワード]](イギリス) * [[金曲賞]](台湾) * [[お笑いマンガ道場]] - ダジャレ御題の一つに『'''マンガ輝け!レコード大賞'''』というものがあった。 == 外部リンク == *[https://jacompa.or.jp/record/64.php 活動〜日本レコード大賞〜] - 公益社団法人 日本作曲家協会 *[https://www.tbs.co.jp/recordaward/ 輝く!日本レコード大賞] - TBSテレビ *{{Twitter|TBS_awards}} *{{Instagram|TBS_Ongaku}} {{Navboxes |title=日本レコード大賞 |list1= </span> {{日本レコード大賞}} {{日本レコード大賞受賞}} {{日本レコード大賞最優秀歌唱賞}} {{日本レコード大賞最優秀アルバム賞}} {{日本レコード大賞最優秀新人賞}} {{日本レコード大賞 歴代司会者}} }} {{デフォルトソート:にほんれこおとたいしよう}} [[Category:TBSの音楽番組]] [[Category:TBSラジオの特別番組]] [[Category:TBSの年末年始特番]] [[Category:日本レコード大賞|*]] [[Category:日本の音楽作品の一覧]] [[Category:1959年開始のイベント]]
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ザイログ
ザイログ(英: Zilog)は、米インテルの元社員がスピンアウトしてできた半導体製造会社である。有名な8ビットマイクロプロセッサZ80の開発と製造をした企業である。 1974年、インテルの社員だったフェデリコ・ファジンとラルフ・アンガーマン(後にアンガマン・バスを創業する)が退職し、アンガーマンアソシエイツを設立した。 それを聞きつけたエクソンの子会社エクソン・エンタープライズは150万ドルを投資し、アンガーマンアソシエイツの株式の51%を保有することになった。そして、新社名を "Zilog" とすることになった。Zはアルファベットの最後であり、「決定版」という意味を込めた。iはintegratedのi、logはlogicを意味した。つまり、Zilog(ザイログ)は「集積された論理回路の決定版」という意味であった。 ファジン達は、ザイログを設立すると、インテルで共に4004と8080の開発に従事した嶋正利らと共に、独自のマイクロプロセッサの開発を始めた。まもなく8080の上位互換であるZ80マイクロプロセッサ (=CPU) が完成した。1976年に発売されたZ80は、8080よりも高性能かつ扱いやすいこともありビジネスを軌道に乗せることに成功した。また、同時に周辺デバイスもラインナップに加えた。 Z80は、Intel 8080(1974年)、MC6800(1974年)、MOS 6502(1975年)、Intel 8085(1976年)と競合することになった。Z80はこれらの中では後発の部類であったが、1980年には8ビットマイクロプロセッサの中で最大のシェアを確保することになった。 やがて8ビットCPUからさらに処理性能の高い16ビットCPUの技術開発へと進み、デジタル半導体メーカーの新たな開発競争の舞台となった。16ビットCPUとしては、1978年4月にインテルからi8086が、1979年9月にモトローラからMC68000がそれぞれ出荷された。それらの中間の時期である1979年初め頃にザイログはZ8000シリーズの出荷を始めた。 しかし、モトローラMC68000は、命令体系全体を再設計し直したためMC6800やMC6809と互換性がなかった。同様にザイログZ8000も命令体系全体を再設計し直したためZ80と互換性がなかった。両社は過去の互換性を捨てて命令体系を綺麗にした。しかし、それが裏目に出て、モトローラとザイログの16ビットCPUの市場への普及は限定的だった。 それに対してインテルの16ビットCPUのi8086は、8ビットCPUである8080の命令コードをアセンブラレベルではそのまま実行できるように設計されていた(バイナリ互換性はなかった)。その代償として、16ビットCPUであるi8086の命令体系は、8ビット世代の8080の上にセグメント方式という方法で「屋上屋を架した」ことによってコンピュータアーキテクチャ的に不細工なものとなった。一般的にセグメント方式そのものは悪いものではない。Z8000にもセグメントはあった。しかし、i8086のセグメント方式は、セグメントレジスタを4ビット左シフトした値を従来のアドレスに加算したものを実アドレスとするという変わったものであった。マイクロソフトの技術者は、i8086のセグメント方式を「コンピューティング市場でもっとも愚かな決定」とみなしていた。ところが、結果としてインテルはこの不細工な設計によって、ビジネス的に大成功を収めた。 Z8000はi8086との競争に敗れ、それほど普及しなかった。しかしながらZ8000ファミリーのシリアル通信コントローラー Zilog SCC (Z8530) は、AppleのMacintoshやシャープのX68000でも採用された。それ以外にも各社のマイクロプロセッサと直結できる高性能な周辺デバイスをシリーズ化。これらは一時期のザイログを支える製品に成長した。 Z8000の失敗によって、ザイログは、マイクロプロセッサの開発で迷走するようになった。 1985年にZ80を16ビット化したZ800を発売した。しかし、当時の組み込みシステム用途には複雑かつ過剰性能であった。 1986年にZ8000を32ビット化したZ80000を出荷したが、商業的に失敗したZ8000の互換性は売りにならなかった。Z8000と同様にZ80との互換性はなかった。しかもモトローラは1984年に32ビットのMC68020をすでに発売しており、インテルも1985年に32ビットのIntel 80386をすでに発売していた。このような状況では、Z80000の需要はなく極少数の出荷に終わった。 結局、ザイログは、日立製作所HD64180Zのセカンドソースとしてザイログが発売したZ64180を改良した8ビットマイクロプロセッサZ180を1986年に発売することになった。 1987年にZ800をCMOS化したZ280を発売した。しかし、売れなかったZ800をCMOSにしても売れることはなかった。 1994年にZ380というZ80を32ビットに拡張したCPUを発売した。メモリ保護やキャッシュメモリもなく、組み込みシステム用途を意識したものと思われる。これも普及は限定的であった。 以上のようにザイログは、商業的に恵まれず、1998年にテキサス・パシフィック・グループに買収された。 2001年にZ80互換の後継CPUであるeZ80を発売した。eZ80はZ80と同様に8ビットCPUではあったが、Z80とのバイナリ互換性と維持しながらメモリ空間を16MBまで拡張し、3ステージパイプラインと最大50MHzのクロック周波数によってZ80を大幅に強化することに成功した。eZ80は後に商業的成功を収めることになる。 ところが、ザイログは、2002年初旬に連邦倒産法第11章の適用を受けた。その後、再建の努力が続いたものの業績は回復せず、テキサス・パシフィック・グループは、ザイログを手放すこととなった。 ザイログは、2010年2月18日に米国カリフォルニア州に本社を持つIXYS Corporationに買収された。 2011年1月、IXYSの一部となったザイログは、モータ制御用MCUとして「Z16FMC」シリーズを発表した。この新製品は、多相AC/DCモータ制御に適した16ビットマイクロコントローラとされる。 2015年にグラフ電卓TI-84 Plus CEが発売された。グラフ電卓として独占的地位を占めるTI-84 Plus シリーズの最新機種であり、CPUとして前述のeZ80を搭載している。これによってeZ80は大量に使用されることとなった。 2017年8月、リテルヒューズは、現金と株式を合わせて7億5000万US$と引き換えにIXYS Corporationを買収することを発表した。 2018年1月、リテルヒューズによるIXYSの買収が完了し、IXYSはリテルヒューズの子会社となった。 その結果、ザイログはリテルヒューズの傘下に入ることになった。 1977年、半導体商社の日本テクセル(現在の三井物産エレクトロニクス)が代理店となり、Z80やZ8000シリーズの販売、マーケティングを行った。その後、ザイログジャパンが設立された。現在の代理店は、インターニックス、三井物産エレクトロニクス、ユニダックスほか。
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ザイログは、米インテルの元社員がスピンアウトしてできた半導体製造会社である。有名な8ビットマイクロプロセッサZ80の開発と製造をした企業である。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{基礎情報 会社 |社名 = ザイログ |英文社名 = Zilog, Inc. |ロゴ = Logo_Zilog.svg |画像 = |画像説明 = |種類 = 株式会社 |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = [[アメリカ合衆国]] |本社郵便番号 = |本社所在地 = [[カリフォルニア州]][[ミルピタス]]<ref>[https://www.zilog.com/index.php?option=com_zicon&task=contactus&Itemid=82 Zilog "Contact Us"]</ref> |本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = |本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = 1974年 |業種 = 電気機器 |法人番号 = |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = [[マイクロプロセッサ]]、[[マイクロコントローラ]]など |代表者 = |資本金 = |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = [[リテルヒューズ]] |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = [[フェデリコ・ファジン]]、ラルフ・アンガーマン、[[嶋正利]] |外部リンク = http://www.zilog.com/ |特記事項 = }} '''ザイログ'''({{lang-en-short|Zilog}})は、米[[インテル]]の元社員が[[スピンアウト]]してできた[[半導体素子|半導体]]製造会社である。有名な[[8ビット]][[マイクロプロセッサ]][[Z80]]の開発と製造をした企業である。 == 歴史 == ===設立=== [[1974年]]、インテルの社員だった[[フェデリコ・ファジン]]とラルフ・アンガーマン(後に[[アンガマン・バス]]を創業する)が退職し、アンガーマンアソシエイツを設立した<ref>「ザイログZ80伝説」(ISBN 978-4-89977-481-5) P31 </ref>。 それを聞きつけた[[エクソン]]の子会社エクソン・エンタープライズは150万ドルを投資し、アンガーマンアソシエイツの株式の51%を保有することになった。そして、新社名を "Zilog" とすることになった。Zはアルファベットの最後であり、「決定版」という意味を込めた。iはintegratedのi、logはlogicを意味した。つまり、Zilog(ザイログ)は「集積された論理回路の決定版」という意味であった<ref>「インサイドインテル 上」(ISBN 4-88135-566-X) P207-208</ref>。 ===8ビットCPUの事実上の標準Z80の誕生=== ファジン達は、ザイログを設立すると、インテルで共に[[Intel 4004|4004]]と[[Intel 8080|8080]]の開発に従事した[[嶋正利]]らと共に、独自の[[マイクロプロセッサ]]の開発を始めた。まもなく8080の上位互換である[[Z80]]マイクロプロセッサ (=[[CPU]]) が完成した。1976年に発売されたZ80は、8080よりも高性能かつ扱いやすいこともありビジネスを軌道に乗せることに成功した<ref>「インサイドインテル 上」(ISBN 4-88135-566-X) P210</ref>。また、同時に周辺デバイスもラインナップに加えた。 Z80は、[[Intel 8080]](1974年)、[[MC6800]](1974年)、[[MOS 6502]](1975年)、[[Intel 8085]](1976年)と競合することになった。Z80はこれらの中では後発の部類であったが、1980年には8ビットマイクロプロセッサの中で最大のシェアを確保することになった<ref>「ザイログZ80伝説」(ISBN 978-4-89977-481-5) P60-61 </ref>。 ===Z8000の失敗=== やがて8ビットCPUからさらに処理性能の高い[[16ビット]]CPUの技術開発へと進み、デジタル半導体メーカーの新たな開発競争の舞台となった。16ビットCPUとしては、1978年4月にインテルから[[Intel 8086|i8086]]が、1979年9月に[[モトローラ]]から[[MC68000]]がそれぞれ出荷された。それらの中間の時期である1979年初め頃にザイログは[[Z8000]]シリーズの出荷を始めた。 しかし、モトローラ[[MC68000]]は、命令体系全体を再設計し直したため[[MC6800]]や[[MC6809]]と互換性がなかった。同様にザイログ[[Z8000]]も命令体系全体を再設計し直したため[[Z80]]と互換性がなかった。両社は過去の互換性を捨てて命令体系を綺麗にした。しかし、それが裏目に出て、モトローラとザイログの16ビットCPUの市場への普及は限定的だった。 それに対してインテルの16ビットCPUのi8086は、8ビットCPUである8080の命令コードを[[アセンブリ言語|アセンブラ]]レベルではそのまま実行できるように設計されていた(バイナリ互換性はなかった)。その代償として、16ビットCPUであるi8086の命令体系は、8ビット世代の[[8080]]の上にセグメント方式という方法で「屋上屋を架した」ことによって[[コンピュータアーキテクチャ]]的に不細工なものとなった<ref>「インサイドインテル 上」(ISBN 4-88135-566-X) P259</ref>。一般的に[[セグメント方式]]そのものは悪いものではない。Z8000にもセグメントはあった。しかし、i8086のセグメント方式は、セグメントレジスタを4ビット左シフトした値を従来のアドレスに加算したものを実アドレスとするという変わったものであった。マイクロソフトの技術者は、i8086のセグメント方式を「コンピューティング市場でもっとも愚かな決定」とみなしていた<ref>「インサイドインテル 下」(ISBN 4-88135-567-8) P118 </ref>。ところが、結果としてインテルはこの不細工な設計によって、ビジネス的に大成功を収めた。 Z8000はi8086との競争に敗れ、それほど普及しなかった。しかしながらZ8000ファミリーのシリアル通信コントローラー [[Zilog SCC]] (Z8530) は、[[Apple]]の[[Macintosh]]や[[シャープ]]の[[X68000]]でも採用された。それ以外にも各社のマイクロプロセッサと直結できる高性能な周辺デバイスをシリーズ化。これらは一時期のザイログを支える製品に成長した。 ===迷走=== Z8000の失敗によって、ザイログは、マイクロプロセッサの開発で迷走するようになった。 1985年にZ80を16ビット化した[[Z800]]を発売した。しかし、当時の[[組み込みシステム]]用途には複雑かつ過剰性能であった。 1986年にZ8000を[[32ビット]]化した[[Z80000]]を出荷したが、商業的に失敗したZ8000の互換性は売りにならなかった。Z8000と同様にZ80との互換性はなかった。しかもモトローラは1984年に32ビットの[[MC68020]]をすでに発売しており、インテルも1985年に32ビットの[[Intel 80386]]をすでに発売していた。このような状況では、Z80000の需要はなく極少数の出荷に終わった<ref>[http://www.itofamily.com/ito/collections/32bit/Z80000/index.html IC Collection Z80000]</ref>。 結局、ザイログは、[[日立製作所]][[HD64180|HD64180Z]]の[[セカンドソース]]としてザイログが発売したZ64180を改良した8ビットマイクロプロセッサ[[Z180]]を1986年に発売することになった。 1987年にZ800を[[CMOS]]化した[[Z280]]を発売した。しかし、売れなかったZ800をCMOSにしても売れることはなかった。 1994年に[[Z380]]というZ80を32ビットに拡張したCPUを発売した。メモリ保護やキャッシュメモリもなく、[[組み込みシステム]]用途を意識したものと思われる。これも普及は限定的であった。 ===テキサス・パシフィック・グループによる買収=== 以上のようにザイログは、商業的に恵まれず、[[1998年]]に[[TPGキャピタル|テキサス・パシフィック・グループ]]に買収された<ref>[http://www.referenceforbusiness.com/history/Vi-Z/ZiLOG-Inc.html ZiLOG, Inc. ] - </ref>。 2001年にZ80互換の後継CPUである[[eZ80]]を発売した。eZ80はZ80と同様に8ビットCPUではあったが、Z80とのバイナリ互換性と維持しながらメモリ空間を16MBまで拡張し、3ステージパイプラインと最大50MHzのクロック周波数によってZ80を大幅に強化することに成功した。eZ80は後に商業的成功を収めることになる。 ところが、ザイログは、[[2002年]]初旬に[[連邦倒産法第11章]]の適用を受けた。その後、再建の努力が続いたものの業績は回復せず、テキサス・パシフィック・グループは、ザイログを手放すこととなった。 ===IXYS Corporationによる買収=== ザイログは、[[2010年]][[2月18日]]に米国カリフォルニア州に本社を持つ[[IXYS Corporation]]に買収された<ref>[http://www.zilog.com/index.php?option=com_news&Itemid=147&headno=40 Acquisiiton of Zilog by IXYS Corporation] - ザイログWeb ニュースリリース 2010年2月18日付 (英語、2011年1月21日確認)</ref>。 2011年1月、[[IXYS]]の一部となったザイログは、モータ制御用MCUとして「Z16FMC」シリーズを発表した。この新製品は、多相AC/DCモータ制御に適した16ビット[[マイクロコントローラ]]とされる<ref>{{cite news |title=米Zilog、多相AC/DCモータの制御に適した16bit MCUを発表 |newspaper=マイコミジャーナル |date=2011-01-20 |url=https://news.mynavi.jp/news/2011/01/20/005/ |accessdate=2011-01-21}}</ref><ref>[http://jp.advfn.com/news__45905219.html ZILOG Releases New 16-Bit MCU System On A Chip For Motor Control Applications] - ADVFN ニュース配信ページ</ref>。 2015年にグラフ電卓[[TI-84 Plus シリーズ|TI-84 Plus CE]]が発売された。グラフ電卓として独占的地位を占める[[TI-84 Plus シリーズ]]の最新機種であり、CPUとして前述のeZ80を搭載している。これによってeZ80は大量に使用されることとなった。 ===リテルヒューズによるIXYSの買収=== 2017年8月、[[リテルヒューズ]]は、現金と株式を合わせて7億5000万US$と引き換えにIXYS Corporationを買収することを発表した<ref>{{cite web2 | title=IXYS Corp. agrees to be bought by Littelfuse Inc. in $750 million cash and stock deal | website=Silicon Valley Business Journal | date=August 28, 2017 | url=https://www.bizjournals.com/sanjose/news/2017/08/28/ixys-littelfuse-acquisition.html | access-date=January 10, 2018}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.electronicsweekly.com/news/business/508082-2017-08/|title=Littelfuse buys Ixys for $750m|date=2017-08-29|work=Electronics Weekly|access-date=2017-09-19|language=en-GB}}</ref>。 2018年1月、リテルヒューズによるIXYSの買収が完了し、IXYSはリテルヒューズの子会社となった<ref>[https://ih.advfn.com/stock-market/NASDAQ/ixys-corp-delisted-IXYS/stock-news/76490531/littelfuse-completes-acquisition-of-ixys-corporati Investors Hub "Littelfuse Completes Acquisition of IXYS Corporation"]</ref>。 その結果、ザイログはリテルヒューズの傘下に入ることになった。 == 主な製品 == === Z80 === * [[Z80]](1976年発表) 8ビットマイクロプロセッサの[[デファクトスタンダード|事実上の標準]] * [[Z800]](1985年発売) Z80を16ビットに拡張したもの ** [[Z280]](1987年発売) [[Z800]]の[[CMOS]]版 * Z64180(1985年発売) 拡張版Z80で[[日立製作所]](現・[[ルネサス エレクトロニクス]])の[[HD64180|HD64180Z]]の[[セカンドソース]]。 * [[Z180]](1986年発売) Z64180の改良版。Z80180またはZ8S180がある。 * [[Z380]](1994年発売) 16/32ビット拡張版のZ80 * [[eZ80]](2001年発売) Z80互換で、[[命令パイプライン]]化、高集積化し、さらにクロックを50MHzまでと高速化したもの。 === Z8000 === * [[Z8000]]シリーズ(1979年発売)(以下の2バージョンに分かれる) ** Z8001 [[セグメント方式|セグメント]]によりアドレス空間を拡張したバージョン ** Z8002 セグメントを使用しない64kBだけのアドレス空間を使うバージョン * [[Z80000]]シリーズ(1986年発売) Z8000を32ビット化したもの === マイクロコントローラ === * [[Z8 (コントローラ)|Z8]](1979年発売) 1チップマイクロプロセッサファミリ * [[Z8 (コントローラ)|eZ8]](2005年発売) Z8の拡張版 * [[Zatara]]シリーズ(2007年発売) ARM9コアのセキュアトランザクション用プロセッサ<ref>[https://www.eetimes.com/zilog-enters-32-bit-market-with-zatara/# Zilog enters 32-bit market with Zatara]</ref> === 通信コントローラー === * [[Zilog SCC]] (Z8030/Z8530/Z8031/Z8531/Z80C30/Z85C30/Z80230/Z85230/Z85233) 2チャンネルのシリアル通信コントローラ *Z16017/Z16M17/Z86017 PCMCIAアダプター *Z80382/Z8L382 モデム用のCPU<ref>[https://www.zilog.com/index.php?option=com_product&Itemid=26&task=parts&BL=&familyId=22&productId=Z80382&puqs=b3B0aW9uPWNvbV9wcm9kdWN0JnRhc2s9cHJvZHVjdCZidXNpbmVzc0xpbmU9JmlkPTEzOSZwYXJlbnRfaWQ9MTM5Jkl0ZW1pZD03NyZiaz0yMiZkdmM9WjgwMzgyJmJrPTIyJmR2Yz1aOEwzODI= Z80382 Features]</ref><ref>[https://www.zilog.com/index.php?option=com_product&Itemid=26&task=parts&BL=&familyId=22&productId=Z8L382&puqs=b3B0aW9uPWNvbV9wcm9kdWN0JnRhc2s9cHJvZHVjdCZidXNpbmVzc0xpbmU9JmlkPTEzOSZwYXJlbnRfaWQ9MTM5Jkl0ZW1pZD03NyZiaz0yMiZkdmM9WjgwMzgy Z8L38210ASG Features]</ref> *Z5380 SCSIプロトコルコントローラー([[NCR (企業)|NCR]] 5380を元にしている) *Z022シリーズ シングルチップモデム == 日本での事業 == [[1977年]]、半導体商社の日本テクセル(現在の[[三井物産エレクトロニクス]])が代理店となり、Z80やZ8000シリーズの販売、マーケティングを行った。その後、ザイログジャパンが設立された。現在の代理店は、[[インターニックス]]、三井物産エレクトロニクス、[[ユニダックス]]ほか{{要出典|date=2021年1月}}。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * {{Official website|http://www.zilog.com/}} * [http://www.ixys.com/ IXYS] * [https://www.littelfuse.co.jp/ リテルヒューズ] {{ザイログ}} {{DEFAULTSORT:さいろく}} [[Category:パソコンの歴史]] [[Category:アメリカ合衆国の半導体企業]]
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MC6809
MC6809は、モトローラが1979年に発売した、8ビットのマイクロプロセッサ。対称性の高い命令体系を持っている点が特徴である。 MC6809は、レジスタには8ビット幅のアキュムレータを2つ(A,B。一部の命令では2つを連結して16ビット幅のアキュムレータ(D)として使用できる)、16ビットのインデックスレジスタを2つ(X,Y)、および16ビットのスタックポインタを2つ持つ(U,S)。インデックスアドレッシングモードにおいては、スタックポインタもインデックスレジスタとして指定できる。 前身となるMC6800とは、アセンブリ言語のソースコードの範囲でニーモニックの互換性は保たれていた。MC6800用アセンブラプログラムからMC6809用バイナリコードを出力するアセンブラでは、自動的に等価な命令に変換する。しかし、バイナリコードでは互換性がない。また、ピン配列に互換性はない。命令数は6800の78に対して6809は59であるが、等価な命令によってカバーできる。 8ビットCPUとしてはライバルとなるZ80よりも後発のアーキテクチャであるが、それゆえによく練られた直交性の高い命令体系が特徴である。高級言語を意識した豊富なアドレッシングモードや乗算命令を持つ、シンプルかつ高性能なプロセッサである。CPU単体でもOS-9によってプリエンプティブなマルチタスクを実現し、またオプションのMMUであるMC6829 MMUを追加することでメモリ空間を最大2MBに拡張すると共にメモリ/プロセス保護も実現可能である。この機能はOS-9 Level2でサポートされる。 動作クロックは80系CPU(8080、Z80)と比較して低いが、二相クロックの利用により1クロックでメモリアクセスが可能である。また、命令の実行に必要なクロック数は、単純に6800と比べると多くなっているが、実際の命令実行では従来複数の命令を要した処理を1命令でこなせるようになり、実行クロック数は実質的に減らせる。例えば「Xレジスタで示されるメモリからAレジスタに値をロードし、その後Xレジスタをインクリメント」する処理をMC6800では、ロード命令とインクリメント命令の2命令で行っていたのに対し、MC6809ではオートインクリメント付きインデックスドアドレッシングのロード命令という1つの命令で実行可能である。 また、MC6800ではレジスタの少なさをカバーするダイレクトページアドレッシングモードを持ち、0~255番地のメモリへのアクセスを高速に行う事が出来たが、MC6809ではその機能を継承したうえで、DPレジスタを追加し、高速にアクセスできる256バイトの領域を変更することが可能である。これらの特徴により、MC6800に対し最高5倍の処理能力を持ち、当時の8ビットCPUの中では最も高速である。 MC6809は、PC相対アドレッシングモードや、64KBの全アドレス空間をカバーする相対ジャンプ命令を利用して、位置独立なプログラムを作製する事が容易である。また、スタックポインタを使ったアドレッシングモードも充実しており、ローカル変数をスタック上に確保する事で、再入可能(リエントラント)なコードの記述を容易に行える。位置独立で再入可能なプロシージャを作成すると、そのバイナリ実行形式コードをメモリ空間の空いた領域に置くことで、リンカやローダによる書き換え処理を行う事無く直ちに利用可能になる。組み込みシステムの開発において、この特徴は利便性を発揮した。MC6809の特徴を生かしたオペレーティングシステムであるOS-9を設計するにあたって、コードは位置独立で、再入可能であることが要求された。 このような背景から、登場当時の月刊アスキー誌上では「究極の8ビットCPU」と紹介された。 MC6809には、クロック周波数が1MHzの6809、1.5MHzの68A09、2MHzの68B09があり、それぞれにクロックジェネレータを内蔵した版と、外部からクロックを入力する版があり、計6つのバリエーションが存在することになる。クロックジェネレータの種類は型番の末尾で区別し。アルファベットの無い型番(例 MC6809)はクロックの4倍の周波数の水晶発振子を接続し、内蔵したジェネレータで1/4に分周して使用する。末尾にアルファベットEのある型番(例 MC6809E)は、外部で生成した2相クロックを入力する。 モトローラから発売されたオリジナル品に加え、セカンドソース品が存在する。日本では主に日立製作所と富士通によるものが流通した。 日立によるセカンドソース品では、オリジナルと完全互換のHD6809と、CMOS構造のHD6309がある。HD6309はクロック周波数2MHzのHD63B09と3MHzのHD63C09がある。これらの製品はそれぞれに外部クロック版(末尾にEが付く)がある)が提供された。HD6309は単にクロックを高速化しただけではなく、レジスタや命令の追加が行われた。通常は割り込み時のスタック退避や命令実行のクロック数を含めMC6809互換だが、俗にネイティブモードに移行することで新設レジスタも割り込み時の退避対象になり、また命令実行に要するクロック数が減少して動作が約30%高速になる。ただしMC6809の未定義命令はよく使われたものでもサポートされず新設の命令コードが割り当てられたため、そのような命令を使ったプログラムは動作が異なった。発売当初のユーザーズマニュアルにこのネイティブモードと追加命令などの記述があったが、セカンドソース品はオリジナル品と完全互換である事を要求するモトローラからライセンス違反とのクレームがつき、版を重ねたユーザーズマニュアルからは記述が削除され、公式には封印されてしまった。しかし後年、CPU換装されたFM-11にてMC6809未定義命令を使ったソフトの不具合から新設レジスタの存在が発覚、熱心なユーザの手により資料の作成が行われた。未定義コードの動作が違うためCPU換装には注意が必要だが、OS-9/6809においては、ユーザーの手によりOS自身のHD6309ネイティブモード対応(通称osn)やアプリケーションの6309化が行われた。 日本国内で流通したパソコンでは富士通のFM-8、FM-7シリーズ、FM-77シリーズ、FM-11シリーズと日立のベーシックマスターシリーズのベーシックマスターレベル3とMB-S1シリーズが6809を搭載した。 アーケードゲーム業界では1980年代を通じて積極的に採用された。ナムコの「ドルアーガの塔」、コナミの「ハイパーオリンピック」、カプコンの「魔界村」などのヒット作品が6809を用いた。源平討魔伝では6809が2つ使用されており高レベルな表現を可能にしていた。コナミでは6309の搭載実績もある。 天体望遠鏡の業界では、ビクセンより1984年9月に発売したアマチュア向け自動導入装置の量産として世界初となる「スカイセンサー」に6809が搭載された。 アメリカ合衆国で流通したパソコンではタンディ・コーポレーションが発売したTandy TRS-80 Color Computer(英語版、ドイツ語版、フランス語版、スペイン語版)に6809Eが搭載された。
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MC6809は、モトローラが1979年に発売した、8ビットのマイクロプロセッサ。対称性の高い命令体系を持っている点が特徴である。
[[ファイル:MC6809EP.jpg|thumb|200 px|1 MHz '''モトローラ6809'''E]] '''MC6809'''は、[[モトローラ]]が1979年に発売した、[[8ビット]]の[[マイクロプロセッサ]]。対称性の高い命令体系を持っている点が特徴である。 == 概要 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-03}} [[ファイル:6809registers.png|thumb|300 px|6809の内部レジスタ]] MC6809は、[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]には8ビット幅の[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]]を2つ(A,B。一部の命令では2つを連結して16ビット幅のアキュムレータ(D)として使用できる)、16ビットの[[インデックスレジスタ]]を2つ(X,Y)、および16ビットの[[スタックポインタ]]を2つ持つ(U,S)。インデックスアドレッシングモードにおいては、スタックポインタもインデックスレジスタとして指定できる。 前身となる[[MC6800]]とは、[[アセンブリ言語]]の[[ソースコード]]の範囲で[[ニーモニック]]の互換性は保たれていた。MC6800用アセンブラプログラムからMC6809用[[バイナリ|バイナリコード]]を出力するアセンブラでは、自動的に等価な命令に変換する。しかし、バイナリコードでは互換性がない。また、ピン配列に互換性はない。命令数は6800の78に対して6809は59であるが、等価な命令によってカバーできる。 8ビットCPUとしてはライバルとなる[[Z80]]よりも後発の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]であるが、それゆえによく練られた[[直交性 (情報科学)|直交性]]の高い命令体系が特徴である。[[高級言語]]を意識した豊富な[[アドレッシングモード]]や乗算命令を持つ、シンプルかつ高性能なプロセッサである。CPU単体でも[[OS-9]]によって[[プリエンプティブ]]な[[マルチタスク]]を実現し、またオプションの[[メモリ管理ユニット|MMU]]である[[MC6829|MC6829 MMU]]を追加することでメモリ空間を最大2MBに拡張すると共にメモリ/プロセス保護も実現可能である。この機能は[[OS-9]] Level2でサポートされる。 動作クロックは80系CPU([[Intel 8080|8080]]、[[Z80]])と比較して低いが、[[クロック#2相クロック|二相クロック]]の利用により1クロックでメモリアクセスが可能である。また、命令の実行に必要なクロック数は、単純に6800と比べると多くなっているが、実際の命令実行では従来複数の命令を要した処理を1命令でこなせるようになり、実行クロック数は実質的に減らせる。例えば「Xレジスタで示されるメモリからAレジスタに値をロードし、その後Xレジスタをインクリメント」する処理をMC6800では、ロード命令とインクリメント命令の2命令で行っていたのに対し、MC6809ではオートインクリメント付きインデックスドアドレッシングのロード命令という1つの命令で実行可能である。 また、MC6800ではレジスタの少なさをカバーするダイレクトページアドレッシングモードを持ち、0~255番地のメモリへのアクセスを高速に行う事が出来たが、MC6809ではその機能を継承したうえで、DPレジスタを追加し、高速にアクセスできる256バイトの領域を変更することが可能である。これらの特徴により、MC6800に対し最高5倍の処理能力を持ち、当時の8ビットCPUの中では最も高速である。 MC6809は、PC相対アドレッシングモードや、64KBの全アドレス空間をカバーする相対ジャンプ命令を利用して、[[位置独立コード|位置独立なプログラム]]を作製する事が容易である。また、[[レジスタ_(コンピュータ)#スタックポインタ|スタックポインタ]]を使ったアドレッシングモードも充実しており、[[ローカル変数]]を[[スタック]]上に確保する事で、再入可能([[リエントラント]])なコードの記述を容易に行える。位置独立で[[リエントラント|再入可能]]なプロシージャを作成すると、そのバイナリ実行形式コードをメモリ空間の空いた領域に置くことで、[[リンケージエディタ|リンカ]]や[[ローダ]]による書き換え処理を行う事無く直ちに利用可能になる。組み込みシステムの開発において、この特徴は利便性を発揮した。MC6809の特徴を生かした[[オペレーティングシステム]]であるOS-9を設計するにあたって、コードは位置独立で、再入可能であることが要求された。 このような背景から、登場当時の[[月刊アスキー]]誌上では「究極の8ビットCPU」と紹介された。 == バリエーション == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-03}} MC6809には、[[クロック|クロック周波数]]が1[[メガヘルツ|MHz]]の6809、1.5MHzの68A09、2MHzの68B09があり、それぞれにクロックジェネレータを内蔵した版と、外部からクロックを入力する版があり、計6つのバリエーションが存在することになる。クロックジェネレータの種類は型番の末尾で区別し。アルファベットの無い型番(例 MC6809)はクロックの4倍の周波数の[[水晶振動子|水晶発振子]]を接続し、内蔵したジェネレータで1/4に[[分周]]して使用する。末尾にアルファベットEのある型番(例 MC6809E)は、外部で生成した2相クロックを入力する。 モトローラから発売されたオリジナル品に加え、[[セカンドソース]]品が存在する。日本では主に[[日立製作所]]と[[富士通]]によるものが流通した。 === 6309 === [[File:6309programmingmodel.png|thumb|300 px|6309の内部レジスタ]] 日立によるセカンドソース品では、オリジナルと完全互換のHD6809と、[[CMOS]]構造のHD6309がある。HD6309は[[クロック|クロック周波数]]2MHzのHD63B09と3MHzのHD63C09がある。これらの製品はそれぞれに外部クロック版(末尾にEが付く)がある)が提供された。HD6309は単にクロックを高速化しただけではなく、レジスタや命令の追加が行われた。通常は割り込み時のスタック退避や命令実行のクロック数を含めMC6809互換だが、俗にネイティブモードに移行することで新設レジスタも割り込み時の退避対象になり、また命令実行に要するクロック数が減少して動作が約30%高速になる。ただしMC6809の未定義命令はよく使われたものでもサポートされず新設の命令コードが割り当てられたため、そのような命令を使ったプログラムは動作が異なった。発売当初のユーザーズマニュアルにこのネイティブモードと追加命令などの記述があったが、セカンドソース品はオリジナル品と完全互換である事を要求するモトローラからライセンス違反とのクレームがつき、版を重ねたユーザーズマニュアルからは記述が削除され、公式には封印されてしまった。しかし後年、CPU換装された[[FM-11]]にてMC6809未定義命令を使ったソフトの不具合から新設レジスタの存在が発覚<ref>『[[Oh!FM]] 1988-4』p.72-77「63C09の拡張機能をさぐる」</ref>、熱心なユーザの手により資料の作成が行われた。未定義コードの動作が違うためCPU換装には注意が必要だが、[[OS-9|OS-9/6809]]においては、ユーザーの手によりOS自身のHD6309ネイティブモード対応(通称osn)やアプリケーションの6309化が行われた。 == 搭載製品 == {{出典の明記| section = 1| date = 2022-03}} 日本国内で流通したパソコンでは[[富士通]]の[[FM-8]]、[[FM-7]]シリーズ、[[FM-77]]シリーズ、[[FM-11]]シリーズ、[[FM-16β]]シリーズと日立の[[ベーシックマスター]]シリーズのベーシックマスターレベル3とMB-S1シリーズが6809を搭載した。 [[アーケードゲーム]]業界では1980年代を通じて積極的に採用された。[[ナムコ]]の「[[ドルアーガの塔]]」、[[コナミ]]の「[[ハイパーオリンピック]]」、[[カプコン]]の「[[魔界村]]」などのヒット作品が6809を用いた。[[源平討魔伝]]では6809が2つ使用されており高レベルな表現を可能にしていた。コナミでは6309の搭載実績もある。 [[天体望遠鏡]]の業界では、[[ビクセン (企業)|ビクセン]]より[[1984年]]9月に発売したアマチュア向け[[モータードライブ (望遠鏡)#自動導入装置|自動導入装置]]の量産として世界初となる「スカイセンサー」に6809が搭載された。 アメリカ合衆国で流通したパソコンでは[[タンディ・コーポレーション]]が発売した{{仮リンク|Tandy TRS-80 Color Computer|en|TRS-80 Color Computer|de|Tandy TRS-80 Color Computer|fr|Ordinateur Couleur|es|TRS-80 Color Computer|it|TRS-80 Color Computer|pt|TRS-80 Color Computer|fi|TRS-80 Color Computer|ca|TRS-80 Color Computer|ru|TRS-80 Color Computer|ar|تي آر إس-80 كولر كمبيوتر}}に6809Eが搭載された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[OS-9]] {{Normdaten}} {{Motorola processors}} [[Category:モトローラのマイクロプロセッサ]]
2003-02-17T08:56:06Z
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2,192
Intel 8080
Intel 8080(インテル 8080、i8080)は、インテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり、1974年4月に発表された。同社の8008の後継に当たるが命令の互換性はない。8080の命令は、後に拡張され、ザイログのZ80や日立製作所の64180に継承された。初期のパーソナルコンピュータの多くに採用され、モトローラの6800やモステクノロジーの6502(Apple、コモドール、ファミコン、他)と覇を競った。 i8080のロジック設計の中心となったのはビジコン退社後、リコーを経てインテルに入社した嶋正利だった。開発者の特権として彼はフォトマスク余白に嶋家の家紋である引両紋(丸に三つ引)を刻んだ。 8080は、アキュムレータ1つを含む、7つの汎用レジスタ(8ビット)を持つ。これはたとえば6800と比べて本数としては多い。また、二つの8ビットレジスタを併せて、BC、DE、HLの3つの16ビットレジスタとして扱う命令もある。 (注)命令中ではHLレジスタペアをポインタとして扱うメモリ参照は「M」と表現される: 例 ADD M 以下に命令一覧を示す。 8080はグラウンドが十分に取られていないという物理設計上のミスにより、大電流が流れるTTLデバイスと使用するには問題があったため、TTL-LS用として発売された。後にグラウンド線の幅を太くして標準TTLに対応させたものが8080Aとして発売された。 これには逸話がある。8080の開発者の一人であった嶋正利は、8080のレイアウトを完成させた後、休暇を取って一時的に日本へ帰国。嶋は休暇明けに8080の特性評価を行う予定だった。しかし、嶋がインテルに戻った頃には既に営業部の判断で8080が4万個製造されていた。そのため、8080はTTL-LS用としてしばらくの間販売されるに至った。 NEC製のセカンドソース品 (μPD8080A) は減算時における10進補正フラグの扱いがオリジナルとは違っており、ここを全く同じにしたもの (μPD8080AF) が追加販売されている。TK-80には前者が、TK-80Eには後者が採用された。 任天堂のゲームボーイに組み込まれたカスタムプロセッサLR35902 は、このプロセッサに対して近似した仕様を持っている。このプロセッサはカスタムZ80とも表記されるが、Z80で拡張された裏レジスタや、処理に時間のかかるインデックスレジスタなどの命令が削除されているため、命令セットとしてはi8080に近い仕様となっている。但し、一部の仕様はZ80を引き継いでいるほか、供給元であるシャープはZ80のセカンドソースではあるため、Z80の亜種と捉えることもできる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Intel 8080(インテル 8080、i8080)は、インテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり、1974年4月に発表された。同社の8008の後継に当たるが命令の互換性はない。8080の命令は、後に拡張され、ザイログのZ80や日立製作所の64180に継承された。初期のパーソナルコンピュータの多くに採用され、モトローラの6800やモステクノロジーの6502(Apple、コモドール、ファミコン、他)と覇を競った。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "i8080のロジック設計の中心となったのはビジコン退社後、リコーを経てインテルに入社した嶋正利だった。開発者の特権として彼はフォトマスク余白に嶋家の家紋である引両紋(丸に三つ引)を刻んだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "8080は、アキュムレータ1つを含む、7つの汎用レジスタ(8ビット)を持つ。これはたとえば6800と比べて本数としては多い。また、二つの8ビットレジスタを併せて、BC、DE、HLの3つの16ビットレジスタとして扱う命令もある。", "title": "レジスタセット" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "(注)命令中ではHLレジスタペアをポインタとして扱うメモリ参照は「M」と表現される: 例 ADD M", "title": "レジスタセット" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以下に命令一覧を示す。", "title": "命令セット" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "8080はグラウンドが十分に取られていないという物理設計上のミスにより、大電流が流れるTTLデバイスと使用するには問題があったため、TTL-LS用として発売された。後にグラウンド線の幅を太くして標準TTLに対応させたものが8080Aとして発売された。", "title": "Intel 8080A" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これには逸話がある。8080の開発者の一人であった嶋正利は、8080のレイアウトを完成させた後、休暇を取って一時的に日本へ帰国。嶋は休暇明けに8080の特性評価を行う予定だった。しかし、嶋がインテルに戻った頃には既に営業部の判断で8080が4万個製造されていた。そのため、8080はTTL-LS用としてしばらくの間販売されるに至った。", "title": "Intel 8080A" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "NEC製のセカンドソース品 (μPD8080A) は減算時における10進補正フラグの扱いがオリジナルとは違っており、ここを全く同じにしたもの (μPD8080AF) が追加販売されている。TK-80には前者が、TK-80Eには後者が採用された。", "title": "セカンドソース" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "任天堂のゲームボーイに組み込まれたカスタムプロセッサLR35902 は、このプロセッサに対して近似した仕様を持っている。このプロセッサはカスタムZ80とも表記されるが、Z80で拡張された裏レジスタや、処理に時間のかかるインデックスレジスタなどの命令が削除されているため、命令セットとしてはi8080に近い仕様となっている。但し、一部の仕様はZ80を引き継いでいるほか、供給元であるシャープはZ80のセカンドソースではあるため、Z80の亜種と捉えることもできる。", "title": "亜種" } ]
Intel 8080は、インテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり、1974年4月に発表された。同社の8008の後継に当たるが命令の互換性はない。8080の命令は、後に拡張され、ザイログのZ80や日立製作所の64180に継承された。初期のパーソナルコンピュータの多くに採用され、モトローラの6800やモステクノロジーの6502(Apple、コモドール、ファミコン、他)と覇を競った。 i8080のロジック設計の中心となったのはビジコン退社後、リコーを経てインテルに入社した嶋正利だった。開発者の特権として彼はフォトマスク余白に嶋家の家紋である引両紋(丸に三つ引)を刻んだ。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Infobox CPU|名称=Intel 8080|最高周波数=3.125|前世代プロセッサ=[[Intel 8008]]|パッケージ=40Pin [[パッケージ (電子部品)#DIP_(Dual_In-line_Package)|DIP]]|コア数=1|トランジスタ=6000|命令セット=8080|最小プロセスルール=6 µm|最高周波数単位=MHz|画像=Intel C8080A 9064 33001 N8384 top.jpg|最低周波数単位=MHz|最低周波数=2|生産者=Intel|設計者=Intel|販売者=Intel|生産終了=1990年|生産開始=1974年4月|次世代プロセッサ=[[Intel 8085]]}} '''Intel 8080'''(インテル 8080、i8080)は、[[インテル]]によって開発された[[8ビット]][[マイクロプロセッサ]]であり、[[1974年]]4月に発表された。同社の[[Intel 8008|8008]]の後継に当たるが命令の互換性はない。8080の[[命令セット|命令]]は、後に拡張され、[[ザイログ]]の[[Z80]]や[[日立製作所]]の[[HD64180|64180]]に継承された。初期の[[パーソナルコンピュータ]]の多くに採用され、[[モトローラ]]の[[MC6800|6800]]や[[モステクノロジー]]の[[MOS 6502|6502]]([[Apple]]、[[コモドール]]、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]、他)と覇を競った。 i8080のロジック設計の中心となったのは[[ビジコン]]退社後、[[リコー]]を経てインテルに入社した[[嶋正利]]だった。開発者の特権として彼は[[フォトマスク]]余白に嶋家の家紋である[[引両紋]](丸に三つ引)を刻んだ。 == レジスタセット == 8080は、[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]]1つを含む、7つの[[レジスタ (コンピュータ)|汎用レジスタ]](8ビット)を持つ。これはたとえば6800と比べて本数としては多い。また、二つの8ビットレジスタを併せて、BC、DE、HLの3つの16ビットレジスタとして扱う命令もある。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 16ビット単位の呼称 !! 8ビット単位(上位) !! 8ビット単位(下位) !! 説明 |- | PSW || A || Flag | style="text-align:left" | アキュムレータ(A)とフラグ・レジスタ |- | BC || B || C | style="text-align:left" | 汎用レジスタ |- | DE || D || E | style="text-align:left" | 汎用レジスタ |- | HL || H || L | style="text-align:left" | 汎用兼 間接参照用レジスタ |- | PC | colspan="2" | | style="text-align:left" | プログラムカウンタ |- | SP | colspan="2" | | style="text-align:left" | スタックポインタ |} (注)命令中ではHLレジスタペアをポインタとして扱うメモリ参照は「M」と表現される: 例 ADD M :フラグレジスタのビット位置 ::b7:S 符号 ::b6:Z ゼロ ::b5:未使用 (0に固定) ::b4:H AUXキャリー([[パック10進数|パックBCD]]演算用) ::b3:未使用 (0に固定) ::b2:P パリティ ::b1:未使用 (0に固定) ::b0:C キャリー :このフラグ位置は8086を経てIA-32に至るまで代々引き継がれている。 == 命令セット == *命令は[[バイト (情報)|バイト]]単位で、1から3バイトの可変長である。 *主な命令は、8ビットレジスタ間のロード、8ビットおよび16ビットレジスタペアに対する即値ロード命令、Aレジスタを用いた加減算と[[ビット演算|ビット論理演算]]・比較演算(HLレジスタペアをポインタとして扱うメモリ参照を含む)、絶対番地指定による条件および無条件[[分岐命令|ジャンプ]]・コール命令・リターン命令、[[スタック]]へのPUSH/POP操作、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]許可・禁止命令、8レベルの割り込みをエミュレートするソフトウェア割り込み命令などがある。 *相対ジャンプ及び相対コール命令がないため命令を動的に再配置することは原則としてできなかった。 *リセット直後は(プログラム・カウンタが)0番地からアドレスが増加する方向に実行される。また、スタックポインタはアドレスが減少する方向に(プッシュにより)自動的に減算されるため、スタックはメモリ下位(数字の大きい方が上)番地に向かって伸びる。 以下に命令一覧を示す。 * rは8ビットレジスタA,B,C,D,E,H,LまたはM(HLレジスタで示されるメモリ)を表す。ザイログニーモニックではMは''(HL)''と書く。 * rrは16ビットレジスタBC,DE,HL,SPを表す。なおインテルニーモニックではBC,DE,HLはB,D,Hと書く。 * nは8ビットの数値(即値またはI/Oアドレス)を表す。 * nnは16ビットの数値(即値またはメモリアドレス)を表す。 * インテルニーモニックとザイログニーモニックが異なるものは、スラッシュで区切って示した。 === 転送・交換命令 === ;MOV r,r / LD r,r :8ビットレジスタ間の転送。MOV M,Mは存在しない(相当するコードはHLT/HALTに割り当てられている)。 ;MVI r,n / LD r,n :8ビットレジスタに即値をロードする。 ;LXI rr,nn / LD rr,nn :16ビットレジスタに即値をロードする。 ;LDA nn / LD a,(nn) :メモリの内容をAレジスタにロードする。 ;STA nn / LD (nn),A :Aレジスタの内容をメモリにストアする。 ;LHLD nn / LD HL,(nn) :メモリの内容をHLレジスタにロードする。 ;SHLD nn / LD (nn),HL :HLレジスタの内容をメモリにストアする。 ;LDAX B / LD A,(BC) :BCレジスタで示されるメモリの内容をAレジスタにロードする。HLレジスタのMOV A,Mに相当。 ;LDAX D / LD A,(DE) :DEレジスタで示されるメモリの内容をAレジスタにロードする。 ;STAX B / LD (BC),A :Aレジスタの内容をBCレジスタで示されるメモリにストアする。HLレジスタのMOV M,Aに相当。 ;STAX D / LD (DE),A :Aレジスタの内容をDEレジスタで示されるメモリにストアする。HLレジスタのMOV M,Aに相当。 ;SPHL / LD SP,HL :HLレジスタの内容をSPレジスタに転送する。 ;XCHG / EX DE,HL :DEレジスタとHLレジスタの内容を交換する。 === 算術演算命令 === ;ADD r / ADD A,r :8ビットレジスタの内容をAレジスタに加算する。 ;ADI n / ADD A,n :即値をAレジスタに加算する。 ;ADC r / ADC A,r :8ビットレジスタの内容とCフラグをAレジスタに加算する。 ;ACI n / ADC A,n :即値とCフラグをAレジスタに加算する。 ;SUB r :8ビットレジスタの内容をAレジスタから減算する。 :8ビット加減算命令のうちSUBのみはザイログニーモニックでもデスティネーションのAを表記しない。これはZ80に16ビットのSUB命令がなく(ADD,ADC,SBC命令はある)、対象がAレジスタであることが自明なためである。 ;SUI n / SUB n :即値をAレジスタから減算する。 ;SBB r / SBC A,r :8ビットレジスタの内容とCフラグ(ボロー)をAレジスタから減算する。 ;SBI n / SBC A,n :即値とCフラグ(ボロー)をAレジスタから減算する。 ;CMP r / CP r :8ビットレジスタの内容をAレジスタから減算するが、結果は格納しない。 ;CPI n / CP n :即値をAレジスタから減算するが、結果は格納しない。 ;INR r / INC r :8ビットレジスタの内容をインクリメントする。 ;DCR r / DEC r :8ビットレジスタの内容をデクリメントする。 ;INX rr / INC rr :16ビットレジスタの内容をインクリメントする。 ;DCX rr / DEC rr :16ビットレジスタの内容をデクリメントする。 ;DAD rr / ADD HL,rr :16ビットレジスタの内容をHLレジスタに加算する。 ;DAA :Aレジスタの内容をBCD補正する。 === 論理演算命令 === ;ANA r / AND r :8ビットレジスタの内容とAレジスタの論理積をとる。 ;ANI n / AND n :即値とAレジスタの論理積をとる。 ;ORA r / OR r :8ビットレジスタの内容とAレジスタの論理和をとる。 ;ORI n / OR n :即値とAレジスタの論理和をとる。 ;XRA r / XOR r :8ビットレジスタの内容とAレジスタの排他的論理和をとる。 ;XRI n / XOR n :即値とAレジスタの排他的論理和をとる。 ;CMA / CPL :Aレジスタの内容を反転する。 === ローテート命令 === ;RLC / RLCA :Aレジスタの内容を左ローテートする。 ;RRC / RRCA :Aレジスタの内容を右ローテートする。 ;RAL / RLA :Aレジスタの内容とCフラグを連結して左ローテートする。 ;RAR / RRA :Aレジスタの内容とCフラグを連結して右ローテートする。 === ジャンプ・コール・リターン命令 === ;JMP nn / JP nn :指定の番地にジャンプする。 ;JNZ nn / JP NZ,nn :Zフラグが0のとき指定の番地にジャンプする。 ;JZ nn / JP Z,nn :Zフラグが1のとき指定の番地にジャンプする。 ;JNC nn / JP NC,nn :Cフラグが0のとき指定の番地にジャンプする。 ;JC nn / JP C,nn :Cフラグが1のとき指定の番地にジャンプする。 ;JPO nn / JP PO,nn :Pフラグが0のとき指定の番地にジャンプする。 ;JPE nn / JP PE,nn :Pフラグが1のとき指定の番地にジャンプする。 ;JP nn / JP P,nn :Sフラグが0のとき指定の番地にジャンプする。 ;JM nn / JP M,nn :Sフラグが1のとき指定の番地にジャンプする。 ;PCHL / JP (HL) :HLの内容をPCに転送する。 ;CALL nn :指定の番地をコールする。 ;CNZ nn / CALL NZ,nn :Zフラグが0のとき指定の番地をコールする。 ;CZ nn / CALL Z,nn :Zフラグが1のとき指定の番地をコールする。 ;CNC nn / CALL NC,nn :Cフラグが0のとき指定の番地をコールする。 ;CC nn / CALL C,nn :Cフラグが1のとき指定の番地をコールする。 ;CPO nn / CALL PO,nn :Pフラグが0のとき指定の番地をコールする。 ;CPE nn / CALL PE,nn :Pフラグが1のとき指定の番地をコールする。 ;CP nn / CALL P,nn :Sフラグが0のとき指定の番地をコールする。 ;CM nn / CALL M,nn :Sフラグが1のとき指定の番地をコールする。 ;RST p / RST n :(p=0~7) p*8番地をコールする。割り込み用。 ;RET :リターンする。 ;RNZ / RET NZ :Zフラグが0のときリターンする。 ;RZ / RET Z :Zフラグが1のときリターンする。 ;RNC / RET NC :Cフラグが0のときリターンする。 ;RC / RET C :Cフラグが1のときリターンする。 ;RPO / RET PO :Pフラグが0のときリターンする。 ;RPE / RET PE :Pフラグが1のときリターンする。 ;RP / RET P :Sフラグが0のときリターンする。 ;RM / RET M :Sフラグが1のときリターンする。 === スタック操作命令 === ;PUSH rr :16ビットレジスタをプッシュする。SPは指定できない。 ;PUSH PSW / PUSH AF :PSWをプッシュする。 ;POP rr :16ビットレジスタをポップする。SPは指定できない。 ;POP PSW / POP AF :PSWをポップする。 ;XTHL / EX (SP),HL :HLレジスタとスタックトップの内容を交換する。 === フラグ操作命令 === ;STC / SCF :Cフラグを1にする。 ;CMC / CCF :Cフラグを反転する。 === 入出力命令 === ;IN n / IN A,(n) :I/OアドレスからAレジスタに入力する。 ;OUT n / OUT (n),A :Aレジスタの内容をI/Oアドレスに出力する。 === CPU制御命令 === ;[[NOP]] :何もしない。 ;HLT / HALT :CPUを停止し、割り込みを待つ。 ;DI :割り込みを禁止する。 ;EI :割り込みを許可する。 == Intel 8080A == '''8080'''は[[接地|グラウンド]]が十分に取られていないという物理設計上のミスにより、大電流が流れる[[Transistor-transistor logic|TTL]]デバイスと使用するには問題があったため、TTL-LS用として発売された。後にグラウンド線の幅を太くして標準TTLに対応させたものが'''8080A'''として発売された。 これには逸話がある。8080の開発者の一人であった嶋正利は、8080のレイアウトを完成させた後、休暇を取って一時的に日本へ帰国。嶋は休暇明けに8080の特性評価を行う予定だった。しかし、嶋がインテルに戻った頃には既に営業部の判断で8080が4万個製造されていた。そのため、8080はTTL-LS用としてしばらくの間販売されるに至った<ref>嶋正利・西村恕彦・石田晴久「座談会 マイクロコンピュータの誕生 開発者 嶋 正利氏に聞く」『bit』 Vol.11 No.11、共立出版、1979年、pp.4-14。</ref>。 == セカンドソース == [[日本電気|NEC]]製の[[セカンドソース]]品 (μPD8080A) は減算時における10進補正フラグの扱いがオリジナルとは違っており、ここを全く同じにしたもの (μPD8080AF) が追加販売されている。[[TK-80]]には前者が、TK-80Eには後者が採用された。 == 亜種 == [[任天堂]]の[[ゲームボーイ]]に組み込まれたカスタムプロセッサLR35902<ref>{{cite book | author1 = Rob Kurst | author2 = Andy Madden | url = http://meseec.ce.rit.edu/551-projects/spring2014/4-1.pdf | title = Nintendo Gameboy Architecture | page = 9 | accessdate= 2021-05-14 }}</ref> は、このプロセッサに対して近似した仕様を持っている。このプロセッサはカスタムZ80とも表記されるが、Z80で拡張された裏レジスタや、処理に時間のかかるインデックスレジスタなどの命令が削除されているため、命令セットとしてはi8080に近い仕様となっている。但し、一部の仕様はZ80を引き継いでいるほか、供給元であるシャープはZ80のセカンドソースではあるため、Z80の亜種と捉えることもできる。 == ソフトウェア == *OS **[[デジタルリサーチ]]の[[CP/M]] (CP/M-80) が有名 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[Intel 8085|i8085]] *[[Intel 8086|i8086]] *[[IA-32]] *[[Altair 8800]] *[[S-100バス]] {{Intel_processors}} {{Normdaten}} [[Category:インテルのマイクロプロセッサ|8080]]
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2021-10-29T12:03:53Z
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カセットビジョン
カセットビジョンは、エポック社が1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機。 1983年9月時点では日本で流通していた家庭用ゲーム機の中でトップの販売台数である40万台から45万台を売り上げた。 なお本項では廉価版であるカセットビジョンJr.についても述べる。 1975年からエポック社はゲームが本体に内蔵されたゲーム機を販売していた。1979年に発売したテレビ野球ゲームはそれまでハードウェアの回路でゲームを実現していたのに対してマイコン(CPU)を採用して、プログラムによって効率的にゲームを開発可能になった。そこで1978年発売のシステム10の後継機として開発に取りかかっていたスーパー10は完成しつつあったが開発が破棄されて、カセット式のゲーム機の開発に切り替えられる。それがカセットビジョンである。設計はNECが担当した。同じマイコンを使うのなら、周辺回路は同一であり、それなら本体は共通化してゲームはカセットで供給する方が低コスト・低価格化に繋がるという発想で、堀江正幸ら3人の担当者によって開発された。 本機は本体に周辺回路と電源と操作部を搭載し、カートリッジにテレビゲーム用LSI自体を1チップにした1チップマイコンを内蔵し、カートリッジを交換することで違ったゲームを楽しめるというシステムである。本体にCPUが搭載され、ゲームソフトのプログラムとデータはロムカセットに内蔵されたROMで供給するタイプの後年のカセット交換式ゲーム機とは異なる構造となっている。これはCPUとROMを分離しCPUと外部のROMとをバスで接続すると、ノイズが乗ったり誤動作の原因になるという技術的な理由でできなかったためである。後年のゲーム機の主流となったCPUとメモリのROMとRAMを分離して、本体にはCPUとメインRAMを、カートリッジ側にROMを搭載する方式と比べると、本体を安くできる、動作が安定する、それまでに発売したゲームを本体に内蔵したゲーム機の移植が容易にできるなどの長所を持つ。当時の技術ではCPUとは別にROMを置く方がコストが掛かっていた。 カセットに搭載しているマイコンチップはNECのμPD777CやμPD778というテレビゲームのLSIで、プログラムはROMチップの形で分離されておらずにD777C等に内蔵されている。よってカセットに内蔵されているのはこのチップのみである。単体で演算、入出力、画像処理の全てを1チップで行っている。そのため、何ビットと定義するのは難しく、4ビットや8ビット、12ビット、場合によっては48ビットなど様々な数値がある。エポック社は『日経産業新聞』の取材に対しては4ビットだと答えている。 少ない色数や大きいドット、貧弱な音源、背景を描くバックグラウンドが単色など、発売された時期から見てもあまり優れた性能ではない。それ以前の1977年にアメリカで発売されたアタリVCSよりも性能が劣る。 同時発音数は単音だが、『ギャラクシアン』のように工夫を凝らして和音に聞こえるようなゲームも存在した。 VDPにはテレビのチャンネル表示用ICを使用している。ドットが非常に大きい反面、通常のドットを対角線で半分に切った形の三角形のドットが存在するのは、このICの仕様によるものである。なお、内部的にはドットが三角形というよりも、本来は長方形であるドットを平行四辺形として表示できる機能を活用したものである。 当時ファミコンを含む主なライバル機の画面は128から256ドット程度の画面解像度を持っていたのに対し、画面解像度は低かった。1983年の『月刊コロコロコミック』によれば、 カセットビジョン(Jr.)の画面解像度は54×62ピクセル、色数は8色とされていたが、NECの技術者だった小口哲司がウェブ上に公開した資料によれば、μPD777/778の画面解像度は75×60ピクセル、色数は6色+オレンジ+ブルーシアン、スプライトは7×7ピクセルで25枚、スプライトの横方向の同時表示可能数は5枚となっている。一方でドットが大きくゴツゴツした画面表示は、キャラを判別しやすいという見方もあった。 BG面はなく、よってスクロール機能も存在しない。横スクロールシューティングゲームの『アストロコマンド』では、キャラクターの配置座標をずらすことでスクロールしているように見せかけている。 カセットビジョン、カセットビジョンJr.ともに本体一体型である。別売の光線銃のみ外部接続。ゲーム機本体にコントロールレバー、ボタン、ダイアルコントローラが中央から左右対称に配置されていたため、1プレイヤーは左手でレバーを操作、2プレイヤーでは右手でレバーを操作する。 本機の大きな特徴はその低価格にある。当時、他社のカセット方式のゲーム機本体の価格が50,000円で均衡していたのに対し、本機は初期にACアダプタ(1,500円)が別売りで本体価格が12,000円、後にACアダプタが同梱され13,500円となった。後期放映のTVCMではイモ欽トリオが出演した。 カセットビジョンJr.(カセットビジョンジュニア)は、1983年7月19日に発売されたカセットビジョンの廉価版ゲーム機。価格は5,000円(非ライセンス品を除く、ソフト交換型の卓上型テレビゲーム機では最安値)。 ボリュームコントローラーなどが省かれており一部のゲームができなかった。一方でキー配置が変更されており、『パクパクモンスター』等のゲームが操作しやすくなっている。 アクション、スポーツ、シューティング、パズルなど11作品が発表されている。そのうちスポーツ作品の3タイトルはカセットビジョンJr.に対応していない。販売価格は4,980円と他社と比較して安価であり、本体販売の促進に貢献した。最大出荷数を記録したタイトルは『ギャラクシアン』の18万本である。 発売当時の主な競合機は『アタリVCS』(販売:エポック社、1979年)や『マテル・インテレビジョン』(販売:バンダイ、1982年)などの海外製輸入ゲーム機であった。アメリカでは本体にCPUを搭載したゲーム機が既に主流であり、これらのゲーム機も本体にCPUを内蔵していたが、アメリカからの輸入品ということもあって高価だった。また本機以前にも日本国内で2万円以下という比較的安価なカセット式テレビゲームはいくつか存在したが、当時はいずれも大きな普及には至らなかった。一方で本機はエポック社の既存のゲームを移植するなど当時よく知られていた人気ゲームを揃え、本体・ソフトともに安価に設定され、カセットを取り換えることで別のゲームが遊べる点から定期的にゲームソフトを発売したことなどを理由にゲーム機市場でのシェア7割を獲得する。結果的に本機は最終的に発売されたゲームタイトル数は少なかったものの、1981年から1983年にかけての日本の据置型ゲーム機市場をほぼ独占した。 しかし1983年になると価格的優位性については薄れはじめ、アタリは子会社からAtari 2600の日本向けモデル『Atari2800』を2万円台で発売したほか、日本国内メーカー各社も約1万円から2万円台程度のカセット式テレビゲーム機を相次いで発売した。エポック社も廉価版のカセットビジョンJr.を発売し、カセットの価格は変わらなかったものの、その本体価格の低さは当時のターゲット層だった小学生には明確な利点となったが、他社の機種はカセットビジョンおよびJr.より性能が高かった。同年任天堂から『ファミリーコンピュータ』(以下ファミコン)が発売され、同価格帯の競合機の淘汰が進んだが、カセットビジョンはファミコンに対して競合する存在では無かったと開発者は考えていた。 1984年になりファミコンがシェアを伸ばす中、エポック社は8月にカセットの値段を下げた最終作『エレベーターパニック』を発売した。また同年7月には互換性のない次世代機『スーパーカセットビジョン』を発売したことで、本機は1985年7月時点で既に生産は終了されていた。
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カセットビジョンは、エポック社が1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機。 1983年9月時点では日本で流通していた家庭用ゲーム機の中でトップの販売台数である40万台から45万台を売り上げた。 なお本項では廉価版であるカセットビジョンJr.についても述べる。
{{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = カセットビジョン |画像 = [[File:Epoch-Cassette-Vision-Console.png|300px]] |画像コメント = カセットビジョン |メーカー = [[エポック社]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[第二世代ゲーム機|第2世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1981年]][[7月30日]] |CPU = |GPU = |メディア = ワンチップマイコンカートリッジ |ストレージ = |コントローラ = 内蔵 |外部接続端子 = |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 約45万台 |最高売上ソフト = |互換ハード = カセットビジョンJr. |前世代ハード = [[テレビテニス]] |次世代ハード = [[スーパーカセットビジョン]] }} '''カセットビジョン'''は、[[エポック社]]が[[1981年]][[7月30日]]に発売したカセット式の[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。 [[1983年]][[9月]]時点では日本で流通していた家庭用ゲーム機の中でトップの販売台数<ref name="korokoro" />である40万台<ref name="odyssey" /><ref name="takida">滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.84</ref>から45万台<ref name="enterbrain">オトナファミ2011年1月号特別付録「家庭用ゲーム機完全図鑑-昭和編-」、エンターブレイン、p.10</ref><ref>山崎功『家庭用ゲーム機コンプリートガイド』主婦の友インフォス情報社、2014年、p.24</ref><ref name="denshi">コアムックシリーズNO.682『電子ゲーム なつかしブック』p.13.</ref>を売り上げた。 なお本項では廉価版である'''カセットビジョンJr.'''についても述べる。 == 開発経緯 == 1975年からエポック社はゲームが本体に内蔵されたゲーム機を販売していた。1979年に発売した[[テレビ野球ゲーム]]はそれまでハードウェアの回路でゲームを実現していたのに対してマイコン(CPU)を採用して、プログラムによって効率的にゲームを開発可能になった。そこで1978年発売の[[システム10 (ゲーム機)|システム10]]の後継機として開発に取りかかっていたスーパー10は完成しつつあったが開発が破棄されて、カセット式のゲーム機の開発に切り替えられる。それがカセットビジョンである。設計はNECが担当した。同じマイコンを使うのなら、周辺回路は同一であり、それなら本体は共通化してゲームはカセットで供給する方が低コスト・低価格化に繋がるという発想で、堀江正幸ら3人の担当者によって開発された<ref>滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、pp.85-89</ref><ref>[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/creators/horie/3p.html 先駆者に聞く創世の時代 Game Fronties 株式会社エポック社堀江正幸氏 テレビテニスとシステム10の時代] CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内</ref><ref>[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/creators/horie/4p.html 先駆者に聞く創世の時代 Game Fronties 株式会社エポック社堀江正幸氏 これが1チップマイコンテレビゲームだ] CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内</ref>。 == ハードウェア == 本機は本体に周辺回路と電源と操作部を搭載し、[[ゲームカートリッジ|カートリッジ]]にテレビゲーム用LSI自体を1チップにした1チップマイコンを内蔵し、カートリッジを交換することで違ったゲームを楽しめるというシステムである。本体に[[CPU]]が搭載され、ゲームソフトのプログラムとデータは[[ロムカセット]]に内蔵された[[Read Only Memory|ROM]]で供給するタイプの後年のカセット交換式ゲーム機とは異なる構造となっている<ref name="denshi"/>。これはCPUとROMを分離しCPUと外部のROMとをバスで接続すると、ノイズが乗ったり誤動作の原因になるという技術的な理由でできなかったためである。後年のゲーム機の主流となったCPUとメモリのROMとRAMを分離して、本体にはCPUとメインRAMを、カートリッジ側にROMを搭載する方式と比べると、本体を安くできる、動作が安定する、それまでに発売したゲームを本体に内蔵したゲーム機の移植が容易にできるなどの長所を持つ。当時の技術ではCPUとは別にROMを置く方がコストが掛かっていた<ref name="odyssey" />。 カセットに搭載しているマイコンチップは[[日本電気|NEC]]のμPD777CやμPD778というテレビゲームのLSIで、プログラムはROMチップの形で分離されておらずにD777C等に内蔵されている。よってカセットに内蔵されているのはこのチップのみである。単体で演算、入出力、画像処理の全てを1チップで行っている。そのため、何ビットと定義するのは難しく<ref name="system">[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/hyperlink/setframe_cv1.html カセットビジョンシステム紹介] CLASSIC VIDEOGAME STATION ODDYSEI内</ref>、4ビットや8ビット、12ビット、場合によっては48ビット<ref name="odyssey">[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/entrance.html CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY]内[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/creators/horie/ 開発者インタビュー]より。</ref>など様々な数値がある。エポック社は『日経産業新聞』の取材に対しては4ビットだと答えている<ref name="system" /><ref>『日経産業新聞』1983年5月25日付</ref>。 === 性能 === 少ない色数や大きいドット、貧弱な音源、背景を描くバックグラウンドが<!--できない(要するに黒い背景しかない)→黒以外に赤や緑もあります-->単色など、発売された時期から見てもあまり優れた性能ではない<ref name="denshi"/>。それ以前の[[1977年]]にアメリカで発売されたアタリVCSよりも性能が劣る。 同時発音数は単音だが、『ギャラクシアン』のように工夫を凝らして和音に聞こえるようなゲームも存在した<ref>[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/hyperlink/setframe_creators_hara_contents1.html 先駆者に聞く創世の時代 Game Fronties 株式会社エポック社原洋氏 カセットビジョン・きこりの与作~ギャラクシアン編] CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内</ref>。 ==== 画面表示 ==== {{要出典範囲|date=2020年1月|[[VDP]]にはテレビのチャンネル表示用ICを使用している}}。ドットが非常に大きい反面、通常のドットを対角線で半分に切った形の三角形のドットが存在するのは、このICの仕様によるものである。なお、内部的にはドットが三角形というよりも、本来は長方形であるドットを平行四辺形として表示できる機能を活用したものである<ref name="odyssey" />。 当時ファミコンを含む主なライバル機の画面は128から256[[ピクセル|ドット]]程度の[[画面解像度]]を持っていたのに対し、画面解像度は低かった。1983年の『月刊コロコロコミック』によれば、 カセットビジョン(Jr.)の画面解像度は54×62ピクセル、色数は8色とされていたが<ref name="korokoro">『[[月刊コロコロコミック]]』[[1983年]]10月号の比較記事より。</ref>、NECの技術者だった小口哲司がウェブ上に公開した資料によれば、μPD777/778の画面解像度は75×60ピクセル、色数は6色+オレンジ+ブルーシアン、[[スプライト (映像技術)|スプライト]]は7×7ピクセルで25枚、スプライトの横方向の同時表示可能数は5枚となっている<ref>[https://www.oguchi-rd.com/LSI%20products.php LSI Products that I was involved in the design] [https://www.oguchi-rd.com/ Tetsuji Oguchi (Oguchi R&D)]内</ref>。一方でドットが大きくゴツゴツした画面表示は、キャラを判別しやすいという見方もあった<ref name="korokoro" />。 BG面はなく、よってスクロール機能も存在しない。横スクロールシューティングゲームの『アストロコマンド』では、キャラクターの配置座標をずらすことでスクロールしているように見せかけている<ref name="odyssey" />。 === コントローラ === カセットビジョン、カセットビジョンJr.ともに本体一体型である。別売の光線銃のみ外部接続。ゲーム機本体にコントロールレバー、ボタン、ダイアルコントローラが中央から左右対称に配置されていたため、1プレイヤーは左手でレバーを操作、2プレイヤーでは右手でレバーを操作する。 ; レバースイッチ : 左右2方向のみの1軸スティック。『アストロコマンド』では上下移動に使われる。カセットビジョンでは左右2箇所にあるが、内部ではつながっており、1プレイヤー・2プレイヤーを問わずどちらでも操作できた。このためカセットビジョンJr.では1個に整理された。 ; プッシュボタン : 4個あり、カセットビジョンでは手前に一直線に並んでいる。自機が4方向移動のゲームでは移動ボタンとして使われることもあり、Jr.では実際に4方向の配置に変更されている。 ; 回転ダイヤル : いわゆる[[パドルコントローラ]]。カセットビジョンで左右2対(4個)あるアナログ的なコンソール。『ビッグスポーツ12』で主に使われるほか、野球ゲームでも野手の移動に使われる。Jr.では省略。 ; コーススイッチ : カセットビジョンで中央手前にあるスライド式スイッチ。野球ゲームで投球コースの設定に使われる。Jr.では省略。 ; その他のボタン : カセットビジョンでは中央に3つの補助的なボタンがある。このうちスタートボタンとセレクトボタンのみJr.で採用。 ; 外部端子 : カセットビジョンでは別売の光線銃を接続すれば『ビッグスポーツ12』で使用できる。Jr.では省略。 == 本体 == 本機の大きな特徴はその低価格にある。当時、他社のカセット方式のゲーム機本体の価格が50,000円で均衡していたのに対し、本機は初期にACアダプタ(1,500円)が別売りで本体価格が12,000円、後にACアダプタが同梱され13,500円となった<ref name="denshi"/>。後期放映のTVCMでは[[イモ欽トリオ]]が出演した。 === カセットビジョンJr. === [[画像:Epoch-Cassette-Vision-Jr.jpg|thumb|250px]] '''カセットビジョンJr.(カセットビジョンジュニア)'''は、[[1983年]][[7月19日]]に発売されたカセットビジョンの廉価版ゲーム機。価格は5,000円(非ライセンス品を除く、ソフト交換型の卓上型テレビゲーム機では最安値)<ref name="denshi"/>。 ボリュームコントローラーなどが省かれており一部のゲームができなかった。一方でキー配置が変更されており、『パクパクモンスター』等のゲームが操作しやすくなっている。 == ソフトウェア == アクション、スポーツ、シューティング、パズルなど11作品が発表されている。そのうちスポーツ作品の3タイトルはカセットビジョンJr.に対応していない。販売価格は4,980円と他社と比較して安価であり、本体販売の促進に貢献した。最大出荷数を記録したタイトルは『ギャラクシアン』の18万本である{{要出典|date=2022年6月}}。 === カセットビジョンJr.対応 === * [[与作 (ゲーム)|きこりの与作]] - アーケード版の移植作品。 * ギャラクシアン - [[ギャラクシアン|ナムコの同名のゲーム]]とは別内容。当初は[[バンダイナムコゲームス|ナムコ]]に無断での発売だったが、後に版権料を支払ったという<ref name="odyssey" />。 * バトルベーダー - 『[[テレビベーダー]]』のカセットビジョン版。 * パクパクモンスター - エポック社の電子ゲーム『パクパクマン』と同様、大幅なアレンジを施した[[ドットイートゲーム]]。 * モンスターマンション - エポック社の電子ゲーム『モンスターパニック』を元にした<ref name="odyssey" />アクションゲーム。 * アストロコマンド - エポック社の電子ゲーム『FLスペースディフェンダー』の作者による<ref name="odyssey" />シューティングゲーム。 * モンスターブロック - パズルアクションゲーム * エレベーターパニック - エレベーター要素を持つ『モンスターマンション』風のアクションゲーム。これのみ3,980円だった。 === カセットビジョン専用 === * ベースボール - 『[[テレビ野球ゲーム]]』のカセットビジョン版。 * ビッグスポーツ12 - 『[[システム10 (ゲーム機)|システム10]]』を元にした『スーパー10』をカセットビジョンで発売したもの<ref name="odyssey" />。ポンテニスゲーム8種=テニス・バレーボール・プラクティス・サッカー・スカッシュ・射撃3種、ガンゲーム4種で光線銃対応はこのゲームのみ。 * ニューベースボール - 1人プレイにも対応 === 販売中止 === * グランドチャンピオン - トップビュー式の自動車レースゲーム。販売直前で「ゴールできない」あるいは「ゴールしても止まらない」致命的な不具合が見つかり、修正されるも販売中止<ref name="odyssey" />となる。 == 反響 == 発売当時の主な競合機は『[[Atari 2600|アタリVCS]]』(販売:[[エポック社]]、1979年)<ref name="odyssey" />や『[[インテレビジョン|マテル・インテレビジョン]]』(販売:[[バンダイ]]、1982年)などの海外製輸入ゲーム機であった。アメリカでは本体にCPUを搭載したゲーム機が既に主流であり、これらのゲーム機も本体にCPUを内蔵していたが、アメリカからの輸入品ということもあって高価だった。また本機以前にも日本国内で2万円以下という比較的安価なカセット式テレビゲームはいくつか存在した<ref name="odyssey" />が、当時はいずれも大きな普及には至らなかった。一方で本機はエポック社の既存のゲームを移植するなど当時よく知られていた人気ゲームを揃え、本体・ソフトともに安価に設定され、カセットを取り換えることで別のゲームが遊べる点から定期的に[[ゲームソフト]]を発売したことなどを理由にゲーム機市場でのシェア7割<ref name="enterbrain" />を獲得する。結果的に本機は最終的に発売されたゲームタイトル数は少なかったものの、1981年から1983年にかけての日本の据置型ゲーム機市場をほぼ独占した<ref name="takida" />。 しかし1983年になると価格的優位性については薄れはじめ、アタリは子会社からAtari 2600の日本向けモデル『Atari2800』を2万円台で発売したほか、日本国内メーカー各社も約1万円から2万円台程度のカセット式テレビゲーム機を相次いで発売した。エポック社も[[廉価版]]のカセットビジョンJr.を発売し、カセットの価格は変わらなかったものの、その本体価格の低さは当時のターゲット層だった小学生には明確な利点となったが、他社の機種はカセットビジョンおよびJr.より性能が高かった<ref name="korokoro" />。同年[[任天堂]]から『[[ファミリーコンピュータ]]』(以下ファミコン)が発売され、同価格帯の競合機の淘汰が進んだ{{Efn|『コロコロコミック』では記事としては初めて1983年9 - 12月号に4号連続でカセット式[[ゲーム機|家庭用テレビゲーム機]]の誌上特集が組まれている。このときは当初6機種が特集されていたが、12月号の記事ではファミコンとカセットビジョンJr.の2機種に絞って特集されている。}}が、カセットビジョンはファミコンに対して競合する存在では無かったと開発者は考えていた<ref name="odyssey" />。 1984年になりファミコンがシェアを伸ばす中、エポック社は8月にカセットの値段を下げた最終作『エレベーターパニック』を発売した。また同年7月には互換性のない次世代機『[[スーパーカセットビジョン]]』を発売したことで、本機は1985年7月時点で既に生産は終了されていた<ref name="GameMachine19850715">{{Cite news|和書|title=家庭用TVゲーム機の最新版ハードとソフト |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19850715p.pdf|newspaper=ゲームマシン |issue=264 |agency=アミューズメント通信社 |date=1985-07-15 |page=15}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == エポック社 お客様サービスセンターによる取扱説明書PDF * [https://sv.epoch.jp/exports/attachment/now/07eb355117c60fbf46d805f21de4c7bc.pdf/manuals/07420_TORISETU.pdf 【07420】カセットビジョン] * [https://sv.epoch.jp/exports/attachment/now/8d829ac78404e4dbeabe0f62c0f5b9e1.pdf/manuals/07490_TORISETU.pdf 【07490】カセットビジョンJr.] {{Video-game-stub}} {{家庭用ゲーム機/その他}} {{デフォルトソート:かせつとひしよん}} [[Category:エポック社のハードウェア]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1981年のコンピュータゲーム|*かせつとひしよん]] [[Category:1980年代の玩具]]
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1964年東京オリンピック
1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日(後のスポーツの日)から10月24日までの15日間、日本国 東京都で開かれた第18回オリンピック競技大会。一般的に東京オリンピックと呼称され、東京五輪(とうきょうごりん)と略称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。 1940年東京オリンピックの開催権を返上したため、日本およびアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1956年メルボルン大会以来8年ぶり2回目となった。また、「有色人種国家における史上初のオリンピック」である。 さらには、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて第二次世界大戦の旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックである。 1940年(昭和15年)の夏季大会の開催権 を返上した東京は、第二次世界大戦終結の9年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。 次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。 得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。 1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した。 開催が決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。 開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。 組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後任に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった。政府側でも、オリンピック担当国務大臣を設け川島正次郎が就き、1964年7月第3次池田内閣で河野一郎が就任した。 各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。 東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に台風が上陸しやすく、1959年の伊勢湾台風で大きな被害が発生したこと。東京で開催された1958年アジア競技大会の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月にサンフランシスコで開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。 1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。ヨット、ボートが到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず伝染病がまん延しているなどの懸念が指摘された。 東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。日本体育協会の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。 諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。ヨーロッパ諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。イギリスのエクゼターIOC委員は、「スカンジナビア半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。イタリア・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、オーストラリア、アルゼンチン、フィリピン、インドなどの関係者は、5月案を支持した。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。 のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールのNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。 「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット、体操、レスリング、ボクシング、重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20°C前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」 「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」 その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン・競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。 台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報や治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。 この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。 東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円 との合計)。経費の大半は、公営競技の収益金や、記念メダルや寄附金付切手、寄附金付たばこ「オリンピアス」の販売、割増金つき定期預金、電電公社発行の電話帳の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた。 聖火は、1964年8月21日にギリシャのオリンピアで採火され、アジアを経由して当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄に到着した。沖縄からは鹿児島、宮崎、北海道に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日のオリンピック開会式にて国立競技場の聖火台に点火された。 聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。 東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。 そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった。 東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され、交響曲第9番 (ベートーヴェン) が演奏された。 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日に釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。 東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作成した。 デザインは金・銀・銅ともに、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。 参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった。 開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった。 オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(ヘルベチカの前身に当たる)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された。 東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである。ポスターは全部で4種類が制作された。 第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉の陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した。 1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった。 まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった。 案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語や英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。 競技種目ピクトグラムを制作したのは、日本デザインセンターの山下芳郎1人である。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。 東京2020オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた。 東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注。 東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された。 「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった。 オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。 選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。 この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。 国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された。 これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。 オリンピックの開催時期には芸術展示として、多くの日本の芸術作品が披露された。 東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資がなされ、競技を見る旅行需要が喚起され、テレビ放送を見るための受像機購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。 開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーの整備が行われ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して、大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。これらのほとんどは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されている。 開会式が行われた10月10日は、1966年(昭和41年)国民の祝日に制定され、以降「体育の日」として広く親しまれるようになった(2000年〈平成12年〉より10月の第2月曜日、2021年〈令和3年〉より「スポーツの日」となった)。それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。 東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。当時初めてスローモーションの画像を使い、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。 日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。 セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。 市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。154分。 2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。 大会終了後、日本放送協会(NHK)から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。このNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。 東京オリンピック開催4ヶ月前の6月上旬、日本放送協会放送世論調査所(現・NHK放送文化研究所世論調査部)が東京と金沢市で事前の世論調査を行った。「オリンピックには大変な費用がかかるので、いろいろな点で国民に負担をかけ、犠牲を払わせている」(東京60.6%、金沢53.7%)、「オリンピック準備のために一般市民のかんじんなことがお留守になっている」(東京49%、金沢29%)、「オリンピックに多くの費用をかけるぐらいなら、今の日本でしなければいけないことはたくさんあるはずだ」(東京58.9%、金沢47.1%)、「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」(東京47.1%、金沢54.3%)など、圧倒的な国民の支持に熱狂的に迎えられていた訳ではなかった。 日本放送協会放送世論調査所が昭和42年に刊行した「東京オリンピック」では、大会の開会まで政府や関係者が「吹けど踊らぬ国民」をいかに躍らせるかに苦心したさまを各紙の社説などの引用から克明に記し、次のように書き残している。 「実際、開会を目前にひかえて人々の正直な感情は、関係のないお祭りということであったろう。少なくとも開会式までは、その他の人びとにとっては、まったく関係のない出来事と映っていたとしても、無理からぬことであった」 もっとも大会直後の調査では、「オリンピックは日本にプラスだったか」の問いに、89.8%が「プラスだったと思う」と答えている。 空気を変えたのは、開催前年(1963年)から新聞社(全国紙)や総理府(現・内閣府)を中心に行われた「盛り上げキャンペーン」や聖火リレーなどのイベントに加えて、開幕後も技の魅力、興奮であり、自国開催のリアルタイムで複数競技が相互に関係しながら同時進行する、総合競技大会の魔力に国民がくぎ付けになったことがあげられる。大会終盤、日本が団体を制した体操男子は視聴率80%、「東洋の魔女」が優勝した女子バレーボールの決勝は85%を記録した。 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日(後のスポーツの日)から10月24日までの15日間、日本国 東京都で開かれた第18回オリンピック競技大会。一般的に東京オリンピックと呼称され、東京五輪(とうきょうごりん)と略称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1940年東京オリンピックの開催権を返上したため、日本およびアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1956年メルボルン大会以来8年ぶり2回目となった。また、「有色人種国家における史上初のオリンピック」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "さらには、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて第二次世界大戦の旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)の夏季大会の開催権 を返上した東京は、第二次世界大戦終結の9年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "開催が決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後任に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった。政府側でも、オリンピック担当国務大臣を設け川島正次郎が就き、1964年7月第3次池田内閣で河野一郎が就任した。", "title": "大会開催までの経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。", "title": "実施競技と日程" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に台風が上陸しやすく、1959年の伊勢湾台風で大きな被害が発生したこと。東京で開催された1958年アジア競技大会の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月にサンフランシスコで開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。ヨット、ボートが到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず伝染病がまん延しているなどの懸念が指摘された。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。日本体育協会の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。ヨーロッパ諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。イギリスのエクゼターIOC委員は、「スカンジナビア半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。イタリア・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、オーストラリア、アルゼンチン、フィリピン、インドなどの関係者は、5月案を支持した。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールのNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット、体操、レスリング、ボクシング、重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20°C前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン・競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報や治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。", "title": "会期選定の議論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。", "title": "開催に向けての整備" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円 との合計)。経費の大半は、公営競技の収益金や、記念メダルや寄附金付切手、寄附金付たばこ「オリンピアス」の販売、割増金つき定期預金、電電公社発行の電話帳の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた。", "title": "開催に向けての整備" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "聖火は、1964年8月21日にギリシャのオリンピアで採火され、アジアを経由して当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄に到着した。沖縄からは鹿児島、宮崎、北海道に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日のオリンピック開会式にて国立競技場の聖火台に点火された。", "title": "聖火" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。", "title": "聖火" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。", "title": "交通規制" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。", "title": "交通規制" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった。", "title": "選手団" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され、交響曲第9番 (ベートーヴェン) が演奏された。", "title": "選手団" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日に釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。", "title": "選手団" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作成した。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "デザインは金・銀・銅ともに、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(ヘルベチカの前身に当たる)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである。ポスターは全部で4種類が制作された。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉の陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語や英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "競技種目ピクトグラムを制作したのは、日本デザインセンターの山下芳郎1人である。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東京2020オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "オリンピックの開催時期には芸術展示として、多くの日本の芸術作品が披露された。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資がなされ、競技を見る旅行需要が喚起され、テレビ放送を見るための受像機購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーの整備が行われ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して、大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。これらのほとんどは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されている。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "開会式が行われた10月10日は、1966年(昭和41年)国民の祝日に制定され、以降「体育の日」として広く親しまれるようになった(2000年〈平成12年〉より10月の第2月曜日、2021年〈令和3年〉より「スポーツの日」となった)。それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。当時初めてスローモーションの画像を使い、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。", "title": "東京オリンピック開催が日本にもたらした影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。154分。", "title": "記録映画" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。", "title": "記録映画" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "大会終了後、日本放送協会(NHK)から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。このNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。", "title": "実況録音" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "東京オリンピック開催4ヶ月前の6月上旬、日本放送協会放送世論調査所(現・NHK放送文化研究所世論調査部)が東京と金沢市で事前の世論調査を行った。「オリンピックには大変な費用がかかるので、いろいろな点で国民に負担をかけ、犠牲を払わせている」(東京60.6%、金沢53.7%)、「オリンピック準備のために一般市民のかんじんなことがお留守になっている」(東京49%、金沢29%)、「オリンピックに多くの費用をかけるぐらいなら、今の日本でしなければいけないことはたくさんあるはずだ」(東京58.9%、金沢47.1%)、「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」(東京47.1%、金沢54.3%)など、圧倒的な国民の支持に熱狂的に迎えられていた訳ではなかった。", "title": "開催前後における国民の感情の変化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本放送協会放送世論調査所が昭和42年に刊行した「東京オリンピック」では、大会の開会まで政府や関係者が「吹けど踊らぬ国民」をいかに躍らせるかに苦心したさまを各紙の社説などの引用から克明に記し、次のように書き残している。 「実際、開会を目前にひかえて人々の正直な感情は、関係のないお祭りということであったろう。少なくとも開会式までは、その他の人びとにとっては、まったく関係のない出来事と映っていたとしても、無理からぬことであった」", "title": "開催前後における国民の感情の変化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "もっとも大会直後の調査では、「オリンピックは日本にプラスだったか」の問いに、89.8%が「プラスだったと思う」と答えている。", "title": "開催前後における国民の感情の変化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "空気を変えたのは、開催前年(1963年)から新聞社(全国紙)や総理府(現・内閣府)を中心に行われた「盛り上げキャンペーン」や聖火リレーなどのイベントに加えて、開幕後も技の魅力、興奮であり、自国開催のリアルタイムで複数競技が相互に関係しながら同時進行する、総合競技大会の魔力に国民がくぎ付けになったことがあげられる。大会終盤、日本が団体を制した体操男子は視聴率80%、「東洋の魔女」が優勝した女子バレーボールの決勝は85%を記録した。", "title": "開催前後における国民の感情の変化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。", "title": "世界情勢" } ]
1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日(後のスポーツの日)から10月24日までの15日間、日本国 東京都で開かれた第18回オリンピック競技大会。一般的に東京オリンピックと呼称され、東京五輪(とうきょうごりん)と略称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。 1940年東京オリンピックの開催権を返上したため、日本およびアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1956年メルボルン大会以来8年ぶり2回目となった。また、「有色人種国家における史上初のオリンピック」である。 さらには、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて第二次世界大戦の旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックである。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1964年東京オリンピック |英称・別称 = 第18回オリンピック競技大会<br />Jeux de la XVIII<sup>e</sup> olympiade<br />Games of the XVIII Olympiad |画像 = |画像サイズ = |画像の説明 = |ロゴ = Tokyo 1964 Summer Olympics logo.svg |ロゴサイズ = 170px |開催都市 = {{JPN}} [[東京都]] |参加国・地域数 = 93 |参加人数 = 5,152人(男子4,468人、女子684人) |競技種目数 = 20競技163種目 |開会式 = [[1964年]][[10月10日]] |閉会式 = [[1964年]][[10月24日]] |開会宣言 = [[昭和天皇]] |選手宣誓 = [[小野喬]] |審判宣誓 = |最終聖火ランナー = [[坂井義則]] |主競技場 = [[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]] |夏用前夏 = [[1960年ローマオリンピック|1960年ローマ]] |夏用次夏 = [[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年メキシコシティ]] |夏用前冬 = [[1964年インスブルックオリンピック|1964年インスブルック]] |夏用次冬 = [[1968年グルノーブルオリンピック|1968年グルノーブル]] }} {{1964年東京オリンピック}} '''1964年東京オリンピック'''(1964ねんとうきょうオリンピック)は、[[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月10日]](後の[[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]])から[[10月24日]]までの15日間、[[日本]]国 [[東京都]]で開かれた第18回[[夏季オリンピック|オリンピック競技大会]]<ref>第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会</ref>。一般的に'''東京オリンピック'''と呼称され、'''東京五輪'''(とうきょうごりん)と略称される。大会後には同一都市では初となる[[1964年東京パラリンピック|パラリンピック]]も開催(第13回[[世界車いす・切断者競技大会|国際ストーク・マンデビル競技大会]]として開催)された。 [[1940年東京オリンピック]]の開催権を返上したため、[[日本]]および[[アジア]]地域で初めて開催されたオリンピックで、標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、[[1956年メルボルンオリンピック|1956年メルボルン大会]]以来8年ぶり2回目となった。また、「[[有色人種]]国家における史上初のオリンピック」である。 さらには、[[1952年ヘルシンキオリンピック|1952年のヘルシンキ(フィンランド)]]、[[1960年ローマオリンピック|1960年のローマ(イタリア)]]に続いて[[第二次世界大戦]]の旧[[枢軸国]]の首都で開催されたオリンピックである。 == 大会開催までの経緯 == [[File:Yomiuri Shimbun newspaper clipping (27 May 1959 issue).jpg|thumb|300px|開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付)]] [[1940年]]([[昭和]]15年)の[[夏季オリンピック|夏季大会]]の開催権{{Efn|夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる}} を返上した東京は、[[第二次世界大戦]]終結の9年後の[[1954年]](昭和29年)に[[1960年]](昭和35年)夏季大会開催地に立候補した<ref>[[朝日新聞]].[[1954年]](昭和29年)10月10日,6面.</ref>。しかし、翌[[1955年]](昭和30年)の第50次[[国際オリンピック委員会総会|IOC総会]]における投票で[[1960年ローマオリンピック|ローマ]]に敗れた。 次に[[1964年]](昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、[[1959年]](昭和34年)5月26日に[[西ドイツ]]の[[ミュンヘン]]にて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。 得票数は[[東京]]が半数を超える34票、[[アメリカ合衆国]]の[[デトロイト]]が10票、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]が9票、[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]が5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった[[平沢和重]](外交官)や、[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国の支持を集めるために奔走した[[日系アメリカ人]]の[[実業家]]、[[フレッド・イサム・ワダ]](和田勇)、当時都議であった[[北島義彦]]、「日本レスリングの父」といわれた[[八田一朗]]らの功績が大きかった。和田は育った[[御坊市]]で名誉市民第1号となっている。 [[1957年]](昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた[[田畑政治]]は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた[[岸信介]][[内閣総理大臣|首相]]へ観光収入も見込めると直談判した<ref>2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |+ 1964年夏季オリンピック 開催地投票 |- ! 都市 ! 国 ! style="background-color:silver;" | 投票数 |- | [[東京都|東京]] || {{JPN}} || style="text-align:right;" | '''34''' |- | [[デトロイト]] || {{USA}} || style="text-align:right;" | 10 |- | [[ウィーン]] || {{AUT}} || style="text-align:right;" | 9 |- | [[ブリュッセル]] || {{BEL}} || style="text-align:right;" | 5 |} 開催が決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:[[津島寿一]]、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として[[国立霞ヶ丘競技場|国立競技場]]をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した[[国家プロジェクト]]となった{{Efn|当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。}}。 開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは[[亀倉雄策]]が手掛けた。 組織委員会では、津島と田畑が[[1962年アジア競技大会|第4回アジア大会]]参加問題で1962年10月に引責辞任。後任に[[安川第五郎]]が組織委員会会長、[[与謝野秀]]が事務総長となった<ref>[https://web.archive.org/web/20171107004958/http://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=131634 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13] 放送ライブラリ</ref><ref>[https://www.joc.or.jp/about/history/1961.html JOC年表 1961 - 1970]</ref>。政府側でも、オリンピック[[無任所大臣 (日本)|担当国務大臣]]を設け[[川島正次郎]]が就き、1964年7月[[第3次池田内閣]]で[[河野一郎]]が就任した。 == 実施競技と日程 == 各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競技名 / 日付(10月)!!10!!11!!12!!13!!14!!15!!16!!17!!18!!19!!20!!21!!22!!23!!24 |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの陸上競技|陸上競技]]|| || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの競泳競技|競泳競技]]<br />[[1964年東京オリンピックの飛込競技|飛込競技]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの水球競技|水球]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの体操競技|体操]]|| || || || || || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの柔道競技|柔道]]|| || || || || || || || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのレスリング競技|レスリング]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの自転車競技|自転車競技]]|| || || || || style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのバレーボール競技|バレーボール]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのサッカー競技|サッカー]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| || || style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのボクシング競技|ボクシング]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのボート競技|ボート]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのセーリング競技|セーリング]]|| || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのカヌー競技|カヌー]]|| || || || || || || || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのフェンシング競技|フェンシング]]|| || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのウエイトリフティング競技|ウエイトリフティング]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックのホッケー競技|ホッケー]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの近代五種競技|近代五種競技]]|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの馬術競技|馬術]]|| || || || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの射撃競技|射撃]]|| || || || || || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| style="background:#3399ff"|•|| || || || |- |style="text-align:left"|[[1964年東京オリンピックの閉会式|閉会式]]|| || || || || || || || || || || || || || || style="background:#3399ff"|• |} === 公開競技 === * [[1964年東京オリンピックの野球競技|男子野球]] === デモンストレーション === * [[1964年東京オリンピックのデモンストレーション競技|武道]] == ハイライト == [[File:Bundesarchiv Bild 183-C1012-0001-026, Tokio, XVIII. Olympiade, Gesamtdeutsche Mannschaft.jpg|thumb|250px|開会式で整列する各国競技団]] [[ファイル:Abebe Bikira running on the Koshu Kaido.jpg|thumb|250px|マラソンで先頭を走るアベベ([[甲州街道]])]] [[ファイル:R20.Ajinomoto.olympic.01.fuchu.tokyo.jpg|thumb|250px|甲州街道上り、味の素スタジアム。1964年東京オリンピックマラソン折り返し地点。[[調布市]]]] [[ファイル:Kousyuukaido.koganeikaido.singo.jpg|thumb|250px|甲州街道下り、小金井街道入口交差点。1964年東京オリンピック50&nbsp;km競歩折り返し点。[[府中市 (東京都)|府中市]][[緑町 (東京都府中市)|緑町]]]] [[ファイル:Tokyo Olympic Closing Ceremony 19641024.jpg|thumb|250px|閉会式]] * 10月10日 ** 開会式 {{Main|1964年東京オリンピックの開会式}} * 10月11日 ** 重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。日本勢初のメダル。 * 10月12日 ** 重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。 * 10月13日 ** 水泳競技男子100m[[自由形]]で、[[ドン・ショランダー]]が優勝。 * 10月14日 ** 水泳競技女子100m自由形で、[[ドーン・フレーザー]]が三連覇。 ** 陸上競技男子[[10000メートル競走]]で、伏兵ミルズが優勝{{Efn|この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]代表の[[ラナトゥンゲ・カルナナンダ]]([[ピエール・ド・クーベルタン]]が唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、[[背番号]]から『[[ゼッケン]]67』と題して小学校国語の教材になる)。}}。 ** レスリング、フリースタイルで吉田義勝、渡辺長武、上武洋次郎が優勝。 * 10月15日 ** 陸上競技、男子100mで[[ボブ・ヘイズ]]が優勝。 * 10月16日 ** 陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。 * 10月17日 ** 陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。 * 10月18日 ** 水泳競技で米国勢が活躍。[[ドン・ショランダー]]が金メダル4個。 ** 水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。 * 10月19日 ** レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。 * 10月20日 ** [[柔道]]軽量級で中谷雄英優勝。 ** 体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。体操女子も団体で銅メダル。女子個人総合で[[ベラ・チャスラフスカ]]が優勝。 * 10月21日 ** 陸上競技[[マラソン]]で[[アベベ・ビキラ|アベベ]]の優勝、史上初の連覇。[[円谷幸吉]]が銅メダル。 ** [[柔道]]中量級で岡野功優勝。 * 10月22日 ** 体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。 ** [[柔道]]重量級で猪熊功が優勝。日本に3個目の金メダル。 * 10月23日 ** 女子[[バレーボール]]で日本がソ連を破り優勝。男子は銅メダル。 ** ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が初の金メダル。ヘビー級は[[ジョー・フレージャー]]が優勝。 ** 体操女子は、平均台で[[ベラ・チャスラフスカ]]が優勝。3個目の金メダル獲得。 ** 体操男子は、跳馬で山下治広が金、平行棒で遠藤幸雄が金、鶴見修治が銀。遠藤が団体・個人と合わせて3個目の金メダル獲得。 ** [[柔道]]無差別級で[[オランダ]]の[[アントン・ヘーシンク]]に神永敗れる。 * 10月24日 ** 閉会式 {{Main|1964年東京オリンピックの閉会式}} == 会期選定の議論 == 東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に[[台風]]が上陸しやすく、1959年の[[伊勢湾台風]]で大きな被害が発生したこと。東京で開催された[[1958年アジア競技大会]]の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月に[[サンフランシスコ]]で開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。 1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。[[ヨット]]、[[ボート]]が到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず[[伝染病]]がまん延しているなどの懸念が指摘された。 東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。[[日本体育協会]]の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。 諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。[[ヨーロッパ]]諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。[[イギリス]]のエクゼターIOC委員は、「[[スカンジナビア]]半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。[[イタリア]]・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、[[オーストラリア]]、[[アルゼンチン]]、[[フィリピン]]、[[インド]]などの関係者は、5月案を支持した<ref>オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10</ref>。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。 のちの[[2020年東京オリンピック]]では、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパなら[[サッカー]]、アメリカは[[メジャーリーグ]]が佳境を迎え、[[アメリカンフットボール]]の[[NFL]]と競合し、[[テレビ]]の放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった<ref>『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」</ref>。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。 「高温高湿によって最も困難な競技は[[バスケットボール|バスケット]]、[[体操]]、[[レスリング]]、[[ボクシング]]、[[重量挙げ]]および[[フェンシング]]の屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な[[冷房]]をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20℃前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」 「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および[[中毒]]の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い[[赤痢]]に対する[[免疫]]性が少なく罹病率が大」<ref>前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6</ref> その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階で[[マラソン]]・[[競歩]]会場が[[札幌市]]に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。 台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は[[天気予報]]や[[治水]]対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。[[令和元年東日本台風]](2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、[[関東地方]]などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」<ref>前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9</ref>と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。 == 開催に向けての整備 == [[ファイル:五輪橋 3.jpg|thumb|五輪橋]] この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、[[公共交通機関]]などの[[インフラストラクチャー]]や観戦客を受け入れるための[[ホテル]]に至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。 東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円<ref>[https://www.nikkansports.com/olympic/column/data/news/1494154.html データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円] - 日刊スポーツ、2015年6月22日</ref> との合計)。経費の大半は、[[公営競技]]の収益金や、記念メダルや[[寄附金付切手]]、寄附金付[[たばこ]]「[[オリンピアス]]」の販売、割増金つき[[定期預金]]、[[日本電信電話公社|電電公社]]発行の[[電話帳]]の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた<ref>[http://www.joc.or.jp/sp/past_games/tokyo1964/story/vol03_04.html オリンピックを支えた募金活動] - JOC</ref>。 [[ファイル:Yoyogi Gymnasium.jpg|thumb|国立代々木競技場第一体育館]] [[ファイル:Nippon Budokan 2010.jpg|thumb|日本武道館]] {{Main|1964年東京オリンピックの会場}} * [[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]] **当時の陸上競技用トラックは[[アンツーカー]]であったため、記録映像でも雨天で開催された際に泥跳ねが見られている。続く1968年大会以降の大会では全天候型トラックが採用されており、アンツーカートラックが使用された最後の夏季大会となっている。 * [[国立代々木競技場]] * [[日本武道館]] * [[駒沢オリンピック公園]] * [[岸記念体育会館]] * [[代々木公園陸上競技場|織田フィールド]](当時の選手練習場、現在は[[代々木公園]]陸上競技場) * [[三ツ沢公園球技場]]{{Efn|[[1964年東京オリンピックのサッカー競技]]のために改装工事が行われた。}} * [[代々木選手村]] * [[東海道新幹線]]の開業 * [[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール]]の開業 * [[東京国際空港]]のターミナルビル増築・滑走路拡張 * [[首都高速道路]]・[[名神高速道路]]の整備 * [[東京都道318号環状七号線|環七通り]]・[[東京都道412号霞ヶ関渋谷線|六本木通り]]の拡幅・整備 * [[ホテルニューオータニ]] * ホテルオークラ(現・[[ホテルオークラ東京]]) * 東京ヒルトンホテル(現・[[ザ・キャピトルホテル 東急]]) * [[東京プリンスホテル]] * [[コープオリンピア]] * [[黒部ダム]]  * [[海底ケーブル]]                                     == 聖火 == [[File:TokyoOlympics1964Opening.jpg|thumb|トーチを手に聖火台へと向かう坂井義則]] {{Main|1964年東京オリンピックの聖火リレー}} [[オリンピック聖火|聖火]]は、1964年8月21日に[[ギリシャ]]の[[オリンピア (ギリシャ)|オリンピア]]で採火され、[[アジア]]を経由して当時[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄]]に到着した。沖縄からは[[鹿児島県|鹿児島]]、[[宮崎県|宮崎]]、[[北海道]]に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日の[[1964年東京オリンピックの開会式|オリンピック開会式]]にて[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]の聖火台に点火された。 聖火の最終ランナーは、[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]に広島県[[三次市]]で生まれた19歳の陸上選手・[[坂井義則]](当時[[早稲田大学競走部]]所属)であった。[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]の日に[[広島市]]に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。 == 交通規制 == 東京オリンピックの開催期間中は[[千駄ヶ谷]]や[[代々木]]などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な[[交通規制]]が行われた。特に、10月10日の[[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]では[[警視庁]]は1万人の[[日本の警察官|警察官]]を動員して[[警備]]に当たった。開会式会場となった[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]の横の[[明治神宮外苑|神宮外苑]]も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。 そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - [[西麻布]]交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外の[[要人|VIP]]などの移動をスムーズにするのが目的であった。その他にマラソン、[[競歩]]、[[自転車競技]]、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。 == 選手団 == [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-C1006-0009-010, Tokio, Olympiade, DDR-Nationalmannschaft.jpg|thumb|選手村でくつろぐ統一ドイツの選手団]] [[1964年東京オリンピックの日本選手団|日本選手団]]は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった<ref>2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」</ref>。 [[オリンピックの東西統一ドイツ選手団|東西統一ドイツ選手団]]が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)]] が演奏された。 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは[[大韓民国|韓国]]の馬術競技の選手団である。[[5月31日]]に[[釜山港]]からアリラン丸に乗り出航。[[6月3日]]に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。[[東京国際空港]]には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。 == メダル == [[File:1964 Summer Olympics medals.jpg|thumb|250px|東京オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。]] 東京オリンピックの入賞メダルは[[大蔵省]][[造幣局 (日本)|造幣局]]の工芸官が原型を作成した。 デザインは金・銀・銅ともに、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が[[日本オリンピック委員会]]に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。 参加メダルは[[岡本太郎]](表)と[[田中一光]](裏)によるデザインだった<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/65/Default.aspx 所蔵品の紹介] - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館</ref>。 === 各国のメダル獲得数 === [[File:1964 Summer Olympic games countries.png|thumb|250px|参加国一覧]] {{Main|1964年東京オリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- |1|| style="text-align:left" | {{flagIOC|USA|1964夏季}} ||36||26||28||90 |- |2|| style="text-align:left" | {{flagIOC|URS|1964夏季}} ||30||31||35||96 |- style="background-color:#ccccff" |3|| style="text-align:left" | {{flagIOC|JPN|1964夏季}}(開催国) ||16||5||8||29 |- |4|| style="text-align:left" | {{flagIOC|EUA|1964夏季}} ||10||22||18||50 |- |5|| style="text-align:left" | {{flagIOC|ITA|1964夏季}} ||10||10||7||27 |- |6|| style="text-align:left" | {{flagIOC|HUN|1964夏季}} ||10||7||5||22 |- |7|| style="text-align:left" | {{flagIOC|POL|1964夏季}} ||7||6||10||23 |- |8|| style="text-align:left" | {{flagIOC|AUS|1964夏季}} ||6||2||10||18 |- |9|| style="text-align:left" | {{flagIOC|TCH|1964夏季}} ||5||6||3||14 |- |10|| style="text-align:left" | {{flagIOC|GBR|1964夏季}} ||4||12||2||18 |} === 主なメダリスト === [[ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg|thumb|right|250px|10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-C1012-0001-001, Tokio, XVIII. Olympiade, Ingrid Krämer.jpg|thumb|right|250px|女子飛び込みで優勝したクレーマー(統一ドイツ)]] * {{Gold medal}} ** [[桜井孝雄]](日本、ボクシングバンタム級) ** [[三宅義信]](日本、ウエイトリフティングフェザー級) ** [[市口政光]](日本、レスリンググレコローマンバンタム級) ** [[花原勉]](日本、レスリンググレコローマンフライ級) ** [[上武洋次郎]](日本、レスリングフリースタイルバンタム級) ** [[渡辺長武]](日本、レスリングフリースタイルフェザー級) ** [[吉田義勝]](日本、レスリングフリースタイルフライ級) ** [[中谷雄英]](日本、柔道軽量級) ** [[猪熊功]](日本、柔道重量級) ** [[岡野功]](日本、柔道中量級) ** [[早田卓次]](日本、体操男子[[つり輪]]) ** [[山下治広]](日本、体操男子[[跳馬]]) ** [[遠藤幸雄]](日本、体操男子[[平行棒]]、体操男子[[個人総合]]) ** [[遠藤幸雄]]・[[小野喬]]・[[鶴見修治]]・[[早田卓次]]・[[三栗崇]]・[[山下治広]](日本、体操男子[[団体総合]]) ** [[磯辺サタ]]・[[河西昌枝]]・[[近藤雅子]]・[[佐々木節子]]・[[篠崎洋子]]・[[渋木綾乃]]・[[谷田絹子]]・[[半田百合子]]・[[藤本佑子]]・[[松村勝美]]・[[松村好子]]・[[宮本恵美子]](日本、バレーボール女子) ** [[ボブ・ヘイズ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[陸上競技]]男子[[100メートル競走|100m]]、4×100mリレー) ** [[ピーター・スネル]]([[ニュージーランド]]、陸上競技男子[[800メートル競走|800m]]) ** ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子[[1500メートル競走|1500m]]) ** [[ビリー・ミルズ]](アメリカ、陸上競技男子[[10000メートル競走|10000m]]) ** [[アベベ・ビキラ]]([[エチオピア]]、陸上競技男子[[マラソン]]) ** [[アル・オーター]](アメリカ合衆国、陸上競技男子[[円盤投]]) ** [[ベティ・カスバート]]([[オーストラリア]]、陸上競技女子[[400メートル競走|400m]]) ** [[マリー・ランド]]([[イギリス]]、陸上競技女子[[走幅跳]]) ** [[ヨランダ・バラシュ]]([[ルーマニア]]、陸上競技女子[[走高跳]]) ** アメリカ(陸上競技男子4×100リレー) ** [[ポーランド]](陸上競技女子4×100リレー) ** [[ドン・ショランダー]](アメリカ、[[競泳]]男子100m[[自由形]]) ** ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子400m自由形) ** アメリカ(競泳男子4×100mリレー) ** アメリカ(競泳男子4×200mリレー) ** [[ドーン・フレーザー]](オーストラリア、競泳女子100m自由形) ** イングリッド・クレーマー(統一ドイツ、女子飛びこみ) ** ヴァチェスラフ・イワーノフ([[ソビエト連邦]]、[[ボート競技]]男子シングルスカル) ** [[ボリス・シャハリン]](ソビエト連邦、[[体操]][[鉄棒]]) ** [[ベラ・チャスラフスカ]]([[チェコスロバキア]]、体操女子個人総合) ** ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子[[平均台]]) ** ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子[[跳馬]]) ** [[ラリサ・ラチニナ]](ソビエト連邦、体操女子[[ゆか]]) ** ソビエト連邦(体操女子団体) ** [[オリンピックの東西統一ドイツ選手団|ドイツ]]([[馬術]][[馬場馬術]]団体) ** [[アントン・ヘーシンク]]([[オランダ]]、[[柔道]]男子無差別級) **[[ジョー・フレージャー]](アメリカ、[[ボクシング]]・ヘビー級、後にプロボクシングで世界ヘビー級王者) * {{Silver medal}} ** [[神永昭夫]](日本、柔道無差別級) ** [[鶴見修治]](日本、体操男子[[あん馬]]、体操男子個人総合、体操男子平行棒) ** [[遠藤幸雄]](日本、体操男子[[ゆか|床運動]]) ** [[モハメド・ガムーディ]]([[チュニジア]]、陸上競技男子10000m) ** [[ベイジル・ヒートリー]](イギリス、陸上競技男子マラソン) ** [[イレーナ・シェビンスカ]]([[ポーランド]]、陸上競技女子[[200メートル競走|200m]]) ** イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子走り幅跳) ** マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子五種競技) ** オーストラリア(競泳女子4×100mリレー) ** ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子個人総合) ** [[ソビエト連邦]](体操男子団体) ** ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子個人総合) ** ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子[[跳馬]]) * {{Bronze medal}} ** [[円谷幸吉]](日本、陸上男子マラソン) ** [[一ノ関史郎]](日本、ウエイトリフティングバンタム級) ** [[大内仁]](日本、ウエイトリフティングミドル級) ** [[堀内岩雄]](日本、レスリングフリースタイルライト級) ** [[吉川貴久]](日本、ライフル射撃男子フリーピストル) ** [[岩崎邦宏]]・[[岡部幸明]]・[[庄司敏夫]]・[[福井誠 (競泳選手)|福井誠]](日本、競泳男子800m自由形リレー) ** [[相原俊子]]・[[池田敬子]]・[[小野清子]]・[[千葉吟子]]・[[辻宏子]]・[[中村多仁子]](日本、体操女子団体) ** [[池田尚弘]]・[[小瀬戸俊昭]]・[[小山勉]]・[[佐藤安孝]]・[[菅原貞敬]]・[[出町豊]]・[[猫田勝敏]]・[[南将之]]・[[森山輝久]]・[[中村祐造]]・[[樋口時彦]](日本、バレーボール男子) ** [[ロン・クラーク]](オーストラリア、陸上競技男子10000m) ** ウーベ・バイヤー(ドイツ、陸上競技ハンマー投げ) ** イギリス(陸上競技女子4×100mリレー) ** ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子[[つり輪]]) ** ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子平均台) ** ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子[[段違い平行棒]]) ** [[ダニエル・モレロン]]([[フランス]]、[[自転車競技]][[トラックレース#スプリント|スクラッチ]]) == デザイン == 開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた[[赤坂離宮]]([[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]])に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった<ref name="オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン">[http://tokyo-design2020.jp/vol4/tanaka.html オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン] 東京デザイン2020フォーラム</ref>。 オリンピックに際して[[原弘]]が、「[[Neue Haas Grotesk|ノイエ・ハース・グロテスク]]([[Helvetica|ヘルベチカ]]の前身に当たる)という[[サンセリフ]]体を使いたい」と[[大日本印刷]]に打診、市谷工場に導入された<ref>[https://web.archive.org/web/20210726010929/http://www.dnp.co.jp/shueitai/koneta/koneta_090323.html 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展] DNP 大日本印刷株式会社</ref>。 === ポスター === 東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会の[[オリンピックポスター]]がイラストであったのを、[[グラフィックデザイナー]]の[[亀倉雄策]]のデザイン(文字は[[原弘]])、[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]写真演出[[早崎治]]、ディレクター[[村越襄]]で、オリンピックポスター初の写真ポスターである<ref>{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/%e7%be%8e%e3%81%ae%e5%b7%a8%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1/766642|title=[[美の巨人たち]]|2014/07/05(土)放送|accessdate=2014-07-12|work=TVでた蔵|publisher=ワイヤーアクション}}</ref>。ポスターは全部で4種類が制作された<ref>[https://www.joc.or.jp/column/olympiccolumn/memorial/20080508.html 1964年東京オリンピックポスター] - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)</ref>。 第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964の[[イラスト]]。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた<ref name="オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン"/><ref>[http://mag.sendenkaigi.com/senden/201311/tokyo-olympics2020/000643.php 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。] 2013年11月号 宣伝会議</ref><ref>雑誌「デザインの現場」1998年No.100</ref>、亀倉(文字は[[原弘]])の[[オリンピックエンブレム|大会エンブレム]]と同じデザインだった。赤と金の配色は[[豊臣秀吉]]の[[陣羽織]](木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる<ref>[https://web.archive.org/web/20160602101034/http://p.jcc.jp/news/10853039/ 五輪エンブレムの知られざる歴史] NHK総合【[[おはよう日本]]】JCCテレビ 2016年4月25日</ref><ref>[https://withnews.jp/article/f0150727001qq000000000000000G0010501qq000012304A 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業] - withnews</ref>。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した<ref>[https://web.archive.org/web/20141020025152/http://www4.nhk.or.jp/P3287/ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち] - NHK</ref>。 1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった<ref>2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁</ref>。 === ピクトグラム === まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった<ref>[https://web.archive.org/web/20190318134523/https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201903/CK2019031202000274.html 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム] 東京新聞 2019年3月12日 夕刊</ref>。 案内や誘導、競技種目表示において[[ピクトグラム]]が採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語の[[フランス語]]や[[英語]])によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた[[勝見勝]]を中心に[[粟津潔]]ほか30名ほどのデザイナーが携わった。 競技種目ピクトグラムを制作したのは、[[日本デザインセンター]]の山下芳郎1人である<ref>伊原久裕、「[https://hdl.handle.net/11094/56310 1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容]」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P.9-P.22, 意匠学会</ref><ref>[https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56269/jjsd65_110.pdf 勝見勝のめざしたもの : 東京オリンピックの視覚伝達システム 木田拓也/東京国立近代美術館]</ref>。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。 [[2020年東京オリンピック|東京2020オリンピック]]では、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて<ref>[https://web.archive.org/web/20191231012427/https://tokyo2020.org/jp/news/notice/20190312-01.html 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について] 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日</ref>、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/201903120000186.html ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較] 日刊スポーツ 2019年3月12日</ref>。 === 日本選手団のユニホーム === 東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を[[松坂屋]]上野店が受注<ref name="2019年12月13日中日新聞朝刊16面">2019年12月13日中日新聞朝刊16面</ref>。 * 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム) ** ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの<ref name="1964東京五輪ユニフォームの謎">『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』([[安城寿子]]著、[[光文社新書]]、2019年)</ref><ref name="anjou2016">{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/feature/342/|title=64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か|accessdate=2016-9-6|author=安城寿子|date=2016-9-6|work=Yahoo!ニュース編集部|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]}}</ref><ref name="chunichi20160906">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016090601001236.html|title=64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え|accessdate=2016-9-6|date=2016-9-6|work=中日新聞 CHUNICHI Web|publisher=[[中日新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160914174424/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016090601001236.html|archivedate=2016-09-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://byronjapan.com/archives/7431|title=1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?|accessdate=2016-9-6|author=遠山周平|date=2016-9-2|work=Byron|publisher=INCLUSIVE}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newyorker.co.jp/magazine/feature/iconof_trad/vol15/|title=VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする|accessdate=2016-9-6|author=遠山周平|date=2016-8-30|work=NEWYORKER MAGAZINE|publisher=ニューヨーカー|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140703060330/http://www.newyorker.co.jp/magazine/feature/iconof_trad/vol15/|archivedate=2014-07-03}}</ref>。このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」<ref name="anjou2016"/>、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている<ref name="anjou2016"/>。生地は[[大同毛織]]、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている<ref name="anjou2016"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160402235532/http://www.geocities.jp/ogawamachi_chiyodaku/concept.html|title=町会の歩み|accessdate=2016-9-6|date=2006年5月|work=小川町三丁目西町会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160915234846/http://www.geocities.jp/ogawamachi_chiyodaku/concept.html|archivedate=2016-09-15|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。[[石津謙介]]がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した<ref name="anjou2016"/><ref name="chunichi20160906"/>。 * 選手村などで着るユニホーム ** 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。 * トレーニングウェア ** 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。 == 楽曲 == 東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた<ref name="olympic">朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、[[近藤積]]</ref>。これらの曲は前年の[[オリンピックデー]]で披露された{{Efn|「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム}}。 * 「[[オリンピック東京大会ファンファーレ]]」(作曲:[[今井光也]]) * 「オリンピック東京大会讃歌(A)」(作詞:[[佐藤春夫]]、作曲:[[清水脩]]) * 「オリンピック東京大会讃歌(B)」(作詞:[[西条八十]]、作曲:[[小倉朗]]) * 「[[オリンピック賛歌]]」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:[[野上彰 (文学者)|野上彰]]、作曲:スピロ・サマラ、オーケストラ編曲:[[古関裕而]]) * 「オリンピック・マーチ」(作曲:古関裕而) 「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった<ref name="olympic"/>。 オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。 選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。 この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:[[團伊玖磨]])が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・[[香淳皇后]]が[[特別席|ロイヤルボックス]]に着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:[[黛敏郎]])が荘厳な雰囲気を醸し出していた。 国民の五輪への関心を高めるために、[[日本放送協会]] (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、[[日本体育協会]]、[[東京都]]の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された<ref name="olympic"/>。 * 「[[東京五輪音頭]]」(作詞:[[宮田隆]]、作曲:[[古賀政男]]、歌:[[三波春夫]]・[[橋幸夫]]・つくば兄弟・[[神楽坂浮子]]・[[三橋美智也]]・[[坂本九]]・[[北島三郎]]・[[畠山みどり]]・[[大木伸夫 (演歌歌手)|大木伸夫]]・司富子) * 「[[海をこえて友よきたれ]]」(作詞:土井一郎、作曲:[[飯田三郎]]) これとは別に、日本ビクターが公募して[[日本体育協会]]、オリンピック東京大会組織委員会、[[東京都]]が選定し、[[日本体育協会]]、オリンピック東京大会組織委員会、[[東京都]]、[[文部省]]、[[日本放送協会]] (NHK)、[[日本民間放送連盟]](民放連)の後援で[[1962年]]5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。 * 「東京オリンピックの歌「この日のために」」(作詞:鈴木義夫、補作:[[勝承夫]]、作曲:[[福井文彦]]、編曲:[[飯田信夫]]、歌:[[三浦洸一]]・[[安西愛子]]・ビクター合唱団)[[ビクターレコード]]VS-693 (JES-3408) * 「東京オリンピック音頭」(作詞:山川茂男、補作:[[佐伯孝夫]]、作曲:馬飼野曻、編曲:[[寺岡真三]]、歌:[[橋幸夫]]・[[市丸]]・[[松島アキラ]]・[[神楽坂浮子]]・ビクター少年民謡会)VS-693 (JES-3409) オリンピックの開催時期には[[芸術競技|芸術展示]]として、多くの日本の芸術作品が披露された<ref>[http://aoishibata.la.coocan.jp/4-1-TokyoOlympiad.pdf 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」] 2020年11月8日閲覧。</ref>。 == 記念発行物 == [[ファイル:TokyoOlympic100.jpg|thumb|250px|記念貨幣(100円銀貨)]] [[ファイル:TokyoOlympic1000.jpg|thumb|250px|記念貨幣(1000円銀貨)]] [[ファイル:A Commemorative Ticket of Tokyo Olympicgames.jpg|thumb|250px|記念乗車券(バス1区乗車券 ¥15)]] * [[記念切手]] ** 5+5円付加金付きが20種類、1961年10月11日三種、1962年6月23日三種、10月10日三種、1963年6月23日三種、11月11日四種、1964年6月23日四種の七次にわたり発行された。 ** 5円・10円・30円・40円・50円の五種類が1964年[[9月9日]](5円のみ)、1970年10月10日(残り四種)に発行された。 ***「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては[[中華郵政|中華民国(台湾)]]、[[大韓民国|韓国]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、北朝鮮(ボイコット)などがある。 * [[記念貨幣]] ** 100円銀貨が1964年9月21日(11月24日追加発行)、1000円銀貨が1964年10月2日(10月29日追加発行)に発行された。詳細は[[東京オリンピック記念貨幣]]を参照。 * 記念乗車券 ** [[東京都交通局]]が、[[バス (交通機関)|バス]]乗車券『 オリンピック 東京大会 記念乗車券』を発売。 == 東京オリンピック開催が日本にもたらした影響 == {{Main|1964年東京オリンピックのレガシー}} 東京オリンピック開催を契機に、[[1964年東京オリンピックの会場|競技施設]]や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資がなされ、競技を見る旅行需要が喚起され、テレビ放送を見るための[[テレビ受像機|受像機]]購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「[[オリンピック景気]]」といわれる好景気をもたらした。 開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、[[帝都高速度交通営団]]・[[東京モノレール羽田空港線]]・[[首都高速道路]]・[[ホテル]]など、様々な[[インフラストラクチャー]]の整備が行われ、都市間交通機関の中核として東京([[首都圏 (日本)|首都圏]])から名古屋([[中京圏]])を経由して、大阪([[京阪神]])に至る[[三大都市圏]]を結ぶ[[東海道新幹線]]も開会式9日前の10月1日に開業した。これらのほとんどは、現在に至るまで改良や[[メンテナンス]]を重ねながら利用されている。 [[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]が行われた10月10日は、[[1966年]](昭和41年)[[国民の祝日]]に制定され、以降「[[スポーツの日 (日本)|体育の日]]」として広く親しまれるようになった([[2000年]]〈[[平成]]12年〉より10月の第2[[月曜日]]、[[2021年]]〈[[令和]]3年〉より「スポーツの日」となった)。それまで社会人のスポーツは見る物だったが、[[ママさんバレー]]に代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。 === 「テレビ・オリンピック」 === [[ファイル:Watch the Tokyo Olympics on the street TV.jpg|thumb|250px|オリンピック放送を観戦する市民。<br/>その後、[[街頭テレビ]]は衰退していった。 ]] 東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。[[衛星放送]]技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。当時初めて[[スローモーション]]の画像を使い、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。 日本では1959年(昭和34年)の[[ミッチー・ブーム]]以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だった[[カラーテレビ]]受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。 === 計時技術 === セイコー(現[[セイコーホールディングス]])が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。 == 記録映画 == [[File:A car that shoots a Tokyo Olympics record movie.jpg|thumb|250px|東京オリンピック記録映画を撮影する車<br/>(画像左側は[[アベベ・ビキラ]]選手)]] === 『東京オリンピック』 === {{main|東京オリンピック (映画)}} === 『オリンピック東京大会 世紀の感動』 === [[市川崑]]が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。154分。 * プロデューサー:[[田口助太郎]] * 脚本:前田博、山岸達児 * 音楽:[[矢代秋雄]]、[[若杉弘]] * 解説:[[岡田実 (アナウンサー)|岡田実]]、[[北出清五郎]]、[[鈴木文彌]] * 監修:[[川本信正]] === テレビドキュメンタリー === 2013年8月に[[NHK総合テレビジョン]]で3部作として放送。 {{see also|1964東京オリンピック (テレビ番組)}} === テレビの関連番組 === *[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]]の放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。いずれも[[NHK BS1]]にて放送。 **2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」 *:[[東洋の魔女]]と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人のインタビューを交えてその試合を振り返った<ref>{{Wayback|url=http://www4.nhk.or.jp/legend/x/2013-12-31/11/10933/|title=伝説の名勝負紹介サイト|date=20140215023034}}</ref>。 **2013年12月31日 「よみがえる東京オリンピック1964→2020半世紀を経て発見!20時間の競技映像」 *:NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16mmフィルムを発見した。この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる<ref>{{Wayback|url=http://www.nhk.or.jp/navi/detail/09_0143.html|title=NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」|date=20131230233326}}</ref> == 実況録音 == 大会終了後、[[日本放送協会]](NHK)から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録[[LPレコード]]や[[フォノシート]]が製作された。このNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の[[円谷幸吉]]とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、[[ピンク・ピクルス]]の歌う「[[一人の道]]」の冒頭に使用されている。 == 開催前後における国民の感情の変化 == 東京オリンピック開催4ヶ月前の6月上旬、[[日本放送協会]]放送世論調査所(現・[[NHK放送文化研究所]]世論調査部)が[[東京]]と[[金沢市]]で事前の世論調査を行った。「オリンピックには大変な費用がかかるので、いろいろな点で国民に負担をかけ、犠牲を払わせている」(東京60.6%、金沢53.7%)、「オリンピック準備のために一般市民のかんじんなことがお留守になっている」(東京49%、金沢29%)、「オリンピックに多くの費用をかけるぐらいなら、今の日本でしなければいけないことはたくさんあるはずだ」(東京58.9%、金沢47.1%)、「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」(東京47.1%、金沢54.3%)など、圧倒的な国民の支持に熱狂的に迎えられていた訳ではなかった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=64yoron201909060001|website=時事通信|accessdate=2021-09-11}}</ref>。 日本放送協会放送世論調査所が昭和42年に刊行した「東京オリンピック」では、大会の開会まで政府や関係者が「吹けど踊らぬ国民」をいかに躍らせるかに苦心したさまを各紙の社説などの引用から克明に記し、次のように書き残している。 「実際、開会を目前にひかえて人々の正直な感情は、関係のないお祭りということであったろう。少なくとも開会式までは、その他の人びとにとっては、まったく関係のない出来事と映っていたとしても、無理からぬことであった」 もっとも大会直後の調査では、「オリンピックは日本にプラスだったか」の問いに、89.8%が「プラスだったと思う」と答えている。 空気を変えたのは、開催前年(1963年)から[[新聞|新聞社]]([[全国紙]])や[[総理府]](現・[[内閣府]])を中心に行われた「盛り上げキャンペーン」や[[1964年東京オリンピックの聖火リレー|聖火リレー]]などのイベントに加えて、開幕後も技の魅力、興奮であり、自国開催のリアルタイムで複数競技が相互に関係しながら同時進行する、総合競技大会の魔力に国民がくぎ付けになったことがあげられる。大会終盤、日本が団体を制した体操男子は視聴率80%、「東洋の魔女」が優勝した女子バレーボールの決勝は85%を記録した<ref name=":0" /><ref>別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日) </ref>。 == 世界情勢 == 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)[[10月14日]]のソ連の[[ニキータ・フルシチョフ]]首相解任、[[10月16日]]の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による[[中国の核実験|初の核実験]]など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、[[冷戦]]下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。 * 史上初の3人乗り[[宇宙船]]である[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ボスホート]]1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。 * [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]の[[ノーベル平和賞]]受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(受賞式典は12月10日)。 * イギリス領[[北ローデシア]]は、閉会式当日にあたる1964年10月24日([[日本標準時|日本時間]]では同日午前7時)に[[ザンビア]]として独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の[[国旗]]なども、同日をもって新国旗に付け替えられた。 * [[新興国競技大会]] (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、[[国際陸上競技連盟]]と[[国際水泳連盟]]と対立していた[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)と[[インドネシア]]は、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった<ref>[[内藤陽介]]『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』[[雄山閣]] 2001年 {{ISBN2|9784803503166}} {{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/7822/ |title=東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは? |accessdate=2020-09-19 |author=井上一希 |coauthors= |date=2020年09月10日 |website=コリアワールドタイムズ |archiveurl=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/7822/|archivedate=2020-09-19 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。 * 当時[[アパルトヘイト]]政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対・抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受け、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、[[アフリカ]]各国のボイコットは回避された。 * [[中華民国]]と「[[中国]]を代表する[[国家]]」の地位をめぐって対立していた[[中華人民共和国]]は、独立した[[国内オリンピック委員会|NOC]]としてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。会期中の10月16日に初の[[596 (核実験)|核実験]]([[原子爆弾]]実験)を行ってアジア初の核保有国となっている。 == その他 == [[File:Convair CV-880, Japan Airlines (JAL) JP6836340.jpg |thumb|250px|right|「オフィシャルエアライン」のロゴが書かれた日本航空のコンベア880]] *オフシャルエアラインには聖火も運んだ日本航空が指定され、[[ダグラス DC-8]]やコンベア880などの所有機材にロゴが書かれた。 * 開会式では、海上で1年半もの間訓練した[[ブルーインパルス]]の[[F-86 (戦闘機)|F-86]]が、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ<ref name="nhk20130819">2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」</ref>。 * 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。 * 当時、[[ボディビル]]や[[剣道]]に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の[[三島由紀夫]]が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を[[毎日新聞]]、[[スポーツ報知|報知新聞]]、[[朝日新聞]]などに分載形式で連載した<ref>[[三島由紀夫]]「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」([[スポーツ報知|報知新聞]] 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=171-196}}に所収</ref>。三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。これをやらなかつたら日本人は病気になる」<ref name="kaikai">三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=171-174}}に所収</ref>、「[[小泉八雲]]が日本人を〈[[東洋]]の[[ギリシャ人]]〉と呼んだときから、オリンピックはいつか[[日本人]]に迎へられる[[運命]]にあつたといつてよい」とコメントしている<ref name="kaikai"/>。 * [[池田勇人]][[内閣総理大臣|首相]]は、この前の9月に精密検査の結果[[癌腫|ガン]]が見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。翌年夏に死去。 * 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、[[1960年ローマオリンピック|ローマ大会]]に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた<ref>[[国際オリンピック委員会]][[ジャック・ロゲ|ロゲ会長]]が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。([https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=963 来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与]、[https://www.oaj.jp/news/061019/ ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与])</ref>。 * 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのは[[1956年メルボルンオリンピック]]が先である。 * 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは[[1964年東京オリンピックのバレーボール競技]]でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。 * 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するための女性スタッフを30名採用し、「コンパニオン」と命名した([[1964年東京オリンピックのコンパニオン]]参照)。「コンパニオン」という語が日本で知られる契機という。陸上競技関係者(オリンピック出場経験者である[[土倉麻|田島(土倉)麻]]や[[吉川綾子|星野(吉川)綾子]]など)に声がかけられたほか一般公募もされたが、「公募」は結局コネ採用ばかりで[[池田勇人|総理大臣]]の次女と三女、[[竹田恒徳|日本オリンピック委員会長]]の長女、[[大隈信幸|日立製作所顧問]]の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。コンパニオンの一人の[[長嶋亜希子|西村亜希子]]は、報知新聞の企画で対談した[[日本プロ野球|プロ野球]]・[[読売ジャイアンツ]]の[[長嶋茂雄]]と1965年(昭和40年)に結婚した。 * 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。[[名古屋市|名古屋]]の中学生の作品。 * 1966年、アメリカ映画『[[歩け走るな!]]』([[コロムビア映画]]、[[チャールズ・ウォルタース]]監督、[[ケーリー・グラント]]主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。 * 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは[[大韓民国]](韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという<ref>朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事</ref>。日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが{{Efn|[[日韓基本条約]]の締結は五輪翌年の1965年。}}、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。 * 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、[[日本選手権シリーズ]]の日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]と[[阪神タイガース]]の[[近畿地方|関西圏]]チーム同士で争われた実際の[[1964年の日本シリーズ]]は10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、[[阪神甲子園球場]]で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった{{Efn|観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合は[[ジョー・スタンカ]]の完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。}}。 * 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場の[[織田幹雄#没後|織田ポール]]に翻った[[オリンピックシンボル|五輪旗]]は、[[アベリー・ブランデージ]]IOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校の[[福岡県立修猷館高等学校]]に寄贈した。かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連文献 == * [[波多野勝]]『東京オリンピックへの遙かな道―招致活動の軌跡 1930 - 1964』[[草思社]]、2004年7月。{{ISBN2|978-4794213358}} *『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』[[講談社文芸文庫]]、2014年1月。{{ISBN2|978-4062902175}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|date=2003-08|title=決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8|publisher=新潮社|isbn=978-4106425738|ref={{Harvid|33巻|2003}}}} * 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』(吉川弘文館、2018年)978-4642038812 == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[日本オリンピック委員会]] * [[オリンピック賛歌]] * [[夏季オリンピック]] * [[1964年東京オリンピックの日本選手団]] * [[1964年東京パラリンピック]] * [[国立オリンピック記念青少年総合センター]] * [[特異日#特異日ではないとされるもの|特異日]] * [[オリンピック支援集団|東京オリンピック支援集団]] * [[プロジェクト:オリンピック]] * [[池田勇人]] * [[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]] * [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]] * [[夢食堂の料理人〜1964東京オリンピック選手村物語〜]] * [[1940年東京オリンピック]](開催中止) * [[1940年札幌オリンピック]](開催中止) * [[2020年東京オリンピック・パラリンピック]] * [[2020年東京オリンピック]] == 外部リンク == {{Commons category|1964 Summer Olympics}} * [https://olympics.com/en/olympic-games/tokyo-1964 Tokyo 1964 Summer Olympics - Athletes, Medals & Results] * [https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/ 東京オリンピック1964 - JOC] * [https://medicalnex.com/archives/ オリンピック聖火リレー実施要領 1964 聖火リレー鹿児島県実行委員会] * [https://digital.la84.org/digital/collection/p17103coll8/id/27912/rec/31 The Official Report of the Games of the XVIII Olympiad, Tokyo 1964 Volume I] LA84 Foundation * {{科学映像館|genre=tokyo-sinema|id=74|type=create|name=闘魂の記録-オリンピック東京大会を目指して}} * {{科学映像館|genre=other|id=10012|type=create|name=オリンピックを運ぶ}} * {{科学映像館|genre=tokyo-sinema|id=82|type=create|name=科学の祭典}} * {{NHK放送史|D0009044013_00000|東京オリンピックを世界の人々に}} * {{NHK放送史|D0009044008_00000|オリンピック放送とNHK}} * {{NHK放送史|D0009044614_00000|より速く より高く より強く 東京オリンピック1964ダイジェスト}} * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010492 特集 なつかしの番組 東京オリンピック 制作者座談会_NHKアーカイブス] * {{YouTube|EFD9OZ-OAmc|TBSアーカイブ「映像で振り返る 1964年東京オリンピックへの道~この日のために~」}} * {{YouTube|n4clPCD0ybE|TBSアーカイブ「映像で振り返る 1964年東京五輪 直前の様子」}} * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/1964.html 1964年東京オリンピック・パラリンピックについて調べる] - 調べ方案内([[国立国会図書館]]) {{オリンピック}} {{1964年東京オリンピックの実施競技}} {{日本の経済史}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1964ねんとうきようおりんひつく}} [[Category:1964年東京オリンピック|*]] [[Category:夏季オリンピックの歴代大会|1964]] [[Category:昭和時代戦後|とうきようおりんひつく]] [[Category:昭和時代戦後の東京|おりんひつく1964]]
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ヨット
ヨット(英: yacht)は、レジャー用船艇を広く意味する言葉で、その中でも特に次の2つを指す。 英語では、単に yacht(原語:オランダ語の jacht)といえば主に 1. を意味するが、日本においては「ヨット」といった場合 2. の意味で用いられることが多い。 本項目では主に 2. について解説する。 英語では、単に yacht と言えば主にこの意味である。後述の、小型帆船の一種を示す yacht の英語においての由来が、英国王室の非軍用船であったことからの「豪華な遊行船」という意味である。日本では御座船と呼ばれる貴人向けの遊行船が存在した。 現代では富裕層に一定の需要があるためナウティキャットやフェレッティなどの専門メーカーが快適装備が整ったヨットの製造を行っている。また価格を抑えたプレジャーボートも釣りを楽しむ者に人気がある。トヨタ自動車(トヨタマリン)では、最大35フィートまでの自社製プレジャーボートを「ポーナム」ブランドでラインナップしていたが、それ以上の大きさと価格の製品はレクサスブランドとし、高級ヨット市場に参入している。 高いマストと大きな帆を持ち、帆走を主としたものは、基本的に通信機器や快適装備の電源や港での取り回しを優先し、小型エンジンとスクリュープロペラを備えた モーターヨット(機帆船。モーターセイラー)であることが多く、日本では「セーリングクルーザー」とも呼ばれる。純粋な帆船はセーリング競技に使用するセーリング・ヨットなど競技用のみである。明確な定義はないが小型船舶免許(日本の小型船舶操縦士相当)で操船できるサイズに納めることが多い。船体とエンジンを製造し内装はデザイン会社が担当する例もある。 サントロペやヴィアレッジョなどヨーロッパのリゾート地にはヨットハーバーが整備されており、船舶の整備・管理を代行する会社も存在するなど、関連事業で市場が形成されている。 資産家の中には小型客船並みの大きさスーパーヨット(ラグジュアリーヨット、ギガヨットとも)を所有する者もおり、プールやジャグジー、ヘリパッドを有するなどクルーズ船並みの装備があるヨットも建造されている 。 中型船では船体を規格化し内装のみ注文に応じて変更するセミオーダー形式とすることで価格を抑えたメーカー(コーデカーサなど)が、リゾート地のあるイタリアやフランスに集中している。 全長100m超の船舶では顧客の好みに合わせるためHDWやブローム・ウント・フォスなどの大型船舶を手がける造船会社が船体を設計・建造し、内装は専門業者がオーダーメイドで作成するなどグルーズ客船と同じ手法で製造することもある。また大型船舶には資格を有する船員が複数必要であるため、船員を派遣する会社もある。 資産家のポール・アレンが所有する「オクトパス」は全長126m、9932総トンのサイズにクルーズ船並みの快適装備を備える他、調査用の艦載ヘリや海底を調査する装置を備えた海洋調査船としての機能も有しており、戦艦武蔵の探索を始め、アレンの手がける海洋調査では調査隊の母船として使用されている。 趣味性の高い大型機帆船も資産家の要望で建造されており、実業家のアンドレイ・メルニチェンコはフィリップ・スタルクがデザインしたスーパーヨットと大型機帆船を所有している。 日本語で「ヨット」と言う場合は、こちらの意味で用いられていることがほとんどである。この意味でも様々な目的の船体があり、レース用でヒールした場合に体重でバランスをとる必要がある軽量で俊敏な物から、優雅なクルージング用の強い横風でもヒールしにくい安定した物まで様々なものがある。 英語では、帆走ヨット (sailing yacht)、あるいは単に帆船 (sailboat) と呼ぶことが多い。ただし、これらの船艇を使ったレースは yacht race と呼ばれる。ヨットでの航海やヨット競技のことをセーリング(sailing)ともいう。これはヨットがセール(sail:帆)を使って進むからである。 現在、ヨットと分類される船舶は非常に多岐にわたっている。乗員数も一人乗りから10人以上まで様々であり、設備もラダー(舵)、セール(帆)、キール(竜骨)しかないものからキャビン、発動機を完備したものまである。発動機やキャビンのない小型のヨットを「ディンギー」、発動機やキャビンのある大型のヨットを「クルーザー」と呼び分けることがある。 外洋を長期間・長距離に渡って航行することが可能ながら、比較的小型で個人で運用可能であるため、冒険心のある人物による単独での大洋の横断、無寄港での世界一周などが行われている。 ヨットの原型は7世紀頃に発明されたアラブのダウ船である。これは追い風だけしか利用できなかったそれまでの帆船を大きく変え、向かい風でも斜め前方に進むことができる大発明であった。その後、その技術がヨーロッパにも伝わり、ヨットという名称が歴史に初めて登場するのは、14世紀のオランダとされている。当初は、その高速性や俊敏さから海賊を追跡したり、偵察などに用いられるために建造された三角帆を持つ風上にも進行可能な高速帆船で、jaght schip、略して“jaght”と呼ばれていた。 17世紀には金持ちの娯楽としてセーリングが大々的に流行するようになり、スペールヤハトと呼ばれる専用のプレジャーヨットが作られるようになった。 1660年にイギリスで王政復古に成功したチャールズ2世は、オランダより寄贈されたこの乗り物を好み、イギリスの水路事情に合わせ喫水やリーボードの廃止などの改良を施し、発音に基づいた英語として yacht と名前を改めた。これが現在のYachtの語源である。王とその弟ジェイムスは同種の船を12隻建造し、軍用や王室行事などに使用したため、イギリス貴族の間でもプレジャーヨットが流行した。記録に残る最初のヨットレースは、1661年にチャールズ2世とジェイムスがグリニッジ - グレイヴズエンド間で行った競争である。 1720年には、記録に残っている最古のヨットクラブ「コーク・ウォーター・クラブ」がアイルランドに設立された。これは現在の「ロイヤル・コーク・ヨットクラブ」の祖である。 以後、19世紀にかけてヨーロッパ、アメリカの王室や富裕層を中心にヨットを嗜む人が増え、各地にヨットクラブが設立された。18世紀にもアイルランドとイングランドのクラブ同士でレースが行われる事があったが、19世紀になって大掛かりな国際ヨットレースが行われるようになった。 19世紀後半にはディンギーと呼ばれる小型艇のレースもも始まり、第一次世界大戦後に盛んになった。当初は参加者がそれぞれに設計したボートで競われていたが、1875年にイギリスで設立されたヨット競技協会(YRA)によって統一的なルールと6段階のクラス分けが制定された。1907年にYRAは国際ヨット競技連盟(IYRU)となり、国際的なレース規則とヨットのサイズなど仕様標準が定められた。また、19世紀末から20世紀にかけてヨットによる冒険航海が流行した。ジョシュア・スローカムは1895年から1898年の3年に渡って、ヨットによる単独世界一周を成し遂げた。今日でもこの種の冒険航海に挑戦するヨットマンは多い。 蒸気エンジン付きのヨットはイギリス人トマス・アシュトン・スミスによって19世紀半ばに初めて作られたが、蒸気エンジンは騒音が酷く扱いが難しいため普及しなかった。その後、19世紀末から富裕層の大型ヨットに装備されるようになり、20世紀にガソリンエンジン、ディーゼルエンジンが普及するにつれ、動力付きのヨットは一般人にも手が届くようになった。第2次世界大戦以後、ヨットの素材に化学繊維やグラスファイバーなど新素材が取り入れられ、ヨットはより安価になり水上スポーツ人口を大幅に増加させた。 日本においては1861年(文久元年)に長崎で英国人船大工が貿易商オルトの注文で建設し、当時の地元新聞で報道された「ファントム号」や、同年、外国人たちが開催したヨットレース「長崎レガッタ」が初めてのものといわれている。また、1882年(明治15年)には横浜の本牧で日本人により初めて建造され、神奈川の葉山で帆走したことから、葉山港には日本ヨット発祥の地と刻まれた碑が建っている。 ヨットクラブは横浜を始め神戸や長崎などに設立された。 ヨットを始めとして帆走船は風を利用して動くため、まっすぐ風上の方向(風位)へは進むことができない。しかし、風位に対して最大およそ45度の角度(クローズホールド)までなら進むことができるため、ジグザグにであれば風上へと向かうことができる。進行方向と風上方向との間を成す角度と、理論帆走速度と風速の比を示したものを帆走ポーラー線図(ポーラーダイアグラム)と呼び、性能を示す指標の一つとなる。 この原理は以下の通りである。 図のように、セール(帆)の付近を流れる風によって発生する揚力(船の進行方向に対して斜め前方の向き)のうち進行方向に対して垂直な成分を、キール(竜骨)またはセンターボード(船底の中央から水中に差し込む板)によって打ち消すことにより、進行方向と同じ向きの推進力を得る。更に、セールに発生する揚力に加え、リーウエイする艇のキールへの水流の迎角からも艇を前進する力が発生する。 なお、ヨットにはセールを複数持つものもあるが、図では簡略化するためにセールが1枚のものを描いている。セールが複数ある船では、各セールに発生する揚力の合力を、この図でいう「揚力」とみなせばよい。 一人乗りから二人乗りのヨットで、比較的見る機会が多いものとしては「FJ級(2人乗り)」「420級(2人乗り)」「シーホッパー級SR(1人乗り)」「スナイプ級(2人乗り)」などが挙げられる。日本では、海沿いの高校、大学でヨット部がある学校などには、大抵はこの3つのクラスの艇が備わっている。また、大学の体育会ヨット部では「470級(2人乗り)」と「スナイプ級(2人乗り)」を所有し、全日本インカレ等が行われる。小・中学生のヨットクラブでは小型の「オプティミスト(OP)級(1人乗り)」で練習を行うところもある。 障がい者も操船できるようにユニバーサルデザインで開発された「ハンザ(ハンザクラス、ハンザディンギー)」という1人~2人乗りのヨットもある。 5人から10人乗り程度のヨットは国内でも比較的見る機会が多い。全長によって、おおまかに以下のように分かれる。 かつて日本にも国産最大手のヤマハをはじめ、多数のメーカーが存在したが、現在では岡崎造船のみ。 設計者としては横山、林、ヴァンデュスタット大橋。 現在は外国メーカーのヨットが主流。 ヨットレースは大きく分けて、湾内や陸が見える程度の沿岸で行うインショア・レースと、陸が見えない外洋で行うオフショア・レースに分けられる。 インショア・レースはブイで構成されたコースを規定の順・回数で周回する形式でディンギーなど1~2人乗りの小型艇が主流。オリンピックのセーリング競技もインショア・レースである。 オフショア・レースはスタート港から出港し、ゴールに指定された港までの所要時間を競うレースで、10人上が乗る大型艇が主流。他にも無寄港や単独など過酷な条件で行う冒険レースなどがある。 近代のヨットレースには世界的に統一された規則がある。このルールはレーシングルールオブセーリング(RRS)と呼ばれ、国際セーリング連盟(World Sailing)が管理し、世界各国の国別セーリング連盟とともに運用している。日本を管轄するのはISAFに加盟する日本セーリング連盟(JSAF)である。 一般的なインショア・レースにおけるルールとしては、二等辺三角形や台形の頂点にそれぞれブイ(マーク)を浮かべ、それを反時計回りに回るというものがあり、規定数を周回するまでの順位を競う。公式大会などでは、合計10レース以上を行い、その得点により順位を決する。1位が1点、2位が2点、順位が上位であるほど得点が少なく、全レースで最も得点の低いものが優勝となる。故にリタイアや失格などは高得点になる。 オフショア・レースでは航路は大まかな指定のみで、艇ごとに風や海の状況を読み細かく修正しながらゴールを目指す。 ヨットレースでのルールで最も頻繁に出てくるのは接触に対する予防規定であり、特にヨット同士が接近しやすいインショア・レースでは重要なルールである。国際的な基本ルールであるスターボード艇優先の原則の他にも、その時の状態において優先権がある権利的強者と接触した場合に罰則を受ける権利的弱者が規定されている。その他、細かい点については、国際セーリング競技規則や、各クラスルールによって定められている。 2艇のみで行うレースをマッチレースと呼び、アメリカスカップなどが該当する。 公平を期すため同一規格の艇で行うレースをワンデザイン・クラスと呼び、SailGPなどが該当する。
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ヨットは、レジャー用船艇を広く意味する言葉で、その中でも特に次の2つを指す。 大型(個人船としては)で豪華な遊行船。 縦帆を使った小型の帆船。スポーツ用舟艇の性質が強く、レースにも使われる。 英語では、単に yachtといえば主に 1. を意味するが、日本においては「ヨット」といった場合 2. の意味で用いられることが多い。 本項目では主に 2. について解説する。
{{Otheruseslist|船|[[ドイツ語アルファベット]]の1つ|J|ダイスゲーム|ヤッツィー|その他のヨット|ヨット (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2012年8月1日 (水) 14:41 (UTC)}} [[画像:US Sailing Team1.jpg|thumb|300px|小型の帆船としてのヨット]] '''ヨット'''({{lang-en-short|yacht}})は、[[レジャー]]用船艇を広く意味する言葉で、その中でも特に次の2つを指す。 #大型(個人船としては)で豪華な遊行船。 #[[帆#縦帆|縦帆]]を使った小型の[[帆船]](≒ sailing yacht, [[:en:sailboat]])。スポーツ用舟艇の性質が強く、[[セーリング|レース]]にも使われる。 英語では、単に ''yacht(原語:[[オランダ語]]の jacht'')といえば主に 1. を意味するが、日本においては「ヨット」といった場合 2. の意味で用いられることが多い。 本項目では主に 2. について解説する。 == ヨット(遊行船) == 英語では、単に ''yacht'' と言えば主にこの意味である。後述の、小型帆船の一種を示す ''yacht'' の英語においての由来が、[[イギリス王室|英国王室]]の非[[軍艦|軍用船]]であったことからの「豪華な[[プレジャーボート|遊行船]]」という意味である。日本では[[御座船]]と呼ばれる貴人向けの遊行船が存在した。 現代では[[富裕層]]に一定の需要があるため[[ナウティキャット]]や[[フェレッティ]]などの専門メーカーが快適装備が整ったヨットの製造を行っている。また価格を抑えた[[プレジャーボート]]も[[釣り]]を楽しむ者に人気がある。[[トヨタ自動車]](トヨタマリン)では、最大35フィートまでの自社製プレジャーボートを「ポーナム」ブランドでラインナップしていたが、それ以上の大きさと価格の製品は[[レクサス]]ブランドとし、高級ヨット市場に参入している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=レクサスのラグジュアリーヨット「LY650」 価格は約4億5000万円。満タンにすると1回約48万円!|Motor-Fan[モーターファン]|url=https://motor-fan.jp/article/10011594|website=motor-fan.jp|accessdate=2021-04-14}}</ref>。 高いマストと大きな帆を持ち、帆走を主としたものは、基本的に通信機器や快適装備の電源や港での取り回しを優先し、小型エンジンと[[スクリュープロペラ]]を備えた [[モーターボート|モーターヨット]]([[機帆船]]。モーターセイラー)であることが多く、日本では「セーリングクルーザー」とも呼ばれる。純粋な帆船は[[セーリング]]競技に使用する[[:en:Sailing yacht|セーリング・ヨット]]など競技用のみである。明確な定義はないが小型船舶免許(日本の[[小型船舶操縦士]]相当)で操船できるサイズに納めることが多い。船体とエンジンを製造し内装はデザイン会社が担当する例もある<ref name=":0" />。 [[サントロペ]]や[[ヴィアレッジョ]]などヨーロッパのリゾート地には[[ヨットハーバー]]が整備されており、船舶の整備・管理を代行する会社も存在するなど、関連事業で市場が形成されている。 <gallery> Farewell_Brittania_(1453882710)_(3).jpg|[[イギリス王室]]のヨット、{{仮リンク|HMYブリタニア|en|HMY Britannia}}全長126m、5769[[総トン]] Nauticat 44 hull design.JPG|[[ナウティキャット]]製の小型モーターヨット『Nauticat 44』 Yacht Mochi Craft Dolphin 74.jpg|[[フェレッティ]]のプレジャーボート Port of Barcelona - Esence (ship, 2006) 03.JPG|[[:en:Wally Yachts|ウォリー・ヨット]]製のモーターヨット Azimut_98_Leonardo."Enigma".Moscow_(4949190412).jpg|豪華ヨット:[[:en:Azimut Yachts|Azimut 98 Leonardo]] </gallery> ===スーパーヨット=== 資産家の中には小型[[客船]]並みの大きさ[[スーパーヨット]](ラグジュアリーヨット、ギガヨットとも)を所有する者もおり、[[プール]]や[[ジャグジー]]、[[ヘリパッド]]を有するなど[[クルーズ客船|クルーズ船]]並みの装備があるヨットも建造されている<ref name=":2">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=HzpD1GhtDFsC&pg=PT71&dq=gigayacht&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwj015PWj9vhAhURwlkKHbOiCZYQ6AEIPDAD#v=onepage&q=gigayacht&f=false|title=Global Luxury Trends: Innovative Strategies for Emerging Markets|last=Hoffmann|first=J.|last2=Coste-Manière|first2=I.|date=2012-12-04|publisher=Springer|isbn=9781137287397|language=en}}</ref> 。 中型船では船体を規格化し内装のみ注文に応じて変更するセミオーダー形式とすることで価格を抑えたメーカー([[:en:Codecasa|コーデカーサ]]など)が、リゾート地のあるイタリアやフランスに集中している。 全長100m超の船舶では顧客の好みに合わせるため[[ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船|HDW]]や[[ブローム・ウント・フォス]]などの大型船舶を手がける[[造船会社]]が船体を設計・建造し、内装は専門業者がオーダーメイドで作成するなどグルーズ客船と同じ手法で製造することもある。また[[大型船舶]]には資格を有する[[船員]]が複数必要であるため、船員を派遣する会社もある。 資産家の[[ポール・アレン]]が所有する「[[オクトパス (ヨット)|オクトパス]]」は全長126m、9932総トンのサイズにクルーズ船並みの快適装備を備える他、調査用の艦載ヘリや海底を調査する装置を備えた[[海洋調査船]]としての機能も有しており、[[戦艦]][[武蔵 (戦艦)|武蔵]]の探索を始め、アレンの手がける海洋調査では調査隊の母船として使用されている。 趣味性の高い大型機帆船も資産家の要望で建造されており、実業家の[[:en:Andrey Melnichenko (industrialist)|アンドレイ・メルニチェンコ]]は[[フィリップ・スタルク]]がデザインしたスーパーヨットと大型機帆船を所有している。 <gallery> File:Lady Lau super-yacht IMO 1010674 Bonifacio.jpg|[[ヴィアレッジョ]]の港に停泊するスーパーヨット([[:en:Codecasa|コーデカーサ]]製) File:OctopusYacht.JPG|[[ポール・アレン]]が所有する[[オクトパス (ヨット)|オクトパス]]([[ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船|HDW]]製) File:Three_luxury_yachts_-_Lady_Anne,_Lady_Moura_and_Pelorus.jpg|3隻のスーパーヨット(Lady Anne、[[:en:Lady Moura|Lady Moura]]、[[:en:Pelorus (yacht)|Pelorus]]) File:Le_Grand_Bleu_31July010.jpg|[[ロマン・アブラモヴィッチ]]が友人の[[:en:Eugene Shvidler|ユージン・シュビドラー]]に贈呈した[[:en:Le Grand Bleu (yacht)|Le Grand Bleu]]([[ブレーマー・フルカン造船所]]製) File:AzzamCadiz.jpg|[[ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン]]が所有する[[:en:Azzam (2013 yacht)|Azzam]]([[:en:Lürssen|Lürssen Yachts]]製) File:A_(ship)_at_Sorrent_2012_3.jpg|[[フィリップ・スタルク]]がデザインした[[:en:A (motor yacht)|A (MY A)]](ブローム・ウント・フォス製) File:Sailing Yacht A, starboard.jpg|[[フィリップ・スタルク]]がデザインした大型セーリングヨット「[[:en:A (sailing yacht)|A]]」([[ノビスクルーク]]製) </gallery> == ヨット(小型の帆船) == [[File:J-24_yacht_racing,_Sydney_Harbour.jpg|thumb|帆船 (sailboat)とヨットレース。[[シドニー港]]]] [[日本語]]で「ヨット」と言う場合は、こちらの意味で用いられていることがほとんどである<ref>{{kotobank|ヨット|デジタル大辞泉}}</ref>。この意味でも様々な目的の船体があり、レース用でヒールした場合に体重でバランスをとる必要がある軽量で俊敏な物から、優雅なクルージング用の強い横風でもヒールしにくい安定した物まで様々なものがある。 英語では、帆走ヨット (''sailing yacht'')、あるいは単に帆船 (''sailboat'') と呼ぶことが多い。ただし、これらの船艇を使ったレースは yacht race と呼ばれる。ヨットでの航海やヨット競技のことを[[セーリング]](''sailing'')ともいう。これはヨットがセール(''sail'':帆)を使って進むからである。 現在、ヨットと分類される船舶は非常に多岐にわたっている。乗員数も一人乗りから10人以上まで様々であり、設備もラダー([[舵]])、セール([[帆]])、キール([[竜骨 (船)|竜骨]])しかないものからキャビン、発動機を完備したものまである。発動機やキャビンのない小型のヨットを「[[ディンギー]]」、発動機やキャビンのある大型のヨットを「[[クルーザー]]」と呼び分けることがある。 外洋を長期間・長距離に渡って航行することが可能ながら、比較的小型で個人で運用可能であるため、冒険心のある人物による単独での大洋の横断、無寄港での世界一周などが行われている。 == 歴史 == ヨットの原型は7世紀頃に発明されたアラブのダウ船である。これは追い風だけしか利用できなかったそれまでの帆船を大きく変え、向かい風でも斜め前方に進むことができる大発明であった。その後、その技術がヨーロッパにも伝わり、ヨットという名称が歴史に初めて登場するのは、14世紀の[[オランダ]]とされている。当初は、その高速性や俊敏さから[[海賊]]を追跡したり、[[偵察]]などに用いられるために建造された三角帆を持つ風上にも進行可能な高速[[帆船]]で、jaght schip、略して“jaght”と呼ばれていた{{Efn|jaght:ヤハトとは[[オランダ語]]で「狩る」「追いすがる」といった意味である。}}。 17世紀には金持ちの娯楽としてセーリングが大々的に流行するようになり、スペールヤハトと呼ばれる専用のプレジャーヨットが作られるようになった<ref name="Lavery">ブライアン・レイヴァリ著、増田義郎、武井摩利訳『船の歴史文化図鑑:船と航海の世界史』悠書館、2007年。ISBN 9784903487021、pp.260-267,368-373.</ref>。 [[1660年]]に[[イギリス]]で[[イングランド王政復古|王政復古]]に成功した[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は、オランダより寄贈されたこの乗り物を好み、イギリスの水路事情に合わせ喫水やリーボードの廃止などの改良を施し、発音に基づいた英語として ''yacht'' と名前を改めた。これが現在のYachtの語源である。王とその弟[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェイムス]]は同種の船を12隻建造し、軍用や王室行事などに使用したため、イギリス貴族の間でもプレジャーヨットが流行した<ref name="Lavery"/>。記録に残る最初のヨットレースは、1661年にチャールズ2世とジェイムスがグリニッジ - グレイヴズエンド間で行った競争である。 [[1720年]]には、記録に残っている最古のヨットクラブ「コーク・ウォーター・クラブ」が[[アイルランド]]に設立された。これは現在の「ロイヤル・コーク・ヨットクラブ」の祖である。 以後、19世紀にかけてヨーロッパ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の王室や富裕層を中心にヨットを嗜む人が増え、各地にヨットクラブが設立された<ref name="Lavery"/>。18世紀にもアイルランドとイングランドのクラブ同士でレースが行われる事があったが、19世紀になって大掛かりな国際ヨットレースが行われるようになった。 19世紀後半には[[ディンギー]]と呼ばれる小型艇のレースもも始まり、[[第一次世界大戦]]後に盛んになった。当初は参加者がそれぞれに設計したボートで競われていたが、1875年にイギリスで設立されたヨット競技協会(YRA)によって統一的なルールと6段階のクラス分けが制定された。1907年にYRAは国際ヨット競技連盟(IYRU)となり、国際的なレース規則とヨットのサイズなど仕様標準が定められた。また、19世紀末から20世紀にかけてヨットによる冒険航海が流行した。[[ジョシュア・スローカム]]は1895年から1898年の3年に渡って、ヨットによる単独世界一周を成し遂げた。今日でもこの種の冒険航海に挑戦するヨットマンは多い<ref name="Lavery"/>。 蒸気エンジン付きのヨットはイギリス人トマス・アシュトン・スミスによって19世紀半ばに初めて作られたが、蒸気エンジンは騒音が酷く扱いが難しいため普及しなかった。その後、19世紀末から富裕層の大型ヨットに装備されるようになり、20世紀にガソリンエンジン、ディーゼルエンジンが普及するにつれ、動力付きのヨットは一般人にも手が届くようになった<ref name="Lavery"/>。第2次世界大戦以後、ヨットの素材に化学繊維やグラスファイバーなど新素材が取り入れられ、ヨットはより安価になり[[水上スポーツ]]人口を大幅に増加させた。 === 日本におけるヨットの歴史 === [[日本]]においては[[1861年]](文久元年)に[[長崎市|長崎]]で英国人船大工が貿易商オルトの注文で建設し、当時の[[ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー|地元新聞]]で報道された「ファントム号」や、同年、外国人たちが開催したヨットレース「長崎[[レガッタ]]」が初めてのものといわれている。また、[[1882年]]([[明治]]15年)には[[横浜市|横浜]]の[[本牧]]で日本人により初めて建造され、神奈川の[[葉山町|葉山]]で帆走したことから、[[葉山港]]には'''日本ヨット発祥の地'''と刻まれた碑が建っている。 ヨットクラブは横浜を始め[[神戸市|神戸]]や[[長崎市|長崎]]などに設立された。 == ヨットの動く原理 == ヨットを始めとして帆走船は[[風]]を利用して動くため、まっすぐ風上の方向(風位)へは進むことができない。しかし、風位に対して最大およそ45度の角度(クローズホールド)までなら進むことができる<ref>「4次元以上の空間が見える」小笠英志 ベレ出版 ISBN 978-4860641184<nowiki/>のPP.242-248に、帆船が風上の方へ進むことができることを感覚的に納得できる説明が載っている。この説明は手軽な実験で確かめられる。その実験も載っている。</ref>ため、ジグザグにであれば風上へと向かうことができる。進行方向と風上方向との間を成す角度と、理論帆走速度と風速の比を示したものを帆走ポーラー線図(ポーラーダイアグラム)と呼び、性能を示す指標の一つとなる。 この原理は以下の通りである。<br/> [[画像:Yacht-Closehold-Force.PNG|thumb|300px|クローズホールド時にヨットに働く力の模式図]] 図のように、セール(帆)の付近を流れる風によって発生する[[揚力]](船の進行方向に対して斜め前方の向き)のうち進行方向に対して垂直な[[成分]]を、キール(竜骨)またはセンターボード(船底の中央から水中に差し込む板)によって打ち消すことにより、進行方向と同じ向きの推進力を得る。更に、セールに発生する揚力に加え、リーウエイする艇のキールへの水流の迎角からも艇を前進する力が発生する。 なお、ヨットにはセールを複数持つものもあるが、図では簡略化するためにセールが1枚のものを描いている。セールが複数ある船では、各セールに発生する揚力の合力を、この図でいう「揚力」とみなせばよい。 {{-}} == 種類 == === ディンギー(主に1人〜2人乗り) === {{See also|ディンギー}} 一人乗りから二人乗りのヨットで、比較的見る機会が多いものとしては「FJ級(2人乗り)」「420級(2人乗り)」「シーホッパー級SR(1人乗り)」「スナイプ級(2人乗り)」などが挙げられる。日本では、海沿いの高校、大学でヨット部がある学校などには、大抵はこの3つのクラスの艇が備わっている。また、大学の体育会ヨット部では「470級(2人乗り)」と「スナイプ級(2人乗り)」を所有し、全日本インカレ等が行われる。小・中学生のヨットクラブでは小型の「オプティミスト(OP)級(1人乗り)」で練習を行うところもある。 [[障害者|障がい者]]も操船できるように[[ユニバーサルデザイン]]で開発された「ハンザ(ハンザクラス、ハンザディンギー)」という1人~2人乗りのヨットもある<ref>[http://jp-hansaclass.org/ 日本ハンザクラス協会] (2018年10月14日閲覧。)</ref>。 === クルーザー(主に4人乗り以上) === 5人から10人乗り程度のヨットは国内でも比較的見る機会が多い。全長によって、おおまかに以下のように分かれる。 * 小型艇と言われる全長24フィート(約8メートル)程度のヨット。 * 中型艇と言われる全長30フィート(約10メートル)程度のヨット。 * 大型艇と言われる全長40フィート(約13メートル)程度のヨット。 かつて日本にも国産最大手の[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]をはじめ、多数のメーカーが存在したが、現在では岡崎造船のみ。 設計者としては横山、林、ヴァンデュスタット大橋。 現在は外国メーカーのヨットが主流。 * フランス:ジャヌー、デュフォー、[[ベネトウ]] * ドイツ:デヘラー、ハンゼ、ババリア * イタリア:ソラリス、スライ、グランドソレイユ * フィンランド:スワン、バルティック、デゲロ * スウェーデン:ホルベルグラッシー、ナヤード、アルコナ * デンマーク:Xヨット * アメリカ:ヒンクリー、タータン * その他:Jボート、[[ナウティキャット]]など。 == ヨットレース == [[File:Cabo_San_Lucas_Race_Start_2013_photo_D_Ramey_Logan.jpg|thumb|ヨットレース(2013年)]] === 競技種別 === ヨットレースは大きく分けて、湾内や陸が見える程度の[[沿岸]]で行うインショア・レースと、陸が見えない外洋で行うオフショア・レースに分けられる。 インショア・レースは[[浮標|ブイ]]で構成されたコースを規定の順・回数で周回する形式でディンギーなど1~2人乗りの小型艇が主流。[[オリンピックのセーリング競技]]もインショア・レースである。 オフショア・レースはスタート港から出港し、ゴールに指定された港までの所要時間を競うレースで、10人上が乗る大型艇が主流。他にも無寄港や単独など過酷な条件で行う冒険レースなどがある。 === オリンピック === {{main|オリンピックのセーリング競技}} === ルール === 近代のヨットレースには世界的に統一された規則がある。このルールはレーシングルールオブセーリング(RRS)と呼ばれ、国際セーリング連盟([[ワールドセーリング|World Sailing]])が管理し、世界各国の国別セーリング連盟とともに運用している。日本を管轄するのはISAFに加盟する[[日本セーリング連盟]](JSAF)である。 一般的なインショア・レースにおけるルールとしては、二等辺三角形や台形の頂点にそれぞれブイ(マーク)を浮かべ、それを反時計回りに回るというものがあり、規定数を周回するまでの順位を競う。公式大会などでは、合計10レース以上を行い、その得点により順位を決する。1位が1点、2位が2点、順位が上位であるほど得点が少なく、全レースで最も得点の低いものが優勝となる。故にリタイアや失格などは高得点になる。 オフショア・レースでは航路は大まかな指定のみで、艇ごとに風や海の状況を読み細かく修正しながらゴールを目指す。 ヨットレースでのルールで最も頻繁に出てくるのは接触に対する予防規定であり、特にヨット同士が接近しやすいインショア・レースでは重要なルールである。国際的な基本ルールである[[スターボード艇優先の原則]]の他にも、その時の状態において優先権がある権利的強者と接触した場合に罰則を受ける権利的弱者が規定されている。その他、細かい点については、国際セーリング競技規則や、各クラスルールによって定められている。 2艇のみで行うレースを[[マッチレース]]と呼び、[[アメリカスカップ]]などが該当する。 公平を期すため[[ワンメイクレース|同一規格の艇で行うレース]]をワンデザイン・クラスと呼び、[[SailGP]]などが該当する。 === 著名なレース === ; ジ・オーシャンレース : 旧名はボルボ・オーシャンレース : {{main|ジ・オーシャンレース}} ; アメリカスカップ : {{main|アメリカスカップ}} ; ヴァンデ・グローブ : 単独無寄港無補給で世界一周に挑戦する冒険レース。 : {{main|ヴァンデ・グローブ}} ; メルボルン=大阪 ダブルハンド ヨットレース : 日本とオーストラリアが共催する5500マイル(約10,000km)の二人乗りオフショア・レース<ref>[http://ohyc-yacht.com/MOCDHYR/ メルボルン大阪ダブルハンドヨットレース] - 公式サイト</ref>。3月下旬にオーストラリアの[[メルボルン|メルボルン港]]をスタートし、赤道を越えて日本の[[大阪港]]にゴールする太平洋縦回りという珍しいコースを取る。[[1987年]](昭和62年)から4年に一度開催されている。 ; スバルザカップヨットレース : 日本最大級のヨットレース。[[東京湾]]を舞台に[[東京ディズニーランド|浦安ディズニーランド沖]]をスタートし、[[海ほたる]]をブイに見立て回って帰ってくるオフショアレース。 : 毎年[[海の日]]の3連休に開催され、前夜祭や陸上イベントなど参加者以外も楽しめるイベントである。 ; タモリカップ<ref name="Tamoricup">[https://www.tamoricup.com/ タモリカップ公式サイト]</ref> : 2008年 - 2018年にかけて[[タモリ]]が主催していたインショア・レース。日本国内の[[マリーナ]](3~4ヶ所)を巡るツアーレースとなっており、参加艇は最大で200程になる。 : 参加資格に「愉快な人」が含まれ、クラスカテゴリーが「ぶっちぎりそうな船」や「大会主旨を正しく理解しているか不明な船」など、純粋な競技志向ではなく参加者の交流をメインとした総合イベントである。 : 主に[[沼津港]]([[沼津市]])<ref>[https://bulkhead.jp/2012/08/5450/ 日本一楽しい!沼津タモリカップ写真集] バルクヘッドマガジン、2012年8月20日配信、2021年12月4日閲覧</ref> 、[[富山湾]]([[射水市]])<ref>[https://toyama-asbb.com/archives/18621 【タモリカップ2018】再び富山湾で開催決定!詳しい情報まとめ] 富山の遊び場!、2018年7月13日配信、2021年12月4日閲覧</ref>、[[福岡市ヨットハーバー]]・[[西福岡マリナタウン|西福岡マリーナ マリノア]]<ref>[https://www.city.fukuoka.lg.jp/hash/news/archives/74.html タモリさんのヨット愛の原点・博多湾で開催された「タモリカップ」に潜入してみた!] #FUKUOKA 福岡のクリエイティブなニュース、2015年8月27日配信、2021年12月4日閲覧</ref>、[[横浜ベイサイドマリーナ]]<ref>[https://www.tamoricup.com/race/yokohama.html タモリカップ2018横浜大会] タモリカップ公式サイト、2021年12月4日閲覧</ref>といった会場で開催されていた。 : 2019年4月、前年の横浜大会を最後に同大会を終了する事を、実行委員会が大会公式サイトにて発表した。これにより、11年の歴史に幕を下ろした<ref name="Tamoricup"/>。 ; YBMオープンヨットレース : [[横浜ベイサイドマリーナ]]主催で毎年秋に行われるヨットレース。東京湾で定期的に行われる大きなレースの一つ。レース海域はベイサイドマリーナ沖から八景島沖の間の海域。 ; SailGP : 2019年に発足したインショア・レース。国別対抗戦形式。 : {{main|SailGP}} ==用語== ; クロースホールド(クローズ)「Closehauled」 : 風位([[風]]の吹いてくる方向)に対して最大の約45度の角度で航行する(のぼる)こと。その原理については、[[#ヨットの動く原理]]の項を参照のこと。 ; タッキング(タック)「Tacking」 : クロースホールドで進んでいるとき、反対向きのクロースホールドまで風上方向へ船の向きを回転させる動作。一瞬だけ風位を向く。風上の方向に目的地がある場合は、ヨットは風上に向かって直進に進むことは不可能であるため、タックを繰り返してジグザグに進みながら向かっていく。 ; ランニング : 船の進行方向のほぼ真後ろから風を受けて進む(くだる)こと。このとき、セール(帆)は船の片側に大きく開いている。完全に真後ろから風を受ける「デッドラン」では失速したり、強風下ではワイルドジャイブ(下記参照)を引き起こしたりする。一般常識としては「順風満帆」という言葉からこの状態が速いと意識されているが、実際は後述の「アビーム」の方がスピードが出る。推進力は船体の速度と風速の差であるため、速度が上がると得られる推進力は低下する。 ; ジャイブ(ジャイビング) : ランニングに近い角度で進んでいるとき、風下方向へ舟を回し片側に開いているセールを反対側に開くこと。ワイルドジャイブは強風下で船の真後ろから風を受けているときにジャイブ動作をしていないのに勝手にセールが反転する現象である。ワイルドジャイブが起きると船が大きく傾き転覆する事がよくある。映画「白い嵐」では最終的にワイルドジャイブにより船が転覆する。 ; アビーム「Abeam」 : 風位に対して90度から風を受けて進むこと。ちょうど船の真横から風を受ける形。ヨットではアビームの状態が最もスピードが出る。いかなる船体の速度でも横風の相対速度は変わらないため、速度が上がっても推進力は変わらない。 ; チン(沈) : ヨット(ディンギー)が転覆すること。90度横に転覆したものを半沈(ハンチン)、180度完全に転覆したものを完沈(カンチン)と言う。また、陸上に上げて保管中に台風などで横倒しになった場合には陸沈(リクチン)と呼んだりする。 ; ジブ : メインセールが後ろの帆であるとするならば、前の帆になる小さいセール。正式にはジブセールとは言わない。 ; スピンネーカー(スピン)「Spinnaker」 : メインセール、ジブセールのほか、クローズ以外の角度で航行するときに張ることができる3枚目の非常に軽い帆。1人乗りの船には無い。2人乗りでも、FJ級・470級などにはあるが、スナイプ級などには無い。映画「ウォーターワールド」では海賊から逃げる際に使われた。 : {{main|スピンネーカー}} ; スキッパー(ヘルムスマン)「Helmsman」 : 主に舵取りを担当する人員のこと。艇長。ディンギーではメインセールの操作と舵取りの役割を担う。 ; クルー 「Crew」 : 操船に係わる乗員の中でスキッパーでない人員のこと。ディンギーでは主にジブセールおよびスピンネーカーの操作、船の左右の傾き(ヒール)の調整、また海や他艇の状況把握および進路判断の役割を担う。 ; トラピーズ「Trapeze」 : マストの上部から左右にぶら下がっているワイヤー。下端に金属製の輪(トラピーズリング)がついている。クルーが腰の周りに「ハーネス」と呼ばれる金具を装着し、その金具をトラピーズリングに引っかけて外側に体重をかけることで、効率よく船の左右の傾き(ヒール)を打ち消すことができる。クルーがいない1人乗りの船には無い。2人乗りでも、FJ級・470級などにはあるが、スナイプ級などには無くクルーもハイクアウト(下に記述)をとる。また、49erやナクラ17ではスキッパーもハーネスを装着し2人ともトラッピーズに出る。 ; ハイクアウト「Hikeout」 :足首を「フットベルト」と呼ばれるベルトに引っ掛け、臀部から上の体を船の外に出して体重をかけて傾き(ヒール)を打ち消す方法。ディンギーでは1人乗り2人乗りのどちらもで行われる動作ではあるが、FJ級・470級はスキッパーだけが、スナイプ級ではトラピーズがないクルーもこれをとる。上半身の体重がかかる為、腹筋と大腿筋に負担がかかる。 ; スターボード(スターボ)「Starboard」 : [[右舷]]。舵取り甲板が進行方向右側だったことに由来。あるいは風を右舷から受けて走る状態(スターボードタック)。レースではスターボ艇がポート艇に対して権利的強者となる。 ; ポート : [[左舷]]。港に横付けする側が進行方向左側だったことに由来。あるいは風を左舷から受けて走る状態(ポートタック)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== {{commons|Category:Yachts}} {{commons|Category:Sailboats|ヨット(小型の帆船)}} * [[ヨットマン]] * [[回航]] * [[中古艇]]、[[プレジャーボート]]、[[大統領専用ヨット]] * [[ランドヨット]]、[[アイスヨット]](氷上) * [[双胴船]]・[[トリマラン]] - 帆船の場合横風でモノハル船より帆が倒れ難く推力が高いので、近年ルールが認める場合に採用例が増えている。非帆装遊行船の場合でも、ヘリポートも含め水上構造物が広く大きく取れるメリットがある。 ;イベント {{div col||15em}} * [[アメリカスカップ]] * [[ジ・オーシャンレース]] * {{仮リンク|ジュール・ヴェルヌ杯|en|Jules Verne Trophy}} - 世界一周ヨットイベント{{div col end}} ;通信 [[電波法]] {{div col||15em}} * [[無線局]] * [[無線従事者]] * [[国際VHF]] ** [[国際VHF#マリンVHF|マリンVHF]](海洋スポーツ・レジャー用) * [[アマチュア無線]] * [[無線電話用特定小電力無線局|特定小電力トランシーバー]] {{div col end}} == 外部リンク == === 競技団体 === ;国内 {{div col||30em}} * [https://www.jsaf.or.jp/hp/ 公益財団法人 日本セーリング連盟] ** [https://www.zennihon201809.com/ 全日本学生ヨット連盟] ** [http://www.jjyu.net/ 日本ジュニアヨットクラブ連盟] ** [http://www.jbsa.jp/ 日本視覚障害者セーリング協会] ** [http://yacht.main.jp/ JSAF外洋東京湾] * [http://www.snipejp.org/ 日本スナイプ協会 (SCIRA Japan)] * [http://www.tasarjapan.org/ 日本テーザー協会] * [https://www.japan420sailing.org/ 日本420協会] * [https://seahopper.net/ 日本シーホッパー協会] * [http://www.jjyu.net/ 日本ジュニアヨットクラブ連盟] * [http://www.japan-opti.com/ 日本オプティミスト・ディンギー協会(日本OP協会)] * [https://jw-a.org/ 日本ウインドサーフィン協会] * [http://www.matchrace.gr.jp/ 日本ヨットマッチレース選手会] ;海外 * [https://www.sailing.org/ International Sailing Federation (ISAF)] * [https://www.snipe.org/ Snipe Class International Racing Association (SCIRA) ] * [http://www.internationalwindsurfing.com/ International Windsurfing Association (IWA)] {{div col end}} === 競技会 === * [http://subaruza-cup.com/ スバルザカップ ヨットレース 東京ベイオープン] * [http://www.5-oceans.com/ 5OCEANS THE ULTIMATE SOLO CHALLENGE] === その他 === * [http://wayback.vefsafn.is/wayback/20061120225533/http%3A//www.imo.org/home.asp International Maritime Organization(IMO=国際海事機関)]{{en icon}}(アーカイブ版) * {{Egov law|352AC0000000062|海上衝突予防法(昭和52年法律第62号 最終改正:平成15年6月4日法律第63号)}} {{帆船}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:よつと}} [[Category:ヨット|*]] [[Category:構造別の船]] [[Category:オリンピック競技]] [[Category:パラリンピック競技]] [[Category:オランダ語由来の外来語]] [[Category:夏の季語]]
2003-02-17T09:49:40Z
2023-10-31T22:27:50Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%88
2,196
VHS-C
VHS-Cは、VHSの小型テープでVHS-Compact (ビデオホームシステムコンパクト) を略したもの。1982年(昭和57年)に規格がまとめられた。 ポータブルビデオの小型化でVHSの先を行くベータマックスに対抗すべく日本ビクター(現・JVCケンウッド)によって開発された規格。同社より1982年にポータブルビデオデッキ「HR-C3」が発売された。シャープ(VC-20P)、松下(NV-200)、日立(VT-M1)、三菱(HV-11G)が後に続いた。後に登場した8ミリビデオへの対抗としてビデオカメラに採用されるようになって脚光を浴びた。 VHS-CのカセットサイズはVHSフルカセットのおよそ3分の1。製品の開発に当たっては、当時、日本ビクタービデオ事業部の技術者が「VHSフルカセットのテープがヘッド(回転ヘッド)に巻きつく角度(ローディング角)とアジマス角(磁気記録パターン)を何分の1かにすれば、VHSフルカセットよりも小さいサイズのテープが実現出来る」と考え、物理的な計算とVHS-C専用のテープローディング機構、専用小型ヘッドドラムを開発する事から始まった。発売当初の録画時間は20分だったが、その後はテープ素材の改良などで標準モード録画で40分まで延長され、3倍モードで120分(2時間)の録画を可能にした。記録フォーマットはVHSと完全互換性があり、VHS-Cカセットアダプタを使用することで通常のVHSビデオテープとしてVHSデッキで再生・録画できる。平成に入るとカセットアダプタを必要としない「コンパチブルビデオデッキ」(例:ビクターHR-SC1000、松下NV-CF1)も発売された。 VHS-Cは、その構造上テープハーフ(テープハウジング)と保管用ケースの中でテープがたるみやすく、子供がいたずらをしてテープを引っ張り出してダメにしてしまったり、たるみを取らないままカメラに装填してトラブルを起こすケースも少なくなかったようだ。後に、テープハーフと保管ケースの片方または双方に「セーフティロック機構」などと称したたるみ防止の対策を講じた改良製品が登場している。 当初は8ミリビデオと激しいシェア争いを展開していたが、1989年にソニーが小型タイプの8ミリビデオカメラ「ハンディカム・CCD-TR55」を発売し、爆発的にヒットさせると市場は大きく8ミリに傾いた。VHS-C陣営は翌年、日本ビクターから「ムービーごっこ・GR-LT5」、松下電器産業(現 パナソニック)から当時としては画期的な手振れ補正機能を備えた「ブレンビー・NV-S1」などの小型タイプのビデオカメラを開発し、VHSデッキでそのまま見られる事をアピールして対抗したが、ソニーはさらに小型化を果たした新モデルを投入。流行語にもなった「パスポートサイズ」というサイズの小ささを示すキャッチコピーとともに「2時間録画」を前面に売り出したこともあり録画時間で不利なVHS-Cは次第にシェアを落としていった。 一方、日本を上回る市場規模を持つアメリカ合衆国でも、VHS-C規格は普及しなかった。アメリカ市場のニーズでは小型化されたカメラはボタンが小さく、操作がやりにくいと敬遠され、レンタルビデオソフトの再生機能を兼ねたフルサイズのVHS規格のビデオカメラが好まれた。後に安価なビデオデッキの登場で、レンタルビデオ再生を専用の据え置き型デッキで行う趨勢となった時には、日本の場合と同じく録画時間の短さやテープのたるみの問題からVHS-Cは敬遠され、8ミリビデオが普及した。 8ミリビデオの攻勢に押される中、VHS-C陣営だったシャープや日立製作所、東芝は、8ミリビデオに転向した。松下電器産業も自社ではVHS-Cを販売する一方で、海外メーカー向けに8ミリビデオもOEM製造しており、8ミリ転向がたびたび噂された。 1995年(平成7年)秋にはDV規格が登場。その後、ビデオカメラの市場はDVやメモリーカードタイプなどに置き換わっていき、VHS-Cのカムコーダは販売を終了。 VHS-C生テープとヘッドクリーニングテープに関しては2012年と2013年、カセットアダプターは2014年に全てのメーカーで販売が終了され、市場流通在庫のみの取り扱いとなっている。 [カセット及びテープ] [録/再メカデッキ]
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VHS-Cは、VHSの小型テープでVHS-Compact (ビデオホームシステムコンパクト) を略したもの。1982年(昭和57年)に規格がまとめられた。
{{ディスクメディア |名称=VHS-Compact |略称=VHS-C |ロゴ=[[ファイル:VHS C Logo.svg|90px|VHS logo]] |画像=[[ファイル:Super-VHS-Compact001-Mini-Version.JPG]] |画像コメント= |種類= |容量=20分<br />30分<br />40分 |フォーマット= |コーデック= |読み込み速度=約33.34mm/s (SP)<br />16.76mm/s (LP)<br />11.18mm/s (EP) |書き込み速度= |回転速度= |読み取り方法= |書き込み方法= |書き換え= |回転制御= |策定=[[日本ビクター]]<br />(現・[[JVCケンウッド]]) |用途=映像等 |ディスク径= |大きさ=92×52×23mm |重さ= |上位= |下位= |関連= }} {{右| [[ファイル:Super-VHS-Compact001.JPG|thumb|right|300px|[[2011年]][[10月]]現在、VHS-Cアダプターについては、[[JVCケンウッド]] ([[日本ビクター|Victorブランド]]) 製の、「C-P8」(左) と、[[パナソニック]]製の「VW-TCA7」(右) の2機種が発売されている。]] [[ファイル:ビクター VHS-Cビデオムービー(モノラル) GR-AX155.JPG|thumb|right|300px|ビクターのVHS-Cビデオムービー「GR-AX155」VHS-C末期の機種。1997年発売。]] [[ファイル:VHS vs MiniDV.png|thumb|right|300px|VHS、VHS-Cおよび[[MiniDV]]のサイズ比較]] }} '''VHS-C'''は、[[VHS]]の小型テープで'''VHS-Compact''' ('''ビデオホームシステムコンパクト''') を略したもの。[[1982年]] (昭和57年) に規格がまとめられた。 == 概要 == ポータブルビデオの小型化でVHSの先を行く[[ベータマックス]]に対抗すべく[[日本ビクター]] (現・[[JVCケンウッド]]) によって開発された規格。同社より1982年にポータブル[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]「HR-C3」が発売された<ref name="BEACON | ">{{Cite web|和書| url = https://www.icom.co.jp/personal/beacon/electronics/1067/ | title = 「No.70 日本のエレクトロニクスを支えた技術「ビデオカメラ&デジカメ」第1回」 『 BEACON』 | author = | authorlink = | coauthors = | date = | format = | work = | publisher = アイコム株式会社 | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2022-06-20}}</ref><ref name="C3">{{Cite web|和書| url = http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=100210021291&c&y1&y2&id&pref&city&org&word&p=45 | title = 産業技術史資料データベース | author = | authorlink = | coauthors = | date = | format = | work = | publisher = 国立科学博物館、産業技術史資料情報センター| pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2014-03-08}}</ref>。シャープ (VC-20P)、松下 (NV-200)、日立 (VT-M1)、三菱 (HV-11G)が後に続いた<ref>{{Cite |和書 |author= |title=ASCII 1982年10月号 |volume=6 |issue=10 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-10-1 |pages=64-65 }}</ref>。後に登場した[[8ミリビデオ]]への対抗として[[ビデオカメラ]]に採用されるようになって脚光を浴びた。 VHS-CのカセットサイズはVHSフルカセットのおよそ3分の1。製品の開発に当たっては、当時、日本ビクタービデオ事業部の技術者が「VHSフルカセットのテープがヘッド (回転ヘッド) に巻きつく角度 (ローディング角) とアジマス角 (磁気記録パターン) を何分の1かにすれば、VHSフルカセットよりも小さいサイズのテープが実現出来る」と考え、物理的な計算とVHS-C専用のテープローディング機構、専用小型ヘッドドラムを開発する事から始まった。発売当初の録画時間は20分だったが、その後はテープ素材の改良などで標準モード録画で40分まで延長され、3倍モードで120分 (2時間) の録画を可能にした。記録フォーマットはVHSと完全互換性があり、VHS-Cカセットアダプタを使用することで通常のVHSビデオテープとしてVHSデッキで再生・録画できる。平成に入るとカセットアダプタを必要としない「コンパチブルビデオデッキ」 (例:ビクターHR-SC1000、松下NV-CF1) も発売された。 VHS-Cは、その構造上テープハーフ (テープハウジング) と保管用ケースの中でテープがたるみやすく、子供がいたずらをしてテープを引っ張り出してダメにしてしまったり、たるみを取らないままカメラに装填してトラブルを起こすケースも少なくなかったようだ。後に、テープハーフと保管ケースの片方または双方に「セーフティロック機構」などと称したたるみ防止の対策を講じた改良製品が登場している。 当初は8ミリビデオと激しいシェア争いを展開していたが、[[1989年]]に[[ソニー]]が小型タイプの8ミリビデオカメラ「ハンディカム・CCD-TR55」を発売し、爆発的にヒットさせると市場は大きく8ミリに傾いた。VHS-C陣営は翌年、日本ビクターから「ムービーごっこ・GR-LT5」、松下電器産業 (現 [[パナソニック]]) から当時としては画期的な手振れ補正機能を備えた「ブレンビー・NV-S1」などの小型タイプのビデオカメラを開発し、VHSデッキでそのまま見られる事をアピールして対抗したが、ソニーはさらに小型化を果たした新モデルを投入。流行語にもなった「パスポートサイズ」というサイズの小ささを示すキャッチコピーとともに「2時間録画」を前面に売り出したこともあり録画時間で不利なVHS-Cは次第にシェアを落としていった。 一方、日本を上回る市場規模を持つ[[アメリカ合衆国]]でも、VHS-C規格は普及しなかった。アメリカ市場のニーズでは小型化されたカメラはボタンが小さく、操作がやりにくいと敬遠され、レンタルビデオソフトの再生機能を兼ねたフルサイズのVHS規格のビデオカメラが好まれた。後に安価なビデオデッキの登場で、レンタルビデオ再生を専用の据え置き型デッキで行う趨勢となった時には、日本の場合と同じく録画時間の短さやテープのたるみの問題からVHS-Cは敬遠され、8ミリビデオが普及した。 8ミリビデオの攻勢に押される中、VHS-C陣営だった[[シャープ]]や[[日立製作所]]、[[東芝]]は、8ミリビデオに転向した。松下電器産業も自社ではVHS-Cを販売する一方で、海外メーカー向けに8ミリビデオもOEM製造しており、8ミリ転向がたびたび噂された。 [[1995年]] (平成7年) 秋には[[DV (ビデオ規格)|DV規格]]が登場。その後、ビデオカメラの市場はDVやメモリーカードタイプなどに置き換わっていき、VHS-Cの[[カムコーダ]]は販売を終了。 VHS-C生テープとヘッドクリーニングテープに関しては2012年と2013年、カセットアダプターは2014年に全てのメーカーで販売が終了され、市場流通在庫のみの取り扱いとなっている。 == 仕様 == [カセット及びテープ] * カセット形状:92mm×52mm×23mm * テープ幅:12.7mm (2分の1インチ) * 録画時間:20分 (標準モード) から40分、60分から120分 (3倍モード) [録/再メカデッキ] * ヘッドドラム径:41.33mm (※一部カムコーダの機種ではVHS標準ドラム径62mmを搭載していた物も存在した) * 巻きつけ角: 270°+10° *ヘッド回転速度: 2700rpm (標準径ドラムの場合1800rpm)<ref>{{Cite journal | author = 脇泰司・吉野正・太田豊 | title = マックロードムービー: VHS方式カメラ一体型ビデオ | journal = テレビジョン学会技術報告 | volume = 8 | issue = 42 | pages = 67 - 72 | year = 1985 | doi = 10.11485/tvtr.8.49_67}}</ref> * VHS-C専用メカデッキ (巻き取り側リール駆動のみ専用小型歯車構造、テープパス及びローディングはVHS-C専用構造) == 備考 == * 映画「[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]」のパート1で1985年の世界から1955年の世界にもっていったビデオカメラはビクター製 (JVCブランド) のVHS-Cカムコーダー「[[:en:JVC_GR-C1|GR-C1U]]」で、1984年に発売された市販品。VHS-C初のビデオ一体型カメラである。日本での型番はGR-C1で、カタログなどにはバック・トゥ・ザ・フューチャーの写真が表紙を飾っていた。この映画ではJVCブランドの製品がほかにも登場している。 * 据置き型VTRでカセットアダプタを使用せずにフルサイズカセットとコンパクトカセットの両方が録画再生可能な機種も開発された。ビクターからHR-SC1000 (1989年発売・世界初S-VHSコンパチビデオ) とHR-FC500 (1990年発売・SC1000をVHS・Hi-Fi化したもの) の2機種が、松下電器産業からはNV-V8000 (1990年発売・Sビデオマスター8000) とNV-CF1 (1991年発売・Cカセット編集ビデオ) の2機種が発売された。ビクターのものは「マルチフォーメーショントレイ」方式のトレイローディング、NV-V8000は「マウス・チェンジ」方式を採用したフロントローディング、NV-CF1は左側にコンパクトカセット専用VHS-Cデッキを、右側にフルサイズカセットのVHSデッキの2つのデッキを搭載したダブルビデオだった。 == 関連項目 == * [[S-VHS-C]] * [[映像機器]] == 脚注 == {{reflist}} {{Video storage formats}} [[Category:VHS]]
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2,197
APW法
APW法 (英: Augmented Plane Wave method) は、1937年にジョン・クラーク・スレイターによって発明されたバンド計算手法で、マフィンティンポテンシャルを用いて電子状態計算を行う。それまでのセルラー法の難点を改良した。日本語の直訳で、補強された平面波による方法、補強された平面波法などと言われることもある。 基底関数はマフィンティン半径の外側(格子間領域と言う)では平面波が採用され、マフィンティン半径の内側では補強された平面波(球面波成分を含む)を用いる。これらの基底関数から記述される、格子間領域内の波動関数とマフィンティン半径内(すなわちマフィンティン球内)の波動関数は、マフィンティン半径上(すなわちマフィンティン球面上)で接続される。 ただしこのとき、マフィンティンポテンシャル内外の波動関数の導関数は不連続となっていて、通常の波動関数の満たすべき境界条件を満たしていない。 またAPW法では、解くべき行列要素の中に求めるべき固有値が含まれるため、セルフコンシステントな非線型問題を解く必要がある。この問題を解決するために線形化版(LAPW法)が提案された。 更にその後、フルポテンシャル版(FLAPW法)や、局在軌道 (local orbital) を用いた拡張版(APW+lo法)なども提案されている。
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APW法 は、1937年にジョン・クラーク・スレイターによって発明されたバンド計算手法で、マフィンティンポテンシャルを用いて電子状態計算を行う。それまでのセルラー法の難点を改良した。日本語の直訳で、補強された平面波による方法、補強された平面波法などと言われることもある。 基底関数はマフィンティン半径の外側(格子間領域と言う)では平面波が採用され、マフィンティン半径の内側では補強された平面波(球面波成分を含む)を用いる。これらの基底関数から記述される、格子間領域内の波動関数とマフィンティン半径内(すなわちマフィンティン球内)の波動関数は、マフィンティン半径上(すなわちマフィンティン球面上)で接続される。 ただしこのとき、マフィンティンポテンシャル内外の波動関数の導関数は不連続となっていて、通常の波動関数の満たすべき境界条件を満たしていない。 またAPW法では、解くべき行列要素の中に求めるべき固有値が含まれるため、セルフコンシステントな非線型問題を解く必要がある。この問題を解決するために線形化版(LAPW法)が提案された。 更にその後、フルポテンシャル版(FLAPW法)や、局在軌道 を用いた拡張版(APW+lo法)なども提案されている。
'''APW法''' ({{lang-en-short|Augmented Plane Wave method}}) は、[[1937年]]に[[ジョン・クラーク・スレイター]]によって発明された[[バンド計算]]手法<ref>[[#Slater|Slater]] (1937).</ref>で、[[マフィンティンポテンシャル]]を用いて[[電子状態計算]]を行う。それまでのセルラー法の難点を改良した。[[日本語]]の直訳で、補強された[[平面波]]による方法、補強された平面波法などと言われることもある。 [[基底関数]]は[[マフィンティン半径]]の外側([[格子間領域]]と言う)では平面波が採用され、マフィンティン半径の内側では'''補強された平面波'''([[球面波]]成分を含む)を用いる。これらの基底関数から記述される、格子間領域内の[[波動関数]]とマフィンティン半径内(すなわちマフィンティン球内)の波動関数は、マフィンティン半径上(すなわちマフィンティン球面上)で接続される。 ただしこのとき、マフィンティンポテンシャル内外の波動関数の[[微分法|導関数]]は不連続となっていて、通常の波動関数の満たすべき[[境界条件]]を満たしていない。 またAPW法では、解くべき[[行列要素]]の中に求めるべき固有値が含まれるため、[[セルフコンシステント]]な[[非線形性|非線型]]問題を解く必要がある。この問題を解決するために[[線形化 (第一原理バンド計算)|線形化]]版([[LAPW]]法)が提案された。 更にその後、[[フルポテンシャル]]版([[FLAPW]]法)や、局在軌道 ({{en|local orbital}}) を用いた拡張版(APW+lo法)<ref>[[#Sjoestedt|Sjöstedt, Nordström, and Singh]] (2000).</ref>なども提案されている。 == 参考文献 == {{reflist}} *{{cite journal|author=J. C. Slater|journal=Physical Review|volume=51|year=1937|pages=846|ref=Slater}} *{{cite journal|author=E. Sjöstedt, L. Nordström and D. J. Singh|journal=Solid State Communications|volume=114|year=2000|issue=15|ref=Sjoestedt}} * アシュクロフト・マーミン『固体物理の基礎』 == 関連項目 == *[[第一原理バンド計算]] *[[マフィンティンポテンシャル]] *[[ASW法]] *[[LAPW法]] *[[FLAPW法]] {{DEFAULTSORT:APWほう}} [[Category:バンド計算]] [[Category:計算物理学]]
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2,198
S-VHS
S-VHS(エス・VHS/スーパー・VHS)とは、家庭用ビデオ方式のVHSをより高画質にするために開発された規格である(正式名称は「Super VHS」)。 1987年(昭和62年)に日本ビクター(現・JVCケンウッド)が発表し、同年4月にはその第1号機として「HR-S7000」が発売された。 従来のVHS(ノーマルVHS)では、画質の指標となる水平解像度が240TV本であり、VHS第1号機が発表された1976年(昭和51年)当時の、一般的な家庭用テレビの水平解像度は200TV本程度である。また、放送局で使われていた機材もさほど性能が良くなかった。この事からVHSは当時としては十分なビデオ規格であったと言える。 しかし1980年代半ば、NHK-BSなどの衛星放送がスタートし、高画質の放送が行なわれるようになった。また、従来通りの地上波においても、この頃になるとベータカムなどの高性能な映像機器が、多くの番組制作で活用されるようになり、VHSの解像度を超える高画質録画に対応した規格が要求されるようになった。そこで開発されたS-VHSは、輝度信号のFM信号帯域がVHSの4.4MHzから7.0MHz(白ピーク)と広帯域化され、標準、3倍モード共に水平解像度400TV本以上を達成し、民生機では初めて映像信号の鮮明な記録を実現させた。なお、色信号に関しては帯域はVHSと変わらないが、これは従来VHSと大幅に規格を変えないためのやむを得ない処置であった。ただこの規格内において、視覚的により美しい色に見えるように、新製品が発表されるたびに信号処理などが改善が行われた。また輝度信号以外の規格を変更しなかった事で、後にS-VHSのVHS並みの画質での簡易再生「SQPB(S-VHS Quasi Play Back)」機能により対応できた。 S-VHSで録画した水平解像度については、録画した放送の水平解像度内で再生される。当時の地上アナログ放送では水平解像度330本、BSアナログ放送でも350本程度であったが、VHS記録するよりも非常に高画質で記録することが出来る事から、映像の劣化を嫌うマニア層には愛好される事となった。尚、S-VHS規格が真価を発揮するのは、カムコーダーでの録画や、CGを使ったアニメーションビデオの制作等。またデジタルチューナを使った地上デジタル放送やBSデジタル放送からの録画でもSD標準画質へのダウンコンバートとはいえ高画質を発揮できる。 S-VHSより若干遅れて、Beta方式でも高画質規格「ED-Beta」が登場した。輝度信号の帯域拡大はS-VHSよりも著しく、最大9.3MHz(白ピーク)に達し、水平解像度500本を確保。またメタルテープを採用し高画質をアピールした。しかしながら下位互換機であるVHSの普及率の高かった事によりED-BetaはS-VHSほど普及しなかった。S-VHS/ED-Beta共に1987年の段階でのテープ価格は、二時間記録のST-120が3,000円。EL-500が3,500円と比較的高価格であったが、S-VHSテープはS-VHSの本格普及により10本パック製品なども供給され、結果として1/10程度まで価格が低下したものの、ED-Betaテープの価格はS-VHSテープと比較すれば価格下落も緩やかで家電量販店等でも比較的高価であった。S-VHSやED-Betaの規格は地上アナログテレビジョン放送を録画するには過剰な性能であったが、高画質・高音質な衛星放送録画には適しているものであった。またED-Betaも色信号の帯域拡大を行っていない点ではS-VHSと同等であり、新製品が数多く登場したS-VHSではハイエンドモデルからデジタルTBCやデジタル3次元Y/C分離回路など最新技術の投入により高画質対策がなされて行ったのに対しED-Betaでは1990年代初頭以降これと言った対策が行われず、家電メーカー各社より多様な新製品投入で画質を向上させたS-VHSの方がED-Betaより画質でも上回っているという評価を下すビデオ雑誌・評論家もあった。 登場間もない頃は、すべてのVHSビデオがS-VHS対応機に切り替わるという見方が多く、バブル経済による好景気もあって映像編集などを趣味とする消費者(AVマニア)を中心に販売が好調だった。しかし、S-VHS専用テープが必要である事や機器そのものが高額であった事、更に一般消費者の多くがVHSの画質でもさほど不満を持っていなかった事。下位互換性を確保しているにも拘らずS-VHSデッキではVHS録画・再生することが出来ない等とS-VHSに対し誤解する一般層が一部に存在していた事もあった。S-VHSビデオソフトのタイトル数が揃わなかった事に加えて、1991年(平成3年)のバブル崩壊による個人消費の落ち込みの影響もあって、企業や学校などの業務用途、前述のマニアなど一部のヘビーユーザーを除き、S-VHS対応機の販売は好調なものではなかった。一方でカムコーダーにおいては、画質において顕著な差が見られた事、当時カムコーダー自体の低価格化が進んでいた事から廉価な製品(過剰な機能を取り除いたり、マイクと記録方式をモノラルにするなど)が登場した事によって、VHS-CからS-VHS-Cへの移行が順調に進んだ。但し8ミリビデオ規格が1989年ソニーの「パスポートサイズ(CCD-TR55)」の発売で小型化が先行。S-VHS方式と同等の水平解像度400本を実現する高画質なHi8方式も開発され爆発的なヒットをした事から、日立製作所・シャープ・東芝などが次々と8ミリビデオへ切り替えを進め、VHS-C・S-VHS-Cは次第に劣勢に立たされていった。 一般消費者へのS-VHSの普及の兆しが再び訪れたのは、1998年(平成10年)の「S-VHS ET(Expansion Technology)」規格の登場以降である。この規格誕生の背景には、長年に渡るテープの研究開発の結果、スタンダードのVHSテープの性能が向上し、HG(ハイグレード)タイプに至っては、登場初期のS-VHSテープと比べても性能的にほとんど差が無くなっていた(メーカー保証は無いが、HGタイプのVHSテープでD-VHSのハイビジョン記録が可能な場合もある)点が挙げられる。さらにこの頃は地上アナログVHS機と地上アナログS-VHS機の価格差も1万円ほどであり購入しやすくなっていった。 2000年代前半頃から、ランダムアクセス・高画質記録を実現したDVDレコーダーの普及や、24時間以上の録画が1枚のメディア(電子媒体)で可能(SDTVの場合)なBDレコーダーの登場などの理由により、日本ビクター以外のメーカー各社はすでにデッキの生産を終了しており、最後まで生産していた日本ビクターも2008年(平成20年)1月15日をもって民生用S-VHS対応機器をすべて生産終了し、21年の歴史に幕を下ろした(最終機種は2003年6月発売の「HR-VT700」・「HR-ST700」・「HR-V700」・「HR-S700」の4機種)。業務用の「SR-MV50」についても、生産終了している。 なお、S-VHS機器の生産は終了したが、SQPB機能を備えたVHSビデオデッキは、BDレコーダーないしはDVDレコーダーとの一体型という形で生産が続いた。2012年2月10日にはパナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表したが、2012年5月1日、DXアンテナがVHS一体型DVDレコーダーの新製品を発表・発売した。2016年6月時点では、これが日本国内でS-VHS(簡易)再生機能を有する唯一の生産継続機器であったが、需要低迷、および製品を製造するのに必要な各種部品の調達が困難になったことを理由に2016年7月末に生産終了となった。 規格立ち上げ当初に出た製品は高画質を実現するために高価な部品が必要であり、必然的にデッキは高価格、巨大で重いものとなった。 S-VHS記録がされたテープは元々はノーマルVHSデッキでは再生出来なかったのだが、後にノーマルVHSデッキにSQPB(S-VHS Quasi Playback=S-VHS簡易再生機能)が搭載され、VHS方式よりやや高い水平解像度280TV本程度の画質ながら再生が可能になった。1990年(平成2年)以降に日本国内で販売されているノーマルVHSデッキなら、一部を除き、殆どの製品にSQPBが搭載されている。そのSQPBの仕組みだが、ノーマルVHSデッキにS-VHS用のヘッドを搭載させ、まずテープに記録されている映像信号を読み取る。そして、内部の回路でVHS方式とS-VHS方式の記録特性の違いを合わせるというものである。 1990年代後半になると、デジタルTBCやデジタル3次元Y/C分離処理など高画質化のためのICチップによるデジタル化が進み、画質を向上させつつ価格も下がり、本体も軽量化し、衛星放送の多チャンネル化と相まって普及を後押しした。また、ICチップによるデジタル化に伴い、高度な演算処理による色滲みの低減や輪郭補正による細部の再現性の向上などが可能になり、著しく記録状態の悪いテープの場合を除き、ノーマルVHSデッキで記録されたテープであってもS-VHS記録に迫る解像感で再生できるようになった。 S-VHSデッキの長年の利用者はS-VHSで録画したテープを所有しているため、デッキ故障時の買い換え需要は少なからず存在すると見られ、そうした消費者が前述の業務用製品や、中古品を買い求める場合がある。また、地上デジタルテレビジョン放送などのデジタル放送を録画する際に、DVDレコーダーなどのデジタル機器で録画した場合はコピーワンス信号の影響が避けられないが、S-VHSならそうした影響は基本的には受けない利点はある。 S-VHSデッキにはオーディオ規格のHi-Fi音声が、殆どの機種(業務用とビデオカメラの一部を除く)に搭載されており、鮮明なステレオ音声が楽しめる。なお、この技術については1983年(昭和58年)に開発されたため、既に特許が消滅しており、VHSデッキを生産する海外のメーカーにも広く採用されている。また、S-VHS規格についても発表から既に20年が経過しているので、基本特許は消滅している。 1987年(昭和62年)にはカムコーダ向けにS-VHS-C規格が開発され、同規格を採用した第1号機として日本ビクターから「GR-S55」が発売された。アナログテレビ放送の全盛の時代には、放送局でS-VHSを利用するニーズの為に、業務用のカメラやデッキなどが開発されている。 S-VHS-Cは当時、高画質を求めるアマチュアビデオカメラマンなどから広く支持されデッキと共に普及した。後に廉価な製品が登場した事と、カムコーダにおいては高画質規格のメリットが十分に発揮できるため、VHS-Cからの移行が進んだ。しかしながらHi8規格のシェアには遠く及ばなかった。その後、DVや、DVDなどのメディア、ハードディスクや半導体メモリ(SDメモリーカード)などデジタル方式で撮影する規格が登場し、現在ではVHS-Cや8ミリビデオ共に家庭用カムコーダとしての主役の座を譲り渡している。 S-VHS規格の記録には通常のVHSテープより高品質な専用のS-VHSテープを使用する。S-VHS ET規格のデッキであれば、通常のVHSテープにも録画可能であるが、この場合はハイグレード以上のテープを使用することが推奨されている。 S-VHSテープには下位互換性があり、S-VHS方式非対応のデッキであっても通常のVHS方式での記録が可能であり画質・保存性にも有利でありHi8方式非対応の8mmデッキでHi8テープを使うのとは対照的であった。当初は高価だったS-VHSテープも後に価格が1/10程度へ低下した。VHSテープ自体の性能も向上し、カセットハーフに識別孔を空ければS-VHS保存・再生が可能となる。 2012年(平成24年)現在の時点において、太陽誘電の傘下であるビクターアドバンストメディア(Victor・JVCブランド)が標準録画時間120分のテープ(二本入り)のみ生産を続けていたが2013年(平成25年)頃に販売終了となった。 S-VHS規格では、映像入出力端子として「S端子」が採用された。現在ではポピュラーな端子ではあるが、このS端子はS-VHS規格の誕生で初めて実用化されたものである。 S端子で接続した場合、テレビや他のデッキと接続した際の信号劣化の少ない鮮明な映像が楽しめる(詳しくは「S端子」の項目を参照されたい)。この形状の端子はS-VHS規格の登場以降、S-VHS以外にもED-BetaやHi8の機種をはじめ各種映像機器に搭載され始めた。また家庭用テレビゲーム機では、任天堂が1990年(平成2年)に発売した「スーパーファミコン」で初めて採用された。数年前までは、高画質で映像を伝送できる端子として、各メーカーがあらゆる映像機器にS端子を実装していたが、2021年現在ではS端子を搭載した機器は新しく開発されなくなっている。 過去には、シャープからコンポーネント映像入出力端子を搭載した製品も発売されていた(BSアナログチューナーを搭載した「VC-ES20B」と地上アナログチューナーのみの「VC-ES2」の2機種)。他にも、シャープからはD1映像出力端子を搭載した製品も発売されていた(地上アナログチューナーのみの「VC-VS1」の1機種のみ)。 なお薄型テレビの場合、発売当初はこれまでのブラウン管TV同様にS2/S1映像入出力端子が標準装備されていたが、2005年(平成17年)に(ケーブル1本のみで高画質・高音質のAV信号を伝送可能な)HDMI、翌2006年(平成18年)に(ビエラリンク等の)HDMI連動機能が各々登場。接続・操作が大幅に簡略化された事から番組録画はHDMI連動主体に移行し、S端子の地位は徐々に低下していった。 2000年代後半になるとモニター出力のS2/S1映像端子を廃止する機種が出始め、2010年代になるとモニター出力端子及びS2/S1映像入力端子自体を全廃する機種も登場した。このため2011年(平成23年)以降製造のデジタルTVと従来型S-VHS・D-VHS・W-VHS各ビデオデッキとの組み合わせでは(映像入出力はコンポジットタイプを用いる為。なお、コンポーネント・D端子・HDMI端子を装備している機種も存在する)画質が汎用型VHSデッキと変わらなくなり、さらにアナログチューナーのみ搭載の従来型録画機によるデジタル放送録画は出来なくなっている。更に極端に安価な薄型テレビではAVケーブル(コンポジット)入力も全廃させHDMIのみになりもはやVHS機の直接接続は不可能にもなりつつある。平成20年代以降の現在は、日本国内全メーカーがS-VHSデッキ生産を終了。 S-VHSのロゴマークは当初、Sの字の真ん中の棒が細い三本の線だったが、途中で塗りつぶしに変わった。 S-VHS ETで録画する際はハイグレード(HG)タイプのテープを使用し、再生(特にEP)は録画したデッキで行うことが原則である。スタンダードタイプのテープを使用した場合、再生画面にノイズが発生する(“反転ノイズ”と呼ばれる。保磁力の低いテープ使用時に発生しやすい)。 S-VHS ETが策定される以前のS-VHSデッキ及び、SQPB対応のVHSデッキでは一部再生できない機種があるので注意が必要。 一部機種に搭載されている5倍モードではS-VHS ET録画ができない。 いずれもメーカー公表分。
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"2000年代後半になるとモニター出力のS2/S1映像端子を廃止する機種が出始め、2010年代になるとモニター出力端子及びS2/S1映像入力端子自体を全廃する機種も登場した。このため2011年(平成23年)以降製造のデジタルTVと従来型S-VHS・D-VHS・W-VHS各ビデオデッキとの組み合わせでは(映像入出力はコンポジットタイプを用いる為。なお、コンポーネント・D端子・HDMI端子を装備している機種も存在する)画質が汎用型VHSデッキと変わらなくなり、さらにアナログチューナーのみ搭載の従来型録画機によるデジタル放送録画は出来なくなっている。更に極端に安価な薄型テレビではAVケーブル(コンポジット)入力も全廃させHDMIのみになりもはやVHS機の直接接続は不可能にもなりつつある。平成20年代以降の現在は、日本国内全メーカーがS-VHSデッキ生産を終了。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "S-VHSのロゴマークは当初、Sの字の真ん中の棒が細い三本の線だったが、途中で塗りつぶしに変わった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "S-VHS ETで録画する際はハイグレード(HG)タイプのテープを使用し、再生(特にEP)は録画したデッキで行うことが原則である。スタンダードタイプのテープを使用した場合、再生画面にノイズが発生する(“反転ノイズ”と呼ばれる。保磁力の低いテープ使用時に発生しやすい)。", "title": "S-VHS ETの注意点" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "S-VHS ETが策定される以前のS-VHSデッキ及び、SQPB対応のVHSデッキでは一部再生できない機種があるので注意が必要。", "title": "S-VHS ETの注意点" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一部機種に搭載されている5倍モードではS-VHS ET録画ができない。", "title": "S-VHS ETの注意点" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "いずれもメーカー公表分。", "title": "S-VHS ETの注意点" } ]
S-VHS(エス・VHS/スーパー・VHS)とは、家庭用ビデオ方式のVHSをより高画質にするために開発された規格である。
{{ディスクメディア |名称=Super VHS |略称=S-VHS |ロゴ=[[ファイル:S-VHS.svg|150px|S-VHSロゴ]] |画像= |画像コメント= |種類= |容量={{Plainlist| * 30分 * 60分 * 90分 * 120分 * 140分 * 160分 * 180分 * 210分 }} |フォーマット= |コーデック= |読み込み速度= 約33.34mm/s(SP)<br />16.76mm/s(LP)<br />11.18mm/s(EP) |書き込み速度= |回転速度= |読み取り方法= |書き込み方法= |書き換え= |回転制御= |策定=[[日本ビクター]]<br />(現・[[JVCケンウッド]]) |用途= |ディスク径= |大きさ=188×104×25mm<br />(テープ幅:12.7mm) |重さ= |上位= |下位=[[VHS]], [[VHS-C]] |関連= }} '''S-VHS'''(エス・VHS/スーパー・VHS)とは、家庭用[[ビデオテープレコーダー|ビデオ]]方式の[[VHS]]をより高画質にするために開発された[[規格]]である(正式名称は「'''Super VHS'''」)。 == 概要 == [[1987年]](昭和62年)に[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])が発表し、同年4月にはその第1号機として「'''HR-S7000'''」が発売された<ref>{{Cite journal|和書|title=今月の新製品|journal=[[企業と広告]]|volume=13|issue=6|publisher=チャネル|date=1987-06-01|pages=46|id={{NDLJP|2853051/26}}}}</ref>。 従来のVHS(ノーマルVHS)では、画質の指標となる[[水平解像度]]が240TV本であり、VHS第1号機が発表された[[1976年]](昭和51年)当時の、一般的な家庭用テレビの水平解像度は200TV本程度である。また、放送局で使われていた機材もさほど性能が良くなかった。この事からVHSは当時としては十分なビデオ規格であったと言える。 しかし[[1980年]]代半ば、[[NHK-BS]]などの[[衛星放送]]がスタートし、高画質の放送が行なわれるようになった。また、従来通りの[[地上波]]においても、この頃になると[[BETACAM|ベータカム]]などの高性能な[[映像機器]]が、多くの[[テレビ番組|番組]]制作で活用されるようになり、VHSの解像度を超える高画質録画に対応した規格が要求されるようになった。そこで開発されたS-VHSは、輝度信号のFM信号帯域がVHSの4.4MHzから7.0MHz(白ピーク)と広帯域化され、標準、3倍モード共に水平解像度400TV本以上を達成し、民生機では初めて[[映像信号]]の鮮明な記録を実現させた。なお、色信号に関しては帯域はVHSと変わらないが、これは従来VHSと大幅に規格を変えないためのやむを得ない処置であった。ただこの規格内において、視覚的により美しい色に見えるように、新製品が発表されるたびに信号処理などが改善が行われた。また輝度信号以外の規格を変更しなかった事で、後にS-VHSのVHS並みの画質での簡易再生「'''SQPB'''(S-VHS Quasi Play Back)」機能により対応できた。 S-VHSで録画した水平解像度については、録画した放送の水平解像度内で再生される。当時の地上アナログ放送では水平解像度330本、BSアナログ放送でも350本程度であったが、VHS記録するよりも非常に高画質で記録することが出来る事から、映像の劣化を嫌うマニア層には愛好される事となった。尚、S-VHS規格が真価を発揮するのは、カムコーダーでの録画や、[[コンピュータグラフィックス|CG]]を使った[[アニメーション]]ビデオの制作等。またデジタルチューナを使った[[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]や[[BSデジタル放送]]からの録画でもSD標準画質へのダウンコンバートとはいえ高画質を発揮できる。 S-VHSより若干遅れて、[[ベータマックス|Beta]]方式でも高画質規格「[[ベータマックス#EDベータ|ED-Beta]]」が登場した。輝度信号の帯域拡大はS-VHSよりも著しく、最大9.3MHz(白ピーク)に達し、水平解像度500本を確保。またメタルテープを採用し高画質をアピールした。しかしながら[[下位互換]]機であるVHSの普及率の高かった事によりED-BetaはS-VHSほど普及しなかった。S-VHS/ED-Beta共に1987年の段階でのテープ価格は、二時間記録のST-120が3,000円。EL-500が3,500円と比較的高価格であったが、S-VHSテープはS-VHSの本格普及により10本パック製品なども供給され、結果として1/10程度まで価格が低下したものの、ED-Betaテープの価格はS-VHSテープと比較すれば価格下落も緩やかで家電量販店等でも比較的高価であった。S-VHSやED-Betaの規格は地上アナログテレビジョン放送を録画するには過剰な性能であったが、高画質・高音質な衛星放送録画には適しているものであった。またED-Betaも色信号の帯域拡大を行っていない点ではS-VHSと同等であり、新製品が数多く登場したS-VHSではハイエンドモデルからデジタルTBCやデジタル3次元Y/C分離回路など最新技術の投入により高画質対策がなされて行ったのに対しED-Betaでは1990年代初頭以降これと言った対策が行われず、家電メーカー各社より多様な新製品投入で画質を向上させたS-VHSの方がED-Betaより画質でも上回っているという評価を下すビデオ雑誌・評論家もあった。 登場間もない頃は、すべてのVHSビデオがS-VHS対応機に切り替わるという見方が多く、[[バブル景気|バブル経済]]による好景気もあって[[映像編集]]などを[[趣味]]とする[[消費者]]([[オーディオ・ビジュアル|AV]][[マニア]])を中心に販売が好調だった。しかし、S-VHS専用テープが必要である事や機器そのものが高額であった事、更に一般消費者の多くがVHSの画質でもさほど不満を持っていなかった事。下位互換性を確保しているにも拘らずS-VHSデッキではVHS録画・再生することが出来ない等とS-VHSに対し誤解する一般層が一部に存在していた事もあった。S-VHSビデオソフトのタイトル数が揃わなかった事に加えて、[[1991年]](平成3年)の[[バブル崩壊]]による個人消費の落ち込みの影響もあって、[[企業]]や[[学校]]などの[[業務用|業務用途]]、前述のマニアなど一部のヘビーユーザーを除き、S-VHS対応機の販売は好調なものではなかった。一方でカムコーダーにおいては、画質において顕著な差が見られた事、当時カムコーダー自体の低価格化が進んでいた事から廉価な製品(過剰な機能を取り除いたり、マイクと記録方式をモノラルにするなど)が登場した事によって、[[VHS-C]]から[[S-VHS-C]]への移行が順調に進んだ。但し[[8ミリビデオ]]規格が[[1989年]]ソニーの「パスポートサイズ(CCD-TR55)」の発売で小型化が先行。S-VHS方式と同等の水平解像度400本を実現する高画質な[[Hi8]]方式も開発され爆発的なヒットをした事から、日立製作所・シャープ・東芝などが次々と8ミリビデオへ切り替えを進め、VHS-C・S-VHS-Cは次第に劣勢に立たされていった。 一般消費者へのS-VHSの普及の兆しが再び訪れたのは、[[1998年]](平成10年)の「'''S-VHS ET'''(Expansion Technology)」規格の登場以降である。この規格誕生の背景には、長年に渡るテープの研究開発の結果、スタンダードのVHSテープの性能が向上し、HG(ハイグレード)タイプに至っては、登場初期のS-VHSテープと比べても性能的にほとんど差が無くなっていた(メーカー保証は無いが、HGタイプのVHSテープで[[D-VHS]]の[[高精細度テレビジョン放送|ハイビジョン]]記録が可能な場合もある)点が挙げられる。さらにこの頃は地上アナログVHS機と地上アナログS-VHS機の価格差も1万円ほどであり購入しやすくなっていった。 [[2000年]]代前半頃から、ランダムアクセス・高画質記録を実現した[[DVDレコーダー]]の普及や、24時間以上の録画が1枚の[[メディア (媒体)|メディア]]([[電子媒体]])で可能([[SDTV]]の場合)な[[BDレコーダー]]の登場などの理由により、日本ビクター以外のメーカー各社はすでにデッキの生産を終了しており、最後まで生産していた日本ビクターも[[2008年]](平成20年)[[1月15日]]をもって[[民生用]]S-VHS対応機器をすべて生産終了し、21年の歴史に幕を下ろした(最終機種は2003年6月発売の「HR-VT700」・「HR-ST700」・「HR-V700」・「HR-S700」の4機種)<ref>[http://www.jvc-victor.co.jp/dvd/info.html S-VHSビデオデッキ販売終了のご案内(日本ビクター)]</ref>。[[業務用]]の「SR-MV50」についても、生産終了している。 なお、S-VHS機器の生産は終了したが、SQPB機能を備えたVHSビデオデッキは、[[BDレコーダー]]ないしは[[DVDレコーダー]]との一体型という形で生産が続いた<ref group="注釈">DVDレコーダーとの一体型の中には、ダビング時のみS-VHSに対応した機種も存在した。[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0407/08/news025_3.html S-VHSユーザーの強い味方、松下「DMR-E150V」を試す] - [[ITmedia]] 2004年7月8日</ref>。[[2012年]]2月10日には[[パナソニック]]が「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表したが、2012年5月1日、[[DXアンテナ]]がVHS一体型DVDレコーダーの新製品を発表・発売<ref group="注釈">当時のDXアンテナは[[船井電機]]の子会社で、実際の製造も船井電機が行っていた。</ref>した。[[2016年]]6月時点では、これが日本国内でS-VHS(簡易)再生機能を有する唯一の生産継続機器であったが、需要低迷、および製品を製造するのに必要な各種部品の調達が困難になったことを理由に2016年7月末に生産終了となった<ref>[https://web.archive.org/web/20160714122827/http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160714-OYT1T50096.html 船井電機、VHSデッキ撤退へ…国内で唯一生産] - [[読売新聞社]] 2016年7月14日</ref>。 == 対応製品 == === ビデオデッキ === {{右| [[ファイル:Victor-SV-Deck001.JPG|thumb|240px|right|S-VHSビデオデッキの一例。<br />(写真は[[日本ビクター]]の製品である)]] [[ファイル:Super-VHS-Compact001.JPG|thumb|240px|right|[[S-VHS-C]]対応アダプターを使用すれば、通常のS-VHSデッキでテープの視聴が可能。<br />[[2007年]]10月現在、発売中であるS-VHS-Cアダプターは日本ビクター製の「C-P8」(左)と[[パナソニック]]製の「VW-TCA7」(右)2機種。]] [[ファイル:JVC-VHS Cassette001.JPG|thumb|240px|right|S-VHSビデオカセットの一例。<br />(写真は日本ビクターの製品である)]] }} 規格立ち上げ当初に出た製品は高画質を実現するために高価な部品が必要であり、必然的にデッキは高価格、巨大で重いものとなった。 S-VHS記録がされたテープは元々はノーマルVHSデッキでは再生出来なかったのだが、後にノーマルVHSデッキにSQPB(S-VHS Quasi Playback=S-VHS簡易再生機能)が搭載され、VHS方式よりやや高い水平解像度280TV本程度の画質ながら再生が可能になった。[[1990年]](平成2年)以降に日本国内で販売されているノーマルVHSデッキなら、一部を除き、殆どの製品にSQPBが搭載されている。そのSQPBの仕組みだが、ノーマルVHSデッキにS-VHS用のヘッドを搭載させ、まずテープに記録されている映像信号を読み取る。そして、内部の回路でVHS方式とS-VHS方式の記録特性の違いを合わせるというものである。 [[1990年代]]後半になると、デジタルTBCやデジタル3次元Y/C分離処理など高画質化のためのICチップによるデジタル化が進み、画質を向上させつつ価格も下がり、本体も軽量化し、衛星放送の多チャンネル化と相まって普及を後押しした。また、ICチップによるデジタル化に伴い、高度な演算処理による色滲みの低減や輪郭補正による細部の再現性の向上などが可能になり、著しく記録状態の悪いテープの場合を除き、ノーマルVHSデッキで記録されたテープであってもS-VHS記録に迫る解像感で再生できるようになった。 S-VHSデッキの長年の利用者はS-VHSで録画したテープを所有しているため、デッキ故障時の買い換え需要は少なからず存在すると見られ、そうした消費者が前述の[[業務用]]製品や、中古品を買い求める場合がある。また、[[地上デジタルテレビジョン放送]]などのデジタル放送を録画する際に、DVDレコーダーなどのデジタル機器で録画した場合は[[コピーワンス]]信号の影響が避けられないが、S-VHSならそうした影響は基本的には受けない利点はある。 S-VHSデッキにはオーディオ規格の[[Hi-Fi]]音声が、殆どの機種(業務用とビデオカメラの一部を除く)に搭載されており、鮮明な[[ステレオ]]音声が楽しめる。なお、この技術については[[1983年]](昭和58年)に開発されたため、既に[[特許]]が消滅しており、VHSデッキを生産する海外のメーカーにも広く採用されている。また、S-VHS規格についても発表から既に20年が経過しているので、基本特許は消滅している。 === カムコーダ === [[1987年]](昭和62年)には[[カムコーダ]]向けに[[S-VHS-C]]規格が開発され、同規格を採用した第1号機として日本ビクターから「'''GR-S55'''」<ref group="注釈">同社には'''GR-T55'''という、GR-S55と全く同仕様でボディカラーの一部のみが異なるモデルもあるが、これは業務用ルートで販売するためのモデルである。このような民生モデルと同仕様の業務用モデルはビクターやパナソニックを中心に見られた。</ref>が発売された。アナログテレビ放送の全盛の時代には、[[放送局]]でS-VHSを利用する[[ニーズ]]の為に、業務用のカメラやデッキなどが開発されている。 S-VHS-Cは当時、高画質を求める[[アマチュア]]ビデオ[[カメラマン]]などから広く支持されデッキと共に普及した。後に廉価な製品が登場した事と、カムコーダにおいては高画質規格のメリットが十分に発揮できるため、VHS-Cからの移行が進んだ。しかしながらHi8規格のシェアには遠く及ばなかった。その後、[[DV (ビデオ規格)|DV]]や、[[DVD]]などのメディア、[[ハードディスク]]や[[半導体メモリ]]([[SDメモリーカード]])など[[デジタル]]方式で撮影する規格が登場し、現在では[[VHS-C]]や8ミリビデオ共に[[家庭]]用カムコーダとしての[[主役]]の座を譲り渡している。 === ビデオテープ === S-VHS規格の記録には通常のVHSテープより高品質な専用のS-VHSテープを使用する。S-VHS ET規格のデッキであれば、通常のVHSテープにも録画可能であるが、この場合はハイグレード以上のテープを使用することが推奨されている。 S-VHSテープには下位互換性があり、S-VHS方式非対応のデッキであっても通常のVHS方式での記録が可能であり画質・保存性にも有利でありHi8方式非対応の8mmデッキでHi8テープを使うのとは対照的であった。当初は高価だったS-VHSテープも後に価格が1/10程度へ低下した。VHSテープ自体の性能も向上し、カセットハーフに識別孔を空ければS-VHS保存・再生が可能となる。 [[2012年]](平成24年)現在の時点において、[[太陽誘電]]の傘下である[[ビクターアドバンストメディア]](Victor・JVCブランド)が標準録画時間120分のテープ(二本入り)のみ生産を続けていたが[[2013年]](平成25年)頃に販売終了となった。 == その他 == [[ファイル:SVideoConnector.jpg|thumb|240px|right|S-VHSなどの高画質[[映像機器]]には欠かせないS映像ケーブル。]] S-VHS規格では、[[映像入出力端子]]として「'''[[S端子]]'''」が採用された。現在では[[ポピュラー]]な端子ではあるが、このS端子は'''S-VHS規格の誕生で初めて実用化された'''ものである。 S端子で接続した場合、テレビや他のデッキと接続した際の信号劣化の少ない鮮明な映像が楽しめる(詳しくは「S端子」の項目を参照されたい)。この形状の端子はS-VHS規格の登場以降、S-VHS以外にもED-BetaやHi8の機種をはじめ各種映像機器に搭載され始めた。また家庭用[[テレビゲーム]]機では、[[任天堂]]が[[1990年]](平成2年)に発売した「[[スーパーファミコン]]」で初めて採用された。数年前までは、高画質で映像を伝送できる端子として、各メーカーがあらゆる[[映像機器]]にS端子を実装していたが、2021年現在ではS端子を搭載した機器は新しく開発されなくなっている。 過去には、[[シャープ]]から[[コンポーネント映像信号|コンポーネント映像]]入出力端子を搭載した製品も発売されていた([[衛星放送|BSアナログ]]チューナーを搭載した「VC-ES20B」と[[テレビ放送|地上アナログ]]チューナーのみの「VC-ES2」の2機種)。他にも、シャープからは[[D端子|D1]]映像出力端子を搭載した製品も発売されていた([[テレビ放送|地上アナログ]]チューナーのみの「VC-VS1」の1機種のみ)。 なお[[薄型テレビ]]の場合、発売当初はこれまでのブラウン管TV同様にS2/S1映像入出力端子が標準装備されていたが、[[2005年]](平成17年)に(ケーブル1本のみで高画質・高音質のAV信号を伝送可能な)[[HDMI]]、翌[[2006年]](平成18年)に([[ビエラリンク]]等の)HDMI連動機能が各々登場。接続・操作が大幅に簡略化された事から番組録画はHDMI連動主体に移行し、S端子の地位は徐々に低下していった。 2000年代後半になるとモニター出力のS2/S1映像端子を廃止する機種が出始め、2010年代になるとモニター出力端子及びS2/S1映像入力端子自体を全廃する機種も登場した。このため[[2011年]](平成23年)以降製造のデジタルTVと従来型S-VHS・[[D-VHS]]・[[W-VHS]]各ビデオデッキとの組み合わせでは(映像入出力はコンポジットタイプを用いる為。なお、コンポーネント・D端子・HDMI端子を装備している機種も存在する)画質が汎用型VHSデッキと変わらなくなり、さらにアナログチューナーのみ搭載の従来型録画機によるデジタル放送録画は出来なくなっている。更に極端に安価な薄型テレビではAVケーブル(コンポジット)入力も全廃させHDMIのみになりもはやVHS機の直接接続は不可能にもなりつつある。平成20年代以降の現在は、日本国内全メーカーがS-VHSデッキ生産を終了。 S-VHSのロゴマークは当初、Sの字の真ん中の棒が細い三本の線だったが、途中で塗りつぶしに変わった。 == S-VHS ETの注意点 == S-VHS ETで録画する際はハイグレード(HG)タイプのテープを使用し、再生(特にEP)は録画したデッキで行うことが原則である。スタンダードタイプのテープを使用した場合、再生画面にノイズが発生する(“[[反転ノイズ]]”と呼ばれる。保磁力の低いテープ使用時に発生しやすい)。 S-VHS ETが策定される以前のS-VHSデッキ及び、SQPB対応のVHSデッキでは一部再生できない機種があるので注意が必要。 一部機種に搭載されている5倍モードではS-VHS ET録画ができない。 === 再生できない機種 === いずれもメーカー公表分。 ; 日本ビクター(現・JVCケンウッド) : HR-20000・S6600・S3500・SC1000 ; パナソニック(旧・松下電器産業) : NV-FS1・BS1 ; 日立 : VT-Z50・Z70・S610・BS2 {{節スタブ}} == ビクターのS-VHS機種 == * 1987年 HR-S7000 * 1988年 HR-S10000 * 1990年 HR-S9800 * 1992年 HR-X1 * 1992年 HR-Z1 (同社唯一のS-VHS DA〈Digital Audio〉対応機種) * 1993年 HR-X3 HR-V3 * 1993年 HR-20000 デジタルTBC搭載 高画質回路<ref>{{Cite web|和書|title=産業技術史資料データベース|url=http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=100210021303&c&y1&y2&id&pref&city&org&word&p=46|website=sts.kahaku.go.jp|accessdate=2020-08-24}}</ref> * 1994年 HR-X3SPIRIT * 1995年 HR-X5 HR-VX1 * 1996年 HR-X7 (Xシリーズ最終。2001年頃まで生産) * 1997年 HR-VX8 HR-VXG1 * 1998年 HR-DVS1 * 1998年 HR-VXG100 HR-VX100 * 1998年 HR-V100 HR-S100 * 1999年 HR-V200 HR-S200 * 1999年 HR-VXG200 HR-VX200 * 2000年7月 HR-VXG300 HR-VTG300 HR-STG300 タイムスキャン、プロフェッショナル・スロー機能 * 2001年5月 HR-VT500 HR-V500 HR-ST500 HR-S500 HR-S550 * 2001年8月 HR-VFG1 インサート/アフレコ機能搭載 * 2002年2月 HR-VT600・HR-ST600 TBC搭載 * 2002年4月 HR-V600・HR-S600 * 2002年 HR-DS1 DVDプレーヤー内蔵 * 2003年 HR-S7 * 2003年6月 HR-VT700・HR-ST700・HR-V700・HR-S700 (最終機種、約5年生産) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[映像機器]] * [[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ (ビデオテープレコーダ)]] * [[VHS]] - [[D-VHS]] - [[W-VHS]] - [[S-VHS-C]] * [[ベータマックス]] - [[EDBeta]] * [[Hi8]] * [[DV (ビデオ規格)]] - [[DVCPRO]] * [[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]]/JVCブランド) * [[カムコーダ]] * [[パナソニックのVTRの歴史]] * [[ビエラリンク]] * [[S端子]] * [[Irシステム]] == 外部リンク == * [http://www.jvc-victor.co.jp/index.html 株式会社JVCケンウッド/JVCブランド(旧・日本ビクター。VHSの開発メーカー)] {{Video storage formats}} {{Audio-visual-stub}} [[Category:VHS]] [[Category:ビデオテープ]] [[Category:日本の発明]]
2003-02-17T10:01:53Z
2023-12-22T22:10:07Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/S-VHS
2,199
S-VHS-C
S-VHS-C(Super-VHS-Compact) は、VHS-CのS-VHS版であり、VHS-Cの高画質化を図った規格である。Cカセットは主に、S-VHSビデオカメラ(カムコーダ)で使用されてきた。 通常のフルカセットと同じく、SP(標準)モードまたはEP(3倍)モードを選んで撮影が可能である。 Hi8規格よりも先に市場へ登場し、画質は良かった。 1987年の1月に発表されたS-VHSに対して、VHS-CのS化についてはほとんど情報が出なかった。 同年4月にSデッキが各社から発売されたときも何も公表されないものの、期待はかかっていた。 夏場になって発表会が日本ビクターからあると報道関係者に連絡が入ると、今度は同日のさらに早い時刻にシャープからも発表があるとの連絡が入り、「S-VHS-C」の一番乗り発表競争が催される自体となった。 結果、シャープが一番手、盟主のビクターが二番手の発表となった。 まだ8ミリビデオのハイバンド化も発表されていない中で、シェアの獲得と引き離しを狙った手段だった。 S-VHS規格がテレビ録画では性能を十分に発揮できなかった事、ビデオソフトのタイトル数が揃わなかった事から、従来VHSからさほど移行しなかったのに対し、S-VHS-Cはカムコーダではその性能が十分に発揮できた事と、廉価な製品(モノラルマイクとノーマル音声記録方式)が登場した事から、VHS-Cからの移行が順調に進んだ。しかしながら8ミリビデオ規格に比べ小型化が難しく、最大でも標準モードで20分(当初)、3倍モードで60分しか録画できないことなどがネックとなった。40分テープが開発されたのはかなり後期になってからで、すでにシェア争いの決着はついていた。 ソニーが8ミリビデオで(当時の)パスポートサイズハンディカム55を発売すると爆発的にヒットし、ここで初めてシェアが逆転した。 その後両陣営ともに多くの新機能を搭載したカムコーダーを出すが差は広まる一方、そんな中S-VHS-Cのカムコーダ一番手を果たしたシャープが8ミリ陣営に乗り換えた事がこの争いに決着をつけた。 シャープが大画面の液晶ビューカムを8ミリビデオで発売、その後も日立、東芝、三洋電機などが8ミリビデオ陣営に鞍替えしていった。 日本ビクターとパナソニックは最後まで頑張り続け、パナソニックが手ブレ補正機能付きのブレンビーなどでクリーンヒットを飛ばしたがそんな機能も半年ほどでほぼ全社から出揃うなど大きな決め手とはならなかった。 競争の最中、据え置きデッキでは圧倒的なシェアを誇るVHSで、アダプタ無しで再生できることをアピールしたデッキが数機種発売された。これに対抗して8ミリビデオ陣営は、VHSと8ミリビデオが一体化したダブルデッキで対抗した。 カメラ一体型VTRの規格が、DVやDVD、HDDやメモリーカードなど、パソコンとの親和性が高いデジタルビデオ規格の普及に伴って使用されなくなり、アナログ規格であるS-VHS-Cはほぼ使用されなくなった。 フルカセットのS-VHSに対してデジタル記録ができるD-VHSが発表されたものの、据置型のデッキが数種出ただけでコンパクト化規格は出ることがなかった。 盟主の日本ビクターやパナソニックもDV方式のカムコーダーを当初から発売し、VHS-Cの系統はS-VHS-Cで途絶えることになった。 一方の8ミリビデオはデジタル規格としてDVと信号の互換性があるDigital8を発売したものの、2000年代後半からのハイビジョン化の進展によってこちらも過去の規格となった。 すべてのカメラ、カセットの販売は終了してるが、録画済みのテープの再生にはカセットアダプターさえあればS-VHSデッキ、S-VHSの簡易再生機能付VHSデッキで再生できる。カセットアダプターはJVCケンウッドとパナソニックから発売されており、店頭に在庫がなくともメーカーにはまだ在庫が残っており、取り寄せることができる。2011年(平成23年)現在、JVCケンウッド(Victor・JVCブランド)からは、「C-P8」という型番で、また、パナソニックからは、「VW-TCA7」という型番でそれぞれ発売されている(写真)。
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S-VHS-C(Super-VHS-Compact) は、VHS-CのS-VHS版であり、VHS-Cの高画質化を図った規格である。Cカセットは主に、S-VHSビデオカメラ(カムコーダ)で使用されてきた。
{{独自研究|date=2022年12月16日 (金) 10:49 (UTC)}} {{右| [[ファイル:S-VHS-C_01.jpg|thumb|200px|right|上)カセットアダプター(電動) 左)パッケージ 右)カセット  S-VHSデッキで視聴する際は、S-VHS-C対応アダプターを使用する。]] [[ファイル:Super-VHS-Compact001.JPG|thumb|right|200px|[[2011年]][[10月]]現在発売中である、S-VHS-Cアダプター2機種。<br />( [[JVCケンウッド]](旧・[[日本ビクター]])製の、「C-P8」 (左)と、[[パナソニック]]製の「VW-TCA7」 (右))]] }} '''S-VHS-C'''(Super-VHS-Compact) は、[[VHS-C]]の[[S-VHS]]版であり、VHS-Cの高画質化を図った規格である。Cカセットは主に、[[S-VHS]][[ビデオカメラ]]([[カムコーダ]])で使用されてきた。 ==概要== 通常のフルカセットと同じく、[[SP]](標準)モードまたは[[EP]](3倍)モードを選んで撮影が可能である。 [[Hi8]][[規格]]よりも先に市場へ登場し、画質は良かった。 ===発表と発売まで=== 1987年の1月に発表されたS-VHSに対して、VHS-CのS化についてはほとんど情報が出なかった。  同年4月にSデッキが各社から発売されたときも何も公表されないものの、期待はかかっていた。  夏場になって発表会が日本ビクターからあると報道関係者に連絡が入ると、今度は同日のさらに早い時刻にシャープからも発表があるとの連絡が入り、「S-VHS-C」の一番乗り発表競争が催される自体となった。  結果、シャープが一番手、盟主のビクターが二番手の発表となった。  まだ8ミリビデオのハイバンド化も発表されていない中で、シェアの獲得と引き離しを狙った手段だった。 ===長所と短所=== S-VHS規格がテレビ録画では性能を十分に発揮できなかった事、ビデオソフトのタイトル数が揃わなかった事から、従来VHSからさほど移行しなかったのに対し、S-VHS-Cはカムコーダではその性能が十分に発揮できた事と、廉価な製品(モノラルマイクとノーマル音声記録方式)が登場した事から、VHS-Cからの移行が順調に進んだ。しかしながら[[8ミリビデオ]][[規格]]に比べ小型化が難しく、最大でも標準モードで20分(当初)、3倍モードで60分しか録画できないことなどがネックとなった。40分テープが開発されたのはかなり後期になってからで、すでにシェア争いの決着はついていた。 ===シェアの逆転=== ソニーが8ミリビデオで(当時の)パスポートサイズハンディカム55を発売すると爆発的にヒットし、ここで初めてシェアが逆転した。 その後両陣営ともに多くの新機能を搭載したカムコーダーを出すが差は広まる一方、そんな中S-VHS-Cのカムコーダ一番手を果たしたシャープが8ミリ陣営に乗り換えた事がこの争いに決着をつけた。 シャープが大画面の液晶ビューカムを8ミリビデオで発売、その後も日立、東芝、三洋電機などが8ミリビデオ陣営に鞍替えしていった。 日本ビクターとパナソニックは最後まで頑張り続け、パナソニックが手ブレ補正機能付きのブレンビーなどでクリーンヒットを飛ばしたがそんな機能も半年ほどでほぼ全社から出揃うなど大きな決め手とはならなかった。 ===S-VHSデッキでの再生=== 競争の最中、据え置きデッキでは圧倒的なシェアを誇るVHSで、アダプタ無しで再生できることをアピールしたデッキが数機種発売された。これに対抗して8ミリビデオ陣営は、VHSと8ミリビデオが一体化したダブルデッキで対抗した。 ===アナログメディアの終焉=== カメラ一体型VTRの規格が、[[DV (ビデオ規格)|DV]]や[[DVD]]、[[ハードディスクドライブ|HDD]]や[[メモリーカード]]など、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]との親和性が高い[[デジタルビデオ]]規格の普及に伴って使用されなくなり、アナログ規格であるS-VHS-Cはほぼ使用されなくなった。 フルカセットのS-VHSに対してデジタル記録ができるD-VHSが発表されたものの、据置型のデッキが数種出ただけでコンパクト化規格は出ることがなかった。 盟主の日本ビクターやパナソニックもDV方式のカムコーダーを当初から発売し、VHS-Cの系統はS-VHS-Cで途絶えることになった。 一方の8ミリビデオはデジタル規格としてDVと信号の互換性がある[[Digital8]]を発売したものの、2000年代後半からの[[ハイビジョン]]化の進展によってこちらも過去の規格となった。 ==現状== すべてのカメラ、カセットの販売は終了してるが、録画済みのテープの再生にはカセットアダプターさえあれば[[S-VHS]]デッキ、S-VHSの簡易再生機能付VHSデッキで再生できる。カセットアダプターは[[JVCケンウッド]]と[[パナソニック]]から発売されており、店頭に在庫がなくともメーカーにはまだ在庫が残っており、取り寄せることができる。[[2011年]](平成23年)現在、JVCケンウッド(Victor・JVCブランド)からは、「C-P8」という型番で、また、パナソニックからは、「VW-TCA7」という型番でそれぞれ発売されている(写真)。 {{Video storage formats}} [[Category:VHS]]
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2,200
LAPW法
LAPW法 (英: Linearized Augmented Plane Wave method) はバンド計算法の一種。APW法で生じる問題点を解決するため、1975年に O. K. Andersen によって考案された。 単純なAPW法ではシュレーディンガー方程式を解いて得られる行列の各要素が固有値の関数となっているために、一般化固有値問題に適用することができないため、ディターミナントを計算しなければならず、そのために膨大な計算時間を必要とする。 また、行列要素は動径波動関数の対数微分を含んでおり、この対数微分がエネルギーに関して特異性をもつため、固有値を拾い落とす可能性が生じてしまうという問題がある。 LAPW法では動径波動関数をエネルギーに関して線形化することで、対数微分の特異性を取り除き除、APW法の行列を一般化固有値問題に適用できる形にしている。 線形化された計算では、ゴーストバンドの問題が生じることがある。
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LAPW法 はバンド計算法の一種。APW法で生じる問題点を解決するため、1975年に O. K. Andersen によって考案された。 単純なAPW法ではシュレーディンガー方程式を解いて得られる行列の各要素が固有値の関数となっているために、一般化固有値問題に適用することができないため、ディターミナントを計算しなければならず、そのために膨大な計算時間を必要とする。 また、行列要素は動径波動関数の対数微分を含んでおり、この対数微分がエネルギーに関して特異性をもつため、固有値を拾い落とす可能性が生じてしまうという問題がある。 LAPW法では動径波動関数をエネルギーに関して線形化することで、対数微分の特異性を取り除き除、APW法の行列を一般化固有値問題に適用できる形にしている。 線形化された計算では、ゴーストバンドの問題が生じることがある。
'''LAPW法''' ({{lang-en-short|Linearized Augmented Plane Wave method}}) は[[バンド計算]]法の一種。[[APW法]]で生じる問題点を解決するため、[[1975年]]に O. K. Andersen によって考案された<ref name="Andersen" />。 単純なAPW法では[[シュレーディンガー方程式]]を解いて得られる[[行列]]の各要素が[[固有値]]の[[関数 (数学)|関数]]となっているために、一般化[[固有値問題]]に適用することができないため、[[行列式|ディターミナント]]を計算しなければならず、そのために膨大な計算時間を必要とする<ref name="Andersen">[[#Andersen|Andersen]] (1975).</ref>。 また、行列要素は動径波動関数の[[対数微分]]を含んでおり、この対数微分が[[エネルギー]]に関して[[特異点|特異性]]をもつため、固有値を拾い落とす可能性が生じてしまうという問題がある<ref name="Takeda">[[#Takeda|Takeda and Kuebler]] (1979).</ref>。 LAPW法では動径波動関数をエネルギーに関して[[線型性|線形化]]することで、対数微分の特異性を取り除き除、APW法の行列を一般化固有値問題に適用できる形にしている。 線形化された計算では、[[ゴーストバンド]]の問題が生じることがある。 == 脚注 == {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{cite journal|author=O. K. Andersen|journal=Physical Review B|volume=12|year=1975|pages=3060|ref=Andersen}} *{{cite journal|author=T. Takeda and J. Kuebler|journal=J. Phys. F: Metal Phys.|volume=9|year=1979|pages=661|ref=Takeda}} == 関連項目 == *[[FLAPW]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:LAPW}} [[Category:バンド計算]]
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2,201
監督
監督(かんとく)は、多くの事柄や人々・組織などを見張ったり指導をしたりすることで、取り締まることである。転じて、それらを行う人や組織のこともいう。 各種スポーツにおいて全体の指示や作戦を立てる責任者、または責任者の呼称。 団体競技や個人競技においては選手個々の強化や手本などを示し、コーチの役目を兼任する場合もある(英語のcoach、head coachは、多くのスポーツにおいて日本語で言うところの「監督」の役職に相当する。監督に相当する役職にmanagerの語を当てるのは、野球やサッカー(クラブチーム)などに限られる)。 一方で役割分担が明確な場合は監督業務とコーチ業務は異なる者がそれぞれを担い、一般的にはコーチは監督の指示や方針のもとに行動することとなる。一軍と二軍等に分かれるスポーツチームにおける二軍監督は、単に自らの指揮する二軍等を勝利に導くのではなく、一軍の勝利のために選手の育成・調整を行う場を用意する役目であり、チーム全体の監督の指揮下にあるコーチと同種の職種である。監督の上にクラブ全体を統括する「総監督」またの名を「ゼネラルマネージャー」を置くクラブも存在する。 名のある選手が引退後、その豊富な競技経験や知識を活かして、かつての名選手が監督となる事例が多い。一方で、カルロス・アルベルト・パレイラや山下正人のように、プロ選手としての経験がなくても、監督やコーチとしての才能を開花させる例もある。 興行色の強いスポーツであるプロレスでも、長州力や二上美紀子のように現場監督の肩書き・通称を持っている者がいる。マッチメイクやアングル作成に携わる役職であり、後述の「文化における監督」に相当する。 映画では主たる演技の指導やテーマ・方向性を示す立場にある責任者、または責任者の呼称。下に助監督と呼ばれる役職がある。英名は Director。日本語では一般にディレクターと読み、英語読みではダイレクターと言う。監督の同義語または類義語として英名とは異なる意味のディレクターやプロデューサーを用いる場合、混同して用いることがある。総合的にテーマや方向性を示す立場にある責任者であることから対外的な折衝()などの渉外()を主たる業務にすることが多く、監督作品における公式なスポークスマンの役目を担うことが多い。大規模な映画では、総監督の元に演技・特殊演技・音楽・撮影・特殊撮影などの役割分担をした複数人の監督が存在することがある。 上記から準じてアニメ製作の各分野別やコンピュータゲームにおける作品の責任者のことも監督と呼ぶ。 演劇などの舞台では、作品を技術的に支える各役割に対しての呼称として「監督」を用いることが多く、作品の芸術的内容について指導的立場に立ったり演技指導などを行う職種は「演出家」と呼ばれることが多い。ただし一部の劇場に置かれている芸術監督は、劇場の通年の興行スケジュールの調整によって劇場ごとの芸術的な特徴を演出する仕事であり、映画などで使われる「監督」にやや近い。 監督の立場を悪用し、キャスティングを条件に、性行為を強要する事例がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "監督(かんとく)は、多くの事柄や人々・組織などを見張ったり指導をしたりすることで、取り締まることである。転じて、それらを行う人や組織のこともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "各種スポーツにおいて全体の指示や作戦を立てる責任者、または責任者の呼称。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "団体競技や個人競技においては選手個々の強化や手本などを示し、コーチの役目を兼任する場合もある(英語のcoach、head coachは、多くのスポーツにおいて日本語で言うところの「監督」の役職に相当する。監督に相当する役職にmanagerの語を当てるのは、野球やサッカー(クラブチーム)などに限られる)。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一方で役割分担が明確な場合は監督業務とコーチ業務は異なる者がそれぞれを担い、一般的にはコーチは監督の指示や方針のもとに行動することとなる。一軍と二軍等に分かれるスポーツチームにおける二軍監督は、単に自らの指揮する二軍等を勝利に導くのではなく、一軍の勝利のために選手の育成・調整を行う場を用意する役目であり、チーム全体の監督の指揮下にあるコーチと同種の職種である。監督の上にクラブ全体を統括する「総監督」またの名を「ゼネラルマネージャー」を置くクラブも存在する。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "名のある選手が引退後、その豊富な競技経験や知識を活かして、かつての名選手が監督となる事例が多い。一方で、カルロス・アルベルト・パレイラや山下正人のように、プロ選手としての経験がなくても、監督やコーチとしての才能を開花させる例もある。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "興行色の強いスポーツであるプロレスでも、長州力や二上美紀子のように現場監督の肩書き・通称を持っている者がいる。マッチメイクやアングル作成に携わる役職であり、後述の「文化における監督」に相当する。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "映画では主たる演技の指導やテーマ・方向性を示す立場にある責任者、または責任者の呼称。下に助監督と呼ばれる役職がある。英名は Director。日本語では一般にディレクターと読み、英語読みではダイレクターと言う。監督の同義語または類義語として英名とは異なる意味のディレクターやプロデューサーを用いる場合、混同して用いることがある。総合的にテーマや方向性を示す立場にある責任者であることから対外的な折衝()などの渉外()を主たる業務にすることが多く、監督作品における公式なスポークスマンの役目を担うことが多い。大規模な映画では、総監督の元に演技・特殊演技・音楽・撮影・特殊撮影などの役割分担をした複数人の監督が存在することがある。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上記から準じてアニメ製作の各分野別やコンピュータゲームにおける作品の責任者のことも監督と呼ぶ。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "演劇などの舞台では、作品を技術的に支える各役割に対しての呼称として「監督」を用いることが多く、作品の芸術的内容について指導的立場に立ったり演技指導などを行う職種は「演出家」と呼ばれることが多い。ただし一部の劇場に置かれている芸術監督は、劇場の通年の興行スケジュールの調整によって劇場ごとの芸術的な特徴を演出する仕事であり、映画などで使われる「監督」にやや近い。", "title": "分野" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "監督の立場を悪用し、キャスティングを条件に、性行為を強要する事例がある。", "title": "枕営業" } ]
監督(かんとく)は、多くの事柄や人々・組織などを見張ったり指導をしたりすることで、取り締まることである。転じて、それらを行う人や組織のこともいう。
{{Otheruseslist|'''監督一般'''|[[新約聖書]]に登場する「監督」、および[[キリスト教]]における高位聖職者|監督 (キリスト教)|海老沢泰久著の長編小説|監督 (小説)}} {{See Wiktionary}} {{出典の明記|date= 2014年3月}} [[File:Connie Mack & Ira Thomas, 1914.jpg|thumb|200px|right|[[大リーグ野球]]・スーツ姿でベンチに座る[[コニー・マック]]監督(1914年)]] '''監督'''(かんとく)は、多くの事柄や人々・[[組織 (社会科学)|組織]]などを見張ったり指導をしたりすることで、取り締まることである。転じて、それらを行う人や組織のこともいう。 == 分野 == === スポーツ === 各種[[スポーツ]]において全体の指示や作戦を立てる責任者、または責任者の呼称。 団体競技や個人競技においては選手個々の強化や手本などを示し、[[コーチ]]の役目を兼任する場合もある(英語のcoach、[[ヘッドコーチ|head coach]]は、多くのスポーツにおいて日本語で言うところの「監督」の役職に相当する。監督に相当する役職に[[マネージャー|manager]]の語を当てるのは、[[野球]]や[[サッカー]](クラブチーム)などに限られる)。 一方で役割分担が明確な場合は監督業務とコーチ業務は異なる者がそれぞれを担い、一般的にはコーチは監督の指示や方針のもとに行動することとなる。[[一軍]]と[[二軍]]等に分かれるスポーツチームにおける[[二軍監督]]は、単に自らの指揮する二軍等を勝利に導くのではなく、一軍の勝利のために選手の育成・調整を行う場を用意する役目であり、チーム全体の監督の指揮下にあるコーチと同種の職種である。監督の上にクラブ全体を統括する「総監督」またの名を「[[ゼネラルマネージャー]]」を置くクラブも存在する。 名のある選手が[[引退]]後、その豊富な競技経験や知識を活かして、かつての名選手が監督となる事例が多い。一方で、[[カルロス・アルベルト・パレイラ]]や[[山下正人]]のように、プロ選手としての経験がなくても、監督や[[コーチ]]としての才能を開花させる例もある。 * [[プロ野球監督]] ** [[日本のプロ野球監督一覧]] ** [[メジャーリーグベースボールの監督一覧]] * サッカー監督 ** [[Jリーグ監督経験者]] * [[監督代行]] * [[二軍監督]] * [[選手兼任監督]] 興行色の強い[[スポーツ]]である[[プロレス]]でも、[[長州力]]や[[GAMI|二上美紀子]]のように'''[[現場監督]]'''の肩書き・通称を持っている者がいる。[[マッチメイク]]や[[アングル (プロレス)|アングル]]作成に携わる役職であり、後述の「文化における監督」に相当する。 === 産業 === * [[現場監督]] - [[工事]]などで各職種の[[作業員]]や[[技術者]]へ直接指示を出す立場。必ずしも工事現場の所長や責任者を指すとは限らない。 * [[監督員]](建設) - 工事の注文者の代理として、注文者の代わりに契約の相手方である[[請負|請負人]]との契約の履行についての[[事務]]を行う者。また、[[契約]]の相手方である請負人の工事の施工について、立会、[[検査]]、試験等を担当する。 * [[官庁|監督官庁]]/[[監督署]] * [[監督官]] : ある[[人間]]やある組織から他の人間や他の組織に[[法 (法学)|法]]が不法・不平等に運用されないように監視や検査を行うこと、または行う[[組織 (社会科学)|組織]]や[[官職]]。 === 創作・実演 === [[File:Alfred Hitchcock (111434907).jpg|thumb|upright=0.75|[[映画監督]] [[アルフレッド・ヒッチコック]]。[[アカデミー賞]]の最優秀監督賞に5度[[ノミネート]]された。]] [[映画]]では主たる演技の指導やテーマ・方向性を示す立場にある[[責任者]]、または責任者の呼称。下に[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]と呼ばれる役職がある。英名は Director。[[日本語]]では一般に[[ディレクター]]と読み、英語読みではダイレクターと言う。監督の同義語または類義語として英名とは異なる意味の[[ディレクター]]や[[プロデューサー]]を用いる場合、混同して用いることがある。総合的にテーマや方向性を示す立場にある責任者であることから対外的な{{読み仮名|折衝|せっしょう}}などの{{読み仮名|渉外|しょうがい}}を主たる業務にすることが多く、監督作品における公式な[[スポークスマン]]の役目を担うことが多い。大規模な映画では、総監督の元に[[演技]]・特殊演技・[[音楽]]・[[撮影]]・[[SFX|特殊撮影]]などの役割分担をした複数人の監督が存在することがある。 * [[映画監督]] ** [[映画監督一覧]] *** [[日本の映画監督一覧]] * [[美術監督]] * [[撮影監督]] * [[特撮監督]] * [[音楽監督]] * [[ディレクター]] * [[プロデューサー]] * [[テレビプロデューサー]] * [[AV監督]] - [[アダルトビデオ]] (AV) は通常の映画やVシネマとは内容や手法が異なるため、その監督は区別してAV監督と呼ばれる。 上記から準じて[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]製作の各分野別や[[コンピュータゲーム]]における作品の責任者のことも監督と呼ぶ。 * [[アニメ監督]] * [[作画監督]] - 絵(原画)の統一を監督する * [[音響監督]] - アニメーションや[[吹き替え]]作品の音声面を監修する。 [[演劇]]などの[[舞台]]では、作品を技術的に支える各役割に対しての呼称として「監督」を用いることが多く、作品の芸術的内容について指導的立場に立ったり演技指導などを行う職種は「[[演出家]]」と呼ばれることが多い。ただし一部の劇場に置かれている芸術監督は、劇場の通年の興行スケジュールの調整によって劇場ごとの芸術的な特徴を演出する仕事であり、映画などで使われる「監督」にやや近い。 * [[舞台監督]](英名:Stage Manager) * 技術監督(英名;Technical director) * [[芸術監督]](英: Artistic Director / 独: Intendant) * [[音楽監督]](独:Generalmusikdirektor、略称:GMD) - [[管弦楽団]]や[[歌劇場]]の音楽部門を監督する。 == 枕営業 == {{Main|枕営業}} 芸能界では監督の立場を悪用し、キャスティングを条件に<ref>{{Cite news|url=https://www.cyzo.com/2022/09/post_320384_entry.html|title=『シン・ゴジラ』参加の西村喜廣監督から「暴力や性被害を受けた」女優告発で波紋|newspaper=日刊サイゾー|publisher=サイゾー|date=2022-09-01|accessdate=2022-09-01}}</ref><ref>{{Cite news|author=城下尊之|url=https://www.cyzo.com/2022/05/post_311201_entry.html|title=園子温、性加害報道の出版社を提訴した思惑 しれっと復帰の布石か|newspaper=日刊サイゾー|publisher=サイゾー|date=2022-05-29|accessdate=2023-02-24}}</ref>、[[性行為]]を強要する[[セクシャルハラスメント]]の事例がある<ref>{{Cite news|author=大沢野八千代|url=https://www.cyzo.com/2022/05/post_309151_entry.html|title=暴かれる映画界性被害…水原希子勇気ある告発、土屋太鳳起用方法にも違和感|newspaper=日刊サイゾー|publisher=サイゾー|date=2022-05-09|accessdate=2022-05-09}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[助監督]] * [[名誉監督]] * [[指揮 (音楽)]] * [[指揮 (軍事)]] * {{Prefix}} * {{intitle}} {{DEFAULTSORT:かんとく}} [[Category:マネジメント関連の職業]] [[Category:アニメ製作の手法と役職]] [[Category:スポーツ関連の職業]]
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8ミリビデオ
8ミリビデオ(8mm video format)は、家庭用ビデオの規格である。ビデオカメラ(カムコーダ)用として広く普及した。 誤用であるが、前述のとおり一般用途としては据え置き型よりカムコーダー用が普及したため、「8ミリビデオ」という言葉はカムコーダーを示す言葉として使われていた。 家庭用VTRとしてVHSとベータが登場し、激しい規格争いが行われていた中、1980年以降、VTR一体型ビデオカメラ(カムコーダ)の試作品がソニーや松下電器(現在:パナソニック)、日立などから相次いで発表された。これらにはVHSやベータではない、各社が独自に開発した小型のビデオテープが用いられていたが、先の規格争いから規格統一の必要性を痛感した各社により後に「8ミリビデオ懇話会」が設けられ、次世代のビデオ規格として検討が行われた結果、ビデオにおける初の世界127社による統一規格として誕生した。しかし後述のように、日本ビクターや松下電器などはVHS-C規格を製品化したため、結局のところ規格争いが再発することとなった。この携帯型ビデオカメラ用では8ミリビデオ陣営側の規格が普及した。 テープ幅が8ミリであり、規格名はそこから取られている。ビデオカセットはコンパクトカセットとほぼ同じ大きさで、VHSやベータと比較して大幅に小型化されている。テープはメタルテープ(塗布型または蒸着型)を採用し、高密度記録により、当初より標準モードで120分の長時間記録が可能だった。また、後に180分テープも発売された。 8ミリビデオをハイバンド化した上位互換の高画質フォーマットとしてHi8、テープ速度を2倍にしてデジタル記録(DV互換)を実現したDigital8がある。そのほかに、Hi8方式の高画質技術として、輝度信号の周波数帯域を拡張するXR規格(公称水平解像度440TV本)が存在する。 単に「8ミリ」、「8mm」と呼ばれることもあるが、その場合、8ミリフィルムを意味していることもある。現在ではMiniDVへの世代交代、さらには記録メディアが磁気テープからDVD・HDD・SDメモリーカードへと変遷したことによって「8ミリ」という略称自体がほとんど使われなくなっている。 ソニーが8ミリビデオ規格を構想した際には、カセットが小型で取扱いやすい「家庭用VTRの本命機」という位置づけで、据置型・カメラ一体型ともに既存規格を置き換えるフォーマットとして期待された。しかし、各社の商品開発は、カセットサイズが小型である特徴を活かせるカメラ一体型が先行した。 世界初の8ミリビデオは、1984年9月にイーストマンコダックから発売されたカメラ一体型の「M-2400」である。日本では1985年1月8日、ソニーが8ミリビデオの同社第一号機「CCD-V8」を発表した。他には8ミリフィルムの後継規格を模索していた富士写真フイルム(当時、現在:富士フイルムホールディングス)やキヤノン・ニコン・ミノルタ・京セラ・ペンタックス・リコーなどのカメラメーカー、三洋電機などの家電メーカーが新たに参入した。一方、日本ビクターや松下電器・日立・東芝・三菱電機・シャープなどのVHS陣営はVHSフルカセットとの互換性を持つVHS-Cを前面に押し出し、両者による激しい規格争いに突入することとなる。小型化が容易で長時間録画をサポートしていたことなど、元々VHS-Cとの比較では8ミリが有利な点が多かった。 この規格争いによって各社の開発競争が進んだ結果、ビデオカメラの小型軽量化が急激に進み、本体形状は現在みられる片手支持スタイルを確立した。 1989年にソニーが「パスポートサイズ・ハンディカム」CCD-TR55 を発売した。その劇的に小型な本体サイズもさることながら、従来は家庭用ビデオカメラの主用途は子供の成長記録だった中、旅行に持ち出すというコンセプトが子供を持たない若者を中心に受け入れられ、一時は生産が追いつかなくなるほどの爆発的ヒットとなり、撮影対象が広がったことを示した(ハンディカムの項も参照)。このTR55の発売以降、市場は8ミリに大きく傾くこととなった。そして1992年にVHS-Cから転向したシャープが液晶モニター一体型の「液晶ビューカム」を発売し新しい撮影スタイルを提案した。これが大人気商品となったことで、8ミリビデオの優勢が決定的となり、日立や東芝も8ミリに転向した。松下電器は自社でVHS-Cのビデオカメラを発売する一方で、欧州メーカー向けに8ミリのビデオカメラをOEM生産しており、いつでも自社販売に踏み切れる環境にあったが、実現することはなかった。三菱電機はビデオカメラの市場そのものから撤退した。 一方アメリカでは、当初はVHSフルカセット規格のカムコーダーが優勢だった。VHSのレンタルビデオが普及した事から、ビデオソフトの再生機を兼ねる事のメリットが大きかった。また、アメリカ人の嗜好ではビデオカメラが大型である事はさほどのデメリットにならず、また日本人向けに小型化されたビデオカメラは、アメリカ人の大きな手では操作がやりにくく(ボタンを押すのに爪楊枝が必要だと言われた)、わざわざアメリカ人向けに大型化したビデオカメラが輸出されるような状況だった。そのため、8ミリビデオ規格の小型化のメリットは十分に活かされなかった。だが1990年代より、韓国製の安価なVHSビデオデッキが普及した事から、ビデオソフトの再生とビデオ撮影は別のデッキで行う趨勢になった。そのような情勢にあって、フルカセット規格のVHSとの互換性を謳ったVHS-Cの特徴はあまりメリットにはなりえず、8ミリ規格が優勢となった。 一方で据え置き型のデッキとしては、8ミリ規格はあまり普及しなかった。テープサイズの小ささを生かした保管場所をとらない家庭用ビデオデッキとして宣伝がされたものの、8ミリビデオ規格が発表された頃には、ビデオデッキの用途はテレビ放送の録画よりも、むしろレンタルビデオソフトの再生のほうに移行しつつあり、レンタルビデオとして圧倒的に普及したVHS規格の首位を覆すに至らなかった。また8ミリ規格の旗振り役として業界を主導したソニーが、ベータ規格の死守という二兎を追った事の影響もあったと言われる。ソニーはレンタル店向けに、ビデオソフトの増加に伴っての、保管・陳列スペースの節約というメリットを訴え、8ミリビデオ規格のビデオソフトの普及を推進した。しかし、そのようなレンタル店側の事情はユーザー側にとっては関係無い話であり、レンタル店側は店舗の大規模化によってビデオソフトのタイトル数の増加に対応する事となる。なお、ビデオソフトのタイトル数増加に伴う、レンタル店の保管・陳列スペースの節約は、後にDVDへの移行によって果たされる事となる。 ソニー以外のメーカーでも後から8ミリビデオ規格に参入した日立 (SATELLA)や東芝 (ARENA)も薄型の据え置きHi8デッキを発売し、BS録画に最適と謳っていたがVHS機よりも数万円ほど高価だつた。なお、ソニー、富士フイルム(ソニーからのOEM)などのスタンダード8ミリデッキはモノラル音声の廉価機種が存在していたものの、8ミリビデオの仕様から、VHSほどの長時間録画も出来なかった。VHSテープが3巻パックで安売りが当たり前になりつつあった中、8ミリテープは割高だったためこれらもヒットするには至らなかった。据え置き型は、撮影したビデオの観賞・編集用としての用途が中心となり、VHS/ベータの次世代規格としての目論見は果たせなかった。しかしこの現状を踏まえたソニーは、VHSと8ミリビデオの両規格を搭載したダブルデッキタイプの製品を発表し、こちらはある程度の普及を見た。 置き型のデッキの例外としては旅客機の機内上映用機器がある。これはあくまでも業務用機器であり、消費者が店頭で見かけることはない。 8ミリビデオのテープをデータ保存用に応用したものが8ミリデータカートリッジである。 1995年9月に、より小型で鮮明なデジタル録画ができる「DV規格」の小型規格(MiniDV)を採用したデジタルビデオカメラの第1号機「NV-DJ1」が松下電器から発売され、それ以降、VHS-Cと同様に、8ミリビデオについても、DV規格との世代交代が始まった。初期の頃にはDVテープの入手が困難で、かつデッキやビデオカメラも高価だったためほとんど普及しなかったが、2000年以降、テープの生産体制が軌道に乗るに連れて8ミリビデオカメラは急速に売れ行きを落とし、多くのメーカーが製造から撤退した。また、家庭用据え置き型ビデオデッキの後継としては、DVDレコーダーやBDレコーダーなどの光ディスク機器が普及する事になる。 DV規格への移行期に、安価なHi8テープにDV規格で録画可能で旧来の8ミリビデオやHi8で録画したアナログテープも再生可能なDigital8規格の製品もソニーから発売されたものの、短命に終わった。 家庭には個人的な映像が多く保存されていることから、機器の老朽化に伴った買い換え需要に対応するため、販売が続けられていた、携帯型録画再生機のビデオウォークマンのDigital8用の2製品についても、2011年9月をもって終了し、これにより8ミリビデオのカムコーダ・据え置き型デッキについては、Hi8・Digital8を含め、すべての製品の生産が終了した。ビデオテープ・クリーニングテープについては、まだ入手可能である。 8ミリビデオ規格にはマルチトラックPCMという、映像トラックを音声用に割り当てて6チャンネル(サンプリング周波数31.5kHz、量子化数8ビット)のPCM録音ができる規格もあった(Digital Audio Video)。過去に一部の民生用デッキ(ソニー「EV-S600」「EV-S800」、Hi8の「EV-S900」東芝「E-800BS」等)に搭載されたが、ラジオ放送の長時間エアチェック等、用途が極めて限られた事から、現在民生向け製品での搭載機種は殆ど無い。 これと別にティアック社はHi8テープを用いた業務用マルチトラックレコーダを提唱し、DTRSとして規格化。広く用いられた。またデータレコーダとしても応用された。
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8ミリビデオは、家庭用ビデオの規格である。ビデオカメラ(カムコーダ)用として広く普及した。 誤用であるが、前述のとおり一般用途としては据え置き型よりカムコーダー用が普及したため、「8ミリビデオ」という言葉はカムコーダーを示す言葉として使われていた。
{{Otheruses|家庭用ビデオの規格|8ミリメートル幅のフィルムを利用した映画|8ミリ映画|その他の8ミリの項目|8ミリ}} {{ディスクメディア |名称=8ミリビデオ |略称= |ロゴ=[[ファイル:Video 8 Logo.svg|180x100px]] |画像=[[ファイル:8mm_video_cassette_front.jpg|300px|8ミリビデオカセット]] |画像コメント=8ミリビデオカセット |種類=テープ |容量=30分<br />60分<br />120分 |フォーマット= |コーデック= |読み込み速度=約14.5mm/s |書き込み速度= |回転速度= |読み取り方法=[[ヘリカルスキャン方式]] |書き込み方法=ヘリカルスキャン方式 |書き換え= |回転制御= |策定=[[ソニー]]、[[パナソニック]]、[[日立製作所]]、[[JVCケンウッド]]、[[フィリップス]]など127社 |用途=映像等 |ディスク径= |大きさ=95×62.5×15mm<br />(テープ幅:8mm) |重さ= |上位=Hi8、XR規格、Digital8 |下位= |関連= }} [[ファイル:8mm cassette back.jpg|thumb|right|200px|8ミリビデオカセット裏]] '''8ミリビデオ'''(8mm video format)は、家庭用[[ビデオテープレコーダ|ビデオ]]の規格である。[[ビデオカメラ]]([[カムコーダ]])用として広く普及した。 誤用であるが、前述のとおり一般用途としては据え置き型よりカムコーダー用が普及したため、「8ミリビデオ」という言葉はカムコーダーを示す言葉として使われていた。 == 概説 == 家庭用VTRとして[[VHS]]と[[ベータマックス|ベータ]]が登場し、激しい[[規格争い]]が行われていた中、1980年以降、VTR一体型ビデオカメラ([[カムコーダ]])の試作品が[[ソニー]]や松下電器(現在:[[パナソニック]])、[[日立製作所|日立]]などから相次いで発表された<ref>{{Cite web|和書|title=戦後日本のイノベーション100選 安定成長期 家庭用カムコーダ|url=http://koueki.jiii.or.jp/innovation100/innovation_detail.php?eid=00075&age=stable-growth&page=keii|website=koueki.jiii.or.jp|accessdate=2020-05-13}}</ref>。これらにはVHSやベータではない、各社が独自に開発した小型のビデオテープが用いられていたが、先の規格争いから規格統一の必要性を痛感した各社により後に「8ミリビデオ懇話会」が設けられ、次世代のビデオ規格として検討が行われた結果、ビデオにおける初の世界127社による統一規格として誕生した。しかし後述のように、[[日本ビクター]]や松下電器などはVHS-C規格を製品化したため、結局のところ規格争いが再発することとなった。この携帯型ビデオカメラ用では8ミリビデオ陣営側の規格が普及した。 [[磁気テープ|テープ]]幅が8ミリであり、規格名はそこから取られている。ビデオカセットは[[コンパクトカセット]]とほぼ同じ大きさで、VHSやベータと比較して大幅に小型化されている。テープはメタルテープ(塗布型または蒸着型)を採用し、高密度記録により、当初より標準モードで120分の長時間記録が可能だった。また、後に180分テープも発売された。 8ミリビデオをハイバンド化した[[上位互換]]の高画質フォーマットとして[[Hi8]]、テープ速度を2倍にしてデジタル記録([[DV (ビデオ規格)|DV]]互換)を実現した[[Digital8]]がある。そのほかに、Hi8方式の高画質技術として、輝度信号の周波数帯域を拡張するXR規格(公称水平解像度440[[TV本]])が存在する。 単に「8ミリ」、「8mm」と呼ばれることもあるが、その場合、[[8ミリ映画|8ミリフィルム]]を意味していることもある。現在では[[DV (ビデオ規格)|MiniDV]]への世代交代、さらには記録メディアが磁気テープから[[DVD]]・[[ハードディスクドライブ|HDD]]・[[SDメモリーカード]]へと変遷したことによって「8ミリ」という略称自体がほとんど使われなくなっている。 == フォーマット概要 == *記録方式:[[ヘリカルスキャン方式]] *記録ヘッド数:2(標準), 4(小型) *ヘッドドラム径:40mm (巻きつけ角190°), 26.7mm(巻きつけ角292°)<ref>{{Cite journal | author = 平井純 | title = 8mmビデオの製品開発と方法 | journal = 精密工学会誌 | volume = 61 | issue = 1 | pages = 29 - 34 | year = 1995 | doi = 10.2493/jjspe.61.29}}</ref> *ヘッドドラム回転数:約30Hz(正確には NTSCに準じ 29.97fpsに対応する 29.97Hz) (約1800rpm) *テープ幅:8mm *テープ送り速度:14.345mm/s (SP), 7.176mm/s(LP) *記録トラック幅:20.5μm (SP), 10.2μm(LP) *信号方式: **映像 ***輝度信号:[[周波数変調]](FM) ****8mm:シンクチップ:4.2MHz/白ピーク:5.4MHz ****Hi8:シンクチップ:5.7MHz/白ピーク:7.7MHz ***色差信号: 低域変換PI 743.444kHz **音声 ***音声信号1:2チャンネルAFM記録 ****映像信号に周波数多重。規格化当初はモノラルだったが、のちにステレオ化された。ステレオ化に際しては、従来のモノラル機と互換性を取るため、従来のAFM信号(L+R、1.5MHz)の上位周波数(1.7MHz)にL-Rの信号を加えたものになっている。 ***音声信号2(オプショナル):2チャンネル[[PCM]]デジタル記録(ビデオトラック端部に時間軸圧縮記録)、[[サンプリング周波数]]31.5kHz、非直線8ビット[[量子化]] ****AFMがステレオ化したことにより、[[民生用]]のビデオカメラではほとんど使用されていない。[[DAT]]並みの音声とした16ビット規格も発表されたが、結局対応製品は発売されなかった。 ****映像と別領域のため、アフレコによる差し替えが可能。業務用機では音声トラックを残して映像を差し替える機能もあった。 ***音声信号3(オプショナル): 1チャンネル固定ヘッド記録<ref>{{Cite journal | author = 弓手康史 | title = 8ミリビデオについて(2) : オーディオ技術を中心に | journal = テレビジョン学会技術報告 | volume = 7 | issue = 40 | pages = 7 - 10 | year = 1984 | doi = 10.11485/tvtr.7.40_7}}</ref><ref>{{Cite journal | author = 平田渥美, 長岡義礼 | title = 5-2 記録再生機器 | journal = テレビジョン学会誌 | volume = 40 | issue = 7 | pages = 625 - 629 | year = 1986 | doi = 10.3169/itej1978.40.625}}</ref> ****AFMステレオで必要十分だったため、音声用固定ヘッドは民生用では使用されていない。 **タイムコード ***オプション規格でテープに直接録画時間を記録するタイムコードが2種類用意されている。 ****民生用タイムコード *****フレーム単位でタイムコードを挿入し、編集時の編集点指定精度を上げるようにしている。ハンディカムのCCD-V800で初めて採用された。 ****業務用機器タイムコード *****民生用とは別のタイムコードで、民生用同様編集点指定制度を上げるためにフレーム単位のタイムコードが用意されている。ドロップフレーム。このタイムコードは録画済みのテープに事後で挿入ができるため、タイムコードのないビデオで録画したテープも編集精度を上げて編集することが可能になる。 * [[カムコーダ]]での使用が前提だったことから、つなぎ撮りがきれいに行なえるFEヘッドの採用が必須とされたため、固定消去ヘッドは全ての機種で使用されていない。 == 製品概要 == ソニーが8ミリビデオ規格を構想した際には、カセットが小型で取扱いやすい「家庭用VTRの本命機」という位置づけで、据置型・カメラ一体型ともに既存規格を置き換えるフォーマットとして期待された。しかし、各社の商品開発は、カセットサイズが小型である特徴を活かせるカメラ一体型が先行した。 世界初の8ミリビデオは、1984年9月に[[コダック|イーストマンコダック]]から発売されたカメラ一体型の「M-2400」である<ref>{{Cite web|和書|title=産業技術史資料データベース|url=http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=900190011047&c=&y1=&y2=&id=900190011047&pref=&city=&org=&word=%E4%BE%8B%EF%BC%9A%E2%80%9C%E9%9B%BB%E6%B0%97%20%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E2%80%9D%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%A7%E5%8C%BA%E5%88%87%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E3%80%8C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E3%80%8D%E4%B8%A1%E6%96%B9%E3%81%AE%E5%8D%98%E8%AA%9E%E3%82%92%E5%90%AB%E3%82%80%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%92%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99(AND%E6%A4%9C%E7%B4%A2)&p=2|website=sts.kahaku.go.jp|accessdate=2020-05-13}}</ref>。日本では[[1985年]][[1月8日]]、[[ソニー]]が8ミリビデオの同社第一号機「CCD-V8」を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=Sony Japan {{!}} Sony History 第2章 規格戦争に巻き込まれた秘蔵っ子|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-02.html|website=www.sony.co.jp|accessdate=2020-05-13}}</ref>。他には[[8ミリ映画|8ミリフィルム]]の後継[[規格]]を模索していた富士写真フイルム(当時、現在:[[富士フイルムホールディングス]])や[[キヤノン]]・[[ニコン]]・[[ミノルタ]]・[[京セラ]]・[[ペンタックス]]・[[リコー]]などの[[カメラ]]メーカー、[[三洋電機]]などの家電メーカーが新たに参入した。一方、[[日本ビクター]]や松下電器・日立・[[東芝]]・[[三菱電機]]・[[シャープ]]などのVHS陣営はVHSフルカセットとの互換性を持つ[[VHS-C]]を前面に押し出し、両者による激しい[[規格争い]]に突入することとなる。小型化が容易で長時間録画をサポートしていたことなど、元々[[VHS-C]]との比較では8ミリが有利な点が多かった。 この規格争いによって各社の開発競争が進んだ結果、ビデオカメラの小型軽量化が急激に進み、本体形状は現在みられる片手支持スタイルを確立した。 [[File:Sony videokamera TR425E PAL.png|thumb|right|160px|Sony Video 8 CCD-TR425E。当時の「パスポートサイズ」のビデオカメラのひとつ。これは欧米で販売された[[PAL]]信号タイプのもの。]] [[File:Videocamera a batteria, Video 8 - Museo scienza tecnologia Milano 10739.jpg|thumb|right|160px|SONY Video 8 Handycam CCD-SC5E。イタリア、[[ミラノ]]のMuseo scienza tecnologia(科学技術博物館)展示品。]] [[1989年]]にソニーが「[[パスポート]]サイズ・ハンディカム」''CCD-TR55'' を発売した。その劇的に小型な本体サイズもさることながら、従来は家庭用[[ビデオカメラ]]の主用途は子供の成長記録だった中、旅行に持ち出すというコンセプトが子供を持たない若者を中心に受け入れられ、一時は生産が追いつかなくなるほどの爆発的ヒットとなり、撮影対象が広がったことを示した([[ハンディカム]]の項も参照)。このTR55の発売以降、市場は8ミリに大きく傾くこととなった。そして[[1992年]]にVHS-Cから転向したシャープが[[液晶モニター]]一体型の「液晶ビューカム」を発売し新しい撮影スタイルを提案した。これが大人気商品となったことで、8ミリビデオの優勢が決定的となり、日立や東芝も8ミリに転向した。松下電器は自社でVHS-Cのビデオカメラを発売する一方で、欧州メーカー向けに8ミリのビデオカメラを[[OEM]]生産しており、いつでも自社販売に踏み切れる環境にあったが、実現することはなかった。三菱電機はビデオカメラの市場そのものから撤退した。 一方アメリカでは、当初はVHSフルカセット規格のカムコーダーが優勢だった。VHSのレンタルビデオが普及した事から、ビデオソフトの再生機を兼ねる事のメリットが大きかった。また、アメリカ人の嗜好ではビデオカメラが大型である事はさほどのデメリットにならず、また日本人向けに小型化されたビデオカメラは、アメリカ人の大きな手では操作がやりにくく(ボタンを押すのに爪楊枝が必要だと言われた)、わざわざアメリカ人向けに大型化したビデオカメラが輸出されるような状況だった。そのため、8ミリビデオ規格の小型化のメリットは十分に活かされなかった。だが[[1990年代]]より、韓国製の安価なVHS[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]が普及した事から、ビデオソフトの再生とビデオ撮影は別のデッキで行う趨勢になった。そのような情勢にあって、フルカセット規格のVHSとの互換性を謳ったVHS-Cの特徴はあまりメリットにはなりえず、8ミリ規格が優勢となった。 一方で据え置き型のデッキとしては、8ミリ規格はあまり普及しなかった。テープサイズの小ささを生かした保管場所をとらない家庭用ビデオデッキとして宣伝がされたものの、8ミリビデオ規格が発表された頃には、ビデオデッキの用途はテレビ放送の録画よりも、むしろレンタルビデオソフトの再生のほうに移行しつつあり、レンタルビデオとして圧倒的に普及したVHS規格の首位を覆すに至らなかった。また8ミリ規格の旗振り役として業界を主導したソニーが、ベータ規格の死守という二兎を追った事の影響もあったと言われる。ソニーはレンタル店向けに、ビデオソフトの増加に伴っての、保管・陳列スペースの節約というメリットを訴え、8ミリビデオ規格のビデオソフトの普及を推進した。しかし、そのようなレンタル店側の事情はユーザー側にとっては関係無い話であり、レンタル店側は店舗の大規模化によってビデオソフトのタイトル数の増加に対応する事となる。なお、ビデオソフトのタイトル数増加に伴う、レンタル店の保管・陳列スペースの節約は、後にDVDへの移行によって果たされる事となる。 ソニー以外のメーカーでも後から8ミリビデオ規格に参入した日立 (SATELLA)や東芝 ([[ARENA (東芝)|ARENA]])も薄型の据え置きHi8デッキを発売し、BS録画に最適と謳っていたがVHS機よりも数万円ほど高価だつた。なお、ソニー、富士フイルム(ソニーからのOEM)などのスタンダード8ミリデッキはモノラル音声の廉価機種が存在していたものの、8ミリビデオの仕様から、VHSほどの長時間録画も出来なかった。VHSテープが3巻パックで安売りが当たり前になりつつあった中、8ミリテープは割高だったためこれらもヒットするには至らなかった。据え置き型は、撮影したビデオの[[観賞]]・[[編集]]用としての用途が中心となり、VHS/ベータの次世代規格としての目論見は果たせなかった。しかしこの現状を踏まえたソニーは、VHSと8ミリビデオの両規格を搭載したダブルデッキタイプの製品を発表し、こちらはある程度の普及を見た。 置き型のデッキの例外としては旅客機の機内上映用機器がある。これはあくまでも業務用機器であり、消費者が店頭で見かけることはない。 8ミリビデオのテープをデータ保存用に応用したものが8ミリ[[テープドライブ|データカートリッジ]]である。 == その後の状況 == [[1995年]][[9月]]に、より小型で鮮明な[[デジタル]]録画ができる「[[DV (ビデオ規格)|DV]]規格」の小型規格(MiniDV)を採用したデジタルビデオカメラの第1号機「NV-DJ1」が[[パナソニック|松下電器]]から発売され、それ以降、[[VHS-C]]と同様に、8ミリビデオについても、DV規格との世代交代が始まった。初期の頃にはDVテープの入手が困難で、かつデッキやビデオカメラも高価だったためほとんど普及しなかったが、[[2000年]]以降、テープの生産体制が軌道に乗るに連れて8ミリビデオカメラは急速に売れ行きを落とし、多くのメーカーが製造から撤退した。また、家庭用据え置き型ビデオデッキの後継としては、[[DVDレコーダー]]や[[BDレコーダー]]などの[[光ディスク]]機器が普及する事になる。 DV規格への移行期に、安価なHi8テープにDV規格で録画可能で旧来の8ミリビデオやHi8で録画したアナログテープも再生可能な[[Digital8]]規格の製品もソニーから発売されたものの、短命に終わった。 家庭には個人的な映像が多く保存されていることから、機器の老朽化に伴った買い換え需要に対応するため、販売が続けられていた、携帯型録画再生機の[[ビデオウォークマン]]のDigital8用の2製品についても、[[2011年]][[9月]]をもって終了し<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/462135.html ソニー、8mmビデオカセットレコーダ出荷を9月に終了] AV Watch(2011年7月21日)</ref>、これにより8ミリビデオの[[カムコーダ]]・据え置き型デッキについては、Hi8・Digital8を含め、すべての製品の生産が終了した。ビデオテープ・クリーニングテープについては、まだ入手可能である。 == 音声等の記録媒体として == 8ミリビデオ規格には'''マルチトラックPCM'''という、映像トラックを音声用に割り当てて6チャンネル(サンプリング周波数31.5kHz、量子化数8ビット)のPCM録音ができる規格もあった('''Digital Audio Video''')。過去に一部の[[民生用]]デッキ([[ソニー]]「EV-S600」「EV-S800」、Hi8の「EV-S900」[[東芝]]「E-800BS」等)に搭載されたが、ラジオ放送の長時間エアチェック等、用途が極めて限られた事から、現在民生向け製品での搭載機種は殆ど無い。 これと別に[[ティアック]]社はHi8テープを用いた[[業務用]][[マルチトラックレコーダ]]を提唱し、[[DTRS]]として規格化。広く用いられた。また[[データレコーダ]]としても応用された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == {{Commonscat|Video 8}} *[[映像機器]] *[[ソニーのビデオカメラ製品一覧]] *[[Digital8]] *{{仮リンク|Data8|label=Data8|en|Data8}} {{Video storage formats}} [[Category:ビデオテープ|8みりひてお]]
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ベータ
ベータ(beta) 企業名 製品名
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ベータ(beta) β - ギリシア文字の一つ。 ベータ崩壊 - 弱い相互作用によって起きる放射性壊変の一群。 ベータ粒子 - 放射線の一種。実体は電子又は陽電子。ベータ線。 ベータ関数 - 第一種オイラー積分とも呼ばれる特殊関数。 ベータ(β)値 - 株価指数に対する感応度を示す変数。 ベータ版 - 正式版をリリースする前にユーザーに試用してもらうためのソフトウェア。 ベータマックス - ビデオ規格。 企業名 ベータ (工具メーカー) - イタリアの工具メーカー。 ベータ (オートバイメーカー) - イタリアのオートバイメーカー。 ベータ・ニュース・エージェンシー - セルビアの通信社。 製品名 ヒュンダイ・ベータエンジン - 現代-起亜自動車グループの直列4気筒エンジンのシリーズ名。主な搭載車種はエラントラ、i30、JM、セラト、シード、スポーテージなど。 ランチア・ベータ - ランチアが製造・販売していた乗用車。 ベータ (マジック:ザ・ギャザリング) - 「マジック:ザ・ギャザリング」のカードセット。 β(BETA) - ブラス・ロックバンド・「BLUFF」のアルバム。
{{TOCright}} '''ベータ'''(beta) ; 言語学 * [[β]] - ギリシア文字の一つ。 ; 物理学 * [[ベータ崩壊]] - 弱い相互作用によって起きる放射性壊変の一群。 * [[ベータ粒子]] - 放射線の一種。実体は電子又は陽電子。[[ベータ線]]。 ; 数学 * [[ベータ関数]] - 第一種オイラー積分とも呼ばれる特殊関数。 ; 経済学 * [[資本コスト#β値(ベータ値)|ベータ(β)値]] - [[株価指数]]に対する感応度を示す変数。 ; 産業 * [[ベータ版]] - 正式版をリリースする前にユーザーに試用してもらうためのソフトウェア。 * [[ベータマックス]] - ビデオ規格。 企業名 * [[ベータ (工具メーカー)]] - [[イタリア]]の工具メーカー。 * [[ベータ (オートバイメーカー)]] - イタリアの[[オートバイ]]メーカー。 * [[ベータ・ニュース・エージェンシー]] - [[セルビア]]の通信社。 製品名 * [[ヒュンダイ・ベータエンジン]] - [[現代-起亜自動車グループ]]の[[直列4気筒]]エンジンのシリーズ名。主な搭載車種は[[ヒュンダイ・エラントラ|エラントラ]]、[[ヒュンダイ・i30|i30]]、[[ヒュンダイ・JM|JM]]、[[:en:Kia Cerato|セラト]]、[[キア・シード|シード]]、[[キア・スポーテージ|スポーテージ]]など。 * [[ランチア・ベータ]] - [[ランチア]]が製造・販売していた乗用車。 * [[ベータ (マジック:ザ・ギャザリング)]] - 「[[マジック:ザ・ギャザリング|マジック:ザ・ギャザリング]]」のカードセット。 * [[BLUFF (バンド)#ディスコグラフィー|β(BETA)]] - [[ブラス・ロック]]バンド・「[[BLUFF (バンド)|BLUFF]]」のアルバム。 == 関連項目 == * {{Prefix}} * [[ベタ (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:へえた}} [[Category:同名の企業]]
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2,204
ミニディスク
ミニディスク(英語: MiniDisc)は、ソニーが1991年(平成3年)に発表し、翌年の1992年(平成4年)に製品化したデジタルオーディオの光ディスク記録方式、および、その媒体である。略称はMD(エムディー)。MDレコーダーやMDプレーヤーなどで録音・再生ができる。 アナログコンパクトカセットを代替するという目標が開発の背景にあった。 2000年代後半以降、録音媒体としては主にフラッシュメモリに取って代わられていった。ソニーでは2022年現在もミニディスクの販売を続けており、量販店では1枚340円程度で80分ディスクが入手できる。 なお本記事では音楽用MDのほか、データ用規格であるMD DATA、長時間録音規格であるMDLP、転送規格であるNet MD、容量などを拡張した規格であるHi-MDについても述べる。 1980年代にソニーの大賀典雄らによって立ち上げられたコンパクトディスク(以下、CD)はディスク特有の瞬時に頭出しができる高速ランダムアクセス機能などによって、LPレコードにとって代わり、音楽メディアとして普及していた。一方でミュージックテープを含むコンパクトカセットの売り上げが頭打ちになり、その国内生産量および生産額は1988年をピークに下降し続けていたことを受け、大賀はコンパクトカセットに代わるメディアを考え始めた。 時期を同じくしてソニーでは、磁気テープのように記録できるディスクの開発をめざし、1986年にWrite Once Read Manyである追記型の「WO」、1988年には書き換え可能な光磁気ディスク(MO)を商品化しており、「CDを使った録音機」も試作されていた。この試作機を目にした大賀は試作機を作成した鶴島克明に「CDによる録音ではなく、もっと小さなディスクを使って記録・再生ができる、コンパクトカセットに代わるものをつくるべきだ」と指示を出す。 CDの時と同様にハードウェアだけでなく、ソフトウェアやメディアも含めて、世界標準規格化を進める必要があったが、CDを共同開発したフィリップスは「コンパクトカセットに代わるものはカセットだ」と、カセットのデジタル化を考えており、話し合いを重ねたが、共同はできそうもなかった。そのためソニー独自で開発することとなり、CD開発に関わった開発者を集め、社内で培われたMOの光磁気記録技術を活かして、さらに小型化したディスクへの音声記録を目指すこととなった。 仕様に関して、ディスクの直径は6.4 cmに決まったが、CDと同様に74分の音声を収録するために、当時最新デジタル信号処理技術であったATRACによる音声圧縮技術を開発し、同時に再生時の振動による音の途切れを抑えるために、半導体メモリーを使った「ショックプルーフメモリー」という技術を開発した。 こうして1991年5月、「ミニディスク(MD)」システムを発表、その際CDは自宅で、MDはウォークマンのように持ち運ぶなど、使用目的を明確にした。そして大賀はMDを業界標準にするために日米欧で説明会やデモンストレーションなどを行い、有力なハード、ソフトメーカーと次々とライセンス契約を結んでいった。ハードウェア開発陣にMDの商品化が伝えられたのは同年末のことで、開発者はウォークマンやポータブルCDプレーヤーの「D-50」を担当した者たちであった。発売目標は共同できなかったフィリップスが立ち上げたデジタルコンパクトカセット(DCC)と同じ1992年11月と決められたが、この時点で発売まで1年もなく、開発者たちは連日の徹夜続きとなった。 その後、機器の発売に合わせてMD音楽ソフト、録音用のメディアも準備されていき、1992年8月にはMDソフトの量産が始まり、同年9月に商品発表された。 1992年11月に録音・再生機の「MZ-1」、再生専用機の「MZ-2P」、録音用メディアの「MDW-60」、MD音楽ソフト88タイトルが発売された。 発売後、MDはCDと同様の使い方ができるように初めから考えられていたので、音声・画像・文字用の「MD DATA」(1993年)、画像用の「MDピクチャー」(1994年)が規格化された。その後も1996年には動画用の「MD DATA2」、2004年には音声・ストレージ用のHi-MDが策定された。 1995年には業界全体でMDのハードウェアの国内販売台数は100万台に達した。 MDはCD-Rが発売される前の録音メディアとして、CDと同等の操作が可能であり、コンパクトカセットの欠点である頭出しをすばやく行えることで人気を呼び、2000年代に入ってもなお愛用者が多かったが、2000年代中期にソニーを含む各社からフラッシュメモリを使用したデジタルオーディオプレーヤーが発売され、また2001年に発売して以来ヒットしていたAppleのiPodにおいて、ディスクレスかつハードディスクドライブに最大10,000曲もの音楽を保管できるメリットを伝えるため、2004年に「Goodbye MD」とウェブページ上で喧伝 するなど、MDを上回る容量や利便性・携帯性を有したプレーヤーが登場したことで、次第にMD離れが進み、2000年代後半ごろからMDの録音再生機器の製造・販売が縮小していった。 2000年代半ばごろからMD機器の出荷数減少に伴い、ディスクの流通も減少していった。ただし、現在流通している音声記録メディアではCDレコーダーやDATとともに、パソコンを一切使用せずにCDなどからの音源を直接デジタル録音できる数少ないメディアであるため、パソコンやスマホを持たない、あるいは持っていても十分に使用することが困難なユーザーなど、一部では未だに根強い需要がある。そのためミニディスクそのものは、スーパーマーケットなどでも大抵は5巻パックなどが揃っている場合が多く、ビクターアドバンストメディア(Victorブランド)製『MD-80RX5/MD-80RX10』と2001年1月に発売したパナソニックの『AY-MD74D』が、その他の単品ディスクは大創産業やイメーション(TDK Life on Recordブランドのみ。現:韓国オージン・コーポレーション)からも発売されていたが、それぞれ生産・販売終了となった。2023年現在では唯一、ソニーが2015年11月に発売した80分ディスクの『MDW80T』を生産・出荷・販売しており、家電販売店やホームセンター、オンラインショップなどで単品(1枚)から入手(購入)可能である。 再生専用MDは2001年をもって新譜の発売が終了した。以下の要因で普及しなかった。 1995年に登場した『MMD-140』などのデータ用MDは容量面では1994年に3.5インチMOで230 MBのディスクが登場したことで優位性は既になく、サイズはMOよりもコンパクトであるが、読み書き速度がMOと比較して150 KBytes/secで遅く、1995年時点でMOドライブが100万台以上を出荷していたこともあり、また後継のMDデータドライブも発売されなかったため、結果としてPC用メディアとしてはほとんど普及しなかった。 PC以外のハードにおいてはMD DATAは一定の需要はあったが、いずれも10万円を超える高額品であったり、マルチトラック・レコーダーのような特定の人が利用するものにしかドライブが搭載されなかったため、ディスクの利用者は限定的だった。ただし、ディスクには根強い需要があるためか、『MMD-140』の後継として『MMD-140A』が1998年6月9日に販売開始され(現在は販売終了)、『MMD-140B』が2016年(平成28年)10月11日に販売開始されている(2022年現在も販売中)。 MD DATA2は光学メディアを搭載した世界初のビデオカメラである『MD DISCAM』で採用され、アメリカでも発売されたが、ほかに対応機種は発売されず販売が終了した。 2004年発売のHi-MD『HMD1G』および2005年発売の『HMD1GA』は録音用MDとデータ用MDの両方の性質を兼ね備えたディスクだったが、デジタルオーディオプレーヤー市場の主流がフラッシュメモリベースとなった関係で需要が減少したため、2012年(平成24年)5月に出荷終了(製造終了)となった。 音楽用MDの規格書は「Rainbow Book」と呼ばれている。他の規格書としてIEC 61909(Audio recording - Minidisc system)、IEC 62121(Methods of measurement for minidisc recorders/players)がある。 音楽用MDには再生専用MDと録音用MD、ハイブリッドMDの3種類が規定されている。2000年代以降に流通しているMDはほとんどが録音用MDである。 一方でCDの1セクタは1/75フレームであり、75フレームで1秒であるため、1セクタは約13.333 msとなり、32セクタで約426.656 msとなる。結果2,043.36÷426.656より、圧縮倍率は約1/4.7892、つまり小数点以下を四捨五入した1/5となる。80分録音用MDの容量は177 MBであるが、この圧縮技術によって80分CDの1/5の容量で80分CDと同時間分の音声データを収録できる。 通常はユーザーが自身で録音を行うためのブランクディスクとして販売されている。シャッターはカートリッジ両面にある。ディスクタイプは当初ステレオモードで60分タイプのみだったが、1993年(平成5年)に74分タイプ、1999年(平成11年)に80分タイプが発売され3種となった。録音用MDの発売当初は高価格(1枚1400円から1700円程度)であったが、ハードウェアが普及するにつれて結果的にコストダウンが進み、低価格化へとつながった。最初期の80分ディスクは、74が80に変更されている以外にも、外観を同種の74分ディスクと変えてあるものも存在した。なおモノラルモードや各種拡張モードを使って録音した場合の分数はこれと一致しない。書き換え回数は雑な扱いをしない限り、1万回を超える書き換えは可能である。 1999年にはマルチメディア端末機を利用した、録音用MDへの音楽ダウンロードサービスが開始された。 2000年11月にはコンテンツホルダーであるソニー・ミュージックエンタテインメントはこれら端末に対して音楽配信サービスを開始した。 ゆずの「アゲイン」や本田美奈子.の「満月の夜に迎えに来て」などダウンロード専売の曲は盛況したものもあったが、上記の表の通り、配信サービスは約1年から5年と短期間で終了した。 録音用MDへの音楽配信は2004年で終了したが、それ以降も日本ではhàlやExist†trace、クリトリック・リスなど、一部の歌手は自主制作で録音用MDにライブ音源やデモ音源を収録して発表している。また主に海外においてBandcampで楽曲を発表しているものの中には、限定品として録音用MDに楽曲を録音して販売しているものもいる。 再生専用MDはCDと同様の構造の光ディスクである。録音用MDと異なり、シャッターがカートリッジの裏側のみにある。CDのように既成曲の入ったパッケージメディアが録音用MDと同月の1992年11月に主に日本のソニー・ミュージックエンタテインメント (SME)(現・ソニー・ミュージックレーベルズ)を中心に88タイトルから発売された。その後、ソニーミュージックを筆頭に各社から1996年5月末までに約900タイトルが発売され、一時期はオリコンチャートも実施されていたが、その後は発売タイトル数の減少や廃盤タイトルも出始めた。 新譜についてはソニーミュージックが2000年(平成12年)まで、ソニーが受託製造・販売しているzetima(現・アップフロントワークス)のモーニング娘。の新譜はCDと同時に2001年(平成13年)まで発売されていた。結果的には、2001年までに1000タイトル以上発売された。 また再生専用MDは1999年から2000年の間に語学書籍の付属品として中経出版や三修社、講談社の講談社プラスアルファ文庫から約70タイトルが出版された。 2021年現在、日本において自主制作を除くMDタイトルで最後に発売された作品は、2009年(平成21年)に発売された倉木麻衣の『ALL MY BEST』(品番: VNYM-9001-2) である。製造設備の関係で再生専用MDではなく録音用MDを使用し、出荷時に誤消去防止用のツメを開けて固定した状態としていた。 なお、再生専用MDは下記のように展開された。 再生専用MDは以下のレーベルにて発売された。品番のアルファベット4桁に関しては、規格品番を参照。「x」は0から9の数字が入る。 ハイブリッドMDは、再生専用エリアと録音用エリアの双方を持つ特殊なMDである。レンズ・ヘッド両用クリーナーで一部存在していた。再生専用エリアで光ピックアップレンズを、録音用エリアで磁気ヘッドをクリーニングすることができる。 MDclipはMDの予備データ領域に静止画像(JPEG)とテキスト情報を記録できる音楽用MDの拡張規格であり、1999年6月21日に発売された『MDS-DL1』に導入された。 MDS-DL1はソニーが提唱した「PlusMedia STATION」というデジタル機器によるネットワーク を構成する一部であり、CS放送を専用チューナー『DST-MS9』で受信し、SKY PerfecTV!の音楽配信番組「MusicLink」で配信された音楽をi.LINK経由で録音するものだった。また、i.LINK搭載のVAIOと接続し、専用のアプリケーションをインストールすることで、MDの再生、編集、静止画像やテキスト情報の記録操作が行える。 音楽用MD初の拡張規格であったが、MDS-DL1以外の機器には採用されなかった。 MDLP(MiniDisc Long-Play) は録音時間の延長を求めるユーザーの要望に応えるため、2000年7月18日に発表され、同年9月以降に発売された製品に導入された、従来の音楽MD規格に2倍、4倍の長時間録音モードを追加する上位規格である。 MDLPはメーカー・ユーザーのいずれからも歓迎され、登場から数年で、市場で従来型の音楽MD機器を置き換えた。 追加録音モードはそれぞれLP2モード、LP4モードと呼ばれ、従来のステレオモード(MDLP対応機器ではSPあるいはSTモードと呼ばれる)のそれぞれ2倍、4倍の時間分の録音ができる。 LPモードの符号化方式にはATRAC3を採用し、ビットレートはLP2モードで132 kbps、LP4モードで66 kbpsである。 LP4モードではステレオ音声の左右相関を利用して圧縮する"Joint Stereo"を導入することで、ビットレートの不足を補っている。各LPモードにはいずれもモノラル録音モードはない。また、ATRACと違いスケールファクターが存在しないため音量の調整は出来ない。 なお、これらLPモードのビットレートはSPモードである292 kbpsの2分の1、4分の1より若干小さい。これは、MDLP非対応機器でLP形式のトラックを再生した際に問題が起こるのを避けるために各サウンドグループ(212バイト)毎に20バイトのダミーデータが挿入されているためである。 MDLP規格で録音されたディスクはMDLP非対応機器でも認識が可能で、そのうちSPモードで記録されたトラックは正常に再生できる。ただし、LP2・LP4モードで記録したトラックを再生すると曲名欄の先頭に「LP:」と表示され、音声が流れない。なお、録音機の設定によりトラック名に「LP:」を付加せずに記録されたトラックの再生時には「LP:」の表示もされない。 一方、MDLP対応機器は従来型音楽MDとの上位互換性を確保しているため、従来機器で記録されたディスク・トラックの再生およびSPモードでの録音が問題なく行える。なお曲名欄の先頭に「LP:」を付加して記録されたトラックを再生した場合は、「LP:」は表示されない。 このように、MDLPは従来仕様との互換性が比較的高いのが特徴である。これはMDLPが録音モードの追加を目的としているため、ディスク・ファイルフォーマットなどが従来のまま引き継がれたことが大きい。しかしこのことで、ディスクあたりに記録できるトラック数は最大255トラックまで、および入力できる文字数は最大半角約1700文字・全角約800文字という従来の制約も引き継いだ。そのため、使用法によっては、残記録可能時間に余裕があるのに録音できない、条件次第では全曲に曲名をつけられないなど、せっかくの長時間録音を活かせない。 Net MDは2001年6月27日にソニーによって発表されたMD機器・PC間の音楽転送規格。このシステムは、当時流行の兆しを見せていたデジタルオーディオプレーヤーのように、PCに録りためた音楽を転送して持ち出すスタイルをMDに持ち込んだ。登場当初はデジタルオーディオプレーヤーが採用しているフラッシュメモリが高額であり、MDは当時のメモリーカードや内蔵メモリタイプのオーディオプレーヤーに比べて、容量単価が安価だった。 MD機器とPCの接続にはUSBを使用・もしくはPCに内蔵されているNet MDデバイスを用いて、『SonicStage』(旧OpenMG JukeBox)、『BeatJam』にてATRAC3方式へリッピングとOpenMGで暗号化した、もしくはBitmusicなどのEMDで購入・ダウンロードファイルをMagicGateでPCとNet MD機器間を認証し相互転送する。Net MD機器でのMDへの録音・転送はMDLP相当のATRAC3もしくはSP相当のATRACであるため、記録内容は従来のMD (MDLP) プレーヤーでも問題なく再生できる事が利点として宣伝された。ただし編集は一部制限される。またPC側でMD機器側と接続制御するソフトウェアの制限などによりPC側のソフトウェアに履歴の無い楽曲データ、つまり別のPCでMDにチェックアウトした楽曲のチェックイン(リッピング)は不可となっている。通常のMDレコーダーで録音したトラックをリッピングする事はごく一部の機種で対応していた。 データ用MDにはMD DATAとMD DATA2の2種類の規格が存在する。 MD DATAはMDに音楽以外のデータを記録させるニーズに応えるため、1993年に発表され、1995年(平成7年)にソニーからは『MMD-140』、TDKからは『MD-D140』、シャープからは『AD-DR140』として発売された。 基本的な仕様は音楽用MDと同様だが、音楽用MD利用者の混乱を避けるため、MD DATA専用のカートリッジ・ディスクが用いられており、音楽用MDとは異なり、ゴミの影響を排除するためロングシャッターを採用している。なお、非公式ではあるが音楽用MDをMDデータドライブにてフォーマットすることでMD DATAとして使用可能となる。 容量は140 MBで、ファイルフォーマットには特定のオペレーティングシステムに依存しない独自のものを採用している。 PC用ドライブはソニーが1995年7月に発売したSCSI接続でポータブル型ドライブの『MDH-10』とOEM用の内蔵型ドライブの『MDM-111』があり、MDH-10は音楽用MDの再生も可能であるが録音はできない。 一方、PC以外ではソニーから発売されたパーソナルMDファイルの「DATA EATA」 やデジタルカメラなどの製品で利用できる。 また、1994年(平成6年)にはMD DATAで画像を扱うための規格としてPicture MDが発表された。この規格の採用製品はデジタルカメラが主で、1996年(平成8年)10月10日に発売されたソニーのサイバーショット『DSC-F1』の画像形式であるPIC_CAMで採用された。DSC-F1はMDデータドライブを搭載していないが、同年11月10日に発売されたソニーのデジタルピクチャーアルバム『DPA-1』 はドライブを搭載しており、DSC-F1からIrDAを利用して、MDデータディスクに画像を保存できる。その後1997年にはドライブを搭載したデジタルカメラも発売された。これらは音楽用MDの録音再生も可能である。 また、業務用機器にも採用された。 MD DATAという名称だが、オーディオ用途で用いることもでき、マルチトラック・レコーダーで使用できる。ただし、データ用途で使用したディスクはフォーマットしなければオーディオ用途では使用できない。なお、マルチトラック・レコーダーは通常の録音用MDへの録音も対応しており、録音した音声はMDプレーヤーやレコーダーで再生できる。 通常の録音用MDではなくデータ用MDを使用するメリットは、MD DATAで採用されたATRAC2によって、マルチチャンネル(4ch / 8ch)による録音や長時間録音(ステレオ296分、モノラル592分)ができる点であるが、その代わりにMDプレーヤーやレコーダーで再生できなくなる。 MD DATA発表以降、急速に普及していくパソコンによって、より高速・大容量のメディアの要求が高まり、それに応えるため開発され、1996年12月16日、容量を650 MBに大容量化し転送速度を9.4 Mbpsに高速化したMD DATA2として発表された。 ディスクの厚みは音楽用MD、MD DATAと同様に1.2 mmが採用された。高密度化するには薄いほうが有利であるが、既存のMDとの互換性を優先した。一方で開口数は既存のMDが0.45であるのに対して0.52の対物レンズを採用した。このためスポットサイズを小さくでき、またエラー訂正方式も既存MDのACIRCからリード・ソロモン積符号方式に変更したことで冗長度を20%削減させ、容量を増大させた。 規格発表後、製品化には時間を要し、1999年8月28日に開催された国際コンシューマ・エレクトロニクス展に参考出品、その後『MD VIEW(MMD-650A)』として同年12月3日に発売された。 そして同年11月1日に発売日が発表されていたソニーのMDビデオカメラ『MD DISCAM(DCM-M1)』で初採用された。MD DISCAMはMDに動画を記録する初の製品であり、映像記録にMPEG-2、音声にATRACを利用し動画は最大20分、静止画約4,500枚、音声最大260分が記録でき、音楽用MDの再生もできる(録音は不可)。MDのランダムアクセス性を活かしたカメラ単体でのノンリニア編集や10BASE-TによるPCとの連携に対応する。 なおMD DISCAMは試作機の段階では映像のデジタル入力端子も備えていたが、市販の映像ソフトからMD DISCAMに映像を取り込んで編集しMDに保存するなど、著作権に関する懸念があるため、製品版では削除された。 Hi-MD(ハイエムディー)は高音質化や長時間録音、PCとの親和性向上など多岐に渡る拡張がなされた規格。2004年(平成16年)1月8日、ソニーによって発表された。 以前の音楽MD・MDLP・Net MDからの主な変更点や特徴は次の通り。 また、2005年(平成17年)3月2日には規格拡張が発表された。 以上、Hi-MDは従来のMD機器をベースに、音楽以外のコンテンツも記録できる汎用メディアとして利用できる。 Hi-MDフォーマット専用ディスクは『HMD1G』のほか、2005年に『HMD1GA』が発売された。発売当初の価格は1枚700円前後。 Hi-MDフォーマットでは信号処理技術が変更されたことで高密度化され、従来に比べ大容量化を実現した。具体的には従来型MDの80分ディスクの容量は177 MBだが、Hi-MDフォーマット専用ディスクは従来型MDと同サイズで964 MB(約1 GiB)の容量を持つ。また従来型MDもHi-MDフォーマットで初期化することで容量を拡張できる。例えば80分ディスクはHi-MDフォーマットで初期化すると291 MB(約305 MiB)の容量になる。 ファイルシステムにはFATを採用した。そのためHi-MDプレーヤーをUSB経由でパソコンと接続することでMOやDVD-RAMやUSBメモリのように、大容量の外部記憶メディアとして利用できる。なおHi-MD AUDIO機器から利用される音楽トラックもFAT領域に格納されているが、PCからは不可視の「Proprietary Area」に記録された情報により暗号化されているため、『SonicStage』などの対応ソフトウェア以外ではPC上での再生・コピーを行うことはできない。 Hi-MD AUDIOでは多くの録音モードがサポートされ、幅広い用途に対応できるようになった。しかし録音操作の複雑化を避けるためか録音モードの多くはPCからの転送のみの扱いであり、Hi-MD機器本体のみで録音できるモードは3モードに絞られている。 また、MD創生期から利用されていたATRACの両モードである292 kbps、146 kbpsは廃止となった。このため、Hi-MD機器でこれらのモードを利用したい場合には従来フォーマットでディスクを使う必要がある。 Hi-MD AUDIOが対応する録音モード は以下のとおり。 Hi-MD専用ディスクは従来の音楽MD・MDLP機器からは一切の認識・再生が出来ず、Hi-MDフォーマットで初期化された従来ディスクはディスク名がHi-MD DISCと表示されるだけで編集や再生はできない。一方、Hi-MD AUDIO機器側では従来の音楽MD・MDLP規格との上位互換性を確保している。このため従来規格で録音されたディスクの再生が可能である。従来規格での録音は一部機種のみ。 Hi-MD PHOTOは、2005年春のHi-MD規格拡張の際に発表された画像記録用規格。 ベースはデジタルカメラのアプリケーションフォーマットとしてデファクト・スタンダードとなっているDCF・Exifだが、独自にサムネイル用キャッシュファイルの仕組みを追加することで画像閲覧の高速化を図っている。 この規格の発表と同時に、対応機器の第1弾であるHi-MDウォークマン『MZ-DH10P』が発表された。この機種は約130万画素のCMOSカメラと1.5インチのカラー液晶を内蔵しており、撮影した画像はHi-MDへ記録される。またHi-MD AUDIOにも対応しているため、音楽再生中に写真をスライドショー再生する機能や内蔵カメラでCDなどのジャケットを撮影してHi-MD AUDIOトラックのジャケット画像として登録する機能などもある。 比較のため、カセットテープと録音用CD-Rも記す。 国内需要において、2008年は推定実績値。2009年以降は予測値。 以下の表は国内需要を含むものである。 世界需要において、2006年以降は推定実績値。2009年以降は予測値。 以上より日本国内において、MDは2000年から2004年をピークとし、2007年から2008年ごろまで他の録音メディア以上に、もしくは同等の需要があったが、世界規模ではカセットテープの需要に追いつくことはなく、後発であった録音用CD-Rにも2年程で後塵を拝すことになり、そのまま追い越すことはなかった。 MDに関する書籍を列挙する。 書籍タイトルからも1990年代前半はまだデジタルコンパクトカセット(DCC)と同列に位置していたことがうかがえる。
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"こうして1991年5月、「ミニディスク(MD)」システムを発表、その際CDは自宅で、MDはウォークマンのように持ち運ぶなど、使用目的を明確にした。そして大賀はMDを業界標準にするために日米欧で説明会やデモンストレーションなどを行い、有力なハード、ソフトメーカーと次々とライセンス契約を結んでいった。ハードウェア開発陣にMDの商品化が伝えられたのは同年末のことで、開発者はウォークマンやポータブルCDプレーヤーの「D-50」を担当した者たちであった。発売目標は共同できなかったフィリップスが立ち上げたデジタルコンパクトカセット(DCC)と同じ1992年11月と決められたが、この時点で発売まで1年もなく、開発者たちは連日の徹夜続きとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後、機器の発売に合わせてMD音楽ソフト、録音用のメディアも準備されていき、1992年8月にはMDソフトの量産が始まり、同年9月に商品発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1992年11月に録音・再生機の「MZ-1」、再生専用機の「MZ-2P」、録音用メディアの「MDW-60」、MD音楽ソフト88タイトルが発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "発売後、MDはCDと同様の使い方ができるように初めから考えられていたので、音声・画像・文字用の「MD DATA」(1993年)、画像用の「MDピクチャー」(1994年)が規格化された。その後も1996年には動画用の「MD DATA2」、2004年には音声・ストレージ用のHi-MDが策定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1995年には業界全体でMDのハードウェアの国内販売台数は100万台に達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "MDはCD-Rが発売される前の録音メディアとして、CDと同等の操作が可能であり、コンパクトカセットの欠点である頭出しをすばやく行えることで人気を呼び、2000年代に入ってもなお愛用者が多かったが、2000年代中期にソニーを含む各社からフラッシュメモリを使用したデジタルオーディオプレーヤーが発売され、また2001年に発売して以来ヒットしていたAppleのiPodにおいて、ディスクレスかつハードディスクドライブに最大10,000曲もの音楽を保管できるメリットを伝えるため、2004年に「Goodbye MD」とウェブページ上で喧伝 するなど、MDを上回る容量や利便性・携帯性を有したプレーヤーが登場したことで、次第にMD離れが進み、2000年代後半ごろからMDの録音再生機器の製造・販売が縮小していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2000年代半ばごろからMD機器の出荷数減少に伴い、ディスクの流通も減少していった。ただし、現在流通している音声記録メディアではCDレコーダーやDATとともに、パソコンを一切使用せずにCDなどからの音源を直接デジタル録音できる数少ないメディアであるため、パソコンやスマホを持たない、あるいは持っていても十分に使用することが困難なユーザーなど、一部では未だに根強い需要がある。そのためミニディスクそのものは、スーパーマーケットなどでも大抵は5巻パックなどが揃っている場合が多く、ビクターアドバンストメディア(Victorブランド)製『MD-80RX5/MD-80RX10』と2001年1月に発売したパナソニックの『AY-MD74D』が、その他の単品ディスクは大創産業やイメーション(TDK Life on Recordブランドのみ。現:韓国オージン・コーポレーション)からも発売されていたが、それぞれ生産・販売終了となった。2023年現在では唯一、ソニーが2015年11月に発売した80分ディスクの『MDW80T』を生産・出荷・販売しており、家電販売店やホームセンター、オンラインショップなどで単品(1枚)から入手(購入)可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "再生専用MDは2001年をもって新譜の発売が終了した。以下の要因で普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1995年に登場した『MMD-140』などのデータ用MDは容量面では1994年に3.5インチMOで230 MBのディスクが登場したことで優位性は既になく、サイズはMOよりもコンパクトであるが、読み書き速度がMOと比較して150 KBytes/secで遅く、1995年時点でMOドライブが100万台以上を出荷していたこともあり、また後継のMDデータドライブも発売されなかったため、結果としてPC用メディアとしてはほとんど普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "PC以外のハードにおいてはMD DATAは一定の需要はあったが、いずれも10万円を超える高額品であったり、マルチトラック・レコーダーのような特定の人が利用するものにしかドライブが搭載されなかったため、ディスクの利用者は限定的だった。ただし、ディスクには根強い需要があるためか、『MMD-140』の後継として『MMD-140A』が1998年6月9日に販売開始され(現在は販売終了)、『MMD-140B』が2016年(平成28年)10月11日に販売開始されている(2022年現在も販売中)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "MD DATA2は光学メディアを搭載した世界初のビデオカメラである『MD DISCAM』で採用され、アメリカでも発売されたが、ほかに対応機種は発売されず販売が終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2004年発売のHi-MD『HMD1G』および2005年発売の『HMD1GA』は録音用MDとデータ用MDの両方の性質を兼ね備えたディスクだったが、デジタルオーディオプレーヤー市場の主流がフラッシュメモリベースとなった関係で需要が減少したため、2012年(平成24年)5月に出荷終了(製造終了)となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "音楽用MDの規格書は「Rainbow Book」と呼ばれている。他の規格書としてIEC 61909(Audio recording - Minidisc system)、IEC 62121(Methods of measurement for minidisc recorders/players)がある。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "音楽用MDには再生専用MDと録音用MD、ハイブリッドMDの3種類が規定されている。2000年代以降に流通しているMDはほとんどが録音用MDである。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方でCDの1セクタは1/75フレームであり、75フレームで1秒であるため、1セクタは約13.333 msとなり、32セクタで約426.656 msとなる。結果2,043.36÷426.656より、圧縮倍率は約1/4.7892、つまり小数点以下を四捨五入した1/5となる。80分録音用MDの容量は177 MBであるが、この圧縮技術によって80分CDの1/5の容量で80分CDと同時間分の音声データを収録できる。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "通常はユーザーが自身で録音を行うためのブランクディスクとして販売されている。シャッターはカートリッジ両面にある。ディスクタイプは当初ステレオモードで60分タイプのみだったが、1993年(平成5年)に74分タイプ、1999年(平成11年)に80分タイプが発売され3種となった。録音用MDの発売当初は高価格(1枚1400円から1700円程度)であったが、ハードウェアが普及するにつれて結果的にコストダウンが進み、低価格化へとつながった。最初期の80分ディスクは、74が80に変更されている以外にも、外観を同種の74分ディスクと変えてあるものも存在した。なおモノラルモードや各種拡張モードを使って録音した場合の分数はこれと一致しない。書き換え回数は雑な扱いをしない限り、1万回を超える書き換えは可能である。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1999年にはマルチメディア端末機を利用した、録音用MDへの音楽ダウンロードサービスが開始された。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2000年11月にはコンテンツホルダーであるソニー・ミュージックエンタテインメントはこれら端末に対して音楽配信サービスを開始した。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ゆずの「アゲイン」や本田美奈子.の「満月の夜に迎えに来て」などダウンロード専売の曲は盛況したものもあったが、上記の表の通り、配信サービスは約1年から5年と短期間で終了した。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "録音用MDへの音楽配信は2004年で終了したが、それ以降も日本ではhàlやExist†trace、クリトリック・リスなど、一部の歌手は自主制作で録音用MDにライブ音源やデモ音源を収録して発表している。また主に海外においてBandcampで楽曲を発表しているものの中には、限定品として録音用MDに楽曲を録音して販売しているものもいる。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "再生専用MDはCDと同様の構造の光ディスクである。録音用MDと異なり、シャッターがカートリッジの裏側のみにある。CDのように既成曲の入ったパッケージメディアが録音用MDと同月の1992年11月に主に日本のソニー・ミュージックエンタテインメント (SME)(現・ソニー・ミュージックレーベルズ)を中心に88タイトルから発売された。その後、ソニーミュージックを筆頭に各社から1996年5月末までに約900タイトルが発売され、一時期はオリコンチャートも実施されていたが、その後は発売タイトル数の減少や廃盤タイトルも出始めた。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "新譜についてはソニーミュージックが2000年(平成12年)まで、ソニーが受託製造・販売しているzetima(現・アップフロントワークス)のモーニング娘。の新譜はCDと同時に2001年(平成13年)まで発売されていた。結果的には、2001年までに1000タイトル以上発売された。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また再生専用MDは1999年から2000年の間に語学書籍の付属品として中経出版や三修社、講談社の講談社プラスアルファ文庫から約70タイトルが出版された。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2021年現在、日本において自主制作を除くMDタイトルで最後に発売された作品は、2009年(平成21年)に発売された倉木麻衣の『ALL MY BEST』(品番: VNYM-9001-2) である。製造設備の関係で再生専用MDではなく録音用MDを使用し、出荷時に誤消去防止用のツメを開けて固定した状態としていた。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、再生専用MDは下記のように展開された。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "再生専用MDは以下のレーベルにて発売された。品番のアルファベット4桁に関しては、規格品番を参照。「x」は0から9の数字が入る。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ハイブリッドMDは、再生専用エリアと録音用エリアの双方を持つ特殊なMDである。レンズ・ヘッド両用クリーナーで一部存在していた。再生専用エリアで光ピックアップレンズを、録音用エリアで磁気ヘッドをクリーニングすることができる。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "MDclipはMDの予備データ領域に静止画像(JPEG)とテキスト情報を記録できる音楽用MDの拡張規格であり、1999年6月21日に発売された『MDS-DL1』に導入された。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "MDS-DL1はソニーが提唱した「PlusMedia STATION」というデジタル機器によるネットワーク を構成する一部であり、CS放送を専用チューナー『DST-MS9』で受信し、SKY PerfecTV!の音楽配信番組「MusicLink」で配信された音楽をi.LINK経由で録音するものだった。また、i.LINK搭載のVAIOと接続し、専用のアプリケーションをインストールすることで、MDの再生、編集、静止画像やテキスト情報の記録操作が行える。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "音楽用MD初の拡張規格であったが、MDS-DL1以外の機器には採用されなかった。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "MDLP(MiniDisc Long-Play) は録音時間の延長を求めるユーザーの要望に応えるため、2000年7月18日に発表され、同年9月以降に発売された製品に導入された、従来の音楽MD規格に2倍、4倍の長時間録音モードを追加する上位規格である。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "MDLPはメーカー・ユーザーのいずれからも歓迎され、登場から数年で、市場で従来型の音楽MD機器を置き換えた。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "追加録音モードはそれぞれLP2モード、LP4モードと呼ばれ、従来のステレオモード(MDLP対応機器ではSPあるいはSTモードと呼ばれる)のそれぞれ2倍、4倍の時間分の録音ができる。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "LPモードの符号化方式にはATRAC3を採用し、ビットレートはLP2モードで132 kbps、LP4モードで66 kbpsである。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "LP4モードではステレオ音声の左右相関を利用して圧縮する\"Joint Stereo\"を導入することで、ビットレートの不足を補っている。各LPモードにはいずれもモノラル録音モードはない。また、ATRACと違いスケールファクターが存在しないため音量の調整は出来ない。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、これらLPモードのビットレートはSPモードである292 kbpsの2分の1、4分の1より若干小さい。これは、MDLP非対応機器でLP形式のトラックを再生した際に問題が起こるのを避けるために各サウンドグループ(212バイト)毎に20バイトのダミーデータが挿入されているためである。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "MDLP規格で録音されたディスクはMDLP非対応機器でも認識が可能で、そのうちSPモードで記録されたトラックは正常に再生できる。ただし、LP2・LP4モードで記録したトラックを再生すると曲名欄の先頭に「LP:」と表示され、音声が流れない。なお、録音機の設定によりトラック名に「LP:」を付加せずに記録されたトラックの再生時には「LP:」の表示もされない。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方、MDLP対応機器は従来型音楽MDとの上位互換性を確保しているため、従来機器で記録されたディスク・トラックの再生およびSPモードでの録音が問題なく行える。なお曲名欄の先頭に「LP:」を付加して記録されたトラックを再生した場合は、「LP:」は表示されない。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このように、MDLPは従来仕様との互換性が比較的高いのが特徴である。これはMDLPが録音モードの追加を目的としているため、ディスク・ファイルフォーマットなどが従来のまま引き継がれたことが大きい。しかしこのことで、ディスクあたりに記録できるトラック数は最大255トラックまで、および入力できる文字数は最大半角約1700文字・全角約800文字という従来の制約も引き継いだ。そのため、使用法によっては、残記録可能時間に余裕があるのに録音できない、条件次第では全曲に曲名をつけられないなど、せっかくの長時間録音を活かせない。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Net MDは2001年6月27日にソニーによって発表されたMD機器・PC間の音楽転送規格。このシステムは、当時流行の兆しを見せていたデジタルオーディオプレーヤーのように、PCに録りためた音楽を転送して持ち出すスタイルをMDに持ち込んだ。登場当初はデジタルオーディオプレーヤーが採用しているフラッシュメモリが高額であり、MDは当時のメモリーカードや内蔵メモリタイプのオーディオプレーヤーに比べて、容量単価が安価だった。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "MD機器とPCの接続にはUSBを使用・もしくはPCに内蔵されているNet MDデバイスを用いて、『SonicStage』(旧OpenMG JukeBox)、『BeatJam』にてATRAC3方式へリッピングとOpenMGで暗号化した、もしくはBitmusicなどのEMDで購入・ダウンロードファイルをMagicGateでPCとNet MD機器間を認証し相互転送する。Net MD機器でのMDへの録音・転送はMDLP相当のATRAC3もしくはSP相当のATRACであるため、記録内容は従来のMD (MDLP) プレーヤーでも問題なく再生できる事が利点として宣伝された。ただし編集は一部制限される。またPC側でMD機器側と接続制御するソフトウェアの制限などによりPC側のソフトウェアに履歴の無い楽曲データ、つまり別のPCでMDにチェックアウトした楽曲のチェックイン(リッピング)は不可となっている。通常のMDレコーダーで録音したトラックをリッピングする事はごく一部の機種で対応していた。", "title": "音楽用MD" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "データ用MDにはMD DATAとMD DATA2の2種類の規格が存在する。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "MD DATAはMDに音楽以外のデータを記録させるニーズに応えるため、1993年に発表され、1995年(平成7年)にソニーからは『MMD-140』、TDKからは『MD-D140』、シャープからは『AD-DR140』として発売された。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "基本的な仕様は音楽用MDと同様だが、音楽用MD利用者の混乱を避けるため、MD DATA専用のカートリッジ・ディスクが用いられており、音楽用MDとは異なり、ゴミの影響を排除するためロングシャッターを採用している。なお、非公式ではあるが音楽用MDをMDデータドライブにてフォーマットすることでMD DATAとして使用可能となる。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "容量は140 MBで、ファイルフォーマットには特定のオペレーティングシステムに依存しない独自のものを採用している。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "PC用ドライブはソニーが1995年7月に発売したSCSI接続でポータブル型ドライブの『MDH-10』とOEM用の内蔵型ドライブの『MDM-111』があり、MDH-10は音楽用MDの再生も可能であるが録音はできない。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一方、PC以外ではソニーから発売されたパーソナルMDファイルの「DATA EATA」 やデジタルカメラなどの製品で利用できる。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、1994年(平成6年)にはMD DATAで画像を扱うための規格としてPicture MDが発表された。この規格の採用製品はデジタルカメラが主で、1996年(平成8年)10月10日に発売されたソニーのサイバーショット『DSC-F1』の画像形式であるPIC_CAMで採用された。DSC-F1はMDデータドライブを搭載していないが、同年11月10日に発売されたソニーのデジタルピクチャーアルバム『DPA-1』 はドライブを搭載しており、DSC-F1からIrDAを利用して、MDデータディスクに画像を保存できる。その後1997年にはドライブを搭載したデジタルカメラも発売された。これらは音楽用MDの録音再生も可能である。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、業務用機器にも採用された。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "MD DATAという名称だが、オーディオ用途で用いることもでき、マルチトラック・レコーダーで使用できる。ただし、データ用途で使用したディスクはフォーマットしなければオーディオ用途では使用できない。なお、マルチトラック・レコーダーは通常の録音用MDへの録音も対応しており、録音した音声はMDプレーヤーやレコーダーで再生できる。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "通常の録音用MDではなくデータ用MDを使用するメリットは、MD DATAで採用されたATRAC2によって、マルチチャンネル(4ch / 8ch)による録音や長時間録音(ステレオ296分、モノラル592分)ができる点であるが、その代わりにMDプレーヤーやレコーダーで再生できなくなる。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "MD DATA発表以降、急速に普及していくパソコンによって、より高速・大容量のメディアの要求が高まり、それに応えるため開発され、1996年12月16日、容量を650 MBに大容量化し転送速度を9.4 Mbpsに高速化したMD DATA2として発表された。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ディスクの厚みは音楽用MD、MD DATAと同様に1.2 mmが採用された。高密度化するには薄いほうが有利であるが、既存のMDとの互換性を優先した。一方で開口数は既存のMDが0.45であるのに対して0.52の対物レンズを採用した。このためスポットサイズを小さくでき、またエラー訂正方式も既存MDのACIRCからリード・ソロモン積符号方式に変更したことで冗長度を20%削減させ、容量を増大させた。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "規格発表後、製品化には時間を要し、1999年8月28日に開催された国際コンシューマ・エレクトロニクス展に参考出品、その後『MD VIEW(MMD-650A)』として同年12月3日に発売された。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そして同年11月1日に発売日が発表されていたソニーのMDビデオカメラ『MD DISCAM(DCM-M1)』で初採用された。MD DISCAMはMDに動画を記録する初の製品であり、映像記録にMPEG-2、音声にATRACを利用し動画は最大20分、静止画約4,500枚、音声最大260分が記録でき、音楽用MDの再生もできる(録音は不可)。MDのランダムアクセス性を活かしたカメラ単体でのノンリニア編集や10BASE-TによるPCとの連携に対応する。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なおMD DISCAMは試作機の段階では映像のデジタル入力端子も備えていたが、市販の映像ソフトからMD DISCAMに映像を取り込んで編集しMDに保存するなど、著作権に関する懸念があるため、製品版では削除された。", "title": "データ用MD" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "Hi-MD(ハイエムディー)は高音質化や長時間録音、PCとの親和性向上など多岐に渡る拡張がなされた規格。2004年(平成16年)1月8日、ソニーによって発表された。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "以前の音楽MD・MDLP・Net MDからの主な変更点や特徴は次の通り。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、2005年(平成17年)3月2日には規格拡張が発表された。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "以上、Hi-MDは従来のMD機器をベースに、音楽以外のコンテンツも記録できる汎用メディアとして利用できる。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Hi-MDフォーマット専用ディスクは『HMD1G』のほか、2005年に『HMD1GA』が発売された。発売当初の価格は1枚700円前後。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "Hi-MDフォーマットでは信号処理技術が変更されたことで高密度化され、従来に比べ大容量化を実現した。具体的には従来型MDの80分ディスクの容量は177 MBだが、Hi-MDフォーマット専用ディスクは従来型MDと同サイズで964 MB(約1 GiB)の容量を持つ。また従来型MDもHi-MDフォーマットで初期化することで容量を拡張できる。例えば80分ディスクはHi-MDフォーマットで初期化すると291 MB(約305 MiB)の容量になる。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ファイルシステムにはFATを採用した。そのためHi-MDプレーヤーをUSB経由でパソコンと接続することでMOやDVD-RAMやUSBメモリのように、大容量の外部記憶メディアとして利用できる。なおHi-MD AUDIO機器から利用される音楽トラックもFAT領域に格納されているが、PCからは不可視の「Proprietary Area」に記録された情報により暗号化されているため、『SonicStage』などの対応ソフトウェア以外ではPC上での再生・コピーを行うことはできない。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "Hi-MD AUDIOでは多くの録音モードがサポートされ、幅広い用途に対応できるようになった。しかし録音操作の複雑化を避けるためか録音モードの多くはPCからの転送のみの扱いであり、Hi-MD機器本体のみで録音できるモードは3モードに絞られている。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、MD創生期から利用されていたATRACの両モードである292 kbps、146 kbpsは廃止となった。このため、Hi-MD機器でこれらのモードを利用したい場合には従来フォーマットでディスクを使う必要がある。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "Hi-MD AUDIOが対応する録音モード は以下のとおり。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "Hi-MD専用ディスクは従来の音楽MD・MDLP機器からは一切の認識・再生が出来ず、Hi-MDフォーマットで初期化された従来ディスクはディスク名がHi-MD DISCと表示されるだけで編集や再生はできない。一方、Hi-MD AUDIO機器側では従来の音楽MD・MDLP規格との上位互換性を確保している。このため従来規格で録音されたディスクの再生が可能である。従来規格での録音は一部機種のみ。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "Hi-MD PHOTOは、2005年春のHi-MD規格拡張の際に発表された画像記録用規格。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ベースはデジタルカメラのアプリケーションフォーマットとしてデファクト・スタンダードとなっているDCF・Exifだが、独自にサムネイル用キャッシュファイルの仕組みを追加することで画像閲覧の高速化を図っている。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "この規格の発表と同時に、対応機器の第1弾であるHi-MDウォークマン『MZ-DH10P』が発表された。この機種は約130万画素のCMOSカメラと1.5インチのカラー液晶を内蔵しており、撮影した画像はHi-MDへ記録される。またHi-MD AUDIOにも対応しているため、音楽再生中に写真をスライドショー再生する機能や内蔵カメラでCDなどのジャケットを撮影してHi-MD AUDIOトラックのジャケット画像として登録する機能などもある。", "title": "Hi-MD" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "比較のため、カセットテープと録音用CD-Rも記す。", "title": "累計出荷数" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "国内需要において、2008年は推定実績値。2009年以降は予測値。", "title": "累計出荷数" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "以下の表は国内需要を含むものである。 世界需要において、2006年以降は推定実績値。2009年以降は予測値。", "title": "累計出荷数" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "以上より日本国内において、MDは2000年から2004年をピークとし、2007年から2008年ごろまで他の録音メディア以上に、もしくは同等の需要があったが、世界規模ではカセットテープの需要に追いつくことはなく、後発であった録音用CD-Rにも2年程で後塵を拝すことになり、そのまま追い越すことはなかった。", "title": "累計出荷数" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "MDに関する書籍を列挙する。 書籍タイトルからも1990年代前半はまだデジタルコンパクトカセット(DCC)と同列に位置していたことがうかがえる。", "title": "書籍" } ]
ミニディスクは、ソニーが1991年(平成3年)に発表し、翌年の1992年(平成4年)に製品化したデジタルオーディオの光ディスク記録方式、および、その媒体である。略称はMD(エムディー)。MDレコーダーやMDプレーヤーなどで録音・再生ができる。 アナログコンパクトカセットを代替するという目標が開発の背景にあった。 2000年代後半以降、録音媒体としては主にフラッシュメモリに取って代わられていった。ソニーでは2022年現在もミニディスクの販売を続けており、量販店では1枚340円程度で80分ディスクが入手できる。 なお本記事では音楽用MDのほか、データ用規格であるMD DATA、長時間録音規格であるMDLP、転送規格であるNet MD、容量などを拡張した規格であるHi-MDについても述べる。
{{Otheruses|1992年に日本で発売されたオーディオディスク|1980年ごろにドイツで開発されていたオーディオディスク|ミニディスク・マイクロディスク}} {{pathnavbox| {{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光磁気ディスク}} {{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク}} }} '''ミニディスク'''({{lang-en|'''MiniDisc'''}})は、[[ソニー]]が[[1991年]]([[平成]]3年)に発表し、翌年の[[1992年]](平成4年)に製品化したデジタルオーディオの[[光ディスク]]記録方式、および、その媒体である。略称は'''MD'''(エムディー)。[[MDレコーダー]]やMDプレーヤーなどで録音・再生ができる。 アナログ[[コンパクトカセット]]を代替するという目標が開発の背景にあった<ref name="sony20020902">{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/200209/02-0902/ |title=スタイリッシュなミュージックライフを提案した“ミニディスク(MD)”今年で誕生10周年 |publisher=ソニー |date=2002-09-02 |accessdate=2020-06-23}}</ref>。<!--しかしコンパクトカセットについては2016年現在でも[[需要]]があり、市場では完全な代替には至らず、コンパクトカセットとMDの両方を搭載したラジカセやミニコンポなどが販売されている。--><!--旧メディアが今も「存在する」ことをもって代替されていないとするのは中立的でない--><!--普及状況関連の記述を一旦削除しています。復活させる前にまずノートページを読んでください。--> [[2000年代]]後半以降、録音媒体としては主に[[フラッシュメモリ]]に取って代わられていった。ソニーでは[[2022年]]現在もミニディスクの販売を続けており<ref>{{Cite web |url=https://www.sony.jp/rec-media/products/MDW80T/ |title=MDW80T |publisher=ソニー |accessdate=2021-07-02}}</ref>、量販店では1枚340円程度で80分ディスクが入手できる。 なお本記事では[[#音楽用MD|音楽用MD]]のほか、データ用規格である[[#MD DATA|MD DATA]]、長時間録音規格である[[#MDLP|MDLP]]、転送規格である[[#Net MD|Net MD]]、容量などを拡張した規格である[[#Hi-MD|Hi-MD]]についても述べる。 == 歴史 == === 開発経緯 === 1980年代にソニーの[[大賀典雄]]{{efn2|1989年当時のソニー最高経営責任者。}}らによって立ち上げられた[[コンパクトディスク]](以下、CD)はディスク特有の瞬時に頭出しができる高速ランダムアクセス機能などによって、LP[[レコード]]にとって代わり、音楽メディアとして普及していた<ref name="SonyHistory">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-10.html |title=第3話 コンパクトカセットに代わるミニディスク |work=Sony History 第10章 スタジオ録音もデジタルに |publisher=ソニー |access-date=2023-07-27}}</ref>。一方でミュージックテープを含むコンパクトカセットの売り上げが頭打ちになり、その国内生産量および生産額は1988年をピークに下降し続けていたことを受け、大賀はコンパクトカセットに代わるメディアを考え始めた<ref name="SonyHistory" />。 時期を同じくしてソニーでは、磁気テープのように記録できるディスクの開発をめざし、1986年に[[Write Once Read Many]]である追記型の「WO」、1988年には書き換え可能な[[光磁気ディスク]](MO)を商品化しており、「CDを使った録音機」も試作されていた<ref name="SonyHistory" />。この試作機を目にした大賀は試作機を作成した鶴島克明{{efn2|のちのソニー執行役員専務<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tyg.jp/koukaikouza/business/activities2010.html |title=これまでの活動報告(2010年度) |work=現代経営研究会 第3期(2010年度)- 製品開発とイノベーション |publisher=東洋学園大学 |access-date=2023-07-27}}</ref>。}}に「CDによる録音ではなく、もっと小さなディスクを使って記録・再生ができる、コンパクトカセットに代わるものをつくるべきだ」と指示を出す<ref name="SonyHistory" />。 CDの時と同様にハードウェアだけでなく、ソフトウェアやメディアも含めて、世界標準規格化を進める必要があったが、CDを共同開発した[[フィリップス]]は「コンパクトカセットに代わるものはカセットだ」と、カセットのデジタル化を考えており、話し合いを重ねたが、共同はできそうもなかった<ref name="SonyHistory" />。そのためソニー独自で開発することとなり、CD開発に関わった開発者を集め、社内で培われたMOの光磁気記録技術を活かして、さらに小型化したディスクへの音声記録を目指すこととなった<ref name="SonyHistory" />。 仕様に関して、ディスクの直径は6.4 cmに決まったが、CDと同様に74分の音声を収録するために、当時最新デジタル信号処理技術であった[[ATRAC]]による音声圧縮技術を開発し、同時に再生時の振動による音の途切れを抑えるために、半導体メモリーを使った「ショックプルーフメモリー」という技術を開発した<ref name="SonyHistory" />。 こうして1991年5月、「ミニディスク(MD)」システムを発表、その際CDは自宅で、MDは[[ウォークマン]]のように持ち運ぶなど、使用目的を明確にした<ref name="SonyHistory" />。そして大賀はMDを業界標準にするために日米欧で説明会やデモンストレーションなどを行い、有力なハード、ソフトメーカーと次々とライセンス契約を結んでいった<ref name="SonyHistory" />。ハードウェア開発陣にMDの商品化が伝えられたのは同年末のことで、開発者はウォークマンやポータブルCDプレーヤーの「D-50」を担当した者たちであった<ref name="SonyHistory" />。発売目標は共同できなかったフィリップスが立ち上げた[[デジタルコンパクトカセット]](DCC)と同じ1992年11月と決められたが、この時点で発売まで1年もなく、開発者たちは連日の徹夜続きとなった<ref name="SonyHistory" />。 その後、機器の発売に合わせてMD音楽ソフト、録音用のメディアも準備されていき、1992年8月にはMDソフトの量産が始まり、同年9月に商品発表された<ref name="SonyHistory" />。 === 発売 === 1992年11月に録音・再生機の「MZ-1」、再生専用機の「MZ-2P」、録音用メディアの「MDW-60」、MD音楽ソフト88タイトルが発売された<ref name="SonyHistory" />。 発売後、MDはCDと同様の使い方ができるように初めから考えられていたので、音声・画像・文字用の「[[#MD DATA|MD DATA]]」(1993年)、画像用の「MDピクチャー」(1994年)が規格化された<ref name="SonyHistory" />。その後も1996年には動画用の「[[#MD DATA2|MD DATA2]]」、2004年には音声・ストレージ用の[[#Hi-MD_2|Hi-MD]]が策定された。 1995年には業界全体でMDのハードウェアの国内販売台数は100万台に達した<ref name="SonyHistory" />。 {{Main2|ディスクの出荷数の推移|#累計出荷数|ハードウェアの出荷数の推移|MDレコーダー#累計出荷数}} === 衰退 === MDは[[CD-R]]が発売される前の録音メディアとして、CDと同等の操作が可能であり、コンパクトカセットの欠点である頭出しをすばやく行えることで人気を呼び、2000年代に入ってもなお愛用者が多かったが、2000年代中期にソニーを含む各社からフラッシュメモリを使用した[[デジタルオーディオプレーヤー]]が発売され、また2001年に発売して以来ヒットしていた[[Apple]]の[[iPod classic|iPod]]において、ディスクレスかつ[[ハードディスクドライブ]]に最大10,000曲もの音楽を保管できるメリットを伝えるため、2004年に「Goodbye MD」とウェブページ上で喧伝<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.apple.co.jp/ipod/goodbyemd/ |title=アップル - Goodbye MD |website=Apple |publisher=Apple |accessdate=2004-06-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040604071956/http://www.apple.co.jp/ipod/goodbyemd/ |archivedate=2004-06-04}}</ref> するなど、MDを上回る容量や利便性・携帯性を有したプレーヤーが登場したことで、次第にMD離れが進み{{efn2|各社のデジタルオーディオプレーヤーやiPodも128 kbpsの[[AAC]]または[[MP3]]を標準(つまりMDが採用したATRAC以上の圧縮音源)としていたため、音質が原因でMD離れが進んだわけではない。}}、2000年代後半ごろからMDの録音再生機器の製造・販売が縮小していった{{efn2|そのデジタルオーディオプレーヤーも2010年代に普及した[[スマートフォン]]が音楽再生も備え、また定額制の音楽ストリーミングサービスが展開されるなど、インターネットに常時接続するプレーヤーの登場により、CDをレンタルするなどして音源を録音する作業が必要な従前のデジタルオーディオプレーヤーに取って代わっていった。}}。 {{Main|[[MDレコーダー#歴史]]}} ==== 録音用MD ==== 2000年代半ばごろからMD機器の出荷数減少に伴い、ディスクの流通も減少していった。ただし、現在流通している音声記録メディアでは[[CDレコーダー]]や[[DAT]]とともに、パソコンを一切使用せずにCDなどからの音源を直接デジタル録音できる数少ないメディアであるため、[[情報格差|パソコンやスマホを持たない、あるいは持っていても十分に使用することが困難な]]ユーザーなど、一部では未だに[[ニッチ市場|根強い需要]]がある。そのためミニディスクそのものは、スーパーマーケットなどでも大抵は5巻パックなどが揃っている場合が多く、ビクターアドバンストメディア(Victorブランド)製『MD-80RX5/MD-80RX10』と2001年1月に発売したパナソニックの『AY-MD74D』が、その他の単品ディスクは[[大創産業]]や[[イメーション]]([[イメーション#TDK Life on Record|TDK <small>Life on Record</small>ブランド]]のみ。現:[[大韓民国|韓国]][[オージン・コーポレーション]])からも発売されていたが、それぞれ生産・販売終了となった。[[2023年]]現在では唯一、ソニーが2015年11月に発売した80分ディスクの『MDW80T』を生産・出荷・販売しており、[[家電販売店]]や[[ホームセンター]]、オンラインショップなどで単品(1枚)から入手(購入)可能である。 ==== 再生専用MD ==== 再生専用MDは2001年をもって新譜の発売が終了した。以下の要因で普及しなかった。 ; 機能面 :* [[音声圧縮]]によりCDと比べて音質や情報量が劣る。特に登場当初はエラー修正に容量を割いていたため記録量が半分しかなく、[[DAT]]はともかく、競合規格のDCC以上に[[オーディオマニア]]層に嫌われた。 :* ダブルMDデッキが一部のメーカーから市販されたものの、ダブルカセットデッキほどは普及しなかったため、複製がCDや音楽テープよりも面倒だった。また複製できても特に機器同士{{efn2|例・CDプレーヤー→MDレコーダー、MDプレーヤー→MDレコーダー}}をデジタル接続ではなく、アナログ接続した場合、音質がCDやDATから直接デジタルダビングしたものよりもアナログ→デジタル変換時に内部処理される音声圧縮システムの影響によりもさらに劣っていた。 ; 流通面 :* ソニーミュージックの作品がMDソフトのカタログの大半を占めており、他レーベルはMDソフトを多くても数十タイトルしか発売しなかった。 :* 音楽雑誌の新譜紹介にMDソフトの発売があっても掲載されていない事があったため、ユーザーに発売が知られていなかった{{efn2|主にCD・カセットテープの品番・価格が掲載されていた。}}。 :* 大手CDショップではMDソフト専用棚を設け展開されていたが、CDやカセットテープと比べて小規模だった。またMDソフトを取り扱わなかった店舗も多かった。 :* 初期は[[ポータブル]]機から普及が進んだため、据え置き型のMDレコーダーやMDデッキ搭載コンポーネントシステムが相対的に普及していなかった。そのため再生専用MDを購入しても、外出時と在宅時で使いまわしできなかった。 :* 多くのユーザーから「MDはCDをコピーして外に持ち出すことのできるメディア」として認識されたことで、CDでも発売されているタイトルをわざわざMDで購入するメリットを訴求できなかった。 :* MDタイトルのレンタルが存在しなかった。 <!--再生専用パッケージディスクが普及しなかった理由はこれでよいのだろうか? 未調査なのでコメントのみ--> ==== データ用MD ==== 1995年に登場した『MMD-140』などのデータ用MDは容量面では1994年に[[光磁気ディスク#ISO規格のMOディスク|3.5インチMO]]で230 MBのディスクが登場した{{sfn|重田|1995|p=284}}ことで優位性は既になく、サイズはMOよりもコンパクトであるが、読み書き速度がMOと比較して150 KBytes/secで遅く、1995年時点でMOドライブが100万台以上を出荷していた{{sfn|重田|1995|p=284}}こともあり、また後継のMDデータドライブも発売されなかったため、結果としてPC用メディアとしてはほとんど普及しなかった。 PC以外のハードにおいてはMD DATAは一定の需要はあったが、いずれも10万円を超える高額品であったり、[[マルチトラック・レコーダー]]のような特定の人が利用するものにしかドライブが搭載されなかった{{efn2|ソニーが1999年9月1日に発売した文書管理機器であるDATA EATAの『PDF-W77』は希望小売価格18万円でカルテ保存をする医師の利用者が多かったとされる<ref>{{Cite web|和書|author=スタパ齋藤 |authorlink=スタパ齋藤 |url=https://www.watch.impress.co.jp/mobile/column/stapa/1999/10/25/ |title=スタパトロニクスMobile ちと高いがココが使える! ~ソニー DATA EATA~ |website=Mobile Central |publisher=インプレス |date=1999-10-25 |access-date=2023-08-30}}</ref>。}}ため、ディスクの利用者は限定的だった。ただし、ディスクには根強い需要があるためか、『MMD-140』の後継として『MMD-140A』が1998年[[6月9日]]に販売開始され(現在は販売終了)、『MMD-140B』が[[2016年]](平成28年)[[10月11日]]に販売開始されている(2022年現在も販売中)。 MD DATA2は光学メディアを搭載した世界初のビデオカメラ<ref>{{Cite web|和書|author=山田久美夫 |url=http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/991102/sony.htm |title=「ソニー MD DISCAM」ファーストインプレッション |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1999-11-02 |accessdate=1999-11-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991128014912/http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/991102/sony.htm |archivedate=1999-11-28}}</ref>である『MD DISCAM』で採用され、アメリカでも発売された<ref>{{Cite web|url=https://www.dpreview.com/articles/6905531404/sonymdcam |title=Sony announce MiniDisc Digicam |website=DPREVIEW |publisher=Digital Photography Review |language=en |date=1999-11-02 |accessdate=2022-10-18}}</ref>が、ほかに対応機種は発売されず販売が終了した。 ==== Hi-MD ==== 2004年発売のHi-MD『HMD1G』および2005年発売の『HMD1GA』は録音用MDとデータ用MDの両方の性質を兼ね備えたディスクだったが、デジタルオーディオプレーヤー市場の主流がフラッシュメモリベースとなった関係で需要が減少したため<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/458885.html |title=ソニー、1GBの大容量MD「Hi-MD」出荷を終了へ |website=AV Watch |publisher=インプレス |date=2011-07-07 |accessdate=2020-09-23}}</ref>、[[2012年]](平成24年)5月に出荷終了(製造終了)となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/walkman/info2/20110707.html |title=“Hi-MDウォークマン”『MZ-RH1』出荷完了のお知らせ |work=お知らせ ポータブルオーディオプレーヤー ウォークマン |publisher=ソニー |date=2012-02-14 |accessdate=2020-09-23}}</ref>。 == 音楽用MD == {{ディスクメディア | 名称 = MiniDisc | 略称 = MD | ロゴ = [[File:MiniDisc-Logo.svg|200px]] | 画像 = [[File:Minidisc.jpeg|200px]] | 画像コメント = 80分用の録音用MD | 種類 = [[光ディスク]]、[[光磁気ディスク]] (カートリッジ:あり) | 容量 = 60/74/80分(ステレオ音声) | フォーマット = | コーデック = [[ATRAC]] | 読み込み速度 = 1.2 Mbps(150 [[キビバイト|KiB]]/[[秒|s]])等倍速 | 書き込み速度 = 1.2 Mbps(150 KiB/s)等倍速 | 回転速度 = 1.4 [[メートル|m]]/s (60 分) ほか | 読み取り方法 = 非接触光学式 | 書き込み方法 = 磁界変調オーバーライト | 書き換え = | 回転制御 = [[CLV]] | 策定 = [[ソニー]] [[TDK]] [[日立マクセル]]等 | 用途 = 音声 | ディスク径 = 64 [[ミリメートル|mm]] | 大きさ = D 68 * W 72 * H 5 mm | 重さ = | 上位 = なし | 下位 = なし | 関連 = [[コンパクトディスク|CD]]、[[光磁気ディスク|MO]] }} 音楽用MDの規格書は「Rainbow Book」と呼ばれている<ref name="sony20010627">{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/200106/01-037/ |title=パソコンとミニディスクとの接続を可能にするインターフェース規格『Net MD』を策定 |publisher=ソニー |date=2001-06-27 |accessdate=2020-08-22}}</ref>。他の規格書としてIEC 61909(Audio recording - Minidisc system)、IEC 62121(Methods of measurement for minidisc recorders/players)がある。 音楽用MDには再生専用MDと録音用MD、ハイブリッドMDの3種類が規定されている。[[2000年代]]以降に流通しているMDはほとんどが録音用MDである。 === 共通仕様 === [[File:Various Media.jpg|thumb|各種ディスクメディアとその他カセット型メディア等とのサイズ比較。上段右から2番目の赤いカートリッジがMD。|left]] ;サイズ :直径64 mm・厚さ1.2 mmのディスクが縦68 mm、横72 mm、厚さ5 mmの[[カートリッジ]]に封入された構造になっている{{sfn|前田|1993|p=277}}。このためディスクに傷や埃が付きにくい。また成人の掌に収まるサイズであり、12 [[センチメートル|cm]]の[[コンパクトディスク]](以下、CD)と比較して持ち運びしやすく取り扱いが容易である。 ;TOC :曲情報は[[目次|TOC]](Table Of Contents)領域に書き込まれる。音楽データ以外に曲名などの文字情報の記録や編集、録音日時の記録などが可能である。TOCは0から31までの32セクタが存在するが、実際に使用されているのは0から4までの5セクタのみである{{sfn|前田|1993|p=279}}。なお1992年の[[MDレコーダー]]発売当初からセクタ1および4の表示に完全に対応してはいなかった。{{see also|[[MDレコーダー#文字入力]]}} :*セクタ0 - ディスクのパラメータ情報、トラックのアドレス情報、記録可能領域の登録。このセクタにコピープロテクト([[SCMS]]および[[HCMS]])に関する情報を格納する。 :*セクタ1 - ディスク名、トラック名が[[半角カナ|半角]][[片仮名|カタカナ]]と英数字が[[JIS X 0201]]で記録される。 :*セクタ2 - 日時情報が記録される。セクタ2の対応機器は主に[[生録]]が可能なもの、特にポータブルMDレコーダーに多い。 :*セクタ3 - 再生専用MDでのみ使用され、CDと同じようにディスクのバーコードや[[国際標準レコーディングコード]](International Standard Recording Code, ISRC)が記録される。 :*セクタ4 - ディスク名、トラック名が[[漢字]]や[[平仮名|ひらがな]]が[[Shift JIS|シフトJIS]]で記録される。 ;読み取り方法 :CDと同様に780 [[ナノメートル|nm]]の[[半導体レーザー|赤外線レーザー]]を、[[変調方式]]は[[Eight-to-fourteen modulation|EFM]]を使用する。[[誤り検出訂正]]はCDの[[CIRC]]と異なり、[[ACIRC]](Advanced Cross Interleaved Reed-Solomon Code)を採用している{{sfn|前田|1993|p=278}}。 ; 音声圧縮 : ソニーが開発した[[ATRAC]](Adaptive Transform Acoustic Coding)符号化方式で音声の[[非可逆圧縮]]が行われる。 : ATRACは音声データを約1/5に圧縮する<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020128/dal42.htm |title=第42回:圧縮音楽フォーマットを比較する ~ その1:ソニーのオーディオ圧縮方式「ATRAC3」 ~ |website=AV Watch |publisher=インプレス |date=2002-01-28 |accessdate=2022-02-20}}</ref>が、それは以下の計算による<ref>{{Cite book |title=IEC 61909:2000 Audio recording - Minidisc system |work=5.6 Conversion table from address to time |language=en |publisher=International Electrotechnical Commission |date=2000-06-16 |page=97}}</ref>。 :#1フレームは512サンプル÷44,100 [[キロヘルツ|kHz]]で[[ステレオ]]は約11.61 [[ミリ秒|ms]]、[[モノラル]]も約11.61 ms :#1グループは2フレームでステレオは約11.61 ms、モノラルは約23.22 ms :#1セクタは5.5グループでステレオは約63.855 ms、モノラルは約127.71 ms :#1クラスタは36セクタで、そのうち音声データは32セクタ。よって32セクタでステレオは約2,043.36 ms、モノラルは約4,086.72 msとなる。 一方でCDの1セクタは1/75フレームであり、75フレームで1秒であるため、1セクタは約13.333 msとなり、32セクタで約426.656 msとなる。結果2,043.36÷426.656より、圧縮倍率は約1/4.7892、つまり小数点以下を四捨五入した1/5となる。80分録音用MDの容量は177 MBであるが、この圧縮技術によって80分CDの1/5の容量で80分CDと同時間分の音声データを収録できる。 === 録音用MD === 通常はユーザーが自身で録音を行うための[[ブランク]]ディスクとして販売されている。シャッターはカートリッジ両面にある。ディスクタイプは当初[[ステレオ]]モードで60分タイプのみだったが、[[1993年]](平成5年)に74分タイプ、[[1999年]](平成11年)に80分タイプが発売され3種となった。録音用MDの発売当初は高価格(1枚1400円から1700円程度)であったが、ハードウェアが普及するにつれて結果的にコストダウンが進み、低価格化へとつながった。最初期の80分ディスクは、74が80に変更されている以外にも、外観を同種の74分ディスクと変えてあるものも存在した。なお[[ステレオ#モノラル再生|モノラル]]モードや各種拡張モードを使って録音した場合の分数はこれと一致しない。書き換え回数は雑な扱いをしない限り、1万回を超える書き換えは可能である。 ;年表 :1992年[[11月1日]] - ソニーより60分ディスク『MDW-60』発売。 :1993年[[4月10日]] - ソニーより74分ディスク『MDW-74』発売。同年10月には[[富士フイルム]]([[AXIA]])やTDK、日立マクセル(現・[[マクセルホールディングス]])のそれぞれが録音用MDを発売。[[日本コロムビア]]([[デノン|DENON]]ブランド。現・[[ディーアンドエムホールディングス]])も同年に録音用MDを発売。 :1997年 - 松下電器産業(現・[[パナソニック]])や[[花王]](KAO <small>DIGITAL SOUND</small>ブランド)がそれぞれ録音用MDを発売。 :1999年[[2月10日]] - 長時間録音に対するユーザーの要望を受け、ソニーより80分ディスク『MDW-80H』発売<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199901/99-004/ |title=80分の録音時間を実現 録音用ミニディスク“プリズム80” 発売 |publisher=ソニー |date=1999-01-13 |accessdate=2020-08-24}}</ref>。 ;記録方式 :録音用MDは磁界変調オーバーライト方式により記録される[[光磁気ディスク]]である。 ;UTOC :録音用MDにはUTOC(User's TOC)領域があり、これによってトラックの移動・分割・結合・消去といった[[編集]]を行うことができる{{sfn|前田|1993|p=278}}。最大255トラックまで作成できるが、条件次第ではもっと少ないトラック数しか作れないケースもある。 ;録音モード :ステレオとモノラルの2種類がある。モノラル録音モードではディスク額面表記の2倍の長時間録音ができるため、会議やラジオ番組の録音などに利用される。どちらのモードで録音した場合もATRACで音声の非可逆圧縮が行われる。 :なおATRACは{{仮リンク|スケールファクタ (計算機科学)|label=スケールファクタ|en|Scale factor (computer science)}}が独立しているため、録音後に音量の調整などが可能である。この特徴は一部機器が「S.F.エディット」機能として利用している。 ;回転速度 :74分MDはディスクの回転速度を1.2 [[メートル毎秒|m/s]]にすることで(60分は1.4 m/s)、80分MDはこれに加えてトラックピッチを1.5 [[マイクロメートル|μm]]にすることで(60分MDと74分MDは1.6 μm、規格上は1.5 - 1.7 <nowiki>[μm]</nowiki> )、それぞれ実現している。 ;ビットレート :通常ステレオ録音時で292 kbps、モノラル録音時で146 kbpsであり、これにより記憶容量がCDと比べて小さいMDで、CDと同等の録音時間を実現している。 :最初期のMD機器での録音ではエラー制御に容量を割いていたため、音声記録には現在の半分しか割り当てられていなかった。そのため後継モデルのMDや先述の通りMDとほぼ同期に登場した競合規格の[[デジタルコンパクトカセット|DCC]]に比較して音質で劣り、特にピュアオーディオファンからはネガティブイメージを持たれていた。 ==== 音楽配信 ==== 1999年には[[マルチメディアステーション|マルチメディア端末機]]を利用した、録音用MDへの音楽ダウンロードサービスが開始された。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" !企業!!端末名!!サービス開始年!!サービス終了年 |- |[[ブイシンク]]||ミュージックポッド(Music Press On Demand)<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/306/306673/ |title=ブイシンク、店頭設置型の音楽ダウンロード販売用端末『ミュージックポッド』の販売を開始 |website=ASCII.jp |publisher=角川アスキー総合研究所 |date=1999-12-14 |accessdate=2020-11-13}}</ref>||1999年5月23日<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20070705/135427/ |title=音楽データの自動販売機,ベンチャー企業が実験開始 |publisher=日経エレクトロニクス |date=1999-05-18 |accessdate=2020-11-13}}</ref>||2002年10月ごろ{{efn2|確認できる音楽の最新更新日より<ref>{{Cite web |url=http://www.musicpod.com/ |title=MUSIC POD |website=MUSIC POD |accessdate=2002-11-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021126044929/http://www.musicpod.com/ |archivedate=2002-11-26}}</ref>。}} |- |[[メディアラグ]]||ミュージックデリ||1999年||2004年11月30日<ref>{{Cite web |url=http://musicdeli.com/index.html |title=DELI×DELI |website=DELI×DELI |accessdate=2004-12-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041204124854/http://musicdeli.com/index.html |archivedate=2004-12-04}}</ref> |- |[[デジキューブ]]||デジタルコンテンツターミナル(D.C.T.)||1999年11月<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0908/dct.htm |title=デジキューブ、音楽販売やデジカメプリントもできるコンビニ端末開発 |website=INTERNET Watch |publisher=インプレス |date=1999-09-09 |accessdate=2020-11-13}}</ref>||2002年3月末<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0111/05/news04.html |title=SBG:デジキューブがDCTへのデータ配信事業から撤退 |website=SOFTBANK GAMES NEWS |publisher=Softbank Publishing |date=2001-11-05 |accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0111/05/digicube.html |title=News:速報:デジキューブ,キヨスク端末での音楽配信から撤退 |website=ITmediaニュース |publisher=ITmedia |date=2001-11-05 |accessdate=2020-12-25}}</ref> |- |[[セブンドリーム・ドットコム]]||セブンナビ||2000年12月8日<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2000/1130/seven.htm |title=セブンドリーム、店舗用端末「セブンナビ」でのサービスを開始 |website=INTERNET Watch |publisher=インプレス |date=2000-11-30 |accessdate=2020-12-25}}</ref>||2002年10月31日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lnews.jp/backnumber/2002/11/7974.html |title=セブン-イレブン・ジャパン /セブンナビを撤去しマルチコピーに転換 |website=LNEWS |publisher=ロジスティクス・パートナー |date=2002-11-03 |accessdate=2020-12-25}}</ref> |- |[[ファミリーマート]]||Famiポート||2000年12月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.family.co.jp/company/news_releases/2002/20021216_01.html |title=〜音楽を買うならファミリーマートで!〜Famiポートでマジックゲートメモリースティックへの音楽ダウンロード開始 |publisher=ファミリーマート |date=2000-12-16 |accessdate=2021-01-16}}</ref>|| |- |[[ガズーメディアサービス]]||e-TOWER||2000年<ref>{{Cite web |url=https://www.toyotaconnected.co.jp/company/history.html#year_2000 |title=沿革 |publisher=トヨタコネクティッド |accessdate=2020-12-25}}</ref>|| |- |[[オムロン]]||DCS+music||2001年7月<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/321/321342/ |title=オムロンとメディアラグ、音楽コンテンツ配信サービスを開始 |website=ASCII.jp |publisher=角川アスキー総合研究所 |date=2001-03-05 |accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NNM/NEWS/20010305/1/ |title=オムロンとメディアラグ,音楽配信対応キオスク端末で提携。7月事業開始 |website=日経クロステック(xTECH) |publisher=日経BP |date=2001-03-05 |accessdate=2021-01-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2001/0305/dcs.htm |title=オムロンとメディアラグ、マルチメディアキオスクへの音楽配信で提携 |website=INTERNET Watch |publisher=インプレス |date=2001-03-05 |accessdate=2021-01-16}}</ref>|| |- |[[NTTソルマーレ]]||Foobio||2002年6月19日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntt-west.co.jp/news/0206/020618.html |title=街角コンテンツ流通サービスの提供開始について |publisher=NTTソルマーレ |date=2002-06-18 |accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/9863.html |title=NTT西日本、キオスク端末を利用したコンテンツ配信サービス |website=ケータイWatch |publisher=インプレス |date=2002-06-18 |accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NNM/NEWS/20020618/3/ |title=NTTソルマーレ,コンテンツの屋外ダウンロード販売などを6月19日開始 |website=日経クロステック(xTECH) |publisher=日経BP |date=2002-06-18 |accessdate=2021-01-16}}</ref>||2003年7月31日<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kawanina.net/foobio.html |title=非公認!! Foobio(フービオ) 応援ページ |publisher=かわにな |date=2003-07-26 |accessdate=2021-01-16}}</ref> |} 2000年11月にはコンテンツホルダーであるソニー・ミュージックエンタテインメントはこれら端末に対して音楽配信サービスを開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sme.co.jp/pressrelease/news/detail/NEWS000267.html |title=レコード店店頭における音楽配信端末機による 楽曲販売開始のお知らせ |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |date=2000-10-17 |accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sme.co.jp/pressrelease/news/detail/NEWS000270.html |title=有料音楽配信サービス事業bitmusic セブンドリーム・ドットコムのマルチメディア端末による 配信開始のお知らせ |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |date=2000-12-18 |accessdate=2020-12-25}}</ref>。 [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の「[[アゲイン (ゆずの曲)|アゲイン]]」や[[本田美奈子.]]の「満月の夜に迎えに来て」などダウンロード専売の曲は盛況したものもあったが、上記の表の通り、配信サービスは約1年から5年と短期間で終了した。 ===== 自主制作音源 ===== 録音用MDへの音楽配信は2004年で終了したが、それ以降も日本では[[hàl]]や[[Exist†trace]]、[[クリトリック・リス]]など、一部の歌手は自主制作で録音用MDにライブ音源やデモ音源を収録して発表している。また主に海外において[[Bandcamp]]で楽曲を発表しているものの中には、限定品として録音用MDに楽曲を録音して販売しているもの{{efn2|DATAStreamの『Flight Time EP』やShared Systems 有限の『INTERNET MUSIC』、他MiniDiscDay.com<ref>{{Cite web |url=https://minidiscday.com/ |title=MiniDiscDay.com – International Minidisc Day 2021 |accessdate=2021-09-18}} </ref>を参照。}}もいる。 === 再生専用MD === 再生専用MDはCDと同様の構造の[[光ディスク]]である。録音用MDと異なり、シャッターがカートリッジの裏側のみにある。CDのように既成曲の入ったパッケージメディアが録音用MDと同月の1992年11月に主に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|日本のソニー・ミュージックエンタテインメント (SME)]](現・[[ソニー・ミュージックレーベルズ]])を中心に88タイトルから発売された<ref>{{Cite web |url=https://www.sme.co.jp/company/history/ |title=沿革 |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |accessdate=2020-11-22}}</ref>。その後、ソニーミュージックを筆頭に各社から1996年5月末までに約900タイトルが発売され<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199607/96A-088/ |title=ステーションとの接続でデッキとしても楽しめる 業界最小・最軽量のポータブルMDレコーダー 発売 |publisher=ソニー |date=1996-07-15 |accessdate=2020-10-19}}</ref>、一時期は[[オリコンチャート]]も実施されていたが、その後は発売タイトル数の減少や廃盤タイトルも出始めた。 新譜についてはソニーミュージックが[[2000年]](平成12年)まで、ソニーが受託製造・販売している[[アップフロントワークス#zetima|zetima]](現・[[アップフロントワークス]])の[[モーニング娘。]]の新譜はCDと同時に[[2001年]](平成13年)まで発売されていた。結果的には、2001年までに1000タイトル以上発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46352400Q9A620C1000000/ |title=最後の再生機でMD試聴 平成生まれが感じた懐かしさ 「年の差30」最新AV機器探訪 |website=NIKKEI STYLE |publisher=日本経済新聞社 |date=2019-07-22 |accessdate=2020-08-24}}</ref>。 また再生専用MDは1999年から2000年の間に語学書籍の付属品として[[中経出版]]や[[三修社]]、[[講談社]]の[[講談社プラスアルファ文庫]]から約70タイトルが出版された。 2021年現在、日本において自主制作を除くMDタイトルで最後に発売された作品は、[[2009年]](平成21年)に発売された[[倉木麻衣]]の『[[ALL MY BEST]]』(品番: VNYM-9001-2) である。製造設備の関係で再生専用MDではなく録音用MDを使用し、出荷時に誤消去防止用のツメを開けて固定した状態としていた。 なお、再生専用MDは下記のように展開された。 *ソニーミュージックはCDと合わせた新譜発売の他に、[[CD選書]]のMD版である「MD選書」などの廉価盤も発売していたが、ソニーミュージック(販売受託レーベルも含む)以外のレーベルは人気作品のMD化が中心だった。ただ、発売タイトルは少なかったもののメーカー合同による販促キャンペーンとして対象ソフトを購入するとスリーブケースが特典として貰える施策もあった{{efn2|ソニーミュージックが販売受託している[[ジャニーズエンタテイメント]] (現・[[ジェイストーム]]) からは、MDタイトルは発売されていない。}}。 *ソニーに製造委託をしていたレーベル{{efn2|ソニーに一部製造していた[[ワーナーミュージック・ジャパン]]や[[日本クラウン]]などはMDソフトを供給していない。}}からMDタイトルが多く発売されていたが、ライバルの[[デジタルコンパクトカセット|DCC]]陣営の当時松下電器傘下のレーベルだったビクターエンタテインメント(現・[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])とテイチク(現・[[テイチクエンタテインメント]])からもMDソフトが供給されていた{{efn2|ソニーミュージックはDCCソフトを一切供給していない。}}。 *[[ソニー・マガジンズ]]が発行していた『[[WHAT's IN?]]』に、MDソフトの総カタログが別冊付録として添付されていた{{efn2|1994年4月号、1994年12月号、1995年12月号、1996年12月号。}}。 *[[タワーレコード]]や[[HMV]]では、[[マイケル・ジャクソン]]や[[マライア・キャリー]]・[[セリーヌ・ディオン]]などソニーミュージック所属アーティストのアメリカから輸入されたMDソフトも取り扱われており、日本盤MDとはケースの形態が異なっていた{{efn2|コロムビアレコードの商標は日本では[[日本コロムビア]]が保有しているので、コロムビアレコードの商品には許諾シールが貼付されて販売されていた。}}。 再生専用MDは以下のレーベルにて発売された。品番のアルファベット4桁に関しては、[[規格品番]]を参照。「''x''」は0から9の数字が入る。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" !レーベル!!主な歌手!!規格品番!!発売年!!作品数!!備考 |- |rowspan="2"|ソニーレコード||[[尾崎豊]]、[[久保田利伸]]、[[UNICORN]]||SRYL-7xxx||1992-2000||約380||rowspan="2"|現・[[ソニー・ミュージックレコーズ]] |- |[[エアロスミス]]、[[ボブ・ディラン]]、マライア・キャリー||SRYS-1xxx||1992-1999||約270 |- |[[ソニー・クラシカル]]||[[ヨーヨー・マ]]||SRYR-6xxx||1992-1998||約90|| |- |rowspan="3"|EPIC・ソニー||[[JUDY AND MARY]]、[[TM NETWORK]]、[[DREAMS COME TRUE]]||ESYB-7xxx||1992-2000||約170||rowspan="3"|現・[[エピックレコードジャパン]] |- |[[ジャミロクワイ]]、セリーヌ・ディオン、マイケル・ジャクソン||ESYA-1xxx||1992-1999||約130 |- |[[古澤巌]]||ESYK-6xxx||1995|| |- |キューン・ソニー・レコード||[[X JAPAN|X]]、[[電気グルーヴ]]、[[L'Arc〜en〜Ciel]]||KSY2-20xx||1992-2000||63||現・[[キューンミュージック]] |- |Sony Music Entertainment (Japan) Inc.||[[藤井フミヤ]]、[[鈴木亜美]]||AIYT-900x||1998-1999||3程度||現・[[ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ]] |- |rowspan="4"|[[日本コロムビア]]||[[観月ありさ]]、[[THE YELLOW MONKEY]]、[[ピチカート・ファイヴ]]||COYA-xx||1992-1995,1997||50程度 |- |ヴァージニア・アストレイ||COYY-xx|| ||1 |- |オムニバス||COYC-xx|| ||3 |- |[[鮫島有美子]]、[[藤原真理]]、[[大江光]]||COYO-xx|| ||18 |- |rowspan="3"|[[東芝EMI]]||[[高中正義]]、[[中原めいこ]]、[[甲斐バンド]]||TOYT-50xx||1992-1993||50程度||rowspan="3"|現・[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージックLLC]] |- |[[ジーザス・ジョーンズ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、[[ダイアナ・ロス]]||TOYP-500x||1992-1993||9 |- |[[佐藤しのぶ (歌手)|佐藤しのぶ]]||TOYZ-500x||1992||1 |- |rowspan="2"|[[BMG JAPAN#BMGビクター|BMGビクター]]||[[福山雅治]]、[[林田健司]]、[[TOSHI]]||BVYR-xxx|| ||14程度||rowspan="4"|現・[[アリオラジャパン]] |- |[[羽田健太郎]]||BVYF-xxxx||||1 |- |[[BMG JAPAN#ファンハウス|ファンハウス]]||[[稲垣潤一]]、[[岡村孝子]]、[[加山雄三]]||FHYF-10xx||1992-1993,1995||23程度 |- |Little Tokyo||[[小田和正]]||FHYL-100x||1992||1 |- |rowspan="4"|ビクターエンタテインメント||[[サザンオールスターズ]]、[[小泉今日子]]、[[河村隆一]]||VIYL-x<br />VIYL-600xx||1993, 1997||20数程度||rowspan="4"|現・[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]] |- |[[ニニ・ロッソ]]、[[ティン・マシーン]]、[[チープ・トリック]]||VIYP-x<br />VIYP-800x<br />VIYP-600xx||1993, 1997||10数程度 |- |[[天野清継]]、[[国府弘子]]、[[ビル・エヴァンス]]||VIYJ-x<br />VIYJ-500x||||5程度 |- |オムニバス||VIYG-x||||2 |- |rowspan="3"|テイチク||[[PERSONZ]]、[[BEGIN (バンド) |BEGIN]]、[[おおたか静流]]||TEYN-300xx||1993||6程度||rowspan="3"|現・[[テイチクエンタテインメント]] |- |[[ダムド]]、[[T・レックス]]、[[ツー・ライヴ・クルー]]||TEYP-2500x|| ||3 |- |[[エリック・ハイドシェック]]||TEYC-2800x|| ||2 |- |[[キングレコード]]||[[中山美穂]]、[[森口博子]]||KIYS-x||1993||4 |- |[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]||[[LINDBERG]]、[[ZIGGY]]、[[BOØWY]]||TKYA-100x||1993||3|| |- |rowspan="4"|[[ポニーキャニオン]]||[[中島みゆき]]、[[工藤静香]]、[[前川清]]||PCYA-000xx||1994-1998||20程度 |- |[[ポール・モーリア]]、[[キング・クリムゾン]]、[[ワークシャイ]]||PCYY-0000x|||| |- |[[喜多郎]]、[[姫神]]||PCYR-0000x|||| |- |オムニバス||PCYL-0000x<br />PCYH-0000x<br />PCYG-0000x|||| |- |[[ウォルト・ディズニー・レコード]]||オムニバス||PCYD-000xx||1994-1998||10数程度||1990年代前半から1999年の初夏までポニーキャニオンとライセンス契約を結ぶ |- |[[エイベックス]]||[[globe]]||AVYG-7200x||1997||2||現・[[エイベックス・エンタテインメント]]<br/>globeのタイトルのみ |- |[[フォーライフミュージックエンタテイメント]]||[[杏里]]||||||||1998年に販売委託先がポニーキャニオンからSMEJに移管 |- |[[アップフロントワークス#zetima|ゼティマ]]||[[森高千里]]、[[モーニング娘。]]||EPYE-50xx||1998-2001||10程度||現・[[アップフロントワークス]]<br/>1998年に販売委託先が[[ワーナーミュージック・ジャパン]](ゼティマの前身にあたるワン・アップ・ミュージック時代のみ)からSMEJに移管 |- |[[NORTHERN MUSIC]]||[[倉木麻衣]]||VNYM-900x||2009||1||現・[[ビーイング]]<br/>倉木麻衣の『[[ALL MY BEST]]』のみ。 |} === ハイブリッドMD === ハイブリッドMDは、再生専用エリアと録音用エリアの双方を持つ特殊なMDである。レンズ・ヘッド両用クリーナーで一部存在していた。再生専用エリアで光ピックアップレンズを、録音用エリアで磁気ヘッドをクリーニングすることができる。 === 拡張規格 === ==== MDclip ==== MDclipはMDの予備データ領域に静止画像([[JPEG]])とテキスト情報を記録できる音楽用MDの拡張規格であり、1999年[[6月21日]]に発売された『MDS-DL1』に導入された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199903/99-036B/ |title=“i.LINK”端子を搭載し、デジタルCS放送チューナーと接続して音楽配信サービスチャンネルから音楽ソフトを高速にダウンロードできるMDデッキ『MDS-DL1』発売 |publisher=ソニー |date=1999-03-25 |accessdate=2020-09-06}}</ref>。 MDS-DL1はソニーが提唱した「PlusMedia STATION」というデジタル機器によるネットワーク<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199903/99-036A/ |title=通常番組の受信に加え、新たに始まるインタラクティブ放送*1サービスにも対応するスカイパーフェクTV!用 デジタルCS放送チューナー 発売 |publisher=ソニー |date=1999-03-25 |accessdate=2020-09-06}}</ref> を構成する一部であり、CS放送を専用チューナー『DST-MS9』で受信し、[[SKY PerfecTV!]]の音楽配信番組「MusicLink」で配信された音楽を[[i.LINK]]経由で録音するものだった<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990325/sony.htm |title=ソニー、家庭内デジタル・ネットワーク構想に基づく音楽配信システム |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1999-03-25 |accessdate=2020-09-06}}</ref>。また、i.LINK搭載の[[VAIO]]と接続し、専用のアプリケーションをインストールすることで、MDの再生、編集、静止画像やテキスト情報の記録操作が行える。 音楽用MD初の拡張規格であったが、MDS-DL1以外の機器には採用されなかった。 ==== MDLP ==== MDLP(MiniDisc Long-Play) は録音時間の延長を求めるユーザーの要望に応えるため、2000年[[7月18日]]に発表され<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200007/00-0718A/ |title=News and Information “MXD-D5C” |publisher=ソニー |date=2000-07-18 |accessdate=2020-09-06}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200007/00-0718B/ |title=News and Information “CMT-PX5” |publisher=ソニー |date=2000-07-18 |accessdate=2020-09-06}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200007/00-0718C/ |title=News and Information “CSX-G44MK2,MDX-G55MK2” |publisher=ソニー |date=2000-07-18 |accessdate=2020-09-06}}</ref>、同年9月以降に発売された製品に導入された、従来の音楽MD規格に2倍、4倍の長時間録音モードを追加する上位規格である。 MDLPはメーカー・ユーザーのいずれからも歓迎され、登場から数年で、市場で従来型の音楽MD機器を置き換えた。 ===== 録音モード ===== 追加録音モードはそれぞれLP2モード、LP4モードと呼ばれ、従来のステレオモード(MDLP対応機器ではSPあるいはSTモードと呼ばれる)のそれぞれ2倍、4倍の時間分の録音ができる。 LPモードの符号化方式には[[ATRAC3]]を採用し、ビットレートはLP2モードで132 kbps、LP4モードで66 kbpsである。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''MDLPにおける各録音モードと使用ディスク、録音可能時間の関係''' !モード名!!符号化方式など!!CH!!80分ディスク!!74分ディスク!!60分ディスク!!表記時間比!!適した用途 |- |SP-STEREO||ATRAC 292 kbps||ステレオ||80分||74分||60分||1.0倍||CDからの録音、音楽演奏の収音など |- |SP-MONO||ATRAC 146 kbps||モノラル|| rowspan="2" |160分|| rowspan="2" |148分|| rowspan="2" |120分|| rowspan="2" |2.0倍||モノラル音源(ナレーション等)の録音など |- |LP2||ATRAC3 132 kbps|| rowspan="2" |ステレオ||楽器の練習など |- |LP4||ATRAC3 66 kbps||320分||296分||240分||4.0倍||会議やラジオの録音など |} LP4モードではステレオ音声の左右相関を利用して圧縮する"Joint Stereo"を導入することで、ビットレートの不足を補っている。各LPモードにはいずれもモノラル録音モードはない。また、ATRACと違いスケールファクターが存在しないため音量の調整は出来ない。 なお、これらLPモードのビットレートはSPモードである292 kbpsの2分の1、4分の1より若干小さい。これは、MDLP非対応機器でLP形式のトラックを再生した際に問題が起こるのを避けるために各サウンドグループ(212バイト)毎に20バイトのダミーデータが挿入されているためである。 ===== 互換性 ===== {{独自研究|section=1|date=2020年12月11日 (金) 15:26 (UTC)}} MDLP規格で録音されたディスクはMDLP非対応機器でも認識が可能で、そのうちSPモードで記録されたトラックは正常に再生できる。ただし、LP2・LP4モードで記録したトラックを再生すると曲名欄の先頭に「LP:」と表示され、音声が流れない。なお、録音機の設定によりトラック名に「LP:」を付加せずに記録されたトラックの再生時には「LP:」の表示もされない。 一方、MDLP対応機器は従来型音楽MDとの上位互換性を確保しているため、従来機器で記録されたディスク・トラックの再生およびSPモードでの録音が問題なく行える。なお曲名欄の先頭に「LP:」を付加して記録されたトラックを再生した場合は、「LP:」は表示されない。 このように、MDLPは従来仕様との互換性が比較的高いのが特徴である。これはMDLPが録音モードの追加を目的としているため、ディスク・ファイルフォーマットなどが従来のまま引き継がれたことが大きい。しかしこのことで、ディスクあたりに記録できるトラック数は最大255トラックまで、および入力できる文字数は最大半角約1700文字・全角約800文字という従来の制約も引き継いだ。そのため、使用法によっては、残記録可能時間に余裕があるのに録音できない、条件次第では全曲に曲名をつけられないなど、せっかくの長時間録音を活かせない。 ==== Net MD ==== Net MDは2001年[[6月27日]]にソニーによって発表されたMD機器・PC間の音楽転送規格<ref name="sony20010627" />。このシステムは、当時流行の兆しを見せていた[[デジタルオーディオプレーヤー]]のように、PCに録りためた音楽を転送して持ち出すスタイルをMDに持ち込んだ。登場当初はデジタルオーディオプレーヤーが採用しているフラッシュメモリが高額であり、MDは当時のメモリーカードや内蔵メモリタイプのオーディオプレーヤーに比べて、容量単価が安価だった。 MD機器とPCの接続には[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]を使用・もしくはPCに内蔵されているNet MDデバイスを用いて、『[[SonicStage]]』(旧OpenMG JukeBox)、『[[BeatJam]]』にて[[ATRAC3]]方式へリッピングと[[OpenMG]]で暗号化した、もしくは[[mora|Bitmusic]]などの[[EMD]]で購入・ダウンロードファイルを[[MagicGate]]でPCとNet MD機器間を認証し相互転送する。Net MD機器でのMDへの録音・転送はMDLP相当のATRAC3もしくはSP相当のATRACであるため、記録内容は従来のMD (MDLP) プレーヤーでも問題なく再生できる事が利点として宣伝された。ただし編集は一部制限される。またPC側でMD機器側と接続制御するソフトウェアの制限などによりPC側のソフトウェアに履歴の無い楽曲データ、つまり別のPCでMDにチェックアウトした楽曲のチェックイン(リッピング)は不可となっている。通常のMDレコーダーで録音したトラックを[[リッピング]]する事はごく一部の機種で対応していた。 == データ用MD == データ用MDにはMD DATAとMD DATA2の2種類の規格が存在する。 === MD DATA === {{ディスクメディア | 名称 = MD DATA | 略称 = | ロゴ = [[File:MD Data logo.png|200px]] | 画像 = [[File:Sony MMD-140A.jpg|200px]] | 画像コメント = MMD-140A | 種類 = 光磁気ディスク (カートリッジ:あり) | 容量 = 140 [[メガバイト|MB]](データ)、296分(ステレオ音声) | フォーマット = | コーデック = ATRAC | 読み込み速度 = 1.2 Mbps(150 KiB/s)等倍速 | 書き込み速度 = 1.2 Mbps(150 KiB/s)等倍速 | 回転速度 = 1.2 m/s | 読み取り方法 = 780 nm赤外線レーザー | 書き込み方法 = 磁界変調ダイレクトオーバーライト | 書き換え = | 回転制御 = CLV | 策定 = ソニー | 用途 = 音声、データ | ディスク径 = 64 mm | 大きさ = D 68 * W 72 * H 5 mm | 重さ = | 上位 = | 下位 = | 関連 = }} MD DATAはMDに音楽以外のデータを記録させるニーズに応える{{sfn|小林|橘川|1993|p=15}}ため、1993年に発表され、[[1995年]](平成7年)にソニーからは『MMD-140』、[[TDK]]からは『MD-D140』、[[シャープ]]からは『AD-DR140』として発売された。 基本的な仕様は音楽用MDと同様だが、音楽用MD利用者の混乱を避けるため、MD DATA専用のカートリッジ・ディスクが用いられており、音楽用MDとは異なり、ゴミの影響を排除するためロングシャッターを採用している{{sfn|小林|橘川|1993|p=15}}。なお、非公式ではあるが音楽用MDをMDデータドライブにてフォーマットすることでMD DATAとして使用可能となる。 ==== データ用途 ==== [[ファイル:Sony CyberShot DSC-MD1 CP+ 2011.jpg|Sony CyberShot DSC-MD1|thumb|left]] 容量は140 MBで、ファイルフォーマットには特定の[[オペレーティングシステム]]に依存しない独自のものを採用している。 PC用ドライブはソニーが1995年7月に発売したSCSI接続でポータブル型ドライブの『MDH-10』と[[OEM]]用の内蔵型ドライブの『MDM-111』があり、MDH-10は音楽用MDの再生も可能であるが録音はできない。 一方、PC以外ではソニーから発売されたパーソナルMDファイルの「DATA EATA」{{efn2|MDデータドライブ、スキャナー、ディスプレイ一体型の文書管理機器。「PDF-5」<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199511/95CI-151/ |title=MDデータディスクにA4 1000枚分の情報を簡単にファイルできるパーソナルMDファイル“DATA EATA”発売 |publisher=ソニー |date=1995-11-15 |accessdate=2020-07-23}}</ref>、「PDF-5mkII」<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199608/96CI-099/ |title=連続して書類を読み取る際の作業効率が向上 検索機能の強化などより使いやすくなったパーソナルMDファイル“DATA EATA(データ イータ)” 新機種 発売 |publisher=ソニー |date=1996-08-19 |accessdate=2020-07-23}}</ref>、「PDF-HD7」<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199612/96CI-143/ |title=パソコンやファックスと接続可能なパーソナル電子ファイル データ イータ プロ“DATA EATA PRO”『PDF-HD7』発売 |publisher=ソニー |date=1996-12-02 |accessdate=2020-07-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961204/md_data.htm |title=SONY、パソコンやFaxと接続可能な電子ファイル、DATA EATA PROを発売 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1996-12-03 |accessdate=2020-11-26}}</ref>、「PDF-V55」、「PDF-W77」<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/199907/99-0727A/ |title=News and Information “PDF-W77” |publisher=ソニー |date=1999-7-27 |accessdate=2020-07-23}}</ref>がある。}} や[[デジタルカメラ]]などの製品で利用できる。 また、[[1994年]](平成6年)にはMD DATAで画像を扱うための規格として'''Picture MD'''が発表された{{sfn|小林|橘川|1993|p=15}}。この規格の採用製品はデジタルカメラが主で、[[1996年]](平成8年)[[10月10日]]に発売されたソニーの[[サイバーショット]]『DSC-F1』の画像形式であるPIC_CAM{{efn2|[[JPEG]]ベースで[[拡張子]]は「pmp」。}}で採用された。DSC-F1はMDデータドライブを搭載していないが、同年[[11月10日]]に発売されたソニーのデジタルピクチャーアルバム『DPA-1』<ref>{{Cite web |url=http://www.sony.co.jp/ProductsPark/Consumer/DSC/DPA-1/index.html |title=DPA-1 |publisher=ソニー |accessdate=1998-02-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19980210040026/http://www.sony.co.jp/ProductsPark/Consumer/DSC/DPA-1/index.html |archivedate=1998-02-10}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199608/96CI-102/ |title=デジタルスチルカメラ 2機種およびデジタルカラープリンター、デジタルピクチャーアルバム 発売 |publisher=ソニー |date=1996-08-22 |accessdate=2020-07-23}}</ref> はドライブを搭載しており、DSC-F1から[[IrDA]]を利用して、MDデータディスクに画像を保存できる。その後1997年にはドライブを搭載したデジタルカメラも発売された{{efn2|ソニーのMDサイバーショット『DSC-MD1』<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/971022/sony.htm |title=ソニー、MDカメラと「サイバーショット」の後継モデル |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1997-10-22 |accessdate=2020-07-30}}</ref> 、シャープのMDデジタルビューハンター『MD-PS1』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sharp.co.jp/sc/eihon/mdps1/index.html |title=シャープMDデータカメラ |publisher=シャープ |accessdate=1997-03-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19970331095940/http://www.sharp.co.jp/sc/eihon/mdps1/index.html |archivedate=1997-03-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961001/shrapmdc.htm |title=シャープのMDデジタルカメラ「MD-PS1」 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1996-10-01 |accessdate=2012-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970218/mdcamera.htm |title=シャープ、MDカメラ「MDデジタルビューハンター MD-PS1」正式発表 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1997-02-18 |accessdate=2020-07-31}}</ref> 。}}。これらは音楽用MDの録音再生も可能である。 また、業務用機器{{efn2|『DPA-300』<ref>{{Cite web |url=http://bpgprod.sel.sony.com/medical/products/vcr.html |title=Sony Medical Products: Still Image/Videocassette Recorders |publisher=Sony |accessdate=1999-10-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991011102325/http://bpgprod.sel.sony.com/medical/products/vcr.html |archivedate=1999-10-11 |language=en}}</ref> や『DKR-700』<ref>{{Cite web |url=http://www.sony.co.jp/sd/ProductsPark/Professional/IndustrialAV/DKR-700.html |title=DKR-700 |publisher=ソニー |accessdate=2000-04-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000413211021/http://www.sony.co.jp/sd/ProductsPark/Professional/IndustrialAV/DKR-700.html |archivedate=2000-04-13}}</ref>、「コニカピクチャーMDシステム」<ref>{{Cite journal|和書|author1=塩澤和夫 |title=コニカにおけるデジタル画像技術開発 |url=https://research.konicaminolta.com/jp/pdf/technology_report/1996/pdf/1.pdf |format=PDF |journal=コニカテクニカルレポート |volume=9 |publisher=コニカミノルタ |year=1996 |page=5 |accessdate=2020-10-10}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author1=太田佳孝 |author2=洪博哲 |author3=中西和裕 |author4=永石勝也 |title=新しいデジタル写真システム(コニカピクチャーMDシステム) |url=https://research.konicaminolta.com/jp/pdf/technology_report/1996/pdf/2.pdf |format=PDF |journal=コニカテクニカルレポート |volume=9 |publisher=コニカミノルタ |year=1996 |pages=17-20 |accessdate=2023-08-30}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author1=中野邦夫 |author2=江口俊哉 |author3=高木潔 |title=コニカピクチャーMDシステム用ASICの開発 |url=https://research.konicaminolta.com/jp/pdf/technology_report/1996/pdf/3.pdf |format=PDF |journal=コニカテクニカルレポート |volume=9 |publisher=コニカミノルタ |year=1996 |pages=21-22 |accessdate=2023-08-30}}</ref>}}にも採用された。 ==== オーディオ用途 ==== [[ファイル:Sony MDM-X4 Minidisk Multitrack Recorder.jpg|Sony MDM-X4|thumb|left]] MD DATAという名称だが、オーディオ用途で用いることもでき、[[マルチトラック・レコーダー]]{{efn2|ソニーの『MDM-X4』、『MDM-X4 Mk2』、[[ティアック]]の『TASCAM DIGITAL PORTASTUDIO 564』<ref>{{Cite web |url=http://www.teac.co.jp/tascam/products/mtr-m/ps564.html |title=TASCAM DIGITAL PORTASTUDIO 564 |publisher=ティアック |accessdate=1998-01-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19980113102153/http://www.teac.co.jp/tascam/products/mtr-m/ps564.html |archivedate=1998-01-13}}</ref>、[[ヤマハ]]の『MD4』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamaha.co.jp/news/96031301.html |title=ヤマハ マルチトラックMDレコーダー『MD4』 |publisher=ヤマハ |year=1995 |month=3 |accessdate=1997-06-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19970607195619/http://www.yamaha.co.jp/news/96031301.html |archivedate=1997-06-07}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md4/index.html |title=YAMAHA Multi Track MD Recorder MD4 |publisher=ヤマハ |accessdate=1997-06-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19970607193030/http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md4/index.html |archivedate=1997-06-07}}</ref>、『MD8』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamaha.co.jp/news/1997/97101601.html |title=ヤマハ マルチトラックMDレコーダー『MD8』 |publisher=ヤマハ |year=1997 |month=10 |accessdate=2002-08-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020809123240/http://www.yamaha.co.jp/news/1997/97101601.html |archivedate=2002-08-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md8/index.html |title=YAMAHA Multitrack MD Recorder MD8 |publisher=ヤマハ |accessdate=1998-12-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19981205170705/http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md8/index.html |archivedate=1998-12-05}}</ref>、『MD4S』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamaha.co.jp/news/1998/98101302.html |title=ヤマハ マルチトラックMDレコーダー『MD4S』 |publisher=ヤマハ |year=1998 |month=10 |accessdate=2002-08-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020809123027/http://www.yamaha.co.jp/news/1998/98101302.html |archivedate=2002-08-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md4s/index.html |title=MD4S - YAMAHA Products MULTITRACK MD RECORDER |publisher=ヤマハ |accessdate=1999-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19990930055850/http://www.yamaha.co.jp/product/proaudio/mtr/md4s/index.html |archivedate=1999-09-30}}</ref>}}で使用できる。ただし、データ用途で使用したディスクはフォーマットしなければオーディオ用途では使用できない。なお、マルチトラック・レコーダーは通常の録音用MDへの録音も対応しており、録音した音声はMDプレーヤーやレコーダーで再生できる。 通常の録音用MDではなくデータ用MDを使用するメリットは、MD DATAで採用された[[ATRAC#ATRAC2|ATRAC2]]によって、マルチチャンネル(4ch / 8ch)による録音や長時間録音(ステレオ296分、モノラル592分){{sfn|小林|橘川|1993|p=16}}ができる点であるが、その代わりにMDプレーヤーやレコーダーで再生できなくなる。 {{clear}} === MD DATA2 === {{ディスクメディア | 名称 = MD DATA2 | 略称 = | ロゴ = [[File:MD DATA2.png|200px]] | 画像 = [[File:MD DATA2 Disc.jpg|200px]] | 画像コメント = MMD-650A | 種類 = 光磁気ディスク (カートリッジ:あり) | 容量 = 650 MB(データ) | フォーマット = | コーデック = | 読み込み速度 = 4.7 Mbps(580 KiB/s)最大2倍速 | 書き込み速度 = | 回転速度 = 2.0 m/s | 読み取り方法 = 655 nm赤外線レーザー | 書き込み方法 = レーザーストローブ磁界変調方式 | 書き換え = | 回転制御 = CLV | 策定 = ソニー | 用途 = データ | ディスク径 = 64 mm | 大きさ = D 68 * W 72 * H 5 mm | 重さ = | 上位 = | 下位 = | 関連 = }} [[ファイル:Worlds first DVD Camcorder Sony DCM-M1 1999 MD DISCAM VIDEO MD.jpg|Sony DCM-M1|thumb|left]] MD DATA発表以降、急速に普及していくパソコンによって、より高速・大容量のメディアの要求が高まり、それに応えるため開発され{{sfn|野中|1999|p=1360}}、1996年[[12月16日]]、容量を650 MBに大容量化し転送速度を9.4 Mbpsに高速化した'''MD DATA2'''として発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199612/96D-146/index.html |title=650メガバイトの記憶容量を実現 MDデータ規格の大容量化を図った小型・大容量の4倍密度データ用MDを開発 |publisher=ソニー |date=1996-12-16 |accessdate=2020-08-23}}</ref>。 ディスクの厚みは音楽用MD、MD DATAと同様に1.2 mmが採用された。高密度化するには薄いほうが有利であるが、既存のMDとの互換性を優先した{{sfn|野中|1999|p=1360}}。一方で[[開口数]]は既存のMDが0.45であるのに対して0.52の対物レンズを採用した{{sfn|野中|1999|p=1360}}。このためスポットサイズを小さくでき{{efn2|以下の解説がわかりやすい<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/pc/article/NPC/20061219/257354/ |title=次世代DVDが採用する青色レーザー、レーザースポットの大きさが容量を決める |website=日経クロステック |publisher=日経BP |accessdate=2021-09-18}}</ref>。}}、またエラー訂正方式も既存MDのACIRCからリード・ソロモン積符号方式に変更したことで冗長度を20%削減させ{{sfn|野中|1999|p=1362}}、容量を増大させた。 規格発表後、製品化には時間を要し、1999年[[8月28日]]に開催された[[国際コンシューマ・エレクトロニクス展]]に参考出品<ref>{{Cite web|和書|author=山田久美夫 |url=http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/990901/ifa2.htm |title=プロカメラマン山田久美夫のIFA 1999レポート ソニー、MPEG-2ベースのMDビデオカメラを公開 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1999-09-01 |accessdate=1999-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991013112726/http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/990901/ifa2.htm |archivedate=1999-10-13}}</ref>、その後『MD VIEW(MMD-650A)』として同年[[12月3日]]に発売された。 そして同年11月1日に発売日が発表されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/306/306013/ |title=ソニー、MDディスクを記録媒体に採用したビデオカメラ『MD DISCAM (CM-M1)』を発表 |website=ASCII.jp |publisher=角川アスキー総合研究所 |date=1999-11-04 |accessdate=2022-10-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/991101/sony.htm |title=ソニー、MD DATA2メディアのムービーカメラ「MD DISCAM」 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=1999-11-01 |accessdate=1999-11-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991127081257/http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/991101/sony.htm |archivedate=1999-11-27}}</ref>ソニーのMDビデオカメラ『MD DISCAM(DCM-M1)』で初採用された<ref>{{Cite web |url=https://www.sony.jp/products/Consumer/VD/DCM-M1/ |title=MD DISCAM |publisher=ソニーマーケティング |accessdate=2020-07-24}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/199911/99-1101/ |title=News and Information “DCM-M11, MMD-650A” |publisher=ソニー |date=1999-11-01 |accessdate=2020-07-24}}</ref>。MD DISCAMはMDに動画を記録する初の製品であり<ref name="impress20000111">{{Cite web|和書|author=スタパ齋藤 |authorlink=スタパ齋藤 |url=https://www.watch.impress.co.jp/mobile/column/stapa/2000/01/11/ |title=MDなんですよビデオなんですよ!! ソニー MD DISCAM |work=スタパトロニクスMobile |website=MobileCentral |publisher=インプレス |date=2000-01-11 |accessdate=2023-07-13}}</ref>、映像記録に[[MPEG-2]]、音声にATRACを利用し動画は最大20分、静止画約4,500枚、音声最大260分が記録でき、音楽用MDの再生もできる(録音は不可){{sfn|阿部|森永|荒瀧|2000|pp=29-32}}。MDのランダムアクセス性を活かしたカメラ単体での[[ノンリニア編集]]や[[10BASE-T]]によるPCとの連携に対応する。 なおMD DISCAMは試作機の段階では映像のデジタル入力端子も備えていたが、市販の映像ソフトからMD DISCAMに映像を取り込んで編集しMDに保存するなど、著作権に関する懸念があるため、製品版では削除された<ref name="impress20000111" />。 {{clear}} == Hi-MD == {{ディスクメディア | 名称 = Hi-MD | 略称 = | ロゴ = [[File:Hi-MD logo.png|200px]] | 画像 = [[File:Sony Hi-MD front.jpg|200px]]<br />[[File:Sony Hi-MD back.jpg|200px]] | 画像コメント = HMD1GAの表面と裏面 | 種類 = 光磁気ディスク (カートリッジ:あり) | 容量 = 1 GB(データ)、94分([[リニアPCM]]) | フォーマット = [[FAT32]](データ) | コーデック = リニアPCM、ATRAC | 読み込み速度 = 9.83 Mbps(1.228 MiB/s) | 書き込み速度 = 9.83 Mbps(1.228 MiB/s) | 回転速度 = 1.98 m/s | 読み取り方法 = 780 nm赤外線レーザー | 書き込み方法 = | 書き換え = | 回転制御 = | 策定 = ソニー | 用途 = 音声、データ | ディスク径 = 64 mm | 大きさ = D 68 * W 72 * H 5 mm | 重さ = | 上位 = | 下位 = | 関連 = }} '''Hi-MD'''(ハイエムディー)は高音質化や長時間録音、PCとの親和性向上など多岐に渡る拡張がなされた規格。[[2004年]](平成16年)[[1月8日]]、ソニーによって発表された<ref name="sony20040108">{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200401/04-001/ |title=MDをブロードバンド時代対応の汎用メディアに進化させた「Hi-MD」規格を策定 |publisher=ソニー|date=2004-01-08 |accessdate=2020-06-23}}</ref>。 以前の音楽MD・MDLP・Net MDからの主な変更点や特徴は次の通り。 * 新たに発表されたHi-MDフォーマット専用の大容量ディスク『HMD1G』<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200401/04-0108/ |title=News and Information 「Hi-MD」規格 対応MDウォークマン3機種、デスクトップオーディオ1機種 計 4機種 発売 |publisher=ソニー |date=2004-01-08 |accessdate=2022-02-09}}</ref>を使い、最大45時間の長時間録音ができる * 従来のディスクはHi-MD用に初期化することで、以前の約2倍の容量で利用できる * 48 kbpsから352 kbpsまでの、幅広い用途に使える圧縮録音モードが追加された * MDでは初となる、44.1&nbsp;kHz、16ビット[[リニアPCM]]による非圧縮録音モードに対応した * 録音したトラックをPCに吸い出せるようになった * PCからミニディスクをストレージメディアとして利用でき、[[USBメモリ]]と同じように文書・音楽・写真ファイルを保存可能(ポータブルHi-MDドライブ『DS-HMD1』<ref>{{Cite press release|和書|title=News and Information 音楽用のMD(ミニディスク)や、1GBの記録容量を持つ“Hi-MD”ディスクに手軽にデータを記録できる、ポータブル型のHi-MDドライブ 発売 |url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200504/05-0413/ |publisher=ソニー |date=2005-04-13 |accessdate=2022-04-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ソニー、PCから手軽にデータを記録できる“Hi-MD”ドライブを発売 |url=https://www.phileweb.com/news/d-av/200504/13/12694.html |website=Phile web |publisher=音元出版 |date=2005-04-13 |accessdate=2022-04-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ソニー、SonicStageが付属するデータ用Hi-MDドライブ |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050413/sony2.htm |website=AV Watch |publisher=インプレス |date=2005-04-13 |accessdate=2022-04-08}}</ref>などを使用) * 別売りのHi-MD専用カードリーダー『MCMD-R1』<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/343/343877/ |title=ソニー、“Hi-MD”専用メモリーカードリーダー『MCMD-R1』を発表 |website=ASCII.jp |publisher=角川アスキー総合研究所 |date=2004-08-10 |accessdate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040810/sony.htm |title=ソニー、Hi-MD専用のメモリーカードリーダ ―10種類のメモリーカードからHi-MDへのデータコピーが可能に |website=AV Watch |publisher=インプレス |date=2004-08-10 |accessdate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.phileweb.com/news/d-av/200408/10/10901.html |title=ソニー、Hi-MD機器専用のメモリーカードリーダーを発売 |website=Phile web |publisher=音元出版 |date=2004-08-10 |accessdate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0408/12/news044.html |title=10種類のメディアからHi-MDへ――ソニー、Hi-MD機器専用カードリーダー |website=ITMedia NEWS |publisher=アイティメディア |date=2004-08-12 |accessdate=2022-02-09}}</ref>を使用して、Hi-MDモードのディスク(従来MDを初期化したものを含む)へ画像データの転送ができる また、[[2005年]](平成17年)[[3月2日]]には規格拡張が発表された<ref name="sony20050302">{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200503/05-013/ |title=Hi-MDが進化 MP3形式とデジタル静止画像への対応で用途を拡大 |publisher=ソニー |date=2005-03-02 |accessdate=2020-09-06}}</ref>。 * [[Design rule for Camera File system|DCF]]・[[Exchangeable image file format|Exif]]をベースにした写真管理用規格'''Hi-MD PHOTO'''を追加 * これにあわせ、音楽用規格の名称は'''Hi-MD AUDIO'''に変更 * Hi-MD AUDIOの対応コーデックにオプション扱いでMP3を追加 以上、Hi-MDは従来のMD機器をベースに、音楽以外のコンテンツも記録できる汎用メディアとして利用できる<ref name="sony20040108" />。 === ディスク === [[画像:MD+Hi-MD.jpg|thumb|200px|左:音楽用MDディスク<br/>右:Hi-MD専用ディスク|left]] Hi-MDフォーマット専用ディスクは『HMD1G』のほか、2005年に『HMD1GA』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/rec-media/products/HMD1GA3HMD1GA/ |title=1GB大容量マルチメディア 二世代目“Hi-MD” |publisher=ソニー |accessdate=2022-02-09}}</ref>が発売された。発売当初の価格は1枚700円前後。 === 仕様 === Hi-MDフォーマットでは信号処理技術が変更されたことで高密度化され、従来に比べ大容量化を実現した。具体的には従来型MDの80分ディスクの容量は177 MBだが、Hi-MDフォーマット専用ディスクは従来型MDと同サイズで964 MB(約1 GiB)の容量を持つ。また従来型MDもHi-MDフォーマットで初期化することで容量を拡張できる。例えば80分ディスクはHi-MDフォーマットで初期化すると291 MB(約305 MiB)の容量になる<ref name="sony20040108" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''記録方式の比較''' ! !!1 GBディスク!!80分ディスク(Hi-MDフォーマット)!!80分ディスク(MDフォーマット) |- |データ変調方式||1-7[[Run Length Limited encoding|RLL]]||1-7RLL||EFM |- |ビット長||0.16 μm||0.44 μm||0.59 μm |- |トラックピッチ||1.25 μm||1.6 μm||1.6 μm |- |線速度||1.98 m/s||2.4 m/s||1.2 m/s |- |転送レート||9.83 Mbps||4.37 Mbps||1.25 Mbps |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''ディスク容量''' !フォーマット!!1 GBディスク!!80分ディスク!!74分ディスク!!60分ディスク |- |MD||{{n/a}}||177 MB||140 MB||? MB |- |Hi-MD<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/ServiceArea/impdf/manual/32664500MZ-NH1.html |title=MZ-NH1:取扱説明書 |publisher=ソニー |page=73 |year=2004 |accessdate=2022-02-14}}</ref>||964 MB(1,011,613,696バイト)||291 MB(305,856,512バイト)||270 MB(283,312,128バイト)||219 MB(229,965,824バイト) |} ファイルシステムには[[File Allocation Table|FAT]]を採用した。そのためHi-MDプレーヤーをUSB経由でパソコンと接続することで[[光磁気ディスク#ISO規格のMOディスク|MO]]や[[DVD-RAM]]や[[USBメモリ]]のように、大容量の外部記憶メディアとして利用できる。なおHi-MD AUDIO機器から利用される音楽トラックもFAT領域に格納されているが、PCからは不可視の「Proprietary Area」に記録された情報により暗号化されているため、『SonicStage』などの対応ソフトウェア以外ではPC上での再生・コピーを行うことはできない。 === Hi-MD AUDIO === ==== 録音モード ==== Hi-MD AUDIOでは多くの録音モードがサポートされ、幅広い用途に対応できるようになった。しかし録音操作の複雑化を避けるためか録音モードの多くはPCからの転送のみの扱いであり、Hi-MD機器本体のみで録音できるモードは3モードに絞られている。 また、MD創生期から利用されていたATRACの両モードである292 kbps、146 kbpsは廃止となった。このため、Hi-MD機器でこれらのモードを利用したい場合には従来フォーマットでディスクを使う必要がある。 Hi-MD AUDIOが対応する録音モード<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/products/Consumer/himd-rec/Hi-MD/index.html |title=“Hi-MD”フォーマットについて |publisher=ソニーマーケティング |accessdate=2020-08-11}}</ref> は以下のとおり。 ; リニアPCM : 1.4 Mbpsの無圧縮モード。従来のMDはどの録音モードでも必ず非可逆圧縮がかかっていたため、高音質を求める層には敬遠されていたが、これが追加されたことでそれらの層にもアピールできるようになった。 : また、これにあわせてソニーはHi-MDの音声トラックをPC上で汎用のWAV形式に変換するWindows用のソフトウェア『WAV Conversion Tool』を無償公開した。これは後に『SonicStage』に統合された。 : なお変換元トラックの録音モードはPCMに限らずどれであっても問題ないが、いずれの場合でもディスクがHi-MDフォーマットのみに限定されている。 ; ATRAC3plus : [[ATRAC#ATRAC3 / ATRAC3plus|ATRAC3plus]]では352 kbps, 256 kbps, 192 kbps, 64 kbps, 48 kbpsに対応する。 : 256 kbpsはHi-SPモード、64 kbpsはHi-LPモードと呼ばれHi-MD機器単体で録音ができる。 : 一方で352 bps, 192 kbps, 48 kbpsにはモード名が無く、録音手段はPCからの転送のみである。 : 最低音質である48 kbpsでは1 GBのディスクに約45時間の録音ができる。ソニーは45時間の音楽を録音できる点を謳っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/support/pa_common/hi_md/hi_md01.html |title=Hi-MDに音楽をたっぷり入れる |work=Hi-MD ウォークマン活用ガイド |publisher=ソニー |accessdate=2022-10-31}}</ref>が、48 kbpsは音楽としては実用的なビットレートではない。音楽の場合最低64 kbpsほどは必要とされるため、48 kbpsはラジオ録音などの用途向けといえる。 ; ATRAC3 : ATRAC3では132 kbps, 105 kbps, 66 kbpsに対応する。 : いずれもPCからの転送のみ対応。132 kbps, 66 kbpsはMDLPで導入済みだが、105 kbpsはHi-MD AUDIOで新たに追加された。このビットレートは従来から[[ウォークマン|ネットワークウォークマン]]などで利用されていたがMDには導入されていなかったため、使いまわしに難があった。132 kbps, 66 kbpsの呼称として従来使われていたLP2、LP4というモード名は廃止され、ビットレートで呼ばれる。 ; MP3 : 32 kbpsから320 kbpsの[[固定ビットレート]]および[[可変ビットレート]]の両方に対応する。 : 2005年春の規格拡張で追加されたコーデック。[[サンプリング周波数]]は44.1 kHz。PCからの転送においては、他のコーデックと同様に『SonicStage』などの専用ソフトウェアで暗号化を行う必要がある。 : なおこのコーデックはオプション扱いであり、2005年春以降のすべてのHi-MD AUDIO機器が再生に対応するわけではない。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''Hi-MDにおける各録音モードと使用ディスク、録音可能時間の関係'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/ServiceArea/impdf/manual/26690840MZ-RH1.html |title=MZ-RH1:取扱説明書 |publisher=ソニー |page=78 |year=2006 |accessdate=2022-10-31}}</ref> !モード名!!符号化方式など!!録音手段!!1GBディスク!!80分ディスク!!74分ディスク!!style="white-space:nowrap"|60分ディスク!!備考 |- |PCM||リニアPCM 1.4 Mbps||style="white-space:nowrap"|本体・PC||約1時間34分||約28分||約26分||約21分||MD初の無圧縮モード。 |- |名称なし||ATRAC3plus 352 kbps||style="white-space:nowrap"|PCのみ||約5時間30分||約1時間35分||約1時間30分||約1時間10分|| |- |Hi-SP||style="white-space:nowrap"|ATRAC3plus 256 kbps||本体・PC||約7時間55分||約2時間20分||約2時間10分||約1時間40分||主観評価実験にて音質はPCMと比較して違いはわからないとされる<ref name="ATRAC3plus">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.co.jp/Products/ATRAC3/special/developers02.html |title=ATRAC開発者座談会 |work=ATRAC |publisher=ソニー |date=2004-09 |accessdate=2020-08-11}}</ref> |- |名称なし||ATRAC3plus 192 kbps||style="white-space:nowrap"|PCのみ||約11時間00分||3時間10分||3時間00分||約2時間20分|| |- |Hi-LP||ATRAC3plus 64 kbps||本体・PC||style="white-space:nowrap"|約34時間00分||style="white-space:nowrap"|約10時間10分||約9時間20分||約7時間40分||主観評価実験にて音質はMP3 128kbpsと同等とされる<ref name="ATRAC3plus" /> |- |名称なし||ATRAC3plus 48 kbps|| rowspan="5" |PCのみ||約45時間00分||約13時間30分||style="white-space:nowrap"|約12時間30分||約10時間00分|| |- |style="white-space:nowrap"|(旧・LP2)||ATRAC3 132 kbps||約16時間30分||約4時間50分||約4時間30分||約3時間40分|| |- |名称なし||ATRAC3 105 kbps||約20時間40分||約6時間10分||約5時間40分||約4時間40分|| |- |(旧・LP4)||ATRAC3 66 kbps||約32時間40分||約9時間50分||約9時間00分||約7時間20分|| |- |名称なし||MP3 128 kbps||約17時間00分||約5時間00分||約4時間30分||約3時間30分||MP3対応機種のみ再生可能。<br />これ以外にも多くのレートが利用できる。 |} ==== 互換性 ==== Hi-MD専用ディスクは従来の音楽MD・MDLP機器からは一切の認識・再生が出来ず、Hi-MDフォーマットで初期化された従来ディスクはディスク名がHi-MD DISCと表示されるだけで編集や再生はできない。一方、Hi-MD AUDIO機器側では従来の音楽MD・MDLP規格との上位互換性を確保している。このため従来規格で録音されたディスクの再生が可能である。従来規格での録音は一部機種のみ。 === Hi-MD PHOTO === Hi-MD PHOTOは、2005年春のHi-MD規格拡張の際に発表された画像記録用規格。 ベースは[[デジタルカメラ]]のアプリケーションフォーマットとしてデファクト・スタンダードとなっている[[Design rule for Camera File system|DCF]]・[[Exchangeable image file format|Exif]]だが、独自にサムネイル用キャッシュファイルの仕組みを追加することで画像閲覧の高速化を図っている。 この規格の発表と同時に、対応機器の第1弾であるHi-MDウォークマン『MZ-DH10P』が発表された。この機種は約130万画素のCMOSカメラと1.5インチのカラー液晶を内蔵しており、撮影した画像はHi-MDへ記録される。またHi-MD AUDIOにも対応しているため、音楽再生中に写真をスライドショー再生する機能や内蔵カメラでCDなどのジャケットを撮影してHi-MD AUDIOトラックのジャケット画像として登録する機能などもある。 == 累計出荷数 == === 日本記録メディア工業会調べ === 比較のため、カセットテープと録音用[[CD-R]]も記す。 国内需要において、[[2008年]]は推定実績値。2009年以降は予測値。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''録音メディア製品国内需要推移''' 単位:数量(百万巻/枚) !年!!カセットテープ!!録音用ミニディスク!!録音用CD-R |- |1994<ref name="avdemand2006">{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/pdf/av_demand_2006.pdf |title=AVメディア国内需要推移 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |accessdate=2008-11-21 |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081121120628/http://www.jria.org/member/pdf/av_demand_2006.pdf |archivedate=2008-11-21}}</ref>||351||4|| |- |1995<ref name="avdemand2006" />||336||10|| |- |1996<ref name="avdemand2006" />||293||31|| |- |1997<ref name="avdemand2006" />||258||53|| |- |1998<ref name="avdemand2006" />||238||92|| |- |1999<ref name="avdemand2006" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/press/20010426.html |title=平成12年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2001-04-26 |accessdate=2001-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010510202920/http://www.jria.org/press/20010426.html |archivedate=2001-05-10}}</ref>||200||139|| |- |2000<ref name="avdemand2006" /><ref name="jria2001">{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/press/20020514.html |title=平成13年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2002-05-13 |accessdate=2002-08-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020818040549/http://www.jria.org/press/20020514.html |archivedate=2002-08-18}}</ref>||157||161||9 |- |2001<ref name="avdemand2006" /><ref name="jria2001" />||130||164||18 |- |2002<ref name="avdemand2006" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20040516.html |title=平成15年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2003-05-16 |accessdate=2009-01-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090106004410/http://www.jria.org/member/20040516.html |archivedate=2009-01-06}}</ref>||107||159||23 |- |2003<ref name="avdemand2006" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20050531.html |title=平成16年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2005-05-31 |accessdate=2009-01-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090105213640/http://www.jria.org/member/20050531.html |archivedate=2009-01-05}}</ref>||95||160||25 |- |2004<ref name="avdemand2006" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20060606.html |title=平成17年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2006-06-06 |accessdate=2009-01-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090105231427/http://www.jria.org/member/20060606.html |archivedate=2009-01-05}}</ref>||79||158||28 |- |2005<ref name="avdemand2006" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20070530.html |title=平成18年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2007-05-30 |accessdate=2009-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090103152618/http://www.jria.org/member/20070530.html |archivedate=2009-01-03}}</ref>||64||123||30 |- |2006<ref name="avdemand2006" />||55||85||34 |- |2007<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20080606.html |title=平成19年度 記録メディア製品国内需要予測公表値の検証結果 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2008-06-06 |accessdate=2008-11-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081121113430/http://www.jria.org/member/20080606.html |archivedate=2008-11-21}}</ref>||46||62||40 |- |2008<ref name="worldmedia2008">{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20081114.html |title=2008年 記録メディア製品の世界需要予測 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2008-11-14 |accessdate=2009-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090103152624/http://www.jria.org/member/20081114.html |archivedate=2009-01-03}}</ref>||36||41||44 |- |2009<ref name="worldmedia2008" />||29||26||42 |- |2010<ref name="worldmedia2008" />||22||18||39 |- |2011<ref name="worldmedia2008" />||17||11||36 |} 以下の表は国内需要を含むものである。 世界需要において、2006年以降は推定実績値。2009年以降は予測値。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller" |+'''録音メディア製品世界需要推移''' 単位:数量(百万巻/枚) !年!!カセットテープ!!録音用ミニディスク!!録音用CD-R |- |1994<ref name="media_demand_2005">{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/pdf/media_demand_2005.pdf |title=記録メディア製品世界需要推移 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |accessdate=2008-11-21 |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081121102808/http://www.jria.org/member/pdf/media_demand_2005.pdf |archivedate=2008-11-21}}</ref>||1,891||6|| |- |1995<ref name="media_demand_2005" />||1,869||12|| |- |1996<ref name="media_demand_2005" />||1,842||35|| |- |1997<ref name="media_demand_2005" />||1,742||66|| |- |1998<ref name="media_demand_2005" />||1,546||125|| |- |1999<ref name="media_demand_2005" />||1,308||187|| |- |2000<ref name="media_demand_2005" />||1,130||225||106 |- |2001<ref name="media_demand_2005" />||929||243||169 |- |2002<ref name="media_demand_2005" />||758||219||246 |- |2003<ref name="media_demand_2005" />||614||208||290 |- |2004<ref name="media_demand_2005" />||487||191||300 |- |2005<ref name="media_demand_2005" />||369||145||293 |- |2006<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20061117b.html |title=2006年 記録メディア製品の世界需要予測と世界生産予測 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2006-11-17 |accessdate=2009-01-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090105201016/http://www.jria.org/member/20061117b.html |archivedate=2009-01-05}}</ref>||285||95||275 |- |2007<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jria.org/member/20071116_2.html |title=2007年 記録メディア製品の世界需要予測と世界生産予測 |publisher=社団法人 日本記録メディア工業会 |date=2007-11-16 |accessdate=2009-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090103152624/http://www.jria.org/member/20071116_2.html |archivedate=2009-01-03}}</ref>||213||68||265 |- |2008<ref name="worldmedia2008" />||166||46||248 |- |2009<ref name="worldmedia2008" />||130||29||223 |- |2010<ref name="worldmedia2008" />||97||20||200 |- |2011<ref name="worldmedia2008" />||72||12||177 |} 以上より日本国内において、MDは2000年から2004年をピークとし、[[2007年]]から2008年ごろまで他の録音メディア以上に、もしくは同等の需要があったが、世界規模ではカセットテープの需要に追いつくことはなく、後発であった録音用CD-Rにも2年程で後塵を拝すことになり、そのまま追い越すことはなかった。 === ソニー調べ === * 1995(平成7)年度 - 録音用MDが約1000万枚<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/199609/96A-118/ |title=胸ポケットにすっきり収まる厚さ13.5 mm、本体質量76 gで業界最薄・最小・最軽量のポータブルミニディスクプレーヤーなど 2機種 発売 |publisher=ソニー |date=1996-09-26 |accessdate=2020-09-09}}</ref> * 1996(平成8)年度 - 録音用MDが約3000万枚<ref name="sony19970917">{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/199709/97-084/ |title=ワイドビットストリーム搭載で高音質な録音・再生が楽しめるMDステーション 発売 |publisher=ソニー |date=1997-09-17 |accessdate=2020-09-06}}</ref> * 1997(平成9)年度 - 録音用MDが約5000万枚<ref name="sony19970917" /> * 2001(平成13)年まで - 録音用MDが約10億枚<ref name="sony20020902" /> * 2003(平成15)年まで - 録音用MDが約11億枚に達する見込み<ref name="sony20040108" /> * 2005(平成17)年まで - 録音用MDが約16億枚に達する見込み<ref name="sony20050302" /> == 書籍 == MDに関する書籍を列挙する。<!--参考文献として列挙しているわけではない--> 書籍タイトルからも1990年代前半はまだ[[デジタルコンパクトカセット]](DCC)と同列に位置していたことがうかがえる。 * {{Cite book|和書|author=村田欽哉 |title=DCC (デジタル・コンパクト・カセット)・MD (ミニ・ディスク) ガイドブック : 話題の新デジタルオーディオ規格DCC・MDをわかりやすく解説 |publisher=電波新聞社 |year=1992 |month=4 |isbn=978-4-885-54341-8 |oclc=674817162}} * {{Cite book|和書|author=沢村とおる |title=DCCとMDがすべてわかる本 : Newデジタル宣言 |publisher=音楽之友社 |year=1992 |month=10 |isbn=978-4-276-24161-9 |oclc=674837169}} * {{Cite book|和書|author=小林紀興 |title=松下・ソニー生き残り最終戦争―DCC対MDの読み方 |series=カッパビジネス |publisher=光文社 |year=1993 |month=2 |isbn=978-4-334-01275-5 |oclc=675462330}} * {{Cite book|和書|author=村田欽哉 |title=DCC・MDガイドブック 2 (活用編) |publisher=電波新聞社 |year=1993 |month=10 |isbn=978-4-885-54398-2 |oclc=673510438}} * {{Cite book|和書|author=原田益水 |title=マルチメディアの基礎技術―デジタルの基礎からDCC、MD、CD‐ROM、LDの解説まで |series=ハイテクブックシリーズ |volume=13 |publisher=電波新聞社 |year=1994 |month=8 |isbn=978-4-885-54422-4 |oclc=674984695}} * {{Cite book|和書|author=河村正行 |year=1998 |month=8 |title=MDのすべて―MDの原理から構造まで |series=ハイテクブックシリーズ |volume=16 |publisher=電波新聞社 |isbn=978-4-885-54490-3 |oclc=676238281}} * {{Cite book|和書|author=川崎晃 |title=MD&CDのデジタルサウンド自由自在 |series=エーアイムック |volume=284 |publisher=エーアイ出版 |year=2001 |month=9 |isbn=978-4-871-93842-6}} * {{Cite book|和書|title=ステレオ時代 |volume=14 |chapter=今見直したいDCC&MD ポスト「コンパクトカセット」を目指した2つのデジタルメディア |publisher=ネコ・パブリッシング |date=2019-03-05 |isbn=978-4-777-02307-3 |oclc=1089694929}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=前田保旭 |title=ミニディスクシステム |journal=日本音響学会誌 |volume=49 |issue=4 |publisher=日本音響学会 |year=1993 |pages=277-283 |doi=10.20697/jasj.49.4_277 |issn=0369-4232 |naid=110003110493 |ref={{sfnref|前田|1993}} }} * {{Cite journal|和書 |author1=小林稔治 |author2=橘川千里 |title=ピクチャーMD |journal=テレビジョン学会技術報告 |volume=19 |issue=27 |publisher=映像情報メディア学会 |year=1995 |pages=15-19 |doi=10.11485/tvtr.19.27_15 |issn=0386-4227 |naid=110003679628 |ref={{sfnref|小林|橘川|1993}} }} * {{Cite journal|和書 |author=重田定明 |title=光磁気ディスクの現状と技術動向 |journal=日本印刷学会誌 |volume=32 |issue=5 |publisher=日本印刷学会 |year=1995 |pages=284-289 |doi=10.11413/nig1987.32.284 |issn=0914-3319 |naid=10001985669 |ref={{sfnref|重田|1995}} }} * {{Cite journal|和書 |author=野中千明 |title=高密度MDの動向 |journal=映像情報メディア学会誌 |volume=53 |issue=10 |publisher=映像情報メディア学会 |year=1999 |pages=1360-1362 |doi=10.3169/itej.53.1360 |issn=1342-6907 |naid=110003692462 |ref={{sfnref|野中|1999}} }} * {{Cite journal|和書 |author=阿部三樹 |author2=森永英一郎 |author3=荒瀧裕司 |title=ミニディスクAVレコーダの開発 |journal=映像情報メディア学会技術報告 |volume=24 |issue=75 |publisher=映像情報メディア学会 |year=2000 |pages=27-32 |doi=10.11485/itetr.24.75.0_27 |issn=1342-6893 |naid=110003688587 |ref={{sfnref|阿部|森永|荒瀧|2000}} }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|音響・映像機器|[[画像:P ICT.png|38px|Portal:音響・映像機器]]}} * [[堀米秀嘉]] - MDの開発者。 * [[ソニーDADCジャパン]](現・[[ソニー・ミュージックソリューションズ|ソニー・ミュージックソリューションズ 大井川プロダクションセンター]]) - MDの生産者。 * [[音響機器]] * 記録媒体 ** [[ソニーのMDメディア製品一覧]] ** [[DAT]] - 専用のテープにデジタルで音声が記録される。 ** [[デジタルマイクロカセット]] (NT) - 後のICレコーダーに繋がるソニーの独自規格。 ** [[メモリースティック]] - ミニディスク同様現在では事実上終焉した、ソニー独自の[[メモリーカード]]。 * [[レガシーデバイス]] * [[ガラパゴス化]] * [[レコード用文字符号]] == 外部リンク == {{Commonscat|MiniDisc}} * [http://www.puwa-net.com/minidisc/ 気分はぷわぷわ] - MDに関する種々の情報を集めた個人サイト {{光ディスク}} {{Audio formats}} {{ソニー}} {{DEFAULTSORT:みにていすく}} [[Category:光ディスク]] [[Category:光磁気ディスク]] [[Category:磁気デバイス]] [[Category:ソニーの製品]] [[Category:デジタルオーディオストレージ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF
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上座部仏教
上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、巴: Theravāda、梵: Sthaviravāda、泰: เถรวาท, thěeráwâat、英: Theravada Buddhism)は、仏教の分類のひとつで「長老派」を意味しており、現存する最古の仏教の宗派である。上座仏教 、テーラワーダ仏教(テーラヴァーダ仏教)。 上座部仏教は、南伝仏教とも呼ばれ、パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいう。 仏典にはパーリ仏典を採用し、釈迦の教えが保存されている。 パーリ仏典は古代インド言語であるパーリ語で記され、現存する唯一の完全な仏典であり、上座部においては典礼言語および リングワ・フランカとして機能している。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの主要な宗教である。 仏教は、一般に、初期仏教・部派仏教・大乗仏教に分類される。部派仏教とは、初期仏教教団の根本分裂によって上座部と大衆部が生じ、これがさらに分派して多くの部派が分立した時代の仏教を総称するために明治期の日本で使われ始めた仏教学用語である。今日の南方諸国に伝わる仏教は「上座部」(テーラヴァーダ)の名をもって自ら任じており、部派仏教時代の仏教の末裔とされる。 近代以降に上座部仏教と呼ばれるようになった仏教の源流はスリランカの上座部である(他の部派は消滅)。歴史上、スリランカ上座部には三つの派が存在したが、そのうちの大寺派がタイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等の諸国にも伝わって今も存続している。 「上座」 (thera) とはサンガ内で尊敬される比丘のことで、「長老」とも漢訳される。 東アジア、チベット、ベトナムへ伝わった大乗仏教(北伝仏教)とは異なる歴史経過をたどった。「小乗仏教」と呼ばれることもあるが、南伝仏教側の自称ではなく、そのように呼称するのは不適切とされる。 釈迦在世の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。戒律の変更に関して、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれた。また、その他いくつかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。 この問題を収拾するために、会議(結集、第二結集)が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部が発生した。大衆部と、戒律変更を認めない上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律維持を支持したグループが現在の上座部仏教に相当する。 その後、部派仏教の時代には、上座部系部派の説一切有部が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部、もしくはそのうちの一派であるとされる。大乗仏教側は論難に際して、(自己の修行により自己一人のみが救われる)小乗(しょうじょう;ヒーナヤーナ、Hīnayāna)と呼んだとされる。なお、大乗の語や音写語の摩訶衍は、初期仏教の聖典として伝存する阿含経の漢訳や、部派教典の論蔵の漢訳にもみられる。大乗仏教は北インドから中央アジアを経て東アジアに広がった。 各部派では、仏説とされる経と律とが伝承され、それらを註釈した論が作られた(経蔵・律蔵・論蔵の三蔵)。南方上座部の伝える経蔵(パーリ・ニカーヤ)は五部に分かれており、「小部」を除く4つは漢訳の4つの阿含経と一定の対応関係がある(大正新脩大藏經では、漢訳の阿含経は阿含部に収載、法句経など一部は本縁部他に収蔵)。論蔵 (Abhidhamma-piṭaka) には上座部仏教が受持する7種の論蔵と漢訳された説一切有部の7部の論蔵があるが、両者に共通点がないことから部派仏教時代以降の確立とみられ、論蔵の成立は部派仏教の大きな特徴のひとつである。この時代にはアビダルマ(「ダルマに対して」の意;対法)とは論書を指した。各部派においてそれぞれの論を通じて教義の整備が進められた状況があったと考えられ、部派仏教をアビダルマ仏教と呼ぶこともある。なお、中国、チベット、ベトナム、朝鮮、日本等の地域に伝わったのが大乗仏教で、いわゆる北伝仏教である。 南アジアに存在した諸部派のうち、スリランカを本拠地としてインド本土へも進出した「上座部」(Theravāda) を名乗る一派が、今日に至るまで存続している上座部仏教の源流である。スリランカ上座部は、紀元前3世紀にインドから上座部系の一部派が伝わったことに始まるとされる。スリランカの伝承では、当地に仏教を伝えたのはマウリア朝のアショーカ王の師モッガリプッタ・ティッサの弟子にしてアショーカ王の子マヒンダであったという。スリランカ上座部の成立年代は考古学資料等から紀元後3-4世紀と推定される。5世紀には、南インドから来島したブッダゴーサが『清浄道論』をはじめとする註釈文献を編纂して上座部の教学を大成し、その後もダンマパーラ等の学匠が南インドで活動していたことから、スリランカ上座部のネットワークが当時の南インドに広がっていた様子がうかがわれる。12世紀には、スリランカの国家政策によって当地の上座部三派は大乗を非仏説として斥ける大寺派に一本化され、その結果、大乗仏教はスリランカから一掃された。 上座部仏教はミャンマー、タイなど東南アジア方面にも伝播した。南伝仏教という呼称はこの背景に由来する。ミャンマーでは11世紀に上座部のサンガが招来され、13世紀にはタイとカンボジアにもスリランカ上座部が伝来した。その後、大交易時代に成立した東南アジア諸王朝では、王権の主導によって上座部大寺派が主流の宗教となった。現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアの各国で多数宗教を占める。またベトナム南部に多くの信徒を抱え、インド、バングラデシュ、マレーシア、インドネシアにも少数派のコミュニティが存在する。中国の雲南省・貴州省などに分布するタイ系の諸民族の間でも信仰されている。 アジアの上座部仏教圏のほとんどは西欧列強の植民地支配を受けた。宗主国で、支配地の文化研究が植民地政策の補助として奨励されたため、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の経典・教典の文献学的研究はイギリス(スリランカとミャンマーの旧宗主国)を中心に欧州で早くから進んだ。ロンドンのパーリ・テキスト協会から刊行されたパーリ三蔵(PTS版)は過去の仏教研究者のもっとも重要な地位を占めた。その後イギリスは植民地の宗主国としての地位を喪失し、大学でも日本のようなインド哲学科が設置されることはなく、サンスクリット語研究はオックスフォード大学で細々と行われている。一方で欧米人の中から上座部仏教の比丘になる者や、またスリランカでは大学を卒業し英語の堪能なスリランカ出身の比丘が中心となり(公用語はシンハラ語とタミル語。連結語として英語も憲法上認められている)、大学という枠組みの外でパーリ三蔵の翻訳が活発である。 一方で、イギリスの旧植民地のスリランカやビルマ、タイから移民や難民がアングロサクソン系のイギリス、カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに大規模に流入した関係で、欧米への布教伝道も旺盛に行われている。欧米にはチベット密教系や東アジアの禅宗系と並んで、あるいはそれ以上に数多くの、上座部仏教の寺院や団体がある。 上座部仏教では具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。しかし、各部派の異同を等価に捉え、漢訳・チベット語訳三蔵に記録された部派仏教の教えや、さらに近年パキスタンで発見された部派仏教系の教典と上座部のパーリ教典を比較研究する仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されるに留まる。 大乗仏教では後代の仏説ごとに仏典が作られたが、上座部仏教では同一の内容をシンハラ文字など各民族の文字によって記したパーリ三蔵が継承されている。上座部仏教の仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物であり、声を介して仏典を身体に留める伝統が培われた。仏典の継承は口授によって行われるため、戒法の継承は文字経典を求めるより戒や教説を体得した僧侶を招く形で行われる。 教義では、次のようにされている。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ (dukkha)」である。この苦しみの原因は、無明によって生じる執着である。そして、無明を断ち輪廻から解脱するための最も効果的な方法は、戒律の厳守、瞑想の修行による八正道の実践(paṭipatti)であるとする。上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧と慈悲の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきた。古代インドの俗語起源のパーリ語で記録された共通の三蔵 (tipitaka) に依拠し、教義面でもスリランカ大寺派の系統に統一されている点など、大乗仏教の多様性と比して特徴的である。 出家者と在家信者の関係は、衆生の無知蒙昧を上から啓蒙するといった、上から下への一方的な関係ではない。自力救済を目指し修行する出家者とは、在家者にとっては自分になり変わって悪行を避ける営みに専念する存在である。俗世の損得で言えば無用な存在ながら、脱俗し悪行を避けて生きる出家者を肯定し布施することで在家者は功徳を積む。十波羅蜜をとるが、波羅蜜は人格形成のための日常的な所作としての位置づけで、大乗仏教のものと順序や名称が異なる。 国民の90%以上が上座部仏教徒であるタイについて、外務省から教義に則した注意喚起が発信されている。 同様の考えを持つ国として、ベトナム、ラオス、ミャンマーも挙げられている。 上座部においては古代スリランカにおける戦乱の時代に比丘と比丘尼(尼僧)僧伽(サンガ)が両方とも滅亡した。比丘の僧伽はビルマに伝播していたために復興がかなったが、比丘尼の僧伽はこれによって消滅となった。だが近年、台湾に残存する、中国仏教の比丘尼の伝統を使って上座部の比丘尼の僧伽の復興がはかられているが、その正統性は、上座部が大乗を異端とみなしているということもあいまって教義的に問題視されている。教義に抵触しない形での女性の出家形態として、タイではメーチー (mae chi)、ミャンマーではティラシン (thila shin) と呼ばれている、正式な比丘尼とはみなされないものの、実質的には尼僧としての出家生活を営む女性たちがいる。 中国仏教では部派仏教全体を指して小乗仏教と呼び、日本もそれを受け継いだが、「小乗」とは「大乗」に対して「劣った教え」という意味でつけられた蔑称であり、上座部仏教側が自称することはない。世界仏教徒の交流が深まった近代以降には相互尊重の立場から批判が強まり、徐々に使われなくなった。1950年6月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。 仏教伝来以来、長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治にスリランカに留学した日本人僧である釈興然(グナラタナ)によって、上座部仏教の移植が試みられた。また日本は明治以降欧米に留学した仏教学者によって、北伝仏教の国としてはもっとも早く『パーリ仏典』の翻訳(「南伝大蔵経」)と研究が進められた国である。しかし伝統的な仏教勢力が大勢を占めるなかで、上座部仏教の社会的認知度は低かった。 上座部仏教に由来する瞑想法であるヴィパッサナー瞑想が1970年代頃から世界的に広まったが、この時期には日本では普及しなかった。またオウム真理教に代表される新興宗教がパーリ仏典や用語などを転用したため風評被害を受けた。1990年代からアルボムッレ・スマナサーラの布教活動を中心にして上座部仏教は、ヴィパッサナー瞑想とともに日本に浸透しつつある。現在はタイ、ミャンマー、スリランカ出身の僧侶を中心とした複数の寺院や団体を通じて布教伝道活動がなされているほか、戒壇が作られたこともあって日本人出家者(比丘)も誕生している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、巴: Theravāda、梵: Sthaviravāda、泰: เถรวาท, thěeráwâat、英: Theravada Buddhism)は、仏教の分類のひとつで「長老派」を意味しており、現存する最古の仏教の宗派である。上座仏教 、テーラワーダ仏教(テーラヴァーダ仏教)。 上座部仏教は、南伝仏教とも呼ばれ、パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "仏典にはパーリ仏典を採用し、釈迦の教えが保存されている。 パーリ仏典は古代インド言語であるパーリ語で記され、現存する唯一の完全な仏典であり、上座部においては典礼言語および リングワ・フランカとして機能している。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの主要な宗教である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "仏教は、一般に、初期仏教・部派仏教・大乗仏教に分類される。部派仏教とは、初期仏教教団の根本分裂によって上座部と大衆部が生じ、これがさらに分派して多くの部派が分立した時代の仏教を総称するために明治期の日本で使われ始めた仏教学用語である。今日の南方諸国に伝わる仏教は「上座部」(テーラヴァーダ)の名をもって自ら任じており、部派仏教時代の仏教の末裔とされる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "近代以降に上座部仏教と呼ばれるようになった仏教の源流はスリランカの上座部である(他の部派は消滅)。歴史上、スリランカ上座部には三つの派が存在したが、そのうちの大寺派がタイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等の諸国にも伝わって今も存続している。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「上座」 (thera) とはサンガ内で尊敬される比丘のことで、「長老」とも漢訳される。 東アジア、チベット、ベトナムへ伝わった大乗仏教(北伝仏教)とは異なる歴史経過をたどった。「小乗仏教」と呼ばれることもあるが、南伝仏教側の自称ではなく、そのように呼称するのは不適切とされる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "釈迦在世の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。戒律の変更に関して、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれた。また、その他いくつかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この問題を収拾するために、会議(結集、第二結集)が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部が発生した。大衆部と、戒律変更を認めない上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律維持を支持したグループが現在の上座部仏教に相当する。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後、部派仏教の時代には、上座部系部派の説一切有部が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部、もしくはそのうちの一派であるとされる。大乗仏教側は論難に際して、(自己の修行により自己一人のみが救われる)小乗(しょうじょう;ヒーナヤーナ、Hīnayāna)と呼んだとされる。なお、大乗の語や音写語の摩訶衍は、初期仏教の聖典として伝存する阿含経の漢訳や、部派教典の論蔵の漢訳にもみられる。大乗仏教は北インドから中央アジアを経て東アジアに広がった。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "各部派では、仏説とされる経と律とが伝承され、それらを註釈した論が作られた(経蔵・律蔵・論蔵の三蔵)。南方上座部の伝える経蔵(パーリ・ニカーヤ)は五部に分かれており、「小部」を除く4つは漢訳の4つの阿含経と一定の対応関係がある(大正新脩大藏經では、漢訳の阿含経は阿含部に収載、法句経など一部は本縁部他に収蔵)。論蔵 (Abhidhamma-piṭaka) には上座部仏教が受持する7種の論蔵と漢訳された説一切有部の7部の論蔵があるが、両者に共通点がないことから部派仏教時代以降の確立とみられ、論蔵の成立は部派仏教の大きな特徴のひとつである。この時代にはアビダルマ(「ダルマに対して」の意;対法)とは論書を指した。各部派においてそれぞれの論を通じて教義の整備が進められた状況があったと考えられ、部派仏教をアビダルマ仏教と呼ぶこともある。なお、中国、チベット、ベトナム、朝鮮、日本等の地域に伝わったのが大乗仏教で、いわゆる北伝仏教である。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "南アジアに存在した諸部派のうち、スリランカを本拠地としてインド本土へも進出した「上座部」(Theravāda) を名乗る一派が、今日に至るまで存続している上座部仏教の源流である。スリランカ上座部は、紀元前3世紀にインドから上座部系の一部派が伝わったことに始まるとされる。スリランカの伝承では、当地に仏教を伝えたのはマウリア朝のアショーカ王の師モッガリプッタ・ティッサの弟子にしてアショーカ王の子マヒンダであったという。スリランカ上座部の成立年代は考古学資料等から紀元後3-4世紀と推定される。5世紀には、南インドから来島したブッダゴーサが『清浄道論』をはじめとする註釈文献を編纂して上座部の教学を大成し、その後もダンマパーラ等の学匠が南インドで活動していたことから、スリランカ上座部のネットワークが当時の南インドに広がっていた様子がうかがわれる。12世紀には、スリランカの国家政策によって当地の上座部三派は大乗を非仏説として斥ける大寺派に一本化され、その結果、大乗仏教はスリランカから一掃された。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "上座部仏教はミャンマー、タイなど東南アジア方面にも伝播した。南伝仏教という呼称はこの背景に由来する。ミャンマーでは11世紀に上座部のサンガが招来され、13世紀にはタイとカンボジアにもスリランカ上座部が伝来した。その後、大交易時代に成立した東南アジア諸王朝では、王権の主導によって上座部大寺派が主流の宗教となった。現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアの各国で多数宗教を占める。またベトナム南部に多くの信徒を抱え、インド、バングラデシュ、マレーシア、インドネシアにも少数派のコミュニティが存在する。中国の雲南省・貴州省などに分布するタイ系の諸民族の間でも信仰されている。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アジアの上座部仏教圏のほとんどは西欧列強の植民地支配を受けた。宗主国で、支配地の文化研究が植民地政策の補助として奨励されたため、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の経典・教典の文献学的研究はイギリス(スリランカとミャンマーの旧宗主国)を中心に欧州で早くから進んだ。ロンドンのパーリ・テキスト協会から刊行されたパーリ三蔵(PTS版)は過去の仏教研究者のもっとも重要な地位を占めた。その後イギリスは植民地の宗主国としての地位を喪失し、大学でも日本のようなインド哲学科が設置されることはなく、サンスクリット語研究はオックスフォード大学で細々と行われている。一方で欧米人の中から上座部仏教の比丘になる者や、またスリランカでは大学を卒業し英語の堪能なスリランカ出身の比丘が中心となり(公用語はシンハラ語とタミル語。連結語として英語も憲法上認められている)、大学という枠組みの外でパーリ三蔵の翻訳が活発である。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方で、イギリスの旧植民地のスリランカやビルマ、タイから移民や難民がアングロサクソン系のイギリス、カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに大規模に流入した関係で、欧米への布教伝道も旺盛に行われている。欧米にはチベット密教系や東アジアの禅宗系と並んで、あるいはそれ以上に数多くの、上座部仏教の寺院や団体がある。", "title": "上座部の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上座部仏教では具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。しかし、各部派の異同を等価に捉え、漢訳・チベット語訳三蔵に記録された部派仏教の教えや、さらに近年パキスタンで発見された部派仏教系の教典と上座部のパーリ教典を比較研究する仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されるに留まる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大乗仏教では後代の仏説ごとに仏典が作られたが、上座部仏教では同一の内容をシンハラ文字など各民族の文字によって記したパーリ三蔵が継承されている。上座部仏教の仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物であり、声を介して仏典を身体に留める伝統が培われた。仏典の継承は口授によって行われるため、戒法の継承は文字経典を求めるより戒や教説を体得した僧侶を招く形で行われる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "教義では、次のようにされている。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ (dukkha)」である。この苦しみの原因は、無明によって生じる執着である。そして、無明を断ち輪廻から解脱するための最も効果的な方法は、戒律の厳守、瞑想の修行による八正道の実践(paṭipatti)であるとする。上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧と慈悲の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきた。古代インドの俗語起源のパーリ語で記録された共通の三蔵 (tipitaka) に依拠し、教義面でもスリランカ大寺派の系統に統一されている点など、大乗仏教の多様性と比して特徴的である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "出家者と在家信者の関係は、衆生の無知蒙昧を上から啓蒙するといった、上から下への一方的な関係ではない。自力救済を目指し修行する出家者とは、在家者にとっては自分になり変わって悪行を避ける営みに専念する存在である。俗世の損得で言えば無用な存在ながら、脱俗し悪行を避けて生きる出家者を肯定し布施することで在家者は功徳を積む。十波羅蜜をとるが、波羅蜜は人格形成のための日常的な所作としての位置づけで、大乗仏教のものと順序や名称が異なる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "国民の90%以上が上座部仏教徒であるタイについて、外務省から教義に則した注意喚起が発信されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "同様の考えを持つ国として、ベトナム、ラオス、ミャンマーも挙げられている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "上座部においては古代スリランカにおける戦乱の時代に比丘と比丘尼(尼僧)僧伽(サンガ)が両方とも滅亡した。比丘の僧伽はビルマに伝播していたために復興がかなったが、比丘尼の僧伽はこれによって消滅となった。だが近年、台湾に残存する、中国仏教の比丘尼の伝統を使って上座部の比丘尼の僧伽の復興がはかられているが、その正統性は、上座部が大乗を異端とみなしているということもあいまって教義的に問題視されている。教義に抵触しない形での女性の出家形態として、タイではメーチー (mae chi)、ミャンマーではティラシン (thila shin) と呼ばれている、正式な比丘尼とはみなされないものの、実質的には尼僧としての出家生活を営む女性たちがいる。", "title": "比丘尼の僧伽(サンガ)の不在" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国仏教では部派仏教全体を指して小乗仏教と呼び、日本もそれを受け継いだが、「小乗」とは「大乗」に対して「劣った教え」という意味でつけられた蔑称であり、上座部仏教側が自称することはない。世界仏教徒の交流が深まった近代以降には相互尊重の立場から批判が強まり、徐々に使われなくなった。1950年6月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "仏教伝来以来、長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治にスリランカに留学した日本人僧である釈興然(グナラタナ)によって、上座部仏教の移植が試みられた。また日本は明治以降欧米に留学した仏教学者によって、北伝仏教の国としてはもっとも早く『パーリ仏典』の翻訳(「南伝大蔵経」)と研究が進められた国である。しかし伝統的な仏教勢力が大勢を占めるなかで、上座部仏教の社会的認知度は低かった。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上座部仏教に由来する瞑想法であるヴィパッサナー瞑想が1970年代頃から世界的に広まったが、この時期には日本では普及しなかった。またオウム真理教に代表される新興宗教がパーリ仏典や用語などを転用したため風評被害を受けた。1990年代からアルボムッレ・スマナサーラの布教活動を中心にして上座部仏教は、ヴィパッサナー瞑想とともに日本に浸透しつつある。現在はタイ、ミャンマー、スリランカ出身の僧侶を中心とした複数の寺院や団体を通じて布教伝道活動がなされているほか、戒壇が作られたこともあって日本人出家者(比丘)も誕生している。", "title": "日本との関係" } ]
上座部仏教は、仏教の分類のひとつで「長老派」を意味しており、現存する最古の仏教の宗派である。上座仏教 、テーラワーダ仏教(テーラヴァーダ仏教)。 上座部仏教は、南伝仏教とも呼ばれ、パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいう。 仏典にはパーリ仏典を採用し、釈迦の教えが保存されている。 パーリ仏典は古代インド言語であるパーリ語で記され、現存する唯一の完全な仏典であり、上座部においては典礼言語および リングワ・フランカとして機能している。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの主要な宗教である。
{{Otheruses||[[部派仏教]]として[[大衆部]]と並立した上座部|上座部}} {{脚注の不足|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)}} [[File:Buddhist_sects.png|thumb|280px|仏教の主要な3つの分類を表した図。赤色が[[パーリ語]]仏典を用いる上座部仏教。黄色は[[漢訳]]仏典、青色は[[チベット語]]仏典を用いる大乗仏教]] [[File:Shwedagon-Pagoda-Night.jpg|thumb|[[シュエダゴン・パゴダ]](ミャンマー)]] [[File:Nava_Jetavana_Temple_-_Shravasti_-_014_King_Asoka_at_the_Third_Council_(9241725897).jpg|thumb|260px|アショーカ王と師の目犍連帝須(もくけんれんたいしゅ)僧]] [[File:Buda_de_Avukana_-_03.jpg|thumb|スリランカの仏像(5世紀)]] [[File:Young_monk.jpg|thumb|若いビルマの僧]] '''上座部仏教'''(じょうざぶぶっきょう、{{lang-pi-short|Theravāda}}、{{lang-sa-short|Sthaviravāda}}、{{lang-th-short|เถรวาท}}, {{unicode|thěeráwâat}}、{{lang-en-short|Theravada Buddhism}})は、[[仏教]]の分類のひとつで「長老派」を意味しており<ref name=Bodhi>{{cite book |editor1-last=Bodhi |editor1-first=Bhikkhu |last1=Gyatso |first1=Tenzin |author-link1=14th Dalai Lama |date=2005 |title=In the Buddha's Words: An Anthology of Discourses from the Pali Canon |url=https://books.google.com/books?id=11X1h60Qc0IC&printsec=frontcover |location=[[Somerville, Massachusetts]] |publisher=[[Wisdom Publications]] |page=ix |isbn=978-0-86171-491-9}}</ref><ref name=Britannica>{{cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Buddhism/Historical-development |title=Theravada |last1=Reynolds |first1=Frank E. |last2=Kitagawa |first2=Joseph M. |last3=Nakamura |first3=Hajime |author-link3=Hajime Nakamura |last4=Lopez |first4=Donald S. |author-link4=Donald S. Lopez Jr. |last5=Tucci |first5=Giuseppe |author-link5=Giuseppe Tucci |date=2018 |website=britannica.com |publisher=[[Encyclopaedia Britannica]] |accessdate=2018-01}}</ref>、現存する最古の仏教の宗派である<ref name=Bodhi/><ref name=Britannica/>。'''上座仏教'''{{efn|この名称は[[前田慧學]]の説による<ref>パーリ学仏教文化学会 上座仏教事典編集委員会編、『上座仏教事典』、めこん、[[2016年]]、pp.22-23.</ref>。}} 、'''テーラワーダ仏教'''(テーラヴァーダ仏教){{efn|テーラヴァーダとは「長老の教え」という意味<ref>[[立川武蔵]] 『ブッダをたずねて - 仏教2500年の歴史』〈集英社新書〉、集英社、2014年、18頁。</ref>。}}。 上座部仏教は、'''南伝仏教'''とも呼ばれ{{refnest|name="世界大百科事典 第2版"}}、[[パーリ語]]の[[三蔵]]を伝えていることから'''パーリ仏教'''ともいう{{sfn|水野|2006|p=51}}。 仏典には[[パーリ仏典]]を採用し、[[釈迦]]の教えが保存されている<ref name=Bodhi /><ref name=Britannica />。 [[パーリ仏典]]は古代インド言語であるパーリ語で記され、現存する唯一の完全な仏典であり、上座部においては[[典礼言語]]<ref name=Britannica />および [[リングワ・フランカ]]<ref name="Crosby, Kate 2013 p. 2">Crosby, Kate (2013), ''Theravada Buddhism: Continuity, Diversity, and Identity'', p. 2.</ref>として機能している。[[スリランカ]]、[[ミャンマー]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、[[ラオス]]の主要な宗教である{{refnest|name="世界大百科事典 第2版"|[https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8F%E6%95%99-125093 「仏教」 - 世界大百科事典 第2版]}}。 == 名称 == 仏教は、一般に、[[初期仏教]]・[[部派仏教]]・[[大乗仏教]]に分類される<ref>[[竹村牧男]] 『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』 講談社、講談社学術文庫、2005年7月、6頁。</ref>。部派仏教とは、初期仏教教団の[[根本分裂]]によって[[上座部]]と[[大衆部]]が生じ、これがさらに分派して多くの部派が分立した時代の仏教を総称するために[[明治]]期の日本で使われ始めた仏教学用語である{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|pp=886-887|loc=「部派仏教」}}。今日の南方諸国に伝わる仏教は「上座部」(テーラヴァーダ)の名をもって自ら任じており、部派仏教時代の仏教の末裔とされる{{sfn|佐々木|2011|pp=74-75}}{{efn|[[佐々木閑]]は、[[大乗仏教]]が部派横断的に多発した運動群であったという考えから、現存の南方上座仏教は一部派というよりも部派の概念では捉えられない前部派的な形態の仏教集団と見ることができるという見解を提出している{{sfn|佐々木|2011|pp=74-74, 91-92}}。}}。 近代以降に上座部仏教と呼ばれるようになった仏教の源流は[[スリランカ]]の上座部である(他の部派は消滅){{sfn|馬場|2011|p=140}}。歴史上、スリランカ上座部には三つの派が存在したが、そのうちの[[アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ|大寺派]]が[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、[[カンボジア]]、[[ラオス]]等の諸国にも伝わって今も存続している{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=p. 781, 「南伝仏教」}}。 「上座」 ({{lang|pi|thera}}) とは[[サンガ]]内で尊敬される[[比丘]]のことで、「長老」とも漢訳される{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|p=521|loc=「上座」}}{{Efn|また、{{lang-pi-short|Mahā thera}} で「大上座」と訳される{{refnest|name="パーリ仏教辞典"| 『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社)1488-1489頁。}}。}}。 [[東アジア]]、[[チベット]]、[[ベトナム]]へ伝わった[[大乗仏教]](北伝仏教)とは異なる歴史経過をたどった。「[[小乗|小乗仏教]]」と呼ばれることもあるが、南伝仏教側の自称ではなく、そのように呼称するのは不適切とされる{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=p. 781, 「南伝仏教」; p. 526, 「小乗」}}{{efn|「小乗」は「ヒーナ(捨てられた、卑しい、劣った)<ref>水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.372</ref>ヤーナ(乗り物)」の翻訳であり[[大乗仏教]]側から見た差別的意味を含む。}}。 == 上座部の歴史 == === 発祥 === {{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)|section=1}} [[釈迦]]在世の仏教においては、[[僧|出家者]]に対する[[戒律]]は多岐にわたって定められていたが、[[釈迦]]の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教が[[北インド|インド北部]]に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に[[托鉢]]を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる[[出家者]]が現れた。戒律の変更に関して、[[釈迦]]は生前、重要でない戒律は[[僧伽|サンガ]]の同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれた。また、その他いくつかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。 この問題を収拾するために、会議([[結集]]、[[第二結集]])が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部が発生した。大衆部と、戒律変更を認めない上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律維持を支持したグループが現在の上座部仏教に相当する。 === 部派仏教時代 === その後、部派仏教の時代には、上座部系部派の[[説一切有部]]が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部、もしくはそのうちの一派であるとされる{{sfn|中村|三枝|1996|pp=337-338}}。大乗仏教側は論難に際して、(自己の修行により自己一人のみが救われる)'''[[小乗]]'''(しょうじょう;ヒーナヤーナ、{{lang|sa|Hīnayāna}})と呼んだとされる。なお、大乗の語や音写語の[[摩訶衍]]は、[[初期仏教]]の聖典として伝存する{{sfn|中村|2011|p=33}}{{efn|ただし、現存する[[阿含経典]]は根本分裂後の部派を経由して伝えられたものであり、口伝で伝承されていた初期仏教の時代の経そのままではないと指摘される{{sfn|平岡|2015|pp=38-41}}。}}[[阿含経]]の漢訳や、部派教典の[[論蔵]]の漢訳にもみられる<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A4%A7%E4%B9%97&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8&uarsers%5B514%5D=%E6%AF%98%E6%9B%87%E9%83%A8 大乗 (阿含部・毘曇部)]、[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E6%91%A9%E8%A8%B6%E8%A1%8D&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 摩訶衍 (阿含部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>{{要高次出典|date=2017-05}}。[[大乗仏教]]は[[北インド]]から[[中央アジア]]を経て[[東アジア]]に広がった。 各部派では、仏説とされる[[経_(仏教)|経]]と[[律 (仏教)|律]]とが伝承され、それらを註釈した[[論 (仏教)|論]]が作られた([[経蔵]]・[[律蔵]]・[[論蔵]]の[[三蔵]]){{sfn|平岡|2015|pp=39-40}}。南方上座部の伝える[[経蔵 (パーリ)|経蔵]](パーリ・ニカーヤ)は五部に分かれており、「小部」を除く4つは漢訳の4つの[[阿含経]]と一定の対応関係がある{{sfn|平岡|2015|pp=41-42}}([[大正新脩大藏經]]では、漢訳の[[阿含経]]は阿含部に収載{{sfn|中村|三枝|1996|pp=113, 125}}、[[法句経]]など一部は[[本縁部 (大正蔵)|本縁部]]他に収蔵)。論蔵 ({{lang|pi|Abhidhamma-piṭaka}}) には上座部仏教が受持する7種の[[論蔵 (パーリ)|論蔵]]と漢訳された[[説一切有部]]の7部の論蔵があるが、両者に共通点がないことから部派仏教時代以降の確立とみられ{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|p=1077|loc=「論」}}、論蔵の成立は部派仏教の大きな特徴のひとつである{{sfn|中村|三枝|1996|p=241}}。この時代には[[アビダルマ]](「ダルマに対して」の意;対法)とは[[論 (仏教)|論書]]を指した{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|p=14|loc=「阿毘達磨」}}。各部派においてそれぞれの論を通じて教義の整備が進められた状況があったと考えられ、[[部派仏教]]を[[アビダルマ仏教]]と呼ぶこともある{{sfn|中村|三枝|1996|p=241}}。なお、[[中華人民共和国|中国]]、[[チベット]]、[[ベトナム]]、[[朝鮮]]、[[日本]]等の地域に伝わったのが大乗仏教で、いわゆる北伝仏教である。 === 南伝以後 === {{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)|section=1}} [[南アジア]]に存在した諸部派のうち、[[スリランカ]]を本拠地として[[インド]]本土へも進出した「上座部」(Theravāda) を名乗る一派{{efn|スリランカの年代記『[[ディーパワンサ|島史]]』や『[[マハーワンサ|大史]]』によると、この部派の呼称は「上座部」(テーラヴァーディン)または「分別説部」(ヴィバッジャヴァーディン)である。また、インド北伝の伝承では、「有分識」を説く部派を[[玄奘]]訳の『摂大乗論』無性釈においては「分別説部」とし{{Sfn|日暮|1928|p=103}}、また、九心輪思想を唱える分別説部を「上座部」とも呼んでいる{{Sfn|高井|1921|p=33}}。ただし[[佐々木閑]]は、[[上座部]]は[[大衆部]]を除く諸部派の総称でもあり、この呼称をスリランカなどの南方諸国に伝わる部派のみを指す固有名として用いるべきか明らかでないと指摘している<ref>[[佐々木閑]] 『インド仏教変移論』 大蔵出版、2000年、386頁。</ref>。}}が、今日に至るまで存続している上座部仏教の源流である{{sfn|馬場|2011|pp=140, 155}}{{efn|[[テーラヴァーダ]]という言葉の初出は、スリランカの史書『島史』における第一[[結集]]にかんする記述のなかにある。ここでは、500人の長老(上座)たちによって結集された法と律の集合が Theravāda と呼ばれている。上座部仏教の研究者である[[馬場紀寿]]によれば、これは後発の部派であったと考えられるスリランカ上座部が自らを第一結集の仏説を継ぐ正統派であると主張したことを示すものである{{sfn|馬場|2011|p=155}}(馬場紀寿は『島史』のこの文脈において、Theravāda という語を「上座たちによる法と律の集約」については「上座説」、それを継承する集団については「上座部」と二通りに読み{{sfn|馬場|2011|p=155}}<ref>馬場紀寿{{PDFlink|[https://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_10.pdf 「ブッダゴーサ作品の文献学的研究」三島海雲財団助成研究報告書]}}</ref>、上座説を「結集仏説」とパラフレーズしている<ref>{{cite journal|和書|author=馬場紀寿 |title=小部の成立を再考する : 説一切有部との比較研究 |date=2017-03 |journal=東洋文化研究所紀要 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |issue=171 |naid=120006027335 |pages=320(157), 319(158)}}</ref>)。}}。スリランカ上座部は、[[紀元前3世紀]]にインドから上座部系の一部派が伝わったことに始まるとされる{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=p. 781, 「南伝仏教」}}。スリランカの伝承では、当地に仏教を伝えたのは[[マウリア朝]]の[[アショーカ王]]の師モッガリプッタ・ティッサの弟子にして[[アショーカ王]]の子[[マヒンダ]]であったという{{sfn|馬場|2011|pp=155-156}}。スリランカ上座部の成立年代は考古学資料等から紀元後3-4世紀と推定される{{sfn|馬場|2011|p=155}}。[[5世紀]]には、南インドから来島した[[ブッダゴーサ]]が『[[清浄道論]]』をはじめとする註釈文献を編纂して上座部の教学を大成し、その後も[[ダンマパーラ]]等の学匠が南インドで活動していたことから、スリランカ上座部のネットワークが当時の南インドに広がっていた様子がうかがわれる{{sfn|馬場|2011|pp=156-157}}。[[12世紀]]には、スリランカの国家政策によって当地の上座部三派は大乗を非仏説として斥ける[[アヌラーダプラ・マハーヴィハーラ|大寺派]]に一本化され、その結果、[[大乗仏教]]は[[スリランカ]]から一掃された{{sfn|馬場|2011|pp=159-160}}。 上座部仏教は[[ミャンマー]]、[[タイ王国|タイ]]など[[東南アジア]]方面にも伝播した。'''南伝仏教'''という呼称はこの背景に由来する。[[ミャンマー]]では[[11世紀]]に上座部のサンガが招来され、[[13世紀]]にはタイとカンボジアにもスリランカ上座部が伝来した{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=pp. 781-782, 「南伝仏教」}}。その後、[[大航海時代|大交易時代]]に成立した[[東南アジア]]諸王朝では、王権の主導によって上座部大寺派が主流の宗教となった{{sfn|馬場|2011|p=160}}。現在では、スリランカ、タイ、[[ミャンマー]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]の各国で多数宗教を占める。また[[ベトナム]]南部に多くの信徒を抱え、インド、[[バングラデシュ]]、[[マレーシア]]、[[インドネシア]]にも少数派のコミュニティが存在する。中国の雲南省・貴州省などに分布するタイ系の諸民族の間でも信仰されている。 [[アジア]]の上座部仏教圏のほとんどは[[列強|西欧列強]]の[[植民地]]支配を受けた。[[宗主国]]で、支配地の文化研究が植民地政策の補助として奨励されたため、仏教、[[ヒンドゥー教]]、[[イスラム教]]の経典・教典の[[文献学]]的研究は[[イギリス]](スリランカとミャンマーの旧[[宗主国]])を中心に[[ヨーロッパ|欧州]]で早くから進んだ。[[ロンドン]]の[[パーリ・テキスト協会]]から刊行された[[パーリ語経典|パーリ三蔵]](PTS版)は過去の仏教研究者のもっとも重要な地位を占めた。その後イギリスは植民地の宗主国としての地位を喪失し、大学でも日本のような[[インド哲学]]科が設置されることはなく、[[サンスクリット]]語研究は[[オックスフォード大学]]で細々と行われている。一方で欧米人の中から上座部仏教の[[僧|比丘]]になる者や、またスリランカでは大学を卒業し英語の堪能なスリランカ出身の[[比丘]]が中心となり(公用語は[[シンハラ語]]と[[タミル語]]。連結語として英語も憲法上認められている)、大学という枠組みの外で[[パーリ仏典|パーリ三蔵]]の翻訳が活発である。 一方で、イギリスの旧植民地の[[スリランカ]]や[[ビルマ]]、タイから移民や難民が[[アングロサクソン]]系のイギリス、[[カナダ]]、[[アメリカ合衆国]]、[[オーストラリア]]に大規模に流入した関係で、[[欧米]]への布教伝道も旺盛に行われている。欧米には[[チベット仏教|チベット密教]]系や東アジアの[[禅宗]]系と並んで、あるいはそれ以上に数多くの、上座部仏教の[[寺院]]や[[団体]]がある。 == 特徴 == {{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)|section=1}} [[File:Dharmachakra, withprint (en).svg|thumb|right|350px|八正道を示した法輪]] === 聖典 === 上座部における聖典の本質は、書写された経巻そのものにあるのではなく、それが[[衆生|有情]]によって記憶・実践・暗誦されていることにこそある(清水2018<ref name="清水2018">清水俊史「パーリ上座部における正法と書写聖典」、『[[佛教大学]]仏教学会紀要 23』pp.19-41, 2018-03-25</ref>pp.26-27)。 大乗仏教では後代の仏説ごとに仏典が作られたが、上座部仏教では同一の内容を[[シンハラ文字]]など各民族の[[文字]]によって記した[[パーリ仏典|パーリ三蔵]]が継承されている。上座部仏教の仏典は「読む」書物というよりも「詠む」書物であり、声を介して仏典を身体に留める伝統が培われた{{sfn|南|2014|pp=155-176}}。仏典の継承は口授によって行われるため、戒法の継承は文字経典を求めるより戒や教説を体得した[[僧侶]]を招く形で行われる{{sfn|南|2014|pp=155-176}}。 === 教義 === 上座部仏教では[[具足戒]](出家者の戒律)を守る[[比丘]]・僧伽(サンガ(教団))と彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。しかし、各部派の異同を等価に捉え、漢訳・チベット語訳三蔵に記録された部派仏教の教えや、さらに近年{{いつ|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)}}[[パキスタン]]で発見された部派仏教系の教典と上座部のパーリ教典を比較研究する仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されるに留まる。 教義では、次のようにされている。限りない[[輪廻]]を繰り返す生は「[[苦 (仏教)|苦しみ]] ({{lang|pi|dukkha}})」である<ref>{{SLTP| [[ダンマパダ]] 11 Jarāvaggo}}</ref>。この苦しみの原因は、[[無明]]{{efn|法を理解しないこと、すなわち[[四諦]]、[[十二縁起]]などに対する無知{{sfn|ウ・ウェープッラ|戸田|2013|p=234}}。}}によって生じる執着である。そして、無明を断ち[[輪廻]]から[[解脱]]するための最も効果的な方法は、[[戒律]]の厳守、[[瞑想]]の修行による[[八正道]]の実践(paṭipatti)であるとする{{Sfn|Gethin|1998|pp=81–83}}{{sfn|Anderson|2013|pp=64–65}}。上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、[[悟り]]へ至る[[智慧]]と[[慈悲]]の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきた。古代インドの俗語起源のパーリ語で記録された共通の三蔵 ({{lang|pi|tipitaka}}) に依拠し、教義面でもスリランカ大寺派の系統に統一されている点など、大乗仏教の多様性と比して特徴的である。 [[出家]]者と[[在家]]信者の関係は、衆生の無知蒙昧を上から啓蒙するといった、上から下への一方的な関係ではない。[[救済#仏教における救済|自力救済]]を目指し修行する出家者とは、在家者にとっては自分になり変わって悪行を避ける営みに専念する存在である{{sfn|南|2014|pp=155-176}}。俗世の損得で言えば無用な存在ながら、脱俗し悪行を避けて生きる出家者を肯定し布施することで在家者は[[功徳]]を積む。十[[波羅蜜]]をとるが、波羅蜜は人格形成のための日常的な所作としての位置づけで、大乗仏教のものと順序や名称が異なる<ref>[http://www.j-theravada.net/qa/gimon77.html 「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)] - 日本テーラワーダ仏教協会ホームページ。</ref>。 === タブー === 国民の90%以上が上座部仏教徒である[[タイ王国|タイ]]について<ref>[http://www.thaiokoku.com/fundamentals/religion.html 宗教] タイ王国.com</ref>、外務省から教義に則した注意喚起が発信されている<ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/m/mbmannerhealth_007.html タイ] 外務省海外安全情報</ref>。 * 僧侶は、絶対に女性(子供を含む)に触れたり、触れられたりしてはいけない * 身体のうち、頭部は精霊が宿る場所として神聖視されており、頭部に触れることはタブーとされている * 子供の頭をなでることもトラブルの原因となる * 足は不浄とされているので、足裏を第三者に向けて座ったり、間違っても足で人を指すような仕草をすることは避ける 同様の考えを持つ国として、[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[ミャンマー]]も挙げられている<ref>[https://twitter.com/helpyou_niigata/status/1316134798381838336 新潟大学発HELP YOU PROJECT(@helpyou_niigata)] 2020年10月14日午前6:52のTweet</ref>。 ==比丘尼の僧伽(サンガ)の不在== {{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)|section=1}} 上座部においては古代スリランカにおける戦乱の時代に比丘と比丘尼([[尼|尼僧]])僧伽(サンガ)が両方とも滅亡した。比丘の僧伽はビルマに伝播していたために復興がかなったが、比丘尼の僧伽はこれによって消滅となった。だが近年、[[台湾]]に残存する、[[中国仏教]]の比丘尼の伝統を使って上座部の比丘尼の僧伽の復興がはかられているが、その正統性は、上座部が大乗を異端とみなしているということもあいまって教義的に問題視されている。教義に抵触しない形での女性の出家形態として、タイでは[[メーチー]] (mae chi)、ミャンマーでは[[ティラシン]] (thila shin) と呼ばれている、正式な比丘尼とはみなされないものの、実質的には尼僧としての出家生活を営む女性たちがいる。 == 日本との関係 == {{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 05:53 (UTC)|section=1}} 中国仏教では部派仏教全体を指して小乗仏教と呼び、日本もそれを受け継いだが、「小乗」とは「大乗」に対して「劣った教え」という意味でつけられた蔑称であり、上座部仏教側が自称することはない。世界仏教徒の交流が深まった近代以降には相互尊重の立場から批判が強まり、徐々に使われなくなった。[[1950年]]6月、[[世界仏教徒連盟]]の主催する第一回世界仏教徒会議が[[コロンボ]]で開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。 仏教伝来以来、長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治にスリランカに留学した日本人僧である[[釈興然]](グナラタナ)によって、上座部仏教の移植が試みられた。また日本は明治以降欧米に留学した仏教学者によって、北伝仏教の国としてはもっとも早く『[[パーリ仏典]]』の翻訳(「[[南伝大蔵経]]」)と研究が進められた国である。しかし伝統的な仏教勢力が大勢を占めるなかで、上座部仏教の社会的認知度は低かった。 上座部仏教に由来する瞑想法である[[ヴィパッサナー瞑想]]が1970年代頃から世界的に広まったが、この時期には日本では普及しなかった。また[[オウム真理教]]に代表される[[新興宗教]]がパーリ仏典や用語などを転用したため風評被害を受けた。[[1990年代]]から[[アルボムッレ・スマナサーラ]]の布教活動を中心にして上座部仏教は、[[ヴィパッサナー瞑想]]とともに日本に浸透しつつある。現在はタイ、ミャンマー、スリランカ出身の僧侶を中心とした複数の寺院や団体を通じて布教伝道活動がなされているほか、[[戒壇]]が作られたこともあって日本人出家者(比丘)も誕生している。 == 画像集 == <gallery> File:201312131121c_HL_ps_Sukothai,_Wat_Mahathat.jpg|スコータイ歴史公園(タイ王国) File:Watphrabuddhabat 07.jpg|ワットプラプッタバート寺院(タイ王国) File:Phra_Ajan_Jerapunyo-Abbot_of_Watkungtaphao..jpg|瞑想するタイの僧侶 File:Diksha_Bhumi.jpg|ディークシャーブーミのストゥーパ(インド) File:Shwezigon.jpg|シュエズィーゴン・パゴダ(ミャンマー) File:CambodgePhnomPenhNaga.JPG|ナーガ像に囲まれたワット・プノン寺院の階段(カンボジア) File:Dambulla-buddhastupa.jpg|ダンブッラの黄金寺院(スリランカ) File:Pha_That_Luang,_Vientiane,_Laos.jpg|タート・ルアン(ラオス) </gallery> == 脚注 == ===註釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==参考文献== *{{Cite encyclopedia|df=ja|editor=中村元・福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士|date=October 2002 |title=『岩波 仏教辞典 第二版』 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080205-4 |ref={{harvid|岩波 仏教辞典|2002}}}} *{{Cite book|和書|author=水野弘元|authorlink=水野弘元 |year=2006 |origyear=1972 |title=仏教要語の基礎知識 |publisher=春秋社 |edition=新版 |isbn=4-393-10604-0 |ref={{harvid|水野|2006}}}} *{{Cite book|和書|author1=中村元|authorlink1=中村元 (哲学者)|author2=三枝充悳|authorlink2=三枝充悳|date=1996-04 |origyear=1987 |title=バウッダ [佛教] |publisher=小学館 |series=小学館ライブラリー |isbn=4-09-460080-9 |ref={{harvid|中村|三枝|1996}}}} *{{Cite book|和書|author=中村元|date=2011-03 |origyear=1987 |title=原始仏典 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4-480-09367-7 |ref={{harvid|中村|2011}}}} *{{Cite book|和書|author=竹村牧男|authorlink=竹村牧男 |date=2004-02 |origyear=1992 |title=インド仏教の歴史: 「覚り」と「空」 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 |isbn=4-06-159638-1 |ref={{harvid|竹村|2004}}}} *{{Cite book|和書|author=佐々木閑|authorlink=佐々木閑 |others=高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編著 |date=2011-06 |title=シリーズ大乗仏教 第一巻 大乗仏教とは何か |publisher=春秋社 |chapter=大乗仏教起源論の展望 |isbn=978-4-393-10161-2 |ref={{harvid|佐々木|2011}}}} *{{Cite book|和書|author=馬場紀寿 |others=高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編著 |date=2011-12 |title=シリーズ大乗仏教 第二巻 大乗仏教の誕生 |publisher=春秋社 |chapter=上座部仏教と大乗仏教 |isbn=978-4-393-10162-9 |ref={{harvid|馬場|2011}}}} *{{Cite book|和書|author=平岡聡|authorlink=平岡聡 |date=2015-10 |title=大乗経典の誕生: 仏伝の再解釈でよみがえるブッダ |publisher=筑摩書房 |series=筑摩選書 |isbn=978-4-480-01628-7 |ref={{harvid|平岡|2015}}}} *{{Cite book|和書|editor=南直人|editor-link=南直人|year=2014 |title=宗教と食 |series=食の文化フォーラム |publisher=ドメス出版 |isbn=9784810708110 |pages=155-176 |ref={{harvid|南|2014}}}} *{{Cite book|和書|others=ウ・ウェープッラ、戸田忠 訳注 |year=2013 |title=アビダンマッタサンガハ[新装版] |publisher=中山書房仏書林 |ref={{harvid|ウ・ウェープッラ|戸田|2013}}}} *{{cite journal | 和書 | last = 高井 | first = 觀海 | title = 阿頼耶識の史的考察 | journal= 智山学報 | date = 1921-08 | ref = {{sfnRef|高井|1921}} }} *{{cite journal | 和書 | last = 日暮 | first = 京雄 | title = 有分識に就て | journal= 大谷学報 | date = 1928-05 | ref = {{sfnRef|日暮|1928}} }} * [[パーリ学仏教文化学会]]・上座仏教事典編集委員会編、『上座仏教事典』、[[めこん]]、[[2016年]]、ISBN 978-4-8396-0299-4 * {{Cite book | last =Anderson | first =Carol | year =2003 | chapter =Four Noble Truths | editor-last =Buswell | editor-first =Robert E. | title =Encyclopedia of Buddhism | publisher =Macmillan Reference Books | isbn =978-0028657189}} * {{citation|last=Gethin|first=Rupert |title=Foundations of Buddhism|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|year=1998|url=https://archive.org/details/foundationsofbud00rupe|isbn=978-0192892232}} == 関連項目 == {{Div col|cols=3}} * [[タイの仏教]] * [[スリランカの仏教]] * [[ミャンマーの仏教]] * [[東南アジアの仏教]] * [[サマタ瞑想]] * [[慈悲の瞑想]] * [[サティ (仏教)]] * [[日本テーラワーダ仏教協会]] * [[パオ森林僧院]] * [[仏滅紀元]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Portal 仏教}} *[https://j-theravada.net/ 日本テーラワーダ仏教協会] *[https://jp.dhamma.org/ja/ 日本ヴィパッサナー協会] *[https://jyouzabukkyo.jp/index.html 上座仏教修道会] {{Buddhism2}} {{仏教典籍}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようさふふつきよう}} [[Category:上座部仏教|*]] [[Category:仏教の宗派|*]] [[Category:ナースティカ]]
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バンドギャップ
バンドギャップ(英語: band gap、禁止帯、禁制帯)とは、広義の意味は、結晶のバンド構造において電子が存在できない領域全般を指す。 ただし半導体、絶縁体の分野においては、バンド構造における電子に占有された最も高いエネルギーバンド(価電子帯)の頂上から、最も低い空のバンド(伝導帯)の底までの間のエネルギー準位(およびそのエネルギーの差)を指す。 E-k空間上において電子はこの状態を取ることができない。バンドギャップの存在に起因する半導体の物性は半導体素子において積極的に利用されている。 バンドギャップを表現する図は、E-k空間においてバンドギャップ周辺だけに着目した図、さらにk空間を無視してエネルギー準位だけを表現した図も良く用いられる。 電子がバンドギャップを越えて価電子帯と伝導帯の間を遷移するには、バンドギャップ幅以上の大きさのエネルギー(光や熱)を吸収または放出する必要がある。半導体素子においてはこのようなバンドギャップ周辺での電子の遷移を制御することによって、様々な機能を実現している。 バンドギャップはE-k空間上におけるバンド間の隙間であるため、バンドギャップを越えて遷移するには、エネルギー(E)だけでなく、波数(k)も合わせる必要がある。波数が変化しない遷移(直接遷移)ならば光だけで遷移可能である。波数が異なる遷移(間接遷移)の場合、格子振動との相互作用を介する遷移となる。 バンドギャップが大きい物質は光子によって電子が励起されにくくそのまま光子が通過するため、可視光波長域のエネルギー以上に大きなバンドギャップを持つ物質は透明になる。 バンドギャップの大きさ(禁制帯幅)を表す単位としては通常、電子ボルト(eV)が用いられる。例えばシリコンのバンドギャップは約1.2 eV、ヒ化ガリウムでは約1.4 eV、ワイドギャップ半導体の窒化ガリウムでは約3.4 eVである。物質内部で伝導に寄与する全電子のポテンシャルエネルギーが1eV変化することは、物質全体の電位が1 V変化することに相当する。バンドギャップの大きさは、PN接合などを動作させる時に必要な印加電圧に大きく影響する。たとえばシリコンのダイオードは通常0.6~0.7 V程度で動作するが、窒化ガリウムの青色発光ダイオードを動作させるには、3 Vを越える電圧を供給する必要がある(PN接合の項も参照)。 似た用語としてエネルギーギャップ(energy gap)がある。固体電子論(バンド理論)では、バンド構造におけるバンドとバンドの間の隙間を指す(広義のバンドギャップとほぼ同じ意味合いとなる)が、それ以外の意味をもつ場合がある(例:超伝導におけるエネルギーギャップなど)。 バンド計算における局所密度近似では、バンドギャップは実験値と比べると常に過小評価され、実験値と一致しない(例:シリコンのバンドギャップの実験値は、1.17 eV、これに対しLDAにおけるバンドギャップは、0.4~0.5 eV程度の値となる←常に過小評価となるが、系によりその程度は異なる)。 この過小評価の問題を解決する方法(LDAを越える試み)としては、自己相互作用補正、GW近似などがある。 半導体のバンドギャップエネルギーは温度が上昇することで減少する傾向がある。温度が上昇する際、原子振動の振幅が増加し、原子同士の間隔がより大きくなる。格子のフォノンおよび自由電子、正孔における相互作用もまた、より小さな範囲でバンドギャップに影響を及ぼす。バンドギャップと温度の関係はVarshniの経験式によって記述される。 Eg(0)、α、βは材料に由来する定数、Tは温度である。 古典的に、エネルギー差ΔEを持つ2つのバンドが電子によって占有される可能性の比率はボルツマン因子 (en:Boltzmann factor)によって与えられる。 ΔE=エネルギー差、k=ボルツマン定数、T=温度 フェルミ準位または化学ポテンシャルにおいて占有される可能性は50%である。フェルミ準位が1 eVのバンドギャップ中にあるならば、25.9 meVの室温の熱エネルギーを受ける状態において、その比率はeもしくはおよそ2.0である。
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バンドギャップとは、広義の意味は、結晶のバンド構造において電子が存在できない領域全般を指す。 ただし半導体、絶縁体の分野においては、バンド構造における電子に占有された最も高いエネルギーバンド(価電子帯)の頂上から、最も低い空のバンド(伝導帯)の底までの間のエネルギー準位(およびそのエネルギーの差)を指す。 E-k空間上において電子はこの状態を取ることができない。バンドギャップの存在に起因する半導体の物性は半導体素子において積極的に利用されている。 バンドギャップを表現する図は、E-k空間においてバンドギャップ周辺だけに着目した図、さらにk空間を無視してエネルギー準位だけを表現した図も良く用いられる。
'''バンドギャップ'''({{lang-en|band gap}}、'''禁止帯'''、'''禁制帯''')とは、広義の意味は、結晶の[[バンド構造]]において電子が存在できない領域全般を指す。 ただし[[半導体]]、[[絶縁体]]の分野においては、[[バンド構造]]における[[電子]]に占有された最も高い[[エネルギーバンド]]([[価電子帯]])の頂上から、最も低い空のバンド([[伝導帯]])の底までの間の[[エネルギー準位]](およびそのエネルギーの差)を指す。 [[バンド構造|E-k空間]]上において電子はこの状態を取ることができない。バンドギャップの存在に起因する半導体の物性は[[半導体素子]]において積極的に利用されている。 [[画像:BandDiagram-Semiconductors-J.PNG|thumb|right|250px|半導体の[[バンド構造]]の模式図。Eは電子の持つ[[エネルギー]]、kは[[波数]]。Egが'''バンドギャップ'''。半導体(や絶縁体)では「絶対零度で電子が入っている一番上のエネルギーバンド」が電子で満たされており([[価電子帯]])、その上に[[禁制帯]]を隔てて空帯がある([[伝導帯]])。]] [[画像:BandGap-Comparison-withfermi-J.PNG|thumb|250px|right|[[金属]]、および[[半導体]]・[[絶縁体]]の[[バンド構造]]の簡単な模式図(k空間無視)]] バンドギャップを表現する図は、[[バンド構造|E-k空間]]においてバンドギャップ周辺だけに着目した図、さらにk空間を無視してエネルギー準位だけを表現した図も良く用いられる。 == 半導体におけるバンドギャップ == 電子がバンドギャップを越えて[[価電子帯]]と[[伝導帯]]の間を[[遷移]]するには、バンドギャップ幅以上の大きさのエネルギー([[光]]や[[熱]])を吸収または放出する必要がある。[[半導体素子]]においてはこのようなバンドギャップ周辺での電子の遷移を制御することによって、様々な機能を実現している。 バンドギャップは[[バンド構造|E-k空間]]上におけるバンド間の隙間であるため、バンドギャップを越えて遷移するには、エネルギー(''E'')だけでなく、波数(''k'')も合わせる必要がある。波数が変化しない遷移([[直接遷移]])ならば[[光]]だけで遷移可能である。波数が異なる遷移([[間接遷移]])の場合、[[格子振動]]との相互作用を介する遷移となる。 バンドギャップが大きい物質は光子によって電子が励起されにくくそのまま光子が通過するため、可視光波長域のエネルギー以上に大きなバンドギャップを持つ物質は透明になる。 バンドギャップの大きさ(禁制帯幅)を表す単位としては通常、[[電子ボルト]](eV)が用いられる。例えば[[シリコン]]のバンドギャップは約1.2 eV、[[ヒ化ガリウム]]では約1.4 eV、[[ワイドギャップ半導体]]の[[窒化ガリウム]]では約3.4 eVである。物質内部で伝導に寄与する全電子のポテンシャルエネルギーが1eV変化することは、物質全体の電位が1 V変化することに相当する。バンドギャップの大きさは、[[PN接合]]などを動作させる時に必要な印加電圧に大きく影響する。たとえばシリコンの[[ダイオード]]は通常0.6~0.7 V程度で動作するが、窒化ガリウムの青色[[発光ダイオード]]を動作させるには、3 Vを越える電圧を供給する必要がある([[PN接合]]の項も参照)。 ==類義語== 似た用語としてエネルギーギャップ(energy gap)がある。固体電子論([[バンド理論]])では、バンド構造におけるバンドとバンドの間の隙間を指す(広義のバンドギャップとほぼ同じ意味合いとなる)が、それ以外の意味をもつ場合がある(例:[[超伝導]]におけるエネルギーギャップなど)。 ==理論計算== [[バンド計算]]における[[局所密度近似]]では、バンドギャップは実験値と比べると常に過小評価され、実験値と一致しない(例:[[シリコン]]のバンドギャップの実験値は、1.17 [[電子ボルト|eV]]、これに対し[[局所密度近似|LDA]]におけるバンドギャップは、0.4~0.5 eV程度の値となる←常に過小評価となるが、系によりその程度は異なる)。 この過小評価の問題を解決する方法([[LDAを越える試み]])としては、[[自己相互作用補正]]、[[GW近似]]などがある。 ==温度による影響== 半導体のバンドギャップエネルギーは温度が上昇することで減少する傾向がある。温度が上昇する際、原子振動の振幅が増加し、原子同士の間隔がより大きくなる。格子の[[フォノン]]および自由電子、正孔における相互作用もまた、より小さな範囲でバンドギャップに影響を及ぼす<ref>{{cite journal|author=H. Unlu|title=A Thermodynamic Model for Determining Pressure and Temperature Effects on the Bandgap Energies and other Properties of some Semiconductors|journal=Solid State Electronics|volume=35|pages=1343–1352|year=1992|doi=10.1016/0038-1101(92)90170-H}}</ref>。バンドギャップと温度の関係はVarshniの[[経験式]]によって記述される。 :<math>E_{\mathrm{g}}(T)=E_{\mathrm{g}}(0)-\frac{\alpha T^2}{T+\beta}</math> ''E''<sub>g</sub>(0)、''α''、''β''は材料に由来する定数、''T''は温度である<ref>[http://ece-www.colorado.edu/~bart/book/eband5.htm Temperature dependence of the energy bandgap]</ref>。 ==数学的解釈== 古典的に、エネルギー差Δ''E''を持つ2つのバンドが電子によって占有される可能性の比率は[[ボルツマン因子]] ([[:en:Boltzmann factor]])によって与えられる。 :<math>\exp{\left(-\frac{\Delta E}{kT}\right)}</math> Δ''E''=エネルギー差、''k''=[[ボルツマン定数]]、''T''=温度 [[フェルミ準位]]または[[化学ポテンシャル]]において占有される可能性は50%である。フェルミ準位が1 eVのバンドギャップ中にあるならば、25.9 meVの室温の熱エネルギーを受ける状態において、その比率はe{{sup-|20}}もしくはおよそ2.0{{sup-|9}}である。 ==バンドギャップの一覧== {{see also|:en:Wide-bandgap semiconductor#Table of common wide-bandgap semiconductors}} {| class="wikitable sortable" |- ! 素材 !! 分子記号 !! バンドギャップ ([[電子ボルト|eV]]) (302[[ケルビン|K]]) !! 出典 |- | [[ケイ素]] | Si | 1.11 | <ref name="Streetman">{{cite book|last=Streetman|first=Ben G.|coauthors=Sanjay Banerjee|title=Solid State electronic Devices|edition=5th|year=2000|publisher=Prentice Hall|location=New Jersey|isbn=0-13-025538-6|page=524}}</ref> |- | [[セレン]] | Se | 1.74 | |- | [[ゲルマニウム]] | Ge | 0.67 | <ref name="Streetman" /> |- | [[炭化ケイ素]] | SiC | 2.86 | <ref name="Streetman" /> |- | [[リン化アルミニウム]] | AlP | 2.45 | <ref name="Streetman" /> |- | [[ヒ化アルミニウム]] | AlAs | 2.16 | <ref name="Streetman" /> |- | [[アンチモン化アルミニウム]] | AlSb | 1.6 | <ref name="Streetman" /> |- | [[窒化アルミニウム]] | AlN | 6.3 | |- | [[ダイアモンド]] | C | 5.5 | |- | [[リン化ガリウム]] | GaP | 2.26 | <ref name="Streetman" /> |- | [[ヒ化ガリウム]] | GaAs | 1.43 | <ref name="Streetman" /> |- | [[窒化ガリウム]] | GaN | 3.4 | <ref name="Streetman" /> |- | [[酸化ガリウム]] | β-Ga<sub>2</sub>O<sub>3</sub> | 4.5~4.9 | |- | [[硫化ガリウム]] | GaS | 2.5 | |- | [[アンチモン化ガリウム]] | GaSb | 0.7 | <ref name="Streetman" /> |- | [[窒化インジウム]] | InN | 0.7 | <ref name="Wu">{{cite journal|doi=10.1063/1.1482786|title=Unusual properties of the fundamental band gap of InN|year=2002|last1=Wu|first1=J.|first2=W.|first3=K. 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CD (曖昧さ回避)
CD、Cd、cd、ČD(シーディー)
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CD、Cd、cd、ČD(シーディー)
'''CD'''、'''Cd'''、'''cd'''、'''ČD'''(シーディー) == CD == * [[コンパクトディスク]] (compact disc) ** [[CD-DA]] - 音楽CD ** [[CD-ROM]] ** [[8センチCD]] - 小型ディスク * [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]における路線記号。 ** [[銚子電気鉄道線]] ('''C'''hōshi '''D'''entetsu) ** [[東海旅客鉄道|JR]][[飯田線]] ('''C'''entral) * carrier detect - [[モデム]] ([[RS-232|RS-232C]]) における[[搬送波|キャリア]]検出信号線。DCDとも言う。 * [[現金自動預け払い機|現金自動支払機]] (cash dispenser) * [[譲渡性預金]] ((negotiable) certificate of deposit) * [[チェックディジット]] (check digit) - 符号の入力誤りなどを検出するために元の符号に付加される数字 * [[円偏光二色性]] (circular dichroism) * [[CD分類]] (cluster of differentiation) - [[モノクローナル抗体]]の分類 * [[ジュネーブ軍縮会議]] (Conference on Disarmament) * [[継続的デリバリー]] (Continuous Delivery) * [[継続的デプロイ]] (Continuous Deployment) * [[掃天星表]]のうち、コルドバ掃天星表(Cordoba Durchmusterung、CoDとも)、ケープ写真掃天星表(Cape Photographic Durchmusterung、CPとも)の略称。 * [[クリエイティブ・ディレクター]](creative director) * [[クローン病]] (Crohn's disease) * [[行為障害]] (conduct disorder) * [[異性装]] (cross-dresser) * [[顧客感動]] (Customer Delight) * [[シクロデキストリン]] (cyclodextrin) - 環状につながった[[オリゴ糖]]。CyDとも * [[欧州共同体意匠]] (Community Design) *チャッキダンパー(Chuck Damper)空調[[ダクト]]に取り付け空気の逆流を防止する === 人名 === * [[クリス・ドネルス]] (Chris Donnels) - [[大阪近鉄バファローズ]]、[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]などに在籍した[[プロ野球選手]]の1996年・1998年の[[登録名]]『'''C・D'''』。 * [[クリスチャン・ディオール]] (Christian Dior) === 商品名・製品名 === * [[ホンダ・アコード]] - [[ホンダ・アコード#5代目 CD3/4/5/6型(1993-1997年)|5代目]]の車両型式(CD#) * [[ホンダ・CD]] - [[本田技研工業]]が製造販売した[[オートバイ]]のシリーズ[[商標]] * [[トヨタ・CDエンジン]] * [[日産・CDエンジン]] - 上のCDエンジンとは異なる === その他の固有名詞 === * [[コンゴ民主共和国]]の[[国名コード]] * [[中日ドラゴンズ]] (Chunichi Dragons) == CDまたはcd == * [[cd (UNIX)|<code>cd</code> (UNIX)]] - [[Unix系]]の[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]で、カレント[[ディレクトリ]]を切り替える。'''c'''hange '''d'''irectoryの略。 ** [[MS-DOS]]にも同様のコマンドが用意され、なおかつchdirという[[エイリアス]](別名)も用意されている。UNIXコマンドと異なる点として引数なしで実行すると作業フォルダ([[カレントディレクトリ]], '''c'''urrent '''d'''irectory)を表示する。この機能はUNIXコマンドにおける[[pwd]]に相当する。 * [[ローマ数字]]で[[400]] == Cd == * [[カドミウム]]の[[元素記号]] * [[抗力係数]]。Cd値。(drag coefficient) == cd == * [[カンデラ]]。[[光度 (光学)|光度]]の単位。 * [[.cd]] - コンゴ民主共和国の[[国別ドメイン]] == ČD == * [[チェコ鉄道]](České dráhy)の略称。 <!--==関連項目== *[[特別:Prefixindex/CD|CDで始まる記事の一覧]] *[[特別:Prefixindex/Cd|Cdで始まる記事の一覧]] --> {{aimai}}
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チャールズ・M・シュルツ
チャールズ・モンロー・シュルツ(Charles Monroe Schulz、1922年11月26日 - 2000年2月12日)は、アメリカ合衆国の漫画家。代表作である『ピーナッツ』でよく知られている。 シュルツは貧しいドイツ系の移民で理髪師だった父・カールと、ノルウェー系の移民だった母・ディナの一人息子としてミネソタ州ミネアポリスに生まれ、セントポールで育った。生後2日後に叔父から、当時の人気漫画『バーニーグーグル』に登場する馬の「スパークプラグ」にちなんで「スパーキー」という渾名をつけられる。これは後にシュルツの初期のペンネームとして使われている。自分の理髪店を開店したカールは新聞の漫画に夢中で、これがシュルツに大きな影響を与えた。 小さい頃から絵の才能に恵まれ、幼稚園の最初の日にシュルツの絵を見た先生から「あなたは画家になるかもしれないわ」と言われたことがシュルツの心に大きく響いたという。 内気な性格だったが勉強は良くできて、小学校時代に2学年飛び級している。シュルツのインタビューによれば、この頃に年上で体格も大きいクラスメイトに仲間はずれにされた経験が、将来のチャーリー・ブラウンの“誕生”に繋がったという。またシュルツはスポーツも大好きで、漫画家という夢の他に世界的に有名なアマチュアゴルファーになりたいという夢も持っていた。 シュルツが13歳の時に飼った雑種の犬の「スパイク」はある程度人間の言葉を理解しているとしか思えないような行動をとったり、かみそりを食べてしまうという変な犬で、後にスヌーピーの原型になった(「スパイク」という名はスヌーピーの兄弟の名として使われている)。この犬を描いた絵が新聞に掲載され、これが初めて印刷されたシュルツの漫画となった。 高校三年生の時に「アート・インストラクション・スクール」という通信制の学校に入学する。父のカールは理髪店の経営に苦しみながらもシュルツのために学費を払い続けていた。 高校卒業後に雑誌へ漫画を投稿し続けるが上手くいかず、さらに1943年2月に母のディナが癌で亡くなり、シュルツは失意のままアメリカ軍に入隊した。その頃から内気だったシュルツに負けず嫌いな性格が芽生え始め、その2年後に第二次世界大戦で戦うためヨーロッパへ出兵し、二等軍曹として重機関銃分隊を指揮し大戦末期にドイツ軍と戦った。そこでの経験は後の作品に影響を与えている。1945年に軍を去った後はアート・インストラクション・スクールに就職。そこでの同僚だったチャーリー・ブラウンの名は後に『ピーナッツ』の主人公の名として使われることになった。 シュルツは学校で働きながら積極的に投稿を続けた結果、1947年に作者の地元の新聞に『ピーナッツ』の原型となった『リル・フォークス』(英語)が掲載された。そして漫画配給大手のユナイテッド・フィーチャー・シンジケーツ(現:Andrews McMeel Syndication)への投稿がきっかけで、1950年10月2日から『ピーナッツ』(Peanutsは「困った人たち」という意味)の連載が全米8紙で始まることとなった。 『ピーナッツ』は子どものダメ、できない、困ったという心の悩み、葛藤をどう乗り越えるかを一貫したテーマとし、それは登場人物が頻繁に発する「Good grief」(やれやれ、困った、お手上げだよ)という台詞にも現れている。シュルツははじめこのタイトルが不満だったという。というのも、当初シュルツはタイトルを『Good Ol' Charlie Brown』もしくは『Charlie Brown』というものにしたかったようだが、エージェントであるユナイテッド・フィーチャー社によって勝手にタイトルを『ピーナッツ』にされたからである。 そのころシュルツは同僚のドナ・メイ・ジョンソンに生まれて初めて恋心というものを抱くが、お互いの家の宗教の違いから周囲の反対を受け、最終的には失恋と言う形になった。彼女の面影は『ピーナッツ』の中で主人公のチャーリー・ブラウンが恋心を抱く「赤毛の女の子」の原型となった。失恋の痛みの中、シュルツは同僚の妹だったジョイス・ハルバーソンと親しくなり、1951年4月に結婚した。このころ父親のカールも再婚している。 『ピーナッツ』の人気は次第に高まり、コダック社やフォード社がこのキャラクターを使用するまでになった。『ピーナッツ』はテレビアニメ化されエミー賞やピーボディ賞を受賞した。シュルツはアニメ化作品の多くで脚本を担当した。更にシュルツは、アメリカの漫画家にとって最高の栄誉であるリューベン賞(英語版)を受賞した。 そんな中で、シュルツを支え続けてきた父のカールが1966年に死去した。シュルツは悲しみに暮れるも、1967年にはミュージカル『きみはいい人 チャーリー・ブラウン』が上演され、タイム誌やライフ誌の表紙を『ピーナッツ』のキャラクターが飾り、さらには1968年にスヌーピーがアメリカ航空宇宙局の有人飛行計画のマスコットとなり、1969年スヌーピー(のぬいぐるみ)はアポロ10号に乗って月に向かって飛び立ち(このとき指令船と月着陸船の名前に採用されたのは「チャーリー・ブラウン」と「スヌーピー」だった)、『ピーナッツ』の人気はますます高まっていった。 1972年にジョイスと性格の不一致が原因となり離婚、翌1973年、ジーニー・フォーサイスと再婚した。 1980年、アーティストのトム・エバハート(英語版)と意気投合し、トムは唯一の『ピーナッツ』のファインアーティストとして認められた。 1981年、心臓に異変を感じたシュルツは心臓のバイパス手術を受けることになった。手術は無事に成功し、看護師に頼まれて病院の壁にスヌーピーの絵を描いて退院した。 1984年には『ピーナッツ』の掲載紙が2000誌に到達し、ギネスブックに認定された。1986年には漫画家の殿堂入りを果たし、1990年にはフランスの芸術勲章を受章、またイタリア文化大臣から功労賞が贈られた。ルーヴル美術館などでは『ピーナッツ』の展覧会が開かれ、1996年にはハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにもシュルツの名が登録された。 1999年12月、結腸癌を宣告されていたシュルツは引退を宣言し、引退までの残り1ヶ月程度の原稿を描き上げた。そして2000年2月12日の夜21:30ごろ、77歳でこの世を去った。それは奇しくも『ピーナッツ』最終回が掲載される前日のことだった。翌朝の新聞にはその予め用意されたシュルツから読者への感謝とキャラクターたちへの愛情が語られた最終回とともに、シュルツの訃報が伝えられることになった。 30年以上に渡って在住したカリフォルニア州サンタローザには、シュルツの名前を冠した「チャールズ M. シュルツ・ソノマカウンティ空港」(Charles M. Schulz - Sonoma County Airport)がある。 シュルツの死去後の2000年6月には、アメリカ合衆国議会から民間人に授与する最高位の勲章である議会金章が贈られた。 小惑星(3524) Schulzはシュルツの名前にちなんで命名された。
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チャールズ・モンロー・シュルツは、アメリカ合衆国の漫画家。代表作である『ピーナッツ』でよく知られている。
{{Expand English|Charles M. Schulz|date=2018-02}}{{Infobox 漫画家 |名前 = チャールズ・M・シュルツ</span><br />Charles M. Schulz |画像 =Charles Schulz NYWTS.jpg |画像サイズ =250px |脚注 = [[1956年]]撮影 |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1922|11|26|Died}} |生地 = {{USA}}・[[ミネソタ州]][[ミネアポリス]] |没年 = {{死亡年月日と没年齢|1922|11|26|2000|2|12}} |没地 = {{USA}}・[[カリフォルニア州]][[サンタローザ (カリフォルニア州)|サンタローザ]] |国籍 = {{USA}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1947年]] - [[1999年]] |ジャンル = |代表作 = 『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』 |受賞 = {{仮リンク|リューベン賞|en|National Cartoonists Society#Reuben Award}} |サイン = Charles M. 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Schulz Museum | Official Website]{{en icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆるつ ちやあるす M}} [[Category:ピーナッツ (漫画)|+]] [[Category:アメリカ合衆国の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]] [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]] [[Category:アイズナー賞殿堂入りの人物]] [[Category:ドイツ系アメリカ人]] [[Category:ノルウェー系アメリカ人]] [[Category:ミネアポリス出身の人物]] [[Category:1922年生]] [[Category:2000年没]]
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フェルミエネルギー
量子力学や物性物理学においてフェルミエネルギー (Fermi energy)あるいはフェルミ準位(Fermi level)とは、相互作用のないフェルミ粒子系(理想フェルミ気体)の絶対零度 T = 0 {\displaystyle T=0} での化学ポテンシャル(または電気化学ポテンシャル)μのことであり、通常 E F {\displaystyle E_{\mathrm {F} }} と表される。 フェルミエネルギーは量子統計力学、物性物理学、半導体物理学 などの分野で用いられる。 フェルミエネルギーとフェルミ準位は通常区別される. 半導体工学などでは、有限温度の理想フェルミ気体の化学ポテンシャルについても「フェルミエネルギー(またはフェルミ準位)」と呼ぶこともある。 また「フェルミエネルギー」と「フェルミ準位」は同義語として扱うことが多いが、理想フェルミ気体の化学ポテンシャルを、絶対零度では「フェルミエネルギー」、有限温度では「フェルミ準位」と区別して呼ぶこともある。このように定義した場合、絶対零度でフェルミ準位とフェルミエネルギーは等しくなる。 熱力学的平衡にある理想フェルミ気体において、エネルギーが E である準位を占有するフェルミ粒子の個数の統計的期待値は、次のフェルミ分布で表される。 ここで T は温度、k はボルツマン定数、 μ は化学ポテンシャルである。分布のプロットを右図に示す。f が 1 に近づくほど、この状態が占有される確率は高くなる。f が 0 に近づくほど、この状態が空になる確率は高くなる。 絶対零度(基底状態)では、フェルミ分布は階段関数になり、その不連続点がフェルミエネルギーである。 フェルミエネルギー EF にエネルギー準位が存在する場合、 EF は絶対零度での占有数の統計的期待値が1/2になるエネルギー準位に等しく、「絶対零度での電子の占有確率が1/2になるエネルギー」とも言われる。フェルミ準位に状態があれば (ε = μ)、その状態は50%の占有される確率を持つ。 またフェルミエネルギー EF にエネルギー準位が存在しない場合、フェルミエネルギーより高いエネルギー準位の絶対零度での占有数が0であることがわかる。よってフェルミエネルギーは「絶対零度におけるフェルミ粒子によって占められた準位のうちで最高の準位のエネルギー」とも言える。ただしフェルミエネルギーに準位が存在しない場合、最も高いエネルギーを持つ粒子のエネルギーとフェルミエネルギーは一致しなくなる。半導体や絶縁体の場合がこれに相当する。 一辺がLである箱の中にN個のフェルミ粒子(スピン1/2)があるときを考える。 この場合を表すモデルは、1次元の無限に深い長さLの井戸型ポテンシャルである。 この井戸型ポテンシャル中のフェルミ粒子のエネルギー準位は量子数nでラベル付けされる。 ここで E 0 {\displaystyle E_{0}} はフェルミ粒子が箱から受けるポテンシャルエネルギーである。 それぞれのエネルギー準位 E n {\displaystyle E_{n}} でスピン1/2(上向きスピン)と−1/2(下向きスピン)という異なる2つの状態が可能であるため、2つの粒子が同じエネルギー E n {\displaystyle E_{n}} を占有することができる。しかしパウリの排他原理により、3つ以上の粒子は同じエネルギー E n {\displaystyle E_{n}} を占有できない。絶対零度(基底状態)では全エネルギーが最低である電子配置をとり、n = N/2までの全てのエネルギーは占有され、n = N/2よりエネルギーが高い準位は全て空である。 フェルミエネルギーの基準を E 0 {\displaystyle E_{0}} となるように定義すると、奇数個の電子(N − 1)または偶数個の電子(N)のフェルミエネルギーは次のように与えられる。 ここで一辺が長さLである3次元立方体の箱を考える(無限に深い井戸型ポテンシャルを参照)。 これは金属中の電子を記述するのに良いモデルとなる。 ここで状態は3つの量子数 nx, ny,nzでラベル付けされている。 1粒子エネルギーは、 nx, ny, nzは正の整数、mはフェルミ粒子(この場合は電子)の質量である。同じエネルギーをもつ複数の状態がある(たとえば E 211 = E 121 = E 112 {\displaystyle 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固体のバンド理論では、電子のエネルギー固有状態はバンド構造を形成する。結晶中の電子のエネルギーはバンド構造を形成する。電子はバンド構造中の1粒子エネルギー固有状態 ε を占有する。この1粒子描像は近似ではあるが、電子のふるまいの理解を容易にし、正しく適用すれば一般的に正しい結果を与える。 物質のバンド構造中の EF の位置は、電子のふるまいを決定する上で重要となる。フェルミ準位は現実のエネルギー準位に必ずしも対応しておらず(絶縁体でのフェルミ準位はバンドギャップの中にある)、バンド構造の存在も必要としない。 金属中の自由電子模型では、金属中の電子はフェルミ気体を作ると考えることができる。金属のフェルミエネルギーは、絶対零度の金属中の電子をバンドの底から詰めていき、その数が系の全電子数になったところの電子のエネルギーである。 金属や半金属、縮退半導体では、 EF は非局在バンドの中にある。 EF 近くの多数の状態は熱的に活性で、容易に電流を運ぶ。 金属の伝導電子の数密度 N / V {\displaystyle N/V} はおよそ10から10 electrons/mであり、通常の固体物質での原子の典型的な密度でもある。 この数密度からフェルミエネルギーを求めると、次のオーダーになることがわかる。 半導体や絶縁体の場合、フェルミエネルギーが伝導帯と価電子帯の間のバンドギャップの中にあり、エネルギー準位が存在しない。よって金属などでは成り立っていた「フェルミエネルギー = フェルミ粒子が占有している最も高いエネルギー準位」は、半導体・絶縁体では成り立たない。またフェルミエネルギーでのフェルミ分布関数の値1/2に、占有数の期待値という意味は無い。 真性半導体のフェルミエネルギー E i {\displaystyle E_{\mathrm {i} }} は、伝導帯のエネルギー E C {\displaystyle E_{\mathrm {C} }} 、価電子帯のエネルギー E V {\displaystyle E_{\mathrm {V} }} 、有効状態密度 N C {\displaystyle N_{\mathrm {C} }} 、 N V {\displaystyle N_{\mathrm {V} }} を用いて次のように表される。 この第2項目は小さく、バンドギャップのほぼ中央に位置する。 非縮退半導体のフェルミエネルギーEFは、真性キャリア密度 n i {\displaystyle n_{\mathrm {i} }} 、伝導帯の電子密度 n {\displaystyle n} 、価電子帯の正孔密度 p {\displaystyle p} を用いて次のように表せる。 ドープ量が多いほど、フェルミエネルギーの位置はバンド端の近くになる。 絶縁体では、 EF は大きなバンドギャップの中にあり、電荷担体の存在しうる(有限の状態密度を持つ)バンドから遠く離れている。 半導体や半金属においてバンド構造に対する EF の位置は、ドーピングやゲーティングによってかなりの程度コントロールすることができる。これらのコントロールは電極によって固定されている EF を変えるわけではなく、全体のバンド構造を上下している(時にはバンド構造の形も変える)。半導体のフェルミ準位についての詳細は、 などを参照。 このフェルミエネルギーの定義を使うと、様々な関連する量が有用になりえる。 フェルミ温度は次のように定義される。 フェルミ温度は、フェルミ統計に関連する量子的効果に熱的効果が匹敵する場合の温度として考えることができる。 金属のフェルミ温度は室温より何桁も大きい。 その他の量としてフェルミ運動量とフェルミ速度がある。 ここで m e {\displaystyle m_{e}} は電子の質量である。 これらの量はそれぞれ、フェルミ面でのフェルミ粒子の運動量と群速度である。 フェルミ運動量は p F = ħ k F {\displaystyle p_{F}=\hbar k_{F}} として書くこともできる。 ここで k F {\displaystyle k_{F}} はフェルミ球の半径であり、フェルミ波数ベクトルと呼ばれる。 これらの量は、フェルミ面が球でない場合にはwell-definedではない。 上述のような2次の分散関係の場合は を参照。 バンド端のエネルギー εC に対して測定された電子エネルギー準位を示すために記号 E を使うこととすると、一般的に E = ε – εC を得る。また、パラメータ ζ をバンド端を基準としたフェルミ準位 ζ = μ – εC と定義する。 すると、フェルミ分布関数は次のように書ける。 金属のバンド理論は、その基礎にある熱力学と統計力学に多大な注意を払ったゾンマーフェルトが1927年に発展させた。紛らわしいがいくつかの文脈ではバンド基準量 ζ は「フェルミ準位」「化学ポテンシャル」「電気化学ポテンシャル」と呼ばれ、大域的に基準を決めたフェルミ準位の曖昧さにつながる。この記事では ζ を示すために「伝導帯基準フェルミ準位」や「内部化学ポテンシャル」という言葉を使うことにする。 ζ は活性な電荷キャリアの数とその運動エネルギーと直接的に関係している。よってそれらは(電気伝導率など)物質の局所的特性に直接関与している。このため単一で均一な導電性物質での電子の特性に集中するとき、ζ の値に焦点を当てるのが一般的である。自由電子のエネルギー状態との類似性より、状態の E はその状態の運動エネルギーであり、εC はポテンシャルエネルギーである。この点を考慮して、パラメータ ζ は「フェルミ運動エネルギー」と名前をつけることもできる。 μ とは違い、熱平衡状態においてもパラメータ ζ は物質中で一定ではない。εC は物質の質や不純物/ドーパントのような因子によって変化するため、物質中の位置によって μ は異なる。半導体や半金属の表面近くでは、電界効果トランジスタのように、ζ は外部から加えられた電場によって強く支配される。マルチバンド材料では、ζ は単一の場所でも複数の値をとり得る。たとえばアルミニウム金属片では、フェルミ準位を横切る2つの伝導バンドが存在する(その他の材料では更に多くバンドが存在する)。各バンドに対応してそれぞれ異なるバンド端エネルギー εC と異なる ζ が存在する。 絶対零度での ζ の値は広くフェルミエネルギーと呼ばれており、ζ0 と書くことがある。しかし、紛らわしいことに「フェルミエネルギー」という言葉が絶対零度でないときの ζ を示すときに使われることもある。 フェルミ準位の差は電圧計で簡単に測定することができる。 電流は静電ポテンシャル(ガルバニ電位)の差が駆動力であると言われることがあるが、厳密には正しくない。その反例として、pn接合などのマルチ材料デバイスは平衡において内部静電ポテンシャル差を持っているが正味の電流は生じず、電圧計を接続しても 0 V 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は大きなバンドギャップの中にあり、電荷担体の存在しうる(有限の状態密度を持つ)バンドから遠く離れている。", "title": "バンド構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "半導体や半金属においてバンド構造に対する EF の位置は、ドーピングやゲーティングによってかなりの程度コントロールすることができる。これらのコントロールは電極によって固定されている EF を変えるわけではなく、全体のバンド構造を上下している(時にはバンド構造の形も変える)。半導体のフェルミ準位についての詳細は、 などを参照。", "title": "バンド構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このフェルミエネルギーの定義を使うと、様々な関連する量が有用になりえる。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "フェルミ温度は次のように定義される。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "フェルミ温度は、フェルミ統計に関連する量子的効果に熱的効果が匹敵する場合の温度として考えることができる。 金属のフェルミ温度は室温より何桁も大きい。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その他の量としてフェルミ運動量とフェルミ速度がある。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ここで m e {\\displaystyle m_{e}} は電子の質量である。 これらの量はそれぞれ、フェルミ面でのフェルミ粒子の運動量と群速度である。 フェルミ運動量は p F = ħ k F {\\displaystyle p_{F}=\\hbar k_{F}} として書くこともできる。 ここで k F {\\displaystyle k_{F}} はフェルミ球の半径であり、フェルミ波数ベクトルと呼ばれる。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これらの量は、フェルミ面が球でない場合にはwell-definedではない。 上述のような2次の分散関係の場合は を参照。", "title": "関連する量" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "バンド端のエネルギー εC に対して測定された電子エネルギー準位を示すために記号 E を使うこととすると、一般的に E = ε – εC を得る。また、パラメータ ζ をバンド端を基準としたフェルミ準位 ζ = μ – εC と定義する。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "すると、フェルミ分布関数は次のように書ける。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "金属のバンド理論は、その基礎にある熱力学と統計力学に多大な注意を払ったゾンマーフェルトが1927年に発展させた。紛らわしいがいくつかの文脈ではバンド基準量 ζ は「フェルミ準位」「化学ポテンシャル」「電気化学ポテンシャル」と呼ばれ、大域的に基準を決めたフェルミ準位の曖昧さにつながる。この記事では ζ を示すために「伝導帯基準フェルミ準位」や「内部化学ポテンシャル」という言葉を使うことにする。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ζ は活性な電荷キャリアの数とその運動エネルギーと直接的に関係している。よってそれらは(電気伝導率など)物質の局所的特性に直接関与している。このため単一で均一な導電性物質での電子の特性に集中するとき、ζ の値に焦点を当てるのが一般的である。自由電子のエネルギー状態との類似性より、状態の E はその状態の運動エネルギーであり、εC はポテンシャルエネルギーである。この点を考慮して、パラメータ ζ は「フェルミ運動エネルギー」と名前をつけることもできる。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "μ とは違い、熱平衡状態においてもパラメータ ζ は物質中で一定ではない。εC は物質の質や不純物/ドーパントのような因子によって変化するため、物質中の位置によって μ は異なる。半導体や半金属の表面近くでは、電界効果トランジスタのように、ζ は外部から加えられた電場によって強く支配される。マルチバンド材料では、ζ は単一の場所でも複数の値をとり得る。たとえばアルミニウム金属片では、フェルミ準位を横切る2つの伝導バンドが存在する(その他の材料では更に多くバンドが存在する)。各バンドに対応してそれぞれ異なるバンド端エネルギー εC と異なる ζ が存在する。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "絶対零度での ζ の値は広くフェルミエネルギーと呼ばれており、ζ0 と書くことがある。しかし、紛らわしいことに「フェルミエネルギー」という言葉が絶対零度でないときの ζ を示すときに使われることもある。", "title": "局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ζ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "フェルミ準位の差は電圧計で簡単に測定することができる。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "電流は静電ポテンシャル(ガルバニ電位)の差が駆動力であると言われることがあるが、厳密には正しくない。その反例として、pn接合などのマルチ材料デバイスは平衡において内部静電ポテンシャル差を持っているが正味の電流は生じず、電圧計を接続しても 0 V である。明らかに静電ポテンシャルは物質中の電荷の流れを決める因子の一つに過ぎず、パウリ反発、キャリア濃度勾配、電磁誘導、熱的効果なども重要な役割を果たしている。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "実際、電子回路で測定される「電圧」と呼ばれる量は、電子の化学ポテンシャル(フェルミ準位)と単純な関係にある。電圧計のリード線が回路中の2点に接続されたときに表示される電圧は、単位電荷が一方の点からもう一方の点に移動したときに移動する「全」仕事の測定値である。単純なワイヤーが電圧の異なる2点間に接続されたとき(短絡が起きる)、電圧が正から負の方向に電流が流れ、仕事が熱に変換される。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "物質のフェルミ準位は、電子をつけ加えるのに必要な仕事、または電子を取り除いたときに得られる仕事を表す。よって電子回路中の2点 A, B 間の測定される電圧差 VA − VB は、フェルミ準位で対応する化学ポテンシャル差 μA − μB と次の式で厳密に関係づけられる。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ここで e は電気素量。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "上記の議論から、電子は単純な経路が与えられたとき μ が高い点(低電圧)から低い点(高電圧)に移動することがわかる。この電子の流れは、低い μ を(帯電またはその他の反発効果により)増加させ、同様に高い μ を低下させる。その結果、2つの物質の μ は同じ値に落ち着く。このことは、次の電子回路の平衡状態に関する重要な事実を与える。", "title": "フェルミ準位と電圧" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "このことは、平衡状態では(電圧計で測定される)2点間の電圧はゼロであることも意味している。ここでの熱力学的平衡は、回路が内部で接続されており、バッテリーやその他の電源を含んでおらず、温度の変動も無い必要があることに注意。", "title": "フェルミ準位と電圧" } ]
量子力学や物性物理学においてフェルミエネルギーあるいはフェルミ準位とは、相互作用のないフェルミ粒子系(理想フェルミ気体)の絶対零度 T = 0 での化学ポテンシャル(または電気化学ポテンシャル)µのことであり、通常 E F と表される。 フェルミエネルギーは量子統計力学、物性物理学、半導体物理学 などの分野で用いられる。 フェルミエネルギーとフェルミ準位は通常区別される.
[[量子力学]]や[[物性物理学]]において'''フェルミエネルギー''' (Fermi energy)あるいは'''フェルミ準位'''(Fermi level)とは、相互作用のない[[フェルミ粒子]]系(理想[[フェルミ気体]])の[[絶対零度]]<math>T=0</math>での[[化学ポテンシャル]](または[[電気化学ポテンシャル]]){{Mvar|µ}}のことであり、通常<math>E_{\mathrm{F}}</math>と表される<ref>{{cite book |title=Introduction to Solid State Physics, 7th Edition |last1=Kittel |first1=Charles |authorlink1=Charles Kittel |year= <!--replace this comment with the publication year--> |publisher=Wiley }}</ref>。 :<math>E_{\mathrm{F}} \equiv \mu(T=0)</math> フェルミエネルギーは量子統計力学、物性物理学、半導体物理学<ref>例:[https://books.google.co.jp/books?id=n0rf9_2ckeYC&pg=PA49&redir_esc=y&hl=ja ''Electronics (fundamentals And Applications)''] by D. Chattopadhyay, [https://books.google.co.jp/books?id=lmg13dHPKg8C&pg=PA113&redir_esc=y&hl=ja ''Semiconductor Physics and Applications''] by Balkanski and Wallis.</ref> などの分野で用いられる。 フェルミエネルギーとフェルミ準位は通常区別される. == 呼び方について == 半導体工学などでは、有限温度の理想フェルミ気体の化学ポテンシャルについても「フェルミエネルギー(またはフェルミ準位)」と呼ぶこともある。 また「フェルミエネルギー」と「フェルミ準位」は同義語として扱うことが多いが、理想フェルミ気体の化学ポテンシャルを、絶対零度では「フェルミエネルギー」、有限温度では「フェルミ準位」と区別して呼ぶこともある。このように定義した場合、[[絶対零度]]でフェルミ準位と'''フェルミエネルギー'''は等しくなる。 == フェルミエネルギーでの占有数 == [[File:Fermi.gif|thumb|250px|50&nbsp;K&nbsp;≤&nbsp;''T''&nbsp;≤&nbsp;375&nbsp;Kでの様々な温度における''μ''&nbsp;=&nbsp;0.55&nbsp;eVでのフェルミ分布 <math>f(E) </math> vs. エネルギー <math>E </math>]] [[熱力学的平衡]]にある理想フェルミ気体において、エネルギーが {{Mvar|E}} である準位を占有するフェルミ粒子の個数の統計的期待値は、次の[[フェルミ分布]]で表される<ref name=Kittel1980>{{cite book | last = Kittel | first = Charles | authorlink = Charles Kittel |author2=[[Herbert Kroemer]] | title = Thermal Physics (2nd Edition) | publisher = W. H. Freeman | date = 1980-01-15 | location = | page = 357 | url = https://books.google.com/books?id=c0R79nyOoNMC&pg=PA357| doi = | id = | isbn = 978-0-7167-1088-2 }}</ref>。 :<math>f(E) = \frac{1}{\mathrm{e}^{(E-\mu)/kT} +1}</math> ここで {{Mvar|T}} は[[温度]]、{{Mvar|k}} は[[ボルツマン定数]]、 {{Mvar|μ}} は[[化学ポテンシャル]]である。分布のプロットを右図に示す。{{Mvar|f}} が 1 に近づくほど、この状態が占有される確率は高くなる。{{Mvar|f}} が 0 に近づくほど、この状態が空になる確率は高くなる。 絶対零度(基底状態)では、フェルミ分布は階段関数になり、その不連続点がフェルミエネルギーである。 :<math>\lim_{T\to\ 0}f(E) = \begin{cases} 0 & (E > \mu) \\ 1/2 & (E = \mu) \\ 1 & (E < \mu) \\ \end{cases}</math> '''フェルミエネルギー {{Mvar|E<sub>F</sub>}} にエネルギー準位が存在する場合'''、 {{Mvar|E<sub>F</sub>}} は絶対零度での占有数の統計的期待値が1/2になるエネルギー準位に等しく、「絶対零度での電子の占有確率が1/2になるエネルギー」とも言われる<ref name="Taur_Ning_VLSI">[http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621085813.html タウア・ニン 最新VLSIの基礎], Yuan Taur・Tak H. Ning・芝原健太郎・[[宮本恭幸]]・内田建, [http://pub.maruzen.co.jp/index.html 丸善出版], 2013年1月.</ref>。フェルミ準位に状態があれば ({{Math|1=''ε'' = ''µ''}})、その状態は50%の占有される確率を持つ。 またフェルミエネルギー {{Mvar|E<sub>F</sub>}} にエネルギー準位が存在しない場合、フェルミエネルギーより高いエネルギー準位の絶対零度での占有数が0であることがわかる。よってフェルミエネルギーは「絶対零度におけるフェルミ粒子によって占められた準位のうちで最高の準位の[[エネルギー]]」とも言える<ref name="Kittel_Phys.">[http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/4621076566.html キッテル 固体物理学入門], Charles Kittel・宇野良清・津屋昇・新関駒二郎・森田章・山下次郎, [http://pub.maruzen.co.jp/index.html 丸善出版], 2005年12月.</ref>。ただしフェルミエネルギーに準位が存在しない場合、最も高いエネルギーを持つ粒子のエネルギーとフェルミエネルギーは一致しなくなる。半導体や絶縁体の場合がこれに相当する。 == 井戸型ポテンシャル中の自由電子 == ===1次元の場合=== 一辺が''L''である箱の中にN個のフェルミ粒子([[スピン1/2]])があるときを考える。 この場合を表すモデルは、1次元の無限に深い長さ''L''の[[井戸型ポテンシャル]]である。 この井戸型ポテンシャル中のフェルミ粒子のエネルギー準位は量子数''n''でラベル付けされる。 :<math>E_n = E_0 + \frac{\hbar^2 \pi^2}{2 m L^2} n^2 </math> ここで<math>E_0</math>はフェルミ粒子が箱から受けるポテンシャルエネルギーである。 それぞれのエネルギー準位<math>E_n</math>でスピン1/2(上向きスピン)と−1/2(下向きスピン)という異なる2つの状態が可能であるため、2つの粒子が同じエネルギー<math>E_n</math>を占有することができる。しかし[[パウリの排他原理]]により、3つ以上の粒子は同じエネルギー<math>E_n</math>を占有できない。絶対零度(基底状態)では全エネルギーが最低である電子配置をとり、''n''&nbsp;=&nbsp;''N''/2までの全てのエネルギーは占有され、''n''&nbsp;=&nbsp;''N''/2よりエネルギーが高い準位は全て空である。 フェルミエネルギーの基準を<math>E_0</math>となるように定義すると、奇数個の電子(''N''&nbsp;−&nbsp;1)または偶数個の電子(''N'')のフェルミエネルギーは次のように与えられる。 :<math>E_{\mathrm{F}} = E_{N/2}-E_0 = \frac{\hbar^2 \pi^2}{2 m L^2} (N/2)^2</math> ===3次元の場合=== ここで一辺が長さ''L''である3次元立方体の箱を考える(無限に深い[[井戸型ポテンシャル]]を参照)。 これは金属中の電子を記述するのに良いモデルとなる。 ここで状態は3つの量子数 ''n''<sub>''x''</sub>, ''n''<sub>''y''</sub>,''n''<sub>''z''</sub>でラベル付けされている。 1粒子エネルギーは、 :<math>E_{n_x,n_y,n_z} = E_0 + \frac{\hbar^2 \pi^2}{2m L^2} \left( n_x^2 + n_y^2 + n_z^2\right) \,</math> ''n''<sub>''x''</sub>, ''n''<sub>''y''</sub>, ''n''<sub>''z''</sub>は正の整数、mはフェルミ粒子(この場合は電子)の質量である。同じエネルギーをもつ複数の状態がある(たとえば<math>E_{211}=E_{121}=E_{112}</math>)。''N''個の相互作用のないスピン1/2のフェルミ粒子をこの箱に入れる。このフェルミエネルギーを計算するために、''N''が大きい場合を見てみる。 ベクトル<math>\vec{n}=\{n_x,n_y,n_z\}</math>を導入すると、それぞれの量子状態はエネルギー :<math>E_{\vec{n}} = E_0 + \frac{\hbar^2 \pi^2}{2m L^2} |\vec{n}|^2 \,</math> をもつn空間の点に対応する。 <math> |\vec{n}|^2 </math>は通常のユークリッド長さの二乗<math> (\sqrt{n_x^2+n_y^2+n_z^2})^2 </math>を表す。 エネルギーが''E''<sub>''F''</sub>&nbsp;+ &nbsp;''E''<sub>0</sub>以下の状態の数は、 ''E''<sub>''F''</sub>&nbsp;+ &nbsp;''E''<sub>0</sub>が正であるn空間の領域での半径<math>|\vec{n}_F|</math>の球の中にある状態の数に等しい。 基底状態におけるこの数は、系のフェルミ粒子の数に等しい。 :<math>N =2\times\frac{1}{8}\times\frac{4}{3} \pi n_F^3 \,</math> [[Image:Fermi energy momentum.svg|thumb|最低エネルギーを占有する自由フェルミ粒子は[[運動量]]空間で球を作る。この球の表面は[[フェルミ面]]である。]] 2つのスピン状態があるため因子2がつき、全ての''n''が正である領域には球の1/8だけがあるため、因子1/8がつく。 よって :<math>n_{\mathrm{F}} = \left(\frac{3 N}{\pi}\right)^{1/3} </math> よってフェルミエネルギーは次式で与えられる。 :<math>E_{\mathrm{F}} = \frac{\hbar^2 \pi^2}{2m L^2} n_{\mathrm{F}}^2 = \frac{\hbar^2 \pi^2}{2m L^2} \left( \frac{3 N}{\pi} \right)^{2/3}</math> これから(''L''<sup>2</sup> を''V''<sup>2/3</sup>に置き換えると)フェルミエネルギーは体積あたりの[[粒子数]](個数密度)<math>N/V</math>で決まることがわかる。 ::{|cellpadding="2" style="border:2px solid #ccccff" |<math>E_{\mathrm{F}} = \frac{\hbar^2}{2m} \left( \frac{3 \pi^2 N}{V} \right)^{2/3}</math> |} <math>N</math>個のフェルミ粒子のフェルミ球の全エネルギーは次式で与えられる。 :<math>E_t = N E_0 + \int_0^N E_{\mathrm{F}} \, dN^\prime = \left(\frac{3}{5} E_{\mathrm{F}} + E_0\right)N</math> よって電子の平均エネルギーは次のように与えられる。 :<math> E_\mathrm{av} = E_0 + \frac{3}{5} E_{\mathrm{F}} </math> 3次元の[[等方的]]な場合のフェルミ面は、'''フェルミ球'''として知られる。 ===任意の次元の場合=== <math>d</math>次元の体積積分を使うと、状態密度は、 :<math>g(E)=d_j \int\frac{d^d\vec{k}}{(2\pi)^d/V}\delta\left(E-E_0-\frac{\hbar^2\vec{k}^2}{2m}\right)=V\frac{d\,m^{d/2}(E-E_0)^{d/2-1}}{(2\pi)^{d/2}\ \Gamma(d/2+1)\hbar^d} \frac{d_j}{2} </math> 粒子数を求めることにより、フェルミエネルギーを抽出できる。 :<math>n=\int_{E_0}^{E_0+E_{\mathrm{F}}}g(E) \, dE</math> よって : <math>E_{\mathrm{F}} = \frac{2\pi\hbar^2}{m}\left(\frac{1}{d_j}\Gamma\left(\frac{d}{2}+1\right)n\right)^{2/d}</math> ここで<math>d_j</math>は内部ヒルベルト空間の次元であり、スピン<math>\frac{1}{2}</math>の場合は2である。 == バンド構造 == [[File:Band filling diagram.svg|thumb|right|300px|[[熱力学的平衡]]状態にある様々な材料における電子状態の占有率を示した図。ここで、高さはエネルギーに対応し、横幅はその材料のそのエネルギーにおける[[状態密度]]に対応する。色の濃さは[[フェルミ・ディラック分布]]に従う(黒: 完全占有、白: 完全非占有)。[[金属]]と[[半金属]]ではフェルミ準位 {{Math|''E''<sub>F</sub>}} は少くとも一つのバンドの内部にある。[[絶縁体]]および[[半導体]]ではフェルミ準位は[[バンドギャップ]]中にある。ただし、半導体ではバンドがフェルミ準位の十分近くにあり、そのバンドを電子または[[正孔]]が熱占有する。]] 固体の[[バンド理論]]では、電子のエネルギー固有状態は[[バンド構造]]を形成する。[[結晶]]中の[[電子]]のエネルギーは[[バンド構造]]を形成する。電子はバンド構造中の1粒子エネルギー固有状態 ''{{Mvar|ε}}'' を占有する。この1粒子描像は近似ではあるが、電子のふるまいの理解を容易にし、正しく適用すれば一般的に正しい結果を与える。 物質のバンド構造中の {{Mvar|E<sub>F</sub>}} の位置は、電子のふるまいを決定する上で重要となる。フェルミ準位は現実のエネルギー準位に必ずしも対応しておらず(絶縁体でのフェルミ準位は[[バンドギャップ]]の中にある)、バンド構造の存在も必要としない。 ===金属中の電子=== 金属中の[[自由電子模型]]では、金属中の電子はフェルミ気体を作ると考えることができる。金属のフェルミエネルギーは、絶対零度の金属中の電子をバンドの底から詰めていき、その数が系の全電子数になったところの電子のエネルギーである。 金属や[[半金属]]、[[縮退半導体]]では、 {{Mvar|E<sub>F</sub>}} は非局在バンドの中にある。 {{Mvar|E<sub>F</sub>}} 近くの多数の状態は熱的に活性で、容易に電流を運ぶ。 金属の伝導電子の数密度<math>N/V</math>はおよそ10<sup>28</sup>から10<sup>29</sup> electrons/m<sup>3</sup>であり、通常の固体物質での原子の典型的な密度でもある。 この数密度からフェルミエネルギーを求めると、次のオーダーになることがわかる。 ::<math>E_{\mathrm{F}} = \frac{\hbar^2}{2m_{\mathrm{e}}} \left( 3 \pi^2 \ 10^{28 \ \sim \ 29} \ \mathrm{m}^{-3} \right)^{2/3} \approx 2 \ \sim \ 10 \ \mathrm{eV} </math> ===半導体・絶縁体中の電子=== [[半導体]]や[[絶縁体]]の場合、フェルミエネルギーが[[伝導帯]]と[[価電子帯]]の間の[[バンドギャップ]]の中にあり、エネルギー準位が存在しない。よって金属などでは成り立っていた「フェルミエネルギー = フェルミ粒子が占有している最も高いエネルギー準位」は、半導体・絶縁体では成り立たない。またフェルミエネルギーでのフェルミ分布関数の値1/2に、占有数の期待値という意味は無い。 [[真性半導体]]のフェルミエネルギー<math>E_{\mathrm{i}}</math>は、伝導帯のエネルギー<math>E_{\mathrm{C}}</math>、価電子帯のエネルギー<math>E_{\mathrm{V}}</math>、[[有効状態密度]]<math>N_{\mathrm{C}}</math>、<math>N_{\mathrm{V}}</math>を用いて次のように表される。 :<math>E_i= \frac{E_{\mathrm{C}}+E_{\mathrm{V}}}{2}+ \frac{1}{2} kT \ln \frac{N_{\mathrm{V}}}{N_{\mathrm{C}}}</math> この第2項目は小さく、バンドギャップのほぼ中央に位置する。 [[非縮退半導体]]のフェルミエネルギー{{Mvar|E<sub>F</sub>}}は、[[真性キャリア密度]]<math>n_{\mathrm{i}}</math>、伝導帯の電子密度<math>n</math>、価電子帯の正孔密度<math>p</math>を用いて次のように表せる<ref>{{Cite book|和書|author=B.L.アンダーソン|year=2012|title=半導体デバイスの基礎|publisher=丸善出版|id=ISBN 9784621061473|date=|volume=上巻(半導体物性)|author2=R.L.アンダーソン|translator=樺沢宇紀|ASIN=462106147X}}</ref>。 :<math>E_{\mathrm{F}} = E_{\mathrm{i}} + kT\ln \frac{n}{n_{\mathrm{i}}} = E_{\mathrm{i}}-kT \ln \frac{p}{n_{\mathrm{i}}}</math> ドープ量が多いほど、フェルミエネルギーの位置はバンド端の近くになる。 [[絶縁体]]では、 {{Mvar|E<sub>F</sub>}} は大きな[[バンドギャップ]]の中にあり、[[電荷担体]]の存在しうる(有限の[[状態密度]]を持つ)バンドから遠く離れている。 半導体や半金属においてバンド構造に対する {{Mvar|E<sub>F</sub>}} の位置は、ドーピングやゲーティングによってかなりの程度コントロールすることができる。これらのコントロールは電極によって固定されている {{Mvar|E<sub>F</sub>}} を変えるわけではなく、全体のバンド構造を上下している(時にはバンド構造の形も変える)。半導体のフェルミ準位についての詳細は、<ref>{{cite book | author=Sze, S. M. | title= Physics of Semiconductor Devices | publisher=Wiley | year=1964 | isbn=0-471-05661-8}}</ref> などを参照。 ==関連する量== このフェルミエネルギーの定義を使うと、様々な関連する量が有用になりえる。 '''フェルミ温度'''は次のように定義される。 :<math>T_{\mathrm{F}} = \frac{E_{\mathrm{F}}}{k_{\mathrm{B}}} </math> フェルミ温度は、フェルミ統計に関連する量子的効果に熱的効果が匹敵する場合の温度として考えることができる<ref>{{cite web|title=Introduction to Quantum Statistical Thermodyamics |url=http://www.physics.usu.edu/torre/3700_Spring_2013/Lectures/08.pdf |publisher=Utah State University Physics |accessdate=23 April 2014 }}{{dead link|date=December 2016 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。 金属のフェルミ温度は室温より何桁も大きい。 その他の量として'''フェルミ運動量'''と'''フェルミ速度'''がある。 :<math> p_{\mathrm{F}} = \sqrt{2 m_{\mathrm{e}} E_{\mathrm{F}}} </math> :<math> v_{\mathrm{F}} = \frac{p_{\mathrm{F}}}{m_{\mathrm{e}}}</math> ここで<math> m_e </math>は電子の質量である。 これらの量はそれぞれ、[[フェルミ面]]でのフェルミ粒子の[[運動量]]と[[群速度]]である。 フェルミ運動量は<math>p_F = \hbar k_F </math>として書くこともできる。 ここで<math>k_F</math>はフェルミ球の半径であり、'''フェルミ波数ベクトル'''と呼ばれる<ref>{{cite book | last = Ashcroft | first = Neil W. | last2 = Mermin | first2 = N. David | title = Solid State Physics | publisher = [[Henry Holt and Company|Holt, Rinehart and Winston]] | year = 1976 | isbn = 0-03-083993-9 }}</ref>。 これらの量は、フェルミ面が球でない場合にはwell-definedではない。 上述のような2次の分散関係の場合は<ref>[http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/solids/fermi.html Fermi level and Fermi function], from [[HyperPhysics]]</ref> を参照。 == 局所伝導帯基準、内部化学ポテンシャル、パラメータ ''{{Mvar|ζ}}'' == バンド端のエネルギー {{Math|''ε''<sub>C</sub>}} に対して測定された電子エネルギー準位を示すために記号 {{Mvar|ℰ}} を使うこととすると、一般的に {{Math|1=''ℰ'' = ''ε'' – ''ε''<sub>C</sub>}} を得る。また、パラメータ {{Mvar|ζ}} <ref>{{cite book | author=Sommerfeld, Arnold | title= Thermodynamics and Statistical Mechanics | publisher=Academic Press | year=1964}}</ref> をバンド端を基準としたフェルミ準位 {{Math|1=''ζ'' = ''μ'' – ''ε''<sub>C</sub>}} と定義する。 すると、フェルミ分布関数は次のように書ける。 :<math>f(\mathcal{E}) = \frac{1}{e^{(\mathcal{E} - \zeta)/kT} + 1}</math> 金属の[[バンド理論]]は、その基礎にある熱力学と統計力学に多大な注意を払った[[アルノルト・ゾンマーフェルト|ゾンマーフェルト]]が1927年に発展させた。紛らわしいがいくつかの文脈ではバンド基準量 ''{{Mvar|ζ}}'' は「フェルミ準位」「化学ポテンシャル」「電気化学ポテンシャル」と呼ばれ、大域的に基準を決めたフェルミ準位の曖昧さにつながる。この記事では ''{{Mvar|ζ}}'' を示すために「伝導帯基準フェルミ準位」や「内部化学ポテンシャル」という言葉を使うことにする。 [[File:HEMT-band structure scheme-en.svg|thumb|270px|GaAs/AlGaAs[[ヘテロ接合]][[高電子移動度トランジスタ]]の[[バンド図]]における伝導バンド端''E''<sub>C</sub>の変化の例]] ''{{Mvar|ζ}}'' は活性な電荷キャリアの数とその運動エネルギーと直接的に関係している。よってそれらは([[電気伝導率]]など)物質の局所的特性に直接関与している。このため単一で均一な導電性物質での電子の特性に集中するとき、''{{Mvar|ζ}}'' の値に焦点を当てるのが一般的である。自由電子のエネルギー状態との類似性より、状態の ''{{Mvar|ℰ}}'' はその状態の[[運動エネルギー]]であり、{{Math|''ε''<sub>C</sub>}} は[[ポテンシャルエネルギー]]である。この点を考慮して、パラメータ ''{{Mvar|ζ}}'' は「フェルミ運動エネルギー」と名前をつけることもできる。 ''{{Mvar|μ}}'' とは違い、熱平衡状態においてもパラメータ ''{{Mvar|ζ}}'' は物質中で一定ではない。{{Math|''ε''<sub>C</sub>}} は物質の質や不純物/ドーパントのような因子によって変化するため、物質中の位置によって ''{{Mvar|μ}}'' は異なる。半導体や半金属の表面近くでは、[[電界効果トランジスタ]]のように、''{{Mvar|ζ}}'' は外部から加えられた電場によって強く支配される。マルチバンド材料では、''{{Mvar|ζ}}'' は単一の場所でも複数の値をとり得る。たとえばアルミニウム金属片では、フェルミ準位を横切る2つの伝導バンドが存在する(その他の材料では更に多くバンドが存在する)<ref>{{cite web|url=http://www.phys.ufl.edu/~tschoy/r2d2/Fermi/Fermi.html |title=3D Fermi Surface Site |publisher=Phys.ufl.edu |date=1998-05-27 |accessdate=2013-04-22}}</ref>。各バンドに対応してそれぞれ異なるバンド端エネルギー {{Math|''ε''<sub>C</sub>}} と異なる ''{{Mvar|ζ}}'' が存在する。 絶対零度での ''{{Mvar|ζ}}'' の値は広くフェルミエネルギーと呼ばれており、{{Math|''ζ''<sub>0</sub>}} と書くことがある。しかし、紛らわしいことに「フェルミエネルギー」という言葉が絶対零度でないときの ''{{Mvar|ζ}}'' を示すときに使われることもある。 ==フェルミ準位と電圧== [[File:Old Volt Meter pic3.JPG|thumb|[[電圧計]]は[[電気素量]]で割ったフェルミ準位の差を測定する]] フェルミ準位の差は[[電圧計]]で簡単に測定することができる。 電流は[[静電ポテンシャル]]([[ガルバニ電位]])の差が駆動力であると言われることがあるが、厳密には正しくない<ref>I. Riess, ''What does a voltmeter measure?'' Solid State Ionics '''95''', 327 (1197) [http://phstudy.technion.ac.il/~sp118028/SSI%20%281997%29%20What%20does%20a%20voltmeter%20measure.pdf]</ref>。その反例として、[[pn接合]]などのマルチ材料デバイスは平衡において内部静電ポテンシャル差を持っているが正味の電流は生じず、電圧計を接続しても {{Val|0|ul=V}} である<ref>{{cite book |title=Fundamentals of Solid-State Electronics |last1=Sah |first1=Chih-Tang |authorlink1= |year=1991 |publisher=World Scientific |isbn=9810206372 |page=404}}</ref>。明らかに静電ポテンシャルは物質中の電荷の流れを決める因子の一つに過ぎず、[[パウリ反発]]、キャリア濃度勾配、電磁誘導、熱的効果なども重要な役割を果たしている。 実際、電子回路で測定される「電圧」と呼ばれる量は、電子の化学ポテンシャル(フェルミ準位)と単純な関係にある。[[電圧計]]のリード線が回路中の2点に接続されたときに表示される電圧は、単位電荷が一方の点からもう一方の点に移動したときに移動する「全」仕事の測定値である。単純なワイヤーが電圧の異なる2点間に接続されたとき([[短絡]]が起きる)、電圧が正から負の方向に電流が流れ、仕事が熱に変換される。 物質のフェルミ準位は、電子をつけ加えるのに必要な仕事、または電子を取り除いたときに得られる仕事を表す。よって電子回路中の2点 A, B 間の測定される電圧差 {{Math|''V''<sub>A</sub> − ''V''<sub>B</sub>}} は、フェルミ準位で対応する化学ポテンシャル差 {{Math|''µ''<sub>A</sub> − ''µ''<sub>B</sub>}} と次の式で厳密に関係づけられる<ref> {{cite book | isbn = 9780521631457 | title = Quantum Transport: Atom to Transistor | last1 = Datta | first1 = Supriyo | authorlink1 = Supriyo Datta | year = 2005 | publisher = Cambridge University Presss | page=7 }}</ref>。 :<math> V_\mathrm{A} - V_\mathrm{B} = \frac{\mu_\mathrm{A} - \mu_\mathrm{B}}{-e} </math> ここで {{Mvar|e}} は[[電気素量]]。 上記の議論から、電子は単純な経路が与えられたとき ''{{Mvar|µ}}'' が高い点(低電圧)から低い点(高電圧)に移動することがわかる。この電子の流れは、低い {{Mvar|µ}} を(帯電またはその他の反発効果により)増加させ、同様に高い {{Mvar|µ}} を低下させる。その結果、2つの物質の ''{{Mvar|µ}}'' は同じ値に落ち着く。このことは、次の電子回路の平衡状態に関する重要な事実を与える。 :''[[熱力学的平衡]]にある電子回路において、接続された全ての部分は一定のフェルミ準位を持つ''{{誰2|date=May 2017}} このことは、平衡状態では(電圧計で測定される)2点間の電圧はゼロであることも意味している。ここでの熱力学的平衡は、回路が内部で接続されており、バッテリーやその他の電源を含んでおらず、温度の変動も無い必要があることに注意。 == 関連用語 == * [[フェルミ面]] * [[バンドギャップ]] == 関連項目 == * [[量子統計力学]] * [[量子力学]] * [[物性物理学]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} ==参考文献== *{{cite book |author1=Kroemer, Herbert |author2=Kittel, Charles | title=Thermal Physics (2nd ed.) | publisher=W. H. Freeman Company | year=1980 | isbn=0-7167-1088-9}} * [http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/tables/fermi.html Table of Fermi energies, velocities, and temperatures for various elements]. {{半導体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふえるみえねるきい}} [[Category:量子力学]] [[Category:固体物理学]] [[Category:物性物理学]] [[Category:バンド計算]] [[Category:電子状態]] [[Category:エンリコ・フェルミ]] [[Category:物理学のエポニム]]
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2,213
テトラヘドロン法
テトラヘドロン法(テトラヘドロンほう、Tetrahedron method、四面体法)は、ブリュアンゾーン内のk点を精度良く積分する方法。ブリュアンゾーン内を多数の四面体で区切り、その四面体内でフェルミエネルギーまでの状態(体積)を線形補間等(より高次の補間を用いる場合あり[3])で解析的に足し上げるようにする。単純にk点に関して足し上げる方法よりずっと精度が良い。またテトラヘドロン法を改良する方法として、Blochl補正が知られており、これもよく利用される。
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'''テトラヘドロン法'''(テトラヘドロンほう、Tetrahedron method、'''四面体法''')は、[[ブリュアンゾーン]]内の[[ブリュアンゾーン#k点|k点]]を精度良く積分する方法。ブリュアンゾーン内を多数の四面体で区切り、その四面体内で[[フェルミエネルギー]]までの状態(体積)を線形補間等(より高次の補間を用いる場合あり[3])で解析的に足し上げるようにする。単純にk点に関して足し上げる方法よりずっと精度が良い。またテトラヘドロン法を改良する方法として、Blochl補正が知られており、これもよく利用される。 == 参考文献 == *[1] G. Lehmann and M. Taut, phys. stat. sol.(b)54 (1972) 469. *[2] J. Rath and A. J. Freeman, Phys. Rev. B'''11''' (1975) 2109. *[3] M. Methfessel and A. T. Paxton, Phys. Rev. B'''40''' (1989) 3616. == 関連項目 == *[[バンド計算]] *[[第一原理バンド計算]] *[[ガウシアンブロードニング法]] *[[特殊点法]] {{DEFAULTSORT:てとらへとろんほう}} [[Category:計算物理学]]
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小坂俊史
小坂 俊史(こさか しゅんじ、1974年5月8日 - )は日本の漫画家。山口県下関市出身。山口県立下関西高等学校、広島大学文学部卒業。 応募作「せんせいになれません」が1997年10月の準月間賞として、第4回竹書房漫画新人賞にノミネートとともに1997年12月18日『ウルトラ4コマ'98』に掲載されデビューするも選外に終わる。その後、竹書房や芳文社などの雑誌で作品を発表。 デビュー後、広島から上京した後東京都内を転々とし、2000年頃東京都中野区に落ち着く。2008年からは中野区を含む中央線沿いに生きる女性たちを情緒的に描く「中央モノローグ線」を上梓。出版から3年半越しに重版が決まるなど息の長いロングヒットとなった。さらに2009年7月に岩手県遠野市へ転居し、その経験を生かしてモノローグシリーズの続編となる「遠野モノがたり」を連載。2011年10月に東京都へ戻り、杉並区高円寺に移る。 デビュー以来長らく4コマ漫画で作品を発表していたが、2013年以降は非4コマ系のショートストーリー漫画に進出するようになった。 2015年5月6日に同じ漫画家の王嶋環と入籍。王嶋との結婚生活をモデルに描いた「新婚よそじのメシ事情」第1巻は重版となった。 作風は2000年代以降に流行した緩いネタの萌え路線ものとは対極にあり、伝統的なギャグ4コマ漫画の路線を受け継いでいる作家の代表格といえる。親しみやすい絵柄と切れ味の鋭いギャグで締めくくるオチが売りで、漫画だけでなく、題名や単行本の表紙などにも多くのギャグをちりばめている。また、「せんせいになれません」以外は下ネタの割合をかなり低くしている。 主要登場人物は多少非常識であったり、そこから来る天然的な個性を持つ者が多いが、多くは現実の範囲内におさまっており、基本的に不愉快なギャグをするキャラクターもいない。 ほとんどの作品に「せんせいになれません」の桃山、「やまいだれ」の流しのナースのように最終ページの右部分の4コマなど毎回同位置にだけ登場するキャラクターが存在する。例外として「オフィスのざしきわらし」の場合は逆に、同位置で各話限りのキャラクターが登場する。また、ほぼ全てのキャラの顔は下膨れになっている。作内での感嘆符(!)は写植・手書きの台詞問わずどの作品も「!!」のように2個使用している(後述の重野なおきも同様)。ただし、デビュー当時は1個使用だった。 まんがタイムオリジナル、まんがくらぶ、まんがライフオリジナル、まんがくらぶオリジナルの4誌はいずれも10年以上連載を続けており掲載誌は休載を挟まず長年にわたり連載を続けている雑誌が多い。作品自体が終了してもその翌月には新たに同じ雑誌で新連載をするなど、作品への意欲がとても強いといえる。ただし、2018年〜2019年6月の間は4コマ漫画の定期連載がなく、掲載作品が全てショートストーリー漫画だった時期がある。 8ページのショートストーリー漫画を描く際も4コマ漫画の経験則に基づいて構成しており、偶数ページの最初のコマをつなぐと4コマになるというイメージだという。 先述の通り伝統的なギャグ4コマ作家としてデビューしたが、「中央モノローグ線」以降は叙情的な文学性の高い4コマを得意とするようになる。「新婚よそじのメシ事情」など、実体験に基づくエッセイ的な4コマも多い。 重野なおき・みずしな孝之・神奈川のりこら4コマ漫画家と親交があり、特に、重野なおきは共同で同人誌サークル「ジャポニカ自由帳」を結成、共著で作品集を出すなど、親交が深い。また、森繁拓真は大学の後輩で原稿の手伝いをしてもらっていたこともある。 尊敬する漫画家はいしいひさいち。キャラクターよりも構成だけで上手に魅せる点に憧れているといい、好きな単行本には『スクラップスチック』をあげている。そのいしいからも、自著にて植田まさしに並び注目している作家として挙げられている。小坂の最長連載作『せんせいになれません』最終11巻においては互いに4コマを描き合うコラボ作品が掲載された。 アダ名は「王子」。デビュー直後から次代の4コマ誌の中心を担うだろうと周囲から期待されていたために「4コマ王子」とみずしなが作中で呼んだのが発端。本人はいやがっているらしい。 野球チームでは、千葉ロッテマリーンズと広島東洋カープのファン。ハンドボールも好きらしく、ワクナガレオリックのファン。 鉄道ファンで、特に無人駅が好き。鉄道車両に関してはほとんど興味ない。2006年4月には、廃線間際のちほく高原鉄道にて『鉄子の旅』監修者である横見浩彦と遭遇した。それが縁となり、『まんがライフMOMO』2008年10月号・11月号掲載の「わびれもの」に横見浩彦をゲストに迎え、小和田駅を始めとする飯田線の秘境駅各駅を訪問した。 岩手県遠野市に移住していたことから、遠野被災地支援ボランティアネットワーク「遠野まごころネット」に活動支援金の寄付等を行っている。 酒豪または飲ん兵衛が目立つキャラクターが印象的だが、本人は酒が飲めない体質。また、極度の人見知り。 記事のある作品については、書誌情報の詳細は作品記事を参照。
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小坂 俊史は日本の漫画家。山口県下関市出身。山口県立下関西高等学校、広島大学文学部卒業。
{{存命人物の出典明記|date=2013年6月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 小坂 俊史 | ふりがな = こさか しゅんじ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1974|5|8}} | 生地 = [[日本]]・[[山口県]][[下関市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = 1997年 - | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [http://kosaka4.blog68.fc2.com 新しい冷蔵庫] }} '''小坂 俊史'''(こさか しゅんじ、[[1974年]][[5月8日]] - )は[[日本]]の[[漫画家]]。[[山口県]][[下関市]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=小坂俊史 |url=https://natalie.mu/comic/artist/3856 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-10 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。[[山口県立下関西高等学校]]、[[広島大学]][[広島大学#教育および研究|文学部]]卒業。 == 来歴 == 応募作「[[せんせいになれません]]」が1997年10月の準月間賞として、第4回竹書房漫画新人賞にノミネートとともに[[1997年]][[12月18日]]『ウルトラ4コマ'98』に掲載されデビューするも選外に終わる。その後、[[竹書房]]や[[芳文社]]などの雑誌で作品を発表。 デビュー後、広島から上京した後東京都内を転々とし、2000年頃[[東京都]][[中野区]]に落ち着く。2008年からは中野区を含む[[中央線快速|中央線]]沿いに生きる女性たちを情緒的に描く「[[中央モノローグ線]]」を上梓。出版から3年半越しに重版が決まるなど息の長いロングヒットとなった。さらに2009年7月に[[岩手県]][[遠野市]]へ転居し、その経験を生かしてモノローグシリーズの続編となる「[[中央モノローグ線|遠野モノがたり]]」を連載。2011年10月に東京都へ戻り、[[杉並区]][[高円寺]]に移る。 デビュー以来長らく[[4コマ漫画|4コマ]]漫画で作品を発表していたが、[[2013年]]以降は非4コマ系のショートストーリー漫画に進出するようになった。 [[2015年]][[5月6日]]に同じ漫画家の[[王嶋環]]と入籍<ref>{{Twitter status|kosaka_s|595798585352056832}}</ref>。王嶋との結婚生活をモデルに描いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/257859|title=小坂俊史「新婚よそじのメシ事情」手料理に感動?戸惑い?食生活の変化は大事だ|accessdate=2019-05-12|website=ナタリー|language=ja-JP}}</ref>「新婚よそじのメシ事情」第1巻は重版となった<ref>{{Twitter status|kosaka_s|971339140909342720}}</ref>。 == 作風 == {{独自研究|section=1|date=2023年4月}} 作風は[[2000年代]]以降に流行した緩いネタの[[萌え]]路線ものとは対極にあり、伝統的な[[ギャグ]]4コマ漫画の路線を受け継いでいる作家の代表格といえる。親しみやすい絵柄と切れ味の鋭いギャグで締めくくるオチが売りで、漫画だけでなく、題名や単行本の表紙などにも多くのギャグをちりばめている。また、「せんせいになれません」以外は[[下ネタ]]の割合をかなり低くしている。 主要登場人物は多少非常識であったり、そこから来る天然的な個性を持つ者が多いが、多くは現実の範囲内におさまっており、基本的に不愉快なギャグをするキャラクターもいない。 ほとんどの作品に「せんせいになれません」の桃山、「やまいだれ」の流しのナースのように最終ページの右部分の4コマなど毎回同位置にだけ登場するキャラクターが存在する。例外として「オフィスのざしきわらし」の場合は逆に、同位置で各話限りのキャラクターが登場する<ref>サークルコレクション、ひがわり娘、とびだせ漂流家族ではその設定がない</ref>。また、ほぼ全てのキャラの顔は下膨れになっている。作内での感嘆符(!)は写植・手書きの台詞問わずどの作品も「!!」のように2個使用している(後述の重野なおきも同様)。ただし、デビュー当時は1個使用だった。 まんがタイムオリジナル、まんがくらぶ、まんがライフオリジナル、まんがくらぶオリジナルの4誌はいずれも10年以上連載を続けており掲載誌は休載を挟まず長年にわたり連載を続けている雑誌が多い。作品自体が終了してもその翌月には新たに同じ雑誌で新連載をするなど、作品への意欲がとても強いといえる。ただし、2018年〜2019年6月の間は4コマ漫画の定期連載がなく、掲載作品が全てショートストーリー漫画だった時期がある。 8ページのショートストーリー漫画を描く際も4コマ漫画の経験則に基づいて構成しており、偶数ページの最初のコマをつなぐと4コマになるというイメージだという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ebookjapan.jp/ebj/content/author/10229/index2.asp#link001|title=小坂俊史特集 インタビュー ページ2 - 無料まんが・試し読みが豊富!eBookJapan|まんが(漫画)・電子書籍をお得に買うなら、無料で読むならeBookJapan -|accessdate=2018-04-06|website=eBookJapan|language=ja-JP}}</ref>。 先述の通り伝統的なギャグ4コマ作家としてデビューしたが、「中央モノローグ線」以降は叙情的な文学性の高い4コマを得意とするようになる。「新婚よそじのメシ事情」など、実体験に基づく[[随筆|エッセイ]]的な4コマも多い。 == 人物 == {{出典の明記|section=1|date=2023年4月}} [[重野なおき]]・[[みずしな孝之]]・[[神奈川のりこ]]ら4コマ漫画家と親交があり、特に、重野なおきは共同で同人誌サークル「ジャポニカ自由帳」を結成、共著で作品集を出すなど、親交が深い。また、[[森繁拓真]]は大学の後輩で原稿の手伝いをしてもらっていたこともある。 尊敬する漫画家は[[いしいひさいち]]。キャラクターよりも構成だけで上手に魅せる点に憧れているといい、好きな単行本には『スクラップスチック』をあげている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ebookjapan.jp/ebj/content/author/10229/index.asp#link001|title=小坂俊史特集 インタビュー - 無料まんが・試し読みが豊富!eBookJapan|まんが(漫画)・電子書籍をお得に買うなら、無料で読むならeBookJapan -|accessdate=2018-04-06|website=eBookJapan|language=ja-JP}}</ref>。そのいしいからも、自著にて[[植田まさし]]に並び注目している作家として挙げられている<ref>いしいひさいち「でっちあげインタビュー いしいひさいちに聞く」『[総特集]いしいひさいち』p.20</ref>。小坂の最長連載作『せんせいになれません』最終11巻においては互いに4コマを描き合うコラボ作品が掲載された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/285162|title=ぼのぼのたち動物がみんな太っちゃった世界を描く異色作「でぶぼの」最終回|accessdate=2019-05-12|website=ナタリー|language=ja-JP}}</ref>。 アダ名は「王子」。デビュー直後から次代の4コマ誌の中心を担うだろうと周囲から期待されていたために「4コマ王子」とみずしなが作中で呼んだのが発端。本人はいやがっているらしい。 野球チームでは、[[千葉ロッテマリーンズ]]と[[広島東洋カープ]]のファン。[[ハンドボール]]も好きらしく、[[ワクナガレオリック]]のファン。 [[鉄道ファン]]で、特に[[無人駅]]が好き。[[鉄道車両]]に関してはほとんど興味ない。2006年4月には、廃線間際の[[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|ちほく高原鉄道]]にて『[[鉄子の旅]]』監修者である[[横見浩彦]]と遭遇した。それが縁となり、『まんがライフMOMO』2008年10月号・11月号掲載の「わびれもの」に横見浩彦をゲストに迎え、[[小和田駅]]を始めとする[[飯田線]]の[[秘境駅]]各駅を訪問した。 岩手県遠野市に移住していたことから、遠野被災地支援ボランティアネットワーク「遠野まごころネット」に活動支援金の寄付等を行っている。<ref>[http://tonomagokoro.net/archives/52943 漫画家の小坂俊史さんからご寄付をいただきました | 遠野まごころネット]</ref> 酒豪または飲ん兵衛が目立つキャラクターが印象的だが、本人は酒が飲めない体質。また、極度の人見知り。 == 作品リスト == 記事のある作品については、書誌情報の詳細は作品記事を参照。 ===連載中=== *まどいのよそじ -惑いの四十路-(2013年<!--2014年1月号付--> - [[ビッグコミックオリジナル増刊]]/[[小学館]]) ** 単行本 既刊2巻([[ビッグコミックススペシャル]]/小学館) **# 2016年2月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09187573|title=まどいのよそじ -惑いの四十路- 1|publisher=小学館|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-187573-0}} **# 2019年2月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09187573|title=まどいのよそじ -惑いの四十路- 2|publisher=小学館|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-860261-2}} *よそじとふたごのメシ事情(2021年<!--2021年5月号付--> - [[まんがライフオリジナル]]/竹書房) ** 単行本 既刊1巻([[バンブーコミックス]]/竹書房) **# 2023年4月17日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/521154|title=小坂俊史「よそじとふたごのメシ事情」1巻、大町テラスとのトークショーも開催|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-04-17|accessdate=2023-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=よそじとふたごのメシ事情|title=ルナナナ 1|publisher=竹書房|accessdate=2023-04-17}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-8013-6}} ===連載終了=== *[[せんせいになれません]](1997年 - 2018年 [[まんがくらぶ]]/[[竹書房]]) ** 単行本 全11巻完結([[バンブーコミックス]]/竹書房) *うるぐす共和国(1998年 - 1999年 [[まんがくらぶオリジナル|月刊スポコミ]]/竹書房)<ref name="kuradashi">『小坂俊史蔵出し小品集』(竹書房(小坂俊史39フェア 応募者全員プレゼント))</ref> *ガクランコンビナート(1998年 [[まんがライフオリジナル]]、ライオリ増刊/竹書房)<ref name="kuradashi" /> *はじめてのかいしゃ(1998年 - 1999年 フリテンくん増刊/竹書房)<ref name="kuradashi" /> *[[月刊フリップ編集日誌]](1999年 - 2002年 [[まんがくらぶオリジナル]]/竹書房) ** 単行本 全2巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[サークルコレクション]](1999年 - 2003年 [[まんがライフオリジナル]]/竹書房) ** 単行本 全2巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[ひがわり娘]](1999年 - 2006年 [[まんがタイムオリジナル]]、[[まんがタイムダッシュ!]]/[[芳文社]]) ** 単行本 全5巻完結([[まんがタイムコミックス]]/芳文社) *[[サイダースファンクラブ]](1999年 - 2007年 [[まんがライフMOMO]]/竹書房<ref>当初は読みきりで、2003年の『まんがライフMOMO』創刊を機に連載化。</ref>) ** 単行本 全2巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[とびだせ漂流家族]](2001年 - 2003年 まんがライフ/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *空ぶり魂(2002年 - 2004年 [[ビッグコミック増刊号]]/小学館) *[[ハルコビヨリ]](2002年 - 2008年 まんがくらぶオリジナル、まんがライフオリジナル/竹書房<ref>連載開始当初『まんがくらぶオリジナル』で連載。2003年、『サークルコレクション』終了後の『まんがライフオリジナル』でも連載となり2誌体勢になるが、2005年『まんがくらぶオリジナル』でのみ連載を終了(同誌では『やまいだれ』連載開始)以後『まんがライフオリジナル』1誌連載。</ref>) ** 単行本 全4巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *サトの校舎(2003年 まんがライフ/竹書房)<ref name="kuradashi" /> *妖刀狗肉丸(2004年 新時代劇コミック疾風)<ref name="kuradashi" /> *れんげヌードルライフ(2004年<!--10月17日増刊号(9月実売)--> - 2009年<!--12月17日増刊号(11月実売)--> ビッグコミック増刊号/小学館、2013年<!--6月号(4月実売) - 7月号(5月実売)--> まんがライフMOMO/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) **: 2013年6月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2048601|title=れんげヌードルライフ|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8124-8302-2}} *東京ぐらしはじめました(2005年 本当にあった愉快な話増刊/竹書房)<ref name="kuradashi" /> *[[やまいだれ]](2005年 - 2009年 まんがくらぶオリジナル/竹書房) ** 単行本 全2巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *幼稚の園(2006年 - 2008年 まんがタイムオリジナル/芳文社) ** 単行本 全1巻完結(まんがタイムコミックス/芳文社/2008年7月22日初刷発行(2008年7月7日発売)) **: {{ISBN2|978-4-8322-6653-7}} ※絶版 *[[中央モノローグ線]](2008年 - 2009年 まんがライフオリジナル/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[ひがわり娘|ささきまみれ]](2008年 - 2009年<!--2010年2月号付--> まんがタイムオリジナル/芳文社) *[[わびれもの]](2007年 - 2010年 まんがライフMOMO/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[中央モノローグ線#遠野モノがたり|遠野モノがたり]](2009年 - 2011年 まんがライフオリジナル/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *オフィスのざしきわらし(2009年 - [[2011年]] まんがくらぶオリジナル/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房/2011年11月10日初刷発行(2011年10月27日発売)、{{ISBN2|978-4-8124-7678-9}}) *球場のシンデレラ(2010年 - 2011年 まんがタイムオリジナル/芳文社) ** 単行本 全1巻完結(まんがタイムコミックス/芳文社/2011年10月22日初刷発行(2011年10月7日発売)、{{ISBN2|978-4-8322-5011-6}}) *[[わびれもの|わびれものゴージャス]](2010年<!--2011年2月号付--> - 2013年 まんがライフMOMO/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *[[中央モノローグ線#モノローグジェネレーション|モノローグジェネレーション]](2011年 - 2013年 まんがライフオリジナル/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *ラジ娘のひみつ(2011年<!--2012年2月号付--> - 2014年 まんがくらぶオリジナル/竹書房) ** 単行本 全2巻完結(バンブーコミックス/竹書房) **# 2013年7月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2049001|title=ラジ娘のひみつ(1)|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8124-8345-9}} **# 2015年1月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2049002|title=ラジ娘のひみつ(2)|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-5079-5}} *:ラジ娘のニュース(2013年<!--2014年2月号付--> - [[2014年]] [[まんがライフ]]/竹書房)※目次横4コマ漫画 *[[おかん (小坂俊史の漫画)|おかん]](2011年 - [[2016年]]<!--2017年1月号付--> まんがタイムオリジナル/芳文社) *月刊すてきな終活(2013年 - 2014年 まんがライフオリジナル/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房/2014年11月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2054401|title=月刊すてきな終活|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-5033-7}}) *これでおわりです。(2013年 - 2016年 [[まんがライフSTORIA]]/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房/2016年2月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2057101|title=これでおわりです。|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-5466-3}}) *新婚よそじのメシ事情([[2015年]]<!--2016年1月号付--> - 2021年<!--2021年4月号--> [[まんがライフオリジナル]]/竹書房) ** 単行本 全3巻完結(バンブーコミックス/竹書房) **# 2017年11月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2059801|title=新婚よそじのメシ事情|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-6111-1}} **# 2019年5月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2059802|title=新婚よそじのメシ事情(2)|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-6607-9}} **# 2021年4月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2059803|title=新婚よそじのメシ事情(3)|publisher=竹書房|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-7272-8}} *ゆとりの町長(2016年 - 2018年 [[まんがタイムオリジナル]]/芳文社) ** 単行本 全1巻完結(まんがタイムコミックス/芳文社/2018年8月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://houbunsha.co.jp/comics/detail.php?p=%A4%E6%A4%C8%A4%EA%A4%CE%C4%AE%C4%B9|title=ゆとりの町長|publisher=漫画の殿堂 芳文社|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8322-5709-2}}) *となりのレトロガール(2018年 - 2019年 [[まんがタイム]]/芳文社) ** 単行本 全1巻完結([[同人誌]]での発行/ジャポニカ自由帳/2019年11月24日発行) *[[中央モノローグ線#モノローグ書店街|モノローグ書店街]](2019年 - 2021年 [[まんがライフWIN]]/竹書房) ** 単行本 全1巻完結(バンブーコミックス/竹書房) *平日休みの堀出さん(2019年 - 2020年 [[まんがタウン]]/双葉社) ** 単行本 全1巻完結(アクションコミックス/双葉社/2021年2月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/book/97845759458290000000?type=1|title=平日休みの堀出さん|publisher=双葉社|accessdate=2021-04-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94582-9}}) *ルナナナ(2021年<!-- 2021年6月号 --> - 2023年<!-- 2023年10月号 --> [[まんがタウン]]/[[双葉社]]) ** 単行本 全2巻([[アクションコミックス]]/双葉社) **# 2022年12月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/book/97845759461470000000|title=ルナナナ 1|publisher=双葉社|accessdate=2022-12-18}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94614-7}} **# 2023年12月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/book/97845759462390000000|title=ルナナナ 2 完|publisher=双葉社|accessdate=2023-12-12}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94623-9}} ===共著=== *[[ふたりごと自由帳]]([[重野なおき]][[共著]]/まんがタイムコミックス/芳文社/2007年7月21日初刷発行(2007年7月6日発売)、{{ISBN2|978-4-8322-6555-4}}) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{twitter|kosaka_s|小坂俊史}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こさか しゆんし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:広島大学出身の人物]] [[Category:1974年生]] [[Category:存命人物]]
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バックギャモン
バックギャモン(Backgammon)は、基本的に2人で遊ぶボードゲームの一種。盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。世界最古のボードゲームとされるテーブルズ(英語版)の一種である。西洋双六(せいようすごろく)ともいう。日本には飛鳥時代に伝来し、雙六・盤双六の名で流行したが、賭博の一種であるとして朝廷に禁止されている。 サイコロを使用するため、運が結果に対する決定因子の一つであるものの、長期的には戦略がより重要な役割を果たす。プレイヤーはサイコロを振るたびに着手可能な選択肢の中から、相手の次の可能性のある手を予測しながら自手を選択し、自分の駒を移動させる。現代のルールは20世紀初頭のニューヨークを起源とするとされ、ゲーム中に勝ち点の点数(後述)をレイズする(上げる)ことができる(ダブリングキューブを参照)。 チェスと同様に、計算機科学者の興味の対象として研究がなされ、それにより作り出されたソフトウェアは、人間の世界チャンピオンを破る程に発展している。 盤は、24箇所の地点(ポイント)と、一時的にゲームから取り除かれた駒を置く場所(バー)、ゴールからなる。各ポイントは、1から24までの番号を付けて呼ばれる。駒の進行においてゴールに最も近いものが第1ポイント、最も遠いものが第24ポイントである。双方のプレイヤーにとって、駒の進む向きは逆であるため、自分と相手ではポイントの番号も異なるものとなり、例えば自分の第1ポイントは相手の第24ポイントである。第5ポイント(相手にとっての第20ポイント)はゴールデンポイントといい、ここのポイントの確保(後述)はゲームの流れを左右することが多い。 各プレイヤーは、第6ポイントに5つ、第8ポイントに3つ、第13ポイントに5つ、第24ポイントに2つの駒を初期配置する。第24ポイント(相手側にとっての第1ポイント)に配置された駒をバックマンという。 日本では、まず、最初に双方が1つずつのサイコロを振り、大きい目が出た方が先手となる。このとき出た目はそのまま先手の最初の出目として使われる。双方が同じ目の場合には再び振りなおす。米国などでは、コイントスで決めるのが習慣になっている州もある。ただし、コイントス法は一部の団体が批判している。 ここで言うポイントとは、勝ち点のことである。このゲームのポイントはその勝ち方によって3通りに分かれる。 ダブル(後述)がなされている場合には、ダブリングキューブが表示する倍率をこれに乗じたものとなる。 競技会ルールでは、5以上の奇数ポイントを統一して設定し、そのポイントを先取した者の勝利としてゲームを行うことが普通である。ただし、ダブルがあるために、一度のゲームで勝敗が決まることもある。なお、デュースのルールは一般的でない。 手番プレイヤーは、試合中移動のサイコロを振る前にそのゲームの得点を倍にする「ダブル」を提案できる。相手プレイヤーがダブルを拒否した場合はゲームは終了となり、ダブルの提案をした側が1点勝ちとなる。ダブルの提案を受けることをテイク、断ることをパスという。 ダブルには2つの意義があり、ポイントを2倍にするという意義と、大勢が決しているゲームを終わらせるという意義がある。 特に後者について、ダブルが導入される以前は、勝敗が完全に確定するまで、優勢な側は単なる作業として、劣勢な側はわずかな逆転の望みに懸けて、ただダイスを振り続けるという実質的にほとんど意味のない行動を双方がしなければならなかった。ダブルの導入は、前述の状況を解消し、ゲームのスピーディー化をもたらしたという意味で重要であり、ダブルがこのゲームを絶滅から救ったとまで言われるほどである。 ダブルは通常優勢な側のプレイヤーが提案するため、ダブルが導入されたことで的確な形勢判断を行なうことがプレーヤーに求められるようになり、ある局面においてダブルをかけるか否か、ダブルをかけられた際に受けるか否かの判断をキューブアクションと言い、駒の正しい動かし方(チェッカープレイという)とは異なる能力が求められるようになったことが本ゲームの複雑性を増し、より奥が深くなることとなった。 双方がダブルをかけていない状態においては、どちらのプレイヤーがかけてもよいが、2回目以降のダブル(リダブル)は前回ダブルを受け入れた側のプレイヤーにだけかける権利がある。すなわちダブルを提案して同意された場合、相手にだけリダブルの権利が生じることに注意が必要である。リダブルを拒否した場合、拒否した側の2点差負けとなる。双方がダブルをかけ合った場合、得点率は4倍、8倍、16倍、......と倍々で増加してゆくことになる。 ダブリングキューブと呼ぶ2、4、8、16、32、64の記されたサイコロを使って現在の倍率を表示し、そのキューブの置かれた位置によって次にダブルをかける権利のあるプレイヤーを示す。初期状態ではキューブは中央に置かれ、また通常のダブリングキューブには1の面がないため、64の面を上にしてその代わりとする。 ダブルを交互にかけ合い続けた場合、理論的には倍率は際限なく上がることになるが、実際にはそこまでダブルをかけ合うほどの連続逆転は起こりがたく、また競技会ルールでの必要得点などの面からもそのようなダブルには意味のないことが多い。これ以上ダブルの倍率を上げることが無意味になった状態や、クロフォードルール(後述)が適用されているゲームのことをキューブデッドという。128倍以上の高倍率が記された特殊なダブリングキューブも存在するが一般的ではないため、このような倍率が実際に発生した場合には、少なくとも競技者双方にとって紛らわしくないような表示を適宜決める必要がある。 ダブルに関して、「25%理論」と呼ばれる理論がある。これは、逆転の確率が25%以上ある場合は、ダブルを受け入れた方がよいというものである。 たとえば、逆転確率が25%の全く同じ状況が4回発生したとする。もし、4回ともダブルを受けずに敗北を宣言すると4回とも失点1なので、合計は失点4となる。もし、4回ともダブルを受け入れる場合は4回のうち1回は勝って得点2、残り3回は負けて失点6となり、合計は失点4となる。よって、逆転の確率が25%の場合、失点の合計はダブルを受けても受けなくても変わらない。このため、勝率が50%を超える場合はダブルをかけるほうが有利であり、またダブルをかけられたほうは逆転の可能性が25%を超えるならばダブルを受け入れる方がよいという、興味深い設定となっている。 ただし、これは盤面の特殊な状況(例えば、負ける場合はギャモン負けとなる可能性が高い状態など)を考慮せず、また持ち点が無限にあると仮定した場合の戦略であり、実際にはそのときの盤面や、競技会ルールの場合には現在の持ち点を考慮してダブルの是非を決めることになる。また、ダブルをかけるということは、相手が受け入れた場合、次にダブルを提案する権利が相手にだけある状態になることでもあり、これによって戦略上の不利が生じる場合もあるので注意が必要である。 ダブルに関して、以下のような変則ルールが存在する。 基本的なゲーム戦略としては、 ただし、サイコロの目によって採りうる戦略は左右されるため、状況により随時その戦略を変えなくてはならない。 そのため以下のような戦術がある()内は別名。 形勢判断の材料として一般的に用いられるのがピップカウントである。これは、自身のコマのゴールからの距離の合計値であり、通常は小さい方が有利とされる。また一般にインナーまで多くの駒を進めている側は優勢であるが、上記の通り相手インナーにブロックポイントを作る戦術もあり、またサイコロの目次第での大逆転が有り得るためチェスのような明白な優劣がついている状態は起こりにくい。大逆転につながるようなサイコロの目をジョーカーという。 ルールが比較的シンプルなこともあり、コンピュータの黎明期からさまざまなプログラムが作成され、およそ2000年前後に人間超えを果たした。さらに、解析ソフトウェアの進歩により戦略に革命を起こした。 有名なのはSnowie、GNU Backgammon(略称gnubg)、eXtreme Gammon(略称XG)である。eXtreme Gammonは日本では日本バックギャモン協会から有償で販売されている。GNU Backgammonは自由ソフトウェアであり無償である。ネット上での対戦も容易であり、PlayOKやBackgammon GalaxyやBackgammon Studio Heroesなどが活発にプレイされている。 サイコロを使う偶然性があり、ある局面の有利不利、あるいはある局面での動かし方についてその局面から何度もプレイしてみても正確な評価が非常に難しいことがあるが、Variance Reduction(分散低減)という手法を用いられるようになり、解析ソフトウェアは非常に精度の高い局面評価、最善手の検索が可能となった。 解析ソフトウェアを使用すると、ある局面の有利不利の評価、最善手が分かるようになる。しかし何故その局面がそう評価されるのか、何故それが最善手なのかは教えてくれない。教えてくれるのは「この局面の勝率は63%だ」とか、「最善手はこの動かし方で、勝率が3%下がる次善手はこれ」といった情報である。そのため、人間がその情報を元に上達するためには局面の解析結果から人間的思考手順を導き出さなければならない。 原型は紀元前3,500年頃の古代エジプトでプレイされたセネトと呼ばれる10枡3列の遊戯盤ではないかという説があるが、現代のものとは見た目もルールも大きく異なる。ツタンカーメン王の墓からもセネトの道具が発掘されている。元々は古代エジプト人にとって最大の関心事であった「死と再生」の過程が盤上に描かれるなど、セネトはエジプト神話及び宗教と結びついたものであった。だが、エジプト文明の衰退とともに宗教色が薄れ、エジプト末期王朝には宗教的な絵やヒエログリフが外されていった。これがかえってギリシアやローマに受け入れられていく素地となっていった。 ローマ帝国では12枡3列のドゥオデキム・スクリプタ(英語版)(「12本の線」という意味) というゲームが盛んに行われていた。 ドゥオデキム・スクリプタは遅くとも5世紀頃までに現在のものと同じ様に12枡2列となり、タブラと呼ばれ中世ヨーロッパで広く遊ばれるようになった。13世紀頃からはタブラの他に各地域独特の呼称が生まれ、ドイツではプッフ、フランスではトリックトラックなどと呼ばれるようになった。だが、賭博のための遊戯としての色彩が強まるとともにキリスト教的な観点から批判する声も高まり、15世紀にはタブラの廃絶運動が起こった。だが、聖俗問わずタブラを好む人が多かったために完全な廃絶には至らなかった。 中近東方面でもギリシア・ローマの影響を受けて、このゲームはナルド(英語版)(Nard)の名前で広がった。ナルドは12枡2列であるため、ローマなどの西方から伝えられたと考えられているが、一方でナルドが西方ヨーロッパに伝えられ、トリックトラックとして遊ばれるようになったとの説も存在している。ナルドは賭博と深い関係があったためにイスラム法学者からはたびたび強い非難を浴びたものの、それにもかかわらずイスラム化した中近東全域で盛んに遊ばれていた。ナルドはさらに東に伝播したものの、インドでは他のゲームに押されてほとんど広がらなかった。 ナルドは北にも伝播し、中央アジアで普及したあと、シルクロードを伝って中国でも6世紀には雙陸(中国語版)(シュアンルー)の名前で広がった。雙陸は伝来以降賭博や遊技として親しまれてきたが、清の時代になると豪華な雙陸盤が作られる一方で、他のゲームに押されてゲームとしては衰退していった。 日本への伝来は7世紀で、持統天皇の治世に早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されている。盤双六は古代・中世を通じ賭博として非常に人気があり、広く遊ばれたものの、賭博の一つとしてしばしば禁令が出されている。西洋型は戦国時代に初めて伝来したが、盤双六に馴染んだ日本人には受け入れられなかった。 一方戦国期には碁や将棋の隆盛が目立つようになり、賭博性を強めた盤双六の地位と人気は緩やかに低下し始めた。それでも18世紀末までは盤双六のプレイヤーは多かったものの、この時期に盤双六の賭博としての人気は弱まり、各地の賭博禁令から盤双六の指定が外されるようになっていく。双六盤そのものは江戸期を通じ嫁入り道具の一つとして婚姻の際に持参されることが多かったものの、19世紀に入ると盤双六はかなり衰退し、実際の遊技方法を知らないものが大半となっていた。明治維新を迎えると衰退はさらに顕著になり、明治末年から大正期頃にはプレイヤーの不在によりほぼ消滅した。 イギリスでは、16世紀にタブラが禁止されたが、密かにプレイされていた。1650年にイギリス版のタブラはbackとgamen(中英語でgameの意味)の2つの単語を組み合わせてバックギャモン (Backgammon) と命名された。18世紀に入るとバックギャモンはほぼ現代のものと同一のものとなっており、1753年にはエドモンド・ホイルによってルールが整理・確立された。 賭博としてのバックギャモンは18世紀末には衰退の傾向が見られ、19世紀に入ると、カードなどに取って代わられる形で賭博場では徐々に遊ばれなくなっていき、家庭などで遊ばれる純粋なテーブルゲームとなっていった。その後、ヨーロッパでは20世紀に入ると、停滞の様相を呈していたが、1920年代にアメリカで発明された「ダブリングキューブ」が導入されてゲーム性が高められると、再び盛んになり始めた。今日においてもインド以西のユーラシア大陸全域とアメリカにおいては代表的なボードゲームの一つである。 盤双六の衰退後、日本ではバックギャモンは西洋の珍しいゲームとして知識のみが伝わっている状態が続いていたが、戦後に入ると徐々に競技者が増えはじめ、1970年代には日本バックギャモン協会が設立され、1974年からは日本選手権が毎年開催されるようになった。日本バックギャモン協会によれば、現在、競技人口は欧米を中心に3億人ほどが存在するという。日本の競技者は、推定20万人ほどであるが、世界ランキングの上位者を何人も輩出しており、レッスンや試合の報酬などで生計を立てるプロも存在する。 バックギャモンの大会も各地で開催されており、モナコのモンテカルロでは個人戦の世界バックギャモン選手権が毎年開かれている。2021年までに望月正行、矢澤亜希子、鈴木琢光が優勝している。個人戦のほか、ネット上での国別対抗戦も存在しており、2020年大会では日本が優勝した。
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"paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、これは盤面の特殊な状況(例えば、負ける場合はギャモン負けとなる可能性が高い状態など)を考慮せず、また持ち点が無限にあると仮定した場合の戦略であり、実際にはそのときの盤面や、競技会ルールの場合には現在の持ち点を考慮してダブルの是非を決めることになる。また、ダブルをかけるということは、相手が受け入れた場合、次にダブルを提案する権利が相手にだけある状態になることでもあり、これによって戦略上の不利が生じる場合もあるので注意が必要である。", "title": "遊び方" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ダブルに関して、以下のような変則ルールが存在する。", "title": "遊び方" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "基本的なゲーム戦略としては、", "title": "基本的な戦略" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ただし、サイコロの目によって採りうる戦略は左右されるため、状況により随時その戦略を変えなくてはならない。 そのため以下のような戦術がある()内は別名。", "title": "基本的な戦略" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "形勢判断の材料として一般的に用いられるのがピップカウントである。これは、自身のコマのゴールからの距離の合計値であり、通常は小さい方が有利とされる。また一般にインナーまで多くの駒を進めている側は優勢であるが、上記の通り相手インナーにブロックポイントを作る戦術もあり、またサイコロの目次第での大逆転が有り得るためチェスのような明白な優劣がついている状態は起こりにくい。大逆転につながるようなサイコロの目をジョーカーという。", "title": "形勢判断" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ルールが比較的シンプルなこともあり、コンピュータの黎明期からさまざまなプログラムが作成され、およそ2000年前後に人間超えを果たした。さらに、解析ソフトウェアの進歩により戦略に革命を起こした。", "title": "対コンピュータ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "有名なのはSnowie、GNU Backgammon(略称gnubg)、eXtreme Gammon(略称XG)である。eXtreme Gammonは日本では日本バックギャモン協会から有償で販売されている。GNU Backgammonは自由ソフトウェアであり無償である。ネット上での対戦も容易であり、PlayOKやBackgammon GalaxyやBackgammon Studio Heroesなどが活発にプレイされている。", "title": "対コンピュータ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "サイコロを使う偶然性があり、ある局面の有利不利、あるいはある局面での動かし方についてその局面から何度もプレイしてみても正確な評価が非常に難しいことがあるが、Variance Reduction(分散低減)という手法を用いられるようになり、解析ソフトウェアは非常に精度の高い局面評価、最善手の検索が可能となった。", "title": "対コンピュータ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "解析ソフトウェアを使用すると、ある局面の有利不利の評価、最善手が分かるようになる。しかし何故その局面がそう評価されるのか、何故それが最善手なのかは教えてくれない。教えてくれるのは「この局面の勝率は63%だ」とか、「最善手はこの動かし方で、勝率が3%下がる次善手はこれ」といった情報である。そのため、人間がその情報を元に上達するためには局面の解析結果から人間的思考手順を導き出さなければならない。", "title": "対コンピュータ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "原型は紀元前3,500年頃の古代エジプトでプレイされたセネトと呼ばれる10枡3列の遊戯盤ではないかという説があるが、現代のものとは見た目もルールも大きく異なる。ツタンカーメン王の墓からもセネトの道具が発掘されている。元々は古代エジプト人にとって最大の関心事であった「死と再生」の過程が盤上に描かれるなど、セネトはエジプト神話及び宗教と結びついたものであった。だが、エジプト文明の衰退とともに宗教色が薄れ、エジプト末期王朝には宗教的な絵やヒエログリフが外されていった。これがかえってギリシアやローマに受け入れられていく素地となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ローマ帝国では12枡3列のドゥオデキム・スクリプタ(英語版)(「12本の線」という意味) というゲームが盛んに行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ドゥオデキム・スクリプタは遅くとも5世紀頃までに現在のものと同じ様に12枡2列となり、タブラと呼ばれ中世ヨーロッパで広く遊ばれるようになった。13世紀頃からはタブラの他に各地域独特の呼称が生まれ、ドイツではプッフ、フランスではトリックトラックなどと呼ばれるようになった。だが、賭博のための遊戯としての色彩が強まるとともにキリスト教的な観点から批判する声も高まり、15世紀にはタブラの廃絶運動が起こった。だが、聖俗問わずタブラを好む人が多かったために完全な廃絶には至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中近東方面でもギリシア・ローマの影響を受けて、このゲームはナルド(英語版)(Nard)の名前で広がった。ナルドは12枡2列であるため、ローマなどの西方から伝えられたと考えられているが、一方でナルドが西方ヨーロッパに伝えられ、トリックトラックとして遊ばれるようになったとの説も存在している。ナルドは賭博と深い関係があったためにイスラム法学者からはたびたび強い非難を浴びたものの、それにもかかわらずイスラム化した中近東全域で盛んに遊ばれていた。ナルドはさらに東に伝播したものの、インドでは他のゲームに押されてほとんど広がらなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ナルドは北にも伝播し、中央アジアで普及したあと、シルクロードを伝って中国でも6世紀には雙陸(中国語版)(シュアンルー)の名前で広がった。雙陸は伝来以降賭博や遊技として親しまれてきたが、清の時代になると豪華な雙陸盤が作られる一方で、他のゲームに押されてゲームとしては衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本への伝来は7世紀で、持統天皇の治世に早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されている。盤双六は古代・中世を通じ賭博として非常に人気があり、広く遊ばれたものの、賭博の一つとしてしばしば禁令が出されている。西洋型は戦国時代に初めて伝来したが、盤双六に馴染んだ日本人には受け入れられなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方戦国期には碁や将棋の隆盛が目立つようになり、賭博性を強めた盤双六の地位と人気は緩やかに低下し始めた。それでも18世紀末までは盤双六のプレイヤーは多かったものの、この時期に盤双六の賭博としての人気は弱まり、各地の賭博禁令から盤双六の指定が外されるようになっていく。双六盤そのものは江戸期を通じ嫁入り道具の一つとして婚姻の際に持参されることが多かったものの、19世紀に入ると盤双六はかなり衰退し、実際の遊技方法を知らないものが大半となっていた。明治維新を迎えると衰退はさらに顕著になり、明治末年から大正期頃にはプレイヤーの不在によりほぼ消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イギリスでは、16世紀にタブラが禁止されたが、密かにプレイされていた。1650年にイギリス版のタブラはbackとgamen(中英語でgameの意味)の2つの単語を組み合わせてバックギャモン (Backgammon) と命名された。18世紀に入るとバックギャモンはほぼ現代のものと同一のものとなっており、1753年にはエドモンド・ホイルによってルールが整理・確立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "賭博としてのバックギャモンは18世紀末には衰退の傾向が見られ、19世紀に入ると、カードなどに取って代わられる形で賭博場では徐々に遊ばれなくなっていき、家庭などで遊ばれる純粋なテーブルゲームとなっていった。その後、ヨーロッパでは20世紀に入ると、停滞の様相を呈していたが、1920年代にアメリカで発明された「ダブリングキューブ」が導入されてゲーム性が高められると、再び盛んになり始めた。今日においてもインド以西のユーラシア大陸全域とアメリカにおいては代表的なボードゲームの一つである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "盤双六の衰退後、日本ではバックギャモンは西洋の珍しいゲームとして知識のみが伝わっている状態が続いていたが、戦後に入ると徐々に競技者が増えはじめ、1970年代には日本バックギャモン協会が設立され、1974年からは日本選手権が毎年開催されるようになった。日本バックギャモン協会によれば、現在、競技人口は欧米を中心に3億人ほどが存在するという。日本の競技者は、推定20万人ほどであるが、世界ランキングの上位者を何人も輩出しており、レッスンや試合の報酬などで生計を立てるプロも存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "バックギャモンの大会も各地で開催されており、モナコのモンテカルロでは個人戦の世界バックギャモン選手権が毎年開かれている。2021年までに望月正行、矢澤亜希子、鈴木琢光が優勝している。個人戦のほか、ネット上での国別対抗戦も存在しており、2020年大会では日本が優勝した。", "title": "歴史" } ]
バックギャモン(Backgammon)は、基本的に2人で遊ぶボードゲームの一種。盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。世界最古のボードゲームとされるテーブルズの一種である。西洋双六(せいようすごろく)ともいう。日本には飛鳥時代に伝来し、雙六・盤双六の名で流行したが、賭博の一種であるとして朝廷に禁止されている。 サイコロを使用するため、運が結果に対する決定因子の一つであるものの、長期的には戦略がより重要な役割を果たす。プレイヤーはサイコロを振るたびに着手可能な選択肢の中から、相手の次の可能性のある手を予測しながら自手を選択し、自分の駒を移動させる。現代のルールは20世紀初頭のニューヨークを起源とするとされ、ゲーム中に勝ち点の点数(後述)をレイズする(上げる)ことができる(ダブリングキューブを参照)。 チェスと同様に、計算機科学者の興味の対象として研究がなされ、それにより作り出されたソフトウェアは、人間の世界チャンピオンを破る程に発展している。
{{脚注の不足|date=2021-04-09}} {{Infobox game | italic title = no | title = バックギャモン | image_link = [[ファイル:Backgammon lg.png|200px]] | image_caption = 1枚のボードと15個の駒2組、2個のサイコロ2組、1個のダブリングキューブ、2個のダイスカップからなるバックギャモンセット | years = 約5千年前から現在 | genre = [[ボードゲーム]]<br />[[すごろく|レースゲーム]]<br />[[サイコロゲームの一覧|サイコロゲーム]] | players = 2 | setup_time = 10 - 30秒 | playing_time = 5 - 60分 | random_chance = 中程度(サイコロ) | skills = [[ストラテジーゲーム]]、戦術、[[数え上げ]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}、[[確率]] }} '''バックギャモン'''(Backgammon)は、基本的に2人で遊ぶ[[ボードゲーム]]の一種。盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。世界最古のボードゲームとされる{{仮リンク|テーブルズ|en|Tables (board game)}}の一種である。'''[[西洋]][[双六]]'''(せいようすごろく)ともいう。日本には[[飛鳥時代]]に伝来し、'''[[雙六]]'''・'''[[盤双六]]'''の名で流行したが、[[賭博]]の一種であるとして[[朝廷 (日本)|朝廷]]に禁止されている。 [[サイコロ]]を使用するため、[[運]]が結果に対する決定因子の一つであるものの、長期的には[[戦略]]がより重要な役割を果たす<ref>{{cite web|url=http://backgammon.org/articles/backgammonluckskill/|title= "Backgammon Luck ''vs'' Skill"|publisher=backgammon.org|accessdate=2014-08-25}}</ref>。プレイヤーはサイコロを振るたびに着手可能な選択肢の中から、相手の次の可能性のある手を予測しながら自手を選択し、自分の駒を移動させる。現代のルールは[[20世紀]]初頭の[[ニューヨーク]]を起源とするとされ、ゲーム中に勝ち点の点数(後述)をレイズする(上げる)ことができる([[バックギャモン#ダブルおよびダブリングキューブ|ダブリングキューブ]]を参照)。 [[チェス]]と同様に、[[計算機科学|計算機科学者]]の興味の対象として研究がなされ、それにより作り出された[[ソフトウェア]]は、人間の世界チャンピオンを破る程に発展している。 [[File:Backgammon 001.jpg|thumb|バックギャモンのボード]] == 遊び方 == [[画像:Bg-movement.svg|サムネイル|駒の初期配置と進行方向]] === 盤 === 盤は、24箇所の地点(ポイント)と、一時的にゲームから取り除かれた駒を置く場所(バー)、ゴールからなる。各ポイントは、1から24までの番号を付けて呼ばれる。駒の進行においてゴールに最も近いものが第1ポイント、最も遠いものが第24ポイントである。双方のプレイヤーにとって、駒の進む向きは逆であるため、自分と相手ではポイントの番号も異なるものとなり、例えば自分の第1ポイントは相手の第24ポイントである。第5ポイント(相手にとっての第20ポイント)は'''ゴールデンポイント'''といい、ここのポイントの確保(後述)はゲームの流れを左右することが多い。 === 駒の配置 === 各プレイヤーは、第6ポイントに5つ、第8ポイントに3つ、第13ポイントに5つ、第24ポイントに2つの駒を初期配置する。第24ポイント(相手側にとっての第1ポイント)に配置された駒を'''バックマン'''という。 === 先手の決定 === 日本では、まず、最初に双方が1つずつの[[サイコロ]]を振り、大きい目が出た方が先手となる。このとき出た目はそのまま先手の最初の出目として使われる。双方が同じ目の場合には再び振りなおす。米国などでは、コイントスで決めるのが習慣になっている州もある。ただし、コイントス法は一部の団体が批判している{{要出典|date=2017年8月}}。 === 駒の移動 === * 2つの[[サイコロ]]を振り、出た目の数だけ前方(ポイントが少ない方向)に駒を動かす(ポイントが多い方向には動かせない)。同じ駒を2回動かしても、それぞれのサイコロで異なる駒を動かしても構わない。また原則として出た目は最大限使わなければならない(例えば4と5の目の際にある駒を3つ進めることはできない、ただし、後述のように駒をゴールさせる場合に限り例外がある) * [[ぞろ目]]が出た場合には、通常の2倍(すなわち、ぞろ目となっている数の4回分)駒を動かすことができる。この場合も4つの駒をそれぞれ動かすことも、1つの駒を目の4倍分進めることも可能である。 * 同じポイントに敵と味方の駒が同時に存在することはない。 * 移動しようとするポイントに敵の駒が2つ以上存在する場合、そのポイントには移動できない(これを'''ブロック'''という)。ブロックを作ることを、ポイントを作る、あるいはポイントを確保するという。なお1つの駒を2つのサイコロの目で動かすときは、サイコロの目が合計されるのではなく、2回の動きを続けて行うとみなされるところに注意しなくてはならない。例えば3と5の目が出たときに、ある駒の8つ先のポイントが空いていたとしても、3つ先と5つ先にともに敵のブロックがあればその駒は動かせない。 * 敵の駒が1つだけあるポイント(これを'''ブロット'''という)に駒を移動した場合、それまであった敵の駒を一時的にゲームから取り除かれる。これを'''ヒット'''という。 * ヒットされた駒はバーに移動させる。次回以降の駒移動のサイコロの目を使って、相手の第1〜6ポイント(自分の第24〜19ポイント)に再配置する。すなわち、バーは自分の第25ポイントと考えてよい。 * バーにある自分の駒は最優先で動かさなければならない。バーにある駒を動かすことを'''エンター'''という。 * すべての駒の移動先がブロックされている場合、その回には全く移動できない。これを'''ダンス'''という。特に、バーに駒があり、相手インナー(第19〜24ポイント)がすべてブロックされていて駒を動かせない状態を'''クローズアウト'''と呼び、この場合サイコロを振ることもできない(いかなる目が出てもダンスになってしまう) * ルールに従った移動が可能な限り、サイコロの目を可能な限り多く使わなければならない。目の両方が動かせるが、片方を使った場合に他方が使えない場合には、大きい目で動かさなければならない。 * 駒がゴールするためには、自分の駒がすべてが第1〜6ポイント(自分のインナー)になければならない。自分の駒を第6ポイント以内に全て集めることを'''ベアリングイン'''という。 * ベアリングインが完了すると、自分の駒をゴールさせることができる。これを'''ベアリングオフ'''という。ベアリングオフした駒は、盤上から取り除かれ、その後ゲーム中で使用することはない。 * 一部の駒がベアリングオフした状態であっても、自分の駒がヒットされた場合、その駒が自分のインナーに戻る(つまり再度ベアリングインが完了する)まで、駒をゴールさせることはできない。 * サイコロの目の数通りに移動できる駒がない場合は、より大きな数の目であってもゴールが可能である。たとえば、自分の駒が第2ポイントに2つ、第3ポイントに1つ、第4ポイントに2つある場合で、出た目が5と6であった場合は第3ポイントと第4ポイントの駒をゴールさせることができる。 === 基本的なゲームポイント === ここで言うポイントとは、勝ち点のことである。このゲームのポイントはその勝ち方によって3通りに分かれる。 # 相手の駒がゴールし始めている状態で勝利した場合、勝者は1ポイントを獲得する。これを'''シングル'''という。 # 相手の駒が1つもゴールしていない状態で勝利した場合、勝者は2ポイントを獲得する。これを'''ギャモン'''という。 # 上記の場合でさらに相手の駒がバーもしくは勝者側のインナーに残っていた場合、勝者は3ポイントを獲得する。これを'''バックギャモン'''と呼ぶ。 ''ダブル''(後述)がなされている場合には、ダブリングキューブが表示する倍率をこれに乗じたものとなる。 競技会ルールでは、5以上の奇数ポイントを統一して設定し、そのポイントを先取した者の勝利としてゲームを行うことが普通である。ただし、ダブルがあるために、一度のゲームで勝敗が決まることもある。なお、[[デュース]]のルールは一般的でない。 === ダブルおよびダブリングキューブ === [[File:Doubling-Cube.jpg|thumb|ダブリングキューブ]] 手番プレイヤーは、試合中移動のサイコロを振る前にそのゲームの得点を倍にする「ダブル」を提案できる。相手プレイヤーがダブルを拒否した場合はゲームは終了となり、ダブルの提案をした側が1点勝ちとなる。ダブルの提案を受けることを'''テイク'''、断ることを'''パス'''という。 ダブルには2つの意義があり、ポイントを2倍にするという意義と、大勢が決しているゲームを終わらせるという意義がある。 特に後者について、ダブルが導入される以前は、勝敗が完全に確定するまで、優勢な側は単なる作業として、劣勢な側はわずかな逆転の望みに懸けて、ただダイスを振り続けるという実質的にほとんど意味のない行動を双方がしなければならなかった。ダブルの導入は、前述の状況を解消し、ゲームのスピーディー化をもたらしたという意味で重要であり、ダブルがこのゲームを絶滅から救ったとまで言われるほどである。 ダブルは通常優勢な側のプレイヤーが提案するため、ダブルが導入されたことで的確な形勢判断を行なうことがプレーヤーに求められるようになり、ある局面においてダブルをかけるか否か、ダブルをかけられた際に受けるか否かの判断を'''キューブアクション'''と言い、駒の正しい動かし方('''チェッカープレイ'''という)とは異なる能力が求められるようになったことが本ゲームの複雑性を増し、より奥が深くなることとなった。 双方がダブルをかけていない状態においては、どちらのプレイヤーがかけてもよいが、2回目以降のダブル(リダブル)は前回ダブルを受け入れた側のプレイヤーにだけかける権利がある。すなわちダブルを提案して同意された場合、相手にだけリダブルの権利が生じることに注意が必要である。リダブルを拒否した場合、拒否した側の2点差負けとなる。双方がダブルをかけ合った場合、得点率は4倍、8倍、16倍、……と倍々で増加してゆくことになる。 ''ダブリングキューブ''と呼ぶ2、4、8、16、32、64の記されたサイコロを使って現在の倍率を表示し、そのキューブの置かれた位置によって次にダブルをかける権利のあるプレイヤーを示す。初期状態ではキューブは中央に置かれ、また通常のダブリングキューブには1の面がないため、64の面を上にしてその代わりとする。 ダブルを交互にかけ合い続けた場合、理論的には倍率は際限なく上がることになるが、実際にはそこまでダブルをかけ合うほどの連続逆転は起こりがたく、また競技会ルールでの必要得点などの面からもそのようなダブルには意味のないことが多い。これ以上ダブルの倍率を上げることが無意味になった状態や、クロフォードルール(後述)が適用されているゲームのことを'''キューブデッド'''という。128倍以上の高倍率が記された特殊なダブリングキューブも存在するが一般的ではないため、このような倍率が実際に発生した場合には、少なくとも競技者双方にとって紛らわしくないような表示を適宜決める必要がある。 ダブルに関して、「25%理論」と呼ばれる理論がある。これは、逆転の確率が25%以上ある場合は、ダブルを受け入れた方がよいというものである。 たとえば、逆転確率が25%の全く同じ状況が4回発生したとする。もし、4回ともダブルを受けずに敗北を宣言すると4回とも失点1なので、合計は失点4となる。もし、4回ともダブルを受け入れる場合は4回のうち1回は勝って得点2、残り3回は負けて失点6となり、合計は失点4となる。よって、逆転の確率が25%の場合、失点の合計はダブルを受けても受けなくても変わらない。このため、勝率が50%を超える場合はダブルをかけるほうが有利であり、またダブルをかけられたほうは逆転の可能性が25%を超えるならばダブルを受け入れる方がよいという、興味深い設定となっている。 ただし、これは盤面の特殊な状況(例えば、負ける場合はギャモン負けとなる可能性が高い状態など)を考慮せず、また持ち点が無限にあると仮定した場合の戦略であり、実際にはそのときの盤面や、競技会ルールの場合には現在の持ち点を考慮してダブルの是非を決めることになる。また、ダブルをかけるということは、相手が受け入れた場合、次にダブルを提案する権利が相手にだけある状態になることでもあり、これによって戦略上の不利が生じる場合もあるので注意が必要である。 ダブルに関して、以下のような変則ルールが存在する。 ; クロフォードルール : 競技会ルールで、どちらかのプレイヤーが先にマッチポイント(あと1点で勝利を得る状態)になった場合、次の1ゲームに限りダブルをかけられない、というルール。マッチポイントを得たプレイヤーの優位性を保護するためのルールであり、ほとんどの競技会で採用されている。ただし、クロフォードルールは1ゲームに限り適用され、そのゲームが終わると解除され、ダブルをかけることができるようになる。例えば、5点先取のマッチで、Aが1点、Bが4点の場合、Aはダブルを提案できないが、そのゲームでAがシングル勝ちし、Aが2点、Bが4点となると依然BのマッチポイントであるがAはダブルを提案できる。 ; オートマチックダブル : 先手を決める最初のサイコロが双方同じ目となった場合、ダブルの倍率を2倍にしてから振り直す、というルール。先手が決まるまで、同じ目が出続ければさらに倍々となってゆく。上がるのは倍率のみで、最初のダブルをかける権利は変わらず双方にある。競技会では通常採用されないが、米国の一部地域では一般的なルールであり、この地域を経由して日本に伝えられたことにより、書籍によっては一般的なルールであると解説されていることがある。 ; ビーバー : ダブルを提案されたプレイヤーが通常のダブルを受ける選択の他に、そのさらに2倍の倍率を逆提案できるルール。すなわち倍率はダブルをかける前の4倍となり、次のダブルをかける権利はビーバーで受けた、すなわち最初にダブルを提案した側が持つ。前述の25%理論と同様の設定では、双方が勝率を正しく判断しているならばビーバーで受けるべきダブルがかけられることはありえないので、ビーバーで受けるのは主に、相手の勝率計算が誤っていると考えた場合になる{{efn|ただし、このゲームは1ゲームだけで勝敗が決まるものではなく、ポイントマッチであるため得点の状況によっては、ビーバーで受ける方が得になる状況も有り得る。例えば9点先取のマッチでAが7点、Bが5点の状態で、Aがダブルを提案した場合、Bはビーバーで受けるのが絶対優位戦略となる。}}。ビーバーを逆提案された場合、当初ダブルを提案した側が拒否することも可能であり、この場合はビーバーを逆提案したプレイヤーの1点差勝ちとなる。競技会では通常採用されない。 ; ジャコビー : ダブルがかけられていない場合、ギャモン勝ちやバックギャモン勝ちも1点勝ちするルール(ダブルがかけられると、ギャモン勝ちは4点、バックギャモン勝ちは6点となる)。ダブルをかけて降りられては1点しか得られないため、ギャモン勝ちが見えている場合(このような状況を'''トゥーグッドトゥーダブル'''という)ダブルをかけずに進行することになり、ダブルの趣旨であるゲームの迅速化が果たされないので、このようなギャモンを認めずにさらなる迅速化を図る目的がある。ただし、勝敗がほぼ決してからのギャモンの成否も戦術のうち(次項のギャモントライを参照)といえるため、競技会では通常採用されないが一定の得点で勝敗を決しない方法('''マネーゲーム'''という)ではほぼ確実に採用される。 == 基本的な戦略 == 基本的なゲーム戦略としては、 # 相手からのヒットを避ける(ブロットを作らない)ようにして駒を進めること # ヒットした相手の駒を再配置させない、または再配置後の移動が困難になるよう自分の駒を移動させることにある。 ただし、サイコロの目によって採りうる戦略は左右されるため、状況により随時その戦略を変えなくてはならない。 そのため以下のような戦術がある()内は別名。 * '''プライミング''':連続した6つのポイントをブロック(これを'''プライム'''という)し、その先にある相手の駒を進めないようになった状態もしくは、4~5個連続したブロックポイント(これを'''セミプライム'''という)をつくることで相手のバックマンを捉えて、動きを阻み、相手がインナーの防御を壊さざるを得ない状況(動かせる駒がある場合は動かさなければならないため)を作る。この結果としてインナーの駒が進み過ぎてしまった状態を'''ナッシングボード'''という。 * '''ブロッキング'''('''ホールディング'''):相手インナーに複数のポイントを確保し、ベアリングイン途中で生じたブロットをヒットする。自分のインナーにセミプライムを形成できていると効果的である。 * '''アタッキング'''('''ブリッツ'''):序盤から積極的に相手をヒットし、プライム・クローズアウトにより相手をねじ伏せる。相手のコマを連続してヒットし続けることで、相手のバックマン2個をバーの上に載せ続け、相手の行動を完全に封殺する戦法である。勝つときは大抵ギャモン勝ちとなるという決まると爽快な戦法である。ただし、一度失敗すると取り返しがつかないこともよくあり、細心の注意が必要とされる。 * '''バックゲーム''':不利な状況において相手インナーの深いポイントを複数確保し、逆転を狙う。失敗すればギャモン負け必至の背水の陣の戦略であるが、それだけに成功したときはアタッキングとは違う意味での快感がある。 * '''ランニング''':序盤から大きい目やゾロ目が連続して出てピップカウントの優位を確保した場合、早々に双方の駒が完全にすれ違いヒットされる可能性のない状態(これを'''ノーコンタクト'''という)に持ち込んで、安全勝ちを目指す。ギャモン勝ちは狙いにくいが優勢を確保してから、逆転される可能性が低く安全性の高い戦略である。 ** '''ギャモントライ''':勝利が確実な状況になった際に、ダブルを提案せずギャモン勝ちを目指す戦略。逆に敗北が確実な状況でギャモン負けを回避する戦略を'''ギャモンセーブ'''という。ギャモントライやギャモンセーブは勝負結果自体は見えているため副次的なものと考えられがちであるが、その成否は0.5ゲーム分に相当する価値を持つため、これらも重要な戦略である。 == 形勢判断 == 形勢判断の材料として一般的に用いられるのがピップカウントである。これは、自身のコマのゴールからの距離の合計値であり、通常は小さい方が有利とされる。また一般にインナーまで多くの駒を進めている側は優勢であるが、上記の通り相手インナーにブロックポイントを作る戦術もあり、またサイコロの目次第での大逆転が有り得るため[[チェス]]のような明白な優劣がついている状態は起こりにくい。大逆転につながるようなサイコロの目を'''ジョーカー'''という。 == 対コンピュータ == ルールが比較的シンプルなこともあり、[[コンピュータ]]の黎明期からさまざまなプログラムが作成され、およそ2000年前後に人間超えを果たした<ref>[https://web.archive.org/web/20210111010848/https://blog.goo.ne.jp/mochy3_8/e/51a5cc147458958345ca54282b0197d9 バックギャモンBotと人間、比較に意味はあるのか? - Mochy's Backgammon Today]</ref>。さらに、解析ソフトウェアの進歩により戦略に革命を起こした。 有名なのはSnowie<ref>{{cite web|url=http://www.bgsnowie.com/|title=Backgammon Snowie - the new software by Snowie Group|accessdate=2014-08-25}}</ref>、GNU Backgammon<ref>{{cite web|url=http://www.gnubg.org/|title=GNU Backgammon|accessdate=2014-08-25}}</ref>(略称gnubg)、eXtreme Gammon<ref>{{cite web|url=http://www.extremegammon.com/|title=eXtreme Gammon, backgammon learning and analyzing program|accessdate=2014-08-25}}</ref>(略称XG)である。eXtreme Gammonは日本では[[日本バックギャモン協会]]から有償で販売されている。GNU Backgammonは[[自由ソフトウェア]]であり無償である。ネット上での対戦も容易であり、PlayOKやBackgammon GalaxyやBackgammon Studio Heroesなどが活発にプレイされている。 サイコロを使う偶然性があり、ある局面の有利不利、あるいはある局面での動かし方についてその局面から何度もプレイしてみても正確な評価が非常に難しいことがあるが、Variance Reduction<ref>{{cite web|url=http://www.backgammon.gr.jp/theory/var.html|title=Variance Reduction|author=David Montgomery著、仙石祥一郎 訳|date=2000-06-30|accessdate=2014-08-25}}</ref>([[分散 (確率論)|分散]]低減)という手法を用いられるようになり、解析ソフトウェアは非常に精度の高い局面評価、最善手の検索が可能となった。 解析ソフトウェアを使用すると、ある局面の有利不利の評価、最善手が分かるようになる。しかし何故その局面がそう評価されるのか、何故それが最善手なのかは教えてくれない。教えてくれるのは「この局面の勝率は63%だ」とか、「最善手はこの動かし方で、勝率が3%下がる次善手はこれ」といった情報である。そのため、人間がその情報を元に上達するためには局面の解析結果から人間的思考手順を導き出さなければならない。 == 歴史 == === 古代 === ==== セネト ==== [[Image:P9210016.JPG|thumb|[[アメンホテプ3世]]の墓から出土したセネト。[[ニューヨーク市]][[ブルックリン美術館]]蔵]] 原型は紀元前3,500年頃の[[古代エジプト]]でプレイされた[[セネト]]と呼ばれる10枡3列の遊戯盤ではないかという説があるが、現代のものとは見た目もルールも大きく異なる<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p33-34 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。[[ツタンカーメン|ツタンカーメン王]]の墓からもセネトの道具が発掘されている<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p28 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。元々は古代エジプト人にとって最大の関心事であった「死と再生」の過程が盤上に描かれるなど、セネトは[[エジプト神話]]及び[[宗教]]と結びついたものであった。だが、[[エジプト文明]]の衰退とともに宗教色が薄れ、[[エジプト末期王朝]]には宗教的な絵や[[ヒエログリフ]]が外されていった。これがかえって[[古代ギリシア|ギリシア]]や[[古代ローマ|ローマ]]に受け入れられていく素地となっていった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p54 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 ==== ドゥオデキム・スクリプタ ==== [[ローマ帝国]]では12枡3列の{{仮リンク|ドゥオデキム・スクリプタ|en|ludus duodecim scriptorum}}(「12本の線」という意味)<ref>「古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活」p188-189 アルベルト・アンジェラ著 関口英子訳 河出書房新社 2012年4月20日初版発行</ref> というゲームが盛んに行われていた<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p211 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。 === 12枡2列化 === ==== タブラ ==== [[File:Tabula - boardgame - Zeno game.svg|thumb|300px|5世紀後半、[[東ローマ帝国]]皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]が遊んだタブラの棋譜。この時期にはタブラが12枡2列化していたことを示している<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p66-67 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>]] ドゥオデキム・スクリプタは遅くとも[[5世紀]]頃までに現在のものと同じ様に12枡2列となり、[[タブラ (ゲーム)|タブラ]]と呼ばれ[[中世]][[ヨーロッパ]]で広く遊ばれるようになった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p66 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。13世紀頃からはタブラの他に各地域独特の呼称が生まれ、ドイツではプッフ、フランスではトリックトラックなどと呼ばれるようになった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p74-75 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。だが、[[賭博]]のための遊戯としての色彩が強まるとともに[[キリスト教]]的な観点から批判する声も高まり、[[15世紀]]にはタブラの廃絶運動が起こった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p79-80 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。だが、聖俗問わずタブラを好む人が多かったために完全な廃絶には至らなかった。 {{see also|タブラ (ゲーム)}} ==== ナルド ==== [[中近東]]方面でもギリシア・ローマの影響を受けて、このゲームは{{仮リンク|ナルド (ゲーム)|en|Nard (game)|label=ナルド}}(Nard)の名前で広がった。ナルドは12枡2列であるため、ローマなどの西方から伝えられたと考えられているが、一方でナルドが西方ヨーロッパに伝えられ、トリックトラックとして遊ばれるようになったとの説も存在している<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p96-99 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。ナルドは賭博と深い関係があったために[[イスラム法学者]]からはたびたび強い非難を浴びたものの、それにもかかわらずイスラム化した中近東全域で盛んに遊ばれていた<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p101-105 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。ナルドはさらに東に伝播したものの、[[インド]]では他のゲームに押されてほとんど広がらなかった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p108 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 ==== 雙陸 ==== ナルドは北にも伝播し、中央アジアで普及したあと、[[シルクロード]]を伝って[[中国]]でも[[6世紀]]には{{仮リンク|雙陸|zh|雙陸}}(シュアンルー)の名前で広がった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p112-114 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。雙陸は伝来以降賭博や遊技として親しまれてきたが、[[清]]の時代になると豪華な雙陸盤が作られる一方で、他のゲームに押されてゲームとしては衰退していった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p119 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 ==== 雙六 ==== [[File:盤双六.JPG|thumb|盤双六の盤]] 日本への伝来は[[7世紀]]で、[[持統天皇]]の治世に早くも雙六([[すごろく#盤双六|盤双六]])賭博禁止令が出されている<ref>「賭博3」(ものと人間の文化史40-3)p5 増川宏一 1983年10月5日初版第1刷発行</ref>。盤双六は古代・中世を通じ賭博として非常に人気があり、広く遊ばれたものの、賭博の一つとしてしばしば禁令が出されている。西洋型は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に初めて伝来したが、盤双六に馴染んだ日本人には受け入れられなかった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p234-235 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 一方戦国期には[[碁]]や[[将棋]]の隆盛が目立つようになり、賭博性を強めた盤双六の地位と人気は緩やかに低下し始めた<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p235-236 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。それでも18世紀末までは盤双六のプレイヤーは多かったものの、この時期に盤双六の賭博としての人気は弱まり、各地の賭博禁令から盤双六の指定が外されるようになっていく<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p274-275 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。双六盤そのものは江戸期を通じ嫁入り道具の一つとして婚姻の際に持参されることが多かったものの<ref>https://www.yodoko-geihinkan.jp/2016/03/18/sb-15/ 「雛人形のお道具」ヨドコウ迎賓館 2016年3月18日 2021年7月2日閲覧</ref>、19世紀に入ると盤双六はかなり衰退し、実際の遊技方法を知らないものが大半となっていた<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p284 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。[[明治維新]]を迎えると衰退はさらに顕著になり、[[明治]]末年から[[大正]]期頃にはプレイヤーの不在によりほぼ消滅した<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p287-289 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 === バックギャモン === イギリスでは、16世紀にタブラが禁止されたが、密かにプレイされていた。1650年にイギリス版のタブラはbackとgamen(中英語でgameの意味)の2つの単語を組み合わせてバックギャモン (Backgammon) と命名された<ref>{{cite book |chapter=backgammon |title=The Oxford English Dictionary |edition=Second |year=1989}}</ref>。18世紀に入るとバックギャモンはほぼ現代のものと同一のものとなっており、1753年にはエドモンド・ホイルによってルールが整理・確立された<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p87 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。 賭博としてのバックギャモンは18世紀末には衰退の傾向が見られ、19世紀に入ると、カードなどに取って代わられる形で賭博場では徐々に遊ばれなくなっていき、家庭などで遊ばれる純粋なテーブルゲームとなっていった<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p88-91 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。その後、ヨーロッパでは[[20世紀]]に入ると、停滞の様相を呈していたが、1920年代にアメリカで発明された「ダブリングキューブ」が導入されてゲーム性が高められると、再び盛んになり始めた<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p295 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>。今日においてもインド以西の[[ユーラシア大陸]]全域とアメリカにおいては代表的なボードゲームの一つである。 盤双六の衰退後、日本ではバックギャモンは西洋の珍しいゲームとして知識のみが伝わっている状態が続いていたが、戦後に入ると徐々に競技者が増えはじめ、1970年代には[[日本バックギャモン協会]]が設立され<ref>「すごろくⅠ」(ものと人間の文化史79-Ⅰ)p292-293 増川宏一 法政大学出版局 1995年7月7日初版第1刷発行</ref>、1974年からは日本選手権が毎年開催されるようになった<ref>「バックギャモン・ブック」p206 日本バックギャモン協会編著 2002年10月20日初版発行</ref>。日本バックギャモン協会によれば、現在、競技人口は欧米を中心に3億人ほどが存在するという。[[日本]]の競技者は、推定20万人ほどであるが、世界ランキングの上位者を何人も輩出しており、レッスンや試合の報酬などで生計を立てるプロも存在する<ref>{{cite news |title=今から世界一も夢じゃない? 日本はバックギャモン強豪|newspaper=[[朝日新聞]] |date=2021-3-13 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP3711L2P2BUCVL03P.html|accessdate=2021-3-14 }}</ref>。 バックギャモンの大会も各地で開催されており、[[モナコ]]の[[モンテカルロ]]では個人戦の[[世界バックギャモン選手権]]が毎年開かれている<ref>「バックギャモン・ブック」p91 日本バックギャモン協会編著 2002年10月20日初版発行</ref>。2021年までに[[望月正行]]、[[矢澤亜希子]]、[[鈴木琢光]]が優勝している。個人戦のほか、ネット上での国別対抗戦も存在しており、2020年大会では日本が優勝した<ref>https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202101250000145.html 「「バックギャモン」国別対抗戦、日本8年ぶり優勝」日刊スポーツ 2021年1月25日 2021年6月23日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 増川宏一『すごろく <small>ものと人間の文化史79</small>』([[法政大学出版局]]、1995年) ISBN 4-588-20791-1 * 日本バックギャモン協会『バックギャモン・ブック』([[河出書房新社]]、2002年) ISBN 978-4-309-26597-1 * 日本バックギャモン協会『改訂新版 バックギャモン・ブック』([[河出書房新社]]、2017年) ISBN 978-4-309-27841-4 == 関連項目 == * [[矢澤亜希子]]…プロフェッショナルバックギャモンプレイヤー。日本人女性初、2014年および2018年の世界チャンピオン。 * [[望月正行]]…日本人初の世界チャンピオン。 * [[武宮正樹]]…バックギャモンを愛好する[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]]として有名。 * [[森雞二]]、[[櫛田陽一]]、[[森内俊之]]、[[片上大輔]]…バックギャモンを愛好する[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]として有名。 * [[すぎやまこういち]]…日本バックギャモン協会名誉会長。[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]の『バックギャモン』では一部の曲の作曲を担当した。 * [[木原直哉]]…[[ポーカー]]選手になる前、バックギャモンの選手だった。 * [[テーブルゲーム]] * [[ボードゲーム]] * [[すごろく]] * [[パチーシ]] * [[カジノ]] ** [[カジノゲーム]] * [[妖逆門]]…[[週刊少年サンデー]]に連載されていた漫画。 * [[森雪之丞]]…バックギャモンファン、[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]の楽曲でダックを組んだ[[大瀧詠一]]と初対面時、バックギャモン好きと言う事からバックギャモンの置いてある喫茶店で会い、大瀧もバックギャモンファンである事から意気投合している。 == 外部リンク == {{Commonscat|Backgammon}} {{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}} * [http://www.backgammon.gr.jp/ 一般財団法人日本バックギャモン協会] * [http://www.bgsnowie.com/ Backgammon Snowie] {{en icon}} * [https://www.extremegammon.com/ eXtreme Gammon] {{en icon}} * {{Kotobank}} {{サイコロ}} {{Tables games}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつくきやもん}} [[Category:バックギャモン|*]] [[Category:ボードゲーム]]
2003-02-17T12:30:06Z
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太田垣康男
太田垣 康男(おおたがき やすお、1967年3月31日 - )は、日本の漫画家。男性。大阪府出身。血液型A型。 高校卒業後に19歳で上京し、尾瀬あきら、山本おさむのアシスタントを経験。アフタヌーン四季賞でデビュー。『ミスターマガジン』にて新人賞受賞。アクション新人賞受賞。 代表作は、近未来の宇宙飛行士達を描いた『MOONLIGHT MILE』、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』など。 SF作品(小説、映画)、メカ・ロボットものアニメのファンである。 2014年、漫画制作業を法人化、株式会社スタジオ・トアを設立し、代表取締役となる。 2023年6月、日本SF作家クラブ会員となる。
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太田垣 康男は、日本の漫画家。男性。大阪府出身。血液型A型。
{{複数の問題|存命人物の出典明記=2022年12月9日 (金) 00:15 (UTC)|一次資料=2022年12月9日 (金) 00:15 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 太田垣 康男 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1967|3|31}} |生地 = {{JPN}}・[[大阪府]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = |ジャンル = |代表作 = 『[[MOONLIGHT MILE]]』<br/>『[[機動戦士ガンダム サンダーボルト]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''太田垣 康男'''(おおたがき やすお、[[1967年]][[3月31日]]<ref>{{Cite tweet|user=ohtagakiyasuo|number=1509184614341898240|title=55歳の誕生日を迎えました。|date=2022-03-31|accessdate=2022-12-09}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[男性]]。[[大阪府]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]A型。 == 来歴 == 高校卒業後に19歳で上京し、[[尾瀬あきら]]、[[山本おさむ]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経験。[[アフタヌーン四季賞]]でデビュー。『[[ミスターマガジン]]』にて新人賞受賞。[[漫画アクション|アクション新人賞]]受賞。 代表作は、近未来の宇宙飛行士達を描いた『[[MOONLIGHT MILE]]』、『[[機動戦士ガンダム サンダーボルト]]』など。 SF作品(小説、映画)、メカ・ロボットものアニメのファンである。 2014年、漫画制作業を法人化、株式会社スタジオ・トアを設立し、代表取締役となる。 2023年6月、[[日本SF作家クラブ]]会員となる<ref>[https://twitter.com/sfwj/status/1674384075635974147 SFWJのツイート]</ref>。 == 作画の特徴 == * MOONLIGHT MILEでは、当初メカを描く際に、まず[[レゴ]]ブロックで造形しそれをスケッチする方式を取っていた。 * 効率を上げるため[[CG]]やトーンを除いて、[[ペン]]を使わずに[[鉛筆]]だけで漫画を描くという手法を用いる。 * [[LightWave]]で3Dモデルを作成し、メカ作画に活用している。 * デジタル作画は主に[[ComicStudio]]、[[Adobe Photoshop|Photoshop]]を使用している。 * 『機動戦士ガンダム サンダーボルト』連載中の2018年末に[[腱鞘炎]]の悪化により従来の細密な描画が不可能になったとして、画風を大幅に簡略化している。 == 作品リスト == * My Revolution - 『[[漫画アクション]]』(1989年5/30号)掲載 * スモーキーモンキー - 『[[ミスターマガジン]]』(1991年1号)掲載 * 王様気分で行こう - 『漫画アクション』(1992年12/8号 - 1993年3/2号)短期集中連載 * 卒業ピース - 『ミスターマガジン』(1992年9号)掲載 * 沖縄ピース - 『ミスターマガジン』(1992年14号)掲載 * 長い夜 - 『ミスターマガジン ハッピー増刊』(1992年10/21増刊号)掲載 * [[一平]] - 『漫画アクション』(1993年17号〜1997年33号)連載 * 時差 ニューヨーク発ノースウエスト18便 - 『[[ビッグコミック]]』(1997年21号)掲載 * アンモナイトの夢を - 『漫画アクション』(1998年2/10号 - 3/10号)短期集中連載 * 一生! - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』(1998年34号 - 1999年42号)連載 * 東方機神傳承譚ボロブドゥール - 『[[コミックバウンド]]』(2000年2号 - 5号)連載 * [[MOONLIGHT MILE]] - 『[[ビッグコミックスペリオール]]』(2001年1号 - 2011年24号)連載 * DEEP - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(2002年22号 - 23号)掲載 * [[フロントミッションシリーズ#コミック作品|FRONT MISSION〜THE DRIVE〜]](作画:studio SEED) - 『[[ヤングガンガン]]』(2005年23号 - 2006年8号)連載 * [[フロントミッションシリーズ#コミック作品|FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE]](作画:C.H.LINE) - 『ヤングガンガン』(2007年6号 - 2012年2号)連載 * [[天体戦士サンレッド]]〜ヤダ☆カッコイイ♥SP2〜([[くぼたまこと]]との[[コラボレーション]]) - 『[[月刊ビッグガンガン|増刊ヤングガンガン]] Vol.4』(2008年10月)掲載 * [[曇天・プリズム・ソーラーカー]](作画:[[村田雄介]]) - 『[[ジャンプスクエア]]』(2010年10月号 - 2011年7月号)連載 * 機動戦士ガンダム サンダーボルト(原案:[[矢立肇]]・[[富野由悠季]]) - 『ビッグコミックスペリオール』(2012年8号 - )連載中 * [[宇宙軍士官学校]]シリーズ([[鷹見一幸]]著作) - 表紙イラスト(2012年7月発行 - ) * ロング・ピース - 『[[月刊ビッグガンガン|ビッグガンガン]]』(2013年1月)掲載 * 起動戦士ガンダム サンダーボルト 砂鼠ショーン - 『ビッグコミック』(2013年11号 - 12号)掲載 * [[宇宙のランデヴー]] ([[アーサー・C・クラーク]]著作)- 表紙イラスト(2014年2月15日発行) * 幕末ゴジラ - [[ビッグコミックオリジナル]]『ゴジラ増刊号』(2014年7月)掲載 * [[銀河ロケットにお葉書ください]](作画:[[太田優姫]]) - 『ビッグガンガン』(2015年5月 - 2016年9月)連載 * 機動戦士ガンダム サンダーボルト 外伝(原案:矢立肇・富野由悠季) - 『[[eBigComic4]]』(2015年12月 - )連載中 * [[超人ロック]]〜Never touch it〜 - 『[[ヤングキングアワーズ]]』(2017年5月号)掲載 * ひび - 『漫画アクション』(2017年9/19号)掲載 * ディアーナ&アルテミス - 『漫画アクション』(2020年1号 - 14号)連載 * [[太陽の牙ダグラム|Get truth 太陽の牙ダグラム]] - 『eBigComic4』(2021年5月 - )連載中 == アニメ化された作品 == * [[MOONLIGHT_MILE#テレビアニメ|MOONLIGHT MILE]](第1シーズン 2007年3月 - 6月、第2シーズン 2007年9月 - 12月、[[WOWOW]]、[[スタジオ雲雀]])- 原作 * [[機動戦士ガンダム_サンダーボルト#アニメ|機動戦士ガンダム サンダーボルト]](第1シーズン 2015年12月 - 2016年4月、第2シーズン 2017年3月 - 7月、WEB配信、[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]])- 漫画原作・デザイン * MAKE MY DAY(WEB配信、株式会社5) - 原作 == メディア出演 == * imagine-nation(2012年2月22日、[[NHKワールドTV]]) * [[杉田智和のアニゲラ!ディドゥーーン|杉田智和のアニゲラ!ディドゥーーン!!]](2014年4月3日、[[文化放送]]) * [[サラメシ]](2017年5月23日、[[日本放送協会|NHK]]) * [[ミュ〜コミ+プラス]](2019年4月24日、[[ニッポン放送]]) == インタビュー記事 == * コミッカーズ2003年冬号 Space SF対談 [[幸村誠]]×太田垣康男 * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/2887/ 新春企画『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男先生インタビュー(1/3)] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/2907/ 新春企画『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男先生インタビュー(2/3)] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/2911/ 新春企画『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男先生インタビュー(3/3)] * このマンガがすごい!WEB [https://konomanga.jp/interview/4281-2 【インタビュー】大人が読んで共感できるガンダムが作りたかった 『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男【前編】] * このマンガがすごい!WEB [https://konomanga.jp/interview/5090-2 【インタビュー】甲子園に行くように戦争に行く若い兵士を大人の目で見るリアル。 『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男【中編】] * このマンガがすごい!WEB [https://konomanga.jp/interview/5105-2 【インタビュー】言葉なんかいらない。太田垣流ネーム術大公開! 『機動戦士ガンダム サンダーボルト』太田垣康男【後編】] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/GUNDAM-Thunderbolt-making-interview-1/ 【動画】3DCG×漫画家の技!『機動戦士ガンダムサンダーボルト』の作画システムとは?/太田垣康男インタビュー(前編)] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/GUNDAM-Thunderbolt-making-interview-2/ 【動画】3DCG×漫画家の技!『機動戦士ガンダムサンダーボルト』の作画システムとは?/太田垣康男インタビュー(後編)] * ディストーム [http://www.dstorm.co.jp/dsproducts/lw3d/interview/profile13.html ユーザープロファイル 太田垣康男氏インタビュー] * コミックナタリー [https://natalie.mu/comic/pp/kimishini_ginga 太田垣康男×ヨコオタロウ対談] * eBigComic4 [https://www.ebigcomic4.jp/column/detail/20160909_interview.html サンダーボルトの世界観を太田垣康男が語り尽くす!!(動画)] * eBigComic4 [https://www.ebigcomic4.jp/column/detail/20161014_interview.html 著者・太田垣が明かす「外伝」の「秘密」(動画)] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/gundam-thunderbolt-road-to-100episodes/ 異例の24ページフルカラー掲載!『機動戦士ガンダムサンダーボルト』連載100回記念!! 関係者と振り返る連載100回までの歩み。] * コミスン [http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/gundam-thunderbolt-100ep-memorial-interview/ 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』連載100回記念! 太田垣康男インタビュー「100回目はフルカラーだから(^^)」] * ワコム [https://tablet.wacom.co.jp/article/drawing-with-wacom98 Drawing with Wacom 098/ 太田垣康男 インタビュー] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|ohtagakiyasuo}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おおたかき やすお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:ガンダムのデザイナー]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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2,219
伊藤悠
伊藤 悠(いとう ゆう、1977年 - )は、日本の漫画家。女性。東京都生まれ。大正大学出身。夫はイラストレーター兼漫画家の前嶋重機。 1999年、『ウルトラジャンプ』(集英社)27号第1回ウルトラコンペに無題のイラストで入選し、29号掲載の「影猫」でデビュー。その後『ウルトラジャンプ』にて「影猫」を短期連載。以後、『ウルトラジャンプ』を主な作品発表の場にする。「面影丸」で本格連載デビュー。以降は「黒白」「黒突」「護国の姫」など短期連載や読み切りをいくつか執筆。 佐藤大輔原作の「皇国の守護者」を連載開始、人気を博するが諸般の事情により物語の完結を見ずに連載終了となる。その後は読み切りを経て、2008年から2017年まで『月刊!スピリッツ』誌上にて「シュトヘル」を連載。2012年、同作で第16回手塚治虫文化賞新生賞受賞。
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伊藤 悠は、日本の漫画家。女性。東京都生まれ。大正大学出身。夫はイラストレーター兼漫画家の前嶋重機。
{{別人|伊藤ゆう|x1=別冊フレンド等で活動した}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 伊藤 悠 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1977||}} |生地 = {{JPN}}・[[東京都]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1999年]] - |ジャンル = [[青年漫画]] |代表作 =『[[シュトヘル]]』 |受賞 = 『ウルトラジャンプ』第1回ウルトラコンペ入選<br>第16回[[手塚治虫文化賞]]新生賞(『シュトヘル』) |サイン = |公式サイト = }} '''伊藤 悠'''(いとう ゆう、[[1977年]]<ref>第16回手塚治虫文化賞受賞者プロフィールより。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。女性。[[東京都]]生まれ。[[大正大学]]出身。夫は[[イラストレーター]]兼漫画家の[[前嶋重機]]。 == 経歴 == [[1999年]]、『[[ウルトラジャンプ]]』([[集英社]])27号第1回ウルトラコンペに無題のイラストで入選し、29号掲載の「影猫」でデビュー。その後『ウルトラジャンプ』にて「影猫」を短期連載。以後、『ウルトラジャンプ』を主な作品発表の場にする。「面影丸」で本格連載デビュー。以降は「黒白」「黒突」「護国の姫」など短期連載や読み切りをいくつか執筆。 [[佐藤大輔]]原作の「[[皇国の守護者]]」を連載開始、人気を博するが諸般の事情により物語の完結を見ずに連載終了となる。その後は読み切りを経て、[[2008年]]から[[2017年]]まで『[[月刊!スピリッツ]]』誌上にて「[[シュトヘル]]」を連載。[[2012年]]、同作で第16回[[手塚治虫文化賞]]新生賞受賞。 == 作品 == === 漫画作品 === * 面影丸(『[[ウルトラジャンプ]]』、[[集英社]]、2000年5号 - 12号、全1巻。[[2020年]]に読切版収録の新装版刊行) ** 面影丸読切版 (『ウルトラジャンプ』、集英社、2000年3月号 - 4月号) * [[皇国の守護者]](『ウルトラジャンプ』、集英社、2004年7月号 - 2007年10月号、原作:[[佐藤大輔]]、集英社、全5巻) * [[シュトヘル]](『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、[[小学館]]、2009年4・5号 - 2010年26号 → 『[[月刊!スピリッツ]]』、小学館、2010年9月号 - 2017年5月号、全14巻) * オオカミライズ(『ウルトラジャンプ』、集英社、2018年10月号<ref name="natalie180919">{{Cite news|publisher=株式会社ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/300231|title=伊藤悠の新連載がウルジャンで始動、分割統治された日本を舞台にしたSF|date=2018-09-19|accessdate=2018-09-19}}</ref> - 2021年10月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://ultra.shueisha.co.jp/nowonsale/nowonsale-4027/|title=ウルトラジャンプ2021年10月号|website=ウルトラジャンプ|publisher=集英社|accessdate=2021-09-18}}</ref>、集英社、全5巻) * 「歌屑」伊藤悠初期短編集(2020年刊行){{ISBN2|978-4-08-891493-0}} ** 新線 西部軌道(読切、『ウルトラジャンプ』、集英社、2008年3月号) ** 黒白(読切、『ウルトラジャンプ』、集英社、2001年10月号) ** 黒突(前中後編、『ウルトラジャンプ』、集英社、2002年6月号~8月号) ** 影猫(前中後編、『ウルトラジャンプ』、集英社、1999年創刊11月号~2000年1月号) ** 影猫II(読切、『ヤングジャンプ増刊』、集英社、1999年33号) ====単行本未収録作品==== * 影猫 (読切、『ヤングジャンプ増刊』、集英社、1999年29号) * 護国の姫 (フルカラー3P漫画、光文社、レミニ3003第2號) === アニメーション作品 === * [[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]](2015年、キャラクターデザイン原案) === 挿絵 === * [[天下一蹴 今川氏真無用剣]] (原作:[[蝸牛くも]]、『[[GAノベル]]』、[[SBクリエイティブ]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20120809160508/http://jumpsq.shueisha.co.jp/contents/topic-interview/ ジャンプスクエア・伊藤悠直撃インタビュー] * {{Twitter|itou_yu|伊藤悠}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いとう ゆう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1977年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:大正大学出身の人物]]
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植田まさし
植田 まさし(うえだ まさし、本名:植松 正通〔うえまつ まさみち〕、1947年5月27日 - )は、日本の漫画家。血液型はA型。4コマ漫画で知られ、作品に『まさし君』、『フリテンくん』、『コボちゃん』、『かりあげクン』、『おとぼけ課長』などがある。既婚。 サラリーマンの父(1990年に77歳で死去)のもと東京都世田谷区奥沢で生まれ、幼少の一時期、父の実家がある香川県木田郡三木町で育った。三人兄弟の末っ子。絵を描くのが好きな子供だったが、漫画については「友達の家とか床屋にあればちょっと読むくらい」「新聞に載ってる4コマ漫画しか知らなかった」と、あまり関心が無かった。 世田谷区立奥沢小学校、大田区立大森第七中学校を経て、都立田園調布高校に入学。同級生に後の宗教人類学者となる植島啓司がいた。田園調布高ではラグビー部に入部するが、激しい練習で体調を崩し2か月間の入院を余儀なくされる。植田はこの時、「みんなと一緒にやる仕事なんかは無理だろうな」として、「自分一人で何かをする仕事」を志望し、手始めにカメラマンを目指し、中央大学文学部哲学科に通うかたわら、大学のそばにあった東京写真専門学院(現:専門学校東京ビジュアルアーツ)の夜間部に通った。報道のカメラマン達に交じって学生運動の様子などを撮影していたが、学生たちがお祭り感覚で運動に参加している雰囲気を感じて「一気に冷め」、写真に対する情熱も失い、「志なかばで性格的に不向きだと判断した」。 大学卒業後、兄の経営する学習塾を手伝っていたが、兄らにいたずら描きの絵を褒められたことをきっかけにギャグ漫画の持ち込み活動を始める。 芳文社に持ち込んだ『ああ!チョンボ』でデビュー(まち・あみち名義、『長編漫画傑作集』1970年9月号)。デビュー後すぐ、編集者から「さも昔から漫画家としてやっていました、っていう名前」にすることを提案され、植田まさしに改名。 1982年4月1日から『読売新聞』朝刊に『コボちゃん』を連載。同作品は長期連載され、1992年から1994年まで読売テレビ・日本テレビ系列でテレビアニメ化され放映。2004年12月1日付から、日本の全国紙の4コマ漫画で初めてカラー化(海外衛星版は除く)され、2010年6月14日付で連載1万回を達成。2017年4月1日に連載35周年を迎えた。 還暦を過ぎても月60本以上の4コマ漫画作品を描くなど、長期にわたり精力的な活動を続けていることから「4コマ漫画の巨匠」的人物として扱われている。 1982年11月に見合い結婚しており、娘が2人と孫がいる。 2022年6月頃から、体調不良により一時的に仕事を休んでいたが翌2023年2月26日に前立腺癌の治療の為であった事を公表。同年3月1日付『コボちゃん』を皮切りに再開した。 2023年4月現在、日本漫画家協会理事。 作品により出版社が異なる。『おとぼけ課長』、『のんき君』、『まさし君』、『コボちゃん』、『すっから母さん』など、植田作品を収録した廉価版が『特盛!植田まさし』のタイトルで販売されている。 DVDソフト化されたのは2017年現在、2006年12月15日発売の「フリテンくん DVD-BOX」と、2016年12月21日発売の「アニメ「かりあげクン」DVD ほんにゃらBOX」とコボちゃんのみで、その他の作品はDVDソフト化されていない。 また、「かりあげクン」は2023年12月22日BD-BOX化された。
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植田 まさしは、日本の漫画家。血液型はA型。4コマ漫画で知られ、作品に『まさし君』、『フリテンくん』、『コボちゃん』、『かりあげクン』、『おとぼけ課長』などがある。既婚。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 植田 まさし | ふりがな = うえだ まさし | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 植松 正通<ref name="hochi">{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/topics/serial/CO019592/20170602-OHT1T50121.html|title=タウンページ、通販カタログから必死ネタ集め…4コマ漫画年間1100本の植田まさしさん|publisher= [[スポーツ報知]]|date2017年6月3日|accessdate=2020-02-01|deadlinkdate=2020-02-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170603065333/http://www.hochi.co.jp/topics/serial/CO019592/20170602-OHT1T50121.html|archivedate=2017-06-07}}</ref> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1947|5|27}}<ref name="hochi" /> | 生地 = [[日本]]・[[東京都]][[世田谷区]] | 没年 = | 没日 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1971年]] - | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = 第28回[[文藝春秋漫画賞]]<br />第28回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞<br />第45回日本漫画家協会賞大賞(カーツーン部門) | 公式サイト = }} '''植田 まさし'''(うえだ まさし、本名:植松 正通<ref name="hochi" />〔うえまつ まさみち<ref name="bunshun0303">[https://bunshun.jp/articles/-/3343?page=3 仕事場初潜入!「その釣竿、何に使うんですか?」 “4コマ漫画の巨匠”植田まさしロングインタビュー #3(3ページ目)] 文春オンライン、2017年7月17日。ページ内に仕事場や道具の写真。</ref>〕、[[1947年]][[5月27日]]<ref name="hochi" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。[[4コマ漫画]]で知られ、作品に『[[まさし君]]』、『[[フリテンくん]]』、『[[コボちゃん]]』、『[[かりあげクン]]』、『[[おとぼけ課長]]』などがある。既婚。 == 来歴・人物 == [[サラリーマン]]の父([[1990年]]に77歳で死去)のもと[[東京都]][[世田谷区]][[奥沢]]で生まれ、幼少の一時期、父の実家がある[[香川県]][[木田郡]][[三木町]]で育った。三人兄弟の末っ子。絵を描くのが好きな子供だったが、漫画については「友達の家とか床屋にあればちょっと読むくらい<ref name="bunshun0103">[http://bunshun.jp/articles/-/3341?page=3 「コボちゃんを描いているときに食事はしない」“4コマ漫画の巨匠”植田まさしロングインタビュー #1(3ページ目)] [[文藝春秋|文春オンライン]]、2017年7月15日</ref><ref name="hochi"/>」「新聞に載ってる4コマ漫画しか知らなかった<ref name="time">{{Wayback|url=http://www.manga-time.com/interview/no23.html|title=まんがタイムweb一周年記念スペシャルインタビュー 第23回 植田まさし先生|date=20100908014948}}</ref><ref name="hochi"/>」と、あまり関心が無かった。 世田谷区立奥沢小学校、[[大田区立大森第七中学校]]を経て、[[東京都立田園調布高等学校|都立田園調布高校]]に入学。同級生に後の宗教人類学者となる[[植島啓司]]がいた<ref name="bunshun0103" /><ref name="ueshima">植島啓司『賭ける魂』 [[講談社現代新書]] 2008年</ref>。田園調布高ではラグビー部に入部するが、激しい練習で体調を崩し2か月間の入院を余儀なくされる<ref name="bunshun0103" />。植田はこの時、「みんなと一緒にやる仕事なんかは無理だろうな<ref name="bunshun0103" />」として、「自分一人で何かをする仕事<ref name="time" />」を志望し、手始めに[[カメラマン]]を目指し、[[中央大学]][[文学部]]哲学科に通うかたわら、大学のそばにあった[[専門学校東京ビジュアルアーツ|東京写真専門学院]](現:専門学校東京ビジュアルアーツ)の夜間部に通った<ref name="bunshun0103" />。報道のカメラマン達に交じって学生運動の様子などを撮影していたが、学生たちがお祭り感覚で運動に参加している雰囲気を感じて「一気に冷め<ref name="time" />」、写真に対する情熱も失い、「志なかばで性格的に不向きだと判断した{{要出典|date=2017-07}}」。 大学卒業後、兄の経営する学習塾を手伝っていたが、兄らにいたずら描きの絵を褒められたことをきっかけにギャグ漫画の持ち込み活動を始める<ref name="bunshun0104">[https://bunshun.jp/articles/-/3341?page=4 「コボちゃんを描いているときに食事はしない」“4コマ漫画の巨匠”植田まさしロングインタビュー #1(4ページ目)] [[文藝春秋|文春オンライン]]、2017年7月15日</ref><ref name="time" /><ref>「フリテンくん海賊版」のプロフィールより</ref>。 [[ファイル:Shinjuku Tokyo Kobo-chan Statue 1.jpg|thumb|神楽坂商店街に設置されている田畑小穂(コボちゃん)の銅像。]] [[芳文社]]に持ち込んだ『ああ!チョンボ』でデビュー('''まち・あみち'''名義、『長編漫画傑作集』[[1970年]]9月号)。デビュー後すぐ、編集者から「さも昔から漫画家としてやっていました、っていう名前」にすることを提案され、'''植田まさし'''に改名<ref name="bunshun0303" />。 [[1982年]][[4月1日]]から『[[読売新聞]]』朝刊に『[[コボちゃん]]』を連載。同作品は長期連載され、[[1992年]]から[[1994年]]まで[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で[[テレビアニメ]]化され放映。[[2004年]]12月1日付から、日本の全国紙の[[4コマ漫画]]で初めて[[色|カラー]]化(海外衛星版は除く)され、[[2010年]]6月14日付で連載1万回を達成。[[2017年]]4月1日に連載35周年を迎えた。 還暦を過ぎても月60本以上の4コマ漫画作品を描くなど、長期にわたり精力的な活動を続けていることから「4コマ漫画の巨匠」的人物として扱われている。 1982年11月に[[見合い]][[結婚]]しており、娘が2人と孫がいる。 2022年6月頃から、体調不良により一時的に仕事を休んでいたが翌[[2023年]]2月26日に[[前立腺癌]]の治療の為であった事を公表。同年3月1日付『コボちゃん』を皮切りに再開した。 2023年4月現在、[[日本漫画家協会]]理事<ref>{{Cite web |url=https://nihonmangakakyokai.or.jp/about/about03 |title=組織・役員 |access-date=2023-12-09 |website=漫画家協会WEB}}</ref>。 === 受賞歴 === * 1982年 第28回[[文藝春秋漫画賞]](『フリテンくん』『まさし君』『かりあげクン』)<ref name="hochi" /><ref name="bunshun0104" /> * [[1999年]] 第28回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『コボちゃん』『おとぼけ課長』)<ref name="hochi" /> * [[2016年]] 第45回日本漫画家協会賞カーツーン部門大賞(『かりあげクン』)<ref name="hochi" /><ref name="bunshun0104" /> == 作風 == * 作画には[[つけペン]]代わりに[[万年筆]]を用いている。「[[つけペン#Gペン|Gペン]]や[[つけペン#カブラペン|スプーンペン]]よりインクもちもいいし、長持ちする<ref name="bunshun0303" />」という理由から。分解した万年筆から先端の部品を取り出して使用したり<ref name="time" />、独自の改造を加え、そのまま軸ごとインクにつけて使用したりしている<ref name="bunshun0303" />。 * 基本的にカラーページ以外では[[スクリーントーン]]は使用せず、服の模様などからセリフまで全て手描きである。 * 黒髪以外の女性は、髪に模様(髪の流れを表現したもの)を描く。キャラの特徴として、眼鏡の中に目が描かれていない人物、かりあげ正太やのんき三郎のように表情がほとんど変わらない人物、しかめっ面で目が描かれていない人物はたいてい変わり者。サラリーマンが主人公の作品(『[[おとぼけ課長]]』を除く<!--かりあげクン、のんき君、おたかぜ君など-->)では、メガネでヒゲを生やした課長、ハゲ頭の社長、主人公のイタズラを傍観するメガネの同僚社員が登場するなど、ユニークなキャラクター作りが特徴。 * 主要人物以外の人物描写は、顔の輪郭と目をかなり簡素化している。 * 登場人物のセリフに、「'''バーロー'''」「'''ンモー'''」「'''ニャロ'''」「'''ピエー'''」など、独特な言い回しの感情表現を用いる。植田はこの発想について、「自分じゃ独特なんて思ってないんだけど、言われてみれば、って感じ」「素人なるがゆえですよ。表現の仕方が、漫画の勉強をしてきた人とは違うんでしょうね」と語っている<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/3342?page=2 「おとぼけ課長」にあって「課長 島耕作」にないもの “4コマ漫画の巨匠”植田まさしロングインタビュー #2(2ページ目)] 文春オンライン、2017年7月16日</ref>。 * 初期「フリテンくん」や「のんき君」などに見られるように、下ネタや毒のある作品が多かったが、「コボちゃん」の連載を開始した頃から、少しずつ毒が薄まり、近年はほのぼのとした作品が主流となってきたため、初期とはかなり作風が変わっている。「かりあげクン」も初期は下ネタが描かれていたが近年はほとんど無い。また、「にこにこエガ夫」は、初期作品と全く別物と言っていいほど作風が異なる。 <!-- 4コマ目にセリフがなく、その場の光景や表情・仕草で笑わせる作品が多い。 --> * ファミリー向けの作品が多いことから、一般常識などのいわゆる[[あるあるネタ]]が多い。しかし、そうではないネタも存在する<!--コボちゃんにある、喉に魚の骨が刺さった際にご飯を飲み込む(実際にはより深く刺さる可能性があり逆効果)。「かりあげクン」にある、スイカは野菜か果物かの議論でかりあげだけ野菜と主張、「果物ナイフが刺さらないから果物じゃない」と強がる(木にならない食品は果物ではない為かりあげの主張は正しい)、年輪で方位がわかる(年輪は土地の平坦さをあらわしている)など-->。 *連載頻度が高く、時間をかけた取材が出来ないため、辞書から電話帳、さらには通販のカタログなど、ありとあらゆるところからネタを探すようにしている<ref name="hochi"/><ref name="oricon20201016">{{Cite interview|和書|title=『かりあげクン』40周年、作者・植田まさし氏の矜持「ネクスト・イズ・ベスト」|url=https://www.oricon.co.jp/special/55299/|work=ORICON NEWS|accessdate=2021-01-07|interviewer=衣輪晋一|subject=植田まさし|date=2020-10-16}}</ref>。思いついたネタは、白紙のノートを8つに分割して書き溜めた上で、自分の作品全てに用いており、植田は同じネタでも作品によって変わってくると[[2020年]]のインタビューの中で話している{{R|oricon20201016}}。 == 作品リスト == * [[コボちゃん]]([[読売新聞]]朝刊連載中・単行本は現在は[[芳文社]]、初期は蒼鷹社) * [[かりあげクン]](現連載 [[まんがタウン]]・週刊大衆([[双葉社]])、旧連載 [[漫画アクション|Weekly(週刊)漫画アクション]](双葉社)) * [[おとぼけ課長]]([[まんがタイム]](芳文社)) * [[のんき君]](漫画パンチ(芳文社)) * [[フリテンくん]](現連載 [[まんがライフオリジナル]]([[竹書房]])<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/488990|title=休刊したまんがライフ作品8本、まんがライフオリジナルで移籍連載がスタート|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-08-10|accessdate=2022-08-10}}</ref>、旧連載 [[まんがライフ]](竹書房)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/487096|title=まんがライフ休刊号、連載作品の移籍先発表&いがらしみきおの特別読み切りも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-27|accessdate=2022-08-10}}</ref>) * [[おたかぜ君]](別冊週刊漫画TIMES(芳文社)) * [[らくてんパパ]]([[週刊現代]]([[講談社]])) * [[まさし君]](週刊漫画TIMES(芳文社)) * にこにこエガ夫(まんがライフ(竹書房)) * [[キップくん]](漫画プラザ([[辰巳出版]])) * [[すっから母さん]]([[読売ウイークリー|週刊読売]]([[読売新聞社]])・[[まんがタイムファミリー]]([[芳文社]]・傑作選)) * 新フリテンくん(まんがライフ(竹書房)) * [[女刑事マキ]]([[読売ウイークリー|週刊読売]](読売新聞社)) * [[おとぼけ部長代理]](まんがタイム(芳文社)) 作品により出版社が異なる。『おとぼけ課長』、『のんき君』、『まさし君』、『コボちゃん』、『すっから母さん』など、植田作品を収録した廉価版が『特盛!植田まさし』のタイトルで販売されている<ref>{{Cite book|和書|author=植田まさし|date = 2016-04-25|title =特盛!植田まさし|volume=16|publisher = 芳文社|isbn = 978-4-8322-5479-4}}裏表紙より。</ref>。 === アニメ化・ドラマ化された作品 === * フリテンくん(アニメ映画、[[東宝]]系、[[ICHI (企業)|ナック]]制作、『[[じゃりン子チエ]]』と同時上映) * のんき君(テレビドラマ、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系、「[[月曜ドラマランド]]」枠、全3回) * まさし君(テレビドラマ、フジテレビ系、「月曜ドラマランド」枠) * キップくん(テレビドラマ、フジテレビ系、「月曜ドラマランド」枠、全2回) * かりあげクン(テレビアニメ、フジテレビ系、[[東映アニメーション|東映動画]]制作、全59回+SP全1回) * ドラマかりあげクン([[BS松竹東急]]の土曜ドラマ枠で放送 全12話) * コボちゃん(テレビアニメ、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]製作・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系、[[エイケン (アニメ制作会社)|エイケン]]制作、全63回+SP全4回) * すっから母さん(テレビドラマ、[[テレビ東京]]系列) DVDソフト化されたのは2017年現在、2006年12月15日発売の「フリテンくん DVD-BOX」と、2016年12月21日発売の「アニメ「かりあげクン」DVD ほんにゃらBOX」とコボちゃんのみで、その他の作品はDVDソフト化されていない。 また、「かりあげクン」は2023年12月22日BD-BOX化された。 === ゲームイラスト === * [[ファントム・キングダム]](登場キャラの一人、魔帝ロイヤルキングダーク3世の真の姿のイラストを担当。サプライズゲスト扱い) === その他 === * [[メイドインアビス (アニメ)|メイドインアビス]](第7話エンドカード) * [[ラーメン大好き小泉さん]]公式アンソロジー(裏表紙に植田まさし作画のラーメンを食べる小泉さんが描かれている。) * [[おそ松さん]]公式アンソロジーコミック NEET GOING ON!(植田まさし作画の6つ子とかりあげクンのコラボイラストが収録されている。) * 美川べるのといかゴリラのまんが飯(作中で、植田まさし作画の折詰のイラストが使われている。) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.manga-time.com/interview/no23.html|title=まんがタイムweb一周年記念スペシャルインタビュー 第23回 植田まさし先生|date=20100908014948}} {{植田まさし}} {{Portal bar|日本|東京都|漫画|人物伝}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うえた まさし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:芳文社]] [[Category:双葉社]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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シミュレーションゲーム
シミュレーションゲーム(simulation game)とはその名の通り現実の事象・体験を仮想的に行うコンピュータゲームのジャンルの一つ。日本では(特にコンピュータゲーム関連で)SLGと略されるのが一般的。英語圏では、昔はSIM(シム)というもう1つの略称の方がよく使われる傾向にあった。模擬実験ゲームともいう。 単にシミュレーションゲームと呼ぶ場合、意味合いが広範に及ぶため多くはさらに細分化されたジャンルによって分類される。以下、一般的にシミュレーションゲームとして扱われる、あるいはシミュレーションゲームとしての要素を抱合しているジャンルを列記する。 戦争を題材に扱ったウォー・シミュレーションゲーム(シミュレーション・ウォーゲームもしくは単にウォーゲームと呼ばれることもある)。このタイプのゲームは軍隊の戦術研究に用いられていた机上作戦演習に端を発し、ボードゲーム又はコンピューターゲームとして発表・発売されており、再現規模によって戦略級・作戦級・戦術級に区分することもある(さらに個人の動作まで意識する戦闘級や、2つに跨った再現レベルの場合は作戦戦略級のようにいう場合もある)。中世以前の戦争やスペースオペラ等の宇宙戦争を扱ったゲームもこのジャンルに該当する。 国内では1980年代頃に海外メーカー製のこのジャンルのボードゲームを玩具メーカーなどが国内で販売したことに端を発して、このジャンル(非リアルタイムで戦闘を再現するゲーム)についてシミュレーションゲームという呼称が一般的になった。 後にパソコンゲーム、コンシューマーゲームとしてコンピュータ上で再現、および対戦相手をコンピュータが行うようにしたものが発売されて今に至っている。 ファミコンウォーズ(発売元:任天堂)、大戦略シリーズ(発売元:システムソフト)、ハイブリッド・フロント(発売元:セガ・エンタープライゼス)がこれにあたる。 会社や組織などの収入・支出や、人的資源、物的資源、不動産などをゲームの要素として、会社の初期状態から目的に沿って事象を発展あるいは進展させるゲームを経営シミュレーションゲームと呼ぶ。 ボードゲームでは複数の組織をそれぞれ各プレイヤーが担当し、自分以外の組織の利益を奪って自分のものにする(ゼロサムゲームに近い)構造のものが多い。逆にコンピュータゲームでは一人でのプレイが主になる。 特にプロスポーツチームなどの登場人物、あるいはペットや競走馬などの能力を向上することがゲーム上重要なものは「育成シミュレーションゲーム」と呼ばれることがある。 また最近では、『Sim(シム)』シリーズや『Tycoon(タイクーン)』シリーズ、『A列車で行こう』などの、自宅周辺 - 都市レベルの開発を扱った経営・育成シミューションゲームのうちリアルタイムで進行するものがミニスケープあるいは箱庭ゲームと呼ばれるようになっている。 役割(Role)を演じる(Play)という意味合いから、ロールプレイングゲームもゲームの構成によってはシミュレーションゲームとしての要素を含んでいる。特にテーブルトークRPGでは、初期のころはシンプルな「戦闘の再現」の一形態であったものが、社会階級や性格、国家の設定など、詳細な要素が加わえられてきた。これは複雑なファンタジー世界や登場人物の人間関係のシミュレーションゲームと言うことも出来る。 コンピュータゲームでも『ウィザードリィ』や『ダンジョンマスター』などの「ダンジョン(洞窟、迷宮)をいかに攻略するか」といったものはある種の戦闘シミュレーションゲームともいえる。 また、近年コンピュータゲームでは「シミュレーションRPG」と呼ばれるジャンルが人気を博している。これは上述したようなロールプレイのもつシミュレート性からそう呼ばれるのではなく、登場人物をコマとして動かす戦闘シミュレーションゲームを模したシステムを採用していることが多いためである。複数の登場人物を戦闘経験により能力向上させていくという「育成シミュレーションゲーム」としての要素を併せ持っている。なおシミュレーションRPGの原点とも言える作品はファミリーコンピュータの『未来戦史ライオス』などが該当する。また、シミュレーションRPGを日本国内において広く知らしめたのは任天堂の『ファイアーエムブレム』シリーズだと言える。 実在する乗り物(広義の意味では実在しないフィクション上の兵器、あるいは開発途中で実機の存在しない乗り物なども含まれる)の操縦・運転を再現する。電車など鉄道車両を運転する鉄道シミュレーションゲーム、各種航空機を操縦するフライトシミュレーションゲーム等がこれに該当する。実機になるべく近づけるため専用コントローラーが用意されることも多い。これらのうちゲーム性よりも再現性を重視するものは特にシミュレーターと呼ばれることがある。 本来は実機では失敗したときの損失が大きいためコンピュータ上で航空機や電車の操縦方法を習得するために製造されていたものであるが、現在では家庭用コンピュータ向けにゲーム性を加味して販売されている。 フライトシミュレーションでは武器を搭載した軍用機の操縦をテーマにしたものと、民間機の操縦をテーマにしたものに大別される。前者はミッションと呼ばれるあらかじめ決められた目標(敵機を撃墜する、特定地点を爆撃するなど)を達成したり、ネットワークで接続されたコンピュータでドッグファイトを行って互いに撃墜を狙うスタイルが多い。後者は基本的にゲームの舞台上を自由に飛行することも出来るが、現実の旅客機のフライトプランをゲーム中で再現することでその旅客機から見える風景を楽しむといった利用方法もある。 アーケードゲームでの旅客機シミュレーションゲームでは、いろいろな環境(各種空港や夜間など)での着陸をスムーズに行うことを課題にしたものもあった。 またレースゲームでも現実の物理法則を適用、および車両のコクピットなどを詳細に再現することで緻密な世界でのレースが体験できる傾向のゲームが「ドライビングシミュレータ」「レーシングシミュレータ」として販売されることもある。 現在の欧米コンピュータゲーム市場にて人気のあるジャンルに「リアルタイムストラテジー」略してRTSが存在する。ゲームのテーマ自体はウォー・シミュレーションゲームと同じく戦闘を再現することにあるが、ゲーム中はリアルタイムで進行し、各ユニット(大小さまざまな部隊、登場人物の単位)などに命令を与えて行動させる。そのため、緻密な操作をすばやく行うアクションゲームとしての性質も持ち合わせていることが多い。 昔からシミュレーションゲームを実時間で展開させる試みはいくつかあったが、現在のリアルタイムストラテジーはゲームの舞台にマス目を描かずにより柔軟な動作を行わせる、マウス操作によって複数ユニットを的確に扱うことが要求される、戦闘だけでなく建築物の建設や資源の確保(ひいてはそのためのユニットの存在も必要となる)などの要素も取り入れる、などにより現在ではネットゲームの主要な一ジャンルとなっている。 日本でウォー・シミュレーションゲームというジャンルに属するゲームについては、欧米では「ストラテジーゲーム」と呼ばれることが多い。欧米圏で「シミュレーションゲーム」という言葉はウォー・シミュレーションゲームの範疇に入らないゲーム(実機シミュレーションゲーム、経営育成シミュレーションゲーム、生態系シミュレーションゲーム等)で使用される傾向にある。日本では欧米や他のアジアの国々と違い、リアルタイムストラテジーが普及していないため、実質的にターン制ストラテジー(Turn-Based Strategy : TBS)のみを指す言葉となっている。 主に以下のように分類されるが、厳密に区別できるわけではない。評価する人により、あるいは文脈により同じゲームが異なるジャンルとして扱われることもある。
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シミュレーションゲームとはその名の通り現実の事象・体験を仮想的に行うコンピュータゲームのジャンルの一つ。日本では(特にコンピュータゲーム関連で)SLGと略されるのが一般的。英語圏では、昔はSIM(シム)というもう1つの略称の方がよく使われる傾向にあった。模擬実験ゲームともいう。
{{Pathnav|frame=1|コンピュータゲームのジャンル}} {{出典の明記|date=2010年1月}} [[File:FlightGear 3.0 Boeing 777-200 cockpit.png|thumb|[[フライトシミュレーター]]ゲーム[[FlightGear]]]] {{コンピュータゲームのサイドバー}} '''シミュレーションゲーム'''('''simulation game''')とはその名の通り現実の事象・体験を仮想的に行う[[コンピュータゲームのジャンル]]の一つ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0-4319 ASCII.jpデジタル用語辞典「シミュレーションゲーム」]</ref>。日本では(特にコンピュータゲーム関連で)'''SLG'''と略されるのが一般的。英語圏では、昔は'''SIM'''(シム)というもう1つの略称の方がよく使われる傾向にあった。'''模擬実験ゲーム'''ともいう。 == 分類 == 単にシミュレーションゲームと呼ぶ場合、意味合いが広範に及ぶため多くはさらに細分化されたジャンルによって分類される。以下、一般的にシミュレーションゲームとして扱われる、あるいはシミュレーションゲームとしての要素を抱合しているジャンルを列記する。 === ウォー・シミュレーションゲーム === 戦争を題材に扱った[[ウォー・シミュレーションゲーム]](シミュレーション・ウォーゲームもしくは単にウォーゲームと呼ばれることもある)。このタイプのゲームは[[軍隊]]の[[戦術]]研究に用いられていた[[机上作戦演習]]に端を発し、[[ボードゲーム]]又は[[コンピューターゲーム]]として発表・発売されており、再現規模によって戦略級・作戦級・戦術級に区分することもある(さらに個人の動作まで意識する戦闘級や、2つに跨った再現レベルの場合は作戦戦略級のようにいう場合もある)。中世以前の戦争や[[スペースオペラ]]等の[[宇宙]]戦争を扱ったゲームもこのジャンルに該当する。 国内では[[1980年代]]頃に海外メーカー製のこのジャンルの[[ボードゲーム]]を玩具メーカーなどが国内で販売したことに端を発して、このジャンル(非リアルタイムで戦闘を再現するゲーム)についてシミュレーションゲームという呼称が一般的になった。 後に[[パソコンゲーム]]、[[コンシューマーゲーム]]としてコンピュータ上で再現、および対戦相手をコンピュータが行うようにしたものが発売されて今に至っている。 [[ファミコンウォーズ]](発売元:任天堂)、大戦略シリーズ(発売元:システムソフト)、[[ハイブリッド・フロント]](発売元:セガ・エンタープライゼス)がこれにあたる。 === 経営・育成シミュレーションゲーム === [[ファイル:Micropolis - big city.png|thumb|250px|[[ミニスケープ]]の代表作[[シムシティ]]]] 会社や組織などの収入・支出や、人的資源、物的資源、不動産などをゲームの要素として、会社の初期状態から目的に沿って事象を発展あるいは進展させるゲームを[[経営シミュレーションゲーム]]と呼ぶ。 [[ボードゲーム]]では複数の組織をそれぞれ各プレイヤーが担当し、自分以外の組織の利益を奪って自分のものにする([[ゼロ和|ゼロサムゲーム]]に近い)構造のものが多い。逆にコンピュータゲームでは一人でのプレイが主になる。 特にプロスポーツチームなどの登場人物、あるいはペットや競走馬などの能力を向上することがゲーム上重要なものは「[[育成シミュレーションゲーム]]」と呼ばれることがある。 また最近では、『[[シムシティシリーズ|Sim]](シム)』シリーズや『Tycoon(タイクーン)』シリーズ、『[[A列車で行こうシリーズ|A列車で行こう]]』などの、自宅周辺 - 都市レベルの開発を扱った経営・育成シミューションゲームのうちリアルタイムで進行するものが'''[[ミニスケープ]]'''あるいは'''箱庭ゲーム'''と呼ばれるようになっている。 === ロールプレイングゲーム(RPG)=== 役割(Role)を演じる(Play)という意味合いから、[[ロールプレイングゲーム]]もゲームの構成によってはシミュレーションゲームとしての要素を含んでいる。特に[[テーブルトークRPG]]では、初期のころはシンプルな「戦闘の再現」の一形態であったものが、社会階級や性格、国家の設定など、詳細な要素が加わえられてきた。これは複雑なファンタジー世界や登場人物の人間関係のシミュレーションゲームと言うことも出来る。 コンピュータゲームでも『[[ウィザードリィ]]』や『[[ダンジョンマスター]]』などの「ダンジョン(洞窟、迷宮)をいかに攻略するか」といったものはある種の戦闘シミュレーションゲームともいえる。 また、近年コンピュータゲームでは「[[シミュレーションRPG]]」と呼ばれるジャンルが人気を博している。これは上述したようなロールプレイのもつシミュレート性からそう呼ばれるのではなく、登場人物をコマとして動かす戦闘シミュレーションゲームを模したシステムを採用していることが多いためである。複数の登場人物を戦闘経験により能力向上させていくという「育成シミュレーションゲーム」としての要素を併せ持っている。なおシミュレーションRPGの原点とも言える作品は[[ファミリーコンピュータ]]の『未来戦史ライオス』などが該当する。また、シミュレーションRPGを日本国内において広く知らしめたのは任天堂の『[[ファイアーエムブレム]]』シリーズだと言える。 === 実機シミュレーションゲーム === 実在する乗り物(広義の意味では実在しないフィクション上の兵器、あるいは開発途中で実機の存在しない乗り物なども含まれる)の操縦・運転を再現する。電車など鉄道車両を運転する[[鉄道シミュレーター|鉄道シミュレーションゲーム]]、各種航空機を操縦する[[フライトシミュレーション|フライトシミュレーションゲーム]]等がこれに該当する。実機になるべく近づけるため専用コントローラーが用意されることも多い。これらのうちゲーム性よりも再現性を重視するものは特に'''シミュレーター'''と呼ばれることがある。 本来は実機では失敗したときの損失が大きいためコンピュータ上で航空機や電車の操縦方法を習得するために製造されていたものであるが、現在では家庭用コンピュータ向けにゲーム性を加味して販売されている。 [[フライトシミュレーション]]では武器を搭載した軍用機の操縦をテーマにしたものと、民間機の操縦をテーマにしたものに大別される。前者はミッションと呼ばれるあらかじめ決められた目標(敵機を撃墜する、特定地点を爆撃するなど)を達成したり、ネットワークで接続されたコンピュータで[[ドッグファイト]]を行って互いに撃墜を狙うスタイルが多い。後者は基本的にゲームの舞台上を自由に飛行することも出来るが、現実の旅客機のフライトプランをゲーム中で再現することでその旅客機から見える風景を楽しむといった利用方法もある。 [[アーケードゲーム]]での旅客機シミュレーションゲームでは、いろいろな環境(各種空港や夜間など)での着陸をスムーズに行うことを課題にしたものもあった。 また[[レースゲーム]]でも現実の物理法則を適用、および車両のコクピットなどを詳細に再現することで緻密な世界でのレースが体験できる傾向のゲームが「ドライビングシミュレータ」「レーシングシミュレータ」として販売されることもある。 === リアルタイムストラテジー(RTS)=== 現在の欧米コンピュータゲーム市場にて人気のあるジャンルに「[[リアルタイムストラテジー]]」略してRTSが存在する。ゲームのテーマ自体はウォー・シミュレーションゲームと同じく戦闘を再現することにあるが、ゲーム中はリアルタイムで進行し、各ユニット(大小さまざまな部隊、登場人物の単位)などに命令を与えて行動させる。そのため、緻密な操作をすばやく行う[[アクションゲーム]]としての性質も持ち合わせていることが多い。 昔からシミュレーションゲームを実時間で展開させる試みはいくつかあったが、現在のリアルタイムストラテジーはゲームの舞台にマス目を描かずにより柔軟な動作を行わせる、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]操作によって複数ユニットを的確に扱うことが要求される、戦闘だけでなく建築物の建設や資源の確保(ひいてはそのためのユニットの存在も必要となる)などの要素も取り入れる、などにより現在では[[オンラインゲーム|ネットゲーム]]の主要な一ジャンルとなっている。 == シミュレーションゲームという用語の範囲 == 日本で[[ウォー・シミュレーションゲーム]]というジャンルに属するゲームについては、欧米では「[[ストラテジーゲーム]]」と呼ばれることが多い。欧米圏で「シミュレーションゲーム」という言葉はウォー・シミュレーションゲームの範疇に入らないゲーム(実機シミュレーションゲーム、経営育成シミュレーションゲーム、生態系シミュレーションゲーム等)で使用される傾向にある。日本では欧米や他のアジアの国々と違い、リアルタイムストラテジーが普及していないため、実質的に[[ターン制ストラテジー]](Turn-Based Strategy : TBS)のみを指す言葉となっている。 == 分類 == 主に以下のように分類されるが、厳密に区別できるわけではない。評価する人により、あるいは文脈により同じゲームが異なるジャンルとして扱われることもある。 * [[ウォー・シミュレーションゲーム]]([[ストラテジーゲーム]]) ** 戦略(級)シミュレーションゲーム ** 戦術(級)シミュレーションゲーム ** [[歴史シミュレーションゲーム]] ** [[リアルタイムストラテジー]] ** SFストラテジーゲーム * 経営・育成系シミュレーションゲーム ** [[経営シミュレーションゲーム]] ** [[育成シミュレーションゲーム]] *** 競馬ゲーム(競走馬育成ゲーム) ** [[ミニスケープ]] ** [[ライフゲーム]] ** [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]] * 実機シミュレーションゲーム ** [[フライトシミュレーション]] ** [[潜水艦シミュレーター]] ** [[船舶シミュレーター]] ** [[鉄道シミュレーター]] ** [[ドライビングシミュレーター]]、[[レースシミュレーション]] ** [[ライディングシミュレーター]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連企業例 == * [[meleap]] - 未上場、ARなど最先端技術を使ったスポーツを世界へ提供する会社でAR技術を使い、実際に顧客が拡張現実を体験しながら遊べる「HADO」という[[テクノスポーツ]]を開発し、運営・提供している施設を展開。東京都千代田区 * [[GOLFZONJapan]] - 未上場、ゴルフシミュレータの販売とそれを活用した店舗運営、Webサービス事業を展開。東京都新宿区 * [[上新電機]] - 東証プライム、情報通信機器、エンタテインメント商品、住宅設備機器などの専門販売店「Joshin」の運営も。大阪市浪速区 * [[GPRO]] - 未上場、住宅設備機器の販売や設備の施工のほか[[ゴルフシミュレーター]]などの機械を開発し販売。兵庫県尼崎市 == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|コンピュータゲーム}} {{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム}} {{Commonscat|Simulation video games}} * [[コンピュータゲームのジャンル]] * [[シミュレーション]] {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:しみゆれえしよんけえむ}} [[Category:シミュレーションゲーム|*]] [[Category:ボードゲーム]]
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ラズウェル細木
ラズウェル 細木(ラズウェル ほそき、1956年 - )は、日本の漫画家。本名 窪田京一。旧ペンネームはくぼたケーガ。山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校卒業。早稲田大学教育学部国語国文科卒業。 代表作に『酒のほそ道』『パパのココロ』など。 早稲田大学在学中は漫画研究会に所属していたが、本人は漫画を描く先輩の姿を見て漫画家にはなりたくなかったという。卒業後にカットやイラストの仕事をこなしているうちに、くぼたケーガ名義で麻雀漫画でデビュー(1983年)。大のジャズファンであり、レコードコレクターでもある。ジャズ業界の知識を援用して音楽方面に取材した作品を複数発表している。しかしその後の雑誌連載による『酒のほそ道』の方がよく知られるようになった。好物は日本酒とウナギの蒲焼きなど。 ペンネームの由来は、ジャズ・トロンボーン奏者ラズウェル・ラッドと、大学卒業後にアルバイトしていた出版社でお世話になった「細木さん」から。当初は漫画の主人公の名前だったが、後にペンネームもそれへと改める。
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ラズウェル 細木は、日本の漫画家。本名 窪田京一。旧ペンネームはくぼたケーガ。山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校卒業。早稲田大学教育学部国語国文科卒業。 代表作に『酒のほそ道』『パパのココロ』など。
{{Infobox 漫画家 |名前 = ラズウェル 細木 |画像 = <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = [[1956年]] |生地 = {{Flagicon|JPN}} [[山形県]][[米沢市]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]] |称号 = [[教育学士]]([[早稲田大学]]) |活動期間 = |ジャンル = [[グルメ漫画]] |代表作 = 『[[酒のほそ道]]』<br />『[[魚心あれば食べ心]]』<br />『[[風流つまみ道場]]』<br />『[[う (漫画)|う]]』 |受賞 = [[手塚治虫文化賞]]([[2012年]]) |サイン = |公式サイト = }} '''ラズウェル 細木'''(ラズウェル ほそき、[[1956年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名 窪田京一。旧ペンネームはくぼたケーガ。[[山形県]][[米沢市]]出身。[[山形県立米沢興譲館高等学校]]卒業。[[早稲田大学教育学部]]国語国文科卒業。 代表作に『[[酒のほそ道]]』『パパのココロ』など。 == 略歴 == [[早稲田大学]]在学中は[[早稲田大学漫画研究会|漫画研究会]]に所属していたが、本人は漫画を描く先輩の姿を見て漫画家にはなりたくなかったという。卒業後にカットやイラストの仕事をこなしているうちに、くぼたケーガ名義で麻雀漫画でデビュー([[1983年]])。大の[[ジャズ]]ファンであり、レコードコレクターでもある。ジャズ業界の知識を援用して音楽方面に取材した作品を複数発表している。しかしその後の雑誌連載による『酒のほそ道』の方がよく知られるようになった。好物は[[日本酒]]と[[ウナギ]]の蒲焼きなど。 ペンネームの由来は、[[ジャズ]]・[[トロンボーン]]奏者[[ラズウェル・ラッド]]と、大学卒業後にアルバイトしていた出版社でお世話になった「細木さん」から<ref>[http://www.yonezawakojokan.jp/event/news/20100613.html 米沢興譲館同窓会公式サイト]</ref>。当初は漫画の主人公の名前だったが、後にペンネームもそれへと改める。 * [[1990年]]、元放送作家でアシスタントだった森下由香と結婚。一女を儲けて子育て体験漫画『パパのココロ』の発表に至るが、[[1998年]]に離婚。 * [[2010年]]、郷里の米沢市の[[観光大使]]に就任。 * [[2012年]]、『酒のほそ道』などにより第16回[[手塚治虫文化賞]]短編賞受賞。 == 作品リスト == *[[酒のほそ道]](『[[週刊漫画ゴラク]]』連載) *パパのココロ([[婦人生活社]]『プチタンファン』連載) *ときめきJAZZタイム(『[[ジャズ批評]]』連載) *[[魚心あれば食べ心]](『[[つりコミック]]』連載) *食蔵(『[[みこすり半劇場]]』連載) *ラズウェル細木の本造りレトルト劇場(『ビッグコミック』) *大江戸酒道楽~肴と酒の歳時記~([[リイド社]]) *[[風流つまみ道場]](『[[週刊漫画TIMES]]』連載) *ひまじん酒場 酔庵夜話(『[[みこすり半劇場]]』連載) *: コミックス名及び『[[本当にあった笑える話]]』での連載は「美味い話にゃ肴あり」。 *旅する胃袋(ストマック)(『[[漫画ゴラクネクスター]]』連載) *: コミックス名は「ラズウェル細木のラ寿司開店!!」。 *月右衛門覚帳(『[[コミック乱TWINS]]』連載) *[[う (漫画)|う]](『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』連載) *ラズウェル細木のブルーノート道案内(DU BOOKS 2013:「Blue Note Club」にて連載) *ぶぅ(『モーニング』連載) *酒場の隅隅(『酒場人』連載) *大江戸子守り酒(リイド社) *文明開化めし(『コミック乱ツインズ』連載) *酒は思考の源でR めくるめく家飲み一人酒(KADOKAWA<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322111000107/|title= 「酒は思考の源でR めくるめく家飲み一人酒」ラズウェル細木 コミックエッセイ|publisher=KADOKAWA|accessdate=2022-03-17}}</ref>) *口福三昧(『おとなの週末』連載) *大江戸美味指南 うめえもん!(『コミック乱ツインズ』連載<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.leed.co.jp/4910038831230|title=コミック乱ツインズ 2023年12月号|publisher=リイド社|accessdate=2023-11-13}}</ref>) == 出演 == * ニッポン居酒屋紀行ファイナル(対談ゲスト - [[旅チャンネル]]) * [[酒のほそ道]]([[ビーエス朝日|BS朝日]]) * [[タモリ倶楽部]]([[テレビ朝日]]) ** (2017年6月30日) ** (2018年1月19日) **(2018年7月27日) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[育児コミック]] *[[山形県出身の人物一覧]] *[[高田裕史]] *森下由香:元妻、現在もアシスタントを務めている *[[国友やすゆき]]:師匠、早稲田大学漫画研究会在籍時にアシスタントを務めていた *[[けらえいこ]]:早稲田大学漫画研究会の後輩 == 外部リンク == * {{twitter|roswellhosoki}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:らすうえる ほそき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:山形県立米沢興譲館高等学校出身の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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竜崎遼児
竜崎 遼児(りゅうざき りょうじ、1953年9月14日 - )は、日本の漫画家。長崎県五島市出身。血液型はB型。 中学生のころ横山光輝の『伊賀の影丸』、さいとう・たかをの劇画を読み、影響を受ける。その後、手塚治虫、ちばてつやの漫画にも感動して漫画家を目指す。高橋わたる、新岡勲、荘司としおのアシスタントを経て、1972年、『漫画ホット』(秋田書店)に掲載の「番格流れ者」でデビュー。『炎の巨人』『どぐされ球団』と野球漫画を続けてヒットさせる。その後も『ウォー・クライ』(ラグビー)、『ばっくれ一平! 』(野球)などのスポーツ漫画や『闘翔ボーイ』(総合格闘技)、『雷電王』(相撲)などの格闘技漫画を発表した。 初期は少年誌で活動していたが、後に青年誌でも執筆するようになった。絵柄から熱血スポーツ漫画のイメージが強いが、丁寧な取材や資料集めでジャンルの最新トレンドを掘り下げることから、『闘翔ボーイ』は史実より先に立ち技最強トーナメントや円形リングでのファイトを描き、『ばっくれ一平! 』はメジャーリーグの日本市場進出を描いていた。 落語家の柳家喬太郎のファン。
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竜崎 遼児は、日本の漫画家。長崎県五島市出身。血液型はB型。
'''竜崎 遼児'''(りゅうざき りょうじ、[[1953年]][[9月14日]]<ref name="aa">『漫画家人名事典』p424 [[日外アソシエーツ]]</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[長崎県]][[五島市]]出身<ref name="aa" />。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|B型]]<ref name="aa" />。 == 人物 == 中学生のころ[[横山光輝]]の『[[伊賀の影丸]]』、[[さいとうたかを|さいとう・たかを]]の劇画を読み、影響を受ける。その後、[[手塚治虫]]、[[ちばてつや]]の漫画にも感動して漫画家を目指す。[[高橋わたる]]、[[新岡勲]]、[[荘司としお]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て<ref name="page">[http://www.manga-g.co.jp/interview/2006/int06-07.html 竜崎遼児先生インタビュー/2006年7月号:日本漫画学院Web]</ref>、[[1972年]]、『漫画ホット』([[秋田書店]])に掲載の「番格流れ者」でデビュー<ref name="aa" />。『炎の巨人』『[[どぐされ球団]]』と[[野球漫画]]を続けてヒットさせる。その後も『ウォー・クライ』([[ラグビーフットボール|ラグビー]])、『[[ばっくれ一平!]] 』([[野球]])などの[[スポーツ漫画]]や『[[闘翔ボーイ]]』([[総合格闘技]])、『雷電王』([[相撲]])などの格闘技漫画を発表した。 初期は[[少年漫画|少年誌]]で活動していたが、後に[[青年漫画|青年誌]]でも執筆するようになった。絵柄から熱血スポーツ漫画のイメージが強いが、丁寧な取材や資料集めでジャンルの最新トレンドを掘り下げることから、『[[闘翔ボーイ]]』は史実より先に立ち技最強トーナメントや円形リングでのファイトを描き、『[[ばっくれ一平!]] 』は[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の日本市場進出を描いていた。 落語家の[[柳家喬太郎]]のファン。 == 略歴 == * 1972年 - 「番格流れ者」によりデビュー。 * 1974年 - 「炎の巨人」の連載を開始。 * 1976年 - 『[[月刊少年ジャンプ]]』で「[[どぐされ球団]]」の連載を開始。 * 1986年 - 『[[週刊少年サンデー]]』で「[[闘翔ボーイ]]」の連載を開始。 * 2002年 - 『[[週刊パーゴルフ]]』で「インパクト」の連載を開始。 == 作品リスト == * 炎の巨人 - 『[[週刊少年ジャンプ]]』(1974年 - 1975年)、原作:[[牛次郎|三枝四郎]] * プロレス対柔道 - 週刊少年ジャンプ(1976年)、原作:[[桜井康雄]] * 実録 巨人軍物語 - 週刊少年ジャンプ(1976年)、原作:[[吉田憲生]] * [[どぐされ球団]] - 『[[月刊少年ジャンプ]]』(1978年 - 1982年) * [[ウォー・クライ (漫画)|ウォー・クライ]] - 『[[少年ビッグコミック]]』(1980年 - 1981年) *:[[高等学校|高校]][[ラグビーフットボール|ラグビー]]を扱ったもので、不良少年を集めて作られたチームが舞台。 * 甲子園の狼 - 『週刊少年ジャンプ』(1981年36号 - 39号) * 19番ホールの鷹 - 『月刊少年ジャンプ』(1984年) * 弾アライブ - 『少年ビッグコミック』(1985年) * おれがHERO - 『[[マガジンSPECIAL]]』(1985年8号 - 1986年) * ストリートファイター - 『月刊少年ジャンプ』(1985年) *:喧嘩屋「海燕のジョー」こと伊波譲児の物語。 * BE WILD ユウ - 『[[週刊少年マガジン]]』(1986年2・3号 - 18号) *:ユウこと勇次は幼馴染の玲に「10年後にファーストキスをもらう」約束をしてアメリカに渡る。10年後に帰国したユウは玲のファーストキスがボクシングの世界チャンピオン・チャーリーに奪われていたことを知り、己のプライドをかけてチャンピオンに挑戦する。 * [[闘翔ボーイ]] - 『[[週刊少年サンデー]]』(1987年 - 1988年) * [[ばっくれ一平!]] - 『週刊少年サンデー』(1989年 - 1990年) *:2年連続最下位の巨人軍を暴力事件のために無名だった沢村一平と異端のシャーク轟監督が巨人軍を立て直す。そこへ大リーグからの先鋒として新球団・東京ヤンキースがセ・リーグに加盟してくる。 * ARHAN(アラハン) - 『[[月刊少年マガジン]]』(1991年) * 雷電王 - 『[[コミックバーズ|コミックバーガー]]』(1991年 - 1994年)原作:[[M.A.T.]] *: アメリカで格闘技を学んで帰国した雷電王は格闘技の技を応用した反則スレスレの荒技で白星街道を爆進するが、伝統を重んじる相撲協会は雷電王をつぶそうとする。本作に登場する横綱・播磨鷹(はりまおう)は『[[ああ播磨灘]]』([[さだやす圭]])の主人公・播磨灘から。 * ナック - 『月刊コミックジャングル』(1992年、[[ワニブックス]]) * 湾 <one> - 『[[ビジネスジャンプ]]』(1994年3号 - 1994年20号) * J・BOY - 『少年マガジン』(1994年 - 、月刊マガジンKC) * インパクト - 『[[週刊パーゴルフ]]』(2002年 - 2019年)、原作:[[坂田信弘]] == アシスタント == * [[中川カ〜ル]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{twitter|ryoji_2894}} * [http://pokeman.jp/archives/163 ぽけまん 作者プロフィール] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:りゆうさき りようし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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六田登
六田 登(ろくだ のぼる、1952年〈昭和27年〉7月23日 - )は、日本の男性漫画家、同人作家、京都精華大学特任教授。大阪府八尾市出身。 高校時代はアストロ作画会や作画グループで同人活動を行っていた。 1971年、19歳で漫画家を目指し、ヒッチハイクで上京。初めはルポイラストや単行本の企画・構成をする。その後、ろくだのぼ〜る名義で、御厨さと美と共に『小学六年生』(小学館)の読者ページ『ハロー6ワイドショー』にて活躍。 1978年、『最終テスト』が第1回小学館新人コミック大賞佳作となり、漫画家としてデビューした。その後は『週刊少年サンデー』などで『ダッシュ勝平』や『その名もあがろう』などの少年向けギャグ漫画を発表。 1985年にはサスペンスものの『風炎』を『ビッグコミックスピリッツ』に発表し、これ以降は青年誌に活動の場を移して本格ストーリー漫画を描くようになった。 代表作は、『ダッシュ勝平』、『F―エフ―』、『ICHIGO 二都物語』、『歌麿』など。40年のキャリアを持つベテラン漫画家であるが、現在も精力的に活動を行っている。作品は、これでもかこれでもかと不幸に見舞われ、追い詰められていく主人公の必死の心を描くことを主眼とするものが多い。なお、漫画以外に絵本も執筆したことがある。 1991年に『F―エフ―』で第36回小学館漫画賞を受賞。
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六田 登は、日本の男性漫画家、同人作家、京都精華大学特任教授。大阪府八尾市出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 六田 登 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[八尾市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1952|7|23}} | 没年 = | ジャンル = [[少年漫画]]<br/>[[青年漫画]] | 活動期間 = [[1978年]] - | 代表作 = 『[[ダッシュ勝平]]』<br />『[[F (漫画)|F―エフ―]]』<br />『ICHIGO 二都物語』<br />『歌麿』 | 受賞 = 第1回[[小学館新人コミック大賞]]佳作<br />(『最終テスト』)<br />第36回[[小学館漫画賞]]<br />(『F―エフ―』) }} '''六田 登'''(ろくだ のぼる、[[1952年]]〈昭和27年〉[[7月23日]]<ref name="kino">[http://kinobook.jp/07/p142.htm KINO Vol.7 | 六田登 21世紀のマンガ・ロングインタビュー]{{リンク切れ|date=2018年4月}}</ref> - )は、[[日本]]の[[男性]][[漫画家]]、同人作家、[[京都精華大学]]特任教授<ref>「[http://osaka.yomiuri.co.jp/edu_news/20080403kk01.htm 京都精華大マンガ学部長に竹宮惠子さん]{{リンク切れ|date=2018年4月}}」『[http://www.yomiuri.co.jp/index.htm YOMIURI ONLINE]{{リンク切れ|date=2018年4月}}』</ref>。[[大阪府]][[八尾市]]出身<ref name="kino" />。 == 来歴 == 高校時代はアストロ作画会や[[作画グループ]]で同人活動を行っていた。 [[1971年]]、19歳で漫画家を目指し、[[ヒッチハイク]]で上京<ref name="csprofile">「[http://www.rokuda-noboru.com/climbers.htm 六田先生の活動紹介]{{リンク切れ|date=2018年4月}}」『[http://www.rokuda-noboru.com/ CLIMBER'S STUDIO]』</ref>。初めはルポイラストや単行本の企画・構成をする。その後、'''ろくだのぼ〜る'''名義で、[[御厨さと美]]と共に『[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]』([[小学館]])の読者ページ『ハロー6ワイドショー』にて活躍。 [[1978年]]、『最終テスト』が第1回[[小学館新人コミック大賞]]佳作となり、漫画家としてデビューした。その後は『[[週刊少年サンデー]]』などで『[[ダッシュ勝平]]』や『その名もあがろう』などの少年向け[[ギャグ漫画]]を発表。 [[1985年]]にはサスペンスものの『風炎』を『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に発表し、これ以降は青年誌に活動の場を移して本格ストーリー漫画を描くようになった。 代表作は、『[[ダッシュ勝平]]』、『[[F (漫画)|F―エフ―]]』、『ICHIGO 二都物語』、『歌麿』など。40年のキャリアを持つベテラン漫画家であるが、現在も精力的に活動を行っている。作品は、これでもかこれでもかと不幸に見舞われ、追い詰められていく主人公の必死の心を描くことを主眼とするものが多い。なお、漫画以外に絵本も執筆したことがある。 [[1991年]]に『F―エフ―』で第36回[[小学館漫画賞]]を受賞。 == 略歴 == * 1952年(昭和27年) - 大阪府八尾市に生まれる。 * 1978年(昭和53年) - 「最終テスト」によりデビュー。 * 1979年(昭和54年) - 「ダッシュ勝平」の連載を開始。 * 1981年(昭和56年) - 『ダッシュ勝平』がアニメ化(製作、[[タツノコプロ]]。放映、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)。 * 1985年(昭和60年) - 「F―エフ―」の連載を開始。 * 1988年(昭和63年) - 『F―エフ―』がアニメ化(製作、[[キティフィルム]]。放映、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)。 * 1991年(平成3年) - 第36回小学館漫画賞を受賞(『F―エフ―』)。 * 2002年(平成14年)- 「[[F REGENERATION 瑠璃]]」の連載を開始。 * 2009年(平成21年) - 「[[F FINAL]]」の連載を開始。 == 作品リスト == * あばれ大海 - 『[[週刊少年サンデー]]』(1979年22号 - 42号) * [[ダッシュ勝平]] - 『週刊少年サンデー』(1979年 - 1982年) * その名もあがろう - 『週刊少年サンデー』(1983年3・4号 - 33号) * 陽気なカモメ - 『週刊少年サンデー』(1983年 - 1985年) * [[カイの旅立ち]] - 『[[小学六年生]]』(1983年4月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1788517|title=小学六年生. 36(1)|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-10-31}}</ref> ‐ 1985年3月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1788541|title=小学六年生. 37(12)|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-10-31}}</ref>。全3巻) * 僚平新事情(1985年、[[ビッグコミックス]](小学館)。全2巻) * ユウコ1/3 - 『[[小学六年生]]』(1985年) * 風炎 - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』(1985年) * [[F (漫画)|F―エフ―]] - 『ビッグコミックスピリッツ』(1986年 - 1992年) ** [[F REGENERATION 瑠璃]] - 『週刊[[オートスポーツ]]』(2003年 - 2006年) ** [[F FINAL]] - 『[[ベストカー]]』『ケータイ★まんが王国』同時連載(2009年 - 2011年) * [[TWIN (六田登の漫画)|TWIN]] - 『[[少年ビッグコミック]]』(1986年 - 1987年)→『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』(1987年 - 2000年) * ICHIGO 二都物語 - 『ヤングサンデー』(1990年 - 1994年) ** 2014年、『ICHIGO 梅川一期 ある連続殺人者の生涯』と改名して[[Kindle]]版を[[ゴマブックス]]から発売。 * かぼちゃ白書(1990年、ビッグコミックス。ISBN 409182241X) * バロン - 『週刊少年サンデー』(1991年 - 1993年) * 海が鳴く時 - 『[[ビッグコミック]]』(1993年、ビッグコミックス。ISBN 4091837212) * ヤングマン(1993年 - 1995年、ビッグコミックス。全8巻) * パブロフの犬ども - 『[[ミスターマガジン]]』(1994年。全1巻) * カメ 亀頭万太郎と俺物語 - 『ヤングサンデー』(1995年 - 1996年。全3巻) * SKY(1996年、[[ビッグコミックススペシャル]](小学館)。ISBN 4091837220) * じゃりけん―日本国子供憲法([[まどかれい子]]との共著。1996年、ビッグ・コロタン(小学館)。ISBN 4092590725) * 獅子の王国 - 『ビッグコミック』(1996年 - 1997年、ビッグコミックス。全3巻) * 星々の宴(1997年、ビッグコミックス。ISBN 4091845118) * 六田登短編集(1997年、近代麻雀コミックス([[竹書房]])。ISBN 481245137X) * 歓びの日々(1997年-1998年、ビッグコミックス。全2巻) * RETURN(1997年、[[漫画アクション#レーベル|アクションコミックス]]([[双葉社]])。全3巻) * シネマ(1998年 - 1999年、ビッグコミックス。全4巻) * たかこ(野田周との共著。1998年、[[メディアファクトリー]]。ISBN 4889917047) * 歌麿(1998年 - 2000年、アクションコミックス。全6巻) * 親愛なるMへ - 『[[MANGAオールマン]]』(1998年 - 1999年。全3巻) * CURA(2000年 - 、アクションコミックス。全3巻) * 千億の蟲(2000年 - 2001年、SCオールマン。全4巻) * [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|コミック版プロジェクトX挑戦者たち]]([[日本放送協会|NHK]]プロジェクトX制作班原作。[[宙出版]]) ** 各巻別の漫画家が作画を担当しており、六田登が執筆しているのは以下の2作。 *** 執念が生んだ新幹線(2001年) *** つっぱり生徒と泣き虫先生(2003年) * BOX(2002年 - ?、SCオールマン。全3巻) * 眠り玉三郎 - 『[[近代麻雀|近代麻雀ゴールド]]』(2001年 - 2003年。全3巻) * 頼むから静かにしてくれ - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』(2003年 - 2004年。全3巻) * ガノン―十力暗殺剣― - 『[[コミック乱]]』(桜井和生原作。2003年 - 2004年、SPコミックス([[リイド社]])。全2巻) * ライオンは眠らない(2005年 - 2006年、[[てんとう虫コミックス|てんとう虫コミックススペシャル]](小学館)。全1巻) * [[クマトラ クレイジートラックストーリー]] - 『[[週刊漫画ゴラク]]』(2005年 - 2007年。全5巻) * ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM(2008年 - 、ケータイ★まんが王国連載(Bbmfマガジン)。全3巻) * [[週刊マンガ日本史]]([[週刊マンガ日本史|朝日新聞出版]]) ** 第28号『[[杉田玄白]]』(2010年) * [[週刊マンガ世界の偉人]](朝日新聞出版) ** 第20号『[[アイルトン・セナ]]』(2012年) ** 第69号『[[葛飾北斎]]』(2013年) === 絵本 === * 北見からの手紙(1996年、おひさまのほん(小学館)。{{ISBN2|4-09-727405-8}}) * パパイヤネドコデネンネ(1996年、おひさまのほん。{{ISBN2|4-09-727431-7}}) === 小説 === * 手紙―Exchanges of 12 letters(1997年、竹書房。{{ISBN2|4-8124-0321-9}}) == アシスタント == * [[なんきん]]<ref>[http://www.successnetworks.co.jp/keitai/vodafone/as24/infodetale/info-nankin.html アートスペース24参加アーティスト紹介]{{リンク切れ|date=2018年4月}}</ref> * [[渡辺潤]]<ref>{{Cite web|和書|title=「クダンノゴトシ」渡辺潤×「ちこたん、こわれる」今井ユウ対談 - コミックナタリー 特集・インタビュー |url=https://natalie.mu/comic/pp/kudan_chikotan |website=コミックナタリー |access-date=2023-03-10 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref> * [[落合尚之]]<ref>[http://zenmaidrive.blog53.fc2.com/ ゼンマイ駆動 走れプガチョフ]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.rokuda-noboru.com/ CLIMBER'S STUDIO] - 公式サイト * {{Twitter|rokudanoboru}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ろくた のほる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:京都精華大学の教員]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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若尾はるか
若尾 はるか(わかお はるか、12月21日 - )は愛知県出身の漫画家。名古屋造形芸術短期大学(現名古屋造形大学)を卒業後、OL経験を経て、週刊ヤングジャンプ(集英社)にて漫画家デビュー。「ねことも」(秋水社)にて「ねこまりょく」と、「ヤングアニマル」(白泉社)にて「美女♂menぱらだいす」を連載中の漫画家である。若尾コアラ・霊感漫画家としても紹介される。タロット占いが得意で、読者からもよく依頼されて占いを行う。代表作は『あずみマンマ・ミーア』、「もののふレボリューション」。ケータイ★まんが王国で『あずみマンマ・ミーア』と『トクした気分』を配信。
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若尾 はるかは愛知県出身の漫画家。名古屋造形芸術短期大学(現名古屋造形大学)を卒業後、OL経験を経て、週刊ヤングジャンプ(集英社)にて漫画家デビュー。「ねことも」(秋水社)にて「ねこまりょく」と、「ヤングアニマル」(白泉社)にて「美女♂menぱらだいす」を連載中の漫画家である。若尾コアラ・霊感漫画家としても紹介される。タロット占いが得意で、読者からもよく依頼されて占いを行う。代表作は『あずみマンマ・ミーア』、「もののふレボリューション」。ケータイ★まんが王国で『あずみマンマ・ミーア』と『トクした気分』を配信。 儀助: 作品「あずみマンマ・ミーア」に登場する悪魔のキャラクター
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2018年12月 |一次資料=2018年12月 |特筆性=2018年12月 |分野=人物}} '''若尾 はるか'''(わかお はるか、[[12月21日]] - )は、[[愛知県]]出身の女性[[漫画家]]。[[名古屋造形芸術短期大学]](現[[名古屋造形大学]])を卒業後、OL経験を経て、[[週刊ヤングジャンプ]]([[集英社]])にて漫画家デビュー。「ねことも」(秋水社)にて「ねこまりょく」と、「ヤングアニマル」(白泉社)にて「美女♂menぱらだいす」を連載中の漫画家である。若尾コアラ・霊感漫画家としても紹介される。タロット占いが得意で、読者からもよく依頼されて占いを行う。代表作に『[[あずみマンマ・ミーア]]』、「もののふレボリューション」。ケータイ★まんが王国で『[[あずみマンマ・ミーア]]』と『[[トクした気分]]』を配信。 * 儀助: 作品「あずみマンマ・ミーア」に登場する悪魔のキャラクター ==エピソード== {{出典の明記|date=2018年12月|section=1}} *最近、自身のブログで様々な「[[コスプレ]]」を披露し、コスプレ漫画家・コスプレが性癖などと一部支持者より言われている。 *[[桜塚やっくん]]と仲が良く、彼のバンドの漫画をヤングアニマル(白泉社)にて連載している。 == 略歴 == * [[1995年]] 集英社「あずみマンマ・ミーア」全6巻 * [[1997年]] あずみマンマ・ミーア、アニメ化<ref>[https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/manma/ あずみマンマ★ミーア - 作品ラインナップ] - 東映アニメーション</ref> * [[2003年]] 短編映画「吉田みのる刑事」のタイトル・イラストを担当 * [[2004年]] 竹書房「本当にあった愉快な話」にて連載 * [[2012年]] 日本文芸社「女性が35歳までに知っておく 仕事とお金の常識」諸星 裕美:著 にて漫画担当 * [[2013年]] 白泉社「ヤングアニマル」にて「美女♂men ぱらだいす」連載 == 作品・著書・コラム == * バトルエクスプレス * [[あずみマンマ・ミーア]] * トクした気分 * 本当にあった愉快な話 『コアラの描いた話』 * コミックGUM(コミック ガム) 『SHOCK!玩TOY』 * office YOU 『ブンブン』 * [[フィギュア王]] 『コアラのおたく捜索』 * [[ガシャポン]] HGシリーズ コンプリートブック * [[もののふレボリューション]]([[プリンセスGOLD]]/[[秋田書店]]) * ねこまりょく([[ねことも]]/[[秋水社]]) * 美女♂menぱらだいす([[ヤングアニマル]]/[[白泉社]]) == メディア == * あずみマンマ・ミ~ア(テレビ朝日系 [[1997年]]) * あずみマンマ・ミ~ア(東映ビデオ) * あずみマンマ・ミ~ア CD (日本コロムビア) * ケータイ★まんが王国(Bbmf) * [[ニコニコ動画]][[ガジェット通信]]「漫画家だらけの大喜利バトル」出演(2009年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ameblo.jp/wakao-haruka/ ブログ「若尾はるかのブログ」] * [https://comic.k-manga.jp/ 「ケータイ★まんが王国」] * {{twitter|halucawakao|若尾はるか}} * {{マンガ図書館Z作家|106}} * [https://www.younganimal.com/ ヤングアニマルweb] - [[白泉社]] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:わかお はるか}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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渡瀬悠宇
渡瀬 悠宇(わたせ ゆう、1970年(昭和45年)3月5日 - )は、日本の漫画家。代表作に『ふしぎ遊戯』・『妖しのセレス』・『絶対彼氏。』など。Xジェンダー。 大阪府岸和田市出身。堺女子高等学校(現・香ヶ丘リベルテ高等学校)卒業。大阪総合デザイン専門学校卒業後、1988年、第23回小学館新人コミック大賞少女・女性部門入賞。翌年、小学館『少女コミック』に掲載された「パジャマでおじゃま」でデビュー。以後、『少女コミック』を中心に作品を掲載。 代表作に『ふしぎ遊戯』『妖しのセレス』『絶対彼氏。』など。2006年(平成18年)以降、小学館の青年誌『ビッグコミックスピリッツ』や少年誌『週刊少年サンデー』にも作品を掲載し、活躍の場を広げている。 血液型はB型。5歳から漫画を描き始め、17歳でプロ漫画家を志した。小学生から高校生くらいまでは自殺未遂を起こすほどのいじめを受けており、その体験は『アラタカンガタリ〜革神語〜』の革がいじめられてるシーンでも流用された。宗教を信仰することで回復したという。創価学会の会員で、たびたび機関紙にイラストを提供しているほか、『妖しのセレス』の最終巻では尊敬している池田大作名誉会長へ同作品を捧げるという趣旨の手書きコメントを寄せている。
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渡瀬 悠宇は、日本の漫画家。代表作に『ふしぎ遊戯』・『妖しのセレス』・『絶対彼氏。』など。Xジェンダー。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 渡瀬 悠宇 | 画像 = Yuu Watase.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = [[イタリア]]で開催された漫画・アニメのイベント「Lucca Comics」で漫画を描く渡瀬悠宇 | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[岸和田市]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1970|03|05}} | 没年 = | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[少年漫画]] | 活動期間 = [[1989年]] - | 代表作 = 『[[思春期未満お断り]]』<br/>『[[ふしぎ遊戯]]』<br/>『[[妖しのセレス]]』<br/>『[[絶対彼氏。]]』<br/>『[[アラタカンガタリ〜革神語〜]]』 | 受賞 = 第43回[[小学館漫画賞]]少女部門<br/>(『妖しのセレス』) | 公式サイト = }} '''渡瀬 悠宇'''(わたせ ゆう、[[1970年]]([[昭和]]45年)[[3月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作に『[[ふしぎ遊戯]]』・『[[妖しのセレス]]』・『[[絶対彼氏。]]』など。[[Xジェンダー]]<ref>{{Cite web|和書|title=『また変人扱いに拍車がかかるが正直に笑』|url=https://ameblo.jp/wataseyuu/entry-12370993912.html|website=渡瀬悠宇 OFFICIAL BLOG|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref>。 == 略歴 == [[大阪府]][[岸和田市]]出身。堺女子高等学校(現・[[香ヶ丘リベルテ高等学校]])卒業{{要出典|date= 2021年1月11日 (月) 20:42 (UTC)}}。[[大阪総合デザイン専門学校]]卒業後、[[1988年]]、第23回[[小学館新人コミック大賞]]少女・女性部門入賞。翌年、[[小学館]]『[[少女コミック]]』に掲載された「パジャマでおじゃま」でデビュー。以後、『少女コミック』を中心に作品を掲載。 代表作に『ふしぎ遊戯』『妖しのセレス』『絶対彼氏。』など。[[2006年]]([[平成]]18年)以降、小学館の青年誌『[[ビッグコミックスピリッツ]]』や少年誌『[[週刊少年サンデー]]』にも作品を掲載し、活躍の場を広げている。 === 年譜 === * [[1988年]]([[昭和]]63年) - 第23回[[小学館新人コミック大賞]]少女・女性部門入賞 * [[1989年]]([[平成]]元年) - 『少女コミック』掲載の「パジャマでおじゃま」でデビュー * [[1992年]](平成4年) - 『少女コミック』で「[[ふしぎ遊戯]]」の連載を開始 * [[2003年]](平成15年) - 『少女コミック増刊』で、「ふしぎ遊戯」と同シリーズで時代設定の異なる「[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]」の連載を開始 * [[2005年]](平成17年) - [[うつ病]]<ref>[https://ameblo.jp/wataseyuu/entry-11516622557.html 日月の聲 真面目にぶっちゃけてみます]</ref>の為、[[ドクターストップ]]をかけられ仕事を完全に休業 * [[2006年]](平成18年) - 夏、渡瀬悠宇公認サイトの掲示板にて復帰が発表され、9月に復帰 * [[2007年]](平成19年) - [[月刊フラワーズ|月刊flowers]]増刊『[[増刊flowers|凛花]]』で「[[櫻狩り]]」の連載を開始 * [[2008年]](平成20年) - 2004年から4年間発刊されてきた『渡瀬悠宇パーフェクトワールド ふしぎ遊戯』特別誌が休刊。「ふしぎ遊戯 玄武開伝」が事実上の休載になる。10月、『週刊少年サンデー』で「[[アラタカンガタリ〜革神語〜]]」を連載開始 * [[2010年]](平成22年) - 月刊Flowers増刊『凛花』で「ふしぎ遊戯 玄武開伝」を再開 * [[2017年]](平成29年) - 『月刊flowers』で、「ふしぎ遊戯」、「ふしぎ遊戯 玄武開伝」と同シリーズで時代設定の異なる「[[ふしぎ遊戯 白虎仙記]]」の連載を開始 == 人物 == [[血液型]]は[[ABO式血液型|B型]]。5歳から漫画を描き始め、17歳でプロ漫画家を志した。[[初等教育|小学生]]から[[高等学校|高校生]]くらいまでは[[自殺]]未遂を起こすほどの[[いじめ]]を受けており、その体験は『[[アラタカンガタリ〜革神語〜]]』の革がいじめられてるシーンでも流用された。[[宗教]]を信仰することで回復した<ref>[http://happism.cyzowoman.com/2012/05/post_804.html 渡瀬悠宇が語る“厳しい現実と戦う比喩”としての『ふしぎ遊戯』と創価学会【前編】] - 占い・開運・スピ総合サイト ハピズム、[[2012年]](平成24年)5月19日</ref>という。[[創価学会]]の会員で、たびたび機関紙にイラストを提供しているほか、『[[妖しのセレス]]』の最終巻では尊敬している[[池田大作]]名誉会長へ同作品を捧げるという趣旨の手書きコメントを寄せている。 == そのほか == * 公式サイト“渡瀬悠宇オフィシャルサイト「我ノ花」”の[[ドメイン名]]( y-watase.com )は[[2018年]]([[平成]]30年)頃から、渡瀬悠宇と無関係の内容(人物)で運営されている。 == 受賞 == * [[妖しのセレス]]:第43回(平成9年度)[[小学館漫画賞]]少女部門受賞 == 作品リスト == <!-- 掲載年の情報がある方は、追記願います--> * [[思春期未満お断り]](1991年、少女コミック) 単行本全3巻 ** 続・思春期未満お断り(1992年 - 1994年、少女コミック増刊) 単行本全3巻 ** 思春期未満お断り 完結編(1998年、少女コミック別冊付録) 単行本全1巻 * [[ふしぎ遊戯]](1992年 - 1996年、少女コミック) 単行本全18巻。後にテレビアニメ化され、[[OVA]]やオリジナル小説([[西崎めぐみ]]著)などにもなった * [[エポトランス!舞]](1994年 - 1995年、少女コミック増刊) 単行本全2巻 * [[妖しのセレス]](1996年 - 2000年、少女コミック) 単行本全14巻。ふしぎ遊戯と同じスタッフでテレビアニメ化もされた * [[天晴じぱんぐ!]](1997年 - 2003年、少女コミック増刊) 単行本全3巻 * [[イマドキ!]](2000年 - 2001年、少女コミック) 単行本全5巻 * [[ありす19th]](2001年 - 2003年、少女コミック) 単行本全7巻 * [[絶対彼氏。]](2003年 - 2004年、少女コミック) 単行本全6巻。設定に差異がありながらも[[速水もこみち]]主演でテレビドラマ化された * [[ふしぎ遊戯 玄武開伝]](2003年 - 2013年、増刊flowers等) 単行本全12巻 * [[まんが遊戯]](2001年頃 - 2005年頃? 少女コミック本誌に掲載された「渡瀬悠宇のまんがアカデミーやんけ」のコミック版) 単行本全1巻 * [[櫻狩り]](2007年 - 2010年、月刊flowers増刊『凛花』) 単行本全3巻 * [[ふくがえる]](2006年 - 読み切り、ビッグコミックスピリッツ) 単行本未収録 * [[パンドラキューブ]](2008年 - 読み切り、週刊少年サンデー) 単行本未収録 * [[アラタカンガタリ〜革神語〜]](2008年 - 2023年、週刊少年サンデー)単行本24巻、リマスター版全18巻、渡瀬作品としては3作目のテレビアニメ化。 * [[ふしぎ遊戯 白虎仙記]](2017年 - 連載中、月刊flowers)単行本既刊1巻([[2018年]]4月現在) * 渡瀬悠宇傑作集 ** [[ごめん遊ばせ!]] - 短編集 ** [[マジカル・ナン]] - 短編集 ** [[おてなみ拝見!]] - 短編集 ** [[砂の王冠]] - 短編集 ** [[ミントでKiss me]] - 短編集 ** [[渡瀬悠宇The Best Selection]] - 短編集 * 悠宇とぴあコレクション ** [[おいしいSTUDY]](1995年 - 1996年、少女コミック増刊) ** [[結び屋NANAKO]] - 短編集 == イラスト集ほか == * 『ふしぎ遊戯 - 渡瀬悠宇イラスト集』 (小学館、1995年4月発売) {{ISBN2|4-09-199701-5}} * 『ふしぎ遊戯 ANIMATION WORLD - 渡瀬悠宇イラスト集 Part2』 (小学館、1996年1月発売) {{ISBN2|4-09-199702-3}} * 『「妖しのセレス」イラスト集 - 紡歌 〜天つ空なる人を恋ふとて〜』 (小学館、2000年4月発売) {{ISBN2|4-09-199703-1}} * 『渡瀬悠宇ポストカードブック』 (小学館、2000年12月発売) {{ISBN2|4-09-179156-5}} * 『渡瀬悠宇ポストカードブック2』 (小学館、2001年12月発売) {{ISBN2|4-09-179159-X}} == 出演作品 == === ビデオ === * [[すばらしきわが人生]] Part3([[シナノ企画]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ameblo.jp/wataseyuu/ 公式ブログ] {{ja icon}} * [https://websunday.net/author/684/ まんが家バックステージ 渡瀬悠宇] {{ja icon}} * {{Twitter|wataseyuu_}} {{ja icon}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わたせ ゆう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ノンバイナリーの著作家]] [[Category:ノンバイナリーの芸術家]] [[Category:香ヶ丘リベルテ高等学校出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:創価学会の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:LGBTの漫画家]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E7%80%AC%E6%82%A0%E5%AE%87
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わたなべまさこ
わたなべ まさこ(本名:渡邊 雅子、1929年(昭和4年)5月16日 - )は、日本の漫画家。東京府出身。1947年、上野学園短期大学中退。日本の少女漫画草創期から活躍し、現在も執筆を続ける巨匠の一人。1971年、『ガラスの城』で第16回小学館漫画賞を受賞。2002年、第31回日本漫画家協会賞として全作品に対する文部科学大臣賞を受賞。2006年の旭日小綬章は、女性の漫画家としては初の受勲。日本漫画家協会理事。2013年に閉校した創造学園大学の創造芸術学部教授であった。夫は2012年8月に永眠した陶芸家・渡辺六郎。 1952年(昭和27年)、挿絵画家を経て貸本漫画出版社の中村書店で『小公子』(原作フランシス・ホジソン・バーネット)を執筆後、若木書房より単行本『すあまちゃん』『涙の賛美歌』で少女漫画家としてデビュー。1957年(昭和32年)から『山びこ少女』を発端に少女漫画雑誌での連載を開始、1960年代初期には、母娘や姉妹の絆をテーマにした『白馬の少女』『おかあさま』等が人気を博した。1960年代中頃からは欧米を舞台にした作品群で少女達に夢とロマンを与え、1970年代には少女の内面にある善悪双方に共感を呼んだ『ガラスの城』に続く代表作『聖ロザリンド』でサスペンスホラーの新境地を開拓。同時期にはウィリアム・アイリッシュ原作『幻の女』等、海外ミステリの漫画化も手がけている。 レディースコミック誌に活動の場を移した1980年代には、日本を舞台にした作品が中心となり、単行本18冊にわたる短編連作『悪女シリーズ』、後年にテレビドラマ化された長編『独りまつり』等の愛憎物語を経て、『ねんね...しな』等の怪談の長編短編も描き始めている。昭和初期の日本的情緒の中で女の魔性を描く『小間使い』等の短編は、1990年代に入ってから泉鏡花原作『夜叉ヶ池』等の近代文学の漫画化にもつながり、同時期には長編『かおるの最後の顔』短編『華燭』メアリ・H・クラーク原作『永遠の闇に眠れ』等、現代を舞台にしたミステリの佳作も多い。画面全体から醸し出される詩情の深さは、2000年代に入ってからの江戸時代物『ライオンの城』等にも受け継がれている。1993年(平成5年)にスタートし、中国四大奇書を原典とした『金瓶梅』は2011年までおよそ18年に渡り連載し、作者にとって最長編作品となった。 1991年(平成3年)から2003年(平成15年)にかけて、ホーム社発行・集英社発売で刊行された選集『わたなべまさこ名作集』では、画業50年を越える各時代の多彩な作品群が100冊に収録されている。デビュー以降のわたなべまさこの単行本は様々な出版社から刊行されてきたが、この名作集で初めて単行本化された作品も少なくない。 2008年(平成20年)には、双葉社から『まんがと生きて』(ISBN 4575300888)を刊行した。 2017年(平成29年)に、宝島社の「このマンガがすごい!comics」から44年ぶりになる描き下ろしの完全新作第0話を収録した『聖[セイント]ロザリンド』が再版された。 2020年(令和2年)には齢91にして、集英社女性向け漫画アプリ「マンガMee」にて初の電子配信による完全新作『秘密 -ひめごと-』を短期集中連載した。 収録単行本の詳細、および貸本漫画出版社の作品群は、わたなべまさこ名作集 名作集の詳細は、わたなべまさこ名作集を参照 レディースコミック誌 掲載作品(青年漫画誌を含む)
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わたなべ まさこは、日本の漫画家。東京府出身。1947年、上野学園短期大学中退。日本の少女漫画草創期から活躍し、現在も執筆を続ける巨匠の一人。1971年、『ガラスの城』で第16回小学館漫画賞を受賞。2002年、第31回日本漫画家協会賞として全作品に対する文部科学大臣賞を受賞。2006年の旭日小綬章は、女性の漫画家としては初の受勲。日本漫画家協会理事。2013年に閉校した創造学園大学の創造芸術学部教授であった。夫は2012年8月に永眠した陶芸家・渡辺六郎。
{{存命人物の出典明記|date=2013年6月14日 (金) 16:43 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = わたなべ まさこ<!-- 姓と名がある場合は間に半角スペースを入れる --> | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 渡邊 雅子(旧姓・片山)<ref name="Kawade2018_α">『総特集 わたなべまさこ 90歳、今なお愛を描く』([[河出書房新社]],2018年9月30日初版)プロフィールp.6|年譜p.178-179|全作品リストp.180-190</ref><!-- 必ず出典を付ける --> | 別名義 = わたなべ雅子<br />渡辺まさ子<ref name="Kawade2018_β"/><!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1929|05|16}}<!-- {{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}} --> | 生地 = {{JPN}}・[[東京府]]<!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = <!-- [[漫画家]] --> | 称号 = [[旭日小綬章]]<!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1952年]] - <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = [[少女漫画]]、[[女性漫画]]<!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[ガラスの城 (漫画)|ガラスの城]]』<ref name="Glass_1">2008年の自伝『まんがと生きて』第8章のうちp.159-160</ref><ref name="Glass_2">2018年の著書『総特集 わたなべまさこ』作品解説p.162|作者インタビューや扉絵p.58-73|年譜p.179</ref><br />『[[聖ロザリンド]]』<ref name="Rosalind_1">2008年の自伝『まんがと生きて』第8章のうちp.160</ref><ref name="Rosalind_2">2018年の著書『総特集 わたなべまさこ』作品解説p.164|作者インタビューや扉絵p.74-83|年譜p.179</ref><br />『[[金瓶梅 (わたなべまさこの漫画)|金瓶梅]]』<ref name="Kinpeibai_1">2008年の自伝『まんがと生きて』第10章のうちp.175、p.181-186</ref><ref name="Kinpeibai_2">2018年の著書『総特集 わたなべまさこ』作品解説p.176|作者インタビューや扉絵p.114-127|年譜p.179</ref><!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = [[小学館漫画賞]](第16回)、[[日本漫画家協会賞]](第31回)<!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''わたなべ まさこ'''(本名:渡邊 雅子<ref name="Kawade2018_α"/><ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%AA%E3%81%B9+%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%93-1121956 わたなべ まさことは - コトバンク]</ref>、[[1929年]]([[昭和]]4年)[[5月16日]]<ref name="Kawade2018_α"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京府]]出身。[[1947年]]、[[上野学園大学短期大学部|上野学園短期大学]]中退<ref name="Kawade2018_α"/><ref name=kotobank/>。日本の[[少女漫画]]草創期から活躍し、現在も執筆を続ける巨匠の一人。[[1971年]]、『[[ガラスの城 (漫画)|ガラスの城]]』で第16回[[小学館漫画賞]]を受賞。[[2002年]]、第31回[[日本漫画家協会賞]]として全作品に対する[[文部科学大臣賞]]を受賞。[[2006年]]の[[旭日章|旭日小綬章]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/list_hp/k_tokyo.pdf|title=平成18年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都|format=PDF|publisher=内閣府|accessdate=2023-05-24|date =2006-04-29|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061005082336/http://www8.cao.go.jp:80/intro/kunsho/list_hp/k_tokyo.pdf|archivedate=2006-10-05|deadlinkdate=2023-05}}</ref>は、女性の漫画家としては初の受勲。[[日本漫画家協会]]理事。[[2013年]]に閉校した[[創造学園大学]]の創造芸術学部教授であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2006/manga/jury-critiques/10jc_m_WATANABE_Masako/|title=文化庁メディア芸術祭歴代受賞作品 第10回 マンガ部門 審査講評【作品カテゴリ別講評】ストーリーマンガ わたなべまさこ マンガ家 プロフィール|publisher=文化庁|accessdate=2013-06-14}}</ref>。夫は2012年8月に永眠した陶芸家・渡辺六郎<ref name="Kawade2018_α"/>。 == 著作歴 == [[1952年]]([[昭和]]27年)、[[挿絵画家]]を経て[[貸本漫画]]出版社の[[中村書店]]で『[[小公子 (漫画)|小公子]]』(原作[[フランシス・ホジソン・バーネット]])を執筆後、[[若木書房]]より単行本『[[すあまちゃん]]』『[[涙の賛美歌]]』で少女漫画家としてデビュー。[[1957年]](昭和32年)から『[[山びこ少女]]』を発端に<ref name="山びこ_1">自伝『まんがと生きて』第8章.超売れっ子の仲間入りp.143-149より</ref>[[少女漫画雑誌]]での連載を開始、[[1960年代]]初期には、[[母]][[娘]]や[[姉妹]]の[[絆]]をテーマにした『[[白馬の少女]]』『[[おかあさま]]』等が人気を博した。[[1960年代]]中頃からは[[欧米]]を舞台にした作品群で少女達に夢と[[ロマン主義|ロマン]]を与え、[[1970年代]]には少女の内面にある善悪双方に共感を呼んだ『[[ガラスの城 (漫画)|ガラスの城]]』に続く代表作『[[聖ロザリンド]]』で[[サスペンス]][[ホラー漫画|ホラー]]の新境地を開拓。同時期には[[ウィリアム・アイリッシュ]]原作『[[幻の女 (漫画)|幻の女]]』等、海外[[ミステリ]]の漫画化も手がけている。 [[レディースコミック]]誌に活動の場を移した[[1980年代]]には、日本を舞台にした作品が中心となり、単行本18冊にわたる短編連作『[[悪女シリーズ (漫画)|悪女シリーズ]]』、後年に[[テレビドラマ]]化された長編『[[独りまつり]]』等の[[愛憎物語]]を経て、『[[ねんね…しな]]』等の[[怪談]]の長編短編も描き始めている。[[昭和初期]]の日本的情緒の中で女の魔性を描く『[[小間使い]]』等の短編は、[[1990年代]]に入ってから[[泉鏡花]]原作『[[夜叉ヶ池 (戯曲)|夜叉ヶ池]]』等の[[近代文学]]の漫画化にもつながり、同時期には長編『[[かおるの最後の顔]]』短編『[[華燭 (漫画)|華燭]]』[[メアリ・H・クラーク]]原作『[[永遠の闇に眠れ (漫画)|永遠の闇に眠れ]]』等、現代を舞台にしたミステリの佳作も多い。画面全体から醸し出される詩情の深さは、[[2000年代]]に入ってからの江戸時代物『[[ライオンの城]]』等にも受け継がれている。[[1993年]]([[平成]]5年)にスタートし、中国四大奇書を原典とした『[[金瓶梅 (わたなべまさこの漫画)|金瓶梅]]』は2011年までおよそ18年に渡り連載し、作者にとって最長編作品となった<ref name="Kinpeibai_2"/><ref name="Kawade2018_β">2018年の著書『総特集 わたなべまさこ』全作品リストp.180-190より</ref>。 [[1991年]](平成3年)から[[2003年]](平成15年)にかけて、ホーム社発行・[[集英社]]発売で刊行された選集『[[わたなべまさこ名作集]]』では、画業50年を越える各時代の多彩な作品群が100冊に収録されている。デビュー以降の[[わたなべまさこ単行本一覧|わたなべまさこの単行本]]は様々な出版社から刊行されてきたが、この名作集で初めて単行本化された作品も少なくない。 [[2008年]](平成20年)には、[[双葉社]]から『まんがと生きて』(ISBN 4575300888)を刊行した。 [[2017年]](平成29年)に、[[宝島社]]の「このマンガがすごい!comics」から44年ぶりになる描き下ろしの完全新作第0話を収録した『聖[セイント]ロザリンド』が再版された。 [[2020年]](令和2年)には齢91にして、[[集英社]]女性向け漫画アプリ「マンガMee」にて初の電子配信による完全新作『秘密 -ひめごと-』を短期集中連載した<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2159816/full/ |title=91歳の現役漫画家・わたなべまさこ氏の新作、週刊連載開始 デビュー67年“つらい”は「一度もない」|newspaper= ORICON NEWS|publisher=[[オリコン]]|date=2020-04-14|accessdate=2023-03-30}} "91歳を迎えた現役漫画家・わたなべまさこ氏の完全新作『秘密-ひめごと-』が、14日より少女・女性向け漫画アプリ『マンガMee』で週刊連載としてスタート"</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/375272 |title=91歳迎えるわたなべまさこがマンガMeeで週刊連載、人間の欲と業を描く(コメントあり)|newspaper= コミックナタリー|publisher=[[株式会社ナターシャ]]|date=2020-04-14|accessdate=2023-03-30}}</ref>。<br />同年6月にも[[双葉社]]・「月刊[[JOUR (雑誌)|JOUR]] 7月号」にて、同じく完全新作『中国怪異譚 {{Ruby|朱い紐|あかいひも}}』41頁を発表。制作期間中、国内は[[コロナ禍]]で[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]が発令されていたので、作者わたなべは制作アシスタント達との「密」を避ける為にたった1人で描き上げた事、また設定されていた締切日よりも2週間近く早くに仕上げたと担当編集者の証言によるPR記事が配信された{{Efn2|巻末の目次には "シリーズ新連載" と銘打たれ、巨匠が描く妖しの世界と案内があり、漫画本編最終のp.329欄外には "つづく▶︎次回は12月号〔11月2日発売〕" との予告を掲載した{{Sfn|わたなべまさこ|2020|p=289-329}}+<ref name="双葉社PR_202006">{{Cite press release|和書|title=御年91歳、少女漫画界の巨匠 わたなべまさこ コロナ禍を乗り越えて新作を発表!|publisher=[[双葉社]] |website=[[PR TIMES]] |date=2020-06-08 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000181.000014531.html |accessdate=2023-12-19 }}</ref><ref name="JOUR2020_07"/><ref name="JOUR2020_12"/>。}}。 == 少女漫画作品リスト == 収録単行本の詳細、および[[貸本漫画]]出版社の作品群は、[[わたなべまさこ名作集]] * 少女漫画雑誌 掲載作品 === 1950年代後半 === * 1957年 ** 星よ またたけ [[少女 (雑誌)|少女]]1957年正月増刊号(雑誌デビュー作品) ** いずみの物語 少女1957年4月号 ** ばら色の夢 少女1957年6月号 ** 山のこだまの物語 少女1957年7月号 ** 鐘よ ならないで [[少女ブック]]1957年7月号 ** 金のうろこ 少女1957年12月号 ** [[山びこ少女]] 少女ブック連載1957年8月号 - 1959年(雑誌初連載作品)【単行本】[[若木書房]]『山びこ少女』1958年 - 1959年【名作集】『山びこ少女』(1)(2)2001年 ** [[天使のひとみ]] [[なかよし]]連載1957年 - 1958年9月号【単行本】若木書房『天使のひとみ』1958年 * 1958年 ** [[しあわせの鐘]] 少女ブック連載1958年【単行本】若木書房】『しあわせの鐘』(全2巻)1959年 ** [[みどりの真珠]](原作:[[川内康範]]) 少女ブック連載1958年11月号 - 1960年8月号 * 1959年 ** 雪のくびかざり 少女ブック1959年新年増刊号 ** [[白馬の少女]] 少女ブック連載1959年9月号 - 1962年8月号 ** 森の少女の物語 少女ブック1959年夏の増刊号 ** [[すずかけの路]] こだま1959年1号 - ? === 1960年代前半 === * 1960年 ** お山のおくの物語 [[りぼん]]1960年10月号 * 1960年代初期 ** 鳥を呼ぶ笛(1960年代初期)【名作集】『おかあさま』(2) 2000年 * 1961年 ** うぐいす物語 少女ブック1961年4月増刊【名作集】『青いきつね火』1997年 ** マッチうりの少女(原作:[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]「[[マッチ売りの少女]]」)少女ブック1961年12月号【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** [[しらゆきちゃん]] [[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]] - [[小学一年生]]連載1961年 ** [[おかあさま]] りぼん連載1961年4月号 - 1962年12月号【単行本】名作集『おかあさま』(1)(2) 2000年 * 1962年 ** [[ミミとナナ]] 少女ブック連載1962年9月号 - 1963年5月号、同誌休刊後に週刊[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]連載1963年1号(5月12日発刊・創刊号) - 同年22号(10月6日号)'''単行本未収録''' * 1963年 ** [[カメリア館]] りぼん連載1963年1月号 - 10月号(1960年代中頃年りぼん増刊に前編後編で再掲載)【名作集】カメリア館1992年 ** 小さな花(原作:[[シャーロット・ブロンテ]]「[[ジェーン・エア]]」) りぼん1963年11月号付録(りぼんカラーシリーズ7)【単行本】若木書房『小さな花』1969年【名作集】『さくら子すみれ子』(1)1992年 ** [[王女ミナ子]] りぼん連載1963年12月号 - 1965年(1968年りぼん1月増刊号附録に前編後編で再掲載)【名作集】『王女ミナ子』1992年 ** [[亜紀子]] 週刊マーガレット連載1963年後半 - 1964年10号(1966年別冊マーガレット4月号 - 7月号に総集編で再掲載)【単行本】[[集英社]]『亜紀子』(1)(2)1968年【名作集】『亜紀子』(1)(2)1991年 ** [[さくらちゃん]] 小学一年生連載1963年 * 1964年 ** [[従妹マリア]] 週刊マーガレット連載1964年11号 - 28号【名作集】『従妹マリア』1993年 ** [[ばら色の真珠]] 週刊マーガレット連載1964年31号 - 44.45合併号(11月1日号)【名作集】『ばら色の真珠』1993年 ** [[おはようマコです!]] 週刊マーガレット連載1964年46号 - 1965年 ** 小さなレディ 別冊マーガレット1964年1号(1月15日発行) ** 花かんざし 別冊マーガレット1964年1号(8月15日発行)【名作集】『亜紀子』(1)1991年 ** お嬢さま お手をどうぞ 別冊マーガレット 1964年4号【単行本】集英社『ハイジ』1968年、[[白泉社]]『ハイジ』【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** 十二夜の琴 週刊少女フレンド1964年47.48合併号 - 49号 * 1965年 ** [[花の館]] りぼん連載1965年7月号 - 1966年7月号 【若木書房】『花の館』(前)(後)1968年【名作集】『花の館』1993年 ** 花ちる里(原作:[[小泉八雲]]「[[和解 (小泉八雲の小説)|和解]]」)りぼん1965年春休みまんが大増刊号 【名作集】『小公女』1996年 ** 冬のさくら(原作:小泉八雲「[[乳母ざくら (小説)|乳母ざくら]]」)りぼん1965年 【名作集】『小公女』1996年 ** [[アイ ラブ アリス]] 週刊マーガレット連載1965年前半期 【名作集】『アイ ラブ アリス』1995年 ** 6月の花嫁(原作:[[ウィリアム・アイリッシュ]]「[[死者との結婚]]」) 週刊マーガレット1965年26号【集英社】『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『炎のカメリア』1992年 ** [[さくら子すみれ子]] 週刊マーガレット連載[[1965年]]30号([[昭和]]40年7月25日号) - [[1966年]]10号(昭和41年3月6日号)<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】若木書房『さくら子すみれ子』(1)(2)1971年【名作集】『さくら子すみれ子』(1)(2)1992年 ** 令嬢イレーネ 別冊マーガレット1965年2号(1月15日発行) ** 青いひとみの少女(原作:[[ジョン・ゴールズワージー]]「[[林檎の樹]]」)別冊マーガレット1965年4号(5月発行)【単行本】集英社『ハイジ』1968年、白泉社『ハイジ』1975年【名作集】『さくら子すみれ子』(1)1992年 ** 満月さくら城 別冊マーガレット1965年5号(6月発行) === 1960年代後半 === * 1966年 ** [[青いきつね火]](原作:[[岡本綺堂]]「[[玉藻の前]]」)週刊マーガレット連載1966年前半期 - ?【単行本】若木書房『青いきつね火』1967年【名作集】『青いきつね火』1997年 ** プリンセスの恋 週刊マーガレット1966年21号 ** [[はだしのプリンセス]] 週刊マーガレット連載1966年25号 - 48号【単行本】若木書房『はだしのプリンセス』(前)(後)1970年【名作集】『はだしのプリンセス』1992年 ** 雪おんな(原作:[[小泉八雲]]「[[雪女]]」) 週刊マーガレット1966年52号 【名作集】『青いきつね火』1997年 ** 愛の花 別冊マーガレット1966年1月号 ** [[ハイジ (漫画)|ハイジ]](原作:[[ヨハンナ・シュピリ]]「[[アルプスの少女ハイジ]]」) 別冊マーガレット1966年11月号 - 12月号 前後編【単行本】集英社『ハイジ』1968年、白泉社『ハイジ』1975年【名作集】『シャネルNo.5』1996年 ** [[ねむの木の子守歌]] りぼん連載1966年11月号 - 67年8月号【名作集】『ねむの木の子守歌』1998年 ** [[LOVE LOVE ミリオン!!]] [[少女小説#昭和後期|小説ジュニア]] 連作1966年Spring(創刊号) - ?【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 * 1967年 ** [[サ・セ・パリ]] 週刊マーガレット連載1967年1号 - 10号【単行本】若木書房『サ・セ・パリ』1968年【名作集】『ばら色の真珠』1993年 ** [[鳩のくる302号室]] 週刊マーガレット1967年13号【単行本】集英社『ハイジ』1968年、白泉社『ハイジ』1975年【名作集】『亜紀子』(2)1991年 ** [[青きドナウ]] 週刊マーガレット連載1967年15号 - 26号【単行本】若木書房『青きドナウ』1970年【名作集】『青きドナウ』1992年 ** ふたりだけの白い馬 週刊マーガレット1967年30号【名作集】『亜紀子』(1)1991年 ** 火の星-旧人ウルフとマロ- 週刊マーガレット夏休み増刊1967年8月24日号【単行本】若木書房『サ・セ・パリ』1968年【名作集】『天使と挽歌』(2)1998年 ** かもめの館 [[デラックスマーガレット]]1967年夏の号(創刊号)【単行本】集英社『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** [[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女]] 週刊マーガレット連載1967年32号 - 40号(米国テレビドラマのコミカライズ) ** [[珊瑚礁のかなた]] 週刊マーガレット連載1967年50号 - 1968年14号 * 1968年 ** 神さまこの願いをきいて! 週刊マーガレット 1968年11号【単行本】集英社『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『おかあさま』(2) 2000年 ** [[青い空 白鳩はとぶ!]] 週刊マーガレット連載1968年18号 - 25号【名作集】『青い空 白鳩はとぶ!』1992年 ** 蝶はここには住めない 週刊マーガレット1968年33号【単行本】集英社『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『青い空 白鳩はとぶ!』1992年 ** [[この愛 戦火をこえて!]] 週刊マーガレット連載1968年37号 - 51号【単行本】若木書房『この愛戦火をこえて!』第5版1978年、ほるぷ出版『この愛・戦火をこえて』1983年【名作集】『青い空 白鳩はとぶ!』1992年 ** [[わすれな草 (漫画)|わすれな草]] りぼん連載1968年1月号 - 8月号【名作集】『わすれな草』1998年 ** 白鳥(スワン)の恋 デラックスマーガレット1968年冬の号【単行本】集英社『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** 慕情 [[Seventeen (日本の雑誌)|週刊セブンティーン]]1968年5号近辺【名作集】『慕情』1997年 ** リラ館 りぼんコミックス1968年9月号【名作集】『小公女』1996年 ** キュリー夫人 ジュニアコミック1968年11月号(通巻6号)【名作集】『小公女』1996年 * 1969年 ** [[ガラスの城 (漫画)|ガラスの城]] 週刊マーガレット連載1969年3号 - 1970年49号【単行本】集英社『ガラスの城』(1) - (8)1969年 - 1971年、集英社漫画文庫『ガラスの城』(1) - (8)1976年 - 1977年【名作集】『ガラスの城』(1) - (5)1991年【単行本】ホーム社漫画文庫『ガラスの城』(1) - (5) 2000年 - 2001年 ** 白きモスクワ デラックスマーガレット1969年春の号【名作集】『赤い伝説』1999年 ** アメリカの恋人たち 別冊マーガレット1969年3月号 ** 恋人たち-ナンシーとスーザンの場合- 週刊セブンティーン1969年12号【単行本】創美社/集英社『ただ愛ゆえに』【名作集】『カミーユの微笑』1997年 ** [[13ダースの薔薇]](原作:[[カトリーヌ・アルレー]]「[[わらの女]]」) 週刊セブンティーン連載1969年中期(1971年別冊セブンティーン3月号 - 4月号に総集編で再掲載) ** [[炎のカメリア]](原作:[[ウィリアム・アイリッシュ|コーネル・ウールリッチ]]「[[黒衣の花嫁]]」) 週刊セブンティーン連載1969年後半期 - 1970年前半期【名作集】『炎のカメリア』1992年 ** [[パパは恋人]] りぼん連載1969年4月号 - 9月号【名作集】『カメリア館』1992年 ** まいごのミチル りぼんコミック1969年5月号【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** [[オレンジの恋]] 小説ジュニア連載1969年2月号 - 7月号 ** [[恋するミランダ]] 小説ジュニア連載1969年8月号 - 12月号 ** わが心のロサンゼルス デラックスマーガレット 1969年冬の号【単行本】集英社『蝶はここには住めない!』1969年【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 === 1970年代前半 === * 1970年 ** おさな妻(原作:[[富島健夫]]「[[おさな妻]]」) 別冊セブンティーン1970年6月号 ** 10月の罌粟(原作:[[アイラ・レヴィン]]「[[死の接吻 (レヴィン)|死の接吻]]」)週刊セブンティーン1970年28号 - 37号(【名作集】『幻の女 10月の罌粟』1992年に収録) * 1971年 ** うすざくら記(原作:[[岡本綺堂]]「[[小坂部姫 (戯曲)|小坂部姫]]」) 別冊マーガレット1971年3月号【名作集】『藤原薬子』1996年 ** [[モナリザの部屋]] 週刊マーガレット連載1971年4・5合併号 - ?【単行本】若木書房『モナリザの部屋』1975年、講談社『モナリザの部屋』1988年【名作集】『モナリザの部屋』1996年 ** 這ってくる髪 週刊マーガレット1971年15号【単行本】若木書房『ふたご座生まれ』1973年、講談社『ふたご座生まれ』1987年【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** [[シャネルNo.5 (漫画)|シャネルNo.5]] 週刊マーガレット連載1971年21号 - 32号【単行本】若木書房『シャネルNo.5』(1)(2)1976年【名作集】『シャネルNo.5』1996年 ** 帰れ!ぼくのユキ 週刊マーガレット1971年35号【名作集】『わすれな草』1998年 ** 古都の秋 週刊マーガレット1971年43号【単行本】集英社『ぶらりぶらぶら物語』1973年【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 ** [[ぶらりぶらぶら物語]] 週刊マーガレット連載1971年45号 - 50号【単行本】集英社『ぶらりぶらぶら物語』1973年【名作集】『従妹マリア』1993年 ** 2番目の夢 りぼんコミック1971年3月号【名作集】『慕情』1997年 ** 5月の雨の日に 別冊セブンティーン1971年6月号【名作集】『恋のれん』1996年 ** ただ愛ゆえに 別冊セブンティーン1971年9月号【単行本】創美社/集英社『ただ愛ゆえに』1976年【名作集】『魚のくさる家』1996年 ** 愛をうたう風 別冊セブンティーン1971年12月号【名作集】『神さま、なぜ愛にも国境があるの!』1996年 * 1972年 ** 愛のひとこと 別冊セブンティーン1972年3月号【単行本】創美社/集英社『愛のひとこと』1976年【名作集】『魚のくさる家』1996年 ** ある青春の記-夏子と勇- 別冊セブンティーン1972年9月号【名作集】『慕情』1997年 ** エーデルワイスを君に 別冊セブンティーン1972年12月号 ** カミーユの微笑 別冊セブンティーン 1972年6月号【単行本】[[創美社]]/集英社『ただ愛ゆえに』1976年【名作集】『カミーユの微笑』1997年 ** 忘れな草 週刊マーガレット増刊1972年1月5日号【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** 白き神々の国 週刊マーガレット1972年7号【名作集】『ねむの木の子守歌』1998年 ** [[わかれ道]] 週刊マーガレット連載1972年13号 - 21号【名作集】『青きドナウ』1992年 ** さよならの白いばら 週刊マーガレット1972年30号【単行本】集英社『ぶらりぶらぶら物語』1973年【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** 白の童話 週刊マーガレット1972年39号【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** ミルク色の天使 週刊マーガレット1972年51号【単行本】集英社『小さなおねがい』1976年【名作集『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** 真萩の子守唄 デラックスマーガレット1972年秋の号 ** [[彼女の名はオレンジ]] [[週刊少女コミック]]連載1972年29号 - 34号【名作集】『アイ ラブ アリス』1995年 * 1973年 ** 娘よ父の手に! 週刊マーガレット増刊1973年1月10日号【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** 春風にきいたお話 週刊マーガレット1973年11号【名作集】『亜紀子』(2)1991年 ** 水藻のゆりかご 週刊マーガレット1973年36号【単行本】講談社『花のようなリリベット』1984年【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** 小さなおねがい 週刊マーガレット1973年48号【単行本】集英社『小さなおねがい』1976年【名作集】『亜紀子』(2)1991年 ** 水曜日の森 別冊[[少女フレンド]]1973年10月号【単行本】講談社『怪奇ロマン傑作選』1974年4月【名作集】『水曜日の森』1998年 ** ガラスの花嫁 週刊少女フレンド1973年8号【名作集】『天使と挽歌』(1)1998年 ** [[聖ロザリンド]] 週刊少女フレンド連載 第1部1973年12 - 19・20号、第2部1973年33号 - 41号(2005年月刊[[ホラーM]]7月号 - 9月号に総集編で再掲載)【単行本】講談社『聖ロザリンド(世にもこわい話)』1973年(第1部のみ)、『聖ロザリンド総集編』1974年(第2部のみ)、『聖ロザリンド戦慄編』1979年【名作集】『聖ロザリンド』1992年【単行本】ホーム社漫画文庫『聖ロザリンド』2001年、ホラーMコミック文庫『聖ロザリンド』2005年、このマンガがすごい!comics『聖[セイント]ロザリンド』2017年 ** 白いカメレオン 週刊少女フレンド1973年25号【単行本】講談社『怪奇ロマン傑作選』1974年 ** モナリザの微笑 週刊少女フレンド1973年49号【名作集】『赤い伝説』1999年 ** [[花のようなリリベット]] 週刊少女フレンド1973年50号 - 1974年2号 【単行本】若木書房『花のようなリリベット』1974年、[[講談社]]『花のようなリリベット』1984年 ** ふたご座生まれ なかよし1973年2月号附録【単行本】若木書房『ふたご座生まれ』1973年、講談社『ふたご座生まれ』1987年【名作集】『リーベス・ツァイベン』1995年 ** [[黒ねこがわらった]] なかよし1973年6月号 - 7月号 前後編【単行本】講談社『黒ねこがわらった(世にもこわい話)』1973年、講談社『死霊ポーレットの恋』1986年【名作集】『青いきつね火』1997年 ** 雪空のノエル なかよし1973年12月号【名作集】『逢魔が刻』1996年 ** 紫色の鎮魂歌 月刊セブンティーン1973年2月号【名作集】『カミーユの微笑』1997年 ** 木蔦の枯れるとき… 月刊セブンティーン1973年5月号【単行本】創美社/集英社『愛のひとこと』1976年【名作集】『恋のれん』1996年 ** 青ざめたディオンヌ 月刊セブンティーン1973年9月号【単行本】講談社『花のようなリリベット』1984年【名作集】『あやかしの伝説』1992年 *[[1974年]] **13本のカメリア|別冊少女フレンド 1974年2月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】講談社『怪奇ロマン傑作選』1974年4月【名作集】『逢魔が刻』1996年 **死人契約|週刊少女フレンド 1974年12号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】若木書房『モナリザの部屋』1975年8月【名作集】『逢魔が刻』1996年 **黒天使シンセラ|週刊少女フレンド連作(1.黒天使シンセラ 1974年16号・2.愛と死のバラード 1974年19号・3.赤い館 1974年26号)【単行本】主婦の友社『黒天使シンセラ』1978年、講談社『黒天使シンセラ』1984年【名作集】『水曜日の森』(1.黒天使シンセラ・2.愛と死のバラード)1998年、『慕情』(3.赤い館)1997年 **落葉の舞([[和宮親子内親王|皇女和宮]]物語)|週刊マーガレット1974年27号【単行本】集英社『小さなおねがい』1976年【名作集】『カミーユの微笑』1997年 **わが命はいとし子のために|週刊マーガレット1974年34号【名作集】『モナリザの部屋』1996年 **炎の紅振袖([[八百屋お七]]物語)|週刊マーガレット1974年47号【単行本】大陸書房『緋の宴』1988年 - 1989年【名作集】『おかあさま』(1) 2000年 **白い少女の伝説|小学四年生1974年2月号【単行本】小学館『ばらの中のリザ』(1)(2)1975年【名作集】『赤い伝説』1999年 **[[ばらの中のリザ]]|[[小学四年生#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小学四年生]]連載1974年4月号 - 1975年3月号【単行本】[[小学館]]『ばらの中のリザ』(1)(2)1975年【名作集】『ばらの中のリザ』1995年 **真夜中に殺せ!|なかよし1974年5月号 **青い葡萄|月刊セブンティーン1974年6月号【単行本】創美社/集英社『ただ愛ゆえに』1976年【名作集】『カミーユの微笑』1997年 **こもれび|月刊セブンティーン1974年11月号【名作集】『神さま、なぜ愛にも国境があるの!』1996年 * 初出年月および掲載誌を単行本から推定できる作品 **私の中のエレン(1970年代前半)【単行本】小学館『ばらの中のリザ』(1)(2)1975年【名作集】『赤い伝説』1999年 * 1975年 ** [[ふたごのプリンセス]] [[月刊プリンセス]]連載1975年1月号(創刊号) - 12月号【単行本】[[秋田書店]]『ふたごのプリンセス』(1)(2)1975年【名作集】『ふたごのプリンセス』(1)(2)1995年 ** [[太陽の女王]](原作:[[佐々木守]]) 週刊マーガレット1975年24号 - 25号 前後編【名作集】『藤原薬子』1996年 ** [[水晶の馬]] 週刊マーガレット連載1975年後半期 - 1976年2・3合併号【名作集】『水晶の馬』1995年 ** J.スミス氏の赤ちゃん 週刊少女コミック1975年28号【単行本】[[主婦の友社]]『黒天使シンセラ』1978年【名作集】『プルトンの息子たち』1993年 ** 2枚のページ 月刊セブンティーン1975年7月号【名作集】『御ひといのち夢幻の記』1997年 ** [[女の手紙]] 月刊セブンティーン1975年11月号 - 12月号 前後編【単行本】創美社/集英社『愛のひとこと』1976年 ** [[バネッサの世界]] 週刊(月2回刊)少女フレンド連載1975年前半期 - 1976年初期【単行本】講談社『バネッサの世界』1985年【名作集】『バネッサの世界』1995年 ** わが海に白きバラを… 別冊少女フレンド1975年8月号【名作集】『赤い伝説』1999年 ** 赤い伝説 ラブリーフレンド 連作 1975年 第2部掲載初夏号【名作集】『赤い伝説』1999年 ** 姉妹-シスター- ラブリーフレンド1975年夏休み号【名作集】『百鬼夜行』1999年 ** 水晶色の雨の日に ラブリーフレンド1975年11月号【単行本】講談社『黒天使シンセラ』【名作集】『カミーユの微笑』1997年 ** [[わすれな草をあなたに]] 小学四年生連載1975年後半期 - 1976年3月号 === 1970年代後半 === *[[1976年]] ** [[天使と挽歌]](原作:[[日向葵 (漫画家)|日向葵]]) プリンセス 連作オムニバス 1976年 - 1978年(1.かたつむり1976年4月号・2.獅子の門1976年7月号・3.去りにし君へ…1976年10月号・4.この愛の終わりに1977年1月号・5. 暗闇への遁走曲1977年4月号・6.砂糖菓子の季節1977年7月号・7.風はふりむかずに1977年10月号・8.パンドラの罠1978年1月号・9.蝶になる日に1978年4月号・10.光と影のロンド前編・後編1978年7 - 8月号) ** *【単行本】1977年 - 1978年 秋田書店『天使と挽歌』(1)(1.かたつむり・2.獅子の門・3.去りにし君へ…・4.この愛の終わりに)『天使と挽歌』(2)(6.砂糖菓子の季節・7.風はふりむかずに・8.パンドラの罠・10.光と影のロンド前編・後編)△第5話と第9話は割愛で連載順に収録 ** *【名作集】1998年『天使と挽歌』(1)(1.かたつむり・3.去りにし君へ…・4.この愛の終わりに・5.暗闇への遁走曲(「時間のフーガ」に改題)・7.風はふりむかずに(「光と影のロンド」に改題)『天使と挽歌』(2)(2.獅子の門・6.砂糖菓子の季節・9.蝶になる日に・8.パンドラの罠・10.光と影のロンド前編・後編(「光と影のロンド II」に改題))△全話収録で順番は一部入れ替え ** プリシラのおともだち 週刊少女コミック1976年2号【単行本】主婦と生活社『22世紀の子 リーベス・ツァイベン』1981年【名作集】『水曜日の森』1998年 ** [[シャンデリア (漫画)|シャンデリア]] 週刊少女コミック連載1976年9号 - 36号【単行本】若木書房『シャンデリア』(1) - (3)1977年【名作集】『シャンデリア』(1)(2)1993年 ** 魔女復活 週刊少女コミック1976年38号【名作集】『水晶の馬』1995年 ** [[リリアム (漫画)|リリアム]](モスリン服の子・ロサンゼルスの空・ユタ=2:00AM・恐怖のルート91・ビバリー・ヒルズキャノン通り32番地・ニューヨーク・USA・天使の歌う夜に) 週刊少女コミック連載1976年49号、1977年2号、4・5合併号、7号、9号、11号、13号【名作集】『リリアム』1995年 ** [[あやかしの伝説]](天竺編・中国編・白狐玉藻編) [[花とゆめ]] 連作 1976年5号、13号、22号【単行本】[[白泉社]]『白狐あやかしの伝説』1977年、壱番館書房/[[廣済堂出版]]『あやかしの伝説』1982年、廣済堂出版『妖狐伝説』1986年【名作集】『あやかしの伝説』1992年 ** 鳩の舞う城 ラブリーフレンド1976年7月号 ** [[青い炎のファラオ]] 小学四年生連載1976年8月号 - 1977年3月号 ** [[死霊ポーレットの恋]] [[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小学六年生]]連載1976年10月号 - 12月号【単行本】講談社『死霊ポーレットの恋』1986年【名作集】『あやかしの伝説』1992年 *[[1977年]] **雨の置き手紙 月刊セブンティーン1977年3月号【単行本】集英社『雨の置き手紙』1981年【名作集】『恋のれん』1996年 **[[プルトンの息子たち]] 週刊少女コミック連載1977年19号 - 28号【単行本】壱番館書房/廣済堂出版『プルトンの息子たち』1983年、『幻想魔界 プルトンの息子たち』1987年【名作集】『プルトンの息子たち』1993年 **スズラン(旧題:スズランごころ)|Jotomo 1977年5月号【名作集】『慕情』1997年 **なぜママになってはいけないの|月刊明星 1977年10 - 11月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作【名作集】『月光学園1年B組』1996年(ドキュメンタリー) **[[百塔-3aBTpaの獅子たち-]]|別冊花とゆめ連載1977年冬の号、1978年春、夏、秋、冬の号、1979年春、夏の号【名作集】『百塔-3aBTpaの獅子たち-』 *[[1978年]] **寄生木 別冊ビバプリンセス1978年冬季号 **ジョー・ロス物語 青空のむこうに|月刊明星 1978年3 - 6月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『月光学園1年B組』1996年(フットボール選手の伝記) **[[とどかぬ愛に…-ジェームス・ディーンに捧ぐ-]](原作:草鹿宏)|週刊セブンティーン 1978年28 - 31号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『神さま、なぜ愛にも国境があるの!』1996年 **私の愛したお友達 ひとみ1978年7 - 8月号 **[[神さま、なぜ愛にも国境があるの!]](原作:[[平林敏彦|草鹿宏]]) [[月刊明星]]連載1978年9月号 - 79年2月号【名作集】『神さま、なぜ愛にも国境があるの!』1996年 **4月になれば… 月刊セブンティーン1978年6月号【単行本】集英社『雨の置き手紙』1981年【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 *[[1979年]] **22世紀の子リーベス・ツァイベン|ギャルズライフ連載1979年1月号 - 5月号【単行本】主婦と生活社『22世紀の子 リーベス・ツァイベン』1981年【名作集】『リーベス・ツァイベン』1995年 **港のマルタとデラシネ プリンセス1979年4月号 **4月はたそがれの海 プリンセス1979年5月号 **リトル・モー|月刊明星 1979年5 - 6月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『月光学園1年B組』1996年(同名映画のコミカライズ) **月光学園1年B組|月刊明星連載1979年8月号 - 1980年1月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『月光学園1年B組』1996年 **従妹イゼベル|週刊少女コミック連載1979年12号 - 24号【名作集】『従妹イゼベル』1995年 === 1980年代 === *[[1980年]] **花ほたる|週刊セブンティーン増刊1980年5月7日号【単行本】集英社『雨の置き手紙』1981年【名作集】『蛇の目傘の女』1997年 **すすき野の里|週刊セブンティーン増刊1980年10月17日号【単行本】集英社『雨の置き手紙』1981年【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 *[[1981年]] **小公女(原作:[[フランシス・ホジソン・バーネット]]「[[小公女]]」)|[[毎日小学生新聞]] 1981年1/5 - 7/10断続連載【名作集】『小公女』1996年 === 1960年代後半 - 1970年代 === * その他(おおむね1960年代後半 - 1970年代の作品。[[わたなべまさこ名作集]]収録順に記載) ** [[ストロベリー・ラブ]] 週刊セブンティーン 1970年49号 - 1971年6号【名作集】『ふたごのプリンセス』(2)1995年 ** [[そして…秋]] [[女学生の友|Jotomo]] 1977年10月号【名作集】『恋つづり』1996年 ** [[雪中花]](1960年代後半 - 1970年代)【名作集】『恋つづり』1996年 ** [[この愛の十字架]] 週刊セブンティーン 1968年1号 【名作集】『カミーユの微笑』1997年 ** [[まっ白な嘘]] 月刊セブンティーン 1974年1月号【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** [[おじさまにキスを…]] 週刊セブンティーン 1970年14号【名作集】『娘よ、父の手に!』1997年 ** アイガーの誓い(1970年代)【名作集】『人材派遣社員美樹』1997年 ** バイオレットの散歩道(1970年代)【名作集】『美少年-すぎにし愛の日々-』1997年 ** 冬の館(1970年代)【名作集】『美少年-すぎにし愛の日々-』1997年 ** [[殺人計画]](1960年代後半 - 1970年代)【名作集】『LOVE LOVE ミリオン!!』1997年 ** [[かあちゃんの涙]](1960年代後半 - 1970年代)【名作集】『わすれな草』1998年 ** [[2人のステラ]](1960年代後半 - 1970年代)【名作集】『水曜日の森』1998年 ** [[星空のバラード]] 週刊セブンティーン 1969年2号 【名作集】『天使と挽歌』(2)1998年 ** [[闇からの客]] 週刊セブンティーン 1979年14号【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 == レディースコミック作品リスト == 名作集の詳細は、[[わたなべまさこ名作集]]を参照 [[レディースコミック]]誌 掲載作品([[青年漫画]]誌を含む) === 1970代末(少女漫画からの移行期) === *[[1975年]] **あやかしの夜|[[ビッグコミックオリジナル]]1975年1月20日号(通巻23号)【単行本】主婦の友社『黒天使シンセラ』1978年【名作集】『リリアム』1995年 *[[1976年]] ** おち鮎|ビッグコミック 1976年11月1日増刊号 小学館<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 *[[1977年]] **虞美人(原作:[[白井鐵造]]) 【MOOK】『[[週刊女性]]別冊劇画タカラヅカ名作10選Part.1』1977年3月 *[[1978年]] **[[恋愛風土記 (漫画)|恋愛今昔物語]] 五月の椿・黒髪あわれ(原作:[[佐々木丸美]])|週刊[[ヤングレディ]] 連作 1978年11号、13号【単行本】ブッキング『恋愛風土記』2007年 **[[恋愛今昔物語]](原作:佐々木丸美)(夏子の場合・秋子の場合・冬子の場合・春子の場合) 週刊ヤングレディ 連作 1978年21号 - 24号【単行本】講談社『恋愛風土記』1979年、ブッキング『恋愛風土記』2007年 * 1978年頃 ** [[私の黒髪を切れ]](原作:[[千家和也]]) 【単行本】小学館セブンコミックス『私の黒髪を切れ』(上)(下)1978年12月、1979年1月 ** 幻の女(原作:ウィリアム・アイリッシュ) 【単行本】主婦の友社TOMOコミックス名作ミステリー28『幻の女』1979年1月 ** [[花嫁は4月に]] 【単行本】講談社ヤングレディKCデラックス『花嫁は4月に』1979年【名作集】『恋つづり』1996年 * 1979年 ** ローラー・カナリヤの死んだ日 セブンコミック1979年1月15日号【単行本】集英社 悪女シリーズ8『ある金魚の死』1983年【名作集】『ローラー・カナリヤの死んだ日』1993年 === 1980年代 === *[[1980年]]([[昭和]]55年) ** [[悪女シリーズ (漫画)|悪女シリーズ]] 週刊明星 連作 1980年代前半 ** *【単行本】集英社『悪女シリーズ』(1) - (18)1981年9月 - 1985年9月、集英社漫画文庫『悪女シリーズ』(1) - (3)1984年 ** *【名作集】『ローラー・カナリヤの死んだ日』『蜜の味』息子の恋人』『隣のベッド』『親友』『童話 白雪姫』『ある愛の終わりに』『ママとニャンニャン』『悪夢』1993年 - 1994年 *[[1981年]](昭和56年) **ある結婚|月刊セブンティーン特別編集 [[YOU (雑誌)|YOU]] 1981年No.1(創刊号<ref name="Kawade2018_β"/>/1980年12月発売)【単行本】集英社『恋のれん』1984年 【名作集】『美少年 -すぎにし愛の日々-』1997年 **オフィス・ラブに御用心|セブンコミック1981年1月20日号 【単行本】集英社『大介夢幻抄』(2)1989年【名作集】『シャンデリア』(2)1993年 **小さな贈り物|セブンコミック1981年5月20日号【単行本】集英社『大介夢幻抄』(1)1989年【名作集】『シャンデリア』(2)1993年 **春暦|月刊セブンティーン特別編集 YOU 1981年No.2(5月頃の号)【単行本】集英社『恋のれん』1984年【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 **神田明神 恋のれん|YOU 連作 1981年No.3 - 4,No.8 - 9<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『恋のれん』1984年【名作集】『恋のれん』1996年 **冬の音|YOU 1981年No.7【単行本】集英社『恋のれん』1984年 【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 **嫉妬|[[ビッグコミックフォアレディ|フォアレディ]]1981年3月号【名作集】『高野聖』1997年 **[[夢の記]]|フォアレディ 1981年7月号 - 1982年2月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】小学館『夢の記』1982年【名作集】『夢の記』1994年 *[[1982年]](昭和57年) **金曜はだめよ!|YOU 1982年No.10【単行本】集英社『長い手紙』1984年【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 **長い手紙|YOU 1982年9月号【単行本】集英社『長い手紙』1984年【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 *[[1983年]](昭和58年) **鳩ぽっぽ|YOU 1983年2月号【単行本】集英社『長い手紙』1984年【名作集】【名作集】『毒の女』(2)1994年 **哄った女|フォアレディ 1983年6 - 7月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】小学館フォアレディビッグコミックス『毒の女』(3)1988年10月【名作集】『高野聖』1997年 **秋桜記|YOU 1983年11月号【単行本】集英社『長い手紙』【名作集】『御ひといのち夢幻の記』1997年 *[[1984年]](昭和59年) **誰かが知っている|フォアレディ 1984年1月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】小学館フォアレディビッグコミックス『毒の女』(1)1988年6月【名作集】『高野聖』1997年 **裁きの日|OFFICE YOU 1984年vol.4【単行本】集英社『長い手紙』1984年【名作集】『毒の女』(2)1994年 **無限抱擁|YOU 1984年8月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】YOUコミックスデラックス『私生活』1988年【名作集】『御ひといのち夢幻の記』1997年 **Fの悲劇(シリーズ妊娠2)|フォアレディ 1984年10月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『高野聖』1997年 **夢たがえ|OFFICE YOU 1984年11月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 **とかくこの世は…(シリーズ妊娠3)|フォアレディ 1984年12月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『逢魔が刻』1996年 *[[1985年]](昭和60年) **[[LOVE LOVE 千夜一夜物語]] 連作|週刊明星 2・3合併号 - 39号<ref name="Kawade2018_β"/>(各タイトルは、[[わたなべまさこ名作集]]を参照])【単行本】集英社『LOVE LOVE 千夜一夜物語』(1)(2) 1985年11月、1986年1月【名作集】『LOVE LOVE 千夜一夜物語』1995年 **[[独りまつり]]|フォアレディ 1985年3月号 - 1986年1月号連載【名作集】『独りまつり』1994年【単行本】双葉社文庫『独りまつり』2002年([[東海テレビ]]制作[[フジテレビ系列]]2003年3月31日 - 6月27日放送のTVドラマ「[[愛しき者へ]]」原作) **けものみち|[[キュート|Cute]] 1985年6月号(創刊号/[[ワニマガジン社]]<ref name="Kawade2018_β"/>)【単行本】大陸書房ルージュコミックス『緋の宴』(1)(2)1988年12月、1989年1月【名作集】『緋の宴』1995年 **[[新釈 真景累ヶ淵]]|週刊明星 1985年31号 - 45号連載『新釈 真景累ヶ淵』(原典:[[三遊亭圓朝]]「[[真景累ヶ淵]]」)【単行本】集英社『新釈 真景累ヶ淵』1986年【名作集】『新釈 真景累ヶ淵』1993年 **私生活|YOU 1985年12月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社YOUコミックス『私生活』1988年8月【名作集】『人材派遣社員美樹』1997年 *[[1986年]](昭和61年) **恋あそび|[[JOUR (雑誌)|月刊Jour]] 1986年1月号【単行本】双葉社『孤輪の月』1987年【名作集】『小間使い』1998年 **[[緋の宴]]|フォアレディ 1986年4 - 10月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】[[大陸書房]]ルージュコミックス『緋の宴』(1)(2)1988年12月、1989年1月『【名作集】緋の宴』1995年 **斑猫の舞う夜|ミステリーJour 1986年4月25日号【単行本】双葉社『斑猫の舞う夜』1986年『蛇の目傘の女』1993年、双葉社文庫『百鬼夜行』2004年 **Rose de Mai -5月の薔薇-|YOU 1986年5月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『人材派遣社員美樹』1997年 **幽霊|Jour 1986年7月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『幽霊』1998年 **[[女の首]]|週刊明星 1986年28 - 30号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『ねんね…しな』1987年、文春文庫『妖怪マンガ恐怖読本』1990年【名作集】『穴の底』1993年 **[[死の棲む家]]|週刊明星 1986年31 - 36号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『ねんね…しな』1987年【名作集】『新釈・真景累ヶ淵』1993年 **おそろしい女の話|月刊Jour 1986年9月号【単行本】双葉社『孤輪の月』1987年【名作集】『幽霊』1998年 **[[悪霊 (漫画)|悪霊]]|週刊明星 1986年37 - 40号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『ねんね…しな』1987年、文春文庫『怪奇幻想ホラーマンガ傑作選』1989年【名作集】『穴の底』1993年 **死女の恋|週刊明星 1986年41 - 43号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『バネッサの世界』1995年 **[[穴の底]]|週刊明星 1986年44 - 47号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『ねんね…しな』1987年【名作集】『穴の底』1993年 **[[ねんね…しな]]|週刊明星 1986年年48 - 52号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】集英社『ねんね…しな』1987年、[[文春文庫]]『傑作マンガ選怖い話』1993年【名作集】『穴の底』1993年 **小間使い|ミステリーJour 1986年11月16日号【単行本】双葉社『蛇の目傘の女』1993年、双葉社文庫『蛇の目傘の女』2004年【名作集】『小間使い』1998年 *[[1987年]](昭和62年) **[[孤輪の月]]|月刊Jour 1987年1月号【単行本】双葉社『孤輪の月』1987年【名作集】『鬼っ子』1998年 **空の巣(からのす)|フォアレディ 1987年1月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『毒の女』(1)1994年 **[[毒の女]]|フォアレディ 1987年4月号 - 1988年1月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】小学館『毒の女』(1) - (3)1988年6月、8月、10月【名作集】『毒の女』(1)(2)1994年 **捨てた女|ミステリーJour 1987年4月16日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『かおるの最後の顔』1998年 **ちぎれ髪|月刊Jour 1987年4月号【単行本】双葉社『孤輪の月』1987年【名作集】『怪談 蜘蛛の首』1998年 **竹の秋 -或る蒸発-|月刊Jour 1987年7月号 【単行本】双葉社『孤輪の月』1987年【名作集】『幽霊』1998年 **痩女|月刊Jour 1987年9月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】双葉社ジュールコミックス(アンソロジー)『恐怖怪奇2 戦慄の館』1996年7月【名作集】『百鬼夜行』1999年 **紐|YOU 1987年10月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『美少年 -すぎにし愛の日々-』1997年 **蛇の目傘の女 -女囚三百六拾号-|ミステリーJour 1987年10月16日号【単行本】双葉社『蛇の目傘の女』1993年、双葉社文庫『蛇の目傘の女』2004年【名作集】『蛇の目傘の女』1997年 *[[1988年]](昭和63年) **永遠の闇に眠れ(原作:[[メアリー・H・クラー]])|ミステリーJour 1988年1月16日号【単行本】[[双葉社]]『永遠の闇に眠れ』1990年 **来訪者(原作:[[阿刀田高]])|Jour 1988年3月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『あやかしの樹』1999年 **美少年 -すぎにし愛の日々-|YOU 1988年4月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『美少年-すぎにし愛の日々-』1997年 **魔の刻|[[Silky]] 1988年4月号([[白泉社]])<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『百鬼夜行』1999年 **[[大介夢幻抄]]|フォアレディ 1988年4 - 11月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】小学館『大介夢幻抄』(1)(2)1989年【名作集】『大介夢幻抄』1994年 **5月の薔薇|ミステリーJour 1988年4月16日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『蛇の目傘の女』1997年 **御ひといのち 夢幻の記|[[フォアミセス]] 1988年No.10([[秋田書店]])<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『御ひといのち夢幻の記』1997年 **あやかしの樹(原作:阿刀田高)|Jour 1988年7月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】ナイスデイ・ブックス『阿刀田高のサミング・アップ』1990年6月/新潮文庫『阿刀田高のサミング・アップ』1993年6月【名作集】『あやかしの樹』1999年 **違う名をもつ女|ミステリーYOU 1988年夏号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『御ひといのち夢幻の記』1997年 **怪談 田中かよ乃の死|ミステリーJour 1988年9月16日号【単行本】双葉社『怪談片目猫』1993年、双葉社文庫『怪談片目猫』2004年【名作集】『怪談 うらみ鬼灯』1999年 **魔除け(原作:阿刀田高)|Jour 1988年11月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『あやかしの樹』1999年 *[[1989年]]([[昭和]]64年/[[平成]]元年) **おしどり文次捕物控|ミステリーJour 1989年1月16日号,1990年1月19日号,1991年1月18日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『おしどり文次捕物控』1995年 **春日局(原作:[[橋田壽賀子]])|連載1989年(同年放映テレビドラマのコミカライズ)【単行本】集英社YOUコミックスデラックス『春日局』1989年12月6日【名作集】『春日局』(1)(2)1999年 **脳味噌の報酬(原作:阿刀田高)|Jour 1989年3月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『あやかしの樹』1999年 **鈴の音|Jour 1989年5月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『怪談 蜘蛛の首』1998年 **不如帰 -ほととぎす-(原作:[[徳冨蘆花]])|フォアミセス 1989年No.10<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 **[[揺りかごが落ちる]](原作:[[メアリ・H・クラーク]])|ミステリーJour 1989年7月16日号【単行本】双葉社『永遠の闇に眠れ』1990年 **怪談 蜘蛛の首|ミステリーJour 1989年9月19日号【単行本】双葉社『怪談片目猫』1993年、双葉社文庫『蛇の目傘の女』2004年【名作集】『怪談 蜘蛛の首』1998年 **泣きぼくろ|セリエミステリー 1989年11月号([[白泉社]])<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『幽霊』1998年 **白萩の庭|Jour 1989年12月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『蛇の目傘の女』1997年 **闇の底(まさこの幽玄ごよみ第1話)|週刊女性 1989年12月19日号 - 1990年1月30日号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『草蜉蝣』1996年 * 1980年代後半 * 初出年月および掲載誌を単行本から推定できる作品 **藤原薬子 【単行本】世界文化社[[ロマンコミックス 人物日本の女性史]] 7『藤原薬子』1985年6月 【名作集】『藤原薬子』1996年 **[[ママの恋人]] 【単行本】大陸書房ルージュコミックス『緋の宴』(1)(2)1988年12月、1989年1月【名作集】『小間使い』1998年 === 1990年代 === *[[1990年]]([[平成]]2年) **青霊樹(まさこの幽玄ごよみ第2話)|週刊女性 1990年2月6日号 - 2月26日号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『魚のくさる家』1996年 **鬼っ子|ミステリーYOU 1990年春の号【単行本】集英社『鬼っ子』1991年【名作集】『鬼っ子』1998年 **魚のくさる家(まさこの幽玄ごよみ第3話)|週刊女性 1990年3月6日号 - 4月24日号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『魚のくさる家』1996年 **蝶のみち|ルージュ 1990年4月号増刊([[大陸書房]])<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『水晶の馬』1995年 **ビロードの爪|ミステリーJour 1990年4月19日号【単行本】双葉社『百鬼夜行』1993年、双葉社文庫『百鬼夜行』2004年【名作集】『鬼っ子』1998年 **草蜉蝣(まさこの幽玄ごよみ第4話)|週刊女性 1990年5月1日号 - 6月26日号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】ぶんか社ホラーMコミック文庫『死霊婚 わたなべまさこ傑作集』2009年5月<ref name="Bunka_200905"/>【名作集】『草蜉蝣』1996年 **月の舟|セリエミステリー 1990年7月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『小間使い』1998年 **蒲団(原作:[[橘外男]])|ミステリーJour 1990年8月19日号【単行本】双葉社『百鬼夜行』1993年、双葉社文庫『百鬼夜行』2004年 **[[牡丹灯籠より 幻の夏]](まさこの幽幻ごよみ第5話)|週刊女性 1990年7月3日号 - 1991年1月22日号連載【単行本】主婦と生活社/宙出版『牡丹灯籠より 幻の夏』(原典:[[三遊亭圓朝]]「[[牡丹灯籠]]」)(上)(中)(下)1992年【名作集】『牡丹灯籠より 幻の夏』1996年 **恋々の樹|Jour 1990年11月号 - 1991年6月号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】双葉社ジュールコミックス『恋々の樹』1991年12月 **令嬢ポポラックの哀しみ|ミステリーYOU 1990年秋の号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 *[[1991年]](平成3年) **蒼ざめた女|ミステリーYOU 1991年春の号【単行本】集英社『鬼っ子』1991年【名作集】『草蜉蝣』1996年 **[[高野聖]](原作:[[泉鏡花]])|ミステリーJour 1991年6月19日号【単行本】双葉社『夜叉ヶ池』1993年、双葉社文庫『夜叉ヶ池』2004年【名作集】『高野聖』1997年 **怪談片目猫|ミステリーJour 1991年8月19日号【単行本】双葉社『怪談片目猫』1993年、双葉社文庫『怪談片目猫 』2004年【名作集】『幽霊』1998年 **蔦のからまる家|[[YOU (雑誌)|You-all]] 1991年9号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 **蔵の中 -夕顔の花のような人-|ミステリーYOU 1991年秋の号【単行本】集英社『鬼っ子』1991年、ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年【名作集】『鬼っ子』1998年 **人材派遣社員美樹|週刊明星 1991年37 - 46・47合併号連載<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『人材派遣社員美樹』1997年 **鳥の脚|ミステリーJour 1991年12月1日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『美少年 -すぎにし愛の日々-』1997年 *[[1992年]](平成4年) **註文帳(原作:[[泉鏡花]])|ミステリーJour 1992年2月19日号【名作集】『おしどり文次捕物控』1995年【単行本】双葉社文庫『夜叉ヶ池』2004年 **闇の中…|ミステリーJour 1992年4月19日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『蛇の目傘の女』1997年 **恐怖街|ミステリーYOU 1992年春号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『草蜉蝣』1996年 **滑走路灯(原作:[[夏樹静子]])|Hiミステリー 1992年6号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『滑走路灯』 2000年1月 **華燭|ミステリーJour 1992年6月19日号【単行本】双葉社『百鬼夜行』1993年、双葉社文庫『百鬼夜行』2004年【名作集】『怪談 蜘蛛の首』1998年 **百鬼夜行 -涼子の死-|ミステリーJour 1992年8月19日号【単行本】双葉社『百鬼夜行』1993年、双葉社文庫『百鬼夜行』2004年【名作集】『百鬼夜行』1999年 **鬼あざみ|[[YOU (雑誌)|YOUスペシャル]] 1992年9月25日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『恋のれん』1996年 **秋の夜の夢 -ガラスのような亜々美-|ミステリーJour 1992年11月19日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『怪談 蜘蛛の首』1998年 **むじな(原作:[[小泉八雲]]「[[のっぺらぼう|むじな]]」)|ミステリーJour 1992年12月19日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名【名作集】『鬼っ子』1998年 *[[1993年]](平成5年) **恋つづり 3人の妻たち|[[Midori]] 1993年2月号([[講談社]])<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『恋つづり』1996年 **[[夜叉ヶ池]](原作:泉鏡花)|ミステリーJour 1993年4月19日号【単行本】双葉社『夜叉ヶ池』1993年、双葉社文庫『夜叉ヶ池』2004年【名作集】『高野聖』1997年 **春の鬼|Midori 1993年5月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『小間使い』1998年 **第三の女(原作:夏樹静子)|Hiミステリー 1993年9号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『第三の女』2000年9月 **マリエの窓|Midori 1993年11月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『逢魔が刻』1996年 *[[1994年]](平成6年) **ボクの日記|Midori 1994年2月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『恋つづり』1996年 **ガラスの絆(原作:夏樹静子)|Hiミステリー 1994年12号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『滑走路灯』 2000年1月 **逢魔が刻 風花の説話|Midori 1994年5月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集【名作集】『逢魔が刻』1996年 **わたしのフウ|Jour 1994年8月号<ref name="Kawade2018_β"/> **子をとろ子とろ(原作:[[高橋克彦]])|Hiミステリー 1994年14号<ref name="Kawade2018_β"/> 【単行本】ぶんか社コミック文庫『まんが このミステリーが面白い! 高橋克彦ミステリー傑作選』2011年1月<ref name="Bunka_201101">[高橋克彦ミステリー傑作選 (ぶんか社): 2011|書誌詳細|国立国会図書館 https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011083184-00]</ref> **かおるの最後の顔|OFFICE YOU 連載1994年11月号 - 1995年4月号【単行本】集英社『かおるの最後の顔』1995年【名作集】『かおるの最後の顔』1998年 **雪の別離(原作:夏樹静子)|Hiミステリー 1994年16号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『滑走路灯』 2000年1月 *[[1995年]](平成7年) **鬼火(原作:高橋克彦)|Hiミステリー 1995年20号<ref name="Kawade2018_β"/> 【単行本】ぶんか社コミック文庫『まんが このミステリーが面白い! 高橋克彦ミステリー傑作選』2011年1月<ref name="Bunka_201101"/> **死霊 -暗闇坂の白い家-|ミステリーJour 1985年8月19日号(1988年作「怪談 田中かよ乃の死」続編)【単行本】双葉社文庫『怪談片目猫』2004年【名作集】『怪談 うらみ鬼灯』1999年 *[[1996年]](平成8年) **遠い記憶(原作:高橋克彦)|Hiミステリー 1996年24号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『言えない記憶』2000年、宙コミック文庫Hiミステリーシリーズ『言えない記憶』2008年 **[[椿姫 (漫画)|椿姫]](原作:[[ アレクサンドル・デュマ・フィス]]「[[椿姫 (小説)|椿姫]]」)【単行本】世界文化社『椿姫』1996年3月、【名作集】『椿姫』2001年【単行本】双葉社文庫『愛に散った花 椿姫』2002年 **[[鬼子母神 (わたなべまさこ)|鬼子母神]](原作:[[ひろさちや]])【単行本】鈴木出版『鬼子母神』1996年9月 **裏側(原作:[[阿刀田高]])|Hiミステリー 1996年11月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『あやかしの樹』1999年 *[[1997年]](平成9年) **恐怖の研究(原作:阿刀田高)|Hiミステリー 1997年2月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】宙出版エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『恐怖の研究』2000年10月【名作集】『あやかしの樹』1999年 **邪恋(原作:[[津雲むつみ]])|YOU 1997年No.6特別企画(原題:「邪恋 ストーカー」)【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 **メドゥーサの涙|OFFICE YOU 1997年8月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『百鬼夜行』1999年 **捨てないで(原作:[[東野圭吾]])|Hiミステリー 1997年11月号<ref name="Kawade2018_β"/>【単行本】[[宙出版]]エメラルドコミックスHiミステリーシリーズ『捨てないで』2000年11月,宙出版ミッシーコミックス(ペーパーバック)『東野圭吾 TheBEST』2013年 *[[1998年]](平成10年) **怪談 うらみ鬼灯|OFFICE YOU 1998年9月号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『怪談 うらみ鬼灯』1999年 *[[1999年]](平成11年) ** 聖夜 Holly Night|OFFICE YOUプラス 1999年12月20日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『ライオンの城』2002年 * 初出年月および掲載誌を単行本から推定できる作品 **[[エマの面影 (漫画)|エマの面影]](原作:[[ケイ・ソープ]]) 【単行本】宙出版エメラルドコミックス ハーレクインシリーズ『エマの面影』1998年8月 === 1980年代 - 1990年代以降 === * その他(おおむね1980年代 - 1990年代の作品) ** [[金瓶梅 (わたなべまさこの漫画)|金瓶梅]](原典:[[蘭陵笑笑生]]「[[金瓶梅]]」) ミステリーJour1993年6月19日号から連載開始、その後[[JOURすてきな主婦たち]]に移籍し、2002年4月号 - 2011年4月号まで足かけ19年に渡り連載 ※最長編作品,双葉文庫版全11巻<ref name="Kawade2018_β"/> **ウェディングベルを鳴らす時 (1980年代以降)(1980年代以降)【名作集】『モナリザの部屋』1996年 **紅しぼり…いのちの糸(1980年代以降)【名作集】『不如帰-ほととぎす-』1997年 **女の傷(1980年代以降)【名作集】『令嬢ポポラックの哀しみ』1997年 **里代子の場合(1980年代以降)【名作集】『怪談 うらみ鬼灯』1999年 **十五夜の月(1980年代以降)【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 === 2000年代 === *[[2000年]] **百物語 穴-死霊婚-|OFFICE YOUプラス 2000年8月20日号<ref name="Kawade2018_β"/>【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 *[[2001年]] **[[ライオンの城]]|[[OFFICE YOU]] 8月号 - 2002年2月号連載 【名作集】『ライオンの城』2002年 *[[2002年]] **Mrs.エレインの揺籃|ホラーミステリー8月号【単行本】[[ぶんか社]]ホラーMコミック文庫『死霊婚 わたなべまさこ傑作集』2009年5月<ref name="Bunka_200905">[死霊婚 : わたなべまさこ傑作集 (ぶんか社): 2009|書誌詳細|国立国会図書館 https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010120253-00]</ref>【名作集】『Mrs.エレインの揺籃』2003年 **菊の契り|ほんとうに怖い童話 12月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年 *[[2003年]] **[[愛しき者へ (漫画)|愛しき者へ]]|Jourすてきな主婦たち 連載(同年テレビドラマ化された[[独りまつり]]のリメイク。ドラマタイトル[[愛しき者へ]]使用) *[[2004年]] **それからの…シンデレラ|ほんとうに怖い童話 3月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年 **さくら花の宮|Jourすてきな主婦たち 連載 **膿んだ家|ミステリーJour 2004年9月号 *[[2005年]] **雪はは|ほんとうに怖い童話 2月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年 **遊里 思いの花|ほんとうに怖い童話 12月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年 *[[2006年]] **死霊婚|ホラーミステリー2月号【単行本】ぶんか社ホラーMコミック文庫『死霊婚 わたなべまさこ傑作集』2009年5月<ref name="Bunka_200905"/> **蝮蛇草-炎子という女-|ほんとうに怖い童話 7月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 悪女魔物語 蝮蛇草』2008年 **キャッスル666|ホラーミステリー10月号【単行本】ぶんか社ホラーMコミック文庫『死霊婚 わたなべまさこ傑作集』2009年5月<ref name="Bunka_200905"/> *[[2007年]] **令嬢カーミラ|ホラーミステリー3月号【単行本】ぶんか社ホラーMコミック文庫『死霊婚 わたなべまさこ傑作集』2009年5月<ref name="Bunka_200905"/> **しのだ妻|ほんとうに怖い童話7月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 仇花 悪の花 鬼女・妖婦伝』2015年 *[[2009年]] **吉備津の釜|まんがグリム童話4月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 仇花 悪の花 -鬼女・妖婦伝-』2015年 **魔女の鉄槌|まんがグリム童話7月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 仇花 悪の花 -鬼女・妖婦伝-』2015年 **呂后|まんがグリム童話9月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 仇花 悪の花 -鬼女・妖婦伝-』2015年 **仇花 悪の花|まんがグリム童話11月号【単行本】ぶんか社『まんがグリム童話 仇花 悪の花 -鬼女・妖婦伝-』2015年 *[[2013年]] **ゴールドな夜|ミステリーJour 12月増刊号 *[[2014年]] **ついてくる…もの|ミステリーJour 12月増刊号 *[[2015年]] **白狐娘娘-つぐない-|JOURすてきな主婦たち 8月号 *[[2016年]] **孔家の嫁|JOURすてきな主婦たち 4-5月号 **死者の恋|JOURすてきな主婦たち 9月号 *[[2019年]] **ねんねの子守唄|JOURすてきな主婦たち 10月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fujisan.co.jp/product/1356/b/1873835/ |title=JOUR(ジュール) 2019年10月号 (発売日2019年09月02日) |website=雑誌のオンライン書店Fujisan.co.jp |work=雑誌:JOUR(ジュール)|publisher=[[富士山マガジンサービス]]|date=掲載日不明|accessdate=2023-04-11}} "[ねんねの子守唄]一家の危機を救うため“乳もち奉公”に出た菊。彼女を待ち受ける、数奇な運命とは――。巨匠が描く、涙と感動の時代ドラマ!"</ref> *[[2020年]] **秘密 -ひめごと-|集英社・マンガMee 2020年4月14日- 全14話を電子配信【単行本】各電子版配信出版社からも全2巻,紙版発売は無し **中国怪異譚 朱い紐|JOURすてきな主婦たち 2020年7月号<ref name="JOUR2020_07">{{Cite tweet|author=双葉社 ジュール編集部|user=jour_hensyuubu|number=1267656890621718528 |title=わたなべまさこ先生のシリーズ新連載『中国怪異譚』が、本日発売の「JOURすてきな主婦たち」7月号よりスタート! 御年91歳を迎えられた、わたなべ先生熱筆の41ページ、今回は“密”を避けるため…… お一人で描かれています!!!!!!! #わたなべまさこ #新連載 #正直びっくりしました |date=2020-06-02|accessdate=2023-03-30}}</ref><ref name="JOUR2020_12">{{Cite tweet|author=双葉社 ジュール編集部|user=jour_hensyuubu|number=1268079629484490752 |title=わたなべまさこ先生のシリーズ<新連載>、次回はJOUR12月号(11月2日発売)に掲載予定です。締め切りはまだ先ですが、すでにプロットは…… 10本近くできていらっしゃいました\(^〇^)/ |date=2020-06-03|accessdate=2023-03-30}}</ref> ==著書== *『まんがと生きて』全193頁([[自伝]][[エッセイ]])2008年11月16日第1刷発行,[[双葉社]],{{ISBN2|978-4575300888}} ※「双葉社Webマガジン」にて、2003年8月−2006年11月に連載したものを大幅に加筆再編。 *『総特集 わたなべまさこ 90歳、今なお愛を描く』全191頁,2018年9月30日初版発行,[[河出書房新社]],{{ISBN2|978-4309279718}} *『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』全349頁(本編335頁+索引など14頁),2023年5月30日第1刷発行,[[青土社]],語る会メンバー12名:[[水野英子]](発起人)/[[上田トシコ]]/[[むれあきこ]]/わたなべまさこ/[[巴里夫]]/[[高橋真琴]]/[[今村洋子]]/[[ちばてつや]]/[[牧美也子]]/[[望月あきら]]/[[花村えい子]]/[[北島洋子]]【※発起人水野以外はデビュー順<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/527169 |title=少女マンガはどこからきたの?上田トシコ、むれあきこら50~60年代の少女マンガ語る書籍|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|date=2023-06-02|accessdate=2023-06-02}} "帯:ジャンルを育てたレジェンドたちの証言/1953年の手塚治虫「リボンの騎士」から1972年の池田理代子「ベルサイユのばら」までの期間で、少女マンガというジャンルがいかにして開拓されてきたのかをたどる。"</ref>】{{ISBN2|978-4791775538}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=わたなべまさこ|date=2020-07-02 |title=中国怪異譚 朱い紐|journal=[[JOUR (雑誌)|JOUR]]すてきな主婦たち 2020年7月号(通巻698号)|volume=36 |issue=12 |pages=289-329 |publisher=[[双葉社]] |asin=B088VXBWZ2 |ref={{SfnRef|わたなべまさこ|2020}} }} == 外部リンク == * [https://www.futabasha.co.jp/wm/wm_manga.html まんがと生きて] - [[双葉社]]のページ内にある本人の自伝エッセイ。不定期更新。 *{{Twitter|masako_wtnb}} - 2023年3月14日開設,公式アカウント。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:わたなへ まさこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:創造学園大学の教員]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:1929年生]] [[Category:存命人物]]
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わたべ淳
わたべ 淳(わたべ じゅん、本名:渡部 淳、6月17日 - )は、日本の漫画家。東京都新宿区西落合出身。血液型はAB型。代表作に『レモンエンジェル』などがある。 妻は漫画家の高見まこで、堀田あきお、石坂啓らとともに手塚治虫のアシスタントの同期である。 手塚治虫のアシスタントを務め、1978年『リリカ』落葉の号(サンリオ)にて、手塚の代原として手塚プロの先輩4人と4ページずつ描いた『手塚プロ騒動記 今日の勝負はこれまでじゃ〜!』でデビュー(わたべじゅん名義)。 1980年、『海へ・・・』でヤングジャンプ月例賞佳作受賞、同誌18号に掲載される。 現在、『オートバイ』(モーターマガジン社)にて、『ホウキとオートバイ』を連載中。
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わたべ 淳は、日本の漫画家。東京都新宿区西落合出身。血液型はAB型。代表作に『レモンエンジェル』などがある。 妻は漫画家の高見まこで、堀田あきお、石坂啓らとともに手塚治虫のアシスタントの同期である。
'''わたべ 淳'''(わたべ じゅん、本名:渡部 淳、[[6月17日]]<ref name="aa">『漫画家人名事典』p430 [[日外アソシエーツ]]</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[新宿区]][[西落合 (新宿区)|西落合]]出身<ref name="aa" />。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|AB型]]<ref name="aa" />。代表作に『[[レモンエンジェル (漫画)|レモンエンジェル]]』などがある。 [[妻]]は漫画家の[[高見まこ]]で、[[堀田あきお]]、[[石坂啓]]らとともに[[手塚治虫]]のアシスタントの同期である<ref>[[堀田あきお]]『手塚治虫アシスタントの食卓』(ぶんか社)2019の巻末対談</ref>。 == 経歴 == [[手塚治虫]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務め、[[1978年]]『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』落葉の号([[サンリオ]])にて、手塚の[[代理原稿|代原]]として[[手塚プロダクション|手塚プロ]]の先輩4人と4ページずつ描いた『'''手塚プロ騒動記 今日の勝負はこれまでじゃ〜!'''』でデビュー<ref name="aa" />('''わたべじゅん'''名義<ref name="page">[http://manpara.sakura.ne.jp/lyrica/lyrica24.htm 第24号]</ref>)。 [[1980年]]、『'''海へ・・・'''』で[[ヤングジャンプ]]月例賞佳作受賞、同誌18号に掲載される<ref name="aa" />。 現在、『オートバイ』([[モーターマガジン社]])にて、『[[ホウキとオートバイ]]』を連載中。 == 作品リスト == * 横浜ラブ・コネクション([[1981年]]-[[1982年]]、[[週刊ヤングジャンプ]](集英社)連載。[[ヤングジャンプ・コミックス]]刊、全3巻) * 風をつかまえて([[1983年]]、集英社漫画文庫刊) * スーパーエンジェルズ([[1984年]]、ヤングジャンプ・コミックス刊) * [[ふぞろいの林檎たち]]([[山田太一 (脚本家)|山田太一]]:作、[[1986年]]、ヤングジャンプ・コミックス刊) * 感じてキララ!(1986年、[[月刊少年チャンピオン]](秋田書店)連載。全1巻) * [[レモンエンジェル (漫画)|レモンエンジェル]]([[1988年]]-[[1990年]]、ヤングジャンプ・コミックス刊。全10巻) * バージンロケット'88(1988年、[[少年チャンピオンコミックス]]刊。全1巻) * 風にヨロシク!(1990年-[[1993年]]、バーガーコミックス([[スコラ]](現[[幻冬舎]]))刊。全5巻) * 感じてキララ(1990年、少年チャンピオンコミックス刊。全1巻) * ヘビィメタ女子高生([[1994年]]、バーガーコミックス刊。全1巻) * [[手塚治虫]]([[柳川茂]]:作、手塚プロダクション:著・監修。[[2000年]]) * [[ジョン・レノン]]([[浅野有生子]]:作、手塚プロダクション:著、斉藤早苗:監修。[[2001年]]) * ライジング(2001年-、[[漫画アクション#レーベル|アクションコミックス]]([[双葉社]])刊) * ゼロからはじめる株式投資(石上耕平:作、[[2005年]]、[[宙出版]]刊) * 遺跡の人([[2007年]]、双葉社・漫画大衆掲載) * レモンエンジェルII([[2008年]]、グリーンアロー出版社刊。1巻〜) * 知識ゼロからの大奥入門([[山本博文]]:作、[[2011年]]、[[幻冬舎]]刊) * [[ホウキとオートバイ]](2009年、全四巻。[[グループ・ゼロ]]『マンガの金字塔』レーベルからの電子書籍配信) * 片町夜曲([[山崎浩治]]:作、2015年-2018年、[[北國新聞社]]『月刊ACTUS』連載、全四巻。グループ・ゼロ『マンガの金字塔』レーベルからの電子書籍配信) == 関連作品 == * [[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜]](2009年、秋田書店) - アシスタント時代のわたべや高見が登場。 * ブラック・ジャックREAL~感動の医療体験談~(2013年、秋田書店) - 実話を元にしたストーリーに、手塚治虫のアシスタント経験者らが絵を描いた作品集。わたべや高見もそれぞれ1編を担当。 == 師匠 == * [[手塚治虫]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|blondbombers}} * {{マンガ図書館Z作家|3770|わたべ淳}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:わたへ しゆん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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2,229
LMTO
LMTO法(Linear Muffin-Tin Orbital Method: 線形化されたマフィンティン軌道による方法)は、比較的計算が高速な第一原理バンド計算手法。精度がLAPWより若干劣る。線形化されたバンド計算手法では、ゴーストバンドの問題が生じることがある。平面波を利用するのと違い、原子軌道を直接扱っているため、Hubbardモデルなどへのマップなどが比較的容易にできる。局所的クーロン相互作用による局在性を取り入れたLDA+U法、LDA+DMFT法が最初に適用された手法である。 FP-LMTO(Full-potential LMTO, FLMTO)は、フルポテンシャル化されたLMTO法のこと。 TB-LMTO(Tight-binding LMTO)は、強結合近似を基にしたLMTO法のこと。通常のLMTO法やFP-LMTO法より高速だが、精度は劣る場合がある。
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LMTO法は、比較的計算が高速な第一原理バンド計算手法。精度がLAPWより若干劣る。線形化されたバンド計算手法では、ゴーストバンドの問題が生じることがある。平面波を利用するのと違い、原子軌道を直接扱っているため、Hubbardモデルなどへのマップなどが比較的容易にできる。局所的クーロン相互作用による局在性を取り入れたLDA+U法、LDA+DMFT法が最初に適用された手法である。
'''LMTO'''法(Linear Muffin-Tin Orbital Method: [[線形化 (第一原理バンド計算)|線形化]]されたマフィンティン軌道による方法)は、比較的計算が高速な[[第一原理バンド計算]]手法。精度が[[LAPW]]より若干劣る。線形化されたバンド計算手法では、[[ゴーストバンド]]の問題が生じることがある。[[平面波]]を利用するのと違い、原子軌道を直接扱っているため、Hubbardモデルなどへのマップなどが比較的容易にできる。局所的クーロン相互作用による局在性を取り入れたLDA+U法、LDA+DMFT法が最初に適用された手法である。 == FP-LMTO == '''FP-LMTO'''('''Full-potential LMTO''', '''FLMTO''')は、[[フルポテンシャル]]化されたLMTO法のこと。 == TB-LMTO == '''TB-LMTO'''('''Tight-binding LMTO''')は、[[強結合近似]]を基にしたLMTO法のこと。通常のLMTO法やFP-LMTO法より高速だが、精度は劣る場合がある。 == 参考文献 == *{{Cite journal|author = O. Krogh Andersen|date = 1975-10-15|title = Linear methods in band theory|journal = [[フィジカル・レビュー|Physical Review B]]|publisher = [[アメリカ物理学会|American Physical Society]]|doi = 10.1103/PhysRevB.12.3060|url = http://journals.aps.org/prb/abstract/10.1103/PhysRevB.12.3060|volume = 12|page = 3060|issue = 8}} == 関連項目 == *[[原子球近似]] *[[第一原理バンド計算]] *[[ASW法]] *[[NMTO]] *[[EMTO]] {{DEFAULTSORT:LMTO}} [[Category:バンド計算]]
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2,230
フルポテンシャル
フルポテンシャル(英: full potential)とは、バンド計算において、一般の形状のポテンシャルにバンド計算手法を対応させることである。 APW法、LAPW法、LMTO法、KKR法の各バンド計算手法では、球対称なマフィンティンポテンシャルを使用している。しかし、現実のポテンシャルの形状は球対称とみなせない場合があり、この場合精度上、計算上の制約は大きい。この球対称であるという制約を受けずに一般の形状のポテンシャルに、これらバンド計算手法を対応させることがフルポテンシャル化である。 フルポテンシャル化によりそれぞれの計算手法の略称表記は次のようになる。
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{{出典の明記|date=2009年11月}}{{独自研究|date=2009年11月}} '''フルポテンシャル'''({{lang-en-short|full potential}})とは、[[バンド計算]]において、一般の形状の[[ポテンシャル]]にバンド計算手法を対応させることである。 [[APW法]]、[[LAPW法]]、[[LMTO法]]、[[KKR法]]の各[[バンド計算]]手法では、[[球対称]]な[[マフィンティンポテンシャル]]を使用している。しかし、現実の[[ポテンシャル]]の形状は球対称とみなせない場合<ref>例えば、[[シリコン]]、[[ダイヤモンド]]のようなダイヤモンド構造をした結晶は、[[金属結合]]とは異なり[[共有結合]]によって原子が[[異方性]]の高い結合をしている。このためポテンシャルの異方性も高く、ポテンシャルを球対称とみなす近似は精度的に良くない。</ref>があり、この場合精度上、計算上の制約は大きい。この球対称であるという制約を受けずに一般の形状のポテンシャルに、これらバンド計算手法を対応させることが'''フルポテンシャル'''化である。 フルポテンシャル化によりそれぞれの計算手法の略称表記は次のようになる。 * LAPW→[[FLAPW法|FLAPW]] * LMTO→FP-LMTO * KKR→FP-KKR == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:ふるほてんしやる}} [[Category:バンド計算]]
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シュレーディンガー方程式
シュレーディンガー方程式(シュレーディンガーほうていしき、英: Schrödinger equation)とは、物理学の量子力学における基礎方程式である。 シュレーディンガー方程式という名前は、提案者であるオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーにちなむ。1926年にシュレーディンガーは量子力学の基礎理論に関する一連の論文を提出した。 シュレーディンガー方程式の解は一般的に波動関数と呼ばれる。波動関数はまた状態関数とも呼ばれ、量子系(電子など量子力学で取り扱う対象)の状態を表す。シュレーディンガー方程式は、ある状況の下で量子系が取り得る量子状態を決定し、また系の量子状態が時間的に変化していくかを記述する。あるいは、波動関数を量子系の状態を表すベクトルの成分と見た場合、シュレーディンガー方程式は状態ベクトルの時間発展方程式に置き換えられる。状態ベクトルによる記述は波動関数を用いた場合と異なり物理量の表現によらないため、より一般的である。シュレーディンガー方程式では、波動関数や状態ベクトルによって表される量子系の状態が時間とともに変化するという見方をする。状態が時間変化するという考え方はシュレーディンガー描像と呼ばれる。 シュレーディンガー方程式はその形式によっていくつかの種類に分類される。 ひとつの分類は時間依存性で、時間に依存するシュレーディンガー方程式と時間に依存しないシュレーディンガー方程式がある。時間に依存するシュレーディンガー方程式(英: time-dependent Schrödinger equation; TDSE)は、波動関数の時間的変化を記述する方程式であり、波動関数の変化の仕方は波動関数にかかるハミルトニアンによって決定される。解析力学におけるハミルトニアンは系のエネルギーに対応する関数だったが、量子力学においてはエネルギー固有状態を決定する作用素である。 時間に依存しないシュレーディンガー方程式(英: time-independent Schrödinger equation; TISE)はハミルトニアンの固有値方程式である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式は、系のエネルギーが一定に保たれる閉じた系に対する波動関数を決定する。 シュレーディンガー方程式のもう1つの分類として、方程式の線型性がある。通常、線型なシュレーディンガー方程式は単にシュレーディンガー方程式と呼ばれる。線型なシュレーディンガー方程式は斉次方程式であるため、方程式の解となる波動関数の線型結合もまた方程式の解となる。 非線型シュレーディンガー方程式(英: non-linear Schrödinger equation; NLS)は、通常のシュレーディンガー方程式におけるハミルトニアンにあたる部分が波動関数自身に依存する形の方程式である。シュレーディンガー方程式に非線型性が現れるのは例えば、複数の粒子が相互作用する系について、相互作用ポテンシャルを平均場近似することにより一粒子に対するポテンシャルに置き換えることによる。相互作用ポテンシャルが求めるべき波動関数自身に依存する一体ポテンシャルとなる場合、方程式は非線型となる(詳細は例えばハートリー=フォック方程式、グロス=ピタエフスキー方程式などを参照)。本項では主に線型なシュレーディンガー方程式について述べる。 シュレーディンガー描像では、量子系の時間的変化はその量子系の状態ベクトルや波動関数がその情報を持っていると考える。量子系の状態ベクトルおよび波動関数の時間的変化は、時間に依存するシュレーディンガー方程式によって記述される。状態ベクトル |ψ(t)⟩に関するシュレーディンガー方程式は一般に以下のように表される。 i ħ d d t | ψ ( t ) ⟩ = H ^ | ψ ( t ) ⟩ . {\displaystyle i\hbar {\frac {d}{dt}}|\psi (t)\rangle ={\hat {H}}|\psi (t)\rangle \,.} ここで i は虚数単位、d/dt は時間に関する微分、 ħ = h / 2 π {\displaystyle \hbar =h/2\pi } はディラック定数である。状態ベクトルの時間微分はヒルベルト空間の元を値に持つ実変数関数の(強)微分として導入される。状態ベクトルの微分とは、以下に示すように、すべての時刻 t において状態ベクトル |ψ(t)⟩ の差分商との差のノルムが 0 に収束するような導関数 d/dt|ψ(t)⟩ のことである。 lim h → 0 ‖ | ψ ( t + h ) ⟩ − | ψ ( t ) ⟩ h − d d t | ψ ( t ) ⟩ ‖ = 0 f o r a l l t ∈ R . {\displaystyle \lim _{h\to 0}\left\|{\frac {|\psi (t+h)\rangle -|\psi (t)\rangle }{h}}-{\frac {d}{dt}}|\psi (t)\rangle \right\|=0\qquad \mathrm {for~all~~} t\in \mathbb {R} .} ˆH は系全体の力学的エネルギーを表す演算子で、ハミルトニアンと呼ばれる。ハミルトニアンの具体的な中身は考える系に応じて異なり、対応する古典系のハミルトニアンを正準量子化して求めることが多い。 ハミルトニアンは自己共役な演算子であることが要請されるが、ハミルトニアンを自己共役とは限らない一般の線型演算子 ˆL に置き換えた方程式 i ħ d d t | ψ ( t ) ⟩ = L ^ | ψ ( t ) ⟩ {\displaystyle i\hbar {\frac {d}{dt}}|\psi (t)\rangle ={\hat {L}}|\psi (t)\rangle } もまたシュレーディンガー方程式と呼ばれる。 シュレーディンガー方程式は非相対論的な方程式であり、相対論的領域に対してそのまま適用することはできない。しかし、ディラック方程式を変形することで相対論的なハミルトニアンを得ることができ、形式的にシュレーディンガー方程式と同様の形に表すことができる。 時間に依存するシュレーディンガー方程式は時間発展演算子を用いて形式的に解を求めることができる。初期条件を | ψ ( t 0 ) ⟩ = | ψ 0 ⟩ {\displaystyle |\psi (t_{0})\rangle =|\psi _{0}\rangle } として、各時刻の状態ベクトルを時間発展演算子 ˆU(t − t0) を用いて | ψ ( t ) ⟩ = U ^ ( t − t 0 ) | ψ 0 ⟩ {\displaystyle |\psi (t)\rangle ={\hat {U}}(t-t_{0})|\psi _{0}\rangle } と書き換える。初期条件を満たすためには時間発展演算子は初期時刻において恒等演算子に等しくなければならない:ˆU(0) = I。 時間発展演算子による置き換えをすることにより、シュレーディンガー方程式は時間発展演算子に関する微分方程式となる。 d d t U ^ ( t − t 0 ) = 1 i ħ H ^ ( t ) U ^ ( t − t 0 ) . {\displaystyle {\frac {d}{dt}}{\hat {U}}(t-t_{0})={\frac {1}{i\hbar }}{\hat {H}}(t){\hat {U}}(t-t_{0})\,.} この方程式は以下の積分方程式に置き換えることができる。 U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) U ^ ( t 1 − t 0 ) d t 1 . {\displaystyle {\hat {U}}(t-t_{0})=I+{\frac {1}{i\hbar }}\int _{t_{0}}^{t}{\hat {H}}(t_{1}){\hat {U}}(t_{1}-t_{0})dt_{1}\,.} 積分方程式の右辺を再帰的に展開することにより無限級数として解が求まる。 U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) d t 1 + ⋯ + ( 1 i ħ ) n ∫ t 0 t ⋯ ∫ t 0 t n − 1 H ^ ( t 1 ) ⋯ H ^ ( t n ) d t 1 ⋯ d t n + ⋯ . {\displaystyle {\begin{aligned}{\hat {U}}(t-t_{0})&=I+{\frac {1}{i\hbar }}\int _{t_{0}}^{t}{\hat {H}}(t_{1})dt_{1}+\cdots \\&+\left({\frac {1}{i\hbar }}\right)^{n}\int _{t_{0}}^{t}\cdots \int _{t_{0}}^{t_{n-1}}{\hat {H}}(t_{1})\cdots {\hat {H}}(t_{n})dt_{1}\cdots dt_{n}+\cdots \,.\end{aligned}}} 積分中のハミルトニアンに時間順序演算子 T を作用させ、ハミルトニアンの積を時間順序積に置き換えれば、積分の順序を時間順序演算子に担わせることができる。ハミルトニアンの積の置換は n! 通りあるため、上記の級数は U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) d t 1 + ⋯ + ( 1 i ħ ) n 1 n ! ∫ t 0 t ⋯ ∫ t 0 t T { H ^ ( t 1 ) ⋯ H ^ ( t n ) } d t 1 ⋯ d t n + ⋯ . {\displaystyle {\begin{aligned}{\hat {U}}(t-t_{0})&=I+{\frac {1}{i\hbar }}\int _{t_{0}}^{t}{\hat {H}}(t_{1})dt_{1}+\cdots \\&+\left({\frac {1}{i\hbar }}\right)^{n}{\frac {1}{n!}}\int _{t_{0}}^{t}\cdots \int _{t_{0}}^{t}\operatorname {T} \left\{{\hat {H}}(t_{1})\cdots {\hat {H}}(t_{n})\right\}dt_{1}\cdots dt_{n}+\cdots \,.\end{aligned}}} と書き換えられる。指数関数の級数展開からのアナロジーにより、記述の煩雑さを避けるため時間発展演算子は以下のように略記される。 U ^ ( t − t 0 ) = T exp ( 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t ′ ) d t ′ ) . {\displaystyle {\hat {U}}(t-t_{0})=\operatorname {T} \exp \left({\frac {1}{i\hbar }}\int _{t_{0}}^{t}{\hat {H}}(t')dt'\right).} 特にハミルトニアンが時間に依存しない場合、時間発展演算子は単に演算子の指数関数となる。 U ^ ( t − t 0 ) = exp ( ( t − t 0 ) i ħ H ^ ) . {\displaystyle {\hat {U}}(t-t_{0})=\exp \left({\frac {(t-t_{0})}{i\hbar }}{\hat {H}}\right).} ハミルトニアンが時間に依存しない例として、ポテンシャル V が時間に依存しない一般の多体系のハミルトニアン H ^ = ∑ k = 1 N p ^ k 2 2 m k + V ( x ^ 1 , ... , x ^ N ) {\displaystyle {\hat {H}}=\sum _{k=1}^{N}{\frac {{\hat {p}}_{k}^{2}}{2m_{k}}}+V({\hat {x}}_{1},\ldots ,{\hat {x}}_{N})} が挙げられる。p は粒子の運動量、x は粒子の位置を表す演算子である。m は粒子の質量であり、それぞれの定数や演算子の添字 k は観測された各粒子を番号付けるものである。また N は系の粒子数を表す。 ハミルトニアンが時間に依存する例としては、量子系が外界と相互作用する場合が挙げられ、特に有名なものとして古典的な電磁場と相互作用する電子のハミルトニアンがある。 H ^ = 1 2 m ( p ^ + e A ( x ^ , t ) ) 2 − e Φ ( x ^ , t ) . {\displaystyle {\hat {H}}={\frac {1}{2m}}\left({\hat {\boldsymbol {p}}}+e{\boldsymbol {A}}({\hat {\boldsymbol {x}}},t)\right)^{2}-e\Phi ({\hat {\boldsymbol {x}}},t)\,.} ここで A, Φ は電磁ポテンシャルであり、e は電気素量である。 ハミルトニアン ˆH の自己共役性と時間発展演算子 ˆU の初期条件から、時間発展演算子がユニタリ演算子であることが分かる。時間発展演算子の微分方程式 およびその共役演算子に関する微分方程式(ここでハミルトニアンの自己共役性を利用する) より時間発展演算子とその共役の積は を満たす。初期条件 より任意の時刻について時間発展演算子はユニタリ性を持つ。 時間発展演算子がユニタリ演算子である場合、状態ベクトルの内積は保存される(つまり、状態ベクトルの内積は時間によらず一定である)。 後述するように状態ベクトルの内積が保存することは、物理的には測定に関する確率の保存則として理解できる。 量子力学において、物理量の固有状態を表す状態ベクトルは完全正規直交系をなすため、任意の状態ベクトルはある物理量の固有状態の線型結合に展開することができる。状態ベクトルを展開した際に各々の固有ベクトルにかかる展開係数を波動関数と呼ぶ。状態ベクトル | ψ ( t ) ⟩ {\displaystyle |\psi (t)\rangle } を位置演算子 ˆx の固有ベクトル | x ⟩ {\displaystyle |x\rangle } によって展開すれば、形式的に以下のように表すことができる。 | ψ ( t ) ⟩ = ∫ ψ ( x ′ , t ) | x ′ ⟩ d x ′ . {\displaystyle |\psi (t)\rangle =\int \psi (x',t)|x'\rangle dx'\,.} 特定の固有ベクトルに対する波動関数は、その双対ベクトル ⟨ x | {\displaystyle \langle x|} を状態ベクトル | ψ ( t ) ⟩ {\displaystyle |\psi (t)\rangle } にかけることで取り出すことができる。 ψ ( x , t ) = ⟨ x | ψ ( t ) ⟩ . {\displaystyle \psi (x,t)=\langle x|\psi (t)\rangle \,.} このことは固有ベクトルの正規性および直交性によっている。 位置演算子の固有ベクトルにかかる波動関数を特に座標表示の波動関数と呼ぶ。シュレーディンガー方程式を座標表示の波動関数によって書き換えれば、 i ħ ∂ ψ ( x , t ) ∂ t = H ^ x ψ ( x , t ) {\displaystyle i\hbar {\frac {\partial \psi (x,t)}{\partial t}}={\hat {H}}_{x}\psi (x,t)} となる。波動関数は位置 x を変数に持つため、時間微分は偏微分に置き換えられる。ここでのハミルトニアンは H ^ x ψ ( x , t ) = ⟨ x | H ^ | ψ ( t ) ⟩ {\displaystyle {\hat {H}}_{x}\psi (x,t)=\langle x|{\hat {H}}|\psi (t)\rangle } として座標表示した波動関数に作用する演算子に置き換えられている。同様に運動量表示の波動関数のシュレーディンガー方程式を考えることもできる。座標表示や運動量表示の波動関数に対するシュレーディンガー方程式は単純な代数方程式ではなく、線型偏微分方程式となる。 波動関数に物理的な意味が与えられるには、波動関数の空間部分について二乗可積分である必要がある。 可積分性の条件は、波動関数に対して適切な境界条件を課すことで満足される。通常は更に波動関数の規格化条件 を満たすものが非物理的でない解として採用される。 よく知られるように、波動関数の規格化条件は閉じた量子系での大域的な確率保存則と解釈される。確率解釈に基づく通常の量子論では時間発展しても確率が保存されなければならない。つまりどんな場合でもすべての事象の確率の合計は 100% (= 1) にならなければならない。この事とボルンの規則による確率の求め方(状態ベクトルとその双対ベクトルの積から求まる)より、状態ベクトルの時間発展はユニタリ変換でなければならないことが分かる。シュレーディンガー方程式を解くことで、「状態ベクトルの時間発展はユニタリ変換である」ということが導かれる。よって量子系の時間発展についての基本的な要請(原理)は、シュレーディンガー描像で記述する場合は、このシュレーディンガー方程式を採用して出発することが多い。しかし他にも「時間発展演算子が満たすべき条件」を基本的な要請として出発することもある。 シュレーディンガー方程式を解くと、その系の波動関数がどのように時間発展するかがわかる。 しかしシュレーディンガー方程式は、直接的に波動関数が正確に「何であるか」を語るわけではない。量子力学の解釈は全く別問題であり、「波動関数の根底にある現実と実験結果の間にある関係とは何か」というような問題を扱う。 コペンハーゲン解釈では、波動関数は物理系の完全な情報を与える。 重要な側面は、シュレーディンガー方程式と波動関数の収縮の関係である。 最初期のコペンハーゲン解釈では、粒子は波動関数の収縮の間を「除いて」シュレーディンガー方程式に従い、波動関数の収縮の間は全く異なる動きをする。 量子デコヒーレンスの出現は、別のアプローチ(エヴェレットの多世界解釈のような)を可能にした。それらではシュレーディンガー方程式が常に満たされ、波動関数の収縮はシュレーディンガー方程式から説明される。 後述する時間に依存しないシュレーディンガー方程式を満たす状態ベクトル |ψ⟩ として、 というものがある。これは時間依存するシュレーディンガー方程式も満たしている。 シュレーディンガー方程式の具体的な形は、適当なポテンシャルを決定することで得られる。ポテンシャルは粒子に付随する基本的な変数の関数として与えられる。ただし一般にはポテンシャルの変数は物理量の演算子であり、通常の意味での関数とは異なる。ポテンシャルの変数となる物理量はたとえば粒子の位置であり、スピンである。ポテンシャルは、外界から及ぼされる相互作用と対象とする量子系の粒子間に働く相互作用の二つがある。古典論と同じく一体のポテンシャルは、多体間ポテンシャルを何らかの意味で平均化したものと考えることができる。例えば原子核および内殻電子から外殻電子に及ぼされるクーロン相互作用は、原子核や内殻電子の運動が外殻電子の運動にほとんど影響を受けないならば、原子核と内殻電子に関係するポテンシャルの変数は固定され、二体間ポテンシャルを一体のポテンシャルに置き換えることができる。多体間ポテンシャルの例として最も基本的なものは粒子間のクーロン相互作用およびスピン相互作用である。応用上では有限の井戸型ポテンシャルやレナード-ジョーンズ・ポテンシャルなども利用される。 粒子系のハミルトニアンは前述のポテンシャルの他に、一般には粒子の運動エネルギーが加えられたものになる。具体的なハミルトニアンから波動関数を得るには、物理量の交換関係に従い物理量演算子の表現を決め、得られたハミルトニアンをシュレーディンガー方程式に適用し、その解を求める。 例えば以下の方程式は、位置演算子を掛け算演算子とした場合の一体のポテンシャルに対する一粒子の運動を表す。 m は物体の質量、V(x, t) はポテンシャルエネルギー、∇ はラプラシアン、ψ(x, t) は位置表示の波動関数である。 ハミルトニアンの中に微分演算子が含まれているため、これは線型偏微分方程式である。これは拡散方程式でもあるが、熱伝導方程式とは違って、時間微分の部分に虚数単位があることによって、波動方程式とも言える。 ハミルトニアンが時間に陽に依存しないものとして、時間に依存するシュレーディンガー方程式を時間と空間について変数分離すると、波動関数の空間部分に関する方程式としてハミルトニアンの固有値方程式が得られる。この固有値方程式を時間に依存しないシュレーディンガー方程式と呼ぶ。 ここで Ψ は波動関数の空間部分、E はエネルギー固有値である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式の解はエネルギー固有状態と呼ばれる。 ハミルトニアンのエルミート性から、エネルギー固有状態は互いに直交する。互いに直交する状態間では遷移が起こらないため、固有状態は安定な状態として存在できる。空間部分がハミルトニアンの固有状態であるような波動関数は量子系の定常状態に対応し、定常状態の波動関数とか、単に定常状態とか呼ばれる。あるいは原子や分子に束縛された電子の波動関数に対しては、原子軌道や分子軌道といったように、古典模型の言葉を借用して軌道(英: orbital)と呼ぶこともある。 定常状態の波動関数の時間依存部分は以下のような指数関数で表される。 シュレーディンガー方程式の変数分離解は特別な定常状態の波動関数となるが、解の線型性から一般の波動関数をいくつかの定常状態の線型結合として表すことができる。 ここで Ek は k でラベル付けされたエネルギー固有値、ΨEk は対応する固有状態、cEk はそれぞれの定常状態の確率的な重みを表す複素数である。 時間に依存しないシュレーディンガー方程式に対して、磁場のない一粒子系のハミルトニアン を与えると以下のようになる。 上記のハミルトニアンはポテンシャル V(x) を具体的に決めていないが、実際の取り扱いでは、ポテンシャルを具体的な関数として定めたり、何らかの意味で素性の良い関数であることを要求する必要がある。 何ら相互作用を受けていないような粒子を自由粒子という。自由粒子に対するハミルトニアンにはポテンシャル項がないため (V(x) = 0)、一次元系のシュレーディンガー方程式は以下のようになる。 自由粒子のエネルギー固有値 E は、ハミルトニアンが運動エネルギー演算子に対応するため、粒子が持つ運動エネルギーに対応する。エネルギー固有値の正負によってシュレーディンガー方程式の解の振る舞いは大きく異なる。 エネルギー固有値が正の場合 (E > 0)、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は振動解となる(C1, C2 は任意定数)。 一方、エネルギー固有値が負の場合 (E < 0)、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は指数解となる。 指数解は無限遠での発散などにより、物理的な要請を満たさないため、非物理的な解として扱われる。ただし、トンネル効果のように、部分的に波動関数が指数的な振る舞いをすることは許されている。 自由粒子のシュレーディンガー方程式は、例えば金属中の伝導電子の運動や、無限遠で平坦なポテンシャルを持つ系におけるポテンシャルの束縛を逃れた粒子の振る舞いを調べることなどに応用される。 ポテンシャルが一定V = V 0 の場合、シュレーディンガー方程式の解はエネルギーが古典的に許されるかどうかによって異なり、E > V 0 のときは振動解、E < V 0 のとき指数解になる。振動解では粒子は古典的に許されたエネルギーを持ち、解は実際の古典的な運動に対応する。一方で指数解では粒子は古典的に許されないエネルギーを持ち、トンネル効果のため、古典的に許されない領域へも波動関数が滲むことを記述する。ポテンシャルV 0 が無限に大きい場合、運動は古典的な有限の領域に制限される。つまり、全ての解は充分遠方で指数的になる。減少的な指数解によりエネルギー準位は、allowed energies (許容準位)と呼ばれる離散集合に制限する。 調和振動子のシュレーディンガー方程式は 注目すべきこととして、この量子系は解が厳密に求まり(しかしエルミート多項式のために複雑)、また、振動する原子や分子やまた格子上の原子やイオン、あるいは平衡点近傍で近似したポテンシャルを持つ系など、他の幅広い系を記述し、あるいは近似することができる。このことはまた量子力学における摂動論の基礎を成している。 調和振動子のシュレーディンガー方程式の解は、一般にエルミート多項式を用いて表される。位置表示の波動関数については以下のように与えられる。 ここでn = 0,1,2,... であり、関数Hn はエルミート多項式である。 シュレーディンガー方程式の形式は、水素原子に応用ができる。 e は電気素量で、r は電子の位置(r = |r | は位置ベクトルの大きさで、原点からの距離を表す)、ハミルトニアンのポテンシャル項はクーロンの法則を表し、ε0 は真空の誘電率で は、質量mp の水素原子核(プロトン)と質量me の電子の二体換算質量である。陽子と電子は逆の電荷を持つから、ポテンシャルの項に負符号が現れる。電子質量の代わりに換算質量が使われるのは、電子と陽子が互いに共通の質量中心の周りを運動しているためであり、解くべき問題は二体問題になる。ここでは主に電子の運動に興味があるので、等価な一体問題として、換算質量を使った電子の運動を解くことになる。 水素に対する波動関数は電子の座標の関数で、実際にはそれぞれの座標の関数に分離できる。普通はこれは球面座標系でなされる: R ( r ) {\displaystyle \scriptstyle R(r)} は動径関数で、 Y l m ( θ , φ ) {\displaystyle \scriptstyle Y_{\ell }^{m}(\theta ,\phi )\,} は次数 l と位数m の球面調和関数である。水素原子はシュレーディンガー方程式が厳密に解かれる唯一の原子である。多電子原子は近似方法を必要とする。解の仲間は ここで 中性のヘリウム原子(He, Z = 2)や、陰性の水素イオン(H, Z = 1)、陽性のリチウムイオン(Li, Z = 3)のような、いかなる二電子系に対する方程式は、 r 1 はひとつの電子の位置(r 1 = |r 1| はその大きさ)で、r 2 はもうひとつの電子の位置(r2 = |r 2| はその大きさ)である。r 12 = |r 12| はそれらの間の距離の大きさであり、r 12 は以下で与えられる。 μ は再び質量M の原子核に対応した電子の二体換算質量であり、ここでは そして、Z は元素に対する原子番号である(量子数ではない)。 2 つのラプラシアンの交差項 は、mass polarization term として知られ、原子核の運動が原因で現れる。波動関数は 2 つの電子の位置の関数である。 この方程式に対する閉形式解はない。 シュレーディンガー方程式とその解は物理学を飛躍的に進歩させた。シュレーディンガー方程式の解からは当時は予想できなかった結論が得られた。 シュレーディンガー方程式は、物理量は量子化される(離散的な値だけが現れる)事があると予測する。例としてエネルギーの量子化があり、原子中の電子のエネルギーは常に離散的になる。これを表したのがエネルギー準位であり、これは原子分光分析で確認されている。また他の例として角運動量の量子化がある。これは初期のボーアの原子模型の時には仮定であったが、シュレーディンガー方程式から導出されるものである。 ただしすべての測定値が量子化されるわけではなく、例えば、位置や運動量、時間やエネルギーは、連続した範囲の値を取り得る。 古典力学では、粒子は常に定まった位置と運動量の組を持つ。これらの値はニュートン力学や一般相対論に従って、決定論的に変化する。しかし量子力学では、粒子は定まった物理量を持たず、観測するたびにある確率分布に従ってランダムに測定結果が決まる。シュレーディンガー方程式はその確率分布を予測するが、本質的に個々の観測の正確な結果を予想することは出来ない。不確定性原理は量子力学が本来的に持つ不確実性の有名な例である。それは、より正確に粒子の位置を確認すると運動量が曖昧になり、その逆も同様となることを主張している。シュレーディンガー方程式は、粒子の波動関数の決定論的な時間発展を説明する。しかし波動関数が厳密に分かったとしても、その波動関数に対して行われる具体的な観測の結果を決める事はできない。 古典物理学では、ボールをゆっくりと山の頂上に向けて転がすと、やがてボールは止まり、転がって戻ってくる。これはボールが山の頂上に辿り着き反対側へ行くのに必要なエネルギーを持っていないためである。しかしシュレーディンガー方程式は、ボールが頂上へたどり着くのに十分なエネルギーを持っていなくても、山の反対側へ到達する小さな可能性が存在することを予想している。これがトンネル効果と呼ばれている。これは不確定性原理に関係している。ボールが山のこちら側にいるように見えても、その位置は不確実であり、反対側で確認される可能性がある。 非相対論的なシュレーディンガー方程式は波動方程式とも呼ばれる偏微分方程式の一種である。そのためよく粒子は波として振る舞うのだと言われる。現代の多くの解釈ではこの逆に、量子状態(つまり波)が純粋な物理的実在であり、ある適切な条件の下では粒子としての性質を示すのだとされる。 二重スリット実験は、通常は波が示す、直感的には粒子と関連しない奇妙な振る舞いの例として有名である。ある場所では二つのスリットから来た波同士が打ち消し合い、別の場所では強め合うことで、複雑な干渉縞が現れる。直感的には1個の粒子のみを打ち出した時には、どちらかのスリットのみを通り両方のスリットからの寄与の重ね合わせにならないため、干渉縞は現れないように感じられる。 ところが、シュレーディンガー方程式は波動方程式であるから、一粒子のみを二重スリットに打ち出した時にも同じ干渉縞が「現れる」(左図)。なお、干渉縞が現れるためには実験を繰り返し何度も行う必要がある。このように干渉縞が現れるという事は個々の電子が「両方」のスリットを同時に通る事を示している。直感と反する事ではあるが、この予言は正しく、この考えで電子回折や中性子回折をよく理解でき、科学や工学で広く使われている。 回折の他に、粒子は重ね合わせや干渉の性質を示す。重ね合わせの性質によって、粒子は古典的には異なる 2 つ以上の状態を同時にとる事ができる。例えば、粒子は同時に複数のエネルギーを持つことや、異なる場所に同時にいる事ができる。二重スリットの実験の例では 2 つのスリットを同時に通ることができるのである。古典的なイメージに反する事ではあるがこの重ね合わせ状態は一つの量子状態のままである。 最も単純な波動関数は平面波である: ここでA は平面波の振幅、k は波数ベクトル、ω は角振動数を表す。一般には、純粋な平面波だけで物理系を記述することはできないが、一般に重ね合わせの原理が成り立つため、すべての波は正弦の平面波の重ね合わせによって作られる。シュレーディンガー方程式が線型なら、平面波の線型結合も解として許される。従って、重ね合わせの原理が成り立つならば、シュレーディンガー方程式は線形微分方程式になる必要がある。 波数k が離散的な場合には、平面波の重ねあわせは単純に複数の波数をもつ平面波の和で表現される: 波数k が連続的な場合には和ではなく積分で表され、波動関数 Ψ(r , t ) は波数空間の波動関数のフーリエ変換となる。 ここでd k = dkx dky dkz は波数空間での微小体積であり、積分は波数空間の全体にわたって行われる。運動量波動関数 Φ(k ) が被積分関数として現れているが、これは、位置の波動関数と運動量の波動関数が互いのフーリエ変換であることから生じる。 粒子の全エネルギーE は、運動エネルギーT と位置エネルギーV の和である。この和は古典力学では、ハミルトニアンH を表すためにもよく使われる。 明示的に、一次元の粒子について、位置をx 、質量をm 、運動量をp 、位置と時刻t によって変化するポテンシャルエネルギーをV (x , t ) とすると 三次元では、位置ベクトルr と運動量ベクトルp が使われる。 この形式は任意の一定数の粒子の集まりにまで拡大できる。つまり、系の全エネルギーは全ての粒子の運動エネルギーと、系のポテンシャルエネルギーを足しあわせたものであり、またハミルトニアンでもある。しかし、粒子間には相互作用(多体問題)がある可能性があるため、系のポテンシャルエネルギーV は全粒子の空間的な配置の変化と、あるいは時間によって変化する。一般的には系のポテンシャルエネルギーは、それぞれの粒子の持つ位置エネルギーの合計ではなく、粒子のすべての空間位置の関数である。明示的に書くと、 シュレーディンガー方程式は、その解が波のような動きを表現する関数であるので、数学的には波動方程式と言える。 普通、物理学での波動方程式は他の物理的法則から導かれる。例えば弦や物体の自然振動の波動方程式はニュートンの法則から求められ、そこでは波動関数は物質の変位を表す。電磁波はマクスウェルの方程式から導かれ、そこでは波動関数は電場と磁場を表す。 その一方で、シュレーディンガー方程式の基礎は粒子のエネルギーと、量子力学の仮定である。すなわち、波動関数は系の記述である。シュレーディンガー方程式はそれゆえ、ファインマンが言うように、それ自身の新しい概念である。 この方程式は、古典的なエネルギー保存則に立脚する線型微分方程式という構造を持ち、ド・ブロイの関係と整合的である。その解は波動関数 Ψ であり、それは系について知りうる全ての情報を含んでいる。コペンハーゲン解釈では、Ψ の絶対値 |Ψ| は、粒子がある瞬間にある空間配置にいる確率に関係する。方程式を解いて波動関数 Ψ を得れば、具体的なポテンシャルの影響下で粒子が互いに影響し合いながらどのように振る舞うかが予測できる。 シュレーディンガー方程式は原理的には、波動方程式が粒子を記述し得るという、ド・ブロイの仮説を基に成り立ち、後述する方法で構成される。より厳密なシュレーディンガー方程式の数学的導出については例えば を参照。 アインシュタインの光電効果仮説(1905年)によれば、光子のエネルギーE は、光の対応する光量子波束の周波数 ν(もしくは角周波数 ω = 2πν)に比例する。 同様に、ド・ブロイの仮説(1924年)によれば、どのような粒子も波と関連付けることができ、その粒子の運動量p は、波数ベクトルk に比例する: 特に、1 次元の運動では波数ベクトルk の絶対値は波長 λ に反比例する (k = 2π/λ)。従って、1 次元の運動に限定すれば、上の式は波長 λ を使って以下のように書くこともできる: プランク-アインシュタインの関係とド・ブロイの関係 は、運動量と空間、時間とエネルギーの間の深い関係を照らしており、波動性と粒子性の二重性を表している。ħ = 1 となるような自然単位系を用いて、方程式 を以下の恒等式 にするとより明白となる。 このような単位系の下では、エネルギーと角振動数は時間の逆数として同じ次元を持ち、運動量と波数は長さの逆数の次元を持つ。したがって、エネルギーと角振動数、運動量と波数は互いに同じものとして入れ替えて使うことができる。自然単位系を用いることによって文字の重複を防ぎ、現れる物理量の次元を減らすことができる。しかしながら自然単位系は馴染みがないため、本稿では以降も国際単位系を用いる。 1925年の終わり、シュレーディンガーの見識は、平面波の位相は以下の関係を使って複素数の力率として表した。 そして空間に対する一次偏微分を そして時間に対して 導関数を示す もう一つの量子力学の仮定は、すべてのオブザーバブルは波動関数に作用する自己共役な線型演算子で表され、その演算子の固有値はオブザーバブルの取り得る値になる。前の導関数は、時間微分に対応するエネルギー演算子と 空間微分(ナブラ)に対応する運動量演算子を導く。 ハット (^) は、観測量が演算子であることを示す。演算子は通常の数では表されず、運動量やエネルギーの演算子は微分演算子で表されるが、位置やポテンシャルエネルギーの演算子に関してはただの掛け算演算子になる。面白い点は、エネルギーは時間に関して対称性で、運動量は空間に関して対称性であり、そしてそれらの対称性はエネルギーと運動量の保存則が成り立つ理由である。ネーターの定理を参照。 エネルギー方程式に Ψ を掛け、エネルギー・運動量演算子を置換する。 すぐにシュレーディンガーに彼の方程式を導く。 これらの方程式から、粒子と波の二重性について次のような評価が与えられる。運動エネルギーT は運動量p の二乗に関係する。粒子の運動量が増えれば、運動エネルギーはより早く増加する。しかし波数k が増加するため、波長 λ が減少する。 そして運動エネルギーは二次空間微分に比例するから、波の曲率の強さにも比例する。 曲率が増えるごとに、波の振幅はより速く交互に正負を動き、波長を短くする。運動量と波長の逆比例の関係は粒子の持つエネルギーに整合し、すべての数式で、粒子のエネルギーは波と結び付けられる。 シュレーディンガーが要求したのは以下のようなことである: 位置がr の近くであり, 波数ベクトルがk の近くであるような波束を表す解は, k (従って速度)の広がりがr の広がりを顕著に増やすようなことがないくらいに十分に短い時間内で, 古典力学で決定される曲線を描く。 与えられたk の広がりに対して、速度の広がりはプランク定数に比例するから、プランク定数をゼロに近似したとき、古典力学での方程式は量子力学から導出されると言われる。その極限がどのように取られるか、またどんな状況でかという点で細心の注意が払われる必要がある。 短波長極限はプランク定数をゼロに近似することと等価である。なぜならこれは、波束の局在性を極限まで強め, 粒子を特定の位置に局在化させることだからである(右図を参照)。ハイゼンベルクの不確定性原理を位置と運動量に対して使うと、位置の不確定性と運動量の不確定性の積は、ħ → 0に従ってゼロとなる。 ここでσ は観測量の偏差の二乗平均平方根であり、位置x と運動量px (y とz についても同様)がこの任意の精度で知られるのはこの極限においてでしかない、ということが示唆される。 シュレーディンガー方程式の一般式 はハミルトン-ヤコビ方程式 と密接に関連している。 ここでS は作用、H は古典力学におけるハミルトニアン関数(演算子ではない)。ハミルトン-ヤコビ方程式で使われる一般化座標系qi (i = 1,2,3) は、r = (q 1, q 2, q 3) = (x, y, z ) としてデカルト座標系の位置に置き換えられる。 代入式 ここで ρ(r , t ) はシュレーディンガー方程式に対する確率振幅である。この波動関数を代入した方程式で極限 ħ → 0を取り、ハミルトン-ヤコビ方程式を導く。 関わりあいは、 古典力学における運動方程式はニュートン力学の運動の第2法則であり、これと等価な式としてオイラー=ラグランジュ方程式や正準方程式(ハミルトン方程式)がある。これらの方程式は、力学系の運動を解き、初期条件や系の配置を指定した時に任意の時間に力学系がどのように振る舞うかを数学的に予測するために使われる。 他方で量子力学では、量子系(通常原子、分子、亜原子粒子のような自由か束縛されているか局在しているもの)のシュレーディンガー方程式が、古典力学における運動方程式に対応し、状態の時間発展を記述する。 ニュートンの運動の第2法則のように、シュレーディンガー方程式はヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学や、リチャード・P・ファインマンの経路積分のような等価な別の表現に書き換えることができる。 ニュートンの運動方程式と同じように、シュレーディンガー方程式における時間の扱いは、相対論的な記述にするには不都合である。この問題は行列力学では波動力学ほど深刻ではなく、経路積分の方法では全く問題にならない。 マックス・プランクの光の量子化(黒体輻射を参照)にしたがって、アルベルト・アインシュタインは、プランクの量子は光子(光の粒子)であると説明し、光子のエネルギーE はその振動数ν(または角周波数ω)に比例すると提案している(これが波動と粒子の二重性の最初の現れ)。 E = h ν = ħ ω . ( ħ = h 2 π ) {\displaystyle E=h\nu =\hbar \omega .\quad \left(\hbar ={\frac {h}{2\pi }}\right)} また、エネルギーと運動量は特殊相対性理論の角周波数と波数と同じ方法で関係しているから、光子の運動量p が波数k と比例関係にあることがわかる。 ルイ・ド・ブロイは、粒子が電子のようなものでも、すべての粒子に対してこの式が正しいと仮説を立てた。 ド・ブロイは、物質波がそれと対応する粒子に伴って伝搬すると仮定すると、電子は定常波を形成する、つまり原子核のまわりで離散的な回転周波数のみが許されることを示した。 これらの量子化された軌道は不連続なエネルギー準位に対応し、ド・ブロイはボーアの原子模型がエネルギー準位を形成することを再現した。ボーアの原子模型は角運動量の量子化の仮定の上で成り立っている。 ド・ブロイによれば、電子は波で表現され、波長の数は電子の軌道の円周上にぴったり収まらねばならない。従って、 このアプローチは本質的に、電子の波を半径r の円周軌道に沿った一次元に限定して考えている。 1921年、ド・ブロイに先立ち、シカゴ大学のアーサー・C・ランが、今で言うド・ブロイの関係を導くために、相対性理論の四元運動量の完成を基にした同様の主張を使った。ド・ブロイと違って、ランはさらに進んで、現在シュレーディンガー方程式と呼ばれるところの微分方程式を定式化し、水素原子のエネルギーの固有値を解いた。不幸にもこの論文はフィジカル・レビューに却下されてしまった。Kamen はこの詳細を述べている。 ド・ブロイの理論が登場すると、物理学者ピーター・デバイは即座に、もし粒子が波として振る舞うなら、それらは何らかの形の波動方程式を満たすべきだと論評した。デバイの見解に刺激を受け、シュレーディンガーは電子の適切な 3 次元波動方程式を見つけようと決意した。シュレーディンガーは、光学と力学を結ぶウィリアム・ローワン・ハミルトンの類推に導かれた。それは、波長を 0 にする極限では光学系は力学系に似るという考え方である(ゼロ波長極限での光の経路は、フェルマーの原理に従った明確な軌跡を描く。光学におけるフェルマーの原理の力学における対応物は最小作用の原理である)。 彼の論証を現代的な表現で以下に記述する。彼の発見した方程式は しかしそのとき既に、アルノルト・ゾンマーフェルトは相対論補正を使ってボーアの原子模型を改良していた。シュレーディンガーは相対性理論のエネルギーと運動量の関係を使って、現在ではクーロンポテンシャルにおけるクライン-ゴルドン方程式として知られるものを見つけようとした: 彼はこの相対論的方程式において定常波を発見したが、相対論補正はゾンマーフェルトの公式と一致しなかった。落胆して彼は計算をやめ、1925年12月、彼は人里離れた山小屋に引きこもってしまった。 山小屋でシュレーディンガーは、初期の非相対論的計算は発表に値する新しさがあると認め、将来にわたって相対論的修正の問題から手を引くことを決めた。水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解の難しさ(後に彼は友人の数学者ヘルマン・ワイルに助けられている)にもかかわらず、シュレーディンガーは1926年に発表した論文で、彼の非相対論的な波動方程式は水素の正しいスペクトルのエネルギーを導出することを示している。 その方程式で、シュレーディンガーは水素原子の電子を波 Ψ(x , t ) として扱い、陽子によって作られるポテンシャルの井戸V の中で動くとした上で、水素スペクトル系列を計算した。この計算はボーアの原子模型のエネルギー準位を正確に再現した。論文でシュレーディンガーは自分でこの方程式を以下のように説明している。 この1926年の論文はアインシュタインに熱狂的に支持された。アインシュタインは物質波を自然の直感的な表し方として見ており、ハイゼンベルクの行列力学をあまりに形式的だと非難していた。 シュレーディンガー方程式は波動関数 Ψ の振舞いの詳細を述べるが、その本質について何も述べない。シュレーディンガーは 4 報目の論文で、これを電荷密度として理解しようとしたが、失敗した。1926年、シュレーディンガーの 4 報目かつ最後の論文が発表された数日後、マックス・ボルンは波動関数 Ψ を確率振幅(その絶対値の二乗 |Ψ| が確率密度に等しい)として解釈することに成功した。しかしシュレーディンガーは常に統計学的、確率的なアプローチと、それに関連した波動関数の崩壊を反対しており(アインシュタインのように、量子力学はその背後にある決定論に関する統計学的近似であると信じていた)、ついにコペンハーゲン解釈と和解することはなかった。 ド・ブロイは後年、比例係数によって複素関数と対応付けられる実数値波動関数を提唱し、ド・ブロイ=ボーム理論を生み出した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式(シュレーディンガーほうていしき、英: Schrödinger equation)とは、物理学の量子力学における基礎方程式である。 シュレーディンガー方程式という名前は、提案者であるオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーにちなむ。1926年にシュレーディンガーは量子力学の基礎理論に関する一連の論文を提出した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式の解は一般的に波動関数と呼ばれる。波動関数はまた状態関数とも呼ばれ、量子系(電子など量子力学で取り扱う対象)の状態を表す。シュレーディンガー方程式は、ある状況の下で量子系が取り得る量子状態を決定し、また系の量子状態が時間的に変化していくかを記述する。あるいは、波動関数を量子系の状態を表すベクトルの成分と見た場合、シュレーディンガー方程式は状態ベクトルの時間発展方程式に置き換えられる。状態ベクトルによる記述は波動関数を用いた場合と異なり物理量の表現によらないため、より一般的である。シュレーディンガー方程式では、波動関数や状態ベクトルによって表される量子系の状態が時間とともに変化するという見方をする。状態が時間変化するという考え方はシュレーディンガー描像と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式はその形式によっていくつかの種類に分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ひとつの分類は時間依存性で、時間に依存するシュレーディンガー方程式と時間に依存しないシュレーディンガー方程式がある。時間に依存するシュレーディンガー方程式(英: time-dependent Schrödinger equation; TDSE)は、波動関数の時間的変化を記述する方程式であり、波動関数の変化の仕方は波動関数にかかるハミルトニアンによって決定される。解析力学におけるハミルトニアンは系のエネルギーに対応する関数だったが、量子力学においてはエネルギー固有状態を決定する作用素である。 時間に依存しないシュレーディンガー方程式(英: time-independent Schrödinger equation; TISE)はハミルトニアンの固有値方程式である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式は、系のエネルギーが一定に保たれる閉じた系に対する波動関数を決定する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式のもう1つの分類として、方程式の線型性がある。通常、線型なシュレーディンガー方程式は単にシュレーディンガー方程式と呼ばれる。線型なシュレーディンガー方程式は斉次方程式であるため、方程式の解となる波動関数の線型結合もまた方程式の解となる。 非線型シュレーディンガー方程式(英: non-linear Schrödinger equation; NLS)は、通常のシュレーディンガー方程式におけるハミルトニアンにあたる部分が波動関数自身に依存する形の方程式である。シュレーディンガー方程式に非線型性が現れるのは例えば、複数の粒子が相互作用する系について、相互作用ポテンシャルを平均場近似することにより一粒子に対するポテンシャルに置き換えることによる。相互作用ポテンシャルが求めるべき波動関数自身に依存する一体ポテンシャルとなる場合、方程式は非線型となる(詳細は例えばハートリー=フォック方程式、グロス=ピタエフスキー方程式などを参照)。本項では主に線型なシュレーディンガー方程式について述べる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー描像では、量子系の時間的変化はその量子系の状態ベクトルや波動関数がその情報を持っていると考える。量子系の状態ベクトルおよび波動関数の時間的変化は、時間に依存するシュレーディンガー方程式によって記述される。状態ベクトル |ψ(t)⟩に関するシュレーディンガー方程式は一般に以下のように表される。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "i ħ d d t | ψ ( t ) ⟩ = H ^ | ψ ( t ) ⟩ . {\\displaystyle i\\hbar {\\frac {d}{dt}}|\\psi (t)\\rangle ={\\hat {H}}|\\psi (t)\\rangle \\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ここで i は虚数単位、d/dt は時間に関する微分、 ħ = h / 2 π {\\displaystyle \\hbar =h/2\\pi } はディラック定数である。状態ベクトルの時間微分はヒルベルト空間の元を値に持つ実変数関数の(強)微分として導入される。状態ベクトルの微分とは、以下に示すように、すべての時刻 t において状態ベクトル |ψ(t)⟩ の差分商との差のノルムが 0 に収束するような導関数 d/dt|ψ(t)⟩ のことである。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "lim h → 0 ‖ | ψ ( t + h ) ⟩ − | ψ ( t ) ⟩ h − d d t | ψ ( t ) ⟩ ‖ = 0 f o r a l l t ∈ R . {\\displaystyle \\lim _{h\\to 0}\\left\\|{\\frac {|\\psi (t+h)\\rangle -|\\psi (t)\\rangle }{h}}-{\\frac {d}{dt}}|\\psi (t)\\rangle \\right\\|=0\\qquad \\mathrm {for~all~~} t\\in \\mathbb {R} .}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ˆH は系全体の力学的エネルギーを表す演算子で、ハミルトニアンと呼ばれる。ハミルトニアンの具体的な中身は考える系に応じて異なり、対応する古典系のハミルトニアンを正準量子化して求めることが多い。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンは自己共役な演算子であることが要請されるが、ハミルトニアンを自己共役とは限らない一般の線型演算子 ˆL に置き換えた方程式", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "i ħ d d t | ψ ( t ) ⟩ = L ^ | ψ ( t ) ⟩ {\\displaystyle i\\hbar {\\frac {d}{dt}}|\\psi (t)\\rangle ={\\hat {L}}|\\psi (t)\\rangle }", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "もまたシュレーディンガー方程式と呼ばれる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式は非相対論的な方程式であり、相対論的領域に対してそのまま適用することはできない。しかし、ディラック方程式を変形することで相対論的なハミルトニアンを得ることができ、形式的にシュレーディンガー方程式と同様の形に表すことができる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "時間に依存するシュレーディンガー方程式は時間発展演算子を用いて形式的に解を求めることができる。初期条件を", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "| ψ ( t 0 ) ⟩ = | ψ 0 ⟩ {\\displaystyle |\\psi (t_{0})\\rangle =|\\psi _{0}\\rangle }", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "として、各時刻の状態ベクトルを時間発展演算子 ˆU(t − t0) を用いて", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "| ψ ( t ) ⟩ = U ^ ( t − t 0 ) | ψ 0 ⟩ {\\displaystyle |\\psi (t)\\rangle ={\\hat {U}}(t-t_{0})|\\psi _{0}\\rangle }", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "と書き換える。初期条件を満たすためには時間発展演算子は初期時刻において恒等演算子に等しくなければならない:ˆU(0) = I。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "時間発展演算子による置き換えをすることにより、シュレーディンガー方程式は時間発展演算子に関する微分方程式となる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "d d t U ^ ( t − t 0 ) = 1 i ħ H ^ ( t ) U ^ ( t − t 0 ) . {\\displaystyle {\\frac {d}{dt}}{\\hat {U}}(t-t_{0})={\\frac {1}{i\\hbar }}{\\hat {H}}(t){\\hat {U}}(t-t_{0})\\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この方程式は以下の積分方程式に置き換えることができる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) U ^ ( t 1 − t 0 ) d t 1 . {\\displaystyle {\\hat {U}}(t-t_{0})=I+{\\frac {1}{i\\hbar }}\\int _{t_{0}}^{t}{\\hat {H}}(t_{1}){\\hat {U}}(t_{1}-t_{0})dt_{1}\\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "積分方程式の右辺を再帰的に展開することにより無限級数として解が求まる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) d t 1 + ⋯ + ( 1 i ħ ) n ∫ t 0 t ⋯ ∫ t 0 t n − 1 H ^ ( t 1 ) ⋯ H ^ ( t n ) d t 1 ⋯ d t n + ⋯ . {\\displaystyle {\\begin{aligned}{\\hat {U}}(t-t_{0})&=I+{\\frac {1}{i\\hbar }}\\int _{t_{0}}^{t}{\\hat {H}}(t_{1})dt_{1}+\\cdots \\\\&+\\left({\\frac {1}{i\\hbar }}\\right)^{n}\\int _{t_{0}}^{t}\\cdots \\int _{t_{0}}^{t_{n-1}}{\\hat {H}}(t_{1})\\cdots {\\hat {H}}(t_{n})dt_{1}\\cdots dt_{n}+\\cdots \\,.\\end{aligned}}}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "積分中のハミルトニアンに時間順序演算子 T を作用させ、ハミルトニアンの積を時間順序積に置き換えれば、積分の順序を時間順序演算子に担わせることができる。ハミルトニアンの積の置換は n! 通りあるため、上記の級数は", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "U ^ ( t − t 0 ) = I + 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t 1 ) d t 1 + ⋯ + ( 1 i ħ ) n 1 n ! ∫ t 0 t ⋯ ∫ t 0 t T { H ^ ( t 1 ) ⋯ H ^ ( t n ) } d t 1 ⋯ d t n + ⋯ . {\\displaystyle {\\begin{aligned}{\\hat {U}}(t-t_{0})&=I+{\\frac {1}{i\\hbar }}\\int _{t_{0}}^{t}{\\hat {H}}(t_{1})dt_{1}+\\cdots \\\\&+\\left({\\frac {1}{i\\hbar }}\\right)^{n}{\\frac {1}{n!}}\\int _{t_{0}}^{t}\\cdots \\int _{t_{0}}^{t}\\operatorname {T} \\left\\{{\\hat {H}}(t_{1})\\cdots {\\hat {H}}(t_{n})\\right\\}dt_{1}\\cdots dt_{n}+\\cdots \\,.\\end{aligned}}}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "と書き換えられる。指数関数の級数展開からのアナロジーにより、記述の煩雑さを避けるため時間発展演算子は以下のように略記される。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "U ^ ( t − t 0 ) = T exp ( 1 i ħ ∫ t 0 t H ^ ( t ′ ) d t ′ ) . {\\displaystyle {\\hat {U}}(t-t_{0})=\\operatorname {T} \\exp \\left({\\frac {1}{i\\hbar }}\\int _{t_{0}}^{t}{\\hat {H}}(t')dt'\\right).}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特にハミルトニアンが時間に依存しない場合、時間発展演算子は単に演算子の指数関数となる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "U ^ ( t − t 0 ) = exp ( ( t − t 0 ) i ħ H ^ ) . {\\displaystyle {\\hat {U}}(t-t_{0})=\\exp \\left({\\frac {(t-t_{0})}{i\\hbar }}{\\hat {H}}\\right).}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンが時間に依存しない例として、ポテンシャル V が時間に依存しない一般の多体系のハミルトニアン", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "H ^ = ∑ k = 1 N p ^ k 2 2 m k + V ( x ^ 1 , ... , x ^ N ) {\\displaystyle {\\hat {H}}=\\sum _{k=1}^{N}{\\frac {{\\hat {p}}_{k}^{2}}{2m_{k}}}+V({\\hat {x}}_{1},\\ldots ,{\\hat {x}}_{N})}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "が挙げられる。p は粒子の運動量、x は粒子の位置を表す演算子である。m は粒子の質量であり、それぞれの定数や演算子の添字 k は観測された各粒子を番号付けるものである。また N は系の粒子数を表す。 ハミルトニアンが時間に依存する例としては、量子系が外界と相互作用する場合が挙げられ、特に有名なものとして古典的な電磁場と相互作用する電子のハミルトニアンがある。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "H ^ = 1 2 m ( p ^ + e A ( x ^ , t ) ) 2 − e Φ ( x ^ , t ) . {\\displaystyle {\\hat {H}}={\\frac {1}{2m}}\\left({\\hat {\\boldsymbol {p}}}+e{\\boldsymbol {A}}({\\hat {\\boldsymbol {x}}},t)\\right)^{2}-e\\Phi ({\\hat {\\boldsymbol {x}}},t)\\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ここで A, Φ は電磁ポテンシャルであり、e は電気素量である。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ハミルトニアン ˆH の自己共役性と時間発展演算子 ˆU の初期条件から、時間発展演算子がユニタリ演算子であることが分かる。時間発展演算子の微分方程式", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "およびその共役演算子に関する微分方程式(ここでハミルトニアンの自己共役性を利用する)", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "より時間発展演算子とその共役の積は", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "を満たす。初期条件", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "より任意の時刻について時間発展演算子はユニタリ性を持つ。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "時間発展演算子がユニタリ演算子である場合、状態ベクトルの内積は保存される(つまり、状態ベクトルの内積は時間によらず一定である)。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "後述するように状態ベクトルの内積が保存することは、物理的には測定に関する確率の保存則として理解できる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "量子力学において、物理量の固有状態を表す状態ベクトルは完全正規直交系をなすため、任意の状態ベクトルはある物理量の固有状態の線型結合に展開することができる。状態ベクトルを展開した際に各々の固有ベクトルにかかる展開係数を波動関数と呼ぶ。状態ベクトル | ψ ( t ) ⟩ {\\displaystyle |\\psi (t)\\rangle } を位置演算子 ˆx の固有ベクトル | x ⟩ {\\displaystyle |x\\rangle } によって展開すれば、形式的に以下のように表すことができる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "| ψ ( t ) ⟩ = ∫ ψ ( x ′ , t ) | x ′ ⟩ d x ′ . {\\displaystyle |\\psi (t)\\rangle =\\int \\psi (x',t)|x'\\rangle dx'\\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "特定の固有ベクトルに対する波動関数は、その双対ベクトル ⟨ x | {\\displaystyle \\langle x|} を状態ベクトル | ψ ( t ) ⟩ {\\displaystyle |\\psi (t)\\rangle } にかけることで取り出すことができる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ψ ( x , t ) = ⟨ x | ψ ( t ) ⟩ . {\\displaystyle \\psi (x,t)=\\langle x|\\psi (t)\\rangle \\,.}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このことは固有ベクトルの正規性および直交性によっている。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "位置演算子の固有ベクトルにかかる波動関数を特に座標表示の波動関数と呼ぶ。シュレーディンガー方程式を座標表示の波動関数によって書き換えれば、", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "i ħ ∂ ψ ( x , t ) ∂ t = H ^ x ψ ( x , t ) {\\displaystyle i\\hbar {\\frac {\\partial \\psi (x,t)}{\\partial t}}={\\hat {H}}_{x}\\psi (x,t)}", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "となる。波動関数は位置 x を変数に持つため、時間微分は偏微分に置き換えられる。ここでのハミルトニアンは", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "H ^ x ψ ( x , t ) = ⟨ x | H ^ | ψ ( t ) ⟩ {\\displaystyle {\\hat {H}}_{x}\\psi (x,t)=\\langle x|{\\hat {H}}|\\psi (t)\\rangle }", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "として座標表示した波動関数に作用する演算子に置き換えられている。同様に運動量表示の波動関数のシュレーディンガー方程式を考えることもできる。座標表示や運動量表示の波動関数に対するシュレーディンガー方程式は単純な代数方程式ではなく、線型偏微分方程式となる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "波動関数に物理的な意味が与えられるには、波動関数の空間部分について二乗可積分である必要がある。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "可積分性の条件は、波動関数に対して適切な境界条件を課すことで満足される。通常は更に波動関数の規格化条件", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "を満たすものが非物理的でない解として採用される。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "よく知られるように、波動関数の規格化条件は閉じた量子系での大域的な確率保存則と解釈される。確率解釈に基づく通常の量子論では時間発展しても確率が保存されなければならない。つまりどんな場合でもすべての事象の確率の合計は 100% (= 1) にならなければならない。この事とボルンの規則による確率の求め方(状態ベクトルとその双対ベクトルの積から求まる)より、状態ベクトルの時間発展はユニタリ変換でなければならないことが分かる。シュレーディンガー方程式を解くことで、「状態ベクトルの時間発展はユニタリ変換である」ということが導かれる。よって量子系の時間発展についての基本的な要請(原理)は、シュレーディンガー描像で記述する場合は、このシュレーディンガー方程式を採用して出発することが多い。しかし他にも「時間発展演算子が満たすべき条件」を基本的な要請として出発することもある。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式を解くと、その系の波動関数がどのように時間発展するかがわかる。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "しかしシュレーディンガー方程式は、直接的に波動関数が正確に「何であるか」を語るわけではない。量子力学の解釈は全く別問題であり、「波動関数の根底にある現実と実験結果の間にある関係とは何か」というような問題を扱う。 コペンハーゲン解釈では、波動関数は物理系の完全な情報を与える。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "重要な側面は、シュレーディンガー方程式と波動関数の収縮の関係である。 最初期のコペンハーゲン解釈では、粒子は波動関数の収縮の間を「除いて」シュレーディンガー方程式に従い、波動関数の収縮の間は全く異なる動きをする。 量子デコヒーレンスの出現は、別のアプローチ(エヴェレットの多世界解釈のような)を可能にした。それらではシュレーディンガー方程式が常に満たされ、波動関数の収縮はシュレーディンガー方程式から説明される。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "後述する時間に依存しないシュレーディンガー方程式を満たす状態ベクトル |ψ⟩ として、", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "というものがある。これは時間依存するシュレーディンガー方程式も満たしている。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式の具体的な形は、適当なポテンシャルを決定することで得られる。ポテンシャルは粒子に付随する基本的な変数の関数として与えられる。ただし一般にはポテンシャルの変数は物理量の演算子であり、通常の意味での関数とは異なる。ポテンシャルの変数となる物理量はたとえば粒子の位置であり、スピンである。ポテンシャルは、外界から及ぼされる相互作用と対象とする量子系の粒子間に働く相互作用の二つがある。古典論と同じく一体のポテンシャルは、多体間ポテンシャルを何らかの意味で平均化したものと考えることができる。例えば原子核および内殻電子から外殻電子に及ぼされるクーロン相互作用は、原子核や内殻電子の運動が外殻電子の運動にほとんど影響を受けないならば、原子核と内殻電子に関係するポテンシャルの変数は固定され、二体間ポテンシャルを一体のポテンシャルに置き換えることができる。多体間ポテンシャルの例として最も基本的なものは粒子間のクーロン相互作用およびスピン相互作用である。応用上では有限の井戸型ポテンシャルやレナード-ジョーンズ・ポテンシャルなども利用される。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "粒子系のハミルトニアンは前述のポテンシャルの他に、一般には粒子の運動エネルギーが加えられたものになる。具体的なハミルトニアンから波動関数を得るには、物理量の交換関係に従い物理量演算子の表現を決め、得られたハミルトニアンをシュレーディンガー方程式に適用し、その解を求める。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "例えば以下の方程式は、位置演算子を掛け算演算子とした場合の一体のポテンシャルに対する一粒子の運動を表す。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "m は物体の質量、V(x, t) はポテンシャルエネルギー、∇ はラプラシアン、ψ(x, t) は位置表示の波動関数である。 ハミルトニアンの中に微分演算子が含まれているため、これは線型偏微分方程式である。これは拡散方程式でもあるが、熱伝導方程式とは違って、時間微分の部分に虚数単位があることによって、波動方程式とも言える。", "title": "時間に依存するシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンが時間に陽に依存しないものとして、時間に依存するシュレーディンガー方程式を時間と空間について変数分離すると、波動関数の空間部分に関する方程式としてハミルトニアンの固有値方程式が得られる。この固有値方程式を時間に依存しないシュレーディンガー方程式と呼ぶ。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ここで Ψ は波動関数の空間部分、E はエネルギー固有値である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式の解はエネルギー固有状態と呼ばれる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンのエルミート性から、エネルギー固有状態は互いに直交する。互いに直交する状態間では遷移が起こらないため、固有状態は安定な状態として存在できる。空間部分がハミルトニアンの固有状態であるような波動関数は量子系の定常状態に対応し、定常状態の波動関数とか、単に定常状態とか呼ばれる。あるいは原子や分子に束縛された電子の波動関数に対しては、原子軌道や分子軌道といったように、古典模型の言葉を借用して軌道(英: orbital)と呼ぶこともある。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "定常状態の波動関数の時間依存部分は以下のような指数関数で表される。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式の変数分離解は特別な定常状態の波動関数となるが、解の線型性から一般の波動関数をいくつかの定常状態の線型結合として表すことができる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ここで Ek は k でラベル付けされたエネルギー固有値、ΨEk は対応する固有状態、cEk はそれぞれの定常状態の確率的な重みを表す複素数である。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "時間に依存しないシュレーディンガー方程式に対して、磁場のない一粒子系のハミルトニアン", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "を与えると以下のようになる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "上記のハミルトニアンはポテンシャル V(x) を具体的に決めていないが、実際の取り扱いでは、ポテンシャルを具体的な関数として定めたり、何らかの意味で素性の良い関数であることを要求する必要がある。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "何ら相互作用を受けていないような粒子を自由粒子という。自由粒子に対するハミルトニアンにはポテンシャル項がないため (V(x) = 0)、一次元系のシュレーディンガー方程式は以下のようになる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "自由粒子のエネルギー固有値 E は、ハミルトニアンが運動エネルギー演算子に対応するため、粒子が持つ運動エネルギーに対応する。エネルギー固有値の正負によってシュレーディンガー方程式の解の振る舞いは大きく異なる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "エネルギー固有値が正の場合 (E > 0)、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は振動解となる(C1, C2 は任意定数)。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "一方、エネルギー固有値が負の場合 (E < 0)、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は指数解となる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "指数解は無限遠での発散などにより、物理的な要請を満たさないため、非物理的な解として扱われる。ただし、トンネル効果のように、部分的に波動関数が指数的な振る舞いをすることは許されている。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "自由粒子のシュレーディンガー方程式は、例えば金属中の伝導電子の運動や、無限遠で平坦なポテンシャルを持つ系におけるポテンシャルの束縛を逃れた粒子の振る舞いを調べることなどに応用される。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ポテンシャルが一定V = V 0 の場合、シュレーディンガー方程式の解はエネルギーが古典的に許されるかどうかによって異なり、E > V 0 のときは振動解、E < V 0 のとき指数解になる。振動解では粒子は古典的に許されたエネルギーを持ち、解は実際の古典的な運動に対応する。一方で指数解では粒子は古典的に許されないエネルギーを持ち、トンネル効果のため、古典的に許されない領域へも波動関数が滲むことを記述する。ポテンシャルV 0 が無限に大きい場合、運動は古典的な有限の領域に制限される。つまり、全ての解は充分遠方で指数的になる。減少的な指数解によりエネルギー準位は、allowed energies (許容準位)と呼ばれる離散集合に制限する。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "調和振動子のシュレーディンガー方程式は", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "注目すべきこととして、この量子系は解が厳密に求まり(しかしエルミート多項式のために複雑)、また、振動する原子や分子やまた格子上の原子やイオン、あるいは平衡点近傍で近似したポテンシャルを持つ系など、他の幅広い系を記述し、あるいは近似することができる。このことはまた量子力学における摂動論の基礎を成している。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "調和振動子のシュレーディンガー方程式の解は、一般にエルミート多項式を用いて表される。位置表示の波動関数については以下のように与えられる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ここでn = 0,1,2,... であり、関数Hn はエルミート多項式である。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式の形式は、水素原子に応用ができる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "e は電気素量で、r は電子の位置(r = |r | は位置ベクトルの大きさで、原点からの距離を表す)、ハミルトニアンのポテンシャル項はクーロンの法則を表し、ε0 は真空の誘電率で", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "は、質量mp の水素原子核(プロトン)と質量me の電子の二体換算質量である。陽子と電子は逆の電荷を持つから、ポテンシャルの項に負符号が現れる。電子質量の代わりに換算質量が使われるのは、電子と陽子が互いに共通の質量中心の周りを運動しているためであり、解くべき問題は二体問題になる。ここでは主に電子の運動に興味があるので、等価な一体問題として、換算質量を使った電子の運動を解くことになる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "水素に対する波動関数は電子の座標の関数で、実際にはそれぞれの座標の関数に分離できる。普通はこれは球面座標系でなされる:", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "R ( r ) {\\displaystyle \\scriptstyle R(r)} は動径関数で、 Y l m ( θ , φ ) {\\displaystyle \\scriptstyle Y_{\\ell }^{m}(\\theta ,\\phi )\\,} は次数 l と位数m の球面調和関数である。水素原子はシュレーディンガー方程式が厳密に解かれる唯一の原子である。多電子原子は近似方法を必要とする。解の仲間は", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ここで", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "中性のヘリウム原子(He, Z = 2)や、陰性の水素イオン(H, Z = 1)、陽性のリチウムイオン(Li, Z = 3)のような、いかなる二電子系に対する方程式は、", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "r 1 はひとつの電子の位置(r 1 = |r 1| はその大きさ)で、r 2 はもうひとつの電子の位置(r2 = |r 2| はその大きさ)である。r 12 = |r 12| はそれらの間の距離の大きさであり、r 12 は以下で与えられる。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "μ は再び質量M の原子核に対応した電子の二体換算質量であり、ここでは", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "そして、Z は元素に対する原子番号である(量子数ではない)。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2 つのラプラシアンの交差項", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "は、mass polarization term として知られ、原子核の運動が原因で現れる。波動関数は 2 つの電子の位置の関数である。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "この方程式に対する閉形式解はない。", "title": " 時間に依存しないシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式とその解は物理学を飛躍的に進歩させた。シュレーディンガー方程式の解からは当時は予想できなかった結論が得られた。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式は、物理量は量子化される(離散的な値だけが現れる)事があると予測する。例としてエネルギーの量子化があり、原子中の電子のエネルギーは常に離散的になる。これを表したのがエネルギー準位であり、これは原子分光分析で確認されている。また他の例として角運動量の量子化がある。これは初期のボーアの原子模型の時には仮定であったが、シュレーディンガー方程式から導出されるものである。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ただしすべての測定値が量子化されるわけではなく、例えば、位置や運動量、時間やエネルギーは、連続した範囲の値を取り得る。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "古典力学では、粒子は常に定まった位置と運動量の組を持つ。これらの値はニュートン力学や一般相対論に従って、決定論的に変化する。しかし量子力学では、粒子は定まった物理量を持たず、観測するたびにある確率分布に従ってランダムに測定結果が決まる。シュレーディンガー方程式はその確率分布を予測するが、本質的に個々の観測の正確な結果を予想することは出来ない。不確定性原理は量子力学が本来的に持つ不確実性の有名な例である。それは、より正確に粒子の位置を確認すると運動量が曖昧になり、その逆も同様となることを主張している。シュレーディンガー方程式は、粒子の波動関数の決定論的な時間発展を説明する。しかし波動関数が厳密に分かったとしても、その波動関数に対して行われる具体的な観測の結果を決める事はできない。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "古典物理学では、ボールをゆっくりと山の頂上に向けて転がすと、やがてボールは止まり、転がって戻ってくる。これはボールが山の頂上に辿り着き反対側へ行くのに必要なエネルギーを持っていないためである。しかしシュレーディンガー方程式は、ボールが頂上へたどり着くのに十分なエネルギーを持っていなくても、山の反対側へ到達する小さな可能性が存在することを予想している。これがトンネル効果と呼ばれている。これは不確定性原理に関係している。ボールが山のこちら側にいるように見えても、その位置は不確実であり、反対側で確認される可能性がある。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "非相対論的なシュレーディンガー方程式は波動方程式とも呼ばれる偏微分方程式の一種である。そのためよく粒子は波として振る舞うのだと言われる。現代の多くの解釈ではこの逆に、量子状態(つまり波)が純粋な物理的実在であり、ある適切な条件の下では粒子としての性質を示すのだとされる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "二重スリット実験は、通常は波が示す、直感的には粒子と関連しない奇妙な振る舞いの例として有名である。ある場所では二つのスリットから来た波同士が打ち消し合い、別の場所では強め合うことで、複雑な干渉縞が現れる。直感的には1個の粒子のみを打ち出した時には、どちらかのスリットのみを通り両方のスリットからの寄与の重ね合わせにならないため、干渉縞は現れないように感じられる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ところが、シュレーディンガー方程式は波動方程式であるから、一粒子のみを二重スリットに打ち出した時にも同じ干渉縞が「現れる」(左図)。なお、干渉縞が現れるためには実験を繰り返し何度も行う必要がある。このように干渉縞が現れるという事は個々の電子が「両方」のスリットを同時に通る事を示している。直感と反する事ではあるが、この予言は正しく、この考えで電子回折や中性子回折をよく理解でき、科学や工学で広く使われている。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "回折の他に、粒子は重ね合わせや干渉の性質を示す。重ね合わせの性質によって、粒子は古典的には異なる 2 つ以上の状態を同時にとる事ができる。例えば、粒子は同時に複数のエネルギーを持つことや、異なる場所に同時にいる事ができる。二重スリットの実験の例では 2 つのスリットを同時に通ることができるのである。古典的なイメージに反する事ではあるがこの重ね合わせ状態は一つの量子状態のままである。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "最も単純な波動関数は平面波である:", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ここでA は平面波の振幅、k は波数ベクトル、ω は角振動数を表す。一般には、純粋な平面波だけで物理系を記述することはできないが、一般に重ね合わせの原理が成り立つため、すべての波は正弦の平面波の重ね合わせによって作られる。シュレーディンガー方程式が線型なら、平面波の線型結合も解として許される。従って、重ね合わせの原理が成り立つならば、シュレーディンガー方程式は線形微分方程式になる必要がある。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "波数k が離散的な場合には、平面波の重ねあわせは単純に複数の波数をもつ平面波の和で表現される:", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "波数k が連続的な場合には和ではなく積分で表され、波動関数 Ψ(r , t ) は波数空間の波動関数のフーリエ変換となる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ここでd k = dkx dky dkz は波数空間での微小体積であり、積分は波数空間の全体にわたって行われる。運動量波動関数 Φ(k ) が被積分関数として現れているが、これは、位置の波動関数と運動量の波動関数が互いのフーリエ変換であることから生じる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "粒子の全エネルギーE は、運動エネルギーT と位置エネルギーV の和である。この和は古典力学では、ハミルトニアンH を表すためにもよく使われる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "明示的に、一次元の粒子について、位置をx 、質量をm 、運動量をp 、位置と時刻t によって変化するポテンシャルエネルギーをV (x , t ) とすると", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "三次元では、位置ベクトルr と運動量ベクトルp が使われる。", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "この形式は任意の一定数の粒子の集まりにまで拡大できる。つまり、系の全エネルギーは全ての粒子の運動エネルギーと、系のポテンシャルエネルギーを足しあわせたものであり、またハミルトニアンでもある。しかし、粒子間には相互作用(多体問題)がある可能性があるため、系のポテンシャルエネルギーV は全粒子の空間的な配置の変化と、あるいは時間によって変化する。一般的には系のポテンシャルエネルギーは、それぞれの粒子の持つ位置エネルギーの合計ではなく、粒子のすべての空間位置の関数である。明示的に書くと、", "title": "解の物理的意味" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式は、その解が波のような動きを表現する関数であるので、数学的には波動方程式と言える。", "title": "シュレーディンガー方程式の導出" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "普通、物理学での波動方程式は他の物理的法則から導かれる。例えば弦や物体の自然振動の波動方程式はニュートンの法則から求められ、そこでは波動関数は物質の変位を表す。電磁波はマクスウェルの方程式から導かれ、そこでは波動関数は電場と磁場を表す。", "title": "シュレーディンガー方程式の導出" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "その一方で、シュレーディンガー方程式の基礎は粒子のエネルギーと、量子力学の仮定である。すなわち、波動関数は系の記述である。シュレーディンガー方程式はそれゆえ、ファインマンが言うように、それ自身の新しい概念である。", "title": "シュレーディンガー方程式の導出" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "この方程式は、古典的なエネルギー保存則に立脚する線型微分方程式という構造を持ち、ド・ブロイの関係と整合的である。その解は波動関数 Ψ であり、それは系について知りうる全ての情報を含んでいる。コペンハーゲン解釈では、Ψ の絶対値 |Ψ| は、粒子がある瞬間にある空間配置にいる確率に関係する。方程式を解いて波動関数 Ψ を得れば、具体的なポテンシャルの影響下で粒子が互いに影響し合いながらどのように振る舞うかが予測できる。", "title": "シュレーディンガー方程式の導出" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式は原理的には、波動方程式が粒子を記述し得るという、ド・ブロイの仮説を基に成り立ち、後述する方法で構成される。より厳密なシュレーディンガー方程式の数学的導出については例えば を参照。", "title": "シュレーディンガー方程式の導出" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "アインシュタインの光電効果仮説(1905年)によれば、光子のエネルギーE は、光の対応する光量子波束の周波数 ν(もしくは角周波数 ω = 2πν)に比例する。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "同様に、ド・ブロイの仮説(1924年)によれば、どのような粒子も波と関連付けることができ、その粒子の運動量p は、波数ベクトルk に比例する:", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "特に、1 次元の運動では波数ベクトルk の絶対値は波長 λ に反比例する (k = 2π/λ)。従って、1 次元の運動に限定すれば、上の式は波長 λ を使って以下のように書くこともできる:", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "プランク-アインシュタインの関係とド・ブロイの関係", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "は、運動量と空間、時間とエネルギーの間の深い関係を照らしており、波動性と粒子性の二重性を表している。ħ = 1 となるような自然単位系を用いて、方程式 を以下の恒等式 にするとより明白となる。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "このような単位系の下では、エネルギーと角振動数は時間の逆数として同じ次元を持ち、運動量と波数は長さの逆数の次元を持つ。したがって、エネルギーと角振動数、運動量と波数は互いに同じものとして入れ替えて使うことができる。自然単位系を用いることによって文字の重複を防ぎ、現れる物理量の次元を減らすことができる。しかしながら自然単位系は馴染みがないため、本稿では以降も国際単位系を用いる。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1925年の終わり、シュレーディンガーの見識は、平面波の位相は以下の関係を使って複素数の力率として表した。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "そして空間に対する一次偏微分を", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "そして時間に対して", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "導関数を示す", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "もう一つの量子力学の仮定は、すべてのオブザーバブルは波動関数に作用する自己共役な線型演算子で表され、その演算子の固有値はオブザーバブルの取り得る値になる。前の導関数は、時間微分に対応するエネルギー演算子と", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "空間微分(ナブラ)に対応する運動量演算子を導く。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ハット (^) は、観測量が演算子であることを示す。演算子は通常の数では表されず、運動量やエネルギーの演算子は微分演算子で表されるが、位置やポテンシャルエネルギーの演算子に関してはただの掛け算演算子になる。面白い点は、エネルギーは時間に関して対称性で、運動量は空間に関して対称性であり、そしてそれらの対称性はエネルギーと運動量の保存則が成り立つ理由である。ネーターの定理を参照。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "エネルギー方程式に Ψ を掛け、エネルギー・運動量演算子を置換する。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "すぐにシュレーディンガーに彼の方程式を導く。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "これらの方程式から、粒子と波の二重性について次のような評価が与えられる。運動エネルギーT は運動量p の二乗に関係する。粒子の運動量が増えれば、運動エネルギーはより早く増加する。しかし波数k が増加するため、波長 λ が減少する。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "そして運動エネルギーは二次空間微分に比例するから、波の曲率の強さにも比例する。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "曲率が増えるごとに、波の振幅はより速く交互に正負を動き、波長を短くする。運動量と波長の逆比例の関係は粒子の持つエネルギーに整合し、すべての数式で、粒子のエネルギーは波と結び付けられる。", "title": "ド・ブロイの関係との整合性" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "シュレーディンガーが要求したのは以下のようなことである: 位置がr の近くであり, 波数ベクトルがk の近くであるような波束を表す解は, k (従って速度)の広がりがr の広がりを顕著に増やすようなことがないくらいに十分に短い時間内で, 古典力学で決定される曲線を描く。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "与えられたk の広がりに対して、速度の広がりはプランク定数に比例するから、プランク定数をゼロに近似したとき、古典力学での方程式は量子力学から導出されると言われる。その極限がどのように取られるか、またどんな状況でかという点で細心の注意が払われる必要がある。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "短波長極限はプランク定数をゼロに近似することと等価である。なぜならこれは、波束の局在性を極限まで強め, 粒子を特定の位置に局在化させることだからである(右図を参照)。ハイゼンベルクの不確定性原理を位置と運動量に対して使うと、位置の不確定性と運動量の不確定性の積は、ħ → 0に従ってゼロとなる。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "ここでσ は観測量の偏差の二乗平均平方根であり、位置x と運動量px (y とz についても同様)がこの任意の精度で知られるのはこの極限においてでしかない、ということが示唆される。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式の一般式", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "はハミルトン-ヤコビ方程式", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "と密接に関連している。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ここでS は作用、H は古典力学におけるハミルトニアン関数(演算子ではない)。ハミルトン-ヤコビ方程式で使われる一般化座標系qi (i = 1,2,3) は、r = (q 1, q 2, q 3) = (x, y, z ) としてデカルト座標系の位置に置き換えられる。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "代入式", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "ここで ρ(r , t ) はシュレーディンガー方程式に対する確率振幅である。この波動関数を代入した方程式で極限 ħ → 0を取り、ハミルトン-ヤコビ方程式を導く。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "関わりあいは、", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "古典力学における運動方程式はニュートン力学の運動の第2法則であり、これと等価な式としてオイラー=ラグランジュ方程式や正準方程式(ハミルトン方程式)がある。これらの方程式は、力学系の運動を解き、初期条件や系の配置を指定した時に任意の時間に力学系がどのように振る舞うかを数学的に予測するために使われる。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "他方で量子力学では、量子系(通常原子、分子、亜原子粒子のような自由か束縛されているか局在しているもの)のシュレーディンガー方程式が、古典力学における運動方程式に対応し、状態の時間発展を記述する。 ニュートンの運動の第2法則のように、シュレーディンガー方程式はヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学や、リチャード・P・ファインマンの経路積分のような等価な別の表現に書き換えることができる。", "title": "古典力学との関係" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "ニュートンの運動方程式と同じように、シュレーディンガー方程式における時間の扱いは、相対論的な記述にするには不都合である。この問題は行列力学では波動力学ほど深刻ではなく、経路積分の方法では全く問題にならない。", "title": "相対論とシュレーディンガー方程式" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "マックス・プランクの光の量子化(黒体輻射を参照)にしたがって、アルベルト・アインシュタインは、プランクの量子は光子(光の粒子)であると説明し、光子のエネルギーE はその振動数ν(または角周波数ω)に比例すると提案している(これが波動と粒子の二重性の最初の現れ)。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "E = h ν = ħ ω . ( ħ = h 2 π ) {\\displaystyle E=h\\nu =\\hbar \\omega .\\quad \\left(\\hbar ={\\frac {h}{2\\pi }}\\right)}", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "また、エネルギーと運動量は特殊相対性理論の角周波数と波数と同じ方法で関係しているから、光子の運動量p が波数k と比例関係にあることがわかる。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "ルイ・ド・ブロイは、粒子が電子のようなものでも、すべての粒子に対してこの式が正しいと仮説を立てた。 ド・ブロイは、物質波がそれと対応する粒子に伴って伝搬すると仮定すると、電子は定常波を形成する、つまり原子核のまわりで離散的な回転周波数のみが許されることを示した。 これらの量子化された軌道は不連続なエネルギー準位に対応し、ド・ブロイはボーアの原子模型がエネルギー準位を形成することを再現した。ボーアの原子模型は角運動量の量子化の仮定の上で成り立っている。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "ド・ブロイによれば、電子は波で表現され、波長の数は電子の軌道の円周上にぴったり収まらねばならない。従って、", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "このアプローチは本質的に、電子の波を半径r の円周軌道に沿った一次元に限定して考えている。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "1921年、ド・ブロイに先立ち、シカゴ大学のアーサー・C・ランが、今で言うド・ブロイの関係を導くために、相対性理論の四元運動量の完成を基にした同様の主張を使った。ド・ブロイと違って、ランはさらに進んで、現在シュレーディンガー方程式と呼ばれるところの微分方程式を定式化し、水素原子のエネルギーの固有値を解いた。不幸にもこの論文はフィジカル・レビューに却下されてしまった。Kamen はこの詳細を述べている。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "ド・ブロイの理論が登場すると、物理学者ピーター・デバイは即座に、もし粒子が波として振る舞うなら、それらは何らかの形の波動方程式を満たすべきだと論評した。デバイの見解に刺激を受け、シュレーディンガーは電子の適切な 3 次元波動方程式を見つけようと決意した。シュレーディンガーは、光学と力学を結ぶウィリアム・ローワン・ハミルトンの類推に導かれた。それは、波長を 0 にする極限では光学系は力学系に似るという考え方である(ゼロ波長極限での光の経路は、フェルマーの原理に従った明確な軌跡を描く。光学におけるフェルマーの原理の力学における対応物は最小作用の原理である)。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "彼の論証を現代的な表現で以下に記述する。彼の発見した方程式は", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "しかしそのとき既に、アルノルト・ゾンマーフェルトは相対論補正を使ってボーアの原子模型を改良していた。シュレーディンガーは相対性理論のエネルギーと運動量の関係を使って、現在ではクーロンポテンシャルにおけるクライン-ゴルドン方程式として知られるものを見つけようとした:", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "彼はこの相対論的方程式において定常波を発見したが、相対論補正はゾンマーフェルトの公式と一致しなかった。落胆して彼は計算をやめ、1925年12月、彼は人里離れた山小屋に引きこもってしまった。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "山小屋でシュレーディンガーは、初期の非相対論的計算は発表に値する新しさがあると認め、将来にわたって相対論的修正の問題から手を引くことを決めた。水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解の難しさ(後に彼は友人の数学者ヘルマン・ワイルに助けられている)にもかかわらず、シュレーディンガーは1926年に発表した論文で、彼の非相対論的な波動方程式は水素の正しいスペクトルのエネルギーを導出することを示している。 その方程式で、シュレーディンガーは水素原子の電子を波 Ψ(x , t ) として扱い、陽子によって作られるポテンシャルの井戸V の中で動くとした上で、水素スペクトル系列を計算した。この計算はボーアの原子模型のエネルギー準位を正確に再現した。論文でシュレーディンガーは自分でこの方程式を以下のように説明している。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "この1926年の論文はアインシュタインに熱狂的に支持された。アインシュタインは物質波を自然の直感的な表し方として見ており、ハイゼンベルクの行列力学をあまりに形式的だと非難していた。", "title": "歴史的背景と発展" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "シュレーディンガー方程式は波動関数 Ψ の振舞いの詳細を述べるが、その本質について何も述べない。シュレーディンガーは 4 報目の論文で、これを電荷密度として理解しようとしたが、失敗した。1926年、シュレーディンガーの 4 報目かつ最後の論文が発表された数日後、マックス・ボルンは波動関数 Ψ を確率振幅(その絶対値の二乗 |Ψ| が確率密度に等しい)として解釈することに成功した。しかしシュレーディンガーは常に統計学的、確率的なアプローチと、それに関連した波動関数の崩壊を反対しており(アインシュタインのように、量子力学はその背後にある決定論に関する統計学的近似であると信じていた)、ついにコペンハーゲン解釈と和解することはなかった。 ド・ブロイは後年、比例係数によって複素関数と対応付けられる実数値波動関数を提唱し、ド・ブロイ=ボーム理論を生み出した。", "title": "歴史的背景と発展" } ]
シュレーディンガー方程式とは、物理学の量子力学における基礎方程式である。 シュレーディンガー方程式という名前は、提案者であるオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーにちなむ。1926年にシュレーディンガーは量子力学の基礎理論に関する一連の論文を提出した。 シュレーディンガー方程式の解は一般的に波動関数と呼ばれる。波動関数はまた状態関数とも呼ばれ、量子系(電子など量子力学で取り扱う対象)の状態を表す。シュレーディンガー方程式は、ある状況の下で量子系が取り得る量子状態を決定し、また系の量子状態が時間的に変化していくかを記述する。あるいは、波動関数を量子系の状態を表すベクトルの成分と見た場合、シュレーディンガー方程式は状態ベクトルの時間発展方程式に置き換えられる。状態ベクトルによる記述は波動関数を用いた場合と異なり物理量の表現によらないため、より一般的である。シュレーディンガー方程式では、波動関数や状態ベクトルによって表される量子系の状態が時間とともに変化するという見方をする。状態が時間変化するという考え方はシュレーディンガー描像と呼ばれる。
'''シュレーディンガー方程式'''(シュレーディンガーほうていしき、{{lang-en-short|{{lang|de|Schr&ouml;dinger}} equation}})とは、[[物理学]]の[[量子力学]]における[[基礎方程式]]である。 シュレーディンガー方程式という名前は、提案者である[[オーストリア]]の[[物理学者]][[エルヴィン・シュレーディンガー]]にちなむ。[[1926年]]にシュレーディンガーは量子力学の基礎理論に関する一連の論文を提出した{{sfn|高林|2010|p=253|loc=&sect;8.1 定常状態のシュレーディンガー方程式}}。 シュレーディンガー方程式の解は一般的に[[波動関数]]と呼ばれる。波動関数はまた状態関数とも呼ばれ、量子系([[電子]]など量子力学で取り扱う対象)の状態を表す。シュレーディンガー方程式は、ある状況の下で量子系が取り得る[[量子状態]]を決定し、また系の量子状態が時間的に変化していくかを記述する。あるいは、波動関数を量子系の状態を表すベクトルの成分と見た場合、シュレーディンガー方程式は[[状態ベクトル]]の時間発展方程式に置き換えられる。状態ベクトルによる記述は波動関数を用いた場合と異なり物理量の表現によらないため、より一般的である。シュレーディンガー方程式では、波動関数や状態ベクトルによって表される量子系の状態が時間とともに変化するという見方をする。状態が時間変化するという考え方は[[シュレーディンガー描像]]と呼ばれる。 ==分類== シュレーディンガー方程式はその形式によっていくつかの種類に分類される。 ひとつの分類は時間依存性で、時間に依存するシュレーディンガー方程式と時間に依存しないシュレーディンガー方程式がある。'''時間に依存するシュレーディンガー方程式'''({{lang-en-short|time-dependent Schr&ouml;dinger equation; TDSE}})は、波動関数の時間的変化を記述する方程式であり、波動関数の変化の仕方は波動関数にかかる[[ハミルトニアン]]によって決定される。[[解析力学]]におけるハミルトニアンは系の[[エネルギー]]に対応する[[関数 (数学)|関数]]だったが、量子力学においては[[エネルギー固有状態]]を決定する[[作用素]]<ref group="注">物理学の文献において作用素は演算子とも呼ばれる。以下では作用素の意味で演算子という語を用いる。</ref>である。 '''時間に依存しないシュレーディンガー方程式'''({{lang-en-short|time-independent Schr&ouml;dinger equation; TISE}})はハミルトニアンの[[固有値方程式]]である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式は、系のエネルギーが一定に保たれる閉じた系に対する波動関数を決定する。 シュレーディンガー方程式のもう1つの分類として、方程式の[[線型性]]がある。通常、線型なシュレーディンガー方程式は単にシュレーディンガー方程式と呼ばれる。線型なシュレーディンガー方程式は[[斉次方程式]]であるため、方程式の解となる波動関数の[[線型結合]]もまた方程式の解となる。 '''[[非線型シュレーディンガー方程式]]'''({{lang-en-short|non-linear Schr&ouml;dinger equation; NLS}})は、通常のシュレーディンガー方程式におけるハミルトニアンにあたる部分が波動関数自身に依存する形の方程式である。シュレーディンガー方程式に非線型性が現れるのは例えば、複数の粒子が[[相互作用]]する系について、相互作用ポテンシャルを[[平均場近似]]することにより一粒子に対するポテンシャルに置き換えることによる。相互作用ポテンシャルが求めるべき波動関数自身に依存する一体ポテンシャルとなる場合、方程式は非線型となる(詳細は例えば[[ハートリー=フォック方程式]]、[[グロス=ピタエフスキー方程式]]などを参照)。本項では主に線型なシュレーディンガー方程式について述べる。 =={{anchors|時間依存するシュレーディンガー方程式}}時間に依存するシュレーディンガー方程式 == [[シュレーディンガー描像]]では、量子系の[[時間]]的変化はその量子系の[[状態ベクトル]]や[[波動関数]]がその情報を持っていると考える。量子系の[[状態ベクトル]]および[[波動関数]]の時間的変化は、'''時間に依存するシュレーディンガー方程式'''によって記述される。[[状態ベクトル]] {{math|{{ket|''&psi;''(''t'')}}}}<ref group="注">このような[[ベクトル空間|ベクトル]]の記法を[[ブラ・ケット記法]]と呼ぶ。 {{math|{{ket|''&eta;''}}}} という形のベクトルをケットベクトル、{{math|{{bra|''&xi;''}}}} という形のベクトルをブラベクトルと呼ぶ。文献によっては状態ベクトルに対してブラ・ケット記法が用いられていないが、数学的に意味するところは同じである。</ref>に関するシュレーディンガー方程式は一般に以下のように表される。 {{Indent|<math>i\hbar\frac{d}{dt} | \psi(t) \rangle = \hat{H} | \psi(t)\rangle\,.</math>}} ここで {{mvar|i}} は[[虚数単位]]、{{math|''d''/''dt''}} は時間に関する[[微分]]、<math>\hbar = h/2\pi</math> は[[ディラック定数]]<ref group="注">誤解のおそれがない限り、単に[[プランク定数]]と呼ぶことが多い。</ref>である。状態ベクトルの時間微分は[[ヒルベルト空間]]の[[元 (数学)|元]]を値に持つ実変数関数の(強)微分として導入される{{sfn|新井|2003|pp=454&ndash;455|loc=9.1 強連続 1 パラメータユニタリ群}}。状態ベクトルの微分とは、以下に示すように、すべての時刻 {{mvar|t}} において状態ベクトル {{math|{{ket|''&psi;''(''t'')}}}} の差分商との差の[[ノルム]]が 0 に[[収束]]するような導関数 {{math|{{sfrac|''d''|''dt''}}{{ket|''&psi;''(''t'')}}}} のことである。 {{Indent|<math> \lim_{h \to 0} \left\| \frac{|\psi(t+h)\rangle - |\psi(t)\rangle}{h} - \frac{d}{dt}|\psi(t)\rangle \right\| = 0 \qquad \mathrm{for~all~~} t \in \mathbb{R}. </math>}} {{math|{{hat|''H''}}}} は系全体の力学的[[エネルギー]]を表す[[作用素|演算子]]で、'''[[ハミルトニアン]]'''<ref group="注">古典論におけるハミルトニアンと区別する意味で、あるいは演算子であることを強調する意味で、ハミルトン演算子 {{en|(Hamiltonian operator)}} と呼ぶこともある。</ref>と呼ばれる。ハミルトニアンの具体的な中身は考える系に応じて異なり、対応する古典系のハミルトニアンを[[正準量子化]]して求めることが多い。 ハミルトニアンは[[非有界作用素#対称作用素と自己共役作用素|自己共役]]な演算子であることが要請されるが、ハミルトニアンを自己共役とは限らない一般の[[線型作用素|線型演算子]] {{math|{{hat|''L''}}}} に置き換えた方程式 {{Indent|<math>i\hbar\frac{d}{dt} | \psi(t) \rangle = \hat{L} | \psi(t)\rangle</math>}} もまたシュレーディンガー方程式と呼ばれる{{sfn|新井|2003|pp=467&ndash;469|loc=10.2 量子力学の公理系}}。 シュレーディンガー方程式は非相対論的な方程式であり、[[特殊相対性理論|相対論]]的領域に対してそのまま適用することはできない。しかし、[[ディラック方程式]]を変形することで相対論的なハミルトニアンを得ることができ、形式的にシュレーディンガー方程式と同様の形に表すことができる{{sfn|ランダウ|リフシッツ|2008|pp=397&ndash;398|loc=&sect;83. ディラック行列}}。 === 時間発展 === 時間に依存するシュレーディンガー方程式は[[時間発展演算子]]を用いて形式的に解を求めることができる。[[初期条件]]を {{Indent|<math>|\psi(t_0)\rangle = |\psi_0\rangle </math>}} として、各時刻の状態ベクトルを時間発展演算子 {{math|{{hat|''U''}}(''t'' &minus; ''t''<sub>0</sub>)}} を用いて {{Indent|<math>|\psi(t)\rangle = \hat{U}(t - t_0)|\psi_0\rangle </math>}} と書き換える。初期条件を満たすためには時間発展演算子は初期時刻において[[恒等演算子]]に等しくなければならない:{{math|1={{hat|''U''}}(0) = ''I''}}。 時間発展演算子による置き換えをすることにより、シュレーディンガー方程式は時間発展演算子に関する[[微分方程式]]となる。 {{Indent|<math>\frac{d}{dt}\hat{U}(t - t_0) = \frac{1}{i\hbar}\hat{H}(t)\hat{U}(t - t_0)\,.</math>}} この方程式は以下の積分方程式に置き換えることができる<ref name="time_evolution_op" />。 {{Indent|<math>\hat{U}(t - t_0) = I + \frac{1}{i\hbar} \int_{t_0}^{t} \hat{H}(t_1)\hat{U}(t_1 - t_0) dt_1\,.</math>}} 積分方程式の右辺を再帰的に展開することにより[[無限級数]]として解が求まる。 {{Indent|<math>\begin{align} \hat{U}(t-t_0) &= I + \frac{1}{i\hbar} \int_{t_0}^{t} \hat{H}(t_1) dt_1 + \cdots \\&+ \left(\frac{1}{i\hbar}\right)^n \int_{t_0}^{t}\cdots \int_{t_0}^{t_{n-1}} \hat{H}(t_1) \cdots \hat{H}(t_n) dt_1 \cdots dt_n + \cdots\,. \end{align}</math>}} 積分中のハミルトニアンに時間順序演算子 {{math|T}} を作用させ、ハミルトニアンの積を[[時間順序積]]に置き換えれば、積分の順序を時間順序演算子に担わせることができる。ハミルトニアンの積の[[置換 (数学)|置換]]は [[階乗|{{math|''n''!}}]] 通りあるため、上記の級数は {{Indent|<math>\begin{align} \hat{U}(t-t_0) &= I + \frac{1}{i\hbar} \int_{t_0}^{t} \hat{H}(t_1) dt_1 + \cdots \\&+ \left(\frac{1}{i\hbar}\right)^n \frac{1}{n!}\int_{t_0}^{t}\cdots \int_{t_0}^{t} \operatorname{T}\left\{\hat{H}(t_1) \cdots \hat{H}(t_n)\right\} dt_1 \cdots dt_n + \cdots\,. \end{align}</math>}} と書き換えられる。[[指数関数]]の級数展開からの[[類推|アナロジー]]により、記述の煩雑さを避けるため時間発展演算子は以下のように略記される。 {{Indent|<math> \hat{U}(t-t_0) = \operatorname{T}\exp\left(\frac{1}{i\hbar}\int_{t_0}^{t} \hat{H}(t') dt'\right). </math>}} 特にハミルトニアンが時間に依存しない場合、時間発展演算子は単に[[行列指数関数|演算子の指数関数]]となる。 {{Indent|<math> \hat{U}(t-t_0) = \exp\left(\frac{(t - t_0)}{i\hbar}\hat{H}\right). </math>}} ハミルトニアンが時間に依存しない例として、[[ポテンシャル]] {{mvar|V}} が時間に依存しない一般の多体系のハミルトニアン {{Indent|<math>\hat{H} = \sum_{k=1}^{N} \frac{\hat{p}_k^2}{2m_k} + V(\hat{x}_1, \ldots, \hat{x}_N)</math>}} が挙げられる。{{mvar|p}} は粒子の[[運動量]]、{{mvar|x}} は粒子の位置を表す演算子である。{{mvar|m}} は粒子の[[質量]]であり、それぞれの定数や演算子の添字 {{mvar|k}} は観測された各粒子を番号付けるものである。また {{mvar|N}} は系の粒子数を表す。 ハミルトニアンが時間に依存する例としては、量子系が外界と相互作用する場合が挙げられ、特に有名なものとして古典的な[[電磁場]]と相互作用する[[電子]]のハミルトニアンがある<ref name="classical_field" />。 {{Indent|<math> \hat{H} = \frac{1}{2m} \left(\hat{\boldsymbol{p}} + e\boldsymbol{A}(\hat{\boldsymbol{x}}, t)\right)^2 - e\Phi(\hat{\boldsymbol{x}}, t)\,. </math>}} ここで {{math|'''''A''''', &Phi;}} は[[電磁ポテンシャル]]であり、{{mvar|e}} は[[電気素量]]である。 ==== ユニタリ性 ==== ハミルトニアン {{math|{{hat|''H''}}}} の自己共役性と時間発展演算子 {{math|{{hat|''U''}}}} の初期条件から、時間発展演算子が[[ユニタリ作用素|ユニタリ演算子]]であることが分かる。時間発展演算子の微分方程式 :<math>\frac{d}{dt}\hat{U}(t) = \frac{1}{i\hbar}\hat{H}\hat{U}(t)</math> およびその[[共役作用素|共役演算子]]<ref group="注">物理学の文献において共役演算子は {{math|&dagger;}} を用いて示されることが多い。他に標準的な記号として {{math|&lowast;}} で示す文献もある。</ref>に関する微分方程式(ここでハミルトニアンの自己共役性を利用する) :<math>\frac{d}{dt}\hat{U}^\dagger(t) = -\frac{1}{i\hbar}\hat{U}^\dagger(t)\hat{H}</math> より時間発展演算子とその共役の積は :<math>\frac{d}{dt}(\hat{U}\hat{U}^\dagger) = \frac{d}{dt}(\hat{U}^\dagger\hat{U}) = 0</math> を満たす。初期条件 :<math>\hat{U}(0)\hat{U}^\dagger(0) = II^\dagger = I^2 = I</math> より任意の時刻について時間発展演算子はユニタリ性を持つ。 :<math>\hat{U}(t)\hat{U}^\dagger(t) = I.</math> 時間発展演算子がユニタリ演算子である場合、状態ベクトルの[[内積]]は保存される(つまり、状態ベクトルの内積は時間によらず一定である)。 :<math> \langle\psi(t)|\psi(t)\rangle = \langle\psi_0|\hat{U}^\dagger(t - t_0)\hat{U}(t - t_0)|\psi_0\rangle = \langle\psi_0|\psi_0\rangle. </math> 後述するように状態ベクトルの内積が保存することは、物理的には測定に関する[[確率]]の[[保存則]]として理解できる。 === 座標表示 === [[量子力学]]において、物理量の[[固有状態]]を表す状態ベクトルは[[完全正規直交系]]をなすため、任意の状態ベクトルはある物理量の固有状態の[[線型結合]]に展開することができる。状態ベクトルを展開した際に各々の固有ベクトルにかかる展開係数を[[波動関数]]と呼ぶ。状態ベクトル <math>| \psi(t) \rangle</math> を位置演算子 {{math|{{hat|''x''}}}} の固有ベクトル <math>| x \rangle</math> によって展開すれば、形式的に以下のように表すことができる。 {{Indent|<math>| \psi(t) \rangle = \int \psi(x', t)| x' \rangle dx'\,.</math>}} 特定の固有ベクトルに対する波動関数は、その[[双対ベクトル]] <math>\langle x |</math> を状態ベクトル <math>| \psi(t) \rangle</math> にかけることで取り出すことができる。 {{Indent|<math>\psi(x,t) =\langle x | \psi(t) \rangle\,.</math>}} このことは固有ベクトルの正規性および[[直交性]]によっている。 位置演算子の固有ベクトルにかかる波動関数を特に座標表示の波動関数と呼ぶ。シュレーディンガー方程式を座標表示の波動関数によって書き換えれば、 {{Indent|<math>i\hbar\frac{\partial\psi(x,t)}{\partial t} = \hat{H}_x \psi(x,t)</math>}} となる{{sfn|Shankar|1994|pp=143''ff''}}。波動関数は位置 {{mvar|x}} を変数に持つため、[[時間微分]]は[[偏微分]]に置き換えられる。ここでのハミルトニアンは {{Indent|<math>\hat{H}_x\psi(x,t) = \langle x | \hat{H} | \psi(t) \rangle</math>}} として座標表示した波動関数に作用する演算子に置き換えられている。同様に[[運動量]]表示の波動関数のシュレーディンガー方程式を考えることもできる。座標表示や運動量表示の波動関数に対するシュレーディンガー方程式は単純な[[代数方程式]]ではなく、[[偏微分方程式|線型偏微分方程式]]となる。 === 物理的意味 === 波動関数に物理的な意味が与えられるには、波動関数の空間部分について[[Lp空間#Lp 空間|二乗可積分]]である必要がある{{sfn|Feynman|Leighton|Sands|1964|pages=20&ndash;7|loc=volume 3 ''Operators''}}。 :<math>\| \psi(x,t) \|^2 = \int \psi^*(x,t)\psi(x,t)\, dx < \infty.</math> 可積分性の条件は、波動関数に対して適切な[[境界条件]]を課すことで満足される。通常は更に波動関数の[[規格化|規格化条件]] :<math>\| \psi(x,t) \|^2 = \int \psi^*(x,t)\psi(x,t)\, dx = 1</math> を満たすものが非物理的でない解として採用される。 よく知られるように、波動関数の規格化条件は閉じた量子系での大域的な確率保存則と解釈される。確率解釈に基づく通常の量子論では時間発展しても確率が保存されなければならない。つまりどんな場合でもすべての事象の確率の合計は 100% (= 1) にならなければならない。この事と[[ボルンの規則]]による確率の求め方(状態ベクトルとその双対ベクトルの積から求まる)より、状態ベクトルの時間発展は[[ユニタリ変換]]でなければならないことが分かる。シュレーディンガー方程式を解くことで、「状態ベクトルの時間発展はユニタリ変換である」ということが導かれる。よって量子系の[[時間発展]]についての基本的な要請([[原理#自然哲学・自然科学における原理|原理]])は、[[シュレーディンガー描像]]で記述する場合は、このシュレーディンガー方程式を採用して出発することが多い。しかし他にも「[[時間発展演算子]]が満たすべき条件」を基本的な要請として出発することもある{{sfn|Sakurai|1989}}。 === 波動関数の収縮との関係 === [[File:StationaryStatesAnimation.gif|300px|thumb|right|調和振動子の時間依存型シュレーディンガー方程式の解。左: 実部(青)、虚部(赤)。右: 与えられた状況で、この関数の粒子を見つける確率分布。上 2 つは「定常状態」で、一番下は定常波では「ない」状態の例。右の列の確率密度が変化しない事から定常状態が「定常」と呼ばれる。]] シュレーディンガー方程式を解くと、その系の[[波動関数]]がどのように時間発展するかがわかる。 しかしシュレーディンガー方程式は、直接的に波動関数が正確に「何であるか」を語るわけではない。[[量子力学の解釈問題|量子力学の解釈]]は全く別問題であり、「波動関数の根底にある現実と実験結果の間にある関係とは何か」というような問題を扱う。 [[コペンハーゲン解釈]]では、波動関数は物理系の完全な情報を与える。 重要な側面は、シュレーディンガー方程式と[[波動関数の収縮]]の関係である。 最初期のコペンハーゲン解釈では、粒子は波動関数の収縮の間を「除いて」シュレーディンガー方程式に従い、波動関数の収縮の間は全く異なる動きをする。 [[量子デコヒーレンス]]の出現は、別のアプローチ([[エヴェレットの多世界解釈]]のような)を可能にした。それらではシュレーディンガー方程式が常に満たされ、波動関数の収縮はシュレーディンガー方程式から説明される。 === 代表的な解 === 後述する時間に依存しないシュレーディンガー方程式を満たす状態ベクトル {{math|{{ket|''&psi;''}}}} として、 ::<math> | \psi(t) \rangle = e^{-i Et / \hbar} |\psi(0)\rangle </math> というものがある。これは時間依存するシュレーディンガー方程式も満たしている。 === 具体例 === [[File:Wave packet (dispersion).gif|thumb|200px|{{math|1=''V''(''x'') = 0}}, つまり相互作用しない粒子(自由粒子)の波動関数。波動関数は[[複素数]]値の関数であるが、画像では波動関数の[[実数]]部分のみが曲線として描かれている。[[波束]]の大きさは粒子の位置の[[不確定性原理|不確定性]]を表す。]] シュレーディンガー方程式の具体的な形は、適当なポテンシャルを決定することで得られる。ポテンシャルは粒子に付随する基本的な変数の関数として与えられる。ただし一般にはポテンシャルの変数は物理量の演算子であり、通常の意味での関数とは異なる。ポテンシャルの変数となる物理量はたとえば粒子の位置であり、[[スピン角運動量|スピン]]である。ポテンシャルは、外界から及ぼされる相互作用と対象とする量子系の粒子間に働く相互作用の二つがある。古典論と同じく一体のポテンシャルは、多体間ポテンシャルを何らかの意味で平均化したものと考えることができる。例えば[[原子核]]および内殻電子から外殻電子に及ぼされる[[クーロン相互作用]]は、原子核や内殻電子の運動が外殻電子の運動にほとんど影響を受けないならば、原子核と内殻電子に関係するポテンシャルの変数は固定され、二体間ポテンシャルを一体のポテンシャルに置き換えることができる。多体間ポテンシャルの例として最も基本的なものは粒子間のクーロン相互作用およびスピン相互作用である。応用上では有限の[[井戸型ポテンシャル]]や[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル]]なども利用される。 粒子系のハミルトニアンは前述のポテンシャルの他に、一般には粒子の運動エネルギーが加えられたものになる。具体的なハミルトニアンから波動関数を得るには、物理量の[[交換関係 (量子力学)|交換関係]]に従い物理量演算子の表現を決め、得られたハミルトニアンをシュレーディンガー方程式に適用し、その解を求める。 例えば以下の方程式は、位置演算子を掛け算演算子とした場合の一体のポテンシャルに対する一粒子の運動を表す。 {{Equation box 1 |indent=: |title='''一粒子系のシュレーディンガー方程式''' |equation=<math>i\hbar\frac{\partial}{\partial t} \psi(\boldsymbol{x},t) = \left [ \frac{-\hbar^2}{2m}\nabla^2 + V(\boldsymbol{x},t)\right ] \psi(\boldsymbol{x},t)</math> |cellpadding |border |border colour = #0073CF |background colour=#F5FFFA }} {{mvar|m}} は物体の[[質量]]、{{math|''V''('''''x''''', ''t'')}} は[[ポテンシャルエネルギー]]、{{math|&nabla;<sup>2</sup>}} は[[ラプラス作用素|ラプラシアン]]、{{math|&psi;('''''x''''', ''t'')}} は位置表示の[[波動関数]]である。 ハミルトニアンの中に[[微分演算子]]が含まれているため、これは線型偏微分方程式である。これは[[拡散方程式]]でもあるが、熱伝導方程式とは違って、時間微分の部分に[[虚数単位]]があることによって、[[波動方程式]]とも言える。 == {{anchors|時間依存しないシュレーディンガー方程式}} 時間に依存しないシュレーディンガー方程式 == {{main|固有状態}} ハミルトニアンが時間に陽に依存しないものとして、[[#時間に依存するシュレーディンガー方程式|時間に依存するシュレーディンガー方程式]]を時間と空間について[[変数分離]]すると、波動関数の空間部分に関する方程式としてハミルトニアンの[[固有値方程式]]が得られる。この固有値方程式を時間に依存しないシュレーディンガー方程式と呼ぶ。 {{Equation box 1 |indent=: |title='''時間に依存しないシュレーディンガー方程式''' |equation=<math>\hat{H}\Psi(\boldsymbol{x}) = E\Psi(\boldsymbol{x})</math> |cellpadding |border |border colour = #50C878 |background colour = #ECFCF4 }} ここで {{math|&Psi;}} は波動関数の空間部分、{{mvar|E}} は[[エネルギー固有値]]である。時間に依存しないシュレーディンガー方程式の解は[[エネルギー固有状態]]と呼ばれる{{sfn|McMahon|2006}}。 ハミルトニアンの[[エルミート作用素|エルミート性]]から、エネルギー固有状態は互いに直交する。互いに直交する状態間では[[遷移]]が起こらないため、固有状態は安定な状態として存在できる。空間部分がハミルトニアンの固有状態であるような波動関数は量子系の[[定常状態]]に対応し、定常状態の波動関数とか、単に定常状態とか呼ばれる。あるいは原子や分子に束縛された電子の波動関数に対しては、[[原子軌道]]や[[分子軌道]]といったように、古典模型の言葉を借用して'''軌道'''({{lang-en-short|orbital}})と呼ぶこともある。 定常状態の波動関数の時間依存部分は以下のような[[指数関数]]で表される。 :<math>\psi(x,t) = e^{-iEt/\hbar}\Psi(x).</math> シュレーディンガー方程式の変数分離解は特別な定常状態の波動関数となるが、解の線型性から一般の波動関数をいくつかの定常状態の[[線型結合]]として表すことができる。 :<math>\psi(x,t) = \sum_{k} c_{E_k} e^{-E_kt/\hbar}\Psi_{E_k}(x).</math> ここで {{mvar|E<sub>k</sub>}} は {{mvar|k}} でラベル付けされたエネルギー固有値、{{math|&Psi;''<sub>E<sub>k</sub></sub>''}} は対応する固有状態、{{mvar|c<sub>E<sub>k</sub></sub>}} はそれぞれの定常状態の確率的な重みを表す[[複素数]]である。 [[File:Wavefunction values.svg|thumb|300px|波動関数の値とエネルギー固有値、[[ポテンシャル]]および[[運動エネルギー]]の関係。<!--ド・ブロイの仮説とシュレーディンガー方程式における波動関数の関係。{{sfn|Atkins|1974}}-->]] === 具体例 === 時間に依存しないシュレーディンガー方程式に対して、[[磁場]]のない一粒子系のハミルトニアン :<math>\hat{H} = \frac{-\hbar^2}{2m}\nabla^2 + V(\boldsymbol{x})</math> を与えると以下のようになる。 {{Equation box 1 |indent=: |title='''磁場のない一粒子系の場合''' |equation=<math>E \Psi(\boldsymbol{x}) = \left(\frac{-\hbar^2}{2m}\nabla^2 + V(\boldsymbol{x})\right) \Psi(\boldsymbol{x})</math> |cellpadding |border |border colour = #0073CF |background colour=#F5FFFA}} 上記のハミルトニアンは[[ポテンシャル]] {{math|''V''('''x''')}} を具体的に決めていないが、実際の取り扱いでは、ポテンシャルを具体的な関数として定めたり、何らかの意味で素性の良い関数であることを要求する必要がある。 ==== 自由粒子 ==== 何ら相互作用を受けていないような粒子を[[自由粒子]]という。自由粒子に対するハミルトニアンにはポテンシャル項がないため ({{math|1=''V''(''x'') = 0}})、一次元系のシュレーディンガー方程式は以下のようになる{{sfn|Shankar|1994|pages=151''ff''}}。 :<math> E \Psi(x) = -\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{dx^2} \Psi(x)\,.</math> 自由粒子のエネルギー固有値 {{mvar|E}} は、ハミルトニアンが運動エネルギー[[演算子]]に対応するため、粒子が持つ運動エネルギーに対応する。エネルギー固有値の正負によってシュレーディンガー方程式の解の振る舞いは大きく異なる。 エネルギー固有値が正の場合 ({{math|''E'' &gt; 0}})、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は[[固有振動|振動解]]となる({{math|''C''<sub>1</sub>, ''C''<sub>2</sub>}} は任意定数)。 :<math>\psi_E(x) = C_1 e^{i\sqrt{2mE/\hbar^2}\,x} + C_2 e^{-i\sqrt{2mE/\hbar^2}\,x}\,.</math> 一方、エネルギー固有値が負の場合 ({{math|''E'' &lt; 0}})、自由粒子のシュレーディンガー方程式の解は指数解となる。 :<math>\psi_{-|E|}(x) = C_1 e^{\sqrt{2m|E|/\hbar^2}\,x} + C_2 e^{-\sqrt{2m|E|/\hbar^2}\,x}\,.</math> 指数解は[[無限遠]]での[[極限#関数|発散]]などにより、物理的な要請を満たさないため、非物理的な解として扱われる。ただし、[[トンネル効果]]のように、部分的に波動関数が指数的な振る舞いをすることは許されている。 自由粒子のシュレーディンガー方程式は、例えば[[金属]]中の[[伝導電子]]の運動や、無限遠で平坦なポテンシャルを持つ系におけるポテンシャルの束縛を逃れた粒子の振る舞いを調べることなどに応用される。 ==== 一定なポテンシャル ==== [[File:EffetTunnel.gif|left|ド・ブロイ波が障壁にぶつかるアニメーション]] <!--For a constant potential, V = V0, the solution is oscillatory for E > V0 and exponential for E < V0, corresponding to energies that are allowed or disallowed in classical mechanics. Oscillatory solutions have a classically allowed energy and correspond to actual classical motions, while the exponential solutions have a disallowed energy and describe a small amount of quantum bleeding into the classically disallowed region, due to quantum tunneling. If the potential V0 grows at infinity, the motion is classically confined to a finite region, which means that in quantum mechanics every solution becomes an exponential far enough away. The condition that the exponential is decreasing restricts the energy levels to a discrete set, called the allowed energies.--> ポテンシャルが一定''V'' = ''V'' <sub>0</sub> の場合、シュレーディンガー方程式の解はエネルギーが[[古典力学|古典的]]に許されるかどうかによって異なり、''E'' &gt; ''V'' <sub>0</sub> のときは[[三角関数|振動解]]、''E'' &lt; ''V'' <sub>0</sub> のとき[[指数関数|指数解]]になる。振動解では粒子は古典的に許されたエネルギーを持ち、解は実際の古典的な運動に対応する。一方で指数解では粒子は古典的に許されないエネルギーを持ち、[[トンネル効果]]のため、古典的に許されない領域へも波動関数が滲むことを記述する。ポテンシャル''V'' <sub>0</sub> が無限に大きい場合、運動は古典的な有限の領域に制限される。つまり、全ての解は充分遠方で指数的になる。減少的な指数解によりエネルギー準位は、''allowed energies'' ([[バンド構造|許容準位]])と呼ばれる離散集合に制限する{{sfn|McMahon|2006}}。 {{-}} ==== 調和振動子 ==== [[File:QuantumHarmonicOscillatorAnimation.gif|300px|thumb|right|古典力学(A-B)と量子力学(C-H)での[[調和振動子]]。(A-B) では、[[フックの法則|バネ]]のついた球が前後に振動する。(C-H) は量子力学における 6 つの解である。横軸は位置、縦軸は[[波動関数]]の実数部(青)と虚数部(赤)。[[定常状態]]や[[エネルギー固有状態]]は時間に依存しないシュレーディンガー方程式の解として得られる。図では C,D,E,F は定常状態だが G,H は非定常状態である。]] {{Main|量子調和振動子}} [[調和振動子]]のシュレーディンガー方程式は :<math> E\psi = -\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{d x^2}\psi + \frac{1}{2}m\omega^2x^2\psi </math> <!--It is a notable quantum system to solve for; since the solutions are exact (but complicated – in terms of Hermite polynomials), and it can describe or at least approximate a wide variety of other systems, including vibrating atoms, molecules,[30] and atoms or ions in lattices,[31] and approximating other potentials near equilibrium points. It is also the basis of perturbation methods in quantum mechanics. There is a family of solutions – in the position basis they are--> 注目すべきこととして、この量子系は解が厳密に求まり(しかし[[エルミート多項式]]のために複雑)、また、振動する原子や分子{{sfn|Atkins|1978}}やまた格子上の原子やイオン{{sfn|Hook|Hall|2010}}、あるいは[[固定点|平衡点]]近傍で近似したポテンシャルを持つ系など、他の幅広い系を記述し、あるいは近似することができる。このことはまた[[摂動#量子力学における摂動論|量子力学における摂動論]]の基礎を成している。 調和振動子のシュレーディンガー方程式の解は、一般に[[エルミート多項式]]を用いて表される。位置表示の波動関数については以下のように与えられる。 :<math> \psi_n(x) = \sqrt{\frac{1}{2^n\,n!}} \cdot \left(\frac{m\omega}{\pi \hbar}\right)^{1/4} \cdot e^{ - {m\omega x^2} / {2 \hbar}} \cdot H_n\left(\sqrt{\frac{m\omega}{\hbar}} x \right). </math> ここで''n'' = 0,1,2,... であり、関数''H<sub>n</sub>'' は[[エルミート多項式]]である。 ==== 水素原子 ==== {{main|水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解}} シュレーディンガー方程式の形式は、[[水素原子]]に応用ができる{{sfn|Atkins|1974}}{{sfn|Atkins|1977}}。 :<math> E \psi = -\frac{\hbar^2}{2\mu}\nabla^2\psi - \frac{e^2}{4\pi\epsilon_0 r}\psi </math> ''e'' は[[電気素量]]で、'''''r''''' は[[電子]]の位置(''r'' = &#124;'''''r''''' &#124; は位置ベクトルの大きさで、原点からの[[距離]]を表す)、ハミルトニアンのポテンシャル項は[[クーロンの法則]]を表し、&epsilon;<sub>0</sub> は[[真空の誘電率]]で :<math> \mu = \frac{m_em_p}{m_e+m_p} </math> <!-- 原文:is the 2-body [[reduced mass]] of the hydrogen [[Nucleus (atomic structure)|nucleus]] (just a [[proton]]) of mass ''m<sub>p</sub>'' and the electron of mass ''m<sub>e</sub>''. The negative sign arises in the potential term since the proton and electron are oppositely charged. The reduced mass in place of the electron mass is used since the electron and proton together orbit each other about a common centre of mass, and constitute a two-body problem to solve. The motion of the electron is of principle interest here, so the equivalent one-body problem is the motion of the electron using the reduced mass. --> は、質量''m<sub>p</sub>'' の[[水素]][[原子核]](プロトン)と質量''m<sub>e</sub>'' の[[電子]]の二体[[換算質量]]である。[[陽子]]と[[電子]]は逆の電荷を持つから、ポテンシャルの項に負符号が現れる。電子質量の代わりに換算質量が使われるのは、電子と陽子が互いに共通の[[質量中心]]の周りを運動しているためであり、解くべき問題は二体問題になる。ここでは主に電子の運動に興味があるので、等価な一体問題として、換算質量を使った電子の運動を解くことになる。 水素に対する波動関数は電子の座標の関数で、実際にはそれぞれの座標の関数に分離できる{{sfn|Tipler|Mosca|2008}}。普通はこれは[[球面座標系]]でなされる: :<math> \psi(r,\theta,\phi) = R(r)Y_\ell^m(\theta, \phi) = R(r)\Theta(\theta)\Phi(\phi)</math> <math>\scriptstyle R(r)</math> は'''動径関数'''で、<math>\scriptstyle Y_{\ell}^{m}(\theta, \phi ) \,</math> は次数 &#x2113; と位数''m'' の[[球面調和関数]]である。水素原子はシュレーディンガー方程式が厳密に解かれる唯一の原子である。多電子原子は近似方法を必要とする。解の仲間は{{sfn|Griffiths|2008|pp=162–}} :<math> \psi_{n\ell m}(r,\theta,\phi) = \sqrt {{\left ( \frac{2}{n a_0} \right )}^3\frac{(n-\ell-1)!}{2n[(n+\ell)!]} } e^{- r/na_0} \left(\frac{2r}{na_0}\right)^{\ell} L_{n-\ell-1}^{2\ell+1}\left(\frac{2r}{na_0}\right) \cdot Y_{\ell}^{m}(\theta, \phi ) </math> ここで *<math> a_0 = \frac{4 \pi \varepsilon_0 \hbar^2}{m_e e^2} </math> は[[ボーア半径]]、 *<math> L_{n-\ell-1}^{2\ell+1}(\cdots) </math> は次数 {{nowrap|''n'' − &#x2113; − 1}}の一般的なラゲール多項式(ラゲール陪関数)、 *''n'' , &#x2113;, ''m'' はそれぞれ[[主量子数]]、 [[方位量子数]]、[[磁気量子数]]であり, 以下の値を取り得る<ref group="注">ラゲールの陪多項式は文献によって異なった定義がなされる。[[ラゲールの陪多項式]]や[[水素原子]]を参照。</ref>: :<math> \begin{align} n & = 1,2,3 \cdots \\ \ell & = 0,1,2 \cdots n-1 \\ m & = -\ell\cdots\ell \end{align}</math> ==== ニ電子原子またはイオン ==== 中性の[[ヘリウム]]原子(He, ''Z'' = 2)や、陰性の[[水素]][[イオン]](H<sup>–</sup>, ''Z'' = 1)、陽性の[[リチウム]]イオン(Li<sup>+</sup>, ''Z'' = 3)のような、いかなる二電子系に対する方程式は{{sfn|Bransden|Joachain|1983}}、 :<math> E\psi = -\hbar^2\left[\frac{1}{2\mu}\left(\nabla_1^2 +\nabla_2^2 \right) + \frac{1}{M}\nabla_1\cdot\nabla_2\right] \psi + \frac{e^2}{4\pi\epsilon_0}\left[ \frac{1}{r_{12}} -Z\left( \frac{1}{r_1}+\frac{1}{r_2} \right) \right] \psi </math> '''''r''''' <sub>1</sub> はひとつの電子の位置(''r'' <sub>1</sub> = &#124;'''''r''''' <sub>1</sub>&#124; はその大きさ)で、'''''r''''' <sub>2</sub> はもうひとつの電子の位置(''r''<sub>2</sub> = &#124;'''''r''''' <sub>2</sub>&#124; はその大きさ)である。''r'' <sub>12</sub> = &#124;'''''r''''' <sub>12</sub>&#124; はそれらの間の距離の大きさであり、'''''r''''' <sub>12</sub> は以下で与えられる。 :<math> \boldsymbol{r}_{12} = \boldsymbol{r}_2 - \boldsymbol{r}_1 \,\!.</math> μ は再び質量''M'' の原子核に対応した電子の二体換算質量であり、ここでは :<math> \mu = \frac{m_e M}{m_e+M} \,\!</math> そして、''Z'' は元素に対する[[原子番号]]である([[量子数]]ではない)。 2 つのラプラシアンの交差項 :<math>\frac{1}{M}\nabla_1\cdot\nabla_2\,\!</math> は、''mass polarization term'' として知られ、原子核の運動が原因で現れる。波動関数は 2 つの電子の位置の関数である。 :<math> \psi = \psi(\boldsymbol{r}_1,\boldsymbol{r}_2). </math> この方程式に対する閉形式解はない。 == 解法 == {{Multicol}} 一般的な方法 * [[摂動]] *[[変分法]] *[[量子モンテカルロ法]] *[[密度汎関数理論]] *[[WKB近似]]と[[準古典的近似]] {{Multicol-break}} 特殊な場合の方法 *[[:en:List of quantum-mechanical systems with analytical solutions]] *[[ハートリー-フォック方程式]]と[[ポスト-ハートリー-フォック法]] {{Multicol-end}} == 解の物理的意味 == シュレーディンガー方程式とその解は物理学を飛躍的に進歩させた。シュレーディンガー方程式の解からは当時は予想できなかった結論が得られた。 === 量子化 === シュレーディンガー方程式は、物理量は量子化される(離散的な値だけが現れる)事があると予測する。例としてエネルギーの量子化があり、[[原子]]中の[[電子]]のエネルギーは常に離散的になる。これを表したのが[[エネルギー準位]]であり、これは[[原子分光分析]]で確認されている。また他の例として[[角運動量#量子力学での角運動量|角運動量の量子化]]がある。これは初期の[[ボーアの原子模型]]の時には仮定であったが、シュレーディンガー方程式から導出されるものである。 ただしすべての測定値が量子化されるわけではなく、例えば、[[位置]]や[[運動量]]、[[時間]]や[[エネルギー]]は、連続した範囲の値を取り得る。 === 観測と不確実性 === {{main|観測問題|不確定性原理|[[量子力学#量子力学の解釈問題|量子力学の解釈問題]]}} [[古典力学]]では、粒子は常に定まった位置と運動量の組を持つ。これらの値は[[ニュートン力学]]や[[一般相対性理論|一般相対論]]に従って、[[決定論]]的に変化する。しかし[[量子力学]]では、粒子は定まった物理量を持たず、観測するたびにある[[確率分布]]に従ってランダムに測定結果が決まる。シュレーディンガー方程式はその確率分布を予測するが、本質的に個々の観測の正確な結果を予想することは出来ない。[[不確定性原理]]は量子力学が本来的に持つ不確実性の有名な例である。それは、より正確に粒子の位置を確認すると運動量が曖昧になり、その逆も同様となることを主張している。シュレーディンガー方程式は、粒子の[[波動関数]]の決定論的な時間発展を説明する。しかし波動関数が厳密に分かったとしても、その波動関数に対して行われる具体的な観測の結果を決める事はできない。 === トンネル効果 === {{main|トンネル効果}} 古典物理学では、ボールをゆっくりと山の頂上に向けて転がすと、やがてボールは止まり、転がって戻ってくる。これはボールが山の頂上に辿り着き反対側へ行くのに必要な[[エネルギー]]を持っていないためである。しかしシュレーディンガー方程式は、ボールが頂上へたどり着くのに十分なエネルギーを持っていなくても、山の反対側へ到達する小さな可能性が存在することを予想している。これが[[トンネル効果]]と呼ばれている。これは[[不確定性原理]]に関係している。ボールが山のこちら側にいるように見えても、その位置は不確実であり、反対側で確認される可能性がある。 {{multiple image | align = center | direction = horizontal | footer = 粒子の位置の曖昧性を表している。これは量子力学で一定ではない。 | image1 = 1d step pot sol TISE.svg | caption1 = [[波束]]の時間発展の様子。一次元のステップ関数ポテンシャルの系に対するシュレーディンガー方程式の解が、[[位置]]-[[時間]]座標(3 つ目の軸は[[確率振幅]] &#124;&Psi;&#124;<sup>2</sup>)の断面に描かれている。粒子は青い円で透明度がその位置における粒子の[[確率密度]]に対応するように描かれている。ステップ関数ポテンシャルは点線。粒子の全エネルギー''E'' はステップ関数の高さ''V'' よりも大きいため、透過率は反射率よりも大きい。{{sfn|Tipler|Mosca|2008}} | width1 = 600 | image2 = TunnelEffektKling1.png | caption2 = 障壁を通る[[トンネル効果]]。左から障壁を超えるために十分なエネルギーを持たない粒子がやってくる。しかし粒子が "トンネル" し障壁の反対側へ通り抜ける事がある。 | width2 = 300 }} ===粒子の波動性=== {{main|ド・ブロイ波|粒子と波動の二重性|二重スリット実験}} [[File:Double-slit experiment results Tanamura 2.jpg|175px|left|thumb|二重スリットにおいてスクリーンに到達した電子の個数が時間変化する様子。日立製作所・外村彰らによる実験。]] 非相対論的なシュレーディンガー方程式は[[波動方程式]]とも呼ばれる[[偏微分方程式]]の一種である。そのためよく粒子は波として振る舞うのだと言われる。現代の多くの解釈ではこの逆に、量子状態(つまり波)が純粋な物理的実在であり、ある適切な条件の下では粒子としての性質を示すのだとされる。 [[二重スリット実験]]は、通常は波が示す、直感的には粒子と関連しない奇妙な振る舞いの例として有名である。ある場所では二つのスリットから来た波同士が打ち消し合い、別の場所では強め合うことで、複雑な干渉縞が現れる。直感的には1個の粒子のみを打ち出した時には、どちらかのスリットのみを通り両方のスリットからの寄与の重ね合わせにならないため、干渉縞は現れないように感じられる。 ところが、シュレーディンガー方程式は[[波動方程式]]であるから、一粒子のみを二重スリットに打ち出した時にも同じ干渉縞が「現れる」(左図)。なお、干渉縞が現れるためには実験を繰り返し何度も行う必要がある。このように干渉縞が現れるという事は個々の電子が「両方」のスリットを同時に通る事を示している{{sfn|Donati|Missiroli|Pozzi|1973}}{{sfn|Greene|2003|p=110}}{{sfn|Feynman|Leighton|Sands|1965|loc=volume 3}}。直感と反する事ではあるが、この予言は正しく、この考えで[[電子回折]]や[[中性子回折]]をよく理解でき、科学や工学で広く使われている。 回折の他に、粒子は[[重ね合わせ]]や[[干渉 (物理学)|干渉]]の性質を示す。重ね合わせの性質によって、粒子は古典的には異なる 2 つ以上の状態を同時にとる事ができる。例えば、粒子は同時に複数のエネルギーを持つことや、異なる場所に同時にいる事ができる。二重スリットの実験の例では 2 つのスリットを同時に通ることができるのである。古典的なイメージに反する事ではあるがこの重ね合わせ状態は一つの量子状態のままである。 {{multiple image | align = center | direction = horizontal | footer = 1 次元での[[ド・ブロイ波]]の伝播の様子。波動関数の実部が青、虚部が緑色で描かれている。粒子を位置''x'' に見出す確率(色の透明度で描かれている)は、波のように広がっており粒子は特定の場所にいる訳ではない。波動関数が 0 よりも大きくなると曲率は負になるためいずれ減少に転じる(逆も同様)。このように正と負になる事を繰り返し、波として振る舞う。 | image1 = Propagation of a de broglie plane wave.svg | caption1 = [[平面波]] | width1 = 250 | image2 = Propagation of a de broglie wavepacket.svg | caption2 = [[波束]] | width2 = 250 }} === 線型性と平面波 === <!--The simplest wavefunction is a [[plane wave]] of the form:--> 最も単純な波動関数は[[平面波]]である: :<math> \Psi(\boldsymbol{r},t) = A e^{i(\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}-\omega t)}\,.</math> <!--where the ''A'' is the amplitude, '''k''' the wavevector, and ''ω'' the angular frequency, of the plane wave. In general, physical situations are not purely described by plane waves, so for generality the [[superposition principle]] is required; any wave can be made by superposition of sinusoidal plane waves. So if the equation is linear, a [[linear combination]] of plane waves is also an allowed solution. Hence a necessary and separate requirement is that the Schrödinger equation is a [[linear differential equation]].--> ここで''A'' は平面波の[[振幅]]、'''''k''''' は[[波数]]ベクトル、&omega; は[[角振動数]]を表す。一般には、純粋な平面波だけで物理系を記述することはできないが、一般に[[重ね合わせ|重ね合わせの原理]]が成り立つため、すべての波は[[三角関数|正弦]]の平面波の重ね合わせによって作られる。シュレーディンガー方程式が[[線型性|線型]]なら、平面波の[[線型結合]]も解として許される。従って、重ね合わせの原理が成り立つならば、シュレーディンガー方程式は[[線形微分方程式]]になる必要がある。 波数'''''k''''' が離散的な場合には、平面波の重ねあわせは単純に複数の波数をもつ平面波の和で表現される: :<math> \Psi(\boldsymbol{r},t) = \sum_{n=1}^\infty A_n e^{i(\boldsymbol{k}_n\cdot\boldsymbol{r}-\omega_n t)}. \,\!</math> 波数'''''k''''' が連続的な場合には和ではなく[[積分]]で表され、波動関数 &Psi;('''''r''''' , ''t'' ) は[[波数空間]]の波動関数の[[フーリエ変換]]となる{{sfn|McMahon|2006}}。 :<math> \Psi(\boldsymbol{r},t) = \frac{1}{(\sqrt{2\pi})^3}\int\Phi(\boldsymbol{k})e^{i(\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}-\omega t)}d^3\boldsymbol{k} \,\!</math> <!-- 原文:where d3k = dkxdkydkz is the differential volume element in k-space, and the integrals are taken over all k-space. The momentum wavefunction Φ(k) arises in the integrand since the position and momentum space wavefunctions are Fourier transforms of each other. --> ここで''d'' <sup>3</sup>'''''k''''' = ''dk<sub>x</sub> dk<sub>y</sub> dk<sub>z</sub>'' は波数空間での微小体積であり、積分は波数空間の全体にわたって行われる。運動量波動関数 &Phi;('''''k''''' ) が被積分関数として現れているが、これは、位置の波動関数と運動量の波動関数が互いの[[フーリエ変換]]であることから生じる。 <!--以下の部分は古い版に基づいていて、現行版 09:43, 24 January 2014 (UTC) には存在しない。--> <!-- 原文:Taken together, these attributes mean it should be possible to structure an equation based on the energies of the particles - their possible kinetic and potential energies the system constrains them to have, in terms of some function of the state of the system - the wavefunction (denoted Ψ).--> <!--これらの性質は、粒子のエネルギー(系の可能な運動エネルギーと位置エネルギーは、系の状態に制限を与える)と波動関数(&Psi; と表す)に基づいた方程式を構成することが可能であることを示す。--> <!-- 原文:The wavefunction summarizes the quantum state of the particles in the system, limited by the constraints on the system: the probability the particles are in some spatial configuration at some instant of time. Solving it for the wavefunction can be used to predict how the particles will behave under the influence of the specified potential and with each other.--> <!--波動関数は粒子の[[量子状態]]を、系の拘束条件に従って、粒子がある場所ある瞬間にいる[[確率]]として説明する。この波動関数を求めることで、粒子が既知のポテンシャルに従ってどのように振る舞うか予測することができる。--> === エネルギー保存則との整合性 === 粒子の全[[エネルギー]]''E'' は、[[運動エネルギー]]''T'' と[[位置エネルギー]]''V'' の和である。この和は[[古典力学]]では、[[ハミルトニアン]]''H'' を表すためにもよく使われる。 :<math>E = T + V =H \,\!</math> 明示的に、一次元の粒子について、位置を''x'' 、[[質量]]を''m'' 、[[運動量]]を''p'' 、位置と時刻''t'' によって変化する[[ポテンシャルエネルギー]]を''V'' (''x'' , ''t'' ) とすると :<math> E = \frac{p^2}{2m}+V(x,t)=H.</math> 三次元では、[[位置ベクトル]]'''''r''''' と運動量ベクトル'''''p''''' が使われる。 :<math>E = \frac{\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{p}}{2m}+V(\boldsymbol{r},t)=H</math> この形式は任意の一定数の[[粒子]]の集まりにまで拡大できる。つまり、系の全エネルギーは全ての粒子の運動エネルギーと、系のポテンシャルエネルギーを足しあわせたものであり、またハミルトニアンでもある。しかし、粒子間には[[相互作用]]([[多体問題]])がある可能性があるため、系のポテンシャルエネルギー''V'' は全粒子の空間的な配置の変化と、あるいは時間によって変化する。一般的には系のポテンシャルエネルギーは、それぞれの粒子の持つ位置エネルギーの合計ではなく、粒子のすべての空間位置の関数である。明示的に書くと、 :<math>E=\sum_{n=1}^N \frac{\boldsymbol{p}_n\cdot\boldsymbol{p}_n}{2m_n} + V(\boldsymbol{r}_1,\boldsymbol{r}_2\cdots\boldsymbol{r}_N,t) = H. \,\!</math> == シュレーディンガー方程式の導出 == {{main|粒子と波動の二重性}} シュレーディンガー方程式は、その解が[[波]]のような動きを表現する[[関数 (数学)|関数]]であるので、数学的には[[波動方程式]]と言える。 <!-- 原文:Normally wave equations in physics can be derived from other physical laws - the wave equation for mechanical vibrations on strings and in matter can be derived from Newton's laws - where the analogue wavefunction is the displacement of matter, and electromagnetic waves from Maxwell's equations, where the wavefunctions are electric and magnetic fields. --> 普通、[[物理学]]での波動方程式は他の物理的法則から導かれる。例えば弦や物体の[[自然振動]]の波動方程式は[[ニュートンの法則]]から求められ、そこでは波動関数は物質の[[変位]]を表す。[[電磁波]]は[[マクスウェルの方程式]]から導かれ、そこでは波動関数は[[電場]]と[[磁場]]を表す。 その一方で、シュレーディンガー方程式の基礎は粒子のエネルギーと、量子力学の仮定である。すなわち、波動関数は系の記述である。シュレーディンガー方程式はそれゆえ、[[リチャード・P・ファインマン|ファインマン]]が言うように、それ自身の新しい概念である。 {{cquote|Where did we get that (equation) from? Nowhere. It is not possible to derive it from anything you know. It came out of the mind of Schrödinger. (この方程式はどこから導かれたのか? どこからでもない。これを、君が知っているどんなことから導くこともできない。これはシュレーディンガーの頭の中から出てきたのだ。) |20px|20px|Richard Feynman{{sfn|Hey|Walters|2009}} }} この方程式は、古典的なエネルギー保存則に立脚する線型微分方程式という構造を持ち、ド・ブロイの関係と整合的である。その解は波動関数 &Psi; であり、それは系について知りうる全ての情報を含んでいる。コペンハーゲン解釈では、&Psi; の絶対値 &#124;&Psi;&#124; は、粒子がある瞬間にある空間配置にいる確率に関係する。方程式を解いて波動関数 &Psi; を得れば、具体的なポテンシャルの影響下で粒子が互いに影響し合いながらどのように振る舞うかが予測できる。 <!-- 原文:The Schrödinger equation was developed principally from the De Broglie hypothesis, a wave equation that would describe particles, and can be constructed in the following way. For a more rigorous mathematical derivation of Schrödinger's equation, see also. --> シュレーディンガー方程式は原理的には、波動方程式が粒子を記述し得るという、ド・ブロイの仮説を基に成り立ち{{sfn|Atkins|1974}}、後述する方法で構成される{{sfn|Bransden|Joachain|1983}}。より厳密なシュレーディンガー方程式の数学的導出については例えば {{sfn|Resnick|Eisberg|1985}} を参照。 == ド・ブロイの関係との整合性 == [[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[光電効果]]仮説([[1905年]])によれば、[[光子]]のエネルギー''E'' は、光の対応する光量子[[波束]]の[[周波数]] &nu;(もしくは[[角周波数]] &omega; = 2&pi;&nu;)に比例する。 :<math>E = h\nu = \hbar \omega \,\!</math> 同様に、ド・ブロイの仮説([[1924年]])によれば、どのような粒子も波と関連付けることができ、その粒子の運動量'''''p''''' は、波数ベクトル'''''k''''' に比例する: :<math>\boldsymbol{p} = \hbar \boldsymbol{k}\;.</math> 特に、1 次元の運動では波数ベクトル'''''k''''' の絶対値は波長 &lambda; に反比例する (''k'' = 2&pi;/&lambda;)。従って、1 次元の運動に限定すれば、上の式は波長 &lambda; を使って以下のように書くこともできる: :<math>p = \frac{h}{\lambda}</math> プランク-アインシュタインの関係とド・ブロイの関係 :<math>E=\hbar\omega, \quad \boldsymbol{p}=\hbar\boldsymbol{k} </math> は、[[運動量]]と[[空間]]、[[時間]]と[[エネルギー]]の間の深い関係を照らしており、波動性と粒子性の二重性を表している。''&#295;'' = 1 となるような[[自然単位系]]を用いて、''方程式'' を以下の''恒等式'' にするとより明白となる。 :<math>E=\omega, \quad \boldsymbol{p} = \boldsymbol{k}. </math> このような単位系の下では、エネルギーと[[角振動数]]は[[時間]]の[[逆数]]として同じ[[量の次元|次元]]を持ち、[[運動量]]と[[波数]]は長さの逆数の次元を持つ。したがって、エネルギーと角振動数、運動量と波数は互いに同じものとして入れ替えて使うことができる。自然単位系を用いることによって文字の重複を防ぎ、現れる物理量の次元を減らすことができる。しかしながら自然単位系は馴染みがないため、本稿では以降も[[国際単位系]]を用いる。 [[1925年]]の終わり、シュレーディンガーの見識は、[[平面波]]の[[位相]]は以下の関係を使って[[複素数]]の[[力率]]として表した。 :<math>\Psi(\boldsymbol{r},t) = Ae^{i(\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}-\omega t)} = Ae^{i\frac{\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{r}-Et}{\hbar}}. </math> そして空間に対する一次[[偏微分]]を :<math> \nabla\Psi(\boldsymbol{r},t) = \dfrac{i}{\hbar}\boldsymbol{p}Ae^{i\frac{\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{r}-Et}{\hbar}} = \dfrac{i}{\hbar}\boldsymbol{p}\Psi(\boldsymbol{r},t) </math> そして時間に対して :<math> \dfrac{\partial \Psi}{\partial t}(\boldsymbol{r},t) = -\dfrac{i E}{\hbar} Ae^{i\frac{\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{r}-Et}{\hbar}} = -\dfrac{i E}{\hbar} \Psi(\boldsymbol{r},t)</math> [[導関数]]を示す :<math> \begin{cases} -i\hbar\nabla\Psi(\boldsymbol{r},t) = \boldsymbol{p}\Psi(\boldsymbol{r},t)\\ \dfrac{\partial \Psi}{\partial t}(\boldsymbol{r},t) = -\dfrac{i E}{\hbar} \Psi(\boldsymbol{r},t) \end{cases} \rightarrow \quad \begin{cases} -\dfrac{\hbar^2}{2m}\nabla^2\Psi(\boldsymbol{r},t) = \dfrac{1}{2m}\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{p}\Psi(\boldsymbol{r},t) \\ i\hbar\dfrac{\partial \Psi}{\partial t}(\boldsymbol{r},t) = E \Psi(\boldsymbol{r},t) \end{cases}</math> もう一つの量子力学の仮定は、すべての[[オブザーバブル]]は波動関数に作用する[[自己共役作用素|自己共役]]な[[線形作用素|線型演算子]]で表され、その演算子の[[固有値]]はオブザーバブルの取り得る値になる。前の導関数は、時間微分に対応するエネルギー演算子と :<math>\hat{E}= i\hbar\dfrac{\partial}{\partial t} </math> 空間微分([[ナブラ]])に対応する運動量演算子を導く。 :<math>\hat{\boldsymbol{p}}= -i\hbar\nabla</math> [[サーカムフレックス|ハット]] (^) は、観測量が[[演算子]]であることを示す。演算子は通常の数では表されず、運動量やエネルギーの演算子は微分演算子で表されるが、位置や[[ポテンシャルエネルギー]]の演算子に関してはただの掛け算演算子になる。面白い点は、エネルギーは時間に関して[[対称性 (物理学)|対称性]]で、運動量は空間に関して対称性であり、そしてそれらの対称性はエネルギーと運動量の保存則が成り立つ理由である。[[ネーターの定理]]を参照。 エネルギー方程式に &Psi; を掛け、エネルギー・運動量演算子を置換する。 :<math>E= \dfrac{\boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{p}}{2m} + V(\boldsymbol{r}) \rightarrow \hat{E}\Psi(\boldsymbol{r},t) = \dfrac{\hat{\boldsymbol{p}}\cdot\hat{\boldsymbol{p}}}{2m}\Psi(\boldsymbol{r},t) + V(\boldsymbol{r})\Psi(\boldsymbol{r},t)</math> すぐにシュレーディンガーに彼の方程式を導く。 :<math>i\hbar\dfrac{\partial \Psi}{\partial t}(\boldsymbol{r},t) = -\dfrac{\hbar^2}{2m}\nabla^2\Psi(\boldsymbol{r},t) + V(\boldsymbol{r})\Psi(\boldsymbol{r},t)</math> これらの方程式から、[[粒子と波の二重性]]について次のような評価が与えられる。[[運動エネルギー]]''T'' は[[運動量]]'''''p''''' の二乗に関係する。粒子の運動量が増えれば、運動エネルギーはより早く増加する。しかし[[波数]]'''''k''''' が増加するため、[[波長]] &lambda; が減少する。 :<math> \boldsymbol{p}\cdot\boldsymbol{p} \propto \boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{k} \propto T \propto \dfrac{1}{\lambda^2}</math> そして運動エネルギーは二次空間微分に比例するから、波の[[曲率]]の強さにも比例する。 :<math> \hat{T} = \frac{-\hbar^2}{2m}\nabla\cdot\nabla \propto \nabla^2 \,.</math> 曲率が増えるごとに、波の振幅はより速く交互に正負を動き、波長を短くする。運動量と波長の逆比例の関係は粒子の持つエネルギーに整合し、すべての数式で、粒子のエネルギーは波と結び付けられる{{sfn|Atkins|1974}}。 == 古典力学との関係 == {{multiple image | align = right | direction = horizontal | image1 = Quantum mechanics travelling wavefunctions.svg | caption1 = <!--原文:Increasing levels of [[wavepacket]] localization, meaning the particle has a more localized position.-->波束の局所化のレベルが上がっている。つまり、粒子がより位置を局所化している。 | width1 = 400 | image2 = Perfect localization.svg | caption2 = <!-- 原文:In the limit ''ħ'' → 0, the particle's position and momentum become known exactly. This is equivalent to the classical particle.-->プランク定数をゼロに近似したとき、粒子の位置と運動量は正確にわかるようになる。これは古典的粒子と等しい。 | width2 = 150 }} <!-- 原文:Schrödinger required that a wave packet solution near position r with wavevector near k will move along the trajectory determined by classical mechanics for times short enough for the spread in k (and hence in velocity) not to substantially increase the spread in r . Since, for a given spread in k, the spread in velocity is proportional to Planck's constant ħ, it is sometimes said that in the limit as ħ approaches zero, the equations of classical mechanics are restored from quantum mechanics.[27] Great care is required in how that limit is taken, and in what cases. --> シュレーディンガーが要求したのは以下のようなことである: 位置が'''''r''''' の近くであり, 波数ベクトルが'''''k''''' の近くであるような波束を表す解は, '''''k''''' (従って[[速度]])の広がりが'''''r''''' の広がりを顕著に増やすようなことがないくらいに十分に短い時間内で, [[古典力学]]で決定される曲線を描く。 与えられた'''''k''''' の広がりに対して、[[速度]]の広がりは[[プランク定数]]に比例するから、プランク定数をゼロに近似したとき、[[古典力学]]での方程式は[[量子力学]]から導出されると言われる{{sfn|Hand|Finch|2008}}。その極限がどのように取られるか、またどんな状況でかという点で細心の注意が払われる必要がある。 <!-- 原文:The limiting short-wavelength is equivalent to ħ tending to zero because this is limiting case of increasing the wave packet localization to the definite position of the particle (see images right). Using the Heisenberg uncertainty principle for position and momentum, the products of uncertainty in position and momentum become zero as ħ → 0:--> 短波長極限は[[プランク定数]]をゼロに近似することと等価である。なぜならこれは、波束の局在性を極限まで強め, 粒子を特定の位置に局在化させることだからである(右図を参照)。ハイゼンベルクの[[不確定性原理]]を位置と運動量に対して使うと、位置の不確定性と運動量の不確定性の積は、''ħ'' → 0に従ってゼロとなる。 :<math> \sigma(x) \sigma(p_x) \geqslant \frac{\hbar}{2} \quad \rightarrow \quad \sigma(x) \sigma(p_x) \geqslant 0 \,\!</math> ここで&sigma; は観測量の[[偏差]]の[[二乗平均平方根]]であり、位置''x'' と運動量''p<sub>x</sub>'' (''y'' と''z'' についても同様)がこの任意の精度で知られるのはこの極限においてでしかない、ということが示唆される。 シュレーディンガー方程式の一般式 :<math> i\hbar \frac{\partial}{\partial t} \Psi\left(\boldsymbol{r},t\right) = \hat{H} \Psi\left(\boldsymbol{r},t\right) \,\!</math> は[[ハミルトン-ヤコビ方程式]] :<math> \frac{\partial}{\partial t} S(q_i,t) = H\left(q_i,\frac{\partial S}{\partial q_i},t \right) \,\!</math> と密接に関連している。 ここで''S'' は[[最小作用の原理|作用]]、''H'' は古典力学における[[ハミルトン力学|ハミルトニアン関数]]([[演算子]]ではない)。ハミルトン-ヤコビ方程式で使われる[[一般化座標系]]''q<sub>i</sub>'' (''i'' = 1,2,3) は、'''''r''''' = (''q'' <sub>1</sub>, ''q'' <sub>2</sub>, ''q'' <sub>3</sub>) = (''x'', ''y'', ''z'' ) として[[デカルト座標系]]の位置に置き換えられる{{sfn|Hand|Finch|2008}}。 代入式 :<math> \Psi(\boldsymbol{r},t) = \sqrt{\rho(\boldsymbol{r},t)} e^{iS(\boldsymbol{r},t)/\hbar}\,\!</math> ここで &rho;('''''r''''' , ''t'' ) はシュレーディンガー方程式に対する[[確率振幅]]である。この波動関数を代入した方程式で極限 ''ħ'' → 0を取り、[[ハミルトン-ヤコビ方程式]]を導く。 関わりあいは、 * 粒子の動き(シュレーディンガー方程式の(短波長)波束解で説明される)は、動きの[[ハミルトン-ヤコビ方程式]]により説明される。 <!-- 原文:The Schrödinger equation includes the wavefunction, so its wave packet solution implies the position of a (quantum) particle is fuzzily spread out in wave fronts. On the contrary, the Hamilton–Jacobi equation applies to a (classical) particle of definite position and momentum, instead the position and momentum at all times (the trajectory) are deterministic and can be simultaneously known.--> * シュレーディンガー方程式は波動関数を含み、そのため波束解は(量子)粒子の位置が、波面にあいまいに広がることを示している。それどころか、[[ハミルトン-ヤコビ方程式]]は、定位置定運動量の(古典的)粒子に適用され、その代わり(軌道上の)位置や運動量は決定論的で、同時に知られる。 === 古典力学と量子力学の時間発展 === [[古典力学]]における[[運動方程式]]は[[ニュートン力学]]の[[運動の第2法則]]であり、これと等価な式として[[オイラー=ラグランジュ方程式]]や[[ハミルトン力学|正準方程式]](ハミルトン方程式)がある。これらの方程式は、力学系の運動を解き、初期条件や系の配置を指定した時に任意の時間に力学系がどのように振る舞うかを数学的に予測するために使われる。 他方で[[量子力学]]では、量子系(通常[[原子]]、[[分子]]、[[亜原子粒子]]のような自由か束縛されているか局在しているもの)のシュレーディンガー方程式が、古典力学における運動方程式に対応し、状態の時間発展を記述する。 ニュートンの運動の第2法則のように、シュレーディンガー方程式は[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]の[[行列力学]]や、[[リチャード・P・ファインマン]]の[[経路積分]]のような等価な別の表現に書き換えることができる。 == 相対論とシュレーディンガー方程式 == ニュートンの運動方程式と同じように、シュレーディンガー方程式における時間の扱いは、[[相対性理論|相対論]]的な記述にするには不都合である。この問題は行列力学では波動力学ほど深刻ではなく、経路積分の方法では全く問題にならない。 <!-- 原文:Also like Newton's Second law, the Schr&ouml;dinger equation describes time in a way that is inconvenient for relativistic theories, a problem that is not as severe in matrix mechanics and completely absent in the path integral formulation. --> == 歴史的背景と発展 == [[マックス・プランク]]の光の量子化(黒体輻射を参照)にしたがって、[[アルベルト・アインシュタイン]]は、プランクの[[量子]]は[[光子]](光の粒子)であると説明し、[[プランク定数|光子のエネルギー''E'' はその振動数ν(または角周波数ω)に比例する]]と提案している(これが[[波動と粒子の二重性]]の最初の現れ)。 <math>E =h\nu=\hbar\omega. \quad \left(\hbar = \frac{h}{2\pi}\right) </math> また、[[エネルギー]]と[[運動量]]は[[特殊相対性理論]]の[[角周波数]]と[[波数]]と同じ方法で関係しているから、光子の運動量''p'' が波数''k'' と比例関係にあることがわかる。 :<math>p = \frac{h}{\lambda} = \hbar k.</math> [[ルイ・ド・ブロイ]]は、粒子が[[電子]]のようなものでも、すべての粒子に対してこの式が正しいと仮説を立てた。 <!-- 原文:He showed that, assuming that the matter waves propagate along with their particle counterparts, electrons form standing waves, meaning that only certain discrete rotational frequencies about the nucleus of an atom are allowed. --> ド・ブロイは、物質波がそれと対応する粒子に伴って伝搬すると仮定すると、電子は[[定常波]]を形成する、つまり[[原子核]]のまわりで離散的な回転周波数のみが許されることを示した{{sfn|de Broglie|1925}}。 これらの量子化された軌道は不連続な[[エネルギー準位]]に対応し、ド・ブロイは[[ボーアの原子模型]]がエネルギー準位を形成することを再現した。ボーアの原子模型は角運動量の量子化の仮定の上で成り立っている。 :<math> L = pr = n{h \over 2\pi} = n\hbar.</math> ド・ブロイによれば、[[電子]]は[[波]]で表現され、[[波長]]の数は電子の軌道の円周上にぴったり収まらねばならない。従って、 :<math>n \lambda = 2 \pi r.</math> このアプローチは本質的に、電子の波を半径''r'' の円周軌道に沿った一次元に限定して考えている。 [[1921年]]、ド・ブロイに先立ち、[[シカゴ大学]]のアーサー・C・ランが、今で言うド・ブロイの関係を導くために、[[相対性理論]]の[[四元運動量]]の完成を基にした同様の主張を使った{{sfn|Weissman|Iliev|Gutman|2008}}。ド・ブロイと違って、ランはさらに進んで、現在シュレーディンガー方程式と呼ばれるところの[[微分方程式]]を定式化し、[[水素]]原子のエネルギーの[[固有値]]を解いた。不幸にもこの論文は[[フィジカル・レビュー]]に却下されてしまった。Kamen はこの詳細を述べている{{sfn|Kamen|1985|pp=29–32}}。 ド・ブロイの理論が登場すると、[[物理学者]][[ピーター・デバイ]]は即座に、もし粒子が波として振る舞うなら、それらは何らかの形の波動方程式を満たすべきだと論評した。デバイの見解に刺激を受け、シュレーディンガーは電子の適切な 3 次元波動方程式を見つけようと決意した。シュレーディンガーは、[[光学]]と[[力学]]を結ぶ[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]の[[類推]]に導かれた。それは、波長を 0 にする極限では光学系は[[力学系]]に似るという考え方である(ゼロ波長極限での光の経路は、[[フェルマーの原理]]に従った明確な軌跡を描く。光学におけるフェルマーの原理の力学における対応物は[[最小作用の原理]]である){{sfn|Schr&ouml;dinger|1984|loc=1926年の第一論文のイントロダクションを参照。}}。 彼の論証を現代的な表現で以下に記述する。彼の発見した方程式は{{sfn|Lerner|Trigg|1991}} :<math>i\hbar \frac{\partial}{\partial t}\Psi(\boldsymbol{r},t)=-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2\Psi(\boldsymbol{r},t) + V(\boldsymbol{r})\Psi(\boldsymbol{r},t).</math> しかしそのとき既に、[[アルノルト・ゾンマーフェルト]]は[[微細構造 (原子物理学)|相対論補正]]を使って[[ボーアの原子模型]]を改良していた{{sfn|Sommerfeld|1919}}{{sfn|Haar|1967}}。シュレーディンガーは相対性理論のエネルギーと運動量の関係を使って、現在ではクーロンポテンシャルにおける[[クライン-ゴルドン方程式]]として知られるものを見つけようとした: :<math>\left(E + {e^2\over r} \right)^2 \psi(x) = - \nabla^2\psi(x) + m^2 \psi(x).</math> <!-- <math>\frac{1}{c^2}\left(E + {e^2\over 4 \pi \epsilon_0 r} \right)^2 \psi(x) = -\hbar^2 \nabla^2\psi(x) + \frac{m^2c^2}{\hbar^2} \psi(x).</math> ?--> 彼はこの相対論的方程式において[[定常波]]を発見したが、相対論補正はゾンマーフェルトの公式と一致しなかった。落胆して彼は計算をやめ、[[1925年]][[12月]]、彼は人里離れた[[山小屋]]に引きこもってしまった{{sfn|Rhodes|1986}}。 <!-- 原文:While at the cabin, Schrödinger decided that his earlier non-relativistic calculations were novel enough to publish, and decided to leave off the problem of relativistic corrections for the future.--> 山小屋でシュレーディンガーは、初期の非相対論的計算は発表に値する新しさがあると認め、将来にわたって相対論的修正の問題から手を引くことを決めた。[[水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解]]の難しさ(後に彼は友人の[[数学者]][[ヘルマン・ワイル]]に助けられている)にもかかわらず、シュレーディンガーは[[1926年]]に発表した[[論文]]で、彼の非相対論的な波動方程式は水素の正しい[[スペクトル]]のエネルギーを導出することを示している。 <!-- 原文: In the equation, Schrödinger computed the hydrogen spectral series by treating a hydrogen atom's electron as a wave Ψ(x, t), moving in a potential well V, created by the proton. --> その方程式で、シュレーディンガーは水素原子の[[電子]]を波 &Psi;(''x'' , ''t'' ) として扱い、[[陽子]]によって作られるポテンシャルの井戸''V'' の中で動くとした上で、[[水素スペクトル系列]]を計算した。この計算は[[ボーアの原子模型]]の[[エネルギー準位]]を正確に再現した。論文でシュレーディンガーは自分でこの方程式を以下のように説明している。 {{cquote|The already ... mentioned psi-function.... is now the means for predicting probability of measurement results. In it is embodied the momentarily attained sum of theoretically based future expectation, somewhat as laid down in a catalog. |20px|20px|Erwin Schrödinger{{sfn|Schrödinger|1935|p=9}}{{sfn|Wheeler|1983|loc=Section I.11 of Part I}}}} この[[1926年]]の論文はアインシュタインに熱狂的に支持された。アインシュタインは物質波を自然の直感的な表し方として見ており、[[ハイゼンベルク]]の[[行列力学]]をあまりに形式的だと非難していた{{sfn|Schr&ouml;dinger|Planck|Einstein|Lorentz|1967}}。 シュレーディンガー方程式は波動関数 &Psi; の振舞いの詳細を述べるが、その本質について何も述べない。シュレーディンガーは 4 報目の論文で、これを電荷密度として理解しようとしたが、失敗した{{sfn|Moore|1992|p=219}}。[[1926年]]、シュレーディンガーの 4 報目かつ最後の論文が発表された数日後、[[マックス・ボルン]]は波動関数 &Psi; を[[確率振幅]](その[[絶対値]]の二乗 &#124;&Psi;&#124;<sup>2</sup> が[[確率密度]]に等しい)として解釈することに成功した{{sfn|Moore|1992|p=220}}。しかしシュレーディンガーは常に[[統計学]]的、[[確率]]的なアプローチと、それに関連した波動関数の崩壊を反対しており(アインシュタインのように、[[量子力学]]はその背後にある[[決定論]]に関する[[統計学]]的近似であると信じていた)、ついに[[コペンハーゲン解釈]]と和解することはなかった{{sfn|Moore|1992|pp=220, 479|loc=It is clear that even in his last year of life, as shown in a letter to Max Born, that Schrödinger never accepted the Copenhagen interpretation (cf. p. 220).}}。 ド・ブロイは後年、比例係数によって複素関数と対応付けられる実数値波動関数を提唱し、[[ボーム解釈|ド・ブロイ=ボーム理論]]を生み出した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{reflist|2|refs= <ref name="time_evolution_op">以降の時間発展演算子の取り扱いについてはたとえば、{{harv|清水|2004|pp=184&ndash;188, 193|loc=第 6 章 時間発展について}} を参照。</ref> <ref name="classical_field">古典場と電子の相互作用に関する取り扱いについてはたとえば、{{harv|江沢|2002|pp=116&ndash;123|loc=13. 輻射と物質の相互作用}} や {{harv|ランダウ|リフシッツ|2008|pp=214&ndash;215; 431&ndash;437|loc=&sect;43. 磁場のなかの粒子; &sect;92. 外場内の電子に対するディラック方程式}} などを参照。{{harv|ランダウ|リフシッツ|2008}} はシュレーディンガー方程式の相対論的拡張であるディラック方程式や、シュレーディンガー方程式に磁場と[[スピン角運動量|スピン]]の相互作用を含めたパウリ方程式に関しても言及している。</ref> }} ==参考文献== {{ref begin}} *{{Cite book|和書 |first = 武彦 |last = 高林 |authorlink = 高林武彦 |title = 量子論の発展史 |series = ちくま学芸文庫 |origdate = 1977-7-15 |date = 2010-10-10 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 978-4-480-09319-6 |ref = harv}} *{{Cite book|和書 |first = 朝雄 |last = 新井 |authorlink = 新井朝雄 |title = 物理現象の数学的諸原理 ―現代数理物理学入門― |publisher = 共立出版 |date = 2003-2-20 |isbn = 4-320-01726-9 |ref = harv }} *{{Cite book|和書 |first1 = レフ |last1 = ランダウ |authorlink1 = レフ・ランダウ |first2 = エフゲニー |last2 = リフシッツ |authorlink2 = エフゲニー・リフシッツ |title = 量子力学(物理学小教程) |series = ちくま学芸文庫 |others = 吉村, 滋洋; 井上, 健男(訳) |date = 2008-06-10 |origdate = 1975-04-10 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 978-4-480-09150-5 |ref = harv }} *{{Cite book|和書 |first = 洋 |last = 江沢 |authorlink = 江沢洋 |title = 量子力学 II |publisher = [[裳華房]] |date = 2002-04-15 |isbn = 978-4-7853-2207-6 |ref = harv }} *{{Cite book|和書 |first = 明 |last = 清水 |title = 量子論の基礎 |edition = 新版 |series = 新物理学ライブラリ |publisher = サイエンス社 |date = 2004-04-25 |isbn = 4-7819-1062-9 |ref = harv }} *{{Cite book|和書 |first=J.J. |last=Sakurai |authorlink=J.J.サクライ |others=[[桜井明夫]]訳 |date=1989-02 |title=現代の量子力学 |volume=上 |series=物理学叢書 56 |publisher=吉岡書店 |isbn=978-4-8427-0222-3 |url=http://www3.ocn.ne.jp/~yoshioka/phys/ISBN4-8427-0222-2.html |ref=harv }} *{{cite book |last=Shankar |first=R. |date=1994 |title=Principles of Quantum Mechanics |publisher=[[Kluwer Academic]]/[[Plenum Publishers]] |isbn=978-0-306-44790-7 |ref=harv }} * {{cite book |title=Quantum Physics of Atoms, Molecules, Solids, Nuclei and Particles |edition=2nd |first1=R. |last1=Resnick |first2=R. |last2=Eisberg |publisher=John Wiley & Sons |date=1985 |isbn=978-0-471-87373-0 |ref=harv }} *{{cite book |last1=Feynman |first1=R.P. |last2=Leighton |first2=R.B. |last3=Sands |first3=M. |date=1964 |title=[[The Feynman Lectures on Physics]] |volume=3 |publisher=[[Addison-Wesley]] |isbn=0-201-02115-3 |ref=harv }} *{{cite book |first1=R.P.|last1=Feynman |first2=R.B.|last2=Leighton |first3=M.|last3=Sands |publisher=Addison-Wesley |title=Feynman Lectures on Physics |volume=3 |date=1965 |isbn=0-201-02118-8 |ref=harv}} *{{cite book |title=Quantum Mechanics Demystified |first=D. |last=McMahon |publisher=McGraw Hill |location=USA |date=2006 |isbn=0-07-145546-9 |ref=harv }} *{{cite book |title=Physical Chemistry |first=P.W. |last=Atkins |publisher=Oxford University Press |date=1978 |isbn=0-19-855148-7 |ref=harv }} *{{cite book |title=Quanta: A handbook of concepts |first=P.W. |last=Atkins |publisher=Oxford University Press |date=1974 |isbn=0-19-855493-1 |ref=harv }} *{{cite book |title=Molecular Quantum Mechanics Parts I and II: An Introduction to Quantum Chemistry |volume=1 |first=P.W. |last=Atkins |publisher=Oxford University Press |date=1977 |isbn=0-19-855129-0 |ref=harv }} *{{cite book |title=Solid State Physics |edition=2nd |first1=J.R. |last1=Hook |first2=H.E. |last2=Hall |series=Manchester Physics Series |publisher=John Wiley & Sons |date=2010 |isbn=978-0-471-92804-1 |ref=harv }} *{{cite book |title=Physics for Scientists and Engineers &mdash; with Modern Physics |edition=6th |first1=P.A. |last1=Tipler |first2=G. |last2=Mosca |publisher=W. 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(trans.) |journal=Proceedings of the American Philosophical Society |volume=124 |pages=323-38 |date=1935 |ref=harv }} * {{cite book |title=Quantum Theory and Measurement |first=J.A. |last=Wheeler |editor=Zurek, W.H. |publisher=Princeton University Press |location=New Jersey |date=1983 |ref=harv }} *{{Cite book |last1=Schr&ouml;dinger |first1=E. |last2=Planck |first2=M. |last3=Einstein |first3=A. |last4=Lorentz |first4=H.A. |others= Przibram, K. (Editor) |title=Letters on Wave Mechanics: Schrodinger-Planck-Einstein-Lorentz |publisher=Philosophical Library |edition=1st |date=1967 |ref=harv }} *{{cite book |last=Moore |first=W.J. |date=1992 |title=Schrödinger: Life and Thought |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn=0-521-43767-9 |ref=harv }} {{ref end}} == 関連項目 == * [[非線型シュレーディンガー方程式]] * [[基礎方程式]] ** [[クライン-ゴルドン方程式]] ** [[ディラック方程式]] * [[量子力学の数学的定式化]] * [[井戸型ポテンシャル]] * [[調和振動子]] * [[水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解]] * [[マックス・ボルン]] {{量子力学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆれえていんかあほうていしき}} [[Category:シュレーディンガー方程式|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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正準量子化
正準量子化(せいじゅんりょうしか、英: canonical quantization)とは、古典力学的な理論から量子力学的な理論を推測する手法(量子化)の一種である。具体的には、ハミルトン力学(ハミルトン形式の古典力学)での正準変数を、正準交換関係をみたすようなエルミート演算子に置き換える。この方法では、ハミルトン力学におけるポアソン括弧が、量子力学での交換関係に対応している。正準量子化により、古典力学では可換であった力学量(c-数、cはclassicalを表す)のなす代数は、量子力学では非可換な力学量(q-数、qはquantumを表す)のなす代数に移行する。 正準量子化とは、量子力学的な系を扱う際に、古典力学から量子力学での対応則を構成する手法である。その具体的な手続きは、以下のようにまとめられる。 2の操作を、より詳細に述べると以下のようになる。 古典的な正準変数 ( q , p ) {\displaystyle (q,\,p)} を、正準交換関係 [ q ^ , p ^ ] = i ħ {\displaystyle [{\hat {q}},{\hat {p}}]=i\hbar } をみたす演算子 ( q ^ , p ^ ) {\displaystyle ({\hat {q}},{\hat {p}})} に置き換える。 古典的な正準変数 ( q 1 , p 1 ; q 2 , p 2 ; ⋯ ; q N , p N ) {\displaystyle (q_{1},p_{1};q_{2},p_{2};\cdots ;q_{N},p_{N})} を、正準交換関係 [ q ^ α , p ^ β ] = i ħ δ α β {\displaystyle [{\hat {q}}_{\alpha },{\hat {p}}_{\beta }]=i\hbar \delta _{\alpha \beta }} [ q ^ α , q ^ β ] = [ p ^ α , p ^ β ] = 0 α , β = 1 , ... , N {\displaystyle [{\hat {q}}_{\alpha },{\hat {q}}_{\beta }]=[{\hat {p}}_{\alpha },{\hat {p}}_{\beta }]=0\quad \alpha ,\beta =1,\dots ,N} をみたす演算子に置き換える。 正準量子化における演算子の不定性などの問題については、正準量子化における諸問題の項を参照のこと。 1次元の量子系を考え、波動関数の状態空間として、座標表示したものを選ぶ。すなわち、座標xと時間tの関数 ψ ( x , t ) {\displaystyle \psi (x,\,t)} のうち、自乗可積分なもの(座標表示の波動関数)全体が、系のヒルベルト空間をなす。ここで、座標 x {\displaystyle \,x} と正準共役運動量 p x {\displaystyle \,p_{x}} を、 x ^ ψ ( x , t ) = x ψ ( x , t ) {\displaystyle {\hat {x}}\psi (x,t)=x\psi (x,t)} p ^ x ψ ( x , t ) = − i ħ ∂ ∂ x ψ ( x , t ) {\displaystyle {\hat {p}}_{x}\psi (x,t)=-i\hbar {\frac {\partial }{\partial {}x}}\psi (x,t)} で定義される演算子 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} 、 p ^ x {\displaystyle {\hat {p}}_{x}} で置き換える。このとき、 [ x ^ , p ^ x ] ψ ( x , t ) = i ħ ψ ( x , t ) {\displaystyle [{\hat {x}},{\hat {p}}_{x}]\psi (x,t)=i\hbar \psi (x,t)} となり、 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} 、 p ^ x {\displaystyle {\hat {p}}_{x}} が正準交換関係をみたしていることがわかる。 つまり、座標表示では掛け算演算子としての x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} と微分演算子としての p ^ x {\displaystyle {\hat {p}}_{x}} が、正準変数 x , p x {\displaystyle x,\,p_{x}} の正準量子化による量子力学的表現となる。 系の古典力学的なハミルトニアンが H ( x , p x ) = p x 2 2 m + V ( x ) {\displaystyle H(x,p_{x})={\frac {p_{x}^{\,2}}{2m}}+V(x)} で与えられるとすると、正準量子化により、量子力学的なハミルトニアンは H ^ = H ( x ^ , p ^ x ) = − ħ 2 2 m ∂ 2 ∂ x 2 + V ( x ) {\displaystyle {\hat {H}}=H({\hat {x}},{\hat {p}}_{x})=-{\frac {\hbar ^{2}}{2m}}{\frac {\partial ^{2}}{\partial x^{2}}}+V(x)} となる。 正準量子化の操作は、古典力学での「ポアソン括弧」と量子力学における「交換関係」の対応原理を考えると、より明確になる。 { A , B } = ∑ α ( ∂ A ∂ q α ∂ B ∂ p α − ∂ B ∂ q α ∂ A ∂ p α ) ⇔ 1 i ħ [ A ^ , B ^ ] = 1 i ħ ( A ^ B ^ − B ^ A ^ ) {\displaystyle \{A,B\}=\sum _{\alpha }\left({\frac {\partial {}A}{\partial {}q_{\alpha }}}{\frac {\partial {}B}{\partial {}p_{\alpha }}}-{\frac {\partial {}B}{\partial {}q_{\alpha }}}{\frac {\partial {}A}{\partial {}p_{\alpha }}}\right)\Leftrightarrow {\frac {1}{i\hbar }}[{\hat {A}},{\hat {B}}]={\frac {1}{i\hbar }}\left({\hat {A}}{\hat {B}}-{\hat {B}}{\hat {A}}\right)} 実際、正準変数については、 { q α , p β } = δ α β ⇔ [ q ^ α , p ^ β ] = i ħ δ α β {\displaystyle \{q_{\alpha },p_{\beta }\}=\delta _{\alpha \beta }\Leftrightarrow [{\hat {q}}_{\alpha },{\hat {p}}_{\beta }]=i\hbar \delta _{\alpha \beta }} { q α , q β } = { p α , p β } = 0 ⇔ [ q ^ α , q ^ β ] = [ p ^ α , p ^ β ] = 0 {\displaystyle \{q_{\alpha },q_{\beta }\}=\{p_{\alpha },p_{\beta }\}=0\Leftrightarrow [{\hat {q}}_{\alpha },{\hat {q}}_{\beta }]=[{\hat {p}}_{\alpha },{\hat {p}}_{\beta }]=0} の関係が成り立つ。力学量の時間発展についても、この対応原理から d A d t = { A , H } + ∂ A ∂ t ⇔ d A ^ d t = 1 i ħ [ A ^ , H ^ ] + ∂ A ^ ∂ t {\displaystyle {\frac {dA}{dt}}=\{A,H\}+{\frac {\partial A}{\partial t}}\Leftrightarrow {\frac {d{\hat {A}}}{dt}}={\frac {1}{i\hbar }}[{\hat {A}},{\hat {H}}]+{\frac {\partial {\hat {A}}}{\partial t}}} とハイゼンベルクの運動方程式が現れる。 言い換えれば、正準量子化では、ハミルトン力学における2つのc-数の力学量 A , B {\displaystyle A,\,B} の満たすポアソン括弧を、q-数(演算子)の力学量 A ^ , B ^ {\displaystyle {\hat {A}},\,{\hat {B}}} の満たす交換関係に対応させ、その関係を通じて量子力学的表現を得ているともいえる。これらの対応原理は1925年にディラックによって明らかにされた。 正準量子化は量子系に移行する一定の規則を与えるが、古典系におけるc-数は可換であるのに対し、量子系のq-数は一般に非可換となり、演算子の積については順序の不定性が残る。また、量子化後にエルミート演算子同士の積はエルミート演算子にはならない。こうした問題を回避する方法として、ワイルの対称化法(Weyl Calculus)や経路積分量子化等の方法が知られている。 また正準量子化をするには、その系に対応する正準形式の古典力学を知る必要がある。一方で経路積分量子化では、ラグランジアンが分かれば量子化することができる。 量子力学における正準量子化の方法は粒子に対する量子化を与えるが、場の量についても、正準量子化を適用することができる。場の量に対する正準量子化(第二量子化)では、場の演算子φ(t, x)と対応する正準運動量π(t, x)に対し、同時刻での正準交換関係 を課すことで行われる。
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正準量子化とは、古典力学的な理論から量子力学的な理論を推測する手法(量子化)の一種である。具体的には、ハミルトン力学(ハミルトン形式の古典力学)での正準変数を、正準交換関係をみたすようなエルミート演算子に置き換える。この方法では、ハミルトン力学におけるポアソン括弧が、量子力学での交換関係に対応している。正準量子化により、古典力学では可換であった力学量(c-数、cはclassicalを表す)のなす代数は、量子力学では非可換な力学量(q-数、qはquantumを表す)のなす代数に移行する。
'''正準量子化'''(せいじゅんりょうしか、{{lang-en-short|canonical quantization}})とは、古典力学的な理論から量子力学的な理論を推測する手法([[量子化 (物理学)|量子化]])の一種である。具体的には、[[ハミルトン力学|ハミルトン力学(ハミルトン形式の古典力学)]]での[[正準変数]]を、[[正準交換関係]]をみたすような[[エルミート演算子]]に置き換える。この方法では、ハミルトン力学における[[ハミルトン力学|ポアソン括弧]]が、量子力学での[[交換関係 (量子力学)|交換関係]]に対応している。正準量子化により、古典力学では可換であった力学量(c-数、cはclassicalを表す)のなす代数は、量子力学では非可換な力学量(q-数、qはquantumを表す)のなす代数に移行する。 ==解説== 正準量子化とは、量子力学的な系を扱う際に、古典力学から量子力学での対応則を構成する手法である。その具体的な手続きは、以下のようにまとめられる。 ===正準量子化の手続き=== #対象とする系を[[ハミルトン力学|ハミルトン力学(正準形式)]]で記述する。 #正準形式における正準変数<math>(q,\,p)</math>を、[[正準交換関係]]を満たす演算子 <math>(\hat{q},\hat{p})</math>に置き換える。 #正準変数<math>(q,\,p)</math>の関数である古典的力学量<math>A(q, \,p)</math>について、正準変数の項を2で定めた演算子<math>(\hat{q},\hat{p})</math>に置き換える。この操作によって、古典的力学量<math>A=A(q, \,p)</math>の量子力学的対応物<math>\hat{A}=\hat{A}(\hat{q}, \hat{p})</math>を定める。 2の操作を、より詳細に述べると以下のようになる。 ===1自由度の場合=== 古典的な正準変数 <math>(q,\,p)</math>を、正準交換関係 {{Indent|<math>[\hat{q}, \hat{p}] = i\hbar</math>}} をみたす演算子 <math>(\hat{q},\hat{p})</math>に置き換える。 ===N自由度の場合=== 古典的な正準変数 <math>(q_1,p_1;q_2,p_2;\cdots ;q_N,p_N)</math>を、正準交換関係 {{Indent|<math>[\hat{q}_{\alpha},\hat{p}_{\beta}] = i\hbar\delta_{\alpha\beta}</math><br /> <math>[\hat{q}_{\alpha},\hat{q}_{\beta}] = [\hat{p}_{\alpha},\hat{p}_{\beta}] = 0 \quad \alpha ,\beta=1, \dots ,N</math>}} をみたす演算子に置き換える。 正準量子化における演算子の不定性などの問題については、[[正準量子化#正準量子化における諸問題|正準量子化における諸問題]]の項を参照のこと。 ==具体例== ===1自由度の場合=== ====1次元デカルト座標の場合の例==== 1次元の量子系を考え、波動関数の状態空間として、座標表示したものを選ぶ。すなわち、座標xと時間tの関数<math>\psi(x,\,t)</math>のうち、自乗可積分なもの(座標表示の[[波動関数]])全体が、系の[[ヒルベルト空間]]をなす。ここで、座標<math>\,x</math>と正準共役運動量<math>\,p_x</math>を、 {{Indent|<math>\hat{x}\psi(x,t)=x\psi(x,t)</math><br /> <math>\hat{p}_x\psi(x,t) = -i\hbar\frac{\partial}{\partial{}x}\psi(x,t)</math>}} で定義される演算子<math>\hat{x}</math>、<math>\hat{p}_x</math>で置き換える。このとき、 {{Indent|<math>[\hat{x},\hat{p}_x]\psi(x,t) = i\hbar\psi(x,t)</math>}} となり、<math>\hat{x}</math>、<math>\hat{p}_x</math>が正準交換関係をみたしていることがわかる。 つまり、座標表示では掛け算演算子としての<math>\hat{x}</math>と微分演算子としての<math>\hat{p}_x</math>が、正準変数<math>x,\, p_x</math>の正準量子化による量子力学的表現となる。 系の古典力学的なハミルトニアンが {{Indent|<math>H(x,p_x)=\frac{p_x^{\, 2}}{2m}+V(x)</math>}} で与えられるとすると、正準量子化により、量子力学的なハミルトニアンは {{Indent|<math>\hat{H}=H(\hat{x},\hat{p}_x)=-\frac{\hbar^{2}}{2m}\frac{\partial^2}{\partial x^2}+V(x)</math>}} となる。 ==古典力学との対応== ===交換関係とポアソン括弧=== 正準量子化の操作は、古典力学での「ポアソン括弧」と量子力学における「交換関係」の対応原理を考えると、より明確になる。 {{Indent|<math> \{A,B\} = \sum_{\alpha} \left( \frac{\partial{}A}{\partial{}q_{\alpha}}\frac{\partial{}B}{\partial{}p_{\alpha}}-\frac{\partial{}B}{\partial{}q_{\alpha}}\frac{\partial{}A}{\partial{}p_{\alpha}}\right)\Leftrightarrow \frac{1}{i\hbar}[\hat{A}, \hat{B}]=\frac{1}{i\hbar}\left( \hat{A}\hat{B}-\hat{B}\hat{A}\right)</math>}} 実際、正準変数については、 {{Indent|<math>\{ q_{\alpha},p_{\beta}\}=\delta_{\alpha\beta} \Leftrightarrow [\hat{q}_{\alpha},\hat{p}_{\beta}] = i \hbar \delta_{\alpha\beta}</math><br /> <math>\{ q_{\alpha},q_{\beta}\}=\{ p_{\alpha},p_{\beta}\}=0 \Leftrightarrow [\hat{q}_{\alpha},\hat{q}_{\beta}] = [\hat{p}_{\alpha},\hat{p}_{\beta}] = 0</math>}} の関係が成り立つ。力学量の時間発展についても、この対応原理から {{Indent|<math>\frac{dA}{dt}=\{A, H\}+\frac{\partial A}{\partial t}\Leftrightarrow \frac{d\hat{A}}{dt}=\frac{1}{i\hbar}[\hat{A}, \hat{H}]+\frac{\partial \hat{A}}{\partial t}</math>}} と[[ハイゼンベルクの運動方程式]]が現れる。 言い換えれば、正準量子化では、ハミルトン力学における2つのc-数の力学量<math>A, \,B</math>の満たすポアソン括弧を、q-数(演算子)の力学量<math>\hat{A}, \,\hat{B}</math>の満たす交換関係に対応させ、その関係を通じて量子力学的表現を得ているともいえる。これらの対応原理は1925年に[[ポール・ディラック|ディラック]]によって明らかにされた{{sfn|Dirac|1925}}。 ==正準量子化における諸問題== 正準量子化は量子系に移行する一定の規則を与えるが、古典系におけるc-数は可換であるのに対し、量子系のq-数は一般に非可換となり、演算子の積については順序の不定性が残る。また、量子化後にエルミート演算子同士の積はエルミート演算子にはならない。こうした問題を回避する方法として、[[ワイルの対称化法]](Weyl Calculus)や[[経路積分]]量子化等の方法が知られている。 また正準量子化をするには、その系に対応する正準形式の古典力学を知る必要がある。一方で経路積分量子化では、ラグランジアンが分かれば量子化することができる。 == 第二量子化 == {{main|第二量子化}} 量子力学における正準量子化の方法は粒子に対する量子化を与えるが、場の量についても、正準量子化を適用することができる。場の量に対する正準量子化(第二量子化)では、[[場の演算子]]&phi;(''t'', '''x''')と対応する正準運動量&pi;(''t'', '''x''')に対し、同時刻での正準交換関係 :<math> [ \phi(t, \mathbf{x}), \pi(t, \mathbf{y}) ] =i \hbar \delta(\mathbf{x}-\mathbf{y}) </math> を課すことで行われる。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite journal|first=P. A. M.|last=Dirac|authorlink=ポール・ディラック|title=The Fundamental Equations of Quantum Mechanics|journal=Proc. R. Soc. Lond. A|volume=109|issue=752|pages=642&ndash;653|date=1925-12|doi=10.1098/rspa.1925.0150|ref=harv}} * {{cite book|和書|last1=猪木|first1=慶治|authorlink1=猪木慶治|last2=川合|first2=光|authorlink2=川合光|title=量子力学 1|publisher=講談社|date=1994|isbn=978-4061532090|ref=harv}} ==関連項目== * [[量子力学]] * [[量子化 (物理学)|量子化]] * [[交換関係 (量子力学)]] {{DEFAULTSORT:せいしゆんりようしか}} [[Category:量子力学]] [[Category:数学的量子化]] [[uk:Вторинне квантування ферміонів]]
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鈴木慶一
鈴木 慶一(すずき けいいち、1951年8月28日 - )は、日本の音楽家、俳優。ムーンライダーズのボーカル、リーダー。東京都立羽田高等学校卒業。 父は俳優の鈴木昭生。弟は音楽家の鈴木博文。2023年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。 新設当時の羽田高等学校卒業後、浪人して大学受験をするために予備校に通うも3日で辞める。職も探せば無かったわけではないので、何とかなるだろうと思ったという。 1970年に鈴木の母親が勤めていた会社でアルバイトをしていたあがた森魚と出会い本格的な音楽活動を開始。はっぴいえんどのバックバンドなどを経験した後、自らのグループはちみつぱいを結成。 1975年に実弟である鈴木博文らとムーンライダーズを結成した。翌年にアルバム『火の玉ボーイ』を発売。1986年から1991年のムーンライダーズ活動休止期間は、当時夫人であった鈴木さえ子のアルバム『緑の法則』(1985年)のプロデュースなどを手掛けた。 1981年には高橋幸宏とのコンビでTHE BEATNIKSを結成、断続的に活動し、2018年までに6枚のアルバムをリリース、ライブ活動を行う。実弟の鈴木博文とはユニット・THE SUZUKIでも断続的に活動。他にBeautiful Songs(矢野顕子・大貫妙子・奥田民生・宮沢和史)としてアルバム、秩父山バンド、No Lie-Sense(ケラリーノ・サンドロヴィッチとのユニット)としてシングルおよびアルバム、P.K.O.(Panta Keiichi Organizationの略、PANTAとのユニット)としてアルバム、Three Blind Moses(棚谷祐一、小谷和也とのユニット)としてシングルを発表。ライブのみではロウガンズ(泉谷しげる、どんと、高田渡)、大江戸兄弟(友田真吾)、野宮真貴とのユニットなど多数。 2008年、曽我部恵一のプロデュースによるソロ・アルバム『ヘイト船長とラヴ航海士』で第50回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。 2011年11月11日、ムーンライダーズの無期限活動休止を発表。その後も、メンバーのかしぶち哲郎の追悼ライブや鈴木自身の活動45周年記念ライブ、バンド結成40周年などの折に「活動休止の休止」を行ない、チューリップ、THE ALFEE、センチメンタル・シティ・ロマンスと共に長期間活動している。2013年7月、元カーネーションの矢部浩志らと新たにControversial Sparkを結成。11月にはKERAと結成したNo Lie-Senseの1stアルバムを発売。 映画音楽も手がけ、2003年公開の北野武監督の『座頭市』では、第36回シッチェス・カタロニア国際映画祭(スペイン)最優秀音楽賞、第27回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。「アウトレイジ 最終章」で第41回日本アカデミー賞。漫画雑誌『COMIC CUE』では漫画の原作を担当したこともある(作画:やまだないと)。 CM音楽では、代表曲として素人の出演者が正確に歌っているのに音痴に聞こえるメロディラインが話題を呼んだ「きいてアロエリーナ きいてマルゲリータ」(マンナンライフ)や、宮崎美子が着替えるシーンでブームを起こした「いまのキミはピカピカに光って」(作詞・糸井重里、歌・斉藤哲夫、ミノルタカメラ)などがある。 音楽プロデューサーとしてはPANTA & HAL、野宮真貴、杏里、糸井重里、藤真利子、クリス、原田知世、あがた森魚およびヴァージンVS、ハルメンズ、カーネーション、ISSAY、渡辺美奈代、桐島かれん(高橋幸宏と共同)、cali≠gari、高田渡、ceroなどのアルバムを手がけている。 他のアーティストへの楽曲提供も多く、坂本龍一、立花ハジメ、宮崎美子、チロリン、伊藤つかさ、安田成美、野田幹子、ザ・ぼんち、宮村優子、吉田拓郎、うどん兄弟他多数。 ゲームミュージックにおいては、糸井重里がプロデューサーを務めた任天堂発売の『MOTHER』及び続編の『MOTHER2 ギーグの逆襲』の楽曲を田中宏和と連名で手掛けた。前者で使用された「エイトメロディーズ」は音楽教科書に採用されたこともある。ゲーム音楽では『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』も担当。 音楽を作るモチベーションを上げるためには何でもやり、1990年代に入ってからはジャン・コクトーが描いた「ピカソのポートレート」のタトゥーをしている。 部屋が汚いことで有名で、CDや本、新聞が大量に積んである。奥に行くには数回飛ばなければならない。2階に行く階段も滅茶苦茶で、使ってないベッドも洋服が堆積している。親子連れに「おばけ屋敷」と言われたこともあり、帰れないこともあったという(「TOKYO FM「ナイトワープ Eno@Home」 1998年7月25日)。
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鈴木 慶一は、日本の音楽家、俳優。ムーンライダーズのボーカル、リーダー。東京都立羽田高等学校卒業。 父は俳優の鈴木昭生。弟は音楽家の鈴木博文。2023年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
{{別人|鈴木惠一|鈴木けい一|鈴木恵一|鈴木敬一|鈴木啓一 (ジャーナリスト)}} {{存命人物の出典明記|date=2011年9月}} {{Infobox Musician | Name = 鈴木慶一 | Img = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Img_capt = | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = singer | Birth_name = | Alias = Suzuki K1 >> 7.5cc<br/>宇宙からの物体X<br/>東京太郎 | School_background = [[東京都立羽田高等学校]] | Born = {{生年月日と年齢|1951|8|28}} | Died = <!-- 個人のみ --> | Origin = {{JPN}} [[東京都]][[大田区]] | Instrument = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]|[[ミュージックシーケンサー]]|[[メロトロン]]}} | Genre = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]|[[サイケデリック・ロック]]}} | Occupation = {{Hlist-comma|[[音楽家]]|[[シンガーソングライター]]|[[作曲家]]|[[音楽プロデューサー]]|[[俳優]]}} | Years_active = [[1970年]] - | Label = [[ソニー・ミュージックダイレクト]] | Production = | Associated_acts = {{Hlist-comma|[[はちみつぱい]]|[[THE BEATNIKS]]|[[ムーンライダーズ]]}} | URL = [http://www.keiichisuzuki.com/ 公式サイト] | Notable_instruments = | Blood = <!-- 個人のみ --> | Influences = }} '''鈴木 慶一'''(すずき けいいち、[[1951年]][[8月28日]] - )は、[[日本]]の[[音楽家]]、[[俳優]]。[[ムーンライダーズ]]の[[ボーカル]]、リーダー。[[東京都立つばさ総合高等学校|東京都立羽田高等学校]]卒業。 父は俳優の[[鈴木昭生]]。弟は音楽家の[[鈴木博文]]。2023年、[[芸術選奨文部科学大臣賞]]受賞<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_06.pdf 令和4年度(第73回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について]</ref>。 == 来歴・人物 == 新設当時の羽田高等学校卒業後、浪人して大学受験をするために予備校に通うも3日で辞める。職も探せば無かったわけではないので、何とかなるだろうと思ったという。 [[1970年]]に鈴木の母親が勤めていた会社でアルバイトをしていた[[あがた森魚]]と出会い本格的な音楽活動を開始。[[はっぴいえんど]]の[[バックバンド]]などを経験した後、自らのグループ[[はちみつぱい]]を結成。 [[1975年]]に実弟である[[鈴木博文]]らと[[ムーンライダーズ]]を結成した。翌年にアルバム『[[火の玉ボーイ (アルバム)|火の玉ボーイ]]』を発売。[[1986年]]から[[1991年]]のムーンライダーズ活動休止期間は、当時夫人であった[[鈴木さえ子]]のアルバム『緑の法則』(1985年)のプロデュースなどを手掛けた。 [[1981年]]には[[高橋幸宏]]とのコンビで[[THE BEATNIKS]]を結成、断続的に活動し、2018年までに6枚のアルバムをリリース、ライブ活動を行う。実弟の鈴木博文とはユニット・THE SUZUKIでも断続的に活動。他にBeautiful Songs([[矢野顕子]]・[[大貫妙子]]・[[奥田民生]]・[[宮沢和史]])としてアルバム、[[ドクター秩父山#秩父山バンド|秩父山バンド]]、[[No Lie-Sense]]([[ケラリーノ・サンドロヴィッチ]]とのユニット)としてシングルおよびアルバム、P.K.O.(Panta Keiichi Organizationの略、[[PANTA]]とのユニット)としてアルバム、Three Blind 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きいてマルゲリータ」([[マンナンライフ]])や、[[宮崎美子]]が着替えるシーンでブームを起こした「[[いまのキミはピカピカに光って]]」(作詞・[[糸井重里]]、歌・[[斉藤哲夫]]、[[コニカミノルタ|ミノルタカメラ]])などがある。 [[音楽プロデューサー]]としては[[頭脳警察|PANTA & HAL]]、野宮真貴、[[杏里]]、糸井重里、[[藤真利子]]、クリス、[[原田知世]]、[[あがた森魚]]および[[ヴァージンVS]]、[[ハルメンズ]]、カーネーション、[[ISSAY]]、[[渡辺美奈代]]、[[桐島かれん]](高橋幸宏と共同)、[[cali≠gari]]、高田渡、[[cero (バンド)|cero]]などのアルバムを手がけている。 他のアーティストへの楽曲提供も多く、[[坂本龍一]]、[[立花ハジメ]]、宮崎美子、チロリン、[[伊藤つかさ]]、[[安田成美]]、[[野田幹子]]、[[ザ・ぼんち]]、[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、[[吉田拓郎]]、[[うどん兄弟]]他多数。 [[ゲームミュージック]]においては、糸井重里がプロデューサーを務めた[[任天堂]]発売の『[[MOTHER (ゲーム)|MOTHER]]』及び続編の『[[MOTHER2 ギーグの逆襲]]』の楽曲を[[田中宏和]]と連名で手掛けた。前者で使用された「エイトメロディーズ」は音楽教科書に採用されたこともある。ゲーム音楽では『[[リアルサウンド 〜風のリグレット〜]]』も担当。 音楽を作るモチベーションを上げるためには何でもやり、1990年代に入ってからは[[ジャン・コクトー]]が描いた「ピカソのポートレート」のタトゥーをしている。 部屋が汚いことで有名で、CDや本、新聞が大量に積んである。奥に行くには数回飛ばなければならない。2階に行く階段も滅茶苦茶で、使ってないベッドも洋服が堆積している。親子連れに「おばけ屋敷」と言われたこともあり、帰れないこともあったという(「[[エフエム東京|TOKYO FM]]「ナイトワープ Eno@Home」 1998年7月25日)。 == ディスコグラフィ == === はちみつぱい === {{See|はちみつぱい#ディスコグラフィ}} === ムーンライダーズ === {{See|ムーンライダーズ#ディスコグラフィ}} === THE BEATNIKS === {{See|THE BEATNIKS#ディスコグラフィ}} === No Lie-Sense === {{See|No_Lie-Sense#作品}} === Controversial Spark === *After Intermission ([[2019年]]) === ソロ・アルバム === *[[火の玉ボーイ (アルバム)|火の玉ボーイ]]([[1976年]]、鈴木慶一とムーンライダース名義) *[[Science Fiction (宇宙からの物体Xのアルバム)|S.F.]]([[1978年]]、鈴木慶一プロデュース、「宇宙からの物体X」名義) *SUZUKI白書([[1991年]]) *THE LOST SUZUKI TAPES([[1993年]]、未発表曲&テイク集) *TOKYO TARO is living in Tokyo(1993年、東京太郎名義) *satelliteserenade([[1994年]]、suzuki K1 >> 7.5cc名義) *Yes, Paradise, Yes | M.R.B.S.([[1999年]]、suzuki K1 >> 7.5cc名義) *No.9([[2004年]]、Keiichi Suzuki with moonriders名義) *鈴木慶一CM WORKS ON・アソシエイツ・イヤーズ(1977-1989)([[2007年]]、CM音楽集) *ヘイト船長とラヴ航海士([[2008年]]) *シーシック・セイラーズ登場!([[2009年]]) *Keiichi Suzuki:Music for Films and Games([[2010年]]、サウンドトラック集) *ヘイト船長回顧録 In Retrospect([[2011年]]) *Records and Memories([[2015年]]) === コンピレーション・アルバム === * 謀らずも朝夕45年([[2016年]]) ** ムーンライダース他所属バンドの楽曲、ソロアルバム、他アーティストへの提供曲で構成 === 楽曲提供 === * [[フジテレビ]]『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』 **「ロボラボ・ピンポンパン」(1981年) ***作詞:[[阿久悠]]、作曲:[[小林亜星]]、編曲:'''鈴木慶一''' **歌:[[本間淳子|井上佳子]]、[[ビッグ・マンモス]]、ミュージックメン、ピンポンパンちびっこ合唱隊、[[ザ・チャープス]] * [[坂本龍一]]「SAYONARA」 (1991年) ** 作詞:鈴木慶一、作曲・編曲:坂本龍一 == 劇伴 == === ゲーム === *[[MOTHER (ゲーム)|MOTHER]]([[1989年]]) *[[MOTHER2 ギーグの逆襲]]([[1994年]]) *[[リアルサウンド 〜風のリグレット〜]]([[1997年]]) === 映画 === * 良いおっぱい悪いおっぱい([[1990年]]) * [[うずまき (漫画)#映画|うずまき]]([[2000年]]) * [[チキン・ハート]]([[2002年]]) * [[東京ゴッドファーザーズ]](2003年) * [[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]](2003年) * [[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]]([[2010年]]) * [[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]](2010年) * [[アウトレイジ ビヨンド]](2012年) * [[龍三と七人の子分たち]](2015年) * [[アウトレイジ 最終章]](2017年) * 再開の奈良(2021年) * PLASTIC(2023年)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/524305|title=宮崎大祐の新作「PLASTIC」7月公開、エクスネ・ケディのアルバムがモチーフ|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-12|accessdate=2023-05-12}}</ref> * [[福田村事件 (映画)|福田村事件]](2023年)<ref>[https://eiga.com/movie/97856/ 福田村事件:作品情報]、映画.com、2023年8月31日閲覧。</ref> === テレビドラマ === *[[GHOST SOUP]]([[1992年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) *[[朝ドラ殺人事件]]([[2012年]]、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) *[[大河ドラマ大作戦]](2012年、NHK総合) *[[怪奇恋愛作戦]](2015年1月 - 、[[テレビ東京]]) *[[女子的生活]](2018年、NHK総合) *三浦部長、本日付けで女性になります。(2020年、NHK総合) === アニメ映画 === *[[東京ゴッドファーザーズ]]([[2003年]]) - 鈴木慶一とムーンライダーズ名義 *[[聖☆おにいさん]]([[2013年]]) *[[若おかみは小学生!]]([[2018年]]) === テレビアニメ === *[[ドクター秩父山]](1988年) - 秩父山バンド名義 *[[NO.6]]([[2011年]]) *[[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]](2011年) - 鈴木慶一とムーンライダーズ名義 *[[おそ松さん]](2017年) - おそ松さんズ with 松野家6兄弟 名義(作詞、歌唱) === OVA === *[[赤色エレジー]]([[2007年]]) == 出演 == === テレビ番組 === * [[笑っていいとも!]](1980年代 - 1990年代に数回出演)テレフォンショッキングゲスト * モグラネグラ(1993年4月5日 - 9月30日、[[テレビ東京]]) - [[鈴木杏樹]]と「W鈴木」と称してレギュラー出演 * [[えびす温泉]](1994年 - 1997年、[[テレビ朝日]]) - 司会 * [[佐野元春のザ・ソングライターズ]] シーズン2(2010年7月31日・8月7日、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) * [[ムジカ・ピッコリーノ]](2015年4月3日 - 2016年8月19日、NHK教育) - リヒャルト船長役 === ラジオ番組 === *[[ROCK OF ALL AGES]](毎週日曜日、[[ミュージックバード]]、2007年4月1日<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20070401173315/https://musicbird.jp/channels/musicbird/crossculture/index.html|title=MUSIC BIRD | チャンネル・番組情報 | MUSIC BIRD チャンネル一覧表 | cross culture | チャンネル概要|date=|accessdate=2009-04-01}}</ref> ‐ 2008年9月28日<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20090204123052/http://www.musicbird.jp/channels/communitychannel/regular.html|title=MUSIC BIRD | チャンネル・番組情報 | コミュニティチャンネル | タイムテーブル|date=|accessdate=2008-09-04}}</ref>)‐ 全国[[コミュニティFM]]でも聴取可能であった *[https://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/pg/page010-01.cgi?recId=&hitCount=82&sort=&programPage=1&cornerPage=1&keyword=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%80%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%85%B6%E4%B8%80&op=AND&keyword_not=&op_not=OR&year_1=&month_1=&day_1=&year_2=&month_2=&day_2=&from_hour=&from_minute=&to_hour=&to_minute=&lgenre1=&lgenre2=&lgenre3=&genre_op=AND&rec_count=10&cal_edit= ライブビート](毎月最終水曜日担当、[[NHK-FM放送]]、2004年4月28日 ‐ 2010年3月24日、2016年3月27日・2016年4月1日) ‐ 英国BBCのライブ録音を取り上げている *[[SOUND AVENUE 905]](水曜日担当、[[TBSラジオ]]、2015年9月29日 - 2016年3月23日) === CM === * [[ミノルタ]]([[斉藤慶子]]と共演) * [[日本マクドナルド]]([[宮沢りえ]]と共演) * [[トヨタ]]([[本上まなみ]]と共演) * [[崎陽軒]] * [[養命酒]]([[原田美枝子]]と共演) * [[味の素]]健康サララ([[香取慎吾]]と共演) === テレビドラマ(出演) === * アルファベット2/3(1992年4月 - 6月) * [[朝ドラ殺人事件]](2012年3月27日 - 28日、NHK総合) - 斎藤九 役 * [[女子的生活]](2018年1月5日 - 1月26日、NHK総合) - 水族館の職員 役 * [[オリバーな犬、 (Gosh!!) このヤロウ]](NHK総合) - 志村 役 ** シーズン1(2021年9月17日 - 10月1日)<ref>{{Cite news2|title=オダギリジョー脚本・演出の初オリジナル連続ドラマ今秋放送! 豪華キャストも発表|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0124010|newspaper=シネマトゥデイ|date=2021-06-10|accessdate=2021-06-10}}</ref> ** シーズン2(2022年9月20日 - 10月4日)<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0131967|title=オダギリジョー脚本・演出のドラマ「オリバーな犬」NHKで放送、主演は池松壮亮 |publisher=シネマトゥデイ|date=2021-08-25|accessdate=2022-09-16}}</ref> === 映画(出演) === * [[僕は天使ぢゃないよ]](1977年) - ラム亭の主人 役 * 良いおっぱい悪いおっぱい([[1990年]]) - 中原三郎 役 * [[Love Letter (1995年の映画)|Love Letter]]([[1995年]]) - 藤井樹(男)の父・精一役で冒頭の法事のシーンのみ出演 * [[スワロウテイル]]([[1996年]]) - 楠木 役 * [[PiCNiC]](1996年) - 牧師 役 * ボディドロップアスファルト([[2000年]]) - 野村 役 * 世田谷リンダちゃん(2005年) * [[赤い文化住宅の初子]](2007年) - ラーメン屋店主 役 * [[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]](2010年) - 都筑睦夫 役 * [[もらとりあむタマ子]](2013年) - 坂井啓介 役 * [[海のふた]](2015年) - お父さん 役 * [[ラストレター (映画)|ラストレター]] (2020年) - 遠野幸吉 役 * [[his〜恋するつもりなんてなかった〜#映画|his]](2020年) - 緒方 役 * [[ちょっと思い出しただけ]](2022年) - タクシードライバー役 * ほとぼりメルトサウンズ(2022年) - タケ 役<ref>[https://eiga.com/movie/96817/ ほとぼりメルトサウンズ:作品情報]、[[映画.com]]、2022年11月2日閲覧。</ref> * [[ちひろさん#映画|ちひろさん]](2023年) - 浮浪者のおじさん 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/499525|title=映画「ちひろさん」に豊嶋花、リリー・フランキー、風吹ジュン、共演陣を一挙解禁|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-10-31|accessdate=2022-10-31}}</ref> == 著書 == * ムーグ・ノイマン・バッハ [[甘利俊一]], 鈴木慶一, [[細野晴臣]], [[近藤譲]], [[冨田勲]]・著(1988年1月1日・ソフトバンククリエイティブ(COMPUTOLOGY BOOKS)) * 火の玉ボーイとコモンマン―東京・音楽・家族1951‐1990(1989年、新宿書房) * ロック画報読本 鈴木慶一のすべて (2017年3月17日、[[Pヴァイン]]・ele-king books) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist|20em}} == 関連項目 == *[[糸井重里]] *[[THE BEATNIKS]] *[[ヴァージンVS]] *[[:en:Music of the EarthBound series]] == 外部リンク == *[http://www.keiichisuzuki.com/ keiichisuzuki.com] - 公式サイト *[http://d.hatena.ne.jp/keiichisuzuki_information/ keiichisuzuki_informationの日記] - スタッフによる広報[[ブログ]] *[https://suzukikeiichi.hatenablog.com/ 我がメインテナンスの日々] - 本人のブログ *{{MySpace|keiichisuzuki|鈴木慶一}} *{{Twitter|keiichi_suzuki|鈴木慶一}} *{{Discogs artist|Keiichi Suzuki}} {{ムーンライダーズ}} {{日本アカデミー賞最優秀音楽賞}} {{MOTHER Series}} {{高橋幸宏}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すすき けいいち}} [[Category:ムーンライダーズ]] [[Category:日本のロック・ミュージシャン]] [[Category:日本の映画音楽の作曲家]] [[Category:日本のオルタナティヴ・ロック・ミュージシャン]] [[Category:日本の男優]] [[Category:テクノポップ]] [[Category:ナゴムレコード]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]]
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8月28日
8月28日(はちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。
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{{カレンダー 8月}} '''8月28日'''(はちがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から240日目([[閏年]]では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。 == できごと == {{multiple image | footer = 天文学者[[ウィリアム・ハーシェル]]、[[40フィート望遠鏡]]を用いて土星の衛星[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]を発見(1789) | image1 = Herschel_40_foot.jpg | width1 = 130 | alt1 = 40フィート望遠鏡 | image2 = Enceladus_from_Voyager.jpg | width2 = 140 | alt2 = エンケラドゥス }} <!-- [[Image:SciAmer.gif|thumb|upright|世界最古とされる一般向け科学雑誌、[[サイエンティフィック・アメリカン]]創刊(1845)]] --> [[Image:Lohengrin_-_Illustrated_Sporting_and_Dramatic_News.png|thumb|upright|歌劇『[[ローエングリン]]』初演(1850)。画像は1875年のもの]] [[Image:Bull_run_bridge_1862.jpg|thumb|[[南北戦争]]、[[第二次ブルランの戦い]](1862)]] [[Image:Cetshwayo-c1875.jpg|thumb|upright|[[ズールー王国]]の国王[[セテワヨ・カムパンデ]](画像)が英軍に拘束される(1897)]] {{multiple image | footer = [[デン・ハーグ]]の[[平和宮]]開場(1913) | image1 = International Court of Justice HQ 2006.jpg | width1 = 200 | alt1 = 外観 | image2 = Main_Hall_of_the_Peace_Palace.jpg | width2 = 120 | alt2 = 本堂 }} [[Image:SMS_Ariadne.jpg|thumb|[[第一次世界大戦]]、[[ヘルゴラント・バイト海戦]](1914)]] [[Image:Martin_Luther_King_-_March_on_Washington.jpg|thumb|[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]、"[[I Have a Dream]]"の演説を行う(1963)。{{Squote|私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての[[奴隷]]の子達と、かつての奴隷の所有者達の子達が、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを。}}]] * [[475年]] - [[西ローマ帝国]]の将軍[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]が皇帝[[ユリウス・ネポス|ネポス]]を追放し、政府の全権を掌握。 * [[1640年]] - [[主教戦争#第2次戦争|第2次主教戦争]]: [[ニューバーンの戦い]]。 * [[1789年]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[土星]]の[[衛星]][[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]を発見。 * [[1833年]] - [[イギリス議会]]が[[奴隷廃止法]]を制定。 * [[1845年]] - 科学雑誌『[[サイエンティフィック・アメリカン]]』が創刊。 * [[1850年]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]の[[オペラ]]『[[ローエングリン]]』がヴァイマル宮廷劇場で初演。 * [[1859年]] - 大規模な[[磁気嵐]]が発生。[[9月2日]]にはキューバ・ハワイ・日本などでも[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が観測される。 * [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[第二次ブルランの戦い]]。 * [[1867年]]([[慶応]]3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - 土佐藩の[[中岡慎太郎]]が京都で倒幕浪士軍「[[陸援隊]]」を組織。 * 1867年 - [[アメリカ合衆国]]が[[ミッドウェー島]]の領有を宣言。 * [[1879年]] - [[ズールー戦争]]に敗れた[[ズールー王国]]の国王[[セテワヨ・カムパンデ]]がイギリス軍に拘束される。 * [[1899年]] - [[愛媛県]]で[[別子大水害]]が発生。513名以上が死亡。 * [[1913年]] - [[オランダ]]・[[デン・ハーグ]]の[[平和宮]]が開場。 * [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ヘルゴラント・バイト海戦]]。 * [[1916年]] - 第一次世界大戦: [[イタリア]]が[[ドイツ]]に、ドイツが[[ルーマニア]]に[[宣戦布告]]。 * [[1917年]] - [[ホワイトハウス]]で[[ピケッティング|ピケ]]を行っていた婦人参政権論者10人が逮捕される。 * [[1927年]] - [[東京横浜電鉄]]渋谷線(現在の[[東急東横線]])の[[渋谷]]~[[多摩川駅|丸子多摩川]]が開業。 * [[1937年]] - [[豊田自動織機|豊田自動織機製作所]]から分離独立して[[トヨタ自動車|トヨタ自動車工業]]設立。 * [[1939年]] - [[独ソ不可侵条約]]締結を受けて、[[平沼騏一郎]]首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と声明し[[内閣総辞職]]。 * [[1945年]] - [[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]][[第1師団 (日本軍)|第1師団]]長[[片岡董]]陸軍中将と[[第102師団 (日本軍)|第102師団]]長[[福栄真平]]陸軍中将と[[大日本帝国海軍|帝国海軍]][[海軍根拠地隊|第33特別根拠地隊]]司令官[[原田覚]]海軍少将が[[セブ島]]{{仮リンク|タボゴン地区|en|Tabogon, Cebu}}イリハンで[[アメリカ陸軍]][[第23歩兵師団 (アメリカ軍)|第23歩兵師団]]長{{仮リンク|ウィリアム・ハワード・アーノルド|label=ウィリアム・ハワード・アーノルド|en|William Howard Arnold}}少将に対する降伏文書に署名する。 * 1945年 - 占領軍の先遣隊が[[厚木海軍飛行場|厚木基地]]に上陸。[[横浜市]]に[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の本部を設置(9月に東京へ移動)。 * [[1946年]] - [[北朝鮮労働党]]([[朝鮮労働党]]の前身)結成。 * [[1952年]] - [[衆議院解散]]([[抜き打ち解散]])。 * [[1953年]] - 日本最初の[[民間放送]]による[[テレビジョン放送局]]である[[日本テレビ放送網]](NTV)が本放送開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.screens-lab.jp/article/28600 |title=日本テレビが開局70年記念のロゴ・コピーを発表 |access-date=16 Mar 2023 |publisher=Screens |date=5 Jan 2023}}</ref>。 * [[1955年]] - 白人女性に対して口笛を吹いた[[エメット・ティル]]が[[ミシシッピ州]]で虐殺される。 * [[1958年]] - [[讀賣テレビ放送]](ytv)、[[テレビ西日本]](TNC)が開局。 * [[1959年]] - [[三井三池争議]]:[[三井鉱山]]が4580人の希望退職要求などの「第二次企業整備案」を提示<ref>{{Cite web|和書|url=http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/631-02.pdf |title=三池争議とは |access-date=16 Mar 2023 |publisher=[[法政大学]] |format=[[PDF]] |page=8}}</ref>。 * [[1963年]] - [[ワシントン大行進]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ワシントンD.C.|ワシントン]]で行われた人種差別撤廃を求める市民集会で、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]が有名な「[[I Have a Dream]]」の演説を行う。 * [[1971年]] - [[8月15日]]の[[ニクソン・ショック]]を受け、暫定的に[[円 (通貨)|円]]の[[変動相場制]]へ移行<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/60814 |title=日本にとってのニクソン・ショックは 金融問題にとどまらぬ実体経済の問題だった |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンドオンライン]] |date=21 Oct 2014}}</ref>。 * [[1974年]] - [[ピアノ騒音殺人事件]]が発生。近隣騒音を動機とした初めての[[殺人]]事件。 * [[1975年]] - [[興人]]が[[会社更生法]]の適用を受け事実上倒産。負債2千億円で当時戦後最大。 * [[1988年]] - [[ラムシュタイン航空ショー墜落事故]]が発生し、75人が死亡。 * [[1990年]] - 全身に大やけどを負ったソ連[[サハリン州]]の3歳の[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ]]が[[超法規的措置]]により[[札幌市]]に緊急搬送。 * [[1996年]] - イギリス皇太子チャールズ(のちの[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]])と[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]]妃が離婚<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a42063963/diana-charles-divorce-timeline-221125-hns/ |title=世界を揺るがした、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の離婚を時系列でおさらい |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[ELLE (雑誌)|ELLE]] |date=25 Nov 2022}}</ref>。 * [[1997年]] - [[宅見若頭射殺事件]]。 * [[1998年]] - [[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線]]が開業。 * [[2003年]] - [[大阪地方裁判所|大阪地裁]]にて[[附属池田小事件]]の[[宅間守]]の[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が確定。 * 2003年 - [[ピザ配達人爆死事件]]が起こる。 * [[2004年]] - [[ソフトウェアの自由の日]]が制定され、初めて開催される。 * [[2006年]] - [[山口女子高専生殺害事件]]が発生。 * [[2008年]] - [[バラク・オバマ]]が、アフリカ系として初めて[[民主党 (アメリカ)|民主党]]全国大会で[[アメリカ合衆国大統領]]候補に指名される。 * [[2020年]] - 首相の[[安倍晋三]]が自身の体調不良に伴い、辞任を表明。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 --> {{multiple image | footer = 詩人・博学者、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]](1749-1832)誕生。 {{Squote|何事かを為すためには何者かであらねばならぬ。――{{仮リンク|エッケルマンとの対話|en|Gespräche mit Goethe}}(1823)}} {{Squote|俺は多くを知っているが、しかし俺は全てを知りたい。――『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』}} {{Squote|最初から最後まで、天才に求められるのは真実への愛だ。――『散文の諺』(1819)}} | image1 = Goeth_1768.jpg | width1 = 140 | alt1 = 若きゲーテ | image2 = Goethehausfrankfurt.JPG | width2 = 80 | alt2 = 生家 }} [[Image:LeFanu.jpg|thumb|100px|怪談作家、[[シェリダン・レ・ファニュ]](1814-1873)]] {{multiple image | footer = [[ラファエル前派]]の芸術家[[エドワード・バーン=ジョーンズ]](1833-1898)。右画像は『廃墟のなかの恋』(1894) | image1 = Edward_Burne-Jones_Photogravure_Hollyer.jpg | width1 = 100 | alt1 = エドワード・バーン=ジョーンズ | image2 = Burne-jones-love-among-the-ruins.jpg | width2 = 200 | alt2 = 『廃墟のなかの恋』 }} {{multiple image | footer = 技術者・建築家、「ロシアの[[トーマス・エジソン|エジソン]]」[[ウラジーミル・シューホフ]](1853-1939)誕生。[[インダストリアルデザイン]]、[[パイプライン輸送]]、タンカーなど多方面に業績を残した。中央画像は[[シューホフ・タワー]]、右は[[グム百貨店]] | image1 = Vladimir_Grigoryevich_Shukhov_1891.jpg | width1 = 80 | alt1 = ウラジーミル・シューホフ | image2 = Shukhov_tower_shabolovka_moscow_02.jpg | width2 = 120 | alt2 = シューホフ・タワー | image3 = Moskau_GUM.jpg | width3 = 120 | alt3 = グム百貨店 }} [[Image:Sugimura Kōtarō.jpg|thumb|100px|新聞記者・俳人、[[杉村楚人冠]](1872-1945)]] [[Image:Jack_Vance_Boat_Skipper.jpg|thumb|100px|[[サイエンス・フィクション|SF]]作家、[[ジャック・ヴァンス]](1916-)]] [[Image:Paul_Martin.jpg|thumb|100px|第27代カナダ首相、[[ポール・マーティン]](1938-)]] * [[626年]] - [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)]]、[[シーア派]]の3番目の[[イマーム]] * [[1646年]]([[正保]]3年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[津軽信政]]、第4代[[弘前藩|弘前藩主]](+ [[1710年]]) * [[1741年]]([[寛保]]元年7月18日) - [[京極高品]]、第6代[[豊岡藩|豊岡藩主]](+ [[1792年]]) * [[1749年]] - [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[小説家]](+ [[1832年]]) * [[1799年]]([[寛政]]11年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - [[太田資始]]、第5代[[掛川藩|掛川藩主]](+ [[1867年]]) * [[1801年]] - [[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー]]、[[哲学|哲学者]]、[[数学者]]、[[経済学者]](+ [[1877年]]) * [[1814年]] - [[シェリダン・レ・ファニュ]]、小説家(+ [[1873年]]) * [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[朽木綱張]]、第12代[[福知山藩|福知山藩主]](+ 1867年) * [[1833年]] - [[エドワード・バーン=ジョーンズ]]、[[美術家]](+ [[1898年]]) * [[1842年]]([[天保]]13年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[浅野長勲]]、第12代[[広島藩|広島藩主]]、[[侯爵]](+ [[1937年]]) * [[1853年]] - [[ウラジーミル・シューホフ]]、[[技術者]]、[[建築家]](+ [[1939年]]) * [[1867年]] - [[ウンベルト・ジョルダーノ]]、[[作曲家]](+ [[1948年]]) * [[1872年]]([[明治]]5年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[杉村楚人冠]]、[[ジャーナリスト]]、[[随筆家]](+ [[1945年]]) * [[1878年]] - [[ジョージ・H・ウィップル]]、[[医学者]](+ [[1976年]]) * [[1886年]] - [[勝沼精蔵]]、医学者(+ [[1963年]]) * [[1890年]] - [[アイヴァー・ガーニー]]、作曲家、[[詩人]](+ [[1937年]]) * [[1892年]] - [[藤森成吉]]、小説家、[[劇作家]](+ [[1977年]]) * [[1894年]] - [[カール・ベーム]]、[[指揮者]](+ [[1981年]]) * [[1897年]] - [[西村英一]]、[[政治家]](+ [[1987年]]) * 1897年 - [[ルイス・ワース]]、[[社会学者]](+ [[1952年]]) * [[1899年]] - [[シャルル・ボワイエ]]、[[俳優]](+ [[1978年]]) * 1899年 - [[杉原荒太]]、政治家(+ [[1982年]]) * [[1903年]] - [[ブルーノ・ベッテルハイム]]、[[精神医学|精神医学者]](+ [[1990年]]) * [[1906年]] - [[土屋香鹿]]、第3代[[福岡県知事一覧|福岡県知事]](+ [[2006年]]) * [[1910年]] - [[チャリング・クープマンス]]、[[経済学者]](+ [[1985年]]) * [[1913年]] - [[田崎潤]]、俳優(+ 1985年) * 1913年 - [[リチャード・タッカー]]、[[テノール]]歌手(+ [[1975年]]) * [[1914年]] - [[広田修三]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不明) * [[1915年]] - [[ターシャ・テューダー]]、[[絵本作家|絵本画家]]、[[挿絵]]画家、[[園芸家]]、[[人形]]作家(+ [[2008年]]) * [[1916年]] - [[ライト・ミルズ]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1962年]]) * 1916年 - [[ジャック・ヴァンス]]、[[SF作家]](+ [[2013年]]) * [[1917年]] - [[原正市]]、篤農家(+ [[2002年]]) * 1917年 - [[ジャック・カービー]]、[[漫画家]](+ [[1994年]]) * [[1919年]] - [[原田督三]]、元プロ野球選手(+ [[1976年]]) * 1919年 - [[ゴッドフリー・ハウンズフィールド]]、[[電子]][[技術者]](+ [[2004年]]) * [[1920年]] - [[末元善三郎]]、[[天文学者]](+ [[1991年]]) * [[1921年]] - [[フェルナンド・フェルナン・ゴメス]]、[[俳優]]、映画監督(+ [[2007年]]) * 1921年 - [[リディア・ゲイレル・テハダ]]、[[ボリビア]]初の女性元首(+ [[2011年]]) * [[1923年]] - [[蔦文也]]、元プロ野球選手、高校野球指導者(+ [[2001年]]) * 1924年 - {{仮リンク|ペギー・ライアン|en|Peggy_Ryan}}、女優(+ [[2004年]]) * 1924年 - {{仮リンク|ジャネット・フレイム|en| Janet_Frame}}、作家(+ 2004年) * [[1925年]] - [[ドナルド・オコーナー]]、俳優(+ [[2003年]]) * [[1929年]] - [[イシュトヴァン・ケルテス]]、指揮者(+ [[1973年]]) * [[1930年]] - [[ベン・ギャザラ]]、俳優(+ [[2012年]]) * 1930年 - [[林京子]]、小説家(+ [[2017年]]) * 1930年 - {{仮リンク|ウィンザー・デーヴィス|en|Windsor_Davies}}、俳優(+ [[2019年]]) * [[1931年]] - [[岡野俊一郎]]、[[日本サッカー協会]]名誉会長(+ [[2017年]]) * 1931年 - [[オーラ・マイズ]]、軍人(+ [[2014年]]) * 1931年 - [[ジョン・シャーリー=カーク]]、俳優(+ [[2014年]]) * [[1932年]] - [[アンディ・バスゲイト]]、アイスホッケー選手(+ [[2016年]]) * 1932年 - [[ヤキール・アハラノフ]]、[[物理学者]] * [[1933年]] - {{仮リンク|フィリップ・フレンチ|en|Philip_French}}、映画評論家 * [[1934年]] - [[藤井秀樹]]、[[写真家]](+ [[2010年]]) * 1934年 - [[田村満]]、元プロ野球選手 * [[1935年]] - [[及川ヒロオ]]、[[声優]](+ [[1995年]]) * 1935年 - [[式守伊之助 (29代)]]、[[大相撲]][[立行司]](+ [[2004年]]) * [[1936年]] - [[田沢芳夫]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/01/25/kiji/K20080125Z00000540.html |title=元南海投手 田沢芳夫さん死去 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=25 Jan 2008 |accessdate=17 Feb 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>) * 1936年 - [[市川義美]]、実業家、馬主 * 1936年 - [[黒田勉]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]) * 1936年 - [[トニー・ゴンザレス (外野手)|トニー・ゴンザレス]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]]) * 1936年 - [[ドン・デンキンガー]]、メジャーリーグ審判員(+ [[2023年]]) * 1936年 - {{仮リンク|ウォーレン・M・ワシントン|en|Warren_M._Washington}}、[[大気科学]]者 * [[1938年]] - [[ポール・マーティン]]、政治家、第27代[[カナダ首相]] * 1938年 - {{仮リンク|マウリツィオ・コスタンツォ|en|Maurizio_Costanzo}}、[[ジャーナリスト]] * [[1939年]] - [[イーデス・ハンソン]]、タレント、エッセイスト * 1939年 - [[開隆山勘之亟]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1986年]]) * [[1940年]] - [[ウィリアム・コーエン]]、第20代[[アメリカ合衆国国防長官]] * 1940年 - [[ロジェ・パンジョン]]、自転車競技選手(+ [[2017年]]) * 1940年 - [[フィリップ・レオタール]]、俳優(+ [[2001年]]) * 1940年 - [[ケン・ジェンキンス]]、俳優 * [[1941年]] - [[ジョン・マーシャル (ドラマー)|ジョン・マーシャル]] 、ドラマー(+ [[2023年]]) * 1941年 - {{仮リンク|ポール・プリシュカ|en|Paul_Plishka}}、[[オペラ|オペラ歌手]] * 1941年 - [[森川卓郎]]、元プロ野球選手 * [[1943年]] - [[ルー・ピネラ]]、元プロ野球選手、監督 * 1943年 - [[スラユット・チュラーノン]]、[[タイの首相|タイ首相]] * 1943年 - [[デヴィッド・ソウル]]、俳優 * [[1944年]] - {{仮リンク|マリアン・ヘームスケルク|en|Marianne_Heemskerk}}、水泳選手 * [[1945年]] - [[ロバート・グリーンウォルド]]、映画監督 * 1945年 - {{仮リンク|ボブ・セガリーニ|en|Bob_Segarini}}、シンガーソングライター * [[1946年]] - {{仮リンク|アンドレ・ブラッサルド|en|André_Brassard}}、[[映画人]] * 1946年 - {{仮リンク|マイク・トーレス|en|Mike_Torrez}}、プロ野球選手 * [[1948年]] - [[長谷川一幸]]、[[空手道|空手家]] * 1948年 - {{仮リンク|ダニー・セラフィン|en|Danny_Seraphine}}、ドラマー * [[1949年]] - [[イモージェン・クーパー]]、[[ピアニスト]] * 1949年 - [[伊吹剛]]、俳優 * [[1951年]] - [[鈴木慶一]]、[[音楽家]]、音楽プロデューサー * 1951年 - [[岡崎優]]、[[漫画家]] * [[1952年]] - [[菅野光夫]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]]) * 1952年 - [[佐藤宣彦]]、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー * [[1955年]] - [[小林通孝]]、[[声優]] * 1955年 - [[宮川花子]]、[[漫才師]] * 1955年 - [[臼井二美男]]、義肢装具士 * [[1956年]] - [[ビバリー・ゴダード]]、[[陸上競技]]選手 * [[1957年]] - [[熊野輝光]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[イヴォ・ヨシポヴィッチ]]、政治家、元[[クロアチアの大統領|クロアチア大統領]] * 1957年 - [[ダニエル・スターン]]、俳優 * [[1958年]] - [[大塚英志]]、評論家、漫画原作者 * 1958年 - [[スコット・ハミルトン (フィギュアスケート選手)|スコット・ハミルトン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1959年]] - [[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]]、[[アニメーション]][[監督]] * 1959年 - [[美樹本晴彦]]、キャラクターデザイナー * [[1960年]] - [[工藤俊作 (俳優)|工藤俊作]]、俳優 * 1960年 - [[青木秀一]]、ミュージシャン * 1960年 - [[フリオ・セサル・ロメロ]]、元サッカー選手 * 1960年 - [[エディ・ハンドコ]]、[[チェス]]選手(+ [[2009年]]) * [[1961年]] - [[城戸真亜子]]、[[画家]]、タレント * [[1963年]] - [[香西かおり]]、[[演歌歌手]] * 1963年 - [[仙波さとみ]]、ミュージシャン([[SHOW-YA]]) * 1963年 - [[森重樹一]]、ミュージシャン([[ZIGGY]]) * [[1965年]] - [[田尻智]]、[[ゲームクリエイター]] * 1965年 - [[アマンダ・タッピング]]、女優 * 1965年 - [[シャナイア・トゥエイン]]、[[歌手]] * [[1966年]] - [[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]]、歌手 * 1966年 - [[中根仁]]、元プロ野球選手 * 1966年 - [[レネ・イギータ]]、元サッカー選手 * [[1967年]] - [[遠藤正明]]、歌手 * 1967年 - [[仲道祐子]]、[[ピアニスト]] * [[1968年]] - [[ビリー・ボイド]]、俳優 * [[1969年]] - [[ジャック・ブラック]]、俳優 * [[1970年]] - [[西山一宇|西山一字]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[藤栄道彦]]、漫画家 * 1971年 - [[トッド・エルドリッジ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1971年 - [[仁藤優子]]、女優 * 1971年 - [[宮地克彦]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[宮本勝昌]]、プロゴルファー * 1972年 - [[内田大孝]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[武内崇]]、[[イラストレーター]] * 1973年 - [[アナログタロウ]]、[[ピン芸人]] * [[1974年]] - [[水橋かおり]]、声優 * [[1975年]] - [[後藤邑子]]、声優 * 1975年 - [[森田猛虎]]、俳優 * [[1978年]] - [[山田いずみ]]、元スキージャンプ選手 * [[1979年]] - [[前田有紀 (歌手)|前田有紀]]、歌手 * [[1980年]] - [[普天王水]]、元大相撲力士、年寄13代[[稲川 (相撲)|稲川]] * 1980年 - [[Micro]]、歌手([[Def Tech]]) * [[1981年]] - [[ユニエスキ・マヤ]]、プロ野球選手 * 1981年 - [[桃華絵里]]、ファッションモデル、実業家 * [[1982年]] - [[カルロス・クエンティン]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[ティアゴ・モッタ]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[石垣佑磨]]、俳優 * 1982年 - [[山口将司]]、元俳優 * 1982年 - [[任重非]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1983年]] - [[ユリエッタ・ブクバラ]]、柔道選手 * 1983年 - [[ウィンユー・パラドーンジム]]、プロボクサー * [[1984年]] - [[中村光宏]]、アナウンサー * 1984年 - [[工藤浩平]]、サッカー選手 * 1984年 - [[酒井泰滋]]、元バスケットボール選手 * 1984年 - [[アーラ・ベクナザロワ]]、フィギュアスケート選手 * 1984年 - [[斎藤楓子]]、声優 * 1984年 - 飯沼博貴、お笑いタレント([[パニーニ (お笑いコンビ)|パニーニ]]) * 1984年 - [[ウィル・ハリス]]、プロ野球選手 * [[1985年]] - [[デュアンテ・ヒース]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[伊野波雅彦]]、サッカー選手 * 1985年 - [[鵜飼建吾]]、サッカー選手 * [[1986年]] - [[井上安世]]、お笑いタレント * 1986年 - [[ジャスティン・ピーターセン]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[アナスタシア・プラトノワ]]、フィギュアスケート選手 * [[1987年]] - [[萬谷康平]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[西大伍]]、サッカー選手 * 1987年 - 蒼あんな、タレント([[蒼あんな・れいな]]) * 1987年 - 蒼れいな、タレント (蒼れいな・れいな) * 1987年 - [[八木将康]]、俳優 * [[1988年]] - [[梶谷隆幸]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[大谷龍次]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[服部健太]]、[[プロレスラー]] * [[1989年]] - [[バルテリ・ボッタス]]、レーシングドライバー * [[1990年]] - [[ボージャン・クルキッチ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[川村茉由]]、タレント、モデル、[[ラジオパーソナリティ]] * [[1992年]] - [[渡辺けあき]]、[[ボウリング|プロボウラー]]、元女優、元[[モデル (職業)|モデル]] * [[1993年]] - [[雨宮天]]、声優、歌手 * 1993年 - [[山崎あおい]]、シンガーソングライター * 1993年 - [[高橋尚弥]]、陸上選手 * [[1994年]] - 中野なかるてぃん、お笑い芸人([[ナイチンゲールダンス]]) * [[1995年]] - 佐々木優佳里、アイドル([[AKB48]]) * 1995年 - 米倉桃華、アイドル(元[[テクプリ]]) * [[1996年]] - [[池松愛理]]、グラビアアイドル、元[[Rev. from DVL]] * [[1998年]] - [[上田綺世]]、サッカー選手 * 1998年 - [[福原遥]]、女優、タレント * 1998年 - [[佐々木琴子]]、タレント、声優([[蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ]]、元[[乃木坂46]]) * [[2001年]] - [[樋口なづな]]、アイドル([[SUPER☆GiRLS]]) * 2001年 - [[田向星華]]、モデル、タレント * [[2003年]] - 千葉祐夕、タレント * [[2004年]] - [[藤平華乃]]、アイドル([[@onefive]]、元[[さくら学院]]) * 生年不明 - [[木村千咲]]、声優、歌手 == 忌日 == {{multiple image | footer = キリスト教の神学者、[[アウグスティヌス]](354-430)没。 {{Squote|美徳と悪徳は同じではない。同じ苦しみを受けるのだとしても。――『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』}} {{Squote|罪人を愛し、罪を憎みなさい。}} | image1 = Augustine_Lateran.jpg | width1 = 100 | alt1 = アウグスティヌス。6世紀 | image2 = Lombardia_Pavia1_tango7174.jpg | width2 = 100 | alt2 = 墓 }} {{multiple image | image1 = Fujiwarano_Momokawa.jpg | width1 = 100 | caption1 = 政治家、[[藤原百川]](732-779) | image2 = Moronaga.JPG | width2 = 100 | caption2 = 公卿、[[藤原師長]](1138-1192) }} {{multiple image | image1 = Ludwig_der_Deutsche.jpg | width1 = 100 | caption1 = 東フランク王[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]](804-876)没。獲得した領土が後の[[ドイツ]]の原型となる | image2 = AfonsoV-P.jpg | width2 = 100 | caption2 = ポルトガル王[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]](1432-1481) | image3 = Boris-bulgaria--secretsofbalkans00vopiuoft.png | width3 = 100 | caption3 = ブルガリア王[[ボリス3世 (ブルガリア王)|ボリス3世]] (1894-1943) }} {{multiple image | image1 = Statue_of_Hugo_Grotius.jpg | width1 = 120 | caption1 = 「[[国際法]]の父」、法学者[[フーゴー・グローティウス]](1583-1645)没 | image2 = Henry_Sidgwick.jpg | width2 = 100 | caption2 = 哲学者・倫理学者、[[ヘンリー・シジウィック]](1838-1900)没 }} [[Image:Axel_Oxenstierna.jpeg|thumb|100px|スウェーデンの宰相[[アクセル・オクセンシェルナ]](1585-1654)]] [[Image:Anatoly_Lyadov.jpg|thumb|100px|作曲家[[アナトーリ・リャードフ]](1855-1914)]] * [[430年]] - [[アウグスティヌス]]<ref>{{Cite web |title=Saint Augustine summary |url=https://www.britannica.com/summary/Saint-Augustine |access-date=2023-02-17 |language=en |publisher=Britannica}}</ref>、[[神学者]]、[[哲学者]](* [[354年]]) * [[476年]] - [[フラウィウス・オレステス]]、[[西ローマ帝国]]の軍人 * [[770年]]([[神護景雲]]4年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[孝謙天皇]](称徳天皇)、第46・48代[[天皇]](* [[718年]]) * [[779年]]([[宝亀]]10年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[藤原百川]]、[[奈良時代]]の[[公卿]](* [[732年]]) * [[876年]] - [[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]、[[東フランク王国|東フランク王]](* [[804年]]) * [[1149年]] - [[ムイーヌッディーン・ウヌル]]、[[ブーリー朝]]の[[アタベク]](生年不詳) * [[1231年]] - [[レオノール・デ・ポルトゥガル (デンマーク王妃)|レオノール・デ・ポルトゥガル]]、デンマーク王妃(* [[1211年]]?) * [[1192年]]([[建久]]3年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[藤原師長]]、[[平安時代]]の公卿(* [[1138年]]) * [[1197年]](建久8年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]、[[源頼朝]]と[[北条政子]]の長女(* [[1178年]]) * [[1481年]] - [[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Afonso-V |title=Afonso V |access-date=17 Feb 2023 |publisher=Britannica}}</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、335頁</ref>、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1432年]]) * [[1604年]]([[慶長]]9年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[堀尾忠氏]]、[[松江藩|松江藩主]](* [[1578年]]) * [[1618年]] - [[アルブレヒト・フリードリヒ (プロイセン公)|アルブレヒト・フリードリヒ]]、[[プロイセン統治者の一覧|プロイセン公]](* [[1553年]]) * [[1638年]]([[寛永]]15年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[松倉勝家]]、[[島原藩|島原藩主]](* [[1597年]]) * [[1645年]] - [[フーゴー・グローティウス]]、[[法学者]](* [[1583年]]) * [[1654年]] - [[アクセル・オクセンシェルナ]]、[[スウェーデン]][[宰相]](* [[1585年]]) * [[1680年]] - [[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1617年]]) * [[1767年]] - [[ヨハン・ショーベルト]]、[[作曲家]] * [[1771年]]([[明和]]8年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[松平頼恭]]、第5代[[高松藩|高松藩主]](* [[1711年]]) * [[1793年]] - [[アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ]]、[[フランス]]の将軍(* [[1740年]]) * [[1824年]]([[文政]]7年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[荒木如元]]、[[洋風画]]家(* [[1765年]]) * [[1827年]] - [[リスト・アーダーム]]、[[フランツ・リスト]]の父(* [[1776年]]) * [[1839年]] - [[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]、[[地質学|地質学者]](* [[1769年]]) * [[1900年]] - [[ヘンリー・シジウィック]]、思想家(* [[1838年]]) * [[1914年]] - [[アナトーリ・リャードフ]]、作曲家(* [[1855年]]) * 1914年 - [[レオン・ド・ロニー]]、[[民俗学者]]、[[言語学者]](* [[1837年]]) * [[1915年]] - [[ジョン・デイヴィス・ロング]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1838年]]) * [[1919年]] - [[アドルフ・シュマル]]、[[自転車競技]]選手、[[フェンシング]]選手(* [[1872年]]) * [[1942年]] - [[ビル・ラリデン]]、[[プロ野球選手]](* [[1888年]]) * [[1943年]] - [[ボリス3世 (ブルガリア王)|ボリス3世]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王]](* [[1894年]]) * [[1959年]] - [[ボフスラフ・マルティヌー]]、作曲家(* [[1890年]]) * [[1960年]] - [[犬養健]]、[[政治家]](* [[1896年]]) * [[1966年]] - [[中澤良夫]]、[[野球選手]](* [[1883年]]) * [[1978年]] - [[ロバート・ショウ]]、[[俳優]](* [[1927年]]) * [[1980年]] - [[上林暁]]、[[小説家]](* [[1902年]]) * [[1985年]] - [[ルース・ゴードン]]、女優(* [[1896年]]) * [[1987年]] - [[ジョン・ヒューストン]]、[[映画監督]](* [[1906年]]) * [[1988年]] - [[木内宜彦]]、[[法学者]](* [[1942年]]) * [[1989年]] - [[大浦留市]]、[[陸上競技]]選手、指導者、教師(* [[1896年]]) * [[1993年]] - [[エドワード・P・トムスン]]、[[歴史家]]、[[社会主義]][[思想家]](* [[1924年]]) * [[1995年]] - [[ミヒャエル・エンデ]]、[[作家]](* [[1929年]]) * [[1997年]] - [[宅見勝]]、山口組若頭(* [[1936年]]) * [[1998年]] - [[ニコライ・ザテエフ]]、ソビエト連邦海軍軍人(* [[1926年]]) * [[2001年]] - [[山尾三省]]、[[詩人]](* [[1938年]]) * [[2004年]] - [[新宮正春]]、小説家(* [[1935年]]) * [[2006年]] - [[メルヴィン・シュワーツ]]、[[物理学者]](* [[1932年]]) * [[2007年]] - [[アントニオ・プエルタ]]、[[サッカー]]選手(* [[1984年]]) * 2007年 - [[ミヨシ・ウメキ|ナンシー梅木]]、ジャズ歌手、女優(* [[1929年]]) * [[2008年]] - [[フィル・ヒル]]、[[レーシングドライバー]](* [[1927年]]) * [[2010年]] - [[早川雄三]]、俳優(* [[1925年]]) * [[2013年]] - [[山田修爾]]、[[演出家]]、[[プロデューサー]](* [[1945年]])  * 2013年 - [[五十嵐辰馬]]、プロ野球選手(* [[1930年]]) * [[2014年]] - [[杉山とく子]]、女優(* [[1926年]]) * [[2017年]] - [[羽田孜]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS2107R_Y7A820C1MM0000/ |title=羽田孜氏が死去 非自民連立政権で首相 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Aug 2017}}</ref>、政治家、第80代[[内閣総理大臣]](* [[1935年]]) * 2017年 - [[ミレーユ・ダルク]]、女優(* [[1938年]]) * [[2020年]] - [[岸部四郎]]、俳優(* [[1949年]]) * 2020年 - [[チャドウィック・ボーズマン]]、俳優、劇作家、脚本家(* [[1976年]]) * 2020年 - [[階戸瑠李]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2020/08/31/0013652699.shtml |title=「半沢」出演の階戸瑠李さん急死 事務所「事件や自殺の可能性ない」…てんかんの持病 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=31 Aug 2020}}</ref>、女優、モデル(* [[1988年]]){{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Tizian_041.jpg|thumb|upright|[[聖母の被昇天]]。画像は[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]画]] * [[聖母の被昇天]]([[正教会]]) *: [[マケドニア]]、[[セルビア]]、[[グルジア]]では祝日となっている。[[カトリック教会]]では[[8月15日]]。 * 民放テレビスタートの日({{JPN}}) *: [[1953年]]8月28日午前11時20分に、日本初の民放テレビ局・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が本放送を開始したことに由来。 * テレビCMの日({{JPN}}) *: 上記の日本テレビの本放送開始の日、日本初のテレビ[[コマーシャルメッセージ]]も放送されたことを記念して、[[日本民間放送連盟]]が[[2005年]]に制定。 *: 初のテレビCMは[[服部時計店]]([[精工舎]])のもので、「精工舎の時計が正午をお知らせします」という内容だったが、不慣れのためフィルムを裏返しに入れてしまい、音も不明瞭なものとなってしまった。 * キャラディネートの日({{JPN}}) *: 株式会社グレイスが制定。ファッションの中にキャラクターを取り入れた「キャラディネート」をアピールするのが目的。日付は、この日を8(ファッション)2(TO)8(ファッション)と読み、ファッションとファッションをつなぐ架け橋という意味から<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=83|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 * [[ヴァイオリン|バイオリン]]の日({{JPN}}) *: [[1880年]]8月28日に東京・[[深川 (江東区)|深川]]の[[三味線]]職人・松永定次郎によって初の日本製ヴァイオリンが製作されたことから<ref>{{Cite web|和書|url= http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/134-8-28 |title=8月28日はバイオリンの日 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=2019-08-28 |accessdate=2022-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nnh.to/08/28.html|title=8月28日|publisher=今日は何の日〜毎日が記念日〜|accessdate=2022-07-09}}</ref>。 {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0828|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * [[2034年]] - [[バトルガールハイスクール#煌上花音|煌上花音]]、ゲーム「[[バトルガールハイスクール]]」に登場するキャラクター<ref>電撃オンライン編集部『バトルガール ハイスクール 公式ビジュアルファンブック』KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016年4月27日。</ref><ref>{{Twitter status|bgirl_colopl|902010457598304257}}</ref> * 生年不明 - 本田珠輝、漫画・アニメ『[[ステラのまほう]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://magicofstella.com/chara/tamaki.html |title=本田珠輝 |work=『ステラのまほう』 |accessdate=17 Feb 2023 |publisher=[[くろば・U]]/[[芳文社]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20180523005118/http://magicofstella.com/chara/tamaki.html |archive-date=23 May 2018}}</ref> * 生年不明 - 豊川姫乃、漫画・アニメ『[[やくならマグカップも]]』の主人公<ref>{{Twitter status|Yakumagu|1555478868961939458}}</ref> * 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#特別上忍|並足ライドウ]]、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2002|page=82|ISBN=4-08-873288-X}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=114|isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 鳴子章吉、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/155721 |title=「弱虫ペダル」鳴子章吉の誕生日祝うフォトローズ、デーハーな赤薔薇 |access-date=2022-09-22 |publisher=コミックナタリー |date=2015-08-02}}</ref> * 生年不明 - 宇佐美夏樹、アニメ『[[つり球]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsuritama.com/character/index.html |title=CHARACTER 宇佐美夏樹 |accessdate=17 Feb 2023 |publisher=tsuritama partners |work=『つり球』}}</ref> * 生年不明 - 九条紫音、漫画・アニメ『[[ソウナンですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sounan_desuka|1166693259915083776}}</ref> * 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#エルメンヒルデ・カルンスタイン|エルメンヒルデ・カルンスタイン]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|939147011802009600}}</ref> * 生年不明 - [[マキ (ファイナルファイト)|源柳斎 真紀]]、ゲーム『[[ファイナルファイト2]]』『[[ストリートファイターZERO|ストリートファイターZERO3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=キャラ図鑑038:源柳斎 真紀 {{!}} キャラ図鑑 {{!}} 活動報告書 |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/112552 |website=シャドルー格闘家研究所 |access-date=2022-09-22 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]]}}</ref> * 生年不明 - 涼宮星花、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20092 |title=清宮 星花(きよみや すずか) |access-date=2022-09-22 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> *生年不明 - リエル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=166&cate=name&cont=Riel |title=リエル |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> *生年不明 - 晴海シンジュ、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://t7s.jp/character/chara/12.html |title=晴海シンジュ |access-date=2022-09-22 |work=『Tokyo 7th シスターズ』}}</ref> *生年不明 - 綾瀬恋雪、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=綾瀬 恋雪(あやせ こゆき) |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=2022-09-22 |work=告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜}}</ref> *生年不明 - 神崎莉央、メディアミックス『[[IDOLY PRIDE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.idolypride.jp/character/rio-kanzaki/ |title=神崎莉央 |access-date=2022-09-22 |publisher=Project IDOLY PRIDE/星見プロダクション |work=『IDOLY PRIDE』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons&cat|August 28|28 August}} {{新暦365日|8|27|8|29|[[7月28日]]|[[9月28日]]|[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]|0828|8|28}} {{1年の月と日}}
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栽培品種
栽培品種(さいばいひんしゅ、英語: cultivar)とは、一般的には望ましい性質を選抜した増殖可能な植物の集合である。 選択・交雑・突然変異等により人為的(育種、品種改良)あるいは自然に生じ、他の栽培品種や原種と識別される特性を安定して有し、かつ、その特性を保持したまま殖やすことができる。遺伝的に均一か否かは問わない。 栽培品種は主に農業・園芸の分野で古くから利用され、園芸分野においては園芸品種(えんげいひんしゅ)の語が使われることがある。また、誤解の恐れがなければ単に品種と表記されることも多い。 尚、栽培品種は植物の分類の仕方の一つではあるが、国際藻類・菌類・植物命名規約(ICN)による分類階級やタクソンではない。すなわち、栽培品種名は学名と混同されることがあるが、それ自体は学名ではない。 栽培品種(cultivar 園芸品種とも。以下、栽培品種で統一)の命名に関する国際的な取り決めが国際栽培植物命名規約(英語版)(ICNCP)であり、第9版(2016年)が現行である。 以下は、第9版の栽培品種に関係する内容の抜粋である。 国際栽培品種登録機関(英語版)(ICRA、複数形:ICRAs)は、栽培品種名などの名称を登録し、管理する責任を負う機関である。栽培品種名や植物を法的に保護する機関ではない。国際園芸学会(英語版)(ISHS)の委員会により、管轄する分類群ごとに複数の機関が指定されている。 日本の組織としては、日本ハオルシア協会がハオルシア属・Astroloba属・Chortolirion属のICRAとして指定されている。 植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV条約)における植物の品種(フランス語: variété)や、それに基づく各国の法令(日本においては種苗法など)における品種は、栽培品種(cultivar)の語句を使用せずに定義されていることがあるが、栽培品種を法的に定義した正確な同義語である。また、UPOV条約における品種の名称(dénomination de la variété)等の語句と栽培品種小名(cultivar epithet)もまた同等である(以下品種の語で統一)。 育成者権の点から品種を登録し全般について管理しているのは各国の行政機関(日本においては農林水産省)である。 尚、それらの法定の品種登録を行う機関にて正式に登録された品種名は国際栽培植物命名規約の品種名のルールに則っていない場合でも有効である。
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栽培品種とは、一般的には望ましい性質を選抜した増殖可能な植物の集合である。 選択・交雑・突然変異等により人為的(育種、品種改良)あるいは自然に生じ、他の栽培品種や原種と識別される特性を安定して有し、かつ、その特性を保持したまま殖やすことができる。遺伝的に均一か否かは問わない。 栽培品種は主に農業・園芸の分野で古くから利用され、園芸分野においては園芸品種(えんげいひんしゅ)の語が使われることがある。また、誤解の恐れがなければ単に品種と表記されることも多い。 尚、栽培品種は植物の分類の仕方の一つではあるが、国際藻類・菌類・植物命名規約(ICN)による分類階級やタクソンではない。すなわち、栽培品種名は学名と混同されることがあるが、それ自体は学名ではない。
{{Otheruses|栽培品種・園芸品種|その他の品種|品種}} {{混同|link1=品種 (分類学)|品種|x1=[[生物学]]・[[分類学]]における[[階級 (生物学)|分類階級]]・[[タクソン|分類群]]の}} '''栽培品種'''(さいばいひんしゅ、{{Lang-en|cultivar}})とは、一般的には望ましい性質を選抜した[[繁殖|増殖]]可能な[[植物]]の集合である。<br> 選択・交雑・突然変異等により人為的([[育種]]、[[品種改良]])あるいは自然に生じ、他の栽培品種や[[原種]]と識別される[[形質|特性]]を安定して有し、かつ、その特性を保持したまま殖やすことができる。[[クローン|遺伝的に均一]]か否かは問わない。<br> 栽培品種は主に[[農業]]・[[園芸]]の分野で[[農業の歴史|古くから利用]]され、[[園芸]]分野においては'''園芸品種'''(えんげいひんしゅ)の語が使われることがある。また、誤解の恐れがなければ単に'''品種'''と表記されることも多い。 尚、栽培品種は植物の分類の仕方の一つではあるが、'''[[国際藻類・菌類・植物命名規約]]({{Lang|en|ICN}})による[[階級 (生物学)|分類階級]]や[[タクソン]]ではない'''<ref group="注釈">生物学・分類学における分類階級としての[[品種 (分類学)|品種]]({{Lang|en|form}})と混同してはならない</ref>。すなわち、'''栽培品種名'''は[[学名]]と混同されることがあるが、'''それ自体は'''<ref group="注釈">分類群を特定するための構成要素として学名が含まれることはあるが</ref>'''学名ではない'''。 == 国際栽培植物命名規約 == 栽培品種({{Lang|en|cultivar}} <small>園芸品種とも。以下、栽培品種で統一</small>)の命名に関する国際的な取り決めが{{仮リンク|国際栽培植物命名規約|en|International Code of Nomenclature for Cultivated Plants}}({{Lang|en|ICNCP}})であり、第9版([[2016年]])が現行である。 以下は、第9版の栽培品種に関係する内容の抜粋である。 ===栽培品種の定義=== *栽培品種は以下を満たす植物の集合である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 2.3}}。 **(a) 特定の一つの性質あるは性質の組み合わせにより選抜されている。 **(b) かつ適切な手段で殖やされた時、それらの性質が他のものと区別でき、同一で安定したままである。 ===栽培品種名=== *栽培品種名は「[[国際藻類・菌類・植物命名規約]]({{Lang|en|ICN}})による[[属 (分類学)|属]]あるいはそれより下位の[[タクソン|分類群]]の正名('''[[学名]]''')、もしくはその分類群の明確な'''[[一般名]]'''({{Lang|en|common name}})」と「'''栽培品種小名'''<ref group="注釈">栽培品種を形容する語句</ref>(~しょうめい、{{Lang|en|cultivar epithet}} <small>以下、小名と表記</small>)」との'''組み合わせ'''<ref group="注釈">小名だけを指して栽培品種名と呼ばれることがあるが、小名だけでは何の栽培品種か特定できない。</ref>である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 8.1}}{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.1}}。 **'''最小限'''要件を満たすものは'''属名'''<ref group="注釈">学名または明確な一般名。交雑属含む。</ref>と小名との組み合わせである。栽培品種が、ある'''[[種 (分類学)|種]]'''もしくはそれよりも'''下位の分類群'''に属すことが分かっているならば、その分類群名<ref group="注釈">学名または明確な一般名。交雑種含む。</ref>を組み合わせることによって、'''より詳しい'''情報を示すことができる{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.2}}。 **混乱なく文脈から分類群を読み取ることができれば、小名単独もしくは小名と学名・一般名が離れて記載してあってもよい{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21 Note 1}}。 *栽培品種であることは'''単一[[引用符]]で小名を囲む'''ことで表す。小名の前後にそれぞれ {{big|‘}} と {{big|’}} を置く{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 14.1}}。 **代用として小名の前後に類似した記号の[[アポストロフィー]] {{big|'}} や[[プライム]] {{big|′}} を置くことも認められる。 **二重引用符 “ ” や略語( cv. <ref group="注釈">1996年1月1日より前では、「cv.」に続いて記す表記法も許されていた。</ref>や [[変種|var.]] )は栽培品種を表すためには使用されず、修正される。 *特定の種にとどまらずに、[[雑種]]や[[接木キメラ]]にも栽培品種名を付けることができる{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 1.4}}{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 2.11}}。 *原則としてその中で'''小名が重複してはならない'''単位を'''命名クラス'''({{Lang|en|denomination class}})と呼び、特例を除き命名クラスは一つの'''属'''あるいは'''交雑属'''である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 6.1,6.2}}。 ===小名のルール=== *言語学上の慣習やハイフンで接続した後ろの語等の例外を除き、小名内の'''各単語は頭文字が大文字'''で始まらなければならない{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.3}}。 *'''小名自体は学名ではない'''ため、ICNによる分類群名(学名)部分と区別できる字体で書かれるべきである。それ故、前後の単一引用符を含め学名のような'''[[イタリック体]]で表記すべきではない'''{{sfn|Brickell|2016|loc=Recommendation 8A.1}}。 *[[1959年]][[1月1日]]より前に発行された古い小名は、しばしば[[ラテン語]]の形式で与えられ、学名と混同しやすい。また、学名として命名されたが現在は小名として保持されるものもある。命名クラスにラテン語形の小名が重複していることがあり、この場合は属より下位の分類群名により特定する必要がある{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.5-21.7}}。 *新たに付けられた小名は、以下の条件を満たす。 **'''1959年1月1日'''以降 ***他言語で一般化したものを除く'''ラテン語の単語を含まない'''{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.11,21.12}}。 ***「"{{Lang|en|form}}","{{Lang|en|variety}}"」及び、それらの略語や相当する他言語の語を含まない{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.16}}。 ***混乱の恐れがある分類群名(一般名や一般化した学名)と一致しない{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.22}}。 ***長所を誇張し、同様の特徴をもつ新しい栽培品種の導入により混同の恐れがあるものは不可{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.24}}。 **'''[[1996年]]1月1日'''以降 ***'''30字<ref group="注釈">[[スペース]]と小名前後の単一引用符はカウントしない</ref>を超えない[[ラテン文字]]'''または'''[[数字]]'''、もしくは'''一部の記号'''のみで表記{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.13}}。 ***一部の記号とはアポストロフィー(')、[[コンマ]](,)、2つまでの隣接しない[[感嘆符]](!)、[[終止符]](.)、[[ハイフン]](-)、[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]](/)そして[[バックスラッシュ]]({{backslash}})である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.18,21.19}}。 ***「"{{Lang|en|cultivar}}","{{Lang|en|grex}}","{{Lang|en|group}}","{{Lang|en|hybrid}}","{{Lang|en|maintenance}}","{{Lang|en|mixture}}","{{Lang|en|selection}}","{{Lang|en|series}}","{{Lang|en|sport}}","{{Lang|en|strain}}"」及び、それらの複数形に加え、「"{{Lang|en|improved}}","{{Lang|en|transformed}}"」の語、もしくは相当する他言語の語を含まない{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.17}}。 ***言語学上分けられない場合を除き、その栽培品種が属す分類群の学名や一般名は含まない'''{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.20}}。 ***綴り、または発音が非常に似ているものが命名クラスにあり、混同の恐れがあるものは不可{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.23}}。 **[[2004年]]1月1日以降 ***「1文字または[[アラビア数字]]もしくは[[ローマ数字]]」のみ、または、それらと記号の組み合わせは不可{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 21.15}}。 ===ICNCPに則った栽培品種名の例=== *ヤワラスギ ([[スギ]]の栽培品種) **{{Snamei|Cryptomeria japonica}} ‘Elegans’ (ラテン語形。1959年1月1日より前) *[[コーヒーノキ#アラビカ在来種・移入種|ブルー・マウンテン]] (アラビカコーヒーノキ) **{{Snamei|Coffea arabica}} ‘{{Lang|en|Blue Mountain}}’ (英語形) *[[ふじ (リンゴ)]] **{{Lang|en|Apple}} ‘{{Lang|ja|Fuji}}’ (英語による一般名を用いた例) **{{Snamei|Malus pumila}} ‘{{Lang|ja|Fuji}}’ ([[ひらがな]]等の非[[ラテン文字]]は[[ラテン文字化]]し表記) == 国際栽培品種登録機関 == {{仮リンク|国際栽培品種登録機関|en|International Cultivar Registration Authority}}({{Lang|en|ICRA}}、複数形:{{Lang|en|ICRAs}})は、栽培品種名などの名称を登録し、管理する責任を負う機関である。栽培品種名や植物を法的に保護する機関ではない。{{仮リンク|国際園芸学会|en|International Society for Horticultural Science}}({{Lang|en|ISHS}})の委員会<ref group="注釈">{{Lang|en|Special Commission for Cultivar Registration}}</ref>により、管轄する分類群ごとに複数の機関が指定されている<ref>{{Cite web |url = https://www.ishs.org/nomenclature-and-cultivar-registration/icra |title = ICRA |publisher = International Society for Horticultural Science |accessdate = 2019-1-23 |language=En}}</ref>。 日本の組織としては、日本ハオルシア協会が[[ハオルシア属]]・{{Snamei|Astroloba}}属・{{Snamei|Chortolirion}}属の{{Lang|en|ICRA}}として指定されている<ref>{{Cite web |url = https://www.ishs.org/sci/icralist/100.htm |title = ICRA - HAWORTHIA SOCIETY OF JAPAN |publisher = International Society for Horticultural Science |accessdate = 2019-1-23 |language=En}}</ref>。 ==法的な定義による植物の「品種」== {{See also|育成者権|植物の新品種の保護に関する国際条約|種苗法}} 植物の新品種の保護に関する国際条約('''UPOV条約''')における植物の'''品種'''({{Lang-fr|variété}})や、それに基づく各国の[[法令]](日本においては'''種苗法'''など)における'''品種'''は、栽培品種({{Lang|en|cultivar}})の語句を使用せずに定義されていることがあるが、栽培品種を法的に定義した'''正確な同義語'''である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 2 Note 4}}。また、UPOV条約における'''品種の名称'''({{Lang|fr|dénomination de la variété}})等の語句と'''栽培品種小名'''({{Lang|en|cultivar epithet}})もまた同等である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 27 Note 1}}(<small>以下品種の語で統一</small>)。<br> 育成者権の点から品種を登録し全般について管理しているのは各国の[[行政機関]](日本においては[[農林水産省]])である<ref group="注釈">国際栽培品種登録機関は名称についてのみ管理している</ref>。<br> 尚、それらの法定の品種登録を行う機関にて正式に登録された品種名は国際栽培植物命名規約の品種名のルールに則っていない場合でも有効である{{sfn|Brickell|2016|loc=Art. 27.5}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal |ref=harv |editor1-last=Brickell |editor1-first=C.D. |editor2-last=Alexander |editor2-first=C. |editor3-last=Cubey |editor3-first=J.J. |editor4-last=David |editor4-first=J.C. |editor5-last=Hoffman |editor5-first=M.H.A. |editor6-last=Leslie |editor6-first=A.C. |editor7-last=Malécot |editor7-first=V. |editor8-last=Jin |editor8-first=Xiaobai |title=International Code of Nomenclature for Cultivated Plants |edition=9th |date=2016-6 |publisher=International Society of Horticultural Science |journal=Scripta Horticulturae |issn=1813-9205 |volume=18 |isbn=978-94-6261-116-0 |url=https://www.ishs.org/sites/default/files/static/ScriptaHorticulturae_18.pdf |format=PDF |language=En}} * {{Cite web|和書 |url = https://daks2k3a4ib2z.cloudfront.net/575c416b9a7bf26421d52002/593c0a18aca52779f27530f8_Hortax%20Names%20of%20Plants%202016%20Japanese.pdf |format=PDF |title = 園芸植物の名前 栽培植物の命名の仕方に関する概要 |publisher = The Cultivated Plant Taxonomy Group |accessdate = 2019-1-23 }} * {{Cite web|和書 |url = http://www.hinshu2.maff.go.jp/act/seido.html |title = 農林水産省品種登録ホームページ |publisher = 農林水産省 |accessdate = 2019-1-23 }} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Cultivar}} --> * [[育種]] * [[原種]] * [[種苗法]] * [[品種改良]] * [[雑種第一代]](F<sub>1</sub>品種) * {{ill2|逸脱植物|en|Escaped plant}} - エスケープ雑草などとも呼ばれる。元は栽培品種・園芸種であったものが自然環境で繁殖したもの。侵略的植物にもなる。 {{Plant-stub}} {{DEFAULTSORT:さいはいひんしゆ}} [[Category:育種]] [[Category:園芸]] [[Category:園芸植物]] [[Category:植物育種]] [[Category:農作物]] [[Category:品種]]
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海(うみ、英: the sea または the ocean)は、地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。 大小さまざまな広がり方があり、特に大きな広がり(だけ)は海洋(the ocean)とも言い、主な海洋としては太平洋、大西洋、インド洋などがある。一方、地中海や黒海も紛れもなく海であり、海峡で大西洋と繋がっており海水は行き来している。 海は地球の表面の約71.1%を占め、面積は約3億6282万kmで、陸地(約1億4724万km)の約2.46倍である。平均的な深さは3729m。海水の総量は約13億4993万立方キロメートルにのぼる。ほとんどの海面は大気に露出しているが、極地の一部では海水は氷(海氷や棚氷)の下にある。 海は微生物から大型の魚類やクジラ、海獣まで膨大な種類・数の生物が棲息する。水循環や漁業により、人類を含めた陸上の生き物を支える役割も果たしている。 天体の表面を覆う液体の層のことを「海」と呼ぶこともある。以下では主に、地球の海について述べる。 海水は、塩(ナトリウムイオンと塩化物イオン)を主成分とするミネラルなどが、おおむね濃度3%台で水に溶け込んでいる。ヒトの味覚では海水は「塩辛い」「しょっぱい」と感じられ、古来、海水を塩田などで濃縮して塩を得てきた。 このような塩の味がする水で満たされた区域を、日本では「“うみ”(海)」(英: sea)と呼び、塩味のしない真水(淡水)で満たされた区域は、面積が広くとも海と区別して“みずうみ”(<「みず・うみ」、湖)と呼ぶことは古くから行われてきた。 よって、日本海 (Japan Sea)、地中海 (Mediterranean Sea)、瀬戸内海 (Seto Inland Sea)といった各海域は、海と呼ばれている。 大きな塩湖も、古くから「海」と命名されている場合がある(例:カスピ海、死海)。探検・測量による世界地理の把握や地理学が進んだ近代以降、外海とつながっていない場合は“海”には含めず、広大な塩湖であっても“湖”に分類するようになった、ということである。 英語での sea / oceanという分類法や、日本語での 海 / 洋 という分類法がある。特定のocean(洋)を指す名称としては太平洋(Pacific Ocean)、インド洋(Indian Ocean)などがある。特に広大な洋(海)は「大洋」(英: ocean)と呼んでいる。 「外海」/「内海」という分類法がある。外海とは周囲を陸地などに囲まれていない海(あるいは陸地から遠く離れた海)のことである。陸地に囲まれた海域のほうを内海と呼ぶ。外洋 / 近海という分類法もあり、海のなかでも陸地に近いあたり(領域)をおおまかに近海と分類する。 陸地に大きく入り込んだ海を湾、陸と陸に挟まれ海が狭くなった部分を海峡と呼ぶ。 水深による分類法として 浅海 / 深海 がある。一般に太陽光がほとんど届かない深度200m以上を深海と呼ぶ。 海は全てが互いに繋がっている。ただし、大洋間であっても水の交流は海水の性質が均一になるほど激しくはない。このため海面の高さや、塩分濃度、海水温などは海域による差がある。狭い海峡でしか外海とつながっていない閉鎖性海域は、特に水の入れ代わりが乏しい。 海水はその表面に波が立っていることが多く、これは主に風の作用である。温度は主として太陽によって温められ、低気圧を発生させる原因ともなる。また、海水は大きな流れをなしており、これを海流という。海水面の高さは毎日二回(年に数回、一日一回の日がある)、上下に変化する。こうした潮の満ち干を潮汐という。潮汐は天体運動を原因として起きるものであり、主に月と太陽の引力が大きな部分を占める。月のほうが地球に近いため、大きな潮汐力を及ぼす。 海の水深は平均3,800mである。地上と同じように海底にも高低差はあり、海中の山脈である海嶺や、台地である海台、大洋底に広がる広大な平原である海盆や深海平原、海底でもさらに低い谷となっている海溝など、様々な地形が存在する。海底にも火山は存在し、それらの海底火山の中でも特に高いものはしばしば海上に顔を出して火山島となる。地球上の海底で最も深いのは太平洋にあるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵(10,911m)である。また、大陸周辺に広がる浅い海(深さ約130mまで)を大陸棚と呼ぶ。 海の色は一般に青色と見られる。太陽からの可視光線のうち長波長(赤に近いもの)は表層2-3cmで海水によって吸収されるが、短波長(青に近いもの)は深くまで進み、水深50mでも1/5程度が届く。この青色光が水中で散乱され、水上に届いて青く見える。これに不純物が混ざると色調に変化が起こる。植物プランクトンが豊富な高緯度から極海にかけて海はやや緑色を帯びる。沿岸では砂泥の微粒子が河川水などから供給されたり、波や暴風雨で海底から巻き上げられたりするため、プランクトンと相まって黄緑から黄色・褐色・赤などに見える事もある。氷河に侵食された岩の粉末が流れ込むフィヨルドなどでは、乳白色になる場合もある。日本近海では植物プランクトンの増殖が主に春に盛んになる。これは「水の華」と呼ばれ、地域によっては「春とわり」「潮ぐされ」「草水」「厄水」「貝寄せ水」「三月にごり」などとも言い、沿岸漁業に影響を与える。 海は、太陽エネルギーを原動力とした水循環により、地球の気候にも大きな影響を及ぼしている。 海の影響を特に受ける気候は海洋性気候と呼ばれる。海洋の影響といっても様々であり、海から蒸発する水蒸気によって湿度は一般的に高いものの、それが降水量に比例するとは必ずしも言えない。海流のうち暖流が流れる地域や一般的な海域においては海からの水分や風が雨をもたらし降水量が多くなる傾向がある。寒流が流れる海岸部においては、上層の空気は暖かいのに対し、下層の空気は寒流によって冷やされるため、上昇気流が発生しない。雲は上昇気流によって発生し、雲から雨が降るため、雲が形成されないこういった海岸では降水量は非常に少ない。こうして形成された海岸砂漠は大陸の西岸に多いため、西岸砂漠とも呼ばれる。チリのアタカマ砂漠やペルー沿岸部、ナミビアのナミブ砂漠などはこういった地域である。ただし大気中の湿度は高いため、これらの海岸砂漠にはしばしば霧が発生し砂漠を覆う。 現在の地球表面に存在する水の総量は14億kmとされているが、その中で海水が断然多く約97.5%の13億5000万kmを占める。次に多いのは氷床で2500万kmと推定されている。海の深さは3000 - 6000mの範囲が最も広く、この範囲の面積は海洋の70%、地球の全表面積のほぼ半分を占めている。 赤道近くの海の表面は太陽の光を受けて温められ、温かい水の流れ(暖流)となって流れてゆくほか、大量の水蒸気を発生する。1年間に海から蒸発する水量は50.5万kmと見積もられており、台風の発生など地球の気象に大きな影響を及ぼしている。蒸発した水量の91%は直接海上に降水するが、残りの9%が陸地に雨や雪として降水し、河川や氷河、地下水を経由して最終的には海に戻る。 他方、海底の一部から海水が地球内部深くに吸収されており、その量を年間23億トンと推計し、約6億年後に地球の海が消失する可能性を予測する研究もある。 海水は塩化ナトリウム(NaCl:いわゆる塩)を主成分とする塩分が含まれている。塩化ナトリウム以外にも各種のイオンが溶解しているが、海水中の総塩分濃度は周辺の影響によって異なる。例えば大河の河口近くや氷河が海に流れ込んでいる場所では塩分濃度(イオンの総量)は低く、逆に蒸発が盛んな海域では塩分濃度が高くなる。海氷が形成される時にも水分が選択的に凍るため、塩分に富んだ海水が分離される。グリーンランドや南極周辺で作られる冷たく塩分の濃い海水は比重が大きいため深く沈み込み、深層流となって地球全体を巡っている。 海水は塩分などが含まれるため淡水に比べて凍結しにくい性質を持つが、-1.9°C以下になると凍りはじめる。こうして作られた海氷は、北極海の大部分を覆っており、またより緯度の低いバルト海やオホーツク海、セントローレンス湾、ハドソン湾、ベーリング海などの海域でも冬季には凍結する海域がある。しかし、年間を通じて結氷したままなのは北極海のみであり、それも全域ではなく夏季には南部を中心にかなりの海域で解氷する。こうして形成された氷は冬季には南方の海域に押し寄せることがあり、これらは流氷と呼ばれる。また、これとは別に南極の棚氷や北半球の氷河といった陸氷から海に巨大な氷山が流れ出すことがある。 各イオン間の比率は全海洋でほぼ一定である。下記に塩分濃度を3.5%とした場合のイオン濃度を表にまとめた。 含まれる溶存物質のうち、77.74%が塩化ナトリウム、10.89%が塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム・硫酸カルシウム・硫酸カリウムがそれぞれ4.74% 3.60% 2.46%、炭酸カルシウムが0.34%、臭化マグネシウムが0.23%である。 海水中に含まれる主な元素は 海流とは、海の一定場所においてほぼ決まった方向に流れる幅広い海水の流れを言う。大洋の表面近くでは北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋などの海域ごとにまとまった強い流れが循環している。これらの海流はコリオリの力によって、北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに循環している。即ち赤道付近で東から西向きに流れてきた温かい海流が、陸地近くで南北に分かれて大陸沿岸を北上(または南下)する。例えば日本周辺では暖流の黒潮がフィリピン近海から北上してきて四国沖で東に向きを変え、東海・関東地方沖を流れて、東北地方の東の海上で北から来た寒流の親潮と衝突し、東へ向かってゆく。暖流は熱帯近くの海で温められて水蒸気を蒸発させているため、高温で塩分濃度が高い。寒流は低温で塩分濃度は暖流より低いが、リン (P) などの栄養塩類に富んでおり、魚の餌となるプランクトンを大量に発生させて良好な漁場を作る。研究が進むにつれて世界の気候にも影響を与えていることが明らかになりつつある。 深層流とは、1000m以上の深海をゆっくり流れる、グリーンランド周辺で形成された冷たくて塩分濃度の高い海水である。この冷水は赤道を越え約1000年かけて南極まで流れ、南極大陸周辺を廻る。この間 南極の冷たい海からも低温高濃度の海水の供給を受けて混合される。この冷たい深層流はその後太平洋やインド洋へ北上して行き各所で湧昇流となって海面へ到達する。北太平洋東部の水深2000mの海域では約2000年前に深海に沈んだ海水が観測されている(放射性炭素を使った年代分析による)。太平洋やインド洋で海面へ上昇した深層流は、表層の海流の一部となってグリーンランド沖へ戻ってゆく。この循環のことを熱塩循環と呼ぶ。 海底と大陸の基盤岩は、異なる岩石で構成されている。海底の基盤は比重の大きな玄武岩で出来ているのに対して、大陸の基盤は比重の軽い花崗岩が主体となっている。プレートテクトニクスによれば、海洋底を形成する岩盤(海洋プレートの上部)は中央海嶺で造られる。ここは地下深部からマントル物質が上昇して来る場所である。海嶺の地下にはマントル成分の一部が融解したマグマ溜まりがあり、マグマが順次冷却固化して玄武岩の岩盤が形成される。海洋プレートはその後海嶺から遠ざかるように動き、別の海洋プレートか大陸プレートに衝突して地殻の下に沈みこんでゆく。海嶺から他のプレートに衝突するまでの間は深い平坦な海底(深度3000-6000m)となっており、海洋底面積の大部分を占める。他のプレートと衝突して沈み込んでいる部分は、海溝やトラフと呼ばれる溝状の深い部分である。海洋底はプレート境界で地球内部に沈み込んでゆくため、その寿命は最も古いものでも2億年程度である。 海洋底はほとんど平坦であり陸から遠いため、陸を起源とする砂礫などは堆積しない。代わりに海洋に広く生息する珪藻・放散虫の死骸を含むチャートなどの岩石や、海水から化学的に析出するマンガン団塊などがゆっくり堆積してゆく。南太平洋には玄武岩質の火山島が点在しており、その周囲にはサンゴ礁が広がっている。火山島は噴火が終わると段々低くなって海に沈んでゆくが、サンゴ礁がある場合は島が沈む速度よりもサンゴの成長速度のほうが速いため、石灰岩の島が出来る。 プレートを形成している海底岩盤は海溝で地下へ沈みこんでゆくが、岩盤の上に載ったこれらチャートや海底火山や石灰岩などの岩石類はプレート衝突の際に相手のプレートに乗り上げてしまうことがある。地下深く沈み込んだプレートの上側は、右図のように火山活動が活発な場所である。地下に沈んだ海洋プレートから搾り出された水が周囲のマントルを部分溶解して花崗岩質マグマを作り、大陸の基盤が形成されている場所である(すなわち大陸を構成する花崗岩は海洋プレートの沈み込みによって作られる)。地下に沈むプレートから離れて相手側のプレートに乗り上げた火山島やサンゴ礁は、その後の火山活動によって陸地に取り込まれてしまうが、これを「付加体」と呼んでいる。海洋起源の石灰岩の大きな山があったり、三葉虫やアンモナイトなどの海生生物の化石が地上で採取できたりするのは、そこが「付加体」だからである。大陸地殻は海洋地殻よりも軽いため、一旦形成された大陸は(侵食を受けながらも)地表に残り続ける。 大陸や大きな島の周辺には深さ130mより浅い平坦な海域が広がっている。大陸周辺の浅海は大陸棚と呼ばれ、島の周辺のものは島棚と呼ばれるが、これらの幅は0 - 1400kmである。大陸棚の地質は大陸と同じものである。太平洋周辺では大陸棚は顕著では無いが、大西洋では広い面積を有しており、石油などの鉱物資源が豊富である。大陸棚の外側はかなり急な斜面「大陸斜面」となって深さを増す。大陸斜面と海洋底の間にはやや平坦なコンチネンタルライズと呼ばれる地形がある。大陸棚と大陸斜面の境界の深さは南極やグリーンランドを除く全世界でほぼ一致しており(水深130m)、直近の氷期最盛期の海水面に相当する。 水を主成分とする海は地球誕生後まもなく形成され、現在まで継続している。海の主成分は水であるが、各時代で溶解塩類の構成や海水温は変動し、海に住む生物は進化を続けた。海の歴史を概説する。 地球は約46億年前、無数の微惑星が衝突によって融合して成長し、誕生した。誕生直後の地球の表面は、微惑星の衝突エネルギーによる熱で岩石が溶けたマグマの海(マグマオーシャン)に覆われていた。地表はマグマの熱と大気中に大量に存在した二酸化炭素による温室効果で非常な高温となっており、水は全て水蒸気(分厚い雲)として大気中にあった(この二つの物質は微惑星がぶつかった際に放出されたものと考えられる)。 その後、微惑星は原始惑星へ吸収されるなどして次第に数を減らし、微惑星が地球へ衝突する回数も徐々に減り始める。すると高温だった地球も温度が下がり、溶岩も冷え固まりだす。そして徐々に気温が下がると、水蒸気として上空に存在していた水が雨となって、大量に降り続けた結果、マグマオーシャンはそれらにさらに冷やされて固まり、海が誕生した(この頃に降った雨は気圧の関係で300度という非常に高温な熱湯の雨だった)。海が出来ると大気中の二酸化炭素が急速に海水に溶解し、温室効果が減って気温がさらに低下した(この時、同時に気圧も現在に近い所にまで下がって行った)。現在判明している海の最古の証拠はグリーンランドで発見された40億年前の火山岩で、海洋プレートの沈み込み場所に生成した花崗岩である。 今のところ発見されているもので最古の生命とされるのは、西オーストラリア州ピルバラで見つかった35億年前のバクテリアと思われる化石である。化石周辺の岩石の分析から、この生物が活動した場所は1000m以上の深い海底であったと考えられている。光合成を行う生物としては、西オーストラリア・フォーテスキュー層群の27億年前の地層からシアノバクテリアと思われるストロマトライトの化石が見つかっている。この時期に大規模な火山活動があり、初めて大陸と呼べる陸地が形成されたらしい。シアノバクテリアが光合成を行うためには光の届く浅い海底が必要であり、シアノバクテリアの誕生と大陸の形成とは関連があると考えられている。 27億年前以後、シアノバクテリアによる光合成が盛んに行われる。光合成は二酸化炭素と水から有機物を合成する化学反応で、副産物として酸素分子を放出する。それまで海水中は酸素分子の存在しない還元的な雰囲気であったが、生命活動による酸素の生産が続いて海水成分の変化が始まった。まず当時海水に大量に溶解していた2価の鉄イオンが酸化され、水に溶解できなくなって海底に沈殿・堆積し始めた。この堆積は19億年前まで継続し、その堆積物が縞状鉄鉱床となった。これが現在世界中で採掘されている鉄鉱石鉱山の起源である。海中の鉄イオンの殆どが沈殿した後、酸素は気体として溜まり始め、大気中の酸素濃度が上昇し始める。またこのころ二酸化炭素の減少による温室効果の減退に起因する寒冷化が進み、それを反映した氷河時代があったとされる。 19億年前に、火山活動が非常に活発になって大きな大陸が形成され、同時に大気中の酸素濃度が上がり始めた。最初の真核生物が生まれたのもこの時期であり、環境の変化と生命の進化の相互関係について検討がなされている。 6億から8億年前、地球の全ての海洋が凍結する全球凍結が起こったと考えられている。またこの事件の直後の6億年前には最後の大規模な陸地形成が起こった。増加した大陸から大量のナトリウムやカルシウムが海中に供給され、塩分濃度の上昇や二酸化炭素の固定化(石灰石:炭酸カルシウムの形成)が進行した。全球凍結の少し前に発生していた多細胞生物は、氷河時代が終わった後に急速に進化した。約6.2億から5.5億年前のベンド紀には体長が1mにもなる生物の化石も見つかっている。この時代を代表する生物群としては、オーストラリアのエディアカラ丘陵で見つかったエディアカラ生物群が挙げられる。大きさは数cmから約1mに達するものまで多様な生物の化石が見つかっているが、何れも骨格や臓器が判明しないシート状の形態をしており、現生生物との系統的繋がりは判明していない。 ベント紀の次のカンブリア紀から、世界各地で生物化石がたくさん見つかるようになるので顕生代と呼ばれている。カンブリア紀には現在地球上で生息している動物種の門レベルが全て出揃ったと言われている。この時代はまだ生物は全て水中(海中)で生活していた。 陸地への生物の進出は、次のオルドビス紀からコケ類などの上陸が始まり、シルル紀には節足動物の足跡などが確認されている。その後、各々の生物が海中や陸上で進化や絶滅を繰り返し、現在の動物まで続いている。そこでカンブリア紀以後は化石を基準として下記表に示した年代が設定されている。またカンブリア紀以後は海洋成分の大きな変化は無くなり、大気成分の激変も無くなった。全地球が凍結する全球凍結のような極端な気候変化は起こっていないが、大規模な火山活動や大きな隕石の衝突によって気候の変化が起こり、P-T境界やK-T境界などの大量絶滅が生起したと考えられている。 陸上でも海中でも、生命活動の基本となるのは植物による光合成である。海水中に太陽光が届く深さは200m程度までで、その範囲は海洋のごく表層に限られる。陸地周辺の数十mまでの浅い海では海底まで光が届くので海藻などの大型植物も繁茂できるが、大洋では植物プランクトンが光合成を行う。植物プランクトンの生命活動には太陽光以外にも栄養塩が必要である。地上の植物には肥料として窒素・燐酸・カリウムを施すが、海水中では窒素・燐酸とカリウムの代わりに珪素が必要となる。(陸地では珪素は地中に大量に存在するので肥料として施す必要は無い。逆に海洋ではカリウムは水中に大量にあるが珪素は少ない) 海中の食物連鎖は、海面近くで栄養塩を使って植物プランクトンが繁殖し、植物プランクトンは動物プランクトンに食べられ、動物プランクトンが魚に食べられるという形を取る。プランクトンや魚の死骸や糞は徐々に分解されながら海中に沈んでゆくので、栄養塩は海の表面近くでは枯渇気味となるが、水深200m以深の深海の海水(海洋深層水)に栄養塩は多く含まれる。 一般に、黒潮などの暖流系の海流は栄養塩が少なく、親潮などの寒流系の海流は栄養塩が多い。また、日本の東北地方の三陸沖では、親潮の栄養塩に加えて、黒潮と親潮がぶつかり渦が発生して栄養豊富な深海の海水も表層に供給されることで、魚類の餌となる大量のプランクトンが発生し、日本有数の好漁場を形成している。 また、アメリカ大陸太平洋側のカリフォルニア州沿岸やペルー沿岸は海底地形の形状により深海の海水が湧昇する場所で、豊富な栄養供給により魚類の餌となる大量のプランクトンが繁殖して好漁場となっている。 また冬季に結氷するような寒冷な海では海面水温が低下して比重が高くなって沈み、海洋深層水の源となる。なお、海洋の表層を流れる暖流寒流の海流と水深200m以深の海洋深層水の海流は流れの方向が異なっている場合が多い。 陸地近くの浅い海は、河川や石、泥、生活工業排水、農業の肥料、畜産業の糞尿などの陸地からの栄養塩の供給が豊富にある上、海底が浅瀬から沖へ向かって緩やかに深くなっているため、潮汐や潮流によって攪拌されやすく、栄養塩やプランクトンが適度にかき混ざり(留まりにくいため)、一般に生物生産性の高い海域となる。イギリスの東にある北海のドッガーバンクは世界的に有名な漁場である。 ちなみに海の匂い、いわゆる磯臭さは藻類、植物プランクトンが作り出したジメチルスルホニオプロピオナートが分解されて生成されたジメチルスルフィドによるものである。 広義では各大洋の一部に属するものの、島を含む陸地に囲まれて独立した名称がついている海域を縁海(えんかい)と呼ぶ。 海岸での釣りや、漁船によるものを含む漁業は古来、人類が食料を得る重要な手段であった。現代では養殖も行われている。 海上を移動できる船は漁業のほか、移住や探検、さらに交易・貿易の手段として早くから使われてきた。海岸部には、船が発着する拠点として港が発展した。 現代では、海浜での行楽やマリンスポーツ、クルーズ客船による旅行といった観光も大きな経済波及効果をもたらしている。また海底油田・天然ガス田の開発も行われている。 一方で、海軍や海賊が他国の領土や船を攻撃したり、逆に海軍で自国の海域や海岸、船を守ったりすることも歴史上多く行われた。海で行われる戦闘を海戦、海を支配する力を制海権と呼ぶ。 世界の各海域には地理学的だけでなく、国際海洋法による区分が存在している。沿岸国の主権が強く及ぶの領海(領海基線の陸寄りは内水)、領土から離れるにつれ接続水域、排他的経済水域、大陸棚となる。海域区分の起点となる島などの領土問題、国際法解釈の違いから外交交渉や紛争に至ることもあり、各国は海洋権益の維持・拡大を重視している。 それ以外の公海でも、各国は各国は廃棄物の海洋投棄や漁業など環境関連の規制を受ける。 海は人類に多くの恵みや利便をもたらす一方で、海難事故や自然災害による被害も発生している。後者では高潮、台風などによる高波、海底地震などによる津波などが挙げられる。日本では気象庁が、陸上だけでなく船舶向けに海上についても各種の防災情報(天気予報や注意報、警報)を出している。防波堤や防潮堤が作られている海岸もある。 海をテーマとした神話・伝説、文学(詩歌や小説)、音楽、映画、ドキュメンタリー、漫画・アニメーションなどは無数にあり、下記はそのごく一部である。 海は人間の世界では一番大きく、また深いものである。往々にして母性の象徴とされる。また、一面に広がっているものに「海」の字をあてることがある。以下はその例である。 他にも以下のような例がある。 このほかSFでは比喩的に、宇宙空間を「海」、宇宙船による移動を「航海」と呼ぶ作品がある(『宇宙海賊キャプテンハーロック』『宇宙戦艦ヤマト』など)。 月は、ヨハネス・ケプラーによって観測された当時は、月の暗い部分は水を湛えた海であると信じられていた。また彼によって、ラテン語でマーレ(mare)と名づけられた。現在は、単にアルベドの低い地形、すなわち単に地球から暗く見える地面であることがわかっているが、「〜の海」「〜海」(Mare〜)という地名は残っている。 火星も同様にジョヴァンニ・スキアパレッリらによって海と名付けられた地名が数多く存在する。ただし、火星には地質時代には海があった可能性がある。 木星や土星の氷衛星のいくつかは、氷の地殻の下に液体の水の海があると推測されている。エウロパ、ガニメデ、カリスト、タイタン(水とアンモニア)、エンケラドゥスに海がある可能性が高い。なお、タイタンの表面には液体のメタンやエタンで覆われた地形があるが、これらは規模が小さいため「湖」と呼ばれる。 また、氷に富む太陽系外惑星が惑星系の内側に移動した場合、表層に厚い海を持った「海洋惑星」になる可能性が議論されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "海(うみ、英: the sea または the ocean)は、地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大小さまざまな広がり方があり、特に大きな広がり(だけ)は海洋(the ocean)とも言い、主な海洋としては太平洋、大西洋、インド洋などがある。一方、地中海や黒海も紛れもなく海であり、海峡で大西洋と繋がっており海水は行き来している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "海は地球の表面の約71.1%を占め、面積は約3億6282万kmで、陸地(約1億4724万km)の約2.46倍である。平均的な深さは3729m。海水の総量は約13億4993万立方キロメートルにのぼる。ほとんどの海面は大気に露出しているが、極地の一部では海水は氷(海氷や棚氷)の下にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "海は微生物から大型の魚類やクジラ、海獣まで膨大な種類・数の生物が棲息する。水循環や漁業により、人類を含めた陸上の生き物を支える役割も果たしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "天体の表面を覆う液体の層のことを「海」と呼ぶこともある。以下では主に、地球の海について述べる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "海水は、塩(ナトリウムイオンと塩化物イオン)を主成分とするミネラルなどが、おおむね濃度3%台で水に溶け込んでいる。ヒトの味覚では海水は「塩辛い」「しょっぱい」と感じられ、古来、海水を塩田などで濃縮して塩を得てきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このような塩の味がする水で満たされた区域を、日本では「“うみ”(海)」(英: sea)と呼び、塩味のしない真水(淡水)で満たされた区域は、面積が広くとも海と区別して“みずうみ”(<「みず・うみ」、湖)と呼ぶことは古くから行われてきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "よって、日本海 (Japan Sea)、地中海 (Mediterranean Sea)、瀬戸内海 (Seto Inland Sea)といった各海域は、海と呼ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大きな塩湖も、古くから「海」と命名されている場合がある(例:カスピ海、死海)。探検・測量による世界地理の把握や地理学が進んだ近代以降、外海とつながっていない場合は“海”には含めず、広大な塩湖であっても“湖”に分類するようになった、ということである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "英語での sea / oceanという分類法や、日本語での 海 / 洋 という分類法がある。特定のocean(洋)を指す名称としては太平洋(Pacific Ocean)、インド洋(Indian Ocean)などがある。特に広大な洋(海)は「大洋」(英: ocean)と呼んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「外海」/「内海」という分類法がある。外海とは周囲を陸地などに囲まれていない海(あるいは陸地から遠く離れた海)のことである。陸地に囲まれた海域のほうを内海と呼ぶ。外洋 / 近海という分類法もあり、海のなかでも陸地に近いあたり(領域)をおおまかに近海と分類する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "陸地に大きく入り込んだ海を湾、陸と陸に挟まれ海が狭くなった部分を海峡と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "水深による分類法として 浅海 / 深海 がある。一般に太陽光がほとんど届かない深度200m以上を深海と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "海は全てが互いに繋がっている。ただし、大洋間であっても水の交流は海水の性質が均一になるほど激しくはない。このため海面の高さや、塩分濃度、海水温などは海域による差がある。狭い海峡でしか外海とつながっていない閉鎖性海域は、特に水の入れ代わりが乏しい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "海水はその表面に波が立っていることが多く、これは主に風の作用である。温度は主として太陽によって温められ、低気圧を発生させる原因ともなる。また、海水は大きな流れをなしており、これを海流という。海水面の高さは毎日二回(年に数回、一日一回の日がある)、上下に変化する。こうした潮の満ち干を潮汐という。潮汐は天体運動を原因として起きるものであり、主に月と太陽の引力が大きな部分を占める。月のほうが地球に近いため、大きな潮汐力を及ぼす。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "海の水深は平均3,800mである。地上と同じように海底にも高低差はあり、海中の山脈である海嶺や、台地である海台、大洋底に広がる広大な平原である海盆や深海平原、海底でもさらに低い谷となっている海溝など、様々な地形が存在する。海底にも火山は存在し、それらの海底火山の中でも特に高いものはしばしば海上に顔を出して火山島となる。地球上の海底で最も深いのは太平洋にあるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵(10,911m)である。また、大陸周辺に広がる浅い海(深さ約130mまで)を大陸棚と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "海の色は一般に青色と見られる。太陽からの可視光線のうち長波長(赤に近いもの)は表層2-3cmで海水によって吸収されるが、短波長(青に近いもの)は深くまで進み、水深50mでも1/5程度が届く。この青色光が水中で散乱され、水上に届いて青く見える。これに不純物が混ざると色調に変化が起こる。植物プランクトンが豊富な高緯度から極海にかけて海はやや緑色を帯びる。沿岸では砂泥の微粒子が河川水などから供給されたり、波や暴風雨で海底から巻き上げられたりするため、プランクトンと相まって黄緑から黄色・褐色・赤などに見える事もある。氷河に侵食された岩の粉末が流れ込むフィヨルドなどでは、乳白色になる場合もある。日本近海では植物プランクトンの増殖が主に春に盛んになる。これは「水の華」と呼ばれ、地域によっては「春とわり」「潮ぐされ」「草水」「厄水」「貝寄せ水」「三月にごり」などとも言い、沿岸漁業に影響を与える。", "title": "海の色" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "海は、太陽エネルギーを原動力とした水循環により、地球の気候にも大きな影響を及ぼしている。", "title": "海と気候" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "海の影響を特に受ける気候は海洋性気候と呼ばれる。海洋の影響といっても様々であり、海から蒸発する水蒸気によって湿度は一般的に高いものの、それが降水量に比例するとは必ずしも言えない。海流のうち暖流が流れる地域や一般的な海域においては海からの水分や風が雨をもたらし降水量が多くなる傾向がある。寒流が流れる海岸部においては、上層の空気は暖かいのに対し、下層の空気は寒流によって冷やされるため、上昇気流が発生しない。雲は上昇気流によって発生し、雲から雨が降るため、雲が形成されないこういった海岸では降水量は非常に少ない。こうして形成された海岸砂漠は大陸の西岸に多いため、西岸砂漠とも呼ばれる。チリのアタカマ砂漠やペルー沿岸部、ナミビアのナミブ砂漠などはこういった地域である。ただし大気中の湿度は高いため、これらの海岸砂漠にはしばしば霧が発生し砂漠を覆う。", "title": "海と気候" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現在の地球表面に存在する水の総量は14億kmとされているが、その中で海水が断然多く約97.5%の13億5000万kmを占める。次に多いのは氷床で2500万kmと推定されている。海の深さは3000 - 6000mの範囲が最も広く、この範囲の面積は海洋の70%、地球の全表面積のほぼ半分を占めている。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "赤道近くの海の表面は太陽の光を受けて温められ、温かい水の流れ(暖流)となって流れてゆくほか、大量の水蒸気を発生する。1年間に海から蒸発する水量は50.5万kmと見積もられており、台風の発生など地球の気象に大きな影響を及ぼしている。蒸発した水量の91%は直接海上に降水するが、残りの9%が陸地に雨や雪として降水し、河川や氷河、地下水を経由して最終的には海に戻る。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "他方、海底の一部から海水が地球内部深くに吸収されており、その量を年間23億トンと推計し、約6億年後に地球の海が消失する可能性を予測する研究もある。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "海水は塩化ナトリウム(NaCl:いわゆる塩)を主成分とする塩分が含まれている。塩化ナトリウム以外にも各種のイオンが溶解しているが、海水中の総塩分濃度は周辺の影響によって異なる。例えば大河の河口近くや氷河が海に流れ込んでいる場所では塩分濃度(イオンの総量)は低く、逆に蒸発が盛んな海域では塩分濃度が高くなる。海氷が形成される時にも水分が選択的に凍るため、塩分に富んだ海水が分離される。グリーンランドや南極周辺で作られる冷たく塩分の濃い海水は比重が大きいため深く沈み込み、深層流となって地球全体を巡っている。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "海水は塩分などが含まれるため淡水に比べて凍結しにくい性質を持つが、-1.9°C以下になると凍りはじめる。こうして作られた海氷は、北極海の大部分を覆っており、またより緯度の低いバルト海やオホーツク海、セントローレンス湾、ハドソン湾、ベーリング海などの海域でも冬季には凍結する海域がある。しかし、年間を通じて結氷したままなのは北極海のみであり、それも全域ではなく夏季には南部を中心にかなりの海域で解氷する。こうして形成された氷は冬季には南方の海域に押し寄せることがあり、これらは流氷と呼ばれる。また、これとは別に南極の棚氷や北半球の氷河といった陸氷から海に巨大な氷山が流れ出すことがある。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "各イオン間の比率は全海洋でほぼ一定である。下記に塩分濃度を3.5%とした場合のイオン濃度を表にまとめた。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "含まれる溶存物質のうち、77.74%が塩化ナトリウム、10.89%が塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム・硫酸カルシウム・硫酸カリウムがそれぞれ4.74% 3.60% 2.46%、炭酸カルシウムが0.34%、臭化マグネシウムが0.23%である。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "海水中に含まれる主な元素は", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "海流とは、海の一定場所においてほぼ決まった方向に流れる幅広い海水の流れを言う。大洋の表面近くでは北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋などの海域ごとにまとまった強い流れが循環している。これらの海流はコリオリの力によって、北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに循環している。即ち赤道付近で東から西向きに流れてきた温かい海流が、陸地近くで南北に分かれて大陸沿岸を北上(または南下)する。例えば日本周辺では暖流の黒潮がフィリピン近海から北上してきて四国沖で東に向きを変え、東海・関東地方沖を流れて、東北地方の東の海上で北から来た寒流の親潮と衝突し、東へ向かってゆく。暖流は熱帯近くの海で温められて水蒸気を蒸発させているため、高温で塩分濃度が高い。寒流は低温で塩分濃度は暖流より低いが、リン (P) などの栄養塩類に富んでおり、魚の餌となるプランクトンを大量に発生させて良好な漁場を作る。研究が進むにつれて世界の気候にも影響を与えていることが明らかになりつつある。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "深層流とは、1000m以上の深海をゆっくり流れる、グリーンランド周辺で形成された冷たくて塩分濃度の高い海水である。この冷水は赤道を越え約1000年かけて南極まで流れ、南極大陸周辺を廻る。この間 南極の冷たい海からも低温高濃度の海水の供給を受けて混合される。この冷たい深層流はその後太平洋やインド洋へ北上して行き各所で湧昇流となって海面へ到達する。北太平洋東部の水深2000mの海域では約2000年前に深海に沈んだ海水が観測されている(放射性炭素を使った年代分析による)。太平洋やインド洋で海面へ上昇した深層流は、表層の海流の一部となってグリーンランド沖へ戻ってゆく。この循環のことを熱塩循環と呼ぶ。", "title": "水圏としての海" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "海底と大陸の基盤岩は、異なる岩石で構成されている。海底の基盤は比重の大きな玄武岩で出来ているのに対して、大陸の基盤は比重の軽い花崗岩が主体となっている。プレートテクトニクスによれば、海洋底を形成する岩盤(海洋プレートの上部)は中央海嶺で造られる。ここは地下深部からマントル物質が上昇して来る場所である。海嶺の地下にはマントル成分の一部が融解したマグマ溜まりがあり、マグマが順次冷却固化して玄武岩の岩盤が形成される。海洋プレートはその後海嶺から遠ざかるように動き、別の海洋プレートか大陸プレートに衝突して地殻の下に沈みこんでゆく。海嶺から他のプレートに衝突するまでの間は深い平坦な海底(深度3000-6000m)となっており、海洋底面積の大部分を占める。他のプレートと衝突して沈み込んでいる部分は、海溝やトラフと呼ばれる溝状の深い部分である。海洋底はプレート境界で地球内部に沈み込んでゆくため、その寿命は最も古いものでも2億年程度である。", "title": "海底の地質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "海洋底はほとんど平坦であり陸から遠いため、陸を起源とする砂礫などは堆積しない。代わりに海洋に広く生息する珪藻・放散虫の死骸を含むチャートなどの岩石や、海水から化学的に析出するマンガン団塊などがゆっくり堆積してゆく。南太平洋には玄武岩質の火山島が点在しており、その周囲にはサンゴ礁が広がっている。火山島は噴火が終わると段々低くなって海に沈んでゆくが、サンゴ礁がある場合は島が沈む速度よりもサンゴの成長速度のほうが速いため、石灰岩の島が出来る。", "title": "海底の地質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "プレートを形成している海底岩盤は海溝で地下へ沈みこんでゆくが、岩盤の上に載ったこれらチャートや海底火山や石灰岩などの岩石類はプレート衝突の際に相手のプレートに乗り上げてしまうことがある。地下深く沈み込んだプレートの上側は、右図のように火山活動が活発な場所である。地下に沈んだ海洋プレートから搾り出された水が周囲のマントルを部分溶解して花崗岩質マグマを作り、大陸の基盤が形成されている場所である(すなわち大陸を構成する花崗岩は海洋プレートの沈み込みによって作られる)。地下に沈むプレートから離れて相手側のプレートに乗り上げた火山島やサンゴ礁は、その後の火山活動によって陸地に取り込まれてしまうが、これを「付加体」と呼んでいる。海洋起源の石灰岩の大きな山があったり、三葉虫やアンモナイトなどの海生生物の化石が地上で採取できたりするのは、そこが「付加体」だからである。大陸地殻は海洋地殻よりも軽いため、一旦形成された大陸は(侵食を受けながらも)地表に残り続ける。", "title": "海底の地質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大陸や大きな島の周辺には深さ130mより浅い平坦な海域が広がっている。大陸周辺の浅海は大陸棚と呼ばれ、島の周辺のものは島棚と呼ばれるが、これらの幅は0 - 1400kmである。大陸棚の地質は大陸と同じものである。太平洋周辺では大陸棚は顕著では無いが、大西洋では広い面積を有しており、石油などの鉱物資源が豊富である。大陸棚の外側はかなり急な斜面「大陸斜面」となって深さを増す。大陸斜面と海洋底の間にはやや平坦なコンチネンタルライズと呼ばれる地形がある。大陸棚と大陸斜面の境界の深さは南極やグリーンランドを除く全世界でほぼ一致しており(水深130m)、直近の氷期最盛期の海水面に相当する。", "title": "海底の地質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "水を主成分とする海は地球誕生後まもなく形成され、現在まで継続している。海の主成分は水であるが、各時代で溶解塩類の構成や海水温は変動し、海に住む生物は進化を続けた。海の歴史を概説する。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "地球は約46億年前、無数の微惑星が衝突によって融合して成長し、誕生した。誕生直後の地球の表面は、微惑星の衝突エネルギーによる熱で岩石が溶けたマグマの海(マグマオーシャン)に覆われていた。地表はマグマの熱と大気中に大量に存在した二酸化炭素による温室効果で非常な高温となっており、水は全て水蒸気(分厚い雲)として大気中にあった(この二つの物質は微惑星がぶつかった際に放出されたものと考えられる)。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その後、微惑星は原始惑星へ吸収されるなどして次第に数を減らし、微惑星が地球へ衝突する回数も徐々に減り始める。すると高温だった地球も温度が下がり、溶岩も冷え固まりだす。そして徐々に気温が下がると、水蒸気として上空に存在していた水が雨となって、大量に降り続けた結果、マグマオーシャンはそれらにさらに冷やされて固まり、海が誕生した(この頃に降った雨は気圧の関係で300度という非常に高温な熱湯の雨だった)。海が出来ると大気中の二酸化炭素が急速に海水に溶解し、温室効果が減って気温がさらに低下した(この時、同時に気圧も現在に近い所にまで下がって行った)。現在判明している海の最古の証拠はグリーンランドで発見された40億年前の火山岩で、海洋プレートの沈み込み場所に生成した花崗岩である。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "今のところ発見されているもので最古の生命とされるのは、西オーストラリア州ピルバラで見つかった35億年前のバクテリアと思われる化石である。化石周辺の岩石の分析から、この生物が活動した場所は1000m以上の深い海底であったと考えられている。光合成を行う生物としては、西オーストラリア・フォーテスキュー層群の27億年前の地層からシアノバクテリアと思われるストロマトライトの化石が見つかっている。この時期に大規模な火山活動があり、初めて大陸と呼べる陸地が形成されたらしい。シアノバクテリアが光合成を行うためには光の届く浅い海底が必要であり、シアノバクテリアの誕生と大陸の形成とは関連があると考えられている。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "27億年前以後、シアノバクテリアによる光合成が盛んに行われる。光合成は二酸化炭素と水から有機物を合成する化学反応で、副産物として酸素分子を放出する。それまで海水中は酸素分子の存在しない還元的な雰囲気であったが、生命活動による酸素の生産が続いて海水成分の変化が始まった。まず当時海水に大量に溶解していた2価の鉄イオンが酸化され、水に溶解できなくなって海底に沈殿・堆積し始めた。この堆積は19億年前まで継続し、その堆積物が縞状鉄鉱床となった。これが現在世界中で採掘されている鉄鉱石鉱山の起源である。海中の鉄イオンの殆どが沈殿した後、酸素は気体として溜まり始め、大気中の酸素濃度が上昇し始める。またこのころ二酸化炭素の減少による温室効果の減退に起因する寒冷化が進み、それを反映した氷河時代があったとされる。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "19億年前に、火山活動が非常に活発になって大きな大陸が形成され、同時に大気中の酸素濃度が上がり始めた。最初の真核生物が生まれたのもこの時期であり、環境の変化と生命の進化の相互関係について検討がなされている。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "6億から8億年前、地球の全ての海洋が凍結する全球凍結が起こったと考えられている。またこの事件の直後の6億年前には最後の大規模な陸地形成が起こった。増加した大陸から大量のナトリウムやカルシウムが海中に供給され、塩分濃度の上昇や二酸化炭素の固定化(石灰石:炭酸カルシウムの形成)が進行した。全球凍結の少し前に発生していた多細胞生物は、氷河時代が終わった後に急速に進化した。約6.2億から5.5億年前のベンド紀には体長が1mにもなる生物の化石も見つかっている。この時代を代表する生物群としては、オーストラリアのエディアカラ丘陵で見つかったエディアカラ生物群が挙げられる。大きさは数cmから約1mに達するものまで多様な生物の化石が見つかっているが、何れも骨格や臓器が判明しないシート状の形態をしており、現生生物との系統的繋がりは判明していない。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ベント紀の次のカンブリア紀から、世界各地で生物化石がたくさん見つかるようになるので顕生代と呼ばれている。カンブリア紀には現在地球上で生息している動物種の門レベルが全て出揃ったと言われている。この時代はまだ生物は全て水中(海中)で生活していた。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "陸地への生物の進出は、次のオルドビス紀からコケ類などの上陸が始まり、シルル紀には節足動物の足跡などが確認されている。その後、各々の生物が海中や陸上で進化や絶滅を繰り返し、現在の動物まで続いている。そこでカンブリア紀以後は化石を基準として下記表に示した年代が設定されている。またカンブリア紀以後は海洋成分の大きな変化は無くなり、大気成分の激変も無くなった。全地球が凍結する全球凍結のような極端な気候変化は起こっていないが、大規模な火山活動や大きな隕石の衝突によって気候の変化が起こり、P-T境界やK-T境界などの大量絶滅が生起したと考えられている。", "title": "海の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "陸上でも海中でも、生命活動の基本となるのは植物による光合成である。海水中に太陽光が届く深さは200m程度までで、その範囲は海洋のごく表層に限られる。陸地周辺の数十mまでの浅い海では海底まで光が届くので海藻などの大型植物も繁茂できるが、大洋では植物プランクトンが光合成を行う。植物プランクトンの生命活動には太陽光以外にも栄養塩が必要である。地上の植物には肥料として窒素・燐酸・カリウムを施すが、海水中では窒素・燐酸とカリウムの代わりに珪素が必要となる。(陸地では珪素は地中に大量に存在するので肥料として施す必要は無い。逆に海洋ではカリウムは水中に大量にあるが珪素は少ない)", "title": "海洋の生物生産" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "海中の食物連鎖は、海面近くで栄養塩を使って植物プランクトンが繁殖し、植物プランクトンは動物プランクトンに食べられ、動物プランクトンが魚に食べられるという形を取る。プランクトンや魚の死骸や糞は徐々に分解されながら海中に沈んでゆくので、栄養塩は海の表面近くでは枯渇気味となるが、水深200m以深の深海の海水(海洋深層水)に栄養塩は多く含まれる。", "title": "海洋の生物生産" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一般に、黒潮などの暖流系の海流は栄養塩が少なく、親潮などの寒流系の海流は栄養塩が多い。また、日本の東北地方の三陸沖では、親潮の栄養塩に加えて、黒潮と親潮がぶつかり渦が発生して栄養豊富な深海の海水も表層に供給されることで、魚類の餌となる大量のプランクトンが発生し、日本有数の好漁場を形成している。 また、アメリカ大陸太平洋側のカリフォルニア州沿岸やペルー沿岸は海底地形の形状により深海の海水が湧昇する場所で、豊富な栄養供給により魚類の餌となる大量のプランクトンが繁殖して好漁場となっている。 また冬季に結氷するような寒冷な海では海面水温が低下して比重が高くなって沈み、海洋深層水の源となる。なお、海洋の表層を流れる暖流寒流の海流と水深200m以深の海洋深層水の海流は流れの方向が異なっている場合が多い。", "title": "海洋の生物生産" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "陸地近くの浅い海は、河川や石、泥、生活工業排水、農業の肥料、畜産業の糞尿などの陸地からの栄養塩の供給が豊富にある上、海底が浅瀬から沖へ向かって緩やかに深くなっているため、潮汐や潮流によって攪拌されやすく、栄養塩やプランクトンが適度にかき混ざり(留まりにくいため)、一般に生物生産性の高い海域となる。イギリスの東にある北海のドッガーバンクは世界的に有名な漁場である。", "title": "海洋の生物生産" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ちなみに海の匂い、いわゆる磯臭さは藻類、植物プランクトンが作り出したジメチルスルホニオプロピオナートが分解されて生成されたジメチルスルフィドによるものである。", "title": "海洋の生物生産" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "広義では各大洋の一部に属するものの、島を含む陸地に囲まれて独立した名称がついている海域を縁海(えんかい)と呼ぶ。", "title": "世界の主な海" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "海岸での釣りや、漁船によるものを含む漁業は古来、人類が食料を得る重要な手段であった。現代では養殖も行われている。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "海上を移動できる船は漁業のほか、移住や探検、さらに交易・貿易の手段として早くから使われてきた。海岸部には、船が発着する拠点として港が発展した。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "現代では、海浜での行楽やマリンスポーツ、クルーズ客船による旅行といった観光も大きな経済波及効果をもたらしている。また海底油田・天然ガス田の開発も行われている。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一方で、海軍や海賊が他国の領土や船を攻撃したり、逆に海軍で自国の海域や海岸、船を守ったりすることも歴史上多く行われた。海で行われる戦闘を海戦、海を支配する力を制海権と呼ぶ。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "世界の各海域には地理学的だけでなく、国際海洋法による区分が存在している。沿岸国の主権が強く及ぶの領海(領海基線の陸寄りは内水)、領土から離れるにつれ接続水域、排他的経済水域、大陸棚となる。海域区分の起点となる島などの領土問題、国際法解釈の違いから外交交渉や紛争に至ることもあり、各国は海洋権益の維持・拡大を重視している。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "それ以外の公海でも、各国は各国は廃棄物の海洋投棄や漁業など環境関連の規制を受ける。", "title": "海と経済、軍事・国際法" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "海は人類に多くの恵みや利便をもたらす一方で、海難事故や自然災害による被害も発生している。後者では高潮、台風などによる高波、海底地震などによる津波などが挙げられる。日本では気象庁が、陸上だけでなく船舶向けに海上についても各種の防災情報(天気予報や注意報、警報)を出している。防波堤や防潮堤が作られている海岸もある。", "title": "海と災害・事故" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "海をテーマとした神話・伝説、文学(詩歌や小説)、音楽、映画、ドキュメンタリー、漫画・アニメーションなどは無数にあり、下記はそのごく一部である。", "title": "海に関連する文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "海は人間の世界では一番大きく、また深いものである。往々にして母性の象徴とされる。また、一面に広がっているものに「海」の字をあてることがある。以下はその例である。", "title": "海に関連する文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "他にも以下のような例がある。", "title": "海に関連する文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "このほかSFでは比喩的に、宇宙空間を「海」、宇宙船による移動を「航海」と呼ぶ作品がある(『宇宙海賊キャプテンハーロック』『宇宙戦艦ヤマト』など)。", "title": "海に関連する文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "月は、ヨハネス・ケプラーによって観測された当時は、月の暗い部分は水を湛えた海であると信じられていた。また彼によって、ラテン語でマーレ(mare)と名づけられた。現在は、単にアルベドの低い地形、すなわち単に地球から暗く見える地面であることがわかっているが、「〜の海」「〜海」(Mare〜)という地名は残っている。", "title": "地球以外の海" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "火星も同様にジョヴァンニ・スキアパレッリらによって海と名付けられた地名が数多く存在する。ただし、火星には地質時代には海があった可能性がある。", "title": "地球以外の海" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "木星や土星の氷衛星のいくつかは、氷の地殻の下に液体の水の海があると推測されている。エウロパ、ガニメデ、カリスト、タイタン(水とアンモニア)、エンケラドゥスに海がある可能性が高い。なお、タイタンの表面には液体のメタンやエタンで覆われた地形があるが、これらは規模が小さいため「湖」と呼ばれる。", "title": "地球以外の海" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、氷に富む太陽系外惑星が惑星系の内側に移動した場合、表層に厚い海を持った「海洋惑星」になる可能性が議論されている。", "title": "地球以外の海" } ]
海は、地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。 大小さまざまな広がり方があり、特に大きな広がり(だけ)は海洋とも言い、主な海洋としては太平洋、大西洋、インド洋などがある。一方、地中海や黒海も紛れもなく海であり、海峡で大西洋と繋がっており海水は行き来している。
{{otheruses||[[月]]の黒く見える部分|月の海|その他|海 (曖昧さ回避)<!--|[[中央公論社]]から刊行されていた文芸雑誌|海 (雑誌)-->}}<!--「海 (雑誌)」表示させるのは記事ができてからにしてください--> {{Redirect|海洋|中国の人工衛星|海洋 (人工衛星)}} [[File:Sunset in the Carribean.jpg|thumb|350px|[[夕日]]に照らされる[[カリブ海]]]] '''海'''(うみ<ref group="注">日本に古来あった[[大和言葉]]では、もともと「う・み」という音である。「う」は「大」という意味で、「み」は「水」の意味。つまり、おおきなみず、という意味の言葉であった、というのが主流の説だという。(出典:語源由来辞典)。</ref>、{{lang-en-short|the sea または the ocean}}<ref group="注">seaに対してoceanのほうが広大さがある、というニュアンスが含まれている。なお英語では(成句以外では)「the sea」「the ocean」などと、(あえて、意識的に)theをつける。</ref>)は、[[地球]]上<ref group="注">『[[広辞苑]]』では「地球'''上'''」と表現することで、あくまで「[[地殻]]<u>表面</u>」についてだ、とのニュアンスを伝えている。</ref>の[[陸|陸地]]以外の部分で、[[海水]]に満たされたところ<ref name="k6">[[岩波書店]]『[[広辞苑]]』第6版「海」</ref>。 大小さまざまな広がり方があり、特に大きな広がり(だけ)は海洋(the ocean)とも言い、主な海洋としては[[太平洋]]、[[大西洋]]、[[インド洋]]などがある。一方、[[地中海]]や[[黒海]]も紛れもなく海であり、[[海峡]]で大西洋と繋がっており海水は行き来している。 [[File:2018-01-13 Shirahoreef & New Ishigaki Airport by Peach Airbus A320-214 白保海岸珊瑚礁と新石垣空港 DSCF9566a.jpg|thumb|300px|[[サンゴ礁]]に囲まれた[[石垣島]]の海]] [[File:Sunset iceberg 2.jpg|thumb|300px|[[氷山]]の浮かぶ[[グリーンランド]]の海]] [[File:STS059-238-074 Strait of Gibraltar.jpg|thumb|250px|[[人工衛星]]から見た[[地中海]]]] == 概要 == 海は地球の表面の約71.1%を占め、[[面積]]は約3億6282万km<sup>2</sup>で、陸地(約1億4724万km<sup>2</sup>)の約2.46倍である<ref name="理科年表 地5">[[理科年表]]地学部「世界各緯度帯の海陸の面積とその比」</ref>。平均的な深さは3729m。海水の総量は約13億4993万立方キロメートルにのぼる<ref name="理科年表 地40">理科年表地学部「おもな海洋」</ref>。ほとんどの[[海面]]は[[地球の大気|大気]]に露出しているが、[[極地]]の一部では海水は[[氷]]([[海氷]]や[[棚氷]])の下にある。 海は微生物から大型の[[魚類]]や[[クジラ]]、[[海獣]]まで膨大な種類・数の[[生物]]が棲息する。[[水循環]]や[[漁業]]により、人類を含めた陸上の生き物を支える役割も果たしている。 [[天体]]の表面を覆う[[液体]]の層のことを「海」と呼ぶこともある。以下では主に、地球の海について述べる。 === 呼び方・分類 === ;日本語での うみ / みずうみ という分類法 [[File:Amphibious Integration Training 140904-M-CX588-096.jpg|thumb|right|300px|[[沖縄県|沖縄]]の海]] 海水は、[[塩]]([[ナトリウム]][[イオン]]と[[塩化物]]イオン)を主成分とする[[ミネラル]]などが、おおむね[[濃度]]3%台で[[水]]に溶け込んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=海はどうして塩からいのですか? |url=https://www.jamstec.go.jp/j/kids/qa/01_3.html |publisher=国立研究開発法人[[海洋研究開発機構]] (JAMSTEC) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2018-06-03 }}</ref>。[[ヒト]]の[[味覚]]では海水は「塩辛い」「しょっぱい」と感じられ、古来、海水を[[塩田]]などで濃縮して塩を得てきた。 このような塩の味がする水で満たされた区域を、[[日本]]では「“うみ”(海)」({{lang-en-short|sea}})と呼び、塩味のしない真水(淡水)で満たされた区域は、面積が広くとも海と区別して“みずうみ”(<「みず・うみ」、[[湖]])と呼ぶことは古くから行われてきた。<ref group="注">日本語の場合は「みず+うみ」という構成法によって語をつくりだしたが、それに対して[[ラテン諸語]]のイタリア語、フランス語、あるいは[[ゲルマン語]]系の英語でも「lac」「lago」「lake」などとして、基本的にもとから海とは別の語を立てている。</ref> よって、[[日本海|日本'''海''']] (Japan '''Sea''')、[[地中海|地中'''海''']] (Mediterranean '''Sea''')、[[瀬戸内海|瀬戸内'''海''']] (Seto Inland '''Sea''')といった各[[海域]]は、海と呼ばれている。 大きな塩湖も、古くから「'''海'''」と命名されている場合がある(例:[[カスピ海]]、[[死海]])。[[探検]]・[[測量]]による世界地理の把握や[[地理学]]が進んだ近代以降、外海とつながっていない場合は“海”には含めず、広大な塩湖であっても“湖”に分類するようになった、ということである。 ;広さでの分類 英語での sea / oceanという分類法や、日本語での 海 / 洋 という分類法がある。特定のocean(洋)を指す名称としては[[太平洋|太平'''洋''']](Pacific '''Ocean''')、[[インド洋|インド'''洋''']](Indian '''Ocean''')などがある。特に広大な洋(海)は「[[大洋]]」({{lang-en-short|ocean}})と呼んでいる。 ;陸地との関係での分類法 「外海」/「内海」という分類法がある。外海とは周囲を[[陸地]]などに囲まれていない海(あるいは陸地から遠く離れた海)のことである。陸地に囲まれた海域のほうを[[内海]]と呼ぶ。外洋 / [[近海]]という分類法もあり、海のなかでも陸地に近いあたり(領域)をおおまかに近海と分類する。 陸地に大きく入り込んだ海{{r|k6}}を[[湾]]、陸と陸に挟まれ海が狭くなった部分{{r|k6}}を[[海峡]]と呼ぶ。<ref group="注">陸地上の水面には[[川]]もあるが、これは海とつながっていても海には含めない。なお陸地上には、([[淡水]]でなく[[塩水]]を湛えた)[[塩湖]]もあるが、これに関しては「lake 湖」に分類することも、「海」に分類されていることもある。</ref> ;水深による分類 [[水深]]による分類法として 浅海 / 深海 がある。一般に[[太陽光]]がほとんど届かない深度200m以上を[[深海]]と呼ぶ。 === 海水の動き === 海は全てが互いに繋がっている。ただし、大洋間であっても水の交流は海水の性質が均一になるほど激しくはない。このため海面の高さや、塩分濃度、海水温などは海域による差がある。狭い[[海峡]]でしか外海とつながっていない[[閉鎖性水域|閉鎖性海域]]は、特に水の入れ代わりが乏しい。 海水はその表面に[[波]]が立っていることが多く、これは主に[[風]]の作用である。温度は主として太陽によって温められ、[[低気圧]]を発生させる原因ともなる。また、海水は大きな流れをなしており、これを[[海流]]という。海水面の高さは毎日二回(年に数回、一日一回の日がある)、上下に変化する。こうした潮の満ち干を[[潮汐]]という。潮汐は天体運動を原因として起きるものであり、主に[[月]]と[[太陽]]の[[引力]]が大きな部分を占める。月のほうが地球に近いため、大きな[[潮汐力]]を及ぼす。 === 水深と海底地形 === 海の[[水深]]は平均3,800mである。地上と同じように[[海底]]にも高低差はあり、海中の山脈である[[海嶺]]や、台地である[[海台]]、大洋底に広がる広大な平原である[[海盆]]や[[深海平原]]、海底でもさらに低い谷となっている[[海溝]]など、様々な地形が存在する。海底にも[[火山]]は存在し、それらの[[海底火山]]の中でも特に高いものはしばしば海上に顔を出して[[火山島]]となる。地球上の海底で最も深いのは[[太平洋]]にある[[マリアナ海溝]]の[[チャレンジャー海淵]](10,911m)である。また、大陸周辺に広がる浅い海(深さ約130mまで{{Refnest|group=注|この値は『地球の水圏』{{Sfn|青木他|1995|p=26}}による大陸棚外縁のおよその水深。}})を[[大陸棚]]と呼ぶ。 == 海の色 == 海の色は一般に青色と見られる。太陽からの[[可視光線]]のうち長波長(赤に近いもの)は表層2-3cmで海水によって吸収されるが、短波長(青に近いもの)は深くまで進み、水深50mでも1/5程度が届く。この青色光が水中で[[散乱]]され、水上に届いて青く見える<ref name="宇田 pp.80-82">{{Harvnb|宇田|1969|pp=80-82}}「IV 海の色、光、透明度」海の色<!--※意味が全然読み取れないのでこういう書き写し方にしたものの、恐らくは違う。万人に分かる形で記して下さい。-->。</ref>。これに不純物が混ざると色調に変化が起こる。[[植物プランクトン]]が豊富な高緯度から[[極圏|極海]]にかけて海はやや緑色を帯びる。沿岸では砂泥の微粒子が河川水などから供給されたり、波や暴風雨で海底から巻き上げられたりするため、プランクトンと相まって黄緑から黄色・褐色・赤などに見える事もある。[[氷河]]に侵食された岩の粉末が流れ込む[[フィヨルド]]などでは、乳白色になる場合もある{{r|宇田 pp.80-82}}。日本近海では植物プランクトンの増殖が主に春に盛んになる。これは「[[水の華]]」と呼ばれ、地域によっては「春とわり」「潮ぐされ」「草水」「厄水」「貝寄せ水」「三月にごり」などとも言い、沿岸漁業に影響を与える{{r|宇田 pp.80-82}}。 == 海と気候 == 海は、[[太陽エネルギー]]を原動力とした[[水循環]]により、地球の[[気候]]にも大きな影響を及ぼしている。 海の影響を特に受ける気候は[[海洋性気候]]と呼ばれる。海洋の影響といっても様々であり、海から蒸発する水蒸気によって[[湿度]]は一般的に高いものの、それが[[降水量]]に比例するとは必ずしも言えない。海流のうち[[暖流]]が流れる地域や一般的な海域においては海からの水分や風が雨をもたらし降水量が多くなる傾向がある。[[寒流]]が流れる[[海岸]]部においては、上層の空気は暖かいのに対し、下層の空気は寒流によって冷やされるため、[[上昇気流]]が発生しない。[[雲]]は上昇気流によって発生し、雲から[[雨]]が降るため、雲が形成されないこういった海岸では降水量は非常に少ない。こうして形成された海岸[[砂漠]]は大陸の西岸に多いため、[[西岸砂漠]]とも呼ばれる。[[チリ]]の[[アタカマ砂漠]]や[[ペルー]]沿岸部、[[ナミビア]]の[[ナミブ砂漠]]などはこういった地域である。ただし大気中の湿度は高いため、これらの海岸砂漠にはしばしば[[霧]]が発生し砂漠を覆う。 == 水圏としての海 == 現在の地球表面に存在する水の総量は14億km<sup>3</sup>とされているが、その中で海水が断然多く約97.5%の13億5000万km<sup>3</sup>を占める。次に多いのは氷床で2500万km<sup>3</sup>と推定されている。海の深さは3000 - 6000mの範囲が最も広く、この範囲の面積は海洋の70%、地球の全表面積のほぼ半分を占めている。 [[赤道]]近くの海の表面は[[太陽]]の光を受けて温められ、温かい水の流れ(暖流)となって流れてゆくほか、大量の水蒸気を発生する。1年間に海から蒸発する水量は50.5万km<sup>3</sup>と見積もられており、[[台風]]の発生など地球の[[気象]]に大きな影響を及ぼしている。蒸発した水量の91%は直接海上に降水するが、残りの9%が陸地に雨や雪として降水し、[[河川]]や[[氷河]]、[[地下水]]を経由して最終的には海に戻る。 他方、海底の一部から海水が地球内部深くに吸収されており、その量を年間23億トンと推計し、約6億年後に地球の海が消失する可能性を予測する研究もある<ref name="日刊工_20171025">{{Cite news |和書 |date=2017-10-25 |title=広島大と静岡大、岩盤含水モデル構築/海水、年23億トン減少」 |url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00447908 |publisher=日刊工業新聞社 |newspaper=[[日刊工業新聞]]オンライン |edition=科学技術・大学面 |accessdate=2018-06-03 }}</ref>。 海水は[[塩化ナトリウム]](NaCl:いわゆる[[塩]])を主成分とする塩分が含まれている。塩化ナトリウム以外にも各種の[[イオン]]が溶解しているが、海水中の総[[塩分濃度]]は周辺の影響によって異なる。例えば大河の河口近くや氷河が海に流れ込んでいる場所では塩分濃度(イオンの総量)は低く、逆に蒸発が盛んな海域では塩分濃度が高くなる。[[海氷]]が形成される時にも水分が選択的に凍るため、塩分に富んだ海水が分離される。[[グリーンランド]]や[[南極]]周辺で作られる冷たく塩分の濃い海水は[[比重]]が大きいため深く沈み込み、深層流となって地球全体を巡っている<ref>[]国立極地研究所(2018年6月3日閲覧)。{{出典無効|date=2019年10月13日}}</ref>。 海水は塩分などが含まれるため[[淡水]]に比べて[[凍結]]しにくい性質を持つが、-1.9℃以下になると凍りはじめる。こうして作られた海氷は、[[北極海]]の大部分を覆っており、またより緯度の低い[[バルト海]]や[[オホーツク海]]、[[セントローレンス湾]]、[[ハドソン湾]]、[[ベーリング海]]などの海域でも冬季には凍結する海域がある。しかし、年間を通じて結氷したままなのは北極海のみであり、それも全域ではなく夏季には南部を中心にかなりの海域で解氷する。こうして形成された氷は冬季には南方の海域に押し寄せることがあり、これらは[[流氷]]と呼ばれる。また、これとは別に南極の[[棚氷]]や北半球の[[氷河]]といった陸氷から海に巨大な[[氷山]]が流れ出すことがある。 各イオン間の比率は全海洋でほぼ一定である。下記に塩分濃度を3.5%とした場合のイオン濃度を表にまとめた<ref name="{{Sfn|青木他|1995|p=}}">{{Harvnb|青木他|1995|p=}} {{要ページ番号|date=2019年10月13日}}</ref>。 {| class="wikitable" |+'''海水中のイオン濃度'''<br/>(データは『地球の水圏』<ref name="{{Sfn|青木他|1995|p=}}" />より) |- !成分 !濃度(g/kg) !重量百分率(%) |- !Cl<sup>-</sup> |align="right"|19.35 |align="right"|55.07 |- !Na<sup>+</sup> |align="right"|10.76 |align="right"|30.62 |- !SO<sub>4</sub><sup>2-</sup> |align="right"|2.71 |align="right"|7.72 |- !Mg<sup>2+</sup> |align="right"|1.29 |align="right"|3.68 |- !Ca<sup>2+</sup> |align="right"|0.41 |align="right"|1.17 |- !K<sup>+</sup> |align="right"|0.39 |align="right"|1.10 |} === 海水中に含まれる溶存物質 === 含まれる溶存物質のうち、77.74%が塩化ナトリウム、10.89%が[[塩化マグネシウム]]、[[硫酸マグネシウム]]・[[硫酸カルシウム]]・[[硫酸カリウム]]がそれぞれ4.74% 3.60% 2.46%、[[炭酸カルシウム]]が0.34%、[[臭化マグネシウム]]が0.23%である<ref name="宇田 p.8">{{Harvnb|宇田|1969|p=8}}「 I 海とは何か p.8 第2表 海水中に溶けた塩類、元素(および河川との対比)」<!--※よく分かりませんが、こういうことでしょうか。--></ref>。 海水中に含まれる主な元素は * [[マグネシウム]] 2000兆トン * [[臭素]] 100兆トン * [[ヨウ素]] 750億トン * [[アルミニウム]] 150億トン * [[銅]] 45億トン * [[ウラン]] 45億トン * [[トリウム]] 10億トン * [[銀]] 4億5000万トン * [[水銀]] 4500万トン * [[金]] 600万トン<ref name="{{Sfn|大浜|1994|p=}}">{{Harvnb|大浜|1994|p=}} {{要ページ番号|date=2019年10月13日}}</ref> === 海流 === [[ファイル:Ocean currents 1943.jpg|thumb|right|300px|世界の海流図(暖流は赤、寒流は緑)、1943年アメリカ陸軍による]] [[海流]]とは、海の一定場所においてほぼ決まった方向に流れる幅広い海水の流れを言う。大洋の表面近くでは北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋などの海域ごとにまとまった強い流れが循環している。これらの海流は[[コリオリの力]]によって、北半球では[[時計回り]]に、南半球では[[反時計回り]]に循環している{{Sfn|ピネ|2010|pp=223,201}}。即ち赤道付近で東から西向きに流れてきた温かい海流が、陸地近くで南北に分かれて大陸沿岸を北上(または南下)する。例えば日本周辺では暖流の[[黒潮]]が[[フィリピン]]近海から北上してきて[[四国]]沖で東に向きを変え、[[東海地方|東海]]・[[関東地方]]沖を流れて、[[東北地方]]の東の海上で北から来た寒流の[[親潮]]と衝突し、東へ向かってゆく。暖流は熱帯近くの海で温められて水蒸気を蒸発させているため、高温で塩分濃度が高い。寒流は低温で塩分濃度は暖流より低いが、[[リン]] (P) などの栄養塩類に富んでおり、魚の餌となる[[プランクトン]]を大量に発生させて良好な[[漁場]]を作る。研究が進むにつれて世界の気候にも影響を与えていることが明らかになりつつある。 深層流とは、1000m以上の深海をゆっくり流れる、グリーンランド周辺で形成された冷たくて塩分濃度の高い海水である。この冷水は赤道を越え約1000年かけて[[南極]]まで流れ、南極大陸周辺を廻る。この間 南極の冷たい海からも低温高濃度の海水の供給を受けて混合される。この冷たい深層流はその後太平洋やインド洋へ北上して行き各所で湧昇流となって海面へ到達する。北太平洋東部の水深2000mの海域では約2000年前に深海に沈んだ海水が観測されている(放射性炭素を使った年代分析による)。太平洋やインド洋で海面へ上昇した深層流は、表層の海流の一部となってグリーンランド沖へ戻ってゆく{{Sfn|ピネ|2010|p=223}}。この循環のことを[[熱塩循環]]と呼ぶ。 === 世界の海洋面積割合 === {| class="wikitable" |+'''世界の海洋面積割合'''{{Sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2008|p=3}} !海洋名!!面積(百万km<sup>2</sup>)!!体積(百万km<sup>3</sup>)!!最大[[水深|深度]](m)!!平均深度(m)!!平均[[水温]](℃)!!平均[[塩分濃度]](%) |- !'''[[太平洋]]''' |166.2||696.2||10,920||4,188||3.7||3.49 |- ![[濠亜地中海]]<sup>(a)</sup> |9.1||11.4||7,400||1,252||6.9||3.39 |- ![[ベーリング海]] |2.3||3.4||4,097||1,492||2.0||3.03 |- ![[オホーツク海]] |1.4||1.4||3,372||973||1.5||3.09 |- ![[黄海]]・[[東シナ海]] |1.2||0.3||2,292||272||---||--- |- ![[日本海]] |1.0||1.7||3,796||1,667||0.9||3.41 |- ![[カリフォルニア湾]] |0.2||0.1||3,700||724||9.1||3.05 |- !style="background-color: #00FF00;"|'''太平洋地域合計''' |'''181.3'''||'''714.4'''||'''10,920'''||'''3,940'''||'''---'''||'''---''' |- ![[大西洋]] |86.6||323.4||8,605||3,736||4.0||3.53 |- ![[アメリカ地中海]]<sup>(b)</sup> |4.4||9.4||7,680||2,164||6.6||3.60 |- ![[地中海]] |2.5||3.8||5,267||1,502||13.4||3.49 |- ![[黒海]] |0.5||0.6||2,200||1,191||---||--- |- ![[バルト海]] |0.4||0.04||459||101||3.9||2.60 |- !style="background-color: #00FF00;"|'''大西洋地域合計''' |'''94.3'''||'''337.2'''||'''8,650'''||'''3,575'''||'''---'''||'''---''' |- ![[インド洋]] |73.4||284.3||7,125||3,872||3.8||3.48 |- ![[紅海]] |0.5||0.2||2,300||538||22.7||3.88 |- ![[ペルシャ湾]] |0.2||0.02||170||100||24.0||3.67 |- !style="background-color: #00FF00;"|'''インド洋地域合計''' |'''74.1'''||'''284.6'''||'''7,125'''||'''3,840'''||'''---'''||'''---''' |- ![[北極海]] |9.5||12.6||5,440||1,330||-0.7||2.55 |- !北極多島海<sup>(c)</sup> |2.8||1.1||2,360||392||---||--- |- !style="background-color: #00FF00;"|'''北極海地域合計''' |'''12.3'''||'''13.7'''||'''5,440'''||'''1,117'''||'''---'''||'''---''' |- !style="background-color: #ff8080;"|'''全海洋''' |style="background-color: #ff8080;"|'''362.0'''||style="background-color: #ff8080;"|'''1349.9'''||style="background-color: #ff8080;"|'''10,920'''||style="background-color: #ff8080;"|'''3,729'''||style="background-color: #ff8080;"|'''---'''||style="background-color: #ff8080;"|'''---''' |- |colspan="7" style="font-size:smaller" | <sup>(a)</sup> [[スンダ諸島]]、[[フィリピン]]、[[ニューギニア島]]、[[オーストラリア]]で囲まれる[[地中海 (海洋学)|地中海]]。<br/> <sup>(b)</sup> [[カリブ海]]、[[メキシコ湾]]の総称。<br/> <sup>(c)</sup> カナダ北東多島海、[[バフィン湾]]、[[ハドソン湾]]の総称。<br/> 北極海地域は、独立した大洋とみなす場合と、大西洋の一部とみなす場合がある。 |} == 海底の地質 == [[ファイル:Ocean gravity map.gif|right|thumb|350px|海底の重力分布 (1995, [[アメリカ海洋大気庁|NOAA]])]] [[ファイル:Oceanic.Stripe.Magnetic.Anomalies.Scheme.gif|right|250px|thumb|'''中央海嶺と広がってゆく海底岩盤'''海洋底が中央海嶺を中心に拡大している模式図。]] 海底と大陸の基盤岩は、異なる岩石で構成されている。海底の基盤は比重の大きな[[玄武岩]]で出来ているのに対して、大陸の基盤は比重の軽い[[花崗岩]]が主体となっている。[[プレートテクトニクス]]によれば、海洋底を形成する岩盤(海洋プレートの上部)は[[中央海嶺]]で造られる。ここは地下深部から[[マントル]]物質が上昇して来る場所である。海嶺の地下にはマントル成分の一部が融解した[[マグマ溜まり]]があり、[[マグマ]]が順次冷却固化して玄武岩の岩盤が形成される。海洋プレートはその後海嶺から遠ざかるように動き、別の海洋プレートか大陸プレートに衝突して地殻の下に沈みこんでゆく。海嶺から他のプレートに衝突するまでの間は深い平坦な海底(深度3000-6000m)となっており、海洋底面積の大部分を占める。他のプレートと衝突して沈み込んでいる部分は、[[海溝]]や[[トラフ (地形)|トラフ]]と呼ばれる溝状の深い部分である。海洋底はプレート境界で地球内部に沈み込んでゆくため、その寿命は最も古いものでも2億年程度である。 海洋底はほとんど平坦であり陸から遠いため、陸を起源とする砂礫などは堆積しない。代わりに海洋に広く生息する[[珪藻]]・[[放散虫]]の死骸を含む[[チャート (岩石)|チャート]]などの岩石や、海水から化学的に析出する[[マンガン団塊]]などがゆっくり堆積してゆく。南太平洋には玄武岩質の[[火山島]]が点在しており、その周囲には[[サンゴ礁]]が広がっている。火山島は噴火が終わると段々低くなって海に沈んでゆくが、サンゴ礁がある場合は島が沈む速度よりもサンゴの成長速度のほうが速いため、[[石灰岩]]の島が出来る。 [[ファイル:Oceanic-continental convergence Fig21oceancont.gif|thumb|沈み込み型:海洋-大陸]] [[ファイル:Oceanic-oceanic convergence Fig21oceanocean.gif|thumb|沈み込み型:海洋-海洋]] プレートを形成している海底岩盤は海溝で地下へ沈みこんでゆくが、岩盤の上に載ったこれらチャートや海底火山や石灰岩などの岩石類はプレート衝突の際に相手のプレートに乗り上げてしまうことがある。地下深く沈み込んだプレートの上側は、右図のように[[火山]]活動が活発な場所である。地下に沈んだ海洋プレートから搾り出された水が周囲のマントルを部分溶解して[[花崗岩]]質マグマを作り、大陸の基盤が形成されている場所である(すなわち大陸を構成する花崗岩は海洋プレートの沈み込みによって作られる)。地下に沈むプレートから離れて相手側のプレートに乗り上げた火山島やサンゴ礁は、その後の火山活動によって陸地に取り込まれてしまうが、これを「[[付加体]]」と呼んでいる。海洋起源の石灰岩の大きな山があったり、[[三葉虫]]や[[アンモナイト]]などの海生生物の[[化石]]が地上で採取できたりするのは、そこが「付加体」だからである。大陸地殻は海洋地殻よりも軽いため、一旦形成された大陸は(侵食を受けながらも)地表に残り続ける。 === 大陸棚と大陸斜面 === [[ファイル:Continental shelf.png|thumb|left|300px|大陸棚:左から、海岸、大陸棚、大陸斜面、コンチネンタルライズ]] 大陸や大きな島の周辺には深さ130mより浅い平坦な海域が広がっている。大陸周辺の浅海は[[大陸棚]]と呼ばれ、島の周辺のものは島棚と呼ばれるが、これらの幅は0 - 1400kmである。大陸棚の地質は大陸と同じものである。太平洋周辺では大陸棚は顕著では無いが、大西洋では広い面積を有しており、石油などの鉱物資源が豊富である。大陸棚の外側はかなり急な斜面「大陸斜面」となって深さを増す。大陸斜面と海洋底の間にはやや平坦なコンチネンタルライズと呼ばれる地形がある。大陸棚と大陸斜面の境界の深さは南極やグリーンランドを除く全世界でほぼ一致しており(水深130m)、直近の[[氷期]]最盛期の海水面に相当する。 == 海の歴史 == 水を主成分とする海は地球誕生後まもなく形成され、現在まで継続している。海の主成分は水であるが、各時代で溶解塩類の構成や海水温は変動し、海に住む生物は進化を続けた。海の歴史を概説する。 === 海の誕生 === [[地球]]は約46億年前、無数の[[微惑星]]が衝突によって融合して成長し、誕生した。誕生直後の地球の表面は、微惑星の衝突エネルギーによる熱で岩石が溶けた[[マグマ]]の海([[マグマオーシャン]])に覆われていた。地表はマグマの熱と大気中に大量に存在した[[二酸化炭素]]による[[温室効果]]で非常な高温となっており、水は全て[[水蒸気]](分厚い雲)として大気中にあった(この二つの物質は微惑星がぶつかった際に放出されたものと考えられる)。 その後、微惑星は[[原始惑星]]へ吸収されるなどして次第に数を減らし、微惑星が地球へ衝突する回数も徐々に減り始める。すると高温だった地球も温度が下がり、溶岩も冷え固まりだす。そして徐々に気温が下がると、水蒸気として上空に存在していた水が[[雨]]となって、大量に降り続けた結果、マグマオーシャンはそれらにさらに冷やされて固まり、海が誕生した(この頃に降った雨は気圧の関係で300度という非常に高温な熱湯の雨だった)。海が出来ると大気中の二酸化炭素が急速に海水に溶解し、温室効果が減って気温がさらに低下した(この時、同時に気圧も現在に近い所にまで下がって行った)。現在判明している海の最古の証拠はグリーンランドで発見された40億年前の火山岩で、海洋プレートの沈み込み場所に生成した花崗岩である。 === 最初の生命 === {{Unsolved|地球科学|なぜ初期地球に液体の水が存在し続けられたのか([[暗い太陽のパラドックス]])}} 今のところ発見されているもので最古の生命とされるのは、[[西オーストラリア州]][[ピルバラ]]で見つかった35億年前の[[バクテリア]]と思われる化石である。化石周辺の岩石の分析から、この生物が活動した場所は1000m以上の深い海底であったと考えられている。[[光合成]]を行う生物としては、西オーストラリア・フォーテスキュー層群の27億年前の地層から[[シアノバクテリア]]と思われる[[ストロマトライト]]の[[化石]]が見つかっている。この時期に大規模な火山活動があり、初めて大陸と呼べる陸地が形成されたらしい。シアノバクテリアが光合成を行うためには光の届く浅い海底が必要であり、シアノバクテリアの誕生と大陸の形成とは関連があると考えられている。 === 生命活動の拡大と海洋環境の変化 === 27億年前以後、シアノバクテリアによる光合成が盛んに行われる。光合成は二酸化炭素と水から有機物を合成する[[化学反応]]で、副産物として[[酸素]]分子を放出する。それまで海水中は酸素分子の存在しない還元的な雰囲気であったが、生命活動による酸素の生産が続いて海水成分の変化が始まった。まず当時海水に大量に溶解していた2価の鉄イオンが酸化され、水に溶解できなくなって海底に沈殿・堆積し始めた。この堆積は19億年前まで継続し、その堆積物が[[縞状鉄鉱床]]となった。これが現在世界中で採掘されている[[鉄鉱石]]鉱山の起源である。海中の鉄イオンの殆どが沈殿した後、酸素は気体として溜まり始め、大気中の酸素濃度が上昇し始める。またこのころ二酸化炭素の減少による温室効果の減退に起因する寒冷化が進み、それを反映した氷河時代があったとされる。 19億年前に、火山活動が非常に活発になって大きな大陸が形成され、同時に大気中の酸素濃度が上がり始めた。最初の[[真核生物]]が生まれたのもこの時期であり、環境の変化と生命の進化の相互関係について検討がなされている。 ;全球凍結と多細胞生物の発展 6億から8億年前、地球の全ての海洋が凍結する[[スノーボールアース|全球凍結]]が起こったと考えられている。またこの事件の直後の6億年前には最後の大規模な陸地形成が起こった。増加した大陸から大量のナトリウムやカルシウムが海中に供給され、塩分濃度の上昇や二酸化炭素の固定化([[石灰石]]:[[炭酸カルシウム]]の形成)が進行した。全球凍結の少し前に発生していた[[多細胞生物]]は、[[氷河時代]]が終わった後に急速に進化した。約6.2億から5.5億年前の[[ベンド紀]]には体長が1mにもなる生物の[[化石]]も見つかっている。この時代を代表する生物群としては、オーストラリアのエディアカラ丘陵で見つかった[[エディアカラ生物群]]が挙げられる。大きさは数cmから約1mに達するものまで多様な生物の化石が見つかっているが、何れも骨格や臓器が判明しないシート状の形態をしており、現生生物との系統的繋がりは判明していない。 === カンブリア紀以降 === ベント紀の次の[[カンブリア紀]]から、世界各地で生物化石がたくさん見つかるようになるので[[顕生代]]と呼ばれている。カンブリア紀には現在地球上で生息している動物種の'''門'''レベルが全て出揃ったと言われている。この時代はまだ生物は全て水中(海中)で生活していた。 陸地への生物の進出は、次の[[オルドビス紀]]から[[コケ植物|コケ類]]などの上陸が始まり、[[シルル紀]]には[[節足動物]]の足跡などが確認されている。その後、各々の生物が海中や陸上で進化や絶滅を繰り返し、現在の動物まで続いている。そこでカンブリア紀以後は化石を基準として下記表に示した年代が設定されている。またカンブリア紀以後は海洋成分の大きな変化は無くなり、大気成分の激変も無くなった。全地球が凍結する[[全球凍結]]のような極端な気候変化は起こっていないが、大規模な火山活動や大きな[[隕石]]の衝突によって気候の変化が起こり、[[P-T境界]]や[[K-T境界]]などの[[大量絶滅]]が生起したと考えられている。 {{顕生代の内訳のグラフ}} == 海洋の生物生産 == 陸上でも海中でも、生命活動の基本となるのは植物による[[光合成]]である。海水中に太陽光が届く深さは200m程度までで、その範囲は海洋のごく表層に限られる。陸地周辺の数十mまでの浅い海では海底まで光が届くので[[海藻]]などの大型植物も繁茂できるが、大洋では[[植物プランクトン]]が光合成を行う。植物プランクトンの生命活動には太陽光以外にも[[栄養塩]]が必要である。地上の植物には肥料として[[窒素]]・[[燐酸]]・[[カリウム]]を施すが、海水中では[[窒素]]・[[燐酸]]と[[カリウム]]の代わりに[[珪素]]が必要となる。(陸地では珪素は地中に大量に存在するので[[肥料]]として施す必要は無い。逆に海洋ではカリウムは水中に大量にあるが珪素は少ない) 海中の[[食物連鎖]]は、海面近くで栄養塩を使って植物プランクトンが繁殖し、植物プランクトンは動物プランクトンに食べられ、動物プランクトンが魚に食べられるという形を取る。プランクトンや魚の死骸や糞は徐々に分解されながら海中に沈んでゆくので、栄養塩は海の表面近くでは枯渇気味となるが、水深200m以深の深海の海水(海洋深層水)に栄養塩は多く含まれる。 一般に、黒潮などの暖流系の海流は栄養塩が少なく、[[親潮]]などの寒流系の海流は栄養塩が多い。また、日本の東北地方の三陸沖では、親潮の栄養塩に加えて、黒潮と親潮がぶつかり渦が発生して栄養豊富な深海の海水も表層に供給されることで、魚類の餌となる大量のプランクトンが発生し、日本有数の好漁場を形成している。 また、アメリカ大陸太平洋側の[[カリフォルニア州]]沿岸や[[ペルー]]沿岸は海底地形の形状により深海の海水が湧昇する場所で、豊富な栄養供給により魚類の餌となる大量のプランクトンが繁殖して好[[漁場]]となっている。 また冬季に結氷するような寒冷な海では海面水温が低下して比重が高くなって沈み、海洋深層水の源となる。なお、海洋の表層を流れる暖流寒流の海流と水深200m以深の海洋深層水の海流は流れの方向が異なっている場合が多い。 陸地近くの浅い海は、河川や石、泥、生活工業排水、農業の肥料、畜産業の糞尿などの陸地からの栄養塩の供給が豊富にある上、海底が浅瀬から沖へ向かって緩やかに深くなっているため、潮汐や潮流によって攪拌されやすく、栄養塩やプランクトンが適度にかき混ざり(留まりにくいため)、一般に生物生産性の高い海域となる。[[イギリス]]の東にある[[北海]]の[[ドッガーバンク]]は世界的に有名な漁場である。 ちなみに海の匂い、いわゆる磯臭さは藻類、植物プランクトンが作り出した[[ジメチルスルホニオプロピオナート]]が分解されて生成された[[ジメチルスルフィド]]によるものである。 == 世界の主な海 == 広義では各大洋の一部に属するものの、[[島]]を含む陸地に囲まれて独立した名称がついている海域を[[縁海]](えんかい)と呼ぶ。 {| class="wikitable" |- ! style="white-space:nowrap;" | [[太平洋]] | [[ベーリング海]] - [[オホーツク海]] - [[日本海]] - [[黄海]] - [[渤海 (海域)|渤海]] - [[東シナ海]] - [[南シナ海]] - [[フィリピン海]] - [[ミンダナオ海]] - [[スールー海]] - [[セレベス海]] - [[モルッカ海]] - [[ナトゥーナ海]] - [[バンダ海]] - [[アラフラ海]] - [[ソロモン海]] - [[珊瑚海]] - [[コロ海]] - [[タスマン海]] |- ! style="white-space:nowrap;" | [[大西洋]] |[[ラブラドル海]] - アーミンガー海 - [[ノルウェー海]] - [[北海]] - [[アイリッシュ海]] - [[ケルト海]] - [[バルト海]] - [[地中海]] - [[サルデーニャ海]] - [[リグリア海]] - [[ティレニア海]] - [[イオニア海]] - [[アドリア海]] - [[クレタ海]] - ミルトア海- [[エーゲ海]] - [[マルマラ海]] - [[黒海]] - [[アゾフ海]] - [[サルガッソ海]] - [[カリブ海]] |- ! style="white-space:nowrap;" | [[インド洋]] |[[ジャワ海]] - [[バリ海]] - [[フローレス海]] - [[サヴ海]] - [[ティモール海]] - [[アンダマン海]] - [[アラビア海]] - [[紅海]] |- ! style="white-space:nowrap;" | [[北極海]] |[[ボフォート海]] - [[チュクチ海]] - [[東シベリア海]] - [[ラプテフ海]] - [[カラ海]] - [[バレンツ海]] - [[白海]] - [[グリーンランド海]] - [[リンカーン海]] |- ! style="white-space:nowrap;" | [[南極海]] |[[スコーティア海]] - [[ウェッデル海]] - [[ロス海]] - [[アムンゼン海]] - [[ベリングスハウゼン海]] |- ! style="white-space:nowrap;" | [[塩湖]] |[[カスピ海]] - [[アラル海]] - [[死海]] |} == 海と経済、軍事・国際法 == === 経済活動 === 海岸での[[釣り]]や、[[漁船]]によるものを含む[[漁業]]は古来、人類が食料を得る重要な手段であった。現代では[[養殖]]も行われている。 海上を移動できる[[船]]は漁業のほか、[[移住]]や探検、さらに[[交易]]・[[貿易]]の手段として早くから使われてきた。海岸部には、船が発着する拠点として[[港]]が発展した。 現代では、海浜での行楽や[[ウォータースポーツ|マリンスポーツ]]、[[クルーズ客船]]による[[旅行]]といった[[観光]]も大きな経済波及効果をもたらしている。また[[海底油田]]・[[天然ガス]]田の開発も行われている。 === 軍事 === 一方で、[[海軍]]や[[海賊]]が他国の[[領土]]や船を攻撃したり、逆に海軍で自国の海域や海岸、船を守ったりすることも歴史上多く行われた。海で行われる戦闘を[[海戦]]、海を支配する力を[[制海権]]と呼ぶ。 === 国際法 === 世界の各海域には地理学的だけでなく、[[国際海洋法]]による区分が存在している。沿岸国の主権が強く及ぶの[[領海]](領海[[基線 (海)|基線]]の陸寄りは[[内水]])、[[領土]]から離れるにつれ[[接続水域]]、[[排他的経済水域]]、[[大陸棚]]となる。海域区分の起点となる島などの[[領土問題]]、[[国際法]]解釈の違いから外交交渉や紛争に至ることもあり、各国は海洋権益の維持・拡大を重視している<ref>{{Cite web|和書|title=海洋政策 |url=https://www8.cao.go.jp/ocean/index.html |publisher=[[内閣府]] |website=公式ウェブサイト |accessdate=2018-06-03 }}</ref>。 それ以外の[[公海]]でも、各国は各国は廃棄物の海洋投棄や漁業など環境関連の規制を受ける。 == 海と災害・事故 == 海は人類に多くの恵みや利便をもたらす一方で、[[海難事故]]や[[自然災害]]による被害も発生している。後者では[[高潮]]、[[台風]]などによる高波、海底[[地震]]などによる[[津波]]などが挙げられる。日本では[[気象庁]]が、陸上だけでなく船舶向けに海上についても各種の[[防災]]情報([[天気予報]]や[[注意報]]、[[警報]])を出している<ref>{{Cite web|和書|title=防災情報 |url=https://www.jma.go.jp/jma/menu/menuflash.html |publisher=[[気象庁]] |website=公式ウェブサイト |accessdate=2018-06-03 }}</ref>。[[防波堤]]や[[防潮堤]]が作られている海岸もある。 == 海に関連する文化 == === 作品 === 海をテーマとした[[神話]]・[[伝説]]、[[文学]]([[詩]]歌や[[小説]])、[[音楽]]、[[映画]]、[[ドキュメンタリー]]、[[漫画]]・[[アニメーション]]などは無数にあり、下記はそのごく一部である。 ==== 音楽 ==== * [[青海波]]([[雅楽]]) * 伊勢の海(雅楽。[[催馬楽]]) * [[千鳥の曲]]([[胡弓]]曲、[[箏曲]]。[[吉沢検校]]作曲) * [[春の海]]([[尺八]][[箏]]二重奏曲。[[宮城道雄]]作曲) * [[練習曲 (ショパン)|12の練習曲Op25]]より第12番「大洋」([[フレデリック・ショパン]]) * [[交響曲第2番 (ルビンシテイン)|交響曲第2番]]「大洋」([[アントン・ルビンシテイン]]) * 交響詩「[[海 (ドビュッシー)|海]]」([[クロード・ドビュッシー]]) * [[海の交響曲]]([[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]) * 合唱組曲「[[水のいのち]]」(4番「海」、5番「海よ」)([[高田三郎]]作曲、[[高野喜久雄]]作詞) * 合唱組曲「海の詩」(作詞:岩間芳樹 作曲:[[廣瀬量平]]) * 小学唱歌「[[君とみた海]]」(作詞曲:若松歓) * [[海 (1913年の歌曲)|海]](作詞曲:[[文部省唱歌]]) * [[われは海の子]](作詞:宮原晃一郎 作曲:文部省唱歌) * [[海 (1941年の歌曲)|海]]([[林柳波]]作詞・[[井上武士]]作曲、文部省唱歌) ==== 文学作品 ==== * [[老人と海]]([[アーネスト・ヘミングウェイ]]) * [[われらをめぐる海]]([[レイチェル・カーソン]]) * [[海底二万里]]([[ジュール・ベルヌ]]) === 海に関わることば === ==== 海に関する慣用句・諺 ==== * 海千山千(海千河千とも) * 待てば海路の日和あり * 海のものとも[[山]]のものともつかない * 海に[[刃物]]を落とすな * 海底の[[白鳥]] * 海の疲れは山で治す * 腹のたつ時見るための海 - 『武玉川』<ref group="注">江戸時代の[[川柳]]。[[森田健作]]主演『[[おれは男だ!]]』など青春ドラマでも「海のバカヤロー!」(あるいは海に向かって「バカヤロー」)と叫ぶのが定番になっている。</ref> * 津々浦々 ==== 海に例えられるもの ==== 海は人間の世界では一番大きく、また深いものである。往々にして[[母性]]の象徴とされる。また、一面に広がっているものに「海」の字をあてることがある。以下はその例である。 * [[森林|樹海]]・・・・森林が広い範囲に広がっていて、上から見ると海のように見えるところ。 * [[雲海]]・・・・山の上や飛行機から見える、海のように広がっている雲。 * [[人海戦術]]・・・とにかく大量の人数を動員する[[戦術]]。 * 火の海・・・[[火災]]が一面に燃え広がった状態。 * 血の海・・・事故や事件などの現場で、血液が辺り一面に散乱している状態。 他にも以下のような例がある。 * [[硯]]の水をためておく所を海と言う。 * [[月]]の表面の暗く見える部分を海という。(→[[月の海]]) このほか[[サイエンス・フィクション|SF]]では比喩的に、[[宇宙]]空間を「海」、[[宇宙船]]による移動を「[[航海]]」と呼ぶ作品がある(『[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]』『[[宇宙戦艦ヤマト]]』など)。 ====その他==== *日本では[[大相撲]]において、[[力士]]の[[四股名]]には「海」をつける例が多い。 == 地球以外の海 == [[月]]は、[[ヨハネス・ケプラー]]によって観測された当時は、月の暗い部分は水を湛えた海であると信じられていた。また彼によって、ラテン語でマーレ(mare)と名づけられた。現在は、単に[[アルベド]]の低い地形、すなわち単に地球から暗く見える地面であることがわかっているが、「〜の海」「〜海」(Mare〜)という地名は残っている。 [[火星]]も同様に[[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]らによって海と名付けられた地名が数多く存在する。ただし、火星には地質時代には海があった可能性がある。 [[木星]]や[[土星]]の氷衛星のいくつかは、[[氷]]の[[地殻]]の下に液体の水の海があると推測されている。[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]、[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]、[[カリスト (衛星)|カリスト]]、[[タイタン (衛星)|タイタン]](水と[[アンモニア]])、[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]に海がある可能性が高い。なお、タイタンの表面には液体の[[メタン]]や[[エタン]]で覆われた地形があるが、これらは規模が小さいため「[[湖]]」と呼ばれる。 また、氷に富む[[太陽系外惑星]]が惑星系の内側に移動した場合、表層に厚い海を持った「[[海洋惑星]]」になる可能性が議論されている{{Sfn|Selsis, F. et al.|2007|p=453-}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * <!--Selsis, F. et al.-->{{Cite journal |author=Selsis, F. ''et al.'' |year=2007 |title=Could we identify hot Ocean-Planets with CoRoT, Kepler and Doppler velocimetry? |journal=[[:en:Icarus (journal)|Icarus]] |volume=191 |doi=10.1016/j.icarus.2007.04.010 |url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2007Icar..191..453S/abstract |ref={{SfnRef|Selsis, F. et al.|2007}} }} * <!--あおき-->{{Cite book |和書 |author=青木斌 |author2=井口博夫 |author3=末永和幸 |author4=井内美郎 他 |editor=地学団体研究会 責任編集|editor-link=地学団体研究会 |date=1995-03-27 |title=地球の水圏―海洋と陸水 |url=https://www.press.tokai.ac.jp/booklist.jsp?sarch_flg=3&series_id=25 |edition=新版 |publisher=[[東海大学出版会]] |series=新版地学教育講座 10 |isbn=978-4-486-01310-5 |ref={{SfnRef|青木他|1995}} }} * <!--うだ-->{{Cite book |和書 |author=宇田道隆|authorlink=宇田道隆 |date=1969 |title=海 |edition=第1刷 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] |asin=B000JA31PC |ref={{SfnRef|宇田|1969}} }} * <!--おおはま-->{{Cite book |和書 |author=大浜一之 |date=1994-09-25 |title=おもしろくてためになる―科学雑学事典 |edition=新版 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=978-4-534-02203-5 |ref={{SfnRef|大浜|1994}} }} * <!--かわかみ-->{{Cite book |和書 |author=川上紳一|authorlink=川上紳一 |date=2000-05 |title=生命と地球の共進化 |publisher=[[日本放送出版協会]] |series=[[NHKブックス]] 888 |isbn=978-4-14-001888-0 |ref={{SfnRef|川上|2000}} }} * <!--ピネ-->{{Cite book |和書 |author=ポール・R・ピネ<!--Paul R. Pinet--> |translator=[[東京大学海洋研究所]]監 |date=2010-03-31 |title=海洋学 |origdate=2006 |edition=第1刷第1版 |publisher=[[東海大学出版会]] |isbn=978-4-486-01766-0 |ref={{SfnRef|ピネ|2010}} }} ** 原著:{{Cite book |last=Pinet |first=Paul R. |author=Paul R. Pinet |date=February 28, 2006 |title=Invitation to Oceanography |edition=4th |location=[[:en:Burlington, Massachusetts|Burlington, Massachusetts]] |publisher=[[:en:Jones & Bartlett Learning|Jones & Bartlett Pub]] |language={{eng}} |isbn=0763740799 }} * <!--まるやま-->{{Cite book |和書 |author1=丸山茂徳|authorlink1=丸山茂徳|author2=磯崎行雄 |date=1998-01-20 |title=生命と地球の歴史 |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 新赤版 543 |isbn=978-4-00-430543-9 |ref={{SfnRef|丸山・磯崎|1998}} }} <!--※以下は法人--> * <!--データブックオブザワールド-->{{Cite book |和書 |date=2008-01 |title=データブック オブ・ザ・ワールド 世界各国要覧と最新統計 2008 (VOL.20) ―世界各国要覧と最新統計 |publisher=[[二宮書店]] |isbn=978-4-8176-0320-3 |ref={{SfnRef|データブック オブ・ザ・ワールド|2008}} }} == 関連項目 == * '''自然''': [[湾]] - [[海岸]] - [[海峡]] - [[地峡]] - [[海溝]] - [[海嶺]] - [[湖]] - [[川]] - [[深海]] - [[大陸棚]] * '''メカニズム''': [[海流]] - [[波]] - [[海流分散]] * '''海洋/海岸構造物''': [[港]] - [[防波堤]] - [[灯台]] * '''法''': [[国際海洋法]] - [[領海]] - [[排他的経済水域]] - [[国際水域]] * '''軍事''': [[海軍]] - [[海戦]] * '''関連産業''': [[水産業]] - [[漁業]] - [[船舶]] - [[海運]] * '''関連学問''': [[海洋学]] - [[海洋工学]]-[[海岸工学]] - [[地球科学]] == 外部リンク == {{sisterlinks|commons=Category:Seas}} * [https://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁] ** [https://www.data.jma.go.jp/kaiyou/shindan/ 気象庁・気象統計情報・海洋の健康診断表(海洋の総合情報)] - 海洋関連のデータ(最新情報、過去資料)集 ** [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kaiyou.html 気象庁・気象等の知識・海洋] - 海面水温・海流・海氷、波浪、高潮・潮汐の解説、及び気象庁の海洋気象観測船の解説 * [https://www1.kaiho.mlit.go.jp/ 海上保安庁海洋情報部] ** [https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/index.html 海上保安庁 海洋速報/海流推測図] * [https://www.mlit.go.jp/kowan/kaiganennganniki_jyouhou/ 港湾海洋沿岸域情報提供センター] - 港湾、海洋、沿岸域に関するリアルタイム情報、予測・予定情報、防災・環境情報など * [http://www.mirc.jha.jp/knowledge/index.html 海の知識] * {{EoE|Ocean|Ocean}} * {{Cite web|和書|url=http://www.jinjahoncho.or.jp/2008/08/08%E3%80%80%E6%B5%B7/|title=「海」 – 神社本庁|accessdate=2015-03-04}} * {{Kotobank}} {{地形}} {{河川関連}} {{海}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うみ}} [[Category:海|*]]
2003-02-17T14:28:13Z
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8月16日
8月16日(はちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から228日目(閏年では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。
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8月16日(はちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から228日目(閏年では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。
{{カレンダー 8月}} '''8月16日'''(はちがつじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から228日目([[閏年]]では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。 == できごと == <!-- 記事に日付のないもの:[[山形県]](ワッパ騒動), [[東北大学]], [[ドーズ案]], [[ヒトラーユーゲント]], [[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)]]/[[最後の晩餐 (レオナルド)]], [[恩賜上野動物園]], [[ヨシフ・スターリン]]/[[ハリー・S・トルーマン]](日本の不分割), [[タイ王国]], [[古橋廣之進]], --> {{multiple image | header = [[アメリカ独立戦争]]の戦い | image1 = Battle_of_Bennington_1777.jpeg | width1 = 140 | caption1 = [[ベニントンの戦い]](1777) | image2 = Battle_of_Camden.jpg | width2 = 140 | caption2 = [[キャムデンの戦い]](1780) }} [[Image:Peterloo_Massacre.png|thumb|イギリスで6万人の群集に騎兵隊が突入した[[ピータールーの虐殺]](1819)]] <!-- [[Image:Atlanticcablestamp.jpg|thumb|[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]と[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン米大統領]]、[[大西洋横断電信ケーブル]]完成を祝うメッセージを交換(1858)]] この切手はヴィクトリアとブキャナンかどうか不明 --> [[Image:Battle-Mars-Le-Tour-large.jpg|thumb|[[普仏戦争]]、{{仮リンク|マーズ=ラ=トゥールの戦い|fr|Bataille de Mars-la-Tour}}(1870)。フランスの大敗]] <!-- [[Image:Kongo_after_reconstruction.jpg|thumb|戦艦[[金剛 (戦艦)|]]就役(1913)]] --> [[Image:Milano Bombing 1943.jpg|thumb|爆撃により[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]]崩壊(1943)]] <!-- [[Image:Leonardo_da_Vinci_%281452-1519%29_-_The_Last_Supper_%281495-1498%29.jpg|thumb|300px|『[[最後の晩餐]]』]] --> [[Image:Soviet_Union_Military_Officer_and_Puyi.JPG|thumb|upright|前年同日ソ連に拘束されていた[[満洲国]]元[[満洲国皇帝|皇帝]][[愛新覚羅溥儀]]、[[極東国際軍事裁判]]に出廷(1946)]] [[Image:Kittinger-jump.jpg|thumb|upright|[[プロジェクト・エクセルシオ]](1960)。米空軍の[[ジョゼフ・キッティンジャー]]が高度31,330mからパラシュート降下]] <!-- great photo --> <!-- {{multiple image | footer = [[ビートルズ]]のドラマーが[[ピート・ベスト]]から[[リンゴ・スター]]に交代 | image1 = Pete_Best_drumming.jpg | width1 = 100 | alt1 = ピート・ベスト | image2 = Ringo.jpg | width2 = 100 | alt2 = リンゴ・スター }} ロック史では大きいできごとですが、日付記事でフィーチャーするほどではないか? --> <!-- [[Image:USS_Nevada_%28SSBN-733%29.jpg|thumb|原子力潜水艦[[ネバダ (原子力潜水艦)|]]竣工(1986)]] [[オハイオ級原子力潜水艦]]の8番艦…掲載自体が疑問です --> * [[946年]] - [[イングランド王]][[エドレッド]](同年[[5月26日]]に即位)が戴冠式を開催した。 * [[1284年]] - [[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](当時は王太子)と[[フアナ1世 (ナバラ女王)|フアナ1世(ナバラ女王)]]の結婚式が[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]にて行われた。 *[[1290年]] - [[シャルル (ヴァロワ伯)|シャルル(ヴァロワ伯)]]と[[マルグリット・ダンジュー]]が[[コルベイユ=エソンヌ|コルベイユ]]において結婚。 * [[1777年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ベニントンの戦い]]。{{要出典|date=2021-02}} * [[1780年]] - アメリカ独立戦争: [[キャムデンの戦い]]。 * [[1819年]] - [[ピータールーの虐殺]]。[[イギリス]]・[[マンチェスター]]郊外で集会に参加した群衆を警官隊が弾圧し、11人が死亡、600人以上が負傷。 * [[1858年]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]と[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン米大統領]]が[[大西洋横断電信ケーブル]]の完成を祝うメッセージを交換する。 * 1858年([[安政]]5年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[江戸幕府]]が[[外国奉行]]を設置。 * [[1865年]] - [[ドミニカ共和国]]が[[スペイン]]からの3度目の独立を宣言。 * [[1868年]] - [[エクアドル地震 (1868年)|エクアドル地震]]。前日の地震に続いて二度目の地震。[[エクアドル]]・[[コロンビア]]で死傷者7万人。 * [[1870年]] - [[普仏戦争]]: {{仮リンク|マーズ=ラ=トゥールの戦い|en|Battle of Mars-la-Tour}}。 * [[1874年]] - [[ワッパ騒動]]。[[酒田県]](現 [[山形県]]庄内地方)で農民1万人が過納租税の返還を求める暴動。 * [[1913年]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[巡洋戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」が竣工。日本海軍最後の外国製戦艦。 * [[1918年]] - [[1918年米騒動]]: [[第4回全国中等学校優勝野球大会]]の中止が決定。 * [[1920年]] - [[メジャーリーグベースボール]]で[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]の[[レイ・チャップマン]]が頭部に[[死球]]を受け、翌17日に死亡。 * [[1924年]] - ロンドン賠償会議で[[ドイツ]]の[[第一次世界大戦]]の賠償金仕払いを緩和する[[ドーズ案]]が採択。 * [[1938年]] - [[ヒトラーユーゲント]]の代表団が来日。 * [[1940年]] - 東京で[[隣組]]を通じた[[回覧板]]による文書の回覧が始まる<ref>東京で全市に回覧板を配布『東京日日新聞』(昭和15年8月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の爆撃で[[イタリア]]・[[ミラノ]]の[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]]が崩潰。壁画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』は奇跡的に残る。<!-- [[it:Chiesa di Santa Maria delle Grazie (Milano)]] には8/15夜とあります。深夜で24時を跨いだのかもしれませんが… --> * 1943年 - 第二次世界大戦: 東京都が[[恩賜上野動物園|上野動物園]]に[[戦時猛獣処分|猛獣の処分]]を指令。翌日から薬殺を開始。 * [[1944年]] - [[Ju 287 (航空機)|ユンカース Ju 287]]が初飛行する。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が[[北海道]]北部のソ連による占領を提案するが、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]米大統領が拒否し、「日本は分割統治せず」と声明。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[タイ王国|タイ]]が対米英宣戦布告の無効を宣言。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[満洲国]][[満洲国皇帝|皇帝]][[愛新覚羅溥儀]]がソ連軍により拘束される。 * 1945年 - 兌換券200円(裏赤200円)が使用開始。肖像は[[武内宿禰]]。大きさは97mm×188mm 組番号は1組~9組。 * 1945年 - [[高知県]]の[[夜須町 (高知県)|夜須町]](2006年に近隣市町村と合併し以後は[[香南市]])住吉海岸にて第128[[震洋]]隊の出撃準備中に[[震洋#実戦運用|爆発事故が発生]]し乗組員他111名が死亡する。 * [[1946年]] - [[経済団体連合会]](経団連)設立。 * 1946年 - 元[[満洲国]][[満洲国皇帝|皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀]]が[[極東国際軍事裁判]]にソ連の証人として[[極東国際軍事裁判#裁判|出廷]]。 * [[1949年]] - [[古橋廣之進]]が[[ロサンゼルス]]の北米水上選手権大会・1500m自由形で世界新記録を出し優勝。18日・19日にも世界新記録で優勝する。 * [[1954年]] - 『[[スポーツ・イラストレイテッド]]』が創刊される。 * [[1960年]] - [[キプロス]]が[[イギリス]]から独立。ただし[[トルコ]]は認めず。 * 1960年 - [[プロジェクト・エクセルシオ]]: [[アメリカ空軍]]の[[ジョゼフ・キッティンジャー]]が[[気球]]による最高高度31,300mから[[パラシュート]]降下し、乗物によらない人間の最高速度988km/hを記録。 * 1960年 - [[東村山浄水場]]通水。<!-- 特筆性? --> * [[1962年]] - [[ビートルズ]]の[[ドラマー|ドラムス]]が[[ピート・ベスト]]から[[リンゴ・スター]]に交代。 * [[1965年]] - [[ユナイテッド航空389便墜落事故]]。 * [[1979年]] - [[第61回全国高等学校野球選手権大会]]にて[[箕島対星稜延長18回]]の試合。 * [[1980年]] - [[静岡駅前地下街爆発事故]]。[[静岡駅]]前地下街でガス爆発が起き、死者15名、重軽傷233名を出す惨事。 * 1980年 - 韓国の[[崔圭夏]]大統領が辞任。 * [[1992年]] - [[第74回全国高等学校野球選手権大会]]で[[松井秀喜5打席連続敬遠]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/koshien/20210316-OYT1T50192/ |title=松井秀喜を5連続敬遠した投手が「勝負!」コールの甲子園で「迷ってベンチを見た一瞬」 |access-date=2022-08-16 |publisher=読売新聞社 |website=読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp) |date=2021-03-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220816023807/https://www.yomiuri.co.jp/sports/koshien/20210316-OYT1T50192/ |archive-date=2022-08-16}}</ref>。 * [[1993年]] - [[Debian GNU/Linux]]が、[[イアン・マードック]]により誕生。 * [[2005年]] - [[宮城県]][[牡鹿半島]]沖を[[震源]]とする[[マグニチュード]]7.2の[[地震]]([[宮城県沖地震#2005年8月16日|宮城県南部地震]])発生<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/special/050816/TKY200508160209.html |title=宮城県南部で震度6弱、5都県で重軽傷57人 |access-date=2022-08-16 |publisher=朝日新聞社 |website=朝日新聞(asahi.com) |date=2005-08-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220816024211/http://www.asahi.com/special/050816/TKY200508160209.html |archive-date=2022-08-16}}</ref>。 * 2005年 - [[ウエスト・カリビアン航空708便墜落事故]]。 * [[2006年]] - [[北方地域|北方領土]][[貝殻島]]付近で根室の漁船が[[ロシア]]国境警備隊の銃撃を受け、1人死亡、4人が[[拿捕]]([[第31吉進丸事件]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0816b.html |title=北方四島周辺水域における日本漁船の銃撃・拿捕事件 |access-date=2022-08-16 |publisher=外務省 (mofa.go.jp) |date=2006-08-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220816024603/https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0816b.html |archive-date=2022-08-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toonippo.co.jp/ud/encyclopedia/5a436aff77656198f6500000 |title=ニュース百科 |access-date=2022-08-16 |publisher=東奥日報 (toonippo.co.jp) |archive-url=https://web.archive.org/web/20220816025014/https://www.toonippo.co.jp/ud/encyclopedia/5a436aff77656198f6500000 |archive-date=2022-08-16 |website=Web東奥}}</ref>。 * [[2007年]] - [[埼玉県]][[熊谷市]]・[[岐阜県]][[多治見市]]で最高[[気温]]40.9℃を観測し、74年ぶりに日本最高記録を更新<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200708260083.html |title=埼玉・熊谷、岐阜・多治見で40.9℃ 74年ぶり国内最高気温 熱中症で死者11人 |access-date=2022-08-16 |publisher=朝日新聞社 |date=2007-08-27 |website=朝日新聞(asahi.com) |archive-url=https://web.archive.org/web/20220816023023/https://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200708260083.html |archive-date=2022-08-16}}</ref>。 * [[2013年]] - [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]投手の[[田中将大]]が、2012年8月から続く21連勝で日本プロ野球記録を更新<ref>{{Cite web|和書|date=2013年8月17日 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/17/kiji/K20130817006432240.html |title=マー君 日本新21連勝 1年間負け知らず「いい緊張感で幸せ」 |work=スポニチ Sponichi Annex 野球 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2019-04-14 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190414030338/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/17/kiji/K20130817006432240.html |archive-date=2019-04-14}}</ref>。 * [[2017年]] - [[水銀に関する水俣条約]]が発効<ref>{{Cite web|和書|date=2017年8月17日 |url=https://www.sankei.com/affairs/news/170817/afr1708170003-n1.html |title=「水俣病は終わってない」 患者女性が被害訴え 水銀規制条約発効 |work=産経ニュース |publisher=産経デジタル |accessdate=2019-04-14 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190414030334/https://www.sankei.com/affairs/news/170817/afr1708170003-n1.html |archive-date=2019-04-14}}</ref>。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 --> [[Image:MingRenzongPortrait.jpg|thumb|100px|[[明]]の第4代皇帝、[[洪熙帝]](1378-1425)]] [[Image:Kurfürst Friedrich V. von der Pfalz als König von Böhmen.jpg|thumb|100px|プファルツ選帝侯[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]](1596-1632)]] [[Image:Wilhelm Wundt.jpg|thumb|100px|「[[実験心理学]]の父」[[ヴィルヘルム・ヴント]](1832-1920)]] <!-- [[Image:G_lippmann.jpg|thumb|100px|物理学者[[ガブリエル・リップマン]](1845-1921)。光干渉を利用したカラー写真を発明]] --> {{multiple image | image1 = Laforgue_portrait_painting.jpg | width1 = 100 | caption1 = 詩人[[ジュール・ラフォルグ]](1860-1887)誕生。{{Squote|僕の心は忘れ去られた時計、僕が死んだと知りながら時間通りに鳴るのを止めぬ。――『嘆き節』(1885)}} | image2 = Henri_Constant_Gabriel_Piern%C3%A9.jpg | width2 = 100 | caption2 = 作曲家[[ガブリエル・ピエルネ]](1863-1937)。{{audio|Pierne.ogg|『オルガンのためのトッカータ・ニ短調』を聴く}} }} {{multiple image | footer = [[イラストレーター]]、[[イヴァン・ビリビン]](1876-1942)。右画像は『火の鳥の羽根を掴むイワン王子』(1899) | image1 = Portrait_of_Ivan_Bilibin_by_B.Kustodiev_%281901%29.jpg | width1 = 100 | alt1 = イヴァン・ビリビン | image2 = Firebird.jpg | width2 = 140 | alt2 = 『火の鳥の羽根を掴むイワン王子』 }} [[Image:Radio_News_Nov_1928_Cover.jpg|thumb|100px|[[サイエンス・フィクション|SF]]作家、[[ヒューゴー・ガーンズバック]](1884-1967)。[[ヒューゴー賞]]に名を残す]] {{multiple image | footer = イギリスの軍人、「アラビアのロレンス」[[トーマス・エドワード・ロレンス]](1888-1935) | image1 = Ljidda.jpg | width1 = 100 | alt1 = トーマス・エドワード・ロレンス | image2 = Thomas_Edward_Lawrence_birth-place_Gorphwysfa.jpg | width2 = 120 | alt2 = 生家 }} <!-- [[Image:Minoru_Genda.jpg|thumb|100px|[[大日本帝国海軍]]軍人、[[源田實]](1904-1989)。[[特攻隊]]の考案者の1人]] --> [[Image:Menachem_Begin_2.jpg|thumb|100px|イスラエル第7代首相、[[メナヘム・ベギン]](1913-1992)]] <!-- WANTED: ビル・エヴァンス --> * [[1378年]] - [[洪熙帝|洪熙帝(仁宗)]]{{要出典|date=2021-04}}、[[中国]][[明]]朝の第4代[[皇帝]](+ [[1425年]]) * [[1557年]] - [[アゴスティーノ・カラッチ]]、[[画家]](+ [[1602年]]) * [[1596年]] - [[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]、[[プファルツ選帝侯]](+ [[1632年]]) * [[1645年]] - [[ジャン・ド・ラ・ブリュイエール]]、[[モラリスト]](+ [[1696年]]) * [[1744年]] - [[ピエール・メシャン]]、[[天文学者]](+ [[1804年]]) * [[1789年]] - [[エイモス・ケンドール]]、第11代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1869年]]) * [[1795年]] - [[ハインリヒ・マルシュナー]]、[[作曲家]](+ [[1861年]]) * [[1815年]] - [[ヨハネ・ボスコ]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](+ [[1888年]]) * [[1821年]] - [[アーサー・ケイリー]]、[[数学者]](+ [[1895年]]) * [[1832年]] - [[ヴィルヘルム・ヴント]]、[[生理学者]]、[[心理学者]](+ [[1920年]]) * [[1845年]] - [[ガブリエル・リップマン]]、[[物理学者]](+ [[1921年]]) * [[1860年]] - [[ジュール・ラフォルグ]]、[[詩人]](+ [[1887年]]) * [[1862年]] - [[野村万造 (5世)|五世野村万造]]、[[狂言|狂言方]]和泉流(+ [[1938年]]) * [[1863年]] - [[ガブリエル・ピエルネ]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[1937年]]) * [[1876年]] - [[イヴァン・ビリビン]]、[[イラストレーター]](+ [[1942年]]) * [[1883年]] - [[田辺尚雄]]、[[音楽学者]](+ [[1984年]]) * [[1884年]] - [[ヒューゴー・ガーンズバック]]、[[小説家]]、[[SF作家]](+ [[1967年]]) * [[1888年]] - [[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[軍人]]、[[考古学者]](+ [[1935年]]) * [[1895年]] - [[鈴木信太郎 (洋画家)|鈴木信太郎]]、[[洋画家]](+ [[1989年]]) * [[1900年]] - [[町村金五]]、[[政治家]](+ [[1992年]]) * [[1902年]] - [[津村紀三子]]、[[能楽師]] (+ [[1974年]]) * [[1904年]] - [[ウェンデル・スタンリー]]、[[生化学者]](+ [[1971年]]) * 1904年 - [[源田實]]、[[海軍軍人]](+ [[1989年]]) * [[1906年]] - [[フランツ・ヨーゼフ2世]]、[[リヒテンシュタイン公]](+ 1989年) * 1906年 - [[曻地三郎]]、[[教育者]]、[[教育学者]](+ [[2013年]]) * [[1912年]] - [[磯崎叡]]、第6代[[日本国有鉄道]]総裁(+ [[1997年]]) * [[1913年]] - [[メナヘム・ベギン]]、第6代[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](+ [[1992年]]) * [[1916年]] - [[中尾佐助]]、[[植物学者]](+ [[1993年]]) * [[1920年]] - [[チャールズ・ブコウスキー]]、小説家(+ [[1994年]]) * 1920年 - [[河野一英]]、[[会計士]]、[[大東文化大学]]名誉教授(+ [[2015年]]) * [[1921年]] - [[増田卓 (野球)|増田卓]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1986年]]) * [[1922年]] - [[桑山正一]]、[[俳優]]、[[演出家]](+ [[1983年]]) * [[1926年]] - [[杉山とく子]]、[[俳優|女優]](+ [[2014年]]) * [[1928年]] - [[上野瞭]]、[[児童文学作家]](+ [[2002年]]) * 1928年 - [[安井昌二]]、俳優(+ [[2014年]]) * 1928年 - [[草川昭三]]、政治家(+ [[2019年]]) * [[1929年]] - [[ビル・エヴァンス]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1980年]]) * 1929年 - [[フリッツ・フォン・エリック]]、[[プロレスラー]](+ [[1997年]]) * 1929年 - [[ヘルムート・ラーン]]、[[サッカー選手]](+ [[2003年]]) * [[1930年]] - [[ロバート・カルプ]]、俳優、[[映画監督]](+ [[2010年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2713173?cx_amp=all&act=all|title=米俳優ロバート・カルプさん死去、テレビ「アイ・スパイ」で有名に|publisher=AFPBB News|date=2010-03-25|accessdate=2020-11-18}}</ref>) * [[1931年]] - [[小畠絹子]]、女優(+ [[2022年]]) * [[1933年]] - [[菅原文太]]、俳優(+ [[2014年]]<ref name="Nikkan">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20141202-1403570.html 「仁義なき戦い」菅原文太さん死す 81歳] 日刊スポーツ 2020年11月20日閲覧</ref>) * [[1934年]] - [[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]]、[[小説家]](+ [[2011年]]) * [[1935年]] - [[山根青鬼]]、[[漫画家]] * 1935年 - [[山根赤鬼]]、漫画家(+ [[2003年]]) * [[1938年]] - [[澤井信一郎]]、映画監督(+ [[2021年]]) * 1938年 - [[叶弦大]]、作曲家 * [[1943年]] - [[デニス・アルトマン]]、[[政治学者]]、[[社会学者]] * [[1944年]] - [[木下厚]]、[[政治家]] * [[1946年]] - [[ディック・マードック]]、プロレスラー(+ [[1996年]]) * [[1947年]] - [[吉村大志郎]]、元[[サッカー選手]]、監督(+ [[2003年]]) * [[1948年]] - [[川勝平太]]、[[政治家]]、[[歴史学者]] * [[1950年]] - [[井村雅代]]、元[[アーティスティックスイミング]]選手、指導者 * [[1952年]] - [[石澤典夫]]、アナウンサー * 1952年 - [[達川実]]、バレーボール指導者 * [[1953年]] - [[スチュワート・バクスター]]、[[サッカー]]監督 * 1953年 - [[高木真一 (野球)|高木真一]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[若生哲旺]]、元[[アナウンサー]] * 1954年 - [[ジェームズ・キャメロン]]、[[映画監督]] * [[1956年]] - [[岡本圭右]]、元プロ野球選手 * 1956年 - [[斉須稔]]、元[[大相撲]][[力士]] * 1956年 - [[姫野美智]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]] * [[1957年]] - [[楠淳生]]、フリーアナウンサー * 1957年 - [[竹之内徹]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[マドンナ (歌手)|マドンナ]]、[[歌手]]、女優 * 1958年 - [[アンジェラ・バセット]]、女優 * [[1960年]] - [[フランツ・ウェルザー=メスト]]、[[指揮者]] * 1960年 - [[ティモシー・ハットン]]、[[俳優]] * 1960年 - [[フラッド (プロデューサー)|フラッド]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1961年]] - [[高乃麗]]、[[声優]] * 1961年 - [[日野善朗]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[森隆峰]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[松永明]]、官僚 * [[1962年]] - [[スティーヴ・カレル]]、俳優 * [[1963年]] - [[ターザン後藤]]、[[プロレスラー]](+ [[2022年]]) * 1963年 - [[立川志らく]]、[[落語家]] * [[1964年]] - [[佐藤シンイチロウ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[the pillows]]、[[the ピーズ]]) * [[1965年]] - [[藤田勇児]]、声優 * [[1966年]] - [[山根康広]]、ミュージシャン * [[1967年]] - [[金山一彦]]、俳優 * [[1968年]] - [[堀江利幸]]、[[放送作家]] * 1968年 - [[前田耕陽]]、[[俳優]] * 1968年 - [[殿村誠士]]、[[写真家]] * [[1969年]] - [[小高直子]]、アナウンサー * 1969年 - [[楢崎房江]]、フリーアナウンサー * [[1970年]] - [[佐野貴英]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[マニーシャ・コイララ]]、女優 * [[1971年]] - [[小木博明]]、[[お笑いタレント]]([[おぎやはぎ]]) * 1971年 - [[ルーロン・ガードナー]]、[[アマチュアレスリング]]選手 * [[1972年]] - [[近野宏明]]、[[ニュースキャスター]]、報道[[記者]] * 1972年 - [[西田ひかる]]、[[タレント]] * 1972年 - [[伊林厚志]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[黒部亜希子]]、元アナウンサー * 1973年 - [[梅山修]]、元[[サッカー]]選手 * [[1974年]] - [[木村昌広]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[森ほさち]]、元女優 * 1974年 - [[ライアン・ロングウェル]]、[[アメリカンフットボール]]選手 * [[1975年]] - [[吉沢瞳]]、元歌手、元タレント * 1975年 - [[閻森]]、[[卓球]]選手、コーチ * [[1976年]] - [[根岸勇人]]、俳優 * [[1978年]] - [[森ひろこ]]、タレント * 1978年 - [[菊地孝平]]、[[競艇選手]] * 1978年 - [[伏明霞]]、[[飛込競技]]選手 * [[1979年]] - [[井上雅雄]]、アナウンサー * 1979年 - [[グリゴリー・ペトロフスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1980年]] - [[山田独歩]]、[[プロ雀士]] * 1980年 - [[ヴァネッサ・カールトン]]、シンガーソングライター * [[1981年]] - [[デビッド・バーグマン]]、プロ野球選手 * 1981年 - [[ロケ・サンタ・クルス]]、サッカー選手 * [[1982年]] - [[山崎勝己]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[ジョリオン・レスコット]]、サッカー選手 * 1982年 - [[長尾奈奈]]、女優 * [[1983年]] - [[プム・ジェンセン]]、[[タイ王国|タイ]]国王[[ラーマ9世]]の孫(+ [[2004年]]) * 1983年 - [[本田朋子]]、フリーアナウンサー * 1983年 - [[新井良太]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[市原孝行]]、元大相撲力士 * [[1985年]] - [[大沢あかね]]、女優、タレント * 1985年 - [[二見一樹]]、俳優 * 1985年 - [[松坂健太]]、元プロ野球選手 * [[1986年]] - [[ダルビッシュ有]]、プロ野球選手 * 1986年 - [[ゲオルギ・ケンチャゼ]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[マーティン・マルドナード]]、プロ野球選手 * [[1987年]] - [[喜多村英梨]]<ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=323|title=喜多村英梨のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-15}}</ref>、声優 * 1987年 - [[ジョジマール・ロドリゲス・ソウザ・ロベルト]]、サッカー選手 * 1987年 - [[七瀬あずみ]]、タレント * [[1988年]] - [[JC・ラミレス]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[太田裕哉]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[木村勝太]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[久野純弥]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[イスマイル・アイサティ]]、サッカー選手 * 1988年 - [[國母和宏]]、プロ[[スノーボード]]選手 * [[1989年]] - [[永岡真実]]、元タレント * 1989年 - [[土生翔平]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[伊藤沙菜]]、ローカルタレント、元フットサル選手 * 1989年 - [[綾乃彩]]、女優 * 1989年 - [[長田成哉]]、俳優 * 1989年 - [[鵜殿麻由]]、声優 * 1989年 - [[嶋梨夏]]、元アイドル、女優 * [[1990年]] - [[内山昂輝]]<ref name="タレントデータバンク">{{Cite web|和書|url=https://www.talent-databank.co.jp/search/profile/2000045341|title=内山 昂輝|publisher=タレントデータバンク|accessdate=2020-10-30}}</ref>、俳優、声優 * 1990年 - [[トルガイ・アルスラン]]、サッカー選手 * 1990年 - [[クリスティーナ・ハマー]]、プロボクサー * 1990年 - [[リナ・サワヤマ]]、シンガーソングライター * [[1991年]] - [[イヴァナ・リンチ]]、女優 * 1991年 - [[久川実津紀]]、歌手(元[[grram]]) * [[1991年]] - [[三平果歩]]、女優 * 1991年 - [[栗生みな]]、女優 * [[1992年]] - [[デライノ・デシールズ・ジュニア]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[ざわちん]]、ものまねメイクアーティスト、タレント * [[1993年]] - [[三上悠亜]]、タレント、元[[AV女優]] * [[1994年]] - [[高田里穂]]、[[ファッションモデル]]、タレント、女優 * 1994年 - [[黒木優太]]、プロ野球選手 * 1994年 - [[畠山愛理]]、元[[体操競技選手一覧|体操競技選手]] * 1994年 - [[木内海美]]、女優 * [[1995年]] - 佐野遥、アイドル(元[[STU48]]) * 1995年 - [[与那嶺瑠唯]]、ダンサー([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]]) * [[1996年]] - [[飯島寛騎]]、俳優 * 1996年 - [[ブレイディ・エイケン]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[寛一郎]]、俳優 * 1996年 - [[斉藤朱夏]]、声優 * 1996年 - [[ケーレブ・ドレッセル]]、競泳選手 * 1996年 - [[吉田朱里]]、モデル、YouTuber(元[[NMB48]]) * [[1997年]] - [[グレイソン・チャンス]]、ピアニスト * 1997年 - [[平沼翔太]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[木村慧人]]、パフォーマー([[FANTASTICS from EXILE TRIBE]]) * [[2000年]] - [[源結菜]]、元ジュニアアイドル * 2000年 - [[小林萌花]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]) * 2000年 - [[西嶋菜々子]]、アイドル([[ナナランド]]) * 2000年 - [[菅田路莞]]、プロアイスホッケー選手 * [[2001年]] - [[武田真理子 (声優)|武田真理子]]、声優、女優 * 生年不明 - [[千野智史]]、声優 * 生年不明 - [[佐原誠]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://remax-web.jp/talent/sahara-m/|title=佐原誠 +-- REMAX --+|accessdate=2021-01-13}}</ref>、声優 == 忌日 == {{multiple image | footer = [[源頼朝]]の正室、[[北条政子]](1157-1225)没 | image1 = Hojo_Masako.jpg | width1 = 100 | alt1 = 北条政子 | image2 = Hojo_Masako_no_haka01.jpg | width2 = 120 | alt2 = 墓とされるやぐら }} [[Image:Saint_Roch.JPG|thumb|100px|カトリック教会、[[ペスト]]に対する守護聖人[[ロクス]](1295-1327)没。祝祭日]] <!-- 「忌日」は儒教や仏教の考え方で、それ以外では必ずしも「忌み」ませんし、キリスト教の聖人はむしろ祝われます。NPOVに鑑み、「死亡日」などに改めるべきなのかもしれません。 --> <!-- [[Image:VaclavnaVotobraze.jpg|thumb|100px|神聖ローマ皇帝[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|]](1361-1419)没]] --> <!-- [[Image:Ashikaga_Yoshikatsu_statue.jpg|thumb|100px|室町幕府第7代将軍、[[足利義勝]](1434-1443)]] --> [[Image:Ramakrishna.jpg|thumb|100px|宗教家[[シュリ・ラーマクリシュナ]](1836-1886)没<!--。{{Squote|純粋な心と純粋な[[アートマン]]は1つの同じものである。純粋な心に現れるものは全て神の声である。――『シュリ・ラーマクリシュナの福音書』}}-->]] <!-- [[Image:Umberto-Boccioni.jpg|thumb|100px|画家・彫刻家、[[ウンベルト・ボッチョーニ]](1882-1916)]] 日付要チェック --> <!-- [[Image:Peter_I_Karadjordjevic_of_Serbia.jpg|thumb|100px|セルビア王[[ペータル1世 (セルビア王)|]](1844-1921)]] --> <!-- [[Image:Karl_Nordstr%C3%B6m_photo.jpg|thumb|100px|画家[[カール・ヌードストローム]](1855-1923)]] --> {{multiple image | image1 = Tsuda Umeko Portrait c1900.png | width1 = 100 | caption1 = 日本の[[女子教育]]の先駆者、[[津田梅子]](1864-1929) | image2 = Mataro_Nagayo.jpg | width2 = 100 | caption2 = 日本癌学会を設立した病理学者[[長與又郎]](1878-1941)、癌で没 }} <!-- {{multiple image | footer = [[メジャーリーグベースボール|大リーガー]]、[[ベーブ・ルース]](1895-1948)没。{{Squote|俺はありったけを込めて大きくスイングする。大きく当たるか、大きく外す。できる限り大きく生きたいんだ。}} <!- {{Squote|この世界で唯一のリアルなゲームは、[[野球]]だと思う。――引退の言葉(1947)}} -> | image1 = Babe_Ruth_cropped.jpg | width1 = 100 | alt1 = ベーブ・ルース | image2 = Babe_Ruth_800.jpg | width2 = 120 | alt2 = 墓 }} --> {{multiple image | image1 = Babe_Ruth_cropped.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[メジャーリーグベースボール|大リーガー]]、[[ベーブ・ルース]](1895-1948)没。 <!-- {{Squote|俺はありったけを込めて大きくスイングする。大きく当たるか、大きく外す。できる限り大きく生きたいんだ。}} --> <!-- {{Squote|この世界で唯一のリアルなゲームは、[[野球]]だと思う。――引退の言葉(1947)}} --> }} <!-- {{multiple image | footer = 作家[[マーガレット・ミッチェル]](1900-1949)、交通事故で没。代表作『[[風と共に去りぬ]]』(1936) | image1 = Margaret_Mitchell_NYWTS.jpg | width1 = 100 | alt1 = マーガレット・ミッチェル | image2 = MargaretMitchell-grave.jpg | width2 = 100 | alt2 = 墓 }} --> {{multiple image | image1 = Bunsen_Robert.jpg | width1 = 100 | caption1 = 化学者[[ロベルト・ブンゼン]](1811-1899)。[[セシウム]]と[[ルビジウム]]を発見 | image2 = Irving_Langmuir.jpg | width2 = 100 | caption2 = 化学者・物理学者、[[アーヴィング・ラングミュア]](1881-1957)没。[[界面化学]]を研究 | image3 = Selman_Waksman_NYWTS.jpg | width3 = 100 | caption3 = 生化学者[[セルマン・ワックスマン]](1888-1973)。[[ストレプトマイシン]]を発見 }} {{multiple image | footer = ロック歌手、[[エルヴィス・プレスリー]](1935-1977)急逝 | image1 = Elvis_Presley_1970.jpg | width1 = 80 | alt1 = エルヴィス・プレスリー | image2 = ElvisBurialSite.jpg | width2 = 80 | alt2 = 墓 }} <!-- [[Image:Parag.1452.Stroessner.jpeg|thumb|100px|[[パラグアイ]]第31代大統領[[アルフレド・ストロエスネル]](1912-2006)、亡命先のブラジルで没]] --> <!-- [[Image:Max_roach.jpg|thumb|100px|[[ジャズドラム|ジャズドラマー]]、[[マックス・ローチ]](1924-2007)]] --> === 人物 === * [[1225年]]([[嘉禄]]元年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]])- [[北条政子]]、[[源頼朝]]の正室(* [[1157年]]) * [[1291年]] - [[フリードリヒ・トゥタ]]、[[マイセン辺境伯]]の[[摂政]](* [[1269年]]) * [[1327年]] - [[ロクス]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1295年]]) * [[1358年]] - [[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]]、[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]](* [[1298年]]) * [[1419年]] - [[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1361年]]) * [[1443年]]([[嘉吉]]3年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[足利義勝]]、[[室町幕府]]7代[[征夷大将軍]](* [[1434年]]) * [[1445年]] - [[マーガレット・ステュアート|マーガレット]]、[[フランス王国|フランス王太子]]ルイ(後の[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]])の妃(* [[1424年]]) * [[1518年]] - [[ロイゼ・コンペール]]、[[作曲家]](* [[1445年]]頃) * [[1532年]] - [[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[選帝侯]](* [[1468年]]) * [[1654年]]([[承応]]3年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]])- [[伏見宮貞清親王]]、江戸時代の[[皇族]](* [[1596年]]) * [[1659年]]([[万治]]元年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]])- [[井伊直孝]]、第2代[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1590年]]) * [[1675年]]([[延宝]]3年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]])- [[八条宮長仁親王]]、江戸時代の皇族(* [[1655年]]) * [[1705年]] - [[ヤコブ・ベルヌーイ]]、[[数学者]](* [[1655年]]) * [[1732年]]([[享保]]17年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])- [[細川宣紀]]、第4代[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1676年]]) * [[1757年]]([[宝暦]]7年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])- [[徳川宗直]]、第6代[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1682年]]) * [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]])- [[志筑忠雄]]、[[蘭学者]]、[[通詞]](* [[1760年]]) * [[1861年]]([[文久]]元年7月11日)- [[岩瀬忠震]]、[[江戸幕府]][[外国奉行]]、作事奉行(* [[1818年]]) * [[1870年]]([[明治]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]])- [[小松清廉]](帯刀)、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1835年]]) * [[1875年]] - [[チャールズ・フィニー]]、[[長老派教会]]の[[牧師]]、[[第二次大覚醒]]の指導者(* [[1792年]]) * [[1886年]] - [[シュリ・ラーマクリシュナ]]、宗教家(* [[1836年]]) * [[1893年]] - [[ジャン=マルタン・シャルコー]]、[[医学者]](* [[1825年]]) * [[1899年]] - [[ロベルト・ブンゼン]]、[[化学者]](* [[1811年]]) * [[1900年]] - [[エッサ・デ・ケイロス]]、[[小説家]](* [[1845年]]) * [[1916年]] - [[ウンベルト・ボッチョーニ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1882年]])<!-- ja,fr,ru:8/16 en,IT,de,es,pl:8/17 要チェック --> * [[1920年]] - [[ノーマン・ロッキャー]]、[[天文学者]](* [[1836年]]) * [[1921年]] - [[ペータル1世 (セルビア王)|ペータル1世]]、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王]](* [[1844年]]) * [[1923年]] - [[カール・ヌードストローム]]、[[画家]](* [[1855年]]) * [[1928年]] - [[佐伯祐三]]、画家(* [[1898年]]) * [[1929年]] - [[津田梅子]]、教育者、女子英学塾(現[[津田塾大学]])創設者(* [[1864年]]) * [[1938年]] - [[ロバート・ジョンソン]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](* [[1911年]]) * [[1941年]] - [[長與又郎]]、[[医学者]](* [[1878年]]) * [[1945年]] - [[大西瀧治郎]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]]、[[軍令部]]次長(* [[1891年]]) * 1945年 - [[丸山定夫]]、[[俳優]](* [[1901年]]) * [[1946年]] - [[伏見宮博恭王]]、皇族(* [[1875年]]) * [[1948年]] - [[ベーブ・ルース]]、プロ野球選手(* [[1895年]]) * [[1949年]] - [[マーガレット・ミッチェル]]、[[小説家]](* [[1900年]]) * [[1951年]] - [[ルイ・ジューヴェ]]、俳優、(* [[1888年]]) * [[1955年]] - [[丸山幹治]]、[[ジャーナリスト]](* [[1880年]]) * 1955年 - [[吉田初三郎]]、[[鳥瞰図]]絵師(* [[1884年]]) * [[1956年]] - [[ベラ・ルゴシ]]、俳優(* [[1882年]]) * [[1957年]] - [[アーヴィング・ラングミュア]]、化学者(* [[1881年]]) * [[1959年]] - [[ワンダ・ランドフスカ]]、[[チェンバロ]]奏者(* [[1879年]]) * 1959年 - [[ウィリアム・ハルゼー]]、[[アメリカ海軍]]の[[元帥]](* [[1882年]]) * [[1968年]] - [[熊谷一弥]]、[[テニス]]選手(* [[1890年]]) * [[1972年]] - [[ジョン・バーンズ・チャンス]]、作曲家(* [[1932年]]) * [[1973年]] - [[セルマン・ワックスマン]]、[[生化学|生化学者]](* [[1888年]]) * [[1975年]] - [[カルロス・ラウール・ビリャヌエバ]]、[[建築家]](* [[1900年]]) * 1975年 - [[ウラジミール・クーツ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1927年]]) * [[1977年]] - [[エルヴィス・プレスリー]]、[[歌手]](* [[1935年]]) * [[1982年]] - [[藤田まさと]]、[[作詞家]](* [[1908年]]) * [[1987年]] - [[山階宮武彦王|山階武彦]]、元皇族(* [[1898年]]) * 1987年 - [[栗島すみ子]]、女優(* [[1902年]]) * [[1989年]] - [[岩上二郎]]、政治家、[[茨城県知事一覧|茨城県知事]]、[[自由民主党 (日本)|自民党]][[国会議員|参議院議員]](* [[1913年]]) * [[1990年]] - [[パット・オコーナー]]、[[プロレスラー]](* [[1927年]]) * [[1992年]] - [[桂文我 (3代目)]]、[[落語家]](* [[1933年]]) * [[1996年]] - [[沢村貞子]]、女優(* [[1908年]]) * [[1997年]] - [[ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン]]、[[カッワーリー]]歌手(* [[1948年]]) * 1997年 - [[プラム麻里子]]、[[プロレスラー]](* [[1967年]]) * [[2002年]] - [[アブ・ニダル]]、[[パレスチナ解放機構]]幹部(* [[1937年]]) * [[2003年]] - [[イディ・アミン]]、軍人、政治家、[[ウガンダの大統領|ウガンダ元大統領]](* [[1925年]]頃) * 2003年 - [[常倉十紀二]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[放送作家]](* [[1948年]]) * [[2005年]] - [[ブラザー・ロジェ]]、[[修道士]]・テゼ共同体創始者(* [[1915年]]) * 2005年 - [[ジョー・ランフト]]、[[アニメーター]](* [[1960年]]) * [[2006年]] - [[アルフレド・ストロエスネル]]、政治家、[[パラグアイの大統領|パラグアイ元大統領]](* [[1912年]]) * 2006年 - [[黒柳朝]]、[[随筆家]](* [[1910年]]) * 2006年 - [[アレキサンダー・ジョージ]]、[[政治学者]](* [[1920年]]) * [[2007年]] - [[マックス・ローチ]]、[[ジャズ]][[ドラマー]](* [[1924年]]) * 2007年 - [[徳山一美]]、高校野球指導者(* [[1938年]]) * [[2008年]] - [[福岡正信]]、[[自然農法]]研究者(* [[1913年]]) * [[2010年]] - [[ボビー・トムソン]]、元プロ野球選手(* [[1923年]]) * [[2011年]] - [[二葉あき子]]、[[歌手]](* [[1915年]]) * [[2014年]] - [[塚本悦郎]]、元プロ野球選手(* [[1924年]]) * 2014年 - [[木田元]]、哲学者、中央大名誉教授(* [[1928年]]) * [[2016年]] - [[田口昻]]、声優(* [[1942年]]) * [[2018年]] - [[アレサ・フランクリン]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://rollingstonejapan.com/articles/detail/28852 |title=アレサ・フランクリン自宅にて逝去、享年76歳 |publisher=Rolling Stone |date=2018-08-16 |accessdate=2020-11-11 }}</ref>、[[歌手]](* [[1942年]]) * [[2022年]] - [[後藤舜吉]]、実業家(* [[1934年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2006年]] - [[ベガ (競走馬)|ベガ]]、[[競走馬]](* [[1990年]]) * [[2011年]] - [[セイウンスカイ]]、競走馬(* [[1995年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Gozanokuribi_Daimonji2.jpg|thumb|240px|[[五山送り火]]]] {{multiple image | footer = [[ドミニカ共和国]]、3度目の独立(1865) | image1 = Dominican_Republic_%28orthographic_projection%29.svg | width1 = 140 | caption1 = ドミニカ共和国の位置 | image2 = GregorioLuperon.jpg | width2 = 100 | caption2 = 再独立の指導者、{{仮リンク|グレゴリオ・ルペロン|es|Gregorio Luperón}} }} * 共和国再興記念日({{DOM}})<!-- [[es:República Dominicana#Días festivos nacionales]]にあるので多分大丈夫、だと思うのですが --> *: [[1865年]]のこの日、ドミニカ共和国が[[スペイン]]による併合を脱し独立を回復したことを記念する祝日。 * [[月遅れ]][[お盆|盆]][[送り火]]({{JPN}}) ** [[五山送り火]]({{JPN}} [[京都市]]) **:[[京都市]][[如意ヶ嶽]](大文字山)他、五つの山で行われるかがり火。 <!-- 祭が(他の日に比べて)多すぎるような --> * [[鳥取しゃんしゃん祭]]({{JPN}}) *:[[鳥取市]]で中心街の主要道路を利用して、地元の各団体が鈴の付いた傘を使い、きなんせ節など鳥取の唄に合わせて踊る。元は県無形民俗文化財の「因幡の傘踊り」。 * [[松山踊り|備中たかはし松山踊り]]({{JPN}}) *:[[岡山県]][[高梁市]]で行われ、五穀豊穣と町家の繁栄を願って踊る。([[8月14日]]から)<!-- 8/14に載せた方が良い?(そもそもどこまで入れるか難しいですが…) --> * 木頭おどり({{JPN}}) *:[[徳島県]][[那賀郡]][[那賀町]]で行われる盆踊り。 *阿礼祭({{JPN}}) *:[[奈良県]][[大和郡山市]]の稗田[[環濠集落]]にある[[賣太神社]]で行われる、[[稗田阿礼]]の遺徳をしのぶ祭。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0816|date=2014年6月}} === 誕生日(フィクション) === <!-- * [[1915年]] - テヅカ・ユリ、特撮『[[ウルトラマンティガ]]』に登場するキャラクター * [[1971年]] - [[リック・ストラウド]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』シリーズに登場するキャラクター * [[1972年]] - [[アンディ・ボガード]]、ゲーム『餓狼伝説』シリーズ・『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』シリーズに登場するキャラクター * [[1980年]] - 雨宮ひかり、[[漫画]]『[[H2 (漫画)|H2]]』に登場するキャラクター * [[1982年]] - 田島めぐみ&一条のぞみ、ドラマ『[[だんだん]]』の主人公 * [[1987年]] - 安藤拓人(ライオセイザー)、特撮『[[超星艦隊セイザーX]]』の主人公 * [[25世紀|2405年]] - ロワ・ダントン、小説『[[宇宙英雄ペリー・ローダン]]』シリーズに登場するキャラクター (同項目が要出典のためコメントアウト)* 魔法暦24721年(西暦何年かは不明) - [[ミント]]、[[アニメ]]『[[魔法のエンジェルスイートミント]]』に登場するキャラクター (同項目では5年間出典なし。しかし最終話の季節と矛盾が生じます。ぜひ出典をお願いします!) * 生年不明 - 七海静、漫画・アニメ『[[べるぜバブ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - バッカス、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ネットミームの変態糞土方による「やったぜ」の構文が作り出された日 * 生年不明 - ベーグル、『[[ポムポムプリン]]』のキャラクター * 生年不明 - [[ミッキー・ロジャース]]、ゲーム『[[龍虎の拳]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - 武者小路叉音泰、アニメ『[[熱血最強ゴウザウラー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - リシア・ド・ノーヴァス・ユーリィ、ゲーム『[[穢翼のユースティア]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 安藤華子、漫画『[[B.B.Joker]]』に登場するキャラクター --> * 2015年 - しずな〜び、静岡で活躍する静岡県非公認キャラクター * 生年不明 - 佐倉魔美、アニメ『[[エスパー魔美]]』の主人公<ref group="注">原作では誕生日は、「獅子座で土用の丑の日」とのみ明示されている。アニメ版では京都大文字送り火の8月16日。</ref> * 2086年 - [[狡噛慎也]]、アニメ『[[PSYCHO-PASS サイコパス]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.noitamina-shop.com/event/id/972 |title= TVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス 3』 狡噛慎也 バースデーキャンペーン |publisher=ノイタミナショップ |date= |accessdate=2022-08-07}}</ref> * 生年不明 - 一色あかね、アニメ『[[ビビッドレッド・オペレーション]]』の主人公 * 生年不明 - 斉木楠雄、漫画・アニメ『[[斉木楠雄のΨ難]]』の主人公<ref>[https://twitter.com/saikikusuo_PR/status/765027582039293952 アニメ公式Twitter:2016年8月15日のつぶやき]</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#有栖川夏葉|有栖川夏葉]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/unit4/natsuha.html|title=有栖川夏葉 (ありすがわなつは)|website=アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス)|バンダイナムコエンターテインメント公式サイト|accessdate=2018-08-16}}</ref> * 生年不明 - [[海軍 (ONE PIECE)#赤犬|サカヅキ(赤犬)]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://one-piece.com/log/character/detail/Sakazuki.html |title= サカヅキ|publisher=ONE PIECE.com|date= |accessdate=2022-08-07}}</ref> * 生年不明 - うちはフガク、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=52|isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 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辻新之助、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://worldtrigger.info/article/border.php|title=キャラクター|accessdate=2020-02-29|publisher=|website=ワールドトリガー.info}}</ref> *生年不明 - 日向ゆめ、アニメ『[[ミュークルドリーミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{YouTube|c7jbEZeMF9Y|日向ゆめ<ミュークルドリーミー>}}</ref> *生年不明 - 風鈴アスミ、アニメ『[[ヒーリングっど♥プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref name="asumiprof">[http://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/character/chara9.php#charaarea キュアアース/風鈴アスミ| ヒーリングっど♥プリキュア]</ref> * 生年不明 - マッシュ・レネ・フィガロ、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート|publisher=[[NTT出版]]|year=1994|page=160|ISBN=4-87188-303-5}}</ref> * 生年不明 - 八乙女楽、ゲーム『[[アイドリッシュセブン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|url=http://idolish7.com/unit/|title=UNIT|website=【公式】アイドリッシュセブン|accessdate=2019-08-16}}※キャラクター名をクリックするとプロフィールがポップアップ表示される。</ref> * 生年不明 - ドロワット、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=113&cate=name&cont=Droite |title=ドロワット |access-date=2022-07-14 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 弥勒蓮華、ゲーム・アニメ『[[結城友奈は勇者である 花結いのきらめき]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://yuyuyui.jp/character/character27.html |title=弥勒 蓮華 |publisher=「結城友奈は勇者である 花結いのきらめき」公式サイト|date= |accessdate=2022-08-07}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|August 16|16 August}} {{新暦365日|8|15|8|17|[[7月16日]]|[[9月16日]]|[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]|0816|8|16}} {{1年の月と日}}
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京王電鉄
京王電鉄株式会社(けいおうでんてつ、英: Keio Corporation)は、東京都多摩市に本社を置く、東京都区部(23区)から多摩地域及び神奈川県北部に有する鉄道路線を運営する会社。日本の大手私鉄の一つである。略称は京王(けいおう)。京王グループの中核企業。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社。 京王という名称の由来は、東京と八王子を結ぶ鉄道であることから。また、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、1998年6月30日まで京王帝都電鉄(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝都・京帝、英称:Keio Teito Electric Railway、英略称: KTR)という社名であった。パスネットの符丁はKO。 現在の京王電鉄は、京王線を営業していた旧京王電気軌道と、小田急電鉄系列の会社で井の頭線を営業していた旧帝都電鉄という元々資本の異なる会社が、第二次世界大戦時の陸上交通事業調整法による戦時統合を経て発足した経緯があるため、それぞれ個別に記述する。 現在の京王電鉄の歴史は、1905年(明治38年)12月12日に、日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願したことにまで遡る。この時出願した路線は、官設鉄道蒲田駅から調布町、府中町を経て甲武鉄道立川駅に至る路線と、府中で分岐して内籐新宿に至る路線の二つであった。 日本電気鉄道は1906年(明治39年)8月18日、武蔵電気軌道株式会社と改称し、新たに立川村内と府中 - 国分寺間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を国領で分岐して蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。 その後、別に武蔵電気鉄道株式会社という会社が現れたため、1910年(明治43年)4月12日に、武蔵電気軌道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立され、鬼怒川水力電気取締役の川田鷹が取締役会長に、初代専務取締役(社長)に鬼怒川水力電気社長利光鶴松(小田急電鉄や帝都電鉄の創業者)の親族である利光丈平が就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は1911年(明治44年)7月4日に関係官庁より許可が出た電気供給事業のみ執り行っており、1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村に電気供給を行っていた。 そして、1913年(大正2年)4月8日に、玉川電鉄と東京電燈から買った電力を笹塚変電所 (100kW) で受けて、4月15日に笹塚駅 - 調布駅間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - 国分寺駅間の乗合自動車営業(路線バス事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、森村財閥の融資系列に入り、富士瓦斯紡績の井上篤太郎(第3代専務)、藤井諸照(会長)が経営陣に参画することになる。その後は1914年(大正3年)11月19日の京王線の新町駅(現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。また、1923年(大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、1919年(大正8年)4月には多摩川原駅前での造園事業も行った。 また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から国分寺村に、1915年(大正4年)8月から谷保村・立川村に、同年10月から小平村・田無村に、同年11月から保谷村に、1916年(大正5年)1月から拝島村に、同年2月から中神村他七カ村連合に、同年7月から神代村・和田堀内村・千歳村・高井戸村・松沢村に、1917年(大正6年)3月から三鷹村に、同年8月から砧村に、1919年(大正8年)4月から稲城村に供給した。1922年(大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500 kW の受電を開始し、1923年(大正12年)3月から狛江村への電気供給を開始した。 一方、府中駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間は、1922年(大正11年)に設立された京王の関連会社である玉南電気鉄道株式会社によって1925年(大正14年)3月24日に営業を開始した。これは国からの補助金を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を軌道法に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した地方鉄道法に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の中央本線に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。 その後、1926年(大正15年)12月1日に京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併し、資本金1290万円の会社となる。1927年(昭和2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067 mm から1,372 mm へ改軌する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は1928年(昭和3年)5月22日のダイヤ改定まで続いた。 1931年(昭和6年)3月20日には、初の支線である御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通し、1932年(昭和7年)4月の高尾登山鉄道との連帯運輸の開始を皮切りに、帝都電鉄、省線電車などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道の軌道線も1938年(昭和13年)6月1日に買収し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、翌1939年(昭和14年)6月30日をもって休止、同年廃線にしている。 後の1937年(昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力に移り同社専務の穴水熊雄が社長に就任、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅 → 桜上水駅、上高井戸駅 → 芦花公園駅、多磨駅 → 多磨霊園駅、関戸駅 → 聖蹟桜ヶ丘駅、百草駅 → 百草園駅、高幡駅 → 高幡不動駅、多摩川原駅 → 京王多摩川駅など観光地であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれており、一定の先見の明があった施策といえる。 また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央電気鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の京王堀之内駅・南大沢駅周辺の地域名称) - 相模原駅間で運行)の買収を行っている。 他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月に不動産事業を開始した。 しかし、第二次世界大戦の勃発で、1942年(昭和17年)前半には、陸上交通事業調整法に基づき、東京市内のバス路線を東京都へ譲渡したほか、配電統制令により電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡することとなり、経営に大打撃を被る。そして、1944年(昭和19年)5月31日には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、大株主であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった東京急行電鉄へ株式を譲渡することとなり、いわゆる大東急の一員となる。京王は東急に吸収合併され、京王電気軌道は法人としては解散・消滅した。この合併で、会長の井上篤太郎は東急相談役に、井上の片腕であった取締役の後藤正策(後に京王帝都電鉄取締役)と、社長の穴水熊雄の次男穴水清彦(後に相模鉄道社長・会長)は、東急取締役に就任した。 一方、井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の帝都電鉄株式会社が同社の渋谷線として1933年(昭和8年)8月1日に渋谷駅 - 井の頭公園駅間を開業させ、1934年(昭和9年)4月1日に吉祥寺駅まで全通させたものである。 元々、同社は1928年(昭和3年)9月24日に設立された鬼怒川水力電気系列の東京山手急行電鉄株式会社がそもそもの母体である。1930年(昭和5年)11月15日に東京郊外鉄道株式会社と社名を変更して、1931年(昭和6年)2月1日には1927年(昭和2年)7月に設立されていた渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、同社が計画中の渋谷線を継承した。そして、1933年(昭和8年)1月19日に帝都電鉄株式会社に改称した。理由は1932年(昭和7年)10月1日に沿線町村のほとんどが東京市に合併されたことにより、「郊外」の社名がふさわしくなくなったからとされている。 また、同社は1935年(昭和10年)には乗合自動車事業も開始したが、1940年(昭和15年)5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道株式会社に合併され、小田原急行鉄道帝都線となる。さらに1941年(昭和16年)3月1日には親会社である鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し、小田急電鉄株式会社に改称、小田急電鉄帝都線となる。そして1942年(昭和17年)5月1日には陸上交通事業調整法の趣旨に則り、小田急電鉄株式会社は京浜電気鉄道株式会社と共に東京横浜電鉄株式会社に合併し、東京急行電鉄株式会社(いわゆる大東急)の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線に改称される。 なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸の電力部門を電力国家管理政策に基づき国家へ取り上げられた上、中華民国の山東半島への鉱業進出が裏目に出て経営が悪化し、先行きが暗かった。加えて、経営者である利光鶴松が高齢を理由に、小田急の経営一切を自分が見込んだ東京横浜電鉄の五島慶太に託して引退。事実上同社に身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄の場合、京王電気軌道と異なり、あくまで自主的に統合に加わったのであった。 第二次世界大戦中、京王線も井の頭線も、大東急の路線となった。 京王線は、東京急行電鉄京王営業局(→京王管理部→京王支社)によって、井の頭線は東京急行電鉄新宿営業局(→新宿管理部→渋谷管理部→渋谷支社)によって、それぞれ営業が行われた。しかし、戦局が悪化する中、京王線・井の頭線ともに空襲などで様々な被害を受けた。とりわけ井の頭線は永福町車庫が被災して壊滅に近い状態となった。また、京王御陵線は「不要不急線」と判断され、営業休止(事実上の廃線)に追い込まれた。大東急時代に、空襲被災のため、陸軍工兵隊を動員したターミナル駅の京王新宿駅を新宿三丁目から西新宿へ移転したほか、軌道から地方鉄道への変更が行われ、中央本線八王子駅への乗り入れ計画など(実現せず)、京王線の体質改善が計画されたが、間もなく、大東急は分割再編成に向かう。 第二次世界大戦も終結し、京王線と井の頭線は、京王帝都電鉄株式会社の下で営業されることとなる。東京急行電鉄が、新たに新設した子会社・京王帝都電鉄に、事業と資産の一部を譲渡する分離方式が採られた。京王帝都電鉄は、分離の翌期に株式市場に上場して、金融機関などの他の株主資本が入ることで独立を果たした。 元来、京王電気軌道も、帝都電鉄も鬼怒川水力電気の利光鶴松が企図した事業であったが、その後の沿革が異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ路面電車当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われたこと、東都乗合自動車(現・国際興業バス)や藤沢自動車(現・神奈川中央交通)、中野乗合自動車(現・関東バス)などのバス会社や観光事業であった京王閣などの有力系列会社が傘下から離れていったことに起因する。 京王線は、京急線や小田急線とは違い、高速鉄道化が遅れ、車両や鉄道用地の規格が小さく、戦災による被災車両が発生しても、他線からの車両の融通や、新製車両の配備も行われなかった。また東急本社も、車両、線路、設備の改良や新規の投資も行う余裕がなく、京王線は東急合併のメリットを享受できなかった。いわば、戦前の経営を支えた付帯事業を失い、戦災被害を受けたままの鉄道事業のみで自立しなければならない現状であった。そのため、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたのである。 実際に井の頭線を路線に加えるように推進したのは、当時の東急京王支社長の職にあった井上定雄(後の京王帝都電鉄社長)であり、五島慶太はむしろこの案にためらったと言われる。京王線と井の頭線は沿線が重複し、合体することで強固な経営基盤が築け、また井上は帝都電鉄出身であったため、自分の案なら古巣の井の頭線の連中も十分説得できると自信を持っていたとされる。井の頭線は駅の過半数が京王線以北にあることから、多くの沿線住民にとって京王の管轄の方が便利でもあった。 東急からの譲受価格は総額5115万2800円で、前述の事情から、鉄道事業の補填のため、東京横浜電鉄が戦前経営していた京王線以北の乗合バス路線も京王帝都電鉄が譲り受けた。このほか、初代社長に東急(目黒蒲田電鉄)生え抜きの三宮四郎が就任したこともあり(なお、新生小田急の初代社長は旧小田急出身の安藤楢六、京急初代社長は京浜電鉄出身の井田正一だった)、京王電気軌道の復活と言うよりは、新たな合併私鉄が誕生した趣きで再出発を期した。 当初の経営状況は不安定であった。1948年度は現在の「大手私鉄」の中でも収益は最下位で、1949年の『会社四季報』にも、「(東急系)四社の中で一番劣る」「前途は芳しくない」「労資関係も良くない」「発展性は薄い」などと酷評される有り様であった。 戦災復旧、設備の改良など、巨額の投資を余儀なくされた一方、国鉄下河原線の払い下げ出願(実現せず)、競馬場線の建設計画のほか、収支改善のために、バス事業など付帯事業の強化を推進し、1955年(昭和30年)の高尾自動車株式会社の買収を始めとしたバス事業に本腰を入れる様になると共に、1956年(昭和31年)の京王百花苑(現・京王フローラルガーデンANGE)の開園や1959年(昭和34年)の京王食品株式会社(現・京王ストア)、1961年(昭和36年)の京王百貨店の設立など、沿線価値を上げる事業も開始した。 また、1960年代には、新宿地下駅の営業開始など、軌道線イメージからの脱却にも力を入れた。またレジャー輸送を主にする競馬場線・動物園線・高尾線を開通させたほか、1970年代には多摩ニュータウンへのアクセス路線として相模原線を開業。1980年には東京都交通局(都営地下鉄)新宿線との相互直通乗り入れを開始するなど、発展の道を歩んだ。 なお、1960年頃にはこの他にも数多くの路線を建設しようとしており、立川線(富士見ヶ丘駅 - 西国立駅)、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - 三鷹駅)、両国線(新宿駅 - 神楽坂駅 - 飯田橋駅 - 九段下駅 - 東京駅 - 日本橋駅 - 浜町駅 - 両国駅)の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。 1980年代にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、第6代社長に京王帝都電鉄総合職1期生の桑山健一が就任し、経営の引き締めにつとめ、平成不況の過程で同業他社が不動産価格下落・流通不振・旅行低迷などに見舞われるのを尻目に、財務体質は強固なものに変わっていった。桑山は、京王帝都電鉄設立以来、会社のたゆまぬ経営努力にもかかわらず、常に財務状況が脆弱であったことを嘆き、財務体質の強化を志しての社長就任となった。桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げ、京王グループ全体の経営改革と付加価値向上に努めた。後継社長には、財務のプロである住友信託銀行の西山廣一常務を招聘し、桑山の意を受けた西山は在任中、経営改革を成し遂げた。 1998年(平成10年)7月、京王帝都電鉄は、会社設立50周年記念として、京王電鉄株式会社へ改称した。 路線開通などはないものの、連続立体交差事業の推進を働きかけたり、パスネット、PASMOの導入に伴う積極的な機器の導入、待合室や新型ベンチの早期導入など、「乗客が利用しやすい鉄道」を目指している。 京王電鉄は大手私鉄の中でも優良な経営状況であったが、2020年以降は、新型コロナウイルス感染症で乗客が減るなどの影響を受け、2021年3月期決算は京王を含む首都圏大手私鉄5社全てが最終赤字となった。 京王電気軌道創立時は「K」、変更後は「京王」を図案化した社章を使用していた。大東急時代を経て京王帝都電鉄として独立した際に制定されたのが先代社章で、図案化した「京」と車輪を表す円を重ね、社員の協力体制を象徴していた。 現在の社章はコーポレートロゴマークとも呼ばれ、1989年(平成元年)に制定された。京王グループのシンボルマークも兼ねており、新しい“KEIO”を強く印象付けるため社名を前面に出した意匠を採用し、斜体にすることでスピード感やダイナミックさを表現している。デザインはカラーとモノクロの2種が設定されており、モノクロ版はカラー版の色が異なる部分を6本のストライプにすることでアクセントをつけている。 京王電鉄は、6路線84.7kmの鉄道路線を有するが、先述した通り、大きく分けて京王線系統と井の頭線の2つのグループから構成されている。 相模原線を延長開業させた1975年初頭時点で、当時の京王帝都電鉄の営業キロは75.8kmとなった。一方で、阪神電気鉄道が国道線の廃止を開始した1969年度初頭時点での営業キロは74.9kmあったものが、北大阪線・国道線・甲子園線を全廃した1975年5月6日に一挙に41.0kmとなった。阪神の営業キロは1969年に国道線西灘駅 - 東神戸駅間0.9kmを廃止した当時でも74.0kmであったのが、1973年の甲子園線の休止区間浜甲子園駅 - 中津浜駅間0.8km、1974年の国道線上甲子園駅 - 西灘駅間14.4kmの廃止で休止区間を含めても58.8kmとなった。1974年度初頭当時の京王の路線総延長は66.0kmであったため、同年10月の相模原線京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間9.8kmの延長開業および翌1975年の阪神国道線とその支線区の全線廃止を待たずに京王と阪神が逆転し、大手私鉄最短営業距離の座を阪神に譲ることとなった。 京王線系統の軌間は1,372 mmのいわゆる「馬車軌間」である。これは京王線系統の元となった京王電気軌道が地方鉄道法ではなく軌道法によって建設されたことに起因する。つまり、京王線は路面電車由来の路線であり、これが都電荒川線や東急世田谷線といった軌道法に準拠して建設された路線と同様の軌間を持つ理由である。現在、大手私鉄の鉄道路線の中では唯一、1,372 mmの軌間が用いられており、全国的にも珍しい。 なお、この軌間を持った大手私鉄は過去には京成電鉄と京浜急行電鉄(当時は京浜電気鉄道)が存在した。これも軌道線を出自に持つ鉄道である。いずれにしても、これらは馬車軌間であった東京市電への乗り入れを考慮しての軌間の選択ということができる。ただし京王線と東京市電の接続はなかったが、戦時中に下高井戸駅で現東急世田谷線(当時は玉川線支線)と京王線を接続して物資輸送を行ったことがある。 1950年代になり、監督官庁からの要請や、都営新宿線乗り入れに向けて標準軌 (1,435 mm) に改軌することも検討され、1960年代に製作された5000系(初代)や2010系車両は、標準軌対応台車の採用など、標準軌への改軌を考慮した設計がされていた。しかし莫大な費用が掛かることや、長期の輸送力低下を要することから実現は困難とされ、都営新宿線を京王線に合わせて1,372 mm軌間で建設することになった。 帝都電鉄に由来する井の頭線の軌間は、狭軌の1,067 mmである。 以下は帝都電鉄時代に失効。 駅の管理は管区制を採用しており、7つの管区に分けて駅の運営を行っている。各管区の管理駅は以下の通りである(括弧内は管区長所在駅)。 かつては、現在よりも管区が細分化されていた。また、管区毎に色が設定されており、所属駅にはその色が壁などに線で表示されていた。また、旧管区長所在駅(吉祥寺駅、千歳烏山駅、府中駅、京王八王子駅、橋本駅など)には助役が配置されている。 2020年度は「1日の駅別乗降人員」(京王グループ公式サイト)より。それ以外は「関東交通広告協議会」、「東京都統計年鑑」、「神奈川県統計要覧」より。 は右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。 京王線・井の頭線とも通勤・通学輸送に特化している事情から、1948年の発足以来、導入車両は全てロングシート車のみであった。戦前、京王電軌時代にはクロスシート車として150形(後のデハ2150形)が運用されていたが、1938年にロングシートに改造された。また初代の5000系にも特急車両としての設備からボックス席を設ける構想が何度かあったが、ラッシュ対策で見送りになっている。所有車両が全車ロングシートなのは大手私鉄では京王電鉄だけであったが、京王グループの中期経営計画「京王グループ中期3カ年経営計画(2015-2017年度)〜向上と拡大に向けて〜」に有料座席列車導入の検討を行うことが盛り込まれ、この有料座席列車に使用する79年ぶりのクロスシート車両として5000系(2代目)が2017年9月29日より運用を開始した。 現在の京王線と井の頭線では形式・車両デザインとも共通性が無いが、かつて一時期、共通性が発生したことがあった。井の頭線用の1700形・1710形・1800系の一部が1965年(昭和40年)頃から京王線に転用されたことがあるほか(現在は廃車)、1957年に登場した初の高性能車である井の頭線初代1000系と京王線2000系では外観のデザインが同一となった(こうした展開は他社では、現在でも阪急電鉄や近畿日本鉄道に見られる)。しかし次世代形式として登場した、1962年製造の井の頭線用3000系初期車は1000系・2000系とデザインの流れが似ており、1963年製造の京王線用初代5000系も1000系・2000系とデザイン(ドアや窓の配置)が似ていたものの、両開きドアやワイドボディに変更された3000系第3編成以降と5000系は全く別系統のデザインとなった。やがて京王線用の6000系など、さらに次世代形式が製造されると、両線でのデザインの隔たりはいっそう大きくなった。井の頭線用に1995年から製造された二代目1000系では、車両の仕様が京王線の8000系(1992年から製造)や9000系(2001年から製造)と近くなったものの、正面デザインや塗装においては、京王線と井の頭線はいまだ別系統の流れを歩んでいるといえる。 井の頭線は1962年という早い時期から3000系でステンレス車体を採用する一方、京王線は普通鋼車体という作り分けが長く続き、京王線でステンレス車体が採用されたのは1984年の7000系からである。こうした路線による車体鋼材の使い分けが長く行われた他の大手私鉄としては、南海電気鉄道(南海本線と高野線)が存在する。なお、保有車両は事業用車両を含めて全てステンレス車体で統一されており、関東大手私鉄では唯一、アルミ車両の導入実績がない。 集電装置については、全車両がシングルアーム式パンタグラフであるが、総合高速検測車の検測用パンタグラフには下枠交差形が採用されている。1000系、3000系、8000系で長期に渡りシングルアーム形を試験搭載していた後、9000系から本格採用され、従来車に対してもシングルアーム式パンタグラフに換装した。過去には京王線系統での高速運転時の集電性向上を目的として、井の頭線3000系と京王線系統の車両でパンタグラフの換装が行われて、京王線系統はPT42形に統一してPS13形を井の頭線に集約したことがある。 京王線系統の車両は、乗り入れの都営車を含めて全先頭車に密着連結器と電気連結器を装備する。1967年(昭和42年)の高尾線開通に伴う分割特急開始時に5000系に装備したのが始まりである。井の頭線車両は密着自動連結器を装備する。 現在使用されている車両の運転台は、乗り入れ車を含め力行4段・常用制動7段のT型ワンハンドルマスコンに統一されており、ATS照査速度(低速域を除く)が速度計の周りに表示される。9000系、1000系11編成以降の新造車は高運転台構造となっている。 ATC導入以前は、動物園線・競馬場線列車を除き、営業列車の先頭に立つ運転台には原則としてTNS(トレインナビゲーション装置)というディスプレイ装置が設置されており、次の停車駅等を表示していた。この画面にはアナログ表示の時計も表示される(TNS導入の経緯については「京王8000系電車」の運転台の節を参照のこと)。なお、京王線は2011年10月、井の頭線は2013年3月にATCに切り替えたため、使用停止となり、順次撤去されている。 現在は、ATCの停車駅誤通過防止機能による列車種別・停車駅の表示器が設置されている。 空気笛(タイフォン)は、上りと下りで周波数が異なり(他社では東武鉄道でも同様)、下りの方が高くなっている。電気笛は京王線と井の頭線で異なるタイプを使用している。 かつては全線に渡って独自のATS(多変周式信号ATS)を採用していた。信号現示における速度制限は、絶対停止0km/h・警戒25km/h・注意45km/h・減速75km/h、進行の5種類で、制限速度はATCのように運転台の速度計の外周に表示される。絶対停止で停車した場合、確認スイッチを操作することで最高15km/hで走行が可能になる。この確認スイッチは絶対停止用のもので、前方の信号機の現示が上位しても地上子を通過するまでは照査する速度を変えることはできない。 運転保安度向上の一環として京三製作所製のATC(京王ATC)の導入が決定し、設置工事が行われ、2010年3月から相模原線で先行導入し、2011年10月から京王線系統(京王新線・競馬場線・動物園線・高尾線を含む)、2013年3月から井の頭線で使用されている。近隣の鉄道では同時期に東武鉄道も東武東上本線より順次ATC化される。 都営新宿線での(旧)ATC機器との干渉のため、インバータ制御車の新宿線への乗り入れはできなかったが、2005年5月のデジタルATC化に伴い解禁され、2006年3月よりそれまでの6000系(6030番台)8両編成、8両+2両の10両編成に加えて9000系(9030番台)の10両編成が直通運用に当たっている。 相模原線の若葉台駅、京王線の桜上水駅と高幡不動駅、井の頭線の富士見ヶ丘駅の4か所に車両基地が設けられており、桜上水駅以外のそれぞれに併設している検車区で管理・修繕を行っている。なお全般・重要部検査および大規模な修理や改修の業務は若葉台駅にある若葉台工場にて行っている。井の頭線車両についても富士見ヶ丘検車区内の若葉台工場富士見ヶ丘作業場で車両の機器を取り外して、車体等は富士見ヶ丘で、それ以外はトラックで陸送して若葉台で行われる。若葉台工場は京王電鉄内の事業子会社化に伴い、子会社の京王重機整備の施設としても稼動している。 前照灯は現在では終日点灯である。急行系列車(京王では各停以外の種別を優等列車とは呼ばない)では、新宿線内も含め先頭車は通過標識灯(急行灯)を点灯させる。信号システム上は「普通列車」として運行する、急行系列車の各駅停車区間では通過標識灯を消灯する。また通過標識灯が上下分離している場合、窓上が通過標識灯、窓下が尾灯であることがほとんどだが、3000系と5000系までの京王は、窓上が尾灯で窓下が通過標識灯であった。上下逆になっていた大手鉄道は京王だけである。 2001年3月のダイヤ改定で車両の運用方針を変更するまでは各駅停車には7000系と2010系以前の車両が使用され、急行系列車には5000系・6000系・8000系が充当されていたが、現在では7000系も急行系の列車に充当されており、種別ごとに使用形式を限定していない。 8000系1次車まではシルバーシートと呼称され、位置も下り方(井の頭線は上り方)の車端部だった。5両編成以下は編成内1か所、6両編成以上は編成内2か所だったが、複数編成が組み合わさった場合はこの限りではなく、例えば6両編成と4両編成が合わさった10両編成は3か所となる。 8000系2次車より、各車両に設置されるようになった。この頃より、シルバーシートから優先席へと呼称が変更されている。同時に車外のステッカーも当該部分の窓上(7000系と8000系は車端部)から当該部分の戸袋とドアの間に変更されたため、サイズも小さくなっている。設置場所も現在と違って、奇数号車は上り方海側(下り列車の進行方向左手サイド)車端部、偶数号車は下り方山側(下り列車の進行方向右手サイド)車端部である。既存車も随時このパターンへと変更されたが、当然のことながら3両編成・5両編成ではパターンが異なる。 2000年8月より、優先席付近を携帯電話OFF区域とするのに合わせて、従来の優先席の向かいの座席も優先席となる(ステッカーは透明)。 2006年1月から優先席を先頭車の運転台部分を除く各車車端部に拡大し、同時に優先席付近一帯を「おもいやりぞーん」とした。合わせて吊輪のオレンジ色化、室内側の壁や窓にステッカー貼付、車外ステッカーの拡大と位置変更(戸袋あり車両は戸袋部に貼付)が行なわれている(ステッカー色は黄色)。 2015年10月からは、携帯電話の使用について「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」から「優先席付近では、混雑時には携帯電話の電源をお切りください」に変更した(ステッカー色は青、東京地下鉄(東京メトロ)や東急電鉄等で使用されているものと同タイプのステッカーを使用)。 5000系は他形式同様に車端部に優先席が設定されているが、京王ライナーとして運用する際にはこれらの座席も指定席として販売している関係上、京王永山駅、府中駅から先の無料開放区間においても優先席としての取り扱いは行わない。 中央線における「婦人子供専用車」の1973年の廃止以後で、全国に先駆け女性専用車両を復活させた。2000年12月7日に試行的に導入され、2001年3月27日のダイヤ改定以降本格的に導入された。新宿駅を23:00以降に発車する急行系の列車で実施されている。その後2005年5月9日からは平日の朝(京王線新宿駅と新線新宿駅に7:30 - 9:30に到着する準特急・急行・通勤快速)・夕方・夜(京王線新宿駅を18:00 - 22:40に発車する特急・準特急)・深夜(京王線新宿駅を22:50以降に発車する急行・通勤快速・快速)にも拡大されている(当面は試験導入)。その後、深夜帯に特急を走らせる様になってからは、下り列車においては急行以下の種別での設定を取りやめている。また、ダイヤ乱れによって8両編成が充当される場合や、京王ライナーでの設定も行っていない。 警視庁などからの要請により2011年2月28日から客室内に防犯カメラが設置された。日本の通勤用車両では埼京線の205系電車、横浜新都市交通2000形電車についで、3番目の事例である。防犯カメラは7000系電車の1編成の6号車に4機設置され、3月下旬からさらにもう1編成にも設置され、2編成で防犯カメラが運用されている。 2017年9月営業運転開始の新5000系電車には全車両に防犯カメラが1両につき4台設置されている。 2022年2月1日、2021年10月31日に走行中の車内で起きた傷害事件(京王線刺傷事件)を受けて、リアルタイム伝送機能を持つ車内防犯カメラを、2023年度末を目途に全車両に設置予定だと発表した。 2017年度末時点で事業用車を除くと京王線用736両、井の頭線用145両、計881両を保有する。各系列の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。 2012年9月7日に、大手私鉄では初となる全営業車両のVVVFインバータ制御化を達成した。現在では事業用車両を含め所属する全ての車両がVVVFインバータ制御である。 営業用 事業用 地方私鉄への車両譲渡はあまり行われていなかったが、5000系や3000系の廃車が始まると、18m車体という手頃さから、譲渡が多数発生した。 営業用 事業用 電動車は運転台の有無に関わらず「デハ」を用いる。これは東京急行電鉄と合併した大東急時代に定められたもので、合併した他社もほぼ同様である。なお、制御車(制御付随車)は「クハ」、付随車は「サハ」を用いる。 十位と百位は1000系(初代)・2000系(2代目)以降、以下のように分類される。 系列によっては20番台や30番台が存在するが、それについては各系列記事を参照されたい。 京王電鉄ではダイヤ改正のことを2013年2月22日改定までは「ダイヤ改定」と呼んでいた(ただし、2001年3月27日のダイヤ改定まではパンフレットなど一部に「ダイヤ改正」の表記を使用していた)。改めたダイヤが利用者全てに正しいダイヤとは限らない等の理由からである。「ダイヤ改定」の呼称は、京王電鉄のほかに、2000年代の京阪電気鉄道でも見られた。 現在は京王線・井の頭線で同時にダイヤ改正が行われているが、1990年代までは別々に行われたことがしばしばあった。 2006年8月31日までのダイヤにおいて、平日ダイヤと土休日・祭日ダイヤのほかに土休日・祭日シーズンダイヤも存在した。シーズンダイヤは4 - 6月・9 - 11月に設定され、都内でも貴重な自然の残る高尾山への行楽客向けや、この時期にほぼ毎週GIレースが行われる東京競馬場への観戦客向けとして利用客を見越した時間帯に臨時列車を運行していた。現行の高尾線方面のダイヤでは、土休日の下り列車はほぼ終日で新宿方面から準特急として高尾山口駅まで運行する系統と、京王八王子駅行の特急(北野駅の同一ホームで各駅停車高尾山口駅行に接続)の交互の運転に、上り列車は早朝1本を除くほぼ終日で、高尾山口駅から準特急新宿駅行の系統と、各駅停車新宿駅行(北野駅で京王八王子駅発の特急に乗り換えることによって新宿方面に先着可能)を交互に運行するダイヤに改められている。競馬場線関係では、東京競馬開催時の一部時間帯に上下の特急と準特急を東府中駅に臨時停車させたり、メインレース終了後に府中競馬正門前駅発新線新宿駅行や飛田給駅行の臨時急行の運転を行ったりしている。 以前は休日ダイヤの下り特急・急行で高幡不動で切り離しが行なわれていたため、相互の行先の車両内を識別するため、吊り輪の色を白と緑の2色に分け、車内放送でも「前x両の白い吊り輪の車両が○○行、後y両の緑の吊り輪の車両が●●行です」とアナウンスしていた。 京王線系統では途中駅で種別変更を行う列車が存在する。発車時の種別で運行する区間での案内表示は、終着駅と発車時の種別を表示した上で、種別変更する駅名と変更後の種別を別に知らせるようになっている。2018年2月21日までは、発車時の種別で運行する区間の終点を行先として表示し、その駅に到着後に新しい種別・行先に変更していた。 保安装置がATS時代はTTCの関係で最大列車種別数の設定に制約があった(同時に6種別までの列車種別しか設定できなかった。2001年に準特急を設定した際には1992年に廃止した通勤急行の枠を使用して対処した)が、ATC化と同時にTTCも更新されたため、この制約は緩和され、2018年より後述の「京王ライナー」が設定され7種別体制となった。 各駅停車は過去には普通と称していたが、現在は正式な列車種別名を各駅停車に改めている。 京王電鉄は2015年の中期3カ年経営計画(2015年度〜2017年度)で、有料座席指定列車導入の検討を始めたことを発表しており、2016年3月16日には2018年春より5000系 (2代)を充当する形で、平日及び土休日の夜間帰宅時間帯に、京王線新宿発京王八王子行および橋本行のそれぞれ片道のみにおいて運行することが正式に発表された。 2017年4月27日から5月19日まで、この有料座席指定列車の愛称投票を実施し、京王電鉄の新サービスであることをシンプルに表現した「京王ライナー」、「smart(気の利いた)」サービスを表現した「京王スマートライナー」、「prime(最上の)」サービスを表現した「京王プライムライナー」、「luxury+express(贅沢な・急行列車)」からの造語である「Luxpress(ラクスプレス)」、「west+star(東京都西部を走行・人気)」からの造語である「WESTAR(ウェスター)」の5つの候補の中から、最多得票約6,300票(総数約2万4,000票)を獲得した「京王ライナー」に決定したことが2018年1月24日に発表された。同年2月22日のダイヤ改正より運行を開始している。 京王ライナーの送り込みは、平日は回送となっているが、休日は東京競馬場での中央競馬開催日(特に最も混雑する日本ダービー(東京優駿)等のGIレース開催日)と、中山競馬場での開催ながら東京競馬場での場外発売では最も来場者が多い有馬記念の開催時限定で、府中競馬正門前発京王線新宿行き臨時準特急(東府中駅臨時停車)となっている。 2018年11月には、高尾山観光客向けとして、京王ライナー用の5000系を使用し、臨時列車扱いで高尾山口発の座席指定列車「Mt.TAKAO号」京王線新宿行が運転されている。 2021年10月30日から、土休日のみ「Mt.TAKAO号」「京王ライナー」はともに明大前駅に停車する。なお、平日は通過(運転停車)する。 2022年3月12日に行われるダイヤ改正より、平日においても明大前駅が停車駅に追加された。また「Mt.TAKAO号」は通年運転となった。 京王線・高尾線・相模原線では通勤車による特急を運転しているが、特急料金は不要である。 かつては行楽特急列車に「高尾」(高尾山口行)と「陣馬」(京王八王子行)の愛称を付与していたが、現在はその愛称はない。これに代わって最近では「迎光EXPRESS かがやき」が年末年始の終夜運転時に運行されていた。京王ライナー運行開始後は、京王ライナー「迎光」号での運行となっている。 最高速度は京王線が1971年4月に95km/hから105km/hとなったのち、相模原線が1997年12月に、京王線調布駅 - 京王八王子駅間が2001年3月にそれぞれ110km/hに引き上げられている。 2012年8月19日の調布・布田・国領駅地下化に伴うダイヤ改定で、特急が休止されていたが、停車駅に分倍河原駅と北野駅を追加した上で2013年2月22日から運転を再開した。 2001年3月27日からは京王線・高尾線で(2015年から相模原線にも)「準特急」が運行されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で特急と統合されて廃止された。 大人普通旅客運賃。ICカード利用時は1円単位、切符の運賃は10円単位である(小児半額。端数はICカードの場合、1円未満の端数を切り捨て、切符の場合は10円未満の端数を10円単位に切り上げる)。2023年(令和5年)10月1日改定。 1997年12月28日、戦後初の運賃実質引き下げを行った。特定都市鉄道整備積立金による特定都市鉄道整備事業の完了のため、積立金分を取り崩して運賃を改定したことで、実質全区間で値下げとなった。積立金の還元は2007年12月28日まで行われ、制度の趣旨からは還元終了時に通常運賃に戻す値上げを行うことで帳尻を合わせる仕組みとなっているが、実際には期間経過後も2014年4月1日・2019年10月1日に消費税率引き上げ分を転嫁したのみで、2023年10月1日の改定までこの運賃水準を維持していた。 かつては相模原線京王多摩川 - 橋本間に加算運賃が設定されていたが、建設事業費の回収が進んだことにより2018年3月17日に1回目、2019年10月1日に2回目の引き下げが行われたのち、2023年10月1日の運賃改定に合わせて全廃された。 京王電鉄を中心に54社で構成され、鉄道・バス・タクシーの交通・運輸業、小売・流通業、不動産業、レジャー・サービス業などを展開する。グループ全体の売上高(連結決算)は約4162億円、従業員は約2万人。 京王電鉄本体はグループ戦略を立案・推進するほか、事業創造部といった新規事業を開発する部署がある。このため、民泊やサテライト・オフィス貸出(テレワーク)のように鉄道以外の事業に京王電鉄本体が進出し、運営や場所の提供をグループ会社が担う場合もある。 岐阜県高山市で2021年4月23日からMaaS事業を始めるなど、次世代の移動サービス開発・進出や関東以外の地方での事業展開を進めている。 京王では他の大手私鉄と異なり、ゲームソフトや列車前面展望映像などの商品化許諾は消極的だった。2017年7月以降は積極的になりにアネックから展望映像作品が、ビコムから「京王電鉄全線 前編 京王線・高尾線&競馬場線&動物園線 4K撮影」と「京王電鉄全線 後編 京王線・相模原線&井の頭線 4K撮影」が発売された。ただし、A列車で行こうシリーズでは京王の所有車両も収録されているゲームソフトもあり、2011年に京王アートマンが発売したDVD「カラフル!不滅の京王井の頭線3000系」には井の頭線の前面展望映像が、2013年にメディアックスの「京王電鉄完全データDVDBOOK」付録DVDには京王線の前面展望映像がそれぞれ収録されているので、許諾商品が全くない訳ではなかった。 なお、鉄道模型など、その他の鉄道グッズの商品化許諾は基本的に実施している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京王電鉄株式会社(けいおうでんてつ、英: Keio Corporation)は、東京都多摩市に本社を置く、東京都区部(23区)から多摩地域及び神奈川県北部に有する鉄道路線を運営する会社。日本の大手私鉄の一つである。略称は京王(けいおう)。京王グループの中核企業。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "京王という名称の由来は、東京と八王子を結ぶ鉄道であることから。また、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、1998年6月30日まで京王帝都電鉄(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝都・京帝、英称:Keio Teito Electric Railway、英略称: KTR)という社名であった。パスネットの符丁はKO。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在の京王電鉄は、京王線を営業していた旧京王電気軌道と、小田急電鉄系列の会社で井の頭線を営業していた旧帝都電鉄という元々資本の異なる会社が、第二次世界大戦時の陸上交通事業調整法による戦時統合を経て発足した経緯があるため、それぞれ個別に記述する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の京王電鉄の歴史は、1905年(明治38年)12月12日に、日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願したことにまで遡る。この時出願した路線は、官設鉄道蒲田駅から調布町、府中町を経て甲武鉄道立川駅に至る路線と、府中で分岐して内籐新宿に至る路線の二つであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本電気鉄道は1906年(明治39年)8月18日、武蔵電気軌道株式会社と改称し、新たに立川村内と府中 - 国分寺間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を国領で分岐して蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、別に武蔵電気鉄道株式会社という会社が現れたため、1910年(明治43年)4月12日に、武蔵電気軌道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立され、鬼怒川水力電気取締役の川田鷹が取締役会長に、初代専務取締役(社長)に鬼怒川水力電気社長利光鶴松(小田急電鉄や帝都電鉄の創業者)の親族である利光丈平が就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は1911年(明治44年)7月4日に関係官庁より許可が出た電気供給事業のみ執り行っており、1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村に電気供給を行っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そして、1913年(大正2年)4月8日に、玉川電鉄と東京電燈から買った電力を笹塚変電所 (100kW) で受けて、4月15日に笹塚駅 - 調布駅間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - 国分寺駅間の乗合自動車営業(路線バス事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、森村財閥の融資系列に入り、富士瓦斯紡績の井上篤太郎(第3代専務)、藤井諸照(会長)が経営陣に参画することになる。その後は1914年(大正3年)11月19日の京王線の新町駅(現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。また、1923年(大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、1919年(大正8年)4月には多摩川原駅前での造園事業も行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から国分寺村に、1915年(大正4年)8月から谷保村・立川村に、同年10月から小平村・田無村に、同年11月から保谷村に、1916年(大正5年)1月から拝島村に、同年2月から中神村他七カ村連合に、同年7月から神代村・和田堀内村・千歳村・高井戸村・松沢村に、1917年(大正6年)3月から三鷹村に、同年8月から砧村に、1919年(大正8年)4月から稲城村に供給した。1922年(大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500 kW の受電を開始し、1923年(大正12年)3月から狛江村への電気供給を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一方、府中駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間は、1922年(大正11年)に設立された京王の関連会社である玉南電気鉄道株式会社によって1925年(大正14年)3月24日に営業を開始した。これは国からの補助金を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を軌道法に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した地方鉄道法に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の中央本線に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後、1926年(大正15年)12月1日に京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併し、資本金1290万円の会社となる。1927年(昭和2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067 mm から1,372 mm へ改軌する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は1928年(昭和3年)5月22日のダイヤ改定まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)3月20日には、初の支線である御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通し、1932年(昭和7年)4月の高尾登山鉄道との連帯運輸の開始を皮切りに、帝都電鉄、省線電車などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道の軌道線も1938年(昭和13年)6月1日に買収し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、翌1939年(昭和14年)6月30日をもって休止、同年廃線にしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "後の1937年(昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力に移り同社専務の穴水熊雄が社長に就任、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅 → 桜上水駅、上高井戸駅 → 芦花公園駅、多磨駅 → 多磨霊園駅、関戸駅 → 聖蹟桜ヶ丘駅、百草駅 → 百草園駅、高幡駅 → 高幡不動駅、多摩川原駅 → 京王多摩川駅など観光地であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれており、一定の先見の明があった施策といえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央電気鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の京王堀之内駅・南大沢駅周辺の地域名称) - 相模原駅間で運行)の買収を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月に不動産事業を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、第二次世界大戦の勃発で、1942年(昭和17年)前半には、陸上交通事業調整法に基づき、東京市内のバス路線を東京都へ譲渡したほか、配電統制令により電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡することとなり、経営に大打撃を被る。そして、1944年(昭和19年)5月31日には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、大株主であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった東京急行電鉄へ株式を譲渡することとなり、いわゆる大東急の一員となる。京王は東急に吸収合併され、京王電気軌道は法人としては解散・消滅した。この合併で、会長の井上篤太郎は東急相談役に、井上の片腕であった取締役の後藤正策(後に京王帝都電鉄取締役)と、社長の穴水熊雄の次男穴水清彦(後に相模鉄道社長・会長)は、東急取締役に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の帝都電鉄株式会社が同社の渋谷線として1933年(昭和8年)8月1日に渋谷駅 - 井の頭公園駅間を開業させ、1934年(昭和9年)4月1日に吉祥寺駅まで全通させたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "元々、同社は1928年(昭和3年)9月24日に設立された鬼怒川水力電気系列の東京山手急行電鉄株式会社がそもそもの母体である。1930年(昭和5年)11月15日に東京郊外鉄道株式会社と社名を変更して、1931年(昭和6年)2月1日には1927年(昭和2年)7月に設立されていた渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、同社が計画中の渋谷線を継承した。そして、1933年(昭和8年)1月19日に帝都電鉄株式会社に改称した。理由は1932年(昭和7年)10月1日に沿線町村のほとんどが東京市に合併されたことにより、「郊外」の社名がふさわしくなくなったからとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、同社は1935年(昭和10年)には乗合自動車事業も開始したが、1940年(昭和15年)5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道株式会社に合併され、小田原急行鉄道帝都線となる。さらに1941年(昭和16年)3月1日には親会社である鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し、小田急電鉄株式会社に改称、小田急電鉄帝都線となる。そして1942年(昭和17年)5月1日には陸上交通事業調整法の趣旨に則り、小田急電鉄株式会社は京浜電気鉄道株式会社と共に東京横浜電鉄株式会社に合併し、東京急行電鉄株式会社(いわゆる大東急)の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線に改称される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸の電力部門を電力国家管理政策に基づき国家へ取り上げられた上、中華民国の山東半島への鉱業進出が裏目に出て経営が悪化し、先行きが暗かった。加えて、経営者である利光鶴松が高齢を理由に、小田急の経営一切を自分が見込んだ東京横浜電鉄の五島慶太に託して引退。事実上同社に身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄の場合、京王電気軌道と異なり、あくまで自主的に統合に加わったのであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中、京王線も井の頭線も、大東急の路線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "京王線は、東京急行電鉄京王営業局(→京王管理部→京王支社)によって、井の頭線は東京急行電鉄新宿営業局(→新宿管理部→渋谷管理部→渋谷支社)によって、それぞれ営業が行われた。しかし、戦局が悪化する中、京王線・井の頭線ともに空襲などで様々な被害を受けた。とりわけ井の頭線は永福町車庫が被災して壊滅に近い状態となった。また、京王御陵線は「不要不急線」と判断され、営業休止(事実上の廃線)に追い込まれた。大東急時代に、空襲被災のため、陸軍工兵隊を動員したターミナル駅の京王新宿駅を新宿三丁目から西新宿へ移転したほか、軌道から地方鉄道への変更が行われ、中央本線八王子駅への乗り入れ計画など(実現せず)、京王線の体質改善が計画されたが、間もなく、大東急は分割再編成に向かう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦も終結し、京王線と井の頭線は、京王帝都電鉄株式会社の下で営業されることとなる。東京急行電鉄が、新たに新設した子会社・京王帝都電鉄に、事業と資産の一部を譲渡する分離方式が採られた。京王帝都電鉄は、分離の翌期に株式市場に上場して、金融機関などの他の株主資本が入ることで独立を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "元来、京王電気軌道も、帝都電鉄も鬼怒川水力電気の利光鶴松が企図した事業であったが、その後の沿革が異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ路面電車当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われたこと、東都乗合自動車(現・国際興業バス)や藤沢自動車(現・神奈川中央交通)、中野乗合自動車(現・関東バス)などのバス会社や観光事業であった京王閣などの有力系列会社が傘下から離れていったことに起因する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "京王線は、京急線や小田急線とは違い、高速鉄道化が遅れ、車両や鉄道用地の規格が小さく、戦災による被災車両が発生しても、他線からの車両の融通や、新製車両の配備も行われなかった。また東急本社も、車両、線路、設備の改良や新規の投資も行う余裕がなく、京王線は東急合併のメリットを享受できなかった。いわば、戦前の経営を支えた付帯事業を失い、戦災被害を受けたままの鉄道事業のみで自立しなければならない現状であった。そのため、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "実際に井の頭線を路線に加えるように推進したのは、当時の東急京王支社長の職にあった井上定雄(後の京王帝都電鉄社長)であり、五島慶太はむしろこの案にためらったと言われる。京王線と井の頭線は沿線が重複し、合体することで強固な経営基盤が築け、また井上は帝都電鉄出身であったため、自分の案なら古巣の井の頭線の連中も十分説得できると自信を持っていたとされる。井の頭線は駅の過半数が京王線以北にあることから、多くの沿線住民にとって京王の管轄の方が便利でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東急からの譲受価格は総額5115万2800円で、前述の事情から、鉄道事業の補填のため、東京横浜電鉄が戦前経営していた京王線以北の乗合バス路線も京王帝都電鉄が譲り受けた。このほか、初代社長に東急(目黒蒲田電鉄)生え抜きの三宮四郎が就任したこともあり(なお、新生小田急の初代社長は旧小田急出身の安藤楢六、京急初代社長は京浜電鉄出身の井田正一だった)、京王電気軌道の復活と言うよりは、新たな合併私鉄が誕生した趣きで再出発を期した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当初の経営状況は不安定であった。1948年度は現在の「大手私鉄」の中でも収益は最下位で、1949年の『会社四季報』にも、「(東急系)四社の中で一番劣る」「前途は芳しくない」「労資関係も良くない」「発展性は薄い」などと酷評される有り様であった。 戦災復旧、設備の改良など、巨額の投資を余儀なくされた一方、国鉄下河原線の払い下げ出願(実現せず)、競馬場線の建設計画のほか、収支改善のために、バス事業など付帯事業の強化を推進し、1955年(昭和30年)の高尾自動車株式会社の買収を始めとしたバス事業に本腰を入れる様になると共に、1956年(昭和31年)の京王百花苑(現・京王フローラルガーデンANGE)の開園や1959年(昭和34年)の京王食品株式会社(現・京王ストア)、1961年(昭和36年)の京王百貨店の設立など、沿線価値を上げる事業も開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、1960年代には、新宿地下駅の営業開始など、軌道線イメージからの脱却にも力を入れた。またレジャー輸送を主にする競馬場線・動物園線・高尾線を開通させたほか、1970年代には多摩ニュータウンへのアクセス路線として相模原線を開業。1980年には東京都交通局(都営地下鉄)新宿線との相互直通乗り入れを開始するなど、発展の道を歩んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、1960年頃にはこの他にも数多くの路線を建設しようとしており、立川線(富士見ヶ丘駅 - 西国立駅)、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - 三鷹駅)、両国線(新宿駅 - 神楽坂駅 - 飯田橋駅 - 九段下駅 - 東京駅 - 日本橋駅 - 浜町駅 - 両国駅)の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1980年代にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、第6代社長に京王帝都電鉄総合職1期生の桑山健一が就任し、経営の引き締めにつとめ、平成不況の過程で同業他社が不動産価格下落・流通不振・旅行低迷などに見舞われるのを尻目に、財務体質は強固なものに変わっていった。桑山は、京王帝都電鉄設立以来、会社のたゆまぬ経営努力にもかかわらず、常に財務状況が脆弱であったことを嘆き、財務体質の強化を志しての社長就任となった。桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げ、京王グループ全体の経営改革と付加価値向上に努めた。後継社長には、財務のプロである住友信託銀行の西山廣一常務を招聘し、桑山の意を受けた西山は在任中、経営改革を成し遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)7月、京王帝都電鉄は、会社設立50周年記念として、京王電鉄株式会社へ改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "路線開通などはないものの、連続立体交差事業の推進を働きかけたり、パスネット、PASMOの導入に伴う積極的な機器の導入、待合室や新型ベンチの早期導入など、「乗客が利用しやすい鉄道」を目指している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "京王電鉄は大手私鉄の中でも優良な経営状況であったが、2020年以降は、新型コロナウイルス感染症で乗客が減るなどの影響を受け、2021年3月期決算は京王を含む首都圏大手私鉄5社全てが最終赤字となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "京王電気軌道創立時は「K」、変更後は「京王」を図案化した社章を使用していた。大東急時代を経て京王帝都電鉄として独立した際に制定されたのが先代社章で、図案化した「京」と車輪を表す円を重ね、社員の協力体制を象徴していた。", "title": "社章" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現在の社章はコーポレートロゴマークとも呼ばれ、1989年(平成元年)に制定された。京王グループのシンボルマークも兼ねており、新しい“KEIO”を強く印象付けるため社名を前面に出した意匠を採用し、斜体にすることでスピード感やダイナミックさを表現している。デザインはカラーとモノクロの2種が設定されており、モノクロ版はカラー版の色が異なる部分を6本のストライプにすることでアクセントをつけている。", "title": "社章" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "京王電鉄は、6路線84.7kmの鉄道路線を有するが、先述した通り、大きく分けて京王線系統と井の頭線の2つのグループから構成されている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "相模原線を延長開業させた1975年初頭時点で、当時の京王帝都電鉄の営業キロは75.8kmとなった。一方で、阪神電気鉄道が国道線の廃止を開始した1969年度初頭時点での営業キロは74.9kmあったものが、北大阪線・国道線・甲子園線を全廃した1975年5月6日に一挙に41.0kmとなった。阪神の営業キロは1969年に国道線西灘駅 - 東神戸駅間0.9kmを廃止した当時でも74.0kmであったのが、1973年の甲子園線の休止区間浜甲子園駅 - 中津浜駅間0.8km、1974年の国道線上甲子園駅 - 西灘駅間14.4kmの廃止で休止区間を含めても58.8kmとなった。1974年度初頭当時の京王の路線総延長は66.0kmであったため、同年10月の相模原線京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間9.8kmの延長開業および翌1975年の阪神国道線とその支線区の全線廃止を待たずに京王と阪神が逆転し、大手私鉄最短営業距離の座を阪神に譲ることとなった。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "京王線系統の軌間は1,372 mmのいわゆる「馬車軌間」である。これは京王線系統の元となった京王電気軌道が地方鉄道法ではなく軌道法によって建設されたことに起因する。つまり、京王線は路面電車由来の路線であり、これが都電荒川線や東急世田谷線といった軌道法に準拠して建設された路線と同様の軌間を持つ理由である。現在、大手私鉄の鉄道路線の中では唯一、1,372 mmの軌間が用いられており、全国的にも珍しい。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、この軌間を持った大手私鉄は過去には京成電鉄と京浜急行電鉄(当時は京浜電気鉄道)が存在した。これも軌道線を出自に持つ鉄道である。いずれにしても、これらは馬車軌間であった東京市電への乗り入れを考慮しての軌間の選択ということができる。ただし京王線と東京市電の接続はなかったが、戦時中に下高井戸駅で現東急世田谷線(当時は玉川線支線)と京王線を接続して物資輸送を行ったことがある。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1950年代になり、監督官庁からの要請や、都営新宿線乗り入れに向けて標準軌 (1,435 mm) に改軌することも検討され、1960年代に製作された5000系(初代)や2010系車両は、標準軌対応台車の採用など、標準軌への改軌を考慮した設計がされていた。しかし莫大な費用が掛かることや、長期の輸送力低下を要することから実現は困難とされ、都営新宿線を京王線に合わせて1,372 mm軌間で建設することになった。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "帝都電鉄に由来する井の頭線の軌間は、狭軌の1,067 mmである。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以下は帝都電鉄時代に失効。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "駅の管理は管区制を採用しており、7つの管区に分けて駅の運営を行っている。各管区の管理駅は以下の通りである(括弧内は管区長所在駅)。", "title": "管区制" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "かつては、現在よりも管区が細分化されていた。また、管区毎に色が設定されており、所属駅にはその色が壁などに線で表示されていた。また、旧管区長所在駅(吉祥寺駅、千歳烏山駅、府中駅、京王八王子駅、橋本駅など)には助役が配置されている。", "title": "管区制" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2020年度は「1日の駅別乗降人員」(京王グループ公式サイト)より。それ以外は「関東交通広告協議会」、「東京都統計年鑑」、「神奈川県統計要覧」より。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "は右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。", "title": "一日平均乗降人員上位20駅" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "京王線・井の頭線とも通勤・通学輸送に特化している事情から、1948年の発足以来、導入車両は全てロングシート車のみであった。戦前、京王電軌時代にはクロスシート車として150形(後のデハ2150形)が運用されていたが、1938年にロングシートに改造された。また初代の5000系にも特急車両としての設備からボックス席を設ける構想が何度かあったが、ラッシュ対策で見送りになっている。所有車両が全車ロングシートなのは大手私鉄では京王電鉄だけであったが、京王グループの中期経営計画「京王グループ中期3カ年経営計画(2015-2017年度)〜向上と拡大に向けて〜」に有料座席列車導入の検討を行うことが盛り込まれ、この有料座席列車に使用する79年ぶりのクロスシート車両として5000系(2代目)が2017年9月29日より運用を開始した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "現在の京王線と井の頭線では形式・車両デザインとも共通性が無いが、かつて一時期、共通性が発生したことがあった。井の頭線用の1700形・1710形・1800系の一部が1965年(昭和40年)頃から京王線に転用されたことがあるほか(現在は廃車)、1957年に登場した初の高性能車である井の頭線初代1000系と京王線2000系では外観のデザインが同一となった(こうした展開は他社では、現在でも阪急電鉄や近畿日本鉄道に見られる)。しかし次世代形式として登場した、1962年製造の井の頭線用3000系初期車は1000系・2000系とデザインの流れが似ており、1963年製造の京王線用初代5000系も1000系・2000系とデザイン(ドアや窓の配置)が似ていたものの、両開きドアやワイドボディに変更された3000系第3編成以降と5000系は全く別系統のデザインとなった。やがて京王線用の6000系など、さらに次世代形式が製造されると、両線でのデザインの隔たりはいっそう大きくなった。井の頭線用に1995年から製造された二代目1000系では、車両の仕様が京王線の8000系(1992年から製造)や9000系(2001年から製造)と近くなったものの、正面デザインや塗装においては、京王線と井の頭線はいまだ別系統の流れを歩んでいるといえる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "井の頭線は1962年という早い時期から3000系でステンレス車体を採用する一方、京王線は普通鋼車体という作り分けが長く続き、京王線でステンレス車体が採用されたのは1984年の7000系からである。こうした路線による車体鋼材の使い分けが長く行われた他の大手私鉄としては、南海電気鉄道(南海本線と高野線)が存在する。なお、保有車両は事業用車両を含めて全てステンレス車体で統一されており、関東大手私鉄では唯一、アルミ車両の導入実績がない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "集電装置については、全車両がシングルアーム式パンタグラフであるが、総合高速検測車の検測用パンタグラフには下枠交差形が採用されている。1000系、3000系、8000系で長期に渡りシングルアーム形を試験搭載していた後、9000系から本格採用され、従来車に対してもシングルアーム式パンタグラフに換装した。過去には京王線系統での高速運転時の集電性向上を目的として、井の頭線3000系と京王線系統の車両でパンタグラフの換装が行われて、京王線系統はPT42形に統一してPS13形を井の頭線に集約したことがある。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "京王線系統の車両は、乗り入れの都営車を含めて全先頭車に密着連結器と電気連結器を装備する。1967年(昭和42年)の高尾線開通に伴う分割特急開始時に5000系に装備したのが始まりである。井の頭線車両は密着自動連結器を装備する。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "現在使用されている車両の運転台は、乗り入れ車を含め力行4段・常用制動7段のT型ワンハンドルマスコンに統一されており、ATS照査速度(低速域を除く)が速度計の周りに表示される。9000系、1000系11編成以降の新造車は高運転台構造となっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ATC導入以前は、動物園線・競馬場線列車を除き、営業列車の先頭に立つ運転台には原則としてTNS(トレインナビゲーション装置)というディスプレイ装置が設置されており、次の停車駅等を表示していた。この画面にはアナログ表示の時計も表示される(TNS導入の経緯については「京王8000系電車」の運転台の節を参照のこと)。なお、京王線は2011年10月、井の頭線は2013年3月にATCに切り替えたため、使用停止となり、順次撤去されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "現在は、ATCの停車駅誤通過防止機能による列車種別・停車駅の表示器が設置されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "空気笛(タイフォン)は、上りと下りで周波数が異なり(他社では東武鉄道でも同様)、下りの方が高くなっている。電気笛は京王線と井の頭線で異なるタイプを使用している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "かつては全線に渡って独自のATS(多変周式信号ATS)を採用していた。信号現示における速度制限は、絶対停止0km/h・警戒25km/h・注意45km/h・減速75km/h、進行の5種類で、制限速度はATCのように運転台の速度計の外周に表示される。絶対停止で停車した場合、確認スイッチを操作することで最高15km/hで走行が可能になる。この確認スイッチは絶対停止用のもので、前方の信号機の現示が上位しても地上子を通過するまでは照査する速度を変えることはできない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "運転保安度向上の一環として京三製作所製のATC(京王ATC)の導入が決定し、設置工事が行われ、2010年3月から相模原線で先行導入し、2011年10月から京王線系統(京王新線・競馬場線・動物園線・高尾線を含む)、2013年3月から井の頭線で使用されている。近隣の鉄道では同時期に東武鉄道も東武東上本線より順次ATC化される。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "都営新宿線での(旧)ATC機器との干渉のため、インバータ制御車の新宿線への乗り入れはできなかったが、2005年5月のデジタルATC化に伴い解禁され、2006年3月よりそれまでの6000系(6030番台)8両編成、8両+2両の10両編成に加えて9000系(9030番台)の10両編成が直通運用に当たっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "相模原線の若葉台駅、京王線の桜上水駅と高幡不動駅、井の頭線の富士見ヶ丘駅の4か所に車両基地が設けられており、桜上水駅以外のそれぞれに併設している検車区で管理・修繕を行っている。なお全般・重要部検査および大規模な修理や改修の業務は若葉台駅にある若葉台工場にて行っている。井の頭線車両についても富士見ヶ丘検車区内の若葉台工場富士見ヶ丘作業場で車両の機器を取り外して、車体等は富士見ヶ丘で、それ以外はトラックで陸送して若葉台で行われる。若葉台工場は京王電鉄内の事業子会社化に伴い、子会社の京王重機整備の施設としても稼動している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "前照灯は現在では終日点灯である。急行系列車(京王では各停以外の種別を優等列車とは呼ばない)では、新宿線内も含め先頭車は通過標識灯(急行灯)を点灯させる。信号システム上は「普通列車」として運行する、急行系列車の各駅停車区間では通過標識灯を消灯する。また通過標識灯が上下分離している場合、窓上が通過標識灯、窓下が尾灯であることがほとんどだが、3000系と5000系までの京王は、窓上が尾灯で窓下が通過標識灯であった。上下逆になっていた大手鉄道は京王だけである。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2001年3月のダイヤ改定で車両の運用方針を変更するまでは各駅停車には7000系と2010系以前の車両が使用され、急行系列車には5000系・6000系・8000系が充当されていたが、現在では7000系も急行系の列車に充当されており、種別ごとに使用形式を限定していない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "8000系1次車まではシルバーシートと呼称され、位置も下り方(井の頭線は上り方)の車端部だった。5両編成以下は編成内1か所、6両編成以上は編成内2か所だったが、複数編成が組み合わさった場合はこの限りではなく、例えば6両編成と4両編成が合わさった10両編成は3か所となる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "8000系2次車より、各車両に設置されるようになった。この頃より、シルバーシートから優先席へと呼称が変更されている。同時に車外のステッカーも当該部分の窓上(7000系と8000系は車端部)から当該部分の戸袋とドアの間に変更されたため、サイズも小さくなっている。設置場所も現在と違って、奇数号車は上り方海側(下り列車の進行方向左手サイド)車端部、偶数号車は下り方山側(下り列車の進行方向右手サイド)車端部である。既存車も随時このパターンへと変更されたが、当然のことながら3両編成・5両編成ではパターンが異なる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2000年8月より、優先席付近を携帯電話OFF区域とするのに合わせて、従来の優先席の向かいの座席も優先席となる(ステッカーは透明)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2006年1月から優先席を先頭車の運転台部分を除く各車車端部に拡大し、同時に優先席付近一帯を「おもいやりぞーん」とした。合わせて吊輪のオレンジ色化、室内側の壁や窓にステッカー貼付、車外ステッカーの拡大と位置変更(戸袋あり車両は戸袋部に貼付)が行なわれている(ステッカー色は黄色)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2015年10月からは、携帯電話の使用について「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」から「優先席付近では、混雑時には携帯電話の電源をお切りください」に変更した(ステッカー色は青、東京地下鉄(東京メトロ)や東急電鉄等で使用されているものと同タイプのステッカーを使用)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "5000系は他形式同様に車端部に優先席が設定されているが、京王ライナーとして運用する際にはこれらの座席も指定席として販売している関係上、京王永山駅、府中駅から先の無料開放区間においても優先席としての取り扱いは行わない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "中央線における「婦人子供専用車」の1973年の廃止以後で、全国に先駆け女性専用車両を復活させた。2000年12月7日に試行的に導入され、2001年3月27日のダイヤ改定以降本格的に導入された。新宿駅を23:00以降に発車する急行系の列車で実施されている。その後2005年5月9日からは平日の朝(京王線新宿駅と新線新宿駅に7:30 - 9:30に到着する準特急・急行・通勤快速)・夕方・夜(京王線新宿駅を18:00 - 22:40に発車する特急・準特急)・深夜(京王線新宿駅を22:50以降に発車する急行・通勤快速・快速)にも拡大されている(当面は試験導入)。その後、深夜帯に特急を走らせる様になってからは、下り列車においては急行以下の種別での設定を取りやめている。また、ダイヤ乱れによって8両編成が充当される場合や、京王ライナーでの設定も行っていない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "警視庁などからの要請により2011年2月28日から客室内に防犯カメラが設置された。日本の通勤用車両では埼京線の205系電車、横浜新都市交通2000形電車についで、3番目の事例である。防犯カメラは7000系電車の1編成の6号車に4機設置され、3月下旬からさらにもう1編成にも設置され、2編成で防犯カメラが運用されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2017年9月営業運転開始の新5000系電車には全車両に防犯カメラが1両につき4台設置されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2022年2月1日、2021年10月31日に走行中の車内で起きた傷害事件(京王線刺傷事件)を受けて、リアルタイム伝送機能を持つ車内防犯カメラを、2023年度末を目途に全車両に設置予定だと発表した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2017年度末時点で事業用車を除くと京王線用736両、井の頭線用145両、計881両を保有する。各系列の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2012年9月7日に、大手私鉄では初となる全営業車両のVVVFインバータ制御化を達成した。現在では事業用車両を含め所属する全ての車両がVVVFインバータ制御である。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "営業用", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "事業用", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "地方私鉄への車両譲渡はあまり行われていなかったが、5000系や3000系の廃車が始まると、18m車体という手頃さから、譲渡が多数発生した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "営業用", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "事業用", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "電動車は運転台の有無に関わらず「デハ」を用いる。これは東京急行電鉄と合併した大東急時代に定められたもので、合併した他社もほぼ同様である。なお、制御車(制御付随車)は「クハ」、付随車は「サハ」を用いる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "十位と百位は1000系(初代)・2000系(2代目)以降、以下のように分類される。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "系列によっては20番台や30番台が存在するが、それについては各系列記事を参照されたい。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "京王電鉄ではダイヤ改正のことを2013年2月22日改定までは「ダイヤ改定」と呼んでいた(ただし、2001年3月27日のダイヤ改定まではパンフレットなど一部に「ダイヤ改正」の表記を使用していた)。改めたダイヤが利用者全てに正しいダイヤとは限らない等の理由からである。「ダイヤ改定」の呼称は、京王電鉄のほかに、2000年代の京阪電気鉄道でも見られた。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "現在は京王線・井の頭線で同時にダイヤ改正が行われているが、1990年代までは別々に行われたことがしばしばあった。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2006年8月31日までのダイヤにおいて、平日ダイヤと土休日・祭日ダイヤのほかに土休日・祭日シーズンダイヤも存在した。シーズンダイヤは4 - 6月・9 - 11月に設定され、都内でも貴重な自然の残る高尾山への行楽客向けや、この時期にほぼ毎週GIレースが行われる東京競馬場への観戦客向けとして利用客を見越した時間帯に臨時列車を運行していた。現行の高尾線方面のダイヤでは、土休日の下り列車はほぼ終日で新宿方面から準特急として高尾山口駅まで運行する系統と、京王八王子駅行の特急(北野駅の同一ホームで各駅停車高尾山口駅行に接続)の交互の運転に、上り列車は早朝1本を除くほぼ終日で、高尾山口駅から準特急新宿駅行の系統と、各駅停車新宿駅行(北野駅で京王八王子駅発の特急に乗り換えることによって新宿方面に先着可能)を交互に運行するダイヤに改められている。競馬場線関係では、東京競馬開催時の一部時間帯に上下の特急と準特急を東府中駅に臨時停車させたり、メインレース終了後に府中競馬正門前駅発新線新宿駅行や飛田給駅行の臨時急行の運転を行ったりしている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "以前は休日ダイヤの下り特急・急行で高幡不動で切り離しが行なわれていたため、相互の行先の車両内を識別するため、吊り輪の色を白と緑の2色に分け、車内放送でも「前x両の白い吊り輪の車両が○○行、後y両の緑の吊り輪の車両が●●行です」とアナウンスしていた。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "京王線系統では途中駅で種別変更を行う列車が存在する。発車時の種別で運行する区間での案内表示は、終着駅と発車時の種別を表示した上で、種別変更する駅名と変更後の種別を別に知らせるようになっている。2018年2月21日までは、発車時の種別で運行する区間の終点を行先として表示し、その駅に到着後に新しい種別・行先に変更していた。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "保安装置がATS時代はTTCの関係で最大列車種別数の設定に制約があった(同時に6種別までの列車種別しか設定できなかった。2001年に準特急を設定した際には1992年に廃止した通勤急行の枠を使用して対処した)が、ATC化と同時にTTCも更新されたため、この制約は緩和され、2018年より後述の「京王ライナー」が設定され7種別体制となった。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "各駅停車は過去には普通と称していたが、現在は正式な列車種別名を各駅停車に改めている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "京王電鉄は2015年の中期3カ年経営計画(2015年度〜2017年度)で、有料座席指定列車導入の検討を始めたことを発表しており、2016年3月16日には2018年春より5000系 (2代)を充当する形で、平日及び土休日の夜間帰宅時間帯に、京王線新宿発京王八王子行および橋本行のそれぞれ片道のみにおいて運行することが正式に発表された。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2017年4月27日から5月19日まで、この有料座席指定列車の愛称投票を実施し、京王電鉄の新サービスであることをシンプルに表現した「京王ライナー」、「smart(気の利いた)」サービスを表現した「京王スマートライナー」、「prime(最上の)」サービスを表現した「京王プライムライナー」、「luxury+express(贅沢な・急行列車)」からの造語である「Luxpress(ラクスプレス)」、「west+star(東京都西部を走行・人気)」からの造語である「WESTAR(ウェスター)」の5つの候補の中から、最多得票約6,300票(総数約2万4,000票)を獲得した「京王ライナー」に決定したことが2018年1月24日に発表された。同年2月22日のダイヤ改正より運行を開始している。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "京王ライナーの送り込みは、平日は回送となっているが、休日は東京競馬場での中央競馬開催日(特に最も混雑する日本ダービー(東京優駿)等のGIレース開催日)と、中山競馬場での開催ながら東京競馬場での場外発売では最も来場者が多い有馬記念の開催時限定で、府中競馬正門前発京王線新宿行き臨時準特急(東府中駅臨時停車)となっている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2018年11月には、高尾山観光客向けとして、京王ライナー用の5000系を使用し、臨時列車扱いで高尾山口発の座席指定列車「Mt.TAKAO号」京王線新宿行が運転されている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2021年10月30日から、土休日のみ「Mt.TAKAO号」「京王ライナー」はともに明大前駅に停車する。なお、平日は通過(運転停車)する。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2022年3月12日に行われるダイヤ改正より、平日においても明大前駅が停車駅に追加された。また「Mt.TAKAO号」は通年運転となった。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "京王線・高尾線・相模原線では通勤車による特急を運転しているが、特急料金は不要である。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "かつては行楽特急列車に「高尾」(高尾山口行)と「陣馬」(京王八王子行)の愛称を付与していたが、現在はその愛称はない。これに代わって最近では「迎光EXPRESS かがやき」が年末年始の終夜運転時に運行されていた。京王ライナー運行開始後は、京王ライナー「迎光」号での運行となっている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "最高速度は京王線が1971年4月に95km/hから105km/hとなったのち、相模原線が1997年12月に、京王線調布駅 - 京王八王子駅間が2001年3月にそれぞれ110km/hに引き上げられている。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2012年8月19日の調布・布田・国領駅地下化に伴うダイヤ改定で、特急が休止されていたが、停車駅に分倍河原駅と北野駅を追加した上で2013年2月22日から運転を再開した。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2001年3月27日からは京王線・高尾線で(2015年から相模原線にも)「準特急」が運行されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で特急と統合されて廃止された。", "title": "運転関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃。ICカード利用時は1円単位、切符の運賃は10円単位である(小児半額。端数はICカードの場合、1円未満の端数を切り捨て、切符の場合は10円未満の端数を10円単位に切り上げる)。2023年(令和5年)10月1日改定。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1997年12月28日、戦後初の運賃実質引き下げを行った。特定都市鉄道整備積立金による特定都市鉄道整備事業の完了のため、積立金分を取り崩して運賃を改定したことで、実質全区間で値下げとなった。積立金の還元は2007年12月28日まで行われ、制度の趣旨からは還元終了時に通常運賃に戻す値上げを行うことで帳尻を合わせる仕組みとなっているが、実際には期間経過後も2014年4月1日・2019年10月1日に消費税率引き上げ分を転嫁したのみで、2023年10月1日の改定までこの運賃水準を維持していた。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "かつては相模原線京王多摩川 - 橋本間に加算運賃が設定されていたが、建設事業費の回収が進んだことにより2018年3月17日に1回目、2019年10月1日に2回目の引き下げが行われたのち、2023年10月1日の運賃改定に合わせて全廃された。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "京王電鉄を中心に54社で構成され、鉄道・バス・タクシーの交通・運輸業、小売・流通業、不動産業、レジャー・サービス業などを展開する。グループ全体の売上高(連結決算)は約4162億円、従業員は約2万人。", "title": "グループ企業と多角化事業" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "京王電鉄本体はグループ戦略を立案・推進するほか、事業創造部といった新規事業を開発する部署がある。このため、民泊やサテライト・オフィス貸出(テレワーク)のように鉄道以外の事業に京王電鉄本体が進出し、運営や場所の提供をグループ会社が担う場合もある。", "title": "グループ企業と多角化事業" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "岐阜県高山市で2021年4月23日からMaaS事業を始めるなど、次世代の移動サービス開発・進出や関東以外の地方での事業展開を進めている。", "title": "グループ企業と多角化事業" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "京王では他の大手私鉄と異なり、ゲームソフトや列車前面展望映像などの商品化許諾は消極的だった。2017年7月以降は積極的になりにアネックから展望映像作品が、ビコムから「京王電鉄全線 前編 京王線・高尾線&競馬場線&動物園線 4K撮影」と「京王電鉄全線 後編 京王線・相模原線&井の頭線 4K撮影」が発売された。ただし、A列車で行こうシリーズでは京王の所有車両も収録されているゲームソフトもあり、2011年に京王アートマンが発売したDVD「カラフル!不滅の京王井の頭線3000系」には井の頭線の前面展望映像が、2013年にメディアックスの「京王電鉄完全データDVDBOOK」付録DVDには京王線の前面展望映像がそれぞれ収録されているので、許諾商品が全くない訳ではなかった。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "なお、鉄道模型など、その他の鉄道グッズの商品化許諾は基本的に実施している。", "title": "その他特記事項" } ]
京王電鉄株式会社は、東京都多摩市に本社を置く、東京都区部(23区)から多摩地域及び神奈川県北部に有する鉄道路線を運営する会社。日本の大手私鉄の一つである。略称は京王(けいおう)。京王グループの中核企業。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社。 京王という名称の由来は、東京と八王子を結ぶ鉄道であることから。また、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、1998年6月30日まで京王帝都電鉄という社名であった。パスネットの符丁はKO。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 京王電鉄株式会社 | 英文社名 = Keio Corporation | ロゴ = [[File:KeioRailway logo.svg|200px]] | 画像 = [[File:多摩市にある京王電鉄本社140514.jpg|250px]] | 画像説明 = 京王電鉄本社(東京都多摩市) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref name="役員一覧">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/executive/index.html 役員一覧] 京王電鉄株式会社(2023年12月29日閲覧)</ref> | 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9008|1949年5月16日}} | 略称 = 京王 | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 206-8502 | 本社所在地 = [[東京都]][[多摩市]][[関戸 (多摩市)|関戸]]一丁目9番地1</br><ref name="会社概要">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/index.html 会社概要] 京王電鉄株式会社(2023年12月29日閲覧)</ref> | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 39 | 本社緯度秒 = 4.8 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 26 | 本社経度秒 = 53.6 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = 160-0022 | 本店所在地 = 東京都[[新宿区]][[新宿]]三丁目1番24号<ref name="会社概要" /><br />(京王新宿三丁目ビル) | 本店緯度度 = 35 | 本店緯度分 = 41 | 本店緯度秒 = 24.7 | 本店N(北緯)及びS(南緯) = N | 本店経度度 = 139 | 本店経度分 = 42 | 本店経度秒 = 19.6 | 本店E(東経)及びW(西経) = E | 本店地図国コード = JP | 設立 = [[1948年]]([[昭和]]23年)[[6月1日]]<ref name="会社概要" /> | 業種 = 陸運業 | 事業内容 = 旅客鉄道事業 他(鉄道事業、土地・建物の賃貸業・販売業など) | 代表者 = [[紅村康]]([[代表取締役]][[会長]])<br />[[都村智史]](代表取締役[[社長]])<ref name="役員一覧" /> | 資本金 = 590億2300万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="ir">{{Cite web|和書|url= https://www.keio.co.jp/company/stockholder/account_report/2020nendo/pdf/2020nendo_year.pdf |title= 2021年3月期 決算短信〔日本基準〕(連結) |publisher= 京王電鉄株式会社 |accessdate= 2021-06-10|date= 2021-04-30}}</ref> | 発行済株式総数 = 1億2855万830株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="ir" /> | 売上高 = 連結:3154億3900万円<br />単体:1015億2900万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/> | 営業利益 = 連結:△208億6600万円<br />単体:49億7300万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/> | 経常利益 = 連結:△179億8000万円<br />単体:58億9000万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/> | 純利益 = 連結:△275億1900万円<br />単体:△21億4100万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/> | 純資産 = 連結:3443億9500万円<br />単体:2313億8800万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="ir"/> | 総資産 = 連結:9126億2400万円<br />単体:7666億2500万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="ir"/> | 従業員数 = 連結:13,542人<br />単体:2,531人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="yuho" >『[https://www.keio.co.jp/company/stockholder/financial_report/pdf/2020_financial_statements.pdf 京王電鉄第100期有価証券報告書]』</ref> | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]] | 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口)9.44%<br />[[日本生命保険]] 5.03%<br />[[太陽生命保険]] 4.80%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口)4.50%<br />[[三井住友信託銀行]] 2.99%<br />[[第一生命保険]] 1.82%<br />STATE STREET BANK WEST CLENT - TREATY 505234 1.77%<br />日本カストディ銀行(三井住友信託銀行退職給付信託口)1.64%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.60%<br />[[富国生命保険]] 1.57%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="yuho" /> | 主要子会社 = [[京王グループ]]を参照 | 関係する人物 = [[井上篤太郎]](創業者)<br />[[穴水熊雄]](元社長)<br />[[五島慶太]]([[大東急]]総帥)<br />[[三宮四郎]](初代社長)<br />[[井上定雄]](元社長)<br>[[三枝正幸]](元社長)<br>[[加藤奐]](元社長)<br/>[[永田正]](元社長) | 外部リンク = https://www.keio.co.jp/ | 特記事項 = }} '''京王電鉄株式会社'''(けいおうでんてつ、{{Lang-en-short|''Keio Corporation''}})は、[[東京都]][[多摩市]]に本社を置く、[[東京都区部]](23区)から[[多摩地域]]および[[神奈川県]]北部<ref group="注釈">メディアなどでは全線が都内にあると扱われることもあり、例えば『[[朝日新聞]]』の記事: [http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000281006080002 私鉄 東急「一人勝ち」](2010年6月8日)では、[[東急]]・[[京浜急行電鉄|京急]]・[[小田急電鉄|小田急]]・[[相模鉄道|相鉄]]だけを神奈川県内に路線を有する大手私鉄として取り上げているが、京王は[[京王相模原線|相模原線]]が東京都内から神奈川県内に路線を延ばしている。</ref>において保有している[[鉄道路線]]を運営している会社。日本の[[大手私鉄]]の一つである。略称は'''京王'''(けいおう)。[[京王グループ]]の中核企業。[[日経平均株価|日経225(日経平均株価)]]の構成銘柄の一社。 前身である'''京王電気軌道'''は1910年([[明治]]43年)9月に設立され、自社による路線敷設や玉南電気鉄道の合併により、1926年([[大正]]15年)には[[新宿駅]]から東八王子駅(現在の[[京王八王子駅]])を結ぶに至った<ref name="前史">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/history/history_01.html 『京王電鉄50年史』前史] 京王電鉄株式会社(2023年12月29日閲覧)</ref>。'''京王'''の名称は、東'''京'''(新宿は当時[[東京市]]に属していた)と[[八王子市|八'''王'''子]]を結ぶ鉄道であることに由来する<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190728/ddm/012/020/099000c [もとをたどれば]京王電鉄 東京の「京」、八王子の「王」]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年7月28日(東京版・総合面)2023年12月29日閲覧</ref>。また、旧'''京王'''電気軌道と旧'''帝都'''電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、[[1998年]]([[平成]]10年)6月30日まで'''京王帝都電鉄'''(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝都・京帝、英称:''Keio Teito Electric Railway''、英略称: ''KTR'')という社名であった<ref name="KeioTeito9805" >[https://web.archive.org/web/20010814234039fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2016.htm 7月1日から社名を変更「京王帝都電鉄」から「京王電鉄」へ] 京王帝都電鉄ニューリリース(1998年5月26日)の[[インターネット・アーカイブ]]・2001年時点の版</ref><ref name="keio50_3_5_2">[http://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/history/history_04_05_02.html 『京王電鉄50年史』第3部 第5章 2.愛される京王へ] 京王電鉄株式会社(2014年4月14日閲覧)</ref>。[[パスネット]]の符丁はKOであった。 <!-- [[Wikipedia:リダイレクト#穏当な転送を行う]]に従い、この記事に転送されるキーワード「京王帝都電鉄」が旧社名であることの説明は記事冒頭の目に付く場所に置くべき。--> == 歴史 == 現在の京王電鉄は、[[京王線]]を営業していた旧'''京王電気軌道'''と、[[小田急電鉄]]系列の会社で[[京王井の頭線|井の頭線]]を営業していた旧'''帝都電鉄'''という、元々は[[資本]]系列の異なる会社が、[[第二次世界大戦]]時の[[陸上交通事業調整法]]による戦時統合を経て発足した経緯があるため、それぞれ個別に記述する。 === 京王電気軌道・玉南電気鉄道 === 現在の京王電鉄の歴史は、[[1905年]]([[明治]]38年)[[12月12日]]に、'''日本電気鉄道株式会社'''が関係官庁に[[電気鉄道]]敷設を出願したことにまで遡る。この時出願した路線は[[東京府]]下において、[[鉄道省|官設鉄道]][[蒲田駅]]から[[調布町]]、[[府中町 (東京都)|府中町]]を経て[[甲武鉄道]][[立川駅]]に至る路線と、府中で分岐して[[内藤新宿|内籐新宿]]に至る路線の二つであった。 日本電気鉄道は[[1906年]](明治39年)[[8月18日]]、'''武蔵電気軌道株式会社'''と改称し、新たに立川村(現在の[[立川市]])内と府中 - [[国分寺市|国分寺]]間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を[[国領町|国領]]で分岐して蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。 [[File:Keio-Denki Logomark.svg|thumb|left|120px|京王電気軌道]] その後、別に[[東京横浜電鉄|武蔵電気鉄道株式会社]]という会社が現れたため、[[1910年]](明治43年)[[4月12日]]に、武蔵電気軌道が'''京王電気軌道株式会社'''と改称し、[[9月21日]]に[[資本金]]125万円で設立され、[[鬼怒川水力電気]][[取締役]]の川田鷹が取締役[[会長#株式会社における会長|会長]]に、初代[[専務取締役]]([[社長]])に鬼怒川水力電気社長[[利光鶴松]]([[小田急電鉄]]や[[帝都電鉄]]の創業者)の親族である[[利光丈平]]が就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は[[1911年]](明治44年)[[7月4日]]に関係官庁より許可が出た[[電力会社|電気供給]]事業のみ執り行っており、[[1912年]](明治45年)8月から調布町(現在の[[調布市]])や[[多磨村]]・府中町・[[西府村]](現在の[[府中市 (東京都)|府中市]])に電気供給を行っていた。 そして、[[1913年]]([[大正]]2年)[[4月8日]]に、[[東急玉川線|玉川電鉄]]と[[東京電燈]]から買った電力を笹塚[[変電所]] (100[[キロ|k]][[ワット (単位)|W]]) で受けて、[[4月15日]]に[[笹塚駅]] - [[調布駅]]間の12.2 [[キロメートル|km]]の電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - [[国分寺駅]]間の乗合自動車営業([[路線バス]]事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、[[森村財閥]]の融資系列に入り、[[富士瓦斯紡績]]の[[井上篤太郎]](第3代専務)、藤井諸照(会長)が経営陣に参画することになる。その後は[[1914年]](大正3年)[[11月19日]]の京王線の[[京王線の新宿駅付近の廃駅#新町駅|新町駅]](現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、[[1915年]](大正4年)[[5月30日]]には[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|新宿追分駅]](新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、[[1916年]](大正5年)[[6月1日]]には調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間が、[[10月31日]]には調布駅 - [[府中駅 (東京都)|府中駅]]間が延伸開業した。また、[[1923年]](大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線[[複線化]]も行っている。このほか、[[1919年]](大正8年)4月には多摩川原駅前での[[造園]]事業も行った。 また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から[[国分寺市|国分寺村]]に、1915年(大正4年)8月から[[国立市|谷保村]]・[[立川市|立川村]]に、同年10月から[[小平市|小平村]]・[[田無市|田無村]]に、同年11月から[[保谷市|保谷村]]に、1916年(大正5年)1月から[[昭島市|拝島村]]に、同年2月から[[昭島市|中神村他七カ村連合]]に、同年7月から[[神代町|神代村]]・[[和田堀町|和田堀内村]]・[[千歳村 (東京府)|千歳村]]・[[高井戸町|高井戸村]]・[[松沢村 (東京府)|松沢村]]に、[[1917年]](大正6年)3月から[[三鷹市|三鷹村]]に、同年8月から[[砧村]]に、1919年(大正8年)4月から[[稲城市|稲城村]]に供給した。[[1922年]](大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500 kW の受電を開始し、1923年(大正12年)3月から[[狛江市|狛江村]]への電気供給を開始した。 [[File:Gyokunan-Dentetsu Logomark.svg|thumb|left|120px|玉南電気鉄道]] 一方、府中駅 - 東八王子駅(現・[[京王八王子駅]])間は、1922年(大正11年)に設立された京王の[[関連会社]]である'''玉南電気鉄道株式会社'''によって[[1925年]](大正14年)[[3月24日]]に営業を開始した。これは国からの[[補助金]]を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を[[軌道法]]に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した[[地方鉄道法]]に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の[[中央本線]]に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。 その後、[[1926年]](大正15年)[[12月1日]]に京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併し、資本金1290万円の会社となる。[[1927年]]([[昭和]]2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067 [[ミリメートル|mm]] から1,372 mm へ[[改軌]]する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は[[1928年]](昭和3年)5月22日の[[ダイヤ改正|ダイヤ改定]]まで続いた。 [[1931年]](昭和6年)[[3月20日]]には、初の支線である[[京王御陵線|御陵線]]([[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[多摩御陵前駅|御陵前駅]]間)が開通し、1932年(昭和7年)4月の[[高尾登山電鉄|高尾登山鉄道]]との[[連絡運輸|連帯運輸]]の開始を皮切りに、[[東京山手急行電鉄|帝都電鉄]]、[[国電|省線電車]]などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった[[武蔵中央電気鉄道]]の軌道線も[[1938年]](昭和13年)6月1日に[[M&A|買収]]し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、翌[[1939年]](昭和14年)[[6月30日]]をもって休止、同年[[廃線]]にしている。 後の[[1937年]](昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力に移り同社専務の[[穴水熊雄]]が社長に就任、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅 → [[桜上水駅]]、上高井戸駅 → [[芦花公園駅]]、多磨駅 → [[多磨霊園駅]]、関戸駅 → [[聖蹟桜ヶ丘駅]]、百草駅 → [[百草園駅]]、高幡駅 → [[高幡不動駅]]、多摩川原駅 → 京王多摩川駅など[[観光地]]であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれており、一定の先見の明があった施策といえる。 また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央電気鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の[[京王堀之内駅]]・[[南大沢駅]]周辺の地域名称) - [[相模原駅]]間で運行)の買収を行っている。 他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月に[[不動産]]事業を開始した。 しかし、[[第二次世界大戦]]の勃発で、[[1942年]](昭和17年)前半には、[[陸上交通事業調整法]]に基づき、東京市内のバス路線を東京市(1943年6月1日を以って[[東京都制]]を施行し東京都へ移行)に譲渡したほか、[[配電統制令]]により電力供給事業を[[関東配電]]株式会社([[東京電力]]の前身)に譲渡することとなり、経営に大打撃を被る。そして、[[1944年]](昭和19年)[[5月31日]]には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、[[株主|大株主]]であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった[[東京急行電鉄]]へ[[株式]]を譲渡することとなり、いわゆる[[大東急]]の一員となる。京王は東急に吸収合併され、京王電気軌道は法人としては解散・消滅した。この合併で、会長の井上篤太郎は東急相談役に、井上の片腕であった取締役の後藤正策(後に京王帝都電鉄取締役)と、社長の穴水熊雄の次男穴水清彦(後に[[相模鉄道]]社長・会長)は、東急取締役に就任した。 ==== 年表 ==== * [[1905年]](明治38年)12月12日:日本電気鉄道株式会社が、関係官庁に電気鉄道敷設を出願<ref name="handbook2016">{{Cite book |和書 |author=京王電鉄広報部 |year=2016-08 |title=京王ハンドブック2016 |page= |publisher=京王電鉄株式会社 |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1906年]](明治39年)8月18日:日本電気鉄道株式会社が武蔵電気軌道株式会社に改称し、出願中の路線を変更<ref name="handbook2016" />。 * [[1910年]](明治43年) ** 4月12日:武蔵電気軌道株式会社が'''京王電気軌道'''株式会社に改称<ref name="handbook2016" />。 ** [[9月21日]]:資本金125万円で京王電気軌道株式会社を設立<ref name="handbook2016" />。 * [[1913年]](大正2年)[[4月15日]]:軌道法に基づく京王電気軌道が、[[笹塚駅]] - [[調布駅]]間を開業(12.2km、[[軌間]]1,372mm)<ref name="handbook2016" />。同日、鉄道未成区間で[[路線バス|乗合自動車]]を営業開始(1915年2月15日廃止)<ref name="handbook2016" />。 * [[1914年]](大正3年)11月19日:[[京王線の新宿駅付近の廃駅#新町駅|新町駅]](現存せず) - 笹塚駅間が開業。 * [[1915年]](大正4年)5月30日:[[京王線の新宿駅付近の廃駅#新宿追分駅|新宿追分駅]](現存せず) - 調布駅間が全通<ref name="handbook2016" />。 * [[1916年]](大正5年) ** 6月1日:調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間が開業<ref name="handbook2016" />。 ** 9月1日:調布駅 - [[飛田給駅]]間が開業<ref name="handbook2016" />。 ** 10月31日:飛田給駅 - [[府中駅 (東京都)|府中駅]]間が開業。 * 1922年(大正11年):'''玉南電気鉄道'''が設立。 * [[1925年]](大正14年)3月24日:[[地方鉄道法]]に基づく玉南電気鉄道が府中駅 - 東八王子駅間を開業(軌間1,067mm)<ref name="handbook2016" />。 * [[1926年]](大正15年)12月1日:京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併<ref name="handbook2016" />。 * [[1927年]](昭和2年) ** 6月1日:玉南電気鉄道が開業した区間を1,372mm軌間に[[改軌]]し、[[軌道法]]適用とする<ref name="handbook2016" />。 ** 10月28日:新宿ビルディング(旧・本社ビル)が完成。新宿追分駅を新宿3丁目から同ビル1階へ移転<ref name="handbook2016" />。 ** 12月17日:下仙川駅(現・[[仙川駅]]) - 調布駅間を、[[甲州街道]]北側から南側の現在線に付け替え。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[5月22日]]:新宿駅 - 東八王子駅(現・[[京王八王子駅]])間の直通運転を開始<ref name="handbook2016" />。 ** [[井上篤太郎]]専務が社長兼専務に就任<ref name="handbook2016" />。 * [[1931年]](昭和6年)3月20日:[[御陵線]]([[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[多摩御陵前駅|御陵前駅]]間)が開通<ref name="handbook2016" />。 * [[1932年]](昭和7年)4月1日:[[高尾登山電鉄]]と連帯運輸を開始<ref name="handbook2016" />。 * [[1935年]](昭和10年)2月11日:[[東京山手急行電鉄|帝都電鉄]]と[[明大前駅]]の共同使用を開始(3月11日より連絡運輸開始)<ref name="handbook2016" />。 * [[1936年]](昭和11年)10月18日:本社を新宿ビルディングへ移転<ref name="handbook2016" />。 * [[1937年]](昭和12年) ** 2月5日:[[穴水熊雄]]が社長に就任<ref name="handbook2016" />。 ** 11月1日:[[京王電鉄の車両検修施設|運転手区・車掌区]]を笹塚から[[桜上水駅|桜上水]]へ移転<ref name="handbook2016" />(1983年10月1日に[[若葉台検車区]]へ再移転)<ref name="handbook2016" />。 ** 12月1日:甲州街道乗合自動車を買収し、乗合自動車事業(現・[[京王電鉄バス]])を再開<ref name="handbook2016" />。 * [[1938年]](昭和13年) ** 3月21日:[[武蔵中央電気鉄道]]の乗合バス事業、八王子市街自動車(現・[[京王電鉄バス八王子営業所]])を買収<ref name="handbook2016" />。 ** 6月1日:御陵線と競合していた武蔵中央電気鉄道を買収し、八王子線とする(横山車庫前駅 - <!--高尾橋-->高尾山麓駅間、後に高尾線と改称。現存する[[京王高尾線]]とは異なる)<ref name="handbook2016" />。 * [[1939年]](昭和14年) ** 5月22日:笹塚電車車庫を乗合自動車車庫に変更<ref name="handbook2016" />。 ** 6月30日:高尾線を休止。 ** 12月1日:高尾線を廃止。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[陸上交通事業調整法]]による[[戦時統合]]に伴い、東京市内バス路線を東京市(現・[[都営バス]])へ譲渡<ref name="handbook2016" />。 ** [[配電統制令]]により、電力供給事業の全てを[[関東配電]]株式会社へ譲渡<ref name="handbook2016" />。 * [[1944年]](昭和19年)5月31日:陸上交通事業調整法により、東京急行電鉄と合併して、京王営業局として営業開始。いわゆる[[大東急]]の一員となる<ref name="handbook2016" />。 === 帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む) === [[File:Teito-Dentetsu Logomark.svg|thumb|left|120px|帝都電鉄]] 一方、井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の'''帝都電鉄株式会社'''が同社の渋谷線として[[1933年]](昭和8年)[[8月1日]]に[[渋谷駅]] - [[井の頭公園駅]]間を開業させ、[[1934年]](昭和9年)4月1日に[[吉祥寺駅]]まで全通させたものである。 元々、同社は[[1928年]](昭和3年)9月24日に設立された鬼怒川水力電気系列の'''[[東京山手急行電鉄|東京山手急行電鉄株式会社]]'''がそもそもの母体である。[[1930年]](昭和5年)11月15日に'''東京郊外鉄道株式会社'''と社名を変更して、[[1931年]](昭和6年)2月1日には[[1927年]](昭和2年)7月に設立されていた'''渋谷急行電気鉄道株式会社'''を合併し、同社が計画中の渋谷線を継承した。そして、1933年(昭和8年)1月19日に帝都電鉄株式会社に改称した。理由は1932年(昭和7年)10月1日に沿線町村のほとんどが東京市に合併されたことにより、「[[郊外]]」の社名がふさわしくなくなったからとされている。 また、同社は[[1935年]](昭和10年)には乗合自動車事業も開始したが、[[1940年]](昭和15年)5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列の[[小田急電鉄|小田原急行鉄道株式会社]]に合併され、小田原急行鉄道帝都線となる。さらに[[1941年]](昭和16年)3月1日には親会社である鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し、'''小田急電鉄株式会社'''に改称、小田急電鉄帝都線となる。そして[[1942年]](昭和17年)5月1日には陸上交通事業調整法の趣旨に則り、小田急電鉄株式会社は[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道株式会社]]と共に東京横浜電鉄株式会社に合併し、'''[[東京急行電鉄|東京急行電鉄株式会社]]'''(いわゆる[[大東急]])の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線に改称される。 なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸の電力部門を電力国家管理政策に基づき国家へ取り上げられた上、[[中華民国]]の[[山東半島]]への[[鉱業]]進出が裏目に出て経営が悪化し、先行きが暗かった。加えて、経営者である[[利光鶴松]]が高齢を理由に、小田急の経営一切を自分が見込んだ[[東京横浜電鉄]]の[[五島慶太]]に託して引退。事実上同社に身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄の場合、京王電気軌道と異なり、あくまで自主的に統合に加わったのであった。 ==== 年表 ==== * [[1927年]](昭和2年)7月28日:渋谷急行電気鉄道株式会社が設立<ref name="handbook2016" />。 * [[1928年]](昭和3年)9月24日:'''東京山手急行電鉄'''株式会社が設立。資本金3400万円、代表は利光鶴松<ref name="handbook2016" />。 * [[1930年]](昭和5年)11月26日:東京山手急行電鉄株式会社が東京郊外鉄道株式会社に改称<ref name="handbook2016" />。 * [[1931年]](昭和6年) ** 2月1日:東京郊外鉄道株式会社が渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、資本金3800万円になる<ref name="handbook2016" />。 ** 7月:東京郊外鉄道渋谷線(渋谷駅 - 吉祥寺駅間)の建設に着工<ref name="handbook2016" />。 * [[1933年]](昭和8年) ** 1月19日:東京郊外鉄道株式会社が'''帝都電鉄'''株式会社に改称<ref name="handbook2016" />。 ** 8月1日:帝都電鉄渋谷線として、渋谷駅 - 井の頭公園駅間が開業<ref name="handbook2016" />。 * [[1934年]](昭和9年)4月1日:井の頭公園駅 - 吉祥寺駅間が開業し、渋谷駅 - 吉祥寺駅間が全線開通<ref name="handbook2016" />。 * [[1935年]](昭和10年)4月8日:東横乗合より乗合自動車路線を譲受し([[大宮 (杉並区)|大宮八幡]] - [[久我山駅]] - [[牟礼 (三鷹市)|牟礼]] - [[武蔵小金井駅]]間)、乗合バス事業に進出<ref name="handbook2016" />。 * [[1940年]](昭和15年)5月1日:帝都電鉄株式会社が、同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道に合併される<ref name="handbook2016" />。 * [[1941年]](昭和16年)3月1日:配電統制令に基づき、主業を失った鬼怒川水力電気は小田原急行鉄道を合併、同社は[[小田急電鉄]]と改称<ref name="handbook2016" />。 * [[1942年]](昭和17年)5月1日:小田急電鉄は[[京浜電気鉄道]]とともに東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄(いわゆる大東急)となる<ref name="handbook2016" />。 === 大東急時代 === [[File:TKK logomark.svg|thumb|left|120px|[[東急|東京急行電鉄]]]] [[第二次世界大戦]]中、京王線も井の頭線も、大東急の路線となった。 京王線は、'''東京急行電鉄京王営業局'''(→京王管理部→京王支社)によって、井の頭線は'''東京急行電鉄新宿営業局'''(→新宿管理部→渋谷管理部→渋谷支社)によって、それぞれ営業が行われた。しかし、戦局が悪化する中、京王線・井の頭線ともに[[日本本土空襲|空襲]]などで様々な被害を受けた。とりわけ井の頭線は[[永福町検車区|永福町車庫]]が被災して壊滅に近い状態となった。また、京王御陵線は「[[不要不急線]]」と判断され、営業休止(事実上の廃線)に追い込まれた。大東急時代に、空襲被災のため、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[工兵隊]]を動員した[[ターミナル駅]]の京王新宿駅を新宿三丁目から[[西新宿]]へ移転したほか、軌道から地方鉄道への変更が行われ、[[中央本線]][[八王子駅]]への乗り入れ計画など(実現せず)、京王線の体質改善が計画されたが、間もなく、大東急は分割再編成に向かう。 ==== 年表 ==== * [[1942年]](昭和17年)5月1日:小田急電鉄株式会社が京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄株式会社が成立。小田急帝都線は東急井の頭線となる。 * [[1944年]](昭和19年)5月31日:京王電気軌道株式会社が東京急行電鉄株式会社に合併される<ref name="handbook2016" />。 * [[1945年]](昭和20年) ** 1月21日:東急御陵線(北野駅 - 多摩御陵前駅間)を休止<ref name="handbook2016" />。 ** 5月頃:[[代田連絡線]](代田二丁目(現・新代田) - 東急小田原線(現・[[小田急小田原線]])世田ヶ谷中原(当時被災休止中、現・[[世田谷代田駅|世田谷代田]]))使用開始。 ** 7月24日:京王線新宿起点を[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|京王新宿駅]]から[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|現在地]](新宿区[[西新宿]])に移転<ref name="handbook2016" />。[[京王線の新宿駅付近の廃駅|省線新宿駅前駅、新町駅、西参道駅、幡代駅]]を廃止。 ** 8月15日:京王線全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道へ変更申請<ref name="handbook2016" />。 ** 10月1日:京王線全線が地方鉄道法に基づく鉄道となる<ref name="handbook2016" />。 * [[1947年]](昭和22年)12月26日:東京急行電鉄の[[株主総会]]が開かれ、東京急行電鉄株式会社から、京王帝都電鉄株式会社・小田急電鉄株式会社・京浜急行電鉄株式会社・[[東急百貨店|株式会社東横百貨店]]の4社が分離することが決定(いわゆる大東急分割)<ref name="handbook2016" />。 === 京王帝都電鉄へ === [[File:Keio Teito Logomark.svg|thumb|left|120px|京王帝都電鉄]] 第二次世界大戦も終結し、京王線と井の頭線は、'''京王帝都電鉄株式会社'''の下で営業されることとなる。東京急行電鉄が、新たに新設した子会社・京王帝都電鉄に、事業と資産の一部を譲渡する分離方式が採られた。京王帝都電鉄は、分離の翌期に株式市場に上場して、金融機関などの他の株主資本が入ることで独立を果たした。 元来、京王電気軌道も、帝都電鉄も鬼怒川水力電気の[[利光鶴松]]が企図した事業であったが、その後の沿革が異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ[[路面電車]]当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われたこと、東都乗合自動車(現・[[国際興業バス]])や藤沢自動車(現・[[神奈川中央交通]])、中野乗合自動車(現・[[関東バス]])などのバス会社や[[観光業|観光事業]]であった[[京王閣]]などの有力系列会社が傘下から離れていったことに起因する。 京王線は、京急線や小田急線とは違い、高速鉄道化が遅れ、車両や鉄道用地の規格が小さく、戦災による被災車両が発生しても、他線からの車両の融通や、新製車両の配備も行われなかった。また東急本社も、車両、線路、設備の改良や新規の投資も行う余裕がなく、京王線は東急合併のメリットを享受できなかった。いわば、戦前の経営を支えた付帯事業を失い、戦災被害を受けたままの鉄道事業のみで自立しなければならない現状であった。そのため、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたのである。 実際に井の頭線を路線に加えるように推進したのは、当時の東急京王支社長の職にあった井上定雄(後の京王帝都電鉄社長)であり、[[五島慶太]]はむしろこの案にためらったと言われる。京王線と井の頭線は沿線が重複し、合体することで強固な経営基盤が築け、また井上は帝都電鉄出身であったため、自分の案なら古巣の井の頭線の連中も十分説得できると自信を持っていたとされる。井の頭線は駅の過半数が京王線以北にあることから、多くの沿線住民にとって京王の管轄の方が便利でもあった。 東急からの譲受価格は総額5115万2800円で、前述の事情から、鉄道事業の補填のため、東京横浜電鉄が戦前経営していた京王線以北の乗合バス路線も京王帝都電鉄が譲り受けた。このほか、初代社長に東急(目黒蒲田電鉄)生え抜きの[[三宮四郎]]が就任したこともあり(なお、新生小田急の初代社長は旧小田急出身の[[安藤楢六]]、京急初代社長は京浜電鉄出身の井田正一だった)、京王電気軌道の復活と言うよりは、新たな合併私鉄が誕生した趣きで再出発を期した。 当初の経営状況は不安定であった。1948年度は現在の「大手私鉄」の中でも収益は最下位で、[[1949年]]の『会社[[四季報]]』にも、「(東急系)四社の中で一番劣る」「前途は芳しくない」「労資関係も良くない」「発展性は薄い」などと酷評される有り様であった。 戦災復旧、設備の改良など、巨額の投資を余儀なくされた一方、[[日本国有鉄道|国鉄]][[下河原線]]の払い下げ出願(実現せず)、[[京王競馬場線|競馬場線]]の建設計画のほか、収支改善のために、バス事業など付帯事業の強化を推進し、[[1955年]](昭和30年)の高尾自動車株式会社の買収を始めとしたバス事業に本腰を入れる様になると共に、[[1956年]](昭和31年)の京王百花苑(現・[[京王フローラルガーデンANGE]])の開園や[[1959年]](昭和34年)の京王食品株式会社(現・[[京王ストア]])、[[1961年]](昭和36年)の[[京王百貨店]]の設立など、沿線価値を上げる事業も開始した。 また、[[1960年代]]には、新宿地下駅の営業開始など、軌道線イメージからの脱却にも力を入れた。また[[レジャー]]輸送を主にする競馬場線・[[京王動物園線|動物園線]]・[[京王高尾線|高尾線]]を開通させたほか、[[1970年代]]には[[多摩ニュータウン]]へのアクセス路線として[[京王相模原線|相模原線]]を開業。[[1980年]]には[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]との相互直通乗り入れを開始するなど、発展の道を歩んだ。 なお、1960年頃にはこの他にも数多くの路線を建設しようとしており、立川線([[富士見ヶ丘駅]] - [[西国立駅]])、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - [[三鷹駅]])、両国線(新宿駅 - [[神楽坂駅]] - [[飯田橋駅]] - [[九段下駅]] - [[東京駅]] - [[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]] - [[浜町駅]] - [[両国駅]])の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。 [[1980年代]]にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、第6代社長に京王帝都電鉄総合職1期生の[[桑山健一]]が就任し、経営の引き締めにつとめ、[[失われた10年|平成不況]]の過程で同業他社が不動産価格の下落や旅行を含めた消費の不振などに見舞われるのを尻目に、[[財務]]体質は強固なものに変わっていった。桑山は、京王帝都電鉄設立以来、会社のたゆまぬ経営努力にもかかわらず、常に財務状況が脆弱であったことを嘆き、財務体質の強化を志しての社長就任となった。桑山は「リフレッシング京王」をスローガンに掲げ、京王グループ全体の経営改革と付加価値向上に努めた。後継社長には、財務のプロである[[住友信託銀行]]の西山廣一常務を招聘し、桑山の意を受けた西山は在任中、経営改革を成し遂げた。 ==== 年表 ==== * [[1948年]](昭和23年)6月1日:前年12月の東急株主総会で決定した通り、[[京王線]]と[[京王井の頭線|井の頭線]]は京王帝都電鉄株式会社(資本金5000万円・従業員1,944名)の下で営業を開始。 * [[1949年]](昭和24年)9月27日:新宿駅 - 調布駅間で[[急行列車]]の運行を開始(京王史上初の[[優等列車]])。 * [[1953年]](昭和28年)6月24日:株式会社京王帝都観光協会(現・[[京王観光]])を設立し、観光事業を本格化。 * [[1955年]](昭和30年) ** 4月29日:[[京王競馬場線|競馬場線]]([[東府中駅]] - [[府中競馬正門前駅]]間)が開通。 ** 5月1日:[[フリーペーパー|沿線広報紙]]『京王帝都沿線たより』(現『京王ニュース』)創刊<ref>[https://www.keio.co.jp/press/news/2110_history1/index.html#page=1 京王ニュース(1号・100号・200号・300号・400号・500号)] 2021年10月15日閲覧</ref>。 ** 7月9日]:高尾自動車株式会社(現・[[西東京バス]]の一部)を買収。 * [[1956年]](昭和31年) ** 2月29日:奥多摩振興株式会社(現・西東京バスの一部)を買収。 ** 6月16日:京王多摩川駅前に京王百花苑([[1993年]]に閉鎖、[[2002年]]に[[京王フローラルガーデンANGE]]として営業再開)を開園。 * [[1957年]](昭和32年)3月:[[百草園]]を買収。 * [[1959年]](昭和34年)9月1日:京王食品株式会社(現・株式会社京王ストア)を設立。 * [[1961年]](昭和36年)3月10日:株式会社京王百貨店を資本金2500万円で設立。 * [[1963年]](昭和38年) ** 4月1日:新宿駅から600 m([[文化服装学院]]付近)の区間を地下化し、新宿地下駅運用開始。当初は4線あったが、後に8両[[編成 (鉄道)|編成]]運用開始にあわせて3線となる。 ** 8月4日:[[架空電車線方式|架線]]電圧を600 [[ボルト (単位)|V]]から1,500 Vに昇圧。同日京王線車両[[京王5000系電車 (初代)|5000系]](初代)の運用開始。 ** 10月1日:新宿駅 - 東八王子駅間で[[特別急行列車|特急列車]]運転開始。 ** 10月1日:西東京バス株式会社を設立。 ** 12月11日:東八王子駅を新宿方に120 m 移転し、京王八王子駅と改称。 * [[1964年]](昭和39年) ** 1月25日:井の頭線車両[[京王3000系電車|3000系]]が1963年(昭和38年)度[[ローレル賞]]を受賞。 ** 4月21日:京王線開業以来運行上の[[ボトルネック|ネック]]となっていた中河原駅 - 聖蹟桜ヶ丘駅間の[[多摩川]]鉄橋が[[複線]]となる。 ** 4月29日 多摩動物公園線(現・[[京王動物園線|動物園線]]、高幡不動駅 - [[多摩動物公園駅]]間)が開通。 ** 6月7日:[[環状六号線|環状6号]]を含む[[初台駅]]付近の[[連続立体交差事業]]が完成し、新宿駅- 初台駅間1.7 kmが地下化。 ** 7月18日:京王線車両5000系が1964年(昭和39年)度ローレル賞を受賞(2年連続の受賞)。 * [[1966年]](昭和41年)3月31日:関東交通株式会社と関東タクシー株式会社を買収し、[[タクシー]]事業へ進出。 * [[1967年]](昭和42年)10月1日:[[京王高尾線|高尾線]](北野駅 - [[高尾山口駅]]間)が開通。同時に新宿駅 - 高尾山口駅間の特急列車運行開始。 * [[1968年]](昭和43年) ** 1月1日:[[初詣臨時列車]]として特急「迎光号」が新宿駅 - 高尾山口駅間で運行を開始(毎年[[正月]]のみ運行)。 ** 5月11日:京王線に関東の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤車]]では初、[[鉄道車両の座席|ロングシート]]車では日本初の冷房装置付き車両が入線、運行開始。 * [[1969年]](昭和44年) ** 2月25日:井の頭線に冷房装置付き車両が入線、運行開始。 ** 4月10日:株式会社[[京王プラザホテル]]を設立。 * [[1971年]](昭和46年) ** 4月1日:[[京王相模原線|相模原線]]の京王多摩川駅 - [[京王よみうりランド駅]]間が開通。 ** 12月15日:井の頭線で急行列車を運行開始。 * [[1972年]](昭和47年)5月29日:[[御岳登山鉄道]]株式会社を傘下に収める。 * [[1974年]](昭和49年) ** 6月1日 全駅に自動券売機を設置。 ** 10月18日:相模原線の京王よみうりランド駅 - [[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]間が開通。 * [[1977年]](昭和52年)11月:在籍車両数が500両を突破。 * [[1978年]](昭和53年)10月31日:[[京王新線]](笹塚駅 - 新線新宿駅間)が開通し、新宿駅 - 笹塚駅間が別線線増の形で[[複々線]]化。 * [[1979年]](昭和54年)10月3日:[[武蔵野台駅]]の[[踏切]](飛田給11号踏切)にて、トラックから落ちた重機に[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]同士が衝突した[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故|重機との二重衝突事故]]が発生し、重機に乗り込んでいた1名が死亡<ref group="注釈">この事故で、下り特急列車の先頭車1両(クハ5871)が廃車。</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)3月16日:京王線・都営新宿線の相互乗り入れを開始。 * [[1983年]](昭和58年)7月10日:京王線の旧初台駅付近 - 笹塚の上り線が地下化。7月17日には下り線も地下化。 * [[1984年]](昭和59年) ** 3月21日:井の頭線が3000系で統一され、車両冷房化率100%となる。 ** 3月31日:京王・井の頭線全線の手荷物・小荷物取り扱いを廃止。 * [[1988年]](昭和63年) ** 3月14日:本社を新宿三丁目から聖蹟桜ヶ丘駅前に移転<ref>{{Cite news |和書 |title=京王帝都電鉄新本社ビル完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-03-01 |page=1 }}</ref>。 ** 5月21日:相模原線の京王多摩センター駅 - [[南大沢駅]]間が開通。 * 1989年(平成元年)11月24日:新社章(コーポレートロゴマーク)制定。 * [[1990年]](平成2年) ** 3月20日:相模原線の南大沢駅 - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]間が開通し、全線開通。 ** 4月16日:八王子市堀之内の京王研修センター内に[[京王資料館]](通常は一般には非公開)を開設。 * [[1992年]](平成4年) ** 5月28日:相模原線で特急列車運行開始([[2001年]](平成13年)3月26日まで)。 ** 10月1日:京王線車両[[京王8000系電車|8000系]]が[[通商産業省]](現・[[経済産業省]])の[[グッドデザイン賞|グッドデザイン商品]]に選定。 ** 12月26日:京王線の車両冷房化率が100%となり、全線冷房化が完了。 * [[1994年]](平成6年) ** 4月1日:全駅で喫煙所を除き禁煙化を実施。 ** 5月:京王線全線で[[弱冷房車]]を導入。 * [[1996年]](平成8年) ** 1月9日:井の頭線車両[[京王1000系電車 (2代)|1000系]]が運用開始(「京王帝都電鉄」としては最後の新規形式)。 ** [[6月]] :井の頭線全線で弱冷房車を導入。 ** [[12月1日]] 京王線車両5000系が引退。 * [[1997年]](平成9年)6月2日:公式[[ウェブサイト|サイト]]を開設(当初、ドメイン属性が異なっている場合でも同一名称を認めないというドメイン取得ルール(第三レベルドメイン重複制限)により、keio.ac.jp([[慶應義塾大学]])が存在したためにkeio.co.jpが使用できなかった)。 === 京王電鉄 === [[1998年]](平成10年)[[7月1日]]<ref name="keio50_3_5_2" />、京王帝都電鉄は、会社設立50周年記念として、'''京王電鉄株式会社'''へ改称した<ref name="KeioTeito9805" /><ref name="keioHB_corp_hist">{{Cite book |和書 |author=京王電鉄広報部 |year=2014 |chapter=会社の沿革|title=京王ハンドブック2013|page=92 |publisher=京王電鉄株式会社 |chapterurl=[http://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2013/2013_p090_p092.pdf#page=2|format=PDF|access-date=2023-12-30 }}</ref>。 路線開通などはないものの、[[連続立体交差事業]]の推進を働きかけたほか、[[パスネット]]、[[PASMO]]の導入に伴う積極的な機器の導入、[[待合室]]や新型[[ベンチ]]の早期導入など、「乗客が利用しやすい鉄道」を目指している。 京王電鉄は大手私鉄の中でも優良な経営状況であったが、2020年以降は、[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響#鉄道|新型コロナウイルス感染症で乗客が減るなどの影響]]を受け、2021年3月期決算は京王を含む首都圏大手私鉄5社全てが最終赤字となった<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210430/k10013006761000.html 「首都圏の大手私鉄5社 新型コロナの影響で最終赤字に」][[日本放送協会|NHK]](2021年4月30日配信)2021年5月21日閲覧</ref>。 ==== 年表 ==== * 1998年(平成10年)7月1日<ref name="keio50_3_5_2" />:会社設立50周年を機に京王帝都電鉄株式会社から京王電鉄株式会社に改称<ref name="KeioTeito9805" /><ref name="keioHB_corp_hist" />。 * [[1999年]](平成11年) ** 7月28日:競馬場線にて<!--京王史上初の←電鉄直営だったバスは既に実施していた-->[[ワンマン運転]]を開始<ref name="KeioFuchu">{{Cite press release |和書 |title=7月28日(水)から京王線の平日ダイヤを一部改正します |publisher=京王電鉄 |date=1999-06-30 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2107.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010507144935fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2107.htm |archive-date=2001-05-07}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1998-11 |volume = 49 |issue = 11 |page = 94 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。 ** [[9月17日]]:4月1日の[[労働基準法]]改正に伴って京王史上初の女性[[車掌]]が井の頭線に誕生(第二次世界大戦の男子職員不足から動員された女子職員を除く)<ref name="Keio19909">{{Cite press release |和書 |title=当社初の女性車掌が誕生します |publisher=京王電鉄 |date=1999-09-20 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2121.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010418165327fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2121.htm |archive-date=2001-04-18}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年) ** 1月19日:日本初の取り組みとして、京王電鉄と[[中央化学]]が共同開発した、使用済み[[定期乗車券]]を材料とする[[ベンチ]]を製造し、新宿・府中・聖蹟桜ヶ丘の各駅に設置。その後、各駅に順次設置<ref name="KeioBench">{{Cite press release |和書 |title=使用済み定期券で駅のベンチをつくります -日本で初めての取り組み- |publisher=京王電鉄 |date=200-01-23 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2147.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010502065620fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2147.htm |archive-date=2001-05-02 }}</ref>。 ** 3月24日:多摩動物公園駅前に[[京王れーるランド]]を開園<ref name="KeioRailland">{{Cite press release |和書 |title=多摩動物公園駅に「京王れーるランド」をオープン |publisher=京王電鉄 |date=2000-03-01 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2156.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010429002000fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2156.htm |archive-date=2001-04-29 }}</ref>。 ** 6月18日:日本初の取り組みとして、本物の電車を利用して[[フリーマーケット]]を行う「電車DEフリマ」を開催。 ** [[8月21日]]:日本初の取り組みとして、電車内の[[優先席]]付近で[[携帯電話]]の電源を切ってもらう啓発運動を開始。 ** 10月14日:鉄道共通カードシステム「[[パスネット]]」の稼動を開始。また同時に関東初の取り組みとしてパスネットを2枚投入できる「精算機能付き新型自動改札機」を全駅に設置( - 2001年5月30日)。 ** 12月7日 - 12月22日:[[女性専用車両]]を試行(木曜日・金曜日深夜時間帯の[[臨時列車]]にて)<ref name="Keio20001204">{{Cite press release |和書 |title=女性車両の試行について |publisher=京王電鉄 |date=2000-12-04 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2217.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010502064912fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2217.htm |archive-date=2001-05-02 }}</ref><ref name="交通2000-12-07">{{Cite news |和書 |title=京王 深夜帯に女性専用車両 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-12-07 |page=3 }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** 1月24日:社名変更後初の新形式である京王線車両[[京王9000系電車|9000系]]が運用開始<ref>{{Cite journal ja-jp |year=2001 |month=04 |title=RAILWAY TOPICS - 京王電鉄9000系電車 営業運転スタート |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻414号 |page= 85 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。 ** 3月 全列車に「[[転落防止幌]]」を設置。 ** 3月27日:ダイヤ改定に伴い、京王線平日深夜時間帯に女性専用車を導入<ref name="Keio200103">{{Cite press release |和書 |title=京王線で女性専用車両を本格実施 |publisher=京王電鉄 |date=2001-02-22 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2218.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010411081147fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2218.htm |archive-date=2001-04-11 }}</ref><ref name="交通2001-02-26">{{Cite news |和書 |title=女性専用車両を本格導入 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2001-02-26 |page=6 }}</ref>。相模原線の特急が急行に種別変更され、[[準特急]]が新宿駅 - 高尾山口駅間を中心に運行されるようになった。 ** 6月22日:京王線に史上初の女性車掌が登場<ref name="Keio20010621">{{Cite press release |和書 |title=6月21日(木) 京王線に初めて女性車掌が誕生 |publisher=京王電鉄 |date=2001-06-21 |url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2244.htm |access-date=2023-12-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010816192702fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2244.htm |archive-date=2001-08-16 }}</ref>。 ** 10月1日:京王線車両9000系と[[飛田給駅]]舎が(財)日本産業デザイン振興会のグッドデザイン賞を受賞。<!--主催者が変更されています--> ** [[11月6日]]:[[国土交通省]]より認定鉄道事業者の認定を受ける([[JR]]以外の企業では史上初)。 * [[2002年]](平成14年) ** 3月:「列車運行情報サービス」を開始。 ** 8月1日:[[京王電鉄バス]]に、京王電鉄が所有していたバス事業に関する経営権を継承。これにより京王電鉄自体はバス事業から撤退。 ** 10月:京王線車両の車体の帯を「[[えんじ色|臙脂]]帯」から現行の「ピンクと紺色の2色帯」に統一。 ** 12月21日:主要駅にて[[公衆無線LAN]]サービスを開始。 * [[2003年]](平成15年) ** 3月25日:全駅に新型[[自動券売機]]を設置。これに伴い[[定期乗車券|定期券]]を発行できるサービスを開始。 ** 5月1日:[[健康増進法]]施行に伴い、全駅を終日全面禁煙化。 * [[2005年]](平成17年)6月29日:英文社名をKeio Electric Railway Co.,Ltd.から'''Keio Corporation'''に変更。 * [[2006年]](平成18年) ** 1月23日:従来より設置していた「優先席」の数を増設し、同時にその周辺を「おもいやりぞーん」とすると共に[[つり革]]がオレンジ色の三角型になる。 * [[2007年]](平成19年) ** 3月18日:ICカード乗車券[[PASMO]]を導入。同時に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]などが発行するICカード乗車券[[Suica]]と相互利用を開始。 ** 5月17日:[[自動体外式除細動器]] (AED) を69駅全駅に設置完了。 ** 5月:安全対策・輸送強化の一環として、2010年度までに[[自動列車制御装置]] (ATC) を京王線全線に導入することを発表(ATC導入自体は2006年度の事業計画で発表済み)。 * [[2008年]](平成20年) ** 1月10日:パスネットの販売を終了。 ** 3月14日:[[自動改札機]]でのパスネット利用を中止。 ** 3月15日:PASMO電子マネーのサービスを開始。 * [[2010年]](平成22年)3月26日:相模原線にてATCの使用を開始。 * [[2011年]](平成23年) ** 3月13日:京王線車両[[京王6000系電車|6000系]]が引退。 ** 10月2日:京王線・京王新線・競馬場線・動物園線・高尾線にてATCの使用を開始。 ** 12月5日:井の頭線車両3000系が引退。 * [[2012年]](平成24年) ** 8月19日:京王線[[柴崎駅]] - [[西調布駅]]間・相模原線調布駅 - 京王多摩川駅間が地下化。同時にダイヤ改定が実施され、京王線の特急が準特急に格下げられ、2013年2月21日まで運行休止となる。 ** 9月7日:大手私鉄では初めて、全営業車両(都営地下鉄所属車の一部を除く)が[[可変電圧可変周波数制御]](VVVFインバータ制御)となる<ref name="keio20120821">{{Cite press release |和書 |title=9月7日(金)大手民鉄で初めて 全ての営業列車が消費電力45%削減のVVVFインバータ制御電車となります |publisher=京王電鉄 |date=2012-08-21 |url=http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr120822v01/index.html |accessdate=2020-08-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121020074157/http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr120822v01/index.html |archivedate=2012-10-20 |quote=従来制御車両の最後の1編成(4両)がVVVFインバータ制御車両へ生まれ変わる改造のために9月6日(予定)に工場に入場するため、翌7日より当社の営業列車が全てVVVFインバータ制御電車となります。}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** 2月22日:ダイヤ改定。相模原線に特急を新設(復活)、通勤快速を廃止し、代わって区間急行を運行(通勤時間帯以外にも運行、停車駅は同じ)するなど<ref>{{Cite web|url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121105_diagram.pdf|format=PDF|title=2月22日、京王線・井の頭線のダイヤを刷新します。|publisher=京王電鉄|date=2012-11-05|accessdate=2023-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121118231527/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121105_diagram.pdf|archivedate=2012-11-18}}</ref>。同日より全駅に順次、[[駅ナンバリング]]を導入。 ** 3月3日:井の頭線にてATCの使用を開始。これにより、京王の全路線にATCが導入された。 ** 3月23日:[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]も利用可能になる<ref group="注釈">割引用[[manaca]]、障がい者用[[nimoca]]、割引用[[はやかけん]]は相互利用対象外。</ref>。 ** 4月15日:京王線(電車・バス事業)が「開業100周年」を迎える<ref name="Keio201212">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130510111211/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr121220_100shunen.pdf 2013年、京王の電車・バスが開業100周年迎えます。]}}(京王電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)。</ref><ref name="Keio201304">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130424143211/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130409_100thticket.pdf 「電車開業100周年記念入場券」を発売します]}}(京王電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)。</ref>。各種記念イベントを開催する<ref name="Keio201212"/><ref name="Keio201304"/>。 ** 10月10日:京王れーるランドがリニューアルオープン。<!--同時に多摩動物公園駅に「京王れーるランド」の副駅名を導入。→ 京王初・京王で最後のようなものではないのなら、駅の個別トピックは駅の記事に記述を(ちなみに副駅名導入は飛田給駅が先です) --> * [[2014年]](平成26年)6月11日:京王線・井の頭線での車内無線LAN導入を発表。同月16日からサービス提供を開始し、保有する全車両で順次利用可能になった<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr140611_denshawifi.pdf|title=京王線・井の頭線の列車内で公衆無線LAN (Wi-Fi) サービスを開始します 〜全車両でのサービス提供に向けて通信環境の整備に着手〜|publisher=京王電鉄株式会社|date=2014-06-11|accessdate=2014-06-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140701193946/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr140611_denshawifi.pdf|archivedate=2014-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20140611/563352/|title = 京王電鉄が車内Wi-Fi導入、全843両で順次利用可能に|publisher = ITpro|date = 2014-06-11|accessdate = 2014-06-28}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)9月25日:ダイヤ改正。相模原線に準特急を新設。 * [[2017年]](平成29年)9月29日:[[京王5000系電車 (2代)|5000系]](2代目)が通常列車として運用開始<ref name="keio20170707">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170707_5000kei.pdf 9月29日(金)座席指定列車で使用する新型車両 「5000系」が通常列車として先行デビュー! ]}} - 京王電鉄、2017年7月7日</ref><ref name="railf170930">[http://railf.jp/news/2017/09/30/195000.html 「京王5000系が営業運転を開始」] [[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp 鉄道ファン]](2017年9月30日掲載)2021年5月21日閲覧</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** 2月22日:5000系(2代目)による座席指定列車「[[京王ライナー]]」の運行を開始<ref name="keio20180124" /><ref name="mynavi20180222">[https://news.mynavi.jp/article/20180222-587894/ 「京王ライナー」デビュー! 新宿~京王多摩センター間を最速24分] [[マイナビニュース]](2018年2月22日配信)2021年5月21日閲覧</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)6月1日:[[スペースマーケット]]社を経由して保有不動産の会議室などの時間貸し事業を開始<ref>[https://spacemarket.co.jp/archives/13236 スペースマーケットと京王電鉄がシェアリングスペースを展開!]スペースマーケット社ニュースリリース(2019年6月4日)2019年9月17日閲覧</ref>。 * [[2022年]](令和4年)3月12日:ダイヤ改正で準特急が廃止。座席指定列車「Mt.TAKAO号」が通年運転化<ref name="keio20220127" />。 * [[2023年]](令和5年)8月31日:[[回数乗車券]](通学用割引、身体障がい者用・知的障がい者用回数乗車券を除く)の発売を終了<ref>{{Cite press release|title=2023年10月1日(日)から京王線・井の頭線の鉄道乗車ポイントサービスを開始します|publisher=京王電鉄|date=2023-7-3|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2023/nr20230703_joshapoint.pdf|format=PDF|和書|accessdate=2023-7-3|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 * 2023年度(令和5年度)中:[[クレジットカード]]の[[非接触型決済|タッチ決済]]および[[QRコード]]を活用した乗車サービスの実証実験を開始予定<ref>{{Cite press release |和書 |title=2023年度中に「京王電鉄」でクレジットカード等のタッチ決済などを導入し、新たな乗車サービスの実証実験を開始します~新たな移動需要の創出を通じて地域活性化を目指す~ |publisher=京王電鉄ほか5社 |date=2023-12-13 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2023/nr20231213_creditcardtouch.pdf |format=PDF |access-date=2023-12-30 }}</ref>。 === 歴代経営陣 === {|class="wikitable" |+style="text-align:left"|歴代社長(旧・京王電気軌道) |- !|代||氏名||在任期間||出身校||備考 |- |-||[[利光丈平]]||1910年9月21日 - 1914年5月11日||[[明治大学]]・[[南カリフォルニア大学]]||設立発起人・初代専務、[[京成電気軌道]][[常務取締役]] |- |-||小田切忠四郎||1914年5月11日 - 1915年6月24日||[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|帝国大学工科大学]]{{sfn|森田|1910|loc=30頁|ref=kaiko-50}}||第2代専務、[[神奈川県庁]]出身 |- |-||[[井上篤太郎]]||1915年6月24日 - 1928年12月18日||明治大学||[[衆議院議員]]、[[玉川電気鉄道]]取締役、第3代専務 |- |初||井上篤太郎||1928年12月18日 - 1935年12月18日||明治大学||社長制の導入 |- |2||[[金光庸夫]]||1935年12月18日 - 1937年2月5日||[[高等小学校]]||[[厚生大臣]] |- |3||[[穴水熊雄]]||1937年2月5日 - 1944年5月30日||[[山梨県立甲府第一高等学校|旧制甲府中学校]]||[[大日本電力]]社長、東京急行電鉄に合併 |- |} {|class="wikitable" |+style="text-align:left"|歴代社長(京王帝都電鉄→京王電鉄) |- !|代||氏名||在任期間<ref>2009年までの歴代社長は{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2011/2011_p093_p113.pdf 『2011年京王ハンドブック』「年表」]}} よる。</ref>||出身校||備考 |- |初||[[三宮四郎]]||1948年5月29日 - 1957年4月15日||[[慶應義塾大学]]||目黒蒲田電鉄出身、[[東京急行電鉄]]専務取締役 |- |2||[[井上定雄]]||1957年5月18日 - 1969年5月26日||[[京都大学]]||帝都電鉄出身、東京急行電鉄京王支社長 |- |3||[[小林甲子郎]]||1969年5月26日 - 1975年5月26日||慶應義塾大学 ||京王電気軌道出身 |- |4||[[井上正忠]]||1975年5月26日 - 1982年2月25日||[[東北大学]]||[[運輸省]]出身、創業者井上篤太郎の孫 |- |5||[[箕輪圓]]||1982年2月25日 - 1986年6月27日||[[東京府立第六中学校]]||京王電気軌道出身 |- |6||[[桑山健一]]||1986年6月27日 - 1993年6月29日||[[早稲田大学]]|| |- |7||[[西山廣一]]||1993年6月29日 - 1999年6月29日||慶應義塾大学||[[住友信託銀行]]常務取締役 |- |8||[[三枝正幸]]||1999年6月29日 - 2003年6月27日||慶應義塾大学|| |- |9||[[加藤奐]]||2003年6月27日 - 2009年6月26日||慶應義塾大学|| |- |10||[[永田正]]||2009年6月26日 - 2016年6月29日 ||[[立教大学]]|| |- |11||[[紅村康]]||2016年6月29日<ref>「[http://www.asahi.com/articles/DA3S12334146.html 新社長に紅村康氏 京王電鉄]{{リンク切れ|date=2023年12月}}[[朝日新聞デジタル]]、(2016年4月29日)</ref> - 2022年6月29日||早稲田大学<ref>「[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ27H9M_X20C16A4TJC000/ 京王電鉄社長に紅村副社長が昇格]」『[[日本経済新聞]]』2016年4月28日(2023年12月29日閲覧)</ref>|| |- |12 |[[都村智史]] |2022年6月29日<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=京王電鉄社長に都村氏 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC023UO0S2A500C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-05-02 |access-date=2022-06-29 |language=ja}}</ref> - 現職 |[[上智大学]]<ref name=":0" /> | |- |} == 社章 == 京王電気軌道創立時は「K」、変更後は「京王」を図案化した社章を使用していた<ref>{{Cite book|和書|author=「旅と鉄道」編集部(編)|year=2022|title=京王電鉄のすべて|publisher=天夢人|pages=28}}</ref>。[[大東急]]時代を経て京王帝都電鉄として独立した際に制定されたのが先代社章で、図案化した「京」と車輪を表す円を重ね、社員の協力体制を象徴していた<ref>{{Cite web|和書|date=2015-05|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/HsCZWwbokdoL.pdf|author=成田雄輝|title=京王電鉄のロゴについて|work=SUBWAY 日本地下鉄協会報 第205号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-11-01|page=50 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190713172450/http://www.jametro.or.jp/upload/subway/HsCZWwbokdoL.pdf |archivedate=2019-07-13}}</ref>。 現在の社章は'''コーポレートロゴマーク'''とも呼ばれ、1989年(平成元年)に制定された。京王グループのシンボルマークも兼ねており、新しい“KEIO”を強く印象付けるため社名を前面に出した意匠を採用し、斜体にすることでスピード感やダイナミックさを表現している。デザインはカラーとモノクロの2種が設定されており、モノクロ版はカラー版の色が異なる部分を6本の[[縞模様|ストライプ]]にすることでアクセントをつけている<ref>{{Cite web|和書|date=2018-08|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2018/2018_p004.pdf|author=京王電鉄株式会社広報部|title=京王ハンドブック2018|format=PDF|publisher=京王電鉄|accessdate=2018-11-01|page=4}}</ref>。 <gallery> Keio-Denki Logomark 1st.svg|京王電気軌道<br />社章(初期) Keio-Denki Logomark.svg|京王電気軌道<br />社章(後期) Keio Teito Logomark.svg|京王帝都電鉄<br />社章(先代) KeioRailway logo.svg|京王帝都電鉄<br />→京王電鉄<br />社章(現行、カラー版) KeioRailway logo m.svg|京王帝都電鉄<br />→京王電鉄<br />社章(現行、モノクロ版) </gallery> == 路線 == 京王電鉄は、6路線84.7[[キロメートル|km]]の鉄道路線を有するが、先述した通り、大きく分けて京王線系統と井の頭線の2つのグループから構成されている。 相模原線を延長開業させた1975年初頭時点で、当時の京王帝都電鉄の[[営業キロ]]は75.8kmとなった。一方で、[[阪神電気鉄道]]が[[阪神国道線|国道線]]の廃止を開始した1969年度初頭時点での営業キロは74.9kmあったものが、[[阪神北大阪線|北大阪線]]・国道線・[[阪神甲子園線|甲子園線]]を全廃した1975年5月6日に一挙に41.0km<ref group="注釈">この間[[阪神武庫川線|武庫川線]]の一部区間で営業を休止しているが、その休止区間および当時でも休止していた甲子園線の一部区間を含めている。</ref>となった。阪神の営業キロは1969年に国道線西灘駅 - 東神戸駅間0.9kmを廃止した当時でも74.0kmであったのが、1973年の甲子園線の休止区間浜甲子園駅 - 中津浜駅間0.8km、1974年の国道線上甲子園駅 - 西灘駅間14.4kmの廃止で休止区間を含めても58.8kmとなった。1974年度初頭当時の京王の路線総延長は66.0kmであったため、同年10月の相模原線京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間9.8kmの延長開業および翌1975年の阪神国道線とその支線区の全線廃止を待たずに京王と阪神が逆転し、大手私鉄最短営業距離の座を阪神に譲ることとなった。 {{multiple image | align = none | direction = vertical | width = 600 | image1 = Keio Corporation Linemap.svg | caption1 = 路線図 | alt1 = 京王電鉄の路線図 | image2 = 京王電鉄050.jpg | caption2 = [[ランドサット]]衛星写真に載せた京王電鉄の路線 | alt2 = ランドサット衛星写真に載せた京王電鉄の路線 }} === 京王線系統 === 京王線系統の[[軌間]]は1,372&nbsp;[[ミリメートル|mm]]のいわゆる「[[4フィート6インチ軌間|馬車軌間]]」である。これは京王線系統の元となった京王電気軌道が[[地方鉄道法]]ではなく[[軌道法]]によって建設されたことに起因する。つまり、京王線は[[路面電車]]由来の路線であり、これが[[都電荒川線]]や[[東急世田谷線]]といった軌道法に準拠して建設された路線と同様の軌間を持つ理由である。現在、大手私鉄の鉄道路線の中では唯一、1,372&nbsp;mmの軌間が用いられており、全国的にも珍しい。 なお、この軌間を持った大手私鉄は過去には[[京成電鉄]]と[[京浜急行電鉄]](当時は京浜電気鉄道)が存在した。これも軌道線を出自に持つ鉄道である。いずれにしても、これらは馬車軌間であった[[東京都電車|東京市電]]への乗り入れを考慮しての軌間の選択ということができる。ただし京王線と東京市電の接続はなかったが、戦時中に下高井戸駅で現東急世田谷線(当時は[[東急玉川線|玉川線]]支線)と京王線を接続して物資輸送を行ったことがある。 <!--(出典がなく信憑性も疑わしいためコメントアウト) [[関東大震災]]時に車両が大量に被災した[[横浜市電]]向けに京王電軌より旧型単車車両の譲渡が行われているが、当時馬車軌間で共通していた{{要出典|範囲=京王電軌 - 東京市 - 京浜電鉄 - 神奈川県[[横浜市]]の間で自走により[[回送]]された記録がある。|date=2015年1月}}この際も東京市側に車両を転線するには、両線の線路の接近した交差点で惰性を付けて道路上を走らせ(脱輪させ)転線したという。--> [[1950年代]]になり、監督官庁からの要請や、都営新宿線乗り入れに向けて[[標準軌]] (1,435&nbsp;mm) に改軌することも検討され、[[1960年代]]に製作された[[京王5000系電車 (初代)|5000系]](初代)や[[京王2000系電車|2010系]]車両は、標準軌対応台車の採用など、標準軌への改軌を考慮した設計がされていた。しかし莫大な費用が掛かることや、長期の輸送力低下を要することから実現は困難とされ、都営新宿線を京王線に合わせて1,372&nbsp;mm軌間で建設することになった。 ==== 現有路線 ==== *[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王線]]:[[新宿駅]] - [[京王八王子駅]] (37.9 km) **[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王新線]]:[[笹塚駅]]から新線新宿駅を経て[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]へ[[直通運転]]する京王線の別線(複々線)。 *[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]]:[[調布駅]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]] (22.6 km) *[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王競馬場線|競馬場線]]:[[東府中駅]] - [[府中競馬正門前駅]] (0.9 km) *[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王動物園線|動物園線]]:[[高幡不動駅]] - [[多摩動物公園駅]] (2.0 km) *[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20px|KO]] [[京王高尾線|高尾線]]:[[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[高尾山口駅]] (8.6 km) ==== 廃止路線 ==== *[[京王御陵線|御陵線]]:北野駅 - [[多摩御陵前駅]](6.2 km)(北野駅 - [[山田駅 (東京都)|山田駅]]間は現・高尾線と同じ路線)- 1945年1月21日休止、1964年11月26日廃止 *[[武蔵中央電気鉄道|高尾線(軌道線)]]:八王子駅前駅 - 高尾橋駅、東八王子駅前駅 - 横山町駅(計8.4 km)- 1939年6月30日全線廃止 ==== 未成路線 ==== * [[京王相模原線|相模原線]]:[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]] - 相模中野駅 (7.2 km) -1987年度免許失効 <ref name="moriguchi-p186">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』[[JTB]]、2001年、p.186</ref> * 国立線:[[府中駅 (東京都)|府中駅]] - [[国立駅]] (5.2 km) -1930年9月27日特許失効 <ref name="moriguchi-p186" /> * 国分寺線:府中駅 - [[国分寺駅]] (3.6 km) -1916年5月1日特許失効 <ref name="moriguchi-p186" /> * 立川線:府中駅 - [[立川駅]] (3.1 km) -1916年5月1日特許失効 <ref name="moriguchi-p186" /> * 大宮線:[[八王子駅|省線八王子駅]] - 所沢 - 大宮 (40.1 km) -[[武蔵中央電気鉄道]]から継承。1941年5月8日免許失効。 <ref name="moriguchi-p186" /> === 井の頭線系統 === 帝都電鉄に由来する井の頭線の軌間は、[[狭軌]]の1,067&nbsp;mmである。 ==== 現有路線 ==== *[[ファイル:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|20px|IN]] [[京王井の頭線|井の頭線]]:[[吉祥寺駅]] - [[渋谷駅]] (12.7 km) ==== 廃止路線 ==== *[[代田連絡線]]:代田二丁目駅(現・[[新代田駅]]) - [[世田谷代田駅]](営業キロ不明) - 1952年頃使用停止 ==== 未成路線 ==== 以下は帝都電鉄時代に失効。 * [[東京山手急行電鉄|山手急行線]]:[[大井町駅]] - [[駒込駅]] - 洲崎町駅 (50.8 km) -1936年1月23日駒込駅-洲崎町駅免許失効、1940年4月27日大井町駅-駒込駅間免許失効<ref name="moriguchi-p186" />。 == 管区制 == 駅の管理は管区制を採用しており、7つの管区に分けて駅の運営を行っている。各管区の管理駅は以下の通りである(括弧内は管区長所在駅)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2013/2013_p007_p008.pdf|format=PDF|title=2013年京王ハンドブック|accessdate=2020年9月6日|publisher=京王電鉄}}</ref>。 * 新宿管区:[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]、[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]](京王線新宿駅) * 京王東管区:[[初台駅]] - [[代田橋駅]]、[[下高井戸駅]] - [[仙川駅]]([[桜上水駅]]) * 京王中央管区:[[つつじヶ丘駅]] - [[中河原駅]]、[[府中競馬正門前駅]]([[調布駅]]) * 京王西管区:[[聖蹟桜ヶ丘駅]] - [[京王八王子駅]]、[[多摩動物公園駅]]、[[京王高尾線|高尾線]]各駅([[高幡不動駅]]) * 京王相模原管区:[[京王相模原線|相模原線]]各駅([[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]) * 井の頭南管区:[[渋谷駅]] - [[東松原駅]](渋谷駅) * 井の頭北管区:[[明大前駅]] - [[吉祥寺駅]](明大前駅) かつては、現在よりも管区が細分化されていた。また、管区毎に色が設定されており、所属駅にはその色が壁などに線で表示されていた。また、旧管区長所在駅(吉祥寺駅、[[千歳烏山駅]]、[[府中駅 (東京都)|府中駅]]、京王八王子駅、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]など)には[[助役 (鉄道)|助役]]が配置されている。 == 一日平均乗降人員上位20駅 == 2020年度は「[https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html 1日の駅別乗降人員]」(京王グループ公式サイト)より。それ以外は「[http://www.train-media.net/index.html 関東交通広告協議会]」、「[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]」、「[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県統計要覧]」より。 {{↑}}{{↓}}は右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。 {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;" |- !style="width:1em;"|順位 !style="width:10em;"|駅名 !style="width:6em;"|路線名 !style="width:10em;"|所在地 !style="width:6em;"|2020年度 !style="width:6em;"|2015年度 !style="width:6em;"|2010年度 !style="width:6em;"|2005年度 !style="width:6em;"|2000年度 !特記事項 |- !1 |style="text-align:left;"|[[新宿駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線<br />{{Color|#dd0077|■}}京王新線 |style="text-align:left;"|[[東京都]][[新宿区]] |{{↓}} 506,932 |{{↑}} 757,823 |{{↑}} 724,012 |{{↑}} 719,946 |690,687 |style="text-align:left;"|京王線新宿駅・新線新宿駅の合算。<br />[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]との直通人員を含む。<br />(各社局線総合では世界一) |- !2 |style="text-align:left;"|[[渋谷駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#000088|■}}井の頭線 |style="text-align:left;"|東京都[[渋谷区]] |{{↓}} 221,698 |{{↑}} 350,831 |{{↑}} 336,926 |{{↑}} 334,374 |329,133 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !3 |style="text-align:left;"|[[吉祥寺駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#000088|■}}井の頭線 |style="text-align:left;"|東京都[[武蔵野市]] |{{↓}} 98,614 |{{↑}} 144,238 |{{↓}} 142,083 |{{↑}} 143,122 |141,415 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !4 |style="text-align:left;"|[[調布駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線<br />{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|東京都[[調布市]] |{{↓}} 90,372 |{{↑}} 117,781 |{{↑}} 114,906 |{{↑}} 109,956 |106,259 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !5 |style="text-align:left;"|[[下北沢駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#000088|■}}井の頭線 |style="text-align:left;"|東京都[[世田谷区]] |{{↓}} 75,522 |{{↓}} 114,269 |{{↑}} 128,860 |{{↓}} 126,961 |131,925 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !6 |style="text-align:left;"|[[分倍河原駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都[[府中市 (東京都)|府中市]] |{{↓}} 69,114 |{{↑}} 91,900 |{{↑}} 85,876 |{{↑}} 77,556 |73,025 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !7 |style="text-align:left;"|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]] |{{↓}} 65,241 |{{↑}} 94,129 |{{↑}} 88,065 |{{↑}} 82,555 |69,406 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !8 |style="text-align:left;"|[[府中駅 (東京都)|府中駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都府中市 |{{↓}} 62,986 |{{↑}} 86,949 |{{↑}} 85,993 |{{↑}} 84,601 |78,689 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !9 |style="text-align:left;"|[[千歳烏山駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都世田谷区 |{{↓}} 61,848 |{{↑}} 78,314 |{{↑}} 74,756 |{{↓}} 72,470 |74,194 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !10 |style="text-align:left;"|[[明大前駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線<br />{{Color|#000088|■}}井の頭線 |style="text-align:left;"|東京都世田谷区 |{{↓}} 60,668 |{{↑}} 104,600 |{{↑}} 84,516 |{{↑}} 66,018 |64,016 |style="text-align:left;"|乗換人員は含まない。<br />(2020年度の乗換人員は119,745人) |- !11 |style="text-align:left;"|[[笹塚駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線<br />{{Color|#dd0077|■}}京王新線 |style="text-align:left;"|東京都渋谷区 |{{↓}} 60,167 |{{↑}} 79,406 |{{↓}} 76,236 |{{↓}} 77,835 |77,924 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !12 |style="text-align:left;"|[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|東京都[[多摩市]] |{{↓}} 58,026 |{{↑}} 86,217 |{{↑}} 82,803 |{{↓}} 80,611 |85,571 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !13 |style="text-align:left;"|[[仙川駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都調布市 |{{↓}} 57,764 |{{↑}} 77,261 |{{↑}} 70,943 |{{↑}} 67,958 |59,279 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !14 |style="text-align:left;"|[[聖蹟桜ヶ丘駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都多摩市 |{{↓}} 47,521 |{{↓}} 65,248 |{{↑}} 66,384 |{{↓}} 65,697 |69,148 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !15 |style="text-align:left;"|[[初台駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王新線 |style="text-align:left;"|東京都渋谷区 |{{↓}} 42,073 |{{↑}} 60,281 |{{↑}} 53,811 |{{↑}} 50,101 |43,767 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !16 |style="text-align:left;"|[[南大沢駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|東京都[[八王子市]] |{{↓}} 41,288 |{{↑}} 62,877 |{{↑}} 60,396 |{{↑}} 51,585 |44,004 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !17 |style="text-align:left;"|[[京王稲田堤駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|神奈川県[[川崎市]][[多摩区]] |{{↓}} 40,891 |{{↑}} 52,801 |{{↑}} 47,898 |{{↑}} 42,591 |35,353 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !18 |style="text-align:left;"|[[京王八王子駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線 |style="text-align:left;"|東京都八王子市 |{{↓}} 39,358 |{{↑}} 59,083 |{{↓}} 58,366 |{{↑}} 59,676 |57,426 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !19 |style="text-align:left;"|[[高幡不動駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}京王線<br />{{Color|#dd0077|■}}動物園線 |style="text-align:left;"|東京都[[日野市]] |{{↓}} 37,938 |{{↓}} 59,537 |{{↑}} 59,539 |{{↑}} 54,021 |48,951 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !20 |style="text-align:left;"|[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]] |style="text-align:left;"|{{Color|#dd0077|■}}相模原線 |style="text-align:left;"|東京都多摩市 |{{↓}} 33,197 |{{↑}} 45,883 |{{↓}} 42,465 |{{↑}} 43,866 |36,806 |style="text-align:left;"|&nbsp; |} == 車両 == === 車体 === 京王線・井の頭線とも通勤・通学輸送に特化している事情から、1948年の発足以来、導入車両は全て[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]車のみであった。[[戦前]]、京王電軌時代には[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]車として[[京王電気軌道150形電車|150形(後のデハ2150形)]]が運用されていたが、1938年にロングシートに改造された。また初代の[[京王5000系電車 (初代)|5000系]]にも特急車両としての設備からボックス席を設ける構想が何度かあったが、ラッシュ対策で見送りになっている。所有車両が全車ロングシートなのは大手私鉄では京王電鉄だけであったが<ref group="注釈">有料列車用車両を除外すれば、[[小田急電鉄]]や[[京成電鉄]]も全車ロングシートである(ただし、京成では一時期試作的にクロスシートが設置されたことがあるほか、他社の一部クロスシート車の乗り入れがある)。また、[[東京地下鉄|東京メトロ]]では、[[営団9000系電車|9000系]]の一部の編成に設置されているクロスシートを、車内更新の際に廃止することが決まっており、対象の編成が更新完了すれば、京王と入れ替わりに東京メトロが大手私鉄で唯一クロスシート車を保有していない鉄道事業者となる。</ref>、京王グループの中期経営計画「京王グループ中期3カ年経営計画(2015-2017年度)〜向上と拡大に向けて〜」に有料座席列車導入の検討を行うことが盛り込まれ<ref name="keio_2015_briefing_reference" />、この有料座席列車に使用する79年ぶりのクロスシート車両<ref group="注釈">正確にはロングシートに切り替え可能なデュアルシート車両である。</ref>として[[京王5000系電車 (2代)|5000系]](2代目)が2017年9月29日より運用を開始した<ref name="keio20170707" />。 現在の京王線と井の頭線では形式・車両デザインとも共通性が無いが、かつて一時期、共通性が発生したことがあった。井の頭線用の[[京王デハ1700形電車|1700形]]・[[京王デハ1710形電車|1710形]]・[[京王1800系電車|1800系]]の一部が[[1965年]](昭和40年)頃から京王線に転用されたことがあるほか(現在は廃車)、[[1957年]]に登場した初の高性能車である井の頭線[[京王1000系電車 (初代)|初代1000系]]と京王線[[京王2000系電車|2000系]]では外観のデザインが同一となった(こうした展開は他社では、現在でも[[阪急電鉄]]や[[近畿日本鉄道]]に見られる)。しかし次世代形式として登場した、[[1962年]]製造の井の頭線用[[京王3000系電車|3000系]]初期車は1000系・2000系とデザインの流れが似ており、[[1963年]]製造の京王線用初代5000系も1000系・2000系とデザイン(ドアや窓の配置)が似ていたものの、両開きドアやワイドボディに変更された3000系第3編成以降と5000系は全く別系統のデザインとなった。やがて京王線用の[[京王6000系電車|6000系]]など、さらに次世代形式が製造されると、両線でのデザインの隔たりはいっそう大きくなった。井の頭線用に[[1995年]]から製造された[[京王1000系電車 (2代)|二代目1000系]]では、車両の仕様が京王線の[[京王8000系電車|8000系]]([[1992年]]から製造)や[[京王9000系電車|9000系]]([[2001年]]から製造)と近くなったものの、正面デザインや塗装においては、京王線と井の頭線はいまだ別系統の流れを歩んでいるといえる。 井の頭線は1962年という早い時期から3000系でステンレス車体を採用する一方、京王線は普通鋼車体という作り分けが長く続き、京王線でステンレス車体が採用されたのは[[1984年]]の7000系からである。こうした路線による車体鋼材の使い分けが長く行われた他の大手私鉄としては、[[南海電気鉄道]]([[南海本線]]と[[南海高野線|高野線]])が存在する。なお、保有車両は事業用車両を含めて全てステンレス車体で統一されており、関東大手私鉄では唯一、[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ車両]]の導入実績がない。 === 技術 === [[集電装置]]については、全車両がシングルアーム式パンタグラフ<ref group="注釈">非シングルアーム式を採用していた事業者で、営業用車両が全車シングルアーム式になった大手私鉄は、他に[[小田急電鉄]]がある。また[[JR]]では、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]と[[東海旅客鉄道|JR東海]]の電車が全てシングルアーム式である。</ref>であるが、総合高速検測車の検測用パンタグラフには下枠交差形が採用されている。1000系、3000系、8000系で長期に渡りシングルアーム形を試験搭載していた後、9000系から本格採用され、従来車に対してもシングルアーム式パンタグラフに換装した。過去には京王線系統での高速運転時の集電性向上を目的として、井の頭線3000系と京王線系統の車両でパンタグラフの換装が行われて、京王線系統はPT42形に統一してPS13形を井の頭線に集約したことがある。 京王線系統の車両は、乗り入れの都営車を含めて全先頭車に[[連結器#密着連結器|密着連結器]]と[[連結器#電気連結器|電気連結器]]を装備する。1967年(昭和42年)の高尾線開通に伴う分割特急開始時に5000系に装備したのが始まりである。井の頭線車両は[[連結器#密着自動連結器|密着自動連結器]]を装備する。 現在使用されている車両の運転台は、乗り入れ車を含め力行4段・常用制動7段の[[マスター・コントローラー#ワンハンドルマスコン|T型ワンハンドルマスコン]]に統一されており、ATS照査速度(低速域を除く)が速度計の周りに表示される。9000系、1000系11編成以降の新造車は高運転台構造となっている。 [[自動列車制御装置|ATC]]導入以前は、動物園線・競馬場線列車を除き、営業列車の先頭に立つ運転台には原則としてTNS(トレインナビゲーション装置)という[[鉄道車両のモニタ装置|ディスプレイ装置]]が設置されており、次の停車駅等を表示していた。この画面にはアナログ表示の時計も表示される(TNS導入の経緯については[[京王8000系電車#乗務員室|「京王8000系電車」の運転台の節]]を参照のこと)。なお、京王線は2011年10月、井の頭線は2013年3月にATCに切り替えたため、使用停止となり、順次撤去されている。 現在は、ATCの停車駅誤通過防止機能による列車種別・停車駅の表示器が設置されている。 [[警笛|空気笛]](タイフォン)は、上りと下りで[[周波数#音|周波数]]が異なり(他社では[[東武鉄道]]でも同様)、下りの方が高くなっている。電気笛は京王線と井の頭線で異なるタイプを使用している。 === 保安装置 === [[ファイル:Keio ATC signal no2.JPG|thumb|right|250px|京王ATCの運転台の車内信号。停車駅の停止位置までのパターンが発生している状態。]] {{Main|自動列車制御装置#京王電鉄(京王ATC)}} かつては全線に渡って独自の[[自動列車停止装置|ATS]]([[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|多変周式信号ATS]])を採用していた。[[日本の鉄道信号|信号]]現示における速度制限は、絶対停止0km/h・警戒25km/h・注意45km/h・減速75km/h、進行の5種類で、制限速度はATCのように[[運転台]]の速度計の外周に表示される。絶対停止で停車した場合、確認スイッチを操作することで最高15km/hで走行が可能になる。この確認スイッチは絶対停止用のもので、前方の信号機の現示が上位しても地上子を通過するまでは[[速度照査|照査する速度]]を変えることはできない。 運転保安度向上の一環として[[京三製作所]]製<ref>[https://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/public-enterprise/2007-09.html 平成十九年東京都議会公営企業委員会速記録第九号]</ref>の[[自動列車制御装置|ATC]]([[自動列車停止装置|京王ATC]])の導入が決定し、設置工事が行われ、2010年3月から相模原線で先行導入し、2011年10月から京王線系統(京王新線・競馬場線・動物園線・高尾線を含む)、2013年3月から井の頭線で使用されている。近隣の鉄道では同時期に[[東武鉄道]]も[[東武東上本線]]より順次ATC化される。 都営新宿線での(旧)ATC機器との干渉のため、インバータ制御車の新宿線への乗り入れはできなかったが、2005年5月のデジタルATC化に伴い解禁され、2006年3月よりそれまでの6000系(6030番台)8両編成、8両+2両の10両編成に加えて9000系(9030番台)の10両編成が直通運用に当たっている。 === 方向幕・ヘッドマーク・ラッピング === *過去には[[京王八王子駅|京王八王子]]行と[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]行の調布駅での分割運用も想定しており、一部車両の方向幕には「京王八王子・橋本」の表示が存在するが、実際に営業で使われたことは一度もない。 *列車に取り付ける特製の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]の取付が、[[西武鉄道]]、[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]、[[阪急電鉄]]と並んで多い。年4回程度、季節に合わせた[[全国交通安全運動]]のヘッドマークを取付けたり、イベント開催時に特製のヘッドマークを取付けることがある。 *2015年9月から[[高尾山]]をイメージした[[ラッピング車両|ラッピング列車]]「高尾山トレイン」を運行している<ref>{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150924_takaosandensya.pdf 高尾山をイメージしたラッピング車両を運行]}} - 京王電鉄、2015年9月24日</ref>。 <gallery> Keio 5000 series 20190501b.jpg|新元号「令和」のヘッドマークを付けた5000系(2019年5月1日撮影) Model 8020 Traffic Safety Campaign of Keio Corporation.JPG|全国交通安全運動のヘッドマークを付けた8000系 keio8000takao-wiki.jpg|「高尾線開通50周年」ヘッドマークを付けた8000系「高尾山トレイン」 Keio-rail-land Trains 2019.jpg|「京王れーるランド100万人」(2019年2月17日撮影) Keio 8000 Tokyo Hachioji Bee Trains 20190218a.jpg|「東京八王子ビートレインズ」(2019年2月18日撮影) </gallery> === 所属・運用など === 相模原線の[[若葉台駅]]、京王線の[[桜上水駅]]と[[高幡不動駅]]、井の頭線の[[富士見ヶ丘駅]]の4か所に[[車両基地]]が設けられており、桜上水駅以外のそれぞれに併設している検車区で管理・修繕を行っている。なお[[日本の鉄道車両検査|全般・重要部検査]]および大規模な修理や改修の業務は若葉台駅にある若葉台工場にて行っている。井の頭線車両についても富士見ヶ丘検車区内の若葉台工場富士見ヶ丘作業場で車両の機器を取り外して、車体等は富士見ヶ丘で、それ以外はトラックで陸送して若葉台で行われる。若葉台工場は京王電鉄内の事業子会社化に伴い、子会社の[[京王重機整備]]の施設としても稼動している。 [[前照灯]]は現在では終日点灯である。急行系列車(京王では各停以外の種別を優等列車とは呼ばない)では、新宿線内も含め先頭車は[[通過標識灯]](急行灯)を点灯させる。信号システム上は「普通列車」として運行する、急行系列車の各駅停車区間では通過標識灯を消灯する。また通過標識灯が上下分離している場合、窓上が通過標識灯、窓下が尾灯であることがほとんどだが、3000系と5000系までの京王は、窓上が尾灯で窓下が通過標識灯であった。上下逆になっていた大手鉄道は京王だけである。 [[2001年]]3月のダイヤ改定で車両の運用方針を変更するまでは各駅停車には7000系と2010系以前の車両が使用され、急行系列車には5000系・6000系・8000系が充当されていたが<ref group="注釈">5000系は末期は各駅停車のみに充当されていた。</ref>、現在では7000系も急行系の列車に充当されており、種別ごとに使用形式を限定していない<ref>交通新聞社『トラベルMOOK 京王電鉄の世界』p.13</ref>。 === 優先席 === [[ファイル:Keio8251 priority-seat-zone.jpg|thumb|right|250px|「おもいやりぞーん」(8000系車内)]] 8000系1次車までは[[優先席|シルバーシート]]と呼称され、位置も下り方(井の頭線は上り方)の車端部だった。5両編成以下は編成内1か所、6両編成以上は編成内2か所だったが、複数編成が組み合わさった場合はこの限りではなく、例えば6両編成と4両編成が合わさった10両編成は3か所となる。 ;参考(各系列ごとの設定車両) :3000系:デハ3000形 :5000系:5713Fまではデハ5050形、5714F以降はデハ5000形 :5100系:5112Fまではクハ5850形(運転室直後の座席)、5113F以降はデハ5150形 :6000系:2両編成はデハ6400形、3両編成と5両編成は上り方2両目、8両編成は上り方2・5両目 :7000系:上り方2・5両目(この当時は6両編成と8両編成しか存在していない) :8000系:4両編成は上り方2両目、6両編成は上り方2・5両目 :9000系・1000系以降:当初から各車両の両端 8000系2次車より、各車両に設置されるようになった。この頃より、シルバーシートから[[優先席]]へと呼称が変更されている。同時に車外のステッカーも当該部分の窓上(7000系と8000系は車端部)から当該部分の戸袋とドアの間に変更されたため、サイズも小さくなっている。設置場所も現在と違って、奇数号車は上り方海側(下り列車の進行方向左手サイド)車端部、偶数号車は下り方山側(下り列車の進行方向右手サイド)車端部である<ref group="注釈">ちなみに直通する東京都交通局の車両では、以前から優先席の位置は2両1組で中心の連結部をはさんだ各車両の車端部(東京都交通局では全路線でこのような扱いがなされている)となっているが、こちらは奇数号車は上り方山側車端部、偶数号車は下り方海側車端部と逆になっている。</ref>。既存車も随時このパターンへと変更されたが、当然のことながら3両編成・5両編成ではパターンが異なる。 2000年8月より、優先席付近を携帯電話OFF区域とするのに合わせて、従来の優先席の向かいの座席も優先席となる(ステッカーは透明)。 2006年1月から優先席を先頭車の運転台部分を除く各車車端部に拡大し、同時に優先席付近一帯を「おもいやりぞーん」とした。合わせて吊輪のオレンジ色化、室内側の壁や窓にステッカー貼付、車外ステッカーの拡大と位置変更(戸袋あり車両は戸袋部に貼付)が行なわれている(ステッカー色は黄色)。 2015年10月からは、携帯電話の使用について「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」から「優先席付近では、'''混雑時には'''携帯電話の電源をお切りください」に変更した(ステッカー色は青、[[東京地下鉄]](東京メトロ)や東急電鉄等で使用されているものと同タイプのステッカーを使用)。 5000系は他形式同様に車端部に優先席が設定されているが、京王ライナーとして運用する際にはこれらの座席も指定席として販売している関係上、京王永山駅、府中駅から先の無料開放区間においても優先席としての取り扱いは行わない。 === 女性専用車両 === 中央線における「婦人子供専用車」の[[1973年]]の廃止以後で、全国に先駆け[[女性専用車両]]を復活させた。[[2000年]][[12月7日]]に試行的に導入され<ref name="交通2000-12-07"/>、[[2001年]][[3月27日]]の[[ダイヤ改正|ダイヤ改定]]以降本格的に導入された<ref name="交通2001-02-26"/>。新宿駅を23:00以降に発車する急行系の列車で実施されている。その後[[2005年]][[5月9日]]からは[[平日]]の朝([[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]と[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]]に7:30 - 9:30に到着する準特急・急行・通勤快速)・夕方・夜(京王線新宿駅を18:00 - 22:40に発車する特急・準特急)・深夜(京王線新宿駅を22:50以降に発車する急行・通勤快速・快速)にも拡大されている(当面は試験導入)。その後、深夜帯に特急を走らせる様になってからは、下り列車においては急行以下の種別での設定を取りやめている。また、ダイヤ乱れによって8両編成が充当される場合や、京王ライナーでの設定も行っていない。 === 防犯カメラ === [[警視庁]]などからの要請により2011年2月28日から客室内に[[監視カメラ|防犯カメラ]]が設置された<ref>[http://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr110216v02/index.html 車内防犯カメラシステムの試験導入について(2月28日〜)]京王電鉄</ref><ref>[http://www.asahi.com/national/update/0216/TKY201102160335.html 京王電鉄、車内に防犯カメラ導入 痴漢対策、28日から]{{リンク切れ|date=2019年9月}} - 朝日新聞 2011年2月17日配信、2月18日閲覧</ref>。日本の通勤用車両では[[埼京線]]の[[国鉄205系電車|205系]]電車、[[横浜新都市交通2000形電車]]についで、3番目の事例である。防犯カメラは[[京王7000系電車|7000系]]電車の1編成の6号車に4機設置され、3月下旬からさらにもう1編成にも設置され、2編成で防犯カメラが運用されている。 2017年9月営業運転開始の[[京王5000系電車 (2代)|新5000系電車]]には全車両に防犯カメラが1両につき4台設置されている<ref name="keio20170707" />。 2022年2月1日、2021年10月31日に走行中の車内で起きた傷害事件([[京王線刺傷事件]])を受けて、リアルタイム伝送機能を持つ車内防犯カメラを、2023年度末を目途に全車両に設置予定だと発表した<ref>{{Cite press release|和書|title=京王線車内傷害事件を受けた今後の対策について|publisher=京王電鉄株式会社|date=2022-02-01|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220201.pdf|format=pdf|accessdate=2022-02-10}}</ref>。 === 現用車両 === 2017年度末時点で事業用車を除くと京王線用736両、井の頭線用145両、計881両を保有する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/introduction_of_train/index.html|title=車両の概要|京王グループ|accessdate=2019-03-16|publisher=京王電鉄株式会社}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2018/2018_p123.pdf 2018年京王ハンドブック]}} p.123</ref>。各系列の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。 2012年9月7日に、大手私鉄では初となる全営業車両の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]化を達成した<ref name="keio20120821" />。現在では事業用車両を含め所属する全ての車両がVVVFインバータ制御である。 ==== 京王線系統 ==== 営業用 * [[京王5000系電車 (2代)|5000系(2代目)]] * [[京王9000系電車|9000系]] * [[京王8000系電車|8000系]] * [[京王7000系電車|7000系]] 事業用 * [[京王デヤ901・902形電車|デヤ900]] * [[京王クヤ900形電車|クヤ900]](総合高速検測車「DAX」) * [[京王サヤ912形貨車|サヤ912]] <gallery> ファイル:Keio 5734 Extra Semi Express 20190202.jpg|5000系(2代目) ファイル:Keio 9000 Series 9730 Formation Semi Special Express.jpg|9000系 ファイル:Keio 8000 series keio line 20171113.jpg|8000系 ファイル:Keio7000Train_7022F.jpg|7000系 ファイル:Keio railway Dewa 900 20170103.jpg|事業用車(デヤ900) ファイル:Keio kuya911 20081107.jpg|クヤ911(総合高速検測車「DAX」) </gallery> ==== 井の頭線 ==== * [[京王1000系電車 (2代)|1000系(2代目)]] <gallery> Keio 1000ivory.jpg|1000系(2代目前期車) Keio 1721 2017-03-25.jpg|1000系(2代目後期車) </gallery> === 過去の車両 === 地方私鉄への車両譲渡はあまり行われていなかったが、5000系や3000系の廃車が始まると、18m車体という手頃さから、譲渡が多数発生した。 ==== 京王線系統 ==== 営業用<!--1700形・1710形は廃車時点の配置が全車京王線であるためこちらに配置--> * [[京王6000系電車|6000系]] * [[京王5000系電車 (初代)|5000系(初代)・5070系→5100系]] * [[京王2000系電車|2000系(2代目)・2010系]] * [[京王2700系電車|2700系]] * [[京王2600系電車|2600系]] * [[京王デハ1710形電車|デハ1710形(→クハ1710形)]] * [[京王デハ1700形電車|デハ1700形]] * [[京王線中型車|京王電気軌道から継承の中型車]] ** [[京王220系電車|220系]] ** デハ2500形 *** [[京王電気軌道500号電車|デハ2500]] *** [[京王電気軌道501形電車|デハ2501 - 2504]] ** [[京王電気軌道400形電車|デハ2400形]] ** [[京王電気軌道300形電車|デハ2300形]] ** [[京王電気軌道200形電車|デハ2200形]] ** [[京王電気軌道150形電車|デハ2150形]] ** [[京王電気軌道125形電車|デハ2125形]] ** [[京王電気軌道110形電車|デハ2110形→サハ2110形]] ** [[玉南電気鉄道1形電車|デハ2000形(初代)]] * [[京王電気軌道23形電車|23形]] * [[京王電気軌道19形電車|19形]] * 13形 * 7形 * [[京王電気軌道1形電車|1・9・15形]] 事業用 * [[京王6000系電車#デワ600形|デワ600形]] * [[京王5000系電車 (初代)|デワ5000系]] * [[京王2700系電車|デワ220形]] * [[京王デト2910形電車|デト2910形→デト210形]] * [[京王デニ2900形電車|デニ2900形→デニ200形]] * [[京王電気軌道19形電車|デト2900形・デワ2900形]] * [[京王チキ2970形貨車|チキ2970形→チキ270形]] * [[京王ホキ280形貨車|ホキ280形]] * [[京王チキ290形貨車|チキ290形]] <gallery> Business Use Train of Keio Corporation.JPG|事業用車デワ600。左側に総合高速検測車「DAX」が見える Keio6714F.JPG|京王初の20m級車両である6000系 Keio5000-0.JPG|長く京王線の顔として親しまれた初代5000系 Model 2000 of Keio Electric Railway.JPG|「[[グリーン車 (京王)|グリーン車]]」の一つである2010系 Model 2400 of Keio Electric Railway.JPG|「グリーン車」の一つであるデハ2400形 Keio2782 811108.JPG|「グリーン車」の一つであり、日本初の高張力鋼を使用して軽量化した2700系 Keio500.jpg|一般車格下げ後の500形500号 </gallery> ==== 井の頭線 ==== * [[京王3000系電車|3000系]] * [[京王1000系電車 (初代)|1000系(初代)]] * [[京王デハ1900形電車|デハ1900形]] * [[京王1800系電車|(デハ1400形→)デハ1800形]] * [[京王デハ1760形電車|デハ1760形→クハ1250形・サハ1760形]] * [[京王デハ1750形電車|デハ1750形→デハ1660形→デニ100形]] * [[京王デハ1460形電車|デハ1460形→デハ1560形→サハ1560形]] * [[京王1800系電車|クハ1570形→サハ1300形]] * [[帝都電鉄モハ100形電車|クハ1570形→クハ1250形→サハ1250形]] * 帝都電鉄からの継承車 ** [[帝都電鉄モハ100形電車|クハ1550形(→クハ1570形)→クハ1200形(→サハ1200形)]] ** [[帝都電鉄クハ500形電車|クハ1500形]] ** [[帝都電鉄モハ100形電車|デハ1400形]] <gallery> InokashirasenNew3000kei.jpg|長く井の頭線の顔として親しまれた3000系 Ktr1000.JPG|井の頭線最後のグリーン車の初代1000系 Ktr1800.JPG|1800系 Ktr1258.JPG|デハ1760形 </gallery> === 付番方法 === [[動力車|電動車]]は運転台の有無に関わらず「デハ」を用いる。これは東京急行電鉄と合併した大東急時代に定められたもので、合併した他社もほぼ同様である。なお、[[制御車]](制御付随車)は「クハ」、[[付随車]]は「サハ」を用いる。 十位と百位は1000系(初代)・2000系(2代目)以降、以下のように分類される。 *百位 **0 - 4:電動車 ***このうち1000系(初代)・2000系(2代目)の百位0、5000系の百位1、6000系・7000系の百位4は制御電動車、および制御電動車とユニットを組む車両。 **5 - 6:付随車 **7 - 8:制御車 *十位 **0 - 4:電動車は主制御装置搭載。制御車は新宿・吉祥寺方。 **5 - 9:電動車は主制御装置搭載車とユニットを組成。制御車は八王子・渋谷方。8000系までの付随車は補機搭載。ただし、例外的に5070系のデハ5070形は新宿方制御電動車。 系列によっては20番台や30番台が存在する<ref group=注釈>6000系までの一部系列は10番台が存在していたが、現在は形式消滅により存在していない。</ref>が、それについては各系列記事を参照されたい。 == 車両基地 == {{See|京王電鉄の車両検修施設}} == 運転関係 == === ダイヤ === [[File:Keio Line Map 2013.svg|thumb|none|600px|停車駅表]] 京王電鉄では[[ダイヤ改正]]のことを2013年2月22日改定までは「ダイヤ改定」と呼んでいた(ただし、2001年3月27日のダイヤ改定まではパンフレットなど一部に「ダイヤ改正」の表記を使用していた)<ref name="keio-sekai-p77">交通新聞社『京王電鉄の世界』77頁</ref>。改めた[[ダイヤグラム|ダイヤ]]が利用者全てに正しいダイヤとは限らない等の理由からである。「ダイヤ改定」の呼称は、京王電鉄のほかに、[[2000年代]]の[[京阪電気鉄道]]でも見られた<ref name="keio-sekai-p77"/>{{refnest|group="注釈"|なお、京阪電気鉄道では、[[2010年代]]以降はプレスリリースでの表記が「ダイヤ一部変更」「ダイヤ変更」に変わっている<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h23/2011-03-01-3.pdf 淀駅付近立体交差化事業における上り線(京都方面行き)の高架化に伴い5月28日(土)始発から京阪線のダイヤを一部変更します]}} - 京阪電気鉄道、2013年3月1日。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2017-01-13-02_daiya.pdf 2月25日(土)初発から京阪線のダイヤを変更します]}} - 京阪電気鉄道、2017年1月13日。</ref>。}}。 現在は京王線・井の頭線で同時にダイヤ改正が行われているが、1990年代までは別々に行われたことがしばしばあった。 [[2006年]]8月31日までのダイヤにおいて、平日ダイヤと土休日・祭日ダイヤのほかに土休日・祭日シーズンダイヤも存在した。シーズンダイヤは4 - 6月・9 - 11月に設定され、都内でも貴重な自然の残る[[高尾山]]への行楽客向けや、この時期にほぼ毎週GIレースが行われる[[東京競馬場]]への観戦客向けとして利用客を見越した時間帯に臨時列車を運行していた。現行の高尾線方面のダイヤでは、土休日の下り列車はほぼ終日で新宿方面から準特急として高尾山口駅まで運行する系統と、京王八王子駅行の特急(北野駅の[[対面乗り換え|同一ホーム]]で各駅停車高尾山口駅行に接続)の交互の運転に、上り列車は早朝1本を除くほぼ終日で、高尾山口駅から準特急新宿駅行の系統と、各駅停車新宿駅行(北野駅で京王八王子駅発の特急に乗り換えることによって新宿方面に先着可能)を交互に運行するダイヤに改められている。競馬場線関係では、東京競馬開催時の一部時間帯に上下の特急と準特急を[[東府中駅]]に臨時停車させたり、メインレース終了後に[[府中競馬正門前駅]]発新線新宿駅行や[[飛田給駅]]行の臨時急行の運転を行ったりしている。 以前は休日ダイヤの下り特急・急行で高幡不動で切り離しが行なわれていたため、相互の行先の車両内を識別するため、吊り輪の色を白と緑の2色に分け、車内放送でも「前x両の白い吊り輪の車両が○○行、後y両の緑の吊り輪の車両が●●行です」とアナウンスしていた。 京王線系統では途中駅で種別変更を行う列車が存在する。発車時の種別で運行する区間での案内表示は、終着駅と発車時の種別を表示した上で、種別変更する駅名と変更後の種別を別に知らせるようになっている。2018年2月21日までは、発車時の種別で運行する区間の終点を行先として表示し、その駅に到着後に新しい種別・行先に変更していた。<ref>{{Cite press release |和書 |title= 京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf |format=PDF |publisher=京王電鉄 |date=2018-01-24 |accessdate=2018-10-04}}</ref> 保安装置がATS時代はTTCの関係で最大列車種別数の設定に制約があった(同時に6種別までの列車種別しか設定できなかった。2001年に準特急を設定した際には1992年に廃止した通勤急行の枠を使用して対処した)が、ATC化と同時にTTCも更新されたため、この制約は緩和され、2018年より後述の「京王ライナー」が設定され7種別体制となった。 各駅停車は過去には普通と称していたが、現在は正式な列車種別名を各駅停車に改めている。 === 座席指定列車「京王ライナー」 === {{Main|京王ライナー}} 京王電鉄は2015年の中期3カ年経営計画(2015年度〜2017年度)で、有料座席指定列車導入の検討を始めたことを発表しており<ref>[http://hachioji.keizai.biz/headline/1859/ 京王電鉄が中期経営計画発表 有料座席列車の導入検討へ] - 八王子経済新聞、2015年5月8日</ref><ref name="keio_2015_briefing_reference">{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/company/stockholder/results_briefing/pdf/2015_briefing_reference.pdf 京王グループ中期3カ年経営計画(2015年度〜2017年度)〜向上と拡大に向けて〜の策定について]}} - 京王電鉄、2015年5月8日</ref>、2016年3月16日には2018年春より[[京王5000系電車 (2代)|5000系 (2代)]]を充当する形で、平日及び土休日の夜間帰宅時間帯に、京王線新宿発京王八王子行および橋本行のそれぞれ片道のみにおいて運行することが正式に発表された<ref name="keio20160316">[http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr160316_zasekishiteiressha.pdf 2018年春、当社初の座席指定列車を導入します!〜新型車両 「5000系」 登場〜] - 京王電鉄、2016年3月16日</ref>。 2017年4月27日から5月19日まで、この有料座席指定列車の愛称投票を実施し、京王電鉄の新サービスであることをシンプルに表現した「'''京王ライナー'''」、「smart(気の利いた)」サービスを表現した「'''京王スマートライナー'''」、「prime(最上の)」サービスを表現した「'''京王プライムライナー'''」、「luxury+express(贅沢な・[[急行列車]])」からの造語である「'''Luxpress'''(ラクスプレス)」、「west+star(東京都西部を走行・人気)」からの造語である「'''WESTAR'''(ウェスター)」の5つの候補の中から<ref>{{Cite web|和書|title=4月27日(木)から投票開始 2018年春に運行開始する有料の座席指定列車の愛称投票を実施します!|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170426_zasekishitei.pdf|format=PDF|publisher=京王電鉄|date=2017-04-26|accessdate=2017-07-10}}</ref>、最多得票約6,300票(総数約2万4,000票)を獲得した「'''京王ライナー'''」に決定したことが2018年1月24日に発表された<ref name="keio20180124">{{Cite press release |和書 |title= 2月22日から当社初となる有料の座席指定列車「京王ライナー」が夜間時間帯に運行開始!|publisher= 京王電鉄株式会社|date= 2018-1-24|url= https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_keio-liner.pdf|format= PDF|language= 日本語|accessdate= 2018-1-24}}</ref>。同年2月22日のダイヤ改正より運行を開始している<ref name="mynavi20180222" />。 京王ライナーの送り込みは、平日は[[回送]]となっているが、休日は[[東京競馬場]]での[[中央競馬]]開催日(特に最も混雑する[[東京優駿|日本ダービー(東京優駿)]]等の[[競馬の競走格付け|GI]]レース開催日)と、[[中山競馬場]]での開催ながら東京競馬場での場外発売では最も来場者が多い[[有馬記念]]の開催時限定で、府中競馬正門前発京王線新宿行き臨時準特急([[東府中駅]]臨時停車)となっている。 2018年11月には、高尾山観光客向けとして、京王ライナー用の5000系を使用し、臨時列車扱いで高尾山口発の座席指定列車「Mt.TAKAO号」京王線新宿行が運転されている<ref>{{Cite press release|和書|title=臨時座席指定列車「Mt.TAKAO号」を運行します!|publisher=京王電鉄|date=2018-09-26|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr180926_takaozasekishitei.pdf|format=PDF|accessdate=2018-10-04}}</ref>。 2021年10月30日から、土休日のみ「Mt.TAKAO号」「京王ライナー」はともに明大前駅に停車する。なお、平日は通過(運転停車)する<ref>{{Cite web|和書|title=【公式サイト】京王ライナー|京王グループ|url=https://www.keio.co.jp/zasekishitei/|website=【公式サイト】京王ライナー|京王グループ|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>。 2022年3月12日に行われるダイヤ改正より、平日においても明大前駅が停車駅に追加された。また「Mt.TAKAO号」は通年運転となった<ref name="keio20220127">{{Cite press release|和書|title=2022年3月12日(土)始発から京王線ダイヤ改正を実施します|publisher=京王電鉄株式会社|date=2022-01-27|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20220127_daiya.pdf|format=PDF|accessdate=2022-02-10}}</ref>。 === 特急列車 === 京王線・高尾線・相模原線では[[通勤形車両 (鉄道)|通勤車]]による特急を運転しているが、特急料金は不要である。 かつては行楽特急列車に「高尾」(高尾山口行)と「陣馬」(京王八王子行)の愛称を付与していたが、現在はその愛称はない。これに代わって最近では「迎光EXPRESS かがやき」が[[年末年始]]の[[終夜運転]]時に運行されていた。京王ライナー運行開始後は、京王ライナー「迎光」号での運行となっている<ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr181129_syuyaunten.pdf 12月31日〜1月1日にかけて終夜運転を京王線・井の頭線で実施します! 〜新宿発の座席指定列車京王ライナー「迎光号」を2本運転〜] - 京王電鉄、2018年11月29日</ref>。 最高速度は京王線が1971年4月に95km/hから105km/hとなったのち、相模原線が1997年12月に、京王線調布駅 - [[京王八王子駅]]間が2001年3月にそれぞれ110km/hに引き上げられている。 2012年8月19日の調布・布田・国領駅地下化に伴うダイヤ改定で、特急が休止されていたが、停車駅に[[分倍河原駅]]と北野駅を追加した上で2013年2月22日から運転を再開した。 2001年3月27日からは京王線・高尾線で(2015年から相模原線にも)「[[準特急]]」が運行されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正で特急と統合されて廃止された<ref name="keio20220127" />。 <gallery widths="200"> Keio8731.JPG|「迎光EXPRESS かがやき」 Keio-Exp-Mark.jpg|過去に運転していた行楽特急のヘッドマーク各種 </gallery> == 運賃 == 大人普通旅客[[運賃]]。[[乗車カード|ICカード]]利用時は1円単位、[[乗車券#鉄道|切符]]の運賃は10円単位である(小児半額。端数はICカードの場合、1円未満の端数を切り捨て、切符の場合は10円未満の端数を10円単位に切り上げる)。2023年(令和5年)10月1日改定<ref name="fare20231001">{{Cite press release |和書 |title=鉄道旅客運賃の改定申請が認可されました 〜2023年10月1日(日)に運賃改定を実施します〜 |publisher=京王電鉄 |date=2023-06-23 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2023/nr20230623_unchin.pdf |format=PDF |accessdate=2023-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230623100607/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2023/nr20230623_unchin.pdf|archivedate=2023-06-23}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;" |- !rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程 !style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円) |- ! ICカード !! 切符利用 |- |1 - 4||style="text-align:right;"|140||style="text-align:right;"|140 |- |5 - 6||style="text-align:right;"|160||style="text-align:right;"|160 |- |7 - 9||style="text-align:right;"|188||style="text-align:right;"|190 |- |10 - 12||style="text-align:right;"|209||style="text-align:right;"|210 |- |13 - 15||style="text-align:right;"|230||style="text-align:right;"|230 |- |16 - 19||style="text-align:right;"|273||style="text-align:right;"|280 |- |20 - 24||style="text-align:right;"|314||style="text-align:right;"|320 |- |25 - 30||style="text-align:right;"|356||style="text-align:right;"|360 |- |31 - 37||style="text-align:right;"|388||style="text-align:right;"|390 |- |38 - 44||style="text-align:right;"|409||style="text-align:right;"|410 |- |45 - 52||style="text-align:right;"|430||style="text-align:right;"|430 |} [[1997年]][[12月28日]]、戦後初の運賃実質引き下げを行った<ref name="Keio199701">[https://web.archive.org/web/20010503210250fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index17.htm 鉄道運賃の変更認可申請について](京王電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2001年時点の版)。</ref><ref name="Keio199702">[https://web.archive.org/web/20010503220548fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index27.htm 鉄道旅客運賃の改定について](京王電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2001年時点の版)。</ref>。[[特定都市鉄道整備積立金]]による[[特定都市鉄道整備事業]]の完了のため、積立金分を取り崩して運賃を改定したことで、実質全区間で値下げとなった<ref name="Keio199701"/><ref name="Keio199702"/>。積立金の還元は[[2007年]]12月28日まで行われ、制度の趣旨からは還元終了時に通常運賃に戻す値上げを行うことで帳尻を合わせる仕組みとなっているが、実際には期間経過後も[[2014年]][[4月1日]]・[[2019年]][[10月1日]]に消費税率引き上げ分を転嫁したのみで、2023年10月1日の改定までこの運賃水準を維持していた。 かつては相模原線京王多摩川 - 橋本間に加算運賃が設定されていたが、建設事業費の回収が進んだことにより[[2018年]][[3月17日]]に1回目<ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年3月 相模原線に設定している加算運賃の引下げを実施します |publisher=京王電鉄 |date=2017-08-30 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170830_fare.pdf |format=PDF |accessdate=2017-09-03}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年3月17日(土)改定 相模原線加算運賃の引下げのお知らせ |publisher=京王電鉄 |date=2017-10-11 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr170928v1032/index.html |accessdate=2018-03-22}}</ref>、2019年10月1日に2回目<ref>{{Cite press release |和書 |title=2019年10月予定 相模原線に設定している加算運賃の引下げを実施します |publisher=京王電鉄 |date=2019-03-12 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190312_fare.pdf |format=PDF |accessdate=2019-03-31}}</ref>の引き下げが行われたのち、2023年10月1日の運賃改定に合わせて全廃された<ref name="fare20231001"/>。 == 割引乗車券 == [[File:京王電鉄 京王線・井の頭線一日乗車券.png|thumb|京王線・井の頭線一日乗車券]] *京王線・井の頭線一日乗車券(2016年4月1日発売開始) *[[京王アミューズメントパスポート]] *[[高尾山割引乗車券]] *[[都営地下鉄#他社発売分|TOKYO探索きっぷ]] *[[東京メトロ24時間券#東京メトロパス|京王東京メトロパス]] *[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2020/nr20210310_metorotoei.pdf 京王・東京メトロ・都営地下鉄パス] *[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2020/nr20210325_misakimaguro.pdf 京王線発 みさきまぐろきっぷ] *[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210422_koedokawagoe.pdf 京王線発 小江戸・川越フリークーポン] == グループ企業と多角化事業 == {{Main2|グループ企業の一覧|京王グループ}} 京王電鉄を中心に54社で構成され、鉄道・バス・タクシーの交通・運輸業、小売・流通業、不動産業、レジャー・サービス業などを展開する。グループ全体の売上高(連結決算)は約4162億円、従業員は約2万人<ref>[https://www.keio.co.jp/group/ 京王グループ](2018年5月3日閲覧)</ref>。 京王電鉄本体はグループ戦略を立案・推進するほか、事業創造部といった新規事業を開発する部署がある。このため、[[民泊]]<ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/170214_minpaku.pdf 鉄道業界では初となる民泊事業への取り組み 大田区蒲田で合法の一棟まるごと民泊マンション「KARIO KAMATA」がオープンします!]京王電鉄ニュースリリース(2018年2月14日)2018年5月3日閲覧</ref><ref>【投資テーマを斬る】シェアリングエコノミー 日常に浸透、新たな商機/京王電鉄の民泊 空き家対策に『[[日経ヴェリタス]]』2018年4月22日(16面)</ref>や[[サテライト・オフィス]]貸出([[テレワーク]])<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3638504011102018L83000/ 「京王電鉄、プラザホテル多摩にテレワーク拠点」]『日本経済新聞』ニュースサイト(2018年10月11日)2018年12月16日閲覧</ref>のように鉄道以外の事業に京王電鉄本体が進出し、運営や場所の提供をグループ会社が担う場合もある。 [[岐阜県]][[高山市]]で2021年4月23日から[[Mobility as a Service|MaaS]]事業を始める<ref>「京王電鉄、飛騨高山でMaaS 旅のしおりをデジタル化」『[[日経産業新聞]]』2021年5月11日[[デジタルトランスフォーメーション|DX]]面</ref>など、次世代の移動サービス開発・進出や関東以外の地方での事業展開を進めている。 == その他特記事項 == === 駅 === * 京王線[[新宿駅]]の一日乗降人員は[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の直通人員を含めて約71万人で、これはJRを除く日本の私鉄の中では[[東急電鉄]]の[[渋谷駅]]に次いで2番目に多い。 * [[1970年代]]後半までは各駅の[[駅名標|駅名表示板]]の隣接駅名の所に駅間キロ数の表示がされていたが、[[1980年]]の[[都営地下鉄新宿線]]の乗り入れ開始の頃に表示板をリニューアルして廃止された。このような[[営業キロ]]数の表示は他の鉄道事業者では見られない例であった。 * [[2013年]]2月22日のダイヤ改定と同時に、全駅に順次[[駅ナンバリング]]を導入した。[[京王線]]は色に京王レッド(チェリーレッド<!-- 色ではなくレコードレーベルの記事になっています。-->)を用い、記号は「KO」、[[京王井の頭線|井の頭線]]は色に京王ブルー([[インディゴ (色)|インディゴ]])を用い、記号は「IN」である。 * 関東大手私鉄の中では、[[西武鉄道]]と共に[[新幹線]]との接続駅がない鉄道会社の一つである。ただし、京王は相模原線の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]が[[中央新幹線|リニア中央新幹線]](2027年開業予定)の[[神奈川県駅]](仮称)との接続が予定されている。 === 旅客案内ディスプレイと鉄道運行情報メール配信サービス === * 各駅において旅客案内ディスプレイの設置を推進している。このディスプレイの設置と並行して、鉄道運行情報メール配信サービスを開始した。京王線・井の頭線内での運転見合わせ・遅れ等の情報をあらかじめ登録したメールアドレスに送信する仕組みで、京王のウェブサイトで登録が可能。旅客案内ディスプレイは駅の改札口付近に設置され、通常時は[[発車標]]のない駅では画面に発車案内を、発車標のある駅では広告を表示し、異常事態のときは図を用いてどこの路線が運転を見合わせていて、遅れているのかを画面に表示することで旅客にわかりやすく情報を伝達することができるシステムである。 === 連続立体交差事業 === * 他の大手私鉄に比べて交通量の多い道路との立体交差化が比較的早期に実施されている。全線が立体交差の相模原線と小規模な[[踏切]]1か所のみの高尾線を除く京王電鉄の高架駅8駅のうち、5駅は1960年代から1970年代にかけて高架化されている。ただしこれらは単独立体交差であり、連続立体交差については必ずしも積極的はなかった。[[ラッシュ時]]など、生活道路の交通は今日も著しく妨げられたままである(「[[開かずの踏切]]」参照)。 * 2012年8月には[[京王線]][[柴崎駅]] - [[西調布駅]]間と[[京王相模原線|相模原線]][[調布駅]] - [[京王多摩川駅]]間において線路を地下化する[[連続立体交差事業]]の地下新線切り替えが行われ、18箇所の踏切が解消された。 * 京王線[[笹塚駅]] - [[仙川駅]]間の線路を高架化する連続立体交差事業について東京都は、2014年2月28日に国土交通省から都市計画事業の認可を取得後、事業を実施することになった<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/02/20o2s100.htm |title=京王線(笹塚駅から仙川駅間)連続立体交差事業に着手 |publisher=東京都 |date=2014-02-28| accessdate=2014-02-28}}</ref>。 === CM・ドラマ撮影 === *沿線に多くの[[撮影所]]や[[芸能事務所]]がある関係から、他の私鉄路線と比べてその方面の需要もあり、宣伝効果が期待できるという側面もあるため、色々な[[広告]]・[[コマーシャルメッセージ|CM]]・[[テレビドラマ|ドラマ]]の[[ロケーション撮影]]が行われている(ただし撮影数が他社より大幅に多いものの、最初に鉄道敷地内での撮影を認めたのは[[京成電鉄]]である)。 *撮影に駅を用いる場合は、普段乗客の少ない[[府中競馬正門前駅]]や[[多摩動物公園駅]]などで行われることが多い。また、撮影用の[[臨時列車]]([[回送]]列車を含める)を運転することもある。原則として車内や構内での撮影の場合は許可を要し、また有料であるが、特に京王が認めた場合は無料で行うことができる。 *過去には[[日本放送協会|NHK]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]『[[ピタゴラスイッチ]]』の1コーナー「アルゴリズムこうしん」の撮影に、社員が参加したことがある。 *京王電鉄の公式サイトには、撮影のご案内という項目において、ロケーションサンプルや料金を掲載している<ref>{{Cite web|和書|title=京王ロケーションナビ ~撮影のご案内~|京王グループ|url=https://www.keio.co.jp/train/other/advertisement/location_navi/index.html|website=www.keio.co.jp|accessdate=2021-04-01}}</ref>。 === イメージキャラクター === *「けい太くん」という、8000系をモデルにしたキャラクターがおり、[[ゆるキャラグランプリ]]にもエントリーしている。声優は、[[釘宮理恵]]が担当している。「けい太くん」には家族もいる設定になっており、従妹は1000系、妹は9000系、両親は7000系、祖父母は6000系になっている<ref>{{Cite press release |和書 |title=けい太くんの絵本が 音声付き電子書籍になって登場!6月30日(金)から発売 けい太くんの声を釘宮理恵さんが演じます |publisher=京王電鉄 |date=2017年6月28日 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170628_keitadenshi.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年7月8日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702231418/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr170628_keitadenshi.pdf |archivedate=2017年7月2日-->}}</ref>。新5000系をモデルにした「しんごくん」というキャラクターもいる<ref>[https://www.keio.co.jp/keitakun/profile.html けい太くんのわくわくステーション] - 京王電鉄、2019年1月9日閲覧</ref>。 *現在[[PASMO]]と京王パスポートカード(京王グループの[[クレジットカード]])の特典や、乗客へのマナー[[川柳]]コンテストのイメージキャラクターに、漫画家[[やくみつる]]によるイラスト(自画像が使われることもある)が用いられ、車内中吊りや駅の掲示板で見ることができる。2007年3月 - 4月にかけて展開された京王パスポートカードの広告では[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、[[坂本龍馬]]、[[武田信玄]]など歴史上の人物に扮したイラストになっている。 *2013年度より新たなイメージキャラクターとして「プラットガール・高尾かえで」を採用、初代イメージガールを[[横田美紀]]が演じている(2014年度も続投)<ref>{{Cite press release |和書 |title=「プラットガール」誕生 〜カメラ女子が高尾山をはじめ、沿線の四季折々の魅力や見どころを紹介します〜 |publisher=京王電鉄 |date=2013年4月24日 |url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130424_plat-girl.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017年7月8日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130502155750/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130424_plat-girl.pdf |archivedate=2013年5月2日-->}}</ref>。 === 鉄道関連商品の許諾 === 京王では他の大手私鉄と異なり、ゲームソフトや列車前面展望映像などの商品化許諾は消極的だった。2017年7月以降は積極的になりにアネックから展望映像作品が、[[ビコム]]から「京王電鉄全線 前編 京王線・高尾線&競馬場線&動物園線 4K撮影」と「京王電鉄全線 後編 京王線・相模原線&井の頭線 4K撮影」が発売された。ただし、[[A列車で行こうシリーズ]]では京王の所有車両も収録されているゲームソフトもあり、2011年に[[京王アートマン]]が発売したDVD「カラフル!不滅の京王井の頭線3000系」には井の頭線の前面展望映像が、2013年に[[メディアックス]]の「京王電鉄完全データDVDBOOK」付録DVDには京王線の前面展望映像がそれぞれ収録されているので、許諾商品が全くない訳ではなかった。 なお、[[鉄道模型]]など、その他の鉄道グッズの商品化許諾は基本的に実施している。 === その他 === *[[多摩動物公園駅]]前に家族向けの鉄道[[広報活動|PR]]施設として「[[京王れーるランド]]」がある。また東京都[[八王子市]][[堀之内 (八王子市)|堀之内]]には、京王研修センターの構内に通常、一般には非公開の[[京王資料館]]という、京王に関する品々を集めた資料館がある。 *[[日本中央競馬会]]の[[重賞]]競走[[京王杯2歳ステークス]]、[[京王杯スプリングカップ]](いずれも[[競馬の競走格付け|GII]])に優勝杯(京王電鉄株式会社賞)を提供している。 *主要駅を中心に[[きらぼし銀行]]の[[ステーションATM]]を設置している。また、これと並行して2010年代後半からは駅構内(改札外)に[[みずほ銀行]]のATMを設置するようになった。 *駅改札外の[[コインロッカー]]で、[[DHL]]ジャパンが配達する国際[[宅配便]]を受け取れるサービスを2017年12月4日に始めた(対象は6駅)<ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr171201_locker.pdf 京王線6駅の駅コインロッカーでDHLの国際宅配便が受け取れます!]京王電鉄プレスリリース(2017年12月1日)2017年12月22日閲覧</ref>。 *沿線情報誌として[[フリーペーパー]]『'''あいぼりー'''』を刊行している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 森田忠吉|authorlink = |translator = |title = 開港五十年紀念横浜成功名誉鑑|publisher = 横浜商况新報社|series = |volume = |edition = |date = 1910|pages = |url = https://www.lib.city.yokohama.lg.jp/Archive/DTRP0320?SHIRYO_ID=2235|doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = kaiko-50}} == 関連項目 == * [[京王グループ]] * [[京王電鉄バス]] * [[京王線の新宿駅付近の廃駅]] * [[京王御陵線]] - 廃止された鉄道路線 * [[京王閣]]・[[京王遊園]] - 廃止された施設 * [[東京山手急行電鉄]] * [[武蔵中央電気鉄道]] * [[大東急]] * [[大手私鉄]] * [[日本の鉄道事業者一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Keio Corporation}} * {{Official website|https://www.keio.co.jp/}} * {{Twitter|keiodentetsu|京王電鉄運行情報(公式)}} {{京王グループ}} {{大手私鉄}} {{PASMO}} {{パスネット}} {{学術・文化・産業ネットワーク多摩}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=京王電気軌道|1=かつて存在した日本の軌道事業者|2=東京都の交通史|3=かつて存在した東京都の企業}} {{デフォルトソート:けいおうてんてつ}} [[Category:大手私鉄・準大手私鉄]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:新宿区の企業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:京王グループ|*けいおうてんてつ]] [[Category:京王電鉄|*]] [[Category:日経平均株価]] [[Category:1948年設立の企業]] [[Category:1944年の合併と買収]] [[Category:登録商標]]
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音楽に関する賞
音楽に関する賞(おんがくにかんするしょう)では、音楽の賞とコンクールについて記す。
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競馬
競馬(けいば、英: Horse racing)は、騎手が乗った馬により競われる競走競技、および、その着順を予想する賭博である。イギリスを発祥とする近代競馬は多くの国々で開催されており、その多くは勝馬投票券(馬券)の販売とセットの興行として行われている。 競馬は主に競馬場と呼ばれる専用の競技場で開催される。一つ一つの競い合いを「競走 (race)」と呼び、一日の競馬開催でいくつかの競走が行われる。競走の種類は主に、平坦なコースを走る平地競走、障害物の飛越を伴う障害競走、繋駕車と呼ばれる車を曳いて走る繋駕速歩競走の3つからなり、他に繋駕車を曳かない速歩競走やそりを曳くばんえい競走などがある。競走では一般には騎手が馬に騎乗して一定の距離を走り、正規に最も早く決勝線に到達した馬を勝者とする。決勝線への到達は、概ね馬の鼻の先が決勝線を通過したときをもって判定されるが、ばんえい競走に限っては馬が引っ張るソリの最後部が決勝線を通過したときをもって判定される。 用いられる競走馬は平地や障害、速歩競走ではサラブレッド、サラブレッド系種、アラブ、アングロアラブ、アラブ系種の軽種馬もしくはクォーターホース、スタンダードブレッド(アメリカントロッター)等の中間種が用いられ、ばんえい競走では重種馬が用いられる。 競馬の世界は優勝劣敗が大原則であり強い馬は強い馬同士、弱い馬は弱い馬同士での競走が基本である。だが、競走の出走メンバーのみを変更するには限界がある。そこで考え出された方法として強い馬には重い負担重量を、弱い馬には軽い負担重量となるように負担重量を変更することである程度幅のある競走を組むことができる。負担重量の決定方法としては馬齢戦、別定戦、定量戦、ハンデキャップ競走などもある。 競馬の競走には大多数の一般競走と賞金が高額で特別登録料が必要な特別競走が存在する。特別競走の中でも特に賞金が高額で歴史と伝統・競走内容等を考慮し、重要な意義を持つ競走として重賞が行われる。さらに各重賞競走の役割と重要性を広く認識してもらい生産界の指標としての重賞競走の位置づけを明確にするため、グループ制(日本を含む一部の国ではグレード制)によってG1、G2、G3に分類される。G1は競走体系上もっとも重要な意義をもつ根幹競走、G2はG1に次ぐ主要な競走でG1の勝ち馬も比較的容易に出走できる内容をもった競走である。G3についてはG1、G2以外の競走である。 G1競走(およびそれに類する格付けの競走)の中でも、3歳馬に対して行われる伝統のある競走をクラシックと呼ぶ。2010年現在、世界各地でクラシックと呼ばれる競走が行われているが多くの国が最初に始められたイギリスのクラシックレースを模範としている。イギリスのクラシックは全5競走であるがうち2競走は牝馬限定戦であり牡馬が出走可能な2000ギニー、ダービー、セントレジャーの3競走すべてに優勝した競走馬を三冠馬という。ただし生産上の意味合いが薄れ、また距離別の路線が体系化されたこともあって三冠の概念は形骸化している。なお、日本のクラシック競走はイギリスと同様に全5競走で、三歳牝馬路線の最終戦である秋華賞はクラシックには含まれていないが、三冠の概念は依然として重要視されている。 ウマの速さを競わせること自体は有史以前、ウマが家畜化された頃から行われていたと考えられている。 競馬が初めて文献に現れるのは古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの『イリアス』第23歌における追悼式で行われた戦車競馬(戦車競走)である。古代ギリシャの戦車競馬は騎手が二輪の車両(チャリオット)を馬2頭に引かせて競うもので古代オリンピックの種目にもなっていた。これはのちに映画『ベン・ハー』の戦車競馬のシーンで有名になった(ただし、映画では時代設定が古代ローマ帝国になっており馬も4頭になっている)。なお、現在行われている繋駕速歩競走はこの伝統を引き継いだものである。戦車競走は古代ローマにも伝わり、パンとサーカスのフレーズにあるように民衆の人気を集めた。 一方、日本の平安時代の文献にも競馬(くらべうま)という表記があった。またユーラシア内陸部の遊牧民族の間では、現在でもモンゴル族などで行われているようなウマの競走が行われていた。紀元前12世紀のギリシャ競馬が最も古いとされている。 競走結果に金銭や名誉の譲与が絡む、賭博の対象としての近代競馬の基礎を築いたのは英国とされている。ピューリタン革命時には賭博の禁止がされたもののほとんど守られず、その後アン王女からも賭博の禁止がされたが、やはり競馬場では賭博が横行していた。 黎明期の競馬は貴族のみが関わるスポーツであり、その傾向は今日のイギリス競馬にも見られる。 イギリスでは馬上槍試合の人気が強かったが、十字軍の遠征をきっかけとして競馬が少しずつ人気を博し始めた。 ローマ人による支配の歴史を持つイギリスでは東方の馬の方が優秀であると伝えられており、1121年にはアラブ馬の輸入が始まっている。リチャード1世が王位を継承する以前の時期に書かれた「ロンドン市の描写」では、2頭立て数頭立ての騎乗馬競走が行われていたという記述が登場し、その20年ほど後にはリチャード1世が3マイル以上の高額賞金競走の開催を行っている。 正式のルールに基づき専用の競技用施設(競馬場)において行われる競馬(近代競馬)は16世紀のイングランドに始まったとされ17世紀にはフランスやアイルランド、19世紀にはドイツやイタリアでも行われるようになった。また17世紀以降は、ヨーロッパ諸国の植民地であった国々を中心に、アメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアなどの地域においても近代競馬が行われるようになった。 イギリスではリチャード2世がアランデル伯爵(のちのカンタベリー大司教、1353年 - 1414年)と所有の馬を用いてしばしば一騎打ちのレースを行っていた。1540年にはチェスター郊外のルーディーに初の常設の競馬場(チェスター競馬場)が完成。1666年には亡命先から帰還したチャールズ2世が競馬のレースに王室杯を贈呈している。競馬発祥の地イギリスでは、王侯貴族や有力者によって近代競馬が形創られた過程に鑑みて「スポーツ・オブ・キングス(Sport of Kings)」と形容する場面もある。 17世紀中期には、出馬登録や負担重量、検量、反則や失格といったルール作りがされるようになったと記録に残っている。 しかし、近代競馬の初期において競技運営は貴族の内輪内、18世紀初頭においても100以上の競技場で競技が行われる中思い思いのローカルルールで運営されていた。世界初の競馬統括組織、ジョッキークラブは1750年以前には存在していたとされるが、貴族やジェントルマンの利用するクラブという形であり、実際に統括組織としての側面を明確に見せるようになったのは1758年3月24日の検量に関する規定指示が最初と言え、これもニューマーケットの範囲での権威である。 黎明期のレースは4から6マイル、中には8マイルのものもあり、競馬において用いられる競走馬についてはスタミナに秀でた馬が主流であった。しかし、17世紀後半から18世紀にかけてアラブ種やトルコ馬、バルブ馬などがイギリスへ輸入されて品種改良が行われ、やがてサラブレッドと呼ばれる品種が誕生することで、俊敏性や早熟性を持つ競走馬が増えていった。サラブレッドについては1791年にジェネラルスタッドブックと呼ばれる血統書が作成され、以後その生産において血統が重視されるようになった。そのような競馬の性質の変化を受け、1776年のセントレジャーステークス創設を始めとするクラシック路線の構築が始まった。イギリスクラシック路線の歴史の詳細についてはイギリスクラシック三冠を参照。 競走の施行形態については18世紀後半頃まではヒートレースやマッチレースが主体であったが、これらの方式は競馬が産業としての要素を持ち始めた頃から衰退し、多数の馬による一発勝負のステークス方式へと主流が移行した。競走の賞金も馬主同士の出資によるものから始まったが、現在ではスポンサーの出資と馬券の売上金の一部、および補助金や積立金から賄われている。 日本で初めての西洋式の競馬の開催は、江戸幕府の開港の翌年の1860年に、横浜・元町で行われたとされている。1866年には横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場として根岸競馬場が造られた。 また岩倉具視の著述記録によれば、黒船来航時の殉国者と伏見戦争(戊辰戦争)の殉国者を併せて慰霊するため、1869年に招魂社(靖国神社の前身)が設立され、1870年からその境内に作られた競馬場で年3回の神事として競馬が催されるようになった。 1879年には、のちに日本赤十字社や大日本武徳会の総裁となった陸軍軍人の小松宮彰仁親王を社長とする「共同競馬会社」が設立された。その後に明治天皇から賞品が下賜されるようになったのが、天皇賞のルーツであるといわれている。 1906年には、軍馬の改良を目的とした行政機関の馬政局が設立し、農林省畜産局の設置まで競馬の方針を決定した。馬政局の指示で1908年より競馬倶楽部、1936年から日本競馬会が、1948年以降は日本中央競馬会(JRA)が中央競馬の運営をしている。 競馬は競技者・関係者が行う「馬を競わせる」興行に対して、観戦者が勝馬を予想して金を賭ける「賭博」を指す意味でも用いられる。賭博が禁止されている国においても、賭博としての競馬はイスラム圏を除き例外的に認められている場合がある。 イギリスのブックメーカーが競馬場で発生して以来、競馬は賭博とのつながりが深く保たれている。しかし現在ではパリミュチュエル方式による主催者が胴元として統括する賭博が世界的な主流となっており、ブックメーカーを認可している地域はあまり多くない。日本においても洋式競馬が導入された19世紀から既に勝馬投票券(馬券)が発売された。 勝馬を予想する方法については、古くからさまざまな模索がなされてきた。競馬新聞や馬券予想会社など、金銭と引き換えに他人に自分たちの予想を教えることを商売とする業者もある。また、自分が考え出した予想の方法を新聞・雑誌に寄稿したり、著作として出版する場合もある(予想 (競馬)を参照)。 馬券の販売は、主に発売対象の競走を開催している競馬場(本場)、もしくは同主催者の他競馬場、「WINS」などの場外勝馬投票券発売所、および提携している他の主催者の競馬場などで購入できる。また電話投票会員となり、電話やインターネットを利用して投票することも可能である。特にノミ屋などの私設馬券販売を防止するために、在宅投票の拡大が推奨されている。 競馬の開催における馬券販売は各国の法律で規制されており、以下のように異なっている。 馬券の購入者は、各競走終了後の配当が大きくなることを期待する。配当が100倍を超える馬券、つまり100円あたりの払戻金が1万円を超える馬券のことを「万馬券」と言う。10万円(1000倍)を超えると10万馬券、100万円(1万倍)を超えると100万馬券、そして1000万円(10万倍)を超えると1000万馬券と言われ、記録的な高額配当の際には一般のニュースで報じられることさえある。 100倍を超える配当はかつてはあまり目にすることのないものであったが、2002年(平成14年)に誕生した馬番号三連勝複式(3連複)や、2004年に誕生した三連勝単式(3連単)の登場によりその機会は飛躍的に増大し、逆に100倍を超えないことが稀となっている。 2005年(平成17年)4月9日には福島競馬場で初の1000万馬券が発生した。その1ヶ月後の5月13日には大井競馬場で史上2度目の1000万馬券が飛び出し、記録したばかりの最高配当記録が更新されるまでに至る。しかも的中したのは発売176157票中たったの1票(=100円)だけだった。さらに10月22日には東京競馬場で1846万馬券が誕生、2000万馬券も間近という大万馬券となり2010年(平成22年)4月6日には大井競馬場で史上初の2000万馬券が誕生している。 様々な理由により(理由が明確にならないことも多い)、何年も続けて高額配当となる競走がある。そのような競走のことを「荒れる競走」と呼ぶことがある。 右図に各国の競走数を示した(モンゴルのナーダム競馬、あるいは各種草競馬など国際競馬統括機関連盟が把握していないものは除く)。 競走形態は主に平地、障害、速歩に大別される。平地競走は最も広範に行われ施行国は100ヶ国を超えると見られる。一方、速歩競走の競走数も平地に並ぶほど多くフランス、イタリア、スウェーデン、カナダ等ではこちらの方が人気が高い。障害はイギリス、アイルランド、フランスで主に行われている。フィンランドのように繋駕速歩競走のみを施行している国もある。 競馬の政策、運営上の規則を統一、情報経験の交換、相互援助、共同研究を目的として、国際競馬統括機関連盟(International Federation of Horseracing Authorities:IFHA 別名;パリ国際競馬会議)が、各国の競馬統括機関の事務局長クラスが集まって、運営されている。 下部組織として、国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)、馬の国際間移動に関する委員会(IMHC)などがある。 国際競馬に功績を残し、競馬発展に貢献をもたらした競馬関係者に国際功労賞を授与しているほか、年間の競走成績をもとに以下のものを発表している。 「パート」は各国競馬の状況を格付けしたもので、下記の分類は国際競馬統括機関連盟(IFHA)の国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)が維持する『国際セリ名簿基準書』におけるサラブレッドの平地競走の格付けによる。 競馬は馬を使役し、特に競走などで鞭を打つことから、動物虐待にあたるとして長らく動物愛護団体より非難の対象に挙げられている。それらの団体の多くは、馬の飼育環境や騎乗することそのものを馬の意思に反して行われている虐待行為であると主張している。このため、一部の国・団体では鞭の使用回数に制限を設けられており、例えばイギリスでは鞭の使用回数は1競走につき平地では7回、障害では8回までと制限され、制限よりも4回多く使うと失格となり騎手も28日間の騎乗停止処分が科せられる。また日本のJRAも鞭の使用回数の制限に動いており、2023年より競走中の連続使用は5回までとされた。 しかし批判の矛先は競馬のみならず、競走馬の生産や屠殺、馬肉の生産にまで及ぶ。 競走馬の屠殺については競馬業界関係者にも批判者がおり、アメリカでは2006年に競走馬の屠殺を全面禁止する法律が可決しているが、それに際して同国の関係者らからも賛成の声が上がっていた。 娯楽が多様化するに従って競馬に対する大衆の関心は薄まっていったが、時折現れるアイドルホース(大衆的な人気を得る馬)によって大衆的な関心が再燃することがある。日本での代表的な例に、20世紀のハイセイコーやオグリキャップやトウカイテイオーやナリタブライアンなど、21世紀初頭のディープインパクト、オルフェーヴル、キタサンブラックなどがいる。 また、競馬は単なる賭博としてだけではなく、音楽や文学、絵画や彫刻などの創作活動の主題として取り上げられたり、社会制度にも入り込んで一連の馬事文化を形成してきた。特にイギリスでは活躍した名馬の肖像画も多く残されており、その姿を現代に伝えている。日本では寺山修司らによる競馬を主題とした文芸作品もある一方、競馬漫画や競馬ゲームといったサブカルチャー作品も多く発表されている。 競馬を題材にしたフィクションの作品において、ゲームは競馬ゲーム(けいばげーむ)、映画は競馬映画(けいばえいが)、漫画は競馬漫画(けいばまんが)と称される。競馬漫画はスポーツ漫画の一種として扱われることがある。
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"競馬が初めて文献に現れるのは古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの『イリアス』第23歌における追悼式で行われた戦車競馬(戦車競走)である。古代ギリシャの戦車競馬は騎手が二輪の車両(チャリオット)を馬2頭に引かせて競うもので古代オリンピックの種目にもなっていた。これはのちに映画『ベン・ハー』の戦車競馬のシーンで有名になった(ただし、映画では時代設定が古代ローマ帝国になっており馬も4頭になっている)。なお、現在行われている繋駕速歩競走はこの伝統を引き継いだものである。戦車競走は古代ローマにも伝わり、パンとサーカスのフレーズにあるように民衆の人気を集めた。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、日本の平安時代の文献にも競馬(くらべうま)という表記があった。またユーラシア内陸部の遊牧民族の間では、現在でもモンゴル族などで行われているようなウマの競走が行われていた。紀元前12世紀のギリシャ競馬が最も古いとされている。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "競走結果に金銭や名誉の譲与が絡む、賭博の対象としての近代競馬の基礎を築いたのは英国とされている。ピューリタン革命時には賭博の禁止がされたもののほとんど守られず、その後アン王女からも賭博の禁止がされたが、やはり競馬場では賭博が横行していた。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "黎明期の競馬は貴族のみが関わるスポーツであり、その傾向は今日のイギリス競馬にも見られる。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "イギリスでは馬上槍試合の人気が強かったが、十字軍の遠征をきっかけとして競馬が少しずつ人気を博し始めた。 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しかし、近代競馬の初期において競技運営は貴族の内輪内、18世紀初頭においても100以上の競技場で競技が行われる中思い思いのローカルルールで運営されていた。世界初の競馬統括組織、ジョッキークラブは1750年以前には存在していたとされるが、貴族やジェントルマンの利用するクラブという形であり、実際に統括組織としての側面を明確に見せるようになったのは1758年3月24日の検量に関する規定指示が最初と言え、これもニューマーケットの範囲での権威である。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "黎明期のレースは4から6マイル、中には8マイルのものもあり、競馬において用いられる競走馬についてはスタミナに秀でた馬が主流であった。しかし、17世紀後半から18世紀にかけてアラブ種やトルコ馬、バルブ馬などがイギリスへ輸入されて品種改良が行われ、やがてサラブレッドと呼ばれる品種が誕生することで、俊敏性や早熟性を持つ競走馬が増えていった。サラブレッドについては1791年にジェネラルスタッドブックと呼ばれる血統書が作成され、以後その生産において血統が重視されるようになった。そのような競馬の性質の変化を受け、1776年のセントレジャーステークス創設を始めとするクラシック路線の構築が始まった。イギリスクラシック路線の歴史の詳細についてはイギリスクラシック三冠を参照。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "競走の施行形態については18世紀後半頃まではヒートレースやマッチレースが主体であったが、これらの方式は競馬が産業としての要素を持ち始めた頃から衰退し、多数の馬による一発勝負のステークス方式へと主流が移行した。競走の賞金も馬主同士の出資によるものから始まったが、現在ではスポンサーの出資と馬券の売上金の一部、および補助金や積立金から賄われている。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本で初めての西洋式の競馬の開催は、江戸幕府の開港の翌年の1860年に、横浜・元町で行われたとされている。1866年には横浜の根岸に、初めての本格的な競馬場として根岸競馬場が造られた。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また岩倉具視の著述記録によれば、黒船来航時の殉国者と伏見戦争(戊辰戦争)の殉国者を併せて慰霊するため、1869年に招魂社(靖国神社の前身)が設立され、1870年からその境内に作られた競馬場で年3回の神事として競馬が催されるようになった。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1879年には、のちに日本赤十字社や大日本武徳会の総裁となった陸軍軍人の小松宮彰仁親王を社長とする「共同競馬会社」が設立された。その後に明治天皇から賞品が下賜されるようになったのが、天皇賞のルーツであるといわれている。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1906年には、軍馬の改良を目的とした行政機関の馬政局が設立し、農林省畜産局の設置まで競馬の方針を決定した。馬政局の指示で1908年より競馬倶楽部、1936年から日本競馬会が、1948年以降は日本中央競馬会(JRA)が中央競馬の運営をしている。", "title": "競馬の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "競馬は競技者・関係者が行う「馬を競わせる」興行に対して、観戦者が勝馬を予想して金を賭ける「賭博」を指す意味でも用いられる。賭博が禁止されている国においても、賭博としての競馬はイスラム圏を除き例外的に認められている場合がある。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イギリスのブックメーカーが競馬場で発生して以来、競馬は賭博とのつながりが深く保たれている。しかし現在ではパリミュチュエル方式による主催者が胴元として統括する賭博が世界的な主流となっており、ブックメーカーを認可している地域はあまり多くない。日本においても洋式競馬が導入された19世紀から既に勝馬投票券(馬券)が発売された。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "勝馬を予想する方法については、古くからさまざまな模索がなされてきた。競馬新聞や馬券予想会社など、金銭と引き換えに他人に自分たちの予想を教えることを商売とする業者もある。また、自分が考え出した予想の方法を新聞・雑誌に寄稿したり、著作として出版する場合もある(予想 (競馬)を参照)。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "馬券の販売は、主に発売対象の競走を開催している競馬場(本場)、もしくは同主催者の他競馬場、「WINS」などの場外勝馬投票券発売所、および提携している他の主催者の競馬場などで購入できる。また電話投票会員となり、電話やインターネットを利用して投票することも可能である。特にノミ屋などの私設馬券販売を防止するために、在宅投票の拡大が推奨されている。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "競馬の開催における馬券販売は各国の法律で規制されており、以下のように異なっている。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "馬券の購入者は、各競走終了後の配当が大きくなることを期待する。配当が100倍を超える馬券、つまり100円あたりの払戻金が1万円を超える馬券のことを「万馬券」と言う。10万円(1000倍)を超えると10万馬券、100万円(1万倍)を超えると100万馬券、そして1000万円(10万倍)を超えると1000万馬券と言われ、記録的な高額配当の際には一般のニュースで報じられることさえある。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "100倍を超える配当はかつてはあまり目にすることのないものであったが、2002年(平成14年)に誕生した馬番号三連勝複式(3連複)や、2004年に誕生した三連勝単式(3連単)の登場によりその機会は飛躍的に増大し、逆に100倍を超えないことが稀となっている。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)4月9日には福島競馬場で初の1000万馬券が発生した。その1ヶ月後の5月13日には大井競馬場で史上2度目の1000万馬券が飛び出し、記録したばかりの最高配当記録が更新されるまでに至る。しかも的中したのは発売176157票中たったの1票(=100円)だけだった。さらに10月22日には東京競馬場で1846万馬券が誕生、2000万馬券も間近という大万馬券となり2010年(平成22年)4月6日には大井競馬場で史上初の2000万馬券が誕生している。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "様々な理由により(理由が明確にならないことも多い)、何年も続けて高額配当となる競走がある。そのような競走のことを「荒れる競走」と呼ぶことがある。", "title": "競馬と馬券" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "右図に各国の競走数を示した(モンゴルのナーダム競馬、あるいは各種草競馬など国際競馬統括機関連盟が把握していないものは除く)。", "title": "競走の種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "競走形態は主に平地、障害、速歩に大別される。平地競走は最も広範に行われ施行国は100ヶ国を超えると見られる。一方、速歩競走の競走数も平地に並ぶほど多くフランス、イタリア、スウェーデン、カナダ等ではこちらの方が人気が高い。障害はイギリス、アイルランド、フランスで主に行われている。フィンランドのように繋駕速歩競走のみを施行している国もある。", "title": "競走の種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "競馬の政策、運営上の規則を統一、情報経験の交換、相互援助、共同研究を目的として、国際競馬統括機関連盟(International Federation of Horseracing Authorities:IFHA 別名;パリ国際競馬会議)が、各国の競馬統括機関の事務局長クラスが集まって、運営されている。", "title": "国際組織" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "下部組織として、国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)、馬の国際間移動に関する委員会(IMHC)などがある。", "title": "国際組織" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国際競馬に功績を残し、競馬発展に貢献をもたらした競馬関係者に国際功労賞を授与しているほか、年間の競走成績をもとに以下のものを発表している。", "title": "国際組織" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「パート」は各国競馬の状況を格付けしたもので、下記の分類は国際競馬統括機関連盟(IFHA)の国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)が維持する『国際セリ名簿基準書』におけるサラブレッドの平地競走の格付けによる。", "title": "各国の競馬" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "競馬は馬を使役し、特に競走などで鞭を打つことから、動物虐待にあたるとして長らく動物愛護団体より非難の対象に挙げられている。それらの団体の多くは、馬の飼育環境や騎乗することそのものを馬の意思に反して行われている虐待行為であると主張している。このため、一部の国・団体では鞭の使用回数に制限を設けられており、例えばイギリスでは鞭の使用回数は1競走につき平地では7回、障害では8回までと制限され、制限よりも4回多く使うと失格となり騎手も28日間の騎乗停止処分が科せられる。また日本のJRAも鞭の使用回数の制限に動いており、2023年より競走中の連続使用は5回までとされた。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし批判の矛先は競馬のみならず、競走馬の生産や屠殺、馬肉の生産にまで及ぶ。 競走馬の屠殺については競馬業界関係者にも批判者がおり、アメリカでは2006年に競走馬の屠殺を全面禁止する法律が可決しているが、それに際して同国の関係者らからも賛成の声が上がっていた。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "娯楽が多様化するに従って競馬に対する大衆の関心は薄まっていったが、時折現れるアイドルホース(大衆的な人気を得る馬)によって大衆的な関心が再燃することがある。日本での代表的な例に、20世紀のハイセイコーやオグリキャップやトウカイテイオーやナリタブライアンなど、21世紀初頭のディープインパクト、オルフェーヴル、キタサンブラックなどがいる。", "title": "競馬の文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、競馬は単なる賭博としてだけではなく、音楽や文学、絵画や彫刻などの創作活動の主題として取り上げられたり、社会制度にも入り込んで一連の馬事文化を形成してきた。特にイギリスでは活躍した名馬の肖像画も多く残されており、その姿を現代に伝えている。日本では寺山修司らによる競馬を主題とした文芸作品もある一方、競馬漫画や競馬ゲームといったサブカルチャー作品も多く発表されている。", "title": "競馬の文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "競馬を題材にしたフィクションの作品において、ゲームは競馬ゲーム(けいばげーむ)、映画は競馬映画(けいばえいが)、漫画は競馬漫画(けいばまんが)と称される。競馬漫画はスポーツ漫画の一種として扱われることがある。", "title": "競馬の文化" } ]
競馬は、騎手が乗った馬により競われる競走競技、および、その着順を予想する賭博である。イギリスを発祥とする近代競馬は多くの国々で開催されており、その多くは勝馬投票券(馬券)の販売とセットの興行として行われている。
{{Otheruses|競馬全般|日本の宮中行事として行われる競技「くらべうま」「きそいうま」|古式競馬 (日本)}} [[ファイル:2010 Kokura Kinen.jpg|thumb|300px|競馬([[平地競走]])]] {{読み仮名_ruby不使用|'''競馬'''|けいば|{{Lang-en-short|Horse racing}}}}は、[[騎手]]が乗った[[ウマ|馬]]により競われる[[競走]]競技、および、その着順を予想する[[賭博]]である。[[イギリス]]を発祥とする'''近代競馬'''は多くの国々で開催されており、その多くは[[勝馬投票券]](馬券)の販売とセットの興行として行われている。 == 概説 == [[ファイル:Trabrennbahn-2.jpg|200px|thumb|[[繋駕速歩競走]]]] [[ファイル:Deauville-Clairefontaine obstacle 3.jpg|200px|thumb|[[障害競走]]]] [[ファイル:Kanesa-black 2013obihirokinen.jpg|thumb|200px|[[ばんえい競走]]]] 競馬は主に[[競馬場]]と呼ばれる専用の競技場で開催される。一つ一つの競い合いを「[[競馬の競走|競走]] (race)」と呼び、一日の競馬開催でいくつかの競走が行われる。競走の種類は主に、平坦なコースを走る[[平地競走]]、障害物の飛越を伴う[[障害競走]]、繋駕車と呼ばれる車を曳いて走る[[繋駕速歩競走]]の3つからなり、他に繋駕車を曳かない速歩競走やそりを曳く[[ばんえい競走]]などがある<ref>[[#櫻井他2004|櫻井他2004]]、80頁。</ref>。競走では一般には[[騎手]]が馬に騎乗して一定の距離を走り、正規に最も早く決勝線に到達した馬を勝者とする。決勝線への到達は、概ね馬の鼻の先が決勝線を通過したときをもって判定されるが、ばんえい競走に限っては馬が引っ張るソリの最後部が決勝線を通過したときをもって判定される。 {{詳細記事|競馬の競走}} 用いられる[[競走馬]]は平地や障害、速歩競走では[[サラブレッド]]、[[サラブレッド系種]]、[[アラブ種|アラブ]]、[[アングロアラブ]]、[[アラブ系種]]の[[ウマ#種類・分類、品種|軽種]]馬もしくは[[クォーターホース]]、[[スタンダードブレッド|スタンダードブレッド(アメリカントロッター)]]等の[[ウマ#種類・分類、品種|中間]]種が用いられ、ばんえい競走では[[ウマ#種類・分類、品種|重種]]馬が用いられる。 競馬の世界は優勝劣敗が大原則であり強い馬は強い馬同士、弱い馬は弱い馬同士での競走が基本である。だが、競走の出走メンバーのみを変更するには限界がある。そこで考え出された方法として強い馬には重い[[負担重量]]を、弱い馬には軽い負担重量となるように負担重量を変更することである程度幅のある競走を組むことができる。負担重量の決定方法としては[[馬齢戦]]、[[別定戦]]、[[定量戦]]、[[ハンデキャップ競走]]などもある。 競馬の競走には大多数の[[一般競走]]と賞金が高額で特別登録料が必要な[[特別競走 (競馬)|特別競走]]が存在する。特別競走の中でも特に賞金が高額で歴史と伝統・競走内容等を考慮し、重要な意義を持つ競走として[[重賞]]が行われる。さらに各重賞競走の役割と重要性を広く認識してもらい生産界の指標としての重賞競走の位置づけを明確にするため、グループ制(日本を含む一部の国では[[グレード制]])によってG1、G2、G3に分類される。G1は競走体系上もっとも重要な意義をもつ根幹競走、G2はG1に次ぐ主要な競走でG1の勝ち馬も比較的容易に出走できる内容をもった競走である。G3についてはG1、G2以外の競走である。 {{詳細記事|日本の競馬の競走体系}} G1競走(およびそれに類する格付けの競走)の中でも、3歳馬に対して行われる伝統のある競走を[[クラシック_(競馬)|クラシック]]と呼ぶ。2010年現在、世界各地でクラシックと呼ばれる競走が行われているが多くの国が最初に始められたイギリスのクラシックレースを模範としている。イギリスのクラシックは全5競走であるがうち2競走は牝馬限定戦であり牡馬が出走可能な[[2000ギニー]]、[[ダービーステークス|ダービー]]、[[セントレジャー]]の3競走すべてに優勝した競走馬を[[三冠 (競馬)|三冠]]馬という。ただし生産上の意味合いが薄れ、また距離別の路線が体系化されたこともあって三冠の概念は形骸化している。なお、日本のクラシック競走はイギリスと同様に全5競走で、三歳牝馬路線の最終戦である[[秋華賞]]はクラシックには含まれていないが、三冠の概念は依然として重要視されている。 == 競馬の歴史 == {{詳細記事|競馬の歴史}} === 起源 === ウマの速さを競わせること自体は有史以前、ウマが家畜化された頃から行われていたと考えられている。 競馬が初めて文献に現れるのは[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]の吟遊詩人[[ホメロス]]の『[[イリアス]]』第23歌における追悼式で行われた戦車競馬([[戦車競走]])である<ref name="UK250-251">{{Cite book|和書|author=下楠昌哉 編|year=2010|title=イギリス文化入門|pages=250-251}}</ref>。古代ギリシャの戦車競馬は騎手が二輪の車両([[チャリオット]])を馬2頭に引かせて競うもので[[古代オリンピック]]の種目にもなっていた<ref name="UK250-251" />。これはのちに映画『[[ベン・ハー]]』の戦車競馬のシーンで有名になった(ただし、映画では時代設定が古代ローマ帝国になっており馬も4頭になっている<ref name="UK250-251" />)。なお、現在行われている[[繋駕速歩競走]]はこの伝統を引き継いだものである。戦車競走は[[古代ローマ]]にも伝わり、[[パンとサーカス]]のフレーズにあるように民衆の人気を集めた。 一方、日本の[[平安時代]]の文献にも[[古式競馬 (日本)|競馬]](くらべうま)という表記があった。またユーラシア内陸部の[[遊牧民族]]の間では、現在でも[[モンゴル族]]などで行われているようなウマの競走が行われていた。[[紀元前12世紀]]の[[ギリシャ]]競馬が最も古いとされている。 === 近代競馬の歴史 === 競走結果に金銭や名誉の譲与が絡む、賭博の対象としての近代競馬の基礎を築いたのは英国とされている<ref name="UK250-251" /><ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |page=29}}</ref>。[[ピューリタン革命]]時には賭博の禁止がされたもののほとんど守られず、その後[[アン (イギリス女王)|アン王女]]からも賭博の禁止がされたが、やはり競馬場では賭博が横行していた。<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=競馬の世界史 |date=2016年8月25日 |publisher=中公新書 |pages=20-23}}</ref> <ref name=":would-race">{{Cite book|和書 |title=競馬の世界史 |date=2016年8月25日 |publisher=中公新書 |pages=23-26}}</ref> 黎明期の競馬は貴族のみが関わるスポーツであり、その傾向は今日のイギリス競馬にも見られる。 イギリスでは[[馬上槍試合]]の人気が強かったが、[[十字軍の遠征]]をきっかけとして競馬が少しずつ人気を博し始めた。<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=競馬の世界史 |date=2016年8月25日 |publisher=中公新書 |pages=12-15}}</ref> ローマ人による支配の歴史を持つイギリスでは東方の馬の方が優秀であると伝えられており、1121年にはアラブ馬の輸入が始まっている。<ref name=":4" />[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]が王位を継承する以前の時期に書かれた「ロンドン市の描写」では、2頭立て数頭立ての騎乗馬競走が行われていたという記述が登場し、その20年ほど後にはリチャード1世が3マイル以上の高額賞金競走の開催を行っている。<ref name=":4" /> 正式のルールに基づき専用の競技用施設(競馬場)において行われる競馬('''近代競馬''')は[[16世紀]]の[[イングランド]]に始まったとされ[[17世紀]]には[[フランス]]や[[アイルランド]]、[[19世紀]]には[[ドイツ]]や[[イタリア]]でも行われるようになった。また17世紀以降は、ヨーロッパ諸国の植民地であった国々を中心に、[[アメリカ州|アメリカ]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[オセアニア]]などの地域においても近代競馬が行われるようになった。 イギリスでは[[リチャード2世]]が[[アランデル伯爵]](のちの[[カンタベリー大司教]]、1353年 - 1414年)と所有の馬を用いてしばしば一騎打ちのレースを行っていた<ref name="UK250-251" />。[[1540年]]にはチェスター郊外のルーディーに初の常設の競馬場([[チェスター競馬場]])が完成<ref name="UK250-251" />。1666年には亡命先から帰還した[[チャールズ2世]]が競馬のレースに王室杯を贈呈している<ref name="UK250-251" />。競馬発祥の地イギリスでは、王侯貴族や有力者によって近代競馬が形創られた過程に鑑みて「スポーツ・オブ・キングス(Sport of Kings)」と形容する場面もある<ref>{{Cite web|和書|url= http://jra.jp/topics/column/etc/history.html|title= 競馬コラム - 競馬小史英国|publisher= JRA|accessdate=2015-02-13}}</ref>。 17世紀中期には、出馬登録や負担重量、検量、反則や失格といったルール作りがされるようになったと記録に残っている。<ref name=":3" /> しかし、近代競馬の初期において競技運営は貴族の内輪内、[[18世紀]]初頭においても100以上の競技場で競技が行われる中思い思いのローカルルールで運営されていた<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |page=18}}</ref>。世界初の競馬統括組織、[[ジョッキークラブ]]は[[1750年]]以前には存在していたとされるが、貴族やジェントルマンの利用する[[クラブ]]という形であり、実際に統括組織としての側面を明確に見せるようになったのは[[1758年]][[3月24日]]の検量に関する規定指示が最初と言え、これもニューマーケットの範囲での権威である<ref name=":1" />。 黎明期のレースは4から6マイル、中には8マイルのものもあり、競馬において用いられる競走馬についてはスタミナに秀でた馬が主流であった<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages=30-31}}</ref>。しかし、17世紀後半から[[18世紀]]にかけてアラブ種やトルコ馬、バルブ馬などがイギリスへ輸入されて品種改良が行われ、やがて[[サラブレッド]]と呼ばれる品種が誕生することで、俊敏性や早熟性を持つ競走馬が増えていった<ref name=":2" />。サラブレッドについては[[1791年]]に[[ジェネラルスタッドブック]]と呼ばれる血統書が作成され、以後その生産において[[競走馬の血統|血統]]が重視されるようになった。そのような競馬の性質の変化を受け、[[1776年]]の[[セントレジャーステークス]]創設を始めとするクラシック路線の構築が始まった。イギリスクラシック路線の歴史の詳細については[[イギリスクラシック三冠]]を参照。 競走の施行形態については18世紀後半頃までは[[ヒートレース]]や[[マッチレース]]が主体であったが、これらの方式は競馬が産業としての要素を持ち始めた頃から衰退し、多数の馬による一発勝負の[[ステークス方式]]へと主流が移行した。競走の賞金も馬主同士の出資によるものから始まったが、現在ではスポンサーの出資と馬券の売上金の一部、および補助金や積立金から賄われている。 === 日本の競馬 === [[File:招魂社岩倉.jpg|thumb|200px|岩倉具視「招魂社を建設する事」<ref>『岩倉公実記』、1906年。国立国会図書館 {{NDLJP|781064/251}}</ref>。]] {{see also|競馬の歴史 (日本)|日本の競馬|馬の博物館}} 日本で初めての西洋式の競馬の開催は、江戸幕府の開港の翌年の1860年に、横浜・[[元町 (横浜市)|元町]]で行われたとされている。1866年には横浜の[[根岸]]に、初めての本格的な競馬場として[[根岸競馬場]]が造られた。 また[[岩倉具視]]の著述記録によれば、[[黒船来航]]時の殉国者と[[鳥羽・伏見の戦い|伏見戦争]]([[戊辰戦争]])の殉国者を併せて慰霊するため、1869年に[[招魂社競馬|招魂社]]([[靖国神社]]の前身)が設立され、1870年からその境内に作られた[[競馬場]]で年3回の神事として競馬が催されるようになった<ref>Nikkei Style『[https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37293640V11C11A2000000/ 靖国神社は昔、競馬場!]』、2011年12月16日。[https://archive.is/nT6Es アーカイブ]</ref>。 1879年には、のちに[[日本赤十字社]]や[[大日本武徳会]]の総裁となった[[陸軍軍人]]の[[小松宮彰仁親王]]を社長とする「[[共同競馬会社]]」が設立された。その後に[[明治天皇]]から賞品が下賜されるようになったのが、[[天皇賞]]のルーツであるといわれている。 1906年には、軍馬の改良を目的とした行政機関の[[馬政局]]が設立し、農林省畜産局の設置まで競馬の方針を決定した。馬政局の指示で1908年より[[競馬倶楽部]]、1936年から[[日本競馬会]]が、1948年以降は[[日本中央競馬会]](JRA)が中央競馬の運営をしている。 == 競馬と馬券 == {{See|投票券 (公営競技)|勝馬投票券}} === 勝馬予想 === [[ファイル:254orehamatteruze1.jpg|thumb|日本の中央競馬の馬券(五次投票券、現在は[[QRコード]]を使用した六次投票券に順次置き換えられている)]] 競馬は競技者・関係者が行う「馬を競わせる」興行に対して、観戦者が勝馬を予想して金を賭ける「[[賭博]]」を指す意味でも用いられる。賭博が禁止されている国においても、賭博としての競馬は[[イスラム教|イスラム圏]]を除き例外的に認められている場合がある。 イギリスの[[ブックメーカー]]が競馬場で発生して以来、競馬は賭博とのつながりが深く保たれている。しかし現在では[[パリミュチュエル方式]]による主催者が[[胴元]]として統括する賭博が世界的な主流となっており、ブックメーカーを認可している地域はあまり多くない。日本においても洋式競馬が導入された19世紀から既に[[勝馬投票券]](馬券)が発売された。 勝馬を予想する方法については、古くからさまざまな模索がなされてきた。[[競馬新聞]]や[[馬券予想会社]]など、金銭と引き換えに他人に自分たちの予想を教えることを商売とする業者もある。また、自分が考え出した予想の方法を新聞・雑誌に寄稿したり、著作として出版する場合もある([[予想 (競馬)]]を参照)。 馬券の販売は、主に発売対象の競走を開催している競馬場(本場)、もしくは同主催者の他競馬場、「WINS」などの[[場外勝馬投票券発売所]]、および提携している他の主催者の競馬場などで購入できる。また[[電話投票]]会員となり、電話や[[インターネット]]を利用して投票することも可能である。特に[[ノミ屋]]などの私設馬券販売を防止するために、在宅投票の拡大が推奨されている。 競馬の開催における馬券販売は各国の法律で規制されており、以下のように異なっている。 * [[アイルランド]]では馬券は老若男女購入できる * 18歳未満は競馬場の入場・馬券購入禁止:[[香港]](最近では、馬主や調教師の子供は事前登録が必要だが指定されたエリア内のみ入場が許可されてきた)、[[シンガポール]]、[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]] * 18歳未満は馬券購入禁止(保護者同伴であれば競馬場への入場は可能):[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[イギリス]] * 20歳未満は馬券購入禁止(保護者同伴であれば競馬場への入場は可能):日本<ref group="注釈">[[2005年]]1月以前は、20歳以上でも学生であれば購入できなかった。</ref> * 21歳未満は馬券購入禁止(競馬場への入場は不明):[[フィリピン]] * 州によって異なる:[[アメリカ合衆国|アメリカ]](馬券の発売が禁止されている州もある) * 宗教的な理由により馬券の発売が行われていない:[[アラブ首長国連邦]](馬券の代わりにイベントとして複数のレース(最高9競走)の1・2着馬を予想し、ポイントに換算して最高成績の者に景品が当たるプレイカードが配布されている) === 高額配当 === [[File:競馬の高額配当.jpg|thumb|高額配当となったレースの払戻金の例]] 馬券の購入者は、各競走終了後の[[配当]]が大きくなることを期待する。配当が100倍を超える馬券、つまり100円あたりの払戻金が1万円を超える馬券のことを「'''万馬券'''」と言う。10万円(1000倍)を超えると10万馬券、100万円(1万倍)を超えると100万馬券、そして1000万円(10万倍)を超えると1000万馬券と言われ、記録的な高額配当の際には一般のニュースで報じられることさえある。 100倍を超える配当はかつてはあまり目にすることのないものであったが、[[2002年]]([[平成]]14年)に誕生した[[投票券 (公営競技)#連勝複式|馬番号三連勝複式]](3連複)や、[[2004年]]に誕生した[[投票券 (公営競技)#連勝単式|三連勝単式]](3連単)の登場によりその機会は飛躍的に増大し、逆に100倍を超えないことが稀となっている。 [[2005年]](平成17年)[[4月9日]]には福島競馬場で初の1000万馬券が発生した。その1ヶ月後の[[5月13日]]には大井競馬場で史上2度目の1000万馬券が飛び出し、記録したばかりの最高配当記録が更新されるまでに至る。しかも的中したのは発売176157票中たったの1票(=100円)だけだった。さらに[[10月22日]]には東京競馬場で1846万馬券が誕生、2000万馬券も間近という大万馬券となり[[2010年]](平成22年)[[4月6日]]には大井競馬場で史上初の2000万馬券が誕生している。 様々な理由により(理由が明確にならないことも多い)、何年も続けて高額配当となる競走がある。そのような競走のことを「荒れる競走」と呼ぶことがある。 === 最高額配当記録 === <!--[[投票券_(公営競技)#最高配当額]]に同内容があるのでそちら参照でもいいのでは? --> * [[中央競馬]]では[[2012年]](平成24年)[[8月4日]]に開催された[[新潟競馬場|新潟競馬]]第5競走(2歳新馬戦・17頭立て)において8番ミナレット(14番人気)→6番ヘイハチピカチャン(12番人気)と14番ファイヤーヒース(10番人気)(同着)の順に入り、8→6→14の3連単の配当が2983万2950円(4080通り中3850番人気、総票数80万8482票中的中票数1票)となったのが最高記録である<ref group="注釈">同着のため配当が下がったが、8→6→14の3連単の最終オッズは596659.8倍(5966万5980円)であった。</ref>。この記録は中央・地方を両方を含めた国内競馬全体のみならず、国内の[[公営競技]]全体においても史上最高額である(重勝式を除く)。 ** [[重賞]]競走では[[2015年]](平成27年)[[5月17日]]に開催された「第10回[[ヴィクトリアマイル]]」の3連単の配当2070万5810円が史上最高額(牝馬限定重賞競走でも最高額)となっている。なおこのレースで上記の新潟競馬の新馬戦で勝利した、最低人気の18番ミナレットが3着になって高配当に再び絡んだ。 ** 重勝式では[[2014年]](平成26年)[[6月7日]]の[[WIN5]]の払戻上限額引き上げ(2億円→6億円)までに上限の配当2億円が計6回出ており、引き上げ後は[[2021年]](令和3年)[[3月14日]]の配当5億5444万6060円が最高額となっている。 * 地方競馬では2020年1月24日に開催された[[大井競馬場|大井競馬]]第7競走(16頭立て)において7番バレン(10番人気)→12番サンタンデール(15番人気)→5番トンイ(11番人気)の順に入り、3連単の配当が2848万1550円(3360通り中2915番人気、総票数39万2849票中的中票数1票)となったのが最高額である。 ** 重勝式では2021年6月10日開催された大井競馬第10-12競走での配当2億2813万165円(50円あたり)が最高額である。 * アメリカでは、[[2005年]][[5月7日]]に開催された「第131回[[ケンタッキーダービー]]」で4連単が86万4253.5倍という超高額配当が出ている。 == 競走の種類 == [[ファイル:国別競馬競走数.png|200px|thumb|競馬開催国、数字は年間競走数(上から平地、障害、速歩)]] {| class="wikitable" |- !名称!!走法!! style="white-space:nowrap" |騎乗方法!! style="white-space:nowrap" |走路!!使用される主な馬種!!競走数<br>([[2005年]]) |- |[[平地競走]]|| rowspan="2" |[[歩法 (馬術)|襲歩(ギャロップ)]]|| rowspan="3" |騎乗||平地||[[サラブレッド]]、[[アラブ種|アラブ]]、[[クォーターホース]]||約17万9100 |- |[[障害競走]]||障害||サラブレッド・{{仮リンク|AQPS|fr|Autre que Pur-sang|label=}}||約8200 |- | style="white-space:nowrap" |[[騎乗速歩競走]]||[[歩法 (馬術)|速歩(トロット)]]|| rowspan="2" |平地|| rowspan="2" |[[スタンダードブレッド]]・{{仮リンク|フランストロッター|fr|Trotteur français|label=}}|| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |約16万1200 |- |[[繋駕速歩競走]]|| style="white-space:nowrap" |速歩(トロット/ペース)||繋駕車<br />スキー |- |[[ばんえい競走]]||特殊||ソリ||特殊||日本輓系種<ref group="a">軽種馬以外の登録を管轄する[[日本馬事協会]]では[[2003年]]度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。</ref>、[[ペルシュロン]]、[[ブルトン種|ブルトン]]、[[ベルジアン]]||約2000 |} <references group="a" /> 右図に各国の競走数を示した([[モンゴル]]の[[ナーダム]]競馬、あるいは各種[[草競馬]]など[[国際競馬統括機関連盟]]が把握していないものは除く)。 競走形態は主に平地、障害、速歩に大別される。平地競走は最も広範に行われ施行国は100ヶ国を超えると見られる。一方、速歩競走の競走数も平地に並ぶほど多く[[フランス]]、[[イタリア]]、[[スウェーデン]]、[[カナダ]]等ではこちらの方が人気が高い。障害はイギリス、アイルランド、フランスで主に行われている。フィンランドのように繋駕速歩競走のみを施行している国もある。 == 国際組織 == {{main|国際競馬統括機関連盟}} 競馬の政策、運営上の規則を統一、情報経験の交換、相互援助、共同研究を目的として、[[国際競馬統括機関連盟]](International Federation of Horseracing Authorities:IFHA 別名;パリ国際競馬会議)が、各国の競馬統括機関の事務局長クラスが集まって、運営されている。 下部組織として、[[国際格付番組企画諮問委員会]](IRPAC)、[[馬の国際間移動に関する委員会]](IMHC)などがある<ref>[https://www.ifhaonline.org/Default.asp?section=About%20IFHA&area=2 International Federation of Horseracing Authorities - Standing Committees] - IFHA(2023年7月4日閲覧・英語)</ref>。 国際競馬に功績を残し、競馬発展に貢献をもたらした競馬関係者に[[国際競馬統括機関連盟#国際功労賞|国際功労賞]]を授与しているほか、年間の競走成績をもとに以下のものを発表している。 *[[ワールド・ベスト・レースホース・ランキング]] - 世界の競走馬の格付け *[[世界のトップ100GIレース]] - 年間レースレーティングを元にしたG1レースのレーティング *[[国際競馬統括機関連盟#ワールド・ベストジョッキー|ワールド・ベストジョッキー]] == 各国の競馬 == 「パート」は各国競馬の状況を格付けしたもので、下記の分類は国際競馬統括機関連盟(IFHA)の国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)が維持する『[[国際セリ名簿基準委員会|国際セリ名簿基準書]]』におけるサラブレッドの平地競走の格付けによる。 === ヨーロッパの競馬 === *[[ヨーロッパの競馬]]も参照。 ; パートI * [[イギリスの競馬]] * [[フランスの競馬]] * [[ドイツの競馬]] * [[アイルランドの競馬]] ; パートII * [[イタリアの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#デンマーク|デンマークの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#ノルウェー|ノルウェーの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#スウェーデン|スウェーデンの競馬]] ; パートIII * [[オランダの競馬]] * [[ベルギーの競馬]] * [[スペインの競馬]] * [[スイスの競馬]] * [[オーストリアの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#チェコ|チェコの競馬]] * [[スロバキアの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#ハンガリー|ハンガリーの競馬]] * [[ポーランドの競馬]] * [[ギリシャの競馬]] ;その他の競馬開催国・地域 * [[フィンランドの競馬]] * [[ヨーロッパの競馬#ロシア・旧ソ連|ロシアの競馬]] === 北アメリカ・南アメリカの競馬 === *[[中南米の競馬]]も参照。 ; パートI * [[アメリカ合衆国の競馬]] * [[カナダの競馬]] * [[アルゼンチンの競馬]] * [[ブラジルの競馬]] * [[チリの競馬]] * [[ペルーの競馬]] ; パートII * [[中南米の競馬#ウルグアイ|ウルグアイの競馬]] * [[中南米の競馬#パナマ|パナマの競馬]] * [[中南米の競馬#ベネズエラ|ベネズエラの競馬]] * [[中南米の競馬#プエルトリコ|プエルトリコの競馬]] ; パートIII * [[ドミニカ国の競馬]] * [[エクアドルの競馬]] * [[ジャマイカの競馬]] * [[中南米の競馬#メキシコ|メキシコの競馬]] * [[トリニダード・トバゴの競馬]] ;その他の競馬開催国・地域 * [[コロンビアの競馬]] === アジア・オセアニアの競馬 === *[[アジア・アフリカの競馬]]も参照。 ; パートI * [[オーストラリアの競馬]] * [[ニュージーランドの競馬]] * [[日本の競馬]] * [[香港の競馬]] * [[アラブ首長国連邦の競馬]] ; パートII * [[韓国の競馬]] * [[マカオの競馬]] * [[シンガポールの競馬]] * [[マレーシアの競馬]] * [[インドの競馬]] * [[トルコの競馬]] * [[サウジアラビアの競馬]] * [[バーレーンの競馬]] ; パートIII * [[カタールの競馬]] ;その他の競馬開催国・地域 * [[アジア・アフリカの競馬#中華人民共和国|中華人民共和国の競馬]] * [[アジア・アフリカの競馬#フィリピン|フィリピンの競馬]] * [[アジア・アフリカの競馬#ベトナム|ベトナムの競馬]] * [[タイの競馬]] * [[パキスタンの競馬]] * [[オマーンの競馬]] === アフリカの競馬 === ; パートI * [[南アフリカ共和国の競馬]] ; パートII * [[ジンバブエの競馬]] ; パートIII * [[モーリシャスの競馬]] * [[モロッコの競馬]] ; その他の競馬開催国・地域 * [[アジア・アフリカの競馬#ケニア|ケニアの競馬]] == 批判 == 競馬は馬を使役し、特に競走などで[[鞭]]を打つことから、[[動物虐待]]にあたるとして長らく[[動物愛護団体]]より非難の対象に挙げられている。それらの団体の多くは、馬の飼育環境や騎乗することそのものを馬の意思に反して行われている虐待行為であると主張している。このため、一部の国・団体では鞭の使用回数に制限を設けられており、例えばイギリスでは鞭の使用回数は1競走につき平地では7回、障害では8回までと制限され、制限よりも4回多く使うと失格となり騎手も28日間の騎乗停止処分が科せられる<ref>{{Cite web|和書|title=イギリスの競馬、ムチ使用に「厳格ルール」…動物愛護に関心高い世論を反映 |url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20220806-OYT1T50201/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-08-06 |access-date=2023-03-03 |language=ja |author=平地一紀}}</ref>。また日本のJRAも鞭の使用回数の制限に動いており、2023年より競走中の連続使用は5回までとされた<ref>{{Cite web|和書|title=JRAが来年度の開催日割案などを発表 京都競馬は4月22日に再開 |url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20221018-OHKUVF3XXJKNVMGK46FTYOQUBM/ |website=サンスポZBAT! |date=2022-10-18 |access-date=2023-03-03 |language=ja |quote=これまで競走中に10回まで認められていた連続したムチの使用は、来年から5回が上限となる。世界的にムチの多用に対するルールの厳格化が進められており、日本でも厳しくなる。}}</ref>。 しかし批判の矛先は競馬のみならず、競走馬の生産や[[屠殺]]、馬肉の生産にまで及ぶ。 競走馬の屠殺については競馬業界関係者にも批判者がおり、アメリカでは2006年に競走馬の屠殺を全面禁止する法律が可決しているが、それに際して同国の関係者らからも賛成の声が上がっていた<ref>[http://www.jair.jrao.ne.jp/japan/newsprot/2006/body/1019.html 米国馬屠殺防止法案が下院を通過したが問題は残る] - 競馬国際交流協会・海外競馬速報</ref>。 == 競馬の文化 == [[ファイル:Eclipse(horse).jpg|thumb|right|200px|[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]の肖像画]]娯楽が多様化するに従って競馬に対する大衆の関心は薄まっていったが、時折現れるアイドルホース(大衆的な人気を得る馬)によって大衆的な関心が再燃することがある。日本での代表的な例に、20世紀の[[ハイセイコー]]や[[オグリキャップ]]や[[トウカイテイオー]]や[[ナリタブライアン]]など、21世紀初頭の[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]、[[オルフェーヴル]]、[[キタサンブラック]]などがいる。 また、競馬は単なる賭博としてだけではなく、[[音楽]]や[[文学]]、[[絵画]]や[[彫刻]]などの創作活動の主題として取り上げられたり、社会制度にも入り込んで一連の馬事文化を形成してきた。特にイギリスでは活躍した名馬の[[肖像画]]も多く残されており、その姿を現代に伝えている。日本では[[寺山修司]]らによる競馬を主題とした文芸作品もある一方、競馬漫画や競馬ゲームといった[[サブカルチャー]]作品も多く発表されている。<!-- 国内のみなら[[日本の競馬#日本の競馬文化]]と同内容なのでそちら参照でもいいのでは? --> 競馬を題材にしたフィクションの作品において、ゲームは'''競馬ゲーム'''(けいばげーむ)、映画は'''競馬映画'''(けいばえいが)、漫画は'''競馬漫画'''(けいばまんが)と称される。競馬漫画は[[スポーツ漫画]]の一種として扱われることがある。 ; 競馬をテーマにしたゲーム * [[ファミリージョッキー]](ナムコ、1987年4月発売) * [[ダービースタリオン]](アスキー、1991年12月発売) * [[ウイニングポスト]](光栄、1993年1月発売) * [[STARHORSE]](セガ、一作目が2000年に稼働) * [[ウマ娘 プリティーダービー]](Cygames、2021年2月配信開始) ; 競馬をテーマにしたパチンコ台 * ダービー(京楽産業、1989年1月発売) * CRAみどりのマキバオー(平和、2010年8月発売) * CR G1DREAM 最強馬決定戦(サンセイR&D、2013年3月発売) * CR KING of KEIBA(藤商事、2013年10月発売) ; 競馬をテーマにした漫画 * [[みどりのマキバオー]] 単行本全10巻、作:[[つの丸]] * [[ありゃ馬こりゃ馬]] 単行本全17巻、原作:[[田原成貴]]・作画:[[土田世紀]] * [[風のシルフィード]] 単行本全23巻、作:[[本島幸久]] * [[蒼き神話マルス]] 単行本全13巻、作:本島幸久 * [[ダービージョッキー]] 単行本全22巻、原案:[[武豊]]・作画:[[一色登希彦]]・構成:工藤晋 * [[Derby Queen]] 単行本全3巻、作:[[芦原妃名子]] * [[優駿の門]] 単行本全33巻、作:[[やまさき拓味]] * [[ウイニング・チケット (漫画)|ウイニング・チケット]] 第一部21巻、第二部4巻、原作及び原案協力:[[河村清明]]・漫画:小松大幹 * [[馬なり1ハロン劇場]] 2013年現在も連載中、作:[[よしだみほ]] * [[スピーディワンダー]] 単行本全17巻、原作:[[綱本将也]]・作画:[[山根章裕]] * 勝算(オッズ) 上下巻、原作:[[田原成貴]]、作画:[[本宮ひろ志]]・ * [[じゃじゃ馬グルーミン★UP!]] 単行本全14巻、作:[[ゆうきまさみ]] * [[ウマ娘 シンデレラグレイ]] 単行本11巻(連載中)、作:[[久住太陽]] * Pony Tail 女性騎士物語 単行本全5巻 / DX版全2巻、作:[[小野弥夢]] * ギャロップ 作:小野弥夢 {{節スタブ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = 櫻井忍(文) |others = 岩谷光昭(写真) |year = 2004 |title = 土佐の高知はハルウララ |publisher = オーエス出版 |isbn = 978-4-7573-0226-6 |ref = 櫻井他2004 }} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|競馬}} {{ウィキポータルリンク|競馬}} {{Sisterlinks|commons=category:Horse racing}} * [[競馬の歴史]] * [[競馬中継]] * [[競馬の競走]] * [[競馬場の一覧]] * [[勝負服 (競馬)]] * [[競馬ファン]] * [[賭博]] * [[投票券_(公営競技)]] ** [[勝馬投票券]] * [[ノミ屋]] * [[コーチ屋]] * [[ワールド・ベスト・レースホース・ランキング]] * [[スタリオン]] * [[コルト]] * [[こうま座]] == 外部リンク == * [https://www.jra.go.jp/index.html JRA] * [https://www.keiba.go.jp/index.html 地方競馬情報サイト] * [http://www.jairs.jp/ 公益財団法人ジャパン・スタッドブック・インターナショナル] {{スポーツ一覧}} {{動物の権利}} {{Keiba-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいは}} [[Category:競馬|*]] [[Category:アニマルスポーツ]] [[Category:各国のスポーツ関連一覧|けいは]]
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太陽風
太陽風(たいようふう、英: solar wind)は、太陽から吹き出す極めて高温で電離した粒子(プラズマ)のことである。これと同様の現象はほとんどの恒星に見られ、「恒星風」と呼ばれる。なお、太陽風の荷電粒子が存在する領域は太陽圏と呼ばれ、それと恒星間領域の境界はヘリオポーズと呼ばれる。 大規模な太陽フレアが発生した際に太陽風が爆発的に放出され、地球上や人工衛星などに甚大な被害を及ぼす現象は、太陽嵐 (solar storm) とも呼ばれる。 太陽の表面には、コロナと呼ばれる100万度以上の密度の低い薄い大気がある。このような超高温では、気体が電子とイオンに電離したプラズマ状態になっており、太陽の重力でも、このコロナガスを繋ぎ止めることができず、イオンや電子が放出される。放出された電気を帯びた粒子(プラズマ)が太陽風と呼ばれる。 毎秒100万トンもの質量が太陽から放射されている。この流れが地球の公転軌道に達するときの速さは約300~900 km/s、平均約450 km/sであり、温度は10 Kに達することもある。地球磁場に影響を与え、オーロラの発生の原因の一つとなっている。高速の太陽風は、コロナホールや太陽フレアに伴って放出されていると考えられている。 太陽風の存在は、1958年にユージン・ニューマン・パーカーが提唱し、太陽風 (solar wind) の名称も、彼によって提案された。初の直接観測は、1962年打ち上げの金星探査機・マリナー2号によって行われた。 太陽系には、系外からの銀河宇宙放射線が流入しているが、その量は、太陽風を伴う太陽活動と相関があり、太陽活動極大期に銀河宇宙線量は最小になり、太陽活動極小期に銀河宇宙線量は最大になる。これは太陽風が、太陽系外から流入する銀河宇宙線をブロックするためと考えられている。銀河宇宙線のエネルギーは強大で、ほぼ真空の宇宙空間を飛翔する岩石結晶には、銀河宇宙線による細かい傷が見られる。太陽風によって、銀河宇宙線の地球に対する影響が抑えられている部分がある。米国のボイジャー探査機においては、太陽系を離れるにつれて次第に強い銀河宇宙線が検出されている。 太陽に接近して尾ができた彗星において、尾が常に太陽と反対方向に延びるのも、彗星表面から蒸発した物質が太陽風によって吹き流されるのがその一因である。 太陽風は水素イオンが95%を占めており、残りはヘリウムとその同位体等の様々なイオン及び電子となっている。月などの大気や磁気のない天体表面にはそれらが堆積している。特に核融合燃料として有望なヘリウム3が月面に豊富に堆積している事が確認されており、その利用が月開発の目標の一つとなっている。
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太陽風は、太陽から吹き出す極めて高温で電離した粒子(プラズマ)のことである。これと同様の現象はほとんどの恒星に見られ、「恒星風」と呼ばれる。なお、太陽風の荷電粒子が存在する領域は太陽圏と呼ばれ、それと恒星間領域の境界はヘリオポーズと呼ばれる。 大規模な太陽フレアが発生した際に太陽風が爆発的に放出され、地球上や人工衛星などに甚大な被害を及ぼす現象は、太陽嵐 とも呼ばれる。
[[File:Solar wind Speed interplanetary magnetic field.jpg|thumb|upright=1.25|太陽風]] '''太陽風'''(たいようふう、{{lang-en-short|solar wind}})は、[[太陽]]から吹き出す極めて高温で[[電離]]した粒子([[プラズマ]])のことである<ref name="jaxa2014">{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/press/2014/12/20141218_akatsuki_j.html |title=太陽風はどう作られるのか?~金星探査機「あかつき」が明らかにした太陽風加速~ |author= |date=2014-12-18 |work= |publisher=宇宙航空研究開発機構&東京大学 |accessdate=2016-06-28 }}</ref><ref name="spaceinfo">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20090618120307/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/solar_wind.html |title=太陽風 |author=宇宙情報センター |date= |work= |publisher=JAXA |accessdate=2016-06-28 }}</ref>。これと同様の[[現象]]はほとんどの恒星に見られ、「[[恒星風]]」と呼ばれる。なお、太陽風の荷電粒子が存在する領域は[[太陽圏]]と呼ばれ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2013/09/13voyager/index-j.shtml |title=「ボイジャー1号」、ついに太陽圏を脱出 人工物初 |author= |date=2013-09-13日 |work= |publisher=AstroArts |accessdate=2016-07-02 }}</ref>、それと恒星間領域の境界は[[ヘリオポーズ]]と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://fanfun.jaxa.jp/topics/detail/679.html |title=ボイジャー1号が太陽圏を脱出 |author= |date=2013-09-17 |work= |publisher= JAXA|accessdate=2016-07-02 }}</ref>。 大規模な[[太陽フレア]]が発生した際に太陽風が爆発的に放出され、[[地球]]上や[[人工衛星]]などに甚大な被害を及ぼす現象は、'''[[太陽嵐]]''' (solar storm) とも呼ばれる。 == 概要 == 太陽の表面には、[[コロナ]]と呼ばれる100万度以上の密度の低い薄い大気がある。このような超高温では、気体が電子とイオンに電離した[[プラズマ]]状態になっており、太陽の重力でも、このコロナガスを繋ぎ止めることができず、イオンや電子が放出される。放出された電気を帯びた粒子(プラズマ)が太陽風<ref name="jaxa2014"/><ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p40</ref>と呼ばれる。 毎秒100万[[トン]]もの[[質量]]が太陽から放射されている。この流れが[[地球]]の[[公転]]軌道に達するときの速さは約300~900 km/s、平均約450 km/sであり、温度は10<sup>6</sup> [[ケルビン|K]]に達することもある。[[地磁気|地球磁場]]に影響を与え、[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]の発生の原因の一つとなっている。高速の太陽風は、[[コロナホール]]や[[太陽フレア]]に伴って放出されていると考えられている。 太陽風の存在は、1958年に[[ユージン・ニューマン・パーカー]]が提唱し<ref>[http://www.ice.tohtech.ac.jp/~nakagawa/outreach/kotokyoiku02.htm 宇宙空間を吹く風-太陽風-,東北工業大学 中川朋子]</ref><ref>Dynamics of the Interplanetary Gas and Magnetic Fields,Eugene Newman Parker,Astrophysical Journal 128:664, 1958</ref>、太陽風 (solar wind) の名称も、彼によって提案された<ref>{{cite web|title=THE SOLAR WIND AND MAGNETOSPHERIC DYNAMICS|author=Christopher T. Russell|work=Institute of Geophysics and Planetary Physics University of California, Los Angeles|url=http://www-ssc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/solwind_magsphere/|accessdate=2007-02-07}}</ref>。初の直接観測は、[[1962年]]打ち上げの[[金星探査機]]・[[マリナー2号]]によって行われた<ref name="spaceinfo"/>。 太陽系には、系外からの銀河宇宙[[放射線]]が流入しているが、その量は、太陽風を伴う太陽活動と相関があり、太陽活動極大期に[[銀河宇宙線]]量は最小になり、太陽活動極小期に銀河宇宙線量は最大になる。これは太陽風が、太陽系外から流入する銀河宇宙線をブロックするためと考えられている。銀河宇宙線のエネルギーは強大で、ほぼ真空の宇宙空間を飛翔する岩石結晶には、銀河宇宙線による細かい傷が見られる。太陽風によって、銀河宇宙線の地球に対する影響が抑えられている部分がある<ref name="jaxa2014"/>。米国の[[ボイジャー計画|ボイジャー探査機]]においては、太陽系を離れるにつれて次第に強い銀河宇宙線が検出されている。 太陽に接近して尾ができた[[彗星]]において、尾が常に太陽と反対方向に延びるのも、彗星表面から蒸発した物質が太陽風によって吹き流されるのがその一因である。 太陽風は[[水素]]イオンが95%を占めており、残りは[[ヘリウム]]とその[[同位体]]等の様々なイオン及び電子となっている<ref>[https://www.nict.go.jp/publication/shuppan/kihou-journal/kihou-vol48no3/0203.pdf ,太陽風と太陽風擾乱の生成,亘 慎一,通信総合研究所季報Vol.48 No.3 ,P21-35,2002年]</ref>。[[月]]などの大気や磁気のない天体表面にはそれらが堆積している。特に[[核融合]]燃料として有望な[[ヘリウム3]]が月面に豊富に堆積している事が確認されており、その利用が[[月の植民|月開発]]の目標の一つとなっている。 == 大きな太陽風と地球にもたらす被害 == * [[1859年]] - 過去記録されている最大規模の太陽風([[太陽嵐]])が発生。[[米国科学アカデミー]]では、同規模の太陽風が再度起きた場合には約2兆ドル規模の経済的損失が生じると推計している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3021481 |title=12年の強力な太陽風、地球をニアミス NASA |publisher=AFP |date=2014-07-25 |accessdate=2022-02-23}}</ref>([[1859年の太陽嵐]])。 * [[1989年]]3月 - [[カナダ]]の[[ケベック州]]で約600万世帯が[[停電]]などの被害を受け、復旧に数か月かかった。太陽風により生じた[[地磁気]]の乱れにより、[[送電]]線に想定外の[[誘導電流]]が流れたことによるシステムダウン<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120604/311168/?P=3 |title=太陽嵐で大規模停電が起きるわけ |publisher=ナショナルジオグラフィック |date= |accessdate=2022-02-23}}</ref>([[1989年3月の磁気嵐]])。 * [[2020年]]2月 - [[スペースX]]社が打ち上げを進めていた[[スターリンク]]衛星のうち最大40機が[[衛星軌道]]から外れる事故。太陽風による地磁気の乱れが影響したもの<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/business/35183356.html |title=スペースX、スターリンク衛星40基を喪失へ 太陽嵐の影響 |publisher=CNN |date=2022-02-10 |accessdate=2022-02-23}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ヘリオポーズ|末端衝撃波面]] * [[太陽嵐]] * [[太陽フレア]] * [[コロナ質量放出]] * [[惑星間物質]] * [[太陽帆]] ** [[マグネティックセイル]] ** {{仮リンク|エレクトリックセイル|en|Electric sail}} {{太陽}} {{Magnetosphere}} {{Astro-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいようふう}} [[Category:太陽]] [[Category:天文現象]] [[Category:宇宙科学]] [[Category:大気電気学]] [[Category:プラズマ]] [[Category:ジェット]] [[Category:天文学に関する記事]]
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構文解析
構文解析(こうぶんかいせき、英語: parsing, syntactic analysis, syntactic analysis)は、ある言語において、その形式文法に従って記号の文字列を分析する手続きである。構文解析を行う機構を構文解析器(parser)と呼ぶ。 文章(具体的にはマークアップなどの注記の入っていないベタの文字列)を対象として、 プログラミング言語の場合は一般にその性質から、文字列(ソースコード)から字句(トークン)の列を取り出す前処理段階である字句解析(lexical analysis)と、そのトークン列を受け取り構文木を作るなどする後処理段階の2段階に分けてその全体を広義の構文解析とし、特に後処理のみを指して狭義の構文解析とすることが多い(PEGのように融合して扱う場合も多い手法もある)。以下、その狭義の構文解析について述べる。 構文解析では、構文木や抽象構文木のようなデータ構造を生成し、プログラミング言語のコンパイラであれば、いわゆるコンパイラバックエンドに渡す。サンプルなどによく見られる四則演算の式の演算などのような簡単な場合は、構文解析と同時に、目的の処理をおこなってしまう場合もある。 形式言語とオートマトンの対応は、良く理論付けられており、構文解析のアルゴリズムは、その入力である形式言語に対応するオートマトンの実装にほかならない。 プログラミング言語の場合、実用上、プログラムとして正しい入力のみを受け付けるような構文規則を定めることは現実的でない。そのため、一般に構文規則では言語本来より制約を弱くし(つまり、本来の言語の文法よりも広く、不正な入力も受け付けるようにし)後で不正なものを排除するようにすることが多い。 構文解析器を一から作るのではなく、パーサジェネレータで生成することも広く行われている。 一般的なプログラミング言語処理系や、簡単なサンプルによくあるいわゆる「電卓プログラム」などの場合を例として説明する。 まず第一段階として字句(トークン)を生成する。これを字句解析と呼ぶ。入力文字列は正規表現などによる定義に従い、意味のあるシンボルに分割される。例えば、電卓プログラムに "12*(3+4)^2" と入力されたとき、これを 12, *, (, 3, +, 4, ), ^, 2 という字句(トークン)に分割する。各トークンは電卓プログラムの数式として意味のあるシンボルである。字句解析を含む構文解析器は *, +, ^, (, ) といった文字が新たなトークンの先頭になるという規則を持っているため、"12*" や "(3" といった無意味な字句の切り分けは発生しない。 次の段階は狭義の構文解析である。トークンの並びが構文規則に照らして正しい表現となっているかを判定する。このため、構文規則を参照して再帰的に規則を適用していく。前述したように、構文規則で表現するのは現実的ではない言語上のルール、たとえば関数定義における仮引数名の重複などがあるので、そういったものへの対処も適宜実装する。 以上のように構文解析が終わった後に、意味的な解析が行われ、構文が確認された表現の意味を識別して、適当な行動をとる。電卓プログラムの場合、適当な行動とは式の評価(計算)であり、コンパイラならコードの生成である。 yaccなどでは属性文法的な考え方を活用し、トークン列に対するシフトや還元という解析の動作に対して実行すべきコード片を結び付け、それらのコード片により以上で説明したような処理を行う。 構文解析にはさまざまな手法が提案されており、それぞれの構文解析法に対して適用可能な文法の範囲が存在する。歴史的に、もっぱらプログラミング言語を対象に研究が進んだが、大まかに演算子順位法、トップダウン構文解析法、ボトムアップ構文解析法に分類できる。演算子順位法、トップダウン構文解析法は構文解析理論によって後から説明が加えられ、ボトムアップ構文解析法は理論主導で作成された。 演算子順位法とトップダウン構文解析法の手続きは人力で作成されることがコンパイラの初期の時代にはあった。特に、トップダウン構文解析法である再帰下降構文解析法はそのプログラムの実際のコードが文法の記述によく一致することが知られている。しかし、一般にボトムアップ構文解析は非常に多くの内部状態とその間の遷移規則を必要とし、その手続きを人力で作成するのは困難である。 現在は、主にボトムアップ構文解析法であるLALR(1)を使用した構文解析器がパーサジェネレータによって生成されることが多い。この手法を使用するパーサジェネレータにはyaccやbisonなどがあり、どちらも代表的なパーサジェネレータである。これらのパーサジェネレータがこの手法を採用する理由としては、適用可能な文法範囲が十分に大きく、効率もそこそこ悪くないことなどが挙げられる。その他に、トップダウン構文解析法であるLL法が使用・生成される場合もままある。 たとえば、インターネット上の Webページやメールアドレスをあらわす URL は、次のような構文をもっている: Webブラウザに "http://ja.wikipedia.org/index.html" などの文字列を入力した場合、ブラウザはそこからサーバ名 "ja.wikipedia.org" とパス名 "index.html" を読みとらなければならない。これは構文解析の非常に簡単な例である。 一般に、形式言語の構文解析は曖昧でない言語を対象としている。ある言語が曖昧であるとは、ひとつの文にたいして2通り以上の構文解析が可能であることをいう。プログラミング言語でよく知られている例に「宙ぶらりんelse問題(dangling else problem)」がある。たとえば以下のような文脈自由文法であらわされる言語を考える: すると、以下の文には 2通りの解釈が考えられる: ひとつは「if A then - 」と「if B then C else D」という2つの連なった文からなるとする解釈。もうひとつは「if A then - else D」という文の中に「if B then C」という文が埋めこまれているとする解釈である。elseに対応するifがどちらかはっきりしないことからその名がある。 一般的な解決は、elseは一番近いthenと結び付くと定めて曖昧さを解消するか、エラーとする。 機械翻訳などの自然言語処理などで構文解析の対象となる自然言語の場合も、ごく基本的には前の節までで述べた形式言語の場合と同様である。しかし、自然言語の構文にはアドホックな変形などが多いという複雑さや、多くの言語では曖昧さもあり、さらには意味を考えなければ構文が決定できないこともあるなど、独特の難しさがある。また、プログラミング言語などの場合の字句解析に相当するのは形態素解析である。 形式言語の場合はもっぱら文脈自由文法ベースの手法で構文解析されるが、自然言語の場合は前述の難しさなどの理由から、言語学的に見た目的やコンピュータでの扱いやすさなどを考慮し、さまざまな文法や手法を検討する必要がある。 例えば、いくつかの構文解析システムは語彙機能文法(LFG)を使用するが、一般にこの種の文法の構文解析はNP完全問題であることが知られている。他にも主辞駆動句構造文法(HPSG)もよく使われるが、最近ではより単純な形式文法の研究が盛んで、Penn Treebank などが挙げられる。シャロー(浅い)構文解析では、名詞句などの大まかな構文の境界だけを見つけ出す。句構造文法ベースではなく依存文法や格文法などを検討することもある。一方でかな漢字変換など、即座に結果が得られればそれで良いものなどは、「教科書的な橋本文法」(いわゆる学校文法)に橋本文法の連文節の概念など、実用上の改造を加えたようなものが使われていることもある。 最近の構文解析では統計学的手法を部分的に取り入れている。すなわち、事前に構文解析済みのトレーニング用データ群を使う手法である。この場合、システムは特定の文脈でどのような構文が出現しやすいかという頻度情報を持つことになる(機械学習参照)。この手法では確率文脈自由文法(PCFG)を使うもの、最大エントロピー原理を使うもの、ニューラルネットワークを使うものがある。成果を上げているシステムでは、「字句」統計をとっていることが多い(すなわち、品詞も含めた単語の出現順の統計をとる)。しかし、この種のシステムは過剰適合の問題があり、効果を上げるにはある種の平滑化が必要となる。 自然言語の構文解析アルゴリズムは、形式言語のように「良い」特性を持つ文法に依存することはできない。上述のように文法によってはコンピュータが扱いにくい場合がある。一般にたとえ目的とする構造が文脈自由でなかったとしても、最初に文脈自由な近似を文法に施して構文解析を行うことがある。文脈自由文法を使ったアルゴリズムはCYK法に基づく場合が多く、時間を節約するためにそれに何らかのヒューリスティックを加えることが多い(チャートパーサなど)。最近では、構文解析器が複数の解析結果を返し、上位のシステムがそれらの中で最も良いと思われるものを選択する手法もある。 自然言語の文法からは、場合によっては何通りもの解釈が可能な文も存在する。たとえば形態素解析の記事にある「うらにわにはにわとりがいる」のような例の他にも、次のような文: には少なくとも2つの解釈が存在する。「水車小屋が美しい」場合と、「乙女が美しい」場合である。この場合には、意味を含めても正しい解釈がどちらであるか不明であり、その文が置かれた前後の状況、言い換えるとコンテキスト、フレーム情報などを考慮しなければ同定できない。 日本語の構文解析は、おもに文節間の係り受け構造を発見することである。 さらには、 のように、構文的には何の問題も無いが、意味を解するのが困難な文、といったものもある。
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構文解析は、ある言語において、その形式文法に従って記号の文字列を分析する手続きである。構文解析を行う機構を構文解析器(parser)と呼ぶ。
'''構文解析'''(こうぶんかいせき、[[英語]]: parsing, syntactic analysis, syntactic analysis)は、ある[[言語]]において、その[[形式文法]]に従って[[記号]]の[[文字列]]を分析する手続きである。構文解析を行う機構を[[構文解析器]](parser)と呼ぶ。 == 概要 == 文章(具体的にはマークアップなどの注記の入っていないベタの[[文字列]])を対象として、 * [[自然言語]]であれば、[[形態素]]に切分け、さらにその間の関連(修飾-被修飾など)といったような、[[統語論]]的関係を図式化するなどして明確化・解析する手続きである。 * [[プログラミング言語]]など[[形式言語]]の場合は、[[形式文法]]に従い[[構文木]]を得る手続きである。 == 形式言語 == [[プログラミング言語]]の場合は一般にその性質から、文字列([[ソースコード]])から字句(トークン)の列を取り出す前処理段階である[[字句解析]](lexical analysis)と、そのトークン列を受け取り[[構文木]]を作るなどする後処理段階の2段階に分けてその全体を広義の構文解析とし、特に後処理のみを指して狭義の構文解析とすることが多い([[Parsing Expression Grammar|PEG]]のように融合して扱う場合も多い手法もある)。以下、その狭義の構文解析について述べる。 構文解析では、[[構文木]]や[[抽象構文木]]のような[[データ構造]]を生成し、プログラミング言語のコンパイラであれば、いわゆるコンパイラバックエンドに渡す。サンプルなどによく見られる四則演算の式の演算などのような簡単な場合は、構文解析と同時に、目的の処理をおこなってしまう場合もある。 形式言語と[[オートマトン]]の対応は、良く理論付けられており、構文解析の[[アルゴリズム]]は、その入力である形式言語に対応するオートマトンの[[実装]]にほかならない。 [[プログラミング言語]]の場合、実用上、プログラムとして正しい入力のみを受け付けるような構文規則を定めることは現実的でない<ref>たとえば、多くのプログラミング言語では、関数や手続きの定義で「仮引数の並び」に、同じ名前の引数が複数個現れることは文法違反であるとしているが、そのようなルールを構文規則として埋め込むのは現実的ではない。</ref>。そのため、一般に構文規則では言語本来より制約を弱くし(つまり、本来の言語の文法よりも広く、不正な入力も受け付けるようにし)後で不正なものを排除するようにすることが多い。 構文解析器を一から作るのではなく、[[パーサジェネレータ]]で生成することも広く行われている。 === 処理概要 === 一般的なプログラミング言語処理系や、簡単なサンプルによくあるいわゆる「電卓プログラム」などの場合を例として説明する。 まず第一段階として字句(トークン)を生成する。これを[[字句解析]]と呼ぶ。入力文字列は[[正規表現]]などによる定義に従い、意味のあるシンボルに分割される。例えば、電卓プログラムに "12*(3+4)^2" と入力されたとき、これを 12, *, (, 3, +, 4, ), ^, 2 という字句(トークン)に分割する。各トークンは電卓プログラムの数式として意味のあるシンボルである。字句解析を含む構文解析器は *, +, ^, (, ) といった文字が新たなトークンの先頭になるという規則を持っているため、"12*" や "(3" といった無意味な字句の切り分けは発生しない。 次の段階は狭義の構文解析である。トークンの並びが構文規則に照らして正しい表現となっているかを判定する。このため、構文規則を参照して再帰的に規則を適用していく。前述したように、構文規則で表現するのは現実的ではない言語上のルール、たとえば関数定義における仮引数名の重複などがあるので、そういったものへの対処も適宜実装する。 以上のように構文解析が終わった後に、意味的な解析が行われ、構文が確認された表現の意味を識別して、適当な行動をとる。電卓プログラムの場合、適当な行動とは式の評価(計算)であり、コンパイラならコードの生成である。 [[yacc]]などでは[[属性文法]]的な考え方を活用し、トークン列に対するシフトや還元という解析の動作に対して実行すべきコード片を結び付け、それらのコード片により以上で説明したような処理を行う。 === 手法 === 構文解析にはさまざまな手法が提案されており、それぞれの構文解析法に対して適用可能な文法の範囲が存在する。歴史的に、もっぱらプログラミング言語を対象に研究が進んだが、大まかに[[演算子順位法]]、[[トップダウン構文解析|トップダウン構文解析法]]、[[ボトムアップ構文解析|ボトムアップ構文解析法]]に分類できる。演算子順位法、トップダウン構文解析法は構文解析理論によって後から説明が加えられ、ボトムアップ構文解析法は理論主導で作成された。 演算子順位法とトップダウン構文解析法の手続きは人力で作成されることがコンパイラの初期の時代にはあった。特に、トップダウン構文解析法である[[再帰下降構文解析|再帰下降構文解析法]]はそのプログラムの実際のコードが文法の記述によく一致することが知られている。しかし、一般にボトムアップ構文解析は非常に多くの内部状態とその間の遷移規則を必要とし、その手続きを人力で作成するのは困難である。 現在は、主にボトムアップ構文解析法である[[LALR法|LALR]](1)を使用した構文解析器がパーサジェネレータによって生成されることが多い。この手法を使用するパーサジェネレータには[[yacc]]や[[bison]]などがあり、どちらも代表的なパーサジェネレータである。これらのパーサジェネレータがこの手法を採用する理由としては、適用可能な文法範囲が十分に大きく、効率もそこそこ悪くないことなどが挙げられる。その他に、トップダウン構文解析法である[[LL法]]が使用・生成される場合もままある。 === 具体例 === たとえば、[[インターネット]]上の [[ウェブページ|Webページ]]や[[メールアドレス]]をあらわす [[Uniform Resource Locator|URL]] は、次のような構文をもっている: * <tt><nowiki>http://サーバ名/パス名</nowiki></tt>(webページをあらわす場合, <tt><nowiki>"http://www.yahoo.com/index.html"</nowiki></tt>など) * <tt><nowiki>mailto:ユーザ名@ドメイン名</nowiki></tt>(電子メールアドレスをあらわす場合, <tt><nowiki>mailto:[email protected]</nowiki></tt> など) [[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]に <tt><nowiki>"http://ja.wikipedia.org/index.html"</nowiki></tt> などの[[文字列]]を入力した場合、ブラウザはそこからサーバ名 <tt>"ja.wikipedia.org"</tt> とパス名 <tt>"index.html"</tt> を読みとらなければならない。これは構文解析の非常に簡単な例である。 <!-- より複雑な構文解析は、[[C言語|C]]や[[Java]]などのプログラミング言語において次のような数式を計算する場合に必要となる: 2 + ( a + b × c ) ÷ ( d - e ) この場合、コンピュータはどこから計算を始めなければならないかというと、まずかっこの中を先に計算しなければならない。しかし[[数学]]では同一のかっこの中でもかけ算を足し算より先に行わなければならないという規則がある([[演算子の優先順位]])。このため、実際にコンピュータが計算する順序は次のようになるだろう: * まず<code>b × c</code>の値を計算する。 * そこにaの値を足し、これをかりに<code>X</code>と名づける。 * それとは別個に<code>d - e</code>の値を計算し、これをかりに<code>Y</code>と名づける。 * <code>X ÷ Y</code>を計算する。 * そこに2を足す。 しかしこの順序は式を一見しただけではなかなかわからない。そこで[[構文解析器]](パーサ)は与えられた数式に以下のような「註釈」をつけ、それぞれの項の関係をより明確な形で表現する: 数値:2 + 式:( 式:( 変数:a + 式:( 変数:b × 変数:c ) ) ÷ 式:( 変数:d - 変数:e ) ) 構文解析の結果は[[構文木]]としても表すことができる。構文解析は[[コンパイラ]]におけるもっとも中心的な過程のひとつであり、その手法は従来からさまざまな研究がなされている。 --><!-- 「註釈が付く」のは構文解析の結果であって、「構文解析とは注釈を付けること」(「パーサの仕事は注釈を付けること」)ではない。 --> 一般に、[[形式言語]]の構文解析は[[曖昧]]でない言語を対象としている。ある言語が曖昧であるとは、ひとつの文にたいして2通り以上の構文解析が可能であることをいう。プログラミング言語でよく知られている例に「宙ぶらりんelse問題(dangling else problem)」がある。たとえば以下のような[[文脈自由文法]]であらわされる言語を考える: 文 ::= if 文 then 文 文 ::= if 文 then 文 else 文 すると、以下の文には 2通りの[[解釈]]が考えられる: if A then if B then C else D ひとつは「<code>if A then - </code>」と「<code>if B then C else D</code>」という2つの連なった文からなるとする解釈。もうひとつは「<code>if A then - else D</code>」という文の中に「<code>if B then C</code>」という文が埋めこまれているとする解釈である。elseに対応するifがどちらかはっきりしないことからその名がある。 一般的な解決は、elseは一番近いthenと結び付くと定めて曖昧さを解消するか、エラーとする。 == 自然言語 == [[機械翻訳]]などの[[自然言語処理]]などで構文解析の対象となる[[自然言語]]の場合も、ごく基本的には前の節までで述べた[[形式言語]]の場合と同様である。しかし、自然言語の構文にはアドホックな変形などが多いという複雑さや、多くの言語では曖昧さもあり、さらには意味を考えなければ構文が決定できないこともあるなど、独特の難しさがある。また、プログラミング言語などの場合の[[字句解析]]に相当するのは[[形態素解析]]である。 形式言語の場合はもっぱら[[文脈自由文法]]ベース<ref>前述のように、プログラミング言語の場合など、文脈自由文法で必ずしも完全には定義できない場合も多い。</ref>の手法で構文解析されるが、自然言語の場合は前述の難しさなどの理由から、[[言語学]]的に見た目的やコンピュータでの扱いやすさなどを考慮し、さまざまな[[文法]]や手法を検討する必要がある。 例えば、いくつかの構文解析システムは[[語彙機能文法]](LFG)を使用するが、一般にこの種の文法の構文解析は[[NP完全問題]]であることが知られている。他にも[[主辞駆動句構造文法]](HPSG)もよく使われるが、最近ではより単純な形式文法の研究が盛んで、Penn [[ツリーバンク|Treebank]] などが挙げられる。[[シャローパーサ|シャロー(浅い)構文解析]]では、[[名詞句]]などの大まかな構文の境界だけを見つけ出す。[[句構造文法]]ベースではなく[[依存文法]]や[[格文法]]などを検討することもある。一方で[[日本語入力システム|かな漢字変換]]など、即座に結果が得られればそれで良いものなどは、「教科書的な[[橋本文法]]」(いわゆる[[学校文法]])に橋本文法の連文節の概念など、実用上の改造を加えたようなものが使われていることもある。 最近の構文解析では[[統計学]]的手法を部分的に取り入れている。すなわち、事前に構文解析済みのトレーニング用データ群を使う手法である。この場合、システムは特定の文脈でどのような構文が出現しやすいかという頻度情報を持つことになる([[機械学習]]参照)。この手法では[[確率文脈自由文法]](PCFG)を使うもの、[[最大エントロピー原理]]を使うもの、[[ニューラルネットワーク]]を使うものがある。成果を上げているシステムでは、「字句」統計をとっていることが多い(すなわち、[[品詞]]も含めた単語の出現順の統計をとる)。しかし、この種のシステムは[[過剰適合]]の問題があり、効果を上げるにはある種の平滑化が必要となる。 自然言語の構文解析アルゴリズムは、[[形式言語]]のように「良い」特性を持つ文法に依存することはできない。上述のように文法によってはコンピュータが扱いにくい場合がある。一般にたとえ目的とする構造が[[文脈自由言語|文脈自由]]でなかったとしても、最初に文脈自由な近似を文法に施して構文解析を行うことがある。文脈自由文法を使ったアルゴリズムは[[CYK法]]に基づく場合が多く、時間を節約するためにそれに何らかの[[ヒューリスティック]]を加えることが多い([[チャートパーサ]]など)。最近では、構文解析器が複数の解析結果を返し、上位のシステムがそれらの中で最も良いと思われるものを選択する手法もある。 === 自然言語の曖昧性の例 === 自然言語の文法からは、場合によっては何通りもの解釈が可能な文も存在する。たとえば[[形態素解析]]の記事にある「うらにわにはにわとりがいる」のような例の他にも、次のような文: : [[美しき水車小屋の娘|美しい 水車小屋の 乙女]] には少なくとも2つの解釈が存在する。「'''水車小屋が美しい'''」場合と、「'''乙女が美しい'''」場合である。この場合には、意味を含めても正しい解釈がどちらであるか不明であり、その文が置かれた前後の状況、言い換えると[[コンテクスト|コンテキスト]]、フレーム情報などを考慮しなければ同定できない。 日本語の構文解析は、おもに[[文節]]間の[[係り受け]]構造を発見することである。 * たとえば、上の文が以下のような係り受け構造をもっている場合、「美しい」のは水車小屋ではなく乙女のほうであり、「水車小屋の美しい乙女」という言い換えも可能である(ちなみに原文のドイツ語では「水車小屋の娘」が一語であるため、美しいのが乙女であるのは明らかである)。 [[画像:Kakariuke-sample1.png|係り受け構造の例1]] * いっぽう、もし文が以下のような係り受け構造をもっていたとすれば、この場合「美しい」のは水車小屋のほうである。 [[画像:Kakariuke-sample2.png|係り受け構造の例2]] さらには、 : [[Colorless green ideas sleep furiously]]. のように、構文的には何の問題も無いが、意味を解するのが困難な文、といったものもある。 === [[フリーソフトウェア|フリー]]で入手可能なもの === * KNP、[http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/index.php?KNP http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/index.php?KNP] * CaboCha、[http://taku910.github.io/cabocha/ http://taku910.github.io/cabocha/] * GiNZA、[https://megagonlabs.github.io/ginza/ https://megagonlabs.github.io/ginza/] == 注 == <references/> {{デフォルトソート:こうふんかいせき}} [[Category:言語学]] [[Category:自然言語処理]] [[Category:構文解析 (プログラミング)|*こうふんかいせき]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:統語論]] [[Category:形式科学]] [[Category:文字列のアルゴリズム]]
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長谷川町子
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。 佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区)に転居、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く、男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている。小学校時代は卒業までクラス替えがなく、担任の教員も替わらず、家族のような組だった。授業中にはよく教員の似顔絵を描いており、それを見つけた教員の松本善一にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされた。そうした松本の癖などを漫画にして、級友に授業中回して遊んでいた。掃除時間になると、掃除を怠けて男子とチャンバラごっこをして遊んだ。女子が男子に泣かされた時には、その男子を屋上に連れ出して、仕返しをした。得意科目は図画と作文。男子生徒と交替で級長(学級委員長)を務めたが、自習時間の監督を任されると、自習を怠けている生徒の頭を定規で叩いて教室を歩き回った。それが原因でよく喧嘩になった。小学校卒業式の朝、男子生徒と喧嘩した挙げ句、校庭の物置に閉じ込め、そのまま式に出たあと家に帰ってしまう。卒業式終了後に、その男子生徒に気づいた学校の用務員により、助けられた。 小学校卒業後は旧制福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に2年生の1933年(昭和8年)まで在籍。同年3月、父・勇吉が肺炎から膿胸を併発し、5年間の闘病生活の末亡くなる。町子の父への思い入れは深く「ハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている。一方で、「短気な性格を娘達が受け継いだ」、と振り返る。父の死から一年後の1934年(昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で14歳の時に一家揃って上京。私立山脇高等女学校の3年生に編入。同校は「お嬢様学校」のため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ、腕白な性格から内向的な性格になった。娘の変化に貞子は心痛めていたという。 当時漫画『のらくろ』が一世を風靡しており、「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部』1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された。田河夫妻に子供がなかったことから、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る。 1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載)。 1944年に入り、空襲からの疎開と徴用回避のため、長野県佐久郡に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまった。その後、知人の勧めにより3月に長谷川一家は福岡市百道(現在の同市早良区)に疎開、西日本新聞社に絵画部の校閲係として勤務。昼に出勤、4時に退社という軽作業であり、残りの時間は畑仕事をしていたという。 転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない。徴用回避の必要がなくなった終戦の翌日、西日本新聞社を退職した。 1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている。 有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日にサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる。 1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)。1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる。 第1巻は初版2万部を日本出版配給(日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った。しかしB5判の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。 1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移すと、磯野家も東京を舞台として描くようになる。 1949年、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載の場を移し、週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る。1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り、新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。 胃痛や風邪による休載はしばしばあったが、1960年には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族は廃業に賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、広岡知男編集局長は休載扱いとした。約半年後に町子の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している。 「ヒューマニズムに飽きていた」町子は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある。 1967年、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子の夫が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する。 1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。 同年11月19日、東京都世田谷区桜新町一丁目にあった自宅が放火される。 1974年2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった。 1978年、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌1979年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された。姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。 1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画は描かない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。 1983年(昭和58年)の春の園遊会に招待され、その席で昭和天皇と会話している。 1985年(昭和60年)東京都世田谷区桜新町に「長谷川美術館」を建て、初代館長を務めた。本館は町子の没後、現名称である「長谷川町子美術館」に変更された。 1990年(平成2年)4月、勲四等宝冠章を受章。1991年(平成3年)には日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。 1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は冠動脈硬化症による心不全。また、長谷川洋子の自伝『サザエさんの東京物語』によれば死の一週間前に脳血腫の診断を受けており、往診医に大病院での入院手術を指示されるも「町子自身が治療を拒否したので、本人の意志を尊重した」と毬子がマスメディア上で述べている。遺言により葬儀は肉親のみの密葬で済ませ、訃報は1か月間公表されなかった。告別式は行われず、弔問・供花なども毬子は固辞した。火葬も遺体を棺桶に入れず、毛布に包み、霊柩車でなく、乗用車で運んだ。 訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社とフジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月28日、漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年・昭和37年度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年・平成3年度)日本漫画家協会賞を受賞。 1993年5月、町子の死と毬子の高齢などの理由により姉妹社は解散となり、これまでの単行本は全て絶版となった。 急な仕事で同窓会に出席できなくなったエピソードを『サザエさん』の本人登場回で描かれている。小学校時代の同級生から、みんな私が腕白だった頃の話ばかり、と苦笑いしていたというくだりがある。 旧友たちが集団上京してきたエピソードが遺作『サザエさん旅あるき』に描かれている。 RKB毎日放送が『サザエさんふるさとへ帰る』という番組を企画した際、町子本人は出演拒否した。同級生に「あなたたち私のかわりに出てよ。何を言ってもいいから」と説得、小学校時代の同級生たちがその番組に出演した。 町子は生前、評論家・樋口恵子の著書『愛しきは老い』を愛読し、彼女と電話や手紙でやり取りしていた。また樋口も全68巻ある『サザエさん』の原作本を「生涯最高の書」と評している。 アニメ『ちびまる子ちゃん』が1990年1月に『サザエさん』の直前の時間枠での放送が開始した後、原作者・さくらももこと対面の話が企画された。町子は非常に楽しみにしていたが、本人の死により叶わなかった。 当初は聖公会のクリスチャン。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣のメソジスト教会に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった。 戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり、集会で講義をしていた矢内原忠雄と母が交友関係を持つようになった。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている。 上京後の住まいは世田谷区用賀2丁目にあった(現在もそこに長谷川家がある)。毬子の夫が戦死した後、1961年に洋子が夫を亡くしたことをきっかけに、洋子家族が暮らす離れを母屋まで移動して連結した。それ以降は町子・母・毬子・洋子・洋子の娘2人(隆子と彩子〈さいこ〉)・家政婦という計7人の女性が一つ屋根で生活した。 東京の男性と結婚したいと考えていた時期、好みをいくつか挙げており、容姿にはこだわらなかったが、生涯独身だった。洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によれば、何度かお見合いをしており、一度は婚約までいったが後日破棄した。その理由について、夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、と妹に述べている。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという。 町子はアシスタントなしで1人で作品を書き続けた。上京後は毎日自宅2階の書斎で『サザエさん』の原稿を4案ほど執筆した後、その中から一番気に入ったものを1つを選んだ。夕方4時にやってくる朝日新聞のバイク便に、選んだ原稿を渡すという日々を送った。 長谷川町子美術館の学芸員によると「長谷川は漫画のアイディアを日常の中から得ていました。彼女は家の中での家族とのやり取りや、時々外出した時に目にするもの全てがアイディアのヒントとなっていました。長谷川は日常の中のちょっとした笑いに対する鋭い観察眼と、それを漫画に昇華する表現力を持ち合わせていたのです」と評している。 仕事の依頼や作品の管理は姉の毬子があたり、パーティには出席せず、連載を持っていた朝日新聞社や毎日新聞社にもほとんど顔を出さなかった。 日本漫画家協会賞の受賞パーティに出席した時は、どよめきが起こったと参加した漫画家・加藤芳郎が後年証言している。 同業者などからは「孤高の漫画家」と称されていた。 長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や焼き物、陶器や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している。 姉妹社の廃業後は、朝日新聞社(2008年(平成20年)に出版部門を朝日新聞出版に分社)で、長谷川町子全集(全33巻 + 別巻1)が刊行した。また、戦中に小学館の学習雑誌などに掲載された短編作品は『長谷川町子の漫畫大會』が、2016年(平成28年)に小学館で書籍化された。 詳しくはサザエさん#映画を参照。 長谷川町子もしくは、長谷川町子をモデルとしたキャラクターを演じた人物
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区)に転居、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "小学生時代は成績が良く、男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている。小学校時代は卒業までクラス替えがなく、担任の教員も替わらず、家族のような組だった。授業中にはよく教員の似顔絵を描いており、それを見つけた教員の松本善一にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされた。そうした松本の癖などを漫画にして、級友に授業中回して遊んでいた。掃除時間になると、掃除を怠けて男子とチャンバラごっこをして遊んだ。女子が男子に泣かされた時には、その男子を屋上に連れ出して、仕返しをした。得意科目は図画と作文。男子生徒と交替で級長(学級委員長)を務めたが、自習時間の監督を任されると、自習を怠けている生徒の頭を定規で叩いて教室を歩き回った。それが原因でよく喧嘩になった。小学校卒業式の朝、男子生徒と喧嘩した挙げ句、校庭の物置に閉じ込め、そのまま式に出たあと家に帰ってしまう。卒業式終了後に、その男子生徒に気づいた学校の用務員により、助けられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小学校卒業後は旧制福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に2年生の1933年(昭和8年)まで在籍。同年3月、父・勇吉が肺炎から膿胸を併発し、5年間の闘病生活の末亡くなる。町子の父への思い入れは深く「ハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている。一方で、「短気な性格を娘達が受け継いだ」、と振り返る。父の死から一年後の1934年(昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で14歳の時に一家揃って上京。私立山脇高等女学校の3年生に編入。同校は「お嬢様学校」のため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ、腕白な性格から内向的な性格になった。娘の変化に貞子は心痛めていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当時漫画『のらくろ』が一世を風靡しており、「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部』1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された。田河夫妻に子供がなかったことから、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1944年に入り、空襲からの疎開と徴用回避のため、長野県佐久郡に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまった。その後、知人の勧めにより3月に長谷川一家は福岡市百道(現在の同市早良区)に疎開、西日本新聞社に絵画部の校閲係として勤務。昼に出勤、4時に退社という軽作業であり、残りの時間は畑仕事をしていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない。徴用回避の必要がなくなった終戦の翌日、西日本新聞社を退職した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日にサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)。1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第1巻は初版2万部を日本出版配給(日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った。しかしB5判の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移すと、磯野家も東京を舞台として描くようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1949年、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載の場を移し、週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る。1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り、新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "胃痛や風邪による休載はしばしばあったが、1960年には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族は廃業に賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、広岡知男編集局長は休載扱いとした。約半年後に町子の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「ヒューマニズムに飽きていた」町子は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1967年、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子の夫が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。 同年11月19日、東京都世田谷区桜新町一丁目にあった自宅が放火される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1974年2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1978年、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌1979年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された。姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画は描かない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)の春の園遊会に招待され、その席で昭和天皇と会話している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)東京都世田谷区桜新町に「長谷川美術館」を建て、初代館長を務めた。本館は町子の没後、現名称である「長谷川町子美術館」に変更された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)4月、勲四等宝冠章を受章。1991年(平成3年)には日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は冠動脈硬化症による心不全。また、長谷川洋子の自伝『サザエさんの東京物語』によれば死の一週間前に脳血腫の診断を受けており、往診医に大病院での入院手術を指示されるも「町子自身が治療を拒否したので、本人の意志を尊重した」と毬子がマスメディア上で述べている。遺言により葬儀は肉親のみの密葬で済ませ、訃報は1か月間公表されなかった。告別式は行われず、弔問・供花なども毬子は固辞した。火葬も遺体を棺桶に入れず、毛布に包み、霊柩車でなく、乗用車で運んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社とフジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月28日、漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年・昭和37年度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年・平成3年度)日本漫画家協会賞を受賞。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1993年5月、町子の死と毬子の高齢などの理由により姉妹社は解散となり、これまでの単行本は全て絶版となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "急な仕事で同窓会に出席できなくなったエピソードを『サザエさん』の本人登場回で描かれている。小学校時代の同級生から、みんな私が腕白だった頃の話ばかり、と苦笑いしていたというくだりがある。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "旧友たちが集団上京してきたエピソードが遺作『サザエさん旅あるき』に描かれている。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "RKB毎日放送が『サザエさんふるさとへ帰る』という番組を企画した際、町子本人は出演拒否した。同級生に「あなたたち私のかわりに出てよ。何を言ってもいいから」と説得、小学校時代の同級生たちがその番組に出演した。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "町子は生前、評論家・樋口恵子の著書『愛しきは老い』を愛読し、彼女と電話や手紙でやり取りしていた。また樋口も全68巻ある『サザエさん』の原作本を「生涯最高の書」と評している。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": 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長谷川 町子は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。
{{別人|長谷川待子|x1=同じ読みの女優}} {{出典の明記|date= 2021年1月11日 (月) 20:49 (UTC)|ソートキー= 人1992年没}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 長谷川 町子 | ふりがな = はせがわ まちこ | 画像 = File:Hasegawa-Machiko-1.jpg | 画像サイズ = 220px | 脚注 = | 本名 = 長谷川 町子<br />(はせがわ まちこ) | 生地 = {{JPN}}・[[佐賀県]][[小城郡]]東多久村(現在の[[多久市]]) | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1920|01|30|no}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1920|01|30|1992|05|27}}<br />{{JPN}}・[[東京都]] | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = [[紫綬褒章]]([[1982年]])<br />[[勲四等宝冠章]]([[1990年]])<br />[[国民栄誉賞]]([[1992年]]) | 活動期間 = [[1935年]] - [[1987年]] | ジャンル = [[4コマ漫画]]<br/>[[ギャグ漫画]]<br />家族漫画<br />風刺漫画 | 代表作 = 『[[サザエさん]]』<br />『[[いじわるばあさん]]』<br />『[[エプロンおばさん]]』 | 受賞 = [[1962年]]:第8回[[文藝春秋漫画賞]]<br/>[[1988年]]:第4回東京都文化賞<br />[[1991年]]:第20回[[日本漫画家協会賞]]・文部大臣賞<br />[[2020年]]:第24回[[手塚治虫文化賞]]・特別賞 | 公式サイト = }} '''長谷川 町子'''(はせがわ まちこ、[[1920年]]([[大正]]9年)[[1月30日]] - [[1992年]]([[平成]]4年)[[5月27日]])は、[[日本]]の女性[[漫画家]]。日本初の女性プロ漫画家<ref name=" 週刊現代2022 ">週刊現代2022年1月29日・2月5日号「昭和の怪物」研究・長谷川町子「サザエさんは隣にいる」p173-180</ref>。代表作に『[[サザエさん]]』・『[[いじわるばあさん]]』・『[[エプロンおばさん]]』など。 == 生涯 == === 生い立ち === [[佐賀県]][[小城郡]]東多久村(現・[[多久市]])で父・勇吉と母・貞子との間の3人[[姉妹]]の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた[[三菱マテリアル|三菱炭坑]]の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業<ref name="uchiake5">『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.5</ref>に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市[[中央区 (福岡市)|中央区]])に転居[[福岡市立春吉小学校|春吉尋常小学校]]に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の[[長谷川洋子 (実業家)|洋子]]に語っている<ref>『サザエさんの東京物語』 pp.16-17</ref>。小学校時代は卒業までクラス替えがなく、担任の教員も替わらず、家族のような組だった<ref name="nishinihon">{{Cite web|和書|date=1993-03|url=http://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/058/01.html|title=『ふるさと歴史シリーズ サザエさん物語』|publisher=西日本シティ銀行|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220310212434/http://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/058/01.html|archivedate=2022-03-10|accessdate=2023-07-29}}</ref><ref name="tabiaruki196">『サザエさん旅あるき』pp.196-203</ref>。授業中にはよく教員の似顔絵を描いており、それを見つけた教員の松本善一に[[チョーク]]を投げつけられ、罰として廊下に立たされた。そうした松本の癖などを漫画にして、級友に授業中回して遊んでいた<ref name="nishinihon"/>。掃除時間になると掃除を怠けて男子と[[チャンバラ|チャンバラごっこ]]をして遊んだ。女子が男子に泣かされた時にはその男子を屋上に連れ出して仕返しをした<ref name="nishinihon"/>。得意科目は図画と作文<ref name="nishinihon"/>。男子生徒と交替で[[学級委員|級長]]([[学級委員|学級委員長]])を務めたが、[[自習|自習時間]]の[[監督]]を任されると、自習を怠けている生徒の頭を定規で叩いて教室を歩き回った<ref name="tokyo17">『サザエさんの東京物語』 p.17</ref>。それが原因でよく喧嘩になった<ref name="tokyo17"/>。小学校卒業式の朝、男子生徒と喧嘩した挙げ句、校庭の物置に閉じ込めそのまま式に出たあと家に帰ってしまう。卒業式終了後にその男子生徒に気づいた学校の用務員により助けられた<ref name="tokyo17"/>。 小学校卒業後は[[日本の学校制度の変遷|旧制]]福岡県立福岡[[高等女学校]](現在の[[福岡県立福岡中央高等学校]])に2年生の[[1933年]]([[昭和]]8年)まで在籍。同年3月父・勇吉が肺炎から膿胸を併発し、5年間の闘病生活の末亡くなる<ref>「父の死」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.41/3081}}</ref>。町子の父への思い入れは深く「ハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている<ref>『サザエさんの東京物語』p.12</ref>。一方で「短気な性格を娘達が受け継いだ」と振り返る<ref name="uchiake5"/>。父の死から一年後の[[1934年]](昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で14歳の時に一家揃って上京<ref>『長谷川町子』ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉15頁</ref>。私立[[山脇高等女学校]]の3年生に編入<ref name=" 週刊現代2022 "/>。同校は「お嬢様学校」のため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ<ref name="nishinihon"/><ref name="tokyo22">『サザエさんの東京物語』 p.22</ref>、腕白な性格から内向的な性格になった。娘の変化に貞子は心痛めていたという<ref name="tokyo22"/>。 === 初期の活動 === [[File:Machiko Hasegawa Girlhood.jpg|thumb|200px|right|15歳でデビューを果たした「天才少女」長谷川町子(『少女倶楽部』1935年10月号』)]] 当時漫画『[[のらくろ]]』が一世を風靡しており<ref name=" 週刊現代2022 "/>、「(原作者の)[[田河水泡]]の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.7-8</ref><ref>『サザエさんの東京物語』 pp.38-39</ref>。その後、田河の引き立てにより『[[少女クラブ|少女倶楽部]]』[[1935年]][[10月]]号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.11</ref><ref>『サザエさんの東京物語』 p.39</ref><ref>『長谷川町子思い出記念館』p.12</ref>。田河夫妻に子供がなかったことから<ref name=" 週刊現代2022 "/>、内弟子として田河家で生活するが、[[ノスタルジア|ホームシック]]になり11カ月で出戻る<ref>『サザエさんの東京物語』 p.40</ref>。 [[1939年]]に初連載作品となった『[[ヒィフゥみよチャン]]』で漫画家としての地位を確立。[[1940年]]からは、3人の女学生を描いた『[[仲よし手帖]]』という人気連載を持っていた([[1942年]]まで[[少女倶楽部]]に連載、戦後は[[少女 (雑誌)|少女]]にて[[1949年]]から[[1951年]]まで連載<ref>『長谷川町子思い出記念館』pp.319-320</ref>)。 === 第二次世界大戦中 === [[1944年]]に入り、[[空襲]]からの[[疎開]]と[[徴用]]回避のため、[[長野県]][[佐久郡]]に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまった。その後、知人の勧めにより3月に長谷川一家は福岡市[[百道]](現在の同市[[早良区]])に疎開、[[西日本新聞社]]に絵画部{{Efn2|『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.29、『サザエさんの東京物語』p.58では絵画部とある。『長谷川町子思い出記念館』p.319の年表では編集局絵画課。}}の校閲係として勤務。昼に出勤、4時に退社という軽作業であり、残りの時間は畑仕事をしていたという<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.28-29</ref>。 転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない<ref name="saaganbarou">北日本新聞 2018年11月22日付26面・ぶんぶんジュニア内『長谷川町子さんの戦後初作品見つかる』より。</ref>。徴用回避の必要がなくなった[[終戦の日|終戦]]の翌日、西日本新聞社を退職した<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.36</ref>。 === サザエさん連載開始 === [[1946年]]([[昭和]]21年)4月22日、西日本新聞の僚紙として[[フクニチ新聞]]社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である[[シーサイドももち|百道海岸]]付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『[[サザエさん]]』の家族構成や名前を思いついた<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.city.fukuoka.lg.jp/sawaraku/sawaraku-tamatebako/kankou/sazaesan/index.html| title=サザエさん通り | work=[[福岡市]] | accessdate=2020-7-11}}</ref><ref name=" 週刊現代2022 "/>。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した<ref name=" 週刊現代2022 "/>。当初、本人は「[[アルバイト]]感覚で引き受けた」と語っている<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.42</ref>。 有名出版社から町子と姉・[[長谷川毬子|毬子]]への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.319</ref>にサザエの[[結婚]]で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時[[東京都]]への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.43-45</ref>。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる<ref>「札束を投げる」{{harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1452/3081}}</ref>。 1946年12月に家族4人で出版社「[[姉妹社]]」を設立<ref name=" 週刊現代2022 "/>。翌年の[[1947年]]1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.290</ref><ref>「姉妹社」{{harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1547/3081}}</ref>。[[1947年]]1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している<ref name="omoide320" />。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.46</ref>。 第1巻は初版2万部を[[日本出版配給]](日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った<ref>「姉妹社」{{harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1548/3081}}</ref>。しかし[[判型|B5判]]の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる<ref>「返品の山」{{harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1557/3081}}</ref>。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.47-50</ref><ref>『長谷川町子思い出記念館』p.291</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-08-20|url=https://dot.asahi.com/articles/-/112496?page=1|title=「サザエさん」初版が“返品の山”だった意外な理由|publisher=AERA dot.|accessdate=2022-05-25}}</ref>。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。 [[1948年]]11月21日より『サザエさん』の連載先を[[新夕刊]]に移す<ref name="omoide320">『長谷川町子思い出記念館』p.320</ref>と、磯野家も東京を舞台として描くようになる<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.51</ref>。 [[1949年]]、[[朝日新聞社]]が創刊した[[夕刊朝日新聞]]に『サザエさん』の連載の場を移し、[[週刊朝日]]に連載していた『[[似たもの一家]]』を打ち切る<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.53</ref>。[[1951年]]から『[[ブロンディ (漫画)|ブロンディ]]』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.55</ref>、[[新聞]][[4コマ漫画]]の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという<ref name="tokyo70">『サザエさんの東京物語』 p.70</ref>。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ[[1974年]](昭和49年)まで連載された。 胃痛や[[風邪]]による休載はしばしばあったが、[[1960年]]には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.292</ref>。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族<ref name="uchiake111">『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.111</ref>は廃業に賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、[[広岡知男]]編集局長{{Efn2|『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.112 では「広岡社長」とあるが、1960年当時は取締役編集局長。}}は休載扱いとした。約半年後に町子の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.112-114</ref>。 === いじわるばあさん以降 === 「ヒューマニズムに飽きていた」<ref name="uchiake111"/>町子は、[[1966年]]から[[ブラックユーモア]]路線の『[[いじわるばあさん]]』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという<ref name="tokyo15">『サザエさんの東京物語』 p.15</ref>。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 [[1967年]]、47歳の時に[[胃潰瘍]]になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく[[胃癌]]であったが、妹・[[長谷川洋子 (実業家)|洋子]]の[[夫]]が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した<ref>『サザエさんの東京物語』 pp.140-142</ref>。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の[[中山恒明]]に説諭され、渋々執筆協力を再開する<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』pp.96-97</ref>。 [[1970年]](昭和45年)に[[知的財産権]]に関する先駆的行動として、作者に無断で[[キャラクター]]を使用していた[[立川バス]]を提訴し、勝訴([[サザエさんバス事件]])。 同年11月19日、東京都世田谷区桜新町一丁目にあった自宅が放火される。 [[1974年]]2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった<ref name="omoide325">『長谷川町子思い出記念館』p.325</ref>。 [[1978年]]、『[[サザエさんうちあけ話]]』を朝日新聞日曜版に連載。翌[[1979年]]には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役として[[連続テレビ小説|NHKの朝の連続ドラマ]]『[[マー姉ちゃん]]』が放送された<ref name="omoide325"/>。姉を[[熊谷真美]]、町子を[[田中裕子]]が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。 === 晩年 === [[1982年]](昭和57年)11月、[[紫綬褒章]]受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画は描かない」と答えている。それでも[[エッセイ]]風の漫画をときおり発表することもあり[[1987年]](昭和62年)[[3月22日]]の朝日新聞に掲載された『[[サザエさん旅あるき]]』が最後の作品となった。 [[1983年]](昭和58年)の春の[[園遊会]]に招待され、その席で[[昭和天皇]]と会話している<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 [[1985年]](昭和60年)[[東京都]][[世田谷区]][[桜新町]]に「長谷川美術館」を建て、初代館長を務めた<ref name=" 週刊現代2022 "/>。本館は町子の没後、現名称である「[[長谷川町子美術館]]」に変更された。 [[1990年]]([[平成]]2年)4月、[[勲四等宝冠章]]を受章。[[1991年]](平成3年)には[[日本漫画家協会賞]]文部大臣賞を受賞。 [[1992年]](平成4年)[[5月27日]]、死去。[[享年]]73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という<ref name="asahi1992">{{Cite news|title=長谷川町子さん死去 「サザエさん」生みの親 5月27日に自宅で|newspaper=朝日新聞・東京朝刊|date=1992年7月1日}}</ref>。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は[[冠動脈]][[動脈硬化症|硬化症]]による[[心不全]]<ref name="名前なし-1">『長谷川町子思い出記念館』p.326</ref>。また、[[長谷川洋子 (実業家)|長谷川洋子]]の自伝『サザエさんの東京物語』によれば死の一週間前に[[脳梗塞|脳血腫]]の診断を受けており<ref>『サザエさんの東京物語』p.210</ref>、往診医に大病院での入院手術を指示されるも「町子自身が治療を拒否したので、[[尊厳死|本人の意志を尊重した]]」と[[長谷川毬子|毬子]]がマスメディア上で述べている<ref name="tokyo211">『サザエさんの東京物語』 p.211</ref>。遺言により[[葬儀]]は肉親のみの[[密葬]]で済ませ、訃報は1か月間公表されなかった<ref name="asahi1992"/>。[[告別式]]は行われず、[[弔問]]・[[供花]]なども毬子は固辞した<ref name="asahi1992"/>。[[火葬]]も遺体を[[棺桶]]に入れず、毛布に包み、[[霊柩車]]でなく、[[乗用車]]で運んだ<ref>『サザエさんと長谷川町子』p.268「長寿の長谷川家」</ref>。 訃報は1カ月後の6月末に[[朝日新聞社]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『[[サザエさん (テレビアニメ)#まんが名作劇場 サザエさん|サザエさん]]』[[再放送]]のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年[[7月28日]]、漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして[[国民栄誉賞]]が授与された。他に第8回([[1962年]]・昭和37年度)[[文藝春秋漫画賞]]、第20回([[1991年]]・平成3年度)[[日本漫画家協会賞]]を受賞。 [[1993年]]5月、町子の死と毬子の高齢などの理由により[[姉妹社]]は解散となり、これまでの単行本は全て[[絶版]]となった。 == 家族 == [[ファイル:Grave of Hasegawa Machiko.jpg|サムネイル|[[多磨霊園]]にある長谷川家の墓]] ; 母・貞子 : 鹿児島県出身で兄は政治家の[[岩切重雄]]<ref>「母の兄」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.592/3081}}</ref>。夫の勇吉は51歳で死去しているが、貞子は夫の闘病中に一家全員で[[洗礼]]を受け[[キリスト教徒|クリスチャン]]になった<ref>「キリスト教入信」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.534/3081}}</ref>。女性の自活が困難だった当時に女世帯を切り盛りする一方、姉妹社の収入から大金を[[チャリティー|喜捨]]しては町子・毬子と喧嘩していた<ref>『サザエさんの東京物語』 pp.108-111</ref>。その独断的性格に対して、戦前戦中は「[[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]」、戦後は[[吉田茂]]にちなみ「ワンマン」と娘達が渾名していた<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.68</ref>。なお、町子は吉田茂を「右顧左眄しない」と評価し<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.29</ref>、好きな政治家に挙げている<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.289</ref>。晩年に貞子は[[認知症]]となり、我が娘だと見分けられなくなった町子を前にして「昔はやり手とも呼ばれてました。しかしそのようなことは虚しいものです。大事なことは謙遜でございます。」と回顧している<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.128</ref>。1987年に91歳で死去<ref name="名前なし-1"/>。 : 毬子が本を入れる場所を探さなければとつぶやくと、貞子は「電光石火」で[[千駄木]]の[[団子坂]]の傍の物件を購入。倉庫として使っていたところ、[[講談師]]五代目[[宝井馬琴]]が[[易]]で最高の方位だから売ってくれと言われ、売却。その後馬琴は[[昭和天皇]][[古希]]の祝いに招かれるほど出世した<ref>「厖大な所得額」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1965/3081}}</ref>。 : 町子が子供の頃、当時流行していた[[アイスまんじゅう|アイス饅頭]]が食べたかったが、母が不衛生だと買ってくれなかった。ある日お手伝いさんからの小遣いで、買って食べながら帰っていると、後ろから誰かに肩をつかまれ、振り返るとそこに居たのが母だったという苦い思い出がある<ref name="nishinihon"/>。このように貞子は躾に厳しく、悪戯や姉妹喧嘩が過ぎると町子や毬子は[[鶏]]小屋へ入れられ、優しいお手伝いさんがいつも助け出してくれたという<ref name="nishinihon"/>。 ; 姉・[[長谷川毬子|毬子]] : 町子の3歳上の姉。油絵が得意で、上京後は洋画家の[[藤島武二]]に弟子入りし、川端画塾で洋画を学ぶ。[[菊池寛]]に認められたのをきっかけに女流挿絵画家として一家を支えた。[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])が開戦してから朝日新聞記者の東学(アズマ マナブ)と結婚するが、東は召集され[[1944年]]の[[インパール作戦]]で戦死する。わずか1週間の結婚生活で、毬子は以降独身を貫き通した<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.23-24</ref>。 : 終戦後、母の要請を受けて絵の仕事から離れ、姉妹社の経営を担当する<ref>「返品の山」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.1560/3081}}</ref>。妹の洋子によれば、負けん気が強く、癇癪もちで、気に入らないことがあるとテーブルを叩き足を踏み鳴らして怒鳴りちらしたという<ref>「「サザエさん」絶版の噂」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.2925/3081}}</ref>。晩年は町子に先立たれ、洋子と絶縁し、一人暮らしになった。のちに長谷川美術館の館長となる夫妻の献身的な世話を受けて<ref>「町子亡き後」{{Harv|工藤|2020|loc=kindle版位置No.2976/3081}}</ref>94歳で大往生した。 ; 妹・[[長谷川洋子 (実業家)|洋子]] : 町子の5歳下の妹。貞子の後押しで菊池寛に弟子入りし、[[東京女子大学]]国文科を中退して[[文藝春秋社]]に入社したが、肺を患い退職。姉妹社では経理を担当していた。[[1953年]]に[[読売新聞]]記者の鹿島隆と結婚し、長谷川家敷地内の離れで暮らしていたが、[[1961年]]に夫が病死した<ref name="tokyo70"/>。その後町子は、草稿が出来ると洋子に見せて評価を聞いていた<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.64-65</ref>。 : 姉妹社単行本の裏表紙に表示された姉妹社の[[シンボルマーク]]は、[[道路標識]]をモチーフにした表示板に「'''SSS'''」と記された「スリーエスマーク」であった。これは、毬子・町子・洋子の長谷川三姉妹を表すものであった。 : 後年、毬子・町子と洋子一家とは絶縁状態に陥り(詳細は[[長谷川洋子 (実業家)|長谷川洋子]]の項を参照)、「サザエさんうちあけ話」で描かれた洋子の存在が「サザエさん旅あるき」ではほぼ触れられていないほか{{Efn2|買出しの話で1コマだけ出ている(34頁2コマ目)。『サザエさんの東京物語』pp.167-170によると町子と洋子一家で母を海外旅行させた話も、『サザエさん旅あるき』pp.51-57では町子が1人で付き添っている形で描かれている。}}、町子が亡くなった際も「洋子には知らせるな」と毬子は近親者に[[緘口令]]を敷き、見かねた長谷川美術館関係者{{Efn2|『サザエさんの東京物語』p.209では「姉妹社に勤めていて、姉達の秘書のような仕事をしている人」。}}がそっと知らせて来たという。そのこともあり、遺産相続等の一切の権利を洋子一家は放棄した<ref name="tokyo211"/>。絶縁状態に至るまでの経緯は当事者である洋子の著書『サザエさんの東京物語』で僅かに触れられている<ref name="tokyo211"/>。 == 交友関係 == 急な仕事で同窓会に出席できなくなったエピソードを『[[サザエさん]]』の本人登場回で描かれている。小学校時代の同級生から、みんな私が腕白だった頃の話ばかり、と苦笑いしていたというくだりがある<ref name="nishinihon" />。 旧友たちが集団上京してきたエピソードが遺作『[[サザエさん旅あるき]]』に描かれている<ref name="tabiaruki196"/>。 [[RKB毎日放送]]が『サザエさんふるさとへ帰る』という番組を企画した際、町子本人は出演拒否した。同級生に「あなたたち私のかわりに出てよ。何を言ってもいいから」と説得、小学校時代の同級生たちがその番組に出演した<ref name="nishinihon" />。 町子は生前、評論家・[[樋口恵子]]{{Efn2|[[東京家政大学]]名誉教授。著書に『サザエさんからいじわるばあさんへ』がある。}}の著書『愛しきは老い』を愛読し、彼女と電話や手紙でやり取りしていた。また樋口も全68巻ある『サザエさん』の原作本を「生涯最高の書」と評している{{efn2|しかし、そのまま2人は会うことなく町子が亡くなり、樋口は後年「ご面会が叶わなかったのが残念でなりません」と語っている<ref name=" 週刊現代2022 "/>。}}。 アニメ『ちびまる子ちゃん』が1990年1月に『サザエさん』の直前の時間枠での放送が開始した後、原作者・[[さくらももこ]]と対面の話が企画された。町子は非常に楽しみにしていたが、本人の死により叶わなかった。 == エピソード == === 信仰 === 当初は[[聖公会]]の[[キリスト教徒|クリスチャン]]。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣の[[メソジスト教会]]に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.12-13</ref>。 戦後は母の影響から妹や母とともに[[無教会主義]]の集会に参加するようになり<ref>『サザエさんの東京物語』p82、『長谷川町子思い出記念館』内のインタビュー記事「サザエさんと私」(p271)より</ref>、集会で講義をしていた[[矢内原忠雄]]と母が交友関係を持つようになった{{Efn2|妹の結婚式の司式を矢内原にしてもらい、その数年後、矢内原は死の半年前にも病を押して長谷川の義弟の葬式の司式を引き受けた。}}。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.125</ref>。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.215(『週刊朝日』の『イイザワ対談遠近問答』最終回で[[飯沢匡]]に対して)</ref>。 === 東京での暮らし === 上京後の住まいは世田谷区[[用賀]]2丁目にあった(現在もそこに長谷川家がある)。毬子の夫が戦死した後、1961年に洋子が夫を亡くしたことをきっかけに、洋子家族が暮らす離れを母屋まで移動して連結した<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.115</ref>。それ以降は町子・母・毬子・洋子・洋子の娘2人(隆子と彩子〈さいこ〉)・家政婦という計7人の女性が一つ屋根で生活した<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 東京の男性と結婚したいと考えていた時期、好みをいくつか挙げており<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.22</ref>、容姿にはこだわらなかったが<ref name="omoide293"/>、生涯独身だった。洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によれば、何度かお見合いをしており、一度は婚約までいったが後日破棄した<ref name=" 週刊現代2022 "/>。その理由について、夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、と妹に述べている<ref name="tokyo15"/>。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという<ref name="omoide293">『長谷川町子思い出記念館』p.293</ref>。 === 仕事のやり方 === 町子はアシスタントなしで1人で作品を書き続けた。上京後は毎日自宅2階の書斎で『サザエさん』の原稿を4案ほど執筆した後、その中から一番気に入ったものを1つを選んだ。夕方4時にやってくる朝日新聞のバイク便に、選んだ原稿を渡すという日々を送った<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 長谷川町子美術館の学芸員によると「長谷川は漫画のアイディアを日常の中から得ていました。彼女は家の中での家族とのやり取りや、時々外出した時に目にするもの全てがアイディアのヒントとなっていました。長谷川は日常の中のちょっとした笑いに対する鋭い観察眼と、それを漫画に昇華する表現力を持ち合わせていたのです」と評している<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 === 好きなもの === * 動物好きで<ref name=" 週刊現代2022 "/>、『サザエさん』などの作品には多くの動物が登場し、町子自身も実際に犬や猫を多く飼っていた。{{Efn2|「[[サザエさんうちあけ話]]」では、飼い犬に関するエピソードで30章中2章を使っている。また、町子が当時飼っていた犬と一緒に写っている写真も残されている。}}このため時には、動物園で展示されているキツネが観光客に目を潰された話を聞き激怒して園を飛び出したり<ref>『サザエさん旅あるき』pp.49-50</ref>、炎天下で飼い犬に水をやっていない飼い主を電話で怒鳴りつける<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.60</ref>など、動物虐待が比較的見過ごされていた時代において人一倍敏感な一面もあった。 * 仕事柄ほとんど自宅で過ごし、家で過ごすことが好きだったが、[[海外旅行]]に行くことも趣味の1つだった。海外旅行が自由化された[[1964年]]から海外に訪れるようになり、生涯で20ヶ国以上を旅した。毬子が飛行機嫌いだったため、洋子が同行した<ref name=" 週刊現代2022 "/>。 * 美術品に造詣が深く美術品や陶芸のコレクターとしても知られ、自ら陶芸製作にも勤しんだ<ref name=" 週刊現代2022 "/>。趣味で収集した各種美術品コレクションを活かすために私財を投じて「[[長谷川町子美術館]]」([[東京都]][[世田谷区]][[桜新町]])を開館。姉妹社の解散後、「[[財団法人]]長谷川町子美術館」として作品の[[著作権]]管理を行なっている。当初は「長谷川美術館」だったが町子の没後、現名称に変更された。 * [[酒]]に強い方ではなかった<ref name="omoide80">『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.80</ref>{{efn2|1967年には胃潰瘍(実際は胃癌)手術を受けた際、麻酔から覚めるのが珍しいほど遅いため、「酒に弱い体質ではないか」と主治医の[[中山恒明]]に尋ねられている<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.93</ref><ref>『長谷川町子思い出記念館』p.86</ref>}}が酒好きだった。特に好きな日本酒は[[盃]]3杯まで<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.288([[1966年]](昭和41年)『サンデー毎日』12月11日号より)</ref>、果実酒も少々たしなむ程度飲んでいた<ref name="omoide80"/>。1971年には[[肝臓]]を害して1年3か月休載したが、その後は日本酒、ワイン、ウイスキー、ブランデーなどを挙げて「盃1杯だけ」と述べている<ref>『長谷川町子思い出記念館』p.309(1978年(昭和53年)『週刊朝日』5月3日号より)</ref>。 === 人付き合い === 仕事の依頼や作品の管理は姉の毬子があたり、パーティには出席せず、連載を持っていた[[朝日新聞社]]や[[毎日新聞社]]にもほとんど顔を出さなかった<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.82</ref>。 日本漫画家協会賞の受賞パーティに出席した時は、どよめきが起こったと参加した漫画家・[[加藤芳郎]]が後年証言している{{efn2|加えて加藤は、「参加者のほとんどはパーティ嫌いの町子さんの出席を予想していなかったが、当日彼女が現れた途端会場にパーッと花が開いたような雰囲気に包まれた」とも語っている<ref name=" 週刊現代2022 "/>。}}。 同業者などからは「孤高の漫画家」と称されていた<ref name="週刊現代2022" />。 === その他エピソード === * 戦時中、出征する兵士に頼まれて「虎は千里を駆けて帰る」という諺から、日の丸の旗に虎をよく描いていた。 * 戦時中、西日本新聞従業員として[[博多湾]]の見える丘で記事のためのスケッチをしていたところ、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]に[[スパイ]]容疑で逮捕される事件があった。町子がスケッチした方向に軍用基地([[雁ノ巣飛行場]])があり、スパイと疑われたためである。関係者の奔走により釈放された<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.31</ref>。 * 1945年には買い出し中に米軍[[艦載機]]の機銃掃射から逃れたり、6月の[[福岡大空襲]]で[[焼夷弾]]が長谷川家に着弾し消防員に叩き消してもらうなどの戦争体験をしている<ref>『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.33-34</ref>。 * サザエさんの連載を持っていた[[1963年]]([[昭和]]38年)12月に姉と些細なケンカをして家出をした事がある。ひとまず厚生年金会館の宿泊施設に身を寄せるが、実は独り暮らしをした事もなく途方に暮れていたところ、翌日に朝刊で[[力道山]]の急死を知り、その影響かもう一度自分の人生を思い直し帰宅する。本人は、その出来事が自分の人生のターニングポイントだったと述懐している<ref>「サザエさんうちあけ話・サザエさん旅あるき」p289</ref>。 * 町子本人関連の映像化された作品は現在過去問わずDVDなどでソフト化されたことはなく{{Efn2|ただし例外で、「[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]50年社史」付属の[[DVD]]に、[[いじわるばあさん]]の一部のシーンが収録されている。}}、名画座で映画上映されることも稀であった。しかし町子の生誕100周年や、アニメ『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』の放送開始50周年を記念して、動画サイトなどで一部の作品の配信が解禁された。 * [[1993年]]([[平成]]5年)3月には墓から遺骨が盗まれる事件が発生したが後に戻っている。犯人は不明のままで、[[未解決事件]]となっている。なお、遺骨の一部は生前に住職と親交のあった[[法住寺 (京都市)|法住寺]]([[天台宗]]、[[京都市]][[東山区]])に分骨されている<ref>[http://kyoto-higashiyama.jp/shrinestemples/hojyuji/ ● 法住寺(ほうじゅうじ)後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺]東山district</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)には生誕100周年を記念して『サザエさん』を始めとした多数の著作が復刊された。 == 作品 == 長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や焼き物、陶器や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している<ref>『[[アサヒグラフ]]別冊 長谷川町子絵画館 サザエさんの作者が残した[未発表]美術作品』[[朝日新聞社]]、[[2000年]](平成12年)7月25日、{{ISBN2|978-4-02-272138-9}}。</ref>。 === 漫画作品 === 姉妹社の廃業後は、[[朝日新聞社]]([[2008年]](平成20年)に出版部門を[[朝日新聞出版]]に分社)で、[[長谷川町子全集]](全33巻 + 別巻1)が刊行した。また、[[戦中]]に[[小学館の学習雑誌]]などに掲載された短編作品は『長谷川町子の漫畫大會』が、[[2016年]](平成28年)に[[小学館]]で書籍化された。 * 狸の面(デビュー作 2頁「[[少女クラブ|少女倶楽部]]」1935年10月号) * かき(8コマ「少女倶楽部」1935年11月号) * オマハリ(6コマ「少女倶楽部」1935年12月号) * 少倶の発売日(6コマ「少女倶楽部」1936年1月号) * へのへのもへ字(8コマ「少女倶楽部」1936年2月号) * 我あやまてり (4コマ 「少女倶楽部」1936年臨時増刊 小説と漫画面白号) * これでおあひこ (8コマ「少年倶楽部」1937年新年増刊 おもしろ無敵号) * 歸らぬ斥候 (6コマ「少年倶楽部」1937年11月号) * ターチャントヘイタイサン(4頁「漫画と教育講談」講談社の漫画絵本63 1938年) * トン子博士の動物病院(2頁「少女倶楽部」臨時増刊号 1939年) * ヱイ子さんのお留守番日記(4頁 絵と文「少女倶楽部」秋の増刊 1939年) * はらつゞみ合戦(4コマ「少女倶楽部」秋の増刊 1939年) * ヒィフゥみよチャン(「[[國民新聞]]」紙上で1939年3月13日から同年7月10日まで100回に渡り連載) - '''連載''' * エウチエンノ一日(4頁「男子幼稚園」1939年9月号) * トクシフ ヨイコマングヮ オルスヰブタイ(4頁「幼年知識」1939年9月号) * 漫畫お月見大會 おりられない(2頁「[[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小學五年生]]」1939年10月号) * 仲ヨシ部隊(8頁「[[小学二年生|セウガク二年生]]」1939年10月号) * コネズミマメキチ(「女子幼稚園」1939年10月号) * 珍案新記録、落葉焼き、菊のケンガイ(1頁「小學五年生」1939年11月号) * トンチ運び(「[[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小學四年生]]」1939年11月号) * 漫畫突撃隊 よくきくお薬(「[[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小學六年生]]」1939年12月号) * 漫畫忘年大會 風のいたづら(「小學五年生」1939年12月号) * 子供精神總動員かぞへうた(「小學五年生」1939年12月号) * 面白スケッチせ(「小學四年生」1939年12月号) * 漫畫の慰問袋 よくばりぞん(1頁「[[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|せうがく三年生]]」1939年12月号) * ヘイタイサン ヰモン大會(5頁「[[小学館文庫|小學館文庫]]ノ八」1939年12月号) * [[仲よし手帖]](「少女倶楽部」連載 1940年 - 1942年、「[[少女 (雑誌)|少女]]」連載 1949年 - 1951年) - '''連載''' * オ正月アハハ學校 アワテトンチキサン(綴込み「セウガク二年生」1940年1月号) * 新年ニコニコ大會 かんちがひ(1頁「小學六年生」1940年1月号) * 漫畫のお年玉 お正月行進曲(1頁「小學五年生」1940年1月号) * お正月アハハ學校 アワテ トンキチサン(2頁「セウガク二年生」1940年1月号) * 日本一千一夜物語 タニシトタヌキ(「男子幼稚園」1940年1月号、作/田川英子) * 漫畫突撃隊 かんちがひ(「小學六年生」1940年2月号) * 初午漫畫祭 オママゴト(2頁「小學五年生」1940年2月号) * 靖國の子(「せうがく三年生」1940年2月号、作/矢野海彦) * ウサチャン日記(「幼稚園」1940年2月号) * 漫畫突撃隊 私の新發明(「小學六年生」1940年3月号) * 進級祝漫畫集 ネズミノトンチ(「小學五年生」1940年3月号) * とんち(1頁「小學四年生」1940年3月号) * 漫畫學藝大會 シッパイザダンクヮイ(2頁「せうがく三年生」1940年3月号) * 新日本千一夜物語(三)トラ ト ラッパ(「男子幼稚園」1940年3月号、作/田川英子) * シャセイ(1頁「幼年知識」1940年3月号) * 漫畫突撃隊 いさぎよい(1頁「小學六年生」1940年4月号) * 新學年お祝會 おやおやさうか(1頁「小學五年生」1940年4月号) * 生活漫畫 ほがらかおぢいさん(6頁「小學四年生」1940年4月号) * 春の漫畫大會(扉)(1頁「せうがく三年生」1940年4月号) * 春の漫畫大會 春ちゃんの日記(8頁「せうがく三年生」1940年4月号) * ブーコサンノオヤツ(2頁「幼稚園」1940年4月号) * 四月ノ暦(「幼年知識」1940年4月号) * 漫畫突撃隊 チマキのごちそう(1頁「小學六年生」1940年5月号) * 漫畫教室 トンチ小僧さん(2頁「小學五年生」1940年5月号) * 撒水車と清正(「小學四年生」1940年5月号) * ちゑだめし漫畫 仲よくしませう(「せうがく三年生」1940年5月号) * サルカニカッセン(「女子幼稚園」1940年5月号) * 漫畫突撃隊(扉)(1頁「小學六年生」1940年6月号) * 五年生漫畫 上をみれば(1頁「小學五年生」1940年6月号) * 四年生漫畫大會 ニワトリドケイ(2頁「[[小学館の学年別学習雑誌#小学三年生・四年生・五年生・六年生|小學四年生]]」1940年6月号) * 漫畫の慰問袋 いたいたづくし(2頁「せうがく三年生」1940年6月号) * オワラヒタイワ 先生 ガ サビシガル カラ(「セウガク二年生」1940年6月号、作/芝佳吉) * イソップ サルノマネシタラクダ(「セウガク一年生」1940年6月号) * サルカニカッセン(「女子幼稚園」1940年6月号) * 漫畫突撃隊 びっくりネエちゃん(1頁「小學六年生」1940年7月号) * 漫畫夏まつり なにが出る(「小學五年生」1940年7月号) * 四年生漫畫大會(扉)(1頁「小學四年生」1940年7月号) * 漫畫の夏祭 ブーちゃんと海水浴(2頁「せうがく三年生」1940年7月号) * 新イソップ童話 ツラレタ タコ(1頁「セウガク一年生」1940年7月号、作/田川栄子) * デンシャゴッコ(1頁「幼年知識」1940年7月号) * 漫畫突撃隊 おさがり帽子(1頁「小學六年生」1940年8月号) * 夏休み漫畫日記 西瓜の寫生(2頁「小學五年生」1940年8月号) * 雷の國見學(2頁「小學四年生」1940年8月号) * 特輯 仲よし日記(16頁「せうがく三年生」1940年8月号) * ナツヤスミ オモシロブクロ(扉)(「セウガク二年生」1940年8月号) * ニギヤカ ナ カイスヰヨクヂャウ(「セウガク二年生」1940年8月号) * 夏休ミオモシロ大會(扉)(1頁「セウガク一年生」1940年8月号) * フシギナハコ(2頁「幼年知識」1940年8月号) * 漫畫突撃隊 夏がへり(「小學六年生」1940年9月号) * 漫畫展覧會 おとくい(「小學五年生」1940年9月号) * オモシロクラブ(「セウガク一年生」1940年9月号) * ワナゲゴッコ(「幼年知識」1940年9月号) * 漫畫突撃隊 子供のマラソン(「小學六年生」1940年10月号) * 秋の漫畫大會 フウセンガキ(「小學五年生」1940年10月号) * オモシロクラブ(「セウガク二年生」1940年10月号) * 東亞名作物語 オマンジュウノハナシ(「男子幼稚園」1940年10月号、作/田川栄子) * ゴメンナサイ(「幼稚園」1940年10月号) * ドウブツ ノ トホリョカウ(2頁「幼年知識」1940年10月号) * オダイコンヌカウ(「男子幼稚園」1940年11月号) * ヤサシイオトウト(2頁「幼稚園」1940年11月号、作/田川英子) * ナカヨシコヨシ(2頁「幼年知識」1940年11月号、作/南陽子) * メンタルテスト ヨイ子ハドレ(1頁「コクミン二年生」1940年12月号) * オテツダヒ(2頁「幼稚園」1940年12月号、作/南陽子) * お日さまはくすりです(「コクミン二年生」1941年1月号、文/筒井敏雄) * メンタルテスト センチノヘイタイサンへ(「コクミン二年生」1941年1月号) * クマチャンノテガラ(2頁「幼稚園」1941年1月号、案/田川英子) * [[翼賛一家大和さん]](「[[アサヒグラフ]]」連載 1941年2月5日号 - 同年5月14日号) - '''連載''' * こどもは風の子(1頁「コクミン二年生」1941年2月号、文/[[二反長半]]) * メンタルテスト(1頁「コクミン二年生」1941年2月号) * ゴチソウ(「幼稚園」1941年2月号) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年3月号) * ニコニコ エウチエン(「幼稚園」1941年3月号) * ヨイコチャン(「幼稚園」1941年3月号) * トケイ(「コクミン二年生」1941年4月号、文/池松良雄) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年4月号) * オママゴト(2頁「幼稚園」1941年4月号) * 少年少女西洋名作選 カンタベリー物語(2頁「國民五年生」1941年5月号、訳/[[村岡花子]]) * 五月四日は を たいせつにする日(「コクミン二年生」1941年5月号) * メンタルテスト(1頁「コクミン二年生」1941年5月号) * チエダメシ(1頁「コクミン一年生」1941年5月号) * おべんたうのじかん(「コクミン二年生」1941年6月号、文/二反長半) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年6月号) * ガマンクラベ(「コクミン一年生」1941年6月号、文/[[松村武雄]]) * チエダメシ(1頁「コクミン一年生」1941年6月号) * ボクラノカアサン(2頁「幼稚園」1941年6月号) * クニチャンと礼法(「愛國夫人」連載 1941年7月 - ) - '''連載''' * 少年少女西洋名作選 ヘンゼルとグレーテル(2頁「國民五年生」1941年7月号、訳/村岡花子) * 甲チャン丙チャン(「こくみん三年生」1941年7月号) * はやねはやおき(「コクミン二年生」1941年7月号、文/二反長半) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年7月号) * ワラシベチャウジャ(「コクミン一年生」1941年7月号) * 正ちゃんの夏(「コクミン二年生」1941年8月号、文/二反長半) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年8月号) * クラゲトクジラノオハナシ(4頁「コクミン一年生」1941年8月号、作/[[室生犀星]]) * タケチャンノ一ニチ(3頁「幼稚園」1941年8月号) * 少年少女西洋名作選 愛の學校(「國民五年生」1941年9月号、訳/村岡花子) * 甲チャン丙チャン(5頁「こくみん三年生」1941年9月号) * かんぷまさつ(1頁「コクミン二年生」1941年9月号、文/二反長半) * メンタルテスト(1頁「コクミン二年生」1941年9月号) * 炭焼く前(「國民五年生」1941年10月号、文/武田亜公) * 秋のこども(「コクミン二年生」1941年10月号、文/二反長半) * メンタルテスト(「コクミン二年生」1941年10月号) * タケガリ(2頁「幼稚園」1941年10月号) * 少年少女西洋名作選 人形を作る父と子(1頁「國民五年生」1941年11月号、訳/村岡花子) * ジロウ物語(「こくみん三年生」1941年11月号) * あつぎをせずに(「コクミン二年生」1941年11月号、文/二反長半) * メンタルテスト(1頁「コクミン二年生」1941年11月号) * はたらく大豆(1頁「こくみん三年生」1941年12月号、文/芝佳吉) * ジラウ物語(「コクミン二年生」1941年12月号) * 雪のふるころ(1頁「コクミン二年生」1941年12月号、文/二反長半) * ヨイコノポンタ(2頁「幼稚園」1941年12月号) * お正月さん(3頁「こくみん三年生」1942年1月号) * お正月おもしろ頁(2頁「コクミン二年生」1942年1月号) * メンタルテスト(1頁「良い子の友」1942年2月号) * 松ヤニガハナシタオ話(2頁「良い子の友」1942年3月号、文/柚木卯馬) * コリスノタビ(2頁「ツヨイコヨイコ」1942年5月号) * ワラヒバナシ(1頁「良い子の友」1942年6月号) * チエダメシ(「良い子の友」1942年7月号) * ダングヮン、セツマイ、サカナヤノコ(「良い子の友」1942年8月号) * オモシロイオハナシ(1頁「良い子の友」1942年9月号) * ワラヒバナシ(1頁「良い子の友」1942年11月号) * チヱダメシ(1頁 絵と文「良い子の友」1942年10月号) * ワラヒバナシ(2頁「良い子の友」1942年12月号) * ワラヒバナシ(「良い子の友」1943年1月号) * ワラヒバナシ(「良い子の友」1943年2月号) * ここからやらう(2頁「少國民の友」1943年3月号) * ナカヨシオフロ(2頁 コドモヱバナシ 第6巻第7号 1943年) * ここからやらう(2頁「[[良い子の友と少國民の友|少國民の友]]」1943年3月号) * きたへませう(2頁「少國民の友」1943年4月号) * さあ!がんばらう(6コマ 西日本新聞社発行の雑誌 1945年9月)<ref name="saaganbarou" /> * [[サザエさん]](「[[フクニチ新聞|夕刊フクニチ]]」→「[[やまと新聞|新夕刊]]」→「[[朝日新聞]]」連載 1946年4月22日 - 1974年2月21日) - '''連載''' * ヨウちゃん(「こどもマンガクラブ」連載 1948年10月 - 1949年?) - '''連載''' * となりのぼっちゃん(7コマ 婦人世界3月号 1949年) * にいさんのアルバイト(7コマ 少年3月号 1949年) * びょうきみまい(7コマ 少年クラブ6月号 1949年) * こだぬきまめすけ(小学一年生 4・5月号 1949年)- '''連載''' ** 別冊サザエさん ** よりぬきサザエさん ** サザエさんの柔道入門(4頁「[[少女クラブ]]」1953年夏休み増刊号) ** [[サザエさん]](「[[少女クラブ]]」連載 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第6巻第2号 1943年) * コグマトコダヌキ 南條龍彦・文(3頁 コドモヱバナシ 第6巻第12号 1943年) * ぶたのせんせい(絵本 姉妹社 1951年) * わかめちゃんとおまわりさん(サザエさんえほん1 姉妹社) * サザエさんとどうぶつえん(サザエさんえほん2 姉妹社) * サザエさんとのりもの(サザエさんえほん3 姉妹社) * わかめちゃんとりす (サザエさんえほん4 姉妹社) * タラちゃんとおやつ(サザエさんえほん5 姉妹社) * どうぶつむらのきしゃ(サザエさんえほん6 姉妹社) * のってみたいな!!(サザエさんえほん7 姉妹社) * へんね おかしいな(サザエさんえほん8 姉妹社) * おまつり(サザエさんえほん9 姉妹社) === アニメ化作品 === * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] * [[サザエさんうちあけ話]] * [[いじわるばあさん]] === 映画化作品 === * 「サザエさん 七転八起の巻」(1948年) - 1948年から1950年にかけて、マキノ映画及び大映により全3作製作される。 * 「[[サザエさん (1956年の映画)|サザエさん]]」(1956年) - 1956年から1961年にかけて、東宝及び宝塚映像に全10作製作される。 詳しくは[[サザエさん#映画]]を参照。 * 「[[新やじきた道中記#映画 『新やじきた道中』|新やじきた道中]]」(1952年) - 大映製作 === テレビドラマ化作品 === * 町子かぶき迷作集 - 1956年から1957年にかけて、本作を原作としたドラマが日本テレビで放送された。 * サザエさん - [[江利チエミ]](舞台・映画)のテレビシリーズと[[星野知子]]、[[浅野温子]]、[[観月ありさ]]主演でスペシャルドラマ化([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[意地悪ばあさん (テレビドラマ)|意地悪ばあさん]] - [[青島幸男]]、[[古今亭志ん馬]]、[[藤村有弘]]、[[高松しげお]]、[[市原悦子]]主演([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]やフジテレビで計4シリーズ制作。詳細は[[いじわるばあさん#テレビドラマ]]も参照)。 * エプロンおばさん - [[冨士眞奈美]]主演。意地悪ばあさんの後継作品。約4か月で打ち切りになった。 * [[いじわる看護婦]] - [[中原理恵]]が主に主演。末期には[[三原じゅん子]]も主演を務めた。 * 意地悪お手伝いさん - [[高見知佳]]主演。 * [[マー姉ちゃん]] - [[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]。『サザエさんうちあけ話』より([[熊谷真実]]主演)。 * フジテレビ開局25周年記念 長谷川町子スペシャル「[[サザエさんVS意地悪ばあさんVSいじわる看護婦]]」 * フジテレビ開局55周年特別番組 アニメ「サザエさん」放送45周年記念「[[長谷川町子物語〜サザエさんが生まれた日〜]]」 - [[尾野真千子]]主演。 == 長谷川町子を演じた人物 == 長谷川町子もしくは、長谷川町子をモデルとしたキャラクターを演じた人物 * [[田中裕子]] - テレビドラマ「[[マー姉ちゃん]]」(役名は磯野マチ子) * [[竹下景子]] - テレビドラマ「[[サザエさん旅あるき]]」(役名は長谷部町子) * [[和久井映見]] - テレビドラマ「[[わが家の歴史]]」 * 不明 : アニメ「[[サザエさん]]」 * [[観月ありさ]] - テレビドラマ「[[サザエさん]]」 * [[戸田恵子]] - アニメ「[[サザエさん]]」 * [[尾野真千子]](幼少期:[[奥森皐月]]) - テレビドラマ「[[長谷川町子物語〜サザエさんが生まれた日〜]]」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 長谷川町子『[[サザエさんうちあけ話]]』(初出は姉妹社。2001年に[[朝日新聞]]社『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』で再刊)。 * 長谷川町子『長谷川町子思い出記念館』 [[朝日新聞社]] 1998年、[[朝日文庫]] 2001年。 * 長谷川町子『[[サザエさん旅あるき]]』 [[朝日新聞出版]] 2001年。 * [[長谷川洋子 (実業家)|長谷川洋子]]『サザエさんの東京物語』 朝日出版社 2008年、[[文春文庫]] 2015年 - 妹による長谷川家の回想。 * 高松千代子『[https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/058/01.html ふるさと歴史シリーズ サザエさん物語]』 [[西日本シティ銀行]] 1993年 - 小学生時代の級友の証言を収録。 * [[樋口恵子]]『サザエさんからいじわるばあさんへ 女・子どもの生活史』 朝日新聞出版 2016年 - 小学生時代の級友や[[西日本新聞社]]勤務時代の上司の証言を収録。 * [[NHKサービスセンター]]『[[NHKウイークリーステラ]]』1992年3月20日号 - BSスペシャルの解説を収録。 *『長谷川町子 「サザエさん」とともに歩んだ人生』[[筑摩書房]]「ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉」2014年 * 長谷川たか子『ワカメちゃんがパリに住み続ける理由』ベストセラーズ、2016年 - 姪から見た伯母・町子の思い出。 * {{Citation|和書|author=[[工藤美代子]] |title=サザエさんと長谷川町子|publisher=[[幻冬舎新書]] |date=2020|ASIN=B086187CQH|ref={{sfnref|工藤|2020|}}}}(Kindle版) ; 関連文献(近年) *『長谷川町子 昭和を描いた国民的漫画家』[[平凡社]]「別冊太陽 日本のこころ」2021年。長谷川町子美術館監修 == 関連項目 == * [[朝日新聞]] - 4コマ漫画を連載([[朝刊]]連載、[[1951年]] - [[1974年]]) * [[西日本新聞社]] - [[戦中|戦時中]]、学芸部に所属していた。 * [[田河水泡]] - 師匠にあたる。 * [[岩切重雄]] - 伯父、政治家、[[鹿児島市]]長。 * [[第15回NHK紅白歌合戦]] - 審査委員。 * [[市川團十郎 (11代目)|九代目 市川海老蔵]] - 長谷川町子が[[婦人公論]]にて取材をする。 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|ウィキポータル 漫画]]}} {{Commonscat|Machiko Hasegawa}} {{ja icon}} * [https://www.hasegawamachiko.jp/ 長谷川町子美術館の公式サイト] {{ja icon}} * [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hasegawa_m.html 歴史が眠る多磨霊園 長谷川町子] {{ja icon}} * [https://www.asahi.com/articles/ASN1S66MBN1MUCVL01N.html サザエさんの作者、謎めく素顔 「動く町子初めて見た」(朝日新聞デジタル2020年(令和2年)1月25日記事)] {{ja icon}} * [https://www.asahi.com/articles/ASN7967CMN79UCVL02B.html 「サザエさん」に会える 長谷川町子記念館、11日開館(朝日新聞デジタル2020年(令和2年)7月9日記事)] {{ja icon}} * [https://gendai.media/articles/-/96208 「動く長谷川町子」の姿に、人々が驚愕…『サザエさん』を生み出した、孤高の天才漫画家の生涯 (「週刊現代」2022年1月29・2月5日号より)] {{サザエさん}} {{国民栄誉賞}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はせかわ まちこ}} [[Category:長谷川町子|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:西日本新聞社の人物]] [[Category:朝日新聞社の人物]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:博物館・美術館の創設者]] [[Category:博物館の館長]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲四等宝冠章受章者]] [[Category:国民栄誉賞受賞者]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:日本のプロテスタントの信者]] [[Category:無教会]] [[Category:佐賀県出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1920年生]] [[Category:1992年没]] 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太陰太陽暦
太陰太陽暦(たいいんたいようれき、英: lunisolar calendar)とは、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。 紀元前の古代で行われていた暦は、その多くが月の満ち欠けの繰返しで成り立つ「太陰暦」であった。「太陰」とは空にある月のことである。しかし、29日または30日からなる「月」を12回繰り返して「一年」とする「太陰暦」では、一年が約354日であり、太陽暦の一年に比べて約11日短く、3年ごとに約1か月のずれとなる。このずれを放っておくと暦が季節と大きく食い違ってしまう。そこで太陽の運行を参考にしつつ「閏月」(うるうづき)という「月」を挿入し、1年を13か月にすることによって暦と季節のずれを正す方法が図られた。「太陰暦」に基づくが太陽暦の要素も取り入れている暦なので、閏月のない「太陰暦」と区別して「太陰太陽暦」という。ただし太陰太陽暦は「太陽暦」と対比して単に「太陰暦」とも呼ばれている。イスラームに関する事柄で「太陰暦」といえば閏月のない純粋太陰暦(ヒジュラ暦)を指す。日本において「太陰暦」とは、専ら太陰太陽暦のことをいう。 古代では天体を観測して閏月をいつ入れるかが決められた。後にメトン周期が発見されると、その原理に基づいて閏月を挿入する時期(置閏法)が決められるようになった。やがて古代ローマにおいてユリウス・カエサルが暦を太陽暦に切り替えた後は、ヨーロッパの多くの地域で太陽暦が用いられ、中世にはそれがグレゴリオ暦となり現在に至っている。 ヨーロッパでは太陽暦が広く用いられるようになった一方で、中国大陸や日本などの東アジアの地域では太陰太陽暦がそのまま公式に使われ続け、閏月を暦に入れるため二十四節気が用いられた。閏月の有無で1年の日数に差が出ることなどから、現在太陰太陽暦を正式に用いている国はないといわれるが、中国をはじめ日本を除くアジア全域では、太陰太陽暦に基づく新年(春節)が現在でも祝われている。日本では明治6年(1873年)から暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替え、以後は太陽暦が公式なものとして用いられている。 人が最初に季節を知るための手がかりとしたのは、空の星であったといわれているが、さらに月の満ち欠けも日にちを数える手がかりとして使われ、この月の満ち欠けをもとに世界各地で「太陰暦」という暦が作られるようになった。 天体の月が最も欠けた状態を「朔」(さく)と言い、この「朔」から約15日たつと満月になる。これを「望」(ぼう)という。「望」からまた約15日たつと「朔」となる。この「朔」→「望」→「朔」の約30日間を「一か月」とし、これを12回繰り返すことで「一年」とする。「太陰暦」とは本来このようなものである。「朔」から「朔」へ戻る周期、すなわち「太陰暦」の一か月を「朔望月」という。この朔望月は暦の上では「30日」か「29日」のどちらかになる。そして後世「30日」は「大の月」、「29日」は「小の月」と呼ばれている。一年のうちで「30日」と「29日」になる順番は年ごとに変わる。 しかしこの「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を1周する日数(太陽暦の一年)の間で決まる。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を1周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の1年を13か月にする方法が多く取られた。1年の日数を1か月分増やすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また1年を13か月にする。本来の12か月のほかに挿入された「月」のことを「閏月」と呼び、「○月」の次の月を閏月にする場合は、その月のことを「閏○月」と呼ぶ。 世界で最も古くから「太陰暦」を用いていたのは、メソポタミア文明をつくったシュメール人であるが、彼らが暦と季節のずれをどのように正していたのかは明らかではない。紀元前2000年ごろのバビロニアでは太陰太陽暦を用いていたが、暦と季節のずれに対しては当初、適当に日や閏月を足して済ませていた。やがてバビロニア人は、19年のあいだに7回、閏月を暦に入れるとほぼ誤差なく暦を運用できるメトン周期の原理に気付き、これに沿って閏月を暦に入れるようになった。メトン周期とは、地球が太陽の周りを19回めぐる日数(太陽暦の19年)は、月の満ち欠けによる235か月(太陰暦の19年と7か月)の日数とほぼ等しいというものである。「メトン」とはバビロンでこの原理を知りギリシアに持ち帰った天文学者メトンの名に由来する。 このメトン周期の原理は世界各地でも知られるようになり、古代中国でも殷の時代には天体を観測して暦と季節のずれに注意し、閏月が必要になれば十二月の次にひと月たして13か月にしていたが、春秋時代にはメトン周期の原理に基づいて閏月を暦に置いている。古代ギリシアで使われた暦も、暦法にこのメトン周期の影響を受けたといわれる。 なお新バビロニア王国の暦法はバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれ、現在のユダヤ暦に引き継がれている。しかしイスラム教が広まった地域では、公式な暦としては純粋太陰暦であるヒジュラ暦が、準公式・非公式な暦としては太陽暦(イラン暦、ルーミー暦など)が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く西アジアで太陰太陽暦が用いられることはなくなっている。 「太陰暦」において暦と季節のずれを正すには、空の月以外のものを見なければならないが、それは同じく空にある太陽や星の位置によってであった。人々はまず季節を知る手がかりとして、自らが住む場所で見る星の位置や、その星の見える時期を以って今がいつごろの季節なのかを判断した。さらに太陽も季節の変わり目を知る手がかりとなった。夏は日が長く、冬は日が短いが、一年のうちで最も日の長いのはいつか、最も日の短いのはいつかといったことを、長い年代をかけて見出していったと見られる。それがのちに「夏至」や「冬至」といわれるようになり、また昼と夜の時間が同じになる頃は「春分」や「秋分」と呼ばれている。そして「太陰暦」に起こる暦と季節のずれを正すために、これら天体の観測が利用された。メトン周期の原理も、こうした天体観測を重ねてわかったことである。また太陽と星の観測はやがて二十四節気を生み出し、これが太陰太陽暦に用いられることになる。 『書経』の「堯典」には中国神話に登場する伝説の帝・堯が、四方の神ともいわれる義氏と和氏に対して、日の長さと星の見える時期により、暦を定め国土を治めるよう命じたとされている。その暦に関わる箇所のみを抜き出せば以下の通りである(対訳が続く)。 日中、星鳥、以殷仲春 〔中略〕 日永、星火、以正仲夏 〔中略〕 宵中、星虚、以殷仲秋 〔中略〕 日短、星昴、以正仲冬 〔中略〕 朞三百有六旬有六日、以閏月定四時、成歳 昼と夜が同じ長さで、鳥の星が夕暮れの空に見えたら春分とせよ 〔中略〕 日が長く、火の星が空に見えたら夏至とせよ 〔中略〕 夜と昼が同じ長さで、虚の星が見えたら秋分とせよ 〔中略〕 日が短く、昴の星が見えたら冬至とせよ 〔中略〕 一年の日数を三百六十六日とし、閏月を入れて暦が四季と合うように定めよ これらは日の長短と「鳥」「火」「虚」「昴」という星々を観測することにより、春分・夏至・秋分・冬至それぞれの日を定めるとしている。これらの星の観測は紀元前2000年前後にまでさかのぼるが、「朞三百有六旬有六日」云々のくだりは一年を366日としていることから、後世の知識が入っているとされている。『淮南子』天文訓には二十四気(二十四節気)について、十五日を経て空の星を見ることで、「冬至」をはじめとする二十四気の日がわかるとしている。 古代バビロンとインドの太陰太陽暦は、二十四節気ではなく黄道十二宮によって閏月を暦に入れている。バビロンではセレウコス朝以後(紀元前312年以降)にメトン周期の原理が用いられたが、それより前の暦ではこの黄道十二宮に基づいて太陽の位置を計算し、閏月を暦に置くことがあった。 古代ローマの暦は当初、春を年初として朔望月に基づく10か月を定め、あとは適当に日数を加えて一年とする運用をしていたが、紀元前8世紀の頃には一年を12か月355日とする太陰太陽暦が用いられるようになった。しかし毎年コンスルが交代する共和政のローマ社会では、政治家や神官が暦を政争の具とし、日にちや閏月の挿入を恣意的に繰り返した。その結果、ユリウス・カエサルがローマで権力を手にした頃には、暦が実際の季節から3か月もずれるという事態になっていた。そこでカエサルは紀元前46年、天文学者ソシゲネスの意見に従ってこの年の日数を445日にまで引き伸ばし、翌紀元前45年から暦を朔望月に拠らない太陽暦に移行させた。これがユリウス暦である。この暦は一年を約365日とし、四年に一度、二月に閏日を入れるなど、現行で使われる太陽暦の原型となるものであった。 その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教でもユリウス暦を採用することになった。しかし新約聖書に記されるイエス・キリスト復活の日は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づくので、キリスト教最大の祝祭である復活祭を行うためには、太陽暦のユリウス暦だけではどうしても不足があった。そこでユリウス暦をもとに春分の日を3月21日に「固定」した上で、月の朔望を考慮し春分直後の満月の日を計算することにより、復活祭の日付を算出した。この計算方法をエパクトと言い、教会暦の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で現在のグレゴリオ暦に至るヨーロッパの暦は、宗教面では太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。 なおユリウス暦は中世ヨーロッパの時代に至って暦法に問題ありとされ、1582年、ローマ教皇グレゴリオ13世の名のもとに改暦が行われた。これがグレゴリオ暦であるが、当時プロテスタントを信仰する国ではカトリックに対する反発から、グレゴリオ暦をなかなか受け入れようとはせず、イギリスもグレゴリオ暦に改めたのは1752年にもなってからであった。これは正教会が布教を行う地域でも同様で、ロシアやルーマニアでは1910年代まで、ギリシャは1924年までユリウス暦を用いている。 こうしてヨーロッパの地域ではユダヤ暦を除いて太陽暦が広く用いられることになったが、東アジア地域では近代に至るまで閏月の入る太陰太陽暦が公式に使い続けられた。 中国大陸でも有史以来、朔望月による「太陰暦」が使われ、暦と季節のずれを正すための閏月が暦に入れられた。メトン周期の原理が知られるより前には、暦にいつ閏月を入れるかについては冬至を基準にして定めることがあった。冬至の日を一年の日数の始まりとし、冬至が含まれる月を決めておく(後代では冬至がくるのは十一月としている)。そして暦をそのまま使い続けると、「太陰暦」の一年は冬至がふたたび来る日数(太陽暦の一年)より短いので、その決められた月に冬至が来なくなる。そこでその年を閏月の入る年にして、年末に閏月を置き一年を13か月とした。冬至がいつ来るかの判断は天体の観測による。中国では古来より冬至が暦の基準として重んじられており、これはのちの時憲暦にも受け継がれている。 やがて中国でメトン周期が知られるようになると、この原理に従って19年の間に7回、閏月を置くようになった。これを「章法」という。しかし「太陰暦」の19年と7か月は、じつはわずかながら地球が太陽を19回まわる日数(太陽暦の19年)より長い。たとえわずかでも長年にわたってそのまま暦を使い続ければ、暦と季節のあいだに大きなずれを生むことになる。それに気付いた当時の人々は、暦に閏月の入る割合を減らすことで対処した。これを「破章法」という。 ただし上で述べた閏月の入れ方だと、年によってはひと月も暦が実際の季節からずれることがあった。そこで暦に二十四節気が用いられた。二十四節気は地球が太陽を1周する日数を24等分、約15日毎に分けたもので、約15日ごとに「立春」をはじめとする名称を付け、節気(正節)と中気が交互に来るようにしている。その二十四節気を実際の季節の目安としたのである。 そしてさらに、二十四節気の中気で以って閏月を入れるかどうかを決めるようになった。正節(節気)から次の正節までの間を節月という。節月は約30日であり、朔望による1か月よりも長い。よって暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月を閏月とし、また月名もその月に含まれる中気によって決め、例えば「雨水」を含む月を「一月」(正月)とした。この暦法によって閏月を年末ではなく年中に置き、暦と季節のずれもおおむね半月程度に抑えることが出来るようになった。月名と節気・中気の組合せは以下の通りである。 中国大陸では幾度となく改暦を経ながらも、太陰太陽暦が長らく公式に使われてきたが、宣統3年(1911年)、南京に中華民国臨時政府が起り、この年の11月13日を以って暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に改め、1月1日とした。しかし太陰太陽暦を古来より使い続け生活してきた一般民衆にとっては、そう簡単に太陽暦へ暦を切替えることはできず、太陽暦はなかなか普及しなかった。その後紆余曲折を経て太陽暦が公式の暦として定まるようにはなったが、中国では現在も太陽暦のほかに、「春節」と称して太陰太陽暦(時憲暦)に基づく新年が祝われている。 日本では飛鳥時代の元嘉暦以来、中国王朝が制定した暦(中国暦、日本では漢暦とも呼称)をそのまま導入し和暦として使用した。しかし貞観4年(862年)に導入された宣明暦への改暦以後、およそ800年あまりにもわたって宣明暦を使用し続けた結果、江戸時代のはじめには太陽の運行予測に約2日のずれが生じていた。宣命暦の暦法による太陽暦の一年は実際よりもごくわずかに長く、そのごくわずかな違いが800年余りの時を経て積み重なったことにより、約2日の遅れとなっていたのである。 そこで貞享元年(1685年)10月、渋川春海の意見によりようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の授時暦)である貞享暦への改暦が実現した(頒暦はその翌年)。以来、貞享暦(貞享2年 - 宝暦4年)、宝暦暦(宝暦5年 - 寛政10年)、寛政暦(寛政10年 - 天保14年)、天保暦(天保15年〈弘化元年〉 - 明治5年)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「日本で使用された暦」も参照)。しかし明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦の日付)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)1月1日としたことで、その歴史に幕を閉じた。 なお1873年以降、天保暦の暦法による太陰太陽暦は「旧暦」と呼ばれ、現在でも神宮暦やカレンダーに記されることがあるが、これらは何ら公的な裏付けのない暦法であることに注意すべきである。 中国では古来より閏月の入る太陰太陽暦が用いられてきたが、清朝の時代から始まった時憲暦では、それまでとは違う閏月の入れ方をするようになった。その理由はこの時憲暦において、二十四節気を定める方法に「定気法」を用いたからである。 そもそも二十四節気を定める方法には、「恒気法」と「定気法」のふたつがある。これらについてごく大まかに説明すると以下の通りである。 ただし地球が太陽の周りをめぐる速度は一定では無い、すなわち黄道上を動く太陽の速度は一定ではないので、定気法に基づく節気・中気の日数の間隔は必ずしも一定しない。定気法において二十四節気を定める基準とは、「地上から見た太陽の位置や黄道がどこからどこまで移動するか」であり、その移動にどれだけの日数や時間がかかるかということではないからである。ゆえに定気法に基づく二十四節気は、ひと月分の中気から中気までの日数が、季節により約2日の幅で延びたり縮んだりする。それはたとえば以下のように、一般に出回っている太陽暦のカレンダーから中気とその日付を抜出し、並べてみてもうかがえる。現在の日本のカレンダーに記される二十四節気は定気法によるものである。 しかし黄道が移動すれば昼の長さも変わるので、定気法は春分や秋分の日などを正確に割出すことが出来る。それに対し恒気法は、基点とする冬至のほかは黄道の移動とは関わりなく、太陽暦の一年を24等分して定めたものなので、春分や秋分の日を正確にはあらわしていないことになる。このことから定気法は恒気法よりも、節気や中気の日付が正確に得られるとして時憲暦に用いられた。ところがこの定気法の採用が、閏月を暦に入れる上で混乱を招くことになった。 二十四節気による閏月の入れ方は、中気が決められた月に来るかどうかで決まる。しかし定気法で割出した二十四節気を用いると、中気がひと月のうちに節気を挟んでふたつも入ったり、また本来ならば閏月は二、三年に一度の割合で暦に入っていたのが、閏月を入れたその数か月後に再び閏月を入れる必要に迫られる(中気が決められた月に来ない)という現象を引き起したのである。これは上で述べたように、定気法では中気から中気への日数が約2日の幅で変化するのが原因であった。恒気法では節気・中気がほぼ15日おきに定まったことにより、こうした問題は起こらなかったのである。 よって従来からの閏月の入れ方は通用しなくなり、時憲暦では閏月の入れ方を新たに工夫しなければならなくなった。そして以下の手段が講じられた。 まず冬至を十一月の中気として定める。これは何があろうと冬至を含む月は十一月として動かさないということである。そして再び十一月が来るまでの間が13か月になったら、中気が来ない月を閏月とする。また中気が来ない月が二つ出来るようであれば、はじめの中気が来ない月だけを閏月とする。表を用いて解説すると以下のようになる。 表には便宜上(1)からはじまる番号を付けた。(1)の十一月から次の年の(14)の十一月に至る前までの月数は、通常ならば12か月〈(1)〜(12)〉である。しかし冬至から次の年の冬至へ至る日数(太陽暦の一年)よりも、朔望月による一年(太陰暦の一年)のほうが短いので、そのまま暦を使い続けると、冬至を含む月(14)がひと月分あとにずれて13か月〈(1)〜(χ)〉となる。そこで(2)から(12)までの各月で、決められた中気の来ない月を(χ)の閏月とする。要するに冬至を十一月に固定したことで、暦と季節のずれは(2)から(12)のあいだでどうにかするようになったのである。 日本では天保暦が、時憲暦と同じく定気法を用いている。日本の暦も天保暦より前の暦では恒気法であった。しかし天保暦も結局は、ひと月のうちに中気がふたつ入る例を作り、閏月も従来からの入れ方では通らなくなった。時憲暦と天保暦が定気法を採用したのは、いずれも当時の西洋天文学の影響による。広瀬秀雄は定気法の採用について、「暦法は規則性を尊ぶということを考えるなら、定気の採用は、暦法精神の退化を示すもの」と評している。 日本の歴史で明治5年以前、明治4年までの年については、グレゴリオ暦による西暦を単純に当てはめると不適切な場合がある。例えば寛永7年は、グレゴリオ暦では1630年2月12日から1631年1月31日までの間に当たり、寛永7年の年末はグレゴリオ暦で1631年となる。つまり太陰太陽暦の年末は、西暦ではすでに新年を迎え次の年になっているので、日本の歴史上の出来事を西暦の何年と当てはめる際には、それに注意しなければならないということである。 赤穂浪士の討ち入りの日を「元禄15年(1702年)12月14日」とするのを見ることがあるが、元禄15年12月はグレゴリオ暦では1703年の1月〜2月に当たるので、1702年とするのは不適切である。また元禄15年の12月14日はグレゴリオ暦の日付では1月30日にあたるが、討ち入りしたとき既に深夜0時を過ぎていたので、討ち入りは「1月31日」の出来事になる。よって赤穂浪士の討入りの日付を文献史料などに記載する場合には、「元禄15年12月14日(1703年1月31日未明)」とするのが最も適切である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "太陰太陽暦(たいいんたいようれき、英: lunisolar calendar)とは、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "紀元前の古代で行われていた暦は、その多くが月の満ち欠けの繰返しで成り立つ「太陰暦」であった。「太陰」とは空にある月のことである。しかし、29日または30日からなる「月」を12回繰り返して「一年」とする「太陰暦」では、一年が約354日であり、太陽暦の一年に比べて約11日短く、3年ごとに約1か月のずれとなる。このずれを放っておくと暦が季節と大きく食い違ってしまう。そこで太陽の運行を参考にしつつ「閏月」(うるうづき)という「月」を挿入し、1年を13か月にすることによって暦と季節のずれを正す方法が図られた。「太陰暦」に基づくが太陽暦の要素も取り入れている暦なので、閏月のない「太陰暦」と区別して「太陰太陽暦」という。ただし太陰太陽暦は「太陽暦」と対比して単に「太陰暦」とも呼ばれている。イスラームに関する事柄で「太陰暦」といえば閏月のない純粋太陰暦(ヒジュラ暦)を指す。日本において「太陰暦」とは、専ら太陰太陽暦のことをいう。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古代では天体を観測して閏月をいつ入れるかが決められた。後にメトン周期が発見されると、その原理に基づいて閏月を挿入する時期(置閏法)が決められるようになった。やがて古代ローマにおいてユリウス・カエサルが暦を太陽暦に切り替えた後は、ヨーロッパの多くの地域で太陽暦が用いられ、中世にはそれがグレゴリオ暦となり現在に至っている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは太陽暦が広く用いられるようになった一方で、中国大陸や日本などの東アジアの地域では太陰太陽暦がそのまま公式に使われ続け、閏月を暦に入れるため二十四節気が用いられた。閏月の有無で1年の日数に差が出ることなどから、現在太陰太陽暦を正式に用いている国はないといわれるが、中国をはじめ日本を除くアジア全域では、太陰太陽暦に基づく新年(春節)が現在でも祝われている。日本では明治6年(1873年)から暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替え、以後は太陽暦が公式なものとして用いられている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人が最初に季節を知るための手がかりとしたのは、空の星であったといわれているが、さらに月の満ち欠けも日にちを数える手がかりとして使われ、この月の満ち欠けをもとに世界各地で「太陰暦」という暦が作られるようになった。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "天体の月が最も欠けた状態を「朔」(さく)と言い、この「朔」から約15日たつと満月になる。これを「望」(ぼう)という。「望」からまた約15日たつと「朔」となる。この「朔」→「望」→「朔」の約30日間を「一か月」とし、これを12回繰り返すことで「一年」とする。「太陰暦」とは本来このようなものである。「朔」から「朔」へ戻る周期、すなわち「太陰暦」の一か月を「朔望月」という。この朔望月は暦の上では「30日」か「29日」のどちらかになる。そして後世「30日」は「大の月」、「29日」は「小の月」と呼ばれている。一年のうちで「30日」と「29日」になる順番は年ごとに変わる。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかしこの「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を1周する日数(太陽暦の一年)の間で決まる。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を1周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の1年を13か月にする方法が多く取られた。1年の日数を1か月分増やすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また1年を13か月にする。本来の12か月のほかに挿入された「月」のことを「閏月」と呼び、「○月」の次の月を閏月にする場合は、その月のことを「閏○月」と呼ぶ。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "世界で最も古くから「太陰暦」を用いていたのは、メソポタミア文明をつくったシュメール人であるが、彼らが暦と季節のずれをどのように正していたのかは明らかではない。紀元前2000年ごろのバビロニアでは太陰太陽暦を用いていたが、暦と季節のずれに対しては当初、適当に日や閏月を足して済ませていた。やがてバビロニア人は、19年のあいだに7回、閏月を暦に入れるとほぼ誤差なく暦を運用できるメトン周期の原理に気付き、これに沿って閏月を暦に入れるようになった。メトン周期とは、地球が太陽の周りを19回めぐる日数(太陽暦の19年)は、月の満ち欠けによる235か月(太陰暦の19年と7か月)の日数とほぼ等しいというものである。「メトン」とはバビロンでこの原理を知りギリシアに持ち帰った天文学者メトンの名に由来する。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このメトン周期の原理は世界各地でも知られるようになり、古代中国でも殷の時代には天体を観測して暦と季節のずれに注意し、閏月が必要になれば十二月の次にひと月たして13か月にしていたが、春秋時代にはメトン周期の原理に基づいて閏月を暦に置いている。古代ギリシアで使われた暦も、暦法にこのメトン周期の影響を受けたといわれる。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお新バビロニア王国の暦法はバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれ、現在のユダヤ暦に引き継がれている。しかしイスラム教が広まった地域では、公式な暦としては純粋太陰暦であるヒジュラ暦が、準公式・非公式な暦としては太陽暦(イラン暦、ルーミー暦など)が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く西アジアで太陰太陽暦が用いられることはなくなっている。", "title": "古代における暦の運用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「太陰暦」において暦と季節のずれを正すには、空の月以外のものを見なければならないが、それは同じく空にある太陽や星の位置によってであった。人々はまず季節を知る手がかりとして、自らが住む場所で見る星の位置や、その星の見える時期を以って今がいつごろの季節なのかを判断した。さらに太陽も季節の変わり目を知る手がかりとなった。夏は日が長く、冬は日が短いが、一年のうちで最も日の長いのはいつか、最も日の短いのはいつかといったことを、長い年代をかけて見出していったと見られる。それがのちに「夏至」や「冬至」といわれるようになり、また昼と夜の時間が同じになる頃は「春分」や「秋分」と呼ばれている。そして「太陰暦」に起こる暦と季節のずれを正すために、これら天体の観測が利用された。メトン周期の原理も、こうした天体観測を重ねてわかったことである。また太陽と星の観測はやがて二十四節気を生み出し、これが太陰太陽暦に用いられることになる。", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『書経』の「堯典」には中国神話に登場する伝説の帝・堯が、四方の神ともいわれる義氏と和氏に対して、日の長さと星の見える時期により、暦を定め国土を治めるよう命じたとされている。その暦に関わる箇所のみを抜き出せば以下の通りである(対訳が続く)。", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日中、星鳥、以殷仲春 〔中略〕 日永、星火、以正仲夏 〔中略〕 宵中、星虚、以殷仲秋 〔中略〕 日短、星昴、以正仲冬 〔中略〕 朞三百有六旬有六日、以閏月定四時、成歳", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "昼と夜が同じ長さで、鳥の星が夕暮れの空に見えたら春分とせよ 〔中略〕 日が長く、火の星が空に見えたら夏至とせよ 〔中略〕 夜と昼が同じ長さで、虚の星が見えたら秋分とせよ 〔中略〕 日が短く、昴の星が見えたら冬至とせよ 〔中略〕 一年の日数を三百六十六日とし、閏月を入れて暦が四季と合うように定めよ", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "これらは日の長短と「鳥」「火」「虚」「昴」という星々を観測することにより、春分・夏至・秋分・冬至それぞれの日を定めるとしている。これらの星の観測は紀元前2000年前後にまでさかのぼるが、「朞三百有六旬有六日」云々のくだりは一年を366日としていることから、後世の知識が入っているとされている。『淮南子』天文訓には二十四気(二十四節気)について、十五日を経て空の星を見ることで、「冬至」をはじめとする二十四気の日がわかるとしている。", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "古代バビロンとインドの太陰太陽暦は、二十四節気ではなく黄道十二宮によって閏月を暦に入れている。バビロンではセレウコス朝以後(紀元前312年以降)にメトン周期の原理が用いられたが、それより前の暦ではこの黄道十二宮に基づいて太陽の位置を計算し、閏月を暦に置くことがあった。", "title": "天体観測と暦の修正" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "古代ローマの暦は当初、春を年初として朔望月に基づく10か月を定め、あとは適当に日数を加えて一年とする運用をしていたが、紀元前8世紀の頃には一年を12か月355日とする太陰太陽暦が用いられるようになった。しかし毎年コンスルが交代する共和政のローマ社会では、政治家や神官が暦を政争の具とし、日にちや閏月の挿入を恣意的に繰り返した。その結果、ユリウス・カエサルがローマで権力を手にした頃には、暦が実際の季節から3か月もずれるという事態になっていた。そこでカエサルは紀元前46年、天文学者ソシゲネスの意見に従ってこの年の日数を445日にまで引き伸ばし、翌紀元前45年から暦を朔望月に拠らない太陽暦に移行させた。これがユリウス暦である。この暦は一年を約365日とし、四年に一度、二月に閏日を入れるなど、現行で使われる太陽暦の原型となるものであった。", "title": "太陽暦への切替え" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教でもユリウス暦を採用することになった。しかし新約聖書に記されるイエス・キリスト復活の日は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づくので、キリスト教最大の祝祭である復活祭を行うためには、太陽暦のユリウス暦だけではどうしても不足があった。そこでユリウス暦をもとに春分の日を3月21日に「固定」した上で、月の朔望を考慮し春分直後の満月の日を計算することにより、復活祭の日付を算出した。この計算方法をエパクトと言い、教会暦の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で現在のグレゴリオ暦に至るヨーロッパの暦は、宗教面では太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。", "title": "太陽暦への切替え" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なおユリウス暦は中世ヨーロッパの時代に至って暦法に問題ありとされ、1582年、ローマ教皇グレゴリオ13世の名のもとに改暦が行われた。これがグレゴリオ暦であるが、当時プロテスタントを信仰する国ではカトリックに対する反発から、グレゴリオ暦をなかなか受け入れようとはせず、イギリスもグレゴリオ暦に改めたのは1752年にもなってからであった。これは正教会が布教を行う地域でも同様で、ロシアやルーマニアでは1910年代まで、ギリシャは1924年までユリウス暦を用いている。", "title": "太陽暦への切替え" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうしてヨーロッパの地域ではユダヤ暦を除いて太陽暦が広く用いられることになったが、東アジア地域では近代に至るまで閏月の入る太陰太陽暦が公式に使い続けられた。", "title": "太陽暦への切替え" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国大陸でも有史以来、朔望月による「太陰暦」が使われ、暦と季節のずれを正すための閏月が暦に入れられた。メトン周期の原理が知られるより前には、暦にいつ閏月を入れるかについては冬至を基準にして定めることがあった。冬至の日を一年の日数の始まりとし、冬至が含まれる月を決めておく(後代では冬至がくるのは十一月としている)。そして暦をそのまま使い続けると、「太陰暦」の一年は冬至がふたたび来る日数(太陽暦の一年)より短いので、その決められた月に冬至が来なくなる。そこでその年を閏月の入る年にして、年末に閏月を置き一年を13か月とした。冬至がいつ来るかの判断は天体の観測による。中国では古来より冬至が暦の基準として重んじられており、これはのちの時憲暦にも受け継がれている。", "title": "中国の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "やがて中国でメトン周期が知られるようになると、この原理に従って19年の間に7回、閏月を置くようになった。これを「章法」という。しかし「太陰暦」の19年と7か月は、じつはわずかながら地球が太陽を19回まわる日数(太陽暦の19年)より長い。たとえわずかでも長年にわたってそのまま暦を使い続ければ、暦と季節のあいだに大きなずれを生むことになる。それに気付いた当時の人々は、暦に閏月の入る割合を減らすことで対処した。これを「破章法」という。", "title": "中国の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし上で述べた閏月の入れ方だと、年によってはひと月も暦が実際の季節からずれることがあった。そこで暦に二十四節気が用いられた。二十四節気は地球が太陽を1周する日数を24等分、約15日毎に分けたもので、約15日ごとに「立春」をはじめとする名称を付け、節気(正節)と中気が交互に来るようにしている。その二十四節気を実際の季節の目安としたのである。", "title": "中国の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "そしてさらに、二十四節気の中気で以って閏月を入れるかどうかを決めるようになった。正節(節気)から次の正節までの間を節月という。節月は約30日であり、朔望による1か月よりも長い。よって暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月を閏月とし、また月名もその月に含まれる中気によって決め、例えば「雨水」を含む月を「一月」(正月)とした。この暦法によって閏月を年末ではなく年中に置き、暦と季節のずれもおおむね半月程度に抑えることが出来るようになった。月名と節気・中気の組合せは以下の通りである。", "title": "中国の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中国大陸では幾度となく改暦を経ながらも、太陰太陽暦が長らく公式に使われてきたが、宣統3年(1911年)、南京に中華民国臨時政府が起り、この年の11月13日を以って暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に改め、1月1日とした。しかし太陰太陽暦を古来より使い続け生活してきた一般民衆にとっては、そう簡単に太陽暦へ暦を切替えることはできず、太陽暦はなかなか普及しなかった。その後紆余曲折を経て太陽暦が公式の暦として定まるようにはなったが、中国では現在も太陽暦のほかに、「春節」と称して太陰太陽暦(時憲暦)に基づく新年が祝われている。", "title": "中国の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本では飛鳥時代の元嘉暦以来、中国王朝が制定した暦(中国暦、日本では漢暦とも呼称)をそのまま導入し和暦として使用した。しかし貞観4年(862年)に導入された宣明暦への改暦以後、およそ800年あまりにもわたって宣明暦を使用し続けた結果、江戸時代のはじめには太陽の運行予測に約2日のずれが生じていた。宣命暦の暦法による太陽暦の一年は実際よりもごくわずかに長く、そのごくわずかな違いが800年余りの時を経て積み重なったことにより、約2日の遅れとなっていたのである。", "title": "日本の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そこで貞享元年(1685年)10月、渋川春海の意見によりようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の授時暦)である貞享暦への改暦が実現した(頒暦はその翌年)。以来、貞享暦(貞享2年 - 宝暦4年)、宝暦暦(宝暦5年 - 寛政10年)、寛政暦(寛政10年 - 天保14年)、天保暦(天保15年〈弘化元年〉 - 明治5年)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「日本で使用された暦」も参照)。しかし明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦の日付)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)1月1日としたことで、その歴史に幕を閉じた。", "title": "日本の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお1873年以降、天保暦の暦法による太陰太陽暦は「旧暦」と呼ばれ、現在でも神宮暦やカレンダーに記されることがあるが、これらは何ら公的な裏付けのない暦法であることに注意すべきである。", "title": "日本の太陰太陽暦" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "中国では古来より閏月の入る太陰太陽暦が用いられてきたが、清朝の時代から始まった時憲暦では、それまでとは違う閏月の入れ方をするようになった。その理由はこの時憲暦において、二十四節気を定める方法に「定気法」を用いたからである。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "そもそも二十四節気を定める方法には、「恒気法」と「定気法」のふたつがある。これらについてごく大まかに説明すると以下の通りである。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ただし地球が太陽の周りをめぐる速度は一定では無い、すなわち黄道上を動く太陽の速度は一定ではないので、定気法に基づく節気・中気の日数の間隔は必ずしも一定しない。定気法において二十四節気を定める基準とは、「地上から見た太陽の位置や黄道がどこからどこまで移動するか」であり、その移動にどれだけの日数や時間がかかるかということではないからである。ゆえに定気法に基づく二十四節気は、ひと月分の中気から中気までの日数が、季節により約2日の幅で延びたり縮んだりする。それはたとえば以下のように、一般に出回っている太陽暦のカレンダーから中気とその日付を抜出し、並べてみてもうかがえる。現在の日本のカレンダーに記される二十四節気は定気法によるものである。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし黄道が移動すれば昼の長さも変わるので、定気法は春分や秋分の日などを正確に割出すことが出来る。それに対し恒気法は、基点とする冬至のほかは黄道の移動とは関わりなく、太陽暦の一年を24等分して定めたものなので、春分や秋分の日を正確にはあらわしていないことになる。このことから定気法は恒気法よりも、節気や中気の日付が正確に得られるとして時憲暦に用いられた。ところがこの定気法の採用が、閏月を暦に入れる上で混乱を招くことになった。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "二十四節気による閏月の入れ方は、中気が決められた月に来るかどうかで決まる。しかし定気法で割出した二十四節気を用いると、中気がひと月のうちに節気を挟んでふたつも入ったり、また本来ならば閏月は二、三年に一度の割合で暦に入っていたのが、閏月を入れたその数か月後に再び閏月を入れる必要に迫られる(中気が決められた月に来ない)という現象を引き起したのである。これは上で述べたように、定気法では中気から中気への日数が約2日の幅で変化するのが原因であった。恒気法では節気・中気がほぼ15日おきに定まったことにより、こうした問題は起こらなかったのである。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "よって従来からの閏月の入れ方は通用しなくなり、時憲暦では閏月の入れ方を新たに工夫しなければならなくなった。そして以下の手段が講じられた。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "まず冬至を十一月の中気として定める。これは何があろうと冬至を含む月は十一月として動かさないということである。そして再び十一月が来るまでの間が13か月になったら、中気が来ない月を閏月とする。また中気が来ない月が二つ出来るようであれば、はじめの中気が来ない月だけを閏月とする。表を用いて解説すると以下のようになる。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "表には便宜上(1)からはじまる番号を付けた。(1)の十一月から次の年の(14)の十一月に至る前までの月数は、通常ならば12か月〈(1)〜(12)〉である。しかし冬至から次の年の冬至へ至る日数(太陽暦の一年)よりも、朔望月による一年(太陰暦の一年)のほうが短いので、そのまま暦を使い続けると、冬至を含む月(14)がひと月分あとにずれて13か月〈(1)〜(χ)〉となる。そこで(2)から(12)までの各月で、決められた中気の来ない月を(χ)の閏月とする。要するに冬至を十一月に固定したことで、暦と季節のずれは(2)から(12)のあいだでどうにかするようになったのである。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本では天保暦が、時憲暦と同じく定気法を用いている。日本の暦も天保暦より前の暦では恒気法であった。しかし天保暦も結局は、ひと月のうちに中気がふたつ入る例を作り、閏月も従来からの入れ方では通らなくなった。時憲暦と天保暦が定気法を採用したのは、いずれも当時の西洋天文学の影響による。広瀬秀雄は定気法の採用について、「暦法は規則性を尊ぶということを考えるなら、定気の採用は、暦法精神の退化を示すもの」と評している。", "title": "定気法の採用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本の歴史で明治5年以前、明治4年までの年については、グレゴリオ暦による西暦を単純に当てはめると不適切な場合がある。例えば寛永7年は、グレゴリオ暦では1630年2月12日から1631年1月31日までの間に当たり、寛永7年の年末はグレゴリオ暦で1631年となる。つまり太陰太陽暦の年末は、西暦ではすでに新年を迎え次の年になっているので、日本の歴史上の出来事を西暦の何年と当てはめる際には、それに注意しなければならないということである。", "title": "明治5年以前の日付の留意点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "赤穂浪士の討ち入りの日を「元禄15年(1702年)12月14日」とするのを見ることがあるが、元禄15年12月はグレゴリオ暦では1703年の1月〜2月に当たるので、1702年とするのは不適切である。また元禄15年の12月14日はグレゴリオ暦の日付では1月30日にあたるが、討ち入りしたとき既に深夜0時を過ぎていたので、討ち入りは「1月31日」の出来事になる。よって赤穂浪士の討入りの日付を文献史料などに記載する場合には、「元禄15年12月14日(1703年1月31日未明)」とするのが最も適切である。", "title": "明治5年以前の日付の留意点" } ]
太陰太陽暦とは、太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月を入れ、月日を定める暦(暦法)のこと。
{{Today/旧暦/CE/AH}} '''太陰太陽暦'''(たいいんたいようれき、{{Lang-en-short|lunisolar calendar}})とは、[[太陰暦]]を基とするが、太陽の動きも参考にして[[閏月]]を入れ、月日を定める[[暦]]([[暦法]])のこと。 == 概説 == [[紀元前]]の古代で行われていた暦は、その多くが月の満ち欠けの繰返しで成り立つ「太陰暦」であった。「太陰」とは空にある[[月]]のことである。しかし、29日または30日からなる「月」を12回繰り返して「一年」とする「太陰暦」では、一年が約354日であり、[[太陽暦]]の一年に比べて約11日短く、3年ごとに約1か月のずれとなる。このずれを放っておくと暦が季節と大きく食い違ってしまう。そこで太陽の運行を参考にしつつ「閏月」(うるうづき)という「月」を挿入し、1年を13か月にすることによって暦と季節のずれを正す方法が図られた。「太陰暦」に基づくが太陽暦の要素も取り入れている暦なので、閏月のない「太陰暦」と区別して「太陰太陽暦」という。ただし太陰太陽暦は「太陽暦」と対比して単に「太陰暦」とも呼ばれている。[[イスラム教|イスラーム]]に関する事柄で「太陰暦」といえば閏月のない純粋太陰暦([[ヒジュラ暦]])を指す。日本において「太陰暦」とは、専ら太陰太陽暦のことをいう<ref>『西域物語』([[本多利明]]著、[[寛政]]10年〈1798年〉序)には「欧羅巴暦を太陽暦といふ、日本暦を太陰暦といふ也」とある[{{NDLDC|950395/96}}]。明治5年の太政官布告第三百三十七号にも、「今般太陰暦ヲ廃シ、太陽暦御頒行相成候ニ付…」とあり、この「太陰暦」は太陰太陽暦([[天保暦]])のことを指す。『[[日本国語大辞典]]』8([[小学館]])では「太陰太陽暦」の項は説明だけで語例はなく、「太陰暦」と「太陽暦」の項は『[[西洋事情]]』([[福沢諭吉]]著)や上記の太政官布告第三百三十七号などを引き、いずれも太陰太陽暦である天保暦を「太陰暦」と呼ぶ例が取り上げられている。</ref>。 古代では天体を観測して閏月をいつ入れるかが決められた。後に[[メトン周期]]が発見されると、その原理に基づいて閏月を挿入する時期([[置閏法]])が決められるようになった。やがて[[古代ローマ]]において[[ユリウス・カエサル]]が暦を太陽暦に切り替えた後は、ヨーロッパの多くの地域で太陽暦が用いられ、中世にはそれが[[グレゴリオ暦]]となり現在に至っている。 ヨーロッパでは太陽暦が広く用いられるようになった一方で、[[中国大陸]]や日本などの東アジアの地域では太陰太陽暦がそのまま公式に使われ続け、閏月を暦に入れるため[[二十四節気]]が用いられた。閏月の有無で1年の日数に差が出ることなどから、現在太陰太陽暦を正式に用いている国はないといわれるが<ref>『[[世界大百科事典]]』16(平凡社、2007年)、「太陰太陽暦」(内田正男)の項。</ref>、中国をはじめ日本を除くアジア全域では、太陰太陽暦に基づく新年([[春節]])が現在でも祝われている。日本では[[明治6年]](1873年)から暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替え、以後は太陽暦が公式なものとして用いられている。 == 古代における暦の運用 == 人が最初に季節を知るための手がかりとしたのは、空の星であったといわれているが、さらに月の満ち欠けも日にちを数える手がかりとして使われ、この月の満ち欠けをもとに世界各地で「太陰暦」という暦が作られるようになった。 天体の月が最も欠けた状態を「朔」(さく)と言い、この「朔」から約15日たつと満月になる。これを「望」(ぼう)という。「望」からまた約15日たつと「朔」となる。この「朔」→「望」→「朔」の約30日間を「一か月」とし、これを12回繰り返すことで「一年」とする。「太陰暦」とは本来このようなものである。「朔」から「朔」へ戻る周期、すなわち「太陰暦」の一か月を「[[朔望月]]」という。この朔望月は暦の上では「30日」か「29日」のどちらかになる。そして後世「30日」は「大の月」、「29日」は「小の月」と呼ばれている。一年のうちで「30日」と「29日」になる順番は年ごとに変わる。 しかしこの「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を1周する日数(太陽暦の一年)の間で決まる。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を1周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の1年を13か月にする方法が多く取られた。1年の日数を1か月分増やすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また1年を13か月にする。本来の12か月のほかに挿入された「月」のことを「閏月」と呼び、「○月」の次の月を閏月にする場合は、その月のことを「閏○月」と呼ぶ。 世界で最も古くから「太陰暦」を用いていたのは、[[メソポタミア文明]]をつくった[[シュメール人]]であるが、彼らが暦と季節のずれをどのように正していたのかは明らかではない。[[紀元前2000年]]ごろの[[バビロニア]]では太陰太陽暦を用いていたが、暦と季節のずれに対しては当初、適当に日や閏月を足して済ませていた。やがてバビロニア人は、19年のあいだに7回、閏月を暦に入れるとほぼ誤差なく暦を運用できる[[メトン周期]]の原理に気付き、これに沿って閏月を暦に入れるようになった。メトン周期とは、地球が太陽の周りを19回めぐる日数(太陽暦の19年)は、月の満ち欠けによる235か月(太陰暦の19年と7か月)の日数とほぼ等しいというものである。「メトン」とは[[バビロン]]でこの原理を知りギリシアに持ち帰った天文学者[[メトン]]の名に由来する。 このメトン周期の原理は世界各地でも知られるようになり、古代中国でも[[殷]]の時代には天体を観測して暦と季節のずれに注意し、閏月が必要になれば十二月の次にひと月たして13か月にしていたが、[[春秋時代]]にはメトン周期の原理に基づいて閏月を暦に置いている。[[古代ギリシア]]で使われた暦も、暦法にこのメトン周期の影響を受けたといわれる。 なお[[新バビロニア|新バビロニア王国]]の暦法は[[バビロン捕囚]]中の[[ユダヤ人]]に受け継がれ、現在の[[ユダヤ暦]]に引き継がれている。<!--この暦では年初の基準点が一貫して[[春分]]に置かれていたことが特徴的である。-->しかしイスラム教が広まった地域では、公式な暦としては純粋太陰暦であるヒジュラ暦が、準公式・非公式な暦としては太陽暦([[イラン暦]]、[[ルーミー暦]]など)が用いられるようになり、ユダヤ人社会を除く[[西アジア]]で太陰太陽暦が用いられることはなくなっている。 == 天体観測と暦の修正 == 「太陰暦」において暦と季節のずれを正すには、空の月以外のものを見なければならないが、それは同じく空にある太陽や星の位置によってであった。人々はまず季節を知る手がかりとして、自らが住む場所で見る星の位置や、その星の見える時期を以って今がいつごろの季節なのかを判断した。さらに太陽も季節の変わり目を知る手がかりとなった。夏は日が長く、冬は日が短いが、一年のうちで最も日の長いのはいつか、最も日の短いのはいつかといったことを、長い年代をかけて見出していったと見られる。それがのちに「[[夏至]]」や「[[冬至]]」といわれるようになり、また昼と夜の時間が同じになる頃は「[[春分]]」や「[[秋分]]」と呼ばれている。そして「太陰暦」に起こる暦と季節のずれを正すために、これら天体の観測が利用された。メトン周期の原理も、こうした天体観測を重ねてわかったことである。また太陽と星の観測はやがて二十四節気を生み出し、これが太陰太陽暦に用いられることになる。 『[[書経]]』の「堯典」には中国神話に登場する伝説の帝・[[堯]]が、四方の神ともいわれる義氏と和氏に対して、日の長さと星の見える時期により、暦を定め国土を治めるよう命じたとされている。その暦に関わる箇所のみを抜き出せば以下の通りである(対訳が続く)<ref>{{Cite book |title=尚書 : 虞書 : 堯典 |url=https://ctext.org/shang-shu/canon-of-yao/zh |publisher=中國哲學書電子化計劃 |language=zh-TW}}</ref>。 {{Flexbox| {{Flex-item|basis=20em| {{Poemquote| 日中、星鳥、以殷仲春 {{Interp|中略|和文=1}} 日永、星火、以正仲夏 {{Interp|中略|和文=1}} 宵中、星虚、以殷仲秋 {{Interp|中略|和文=1}} 日短、星昴、以正仲冬 {{Interp|中略|和文=1}} 朞三百有六旬有六日、以閏月定四時、成歳 }} }} {{Flex-item|basis=20em| {{Poemquote| 昼と夜が同じ長さで、鳥の星が夕暮れの空に見えたら春分とせよ {{Interp|中略|和文=1}} 日が長く、火の星が空に見えたら夏至とせよ {{Interp|中略|和文=1}} 夜と昼が同じ長さで、虚の星が見えたら秋分とせよ {{Interp|中略|和文=1}} 日が短く、昴の星が見えたら冬至とせよ {{Interp|中略|和文=1}} 一年の日数を三百六十六日とし、閏月を入れて暦が四季と合うように定めよ }} }} }} これらは日の長短と「鳥」「火」「虚」「昴」という星々を観測することにより、春分・夏至・秋分・冬至それぞれの日を定めるとしている。これらの星の観測は紀元前2000年前後にまでさかのぼるが、「朞三百有六旬有六日」云々のくだりは一年を366日としていることから、後世の知識が入っているとされている。『[[淮南子]]』天文訓には二十四気(二十四節気)について、十五日を経て空の星を見ることで、「冬至」をはじめとする二十四気の日がわかるとしている。 古代バビロンとインドの太陰太陽暦は、二十四節気ではなく[[黄道十二宮]]によって閏月を暦に入れている。バビロンでは[[セレウコス朝]]以後([[紀元前312年]]以降)にメトン周期の原理が用いられたが、それより前の暦ではこの黄道十二宮に基づいて太陽の位置を計算し、閏月を暦に置くことがあった。 == 太陽暦への切替え == [[ローマ暦|古代ローマの暦]]は当初、春を年初として朔望月に基づく10か月を定め、あとは適当に日数を加えて一年とする運用をしていたが、紀元前8世紀の頃には一年を12か月355日とする太陰太陽暦が用いられるようになった。しかし毎年[[コンスル]]が交代する[[共和政]]のローマ社会では、[[政治家]]や神官が暦を[[政争]]の具とし、日にちや閏月の挿入を恣意的に繰り返した。その結果、ユリウス・カエサルがローマで権力を手にした頃には、暦が実際の季節から3か月もずれるという事態になっていた。そこでカエサルは[[紀元前46年]]、天文学者[[ソシゲネス]]の意見に従ってこの年の日数を445日にまで引き伸ばし、翌[[紀元前45年]]から暦を朔望月に拠らない太陽暦に移行させた。これが[[ユリウス暦]]である。この暦は一年を約365日とし、四年に一度、二月に[[閏日]]を入れるなど、現行で使われる太陽暦の原型となるものであった。 その後、ローマ帝国領で発展した[[キリスト教]]でもユリウス暦を採用することになった。しかし[[新約聖書]]に記される[[イエス・キリスト]][[復活 (キリスト教)|復活]]の日は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づくので、キリスト教最大の祝祭である[[復活祭]]を行うためには、太陽暦のユリウス暦だけではどうしても不足があった。そこでユリウス暦をもとに春分の日を[[3月21日]]に「固定」した上で、月の朔望を考慮し春分直後の[[満月]]の日を計算することにより、復活祭の日付を算出した。この計算方法を[[エパクト]]と言い、[[教会暦]]の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で現在のグレゴリオ暦に至る[[ヨーロッパ]]の暦は、宗教面では太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。 なおユリウス暦は中世ヨーロッパの時代に至って暦法に問題ありとされ、[[1582年]]、[[ローマ教皇]][[グレゴリオ13世]]の名のもとに[[改暦]]が行われた。これがグレゴリオ暦であるが、当時[[プロテスタント]]を信仰する国では[[カトリック]]に対する反発から、グレゴリオ暦をなかなか受け入れようとはせず、[[イギリス]]もグレゴリオ暦に改めたのは[[1752年]]にもなってからであった。これは[[正教会]]が布教を行う地域でも同様で、[[ロシア]]や[[ルーマニア]]では[[1910年代]]まで、[[ギリシャ]]は[[1924年]]までユリウス暦を用いている<ref>『暦の歴史』(『知の再発見双書』96)84 - 85頁。</ref>。 こうしてヨーロッパの地域ではユダヤ暦を除いて太陽暦が広く用いられることになったが、東アジア地域では近代に至るまで閏月の入る太陰太陽暦が公式に使い続けられた。 == 中国の太陰太陽暦 == {{main|中国暦}} 中国大陸でも有史以来、朔望月による「太陰暦」が使われ、暦と季節のずれを正すための閏月が暦に入れられた。メトン周期の原理が知られるより前には、暦にいつ閏月を入れるかについては冬至を基準にして定めることがあった。冬至の日を一年の日数の始まりとし、冬至が含まれる月を決めておく(後代では冬至がくるのは十一月としている)。そして暦をそのまま使い続けると、「太陰暦」の一年は冬至がふたたび来る日数(太陽暦の一年)より短いので、その決められた月に冬至が来なくなる。そこでその年を閏月の入る年にして、年末に閏月を置き一年を13か月とした。冬至がいつ来るかの判断は天体の観測による。中国では古来より冬至が暦の基準として重んじられており、これはのちの[[時憲暦]]にも受け継がれている。 やがて中国でメトン周期が知られるようになると、この原理に従って19年の間に7回、閏月を置くようになった。これを「章法」という。しかし「太陰暦」の19年と7か月は、じつはわずかながら地球が太陽を19回まわる日数(太陽暦の19年)より長い。たとえわずかでも長年にわたってそのまま暦を使い続ければ、暦と季節のあいだに大きなずれを生むことになる。それに気付いた当時の人々は、暦に閏月の入る割合を減らすことで対処した。これを「破章法」という。 ただし上で述べた閏月の入れ方だと、年によってはひと月も暦が実際の季節からずれることがあった。そこで暦に二十四節気が用いられた。二十四節気は地球が太陽を1周する日数を24等分、約15日毎に分けたもので、約15日ごとに「[[立春]]」をはじめとする名称を付け、節気(正節)と中気が交互に来るようにしている。その二十四節気を実際の季節の目安としたのである。 そしてさらに、二十四節気の中気で以って閏月を入れるかどうかを決めるようになった。正節(節気)から次の正節までの間を[[節月]]という。節月は約30日であり、朔望による1か月よりも長い。よって暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月を閏月とし、また月名もその月に含まれる中気によって決め、例えば「雨水」を含む月を「一月」(正月)とした。この暦法によって閏月を年末ではなく年中に置き、暦と季節のずれもおおむね半月程度に抑えることが出来るようになった。月名と節気・中気の組合せは以下の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 月名 !! 一月 !! 二月 !! 三月 !! 四月 !! 五月 !! 六月 !! 七月 !! 八月 !! 九月 !! 十月 !! 十一月 !! 十二月 |- ! 節気 | 立春 || 啓蟄 || 清明 || 立夏 || 芒種 || 小暑 || 立秋 || 白露 || 寒露 || 立冬 || 大雪 || 小寒 |- ! 中気 | 雨水 || 春分 || 穀雨 || 小満 || 夏至 || 大暑 || 処暑 || 秋分 || 霜降 || 小雪 || 冬至 || 大寒 |} 中国大陸では幾度となく改暦を経ながらも、太陰太陽暦が長らく公式に使われてきたが、[[宣統]]3年(1911年)、[[南京]]に[[中華民国]]臨時政府が起り、この年の11月13日を以って暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に改め、1月1日とした。しかし太陰太陽暦を古来より使い続け生活してきた一般民衆にとっては、そう簡単に太陽暦へ暦を切替えることはできず、太陽暦はなかなか普及しなかった。その後紆余曲折を経て太陽暦が公式の暦として定まるようにはなったが、中国では現在も太陽暦のほかに、「春節」と称して太陰太陽暦(時憲暦)に基づく新年が祝われている。 == 日本の太陰太陽暦 == [[ファイル:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|300px|西暦[[1895年]]に締結された[[下関条約]]の調印書。見開き右頁の最後に記された締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「[[明治]]二十八年四月十七日」となっているのに対し、太陰太陽暦(時憲暦)を採用していた[[清国]]の日付は「[[光緒]]二十一年三月二十三日」となっている。]] [[日本]]では[[飛鳥時代]]の[[元嘉暦]]以来、中国王朝が制定した暦([[中国暦]]、日本では'''漢暦'''とも呼称)をそのまま導入し[[和暦]]として使用した。しかし[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])に導入された[[宣明暦]]への改暦以後、およそ800年あまりにもわたって宣明暦を使用し続けた結果、[[江戸時代]]のはじめには太陽の運行予測に約2日のずれが生じていた。宣命暦の暦法による太陽暦の一年は実際よりもごくわずかに長く、そのごくわずかな違いが800年余りの時を経て積み重なったことにより、約2日の遅れとなっていたのである<ref>『暦』(『日本史小百科』)78 - 79頁。</ref>。 そこで貞享元年([[1685年]])10月、[[渋川春海]]の意見によりようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の[[授時暦]])である[[貞享暦]]への改暦が実現した(頒暦はその翌年)。以来、貞享暦(貞享2年 - [[宝暦]]4年)、[[宝暦暦]](宝暦5年 - [[寛政]]10年)、[[寛政暦]](寛政10年 - 天保14年)、[[天保暦]](天保15年〈[[弘化]]元年〉 - 明治5年)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「[[太陰太陽暦#日本で使用された暦|日本で使用された暦]]」も参照)。しかし明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]](天保暦の日付)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)[[1月1日]]としたことで、その歴史に幕を閉じた。 なお1873年以降、天保暦の暦法による太陰太陽暦は「[[旧暦]]」と呼ばれ、現在でも[[神宮暦]]や[[カレンダー]]に記されることがあるが、これらは何ら公的な裏付けのない暦法であることに注意すべきである<ref>『現在、日本で「公式な」太陰太陽暦の計算というものはおこなわれていません。そのため国立天文台でも、「今日は旧暦の何日か?」などの、太陰太陽暦に関するお問い合わせには、はっきりとしたお答えができないことがありますことをご理解ください』([https://www.nao.ac.jp/faq/a0304.html 国立天文台、質問3-4「旧暦」ってなに?] より)。グレゴリオ暦の項も参照。</ref>。 == 定気法の採用 == 中国では古来より閏月の入る太陰太陽暦が用いられてきたが、清朝の時代から始まった時憲暦では、それまでとは違う閏月の入れ方をするようになった。その理由はこの時憲暦において、二十四節気を定める方法に「[[定気法]]」を用いたからである。 そもそも二十四節気を定める方法には、「[[恒気法]]」と「定気法」のふたつがある。これらについてごく大まかに説明すると以下の通りである。 * 恒気法 - 地球が太陽を1周する日数(太陽暦の一年)を24等分し、これに冬至をはじめとする二十四節気をほぼ15日ごとに当てはめる。中国では時憲暦より以前に使われた方法。 * 定気法 - <!--中国では時憲暦以降の暦で使われる方法。-->「夏は日が高い、冬は日が低い」というように、同じ時刻でも空にある太陽の位置は日毎に移り変わる。この太陽の位置に基づき太陽暦の一年を24に区切り、これに冬至をはじめとする二十四節気を当てはめる。要するに実際の太陽の動きに合わせて二十四節気それぞれの日を定めている。なお地球上から見た太陽が空をわたる軌道を「[[黄道]]」と言い、この黄道上の太陽の位置も日毎に移り変わっていることになる<ref>実際には地球が太陽の周りを廻っているので太陽や黄道自体が移動するわけではなく、太陽や黄道の位置が移り変わるというのは「あくまでも地球上の、ひとつの場所から太陽を見た場合の見せかけの動き」ということである。</ref>。 ただし地球が太陽の周りをめぐる速度は一定では無い、すなわち黄道上を動く太陽の速度は一定ではないので、定気法に基づく節気・中気の日数の間隔は必ずしも一定しない。定気法において二十四節気を定める基準とは、「地上から見た太陽の位置が黄道上のどこからどこまで移動するか」であり、その移動にどれだけの日数や時間がかかるかということではないからである。ゆえに定気法に基づく二十四節気は、ひと月分の中気から中気までの日数が、季節により約2日の幅で延びたり縮んだりする。それはたとえば以下のように、一般に出回っている太陽暦のカレンダーから中気とその日付を抜出し、並べてみてもうかがえる。現在の日本のカレンダーに記される二十四節気は定気法によるものである。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! 中気 !! 日付 !! 次の中気に至るまでの日数 |- | 冬至 || (2015年)12月22日 || 30日 |- | 大寒 || (2016年)1月21日 || 29日 |- | 雨水 || (2016年)2月19日 || 30日 |- | 春分 || (2016年)3月20日 || 31日 |- | 穀雨 || (2016年)4月20日 || 30日 |- | 小満 || (2016年)5月20日 || 32日 |- | 夏至 || (2016年)6月21日 || 31日 |- | 大暑 || (2016年)7月22日 || 32日 |- | 処暑 || (2016年)8月23日 || 30日 |- | 秋分 || (2016年)9月22日 || 31日 |- | 霜降 || (2016年)10月23日 || 30日 |- | 小雪 || (2016年)11月22日 || 29日 |} しかし黄道が移動すれば昼の長さも変わるので、定気法は春分や秋分の日などを正確に割出すことが出来る。それに対し恒気法は、基点とする冬至のほかは黄道の移動とは関わりなく、太陽暦の一年を24等分して定めたものなので、春分や秋分の日を正確にはあらわしていないことになる。このことから定気法は恒気法よりも、節気や中気の日付が正確に得られるとして時憲暦に用いられた。ところがこの定気法の採用が、閏月を暦に入れる上で混乱を招くことになった。 二十四節気による閏月の入れ方は、中気が決められた月に来るかどうかで決まる。しかし定気法で割出した二十四節気を用いると、中気がひと月のうちに節気を挟んでふたつも入ったり、また本来ならば閏月は二、三年に一度の割合で暦に入っていたのが、閏月を入れたその数か月後に再び閏月を入れる必要に迫られる(中気が決められた月に来ない)という現象を引き起したのである。これは上で述べたように、定気法では中気から中気への日数が約2日の幅で変化するのが原因であった。恒気法では節気・中気がほぼ15日おきに定まったことにより、こうした問題は起こらなかったのである。 よって従来からの閏月の入れ方は通用しなくなり、時憲暦では閏月の入れ方を新たに工夫しなければならなくなった。そして以下の手段が講じられた。 まず冬至を十一月の中気として定める。これは何があろうと冬至を含む月は十一月として動かさないということである。そして再び十一月が来るまでの間が13か月になったら、中気が来ない月を閏月とする。また中気が来ない月が二つ出来るようであれば、はじめの中気が来ない月だけを閏月とする。表を用いて解説すると以下のようになる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! <small>(番号)</small> !! (1) !! (2) !! (3) !! (4) !! (5) !! (6) !! (7) !! (8) !! (9) !! (10) !! (11) !! (12) !! (χ) !! (14) |- ! 月名 | '''十一月''' || 十二月 || 一月 || 二月 || 三月 || 四月 || 五月 || 六月 || 七月 || 八月 || 九月 || 十月 || '''閏月''' || '''十一月''' |- ! 中気 | '''冬至''' || 大寒 || 雨水 || 春分 || 穀雨 || 小満 || 夏至 || 大暑 || 処暑 || 秋分 || 霜降 || 小雪 || 無し || '''冬至''' |} 表には便宜上'''(1)'''からはじまる番号を付けた。'''(1)'''の十一月から次の年の'''(14)'''の十一月に至る前までの月数は、通常ならば12か月〈'''(1)'''〜'''(12)'''〉である。しかし冬至から次の年の冬至へ至る日数(太陽暦の一年)よりも、朔望月による一年(太陰暦の一年)のほうが短いので、そのまま暦を使い続けると、冬至を含む月'''(14)'''がひと月分あとにずれて13か月〈'''(1)'''〜'''(χ)'''〉となる。そこで'''(2)'''から'''(12)'''までの各月で、決められた中気の来ない月を'''(χ)'''の閏月とする。要するに冬至を十一月に固定したことで、暦と季節のずれは'''(2)'''から'''(12)'''のあいだでどうにかするようになったのである。 日本では天保暦が、時憲暦と同じく定気法を用いている。日本の暦も天保暦より前の暦では恒気法であった。しかし天保暦も結局は、ひと月のうちに中気がふたつ入る例を作り、閏月も従来からの入れ方では通らなくなった。時憲暦と天保暦が定気法を採用したのは、いずれも当時の西洋天文学の影響による。[[広瀬秀雄]]は定気法の採用について、「暦法は規則性を尊ぶということを考えるなら、定気の採用は、暦法精神の退化を示すもの」と評している<ref>『暦』(『日本史小百科』)95頁。</ref>。 == 明治5年以前の日付の留意点 == 日本の歴史で[[明治5年]]以前、[[明治4年]]までの年については、グレゴリオ暦による[[西暦]]を単純に当てはめると不適切な場合がある。例えば[[寛永]]7年は、グレゴリオ暦では[[1630年]]2月12日から[[1631年]]1月31日までの間に当たり、寛永7年の年末はグレゴリオ暦で1631年となる。つまり太陰太陽暦の年末は、西暦ではすでに新年を迎え次の年になっているので、日本の歴史上の出来事を西暦の何年と当てはめる際には、それに注意しなければならないということである。 [[赤穂事件#討ち入り|赤穂浪士の討ち入り]]の日を「[[元禄]]15年([[1702年]])[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]」とするのを見ることがあるが、元禄15年12月はグレゴリオ暦では[[1703年]]の1月〜2月に当たるので、1702年とするのは不適切である。また元禄15年の12月14日はグレゴリオ暦の日付では1月30日にあたるが、討ち入りしたとき既に深夜0時を過ぎていたので、討ち入りは「1月31日」の出来事になる<ref>明治以前の慣習として、夜明け前までを前日としていたので12月14日のこととされており、そこからグレゴリオ暦で「1月30日」とする例も見られるが、現在の時間概念から見れば厳密には1月31日のことである。</ref>。よって赤穂浪士の討入りの日付を文献史料などに記載する場合には、「元禄15年12月14日([[1703年]][[1月31日]]未明)」とするのが最も適切である<ref>[http://blog.livedoor.jp/mizuho1582/archives/50337846.html 季節はずれの赤穂浪士の討ち入り]</ref><ref>[[高島俊男]]『お言葉ですが…(9) 芭蕉のガールフレンド』(『文春文庫』、2008年6月) ※「佐々成政の峠越え」(p.202-) ISBN 978-4-16-759810-5</ref>。 == 太陰太陽暦に基づく暦法 == === 世界各地の暦 === * [[中国暦]] * [[チベット暦]] * [[バビロニア暦]] * [[ユダヤ暦]] * [[ギリシア暦]] ** [[アッティカ暦]] * [[ローマ暦]] * [[マケドニア暦]] * [[ヒンドゥー暦]] === 日本で使用された暦 === * [[元嘉暦]] * [[儀鳳暦]](麟徳暦) * [[大衍暦]] * [[五紀暦]] * [[宣明暦]] * [[貞享暦]] * [[宝暦暦]] * [[寛政暦]] * [[天保暦]] - 現在、「旧暦」として言及される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * 広瀬秀雄 『暦』〈『日本史小百科』〉 東京堂出版、1978年 * Samuel A.Goudsmit / Robert Claiborne 『時間の測定』〈『ライフ / 人間と科学シリーズ』〉 タイムライフブックス、1982年 ※日本語版、小野健一監修 * 薮内清 『増補改訂 中国の天文暦法』 平凡社、1990年 * ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン 『暦の歴史』〈『知の再発見双書』96〉 創元社、2001年 ※池上俊一監修、南條郁子訳 * 岡田芳朗 『アジアの暦』〈『あじあブックス』〉 大修館書店、2002年 == 関連項目 == * [[閏月]] * [[二十四節気]] * [[旧暦]] ** [[天保暦]] ** [[旧暦360日]] ** [[旧暦2033年問題]] * [[太古暦]] * [[新暦]] * [[西暦]] * [[大小暦]] * [[平気法]] * [[定気法]] <!--* [[ツァドク暦]]--> == 外部リンク == * [http://hosi.org When.exe Ruby版] : 古今東西あらゆる文化および言語で用いられた暦日・暦法・時法・暦年代・暦注などにユニークな名前付けを行い、統一的に扱うことを目的としたフレームワーク。新暦旧暦みならず、古代暦の相互換算にも対応。 * [https://astro-dic.jp/luni-solar-calendar/ 太陰太陽暦] : 天文学辞典 {{暦}} {{Chronology}} {{Time measurement and standards}} {{デフォルトソート:たいいんたいようれき}} [[Category:太陰太陽暦|*]] [[Category:天文学に関する記事]]
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天気図
天気図(てんきず、英: weather map、weather chart)とは、さまざまな規模の気象現象を把握するために、地図上に天気、気圧、等圧面における高度、気温、湿数、渦度などの値を、等値線その他の形で記入した図のことである。 1820年にブランデス(ドイツ語版、英語版)が観測データを郵送などで集めて発表した天気図が世界初とされる。日本で初めて天気図を作成した人物は、ドイツ人のエルヴィン・クニッピングである。 毎日、世界時0時と12時、加えてその間の3時間ごと(日本時間では、朝3時から夜21時)に、世界中の地上気象観測地点数千箇所で、気象観測データをまとめて送信する。また、海上の船舶、上空の観測気球などからもデータが集められる。各地域の気象機関は、そのうち必要なデータを使用して天気図を作成し、現在の気象の解析や今後の気象の予報に利用する。 データの解析にコンピュータを使用することはあるが、天気図の作成には熟練した技術も必要であり、手書きに頼る部分もまだ残されている。 主要地点の気象観測データは、ファクシミリや無線などでも配信されている。気象関係者以外でも入手することができるので、天気図作成の知識があれば誰でも天気図を作成することができる。 一般に用いられる天気図は地上天気図であり、等圧線の形で気圧が記入されている他に、前線や天気記号、低気圧や台風などの大気擾乱の位置がプロットされている。一般的に、「天気図」といえば地上天気図のことを指す。 天気図には、地上天気図のほかに高層天気図がある。また、現在の気象の状態を表す実況天気図に対して、近い将来の気象の状態を表す予想天気図も使われている。 また、地上天気図や高層天気図などにおいては、世界的には世界気象機関(WMO)が統一基準を定めた国際式天気図が用いられている。日本では、地上天気図に限り、一般向けにより簡易で分かりやすい日本式天気図も用いられている。 天気図では、気象衛星画像との比較をしやすくしたり、風向などが図上に正しく記入できるよう、緯度ごとに異なる図法を使用している。中緯度の天気図においては、ランベルト正角円錐図法が最もよく使用される。 複数の図を組み合わせたものも多用される。このほかにも、気象機関によってさまざまな種類の天気図が作成されている。 このほか、天気図と気象衛星の画像(雲画像)を重ね合わせて、気圧配置と雲の分布を分かりやすく表現することもあり、テレビの気象情報や新聞の天気欄などでよく見られる。 一部文献には、2月16日を「天気図記念日」とするものがあるが、これは気象庁が定めたものではない。1883年2月16日に東京気象台が試験的に手書きの天気図を作り始めたことをもって記念日としたもののように思われる。印刷して正式に発行し始めたのは同年3月1日からである。
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天気図とは、さまざまな規模の気象現象を把握するために、地図上に天気、気圧、等圧面における高度、気温、湿数、渦度などの値を、等値線その他の形で記入した図のことである。 1820年にブランデスが観測データを郵送などで集めて発表した天気図が世界初とされる。日本で初めて天気図を作成した人物は、ドイツ人のエルヴィン・クニッピングである。
[[ファイル:令和3年7月22日21時の天気図.png|thumb|令和3年7月22日21時の天気図。出典:https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/]] [[File:平成31年1月12日6時の天気図.png|thumb|平成31年1月12日6時の天気図。出典:https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/]] '''天気図'''(てんきず、{{lang-en-short|weather map、weather chart}})とは、さまざまな規模の[[気象|気象現象]]を把握するために、[[地図]]上に[[天気]]、[[気圧]]<ref group="注釈">[[海面気圧]]。[[地表]]における[[気圧]]は[[標高]]に影響されてしまうので、海抜0mにおける値に更正される。</ref>、[[等圧面]]における高度、気温、[[湿数]]、[[渦度]]などの値を、[[等値線]]その他の形で記入した[[図]]のことである。 1820年に{{仮リンク|ハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデス|de|Heinrich Wilhelm Brandes|en|Heinrich Wilhelm Brandes|label=ブランデス}}が観測データを郵送などで集めて発表した天気図が世界初とされる<ref>{{cite|和書 |author=饒村曜 |title=こんなにためになる気象の話 |publisher=ナツメ社 |year=2003 |isbn=4-8163-3468-8 |page=183}}</ref>。日本で初めて天気図を作成した人物は、[[ドイツ人]]の[[エルヴィン・クニッピング]]である<ref>{{Cite web|和書|url=http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/contribution/weather-chart/001.html.ja|title=1883年3月1日 : 日本で最初の天気図配布|accessdate=2022-09-20|publisher=デジタル台風}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://weathernews.jp/s/topics/201802/270165/|title=【135年前の3月1日】初めて印刷された日本の天気図とは?|accessdate=2022-09-20|publisher=ウェザーニュース}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.weather-service.co.jp/topic/11108/|title=天気図事始め|accessdate=2022-09-20|publisher=気象サービス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sai-junshin.ac.jp/fd_sd/6403/|title=天気図を愉しむ|accessdate=2022-09-20|publisher=埼玉純真短期大学|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220920172416/https://www.sai-junshin.ac.jp/fd_sd/6403/|archivedate=2022-09-20}}</ref>。 == 概要 == 毎日、[[世界時]]0時と12時、加えてその間の3時間ごと(日本時間では、朝3時から夜21時)に、世界中の地上気象観測地点数千箇所で、気象観測データをまとめて送信する。また、海上の船舶、上空の観測気球などからもデータが集められる。各地域の気象機関は、そのうち必要なデータを使用して天気図を作成し、現在の気象の解析や今後の気象の予報に利用する。 データの解析に[[コンピュータ]]を使用することはあるが、天気図の作成には熟練した技術も必要であり、手書きに頼る部分もまだ残されている<!--いつの時点? この記述はもう古いのでは?-->。 主要地点の気象観測データは、ファクシミリや無線などでも配信されている。気象関係者以外でも入手することができるので、天気図作成の知識があれば誰でも天気図を作成することができる。 == 天気図の種類と分類 == 一般に用いられる天気図は'''[[地上天気図]]'''であり、[[等圧線]]の形で[[気圧]]が記入されている他に、[[前線 (気象)|前線]]や[[天気記号]]、[[低気圧]]や[[台風]]などの[[大気擾乱]]の位置がプロットされている。一般的に、「天気図」といえば地上天気図のことを指す。 天気図には、地上天気図のほかに[[高層天気図]]がある。また、現在の気象の状態を表す[[実況天気図]]に対して、近い将来の気象の状態を表す[[予想天気図]]も使われている。 また、地上天気図や高層天気図などにおいては、世界的には[[世界気象機関]](WMO)が統一基準を定めた'''[[地上天気図#国際式天気図|国際式天気図]]'''が用いられている。日本では、地上天気図に限り、一般向けにより簡易で分かりやすい'''[[地上天気図#日本式天気図|日本式天気図]]'''も用いられている。 天気図では、[[気象衛星]]画像との比較をしやすくしたり、風向などが図上に正しく記入できるよう、[[緯度]]ごとに異なる図法を使用している。中緯度の天気図においては、[[ランベルト正角円錐図法]]が最もよく使用される。 ;データの性質別 * [[実況天気図]] - 観測結果による過去の天気図。解析天気図ともいう。 * [[予想天気図]] - 観測結果を基に予想した天気図。 * [[数値予報天気図]] - 基礎資料である[[数値予報]](物理学の方程式により、風や気温などの時間変化をコンピュータで計算して将来の大気の状態を予測する方法)の計算結果から自動作成(画像化)した天気図。 ;天気図の対象となる地域別 [[Image:Surface analysis.gif|thumb|right|300px|地上天気図、アメリカ合衆国本土とその周辺、自動作成]] * [[地上天気図]] - 地上(厳密には[[重力ポテンシャル]]高度0m)の気象の状態を表した天気図。 * [[高層天気図]] - 高層の気象の状態を表した図。基準となる気圧を定め、各地点でその気圧となる高度を表した等高度図が多く用いられる。 ;表現するデータの種類別 * レーダーアメダス解析雨量図 - 気象庁が発表する雨量分布図。(地上天気図) * 卓越天気予想図 - 予想される[[天気]]の分布図。(地上天気図)運行に支障のある、気象現象と存在が予測される高度などを示す分布図。(悪天図 またはSIGWXチャート) * 降水量予想図 - 数十キロ~数百キロメートル四方ごとの平均[[降水量]]。(地上天気図) * 波浪図 - [[波]]の高さや[[風速]]などの解析・予想図。(地上天気図) * 海氷図 - [[海氷]]分布の解析・予想図。(地上天気図) * 気温図 - [[気温]]分布の解析・予想図。 * 湿数図 - [[湿数]]分布の解析・予想図。 * 海面水温図 - [[海水温]]分布図・予想図。(地上天気図) * 渦度図 - [[渦度]]の解析・予想図。 * 鉛直流図 - [[上昇気流]]の解析・予想図。 ;データの表現手法別 * 等圧線天気図 - 気圧の等しい部分を線でつなぎ、気圧を[[等圧線]]で表した図。地上天気図や圏界面高度を気圧の値で示すもので使用される。 * 等風速線天気図 - 風速の等しい部分を線でつなぎ、風速を[[風速線]]で表した図。 * 等温線天気図 - 気温や海水温の等しい部分を線でつなぎ、気温や海水温を[[等温線]]で表した図。 * 等高度線天気図 - 基準となる気圧を定め、各地点でその気圧となる高度を線でつなぎ、高度を[[高度線]]で表した図。 * 流線天気図 - 等圧線ではなく、風向に注目して風の流れを[[流線]]で表した図。等圧線の間隔が広い低緯度地域の地上天気図や高層天気図で使用される。 複数の図を組み合わせたものも多用される。このほかにも、気象機関によってさまざまな種類の天気図が作成されている。 このほか、天気図と[[気象衛星]]の画像([[雲画像]])を重ね合わせて、気圧配置と雲の分布を分かりやすく表現することもあり、テレビの気象情報や新聞の天気欄などでよく見られる。 == 天気図記念日 == 一部文献には、[[2月16日]]を「天気図記念日」とするものがある<ref>[https://weathernews.jp/s/topics/202002/150085/ 2月16日は「天気図記念日」天気図から読み取れることは?]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20180107232917/https://www.excite.co.jp/News/bit/date/0216/ 2月16日の記念日一覧] [[エキサイト]]、2018年1月7日閲覧</ref>が、これは気象庁が定めたものではない。[[1883年]][[2月16日]]に[[東京気象台]]が試験的に手書きの天気図を作り始めたことをもって記念日としたもののように思われる。印刷して正式に発行し始めたのは同年[[3月1日]]からである。 == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|group="注釈"}} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016年9月18日 (日) 06:24 (UTC)|section=1}} *気象庁 [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/tenkizu.html 天気図の解説] <!--**[http://www.data.kishou.go.jp/yohou/tenkizu/image/nihon.gif 日本式]--> <!--**[http://www.data.kishou.go.jp/yohou/tenkizu/image/symbols.pdf 国際式]--> *気象のお部屋 [http://park12.wakwak.com/~alchemist/meteo.html 天気図の解説] *気象庁 [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/symbols.html 国際式天気図記入法] 気象用語集(付録) *気象資料館 (Syster of 天気日記++) {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/variety_weather/icon/world.html |title=国際式天気記号 |date=20080223094057}} *お天気コアラ {{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~ns8m-hgc/weather-marks.htm |title=天気図に用いられる記号・記入様式|date=20000311183141}} == 関連項目 == *[[予想天気図]] *[[数値予報天気図]] *[[気象通報]] == 外部リンク == {{Commonscat|Weather and climate maps|天気と気候図}} *地上天気図 ** 気象庁[https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/ 防災気象情報 天気図] ** 気象庁[https://www.jma.go.jp/jmh/jmhmenu.html 船舶向け天気図] ** 気象庁[https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/hibiten/index.html 日々の天気図](2002年から前月までの毎日の天気図) ** いであ[https://www.bioweather.net/chart/pressure.htm 実況天気図] ** ウェザーニュース[https://weathernews.jp/s/story/ 天気図解説] ** {{国立国会図書館のデジタル化資料|12896309|天気図【全号まとめ】}} *各種天気図 ** 国際気象海洋[https://www.imocwx.com/wxfax.htm 地上・高層] ** Weather and Climate Data[http://wxmaps.org/pix/analyses 6種の実況図](英語) ** Weather and Climate Data[http://wxmaps.org/pix/forecasts 6種の予報図](英語) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんきす}} [[Category:気象学]] [[Category:気象事業]] [[Category:天気図|*]]
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レンブラント・ファン・レイン
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn オランダ語: [ˈrɛmbrɑnt ˈɦɑrmə(n)soːn vɑn ˈrɛin] ( 音声ファイル)、1606年7月15日 - 1669年10月4日)は、ネーデルラント連邦共和国(現・オランダ王国)の画家。レンブラント(Rembrandt)の通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。 レンブラントは、同じオランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の一人である。また、ヨーロッパ美術史における重要人物の一人である。 「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持ち、油彩だけでなくエッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも多くの作品を残した。絵画『夜警』(別名『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊)』)はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られ、これらはその時々の彼の内面までも伝えている。 若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による金銭的苦難に喘いだが、生前すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられていた。フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンクなどはレンブラントの弟子として知られる(#レンブラント工房参照)。なお、オランダ政府観光局による片仮名表記はレンブラント・ファン・ラインとなっている。 1606年、スペインから独立する直前のオランダ、ライデンのウェッデステーグ3番地 にて、製粉業 を営む中流階級の 父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族でパン屋を生業とする一家の娘 である母ネールチェン(コルネリア)・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグ の間に生まれた。レンブラントは夫妻の9番目の子供で、兄は4人、長女と次女は早世し三女の姉1人と妹1人がいた。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の (van Rijn)」を意味する。 1613年にラテン語学校に入学。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親はレンブラントに法律家への道を期待していたが、実際にそこに籍を置いたのはわずか数箇月にすぎず、同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校などなく、イタリア留学経験をもつ歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ(英語版)に弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が絵画やデッサンにしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している。ただしレンブラントがスヴァーネンブルフから学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした都市絵画や地獄図などには手を出していない。 3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術ですでに評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事した。この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントはカラヴァッジョ派(英語版)の明暗を用いる技法 や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう。 アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い、競い合う関係が始まった。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った。 1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウ やイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した。 この頃にはレンブラントは頭角を現し始めていた。ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも、レンブラントの名が広まる要因となった。オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの秘書官コンスタンティン・ホイヘンス(en)(数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンスは二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた。イギリスのアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスはチャールズ1世への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた。この当時の作品『アトリエにいる風景』にてレンブラントはキャンバスに向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える正装であり、すでに美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す。 ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がいずれもイタリアへ行こうとしないことに驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場ローマの美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代であったが、二人は、すでにオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また、忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。レンブラントはこれを機会にアムステルダムへ進出する決断をした。 1631年、以前から交流があった 画商にて画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(英語版)のアムステルダムにある工房に移り、ここのアトリエで肖像画を中心とした仕事をこなし始めた。 1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う解剖の講義を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作 となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た。 アイレンブルフの家に間借りしていた レンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこ(またいとこ または姪 とも)で22歳 のサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合った。彼女の父は亡くなっていたがレーワルデン市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福であった。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま結婚式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。 名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<ギャラリー>『十字架降下』<ギャラリー>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った。しかし、提督の財産目録には4点の作品が記されている。多くの弟子が門下に入り、フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンク、ヘルブラント・ファン・デン・エークハウトら50人が名を連ねた。これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた。 富と名声を得ていた レンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』<ギャラリー>『ホロフェルネスの晩餐会におけるユーディット』<ギャラリー>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品や、刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあったヨーデンブレーストラート(英語版)(聖アントニウス広小路)に、後にレンブラントの家と呼ばれることになる邸宅を1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した。これは13,000ギルダーもの費用を要し、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた。 レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った。 しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名)、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる。この年9月には母も亡くなった。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥス(英語版)だけであった。 『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した。 この頃からレンブラントの人生は暗転する。サスキアの看病や 幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える 彼は乳母として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ・ディルクス(英語版)(ヘールチェ・ディルクス) を雇った。やがてレンブラントは彼女と愛人関係となる。 彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見えるようとの要望に応えないレンブラントよりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアのフィリッポ・バルディヌッチは、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため、顧客は何箇月も拘束されたと語った。ハウブラーケンも次のようなエピソードを述べている。それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込んで出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このようなことが重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった。彼は聖書や福音書を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<ギャラリー>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった。 しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また、様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時のプロテスタント的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった。 さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? )、彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル(英語版)を新たに雇い、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たしめた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールトヘが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え、これが認められて彼女はハウダの更生施設(または精神病院)での 12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが、1654年に娘コルネリアが誕生した。 強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否、ヘンドリッキエは二度聴聞を受け、別れるように言われたが従わなかった。 しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当てもなく、邸宅の年賦支払いも滞っていた。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた。ところが、1652年に英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった。 そして7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった。競売は1656年9月に始まり、翌年までに買い叩かれた。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた 邸宅を彼は去って貧民街である ヨルダーン地区 ローゼンフラフトの街に住み着いた。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド(英語版)は厳しく、彼を画家として扱わないように定めた。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした。 このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心が損なわれることはなく、却って純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンクが急死したためである。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』(en) <ギャラリー>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数箇月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<ギャラリー>)『ホメロス』(1663年<ギャラリー>)などを描いた。 しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で 亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会(英語版)に葬られた。 1667年12月29日、トスカーナ大公国のコジモ3世がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる。 しかし彼の人生は好転しなかった。ティトゥスは1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死してしまった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った。翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなった。63歳没。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会に埋葬された。 レンブラントは生涯の創作活動において、物語、風景そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた。修辞的に言えばレンブラントの絵画は、初期の、「滑らかな」技法がもたらす奇術のような形式を持つ描画に見られる卓越した技能から、後期の、画面上に現れる豊かで多彩な「荒々しい」様がもたらす画材そのものが作り出す触覚にさえ訴えかける質感が与える幻影的手法へと進歩した。 彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることができる。作品は広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した。 ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)にはラストマンから受けた影響が色濃く現れており、また、リーフェンスも意識していたことが窺える。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。宗教画やアレゴリーを多く描き、大きさも肖像画には充分でない半分程度の大きさであるトローニー(英語版)を描いた。1626年、初めて製作したエッチングが知れ渡り、レンブラントの名声を国際的なものにした。1629年に完成させた『30枚の銀貨を返すユダ』<ギャラリー>や『アトリエにいる風景』は、光の技法と筆跡の多彩さに意識を向けていたこと、そして彼が画家として成長する過程において大きな進歩を成したことを示す アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『ベルシャザルの饗宴』(1635年<ギャラリー>)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年<ギャラリー>)、『ダナエ』(1636年)など、ピーテル・パウル・ルーベンスのバロック調をまねて大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた。時にアイレンブルフ工房の助けを借りて、レンブラントは夥しい数の肖像画を作成した。それは小さな号(『ヤコブ・デ・ヘイデン三世』、1632年<ギャラリー>)から大きなもの(『テュルプ博士の解剖学講義』1632年、『Portrait of the Shipbuilder Jan Rijcksen and his Wife』1633年)まであった。 1630年代末頃から、数点の油彩と多くのエッチングで風景画を製作した。これらはしばしば、自然のドラマ性を強調し、根こそぎの木や不吉な空(『Cottages before a Stormy Sky』1641年、『三本の木』1643年<ギャラリー>)を描いたものもある。1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した旧約聖書から、新約聖書に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した。 『夜警』後の10年間、レンブラントは様々な号、対象、形式の絵画に取り組んだ。それまでの強い光による明暗で生み出していた演劇的効果は、正面からの光源と純粋な色彩を広く多用する方式に変化した。同時に、図像が画面に平行して置かれるようになった。このような変貌は、古典的な流儀と構成に軸足を移そうとしたことの現われであり、また、画法による表現のやり方には『水浴するスザンナ』(1636年、<ギャラリー>)のようにヴェネツィア流を取り入れたような傾向が垣間見える。また同じ頃、油彩の風景画はめっきり減り、エッチングや素描に替わった。その素材も、自然のドラマ性からオランダの静かな風景へとなった。 1650年代になると、レンブラントの絵画形式はまたも変化を見せた。多彩になり、筆使いは特に変わった。この変貌によって、レンブラントは過去の作品や作風から脱皮し、ますます洗練された繊細な作品を指向するようになった。描画における彼の独創的な手法はティツィアーノ・ヴェチェッリオに通じるものがあり、それは現代でも「仕上げ」と表面処理の完成度に対する議論の中に見ることができる。当時の記録の中には、レンブラントの画法が粗雑だという批判も存在し、彼は訪問者が絵をまじまじと見ないよう遠ざけたともいう。触知できるような絵画に対する技法は、中世的な手法から得た可能性があり、絵画の表面に息吹を与える表現の模倣効果を持った。最終的な結果は、絵の具を豊富に用いて作る深い層に明らかな偶然がもたらす効果を織り交ぜつつ、奇術的かつ非常に独特な手法を合わせ持つ形式と空間を提示した。 晩年には、聖書物語に題材を求めこそすれ、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<ギャラリー>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深遠な一枚を残し、また『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』<ギャラリー>など、愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた。 レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放して実質的な製作活動ができなくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた。彼はこれを気軽に始めたが、ビュランの使い方を習ったりエングレービングに手を出して多くの作品を残したりしながら、束縛されないエッチング技法を自分のものとした。彼は印刷工程全体にも強く関わり、初期の作品では自分の手で印刷を行ったと考えられる。最初の頃、素描技法を基礎にエッチングを行っていたが、すぐに絵画技法へ変更し、固まりのような線と酸による腐食を多用して描線の強さに変化をつけた。1630年代末頃、レンブラントのエッチングは腐食をほとんど用いない簡素な形式へ変貌した。1640年代にはいわゆる『100グルテン版画』(en)を製作し、これはレンブラントがエッチングのスタイルを確立し始める「彼のキャリアにて中期に当る重要な仕事」に相当した。しかし、この版画は2つのステート(版)(en)しか残されていない。1版目の点数は非常に少ないが、これによって版元には作り直しが行われた証拠となり、多く存在する2版目の写しにない要素が残っている。 1650年代には成熟を迎え、現存する11の版画に見られるようにレンブラントは即席で大版の製作に携わり、時に根本的な変革を加えることもあった。ハッチング技術を用いて作り出した暗い部分は、時には画面の大部分を占めることもあった。また、紙にも検討を加えて効果を見極め、ヴェルムや後に多用した和紙などを試した。さらに、印刷時に平坦な部分のインクをすべて拭き取らずにあえて少々残すことで「表面トーン」 (surface tone) の効果を表した工夫も凝らした。特に風景描写にて、彼はドライポイント技法を多用し、一瞥では分かりにくいが豊かでぼやかされたぎざぎざを作り出した。 『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、1632年1月に行われた講義にて、アムステルダムの市長にも2度就任した教授のニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士が切開した腕から腱を摘み上げて筋肉組織を説明している場面である。ここで博士の説明を聞く男性たちの中に医者はおらず、全員が街の名士であった。中央の人物が持つ書類は、彼らの名簿である。死体は矢作り職人アリス・キント Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった。オランダのデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館の所蔵。 従来の集団肖像画にない斬新な構図で若いレンブラントの名声を高めたが、そこに描かれた人物たちの視線は方々に散って一点に集まっておらず、纏まりや緊張感を表現できていないという評もある。 レンブラントの著名な作品として『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』が挙げられる。画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、これはニスの劣化によるもので、実際には左上から光が差し込んでいる描写がある通り、昼の情景を描いている。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼され、登場人物の各人が同じ金額を払って製作された。しかし各人が平等に描かれていない上、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもした。だがコック隊長は気に入り、絵画の出来栄えはレンブラントの評価を高めた。 この作品は現在ではアムステルダム国立美術館が所蔵しているが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、ダム広場の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られ、その部分のいずれも残っていないが、コック隊長が作らせた水彩の模写から構図を窺える。 レンブラントが後期に描いた作品。ここには長年取り組んだ集団肖像画に対するひとつの回答があり、彼が求めた主題性・ドラマ性と人物の顔や視線を正面から描く肖像画の制約を両立させる工夫を施している。場面は、テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間を描いた。 この絵は布地商組合本部の会議室のやや高い場所に掲示された。手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして、幹部たちの威厳を強調することに成功している。 レンブラントは数多い自画像を描いている。当時、絵画は依頼に基づいて製作されたものが売買されており、画家の自画像などに買い手はいなかった。そのため彼は、基本的に絵の研究をするためにこれら自画像を描いていた。構図や表情の多様さや、色々な衣装などを纏った姿を使い、効果的な構図を探ったものと考えられる。 自画像には、前時代的な衣装を纏ったものや、わざと顔を歪めているものもある。また、未だ評価が定まらない若かりし頃から、肖像画家として大きな栄誉に輝いていた1630年代の頃、そして幾多の困難に遭いながらも非常に力強い姿を描いた老年期のものもある。彼の自画像は、その満ち足りた顔に示されるように、典型的な男性像を対象の外観から心理までに至るまで明瞭に描き出す。一般的な解釈では、これらの絵画は対象の個性や内省を探ったもので、傑出した芸術家が描く肖像画を欲しがる市場の要求に応えたものだったと見なされている。 1658年の自画像では、高い威厳を誇る姿と権威の象徴であるステッキを手に、玉座に座るポーズをイメージさせる。豊富な色彩を用いたこの自画像は、心理学的にさまざまな情報を提示する。 『キリスト昇架』『ヨセフの夢』『聖ステバノの殉教』など聖書物語を題材とする絵画においても、レンブラントは群集の中に自画像を含ませている。デュラハムは、レンブラントにとって聖書とは「日記のような、彼自身の人生の瞬間を記録したもの」と位置づけられていた、と述べた。 2020年7月28日には、個人蔵であった自画像一点がロンドンにおいて競売大手サザビーズで落札された。落札額は1450万ポンド(約19億7000万円)であり、レンブラントの自画像としては2003年に690万ポンドで落札された別の個人蔵の自画像を超え史上最高額となった。1632年末頃の作品で、彼は当時26歳で、アムステルダムで画家としての地位を確立し、初めて商業的な成功を収めていた。 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの光と影を用いる演劇的表現であるキアロスクーロ、もしくはユトレヒト・カラヴァッジョ派(英語版)の影響を色濃く受けつつも、それらを自らの技法として昇華した レンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色のグレーズをかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた。 これはデッサンにおいてすでに見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、木材のタール分から作られた ピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している。 油彩画では、鉛白を用いたグリザイユ技法で独特のマチエール(質感)を生むアンダー・ペインティングを施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自のブラッシュ・ストローク(筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた。 ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所がある。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作」ではなく「感情 」や「動機」を意味するのでは、という意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにせよ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性を継ぎ目なく融合させた比類ない存在であることは疑いようがない。 彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、神話や伝説からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『ダナエ』は、ギリシア神話に登場する女ダナエーの許をゼウスが訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に手の甲を見せるように差し出して描かれていたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色のクピドは、彼女が幽閉された状況を象徴している。 高い名声を得たレンブラントは大きな工房を運営し、多くの弟子を抱えたことで知られる。そのほとんどが強い影響を受けた。そのため、スタジオで製作した作品や、後援者が望んだレンブラント風絵画や、たんに複製した作品などが混在する状況となり、その差異を判断することが難しくなった。 レンブラントの弟子には、以下の人物もいる。 アドリアーン・ブラウエル、 ウィレム・デ・ポールター、 ヘラルト・ドウ、 ホーファールト・フリンク、 フェルディナント・ボル、 ヤン・フィクトルス、 ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト、 フィリップス・コーニンク、 カレル・ファブリティウス、 ユルゲン・オーフェンス、 サミュエル・ファン・ホーホストラーテン、 Christopher Paudiß、 ウィレム・ドロステ、 Hendrick Fromantiou、 Jacob Levecq、 ニコラース・マース、 ハイマン・デュラート、 アールト・デ・ヘルデル、 ゴドフリー・ネラー 工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』(シカゴ美術館蔵)とアールト・デ・ヘルデルの『腰掛けた裸婦』(ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館)がある。 20世紀初頭、レンブラントの作品は約1000点が伝わっていたが、それらには常に真贋問題がつきまとっていた。中には2枚の真作エッチングを合成して1枚の贋作を作った例まであった。1968年、オランダの応用化学研究機構 (Netherlands Organization for the Advancement of Scientific Research, TNO) が出資したレンブラント研究プロジェクト(en)が立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの真筆とする信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用い、彼の絵画を収めた新しいカタログ・レゾネを完成させようとした。 パネルの年輪年代学や他の物理・化学的分析ではほとんど贋作判定はできず、逆に18-19世紀の絵ではと考えられていたものが17世紀の絵だと判明するケースもあった。威力を発揮した手法は、X線撮影によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それらを基に図像学や美術史家が考証を行うという分析であった。絵の具の塗り方にむらや不必要な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされたために不規則なひびが入っているものなどが贋作判定の例となった。これらを通じ、彼の真作による絵画は約300に絞られた。ただし、この判断には段階が設けられ、「真作の可能性が高い (very likely authentic)」「真作の可能性がある (possibly authentic)」「真作の可能性が低い (unlikely to be authentic)」という評価がそれぞれに与えられている。 例えば、ニューヨークフリック・コレクションの『ポーランドの騎手』は以前からジュリウス・ヘルドら多くの学者によって信憑性に疑問が呈され、研究プロジェクトのジョシュア・ブリュン博士もレンブラントの最も才能溢れながらあまり知られていない門下生ウィレム・ドロステの作品だと考えた。蒐集したヘンリー・フリックは、視認できるサイン「Rembrandt」(レンブラント)の前には、「attributed to」(...の所有物)も「school of」(...門下)も見えないとして、自身の意見を変えることはなかった。その後、サイモン・シャーマ(en)は1999年の著作『レンブラントの目』でフリックを支持し、プロジェクトのエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授も1997年のメルボルン・シンポジウムで真作説に賛同の意を述べた。多くの学者は、出来栄えが不規則である点から、各部分を複数の人物が描いたものという意見を受け入れている。 『手を洗うピラト』もまた疑いを持たれた作品である。これは1905年には疑問が呈されており、ヴィルヘルム・フォン・ボーデはこの作品を指してレンブラントにしては「どこかおかしな仕事」と述べた。科学的な分析が1960年代から行われ、これはいずれかの弟子、おそらくはアレント・デ・ヘルダーが描いたものと推測された。構成こそ表面的にはレンブラントの作品との類似性を帯びているが、特徴である明暗やモールディング技法の表現性には欠けていた。 レンブラントの版画は一般にエッチングと纏められているが、ほとんどはエングレービングであり一部にドライポイントがある。これらの真作は300点を下回った。レンブラントは生涯に2000以上の素描を残したと伝わるが、現存する点数はこれを下回る。二組の専門家チームの発表によると、署名の状態から確かに彼の絵画であると言い切れるものは約75点にとどまるというが、これは議論の的となっている。このリストは、2010年2月に行われた学術会議で公表された。 レンブラントの自画像は90点あると考えられていたが、後に練習のために弟子に模写させたものが含まれていることが分かった。現在では40数点の絵画と若干数の素描、そして31点のエッチングと学術的に判断され、外されたものの中には代表作と見なされていた作品もあった。 その後も真贋判定は続けられている。2005年、弟子作と考えられていた4点の油彩がレンブラント本人の作品という判定がなされた。これらは『Study of an Old Man in Profile』『Study of an Old Man with a Beard』(2点ともアメリカの個人が所有)、『Portrait of an Elderly Woman in a White Bonnet』(1640年作)、『Study of a Weeping Woman』(デトロイト美術館蔵)である。 レンブラント工房の体制が真贋判定の難しさを生んでいる。先人の工房も同様ではあるが、レンブラントは弟子たちに彼の絵をよく模写させた。そしてそれらに仕上げや修正を施し、真作または正式な複製として販売していた。さらに、レンブラントの絵画形式は決して難しいものではなく、才能ある弟子ならば模倣が可能であった。さらにこの問題を複雑にした背景には、レンブラント自身の製作には品質的にぶれがあり、また頻繁に絵画形式を変化させたり実験を試みたりしたことがある。彼の作品には後に贋作が作られることがあった。また、真作の中にもひどい損傷を被ったものもあり、本来の状態をよもや認識できない作品もある。 1633年にレンブラントは、署名を芸術家らしく「Rembrandt」というファーストネームだけの署名に変更した。大まかな経緯は、1625年頃の初期に彼はイニシャルの「R」またはモノグラムの「RH」(「Rembrant Harmenszoon‐ハルマンの息子レンブラント」の略)を使用していたが、1629年からはおそらくライデンの頭文字であろうLを加え「RHL」を使うようになった。これは1632年初期頃まで用いられたが、やがて父称を加えて「RHL-van Rijn」とするも、同年中にはファーストネームのみを本来のスペルである「Rembrant」へ変えた。1633年、彼は何らかの意図をもってこれにdを入れた小変更を施して「Rembrandt」とし、以後このサインを使い続けた。この改訂は表示だけのもので、名前の発音まで変えるものではなかった。このdを加えたサインは数多い絵画やエッチングに用いられたが、同時代に作成された書類にはdがない名前が使われた。ファーストネームだけを署名に用いる彼のこのような取り組みは、後にフィンセント・ファン・ゴッホも行った。これらは、ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらファーストネームだけで認知される先人に倣ったものと考えられる。 2004年、ハーバード大学医学大学院の神経科学教授マーガレット・S・リビングストンは、レンブラントは視覚の焦点を正確に結べない立体盲(英語版)であったという短い論文を発表した。これはレンブラントの自画像36点を研究した結果で、彼は両眼視(英語版)に難を抱えていたために脳が自動的に片目だけで多くの視覚的機能を果たすよう切り替わっていたという。レンブラントはこの障碍があったがために、平面を視認する感覚を獲得し、二次元的なキャンバスを作り出すに至った可能性がある。リビングストンによると、これは画家にとって利点になるもので、「絵画教師はたまに、生徒に片目を瞑って平面を視認するよう指導することがある。したがって、立体盲は決して欠点にならず、画家によっては資産にもなりうる」と述べた。 レンブラントの代表的な作品は『夜警』『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』などがあるアムステルダム国立美術館、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ベルリンの絵画館、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館、パリのルーヴル美術館、他にニューヨーク、ワシントンD.C.、ストックホルム、カッセル等にある。 日本国内にあるレンブラントの作品としては、『広つば帽を被った男』がDIC川村記念美術館に展示されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn オランダ語: [ˈrɛmbrɑnt ˈɦɑrmə(n)soːn vɑn ˈrɛin] ( 音声ファイル)、1606年7月15日 - 1669年10月4日)は、ネーデルラント連邦共和国(現・オランダ王国)の画家。レンブラント(Rembrandt)の通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "レンブラントは、同じオランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の一人である。また、ヨーロッパ美術史における重要人物の一人である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持ち、油彩だけでなくエッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも多くの作品を残した。絵画『夜警』(別名『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊)』)はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られ、これらはその時々の彼の内面までも伝えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による金銭的苦難に喘いだが、生前すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられていた。フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンクなどはレンブラントの弟子として知られる(#レンブラント工房参照)。なお、オランダ政府観光局による片仮名表記はレンブラント・ファン・ラインとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1606年、スペインから独立する直前のオランダ、ライデンのウェッデステーグ3番地 にて、製粉業 を営む中流階級の 父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族でパン屋を生業とする一家の娘 である母ネールチェン(コルネリア)・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグ の間に生まれた。レンブラントは夫妻の9番目の子供で、兄は4人、長女と次女は早世し三女の姉1人と妹1人がいた。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の (van Rijn)」を意味する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1613年にラテン語学校に入学。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親はレンブラントに法律家への道を期待していたが、実際にそこに籍を置いたのはわずか数箇月にすぎず、同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校などなく、イタリア留学経験をもつ歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ(英語版)に弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が絵画やデッサンにしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している。ただしレンブラントがスヴァーネンブルフから学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした都市絵画や地獄図などには手を出していない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術ですでに評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事した。この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントはカラヴァッジョ派(英語版)の明暗を用いる技法 や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い、競い合う関係が始まった。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウ やイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この頃にはレンブラントは頭角を現し始めていた。ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも、レンブラントの名が広まる要因となった。オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの秘書官コンスタンティン・ホイヘンス(en)(数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンスは二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた。イギリスのアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスはチャールズ1世への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた。この当時の作品『アトリエにいる風景』にてレンブラントはキャンバスに向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える正装であり、すでに美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がいずれもイタリアへ行こうとしないことに驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場ローマの美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代であったが、二人は、すでにオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また、忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。レンブラントはこれを機会にアムステルダムへ進出する決断をした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1631年、以前から交流があった 画商にて画家のヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(英語版)のアムステルダムにある工房に移り、ここのアトリエで肖像画を中心とした仕事をこなし始めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う解剖の講義を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作 となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アイレンブルフの家に間借りしていた レンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこ(またいとこ または姪 とも)で22歳 のサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合った。彼女の父は亡くなっていたがレーワルデン市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福であった。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま結婚式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<ギャラリー>『十字架降下』<ギャラリー>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った。しかし、提督の財産目録には4点の作品が記されている。多くの弟子が門下に入り、フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンク、ヘルブラント・ファン・デン・エークハウトら50人が名を連ねた。これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "富と名声を得ていた レンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』<ギャラリー>『ホロフェルネスの晩餐会におけるユーディット』<ギャラリー>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品や、刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあったヨーデンブレーストラート(英語版)(聖アントニウス広小路)に、後にレンブラントの家と呼ばれることになる邸宅を1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した。これは13,000ギルダーもの費用を要し、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名)、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる。この年9月には母も亡くなった。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥス(英語版)だけであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この頃からレンブラントの人生は暗転する。サスキアの看病や 幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える 彼は乳母として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ・ディルクス(英語版)(ヘールチェ・ディルクス) を雇った。やがてレンブラントは彼女と愛人関係となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見えるようとの要望に応えないレンブラントよりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアのフィリッポ・バルディヌッチは、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため、顧客は何箇月も拘束されたと語った。ハウブラーケンも次のようなエピソードを述べている。それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込んで出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このようなことが重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった。彼は聖書や福音書を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<ギャラリー>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また、様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時のプロテスタント的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? )、彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル(英語版)を新たに雇い、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たしめた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールトヘが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え、これが認められて彼女はハウダの更生施設(または精神病院)での 12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが、1654年に娘コルネリアが誕生した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否、ヘンドリッキエは二度聴聞を受け、別れるように言われたが従わなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当てもなく、邸宅の年賦支払いも滞っていた。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた。ところが、1652年に英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そして7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった。競売は1656年9月に始まり、翌年までに買い叩かれた。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた 邸宅を彼は去って貧民街である ヨルダーン地区 ローゼンフラフトの街に住み着いた。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド(英語版)は厳しく、彼を画家として扱わないように定めた。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心が損なわれることはなく、却って純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンクが急死したためである。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』(en) <ギャラリー>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数箇月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<ギャラリー>)『ホメロス』(1663年<ギャラリー>)などを描いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で 亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会(英語版)に葬られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1667年12月29日、トスカーナ大公国のコジモ3世がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "しかし彼の人生は好転しなかった。ティトゥスは1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死してしまった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った。翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなった。63歳没。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会に埋葬された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "レンブラントは生涯の創作活動において、物語、風景そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた。修辞的に言えばレンブラントの絵画は、初期の、「滑らかな」技法がもたらす奇術のような形式を持つ描画に見られる卓越した技能から、後期の、画面上に現れる豊かで多彩な「荒々しい」様がもたらす画材そのものが作り出す触覚にさえ訴えかける質感が与える幻影的手法へと進歩した。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることができる。作品は広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)にはラストマンから受けた影響が色濃く現れており、また、リーフェンスも意識していたことが窺える。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。宗教画やアレゴリーを多く描き、大きさも肖像画には充分でない半分程度の大きさであるトローニー(英語版)を描いた。1626年、初めて製作したエッチングが知れ渡り、レンブラントの名声を国際的なものにした。1629年に完成させた『30枚の銀貨を返すユダ』<ギャラリー>や『アトリエにいる風景』は、光の技法と筆跡の多彩さに意識を向けていたこと、そして彼が画家として成長する過程において大きな進歩を成したことを示す", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『ベルシャザルの饗宴』(1635年<ギャラリー>)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年<ギャラリー>)、『ダナエ』(1636年)など、ピーテル・パウル・ルーベンスのバロック調をまねて大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた。時にアイレンブルフ工房の助けを借りて、レンブラントは夥しい数の肖像画を作成した。それは小さな号(『ヤコブ・デ・ヘイデン三世』、1632年<ギャラリー>)から大きなもの(『テュルプ博士の解剖学講義』1632年、『Portrait of the Shipbuilder Jan Rijcksen and his Wife』1633年)まであった。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1630年代末頃から、数点の油彩と多くのエッチングで風景画を製作した。これらはしばしば、自然のドラマ性を強調し、根こそぎの木や不吉な空(『Cottages before a Stormy Sky』1641年、『三本の木』1643年<ギャラリー>)を描いたものもある。1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した旧約聖書から、新約聖書に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『夜警』後の10年間、レンブラントは様々な号、対象、形式の絵画に取り組んだ。それまでの強い光による明暗で生み出していた演劇的効果は、正面からの光源と純粋な色彩を広く多用する方式に変化した。同時に、図像が画面に平行して置かれるようになった。このような変貌は、古典的な流儀と構成に軸足を移そうとしたことの現われであり、また、画法による表現のやり方には『水浴するスザンナ』(1636年、<ギャラリー>)のようにヴェネツィア流を取り入れたような傾向が垣間見える。また同じ頃、油彩の風景画はめっきり減り、エッチングや素描に替わった。その素材も、自然のドラマ性からオランダの静かな風景へとなった。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1650年代になると、レンブラントの絵画形式はまたも変化を見せた。多彩になり、筆使いは特に変わった。この変貌によって、レンブラントは過去の作品や作風から脱皮し、ますます洗練された繊細な作品を指向するようになった。描画における彼の独創的な手法はティツィアーノ・ヴェチェッリオに通じるものがあり、それは現代でも「仕上げ」と表面処理の完成度に対する議論の中に見ることができる。当時の記録の中には、レンブラントの画法が粗雑だという批判も存在し、彼は訪問者が絵をまじまじと見ないよう遠ざけたともいう。触知できるような絵画に対する技法は、中世的な手法から得た可能性があり、絵画の表面に息吹を与える表現の模倣効果を持った。最終的な結果は、絵の具を豊富に用いて作る深い層に明らかな偶然がもたらす効果を織り交ぜつつ、奇術的かつ非常に独特な手法を合わせ持つ形式と空間を提示した。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "晩年には、聖書物語に題材を求めこそすれ、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<ギャラリー>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深遠な一枚を残し、また『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』<ギャラリー>など、愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放して実質的な製作活動ができなくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた。彼はこれを気軽に始めたが、ビュランの使い方を習ったりエングレービングに手を出して多くの作品を残したりしながら、束縛されないエッチング技法を自分のものとした。彼は印刷工程全体にも強く関わり、初期の作品では自分の手で印刷を行ったと考えられる。最初の頃、素描技法を基礎にエッチングを行っていたが、すぐに絵画技法へ変更し、固まりのような線と酸による腐食を多用して描線の強さに変化をつけた。1630年代末頃、レンブラントのエッチングは腐食をほとんど用いない簡素な形式へ変貌した。1640年代にはいわゆる『100グルテン版画』(en)を製作し、これはレンブラントがエッチングのスタイルを確立し始める「彼のキャリアにて中期に当る重要な仕事」に相当した。しかし、この版画は2つのステート(版)(en)しか残されていない。1版目の点数は非常に少ないが、これによって版元には作り直しが行われた証拠となり、多く存在する2版目の写しにない要素が残っている。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1650年代には成熟を迎え、現存する11の版画に見られるようにレンブラントは即席で大版の製作に携わり、時に根本的な変革を加えることもあった。ハッチング技術を用いて作り出した暗い部分は、時には画面の大部分を占めることもあった。また、紙にも検討を加えて効果を見極め、ヴェルムや後に多用した和紙などを試した。さらに、印刷時に平坦な部分のインクをすべて拭き取らずにあえて少々残すことで「表面トーン」 (surface tone) の効果を表した工夫も凝らした。特に風景描写にて、彼はドライポイント技法を多用し、一瞥では分かりにくいが豊かでぼやかされたぎざぎざを作り出した。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、1632年1月に行われた講義にて、アムステルダムの市長にも2度就任した教授のニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士が切開した腕から腱を摘み上げて筋肉組織を説明している場面である。ここで博士の説明を聞く男性たちの中に医者はおらず、全員が街の名士であった。中央の人物が持つ書類は、彼らの名簿である。死体は矢作り職人アリス・キント Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった。オランダのデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館の所蔵。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "従来の集団肖像画にない斬新な構図で若いレンブラントの名声を高めたが、そこに描かれた人物たちの視線は方々に散って一点に集まっておらず、纏まりや緊張感を表現できていないという評もある。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "レンブラントの著名な作品として『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』が挙げられる。画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、これはニスの劣化によるもので、実際には左上から光が差し込んでいる描写がある通り、昼の情景を描いている。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼され、登場人物の各人が同じ金額を払って製作された。しかし各人が平等に描かれていない上、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもした。だがコック隊長は気に入り、絵画の出来栄えはレンブラントの評価を高めた。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この作品は現在ではアムステルダム国立美術館が所蔵しているが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、ダム広場の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られ、その部分のいずれも残っていないが、コック隊長が作らせた水彩の模写から構図を窺える。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "レンブラントが後期に描いた作品。ここには長年取り組んだ集団肖像画に対するひとつの回答があり、彼が求めた主題性・ドラマ性と人物の顔や視線を正面から描く肖像画の制約を両立させる工夫を施している。場面は、テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間を描いた。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この絵は布地商組合本部の会議室のやや高い場所に掲示された。手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして、幹部たちの威厳を強調することに成功している。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "レンブラントは数多い自画像を描いている。当時、絵画は依頼に基づいて製作されたものが売買されており、画家の自画像などに買い手はいなかった。そのため彼は、基本的に絵の研究をするためにこれら自画像を描いていた。構図や表情の多様さや、色々な衣装などを纏った姿を使い、効果的な構図を探ったものと考えられる。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "自画像には、前時代的な衣装を纏ったものや、わざと顔を歪めているものもある。また、未だ評価が定まらない若かりし頃から、肖像画家として大きな栄誉に輝いていた1630年代の頃、そして幾多の困難に遭いながらも非常に力強い姿を描いた老年期のものもある。彼の自画像は、その満ち足りた顔に示されるように、典型的な男性像を対象の外観から心理までに至るまで明瞭に描き出す。一般的な解釈では、これらの絵画は対象の個性や内省を探ったもので、傑出した芸術家が描く肖像画を欲しがる市場の要求に応えたものだったと見なされている。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1658年の自画像では、高い威厳を誇る姿と権威の象徴であるステッキを手に、玉座に座るポーズをイメージさせる。豊富な色彩を用いたこの自画像は、心理学的にさまざまな情報を提示する。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "『キリスト昇架』『ヨセフの夢』『聖ステバノの殉教』など聖書物語を題材とする絵画においても、レンブラントは群集の中に自画像を含ませている。デュラハムは、レンブラントにとって聖書とは「日記のような、彼自身の人生の瞬間を記録したもの」と位置づけられていた、と述べた。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2020年7月28日には、個人蔵であった自画像一点がロンドンにおいて競売大手サザビーズで落札された。落札額は1450万ポンド(約19億7000万円)であり、レンブラントの自画像としては2003年に690万ポンドで落札された別の個人蔵の自画像を超え史上最高額となった。1632年末頃の作品で、彼は当時26歳で、アムステルダムで画家としての地位を確立し、初めて商業的な成功を収めていた。", "title": "絵画の変遷" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの光と影を用いる演劇的表現であるキアロスクーロ、もしくはユトレヒト・カラヴァッジョ派(英語版)の影響を色濃く受けつつも、それらを自らの技法として昇華した レンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色のグレーズをかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた。", "title": "画法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これはデッサンにおいてすでに見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、木材のタール分から作られた ピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している。", "title": "画法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "油彩画では、鉛白を用いたグリザイユ技法で独特のマチエール(質感)を生むアンダー・ペインティングを施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自のブラッシュ・ストローク(筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた。", "title": "画法" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所がある。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作」ではなく「感情 」や「動機」を意味するのでは、という意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにせよ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性を継ぎ目なく融合させた比類ない存在であることは疑いようがない。", "title": "画法" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、神話や伝説からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『ダナエ』は、ギリシア神話に登場する女ダナエーの許をゼウスが訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に手の甲を見せるように差し出して描かれていたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色のクピドは、彼女が幽閉された状況を象徴している。", "title": "画法" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "高い名声を得たレンブラントは大きな工房を運営し、多くの弟子を抱えたことで知られる。そのほとんどが強い影響を受けた。そのため、スタジオで製作した作品や、後援者が望んだレンブラント風絵画や、たんに複製した作品などが混在する状況となり、その差異を判断することが難しくなった。", "title": "レンブラント工房" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "レンブラントの弟子には、以下の人物もいる。", "title": "レンブラント工房" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アドリアーン・ブラウエル、 ウィレム・デ・ポールター、 ヘラルト・ドウ、 ホーファールト・フリンク、 フェルディナント・ボル、 ヤン・フィクトルス、 ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト、 フィリップス・コーニンク、 カレル・ファブリティウス、 ユルゲン・オーフェンス、 サミュエル・ファン・ホーホストラーテン、 Christopher Paudiß、 ウィレム・ドロステ、 Hendrick Fromantiou、 Jacob Levecq、 ニコラース・マース、 ハイマン・デュラート、 アールト・デ・ヘルデル、 ゴドフリー・ネラー", "title": "レンブラント工房" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』(シカゴ美術館蔵)とアールト・デ・ヘルデルの『腰掛けた裸婦』(ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館)がある。", "title": "レンブラント工房" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "20世紀初頭、レンブラントの作品は約1000点が伝わっていたが、それらには常に真贋問題がつきまとっていた。中には2枚の真作エッチングを合成して1枚の贋作を作った例まであった。1968年、オランダの応用化学研究機構 (Netherlands Organization for the Advancement of Scientific Research, TNO) が出資したレンブラント研究プロジェクト(en)が立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの真筆とする信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用い、彼の絵画を収めた新しいカタログ・レゾネを完成させようとした。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "パネルの年輪年代学や他の物理・化学的分析ではほとんど贋作判定はできず、逆に18-19世紀の絵ではと考えられていたものが17世紀の絵だと判明するケースもあった。威力を発揮した手法は、X線撮影によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それらを基に図像学や美術史家が考証を行うという分析であった。絵の具の塗り方にむらや不必要な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされたために不規則なひびが入っているものなどが贋作判定の例となった。これらを通じ、彼の真作による絵画は約300に絞られた。ただし、この判断には段階が設けられ、「真作の可能性が高い (very likely authentic)」「真作の可能性がある (possibly authentic)」「真作の可能性が低い (unlikely to be authentic)」という評価がそれぞれに与えられている。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "例えば、ニューヨークフリック・コレクションの『ポーランドの騎手』は以前からジュリウス・ヘルドら多くの学者によって信憑性に疑問が呈され、研究プロジェクトのジョシュア・ブリュン博士もレンブラントの最も才能溢れながらあまり知られていない門下生ウィレム・ドロステの作品だと考えた。蒐集したヘンリー・フリックは、視認できるサイン「Rembrandt」(レンブラント)の前には、「attributed to」(...の所有物)も「school of」(...門下)も見えないとして、自身の意見を変えることはなかった。その後、サイモン・シャーマ(en)は1999年の著作『レンブラントの目』でフリックを支持し、プロジェクトのエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授も1997年のメルボルン・シンポジウムで真作説に賛同の意を述べた。多くの学者は、出来栄えが不規則である点から、各部分を複数の人物が描いたものという意見を受け入れている。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "『手を洗うピラト』もまた疑いを持たれた作品である。これは1905年には疑問が呈されており、ヴィルヘルム・フォン・ボーデはこの作品を指してレンブラントにしては「どこかおかしな仕事」と述べた。科学的な分析が1960年代から行われ、これはいずれかの弟子、おそらくはアレント・デ・ヘルダーが描いたものと推測された。構成こそ表面的にはレンブラントの作品との類似性を帯びているが、特徴である明暗やモールディング技法の表現性には欠けていた。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "レンブラントの版画は一般にエッチングと纏められているが、ほとんどはエングレービングであり一部にドライポイントがある。これらの真作は300点を下回った。レンブラントは生涯に2000以上の素描を残したと伝わるが、現存する点数はこれを下回る。二組の専門家チームの発表によると、署名の状態から確かに彼の絵画であると言い切れるものは約75点にとどまるというが、これは議論の的となっている。このリストは、2010年2月に行われた学術会議で公表された。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "レンブラントの自画像は90点あると考えられていたが、後に練習のために弟子に模写させたものが含まれていることが分かった。現在では40数点の絵画と若干数の素描、そして31点のエッチングと学術的に判断され、外されたものの中には代表作と見なされていた作品もあった。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "その後も真贋判定は続けられている。2005年、弟子作と考えられていた4点の油彩がレンブラント本人の作品という判定がなされた。これらは『Study of an Old Man in Profile』『Study of an Old Man with a Beard』(2点ともアメリカの個人が所有)、『Portrait of an Elderly Woman in a White Bonnet』(1640年作)、『Study of a Weeping Woman』(デトロイト美術館蔵)である。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "レンブラント工房の体制が真贋判定の難しさを生んでいる。先人の工房も同様ではあるが、レンブラントは弟子たちに彼の絵をよく模写させた。そしてそれらに仕上げや修正を施し、真作または正式な複製として販売していた。さらに、レンブラントの絵画形式は決して難しいものではなく、才能ある弟子ならば模倣が可能であった。さらにこの問題を複雑にした背景には、レンブラント自身の製作には品質的にぶれがあり、また頻繁に絵画形式を変化させたり実験を試みたりしたことがある。彼の作品には後に贋作が作られることがあった。また、真作の中にもひどい損傷を被ったものもあり、本来の状態をよもや認識できない作品もある。", "title": "レンブラント研究プロジェクト" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1633年にレンブラントは、署名を芸術家らしく「Rembrandt」というファーストネームだけの署名に変更した。大まかな経緯は、1625年頃の初期に彼はイニシャルの「R」またはモノグラムの「RH」(「Rembrant Harmenszoon‐ハルマンの息子レンブラント」の略)を使用していたが、1629年からはおそらくライデンの頭文字であろうLを加え「RHL」を使うようになった。これは1632年初期頃まで用いられたが、やがて父称を加えて「RHL-van Rijn」とするも、同年中にはファーストネームのみを本来のスペルである「Rembrant」へ変えた。1633年、彼は何らかの意図をもってこれにdを入れた小変更を施して「Rembrandt」とし、以後このサインを使い続けた。この改訂は表示だけのもので、名前の発音まで変えるものではなかった。このdを加えたサインは数多い絵画やエッチングに用いられたが、同時代に作成された書類にはdがない名前が使われた。ファーストネームだけを署名に用いる彼のこのような取り組みは、後にフィンセント・ファン・ゴッホも行った。これらは、ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらファーストネームだけで認知される先人に倣ったものと考えられる。", "title": "署名の変遷" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2004年、ハーバード大学医学大学院の神経科学教授マーガレット・S・リビングストンは、レンブラントは視覚の焦点を正確に結べない立体盲(英語版)であったという短い論文を発表した。これはレンブラントの自画像36点を研究した結果で、彼は両眼視(英語版)に難を抱えていたために脳が自動的に片目だけで多くの視覚的機能を果たすよう切り替わっていたという。レンブラントはこの障碍があったがために、平面を視認する感覚を獲得し、二次元的なキャンバスを作り出すに至った可能性がある。リビングストンによると、これは画家にとって利点になるもので、「絵画教師はたまに、生徒に片目を瞑って平面を視認するよう指導することがある。したがって、立体盲は決して欠点にならず、画家によっては資産にもなりうる」と述べた。", "title": "レンブラントの眼の秘密" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "レンブラントの代表的な作品は『夜警』『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』などがあるアムステルダム国立美術館、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ベルリンの絵画館、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館、パリのルーヴル美術館、他にニューヨーク、ワシントンD.C.、ストックホルム、カッセル等にある。", "title": "作品を所蔵する美術館" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本国内にあるレンブラントの作品としては、『広つば帽を被った男』がDIC川村記念美術館に展示されている。", "title": "作品を所蔵する美術館" } ]
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインは、ネーデルラント連邦共和国(現・オランダ王国)の画家。レンブラント(Rembrandt)の通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。
{{redirect|レンブラント|小惑星|レンブラント (小惑星)}} {{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = レンブラント・ファン・レイン<br />Rembrandt van Rijn | image = Self-portrait_at_34_by_Rembrandt_(rectangular_detail).jpg | imagesize = 250px | caption = 『[[34歳の自画像]]』(1640年) | birthname = レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン<br />Rembrant Harmenszoon van Rijn | birthdate = [[1606年]]<ref group="注">1607年生まれとの説もある。1634年6月10日に、レンブラントは自分が26歳だと述べている点を根拠にした [http://www.codart.nl/news/82/ Is the Rembrandt Year being celebrated one year too soon? One year too late?]、や J. de Jong が唱えた [http://www.nd.nl/artikelen/2006/februari/03/rembrandts-geboortejaar-een-jaar-te-vroeg-gevierd Rembrandts geboortejaar een jaar te vroeg gevierd] にて解説されている。</ref> [[7月15日]] | location = {{NLD1581}}・[[ライデン]] | deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1606|7|15|1669|10|4}} | deathplace = {{NLD1581}}・[[アムステルダム]] | nationality = {{NLD1581}} | field = [[画家]]、[[版画]] | training = | movement = [[バロック]]<ref name=momak>{{Cite web|和書|url=http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/1986/180.html |title=180 レンブラント・巨匠とその周辺|publisher=[[京都国立近代美術館]] |language=日本語|accessdate=2010-12-23}}</ref><ref name=mekikis>{{Cite web|和書|url=http://www.mekikies.com/japanese/data/v5n1-1_hikari-full_s.pdf|format=PDF |title=光の魔術師|author=メキキズ・ビジネス編集局|publisher=NTTアドバンステクノロジ株式会社|language=日本語|accessdate=2010-12-23}}</ref>、[[オランダ黄金時代]] | works = 『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』『[[夜警 (絵画)|フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)]]』など | patrons = コンスタンティン・ホイヘンス[[:en:Constantijn Huygens|(en)]] | influenced by = | influenced = | awards = }} [[ファイル:Rembrandtsplein M01.JPG|right|thumb|200px|レンブラント像<br />([[レンブラント広場]]にて)]] '''レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン'''({{lang|fr|Rembrandt Harmenszoon van Rijn}} {{IPA-nl|ˈrɛmbrɑnt ˈɦɑrmə(n)soːn vɑn ˈrɛin|lang|Rembrandtvanrijn.ogg}}、[[1606年]][[7月15日]] - [[1669年]][[10月4日]])は、[[ネーデルラント連邦共和国]](現・[[オランダ]]王国)の[[画家]]。'''レンブラント'''(Rembrandt)の通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした<ref name=momak />。 == 概要 == レンブラントは、同じオランダの[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]、[[イタリア]]の[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]、[[フランドル]]の[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[スペイン]]の[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]などと共に、[[バロック絵画]]を代表する画家の一人である。また、ヨーロッパ[[美術史]]における重要人物の一人である<ref name="Gombrich, p. 420">[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.420]]</ref>。 「'''光の画家'''」「'''光の魔術師'''」(または「'''光と影の画家'''」「'''光と影の魔術師'''」)の[[通称|異名]]を持ち<ref name=mekikis />、[[油彩]]だけでなく[[版画#エッチングとアクアチント(間接法)|エッチング]]や複合技法による[[版画#凹版|銅版画]]や[[デッサン]]でも多くの作品を残した。絵画『[[夜警 (絵画)|夜警]]』(別名『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊)』)はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて[[自画像]]を描いたことでも知られ、これらはその時々の彼の内面までも伝えている。 若くして[[肖像画]]家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による金銭的苦難に喘いだが、生前すでに著名で高い評価を受け<ref>[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.427]]</ref>、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられていた<ref>[[#Clark1969|Clark (1969)、p.203]]</ref>。[[フェルディナント・ボル]]、[[ホーファールト・フリンク]]などはレンブラントの弟子として知られる([[#レンブラント工房]]参照)。なお、オランダ政府観光局による[[片仮名]]表記はレンブラント・ファン・'''ライン'''となっている<ref name=Holl>{{Cite web|和書|url=http://www.hollandartclub.jp/g2/|title=レンブラント・ファン・ライン|publisher=オランダ政府観光局|language=日本語|accessdate=2013-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160422083659/http://www.hollandartclub.jp/g2/|archivedate=2016-04-22|deadlinkdate=2023-05-29}}</ref>。 == 生涯 == [[ファイル:The Mill-1645 1648-Rembrandt van Rijn.jpg |right|thumb|200px|『[[風車 (レンブラント)|風車]]』、1645-1648年、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。]] === 生誕から学びの期間 === 1606年、[[スペイン]]から独立する直前の[[オランダ]]、[[ライデン]]のウェッデステーグ3番地<ref name=Holl /> にて、製粉業<ref name=ozaki0>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.7-13、プロローグ]]</ref> を営む中流階級の<ref name=Holl /> 父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族で<ref name=Holl />[[パン屋]]を生業とする一家の娘<ref name=Bona17>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.17-44、「黄金の世紀」の始まり]]</ref> である母ネールチェン(コルネリア<ref name=Great4 />)・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグ<ref>[[#Bull2006|Bull, et al., (2006) p.28]]</ref> の間に生まれた。レンブラントは夫妻の9番目の子供で<ref group="注">[[#尾崎2004|尾崎 (2004) 年表、p.248]]および[[#Bull2006|Bull, et al.、p.28]]では「第九子」、[http://www.hollandartclub.jp/rembrandt.html オランダ政府観光局のページ] では「10人兄弟の末っ子」、[http://www.rembrandtrembrandt.com/rembrandt/chronology/index.html 京都国立博物館 レンブラント略年表] では「10人兄弟の9番目」とあるが、ここでは兄弟の詳細を含む[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、p.21]]の記述を用いる。</ref>、兄は4人、長女と次女は早世し三女の姉1人と妹1人がいた<ref name=Bona17 />。{{要出典範囲|父は製粉の[[風車小屋]]をライデンを流れる旧[[ライン川]]沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の (van Rijn)」を意味する|date=2018年1月27日 (土) 15:24 (UTC)}}。<!---司馬遼太郎は小説家ですので出典に使えません。[[WP:RS]]。<ref name=Shiba>{{Cite book|和書|author=司馬遼太郎|authorlink=司馬遼太郎|year=1994|title=[[街道をゆく]] 35オランダ紀行|chapter=レンブラントの家|pages=125-135|publisher=[[朝日文庫]]|isbn=4-02-264053-7|ref=司馬1994}}</ref>。---> 1613年に[[ラテン語学校]]に入学<ref name=Kyoto>{{Cite web|和書|url=http://www.rembrandtrembrandt.com/rembrandt/chronology/index.html |title=レンブラント略年表|publisher=[[京都国立博物館]] |language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級で[[ライデン大学]]への入学許可を受けた<ref name=Holl />。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親はレンブラントに[[法律家]]への道を期待していたが<ref name=Holl />、実際にそこに籍を置いたのはわずか数箇月にすぎず<ref group="注">レンブラントはオランダ語の読み書きができなかったという話を、死の3年後にヨアヒム・フォン・ザンドラルトという人物が残した。ただしライデン大学の記録には1620年5月20日付け名簿にレンブラントの名があり、文盲の人物を入学させるとは考えられない。[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、p.28]]</ref>、同年末もしくは翌年には画家を志向した。{{要出典範囲|当時は美術学校などなく|date=2018年1月27日 (土) 15:24 (UTC)}}<!----<ref name=Shiba />--->、[[イタリア]]留学経験をもつ歴史画家{{仮リンク|ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ|en|Jacob van Swanenburgh}}に弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が[[絵画]]や[[デッサン]]にしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している<ref name=Bona17 />。ただしレンブラントがスヴァーネンブルフから学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした[[都市]]絵画や[[地獄]]図などには手を出していない<ref name=Great4>[[#グレートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.4-11、オランダの至高の天才]]</ref>。 3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から[[解剖学]]まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術ですでに評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われた<ref name=momak />[[アムステルダム]]の[[ピーテル・ラストマン]]に師事した。この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントは{{仮リンク|カラヴァッジョ派|en|Caravaggisti}}の明暗を用いる技法<ref name=momak /><ref name=Minami135>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.135-140、レンブラントの登場]]</ref> や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ<ref name=Great4 />。また[[アルブレヒト・デューラー]]の『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう<ref name=Minami140>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.140-143、レンブラントの素描観]]</ref>。 === 画家としての駆け出しと評価 === [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 150.jpg|left|thumb|200px|処女作と言われる『[[聖ステファノの石打ち (レンブラント)|聖ステファノの石打ち]]』、1625年、[[リヨン美術館]]。]] アムステルダムから戻ったレンブラントは実家に[[アトリエ]]を構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した<ref name=Kyoto />。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高い[[ヤン・リーフェンス]]と知り合い<ref name=Bona17 />、競い合う関係が始まった<ref name=ozakiN>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.248-253、年表]]</ref>。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った<ref name=Kyoto />。 1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、[[ヘラルト・ドウ]]<ref name=Great4 /><ref>[[#Slive1995|Slive、p.55]]</ref> や[[イサーク・ジューデルヴィル]]らが門下に入った<ref name=ozakiN />。弟子の一人[[サミュエル・ファン・ホーホストラーテン|ホーホストラーテン]]は1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の[[彫刻刀]]を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした[[版画]]を数多く製作した<ref name=Bona17 />。 [[ファイル:Rembrandt The Artist in his studio.jpg|right|thumb|200px|『[[アトリエの画家 (レンブラント)|アトリエの画家]]』、1628年、[[ボストン美術館]]。]] この頃にはレンブラントは頭角を現し始めていた。[[ユトレヒト]]の法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも、レンブラントの名が広まる要因となった。[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]の[[秘書|秘書官]][[コンスタンティン・ホイヘンス]][[:en:Constantijn Huygens|(en)]]([[数学者]][[クリスティアーン・ホイヘンス]]の父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンスは二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた<ref name=Bona17 /><ref name=Great4 />。[[イギリス]]のアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた<ref name=Bona17 />。この当時の作品『アトリエにいる風景』にてレンブラントは[[キャンバス]]に向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える[[正装]]であり、すでに美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す<ref name=Bona17 />。 === アムステルダムへ === ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がいずれもイタリアへ行こうとしないことに驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場[[ローマ]]の美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代であったが、二人は、すでにオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また、忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。レンブラントはこれを機会に[[アムステルダム]]へ進出する決断をした<ref name=Bona17 />。 [[ファイル:Michiel Jansz van Mierevelt - Anatomy lesson of Dr. Willem van der Meer.jpg|left|thumb|150px|[[ミヒール・ファン・ミーレフェルト]]の『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』、1617年。各人物をはっきりかつ公平に描く当時の集団肖像画の典型。]] 1631年、以前から交流があった<ref name=ozaki0 /> 画商にて画家の{{仮リンク|ヘンドリック・ファン・アイレンブルフ|en|Hendrick van Uylenburgh}}のアムステルダムにある工房に移り<ref name=ozakiN />、ここのアトリエで[[肖像画]]を中心とした仕事をこなし始めた<ref name=Bona45>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.45-82、光の時代]]</ref>。 1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う[[解剖学|解剖]]の講義を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする[[外科医]]組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で<ref name=Great4 />、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、[[鉗子]]で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作<ref name=Inada>{{cite journal |和書|title=クローデルとレンブラント : 『夜警』に見る「解体」 |journal=研究紀要. 第四分冊, 短期大学部(III) |volume=27 |pages=71-76 |date=1994|publisher=聖徳大学短期大学部|author=稲田弘子 |language=日本語|naid=110000475511 |accessdate=2020-04-01 }}</ref> となった『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』によって、レンブラントは高い評価を得た<ref name=Bona45 />。 [[ファイル:Portrait of Saskia van Uylenburgh by Rembrandt.jpg|right|thumb|200px|妻[[サスキア・ファン・オイレンブルフ|サスキア・ファン・アイレンブルフ]]の肖像、1635年、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。]] === 結婚 === アイレンブルフの家に間借りしていた<ref name=Holl /> レンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこ<ref name=Holl /><ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、pp.60-61]]</ref>(またいとこ<ref name=ozakiN /> または[[姪]]<ref name=Bona45 /> とも)で22歳<ref name=Taka>{{Cite book|和書|author=高階秀爾|authorlink=高階秀爾|title=西欧芸術の精神|chapter=レンブラント、光と影のドラマ|publisher=[[青土社]]}}</ref> の[[サスキア・ファン・オイレンブルフ|サスキア・ファン・アイレンブルフ]]と知り合った。彼女の父は亡くなっていたが[[レーワルデン]]市長を務めたこともある人物で<ref>{{Cite book|和書 |author=中野京子|authorlink=中野京子 |year = 2016 |title = 中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇 |publisher = [[文藝春秋]] |page = 187 |isbn = 978-4-16-390308-8}}</ref>、その一族は裕福であった<ref name=Bona45 />。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま<ref>{{cite web|url= http://stadsarchief.amsterdam.nl/english/amsterdam_treasures/famous/rembrandt_and_saskia/index.en.html|title=Rembrandt and Saskia |publisher=Gemeente Amsterdam |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>[[結婚]]式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また[[聖ルカ組合]]の一員となる<ref name=ozakiN />。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された<ref name=Bona45 />。 名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>『十字架降下』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った<ref name=Bona45 />。しかし、提督の財産目録には4点の作品が記されている<ref name=ozakiN />。多くの弟子が門下に入り、[[フェルディナント・ボル]]、[[ホーファールト・フリンク]]<ref name=Bull-28>[[#Bull2006|Bull, et al.、p.28]]</ref>、[[ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト]]ら50人が名を連ねた。これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた<ref name=Bona45 />。 富と名声を得ていた<ref name=ozaki0 /> レンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『[[フローラ (レンブラント、エルミタージュ美術館)|春の女神フローラに扮したサスキア]]』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>『ホロフェルネスの晩餐会におけるユーディット』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品や、刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した<ref name=Bona45 />。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあった{{仮リンク|ヨーデンブレーストラート|en|Jodenbreestraat}}(聖アントニウス広小路<ref name=Kyoto />)に、後に[[レンブラントの家]]と呼ばれることになる邸宅を1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した<ref name=Minami135 />。これは13,000[[ギルダー]]もの費用を要し<ref name=Bull-28/>、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた<ref name=Bona45 />。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.26-27, 76, 102]]</ref>。 === 『夜警』製作と人生の暗転 === [[ファイル:Rembrandt - Rembrandt and Saskia in the Scene of the Prodigal Son - Google Art Project.jpg|thumb|left|200px|『[[売春宿の放蕩息子]]』、油彩、1635年頃、[[アルテ・マイスター絵画館]] ([[ドレスデン]])。この絵を制作した当時、彼には妻の財産を浪費して邸宅や収集品を買い集めているという非難の声が上がっていた。そのような意見を無視することを決め込み、この絵で自分を放蕩息子に譬えて表した<ref name=Bona45 />。]] レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『[[夜警 (絵画)|夜警]]』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるで[[トランプ]]の図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った<ref name=Bona45 />。 しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名<ref name=Great4 />)、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる<ref name=ozakiN />。この年9月には母も亡くなった<ref name=Bona45 />。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子{{仮リンク|ティトゥス・ファン・レイン|label=ティトゥス|en|Titus van Rijn}}だけであった<ref name=Bona45 />。 『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している<ref name=Slive-71>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.71]]</ref>。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。[[結核]]が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した<ref name=Bona45 />。 [[File:GeertjeDircks.jpg|thumb|alt=This drawing by Rembrandt is believed to depict Geertje Dircx.|ヘールトヘ・ディルクスの素描<br />ただし否定する意見もある。]] この頃からレンブラントの人生は暗転する<ref name=ozaki0 />。サスキアの看病や<ref name=Bull-28/> 幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える<ref name=Bona45 /> 彼は[[乳母]]として北部出身で農家の未亡人{{仮リンク|ヘールトヘ・ディルクス|en|Geertje Dircx|}}(ヘールチェ・ディルクス<ref name=ozakiN />) を雇った。やがてレンブラントは彼女と[[愛人]]関係となる<ref name=Bona83>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.83-104、影の時代]]</ref>。 彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見えるようとの要望に応えないレンブラントよりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアの[[フィリッポ・バルディヌッチ]]は、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため、顧客は何箇月も拘束されたと語った。ハウブラーケンも次のようなエピソードを述べている。それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込んで出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このようなことが重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった<ref name=Bona83 />。彼は[[聖書]]や[[福音書]]を主題とした絵も描き、『[[姦淫の女 (レンブラント)|キリストと姦淫の女]]』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった<ref name=Bona83 />。 [[ファイル:Rembrandt (Rembrandt van Rijn) - A Woman in Bed - Google Art Project - cropped.jpg|right|thumb|200px|『ベッドの中の女』、1647年、[[スコットランド国立美術館]]。[[トビト記]]の一場面で、7度も夫を殺されたサラが新夫トビアと[[悪魔]][[アスモデウス]]の戦いを見守る姿とされている。ヘンドリッキエがモデルと言われるが、[[ケネス・クラーク]]はヘールトヘがモデルという説を述べた<ref name=Taka />。]] しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また、様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時の[[プロテスタント]]的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった<ref name=Bona83 />。 [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 081.jpg|left|thumb|200px|[[:nl:Hendrickje Stoffels|ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル]]の肖像、1654年頃、[[ルーヴル美術館]]。]] さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? <ref name=Kyoto />)、彼は若い家政婦{{仮リンク|ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル|en|Hendrickje Stoffels}}を新たに雇い<ref name=Taka />、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たしめた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない<ref name=ozaki0 />。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールトヘが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え<ref name=Taka />、これが認められて彼女はハウダの更生施設(または精神病院<ref name=Great4 />)での<ref name=ozakiN /> 12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した<ref name=Bona83 />。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが<ref name=Great4 />、1654年に娘コルネリアが誕生した<ref name=ozakiN />。 強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった<ref name=Slive-71/>。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否<ref group="注">[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.83-104、影の時代]]の表記。[[#Slive1995|Slive (1995)、p.82]]では、レンブラントは[[オランダ改革派教会]]の信者でなかったため呼び出しを受けなかったとある。</ref>、ヘンドリッキエは二度聴聞を受け、別れるように言われたが従わなかった<ref name=Bona83 />。 === 無一文へ === しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当てもなく、邸宅の年賦支払いも滞っていた<ref name=Bona83 />。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた<ref name=ozaki0 />。ところが、1652年に[[英蘭戦争]]が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった<ref name=Bona83 />。 [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 103.jpg|right|thumb|200px|[[カプチン・フランシスコ修道会|カプチン派]]修道士の姿をしたティトゥス、1660年、[[アムステルダム国立美術館]]。]] そして7月20日、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した<ref name=Great4 />。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された<ref name=Bona156>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.156-163、資料5競売用に作成されたレンブラントの資産一覧]]</ref>。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった<ref name="Slive 1995、p.84">[[#Slive1995|Slive (1995)、p.84]]</ref>。競売は1656年9月に始まり<ref name=Bona83 />、翌年までに買い叩かれた<ref name="Slive 1995、p.84"/>。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた<ref name=Bona83 /><ref group="注">[[#Schwartz1988|Schwartz (1988)、p.12]]によると、邸宅は2年前に売れていたが、彼は2年間そのまま住むことを許されていた。</ref> 邸宅を彼は去って貧民街である<ref name=Great4 /> ヨルダーン地区<ref name=Kyoto /> ローゼンフラフトの街に住み着いた<ref name=Bona105>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.105-132、ただ、自らを見つめて]]</ref>。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの{{仮リンク|画家ギルド|en|painters' guild<!-- リダイレクト先の「[[:en:Guild of Saint Luke]]」は、[[:ja:聖ルカ組合]] とリンク -->}}は厳しく、彼を画家として扱わないように定めた<ref name=Clark105>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.105]]</ref>。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を開業してレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした<ref name=Clark105 /><ref name=ozaki240>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.240-242、第七章 1.破産後の蒐集活動]]</ref>。 このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心が損なわれることはなく、却って純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った<ref name=Minami150>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.150-152、ゴヤの素描観‐近代美術の誕生]]</ref>。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンクが急死したためである<ref name=Clark60-61>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.60-61]]</ref>。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』[[:en:The Conspiracy of Claudius Civilis|(en)]] <small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数箇月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない<ref name=Clark60-61 />。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)『ホメロス』(1663年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)などを描いた<ref name=Bona105 /><ref>[[#Bull2006|Bull (2006)、p. 29]]</ref><ref name=Okabe>{{cite journal |和書|url=https://repository.lib.tottori-u.ac.jp/2439 |title=レンブラントの歴史的肖像画 : ルフォーの委嘱による「三部作」について |author=岡部紘三|journal=鳥取大学教養部紀要 |publisher=鳥取大学教養部 |language=日本語 |date=1973 |volume=7 |pages=1-20 |issn=0287-4121 |accessdate=2011-01-21}}</ref>。 [[ファイル:Amsterdam west kerk2.jpg|right|thumb|150px|2人の妻、息子、そしてレンブラント本人が埋葬された西教会 (Westerkerk)]] しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる<ref name=Bona105 />。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で<ref name=Taka /> 亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された{{仮リンク|西教会 (アムステルダム)|label=西教会|en|Westerkerk}}に葬られた<ref name=Bona105 /><ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.83]]</ref>。 === 晩年そして死去 === 1667年12月29日、[[トスカーナ大公国]]の[[コジモ3世]]がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる<ref name=Bona105 /><ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.34]]</ref>。 しかし彼の人生は好転しなかった。ティトゥスは1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死してしまった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った<ref name=Great4 />。翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなった。63歳没。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会に埋葬された<ref name=ozakiN /><ref name=Bona105 />。 == 絵画の変遷 == [[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn - The Abduction of Europa - Google Art Project.jpg|210px|thumb|1632年の神話画『[[エウロペの誘拐 (レンブラント)|エウロペの誘拐]]』。[[J・ポール・ゲティ美術館]]。油彩板絵。この絵はバロック調絵画の黄金時代を代表する<ref>[[#Clough1975|Clough (1975)、p.23]]</ref>。]] === 主題や形式 === レンブラントは生涯の創作活動において、物語、風景そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.268]]</ref>。修辞的に言えばレンブラントの絵画は、初期の、「滑らかな」技法がもたらす奇術のような形式を持つ描画に見られる卓越した技能から、後期の、画面上に現れる豊かで多彩な「荒々しい」様がもたらす画材そのものが作り出す触覚にさえ訴えかける質感が与える幻影的手法へと進歩した<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.160, 190]]</ref>。 彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることができる。作品は広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した<ref>[[#Ackley 2004|Ackley (2004)、p.14]]</ref>。 ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)にはラストマンから受けた影響が色濃く現れており、また、リーフェンスも意識していたことが窺える<ref name=Wetering-284>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.284]]</ref>。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。宗教画や[[アレゴリー]]を多く描き、大きさも肖像画には充分でない半分程度の大きさである{{仮リンク|トローニー|en|tronies}}を描いた<ref name=Wetering-284/>。1626年、初めて製作したエッチングが知れ渡り、レンブラントの名声を国際的なものにした<ref name=Wetering-284/>。1629年に完成させた『30枚の銀貨を返すユダ』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>や『アトリエにいる風景』は、光の技法と筆跡の多彩さに意識を向けていたこと、そして彼が画家として成長する過程において大きな進歩を成したことを示す<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.285]]</ref> [[File:Rembrandt, Portret van Haesje v.Cleyburg 1634.jpg|left|thumb|200px |1634年の肖像画。当時レンブラントは成功の渦中にあった。]] アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『[[ベルシャザルの饗宴 (レンブラント)|ベルシャザルの饗宴]]』(1635年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)、『ダナエ』(1636年)など、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]のバロック調をまねて大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.287]]</ref>。時にアイレンブルフ工房の助けを借りて、レンブラントは夥しい数の肖像画を作成した。それは小さな号(『ヤコブ・デ・ヘイデン三世』、1632年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)から大きなもの(『テュルプ博士の解剖学講義』1632年、『Portrait of the Shipbuilder Jan Rijcksen and his Wife』1633年)まであった<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p. 286]]</ref>。 {{external media| align = right| width = 250| image1 = [http://www.rembrandtpainting.net/rmbrndt_selected_drawings/cottagesbis.htm 『Cottages before a Stormy Sky』1641年]}} 1630年代末頃から、数点の油彩と多くのエッチングで[[風景画]]を製作した。これらはしばしば、自然のドラマ性を強調し、根こそぎの木や不吉な空(『Cottages before a Stormy Sky』1641年、『三本の木』1643年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)を描いたものもある。1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した[[旧約聖書]]から、[[新約聖書]]に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.288]]</ref>。 [[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 060.jpg|right|thumb|200px |『[[水浴する女 (レンブラント)|水浴する女]]』、1654年-1655年、ロンドン・ナショナルギャラリー。]] 『夜警』後の10年間、レンブラントは様々な号、対象、形式の絵画に取り組んだ。それまでの強い光による明暗で生み出していた演劇的効果は、正面からの光源と純粋な色彩を広く多用する方式に変化した。同時に、図像が画面に平行して置かれるようになった。このような変貌は、古典的な流儀と構成に軸足を移そうとしたことの現われであり、また、画法による表現のやり方には『水浴するスザンナ』(1636年、<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)のように[[ヴェネツィア派|ヴェネツィア流]]を取り入れたような傾向が垣間見える<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.163-165]]</ref>。また同じ頃、油彩の風景画はめっきり減り、エッチングや素描に替わった<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.289]]</ref>。その素材も、自然のドラマ性からオランダの静かな風景へとなった。 [[File:Rembrandt-The return of the prodigal son.jpg |left|thumb|200px |『[[放蕩息子の帰還 (レンブラント)|放蕩息子の帰還]]』、1666年-1668年、エルミタージュ美術館。晩年の聖書画。]] 1650年代になると、レンブラントの絵画形式はまたも変化を見せた。多彩になり、筆使いは特に変わった。この変貌によって、レンブラントは過去の作品や作風から脱皮し、ますます洗練された繊細な作品を指向するようになった。描画における彼の独創的な手法は[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]に通じるものがあり、それは現代でも「仕上げ」と表面処理の完成度に対する議論の中に見ることができる。当時の記録の中には、レンブラントの画法が粗雑だという批判も存在し、彼は訪問者が絵をまじまじと見ないよう遠ざけたともいう<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.155-165]]</ref>。触知できるような絵画に対する技法は、中世的な手法から得た可能性があり、絵画の表面に息吹を与える表現の模倣効果を持った。最終的な結果は、絵の具を豊富に用いて作る深い層に明らかな偶然がもたらす効果を織り交ぜつつ、奇術的かつ非常に独特な手法を合わせ持つ形式と空間を提示した<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp. 157-158, 190]]</ref>。 晩年には、聖書物語に題材を求めこそすれ、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深遠な一枚を残し、また『[[ユダヤの花嫁|ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)]]』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>など、愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた<ref>「(後期)レンブラントが描いた、生きた人間とまみえるように感じられる絵に、その暖かさ、共感を求める姿、または孤独や受難を我々は感じ取る。彼らの鋭く凝らした瞳は、レンブラントの自画像と同じく我々の心への訴えかけを直に感じざるを得ない。」[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.423]]</ref><ref>「それ(ユダヤの花嫁)は愛を育み、華美と慈愛と信頼などさまざまなものがすばらしい融合を見せ、誠実さに溢れたふたりの顔には古典的な描法では決して描くことができなかった霊的な輝きを湛えている」[[#Clark1969|Clark (1969)、p.206]]</ref>。 [[File:Rembrandt The Hundred Guilder Print.jpg|thumb|200px |100グルテン版画[[:en:The Hundred Guilder Print|(en)]]『病人を癒すキリスト』、1647年 - 1649年。アムステルダム歴史博物館、他。]] [[File:Rembrandt The Three Crosses 1653.jpg|thumb|right|200px |『三本の十字架』、1653年。全6ステートのうちの第3ステート。]] ===エッチング=== レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放して実質的な製作活動ができなくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた<ref>[[#Schwartz1988|Schwartz (1988)、pp.8-12]]</ref>。彼はこれを気軽に始めたが、[[ビュラン]]の使い方を習ったり[[エングレービング]]に手を出して多くの作品を残したりしながら、束縛されないエッチング技法を自分のものとした。彼は印刷工程全体にも強く関わり、初期の作品では自分の手で印刷を行ったと考えられる。最初の頃、素描技法を基礎にエッチングを行っていたが、すぐに絵画技法へ変更し、固まりのような線と酸による腐食を多用して描線の強さに変化をつけた。1630年代末頃、レンブラントのエッチングは腐食をほとんど用いない簡素な形式へ変貌した<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.5-6]]</ref>。1640年代にはいわゆる『100グルテン版画』[[:en:Hundred Guilder Print|(en)]]を製作し、これはレンブラントがエッチングのスタイルを確立し始める「彼のキャリアにて中期に当る重要な仕事」に相当した<ref>[[#White1969|White (1969)、p. 6]]</ref>。しかし、この版画は2つのステート(版)[[:en:state (printmaking)|(en)]]しか残されていない。1版目の点数は非常に少ないが、これによって版元には作り直しが行われた証拠となり、多く存在する2版目の写しにない要素が残っている<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.6, 9-10]]</ref>。 1650年代には成熟を迎え、現存する11の版画に見られるようにレンブラントは即席で大版の製作に携わり、時に根本的な変革を加えることもあった。[[ハッチング]]技術を用いて作り出した暗い部分は、時には画面の大部分を占めることもあった。また、紙にも検討を加えて効果を見極め、[[ヴェルム]]や後に多用した[[和紙]]などを試した。さらに、印刷時に平坦な部分のインクをすべて拭き取らずにあえて少々残すことで「表面トーン」 (surface tone) の効果を表した工夫も凝らした。特に風景描写にて、彼は[[ドライポイント]]技法を多用し、一瞥では分かりにくいが豊かでぼやかされたぎざぎざを作り出した<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.6-7]]</ref>。 === 集団肖像画 === [[ファイル:The Anatomy Lesson.jpg|thumb|200px|『テュルプ博士の解剖学講義』、油彩、1632年。]] ==== テュルプ博士の解剖学講義 ==== {{main|テュルプ博士の解剖学講義}} 『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、1632年1月に行われた講義にて、アムステルダムの市長にも2度就任した教授のニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士が切開した腕から腱を摘み上げて筋肉組織を説明している場面である。ここで博士の説明を聞く男性たちの中に医者はおらず、全員が街の名士であった。中央の人物が持つ書類は、彼らの名簿である<ref name=Bona45 />。死体は矢作り職人アリス・キント Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった<ref name="carnal_art">{{cite book|last=O'Bryan|first=C. Jil|title=Carnal Art |publisher=University of Minnesota Press|date=2005|pages=64&ndash;67|isbn=9780816643226|url=https://books.google.co.uk/books?id=x1KEO_H34EcC&pg=PA64&hl=en}}</ref>。オランダの[[デン・ハーグ]]にある[[マウリッツハイス美術館]]の所蔵。 従来の集団肖像画にない斬新な構図で若いレンブラントの名声を高めたが、そこに描かれた人物たちの視線は方々に散って一点に集まっておらず、纏まりや緊張感を表現できていないという評もある<ref name=Inada />。 [[ファイル:The_Nightwatch_by_Rembrandt.jpg|thumb|200px|『フランス・バニング・コック隊長の市警団』、油彩、1642年、アムステルダム国立博物館。]] ==== フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警) ==== {{main|夜警 (絵画)}} レンブラントの著名な作品として『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』が挙げられる。画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、これはニスの劣化によるもので、実際には左上から光が差し込んでいる描写がある通り、昼の情景を描いている。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼され、登場人物の各人が同じ金額を払って製作された。しかし各人が平等に描かれていない上、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもした。だがコック隊長は気に入り、絵画の出来栄えはレンブラントの評価を高めた<ref name=Great16>[[#グレートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.16-17、名画の構成:夜警]]</ref>。 この作品は現在では[[アムステルダム国立美術館]]が所蔵しているが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、[[ダム広場]]の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られ、その部分のいずれも残っていないが、コック隊長が作らせた水彩の模写から構図を窺える<ref name=Great16 />。 [[ファイル:Rembrandt - Klesveverlaugets forstandere i Amsterdam.jpg|thumb|200px|『[[布地商組合の見本調査官たち]]』、油彩、1662年。]] ==== 布地商組合の見本調査官たち ==== {{main|布地商組合の見本調査官たち}} レンブラントが後期に描いた作品。ここには長年取り組んだ集団肖像画に対するひとつの回答があり、彼が求めた主題性・ドラマ性と人物の顔や視線を正面から描く肖像画の制約を両立させる工夫を施している。場面は、テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間を描いた<ref name=Bona105 />。 この絵は布地商組合本部の会議室のやや高い場所に掲示された。手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして、幹部たちの威厳を強調することに成功している<ref name=Bona105 />。 === 自画像 === [[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 130.jpg|thumb|left|200px |自画像、1658年。晩年の傑作であり、「彼の自画像の中で、最も穏やかで最も壮大な作品」と評される<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.28]]</ref>。]] [[File:Rembrandt aux yeux hagards.jpg|thumb|right|200px |帽子を被り眼を見開いた自画像、1630年。エッチング。]] [[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 142.jpg |thumb|right|200px |『[[ゼウクシスとしての自画像]]』、1665年-1669年、[[ヴァルラフ・リヒャルツ美術館]]。最晩年の自画像の1つ。]] レンブラントは数多い自画像を描いている<ref>{{Cite book|和書 |author= 宮下規久朗|authorlink=宮下規久朗 |year = 2013 |title = 欲望の美術史 |publisher = [[光文社]] |page = 106 |isbn = 978-4-334-03745-1}}</ref>。当時、絵画は依頼に基づいて製作されたものが売買されており、画家の自画像などに買い手はいなかった。そのため彼は、基本的に絵の研究をするためにこれら自画像を描いていた。構図や表情の多様さや、色々な衣装などを纏った姿を使い、効果的な構図を探ったものと考えられる<ref name=Bona105 />。 自画像には、前時代的な衣装を纏ったものや、わざと顔を歪めているものもある。また、未だ評価が定まらない若かりし頃から、肖像画家として大きな栄誉に輝いていた1630年代の頃、そして幾多の困難に遭いながらも非常に力強い姿を描いた老年期のものもある。彼の自画像は、その満ち足りた顔に示されるように、典型的な男性像を対象の外観から心理までに至るまで明瞭に描き出す。一般的な解釈では、これらの絵画は対象の個性や内省を探ったもので、傑出した芸術家が描く肖像画を欲しがる市場の要求に応えたものだったと見なされている<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.290]]</ref>。 1658年の自画像では、高い威厳を誇る姿と権威の象徴であるステッキを手に、玉座に座るポーズをイメージさせる。豊富な色彩を用いたこの自画像は、心理学的にさまざまな情報を提示する<ref name=Great18>[[#グレートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.18-27、ギャラリー]]</ref>。 『キリスト昇架』『ヨセフの夢』『聖ステバノの殉教』など聖書物語を題材とする絵画においても、レンブラントは群集の中に自画像を含ませている。デュラハムは、レンブラントにとって聖書とは「日記のような、彼自身の人生の瞬間を記録したもの」と位置づけられていた、と述べた<ref>[[#Durham2004|Durham (2004)、p.60]]</ref>。 2020年7月28日には、個人蔵であった自画像一点がロンドンにおいて競売大手サザビーズで落札された。落札額は1450万ポンド(約19億7000万円)であり、レンブラントの自画像としては2003年に690万ポンドで落札された別の個人蔵の自画像を超え史上最高額となった。1632年末頃の作品で、彼は当時26歳で、アムステルダムで画家としての地位を確立し、初めて商業的な成功を収めていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3296206?cx_reffer=line-news&utm_source=line-news&utm_medium=news&utm_campaign=txt_link_0729|title=個人所蔵のレンブラント自画像、約20億円で落札 英ロンドン|accessdate=2020年7月29日|publisher=AFPBB News}}</ref>。 == 画法 == [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 053.jpg|thumb|right|200px|『[[屠殺された牛]]』、油彩、1655年、ルーヴル美術館。レンブラントが追い求めたメチエ(創造的な秩序を持つ技法を確立し、画家が獲得した表現様式)とリアリティを追求した結実のひとつ<ref name=Minami135 />。]] === 光と影を創り出す技法 === [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]の光と影を用いる演劇的表現である[[キアロスクーロ]]、もしくは{{仮リンク|ユトレヒト・カラヴァッジョ派|en|Utrecht Caravaggism}}の影響を色濃く受けつつも、それらを自らの技法として昇華した<ref>[[#Bull2006|Bull (2006)、pp.11-13]]</ref> レンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した<ref name=Minami140 />。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色の[[グレーズ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}をかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.amcac.ac.jp/~suzuki/00database/01artgiho/08ku.html |title=表現技法辞典|author=鈴木司|publisher=[[秋田公立美術工芸短期大学]] |language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。 これはデッサンにおいてすでに見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、木材のタール分から作られた<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kyusan-u.ac.jp/J/inoue.ko/OpenSquare/index.php?Illustration |title=イラストレーション|author=井上貢一|publisher=[[九州産業大学]]芸術学部デザイン学科|language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref> ピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している<ref name=Minami140 />。 === モデリング === 油彩画では、[[鉛白]]を用いた[[グリザイユ]]技法で独特の[[マチエール]](質感)を生む[[アンダー・ペインティング]]を施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自の[[ブラッシュ・ストローク]](筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた<ref name=Minami135 />。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた<ref name=Bona105 />。 === 描写 === [[ファイル:Rembrandt van Rijn - Danaë 1636-1643.jpg|left|thumb|200px|『[[ダナエ (レンブラントの絵画)|ダナエ]]』、1636-1637年。レンブラントが初めて手掛けた等身大ヌード画<ref name=Ozaki69 />。]] ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所がある。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作」ではなく「感情 」や「動機」を意味するのでは、という意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにせよ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性を継ぎ目なく融合させた比類ない存在であることは疑いようがない<ref>[[#Hughes2006|Hughes (2006)、p.6]]</ref>。 [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 026 Frag4.jpg|right|thumb|150px|『[[ダナエ (レンブラントの絵画)|ダナエ]]』の右手(拡大)。]] 彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、神話や伝説からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『[[ダナエ (レンブラントの絵画)|ダナエ]]』は、[[ギリシア神話]]に登場する女[[ダナエー]]の許を[[ゼウス]]が訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に手の甲を見せるように差し出して描かれていたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色の[[クピードー|クピド]]は、彼女が幽閉された状況を象徴している<ref name=Ozaki69>[[#尾崎2004|尾崎 (2004)、pp.69-83、第二章 4.女性の力]]</ref>。 === 画材 === ;紙 :レンブラントは[[洋紙]]を好まず、亜麻布や大麻布のボロから手漉きで作らせた紙、雁皮紙などを使った。これは版画などにてインク吸収に優れた点を重視したと思われる。また、当時多く輸出されていた[[和紙]]も用い、100ギルダー版画『病をいやすキリスト』や素描など350点以上が残っている<ref>{{Cite book|和書|author=原啓志|year=1992|pages=49-50|title=紙のおはなし|publisher=日本規格協会|isbn=4-542-90105-X}}</ref>。 ;インク :レンブラントのデッサンには、[[セピア色]]の線がよく見られる。これは[[イカ墨]]を用いたインクで、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]も好んで使った。このイカ墨インクは「レンブラント・インク」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hatsumei.co.jp/column/detail/1/59/SESSID:f30faa35b639df50d598e562f563662f.html|title=発明コラム「イカ墨」|publisher=株式会社発明通信社|author=東方幸男|language=日本語|accessdate=2010-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.fish.hokudai.ac.jp/news/open/2001ikasumi.htm |title=イカスミ(墨)でオリジナルT-シャツを作ろう|publisher=[[北海道大学]]大学院水産科学研究院|author=桜井泰憲、平方亮三|language=日本語|accessdate=2010-12-26}}</ref>。 == レンブラント工房 == [[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 021.jpg|right|thumb|200px|『[[ガリラヤの海の嵐]]』、1633年、油彩。この絵画は1990年に所蔵していた[[イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館]]から盗まれ、行方不明のままである。]] 高い名声を得たレンブラントは大きな工房を運営し、多くの弟子を抱えたことで知られる。そのほとんどが強い影響を受けた。そのため、スタジオで製作した作品や、後援者が望んだレンブラント風絵画や、たんに複製した作品などが混在する状況となり、その差異を判断することが難しくなった。 レンブラントの弟子には、以下の人物もいる<ref>{{cite web|url= http://www.rkd.nl/rkddb/dispatcher.aspx?action=search&database=ChoiceArtists&search=priref=66219|title= Leraar van, Rijksbureau voor Kunsthistorische Documentatie|publisher=[[:en:Netherlands Institute for Art History|RKD]] |language=オランダ語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。 [[アドリアーン・ブラウエル]]<!--(1605年生)-->、 [[:en:Willem de Poorter|ウィレム・デ・ポールター]]<!--(1608年生)-->、 [[ヘラルト・ドウ]]<!--(1613年生)-->、 [[ホーファールト・フリンク]]<!--(1615年生)-->、 [[フェルディナント・ボル]]<!--(1616年生)-->、 [[:en:Jan Victors|ヤン・フィクトルス]]<!--(16196年生)-->、 [[ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト]]<!--(1621年生)-->、 [[フィリップス・コーニンク]]<!--(1619年生)-->、 [[カレル・ファブリティウス]]<!--(1622年生)-->、 [[ユルゲン・オーフェンス]]<!--(1623年生)-->、 [[サミュエル・ファン・ホーホストラーテン]]<!--(1627年生)-->、 [[:en:Christopher Paudiß|Christopher Paudiß]]<!--(1630年生)-->、 [[ウィレム・ドロステ]]<!--(1633年生)-->、 [[:en:Hendrick Fromantiou|Hendrick Fromantiou]]<!--(1633年生)-->、 [[:en:Jacob Levecq|Jacob Levecq]]<!--(1634年生)-->、 [[ニコラース・マース]]<!--(1634年生)-->、 [[ハイマン・デュラート]]<!--(1636年生)-->、 [[アールト・デ・ヘルデル]]<!--(1645年生)-->、 [[ゴドフリー・ネラー]]<!--(1646年生)--> <!--2012年10月より前の版から、アブラハム・ヤンセンスと ウィレム・ファン・デル・フリートの名前もあったが、2人はレンブラントよりかなり年上で、特段レンブラントと関係なさそうなので削除しました--> 工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』([[シカゴ美術館]]蔵)とアールト・デ・ヘルデルの『腰掛けた裸婦』([[ロッテルダム]]、[[ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館]])がある<ref name="ozaki1">[[#尾崎2004|尾崎.15-48 名声への戦略]]</ref>。 == レンブラント研究プロジェクト == 20世紀初頭、レンブラントの作品は約1000点が伝わっていたが、それらには常に真贋問題がつきまとっていた<ref name=Bona146>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.146-150、贋作の判定]]</ref>。中には2枚の真作エッチングを合成して1枚の贋作を作った例まであった<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/07/7300.html |title = 東西贋作事件史 |chapter = レンブラント贋作事件 |author = 二子登 麓愛弓 湊園子[編] |publisher = [[東京大学総合研究博物館]] |language = 日本語 |accessdate = 2011-01-21 }}</ref>。1968年、オランダの応用化学研究機構 (Netherlands Organization for the Advancement of Scientific Research, TNO) が出資したレンブラント研究プロジェクト[[:en:Rembrandt Research Project|(en)]]が立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの真筆とする信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用い、彼の絵画を収めた新しい[[カタログ・レゾネ]]を完成させようとした<ref name=Research>{{Cite web|和書 |url = http://www.rembrandtresearchproject.org/ |title = プレス・リリース |publisher = レンブラント・リサーチ・プロジェクト |author = Ernst van de Wetering (Ed.) |language = 英語 |accessdate = 2011-01-21 }}</ref>。 パネルの年輪年代学や他の物理・化学的分析ではほとんど贋作判定はできず、逆に18-19世紀の絵ではと考えられていたものが17世紀の絵だと判明するケースもあった<ref name=Bona146 />。威力を発揮した手法は、[[X線撮影]]によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それらを基に図像学や美術史家が考証を行うという分析であった。絵の具の塗り方にむらや不必要な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされたために不規則なひびが入っているものなどが贋作判定の例となった<ref name=Bona146 />。これらを通じ、彼の真作による絵画は約300に絞られた。ただし、この判断には段階が設けられ、「真作の可能性が高い (very likely authentic)」「真作の可能性がある (possibly authentic)」「真作の可能性が低い (unlikely to be authentic)」という評価がそれぞれに与えられている<ref>{{cite web |url = http://staff.science.uva.nl/~fjseins/RembrandtCatalogue/ |title = A Wave Catalogue of Rembrandt Painting |publisher = Science Uva |author = Frank J. Seinstra |language = 英語 |accessdate = 2011-01-21 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120513080039/http://staff.science.uva.nl/~fjseins/RembrandtCatalogue/ |archivedate = 2012年5月13日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[File:Rembrandt - De Poolse ruiter, c.1655 (Frick Collection).jpg|thumb|200px|『ポーランドの騎手』[[:en:The Polish Rider|(en)]]。馬に乗ったリソフチツィ[[:en:Lisowczycy|(en)]]を題材に描いたこの絵に関して多くの議論がある。この人物は、リトアニアの大法官[[:en:Kanclerz|(en)]]であるマルクジャン・アレクサンドラ・オギンスキ[[:en:Marcjan Aleksander Ogiński|(en)]](1632年-1690年)を描いたと言われる。.]] 例えば、[[ニューヨーク]][[フリック・コレクション]]の『ポーランドの騎手』は以前からジュリウス・ヘルドら多くの学者によって信憑性に疑問が呈され、研究プロジェクトのジョシュア・ブリュン博士もレンブラントの最も才能溢れながらあまり知られていない門下生[[ウィレム・ドロステ]]の作品だと考えた。蒐集した[[ヘンリー・フリック]]は、視認できるサイン「Rembrandt」(レンブラント)の前には、「attributed to」(…の所有物)も「school of」(…門下)も見えないとして、自身の意見を変えることはなかった。その後、サイモン・シャーマ[[:en:Simon Schama|(en)]]は1999年の著作『レンブラントの目』でフリックを支持し、プロジェクトのエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授も1997年のメルボルン・シンポジウムで真作説に賛同の意を述べた。多くの学者は、出来栄えが不規則である点から、各部分を複数の人物が描いたものという意見を受け入れている<ref>"Further Battles for the 'Lisowczyk' (Polish Rider) by Rembrandt" Zdzislaw Zygulski, Jr., ''Artibus et Historiae'', Vol. 21, No. 41 (2000), pp. 197-205. Also New York Times。参照: [http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D06EEDE103EF937A15753C1A961958260 story]。この書籍はAnthony Bailey (New York, 1993)の「レンブラントへの回答;誰が『ポーランドの騎手』を描いたのか? (Responses to Rembrandt; Who painted the Polish Rider?)」について書かれている。</ref>。 [[File:Der Mann mit dem Goldhelm.jpg|thumb|left|150px|『黄金の兜をかぶった男』ベルリン。最も有名なレンブラントの肖像作品の一つであったが、この絵画は彼のものとは見なされなくなった。]] 『手を洗うピラト』もまた疑いを持たれた作品である。これは1905年には疑問が呈されており、ヴィルヘルム・フォン・ボーデはこの作品を指してレンブラントにしては「どこかおかしな仕事」と述べた。科学的な分析が1960年代から行われ、これはいずれかの弟子、おそらくはアレント・デ・ヘルダーが描いたものと推測された。構成こそ表面的にはレンブラントの作品との類似性を帯びているが、特徴である明暗やモールディング技法の表現性には欠けていた<ref>{{cite web |url = http://www.metmuseum.org/Works_Of_Art/viewOne.asp?dep=11&viewmode=1&item=14.40.610 |title = Pilate Washing His Hand |publisher = The Metropolitan Museum of Art: European Paintings |author = |language = 英語 |accessdate = 2011-01-21 }}</ref>。 レンブラントの版画は一般にエッチングと纏められているが、ほとんどは[[エングレービング]]であり一部に[[ドライポイント]]がある。これらの真作は300点を下回った<ref group="注">200年前、Bartschはレンブラントのエッチングリストを375点とした。[[#Schwartz1988|Schwartz (1988)、pp.6]]によると、近年、真作のリストには風変わりな2点を含む3作が加えられ、Münz 1952, p. 279, Boon 1963, pp. 287(参考:[http://www.printcouncil.org/search.html Print Council of America] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20000831232904/http://www.printcouncil.org/search.html |date=2000年8月31日 }})にある289点を上回ったと言うが、その具体的な数は記していない。</ref>。レンブラントは生涯に2000以上の素描を残したと伝わるが、現存する点数はこれを下回る<ref group="注">これは全数ではないと思われ、学術的分析は続行中である。2006年から翌年にかけてベルリン・コレクションを展示するために行われた解析では、彼の作とされた点数が130枚から60枚に減少した。参照:[http://www.codart.nl/exhibitions/details/911/ Codart]。[[大英博物館]]は同じような活動を行い、新たなカタログを発行する予定である。</ref>。二組の専門家チームの発表によると、署名の状態から確かに彼の絵画であると言い切れるものは約75点にとどまるというが、これは議論の的となっている。このリストは、2010年2月に行われた学術会議で公表された<ref>{{cite web |url = http://www.garyschwartzarthistorian.nl/schwartzlist/?id=148 |title = Schwarzlist 301 |author = Gary Schwarz |language = 英語 |accessdate = 2011-01-21 }}</ref>。 レンブラントの自画像は90点あると考えられていたが、後に練習のために弟子に模写させたものが含まれていることが分かった。現在では40数点の絵画と若干数の素描、そして31点のエッチングと学術的に判断され、外されたものの中には代表作と見なされていた作品もあった<ref>[[#WhiteandBuvelot1999|White and Buvelot (1999)、p.10]]</ref>。 {{external media |align = right |width = 250 |image1 = [http://static.rnw.nl/migratie/www.radionetherlands.nl/features/cultureandhistory/050923rem-redirected 新たにレンブラント作とされた4点] }} その後も真贋判定は続けられている。2005年、弟子作と考えられていた4点の油彩がレンブラント本人の作品という判定がなされた。これらは『Study of an Old Man in Profile』『Study of an Old Man with a Beard』(2点ともアメリカの個人が所有)、『Portrait of an Elderly Woman in a White Bonnet』(1640年作)、『Study of a Weeping Woman』([[デトロイト美術館]]蔵)である<ref>{{cite web |url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/arts/4276034.stm |title = Entertainment &#124; Lost Rembrandt works discovered |publisher = BBC News |date = 2005-09-23 |accessdate = 2011-01-21 }}</ref>。 レンブラント工房の体制が真贋判定の難しさを生んでいる。先人の工房も同様ではあるが、レンブラントは弟子たちに彼の絵をよく模写させた。そしてそれらに仕上げや修正を施し、真作または正式な複製として販売していた。さらに、レンブラントの絵画形式は決して難しいものではなく、才能ある弟子ならば模倣が可能であった。さらにこの問題を複雑にした背景には、レンブラント自身の製作には品質的にぶれがあり、また頻繁に絵画形式を変化させたり実験を試みたりしたことがある<ref>「レンブラントは完全なる一貫性を常に持っていたわけではなく、論理的なオランダ人という性格を彼に当てはめるのは、こうあれという思い込みである」[[#Ackley 2004|Ackley (2004)、p.13]]</ref>。彼の作品には後に贋作が作られることがあった。また、真作の中にもひどい[[損傷]]を被ったものもあり、本来の状態をよもや認識できない作品もある<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.x]]</ref>。 == 署名の変遷 == [[File:Rembrandts house, Amsterdam.jpg|thumb|200px|アムステルダムの[[レンブラントの家]]。現在は博物館[[:en:Rembrandt House Museum|(en)]]になっている。]] 1633年にレンブラントは、署名を芸術家らしく「Rembrandt」というファーストネームだけの署名に変更した。大まかな経緯は、1625年頃の初期に彼はイニシャルの「R」または[[モノグラム]]の「RH」(「Rembrant Harmenszoon‐ハルマンの息子レンブラント」の略)を使用していたが、1629年からはおそらくライデンの頭文字であろうLを加え「RHL」を使うようになった。これは1632年初期頃まで用いられたが、やがて父称を加えて「RHL-van Rijn」とするも、同年中にはファーストネームのみを本来のスペルである「Rembrant」へ変えた。1633年、彼は何らかの意図をもってこれにdを入れた小変更を施して「Rembrandt」とし、以後このサインを使い続けた。この改訂は表示だけのもので、名前の発音まで変えるものではなかった。このdを加えたサインは数多い絵画やエッチングに用いられたが、同時代に作成された書類にはdがない名前が使われた<ref>[http://www.rembrandt-signature-file.com/remp_texte/remp050.pdf Chronology of his signatures (pdf)] , [http://www.rembrandt-signature-file.com]</ref>。ファーストネームだけを署名に用いる彼のこのような取り組みは、後に[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]も行った。これらは、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]や[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]らファーストネームだけで認知される先人に倣ったものと考えられる<ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.60]]</ref>。 == レンブラントの眼の秘密 == [[ファイル:Rembrandt van Rijn - Portrait of a Man in a Broad-Brimmed Hat - Google Art Project.jpg|代替文=|サムネイル|200px|『広つば帽を被った男』油彩、1635年]] 2004年、[[ハーバード大学医学大学院]]の[[神経科学]]教授マーガレット・S・リビングストンは、レンブラントは視覚の焦点を正確に結べない{{仮リンク|立体盲|en|stereo blindness}}であったという短い論文を発表した<ref name="Med">『[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]』、2004年9月16日号、Livingstone, Margaret S.; Conway, Bevil R. (September 16, 2004). "Was Rembrandt Stereoblind?" (Correspondence). '''351''' (12): 1264–1265. {{PMID|15371590}}.</ref>。これはレンブラントの自画像36点を研究した結果で、彼は{{仮リンク|両眼視|en|binocular vision}}に難を抱えていたために脳が自動的に片目だけで多くの視覚的機能を果たすよう切り替わっていたという。レンブラントはこの障碍があったがために、平面を視認する感覚を獲得し、二次元的なキャンバスを作り出すに至った可能性がある。リビングストンによると、これは画家にとって利点になるもので、「絵画教師はたまに、生徒に片目を瞑って平面を視認するよう指導することがある。したがって、立体盲は決して欠点にならず、画家によっては資産にもなりうる」と述べた<ref name=Med />。 == 作品を所蔵する美術館 == レンブラントの代表的な作品は『夜警』『[[ユダヤの花嫁]](イサクとリベカ)』などがある[[アムステルダム国立美術館]]、[[デン・ハーグ]]の[[マウリッツハイス美術館]]、[[サンクトペテルブルク]]の[[エルミタージュ美術館]]、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[ベルリン]]の[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]、[[ドレスデン]]の[[アルテ・マイスター絵画館]]、[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]、他に[[ニューヨーク]]、[[ワシントンD.C.]]、[[ストックホルム]]、[[カッセル]]等にある<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.147-150]]. レンブラント作と認められた品の所在カタログ参照</ref>。 日本国内にあるレンブラントの作品としては、『広つば帽を被った男』が[[DIC川村記念美術館]]に展示されている。 == ギャラリー == <gallery widths="130px" heights="120px" perrow="5"> Judas Returning the Thirty Silver Pieces - Rembrandt.jpg|{{small|『[[銀貨30枚を返すユダ]]』1629年<br />[[ノース・ヨークシャー]]、マルグレイブ城所蔵}} Rembrandt Harmensz van Rijn - Jacob III de Gheyn - Google Art Project.jpg|{{small|『[[ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像]]』1632年<br />[[ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー|ダリッジ美術館]]所蔵}} Rembrandt Harmensz. van Rijn 073.jpg|{{small|『[[キリスト昇架 (レンブラント)|キリスト昇架]]』1634年頃<br />[[アルテ・ピナコテーク]]所蔵}} Rembrandt Harmensz. van Rijn 071.jpg|{{small|『[[キリスト降架 (レンブラント、1633年)|キリスト降架]]』1634年頃<br />アルテ・ピナコテーク所蔵}} Harmensz van Rijn Rembrandt - Флора - Google Art Project.jpg|{{small|『[[フローラ (レンブラント、エルミタージュ美術館)|フローラに扮したサスキア]]』1634年<br />[[エルミタージュ美術館]]所蔵}} Artemisia, by Rembrandt, from Prado in Google Earth.jpg|{{small|『[[ホロフェルネスの饗宴におけるユディト]]』1634年<br />[[プラド美術館]]所蔵}} Rembrandt-Belsazar.jpg|{{small|『[[ベルシャザルの饗宴 (レンブラント)|ベルシャザルの饗宴]]』1635年頃<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵}} The Blinding of Samson (SM 1383).png|{{small|『[[ペリシテ人に目を潰されるサムソン]]』1636年<br />[[シュテーデル美術館]]所蔵}} Suzanna, Rembrandt van Rijn, 1636, Mauritshuis, The Hague.jpg|{{small|『[[スザンナ (レンブラント)|水浴するスザンナ]]』1636年<br />[[マウリッツハイス美術館]]所蔵}} Die landschaft mit den drei baeumen.jpg|{{small|『三本の木』1643年<br />ダリッジ美術館所蔵}} Rembrandt Christ and the Woman Taken in Adultery.jpg|{{small|『[[姦淫の女 (レンブラント)|姦淫の女]]』1644年<br />ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵}} Rembrandt_-_Aristotle_with_a_Bust_of_Homer_-_WGA19232.jpg|{{small|『[[ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス]]』1653年<br />[[メトロポリタン美術館]]所蔵}} Rembrandt - Moses with the Ten Commandments - Google Art Project.jpg|{{small|『[[十戒の石板を破壊するモーセ]]』 [[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]所蔵}} Rembrandt - Sankt Jakobus der Ältere.jpg|{{small|『聖ヤコブ』1661年}} Bataafseeed.jpg|{{small|『[[クラウディウス・キウィリスの謀議]]』1661-1662年<br />[[スウェーデン国立美術館]]所蔵}} Pallas Athena by Rembrandt Museu Calouste Gulbenkian 1488.jpg|{{small|『[[パラス・アテナ (レンブラント)|パラス・アテナ]]』1663年<br />カルースト・グルベンキアン美術館所蔵}} Rembrandt Harmensz. van Rijn 061.jpg|{{small|『[[詩を口述するホメロス]]』1663年<br />マウリッツハイス美術館所蔵}} Rembrandt Harmensz. van Rijn - Het Joodse bruidje.jpg|{{small|『[[ユダヤの花嫁]](イサクとリベカ)』1667年<br />アムステルダム国立美術館所蔵}} Rembrandt, Self Portrait at the Age of 63.jpg|{{small|『[[63歳の自画像]]』1669年<br />ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵}} </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 脚注 === {{Reflist|2}} ^ a b メキキズ・ビジネス編集局. “光の魔術師 (PDF)” (日本語). NTTアドバンステクノロジ株式会社. 2010年12月23日閲覧。 においてPDFのリンク記述が以下のようになっています。 http://www.mekikies.com/japanese/data/v5n1-1_hikari-full_s.pdf このリンク先はすでになくなっているので以下のリンク先に変更を希望します。 http://www.tele.co.jp/kanemaki/光の魔術師-Fv05n01.pdf === 脚注2 === 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。 {{Reflist|group="2-"}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=尾崎彰宏|authorlink=尾崎彰宏|year=2004|title=レンブラントのコレクション 自己成型への挑戦|publisher=[[三元社]]|edition=初版|isbn=4-88303-135-7|ref=尾崎2004}} *{{Cite book|和書|author=パスカル・ボナフー|translator=村上尚子|year=2001|title=レンブラント‐光と影の魔術師‐|publisher=[[創元社]]|edition=初版|isbn=4-422-21158-7|ref=ボナフー2001}} *{{Cite book|和書|year=2001|author=編集:苅部康次|title=週刊グレート・アーチスト No.67レンブラント|publisher=[[同朋舎出版]]|雑誌22351-6/4|ref=グレートアーチスト67}} *{{Cite book|和書|author=南城守|year=2003 |title=デッサン学入門‐創意の源泉を探る|publisher=ふくろう出版 |isbn=978-4861861536 |url=https://books.google.co.jp/books?id=DMzul7tpebUC&pg=PA140&dq=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&f=false |ref=南城2003}} *{{cite book|author= Ackley, Clifford, et al |date=2004年|title= Rembrandt's Journey |publisher= Museum of Fine Arts |location=ボストン|isbn=0-87846-677-0|ref=Ackley 2004}} *{{cite book|author=Adams, Laurie Schneider|date=1999年|title=Art Across Time. Volume II|publisher=McGraw-Hill College, New York, NY|ref=Adams1999}} *{{cite book|author= Bull, Duncan, et al |date=2006年|title= Rembrandt-Caravaggio |publisher= Rijksmuseum |ref=Bull2006}} *{{cite book|author=[[ケネス・クラーク]] |date=1969年|title= Civilisation |publisher= Harper & Row |ref=Clark1969}} *{{cite book|author= Clark, Kenneth |date=1978年|title= An Introduction to Rembrandt |publisher= John Murray/Readers Union |location=ロンドン|ref=Clark1978}} *{{cite book|author=Clough, Shepard B.|date=1975年|title=European History in a World Perspective|publisher=D.C. Heath and Company, Los Lexington, MA|isbn=0-669-85555-3|ref= Clough1975}} *{{cite book|author=Durham, John I.|date=2004年|title=Biblical Rembrandt: Human Painter In A Landscape Of Faith|publisher=Mercer University Press|isbn=0-865-54886-2|ref= Durham2004}} *{{cite book|author=[[エルンスト・ゴンブリッチ]] |date=1995年|title= The Story of Art |publisher= Phaidon |isbn=0-7148-3355-X |ref=Gombrich1995}} *{{Citation| surname1 = Hughes| given1 = Robert| date = 2006年| journal = The New York Review of Books | title = The God of Realism| publisher = Rea S. Hederman | number = 6 | volume = 53|ref= Hughes2006}} *{{cite book|author= Gary Schwartz (editor) |date=1988年|title= The Complete Etchings of Rembrandt Reproduced in Original Size |publisher= Dover|location=ニューヨーク |isbn=0-486-28181-7 |ref=Schwartz1988}} *{{cite book|author= Slive, Seymour[[w:Seymour Slive|(en)]]|date=1995年|title= Dutch Painting, 1600–1800 |publisher= Yale UP |isbn=0300074514 |ref=Slive1995}} *{{cite book|author=エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク[[:en:Ernst van de Wetering|(en)]] |date=2000年|title= Rembrandt: The Painter at Work |publisher= Amsterdam University Press |isbn=0-520-22668-2|ref=Wetering2000}} *{{cite book|author= Christopher White[[w:Christopher White (art historian)|(en)]], (editor) Quentin Buvelot |date=1999年|title= Rembrandt by himself |publisher= National Gallery Co Ltd |ref= WhiteandBuvelot1999}} *{{cite book|author=Christopher White|date=1969年|title= The Late Etchings of Rembrandt |publisher= British Museum/Lund Humphries|location=ロンドン|ref=White1969}} == 読書案内 == *{{Cite book|和書|author=幸福輝|year=2011|title=もっと知りたいレンブラント <small>生涯と作品</small>|publisher=[[東京美術]]<アート・ビギナーズ・コレクション>|isbn=978-4-8087-0897-9}} *マリエット・ヴェステルマン 『レンブラント』 高橋達史訳、[[岩波書店]]<岩波世界の美術> 2005年 *{{Cite book|和書|author=貴田庄|authorlink=貴田庄|year=2005|title=レンブラントと和紙|publisher=[[八坂書房]]|edition=初版|isbn=489694853X|ref=貴田2005}} *{{Cite book|和書|author=尾崎彰宏|year=1995|title=レンブラント工房 <small>絵画市場を翔けた画家</small>|publisher=[[講談社]]<講談社選書メチエ>|isbn=4-06-258057-8}} *{{Cite book|和書|author=リュカス、コレルス|translator=渡辺義雄|year=1996 |title=スピノザの生涯と精神|publisher=[[学樹書院]] |isbn=978-4906502059 |url= https://books.google.co.jp/books?id=Rk8eg7Y2n48C&pg=PA186&dq=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&f=false}} * カタログ・レゾネ[[:en:Catalogue raisonné|(en)]]: Stichting Foundation Rembrandt Research Project: **''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume I'', which deals with works from Rembrandt’s early years in Leiden (1629–1631), 1982年 ** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume II: 1631-1634''. Bruyn, J., Haak, B. (et al.), Band 2, 1986年, ISBN 978-90-247-3339-2 ** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume III, 1635-1642''. Bruyn, J., Haak, B., Levie, S.H., van Thiel, P.J.J., van de Wetering, E. (Ed. Hrsg.), Band 3, 1990年, ISBN 978-90-247-3781-9 ** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume IV''. Ernst van de Wetering, Karin Groen et al. Springer, Dordrecht, the Netherlands (NL). ISBN 1-4020-3280-3. p.&nbsp;692. (Self-Portraits) * ''Rembrandt. Images and metaphors'', Christian Tumpel (editor), Haus Books London 2006年 ISBN 978-1-904950-92-9 * Van De Wetering, Ernst (2004年) (2nd paperback printing). ''The Painter At Work''. University of California Press,Berkley and Los Angeles. University of California Press, London, England. By arrangement with Amsterdam University Press. ISBN O-520-22668-2. == 関連項目 == * [[レンブラント広場]] * [[レンブラント光線]] * [[オランダ黄金時代の絵画]] == 外部リンク == {{commons|category:Rembrandt|レンブラント}} * {{nl icon}} [http://rembrandt.startpagina.nl/ Rembrandt.startpagina.nl] レンブラントに関するリンク集 * {{en icon}} [http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/visual_arts/article6840232.ece?token=null&offset=12&page=2 "Rembrandt work unseen for 40 years to be sold" The Times, 2009年9月19日] * {{en icon}} [http://www.guardian.co.uk/uk/2009/sep/18/rembrandt-portrait-sale "Rembrandt for sale" The Guardian, 2009年9月18日]レンブラントの肖像画がオークションに出品される。 * {{en icon}} [http://www.virtual-history.com/person.php?personid=1 Literature] * {{en icon}} [http://rembrandt-etchings.blogspot.com/2008/12/print.html Rembrandt, The Hundred Guilder Print] レンブラントのエッチング * {{en icon}} [http://www.ricci-art.com/en/Rembrandt.htm Paintings by Rembrandt] * {{en icon}} [http://www.getty.edu/art/gettyguide/artMakerDetails?maker=473 A biography of the artist Rembrandt Harmensz. van Rijn from the J. Paul Getty Museum] * {{en icon}} [http://www.liverpoolmuseums.org.uk/walker/collections/17c/rembrandt.aspx Rembrandt's 'Self-portrait as a young man', at the Walker Art Gallery, Liverpool, UK] * {{en icon}} [http://www.nga.gov/exhibitions/2005/rembrandt/flash/index.shtm Rembrandt's Late Religious Portraits at the National Gallery of Art, Washington] * {{en icon}} [http://collections.tepapa.govt.nz/search.aspx?advanced=colProProductionMakers%3a%22van+Rijn%2c+Rembrandt%22 Etchings by Rembrandt at the Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa] * {{en icon}} [http://www.all-art.org/history252-21.html Rembrandt van Rijn in the "History of Art"] * {{en icon}} [http://www.rembrandthuis.nl/ Rembrandt's house in Amsterdam] レンブラントのエッチングを多数展示。 * {{en icon}} [https://web.archive.org/web/20120513080039/http://staff.science.uva.nl/~fjseins/RembrandtCatalogue/ Web Catalogue of Rembrandt's Paintings] 600点以上の絵画を、真贋を分けて表示。 * {{en icon}} [http://www.rijksmuseum.nl/asp/start.asp?language=uk Rijksmuseum in Amsterdam] * {{en icon}} [http://www.rembrandtresearchproject.org/ Rembrandt Research Project] レンブラント研究プロジェクト * {{en icon}} [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rembrandt/ Webmuseum Paris] 絵画の解説。 * {{en icon}} [http://www.britannica.com/eb/article-9109483/Rembrandt-van-Rijn Encyclopedia Britannica article] * {{en icon}} [http://www.rembrandtpainting.net/ Rembrandt van Rijn - Life and Art] * {{en icon}} [http://www.nakedtheatre.co.uk/phpics.htm Provenance Helpline] レンブラントが登場する演劇の紹介。 * {{en icon}} [http://www.artbible.info/art/work/rembrandt-harmensz-van-rijn.html Biblical art by Rembrandt Harmensz. van Rijn] * {{en icon}} [http://www.rembrandt-signature-file.com The Rembrandt Signature Files] レンブラントの氏名とサインの解説。 * {{nl icon}} [http://stadsarchief.amsterdam.nl/presentaties/uitgelicht/rembrandt_prive/introductie/index.nl.html Rembrandt Privé] アムステルダム市保存のレンブラントの生涯を解説したページ。 * {{en icon}} [http://www.saverembrandt.org.uk Save rembrandt from the experts] {{レンブラント}} {{Good article}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:れんふらんと ふあんれいん}} [[Category:レンブラント・ファン・レイン|*]] [[Category:17世紀オランダの画家]] [[Category:オランダのドローイング作家]] [[Category:オランダ共和国の人物]] [[Category:オランダのエッチング作家]] [[Category:トロンプ・ルイユの芸術家]] [[Category:オランダ・ギルダー紙幣の人物]] [[Category:ライデン出身の人物]] [[Category:1606年生]] [[Category:1669年没]]
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おーはしるい
おーはしるい(11月25日 - )は、日本の4コマ漫画家。群馬県みどり市(旧・勢多郡東村)出身、埼玉県在住。 デビュー作は竹書房『まんがくらぶ』に掲載された「きょーだい生活」。 芳文社、竹書房の4コマ雑誌で作品を発表しているが、かつてはストーリーものも描いていた。当初はストーリーものでは「萩原みゆき」名義を使用していたが現在は「おーはしるい」に統一されている。他に「やぎあきは」、「野の元舞」名義でヘビーユーザーである『ラグナロクオンライン』を初めとするゲーム関係のアンソロジーも描いている。 なお、ペンネームの「おーはし」は本名(旧姓)で、「るい」は中学時代に好きだったアニメのキャラクターから拝借したという。 過去の作品の単行本の穴埋め漫画や本人ブログによると、小笠原朋子、松田円、杜菜りの(千葉なおこ)らと親交があるほか、師走冬子とは10年来の友人であり、最近では同い年の娘を持つなど共通点が多い浜口乃理子とも親交が深い。 芳文社、竹書房ではキャラの描き方が若干違いがある。一部例外もあるが芳文社作品では鼻がなく、竹書房作品では鼻がある。 2004年8月に第一子である女児を出産。懐妊から出産、育児の様子は『まんがタイムファミリー』連載の「ふーare you!」にて描かれていた。 2005年3月ごろから点目を除くキャラ達の目の白い部分が楕円から小さい丸に変わった。 2008年10月4日から11月3日にかけて、地元群馬県みどり市にて原画展を開催。また、2010年8月18日から約1ヶ月間2度目の原画展が同市にて開催された。 2013年現在、商業誌への連載作品数は6作品6誌となっている。また、竹書房の再録4コマ誌『まんがライフセレクション』も『おーはしるい特集号』として年に1、2回のペースで発行されている。かつてはひらのあゆ、むんこらと共に芳文社の再録4コマ誌『まんがタイムコレクション』のローテーションの柱を務めていた。 独立記事がある作品の書誌情報の詳細はそれぞれの作品記事を参照。 注記のないものは4コマ。 下記のレーベルのゲームアンソロジーの一部に執筆している。
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おーはしるいは、日本の4コマ漫画家。群馬県みどり市(旧・勢多郡東村)出身、埼玉県在住。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = おーはし るい | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢||11|25}}<ref name="おーはし"/> | 生地 = [[日本]]・[[群馬県]][[みどり市]](旧:[[勢多郡]][[東村 (群馬県勢多郡)|東村]]) | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [http://ruimaru.hacca.jp/index.htm るいまる] }} '''おーはしるい'''([[11月25日]]<ref name="おーはし">『会計チーフはゆ〜うつ』第1巻単行本折り返し ほか</ref> - )は、[[日本]]の[[4コマ漫画|4コマ]][[漫画家]]。[[群馬県]][[みどり市]](旧・[[勢多郡]][[東村 (群馬県勢多郡)|東村]])出身、[[埼玉県]]在住。 == 概要 == デビュー作は[[竹書房]]『[[まんがくらぶ]]』に掲載された「きょーだい生活」<ref name="ohasi">竹書房まんがライフセレクション2010年11月発売分『おーはしるいスペシャル』P29</ref>。 [[芳文社]]、[[竹書房]]の4コマ雑誌で作品を発表しているが、かつてはストーリーものも描いていた。当初はストーリーものでは「'''萩原みゆき'''」名義を使用していたが現在は「おーはしるい」に統一されている。他に「'''やぎあきは'''」、「'''野の元舞'''」名義でヘビーユーザーである『[[ラグナロクオンライン]]』を初めとするゲーム関係のアンソロジーも描いている。 なお、ペンネームの「おーはし」は本名(旧姓)で、「るい」は中学時代に好きだったアニメのキャラクターから拝借したという<ref name="ohasi" />。 過去の作品の単行本の穴埋め漫画や本人ブログによると、[[小笠原朋子]]、[[松田円]]、[[杜菜りの]](千葉なおこ)らと親交があるほか、[[師走冬子]]とは10年来の友人であり、最近では同い年の娘を持つなど共通点が多い[[浜口乃理子]]とも親交が深い。 芳文社、竹書房ではキャラの描き方が若干違いがある。一部例外もあるが芳文社作品では鼻がなく、竹書房作品では鼻がある。 [[2004年]]8月に第一子である女児を出産。懐妊から出産、育児の様子は『[[まんがタイムファミリー]]』連載の「ふーare you!」にて描かれていた。 [[2005年]]3月ごろから点目を除くキャラ達の目の白い部分が楕円から小さい丸に変わった。 [[2008年]][[10月4日]]から[[11月3日]]にかけて、地元群馬県みどり市にて原画展を開催。また、[[2010年]]8月18日から約1ヶ月間2度目の原画展が同市にて開催された。 2013年現在、商業誌への連載作品数は6作品6誌となっている。また、竹書房の再録4コマ誌『[[まんがライフセレクション]]』も『おーはしるい特集号』として年に1、2回のペースで発行されている。かつては[[ひらのあゆ]]、[[むんこ]]らと共に芳文社の再録4コマ誌『[[まんがタイムコレクション]]』のローテーションの柱を務めていた。 == 作品リスト == 独立記事がある作品の書誌情報の詳細はそれぞれの作品記事を参照。 === おーはしるい名義 === 注記のないものは4コマ。 ==== 連載中の作品 ==== * あい・ターン - [[ぶんか社]] 『主任がゆく!スペシャル』<!--Vol.89 - 91にゲスト扱いで掲載後、Vol.92より正式連載化--> ** 単行本(ぶんか社 ぶんか社コミックスより刊行) **# 2017年5月1日初刷発行、2017年4月14日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ぶんか社|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b285272.html|title=あい・ターン 1|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8211-3410-6}} **# 2018年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ぶんか社|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b379496.html|title=あい・ターン 2|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8211-3715-2}} **# 2020年1月14日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ぶんか社|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b493346.html|title=あい・ターン 3|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8211-3866-1}} **# 2021年6月14日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ぶんか社|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b584298.html|title=あい・ターン 4|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8211-2760-3}} * 私、視えないんです? - ぶんか社 『本当にあった笑える話』 - 非4コマ作品 ** 単行本(ぶんか社 ぶんか社コミックスより刊行) **# 2022年7月14日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ぶんか社|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b608884.html|title=私、視えないんです?〜霊感のない私の不思議な話〜|accessdate=2022-07-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8211-2954-6}} * 推しの為ならなんでもします! - [[竹書房]]『[[まんがライフオリジナル]]』2023年5月号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-04-11|journal =まんがライフオリジナル|volume=2023年5月号|publisher = 竹書房}}表紙より。</ref> - ==== 連載が終了した作品 ==== * デンジャラスな彼女- [[芳文社]] 『まんがタイムジャンボ』 * [[会計チーフはゆ〜うつ]] - 芳文社 『まんがタイムラブリー』 ** 単行本(芳文社[[まんがタイムコミックス]]より刊行) * みすずAttack!! - 芳文社 『まんがタイムダッシュ』 ** 『会計チーフはゆ〜うつ』第5巻に併録。 * エリザベスもゆ〜うつ - 芳文社 『まんがタイムナチュラル』 ** 『会計チーフはゆ〜うつ』第4・5巻に併録。 * いまドキ! - 芳文社 『[[まんがタイムきららキャラット]]』 * [[わくわくワーキング]] - 竹書房 『[[まんがライフ]]』 ** 単行本(竹書房 バンブーコミックスより刊行) * ふーare you! - 芳文社 『まんがタイムファミリー』 ** 単行本(芳文社 まんがタイムコミックスより刊行) **# 2006年10月22日初刷発行、2006年10月6日発売、{{ISBN2|4-8322-6494-X}} (『夫婦な生活』第9巻と同日) **# 2008年3月22初刷発行、2008年3月7日発売、{{ISBN2|978-4-8322-6617-9}} **# 2009年11月21日初刷発行、2009年11月7日発売、{{ISBN2|978-4-8322-6790-9}} **#* 背の題名表記は上記の通り(雑誌掲載時と同じ)であるが、表紙では『ふーare you! おーはしるいの育児日記 ''n''』、中表紙では『ふーare you! ''n'' おーはしるいの育児日記Note no.''n''』と表記(''n''は巻数) **#* ゲストとして1-2巻に、[[浜口乃理子]]著・『のんコレクション』を併録(1巻に『まんがタイムラブリー』2006年1月号掲載分、2巻に同誌同年10月号掲載分を収録) * [[ばつ×いち]] - [[竹書房]] 『[[まんがライフオリジナル]]』<!--2007年3月号ゲスト、10月号より連載開始。--> ** 単行本(竹書房 バンブーコミックスより刊行) * [[Welcome! つぼみ園]] - 芳文社 『[[まんがタイムラブリー]]』→『まんがタイム』に移籍 ** 単行本(芳文社 まんがタイムコミックスより刊行) * リフォーム! - 芳文社 『まんがタイムファミリー』 ** 単行本(芳文社 まんがタイムコミックスより刊行) **# 2011年6月22日初刷発行、2011年6月7日発売、{{ISBN2|978-4-8322-6973-6}} **# 2012年9月21日初刷発行、2012年9月6日発売、{{ISBN2|978-4-8322-6973-6}} * そんな毎日 - 竹書房 『[[あにまるパラダイス]]』→『[[まんがくらぶオリジナル]]』に移籍<!--2008年7月号ゲスト、8月号より2014年12月(最終)号まで正式連載-->→休刊後、[[まんがライフMOMO]]にゲスト扱いで複数話発表<!--2015年12号まで-->。元々[[Vanilla (雑誌)|Vanilla]]([[講談社]])に連載されたストーリー漫画であったが休刊に伴い竹書房に移籍 ** 単行本『そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪』(竹書房 バンブーコミックスより刊行) **# 初刷は巻数表示無し 2005年7月16日初刷発行、2005年7月16日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023001|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|4-8124-6216-9}} - Vanilla版収録 **# 2009年2月16日初刷発行、2009年2月2日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023002|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪(2)|accessdate=2021-06-14}}</ref><!--「竹書房にゃんにゃんフェア」として-->、{{ISBN2|978-4-8124-7039-8}} **# 2011年3月8日初刷発行、2011年2月22日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023003|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪(3)|accessdate=2021-06-14}}</ref><!--「竹書房にゃんにゃんにゃんフェア」として-->、{{ISBN2|978-4-8124-7039-8}} **# 2012年7月11日初刷発行、2012年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023004|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪(4)|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8124-7903-2}} **# 2014年5月11日初刷発行、2014年4月26日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023005|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪(5)|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8124-8564-4}} - 『[[まんがライフセレクション]]』初出の、『ポパイのおしゃべり♥』(「動物のおしゃべり♥」スペシャル掲載)3話分と『ちびすけの話』(「にゃんらぶ」掲載)を併録 **# 2017年5月11日初刷発行、2017年4月27日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2023006|title=そんな毎日 ポパイ狂騒曲♪(6)|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-5917-0}} - 『ポパイのおしゃべり♥』3話分を併録 * [[HONEY VOICE]] - 竹書房 『[[まんがライフMOMO]]』 ** 単行本(竹書房 バンブーコミックスより刊行) * パパとママとふーちゃん♥ - 竹書房 『[[すくすくパラダイス]]』 ** 『ちび♥ぷり 娘プリンセス化計画』に併録。 * ちび♥ぷり - 竹書房 『すくすくパラダイス』 ** 非4コマ作品 ** 単行本『ちび♥ぷり 娘プリンセス化計画』(書籍扱い、竹書房 すくパラセレクションより刊行) **: 単巻(2011年8月25日初刷発行、2011年8月18日発売)、{{ISBN2|978-4-8124-4686-7}} * 毎日が新選組! - 芳文社 『[[まんがタイムファミリー]]』 ** 単行本(芳文社 まんがタイムコミックスより刊行、全3巻) **# 2014年11月22日初刷発行、2014年11月7日発売<ref name="mainichi">{{Cite web|和書|work=漫画の殿堂・芳文社|publisher=芳文社|url=https://houbunsha.co.jp/comics/detail.php?p=%CB%E8%C6%FC%A4%AC%BF%B7%C1%AA%C1%C8%A1%AA|title=毎日が新選組!|accessdate=2021-06-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8322-5337-7}} **# 2016年3月22日初刷発行、2016年3月7日発売{{R|mainichi}}、{{ISBN2|978-4-8322-5464-0}} **# 2017年7月6日発売{{R|mainichi}}、{{ISBN2|978-4-8322-5605-7}} * [[夫婦な生活|夫婦な生活/ご夫婦ダイアリー→もっと!夫婦な生活]] - 芳文社 『[[まんがホーム]]』 (ほか『[[まんがタイムジャンボ]]』『[[まんがタイムオリジナル]]』『[[まんがタイム]]』) ** 『夫婦な生活』は一部が非4コマ作品 ** 単行本(芳文社 まんがタイムコミックスより刊行) * かのんとぱぱ - [[双葉社]] 『[[まんがタウン]]』2019年10月号 - 2022年5月号 ** 単行本(双葉社 アクションコミックスより刊行) **# 2021年3月12日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社双葉社|url=https://www.futabasha.co.jp/book/97845759458360000000?type=1|title=かのんとぱぱ 1|accessdate=2022-02-03}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94583-6}} **# 2022年5月12日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社双葉社|url=https://www.futabasha.co.jp/book/97845759460550000000?type=1|title=かのんとぱぱ 1|accessdate=2022-02-03}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94605-5}} * 醍鹿館のシェアメイト - 竹書房 『[[まんがライフ]]』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/487096|title=まんがライフ休刊号、連載作品の移籍先発表&いがらしみきおの特別読み切りも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-27|accessdate=2022-07-27}}</ref>2020年2月号 - 2022年9月号→『まんがライフオリジナル』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/488990|title=休刊したまんがライフ作品8本、まんがライフオリジナルで移籍連載がスタート|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-08-10|accessdate=2022-08-10}}</ref>2022年9月号 - 2022年12月号 ** 単行本(竹書房 バンブーコミックスより刊行) **# 2021年5月27日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2067401|title=醍鹿館のシェアメイト(1)|accessdate=2022-02-03}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-7301-5}} **# 2022年2月26日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2067402|title=醍鹿館のシェアメイト(2)|accessdate=2022-02-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-7564-4}} **# 2023年1月17日発売<ref>{{Cite web|和書|publisher=竹書房|url=https://www.takeshobo.co.jp/book_d/shohin/2067403|title=醍鹿館のシェアメイト(3)|accessdate=2023-04-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8019-7925-3}} === 野の元舞名義、やぎあきは名義 === 下記の[[漫画レーベル一覧|レーベル]]の[[4コマ漫画#ゲームアンソロジー|ゲームアンソロジー]]の一部に執筆している。 * [[コーエー]] Koei game comics * [[光文社]] 火の玉ゲームコミックシリーズ * [[一迅社]] IDコミックス DNAメディアコミックス == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://ruimaru.hacca.jp/index.htm るいまる] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おおはし るい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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ティン・パン・アレー
座標: 北緯40度44分44秒 西経73度59分22.5秒 / 北緯40.74556度 西経73.989583度 / 40.74556; -73.989583 ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)は、もともとはアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンの28丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角の呼称である。この場所の音楽出版社や、その音楽を指すこともある。 この地名で呼ばれるあたりは、1890年代後半にブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する会社(レコードの普及前であり、当時の音楽に関する主たる商品は楽譜であった。集まっていた音楽関係会社は楽譜出版社、演奏者のエージェントであった。)で楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態だった。このことから、この名前(Tin Pan Alley, 直訳すると錫鍋小路、通称ドンチャン横丁)がついた。ポピュラー音楽における作詞家、作曲家と歌手の分業システムを確立し、代表的な作曲家にはジェローム・カーン、コール・ポーター、アーヴィング・バーリンらがいた。商業主義ポップスを、「ティン・パン・アレー系」「ブリル・ビルディング系」などと呼ぶ場合もある。 ジョージ・ガーシュウィンは、15歳頃、ティン・パン・アレーで楽譜を客に試演する仕事をしていた。当時レコードはまだ高価だったため、楽譜を買いに来た客に試演をして聞かせていたのである。
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ティン・パン・アレーは、もともとはアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンの28丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角の呼称である。この場所の音楽出版社や、その音楽を指すこともある。
{{Otheruses}} {{coord|40|44|44|N|73|59|22.5|W|type:landmark|display=title}} [[file:Tin Pan Alley buildings.jpg|thumb|ティン・パン・アレーにあった楽譜出版社]] [[file:Tin Pan Alley plaque.jpg|thumb|ニューヨークにある記念碑]] {{Multiple image|align=right|direction=vertical|image1=I'm a yiddish cowboy Tough guy Levi 1908.jpg|width1=200|image2=I'm a Yiddish Cowboy - Edward Meeker (1908).ogg|width2=200|footer=''I'm a Yiddish Cowboy'' (1908)}} {{Mapbox|type=point|zoom=10}} '''ティン・パン・アレー'''(Tin Pan Alley)は、もともとは[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]市[[マンハッタン]]の28丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角の呼称である。この場所の音楽出版社や、その音楽を指すこともある。 ==概要== この地名で呼ばれるあたりは、1890年代後半に[[ブロードウェイ]]の[[ミュージカル]]の音楽に関係する会社([[レコード]]の普及前であり、当時の音楽に関する主たる商品は[[楽譜]]であった。集まっていた音楽関係会社は楽譜出版社、演奏者のエージェントであった。)で楽曲の試演を行っていたため、まるで[[鍋]][[釜]]でも叩いているような賑やかな状態だった。このことから、この名前(Tin Pan Alley<ref>http://www.allmusic.com/ </ref>, 直訳すると錫鍋小路、通称ドンチャン横丁)がついた。ポピュラー音楽における作詞家、作曲家と歌手の分業システムを確立し、代表的な作曲家には[[ジェローム・カーン]]<ref>[https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0127.html "Jerome Kern Dies; Noted Composer, 60"]. The New York Times 1945 2022年2月19日閲覧</ref>、[[コール・ポーター]]、[[アーヴィング・バーリン]]らがいた。商業主義ポップスを、「ティン・パン・アレー系」「ブリル・ビルディング系」<ref>キャロル・キング、ニール・セダカらはその代表格だった</ref>などと呼ぶ場合もある。 [[ジョージ・ガーシュウィン]]は、15歳頃、ティン・パン・アレーで楽譜を客に試演する仕事をしていた。当時レコードはまだ高価だったため、楽譜を買いに来た客に試演をして聞かせていたのである。 ==主な作曲家・作詞家== *[[ジェローム・カーン]] *[[アーヴィング・バーリン]] *[[コール・ポーター]] *[[ハロルド・アーレン]] *[[ジョージ・ガーシュウィン]] *[[ハリー・ウォーレン]] *リチャード・A・ホワイティング *ジャク・イェレン *ヴィンセント・ユーマンス *ジョー・ヤング(作詞家) ==主な楽曲== *"煙が目にしみる" ([[ジェローム・カーン]]) *"ホワイト・クリスマス" ([[アーヴィング・バーリン]]) *"ビギン・ザ・ビギン" ([[コール・ポーター]]) *"アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド" ([[アーヴィング・バーリン]], 1911) *[[ブルー・スカイ (1926年の曲)|ブルー・スカイ]]([[アーヴィング・バーリン]]) *[[オールウェイズ (1925年の曲)|オールウェイズ]]([[アーヴィング・バーリン]]) *踊るリッツの夜<ref>1982年に[[タコ (歌手)|タコ]]がカバー</ref>[[アーヴィング・バーリン]] *ゴッド・ブレス・アメリカ([[アーヴィング・バーリン]]) * ソー・イン・ラヴ([[コール・ポーター]]) <ref>[[モートン・グールド]]編曲のバージョンをテレビ朝日『[[日曜洋画劇場]]』のエンディング・テーマに使用</ref>。 * トゥルー・ラヴ([[コール・ポーター]]) * ナイト・アンド・デイ([[コール・ポーター]]) * ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ([[コール・ポーター]]) *"A Bird in a Gilded Cage" (Harry Von Tilzer, 1900) *"After the Ball" Charles K. Harris *"A Bird in a Gilded Cage" (Harry Von Tilzer, 1900) *"After the Ball " (Charles K. Harrl, 1892) *"[[エイント・シー・スウィート]]" (Jack Yellen& Milton Ager,1927) *"Alabama Jubilee" (Jack Yellen & George L. Cobb, 1915) *"All Alone" (Irving Berlin, 1924) *"At a Georgia Campmeeting" (Kerry Mills, 1897) *"Baby Face" (Benny Davis & Harry Akst, 1926) *"Bill Bailey, Won't You Please Come Home" (Huey Cannon, 1902) *"By the Light of the Silvery Moon" (Gus Edwards & Edward Madden, 1909) *"Carolina in the Morning" (Gus Kahn & Walter Donaldson, 1922) ==関連項目== *[[ブリル・ビルディング]] *[[ポップ・ミュージック|ポップス]] *[[ポピュラー音楽]] *[[ジャズ]] ==脚注== {{Reflist}} {{ポップ・ミュージック}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ていんはんあれ}} [[Category:マンハッタンの地理]] [[Category:ニューヨーク市の文化]] [[Category:アメリカ合衆国の音楽]]
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BASTARD!! -暗黒の破壊神-
『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』(バスタード あんこくのはかいしん)は、萩原一至による日本の漫画。 主人公であるダーク・シュナイダーが世界の命運を担い、戦士や魔物、強大な力を持つ「邪神」、天使や悪魔らと戦うバトルストーリー。ダーク・ファンタジー寄りのファンタジー漫画である。2020年9月時点で累計発行部数は3000万部を突破している。 物語当初は、魔法使いであるダーク・シュナイダーと大神官の娘ティア・ノート・ヨーコを中心とした、剣と魔法の存在する世界でのヒロイック・ファンタジーとしての要素が色濃かった。しかしストーリーの展開とともにSF的な要素(サイエンス・ファンタジーの描写)も顕著となり、当初からのバトル路線は継続されているものの、天使や悪魔の出現から黙示録を絡ませた壮大な物語として繰り広げられている。 登場する呪文・人物・国、サブタイトルなどの名称の多くがハードロック・ヘヴィメタルのバンド名・メンバーの人物、アルバムジャケットやタイトルをモチーフとしている。またオマージュの根幹であるファンタジーRPG(テーブルトーク/コンピューターゲーム)の他にも、漫画やアニメ、特撮、コンピューターゲームなどの作品のパロディが随所に見られる。ギャグ描写も多く、性描写についても過激なシーンが多い。 1987年、当時としてはまだ珍しかったファンタジーRPGの世界観の漫画として、本作の序話である読切版『WIZARD!!〜爆炎の征服者〜』が『週刊少年ジャンプ』に掲載され(単行本には第1話として収録)、翌1988年同誌で連載が開始される。 『週刊少年ジャンプ』での連載が1989年に中断して以降、『週刊少年ジャンプ増刊』、再び『週刊少年ジャンプ』、『ウルトラジャンプ』(いずれも集英社)と掲載誌を移っており、長期にわたって連載されていた。 ※(萩原一至の記事も参照) 400年前に人類が作り出した究極の自律思考型生体機動兵器、「破壊神アンスラサクス」によって大破壊が引き起こされたため文明は1度滅亡している。この時、科学文明が完全に失われ地形すらも変化し、生態系も大きく変化してしまう。この事件で人類は数十億人が死亡したといわれている。アンスラサクスはその後突如現れた「竜戦士」によって倒され、地中深くに封印された。 科学文明が崩壊した現在は中世ヨーロッパ並の文化水準になっており、本作はヨーコの生まれ故郷メタ=リカーナ王国が存在する「中央大陸メタリオン」を主な舞台として繰り広げられる。モンスターが徘徊するようになった世界で生きるために人類は新たに魔法を使えるようになったが、使えるのはごく一部の者のみである。本作の主人公D・Sはその中でも最強に位置する「魔法使い」にあたる。大破壊によって途絶えた「科学」技術は旧世界の魔法と呼ばれ、一部が伝わっているが実用範囲内ではない。かわりにエルフの手によって製作されたマジックアイテムが存在するなど新たな文化もある。また、刀剣によっては優れた鍛冶師であるドワーフや、人間の名匠が鍛えたものも存在している。 町の外はいたる所にモンスターが徘徊する危険地帯となっており、オークやホブゴブリン、ゾンビなどのモンスターが生息し、中にはミノタウロスやワイバーンなどが強力な戦士や魔法使いに飼いならされていたり、D・Sが「魔操兵大戦」で使用したゴーレムのような人造の存在、個体数が少ないが神に立ち向かえるほどの力を持ったドラゴンや古巨人族(エンシェントジャイアント)も実在する。これらの多くは普通の人間が太刀打ちできる存在ではなく常に人々が脅かされる世界になっている。君主統治体制の各国家は騎士や侍、魔法使いの軍を有するが、無力な平民はそれら国家の戦争や圧政の災厄にもさらされている。 ※本作では「背徳の掟編」以降、度々登場人物の「レベル」が表示されている。これはロールプレイングゲームで一般に用いられているものと同義であり、能力の数値表現を表している。作者によれば、『ウィザードリィ』と近しい設定となっており、肉体年齢が若ければ若いほど、全盛期であればあるほどレベルは上昇しやすくなり、能力の向上も著しいことになる。長寿であるドワーフやエルフに、レベル1000前後の人物がいるのはそのため。人類の大半が通常は99が上限となっているが、魔戦将軍、大神官、賢者、侍、忍者のマスタークラスなど一部の特殊クラスにおいてはレベル150〜200が上限となっている。なお、人類の有史以前から存在する天使や悪魔に至っては、レベルが数万から数十万にまで到達する個体も存在する。 魔法とは、複雑な魔法陣を描いたり、呪文を唱えることで、一般に魔力と呼ばれている霊子力エネルギーをコントロールする技術である。生命力や精神力を源にする「魔術」、神への信仰を源にし、護りや治癒の力を発揮する「白魔術」、悪魔などとの契約により行使する「暗黒魔術」、地・水・火・風の四つの元素界に属する精霊と契約することで使うことができる「精霊魔術」が主流になっている。この他に古の神々との契約で使用可能になる現在主流ではない魔法の総称として古代語魔術(ハイエンシェント)が存在する。 また天使の行使する「神霊力」、悪魔が行う「魔法」は、魔力のコントロールなどの際に行う行程や発生する過程が一切省かれた「結果のみが顕現した力」であり、人間の用いる魔法とは一線を画する上位能力である。上位の天使や上位悪魔神族に至っては通常活動を行う際に、副次的に人類が魔法と呼ぶ事象を無意識に発生させることになる。 担当声優は、ドラマCD版 / OVA版 / Webアニメ版の順番に表記。1人のみ記載の場合はOVA版のキャスト。 D・Sを補佐するように存在する、D・Sにも匹敵するほどの力を持った4人を指してそう呼ばれる。D・S自身400年以上生きており、その間にも四天王は何度か入れ替わっている模様であり、ノベライズ作品では先代四天王の時代のエピソードが語られている。下記は原作に登場した現在の四天王である。「闇の反逆軍団編」より登場する現四天王は、メタ=リカーナを守護して行動するD・Sと対立することとなるが、「地獄の鎮魂歌編」でのカル=スの帰順をもって全員が再び傘下に収まっている。また「罪と罰編」から長らく4人の登場はなかったが、「背徳の掟編 最終節」(単行本24巻)では各々の動向が描かれた。 「雷帝」アーシェス・ネイに仕える魔道集団「鬼道衆」の中から選び抜かれた最精鋭にして、ネイの側近。カイ曰く「血よりも濃い絆」で結ばれているとのことだが、ダイ=アモンに関しては語られていないのもあって不明。 4王国を征服し「氷の至高王」となったカル=スに仕える将軍。カルが掲げた、万民が幸福を享受できる理想郷(ソーサル=キングダム)の建設に共感し、厚い忠誠を誓っている。一人が一軍に匹敵するとも言わしめる実力者達で、その忠誠心ゆえにカル以外の者の言葉には決して従わない。 「闇の反逆軍団編」より15年前、世界征服せんとする大魔導王ロード・ダーク・シュナイダー及び彼に従う四天王と4つの王国(メタ=リカーナ、ジューダス、ワイトスネイキ、ア=イアン=メイデ)の間で起こった、後に魔操兵戦争(ゴーレム・ウォー)と呼ばれることになる大戦において、人類側を守る側に立ち、D・Sに立ち向かった勇者ラーズ王子と4人の仲間をさして「五英雄」とよぶ。 魔操兵戦争と呼ばれるのは同大戦においてD・Sが魔操兵(ゴーレム)の軍団を用いたことによる別名のようなもの。ラーズ達五英雄とD・Sおよび四天王の死闘はドラマCD第3巻「魔導王封印編」に収録されている。 本編では滅亡した旧ア=イアン=メイデ王国の剣士階級あるいは剣士戦闘集団として登場する。機動力を重視した軽装の鎧(ブレストプレート)をまとい、剣と魔法を組み合わせた独特のスタイルで戦う(扱えるのは中級の魔法使いの魔法まで)。「武士道」を重んじるため、卑怯な振る舞いを嫌い、また主君が無能で人望がない人物であったとしても「忠」の掟には背けない。 ※補足として主天使(ドミニオン)や座天使(ソロネ)の光の巨人の姿は彼らの光体(アウゴエイデス)である。 元々は「神」に仕える天使達であったが、神が新たに「人間」を創り出す際、「我が子である人間達に仕えよ」と言われ、自分達が「神の子」ではなく神にとっての「奴隷」でしかなかったと理解、激怒し神に対して叛乱を起こした者達。高次元の精神生命体であったため、神への愛が無くなったことにより属性反転し醜悪な姿になっている。人間の召喚士も使役することが可能だが、呼び出せるのは下位の存在「デーモン」まで。上位天使が堕天した強力な存在は「デヴィル(魔神、正確には上位悪魔神族)」と呼ばれ区分される。 彼等はサタンに最も近い魔神であり、8つに砕けた「ユダの痛み(ジューダス・ペイン)」の欠片を体内に持ち、他の魔神達を凌駕する力の持主。だが現在はベルゼバブ以外D・Sによってジューダス・ペインを奪い取られている。悪魔達を随える存在。 前述したように上位悪魔神族とも呼ばれる彼らの中には、主天使のおよそ6600倍程度の戦闘能力を持っているものも存在しており、上位天使と互角の力を持つ。 天使と悪魔の最終戦争が始まって以降、地球(エデン)に住むヒトのみならず全ての人類が協力体制を布くこととなり、その連合体の名称を指す。エルフ、ホビビット、ドワーフをはじめ、人馬族、耳長族、有角族、レプラコーン、妖精族、人獣族など参加している種族は非常に多岐に渡り、正に全人類の集合体ともいえる連合である。 スライムやオークなどは大破壊後に十賢者が創造した生物であり、イフリートやヌエ、サラマンダーなどの精霊それ以前が自然界に存在していた自然霊である。 小説やゲームに登場した人物。 連載時カラー原稿完全収録、新規描き下ろしピンナップ付属。作者描き下ろし表紙(カバー)とカバー下の立体アート表紙(著名造形作家陣が担当)のダブル表紙仕様。2巻までは大幅な加筆が施されている。 表紙描き下ろし。「完全版」を文庫サイズで再刊行したもの。各巻とも初回出荷分のみ表紙絵のポストカードが付属する。 挿絵はすべて萩原一至が担当。『魍魎達の鎮魂歌』および『悪魔の褥に横たわりて』は当初ジャンプ ジェイ ブックスから発売されたが、2001年に『黒い虹』の発売に合わせてスーパーダッシュ文庫より文庫化された。また文庫版は挿絵が数枚カットされている。 1992年より1993年にかけてVHS全6巻(各1話ずつ収録)・LD全3巻(各2話ずつ収録)で販売。1999年、全話収録のDVD-BOXが発売された。 ストーリーは「闇の反逆軍団編」の途中までで、原作よりも早く襲撃したアビゲイルを復活したD・Sが撃退するところで終わっている。 「闇の反逆軍団編」に相当する第一期は全2クール(全24話)がNetflixにて全世界配信。第1クールは2022年6月30日に、第2クールは同年9月15日に配信された。2023年1月より、BS11にてテレビ独占放送(ABEMAでも同時配信)。2023年7月31日には第二期「地獄の鎮魂歌編」が配信された。。 『『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』闇のラジオ編』のタイトルで、YouTube「Warner Bros. Japan Anime」チャンネルにて配信された。パーソナリティは、ダーク・シュナイダー役の谷山紀章。ディレクターは北迫大輔。 ※(萩原一至の記事も参照)
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"4王国を征服し「氷の至高王」となったカル=スに仕える将軍。カルが掲げた、万民が幸福を享受できる理想郷(ソーサル=キングダム)の建設に共感し、厚い忠誠を誓っている。一人が一軍に匹敵するとも言わしめる実力者達で、その忠誠心ゆえにカル以外の者の言葉には決して従わない。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「闇の反逆軍団編」より15年前、世界征服せんとする大魔導王ロード・ダーク・シュナイダー及び彼に従う四天王と4つの王国(メタ=リカーナ、ジューダス、ワイトスネイキ、ア=イアン=メイデ)の間で起こった、後に魔操兵戦争(ゴーレム・ウォー)と呼ばれることになる大戦において、人類側を守る側に立ち、D・Sに立ち向かった勇者ラーズ王子と4人の仲間をさして「五英雄」とよぶ。 魔操兵戦争と呼ばれるのは同大戦においてD・Sが魔操兵(ゴーレム)の軍団を用いたことによる別名のようなもの。ラーズ達五英雄とD・Sおよび四天王の死闘はドラマCD第3巻「魔導王封印編」に収録されている。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "本編では滅亡した旧ア=イアン=メイデ王国の剣士階級あるいは剣士戦闘集団として登場する。機動力を重視した軽装の鎧(ブレストプレート)をまとい、剣と魔法を組み合わせた独特のスタイルで戦う(扱えるのは中級の魔法使いの魔法まで)。「武士道」を重んじるため、卑怯な振る舞いを嫌い、また主君が無能で人望がない人物であったとしても「忠」の掟には背けない。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "※補足として主天使(ドミニオン)や座天使(ソロネ)の光の巨人の姿は彼らの光体(アウゴエイデス)である。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "元々は「神」に仕える天使達であったが、神が新たに「人間」を創り出す際、「我が子である人間達に仕えよ」と言われ、自分達が「神の子」ではなく神にとっての「奴隷」でしかなかったと理解、激怒し神に対して叛乱を起こした者達。高次元の精神生命体であったため、神への愛が無くなったことにより属性反転し醜悪な姿になっている。人間の召喚士も使役することが可能だが、呼び出せるのは下位の存在「デーモン」まで。上位天使が堕天した強力な存在は「デヴィル(魔神、正確には上位悪魔神族)」と呼ばれ区分される。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "彼等はサタンに最も近い魔神であり、8つに砕けた「ユダの痛み(ジューダス・ペイン)」の欠片を体内に持ち、他の魔神達を凌駕する力の持主。だが現在はベルゼバブ以外D・Sによってジューダス・ペインを奪い取られている。悪魔達を随える存在。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前述したように上位悪魔神族とも呼ばれる彼らの中には、主天使のおよそ6600倍程度の戦闘能力を持っているものも存在しており、上位天使と互角の力を持つ。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "天使と悪魔の最終戦争が始まって以降、地球(エデン)に住むヒトのみならず全ての人類が協力体制を布くこととなり、その連合体の名称を指す。エルフ、ホビビット、ドワーフをはじめ、人馬族、耳長族、有角族、レプラコーン、妖精族、人獣族など参加している種族は非常に多岐に渡り、正に全人類の集合体ともいえる連合である。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スライムやオークなどは大破壊後に十賢者が創造した生物であり、イフリートやヌエ、サラマンダーなどの精霊それ以前が自然界に存在していた自然霊である。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "小説やゲームに登場した人物。", "title": "外伝の登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "連載時カラー原稿完全収録、新規描き下ろしピンナップ付属。作者描き下ろし表紙(カバー)とカバー下の立体アート表紙(著名造形作家陣が担当)のダブル表紙仕様。2巻までは大幅な加筆が施されている。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "表紙描き下ろし。「完全版」を文庫サイズで再刊行したもの。各巻とも初回出荷分のみ表紙絵のポストカードが付属する。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "挿絵はすべて萩原一至が担当。『魍魎達の鎮魂歌』および『悪魔の褥に横たわりて』は当初ジャンプ ジェイ ブックスから発売されたが、2001年に『黒い虹』の発売に合わせてスーパーダッシュ文庫より文庫化された。また文庫版は挿絵が数枚カットされている。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1992年より1993年にかけてVHS全6巻(各1話ずつ収録)・LD全3巻(各2話ずつ収録)で販売。1999年、全話収録のDVD-BOXが発売された。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ストーリーは「闇の反逆軍団編」の途中までで、原作よりも早く襲撃したアビゲイルを復活したD・Sが撃退するところで終わっている。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「闇の反逆軍団編」に相当する第一期は全2クール(全24話)がNetflixにて全世界配信。第1クールは2022年6月30日に、第2クールは同年9月15日に配信された。2023年1月より、BS11にてテレビ独占放送(ABEMAでも同時配信)。2023年7月31日には第二期「地獄の鎮魂歌編」が配信された。。", "title": "Webアニメ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』闇のラジオ編』のタイトルで、YouTube「Warner Bros. Japan Anime」チャンネルにて配信された。パーソナリティは、ダーク・シュナイダー役の谷山紀章。ディレクターは北迫大輔。", "title": "Webアニメ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "※(萩原一至の記事も参照)", "title": "その他" } ]
『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』は、萩原一至による日本の漫画。
{{redirect|バスタード|映画|バスタード (映画)}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = <nowiki>BASTARD!! -暗黒の破壊神-</nowiki> | ジャンル = [[ダーク・ファンタジー]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[萩原一至]] | 出版社 = [[集英社]] | 掲載誌 = [[週刊少年ジャンプ]]<br />[[ジャンプGIGA|少年ジャンプSpecial]]<br />[[ウルトラジャンプ]] | レーベル = [[ジャンプ・コミックス]] | 開始 = 1988年 | 終了 = | 巻数 = 既刊27巻(2012年3月現在) | 話数 = | その他 = 完全版:既刊9巻(2009年12月現在)<br />文庫版:既刊9巻(2014年9月現在) }} {{Infobox animanga/OVA | 原作 = 萩原一至 | 監督 = [[秋山勝仁]] | 脚本 = [[山口宏 (脚本家)|山口宏]] | キャラクターデザイン = [[北爪宏幸]] | 音楽 = [[田中公平]] | アニメーション制作 = [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]] | 製作 = 集英社 | 開始 = 1992年 | 終了 = 1993年 | 話数 = 全6話 }} {{Infobox animanga/TVAnime | 原作 = 萩原一至 | 監督 = 尾崎隆晴 | シリーズ構成 = [[黒田洋介]] | キャラクターデザイン = 小野早香 | 音楽 = [[高梨康治]] | アニメーション制作 = [[ライデンフィルム]] | 製作 = BASTARD!! 製作委員会 | 放送局 = [[Netflix]] | 放送開始 = 第1期:2022年6月30日 | 放送終了 = 9月15日 <br /> 第2期:2023年7月31日 | 話数 = 第1期:全24話 | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''BASTARD!! -暗黒の破壊神-'''』(バスタード あんこくのはかいしん)は、[[萩原一至]]による[[日本]]の[[漫画]]。 == 概要 == 主人公である[[ダーク・シュナイダー]]が世界の命運を担い、戦士や魔物、強大な力を持つ「邪神」、[[天使]]や[[悪魔]]らと戦うバトルストーリー。[[ダーク・ファンタジー]]寄りの[[ファンタジー漫画]]である。2020年9月時点で累計発行部数は3000万部を突破している<ref>{{Cite news|url=https://tokyo.whatsin.jp/609345|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201002155541/https://tokyo.whatsin.jp/609345|title=車田正美・『ジョジョ』・『BASTARD!!』……青年誌的な攻めの姿勢も見られた、80年代のジャンプ「ダークファンタジー」作品|date=2020-09-19|archivedate=2020-10-02|accessdate=2021-01-25|newspaper=WHAT’s IN? tokyo|publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント}}</ref>。 物語当初は、[[魔法使い]]であるダーク・シュナイダーと大神官の娘ティア・ノート・ヨーコを中心とした、[[剣と魔法]]の存在する世界での[[ヒロイック・ファンタジー]]としての要素が色濃かった。しかしストーリーの展開とともに[[サイエンス・フィクション|SF]]的な要素([[サイエンス・ファンタジー]]の描写)も顕著となり、当初からのバトル路線は継続されているものの、天使や悪魔の出現から[[ヨハネの黙示録|黙示録]]を絡ませた壮大な物語として繰り広げられている。 登場する呪文・人物・国、サブタイトルなどの名称の多くが[[ハードロック]]・[[ヘヴィメタル]]の[[バンド (音楽)|バンド]]名・メンバーの人物、アルバムジャケットやタイトルをモチーフとしている。また[[オマージュ]]の根幹であるファンタジーRPG([[テーブルトークRPG|テーブルトーク]]/[[コンピューターゲーム]])の他にも、漫画やアニメ、特撮、コンピューターゲームなどの作品の[[パロディ]]が随所に見られる。ギャグ描写も多く、性描写についても過激なシーンが多い。 == 来歴 == 1987年、[[ウィザードリィ]]や[[ドラゴンクエスト]]など[[ファンタジー]][[ロールプレイングゲーム|RPG]]の[[世界観]]自体は既に広まっていたものの、その系統の漫画作品としては当時まだ珍しかった時に本作の序話である読切版『'''WIZARD!!〜爆炎の征服者〜'''』が、『[[週刊少年ジャンプ]]』に掲載され(単行本には第1話として収録)、翌1988年同誌で連載開始される。 『週刊少年ジャンプ』での連載が1989年に中断して以降、『[[週刊少年ジャンプの増刊号|週刊少年ジャンプ増刊]]』、再び『週刊少年ジャンプ』、『[[ウルトラジャンプ]]』(いずれも[[集英社]])と掲載誌を移っており、長期にわたって連載されていた。 *1987年 週刊少年ジャンプ本誌にて『WIZARD!!〜爆炎の征服者〜』が読みきりとして掲載 *1988年 週刊少年ジャンプ本誌にて「闇の反逆軍団編」連載及びコミックス刊行開始。 *1989年 週刊少年ジャンプ本誌での連載が「地獄の鎮魂歌編」途中で中断。 *1990年 週刊少年ジャンプ増刊(季刊)にて「地獄の鎮魂歌編」から再開。 *1996年 週刊少年ジャンプ増刊(季刊)での連載が「罪と罰編」途中で中断{{Efn2|『週刊少年ジャンプ』本誌への連載移行は予定されていた。}}。 *1997年 週刊少年ジャンプ本誌にて「背徳の掟編」連載開始{{Efn2|4週に一度、月1回のペースで掲載。『週刊少年ジャンプ』では「月イチ連載」と表記された。}}{{Efn2|当初は「背徳の掟編」に2、3回で区切りをつけた後「罪と罰編」の続きに戻る予定だった。}}。 *2000年 週刊少年ジャンプ本誌での連載が「背徳の掟編」途中で中断。旧来の単行本と併行して完全版刊行開始。同人誌として「未使用・改訂版」を発表。 *2001年 ウルトラジャンプで不定期連載ながらも「背徳の掟編」再開。 *2002年 成人向け同人誌として「カイ・ハーン大解毒」を発表。 *2005年 成人向け同人誌として「シーラ姫おしゃぶり治療」を発表。 *2008年 ウルトラジャンプにて「背徳の掟編」終了。 *2009年 ウルトラジャンプにて「罪と罰編」が「魔力の刻印篇」として再開。 *2010年 ウルトラジャンプ6月号を最後に「魔力の刻印篇」が中断。 *2017年 成人向け同人誌として「桑-トリプルおしゃぶり治療(仮)」を発表。 ※([[萩原一至#『BASTARD!!』連載をめぐる変遷|萩原一至]]の記事も参照) == あらすじ == <!--要約できる方を求めています--> ; プロローグ : かつて、人の力「科学」によって生み出された「破壊神アンスラサクス」と「邪神群」の手により文明は崩壊した。この災害「大破壊」を生き残ったわずかな者達は新たな文明の力、「魔法」を手にし、血と肉と鋼とそして魔力の時代を迎えた。<br />それから四百年。絶大な力を持ち、配下に四天王や闇の軍団を率い大陸に征服戦争を仕掛けた爆炎の魔術師「ダーク・シュナイダー (以下D・Sと表記)<ref>作中での略記は「D・S」。当記事もそれに倣う。</ref>」は、多くのゴーレムを操り長きに渡り大国や五英雄達と争った末、伝説の「[[#その他|竜戦士]]」となった竜王子ラーズ・ウルと相打ちになり滅ぼされる(魔操兵戦争)。<br />だがこの際、D・Sは密かに転生の秘術を用い赤子の身の内に転生する。しかし五英雄の一人ジオ・ノート・ソートによって覚醒する前に封印され、ジオの娘ヨーコと共にルーシェ・レンレンとして争いとは無縁の暮らしをすることになる。 ; 闇の反逆軍団編 : 魔操兵戦争から15年後、D・Sのかつての配下だった四天王が大陸の四つの王国に侵攻を開始した。<br />侵攻は列国最強のジューダス王国を降して、ティア・ノート・ヨーコたちが住むメタ=リカーナ王国にも迫った。その対抗のため、ヨーコは父親・ジオから授けられた魔法を用い、ルーシェの中に眠るD・Sを復活させる。復活したD・Sは己の欲望である世界征服を宣言するものの、ヨーコの説教もありしぶしぶ侵攻勢力と戦った。結果、メタ=リカーナを守護して行動するD・Sは四天王と対立することとなるが、その戦いを経て彼らのうちの二人、ニンジャマスター・ガラ、雷帝アーシェス・ネイが再び仲間となる。<br />シーラ・トェル・メタ=リカーナ王女が持つアンスラサクスの封印を狙い、残った四天王のうちの一人、闇の僧侶アビゲイルが単身メタ=リカーナへと乗り込んでくる。D・Sはアビゲイルと戦い、激しい攻防を繰り広げた。下半身を失うほどの激戦の末、アビゲイルを退けたかに見えたD・Sだったが、ヨーコを人質に捕らえられ危機に陥る。アビゲイルは封印を要求するも、ヨーコの最後の抵抗に阻まれ倒れ、その断末魔の爆発によりメタ=リカーナは崩壊。D・Sたちも行方不明となってしまう。 ; 地獄の鎮魂歌編 : メタ=リカーナ崩壊から2年。四王国を降した四天王カル=スは、破壊神最後の封印を解こうと配下の魔戦将軍達に封印を守るシーラ姫を探させ続ける。その中でカル=スの軍団に反抗する勢力が現れた。亡国ア=イアン=メイデの侍達と、行方不明となっていたヨーコである。侍達の隠し砦「武家屋敷」で17歳に成長したヨーコとルーシェ。しかしこの2年間、D・Sが復活する兆しは現れなかった。<br />そんな中、侍達の本拠地を突き止めた魔戦将軍マカパインとバ・ソリーは侍達を奇襲し、抵抗むなしく侍達は壊滅状態に追い込まれる。その時ついにD・Sが復活し魔戦将軍を一蹴した。<br />D・Sの復活に伴いシーラの保護のため、ヨーコ達は[[エルフ]]の廃都キング・クリムゾン・グローリー(以下KCGと表記)<ref>空を飛ぶ空中都市であり、作中では外観から「古代聖典の[[箱舟]]のよう」と表現される(単行本10巻、P.153)。そのことから「方舟」とも呼ばれるが、その実態は「[[#その他|エウロペアの十賢者]]」らが操船する数々の武装を備えた宇宙戦艦である。彼らが呼ぶところの正式名称は「キング・クリムゾン・グローリー級 超無敵宇宙戦艦 ジャンボ・ノア」(単行本13巻、P.67)。</ref>に旅立つが、すでに魔戦将軍達もKCGに向かっていた。そして侍と魔戦将軍との戦いの最中カル=スが現れ、ついに破壊神が復活してしまう。D・Sは合流した仲間達と共に、破壊神に操られたカル=スを救うため破壊神の分身を倒してカルを解放するが、すでに完全復活した破壊神が迫りつつあった。 ; 罪と罰編 : 復活したアンスラサクスに対抗するため、伝説の「[[#その他|エウロペアの十賢者]](以下、十賢者と表記)」が現れ竜戦士とD・Sを融合させようとする。しかしD・Sはそれを拒否。アンスラサクスによって融合前の竜戦士を破壊されてしまうものの、闇の力の活性化により増大したD・Sの力でアンスラサクスは倒される事となった。トドメを刺そうとしたその瞬間、D・Sは殺され何処かへ封印されてしまう。<br />破壊神や邪神群とは高次元の天使達が受肉するための触媒に過ぎず、真に人類を滅ぼそうとしていたのは人類を導くはずの神と天使達だった。その真実にヨーコは愕然とする。絶望した彼女に襲い掛かる天使達の前にルーシェが現れそれを救う。彼の正体は堕天した最高位の天使ルシフェルであり、人類の味方としてヨーコにD・Sの復活の方法を伝える。星幽体のまま実体化したルーシェは力を使い果たし消滅するが、人類最後の希望であるD・Sの復活を阻止しようとする天使達に対抗するべく、魔戦将軍や復活した竜王子ラーズが現れ、D・Sを復活させるためのエネルギーを発生させる霊子動力炉を守る闘いに挑む。<br />一方、封印空間に堕ちたはずのD・Sは地獄の下層にで邂逅した悪魔王サタンに「仲間になれ」と迫られる。D・Sがこれを断るとサタン配下の悪魔大元帥ポルノ・ディアノが圧倒的な力でD・Sに挑んでくる。 ; 背徳の掟編 : 「[[箱舟|方舟]](KCG)」の墜落から4年。魔戦将軍マカパイン、バ・ソリー、シェラは天使と悪魔の戦闘によって荒れ果てた世界で安住の地を求める人々と共に旅を続けていた。だがそこへ悪魔達を率いる魔神コンロンが現れ、人々に襲いかかる。しかし、そこに4大熾天使ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルが地上に顕現し、天使vs悪魔の戦いが始まろうとする中、地獄から復活を果たしたD・Sも参戦する。<br />遥かに格下であるはずのコンロンに何故か熾天使達の攻撃は通じず、ウリエルは真の力である「執行官形態(エクスキューショナーモード)」に変身し、神槍グングニルによって初めてコンロンの核に攻撃を届かせる。そして、その衝撃によって裂かれた空間から、D・S達は地獄の第一層「無信仰地獄」に堕ちてしまう。コンロンは倒されたかに見えたが、人間の科学の力によって自分の体にウリエルの妹であるアムラエルを融合させ、天使の攻撃を無効化させる術を得ていた。結果、ウリエルは7大悪魔王のベルゼバブの策略にはまり「堕落(フォール・ダウン)」し、魔神へと姿を変えてしまう。D・Sは悪魔王達から抜き取った7つの「ユダの痛み(ジューダス・ペイン)」の平行励起により圧倒的な力の差を見せつけコンロンを倒し、すぐさま魔神となったウリエルとの戦いが始まった。 ; 背徳の掟編最終節 :{{節スタブ}} ; 魔力の刻印篇 : 諸般の事情により中断された「罪と罰編」から直接に続くエピソード。作者の[[同人誌]]『BASTARD!! -未使用・改訂版-』において一部が掲載され、先立って発表されている(中断と同人誌掲載についての詳細は下記節、[[#その他話題]]を参照)。 === その他 === ; 贄編 : 現代を舞台とした「D・S誕生編」<ref>HAQ本 p.168</ref>。作者の読み切り作品である『微熱口紅(びねつるーじゅ)』の主人公上座達郎と、その姉でヒロインの上座頼子が登場している<ref>本作は、もう一つの読み切り作品である『VIRGIN TYRANT』とも同一世界観であることが語られている。HAQ本 p.168</ref>。また最後にはウリエルが登場しており、直接的な物語の伏線が描かれた<ref>HAQ本 p.207</ref>。「0話」と銘打たれたエピソードのみが発表されており、単行本19巻に収録されている。 == 世界観 == 400年前に人類が作り出した究極の自律思考型生体機動兵器、「破壊神アンスラサクス」によって大破壊が引き起こされたため文明は1度滅亡している。この時、科学文明が完全に失われ地形すらも変化し、生態系も大きく変化してしまう。この事件で人類は数十億人が死亡したといわれている。アンスラサクスはその後突如現れた「竜戦士」によって倒され、地中深くに封印された。 科学文明が崩壊した現在は中世ヨーロッパ並の文化水準になっており、本作はヨーコの生まれ故郷メタ=リカーナ王国が存在する「中央大陸メタリオン」を主な舞台として繰り広げられる。モンスターが徘徊するようになった世界で生きるために人類は新たに魔法を使えるようになったが、使えるのはごく一部の者のみである。本作の主人公D・Sはその中でも最強に位置する「魔法使い」にあたる。大破壊によって途絶えた「[[科学]]」技術は旧世界の魔法と呼ばれ、一部が伝わっているが実用範囲内ではない。かわりにエルフの手によって製作されたマジックアイテムが存在するなど新たな文化もある。また、刀剣によっては優れた鍛冶師である[[ドワーフ]]や、人間の名匠が鍛えたものも存在している。 町の外はいたる所にモンスターが徘徊する危険地帯となっており、[[オーク (架空の生物)|オーク]]や[[ゴブリン|ホブゴブリン]]、[[ゾンビ]]などのモンスターが生息し、中には[[ミーノータウロス|ミノタウロス]]や[[ワイバーン]]などが強力な戦士や魔法使いに飼いならされていたり、D・Sが「魔操兵大戦」で使用した[[ゴーレム]]のような人造の存在、個体数が少ないが神に立ち向かえるほどの力を持った[[ドラゴン]]や古巨人族(エンシェントジャイアント)も実在する。これらの多くは普通の人間が太刀打ちできる存在ではなく常に人々が脅かされる世界になっている。君主統治体制の各国家は騎士や侍、魔法使いの軍を有するが、無力な平民はそれら国家の戦争や圧政の災厄にもさらされている。 === 天使の降臨以降の世界 === ; 霊子力理論 : 魂の根源たるエネルギーを科学的に解明して構築した理論。霊子力自体は時間さえかければ無限、無尽蔵、完全無公害のエネルギーだが、高次元の霊的存在の謎をも解き明かすことが可能になるゆえ、禁断の科学でもある。 ; 星幽体(アストラルバディ) : 霊的肉体を意味する。精神や魂のエネルギーその物(=霊子力)を物質化させている。主物質界で星幽体でい続けると短時間で多量のエネルギーを消耗してしまい消滅(=死)してしまう。精神と並び、魂と肉体を結ぶ人を構成する三大要素(肉体・精神・魂)の二段階目を示す。 ; 魂 : 人を構成する最も重要かつ中核を成す要素。全ての人間に等しく宿る源であり、その正体は細分化された神の構成要素と同質の高次元エネルギーを指す。 ; 光体・暗黒体(アウゴエイデス) : 天使や悪魔の武装形態。天使は「光体」悪魔は「暗黒体」と書かれる(読みは同じ)。 ; 相克(そうこく) : 本作においては特定の存在(主に神話時代から存在する種族)同士を対立させた場合に生じる絶対優位性を示す理(ことわり)のことで、これは個体の能力差では覆すことは決して叶わない。 ; [[救世主]](メシア) : 人間の中から2000年に一度現出し、人類を導く存在。これは同時にクラス名も示す。本作では公称として「アダム」と呼ばれ、相克によりあらゆる悪魔を滅する力を持つ。 ; 暗黒のアダム : ダーク・シュナイダーを指す。先述のメシアは相克により、悪魔ではたとえ魔王クラスであってもそれを殺すことは不可能であるため、メシアを殺す使命を課せられた悪魔の地上代行者の名称。救世主と同じく人間から選出される。なお、アダム=カドモンと呼ばれる人造のアダムが存在しているが、これはアダム、暗黒のアダムとは別物である。 ; 無効共鳴(ヴォイド・ハウリング) : 天使に対抗するために人間が生み出した技術。悪魔の体に触媒として埋め込まれた天使が、外部の天使からの攻撃に共鳴してそれに等しい波長のエーテル振動を発生させる。これにより生じるヴォイド効果で天使の神霊力エネルギーをゼロにし、攻撃を無効化する。この防御能力は絶大で、下級天使はもちろん、最上位の天使である熾天使の攻撃ですら完全に無効化できる。 ※本作では「背徳の掟編」以降、度々登場人物の「レベル」が表示されている。これは[[ロールプレイングゲーム]]で一般に用いられているものと同義であり、能力の数値表現を表している。作者によれば、『[[ウィザードリィ]]』と近しい設定となっており、肉体年齢が若ければ若いほど、全盛期であればあるほどレベルは上昇しやすくなり、能力の向上も著しいことになる。長寿であるドワーフやエルフに、レベル1000前後の人物がいるのはそのため。人類の大半が通常は99が上限となっているが、魔戦将軍、大神官、賢者、侍、忍者のマスタークラスなど一部の特殊クラスにおいてはレベル150〜200が上限となっている。なお、人類の有史以前から存在する天使や悪魔に至っては、レベルが数万から数十万にまで到達する個体も存在する。 == 魔法 == 魔法とは、複雑な魔法陣を描いたり、呪文を唱えることで、一般に魔力と呼ばれている霊子力エネルギーをコントロールする技術である。生命力や精神力を源にする「魔術」、神への信仰を源にし、護りや治癒の力を発揮する「白魔術」、悪魔などとの契約により行使する「暗黒魔術」、地・水・火・風の四つの元素界に属する精霊と契約することで使うことができる「精霊魔術」が主流になっている。この他に古の神々との契約で使用可能になる現在主流ではない魔法の総称として古代語魔術(ハイエンシェント)が存在する。 また天使の行使する「神霊力」、悪魔が行う「魔法」は、魔力のコントロールなどの際に行う行程や発生する過程が一切省かれた「結果のみが顕現した力」であり<ref>本作では[[旧約聖書]]の一節にある「神は言われた。『光あれ。こうして、光があった。』」などのように、現象が結果として即座に現れる力を指し示す。</ref>、人間の用いる魔法とは一線を画する上位能力である。上位の天使や上位悪魔神族に至っては通常活動を行う際に、副次的に人類が魔法と呼ぶ事象を無意識に発生させることになる。 == 登場キャラクター == 担当[[声優]]は、ドラマCD版 / OVA版 / Webアニメ版の順番に表記。1人のみ記載の場合はOVA版のキャスト。 === メインキャラクター === ; ダーク・シュナイダー : 声 - [[矢尾一樹]] / 矢尾一樹 / [[谷山紀章]]<ref name="webanime">{{Cite web|url=https://bastard-anime.com/staffcast/|title=Staff&cast|website=アニメ『BASTARD!! 暗黒の破壊神』公式サイト|accessdate=2022-06-30}}</ref> / [[森川智之]](DAXEL版パチスロ) / [[小西克幸]](CRバスタード) : 本編の[[主人公]]。略表記として「D・S」とも呼ばれ、ルーシェという少年と体を共有している。 : {{Main|ダーク・シュナイダー}} ; {{Anchors|ティア・ノート・ヨーコ}}ティア・ノート・ヨーコ : 声 - [[白鳥由里]] / [[小山裕香]] / [[楠木ともり]]{{R|webanime}} / [[種田梨沙]](CRバスタード) : メタ=リカーナの大神官ジオ・ノート・ソートの娘。初登場時{{Efn2|『WIZARD!!』において。}}は14歳。ルーシェとは姉弟同然に育った。一人称は「[[ボク少女|ボク]]{{Efn2|作者は『[[三つ目がとおる]]』『[[つらいぜ!ボクちゃん]]』の影響と述べている。HAQ本 p.32}}{{Efn2|なお、破壊神・邪神群の正体が人類滅亡のために神から遣わされた天使だったことを知り慟哭した時の台詞は「ボク達」ではなく「私達」になっている(単行本14巻収録「降臨II」の末尾および15巻収録「降臨III」冒頭部)。}}」。 : 勝気で気が短く、猥褻な行為や自らの倫理観に反する行為には容赦ない。しかしその反面、心情や立場を理解する心は人一倍強く、そこから来る包容力が一種のカリスマとなっている。「闇の反逆軍団編」では守られるだけの少女だったが、メタ=リカーナの崩壊後は積極的にクレリックとしての修行を積み、2年後には神官クラスに迫るレベルの高僧(ハイ・プリースト)として、高位の防御魔法や治癒の術を使いこなせるようになった。ある程度の格闘術にも長けている{{Efn2|不意を突いた攻撃でガラを地に付かせた程。単行本1巻、P.149〜151}}。「方舟(KCG)」の戦いの衣装ではナックルを装備していた。 : 傍若無人なD・Sを言い聞かせることのできる人物であり、彼がスケベ心を発揮した時には遠慮することなくどつき回す他、アーシェス・ネイとの戦いで一度死亡したD・Sの顔に往復ビンタを喰らわせて叩き起こした(復活させた)こともある(この際、ジオとオババ様はその突飛過ぎる行動に驚愕していた)。 : 母はジオと同じく先の魔操兵戦争の五英雄の一人で、「辺境の黒き魔女」と呼ばれた魔導士シリン・テンペストだが、ヨーコが幼い時に(あるいは産んで間もなく)亡くなっている。 : 身長164cm、体重55kg。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 生命受諾(アクセプト) :: 処女の口づけによって対象者の内に封印された人格を解放する奇跡。 </div></div> ; ルーシェ・レンレン([[ルシファー|ルシフェル]]) : 声 - - / [[渕崎ゆり子]] / [[伊藤かな恵]]{{R|webanime}} : 大戦で敗れ死亡したD・Sが、戦災孤児の赤ん坊{{Efn2|作者がいずれ採用する予定の裏設定として、ラーズ・ウルの息子ということが密かに明かされている。HAQ本 p.11}}に宿り転生した先の少年。ヨーコと同い年だが、大変な童顔。大神官に発見され、美と愛の女神イーノ・マータの力により魂を封印された。封印の解除には呪文と[[処女]]の接吻が必要となる。小心者で泣き虫だが明るく天然ボケな性格。趣味は[[洗濯]]で、OVA版ではケビダブが迫っているにもかかわらず、ヨーコの[[パンティー|パンツ]]を大量に洗っていた、ある意味で肝の据わった性格。ルーシェ自身は普通の少年であるはずだが、D・Sとアーシェス・ネイの戦いの最中、突如D・Sの前に幻影で現れ、普段とは別人のような口調でネイがアキューズドによって苦しんでいることを伝えるなど謎が多かった。 : その正体は、かつて神に反逆して地獄に封じられているはずの堕天使ルシフェル。そしてD・Sが長い間探し続けていた真の半身。「方舟(KCG)」で封印空間に落とされたD・Sと分離して星幽体で出現し、ヨーコたちの危機を救う。だが主物質界で星幽体のまま行動することは莫大なエネルギーを失うことにつながり、D・Sの復活方法とヨーコへの愛を伝えると消滅した。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 封神八十七式烈光流星乱舞(ガンマ・レイ) :; 封神乾坤七断(エクス・シナー) </div></div> === 四天王 === D・Sを補佐するように存在する、D・Sにも匹敵するほどの力を持った4人を指してそう呼ばれる。D・S自身400年以上生きており、その間にも四天王は何度か入れ替わっている模様であり、ノベライズ作品では先代四天王の時代のエピソードが語られている。下記は原作に登場した現在の四天王である。<br />「闇の反逆軍団編」より登場する現四天王は、メタ=リカーナを守護して行動するD・Sと対立することとなるが、「地獄の鎮魂歌編」でのカル=スの帰順をもって全員が再び傘下に収まっている。また「罪と罰編」から長らく4人の登場はなかったが、「背徳の掟編 最終節」(単行本24巻)では各々の動向が描かれた。 ; カル=ス : 声 - [[堀川りょう|堀川亮]](1 - 3巻)、[[三木眞一郎]](4巻) / [[関俊彦]] / [[小野賢章]]{{R|webanime}} : 冷却系の呪文を得意とする魔法使い。魔力の高い父親{{Efn2|name="father"|父親の正体に関しては裏設定として同人誌、及び公式質問サイトでダーク・シュナイダーと明かされている。}}の影響で異常なまでに高い魔力キャパシティを持つ。その影響で老化がほとんど止まっているため、外見は20歳前後だが、推定年齢120歳。約100年前に反逆した当時の四天王ガイン・エスペランザに代わり四天王の一人になった。現在の四天王の中ではもっとも長く四天王の座についている。冷静な性格で、暴走しがちなD・Sの抑え役だった(しかし抑えられないことがほとんどであった)。 : [[魔人]]である父親{{Efn2|name="father"}}の来歴のために幼少時には母子共に周囲から排斥され、更には侮辱による怒りで制御出来なくなった力が同年代の子供を一瞬で消滅させてしまう。これに激怒した周囲の手で洞窟に閉じ込められてしまい、挙句、母親は周囲からの連日に渡る非難と糾弾によって苦悩に押し潰され、精神崩壊の寸前に追い込まれる。そして遂に、長に唆される形で自分を殺害しようとしたことへの怒りと絶望から暴走した魔力で逆に母親を殺したため、それが強烈な[[心的外傷|トラウマ]]となっており、破壊神にはそこにつけ込まれて操られることになった。このトラウマに起因し、女嫌いでもある。 : 後に中央メタリオン4王国を征服、「氷の至高王(ハイ=キング)」と呼ばれることとなる。 : 切った相手を凍り付かせる氷の魔剣「アイス・ファルシオン」の所有者。この剣は元々母親の一族に伝えられていた剣で、母親の一族の長が「戦士の掟」の名目で母親にカル=ス処刑を命じると共に手渡したもの。なお、母親の一族がどうなったかについては語られていない。 : 「背徳の掟編 最終節」では、汎人類連合を束ねる[[預言者]](エリヤと呼ばれるクラス)としての使命に覚醒。「方舟(KCG)」脱出後、盲目になったことで魔力が増大している。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 氷槍蛇撃(ゼルト・フロステ) :: 水系・精霊魔術。自在に動く鋭利な氷の槍を作り出す。 :; 裂氷破弾(タンカード) :: 水系・精霊魔術。氷の飛礫を使ったマジック・ミサイル。 :; 絶対零凍破(テスタメント) :: 古代語魔術。魔法回路による電磁的な場を作り出しその領域の空間を絶対零度とするカル=ス最大、究極の低温呪文である。 :; 雪狼轟咆覇(ワイ・アーンティ) :: 召喚魔術。水の精霊界より氷精獣・雪狼(ブリザード・ウルフ)を召喚する。 :; 氷羅封滅獄(サナトス) :: 水系・精霊魔術。 決して溶けることのない氷の結晶で、敵を封じ込める呪文。 :; 帝王水龍爆(アク・シーズ) :: 水系・精霊魔術。水を操って水龍を作り出し敵にぶつける。 :; 妖氷楯(ダンジグ) :: 水系・精霊魔術。氷の楯と凸レンズを作り上げる。 :; 極零烈凍波(ビス・カヤー) :; 永久冷凍炎(ブリザーデス) </div></div> ; アーシェス・ネイ : 声 - [[小山茉美]](1 - 3巻)、[[佐久間レイ]](4巻) / 佐久間レイ / [[日笠陽子]]{{R|webanime}} : 雷撃系の呪文を得意とする魔法戦士。「雷帝」の異名を持つ。雷獣[[鵺|ヌエ]]が宿り、剣から発せられる強力な雷撃が、山をも断つと言われ恐れられている魔剣「雷神剣(ライトニング・ソード)」の所有者。[[エルフ#ダークエルフ|ダークエルフ]]と人間の間に生まれた[[ハーフエルフ]]であるため寿命が長く見た目は20歳前後だが、100年以上生きている。ハーフエルフという特異な存在のため、一族に疎まれ棄てられた。D・Sの気紛れから拾われて育てられ、養女かつ愛人となる。約50年前に四天王の一角になる。D・Sのことを「ダーシュ」と呼んでいる。 : 名前の「ネイ」は、「ネイ=誰でもない(人間でもダークエルフでもない。奇しくも英単語のnay(ネイ)には、古い用法で『否定』の意味がある)」という意味で、親から皮肉を込めてつけられた名前である。「アーシェス」という名はD・Sが与えたものであるが、そのニックネームである「アーシェ」という呼び方についてはD・S以外には呼ばせない。 : 「背徳の掟編 最終節」ではカルに同行し、巨人族の聖地へ向かっている。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 轟雷(テスラ) :: 風系・精霊魔術。雷撃系最高位の呪文。 :; 雷撃(バルヴォルト) :: 風系・精霊魔術。雷精に命令し、相手に向けて雷撃を放つ呪文。 :; 黒鳥嵐飛(レイ・ヴン) :: 風系・精霊魔術。空を高速で自在に飛行する。 :; 雷電怒涛(ライ・オット) :: 暗黒魔術+風系・精霊魔術。暗黒魔術の手法によって、より強力な風精を制御し、雷撃(バルヴォルト)の数倍の威力を引き出す。 :; 滅極渦雷球(デフ・レイ・バー) :: 古代語魔術。魔力エネルギーのごく低い異世界(アザー・プレーン)への門を開く呪文。 門は周囲の魔力を全て吸収してしまう。 :; 裂空魔雷(フォルテッシモ) :: 風系・精霊魔術。 落雷を引き起こす呪文。 :; 天地爆烈(メガデス) :: 風・地系・精霊魔術。地と風の精霊の力を融合し破壊的な力場を作り出す呪文。 :; 七鍵守護神(ハーロ・イーン) :: 古代語魔術。7つの魔界の門(アザー・プレーン)を古代神との契約によって開き、そこから導き出された魔力を 術者の肉体を媒介にして一方向に放射する。 </div></div> ; ニンジャマスター・ガラ : 声 - [[玄田哲章]] / 玄田哲章 / [[安元洋貴]]{{R|webanime}} : 現在の四天王において、最も後期に加わった男。[[忍者]]とは思えないほど大柄で屈強な肉体を誇り、正面から堂々と戦うことを好む。ただし、ラーズ曰くそのスタイルは「忍術混じりの邪剣」とのこと。年齢は40歳前であり(計算上ラーズの一歳下となる)、ニンジャマスターを襲名したのは14〜15歳の頃である<ref>HAQ本 p.54</ref>。愛刀「[[村雨 (架空の刀)|ムラサメ・ブレード]]」は旧世界の魔法(すなわち科学のこと)の産物で、使用者の魂の力を攻撃力に転化する機能を秘めている(後に完全に自身の支配下に置いた)。これにより異次元にも攻撃を届かせることが可能で、高次の星幽体の存在にもダメージを与える。このほか[[ワイバーン]]を操り、搭乗し戦う。また屈強な肉体は、腕を切断された場合でも再生することができる(どのような原理によるものかは不明)。しかし、右腕の骨は登場していなかった空白期間中(「闇の反逆軍団編」終了から「罪と罰編」での再登場の間)に再生不能になっており、これを補うためにさまざまなギミックの仕込まれた[[義手]]を備えている<ref>HAQ本 p.62</ref>。 : 豪快で後先を考えない性格で、「面白けりゃ後はどうでもいい」と公言するが、実際には面倒見のよい親分肌で、部下の忍者たちにも慕われており、設定資料によれば配下の忍者軍団は2000人。なお、仔竜の姿にされたラーズは、敵であったはずの彼のもとに身を寄せていた。また、かなりのスケベ親父で敵対してた時はD・Sの封印の秘密を喋らないヨーコに対して拷問とは名ばかりのスケベなイタズラを敢行している。D・Sとはしばしば悪態を吐き合うが、本心では親しみを覚えている様子。ネイに好意を抱いているようで、どさくさ紛れに彼女を抱き寄せたり、彼女が危険に晒された時には身を挺して守ったりしている。 : 「背徳の掟編 最終節」では、上忍たちを率いてD・Sに合流した。 : 好物は[[ラーメン]]という設定もある。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 魔人(神)剣 :; 真・魔人(神)剣 :; 魔神閃光断 :; 慶雲鬼忍剣 :; 光線白刃取り :; 忍法七ツ身分身の術 :; スカッド・ボンバー </div></div> ; アビゲイル : 声 - [[大友龍三郎]] / 大友龍三郎 / [[杉田智和]]{{R|webanime}} : 「冥界の預言者」と呼ばれる暗黒の僧侶(クレリック)。約100年前に死亡したイーカル・モンローに変わって四天王になった(ただし、そのあたりのことは描かれていない)。D・Sに匹敵する年月を生きている{{Efn2|公式設定上はD・Sよりも年下ということになっているが、原作描写から、彼のほうが数十歳年上とも取れる。}}。彼にもまた秘密が隠されており、彼がD・Sにつき従っていたのにはある理由があった。最初に解いた破壊神の封印が精神であったため、最初に精神を支配され、その復活に手を貸してしまうが、メタ=リカーナでD・Sと戦ったことで破壊神の呪縛から解放され、「方舟(KCG)」で四天王の立場に戻り、以後D・Sの参謀役として復活する。しかしD・Sが封印空間に落とされたため、天使達の猛攻の中、ルーシェの言葉に従いKCGの霊子動力炉を使いD・Sを復活させようとする。 : 破壊神に操られている間は沈着冷静にも見えたが、実はコミカルな性格であることが後に判明。 : 「背徳の掟編 最終節」では悪魔の「反・創世(ネガ・ジェネシス)計画」を阻止するために解かねばならない「封印」があるとされる{{Efn2|ジオより語られる。単行本24巻P.67、68}}[[月|月面上]]に姿を現している。 : このキャラクターの容姿や初期の表現技法については、映画や舞台で[[嶋田久作]]が演じた『[[帝都物語]]』の魔人・[[加藤保憲]]の影響が色濃い。また作者によって明かされているもう一人のモデルは『[[スタートレック]]』のMr.スポックである<ref>HAQ本 p.24</ref>。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 退魔(アスプ) :: 神聖魔術。悪魔・妖魔をもといた世界に送り返す門を開く呪文。 :; 盲死荊棘獄(ブラインド・ガーディアン) :: 呪術。 膨大な量の魔法の荊棘を作り、相手を呪縛する呪文。 :; 青爪邪核呪詛(アキューズド) :: 呪術。コウモリの羽を触媒として術者の爪に呪いを込め相手に移し変える青い爪。命令に逆らったり、爪を外そうとすると赤く変色してゆき最終的に爪が真紅に染まったとき呪いが発動し、対象は肉体を完全に破壊されヒキガエルに姿を再構成される。 </div></div> === 鬼道三人衆 === 「雷帝」アーシェス・ネイに仕える魔道集団「鬼道衆」の中から選び抜かれた最精鋭にして、ネイの側近。カイ曰く「血よりも濃い絆」で結ばれているとのことだが、ダイ=アモンに関しては語られていないのもあって不明。 ; シーン・ハリ : 声 - - / [[山崎和佳奈]] / [[小澤亜李]]{{R|webanime}} : 呪符(フダ)使い。さまざまな呪符を使って戦う。元は戦災孤児であった。ネイの命によりD・Sへの刺客として登場。女好きの性質を利用して地方領主の娘に扮して油断させ、処女の色仕掛けと蜘蛛の呪符を使って殺そうとした。しかし、体に残されていた鎧の跡のため正体を見抜かれる。D・Sの優しさに触れて戦いを放棄、D・Sへの愛に目覚めてネイの下を離反する。その後、彼を守るためにカイやダイ=アモンとも戦うことになる。D・Sと性的関係を最後まで持つには至らず、耳朶を噛まれただけで終わったため、D・Sから「処女」と呼ばれる(名前を呼んでもらえない)。カイの治療のため、カント寺院に向かった後の消息は不明であったが、後にジオと共に十賢者の元に身を寄せていたことが判明する。「背徳の掟編 最終節」では、汎人類連合においてカイと共にシーラの側に付いている。 : 魔戦将軍ラン・ディ・ローズ・シュタイン・ノイバウテンの実の妹である。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 羅王赤熱円舞(らおうせきねつえんぶ) :: 古代語魔術の一系統・呪符魔術。目標に貼りつくと数百度の炎を発して燃え上がる。 :; 式蜘蛛邪骸食(しきぐもじゃがいじき) :: 古代語魔術の一系統・呪符魔術。呪符より大蜘蛛を作り出し術者の意のままに従わせる呪文。 </div></div> ; カイ・ハーン : 声 - - / [[小林優子]] / [[伊藤静]]{{R|webanime}} : 魔術と剣技の双方に優れる女戦士。一人称は「俺」。性格的には謹厳実直で、後に仲間となる侍たちともウマが合う様子。シーンと同様に元は戦災孤児であった。シーンの次にD・Sと戦い、得意の石化魔法であと一歩まで追い詰めるもD・Sの側についたシーンに阻まれる。石化魔法の力の源となる神の名を口にしてしまい呪文を封じられ、切り札として用意した魔獣(コカトリス)も破られる。狂ったコカトリスから受けた毒をD・Sに解毒されたことをきっかけとして、次第にD・Sに心惹かれてゆく。シーンとともにダイ=アモンと戦うものの敗れて血を吸われたが、カント寺院で治療を受け、吸血鬼化は免れる。その後はヨーコや侍達と共に行動するようになる。魔戦将軍との戦いを経て「方舟(KCG)」の戦闘で消息を絶っていたが、「背徳の掟編 最終節」では、シーンと共にシーラの側に付いている姿が確認された。 : シーン・ハリの実兄にして魔戦将軍のラン・ディ・ローズ・シュタイン・ノイバウテンとは幼馴染。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 邪骸石結(タラス) :: 古代語魔術(ハイ・エイシェント)。 古代神ング=ウェイの力を借り、目標を石化する呪文。 :; 焦熱波(デイオ) :: 火系・精霊魔術。手のひらから高温の衝撃波を直線上に放つ呪文。 :; 爆炸剣(ヴォン・ファイオ) :: 付与魔術。術者の手に持った剣に炎の精霊力を宿らせる呪文。 </div></div> ; ダイ=アモン : 声 - - / [[千葉繁]] / [[子安武人]]{{R|webanime}} : [[吸血鬼]]。他の吸血鬼に血を吸われて変異したものではなく、自ら変化し吸血鬼となった最も強力な不死者の一つである「[[真祖]]」となった存在である。吸血鬼の伝統に則り「伯爵」を自称する。容姿としては顔面に[[隈取]]状の模様を持つ筋肉質な大男で、性格は自らを美しいと広言するナルシスト。言動がいちいち大仰で芝居がかっている。 : 部下に[[狼男|ワーウルフ]]をはじめとする獣人も従え、必殺技「吸血破壊光線(アッサー・シーン)」などを使う。また、本来吸血鬼が嫌うはずのニンニクや十字架は通用しない<ref>単行本3巻、P.141。</ref>。満月の時であれば、単身で数人の魔戦将軍とも対等以上に渡り合うことができるほどの戦闘能力を発揮する。 : 当初はD・Sへの刺客として登場するも、ネイやカル=スをも凌ぐ存在となる野心を抱いており、シーン・ハリやカイ・ハーンとも対立した。しかしD・Sに敗れ、絶対服従の呪いをかけられる。以後は忠誠を誓い、「地獄の鎮魂歌編」にてD・Sのためにカル=ス抹殺の行動に出た。満月の夜であったため数人の魔戦将軍をものともしなかったが、カル=スにより返り討ちにあっている。 : その際、大男の姿は擬態であり、正体は細身の美青年であることが明かされた(彼の美意識では細身の美青年の姿は醜く思えるらしい)。 : <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"><div class="NavHead" style="text-align: left;">技一覧</div><div class="NavContent" style="text-align: left;"> :; 吸血破壊光線(アッサー・シーン) :: 目から発射される光線は受けた生物の体液を爆発的に膨張させ、肉体を破壊する。 </div></div> === 12魔戦将軍 === 4王国を征服し「氷の至高王」となったカル=スに仕える将軍。カルが掲げた、万民が幸福を享受できる理想郷(ソーサル=キングダム)の建設に共感し、厚い忠誠を誓っている。一人が一軍に匹敵するとも言わしめる実力者達で、その忠誠心ゆえにカル以外の者の言葉には決して従わない。 <!-- 以下[[五十音順]]で表記する。 --> ; イダ・ディースナ : 声 - - / - / [[中野泰佑]] : 2つの宝玉を用いて悪魔や幻獣を呼び寄せる召喚士。 : 元はD・Sの部下で、配下の魔獣軍団の主な供給源だったという<ref>HAQ本 P.96</ref>。口紅などメイクをしている。見た目の通りナルシストで「信じる」という言葉を神に挑む戦いに相応しいと陶酔していた。 : 「罪と罰編」では竜王子ラーズと共にD・Sの復活を賭け天使の大群に立ち向かう。 ; イングヴェイ・フォン・マルムスティーン : 声 - - / - / [[諏訪部順一]] : 魔戦将軍の筆頭格で、カルに最も心酔している剣士。 : 常人では見ることもできないほどのとてつもない速さを誇る剣技の使い手で、「光速の剣」の異名を持つ。 : 愛剣である「朱闘羅刀(ストラト)」は旧世界の技術の産物で、信じられない軽さと恐ろしい切れ味を備える。魔法の力は帯びていないが、イングヴェイの闘気の高まりに呼応して高まる描写がある。 : 箱船での戦いで一度は命を落としたが、「[[#その他|救世主]](メシア)」の導きを受け蘇った。「背徳の掟編」ではカルの指示に従い侍衆の筆頭であったヨシュアと共に、救世主の側に付いている。 ; サイクス・フォン・スノーホワイト : 声 - - / - / [[田丸篤志]] : 痩身の美男子。本職は学者で知的好奇心は旺盛。「次元断」と呼ばれる手刀により空間に断層を生じさせ、敵を切り裂く能力を持つ。「罪と罰編」で天使の攻撃を受け、絶叫と共に散る。その後、救世主の導きで復活したような描写はあるが作中には登場していない。 ; ザック・ワルダー : 声 - - / - / [[山口智広]] : 魔戦将軍最年少の武闘家。 : 天性の怪力少年であり(作者曰く「金太郎さん」のようなもの)、さらに修行により修めた徒手空拳武術「カラーテ」を使う(マスタークラスで50段程の実力)。命の危険に巻き込まれた際にカルに救われ、以後彼に付き従うようになる。 : 徒手空拳で戦うのが主たるスタイルだが、二本一組の短剣「音叉の剣(ソニック・ソード)」を携帯しており、これを二本同時に前方へ突き出して強烈な衝撃波を放つ、「ジ・エンド・オブ・ソニックバイブレーション」という奥の手を持つ。 : 前衛型だが鎧に身を固めたブラドと比べて防御力は低く、箱船での戦いでは致命傷を負い、ヨーコの回復呪文で復活していた。 ; シェラ・イー・リー : 声 - [[川村万梨阿]] / - / [[瀬戸麻沙美]] : 魔戦将軍の紅一点だが、女性であることを隠していた。吟遊詩人(ドルイド)で、歌声によって相手を魅了することができる。また自然物や己の身体を操作する技を使い、伸ばした爪を刃と化して攻撃する。カル=スがアンスラサクスに操られ苦しむ場面を見てしまい、呪文によって氷柱の中に閉じ込められたが、後に救出されたらしくマカパインやバ・ソリーと行動を共にするようになる。「背徳の掟編」での再登場時には明らかに女性らしい服装となっていた。 ; ジオン・ゾル・ヴァンデンヴァーグ : 声 - - / - / [[遊佐浩二]] : 漆黒の鎧「ブラック・レネゲイド」に身を包む魔剣士。その鎧はほとんどの攻撃を無効化し、魔剣「ソウル・イーター」は斬った相手の魂を吸い尽くすという。侍シェン・カーの異母兄であり、かつては共に剣技「影流」の道を目指す非常に仲の良い兄弟であった。だが、「影流」の師匠でもあった2人の父親が、継承者として彼ではなくシェンを選び、さらにジオンを追放して彼の恋人だった娘をシェンの妻としたことから2人の関係は急激に悪化する。この仕打ちを深く恨んだジオンは数年後に魔剣士となって戻り、父を殺害。さらに、その怒りをシェンにも向け、就寝中の彼を暗殺しようとし、かつての恋人でもあったシェンの妻を誤って殺してしまう。そのため、シェンはジオンを妻の仇として追い続けることになるが、シェン自身はジオンの身に起きた一連の惨い仕打ちを全く知らなかった。「罪と罰編」にて、敵であるはずの侍衆をD・Sの援護へ向かわせるため、ランと共に命を賭けて戦い、その中で弟と和解しながら散った。 ; バ・ソリー : 声 - - / - / [[広田みのる]]<ref name="natalie230221">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/513824|title=「BASTARD!!」第2期ヨルグ・フィシス役は笠間淳、バ・ソリー役は広田みのる|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2023-02-21|accessdate=2023-02-21}}</ref> : 無数の蟲(むし)を体内で飼い、武器として相手を襲わせたり、自身の傷を回復させる蟲使い。 : マカパインとともにア=イアン=メイデ国の侍の残党を襲撃するが、復活を果たしたD・Sに敗れる(この際、侍らの復活のためとしてD・Sによって、自身の中に飼っていた再生蟲を大量にむしり取られてしまい、復活に時間を掛けさせられた)。その後はシェラ、マカパインと行動を共にする。「背徳の掟編」では[[魔神]]コンロンの一撃で粉砕された上にナメクジに変えられるが、コンロン死亡後元に戻る。 ; ブラド・キルス : 声 - - / - / [[田所陽向]] : 分厚い鎧に身を固めた巨漢で、ガラやアビゲイル以上の体躯を誇る。クラスは騎士。巨大な[[ハルバード]]を振り回し、「烈壊怒号撃滅破」で敵を吹き飛ばす。「罪と罰編」にてラーズの指揮の下、天使群に相対し戦うが権天使(プリンシパティウス)によって全身を串刺しにされる。 ; ボル・ギル・ボル : 声 - - / - / [[藤原貴弘]] : 影を自在に操る「操影術」を得意とする。影の中に身を潜めて影伝いに移動する、他人の影を介して金縛りにする「影縫い」、自身の影を伸ばして巨大化・実体化させ操る「影道魔神霊(しゃどう・まじんれい)」などの技がある。性格は単純な武人タイプで、あっさりD・Sに丸め込まれる。ラーズの指揮の下、D・S復活を賭け天使群と戦うが、眼前でイングウェイが消滅させられたのを見て戦意を喪失し、サイクスと共に天使の追撃を受けて逝った。 ; マカパイン・トーニ・シュトラウス : 声 - - / - / [[福山潤]] : 妖縛士。妖斬糸と呼ばれるほとんど目に見えないほど細い鋼線を駆使し、敵を切断したり傀儡として操ることができる。彼の持つ剣「罪人の剣([[ガリアンソード|ガリアン・ソード]])」は敵の魔力を無効化する対魔法使い用の武器。武家屋敷でD・Sの呪文を受けた彼が生き延びたのは、この剣の力が作用した為である。 : 野心的な人物で、イングヴェイが失態を晒したのを好機と捉え魔戦将軍筆頭の地位を奪うべくバ・ソリーとともに魔獣[[スフィンクス]]を率いて侍の残党を襲撃。その力量と手段を選ばない戦いぶりで彼らを圧倒し、壊滅状態にまで追い込む。だが、戦いの最中に復活を遂げたD・Sによってスフィンクスを蹴散らされ、自身もD・Sによる余りにも手段を選ばない戦法で返り討ちに遭い、挙句には呪文によって吹き飛ばされて敗北した。飛ばされ落ちた地にてガラと出会いしばらく同行し、その後はシェラ、バ・ソリーらと行動している。「背徳の掟編」では二人と共に難民を連れて放浪しており、天使や悪魔、そしてD・Sの闘いを見届けることとなる。 ; ラン・ディ・ローズ・シュタイン・ノイバウテン : 声 - - / - / [[平川大輔]] : 傭兵あがりの魔戦将軍。12将軍中唯一楯を持ち、大剣と鞭の2つの武器を操る戦闘のプロ。鞭はファイアーウィップと言う炎の鞭。大剣はフライングV。得意技は対象に向けて振り下ろした後切り上げる飛翔Vの字斬り。 : 鬼道衆シーン・ハリの実兄であり、孤児だった彼ら兄妹とカイ・ハーンはかつてネイに育てられていた。その後、成長したシーンとカイは鬼道衆に入るが、彼はカルのもとで働くことを選ぶ。幼馴染であるカイには特別な感情を抱いていた模様。 ; ロス・ザボス・フリードリッヒ : 声 - - / - / [[駒田航]] : オカマ言葉の魔戦将軍。魔戦将軍の中では唯一の貴族階級の出身者。ただし、何らかの事情あって奴隷階級である剣闘士に身を落していたりと、謎めいた部分が多い。右腕に防具を着けないが、それは“着装”のキーワードと共に腕と同化して可変する魔剣「重力剣(グラヴィティ・ザンバー、剣化硬着装甲と称する)」を使用するため。 : 理想主義者の多い魔戦将軍の中では数少ない現実主義者(アンスラサクスに取り込まれたカル=スを救い出せなければ自分たちはただの戦争犯罪人になってしまうと言っていた)。その一方で、非常に軽い一面もある。重力を操る攻撃手段の他、魔法も使いこなす。また盗賊まがいの解錠スキルを持ちオタカラに目がない描写も作中に見られる。 === その他の四天王配下 === ; オズボーン : 声 - - / - / [[大畑伸太郎]] : 読切『WIZARD!!〜爆炎の征服者〜』(コミックスでは第1話)に登場した魔導師。復活したD・Sのベノンで一撃で倒された。 ; ケビダブ : 声 - - / [[池田勝]] / [[奈良徹]] : 自称カルの有能な舎弟。ヒドラを連れてメタ=リカーナに侵攻するが、D・Sの顔にほんの小さな傷をつけたため、D・Sから罵られて、いきなり殺される。 ; ドシ : 声 - - / - / [[間宮康弘]] : アビゲイル配下の自称、超有名な天才死人使い。メタ=リカーナに自身の製作した[[#怪物・精霊|リンチ]]や[[#怪物・精霊|アンデッドサイクロプス]]を差し向けて現れる。自分では戦闘を行わないが、アンデッドを造るための新鮮な「素材」を集めようと、ナイフで子供の眼玉をえぐるという行動を見せる。名前の由来は[[ドン・ドッケン]]<ref>萩原一至公式サイトHAQコーナーログより</ref>。 === 五英雄 === 「闇の反逆軍団編」より15年前、世界征服せんとする大魔導王ロード・ダーク・シュナイダー及び彼に従う四天王と4つの王国(メタ=リカーナ、ジューダス、ワイトスネイキ、ア=イアン=メイデ)の間で起こった、後に魔操兵戦争(ゴーレム・ウォー)と呼ばれることになる大戦において、人類側を守る側に立ち、D・Sに立ち向かった勇者ラーズ王子と4人の仲間をさして「五英雄」とよぶ。<br /> 魔操兵戦争と呼ばれるのは同大戦においてD・Sが魔操兵(ゴーレム)の軍団を用いたことによる別名のようなもの。ラーズ達五英雄とD・Sおよび四天王の死闘はドラマCD第3巻「魔導王封印編」に収録されている。 ; ラーズ・ウル・メタ=リカーナ : 声 - [[草尾毅]] / [[菊池正美]] / [[松岡禎丞]]{{R|webanime}} : メタ=リカーナの第一王子にして救世の勇者{{Efn2|作者によると「薄幸の王子」であったらしく(HAQ本では「幸せ」と誤記があるが、公式BBSで直後に作者自身のレスで「薄幸」と修正が入っている)、出生と王家との関わりには何がしかの因縁があった模様。}}。23歳{{Efn2|「背徳の掟編」において。}}。「竜王子」の異名通り、四王家の中でも竜族の血を色濃く引き、竜のオーラをもってあらゆる鬼神・魔人を封滅する地上最強の剣法にて、竜族のみに伝わる秘剣「封神剣」の使い手。十賢者が[[オリハルコン]]を素材に鍛え上げた、全てを断ち切り竜族の強力なオーラにも耐えられる世界で唯一つの武器、超絶聖剣ヘヴィメタルを振るう{{Efn2|なお、「背徳の掟編」第1話(「背徳の掟編Ⅰ」)の扉イメージイラスト(雑誌掲載時のカラーページ見開き。単行本19巻、P.8、9。また、単行本26巻の折込ピンナップのカラーイラスト)ではD・Sがこの剣を持っているが、その理由などの詳細は不明。}}。 : 「魔操兵戦争(ゴーレム・ウォー)」においてジオ達4人の仲間と共に、大陸を制覇しようとするD・Sの軍勢と戦った彼は、五英雄の中でも特別視される伝説的な存在となる。魔操兵戦争の際に「[[#その他|竜戦士]]」となったラーズはD・Sと刺し違えており、そのときのショックで肉体のみ竜戦士の「竜体」に閉じ込められた。人々には落命したと思われていたラーズであったが、肉体から分離された魂は仔竜の姿となって、ガラの元に身を寄せることとなる。仔竜「ラーズ」は復活したD・Sについてまわり、物語の前半において[[狂言回し]]の役を多く担った。 : 「罪と罰編」にて、アンスラサクスは「方舟(KCG)」に侵攻し、かつてラーズが融合した試作型竜戦士(プロト・ルシファー/プロト・ワン)を破壊する。そのため彼の肉体は解放され、「方舟(KCG)」に居合わせていた仔竜ラーズは17年前のままの人間の姿となり、ラーズ・ウル・メタ=リカーナとして復活した。ラーズはその後、「方舟(KCG)」でD・S復活のため天使の軍勢との攻防を繰り広げるヨーコや魔戦将軍に加勢する。激化する戦闘の最中、更に顕在化した上位天使に立ち向かうも、その圧倒的な力の前に劣勢に立たされる事となる。 : 結果敗北し、そのとき一度落命しており、「[[#その他|救世主]](メシア)」と呼ばれる少年の奇跡で蘇ったことが「背徳の掟編 最終節」において本人の口から語られている。彼はその際に「何か」を見て悟っている様子であり、救世主の元に集うべきとビヨ〜ンの元を訪れたカル=スとの仲立を行った。 ; ジオ・ノート・ソート : 声 - [[岡部政明]](2 - 3巻)、[[田中信夫]](4巻) / 田中信夫 / [[いずみ尚]] : メタ=リカーナの大神官。先の魔操兵戦争の五英雄の一人。ルーシェ・レンレンに転生したD・Sを見つけて封印した。最上位の神聖魔法を使いこなす上、クラスが僧侶兼武闘家である修道僧(モンク)であるため、肉弾戦でも「極鋼聖拳120段」(マスタークラスを超えた拳聖クラス)を修めており、D・Sが煙たがるほどの強さを誇る。 : 若い時分は僧としては豪胆な男であったが、ラーズと出会い旅をしたことで成長を重ねていった。[[壮年]]となった今でも親友のラーズやビヨ〜ンと話すときには口調が昔に戻る。妻は同じく五英雄のシリンであるが、若くして死別している。シリンとの間に一女(ヨーコ)あり。なお、若い(当時の五英雄)時の姿はニンジャマスター・ガラと雰囲気が似ている。 ; ニルス・ショーン・ミフネ : 声 - [[土師孝也]] / - /[[速水奨]] : 先の魔操兵戦争における五英雄の一人。「ミフネ」は侍総大将(サムライ・ハイマスター)の称号。若い頃は強さを求め諸国を旅していたが、ラーズに求めるものを見出した彼は、パーティに加わることとなった。巨大なゴーレムすら一刀両断にする斬鉄の剣、神刀「[[虎徹|コテツ=ブレード]]」を携え、未だ侍衆の中でも秀でた戦闘能力を誇る。怒らせると何でも真っ二つにしてしまう怖い男。魔操兵戦争においてはニンジャマスターであるガラと対峙した。 ; シリン・テンペスト : 声 - [[横山智佐]](ドラマCD版) : 先の魔操兵戦争における五英雄の一人。辺境の黒き魔女と呼ばれ恐れられる存在であったが、ラーズ達と出会い行動を共にする{{Efn2|HAQ本ではジオと共にラーズを追って出奔した設定も語られている。}}。非常に優秀な魔導士であり、大戦においては対峙したカルと氷の呪文の撃ち合いになり、カルに「同じ威力の氷の呪文を放ったのはキミが初めてだ」と言わしめた。後に同じ五英雄であるジオと結ばれて娘(=ヨーコ)を産むが、間もなく亡くなっている。 ; ダーナ・メニケッティ : 声 - [[三石琴乃]](ドラマCD版) : 先の魔操兵戦争における五英雄の一人。女海賊にして魔獣使い(ビースト・テイマー)。[[シーサーペント]]や[[クラーケン]]などの海の魔獣と意志を通わせることができる。大戦においてはロック鳥にまたがり、因縁ある相手のネイと空中戦を演じた。 : ラーズのことを愛していたが、最終決戦でD・Sと刺し違えた竜戦士を見てラーズは落命したものと思い姿を消し、それ以後の消息は生死も含めて一切不明。 === メタ=リカーナ王国 === ; 国王 : 声 - [[八奈見乗児]] / 八奈見乗児 / [[高岡瓶々]] : メタ=リカーナの国王。ラーズとシーラの父。戦傷により病身である。物語中における王家を代表する役割はほとんどシーラが担っているため、非常に影が薄い。 ; シーラ・トェル・メタ=リカーナ : 声 - - / [[吉田小南美|吉田古奈美]] / [[東山奈央]]{{R|webanime}} : メタ=リカーナの第二王女{{Efn2|シーラの上に、ラーズとは血の繋がりのない第一王女であるアーロンがいた(本編未登場・故人)。13巻の五英雄の回想シーンでその姿を確認できる。名前の由来は「メタルクイーン」と呼ばれたリーアーロンから。HAQ本 p.71}}。ラーズ・ウルの妹。長い黒髪の美女で、世間知らず。初出は17歳、最新刊では23歳{{Efn2|兄であるラーズと年齢が一緒なのは、ラーズが復活した際の肉体年齢が当時のシーラと同い年の時だったため。}}。 : 白魔術を学んでおり、ヨーコがガラにさらわれた際には代理でD・Sの封印を解いたこともある。その一件以降、D・Sに好意を抱くようになり、「あなたの目的が世界でも構わない」とすら言っている。 : 魔法によりアンスラサクスの最後の封印を体内(胎内)に移植されており、メタ=リカーナ崩壊後は「方舟(KCG)」にて眠り続けて起きることのない状態だった。しかし「方舟(KCG)」でのD・Sと(アンスラサクスに操られた)カル=スの戦いの最中目覚め、激化する戦いによる「闇の力」の活性化により封印が解けてしまう。その際、体が引き千切れて一度は死亡したが、その後現れたジオ・ノート・ソートに抱えられたシーラの体は元に戻っており、経緯は不明であるが蘇生した。「背徳の掟編 最終節」では、ヒトの代表として「汎人類連合」に参加している。 : 名前の由来は『[[聖戦士ダンバイン]]』のシーラ・ラパーナ、及び『[[天空の城ラピュタ]]』のシータ(ラーズ、シーラ兄妹のミドルネームは彼女の本名「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」に由来<ref>HAQ本 p.73</ref>)から。 ; オババ様 : 声 - [[巴菁子]] / 巴菁子 / [[橘U子]] : メタ=リカーナの王家に仕える魔法使い。ジオと共にルーシェ・レンレンに転生したD・Sを封印した。本編中では水晶玉を使用した予見なども行う。種族はエルフで実は元十賢者であり、シーラが「方舟(KCG)」で十賢者に見つからずにいられたのはこの為である<ref>HAQ本 p.112</ref>。 ; ボン・ジョヴィーナ : 声 - [[笹岡繁蔵]] / [[石森達幸]] / [[ボルケーノ太田]] : メタ=リカーナの騎士団長。勇敢ではあるが短慮である。D・Sを嫌っているが、騎士としての道を説かれて乗せられてしまい、ミノタウロスと戦わされたこともある(その単純さはサルと切り捨てられた)。現在は汎人類連合において他種族と共に騎士としての役割を果たしている。 ; 大臣ズ : 声 - / [[梅津秀行]]、[[梁田清之]]、[[桜井敏治]] / [[高仲祐之]]、[[最上嗣生]] : 泣き叫び転げ回るだけのメタ=リカーナの大臣たち。 === ア=イアン=メイデ王国 === ; ハリス王 : 声 - - / - / [[藤原聖侑]] : ア=イアン=メイデ王国の王。アビゲイルの「腐敗の軍団」に襲われて、呆気なく国は滅亡、自身はアンデッドに襲われ悶え苦しみながら死亡。登場はわずか2コマ。 ; マーシ王子 : 声 - - / - /[[高橋伸也 (声優)|高橋伸也]] : ハリス王の嫡子で、ハリス王の死によりヨシュアら侍たちの主君としてア=イアン=メイデ王国の復興を目指す立場になる。 : わがままな上に狭量で指導者としての能力や人望は完全に欠如している。マカパインたちの襲撃の際にはヨルグの遺体を蹴飛ばし、女子供を連れて自分だけ逃げようとするなど数々の醜態を晒して侍たちからも愛想をつかされ、D・Sが復活してからは存在を黙殺されるようになる。 : 「方舟(KCG)」ではアンスラサクスの一部を植えつけられ、側近のフランス貴族のような髪型の男など周囲の人間を吸収して邪神群の怪物「キング=マーシー」と化してしまう。最初に出現したのはマーシの姿を取った'''キングマーシー三世'''であったが、これ一体のみならず多数の個体(少なくとも3桁の数が存在し、複数の個体が侍たちに名乗りを上げていた)が侍たちの前に現れる。逆恨みして襲い来る「彼」であったが、その醜い心が強く顕在化したため、戦闘能力は侍や魔戦将軍達を凌駕するほどのものとなっていた。戦闘時攻撃の際、苦痛を受けた際には「マーシー」という叫び声をあげる。 ==== 侍 ==== 本編では滅亡した旧ア=イアン=メイデ王国の剣士階級あるいは剣士戦闘集団として登場する。機動力を重視した軽装の鎧(ブレストプレート)をまとい、剣と魔法を組み合わせた独特のスタイルで戦う(扱えるのは中級の魔法使いの魔法まで)。「[[武士道]]」を重んじるため、卑怯な振る舞いを嫌い、また主君が無能で人望がない人物であったとしても「[[忠]]」の掟には背けない。 ; ヨシュア・ベラヒア : 声 - [[子安武人]] / - / [[寺島拓篤]] : 若くして侍大将(サムライ・マスター)をつとめる男。常に冷静で、戦士としてのみならず優秀な指揮官でもある。愛刀は名刀「鍔鳴り」。秘剣「蝶舞阿修羅斬」を振るう際、この太刀の鍔は風切り音を発し真空の刃を大気に放つ。愛用の鎧は「銀峰」。ベラヒア家に代々伝わっており、魔を退ける銀でできている。カイ・ハーンに想いを寄せており、彼女に夜這いをかけようとした(ヨーコに見つかり未遂)D・Sを本気で叩きのめそうとしたこともある。「背徳の掟編」ではイングヴェイと共に「[[#その他|救世主]](メシア)」を自らの主と定め、その側に付いている。 ; シェン・カー : 声 - - / - / [[木島隆一]] : 侍のNo.2。魔法を禁じた暗殺剣である「影流」の剣技の伝承者である。ヨシュアと互角かそれ以上の剣技の持ち主であるが、影流は魔法を禁じ手としているため、資格取得に魔法スキルの取得が必須となるマスターの称号は持っていない(つまり、影流の習得はマスターやその称号の放棄を宣言するのと同じ。だが、シェン自身は全く気にしていない)。「黒夜叉」という鍔が無く、真っ黒い刀身を持った刀を愛刀とし、二刀流の使い手。 : 魔戦将軍の一人であるジオンは実の兄で、妻の仇として追い続けていたが、師である父親が兄に対してあまりにも惨い仕打ちを行っていたこと(特に妻が兄の恋人だったこと)を全く知らなかった。最終的に戦いの中で和解するも兄とは死に別れ、「それでも俺達は、兄弟だったよ」と言葉少なにヴァイへ告げている。 ; ヴァイ・ステアベ : 声 - - / - / [[坂泰斗]] : 血気盛んな若手の侍。ヨシュアらと行動を共にしており、複数の対象に魔法をかける、カイ・ハーンと共同戦線を張れる、邪神群の怪物の攻撃で左腕を失いながらも即死しない耐久力などの描写から実力は高く、No.3と思われる。ヨーコに好意を持っている一方、D・Sに対しては激しい敵愾心を燃やしていた。しかし方舟の戦いの中で彼の度量を知って敬意を表すようになる。同時に性格が彼に似てきたと評される。侍達の間ではコメディパートを最も多く担う。モヒとは親しい友人である。女性や非戦闘員らで構成する裏方を仕切る母親がおり、彼女はD・Sすら「るー坊」と呼んで子供扱いする(るーしぇにも自分の子供のように接していたと思われる発言がある)ほどの豪胆な性格をしている。 ; ヨルグ・フィシス : 声 - - / - /[[笠間淳]]{{R|natalie230221}} : 浅黒い肌を持つ、異国出身の侍で百人隊長。ヨシュアの親友で、アンガスほどではないが寡黙な人物である。両手利きであり、変幻自在の剣技と共にクォッ・ポーという拳法を使える(使用している場面はない)。リザードマンを両断するほどの剣術の腕前。登場していきなりマカパインの妖斬糸で手足を斬り飛ばされた(相対した時に妖斬糸{{Efn2|本人は鋼糸(こうし)と呼んだ。}}の存在を見切ってはいる)上に身体に糸を括りつけられて武家屋敷を探り当てられ、マーシーから派手に足蹴にされる等、劇中での扱いは少々不遇。 ; アンガス・ヤーン : 声 - - / - / [[杉田智和]] : サムライとしては新参だがミフネの側近の一人。仲間の誰もその声を聞いたことがないという、異常なほど無口な巨漢。戦闘では巨大な十字槍を振るう。その正体は人形のようなもので、中で本体のアビゲイルが操っていた。その登場シーンは映画「トータル・リコール」で中年女性に変装していた主人公ダグラス・クエイドが正体を明かす際のものとそっくり。 ; ハメット参謀 : 声 - - / - / [[左座翔丸]] : メガネをかけたスポーツ狩りの男。温厚な人柄で、常に微笑を絶やさず、冷静な態度でミフネと共に侍達を牽引する立場だったが、D・Sが復活した後は彼に振り回される侍達を止められなくなっていく。 : ジューダスの攻略に参戦するが破壊神の復活に巻き込まれ消息不明。 ; モヒ : 声 - - / - / [[藤原聖侑]] : 元々は無名の端役。マカパインの襲撃で袈裟斬りにされ死亡した際、ヴァイに名前を呼ばれたのが名前の初出。髪型がモヒカン刈りのため、こう呼ばれるようになった。方舟の戦いにも参戦した。 === 神の軍勢 === ; 神 : 超高次元存在。ここでは本編に登場している天使を率いる存在については「唯一神」、他神教の神については「神」と表記する。 : 唯一神はかつて宇宙や天使、人間のみならず竜や他の神々を創造した存在であるが、現在は人間や堕天した天使達を滅ぼそうとしているとされる。唯一神以外の神という存在そのものは、元々は生物の特定の感情を糧にしている霊的存在だったが、自身の力で意図的に猿から進化させた人間から「信仰心」という形で、霊的エネルギーを受け取ることにより効率良く自身の力を増大させていく。唯一神はその力を大きく蓄えた結果、天使の軍団を使役し「大破壊」の際に他勢力を駆逐している{{Efn2|作者自身が公式サイトで解答した内容。また[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲーム『虚ろなる神々の器』においてもこの設定は使用されている。なお、このゲームでの設定は「[[ベニー松山]](シナリオライター)と話し合って決めた、作者公認の準公式設定」となっている。そのため、魔戦将軍や侍の過去など、原作では今後も触れられない可能性の高い箇所に関しては、「ほぼ公式設定」となっているとのこと。}}<ref>HAQ本 p.200</ref>。この戦いに勝利した四大天使は、他勢力の神々の持っていた強力な神器を戦利品として自らのものとした。 : 唯一神は他の神々とは異なる意志を持って、四大天使にも知らせていない何らかを成そうとしている。神の座のある「神の間」に立ち入る事が出来る天使は、[[メタトロン]]を始めとした「エルダークラス」と呼ばれる存在のみである<ref>HAQ本 p.115、p.174</ref>。エルダークラスの内[[サンダルフォン]]は「銀河中心守護艦隊」として登場している。 ; 天使 : 神の御下にあって仕える存在。その能力と地位は9つの位階に分かれている。容姿は様々だが、基本的には人に近く、上位の天使になるほどその傾向は強まり、第六位・能天使や第五位・力天使では人と変わらない姿となる。なお、作中で初めて登場した天使である第四位・主天使は、天使の戦闘形態である「光体」のものである。 : その存在を物質界に顕在化するには強力な受容体を必要とするが(前述の主天使の場合は暗黒神アンスラサクス)、顕在化した後も肉体は本来のボディである星幽体と連鎖して構成されているため、最下級の第九位・天使ですらその戦闘力は地上にいるほとんどのモンスターとは比べ物にならない強さを誇る。第七位・権天使は魔戦将軍クラスを苦戦させる強さを有し、その上の能天使、力天使は彼らを瞬殺しうるほどである。 ==== 四大天使 ==== ; [[ミカエル]] : 四大[[熾天使]]の一人。「火」の属性を司る。推定Lvは40万前後。容姿は褐色の美しい女性。炎の神剣[[レーヴァテイン]]を所持する。大天使長であり、熾天使最高の実力を持つ。前大天使長(その当時、ミカエルは副官)であった[[ルシフェル]]を敬愛しており、今も忘れられずにいる。D・Sに対しては「下品な人間」程度の認識だが、彼の中にルシフェル同様の何かを感じ取り、困惑している様子も見せる。 ; [[ガブリエル]] : 四大[[熾天使]]の一人。「水」の属性を司る。推定Lvは30万前後。容姿はうら若く美しい女性。雷槌[[ミョルニル]]を所持する(ただし、劇中には扉絵にのみ登場。ラファエルの装備だったが、しつこくねだって、譲ってもらったという設定)。熾天使の威厳を感じさせないほど容姿・性格共に幼いが、それに相反して豊かな[[巨乳]]の持ち主である(D・Sによると地獄幽閉時より更に大きくなっているらしい)。大破壊時の戦争においてサタンに敗れ去り、堕天(フォールダウン)するように仕向けられて400年もの間地獄に閉じ込められていた(結果は失敗に終わっている)。D・Sに地獄から救出されたことで、人間への認識が変わりD・Sに理解を示している(懐いている)。 : 一旦泣き出すと「ガン泣き(本誌連載時は「超泣き」)」という超破壊力の泣き声を発し、流れ出す涙は、滝の如く怒涛の勢いで全てを飲み込む(天使の持つ神霊力から発せられる訳ではなく単に大きな声であり、無効共鳴の影響を受けない)。腕力は150万馬力を誇る。 ; [[ウリエル]] : 四大[[熾天使]]の一人。「地」の属性を司る。推定Lvは20万前後。容姿は凛々しい男性。神槍[[グングニル]]を所持する。性格は実直で正義感に溢れ、生真面目。ベルゼバブが仕掛けた罠の結果、神の正義の為に妹のアムラエルを殺害し、自らへの罪悪感と神への背徳観念に精神が耐えられず堕天(フォールダウン)する。四大天使であった彼は七大悪魔王と同等以上の上位悪魔となり[[ダーク・シュナイダー#example|魔神人]](神の下に人と書く)D・Sと激突する。激しい死闘の果てさらに発狂、力が暴走し崩壊していく最中、封印されていたアウゴエイデスが解放され再生・復元、竜戦士を召喚したD・Sと再び相まみえる。 : D・Sにより再生復活したアムラエルと再会したのち、堕天の代償として存在そのものが消失した。 ; [[ラファエル]] : 四大[[熾天使]]の一人。「風」の属性を司る。推定Lvは20万前後。容姿は長髪で知的な男性。ミョルニルをガブリエルに譲った(取られた)ため、現時点での装備は不明である。性格は温和で理知的だが時折、思案深い様子をのぞかせる。 : 作中では戦うシーンはほとんど見られず、狂言回し、状況の説明役としての役割が大きい。また、「背徳の掟編 最終節」ではD・Sとウリエルの戦闘が終った後、単身ベルゼバブの元へと赴くなど謎深い行動を取っている。 ==== その他の天使達 ==== ; 六大主天使 マンエル / セヴェル / シンマニフェル / エスフェル / タロエル / ザエル : [[主天使]](ドミニオン)。最初エスフェルがアンスラサクスに受肉して出現。残りの五体は後から出現した。ルシフェルとの舌戦、極上六天使究極合体の発動など、中心となって行動するのはエスフェルである。エスフェルには嗜虐的な性格、神の愛にも限度があるという発言など人間への怒りが描写されたが、他の五体については性格が分かるほどの描写はない。ウルトラ兄弟の使用する光線技と似た技を、これまた彼らと似たポーズから発射する。極上六天使究極合体して星幽体として現れたルシフェルと戦うが、敗れて全員死亡した。 ; アムラエル : [[力天使]](ヴァーチャー)。ウリエルの実妹で、副官も務めていた。サタン襲来時の戦いで捕らえられ、コンロンと肉体を融合させられ「無効共鳴」の触媒とされる。過去、兄のウリエルが「黒色ガン」(天使が罹る疫病)に感染した際には彼の心の支えとなっており、兄妹の絆は深い。また、ウリエル共々、四大天使の他の三人とは幼馴染であるらしく、ガブリエルは「アムちゃん」と呼んでいる。 : コンロン諸共D・Sに食われて消滅したかに思われていたが、D・Sの体内で霊と肉体を再構築され復活した。 ※補足として主天使(ドミニオン)や座天使(ソロネ)の光の巨人の姿は彼らの光体(アウゴエイデス)である<ref>HAQ本 p.289</ref>。 === 悪魔 === 元々は「神」に仕える天使達であったが、神が新たに「人間」を創り出す際、「我が子である人間達に仕えよ」と言われ、自分達が「神の子」ではなく神にとっての「[[奴隷]]」でしかなかったと理解、激怒し神に対して叛乱を起こした者達。高次元の精神生命体であったため、神への愛が無くなったことにより属性反転し醜悪な姿になっている。人間の召喚士も使役することが可能だが、呼び出せるのは下位の存在「デーモン」まで。上位天使が堕天した強力な存在は「デヴィル(魔神、正確には上位悪魔神族)」と呼ばれ区分される。 ; [[サタン]] : 総ての悪魔達を率いる魔王。元は天界の大天使長[[ルシフェル]]と同一人物であったが、ルシフェルが堕天した時点で分離している<ref>HAQ本 p.148</ref>。ただし描写上、2人同時に存在しているようにも見られるほか、作者も彼らを二人別々に表現しているなど<ref>HAQ本 p.138</ref>、謎が多い。 : [[拘束衣]]のような物を身に纏っていて、興奮するとビスが身体に食い込んでくる。[[地獄 (キリスト教)|地獄]]の第九圏[[コキュートス]]の第三層トロメア(最下層の一つ手前{{Efn2|元は最下層のジュデッカに封じられていたが、400年前の戦いで解放された後に再度一つ上層のトロメアに封じ直されている。その際にガブリエルを捕らえ最下層ジュデッカに封じ込めていた。}})に封じられていた。そして彼の暗黒体は宇宙の中心から地球を破壊するために超光速で迫りつつある状況となっている。神に対して激しい憎悪を抱いており、普段の一人称は「吾輩」だが(キャラ立てのため)、真剣になると「俺」となる。 ==== 7大悪魔王 ==== 彼等はサタンに最も近い魔神であり、8つに砕けた「ユダの痛み(ジューダス・ペイン)」の欠片を体内に持ち、他の魔神達を凌駕する力の持主。だが現在はベルゼバブ以外D・Sによってジューダス・ペインを奪い取られている。悪魔達を随える存在。 ; [[アスタロト|アシュタロス]] : 姿は女性。グラマーな女性と少女の2つの姿で登場する。小さい物好き。 ; [[アスモデウス]] : 姿は男性。作中では無口でほとんどしゃべらない。実は小心者。 ; [[バエル]] : 丸々と太った巨体で、自分のことを「ポクチン」と呼ぶ。 ; [[ベレト|ビレト]] : 姿は女性。似非関西弁(作者曰く「アタシ弁」)で話す。性格はかなり明るい。 ; [[パイモン|ペイモン]] : 姿は女性。脳天気で子供っぽい性格を持つ。リリスが好き。 ; [[ベリアル]] : 姿は男性。7大悪魔ではベルゼバブに次ぐ地位を持つと思われるが、ベルゼバブのことはよく思っていない。激昂しやすい性格で、口調も荒々しい。悪魔王の中ではツッコミ役に回る事が多い。 ; [[ベルゼブブ|ベルゼバブ]] : 姿は男性。7大悪魔のリーダー格で地獄の宰相。様々な思惑と奸計により、D・Sや四大熾天使を動かし、ウリエルを堕天に追い込んだ。真の目的は未だ不明となっている。推定LVは100万以上。 ==== 魔神 ==== 前述したように上位悪魔神族とも呼ばれる彼らの中には、主天使のおよそ6600倍程度の戦闘能力を持っているものも存在しており、上位天使と互角の力を持つ。 ; ポルノ・ディアノ : 悪魔大元帥。地獄の第九圏コキュートスの第三層トロメアにて、サタンが引き連れた上位悪魔神族らを倒したD・Sの前に現れた。地方神あがりとして、悪魔王たちにはよく思われていない。圧倒的な力でD・Sを追い込む。抜群のスタイルの美女の姿をした悪魔であり、D・Sには「爆乳大元帥」と呼ばれている。「罪と罰編」中断によりD・Sとの戦いの結末は描かれていなかったが、「魔力の刻印編」にて明かされつつある。 ; コンロン : 「背徳の掟編」にて登場した魔神。自称「地獄のジェントルメン」。子爵級堕天使で、レベルは約13000。本来、力では熾天使(先述)には遠く及ばないが、人間の研究によって生み出された、天使の力を無効化する技術「無効共鳴(ヴォイド・ハウリング)」により、熾天使の攻撃を悉く退けて天使の軍を壊滅寸前にまで追い込んだ。一度はD・Sの肉体を四散させるも、復活し「ユダの痛み(ジューダス・ペイン)」を平行励起させたD・Sに追い詰められ、暗黒体(アウゴエイデス)を解放して戦うも敗れる。最後は[[ダーク・シュナイダー#example|魔神人]](「神」の下に「人」と書く)化したD・Sの腹部の巨大な口に喰われて死亡。彼より格上の妹がいる。 === 汎人類連合 === 天使と悪魔の最終戦争が始まって以降、地球(エデン)に住むヒトのみならず全ての人類が協力体制を布くこととなり、その連合体の名称を指す。エルフ、[[ホビット|ホビビット]]、ドワーフをはじめ、人馬族、耳長族、有角族、[[レプラコーン]]、[[妖精]]族、[[ライカンスロープ|人獣]]族など参加している種族は非常に多岐に渡り、正に全人類の集合体ともいえる連合である。 ; ダニ : エルフの皇女。本名は「ア'モット・アールヴ=フィランジ・クレイド子爵・ダニ」。クラスは召喚士でレベルは1500。年齢は200歳程度。エルフ族の代表として汎人類連合を訪れる。虚神(上述の天使の軍勢に駆逐された多神教の神々)を召喚する能力により、魔神の暗黒体すら滅ぼす力を持つ。 ; イエロィ・ビヨ〜ン : ドワーフの王。クラスは覇王(ウォーロード)でレベルは990。魔操兵戦争時から五英雄とは知り合いでもあり、ジオ・ノート・ソートとはタメ口を利くほど親しい間柄。王者としての人徳があるが、ドワーフらしく強欲な面も持つ。 ; ア'レキシ・ライホ・チル・ボ・ド : ホビビットの王子にして神官長。正義感は強いが、女ったらしな性格。 ; ヤンネ・ウィノ・チル・ボ・ド : ア'レキシの妹。 === 怪物・精霊 === スライムやオークなどは大破壊後に十賢者が創造した生物であり、イフリートやヌエ、[[サラマンダー (妖精)|サラマンダー]]などの精霊それ以前が自然界に存在していた自然霊である。 ;[[スライム (架空の生物)|スライム]] : ガラのペットとして登場。人間の衣服だけを溶かすように「改良」されている。ガラはこれを人質として捕らえたヨーコにけしかけ、ヨーコの衣服を溶かし全裸にしてしまう。なお、溶かす効果以外にも人間の女に快感を与える能力もある。これによりヨーコはガラたちの前で散々に悶え苦しめられてしまった。 ; 鈴木土下座ェ門(すずきどげざえもん) : 『週刊少年ジャンプ』掲載時の名前は空中に浮遊する目玉の付いた球体モンスター「[[ビホルダー]]」だったが、伝統的モンスターではなく[[テーブルトークRPG]]『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]](D&D)』のオリジナルモンスターだったため、単行本掲載時に手足を描き足して現在の名前に変更された。明らかに世界観から浮いた名称であるが、本作の担当編集者であった鈴木が、D&D翻訳版出版元である[[新和]]に土下座してお願いしたが許可が下りなかったためこの名前になったと言われている。ビホルダー時のデザインは[[円英智]]<ref>{{Cite book|和書|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- NINJA MASTERガラ外伝|author1=萩原一至|authorlink1=萩原一至|author2=古橋秀之|authorlink2=古橋秀之|date=2012-03-24|publisher=株式会社集英社|page=284|isbn=978-4-08-703238-3|edition=第一版}}</ref>。欄外に書かれているオンカイギョーマとは、『[[魍魎戦記MADARA]]』に登場する魍鬼・闇界睨魔(おんかいぎょうま)のことで、デザインは同じく円英智であった。 {{main|ビホルダー#鈴木土下座ェ門}} ; [[イフリート|イーフリート]] : 声 - [[加藤精三 (声優)|加藤精三]] / - / [[最上嗣生]] : 齢300年を数える炎の精。自身を2000度に達する巨大な火柱に変えることができる。魔剣「炎の剣」に宿る守護者であり、火炎魔神とも呼ばれる。当初はD・Sを「小僧」呼ばわりして見下していたが、戦って敗れたことにより、D・Sを主と認め、炎の剣はD・Sの所有となった。完全版および「魔力の刻印篇」では名前がイフリートに改められている。 ; リンチ : 声 - - / - / [[鷲見昂大]] : 「死人使い」ドシに創造されたアンデッド・ソルジャー。人間と遜色ない知性を持つ。破壊神のオプションである三種の魔道器のひとつ「悪魔の鎧(デモンメイル)」を身に着けている為、ガラやネイの攻撃も通用しない。必殺技「烈壊怒号撃滅破」で敵を吹き飛ばす(魔戦将軍のブラド・キルスも同名の技を使う)。鎧の下はフランケンシュタインの怪物のようなツギハギの体である。 ; [[キュクロープス|サイクロプス]] : 声 - - / - / [[金子隼人]] : アンデッドとして登場。三種の魔道器のひとつ「妖魔の鎚鉾(デビル・メイス)」を携え、破壊神の組織を移植されたことで得た超再生能力を有する。しかし、再生を繰り返すことに耐え得る耐久力までは付与されていなかった。 : OVAでは再生に耐えられる力を与えられガラ、ネイを追い詰め忍者軍団を壊滅させるが最後は原作同様D・Sに倒された。 ; エデ・イー : 声 - - / - / [[宮内敦士]] : 本来は「[[リッチ (アンデッド)|リッチ]]」だが、D&Dシリーズのモンスターの名称であるために版権の都合で別名に変更され、エデ・イーの個人名が「'''リッチー'''」ということになっている(こちらは初出時より)。 : 4体が存在しているというが、メタ=リカーナに襲来したのは、亡大国の大僧正であり、かつてD・Sに深手を負わされた事のある個体。その遺恨に加えて、三種の魔道器のひとつ「魔王の指輪(サタン・リング)」を贈られ、人間の争いに加担した。「アストラル・ボディ」という霊存在の肉体と成り得ているため、魔法を含め物理的な攻撃が及ばない。エデ・イーそのものは吸血鬼と並ぶ高レベルな闇の眷属である。 : 憂さ晴らしに大陸で最も歴史ある大国・深紫(デイ・パープル)王国が滅ぼされた。 ==== エンシェント・ドラゴン、古巨人 ==== ; [[ドラゴン]] : 亜種を除けば、非常に珍しい存在で主物質界最強の生物。エルフに使役されているが、知能含め全ての能力面で優れた人間の魔法戦士を上回る存在(魔戦将軍クラスでも逃走するしかなかった)で、多くのブレス攻撃の他、竜語魔術(ドラゴン・ロア)と呼ばれる独自の魔法すら使いこなす。ここまでの説明は、大破壊後に十賢者によって創られた生物としてのドラゴンである。 : それらとは別に「古竜族(上位竜族=エルダードラゴン)」と呼ばれる、高次元空間に棲む霊的な存在のドラゴンがおり(上述の竜のモチーフとなった神話上の「本当の」ドラゴン)、彼らは現在天使と悪魔の最終戦争に置ける推移を静観している。古巨人族と同じく、天使からは神への反逆を謀る存在と注視されており、神の軍勢へ抗いうる力を持つ数少ない種となっている。 : なお、天使がラーズを見た際に「竜族」と呼び、アビゲイルは「竜の因子」について指摘しているが、これは単純にドラゴンの遺伝子を示しているのではなく、竜戦士にも関わる「霊的資質」そのものを指す要素であると作者は回答している<ref>HAQ本 P.69</ref>。 : また、ガラが搭乗していたワイバーン(翼竜)は、竜族とはまったく異なる亜種である。 ; 古巨人族(エンシェント・ジャイアント) : 古竜族と並ぶ主物質界最強の存在で、天使達が危険視する種族。「上位巨人族」とも呼ばれ、厳密には人や普通の巨人族(汎巨人族{{Efn2|トロールやオーガなどもこれに属する。}})よりも神に近く、世俗から離れた山奥に住み、高次元構造体である「神域」の扉を守護する存在である。汎巨人族は十賢者が使役していた竜と同じく、大破壊後に神話上の存在であった古巨人族をモチーフに創造したものである<ref>HAQ本 p.204</ref>。 : アストラルとマテリアル(物質)の中間の肉体、高度な知能と独自の言語、恐るべき威力の魔法や「竜族と人族の魔法に対して無効」という相克を持つが、科学によって起こされた物理現象を防ぐことは適わず、「神域」の扉を守護する古巨人族の1人は、カルの機転で氷漬けにされた。 === その他 === ; 竜戦士(竜戦機、機神ルシファー) : デザインは[[新貝田鉄也郎]]。十賢者が悪魔や天使を倒す為に製作した対神・対魔兵器で、個体のアウゴエイデス(光体・暗黒体)に対してはほぼ無敵の戦闘能力を誇る。魔操兵戦争においては試作型にラーズが搭乗し、D・Sと相打ちとなった{{Efn2|D・Sの評価によれば、この時点でアンスラサクス以上の戦闘力を持っていた様子。}}。完成された機体は全8機構成で、中核の一体に搭乗者が乗り、他の機体はその指令を受け取りながら半自律的に活動するシステムとなっている。 : 作中にて実際に稼動している様子が描かれることは少ないが、「背徳の掟編」ではD・Sが搭乗し、ウリエルのアウゴエイデス(暗黒体)と死闘を繰り広げた。なお、兵器として以前にある製造目的が隠されている<ref>HAQ本 p.212</ref>。 : 融合の適格者は竜の因子と呼ばれる特別な資質を持った上で、十賢者が認めたものでなくてはならない。 : ※[[ダーク・シュナイダー#設定]]も参照。 ; アンスラサクス : 声 - - / - / [[小山茉美]]{{R|webanime}} : 破壊神。アビゲイルやカル=スを操り、メタリオン四王国に破壊と混沌をもたらした。その正体は十賢者により生み出された「A-System」という生体兵器である。 ; エウロペアの十賢者 : 声 - - / - / [[立川三貴]]、[[ボルケーノ太田]]、[[藤原聖侑]] : 旧世界の科学者が自らを人工進化させ、エルフとなった一団。調停者として大破壊後の地上の復活と管理を、旧世界の魔法「科学」によって行っていた。アンスラサクス、ダーク・シュナイダー、竜戦士を生み出したのも彼らである。なお、「十」賢者を名乗っているが、かつてはもっと多人数で構成されていた<ref>HAQ本 p.248</ref>。アビゲイルやオババ様のように離反したと明言されている者もいる。 : 自ら生み出したアンスラサクスにより大破壊の原因を招き、天使と悪魔の最終戦争を目撃した彼らはその高次の存在に魅せられ、自らの力でそれらを超える禁忌の研究を繰り返した。結果、既に彼らは悪魔へと身を落とした姿となっている。 ; 謎の少年 : 2000年に一度神によって送り出される存在。現代の「[[救世主]](メシア)」であり「アダム」とも呼ばれる。人類を導く存在。[[相剋]]の理によって悪魔王を含めたあらゆる悪魔を滅する力を持つ。「背徳の掟編」にて登場。 ; リリス : ベルゼバブの下に囚われている人間の美少女。前世の記憶は全て失われて(あるいは消されて)いる。容姿がティア・ノート・ヨーコに酷似しているが、現状では正体と、7大悪魔王の元にいる理由は不明のままである。「背徳の掟編」にて登場。 ; 少女 : マカパイン達と共に行動している少女。天使と悪魔の顕現が始まった頃に弟バロンを亡くしている。その右目部分には天使の受肉がされており、シェラの符により封印に近い形で押さえ込まれていた<ref>HAQ本 p.203</ref>。そのため彼女の姿は4年前から変化していなかったが、右目の天使が受肉後に封印が解けたことで一気に10代半ばまで成長した。マカパインと共にD・Sとウリエルの戦いを見届ける。 == 外伝の登場キャラクター == 小説やゲームに登場した人物。 === 先代四天王 === ; シシ・リジィ : 先代四天王の筆頭格。オールバックにした金髪と極限まで鍛え上げられた鋼の如き体の[[僧兵]]。寡黙な男で《沈黙将軍》の異名を持つ。拳士団を率い、己の肉体のみを武器とし、無駄な殺生を行おうとはしない人徳者で悪の性格が多い先代の四天王の中でも唯一の「善」の性格を持つ。 ; イアソン・ギラン : 女と見紛うほどの美貌を持つ華奢な男だが、その正体は多くの暗殺者を率いるアサシンギルドの長。D・Sに非常に従順で参謀的立場で動く。占星術が得意で魔法も使用できるが、最大の能力は誰にも気配を悟られることなく静かに標的を排除する暗殺術である。 : 配下のアサシン達も極めて優秀な能力を持つが、ギラン以外の命令はたとえD・Sの命令であっても聞くことはない。 ; ガイン・エスペランザ : 全身に刺青を施す四天王で最も凶暴な男。上昇志向が激しいが、凶暴さと共に冷静さも併せ持ちD・Sの座を狙い虎視眈々と機会を窺っている。その時に備え力を増すために愛用の魔剣《魂喰らい》(ソウル・イーター)に喰わせる魂を確保するため、無関係な人であろうと殺しまくる真正の魔剣士。一定の確率で魔法を魔剣に吸収させ無効化でき、全身に埋め込まれた魔法の宝玉で物理的な攻撃から身を守ることができるため魔導師にとっては天敵のような存在である。 : 魔戦将軍のジオンが持つ《魂喰らい》の前所有者。カルと因縁があり、小説『‐黒い虹‐』で語られる予定。ゲーム『‐虚ろなる神々の器‐』でも第三章に登場する。 ; イーカル・モンロー : 先代の四天王の中では唯一の女性。人間と悪魔のハーフで、D・Sに匹敵する大魔法を操る。 : [[サディスト]]で[[レズビアン]]、処女好きという性癖を持ち、王侯貴族の娘やそれを助けに遣わされた女聖騎士、果ては村娘までをさらい、ハーレムを形成。日々性的な拷問を行い楽しんでいた<ref>HAQ本</ref>。 : ハーレムを奪いに単身やってきたD・Sに敗れ、以後軍門に下る。さらにそののち、敵の攻撃からD・Sをかばい死亡した<ref>[[Vジャンプ]]『虚ろなる神々の器』攻略本巻末の袋とじ記事。</ref>。 : 初出は萩原一至の画集、「裸(ぬうど)」。ゲーム『‐虚ろなる神々の器‐』でも条件を満たすと登場する。 === ゲーム版 === ; ジン・シモン : かつてのガラの親友。共にニンジャマスターの座を目指し修行に励み、マスターに選ばれムラサメの継承者となる。ガラとは違い、真面目で古風な性格。 : [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲーム『虚ろなる神々の器』に登場する。 <!--== アイテム == ; 炎の剣 : D・Sがイーフリートを倒して手に入れた剣。本剣の所有者は、自身が持つよりも上位の火炎系呪文を行使出来るようになるという効果を持つが、D・S自身が火炎系の魔法をマスターしている上に魔法使いであるがゆえ、ほとんど力を振るう機会がなかった。ネイとの闘いの最中に魔法を封じられたD・Sを守るため雷神剣の守護者ヌエを道ずれに異空間へと消えるが、その後無事に現世に復活する。リッチー戦後は長らく出番がなかったが、「背徳の掟編」において「新生・炎の剣」と書かれた剣をD・Sが所持している姿が描かれている(ただし、使用しているシーンはない)。 ; 夢幻の心臓(セイクリッド・ハート) : 霊子力の無限増殖炉でありD・Sの心臓。ジューダス・ペインの欠片がひとつ埋め込まれている。 ; ユダの痛み(ジューダス・ペイン) : [[イエス・キリスト|イエス]]を裏切った[[イスカリオテのユダ|ユダ]]の懺悔と後悔の気持ちに満ちた、悲痛な魂の地獄を見かねた"あるもの"によって作られた呪われた宝珠。頑強な封印が施されている地獄の「門」を開けることが可能な絶大な力が秘められているが、使用すると使用者の肉体、精神、そして魂までも消滅させる激しい苦痛に襲われる。全部で8片存在し、七魔王とD・Sがそれぞれ持つ。 記事の整理中。人物記事にまとめるため加筆しないでください。 --> == 書誌情報 == === 単行本 === * 萩原一至 『BASTARD!! 暗黒の破壊神』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、既刊27巻(2012年3月19日現在) *#「闇の反逆軍団編『登場』」1988年8月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871063871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 1/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871063-0}} *#「闇の反逆軍団編『突入』」1988年11月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871064871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 2/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871064-9}} *#「闇の反逆軍団編『少年』」1989年1月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871065871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 3/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871065-7}} *#「闇の反逆軍団編『決意』」1989年3月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871066871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 4/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871066-5}} *#「闇の反逆軍団編『動揺』」1989年5月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871067871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 5/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871067-3}} *#「闇の反逆軍団編『禁呪』」1989年9月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871068871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 6/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871068-1}} *#「闇の反逆軍団編『雷帝』」1989年11月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871069871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 7/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871069-X}} *#「地獄の鎮魂歌編『叛旗』」1990年6月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871070871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 8/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871070-3}} *#「地獄の鎮魂歌編『青嵐』」1990年11月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871831871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 9/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871831-3}} *#「地獄の鎮魂歌編『魔境』」1991年7月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871832871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 10/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871832-1}} *#「地獄の鎮魂歌編『聖戦』」1992年2月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871833871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 11/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871833-X}} *#「地獄の鎮魂歌編『集結』」1992年7月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871834871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 12/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871834-8}} *#「罪と罰編『葬列』」1993年3月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871835871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 13/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871835-6}} *#「罪と罰編『降臨』」1993年10月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871836871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 14/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871836-4}} *#「罪と罰編『堕天使』」1994年6月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871837871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 15/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871837-2}} *#「罪と罰編『極限』」1995年3月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08871838871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 16/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-871838-0}} *#「罪と罰編『號呼』」1996年5月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08872241871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 17/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-872241-8}} *#「罪と罰編『断章』」1996年11月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08872242871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 18/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-872242-6}} *#「背徳の掟編」1998年3月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08872243871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 19/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-872243-4}} *#「背徳の掟編」1998年12月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08872651871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 20/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-872651-0}} *#「背徳の掟編」1999年9月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08872759871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 21/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-872759-2}} *#「背徳の掟編」2001年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08873131871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 22/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-873131-X}} *#「背徳の掟編」2004年4月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08873563871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 23/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-873563-3}} *#* リリスのフィギュアが付属する限定版も発売された。 *#「背徳の掟編 最終節」2006年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08873877871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 24/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-873877-2}} *#「背徳の掟編 最終節」2008年4月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08874492871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 25/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-874492-6}} *#「背徳の掟編 最終節」2009年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08874672871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 26/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-874672-2}} *#「魔力の刻印篇」2012年3月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?jdcn=08870171871063315501|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 27/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-870171-4}} === 完全版 === 連載時カラー原稿完全収録、新規描き下ろしピンナップ付属。作者描き下ろし表紙(カバー)とカバー下の立体アート表紙(著名造形作家陣が担当)のダブル表紙仕様。2巻までは大幅な加筆が施されている。 * 萩原一至 『BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版』 [[集英社]]〈愛蔵版コミックス〉、既刊9巻(2009年12月18日現在) *# 2000年12月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-782661-9|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 1/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-782661-9}} *# 2003年5月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-782670-8|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 2/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-782670-8}} *# 2005年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-782097-1|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 3/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-782097-1}} *# 2007年6月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782157-4|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 4/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782157-4}} *# 2007年12月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782164-2|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 5/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782164-2}} *# 2008年6月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782175-8|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 6/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782175-8}} *# 2008年12月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782191-8|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 7/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782191-8}} *# 2009年6月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782238-0|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 8/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782238-0}} *# 2009年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-782260-1|title=BASTARD!! -暗黒の破壊神- 完全版 9/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-782260-1}} === 文庫版 === 表紙描き下ろし。「完全版」を文庫サイズで再刊行したもの。各巻とも初回出荷分のみ表紙絵のポストカードが付属する。 * 萩原一至 『BASTARD!! 暗黒の破壊神』 [[集英社]]〈[[集英社文庫]]〉、既刊9巻(2014年9月18日現在) *# 「邪神の章・1」2014年5月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619493-8|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 1 邪神の章1/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619493-8}} *# 「邪神の章・2」2014年5月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619494-5|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 2 邪神の章2/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619494-5}} *# 「邪神の章・3」2014年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619495-2|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 3 邪神の章3/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619495-2}} *# 「邪神の章・4」2014年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619496-9|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 4 邪神の章4/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619496-9}} *# 「天使の章・1」2014年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619497-6|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 5 天使の章1/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619497-6}} *# 「天使の章・2」2014年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619498-3|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 6 天使の章2/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619498-3}} *# 「天使の章・3」2014年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619499-0|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 7 天使の章3/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619499-0}} *# 「天使の章・4」2014年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619500-3|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 8 天使の章4/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619500-3}} *# 「天使の章・5」2014年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619501-0|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 9 天使の章5/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619501-0}} === 小説 === 挿絵はすべて萩原一至が担当。『魍魎達の鎮魂歌』および『悪魔の褥に横たわりて』は当初[[ジャンプ ジェイ ブックス]]から発売されたが、2001年に『黒い虹』の発売に合わせて[[スーパーダッシュ文庫]]より文庫化された。また文庫版は挿絵が数枚カットされている。 * 岸間信明 『魍魎達の鎮魂歌』 *: 本編の約50年前の時代を舞台にした短編を三本収録。 ** 新書版:1993年3月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-703001-6|title=BASTARD!! 魍魎たちの鎮魂歌/萩原一至/岸間信明|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-703001-6}} ** 文庫版:2001年7月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/book/4086300427/|title=BASTARD!! 魍魎たちの鎮魂歌 (スーパーダッシュ文庫)|website=ダ・ヴィンチニュース|publisher=KADOKAWA|accessdate=2021-10-11}}</ref>、{{ISBN2|4-08-630042-7}} * 岸間信明 『悪魔の褥に横たわりて』 *: 長編。魍魎達の鎮魂歌の続編。死者が蘇るところを目撃したD・S達が、その地に伝わる不死の秘密をめぐって謎に挑む。 ** 新書版:1993年8月4日発売、{{ISBN2|4-08-703012-1}} ** 文庫版:2001年8月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/book/4086300435/|title=BASTARD!! 2 悪魔の褥に横たわりて (スーパーダッシュ文庫)|website=ダ・ヴィンチニュース|publisher=KADOKAWA|accessdate=2021-10-11}}</ref>、{{ISBN2|4-08-630043-5}} * ベニー松山 『黒い虹』 *: 本編より100年前の時代を舞台にD・Sと先代四天王たちが、謎の大陸「マーン=シヘッド」の征服に乗り出す。しかしその大陸では魔法が使えなくなるという秘密がありD・Sが窮地に陥る。本作は、原案は作者である萩原が自ら手がけた完全な公式エピソードとなっている<ref>HAQ本 p.196</ref>。ゲーム『‐虚ろなる神々の器‐』とコラボレーションの予定だったが諸般の事情により発売が延期された。現在2巻まで。以下続刊の予定。 *# 2001年9月21日発売、{{ISBN2|4-08-630048-6}} *# 2004年8月25日発売、{{ISBN2|4-08-630154-7}} * 古橋秀之 『NINJA MASTERガラ外伝』 *: 闇の反逆軍団編の後、世界の果てに飛ばされたガラがD・Sやネイのもとへ帰るまでの道中が描かれる。 ** 新書版:2012年3月19日発売、{{ISBN2|978-4-08-703238-3}} ** 文庫版:2014年10月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-619540-9|title=BASTARD!! 暗黒の破壊神 EX 小説ニンジャマスターガラ外伝/古橋秀之/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|978-4-08-619540-9}} === 関連書籍 === * 『BASTARD!! DATA BOOK』2004年4月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-873703-2|title=BASTARD!!データブック 萩原一至全仕事/萩原一至|publisher=集英社|accessdate=2023-02-21}}</ref>、{{ISBN2|4-08-873703-2}} == OVA == 1992年より1993年にかけてVHS全6巻(各1話ずつ収録)・LD全3巻(各2話ずつ収録)で販売。1999年、全話収録のDVD-BOXが発売された。 ストーリーは「闇の反逆軍団編」の途中までで、原作よりも早く襲撃したアビゲイルを復活したD・Sが撃退するところで終わっている。 === スタッフ === * 原作 - 萩原一至 * 監督 - [[秋山勝仁]] * 脚本 - [[山口宏 (脚本家)|山口宏]] * キャラクターデザイン - [[北爪宏幸]] * コンセプトデザイン - [[幡池裕行]] * 美術監督 - [[池田繁美]] * 色彩設定 - [[中山久美子]] * 撮影監督 - 小西一廣 * 音楽 - [[田中公平]] * 音響監督 - [[岩浪美和]] * 音響プロデューサー - [[なかのとおる|中野徹]] * プロデューサー - [[三浦亨 (プロデューサー)|三浦亨]]、[[大徳哲雄]] * 制作 - [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]] * 製作 - 集英社 === 主題歌 === ; エンディングテーマ「モノクロームトラブル」 : 作詞 - 米倉利徳、真間稜 / 作曲・編曲 - [[EUROX|関根安里]] / 歌 - [[米倉利紀]] === 各話リスト === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!演出!!colspan="2" style="text-align:center"|ストーリーボード!!colspan="2" style="text-align:center"|作画監督 |- |第1話||爆炎の魔術師||colspan="2" style="text-align:center"|[[吉田徹]]||[[秋山勝仁]]||[[谷口守泰]]||[[木村貴宏]] |- |第2話||火炎魔神イーフリート||colspan="3" style="text-align:center"|[[井出安軌]]||奥田淳||阿部邦博 |- |第3話||ニンジャマスター・ガラ||colspan="4" style="text-align:center"|[[越智博之]]||[[橋本敬史]] |- |第4話||不死王 ダイ・アモン||colspan="2" style="text-align:center"|藤原洋英||colspan="2" style="text-align:center"|中山岳洋||[[西井正典]] |- |第5話||雷帝アーシェス・ネイ||colspan="3" style="text-align:center"|[[大張正己]]||[[恩田尚之]]||越智博之<br />阿部邦博 |- |第6話||復活のダーク・シュナイダー||colspan="3" style="text-align:center"|吉田徹||colspan="2" style="text-align:center"|木村貴宏 |} == Webアニメ == 「闇の反逆軍団編」に相当する第一期は全2クール(全24話)が[[Netflix]]にて全世界配信<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2223313/full/|title=漫画『BASTARD!!』初のシリーズアニメ化、Netflixで年内配信 出演は谷山紀章・楠木ともり・安元洋貴・日笠陽子|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-02-03|accessdate=2022-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://bastard-anime.com/onair/|title=Onair|website=アニメ『BASTARD!! 暗黒の破壊神』公式サイト|accessdate=2022-02-10}}</ref>。第1クールは2022年6月30日に、第2クールは同年9月15日に配信された。2023年1月より、[[日本BS放送|BS11]]にてテレビ独占放送([[ABEMA]]でも同時配信)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20221111dog00m200027000c.html|title=BASTARD!!:新作アニメがテレビ放送 BS11で連続2クール|website=[[MANTANWEB]]|publisher=MANTAN|date=2022-11-11|accessdate=2023-02-21}}</ref>。2023年7月31日には第二期「地獄の鎮魂歌編」が配信された。{{R|natalie230221}}<ref name="natalie230530">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/526550|title=「BASTARD!!」第2期は7月31日に一挙配信 第2弾PV公開&主題歌はcoldrain、Tielleが担当|date=2023-05-30|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-05-30}}</ref>。 === スタッフ(Webアニメ) === * 原作 - 萩原一至{{R|webanime}} * 監督 - 尾崎隆晴{{R|webanime}} * シリーズ構成 - [[黒田洋介]]{{R|webanime}} * キャラクターデザイン - 小野早香{{R|webanime}} * クリーチャーデザイン - 須永賴太{{R|webanime}}、山田起生 * エフェクト設計 - 山田起生{{R|webanime}} * クリーチャー・エフェクト総作画監督 - 橋本敬史 * プロップデザイン - [[スタジオ・ライブ]] * デザインワークス - 渡辺岳、中島俊 * 美術監督 - [[草薙 (企業)|草薙]]、井上一宏{{R|webanime}} * 美術設定 - バーンストーム・デザインラボ{{R|webanime}}、田中俊成、由利聡、大山裕之 * 色彩設計 - 篠原愛子{{R|webanime}} * 3DCGI - [[FelixFilm]]{{R|webanime}} * CGディレクター - 伊藤仁美 * CGモデリングディレクター - 島野達也 * 撮影監督 - 髙津純平{{R|webanime}} * 編集 - editz、長谷川舞{{R|webanime}} * 音響監督 - [[蝦名恭範|えびなやすのり]]{{R|webanime}} * 音楽 - [[高梨康治]]{{R|webanime}} * 音楽ディレクター - 豊田みつひろ、小島剛 * プロデューサー - 鶴岡信哉、林俊安、宮城惣次 * アニメーションプロデューサー - 佐々木悠祐 * アニメーション制作 - [[ライデンフィルム]]{{R|webanime}} * 製作 - BASTARD!!製作委員会([[ワーナー ブラザース ジャパン]]、メディコス・エンタテインメント、[[クロックワークス]]) === 主題歌(Webアニメ) === ; 「Bloody Power Fame」{{R|webanime}} : [[coldrain]]による第一期オープニングテーマ。作詞は[[Masato]]、作曲はY.K.C、編曲はcoldrain。 ; 「NEW DAWN」{{R|natalie230530}} : coldrainによる第二期オープニングテーマ。 ; 「BLESSLESS」{{R|webanime}} : [[Tielle (アーティスト)|Tielle]]による第一期エンディングテーマ。作詞・作曲・編曲はThe Hide Out Studios、Tielle。 ; 「La Muse perdue」{{R|natalie230530}} : Tielleによる第二期エンディングテーマ。 === 各話リスト(Webアニメ) === {{エピソードリスト/base/header | LineColor = #000000 | Number= 話数 | Title = {{nobr|サブタイトル}} | Aux0 = 脚本 | Aux1 = 絵コンテ | Aux2 = 演出 | Aux3 = {{nobr|作画監督}} | Aux4 = {{nobr|エフェクト作画監督}} | Aux5 = {{nobr|クリーチャー作画監督}} | Aux6 = {{nobr|総作画監督}} | TableStyle = font-size:small }} {{エピソードリスト/base | Number = {{nobr|Episode.01}} | Title = 登場 | Aux0 = {{nobr|[[黒田洋介]]}} | Aux0RowSpan = 2 | Aux1 = 尾崎隆晴 | Aux1ColSpan = 2 | Aux3 = {{hlist-comma|小菅和久|[[渡辺浩二]]|池田志乃|冨沢和雄|前原薫|吉岡勝|星野真澄}} | Aux4 = 山田起生 | Aux5 = {{hlist-comma|山田起生|須永賴太}} | Aux6 = {{hlist-comma|小野早香|小野田貴之}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.02 | Title = 暴走 | Aux1 = 吉田泰三 | Aux2 = 松川朋弘 | Aux3 = {{hlist-comma|志賀道憲|冨沢和雄}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = 冨沢和雄 }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.03 | Title = 誘拐 | Aux0 = [[倉田英之]] | Aux0RowSpan = 3 | Aux1 = 尾崎隆晴 | Aux1RowSpan = 2 | Aux2 = 徐恵眞 | Aux3 = {{hlist-comma|山口光紀|小川一郎|岡田正和}} | Aux4 = 橋本敬史 | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = 渡邊和夫 }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.04 | Title = 突入 | Aux2 = 白石達也 | Aux3 = {{hlist-comma|渡辺浩二|前原薫|吉岡勝|内野明雄|大野勉|川岸隆太}} | Aux4 = {{hlist-comma|山田起生|橋本敬史}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|池田志乃}} | Aux6RowSpan = 2 }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.05 | Title = 決着 | Aux1 = 北村淳一 | Aux1ColSpan = 2 | Aux3 = {{hlist-comma|緒方厚|和田賢人|鵜池一馬|北村淳一}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.06 | Title = 因縁 | Aux0 = 黒田洋介 | Aux0RowSpan = 2 | Aux1 = 清水聡 | Aux2 = 加藤大志 | Aux3 = {{hlist-comma|WONWOO ANIMATION (Park mi hyun|Kim dae jung|Son kil young|Ryu hyun jin)}} | Aux4 = 橋本敬史 | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|栗原基彦|小野田貴之|渡邊和夫}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.07 | Title = 魔獣 | Aux1 = 頂真司 | Aux1RowSpan = 2 | Aux2 = 松川朋弘 | Aux3 = {{hlist-comma|小澤円|鎌田均|後藤孝宏|鈴木奈都子}} | Aux4 = {{hlist-comma|山田起生|橋本敬史}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 2 | Aux6 = 渡邊和夫 }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.08 | Title = 真祖 | Aux0 = 倉田英之 | Aux0RowSpan = 2 | Aux2 = 南康宏 | Aux3 = {{hlist-comma|前原薫|志賀道憲|齊藤格|大野勉|冨沢和雄|鈴木彩子}} | Aux6 = {{hlist-comma|柑原豆真|小野田貴之|渡邊和夫}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.09 | Title = 青爪 | Aux1 = 芝久保 | Aux1RowSpan = 2 | Aux2 = 村山靖 | Aux3 = {{hlist-comma|沼田広|小川一郎|柳瀬譲二|山口光紀}} | Aux4 = 橋本敬史 | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = 沼田広 }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.10 | Title = 雷神 | Aux0 = 黒田洋介 | Aux0RowSpan = 4 | Aux2 = 白石達也 | Aux3 = {{hlist-comma|内野明雄|高橋敦子|吉岡勝|栗原基彦|小川一郎|山口光紀|柳瀬譲二}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生|中島健人}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|中村佑美子|小野田貴之|渡邊和夫}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.11 | Title = 予言 | Aux1 = 永吉隆志 | Aux2 = [[真野玲]] | Aux3 = {{hlist-comma|WONWOO ANIMATION (Son kil young|Park mi hyun|Kim dae jung|Ryu hyun jin)|池田志乃|片田敬信}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 3 | Aux6 = {{hlist-comma|沼田広|小野田貴之|渡邊和夫|武内啓}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.12 | Title = 死生 | Aux1 = {{nobr|おざわかずひろ}} | Aux2 = {{nobr|川久保圭史}} | Aux3 = {{hlist-comma|緒方厚|志賀道憲|池田志乃|鵜池一馬|和田賢人|後藤孝宏|阿部達也|鈴木彩子|片田敬信}} | Aux6 = {{hlist-comma|大河内忍|渡邊和夫|小野田貴之|武内啓}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.13 | Title = 動揺 | Aux1 = 尾崎隆晴 | Aux2 = 松川朋弘 | Aux3 = {{hlist-comma|小澤円|鎌田均|後藤孝宏|鈴木奈都子}} | Aux6 = {{hlist-comma|中村佑美子|池田志乃}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.14 | Title = 感泣 | Aux0 = 倉田英之 | Aux0RowSpan=2 | Aux1 = 吉田泰三 | Aux2 = 南康宏 | Aux3 = {{hlist-comma|小川一郎|山口光紀|柳瀬譲二|亀山進矢}} | Aux4 = {{hlist-comma|中島健人|橋本敬史|須永頼太}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|沼田広|武内啓|小菅和久}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.15 | Title = 凱旋 | Aux1 = 清水聡 | Aux2 = 村山靖 | Aux3 = {{hlist-comma|WONWOO ANIMATION (Park mi hyun|Kim dae jung|Son kil young|Ryu hyun jin)|冨沢和雄|鈴木彩子|片田敬信|石田啓一|中井恵巳|梅田香|大河内忍}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|渡邊和夫|武内啓|小菅和久|佐藤千春}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.16 | Title = 禁呪 | Aux0 = 黒田洋介 | Aux0RowSpan=2 | Aux1 = 坂本一也 | Aux2 = 真野玲 | Aux3 = {{hlist-comma|冨沢和雄|前原薫|渡辺浩二|志賀道憲|大野勉}} | Aux6 = {{hlist-comma|池田志乃|中村佑美子}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.17 | Title = 指輪 | Aux1 = 頂真司 | Aux1RowSpan=4 | Aux2 = 山本辰 | Aux3 = {{hlist-comma|前原薫|緒方厚|鵜池一馬|大河内忍|和田賢人|[[箕輪豊]]}} | Aux4 = {{hlist-comma|中島健人|橋本敬史|須永頼太}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|渡邊和夫|池田志乃|武内啓|小菅和久}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.18 | Title = 秘剣 | Aux0 = 倉田英之 | Aux0RowSpan=4 | Aux2 = 川久保圭史 | Aux3 = {{hlist-comma|冨沢和雄|前原薫|吉岡勝|小川一郎|山口光紀|小林ゆかり}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 3 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|柑原豆真|武内啓|佐藤千春}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.19 | Title = 雷帝 | Aux2 = 茉田哲明 | Aux3 = {{hlist-comma|WONWOO ANIMATION (Park mi hyun|Kim dae jung|Son kil young)}} | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|渡邊和夫|池田志乃|中村佑美子|武内啓}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.20 | Title = 暴虐 | Aux2 = 村山靖 | Aux3 = {{hlist-comma|後藤孝宏|鎌田均|小澤円|鈴木奈都子}} | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|渡邊和夫|沼田広|武内啓|小菅和久}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.21 | Title = 激闘 | Aux1 = 久保雄介 | Aux2 = 真野玲 | Aux3 = {{hlist-comma|冨沢和雄|前原薫|大野勉|亀山進矢|阿部弘樹}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生|中島健人}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|渡邊和夫|武内啓|小菅和久|佐藤千春|北原広大}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.22 | Title = 結章 | Aux0 = 黒田洋介 | Aux0RowSpan=18 | Aux1 = 金井次朗 | Aux2 = 室谷靖 | Aux3 = {{hlist-comma|渡辺浩二|志賀道憲|緒方厚|鵜池一馬|大河内忍|和田賢人}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux4RowSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|池田志乃|佐藤千春|北原広大}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.23 | Title = 消滅 | Aux1 = 頂真司 | Aux2 = 曽根利幸 | Aux3 = {{hlist-comma|前原薫|吉岡勝|渡辺浩二|小川一郎|山口光紀}} | Aux6 = {{hlist-comma|沼田広|小菅和久}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.24 | Title = 終焉 | Aux1 = 尾崎隆晴 | Aux2 = 有冨興二 | Aux3 = {{hlist-comma|大野勉|後藤孝宏|鎌田均|小澤円|鈴木奈都子|亀山進矢|箕輪豊|小野田貴之|渡邊和夫}} | Aux4 = {{hlist-comma|橋本敬史|山田起生|中島健人}} | Aux4ColSpan = 2 | Aux6 = {{hlist-comma|小野田貴之|小野早香|渡邊和夫|沼田広|武内啓|佐藤千春|北原広大|黒鳥剣}} }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.25 | Title = 叛旗 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.26 | Title = 運命 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.27 | Title = 青嵐 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.28 | Title = 黎明 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.29 | Title = 氷雪 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.30 | Title = 出航 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.31 | Title = 転移 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.32 | Title = 魔境 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.33 | Title = 伝説 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.34 | Title = 遠雷 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.35 | Title = 聖戦Ⅰ | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.36 | Title = 聖戦Ⅱ | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.37 | Title = 聖戦Ⅲ | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.38 | Title = 聖戦Ⅳ | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base | Number = Episode.39 | Title = 集結 | Aux1 = | Aux2 = | Aux3 = | Aux6 = }} {{エピソードリスト/base/footer}} === Webラジオ(Webアニメ) === 『'''『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』闇のラジオ編'''』のタイトルで、YouTube「Warner Bros. Japan Anime」チャンネルにて配信された<ref name="animate220707">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1657171975|title=夏アニメ『BASTARD!! ―暗黒の破壊神―』ノンクレジットED映像解禁! WEBラジオの配信日時が決定、人気Vtuber・白銀ノエルさんが第4話の同時視聴配信を実施|website=[[アニメイトタイムズ]]|publisher=[[アニメイト]]|date=2022-07-07|accessdate=2023-02-24}}</ref>。パーソナリティは、ダーク・シュナイダー役の谷山紀章{{R|animate220707}}。ディレクターは北迫大輔。 *2022/07/20 #01、2022/07/27 #02、2022/08/03 #03 ゲスト:楠木ともり(ティア・ノート・ヨーコ役) *2022/08/17 #04、2022/08/31 #05 ゲスト:日笠陽子(アーシェス・ネイ役) *2022/09/14 #06、2022/09/28 #07 ゲスト:安元洋貴(ニンジャマスター・ガラ役) *2022/10/12 #08、2022/10/26 #09 ゲスト:東山奈央(シーラ・トェル・メタ=リカーナ役) *2022/11/09 #10、2022/11/23 #11 ゲスト:杉田智和(アビゲイル役) *2022/12/07 #12、2022/12/21 #13 ゲスト:伊藤静(カイ・ハーン役) == その他関連商品 == === ドラマCD・カセットブック === * 外伝 四天王邂逅篇 巻之一 * 外伝 四天王邂逅篇 巻之二 * 外伝 巻之三 魔導王封印篇 * ワンダフリャ・メガデス === サウンドトラックCD === * BASTARD!!-暗黒の破壊神 音楽篇Vol.1 *:OVA第1・2話のサウンドトラック。 * BASTARD!!-暗黒の破邪神-Vol.2 BASTARD・TV *:「BASTARD!!の世界にテレビがあったら」という想定で、登場人物達が演じる1日の放送内容を描くお遊び企画ドラマCD。 * BASTARD!!-暗黒の破壊神VOL.3 続・音楽篇 *:OVA第3~6話のサウンドトラック。 * BASTARD!! 虚ろなる神々の器 オリジナルサウンドトラック * BASTARD!! 虚ろなる神々の器 オフィシャルサウンドトラック * BASTARD!! -暗黒の破壊神- オリジナル・サウンドトラック *:webアニメのサウンドトラック。2022年10月1日発売。 === ゲーム === ; ゲームソフト * BASTARD!! -暗黒の破壊神-([[スーパーファミコン|SFC]]、1994年、コブラチーム)<ref>上記CDブック『ワンダフリャ・メガデス』内でカルがプレイしているが、登場人物たちから「クソゲー」と酷評されている。</ref> *:3Dのステージを上空を含めて自由に移動しながら戦うバトルゲーム。ボタンが配置された方向に攻撃が逸れて行く仕様であり、遠距離攻撃がこのゲームの戦術の最終形である。しかし傍から見ているとノーガードの公開雪合戦にしか見えないため、ゲームとしての評価は決して高くはない<ref name="spekuso">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『スーパーファミコンクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。{{ISBN2|978-4-86511-709-7}} p56-57</ref>。 * [[BASTARD!! -虚ろなる神々の器-]]([[PlayStation (ゲーム機)|PS]]、1996年、[[セタ]]) ;オンラインゲーム * BASTARD!! -ONLINE-([[GAMECITY]]、開発中止)<ref>{{Cite web|和書|author=[[テクモ|テクモ株式会社]]|date=2009-12-18|url=http://www.bastard-online.jp/|title=『BASTARD!! -ONLINE-』に関するお知らせ|accessdate=2009-12-18}}</ref> * BASTARD!! -暗黒の破壊神-([[Mobage]]、2014年6月25日~2015年12月28日、対象年齢18歳以上) * 戦国炎舞 -KIZNA-([[スマートフォン]]、期間限定、キャラクターのみ)<ref>[https://www.sumzap.co.jp/ 株式会社サムザップ] (2018年1月22日). [https://www.sumzap.co.jp/news/news_20180122-4356/ BASTARD!!英傑 -乱世の破壊神-]、[https://www.sumzap.co.jp/news/news_20180207-4406/ BASTARD!! -戦火の掟編-]</ref> *:仲間としてダーク・シュナイダー、ヨーコ、ガラ、およびイベント敵将としてコンロン、ミカエル、ウリエルが登場。 === パチスロ === * BASTARD!! -暗黒の破壊神-(2012年11月5日、[[ダイコク電機|DAXEL]]) * CRバスタード!! -暗黒の破壊神-(2016年4月4日、[[ニューギン]]) * CRAバスタード!! -暗黒の破壊神- N-V(2016年10月3日、[[ニューギン]]) == その他 == ; 作画 : 初期の『週刊少年ジャンプ』での連載当時から掲載を重ねるにつれ、作画は[[スクリーントーン]]を多用する手法にて、よりリアルに緻密化される傾向が見受けられた。しかし反面、掲載の一部作画が簡易なものとされることもしばしばあった(2ページにわたりコマが書き文字のみとされたこともある<ref>単行本6巻P.86、87</ref>)。 : 1990年より『週刊少年ジャンプ増刊』に移ってからの連載は、同誌が季刊ということもあり、より作画の緻密化が増している。その当時から現在に至るまで緻密さにこだわった作画手法は維持され続けているが、二度目の『週刊少年ジャンプ』、『ウルトラジャンプ』での連載は、ペン描画・下書きのみの段階の原稿が掲載されたこともある。 : ただし、雑誌掲載時の作画不備は収録コミックスにおいて、およそ加筆・修正されている。それがなくとも一部の改稿や、描き下ろしの追加もあり、近年の刊行巻になるにつれ多く目立っている。 ; 作風・影響 : 萩原が熱烈なヘヴィメタルファンと言うこともあって上記で説明したとおり、キャラクターや呪文の名前にヘヴィメタル系のミュージシャンやバンド名、アルバムタイトルなどに由来するものが多いが、この件に関して日本のヘヴィメタル雑誌『[[BURRN!]]』誌初代編集長の[[酒井康]]からは「自分のアイデアでもないのにモロに[[ジューダス・プリースト|ジューダス王国]]とか付けられると嫌悪感を覚える」と批判されている<ref>酒井康 著 「虹色の音詞II」(1999年 [[シンコーミュージック・エンタテイメント]])157P</ref>が、BURRN!と同じ出版元である[[ヘドバン (雑誌)|ヘドバン]]編集部側は「(BASTARD!!がきっかけで)ヘヴィメタルに興味を持った少年(読者)は多いのでは?」と本作品がヘヴィメタルへの普及に貢献している事を評している<ref>ヘドバン Vol.7 (2015年 シンコーミュージック・エンタテイメント)『漫画とアニメに流れるメタルの血』73p</ref>。 :[[陰陽座]]のリーダー[[瞬火]]はヘヴィメタルに興味を持ったきっかけとなったのは『BASTARD!!』であると公言している<ref>陰陽座 美旋律絵巻(2003年 [[晋遊舎]] {{ISBN2|4-88380-362-7}})40〜41p</ref><ref>BURRN! JAPAN Vol.7(2016年 シンコーミュージック・エンタテイメント)90p</ref>。 ; 休載・連載の中断 : 本作は二度の『週刊少年ジャンプ』での連載を経験しているが、そのどちらも中断されており、直前には休載が目立っている。1996年に『週刊少年ジャンプ増刊』での連載も中断しているが、これについてはあらかじめ二度目の『週刊少年ジャンプ』本誌への連載移行が決定していた。 : また『週刊少年ジャンプ増刊』から再度の『週刊少年ジャンプ』への掲載・連載再開までは期間が開いており、萩原はその間に中断された以後の「罪と罰編」の原稿を8割方制作している。それら本来単行本の19巻の内容となるはずだった150ページ前後の未発表原稿は、萩原が発行する同人誌『BASTARD!! -未使用・改訂版-』において発表されている。 ; 単行本の改訂 : 単行本9巻と18巻は[[重版|重版出来]]に際し、改訂されている。改訂の理由は定かではないが、9巻初版の表紙イラストは全裸のD・Sが共に全裸のティア・ノート・ヨーコを抱きかかえている画であり、18巻初版の表紙イラストはD・Sを中心にシーラ・トェル・メタ=リカーナをはじめとする美女キャラクターらが取り囲んでおり、全員が半裸の画である。18巻はまた改訂において内容にも多く加筆修正がなされている。性描写における局部の描画、修正の手法なども改められた。 : なお改訂ではないが14巻の表紙画は、小説『BASTARD!! II 悪魔の褥に横たわりて』の表紙画であるD・Sが全裸のアーシェス・ネイを抱き寄せている画に手を加え、ネイが衣装を着た状態にされた画が用いられている。 ; 単行本出版のペース : 1996年の『週刊少年ジャンプ増刊』での連載時期は、単行本の出版ペースがおよそ年2冊の割合であった。だが1997年の『週刊少年ジャンプ』への連載移動後の19巻の出版は1年の間を置くものとなっている{{Efn2|『週刊少年ジャンプ』掲載のページ数が、単行本収録を満たす分量になるまで期間が生じたためと思われる。}}。その後『週刊少年ジャンプ』での連載を収録した1999年までの20巻、21巻の刊行は再び年2冊のペースとなるが、2001年の『ウルトラジャンプ』への連載移動後の掲載を収録した22巻から最新巻である2012年の27巻まではいずれも刊行まで1年以上の間が空いている(22巻の出版から次の23巻までの出版の間は3年近く、27巻の刊行からは2021年6月現在で9年以上経過している)。 ※([[萩原一至#『BASTARD!!』連載をめぐる変遷|萩原一至]]の記事も参照) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『バスタード!!の謎の数々がマルッと解っちゃう!!!!HAQ(はっきゅー)本』(萩原一至の発行による同人誌) == 外部リンク == * [https://hagipageshop.com/ SHOPPAGE] - 作者公認のオンラインショップ。読みは「ショップページ」ではなく「ショッパゲ」。 * {{Twitter|v007hag|萩原一至}} * {{Twitter|bastard_hakai|バスタード‼︎-暗黒の破壊神- 公式}} * [https://bastard-anime.com/ アニメ『BASTARD!! 暗黒の破壊神』公式サイト] * {{Twitter|bastard_PR|『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』アニメ公式}} {{ウルトラジャンプ連載中}} {{AIC}} {{秋山勝仁監督作品}} {{ウルトラスーパーピクチャーズ}} {{Navboxes |title= オリコン週間チャート第1位 |titlestyle= background-color:#CEE6C1 |list1= {{オリコン週間コミックチャート第1位 1996年|1996年6月3日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 1998年|1998年3月23日・30日・12月21日付}} }} {{デフォルトソート:はすたあとあんこくのはかいしん}} [[Category:漫画作品 は|すたあとあんこくのはかいしん]] [[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:ウルトラジャンプ]] [[Category:スーパーダッシュ文庫]] [[Category:ハイファンタジー漫画]] [[Category:ダーク・ファンタジー]] [[Category:超常現象を題材とした漫画作品]] [[Category:オカルトを題材とした作品]] [[Category:宗教・聖典を題材とした作品]] [[Category:年齢の変化を題材とした作品]] [[Category:天使を題材とした漫画作品]] [[Category:悪魔を題材とした漫画作品]] [[Category:アニメ作品 は|すたあとあんこくのはかいしん]] [[Category:1992年のOVA]] [[Category:AIC]] [[Category:2022年のWebアニメ]] [[Category:Netflixオリジナルアニメ]] [[Category:ライデンフィルムのアニメ作品]] [[Category:ワーナーブラザースジャパンのアニメ作品]] [[Category:クロックワークスのアニメ作品]] [[Category:ハイファンタジーアニメ]] [[Category:超常現象を題材としたアニメ作品]] [[Category:継続中の作品]]
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花咲アキラ
花咲 アキラ(はなさき アキラ、1956年3月1日 - )は、日本の漫画家。富山県新湊市(現・射水市)出身。本名は、花崎昭(読み同じ)。 1981年、『シンペイの航海』でデビュー。 代表作に1983年から「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に連載中の『美味しんぼ』(原作:雁屋哲)がある。 1986年、『美味しんぼ』で第32回小学館漫画賞を受賞。 富山県出身であることから『美味しんぼ』を使用した富山県の広報マンガ『美味しんぼ富山しあわせ勝負』の依頼を受けたことがある。ただし監修のみで作画自体は毛内浩靖が担当した。
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花咲 アキラは、日本の漫画家。富山県新湊市(現・射水市)出身。本名は、花崎昭(読み同じ)。
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シクロクロス
シクロクロス(仏: Cyclo-cross 蘭: Veldrijden)とは、オフロードで行われる自転車競技である。競技は秋から冬にかけて行われることが多く、舗装路、未舗装路、芝、急坂、障害物などの含まれる短い(2.5-3.5km)コースを、自転車に乗車・降車・担ぐ等しながら周回し、ゴールの順番や所要時間を争う。「シクロクロス」はフランス語読みであり、英語では「サイクロクロス」と発音される。略語として「CX」と表記される。 競技は1周が3 - 4キロメートルの不整地の周回路で行われるが、始めに競技時間が規定され、周回数が競技中に決定される。1周目のラップタイムで規定された競技時間を除算して周回数が定められ、この周回数を最初に消化した選手が勝者となる。競技時間はロードレースに比べると短く、40分から1時間である。コースには人工の障害物(柵、階段など)が設けられ、必ず下車して自転車を担がなければならない部分が作られている。またシクロクロス特有のルールとして、ピットで自転車の乗り換えを含む機材交換が可能となっており、1人の選手に対して複数のピットクルー(アマチュア選手の場合、多くは友人)が代車を用意してピットにつくことが多い。使用機材は、上級カテゴリーではドロップハンドルの使用が義務づけられているなどの規定がある。ロードレースがチームでの連携や陽動などの複雑な駆け引きが戦術として大きく作用するのに対して、シクロクロスは選手個人の身体的能力や自転車の操舵能力が結果を左右する。 シクロクロスの起源はロードレース選手の冬季トレーニングの一環として始まり、現在ではヨーロッパ、とくにベルギーのフランデレン地域、オランダ、チェコで盛んに行われている。 主要なレースはロードレースのオフシーズンである11月から2月上旬にヨーロッパ各地で行われ、また世界選手権も同様に冬季に行われる。多くの選手は他の自転車競技にも参戦しているが、シクロクロスにのみ参戦する選手もいる。同じくロードレースのオフシーズンに集中開催されるトラックレースの6日間レースよりも現在では人気面で凌駕しており、最高峰の大会である世界選手権の他に、UCIシクロクロスワールドカップ、スーパープレスティージュ、X2O・バットカームルス・トロフェーという3つのシリーズ戦も並行して行われている。なお、以上4つの大会全てを同一年度シーズンに制覇した選手のことを、グランドスラムと呼んでいるが、スヴェン・ネイスが2005年に達成した。2016年からはこのほかにEthias Crossというシリーズ戦も行われている。 オランダ出身のマリアンヌ・フォスは、世界選手権で7回優勝している。 シクロクロスの起源は1900年代に遡る。その成り立ちにはいろいろな説があり一概には言えないが、一説には自転車選手が隣町までの競走の際、近道のためにフェンスの中に入り畑の中を自転車で走ったのが起源だとも伝えられる(この当時、冬場の休耕地であれば立ち入る事は許されていた)。これは当時オフシーズン期間にもコンディションを保つ方法でもあり、また不整地を走る事によって自転車の操舵能力、瞬発力を高める訓練にもなった。初期のツール・ド・フランスの優勝者にこのようなシクロクロスの原型とも言える練習方法として取り入れていた人物がいる。 次第に本来練習であったものが競技として形成され、1902年にフランスで国内選手権が開催され、そしてフランスより生まれたこの競技は次第に近隣の国へと伝わり、1924年に最初の国際大会がパリで行われ、1940年代に国際自転車競技連盟(UCI)が正式な競技として認定、1950年には世界選手権が開催された。その後シクロクロスは大西洋を越えてアメリカに伝わり、1970年代に隆盛、1975年にはアメリカで国内選手権が開かれている。また、マウンテンバイクの誕生にこの時代のシクロクロスのレースが関わっている。 自転車の車種としてのシクロクロス(シクロクロス車、シクロクロスバイク(Cyclo-cross bicycle)ともいう)は、UCIのシクロクロス競技規定に準じた物で有る。UCIまたはその傘下の団体主催の競技では必須である。UCI管轄外の競技であってもそれに準じる物もあるが、不整地の走行を想定して設計されているマウンテンバイクやビーチクルーザーなどのシクロクロス車以外でも参加出来る場合も有る。 UCIが規定したシクロクロスの特徴は以下の通り。 シクロクロス競技では不整地を自転車あるいは自転車を担いで走る必要があるため、選手はランニングに不適なロードレース用のレーサーシューズではなく、ツーリングシューズ、またはMTB用シューズを履く。また競技会場は木々が無造作に生い茂るところも多いために木の枝を衣服に引っ掛けないように、もっと肌に密着した上下一体型のレーシングスーツを着用する事もある。 競技用のシクロクロス車をもとに、ロードバイクとしての使用も想定した車両も販売されている。この種の車両はホイールベースが長い、キャリア取付用ダボやボトルケージ用のねじ穴の存在など、純粋な競技機材としてのシクロクロス車とは異なる部分がある。
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シクロクロスとは、オフロードで行われる自転車競技である。競技は秋から冬にかけて行われることが多く、舗装路、未舗装路、芝、急坂、障害物などの含まれる短い(2.5-3.5km)コースを、自転車に乗車・降車・担ぐ等しながら周回し、ゴールの順番や所要時間を争う。「シクロクロス」はフランス語読みであり、英語では「サイクロクロス」と発音される。略語として「CX」と表記される。
'''シクロクロス'''({{lang-fr-short|Cyclo-cross}} {{lang-nl-short|Veldrijden}})とは、[[オフロード]]で行われる[[自転車競技]]である。競技は秋から冬にかけて行われることが多く、舗装路、未舗装路、芝、急坂、障害物などの含まれる短い(2.5-3.5km)コースを、自転車に乗車・降車・担ぐ等しながら周回し、ゴールの順番や所要時間を争う。「シクロクロス」は[[フランス語]]読みであり、[[英語]]では「'''サイクロクロス'''」と発音される。略語として「'''CX'''」と表記される。 ==概要== [[Image:Cyclo doherty.jpg|thumb|150px|right|シクロクロス競技]] 競技は1周が3 - 4キロメートルの不整地の周回路で行われるが、始めに競技時間が規定され、周回数が競技中に決定される。1周目のラップタイムで規定された競技時間を除算して周回数が定められ、この周回数を最初に消化した選手が勝者となる。競技時間はロードレースに比べると短く、40分から1時間である。コースには人工の障害物(柵、階段など)が設けられ、必ず下車して自転車を担がなければならない部分が作られている。またシクロクロス特有のルールとして、[[ピット]]で自転車の乗り換えを含む機材交換が可能となっており、1人の選手に対して複数のピットクルー{{独自研究範囲|date=2015年10月|(アマチュア選手の場合、多くは友人)}}が代車を用意してピットにつくことが多い。使用機材は、上級カテゴリーでは[[ハンドルバー (自転車)#ドロップバー|ドロップハンドル]]の使用が義務づけられているなどの規定がある。ロードレースがチームでの連携や陽動などの複雑な駆け引きが戦術として大きく作用するのに対して、シクロクロスは選手個人の身体的能力や自転車の操舵能力が結果を左右する。 シクロクロスの起源は[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手の冬季トレーニングの一環として始まり、現在では[[ヨーロッパ]]、とくに[[ベルギー]]の[[フランデレン地域]]、[[オランダ]]、[[チェコ]]で盛んに行われている。 主要なレースはロードレースのオフシーズンである11月から2月上旬にヨーロッパ各地で行われ、また[[世界選手権自転車競技大会シクロクロス|世界選手権]]も同様に冬季に行われる。多くの選手は他の自転車競技にも参戦しているが、シクロクロスにのみ参戦する選手もいる。同じくロードレースのオフシーズンに集中開催される{{独自研究範囲|date=2015年10月|[[トラックレース]]の[[6日間レース (自転車競技)|6日間レース]]よりも現在では人気面で凌駕しており}}、最高峰の大会である世界選手権の他に、[[UCIシクロクロスワールドカップ]]、[[スーパープレスティージュ (シクロクロス)|スーパープレスティージュ]]、[[X²O・バットカームルス・トロフェー]]という3つのシリーズ戦も並行して行われている。なお、以上4つの大会全てを同一年度シーズンに制覇した選手のことを、[[グランドスラム (曖昧さ回避)|グランドスラム]]と呼んでいるが、[[スヴェン・ネイス]]が[[2005年]]に達成した。2016年からはこのほかに[[:en:Ethias Cross|Ethias Cross]]というシリーズ戦も行われている。 オランダ出身の[[マリアンヌ・フォス]]は、[[世界選手権自転車競技大会シクロクロス|世界選手権]]で7回優勝している。 ==歴史== シクロクロスの起源は[[1900年代]]に遡る。その成り立ちにはいろいろな説があり一概には言えないが、一説には自転車選手が隣町までの競走の際、近道のためにフェンスの中に入り畑の中を自転車で走ったのが起源だとも伝えられる(この当時、冬場の休耕地であれば立ち入る事は許されていた)。これは当時オフシーズン期間にもコンディションを保つ方法でもあり、また不整地を走る事によって自転車の操舵能力、瞬発力を高める訓練にもなった。初期の[[ツール・ド・フランス]]の優勝者にこのようなシクロクロスの原型とも言える練習方法として取り入れていた人物がいる{{誰|date=2022年3月}}。 次第に本来練習であったものが競技として形成され、[[1902年]]に[[フランス]]で国内選手権が開催され、そしてフランスより生まれたこの競技は次第に近隣の国へと伝わり、[[1924年]]に最初の国際大会が[[パリ]]で行われ、[[1940年代]]に[[国際自転車競技連盟]](UCI)が正式な競技として認定、[[1950年]]には世界選手権が開催された。その後シクロクロスは[[大西洋]]を越えて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に伝わり、[[1970年代]]に隆盛、[[1975年]]にはアメリカで国内選手権が開かれている。また、[[マウンテンバイク]]の誕生にこの時代のシクロクロスのレースが関わっている<ref>映画『KLUNKERZ』による。恐らく競技規定が今ほど厳しくなかった時代に[[変速機 (自転車)|ギア]]つきの[[ビーチクルーザー]]で参戦したモロー・ダート・クラブの連中にジョー・ブリーズなどマウンテンバイクの創始者が触発されたと言う。詳しくは[[マウンテンバイク#歴史]]参照。</ref>。 ==機材== [[Image:Surly crosscheck cyclocross bicycle.jpg|thumb|200px|right|シクロクロス車]] ===シクロクロス車=== 自転車の車種としてのシクロクロス(シクロクロス車、シクロクロスバイク([[w:Cyclo-cross bicycle|Cyclo-cross bicycle]])ともいう)は、UCIのシクロクロス競技規定に準じた物で有る。UCIまたはその傘下の団体主催の競技では必須である。UCI管轄外の競技であってもそれに準じる物もあるが、不整地の走行を想定して設計されているマウンテンバイクや[[ビーチクルーザー]]などのシクロクロス車以外でも参加出来る場合も有る。 UCIが規定したシクロクロスの特徴は以下の通り。 ;フレーム :[[ロードバイク]]に類似した形状であるが、広いタイヤクリアランスを持ち、[[ディスクブレーキ#自転車|ディスクブレーキ]]や[[カンチレバーブレーキ]]、太いタイヤに対応し、泥詰まりを防ぐため各所の隙間は大きくとられている。乗車姿勢は[[ロードバイク]]に比べ上半身の前傾が浅く(アップライトに)なる。フレーム形状は過去より担ぎやすいホリゾンタルフレームが主流で、現在でもトップチューブのスローピングが小さい物が殆どであり、担ぎを考慮した断面形状のトップチューブのものもある。衝撃吸収性を重視し、曲げ加工を随所に施したモデルが少なくない。素材として、2022年現在トップカテゴリーでは[[炭素繊維|カーボン]]が主流である。下車しての押しや担ぎが多いことから[[炭素繊維|カーボン]]や[[アルミニウム|アルミ]]といった軽量の新素材が比較的早い時期に導入されていたが、自転車の競技車両としては現在でも[[クロムモリブデン鋼|クロモリ]]フレームが一線級で使用されている珍しいジャンルでもある<ref name="cyclingtime.com">[http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=7090 勝者たちのシクロクロス・スペシャルバイク]</ref>。ケーブルのルーティングは競技に特化しているものだと競技中に[[フレーム (自転車)#各種パイプの名称|ダウンチューブ]]に泥や埃がかかり、動作の妨げにならないようにフレーム内部にケーブルを収納する[[フレーム (自転車)#ケーブル処理|ケーブル内蔵処理]]を行うものが多い。[[ディスクブレーキ#自転車|ディスクブレーキ]]が普及する以前は、[[フレーム (自転車)#各種パイプの名称|トップチューブ]]経由で[[変速機 (自転車)#外装変速機|リアディレイラー]]へとケーブルを廻す[[フレーム (自転車)#ケーブル処理|トップルーティング]]を採用しているものが多かった。現在では、[[ディスクブレーキ#自転車|ディスクブレーキ]]普及に呼応するように[[フレーム (自転車)#フレームの設計#細部処理|スルーアクスル]]対応であるものが多い。UCIの規定により競技では機材の重さは6.8kgを超えなければならないとされる。 ;ハンドル :国際自転車競技連盟認定の公式競技及び未登録でも上位カテゴリーのシクロクロス競技ではドロップハンドルである事が事実上義務付けられる形となっており、またハンドルの幅は50cmを超えてはならない。しかしながら下位カテゴリーではその限りではない、すなわちマウンテンバイクに使われるような[[ハンドルバー (自転車)#フラットバー|ストレートハンドル]]でも可能な場合がある。 ;ブレーキ :近年では、[[ディスクブレーキ#自転車|ディスクブレーキ]]が主に用いられる。[[2010年]]にUCIの公式発表により競技での使用が解禁される<ref>[http://www.usacycling.org/news/user/story.php?id=5042 UCI to allow disc brakes in cyclo-cross competition]</ref>以前は、ロードバイクで用いられる[[キャリパーブレーキ|サイドプルブレーキ]]に比べ、泥詰まりしにくいカンチレバーブレーキが主に用いられていた。 ;タイヤ :[[自転車用タイヤ#タイヤサイズ|700C規格]]が用いられる。幅が太い([[日本自転車競技連盟]]開催の競技では33mm以下に規制されている)シクロクロス用のタイヤを用いる。世界的なトッププロの選手は28mmから34mmまでの様々な太さのタイヤを常備しているという<ref>[https://masahikomifune2.hatenadiary.org/entries/2008/11/14 Massa's Eye シクロクロス小話]</ref>。 :通常はブロックパターンのタイヤを履くが、フラットな高速コースではダイヤ目のタイヤを履くこともある<ref>[http://www.cb-asahi.co.jp/html/tokusyu/cx/CCtire.html サイクルベースあさひ]{{リンク切れ|date=2013年8月}}</ref>。 :空気圧は2〜4気圧。特に大き目の砂利などバンピーなコースでは限界ギリギリの2気圧にする。ロード同様にWOも増えてきているが、空気圧を下げるとリム打ちパンクするのと、重量面のメリットから、レース用機材は[[自転車用タイヤ#チューブラー|チューブラータイヤ]]が主流である。 ;ホイール :ロードレースに使用される物より耐久性が要求されるが、入手のしやすさや軽量性などからロードレース用のものが用いられることが多い。 :近年では、いくつかのメーカーからシクロクロス用を謳った、ハブの耐水シーリングを強化したホイールが発売されている。 :また、プロレベルではカーボン製のディープリムが用いられることが多いが、これは空力効果よりも、リムの高さによって「泥をかきわける」メリットがあるためである<ref name="cyclingtime.com"/>。 ;変速レバー :オフロード走行中にハンドルから片手を離すと危険なので、手元変速が用いられる。現在では[[変速機 (自転車)#ドロップハンドル向け|デュアルコントロールレバー]]の使用がほとんどである。かつてはドロップハンドル先端に取り付ける[[変速機 (自転車)#ドロップハンドル向け|バーエンドコントローラ]]が主に用いられた。 ===服装=== シクロクロス競技では不整地を自転車あるいは自転車を担いで走る必要があるため、選手はランニングに不適なロードレース用のレーサーシューズではなく、ツーリングシューズ、または[[マウンテンバイク|MTB]]用シューズを履く<ref>一時、ゴム底にシュープレートを兼ねた滑り止め金属スタッドを付けたシクロクロス専用シューズが発売されていた。</ref>。また競技会場は木々が無造作に生い茂るところも多いために木の枝を衣服に引っ掛けないように、もっと肌に密着した上下一体型のレーシングスーツを着用する事もある。 ===派生車種=== 競技用のシクロクロス車をもとに、ロードバイクとしての使用も想定した車両も販売されている。この種の車両は[[ホイールベース]]が長い、キャリア取付用[[フレーム (自転車)#ダボ|ダボ]]や[[ボトルケージ]]用のねじ穴の存在など、純粋な競技機材としてのシクロクロス車とは異なる部分がある。 ==参照・脚注== <references/> *Konrad, Gabe(1996). "[http://members.aol.com/napavelo/filthyfun1.htm Cyclocross: History & What You Should Know]". Bicycle Trader Magazine ==関連項目== *[[世界選手権自転車競技大会シクロクロス]] *[[UCIシクロクロスワールドカップ]] *[[スーパープレスティージュ (シクロクロス)]] *[[X²O・バットカームルス・トロフェー]] *[[:en:Ethias Cross|Ethias Cross]] ==外部リンク== {{Commonscat|Cyclocross}} *[http://cyclocross.jp/ 一般社団法人日本シクロクロス競技主催者協会] *[http://evan.fmschmitt.com Dirty Moose Productions-Cyclo-cross Videos and Interviews] - Retrieved February 6, 2006 *[http://www.seattlecyclocross.com シアトル・シクロクロス] - Retrieved January 15, 2006 *[http://www.kyoto-cf.com/cross/ 関西シクロクロス] *[http://www.sheldonbrown.com/singlecross.html シングル・スピード・シクロクロス] - Retrieved August 20, 2005. *[http://uci.ch/xcross.asp?1stlevelid=C&level2=0&level1=4 Union Cycliste Internationale cyclocross page(2005)] - Retrieved September 24, 2005. *[http://www.hanskellner.com/videos/cycling.html シクロクロス・ビデオ] - [[ヘルメットカメラ]] による、シクロクロスレースの映像 *[http://www.britishcycling.org.uk/web/site/BC/cyx/cyclo_cross_about.asp イギリスシクロクロス、Cyclo-Xのページ] - イギリスのシクロクロス(Cyclo-X)についての情報 *[http://plusonelap.blogspot.com Plus One Lap cyclo-cross info/FAQ/] - weight weenie cyclocross info and sub 18lb cross bike gallery. *[http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/race/fshi.html シクロクロス] - 自転車文化センターのシクロクロス解説ページ {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しくろくろす}} [[Category:シクロクロス|*]] [[Category:自転車競技]] [[Category:自転車の形態]]
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計算機科学
計算機科学(けいさんきかがく、英: computer science、コンピューター・サイエンス)またはコンピュータ科学、CSとは、情報と計算の理論的基礎、及びそのコンピュータ上への実装と応用に関する研究分野である。コンピュータサイエンス(computer science)は「情報科学」や「情報工学」とも和訳される。コンピュータ科学には様々な分野がある。コンピュータグラフィックスのように応用に力点がある領域もあれば、理論計算機科学と呼ばれる分野のように数学的な性格が強い分野もある。計算科学は科学技術計算という「計算需要」に応えるための分野であり、それを実現する手段の研究は高性能計算である。また、一見わかりやすい分類として、計算機工学など「ハードウェア」と、プログラミングなど「ソフトウェア」という分類があるが、再構成可能コンピューティングのようにその両方と言える分野があるなど、単純に分類ができるようなものではない。 そろばん(アバカス)や、一種のアナログ計算機と言えるような機械といった、計算を手助けするものは古代から存在していた。「計算機械」と今日言われるような機械としては、最初の機械式計算機がヴィルヘルム・シッカートによって1623年に作られた。チャールズ・バベッジはヴィクトリア朝時代にプログラム可能な解析機関を設計した。1890年にはハーマン・ホレリスの発明したパンチカードシステムが米国勢調査に初めて使用されている。 1920年代以前、「computer」という言葉は仕事として計算を行う人(計算手)を指していた。しかしこの時代に、現代に通じる計算理論と計算模型が考案されている。クルト・ゲーデル、アロンゾ・チャーチ、アラン・チューリングなど、後に計算機科学と呼ばれるようになる分野の先駆者は、計算可能性、すなわち(特別な前提知識や技能なしに)紙と鉛筆と命令書だけでどのようなものが計算できるか、に興味を抱いた。この研究は、一部には人間に付き物の間違いをすることなく自動的に計算を行う「計算する機械」を開発したいという欲求に基づくものであった。この重要な洞察は、あらゆる計算作業を(理論上)全て実行可能な汎用の計算システムを構築することを意味し、それまでの専用機械を汎用計算機の概念に一般化した。汎用計算機という概念の創造が現代の計算機科学を生み出したのである。 1940年代に入り、より新しくかつ強力な計算機が開発されるにつれて、「computer」という言葉は人間ではなくそういった機械を指す言葉となった。1940年代から1950年代にかけて、次々と電子式コンピュータが建造され、1950年代末には基本的な考え方としては現代にまで引き継がれている仕組みが(いわゆるプログラム内蔵方式など)完成した。前述の、米国の国勢調査においてパンチカードシステムが有用であった事例などもあるように、科学技術などにおける数の計算(いわゆる数値解析的な計算)だけではなく、もっと一般の事務処理などといったデータ処理にもこういった機械は有用だということは以前から明らかになっていたわけだが、そういった、「狭義の計算」より広い意味を指す語として1960年頃には、主に学術方面ではInformation Processing(情報処理)という熟語が使われるようになり、機械翻訳やパターン認識のような、数値計算ではない応用の研究が始まった。また、主に産業方面ではData Processing(データ処理)という熟語もあり、EDPという3文字語などもあった。コンピューティングという語の意味はそれらを含む広い意味とされるようになり、計算機科学はそれらを扱う科学ということになった。1960年代には計算機科学は独立した学問分野として確立され、大学などで計算機科学科の設立と学位認定が行われるようになった。実用的なコンピュータが利用可能になると、その様々な応用が下位領域を形成していった。2000年前後には「IT」という語が流行した。 一部の大学にはコンピュータ科学を専攻とする部門がある。まず近年、コンピュータ科学と計算装置(コンピュータ)が普及させているものとして、すべての人にとって基本的な技術としての「計算論的思考」(Computational Thinking)というものが考えられており(詳細は文献を参照)、後述する国際学会が取りまとめているカリキュラムでも重視されている。各論的カリキュラムとしては、離散構造、プログラミング、計算理論、アルゴリズム解析、形式手法、並行性理論、データベース、コンピュータグラフィックス、システム解析などがある。 またスタンフォードではComputer Science Department(CS)だが、バークレイやMITなどではElectrical Engineering and Computer Science(EECS)というように、一般にこの分野のトップクラスと目されている大学のいくつかでは電気電子工学(日本語では使い分けられるが、英語ではElectrical Engineeringにまとめられていることも多い)を名前に付けている。 コンピュータ科学専攻のためのカリキュラム案としては、国際学会ACMがとりまとめているものがあり、1968年の Curriculum 68 以来定期的に情勢に合わせ見直されている。2015年現在の最新版は CS 2013(Computer Science 2013: Curriculum Guidelines for Undergraduate Programs in Computer Science)である。日本の情報処理学会もこれに合わせ「カリキュラム標準」を発表しており、2015年現在の最新版はJ07である。 他のコンピュータ科学以外の専攻においても、プログラミングが教えられているが、それらはもっぱら、コンピュータ科学の一部としてよりも、物理や化学、あるいは計算言語学といった分野において、コンピュータを道具として使うためのものとして教えられている。 なお、「コンピュータ科学」という用語について、情報処理学会のカリキュラムJ97(『大学の理工系学部情報系学科のためのコンピュータサイエンス教育カリキュラム J97』)では、「コンピュータサイエンス」を「情報工学、情報科学、計算機科学、計算機工学などの総称」としているが、それぞれの語に特に定義を与えているわけでもないため、語がてんでに使われている実態を反映したものと思われる。 当然ながら、メタ分析によれば、コンピュータサイエンスの一部は、他の分野と同様、研究者のバイアスによってある程度歪められており、研究を行う際には、学界に存在するバイアスを意識することが望ましい。 学問としての歴史は浅いが、計算機科学は科学と社会への数々の根源的貢献をしてきた。 計算機科学と関係の深い学問分野として、経済学、数学、物理学、言語学などを挙げることができる。一部の人々は計算機科学は数学と関連が深いとみなしているという。初期の計算機科学はクルト・ゲーデルやアラン・チューリングなどの数学での業績に強い影響を受けていたし、数理論理学、圏論、領域理論、代数学といった領域は計算機科学と数学の間でアイデアをやり取りする領域となっている。 計算機科学とソフトウェア工学の関係は論争の的である。「ソフトウェア工学」という言葉が表すものが何か、計算機科学の範囲をどう定めるかは長年の議論の対象となっている。一部の人々はソフトウェア工学が計算機科学の一部であると信じている。他の人々は、計算機科学が計算全般を扱う学問であるのに対して、ソフトウェア工学は実用的な目的でコンピュータ処理を設計するものであり、異なる学問分野であると考えている。この見方の例としてデイビッド・パーナスがいる。他の人々はソフトウェアは全く工学的に扱うことはできていないと考えている。
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計算機科学またはコンピュータ科学、CSとは、情報と計算の理論的基礎、及びそのコンピュータ上への実装と応用に関する研究分野である。コンピュータサイエンスは「情報科学」や「情報工学」とも和訳される。コンピュータ科学には様々な分野がある。コンピュータグラフィックスのように応用に力点がある領域もあれば、理論計算機科学と呼ばれる分野のように数学的な性格が強い分野もある。計算科学は科学技術計算という「計算需要」に応えるための分野であり、それを実現する手段の研究は高性能計算である。また、一見わかりやすい分類として、計算機工学など「ハードウェア」と、プログラミングなど「ソフトウェア」という分類があるが、再構成可能コンピューティングのようにその両方と言える分野があるなど、単純に分類ができるようなものではない。
{{混同|計算幾何学|計算機化学}} '''計算機科学'''(けいさんきかがく、{{lang-en-short|computer science}}、コンピューター・サイエンス)または'''コンピュータ科学'''<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%A9%9F%E7%A7%91%E5%AD%A6-254802#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「計算機科学」]</ref>、'''CS'''とは<ref>Passey, D. (2017). [https://doi.org/10.1007/s10639-016-9475-z Computer science (CS) in the compulsory education curriculum: Implications for future research.] ''Education and Information Technologies'', 22(2), 421.</ref><ref>Camp, T. et al. (2017). [https://dl.acm.org/doi/pdf/10.1145/3084362?casa_token=W1XEI-RdYI0AAAAA:IvHA7ZRqIYVLL3VR1uxuvMa0-K4gTYT4YZECmlSjegFjWeJsOU0mSuUtzQ5Uo_wk6_MaaaSMChepqg Generation CS: the growth of computer science.] ''ACM Inroads'', 8(2), 44.</ref>、[[情報]]と[[計算]]の理論的基礎、及びその[[コンピュータ]]上への実装と応用に関する研究分野である<ref>「計算機科学は情報に関する学問である」[http://www.njit.edu/v2/archivecatalog/undergraduate/91/19-und.html {{lang|en|計算機情報科学科}}]、{{lang|en|Guttenberg Information Technologies}}</ref><ref>「計算機科学は計算に関する学問である。」[http://www.csbsju.edu/computerscience/curriculum 聖ヨハネ大学 聖ベネディクト校 計算機科学科]</ref><ref>「計算機科学はコンピュータシステムのあらゆる側面に関する学問である。理論的基礎から極めて実用的な巨大ソフトウェアプロジェクト管理までも含む。」[http://study.massey.ac.nz/major.asp?major_code=2010&prog_code=93068 マッセイ大学]</ref>。コンピュータサイエンス({{lang|en|computer science}})は「'''[[情報科学]]'''」や「'''[[情報工学]]'''」とも和訳される{{Sfn|コンピュータ用語辞典編集委員会|2001|p=232}}{{efn|『英和コンピュータ用語大辞典』には次の通りある{{Sfn|コンピュータ用語辞典編集委員会|2001|p=232}}。 {{Quote|'''computer science''' … <br>[[[JIS]]]([https://web.archive.org/web/20221002140622/https://www.ny.ics.keio.ac.jp/ipsjts1/2nd-ver/htm/x0001.htm 01.01.18])計算機科学,[[情報科学]],[[情報工学]]:[[計算機]]による[[情報処理]]に関する[[科学技術]]の一分野.{{Sfn|コンピュータ用語辞典編集委員会|2001|p=232}} }} }}。コンピュータ科学には様々な分野がある。[[コンピュータグラフィックス]]のように応用に力点がある領域もあれば、[[理論計算機科学]]と呼ばれる分野のように数学的な性格が強い分野もある。[[計算科学]]は科学技術計算という「計算需要」に応えるための分野であり、それを実現する手段の研究は[[高性能計算]]である。また、一見わかりやすい分類として、[[計算機工学]]など「ハードウェア」と、[[プログラミング]]など「ソフトウェア」という分類があるが、[[再構成可能コンピューティング]]のようにその両方と言える分野があるなど、単純に分類ができるようなものではない。 == 歴史 == {{seealso|計算機の歴史}} [[画像:NAMA Machine d'Anticythère 1.jpg|thumb|200px|right|[[アンティキティラ島の機械]](紀元前150-100年頃)]] [[Image:Astrolabium.jpg|thumb|100px|[[アストロラーベ]](1208年、ペルシア)]] [[そろばん]]([[アバカス]])や、一種の[[アナログ計算機]]と言えるような機械といった、計算を手助けするものは古代から存在していた。「計算機械」と今日言われるような機械としては、最初の[[機械式計算機]]が[[ヴィルヘルム・シッカート]]によって1623年に作られた<ref>{{cite web|author=Nigel Tout|title=Calculator Timeline|url=http://www.vintagecalculators.com/html/calculator_time-line.html|work=Vintage Calculator Web Museum|date=2006年|accessdate=2006-09-18}}</ref>。[[チャールズ・バベッジ]]は[[ヴィクトリア朝]]時代にプログラム可能な[[解析機関]]を設計した<ref>{{cite web | url=http://www.sciencemuseum.org.uk/on-line/babbage/index.asp | title=Science Museum - Introduction to Babbage | accessdate=2006-09-24}}</ref>。1890年には[[ハーマン・ホレリス]]の発明した[[タビュレーティングマシン|パンチカードシステム]]が米国勢調査に初めて使用されている<ref>{{cite web | url=http://www.pattonhq.com/ibm.html | title=IBM Punch Cards in the U.S. Army | accessdate=2006-09-24}}</ref>。 1920年代以前、「{{lang|en|computer}}」という言葉は仕事として計算を行う人([[計算手]])を指していた。しかしこの時代に、現代に通じる[[計算理論]]と[[計算模型]]が考案されている。[[クルト・ゲーデル]]、[[アロンゾ・チャーチ]]、[[アラン・チューリング]]など、後に計算機科学と呼ばれるようになる分野の先駆者は、[[計算理論|計算可能性]]、すなわち(特別な前提知識や技能なしに)紙と鉛筆と命令書だけでどのようなものが計算できるか、に興味を抱いた。この研究は、一部には人間に付き物の間違いをすることなく自動的に計算を行う「計算する機械」を開発したいという欲求に基づくものであった。この重要な洞察は、あらゆる計算作業を(理論上)全て実行可能な汎用の計算システムを構築することを意味し、それまでの専用機械を汎用計算機の概念に一般化した。汎用計算機という概念の創造が現代の計算機科学を生み出したのである。 1940年代に入り、より新しくかつ強力な計算機が開発されるにつれて、「{{lang|en|computer}}」という言葉は人間ではなくそういった機械を指す言葉となった。1940年代から1950年代にかけて、次々と電子式コンピュータが建造され、1950年代末には基本的な考え方としては現代にまで引き継がれている仕組みが(いわゆる[[プログラム内蔵方式]]など)完成した。前述の、米国の国勢調査においてパンチカードシステムが有用であった事例などもあるように、科学技術などにおける数の計算(いわゆる[[数値解析]]的な計算)だけではなく、もっと一般の事務処理などといった[[データ処理]]にもこういった機械は有用だということは以前から明らかになっていたわけだが、そういった、「狭義の計算」より広い意味を指す語として1960年頃には<ref group="注釈">1960年に[[情報処理国際連合]]が設立されている。</ref>、主に学術方面ではInformation Processing([[情報処理]])という熟語が使われるようになり、[[機械翻訳]]や[[パターン認識]]のような、数値計算ではない応用の研究が始まった。また、主に産業方面ではData Processing([[データ処理]])という熟語もあり、EDPという3文字語などもあった。[[コンピューティング]]という語の意味はそれらを含む広い意味とされるようになり、計算機科学はそれらを扱う科学ということになった。1960年代には計算機科学は独立した学問分野として確立され、大学などで計算機科学科の設立と学位認定が行われるようになった<ref name="Denning_cs_discipline">{{cite journal | last=Denning | first=P.J. | date=2000年 | title=Computer science:the discipline |url=https://web.archive.org/web/20060828130518/http://www.idi.ntnu.no/emner/dif8916/denning.pdf | journal=Encyclopedia of Computer Science}}</ref>。実用的なコンピュータが利用可能になると、その様々な応用が下位領域を形成していった。2000年前後には「IT」という語が流行した。 == 教育 == 一部の大学にはコンピュータ科学を専攻とする部門がある。まず近年、コンピュータ科学と計算装置(コンピュータ)が普及させているものとして、すべての人にとって基本的な技術としての「計算論的思考」(Computational Thinking)というものが考えられており(詳細は文献<ref>[https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/ct-japanese.pdf 『計算論的思考』(Jeannette M. Wing ''Computational Thinking'', 中島秀之訳)]</ref>を参照)、後述する国際学会が取りまとめているカリキュラムでも重視されている。各論的カリキュラムとしては、[[離散数学|離散構造]]、[[プログラミング]]、[[計算理論]]、[[アルゴリズム解析]]、[[形式手法]]、[[並行性|並行性理論]]、[[データベース]]、[[コンピュータグラフィックス]]、システム解析などがある。 またスタンフォードではComputer Science Department(CS)だが、バークレイやMITなどではElectrical Engineering and Computer Science(EECS)というように、一般にこの分野のトップクラスと目されている大学のいくつかでは電気電子工学(日本語では使い分けられるが、英語ではElectrical Engineeringにまとめられていることも多い)を名前に付けている。 コンピュータ科学専攻のためのカリキュラム案としては、国際学会[[Association for Computing Machinery|ACM]]がとりまとめているものがあり、1968年の ''Curriculum 68'' 以来定期的に情勢に合わせ見直されている。2015年現在の最新版は ''CS 2013''(''Computer Science 2013: Curriculum Guidelines for Undergraduate Programs in Computer Science'')である。日本の[[情報処理学会]]もこれに合わせ「カリキュラム標準」を発表しており、2015年現在の最新版はJ07<ref>https://www.ipsj.or.jp/annai/committee/education/j07/ed_j07.html</ref>である。 他のコンピュータ科学以外の専攻においても、プログラミングが教えられているが、それらはもっぱら、コンピュータ科学の一部としてよりも、物理や化学、あるいは[[計算言語学]]といった分野において、コンピュータを道具として使うためのものとして教えられている。 : Peter J. Denning, ''[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=971303&dl=ACM&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618 Great principles in computing curricula]'', Technical Symposium on Computer Science Education, 2004年 も参照されたい(英語)。 なお、「コンピュータ科学」という用語について、情報処理学会のカリキュラムJ97(『大学の理工系学部情報系学科のためのコンピュータサイエンス教育カリキュラム J97<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/J97-v1.1.pdf|title=大学の理工系学部情報系学科のためのコンピュータサイエンス教育カリキュラム J97(第1.1版)|format=PDF|publisher=[[情報処理学会]]|date=1999-09|accessdate=2013-03-22}}</ref>』)では、「コンピュータサイエンス」を「[[情報工学]]、[[情報科学]]、計算機科学、[[計算機工学]]などの総称」としているが、それぞれの語に特に定義を与えているわけでもないため、語がてんでに使われている実態を反映したものと思われる。 当然ながら、メタ分析によれば、コンピュータサイエンスの一部は、他の分野と同様、研究者のバイアスによってある程度歪められており、研究を行う際には、学界に存在するバイアスを意識することが望ましい<ref>{{Cite journal|last=Shepperd|first=Martin|date=2015-01|title=How Do I Know Whether to Trust a Research Result?|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7030205/|journal=IEEE Software|volume=32|issue=1|pages=106–109|doi=10.1109/MS.2015.8|issn=0740-7459}}</ref>。 == 主な成果 == {{節スタブ}} 学問としての歴史は浅いが、計算機科学は科学と社会への数々の根源的貢献をしてきた。 * [[情報化時代]]や[[インターネット]]に代表される、いわゆる[[情報革命]]を実現した。 * [[計算]]と[[計算可能性理論|計算可能性]]の定義と、それによる計算不能な問題の存在の証明<ref>{{cite book | author=Constable, R.L. | date=2000年3月 | url=https://web.archive.org/web/20081002155359/http://www.cs.cornell.edu/cis-dean/bgu.pdf | title=Computer Science: Achievements and Challenges circa 2000}}</ref>。 * [[プログラミング言語]]の概念と様々な抽象化レベルでの手続き的情報を明確に表現するツール<ref>{{cite book |last=Abelson |first=Hal |coauthors=G.J. Sussman with J.Sussman |date=1996年 |title=Structure and Interpretation of Computer Programs |edition=2nd Ed. |publisher=MIT Press |id=ISBN 0-262-01153-0 |quote=コンピュータ革命は思考方法の革命であり、思考を表現する手法の革命である。この変化の本質は「procedural epistemology; 手続き的認識論」と呼ばれるものがよく表している。それは手続き的観点からの知識構造の研究であり、古典的数学の宣言的観点の対極に位置する。}}</ref>。 * [[エニグマ (暗号機)|エニグマ暗号]]の解読は、[[第二次世界大戦]]での[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の勝利に貢献した。 * [[計算科学]]は[[心]]に関する問題を解明しつつある。 * [[ヒトゲノム計画]]は[[ヒト]]の[[ゲノム]]の解読を可能にした。 * [[Folding@Home]]などの[[分散コンピューティング]]プロジェクトは、[[タンパク質]]の[[フォールディング|折り畳み構造]]の解明に貢献している。 * [[システムトレード|アルゴリズム取引]]は、[[人工知能]]や[[機械学習]]、[[統計学]]、[[数値解析]]などの手法を取り入れることにより、金融市場の[[効率性]]と[[流動性 (経済学)|流動性]]を向上させた。 == 他の分野との関係 == {{独自研究|section=1|date=2017年12月}} 計算機科学と関係の深い学問分野として、[[経済学]]、[[数学]]、[[物理学]]、[[言語学]]などを挙げることができる。一部の人々{{誰|date=2015年12月}}は計算機科学は[[数学]]と関連が深いとみなしているという<ref name="Denning_cs_discipline" />。初期の計算機科学は[[クルト・ゲーデル]]や[[アラン・チューリング]]などの数学での業績に強い影響を受けていたし、[[数理論理学]]、[[圏論]]、[[領域理論]]、[[代数学]]といった領域は計算機科学と数学の間でアイデアをやり取りする領域となっている。 計算機科学と[[ソフトウェア工学]]の関係は論争の的である。「ソフトウェア工学」という言葉が表すものが何か、計算機科学の範囲をどう定めるかは長年の議論の対象となっている。一部の人々{{誰|date=2015年12月}}はソフトウェア工学が計算機科学の一部であると信じている。他の人々は、計算機科学が計算全般を扱う学問であるのに対して、ソフトウェア工学は実用的な目的でコンピュータ処理を設計するものであり、異なる学問分野であると考えている。この見方の例として[[デイビッド・パーナス]]がいる<ref>{{cite journal | last = Parnas |first = David L. |date = 1998年 |url=https://web.archive.org/web/20060613031738/http://citeseer.ist.psu.edu/parnas98software.html |title = Software Engineering Programmes are not Computer Science Programmes |journal = Annals of Software Engineering |volume = 6 |pages = 19–37 }}, p. 19: 「私はソフトウェア工学を計算機科学の一分野としてではなく、土木工学、機械工学、化学工学、電気工学などなどの要素を組み合わせたものとして扱う」</ref>。他の人々{{誰|date=2015年12月}}はソフトウェアは全く工学的に扱うことはできていないと考えている。 == 基礎 == * [[数論]] * [[組合せ数学]] * [[グラフ理論]] * [[数理論理学]] * [[情報理論]] * [[理論計算機科学]] ** [[計算理論]] ** [[チューリングマシン]] ** [[ラムダ計算]] ** [[アルゴリズム解析]] * [[データ構造]] * [[形式言語]] * [[プログラム意味論]] ** [[領域理論]] * [[計算科学]] == 実装 == * [[プログラミング言語]] ** [[コンパイラ]] * [[分散コンピューティング]] * [[並列コンピューティング]] ** [[並列処理]] * [[ソフトウェア工学]] ** [[プログラミング]] * [[コンピュータ・アーキテクチャ]] ** [[オペレーティングシステム]] * [[通信]] ** [[コンピュータネットワーク]] ** [[暗号理論]] * [[データベース]] * [[人工知能]] ** [[ロボット工学]] * [[コンピュータグラフィックス]] * [[データサイエンス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = コンピュータ用語辞典編集委員会 |year = 2001 |title = 英和コンピュータ用語大辞典 |edition = 第1刷 |publisher = [[日外アソシエーツ]] |isbn = 978-4816916434 |ref = harv }} * [[Association for Computing Machinery|ACM]] [https://web.archive.org/web/20061025054422/http://www.acm.org/class/1998/overview.html 1998 ACM Computing Classification System] 1998年 * [[IEEE]]コンピュータ学会と[[Association for Computing Machinery|ACM]] [https://web.archive.org/web/20061031230733/http://www.computer.org/portal/cms_docs_ieeecs/ieeecs/education/cc2001/cc2001.pdf Computing Curricula 2001: Computer Science]. 2001年12月15日 * Peter J. Denning. ''[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=1053309&coll=&dl=ACM&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618 Is computer science science?]'', Communications of the ACM, 2005年4月 == 関連項目 == * [[理論計算機科学]] * [[計算機工学]] * [[ソフトウェア工学]] * [[計算機の歴史]] == 外部リンク == {{Commonscat|Computer science}} {{wikiversity|Category:計算機科学|計算機科学}} * [http://www.dmoz.org/Computers/Computer_Science/ Open Directory Project: Computer Science] * [http://liinwww.ira.uka.de/bibliography/ Collection of Computer Science Bibliographies] * {{cite book|first=Allen B.|last=Tucker|authorlink=Allen B. Tucker|title=Computer Science Handbook|edition=2nd|publisher=Chapman and Hall/CRC|year=2004|isbn=1-58488-360-X|url=http://e-maxx.ru/bookz/files/tucker.pdf}} * [http://blog.wolfram.com/2016/09/07/how-to-teach-computational-thinking/ How to Teach Computational Thinking] {{コンピュータ科学}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:けいさんきかかく}} [[Category:計算機科学|*]] [[Category:情報科学]] [[Category:情報工学]] [[Category:数理科学]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:形式科学]] [[Category:情報学]]
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イチゴシロップ
イチゴシロップ(英: Strawberry syrup)は、イチゴで作られたシロップ。もしくはイチゴをイメージさせる色と香りをつけたシロップのこと。 かき氷などに用いられるイチゴシロップは、その多くが食用の着色料を用いて赤く色づけされたシロップで、香料でイチゴ風の香りがつけられているが、イチゴの味は必ずしもしない。 ただし、市販されている一部商品には、イチゴ果汁を用いたものも見ることができる。
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{{出典の明記|date=2020-03-12}} {{特筆性|date=2022年8月}} <!-- オレンジシロップとほぼ同様の内容なのでかき氷へ移行すべきと思われます --> '''イチゴシロップ'''({{lang-en-short|Strawberry syrup}})は、[[イチゴ]]で作られた[[シロップ]]。もしくはイチゴをイメージさせる色と香りをつけたシロップのこと。 [[かき氷]]などに用いられるイチゴシロップは、その多くが食用の[[着色料]]を用いて赤く色づけされた[[シロップ]]で、[[香料]]でイチゴ風の香りがつけられているが、イチゴの味は必ずしもしない。 ただし、市販されている一部商品には、イチゴ果汁を用いたものも見ることができる。 == 関連項目 == * [[オレンジシロップ]] {{Food-stub}} {{デフォルトソート:いちこしろつふ}} [[Category:イチゴ]] [[Category:シロップ]]
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コピーコントロールCD
コピーコントロールCD(英語: Copy Control CD, Copy Controlled Compact Disc)は、主にパソコンでのリッピングやデジタルコピーを抑止する目的で導入されていた技術、もしくはその技術を導入した音声記録媒体の総称である。CCCDと略される。 名称は通称であり、コンパクトディスク(CD)の規格としては扱われない。 2000年代、パーソナルコンピュータ(パソコン)の進歩によってCDの音楽データをパソコンにリッピングしたのち、音楽ファイルを再生して楽しめるようになった。一方で同時期のインターネットの普及に伴い、この音楽データをWinMXやWinnyなどのファイル共有ソフトに違法アップロードする著作権侵害行為も増加。そのため、ソニー・ミュージックエンタテインメントでは音楽データの著作権侵害対策として、世界に先駆けて有料音楽配信サービス「bitmusic」を立ち上げ、他社もこれに追随していた。 しかし、当時の有料音楽配信サービス自体が発展途上であったことから、さらなる違法コピー対策が急務となる。音楽業界(特に当時のエイベックス)は「ファイル共有ソフトを使用した違法コピーによって、CDの売上げが減少している」と主張し、オーディオ機器での再生が可能ながらパソコン上へのコピーが不可能な規格として開発が行われた。 主に音楽用CD-DAに含まれている楽曲情報(データ)をパソコン上で複製したり、リッピングできなくすることが目的であるが、実際には特定の環境でしかコピーコントロール機能の目的を達成できず、表面上は問題なく複製に成功してしまう環境や、コピー目的ではない音楽再生時にまで問題が発生してしまう環境が存在する。また、前述の通りCDの規格外であるため、厳密にはCCCDの正常な再生動作を保証した対応音響機器はほぼ存在しない。 日本国内においては、エイベックスが2002年(平成14年)3月に採用したことを皮切りに他社が追随。初めて規格が用いられたのは同年3月13日に発売されたBoAのシングル『Every Heart -ミンナノキモチ-』(レーベルはエイベックス(AVCD-30339))。アルバム第1号は同年3月20日に発売されたDo As Infinityのベスト・アルバム『Do The Best』(レーベルはエイベックス(AVCD-17110))。また、2003年(平成15年)1月22日にはSMEが“レーベルゲートCD”(後述)と呼ばれるものを展開し、Crystal Kayの『Boyfriend -partII-』(レーベル:エピックレコードジャパン、品番:ESCL-2722)で初採用された。これらは当初邦楽シングルのみへの展開が主だったが、2004年(平成16年)からは邦楽アルバムへの採用も開始されている。 なお、日本国内で発売されているCCCDについては、2002年(平成14年)より日本レコード協会(RIAJ)がCCCD技術を使用したことを示すマークを付与するよう定めている。ただし強制力はないことから、東芝EMI(現:ユニバーサル ミュージック)がCDS-300方式によるセキュアCDに切りかえた際には、CDS-200およびレーベルゲートCDと比べ機器の挙動が異なることを理由に当該マークを付与していない。また、CDS-200方式の中でもビクターエンタテインメントのエンコードK2(ENC K2)とCCCDを合わせた「CCCD K2」は、独自のロゴのみであり当該マークは付与しておらず、RIAJに指定されたCCCDマークを付与している。 また一部インディーズ系の作品にもCCCDだった作品があったが、その作品すべてRIAJに指定されたCCCDマークを付与している。 CD再生時には毎秒数回の読み取りエラーが発生することから、レッドブックの仕様に「誤り検出訂正の目的でリード・ソロモン符号を埋め込む」と定められている。CDプレーヤーは再生時に常にこのデータに沿い読み取りエラーを訂正しているが、CCCDでは意図的に間違ったエラー訂正符号を記録しておくことによって、機能が正常に働かなくなることを狙ったものである。 多くのオーディオ用CDプレーヤーおよびアナログモードで動作中のCD-ROMドライブでは、訂正が不可能な状態であっても補正機能によって不自然ではない程度に予測補完して再生することが可能であるが、デジタルモードで動作中のCD-ROMドライブでは誤り訂正に成功するまで読み取りを一定回数再試行するため、元々の信号から変化してしまったものと誤認し正しく読み出すことができない(CD-ROMドライブを使用している一部のオーディオ用CDプレーヤーで、再生に不具合を生じるのはそのため)。これにより、音楽データをCDからパーソナルコンピュータにリッピングされるのを防ぐ。 この仕組みは、音響機器で再生された(アナログ信号に復号した)音楽を、コンピュータに音声入力してデジタル化することは防止できず、CD-ROMドライブによっては、音楽CDであればデジタルモード時でもアナログモード時と同様に補正機能が働く例がある。加えてWindows Media Playerなど取り込みに使用するソフトウェアによっては、デジタルモードでの取り込みに失敗した場合に、アナログモードに切り替えてオーディオデータをコピーすることが可能な場合があり、事実上コピー抑制の役割を果たしていないのが実情である。反対に音響機器の中にも、デジタルモードで動作中のCD-ROMドライブと同様に、エラー訂正を優先する実装がされているものがあるため、その場合は再生できないことがある。 なお、EUでの流通盤では、ミニディスクやDATへのデジタルダビングも禁止しているCCCDが存在していた。このタイプのコピーガードは、SCMSによる複製の制限を利用したものであり、レッドブックには違反しないため、他のCCCDで問題になっている再生上の不具合は発生しない。 「CD」と定義されるものは、前述のようにレッドブックで定められており、CDプレイヤーなどの再生機器は、その仕様に基づいて作られたCDを再生することを前提として設計されている。それに対し、CCCDの場合は各社様々な手法を取り、一般的にはCD EXTRAをベースにTOC改変・エラーセクタ挿入などの手法を取っている場合が多かった。詳細な構造は、仕様が非公開のため不明である。 音声記録領域とPCデータ領域が共存しているものにはCD EXTRAが存在し、CCCDもこれと一部共通した構造を持つ。そのため、エイベックスがCCCDを導入した時期はこれらが共存不可能であったため、いずれか一方のみが採用されていた。shelaやEvery Little Thingなどは、CCCDの回避目的でディスク内にPVなどのパソコン用特典データを収録したケースも存在する。その他、SMEのレーベルゲートCD2およびEMIのセキュアCDで出た製品の一部には、CD EXTRAとしての要件を満たさないエンハンストCD規格により、パソコン用特典データとコピーコントロールデータを共存させている作品もあった。 コピーコントロールが機能しているパソコンではCCCDが再生できないため、パソコン向けに専用の再生ソフトと音楽データを用意し、製作者の望んだ制限の元で再生可能なように処理されている場合がある。この機能はMicrosoft Windows専用で、Windows以外のオペレーティングシステムにおいてはサポートされていなかった。これらの再生ソフトは「ユーザーの同意を得ずに勝手に再生ソフトをインストールする」という仕様を持つ場合が多く、コンピュータ脆弱性の問題が取りざたされることにもなった(後述のセキュリティ問題を参照)。 Macintoshとの互換性については、帯や外貼ステッカーに「Macintoshでは再生できません」などと注意事項が記載されている。しかし実際の所、iTunesには読み込み時のエラー訂正オプションがあり、再生やCD-Rへの複製までも通常のCD同様に可能である場合がほとんどである。またMacintosh用のディスク管理ツール「Roxio Toast Titanium」でも、CCCDを無視して複製が可能であった。 なお2022年現在、MacはもちろんWindows 10・11環境で実行したiTunesにもCDの取り込み時「エラー訂正オプション」がありパソコンに取り込むことやCD-R/RWに焼くことが可能である。 ソニー・ミュージックエンタテインメントによって発売されたCCCDで、CCCD導入当初から抱えていた問題点の解決を図ると同時に「PC用の部分」をATRAC3データに置き換えたものである。 構造は1stセッションエリアと2ndセッションエリアに分かれている。 コピーコントロールCDでは、登場当初から多くの問題点を抱えていた。以下に挙げる。 前述のように「レッドブック規格から逸脱している」ため、CDプレーヤーを発売する製造企業側は「CCCDの再生は保証外」としている。例えば、一時期ビクターエンタテインメントからCCCDでコンテンツがリリースされていた時期があったが、親会社の日本ビクター(現・JVCケンウッド)では自社製品での再生を保証していない。SMEでも同様で、親会社のソニーが販売するオーディオ機器では動作保証外としている。このようにCCCDは再生が保証されない「CDと同形の円盤」となっている。 そのうえ、データの読み取り誤りを意図的に引き起こす方式から、制御機構への過剰な負担に加えてジッターの増加や誤り検出補正機能の作用によって、通常のCDよりも音質は悪くなる。そのためジャズ、クラシックの様な再生時の音質における再現度が重要視されるジャンルでは、EMIグループを除いてCCCDの利用は少ない。またエイベックスでは、クラシック音源は原則SACDとCCCDのハイブリッドディスクでリリースしている。一方でエイベックス広報部は「CD-DAと比較して音質の劣化は一切見られない」と、各種媒体上で反論を見せた。 さらに、再読出しするために同一セクタへの連続シークなどが発生するので、制御機構へ過剰な負担がかかることから、再生機器の製品寿命低下や動作不良を引き起こす可能性がある。これら故障は「音楽CDとしての仕様を満たしていないディスクの利用による故障」「ユーザーの故意の破損」と見なされてメーカー保証の対象外となり、有償修理または修理拒否となる可能性がある。 コピーガード技術についてはDVDで採用されている暗号化とは異なる。そのためディスク自体に細工をすることでプロテクト解除をしたり、ドライブによっては(機構面への負担を除くと)CD同様に読み出せるものもある。また、他の防止策と同様コピーを完全に防止することは事実上不可能のため、再生音質を向上させる、あるいは自分の再生機器で再生を可能にする目的として複製が行われることがある。 通常のCCCDとは異なり、PC用データを条件付きでコピー可能にすることが特徴だったレーベルゲートCDにも、以下のような問題点があったことから普及が進まなかった。 音楽業界全体という枠組みで見た場合、導入以前からCCCDについて反対・疑問視の意思を見せていた者は決して多数派とは言い難く、多くはCCCDが抱える諸問題について実際に導入されるまで比較的無頓着で技術的な知識に乏しい者では「CDがコピーできなくなる」というメリットの一点だけを見て気楽に賛成していた者も少なくなかった。実際に、SMEがCCCDを導入した際に導入前の段階でこれを疑問視し会社まで説明を聞きに来たのは、SME系レーベルに当時所属の数多くの歌手・ミュージシャンの中でもわずかに浅倉大介、奥田民生、ASIAN KUNG-FU GENERATIONだけである。 CCCD導入の対象とされた歌手・ミュージシャンたちの多くは、CCCDについて必要な情報を与えられても、それを正しく理解できていなかった。CCCDの持つ技術的な問題点を一般ファンに明確に説明できたミュージシャンも、音楽業界を見渡しても浅倉大介などの音楽のデジタル技術に造詣が深く、この種の専門的な技術情報の収集・分析ができる知識を持った一部の人物に限定されていた。 CCCD導入当初からアーティスト側にもCCCDに対して批判的な者は見られ、CCCD非導入レーベルから音楽CDを販売している者もいる。アーティスト側だけでなく、CCCDをリリースしているレコード会社のスタッフにも批判的な者が少なくなかった。 一方で、著作権保護を理由にCCCDを容認したミュージシャンもいた。しかし、これがいざ自らのCDがCCCDになってから音質の悪さに気付いて、あるいはファンからCCCDの抱える諸問題について手厳しい批判を受けて、ようやく問題視するようになったという者もまた数多かった。 アメリカ合衆国の大手レコード会社である、ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)がリリースしたCCCDに、マルウェア(コンピュータウイルス)であるrootkitの技術を取り入れていることが、セキュリティ会社の調査によって判明した。この事実を受け米国在住の男性が、ソニーBMGを相手取り訴訟に踏み切った。 その後、XCPの動作がコンピュータウイルスに利用された例が2005年(平成17年)11月10日に報告された。ソニーBMGは7日、コンピュータプログラムを削除はせず、機能停止するツールを公表したが、駆除ツールにバグがあり、不正なActiveXを実行し得る仕様になっていたことから、16日に公開を停止した。その後ソニーBMGは、該当コピーコントロールCDの回収・交換措置に踏み切った。日本のソニー・ミュージックエンタテインメントも自社が輸入した該当コピーコントロールCDの回収・交換を行う。 CCCDはパソコンのドライブに入れると、利用者の同意なしに再生ソフトが勝手にインストールされ、このような問題が常に発生しうる状況にある。このインストール機能は、自動再生機能を利用しているため、シフトキーの長押しによる自動再生キャンセル操作や、コントロールパネルで自動再生を無効に設定する必要がある。 2003年(平成15年)度におけるオリコンチャート年間シングルチャートランキング1位となった、SMAPの『世界に一つだけの花』(ビクターエンタテインメント製)は、CD-DAだったが250万枚以上を売上げており、必ずしもCD売上の減少が、違法コピーによるものとは言い切れないことを裏付けた。逆に、CCCDを主導したエイベックスは、2004年(平成16年)3月の時点で、コピーコントロールCD発売前よりも売り上げを20%も落とす結果となった。なお2003年の年間オリコンシングルチャートTOP10のうち、CCCDは1枚のみ、年間TOP20でも4枚だけだった。 前述の通り、CCCDは多くの問題点を抱えたまま発売され、結果的にCCCDが抱える問題点の解決策を見出せなかったために、この種の方式を採用し続けてきたレコード会社に対して、購入者・ファンやミュージシャン側からの不満が続出した。また、CCCDの登場段階以上にリッピング行為・iPodを代表とするデジタルオーディオプレーヤーが普及し、iTunes Music Storeの登場により、CCCD自体が「CDプレーヤーを破損する危険性が高い上に、コンパクトディスクとの再生互換性の保証もなく、音楽ソフトとして問題が多いディスク」という認識へと変わっていった。 この代償は大きく、CCCD導入の先陣を切ったエイベックスは、2004年(平成16年)9月22日以降発売の作品は「作品ごとにCCCDを採用するかどうかを決定する形へ緩和する」ことを発表し、その後段階的に撤廃してCD-DAでのリリースに戻した。SMEも同年10月以降段階的に廃止し、同年11月17日以降に発売する新譜はすべて通常の音楽CDで発売すると発表した。 エイベックスのCCCD撤廃は、当初販売用CDに対してのみ行われ、レンタル用・プロモーション用にはほぼ全面的に、あるいは販売用であっても一部のアニメ関連作品およびクラシック作品にはCCCDが導入されていたが、2007年(平成19年)1月以降は前述の一部のアニメ関連作品およびクラシック作品に加え、レンタル用にもCD-DAでの供給が開始されている(事実上のCCCD撤退)。 2005年(平成17年)7月27日には、SMEがレーベルゲートCDで発売したアルバム105タイトル、10月26日にもシングル190タイトルの計295タイトルがCD-DAとして再出荷されると同時にレーベルゲートCD商品はすべて廃盤となり、店頭からはほぼ消滅した。再販に当たって品番が変更されており、品番の古い物が廃盤になっている。但し、レーベルゲートCDの中古およびレンタル版については回収の対象外となり、現在においても置き去りにされた状態である。また、複製サービスもLGCDは2006年(平成18年)11月30日に、LGCD2も2008年(平成20年)3月31日をもってそれぞれ終了した。 最後までCCCD推進の立場を崩さなかった東芝EMIは、その後もCCCD撤廃を検討せずセキュアCDなる新方式を採用し導入を続けていたが、2006年(平成18年)にCCCDでのリリースから事実上撤退し、2006年(平成18年)6月以降リリースは行われていない。 2022年(令和4年)6月現在、新譜でCCCDがリリースされることはなくなり、CCCDでリリースされた数々の多くの作品がそのまま継続販売されているのみである。
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"主に音楽用CD-DAに含まれている楽曲情報(データ)をパソコン上で複製したり、リッピングできなくすることが目的であるが、実際には特定の環境でしかコピーコントロール機能の目的を達成できず、表面上は問題なく複製に成功してしまう環境や、コピー目的ではない音楽再生時にまで問題が発生してしまう環境が存在する。また、前述の通りCDの規格外であるため、厳密にはCCCDの正常な再生動作を保証した対応音響機器はほぼ存在しない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本国内においては、エイベックスが2002年(平成14年)3月に採用したことを皮切りに他社が追随。初めて規格が用いられたのは同年3月13日に発売されたBoAのシングル『Every Heart -ミンナノキモチ-』(レーベルはエイベックス(AVCD-30339))。アルバム第1号は同年3月20日に発売されたDo As Infinityのベスト・アルバム『Do The Best』(レーベルはエイベックス(AVCD-17110))。また、2003年(平成15年)1月22日にはSMEが“レーベルゲートCD”(後述)と呼ばれるものを展開し、Crystal Kayの『Boyfriend -partII-』(レーベル:エピックレコードジャパン、品番:ESCL-2722)で初採用された。これらは当初邦楽シングルのみへの展開が主だったが、2004年(平成16年)からは邦楽アルバムへの採用も開始されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、日本国内で発売されているCCCDについては、2002年(平成14年)より日本レコード協会(RIAJ)がCCCD技術を使用したことを示すマークを付与するよう定めている。ただし強制力はないことから、東芝EMI(現:ユニバーサル ミュージック)がCDS-300方式によるセキュアCDに切りかえた際には、CDS-200およびレーベルゲートCDと比べ機器の挙動が異なることを理由に当該マークを付与していない。また、CDS-200方式の中でもビクターエンタテインメントのエンコードK2(ENC K2)とCCCDを合わせた「CCCD 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コピーコントロールCDは、主にパソコンでのリッピングやデジタルコピーを抑止する目的で導入されていた技術、もしくはその技術を導入した音声記録媒体の総称である。CCCDと略される。 名称は通称であり、コンパクトディスク(CD)の規格としては扱われない。
{{出典の明記|date=2008年3月}} [[ファイル:Cccd_avex.jpg|thumb|210px|エイベックスのコピーコントロールCD(CDS-200)の記録面。帯のようなものがあるのが分かる。これが、オーディオトラックとエクストラトラックの境である。]] '''コピーコントロールCD'''({{lang-en|Copy Control CD, Copy Controlled Compact Disc}})は、主に[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]での[[リッピング]]やデジタルコピーを抑止する目的で導入されていた[[コピーガード|技術]]、もしくはその技術を導入した音声記録媒体の総称である。'''CCCD'''と略される。 名称は通称であり、[[コンパクトディスク]](CD)の規格としては扱われない。 == 概要 == [[2000年代]]<!-- See [[WP:DATED]] -->、[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)の進歩によってCDの音楽データをパソコンに[[リッピング]]したのち、音楽ファイルを再生して楽しめるようになった。一方で同時期の[[インターネット]]の普及に伴い、この音楽データを[[WinMX]]や[[Winny]]などの[[ファイル共有ソフト]]に違法アップロードする[[著作権]]侵害行為も増加。そのため、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]では音楽データの[[著作権侵害]]対策として、[[世界]]に先駆けて有料音楽配信サービス「[[bitmusic]]」を立ち上げ、他社もこれに追随していた。 しかし、当時の有料音楽配信サービス自体が発展途上であったことから、さらなる違法コピー対策が急務となる。音楽業界(特に当時の[[エイベックス]])は「ファイル共有ソフトを使用した違法コピーによって、CDの売上げが減少している」と主張し、[[音響機器|オーディオ機器]]での再生が可能ながらパソコン上へのコピーが不可能な規格として開発が行われた。 主に音楽用[[CD-DA]]に含まれている楽曲情報(データ)をパソコン上で複製したり、リッピングできなくすることが目的であるが、実際には特定の環境でしかコピーコントロール機能の目的を達成できず、表面上は問題なく[[複製]]に成功してしまう環境や、コピー目的ではない音楽再生時にまで問題が発生してしまう環境が存在する。また、前述の通りCDの規格外であるため、厳密にはCCCDの正常な再生動作を保証した対応音響機器はほぼ存在しない。 日本国内においては、[[エイベックス]]が[[2002年]](平成14年)3月に採用したことを皮切りに他社が追随。初めて規格が用いられたのは同年[[3月13日]]に発売された[[BoA]]のシングル『[[Every Heart -ミンナノキモチ-]]』(レーベルはエイベックス(AVCD-30339))。アルバム第1号は同年[[3月20日]]に発売された[[Do As Infinity]]の[[ベスト・アルバム]]『[[Do The Best (Do As Infinityのアルバム)|Do The Best]]』(レーベルはエイベックス(AVCD-17110))。また、[[2003年]](平成15年)[[1月22日]]には[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|SME]]が“レーベルゲートCD”([[#レーベルゲートCD|後述]])と呼ばれるものを展開し、[[Crystal Kay]]の『[[Boyfriend -partII-]]』(レーベル:[[エピックレコードジャパン]]、品番:ESCL-2722)で初採用された。これらは当初[[邦楽]]シングルのみへの展開が主だったが、[[2004年]](平成16年)からは邦楽アルバムへの採用も開始されている。 なお、日本国内で発売されているCCCDについては、[[2002年]](平成14年)より[[日本レコード協会]](RIAJ)がCCCD技術を使用したことを示すマークを付与するよう定めている。ただし強制力はないことから、東芝EMI(現:[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック]])がCDS-300方式による[[セキュアCD]]に切りかえた際には、CDS-200およびレーベルゲートCDと比べ機器の挙動が異なることを理由に当該マークを付与していない。また、CDS-200方式の中でも[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]のエンコードK2(ENC K2)とCCCDを合わせた「CCCD K2」は、独自のロゴのみであり当該マークは付与しておらず、RIAJに指定されたCCCDマークを付与している。 また一部[[インディーズ]]系の作品にもCCCDだった作品があったが、その作品すべてRIAJに指定されたCCCDマークを付与している。 == 種類 == * SafeAudio - [[ロヴィ|Macrovision]]が開発。 * key2audio - [[ソニー|SONY DADC]]が開発。 * CDS(Cactus Data Shield) - Midbar Technologies([[2002年]]([[平成]]14年)12月にMacrovisionに買収された)が開発。 ** CDS-100 ** CDS-200 *** エンコードK2(ENC K2) - ビクターエンタテインメントが独自の技術により音質の向上を図ったもの<ref>{{Cite web|和書|date=2002-10-29 |url=https://www.jvcmusic.co.jp/cccd/quality.html |title=CD、DVDオーディオなどのディスクメディアの音質向上を図るK2テクノロジーの新バージョン「エンコードK2(ENC K2)」を開発 |accessdate=2006-10-18}}</ref>。 *** レーベルゲートCD(LGCD) - ソニー独自の技術により音質の向上を図りながら、ソニー独自の[[インターネット認証技術]]を追加。 *** レーベルゲートCD2(LGCD2) - 基本的な仕様はLGCDと同じだが、転送ソフトが改良された。 ** CDS-300 *** [[セキュアCD]] * [[Alpha-Audio]] - [[SETTEC]]が開発。 * MediaMax CD3(MediaCloQ) - SunnCommが開発。 * [[Extended Copy Protection|XCP]] - First 4 Internetが開発、ソニーBMGが採用。[[マルウェア]]に近い技術を採用し大きな問題になった。 == 構造上の特徴 == CD再生時には毎秒数回の読み取りエラーが発生することから、'''レッドブック'''の仕様に「[[誤り検出訂正]]の目的で[[リード・ソロモン符号]]を埋め込む」と定められている。[[CDプレーヤー]]は再生時に常にこのデータに沿い読み取りエラーを訂正しているが、CCCDでは意図的に間違ったエラー訂正符号を記録しておくことによって、機能が正常に働かなくなることを狙ったものである。 多くのオーディオ用CDプレーヤーおよびアナログモードで動作中のCD-ROMドライブでは、訂正が不可能な状態であっても補正機能によって不自然ではない程度に予測補完して再生することが可能であるが、デジタルモードで動作中のCD-ROMドライブでは誤り訂正に成功するまで読み取りを一定回数再試行するため、元々の信号から変化してしまったものと誤認し正しく読み出すことができない(CD-ROMドライブを使用している一部のオーディオ用CDプレーヤーで、再生に不具合を生じるのはそのため)。これにより、音楽データをCDからパーソナルコンピュータにリッピングされるのを防ぐ。 この仕組みは、音響機器で再生された(アナログ信号に復号した)音楽を、コンピュータに音声入力してデジタル化することは防止できず、CD-ROMドライブによっては、音楽CDであればデジタルモード時でもアナログモード時と同様に補正機能が働く例がある。加えて[[Windows Media Player]]など取り込みに使用するソフトウェアによっては、デジタルモードでの取り込みに失敗した場合に、アナログモードに切り替えてオーディオデータをコピーすることが可能な場合があり、事実上コピー抑制の役割を果たしていないのが実情である。反対に音響機器の中にも、デジタルモードで動作中のCD-ROMドライブと同様に、エラー訂正を優先する実装がされているものがあるため、その場合は再生できないことがある。 なお、[[欧州連合|EU]]での流通盤では、[[ミニディスク]]や[[DAT]]へのデジタル[[ダビング]]も禁止しているCCCDが存在していた。このタイプのコピーガードは、[[SCMS]]による複製の制限を利用したものであり、レッドブックには違反しないため、他のCCCDで問題になっている再生上の不具合は発生しない。 === CD-DAとの構造上の違い === 「CD」と定義されるものは、前述のようにレッドブックで定められており、[[CDプレイヤー]]などの再生機器は、その仕様に基づいて作られたCDを再生することを前提として設計されている。それに対し、CCCDの場合は各社様々な手法を取り、一般的にはCD EXTRAをベースにTOC改変・エラーセクタ挿入などの手法を取っている場合が多かった。詳細な構造は、仕様が非公開のため不明である。 音声記録領域とPCデータ領域が共存しているものには[[CD EXTRA]]が存在し、CCCDもこれと一部共通した構造を持つ。そのため、エイベックスがCCCDを導入した時期はこれらが共存不可能であったため、いずれか一方のみが採用されていた。[[shela]]や[[Every Little Thing]]などは、CCCDの回避目的でディスク内にPVなどのパソコン用特典データを収録したケースも存在する。その他、SMEのレーベルゲートCD2およびEMIのセキュアCDで出た製品の一部には、CD EXTRAとしての要件を満たさない'''エンハンストCD規格'''により、パソコン用特典データとコピーコントロールデータを共存させている作品もあった。 === パソコン向けの再生機能 === コピーコントロールが機能しているパソコンではCCCDが再生できないため、パソコン向けに専用の再生ソフトと音楽データを用意し、製作者の望んだ制限の元で再生可能なように処理されている場合がある。この機能は[[Microsoft Windows]]専用で、Windows以外の[[オペレーティングシステム]]においてはサポートされていなかった。これらの再生ソフトは「ユーザーの同意を得ずに勝手に再生ソフトをインストールする」という仕様を持つ場合が多く、コンピュータ脆弱性の問題が取りざたされることにもなった(後述の[[#セキュリティ問題として起きた事件|セキュリティ問題]]を参照)。 [[Macintosh]]との互換性については、帯や外貼ステッカーに「Macintoshでは再生できません」などと注意事項が記載されている。しかし実際の所、[[iTunes]]には読み込み時のエラー訂正オプションがあり、再生や[[CD-R]]への複製までも通常のCD同様に可能である場合がほとんどである。またMacintosh用のディスク管理ツール「[[Roxio Toast Titanium]]」でも、CCCDを無視して複製が可能であった。 なお2022年現在、MacはもちろんWindows 10・11環境で実行したiTunesにもCDの取り込み時「エラー訂正オプション」がありパソコンに取り込むことやCD-R/RWに焼くことが可能である。 === レーベルゲートCD === [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]によって発売されたCCCDで、CCCD導入当初から抱えていた問題点の解決を図ると同時に「PC用の部分」を[[ATRAC|ATRAC3]]データに置き換えたものである。 構造は1stセッションエリアと2ndセッションエリアに分かれている。 ; 1stセッションエリア : [[オーディオ機器]]での再生や、カセットテープへのアナログ録音、SCMSに基づいたMDやDATへのデジタル録音は可能だが、PCでの読み出しやリッピングができないように「CDS-200」と呼ばれるプロテクト技術を採用している。よって、通常のCCCDと同じく[[コンパクトディスク#規格|レッドブック]]に反しているため、「Compact Disc」ロゴは入っていない。 : また、従来から指摘されていたCCCDでの音質問題を是正するために、レーベルゲートCDではソニー・ミュージック マニュファクチュアリング(SMM)が開発した「カッティング工程のためのピュア・デジタル・リンク・システム(PDLS)」を採用している<ref>[http://www.sme.co.jp/pressrelease/20021120_1.html ソニーミュージックグループが"レーベルゲートCD"を発売〜音楽CDの著作権保護のために〜 2002年11月20日]</ref>。このシステムは、ダイレクト・クロック・ディストリビューションシステム、アルト・レーザーカッティングⅡ、ピット・シグナル・プロセッシングから構成されており、ピット・シグナル・プロセッシングについては、ソニーが[[Super Audio CD]]のために開発した技術である<ref>[http://www.sme.co.jp/pressrelease/20021120_2.html 音質改善を目的とした「カッティング工程のための"ピュア・デジタル・リンク・システム(PDLS)"」 の開発ならびにレーベルゲートCDへの応用について]</ref>。 ; 2ndセッションエリア : ATRAC3(132kbps)のデータと転送用ソフトウェアを記録。データは[[暗号化]]されておりそのままでは取り込みはできないため、専用ソフトの「[[MAGIQLIP]]」を用いる。このとき[[インターネット]]経由で[[アクティベーション]]を行い、ディスクに書き込まれた「Postscribed ID」(PID)をもとにコピーが初回であるかどうか判断する。初回コピーのみ無料だが、2回目以降(レンタル版は初回コピーから)有料で、値段は種類や企業によって若干変わる。コピーしたデータは、[[NetMD]]などの[[OpenMG]]対応機器へチェックイン/チェックアウトが可能となる。 : しかし、再生するためにはHDDにダビングする必要があったため、インターネット接続環境がなければ再生自体が不可能であった。そこで、後に発表された改良版の「レーベルゲートCD2」(LGCD2)では、転送ソフトも「MAGIQLIP2」となり、データの再生を直接行えるようになった。 === セキュアCD === {{Main|セキュアCD}} == 問題点 == コピーコントロールCDでは、登場当初から多くの問題点を抱えていた。以下に挙げる。 === 仕様・再生時における問題点 === 前述のように「レッドブック規格から逸脱している」ため、[[CDプレーヤー]]を発売する製造企業側は「CCCDの再生は保証外」としている<ref>{{Wayback |url=http://www.kenwood.com/infomation.html |title=コピーガード付きCD再生について |date=20020611052750}}</ref>。例えば、一時期ビクターエンタテインメントからCCCDで[[コンテンツ]]がリリースされていた時期があったが、[[親会社]]の[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])では自社製品での再生を保証していない。SMEでも同様で、親会社の[[ソニー]]が販売するオーディオ機器では動作保証外としている<ref>{{Webarchive|url=https://archive.is/Tk5l|date=2013-05-11|title=コピーコントロールCD (CCCD) やレーベルゲートCDは再生できますか?}}</ref>。このようにCCCDは再生が保証されない「CDと同形の円盤」となっている。 そのうえ、データの読み取り誤りを意図的に引き起こす方式から、制御機構への過剰な負担に加えて[[ジッター]]の増加や誤り検出補正機能の作用によって、'''通常のCDよりも音質は悪くなる'''{{要出典|date=2022年4月}}。そのためジャズ、クラシックの様な再生時の音質における再現度が重要視されるジャンルでは、[[EMI|EMIグループ]]を除いてCCCDの利用は少ない。またエイベックスでは、クラシック音源は原則[[Super Audio CD|SACD]]とCCCDのハイブリッドディスクでリリースしている。一方でエイベックス広報部は「[[CD-DA]]と比較して音質の劣化は一切見られない」と、各種媒体上で反論を見せた<ref>{{Cite web|和書|url=https://avex.jp/cccd/faq9.htm |title=音質は悪くなりませんか? |work=よくある質問と答え |publisher=エイベックス |accessdate=2022-04-24}}</ref>。 さらに、再読出しするために同一セクタへの連続シークなどが発生するので、制御機構へ過剰な負担がかかることから、再生機器の製品寿命低下や動作不良を引き起こす可能性がある。これら故障は「音楽CDとしての仕様を満たしていないディスクの利用による故障」「ユーザーの故意の破損」と見なされて[[メーカー保証]]の対象外となり、有償修理または修理拒否となる可能性がある。 コピーガード技術については[[DVD]]で採用されている暗号化とは異なる。そのためディスク自体に細工をすることでプロテクト解除をしたり、ドライブによっては(機構面への負担を除くと)CD同様に読み出せるものもある。また、他の防止策と同様コピーを完全に防止することは事実上不可能のため、再生音質を向上させる、あるいは自分の再生機器で再生を可能にする目的として複製が行われることがある。 * [[音響機器]](特にポータブルCDプレーヤーや[[カーオーディオ|車載用]]CDプレーヤー)では、音飛び防止のためにCD内容をデータとして[[半導体メモリ|メモリ]]に蓄積してから再生する機能が用意されており、また[[カーナビゲーションシステム]]にも内蔵[[ハードディスク]]に音源を録音する機種が増えた。これらの機能を持った機器ではパソコン同様正常に再生できないことが多い。特に輸入CCCDはカーオーディオで再生できないものが多く、[[フランス]]では訴訟問題にも発展している。 * CCCDの台頭後、音楽の再生手段はMDやCDから[[iPod]]/[[iPhone]]・[[ウォークマン]]を初めとする[[デジタルオーディオプレーヤー]]に移行した。これらの機器は必然的にパソコン上で[[iTunes]]や[[x-アプリ]]などのリッピングソフトを介し、音源の複製やプレイヤー上への転送を必要とする。そのため、パソコン上に取り込めないCCCDはこの種のプレーヤーで聴くことはできない。 * 低安定性・低スペックのパソコンにCCCDをドライブに挿入するとCCCDの読み込みによりパソコンが[[フリーズ]]([[ハングアップ]])する場合がある。 * [[Microsoft Windows Vista]]以降のOSでは、iTunesを使用した場合、ソニー系のレーベルゲートCDは、複製のみ可能。こちらの再生を行うとフリーズする。一方、レーベルゲートCD以外の場合は複製も再生も可能。またWindows Media Playerを使用の場合は、どちらも複製、再生可能。 === 商品としての問題点 === * [[著作権]]を侵害していない正規の利用者までが上記の不利益を一律に被る。そのため、善意の利用者もデジタルオーディオプレーヤーなどでの利用のためにコピー制限がない違法音源の利用を希望し、かえって違法コピーが増加する可能性がある。 * レーベル各社はこのディスクに起因するいかなるトラブルに対しても責任を一切負わず、返品も受け付けていない。CCCDは、不正なエラー訂正符号によるAV機器への悪影響やCCCDが正常に再生できない(認識されない・音飛び)等のリスクだけを一方的に消費者に負わせるものであり、約款の書かれたシール付きのフィルムを破った段階で契約が成立するとしている(いわゆる[[シュリンクラップ契約]])。さらに、エイベックスなどほとんどのレーベルはCCCDによって発生したいかなる損害、例えば再生したプレイヤーの故障などに対しても一切補償しないことを発表しており<ref>{{Webarchive|url=https://archive.is/VbHZC|date=2013-05-11|title=コピーコントロールCDについてのご案内}}</ref>、消費者側から無責任すぎるという批判が相次いだ{{要出典|date=2011年2月}}。法律家{{誰|date=2018年9月}}は、こうしたレーベル側の行動は明らかに[[製造物責任法]]に抵触するとしている{{要出典|date=2011年2月}}。 === レーベルゲートCDにおける問題点 === 通常のCCCDとは異なり、PC用データを条件付きでコピー可能にすることが特徴だったレーベルゲートCDにも、以下のような問題点があったことから普及が進まなかった。 * 他のCCCDが抱えていた問題を引きずってしまった。1stセッションエリアのプロテクト技術自体は、エイベックス等のCCCDで採用されたCDS-200をベースとした規格であり、音質向上こそ図られたものの再生環境の改善等が図られたわけでもない一方でパソコンで再生・コピーできてしまうケースも多々あり、複製防止効果にも疑問が生じた。 * 洋楽盤への導入の目途が立たなかった。リリースされた295タイトルは全て邦楽であり、洋楽は存在しない。 *SME以外の他のレコード会社が採用しなかった。独自の音質向上技術を他社が採用するのは難しく、前述のインターネットを利用した認証・複製システム等のエイベックス方式とは異なる点が存在し、他のCCCDに比べてシステムが複雑で運営コストがかさむという欠点を抱えていた。 * 仕様上、[[ソニー]]と[[アイワ]]の一部以外、iPodを筆頭とする他社製デジタルオーディオプレーヤー(DRM非対応のソニー・アイワ製デジタルオーディオプレーヤーも含む)への転送は行えなかった。またCD書き出しも行えないほか、ファイルの扱い次第で再生できなくなるケースも生じた。 * [[Microsoft Windows XP]]以外の[[オペレーティングシステム]]を採用するパソコンでは、再生や複製が行えない。MAGIQLIPはWindows XP以外のOS(Windows Vista以降のWindowsを含む)では動作せず、他のソフト(同じソニー製では[[SonicStage]]・[[x-アプリ]]・[[Media Go]]等)では2ndセッションエリアの再生や複製が行えないため、これらのOSでは再生や複製手段がなかった(但し先述のように1stセッションエリアの再生・複製が行えるケースも多々あった)。 * 複製ソフトの使い勝手が悪かった。MAGIQLIPは多数の音楽ファイルの管理には不向きであったほか、レーベルゲートCDのバージョンによってMAGIQLIPとMAGIQLIP2を使い分ける必要があった。 === ミュージシャン側の主張と問題点 === 音楽業界全体という枠組みで見た場合、導入以前からCCCDについて反対・疑問視の意思を見せていた者は決して多数派とは言い難く、多くはCCCDが抱える諸問題について実際に導入されるまで比較的無頓着で技術的な知識に乏しい者では「CDがコピーできなくなる」というメリットの一点だけを見て気楽に賛成していた者も少なくなかった。実際に、SMEがCCCDを導入した際に導入前の段階でこれを疑問視し会社まで説明を聞きに来たのは、SME系レーベルに当時所属の数多くの歌手・ミュージシャンの中でもわずかに[[浅倉大介]]、[[奥田民生]]、[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]だけである<ref>浅倉のファンクラブ会報およびASIAN KUNG-FU GENERATIONの公式サイトの日記より{{Full citation needed|date=2019年7月}}</ref>。 CCCD導入の対象とされた歌手・ミュージシャンたちの多くは、CCCDについて必要な情報を与えられても、それを正しく理解できていなかった。CCCDの持つ技術的な問題点を一般ファンに明確に説明できたミュージシャンも、音楽業界を見渡しても[[浅倉大介]]<ref group="注">[[ヤマハ|YAMAHA]]における[[デジタルシンセサイザー]]開発からキャリアがスタートした。</ref>などの音楽のデジタル技術に造詣が深く、この種の専門的な技術情報の収集・分析ができる知識を持った一部の人物に限定されていた。 CCCD導入当初からアーティスト側にもCCCDに対して批判的な者は見られ、CCCD非導入レーベルから音楽CDを販売している者もいる。アーティスト側だけでなく、CCCDをリリースしているレコード会社のスタッフにも批判的な者が少なくなかった。 * [[クイーン (バンド)|クイーン]]の『[[ジュエルズ (アルバム)|ジュエルズ]]』のCCCD発売に際し、あるファンからの[[電子メール]]で、[[ブライアン・メイ]]がCCCD版の存在を知り、激怒したという。これを受けてか、次作『[[ジュエルズII]]』は通常の[[CD-DA]]で発売されている。 * [[矢井田瞳]]は、[[2004年]](平成16年)7月に発売されたベスト・アルバムではCCCDで発売されたが、自身のウェブサイトでの[[ブログ]]でベスト・アルバム後に発売されたシングルがCCCDではないことに喜んでいる記述があり、本人はCCCDに対して抵抗感を抱いていたことが窺える。彼女の作品でCCCDなのは、このベスト・アルバムのみに止まっている。 * [[陰陽座]]は、CCCD導入にあまり乗り気ではなかったが、所属レコード会社の[[キングレコード]]の要請を受けてアルバムのCCCD化を一旦許可し、その上で売り上げ促進の効果が見られなければ、即CCCDを廃止してCD-DAで改めて発売するという契約で、購入者のCCCDに対する観点からCCCD排除を訴えた{{要出典|date=2009年7月}}。そして、実際にCCCDでアルバムが発売されたものの、CCCDによる売れ行きの上昇効果はないに等しく、契約通りCCCDを廃止、直後にCD-DAで再販売した。キングレコードが発売したCCCDはこの1タイトルのみで、これ以降のアーティスト作品にはCCCDを導入していない。 * [[佐野元春]]は、当時所属していた[[エピックレコードジャパン]]の姿勢に疑念を抱き、独立してプライベート・レーベルを立ち上げた。 * [[山下達郎]]は、ラジオ番組「[[山下達郎のサンデー・ソングブック]]」にて、「次作はCCCDを導入するのか?」というリスナーの問いに対し、ユーモアを込めて「一言で言うと「山下達郎がそんなことをするはずがない(笑)」」「音質を劣化させるいかなる要素も排除したい」と回答しており、CCCDでのリリースを強く否定した。その発言通り、所属レコード会社の[[ワーナーミュージック・ジャパン]]が一部作品にCCCDを導入していた時期でも、音質悪化を理由に[[山下達郎の作品一覧|山下の作品]]では一切導入されていない。 * 音楽プロデューサーの[[宇多田照實]]はCCCDに疑問を持っており、娘・[[宇多田ヒカル]]のデビュー当時の所属音楽レーベルであった[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](当時)に対してCCCDでの販売を一貫して拒絶したため、東芝EMI所属時に発売された[[宇多田ヒカルの作品|娘のシングル・アルバム作品]]は全てCD-DAでリリースされ、音質が悪化するCCCDでの販売は一切なかった。 * 音楽プロデューサーの[[佐久間正英]]は、プロデュースを手掛けていた[[GLAY]]の「[[BEAUTIFUL DREAMER/STREET LIFE]]」がCCCDで発売され<ref group="注">当時のGLAYの所属レーベルは、前述の宇多田ヒカルと同じく東芝EMIであった。なお、CCCDでの発売はこの作品のみであり、[[GLAYの作品|アルバム作品]]のCCCDでの発売は一切なかった。</ref>、自身のサイトでファンからの指摘を受け、同ソースのCD-DAとCCCDを聴き比べ「CCCDの音質劣化とCCCDの方が再生の読み出しが遅いことが明らかである」と指摘し、自分がプロデュースするバンドのCDはなるべくCCCDではなくCD-DAで発売するよう努力すると発表した。GLAYでの採用は1枚限りとなったが、ほかにも[[175R]]等、CCCDで発売されるアーティストもいた。 一方で、著作権保護を理由にCCCDを容認したミュージシャンもいた。しかし、これがいざ自らのCDがCCCDになってから音質の悪さに気付いて、あるいはファンからCCCDの抱える諸問題について手厳しい批判を受けて、ようやく問題視するようになったという者もまた数多かった。 * 山下の活動初期の盟友だった[[吉田美奈子]]は、当初「生活のためにはCCCDが必要」と推進する立場を取り、「音質ではなく音楽を聴いて欲しい」と音質が劣化しても止むを得ないという旨を公然と発言していたが、結局方針を転換した。 * [[すぎやまこういち]]は、「CDの[[著作権]]を保護するためには少しの欠点は我慢しても容認すべき」として、CCCDを認める立場を取ってきた。CDプレーヤーを破壊することがあることなどが発覚してからは普及を諦めるが、「一刻も早くCCCDに代わる新技術の登場が待たれる」と発言し、新しい[[コピーガード]]技術の早期の確立が望ましいという考えを示した。また、「現在は音楽のコピーし放題が許される状態。法改正も視野に入れて考える問題でもある」と、音楽の[[複製]]を法規制するべきとの考えも示している<ref>{{Wayback|url=http://sugimania.com/says3.htm|date=20160326160620|title=&#60;cccd&#62;すぎやまこういちの世界}}</ref>。 * [[コンピュータ]]や[[テレビゲーム]]機の光学ドライブで再生される機会も多分に考慮する必要がある[[ゲームソフト]]関連のコンテンツの取り扱いも、CCCDの導入においてはまたネックとなった。例えば、エイベックスにおいては、[[テレビゲーム]]『[[サクラ大戦シリーズ|サクラ大戦]]』シリーズ関連の音楽CDについて、原作権を持つ[[広井王子]]が「テレビゲーム関連の音楽CDがテレビゲーム機のドライブで再生できなくなることは本末転倒」という旨の批判発言<ref>{{Wayback|url=http://red-universe.com/cgi-bin/unibbs/bbstree.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=20608&e=res&lp=20601&st=20|date=20021013212036|title=2002年9月5日、広井王子のサクラ大戦BBSへの書き込み}}</ref>をし、CCCDを強要される事態になれば[[原盤権]]をエイベックスから引き上げると表明していた{{要出典|date=2011年2月}}影響か、他作品でのCCCD導入後も例外的に導入できないという状況が見られていた。 === セキュリティ問題として起きた事件 === {{main|ソニーBMG製CD XCP問題}} {{Wikinews|米SONY_BMGの音楽CD、パソコンの安全を脅かす}} [[アメリカ合衆国]]の大手レコード会社である、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)]]がリリースしたCCCDに、[[マルウェア]]([[コンピュータウイルス]])である[[ルートキット|rootkit]]の技術を取り入れていることが、セキュリティ会社の調査によって判明した。この事実を受け米国在住の男性が、ソニーBMGを相手取り訴訟に踏み切った。 その後、XCPの動作が[[コンピュータウイルス]]に利用された例が[[2005年]](平成17年)[[11月10日]]に報告された。ソニーBMGは[[11月7日|7日]]、[[コンピュータプログラム]]を削除はせず、機能停止するツールを公表したが、駆除ツールに[[バグ]]があり、不正な[[ActiveX]]を実行し得る仕様になっていたことから、[[11月16日|16日]]に公開を停止した。その後ソニーBMGは、該当コピーコントロールCDの回収・交換措置に踏み切った。日本の[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]も自社が輸入した該当コピーコントロールCDの回収・交換を行う。 CCCDはパソコンのドライブに入れると、利用者の同意なしに再生ソフトが勝手に[[インストール]]され、このような問題が常に発生しうる状況にある。このインストール機能は、自動再生機能を利用しているため、[[シフトキー]]の長押しによる自動再生キャンセル操作や、コントロールパネルで自動再生を無効に設定する必要がある。 === 正規品のCD売り上げに対する影響 === [[2003年]](平成15年)度における[[オリコンチャート]]年間シングルチャートランキング1位となった、[[SMAP]]の『[[世界に一つだけの花]]』([[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]製)は、CD-DAだったが250万枚以上を売上げており、必ずしもCD売上の減少が、違法コピーによるものとは言い切れないことを裏付けた。逆に、CCCDを主導したエイベックスは、[[2004年]](平成16年)3月の時点で、コピーコントロールCD発売前よりも売り上げを20%も落とす結果となった{{要出典|date=2022年4月}}。なお2003年の年間オリコンシングルチャートTOP10のうち、CCCDは1枚のみ、年間TOP20でも4枚だけだった{{要出典|date=2022年4月}}。 == 終焉 == 前述の通り、CCCDは多くの問題点を抱えたまま発売され、結果的にCCCDが抱える問題点の解決策を見出せなかったために、この種の方式を採用し続けてきたレコード会社に対して、購入者・ファンやミュージシャン側からの不満が続出した。また、CCCDの登場段階以上にリッピング行為・[[iPod]]を代表とする[[デジタルオーディオプレーヤー]]が普及し、[[iTunes Store|iTunes Music Store]]の登場により、CCCD自体が「[[CDプレーヤー]]を破損する危険性が高い上に、[[コンパクトディスク]]との再生互換性の保証もなく、音楽ソフトとして問題が多いディスク」という認識へと変わっていった。 この代償は大きく、CCCD導入の先陣を切ったエイベックスは、[[2004年]](平成16年)[[9月22日]]以降発売の作品は「作品ごとにCCCDを採用するかどうかを決定する形へ緩和する」ことを発表し、その後段階的に撤廃してCD-DAでのリリースに戻した。SMEも同年10月以降段階的に廃止し、同年[[11月17日]]以降に発売する新譜はすべて通常の音楽CDで発売すると発表した。 エイベックスのCCCD撤廃は、当初販売用CDに対してのみ行われ、レンタル用・プロモーション用にはほぼ全面的に、あるいは販売用であっても一部のアニメ関連作品およびクラシック作品にはCCCDが導入されていたが、[[2007年]](平成19年)1月以降は前述の一部のアニメ関連作品およびクラシック作品に加え、レンタル用にもCD-DAでの供給が開始されている(事実上のCCCD撤退)。 [[2005年]](平成17年)[[7月27日]]には、SMEがレーベルゲートCDで発売したアルバム105タイトル、[[10月26日]]にもシングル190タイトルの計295タイトルがCD-DAとして再出荷されると同時にレーベルゲートCD商品はすべて[[廃盤]]となり、店頭からはほぼ消滅した。再販に当たって[[規格品番|品番]]が変更されており、品番の古い物が廃盤になっている<ref>[https://www.cdjournal.com/main/news/-/9435 ソニー、CCCD仕様で発売していた105作を通常CDで再出荷に]</ref><ref>[https://www.cdjournal.com/main/news/-/10081 ソニー、レーベルゲートCD190タイトルを通常CDで再出荷に]</ref>。但し、レーベルゲートCDの中古およびレンタル版については回収の対象外となり、現在においても置き去りにされた状態である。また、複製サービスもLGCDは[[2006年]](平成18年)[[11月30日]]に、LGCD2も[[2008年]](平成20年)[[3月31日]]をもってそれぞれ終了した。 最後までCCCD推進の立場を崩さなかった東芝EMIは、その後もCCCD撤廃を検討せず[[セキュアCD]]なる新方式を採用し導入を続けていたが、[[2006年]](平成18年)にCCCDでのリリースから事実上撤退し、[[2006年]](平成18年)6月以降リリースは行われていない。 == コピーコントロールCDの導入状況 == [[2022年]]([[令和]]4年)6月現在、新譜でCCCDがリリースされることはなくなり、CCCDでリリースされた数々の多くの作品がそのまま継続販売されているのみである。 #'''完全撤退'''(かつてCCCDを導入したことがある会社。ウェブサイトや新聞等で公式に撤退を発表した場合) #* [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] #*: レーベルゲートCD - [[2004年]](平成16年)[[11月10日]]発売分まで(一部除く)。同年[[11月17日]]以降発売の新譜よりCD-DAで発売。既に発売されたレーベルゲートCDは一部タイトルを除きCD-DAで再販し、同時にレーベルゲートCDは廃盤になった。日本盤のみLGCD仕様となっており、香港や台湾、シンガポール等での現地で発売されているCDは、CD-DA仕様となっていた。 #* [[ワーナーミュージック・ジャパン]] #*: [[2005年]](平成17年)1月発売分からCCCDのリリースを行っていない。前年の12月にCCCD撤退を公式発表。順次CCCDで出たタイトルはCD-DAで再リリース。 #'''事実上撤退'''(公式に撤退を発表しないでCCCDのリリースを停止した場合や弾力的採用、正式な採用を見送った場合も含む) #* [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](現:[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック]]) #*: 2005年8月以降はCDS-300を使用した「[[セキュアCD]]」(通称)に移行。ただし、[[2006年]](平成18年)6月を最後に[[セキュアCD]]でのリリースは行っていない。香港・台湾・タイのEMIで発売された作品においても、日本盤同様CCCD仕様でリリースされている。邦楽の一部ではCCCDで出た作品をCD-DAで再販したり、CCCDの品番を廃盤にして再販している他、洋楽でも期間限定ではあるがCD-DAで再販している作品や、CCCDの品番を廃盤にしてCD-DAとして再リリースしている作品もある。 #* [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]] #*: 一部アーティスト・作品など弾力的に採用。音質劣化防止のため独自技術「エンコードK2」を導入。2004年12月以降は原則として導入なし。[[2007年]](平成19年)12月に「CCCDとしてのライセンス契約が終了」とCCCDサイトのコンテンツで発表。CCCDとして発売したタイトルは後にCD-DAで随時再リリースされた。 #* [[ポニーキャニオン]] #*: 一部アーティスト・作品など弾力的に採用。尚、豊華唱片(FORWARD MUSIC)から発売されていた台湾ライセンス盤に於いても日本国内同様CCCD仕様で発売されていた。2005年5月以降は原則として導入なし。 #*:[[aiko]]のアルバムの中で唯一CCCDとなった『[[暁のラブレター]]』が他のCD-DA作品同様[[Super Audio CD|SACD]]とCD-DAのハイブリッドで再リリースされた(品番:PCCA-01528)。またシングル『[[えりあし]]』・『[[かばん (aikoの曲)|かばん]]』・『[[花風]]』も初回盤・通常盤共にCCCDで発売されたが、後にCD-DAとして再リリース(通常盤のみ)されている。 #* [[キングレコード]] #*: [[陰陽座]]のアルバム「[[鳳翼麟瞳]]」にCCCDを試験的に導入したが、結局正式な採用は見送った。後にCD-DAで再リリースされた(品番:KICS-994)。 #* [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック]] #*: 所属アーティストの意向の形で一部作品で導入したが、[[2002年]](平成14年)2タイトル以外CCCDでのリリースはなし。その後、導入された2タイトルの1つであった[[CHAGE and ASKA]]『[[STAMP (CHAGE and ASKAのアルバム)|STAMP]]』は[[2009年]](平成21年)にCD-DAで再販(品番:UMCK-1140)。 #* [[テイチクエンタテインメント]] #*: 一部アーティスト・作品で採用。「エンコードK2」を導入。2002年と[[2003年]](平成15年)に合わせて2タイトルのみ。 #* [[フォーライフミュージックエンタテイメント]] #*: 一部アーティスト・作品で採用。2005年以降リリースなし。 #* [[エイベックス]] #*: 2002年3月のCCCD業界初採用以来、一部を除き、ほぼ全ての作品をCDS-200でリリースしていたが、2004年9月にCCCDリリースの弾力化を発表後、同年10月発売分以後販売用は任意導入。レンタル盤については[[CD EXTRA]]仕様のものや収録時間の長いものなど一部を除き全面的にCCCDを導入していたが、[[2007年]](平成19年)1月以降はクラシック音源を除きCD-DAでの販売・レンタルが行われている(レンタル専用のCCCDの品番はAVCX-*****、RZCX-*****、AVCR-*****等となっている。販売用とレンタル用の両方の品番が背表紙に印刷されているが、レンタル用はディスクのレーベル面に大きめのCCCDのロゴマークがある)。 #*:台湾盤(avex taiwan)や香港盤(avex asia)でも現地法人を通して[[V6 (グループ)|V6]]・[[浜崎あゆみ]]・[[Every Little Thing]]などの作品を発売していたが、日本盤同様CCCD仕様でのリリースとなっている。 #*:2002年 - 2004年にかけて[[安室奈美恵]]([[SUITE CHIC]]『[[WHEN POP HITS THE FAN]]』のみ含む)のCCCD仕様で発売された旧譜は、現在はCD-DA仕様に切り替わった上で出荷・販売されてある(品番・価格の変更はなし)。 #'''原則として導入なし''' #* [[BMG JAPAN|BMGジャパン]](現:[[アリオラジャパン]] / [[ソニー・ミュージックレーベルズ|ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル]]) #*: 欧米のソニーBMGは積極的にコピーコントロールCDを導入した。日本法人(当時はBMGファンハウス)は2002年7月に[[キンモクセイ (バンド)|キンモクセイ]]のアルバム『[[音楽は素晴らしいものだ]]』で導入予定だったが最終的に導入を見送り、その後もその方向を堅持した。ただし[[ゾンバ・レコード]]が[[BMG]]に買収される前に、ゾンバの日本法人がエイベックス傘下で1タイトルをコピーコントロールCDで発売していた(この1タイトルも後にCD-DAで再販された)。 #* [[トイズファクトリー]] #*:台湾・香港に於いては[[1999年]](平成11年)から[[SPEED]]や[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]・[[ケツメイシ]]・[[BUMP OF CHICKEN]]等の作品はエイベックスの現地法人を通してライセンス盤を供給していたが、全てCD-DAでの販売だった。但し、現地で発売されたエイベックスのコンピレーションアルバムに収録された楽曲では、CCCD仕様で収録されているものもあった<ref group="注">台湾版は現地生産だったが、香港版は日本の[[メモリーテック]]で製造されたものだった。現在、トイズファクトリーはアーティストによってライセンス先を変えており、台湾においては[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]等はワーナーだが[[SEKAI NO OWARI]]等はソニーとなっている。[[Mr.Children]]等の作品は、エイベックスにライセンスする前の1995年 - 1997年に[[ポリグラム]]傘下のMusicanから発売されていたが、それ以降現地での発売は無い。</ref>。 #* [[ドリーミュージック]] #* [[日本コロムビア]] #* [[日本クラウン]] #* [[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]] #* ジェネオン エンタテインメント(現:[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]) #* [[ビーイング]] #* [[アップフロントワークス]] #* [[バップ]] #* [[ポリスター]] #* [[よしもとミュージック|よしもとR&C]] #* [[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]] #* [[ジャニーズ・エンタテイメント]] #*:[[2001年]](平成13年)から台湾・香港に於いてエイベックスの現地法人を通してライセンス盤を供給しているが、トイズファクトリー同様CD-DAでの販売だった<ref group="注">エイベックスに委託する前は、台湾ではFORWARD MUSIC、香港ではポリグラム系列のGo East ENTERTAINMENTより販売されていた。</ref>。 #* [[ジェイ・ストーム]] #*:2006年12月発売の[[KAT-TUN]]のシングル「[[僕らの街で]]」から台湾・香港に於いてエイベックスの現地法人を通してライセンス盤を供給しているが、CD-DAでの販売<ref group="注">日本国内並びアジア諸国での販売は[[EMIミュージックジャパン|東芝EMI]]と[[EMI]]の現地法人を通して販売されていたが、同年秋以降日本国内ではソニーが販売受託する事になり、アジア諸国での販売はエイベックスに変わった。</ref>。 #: 他、多数。 #: これらの会社は、その実効性等に疑問を呈する見解等から当初からCCCDを導入していない。ただし、CDプレス工場を有していた日本コロムビア、およびNBCユニバーサルの前身であるパイオニアLDC傘下のCDプレス会社であるパイオニアビデオは、他社からの依頼に対応するためにCDS-200のライセンスを取得していた<ref>{{Wayback|url=http://www.midbartech.com/pr/28052002.html|date=20021023171029|title=MIDBAR EXPANDS INTO TAIWANESE MARKET}}当時のプレスリリース情報。</ref>。(2022年6月現在、日本コロムビア、およびパイオニアビデオのCDプレス設備は両社共に閉鎖済み。) *また洋楽に関して、日本盤はCD-DAだが国外盤はCCCDというケースが見られる。CCCDとして初の全米1位となった[[ヴェルヴェット・リヴォルヴァー]]の『[[コントラバンド (アルバム)|コントラバンド]]』などが該当する。逆に[[ビートルズ]]の『[[レット・イット・ビー...ネイキッド]]』など、日本盤がCCCDで英米盤がCD-DAというケースも見られる。 *その他にも[[ポルノグラフィティ]]や[[CHEMISTRY]]・[[TUBE]]らの日本盤はLGCD2仕様の発売だが香港盤や台湾盤はCD-DA仕様で発売されていたり、[[宇多田ヒカル]]の『[[Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1]]』の日本盤・香港盤・台湾盤はCD-DA仕様だがタイ盤はCCCD仕様となっており、一部ショップでは逆輸入盤という形で購入する事が出来た。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[著作権]] * [[著作権法]] * [[デジタル著作権管理]] * [[コピーガード]] * [[海賊版]] * [[音楽レコードの還流防止措置]](レコード輸入権) * [[CD不況]] == 外部リンク == === 業界団体等 === * [https://www.riaj.or.jp/ 一般社団法人 日本レコード協会] - コピーコントロールについて<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.riaj.or.jp/all_info/cccd/|title=各種情報 - コピーコントロールについて|publisher=[[日本レコード協会|一般社団法人 日本レコード協会]]|accessdate=2018-08-25|archiveurl=https://archive.is/rYhT|archivedate=2012-02-19|deadlink=2018-08-25}}</ref>。 === メディア系 === * [https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0408/25/news059.html 特集:私的複製はどこへいく? 第一回:コピーは何回? それとも禁止?(1/2)] - (ITMedia) * [https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0408/26/news033.html 特集:私的複製はどこへいく? 第二回:「コピーの全否定は問題」――音楽業界のジレンマ(1/2)] - (ITMedia) * [https://www.asahi.com/tech/apc/041130.html コピーコントロールCDを徹底的に総括する。ファンとアーティストを傷つけ、法制度面でも問題山積] - [[ASAHIパソコン]] === レコードメーカー === *[https://web.archive.org/web/20180828173200/http://www.sonymusic.co.jp/cccd/ レーベルゲートCD&レーベルゲートCD2] - (株式会社ソニーミュージックエンタテインメント、2018年8月28日時点でのアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20100505125151/http://www.avexnet.or.jp/cccd/ コピーコントロールCDについてのご案内] - (エイベックス株式会社、2007年11月7日時点でのアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20120722180336/http://www.emimusic.jp/cccd/ コピーコントロール技術の導入にあたって] - (株式会社EMIミュージック・ジャパン、2012年7月22日時点のアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20120722180323/http://www.emimusic.jp/securecd/ セキュアCDについて] - (株式会社EMIミュージック・ジャパン、同上) * [https://www.jvcmusic.co.jp/cccd/ コピーコントロールCD(CCCD)について] - (ビクターエンタテインメント) === 機器メーカー === * [https://web.archive.org/web/20070217222812/http://www.faq.sonydrive.jp/faq/1040/app/servlet/qadoc?003075 コピーコントロールCD (CCCD) やレーベルゲートCDは再生できますか?] - ([[ソニー]]・よくあるお問い合わせ(Q&A)、2007年2月17日時点でのアーカイブ) * [https://www.clarion.com/jp/ja/products/2011/cautions/cccd/ コピーコントロールCDについて] - ([[クラリオン]]) * [https://jp.sharp/support/audio/md/info/info_01.html コピーコントロールCD(CCCD)について] - ([[シャープ]]) * [http://buffalo.jp/qa/cd-r_rw/b2af0040.html コピーコントロールCD(コピー防止機構付きCD)への対応について] - ([[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]) * [https://av.jpn.support.panasonic.com/support/audio/faq/cccd.html コピーコントロールCDに関する重要なお知らせ] - ([[パナソニック|松下電器産業]]) * [https://web.archive.org/web/20090219001117/http://www.ricoh.co.jp/drive/support/copycontrol.html コピーコントロールCDの扱いについて] - ([[リコー]]、2009年2月19日時点でのアーカイブ) {{CD規格}} {{光ディスク}} {{デフォルトソート:こひいこんとろおるCD}} [[category:コンパクトディスク]] [[Category:著作権管理技術]] [[Category:2000年代の音楽]] [[Category:メディア問題]]
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語義の曖昧性解消
語義の曖昧性解消(ごぎのあいまいせいかいしょう、英語: Word-sense disambiguation)とは自然言語処理において、文中のある単語に出会ったとき、その単語がどの語義をあらわしているのかを判断する過程のこと。語義識別、語義判別、語義確定などともいう。 自然言語の単語には複数の語義が存在する場合がある。たとえば動詞「やる」には以下のような異なった語義が存在する: 語義の曖昧性解消は機械翻訳などのアプリケーションで非常に重要である。たとえば日本語の「やる」という動詞のもつそれぞれの語義は、ほかの言語では別々の動詞(英語では play, give, remove など)によって表されているためである。現在の自然言語処理では、語義の曖昧性解消には単語の共起関係を使う手法が一般的である。
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{{Expand English|Word-sense disambiguation|date=2022-10}} {{出典の明記|date=2018年10月11日 (木) 02:36 (UTC)}} '''語義の曖昧性解消'''(ごぎのあいまいせいかいしょう、{{lang-en|Word-sense disambiguation}})とは[[自然言語処理]]において、文中のある単語に出会ったとき、その単語がどの[[語義]]をあらわしているのかを判断する過程のこと。'''語義識別'''、'''語義判別'''、'''語義確定'''などともいう。 [[自然言語]]の単語には複数の[[語義]]が存在する場合がある。たとえば動詞「やる」には以下のような異なった語義が存在する: * 彼はその仕事を'''やった'''。(ある動作をする) * その日はジャズを'''やった'''。(演奏/上映する) * プレゼントとして時計を'''やった'''。(譲渡する) * 机の上の本を向こうへ'''やった'''。(どかす) * 心配なので人を'''やった'''。(遣いを出す) * 目を向こうへ'''やった'''。(視線を投げる) 語義の曖昧性解消は[[機械翻訳]]などのアプリケーションで非常に重要である。たとえば日本語の「やる」という動詞のもつそれぞれの語義は、ほかの言語では別々の動詞(英語では play, give, remove など)によって表されているためである。現在の自然言語処理では、語義の曖昧性解消には単語の[[共起関係]]を使う手法が一般的である。 == 関連項目 == * [[曖昧さ回避]] {{computer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こきのあいまいせいかいしよう}} [[Category:曖昧さ]] [[Category:自然言語処理]] [[Category:意味論]] [[Category:語彙意味論]] [[Category:計算言語学]]
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Alto
Alto(アルト)は、後にデスクトップ・メタファーを使用し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) をベースにしたオペレーティングシステム (OS) をサポートするように設計された最初のコンピュータである。最初のマシンは1973年3月1日に動き始めた。Appleが大規模市場向けGUI搭載パソコン「Macintosh」を発表する10年以上前のことである。 Altoは比較的小さなキャビネットに収められ、複数の小規模・中規模集積回路から作られたカスタム中央処理装置 (CPU) を使用している。10年 - 15年後の「パーソナルコンピュータ」の一般的な性能を想定して設計されたため、マシン1台当たりのコストは高級車の販売価格に達した。当初は少数しか製造されなかったが、1970年代後半までに、ゼロックスの様々な研究所で約1,000台、いくつかの大学では約500台が使用されていた。製品化計画もあったが、社内での駆け引きに敗れ一旦は破棄された。しかし1977年11月の社内向けカンファレンス「フューチャーズ・デイ」での成功をうけてゼロックス本社上層部の興味を引き、1970年代終盤にはホワイトハウスなど限られた顧客にも販売されるなどして、総生産台数は試作機としては異例の約2,000台に達した。 Altoはシリコンバレーでよく知られるようになり、そのGUIはコンピューティングの未来とみなされるようになった。1979年、スティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) はパロアルト研究所 (PARC) への訪問を手配し、Apple Computer(現:Apple)の従業員がゼロックスの技術のデモンストレーションを受ける代わりに、ゼロックスがAppleのストックオプションを購入できるようにした。2回に渡ってAltoを見学した後、Appleの技術者たちは、そのコンセプトを利用して、Apple LisaやMacintoshシステムを開発・発表した。 ゼロックスは最終的に、Altoで培われたハードウエア技術を転用し、PARCとは別の部署で秘密裏に開発を進めていたOSを搭載したGUI搭載ワークステーション「Xerox Star」を商品化し、1981年に最初に販売した。完全なオフィスシステムは、数台のワークステーション、ストレージ、レーザープリンターを含み10万ドルもしたため、同じく高価格路線で商業的に失敗したApple ComputerのLisaと同様に、Starは市場に直接的な影響を与えることはほとんどなかった。 Altoは、SRIインターナショナル (SRI) のダグラス・エンゲルバート (Douglas Engelbart) とダスティン・リンドバーグ (Dustin Lindberg) によって開発された oN-Line System (NLS) に触発されて、1972年にバトラー・ランプソン (Butler Lampson) が書いたメモの中で考案された。設計は主にチャールズ・P・サッカー (Charles P. Thacker) が担当した。工業デザインと製造はゼロックスに委託され、そのスペシャルプログラムグループのチームには、プログラムマネージャーとしてダグ・スチュワート (Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン・オペレーションズ (Abbey Silverstone Operations)、工業デザイナーのボブ・ニシムラ (Bob Nishimura) が含まれていた。最初の30台はゼロックスエルセグンド(スペシャルプログラムグループ)によって製造され、PARCのジョン・エレンビー (John Ellenby)、エルセグンドのダグ・スチュワート(Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン (Abbey Silverstone) とともに、Altoのエレクトロニクスの再設計を担当した。パイロット運転の成功により、チームはその後10年間で約2,000台を生産した。 Xerox Altoのシャーシは現在、カリフォルニア州マウンテンビューのコンピュータ歴史博物館に数台、ジョージア州ロズウェルのコンピュータ博物館に1台が展示されており、個人の手に渡ったものもある。ランニングシステムは、ワシントン州シアトルのリビングコンピュータ博物館 (英語版) に展示されている。Charles P. Thacker は、Alto の先駆的な設計と実現により、2010年3月9日に Association for Computing Machinery の 2009 チューリング賞 を受賞した。2004年のチャールズ・スターク・ドレイパー賞は、Altoに関する研究に対してThacker、アラン・ケイ (Alan C. Kay)、Butler Lampson、ロバート・テイラー (Robert W. Taylor) に授与された。 2014年10月21日、Xerox Altoのソースコードやその他のリソースがコンピュータ歴史博物館から公開された。 以下の記述は、主にゼロックスPARCの1976年8月発行のAlto Hardware Manualに基づいている。 Altoはマイクロコード化されたデザインを使用しているが、多くのコンピュータとは異なり、層状化デザイン上でマイクロコードエンジンはプログラマから隠蔽されなかった。ピンボールなどのアプリケーションは、これを利用してパフォーマンスを高速化している。Altoは、Texas Instruments 74181チップをベースにしたビットスライス算術演算論理ユニット (ALU) を搭載し、書き込み可能なコントロールストア拡張機能を備えたROMコントロールストアを備え、16ビットワードで構成された128 kB (512 kBに拡張可能) のメインメモリで構成されている。大容量記憶装置は、IBM 2310で使用されていたものと同様の着脱可能な2.5MBのワンプラッタカートリッジ(後にゼロックスが買収したDiablo Systems社)を使用したハードディスクドライブを使用している。ベースマシンとディスクドライブ1台は、小型冷蔵庫ほどの大きさのキャビネットに収められ、デイジーチェーンを介してもう1台のディスクドライブを追加することができる。 Altoは機能要素間の線引きを曖昧にしたり、無視したりしていた。ストレージや周辺機器への電気的インタフェース(システムバスなど)が明確に定義されている個別の中央処理ユニットではなく、Alto ALUはメモリや周辺機器へのハードウェアインタフェースと直接相互作用し、コントロールストアから出力されるマイクロ命令によって駆動される。マイクロコードマシンは、固定の優先度を持つ最大16の協調タスクをサポートする。エミュレータタスクは、ほとんどのアプリケーションが書かれた通常の命令セットを実行するが、その命令セットはData General Novaの命令セットと似ているものの同じではない。その他のタスクは、ディスプレイ、メモリリフレッシュ、ディスク、ネットワーク、その他のI/O機能を実行する。例として、ビットマップ表示コントローラは16ビットのシフトレジスタに過ぎず、マイクロコードは、表示リフレッシュデータをメインメモリからそのシフトレジスタに移動し、メモリデータの1と0に対応する表示画素にシリアル化する。イーサネットも同様に、最小限のハードウェアでサポートされており、出力ワードのシリアル化と入力ワードのデシリアル化を双方向に行うシフトレジスタを備えている。その速度が3Mビット/秒に設計された理由は、マイクロコードエンジンはこれ以上高速化することができず、ビデオ表示、ディスクアクティビティ、メモリリフレッシュをサポートし続けるためである。 当時のほとんどのミニコンピュータとは異なり、Altoはユーザインタフェース用のシリアルターミナルをサポートしていない。イーサネット接続を除けば、Altoの唯一の共通出力デバイスは、傾斜&回転の台座を備えた2値 (白黒) ブラウン管 (CRT) ディスプレイで、一般的な「横向き」ではなく「縦向き」に取り付けられた。入力デバイスは、カスタムの着脱式キーボード、3ボタンマウス、オプションの5キー・コードキーボード (英語版) (コードキーセット)である。この2つはSRIのOn-Line Systemで導入されたもので、マウスはAltoユーザーの間で瞬く間に成功したが、コードキーセットは人気が出なかった。 初期のマウスでは、ボタンは3本の細い棒状で、左右ではなく上下に配置されて、ドキュメント内での色にちなんで命名された。動きは、互いに直角に配置された2つの車輪で感知されていた。これらはすぐに、ロナルド・E・ライダーが発明してビル・イングリッシュが開発したボールタイプのマウスに取って代わられた。これらは、フォトメカニカルマウスで、最初は白色光で、次に赤外線 (IR) を使用して、マウス内の車輪の回転をカウントした。 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表計算ソフトやデータベースソフトウェアはなかった。そのようなソフトはメインフレームなどには存在したが、個人が専有して使用するコンピュータ向けに販売された最初の表計算ソフトであるVisiCalcが登場したのは1979年のことである。 アラン・ケイらによってAlto上で開発された世界初のGUIベースのオペレーティングシステム (OS) 的存在であるSmalltalkは、パーソナルコンピューティングの方向性をエンドユーザーに示すだけでなく、オブジェクト指向の概念を本格的に取り入れた設計で開発者にもアピールし、このときのオブジェクト指向によるOS(APIやフレームワーク)設計は、現在最先端と言われるOSにも今なお色濃い影響を与え続けている。 1970年代半ばにはすでに、ウインドウシステム、メニュー操作、アイコン付きパレット、WYSIWYGエディタなど、現在のパソコンに匹敵する特徴も備えていた。出資受容の条件に要求してこれを見た、Apple Computerのスティーブ・ジョブズに大きな影響を与え、LisaやMacintoshを開発させるきっかけとなったとともに、PARCからAppleへの転職が相次いだ。 技術的には、Altoは小型のミニコンピュータであったが、当時のメインフレームコンピュータや他のミニコンピュータとは対照的に、一人で机に座って使用するという意味では、パーソナルコンピュータと見なすことができた。それは間違いなく「最初のパーソナルコンピュータ」であったが、このタイトルについては他の人々の議論がなされている。より重要なことは(おそらく議論の余地は少ないが)、Unixオペレーティングシステムに基づくApolloや、開発環境としてLispをネイティブに実行するように設計されたSymbolicsのシステムのようなシングルユーザーマシンのスタイルの最初のワークステーションシステムの1つであると考えられている。 1976年から1977年にかけて、スイスのコンピュータのパイオニアであるニクラウス・ヴィルト (Niklaus Wirth) はPARCでサバティカルを過ごし、Altoに興奮していた。Altoシステムをヨーロッパに持ち帰ることができなかったヴィルトは、ゼロから新しいシステムを作ることを決意し、彼のグループと一緒にLilithを設計した。Lilithは1980年頃に完成したが、これはApple LisaやApple Macintoshが発売されるかなり前のことである。1985年頃、Wirthは「Project Oberon」という名前でLilithの全面的な再設計を開始した。 1978年、ゼロックスは50台のAltosをマサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学、ロチェスター大学に寄贈した。メリーランド州ゲイザースバーグにある国立標準局コンピュータ科学研究所 (現在のNIST) には、1978年後半に1台のAltoが、Xerox Interim File System (IFS) ファイルサーバーとDoverレーザープリンターとともに寄贈された。これらのマシンは、ETH Zürich LilithやThree Rivers CompanyのPERQワークステーション、そして最終的にスピンオフ企業であるサン・マイクロシステムズによって販売されたStanford University Network (SUN) ワークステーションにインスピレーションを与えた。Apollo/Domainワークステーションは、Altoの影響を強く受けた。 Altoの取得後、ホワイトハウスの情報システム部門は、連邦政府のコンピュータ・サプライヤーをその方向に導こうとした。米国大統領府 (EOP) は、IBM互換のメインフレームに接続されたAltoのようなワークステーションを使用して、老朽化した行政管理予算局 (OMB) の予算システムに代わるコンピュータシステムの提案を要請した。そのような構成を提供できるメインフレームメーカーがなかったため、この要請は最終的に取り下げられた。 1979年12月、Apple Computerの共同創設者であるスティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) はPARCを訪れ、Smalltalk-76オブジェクト指向プログラミング環境、ネットワーク、そしてもっとも重要なのはAltoが提供するマウス駆動のGUIであるWYSIWYGを見せられた。当時、彼は最初の2つの重要性を認識していなかったが、最後の1つには興奮し、すぐにそれをAppleの製品(最初はLisa、次にMacintosh)に統合し、彼の会社で働くために何人かの重要な研究者を引きつけた。 1980年から1981年にかけて、PARCやXerox System Development Departmentの技術者たちは、Xerox Altoを使ってXerox Starワークステーションを設計した。 ゼロックスはPARCで開発された技術の価値に気づくのが遅れていた。1960年代後半にゼロックスがScientific Data Systems(SDS、後のXDS)を買収しても、PARCには何の関心を持たなかった。PARCはDigital Equipment Corporation (DEC) のPDP-10を独自にエミュレーションしてMAXCと名付けた。MAXCはARPANETへのゲートウェイマシンであった。同社は商業的にテストされていない設計でコンピュータ事業に再び参入することに消極的であったが、その哲学の多くは後の製品に搭載されることになる。 Byte誌は1981年に次のように述べている。 Altoの後、PARCは、非公式には「Dマシン」と呼ばれている、より強力なワークステーションを開発した(いずれもプロジェクトとして意図されたものではない)。Dandelion(最も強力ではないが、唯一製品化された)、Dolphin、Dorado(最も強力で、エミッタ結合型ロジック (ECL) マシン)、そしてDandel-Irisなどのハイブリッド機である。 1977年のApple IIや 1981年のIBM Personal Computer (IBM PC) などのパーソナルコンピュータが登場するまでは、コンピュータ市場は、中央コンピュータの処理時間をタイムシェアするダム端末を搭載した高価なメインフレームと、ミニコンピュータに支配されていた。1970年代を通じて、ゼロックスはPARCの研究に興味を示さなかった。ゼロックスが「Xerox 820」でPC市場に参入したとき、彼らはAltoのデザインを大幅に否定し、代わりに当時の標準であった80×24文字のみのモニタとマウスを持たないCP/Mベースの非常にオーソドックスな機種を選択した。 その後、PARCの研究者の助けを借りて、ゼロックスは最終的にDandelionワークステーションをベースとする「Xerox Star」を開発し、その後、コストを抑えた「Star」であるDaybreakワークステーションをベースにしたオフィスシステム「6085」を開発した。これらのマシンは、バトラー・ランプソン(Butler Lampson)の論文で説明されている「Wildflower」(ワイルドフラワー)アーキテクチャに基づいており、アイコン、ウィンドウ、フォルダーからなるGUI、イーサネットベースのローカルネットワーキング、ネットワークベースのレーザープリンタサービスなど、Altoの革新的な機能のほとんどが組み込まれていた。 ゼロックスが自分たちの間違いに気付いたのは、1980年代初頭、Apple ComputerのMacintoshがビットマップディスプレイとマウス中心のインタフェースによってPC市場に革命を起こした後のことである。これらはいずれも「Alto」からコピーされたものである。Xerox Starシリーズは商業的には比較的成功を収めたが、遅すぎた。高価なゼロックスのワークステーションは、初代Macintoshの後に登場した安価なGUIベースのワークステーションに対抗することができず、ゼロックスはワークステーション市場から完全に撤退してしまった。
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"text": "ゼロックスが自分たちの間違いに気付いたのは、1980年代初頭、Apple ComputerのMacintoshがビットマップディスプレイとマウス中心のインタフェースによってPC市場に革命を起こした後のことである。これらはいずれも「Alto」からコピーされたものである。Xerox Starシリーズは商業的には比較的成功を収めたが、遅すぎた。高価なゼロックスのワークステーションは、初代Macintoshの後に登場した安価なGUIベースのワークステーションに対抗することができず、ゼロックスはワークステーション市場から完全に撤退してしまった。", "title": "ゼロックスとAlto" } ]
Alto(アルト)は、後にデスクトップ・メタファーを使用し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) をベースにしたオペレーティングシステム (OS) をサポートするように設計された最初のコンピュータである。最初のマシンは1973年3月1日に動き始めた。Appleが大規模市場向けGUI搭載パソコン「Macintosh」を発表する10年以上前のことである。 Altoは比較的小さなキャビネットに収められ、複数の小規模・中規模集積回路から作られたカスタム中央処理装置 (CPU) を使用している。10年 - 15年後の「パーソナルコンピュータ」の一般的な性能を想定して設計されたため、マシン1台当たりのコストは高級車の販売価格に達した。当初は少数しか製造されなかったが、1970年代後半までに、ゼロックスの様々な研究所で約1,000台、いくつかの大学では約500台が使用されていた。製品化計画もあったが、社内での駆け引きに敗れ一旦は破棄された。しかし1977年11月の社内向けカンファレンス「フューチャーズ・デイ」での成功をうけてゼロックス本社上層部の興味を引き、1970年代終盤にはホワイトハウスなど限られた顧客にも販売されるなどして、総生産台数は試作機としては異例の約2,000台に達した。 Altoはシリコンバレーでよく知られるようになり、そのGUIはコンピューティングの未来とみなされるようになった。1979年、スティーブ・ジョブズ はパロアルト研究所 (PARC) への訪問を手配し、Apple Computer(現:Apple)の従業員がゼロックスの技術のデモンストレーションを受ける代わりに、ゼロックスがAppleのストックオプションを購入できるようにした。2回に渡ってAltoを見学した後、Appleの技術者たちは、そのコンセプトを利用して、Apple LisaやMacintoshシステムを開発・発表した。 ゼロックスは最終的に、Altoで培われたハードウエア技術を転用し、PARCとは別の部署で秘密裏に開発を進めていたOSを搭載したGUI搭載ワークステーション「Xerox Star」を商品化し、1981年に最初に販売した。完全なオフィスシステムは、数台のワークステーション、ストレージ、レーザープリンターを含み10万ドルもしたため、同じく高価格路線で商業的に失敗したApple ComputerのLisaと同様に、Starは市場に直接的な影響を与えることはほとんどなかった。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Otheruses|コンピュータ|その他のアルト|アルト (曖昧さ回避)}} {{Infobox information appliance | name = Alto | image = Xerox Alto mit Rechner.JPG | image_size = 240px | caption = 縦型ディスプレイ、キーボードとマウスを備えたXerox Alto | developer = [[ゼロックス|Xerox]] [[パロアルト研究所|PARC]] | manufacturer = Xerox PARC | type = | release date = {{Start date and age|1973|03|01}} | connectivity = [[Ethernet]] | lifespan = | price = US$32,000 in 1979 ({{Inflation|US|32000|1979|fmt=eq}}){{Inflation-fn|US}}<ref>{{cite magazine |last=Wadlow |first=Thomas |title=The Xerox Alto Computer |magazine=Byte Magazine |year=1981 |volume=6 |issue=9 |url=https://archive.org/details/byte-magazine-1981-09/page/n59}}</ref> | units shipped = Alto I: 120<br>Alto II: 2,000<ref>[http://www.digibarn.com/collections/audio/digibarn-radio/ron-cude-xerox/ron-cude-xerox-fumbling-future-and-elixir.mp3 MP3 Audio of Ron Cude talking about the 1979 Boca Raton Alto Event.] The DigiBarn Computer Museum, 2003.</ref> | media = 2.5 [[megabyte|MB]] hard disk that used a removable 2.5 MB single-platter cartridgeter<ref name=alto/> | os = Alto Executive (Exec) | input = [[キーボード (コンピュータ)|Keyboard]], 3-button [[マウス (コンピュータ)|mouse]], 5-key [[:en: chorded keyboard|chorded keyboard]] | power = | cpu = [[Transistor-transistor logic|TTL]]-based, with the [[演算装置|ALU]] built around four [[74181]] [[集積回路#SSI・MSI・LSI|MSI]] chips. It has user programmable [[マイクロコード|microcode]], uses [[エンディアン#ビッグエンディアン|big-endian]] format and a [[CPU]] [[クロック|clock]] of {{nowrap|5.88 MHz}}<ref>{{cite web|title=Alto I Schematics|url=http://bitsavers.org/pdf/xerox/alto/schematics/AltoI_Schematics.pdf|website=Bitsavers|accessdate=21 July 2016|page=54}}</ref><ref name=alto>{{cite web|title=History of Computers and Computing, Birth of the modern computer, Personal computer, Xerox Alto |date= |accessdate=2016-04-19 |url=http://history-computer.com/ModernComputer/Personal/Alto.html}}</ref> | storage = | memory = 96<ref name="manual">{{cite book|title=Alto Operating System Reference Manual|date=26 June 1975|publisher=Xerox PARC|page=2|url=http://bitsavers.org/pdf/xerox/alto/memos_1975/Alto_Operating_System_Reference_Manual_Jun75.pdf|accessdate=21 July 2016}}</ref>-512 [[kilobyte|kB]] (128 kB for 4000 USD)<ref name=alto/> | display = 606×808 pixels<ref name=alto/> | audio = | service = <!-- online service/s offered --> | dimensions = | weight = | touchpad = | related = [[Xerox Star]]; [[Apple Lisa]], [[Macintosh]] }} '''Alto'''('''アルト''')は、後に[[デスクトップ・メタファー]]を使用し、[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) をベースにした[[オペレーティングシステム]] (OS) をサポートするように設計された最初の[[コンピュータ]]である<ref>{{cite paper |last1= Koved |first1= Larry |first2= Ted |last2= Selker |title= Room with a view (RWAV): A metaphor for interactive computing. |citeseerx=10.1.1.22.1340 |publisher= IBM TJ Watson Research Center |date= 1999}}</ref><ref>Thacker, Charles P., et al. [http://research.microsoft.com/en-us/um/people/blampson/25-Alto/25-Alto.pdf Alto: A personal computer.] Xerox, Palo Alto Research Center, 1979.</ref>。最初のマシンは1973年3月1日に動き始めた<ref>{{cite web|url=http://www.xtimeline.com/evt/view.aspx?id%3D292762 |title=Archived copy |accessdate=June 25, 2013 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131113203320/http://www.xtimeline.com/evt/view.aspx?id=292762 |archivedate=November 13, 2013 }}</ref>。[[Apple]]が大規模市場向けGUI搭載パソコン「[[Macintosh]]」を発表する10年以上前のことである。 Altoは比較的小さなキャビネットに収められ、複数の小規模・中規模[[集積回路]]から作られたカスタム[[CPU|中央処理装置]] (CPU) を使用している。10年 - 15年後の「[[パーソナルコンピュータ]]」の一般的な性能を想定して設計されたため、マシン1台当たりのコストは高級車の販売価格に達した。当初は少数しか製造されなかったが、1970年代後半までに、[[ゼロックス]]の様々な研究所で約1,000台、いくつかの大学では約500台が使用されていた。製品化計画もあったが、社内での駆け引きに敗れ一旦は破棄された。しかし1977年11月の社内向けカンファレンス「フューチャーズ・デイ」での成功をうけて[[ゼロックス]]本社上層部の興味を引き、1970年代終盤には[[ホワイトハウス]]など限られた顧客にも販売されるなどして<ref>「フューチャーズ・デイがもたらした重要な結果の二番目は、妙な話だが、アルトの商品化計画が正式に起案されたことだ。」 マイケル ヒルツィック著 『未来をつくった人々―ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明』 鴨澤 眞夫訳、毎日コミュニケーションズ、2001年、386頁</ref>、総生産台数は試作機としては異例の約2,000台に達した。 Altoは[[シリコンバレー]]でよく知られるようになり、そのGUIはコンピューティングの未来とみなされるようになった。1979年、[[スティーブ・ジョブズ]] (Steve Jobs) は[[パロアルト研究所]] (PARC) への訪問を手配し、Apple Computer(現:Apple)の従業員がゼロックスの技術のデモンストレーションを受ける代わりに、ゼロックスがAppleのストックオプションを購入できるようにした<ref>{{Cite web|url=https://web.stanford.edu/dept/SUL/sites/mac/parc.html|title=The Xerox PARC Visit|website=web.stanford.edu|access-date=2018-09-02}}</ref>。2回に渡ってAltoを見学した後、Appleの技術者たちは、そのコンセプトを利用して、[[Apple Lisa]]や[[Macintosh]]システムを開発・発表した。 ゼロックスは最終的に、Altoで培われたハードウエア技術を転用し、PARCとは別の部署で秘密裏に開発を進めていたOSを搭載したGUI搭載ワークステーション「Xerox Star」を商品化し、1981年に最初に販売した。完全なオフィスシステムは、数台のワークステーション、ストレージ、[[レーザープリンター]]を含み10万ドルもしたため、同じく高価格路線で商業的に失敗したApple ComputerのLisaと同様に、Starは市場に直接的な影響を与えることはほとんどなかった。 ==歴史== [[File:Computer Museum of America (02).jpg|right|thumb|Alto 3ボタンマウス]] [[File:Xerox Alto mouse bottom.jpg|right|thumb|下面から見たAltoのボール型マウス]] [[File:Xerox Alto keyset.jpg|right|thumb|オプションの5キー・コードキーボード]] Altoは、[[SRIインターナショナル]] (SRI) の[[ダグラス・エンゲルバート]] (Douglas Engelbart) とダスティン・リンドバーグ (Dustin Lindberg) によって開発された [[NLS|oN-Line System]] (NLS) に触発されて、1972年に[[バトラー・ランプソン]] (Butler Lampson) が書いたメモの中で考案された。設計は主に[[チャック・サッカー|チャールズ・P・サッカー]] (Charles P. Thacker) が担当した。工業デザインと製造はゼロックスに委託され、そのスペシャルプログラムグループのチームには、プログラムマネージャーとしてダグ・スチュワート (Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン・オペレーションズ (Abbey Silverstone Operations)、工業デザイナーのボブ・ニシムラ (Bob Nishimura) が含まれていた。最初の30台はゼロックスエルセグンド(スペシャルプログラムグループ)によって製造され、PARCの[[ジョン・エレンビー]] (John Ellenby)、エルセグンドのダグ・スチュワート(Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン ([[:en:Abbey Silverstone|Abbey Silverstone]]) とともに、Altoのエレクトロニクスの再設計を担当した。パイロット運転の成功により、チームはその後10年間で約2,000台を生産した<ref name="clement">"The History of the Xerox Alto". Carl J. Clement. March, 2002.</ref>。 Xerox Altoのシャーシは現在、カリフォルニア州[[マウンテンビュー]]の[[コンピュータ歴史博物館]]に数台、ジョージア州[[ロズウェル (ジョージア州)|ロズウェル]]のコンピュータ博物館に1台が展示されており、個人の手に渡ったものもある。ランニングシステムは、ワシントン州[[シアトル]]のリビングコンピュータ博物館{{Enlink|Living Computers: Museum + Labs|英語版}}に展示されている。Charles P. Thacker は、Alto の先駆的な設計と実現により、2010年3月9日に [[Association for Computing Machinery]] の 2009 [[チューリング賞]] を受賞した<ref>{{cite web|title=ACM Turing Award Goes to Creator of First Modern Personal Computer|url=http://www.acm.org/press-room/news-releases/2010/turing-award-09|publisher=Association for Computing Machinery|accessdate=11 January 2011|author=Virginia Gold}}</ref>。2004年の[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]]は、Altoに関する研究に対してThacker、[[アラン・ケイ]] (Alan C. Kay)、Butler Lampson、[[ロバート・テイラー (情報工学者)|ロバート・テイラー]] (Robert W. Taylor) に授与された<ref>[http://www.nae.edu/Activities/Projects20676/Awards/20681/PastWinners/page20048879.aspx "2004 Recipients of the Charles Stark Draper Prize"]</ref>。 2014年10月21日、Xerox Altoの[[ソースコード]]やその他のリソースが[[コンピュータ歴史博物館]]から公開された<ref>{{cite web|url=http://www.computerhistory.org/atchm/xerox-alto-source-code/|quote=''With the permission of the Palo Alto Research Center, the Computer History Museum is pleased to make available, for non-commercial use only, snapshots of Alto source code, executables, documentation, font files, and other files from 1975 to 1987.'' |title=Xerox Alto Source Code - The roots of the modern personal computer|publisher=[[Computer History Museum]]|first=Paul |last=McJones |work=Software Gems: The Computer History Museum Historical Source Code Series |date=2014-10-21 |accessdate=2015-01-08}}</ref>。 ==アーキテクチャ== 以下の記述は、主にゼロックスPARCの1976年8月発行のAlto Hardware Manual<ref name="AltoHardwareManual">{{cite web |title=Alto Hardware Manual |url=http://bitsavers.org/pdf/xerox/alto/Alto_Hardware_Manual_Aug76.pdf |website=bitsavers.org |publisher=ゼロックス |accessdate=17 July 2019}}</ref>に基づいている。 Altoは[[マイクロコード]]化されたデザインを使用しているが、多くのコンピュータとは異なり、層状化デザイン上でマイクロコードエンジンは[[プログラマ]]から隠蔽されなかった。ピンボールなどのアプリケーションは、これを利用してパフォーマンスを高速化している。Altoは、[[テキサス・インスツルメンツ|Texas Instruments]] [[74181]]チップをベースにした[[ビットスライス]][[演算論理装置|算術演算論理ユニット]] (ALU) を搭載し、書き込み可能な[[コントロールストア]]拡張機能を備えたROMコントロールストアを備え、16ビットワードで構成された128 kB (512 kBに拡張可能) の[[主記憶装置|メインメモリ]]で構成されている。大容量記憶装置は、[[:en:IBM 2310|IBM 2310]]で使用されていたものと同様の着脱可能な2.5MBのワンプラッタカートリッジ(後にゼロックスが買収した[[:en:Diablo Systems|Diablo Systems]]社)を使用した[[磁気ディスク装置|ハードディスク]]ドライブを使用している。ベースマシンとディスクドライブ1台は、小型冷蔵庫ほどの大きさのキャビネットに収められ、[[デイジーチェーン]]を介してもう1台のディスクドライブを追加することができる。 Altoは機能要素間の線引きを曖昧にしたり、無視したりしていた。ストレージや周辺機器への電気的[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]([[システムバス]]など)が明確に定義されている個別の[[中央処理ユニット]]ではなく、Alto ALUはメモリや周辺機器へのハードウェアインタフェースと直接相互作用し、コントロールストアから出力される[[マイクロ命令]]によって駆動される。マイクロコードマシンは、固定の[[スケジューリング|優先度]]を持つ最大16の[[マルチタスク#ノンプリエンプティブ・マルチタスク|協調タスク]]をサポートする。エミュレータタスクは、ほとんどのアプリケーションが書かれた通常の命令セットを実行するが、その命令セットは[[データゼネラルNova|Data General Nova]]<ref>{{cite web|url=http://www.bitsavers.org/pdf/xerox/alto/memos_1974/Alto_A_Personal_Computer_Dec74.pdf|title=Alto: A Personal Computer System|author1=Charles P. Thacker|author2=Edward M. McCreight|page=13|date=December 1974|accessdate=2020-08-10|publisher=}}</ref>の命令セットと似ているものの同じではない。その他のタスクは、ディスプレイ、メモリリフレッシュ、ディスク、ネットワーク、その他のI/O機能を実行する。例として、ビットマップ表示コントローラは16ビットの[[シフトレジスタ]]に過ぎず、マイクロコードは、表示リフレッシュデータをメインメモリからそのシフトレジスタに移動し、メモリデータの1と0に対応する表示画素にシリアル化する。イーサネットも同様に、最小限のハードウェアでサポートされており、出力ワードのシリアル化と入力ワードのデシリアル化を双方向に行うシフトレジスタを備えている。その速度が3Mビット/秒に設計された理由は、マイクロコードエンジンはこれ以上高速化することができず、ビデオ表示、ディスクアクティビティ、メモリリフレッシュをサポートし続けるためである。 当時のほとんどの[[ミニコンピュータ]]とは異なり、Altoは[[ユーザインタフェース]]用の[[端末|シリアルターミナル]]をサポートしていない。[[イーサネット]]接続を除けば、Altoの唯一の共通出力デバイスは、傾斜&回転の台座を備えた2値 (白黒) [[ブラウン管]] (CRT) ディスプレイで、一般的な「横向き」ではなく「縦向き」に取り付けられた。入力デバイスは、カスタムの着脱式[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、3ボタン[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、オプションの5キー・コードキーボード{{Enlink|Chorded keyboard|英語版}}(コードキーセット)である。この2つはSRIのOn-Line Systemで導入されたもので、マウスはAltoユーザーの間で瞬く間に成功したが、コードキーセットは人気が出なかった。 初期のマウスでは、ボタンは3本の細い棒状で、左右ではなく上下に配置されて、ドキュメント内での色にちなんで命名された。動きは、互いに直角に配置された2つの車輪で感知されていた。これらはすぐに、ロナルド・E・ライダーが発明して[[ビル・イングリッシュ (コンピュータ技術者)|ビル・イングリッシュ]]が開発したボールタイプのマウスに取って代わられた。これらは、フォトメカニカルマウスで、最初は白色光で、次に[[赤外線]] (IR) を使用して、マウス内の車輪の回転をカウントした。 このキーボードは、各キーが一連のメモリロケーションにおいて個別のビットとして表わされる点で興味深いものがある。その結果、[[Nキーロールオーバー|複数のキーを同時に読み取る]]ことができる。この特性を利用して、ディスク上のどこからAltoを起動するかを変更できる。キーボードの値は、起動するディスク上のセクタアドレスとして使用され、特定のキーを押しながら起動ボタンを押すと、異なるマイクロコードやオペレーティングシステムをロードすることができる。これは「ノーズブート」(nose boot) という表現を生み出し、テストOSリリースの起動で必要なキーにが、思いつくよりも多くの指が必要であった。ノーズブートは、指定されたキー配列を使用できるようにディスク上のファイルをシフトする move2keys プログラムによって廃止された。 テレビカメラ、Hy-Type デイジーホイールプリンター、パラレルポートなど、他にもいくつかのI/OデバイスがAlto用に開発されたが、これらは非常に稀であった。Altoはまた、ファイルサーバとして動作するように外部ディスクドライブを制御することができた。これはマシンの一般的なアプリケーションである。 ==ソフトウェア== Altoの初期のソフトウェアは[[プログラミング言語]][[BCPL]]で記述され、後に[[Mesa]]{{r|wadlow198109}}で記述された。この言語はPARCの外では広く使われていなかったが、[[Modula-2|Modula]]のような後のいくつかの言語に影響を与えた。Altoは初期バージョンの[[ASCII]]コードを使用していたが、これは[[アンダースコア]]文字を欠き、代わりに[[ALGOL|ALGOL 60]]や多くの派生で使用されている左矢印文字を代入演算子に使用した。この特殊性が、複合[[識別子]]の[[キャメルケース]]スタイルのソースであった可能性がある。また、Altoはユーザーがマイクロコードでプログラムすることも可能であった<ref name="AltoHardwareManual" />。 Altoは、テキストやグラフィックを含むすべての出力で[[ラスターグラフィック]]モデルの使用を普及させるのに貢献した。また、ディスプレイへの基本的なプログラミングインタフェースとして、ビットブロック転送操作(ビットブリット、[[BitBlt|BitBLT]])の概念を導入した。その小さなメモリサイズにもかかわらず、以下のような多くの革新的なプログラムがAltoのために書かれた。 * 文書作成支援システム ** 最初の[[WYSIWYG]]文書作成システム、[[:en:Bravo (software)|Bravo]]と[[Gypsy (ソフトウェア)|Gypsy]] * コミュニケーション ** Laurel [[電子メール]]ツール<ref>{{cite web|url=http://xeroxalto.computerhistory.org/Indigo/DMS/Laurel/6/Manual/.Laurel6.press!1.pdf|title=Laurel Manual|author=Douglas K. Brotz|date=May 1981|publisher=ゼロックス|accessdate=2020-08-10}}</ref>とその後継機、Hardy<ref>{{cite web|url=http://www.herald-journal.com/archives/2011/columns/mo103111.html|title=They could have owned the computer industry|author=Mark Ollig|date=October 31, 2011|accessdate=2020-08-10|publisher=}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.thocp.net/hardware/xerox_star.htm|title=Xerox Star|website=The History Of Computing Project|accessdate=2020-08-10|publisher=}}</ref> ** Chat * グラフィクス ** Sil ベクトルグラフィックエディタ。主に論理回路、[[プリント基板]]、その他の技術的図面に使用される。 ** Markup [[ビットマップ画像|ビットマップ]]エディタ (初期の[[ペイントソフト|ペイント]]プログラム) ** ライン&スプラインを使ったDrawグラフィカルエディタ ** [[:en:Lynn Conway|Lynn Conway]], [[:en:Carver Mead|Carver Mead]], [[:en:Mead & Conway revolution|Mead & Conway革命]]の研究に基づいた最初のWYSIWYG[[:en:IC layout editor|集積回路エディタ]]。 * プログラミング **BCPL, Mesa, Cedar ** [[Interlisp]], Alto Lisp ** [[Smalltalk]]環境の初期のバージョン(Smalltalk-72、-76、-80)<ref name="History">{{Cite journal||last=Kay|first=Alan|date=March 1993|title=The early history of Smalltalk|url=http://www.vpri.org/pdf/hc_smalltalk_history.pdf|journal=HOPL-II The second ACM SIGPLAN conference on History of programming languages|volume=28|issue=3|pages=69-95|publisher=ACM|accessdate=2017-09-04|format=PDF}}</ref> * ネットワーキング ** PARC Universal Packet * ファイリング ** Interim File System (IFS) ** File Transfer Program (FTP) * プリンティング ** Orbit * ファイル管理 ** Executive, NetExec ** Neptune ** CopyDisk * ゲーム ** 最初のネットワークベースの複数人用[[コンピュータゲーム|ビデオゲーム]] ({{仮リンク|ジーン・ボール|en|Gene Ball}}による''{{仮リンク|Alto Trek|en|Alto Trek}})。'' ** ''[[Maze War]]'' 表計算ソフトやデータベースソフトウェアはなかった。そのようなソフトはメインフレームなどには存在したが、個人が専有して使用するコンピュータ向けに販売された最初の表計算ソフトである[[VisiCalc]]が登場したのは1979年のことである。 == 暫定ダイナブック == [[File:Smalltalk-76 (2).png|thumb|Altoや[[ゼロックスNoteTaker|NoteTaker]]で動作したアラン・ケイ達の暫定Dynabook環境(Smalltalk-76、同-78の頃)]]{{Further|[[ダイナブック#暫定ダイナブック|暫定ダイナブック]]}}アラン・ケイらによってAlto上で開発された世界初のGUIベースの[[オペレーティングシステム]] (OS) 的存在であるSmalltalkは、パーソナルコンピューティングの方向性をエンドユーザーに示すだけでなく、[[オブジェクト指向]]の概念を本格的に取り入れた設計で開発者にもアピールし、このときのオブジェクト指向によるOS([[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]や[[フレームワーク]])設計は、現在最先端と言われるOSにも今なお色濃い影響を与え続けている。 1970年代半ばにはすでに、[[ウインドウシステム]]、メニュー操作、[[アイコン]]付きパレット、[[WYSIWYG]]エディタなど、現在のパソコンに匹敵する特徴も備えていた。出資受容の条件に要求してこれを見た、Apple Computerの[[スティーブ・ジョブズ]]に大きな影響を与え、[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]や[[Macintosh]]を開発させるきっかけとなったとともに、PARCからAppleへの転職が相次いだ。 == 普及と進化 == 技術的には、Altoは小型のミニコンピュータであったが、当時の[[メインフレーム]]コンピュータや他の[[ミニコンピュータ]]とは対照的に、一人で机に座って使用するという意味では、[[パーソナルコンピュータ]]と見なすことができた。それは間違いなく「最初のパーソナルコンピュータ」であったが、このタイトルについては他の人々の議論がなされている。より重要なことは(おそらく議論の余地は少ないが)、[[UNIX|Unix]]オペレーティングシステムに基づく[[Apollo/Domain|Apollo]]や、開発環境としてLispをネイティブに実行するように設計された[[Symbolics]]のシステムのようなシングルユーザーマシンのスタイルの最初のワークステーションシステムの1つであると考えられている<ref>{{cite web |title=Personal Computer Milestones |publisher=Blinkenlights Archaeological Institute |url=http://www.blinkenlights.com/pc.shtml |accessdate=December 31, 2006}}</ref>。 1976年から1977年にかけて、スイスのコンピュータのパイオニアである[[ニクラウス・ヴィルト]] (Niklaus Wirth) はPARCでサバティカルを過ごし、Altoに興奮していた。Altoシステムをヨーロッパに持ち帰ることができなかったヴィルトは、ゼロから新しいシステムを作ることを決意し、彼のグループと一緒に[[Lilith]]を設計した<ref>{{cite web|url=http://www.ethistory.ethz.ch/rueckblicke/departemente/dinfk/forschung/weitere_seiten/lilith/index_EN/popupfriendly/|title=Lilith Workstation|accessdate=3 January 2017}}</ref>。Lilithは1980年頃に完成したが、これは[[Apple Lisa]]や[[Apple Macintosh]]が発売されるかなり前のことである。1985年頃、Wirthは「[[Oberon|Project Oberon]]」という名前でLilithの全面的な再設計を開始した。 1978年、ゼロックスは50台のAltosを[[マサチューセッツ工科大学]]、[[スタンフォード大学]]、[[カーネギーメロン大学]]<ref name="wadlow198109">{{cite news |url=https://archive.org/stream/byte-magazine-1981-09/BYTE_Vol_06-09_1981-09_Artifical_Intelligence#page/n59/mode/2up |title=The Xerox Alto Computer |work=Byte |date=September 1981 |accessdate=19 October 2013 |author=Wadlow, Thomas A |pages=58}}</ref>、[[ロチェスター大学]]<ref name="denber198202">{{cite news |url=https://archive.org/stream/byte-magazine-1982-02/1982_02_BYTE_07-02_Winter_Computing#page/n29/mode/2up |title=Altos Gamesmen |work=Byte |date=February 1982 |accessdate=October 19, 2013 |author=Denber, Michel |type=letter |pages=28}}</ref>に寄贈した。メリーランド州[[ゲイザースバーグ]]にある[[アメリカ国立標準技術研究所|国立標準局コンピュータ科学研究所]] (現在のNIST) には、1978年後半に1台のAltoが、Xerox Interim File System (IFS) ファイルサーバーとDoverレーザープリンターとともに寄贈された。これらのマシンは、ETH Zürich [[Lilith]]やThree Rivers Companyの[[PERQ]]ワークステーション、そして最終的にスピンオフ企業である[[サン・マイクロシステムズ]]によって販売された[[:en:Stanford University Network|Stanford University Network]] (SUN) ワークステーションにインスピレーションを与えた。[[アポロコンピュータ|Apollo]]/[[Apollo/Domain|Domain]]ワークステーションは、Altoの影響を強く受けた。 Altoの取得後、ホワイトハウスの情報システム部門は、連邦政府のコンピュータ・サプライヤーをその方向に導こうとした。[[アメリカ合衆国大統領行政府|米国大統領府]] (EOP) は、IBM互換のメインフレームに接続されたAltoのようなワークステーションを使用して、老朽化した[[アメリカ合衆国行政管理予算局|行政管理予算局]] (OMB) の予算システムに代わるコンピュータシステムの[[提案依頼書|提案を要請]]した。そのような構成を提供できるメインフレームメーカーがなかったため、この要請は最終的に取り下げられた。 1979年12月、Apple Computerの共同創設者である[[スティーブ・ジョブズ]] (Steve Jobs) はPARCを訪れ、[[Smalltalk|Smalltalk-76]]オブジェクト指向プログラミング環境、ネットワーク、そしてもっとも重要なのはAltoが提供するマウス駆動のGUIである[[WYSIWYG]]を見せられた。当時、彼は最初の2つの重要性を認識していなかったが、最後の1つには興奮し、すぐにそれをAppleの製品(最初は[[Apple Lisa|Lisa]]、次に[[Apple Macintosh|Macintosh]])に統合し、彼の会社で働くために何人かの重要な研究者を引きつけた。 1980年から1981年にかけて、PARCやXerox System Development Departmentの技術者たちは、Xerox Altoを使って[[Xerox Star]]ワークステーションを設計した。 == ゼロックスとAlto == ゼロックスはPARCで開発された技術の価値に気づくのが遅れていた<ref name="fumble">{{cite book |author= Douglas K. Smith |author2= Robert C. Alexander |title= Fumbling the Future: How Xerox Invented, Then Ignored, the First Personal Computer |publisher= William Morrow |location= New York |year= 1988 |isbn= 978-0688069599}}</ref>。1960年代後半にゼロックスが[[:en:Scientific Data Systems|Scientific Data Systems]](SDS、後のXDS)を買収しても、PARCには何の関心を持たなかった。PARCはDigital Equipment Corporation (DEC) の[[PDP-10]]を独自にエミュレーションしてMAXCと名付けた<ref>{{cite magazine|url=https://pdfs.semanticscholar.org/0bbe/4be10b2770fa6435e00cea74ee5f6c4f1115.pdf|title=The Maxc Systems|author=Edward R. Fiala|magazine=[[Computer (magazine)|Computer]]|date=May 1978}}</ref>。MAXCは[[ARPANET]]へのゲートウェイマシンであった。同社は商業的にテストされていない設計でコンピュータ事業に再び参入することに消極的であったが、その哲学の多くは後の製品に搭載されることになる。 ''[[Byte (magazine)|Byte]]''誌は1981年に次のように述べている{{r|wadlow198109}}。 {{quote|コンピュータサイエンスの研究コミュニティ以外の人がAltoを買うことはまずないであろう。これらは商業販売を目的としたものではなく、ゼロックスの開発ツールとしてのものであり、大量生産されることはない。彼らに言及する価値があるのは、明日のパーソナルコンピュータの多くがAltoの開発から得られた知識で設計されるという事実である。|||}} Altoの後、PARCは、非公式には「Dマシン」と呼ばれている、より強力なワークステーションを開発した(いずれもプロジェクトとして意図されたものではない{{clarify|date=June 2013}})。Dandelion(最も強力ではないが、唯一製品化された)、Dolphin、Dorado(最も強力で、[[エミッタ結合論理|エミッタ結合型ロジック]] (ECL) マシン)、そしてDandel-Irisなどのハイブリッド機である。 1977年のApple IIや 1981年の[[IBM PC|IBM Personal Computer]] (IBM PC) などのパーソナルコンピュータが登場するまでは、コンピュータ市場は、中央コンピュータの処理時間をタイムシェアするダム端末を搭載した高価なメインフレームと、ミニコンピュータに支配されていた。1970年代を通じて、ゼロックスはPARCの研究に興味を示さなかった。ゼロックスが「[[:en:Xerox 820|Xerox 820]]」でPC市場に参入したとき、彼らはAltoのデザインを大幅に否定し、代わりに当時の標準であった80×24文字のみのモニタとマウスを持たない[[CP/M]]ベースの非常にオーソドックスな機種を選択した。 その後、PARCの研究者の助けを借りて、ゼロックスは最終的にDandelionワークステーションをベースとする「[[Xerox Star]]」を開発し、その後、コストを抑えた「Star」である[[Xerox Daybreak|Daybreak]]ワークステーションをベースにしたオフィスシステム「6085」を開発した。これらのマシンは、[[バトラー・ランプソン]](Butler Lampson)の論文で説明されている「Wildflower」(ワイルドフラワー)アーキテクチャに基づいており、アイコン、ウィンドウ、フォルダーからなるGUI、イーサネットベースのローカルネットワーキング、ネットワークベースのレーザープリンタサービスなど、Altoの革新的な機能のほとんどが組み込まれていた。 ゼロックスが自分たちの間違いに気付いたのは、1980年代初頭、Apple Computerの[[Macintosh]]がビットマップディスプレイとマウス中心のインタフェースによってPC市場に革命を起こした後のことである。これらはいずれも「Alto」からコピーされたものである<ref name="fumble" />。Xerox Starシリーズは商業的には比較的成功を収めたが、遅すぎた。高価なゼロックスのワークステーションは、初代Macintoshの後に登場した安価なGUIベースのワークステーションに対抗することができず、ゼロックスはワークステーション市場から完全に撤退してしまった。 ==参照項目== *[[NLS]] *[[マウスパッド]] *[[アラン・ケイ]] *[[アデル・ゴールドバーグ]] *[[Apple Lisa]] ==参考文献== {{Reflist|30em}} ;Notes {{Refbegin}} *''Alto User's Handbook'', Xerox PARC, September 2013 {{Refend}} ==推薦文献== *{{cite book |title=Dealers of Lightning: Xerox PARC and the Dawn of the Computer Age |last=Hiltzik |first=Michael A. |authorlink= |year=1999 |publisher=HarperCollins |location=New York |isbn=0-88730-891-0 |page= |pages= |url=https://archive.org/details/dealersoflightni00hilt |url-access=registration }} *{{cite book |author= Douglas K. Smith |author2= Robert C. Alexander |title= Fumbling the Future: How Xerox Invented, Then Ignored, the First Personal Computer |publisher= William Morrow |location= New York |year= 1988 |isbn= 978-0688069599}} ==外部リンク== *[http://www.bitsavers.org/pdf/xerox/alto/ Xerox Alto documents at bitsavers.org] *[http://www.digibarn.com/collections/systems/xerox-alto/ At the DigiBarn museum] *[http://www.maniacworld.com/alto-computer-video.html The Alto in 1974] video *[http://norfolk.cs.washington.edu/htbin-post/unrestricted/colloq/details.cgi?id=560 A lecture video of Butler Lampson describing Xerox Alto in depth. (length: 2h45m)] *[http://altogether.brouhaha.com A microcode-level Xerox Alto simulator] *[https://www.livingcomputers.org/Computer-Collection/Vintage-Computers/Emulations/ContrAlto.aspx ContrAlto Xerox Alto emulator] *[http://toastytech.com/guis/salto.zip SALTO-Xerox Alto emulator] (direct download) *[https://static.loomcom.com/contraltojs/ ConrAltoJS Xerox Alto Online] * [https://web.archive.org/web/20150217042226/https://classes.soe.ucsc.edu/cmps112/Spring03/readings/Ingalls78.html The Smalltalk-76 Programming System - Design and Implementation] - 1977年当時、暫定Dynabookとして動作するAltoのスクリーンショットを挿絵に見ることができる。また同システムを実際に操作している様子は、Altoの特に暫定DynabookでのGUIの変遷を収めた[https://www.youtube.com/watch?v=aqW6Sp279Z0&t=16m50s YouTube: PARC Movies]の16分50秒以降に記録として残されている。 * [https://www.youtube.com/watch?v=AYlYSzMqGR8&feature=youtu.be The ALTO Computer 1974] - 日本のTV番組から。[[アラン・ケイ]]、[[スティーブ・ウォズニアック]]へのインタビューを含む。 * [https://www.youtube.com/watch?v=9H79_kKzmFs Xerox Alto Demo] - [[:en:Vintage Computer Festival|VCF]] West 2017 で披露されたリストアされたAlto実機のデモ。 * [https://computerhistory.org/blog/xerox-alto-source-code/ Xerox Alto Source Code] - コンピューター歴史博物館により公開されたAltoのソースコード、ドキュメントなど [[Category:ワークステーション]] [[Category:コンピュータ史]] [[Category:ゼロックス]] [[Category:パーソナルコンピュータ (製品)]] {{DEFAULTSORT:Alto}}
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IMac
iMac(アイマック)は、1998年8月15日(日本語版は8月29日)に発売されたパーソナルコンピュータ、およびMacのディスプレイ一体型デスクトップ機のシリーズに付けられた名称。 デザインや内部アーキテクチャは当初のものから大きく変化しているが、2021年時点でもディスプレイ一体型デスクトップ機として販売されており、ノートタイプのMacBookとともに、Apple社の主軸をなす商品である。 スティーブ・ジョブズが1997年9月16日にiCEO(Interim CEO)として復帰した後のApple社は、iMac発売後、iBook、iPod、iPhone、iPadを発売しており、iMacは、同社の「i」を冠する製品のラインナップの源流に位置付けられる(「i」の意味するところは、internet, individual, instruct, inform, inspire)。 ギル・アメリオCEOの元で開発が始まったとされているが、デザインの責任者ジョナサン・アイブによると開発当初から、(NeXT社買収でAppleに復帰した)スティーブ・ジョブズが主導した製品であり、ラディカルなデザインのiMacはパソコンの歴史においてエポックメイキングなものとなった。開発はApple社内のごく限られた人数で構成されたチームにより極秘裏に進められ、1998年5月6日に行われたジョブズによる発表会で初めてiMacの存在を知った社員がほとんどであった。 15インチCRTを装備した一体型のケース、キーボード、マウス、果ては電源ケーブル、付属のモジュラーケーブルにいたるまで半透明(トランスルーセント)で統一された斬新なデザインや、ボンダイブルー(Appleによる造語、シドニーにあるボンダイビーチから)と呼ばれた印象的なカラー、1億ドルを超える大規模マーケティングキャンペーンが展開されたこと、178,000円(当時)という低価格が広く受け入れられ(2001年1月には78,000円まで値下げされたモデルもある)、4ヶ月で80万台出荷というヒット商品となり、それまで経営危機が囁かれていたAppleの復活を強く印象づけた(実際には1998年第1四半期に黒字化している)。 従来のパソコンのイメージを覆す大胆なデザイン(eMate 300のデザインコンセプトを継承したもの)はその後の半透明グッズブームの発端となった。 初代のiMacは、Appleがレガシーデバイスと考えたもの(RS-422シリアルポート、フロッピーディスク、ADB、SCSI)を廃し、USBを全面的に採用するという斬新な仕様で発売された。iMacがUSBを全面採用したことで、USBを採用した周辺機器が次々に発売され、USBの普及が加速的に進んだ。 なお、ディスプレイ内蔵のオールインワンタイプ・パソコンは、Macintosh 128Kから始まったMacintoshの原点とも言うべきものであるが、Macintosh II以降の上位機種にはモジュラー型が採用されたため、一体型は廉価版と位置付けられるようになり、長らく地味な存在であった。しかしiMacシリーズには従来のパソコンにはないインテリア性があり、しかも初代iMacは上位機種DTシリーズと同じCPUを採用しており、従来の一体型Macintosh(Performaシリーズ)とは一線を画すものであった。iMacは、当時の急速なインターネットの普及という追い風を受け、一般家庭向けのネット端末というニーズにあった製品として、おおいに売上を伸ばした。 iMacと同様のコンセプトは、一頃は他の企業から発売された幾つかのPC/AT互換機で採用されたが、これらが余りにもiMacのデザインを露骨に模倣していたため問題となった(後述)。 iMacは1998年10月のマイナーチェンジの後、1999年1月にはボディーカラー5色化、さらに同年秋のiMac (Slot Loading)へのモデルチェンジでは一見初代iMacに似ているものの、冷却ファンが廃止され、通常のDIMMメモリやAirMacカードの増設が簡単にできるようされるなど、従来よりブラッシュアップされたものであった。また各色ごとをやめ、透明に黒を配したApple Proマウス、ProキーボードがPower Mac G4, G4 Cubeとともに統一して付属するようになった。 2002年には液晶ディスプレイ一体型にフルモデルチェンジ、CPUにもPowerPC G4が搭載された。なお初期型のブラウン管を搭載したシルエットは、液晶ディスプレイ採用で価格が押し上がったために空いた価格帯を埋めるeMacに継承されたが、2005年には販売終了した。2004年にはPowerPC G5を搭載したiMac G5となり、液晶ディスプレイにパソコンが内蔵されたような薄型のデザインになった。 2006年にはCPUがインテルのCore Duoに変更された。インテルCPUへの切り替え後は、他社の同レベルのディスプレイ一体型デスクトップ機に比較して高い価格競争力を持ち、Appleの主軸商品として、成長の原動力になっているという。 2021年4月20日には24インチ4.5K RetinaディスプレイとApple M1を採用したモデルを発表しAppleシリコンへ切り替えた。 「iMac」そのものは、当初のものと現行のものでは、外観および内部のデザインや設計が大きく変貌しているが、ディスプレイ一体型のデスクトップ機という商品コンセプトは、発売当初から一貫して守られている一方で、商品の位置づけは多種展開により家庭用-プロ向けと幅広く変化している。 それまで市場で販売されていたデスクトップ型のパーソナルコンピュータは、機能の優先や拡張性の確保のため、箱形の筐体をしたものが多かった。これはPC/AT互換機に限らずAppleの製品でも同じで、iMac発売当時に並販されていたPower Macintosh G3 DT, MTも箱形のデザインであった。また筐体色はアイボリーやブラックが多かったが、一方でマンハッタンシェイプと呼ばれたX68000や「ハイパーメディアパソコン」FM Townsといったデザインが一般的な箱型と異なるグレーの筐体を用いたものや、1997年に発売を開始したソニーのVAIOにバイオレット(紫色)が用いられ「VAIOカラー」と呼ばれるなどがあった。 iMacが発表された際には、白と半透明のブルーを使った「色」、箱形を脱して曲線を多用した「形」、また当時コンピュータを買う目的の一つであったインターネットへ接続するまでの購入時・後のユーザーの煩雑さ(周辺機器の購入や接続)低減に効果のあったディスプレイやキーボード、マウス、モデムといった周辺機器の内蔵もしくは付属によって、製品を箱から出して付属のコード数本を繋ぎ、電源を入れた後に通信契約を行えばインターネットへ簡単に繋げることができる「シンプルさ」が着目され、メディアでは「斬新なデザイン」と評された。 ボンダイブルー(en)1色で販売を開始した初代iMacは、その後「キャンディーカラー」と呼ばれる多色展開を行った。人気色が品薄になったりもした。筐体の素材にはポリカーボネートが主に使用された。2002年のiMac G4発売に合わせて白を基調としたデザインに変更、2007年8月に発売となったiMac (インテルベース)からはシルバー(アルミニウム)へと変更された。 発売当初のCRTを搭載したiMacは、筐体デザインに配慮した変形五角形の専用品を使用している。この初代iMacのデザインは、日本国内で1998年度グッドデザイン賞の家庭用メディア部門にて同賞を受賞している。 2002年のiMac G4発売に伴い、製品全体の大幅なデザイン変更が実施された。ディスプレイは液晶となり、半球状の本体から伸びた可動式アームの先にディスプレイが取り付けられた。それまでのCRT型のデザインコンセプトはeMacのシルエットに引き継がれた。2004年発売のiMac G5で液晶一体型で薄型のデザインにモデルチェンジしている。 このほかにも、発売当初から最新のモデルまで本体表面や内部のパーツおよび構造、付属品、ソフトウェアなど数多くのマイナーチェンジが都度施されている。 iMacの色の特徴であるトランスルーセント(半透明)のデザインコンセプトは、コンピュータ業界のみならず、家電業界や文具等のデザインにも影響を与えた。この流れのなかでフューチャーパワー社 (Future Power) の「E-Power」や、eMachines社の「eOne」、ソーテック社の「e-one」などiMacのコンセプトを大きく取り入れたデスクトップ型パーソナルコンピュータが出回った。Appleは意匠権の保護を求めて提訴し、裁判所から製造と販売の差し止め命令が下されたり、あるいは和解の後にiMacで使われたカラー以外への切り替えがおこなわれた。 1999年にAppleは同じコンセプトのノート型パソコンiBookを発表する。その後もiTunes、iPod、iPhoneなど、Appleの製品やサービスに「i」を付けたものが続いた(→小文字のi)。 トレイローディング方式のCD-ROMドライブを持つ初期のシリーズ。Rev.A、Rev.B、Rev.C、Rev.Dの四種類がある(Rev.は"Revision"の略)。初のNew World ROM搭載Macintosh。 iMac 233MHz (Rev.A) このシリーズのRev.AとBのみ、前面左スピーカー横にirDAを持つ。また、公式にAppleは発表していないが、内部に通称メザニンスロットという拡張スロットを持つ。サードパーティー製の拡張カードにより、SCSIやFireWireの拡張が出来た。ロジックボードの設計は当時最新のPower Macintosh G3 DT, MTが採用するGossamarアーキテクチャをベースにしたものを採用しており、ローエンドながら十分な処理能力を発揮できた。1998年グッドデザイン賞受賞。発売日は米では1998年8月15日、日本では8月29日。カラーはBondi Blue (ボンダイブルー)。 iMac 233MHz (Rev.B) Rev.Aの発売から、わずか二ヶ月での登場で、VRAMが6MBに(Rev.Aは2MB)、バンドルソフトの変更、グラフィックチップが「ATI RAGE PRO」へ、OSが8.1から8.5へと変更された。またメザニンスロットは廃止された(スロットが残った物も存在する)。Rev.Aも同価格でしばらく併売されている時期があった。しかし、外観、外箱等もRev.A、Rev.Bともに同じであった。発売日は1998年10月。カラーはボンダイブルー。 iMac 266MHz (Rev.C) 背面、キーボード、マウスの色ラインナップがキャンディーカラーの5色(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー)になった。1999年度グッドデザイン賞金賞受賞。発売日は1999年1月24日。 iMac 333MHz (Rev.D) Rev.Cのマイナーチェンジ版。発売日は1999年4月。引き続きキャンディカラー(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー) 1999年10月5日に発表されたiMacは、通称 iMac DV系または「slot loading」と呼ばれる。外観的には透明度の高いつややかな半透明ボディが特徴で、スロットローディングタイプのCD-ROM(またはDVD-ROMドライブ、CD-RWドライブ)になった。デスクトップパソコンとしてはMacintosh Plusまでの初期型Macintosh以来となる完全ファンレスの設計で、ハーマン・カードンの高音質ステレオスピーカーが標準搭載された。一部の下位機種を除き、FireWireが標準搭載された。ロジックボードの設計はグラフィック回路を内部的にそれまでのPCI接続からAGP接続するPower Mac G4(AGP)ベースのものになり、コンピュータとしての設計は以前のものと比べ一世代新しいものに刷新されている。このiMacからCPUはロジックボードに直付けになりRev.DまでのようにサードパーティーでのCPUアップグレードカードなどでのCPUの交換はできなくなった。発売日は米では1999年10月5日、日本では10月16日。 iMac (Slot Loading) iMac (Summer 2000) グラファイトカラーの成功を受け、渋く落ち着いたトーンの半透明ポリカーボネートと無色のクリア素材を組み合わせ、透明感を強調したデザインとなった。キーボードは大型化し、パワーオンキー機能が取り払われたApple Pro Keyboardが付属、業界に先駆けて光学式マウス, Apple Pro Mouseも付属していた。2000年7月19日発表、7月28日発売。 iMac (Early 2001) 2001年2月のモデルチェンジは前代未聞の柄付きモデルが追加された。Flower Powerは花柄、Blue Dalmatianは水玉模様である。ユーザの声を受け、光学ドライブをDVD-ROMドライブからCD-RWドライブに変更した。また下位機種以外ではCPUに2次キャッシュを内蔵したPowerPC 750CXEを新たに採用した。2001年2月22日発表、2月24日発売。 iMac (Summer 2001) 2001年7月にモデルチェンジ。2001年7月18日発表、7月20日発売。 2002年1月にMacworld Conference & Expo/San Francisco 2002で発表されたiMacは、それまでとは全く異なるデザインでモデルチェンジされた。半球型の本体から可動アームが伸び、その先に液晶ディスプレイが接続されたオールインワンパソコン。この可動アームによって液晶ディスプレイを自由な角度に調整することができる。スティーブ・ジョブズはこのiMacをsunflower(ヒマワリ)のようだと呼んだ。音質を重視した前モデルのコンセプトを引き継ぎ、本体にはデジタルアンプとモノラルスピーカを内蔵、デジタル接続のステレオスピーカが付属する。 発表当初は15インチディスプレイ搭載モデルのみであったが、2002年に17インチワイドディスプレイ、2003年には20インチワイドディスプレイを搭載したモデルがラインナップに追加された。 2004年8月31日に、液晶一体型で薄型の本体となった17インチ(1,440×900ドット、厚みは約5センチ)2モデル、ならびに20インチ(1,680×1,050ドット、厚みは約6センチ)1モデルのiMac G5合計3モデルを発表した。 CPUにはPowerPC 970の1.6GHz, 1.8GHz、GPUにはGeForce 5200 Ultraが採用された。一見、ディスプレイに見える筐体は、1つのアルミ製のスタンドで支えられており、筐体の角度を-5度から25 度まで傾けることができる。 2005年5月3日に、CPUを1.8GHz, 2.0GHz、GPUをRadeon 9600搭載へと性能をアップしたiMac G5 (Ambient Light Sensor) シリーズを発表。 2005年10月12日に、アーキテクチャをPCI Express/DDR2 SDRAMベースに一新しiSightを内蔵した、iMac G5 (iSight) シリーズを発表。 筐体の構造と内部設計を全面変更し冷却性能が大幅に改善された。これがiMacシリーズ最後のPowerPC搭載機になり、その後外見を全く変えずにインテルのCPUを搭載したiMacの誕生となる。 iMac (インテルベース)を参照 iMac (インテルベース)を参照 iMac (Appleシリコンベース)を参照
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"このほかにも、発売当初から最新のモデルまで本体表面や内部のパーツおよび構造、付属品、ソフトウェアなど数多くのマイナーチェンジが都度施されている。", "title": "特長" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "iMacの色の特徴であるトランスルーセント(半透明)のデザインコンセプトは、コンピュータ業界のみならず、家電業界や文具等のデザインにも影響を与えた。この流れのなかでフューチャーパワー社 (Future Power) の「E-Power」や、eMachines社の「eOne」、ソーテック社の「e-one」などiMacのコンセプトを大きく取り入れたデスクトップ型パーソナルコンピュータが出回った。Appleは意匠権の保護を求めて提訴し、裁判所から製造と販売の差し止め命令が下されたり、あるいは和解の後にiMacで使われたカラー以外への切り替えがおこなわれた。", "title": "特長" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1999年にAppleは同じコンセプトのノート型パソコンiBookを発表する。その後もiTunes、iPod、iPhoneなど、Appleの製品やサービスに「i」を付けたものが続いた(→小文字のi)。", "title": "特長" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "トレイローディング方式のCD-ROMドライブを持つ初期のシリーズ。Rev.A、Rev.B、Rev.C、Rev.Dの四種類がある(Rev.は\"Revision\"の略)。初のNew World ROM搭載Macintosh。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "iMac 233MHz (Rev.A)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このシリーズのRev.AとBのみ、前面左スピーカー横にirDAを持つ。また、公式にAppleは発表していないが、内部に通称メザニンスロットという拡張スロットを持つ。サードパーティー製の拡張カードにより、SCSIやFireWireの拡張が出来た。ロジックボードの設計は当時最新のPower Macintosh G3 DT, MTが採用するGossamarアーキテクチャをベースにしたものを採用しており、ローエンドながら十分な処理能力を発揮できた。1998年グッドデザイン賞受賞。発売日は米では1998年8月15日、日本では8月29日。カラーはBondi Blue (ボンダイブルー)。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "iMac 233MHz (Rev.B)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Rev.Aの発売から、わずか二ヶ月での登場で、VRAMが6MBに(Rev.Aは2MB)、バンドルソフトの変更、グラフィックチップが「ATI RAGE PRO」へ、OSが8.1から8.5へと変更された。またメザニンスロットは廃止された(スロットが残った物も存在する)。Rev.Aも同価格でしばらく併売されている時期があった。しかし、外観、外箱等もRev.A、Rev.Bともに同じであった。発売日は1998年10月。カラーはボンダイブルー。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "iMac 266MHz (Rev.C)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "背面、キーボード、マウスの色ラインナップがキャンディーカラーの5色(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー)になった。1999年度グッドデザイン賞金賞受賞。発売日は1999年1月24日。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "iMac 333MHz (Rev.D)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "Rev.Cのマイナーチェンジ版。発売日は1999年4月。引き続きキャンディカラー(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1999年10月5日に発表されたiMacは、通称 iMac DV系または「slot loading」と呼ばれる。外観的には透明度の高いつややかな半透明ボディが特徴で、スロットローディングタイプのCD-ROM(またはDVD-ROMドライブ、CD-RWドライブ)になった。デスクトップパソコンとしてはMacintosh Plusまでの初期型Macintosh以来となる完全ファンレスの設計で、ハーマン・カードンの高音質ステレオスピーカーが標準搭載された。一部の下位機種を除き、FireWireが標準搭載された。ロジックボードの設計はグラフィック回路を内部的にそれまでのPCI接続からAGP接続するPower Mac G4(AGP)ベースのものになり、コンピュータとしての設計は以前のものと比べ一世代新しいものに刷新されている。このiMacからCPUはロジックボードに直付けになりRev.DまでのようにサードパーティーでのCPUアップグレードカードなどでのCPUの交換はできなくなった。発売日は米では1999年10月5日、日本では10月16日。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "iMac (Slot Loading)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "iMac (Summer 2000)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "グラファイトカラーの成功を受け、渋く落ち着いたトーンの半透明ポリカーボネートと無色のクリア素材を組み合わせ、透明感を強調したデザインとなった。キーボードは大型化し、パワーオンキー機能が取り払われたApple Pro Keyboardが付属、業界に先駆けて光学式マウス, Apple Pro Mouseも付属していた。2000年7月19日発表、7月28日発売。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "iMac (Early 2001)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2001年2月のモデルチェンジは前代未聞の柄付きモデルが追加された。Flower Powerは花柄、Blue Dalmatianは水玉模様である。ユーザの声を受け、光学ドライブをDVD-ROMドライブからCD-RWドライブに変更した。また下位機種以外ではCPUに2次キャッシュを内蔵したPowerPC 750CXEを新たに採用した。2001年2月22日発表、2月24日発売。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "iMac (Summer 2001)", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2001年7月にモデルチェンジ。2001年7月18日発表、7月20日発売。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2002年1月にMacworld Conference & Expo/San Francisco 2002で発表されたiMacは、それまでとは全く異なるデザインでモデルチェンジされた。半球型の本体から可動アームが伸び、その先に液晶ディスプレイが接続されたオールインワンパソコン。この可動アームによって液晶ディスプレイを自由な角度に調整することができる。スティーブ・ジョブズはこのiMacをsunflower(ヒマワリ)のようだと呼んだ。音質を重視した前モデルのコンセプトを引き継ぎ、本体にはデジタルアンプとモノラルスピーカを内蔵、デジタル接続のステレオスピーカが付属する。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "発表当初は15インチディスプレイ搭載モデルのみであったが、2002年に17インチワイドディスプレイ、2003年には20インチワイドディスプレイを搭載したモデルがラインナップに追加された。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2004年8月31日に、液晶一体型で薄型の本体となった17インチ(1,440×900ドット、厚みは約5センチ)2モデル、ならびに20インチ(1,680×1,050ドット、厚みは約6センチ)1モデルのiMac G5合計3モデルを発表した。 CPUにはPowerPC 970の1.6GHz, 1.8GHz、GPUにはGeForce 5200 Ultraが採用された。一見、ディスプレイに見える筐体は、1つのアルミ製のスタンドで支えられており、筐体の角度を-5度から25 度まで傾けることができる。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2005年5月3日に、CPUを1.8GHz, 2.0GHz、GPUをRadeon 9600搭載へと性能をアップしたiMac G5 (Ambient Light Sensor) シリーズを発表。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2005年10月12日に、アーキテクチャをPCI Express/DDR2 SDRAMベースに一新しiSightを内蔵した、iMac G5 (iSight) シリーズを発表。 筐体の構造と内部設計を全面変更し冷却性能が大幅に改善された。これがiMacシリーズ最後のPowerPC搭載機になり、その後外見を全く変えずにインテルのCPUを搭載したiMacの誕生となる。", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "iMac (インテルベース)を参照", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "iMac (インテルベース)を参照", "title": "歴代モデル" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "iMac (Appleシリコンベース)を参照", "title": "歴代モデル" } ]
iMac(アイマック)は、1998年8月15日(日本語版は8月29日)に発売されたパーソナルコンピュータ、およびMacのディスプレイ一体型デスクトップ機のシリーズに付けられた名称。 デザインや内部アーキテクチャは当初のものから大きく変化しているが、2021年時点でもディスプレイ一体型デスクトップ機として販売されており、ノートタイプのMacBookとともに、Apple社の主軸をなす商品である。 スティーブ・ジョブズが1997年9月16日にiCEOとして復帰した後のApple社は、iMac発売後、iBook、iPod、iPhone、iPadを発売しており、iMacは、同社の「i」を冠する製品のラインナップの源流に位置付けられる。
{{Pathnav|Apple|frame=1|this=iMac}}{{Otheruses|1998年より発売されているiMac G3からiMac G5まで|2006年以降リリースされているiMac|iMac (インテルベース)|2021年以降リリースされているiMac|iMac (Appleシリコンベース)}} {{小文字}} [[ファイル:IMac G3 Indigo.jpg|thumb|350px|right|iMac DV(Slot Loading)]] '''iMac'''(アイマック)は、[[1998年]][[8月15日]](日本語版は[[8月29日]])に発売された[[パーソナルコンピュータ]]、および[[Mac (コンピュータ)|Mac]]の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]一体型デスクトップ機のシリーズに付けられた名称。 [[デザイン]]や内部[[アーキテクチャ]]は当初のものから大きく変化しているが、2021年時点でもディスプレイ一体型デスクトップ機として販売されており、[[ノートパソコン|ノートタイプ]]の[[MacBook]]とともに、Apple社の主軸をなす商品である。 スティーブ・ジョブズが1997年9月16日にiCEO(Interim CEO)として復帰した<ref>{{Cite web|和書|url=https://eikoh-harada.com/blog/125|title=iXXXの語源はどこから来た? {{!}} 原田泳幸事務所|accessdate=令和2年10月19日|publisher=}}</ref>後のApple社は、iMac発売後、[[iBook]]、[[iPod]]、[[iPhone]]、[[iPad]]を発売しており、iMacは、同社の「i」を冠する製品のラインナップの源流に位置付けられる(「i」の意味するところは、internet, individual, instruct, inform, inspire<ref>{{Cite web|和書|title=初代iMacはなぜモノ作りの教科書なのか? |url=https://ascii.jp/elem/000/004/084/4084014/ |website=ASCII.jp |access-date=2022-09-28 |language=ja |last=ASCII}}</ref>)。 == 概要 == [[ギル・アメリオ]]CEOの元で開発が始まったとされているが<ref>『アップル薄氷の500日』ISBN 978-4797306156 参照</ref>、デザインの責任者[[ジョナサン・アイブ]]によると開発当初から、([[NeXT]]社買収でAppleに復帰した)[[スティーブ・ジョブズ]]が主導した製品であり<ref>{{Cite web|title=Apple - Design & Publishing - Sorry, no beige. | url = http://www.apple.com:80/publishing/collateral/ama/0102/imac.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/19990116224204/http://www.apple.com:80/publishing/collateral/ama/0102/imac.html | archivedate = 1999-01-16 |date=1999-01-16|accessdate=2019-07-06}}</ref>、ラディカルなデザインのiMacはパソコンの歴史においてエポックメイキングなものとなった。開発はApple社内のごく限られた人数で構成されたチームにより極秘裏に進められ、[[1998年]][[5月6日]]に行われたジョブズによる発表会<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980508/apple.htm|title=アップル、PowerBook G3新機種と液晶ディスプレイ|accessdate=2018-05-05|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>で初めてiMacの存在を知った社員がほとんどであった<ref>[http://www.mactechlab.jp/oldmac/2026.html 初代ボンダイブルーのiMacを再考する]</ref>。 [[ファイル:Apple USB Keyboard B.jpg|サムネイル|Apple USBキーボード]] [[ファイル:Apple iMac USB mouse.jpg|thumb|iMac G3に付属していたマウス|106x106ピクセル]] 15インチ[[ブラウン管|CRT]]を装備した一体型のケース、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、果ては電源ケーブル、付属のモジュラーケーブルにいたるまで半透明(トランスルーセント)で統一された斬新なデザイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980817/photos.htm|title=写真で見るiMacデザイン|accessdate=2018-05-08|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>や、ボンダイブルー(Appleによる造語、[[シドニー]]にある[[ボンダイビーチ]]から)と呼ばれた印象的なカラー、1億ドルを超える大規模マーケティングキャンペーンが展開されたこと<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/19990117023742/http://www.apple.com/pr/library/1998/aug/13mktg.html|title=“Apple - Media & Analyst Information - Press Releases” (1998年8月13日).|accessdate=2018年5月8日閲覧|publisher=}}</ref>、178,000円<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/19981201065049/http://news.apple.co.jp/product/980819imac.html|title=アップル、「iMac」を発表|accessdate=2018-05-08|date=1998-8-19|publisher=}}</ref>(当時)という低価格が広く受け入れられ(2001年1月には78,000円まで値下げされたモデルもある<ref>{{Cite web|和書|title=2001/01/06~2000/12/31 MACお宝鑑定団(Back Number) |url=https://web.archive.org/web/20010304041108/http://www.tcp-net.ad.jp/danbo/news214.html |website=web.archive.org |date=2001-03-04 |access-date=2023-07-08}}</ref>)、4ヶ月で80万台出荷<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990106/macw03.htm|title=MACWORLD Expo/San Francisco基調講演・写真速報|accessdate=2018-05-08|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>というヒット商品となり、それまで経営危機が囁かれていたAppleの復活を強く印象づけた(実際には1998年第1四半期に黒字化している<ref>{{Cite web |title=Q1 FY98 Press Release - Apple Reports First Fiscal Quarter Results |url=https://web.archive.org/web/19990117011525/http://product.info.apple.com/pr/press.releases/1998/q2/980114.pr.rel.q198.html |website=web.archive.org |date=1999-01-17 |access-date=2023-05-07}}</ref>)。 従来のパソコンのイメージを覆す大胆なデザイン([[eMate 300]]のデザインコンセプトを継承したもの)はその後の半透明グッズブームの発端となった。 初代のiMacは、Appleが[[レガシーデバイス]]と考えたもの([[EIA-422|RS-422]][[シリアルポート]]、[[フロッピーディスク]]、[[Apple Desktop Bus|ADB]]、[[Small Computer System Interface|SCSI]])を廃し、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]を全面的に採用するという斬新な仕様で発売された。iMacがUSBを全面採用したことで、USBを採用した[[周辺機器]]が次々に発売され、USBの普及が加速的に進んだ。 なお、ディスプレイ内蔵の[[オールインワン]]タイプ・パソコンは、[[Macintosh 128K]]から始まったMacintoshの原点とも言うべきものであるが、[[Macintosh II]]以降の上位機種にはモジュラー型が採用されたため、一体型は廉価版と位置付けられるようになり、長らく地味な存在であった。しかしiMacシリーズには従来のパソコンにはない[[インテリア]]性があり、しかも初代iMacは上位機種[[Power Macintosh#Power Macintosh G3 DT, MT, All-In-One|DTシリーズ]]と同じCPUを採用しており、従来の一体型Macintosh([[Performa|Performaシリーズ]])とは一線を画すものであった。iMacは、当時の急速なインターネットの普及という追い風を受け、一般家庭向けのネット端末というニーズにあった製品として、おおいに売上を伸ばした。 [[ファイル:Apple mouse Pro black.jpg|サムネイル|132x132ピクセル|Apple Proマウス]] iMacと同様のコンセプトは、一頃は他の企業から発売された幾つかの[[PC/AT互換機]]で採用されたが、これらが余りにもiMacのデザインを露骨に模倣していたため問題となった(後述)。 [[ファイル:Apple Pro Keyboard black.jpg|サムネイル|Apple Proキーボード]] iMacは1998年[[10月]]のマイナーチェンジの後、[[1999年]][[1月]]にはボディーカラー5色化、さらに同年秋のiMac (Slot Loading)へのモデルチェンジでは一見初代iMacに似ているものの、冷却ファンが廃止され、通常のDIMMメモリや[[AirMac]]カードの増設が簡単にできるようされるなど、従来よりブラッシュアップされたものであった。また各色ごとをやめ、透明に黒を配したApple Proマウス、Proキーボードが[[Power Mac G4]], [[Power Mac G4 Cube|G4 Cube]]とともに統一して付属するようになった。 [[2002年]]には[[液晶ディスプレイ]]一体型にフルモデルチェンジ、CPUにも[[PowerPC G4]]が搭載された。なお初期型のブラウン管を搭載したシルエットは、液晶ディスプレイ採用で価格が押し上がったために空いた価格帯を埋める[[eMac]]に継承されたが、[[2005年]]には販売終了した。2004年には[[PowerPC 970|PowerPC G5]]を搭載した[[iMac G5]]となり、液晶ディスプレイにパソコンが内蔵されたような薄型のデザインになった。 2006年にはCPUが[[インテル]]の[[Intel Core|Core Duo]]に変更された。インテルCPUへの切り替え後は、他社の同レベルのディスプレイ一体型デスクトップ機に比較して高い価格競争力を持ち、Appleの主軸商品として、成長の原動力になっているという<ref>[http://japan.zdnet.com/review/interview/story/0,3800079440,20372558,00.htm 販売店ではMacをどう見ているか?--ヨドバシカメラ マルチメディアAkiba店マネージャに聞く](ZDNet Japan、2008年5月2日)</ref>。 2021年4月20日には24インチ4.5K Retinaディスプレイと[[Apple M1]]を採用したモデルを発表し[[Appleシリコン]]へ切り替えた<ref>{{Cite web|和書|title=あざやかなカラーでデザインを一新したiMacが、M1チップと4.5K Retinaディスプレイを搭載して登場 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/04/imac-features-all-new-design-in-vibrant-colors-m1-chip-and-45k-retina-display/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-07-08 |language=ja-JP}}</ref>。 「iMac」そのものは、当初のものと現行のものでは、外観および内部のデザインや設計が大きく変貌しているが、ディスプレイ一体型のデスクトップ機という商品コンセプトは、発売当初から一貫して守られている一方で、商品の位置づけは多種展開により家庭用-プロ向けと幅広く変化している。 == 特長 == それまで市場で販売されていたデスクトップ型のパーソナルコンピュータは、機能の優先や拡張性の確保のため、箱形の筐体をしたものが多かった。これは[[PC/AT互換機]]に限らずAppleの製品でも同じで、iMac発売当時に並販されていた[[Power Macintosh#Power Macintosh G3 DT, MT, All-In-One|Power Macintosh G3 DT, MT]]も箱形のデザインであった。また筐体色は[[アイボリー]]や[[黒|ブラック]]が多かったが、一方でマンハッタンシェイプと呼ばれた[[X68000]]や「[[ハイパーメディア]]パソコン」[[FM TOWNS|FM Towns]]といったデザインが一般的な箱型と異なるグレーの筐体を用いたものや、1997年に発売を開始した[[ソニー]]の[[VAIO]]にバイオレット(紫色)が用いられ「VAIOカラー」<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/981001/expo98_5.htm iMacを軸に昨年より増加した、Mac関連製品のみどころ]</ref>と呼ばれるなどがあった。 iMacが発表された際には、白と半透明のブルーを使った「色」、箱形を脱して曲線を多用した「形」、また当時コンピュータを買う目的の一つであった[[インターネット]]へ接続するまでの購入時・後のユーザーの煩雑さ(周辺機器の購入や接続)低減に効果のあった[[ディスプレイ_(コンピュータ)|ディスプレイ]]や[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[モデム]]といった周辺機器の内蔵もしくは付属によって、製品を箱から出して付属のコード数本を繋ぎ、電源を入れた後に通信契約を行えばインターネットへ簡単に繋げることができる「シンプルさ」が着目され、メディアでは「斬新なデザイン」と評された<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980507/imac.htm 米Apple、斬新なデザインの一体型Mac]</ref>。 ===色=== [[ファイル:IMac G3 flavors.jpg|600px|thumb|iMac G3シリーズに展開されたカラーバリエーション]] ボンダイブルー([[:en:Bondi_blue|en]])1色で販売を開始した初代iMacは、その後「キャンディーカラー」と呼ばれる多色展開を行った。人気色が品薄になったりもした。筐体の素材には[[ポリカーボネート]]が主に使用された。2002年のiMac G4発売に合わせて白を基調としたデザインに変更、2007年8月に発売となった[[iMac (インテルベース)]]からはシルバー(アルミニウム)へと変更された。 ===形=== 発売当初のCRTを搭載したiMacは、筐体デザインに配慮した変形五角形の専用品を使用している。この初代iMacのデザインは、日本国内で1998年度[[グッドデザイン賞]]の家庭用メディア部門にて同賞を受賞している<ref>[http://www.g-mark.org/archive/1998/index.html GOOD DESIGN AWARD G-Mark Library]</ref>。 2002年のiMac G4発売に伴い、製品全体の大幅なデザイン変更が実施された。ディスプレイは液晶となり、半球状の本体から伸びた可動式アームの先にディスプレイが取り付けられた。それまでのCRT型のデザインコンセプトは[[eMac]]のシルエットに引き継がれた。2004年発売のiMac G5で液晶一体型で薄型のデザインにモデルチェンジしている。 このほかにも、発売当初から最新のモデルまで本体表面や内部のパーツおよび構造、付属品、ソフトウェアなど数多くのマイナーチェンジが都度施されている。 ===コンセプトの波及=== iMacの色の特徴である[[トランスルーセント]](半透明)のデザインコンセプトは、コンピュータ業界のみならず、家電業界や文具等のデザインにも影響を与えた<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/1414.html 【ISOT 2000】国際文具展にもケータイ関連グッズ]</ref>。この流れのなかでフューチャーパワー社 (Future Power) の「E-Power」や、[[eMachines]]社の「eOne」、[[ソーテック]]社の「[[ソーテック#製品|e-one]]」などiMacのコンセプトを大きく取り入れたデスクトップ型パーソナルコンピュータが出回った。Appleは[[意匠権]]の保護を求めて提訴し、[[裁判所]]から製造と販売の差し止め命令が下されたり<ref>{{Cite web|和書|title=ソーテック社、eOneの販売が禁止に|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2000/01/14Media-Alert/|website=Apple Newsroom|accessdate=2019-04-13|language=ja-JP}}</ref>、あるいは和解の後にiMacで使われたカラー以外への切り替えがおこなわれた<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/991109/apple.htm 米連邦地裁、E-Powerの製造・販売差し止め仮処分へ]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990820/apple.htm 米Apple、「iMacのデザインをコピー」とeMachinesを提訴]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990824/apple.htm アップル、iMacのデザイン模倣でソーテックを提訴。ソーテックは抗戦の構え]</ref>。 [[1999年]]にAppleは同じコンセプトのノート型パソコン[[iBook]]を発表する。その後も[[iTunes]]、[[iPod]]、[[iPhone]]など、Appleの製品やサービスに「i」を付けたものが続いた(→[[I#字形|小文字のi]])。 == 歴代モデル == === iMac G3(第一世代) === {{Information appliance |名称 = iMac (G3) |画像 = [[ファイル:IMac Bondi Blue.jpg|初代iMac|200px]] |キャプション =ボンダイブルーモデル |メーカー = [[Apple|Apple Computer]] |プロセッサ = [[PowerPC G3]], 233 - 333 MHz |形態 = [[デスクトップパソコン|デスクトップ]] }} トレイローディング方式の[[CD-ROM]]ドライブを持つ初期のシリーズ。Rev.A、Rev.B、Rev.C、Rev.Dの四種類がある(Rev.は"Revision"の略)。初の[[New World ROM]]搭載Macintosh<ref>{{Cite web |title=Open Firmware Security for Mac Workstations |url=https://www.computerworld.com/article/2558263/open-firmware-security-for-mac-workstations.html |website=Computerworld |date=2005-08-12 |access-date=2023-05-08 |language=en |first=Ryan |last=Faas}}</ref>。 '''iMac 233MHz (Rev.A)''' このシリーズのRev.AとBのみ、前面左スピーカー横に[[irDA]]を持つ。また、公式にAppleは発表していないが、内部に通称メザニンスロットという拡張スロットを持つ。[[サードパーティー]]製の拡張カードにより、[[Small Computer System Interface|SCSI]]や[[FireWire]]の拡張が出来た。ロジックボードの設計は当時最新の[[Power_Macintosh#Power Macintosh G3 DT, MT, All-In-One|Power Macintosh G3 DT, MT]]が採用する[[Gossamar]]アーキテクチャをベースにしたものを採用しており、ローエンドながら十分な処理能力を発揮できた。1998年[[グッドデザイン賞]]受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/24340?token=UKJ8hPx5XC 受賞対象名 - パーソナルコンピューター {{Nowiki|[iMac]}}]GOOD DESIGN AWARD</ref>。発売日は米では[[1998年]][[8月15日]]、日本では[[8月29日]]。カラーはBondi Blue (ボンダイブルー)。 '''iMac 233MHz (Rev.B)''' Rev.Aの発売から、わずか二ヶ月での登場で、VRAMが6MBに(Rev.Aは2MB)、バンドルソフトの変更、グラフィックチップが「ATI RAGE PRO」へ、OSが8.1から8.5へと変更された。またメザニンスロットは廃止された(スロットが残った物も存在する)。Rev.Aも同価格でしばらく併売されている時期があった。しかし、外観、外箱等もRev.A、Rev.Bともに同じであった。発売日は1998年[[10月]]。カラーはボンダイブルー。 '''iMac 266MHz (Rev.C)''' 背面、キーボード、マウスの色ラインナップがキャンディーカラーの5色(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー)になった。1999年度[[グッドデザイン賞]]金賞受賞<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/25467 受賞対象 パーソナルコンピュータ iMac, Industrial Design Group, Apple Computer, Inc. 1999年度 グッドデザイン金賞]</ref>。発売日は[[1999年]][[1月|1月24日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990122/apple.htm|title=新型iMac、24日10時に発売|accessdate=2018-05-08|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>。 '''iMac 333MHz (Rev.D)''' Rev.Cのマイナーチェンジ版。発売日は1999年4月<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990412/apple.htm アップル、333MHz版のiMac出荷] 1999年4月10日</ref>。引き続きキャンディカラー(タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー) {| class="wikitable" |+ !項目 !Rev. A !Rev. B !Rev. C !Rev. D |- |製品番号 |{{Align|center|M6709J/A}} |{{Align|center|M6709J/B}} | colspan="2" |{{Align|center|?}} |- |CPU | colspan="4" |{{Align|center|PowerPC 750}} |- |CPUクロック周波数 | colspan="2" |{{Align|center|233MHz}} |{{Align|center|266MHz}} |{{Align|center|333MHz}} |- |内蔵ディスプレイ | colspan="4" |{{Align|center|15インチCRT 最大1024x768ピクセル表示}} |- |GPU |[[ATI_Rage#3D_RAGE_II|ATI Rage IIc]] 2MB |[[ATI_Rage#3D_RAGE_Pro|ATI Rage Pro]] 6MB | colspan="2" |[[ATI_Rage#3D_RAGE_Pro|ATI Rage Pro Turbo]] 6MB |- | rowspan="3" |RAM | colspan="4" |{{Align|center|標準32MB搭載、最大128MB}} |- |{{Align|center|(非公式に最大384MB)}} | colspan="3" |{{Align|center|(非公式に最大512MB)}} |- | colspan="4" |2スロット PC66 SDRAM SO-DIMM |- | rowspan="2" |HDD | colspan="4" |{{Align|center|3.5インチ [[EIDE]]}} |- | colspan="2" |{{Align|center|4GB}} | colspan="2" |{{Align|center|6GB}} |- |USB 1.1 | colspan="4" |{{Align|center|2ポート}} |- |内蔵モデム | colspan="4" |{{Align|center|V90対応、56Kbps}} |- |内蔵イーサネット | colspan="4" |{{Align|center|10/100Base-T}} |- |初期搭載OS |[[Mac_OS_8#Mac_OS_8.1|Mac OS 8.1(専用版)]] |[[Mac_OS_8#Mac_OS_8.5|Mac OS 8.5]] |[[Mac_OS_8#Mac_OS_8.5.1|Mac OS 8.5.1]] |[[Mac_OS_8#Mac_OS_8.6|Mac OS 8.6]] |} === iMac DV系 (スロットローディング) === [[ファイル:Indigo iMac G3 slot loading.jpg|thumb|250px|right|iMac(Slot Loading)]] 1999年10月5日に発表されたiMacは、通称 iMac DV系または「slot loading」と呼ばれる。外観的には透明度の高いつややかな半透明ボディが特徴で、スロットローディングタイプのCD-ROM(またはDVD-ROMドライブ、CD-RWドライブ)になった。デスクトップパソコンとしては[[Macintosh Plus]]までの初期型Macintosh以来となる完全ファンレスの設計で、ハーマン・カードンの高音質ステレオスピーカーが標準搭載された。一部の下位機種を除き、[[IEEE1394|FireWire]]が標準搭載された。ロジックボードの設計はグラフィック回路を内部的にそれまでの[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]接続から[[Accelerated Graphics Port|AGP]]接続する[[Power Mac|Power Mac G4(AGP)]]ベースのものになり、コンピュータとしての設計は以前のものと比べ一世代新しいものに刷新されている。このiMacからCPUはロジックボードに直付けになりRev.DまでのようにサードパーティーでのCPUアップグレードカードなどでのCPUの交換はできなくなった。発売日は米では1999年[[10月5日]]<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/991006/apple3.htm 米Apple、DVDやFireWireに対応した新型iMacを発売 '99年10月5日発表(現地時間)]</ref>、日本では[[10月16日]]。 '''iMac (Slot Loading)'''<ref>[https://support.apple.com/kb/SP121?locale=ja_JP&viewlocale=ja_JP iMac (Slot Loading) - 技術仕様]</ref> * iMac (ブルーベリー) * iMac DV (タンジェリン、グレープ、ライム、ストロベリー、ブルーベリー) * iMac DV Special Edition (グラファイト) '''iMac (Summer 2000)''' <ref>[https://support.apple.com/kb/SP64?locale=ja_JP&viewlocale=ja_JP iMac (Summer 2000) - 技術仕様]</ref> グラファイトカラーの成功を受け、渋く落ち着いたトーンの半透明ポリカーボネートと無色のクリア素材を組み合わせ、透明感を強調したデザインとなった。キーボードは大型化し、パワーオンキー機能が取り払われたApple Pro Keyboardが付属、業界に先駆けて光学式マウス, Apple Pro Mouseも付属していた。2000年7月19日発表<ref>[http://www.apple.com/pr/library/2000/07/19Apple-Introduces-New-iMacs-in-Stunning-New-Colors.html Apple Introduces New iMacs in Stunning New Colors]</ref>、7月28日発売<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000721/apple.htm アップル、新型Macintoshを国内でも発売―Cubeは198,000円で8月中旬から、iMacは98,000円より28日から]</ref>。 * iMac (Indigo) * iMac DV (Indigo、Ruby) * iMac DV+ (Indigo、Ruby、Sage) * iMac DV Special Edition (Graphite、Snow) '''iMac (Early 2001)'''<ref>[https://support.apple.com/kb/SP112?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP iMac (Early 2001) - 技術仕様]</ref> 2001年2月のモデルチェンジは前代未聞の柄付きモデルが追加された。Flower Powerは花柄、Blue Dalmatianは水玉模様である。ユーザの声を受け、光学ドライブをDVD-ROMドライブからCD-RWドライブに変更した。また下位機種以外ではCPUに2次キャッシュを内蔵したPowerPC 750CXEを新たに採用した。2001年2月22日発表<ref>[http://www.apple.com/jp/pr/library/2001/02/22Apple-Unveils-New-iMacs-With-CD-RW-Drives-iTunes-Software.html アップル、CD-RWドライブとiTunesを搭載したiMacを発表 「Rip、Mix、Burn」でオリジナルミュージックCDの作成が可能に]</ref>、2月24日発売。 * Indigo, Graphite, Flower Power, Blue Dalmatian '''iMac (Summer 2001)''' <ref>[https://support.apple.com/kb/SP109?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP iMac (Summer 2001) - 技術仕様]</ref> 2001年7月にモデルチェンジ<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20010719/apple2.htm アップル、新iMac発表]</ref>。2001年7月18日発表<ref>[http://www.apple.com/jp/pr/library/2001/07/18Apple-Updates-iMac-Family.html アップル、iMacファミリーをアップデート デジタルライフスタイルをリードするコンピュータがより速くよりお求めやすく]</ref>、7月20日発売。 * iMac 500/600/700 * Indigo, Graphite, Snow {| class="wikitable" |+ !項目 !Slot Loading !Summer 2000 ! colspan="2" |Early 2001 !Summer 2001 |- |CPU |{{Align|center|PowerPC 750L}} | colspan="2" |{{Align|center|PowerPC 750CX}} | colspan="2" |{{Align|center|PowerPC 750CXe}} |- |CPUクロック周波数 |{{Align|center|350/400MHz}} |{{Align|center|350/400/450/500MHz}} |{{Align|center|400MHz}} |{{Align|center|500/600MHz}} |{{Align|center|500/600/700MHz}} |- |内蔵ディスプレイ | colspan="5" |{{Align|center|15インチCRT 最大1024x768ピクセル表示}} |- |GPU |RAGE 128 VR 8MB AGPx2 | colspan="2" |RAGE 128 Pro 8MB AGPx2 | colspan="2" |RAGE 128 Turbo 16MB AGPx2 |- |ビデオポート | colspan="2" |{{Align|center|DVモデルのみ 標準 VGA 出力ポート(15 ピンミニ D-Sub コネクタ)}} | colspan="3" |{{Align|center|標準 VGA 出力ポート(15 ピンミニ D-Sub コネクタ)}} |- | rowspan="3" |RAM | colspan="5" |{{Align|center|PC100 SDRAM}} |- | colspan="4" |{{Align|center|64MB、128MB}} |{{Align|center|128MB、256MB}} |- |{{Align|center|最大512MB(非公式に1GB)}} | colspan="4" |{{Align|center|最大1GB}} |- | rowspan="2" |HDD | colspan="5" |{{Align|center|3.5インチ Ultra ATA66}} |- |{{Align|center|6GB、10 GB、また13 GB}} |{{Align|center|7GB、10GB、20GB、また30GB}} | colspan="2" |{{Align|center|10GB、20GB、また40GB}} |{{Align|center|20GB、40GB、また60GB}} |- |光学ドライブ |? |{{Align|center|DVD-ROMドライブ}}{{Align|center|(最下位機種のみCD-ROMドライブ)}} |{{Align|center|CD-ROMドライブ}} | colspan="2" |{{Align|center|CD-RWドライブ}} |- |内蔵モデム | colspan="5" |{{Align|center|V90対応、56Kbps}} |- |内蔵イーサネット | colspan="5" |{{Align|center|10/100Base-T}} |- |Wi-Fi | colspan="5" |{{Align|center|[[IEEE802.11b]] AirMacカード対応(オプション)}} |- | rowspan="3" |I/F | colspan="2" |{{Align|center|(FireWireはDVモデルのみ)}} | colspan="3" | {{Align|center|-}} |- | colspan="5" |{{Align|center|6ピンのFireWire ポート (IEEE 1394) ×2、6Wまでの電源供給が可能}} |- | colspan="5" |{{Align|center|USB 1.1 ポート x 2}} |- |サイズ | colspan="5" |{{Align|center|H 38.1 x W 38.1 x D 43.5 cm}} |- |重量 | colspan="5" |{{Align|center|15.8kg}} |- | rowspan="2" |OS |{{Align|center|Mac OS 8.6〜9.2.2}} |{{Align|center|Mac OS 9.0.x〜9.2.2}} | colspan="2" |{{Align|center|Mac OS 9.1〜9.2.2}} |{{Align|center|Mac OS 9.2.2}} |- | colspan="5" |([[Mac OS X v10.4|Mac OS X v10.4.11]]までで稼働可能) |} === iMac G4 (Flat Panel) === {{節スタブ|date=2018年5月8日 (火) 06:22 (UTC)}} {{Information appliance |名称 = iMac (G4) |画像 = [[ファイル:IMac G4 sunflower8.png|iMac (G4) 通称「フラットパネル」|200px]] |キャプション = |メーカー = [[Apple|Apple Computer]] |プロセッサ = [[PowerPC G4]], 700 MHz - 1.25 GHz |形態 = [[デスクトップパソコン|デスクトップ]] }} 2002年1月にMacworld Conference & Expo/San Francisco 2002で発表されたiMacは、それまでとは全く異なるデザインでモデルチェンジされた。半球型の本体から可動アームが伸び、その先に液晶ディスプレイが接続されたオールインワンパソコン。この可動アームによって液晶ディスプレイを自由な角度に調整することができる。スティーブ・ジョブズはこのiMacをsunflower([[ヒマワリ]])のようだと呼んだ。音質を重視した前モデルのコンセプトを引き継ぎ、本体には[[アンプ (音響機器)|デジタルアンプ]]とモノラルスピーカを内蔵、デジタル接続のステレオスピーカが付属する。 発表当初は15インチディスプレイ搭載モデルのみであったが、2002年に17インチワイドディスプレイ、2003年には20インチワイドディスプレイを搭載したモデルがラインナップに追加された。 {| class="wikitable" |+ !項目 !Flat Panel<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/kb/SP93?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP|title=iMac (Flat Panel) - 技術仕様|accessdate=2018-05-08|website=support.apple.com|language=ja}}</ref> !May 03<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/kb/SP104?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP|title=iMac (17-inch 1Ghz) - 技術仕様|accessdate=2018-05-08|website=support.apple.com|language=ja}}</ref> !Sep{{Nbsp}}03 !USB 2.0<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/kb/SP94?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP|title=iMac (USB 2.0) - 技術仕様|accessdate=2018-05-08|website=support.apple.com|language=ja}}</ref> |- | rowspan="3" |内蔵ディスプレイ | colspan="4" |<small>15インチ TFT液晶ディスプレイ 1,024x768, 視野角水平120°x垂直90°, 輝度200cd/m<sup>2</sup> コントラスト比300:1</small> |- |N/A | colspan="3" |<small>17インチ TFT液晶ディスプレイ 1,440x900, 視野角水平120°x垂直90°, 輝度200cd/m<sup>2</sup> コントラスト比300:1</small> |- | colspan="3" |N/A |<small>20インチ TFT液晶ディスプレイ 1,680x1050, 視野角水平170°x垂直170°, 輝度230cd/m<sup>2</sup> コントラスト比350:1</small> |- |CPU |{{Align|center|PowerPC 7450}} | colspan="3" |{{Align|center|PowerPC 7455}} |- |CPUクロック周波数 |{{Align|center|700MHz/800MHz}} |{{Align|center|800MHz/1GHz}} | colspan="2" |{{Align|center|1GHz/1.25GHz}} |- | rowspan="3" |GPU | colspan="2" |{{Align|center|GeForce2 MX 32MB}} | colspan="2" |N/A |- | rowspan="2" |N/A | colspan="3" |{{Align|center|GeForce4 MX 32MB/64MB}} |- |N/A | colspan="2" |{{Align|center|GeForce FX 5200 Ultra 64MB}} |- |ビデオ | colspan="4" |{{Align|center|ミニVGA 出力ポート}} |- |オーディオ | colspan="4" |内蔵スピーカ、内蔵18Wデジタルアンプ、 Apple Pro Speakers用ミニジャック |- |RAM | colspan="4" |PC100 SDRAM, 128MB/256MB 最大1GB |- |HDD |40GB、また60GB 3.5インチ Ultra ATA100 |60GB、また80GB 3.5インチ Ultra ATA100 | |80GB 3.5インチ Ultra ATA100 |- |光学ドライブ | colspan="4" |CD-RWドライブまたは ComboDrive(DVD-ROM/CD-RW)またはSuperDrive(DVD-R/CD-RW) |- |モデム | colspan="4" |V90対応、56Kbps |- |LAN | colspan="4" |10/100Base-T |- |Wi-Fi |AirMacカード対応(オプション) | colspan="3" |AirMac Extremeカード対応ととBluetoothの内部サポート(オプション) |- |I/F | colspan="3" |6ピンのFireWire ポート (IEEE 1394) ×2 (合計で8Wまでの電源供給が可能) USB 1.1 ポート x 3 |6ピンのFireWire ポート (IEEE 1394) ×2 (合計で8Wまでの電源供給が可能) USB 2.0 ポート x 3 |- | rowspan="3" |重量 | colspan="4" |15インチモデル 9.7kg |- |N/A | colspan="3" |17インチモデル 10.4kg |- | colspan="3" |N/A |20インチモデル 18.2kg |- |OS |Mac OS 9.1〜9.2.2 ([[Mac OS X v10.4|Mac OS X v10.4.11]]までで稼働可能) | colspan="3" |[[Mac OS X v10.2]]〜[[Mac OS X v10.5|Mac OS X v10.5.8]] |} === iMac G5 === {{Information appliance |名称 = iMac G5 |画像 = [[ファイル:AppleG5.jpg|200px|iMac G5]] |キャプション = |メーカー = [[Apple|Apple Computer]] |プロセッサ = [[PowerPC 970]], 1.6 GHz - 2.1 GHz |形態 = [[デスクトップパソコン|デスクトップ]] }} ==== iMac G5 ==== [[2004年]][[8月31日]]に、液晶一体型で薄型の本体となった17インチ(1,440×900ドット、厚みは約5センチ)2モデル、ならびに20インチ(1,680×1,050ドット、厚みは約6センチ)1モデルのiMac G5合計3モデルを発表した。 CPUにはPowerPC 970の1.6GHz, 1.8GHz、GPUにはGeForce 5200 Ultraが採用された。一見、ディスプレイに見える筐体は、1つの[[アルミニウム|アルミ]]製のスタンドで支えられており、筐体の角度を-5度から25 度まで傾けることができる。 {| class="wikitable" |+ !項目 !17インチ:1.6GHz !17インチ:1.8GHz !20インチ:1.8GHz |- |LCD | colspan="2" |{{Align|center|17インチワイドスクリーン}}{{Align|center|(1440×900ピクセル)}} |{{Align|center|20インチワイドスクリーン}}{{Align|center|(1680×1050ピクセル)}} |- |CPU | colspan="3" |{{Align|center|PowerPC 970}} |- |CPUクロック周波数 |{{Align|center|1.6GHz}} | colspan="2" |{{Align|center|1.8GHz}} |- |二次キャッシュ | colspan="3" |{{Align|center|256KB}} |- |フロントサイドバス |{{Align|center|533MHz}} | colspan="2" |{{Align|center|600MHz}} |- |メモリ | colspan="3" |{{Align|center|256MB 400MHz [[DDR SDRAM]]}} |- |GPU | colspan="3" |{{Align|center|GeForce 5200 Ultra(64MB、[[AGP]] 8X接続)}} |- |Serial ATA ハードディスクドライブ | colspan="2" |{{Align|center|80GB}} |{{Align|center|160GB}} |- | rowspan="2" |光学ドライブ | colspan="3" |{{Align|center|スロットローディング方式}} |- |{{Align|center|ComboDrive}}{{Align|center|(DVD-ROM/CD-RW)}} | colspan="2" |{{Align|center|8倍速SuperDrive}}{{Align|center|(DVD-RW/CD-RW)}} |- |I/F | colspan="3" |{{Align|center|2基のFireWire 400、3基のUSB 2.0}} |- |ネットワーク | colspan="3" |{{Align|center|10/100BASE-T Ethernet}} |- |ワイヤレス | colspan="3" |{{Align|center|AirMac ExtremeワイヤレスネットワーキングとBluetoothの内部サポート}}{{Align|center|(CTOオプション)}} |} ==== iMac G5 (Ambient Light Sensor) ==== [[2005年]][[5月3日]]に、CPUを1.8GHz, 2.0GHz、GPUをRadeon 9600搭載へと性能をアップしたiMac G5 (Ambient Light Sensor) シリーズを発表。 {| class="wikitable" |+ !項目 !17インチ:1.8GHz !17インチ:2.0GHz !20インチ:2.0GHz |- |LCD | colspan="2" |{{Align|center|17インチワイドスクリーン}}{{Align|center|(1440×900ピクセル)}} |{{Align|center|20インチワイドスクリーン}}{{Align|center|(1680×1050ピクセル)}} |- |CPU | colspan="3" |{{Align|center|PowerPC 970}} |- |CPUクロック周波数 |{{Align|center|1.8GHz}} | colspan="2" |{{Align|center|2.0GHz}} |- |二次キャッシュ | colspan="3" |{{Align|center|512KB}} |- |フロントサイドバス |{{Align|center|600MHz}} | colspan="2" |{{Align|center|667MHz}} |- |メモリ | colspan="3" |{{Align|center|512MB 400MHz DDR SDRAM}} |- |GPU | colspan="3" |{{Align|center|ATI Radeon 9600(128MB、[[AGP]] 8X接続)}} |- |Serial ATA ハードディスクドライブ | colspan="2" |{{Align|center|160GB}} |{{Align|center|250GB}} |- | rowspan="2" |光学ドライブ | colspan="3" |{{Align|center|スロットローディング方式}} |- |24倍速ComboDrive(DVD-ROM/CD-RW) | colspan="2" |8倍速SuperDrive (DVD+R DL/DVD±RW/CD-RW) |- |I/F | colspan="3" |{{Align|center|2基のFireWire 400、3基のUSB 2.0}} |- |ネットワーク | colspan="3" |{{Align|center|10/100/1000BASE-T(ギガビット)Ethernet}} |- |ワイヤレス | colspan="3" |{{Align|center|AirMac ExtremeワイヤレスネットワーキングとBluetooth内蔵}} |} ==== iMac G5 (iSight) ==== [[2005年]][[10月12日]]に、アーキテクチャを[[PCI Express]]/[[DDR2 SDRAM]]ベースに一新しiSightを内蔵した、iMac G5 (iSight) シリーズを発表。 筐体の構造と内部設計を全面変更し冷却性能が大幅に改善された。これがiMacシリーズ最後のPowerPC搭載機になり、その後外見を全く変えずに[[インテル]]のCPUを搭載したiMacの誕生となる。 {| class="wikitable" |- ! 項目 !! 17インチ !! 20インチ |- | CPU || colspan="2" | {{Align|center|PowerPC 970FX}} |- | CPUクロック周波数 || {{Align|center|1.9GHz}}|| {{Align|center|2.1GHz}} |- | 二次キャッシュ || colspan="2" | {{Align|center|512KB}} |- | フロントサイドバス || {{Align|center|633MHz}}|| {{Align|center|700MHz}} |- | メモリ || colspan="2" | {{Align|center|オンボード512MB DDR2-533 SDRAM}}{{Align|center|(最大2.5GB)}} |- | rowspan="2" | GPU || colspan="2" | {{Align|center|ATI Radeon}} |- |{{Align|center|X600Pro}} |{{Align|center|X600XT}} |- | VRAM || colspan="2" | {{Align|center|DDR 128MB}}{{Align|center|(20インチのみCTOオプションで256MB)}} |- | Serial ATAハードディスクドライブ || {{Align|center|160GB}}|| {{Align|center|250GB}} |- | 光学ドライブ || colspan="2" | {{Align|center|スロットローディング 8倍速 SuperDrive}} |- | ネットワーク || colspan="2" | {{Align|center|10/100/1000BASE-T(ギガビット)Ethernet}} |} === iMac (Intel Core Duo) === ''[[iMac (インテルベース)]]''を参照 === iMac (Intel Core 2 Duo) === ''[[iMac (インテルベース)]]''を参照 === iMac(Appleシリコン) === [[iMac (Appleシリコンベース)]]を参照 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{1998年以降のApple製ハードウェア}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:IMac}} [[Category:Macintosh]] [[Category:1998年のハードウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IMac
2,271
1954年
1954年(1954 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和29年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1954年(1954 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和29年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。", "title": "他の紀年法" } ]
1954年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和29年。
{{年代ナビ|1954}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1954 }} {{year-definition|1954}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1954年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[甲午]](きのえ うま) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]29年 ** [[皇紀]]2614年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]43年 * [[朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4287年 ** [[主体暦|主体]]43年 * [[仏滅紀元]]:2496年 - 2497年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1373年4月25日 - 1374年5月6日 * [[ユダヤ暦]]:5714年4月26日 - 5715年4月6日 * [[修正ユリウス日]](MJD):34743 - 35107  * [[リリウス日]](LD):135584 - 135948 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1954}} == できごと == [[ファイル:Nijubashi Incident.JPG|thumb|150px|二重橋事件(1月2日)<br />事件当日の二重橋]] [[ファイル:Castle Bravo Blast.jpg|thumb|150px|[[キャッスル作戦]]実施<br />水爆「ブラボー」のキノコ雲(3月1日)]] [[ファイル:NASA f63.jpg|thumb|150px|ボーイング707の原型機[[ボーイング367-80]]初飛行(7月15日)]] [[ファイル:Toya-Maru Disaster.JPG|thumb|150px|洞爺丸事故(9月26日)<br />転覆した洞爺丸]] [[File:Military parade celebrating establishment of JGSDF.jpg|thumb|150px|[[陸上自衛隊]]の発足記念式典]] === 1月 === * [[1月]] - [[ラストボロフ事件]]{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月1日]] - [[埼玉県]][[飯能市]]、[[奈良県]][[大和郡山市]]、[[島根県]][[大田市]]が市制施行。 * 1月1日 - 50銭以下の小銭廃止。 * 1月1日 - [[九州朝日放送]]([[KBCラジオ]])開局。 * [[1月2日]] - [[皇居]][[二重橋]]で皇居一般参賀者が橋上で[[将棋倒し]]となり16人が死亡する([[二重橋事件]])。 * [[1月5日]] - [[加藤芳郎]]の[[4コマ漫画]]『[[まっぴら君]]』が[[毎日新聞]]夕刊で連載開始([[2001年]][[6月23日]]に連載終了)。 * [[1月6日]] - [[青函トンネル]]の起工式を開催。 * [[1月8日]] - [[マツモトキヨシ]]が有限会社として設立。 * [[1月10日]] - [[コメット連続墜落事故]]: [[英国海外航空781便墜落事故]]起こる。 * [[1月14日]] - [[マリリン・モンロー]]が[[ジョー・ディマジオ]]と結婚([[10月4日]]離婚)。 * [[1月18日]] - プロ野球・名古屋ドラゴンズの経営から[[名古屋鉄道]]が撤退。[[中日新聞社|中部日本新聞社]]の単独経営となり3年ぶりに「[[中日ドラゴンズ]]」の名称に戻す。 * [[1月20日]] - [[東京メトロ丸ノ内線|営団地下鉄丸ノ内線]]の[[池袋駅]] - [[御茶ノ水駅]]間が開業。 * [[1月23日]] -アメリカのテレビ局[[NBC]]のニューヨーク局[[WNBC]]が世界初となる[[カラーテレビ]]の本放送開始。 === 2月 === * [[2月1日]] - [[ジョー・ディマジオ]]、[[マリリン・モンロー]]夫妻が来日。 * 2月1日 - 中部日本新聞社から「[[中日スポーツ]]」創刊。 * [[2月11日]] - [[茨城県]][[石岡市]]、[[栃木県]][[日光市]]が市制施行。 * [[2月19日]] - 日本初の国際[[プロレス|プロレスリング]]大会が[[蔵前国技館]]で開催([[3月9日]]まで)。この模様は[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]]と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で生中継され、[[街頭テレビ]]では[[力道山]]や[[シャープ兄弟]]に人気が集中した。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[日本]]の遠洋[[マグロ]]漁船[[第五福竜丸]]が[[アメリカ合衆国|米国]]の[[水爆実験]]によって発生した多量の[[放射性降下物]](いわゆる死の灰)を浴びる。 * 3月1日 - [[白元|鎌田商会]]がトイレ用消臭芳香剤「トイレボール」を発売。 * 3月1日 - [[パナソニック|松下電器産業]]が同社初の電気掃除機「MC-1」を発売。 * 3月1日 - [[山陰放送]](当時はラジオ山陰)が開局。 * 3月1日 - [[日本放送協会|NHK]]、[[NHK大阪放送局|大阪]]と[[NHK名古屋放送局|名古屋]]で[[テレビジョン放送]]開始。 * [[3月12日]] - [[ウォルト・ディズニー]]原作のアニメ映画『[[ダンボ]]』が日本初の[[日本語]][[吹き替え]]映画として公開。 * [[3月14日]] - [[モスクワ地下鉄]]5号線[[環状線 (モスクワ地下鉄)|環状線]]が全線開通。 * [[3月18日]] - [[武田薬品工業]]が「[[アリナミン]]糖衣錠」を発売。 * [[3月31日]] - [[千葉県]][[成田市]]、[[三重県]][[名張市]]、[[滋賀県]][[近江八幡市]]など全国で35の自治体が市制施行。 === 4月 === * [[4月1日]] - [[岩手県]][[花巻市]]・[[北上市]]、[[長野県]][[伊那市]]、[[愛知県]][[犬山市]]、[[大阪府]][[河内長野市]]、[[兵庫県]][[宝塚市]]、[[奈良県]][[天理市]]、[[福岡県]][[筑後市]]、[[佐賀県]][[鳥栖市]]・[[武雄市]]・[[伊万里市]]、[[熊本県]][[玉名市]]・[[山鹿市]]、[[鹿児島県]][[出水市]]などが市制施行。 * [[4月5日]] - 初の[[集団就職]][[列車]]([[青森駅|青森]]・[[上野駅|上野]]間)が運行される。 * [[4月8日]] - [[コメット連続墜落事故]]: [[南アフリカ航空201便墜落事故]]起こる。 * [[4月15日]] - [[神奈川県]][[逗子市]]が市制施行。 * [[4月19日]] - [[文京区小2女児殺害事件]] * [[4月28日]] - [[明治製菓]]が日本初の缶入りジュースを発売。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[東京都]][[昭島市]]、[[佐賀県]][[多久市]]が市制施行。 * [[5月3日]] - 埼玉県[[加須市]]が市制施行。 * [[5月7日]] - [[フランス軍]]の[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]の拠点[[ディエンビエンフー]]が陥落。 * [[5月25日]] - 写真家[[ロバート・キャパ]]がインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死。 * [[5月31日]] - [[大分県]][[豊後高田市]]が市制施行。 === 6月 === * [[6月1日]] - 茨城県[[下妻市]]、愛知県[[江南市]]、三重県[[尾鷲市]]、兵庫県[[高砂市]]などが市制施行。 * 6月1日 - [[京都旭丘中学事件]]の調停が成立して授業が再開される。 * 6月1日 - 鈴木式織機、鈴木自動車工業に社名変更([[1990年]]、[[スズキ (企業)|スズキ]]に再び社名変更)。 * [[6月2日]] - [[参議院]]、「[[自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議]]」を全会一致で可決。 * [[6月4日]] - [[近江絹糸争議]]。 * [[6月13日]] - [[カービン銃ギャング事件]]。[[教育二法]]施行。 * [[6月15日]] - [[欧州サッカー連盟]]が[[スイス]]・[[バーゼル]]で発足。 * [[6月17日]] - [[中華人民共和国]]と[[イギリス]]が[[国交]]樹立。 * [[6月19日]] - [[名古屋テレビ塔]]完成。 * [[6月27日]] - [[モスクワ]]近郊[[オブニンスク]]で世界初の[[原子力発電所]]が運転を開始。 === 7月 === * [[7月1日]] - 埼玉県[[東松山市]]が市制施行。 * 7月1日 - [[自衛隊]]発足。 * 7月1日 - [[山梨放送]](当時はラジオ山梨)、[[宮崎放送]](当時はラジオ宮崎)が開局。 * 7月1日 - 新[[警察法]]が施行。[[国家地方警察]]と[[自治体警察]]が廃止・統合し、[[警察庁]]と[[都道府県警察]]が設置される。 * [[7月4日]] - [[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で、のちにドラマ「[[逃亡者 (1963年のテレビドラマ)|逃亡者]]」の原案となる、シェパード夫人殺害事件。 * [[7月15日]] - [[ボーイング707]]型機が初飛行。 * 7月15日 - [[ニッポン放送]]開局。 * [[7月25日]] - [[大阪スタヂアム|大阪球場]]の[[阪神タイガース|阪神]]-中日戦が[[没収試合|放棄試合]]となる。 === 8月 === * [[8月1日]] - 千葉県[[習志野市]]、兵庫県[[川西市]]などが市制施行。 * 8月1日 - [[コニカ|小西六写真工業]]が「KONIFLE II」を発売。 * [[8月8日]] - [[山梨県]][[大月市]]が市制施行。 * [[8月13日]] - [[徳島ラジオ商殺し事件]]の被疑者とされる女性を逮捕。 * [[8月27日]] - 日本短波放送(現在の[[日経ラジオ社]]=ラジオNIKKEI)開局。 * [[8月29日]] - [[ロッキード]]社(現[[ロッキード・マーティン]]社)の軍用輸送機[[C-130ハーキュリーズ]]が初飛行。 * [[8月31日]] - [[北海道]][[釧路市]]の[[太平洋炭礦]]で爆発事故、39人死亡。 === 9月 === * [[9月1日]] - 埼玉県[[羽生市]]、[[広島県]][[大竹市]]、[[愛媛県]][[大洲市]]などが市制施行。 * [[9月6日]] - [[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[黒澤明]]監督の『[[七人の侍]]』と[[溝口健二]]監督の『[[山椒大夫]]』の日本映画2作品が銀獅子賞を受賞。 * [[9月15日]] - [[ロート製薬]]が胃腸薬「シロン」を発売。 * [[9月20日]] - [[トヨタ自動車]]が「[[トヨペット (ブランド)|トヨペット]]・ライトトラックSKB型」を発売([[1956年]]、「[[トヨタ・トヨエース|トヨエース]]」と命名)。 * [[9月26日]] - [[洞爺丸事故]]。 * 9月26日 - [[岩内大火]]、[[北海道]][[岩内郡]][[岩内町]]。焼損棟数3299棟、死者33名。 * [[9月27日]] - [[NBC]]で『[[ザ・トゥナイト・ショー]]』が放映開始。 * [[9月29日]] - [[メジャーリーグベースボール|MLB]][[1954年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]第一戦8回表の守備で、[[ウィリー・メイズ]]が『[[:en:The Catch (baseball)|ザ・キャッチ]]』。 *9月29日 - [[欧州原子核研究機構]](CERN)が設立される。 * [[9月30日]] - 埼玉県[[鴻巣市]]が市制施行。 === 10月 === * [[10月1日]] - [[青森県]][[五所川原市]]、[[栃木県]][[真岡市]]、三重県[[亀山市]]などが市制施行。 * [[10月4日]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、『[[NNNきょうの出来事]]』(当時:『[[東芝]]提供 今日の出来事』)放送開始([[2006年]][[9月29日]]まで放送)。 * [[10月8日]] - 神奈川県の[[相模湖]]で遠足の中学生らを定員オーバーで乗せた遊覧船が沈没し22名が死亡。([[内郷丸遭難事件]]) * [[10月19日]] - 中日が球団創設19年目で初の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝。 * [[10月10日]] - 山梨県[[韮崎市]]、福岡県[[行橋市]]が市制施行。 * [[10月15日]] - 滋賀県[[草津市]]が市制施行。 * [[10月26日]] - [[仁保事件]]が起こる。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[山形県]][[村山市]]、三重県[[鳥羽市]]などが市制施行。 * 11月1日 - アルジェリア戦争が始まる * 11月1日 - [[オリンパス]]が「オリンパスフレックスA3.5II」を発売。同じ日には[[ペンタックス|旭光学工業]]が「アサヒフレックスIIB」を発売。 * [[11月3日]] - 岩手県[[久慈市]]、三重県[[熊野市]]、[[宮崎県]][[串間市]]などが市制施行。 * 11月3日 - [[東宝]]映画「[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]」が公開される。 * [[11月7日]] - 両リーグ初優勝同士の対決となった[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]第7戦、中日が[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]を4勝3敗で下し初の日本一達成。 * [[11月10日]] - [[国会 (日本)|第20臨時国会]]召集([[12月9日]]閉会)。 * [[11月20日]] - 神奈川県[[相模原市]]が市制施行。 * [[11月23日]] - 茨城県[[高萩市]]が市制施行。 * [[11月24日]] - [[日本民主党]]が結成。 === 12月 === * [[12月1日]] - 岩手県[[遠野市]]、栃木県[[大田原市]]、兵庫県[[小野市]]が市制施行。 * [[12月3日]] - [[空手道]]の最初の全国大会である[[全国防具付空手道選手権大会|全国空手道選手権大会]]が開催される。 * [[12月7日]] - 吉田内閣総辞職。 * [[12月10日]] - 第21国会召集([[1955年]][[1月24日]]解散)、[[第1次鳩山内閣]]発足。 * [[12月22日]] - [[日本プロレス]]で初の日本選手権が蔵前国技館で行われ、[[力道山]]が[[木村政彦]]を下す([[昭和の巌流島]])。 * [[12月24日]] - [[東京ドーム (企業)|後楽園スタヂアム]]運営の後楽園[[ローラースケート]]場が開場。 * [[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|昭和の大合併]]が進む。 * 日本国内で実行に移されていた[[弾丸列車]]計画(通称:十五ヵ年継続計画)の完成予定年(計画自体は[[第二次世界大戦]]における日本の戦局悪化で消滅。すでに工事が進められていた区間の工事再開は[[1959年]][[4月20日]])。 * [[講談社]]から月刊少女漫画雑誌『[[なかよし]]』創刊。 == スポーツ == {{See also|1954年のスポーツ}} * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ]]優勝:[[中日ドラゴンズ]] ** [[パシフィック・リーグ]]優勝:[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] ** [[1954年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝:中日ドラゴンズ * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所:[[吉葉山潤之輔]] ** 春場所:[[三根山隆司]] ** 夏場所:[[栃錦清隆]] ** 名古屋場所:不明 ** 秋場所:栃錦清隆 ** 九州場所:不明 == 芸術・文化 == === 映画 === {{main|1954年の映画}} * [[イタリア旅行]](監督:[[ロベルト・ロッセリーニ]]) * [[裏窓]](監督:[[アルフレッド・ヒッチコック]]) * [[波止場 (映画)|波止場]](監督:[[エリア・カザン]]) * [[道 (1954年の映画)|道]](監督:[[フェデリコ・フェリーニ]]) * [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]](監督:[[本多猪四郎]])。シリーズ第1作。 * [[七人の侍]](監督:[[黒澤明]]) * [[近松物語]](監督:[[溝口健二]]) * [[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]](監督:[[木下恵介]]) === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第31回(1954年上半期) - [[吉行淳之介]] 『驟雨』その他 ** 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]] 『アメリカン・スクール』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第31回(1954年上半期) - [[有馬頼義]] 『終身未決犯』 ** 第32回(1954年下半期) - [[梅崎春生]] 『ボロ家の春秋』、[[戸川幸夫]] 『[[高安犬物語]]』 === ラジオ === {{See also|1954年のラジオ (日本)}} * [[1月1日]] - [[九州朝日放送]](KBC)開局。 * [[3月1日]] - [[山陰放送|ラジオ山陰(RSB、現・山陰放送)]]開局。 * [[7月1日]] - [[山梨放送|ラジオ山梨(RYC、現・山梨放送)]]、[[宮崎放送|ラジオ宮崎(RMK、現・宮崎放送)]]開局。 * [[7月15日]] - [[ニッポン放送]]が開局。 * [[10月1日]] - [[琉球放送]](RBC)開局。 === コマーシャル === {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪やっぱり森永ネ<br />※テレビの[[コマーシャルソング]]第1号||[[森永ミルクキャラメル]]||[[森永製菓]]||[[西川辰美]](画)||[[三木鶏郎]](曲)、[[中村メイコ]]・[[灰田勝彦]]・[[宮城まり子]]・[[古賀さと子]](歌) |- |♪ワ、ワ、ワ〜輪が三つ||ミツワ石鹸||[[ミツワ石鹸]]||-||三木鶏郎 |- |} == 誕生 == [[ファイル:Socrates87660.jpg|thumb|120px|元サッカー選手[[ソクラテス (サッカー選手)|ソクラテス]](2月19日)]] [[ファイル:Carlos Ghosn.jpg|thumb|120px|[[カルロス・ゴーン]](3月9日)]] [[ファイル:Jackie Chan 2002-portrait edited.jpg|thumb|120px|アクション俳優・映画監督[[ジャッキー・チェン]](4月7日)]] [[ファイル:RiccardoPatrese.jpg|thumb|120px|元F1レーサー[[リカルド・パトレーゼ]](4月17日)]] [[ファイル:Alexander Lukashenko 2007.jpg|thumb|120px|ベラルーシ大統領[[アレクサンドル・ルカシェンコ]](8月30日)]] [[ファイル:Shinzo Abe.jpg|thumb|120px|元日本国内閣総理大臣[[安倍晋三]](9月21日)]] [[ファイル:George Lynch 2009.jpg|thumb|120px|[[ジョージ・リンチ]](9月28日)]] [[ファイル:Kazuo Ishiguro by Kubik.JPG|thumb|120px|作家[[カズオ・イシグロ]](11月8日)]] [[ファイル:Condoleezza Rice.jpg|thumb|120px|元アメリカ国務長官[[コンドリーザ・ライス]](11月14日)]] [[ファイル:Kataoka art museum kusatsu.JPG|thumb|120px|タレント・画家[[片岡鶴太郎]](12月21日)<br />画像は片岡鶴太郎美術館]] {{see also|Category:1954年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ぶるうたす]]、[[お笑いタレント]] * [[1月3日]] - [[高瀬春奈]]、[[俳優|女優]] * 1月3日 - [[浜納一志]]、[[プロ野球選手]] * [[1月6日]] - [[高橋まこと]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1月6日 - [[中畑清]]、元プロ野球選手 * 1月6日 - [[堀井雄二]]、[[ゲームデザイナー]] * 1月6日 - [[赤城マリ子]]、元女子[[プロレスラー]] * [[1月7日]] - [[松岡清治 (野球)|松岡清治]]、元プロ野球選手 * [[1月8日]] - [[田尾安志]]、元プロ野球選手 * [[1月14日]] - [[石田純一]]、[[俳優]] * 1月14日 - [[ルー大柴]]、[[タレント]] * 1月14日 - [[森雪之丞]]、[[作詞家]] * 1月14日 - [[萩尾みどり]]、[[俳優|女優]] * 1月14日 - [[渕正信]]、プロレスラー * [[1月15日]] - [[大石友好]]、元プロ野球選手 * [[1月17日]] - シェリル・ベンティーン、歌手・[[マンハッタン・トランスファー]]メンバー * [[1月19日]] - [[松任谷由実]]、[[シンガーソングライター]] * 1月19日 - [[リチャード・ゲイル]]、元プロ野球選手 * 1月19日 - [[マーシャル・カーク・マキュージック]]、[[計算機科学]]者 * [[1月21日]] - [[三浦洋一 (俳優)|三浦洋一]]、俳優(+ [[2000年]]) * [[1月23日]] - [[小日向文世]]、俳優 * [[1月26日]] - [[草柳文惠]]、[[ニュースキャスター|キャスター]](+ [[2008年]]) * 1月26日 - [[井上泰治]]、[[映画監督]]、[[脚本家]](+ [[2020年]]) * 1月26日 - [[立川らく朝]]、[[落語家]]、[[博士(医学)|医学博士]](+ [[2021年]]) * [[1月28日]] - [[塩沢兼人]]、[[声優]](+ [[2000年]]) * [[1月29日]] - [[山口富男]]、政治家 === 2月 === * [[2月1日]] - [[井沢元彦]]、[[小説家]] * [[2月2日]] - [[浅野和之]]、俳優 * [[2月3日]] - [[根岸季衣]]、女優 * 2月3日 - [[斎藤輝美]]、[[プロ野球選手]] * [[2月4日]] - [[千葉繁]]、声優 * 2月4日 - [[水越恵子]]、[[シンガーソングライター]] * [[2月9日]] - [[平田薫 (野球)|平田薫]]、元プロ野球選手 *[[2月11日]] - [[清水和夫]]、元レーシングドライバー * [[2月14日]] - [[田中公平]]、[[作曲家]] * 2月14日 - [[中川ひろたか]]、[[絵本作家]]・[[シンガーソングライター]] * [[2月15日]] - [[山本和男]]、元プロ野球選手 * 2月15日 - [[稲生高善]]、プロ野球選手 * 2月15日 - [[立川志の輔]]、[[落語家]]・[[タレント]] * [[2月18日]] - [[ジョン・トラボルタ]]、俳優 * [[2月19日]] - [[ソクラテス (サッカー選手)|ソクラテス]]、元[[サッカー選手]](+ [[2011年]]) * [[2月21日]] - [[橋本以蔵]]、[[脚本家]]・[[映画監督]] * [[2月24日]] - [[シド・マイヤー]]、ゲームデザイナー * 2月24日 - [[ロレンツォ・マトッティ]]、漫画家・イラストレーター * [[2月25日]] - [[石井苗子]]、女優・テレビキャスター * 2月25日 - [[波多野健 (プロデューサー)|波多野健]]、[[テレビプロデューサー]] * [[2月27日]] - [[ニール・ショーン]]、[[ギタリスト]]([[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]]) === 3月 === * [[3月1日]] - [[ロン・ハワード]]、[[映画監督]]・[[映画プロデューサー]]・[[俳優]] * 3月1日 - [[十倉好紀]]、物理学者 * [[3月2日]] - [[吉沢京子]]、女優 * 3月2日 - [[高島雅羅]]、声優 * [[3月3日]] - [[手間本北栄]]、彩書家 * [[3月5日]] - [[吉永泰之]]、[[SUBARU]]取締役兼社長兼[[最高経営責任者|CEO]] * [[3月6日]] - [[北川れん子]]、政治家 * 3月6日 - [[鈴木清明]]、[[広島東洋カープ]]球団本部長 * 3月6日 - [[丹内司]]、[[アニメーター]] * [[3月7日]] - [[福島知春]]、[[プロ野球選手]](+ [[1995年]]) * [[3月8日]] - [[上水流洋]]、プロ野球選手 * 3月8日 - [[橘健治 (野球)|橘健治]]、プロ野球選手 * [[3月9日]] - [[カルロス・ゴーン]]、元[[日産自動車]]取締役兼社長兼CEO * [[3月11日]] - [[BORO]]、[[シンガーソングライター]]  * 3月11日 - [[デヴィッド・ニューマン (作曲家)|デヴィッド・ニューマン]]、[[音楽家]]・[[作曲家]] * [[3月12日]] - [[ラリー・ロスチャイルド]]、[[メジャーリーガー]] * [[3月13日]] - [[ランディ・バース]]、プロ野球選手 * [[3月15日]] - [[伊東たけし]]、[[サクソフォーン]]奏者 * [[3月18日]] - [[松浦寿輝]]、フランス文学者・詩人・小説家 * 3月18日 - [[因幡晃]]、シンガーソングライター * [[3月22日]] - [[真島茂樹]]、[[ダンサー]]・[[俳優]]・[[歌手]] * [[3月23日]] - [[堀秀行]]、声優 * [[3月24日]] - [[前田実]]、[[アニメーター]] *[[3月24日]] - [[ラファエル・オロスコ・マエストレ]]、[[コロンビア]]の歌手(+ [[1992年]]) * [[3月26日]] - [[井上和彦 (声優)|井上和彦]]<ref name="CDジャーナル">{{Cite web|和書 |url=https://artist.cdjournal.com/a/inoue-kazuhiko/102812|title=井上 和彦 - CDJournal |work=CDジャーナル |publisher=[[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |accessdate=2020-11-20}}</ref>、声優・[[音響監督]] * 3月26日 - [[玉城正富]]、プロ野球選手 * [[3月27日]] - [[香川正人]]、プロ野球選手(+ [[2016年]]) * [[3月28日]] - [[青山秀明]]、[[物理学者]]・[[京都大学]]教授 * 3月28日 - [[いけだももこ]]、元女優 * [[3月29日]] - [[梅原克彦]]、官僚・第32代[[仙台市]]長 * [[3月30日]] - [[長田百合子]]、教育評論家・引きこもりカウンセラー === 4月 === * [[4月1日]] - [[林真理子]]、[[小説家]] * [[4月1日]] - [[平沢進]]、ミュージシャン * 4月1日 - [[ジェフ・ポーカロ]]、[[ドラマー]]、ミュージシャン([[TOTO (バンド)|TOTO]]) * [[4月3日]] - [[田野倉利男]]、元[[プロ野球選手]] * 4月3日 - [[河村秀則]]、プロ野球選手 * [[4月5日]] - [[岩木哲]]、元プロ野球選手 * 4月5日 - [[黒紙義弘]]、プロ野球選手 * 4月5日 - [[山田啓二]]、[[政治家]]・[[京都府知事]] * [[4月6日]] - [[よこやまよしひろ]]、俳優 * [[4月7日]] - [[ジャッキー・チェン]]、[[俳優|アクション俳優]] * 4月7日 - [[木本茂美]]、元プロ野球選手 * [[4月8日]] - [[ゲイリー・カーター]]、[[メジャーリーガー]](+ [[2012年]]) * [[4月9日]] - [[山内としお]]、俳優 * [[4月10日]] - [[六平直政]]、俳優 * [[4月12日]] - [[鮫島一歩]]、調教師 * 4月12日 - [[三雲孝江]]、[[フリーアナウンサー]]・[[ニュースキャスター]] * [[4月13日]] - [[鶴田一郎]]、[[グラフィックデザイナー]] * [[4月14日]] - [[大友克洋]]、漫画家・[[映画監督]] * [[4月15日]] - [[坂崎幸之助]]、ミュージシャン([[THE ALFEE]]) * 4月15日 - [[小林すすむ]]、俳優(+ [[2012年]]) * [[4月16日]] - [[小川一夫]]、元プロ野球選手 * [[4月17日]] - [[高見沢俊彦]]、ミュージシャン([[THE ALFEE]]) * 4月17日 - [[リカルド・パトレーゼ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * 4月17日 - [[あきやまるな]]、[[声優]](+ [[2014年]]) * [[4月19日]] - [[水江正臣]]、元プロ野球選手 * [[4月23日]] - [[マイケル・ムーア]]、ドキュメンタリー映画監督 * 4月23日 - [[松尾格]]、プロ野球選手 * [[4月24日]] - [[井野修]]、プロ野球審判員 * [[4月25日]] - [[ブーマー・ウェルズ]]、元プロ野球選手 * [[4月29日]] - [[池田茂 (野球)|池田茂]]、プロ野球選手 * [[4月30日]] - [[釘谷肇]]、元プロ野球選手 === 5月 === * [[5月5日]] - [[デーブ・スペクター]]、[[テレビプロデューサー]] * [[5月8日]] - [[吉川美代子]]、TBSアナウンサー * [[5月10日]] - [[丸山圭子]]、シンガーソングライター * [[5月11日]] - [[伊藤文隆]]、元[[プロ野球選手]] * [[5月13日]] - [[中井直正]]、[[天文学者]] * 5月13日 - [[前田秀樹]]、元サッカー選手 * 5月13日 - [[倉田よしみ]]、漫画家 * [[5月16日]] - [[松永美隆]]、プロ野球選手 * [[5月19日]] - [[大塚芳忠]]、声優 * 5月19日 - [[鈴木博文]]、[[ミュージシャン]] * 5月19日 - [[池之上格]]、元プロ野球選手 * [[5月21日]] - [[影虎和彦]]、元[[大相撲]][[力士]] * [[5月22日]] - [[中村修二]]、[[電子工学者]] * [[5月23日]] - [[金在博]]、元野球選手 * [[5月27日]] - [[安田拡了]]、[[プロレス]][[スポーツライター|フリーライター]] * 5月27日 - [[高代延博]]、元プロ野球選手 * [[5月30日]] - [[佐々木正行]]、元プロ野球選手 * 5月30日 - [[神崎愛]]、女優・[[フルート]]奏者・[[ソプラノ]]歌手 * 5月30日 - [[石田真]]、プロ野球選手 === 6月 === * [[6月2日]] - [[川島千代子]]、元声優 * [[6月4日]] - [[山路和弘]]<ref name="seinenza">{{Cite web|和書|url=http://seinenza.com/profile/data/yamaji_kazuhiro.html|title=山路 和弘|publisher=[[劇団青年座]]|accessdate=2020-11-01}}</ref>、声優 * [[6月5日]] - [[ピーター・アースキン]]、[[ジャズ]]・[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]・ドラマー * 6月5日 - [[檀ふみ]]、[[俳優|女優]]・[[エッセイスト]] * [[6月7日]] - [[木田勇]]、元[[プロ野球選手]] * [[6月10日]] - [[小嶋正宣]]、元プロ野球選手 * [[6月13日]] - [[山田栄子]]、[[声優]] * [[6月14日]] - [[根本隆]]、元プロ野球選手 * [[6月18日]] - [[野中ともよ]]、[[テレビキャスター]]、[[ジャーナリスト]] * [[6月19日]] - [[大宮龍男]]、元プロ野球選手 * [[6月20日]] - [[青木実]]、元プロ野球選手 * [[6月27日]] - [[藤井眞吾]]、ギタリスト * [[6月29日]] - [[清水アキラ]]、[[お笑いタレント]] * [[6月30日]] - [[石井隆夫]]、[[声優]] === 7月 === * [[7月2日]] - [[南沙織]]、元[[歌手]] * 7月2日 - [[たつみや章]]、[[児童文学作家]] * [[7月3日]] - [[鈴木孝政]]、元[[プロ野球選手]] * [[7月9日]] - [[田代富雄]]、元プロ野球選手 * [[7月10日]] - [[平田英之]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]<ref name="Sponichi20131230">{{Cite news|title=さらば球界の名士…“怪童”尾崎行雄氏 長嶋さんも驚いた剛速球|newspaper=スポニチ Sponichi Annex 野球|date=2013-12-30|author=|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/12/30/kiji/K20131230007293800.html|accessdate=2020-11-21}}</ref>) * 7月10日 - [[吉村よう]]、俳優、声優(+ [[1991年]]) * 7月10日 - [[ジョン・サイズ]]、調教師 *7月10日 - [[ニール・テナント]]、ボーカル * [[7月12日]] - [[中村秀利]]、声優(+ [[2014年]]) * [[7月13日]] - [[北猛俊]]、政治家、富良野市長 * [[7月14日]] - [[あいはら友子]]、女優・株式研究家 * [[7月15日]] - [[マリオ・ケンペス]]、元サッカー選手 * [[7月17日]] - [[アンゲラ・メルケル]]、[[ドイツの首相]] * 7月17日 - [[佐々木正洋 (1954年生)|佐々木正洋]]、[[アナウンサー]] * [[7月21日]] - [[中島弘美]]、プロ野球選手 * [[7月23日]] - [[吉沢俊幸]]、元プロ野球選手 * 7月23日 - [[工藤博義]]、プロ野球選手 * [[7月24日]] - [[酒井ゆきえ]]、[[フリーアナウンサー]]・[[タレント]] * [[7月25日]] - [[ウォルター・ペイトン]]、アメリカンフットボール選手(+ [[1999年]]) * 7月25日 - [[リン・フレデリック]]、[[イギリス]]の女優(+ [[1994年]]) * [[7月26日]] - [[河原井正雄]]、アマチュア野球指導者 * [[7月27日]] - [[平山晃康]]、日本大学教授、医師、脳神経外科医 * 7月27日 - [[林有三]]、編曲家・作曲家 * 7月27日 - [[田中彰 (1954年生の内野手)|田中彰]]、プロ野球選手 * [[7月29日]] - [[秋吉久美子]]、女優 * 7月29日 - [[志位和夫]]、[[政治家]]、[[日本共産党中央委員会幹部会委員長|日本共産党委員長]] === 8月 === * [[8月1日]] - [[森田順平]]、俳優・声優 * [[8月6日]] - [[新谷嘉孝]]、元[[プロ野球選手]] * [[8月4日]] - [[土井美加]]、女優・声優 * [[8月7日]] - [[中井康之]]、元プロ野球選手(+ [[2014年]]) * [[8月8日]] - [[松本匡史]]、元プロ野球選手 * [[8月10日]] - [[金城致勲]]、元プロ野球選手 * [[8月11日]] - [[ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)|ジョー・ジャクソン]]、[[ミュージシャン]] * [[8月12日]] - [[フランソワ・オランド]]、[[政治家]]、[[フランス第五共和政]]第7代大統領 * [[8月14日]] - [[三田ゆう子]]、声優 * [[8月16日]] - [[ジェームズ・キャメロン]]、カナダ出身の[[映画監督]] * [[8月17日]] - [[ルイス・マンドーキ]]、映画監督 * [[8月19日]] - [[轟二郎]]、[[コメディアン]]・[[タレント]] (+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://ameblo.jp/jiro-todoroki/entry-12616014658.html |title= 永遠のチャレンジボーイ |websidate= 2020-08-06 |accessdate= 2021-01-07 }}</ref><ref>{{cite news2 |title=「チャレンジボーイ」轟二郎さん死去 大腸がん |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202008060000674.html |newspaper=nikkansports.com |language=日本語|agency=日刊スポーツ新聞社 |date=2020-08-06|accessdate=2020-11-27}}</ref>) * [[8月25日]] - [[エルヴィス・コステロ]]、ミュージシャン * [[8月26日]] - [[益山性旭]]、元プロ野球選手 * 8月26日 - [[エフレン・レイズ]]、ビリヤード選手 * [[8月27日]] - [[早坂直家]]、俳優 * 8月27日 - [[デレック・ワーウィック]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * [[8月29日]] - [[鳥原公二]]、元プロ野球選手 * [[8月30日]] - [[功刀俊洋]]、[[歴史家]] * 8月30日 - [[アレクサンドル・ルカシェンコ]]、[[ベラルーシ]]の[[大統領]] * [[8月31日]] - [[キャロライン・コッシー]]、[[モデル (職業)|モデル]] === 9月 === * [[9月2日]] - [[三善英史]]、[[演歌歌手]] * [[9月3日]] - [[島田誠]]、元[[プロ野球選手]] * [[9月4日]] - [[盛田昌夫]]、元[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]会長 * [[9月11日]] - [[佐藤義則]]、元プロ野球選手 * [[9月12日]] - [[篠塚満由美]]、タレント * [[9月13日]] - [[三瓶啓二]]、[[空手家]] * [[9月16日]] - [[安藤正容]]、[[ギタリスト]] * 9月16日 - [[三井雅晴]]、元プロ野球選手 * 9月16日 - [[アシュリタ・ファーマン]]、[[実業家]] 最も多くの[[ギネス世界記録|ギネス]]公認記録を持っている人物。 * [[9月18日]] - [[スティーブン・ピンカー]]、[[心理学者]] * [[9月21日]] - [[安倍晋三]]、[[政治家]]、[[内閣総理大臣]](第90代、第96代、第97代、第98代)(+ [[2022年]]) * 9月21日 - [[待井昇]]、プロ野球選手 * [[9月22日]] - [[西浦達雄]]、[[シンガーソングライター]] * [[9月24日]] - [[仲根正広]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]]) * 9月24日 - [[マルコ・タルデッリ]]、元サッカー選手 * [[9月26日]] - [[黒岩祐治]]、元[[ニュースキャスター]]、現[[神奈川県知事]] * [[9月27日]] - [[宮田典計]]、元プロ野球選手 * 9月27日 - [[ドミトリー・シトコヴェツキー]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]] * 9月27日 - [[ラリー・ウォール]]、[[プログラマ]]・[[言語学者]]・文筆家 * [[9月28日]] - [[ジョージ・リンチ]]、[[ギタリスト]] * 9月28日 - [[田中昌宏]]、元プロ野球選手 * [[9月29日]] - [[涂阿玉]]、[[プロゴルファー]] * 9月29日 - [[中川信秀]]、プロ野球選手 === 10月 === * [[10月2日]] - [[岡村隆則]]、元[[プロ野球選手]] * [[10月3日]] - [[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]、[[ミュージシャン]](+ [[1990年]]) * 10月3日 - [[デニス・エカーズリー]]、元[[メジャーリーガー]] * 10月3日 - [[ブランコ・シカティック]]、[[格闘家]](+ [[2020年]]) * 10月3日 - [[山口壯]]、政治家 * [[10月5日]] - [[原大輔]]、[[歌手]] * 10月5日 - [[李博士]]、[[ポンチャック]]歌手 * [[10月10日]] - [[デイヴィッド・リー・ロス]]、ミュージシャン([[ヴァン・ヘイレン]]) * 10月10日 - [[宗次郎]]、[[オカリナ]]奏者 * [[10月11日]] - [[高畑淳子]]、女優 * [[10月12日]] - [[平淑恵]]、女優、[[声優]] * [[10月13日]] - [[金田明夫]]、俳優 * [[10月14日]] - [[ウィリー・エイキンズ]]、元メジャーリーガー * [[10月18日]] - [[三ツ矢雄二]]、俳優、声優 * [[10月19日]] - [[野沢秀行]]、ミュージシャン * 10月19日 - [[サム・アラダイス]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[10月21日]] - [[角替和枝]]、女優(+ [[2018年]]<ref name="nikkan20181028">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201810270000680.html 角替和枝さん死去、がんで闘病…夫柄本明ら見守られ] - 日刊スポーツ 2018年10月28日</ref>) * [[10月23日]] - [[アン・リー]]、[[映画監督]] * [[10月25日]] - [[金沢明子]]、[[民謡]][[歌手]] * [[10月26日]] - [[小倉久寛]]、タレント、俳優 * [[10月28日]] - [[ゲーリー・レーシッチ]]、元プロ野球選手 * [[10月29日]] - [[藍とも子]]、女優 === 11月 === * [[11月2日]] - [[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]、歴史家 * 11月2日 - [[貞山健源]]、[[プロ野球選手]] * [[11月3日]] - [[中出謙二]]、元プロ野球選手 * [[11月5日]] - [[アレハンドロ・サベーラ]]、元サッカー選手・指導者(+ [[2020年]]) * [[11月8日]] - [[カズオ・イシグロ]]、[[小説家]] * [[11月9日]] - [[亀山助清]]、俳優・声優(+ [[2013年]]) * [[11月11日]] - [[徳山文宗]]、元プロ野球選手 * [[11月12日]] - [[津森千里]]、[[ファッションデザイナー]] * [[11月14日]] - [[コンドリーザ・ライス]]、[[政治学者]] * 11月14日 - [[ウィリー・ヘルナンデス]]、[[メジャーリーガー]] * [[11月16日]] - [[斉藤敏豪]]、[[演出家]] * [[11月18日]] - [[森繁和]]、元プロ野球選手 * [[11月20日]] - [[島田敏]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/島田敏|title=島田敏(しまだびん)の解説 - goo人名事典|accessdate=2020-11-06}}</ref>、声優 * [[11月23日]] - [[ブルース・ホーンズビー]]、[[ピアニスト]]・[[アコーディオン]]奏者・[[シンガーソングライター]] * [[11月26日]] - [[ウラジミール・セリン]]、調教師 * 11月26日 - [[安西正弘]]、[[声優]] (+ [[2021年]]) * [[11月27日]] - [[菅賢治]]、テレビプロデューサー * [[11月29日]] - [[金原瑞人]]、[[法政大学]]社会学部教授、翻訳家 * 11月29日 - [[岡山恭崇]]、元バスケットボール選手 * [[11月30日]] - [[ロドニー・ブルックス]]、[[ロボット工学]]者 === 12月 === * [[12月1日]] - [[藤山新太郎]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[12月5日]] - [[水沢アキ]]、[[俳優|女優]] * 12月5日 - [[群ようこ]]、[[作家]]・[[エッセイスト]] * [[12月6日]] - [[アンドレイ・ミネンコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 12月6日 - [[青木謙知]]、航空[[ジャーナリスト]] * [[12月7日]] - [[古舘伊知郎]]、タレント・[[フリーアナウンサー]] * [[12月8日]] - [[島本須美]]、声優 * [[12月11日]] - [[北原憲彦]]、元[[バスケットボール選手]] * 12月11日 - [[西村高司]]、[[プロ野球選手]] * [[12月12日]] - [[岡田貴久子]]、[[児童文学作家]] * [[12月19日]] - [[渡辺宜嗣]]、アナウンサー * [[12月20日]] - [[高橋正巳]]、元プロ野球選手 * [[12月21日]] - [[片岡鶴太郎]]、タレント・俳優・[[画家]] * [[12月23日]] - [[谷口義明]]、天文学者 * 12月23日 - [[盛田隆二]]、[[小説家]] * 12月23日 - [[庄野真代]]、[[歌手]] * 12月23日 - [[原田悠里]]、[[演歌歌手]] * [[12月24日]] - [[伊藤和典]]、[[脚本家]] * [[12月24日]] - [[木山英求]]、プロ野球選手 * [[12月26日]] - [[オジー・スミス]]、元[[メジャーリーガー]] * 12月26日 - [[菊地恭一]]、元プロ野球選手 * [[12月28日]] - [[デンゼル・ワシントン]]、俳優 * [[12月29日]] - [[高円宮憲仁親王]]、[[日本]]の[[皇族]](+ [[2002年]]) === 不詳 === * [[アリ・マオ・マーラン]]、世界最後の自然感染による[[天然痘]]患者(+ [[2013年]]) * [[高木敏昭]]、元[[プロ野球審判員]] * [[巽好幸]]、地球科学者 == 死去 == [[ファイル:Oscar Straus at the piano.jpg|thumb|120px|作曲家[[オスカー・シュトラウス]](1月11日)]] [[ファイル:Kotaro Honda.jpg|thumb|120px|物理学者[[本多光太郎]](2月12日)]] [[ファイル:Heinz Guderian.jpg|thumb|120px|ドイツ陸軍上級大将[[ハインツ・グデーリアン]](5月14日)]] [[ファイル:Yukio Ozaki.jpg|thumb|120px|国会議員当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録を持つ「憲政の神様」[[尾崎行雄]](10月6日){{Squote|彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。 - 桂太郎に対する演説}}]] [[ファイル:Portrait of Henri Matisse 1933 May 20.jpg|thumb|120px|画家[[アンリ・マティス]](11月3日)]] [[ファイル:Radek's action.jpg|thumb|120px|法律家[[アンドレイ・ヴィシンスキー]](11月22日){{Squote|自白は、すべての証拠を上回るいわば、女王である。}}]] {{see also|Category:1954年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[ラビット・モランビル]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(* [[1891年]]) * [[1月11日]] - [[オスカー・シュトラウス]]、[[作曲家]](* [[1870年]]) * [[1月16日]] - [[ミハイル・プリーシヴィン]]、[[作家]](* [[1873年]]) * [[1月17日]] - [[レオナード・E・ディクソン]]、[[数学者]](* [[1874年]]) * [[1月29日]] - [[清水良雄]]、[[童画]][[画家]](* [[1891年]]) * 1月29日 - [[井上金太郎]]、[[映画監督]](* [[1901年]]) * [[1月31日]] - [[香取秀真]]、[[鋳金]]作家(* [[1874年]]) * 1月31日 - [[エドウィン・アームストロング]]、[[発明家]]・電子技術者(* [[1890年]]) * [[2月1日]] - [[三島弥彦]]、[[陸上競技]]選手(* [[1886年]]) * 2月1日 - [[小野佐世男]]、[[漫画家]]・[[画家]](* [[1905年]]) * [[2月6日]] - [[フリードリヒ・マイネッケ]]、[[歴史家]](* [[1862年]]) * [[2月8日]] - [[石射猪太郎]]、日本の[[外交官]](* [[1887年]]) * [[2月12日]] - [[本多光太郎]]、[[物理学者]]・[[KS鋼]]開発者(* [[1870年]]) * 2月12日 - [[ジガ・ヴェルトフ]]、[[映画監督]](* [[1896年]]) * [[2月14日]] - [[相馬愛蔵]]、社会事業家・[[中村屋]]創業者(* [[1870年]]) * [[2月20日]] - [[セイディー・マクマホン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1867年]]) * [[2月21日]] - [[河内仙介]]、[[小説家]](* [[1898年]]) * [[2月25日]] - [[オーギュスト・ペレ]]、[[建築家]](* [[1874年]]) * [[3月5日]] - [[岸田國士]]、作家(* [[1890年]]) * [[3月6日]] - [[カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|カール・エドゥアルト]]、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]](* [[1884年]]) * [[3月7日]] - [[オットー・ディールス]]、[[化学者]](* [[1876年]]) * [[3月9日]] - [[ヴァン・ヴァルフリート・エクマン]]、[[海洋物理学|海洋物理学者]](* [[1874年]]) * [[3月18日]] - [[前田米蔵]]、政治家(* [[1882年]]) * [[3月28日]] - [[ウィニフレッド・マクネアー]]、[[テニス]]選手(* [[1877年]]) * [[4月2日]] - [[モード・バーガー=ウォラック]]、テニス選手(* [[1870年]]) * 4月2日 - [[ホイト・ヴァンデンバーグ]]、第2代[[アメリカ中央情報局]]長官(* [[1899年]]) * [[4月4日]] - [[三門順子]]、[[歌手]](* [[1915年]]) * [[4月5日]] - [[マッタ・アヴ・スヴェーリエ]]、[[オーラヴ5世 (ノルウェー王)|ノルウェー王太子オーラヴ(のちの国王オーラヴ5世)]]の妃(* [[1901年]]) * [[4月7日]] - [[伊東忠太]]、建築家(* [[1867年]]) * 4月7日 - [[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]、日本の外交官(* [[1886年]]) * [[4月10日]] - [[リュミエール兄弟|オーギュスト・リュミエール]]、発明家(* [[1862年]]) * [[4月17日]] - [[徳川頼貞]]、[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]][[参議院|参議院議員]]・[[音楽学者]](* [[1892年]]) * [[4月21日]] - [[エミール・ポスト]]、[[数学者]]・[[論理学|論理学者]](* [[1897年]]) * [[4月28日]] - [[レオン・ジュオー]]、[[労働運動|労働運動家]](* [[1879年]]) * [[4月30日]] - [[阿子島俊治]]、ジャーナリスト・政治家(* [[1902年]]) * [[5月7日]] - [[アンリ・ミヌール]]、[[天文学者の一覧|天文学者]](* [[1899年]]) * [[5月10日]] - [[安藤紀三郎]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[中将]]・政治家(* [[1879年]]) * [[5月14日]] - [[ハインツ・グデーリアン]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[上級大将]](* [[1888年]]) * [[5月16日]] - [[パトリック・マクドナルド]]、陸上競技選手(* [[1878年]]) * 5月16日 - [[クレメンス・クラウス]]、[[指揮者]](* [[1893年]]) * 5月16日 - [[ワーナー・ビショフ]]、[[写真家]](* [[1916年]]) * [[5月19日]] - [[チャールズ・アイヴズ]]、作曲家(* [[1874年]]) * [[5月22日]] - [[チーフ・ベンダー]]、メジャーリーグベースボール選手(* [[1884年]]) * [[5月25日]] - [[ロバート・キャパ]]、[[報道]][[カメラマン]](* [[1913年]]) * [[5月30日]] - [[フリッツ・ロンドン]]、[[物理学者]](* [[1900年]]) * [[5月31日]] - [[ジョニー・キルベーン]]、[[プロボクサー]](* [[1889年]]) * [[6月4日]] - [[山崎朝雲]]、[[彫刻家]](* [[1867年]]) * [[6月6日]] - [[フリッツ・カスパレク]]、[[登山家]](* [[1910年]]) * [[6月7日]] - [[アラン・チューリング]]、[[数学者]](* [[1912年]]) * [[6月25日]] - [[佐藤哲三 (画家)|佐藤哲三]]、画家(* [[1910年]]) * [[6月26日]] - [[福井英一]]、漫画家(* [[1921年]]) * [[7月1日]] - [[テア・フォン・ハルボウ]]、小説家(* [[1884年]]) * [[7月13日]] - [[フリーダ・カーロ]]、[[メキシコ]]の画家(* [[1907年]]) * [[7月14日]] - [[ハシント・ベナベンテ]]、[[劇作家]](* [[1886年]]) * [[7月25日]] - [[白井こう]]、[[教育者]](* [[1869年]]) * [[7月28日]] - [[上山草人]]、[[俳優]](* [[1884年]]) * [[7月29日]] - [[山崎今朝弥]]、[[弁護士]](* [[1877年]]) * [[7月31日]] - [[オノフレ・マリモン]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1923年]]) * [[8月3日]] - [[シドニー=ガブリエル・コレット]]、[[小説家]](* [[1873年]]) * 8月3日 - [[中城ふみ子]]、[[歌人]](* [[1922年]]) * [[8月6日]] - エミリー・ディオンヌ、[[ディオンヌ家の五つ子姉妹]]の1人(* [[1934年]]) * [[8月24日]] - [[ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス]]、[[ブラジル連邦共和国大統領|ブラジル大統領]](* [[1882年]]) * [[9月5日]] - [[中村吉右衛門 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1886年]]) * [[9月8日]] - [[カーティス・ウィルバー (政治家)|カーティス・ウィルバー]]、第43代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1867年]]) * 9月8日 - [[アンドレ・ドラン]]、画家(* [[1880年]]) * [[9月21日]] - [[御木本幸吉]]、[[真珠]]養殖のパイオニア(* [[1858年]]) * [[9月24日]] - [[阪東壽三郎 (3代目)]]、歌舞伎役者(* [[1886年]]) * [[9月26日]] - [[エレン・ルーズベルト]]、テニス選手(* [[1868年]]) * 9月26日 - [[冨吉榮二]]、政治家(* [[1899年]]) * 9月26日 - [[菊川忠雄]]、[[労働運動|労働運動家]]、政治家(* [[1901年]]) * 9月26日 - [[アルフレッド・ストーン]]、[[宣教師]](* [[1902年]]) * 9月26日 - [[ディーン・リーパー]]、宣教師(* [[1920年]]) * 9月26日 - [[佐保美代子]]、元[[宝塚歌劇団]][[男役]](* 生年不明) * [[10月6日]] - [[尾崎行雄]]、政治家(* [[1858年]]) * 10月6日 - [[エミール・マール]]、[[美術史|美術史学者]](* [[1862年]]) * [[10月7日]] - [[ジョーゼフ・オパトシュ]]、[[小説家]](* [[1886年]]) * [[10月8日]] - [[松本烝治]]、[[商法]]学者・[[法学博士]](* [[1877年]]) * [[10月11日]] - [[セオドア・ライマン]]、物理学者(* [[1874年]]) * [[10月19日]] - [[ヒュー・ダフィー]]、メジャーリーグベースボール選手(* [[1866年]]) * [[11月3日]] - [[アンリ・マティス]]、画家(* [[1869年]]) * [[11月10日]] - [[エドゥアール・ル・ロワ]]、[[哲学|哲学者]]・数学者(* [[1870年]]) * [[11月13日]] - [[ジャック・ファット]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1912年]]) * [[11月15日]] - [[ライオネル・バリモア]]、俳優(* [[1878年]]) * [[11月22日]] - [[アンドレイ・ヴィシンスキー]]、[[ソビエト連邦]]の法律家(* [[1883年]]) * [[11月28日]] - [[エンリコ・フェルミ]]、[[物理学者]](* [[1901年]]) * [[11月30日]] - [[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、指揮者(* [[1886年]]) * [[12月1日]] - [[ウェルス・ホイト]]、陸上競技選手(* [[1875年]]) * 12月1日 - [[下位春吉]]、政治運動家・[[童話]]口演家・[[教育家]](* [[1883年]]) * [[12月6日]] - [[ルシアン・テニエール]]、[[言語学|言語学者]](* [[1893年]]) * [[12月8日]] - [[ジョセフ・キーナン]]、政治家・弁護士(* [[1888年]]) * [[12月9日]] - [[吉田茂 (内務官僚)|吉田茂]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]・[[貴族院 (日本)|貴族院]][[議員]](* [[1885年]]) * [[12月9日]] - [[ビル・マゴワン]]、[[メジャーリーグ]]審判(* [[1896年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[マックス・ボルン]]([[イギリス]])、[[ワルサー・ボーテ]]([[ドイツ]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ライナス・ポーリング]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ジョン・フランクリン・エンダース]](アメリカ)、[[トーマス・ハックル・ウェーラー]](アメリカ)、[[フレデリック・チャップマン・ロビンス]](アメリカ) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[アーネスト・ヘミングウェイ]](アメリカ) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[国際連合難民高等弁務官事務所]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1954|date=2011年7月}} [[ファイル:Gojira 1954 Japanese poster.jpg|thumb|150px|ゴジラが復活し、東京を襲撃する<br />画像は映画ポスター]] * [[2月30日]] - [[鬼太郎]]が墓から産まれる。なお、一般的に30日は2月に存在しない日である。(漫画・アニメ『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』) * [[3月1日]] - ジャック(=ネイキッド・スネーク、後の[[ビッグ・ボス]])、[[マーシャル諸島]][[クェゼリン環礁|クェゼリン島]]の米軍基地にてビキニ環礁水爆実験([[ブラボー実験|ブラボーショット]])により[[被曝]]。(ゲーム『[[メタルギアシリーズ]]』) * [[3月23日]] - [[アメリカ海軍|合衆国海軍]]による人類初の有人引力圏外発射体が月面[[コペルニクス (クレーター)|コペルニクス・クレーター]]に墜落し、飛行士のダニエル・モワ・バトラー大尉が行方不明となる。同年[[10月17日]]、墜落現場の偵察に向かった第二号発射体が、バトラー大尉の手書きによる「月地下の国に住む『ロモコメ人』」についての107枚の原稿用紙『《ロモコメ》報告』を発見する。(小説『[[月で発見された遺書]]』)<ref>[[ハーマン・ウォーク]]『月で発見された遺書 ロモコメ報告書』[[創樹社]]、1976年、11 - 15・32 - 34・42・160頁。{{全国書誌番号|75026128}}</ref> * [[6月3日]] - [[東ヨーロッパ|東欧]]の小国シルダビアのシュプロジ原子力センターから打ち上げられた[[原子力推進#核熱ロケット推進|原子力エンジン]]搭載の月[[ロケット]]によって、タンタンら6名が{{仮リンク|ヒッパルコス (月のクレーター)|label=ヒッパルコス・クレーター|en|Hipparchus (lunar crater)}}にて人類初の[[月面着陸]]を達成。一行はそれから10日間に渡って月面探検を行う。(漫画『[[タンタンの冒険]]』シリーズ「めざすは月」「月世界探検」)<ref>『タンタンタイムズ』不定期刊第9号、1頁({{Cite book |和書 |author= エルジェ|authorlink=エルジェ |title = めざすは月 タンタンの冒険旅行12 |publisher = [[福音館書店]] |year = 1991 |isbn = 978-4-8340-0446-5}}に付属)。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = エルジェ |title = 月世界探検 タンタンの冒険旅行13 |publisher = 福音館書店 |year = 1991 |pages = 1-32 |isbn = 978-4-8340-0454-0}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = エルジェ |title = オトカル王の杖 タンタンの冒険旅行17 |publisher = 福音館書店 |year = 1999 |page = 19 |isbn = 978-4-8340-1583-6}}</ref> * [[6月9日]] - その地域の時間制で同日午後8時30分を迎えた際に、「スポンサーから一言」「戦え」という怪放送が全世界のラジオで受信される。(小説『{{仮リンク|スポンサーから一言|en|Honeymoon in Hell}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = スポンサーから一言 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1966 |pages = 249-262 |isbn = 978-4-488-60504-9}}</ref> * [[6月10日]] - 月への第一次計画によって打ち上げられたロケットが[[キャッツキル山地|キャッツキル連山]]に墜落。ロケットに搭載されていたバートン式電位差発生機からの放電によって落下地点近くにいた11名が死亡し、SF雑誌の編集者キース・ウィントンが消息不明となる。(小説『[[発狂した宇宙]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = フレドリック・ブラウン |title = 発狂した宇宙 |publisher = [[早川書房]] |year = 1977 |pages = 7-10,18-20,33 |isbn = 978-4-15-010222-7}}</ref> * 春 - 夏 - [[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が[[キャッスル作戦|ビキニ環礁の水爆実験]]の影響で蘇り、東京に2度にわたって上陸し、市街地を蹂躙。若き[[科学者]]・芹沢大助の発明した[[東宝特撮映画の登場兵器#オキシジェン・デストロイヤー|オキシジェン・デストロイヤー]]によって倒される。(映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』)。この大災害のさなか、林田博士は両親を失う。(映画『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ(1984年版)]]』) * 夏 - ゴジラが東京に上陸する。これに対し、当時創設されたばかりの[[東宝特撮映画の怪獣対策組織#防衛軍|防衛軍]]がゴジラを駆逐する。しかし左記は誤った情報であり、名も無き天才科学者が開発した未知の毒化合物によってゴジラは太平洋で絶命した。この大災害のさなか、幼い頃の立花泰三は家族を失う。(映画『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』) * 不明 - ゴジラが水爆実験の影響で蘇り、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]、[[銀座]]一体を火の海と化し、海に消える。その影響で[[国会議事堂]]が崩壊し、日本政府は[[首都]]を[[大阪市|大阪]]に移転する。(映画『[[ゴジラ×メガギラス G消滅作戦]]』) * 不明 - 原子力潜水艦[[ノーチラス (原子力潜水艦)|ノーチラス]]が未知の巨大生物ゴジラを発見する。その後、核実験という名目でゴジラに対する核攻撃が行われるようになるが、効果はなかった。(映画『[[GODZILLA ゴジラ]]』) * 不明 - ドイツが[[アグリガット (ロケット)#A9/A10|A9bロケット]]を用いて人類初の有人宇宙飛行に成功する。(ゲーム『[[ロケットの夏]]』)<ref>『ロケットの夏』オープニングの年表より。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist2}}--> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1954}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1954ねん}} [[Category:1954年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1954%E5%B9%B4
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水晶の龍
『水晶の龍』(すいしょうのドラゴン)は、スクウェア(現・スクウェア・エニックス)より1986年12月15日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用ゲームソフト。スクウェアがDOG(Disk Original Group)ブランドで発売した作品で、コマンド選択型のアドベンチャーゲーム。 本作はSFをモチーフとした世界を舞台に、主人公の少年・ヒューが、宇宙空間に現れた水晶の龍の謎や、仲間たちの失踪事件の真相を解き明かす様子が描かれている。 スクウェアが当時から得意だったアニメーションを多用したビジュアルシーンは、本作品でも特に女性の絵を中心に発揮された。また、本編中のキャラクターデザインと作画協力を佐藤元、アニメーション部分を日本サンライズ(現・サンライズ)が担当した点でも話題を呼んだ。 発売直後の1986年に上記のアニメーションとともにシンシアの声が挿入されたテレビCMが放映された。 十字キーのみを操作すると、黒い矢印型のカーソルが画面内を動く。また画面上方にはコマンド(行動内容)を表すアイコンが並んでおり、これはBボタンを押しながら十字キーを左右に入力することで点灯箇所が動く。Aボタンを押すことで、選択したコマンドが前述の矢印カーソルの指し示す場所で実行されるようになっている。 コマンドは全部で9種類ある。以下に画面左側にあるものから順に記述する。これらとは別に、セレクトボタンを押すことで現在所持するアイテムを確認できる機能もある。いずれも途中でキャンセルするにはスタートボタンを押す。 なお、ゲーム中にリセットボタンを押すとゲームスタート直後のドラゴン出現シーンに戻るが、ゲームの進行状況によっては指示に従ってディスクカードの裏面をセットする作業を要する。 主人公のヒューは、同級生にしてガールフレンドのシンシアにシャトルでの宇宙遊泳に誘われる。楽しい時間を過ごす彼らの前に、「水晶の龍」という謎の存在が現れる。シンシアのシャトルは破壊され、ヒューも強烈な衝撃を受ける。その後、ヒューはユージンと名乗る女性に助けられ、シンシアともう一人の同級生ナイルの行方を追うべく行動を開始した。 当時のゲーム雑誌『ファミリーコンピュータMagazine』の裏技紹介コーナーで、広告等にも使用された冒頭でのヒロインの1人であるシンシアが手を広げているシーンにおいて、「この場面からヒロインのシンシアと野球拳ができる」と裏技で紹介され、その際にはシンシアの服が一枚ずつ脱げていくという説明と画像写真が掲載された。 ただしこれは、当時誌上で行っていた『ウソ技クイズ』という読者プレゼントクイズ用に作られた嘘であった。企画段階では単に「シンシアとジャンケンができる」という程度の内容だったものだが、当時の編集部の担当者が、シンシアの脱衣画像を一晩かけて本物らしく加工して作った為にこの様な形で掲載されたという。掲載後は、加工した画像があまりに本物らしく見えたのと、女の子が服を脱ぐという技の内容の性質上、誌上で見た読者の多くがこの技を試したという。また、この技が掲載された後に、水晶の龍のソフトが市場から在庫が無くなり書き換え回数も増えたと言われている。 平野耕太原作の漫画『進め!!聖学電脳研究部』もこのことに触れている。尚、当時の任天堂の規定では、女性キャラクターのへそが見えるゲーム画像をガイドラインで禁止しており、その観点からも野球拳で服を脱ぐというのはありえない技であった。 また、キャラクターデザインを手掛けた佐藤元へも、このウソ技に関してたくさんの問い合わせが来たらしく、中にはウソ技に関与していたのではないかと誤解されたこともあったという。そして、実際佐藤自身もこのウソ技を試したが何度やっても上手くいかなかったので、佐藤が連載をしていた『テクノポリス』(『ファミリーコンピュータMagazine』と同じ出版社)の関係者に問い合わせたところ、ウソだということを初めて知ったという。後年、このウソ技を逆手にとり、オマージュとして『THE 銭湯』に野球拳ネタを仕込んだ。
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『水晶の龍』(すいしょうのドラゴン)は、スクウェア(現・スクウェア・エニックス)より1986年12月15日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用ゲームソフト。スクウェアがDOGブランドで発売した作品で、コマンド選択型のアドベンチャーゲーム。 本作はSFをモチーフとした世界を舞台に、主人公の少年・ヒューが、宇宙空間に現れた水晶の龍の謎や、仲間たちの失踪事件の真相を解き明かす様子が描かれている。 スクウェアが当時から得意だったアニメーションを多用したビジュアルシーンは、本作品でも特に女性の絵を中心に発揮された。また、本編中のキャラクターデザインと作画協力を佐藤元、アニメーション部分を日本サンライズ(現・サンライズ)が担当した点でも話題を呼んだ。 発売直後の1986年に上記のアニメーションとともにシンシアの声が挿入されたテレビCMが放映された。
{{出典の明記|date=2022年5月}} {{コンピュータゲーム | Title = 水晶の龍 | Genre = [[アドベンチャーゲーム|コマンド選択式アドベンチャー]] | Plat = [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] | Dev = [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]] | Pub = [[ディスク・オリジナル・グループ|DOG]] | producer = | director = | designer = | writer = | programmer = | composer = [[植松伸夫]] | artist = [[佐藤元]] | license = | series = | Ver = | Play= 1人 | Media= [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクカード|ディスクカード]]両面 | Date= {{vgrelease new|JP|1986-12-15}} | Rating = | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Sale = 販売:35万本<ref name="famimaga47">{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = ディスクライター 書き換えゲーム全カタログ |date = 1989-7-7 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 5 |number = 12 |naid = |pages = 47 |url = |ref = harv}}</ref><br />書き換え:15万回<ref name="famimaga47"/> | etc = 型式:SQF-SSD }} 『'''水晶の龍'''』(すいしょうのドラゴン)は、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]](現・[[スクウェア・エニックス]])より[[1986年]][[12月15日]]に発売された[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]用[[ゲームソフト]]。スクウェアが[[ディスク・オリジナル・グループ|DOG(Disk Original Group)]]ブランドで発売した作品で、コマンド選択型の[[アドベンチャーゲーム]]。 本作は[[サイエンス・フィクション|SF]]をモチーフとした世界を舞台に、主人公の少年・ヒューが、宇宙空間に現れた水晶の龍の謎や、仲間たちの失踪事件の真相を解き明かす様子が描かれている。 スクウェアが当時から得意だった[[アニメーション]]を多用したビジュアルシーンは、本作品でも特に女性の絵を中心に発揮された。また、本編中のキャラクターデザインと作画協力を[[佐藤元]]、アニメーション部分を日本サンライズ(現・[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]])が担当した点でも話題を呼んだ。 発売直後の1986年に上記のアニメーションとともにシンシアの声が挿入されたテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]が放映された。 == ゲーム内容 == [[十字キー]]のみを操作すると、黒い[[矢印]]型のカーソルが画面内を動く。また画面上方にはコマンド(行動内容)を表す[[アイコン]]が並んでおり、これはBボタンを押しながら十字キーを左右に入力することで点灯箇所が動く。Aボタンを押すことで、選択したコマンドが前述の矢印カーソルの指し示す場所で実行されるようになっている。 コマンドは全部で9種類ある。以下に画面左側にあるものから順に記述する。これらとは別に、セレクトボタンを押すことで現在所持する[[アイテム]]を確認できる機能もある。いずれも途中でキャンセルするにはスタートボタンを押す。 なお、ゲーム中に[[リセット]]ボタンを押すとゲームスタート直後のドラゴン出現シーンに戻るが、ゲームの進行状況によっては指示に従ってディスクカードの裏面をセットする作業を要する。 ; 移動 : 放射状に4方向に広がる矢印で表されたコマンド。 ; 見る / 調べる : 目を象った絵で表されたコマンド。 ; 取る / もらう / 買う : 物を拾い上げる手で表されたコマンド。 ; 話す : 口を象った絵で表されたコマンド。 ; 使う : 親指を立てた手で表されたコマンド。 ; 開ける / 閉める : ドアを象った絵で表されたコマンド。 ; 操作する : ボタンのようなものを押す手で表されたコマンド。 ; 手放す : 投げ捨てられた物の絵で表されたコマンド。 ; セーブ / ロード : ディスクカードを象った絵で表されたコマンド。 == ストーリー == {{不十分なあらすじ|date=2022年5月}} 主人公のヒューは、同級生にしてガールフレンドのシンシアにシャトルでの宇宙遊泳に誘われる。楽しい時間を過ごす彼らの前に、「水晶の龍」という謎の存在が現れる。シンシアのシャトルは破壊され、ヒューも強烈な衝撃を受ける。その後、ヒューはユージンと名乗る女性に助けられ、シンシアともう一人の同級生ナイルの行方を追うべく行動を開始した。 == 登場キャラクター == ; ヒュー・ルーカス : 本作の主人公。シニアスクールの3年生。14歳。運動神経抜群でメカの扱いにも長けている。 ; シンシア・レクセリアス : 本作のヒロイン。緑の星の王女でシニアスクールの留学生。ヒューの同級生。14歳。 ; ナイル・アジャンダ : ヒューの親友。12歳。年齢は下だがシニアスクール3年生。専攻は超能力学科で、テレパシーが使える。 ; ユージン : ヒューを助けた謎の美女。 ; おばば : 街外れの研究所にいる[[科学者]]。本名は不明。 ;ルシア :アリアス星の女王。バヌーガによって危機的状況に瀕している。 ; バヌーガ : 実体を持たない邪悪な意識体。本作の[[ボスキャラクター#ラストボス|最終ボス]]にあたる。 ;[[引田智子|トモちゃん]] :当時人気だった[[女性アイドルグループ]]「[[少女隊]]」のメンバー。ゲーム中のある場所と、[[マニュアル|取扱説明書]]の[[漫画]]にゲスト出演している。この漫画の作者でもある佐藤元は、彼女の大ファンであったという<ref>取扱説明書40ページより</ref>。 == スタッフ == *制作協力:[[日本サンライズ]] *作画協力:[[佐藤元]] *音楽:[[植松伸夫]] == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 14.88/25点<ref name="famimaga58"/> |rev2 = [[GAME SIDE|ユーゲー]] |rev2Score = 肯定的<ref name="usedgame09"/> }} *ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通りとなっており、14.88点(満25点)となっている<ref name="famimaga58">{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = 5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ |date = 1991-05-24 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 10 |naid = |pages = 58 |url = |ref = harv}}</ref>。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ファミコンディスクカード オールカタログ」では、「かわいいキャラクタが魅力の画面」、「まんが家の佐藤元さんがデザインしたキャラクタによって構成される画面は、かなりセンスがよくって人気だった」、「アイコンを選択してコマンドを実行するタイプで、パソコンみたいな操作性を実現している。それだけにまどろっこしい部分もあり、ストーリー自体にも無理な点が多々見られるが、グラフィックの美しさと測りにかければ、許せるかもしれない」と紹介されている<ref name="famimaga58"/>。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" !項目 |キャラクタ||音楽||操作性||熱中度||お買得度||オリジナリティ !総合 |- !得点 |3.63||2.37||2.97||2.78||-||3.13 !14.88 |} *ゲーム誌『[[GAME SIDE|ユーゲー]]』では、「プレイ時間が短くゲームオーバーが多い点はマイナスだが、全体的にPC88時代のスクウェアAVGテイストを色濃く残しているところはマニアとして注目しておきたい」、「(佐藤元の)普段のギャグ漫画と、本作の80年代SFアニメ的グラフィックのギャップもまたマニア的注目点だ」と評している<ref name="usedgame09">{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = 総力特集 フォーエバー DISK SYSTEM |date = 2003-10-01 |publisher = [[キルタイムコミュニケーション]] |journal = [[GAME SIDE|ユーゲー]] 2003 Vol.09 |volume = 7 |number = 18 |naid = |pages = 32 |id = 雑誌17630-10 |url = |ref = harv}}</ref>。 == ウソ技 == 当時の[[ゲーム雑誌]]『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の[[裏技]]紹介コーナーで、広告等にも使用された冒頭でのヒロインの1人であるシンシアが手を広げているシーンにおいて、「この場面からヒロインのシンシアと[[野球拳]]ができる」と裏技で紹介され、その際にはシンシアの服が一枚ずつ脱げていくという説明と画像写真が掲載された<ref name="RealSound20220507">{{Cite web|和書|title=現在ではありえない、ファミコン版『タッチ』原作完全無視の裏技……レトロゲームの“パスワード”には様々な物語がある |url=https://realsound.jp/tech/2022/05/post-1017249.html |website=Real Sound|リアルサウンド テック |access-date=2022-05-21 |date=2022.05.07 }}</ref>。 ただしこれは、当時誌上で行っていた『[[ウソ技]]クイズ』という読者プレゼントクイズ用に作られた嘘であった{{R|RealSound20220507}}。企画段階では単に「シンシアとジャンケンができる」という程度の内容だったものだが、当時の編集部の担当者が、シンシアの脱衣画像を一晩かけて本物らしく加工して作った為にこの様な形で掲載されたという。掲載後は、加工した画像があまりに本物らしく見えたのと、女の子が服を脱ぐという技の内容の性質上、誌上で見た読者の多くがこの技を試したという{{R|RealSound20220507}}。また、この技が掲載された後に、水晶の龍のソフトが市場から在庫が無くなり書き換え回数も増えたと言われている<ref name="famimaga1">『超実録裏話ファミマガ』P.98</ref>。 [[平野耕太]]原作の[[漫画]]『[[進め!!聖学電脳研究部]]』もこのことに触れている。尚、当時の任天堂の規定では、女性キャラクターのへそが見えるゲーム画像をガイドラインで禁止しており、その観点からも野球拳で服を脱ぐというのはありえない技であった<ref>『[[GAME SIDE]]』([[マイクロマガジン社]])Vol.08 P.44</ref>。 また、キャラクターデザインを手掛けた佐藤元へも、このウソ技に関してたくさんの問い合わせが来たらしく、中にはウソ技に関与していたのではないかと誤解されたこともあったという<ref name="famimaga2">『超実録裏話ファミマガ』P.101</ref>。そして、実際佐藤自身もこのウソ技を試したが何度やっても上手くいかなかったので、佐藤が連載をしていた『[[テクノポリス (雑誌)|テクノポリス]]』(『ファミリーコンピュータMagazine』と同じ出版社)の関係者に問い合わせたところ、ウソだということを初めて知ったという。後年、このウソ技を逆手にとり、オマージュとして『[[SIMPLEシリーズ|THE 銭湯]]』に野球拳ネタを仕込んだ<ref name="famimaga2">『超実録裏話ファミマガ』P.101</ref>。 == 関連書籍 == * 水晶の龍 完全必勝本([[宝島社|JICC出版局]]〈[[ファミコン必勝本]]〉)ISBN 4-88063-269-4 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.jp.square-enix.com/archive/suisho_no_dragon/ スクウェア・エニックス公式 水晶の龍] * [http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0608/22/news023.html ゲイムマンの「レトロゲームが大好きだ」水晶の龍]([[ITmedia]]における紹介記事) * {{MobyGames|id=/57353/suisho-no-dragon/|name=Suishō no Dragon}} {{DEFAULTSORT:すいしようのとらこん}} [[Category:1986年のコンピュータゲーム]] [[Category:DOGのゲームソフト]] [[Category:日本のSF作品]] [[Category:宇宙を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:コマンド選択式アドベンチャー]] [[Category:ディスクシステム用ソフト]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
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エレクトリック・ギター
エレクトリック・ギター(英: electric guitar)は、ピックアップを内蔵し、それによって弦の振動を電気信号に変換するギター。通称・略称はエレキギターおよびエレキ。 エレクトリック・ギターは、その金属製の弦の振動をピックアップで(微弱な)電気信号に変えるギターであり、そのエレクトリック・ギター本体とアンプを、(電気信号を伝えるための)シールド・ケーブルで接続し、(信号を受け取った)アンプの側で電気信号を増幅し音を出す。アンプで音をひずませたり大音量の音を出したり、様々なエフェクターを用いて音質を多彩に変化させることが可能で、それらがエレクトリック・ギターの大きな特徴となっている。 弦楽器の振動を電気的に増幅する実験は20世紀初頭まで遡る。1910年代には、ヴァイオリンとバンジョーの内部に電話の受信機を取り付け、音を増幅させる特許が出た。1920年代にはカーボン・マイクロフォンを弦楽器の駒に取り付けて音を増幅させる実験が行われた。1920年代から1930年代初頭にかけて、数多くの人々が電気楽器の実験・製作を行っており、それぞれを「最初のエレキギターの発明者」とする様々な主張がある。 最初期のエレキギターの発明は、電気的なピックアップと共鳴胴を持つ半電気的アコースティックギターであった。これは、タングステンのピックアップの付いたスティール弦アコースティックギターであった。最初の電気的に音を増幅するギターはジョージ・ビーチャムによって1931年に発明され、1932年にRo-Pat-Inコーポレーションによって商業生産された (Electro-Patent-Instrument Company Los Angeles) 。 1932年にリッケンバッカーが発売したラップスチール型の「フライングパン」と、他社製ボディにピックアップを追加した「エレクトリック・スパニッシュ・ギター」も世界初のエレキギターと見なされることもある。その後1940年代にかけて、ホロウボディのGibson ES-150、ソリッドボディの Bigsby マール・トラヴィスモデルなど新しいモデルが次々と登場し、エレクトリック・ギターが広く一般に認知された。 1930年代から1940年代にかけて登場した様々なエレキギターについては、英語版の記事"Electric guitar#History"に詳しい。 エレクトリック・ギターは、アコースティック・ギターとは異なる形状・構造をもち、専用のマイク「ピックアップ」を有しているため、アンプを介して出力される音色はアコースティック・ギターとはかなり異なるものとなる。ピックアップはエレクトリック・ギターの音色の大きな部分を決定する。 ピックアップは電磁誘導を利用して音を拾っている。ピックアップには永久磁石が内蔵されており、それによって生じる磁界中で鉄やニッケルなどの磁性体を含有する弦が振動するとピックアップ内のコイルを通過する磁束が変化し、弦の振動にほぼ相似した交流電流が発生する。その電流は導線(シールド)等を通してアンプに送られ、アンプによって音として増幅されスピーカーから音として出力される。電磁誘導を利用するため、エレクトリック・ギターにナイロン等の非磁性金属製の弦は使用できない(ギターのブリッジ部分に音響マイクロフォンを供えたものもあるが、そのようなものは一般にエレクトリック・ギターとは呼ばない)。またピエゾ素子のような物理的変形を電気信号に変換する素子を使ったピックアップもあるが、こちらも音響マイクロフォンと同様に「エレクトリック・ギター」の範疇には含まないのが一般的である。 ピックアップの種類は以下の二つに大別できる。 エレクトリック・ギター用のピックアップは、一般的に板状の磁石の上に並べた棒(ポールピース)の周囲にワイヤを巻いたもの(コイル)だが、この構造が一つのものをシングルコイルと呼ぶ。そのサウンドはカラっとした乾いたような音色が特徴である。対してハムバッカーは、シングルコイルを弦に対して平行または直角に二つ並べてコイルの極性を逆接続することで商用交流電源による磁界の影響を打ち消してノイズに強い構造になっているが、肝心の弦の振動の信号も特に高調波成分が打ち消し気味になり、太く暖かいサウンドが持ち味となる。「ハム」とは、商用交流電流による「ブ〜〜ン」と言うノイズのことである。ギブソンのモデルはハムバッカーが多く、フェンダーはシングルコイルのモデルが多い。「ハムバッキング(バッカー)」のことを「ハンバッキング(バッカー)」と書くこともある。 電気信号の増幅方法は以下の二つに分類される。 ピックアップは内部のコイルで音を交流電流として取り出すが、スピーカーから音として出力するには、この電流を増幅させる必要がある。この増幅作業の一切をエフェクターやアンプなどのギターの外部に依存したピックアップをパッシブと呼ぶ。対して、電池と微小信号用アンプをギター内に内蔵し信号をある程度増幅させてからアンプに送信するタイプのものをアクティブと呼び、コイルの巻数が少なくすみノイズに強い。一般的にエレクトリック・ギターではパッシブが主流で、アクティブは鉄弦を使ったアコースティック・ギターに付加的に追加したピックアップに多い。また、一つのギターでパッシブとアクティブの切り替えも可能なものもある。 一つのギターに複数のピックアップが搭載されている場合、ネック側から以下のように呼ばれる。 複数のピックアップを持つギターでは、ボディのスイッチで演奏中にピックアップを切り替えたり複数のピックアップを並列または直列接続して「混ぜた」信号を取り出せるのが普通である。 コンサートなどで演奏する際は立って演奏する場合が多いが、その場合はギターを体に固定するためのストラップを用いる。ソリッドボディは詰まっている分重量があり、ストラップがはずれてギターを落としやすいため、ストラップのロックをつけることも多い。 エレクトリック・ギターはボディの構造で概ね以下の2種類に大別できる。 ホロウボディはヴァイオリンのような中空構造であるのに対して、ソリッドボディはホロウボディのような中空構造を持たない。エレクトリック・ギターの原型は通常のギターにピックアップを付けたものであり、ソリッドボディギターの方が歴史的には新しい。 ヘッドの形状は、フェンダー系とギブソン系に大別される。フェンダー系ではストラトキャスターに見られるようにヘッドは指板面に平行で、指板面より一段下がっており、ペグはヘッドの片側に一列に並んで、多くの場合は高音弦側がナットから遠ざかるように配置される。このため高音弦はそのままではナットに当たる角度が浅くなってテンションを保てないので、ストリングガイドが設けられる。一方ギブソン系ではレスポールに見られるようにヘッドはネックに対して角度を持っており、これによってテンションが保たれる。またペグはヘッドの両サイドに対称に配置される場合が多い。 1965年1月の『ザ・ベンチャーズ』の来日以降、ベンチャーズの人気と共にエレキ族と呼ばれる若者を中心に爆発的にエレキギターに注目が集まり「エレキブーム」が訪れる事になる。テレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』等のテレビ番組や加山雄三主演映画『エレキの若大将』等の後押しもありブームに拍車をかけていった。しかし、1965年10月に栃木県足利市教育委員会の働きかけで起こった小中学生のエレキ購入禁止や大会参加禁止等を定めた通称「エレキ禁止令」が出されると、新聞で大きく取り上げられるなど社会問題化し、一方的に「エレキギターは不良少年がするもの」とレッテルを貼られ、コンサートを見に行っただけで高校を退学させられるなど全国で激しい「エレキギター追放運動」が波及していった。条例は後に廃止されたもののブームは次第に沈静化していくことになる。その後寺内タケシによるハイスクールコンサート等の熱心な努力もあり改善されていく。
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エレクトリック・ギターは、ピックアップを内蔵し、それによって弦の振動を電気信号に変換するギター。通称・略称はエレキギターおよびエレキ。 エレクトリック・ギターは、その金属製の弦の振動をピックアップで(微弱な)電気信号に変えるギターであり、そのエレクトリック・ギター本体とアンプを、(電気信号を伝えるための)シールド・ケーブルで接続し、(信号を受け取った)アンプの側で電気信号を増幅し音を出す。アンプで音をひずませたり大音量の音を出したり、様々なエフェクターを用いて音質を多彩に変化させることが可能で、それらがエレクトリック・ギターの大きな特徴となっている。
[[File:Fender_Highway_1_Stratocaster.jpg|thumb|right|160px|代表的なエレクトリックギターの1つ、[[フェンダー・ストラトキャスター]]]][[File:Gibson_Custom_50th_Anniversary_1959_Les_Paul_Standard_(2009)_brighten.jpg|thumb|right|160px|同じく代表的なエレクトリックギターの1つ、[[ギブソン・レスポール]]]] '''エレクトリック・ギター'''({{lang-en-short|electric guitar}})は、[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]を内蔵し、それによって[[弦 (楽器)|弦]]の[[振動]]を[[電気信号]]に変換する[[ギター]]<ref>Oxford Dictionary. "A guitar with a built-in pickup or pickups which convert string vibrations into electrical signals for amplification."</ref>。通称・略称は'''エレキギター'''および'''エレキ'''。 エレクトリック・ギターは、その[[金属]]製の[[弦楽器|弦]]の振動をピックアップで(微弱な)電気信号に変えるギターであり、そのエレクトリック・ギター本体と[[アンプ (楽器用)|アンプ]]を、(電気信号を伝えるための){{仮リンク|シールド・ケーブル|en|Shielded cable}}で接続し、(信号を受け取った)アンプの側で電気信号を[[増幅]]し[[音]]を出す。アンプで音をひずませたり大音量の音を出したり、様々な[[エフェクター]]を用いて音質を多彩に変化させることが可能で、それらがエレクトリック・ギターの大きな特徴となっている。 == 歴史 == {{節スタブ}} [[弦楽器]]の振動を電気的に増幅する実験は20世紀初頭まで遡る。1910年代には、[[ヴァイオリン]]と[[バンジョー]]の内部に電話の受信機を取り付け、音を増幅させる特許が出た。1920年代には[[:en:Carbon microphone|カーボン・マイクロフォン]]を弦楽器の[[駒 (弦楽器)|駒]]に取り付けて音を増幅させる実験が行われた<ref name=Wheelwright>Wheelwright and Carter</ref>。1920年代から1930年代初頭にかけて、数多くの人々が電気楽器の実験・製作を行っており、それぞれを「最初のエレキギターの発明者」とする様々な主張がある。 最初期のエレキギターの発明は、電気的な[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]と[[:en:Sound box|共鳴胴]]を持つ[[:en:Semi-acoustic guitar|半電気的アコースティックギター]]であった。これは、[[タングステン]]のピックアップの付いた[[スティール弦アコースティックギター]]であった。最初の電気的に音を増幅するギターは[[ジョージ・ビーチャム]]によって1931年に発明され、1932年にRo-Pat-Inコーポレーションによって商業生産された (Elect'''ro'''-'''Pat'''ent-'''In'''strument Company Los Angeles) <ref>{{cite book |url= https://books.google.co.jp/books?id=NlscjoFVcs0C&pg=PA10&dq=Ro-Pat-In+Corporation&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=Ro-Pat-In%20Corporation&f=false |title=The history of Rickenbacker guitars |author=Richard R. Smith |page=10 |publisher=Centerstream Publications, 1987 |accessdate=18 May 2011 |isbn= 9780931759154 |date= 1987-09-01}}</ref><ref>{{cite web |url= http://www.viewgoods.de/allgemeine/guitar-e.html |title=Guitar E - berichte und fotos. ViewGoods.de |work=viewgoods.de |accessdate=18 May 2011}}</ref>。 [[1932年]]に[[リッケンバッカー]]が発売したラップスチール型の「[[リッケンバッカー・フライング・パン|フライングパン]]」と、他社製ボディにピックアップを追加した「エレクトリック・スパニッシュ・ギター」も世界初のエレキギターと見なされることもある。その後1940年代にかけて、ホロウボディのGibson ES-150、ソリッドボディの Bigsby マール・トラヴィスモデルなど新しいモデルが次々と登場し、エレクトリック・ギターが広く一般に認知された。 1930年代から1940年代にかけて登場した様々なエレキギターについては、英語版の記事"[[:en:Electric guitar#History|Electric guitar#History]]"に詳しい。 == ピックアップ == エレクトリック・ギターは、[[アコースティック・ギター]]とは異なる形状・構造をもち、専用の[[マイクロフォン|マイク]]「'''[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]'''」を有しているため、アンプを介して出力される音色はアコースティック・ギターとはかなり異なるものとなる。ピックアップはエレクトリック・ギターの音色の大きな部分を決定する。 ピックアップは[[電磁誘導]]を利用して音を拾っている。ピックアップには[[永久磁石]]が内蔵されており、それによって生じる磁界中で鉄やニッケルなどの磁性体を含有する弦が振動するとピックアップ内の[[コイル]]を通過する磁束が変化し、弦の[[振動]]にほぼ相似した[[交流電流]]が発生する。その電流は導線(シールド)等を通してアンプに送られ、アンプによって音として増幅されスピーカーから音として出力される。電磁誘導を利用するため、エレクトリック・ギターにナイロン等の非磁性金属製の弦は使用できない(ギターのブリッジ部分に音響[[マイクロフォン]]を供えたものもあるが、そのようなものは一般にエレクトリック・ギターとは呼ばない)。また[[ピエゾ素子]]のような物理的変形を電気信号に変換する素子を使ったピックアップもあるが、こちらも音響マイクロフォンと同様に「エレクトリック・ギター」の範疇には含まないのが一般的である。 ピックアップの種類は以下の二つに大別できる。 * [[シングルコイル]] * [[ハムバッキング]](ハムバッカー) エレクトリック・ギター用のピックアップは、一般的に板状の磁石の上に並べた棒(ポールピース)の周囲にワイヤを巻いたもの(コイル)だが、この構造が一つのものをシングルコイルと呼ぶ。そのサウンドはカラっとした乾いたような音色が特徴である。対してハムバッカーは、シングルコイルを弦に対して平行または直角に二つ並べてコイルの極性を逆接続することで[[商用交流電源]]による磁界の影響を打ち消してノイズに強い構造になっているが、肝心の弦の振動の信号も特に高調波成分が打ち消し気味になり、太く暖かいサウンドが持ち味となる。「[[ハム]]」とは、商用交流電流による「ブ〜〜ン」と言うノイズのことである。[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]のモデルはハムバッカーが多く、[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]はシングルコイルのモデルが多い。「ハムバッキング(バッカー)」のことを「ハ'''ン'''バッキング(バッカー)」と書くこともある。 電気信号の増幅方法は以下の二つに分類される。 * パッシブ(passive) * アクティブ(active) ピックアップは内部のコイルで音を交流電流として取り出すが、スピーカーから音として出力するには、この電流を増幅させる必要がある。この増幅作業の一切をエフェクターやアンプなどのギターの外部に依存したピックアップをパッシブと呼ぶ。対して、[[電池]]と微小信号用アンプをギター内に内蔵し信号をある程度増幅させてからアンプに送信するタイプのものをアクティブと呼び、コイルの巻数が少なくすみノイズに強い。一般的にエレクトリック・ギターではパッシブが主流で、アクティブは鉄弦を使った[[アコースティック・ギター]]に付加的に追加したピックアップに多い。また、一つのギターでパッシブとアクティブの切り替えも可能なものもある。 一つのギターに複数のピックアップが搭載されている場合、ネック側から以下のように呼ばれる。 * フロント(ネック、リズム、ベース) [[高調波]]成分が少くソフトな音の傾向がある * センター(ミドル) * リア(ブリッジ、リード、トレブル) 高調波成分が多く鋭い音の傾向がある 複数のピックアップを持つギターでは、ボディのスイッチで演奏中にピックアップを切り替えたり複数のピックアップを並列または直列接続して「混ぜた」信号を取り出せるのが普通である。 <!--<gallery> </gallery>--> == ストラップ == {{main|ストラップ}} [[演奏会|コンサート]]などで演奏する際は立って演奏する場合が多いが、その場合はギターを体に固定するための[[ストラップ]]を用いる。ソリッドボディは詰まっている分重量があり、ストラップがはずれてギターを落としやすいため、ストラップのロックをつけることも多い。 == 種類 == [[Image:Moonlander.jpg|thumb|160px|[[ソニック・ユース]]のリー・ラナルドのために[[ユーリ・ランドマン]]が特別に制作した楽器「ムーンランダー」(2007年)]] === 大分類 === エレクトリック・ギターはボディの構造で概ね以下の2種類に大別できる。 * ホロウボディギター * ソリッドボディギター ホロウボディは[[ヴァイオリン]]のような中空構造であるのに対して、ソリッドボディはホロウボディのような中空構造を持たない。エレクトリック・ギターの原型は通常のギターにピックアップを付けたものであり、ソリッドボディギターの方が歴史的には新しい。 [[ヘッド (ギター)|ヘッド]]の形状は、フェンダー系とギブソン系に大別される。フェンダー系では[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]に見られるようにヘッドは[[指板]]面に平行で、指板面より一段下がっており、ペグはヘッドの片側に一列に並んで、多くの場合は高音弦側がナットから遠ざかるように配置される。このため高音弦はそのままではナットに当たる角度が浅くなってテンションを保てないので、ストリングガイドが設けられる。一方ギブソン系では[[ギブソン・レスポール|レスポール]]に見られるようにヘッドはネックに対して角度を持っており、これによってテンションが保たれる。またペグはヘッドの両サイドに対称に配置される場合が多い。 === 小分類 === ; アーチトップギター : 中空ボディで、トップとバックの板が緩い弧を描いている形状をしており、大半のものは両サイドにヴァイオリンのような[[f字孔]]が空いている。この構造で、コンパクトなボディにもかかわらず、音の反響効率が良いため大音量がなる仕組みになっている。後述するフルアコースティックギター、セミアコースティックギターの多くが、アーチトップギターに属する。世界トップレベルのメーカー(ルシアー)として[[ロバート・ベネデット]]が挙げられ{{要出典|date=2020年5月16日 (土) 05:06 (UTC)|}}、生産量で言えばギブソン社(および[[エピフォン]]・ブランド)が有名。 : これに対し、トップとバックの板が平面になっているものを'''フラットトップギター'''と呼ぶが、こちらは一般的な[[アコースティック・ギター]]を指す場合が多い。 ; フルアコースティックギター(フルアコ) : アコースティック・ギターと同程度の空洞部を胴にもつ。ブリッジは弦のテンションのみでボディに乗っかっており、ボディの後ろ端にテンションがかかるブランコ式のテイルピース(トラピーズ テイルピース)が多い。最初期に開発されたタイプは、ピックギターのボディに弦振動を電気信号に変えるピックアップを取り付けたもので、音はかなり柔らかく厚みのある音。[[スウィング・ジャズ]]の頃から用いられた。[[ビバップ]]形式の演奏などでは現在も主要なギターである。ただしそのボディ構造と大きな容積のため、大音量になるとアンプの音でボディが共振し、いわゆる[[ハウリング]]が起きやすい。[[グレッチ]]のテネシアンやギブソン社の[[ギブソン・ES-175|ES-175]]やSuper 400 CES、[[エピフォン・カジノ]]などがこのタイプ。 ; セミアコースティックギター(セミアコ) : ボディ中心部に胴木(センターブロック)と呼ばれる木材ブロックがネックからボディ後部まで入っており、弦振動を拾うピックアップとチューンOマチックタイプが多いブリッジとテイルピースはセンターブロックの上にスタッド等で固定されている。そのためフルアコースティックギターにありがちなハウリングが起きにくくなっている。フルアコースティックギターに比べるとボディが薄く、空洞部分も狭くなっている場合が多い。音はフルアコースティックギターとソリッドギターの中間といったところ。ギブソン社の[[ギブソン・ES-335|ES-335]]、[[エピフォン]]のシェラトン、リヴィエラ、[[リッケンバッカー]]社の360・[[リッケンバッカー・360/12|360/12]]などがこのタイプ。 ; セミソリッドギター : セミホロウギターとも呼ばれ、大きく分類するとソリッドギターに分類されることもある。フルアコやセミアコ同様ボディ内部が空洞になっているが、それらのようにボディ材をトップ・サイド・バックと分けて張り合わせて空洞が作られているのではなく、ソリッドギターのボディの一部をくり抜いて空洞が作られている。この構造を「セミソリッド構造」や「チェンバード構造」などと呼ばれる。空洞があるためソリッドギターよりは軽く、音も若干柔らかい。ボディの左サイドにf字孔が1つ空いているものもあり、字孔の有無でサウンド面において若干の違いがある。フェンダー社の[[フェンダー・テレキャスター・シンライン|テレキャスター・シンライン]]、リッケンバッカー社の[[リッケンバッカー・325|325]]、ギブソン社の[[ギブソン・レスポール|レスポール・スタンダード]](2008年以降の一部モデル)、[[ダンエレクトロ]]社の[[ダンエレクトロ・59-DC|59-DC]]、[[デューゼンバーグ]]社のスタープレイヤーTVなどがこのタイプ。ピックアップ用の座繰りが大きいタイプのストラトキャスターもこの部類ではないかと言われることもある。 ; ソリッドギター : 通常はエレクトリック・ギターというとこのタイプを指す。ソリッド([[固体]]・中身の詰まった)という言葉通りフルアコなどとは違い、木材の板をそのまま貼り合せる等して胴としている。比較的に胴は薄い。弦が細い特性を生かした独特の奏法が多数ある。また、胴に共鳴部をもたないために器具の追加、交換が容易であり、そのため多くのバリエーションを生んだ。形状も多様である。ギブソン社の[[ギブソン・レスポール|レスポール]]や[[ギブソン・SG|SG]]、フェンダー社の[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]や[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]などが特に有名。 ; シタールギター : シタールギター(エレクトリックシタール)は、エレクトリック・ギターの構造で[[シタール]]に似た音色を出すが、シタールのBUZZ音を出すのは独特の形状をしたブリッジによるもので共鳴弦はあまり関係しない。巷間言われるように、共鳴弦が鳴ってあの音を出すというのは誤りである。 : シタールのブリッジ(ジャワーリと呼称する)の構造は、弦が振動する際、弦の振動域がブリッジの幅広い面に微妙に接触し、あの独特のバズトーンを生み出す。エレクトリックシタールにおいてもこの構造は同じである。 : 主なメーカーは[[ダンエレクトロ]](主に日本製の木部を使用したコーラル)がオリジナル。レプリカモデルがジェリー・ジョーンズ、Star'sなどから発売されている。いずれも独特の音が重宝され、様々なアーティストに使用されているが、現在はオリジナル、レプリカ共に流通量が少なくなっている。 : また[[角松敏生]]は、東京都内のギター工房である[[松下工房]]にエレクトリックシタールを特注して所有している。ブリッジがアルミで作られていて、[[スルーネック]]構造が特徴である。 ; エレクトリックアコースティックギター(マイク付きギター・エレアコ) : {{main|エレクトリックアコースティックギター}} : アコースティック・ギターにピックアップを内蔵したもの。合奏時、生演奏でアコースティック・ギターの音を安定して伝えるのはしばしば困難なのでステージ用として開発された。 : アコースティック・ギターの音を完全に再現する事は難しいが近年かなり近い音を出力できるようになってきた。アンプに通さずそのまま生音で演奏すればアコースティックギターとして使用出来る。 ; エレクトリックガットギター(エレクトリッククラシックギター) : ガットギターにピックアップを内蔵したもの。主にジャズやボサノヴァのような音楽で使用される。 ; [[スティール・ギター]] : [[ハワイの音楽|ハワイアン]]、カントリーアンドウエスタンに用いられている横置きの'''電気ギター'''。普通は指で押えるフレットがなく、左手のバーでフレットに相当する位置の弦を押え、右手の親指、人差し指、中指につけたフィンガーピックで弾く。弦は6弦、8弦などがあり、演奏者により様々なチューニングがある。[[大橋節夫]]のチューニングはC-E-G-A-C-EのAm7th、バッキー白片はAm、大塚竜男はE7thなど。マヒナスターズの和田弘はマイナー系とメジャー系の二つのチューニングをセットしたダブルネックのタイプで、ハワイアンと歌謡曲など曲目によって使い分けていた。カントリー音楽ではこのチューニングを変えて多彩な和音を出すことが出来るペダルをつけた10弦や12弦のペダルスチールギターなどもある。電気を使わないタイプでは、[[リゾネーター・ギター]]と呼ばれる物もあり、もともとは、これが横置きギターの原型という説もある。 == 特有の奏法 == * [[タッピング奏法]] * [[フィードバック奏法]] * [[バイオリン奏法]] * [[琴奏法]] == 主なブランド ==<!--メーカー、設計者など様々な製作会社の形態が混在しているので、「ブランド」とする--> {{colbegin|2}} * {{Flagicon|JPN}} [[アイバニーズ]] (Ibanez) * {{Flagicon|JPN}} [[アトリエZ]] (ATELIER Z) * {{Flagicon|JPN}} [[アリア (楽器ブランド)|アリア]](ARIA) * {{Flagicon|JPN}} [[イーエスピー]] (ESP) * {{Flagicon|JPN}} [[キャパリソン]] (Caparison) * {{Flagicon|JPN}} [[キラーギターズ]] (Killer) * {{Flagicon|JPN}} [[コンバット]] (COMBAT GUITARS) * {{Flagicon|JPN}} [[グヤトーン]](GUYATONE) * {{Flagicon|JPN}} [[グレコ]] (Greco) * {{Flagicon|JPN}} [[齋藤楽器工房]] (SAITO GUITARS) * {{Flagicon|JPN}} [[G-ライフ・ギターズ]] (G-Life Guitars) * {{Flagicon|JPN}} [[スギギター]] (Sugi Guitars) * {{Flagicon|JPN}} [[テスコ (楽器メーカー)|テスコ]](TEISCO) * {{Flagicon|JPN}} [[ディバイザー]] (DEVISERA) * {{Flagicon|JPN}} [[ニル (楽器メーカー)|ニル]] (Nil) * {{Flagicon|JPN}} [[バッカス (楽器メーカー)|バッカス]] (Bacchus) * {{Flagicon|JPN}} [[ヴァンザント]] (VANZANDT) * {{Flagicon|JPN}} [[フェルナンデス (楽器メーカー)|フェルナンデス]] (Fernandes) * {{Flagicon|JPN}} [[フェンダー (楽器メーカー)#フェンダー・ジャパン|フェンダー・ジャパン]] (Fender Japan) * {{Flagicon|JPN}} [[フジゲン]] (Fujigen) * {{Flagicon|JPN}} [[ムーンギターズ]] (MOON GUITARS) * {{Flagicon|JPN}} [[モモセ]] (momose) * {{Flagicon|JPN}} [[ヤイリギター]] (Yairi Guitar) * {{Flagicon|JPN}} [[ヤマハ]] (YAMAHA) * {{Flagicon|JPN}} [[東海楽器製造|東海楽器]] (TOKAI) * {{Flagicon|USA}} [[B.C.リッチ]] (B.C.Rich) * {{Flagicon|USA}} [[エピフォン]] (Epiphone) * {{Flagicon|USA}} [[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]] (Gibson) * {{Flagicon|USA}} [[グレッチ]] (Gretsch) * {{Flagicon|USA}} [[サー (楽器メーカー)|サー]] (Suhr) * {{Flagicon|USA}} [[ジェームス・タイラー]](James Tyler) * {{Flagicon|USA}} [[スタインバーガー]](Steinberger) * {{Flagicon|USA}} [[シェクター]] (Schecter) * {{Flagicon|USA}} [[シャーベル]] (Charvel) * {{Flagicon|USA}} [[ジャクソン (楽器メーカー)|ジャクソン]] (Jackson) * {{Flagicon|USA}} [[ディアンジェリコ]] (D'Angelico) * {{Flagicon|USA}} [[ディーン (楽器メーカー)|ディーン]] (Dean) * {{Flagicon|USA}} [[トム・アンダーソン]] (Tom Anderson) * {{Flagicon|USA}} [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]] (Fender) * {{Flagicon|USA}} [[ポール・リード・スミス]] (Paul Reed Smith) * {{Flagicon|USA}} [[パーカー]](Parker) * {{Flagicon|USA}} [[メランコン]] (Melancon) * {{Flagicon|USA}} [[モズライト]] (Mosrite) * {{Flagicon|USA}} [[リッケンバッカー]] (Rickenbacker) * {{Flagicon|USA}} [[ロバート・ベネデット]] (Robert Benedetto) * {{Flagicon|USA}} [[ワッシュバーン]] (Washburn) * {{Flagicon|GER}} [[カール・ヘフナー]] (Höfner) * {{Flagicon|GER}} [[デューゼンバーグ]] (Duesenberg) * {{Flagicon|POL}} [[メイヨネース]] (Mayones) * {{Flagicon|UK}} [[ゼマティス]] (Zemaitis) * {{Flagicon|UK}} [[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]] (VOX) {{colend}} == 日本固有の歴史的経緯 == ;1960年代のエレキブームと追放運動 1965年1月の『[[ザ・ベンチャーズ]]』の来日以降、ベンチャーズの人気と共にエレキ族と呼ばれる若者を中心に爆発的にエレキギターに注目が集まり「エレキブーム」が訪れる事になる。テレビ番組『[[勝ち抜きエレキ合戦]]』等のテレビ番組や[[加山雄三]]主演映画『[[エレキの若大将]]』等の後押しもありブームに拍車をかけていった。同年夏にはエレキギターの音に合わせて踊る[[モンキーダンス]]もブームとなった(モンキー族)<ref>『更生保護 17(3)』 p.27 日本更生保護協会 1966年3月 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2688122/1/15]</ref>。 しかし、同1965年10月に栃木県足利市教育委員会の働きかけで起こった小中学生のエレキ購入禁止や大会参加禁止等を定めた通称「エレキ禁止令」が出されると、新聞<ref>朝日新聞 1965年10月19日朝刊 等</ref>で大きく取り上げられるなど社会問題化し、一方的に「エレキギターは不良少年がするもの」とレッテルを貼られ、コンサートを見に行っただけで高校を退学させられるなど全国で激しい「エレキギター追放運動」が波及していった。条例は後に廃止されたもののブームは次第に沈静化していくことになる。その後[[寺内タケシ]]によるハイスクールコンサート等の熱心な努力もあり改善されていく。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|Electric guitars|エレクトリックギター}} {{Commonscat|Semi-solidbody guitars|セミ・アコースティック・ギター}} * [[ギター]] * [[アコースティック・ギター]] * [[7弦ギター]] * [[8弦ギター]] * [[12弦ギター]] * [[ギタリスト]] * [[アンプ (楽器用)]] * [[エレクトリックベース]] * [[勝ち抜きエレキ合戦]] * [[楽器ショー]] * [[エフェクター]] * [[パワーコード]] {{楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えれくとりつくきたあ}} [[Category:エレクトリック・ギター|*]] [[Category:ギター]]
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コンポジット映像信号
コンポジット映像信号(コンポジットえいぞうしんごう、Composite Video SignalまたはCVBS : Composite Video, Blanking, and Sync)は、映像信号を構成する同期信号、輝度信号、カラーの場合は色信号、を合成して、1本のケーブルで扱えるようにした信号のこと。複合同期信号と言われることもあるが、垂直水平の両方の同期信号をまとめたのみの信号を指して複合同期信号とすることもある。 コンポジット映像信号では、映像を構成する情報が一つの伝送信号に重畳されている。地上アナログ放送ではこれを振幅変調(AM)することで、各家庭へ電波として送信している。日本国内では2011年7月24日まで、地上アナログ放送としてコンポジット信号を用いたテレビジョン放送が行われていた。伝送品質は標準画質映像(SD映像)までがサポートされており、HD映像にはコンポジット信号規格はない。 テレビジョンに用いられるコンポジット信号には、NTSC、PAL、SECAMの3方式がある。 コンポジット信号は、輝度信号の周波数特性が櫛形になる性質を利用して、その隙間に色信号を重畳している。カラーモニタに表示する際には、コンポジット信号を赤緑青の三原色信号に、映像合成処理などを行う場合は輝度と色差のコンポーネント信号に変換する必要があるが、一度重畳した各成分を完全に分離することが難しく、残留成分がノイズとなってしまう欠点がある。また、コンポジット信号を用いると伝送路の構成は単純になるが、ビデオカメラやモニタ、デジタル特殊効果装置は元来コンポーネント信号で内部処理するために相互変換装置が必要になり、画質が低下する。このため高画質化を必要とする場合には、コンポーネント信号用機器のみで(伝送路を含む)システムを構成する。また、家庭用の映像機器では、NTSCやPAL映像信号から色信号を分離して別々に伝送するS映像信号を用いて接続するものもある。 MPEG (MPEG-1、MPEG-2、MPEG-4) などのデジタル映像へ圧縮(高効率符号化)を行う際には、コンポジット方式はデジタルビデオ機器とは相性が良くない。しかしテレビやビデオ機器にアナログコンポジット信号に対応した入出力端子が標準的に備わっているため、広く使われている上、2012年現在も殆どのBDレコーダーなどHDMI端子をもった機器でもHDMIケーブルを付属せず に、コンポジットAVケーブルが付属している。なお日本においては、2014年以降発売の一部の機種では著作権が保護されたコンテンツ(特に市販のパッケージBDソフト(BDビデオ))はアナログ出力そのものができなくなった。
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コンポジット映像信号は、映像信号を構成する同期信号、輝度信号、カラーの場合は色信号、を合成して、1本のケーブルで扱えるようにした信号のこと。複合同期信号と言われることもあるが、垂直水平の両方の同期信号をまとめたのみの信号を指して複合同期信号とすることもある。
{{出典の明記|date=2022年12月16日 (金) 10:49 (UTC)}} [[Image:Composite.jpg|thumb|200px|コンポジット映像信号の接続に使われる[[黄色]]の[[RCA端子]]]] '''コンポジット映像信号'''(コンポジットえいぞうしんごう、'''Composite Video Signal'''または'''CVBS''' : Composite Video, Blanking, and Sync)は、[[映像信号]]を構成する同期信号、輝度信号、カラーの場合は色信号、を合成して、1本のケーブルで扱えるようにした信号のこと。複合同期信号と言われることもあるが、垂直水平の両方の同期信号をまとめたのみの信号を指して複合同期信号とすることもある。 == 概要 == コンポジット映像信号では、映像を構成する情報が一つの伝送信号に重畳されている。地上アナログ放送ではこれを[[振幅変調|振幅変調(AM)]]することで、各家庭へ電波として送信している。日本国内では2011年7月24日まで、地上アナログ放送としてコンポジット信号を用いたテレビジョン放送が行われていた<ref>ただし、[[東日本大震災]]で最も甚大な被害を受けた[[福島県]]、[[宮城県]]、[[岩手県]]の3県は除く(これらの地域では2012年3月31日まで)。</ref>。伝送品質は[[標準画質映像]](SD映像)までがサポートされており、HD映像にはコンポジット信号規格はない。 [[テレビ|テレビジョン]]に用いられるコンポジット信号には、[[NTSC]]、[[PAL]]、[[SECAM]]の3方式がある。 コンポジット信号は、輝度信号の周波数特性が櫛形になる性質を利用して、その隙間に色信号を重畳している。カラーモニタに表示する際には、コンポジット信号を赤緑青の三原色信号に、映像合成処理などを行う場合は輝度と色差のコンポーネント信号に変換する必要があるが、一度重畳した各成分を完全に分離することが難しく、残留成分がノイズとなってしまう欠点がある。また、コンポジット信号を用いると伝送路の構成は単純になるが、[[ビデオカメラ]]や[[モニタ]]、[[映像編集#デジタル特殊効果装置|デジタル特殊効果装置]]は元来コンポーネント信号で内部処理するために相互変換装置が必要になり、画質が低下する。このため高画質化を必要とする場合には、コンポーネント信号用機器のみで(伝送路を含む)システムを構成する。また、家庭用の映像機器では、NTSCやPAL映像信号から色信号を分離して別々に伝送する[[S端子|S映像信号を用いて接続する]]ものもある。 [[Moving Picture Experts Group|MPEG]] ([[MPEG-1]]、[[MPEG-2]]、[[MPEG-4]]) などのデジタル映像へ[[データ圧縮|圧縮]]([[高効率符号化]])を行う際には、コンポジット方式はデジタルビデオ機器とは相性が良くない。しかしテレビやビデオ機器にアナログコンポジット信号に対応した入出力端子が標準的に備わっているため、広く使われている上、2012年現在も殆どのBDレコーダーなどHDMI端子をもった機器でもHDMIケーブルを付属せず<ref>ただし、例外的に[[シャープ]]製のBDレコーダー([[アクオス|AQUOS ブルーレイシリーズ]])に限り、2011年下期モデル以前の機種にはHDMIケーブルが最初から付属していたが、2012年上期モデル以降の機種よりHDMIケーブルは別売りとなった。</ref> に、コンポジットAVケーブルが付属している。なお日本においては、2014年以降発売の一部の機種では著作権が保護されたコンテンツ(特に市販のパッケージBDソフト(BDビデオ))はアナログ出力そのものができなくなった。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[コンポーネント映像信号]] * [[RCA端子]] * [[D端子]] * [[S端子]] * [[HDMI|High-Definition Multimedia Interface]] (HDMI) * [[DVD-Video]] * [[VGA端子]] {{AVconn}} {{Audio-visual-stub}} {{DEFAULTSORT:こんほしつとえいそうしんこう}} [[Category:ビデオ信号]] [[Category:テレビ技術]] [[Category:インタフェース規格]] [[Category:コンポジットビデオフォーマット]]
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ゴジラ
ゴジラ(Godzilla)は、日本の東宝が1954年に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品および、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品(ゴジラ映画作品の一覧参照)のことを「ゴジラ映画」と呼ぶこともある。 本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は後述のリストを参照のこと。 1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上に亘って製作されている怪獣映画。円谷英二が特撮技術を担当し、演技者がぬいぐるみ(着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊などの周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも上映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。 タイトルロゴは、第1作以来「ゴジラ」の「ゴ」と「ラ」の角が欠けているのが特徴で、日本国内作品の多くでこれを踏襲している。カラー化された『キングコング対ゴジラ』以降、「ゴジラ」のロゴは赤や朱色であることが多い。昭和期の作品では、エンドマークとして「終」の文字が打たれていた。 なお、「ゴジラ」は東宝の登録商標である。 1954年11月3日、監督を本多猪四郎、特殊技術を円谷英二、脚本を村田武雄、音楽を伊福部昭が担当し、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作品の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』では怪獣同士の対決が初めて描かれた。しかし、この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画はなかった。 7年後の1962年に公開されたシリーズ第3作『キングコング対ゴジラ』は、アメリカの映画キャラクターキングコングとの対決作品として制作された。明るい作風で当時人気を博していたプロレスさながらの対決を描いた『キングコング対ゴジラ』は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1,255万人を動員。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方としての戦いを見せて以降、ゴジラは恐怖の対象として役目が希薄になる。次第に娯楽作品へのシフトが進み、当初のテーマであるSFとしての特色もシリアス路線からエンターテインメント性重視のものに変わっていく。第一次怪獣ブームにより競合作品が増え、ゴジラの有り様も変化していった。第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以降は完全に正義のヒーローとして描かれるようになった。 当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていった。この時期はテレビアニメ最盛期であることもあって『東宝チャンピオンまつり』というタイトルのテレビ作品と混載5〜6作品混合プログラムの中の一作という扱いになった。円谷英二の死去や東宝の制作体制の変化などもあり、上映時間は短縮され制作費も縮小された。そのため特撮シーンの多くに過去作品の流用フィルムが多用されるようになる。そして1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』では観客動員数97万人と、歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。 1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区などで過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。 1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに、第16作『ゴジラ』が製作された。第16作は第1作をオマージュした作風であり、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。ストーリー上も第1作の直接の続編という形をとっており、ゴジラは1954年に一度だけ日本を襲って倒され、30年ぶりに新たな個体が日本を襲ったという設定であった。以降の平成シリーズは第16作の続編である。 第16作では、都市の高層化に合わせ、ゴジラの身長を50メートルから80メートルと大型化された。さらに後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は100メートルとなった。 5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわなかった。 その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。 第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーもマニア層向けであった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々にファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やエンターテイメント性が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が評価を得なかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。 その後、ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定をきっかけとし、いったんシリーズの終了が決定。シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』で劇中ではゴジラの「死」を描きシリーズが終了した。シリーズ7作品の観客動員数合計は2,330万人、総配給収入は119億3,000万円におよぶ。 このゴジラ休止の時期には、平成モスラ3部作が公開された。 総称として、平成ゴジラシリーズ、VSシリーズ、復活ゴジラシリーズなどの呼称が用いられている。 「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINAL WARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセなど)。 この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。 この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという。 各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。 このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。 1998年にトライスター ピクチャーズ提供による『GODZILLA』が公開された。興行面では世界的に成功を収めたものの、軽快な作風のモンスタームービーに仕上げられた作品は従来のゴジラ像の乖離から日米のゴジラファンを満足させるものではなかった。今までに無い生物感溢れるゴジラの造形や劇中のVFXは評価されたものの、第19回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク賞、最低助演女優賞を受賞。予定されていたシリーズ化には至らなかった。 当初の予定では平成ゴジラシリーズ終了後、平成モスラ三部作と地球防衛軍三部作を製作し、21世紀に入ってからゴジラを復活させるという計画であった。だが、東宝系の劇場や営業の方からモスラでは興行成績が厳しいという意見が起き、ゴジラ復活の要望が起こる そうした声に押される形で、1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』でシリーズが再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。 本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。 2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラ FINAL WARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINAL WARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 ミレニアムシリーズは平成ゴジラシリーズ同様、毎年正月映画として公開される。『ゴジラ×メカゴジラ』と『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の関係を例外として、前年の作品とはストーリーや世界観に連続性がない。 ミレニアムシリーズの特徴として、CGの多用が挙げられる。ただし平成ゴジラシリーズのように怪獣が光線技を多用する描写は少なくなっており、特撮カットはスーツアクターによるアクションやワイヤーアクションに重点が置かれた。怪獣のサイズがVSシリーズの100メートル級から昭和シリーズに近い50から60メートル級に縮小された(『ゴジラ FINAL WARS』のみ100メートル級に戻された)。ミニチュアのスケールも1/50から1/25に大型化したことでその作り込みがより精密になった。本シリーズは『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』『ゴジラ×メカゴジラ』『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の3作品で、優れた戦闘能力とリーダーシップを持つ女性自衛官が主役または準主役でゴジラと直接戦う設定を取り入れている。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』以降のシリーズでは、『ゴジラの逆襲』以降の東宝特撮映画では通例となっていた特技監督の肩書きが「特殊技術」となった。 ハリウッド版(後述)の世界的ヒットを受けて、2014年12月8日、東宝製作によるシリーズ新作が約12年ぶりに全国公開されることが明らかになった。2015年4月1日、脚本と総監督を庵野秀明、監督と特技監督を樋口真嗣が務めることが発表され、同年秋から撮影が開始された後、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。 2016年8月19日、初のアニメーション映画作品となる『GODZILLA』の製作が発表された。監督を静野孔文・瀬下寛之、ストーリー原案・脚本を虚淵玄が務める。2017年1月19日には新たなコンセプトアートと声優陣が、同年3月26日には3部作になることがそれぞれ発表された後、同年11月17日には第1部『怪獣惑星』が、2018年5月18日には第2部『決戦機動増殖都市』がそれぞれ公開され、同年11月9日には第3部『星を喰う者』が公開された。 2020年10月7日、劇場3部作とは世界観を一新した完全新作アニメーション『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』が翌2021年4月よりテレビ放送およびNetflixにて先行配信されることが発表された。 2022年11月3日、国産実写映画としては7年振りとなる新作ゴジラを2023年11月3日に公開することが発表された。タイトルは『ゴジラ-1.0』で、監督・脚本・VFXは山崎貴が務める。 2010年代以降のゴジラの特徴としては、「第1作も含めた過去作品全てと世界観がつながっていない」という設定が挙げられる。過去のシリーズでは、それ以降の時間軸は異なりつつも、1954年(第1作)に人類の前に初めて姿を現したという設定だけは共通していた。 しかし、『シン・ゴジラ』ではゴジラが初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、第1作との世界観のつながりが存在しない。このことを裏付けるかのように劇中では「怪獣」という概念や文言自体がなく、当初はゴジラを「巨大不明生物」と呼称している。また、アニメーション3部作でもゴジラは2030年に初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、やはり過去作品との世界観のつながりが存在しない。『-1.0』では第1作よりもさらに昔の第二次世界大戦後間もない日本が舞台となっている。 2014年には、ワーナー・ブラザースの提供、レジェンダリー・ピクチャーズの製作による『GODZILLA ゴジラ』が公開された。ゴジラのデザインはトライスター版と異なって原典を踏襲したものとなったほか、内容には自身もゴジラファンである監督のギャレス・エドワーズによる「SF要素を排し、徹底して現実的な路線で制作している」との方針が示されている。 2019年公開の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ではゴジラに加えてラドン、モスラ、キングギドラが登場したほか、2021年公開の『ゴジラvsコング』では、有名モンスター同士を対決させるモンスター・ヴァースの一環としてキングコングが登場した。 括弧内は原題。 『ゴジラ・フェス』は2017年よりゴジラ誕生日に開催の生誕記念イベント。作品はいずれも数分から10分程度の短編である。2020年、2021年はオンライン配信のみ。 映画作品のノベライズ、コミカライズなどは各作品の項目を参照。 1990年代には、新作映画PRのために子供向けバラエティ番組が放送された。 発売(稼働)順。 上記ゲーム・映画のCMは除く。 このほか、ゴジラをテーマとする期間限定の展示会が下記のように多数開かれてきた。 ゴジラを題材とした玩具、書籍、映像・音楽媒体は多数発売されてきた。ゴジラ関連製品の専門店は、丸井グループが2016年から期間限定で展開。2017年10月30日には東宝と共同で、世界初のゴジラ公式常設店を新宿マルイアネックス(東京)にオープンした。このほか東宝は通販サイト「ゴジラ・ストア」を運営している。 本シリーズには以下の組織が登場している。『ゴジラ』をはじめとする、東宝怪獣映画群に登場する怪獣迎撃を行うこれらの組織を総称し、東宝自衛隊との通称で呼ばれることもある。もともとは自衛隊以外の名称で登場することが多かったが、後には「自衛隊」の名前で出演するようにもなった。撮影にあたっては自衛隊の協力を得て実際の兵器の稼働シーンなどが撮影されているほか、東宝自衛隊独自の架空兵器も登場している。架空兵器に関しては東宝特撮映画の登場兵器を参照。 なお、現実世界でゴジラのような怪獣が日本に襲来する事態を想定した机上研究を旧防衛庁が過去に行っており、怪獣襲来に対しては自衛隊法第83条に基づく災害派遣で自衛隊の出動が可能とし、暴れる怪獣に対しては「有害鳥獣駆除」の名目で武器・弾薬の使用も可能との結論に達した。 『ゴジラ』(1954年)でゴジラに松坂屋と和光を無断で破壊・炎上させた際にクレームが付き、和光は以後2年間ほど東宝のロケ使用を一切許可しなかった。それ以降、実在する建物を破壊する際には所有者の許可を取るようになった。しかし、ゴジラに破壊された建物はその後、業績が好調になっていたりするため、「ぜひとも次のゴジラ映画でウチを破壊してほしい」というオファーが東宝に来たことがある。平成シリーズ以降は、映画公開前後に建設される新名所を襲撃するのが恒例となった。 四国地方にはシリーズを通じて一度も上陸していない。なお、以下のリストにはゴジラではなく敵の怪獣や別の怪獣が破壊したもの、および怪獣の攻撃を受けた航空機などが破壊した物が複数含まれている。 事の発端は、本多猪四郎監督の遺族がパチンコ『CRゴジラ〜破壊神降臨〜』CMでゴジラが登場していることに関し、2010年6月にニューギンに対して本多の著作権を侵害していると抗議文を送ったもので、ニューギンは著作権を東宝が管理しているとして東宝と遺族間で交渉するものの決裂し、東宝は2010年6月に遺族に対して著作権侵害の主張は無効と訴えた。それに対し、2011年10月13日に遺族がゴジラは本多の著作物であり、商品化を東宝が勝手に許諾するのは違法と主張したうえ、1億2700万円の損害賠償を求めてニューギン、東宝、タカラトミー、加賀電子の4社に対して東京地裁に提訴していたが、2013年6月に和解が成立した。和解内容については明らかにされていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゴジラ(Godzilla)は、日本の東宝が1954年に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品および、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品(ゴジラ映画作品の一覧参照)のことを「ゴジラ映画」と呼ぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は後述のリストを参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1954年に第1作が公開されて以降、半世紀以上に亘って製作されている怪獣映画。円谷英二が特撮技術を担当し、演技者がぬいぐるみ(着ぐるみ)に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の特撮映画やテレビ特撮番組の主流となった。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊などの周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも上映されて人気を呼び、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "タイトルロゴは、第1作以来「ゴジラ」の「ゴ」と「ラ」の角が欠けているのが特徴で、日本国内作品の多くでこれを踏襲している。カラー化された『キングコング対ゴジラ』以降、「ゴジラ」のロゴは赤や朱色であることが多い。昭和期の作品では、エンドマークとして「終」の文字が打たれていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、「ゴジラ」は東宝の登録商標である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": 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地球最大の決戦』でゴジラが人類の味方としての戦いを見せて以降、ゴジラは恐怖の対象として役目が希薄になる。次第に娯楽作品へのシフトが進み、当初のテーマであるSFとしての特色もシリアス路線からエンターテインメント性重視のものに変わっていく。第一次怪獣ブームにより競合作品が増え、ゴジラの有り様も変化していった。第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以降は完全に正義のヒーローとして描かれるようになった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていった。この時期はテレビアニメ最盛期であることもあって『東宝チャンピオンまつり』というタイトルのテレビ作品と混載5〜6作品混合プログラムの中の一作という扱いになった。円谷英二の死去や東宝の制作体制の変化などもあり、上映時間は短縮され制作費も縮小された。そのため特撮シーンの多くに過去作品の流用フィルムが多用されるようになる。そして1975年に公開された第15作『メカゴジラの逆襲』では観客動員数97万人と、歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1983年になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区などで過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1984年、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに、第16作『ゴジラ』が製作された。第16作は第1作をオマージュした作風であり、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。ストーリー上も第1作の直接の続編という形をとっており、ゴジラは1954年に一度だけ日本を襲って倒され、30年ぶりに新たな個体が日本を襲ったという設定であった。以降の平成シリーズは第16作の続編である。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第16作では、都市の高層化に合わせ、ゴジラの身長を50メートルから80メートルと大型化された。さらに後のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は100メートルとなった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "5年後の1989年、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』が公開されるが動員数は振るわなかった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、対決ものとしてシリーズ化され、1991年公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として1995年公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第2期の初期(『ゴジラ』『ゴジラvsビオランテ』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーもマニア層向けであった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々にファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やエンターテイメント性が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が評価を得なかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、スタジオジブリ作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その後、ハリウッド版『GODZILLA』の製作決定をきっかけとし、いったんシリーズの終了が決定。シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』で劇中ではゴジラの「死」を描きシリーズが終了した。シリーズ7作品の観客動員数合計は2,330万人、総配給収入は119億3,000万円におよぶ。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このゴジラ休止の時期には、平成モスラ3部作が公開された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "総称として、平成ゴジラシリーズ、VSシリーズ、復活ゴジラシリーズなどの呼称が用いられている。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『ゴジラvsデストロイア』の全7作まで一貫した世界観となっており、『ゴジラvsビオランテ』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:小高恵美)がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『ゴジラvsメカゴジラ』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINAL WARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセなど)。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『金曜ロードショー』(vsモスラ)、『水曜ロードショー』(vsビオランテ)、『ゴールデン洋画劇場』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた潮匡人によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "各作品の別名として『ゴジラ』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『ゴジラ5』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『ゴジラ6』、『ゴジラvsデストロイア』=『ゴジラ7』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このシリーズでは特殊技術を川北紘一(『ゴジラ』のみ中野昭慶)、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した薩摩剣八郎が務めている。休止期間中の1997年には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた田中友幸が死去し、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1998年にトライスター ピクチャーズ提供による『GODZILLA』が公開された。興行面では世界的に成功を収めたものの、軽快な作風のモンスタームービーに仕上げられた作品は従来のゴジラ像の乖離から日米のゴジラファンを満足させるものではなかった。今までに無い生物感溢れるゴジラの造形や劇中のVFXは評価されたものの、第19回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク賞、最低助演女優賞を受賞。予定されていたシリーズ化には至らなかった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当初の予定では平成ゴジラシリーズ終了後、平成モスラ三部作と地球防衛軍三部作を製作し、21世紀に入ってからゴジラを復活させるという計画であった。だが、東宝系の劇場や営業の方からモスラでは興行成績が厳しいという意見が起き、ゴジラ復活の要望が起こる", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そうした声に押される形で、1999年のシリーズ第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』でシリーズが再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは地震や台風などの自然災害と同じように文明への脅威の存在として設定された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、モスラ、キングギドラ、メカゴジラなどの人気怪獣の再登場路線となった。2001年から2003年までは『とっとこハム太郎』と併映されることになり、その影響で第26作『ゴジラ×メカゴジラ』、第27作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として、ゴジラ50周年の節目である2004年にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり、同年公開の第28作『ゴジラ FINAL WARS』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる。ゴジラシリーズに数多く出演した水野久美や佐原健二らは『FINAL WARS』のパンフレットで「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ミレニアムシリーズは平成ゴジラシリーズ同様、毎年正月映画として公開される。『ゴジラ×メカゴジラ』と『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の関係を例外として、前年の作品とはストーリーや世界観に連続性がない。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ミレニアムシリーズの特徴として、CGの多用が挙げられる。ただし平成ゴジラシリーズのように怪獣が光線技を多用する描写は少なくなっており、特撮カットはスーツアクターによるアクションやワイヤーアクションに重点が置かれた。怪獣のサイズがVSシリーズの100メートル級から昭和シリーズに近い50から60メートル級に縮小された(『ゴジラ FINAL WARS』のみ100メートル級に戻された)。ミニチュアのスケールも1/50から1/25に大型化したことでその作り込みがより精密になった。本シリーズは『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』『ゴジラ×メカゴジラ』『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の3作品で、優れた戦闘能力とリーダーシップを持つ女性自衛官が主役または準主役でゴジラと直接戦う設定を取り入れている。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』以降のシリーズでは、『ゴジラの逆襲』以降の東宝特撮映画では通例となっていた特技監督の肩書きが「特殊技術」となった。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ハリウッド版(後述)の世界的ヒットを受けて、2014年12月8日、東宝製作によるシリーズ新作が約12年ぶりに全国公開されることが明らかになった。2015年4月1日、脚本と総監督を庵野秀明、監督と特技監督を樋口真嗣が務めることが発表され、同年秋から撮影が開始された後、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2016年8月19日、初のアニメーション映画作品となる『GODZILLA』の製作が発表された。監督を静野孔文・瀬下寛之、ストーリー原案・脚本を虚淵玄が務める。2017年1月19日には新たなコンセプトアートと声優陣が、同年3月26日には3部作になることがそれぞれ発表された後、同年11月17日には第1部『怪獣惑星』が、2018年5月18日には第2部『決戦機動増殖都市』がそれぞれ公開され、同年11月9日には第3部『星を喰う者』が公開された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2020年10月7日、劇場3部作とは世界観を一新した完全新作アニメーション『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』が翌2021年4月よりテレビ放送およびNetflixにて先行配信されることが発表された。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2022年11月3日、国産実写映画としては7年振りとなる新作ゴジラを2023年11月3日に公開することが発表された。タイトルは『ゴジラ-1.0』で、監督・脚本・VFXは山崎貴が務める。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2010年代以降のゴジラの特徴としては、「第1作も含めた過去作品全てと世界観がつながっていない」という設定が挙げられる。過去のシリーズでは、それ以降の時間軸は異なりつつも、1954年(第1作)に人類の前に初めて姿を現したという設定だけは共通していた。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、『シン・ゴジラ』ではゴジラが初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、第1作との世界観のつながりが存在しない。このことを裏付けるかのように劇中では「怪獣」という概念や文言自体がなく、当初はゴジラを「巨大不明生物」と呼称している。また、アニメーション3部作でもゴジラは2030年に初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、やはり過去作品との世界観のつながりが存在しない。『-1.0』では第1作よりもさらに昔の第二次世界大戦後間もない日本が舞台となっている。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2014年には、ワーナー・ブラザースの提供、レジェンダリー・ピクチャーズの製作による『GODZILLA ゴジラ』が公開された。ゴジラのデザインはトライスター版と異なって原典を踏襲したものとなったほか、内容には自身もゴジラファンである監督のギャレス・エドワーズによる「SF要素を排し、徹底して現実的な路線で制作している」との方針が示されている。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2019年公開の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ではゴジラに加えてラドン、モスラ、キングギドラが登場したほか、2021年公開の『ゴジラvsコング』では、有名モンスター同士を対決させるモンスター・ヴァースの一環としてキングコングが登場した。", "title": "映画の変遷" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "括弧内は原題。", "title": "映画一覧" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『ゴジラ・フェス』は2017年よりゴジラ誕生日に開催の生誕記念イベント。作品はいずれも数分から10分程度の短編である。2020年、2021年はオンライン配信のみ。", "title": "映画一覧" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "映画作品のノベライズ、コミカライズなどは各作品の項目を参照。", "title": "その他の媒体展開" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年代には、新作映画PRのために子供向けバラエティ番組が放送された。", "title": "その他の媒体展開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "発売(稼働)順。", "title": "その他の媒体展開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "上記ゲーム・映画のCMは除く。", "title": "その他の媒体展開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "このほか、ゴジラをテーマとする期間限定の展示会が下記のように多数開かれてきた。", "title": "その他の媒体展開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ゴジラを題材とした玩具、書籍、映像・音楽媒体は多数発売されてきた。ゴジラ関連製品の専門店は、丸井グループが2016年から期間限定で展開。2017年10月30日には東宝と共同で、世界初のゴジラ公式常設店を新宿マルイアネックス(東京)にオープンした。このほか東宝は通販サイト「ゴジラ・ストア」を運営している。", "title": "関連製品と専門店" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "本シリーズには以下の組織が登場している。『ゴジラ』をはじめとする、東宝怪獣映画群に登場する怪獣迎撃を行うこれらの組織を総称し、東宝自衛隊との通称で呼ばれることもある。もともとは自衛隊以外の名称で登場することが多かったが、後には「自衛隊」の名前で出演するようにもなった。撮影にあたっては自衛隊の協力を得て実際の兵器の稼働シーンなどが撮影されているほか、東宝自衛隊独自の架空兵器も登場している。架空兵器に関しては東宝特撮映画の登場兵器を参照。", "title": "戦った組織" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、現実世界でゴジラのような怪獣が日本に襲来する事態を想定した机上研究を旧防衛庁が過去に行っており、怪獣襲来に対しては自衛隊法第83条に基づく災害派遣で自衛隊の出動が可能とし、暴れる怪獣に対しては「有害鳥獣駆除」の名目で武器・弾薬の使用も可能との結論に達した。", "title": "戦った組織" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『ゴジラ』(1954年)でゴジラに松坂屋と和光を無断で破壊・炎上させた際にクレームが付き、和光は以後2年間ほど東宝のロケ使用を一切許可しなかった。それ以降、実在する建物を破壊する際には所有者の許可を取るようになった。しかし、ゴジラに破壊された建物はその後、業績が好調になっていたりするため、「ぜひとも次のゴジラ映画でウチを破壊してほしい」というオファーが東宝に来たことがある。平成シリーズ以降は、映画公開前後に建設される新名所を襲撃するのが恒例となった。", "title": "破壊された地域、建物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "四国地方にはシリーズを通じて一度も上陸していない。なお、以下のリストにはゴジラではなく敵の怪獣や別の怪獣が破壊したもの、および怪獣の攻撃を受けた航空機などが破壊した物が複数含まれている。", "title": "破壊された地域、建物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "事の発端は、本多猪四郎監督の遺族がパチンコ『CRゴジラ〜破壊神降臨〜』CMでゴジラが登場していることに関し、2010年6月にニューギンに対して本多の著作権を侵害していると抗議文を送ったもので、ニューギンは著作権を東宝が管理しているとして東宝と遺族間で交渉するものの決裂し、東宝は2010年6月に遺族に対して著作権侵害の主張は無効と訴えた。それに対し、2011年10月13日に遺族がゴジラは本多の著作物であり、商品化を東宝が勝手に許諾するのは違法と主張したうえ、1億2700万円の損害賠償を求めてニューギン、東宝、タカラトミー、加賀電子の4社に対して東京地裁に提訴していたが、2013年6月に和解が成立した。和解内容については明らかにされていない。", "title": "著作権訴訟" } ]
ゴジラ(Godzilla)は、日本の東宝が1954年に公開した特撮怪獣映画『ゴジラ』に始まる一連のシリーズ作品および、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品(ゴジラ映画作品の一覧参照)のことを「ゴジラ映画」と呼ぶこともある。 本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は後述のリストを参照のこと。
{{otheruses|作品シリーズ|怪獣|ゴジラ (架空の怪獣)|その他}} [[ファイル:Gojira 1954 poster 3.jpg|thumb|240px|『ゴジラ』(1954年)のポスター]] '''ゴジラ'''(Godzilla)は、[[日本]]の[[東宝]]が[[1954年]]に公開した[[特撮]][[怪獣映画]]『'''[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]'''』に始まる一連のシリーズ作品および、それらの作品に登場する架空の怪獣の名称である。これら一連のシリーズ作品([[ゴジラ映画作品の一覧]]参照)のことを「'''ゴジラ映画'''」と呼ぶこともある。 本項ではシリーズ作品全般についての解説を行う。個々の作品の詳細は[[#映画の変遷|後述のリスト]]を参照のこと。 == 概要 == [[1954年]]に第1作が公開されて以降、半世紀以上に亘って製作されている[[怪獣映画]]。[[円谷英二]]が特撮技術を担当し、演技者が[[ぬいぐるみ]]([[着ぐるみ]])に入って演じる手法を主体としており、この手法は以後、日本の[[特撮映画]]やテレビ特撮番組の主流となった{{efn|欧米の特撮は永らく[[ウィリス・オブライエン]]による『[[キングコング]]』に始まる、[[人形アニメ]]([[ストップモーション・アニメーション]])が主流だった。}}。怪獣や怪獣同士の格闘のみならず、逃げ回る住民や攻防する軍隊などの周辺の人間描写も毎回描かれ好評を得ている。日本のみならず海外でも上映されて人気を呼び、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に日本のキャラクターとしては唯一の例として登録されている。 タイトルロゴは、第1作以来「ゴジラ」の「ゴ」と「ラ」の角が欠けているのが特徴で、日本国内作品の多くでこれを踏襲している{{R|デイズ185}}。カラー化された『キングコング対ゴジラ』以降、「ゴジラ」のロゴは赤や朱色であることが多い{{R|デイズ185}}。昭和期の作品では、エンドマークとして「終」の文字が打たれていた{{R|デイズ197}}。 なお、「ゴジラ」は[[東宝]]の[[登録商標]]である{{efn|[[日本]]国[[登録商標]][https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1990-143151/DB81FC244C15395E87E10D8784F7E0A6374D0065C41253B9CDBD0656009D3A0F/40/ja 第2579724号]ほか<!--(変わるかもしれないのでコメントアウト)、計75件-->。}}。 == 映画の変遷 == === 昭和ゴジラシリーズ === ==== シリーズの特徴・経緯 ==== {{multiple image | perrow = 3 | total_width = 450 | image1 = Kingkongposter.jpg | caption1 = 『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』(1933年) | image2 = Genshikaijuarawaru poster.png | caption2 = 『原子怪獣現わる』(1953年) | image3 = Alternate Godzilla 1954 Poster.jpg | caption3 = 『ゴジラ』(1954年) }} 1954年[[11月3日]]、監督を[[本多猪四郎]]、特殊技術を[[円谷英二]]、脚本を[[村田武雄]]、音楽を[[伊福部昭]]が担当し、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていた[[ビキニ環礁]]の[[核実験]]に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』が公開される。身長50メートルの[[怪獣]]ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「'''[[核兵器|核]]の落とし子'''」「'''人間が生み出した恐怖の象徴'''」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の[[樋口尚文]]は、本作品の監督である[[本多猪四郎]]への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製[[キングコング (架空の怪獣)|キングコング]]を作りたかった」という旨の言質を取っている<ref>{{Cite web|和書|date = 2014-05-26 |url = https://web.archive.org/web/20140526074053/https://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140526/ent14052603110001-n2.htm |title= ゴジラの復活 5月26日 産経抄 |publisher = MSN産経ニュース |accessdate=2014-05-27}}</ref>。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくという[[レイ・ハリーハウゼン]]特撮の怪獣映画『[[原子怪獣現わる]]』(1953年)に大きな影響を受けている<ref>{{cite news|title=【訃報】特撮の巨匠・レイ・ハリーハウゼン死去。ゴジラ、ルーカス、ピクサーに多大な影響|publisher=DDN JAPAN|date=2013-05-08|accessdate=2013-06-08|url=http://japan.digitaldj-network.com/articles/13505.html}}</ref>{{R|デイズ34}}。観客動員数は961万人を記録。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の[[1955年]]に公開された第2作『[[ゴジラの逆襲]]』では'''怪獣同士の対決'''が初めて描かれた。しかし、この後しばらく東宝はゴジラ以外の怪獣・特撮映画を作っておりゴジラシリーズの新作の企画はなかった{{R|デイズ47|平成大全23}}。 7年後の[[1962年]]に公開されたシリーズ第3作『[[キングコング対ゴジラ]]』は、アメリカの映画キャラクター[[キングコング]]との対決作品として制作された{{R|デイズ50}}。明るい作風で当時人気を博していたプロレスさながらの対決を描いた『キングコング対ゴジラ』は、当時の歴代邦画観客動員数第2位の記録となる1,255万人を動員{{R|デイズ50}}。アメリカなど日本国外でも上映され、大ヒットとなる。以降、日本国外で好調なセールスを買われた昭和ゴジラシリーズは、外貨獲得の手段として1960年代には矢継ぎ早に新作が製作された。 第5作『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』でゴジラが人類の味方としての戦いを見せて以降、ゴジラは恐怖の対象として役目が希薄になる{{R|デイズ56}}。次第に娯楽作品へのシフトが進み、当初のテーマである[[サイエンスフィクション|SF]]としての特色もシリアス路線からエンターテインメント性重視のものに変わっていく{{R|デイズ63}}。[[第一次怪獣ブーム]]により競合作品が増え、ゴジラの有り様も変化していった{{R|デイズ63}}。第12作『[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン]]』以降は完全に正義のヒーローとして描かれるようになった{{R|デイズ71}}。 当時の「邦画の斜陽」による深刻な興行不振や家庭へのテレビの普及などもあり、新作の度に観客動員数が前作を下回っていった{{R|平成大全23}}。この時期はテレビアニメ最盛期であることもあって『[[東宝チャンピオンまつり]]』というタイトルのテレビ作品と混載5〜6作品混合プログラムの中の一作という扱いになった{{R|デイズ68|平成大全23}}。円谷英二の死去や東宝の制作体制の変化などもあり{{R|デイズ67}}、上映時間は短縮され制作費も縮小された。そのため特撮シーンの多くに過去作品の流用フィルムが多用されるようになる。そして[[1975年]]に公開された第15作『[[メカゴジラの逆襲]]』では観客動員数97万人と、歴代ワースト1位を記録した。これを受けて東宝は巨額の予算がかかる怪獣映画を封印することを決定し、シリーズは1984年まで長い休止期間に入る。 === 平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ) === ==== シリーズの経緯(vsシリーズ) ==== [[1983年]]になるとゴジラシリーズ再開のため、関西や関東、九州地区などで過去の映画作品を縦断上映する『ゴジラ復活フェスティバル』が催された{{Sfn|テレビランド1983年8月号|1983|p=77-79}}。 [[1984年]]、『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりに、第16作『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』が製作された。第16作は第1作をオマージュした作風であり、ゴジラ以外の怪獣は登場せず、再びゴジラは恐怖の対象として描かれた。ストーリー上も第1作の直接の続編という形をとっており、ゴジラは[[1954年]]に一度だけ日本を襲って倒され、30年ぶりに新たな個体が日本を襲ったという設定であった{{R|デイズ78}}。以降の平成シリーズは第16作の続編である。 第16作では、都市の高層化に合わせ、ゴジラの身長を50メートルから80メートルと大型化された{{R|デイズ78}}。さらに後のシリーズ第18作『[[ゴジラvsキングギドラ]]』以降は100メートルとなった{{R|デイズ86}}。 5年後の[[1989年]]、第16作の直接の続編であるシリーズ第17作『[[ゴジラvsビオランテ]]』が公開されるが動員数は振るわなかった。 その後、「昭和ゴジラシリーズ」と同様、'''対決もの'''としてシリーズ化され、[[1991年]]公開のシリーズ第18作『ゴジラvsキングギドラ』以降は正月映画として[[1995年]]公開の第22作『ゴジラvsデストロイア』まで毎年1本のペースで製作された{{R|デイズ85}}。 第2期の初期(『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』『[[ゴジラvsビオランテ]]』)は高齢化した当時のゴジラファンをターゲットにしていたためストーリーもマニア層向けであった。しかし実際の観客は親子連れが多数を占めていたため、徐々にファミリー向け娯楽映画にシフトしていき、内容もファンタジー要素やエンターテイメント性が強くなっていった。また『ゴジラvsビオランテ』が評価を得なかったため、その後は昭和の人気怪獣の再登場路線となる{{R|東宝特撮映画大全集227}}。『ゴジラvsキングギドラ』以降は動員数も大幅に向上し、[[スタジオジブリ]]作品などと並び、毎年の邦画興行ランクの1・2位を争うドル箱シリーズとして定着していった。 その後、ハリウッド版『[[GODZILLA]]』の製作決定をきっかけとし、いったんシリーズの終了が決定{{efn|当初、第20作『ゴジラvsメカゴジラ』が同様の理由で最終作として製作されていたが、ハリウッド版の企画が遅れていたため、シリーズ延長となった。}}。シリーズ第22作『[[ゴジラvsデストロイア]]』で劇中ではゴジラの「死」を描きシリーズが終了した{{R|デイズ98}}。シリーズ7作品の観客動員数合計は2,330万人、総配給収入は119億3,000万円におよぶ{{R|平成大全9}}。 このゴジラ休止の時期には、平成モスラ3部作が公開された。 ==== シリーズの特徴(vsシリーズ) ==== 総称として、'''平成ゴジラシリーズ'''、'''VSシリーズ'''、'''復活ゴジラシリーズ'''などの呼称が用いられている{{R|平成大全10}}。 「平成ゴジラシリーズ」は、シリーズ第22作『[[ゴジラvsデストロイア]]』の全7作まで一貫した世界観となっており、『[[ゴジラvsビオランテ]]』で初登場した超能力少女・三枝未希(演:[[小高恵美]])がシリーズの要として続けて登場している。ゴジラは一貫して人類の脅威として描かれ、対決相手は人類側の兵器ないし味方(メカキングギドラ、モスラ、メカゴジラ、モゲラ)あるいは三つ巴の戦いとなっている。後半、『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』からは自衛隊に代わる新たな対ゴジラ組織・Gフォースと新怪獣のベビーゴジラ(後のリトルゴジラ)が登場した。なお「VSシリーズ」と「ミレニアムシリーズ」(『FINAL WARS』以外)は映画製作・公開年の翌年を物語の舞台にしている。クライマックスとなる戦場には公開当時に話題となった名所が選ばれることが多い(新宿都庁、みなとみらい、幕張メッセなど)。 この当時は、主に新作公開の時期に合わせて『[[金曜ロードショー]]』(vsモスラ)、『[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー]]』(vsビオランテ)、『[[ゴールデン洋画劇場]]』(vsキングギドラ、vsスペースゴジラ、vsデストロイア)などのゴールデン枠でも作品が全国ネット放映され、高視聴率をマークしている。 この当時に防衛庁の広報課で対外広報を担当していた[[潮匡人]]によれば、1992年ごろにゴジラ映画に対する協力体制が本格化したという<ref>[https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/083000015/083100001/ ゴジラ退治に、自衛隊は「防衛出動」できるか:日経ビジネスオンライン]</ref>。 各作品の別名として『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』を『ゴジラ1』とするナンバリングタイトルが存在し、(例:『ゴジラvsメカゴジラ』=『'''ゴジラ5'''』、『ゴジラvsスペースゴジラ』=『'''ゴジラ6'''』、『ゴジラvsデストロイア』=『'''ゴジラ7'''』)劇場版本編終了後の特報などで見られる。 このシリーズでは特殊技術を[[川北紘一]](『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』のみ[[中野昭慶]])、ゴジラのスーツアクターは昭和シリーズでヘドラ、ガイガンを担当した[[薩摩剣八郎]]が務めている。休止期間中の[[1997年]]には第1作からゴジラ映画を製作し続けてきた[[田中友幸]]が死去し{{R|デイズ102}}、ゴジラシリーズとしては『ゴジラvsデストロイア』が最後の参加となった。 === 海外製作作品(トライスター版) === 1998年に[[トライスター ピクチャーズ]]提供による『[[GODZILLA]]』が公開された。興行面では世界的に成功を収めたものの、軽快な作風のモンスタームービーに仕上げられた作品は従来のゴジラ像の乖離から日米のゴジラファンを満足させるものではなかった{{R|デイズ103}}。今までに無い生物感溢れるゴジラの造形や劇中の[[VFX]]は評価されたものの、第19回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク賞、最低助演女優賞を受賞。予定されていたシリーズ化には至らなかった。 === ミレニアムシリーズ === ==== シリーズの経緯(ミレニアムシリーズ) ==== 当初の予定では平成ゴジラシリーズ終了後、平成モスラ三部作と[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]三部作を製作し、21世紀に入ってからゴジラを復活させるという計画であった。だが、東宝系の劇場や営業の方からモスラでは興行成績が厳しいという意見が起き、ゴジラ復活の要望が起こる<ref>『別冊映画秘宝特撮秘宝vol.6』洋泉社、2017 p50</ref><ref>[[川北紘一]]『特撮魂 〜東宝特撮奮戦記〜』洋泉社、2010、P259</ref> そうした声に押される形で、[[1999年]]のシリーズ第23作『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』でシリーズが再開された。この作品で2度目の世界観のリセットが行われる。第1作以外の過去のエピソードは一切語られず、ゴジラは[[地震]]や[[台風]]などの[[自然災害]]と同じように文明への脅威の存在として設定された。 本シリーズの一部は第1作とその他の東宝特撮作品の世界観を反映した。しかし200万人から400万人と比較的高い観客動員数を維持した平成ゴジラシリーズと比べ、本シリーズは100万人から200万人ほどと大幅に減少した。そのため平成ゴジラシリーズと同じく、[[モスラ (架空の怪獣)|モスラ]]、[[キングギドラ]]、[[メカゴジラ]]などの人気怪獣の再登場路線となった。[[2001年]]から[[2003年]]までは『[[とっとこハム太郎]]』と併映されることになり、その影響で第26作『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』、第27作『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』の2作は例年より15分ほど、上映時間が短縮化されている。 2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』は110万人と当時のワースト3位を記録(現在はワースト4位)。制作サイドの目指す本当に新しい「ゴジラ映画」を制作することが当時の技術では困難として<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0403/01godzilla_sh.html |title=ついに50年の歴史に終止符が! 「ゴジラ FINAL WARS」製作報告会見|accessdate=2014-01-09}}</ref>、ゴジラ50周年の節目である[[2004年]]にシリーズ集大成となる最高の「ゴジラ映画」を作り上げて締めくくろうということになり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0405/10godzilla_sh.html |title=さらば、ゴジラ!「ゴジラ FINAL WARS」製作報告会見|accessdate=2014-01-09}}</ref>、同年公開の第28作『[[ゴジラ FINAL WARS]]』にてゴジラシリーズは再度終了となり、東宝が製作するゴジラシリーズは10年以上途絶えることとなる{{efn|『FINAL WARS』のクランクアップ後、長年ゴジラ映画の海上シーンの撮影に使用された東宝撮影所の大プールが取り壊された。}}。ゴジラシリーズに数多く出演した[[水野久美]]や[[佐原健二]]らは『FINAL WARS』の[[小冊子|パンフレット]]で「まだゴジラシリーズに出演したい」というような趣旨のコメントを寄せた。 ==== シリーズの特徴(ミレニアムシリーズ) ==== ミレニアムシリーズは平成ゴジラシリーズ同様、毎年正月映画として公開される。『ゴジラ×メカゴジラ』と『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の関係を例外として、前年の作品とはストーリーや世界観に連続性がない。 ミレニアムシリーズの特徴として、[[コンピュータグラフィックス|CG]]の多用が挙げられる。ただし平成ゴジラシリーズのように怪獣が光線技を多用する描写は少なくなっており、特撮カットはスーツアクターによるアクションやワイヤーアクションに重点が置かれた。怪獣のサイズがVSシリーズの100メートル級から昭和シリーズに近い50から60メートル級に縮小された(『ゴジラ FINAL WARS』のみ100メートル級に戻された)。ミニチュアのスケールも1/50から1/25に大型化したことでその作り込みがより精密になった。本シリーズは『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』『ゴジラ×メカゴジラ』『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』の3作品で、優れた戦闘能力とリーダーシップを持つ女性自衛官が主役または準主役でゴジラと直接戦う設定を取り入れている。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』以降のシリーズでは、『[[ゴジラの逆襲]]』以降の東宝特撮映画では通例となっていた特技監督の肩書きが「特殊技術」となった。 === 2010年代 - === ==== シリーズの経緯(2010年代 - ) ==== ハリウッド版(後述)の世界的ヒットを受けて、[[2014年]][[12月8日]]、東宝製作によるシリーズ新作が約12年ぶりに全国公開されることが明らかになった<ref>{{Cite news|agency=ゴジラ 東宝公式サイト |title=新作『ゴジラ』製作決定!! |date=2014-12-08 |url=http://godzilla.jp/news/1029/ }}</ref><ref>{{Cite news|agency=シネマトゥデイ |title=日本版『ゴジラ』復活!12年ぶり完全新作映画が公開決定! |date=2014-12-08 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0068810 }}</ref>。[[2015年]][[4月1日]]、脚本と総監督を[[庵野秀明]]、監督と特技監督を[[樋口真嗣]]が務めることが発表され<ref>{{Cite news |url= https://mantan-web.jp/article/20150331dog00m200105000c.html |title= ゴジラ:12年ぶり日本版新作の総監督に「エヴァ」庵野秀明 監督に「進撃の巨人」樋口真嗣 |publisher= まんたんウェブ |date= 2015-04-01 |accessdate= 2015-04-01 }}</ref>、同年秋から撮影が開始された後、[[2016年]][[7月29日]]に『[[シン・ゴジラ]]』のタイトルで公開された。 2016年[[8月19日]]、初のアニメーション映画作品となる『[[GODZILLA (アニメ映画)|GODZILLA]]』の製作が発表された。監督を[[静野孔文]]・[[瀬下寛之]]、ストーリー原案・脚本を[[虚淵玄]]が務める<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shin-godzilla.jp/news/news_160819_1.html|title=世界初製作 “ゴジラ” アニメーション映画化決定!|NEWS|映画『シン・ゴジラ』公式サイト|date=2016-08-19|accessdate=2016-08-19}}</ref>。2017年[[1月19日]]には新たなコンセプトアートと[[声優]]陣が<ref>{{Cite news |url= https://www.cinematoday.jp/news/N0089018 |title= 虚淵玄脚本アニメ版『ゴジラ』声優は超人気級!梶・櫻井・杉田・諏訪部・花澤・宮野 |publisher= シネマトゥデイ |date= 2017-01-19 |accessdate= 2017-01-19 }}</ref>、同年[[3月26日]]には3部作になることがそれぞれ発表された後、同年[[11月17日]]には第1部『怪獣惑星』が、[[2018年]][[5月18日]]には第2部『決戦機動増殖都市』がそれぞれ公開され<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/comic/news/257143| title = アニメ「GODZILLA」第2章は「決戦機動増殖都市」、前売特典にメカゴジラ| publisher = コミックナタリー| date = 2017-11-17| accessdate = 2017-11-17}}</ref>、同年[[11月9日]]には第3部『星を喰う者』が公開された。 2020年10月7日、劇場3部作とは世界観を一新した完全新作アニメーション『[[ゴジラ S.P <シンギュラポイント>]]』が翌2021年4月よりテレビ放送および[[Netflix]]にて先行配信されることが発表された<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/comic/news/399469| title = 「ゴジラ」ボンズ×オレンジでTVアニメ化!キャラ原案に「青エク」の加藤和恵| publisher = コミックナタリー| date = 2020-10-07| accessdate = 2020-10-07}}</ref>。 2022年11月3日、国産実写映画としては7年振りとなる新作ゴジラを2023年11月3日に公開することが発表された。タイトルは『[[ゴジラ-1.0]]』で、監督・脚本・VFXは[[山崎貴]]が務める<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2255634/full/| title = 山崎貴監督で新作『ゴジラ』2023年11月3日公開決定 『シン・ゴジラ』以来、国内30作目| publisher = ORICON NEWS| date = 2022-11-03| accessdate = 2022-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://natalie.mu/eiga/news/532433| title = ゴジラ生誕70周年記念作タイトルは「ゴジラ-1.0」、戦後日本のかつてない絶望描く| work = 映画ナタリー| date = 2023-07-12|accessdate = 2023-07-12}}</ref>。 ==== シリーズの特徴(2010年代 - ) ==== 2010年代以降のゴジラの特徴としては、「第1作も含めた過去作品全てと世界観がつながっていない」という設定が挙げられる。過去のシリーズでは、それ以降の時間軸は異なりつつも、1954年(第1作)に人類の前に初めて姿を現したという設定だけは共通していた。 しかし、『シン・ゴジラ』ではゴジラが初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、第1作との世界観のつながりが存在しない。このことを裏付けるかのように劇中では「怪獣」という概念や文言自体がなく、当初はゴジラを「巨大不明生物」と呼称している。また、アニメーション3部作でもゴジラは2030年に初めて人類の前に姿を現したという設定になっており、やはり過去作品との世界観のつながりが存在しない。『-1.0』では第1作よりもさらに昔の[[第二次世界大戦]]後間もない日本が舞台となっている。 === 海外製作作品(レジェンダリー版) === 2014年には、[[ワーナー・ブラザース]]の提供、[[レジェンダリー・ピクチャーズ]]の製作による『[[GODZILLA ゴジラ]]』が公開された。ゴジラのデザインはトライスター版と異なって原典を踏襲したものとなったほか、内容には自身もゴジラファンである監督の[[ギャレス・エドワーズ]]による「SF要素を排し、徹底して現実的な路線で制作している」との方針が示されている。 2019年公開の『[[ゴジラ キング・オブ・モンスターズ]]』ではゴジラに加えてラドン、モスラ、キングギドラが登場した<ref>{{cite news|url=https://animeanime.jp/article/2014/07/27/19601.html|title=「GODZILLA ゴジラ」続編決定 ラドン、モスラ、キングギドラ登場 コミコンで正式発表|newspaper= アニメ!アニメ! |publisher= 株式会社イード|date=2014-07-27|accessdate=2014-07-27}}</ref>ほか、2021年公開の『[[ゴジラvsコング]]』では、有名モンスター同士を対決させる[[モンスター・ヴァース]]の一環として[[キングコング (架空の怪獣)|キングコング]]が登場した<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0077275|title=「ゴジラVSキングコング」ハリウッドで映画化!2020年全米公開|newspaper= シネマトゥデイ |publisher= 株式会社シネマトゥデイ|date=2015-10-15|accessdate=2015-10-15}}</ref>。 == 映画一覧 == [[File:Gojira no gyakushu poster 2.jpg|thumb|right|[[ゴジラの逆襲]](1955年)]] === 国内歴代シリーズ === {{See|ゴジラ映画作品の一覧}} === 日本国外版 === 括弧内は原題。 # 『怪獣王ゴジラ(''[[:en:Godzilla, King of the Monsters!|Godzilla, King of the Monsters!]]'')』(1956年) #* 『ゴジラ』(1954年)の日本国外版。[[レイモンド・バー]]の出演シーンを追加。 # 『炎の怪獣ジャイガンティス(''Gigantis, the Fire Monster'')』(1957年) #* 『ゴジラの逆襲』の日本国外版。『怪獣王ゴジラ』同様アメリカで再編集され公開された。 #* 当初は『ゴジラの逆襲』と主要なストーリーは同様ながら、ゴジラではなく“ジャイガンテス”と名づけられた新怪獣{{efn|ただし、デザインはほぼゴジラを踏襲しており、事実上はゴジラそのものである。}}とアンギラス(海外版では“アンジラ”)が戦う、という形でオリジナルシナリオに若干の変更を加えた作品が企画されており、変更・追加される特撮シーンをアメリカにて撮影する、という予定であった。しかし、諸事情(アメリカ人アクターが着ぐるみでの演技に慣れておらず、ゴジラの動きをうまく再現できないことに加え、予算面の問題が発生した)により新撮を断念し、日本オリジナル版を再編集のみ行ったものが上記のタイトルで公開された。 #* “ジャイガンティス”は着ぐるみまで完成しており、これは『ゴジラの逆襲』で使われたものではなく新たに製作されたものだが、新撮の断念により全く使用されず、他の作品で使用されることもないままその後処分され、数枚の写真のみが現存する幻の存在となった。 # 『ゴジラvsザ・シング(''Godzilla vs. the Thing'')』(1964年) #* 『モスラ対ゴジラ』の日本国外版。シリーズ史上唯一、東宝側が日本国外バージョンの特別シーンを制作、追加。 # 『[[ゴジラ1985]](''Godzilla 1985'')』(1985年) #* 『ゴジラ』(1984年)の日本国外版。レイモンド・バーらの出演シーンを追加。 # 『[[GODZILLA]]』(1998年) #* ハリウッドのトライスター・ピクチャーズで制作された新作ゴジラ。[[ローランド・エメリッヒ]]監督。同年の[[ゴールデンラズベリー賞]]最低リメイク賞を受賞。続編のテレビアニメ「[[ゴジラ ザ・シリーズ]]」(''Godzilla: The Series'')が作られた。 # 『ゴジラ2000(''Godzilla 2000'')』(2000年) #* 『ゴジラ2000 ミレニアム』の日本国外版。セリフや音楽などが変更されている。 # 『[[GODZILLA ゴジラ]](''Godzilla'')』(2014年) #* ハリウッドのレジェンダリー・ピクチャーズで制作された新作ゴジラ。「[[モンスター・ヴァース|モンスターバースシリーズ]]」の第1弾。[[ギャレス・エドワーズ]]監督。 # 『[[ゴジラ キング・オブ・モンスターズ]](''Godzilla: King of Monsters'')』(2019年){{R|sanspo20151016}} #*『GODZILLA ゴジラ』(2014年)の続編。「モンスターバースシリーズ」の第3弾。[[マイケル・ドハティ]]監督。 # 『[[ゴジラvsコング]](''Godzilla vs. Kong'')』(2021年){{R|sanspo20151016}} #*「モンスターバースシリーズ」の第4弾。[[アダム・ウィンガード]]監督。 === 再編集版 === # 『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 地球最大の決戦』(1971年) #* 『三大怪獣 地球最大の決戦』の改題・短縮版。 # 『怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ』(1971年) #* 『怪獣大戦争』の改題・短縮版。 # 『ゴジラ電撃大作戦』(1972年) #* 『怪獣総進撃』の改題・短縮版。 # 『[[シン・ゴジラ#モノクロ版|シン・ゴジラ:オルソ]]』(2023年) #* 『シン・ゴジラ』のモノクロ編集版。 # 『[[ゴジラ-1.0#ゴジラ-1.0/C|ゴジラ-1.0/C]]』(2024年) #* 『ゴジラ-1.0』のモノクロ編集版。 === ゴジラ・フェス特撮作品 === 『ゴジラ・フェス』は2017年よりゴジラ誕生日に開催の生誕記念イベント。作品はいずれも数分から10分程度の短編である。2020年、2021年はオンライン配信のみ。 ==== フェス・ゴジラシリーズ ==== ; 『ゴジラ ゴジラ・フェスに現わる』(2020年) : 2020年11月3日に配信された『ゴジラ・フェス オンライン2020』で上映された短編映像。監督は中川和博が担当した<ref>{{Cite web|和書|url=https://godzilla.store/gfes/2020online/|title=ゴジラ・フェス オンライン2020|website=ゴジラ・ストア|publisher=東宝|accessdate=2022-12-25}}</ref><ref>''中川和博'' {{Cite Tweet|user=kaz_nkgw|number=1323954493638107136|title=ゴジラ・フェス用の短編「ゴジラ ゴジラ・フェスに現わる」の監督を担当しました! 大好きな平成ゴジラを特撮で映像化できるなんて…感無量です。無茶苦茶楽しい撮影でした! 短編も見られるゴジラフェス2020は11月10日まで見逃し配信やってます!|date=2020-11-04|accessdate=2020-11-19}}</ref>。内容は、ゴジラによる都市破壊シーンを描くメタフィクション調のものとなっている。 ; 『ゴジラVSヘドラ』(2021年) : 2021年11月3日に配信された『ゴジラ・フェス 2021』で公開されたフェス用新作特撮第2弾。監督は中川和博が担当した。内容は、工業地帯にてゴジラとヘドラの交戦を描くものとなっている。ゴジラとヘドラのスーツは2体とも『FINAL WARS』のものが使用されており<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20211019dog00m200058000c.html|title=ゴジラ:完全新作特撮「ゴジラVSヘドラ」 工業地帯でド迫力バトル ゴジラ・フェスで11月3日配信|newspaper=まんたんウェブ|publisher=MANTAN|date=2021-10-20|accessdate=2022-12-25}}</ref>、同年9月下旬に東宝スタジオの敷地内へ『ゴジラ ゴジラ・フェスに現わる』の3倍近くの広さでの設置を経て、舞台となる工業地帯のオープンセットにて撮影された<ref>{{Cite news|url=https://dime.jp/genre/1253401/|title=11月3日にオンラインで配信されるゴジラファンの祭典「ゴジラ・フェス2021」の見どころ|newspaper=@DIME|publisher=小学館|date=2021-11-02|accessdate=2022-12-25}}</ref>。 :* 監督・画コンテ・編集 - 中川和博。制作会社 - シネバザール。製作 - 大田圭二、企画プロデュース - 吉川哲矢、プロデューサー - 石塚紘太 :* ゴジラ - 松本直也、ヘドラ - よしだひかる、メイキングレポーター - 笠井信輔、流動映像 - 中山晃子。 ; 『フェス・ゴジラ3 ガイガン来襲』(2022年) : 2022年11月3日に開催された『ゴジラ・フェス 2022』で公開されたフェス用新作特撮第3弾。監督は中川和博が担当した。内容は、『ゴジラVSヘドラ』の当夜に海へ帰ろうとするゴジラのもとへ襲来したガイガンとの激闘を描く後日譚となっている。ガイガンのスーツはガイガン50特別企画「ガイガンスーツ起動プロジェクト」で制作されたものが使用されており、東宝スタジオ内6stで3日間をかけて撮影された<ref>{{Cite web|和書|url=https://hjweb.jp/article/822423/|title=【ガイガン50プロジェクト】『フェス・ゴジラ3 ガイガン来襲』のメイキング写真を公開! 若狭新一氏&中川和博監督インタビューも!|website=ホビージャパンウェブ|publisher=ホビージャパン|date=2022-12-18|accessdate=2023-01-15}}</ref>。 :* 監督・画コンテ・編集 - 中川和博。制作 - 大田圭二、企画プロデュース - 吉田哲矢、山崎倫明、アクション監修 - 新堀和男、制作会社 - EPISCOPE :* ゴジラ - 松本直也、ガイガン - よしだひかる、現場リポーター - 笠井信輔、ニュースの声 - かおる ; 『フェス・ゴジラ4 オペレーション ジェットジャガー』(2023年) : 2023年11月3日に開催された『ゴジラ・フェス 2023』で公開されたフェス用新作特撮第4弾。監督は中川和博が担当した。内容は、『フェス・ゴジラ3 ガイガン来襲』の後日に日本各地を蹂躙するゴジラへの対抗手段として開発されたジェットジャガーとの激闘を描く後日譚となっている。ゴジラのスーツは『ガイガン来襲』から引き続いて『FINAL WARS』のものが使用されており、ジェットジャガーのスーツはジェットジャガー50企画「ジェットジャガースーツ再現プロジェクト」で制作されたものが使用されている<ref>{{Cite news|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1542771.html|title=ゴジラとジェットジャガーの闘い! 新作特撮「フェス・ゴジラ4 オペレーション ジェットジャガー」特報が公開|newspaper=GAME Watch|publisher=インプレス|date=2023-10-27|accessdate=2023-11-11}}</ref>。 :* 監督・画コンテ - 中川和博。制作 - 大田圭二、制作会社 - エピスコープ :* ゴジラ - 松本直也、ジェットジャガー - 斎藤謙也、博士 - 笠井信輔、軍人 - 開田裕治、ナレーション - 富岡佑介 :* EDテーマ - 「ゴジラとジェットジャガーでパンチパンチパンチ」[[子門真人]] ; 『フェス・ゴジラ5 怪獣大決戦(仮)』(2024年予定) : フェス・ゴジラ4で予告された次回作。 ==== G vs.Gシリーズ ==== ; 『G vs.G』 * 2019年の才能発掘オーディション・プロジェクト『GEMSTONE クリエイターズオーディション』での入賞作。予告編のような構成で、以降ゴジラフェスで新作が制作される。 * 監督・VFX - 上西琢也 * アーティスト - 山根光 ; 『ゴジラVSガイガンレクス』(2022年) * 2022年11月3日開催の『ゴジラ・フェス 2022』にて公開されたフェス用新作作品<ref name="av_1452957">{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1452957.html|title=「ゴジラ」最新作製作決定。山崎貴監督で、2023年11月3日公開|newspaper=AV Watch|publisher=インプレス|date=2022-11-03|accessdate=2023-02-05}}</ref>。『G vs.G』の続編{{R|av_1452957}}。 * 脚本・監督・VFX - 上西琢也 * 製作 - 大西圭二 * 声の出演 - [[小高恵美]] ; 『ゴジラVSメガロ』(2023年) * 2023年11月3日開催の『ゴジラ・フェス 2023』にて公開のフェス用新作作品。『ゴジラVSガイガンレクス』の正統続編。 * 出演 - 岡本弥歩、度会結希、高島大幹、平野隼人、Kenji Sakamono、ジパング、Sierra Y、Mozc、めっさん/sakumoto * 声の出演 - 阿座上洋平、城岡祐介、山本悠貴、井上優、松舞奈、笠井信輔 * 脚本・監督・VFX - 上西琢也、制作 - 大田圭二、VFX - 白組、alphaliez、撮影監督 - 柴田晃宏 * 劇中使用曲 - ゴジラVSスペースゴジラより「Hyper Battle Area」、ゴジラ対メガロより「無敵のメガロ」、モスラ対ゴジラより「ゴジラ出現のテーマ」、ゴジラより「ゴジラのテーマ」 === イベント上映など === * 『がんばれ!ゴジラ』 ** 1967年ごろにイベント用に上映されたもの{{要出典|date=2023-02-05}}。 * 『[[怪獣プラネットゴジラ]]』(1994年) ** 東京の[[サンリオピューロランド]]、大分の[[ハーモニーランド|サンリオハーモニーランド]]にて上映された3D映画。 * 『ゴジラ・ザ・リアル 4-D』(2017年){{R|検定99}} ** 2017年1月13日から同年6月25日まで上映された、[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の体感型シアター・ショー<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20170112dog00m200025000c.html|title=ゴジラ:USJに最新4Dアトラクション “破壊神”が大阪に上陸!|newspaper=[[MANTANWEB]]|publisher=MANTAN|date=2017-01-12|accessdate=2020-11-19}}</ref>。映像は『シン・ゴジラ』のスタッフにより制作された{{R|検定99}}。映像は大阪を舞台としている{{R|検定99}}。 * 『ゴジラVR』(2018年) ** 2018年9月13日より「VR ZONE OSAKA」<ref>{{Cite news|url=https://www.moguravr.com/vr-zone-godzilla-vr-2/|title=内閣総辞職ビームに震える、VR ZONE OSAKA「ゴジラVR」体験レポ|newspaper=MoguLive|publisher=Mogura|date=2018-09-17|accessdate=2023-02-05}}</ref>、同年11月3日より「VR ZONE SHINJUKU」のほか日本全国の「VR ZONE Portal」にて稼働のVRアクティビティ<ref>{{Cite news|url=https://www.moguravr.com/vr-zone-godzilla-vr-3/|title=「ゴジラVR」が全国のVR ZONEで稼働開始、11月3日から|newspaper=MoguLive|publisher=Mogura|date=2018-10-18|accessdate=2023-02-05}}</ref>。 * 『夢の挑戦 ゴジラ須賀川に現る』(2019年) ** 2019年1月11日に[[福島県]][[須賀川市]]に開館した円谷英二ミュージアムにて限定公開されている特別映像{{R|U163}}。制作は[[東宝映像美術]]、撮影は[[東宝スタジオ]]にて行われた{{R|U163}}。演出は[[鈴木健二 (特撮監督)|鈴木健二]]、撮影は[[桜井景一]]、特殊美術は[[三池敏夫]]が担当した{{R|U163}}。 * 『ゴジラ対エヴァンゲリオン・ザ・リアル 4-D』(2019年) ** 2019年5月31日から8月25日まで上映されたユニバーサル・スタジオ・ジャパンの体感型シアター・ショー。『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』シリーズとコラボレーションしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eva-info.jp/5730|title=『ゴジラ対エヴァンゲリオン・ザ・リアル 4-D』、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにて5月31日よりいよいよ公開!]|website=エヴァ・インフォメーション|publisher=カラー|date=2019-05-13|accessdate=2020-11-19}}</ref>。 * 『ゴジラ迎撃作戦オリジナルアトラクション映像』(2020年 - ) ** 2020年10月10日より[[兵庫県立淡路島公園#ニジゲンノモリ|ニジゲンノモリ]]のアトラクション「ゴジラ迎撃作戦」内のプレシアターにて上映されている短編映像。監督・脚本は[[中川和博]]が担当した<ref>{{Cite web|和書|url=https://nijigennomori.com/godzilla_awajishima/|title=ゴジラ迎撃作戦|publisher=ニジゲンノモリ|accessdate=2023-02-05}}</ref>。 * 『ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦』(2021年 - ) ** 2021年5月より[[西武園ゆうえんち]]内「夕陽館」で上映中の体感型ライドアトラクション。上映時間は約5分。映像制作に[[山崎貴]]と[[津野庄一郎]]、音楽制作に[[佐藤直紀]]、ナレーションとして[[大塚明夫]]が出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibu-leisure.co.jp/amusementpark/attraction/godzilla.html|title=ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦|publisher=西武園ゆうえんち|accessdate=2023-05-06}}</ref>。 * 『ゴジラVSタイガース』(2022年) ** 2022年4月1日配信の[[エイプリルフール]]偽映画企画<ref name="chunichi_445316">{{Cite news|url=https://www.chunichi.co.jp/article/445316|title=映画公開!?『ゴジラVSタイガース』ネットも盛り上がる「今年のネタ、いちばん好きかも」「甲子園の爆発、大丈夫?」|newspaper=中日スポーツ・東京中日スポーツ|publisher=中日新聞社|date=2022-04-01|accessdate=2023-02-05}}</ref>。[[阪神甲子園球場]]へ襲来したゴジラを[[阪神タイガース]]の[[トラッキー|メカトラッキー]]が迎撃し、同チームの選手も出演する{{R|chunichi_445316}}。 ** 出演 - [[梅野隆太郎]]、[[大山悠輔]]、[[近本光司]]、[[佐藤輝明]] ** 監督 - 清水俊文、プロデューサー - 宮崎豪 == その他の媒体展開 == 映画作品のノベライズ、コミカライズなどは各作品の項目を参照。 === テレビ番組 === * 『[[流星人間ゾーン]]』(1973年) ** [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送された[[特撮]]ヒーロー番組。主人公である防人ファミリーの要請によって現われる味方の怪獣としてゴジラが登場する。また、敵であるガロガ星人はキングギドラ、ガイガンも尖兵とする。製作は東宝映像、萬年社。監修に[[田中友幸]]、本編監督に[[本多猪四郎]]、特技監督に[[中野昭慶]]、[[川北紘一]]など、ゴジラ本編に関わりの深いスタッフが担当している。 * 『[[ゴジラアイランド]]』(1997年 - 1998年) ** [[テレビ東京]]系で放映された5分番組。登場する怪獣は、[[着ぐるみ]]ではなく市販の[[ソフトビニール|ソフビ人形]]などを改造したもので撮影されている。 * 『[[ゴジラ S.P <シンギュラポイント>]]』(2021年) ==== 紹介番組 ==== 1990年代には、新作映画PRのために子供向けバラエティ番組が放送された{{R|東宝全怪獣155}}。 *『冒険!ゴジランド』(1992年10月1日 - 12月24日{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}、1993年10月7日 - 12月30日{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}) ** テレビ東京系、毎週木曜日7時15分 - 7時30分放送{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG170|5499超全集179|東宝全怪獣155}}}}。全26回{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}。司会は[[ラサール石井]]、アシスタントはコスモス(1年目)、[[ブカブカ]](2年目)、ゴジラのスーツアクターは[[破李拳竜]]が務めた{{R|大百科MG170}}。また、ゴジラ博士として東宝映像事業部の石井信彦が出演した{{R|大百科MG170}}。 *『ゴジラ王国』(1996年10月1日 - 1997年8月15日{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}) ** テレビ東京系、毎週月曜日 - 金曜日7時30分 - 7時35分放送{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}。全224回{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}。 *『ゴジラTV』(1999年10月 - 2000年3月{{R|東宝全怪獣155}}) ** テレビ東京系、毎週月曜日 - 金曜日6時40分 - 6時45分放送{{R|5499超全集179|東宝全怪獣155}}。 === アニメ === * すすめ!ゴジランド(1994年、1996年) ** [[学研ホールディングス|学習研究所]]による学習アニメ。登場怪獣はゴジラ、ゴジリン(雌のゴジラ、1996年限定)、モスラ、アンギラス、バラゴン、メカゴジラ(1996年限定)、ラドン。 * 『[[ちびゴジラ|ただいま!ちびゴジラ]]』(2020年) ** Webアニメ。キャラクター「ちびゴジラ」のアニメ化。 *『[[ちびゴジラの逆襲]]』(2023年) === 人形劇 === * 怪獣人形劇『ゲキゴジ』(2004年 - ) ** 劇団こがねむしによる人形劇。2004年5月よりデパートやイベント会場などで上演された{{R|U112}}。登場怪獣は、ゴジラ、ミニラ、リトルゴジラ、アンギラス、バラゴン、ゴロザウルス、モスラ、ガバラ、ドラット、キングギドラ、ヤングシーサー、ミヤラビちゃん。ゴジラは主人公の「ゴジラくん」(モスゴジ似)「キンゴジくん」(キンゴジ似)「とびゴジラ」(総進撃ゴジ似)「パパゴジラ」と4種類も登場する。 * 『怪獣人形劇 ゴジばん』 ** Webドラマ。YouTube東宝特撮チャンネルで配信の人形劇。『かまってゴジラ』のみ実写ドラマ。第1シーズンは最後に短編コーナー『ヘドじい』が流れる。 ** 脚本・監督・造形・音楽 - 小林英幸 / 美術・人形劇製作 - アトリエこがねむし / 人形操作 - 劇団こがねむし ** ゴジラくんの声 - [[高橋由美子]] ** 声(第1期) - 大谷美起、勝浦まりえ、[[かねこはりい|金子はりい]] ** 声(第2期) - 川野芽久美、久保田純子、小林英幸、米野賢道、川野芽久美 ** 声(第2期もしモス) - るな、大谷美紀 ** ゴジダン(歌とダンス) - 勝浦まりえ、下村梨乃、るな / 「If's=モシモスの歌」るな&クレア <div class="NavFrame" style="clear:both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">ゴジばん</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!出演!!配信日 |- |#1||Go!Go!ゴジラくん第1話「ぼくたちゴジラ三兄弟!の巻」||-||'''2019年'''<br />8月9日 |- |#2||かまってゴジラ第1話「さよならの恋人たち」||下村梨乃<br />大村将弘||8月16日 |- |#3||Go!Go!ゴジラくん第2話「かっとばせ!ゴジラ三兄弟の巻」||-||8月23日 |- |#4||かまってゴジラ第2話「悲しきバレリーナ」||クレア<br />勝浦まりえ||8月23日 |- |#5||Go!Go!ゴジラくん第3話「ひみつの特訓道場の巻」||-||9月6日 |- |#6||Go!Go!ゴジラくん第4話「秘伝!ドロップキックの巻」<hr />かまってゴジラ第3話「OL夕子の憂鬱」||天海祐子||9月13日 |- |#7||Go!Go!ゴジラくん第5話「駆け抜けろ!三兄弟の巻」||-||9月20日 |- |#8||Go!Go!ゴジラくん第6話「ゴジばん昔ばなし うさぎとかめの巻」<hr />ジェットジャガーに訊け!第1話「史上初!!ロボット記者会見の巻」<hr />かまってゴジラ第4話「哀愁の女戦士」||勝浦まりえ<br />湯原愛子||9月27日 |- |#9||もしモス第1話「モシュモシュ以心伝心の巻」<hr />ジェットジャガーに訊け!第2話「ジェットジャガー始動!!の巻」||rowspan=7|-||10月5日 |- |#10||ヘドじい漫遊記 第1話||10月11日 |- |#11||ジェットジャガーに訊け!第1話(英語字幕付き)<ref name="gozban">#11(第1・2話)、#13は英語字幕付き再配信版。</ref><hr />ジェットジャガーに訊け!第2話(英語字幕付き)<ref name="gozban" /><hr />ジェットジャガーに訊け!第3話(英語字幕付き)||10月18日 |- |#12||Go!Go!ゴジラくん第7話「あの崖に向かって飛べ!の巻」||10月25日 |- |#13||Go!Go!ゴジラくん第2話「Smack It! Three Godzilla Brothers」<br />(かっとばせ!ゴジラ三兄弟の巻)<ref name="gozban" />||11月1日 |- |#14||『ゴジラ・フェス2019』ゴジばん生上演ダイジェストムービー||11月8日<br />11月3日(開催日) |- |#15||ジェットジャガーに訊け!第4話「「赤いふうせん」の巻」(英語にも対応版!)||11月15日 |- |#16||かまって!ゴジラ第5話「頑固親父の一番長い日」||[[かねこはりい|金子はりい]]<br />手塚菜摘<br />飯島幸太<br />根本史彦<br />久保田純子<br />勝浦まりえ(写真)<br />川野芽久美(司会の声)||11月22日 |- |#17||Go!Go!ゴジラくん第8話「ミニラの息子の巻」||rowspan=7|-||11月29日 |- |#18||Go!Go!ゴジラくん第9話「宇宙から来たあいつの巻」||12月9日 |- |#19||Go!Go!ゴジラくん第10話「GvsG/僕はゴジラくんだ!の巻」||12月13日 |- |#20||Go!Go!ゴジラくん第11話「メリゴジ ゴジラが聖夜にやってきた!の巻」||12月24日 |- |#21||Go!Go!ゴジラくん第12話「飛べ!未来に向かっての巻」||12月31日 |- |#22||Go!Go!ゴジラくん特別編「夢を写し撮れ!の巻」||'''2020年'''<br />2月14日 |- |#23||ゴジばん情報局 ゴジ☆スタ||4月24日 |- !colspan=4|セカンドシーズン |- |#1||Go!Go!ゴジラくん第13話「さよならママの巻」||rowspan=14|-||5月1日 |- |#2||Go!Go!ゴジラくん第14話「三大怪獣 地球最大のハラペコの巻」||5月8日 |- |#3||リトルとガイガン あぶない2人(ふたり)第1話「ガイガン・起動ーっ!の巻」||5月15日 |- |#4||Go!Go!ゴジラくん第15話「特訓!棒高跳びの巻」||5月22日 |- |#5||もしモス第1話「モシュモシュ・ 夢の扉の巻」||5月28日 |- |#6||リトルとガイガン あぶない2人(ふたり)第2話「ガイガン苦悩ーっ!の巻」||6月5日 |- |#7||Go!Go!ゴジラくん第16話「決めろ!ミラクルシッポシュートの巻」||6月12日 |- |#8||もしモス第3話「モシュ☆DANCE!の巻」||6月26日 |- |#9||リトルとガイガン あぶない2人(ふたり)第3話「ガイガン・キーン!の巻」||7月3日 |- |#10||Go!Go!ゴジラくん第17話「決戦!南海のビーチバレーの巻」||7月10日 |- |#11||Go!Go!ゴジラくん第18話「シン・オジ - 親戚のオジさんゴジラの巻」||7月24日 |- |#12||少年セリザワ第1話「哀しみのディソナンスの巻」||8月1日 |- |#13||少年セリザワ第2話「浜辺のミステリオーゾの巻」||8月13日 |- |#14||指の上シリーズ「にんぎょうげきのぶたいをつくろう!」||9月28日 |- !colspan=4|サードシーズン |- |#1||Go!Go!ゴジラくん第19話「特訓!円盤なげの巻」||rowspan=18|-||'''2021年'''<br />3月26日 |- |#2||リトルとガイガン あぶない2人(ふたり)第4話「悪者(わるもの)のブルースの巻」||4月2日 |- |#3||ハロー!JJ23(ジェイジェイ兄さん)第1話「ステキなアニキだ!JJ兄さんの巻」||4月9日 |- |#4||Go!Go!ゴジラくん第20話「飛べ!ゴジラくんの巻」||4月16日 |- |#5||ハロー!JJ23(ジェイジェイ兄さん)第2話「正義の味方だ!JJ兄さんの巻」||4月23日 |- |#6||もしモス第4話「モシュモシュつながる永遠にの巻」||4月30日 |- |#7||おやすみ怪獣第1話「おやすみ怪獣 リトル編」||5月7日 |- |#8||少年セリザワ第3話「悪夢へのプレリュードの巻」||5月14日 |- |#9||ちょっと一息 おやすみかいじゅう第2話「おやすみ怪獣 ミニラ編」||5月21日 |- |#10||少年セリザワ第4話「思い出のグランディオーズの巻」||5月30日 |- |#11||ちょっと一息 おやすみかいじゅう第3話「おやすみ怪獣 豆ゴジ編」||6月8日 |- |#12||Go!Go!ゴジラくん第21話「シン・息子の巻」||6月19日 |- |#13||ヘドじい漫遊記2(屋久島編)||7月24日 |- |#14||ファンタG第1話「闇に咲く花の巻」||8月20日 |- |#15||ファンタG第2話「ゴジラくん森への巻」||8月27日 |- |#16||ファンタG第3話「ぼくらを呼ぶ声の巻」||9月17日 |- |#17||ちょっと一息 おやすみかいじゅう第4話「怪獣総寝撃編」||9月24日 |- |#18||Go!Go!ゴジラくん第22話「宇宙も未来も吹っ飛ばせ!の巻」||10月2日 |- !colspan=4|フォースシーズン |- |#1||Go!Go!ゴジラくん第23話「シン・親子」の巻||rowspan=33|-||'''2022年'''<br />8月26日 |- |#2||「Blu-ray&DVD予告」の巻||9月2日 |- |#3||Go!Go!ゴジラくん第24話「シン・コゴエリ作戦」の巻||9月9日 |- |#4||Go!Go!ゴジラくん第25話「シン・凍結」の巻||9月23日 |- |#5||Go!Go!ゴジラくん第26話「帰ってきたキンゴジくんの巻」||10月7日 |- |#6||Go!Go!ゴジラくん第27話「特訓! 重量あげの巻」||10月21日 |- |#7||『ゴジラ・フェス2022』ゴジばん生公演「ヒーローは誰だ!」の巻||11月15日 |- |#8||『ゴジラ・フェス2022』ゴジばん生公演「怪獣大集合!」の巻||11月28日 |- |#9||Go!Go!ゴジラくん第28話「HOP! STEP! RADON! その1」<hr />ファーストシーズンダイジェストの巻||12月2日 |- |#10||Go!Go!ゴジラくん第29話「HOP! STEP! RADON! その2」<hr />セカンドシーズンダイジェストの巻||12月16日 |- |#11||Go!Go!ゴジラくん第30話「HOP! STEP! RADON! その3」<hr />サードシーズンダイジェストの巻||12月30日 |- |#12||リトルとガイガン あぶないふたり+(ぷらす)第5話「最恐ねえちゃん現るの巻」||'''2023年'''<br />1月20日 |- |#13||リトルとガイガン あぶないふたり+第6話「最凶!妹ちゃんの巻」||2月4日 |- |#14||リトルとガイガン あぶないふたり+第7話「リトル ムテキ モテキの巻」||2月17日 |- |#15||リトルとガイガン あぶないふたり+第8話「ライバルあらわるの巻」||3月24日 |- |#16||Go!Go!ゴジラくん第31話「めざせ!映画スターの巻 前編」||4月1日 |- |#17||Go!Go!ゴジラくん第32話「めざせ!映画スターの巻 後編」||4月15日 |- |#18||Go!Go!ゴジラくん第33話 ミニラをたずねて三千里第1話「旅だちの時」<hr />てれゴジくん||5月1日 |- |#19||Go!Go!ゴジラくん第34話 ミニラをたずねて三千里第2話「ギドラ襲来」||5月15日 |- |#20||Go!Go!ゴジラくん第35話 ミニラをたずねて三千里第3話「荒波を超えて」<hr />てれゴジくん(その2)||6月1日 |- |#21||Go!Go!ゴジラくん第36話 ミニラをたずねて三千里第4話「ただいまママ」||6月15日 |- |#22||Go!Go!ゴジラくん第37話 リトルとガイガン あぶないふたり+「おいらは海の守護神だいの巻」<hr />てれゴジくん(その3)||7月1日 |- |#23||Go!Go!ゴジラくん第38話 リトルとガイガン あぶないふたり+「海の守護神とヴィーナスの巻」||7月15日 |- |#24||Go!Go!ゴジラくん第39話「エビラVS大ザメ南海の大決闘!(ゲソラもいるよ!)の巻」||8月1日 |- |#25||Go!Go!ゴジラくん第40話 リトルとガイガン あぶないふたり+「どんな試練もどんとこい!の巻」||8月18日 |- |#26||ヘドち旅第一回「富士山麓 忍野八海編」<hr />みんなの旅ゴジ||9月1日 |- |#27||ヘドち旅第二回「熊野古道編」<hr />みんなの旅ゴジ||9月15日 |- |#28||ゴジばん怪獣図鑑「ビオランテ編」<hr />みんなの旅ゴジ||10月6日 |- |#29||ゴジばん怪獣図鑑「操演怪獣の秘密大公開 ビオランテ・クモンガ・カマキラス編」||10月28日 |- |#30||『ゴジばんニュース』緊急速報!大魔獣バガン出現&ゴジラ・フェス2023リポート||11月10日 |- |#31||ゴジばん怪獣図鑑「ゴジラ一族のひみつ Part1」||11月24日 |- |#32||ゴジばん怪獣図鑑「ゴジラ一族のひみつ Part2」||12月8日 |- |#32||ジングル♪ジングル♪ JJ兄さんの巻||12月24日 |} </div></div> === 漫画 === ; 『'79ゴジラ東京大襲来』(1979年、原作:沼礼一、漫画:いしいしんいち){{R|来襲194}} : [[月刊少年マガジン]]1979年7月号に同誌創刊5周年記念特別編として掲載{{R|来襲194}}。60ページ{{R|来襲194}}。 : ; 『[[怪獣王ゴジラ (漫画)|怪獣王ゴジラ]]』 === ゲーム作品 === 発売(稼働)順。 * ゴジラ VS 3大怪獣([[MSX]])1984年発売 * シネスコ・アドベンチャー『ゴジラ』東宝(株)事業部、([[PC-8800シリーズ|PC88]]){{R|来襲154}}、1984年11月発売。 *: 『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』([[1954年]](昭和29年)公開)を基にしたアドベンチャーゲーム。 * NEW GODZILLA ([[PC-8800シリーズ|PC-8801]]) 1985年4月発売 *: 『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』([[1984年]](昭和59年)公開)を基にしたアドベンチャーゲーム。 * 暴龍ゴジラ 大都市壊滅([[FM-7]])1985年発売 * ゴジラくん(MSX)1985年発売 *: ディフォルメされたゴジラが登場するアクションパズルゲーム。のちに[[ゲームボーイ]]へ移植された, 『ゴジラくん 怪獣大行進』(1990年12月18日発売)。 * インファント島の秘密 モンスターズフェア (MSX) 1986年発売 *: モスラはプレイヤーキャラクター。ゴジラとミニラは敵キャラクター。 * ゴジラ([[ファミリーコンピュータ]]){{R|来襲154}}1988年12月9日発売 *: ゴジラとモスラを操作し、ゴジラ怪獣だけでなく、モゲラやゲゾラなどの東宝映画の怪獣を倒していくアクションゲーム{{R|来襲154}}。ストーリーは地球侵略を目論むX星人の基地が木星で発見され、地球政府がゴジラとモスラを送り込むというもの。 *: ゲームは大きく分けて移動パートとアクションパートに分かれており、シミュレーションゲームのようなヘクスマップを移動して敵怪獣と対決したり敵基地を破壊したりする。開発は[[コンパイル (企業)|コンパイル]]。 *: アクションパートで対戦する敵怪獣はゲゾラ、モゲラ、バラン、ヘドラ、バラゴン、ガイガン、メカゴジラ、そして最後の敵として立ち塞がるキングギドラである。また、ラストステージでは移動パート中に轟天号も登場する。 * Godzilla 2: War of the Monsters([[Nintendo Entertainment System]])1991年発売(日本未発売) *: 日本でも「ゴジラ2」のタイトルで発売予定だったが発売中止になった。 * [[バトルサッカー フィールドの覇者]](スーパーファミコン)1992年12月11日発売 *: [[コンパチヒーローシリーズ]]の一部の作品にはゴジラも出演している。パワーやディフェンスが高めに設定されることが多い。 * ゴジラ([[アーケードゲーム]])1993年稼動 * [[バトルベースボール]](ファミリーコンピュータ)1993年2月19日発売 * ゴジラ([[PC-9801]])1993年10月15日発売 *: 『[[大戦略シリーズ|大戦略]]』のシステムを使って作られたシミュレーションゲーム。『[[ゴジラ 列島震撼]]』と同じく、プレイヤーは防衛軍や自衛隊を指揮して、ゴジラを始めとする怪獣を撃退する。初代ゴジラから、『ゴジラvsキングギドラ』までをカバーしている。実在兵器だけでなく、メーサー戦車などの架空兵器も登場するが、怪獣たちの攻撃力はあまりに強力なため、なんとか被害を抑えつつ勝利条件を満たすことが必要となってくる。 * [[怪獣王ゴジラ (ゲームボーイ)|怪獣王ゴジラ]](ゲームボーイ)1993年12月17日発売 * [[超ゴジラ]]([[スーパーファミコン]])1993年12月22日発売 * [[ゴジラ 爆闘烈伝]]([[PCエンジン]])1994年2月26日発売 *: [[アルファシステム]]が開発。[[対戦型格闘ゲーム]]。 *: ゴジラはスーツ別で10匹以上おり、キングギドラも「宇宙超怪獣」「超ドラゴン怪獣」「メカ」に分かれ、メカゴジラIIは首がなくなっても動ける。ゴジラのアクションも、各エピソードの元になった映画作品の演出を採用している(全身発光など)。ストーリーモードでは次に戦う怪獣のシルエットと共に、鳴き声が再生されていた。ボーナスゲームとしてゴジラ映画に関連するクイズコーナーもある。 * [[ゴジラ 怪獣大決戦]](スーパーファミコン)1994年12月9日発売 * ジャンボゴジラ (アーケードゲーム)1995年稼動 * ゴジラ どきどき怪獣島!!([[キッズコンピュータ・ピコ]]、[[Windows]])1995年7月25日(PICO)、1999年2月17日(Win)発売 * [[ゴジラ 怪獣大進撃]]([[ゲームギア]])1995年12月8日発売 * [[ゴジラ 列島震撼]]([[セガサターン]])1995年12月22日発売 * ゴジラ・ムービースタジオ・ツアー(Windows、[[Macintosh]])1996年発売 * ゴジラ・ジェネレーションズ([[ドリームキャスト]])1998年11月27日発売 *: ゴジラを始めとする怪獣を操作して、日本の大都市を破壊するというゲーム{{R|検定119}}。敵としてGフォースの戦車や戦闘機が登場し、また特定のステージにて街の破壊率が一定の数値に達すると、スーパーX、X2、XIIIがボスとして登場する。 *: 操作可能な怪獣はゴジラ、メカゴジラ、初代ゴジラ、ハリウッド版ゴジラ、ミニラの5体に加え、隠しキャラクターとしてジャイアント芹沢博士というキャラクターが登場する{{R|検定119}}。 * ゴジラ・トレーディングバトル([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]])1998年12月3日発売 *: 東宝株式会社 映像事業部が開発した、『[[モスラ2 海底の大決戦|モスラ2]]』までの東宝特撮怪獣(キングコング、メカニコングを除く)が総出演するトレーディングカードゲーム。オリジナル怪獣も6体登場する{{R|5499超全集178|検定119}}。 * GODZILLA: The Series([[ゲームボーイカラー]])1999年11月30日発売(日本未発売) * ゴジラ・ジェネレーションズ・マキシマムインパクト(ドリームキャスト)1999年12月23日発売 *: ゴジラ・ジェネレーションズの続編として作られたソフト。操作できる怪獣はゴジラのみだが、各ステージが「町の破壊」と「怪獣との戦い」の2段階になっている。敵怪獣は、ビオランテ、キングギドラ、モスラ(幼虫・成虫)、スペースゴジラ、そして最終ボスがデストロイア(幼体・完全体)となっていて、そのほかに、スーパーXIIIやゲームオリジナルキャラのモゲラII、スーパーメカゴジラIIなども登場する{{R|5499超全集178|検定119}}。 * Godzilla: The Series Monster Wars(ゲームボーイカラー)2000年11月30日発売(日本未発売) * [[ゴジラ怪獣大乱闘]]([[ニンテンドーゲームキューブ]])2002年12月12日発売 ** ゴジラ怪獣大乱闘アドバンス([[ゲームボーイアドバンス]])2003年12月11日発売 ** ゴジラ怪獣大乱闘 地球最終決戦([[PlayStation 2]])2004年12月9日発売 ** Godzilla: Unleashed Double Smash([[ニンテンドーDS]])2007年11月20日発売(日本未発売) ** Godzilla: Unleashed([[PlayStation 2]]、[[Wii]])2007年11月20日(PS2)、2007年12月5日(Wii)発売(日本未発売) * [[ゴジラ-GODZILLA-]]([[PlayStation 3]])2014年12月18日発売 ** ゴジラ VS([[PlayStation 4]])2015年7月16日発売 * ゴジラ 怪獣コレクション(HEROZ スマホアプリ 2015年4月21日サービス開始) * ゴジラ ディフェンスフォース([[ネクソン]] スマホアプリ 2019年5月23日サービス開始) * [[リアル脱出ゲーム]] 対 ゴジラ シン・ゴジラからの脱出(公演型の[[体感型ゲーム]]/東京ミステリーサーカス B1F ヒミツキチラボ)2018年4月26日 - 10月14日開催 ** リアル脱出ゲーム 対 ゴジラ シン・ゴジラからの脱出 リバイバル公演(東京ミステリーサーカス B1F ヒミツキチラボ)2019年10月4日 - 11月10日開催 * ゴジラ 謎ファイル(全3種)(持ち帰り型の[[体感型ゲーム]])2019年11月3日発売 ** ゴジラver「首都防衛戦線―大怪獣ゴジラを迎撃せよ!―」 ** モスラver「博士の残したインファント島の謎」 ** ビオランテver「第四種警戒態勢発動!」 * ゴジラ デストラクション/GODZILLA DESTRUCTION(TOHO Games スマホアプリ 2021年4月27日サービス開始) * ラン ゴジラ/RUN GODZILLA(TOHO Games スマホアプリ 2021年6月3日サービス開始(日本外では同年3月25日先行開始)) * ゴジラ バトルライン/GODZILLA BATTLE LINE(TOHO Games スマホアプリ 2021年6月15日サービス開始) * ゴジラ ([[アークライト (企業)|アークライト]] ボードゲーム)2022年4月23日発売 *: 『Kaiju on the Earth』シリーズの番外編『Kaiju on the Earth LEGENDS』の1作目。『ゴジラ』(1954年(昭和29年)公開)をモチーフとした1人対多人数(最大4人)の対戦・協力型ボードゲーム。1人がゴジラ、その他のプレイヤーが関東4都県の知事となり、ゴジラは各施設の破壊を、知事たちは住民や報道関係者の避難とオキシジェン・デストロイヤーの発動を、得点として競う。 * リアル脱出ゲーム 対 ゴジラ 対 [[熱海ベイリゾート後楽園]]『ゴジラ迫るホテルからの脱出』(施設内周遊型の体感型ゲーム) **宿泊コース 2022年5月27日 - 2023年7月23日開催 **日帰りコース 2022年7月14日 - 2023年10月31日開催 * ゴジラ ボクセルウォーズ(TOHO Games スマホアプリ 2023年11月1日サービス開始) ==== 別ゲーム内コラボ ==== * [[モンスターストライク]](mixi アプリ) ** コラボイベント「ゴジラ×モンスターストライク」(2014年7月18日配信) ** コラボイベント「ゴジラ×モンスターストライク 続・大怪獣猛進撃!」(2014年11月11日配信) ** コラボイベント「ゴジラ対エヴァンゲリオン×モンスト」(2016年8月2日配信) * [[スーパーロボット大戦X-Ω]]([[バンダイナムコエンターテインメント]] アプリ) ** [[シン・ゴジラ|ゴジラ対エヴァンゲリオン]] 期間限定参戦(2016年8月1日 - 8日配信<ref>{{Cite web|和書|date=2016-7-28 |url=https://app.famitsu.com/20160728_789486/ |title=『スパクロ』にゴジラとエヴァンゲリオンが参戦決定!? |website=ファミ通app |accessdate=2018-11-14}}</ref>) * [[巨影都市]] (バンダイナムコエンターテインメント [[PlayStation 4]])2017年10月19日発売 * [[戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED]]([[ポケラボ]] アプリ) ** コラボイベント「ゴジラVS[[戦姫絶唱シンフォギア|シンフォギア]]」(2019年11月30日配信<ref>{{Cite press release|和書|title= コラボイベント限定の『怪獣型ギア』をまとった装者が初登場、ブシロードとポケラボ「戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED」にて、コラボイベント「ゴジラVSシンフォギア」を配信開始 |publisher= 株式会社ブシロード |date= 2019-11-30 |url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002381.000014827.html |accessdate= 2020-09-29}}</ref>) * [[星のドラゴンクエスト]]([[スクウェア・エニックス]] アプリ) ** コラボイベント「ゴジラ大決戦!!-大怪獣総進撃編-」(2020年8月5日配信<ref>{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/004/022/4022031/ |title= 『星ドラ』に怪獣王ゴジラが降臨!8月4日よりコラボイベント「ゴジラ大決戦!! –大怪獣総進撃編-」が開催決定 |work= アスキーゲーム |website= ASCII.jp |date= 2020-08-03 |accessdate= 2020-09-29 }}</ref>) * [[SD シン・仮面ライダー 乱舞]](バンダイナムコエンターテインメント Nintendo Switch/PC(Steam)) ** 追加ダウンロードコンテンツ「シン・ゴジラパック」(2023年配信<ref>https://rider-skr-ranbu.bn-ent.net/special/#dlc</ref>) === パチンコ === * CRゴジラ2(1999年2月導入・ニューギン) * CRゴジラ(2003年5月導入・ニューギン) * CRゴジラ(2006年12月導入・ニューギン) ** [[川北紘一]]演出による完全新作映像『ゴジラvsキングギドラ』が収録されている。登場怪獣は、ゴジラ、ミニラ、キングギドラ、モスラ、ラドン、ガイガン、メカゴジラ、スペースゴジラ、デストロイア。小美人、X星人も登場する。実際の映画で使われた着ぐるみなどを使用。ゴジラの着ぐるみは『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』のもの。 * CRゴジラ〜破壊神降臨〜(2010年7月導入・ニューギン) ** ゴジラシリーズ第4弾。ニューギンよりバトライズスペック第3弾。前作同様、映画で使われた着ぐるみを使用した川北の演出による完全新作映像。登場怪獣は、ゴジラ、アンギラス、キングギドラ、ガイガン。ゴジラのスーツアクターは[[岩崎晋弥]]。 === CM === 上記ゲーム・映画のCMは除く。 * [[アサヒ飲料]]「[[バヤリース|バャリースオレンヂ]]」(1964年) ** 『モスラ対ゴジラ』とのタイアップCM{{R|大百科M154}}。 * やまじるしみそ(1970年代初期) ** 映像は『ゴジラ対ヘドラ』からの流用{{R|大百科M154}}。 * [[グリコ乳業|グリコ協同乳業]] [[プッチンプリン]](1983年 - 1984年) ** パターンが2つある。前者はゴジラがのど自慢大会に出場し、「花笠音頭」を踊っては歌いだしで雄叫びをあげた直後に鐘が一つ鳴って失格となり落胆し、参加賞としてプッチンプリンを貰うというもの{{R|大百科M154}}。後者はゴジラの子供{{efn|ミニラではなく、ゴジラをそのまま子供化した人間サイズの怪獣で、当CMのオリジナルキャラクター。容姿はミニラよりも後年のゴジラジュニアに近い。}}が[[水野晴郎]]と共演し、映画館で『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』(1984年版)を見ていたが、父が攻撃されるシーンを見て泣き出し、一緒にいた水野に「お父さんも大変だね…」と慰めてもらうというものだった。 * [[アサヒビール]] アサヒ黒生(1980年代) ** 1983年版は、ゴジラに似た怪獣'''クロラ'''がジョッキを片手に海へ去るという内容{{R|大百科M154}}。制作は東宝映像{{R|大百科M154}}。 ** 1984年版は、ビールジョッキを持ったゴジラと、観覧車を眺めていた子供のゴジラが親子で夜空の月を見つめるというもの。 * バンダイ「キャラコンゴジラ」(1984年) ** ゴジラが迷子になった子供を探して派出所を訪れるという内容{{R|大百科M154}}。制作は東映{{R|大百科M154}}。 * [[ナイキ]]「バリスティック・フォース・ハイ」(1992年11月) ** バスケットボール選手の[[チャールズ・バークレー]]がゴジラとボールの奪い合いをするという内容{{R|PATRICK}}。制作は[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]]が担当。{{出典範囲|text1=アメリカで放送された後、日本でも公開された|ref1={{R|大百科M133}}}}。 * [[京都銀行]](1992年ごろ) ** 『ゴジラvsモスラ』の公開される以前に放送されていたもので、清水寺の前を歩いたり、[[如意ヶ嶽|大文字山]]に銀行のシンボルマークを焼き付けたりする{{R|KHBVSM82|大百科M154}}。 * [[西友]](1992年 - 1994年) ** 『[[ゴジラvsモスラ]]』、『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』、『[[ゴジラvsスペースゴジラ]]』および、『[[ヤマトタケル (映画)|ヤマトタケル]]』の公開時期に放映された。演出は川北紘一が担当しており、当該作品の特撮シーンと登場キャストの新撮映像で製作されていた。ゴジラの熱線で巨大な「¥」が爆発したり、モスラの羽ばたきで沢山の「¥」が舞い上がったりといった演出が盛り込まれている。 * [[日清食品]]「出前一丁」(1992年) ** ゴジラの映像を前に2人の[[島倉千代子]]が歌唱するという内容{{R|大百科M154}}。 * [[天神愛眼]](1994年) ** 福岡の眼鏡販売店で、『ゴジラvsスペースゴジラ』の公開時期に放映された。同作で福岡が最終決戦の舞台になっていることもあり、「天神愛眼が狙われている!」と題して同社の社長が軍服姿でセールをアピールするというもの。 * [[ウベハウス]](1995年 - 1997年ごろ) ** 一軒家の中でゴジラとリトルゴジラがじゃれあい、堅牢さをアピールしている。着ぐるみは『vsスペースゴジラ』のもの。 * [[パールライス]](1995年頃) ** 『[[ゴジラvsデストロイア]]』の公開時期に放映された。暴れるバーニングゴジラを背景に「パールライスが食べたい」とテロップと声が重なる。映像は『vsデストロイア』の流用で、同様のシーンを用いたポスターも製作された。 * [[セボン (不動産会社)|セボン]](2001年) ** 演出は川北紘一。スーツは『ゴジラ2000 ミレニアム』と同タイプの胴体にVSシリーズ<!--具体的作品名の記述なし-->の頭部と背びれをつけたもの{{R|平成P156}}。ファンの間では「'''セボンゴジ'''」と呼ばれる{{R|平成P156}}。 * [[ベスト電器]](2002年) ** 『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』の公開時期に放映された。同作の映像を流用しており、戦闘シーンにゴジラの放射火炎やメカゴジラのプラズマレーザー砲と同色のテロップが挿入されていた。 * [[キヤノン]] EOS Kiss デジタルX(2006年) ** ゴジラが[[キッス|KISS]]のメイクをして登場し、熱線を吐く(KISSキッズも空に向かって熱線を吐いている)。着ぐるみは『[[ゴジラ FINAL WARS]]』のもの。 * [[キリンビバレッジ]] FIRE(2009年) ** [[松井秀喜]]と共演。ゴジラはシルエットのみの登場。 * [[パルコ]] 夏のグランバザール(2016年) ** ゴジラが巨大化したパルコアラと対決するもの。『[[シン・ゴジラ]]』の公開時期に合わせて夏のグランバザールが同作とコラボしたものだが、ゴジラ自体は映画のシーンのものとの合成になっている。 * サントリー・[[ボス (コーヒー)|BOSS]]『顔の映らない主役』篇 (2019年 WebCM) ** 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公開記念として中島春雄をメインとしたCMを放送<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/333296|title=東宝監修!初代ゴジラ再現したBOSSジャン誕生、スーツアクター中島春雄の動画も|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-05-29|accessdate=2023-10-22}}</ref>。東宝スタジオでのゴジラ特撮撮影は15年ぶりであり、造型師の[[酒井ゆうじ]]による監修のもとで初代ゴジラスーツも再現された。 ** 監督 - [[本郷伸明]]、特殊操演 - 上松盛明、美術 - 稲村正人、美術デザイナー:[[三池敏夫]]、東宝取締役・音楽事業担当・チーフゴジラオフィサー - 大田圭二、中島春雄役 - [[齊藤謙也]]。 * [[日本マクドナルド|マクドナルド]](2023年) ** 「ゴジラvsマクドナルド」と称し、ゴジラ、ハンバーグラー、グリマス、バーディをアクションフィギュア「[[BE@RBRICK]]」化して2023年12月20日から数量限定・抽選販売する<ref>{{Cite news|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1556103.html|title=「ゴジラ」×マクドナルド、限定ベアブリックの抽選受付がスタート!|newspaper=GAME Watch|publisher=インプレス|date=2023-12-20|accessdate=2023-12-29}}</ref>ほか、ゴジラの迫力を謳った限定メニュー「ゴジラバーガー」を2024年1月5日から数量限定・コラボレーション特別パッケージで発売する<ref>{{Cite news|url=https://www.phileweb.com/news/hobby/202312/27/6857.html|title=マクドナルドに「ゴジラバーガー」現る。VSシリーズをオマージュした熱いCMも公開|newspaper=PHILE WEB|publisher=音元出版|date=2023-12-27|accessdate=2023-12-29}}</ref>。タイトルロゴなどは平成VSシリーズに沿ったものとなっており、テレビCMには同シリーズでの外見に沿ったゴジラが市街地に登場するほか、マクドナルド店員の制服姿を模した巨大ロボット「マクドナルドロボ」も登場する<ref>{{Cite news|url=https://animageplus.jp/articles/detail/56347|title=ゴジラVSマクドナルド第二弾! バーガー3種でゴジラを出迎えるロボ|newspaper=アニメージュプラス|publisher=徳間書店|date=2023-12-28|accessdate=2023-12-29}}</ref>。 === アトラクション、展示会 === * ゴジラ迎撃作戦〜国立ゴジラ[[淡路島]]研究センター〜 ** [[テーマパーク]]「ニジゲンノモリ」([[兵庫県]][[淡路市]])内に、東宝と[[パソナグループ]]が2020年夏に開業予定。攻撃を受けて半ば地中に埋もれているという設定の等身大『シン・ゴジラ』版ゴジラ(全長120メートル)を再現する<ref>ゴジラ シン世代進撃/誕生65年、幅広いファン獲得へ■淡路島に娯楽施設■子供に「ちび」デザイン『[[日経MJ]]』2019年11月10日(ライフスタイル面)</ref>。 このほか、ゴジラをテーマとする期間限定の展示会が下記のように多数開かれてきた。 * 「大ゴジラ特別展」「大ゴジラ特撮王国」(2014年 - 2017年、全国を巡回)<ref>[http://www.godzilla-tokusatsu.com/work/ 大ゴジラ特撮王国 開催実績](2019年11月12日閲覧)</ref> * 「ゴジラ展」(2017年、[[名古屋市博物館]])<ref>[http://www.museum.city.nagoya.jp/godzilla/ ゴジラ展] 名古屋市博物館(2019年11月12日閲覧)</ref> === その他 === ; 絵物語『A SPACE GODZILLA』(1979年){{R|大百科MG151}} : SF雑誌『[[スターログ]]』日本版1979年2月号および4月号に掲載された絵物語{{R|大百科MG151}}。構成は[[大林宣彦]]と[[石上三登志]]、イラストは[[大友克洋]]と[[白山宣之]]{{R|大百科MG151}}。 : 物語は九十九里浜にゴジラの死体が打ち上げられるところから始まり、霊媒師の口を借りて自らが宇宙から来た種族であることを明かしたゴジラが人類の手により宇宙へ旅立ち、故郷のゴジラ星を占領する悪の異星人と戦う{{R|大百科MG151}}。 === 日本国外 === * アニメーション ** 『[[Godzilla (1978年のテレビアニメ)|Godzilla]]』(1978年) *** アメリカのハンナ・バーベラ社が制作したテレビアニメ。全26話。 ** 『[[ゴジラ ザ・シリーズ]]』(1999年 - 2000年) *** 1998年のアメリカ映画『[[GODZILLA]]』をベースにしたテレビアニメ。全40話。 *コミック ** [[マーベル・コミック]]版『[[:en:Godzilla, King of the Monsters (comic book)|Godzilla, King of the Monsters]]』(1977年 - 1979年{{R|画報18|検定107}}) *** マーベルコミックより出版された[[アメリカンコミック]]シリーズ{{R|来襲190}}。全24号{{R|来襲190|画報18}}。ゴジラと[[S.H.I.E.L.D.]]や[[アベンジャーズ (マーベル・コミック)|アベンジャーズ]]、[[ファンタスティック・フォー]]といった[[スーパーヒーロー]]たちとの戦いを描く{{R|来襲190|画報18}}。第6号では巨大ロボット レッドローニン(Red Ronin){{Refnest|group="出典"|{{R|来襲190|画報18|検定107}}}}、第10号では[[イエティ]]風の怪獣Yetrigarなど、オリジナルキャラクターも登場している。 ** [[ダークホースコミックス]]版『[[:en:Godzilla (comics)]]』(1987年 - 1996年){{R|検定107}} *** ダークホースコミックスより出版されたものは、当初は『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』(1984年版)の日本版漫画の英訳であったが、1992年よりオリジナル作品を出版{{R|来襲190|画報18}}。後者は、『ゴジラ対ゲキド・ジン』のタイトルで邦訳された{{R|来襲190}}。 *** 1994年には[[ナイキ]]とのタイアップにより、ゴジラとプロバスケットボール選手[[チャールズ・バークレー]]{{efn|邦訳版作中では「バークリー」と表記{{R|来襲190}}。}}が対決する『ゴジラVSバークリー』が描かれた{{R|来襲190}}。 ** [[:en:IDW Publishing|IDWパブリッシング]]版『[[:en:Godzilla (comics)]]』(2011年 - ){{R|検定107}} ** [[:en:Legendary Comics|レジェンダリーコミックス]]版『[[:en:Godzilla (comics)]]』(2014年 - ) * 玩具 ** 『Godzilla Gang』(1979年頃) *** 玩具メーカーの[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]が日本でウルトラシリーズのヒーローや怪獣のソフビ人形ブランドとして展開し、ゴジラなどもラインナップしたキングザウルスシリーズをベースに新規原型で製作されたソフビ人形ブランド。アメリカの玩具メーカー[[マテル]]社が発売。東宝怪獣はゴジラのみラインナップ。 ** 『[[ショーグン・ウォリアーズ]]』(1970年代) *** アメリカで展開された、日本の[[ロボットアニメ]]の主役ロボットや怪獣たちによる玩具ラインナップ。ゴジラとラドンが玩具として発売されている。玩具としてのギミックが多く付加されており、ゴジラがロケットパンチを放つ。『FINAL WARS』でメインタイトルをデザインした[[カイル・クーパー]]はこの玩具を「僕の初めてのゴジラだ」と大切に所持している<ref>『ゴジラ FINAL WARS』DVDスペシャルエディション特典ディスクより</ref>。 == 未製作作品 == ; ゴジラの花嫁?<!-- クエスチョンマーク付きは原題ママ -->{{R|検定59}} : 1955年の6月に[[海上日出男]]による初の[[テクニカラー|総天然色]]映画を予定していた検討用脚本で、『[[ゴジラの逆襲]]』(1955年)の続編。花嫁ロボット(脚本上は「人工人間」と記載)や2体目のアンギラスが登場する{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|loc=ゴジラの花嫁? シナリオ第三稿}}{{R|検定59}}。 : なお、1972年に『[[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘#再上映|ゴジラのお嫁さん]]』というタイトルのレコードが東宝レコードから発売されたが、本作品とは無関係。 : ; 続 キングコング対ゴジラ(1962年ごろ){{R|超常識232|検定59}} : 『[[キングコング対ゴジラ]]』(1962年)の直接の続編として、[[関沢新一]]によるプロットが残されている{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|loc=続 キングコング対ゴジラ(プロット)}}{{R|超常識232}}。全18ページ{{R|超常識232}}。 : 前作の戦いから生き延びていた両怪獣が瀬戸内海で再び対決し、阿蘇山で決戦を迎える{{R|超常識232}}。 : ; 怪獣島(1963年) : 東宝テレビ部の[[宇佐美仁]]と[[スタジオ・ゼロ]]{{efn|[[石森章太郎]]・[[藤子不二雄]]・[[つのだじろう]]・[[鈴木伸一]]らによるアニメ制作会社。}}により企画されたテレビシリーズ番組案。『ゴジラ』をはじめとした全8本の東宝怪獣映画の特撮場面を流用したオリジナルストーリーで1クール分のシノプシスが作成されたが、映像の使用権が当時アメリカに渡っていたため頓挫した<ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語 |page = 34 - 35 |publisher = [[講談社]] |ISBN = 978-4-06-217590-6 }}</ref>。 : ; フランケンシュタイン対ゴジラ(1964年){{Refnest|group="出典"|{{R|大全集73|大ゴジラ78|大辞典162|検定59}}}}{{efn|書籍『ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』では、『キングコング対ゴジラ』以前の脱稿と推測していた{{R|大百科MG132}}。}} : 『[[ガス人間第一号]]』(1960年)の続編として企画された『フランケンシュタイン対ガス人間』から改訂された作品{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|大ゴジラ78|画報124|検定59}}}}。執筆は[[馬淵薫]]{{R|大百科MG132|大ゴジラ78}}。フランケンシュタイン側のエピソードはほぼそのままで、対戦相手をゴジラから新怪獣の[[バラゴン]]に差し替える形で『[[フランケンシュタイン対地底怪獣]]』(1965年)が制作されている{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|loc=フランケンシュタイン対ゴジラ 検討用台本}}{{R|大全集73|大ゴジラ78|画報124|大辞典162|検定59}}}}。 : ; バットマン対ゴジラ{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|p=445}}(1965年) : 『[[バットマン]]』とのクロスオーバー作品。1965年11月に関沢新一によるプロットが書かれた{{R|cbr}}。[[ワイオミング大学]]のアーカイブに英語版のプロットが保管されている{{R|cbr}}。 : ドイツ人の科学者クラウス・フィンスターが日本政府に対し5000万ドルの支払いを要求し、拒否するならば日本を滅ぼすと脅迫{{R|cbr}}。 : [[バーバラ・ゴードン]]とともに日本旅行中だった[[ジェームズ・ゴードン]]の要請により、フィンスターの野望を食い止めるべく来日した[[バットマン (架空の人物)|バットマン]]と[[ロビン (バットマン)|ロビン]]がフィンスターと戦い、さらにはフィンスターによって操られたゴジラと戦うストーリー{{R|cbr}}。ゴジラが[[バットガール]]に恋をするなどを経て、バットマンがゴジラがメスを探していると推測{{R|cbr}}。日本で開発されたロボットメスゴジラにバットマンが乗り込み、戦うことが予定されていたが、ロボットの登場は取り消され、意識を失ったゴジラをロケットに乗せて宇宙に追放するストーリーに変更された<ref name="cbr">{{Cite web |url=https://www.cbr.com/the-60s-camp-insanity-of-batman-meets-godzilla/|title= The 25 Strongest Power Rangers In The Franchise, Ranked|work=CBR|date=2023-08-27|accessdate=2023-12-15}}</ref>。 ; 怪獣大襲撃(1966年){{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|p=445}} : ; ゴジラ・レッドムーン・エラブス・ハーフン 怪獣番外地(1970年){{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|大全集73|CHAMP128|検定59}}}}{{efn|書籍『ゴジラ大全集』では、1973年と記述している{{R|大全集73}}。}} : 東宝チャンピオンまつり用に[[円谷プロダクション]]製作・東宝配給作品として企画していた映画{{R|大百科MG132|CHAMP128}}{{efn|資料によっては、『[[怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス]]』(1972年)に続く第2弾と記述していたが{{R|画報172|大辞典220}}、満田かずほは1970年に[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治下の沖縄]]を訪れて金城と執筆したと証言している{{R|CHAMP129}}。}}。[[金城哲夫]]と[[満田かずほ]]によりプロットが製作され、沖縄を舞台とした風刺的な作品となっている{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|画報172|大辞典220|CHAMP128}}}}。 : ; ゴジラ対ガルガンチュア{{R|tabletmag}}{{efn|オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史では、『600万ドルのゴジラ対ガルガンチュア』と記載されている{{R|PATRICK}}。}} : [[ヘンリー・G・サパースタイン]]が1970年代初頭に東宝に持ち込んだ企画{{R|PATRICK|tabletmag}}。ルーベン・バーコビッチにより脚本が書かれた{{R|tabletmag}}。サイボーグ化したゴジラが『[[サンダ対ガイラ|The War of the Gargantuas]]』に登場したガルガンチュアと戦う内容{{R|PATRICK|tabletmag}}。 : ; ゴジラ対ヘドラ 2 : 『[[ゴジラ対ヘドラ]]』(1971年)の続編として、同作を監督した[[坂野義光]]によるプロットが存在する<ref>{{Cite book |和書 |author = 坂野義光 |year = 2014 |title = ゴジラを飛ばした男 改訂版 |publisher = アットメディア| asin = B00M5KDOKG |chapter = 第6章 8. 『ゴジラ対ヘドラ』の続編 }}</ref>。 : ; キングギドラの大逆襲!(1971年){{R|大百科MG132|大全集73}} : 関沢新一による『[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン]]』(1972年)の検討稿{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|p=446|ps=※「未確認」とのただし書きあり。}}{{R|大百科MG132|大辞典189}}}}。 : {{Main2|詳細については[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン#解説]]を}} : ; ゴジラ対宇宙怪獣 地球防衛命令(1971年){{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|大全集73|大辞典189}}}} : 馬渕薫による脚本{{R|大百科MG132|大辞典189}}。地球征服を狙う宇宙人ミコーが操るキングギドラ、ガイガン、メガロの3大宇宙怪獣に対し、ゴジラ、アンギラス、魔神ツールが立ち向かうという内容{{R|大全集73|大辞典189}}。ガイガンやゴジラタワーの設定は『ゴジラ対ガイガン』へ引き継がれた{{R|大百科MG132}}。『ゴジラ対メガロ』(1973年)以前にメガロが登場しているが{{R|大百科MG132|大辞典189}}、同作品のメガロとは描写が異なる。また、魔神ツールは後の[[キングシーサー]]を彷彿とさせるものと評されている{{R|大百科MG132|大辞典189}}。 : ; 大怪獣沖縄に集合! 残波岬の大決斗(1974年){{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|p=446|ps=※「未確認」とのただし書きあり。}} : 登場怪獣、人物の一部、沖縄を舞台にした作品というプロットは『[[ゴジラ対メカゴジラ]]』(1974年)に流用された。 : ; ゴジラの復活(1977年、1980年){{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|大全集73|平成大全28|超常識232|検定59}}}} : 『[[メカゴジラの逆襲]]』(1975年)の後に企画されたシリーズ再開案{{R|平成大全28}}。同一タイトルの脚本が何度か書かれており、いずれも後の『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』(1984年版)の原形となっている{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|平成大全28|超常識232}}}}。 : 1977年ごろに書かれたものは、テロリストに占拠された静岡の原発をゴジラが襲うという内容{{Refnest|group="出典"|{{R|平成大全28|東宝特撮映画大全集210}}{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|loc=King of Monsters ゴジラの復活 検討稿}}}}。『ゴジラ』(1984年版)のショッキラスがこの段階で登場しているが、この時点ではダニの怪獣であった{{Refnest|group="出典"|{{R|平成大全28|東宝特撮映画大全集210|超常識232}}}}。監督を[[福田純]]、脚本を[[中西隆三]]で製作が予定されていたが、プロデューサーの[[田中友幸]]ともども急遽製作が決定した『[[惑星大戦争]]』(1977年)へスライドした{{R|東宝特撮映画大全集199}}。印刷された検討稿は、中西が執筆したものに[[村尾昭]]が手を入れたものである{{R|平成大全28}}。 : 1980年ごろに書かれたものは、ゴジラと猿神獣・水神獣・竜神獣の3形態に変身する中国の伝説の怪獣バガンが戦うという内容{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|平成大全28|東宝特撮映画大全集210|大辞典256|超常識232|検定59}}}}。執筆は村尾昭{{R|平成大全28|大辞典256}}。『ゴジラ』(1984年版)で描かれた「ゴジラが核物質をエネルギーとする」という設定がこの段階で登場している{{R|大辞典256}}。バガンは後に『モスラ対バガン』の企画へ流用された{{R|大百科MG132|大辞典256}}。 : 三度目に書かれた[[永原秀一]]による検討用脚本が改題し、『ゴジラ』(1984年版)として製作された{{R|東宝特撮映画大全集210}}。 : ; ゴジラ対デビル{{R|PATRICK|平成大全28|fangoria}} : ヘンリー・G・サパースタインが東宝に持ち込んだ企画{{R|PATRICK}}。映画『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』の成功を受けているとされる{{R|PATRICK}}。1979年の公開が予定されていた{{R|fangoria}}。予算は400万ドル以上とされ、脚本はアメリカ側が担当する予定だった{{R|fangoria}}。 : ; 日米合作 ゴジラ{{R|平成大全28}}{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|p=441}} : 1980年代にヘンリー・G・サパースタインから合作の申し入れもあり、日米双方から提示されたストーリーを元に2本の脚本が書かれた{{R|大全集74|平成大全28}}。 : これ以前にも、東宝1977年冬のラインナップに「日米合作ゴジラ」が記されていたが詳細は明らかになっていない{{R|平成大全28}}。 : 『[[スター・ウォーズ]]』に影響を受けた宇宙を舞台にしたゴジラ映画の企画がサバ―スタインにより東宝に持ち込まれたと『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』に記載されているが詳細は明らかになっていない{{R|PATRICK}}。 : ; ゴジラ伝説 アスカの要塞{{R|平成大全28}} : 1984年の『ゴジラ』公開後に行われたストーリー公募で準佳作に選ばれた『ゴジラ対巨大ロボット軍団』を元にした脚本が関沢新一によって書かれている{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|loc=ゴジラ伝説 アスカの要塞 第二稿}}。ゴジラとコンピュータ「アスカ」が操る巨大な移動要塞の戦いが展開される。 : シナリオ化は『[[ゴジラvsビオランテ]]』(1989年)の制作と併行する形で行われたが、アイデアはその後も残り、『vsビオランテ』の続編としても映像化の案があったものと推測される{{Sfn|未発表資料アーカイヴ|2010|pp=236-237}}。東宝プロデューサーの[[田中文雄]]は、「アスカ」は『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』に登場するミステリアンドームをイメージしており、それをゴジラと戦わせてもうまくいかず、ゴジラ映画ではない感じになってしまったと述懐している{{R|平成大全28}}。書籍『平成ゴジラ大全』では、本作品を関沢の事実上の遺作として紹介している{{R|平成大全28}}。 : ; アニメーション映画(1988年){{R|tabletmag}} : ヘンリー・G・サパースタインが[[ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ]]の元スタッフを集め、東宝と共同でゴジラのアニメーション映画を制作すると[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]によって報道された{{R|tabletmag}}。 : ; [[モスラVSバガン]](1990年){{Refnest|group="出典"|{{R|大百科MG132|大全集73|大辞典349|超常識232|検定59}}}} : モスラが主役の映画であるがストーリーは『ゴジラvsビオランテ』の続編で、少しであるがゴジラもラストで復活し登場するはずだった。企画は『[[ゴジラvsモスラ]]』(1992年)の原型になっている{{R|超常識232}}。 : [[ビオランテ]]のキャラクターの弱さが東宝社内で指摘され、「スター怪獣ゴジラでも対決物興行が難しい」という結果が出た上にさらに新怪獣とモスラとの組み合わせではキャラクターが弱かろうとの判断が下されたためにお蔵入りになった。その代わりにアンケート人気第1位を獲得した[[キングギドラ]]が登場する『[[ゴジラvsキングギドラ]]』(1991年)が制作された{{R|怪獣大全集88|大辞典349}}。 :{{Main|モスラVSバガン}} : ; ミクロスーパーバトル ゴジラvsギガモス → ゴジラvsギガモス(1991年){{R|平成P131}} : 『ゴジラvsキングギドラ』の続編として[[川北紘一]]を中心に企画された作品{{R|東宝SF791|平成P131}}。ゴジラと新怪獣ギガモスとの戦いと並行して、原子炉化したゴジラを止めるためミクロ化した主人公たちによるゴジラの体内での行動が描かれる。アメリカを舞台とし、全米での公開も見込まれていた。 : ギガモスのほかに米軍の兵器として[[キングコングの逆襲#電子怪獣 メカニコング|メカニコング]]の登場も予定されていた{{R|平成P131}}。当初はキングコングの登場を検討していたが、『vsキングギドラ』に登場したメカキングギドラが好評であったことから同じメカ怪獣であるメカニコングに変更された。 : プロットがまとめられた1か月後に東宝のプロデューサーサイドがキングギドラの次に人気のあったモスラをメインとすることを決定したため、登場怪獣をモスラとギガモスとした『ゴジラvsギガモス』へと内容を変更された。この段階でギガモスは名前だけ残してモスラと同じ卵から生まれた「悪のモスラ」という設定に変わり、最後はモスラと融合してゴジラを倒すという展開であった。『vsモスラ』のポスター画では、卵から誕生する2匹のモスラ幼虫が描かれており、『[[モスラ対ゴジラ]]』のイメージと言われることもあるが、実際には『VSギガモス』のプロットを元にしている{{R|東宝SF780|平成P131}}。最終的に[[大森一樹]]による『[[モスラVSバガン]]』をベースとした内容に決定したためこのプロットは実現には至らなかったが、「悪のモスラ」の設定はバガンとあわせてバトラの原型となっている{{R|東宝SF780}}。 : 『ミクロスーパーバトル』での海外上陸展開は、場所は異なるが後に『[[ゴジラvsデストロイア]]』(1995年)において海外上陸には慎重な意見であった[[富山省吾]]を押し切って川北が実現させている{{R|平成P131}}。 : ; ゴジラの逆襲 → ゴジラ対メカニコング → マイクロユニバース イン ゴジラ(1991年){{R|平成P131}} : モスラ登場案へと変更された『ミクロスーパーバトル ゴジラvsギガモス』に対し、同プロットから「メカニコング」と「ゴジラの体内での戦い」という要素を引き継いだ作品{{R|平成P131}}。メカニコングの登場は、権利関係が東宝とアメリカ側{{efn|川北は、当時キングコングの権利を有していたのは[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル映画]]であったと証言している{{R|KHBVSMG93}}。}}との間で曖昧であったためこれを明確にしようという意図もあったが、アメリカ側から製作した場合トラブルが生じる可能性があるとの回答が出されたため、この案は中止となった{{R|KHBVSMG93|平成P131}}。 : 「怪獣の体内での戦い」は後に『[[モスラ2 海底の大決戦]]』(1997年)にてモスラとダガーラの戦いの中で実現させている{{R|モスラ映画大全128|平成P131}}。『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』(1993年)でのGクラッシャーの設定も、「ゴジラを体内から攻撃する」という展開の名残である{{R|KHBVSMG93}}。またメカニコングに思い入れの強かった川北は『[[幻星神ジャスティライザー]]』(2004年)でこれをモデルとしたメカ巨獣ブルガリオを登場させている{{R|平成P131}}。 : ; キングギドラの逆襲(1991年){{R|KHBVSM84|大全集73}} : 『vsキングギドラ』の続編。メカキングギドラとの戦いの後、宇宙怪獣のキングギドラが出現するというストーリー{{R|KHBVSM84|大全集73}}。[[田中友幸]]は、キングギドラが連続してしまうことから『ゴジラvsモスラ』になったと述べている{{R|KHBVSM84}}。 : ; ゴジラVSベルサーク(1993年頃){{R|平成P63}} : 『ゴジラvsメカゴジラ』企画時に、デザイナーの[[出渕裕]]により提出されたプロット{{R|平成P63}}。 : 宇宙から飛来した金属生命体ベルサークが成長してゴジラを模したメカゴジラになるという展開で、出渕自身によるデザイン画も描かれていた{{R|平成P63}}。 : そのほか、『vsキングギドラ』に登場する新堂靖明の息子が帝洋グループを率いており、スーパーXIIIを開発しているという描写も存在する{{R|平成P63}}。 : ; ゴジラ 3D "GODZILLA 3D TO THE MAX" : 2005年に[[坂野義光]]の率いる[[先端映像研究所]]が、製作を発表。後にこのプロジェクトは『[[GODZILLA ゴジラ]]』(2014年)製作に移行した。 == 関連作品 == * 東宝怪獣・特撮作品 ** ゴジラシリーズに登場する[[ラドン (架空の怪獣)|ラドン]]、[[モスラ (架空の怪獣)|モスラ]]、[[大怪獣バラン|バラン]]などの怪獣たちや[[メーサー兵器]]、[[轟天号]]といった架空兵器の一部はゴジラ以外の東宝怪獣・特撮映画にその源流を持っている。元作品からフィルムを流用することもある。また『ゴジラ×メカゴジラ』『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』のように過去の怪獣・特撮映画と明確に繋がった設定を持つ作品もある。 * [[超星神シリーズ]] ** 2000年代前半から中期に東宝が製作した特撮ヒーローテレビドラマ。歴代ゴジラ怪獣を連想させる怪獣(新規造型であるが、イメージソースに意図的に過去の東宝怪獣を使っている)が登場する。また、一部スタッフはかつてゴジラシリーズの製作に携わっている([[川北紘一]]、[[鈴木健二 (特撮監督)|鈴木健二]]など)。映画で使われた兵器や建物のミニチュア、特撮カットの一部も流用されている。 * [[ウルトラQ]]、[[ウルトラマン]] ** 製作当時東宝傘下であった円谷プロ製作の特撮テレビドラマ。ゴジラやバラゴンの着ぐるみなどが流用されている。『ウルトラQ』第1話の[[ゴメス (ウルトラ怪獣)|ゴメス]]、『ウルトラマン』第10話の[[ジラース]]はゴジラがベース。演じたのもゴジラ同様、中島春雄である。 * [[プルガサリ 伝説の大怪獣]] ** [[1985年]]にゴジラ制作スタッフが[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に招かれて制作した怪獣映画。 * [[行け!ゴッドマン]]、[[行け! グリーンマン]] ** 『おはよう!こどもショー』内の特撮コーナー。東宝企画製作でサンダ、ガイラ、ガバラ、カメーバ、ゴロザウルス、ミニラなどが登場した。またゴジラの着ぐるみを[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]風に改造した新怪獣ツノジラスが登場。 * 『[[じゃりン子チエ]]』(1981年) ** 主人公であるチエと母親・ヨシ江が映画館で『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』を鑑賞する。作中に同作の映像が挿入されている。 * 『[[ALWAYS 続・三丁目の夕日]]』(2007年) ** ゴジラ単体の作品ではないが、冒頭、吉岡秀隆演ずる茶川竜之介の書く小説の世界として、東京タワーや鈴木オートを破壊するゴジラが登場{{R|大辞典368}}。ゴジラのメイン・テーマも使用されている{{R|大辞典368}}。このゴジラはフル[[コンピュータグラフィックス|CG]]で表現され{{R|大辞典368}}、『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』の白眼のゴジラの[[ガレージキット]](原型製作は[[丹羽俊介]])をモデルに、監督の[[山崎貴]]自身がデザインしたもので<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/096/96793/|title=山崎貴監督のインタビュー|accessdate=2014-01-09}}</ref>、わずかながら東宝公認の“復活”を果たすこととなった。 * 『[[僕のヒーローアカデミア THE MOVIE 〜2人の英雄〜]]』(2018年) ** テレビアニメ『僕のヒーローアカデミア』の劇場版。東宝が製作に関わっていることから、ゴジラをモチーフにした怪獣ヒーロー・ゴジロが登場し、鳴き声には平成ゴジラシリーズのものが用いられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/290902|title=映画「ヒロアカ」千鳥が本人役で出演!ゴジラがモチーフのヒーローも登場|accessdate=2018-07-13}}</ref>。 * 『[[新幹線変形ロボ シンカリオン|劇場版 新幹線変形ロボ シンカリオン 未来からきた神速のALFA-X]]』 ** 2019年12月27日公開。ゲスト出演。 == 関連製品と専門店 == ゴジラを題材とした玩具、書籍、映像・音楽媒体は多数発売されてきた。ゴジラ関連製品の専門店は、[[丸井]]グループが2016年から期間限定で展開。2017年10月30日には東宝と共同で、世界初のゴジラ公式常設店を新宿マルイアネックス(東京)にオープンした<ref>[https://godzilla.store/tokyo/ ゴジラ・ストアTokyo公式サイト]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ26HYT_W7A920C1000000/ 「ゴジラファン集え 丸井・東宝がグッズ専門店」]『日本経済新聞』電子版2017年9月26日</ref>。このほか東宝は通販サイト「ゴジラ・ストア」を運営している<ref>[https://godzilla.store/shop/default.aspx ゴジラ・ストア公式サイト]</ref>。 == 戦った組織 == {{Main|東宝特撮映画の怪獣対策組織}} 本シリーズには以下の組織が登場している。『ゴジラ』をはじめとする、東宝怪獣映画群に登場する怪獣迎撃を行うこれらの組織を総称し、'''東宝自衛隊'''との通称で呼ばれることもある<ref>{{Cite news|url=https://ascii.jp/elem/000/000/439/439288/|title=怪獣映画は特撮の皮をかぶった「戦争映画」|newspaper=ASCII.jp|publisher=角川アスキー総合研究所|date=2009-07-24|accessdate=2023-08-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://gigazine.net/news/20140331-godzilla-roar/|title=ゴジラの雄叫びを歴代まとめて振り返って聞いてみるとこんな感じ|newspaper=GIGAZINE|publisher=OSA|date=2014-03-31|accessdate=2023-08-06}}</ref>。もともとは[[自衛隊]]以外の名称で登場することが多かったが、後には「自衛隊」の名前で出演するようにもなった。撮影にあたっては自衛隊の協力を得て実際の兵器の稼働シーンなどが撮影されているほか、東宝自衛隊独自の架空兵器も登場している。架空兵器に関しては[[東宝特撮映画の登場兵器]]を参照。 なお、現実世界でゴジラのような怪獣が日本に襲来する事態を想定した机上研究を旧防衛庁が過去に行っており、怪獣襲来に対しては[[自衛隊法]]第83条に基づく災害派遣で自衛隊の出動が可能とし、暴れる怪獣に対しては「有害鳥獣駆除」の名目で武器・弾薬の使用も可能との結論に達した{{efn|かつては[[トド]]が有害鳥獣駆除のため、自衛隊に駆除されていた。[[トド#人間との関係]]を参照。}}。 ; 防衛隊 : 第1作『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』(1954年)から『[[メカゴジラの逆襲]]』に登場する組織。以降、1970年代までの東宝SF映画ではたいてい日本の軍事組織として防衛隊もしくは防衛軍が登場する。 ; 防衛軍 : 第6作『怪獣大戦争』、第25作『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に登場するが、名前が同一なだけで両者は全く異なる組織である。 ; 自衛隊 : 『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』(1984年)以降のシリーズでは自衛隊の名称そのままで登場する。また、「ゴジラ非常緊急対策本部」という、ゴジラと銘打たれた対策本部が出来たのも本作品が最初である。『[[シン・ゴジラ]]』においてはこれまでのような対怪獣用の超兵器はなく、現実の自衛隊に即したものが登場する。 ; Gフォース(G-Force) : 『ゴジラvsメカゴジラ』、『ゴジラvsスペースゴジラ』『ゴジラvsデストロイア』に登場する、国連G対策センターに所属するゴジラ迎撃専門の組織。怪獣迎撃にはガルーダ、メカゴジラ、MOGERAといった対ゴジラ用戦闘マシンを使用する。 ; Gグラスパー : 『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』に登場する、日本独自のゴジラ対策部門の特別G対策本部に所属する実働部隊。'''G-GRASPER'''の「grasp(グラスプ)」は「捕捉」を意味する。 ; 特生自衛隊 : 『ゴジラ×メカゴジラ』および続編『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』で登場する、自衛隊の中でも対特殊生物戦闘専門の部隊として陸海空三軍と並ぶ第四の部隊。「特生」とは「対'''特'''殊'''生'''物」の略称。英文略記号は「'''JXSDF'''('''J'''apan Counter-'''X'''enomorph '''S'''elf '''D'''efence '''F'''orce)」。 ; Gガード : 『ゴジラアイランド』に登場する、怪獣たちと共存する孤島ゴジラアイランドの防衛組織。パンナトルテやタルトクープ、ジェットジャガーシリーズなどのメカを所有する。 ; 地球防衛軍('''E'''arth '''D'''efence '''F'''orce) : 『[[ゴジラ FINAL WARS]]』に登場する、人類がお互いを敵とする時代を終え、怪獣の脅威に立ち向かうために、地球の軍事力が一つになった。地球最大の規模を持つ対怪獣用防衛組織。主に新人類である[[ミュータント]]が防衛軍の中心となっており、メーサー殺獣光線車、轟天号、新・轟天号、ランブリング、火龍、エクレール、メーサー銃、ドッグファイター、EDF戦車などの対怪獣用の強力な兵器を有する。 ; [[S.H.I.E.L.D.]] : アメコミ版ではアメリカ合衆国をぶらつき大西洋に消えるまで、S.H.I.E.L.D.は下位組織としてゴジラを捕獲するためのゴジラスカッドを結成した。このユニットはダムダム・デュガンによって率いられ、レッドローニンと呼ばれる巨大ロボやベヒーモスとして知られている小型ヘリキャリアを使用した。 ; [[アメリカ軍]] : ハリウッド版で登場。2作とも装備は公開当時のものをそのまま反映する。『シン・ゴジラ』では[[駐日アメリカ合衆国大使館|大使館]]防衛を名目に[[B-2 (航空機)|B-2]][[ステルス機|ステルス]][[戦略爆撃機]]を3機派遣するが全機撃墜されてしまう。その後、国連を動かして熱核兵器使用を計画した。 ; 巨大不明生物災害対策本部/巨災対 : 『シン・ゴジラ』に登場。通称は巨災対。巨大不明生物(ゴジラ)の再上陸に備え設置された架空の[[災害対策本部]]。 ; 巨大不明生物統合対策本部 : 『シン・ゴジラ』に登場。政府機能の[[立川広域防災基地]]移管後に設置された組織。[[内閣総理大臣臨時代理]]を本部長、[[特命担当大臣]](巨大不明生物防災担当)に任命された矢口を副本部長とし、生き残った巨災対のメンバーを中心に構成されている。 ;[[在日米軍|在日アメリカ軍]] : 『シン・ゴジラ』に登場。本国の核ミサイル使用に反対して自衛隊に協力した。 ;地球連合 :アニメゴジラ3部作に登場。人類がエクシフ・ビルサルドと共に発足させた組織。 == 破壊された地域、建物 == 『ゴジラ』(1954年)でゴジラに[[松坂屋]]と[[和光 (商業施設)|和光]]を無断で破壊・炎上させた際にクレームが付き、和光は以後2年間ほど東宝のロケ使用を一切許可しなかった。それ以降、実在する建物を破壊する際には所有者の許可を取るようになった。しかし、ゴジラに破壊された建物はその後、業績が好調になっていたりするため、「ぜひとも次のゴジラ映画でウチを破壊してほしい」というオファーが東宝に来たことがある{{efn|『[[ゴジラvsビオランテ]]』でゴジラに破壊される[[大阪ビジネスパーク]]の[[TWIN21]]などを中心になって建設した[[パナソニックグループ|松下グループ]]に許可をもらいに行くと逆に大歓迎されたり、朝日新聞千葉版の『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』の広告に「'''今度の決戦はご当地・幕張ベイエリア!'''」というキャッチコピーが付けられたこともある。}}。平成シリーズ以降は、映画公開前後に建設される新名所を襲撃するのが恒例となった{{R|超常識30}}。 [[四国地方]]にはシリーズを通じて一度も上陸していない{{efn|『[[ゴジラvsデストロイア]]』では、ゴジラが[[愛媛県]][[伊方町]]の[[伊方発電所]]に迫るも自衛隊の攻撃によって上陸を阻止されるシーンがある。}}。なお、以下のリストにはゴジラではなく敵の怪獣や別の怪獣が破壊したもの、および怪獣の攻撃を受けた航空機などが破壊した物が複数含まれている。 === 地域 === ==== 日本国内の地域 ==== * [[北海道]] ** [[襟裳岬]](『[[ゴジラvsキングギドラ]]』{{efn|劇中の台詞にのみ登場。}}) ** 能取岬(『ゴジラvsキングギドラ』) ** [[網走|網走原野]](『ゴジラvsキングギドラ』) ** [[札幌市]](『ゴジラvsキングギドラ』{{R|超最新50}}、『[[ゴジラvsスペースゴジラ]]』) ** [[納沙布岬]](『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』) ** [[根室市]](『ゴジラ2000 ミレニアム』) * [[青森県]] ** [[青森市]](『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』) * [[山形県]] ** [[山形市]](『ゴジラvsスペースゴジラ』) * [[宮城県]] ** [[仙台市]](『[[キングコング対ゴジラ]]』、『ゴジラvsメカゴジラ』) * [[栃木県]] ** [[那須高原]](『キングコング対ゴジラ』) * [[茨城県]] ** [[東海村]](『ゴジラ2000 ミレニアム』、『[[ゴジラ×メガギラス G消滅作戦]]』) * [[千葉県]] ** [[浦安市]](『ゴジラvsメカゴジラ』) ** [[松戸市]](『キングコング対ゴジラ』) ** [[千葉市]][[美浜区]](『ゴジラvsメカゴジラ』) ** [[館山市]](『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』) * [[東京都]] ** [[品川 (東京都)|品川]](『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』〈1954年〉{{R|超常識30}}、『[[ゴジラvsデストロイア]]』、『ゴジラ×メカゴジラ』、『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』、『[[シン・ゴジラ]]』) ** [[芝浦]](『ゴジラ』〈1954年〉{{R|大百科SG118|超常識30}}、『[[ゴジラvsモスラ]]』) ** [[新橋 (東京都港区)|新橋]](『ゴジラ』〈1954年〉{{R|超常識30}}、『ゴジラ2000 ミレニアム』、『シン・ゴジラ』) ** [[銀座]](『ゴジラ』〈1954年〉{{R|超常識30}}、『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』〈1984年〉、『シン・ゴジラ』、[[ゴジラ-1.0|『ゴジラ -1.0』]]) ** [[有楽町]](『ゴジラ』〈1954年〉、『ゴジラ』〈1984年〉) ** [[永田町]](『ゴジラ』〈1954年〉、『キングコング対ゴジラ』、『[[ゴジラvsモスラ]]』、『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』、『シン・ゴジラ』) ** [[千代田区]](『ゴジラ』〈1954年〉) ** [[文京区]](『キングコング対ゴジラ』) ** [[港区 (東京都)|港区]](『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』、『[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン]]』、『[[怪獣総進撃]]』、『ゴジラvsモスラ』、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』、『[[ゴジラ FINAL WARS]]』) ** [[小笠原村]](『怪獣総進撃』、『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』) ** [[晴海 (東京都中央区)|晴海]](『ゴジラ』〈1984年〉) ** [[新宿]](『ゴジラ』〈1984年〉{{R|超最新44}}、『ゴジラvsキングギドラ』、『ゴジラ2000 ミレニアム』) ** [[伊豆大島]](『ゴジラ』〈1984年〉{{R|超常識30}}、『ゴジラvsビオランテ』{{R|超常識30}}) *** [[三原山]] (『ゴジラ』〈1984年〉{{R|超常識30}}、『[[ゴジラvsビオランテ]]』{{R|超常識30}}) ** [[赤坂 (東京都港区)|赤坂]](『ゴジラvsモスラ』、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』) ** [[天王洲アイル]](『ゴジラvsデストロイア』{{R|超常識30}}) ** [[有明 (江東区)|有明]](『ゴジラvsデストロイア』) ** [[お台場]](『ゴジラvsデストロイア』、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』{{R|超常識30}}) ** [[渋谷]](『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』) ** [[道玄坂]](『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』) ** [[虎ノ門]](『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』) ** [[大田区]](『シン・ゴジラ』) ** [[大田区|目黒区]](『シン・ゴジラ』) * [[神奈川県]] ** [[横浜市]](『三大怪獣 地球最大の決戦』{{R|超最新50}}、『ゴジラvsモスラ』{{R|超最新50}}、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』、『ゴジラ×メカゴジラ』) ** [[箱根町|箱根]](『三大怪獣 地球最大の決戦』、『ゴジラvsビオランテ』、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』)) *** [[芦ノ湖]](『ゴジラvsビオランテ』{{R|超常識30}}) *** [[大涌谷]](『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) ** [[横須賀市]](『[[メカゴジラの逆襲]]』) ** [[真鶴町]](『メカゴジラの逆襲』、『ゴジラ FINAL WARS』) ** [[小田原市]](『ゴジラvsビオランテ』{{efn|劇中の台詞にのみ登場。}}) ** [[丹沢山地|丹沢]](『ゴジラvsモスラ』) ** [[川崎市]](『[[シン・ゴジラ]]』) ** [[鎌倉市]](『シン・ゴジラ』) * [[新潟県]] ** [[妙高山]](『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) * [[山梨県]](『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) * [[静岡県]] ** [[熱海市]](『キングコング対ゴジラ』) ** [[富士宮市]](『[[怪獣大戦争]]』) ** [[朝霧高原]](『[[怪獣総進撃]]』) ** [[富士市]](『[[ゴジラ対ヘドラ]]』{{R|超常識30}}、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) ** [[御殿場市]](『[[ゴジラ対メカゴジラ]]』、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) ** [[焼津市]](『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) ** [[清水市]](現:静岡市[[清水区]])(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』) * [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]およびその周辺(『キングコング対ゴジラ』、『三大怪獣 地球最大の決戦』、『[[怪獣大戦争]]』、『怪獣総進撃』、『ゴジラ対ヘドラ』、『[[ゴジラ対メカゴジラ]]』、『ゴジラvsモスラ』、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』、『ゴジラ FINAL WARS』) * [[石川県]] ** [[能登半島|輪島海岸]](『ゴジラvsモスラ』) * [[福井県]] ** [[高浜町]](『ゴジラvsビオランテ』) * [[愛知県]] ** [[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]](『[[モスラ対ゴジラ]]』、『ゴジラvsモスラ』) * [[三重県]] ** [[鳥羽市]](『ゴジラ』〈1954年〉{{efn|劇中の大戸島は、鳥羽の石鏡町である。}}) ** [[四日市市]](『[[モスラ対ゴジラ]]』{{R|超最新48}}、『ゴジラvsキングギドラ』、『ゴジラvsメカゴジラ』) ** [[鈴鹿市]](『ゴジラvsメカゴジラ』) * [[鈴鹿山脈]](『ゴジラvsメカゴジラ』) * [[京都府]] ** [[京都市]][[下京区]]、[[東山区]](『ゴジラvsメカゴジラ』) * [[大阪府]] ** [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]、[[中央区 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[[国会議事堂]](『ゴジラ』〈1954年〉{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科SG123|超最新42|超常識30}}}}、『キングコング対ゴジラ』{{R|大百科SG123|超常識30}}、『[[ゴジラvsモスラ]]』{{R|大百科SG123|超常識30}}、『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』{{R|超常識30}}、『シン・ゴジラ』) ** [[千代田放送会館|平河町テレビ塔]](『ゴジラ』〈1954年〉{{R|大百科SG123}}) ** [[勝鬨橋]](『ゴジラ』〈1954年〉{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科SG123|超最新42|超常識30}}}}) ** [[講道館]](『キングコング対ゴジラ』) ** [[東京メトロ丸ノ内線|荻窪線]]沿線(『キングコング対ゴジラ』) ** [[後楽園駅]](『キングコング対ゴジラ』{{R|大百科SG123}}) ** [[東京タワー]](『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』{{R|大百科SG123|超常識30}}、『[[地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン]]』、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』{{R|超常識30}}、『[[ゴジラ FINAL WARS]]』) ** [[東京モノレール]](『[[怪獣総進撃]]』) ** [[霞が関ビルディング]](『怪獣総進撃』、『シン・ゴジラ』) ** [[晴海埠頭]](『[[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]』〈1984年〉{{R|大百科SG123|超最新44}}、『ゴジラvsモスラ』) ** [[数寄屋橋]]交差点(『ゴジラ』〈1984年〉) ** [[有楽町センタービル|有楽町マリオン]](『ゴジラ』〈1984年〉{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科SG119|超最新44|超常識30}}}}) ** [[東海道新幹線]](『ゴジラ』〈1984年〉『シン・ゴジラ』) ** [[有楽町]]、[[東海道新幹線]]などの高架橋(『ゴジラ』〈1984年〉) ** [[首都高速道路|首都高速]](『ゴジラ』〈1984年〉、『ゴジラvsモスラ』、『ゴジラvsデストロイア』、『ゴジラ2000 ミレニアム』、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』、『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 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FINAL WARS』) == 「ゴジラ」の愛称、ゴジラを語源とした名称を持つ人・もの == === 人物 === * [[松井秀喜]] - [[読売ジャイアンツ]]・[[ニューヨーク・ヤンキース]]などに所属していた元[[プロ野球選手]]。「ゴジラ」の愛称で呼ばれる。その縁で映画『ゴジラ×メカゴジラ』にゲスト出演した。 * [[嶋重宣]] - [[広島東洋カープ]]・[[埼玉西武ライオンズ]]に所属していた元プロ野球選手。広島時代に背番号が松井秀喜と同じ55番だったため、「[[赤ゴジラ]]」の愛称で呼ばれる。 * [[岡田貴弘]] - [[オリックス・バファローズ]]所属のプロ野球選手。背番号が上記2人と同じ55番であるということと、関西出身ということで「なにわのゴジラ」の愛称で呼ばれる。2010年度から登録名は「T-岡田」。 * [[佐伯貴弘]] - [[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]・[[中日ドラゴンズ]]に所属していた元プロ野球選手。1992年に巨人に入団した松井秀喜に対抗して、プロ入り時に自ら「メカゴジラ」と名乗る。 * [[内川聖一]] - [[福岡ソフトバンクホークス]]所属のプロ野球選手。内川のトレードマークである[[顎|アゴ]]とゴジラを掛け合わせた「アゴジラ」の愛称で呼ばれる。 * [[長谷川和彦]] - [[映画監督]]。「ゴジ」「ゴジさん」のニックネームで呼ばれている。愛称の由来については「酒を飲むとゴジラのように暴れるから」など諸説ある。子供たちにも自身を「ゴジ」と呼ばせている。 === 団体・製品 === * [[ピザーラ]](PIZZA-LA) - 社名の由来は「ピザ」と「ゴジラ」を合わせたもの。 * [[Mozilla]] - ゴジラをもじって命名された[[ウェブブラウザ]](当初は[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]の開発コードネーム)。 * [[Bugzilla]] - [[バグ]]管理システム。Mozilla同様、ゴジラにちなんで命名された。 * [[日産・スカイラインGT-R]](主にR32 - R34型)および[[日産・GT-R]] - レースでの活躍などから諸外国で「ゴジラ」と呼称されることがある。 * ゴジララーメン - [[台湾]]のラーメン店「女巫貓葵」(斗六店)にてゴジラのファンでもある店主が提供している、[[ワニ]]の前脚を具として用いたラーメン{{Refnest|group="出典"|<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/travel/35205984.html|title=ワニの脚が器からニョキ、迫力のラーメン登場 台湾|newspaper=CNN.co.jp|publisher=Cable News Network. A Warner Bros. Discovery Company|date=2023-06-30|accessdate=2023-08-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230703-2718387/|title=【閲覧注意】「ワニの足」丸ごとラーメンが誕生、「ゴジララーメン」だそう - ネット「攻めてるね」「恐怖」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-07-03|accessdate=2023-08-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://japan.thenewslens.com/article/4234|title=「ゴジラ」がラーメンの具材に⁈どうなってるの台湾人の味覚と発想【検証!台湾グルメ世界最強説】①|newspaper=ザ・ニュースレンズ・ジャパン|publisher=TNL Media Group|date=2023-07-13|accessdate=2023-08-06}}</ref>}}。 * {{仮リンク|ゴングジラ|en|Gongzilla}} - ジャズ・ロック・バンド。[[ゴング (バンド)|ゴング]]の元メンバー、関係者によって結成され、1995年のデビュー・アルバム "Suffer" のジャケットはゴングを叩くゴジラの姿が描かれている。 === 生物 === * [[ゴジラサウルス]] - 実在した[[恐竜]]の一種。命名はゴジラにちなむ。シリーズ中でゴジラの起源と設定されて登場した[[ゴジラ (平成VSシリーズ)#ゴジラザウルス|ゴジラザウルス]]とは無関係。 * [[ホグジラ]] - アメリカで射殺された、巨大なイノブタ。名の由来は「ホッグ(Hog)」と「ゴジラ(Godzilla)」を合わせたもの。 * [[ゴジラツノアリヅカムシ]] - 甲虫目ハネカクシ科の昆虫(日本産)。学名はBasitrodes godzilla Nomura。この類の第一人者である[[国立科学博物館]]の野村周平により2003年に記載された。 * [[ラニ (競走馬)|ラニ]] - 日本の[[競走馬]]。2016年の[[アメリカクラシック三冠]]参戦時には、気性の荒さを現地メディアから「ゴジラ」に例えられ<ref>{{Cite web|url=https://www.indiancharlie.com/2016/06/10/saturday-june-11-2016/|title=Saturday, June 11, 2016|website=Indian Charlie|date=2016-06-10|accessdate=2023-08-06}}</ref>{{信頼性要検証|date=2023-08-06}}<!-- 見たところ恐らく個人サイトに等しいため、より確かな出典への差し替えが望まれます。 -->、帰国後もその愛称が定着した<ref>{{Cite news|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&year=2016&month=06&day=13&id=1662436|title=ラニ3着“ゴジラ”に全米驚いた/ベルモントS|newspaper=日刊スポーツ 極ウマ|publisher=日刊スポーツNEWS|date=2016-06-13|accessdate=2023-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dir.netkeiba.com/keibamatome/gray_horse/20200920_column01.html|title=【ラニ】“ゴジラ”と呼ばれていたラニの素顔「よく食べてぐぅぐぅ寝て…」|website=netkeiba.com|publisher=ネットドリーマーズ|date=2020-09-20|accessdate=2023-08-06}}</ref>。 === その他 === * [[ゴジラ岩]] - 日本の各地においてゴジラを連想させる奇岩がこう呼ばれている。 * [[ゴジラ・メガムリオン]] - [[沖ノ鳥島]]から南東約700kmの海底にあるドーム状の岩塊。世界最大とされるその大きさからゴジラの名を冠して命名され、論文でも使われている。 * ゴジラの滑り台(神奈川県) - [[くりはま花の国]]冒険ランド内にある滑り台。[[観音崎 (神奈川県)]]にはゴジラの足跡も存在する。 * スポーツゴジラ - <!-- 東宝より商標使用の許諾を受け、 -->日本スポーツ学会が主体となって発行している季刊小冊子<ref>{{Cite web|和書|url=http://sportsnetworkjapan.com/godzilla/|title=スポーツゴジラ|publisher=スポーツネットワークジャパン|accessdate=2023-08-06}}</ref>。 * GODZILLA Room - [[フロリダ州]]マディソンブルー泉の中にある、ゴジラ人形がぶら下げられている[[テクニカルダイビング|水中洞]]。 * [[UGC 2885]] - [[ペルセウス座]]にある巨大な[[渦巻銀河]]。「ゴジラ銀河」の別名を持つ。 == パロディ作品 == <!--項目を追加する前に[[ノート:ゴジラ#本作品のパロディの項目について]]を参照してください(日本のアニメ・漫画作品の追記はご遠慮願います)。--> * [[宇宙怪獣ガメラ]] - ガメラの足下で「さらばドジラ」という当時休止中のゴジラを意識した映画の看板が横転するシーンがある。 * [[ウルトラマンマックス]] - 第11話のテレビ放映版のみ、冒頭部で子供たちがゴジラとガメラのソフビ人形を戦わせるシーンがあった{{efn|11話監督である金子修介はゴジラとガメラ双方の監督を務めた経験がある。}}{{efn|DVD・BD版はレンタル含めて著作権の問題上、該当シーンはカットされている。}}。 * [[オースティン・パワーズ#第3作|オースティン・パワーズ ゴールドメンバーズ]] - オースティンが運転する車が巨大な怪獣の人形を乗せて暴走するシーンで、ゴジラのテーマ風のBGMが流れ、さらに[[マシ・オカ]]演じる歩行者が「大人の事情でゴジラじゃないけど、ゴジラだと思って逃げなきゃ!」と語るシーンがある。 * [[ザ・シンプソンズ]] - [[Thirty Minutes Over Tokyo|シンプソン一家が日本にやってくるエピソード]]に登場。[[ラドン (架空の怪獣)|ラドン]]、[[モスラ (架空の怪獣)|モスラ]]、[[ガメラ]]も登場する。 * [[シムシティ]] - 災害としてゴジラ、または[[マリオシリーズ]]の[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]を模した怪獣が登場し、街を破壊する。 * [[スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー]] - 劇中でロボットによる世界同時多発テロが発生するが、日本だけはゴジラらしきシルエットの大怪獣に守られたという新聞記事が登場する。 * [[大怪獣東京に現わる]] - 怪獣自体は登場しないが、東京にゴジラを思わせる「トカゲ型怪獣」が出現したという設定。 * [[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]] - 冒頭、マンハッタンの露店でゴジラやスペースゴジラの人形が売られている。 * [[バンビ、ゴジラに会う]] - ゴジラが[[バンビ (童話)|バンビ]]を踏み潰す[[アニメーション映画]]。『[[GODZILLA]]』公開後には、CGアニメによるパロディ作品『Son of Bambi meets Godzilla』が製作された。こちらにはハリウッド版ゴジラが登場する。 * [[ブルー・オイスター・カルト]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハードロック]]バンド。1977年に「[[ゴジラ (ブルー・オイスター・カルトの曲)|ゴジラ]]」という曲を制作している。間奏では避難を促す日本語の臨時ニュースが聞こえる。当時のコンサートではゴジラの頭部(目が光り、口から煙が出る)がこの曲の演奏の時に登場していた。元[[スキッド・ロウ (バンド)|スキッド・ロウ]]のセバスチャン・バックも来日時に日本のファンのために歌ったことがある。 * [[マウス・ハント]] - 劇中登場する猫に「ゴジラ級に凶暴な猫」という意味で「CATZILLA(キャットジラ、日本語字幕では「ニャジラ」)」と名づけられている。 * [[マーズ・アタック!]] - 劇中に『[[ゴジラvsビオランテ]]』の映像を使用している。 * [[みんなのいえ]] - 劇中にゴジラと[[メガギラス]]が登場する。 * 福岡市ゴジラ - [[坂本龍一]]が[[NHK-FM放送]]「[[サウンドストリート]]」のDJを担当していた頃、「デモ・テープ特集」という企画で投稿されたゴジラのメインテーマに「ゴジラ・ゴジラ・ゴジラとメカゴジラ、モスラ・モスラ・モスラとメカモスラ」というような珍妙な歌詞を付けて歌った作品。同企画のコンピレーションアルバム「Demo Tape 1」に収録。 * [[桃太郎電鉄シリーズ]] - ゴジラのパロディである「ドジラ」および「ドジラース」が出現し、物件駅を破壊する。 * GO GODZILLA GO - [[SUPER EUROBEAT]]シリーズに収録されたIKAによる楽曲、歌詞もゴジラに関したものとなっている。 * [[ゾイド|メカ生体ゾイドシリーズ]] - ゾイド[[ゴジュラス]]、[[モルガ]] * その他にも、日本の多くの[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[漫画]]作品でゴジラをモチーフにしたキャラクターが登場している。 == 著作権訴訟 == 事の発端は、[[本多猪四郎]]監督の遺族がパチンコ『CRゴジラ〜破壊神降臨〜』CMでゴジラが登場していることに関し、2010年6月に[[ニューギン]]に対して本多の著作権を侵害していると抗議文を送ったもので、ニューギンは著作権を[[東宝]]が管理しているとして東宝と遺族間で交渉するものの決裂し、東宝は2010年6月に遺族に対して著作権侵害の主張は無効と訴えた。それに対し、2011年10月13日に遺族がゴジラは本多の著作物であり、商品化を東宝が勝手に許諾するのは違法と主張したうえ、1億2700万円の損害賠償を求めてニューギン、東宝、[[タカラトミー]]、[[加賀電子]]の4社に対して東京地裁に提訴していたが、2013年6月に和解が成立した。和解内容については明らかにされていない<ref>{{Cite news|author=安藤健二|date=2013-11-26|url=https://www.huffingtonpost.jp/2013/11/25/godzilla-copyright_n_4336225.html|title=ゴジラ裁判が和解、新作公開の支障なくなる 本多猪四郎監督の遺族と東宝など4社|newspaper=ハフポスト日本版|publisher=BuzzFeed Japan|accessdate=2023-08-06}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 脚注 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="怪獣大全集88">{{Harvnb|怪獣大全集|1991|p=88|loc=「制作スケジュール」}}</ref> <ref name="KHBVSM82">{{Harvnb|ヒットブックスVSモスラ|1992|p=82|loc=「ゴジラ登場 企業CM」}}</ref> <ref name="KHBVSM84">{{Harvnb|ヒットブックスVSモスラ|1992|pp=84-85|loc=「製作者インタビュー 怪獣映画は娯楽の王様です」}}</ref> <ref name="KHBVSMG93">{{Harvnb|ヒットブックスVSメカゴジラ|1993|p=93|loc=「監督インタビュー 川北紘一」}}</ref> <ref name="大百科M133">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1992|p=133|loc=構成 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 38 近日公開?『ゴジラVSバークレー』」}}</ref> <ref name="大百科M154">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1992|p=154|loc=構成 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 94 ゴジラとCM」}}</ref> <ref name="大百科MG132">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1993|pp=132 - 140|loc=「幻のゴジラ映画大公開!」}}</ref> <ref name="大百科MG151">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1993|p=151|loc=構成・執筆 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しくする 東宝怪獣映画カルト・コラム 5 日本版『スターログ』に掲載!大友克洋の『ゴジラ』」}}</ref> <ref name="大百科MG170">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1993|p=170|loc=構成・執筆 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しくする 東宝怪獣映画カルト・コラム 47 『冒険!ゴジランド』紹介」}}</ref> <ref name="大百科SG118">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1994|p=118|loc=「ゴジラはっとバスツアー 湾岸エリア」}}</ref> <ref name="大百科SG119">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1994|p=119|loc=「ゴジラはっとバスツアー 銀座エリア」}}</ref> <ref 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|id=雑誌コード:01843-05}}</ref> <ref name="U163">{{Cite journal|和書|date=2018-12-29|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.163|issue=(WINTER 2019.冬)|publisher=[[ホビージャパン]]|pages=102-105|title=円谷英二ミュージアム|isbn=978-4-7986-1842-5}}</ref> <ref name="sanspo20151016">{{Cite news|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20151016/geo15101605030004-n1.html |title= 世紀の対決実現!ゴジラ対キングコング、2020年に全米公開 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= SANKEI DIGITAL INC. |date= 2015-10-16 |accessdate= 2015-10-16 }}</ref> <ref name="PATRICK">{{Cite book|和書|author= パトリック・マシアス|authorlink=パトリック・マシアス |others = [[町山智浩]](訳) |title = オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史|year = 2006|publisher = [[太田出版]]|isbn = 978-4778310028|pages = 67 - 69|chapter = 『ゴジラ対悪魔』を作ろうとした男}}</ref> <ref name="tabletmag">{{Cite news|first=Andrew|last=Fox|date=2022-02-10|url=https://www.tabletmag.com/sections/arts-letters/articles/godzilla-jewish-hollywood|title=Godzilla’s Jewish Hollywood Friend|newspaper=Tablet Magazine|language=en|accessdate=2024-12-09}}</ref> <ref name="fangoria">{{Cite journal | last = Ed| first = Godziszewski| date =August 1979| title = Twenty-five Years with Godzilla| journal = Fangoria| volume = # 1| page = 40| publisher = Fangoria Publishing}}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == === 原作小説 === * [[香山滋]]『ゴジラ、東京にあらわる』(小説版の最新版タイトル){{ISBN2|4-265-06307-1}} * 香山滋『ゴジラとアンギラス』(『ゴジラの逆襲』の小説版『ゴジラ 大阪編』の最新版タイトル){{ISBN2|4-265-06316-0}} * 香山滋・[[福島正実]]『怪獣総進撃(怪獣小説全集1)』(本来の原作である企画書版の小説を収録){{ISBN2|4-88293-071-4}} === 資料集類 === * [[山田誠二]]『ゴジラ大全集 - 東宝特撮映画ポスターコレクション』{{ISBN2|4-88718-364-X}} * 講談社ヒットブックス([[講談社]]) ** {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集:岩畠寿明、小野浩一郎(エープロダクション)|title=ゴジラvsキングギドラ 怪獣大全集|publisher=講談社|series=講談社ヒットブックス20|date=1991-12-05|isbn=4-06-177720-3|ref={{SfnRef|怪獣大全集|1991}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 岩畠寿明、小野浩一郎(エープロダクション)|title=ゴジラvsモスラ|publisher=講談社|series=講談社ヒットブックス30|date=1992-12-18|isbn=4-06-177730-0|ref={{SfnRef|ヒットブックスVSモスラ|1992}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 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1983年8月号|publisher= 徳間書店|ref={{SfnRef|テレビランド1983年8月号|1983}}}} == 関連項目 == * [[伊福部昭]] - 「ゴジラのテーマ」の作曲者。彼が担当したゴジラなどの特撮映画のテーマをメドレー風に組み合わせた『[[SF交響ファンタジー]](第1 - 3番、「ゴジラVSキングギドラ」)』という管弦楽曲も作曲している。 * [[倉敷保雄]] - フリーアナウンサー。DVD特典のオーディオコメンタリーのほとんどで聞き手を担当。『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』公開の際に制作されたプロモーション用のテレビ番組『[[さとう珠緒]]のゴジラ研究所』ではゴジラ博士を務めた。 * [[デーモン閣下|デーモン小暮]] - ゴジラの鳴き真似コンテストに出場して優勝した実績を持つ。また、『ゴジラvsビオランテ』には本人役で出演した。 * [[クローバーフィールド/HAKAISHA|クローバーフィールド]] - 2008年公開の米映画。製作者は来日の際、[[原宿]]の[[キディランド]]でゴジラのフィギュアを見て、映画の着想を得たとのこと。エンディングで流れるBGM(全編手持ちカメラによるドキュメント風に製作されているため、基本的には劇中のBGMは無い)は東宝の怪獣映画にインスパイアされたといい、伊福部昭の曲を彷彿とさせる箇所が存在する。なお同映画の日本語パンフレット内では、ゴジラはすべて「HAKAISHA」と置き換えられて語られている。 * [[浦賀駅]] - たたら浜(観音崎)にゴジラが上陸したことにちなんで、駅の接近メロディにゴジラのテーマ曲を採用。ただし劇中においてゴジラがたたら浜に上陸するシーンは存在しない。 == 外部リンク == {{Commonscat|Godzilla (franchise)}} * {{Official website|https://godzilla.jp/|ゴジラオフィシャルサイト <nowiki>|</nowiki> 東宝}} * {{Twitter|godzilla_jp|ゴジラ}} * {{Facebook|godzilla.jp|ゴジラ}} * [https://m.youtube.com/@GodzillaOfficial Godzilla Official ゴジラ(東宝特撮)チャンネル] * [https://godzilla.store/godzillaplus/ ゴジラ+(ゴジラプラス)] - [[iOS]]・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] {{ゴジラ}} {{デフォルトソート:こしら}} [[Category:ゴジラシリーズ|*]]
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日本国憲法
日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、旧字体: 日本國憲󠄁法、英: Constitution of Japan)は、現在の日本における国家形態・統治組織等を規定している憲法。 この憲法は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としており、その原理は特に前文で明確に宣言されている。(法の前文はその法の目的・精神を述べる文章であり、憲法前文は憲法制定の由来と目的・決意などを表明する例が多い。) 1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 日本国憲法は、法学部教授の芦部信喜らの『憲法』によると硬性憲法の一つであり、「ほとんどすべての国の憲法は硬性である」。百科事典によると日本国憲法は「ブルジョア憲法」・「民定憲法」にも分類される。 法学修士・社会科学科教授の荻野雄の学術論文によると、近代~現代の国民主権では一般に、政治的権威は国民に由来すると見なされている。日本国憲法前文にも「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」ているとある。 この憲法前文は、リンカーン大統領の言葉よりも明確に「人民による指導は人民の代表者による指導」であることを示している。ただし日本やアメリカなどの憲法が定める立憲主義下では、代表者の権力乱用は、人権保障と権力分立(三権分立)により防止されている。日本国憲法前文には、国民主権の原理にあたる「主権が国民に存することを宣言」や「この憲法は、かかる原理に基くものである」との文言が含まれている。また、天皇や摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に対して憲法を尊重し、擁護する義務を課すことによって、憲法保障を担っている。 この憲法は、4998の文字数で構成される。後述のような議論があるものの、内容の大部分は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導により起草された。 日本の法体系における最高法規と明記され、この憲法の規定に違反する一切の法令等が無効とされる(日本国憲法第10章)。通称・略称として昭和憲法(しょうわけんぽう)や、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれることがある。 日本政府が「民主主義的傾向の復活・強化」などを求めたポツダム宣言を受諾すると、GHQはポツダム宣言実行のために必要だとして1945年10月、当時の幣原喜重郎内閣に対し憲法改正を指示した 草案はポツダム宣言やマッカーサーの示唆に基づき「憲法の自由主義化」と「国民主権の基本原理」を提供するために起草し、第90回帝国議会にて修正を受けたのち、昭和天皇の裁可によって成立した。日本国憲法の公布と施行に伴って施行日の5月3日は国民の祝日の一つである憲法記念日となっている。この憲法は、人権規定と統治規定を含む。後述のように諸説あるが、上諭文によって大日本帝国憲法の全面改正とされる。 1945年(昭和20年)にポツダム宣言を受諾し(日本の降伏)、同宣言の第10項「民主主義的傾向の復活強化」や「言論、宗教、思想の自由ならびに基本的人権の尊重の確立」という規定に続いて、第12項の「国民の自由意思による政治形態の決定」という規定にある通り、当初連合国側は、日本の自主的な憲法改正に期待する態度を示した。しかし、日本政府による憲法改正案の内容がGHQが期待しているものとは乖離したものであったり、後述の極東委員会による行動が、GHQ主導での憲法改正を行うきっかけとなった。また、松本試案「乙案」で、根本的な憲法語句の修正がなされた。具体的には「大日本帝国憲法→日本国憲法」「臣民→国民」「帝国議会→国会」などであった。 ダグラス・マッカーサー元帥の命令によりわずか1週間で作成された英文の民政局草案を骨子として、連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した。民政局草案(マッカーサー草案)を起草したのは、民政局長のコートニー・ホイットニーと民政局員のマイロ・ラウエルを中心としたアメリカ人スタッフである。産経新聞によれば、ホイットニーらは首相官邸に吉田茂首相を訪ねた際、官邸周辺にB29爆撃機を飛ばして受け入れを迫った。日本政府はGHQ草案を受け入れることを決定し、GHQとの協議の中で日本語に翻訳し、まとめたものを政府案として公表した。 その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法第73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、枢密院が10月29日に新憲法案を可決、改正が成立した。 極東委員会は1946年10月17日に「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、第1次吉田内閣と昭和天皇は1946年(昭和21年)11月3日、公布文の上諭を付した上で日本国憲法を公布した。上諭文は10月29日に閣議決定し、10月31日昼に吉田茂総理が昭和天皇に上奏し裁可を得た。 同憲法は大日本帝国憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令(政令)を制定することが規定されていた。 成立した新憲法は第100条の規定により、公布から6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 その新憲法には、象徴天皇制(立憲君主制)や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、戦争の放棄・戦力不保持・交戦権否認、刑事手続(犯罪捜査、裁判の手続)、最高法規性についての詳細な規定等がなされている。 個人の尊厳という日本国憲法の目的を達成するため国民主権の原則を採用し、国民主権に基づいて象徴天皇制を定め、さらに基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。 第9条については、原案が「自主性に乏しい」との意見の下、第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が追加する修正案が提示された。同時に、交戦権の否認や戦力不保持を規定した第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」が追加する修正案も提示された。 極東委員会は、第2項の修正案を侵略戦争を放棄した第1項との関連で自衛のための戦力や交戦権を認めたものと理解して、文民統制条項(第66条第2項)を入れるようGHQを通して日本政府に指示し、その通りに修正することで第9条の修正を承認された。 2023年(令和5年)3月1日現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20,973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20,972日)を追い抜いた。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の表記は旧字体かつ歴史的仮名遣である。 日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「個人の尊厳」(第13条)の理念があるとする学説がある。 樋口陽一の1992年の著述では、ジョン・ロックの思想(国民の信託による国政)では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。 また、芦部信喜の2007年の著述では、国民主権と基本的人権はともに「人間の尊厳」という最も根本的な原理に由来する、とされている。 宮澤俊義は、個人の尊厳を基本原理として三大原理を示した(詳細後述)。 日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理(日本国憲法の三大原理)があるとする学説がある。この説の起こりは、制定された日本国憲法に対して宮澤が理論的・体系的な基礎づけを考案したことである。宮澤は日本国憲法の基本原理を「個人の尊厳」に求め、そこから導出される原理として、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を示した。宮澤のこの考案は、戦後日本の憲法学の礎となった。 また宮澤は、日本国憲法の目的についても述べている。宮澤の1947年の著述によると、日本国憲法は、ポツダム宣言の条項を履行し、民主政治の確立および平和国家の建設を行うことを、その目的とする、とされている。宮澤の1959年の著述では、個人の尊厳については、第13条の個人の尊重と同意であり、個人主義の原理を表現しており、基本的人権の概念はこの個人主義に立脚する、とされている。 平和主義とは、平和状態を至上の価値とし、暴力や軍事を否定し、いかなる紛争も、合議と協調によって対応しようとするものである。憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」という文章とともに、恒久的平和を志向し、政府(国)による戦争行為の再発を防止するという要素を日本国憲法に含ませている。また、これらの平和主義的理念を、日本国憲法第9条で具体化している。9条1項で「国際平和の誠実な希求、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇やその行使を永久に放棄」するとし、2項で「軍隊その他の戦力の不保持、交戦権の否認」を規定している。正式には以下の通りである。 第二章 戦争の放棄 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 憲法9条の解釈について学説には、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはありえず憲法9条第1項で全ての戦争が放棄されていると解釈する立場(峻別不能説)、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたもので自衛戦争までは放棄されていないが、憲法9条第2項で戦力の不保持と交戦権の否認が定められた結果として全ての戦争が放棄されたと解釈する立場(遂行不能説)、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたものであり自衛戦争までは放棄されておらず、憲法9条第2項においても自衛戦争及び自衛のための戦力は放棄されていないとする立場(限定放棄説)がある。このうち限定放棄説は、憲法9条は自衛戦争を放棄しておらず自衛戦争のための「戦力」も保持しうると解釈する。 これに対して政府見解は、以下のように解釈している。 例として、以下の国会答弁がある。 平和主義という言葉は多義的である。法を離れた個人の信条などの文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味することが多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値を置き、その維持と擁護に政府が努力を払うことを意味することが多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和に繋がるとする絶対平和主義として理解されることがある。これは、第二次世界大戦での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈できること、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれることがなかったことによって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、安全保障の観点が皆無なのではないかという意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に転換していこうと努力することが、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には該当しないとする意見がある。 上記の議論から、日本政府が編成した防衛省(旧:防衛庁)の管轄下にある防衛組織である自衛隊(陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊)は外国からは事実上の軍隊(陸軍、海軍、空軍)と認識されており憲法違反とする学説もあるが、日本政府の見解では「自衛隊は戦力には該当せず、憲法上許容されている」としている。2023年3月現在、最高裁判所による憲法判断は下されていない。 日本国憲法の原本は、国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。 日本国憲法の本文は、11章103条から構成されている。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の三つからなる。とくに、第3章の人権規定には「人権カタログ」という別称がある。 日本国憲法は、本文の他に、上諭と前文が備わっている。 上諭は、あくまで単なる公布文であって憲法の構成内容ではない。しかし、制定法理との関係で問題となり、注目される。この上諭には、「日本国民の総意に基いて」という国民主権的文言と、天皇主権の帝国憲法の改正手続が並列して明記されているからである(下記「成立の法理」参照)。 前文とは、法令の条項に先立って述べる文章であって、その法令の趣旨・目的・理念などを明示するものである。日本国憲法の前文には、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原理が示されている。特に、第二次世界大戦直後という歴史的背景から、平和主義が強調され、これを根拠に個人の人権として平和的生存権を導く見解もある。もっとも、権利の内容と主体が明白ではないため、理念的な権利としてはともかく、裁判で主張できるような具体的な法的権利性を前文から直接に導き出すことは困難であると一般的には認識されている(参照:恵庭事件)。 条章構成は以下の通り。全文はウィキソースを参照のこと。各条章の詳細については条章別の記事を参照のこと。 人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権、法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権などに大別される。 まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。 また、14条では全国民の法の下の平等及び人種、信条、性別、社会的身分又は門地による政治的、経済的又は社会的関係における差別の禁止が定められる。同条2項では華族その他の貴族制度の禁止及び栄誉、勲章その他の栄典の授与による特権付与の禁止と栄典授与の世襲の禁止を定める。 同条のほか、24条に婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とした相互の協力による維持の必要性、同条2項に配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項における個人の尊厳と両性の本質的平等(男女同権)、44条に国会議員及びその選挙人資格における人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入による差別の禁止が定められている。 精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。 経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。 人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。 大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律に拠らなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。 なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則 (昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること) する者を、公務員・公的機関だけに限定していない。 受益権とは、国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権(16条)、裁判を受ける権利(32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)などがある。 社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利、労働基本権(27条、28条、労働三権)などがある。 参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。 選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の五つの要件(原則)を備えなければならない。 普通選挙とは、財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、15条3項と44条で保障される。 平等選挙とは、選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、14条1項や44条で保障され、投票価値の平等も保障されると解釈される。 自由選挙とは、投票を罰則などの制裁によって義務づけない選挙をいい、15条1項などにより保障されると解されている。 秘密選挙とは、投票内容を秘密にする選挙をいい、15条4項で保障される。 直接選挙とは、選挙人が公務員を直接に選ぶ選挙をいい、国政選挙では直接これを保障する条項はないが、地方選挙では93条2項で保障する。国民投票権は、憲法改正についてのみ認めている(96条1項)。地方自治特別法に関する住民投票権や、最高裁判所裁判官国民審査もこの権利の一種とされる。 日本国憲法は、国民主権を原則とした象徴天皇制と権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権・行政権・司法権の権力に区別する。 日本国憲法では、立法権は国会(41条)に、行政権は内閣(65条)に、司法権は裁判所(76条)に配される。 以上の事から日本は、立憲君主制と議院内閣制の政治体制の国家とされる。 日本国憲法は、第1章に天皇に関する事項を定める。 天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づくと規定される(1条)。 皇位の継承は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の規定により行われる(2条)。 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負う(3条)。 天皇は、憲法上の国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(4条)。法律の規定により、その国事に関する行為を委任することが可能(4条2項)。 皇室典範の規定により摂政を設置する時、摂政は天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、4条1項の規定を準用する(5条)。 天皇は、国会の指名(内閣総理大臣指名選挙)に基づいて内閣総理大臣を任命し(6条)、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官(最高裁判所の長である裁判官)を任命する(6条2項)。 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、憲法改正、法律、政令及び条約の公布(7条1号)・国会の召集(2号)・衆議院の解散(3号)・国会議員の総選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)の施行の公示(4号)・国務大臣及び法律が規定するその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(5号)・大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証(6号)、栄典の授与(7号)、批准書及び法律が規定するその他の外交文書の認証(8号)・外国の大使及び公使の接受(9号)・儀式の執行(10号)といった国事行為を行う(7条)。 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け若しくは賜与することは、国会の議決に基づく必要がある(8条)。 国会は、国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる(41条)。 国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)の二院で構成される(42条)。両議院は、全国民を代表して選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された議員で組織される(43条)。 衆議院議員の任期は、4年とする。ただし、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する(45条)。参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する(46条)。 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中に釈放する必要がある(50条)。 国会の常会は、毎年一回召集する(52条)。 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することが可能。衆参いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時会の召集を決定する必要がある(53条)。 衆議院が解散された時は、解散の日から40日以内に衆議院議員総選挙を行い、その選挙日から30日以内に国会を召集する必要がある(54条)。衆議院が解散された時は、参議院は同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは参議院の緊急集会を求めることが可能(54条2項)。参議院の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意がない場合には、その効力を失う(54条3項)。 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。ただし、議員の議席を失わせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする(55条)。 両議院は、議事を開き議決するには、各議院の総議員の3分の1以上の出席を必要とする(56条)。両議院の議事は、憲法上の特例を除いて、出席議員の過半数の賛成で可決し、賛成票と反対票が同数の時は、議長の採決に従う(56条2項)。 両議院の会議は、公開とする。ただし、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは、秘密会の開会が可能(57条)。両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、かつ一般に頒布する必要がある(57条2項)。出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載する必要がある(57条3項)。 衆議院議長・参議院議長、その他の役員を選任する(58条)。両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序を乱した議員を懲罰することが可能。ただし、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする(58条2項)。 法律案は、憲法上の特例を除いては、両議院で可決した時に法律となる(59条)。衆議院で可決され、参議院で異なった議決をされた法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決された時は、法律となる(59条2項)。前項の規定は、法律の規定により、衆議院が両議院協議会の開会要求をすることを妨げない(59条3項)。参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に議決しない時は、衆議院は参議院がその法律案を否決したものと見做すことが可能(59条4項)。 二院のうちでは、衆議院の優越が定められている(予算先議権:60条1項、内閣不信任決議権:69条、決議の優越:59条2項・60条2項・61条、67条2項)。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決した時に法律となり(59条1項)、予算案・条約の承認も国会の権能である(60条、61条)。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある(58条2項)。 他の二権との関係では、まず、内閣に対しては、国会に内閣総理大臣の指名権があり(67条)、衆議院には内閣不信任決議権がある(69条)。また、院の権能である国政調査権(62条)を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、裁判官弾劾裁判所を設置して、非行等により罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する(64条)。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、全裁判官は良心に従い独立して職権を行使するにあたって、国会が制定した憲法及び法律にのみ拘束される(76条3項)。 内閣は、行政権を担う(65条)。 内閣は、内閣総理大臣と国務大臣により組織される合議制の機関である(66条)。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民である必要がある(66条2項)。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うという議院内閣制が規定されている(66条3項)。 内閣の首長である内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員・参議院議員)の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙)により指名され(67条1項)、(親任式によって)天皇に任命される(6条1項)。 国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員(衆議院議員・参議院議員)の中から選ばなければならない(68条1項)。 衆議院で内閣不信任決議案が可決されるか内閣信任決議案が否決された時は、10日以内に衆議院が解散されない限り、内閣は総辞職をする必要がある(69条)。内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の実施後に初めて国会の召集があった時は、内閣は総辞職をする必要がある(70条)。前2条の場合には、内閣は新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行う(71条)。 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する(72条)。 内閣は、他の一般行政事務を行うほか、法律の誠実な執行と国務の総理、外交関係の処理、条約の締結(事前または事後に、国会の承認を必要とする)、法律の定める基準に従っての官吏に関する事務の掌理、予算案の作成と国会への提出、憲法及び法律の規定を実施する為の政令(特にその法律の委任がある場合を除いての、罰則を設けることの禁止)の制定、大赦・特赦・減刑・刑の執行の免除及び復権の決定などの事務を行う(73条)。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う(7条)。 内閣は、天皇への助言と承認を通して衆議院を解散することができる(7条3号)。内閣は、最高裁判所長官を指名し(6条2項)、その他の下級裁判所裁判官を最高裁判所が作成した名簿より任命する(79条1項)。 全ての司法権は裁判所に属し、日本の裁判所は最高裁判所とその下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所など)により構成されると規定されている(76条)。 特別裁判所を設置すること及び行政機関が終審として裁判を行うことが禁止されている(76条2項)。 裁判官のうち最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する(6条2項)。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて執行される衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける(最高裁判所裁判官国民審査)。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。 裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲(憲法違反)であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。 第7章は、財政に関する事項を定める。 国家財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義(84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。 なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。 第8章は、地方自治に関する事項を定める。 地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない(95条)。 憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保持することである。その為の規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。 98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の規定が支える。また、99条は天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。 憲法改正手続は、96条で規定されている。 まず、憲法改正案は「各議院(衆議院・参議院)の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際に行われる投票において、その過半数の賛成」を必要とする。 この憲法改正案が国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する(96条2項)。 この改正手続を規定する国民投票法(正式名称:日本国憲法の改正手続に関する法律、平成19年法律第51号)が、2007年(平成19年)5月14日に可決・成立して同年5月18日に公布され、2010年(平成22年)5月18日に施行された。 その他の論点については、「憲法改正論議」の記事を参照。 明治維新により、近世(江戸時代)の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、大日本帝国憲法(明治憲法)の制定を実現し、近代市民国家へと変貌した。1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されることで大日本帝国憲法は発布された。この憲法は明治天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主制国家となった。 神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にある事とともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。 大正時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開された。民主主義(民本主義)、自由主義、社会主義の思想が高揚、帝国議会(衆議院・貴族院)に基礎を持つ政党内閣の誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、1925年(大正14年)に25歳以上の男子による普通選挙を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「大正デモクラシー」も参照)。 大日本帝国憲法第11条には、天皇大権として陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権についての規定があった。この規定は、天皇の直接的な軍の統帥を念頭に置いた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈を巡り、ロンドン海軍軍縮会議締結の際にいわゆる統帥権干犯問題が起き、政府の介入が天皇大権を侵害するものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、文民統制が効かず民主的基盤を持たない軍が国政へ強大に関与することになる。1931年(昭和6年)には満洲(現在の中国東北部)の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊の柳条湖付近での関東軍による南満洲鉄道の線路爆破(柳条湖事件)をきっかけとする満洲事変、1937年(昭和12年)には盧溝橋での部隊衝突(盧溝橋事件)をきっかけとする日中戦争(支那事変)が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、戦時体制下において軍部主導の国政運営がなされた。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦における日本降伏の頃、アメリカ政府は大日本帝国憲法を「プロシア(プロイセン)の専制政治を父に、イギリスの議会政治を母にもつ、両性具有の生き物」と評している。法体系は、その成立の歴史によって、ドイツやフランスに代表される(ヨーロッパ)大陸法と、イギリスやアメリカ合衆国に代表されるコモン・ローとも呼ばれる英米法に二大別するのが、一般的だからである。 1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのハリー・S・トルーマン大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツの首都ベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国国民政府の蔣介石主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名で「ポツダム宣言」として発表した。 この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ 当時の鈴木貫太郎内閣(鈴木貫太郎首相)は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原子爆弾を投下し、ソ連軍は8月8日に対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持するといういわゆる「国体護持」を条件とすることを意味した。 連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、当時のアメリカ国務長官ジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。 1. 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」(SCAP) に従属する (subject to)。 1. From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms. 2. 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。 2. The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people. 日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日に昭和天皇のいわゆる「聖断」を経てポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げるといういわゆる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。9月2日、日本の政府全権が、横浜港に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。 降伏により、日本は独立国としての主権を事実上喪失し、その統治権は連合国軍最高司令官(GHQ)の制約の下に置かれ。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が神奈川県厚木市に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部(GHQ)を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。 降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。 日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣(東久邇宮稔彦王首相)の国務大臣であった近衛文麿元首相に、憲法改正を示唆した。 なおこの日、総司令部は治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇・皇室批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、10月9日に幣原内閣(幣原喜重郎首相)が成立する。 同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された。 先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。 こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。それでも近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」)をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。 かかる経緯を辿って、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を開催し、同30日に第1回調査会を開催した。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。 1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。 1. 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。 1. 天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト 2. 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。 2. 議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当 3. 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。 3. 国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト 4. 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。 4. 民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ 委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。 他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった(「国内の世論」を参照)。 憲法研究会は1945年の10月から12月にかけて活動し、憲法草案要綱を作成して、12月26日に首相官邸に提出した。GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の1月2日には、その内容に注目するとの書簡を作成した。米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が象徴天皇制を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、小西豊治は主張している。 総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。 この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。この点につき、総司令部の民政局長コートニー・ホイットニーは1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した。ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。 同2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。 しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。 そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。 2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。 1. 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。 1. Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein. 2. 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。 2. War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. 3. 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。 3. The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system. この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。以下はその会議における議事録である。 Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4 that the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself. ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。 起草に着手したホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。 As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation. It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks "were ashamed of the methods employed" by Whitney, in particular, his "threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution." 2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。 この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。 「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。 2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」)。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、昭和天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。 3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。 4月10日、第22回衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。た4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣(吉田茂首相)が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、昭和天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉顧問官を除く起立者多数で可決し。 これを受けて政府は6月20日、大日本帝国憲法第73条の憲法改正手続に従い、帝国憲法改正案を帝国議会衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日にGHQの指示なく追加した国家賠償請求権、刑事補償請求権、生存権、納税の義務などの若干の修正を加えて、圧倒的多数の賛成(投票総数429票、賛成421票、反対8票)で可決した。 続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日に若干の修正を加えて、可決した。翌10月7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。 此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手) 惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絕大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手) なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正と呼ばれる修正が行われた。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である。特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条を巡る議論では一つの論点となっている。 まず、第90回帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。 第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。 衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。 第9条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。 前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案を元にすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 この修正について、極東委員会において中華民国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊を持つ可能性があると指摘したため、文民条項の規定を要求することになった。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された上で成立に至った。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。 帝国議会における審議を通過して、10月12日に政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。10月29日、枢密院の本会議は、昭和天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、昭和天皇は憲法改正を裁可した。11月3日、日本国憲法が公布された。 同日、帝国議会貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前広場では昭和天皇と香淳皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。 本日、日本国憲法を公布せしめた。 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 公布から6ヶ月後の1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、昭和天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の国民の祝日とされている。 日本国憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行されたものの、日本が独立を回復する1952年(昭和27年)4月28日(日本国との平和条約発効)まで、連合国軍の占領下であったことから完全な効力を有していなかった。 最高裁判所は1953年(昭和28年)4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、「日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれている」として、「連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあった」と判断している。そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。 その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、GHQによる日本の占領統治が終了した時ということができる。 さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美群島、小笠原諸島、沖縄県)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日、小笠原諸島は1968年(昭和43年)6月26日、沖縄県は1972年(昭和47年)5月15日となった。そして、日本政府が実効支配していない北方領土(ソビエト連邦→ロシア実効支配)及び竹島(大韓民国実効支配)については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。 内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。以下がその調査結果である。 (民間を除く)日本国憲法の起草者は、次のとおりである。 日本国憲法の制定過程において瑕疵があるか否か、また、その瑕疵があるとして、これがため憲法自体が無効とされるか否かについても議論がある。関連項目一覧や記事中リンクなども別途参照されたい。 日本国憲法は、大日本帝国憲法に定める改正手続(第73条)を経て成立している。しかし、憲法改正には一定の限界があるとする立場(憲法改正限界説)からは、主権(統治権)が「天皇」から「国民」へ移っているため、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法ではなく、全く新しい別個の憲法であり、また国民自らが制定した民定憲法であるとする。 この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、八月革命説がある。これは、天皇及び日本政府が1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾したことで、国民の憲法制定権力を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする説である。大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の受諾で失効したと考える。その上で、大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換による混乱予防という政策的意図に基づく、と説明する。 一方、憲法改正「無」限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能で、日本国憲法への改正も問題ない。さらに、全部改正説では、日本国憲法は新憲法の制定ではなく、制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正で、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある。 この点について、日本政府は、憲法改正限界説・無限界説のいずれに立つか明示することなく「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している。 日本国憲法は米軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた1946年(昭和21年)に公布され、翌1947年(昭和22年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという押し付け憲法論が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。 ハーグ陸戦条約第43条は、次のように定めている。 これによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、従って原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている。 なお、日本政府はこの点について「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される」と答弁している。 制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、朝鮮戦争時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、1956年6月14日の上院外交委員会秘密会において国務次官補ロバートソンがハンド議員の質問への答えとして、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、エドウィン・O・ライシャワーは著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い。当時米国副大統領のジョー・バイデンは「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」としており、日本国憲法の起草者がアメリカであることを明言している。 なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の摂政であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反するので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見がある。だが、一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。 外務事務次官、駐米大使、駐独大使等を歴任した村田良平は日本国憲法前文第三項は日本文化への侮辱であると述べている。 日本国憲法の改正のための要件は、第96条に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている(硬性憲法)。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(2007年日本国憲法の改正手続に関する法律が制定された)。 2023年(令和5年)3月1日、日本国憲法は現行憲法で最長、歴史上でも廃止されたイタリア王国憲法(80年)に次いで2番目という長期間にわたって改正されていない。 東京大学のケネス・盛・マッケルウェイン准教授は、長期間改正されない理由として、議員定数や選挙制度などの政治制度を他の法律で定めているため、各法の改正で対応できたことを挙げる。日本国憲法は、基本的な事項のみが記載された簡素な構成であり、英訳した文を他国の憲法と比較すると単語数が4998と比較的短いとする。国民の権利に関する記載が多く制定当時の憲法としては先進的とし、これらを後に追加する必要がなかったことも改正されない要因とする。第二次世界大戦後の1949年に成立したインド憲法も基本的人権など先進的な要素を取り入れているが、本則で議員定数や選挙制度、州や連邦直轄領の行政などを定めている他、附則では公務員の給与や原住民の保護など細かな点を定めていることから、英訳は117369文字と日本とは対照的に極端に量が多く、2022年現在では世界最長の憲法となっている。また2010年9月時点で108の改正案が議会に提出され、そのうち94の法案が成立するなど、細かな修正のため頻繁に改正されている。 日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。 ゲオルク・イェリネックのいう国家の三要素のうち、国民(Staatsvolk)・国家権力(Staatsgewalt)に関して日本国憲法は論じているが、国家領土(Staatsgebiet)に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。日本国の領土を決定する法規範は、主として条約にある。 なお、大日本帝国憲法も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。 いわゆる国家の自己表現(Selbstdarstellung des Staates)について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的に珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。 日本国憲法の解釈は、それぞれの機関が権限の範囲内で行なっている。 法律制定にあたっての憲法解釈は、国会が行うとされている。 内閣は、法律を執行するに当たって必要とされる限りにおいて憲法を解釈するとされる。 ただし、憲法81条によって、裁判所の違憲審査権を明記しており、そのため、国会・内閣・司法による憲法の解釈の中でも、最高裁判所の行う解釈が最も強い効力を持つとされる。 GHQ民政局にて起草された憲法草案は、1946年2月10日の夜にマッカーサーに提出され、GHQ民政局内での対立を理由に、基本的人権を制限あるいは廃棄する内容での憲法改正を禁止する規定を削除することを指示し、その指示の上で、この草案を基本的に承認した。その承認の後、最終的な調整ののち、GHQ民政局草案は2月12日に完成した。改めてマッカーサーの承認を得て、2月13日に日本政府に提示され、2月22日の閣議において、日本政府はそのGHQ民政局草案の受け入れを決定した。 そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民政局の主導により起草された日本国憲法の草案と実際に施行された憲法との条文の比較は(解釈にもよるが)、以下の通りである。 大日本帝国憲法では、天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する存在(第4条)であって、神聖不可侵な存在とされた(第3条)。しかしこれらの権限は国務大臣による輔弼(advice、助言)に基づき、国務大臣による副署がなければ法的効力を有しない(第55条)。 日本国憲法(現行憲法)では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(象徴天皇制、第1条)であり「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とされた(国民主権、同条)。また、天皇は憲法に定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しないものとされた(第4条第1項)。これらの権限は内閣の助言(advice)に基づき行使され、内閣の承認を必要とする(第3条)。なお、現行憲法には日本の元首に関する規定はない。 天皇の持つ権限について新旧憲法で共通している点は、天皇が独断で命令を出したりすることは出来ず内閣の構成員である大臣の助言に基づく点、大臣の了承がなければならない点である。 一方異なる点は、助言と了承を伴う天皇の行為が国政に関わる行為かどうかである。どの大臣がどのようなことを天皇に助言するのかという要素は新旧憲法両方において書かれていないが、新憲法では国政に関わる行為に天皇が関わらない為に問題にならないこの曖昧さが、旧憲法では極めて重大な大臣同士の権限の衝突を引き起こす上に、誰が国政に責任を追うのかしばしば曖昧になることがあった。これらの権限の衝突を調停する仕組みは憲法の外に置かれた機関(憲法外機関、内大臣・枢密院など)に委ねられ、憲法外の調停機関を少数の人間が牛耳ることにより思うままに独裁的な国政を行うことさえ出来た。 帝国憲法においては、天皇の立法権協賛機関として、衆議院と貴族院からなる帝国議会が置かれていた。現行憲法では「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」たる国会が設置されている。 旧憲法には内閣および内閣総理大臣の規定は置かれず、これらは勅令である内閣官制に基づいて設置された。憲法では国務各大臣が天皇を輔弼()し、天皇に対してのみ責任を負うものとされた(第55条第1項)。内閣総理大臣および国務大臣は天皇が任免するものとされたが(第10条)、実際には元老や重臣、内大臣など、憲法外の機関が人選した。 現憲法では、内閣(第65条等)および内閣総理大臣(第6条第1項等)の規定が置かれた。天皇は国会の指名に基づいて国会議員の中から内閣総理大臣を任命し(第6条第1項)、内閣総理大臣が国務大臣を任免して内閣を組織し(第68条、第66条第1項)、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う(第66条第3項)。内閣と国会(衆議院および参議院)との関係については様々に説明されるが、議院内閣制を採用しているものと理解されている(第66条3項、第67条1項、第68条1項、第69条、第70条、第63条)。また内閣が外交を処理する権限等を持つことから、学説の多くは内閣あるいは内閣総理大臣を元首とする。 旧憲法では、国務大臣に任命される資格(任命資格)については規定されていない(第55条第1項、第10条参照)。なお、時期により変遷があるものの、勅令により、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の任命資格は現役または予備役の武官(軍人)に限られた(軍部大臣現役武官制を参照)。 現憲法では、国務大臣を「文民」に限った(第66条第2項)。「文民」の解釈については諸説あるが「旧職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義思想に深く染まっていると考えられるものは、文民ではない」と解されている。この趣旨は、軍部大臣現役武官制が軍による政治への介入を招き、軍の統制を困難にした反省から、文民統制を明文化することにある。なお、現職自衛官は文民に含まれないものの、元自衛官は文民に含まれると解されている。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならないとされた(第68条第1項但し書き)。 旧憲法では、裁判所は天皇の名により裁判を行うものとされ、裁判所構成法などにより最高の司法機関として位置付けられた大審院が存在した。 現憲法においては司法権の独立および裁判官の身分保障が明記され、憲法により設置される機関としてあらたに最高裁判所がもうけられた。 記念切手として1947年5月3日、日本国憲法施行記念として50銭、1円、2種の切手と憲法の前文が印刷された額面の2倍の売価3円の無目打小型シートが発行された。図案は懸賞募集されたもので、1946年10月に募集が受け付けられ1万2,000点の応募作から一等1点、二等3点などが選ばれた。しかし一等作品が国会議事堂を描いていたことから、当時の通常葉書の印面に酷似しているとして不採用になり、二等作品のうち2点が採用された。なお、応募の意匠は「憲法施行にふさわしいもの」とされ、「軍国主義、国家主義的、神道を象徴するもの、風景は不可」とされていた。なお、募集時には記念切手の題名は「改正憲法施行記念」であったが、発行時には「日本国憲法施行記念」に変更された。小型シートであるが2月になって追加されたもので、当初はB7サイズで予定であったが、憲法普及会から余白に憲法条文を入れるように要望が寄せられ、B6サイズという大型サイズになった。 1946年12月27日に官製記念絵葉書が額面15銭で3種発行されている。取り上げられた題材は当時の著名な日本人画家の作品で、川端龍子の「不二」、石井柏亭の「平和」、藤田嗣治の「迎日」が裏面にオフセット印刷されていた。もともと外貨獲得の手段として著名画家を起用して日本国内の観光地を描く「日本絵葉書」の企画を急遽日本国憲法公布記念として題材をふさわしいものに入れ替えて発行した。当初第二弾の発行も計画されていたが、3枚セットで売価3円と高価であったため、売れ行きが悪く結局第一弾のみで、官製絵葉書は暑中見舞いや年賀葉書を除けば数十年間発行されなかった。 橋本國彦の交響曲第2番は、日本国憲法に捧げられた。憲法普及会の委嘱を受けて書かれ、1947年に帝国劇場における「新憲法施行記念祝賀会」にて初演された。 なお作曲当時の橋本は、戦時中に書いた戦意高揚音楽への責任をとり、学科創設の際から務めた東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲科教授の職を辞した境遇にあった。 この交響曲を作曲後、橋本はかねてからの心労がたたり体調を崩し、1949年に胃がんで44歳で逝去した。 『日本国憲法』(又名:『日本国憲法 美術』、松本弦人編、TAC出版、2019年11月)。日本の戦後アート作品と、憲法条文を組み合わせて見せる形式。国際デザイン賞「東京TDC賞2021」でグランプリを獲得した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、旧字体: 日本國憲󠄁法、英: Constitution of Japan)は、現在の日本における国家形態・統治組織等を規定している憲法。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この憲法は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としており、その原理は特に前文で明確に宣言されている。(法の前文はその法の目的・精神を述べる文章であり、憲法前文は憲法制定の由来と目的・決意などを表明する例が多い。)", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、法学部教授の芦部信喜らの『憲法』によると硬性憲法の一つであり、「ほとんどすべての国の憲法は硬性である」。百科事典によると日本国憲法は「ブルジョア憲法」・「民定憲法」にも分類される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "法学修士・社会科学科教授の荻野雄の学術論文によると、近代~現代の国民主権では一般に、政治的権威は国民に由来すると見なされている。日本国憲法前文にも「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」ているとある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この憲法前文は、リンカーン大統領の言葉よりも明確に「人民による指導は人民の代表者による指導」であることを示している。ただし日本やアメリカなどの憲法が定める立憲主義下では、代表者の権力乱用は、人権保障と権力分立(三権分立)により防止されている。日本国憲法前文には、国民主権の原理にあたる「主権が国民に存することを宣言」や「この憲法は、かかる原理に基くものである」との文言が含まれている。また、天皇や摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に対して憲法を尊重し、擁護する義務を課すことによって、憲法保障を担っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この憲法は、4998の文字数で構成される。後述のような議論があるものの、内容の大部分は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導により起草された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本の法体系における最高法規と明記され、この憲法の規定に違反する一切の法令等が無効とされる(日本国憲法第10章)。通称・略称として昭和憲法(しょうわけんぽう)や、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本政府が「民主主義的傾向の復活・強化」などを求めたポツダム宣言を受諾すると、GHQはポツダム宣言実行のために必要だとして1945年10月、当時の幣原喜重郎内閣に対し憲法改正を指示した", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "草案はポツダム宣言やマッカーサーの示唆に基づき「憲法の自由主義化」と「国民主権の基本原理」を提供するために起草し、第90回帝国議会にて修正を受けたのち、昭和天皇の裁可によって成立した。日本国憲法の公布と施行に伴って施行日の5月3日は国民の祝日の一つである憲法記念日となっている。この憲法は、人権規定と統治規定を含む。後述のように諸説あるが、上諭文によって大日本帝国憲法の全面改正とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)にポツダム宣言を受諾し(日本の降伏)、同宣言の第10項「民主主義的傾向の復活強化」や「言論、宗教、思想の自由ならびに基本的人権の尊重の確立」という規定に続いて、第12項の「国民の自由意思による政治形態の決定」という規定にある通り、当初連合国側は、日本の自主的な憲法改正に期待する態度を示した。しかし、日本政府による憲法改正案の内容がGHQが期待しているものとは乖離したものであったり、後述の極東委員会による行動が、GHQ主導での憲法改正を行うきっかけとなった。また、松本試案「乙案」で、根本的な憲法語句の修正がなされた。具体的には「大日本帝国憲法→日本国憲法」「臣民→国民」「帝国議会→国会」などであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ダグラス・マッカーサー元帥の命令によりわずか1週間で作成された英文の民政局草案を骨子として、連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した。民政局草案(マッカーサー草案)を起草したのは、民政局長のコートニー・ホイットニーと民政局員のマイロ・ラウエルを中心としたアメリカ人スタッフである。産経新聞によれば、ホイットニーらは首相官邸に吉田茂首相を訪ねた際、官邸周辺にB29爆撃機を飛ばして受け入れを迫った。日本政府はGHQ草案を受け入れることを決定し、GHQとの協議の中で日本語に翻訳し、まとめたものを政府案として公表した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法第73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、枢密院が10月29日に新憲法案を可決、改正が成立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "極東委員会は1946年10月17日に「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、第1次吉田内閣と昭和天皇は1946年(昭和21年)11月3日、公布文の上諭を付した上で日本国憲法を公布した。上諭文は10月29日に閣議決定し、10月31日昼に吉田茂総理が昭和天皇に上奏し裁可を得た。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "同憲法は大日本帝国憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令(政令)を制定することが規定されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "成立した新憲法は第100条の規定により、公布から6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その新憲法には、象徴天皇制(立憲君主制)や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、戦争の放棄・戦力不保持・交戦権否認、刑事手続(犯罪捜査、裁判の手続)、最高法規性についての詳細な規定等がなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "個人の尊厳という日本国憲法の目的を達成するため国民主権の原則を採用し、国民主権に基づいて象徴天皇制を定め、さらに基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第9条については、原案が「自主性に乏しい」との意見の下、第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が追加する修正案が提示された。同時に、交戦権の否認や戦力不保持を規定した第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」が追加する修正案も提示された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "極東委員会は、第2項の修正案を侵略戦争を放棄した第1項との関連で自衛のための戦力や交戦権を認めたものと理解して、文民統制条項(第66条第2項)を入れるようGHQを通して日本政府に指示し、その通りに修正することで第9条の修正を承認された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)3月1日現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20,973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20,972日)を追い抜いた。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の表記は旧字体かつ歴史的仮名遣である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「個人の尊厳」(第13条)の理念があるとする学説がある。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "樋口陽一の1992年の著述では、ジョン・ロックの思想(国民の信託による国政)では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。 また、芦部信喜の2007年の著述では、国民主権と基本的人権はともに「人間の尊厳」という最も根本的な原理に由来する、とされている。 宮澤俊義は、個人の尊厳を基本原理として三大原理を示した(詳細後述)。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理(日本国憲法の三大原理)があるとする学説がある。この説の起こりは、制定された日本国憲法に対して宮澤が理論的・体系的な基礎づけを考案したことである。宮澤は日本国憲法の基本原理を「個人の尊厳」に求め、そこから導出される原理として、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を示した。宮澤のこの考案は、戦後日本の憲法学の礎となった。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また宮澤は、日本国憲法の目的についても述べている。宮澤の1947年の著述によると、日本国憲法は、ポツダム宣言の条項を履行し、民主政治の確立および平和国家の建設を行うことを、その目的とする、とされている。宮澤の1959年の著述では、個人の尊厳については、第13条の個人の尊重と同意であり、個人主義の原理を表現しており、基本的人権の概念はこの個人主義に立脚する、とされている。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "平和主義とは、平和状態を至上の価値とし、暴力や軍事を否定し、いかなる紛争も、合議と協調によって対応しようとするものである。憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」という文章とともに、恒久的平和を志向し、政府(国)による戦争行為の再発を防止するという要素を日本国憲法に含ませている。また、これらの平和主義的理念を、日本国憲法第9条で具体化している。9条1項で「国際平和の誠実な希求、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇やその行使を永久に放棄」するとし、2項で「軍隊その他の戦力の不保持、交戦権の否認」を規定している。正式には以下の通りである。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第二章 戦争の放棄", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "憲法9条の解釈について学説には、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはありえず憲法9条第1項で全ての戦争が放棄されていると解釈する立場(峻別不能説)、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたもので自衛戦争までは放棄されていないが、憲法9条第2項で戦力の不保持と交戦権の否認が定められた結果として全ての戦争が放棄されたと解釈する立場(遂行不能説)、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたものであり自衛戦争までは放棄されておらず、憲法9条第2項においても自衛戦争及び自衛のための戦力は放棄されていないとする立場(限定放棄説)がある。このうち限定放棄説は、憲法9条は自衛戦争を放棄しておらず自衛戦争のための「戦力」も保持しうると解釈する。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これに対して政府見解は、以下のように解釈している。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "例として、以下の国会答弁がある。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "平和主義という言葉は多義的である。法を離れた個人の信条などの文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味することが多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値を置き、その維持と擁護に政府が努力を払うことを意味することが多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和に繋がるとする絶対平和主義として理解されることがある。これは、第二次世界大戦での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈できること、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれることがなかったことによって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、安全保障の観点が皆無なのではないかという意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に転換していこうと努力することが、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には該当しないとする意見がある。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上記の議論から、日本政府が編成した防衛省(旧:防衛庁)の管轄下にある防衛組織である自衛隊(陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊)は外国からは事実上の軍隊(陸軍、海軍、空軍)と認識されており憲法違反とする学説もあるが、日本政府の見解では「自衛隊は戦力には該当せず、憲法上許容されている」としている。2023年3月現在、最高裁判所による憲法判断は下されていない。", "title": "日本国憲法の理念・基本原理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本国憲法の原本は、国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。", "title": "原本" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本国憲法の本文は、11章103条から構成されている。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の三つからなる。とくに、第3章の人権規定には「人権カタログ」という別称がある。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、本文の他に、上諭と前文が備わっている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上諭は、あくまで単なる公布文であって憲法の構成内容ではない。しかし、制定法理との関係で問題となり、注目される。この上諭には、「日本国民の総意に基いて」という国民主権的文言と、天皇主権の帝国憲法の改正手続が並列して明記されているからである(下記「成立の法理」参照)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "前文とは、法令の条項に先立って述べる文章であって、その法令の趣旨・目的・理念などを明示するものである。日本国憲法の前文には、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原理が示されている。特に、第二次世界大戦直後という歴史的背景から、平和主義が強調され、これを根拠に個人の人権として平和的生存権を導く見解もある。もっとも、権利の内容と主体が明白ではないため、理念的な権利としてはともかく、裁判で主張できるような具体的な法的権利性を前文から直接に導き出すことは困難であると一般的には認識されている(参照:恵庭事件)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "条章構成は以下の通り。全文はウィキソースを参照のこと。各条章の詳細については条章別の記事を参照のこと。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権、法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権などに大別される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、14条では全国民の法の下の平等及び人種、信条、性別、社会的身分又は門地による政治的、経済的又は社会的関係における差別の禁止が定められる。同条2項では華族その他の貴族制度の禁止及び栄誉、勲章その他の栄典の授与による特権付与の禁止と栄典授与の世襲の禁止を定める。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "同条のほか、24条に婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とした相互の協力による維持の必要性、同条2項に配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項における個人の尊厳と両性の本質的平等(男女同権)、44条に国会議員及びその選挙人資格における人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入による差別の禁止が定められている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律に拠らなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則 (昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること) する者を、公務員・公的機関だけに限定していない。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "受益権とは、国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権(16条)、裁判を受ける権利(32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)などがある。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利、労働基本権(27条、28条、労働三権)などがある。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の五つの要件(原則)を備えなければならない。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "普通選挙とは、財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、15条3項と44条で保障される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "平等選挙とは、選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、14条1項や44条で保障され、投票価値の平等も保障されると解釈される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "自由選挙とは、投票を罰則などの制裁によって義務づけない選挙をいい、15条1項などにより保障されると解されている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "秘密選挙とは、投票内容を秘密にする選挙をいい、15条4項で保障される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "直接選挙とは、選挙人が公務員を直接に選ぶ選挙をいい、国政選挙では直接これを保障する条項はないが、地方選挙では93条2項で保障する。国民投票権は、憲法改正についてのみ認めている(96条1項)。地方自治特別法に関する住民投票権や、最高裁判所裁判官国民審査もこの権利の一種とされる。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、国民主権を原則とした象徴天皇制と権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権・行政権・司法権の権力に区別する。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本国憲法では、立法権は国会(41条)に、行政権は内閣(65条)に、司法権は裁判所(76条)に配される。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "以上の事から日本は、立憲君主制と議院内閣制の政治体制の国家とされる。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、第1章に天皇に関する事項を定める。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づくと規定される(1条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "皇位の継承は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の規定により行われる(2条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負う(3条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "天皇は、憲法上の国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(4条)。法律の規定により、その国事に関する行為を委任することが可能(4条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "皇室典範の規定により摂政を設置する時、摂政は天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、4条1項の規定を準用する(5条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "天皇は、国会の指名(内閣総理大臣指名選挙)に基づいて内閣総理大臣を任命し(6条)、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官(最高裁判所の長である裁判官)を任命する(6条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、憲法改正、法律、政令及び条約の公布(7条1号)・国会の召集(2号)・衆議院の解散(3号)・国会議員の総選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)の施行の公示(4号)・国務大臣及び法律が規定するその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証(5号)・大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証(6号)、栄典の授与(7号)、批准書及び法律が規定するその他の外交文書の認証(8号)・外国の大使及び公使の接受(9号)・儀式の執行(10号)といった国事行為を行う(7条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け若しくは賜与することは、国会の議決に基づく必要がある(8条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "国会は、国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる(41条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)の二院で構成される(42条)。両議院は、全国民を代表して選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された議員で組織される(43条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "衆議院議員の任期は、4年とする。ただし、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する(45条)。参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する(46条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中に釈放する必要がある(50条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "国会の常会は、毎年一回召集する(52条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "内閣は、国会の臨時会の召集を決定することが可能。衆参いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時会の召集を決定する必要がある(53条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "衆議院が解散された時は、解散の日から40日以内に衆議院議員総選挙を行い、その選挙日から30日以内に国会を召集する必要がある(54条)。衆議院が解散された時は、参議院は同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは参議院の緊急集会を求めることが可能(54条2項)。参議院の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意がない場合には、その効力を失う(54条3項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。ただし、議員の議席を失わせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする(55条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "両議院は、議事を開き議決するには、各議院の総議員の3分の1以上の出席を必要とする(56条)。両議院の議事は、憲法上の特例を除いて、出席議員の過半数の賛成で可決し、賛成票と反対票が同数の時は、議長の採決に従う(56条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "両議院の会議は、公開とする。ただし、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは、秘密会の開会が可能(57条)。両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、かつ一般に頒布する必要がある(57条2項)。出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載する必要がある(57条3項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "衆議院議長・参議院議長、その他の役員を選任する(58条)。両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序を乱した議員を懲罰することが可能。ただし、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする(58条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "法律案は、憲法上の特例を除いては、両議院で可決した時に法律となる(59条)。衆議院で可決され、参議院で異なった議決をされた法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決された時は、法律となる(59条2項)。前項の規定は、法律の規定により、衆議院が両議院協議会の開会要求をすることを妨げない(59条3項)。参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に議決しない時は、衆議院は参議院がその法律案を否決したものと見做すことが可能(59条4項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "二院のうちでは、衆議院の優越が定められている(予算先議権:60条1項、内閣不信任決議権:69条、決議の優越:59条2項・60条2項・61条、67条2項)。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決した時に法律となり(59条1項)、予算案・条約の承認も国会の権能である(60条、61条)。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある(58条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "他の二権との関係では、まず、内閣に対しては、国会に内閣総理大臣の指名権があり(67条)、衆議院には内閣不信任決議権がある(69条)。また、院の権能である国政調査権(62条)を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、裁判官弾劾裁判所を設置して、非行等により罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する(64条)。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、全裁判官は良心に従い独立して職権を行使するにあたって、国会が制定した憲法及び法律にのみ拘束される(76条3項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "内閣は、行政権を担う(65条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "内閣は、内閣総理大臣と国務大臣により組織される合議制の機関である(66条)。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民である必要がある(66条2項)。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うという議院内閣制が規定されている(66条3項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "内閣の首長である内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員・参議院議員)の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙)により指名され(67条1項)、(親任式によって)天皇に任命される(6条1項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員(衆議院議員・参議院議員)の中から選ばなければならない(68条1項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "衆議院で内閣不信任決議案が可決されるか内閣信任決議案が否決された時は、10日以内に衆議院が解散されない限り、内閣は総辞職をする必要がある(69条)。内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の実施後に初めて国会の召集があった時は、内閣は総辞職をする必要がある(70条)。前2条の場合には、内閣は新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行う(71条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する(72条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "内閣は、他の一般行政事務を行うほか、法律の誠実な執行と国務の総理、外交関係の処理、条約の締結(事前または事後に、国会の承認を必要とする)、法律の定める基準に従っての官吏に関する事務の掌理、予算案の作成と国会への提出、憲法及び法律の規定を実施する為の政令(特にその法律の委任がある場合を除いての、罰則を設けることの禁止)の制定、大赦・特赦・減刑・刑の執行の免除及び復権の決定などの事務を行う(73条)。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う(7条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "内閣は、天皇への助言と承認を通して衆議院を解散することができる(7条3号)。内閣は、最高裁判所長官を指名し(6条2項)、その他の下級裁判所裁判官を最高裁判所が作成した名簿より任命する(79条1項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "全ての司法権は裁判所に属し、日本の裁判所は最高裁判所とその下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所など)により構成されると規定されている(76条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "特別裁判所を設置すること及び行政機関が終審として裁判を行うことが禁止されている(76条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "裁判官のうち最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する(6条2項)。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて執行される衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける(最高裁判所裁判官国民審査)。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲(憲法違反)であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "第7章は、財政に関する事項を定める。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "国家財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義(84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "第8章は、地方自治に関する事項を定める。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない(95条)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保持することである。その為の規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の規定が支える。また、99条は天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "憲法改正手続は、96条で規定されている。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "まず、憲法改正案は「各議院(衆議院・参議院)の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際に行われる投票において、その過半数の賛成」を必要とする。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "この憲法改正案が国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する(96条2項)。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "この改正手続を規定する国民投票法(正式名称:日本国憲法の改正手続に関する法律、平成19年法律第51号)が、2007年(平成19年)5月14日に可決・成立して同年5月18日に公布され、2010年(平成22年)5月18日に施行された。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "その他の論点については、「憲法改正論議」の記事を参照。", "title": "日本国憲法の構成" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "明治維新により、近世(江戸時代)の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、大日本帝国憲法(明治憲法)の制定を実現し、近代市民国家へと変貌した。1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されることで大日本帝国憲法は発布された。この憲法は明治天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主制国家となった。 神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にある事とともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "大正時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開された。民主主義(民本主義)、自由主義、社会主義の思想が高揚、帝国議会(衆議院・貴族院)に基礎を持つ政党内閣の誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、1925年(大正14年)に25歳以上の男子による普通選挙を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「大正デモクラシー」も参照)。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法第11条には、天皇大権として陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権についての規定があった。この規定は、天皇の直接的な軍の統帥を念頭に置いた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈を巡り、ロンドン海軍軍縮会議締結の際にいわゆる統帥権干犯問題が起き、政府の介入が天皇大権を侵害するものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、文民統制が効かず民主的基盤を持たない軍が国政へ強大に関与することになる。1931年(昭和6年)には満洲(現在の中国東北部)の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊の柳条湖付近での関東軍による南満洲鉄道の線路爆破(柳条湖事件)をきっかけとする満洲事変、1937年(昭和12年)には盧溝橋での部隊衝突(盧溝橋事件)をきっかけとする日中戦争(支那事変)が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、戦時体制下において軍部主導の国政運営がなされた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)の第二次世界大戦における日本降伏の頃、アメリカ政府は大日本帝国憲法を「プロシア(プロイセン)の専制政治を父に、イギリスの議会政治を母にもつ、両性具有の生き物」と評している。法体系は、その成立の歴史によって、ドイツやフランスに代表される(ヨーロッパ)大陸法と、イギリスやアメリカ合衆国に代表されるコモン・ローとも呼ばれる英米法に二大別するのが、一般的だからである。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのハリー・S・トルーマン大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツの首都ベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国国民政府の蔣介石主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名で「ポツダム宣言」として発表した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "当時の鈴木貫太郎内閣(鈴木貫太郎首相)は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原子爆弾を投下し、ソ連軍は8月8日に対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」)。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持するといういわゆる「国体護持」を条件とすることを意味した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、当時のアメリカ国務長官ジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "1. 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」(SCAP) に従属する (subject to)。 1. From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2. 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。 2. The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日に昭和天皇のいわゆる「聖断」を経てポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げるといういわゆる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。9月2日、日本の政府全権が、横浜港に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "降伏により、日本は独立国としての主権を事実上喪失し、その統治権は連合国軍最高司令官(GHQ)の制約の下に置かれ。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が神奈川県厚木市に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部(GHQ)を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣(東久邇宮稔彦王首相)の国務大臣であった近衛文麿元首相に、憲法改正を示唆した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "なおこの日、総司令部は治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇・皇室批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、10月9日に幣原内閣(幣原喜重郎首相)が成立する。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。それでも近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」)、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」)をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "かかる経緯を辿って、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を開催し、同30日に第1回調査会を開催した。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "1. 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。 1. 天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "2. 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。 2. 議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "3. 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。 3. 国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "4. 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。 4. 民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった(「国内の世論」を参照)。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "憲法研究会は1945年の10月から12月にかけて活動し、憲法草案要綱を作成して、12月26日に首相官邸に提出した。GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の1月2日には、その内容に注目するとの書簡を作成した。米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が象徴天皇制を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、小西豊治は主張している。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。この点につき、総司令部の民政局長コートニー・ホイットニーは1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した。ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "同2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "1. 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。 1. Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2. 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。 2. War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "3. 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。 3. The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。以下はその会議における議事録である。 Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "that the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "起草に着手したホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation.", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks \"were ashamed of the methods employed\" by Whitney, in particular, his \"threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution.\"", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」)。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、昭和天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "4月10日、第22回衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表し、枢密院に諮詢した。た4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣(吉田茂首相)が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、昭和天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉顧問官を除く起立者多数で可決し。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "これを受けて政府は6月20日、大日本帝国憲法第73条の憲法改正手続に従い、帝国憲法改正案を帝国議会衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日にGHQの指示なく追加した国家賠償請求権、刑事補償請求権、生存権、納税の義務などの若干の修正を加えて、圧倒的多数の賛成(投票総数429票、賛成421票、反対8票)で可決した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日に若干の修正を加えて、可決した。翌10月7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手) 惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絕大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手)", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正と呼ばれる修正が行われた。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である。特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条を巡る議論では一つの論点となっている。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "まず、第90回帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "第9条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。 前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案を元にすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "この修正について、極東委員会において中華民国代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊を持つ可能性があると指摘したため、文民条項の規定を要求することになった。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、貴族院における修正により、憲法第66条第2項として文民条項が追加された上で成立に至った。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "帝国議会における審議を通過して、10月12日に政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。10月29日、枢密院の本会議は、昭和天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、昭和天皇は憲法改正を裁可した。11月3日、日本国憲法が公布された。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "同日、帝国議会貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前広場では昭和天皇と香淳皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "本日、日本国憲法を公布せしめた。 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "公布から6ヶ月後の1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、昭和天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の国民の祝日とされている。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "日本国憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行されたものの、日本が独立を回復する1952年(昭和27年)4月28日(日本国との平和条約発効)まで、連合国軍の占領下であったことから完全な効力を有していなかった。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "最高裁判所は1953年(昭和28年)4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、「日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれている」として、「連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあった」と判断している。そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、GHQによる日本の占領統治が終了した時ということができる。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美群島、小笠原諸島、沖縄県)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日、小笠原諸島は1968年(昭和43年)6月26日、沖縄県は1972年(昭和47年)5月15日となった。そして、日本政府が実効支配していない北方領土(ソビエト連邦→ロシア実効支配)及び竹島(大韓民国実効支配)については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。", "title": "制定史" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。以下がその調査結果である。", "title": "国内の世論" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "(民間を除く)日本国憲法の起草者は、次のとおりである。", "title": "日本国憲法の起草者" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "日本国憲法の制定過程において瑕疵があるか否か、また、その瑕疵があるとして、これがため憲法自体が無効とされるか否かについても議論がある。関連項目一覧や記事中リンクなども別途参照されたい。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、大日本帝国憲法に定める改正手続(第73条)を経て成立している。しかし、憲法改正には一定の限界があるとする立場(憲法改正限界説)からは、主権(統治権)が「天皇」から「国民」へ移っているため、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法ではなく、全く新しい別個の憲法であり、また国民自らが制定した民定憲法であるとする。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、八月革命説がある。これは、天皇及び日本政府が1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾したことで、国民の憲法制定権力を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする説である。大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の受諾で失効したと考える。その上で、大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換による混乱予防という政策的意図に基づく、と説明する。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "一方、憲法改正「無」限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能で、日本国憲法への改正も問題ない。さらに、全部改正説では、日本国憲法は新憲法の制定ではなく、制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正で、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "この点について、日本政府は、憲法改正限界説・無限界説のいずれに立つか明示することなく「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "日本国憲法は米軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた1946年(昭和21年)に公布され、翌1947年(昭和22年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという押し付け憲法論が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "ハーグ陸戦条約第43条は、次のように定めている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "これによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、従って原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "なお、日本政府はこの点について「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される」と答弁している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、朝鮮戦争時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、1956年6月14日の上院外交委員会秘密会において国務次官補ロバートソンがハンド議員の質問への答えとして、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、エドウィン・O・ライシャワーは著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い。当時米国副大統領のジョー・バイデンは「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」としており、日本国憲法の起草者がアメリカであることを明言している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の摂政であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反するので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見がある。だが、一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "外務事務次官、駐米大使、駐独大使等を歴任した村田良平は日本国憲法前文第三項は日本文化への侮辱であると述べている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "日本国憲法の改正のための要件は、第96条に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている(硬性憲法)。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(2007年日本国憲法の改正手続に関する法律が制定された)。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)3月1日、日本国憲法は現行憲法で最長、歴史上でも廃止されたイタリア王国憲法(80年)に次いで2番目という長期間にわたって改正されていない。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "東京大学のケネス・盛・マッケルウェイン准教授は、長期間改正されない理由として、議員定数や選挙制度などの政治制度を他の法律で定めているため、各法の改正で対応できたことを挙げる。日本国憲法は、基本的な事項のみが記載された簡素な構成であり、英訳した文を他国の憲法と比較すると単語数が4998と比較的短いとする。国民の権利に関する記載が多く制定当時の憲法としては先進的とし、これらを後に追加する必要がなかったことも改正されない要因とする。第二次世界大戦後の1949年に成立したインド憲法も基本的人権など先進的な要素を取り入れているが、本則で議員定数や選挙制度、州や連邦直轄領の行政などを定めている他、附則では公務員の給与や原住民の保護など細かな点を定めていることから、英訳は117369文字と日本とは対照的に極端に量が多く、2022年現在では世界最長の憲法となっている。また2010年9月時点で108の改正案が議会に提出され、そのうち94の法案が成立するなど、細かな修正のため頻繁に改正されている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。", "title": "憲法典に述べられていない問題" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "ゲオルク・イェリネックのいう国家の三要素のうち、国民(Staatsvolk)・国家権力(Staatsgewalt)に関して日本国憲法は論じているが、国家領土(Staatsgebiet)に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。日本国の領土を決定する法規範は、主として条約にある。", "title": "憲法典に述べられていない問題" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "なお、大日本帝国憲法も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。", "title": "憲法典に述べられていない問題" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "いわゆる国家の自己表現(Selbstdarstellung des Staates)について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的に珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。", "title": "憲法典に述べられていない問題" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "日本国憲法の解釈は、それぞれの機関が権限の範囲内で行なっている。", "title": "憲法の解釈" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "法律制定にあたっての憲法解釈は、国会が行うとされている。", "title": "憲法の解釈" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "内閣は、法律を執行するに当たって必要とされる限りにおいて憲法を解釈するとされる。", "title": "憲法の解釈" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "ただし、憲法81条によって、裁判所の違憲審査権を明記しており、そのため、国会・内閣・司法による憲法の解釈の中でも、最高裁判所の行う解釈が最も強い効力を持つとされる。", "title": "憲法の解釈" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "GHQ民政局にて起草された憲法草案は、1946年2月10日の夜にマッカーサーに提出され、GHQ民政局内での対立を理由に、基本的人権を制限あるいは廃棄する内容での憲法改正を禁止する規定を削除することを指示し、その指示の上で、この草案を基本的に承認した。その承認の後、最終的な調整ののち、GHQ民政局草案は2月12日に完成した。改めてマッカーサーの承認を得て、2月13日に日本政府に提示され、2月22日の閣議において、日本政府はそのGHQ民政局草案の受け入れを決定した。", "title": "GHQ民政局草案との比較" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民政局の主導により起草された日本国憲法の草案と実際に施行された憲法との条文の比較は(解釈にもよるが)、以下の通りである。", "title": "GHQ民政局草案との比較" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法では、天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する存在(第4条)であって、神聖不可侵な存在とされた(第3条)。しかしこれらの権限は国務大臣による輔弼(advice、助言)に基づき、国務大臣による副署がなければ法的効力を有しない(第55条)。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "日本国憲法(現行憲法)では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(象徴天皇制、第1条)であり「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とされた(国民主権、同条)。また、天皇は憲法に定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しないものとされた(第4条第1項)。これらの権限は内閣の助言(advice)に基づき行使され、内閣の承認を必要とする(第3条)。なお、現行憲法には日本の元首に関する規定はない。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "天皇の持つ権限について新旧憲法で共通している点は、天皇が独断で命令を出したりすることは出来ず内閣の構成員である大臣の助言に基づく点、大臣の了承がなければならない点である。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "一方異なる点は、助言と了承を伴う天皇の行為が国政に関わる行為かどうかである。どの大臣がどのようなことを天皇に助言するのかという要素は新旧憲法両方において書かれていないが、新憲法では国政に関わる行為に天皇が関わらない為に問題にならないこの曖昧さが、旧憲法では極めて重大な大臣同士の権限の衝突を引き起こす上に、誰が国政に責任を追うのかしばしば曖昧になることがあった。これらの権限の衝突を調停する仕組みは憲法の外に置かれた機関(憲法外機関、内大臣・枢密院など)に委ねられ、憲法外の調停機関を少数の人間が牛耳ることにより思うままに独裁的な国政を行うことさえ出来た。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "帝国憲法においては、天皇の立法権協賛機関として、衆議院と貴族院からなる帝国議会が置かれていた。現行憲法では「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」たる国会が設置されている。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "旧憲法には内閣および内閣総理大臣の規定は置かれず、これらは勅令である内閣官制に基づいて設置された。憲法では国務各大臣が天皇を輔弼()し、天皇に対してのみ責任を負うものとされた(第55条第1項)。内閣総理大臣および国務大臣は天皇が任免するものとされたが(第10条)、実際には元老や重臣、内大臣など、憲法外の機関が人選した。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "現憲法では、内閣(第65条等)および内閣総理大臣(第6条第1項等)の規定が置かれた。天皇は国会の指名に基づいて国会議員の中から内閣総理大臣を任命し(第6条第1項)、内閣総理大臣が国務大臣を任免して内閣を組織し(第68条、第66条第1項)、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う(第66条第3項)。内閣と国会(衆議院および参議院)との関係については様々に説明されるが、議院内閣制を採用しているものと理解されている(第66条3項、第67条1項、第68条1項、第69条、第70条、第63条)。また内閣が外交を処理する権限等を持つことから、学説の多くは内閣あるいは内閣総理大臣を元首とする。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "旧憲法では、国務大臣に任命される資格(任命資格)については規定されていない(第55条第1項、第10条参照)。なお、時期により変遷があるものの、勅令により、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の任命資格は現役または予備役の武官(軍人)に限られた(軍部大臣現役武官制を参照)。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "現憲法では、国務大臣を「文民」に限った(第66条第2項)。「文民」の解釈については諸説あるが「旧職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義思想に深く染まっていると考えられるものは、文民ではない」と解されている。この趣旨は、軍部大臣現役武官制が軍による政治への介入を招き、軍の統制を困難にした反省から、文民統制を明文化することにある。なお、現職自衛官は文民に含まれないものの、元自衛官は文民に含まれると解されている。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならないとされた(第68条第1項但し書き)。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "旧憲法では、裁判所は天皇の名により裁判を行うものとされ、裁判所構成法などにより最高の司法機関として位置付けられた大審院が存在した。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "現憲法においては司法権の独立および裁判官の身分保障が明記され、憲法により設置される機関としてあらたに最高裁判所がもうけられた。", "title": "大日本帝国憲法との比較" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "記念切手として1947年5月3日、日本国憲法施行記念として50銭、1円、2種の切手と憲法の前文が印刷された額面の2倍の売価3円の無目打小型シートが発行された。図案は懸賞募集されたもので、1946年10月に募集が受け付けられ1万2,000点の応募作から一等1点、二等3点などが選ばれた。しかし一等作品が国会議事堂を描いていたことから、当時の通常葉書の印面に酷似しているとして不採用になり、二等作品のうち2点が採用された。なお、応募の意匠は「憲法施行にふさわしいもの」とされ、「軍国主義、国家主義的、神道を象徴するもの、風景は不可」とされていた。なお、募集時には記念切手の題名は「改正憲法施行記念」であったが、発行時には「日本国憲法施行記念」に変更された。小型シートであるが2月になって追加されたもので、当初はB7サイズで予定であったが、憲法普及会から余白に憲法条文を入れるように要望が寄せられ、B6サイズという大型サイズになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "1946年12月27日に官製記念絵葉書が額面15銭で3種発行されている。取り上げられた題材は当時の著名な日本人画家の作品で、川端龍子の「不二」、石井柏亭の「平和」、藤田嗣治の「迎日」が裏面にオフセット印刷されていた。もともと外貨獲得の手段として著名画家を起用して日本国内の観光地を描く「日本絵葉書」の企画を急遽日本国憲法公布記念として題材をふさわしいものに入れ替えて発行した。当初第二弾の発行も計画されていたが、3枚セットで売価3円と高価であったため、売れ行きが悪く結局第一弾のみで、官製絵葉書は暑中見舞いや年賀葉書を除けば数十年間発行されなかった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "橋本國彦の交響曲第2番は、日本国憲法に捧げられた。憲法普及会の委嘱を受けて書かれ、1947年に帝国劇場における「新憲法施行記念祝賀会」にて初演された。 なお作曲当時の橋本は、戦時中に書いた戦意高揚音楽への責任をとり、学科創設の際から務めた東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲科教授の職を辞した境遇にあった。 この交響曲を作曲後、橋本はかねてからの心労がたたり体調を崩し、1949年に胃がんで44歳で逝去した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "『日本国憲法』(又名:『日本国憲法 美術』、松本弦人編、TAC出版、2019年11月)。日本の戦後アート作品と、憲法条文を組み合わせて見せる形式。国際デザイン賞「東京TDC賞2021」でグランプリを獲得した。", "title": "文化" } ]
日本国憲法は、現在の日本における国家形態・統治組織等を規定している憲法。 この憲法は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理としており、その原理は特に前文で明確に宣言されている。(法の前文はその法の目的・精神を述べる文章であり、憲法前文は憲法制定の由来と目的・決意などを表明する例が多い。) 1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
{{半保護}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2022年9月17日 (土) 13:16 (UTC) | 正確性 = 2022/9/17 }} {{law}} {{日本の憲法典|正式名称=日本国憲法|通称・略称=昭和憲法<br/>現行憲法|制定主体=[[憲法#憲法の分類|民定憲法]]/[[日本人|日本国民]]|効力=現行法|成立=[[1946年]]([[昭和]]21年)[[10月29日]]<br />([[枢密院 (日本)|枢密院]]可決、[[昭和天皇]]裁可)|公布=1946年(昭和21年)[[11月3日]]|施行=[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]|主な内容=[[天皇]]、[[戦争]]の放棄、[[国民]]の[[権利]]及び[[義務]]、[[国会 (日本)|国会]]、[[内閣 (日本)|内閣]]、[[司法]]、[[財政]]、[[地方自治]]、改正、最高[[法規]] |元首=規定無し(諸説あり)|起草者=[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]<br/>[[日本国政府|日本政府]]など|以前の憲法=[[大日本帝国憲法]]|関連法令=[[皇室典範]]<br />[[国会法]]<br />[[内閣法]]<br />[[裁判所法]]<br />[[人身保護法 (日本)|人身保護法]]<br />[[国際法]]<br/>[[国籍法 (日本)|国籍法]]<br />[[日本国憲法の改正手続に関する法律]]<br />[[公職選挙法]]<br />[[政党助成法]]<br />[[宗教法人法]]など|条文リンク=[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=321CONSTITUTION e-Gov法令検索]|署名=[[吉田茂]] (内閣総理大臣兼外務大臣)<br/>[[幣原喜重郎]] (国務大臣・男爵)<br/>[[木村篤太郎]] (司法大臣)<br/>[[大村清一]] (内務大臣)<br/>[[田中耕太郎]] (文部大臣)<br/>[[和田博雄]] (農林大臣)<br/>[[斎藤隆夫]] (国務大臣)<br/>[[一松定吉]] (逓信大臣)<br/>[[星島二郎]] (商工大臣)<br/>[[河合良成]] (厚生大臣)<br/>[[植原悦二郎]] (国務大臣)<br/>[[平塚常次郎]] (運輸大臣)<br/>[[石橋湛山]] (大蔵大臣)<br/>[[金森徳次郎]] (国務大臣)<br/>[[膳桂之助]] (国務大臣)|憲法名=日本国憲法|構成条章=[[上諭#日本国憲法における上諭|上諭]]<br/>[[日本国憲法前文|前文]]<br/>[[日本国憲法第1章|第1章]]<br/>[[日本国憲法第2章|第2章]]<br/>[[日本国憲法第3章|第3章]]<br/>[[日本国憲法第4章|第4章]]<br/>[[日本国憲法第5章|第5章]]<br/>[[日本国憲法第6章|第6章]]<br/>[[日本国憲法第7章|第7章]]<br/>[[日本国憲法第8章|第8章]]<br/>[[日本国憲法第9章|第9章]]<br/>[[日本国憲法第10章|第10章]]<br/>[[日本国憲法第11章|第11章]]|施行期間=1947年5月3日 -|制定時内閣=[[第1次吉田内閣]]|原本=[[File:Constitution of Japan origin signatures 20140506.jpg|200px]]}} {{読み仮名_ruby不使用|'''日本国憲法'''|にほんこくけんぽう<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=321CONSTITUTION e-Gov法令検索]詳細タブ</ref>|にっぽんこくけんぽう、{{旧字体|'''日本國憲&#xe0101;法'''}}、{{lang-en-short|Constitution of Japan}}}}は、現在の[[日本]]における[[国家|国家形態]]・[[政府|統治組織]]等を規定している[[憲法]]{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}}。 この憲法は[[国民主権]]・[[人権|基本的人権の尊重]]・[[平和主義]]の三つを基本原理としており、その原理は特に[[日本国憲法前文|前文]]で明確に宣言されている{{Sfn|芦部|高橋|2019|p=35}}。(法の[[前文]]はその法の[[目的]]・[[精神]]を述べる文章であり、憲法前文は憲法制定の[[由来]]と目的・決意などを表明する例が多い{{Sfn|芦部|高橋|2019|p=35}}{{Efn|[[日本の法学者一覧#実定法学・法解釈学|法学部教授]]の[[芦部信喜]]ら{{Sfn|芦部|高橋|2019|p=奥付}}の『憲法』による{{Sfn|芦部|高橋|2019|p=35}}。}}。) [[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に[[公布]]され、[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に[[施行]]された{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}}{{Efn|『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の原文:{{Quote|現在の日本の[[国家]]形態,[[統治]]組織,統治作用を規定している憲法典。前文,11章 103条からなる。1946年11月3日公布,翌 1947年5月3日施行。日本が[[第2次世界大戦]]で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に[[無条件降伏]]をしたことにより,[[占領軍総司令部]]の強力な[[指示]],[[示唆]]のもとに,総司令部の憲法草案に依拠してできあがったもので,日本の民主的変革の基本原理を提供した。{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}}}}}}。 == 概要 == {{日本の統治機構}} {{see also|日本国憲法前文}} 日本国憲法は、[[日本の法学者一覧#実定法学・法解釈学|法学部教授]]の[[芦部信喜]]ら{{Sfn|芦部|高橋|2019|p=奥付}}の『憲法』によると[[硬性憲法]]の一つであり、「ほとんどすべての国の[[憲法]]は硬性である」{{Sfn|芦部|高橋|2019|pp=6-7}}{{Efn|[[樋口陽一]]の1992年の著作によると、日本国憲法は他の多くの国の憲法と同じように硬性憲法である{{sfn|樋口陽一|1992|p=74-75}}。}}。百科事典によると日本国憲法は「[[ブルジョア憲法]]」{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018b|p=「ブルジョア憲法」}}{{sfn|吉田|2018|p=「憲法」}}・「[[憲法#憲法の分類|民定憲法]]」にも分類される{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2020|p=「民定憲法」}}。 [[法学修士]]・[[社会科学科]][[教授]]の荻野雄<ref>{{Cite web|和書|url=https://researchmap.jp/read0183931 |title=荻野 雄 (Takeshi Ogino) - マイポータル - researchmap |accessdate=2022-09-25}}</ref>の学術論文によると、[[近代]]~[[現代_(時代区分)|現代]]の[[国民主権]]では一般に、[[政治]]的[[権威]]は[[国民]]に由来すると見なされている{{Sfn|荻野|2021|p=79,76}}{{Efn|リンカーン大統領の「人民の政府(government of the people)」という言葉はその表現例であり、人民が権威を[[委任]]した政府を意味している{{Sfn|荻野|2021|p=79}}。このような民主的体制は[[立憲主義]]下にあり、すなわち憲法は「[[主権者|最高権力者]]である国民の意志の表れ」として絶対的に尊重されねばならないと荻野は言う{{Sfn|荻野|2021|p=79}}。}}。[[日本国憲法前文]]にも「そもそも国政は、国民の厳粛な[[信託]]によるものであつて、その権威は国民に由来し」ているとある{{Sfn|荻野|2021|p=81}}。 この憲法前文は、[[ゲティスバーグ演説|リンカーン大統領の言葉]]よりも明確に「[[人民]]による指導は人民の代表者による指導」であることを示している{{Sfn|荻野|2021|p=81}}。ただし日本や[[アメリカ合衆国憲法|アメリカ]]などの憲法が定める[[立憲主義]]下では、代表者の権力乱用は、[[人権]]保障と[[権力分立]](三権分立)により防止されている{{Sfn|荻野|2021|pp=80-81}}。日本国憲法前文には、国民主権の原理にあたる「主権が国民に存することを宣言」や「この憲法は、かかる原理に基くものである」との文言が含まれている。また、[[天皇]]や[[摂政]]、[[国務大臣]]、[[日本の国会議員|国会議員]]、[[裁判官]]その他の公務員に対して[[日本国憲法第99条|憲法を尊重し、擁護する義務]]を課すことによって、[[憲法保障]]を担っている。 この憲法は、4998の文字数で構成される<ref>{{Cite web |title=Constitution Rankings |url=https://comparativeconstitutionsproject.org/ccp-rankings/ |website=Comparative Constitutions Project |access-date=2022-09-08 |language=en-US}}</ref>。後述のような議論があるものの、内容の大部分は[[マッカーサー草案|連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導]]により起草された<ref>{{Cite web |title=New Japanese constitution goes into effect |url=https://www.history.com/this-day-in-history/new-japanese-constitution-goes-into-effect |website=HISTORY |access-date=2022-08-13 |language=en |first=History com |last=Editors}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本國憲法(テキスト) {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076/076tx.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-08-16 |language=ja}}</ref>。 [[日本法|日本の法体系]]における最高法規と明記され、この憲法の規定に違反する一切の法令等が無効とされる([[日本国憲法第10章]])。通称・略称として'''昭和憲法'''(しょうわけんぽう)や、あるいは単に'''現行憲法'''(げんこうけんぽう)とも呼ばれることがある。 === 歴史的概要 === ==== 憲法改正の指示 ==== [[日本政府]]が「[[民主主義]]的傾向の復活・[[強化]]」などを求めた[[ポツダム宣言]]を受諾すると、[[GHQ]]はポツダム宣言実行のために必要だとして[[1945年]][[10月]]、当時の[[幣原喜重郎内閣]]に対し憲法改正を[[指示]]した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/contents/resume/resume_0000000626.html?lib=on |title=第38回 占領と国内改革 |access-date=2023-10-09 |publisher=日本放送協会}}</ref> 草案は[[ポツダム宣言]]や[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の示唆に基づき「'''憲法の[[自由主義]]化'''」と「'''[[国民主権]]の基本原理'''」を提供するために起草し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf |title=「日本国憲法の制定過程」に関する資料 |access-date=2022年9月16日|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本国憲法とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-110162 |website=コトバンク |access-date=2022-09-16 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>、[[第90回帝国議会]]にて修正を受けたのち、[[昭和天皇]]の裁可によって成立した。日本国憲法の公布と施行に伴って施行日の[[5月3日]]は[[国民の祝日]]の一つである[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]となっている。この憲法は、[[日本国憲法第3章|人権規定]]と統治規定を含む。後述のように諸説あるが、[[上諭|上諭文]]によって[[大日本帝国憲法]]の全面改正とされる。 [[1945年の日本|1945年]](昭和20年)に[[ポツダム宣言]]を受諾し([[日本の降伏]])、同宣言の第10項「民主主義的傾向の復活強化」や「[[言論の自由|言論]]、[[信教の自由|宗教]]、[[思想・良心の自由|思想]]の自由ならびに[[人権|基本的人権の尊重]]の確立」という規定に続いて、第12項の「国民の自由意思による政治形態の決定」という規定にある通り、当初連合国側は、日本の自主的な憲法改正に期待する態度を示した<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi002.pdf/$File/shukenshi002.pdf |title=憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要 |access-date=2022年9月16日 |format=PDF }}</ref>。しかし、日本政府による憲法改正案の内容がGHQが期待しているものとは乖離したものであったり、後述の[[極東委員会]]による行動が、GHQ主導での憲法改正を行うきっかけとなった。また、[[松本試案]]「乙案」で、根本的な憲法語句の修正がなされた。具体的には「大日本帝国憲法→日本国憲法」「臣民→国民」「帝国議会→国会」などであった<ref name=":1" />。 [[ダグラス・マッカーサー]]元帥の命令によりわずか1週間で作成された英文の[[民政局]][[マッカーサー草案|草案]]を骨子として、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領中]]に[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した<ref name="世界大百科事典日本国憲法">『[[世界大百科事典]]』([[平凡社]])「日本国憲法」の項目より{{要ページ番号|date=2020年4月}}</ref>。民政局草案([[マッカーサー草案]])を起草したのは、民政局長の[[コートニー・ホイットニー]]と民政局員の[[マイロ・ラウエル]]を中心とした[[アメリカ人]]スタッフである<ref name="constitution-us-authors">{{Cite book|title=The World Transformed:1945 to the Present|last=Hunt|first=Michael|publisher=Oxford University Press|year=2013|isbn=9780199371020|location=|pages=86|quote=|via=}}</ref><ref name="Dower(1999)">{{cite book|last=Dower|first=John W.|title=Embracing defeat: Japan in the wake of World War II|year=1999|publisher=W.W. Norton & Co/New Press.|location=New York|isbn=978-0393046861|pages=365–367|edition=1st}}</ref>。産経新聞によれば、ホイットニーらは[[首相官邸]]に吉田茂首相を訪ねた際、官邸周辺に[[B29爆撃機]]を飛ばして受け入れを迫った<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20170129-GNQ7GSH7YVNF5BTJTS5Z5PVPRA/3/ |title=押し付けられた日本国憲法 GHQの社会主義者が9日間で作る |access-date=2023-10-09}}</ref>。日本政府はGHQ草案を受け入れることを決定し、GHQとの協議の中で[[日本語]]に翻訳し、まとめたものを政府案として公表した<ref name=":4" />。 その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、[[大日本帝国憲法第73条]]の憲法改正手続に従い、[[1946年]](昭和21年)[[5月16日]]の[[第90回帝国議会]]の審議を経て若干の修正を受けた後、[[枢密院 (日本)|枢密院]]が[[10月29日]]に新憲法案を可決、改正が成立した。 [[極東委員会]]は1946年[[10月17日]]に「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、[[第1次吉田内閣]]と[[昭和天皇]]は[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]、公布文の[[上諭]]を付した上で日本国憲法を[[公布]]した<ref>憲法制定の経過に関する小委員会『[[s:憲法制定の経過に関する小委員会報告書/日本国憲法制定経過年表#1946|日本国憲法制定経過年表]]』、1961年。</ref>。上諭文は10月29日に閣議決定し、10月31日昼に[[吉田茂]]総理が昭和天皇に[[上奏]]し裁可を得た。 <blockquote {{日本国憲法/blockquote@style}}> : 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。<ref>国立国会図書館 "[https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html 憲法条文・重要文書]"。</ref> </blockquote> 同憲法は大日本帝国憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令([[政令]])を制定することが規定されていた。 <blockquote {{日本国憲法/blockquote@style}}> :;第五章 内閣 :[[日本国憲法第73条|'''第七十三条''']] 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。 ::'''六''' この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。 </blockquote> 成立した新憲法は[[日本国憲法第100条|第100条]]の規定により、公布から6か月後の翌年[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された<ref name="世界大百科事典日本国憲法" />。 その新憲法には、[[象徴天皇制]]([[立憲君主制]])や[[間接民主主義|間接民主制]]、[[権力分立|権力分立制]]、[[地方自治]]制度、[[国務大臣]]の[[文民]]規定が盛り込まれ、戦争の放棄・戦力不保持・交戦権否認、刑事手続(犯罪捜査、裁判の手続)、最高法規性についての詳細な規定等がなされている。 [[個人の尊厳]]という日本国憲法の目的を達成するため[[国民主権]]の原則を採用し、国民主権に基づいて[[象徴天皇制]]を定め、さらに[[基本的人権]]の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、[[日本国憲法第9条|戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認]]という[[平和主義]]を定める。また[[国会 (日本)|国会]]・[[内閣 (日本)|内閣]]・[[裁判所]]の[[三権分立]]の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある{{sfn|芦部信喜|2007|p=35}}<ref name="世界大百科事典日本国憲法" />。 [[日本国憲法第9条|第9条]]については、原案が「[[自主性]]に乏しい」との意見の下、第1項に「[[日本国民]]は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が追加する修正案が提示された<ref name=":3" />。同時に、[[交戦権]]の否認や戦力不保持を規定した第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」が追加する修正案も提示された<ref name=":3" />。 [[極東委員会]]は、第2項の修正案を[[侵略戦争]]を放棄した第1項との関連で自衛のための戦力や交戦権を認めたものと理解して、[[文民統制]]条項([[日本国憲法第66条|第66条]]第2項)を入れるようGHQを通して日本政府に指示し、その通りに修正することで第9条の修正を承認された<ref name=":3" />。 2023年(令和5年)3月1日現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である<ref name="asahi2017">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASK515SJQK51UEHF007.html|title=日本国憲法、実は世界最年長 長寿支える「権利」の多さ|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2018-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170519011644/https://www.asahi.com/articles/ASK515SJQK51UEHF007.html|archivedate=2017年5月19日}}(Webアーカイブ)</ref><ref group="注釈">出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。</ref>。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20,973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20,972日)を追い抜いた。日本国憲法は、[[当用漢字|当用漢字表]]と[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]の告示より前に公布されたもので、原文の表記は[[旧字体]]かつ[[歴史的仮名遣]]である。 == 日本国憲法の理念・基本原理 == === 日本国憲法の理念 === 日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「'''[[個人の尊厳]]'''」([[日本国憲法第13条|第13条]])の理念があるとする学説がある{{sfn|樋口陽一|1992|p=69}}。 [[樋口陽一]]の1992年の著述では、[[ジョン・ロック]]の思想([[ジョン・ロック#政治学、法学|国民の信託による国政]])では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。<br> また、[[芦部信喜]]の2007年の著述では、国民主権と基本的人権はともに「人間の尊厳」という最も根本的な原理に由来する、とされている{{sfn|芦部信喜|2007|p=36-37}}。<br> [[宮澤俊義]]は、個人の尊厳を基本原理として三大原理を示した(詳細後述)。 === 日本国憲法の三大原理と目的 === 日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理{{sfn|芦部信喜|2007|p=3-5}}('''日本国憲法の三大原理''')があるとする学説がある。この説の起こりは、制定された日本国憲法に対して宮澤が理論的・体系的な基礎づけを考案したことである。宮澤は日本国憲法の基本原理を「個人の尊厳」に求め、そこから導出される原理として、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を示した。宮澤のこの考案は、戦後日本の憲法学の礎となった{{sfn|高見勝利|2000|p=4-5}}。 また宮澤は、日本国憲法の目的についても述べている。宮澤の1947年の著述によると、日本国憲法は、ポツダム宣言の条項を履行し、民主政治の確立および平和国家の建設を行うことを、その目的とする、とされている{{sfn|宮澤俊義|1947|p=31}}。<br>宮澤の1959年の著述では、個人の尊厳については、第13条の個人の尊重と同意であり、[[個人主義]]の原理を表現しており、基本的人権の概念はこの個人主義に立脚する、とされている{{sfn|宮澤俊義|1959|p=192}}。 === 平和主義(戦争放棄) === {{see also|平和主義|日本国憲法第9条|日本国憲法前文}}[[平和主義]]とは、平和状態を至上の価値とし、暴力や軍事を否定し、いかなる紛争も、合議と協調によって対応しようとするものである。[[日本国憲法前文|憲法前文]]の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」という文章とともに、恒久的平和を志向し、政府(国)による戦争行為の再発を防止するという要素を日本国憲法に含ませている<ref>{{Cite book|title=ブリタニカ国際大百科事典17|url=https://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%B8%BB%E7%BE%A9|publisher=ティービーエス・ブリタニカ|date=1991}}</ref>。また、これらの平和主義的理念を、[[日本国憲法第9条]]で具体化している<ref>{{Cite web|和書|title=憲法の平和主義及び憲法前文の趣旨等に関する質問に対する答弁書:答弁本文:参議院 |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/188/touh/t188016.htm |website=www.sangiin.go.jp |access-date=2022-09-17}}</ref>。9条1項で「国際平和の誠実な希求、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇やその行使を永久に放棄」するとし、2項で「軍隊その他の戦力の不保持、交戦権の否認」を規定している。正式には以下の通りである。 {{quotation| '''[[日本国憲法第2章|第二章]] 戦争の放棄''' '''[[日本国憲法第9条|第九条]]''' 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<br/> ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 }} 憲法9条の解釈について学説には、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはありえず憲法9条第1項で全ての戦争が放棄されていると解釈する立場(峻別不能説)<ref>樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈日本国憲法上巻』(1984年)青林書院、177ページ</ref>、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたもので[[自衛戦争]]までは放棄されていないが、憲法9条第2項で戦力の不保持と交戦権の否認が定められた結果として全ての戦争が放棄されたと解釈する立場(遂行不能説)<ref>佐藤功『憲法(上)新版』(1983年)有斐閣、116-117ページ</ref>、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたものであり自衛戦争までは放棄されておらず、憲法9条第2項においても自衛戦争及び自衛のための戦力は放棄されていないとする立場(限定放棄説)<ref name="名前なし-1">大石義雄『日本憲法論(増補第2刷)』(1974年)嵯峨野書院、274-279ページ</ref>がある<ref>それぞれの学説について野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法(1) 第4版』(2006年)有斐閣、164-166ページ参照</ref>。このうち限定放棄説は、憲法9条は自衛戦争を放棄しておらず自衛戦争のための「戦力」も保持しうると解釈する<ref name="名前なし-1" />。 これに対して政府見解は、以下のように解釈している。 *「憲法9条第2項は『戦力』の保持を禁止しているという解釈のもと、これは自衛のための必要最小限度の実力を保持することを禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨である<ref>[[1954年|昭和29年]][[12月21日]]衆議院予算委員会、[[林修三]]法制局長官答弁</ref><ref>[[1957年|昭和32年]][[4月24日]]参議院予算委員会、[[岸信介]]総理答弁</ref><ref>[[1972年|昭和47年]][[11月13日]]参議院予算委員会、[[吉國一郎]]内閣法制局長官答弁</ref>」 *「交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは別概念で、後者については憲法上許容されている<ref>[[1999年|平成11年]][[9月13日]]参議院予算委員会、[[大森政輔]]内閣法制局長官答弁</ref><ref name="名前なし-2">平成11年[[3月15日]]参議院外交防衛委員会、[[秋山收]]内閣法制局第一部長答弁</ref>」 例として、以下の国会答弁がある<ref name="名前なし-2" /><ref>平成11年9月13日参議院予算委員会、大森内閣法制局長官答弁</ref>。 {{quotation|自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。一方、自衛行動と申しますのは、我が国が憲法九条のもとで許容される自衛権の行使として行う武力の行使をその内容とするものでございまして、これは外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使でございます。|平成11年3月15日 参議院外交防衛委員会、[[秋山收]][[内閣法制局]]第一部長}} {{quotation|個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。|平成11年9月13日 参議院予算委員会、[[大森政輔]][[内閣法制局長官]]}} {{要出典範囲|[[平和主義]]という言葉は多義的である。法を離れた個人の信条などの文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味することが多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値を置き、その維持と擁護に政府が努力を払うことを意味することが多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和に繋がるとする絶対平和主義として理解されることがある。これは、[[第二次世界大戦]]での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈できること、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれることがなかったことによって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、[[安全保障]]の観点が皆無なのではないかという意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に転換していこうと努力することが、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には該当しないとする意見がある。|date=2020年4月}} 上記の議論から、日本政府が編成した[[防衛省]](旧:防衛庁)の管轄下にある防衛組織である[[自衛隊]]([[陸上自衛隊]]、[[海上自衛隊]]、[[航空自衛隊]])は外国からは事実上の[[軍隊]]([[陸軍]]、[[海軍]]、[[空軍]])と認識されており憲法違反とする学説もあるが、日本政府の見解では「自衛隊は戦力には該当せず、憲法上許容されている」としている<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/kihon02.html | title = 憲法と自衛権 | publisher = [[防衛省]]・[[自衛隊]] | accessdate = 2021-01-31 }}</ref>。2023年3月現在、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]による憲法判断は下されていない。 == 原本 == {{see also|日本国憲法の原本}}{{右| [[ファイル:Nihon Kenpo01.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「上諭」(1頁目)]] [[ファイル:Nihon Kenpo02.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「[[御名御璽]]と大臣の副署」(2頁目)]] [[ファイル:Nihon Kenpo03.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「大臣の副署」「前文」(3頁目)]] }}日本国憲法の[[日本国憲法の原本|原本]]は、[[国立公文書館]]に保管されており、不定期に公開されている<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017043000342&g=soc 日本国憲法原本など公開=施行70年で特別展-東京:時事ドットコム] - [[時事通信社]]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref>。 == 日本国憲法の構成 == 日本国憲法の本文は、11章103条から構成されている。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の三つからなる。とくに、[[日本国憲法第3章|第3章]]の人権規定には「人権カタログ」という別称がある。 日本国憲法は、本文の他に、上諭と前文が備わっている。 '''[[上諭]]は'''、あくまで単なる公布文であって'''憲法の構成内容ではない'''。しかし、制定法理との関係で問題となり、注目される。この上諭には、「日本国民の総意に基いて」という[[国民主権]]的文言と、[[天皇主権]]の[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]の改正手続が並列して明記されているからである(下記「[[日本国憲法#成立の法理|成立の法理]]」参照)。 [[前文]]とは、法令の条項に先立って述べる文章であって、その法令の趣旨・目的・理念などを明示するものである。日本国憲法の[[日本国憲法前文|前文]]には、[[国民主権]]、[[基本的人権]]の尊重、[[平和主義]]という日本国憲法の三大原理が示されている。特に、[[第二次世界大戦]]直後という歴史的背景から、平和主義が強調され、これを根拠に個人の人権として[[平和的生存権]]を導く見解もある。もっとも、権利の内容と主体が明白ではないため、理念的な権利としてはともかく、裁判で主張できるような具体的な法的権利性を前文から直接に導き出すことは困難であると一般的には認識されている(参照:[[恵庭事件]])。 === 条章構成 === {{Wikisource|日本國憲法|日本国憲法}}条章構成は以下の通り。全文はウィキソースを参照のこと。各条章の詳細については条章別の記事を参照のこと。 ==== 上諭・前文 ==== * [[上諭]] * [[日本国憲法前文|前文]] [[ファイル:Politics Under Constitution of Japan 02.png|thumb|300px|日本国憲法下の統治機構図]] ==== 本文 ==== * [[日本国憲法第1章|第1章]] [[天皇]] **[[日本国憲法第1条|第1条]] - [[日本国憲法第8条|第8条]] * [[日本国憲法第2章|第2章]] [[戦争]]の放棄 **[[日本国憲法第9条|第9条]] * [[日本国憲法第3章|第3章]] [[国民]]の[[権利]]及び[[義務]] **[[日本国憲法第10条|第10条]] - [[日本国憲法第40条|第40条]] * [[日本国憲法第4章|第4章]] [[国会 (日本)|国会]] **[[日本国憲法第41条|第41条]] - [[日本国憲法第64条|第64条]] * [[日本国憲法第5章|第5章]] [[内閣]] **[[日本国憲法第65条|第65条]] - [[日本国憲法第75条|第75条]] * [[日本国憲法第6章|第6章]] [[司法]] **[[日本国憲法第76条|第76条]] - [[日本国憲法第82条|第82条]] * [[日本国憲法第7章|第7章]] [[財政]] **[[日本国憲法第83条|第83条]] - [[日本国憲法第91条|第91条]] * [[日本国憲法第8章|第8章]] [[地方自治]] **[[日本国憲法第92条|第92条]] - [[日本国憲法第94条|第95条]] * [[日本国憲法第9章|第9章]] [[憲法改正|改正]] **[[日本国憲法第96条|第96条]] * [[日本国憲法第10章|第10章]] 最高法規 **[[日本国憲法第97条|第97条]] - [[日本国憲法第99条|第99条]] * [[日本国憲法第11章|第11章]] 補則 **[[日本国憲法第100条|第100条]] - [[日本国憲法第103条|第103条]] === 人権規定 === [[人権]]規定は、主に[[日本国憲法第3章|第3章]]にまとめられている。人権は、包括的[[自由権]]、[[法の下の平等]]、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権などに大別される。 ==== 包括的自由権と法の下の平等 ==== まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・[[幸福追求権]]([[日本国憲法第13条|13条]])がある。[[プライバシー]]の権利、[[自己決定権]]などの[[新しい人権]]は、同条により保障される。 また、[[日本国憲法第14条|14条]]では全国民の[[法の下の平等]]及び[[人種]]、[[信条]]、[[性別]]、社会的[[身分]]又は[[門地]]による[[政治]]的、[[経済]]的又は[[社会]]的関係における[[差別]]の禁止が定められる。同条2項では[[華族]]その他の[[貴族]]制度の禁止及び栄誉、[[勲章 (日本)|勲章]]その他の栄典の授与による特権付与の禁止と栄典授与の世襲の禁止を定める。 同条のほか、[[日本国憲法第24条|24条]]に[[結婚|婚姻]]は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とした相互の協力による維持の必要性、同条2項に[[配偶者]]の選択、[[財産権]]、[[相続]]、[[住宅|住居]]の選定、[[離婚]]並びに婚姻及び[[家族]]に関するその他の事項における個人の尊厳と両性の本質的平等([[男女同権]])、[[日本国憲法第44条|44条]]に国会議員及びその選挙人資格における人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入による差別の禁止が定められている。 ==== 精神的自由 ==== [[自由権|精神的自由]]のうち、[[内面の自由]]としては、[[思想・良心の自由]]([[日本国憲法第19条|19条]])、[[信教の自由]]([[日本国憲法第20条|20条]])、[[学問の自由]]([[日本国憲法第23条|23条]])がある。20条1項(後段)及び3項は[[日本国憲法第89条|89条]]と共に、[[政教分離原則]]を定める。[[学問の自由]]からは、[[大学]]の自治および[[学校]]の自治が導き出される。[[表現の自由]]は[[日本国憲法第21条|21条]]に定められる。同条では、明文にある[[集会の自由]]・[[結社の自由]]・[[出版]]の自由や[[言論の自由]]のほか、[[知る権利]]、[[報道の自由]]・取材の自由、[[選挙運動]]の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、[[検閲]]の禁止と[[通信の秘密]]が保障されている。 ==== 経済的自由 ==== [[自由権|経済的自由]]としては、まず[[日本国憲法第22条|22条1項]]では、[[職業選択の自由]]を保障している。ここからは[[営業の自由]]が導き出される。また2項と共に、[[居住移転の自由]]、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。[[日本国憲法第29条|29条]]では、[[財産権]]が保障されている。 ==== 人身の自由 ==== [[自由権|人身の自由]]は、まず[[日本国憲法第18条|18条]]で、[[奴隷]]的拘束からの自由が定められる。[[日本国憲法第31条|31条]]では[[適正手続]]の保障が規定される。[[刑事手続]]に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由([[日本国憲法第34条|34条]])、[[住宅|住居]]等への不可侵([[日本国憲法第35条|35条]])など[[被疑者]]の権利と、[[公務員]]による[[拷問]]及び残虐な[[刑罰]]の禁止([[日本国憲法第36条|36条]])、公平な[[裁判所]]の迅速な[[公開裁判]]を受ける権利、[[証人審問権]]・喚問権、[[弁護人依頼権]]([[日本国憲法第37条|37条]])、[[自己負罪拒否特権]]([[日本国憲法第38条|38条]]、[[黙秘権]])、[[刑罰不遡及]]([[日本国憲法第39条|39条]])、[[二重の危険]]の禁止([[一事不再理]]、[[日本国憲法第39条|39条]])など[[被告人]]の権利がある。 [[大日本帝国憲法]]体制からの経験則として、[[英米法]]の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律に拠らなければ、[[逮捕]]・[[監禁]]・[[審問]]・[[処罰]]を受けないと定めていたが、実際には[[日本の警察|警察]]による[[拷問]]などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。 なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は[[人身保護法 (日本)|人身保護法]]([[1948年|昭和23年]]法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、[[最高裁判所規則]]である、* [https://www.courts.go.jp/toukei_siryou/kisokusyu/minzi_kisoku/minzi_kisoku_53/index.html 人身保護規則] (昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として[[民事訴訟]]の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を[[拘束]](人身の自由を奪ったり制限すること) する者を、公務員・公的機関だけに限定していない。 ==== 受益権 ==== [[受益権]]とは、[[国務請求権]]ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、[[請願権]]([[日本国憲法第16条|16条]])、[[裁判を受ける権利]]([[日本国憲法第32条|32条]])、[[国家賠償]]請求権([[日本国憲法第17条|17条]])、[[刑事補償]]請求権([[日本国憲法第40条|40条]])などがある。 ==== 社会権 ==== [[社会権]]とは、個人の生存・[[教育]]・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。[[社会権]]には、[[生存権]]([[日本国憲法第25条|25条]])、[[教育を受ける権利]]([[日本国憲法第26条|26条]])、[[労働|勤労]]の権利、[[労働基本権]]([[日本国憲法第27条|27条]]、[[日本国憲法第28条|28条]]、[[労働三権]])などがある。 ==== 参政権 ==== [[参政権]]とは、国民が[[政治]]に参与する権利である。[[日本国憲法第15条|15条]]で、[[選挙権]]・[[被選挙権]]・[[国民投票]]権などの参政権を保障している。 選挙権は、[[普通選挙]]、[[平等選挙]]、[[自由選挙]]、[[秘密選挙]]、[[直接選挙]]の五つの要件(原則)を備えなければならない。 普通選挙とは、財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、[[日本国憲法第15条|15条3項]]と[[日本国憲法第44条|44条]]で保障される。 平等選挙とは、選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、[[日本国憲法第14条|14条1項]]や[[日本国憲法第44条|44条]]で保障され、[[一票の格差|投票価値の平等]]も保障されると解釈される。 自由選挙とは、投票を[[罰則]]などの制裁によって義務づけない選挙をいい、[[日本国憲法第15条|15条1項]]などにより保障されると解されている。 秘密選挙とは、投票内容を秘密にする選挙をいい、[[日本国憲法第15条|15条4項]]で保障される。 直接選挙とは、選挙人が[[公務員]]を直接に選ぶ選挙をいい、[[国政選挙]]では直接これを保障する条項はないが、[[地方選挙]]では[[日本国憲法第93条|93条2項]]で保障する。国民投票権は、[[憲法改正]]についてのみ認めている([[日本国憲法第96条|96条1項]])。[[地方自治特別法]]に関する住民投票権や、[[最高裁判所裁判官国民審査]]もこの権利の一種とされる。 === 統治規定 === 日本国憲法は、[[国民主権]]を原則とした[[象徴天皇制]]と[[権力分立制]](三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、[[自由主義]]をその背後の原理とする。通常、[[立法|立法権]]・[[行政|行政権]]・[[司法|司法権]]の権力に区別する。 日本国憲法では、立法権は[[国会 (日本)|国会]]([[日本国憲法第41条|41条]])に、行政権は[[内閣 (日本)|内閣]]([[日本国憲法第65条|65条]])に、司法権は[[日本の裁判所|裁判所]]([[日本国憲法第76条|76条]])に配される。 以上の事から日本は、[[立憲君主制]]と[[議院内閣制]]の政治体制の国家とされる。 ==== 天皇 ==== 日本国憲法は、[[日本国憲法第1章|第1章]]に[[天皇]]に関する事項を定める。 天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づくと規定される([[日本国憲法第1条|1条]])。 [[皇位継承|皇位の継承]]は、[[世襲]]のものであって、[[国会 (日本)|国会]]の議決した[[皇室典範]]の規定により行われる([[日本国憲法第2条|2条]])。 天皇の国事に関する全ての行為には、[[内閣 (日本)|内閣]]の助言と承認を必要とし、内閣が責任を負う([[日本国憲法第3条|3条]])。 天皇は、憲法上の国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない([[日本国憲法第4条|4条]])。法律の規定により、その国事に関する行為を委任することが可能(4条2項)。 皇室典範の規定により[[摂政]]を設置する時、摂政は天皇の名でその国事に関する行為を行う。この場合には、4条1項の規定を準用する([[日本国憲法第5条|5条]])。 天皇は、国会の指名([[内閣総理大臣指名選挙]])に基づいて[[内閣総理大臣]]を任命し([[日本国憲法第6条|6条]])、内閣の指名に基づいて[[最高裁判所長官]]([[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の長である[[裁判官]])を任命する(6条2項)。 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、[[憲法改正]]、[[法律]]、[[政令]]及び[[条約]]の公布(7条1号)・[[国会 (日本)|国会]]の召集(2号)・[[衆議院解散|衆議院の解散]](3号)・[[日本の国会議員|国会議員]]の総選挙([[衆議院議員総選挙]]・[[参議院議員通常選挙]])の施行の公示(4号)・[[国務大臣]]及び法律が規定するその他の[[官吏]]の任免並びに全権委任状及び[[大使]]及び[[公使]]の信任状の認証(5号)・[[恩赦|大赦、特赦、減刑]]、[[刑罰|刑]]の執行の免除及び復権の認証(6号)、[[日本の栄典|栄典]]の授与(7号)、[[批准]]書及び法律が規定するその他の[[外交]]文書の認証(8号)・外国の大使及び公使の接受(9号)・[[儀式]]の執行(10号)といった国事行為を行う([[日本国憲法第7条|7条]])。 [[皇室]]に[[財産]]を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け若しくは賜与することは、国会の議決に基づく必要がある([[日本国憲法第8条|8条]])。 ==== 国会 ==== [[国会 (日本)|国会]]は、国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる([[日本国憲法第41条|41条]])。 国会は、[[衆議院]]([[下院]])と[[参議院]]([[上院]])の[[両院制|二院]]で構成される([[日本国憲法第42条|42条]])。両議院は、全国民を代表して選挙([[衆議院議員総選挙]]・[[参議院議員通常選挙]])により選出された議員で組織される([[日本国憲法第43条|43条]])。 衆議院議員の任期は、4年とする。ただし、[[衆議院解散]]の場合には、その期間満了前に終了する([[日本国憲法第45条|45条]])。参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する([[日本国憲法第46条|46条]])。 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中に釈放する必要がある([[日本国憲法第50条|50条]])。 国会の常会は、毎年一回召集する([[日本国憲法第52条|52条]])。 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することが可能。衆参いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時会の召集を決定する必要がある([[日本国憲法第53条|53条]])。 衆議院が解散された時は、解散の日から40日以内に[[衆議院議員総選挙]]を行い、その選挙日から30日以内に国会を召集する必要がある([[日本国憲法第54条|54条]])。衆議院が解散された時は、参議院は同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは[[参議院の緊急集会]]を求めることが可能(54条2項)。参議院の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後10日以内に衆議院の同意がない場合には、その効力を失う(54条3項)。 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。ただし、議員の議席を失わせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする([[日本国憲法第55条|55条]])。 両議院は、議事を開き議決するには、各議院の総議員の3分の1以上の出席を必要とする([[日本国憲法第56条|56条]])。両議院の議事は、憲法上の特例を除いて、出席議員の過半数の賛成で可決し、賛成票と反対票が同数の時は、議長の採決に従う(56条2項)。 両議院の会議は、公開とする。ただし、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは、秘密会の開会が可能([[日本国憲法第57条|57条]])。両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、かつ一般に頒布する必要がある(57条2項)。出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載する必要がある(57条3項)。 [[衆議院議長]]・[[参議院議長]]、その他の役員を選任する([[日本国憲法第58条|58条]])。両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序を乱した議員を懲罰することが可能。ただし、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする(58条2項)。 法律案は、憲法上の特例を除いては、両議院で可決した時に法律となる([[日本国憲法第59条|59条]])。衆議院で可決され、参議院で異なった議決をされた法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決された時は、法律となる(59条2項)。前項の規定は、法律の規定により、衆議院が両議院協議会の開会要求をすることを妨げない(59条3項)。参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に議決しない時は、衆議院は参議院がその法律案を否決したものと見做すことが可能(59条4項)。 二院のうちでは、[[衆議院の優越]]が定められている(予算先議権:[[日本国憲法第60条|60条1項]]、[[内閣不信任決議]]権:[[日本国憲法第69条|69条]]、決議の優越:[[日本国憲法第59条|59条2項]]・[[日本国憲法第60条|60条2項]]・[[日本国憲法第61条|61条]]、[[日本国憲法第67条|67条2項]])。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決した時に[[法律]]となり([[日本国憲法第59条|59条1項]])、[[予算]]案・[[条約]]の承認も国会の権能である([[日本国憲法第60条|60条]]、[[日本国憲法第61条|61条]])。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある([[日本国憲法第58条|58条2項]])。 他の二権との関係では、まず、[[内閣 (日本)|内閣]]に対しては、国会に[[内閣総理大臣指名選挙|内閣総理大臣の指名権]]があり([[日本国憲法第67条|67条]])、衆議院には[[内閣不信任決議]]権がある([[日本国憲法第69条|69条]])。また、院の権能である[[国政調査権]]([[日本国憲法第62条|62条]])を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、[[裁判官弾劾裁判所]]を設置して、非行等により罷免の訴追を受けた裁判官を裁判する([[日本国憲法第64条|64条]])。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、全裁判官は良心に従い独立して職権を行使するにあたって、国会が制定した憲法及び[[法律]]にのみ拘束される([[日本国憲法第76条|76条3項]])。 ==== 内閣 ==== [[内閣 (日本)|内閣]]は、[[行政]]権を担う([[日本国憲法第65条|65条]])。 内閣は、[[内閣総理大臣]]と[[国務大臣]]により組織される合議制の機関である([[日本国憲法第66条|66条]])。内閣総理大臣その他の国務大臣は、[[文民]]である必要がある(66条2項)。内閣は、行政権の行使について、[[国会 (日本)|国会]]に対し連帯して責任を負うという[[議院内閣制]]が規定されている(66条3項)。 内閣の首長である内閣総理大臣は、[[日本の国会議員|国会議員]]([[衆議院]]議員・[[参議院]]議員)の中から[[国会 (日本)|国会]]の議決([[内閣総理大臣指名選挙]])により指名され([[日本国憲法第67条|67条1項]])、([[親任式]]によって)[[天皇]]に任命される([[日本国憲法第6条|6条1項]])。 国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員(衆議院議員・参議院議員)の中から選ばなければならない([[日本国憲法第68条|68条1項]])。 [[衆議院]]で[[内閣不信任決議]]案が可決されるか内閣信任決議案が否決された時は、10日以内に[[衆議院解散|衆議院が解散]]されない限り、内閣は総辞職をする必要がある([[日本国憲法第69条|69条]])。内閣総理大臣が欠けたとき、又は[[衆議院議員総選挙]]の実施後に初めて国会の召集があった時は、内閣は総辞職をする必要がある([[日本国憲法第70条|70条]])。前2条の場合には、内閣は新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行う([[日本国憲法第71条|71条]])。 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する([[日本国憲法第72条|72条]])。 内閣は、他の一般行政事務を行うほか、[[法律]]の誠実な執行と国務の総理、[[外交]]関係の処理、[[条約]]の締結(事前または事後に、国会の承認を必要とする)、法律の定める基準に従っての官吏に関する事務の掌理、予算案の作成と国会への提出、憲法及び法律の規定を実施する為の[[政令]](特にその法律の委任がある場合を除いての、罰則を設けることの禁止)の制定、[[恩赦|大赦・特赦・減刑]]・[[刑罰|刑]]の執行の免除及び復権の決定などの事務を行う([[日本国憲法第73条|73条]])。また、内閣は、天皇の[[国事行為]]に対し、助言と承認を行う([[日本国憲法第7条|7条]])。 内閣は、天皇への助言と承認を通して[[衆議院解散|衆議院を解散]]することができる([[日本国憲法第7条|7条3号]])。内閣は、[[最高裁判所長官]]を指名し([[日本国憲法第6条|6条2項]])、その他の下級裁判所[[裁判官]]を最高裁判所が作成した名簿より任命する([[日本国憲法第79条|79条1項]])。 ==== 裁判所 ==== 全ての[[司法権]]は[[裁判所]]に属し、[[日本の裁判所]]は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]とその[[下級裁判所]]([[高等裁判所]]、[[地方裁判所]]、[[家庭裁判所]]など)により構成されると規定されている([[日本国憲法第76条|76条]])。 [[特別裁判所]]を設置すること及び行政機関が終審として[[裁判]]を行うことが禁止されている(76条2項)。 [[裁判官]]のうち[[最高裁判所長官]]は[[内閣 (日本)|内閣]]の指名に基づき、[[天皇]]が任命する([[日本国憲法第6条|6条2項]])。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて執行される[[衆議院議員総選挙]]とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける([[最高裁判所裁判官国民審査]])。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある([[日本国憲法第77条|77条1項]])。 裁判所は、[[違憲審査制|法令審査権]](違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する([[日本国憲法第81条|81条]])。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「[[警察予備隊違憲訴訟]]」[[1952年|昭和27年]][[10月8日]][[大法廷]]判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲(憲法違反)であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。[[ドイツ]]の[[憲法裁判所]]や[[イタリア]]、[[オーストリア]]等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。 ==== 財政 ==== [[日本国憲法第7章|第7章]]は、[[財政]]に関する事項を定める。 国家財政を処理する権限は、[[国会 (日本)|国会]]の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、[[日本国憲法第83条|83条]])。また、[[租税法律主義]]([[日本国憲法第84条|84条]])、[[内閣 (日本)|内閣]]の[[予算 (日本)|予算]]案作成権([[日本国憲法第86条|86条]])、国の収入支出の決算と[[会計検査院]]に関する事項などが定められる([[日本国憲法第90条|90条]])。 なお、[[皇室]]経済に関しては、皇室費用の予算計上([[日本国憲法第88条|88条]])は第7章に、皇室への[[財産]]譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は[[日本国憲法第1章|第1章]]の[[日本国憲法第8条|8条]]に定める。 ==== 地方自治 ==== [[日本国憲法第8章|第8章]]は、[[地方自治]]に関する事項を定める。 地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする([[日本国憲法第92条|92条]])。[[地方公共団体]]には、その長([[首長]])と[[日本の地方議会|議会]]が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する([[日本国憲法第93条|93条]])。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で[[条例]]を制定する権限を有する([[日本国憲法第94条|94条]])。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法([[地方自治特別法]])は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない([[日本国憲法第95条|95条]])。 === 憲法保障 === 憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保持することである。その為の規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。 [[日本国憲法第98条|98条]]は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、[[日本国憲法第97条|97条]]の最高法規性の実質的根拠と、[[日本国憲法第96条|96条]]の[[硬性憲法]]の規定が支える。また、[[日本国憲法第99条|99条]]は[[天皇]]又は[[摂政]]及び[[国務大臣]]、[[日本の国会議員|国会議員]]、[[日本の裁判官|裁判官]]その他の[[公務員]]に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。 === 憲法改正 === {{see also|憲法改正論議}} [[憲法改正]]手続は、[[日本国憲法第96条|96条]]で規定されている。 まず、憲法改正案は「各議院([[衆議院]]・[[参議院]])の総議員の三分の二以上の賛成」により「[[国会 (日本)|国会]]」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際に行われる投票において、その過半数の賛成」を必要とする。 この憲法改正案が国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する(96条2項)。 この改正手続を規定する[[日本国憲法の改正手続に関する法律|国民投票法]](正式名称:日本国憲法の改正手続に関する法律、平成19年法律第51号)が、[[2007年]]([[平成]]19年)[[5月14日]]に可決・成立して同年[[5月18日]]に公布され、[[2010年]](平成22年)5月18日に施行された。 その他の論点については、「[[憲法改正論議]]」の記事を参照。 == 制定史 == === 大日本帝国憲法 === [[明治維新]]により、[[近世]]([[江戸時代]])の[[幕藩体制]]・[[封建制]]社会から復古的な[[天皇制]]・[[国民国家]]へと脱皮した日本国は、[[大日本帝国憲法]](明治憲法)の制定を実現し、近代市民国家へと変貌した。[[1889年]]([[明治]]22年)[[2月11日]]、[[明治天皇]]より「大日本憲法発布の詔勅」が出されることで大日本帝国憲法は発布された。この憲法は明治天皇が[[黒田清隆]]首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は[[東アジア]]で初めて近代憲法を有する[[立憲君主制]]国家となった。 神権的な天皇制と[[古典的自由主義]]・[[民主主義]]理念が共存し、国家の統治権が天皇にある事とともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。 [[大正]]時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の[[藩閥]]・[[官僚]]政治に反対して[[護憲運動]]・[[普選運動|普通選挙運動]]が展開された。民主主義([[民本主義]])、[[自由主義]]、[[社会主義]]の思想が高揚、[[帝国議会]](衆議院・[[貴族院 (日本)|貴族院]])に基礎を持つ[[政党内閣]]の誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、[[1925年]](大正14年)に25歳以上の男子による[[普通選挙]]を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「[[大正デモクラシー]]」も参照)。 [[大日本帝国憲法第11条]]には、[[天皇大権]]として陸海軍([[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]])の[[統帥権]]についての規定があった。この規定は、[[天皇]]の直接的な軍の統帥を念頭に置いた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈を巡り、[[ロンドン海軍軍縮会議]]締結の際にいわゆる[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯問題]]が起き、政府の介入が天皇大権を侵害するものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、[[文民統制]]が効かず民主的基盤を持たない軍が国政へ強大に関与することになる。[[1931年]]([[昭和]]6年)には[[満洲]](現在の[[中国東北部]])の[[奉天]](現在の[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[瀋陽市]])近郊の柳条湖付近での[[関東軍]]による[[南満洲鉄道]]の線路爆破([[柳条湖事件]])をきっかけとする[[満洲事変]]、[[1937年]](昭和12年)には[[盧溝橋]]での部隊衝突([[盧溝橋事件]])をきっかけとする[[日中戦争]]([[支那事変]])が勃発し、[[1941年]](昭和16年)には[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に突入、戦時体制下において軍部主導の国政運営がなされた。 [[1945年]](昭和20年)の[[第二次世界大戦]]における[[日本の降伏|日本降伏]]の頃、[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]は大日本帝国憲法を「プロシア([[プロイセン]])の[[専制政治]]を父に、[[イギリスの政治|イギリスの議会政治]]を母にもつ、両性具有の生き物」と評している<ref>[[ジョン・ダワー]]、「敗北を抱きしめて」、下巻、2001年、109ページ 、John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page346,347</ref>。法体系は、その成立の歴史によって、[[ドイツ]]や[[フランス]]に代表される(ヨーロッパ)[[大陸法]]と、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]に代表される[[コモン・ロー]]とも呼ばれる[[英米法]]に二大別するのが、一般的だからである<ref>Encyclopedia Britannica,15th ed.,1994,vol.22,"The Evolution of Modern Western Legal Systems"</ref><ref>平凡社、大百科事典、1984年、「英米法」{{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref>。 === 日本国憲法の制定 === ==== ポツダム宣言の受諾と占領統治 ==== [[1945年]](昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカの[[ハリー・S・トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン]][[ソビエト連邦共産党書記長|共産党書記長]])は、[[第二次世界大戦]]の戦後処理について協議するため、[[ドイツ]]の首都[[ベルリン]]郊外・[[ポツダム]]で会談を行った([[ポツダム会談]])。この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、[[中華民国]][[国民政府]]の[[蔣介石]]主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名で「[[ポツダム宣言]]」として発表した<ref>憲法調査会事務局『憲法の制定経過に関する小委員会報告書』1961年 {{Cite web|和書|title=憲法の制定経過に関する小委員会報告書|website=国立公文書館|url= https://www.digital.archives.go.jp/das/contents/pdf/lossy/S46B4900210000/113501879217.pdf|accessdate=September 3, 2020|format=PDF}} {{Cite web|和書|title=衆憲資第2号 憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要|website= 衆議院憲法調査会事務局|url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi002.pdf/$File/shukenshi002.pdf |accessdate=September 3, 2020|format=PDF}}</ref>。 この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。 * [[軍国主義]]を排除すること。 {{Quotation| 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ }} * [[民主主義]]的傾向の復活強化へ向けて、一切の障害を除去すること。 * 言論、[[宗教]]及び[[思想]]の[[自由]]並びに[[基本的人権]]の尊重を確立すること。 {{Quotation|十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ}} 当時の[[鈴木貫太郎内閣]]([[鈴木貫太郎]]首相)は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。[[アメリカ軍]]は翌[[広島市への原子爆弾投下|8月6日に広島]]、[[長崎市への原子爆弾投下|同9日に長崎]]に[[原子爆弾]]を投下し、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は[[8月8日]]に[[ソ連対日参戦|対日参戦]]した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、[[8月10日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「[[天皇大権|天皇ノ国家統治ノ大権]]ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」<ref>国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010shoshi.html ポツダム宣言受諾に関する交渉記録]</ref>)。これは、受諾はするものの、[[天皇]]を中心とする政治体制は維持するといういわゆる「[[国体]]護持」を条件とすることを意味した。 連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、当時の[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカ国務長官]][[ジェームズ・F・バーンズ]]の名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010shoshi.html 日本国憲法の誕生 資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動 1-6 ポツダム宣言受諾に関する交渉記録 - 国立国会図書館]</ref> {{quotation| 1. 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]]」(SCAP) に従属する (subject to)。<br> 1. From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms. 2. 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。<br> 2. The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people. }} 日本政府はこの回答を受け取り、[[御前会議]]により協議を続けた結果、[[8月14日]]に[[昭和天皇]]のいわゆる「[[聖断]]」を経てポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌[[8月15日|15日]]正午からの[[ラジオ]]を通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げるといういわゆる「[[玉音放送]]」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。[[9月2日]]、日本の政府全権が、[[横浜港]]に停泊するアメリカ[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ号]]上で、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に署名した。 降伏により、日本は独立国としての[[主権]]を事実上喪失し、その統治権は[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]](GHQ)の制約の下に置かれ。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が[[厚木海軍飛行場|厚木飛行場]]に到着し、同30日には連合国軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]元帥が[[神奈川県]][[厚木市]]に到着した。マッカーサーは、直ちに[[連合国軍最高司令官総司令部|総司令部]](GHQ)を設置し、[[連合国軍占領下の日本|日本に対する占領統治]]を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。 ==== 日本政府および日本国民の憲法改正動向 ==== 降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、[[大日本帝国憲法]]の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった<ref>「松本烝治に聞く」憲法調査会事務局(1960年)67~68頁。</ref>。 日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、[[1945年]](昭和20年)[[10月4日]]のことである。この日、マッカーサーは、[[東久邇宮内閣]]([[東久邇宮稔彦王]]首相)の[[国務大臣]]であった[[近衛文麿]]元首相に、憲法改正を示唆した<ref>昭和20年10月4日付「近衛国務相、「[[マックアーサー]]」元帥会談録」。同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/025_1shoshi.html 近衛国務相・マッカーサー元帥会談録 1945年10月4日]</ref>。 なおこの日、総司令部は[[治安維持法]]の廃止、[[政治犯]]の即時釈放、[[天皇]]・[[皇室]]批判の自由化、[[思想警察]]の全廃など、いわゆる「[[自由の指令]]」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、[[10月9日]]に[[幣原内閣]]([[幣原喜重郎]]首相)が成立する。 同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された<ref>昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」。同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html 昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」]</ref><ref group="注釈">なお、席上マッカーサーから要求されたいわゆる「五大改革要求」は以下の通り。 *(1) 選挙権賦与による婦人の解放([[女性参政権]]付与) *(2) [[労働組合|労働の組合化]]促進 *(3) [[自由主義]]的[[教育]]を行うための諸学校の開設 *(4) [[検察]]・[[警察]]制度の改革 *(5) [[経済]]機構の[[民主化|民主主義化]]</ref>。 {{wikisource|マッカーサー草案と裁判官弾劾制度}} {{wikisource|アチソン大使の指示項目}} 先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は[[内大臣府]]御用掛)は、政治学者の[[高木八尺]]、憲法学者の[[佐々木惣一]](10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの[[松本重治]]らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問の[[ジョージ・アチソン]]と会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、[[松本烝治]]・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した<ref group="注釈">1945年(昭和20年)10月13日閣議了解、10月25日設置。</ref>。 こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった{{誰|date=2018年4月}}。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。それでも近衛らは作業をつづけ、[[11月22日]]に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/041shoshi.html 近衛文麿の憲法改正要綱]</ref>)、[[11月24日]]に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/042shoshi.html 佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」 1945年11月24日]</ref>)をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; width:40%;float:right " |- |+憲法問題調査委員会(松本委員会)のメンバー<ref name="shukenshi2">{{PDFlink|[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi002.pdf/$File/shukenshi002.pdf 憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要]}}(衆憲資第2号)、平成12年4月、衆議院憲法調査会。</ref> |- ! nowrap="nowrap" | 委員長  |[[松本烝治]](国務大臣) |- !顧問 |[[清水澄]](学士院会員)、[[美濃部達吉]](学士院会員)、[[野村淳治]](東大名誉教授) |- !委員 |[[宮澤俊義]](東大教授)、[[清宮四郎]](東北大教授)、[[河村又介]](九大教授)、[[石黒武重|石黑武重]](枢密院書記官長→法制局長官)、[[楢橋渡]](法制局長官→内閣書記官長)、[[入江俊郎]](法制局第一部長)、[[佐藤達夫 (法制官僚)|佐藤達夫]](法制局第二部長)<br/>後に、[[小林次郎]](貴族院書記官長)、[[大池眞]](衆議院書記官)、[[奥野健一]](司法省民事局長)、[[中村健城]](大蔵省主計局長、後に後任の[[野田卯一]]へ交替)、[[諸橋襄]](枢密院書記官長、石黑の後任)らが加わった。 |- !補助員 |[[刑部莊]](東大助教授)、[[佐藤功]](東大講師)、[[窪谷直光]](大蔵書記官) |- !嘱託 |[[古井喜実]](元内務次官) |- |} かかる経緯を辿って、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、[[美濃部達吉]]、[[清水澄]]、[[野村淳治]]を顧問とし、憲法学者の[[宮沢俊義]]・[[東京大学|東京帝国大学]]教授、[[河村又介]]・[[九州帝国大学]]教授、[[清宮四郎]]・[[東北帝国大学]]教授や、法制局幹部である[[入江俊郎]]、[[佐藤達夫 (法制官僚)|佐藤達夫]]らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を開催し、同30日に第1回調査会を開催した。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。 [[1946年]](昭和21年)[[1月9日]]の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/058cshoshi.html 松本国務相「憲法改正私案」]</ref>この「私案」は、前年[[12月8日]]の[[衆議院]][[予算委員会]]で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/047shoshi.html 松本国務相「憲法改正四原則」 1945年12月8日]</ref>。 {{quotation| 1. 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。<br>  1. 天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト 2. 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。<br>  2. 議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当 3. 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。<br>  3. 国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト 4. 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。<br>  4. 民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ }} 委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/067shoshi.html 松本委員会「憲法改正要綱」と「憲法改正案」]</ref>内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。 他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった(「[[日本国憲法#国内の世論|国内の世論]]」を参照)。 {|class="wikitable" style="font-size:80%;" |- |+政党その他の団体による憲法改正試案<ref name="shukenshi2"/> |- ! nowrap="nowrap" |表題 !作成団体(構成員等) !概要・特徴 !発表日 |- ![[憲法草案要綱]]<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html 憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日]。また内容・影響の詳細については[[憲法草案要綱|当該項目]]を参照。</ref> |[[憲法研究会]]<br/>([[高野岩三郎]]、[[鈴木安蔵|鈴木安藏]]、[[室伏高信]]、[[杉森孝次郎]]、[[森戸辰男]]、[[岩淵辰雄]]ら) |象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用。 |1945年(昭和20年)12月26日 |- !日本共和国憲法私案要綱<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045shoshi.html 高野岩三郎の憲法改正案]</ref><br/>(改正憲法私案要綱) |高野岩三郎 |憲法研究会の主軸であったにも関わらず天皇制を残存させたことに関して不満を表明し、単独で高野が構想した。[[大統領]]を元首とする[[共和制]]を提示。 |同年12月28日 |- !自由黨 憲法改正要綱<ref name="kakuseitou">[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/040shoshi.html 各政党の憲法改正諸案]、国立国会図書館。</ref> |[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]<br/>([[鳩山一郎]]総裁) |同党憲法改正特別調査会の[[浅井清]](慶大教授)と[[金森徳次郎]]が中心となって作成。 |1946年(昭和21年)1月21日 |- !進歩黨 憲法改正要綱<ref name="kakuseitou"/> |[[日本進歩党]]<br/>([[町田忠治]]総裁) |天皇大権の一部を削除・廃止するが、天皇は「臣民の輔翼に依り憲法の条規に従ひ統治権を行ふ」。 |同年2月14日 |- !社会黨 憲法改正要綱<ref name="kakuseitou"/> |[[日本社会党]]<br/>([[片山哲]]書記長) |高野岩三郎、森戸辰男らが起草委員となる。「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」。統治権は分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)。[[生存権]]の保障、[[死刑]]の廃止等。 |同年2月14日 |- !日本國憲法草案<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/055shoshi.html 稲田正次と憲法懇談会の憲法改正案]、国立国会図書館。</ref> |[[憲法懇話会]]<br/>([[尾崎行雄]]、[[岩波茂雄]]、[[渡辺幾治郎]]、[[石田秀人]]、[[稲田正次|稻田正次]]、[[海野晋吉]]) |立法権を天皇と議会に認め、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院を設置する。司法裁判所に違憲審査権を付与する。 |同年3月5日 |- ! nowrap="nowrap" | [[日本人民共和国憲法草案|日本人民共和國憲法(草案)]]<ref name="kakuseitou"/> |[[日本共産党]]<br/>([[徳田球一|德田球一]]書記長) |天皇制を廃止して([[天皇制廃止論]])、人民主権の原則を採用。自由権・生活権等について、社会主義の原則に基づいて保障。 | nowrap="nowrap" |同年6月29日<br/>(骨子は前年11月11日発表) |- |} ===== 憲法草案要綱 ===== {{main|憲法草案要綱}} [[憲法研究会]]は1945年の10月から12月にかけて活動し、[[憲法草案要綱]]を作成して、[[12月26日]]に首相官邸に提出した。GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の[[1月2日]]には、その内容に注目するとの書簡を作成した。米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が[[象徴天皇制]]を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、[[小西豊治]]は主張している<ref>小西豊治 『憲法「押しつけ」論の幻』 講談社現代新書、2006年 ISBN 4061498509{{要ページ番号|date=2020年5月}} </ref>。 ==== マッカーサー草案 ==== 総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。 ===== マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ) ===== この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。この点につき、総司令部の民政局長[[コートニー・ホイットニー]]は1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した<ref group="注釈">1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」。同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/069shoshi.html 1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」]。なお、訳文は「高柳賢三ほか編著『日本国憲法制定の過程:連合国総司令部側の記録による I』有斐閣、1972年、79ページ」参照。</ref>。ただしこのレポートでは、2月26日に迫った[[極東委員会]]の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。 ===== 毎日新聞によるスクープ報道の波紋 ===== 同2月1日、[[毎日新聞]]が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが<ref>国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/070shoshi.html 毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」 1946年2月1日]</ref>、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった<ref group="注釈">宮沢委員が委員会での議論を踏まえて試みに作成し、1月4日の第8回調査会に提出した。</ref>。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。 しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し<ref>1946年2月2日付「毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」に関するホイットニー・メモ」。同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/071shoshi.html 1946年2月2日付「毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」に関するホイットニー・メモ」]</ref>、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。 ===== 総司令部による意思決定 ===== [[ファイル:Rowell memo 1946.jpg|サムネイル|新憲法に関するシークレット対象とされたGHQのメモ([[1946年]][[1月11日]]付)]] そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特に[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[オーストラリア]])から[[天皇制]]の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。 [[2月3日]]、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/072shoshi.html マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」) 1946年2月3日]</ref><ref>訳文は、「高柳賢三ほか『過程 I』99ページ」を参照。</ref> {{quotation| 1. [[天皇]]は国家の[[元首]]の地位にある。[[皇位]]は[[世襲]]される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。<br> 1. Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein. 2. 国権の発動たる[[戦争]]は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が[[軍隊|陸海空軍]]を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。<br> 2. War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force. 3. 日本の封建制度は廃止される。[[貴族]]の権利は、[[皇族]]を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。[[華族]]の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。[[予算]]の型は、[[イギリス]]の制度に倣うこと。<br> 3. The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system. }} この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、[[立法|立法権]]、[[行政|行政権]]などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。[[2月4日]]の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。以下はその会議における議事録である。 [https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/002_21/002_21_003l.html Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4] <blockquote>that '''the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution''' that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; '''if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself.'''<ref name=":c8">[https://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/hussey/hussey_043r.html Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4] [https://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/hussey.html 国立国会図書館所蔵 ハッシー文書No.4 Ellerman report of Government Section meeting of 4 February 1946.]</ref><ref name=":c1">{{PDFlink|[https://law.wisc.edu/gls/cbjapan1.pdf Theodore H. McNelly. The Origins of Japan's Democratic Constitution. New York and Oxford: University Press of America, 2000, p.57]}}</ref><ref name=":c2">[https://publishing.cdlib.org/ucpressebooks/view?docId=ft058002wk;chunk.id=d0e1209;doc.view=print Finn, Richard B. Winners in Peace: MacArthur, Yoshida, and Postwar Japan. Berkeley: University of California Press, c1992 1992., p.94]</ref></blockquote> ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。 起草に着手したホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には[[弁護士]]経験があった。しかし、[[憲法学]]を専攻した者は一人もいなかったため、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「[[マッカーサー草案]]」(GHQ原案)<ref>国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html GHQ草案 1946年2月13日]</ref>が日本政府に提示された。2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。 <blockquote>As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of '''your Emperor''' against increasing pressure from '''the outside to render him subject to war criminal investigation'''.<ref name=":c0">[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/077/077tx.html Charles L. Kades, Milo E. Rowell, Alfred R. Hussey, ''Record of Events on 13 February 1946 when Proposed New Constitution for Japan was Submitted to the Prime Minister, Mr. Yoshida, in Behalf of the Supreme Commander'']</ref></blockquote> <blockquote>It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks '''"were ashamed of the methods employed"''' by Whitney, in particular, his '''"threats against the Emperor - against the man - not just the institution''' - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution."<ref name=":0">[https://www.jstor.org/stable/2151582 Charles L. Kades(1989), ''The American Role in Revising Japan's Imperial Constitution,'' Political Science Quarterly, Vol. 104, No. 2 (Summer, 1989), pp. 229]</ref><ref name=":d1">[https://scholarship.law.cornell.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1288&context=cilj Funk, Robert B. (1992) "Japan’s Constitution and U.N. Obligations in the Persian Gulf War: A Case for Non-Military Participation in U.N. Enforcement Actions," Cornell International Law Journal: Vol. 25: Iss. 2, Article 5., p.372] </ref></blockquote> ==== 日本政府案の作成と議会審議 ==== [[2月13日]]に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が[[2月8日]]に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/077shoshi.html GHQ草案手交時の記録]</ref>。 {{要出典範囲|この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた|date=2023年10月}}。 「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/082shoshi.html 松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日]</ref>を添えて再考するよう求めた{{要出典|date=2023年10月}}。{{要出典範囲|これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った|date=2023年10月}}。 [[2月26日]]の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は[[3月2日]]に完成した(「3月2日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/086shoshi.html 日本国憲法「3月2日案」の起草と提出]</ref>)。[[3月4日]]午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した<ref group="注釈">なお、GHQ草案の作成に関与したGHQ民政局チャールズ・ケーディスはのちのインタビュー(インタビュー日時・場所、インタビュアー等は不明。)で、日本側は文語体で書くことを頑なに主張したが、文語体で書かれれば日本側が内容を巧妙にすり替えることができ、検閲で見落とすかもしれないと危惧したため日本側の主張を退けた、と語ったとされる([https://books.google.co.jp/books?id=eABj0xcxGtkC&pg=PA345 『戦後日本の高等教育改革政策: 「教養教育」の構築』]土持ゲーリー法一、玉川大学出版部, 2006 )。もっとも、このとき作成された確定案(「[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/091/091tx.html 3月5日案]」)及び「[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/093/093tx.html 憲法改正草案要綱]」(「3月6日案」)は文語体である。</ref>。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/089shoshi.html GHQとの交渉と「3月5日案」の作成]</ref>が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、[[昭和天皇]]に草案の内容を奏上した。翌[[3月6日]]、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/093shoshi.html 「憲法改正草案要綱」の発表]</ref>)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった<ref group="注釈">なお、[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]およびその出先機関である総司令部政治顧問部は、「3月6日案」の内容を事前に知らされていなかった。国務省は草案を批判的に検討し、起草作業にあたった[[アルフレッド・ハッシー]]中佐が反論している(「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応)。</ref><ref group="注釈">3月20日には極東委員会が、マッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保と、国民に考えるための時間を与えるため総選挙を延期することなどを要求している。これに対して3月29日、マッカーサーは、極東委員会の総選挙延期要求を拒否する返電を打った。 さらに5月13日、極東委員会は、3点からなる「新憲法採択の諸原則」を決定した。その原則とは、以下の3点。 *(1) 審議のための充分な時間と機会を与えられること *(2) 大日本帝国憲法との法的連続性をはかること *(3) 国民の自由意思を明確に表す方法により新憲法を採択すること</ref>。 [[3月26日]]、国語学者の[[安藤正次]]博士を代表とする「国民の[[国語]]運動」が「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の[[山本有三]]に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、[[渡辺佳英]]・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された<ref>国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/099shoshi.html 口語化憲法草案の発表]</ref>。{{要出典範囲|4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた|date=2023年10月}}。 {{要出典範囲|4月10日、第22回衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった|date=2023年10月}}。選挙を終えた[[4月17日]]、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」<ref>同、口語化憲法草案の発表</ref><ref>{{Cite web|和書|title=憲法改正草案|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/109/109tx.html|accessdate=2022-10-03}}</ref>を公表し、[[枢密院 (日本)|枢密院]]に諮詢した。た{{要出典範囲|4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣(吉田茂首相)が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、昭和天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉顧問官を除く起立者多数で可決し|date=2023年10月}}。 これを受けて政府は[[6月20日]]、[[大日本帝国憲法第73条]]の憲法改正手続に従い、[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]改正案<ref>{{Cite web|和書|title=帝国憲法改正案|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/117/117tx.html|accessdate=2022-10-03}}</ref>を[[帝国議会]][[衆議院]]に提出した。[[衆議院]]は[[6月25日]]から審議を開始し、[[8月24日]]に[[GHQ]]の指示なく追加した[[国家賠償請求権]]、[[刑事補償請求権]]、[[生存権]]、[[納税]]の義務などの若干の修正を加えて<ref group="注釈">衆議院における修正点のうち、重要なものは次の通り。 *(1) 前文、1条の[[国民主権]]の趣旨を明確化 *(2) 44条但書きに「教育、財産又は収入」を加えて[[普通選挙]]の趣旨を徹底 *(3) 67条、68条に関して、内閣総理大臣は国会議員の中から指名すること、国務大臣の過半数は国会議員の中から選ぶものとし、その選任についての国会の承認を削ったこと *(4) 9条1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を加えたこと *(5) 第3章に関して、10条の「国民の要件」、17条の「国家賠償」、30条の「納税の義務」、40条の「刑事補償」の規定を新設し、25条に「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との規定を加えたこと *(6) 98条に国際法規遵守に関する2項を追加したこと このうち、 (1) (2) (3) は総司令部の要請によって修正された点であり、 (4) (5) (6) は衆議院の自発的な修正である。この点につき、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、59ページ」を参照。</ref><ref> {{Cite web|和書|title= 衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料|website=衆議院憲法審査会事務局|url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf|accessdate=August 23, 2020|format=PDF}}</ref>、圧倒的多数の賛成(投票総数429票、賛成421票、反対8票<ref group="注釈">反対の青票を投じたのは、[[日本共産党]]の[[柄沢とし子]]、[[志賀義雄]]、[[高倉輝]]、[[徳田球一]]、[[中西伊之助]]、[[野坂参三]]、[[新政会]]の[[穂積七郎]]、[[無所属クラブ]]の[[細迫兼光]]の8名。</ref><ref>[https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009013242X03519460824 1946年(昭和21年)8月24日衆議院議事速記録]、帝国議会会議録、同25日付『官報』号外。</ref>)で可決した<ref>衆議院による修正点については、「[[第90回帝国議会#帝国憲法改正案の衆議院による修正]]」も参照。</ref>。 続いて、[[貴族院 (日本)|貴族院]]は[[8月26日]]に審議を開始し、[[10月6日]]に若干の修正を加えて<ref group="注釈">貴族院における修正点のうち、重要なものは次の通り。 *(1) 15条に、公務員の選挙について、成年者による普通選挙を保障する規定を加えたこと *(2) 66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとの規定を加えたこと *(3) 59条に、法律案について両院協議会の規定を追加したこと。 このうち、 (1) (2) は総司令部の要請によって修正された点、特に (2) は総司令部が極東委員会の要請を受けて日本政府に追加修正を求めた点であり、 (3) は貴族院の自発的な修正である。この点につき、「野中ほか『憲法 I』60ページ」を参照。</ref>、可決した<ref>貴族院による修正点については、「[[第90回帝国議会#帝国憲法改正案の貴族院による修正]]」も参照。</ref>。翌[[10月7日]]、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。 {{quotation|只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました(拍手)<br> 此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民&#xFA22;君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手)<br> 惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての&#x7D55;大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國&#xFA22;君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに&#xFA22;君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手) |昭和21年10月7日 衆議院本会議、吉田茂内閣総理大臣による政府所信}} ==== 芦田修正について ==== なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、'''[[日本国憲法第9条#衆議院での審議と芦田修正|芦田修正]]'''と呼ばれる修正が行われた<ref>この節、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、150ページ」を参照。</ref>。芦田修正とは、憲法議会となった[[第90回帝国議会]]の衆議院に設置された、衆議院[[帝国憲法改正小委員会]]による修正である<ref group="注釈">小委員会で修正された条項は憲法9条だけではなく、現存する[[華族]]一代に限って身分の保障を定めた97条の削除等を行っている。[[小田部雄次]]『華族』([[中公新書]])</ref>。特に[[日本国憲法第9条|憲法9条]]に関する修正は委員長である[[芦田均]]の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条を巡る議論では一つの論点となっている。 まず、[[第90回帝国議会]]に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。 {{quotation| 第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。<br> 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。 }} [[衆議院]]における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。 {{quotation| 第9条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。<br> 前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 }} 芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案を元にすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。 {{quotation| 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<br> 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 }} この修正について、[[極東委員会]]において[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]代表が、日本が「前項の目的」以外、たとえば「自衛という口実」で、実質的に軍隊を持つ可能性があると指摘したため、文民条項の規定を要求することになった。同委員会の意向は、ホイットニー民政局長から吉田首相に伝えられ、[[貴族院 (日本)|貴族院]]における修正により、[[日本国憲法第66条|憲法第66条第2項]]として文民条項が追加された上で成立に至った<ref>{{Cite web|和書|title=極東委員会と文民条項 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/126shoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2023-01-30 |language=ja |publisher=国立国会図書館}}</ref>。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。 ==== 日本国憲法の公布・施行 ==== [[ファイル:Privy Council (Japan).jpg|thumb|250px|1946年10月29日、枢密院本会議で「修正帝国憲法改正案」が全会一致で可決された。]] [[File:Okazaki-Ida-Hachimangu-2.jpg|thumb|250px|憲法公布を祝い神社に集う人々(1946年11月3日、愛知県[[岡崎市]])]] [[帝国議会]]における審議を通過して、[[10月12日]]に政府は「修正帝国憲法改正案」を[[枢密院]]に諮詢([[10月19日|19日]]と[[10月21日|21日]]に審査委員会)。[[10月29日]]、枢密院の本会議は、[[昭和天皇]]臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、昭和天皇は憲法改正を裁可した。[[11月3日]]、日本国憲法が[[公布]]された。 同日、帝国議会[[貴族院 (日本)|貴族院]]議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、[[皇居外苑|宮城前広場]]では昭和天皇と[[香淳皇后]]が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。 {{quotation|  本日、日本国憲法を公布せしめた。<br>  この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。<br />  朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 |昭和天皇による日本国憲法公布にあたっての勅語、1946年(昭和21年)11月3日}} 公布から6ヶ月後の[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に、日本国憲法は施行された。同日には、昭和天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。[[1948年]](昭和23年)には、5月3日は[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]とされ「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の[[国民の祝日]]とされている。 ==== 占領下における日本国憲法の効力 ==== 日本国憲法が[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行されたものの、日本が独立を回復する[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]([[日本国との平和条約]]発効)まで、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍の占領下]]であったことから完全な効力を有していなかった。 [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は[[1953年]](昭和28年)[[4月8日]]の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、「日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれている」として、「連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあった」と判断している。そして、いわゆる[[ポツダム命令]]の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。 その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[サンフランシスコ講和条約]]の発効により、GHQによる日本の占領統治が終了した時ということができる。 さらに、主権回復時に[[アメリカ軍|米軍]]の占領下にあった地域(すなわち[[奄美群島]]、[[小笠原諸島]]、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄県]])について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美群島は[[1953年]](昭和28年)[[12月25日]]、小笠原諸島は[[1968年]](昭和43年)[[6月26日]]、沖縄県は[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]となった。そして、日本政府が[[実効支配]]していない[[北方地域|北方領土]]([[ソビエト連邦]]→[[ロシア]]実効支配)及び[[竹島 (島根県)|竹島]]([[大韓民国]]実効支配)については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。 == 国内の世論 == [[内閣情報局]]世論調査課が[[共同通信社]]調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/048shoshi.html 内閣情報局世論調査課「憲法改正に関する世論調査報告」](1945年12月19日)、国立国会図書館。</ref>。以下がその調査結果である。 * '''憲法改正は必要か不要か''' {| class="wikitable" style="font-size:80%;text-align:right" |- ! nowrap="nowrap" | !必要 !不要 !無回答 |- !財界 |31 |8 |2 |- !労働者 |30 |3 |8 |- !俸給生活者 |40 |1 |1 |- !中小商工業者 |33 |4 |4 |- !地主 |26 |12 |3 |- !自作農 |28 |5 |8 |- ! nowrap="nowrap" |小作農 |28 |5 | nowrap="nowrap" |8 |- !合計 |216 |38 |33 |} * '''現行の改正手続を可とするか''' {| class="wikitable" style="font-size:80%;text-align:right" |- ! nowrap="nowrap" | !可能 !不可 !民定憲法を主張 |- !財界 |20 |11 |4 |- !労働者 |8 |19 |14 |- !俸給生活者 |19 |20 |15 |- !中小商工業者 |17 |14 |7 |- !地主 |16 |7 |4 |- !自作農 |14 |9 |5 |- ! nowrap="nowrap" |小作農 |7 |16 | nowrap="nowrap" |13 |- !合計 |101 |96 |62 |} * '''帝国憲法の改正にあたり積極的に主張されている点''' {| class="wikitable" style="font-size:80%;text-align:right" |- ! nowrap="nowrap" | !財界 !労働者 !俸給生活者 !中小商工業者 !地主 !自作農 !小作農 !合計 |- !天皇大権の制限 議会権限の拡大 |13 |8 |19 |8 |7 |8 |8 |71 |- !貴族院の廃止または改革 |10 |10 |15 |8 |4 |3 |7 |57 |- !民意の尊重 濫用の防止 天皇と国民を直結 |8 |4 |10 |8 |2 |6 |3 |41 |- !人民の権利拡張 自由を保障 |10 |5 |5 |3 |0 |5 |4 |32 |- !主権在民 |0 |5 |0 |2 |2 |1 |4 |14 |- !イギリス式憲法([[不文憲法]]) |0 |1 |2 |3 |1 |1 |1 |9 |- !天皇制を堅持・存置 |6 |3 |3 |3 |6 |7 |5 |33 |- ! nowrap="nowrap" |天皇制廃止 |0 |1 | nowrap="nowrap" |0 |1 |0 |0 |1 |3 |} == 日本国憲法の起草者 == (民間を除く)日本国憲法の起草者は、次のとおりである。 === GHQ側<ref>{{Cite web|和書|title=概説[GHQ草案(マッカーサー草案)作成スタッフ一覧] {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/ghq.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-18 |language=ja}}</ref> === * C.L.ケーディス陸軍大佐 * A.R.ハッシー海軍中佐 * M.E.ラウエル陸軍中佐 * R.エラマン * F.E.ヘイズ陸軍中佐(立法権の規定担当) * G.J.スウォープ海軍中佐(立法権の規定担当) * O.ホージ海軍中尉(立法権の規定担当) * G.ノーマン(立法権の規定担当) * C.H.ピーク(行政権の規定担当) * J.I.ミラー(行政権の規定担当) * M.J.エスマン陸軍中尉(行政権の規定担当) * P.K.ロウスト陸軍中佐(人権の規定担当) * H.E.ワイルズ(人権の規定担当) * [[ベアテ・シロタ・ゴードン]](人権の規定担当) * M.E.ラウエル陸軍中佐(司法権の規定担当) * A.R.ハッシー海軍中佐(司法権の規定担当) * M.ストーン(司法権の規定担当) * C.G.ティルトン陸軍少佐(地方行政の規定担当) * R.L.マルコム海軍少佐(地方行政の規定担当) * P.O.キーニ(地方行政の規定担当) * F.リゾー陸軍大尉(財政の規定担当) * J.A.ネルソン陸軍中尉(天皇・授権・条約の規定担当) * R.A.プール海軍少尉(天皇・授権・条約の規定担当) * A.R.ハッシー海軍中佐(前文の規定担当) * S.ヘイズ(秘書) * E.ファーガスン(秘書) * J.ゴードン中尉 (通訳) * I.ハースコウィッツ中尉(通訳) === 日本政府側 === * [[近衛文麿]](近衛案<ref>{{Cite web|和書|title=近衛文麿の憲法改正要綱 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/041shoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-18 |language=ja}}</ref>) * [[佐々木惣一]](帝国憲法改正ノ必要<ref>{{Cite web|和書|title=佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」 1945年11月24日 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/042shoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-18 |language=ja}}</ref>) * [[宮澤俊義|宮沢俊義]](甲案・乙案<ref>{{Cite web|和書|title=宮沢甲案・乙案 1946年1月4日 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/058ashoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-18 |language=ja}}</ref>) * [[松本烝治|松本丞治]]([[松本試案]]<ref>{{Cite web|和書|title=松本国務相「憲法改正私案」 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/058cshoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-18 |language=ja}}</ref>) * [[佐藤達夫 (法制官僚)|佐藤達夫]] * [[幣原喜重郎]] * [[芦田均]]([[日本国憲法#芦田修正について|芦田修正]]) == 議論 == === 成立の法理 === 日本国憲法の制定過程において瑕疵があるか否か、また、その瑕疵があるとして、これがため憲法自体が無効とされるか否かについても議論がある。[[日本国憲法#関連項目|関連項目一覧]]や記事中リンクなども別途参照されたい。 ==== 大日本帝国憲法の改正の限界 ==== 日本国憲法は、[[大日本帝国憲法]]に定める改正手続(第73条<ref group="注釈">大日本帝国憲法 - 第七十三條:将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ。此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス</ref>)を経て成立している。しかし、憲法改正には一定の限界があるとする立場(憲法改正限界説)からは、主権(統治権)が「天皇」から「国民」へ移っているため、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法ではなく、全く新しい別個の憲法であり、また国民自らが制定した[[憲法|民定憲法]]であるとする。 この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、[[八月革命説]]がある。これは、天皇及び日本政府が[[1945年]](昭和20年)8月に[[ポツダム宣言]]を受諾したことで、国民の[[憲法制定権力]]を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする説である。大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の受諾で失効したと考える。その上で、大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換による混乱予防という政策的意図に基づく、と説明する<ref>宮沢俊義『憲法の原理』岩波書店、1967年。375ページ以下。</ref>。 一方、憲法改正「無」限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能で、日本国憲法への改正も問題ない。さらに、全部改正説では、日本国憲法は新憲法の制定ではなく、制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正で、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある<ref>佐々木惣一『改訂日本国憲法論』有斐閣、1952年。71ページ以下。</ref>。 この点について、日本政府は、憲法改正限界説・無限界説のいずれに立つか明示することなく「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している<ref group="注釈">1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。本答弁書は、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に所属する[[衆議院議員]]の[[森清 (愛媛県の政治家)|森清]]が提出した質問主意書に対して、[[第2次中曽根内閣第1次改造内閣|中曽根内閣]]が決定したものである。質問の内容は「明治憲法の根幹は『天皇統治』であり、新憲法は、『国民主権』となっている。このように、憲法体制の根幹の改変は、その憲法の改正手続によってはできないのではないか。」というもの。</ref>。 ==== 占領軍の関与 ==== 日本国憲法は米軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた[[1946年]](昭和21年)に公布され、翌[[1947年]](昭和22年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという[[押し付け憲法論]]が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。 [[ハーグ陸戦条約]]第43条は、次のように定めている。 {{Quotation|国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし。(原文は旧字体、カタカナ書き)}} これによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする<ref>相良良一「現行憲法の効力について」公法研究6号25ページ以下、1957年、参照。</ref>。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、従って原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている<ref>芦部信喜『憲法学I 憲法総論』有斐閣、1992年。187ページ。</ref>。 なお、日本政府はこの点について「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される」と答弁している<ref group="注釈">上掲、1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。この答弁書は、森清議員の「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)第43条は、次の如く規定している。(条文省略)憲法改正について占領軍総司令官のとった行為は、この条項に違反しているのではないか。」という質問に対して決定された。</ref>。 制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、[[朝鮮戦争]]時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、1956年6月14日の[[アメリカ合衆国上院外交委員会|上院外交委員会]]秘密会において国務次官補[[ウォルター・ロバートソン|ロバートソン]]がハンド議員の質問への答えとして、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、[[エドウィン・O・ライシャワー]]は著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い<ref>青山武憲『新訂 憲法』啓正社、2000年。87ページ。</ref>。当時[[アメリカ合衆国副大統領|米国副大統領]]の[[ジョー・バイデン]]は「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」としており、日本国憲法の起草者がアメリカであることを明言している<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160816/k00/00e/030/200000c バイデン副大統領「日本国憲法、米が書いた」]毎日新聞 2016年8月17日</ref>。 なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の[[摂政]]であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反する<ref group="注釈">大日本帝国憲法 - 第七十五條: 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス</ref>ので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見がある<ref>渡部昇一・南出喜久治「日本国憲法無効宣言」(ビジネス社){{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref>。だが、一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。 [[外務事務次官]]、駐米大使、駐独大使等を歴任した[[村田良平]]は日本国憲法前文第三項は日本文化への侮辱であると述べている<ref>* 村田良平 『村田良平回想録 上巻』 ミネルヴァ書房、2008年、56頁。</ref>。 === 憲法改正手続 === 日本国憲法の改正のための要件は、[[日本国憲法第96条|第96条]]に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている([[硬性憲法]])。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(2007年[[日本国憲法の改正手続に関する法律]]が制定された)。 ==== 改正されない理由 ==== 2023年(令和5年)3月1日、日本国憲法は現行憲法で最長、歴史上でも廃止された[[イタリア王国]]憲法(80年)に次いで2番目という長期間にわたって改正されていない<ref name=asahi2017 />。 [[東京大学]]のケネス・盛・マッケルウェイン准教授は、長期間改正されない理由として、議員定数や選挙制度などの政治制度を他の法律で定めているため、各法の改正で対応できたことを挙げる<ref name="asahi2017" />。日本国憲法は、基本的な事項のみが記載された簡素な構成であり、英訳した文を他国の憲法と比較すると単語数が4998と比較的短いとする<ref name="asahi2017" />。国民の権利に関する記載が多く制定当時の憲法としては先進的とし、これらを後に追加する必要がなかったことも改正されない要因とする<ref name="asahi2017" />。[[第二次世界大戦]]後の[[1949年]]に成立した[[インド憲法]]も基本的人権など先進的な要素を取り入れているが、本則で議員定数や選挙制度、州や連邦直轄領の行政などを定めている他、附則では[[公務員]]の給与や原住民の保護など細かな点を定めていることから、英訳は117369文字と日本とは対照的に極端に量が多く<ref name="asahi2017" />、2022年現在では世界最長の憲法となっている<ref>{{Cite web|和書|title=インド憲法の動態から国の歩みを追う {{!}} 関西大学ニューズレター『Reed』|関西大学 |url=https://www.kansai-u.ac.jp/reed_rfl/archive/50_1.php |website=www.kansai-u.ac.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>。また2010年9月時点で108の改正案が議会に提出され、そのうち94の法案が成立するなど、細かな修正のため頻繁に改正されている<ref name="amendments">{{cite web |title=THE CONSTITUTION (AMENDMENT) ACTS |url=http://indiacode.nic.in/coiweb/coifiles/amendment.htm |work=India Code Information System |publisher=Ministry of Law, Government of India |accessdate=14 July 2010}}</ref>。 === 各種の議論 === * 基本理念についての議論 * [[人権|基本的人権]]の尊重に関して * [[天皇]]は[[元首]]か - [[日本国憲法第1条|第1条]]、[[日本の元首]] * [[女性天皇]]・[[女系天皇]]([[皇位継承問題]])、[[譲位]](生前退位)は認められるか:憲法上は触れられていない- [[日本国憲法第2条|第2条]]、[[皇室典範]] * [[国家安全保障]]上の不備 - [[日本国憲法第9条|第9条]] * [[日本における同性結婚|同性結婚]]は認められるか - [[日本国憲法第24条|第24条1項]] * [[検察官]]の無罪判決に対する[[上訴]]は[[日本国憲法第39条|第39条]]の二重の危険の禁止に反しているのではないか * [[私学助成]]の制度は[[日本国憲法第89条|第89条]]に違反しているのではないか - [[私立学校振興助成法]] == 憲法典に述べられていない問題 == 日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。 === 領土 === [[ゲオルク・イェリネック]]のいう国家の三要素のうち、[[国民]](Staatsvolk)・[[国家権力]](Staatsgewalt)に関して日本国憲法は論じているが、国家[[領土]](Staatsgebiet)に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。[[日本|日本国]]の領土を決定する法規範は、主として条約にある。 なお、[[大日本帝国憲法]]も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。 === 国家の自己表現 === いわゆる国家の自己表現(Selbstdarstellung des Staates)について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的に珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。 * 日本の[[国号]]、[[政体]]に関する規定(例 日本国は自由と民主主義に基く[[民主制]][[国家]]である、など)。 * [[国旗国歌法]]:日本国の[[国旗]]は[[日本の国旗|日章旗]]、[[国歌]]は[[君が代]]であることを規定している。 * [[元号法]]:[[元号]]は[[政令]]で定めるべきこと、元号は[[皇位継承|皇位の継承]]があった場合に限り[[改元|改める]]こと([[一世一元の制]])を規定している。 * [[国民の祝日に関する法律]] * [[首都]]([[都]])に関しては、[[1950年]](昭和25年)の[[首都建設法]]がある(ただし、1956年に廃止)。ここにおいて首都を[[東京都]]と定めていた(詳細は[[日本の首都]]を参照)。 == 憲法の解釈 == 日本国憲法の解釈は、それぞれの機関が権限の範囲内で行なっている。 法律制定にあたっての憲法解釈は、国会が行うとされている。 内閣は、法律を執行するに当たって必要とされる限りにおいて憲法を解釈するとされる。 ただし、[[日本国憲法第81条|憲法81条]]によって、裁判所の[[違憲審査制|違憲審査権]]を明記しており、そのため、国会・内閣・司法による憲法の解釈の中でも、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の行う解釈が最も強い効力を持つとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140401135.pdf |title=憲法の有権解釈 |access-date=2022年9月17日|format=PDF}}</ref>。 == GHQ民政局草案との比較 == [[マッカーサー草案|GHQ民政局にて起草された憲法草案]]は、1946年2月10日の夜に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]に提出され、GHQ民政局内での対立を理由に、[[堅固に保護された条項|基本的人権を制限あるいは廃棄する内容での憲法改正を禁止する規定]]を削除することを指示し、その指示の上で、この草案を基本的に承認した。その承認の後、最終的な調整ののち、GHQ民政局草案は2月12日に完成した。改めてマッカーサーの承認を得て、2月13日に日本政府に提示され、2月22日の閣議において、日本政府はそのGHQ民政局草案の受け入れを決定した<ref>{{Cite web|和書|title=GHQ草案 1946年2月13日 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-09-20 |language=ja}}</ref>。 そして、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国最高司令官総司令部]](GHQ)の[[民政局]]の主導により起草された日本国憲法の[[草案]]と実際に施行された憲法との条文の比較は(解釈にもよるが)、以下の通りである<ref>{{Cite web|和書|title=日本國憲法(テキスト) {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076/076tx.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2022-08-16 |language=ja}}</ref>。 * 民政局草案では前文や条文に「日本国人民」「人民」と称しているが、現行憲法では「国民」と称され、人民という言葉は使われていない。 * 第二十三条に「家族ハ人類社会ノ基底ニシテ」とあるが、現行憲法に人類社会の基底を示す条文は存在しない。 * 第二十四条に「有ラユル生活範囲ニ於テ法律ハ社会的福祉、自由、正義及民主主義ノ向上発展ノ為ニ立案セラルヘシ」とあるが、このような条文は現行憲法に存在しない。 * 「第二十八条 土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス 国家ハ土地又ハ其ノ他ノ天然資源ヲ其ノ保存、開発、利用又ハ管理ヲ確保又ハ改善スル為ニ公正ナル補償ヲ払ヒテ収用スルコトヲ得」と定められている民政局草案だが、現行憲法に土地の国有に関する条文は存在しない。 * 第三十五条に「過大ナル保釈金ヲ要求スヘカラス」とある民政局草案だが、現行憲法に[[保釈金]]に関する条文は存在しない。 == 大日本帝国憲法との比較 == {{節スタブ|date=2015年12月}} === 天皇 === [[大日本帝国憲法]]では、[[天皇]]は「国ノ[[元首]]ニシテ[[統治権]]ヲ総攬」する存在([[大日本帝国憲法第4条|第4条]])であって、神聖不可侵な存在とされた([[大日本帝国憲法第3条|第3条]])。しかしこれらの権限は国務大臣による[[輔弼]](advice、助言)に基づき、国務大臣による副署がなければ法的効力を有しない([[大日本帝国憲法第55条|第55条]])。 日本国憲法(現行憲法)では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」([[象徴天皇制]]、[[日本国憲法第1条|第1条]])であり「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とされた(国民主権、同条)。また、天皇は憲法に定める[[国事行為]]のみを行い、国政に関する権能を有しないものとされた([[日本国憲法第4条|第4条第1項]])。これらの権限は内閣の助言(advice)に基づき行使され、内閣の承認を必要とする([[日本国憲法第3条|第3条]])。なお、現行憲法には[[日本の元首]]に関する規定はない。 天皇の持つ権限について新旧憲法で共通している点は、天皇が独断で命令を出したりすることは出来ず内閣の構成員である大臣の助言に基づく点、大臣の了承がなければならない点である。 一方異なる点は、助言と了承を伴う天皇の行為が国政に関わる行為かどうかである。どの大臣がどのようなことを天皇に助言するのかという要素は新旧憲法両方において書かれていないが、新憲法では国政に関わる行為に天皇が関わらない為に問題にならないこの曖昧さが、旧憲法では極めて重大な大臣同士の権限の衝突を引き起こす上に、誰が国政に責任を追うのかしばしば曖昧になることがあった。これらの権限の衝突を調停する仕組みは憲法の外に置かれた機関(憲法外機関、[[内大臣]]・[[枢密院]]など)に委ねられ、憲法外の調停機関を少数の人間が牛耳ることにより思うままに独裁的な国政を行うことさえ出来た<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/046/046tx.html ラウエル「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」 1945年12月6日]</ref>。 === 立法府 === 帝国憲法においては、天皇の立法権協賛機関として、[[衆議院]]と[[貴族院 (日本)|貴族院]]からなる[[帝国議会]]が置かれていた。現行憲法では「国権の[[最高機関]]であって、国の唯一の立法機関」たる[[国会 (日本)|国会]]が設置されている。 === 行政府 === 旧憲法には[[内閣]]および[[内閣総理大臣]]の規定は置かれず、これらは[[勅令]]である[[内閣官制]]に基づいて設置された。憲法では国務各大臣が天皇を{{読み仮名|輔弼|ほひつ}}し、天皇に対してのみ責任を負うものとされた([[大日本帝国憲法第55条|第55条第1項]])。内閣総理大臣および国務大臣は天皇が任免するものとされたが([[大日本帝国憲法第10条|第10条]])、実際には[[元老]]や[[重臣]]、[[内大臣]]など、憲法外の機関が人選した。 現憲法では、内閣([[日本国憲法第65条|第65条]]等)および内閣総理大臣([[日本国憲法第6条|第6条第1項]]等)の規定が置かれた。天皇は[[国会]]の指名に基づいて国会議員の中から内閣総理大臣を任命し(第6条第1項)、内閣総理大臣が国務大臣を任免して内閣を組織し(第68条、第66条第1項)、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う([[日本国憲法第66条|第66条第3項]])。内閣と国会([[衆議院]]および[[参議院]])との関係については様々に説明されるが、[[議院内閣制]]を採用しているものと理解されている<ref>{{Cite book|和書|author=大石眞 |title=憲法講義 |date=2004 |publisher=有斐閣 |volume=1|isbn=4641129568 |ref=harv}} p88</ref>(第66条3項、[[日本国憲法第67条|第67条]]1項、[[日本国憲法第68条|第68条]]1項、[[日本国憲法第69条|第69条]]、[[日本国憲法第70条|第70条]]、[[日本国憲法第63条|第63条]])。また内閣が外交を処理する権限等を持つことから、学説の多くは内閣あるいは内閣総理大臣を元首とする{{sfn|芦部信喜|2016|p=47}}。 ====国務大臣の任命資格==== 旧憲法では、国務大臣に任命される資格(任命資格)については規定されていない([[大日本帝国憲法第55条|第55条第1項]]、[[大日本帝国憲法第10条|第10条]]参照)。なお、時期により変遷があるものの、勅令により、軍部大臣([[陸軍大臣]]、[[海軍大臣]])の任命資格は現役または予備役の武官(軍人)に限られた([[軍部大臣現役武官制]]を参照)。 現憲法では、国務大臣を「[[文民]]」に限った([[日本国憲法第66条|第66条第2項]])。「文民」の解釈については諸説あるが「旧職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義思想に深く染まっていると考えられるものは、文民ではない」と解されている<ref>1973年(昭和48年)12月19日、衆議院建設委員会、[[大村襄治]]内閣官房副長官答弁。</ref>。この趣旨は、軍部大臣現役武官制が軍による政治への介入を招き、軍の統制を困難にした反省から、[[文民統制]]を明文化することにある。なお、現職[[自衛官]]は文民に含まれないものの、元自衛官は文民に含まれると解されている<ref>1973年(昭和48年)12月6日、衆議院予算委員会、[[吉国一郎]]内閣法制局長官答弁。</ref>。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならないとされた([[日本国憲法第68条|第68条第1項但し書き]])。 === 司法府 === 旧憲法では、裁判所は天皇の名により裁判を行うものとされ、[[裁判所構成法]]などにより最高の司法機関として位置付けられた[[大審院]]が存在した。 現憲法においては[[司法権]]の独立および[[裁判官]]の身分保障が明記され、憲法により設置される機関としてあらたに[[最高裁判所]]がもうけられた。 == 文化 == [[ファイル:Enforcement of new Constitution stamp.JPG|thumb|250px|日本国憲法施行記念切手]] === 切手 === [[記念切手]]として[[1947年]][[5月3日]]、日本国憲法施行記念として50銭、1円、2種の[[切手]]と憲法の前文が印刷された額面の2倍の売価3円の無目打[[小型シート]]が発行された。図案は懸賞募集されたもので、1946年10月に募集が受け付けられ1万2,000点の応募作から一等1点、二等3点などが選ばれた。しかし一等作品が国会議事堂を描いていたことから、当時の通常葉書の印面に酷似しているとして不採用になり、二等作品のうち2点が採用された。なお、応募の意匠は「憲法施行にふさわしいもの」とされ、「軍国主義、国家主義的、神道を象徴するもの、風景は不可」とされていた<ref>[[内藤陽介]]『濫造・濫発の時代』日本郵趣出版、21ページ</ref>。なお、募集時には記念切手の題名は「改正憲法施行記念」であったが、発行時には「日本国憲法施行記念」に変更された。小型シートであるが2月になって追加されたもので、当初はB7サイズで予定であったが、憲法普及会から余白に憲法条文を入れるように要望が寄せられ、B6サイズという大型サイズになった。 1946年12月27日に官製記念絵葉書が額面15銭で3種発行されている。取り上げられた題材は当時の著名な日本人画家の作品で、[[川端龍子]]の「不二」、[[石井柏亭]]の「平和」、[[藤田嗣治]]の「迎日」が裏面にオフセット印刷されていた。もともと外貨獲得の手段として著名画家を起用して日本国内の観光地を描く「日本絵葉書」の企画を急遽日本国憲法公布記念として題材をふさわしいものに入れ替えて発行した<ref>島田健造著、友岡正孝編『日本記念絵葉書総図鑑』日本郵趣出版、51ページ</ref>。当初第二弾の発行も計画されていたが、3枚セットで売価3円と高価であったため、売れ行きが悪く結局第一弾のみで、官製絵葉書は暑中見舞いや年賀葉書を除けば数十年間発行されなかった。 === 音楽 === [[橋本國彦]]の[[交響曲第2番 (橋本國彦)|交響曲第2番]]は、日本国憲法に捧げられた。[[憲法普及会]]の委嘱を受けて書かれ、1947年に[[帝国劇場]]における「新憲法施行記念祝賀会」にて初演された。 なお作曲当時の橋本は、戦時中に書いた戦意高揚音楽への責任をとり、学科創設の際から務めた[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]]音楽学部)作曲科教授の職を辞した境遇にあった。 この交響曲を作曲後、橋本はかねてからの心労がたたり体調を崩し、1949年に胃がんで44歳で逝去した。 === 美術 === 『日本国憲法』(又名:『日本国憲法 美術』、[[松本弦人]]編、TAC出版、2019年11月<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.tac-kenpou-art.jp/|title= 日本国憲法 美術|accessdate=2022-08-17}}</ref>)。日本の戦後アート作品と、憲法条文を組み合わせて見せる形式。国際デザイン賞「東京TDC賞2021」でグランプリを獲得した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.tokyo-np.co.jp/article/101339 |title= 「憲法が根ざした戦後の表現を感じて」 アート作品と条文のコラボ本、国際デザイン賞グランプリに  |date=2021-04-30|accessdate=2022-08-17|work=東京新聞}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/04gaisetsu.html |title=第4章 帝国議会における審議 |access-date=2023-10-09 |publisher=国立国会図書館}}</ref> }} ==参考文献== * {{Cite |和書 |author = 芦部信喜 |authorlink = 芦部信喜 |year = 2007 |title = 憲法 第四版 |publisher = 岩波書店 |edition=4th |ISBN = 978-4000227643 |ref = harv }} * {{Cite book |和書 |last1 = 芦部 |first1 = 信喜 |authorlink1 = 芦部信喜 |last2 = 高橋 |first2 = 和之(補訂) |authorlink2 = 高橋和之_(憲法学者) |year = 2019 |title=憲法 |edition = 第七版第1刷 |publisher = [[岩波書店]] |isbn = 978-4000613224 |ref = harv}} * {{Cite journal |和書 |last = 荻野 |first = 雄 |authorlink = 荻野雄 |title = 政治的リテラシーを高める政治教育のために:高校生専門体験講座での実践から |journal = 教職キャリア高度化センター教育実践研究紀要 |volume = 3 |publisher = 京都教育大学教育創生リージョナルセンター機構教職キャリア高度化センター |date = 2021-03-31 |pages = 75-83 |issn = 24345156 |url = https://www.kyokyo-u.ac.jp/Cece/3-09.pdf |ref = harv}} * [[s:憲法制定の経過に関する小委員会報告書|憲法制定の経過に関する小委員会報告書]]、憲法調査会(1961年) - ウィキソース * {{Cite |和書 |author = 高見勝利 |authorlink = 高見勝利 |year = 2000 |title = 宮沢俊義の憲法学史的研究 |publisher = 有斐閣 |ISBN = 4-641-12867-7 |url = |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = 樋口陽一 |authorlink = 樋口陽一 |year = 1992 |title = 憲法 |publisher = 創文社 |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = 宮澤俊義 |authorlink = 宮澤俊義 |year = 1947 |title = 日本国憲法 : 解説と資料 |publisher = 時事通信社 |url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272892 |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = 宮沢俊義 |authorlink = 宮澤俊義 |year = 1959 |title = 憲法II |publisher = 有斐閣 |url = |ISBN = |ref = harv }} * {{Cite book|和書|last = 吉田|first = 善明|authorlink = 吉田善明|chapter = 憲法|title = 日本大百科全書(ニッポニカ)|year=2018|publisher = Kotobank|url = https://kotobank.jp/word/%E6%86%B2%E6%B3%95-61073#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = Britannica Japan Co., Ltd.|chapter = 日本国憲法|title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|year=2018a|publisher = Kotobank|url = https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-110162#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8|ref = harv|}} * {{Cite book|和書|author = Britannica Japan Co., Ltd.|chapter = ブルジョア憲法|title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|year=2018b|publisher = Kotobank|url = https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E6%86%B2%E6%B3%95-127248#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = Britannica Japan Co., Ltd.|chapter = 民定憲法|title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|year=2020|publisher = Kotobank|url = https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E5%AE%9A%E6%86%B2%E6%B3%95-140138#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8|ref = harv|quote=[[国民主権]]原理に基づき,国民が憲法を成立せしめかつ支える最終的[[権威]]であるとの前提に立つ憲法。民約憲法ともいう。[[アメリカ合衆国憲法]]や日本国憲法がそれにあたる。 (→[[欽定憲法]] )   }} == 関連項目 == * [[憲法]] * [[大日本帝国憲法]] * [[憲法改正論議]] * [[改憲]] * [[護憲]] * [[創憲]] * [[憲法無効論]] * [[押し付け憲法論]] * [[あたらしい憲法のはなし]] - 1947年に当時の文部省が中学生向けに憲法を分かりやすく解説した教科書。 * [[アメリカ合衆国憲法]]/[[イギリスの憲法]]/[[イタリア共和国憲法]]/[[ドイツ連邦共和国基本法]]/[[フランス共和国憲法]] === 憲法制定過程 === * [[ポツダム宣言]] * [[松本試案]] * [[憲法草案要綱]] * [[マッカーサー・ノート|マッカーサーノート]] * [[マッカーサー草案|GHQ草案]] * [[GHQ草案手交時の脅迫問題]] * [[第90回帝国議会]] * [[日本の戦後]] - [[1977年]]–[[1978年]]に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送された[[NHK特集]]のシリーズ番組群。第2回『サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃』で憲法成立過程について採り上げた。 * [[憲法はまだか]] === 用語 === * [[自由権]] * [[経済的自由権|経済活動の自由]] * [[社会権]] * [[法の下の平等]] * [[憲法制定権力]] * [[憲法訴訟]] * [[違憲判決]] === 事件 === '''(全部または一部が、日本国憲法と関係する事件)''' * [[三島事件]] - 演説中に日本国憲法の改正を促している。 * [[尊属殺重罰規定違憲判決]] - 初の違憲判決事件 === 制度・組織 === * [[日本の裁判所]] === 法律・条約 === * [[国際法]] * [[人身保護法 (日本)|人身保護法]] * [[国籍法 (日本)|国籍法]] * [[公職選挙法]] * [[政党助成法]] * [[宗教法人法]] * [[日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律]] === その他 === * [[ゲティスバーグ演説]] * [[憲法 (芦部信喜)]] * [[憲法 (佐藤幸治)]] * [[日本における検閲]] * [[プレスコード]] * [[日米地位協定]] - [[翁長雄志]][[沖縄県]]知事(当時)が、「日米地位協定が憲法の上にある。[[日米合同委員会]]が[[国会 (日本)|国会]]の上にある」と指摘した。 == 外部リンク == {{Commonscat|Constitution of Japan}} {{Wikisource|日本國憲法|日本国憲法}} {{Wikibooks|日本国憲法|日本国憲法}} * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=321CONSTITUTION 日本国憲法 | e-Gov法令検索] - [[e-Gov法令検索]] * [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm 日本国憲法] - [[衆議院]] * [https://www.sangiin.go.jp/japanese/aramashi/houki/index.html 日本国憲法:関係法規等:参議院] - [[参議院]] * {{Kotobank}} * [https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html 憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生] - [[国立国会図書館]] * [https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000003 日本国憲法] - [[国立公文書館]]が所蔵する原本のスキャン画像。 * [[Wikisource|Commentary of Minister of State Tokujiro Kanamori on the Constitution]] - [[金森徳次郎]]による憲法注解(1946年、英語) * {{NHK放送史|D0009010436_00000|憲法はまだか}} * {{NHK for School clip|D0005403094_00000|日本国憲法の制定}} * [https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012044950SA000/ NHK特集 日本の戦後 第2回 サンルームの2時間 憲法GHQ案の衝撃] - [[NHKオンデマンド]] {{日本国憲法}} {{アジアの憲法}} {{法学のテンプレート}} {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんこくけんほう}} [[Category:日本の公法]] [[Category:1946年の法]] [[Category:民主主義]] [[Category:人権]] [[Category:平和主義]] [[Category:ダグラス・マッカーサー]] [[Category:日本の憲法]] [[Category:憲法]]
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デオキシリボ核酸
デオキシリボ核酸(デオキシリボかくさん、英: deoxyribonucleic acid、DNA)は、核酸の一種で、二重らせん構造。地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質である。 DNAはデオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸である。塩基はプリン塩基であるアデニン(A)とグアニン(G)、ピリミジン塩基であるシトシン(C)とチミン(T)の4種類がある。2-デオキシリボースの1'位に塩基が結合したものをデオキシヌクレオシド、このヌクレオシドのデオキシリボースの5'位にリン酸が結合したものをデオキシヌクレオチドと呼ぶ。 ヌクレオチドは核酸の最小単位であるが、DNAはデオキシヌクレオチドのポリマーである。核酸が構成物質として用いる糖を構成糖と呼ぶが、構成糖にリボースを用いる核酸はリボ核酸 (RNA) という。ヌクレオチド分子は、糖の3’位OH基とリン酸のOH基から水が取れる形でホスホジエステル結合を形成して結合し、これが連続的に鎖状の分子構造をとる。ヌクレオチドが100個以上連結したものをポリヌクレオチド(またはポリヌクレオチド鎖)と言うが、これがDNAの1本鎖の構造である。DNAには方向性という概念が存在し、複製の際、DNAポリメラーゼは5'→3'末端の方向でDNAを合成する。RNAの転写もこの方向性に従う。 二重鎖DNAでは、2本のポリヌクレオチド鎖が反平行に配向し、右巻きのらせん形態をとる(二重らせん構造)。2本のポリヌクレオチド鎖は、相補的な塩基 (A/T, G/C)対の水素結合を介して結合している。塩基の相補性とは、A、T、G、Cの4種の塩基うち、1種を決めればそれと水素結合で結ばれるもう1種も決まる性質である。A/T間の水素結合は2個、C/G間は3個であり、安定性が異なる。例外的に、特殊な配列が左巻きらせん構造をとる場合があり、これはZ型DNAと呼ばれる。 この相補的二本鎖構造の意義は、片方を保存用(センス鎖)に残し、もう片方は、遺伝情報を必要な分だけmRNAに伝達する転写用(アンチセンス鎖)とに分けることである。また、二本鎖の片方をそのまま受け継がせるため、正確なDNAの複製を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。DNA損傷の修復にも役立つ(詳しくは二重らせん)。 DNAの長さは様々である。長さの単位は、二本鎖の場合 bp(base pair: 塩基対)、一本鎖の場合 nt(nucleotide: 塩基、ヌクレオチド)である。 細胞内のDNAには、原核生物やミトコンドリアDNAのような環状と、真核生物一般に見られる線状がある。自然界のDNAはらせん巻き数が理論値(1回転あたり10.4塩基)よりもほんの少し小さい。線状DNAには問題は無いが、環状DNAではこの差による不安定を解消するために環にねじれが生じ、これをDNAの超らせん(または負の超らせん)という。 細菌のゲノムは通常環状DNAであり、細胞内で核様体と呼ばれる構造体を形成する。核様体は真核細胞の核膜に対応する膜構造はもたない。 真核細胞のゲノムDNAは、ヒストンというタンパク質群と結合して、ヌクレオソームと呼ばれる構造をつくる。ヌクレオソームはクロマチンの基本単位であり、分裂期にはさらに折り畳まれて染色体を構築する。 古細菌のゲノムも細菌と同様に核様体をつくるが、真核細胞のヒストンに似たタンパク質ももっている。 またオルガネラでもミトコンドリアや葉緑体は独自のDNAを持つ。このことがオルガネラの由来に関する膜進化説に対する細胞内共生説の証拠であるとされている。形状は環状のものもあれば、そうでないものもある。 DNAのヌクレオチドの並び方を塩基配列と言う。本来は「ヌクレオチド配列」と言うべきだが、実際の差異はそれぞれの塩基部分のみであるためこのように呼ばれる。別な呼び方では「遺伝暗号」 (genetic code) という専門的な呼称もある。塩基配列はタンパク質のアミノ酸配列に対応しており、3つの塩基の組み合わせが20種類のアミノ酸1つずつに対応しており、mRNAに配列の情報を転写し、細胞内のリボソームでmRNAの3つの塩基が並ぶ情報(コドン)が翻訳されてアミノ酸が鎖状に繋がってタンパク質が合成される。この連鎖は全生物に共通の原理であるためセントラルドグマと呼ばれる。 ただし、一般的に広まっている「DNAは生命の設計図」という表現は、専門家からの批判が多い。イギリスの生物学者ブライアン・グッドウィンは「生物を遺伝子の性質に還元することはできない。生物は、それが生きている状態を特徴づけるようなダイナミックな系として理解されなければならない」、医学博士の荻原清文は「遺伝子はあくまでもタンパク質の設計図にすぎません。すなわち、遺伝子から読み取られるタンパク質が脳細胞の形や配置のしかたを決めることはあっても、脳ができるときに1つ1つの脳細胞がお互いにどのように結合するかということまでは遺伝子は決められないのです」、などと述べている。実際、ヒトの場合DNA中でタンパク質合成の設計にあずかる部分は全体の1.5%に過ぎない。 DNAの塩基配列をmRNAに転写させる遺伝子の発現は、ヒストンに巻きついて折りたたまれた状態のままでは不可能である。転写の前段階に、特定の化学物質がヒストンのリジン残基と結びついてアセチル化を起こし、元々帯びていたプラスの電荷を弱める。するとマイナスに帯電したDNAとの結びつきが弱まり、ヒストンから離れて遺伝暗号部分を含む特定のDNAのらせん2本鎖がむき出しになる。 DNA上のある遺伝暗号が発現を開始する際には、まずその部分のすぐそばにある「プロモーター」と呼ばれる塩基配列の転写調節領域に、「基本転写因子」とよばれる複数のタンパク質が集まって来る。この中にある活性酵素のヘリカーゼが作用すると、DNAの二重らせんは解離して2本の1本鎖となる。この部分にRNAポリメラーゼIIという酵素がとりついて、mRNAの合成を行う。遺伝暗号は2本鎖がほどけた2本の1本鎖のうちのどちらか片方に載っていることになるが、その1本鎖の相補的なもう片方の部分に別の遺伝暗号が載っている場合もある。この場合にも発現すべき遺伝暗号は基本転写因子によって制御される。 上記のような基本転写因子がプロモーター部分に集まる仕組みは、遺伝暗号とは全く離れた位置にある塩基配列の箇所によって促進され調整される。その部分は「エンハンサー」と呼ばれ、ここに「アクチベーター」と呼ばれるタンパク質が結合することが基本転写因子の活性化を制御する信号となる。このようにDNA上のある箇所の(タンパク質を合成するための)遺伝子としての発現は、タンパク質の合成には直接関与していない塩基配列の部分を介した複雑な機構によって支配されている。また、基本転写因子が近づくことはクロマチン構造がほどけていなければ難しいので、束の非常に固く縮こまった部分(ヘテロクロマチン)にある遺伝子の発現はほとんど起こらない。そのような例としてはX染色体の不活性化があげられる。 DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定」である。両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。 DNAとRNAの化学構造の違いの第一は、構成糖が、RNAはリボースで、リボースから2'位の水酸基で酸素が一つ少ない2'-デオキシリボースであることである。これにより、構成糖の立体配座が異なる。DNAではリボースがC2'-エンド形構造を取ることが多いが、RNAでは2'位のヒドロキシ基の存在により立体障害が生じ、リボースがC3'-エンド型構造を取る。このためDNAはB型らせん構造を取りやすく、RNAはA型らせん構造を取りやすくなるという違いが生じる。この結果RNAのらせん構造は主溝が深く狭くなり、副溝が浅く広くなる。 1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電気陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。 糖に結合している塩基にも違いがあり、DNAはA、C、G、Tであるが、RNAはTがU(ウラシル)に替わっている。ただし、DNA上にもUが稀に生じることがあり、また、塩基にTではなくUを用いるDNA(U-DNA)を持つ生物も存在する。圧倒的大多数の生物でDNAの構成塩基にUではなくTが用いられるのは、同じピリミジン塩基であるCは自然の状態でも脱アミノ化することでUに置き換わることがあるからである。そのため、U-DNAは頻繁に塩基配列が変化し、またそれを防ぐためには、損傷してUに変化したCと元々がUであるのと識別する必要があるという問題がある。TはUの2'にメチル基がついている構造をしている。メチル基は水素結合に係わるものの他の原子には殆ど反応しない。また、Uに比較してCからは容易に生じず、Cの損傷によって生じたUを容易に検出できる。 以上より、DNAではUではなくTが用いられているが、UはTよりエネルギー的に有利であるため、RNAではUが用いられている。 DNAとRNAの物理化学的性質について。DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基はプリンまたはピリミジンに由来するためである。ただし、二重らせん構造のDNAの場合、溶液を加熱するとその吸光度は増す(濃色効果)。これは、DNAは規則正しい二重らせん構造ゆえ、全体の吸光度は個々の塩基の吸光度の総和より小さい(淡色効果)が、熱によって水素結合が切れ、二重らせん構造が解け(核酸の変性)、個々の塩基が自由になり、独自に光を吸収するためである。また、DNAとRNAはアルカリ溶液中で挙動が異なる。RNAは弱塩基でも容易に加水分解するが、DNAは安定して存在する。 細胞の分化に伴いDNAの一部が欠落する場合を除き、核内のDNA含有量は生理的条件に左右されない。すなわち一般的な体細胞は二倍体で、卵・精子等は半数体(一倍体)である。つまり卵・精子の核のDNA含有量は、その生物の体細胞のほぼ半分(厳密には、y染色体がx染色体より小さい場合、精子のDNA量はx染色体を持つ場合半分より多く、y染色体を持つ場合半分より少ない)である。DNA含有量は個々の生物で特有であり、一つの種類で、二倍体ならばどの種類の細胞であろうと値は一定である。脊椎動物の場合両生類では特に高い。哺乳類では種類ごとの含有量の差が小さく、6-7×10gぐらいであり、鳥類はその半分ぐらいである。 この現象は、複製のためにあり、体細胞分裂ごとにDNAは2倍に増加して、2個の娘細胞に等分される。 DNAの合成は染色体が出現する分裂期ではなく、静止核の時期である間期のS期に行われ、分裂期は合成されたDNAを娘細胞に等分する時期に当たる。詳細は細胞周期参照。またDNAは分裂間期から分裂期までの間、転写をせず、安定な状態で、娘細胞の中に入れられる。 ヌクレオチド及びその結合体であるポリヌクレオチド、DNA、RNAは生物を原料とするほとんどの食品に微量含まれており、魚の白子や動物の睾丸などでは含有率が高い。DNAを摂取すると、体内でいったんヌクレオチドに分解された後、ヌクレオシド3リン酸となり、RNA、DNAを効率的に合成する材料となる。 工業的に効率的に分離するための原料としてサケの白子やホタテガイの生殖巣などが利用されている。 全ての生物で、細胞分裂の際の母細胞から娘細胞への遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。DNA の複製はDNAポリメラーゼによって行われる。 DNAが親から子へ伝わるときにDNAに変異が起こり、新しい形質が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。 細菌など分裂によって増殖する生物は、条件が良ければ指数的に増殖する。その際、複製のミスによって薬剤耐性のような新たな形質を獲得し、それまで生息できなかった条件で生き残ることができるようになる。 有性生殖をする生物において、DNAは減数分裂時の染色体の組み換えや、配偶子の染色体の組み合わせにより、次世代の形質に多様性が生まれる。 これまで2本鎖、もしくは1本鎖のみと考えられていたDNAであるが、近年3本鎖DNAの存在が示唆されてきている。 通常、DNAは真核生物の細胞内では2本鎖の状態で存在している。そのDNAのGC含量にもよるが、DNAは60°C前後で水素結合が壊れて1本鎖となる(Tm値)。逆に温度が下がり、0°Cを下回るあたり(Bm値。若干の幅がある)で細胞質内のリン酸基を中心に3つの塩基が同じ高さに来ることがある。 この場合、事実上3本のDNA鎖が並列に存在することとなり、DNAは3本鎖となる。リン酸を必要とするため、単純なDNA溶液のみでの実験を行っても、in vitro(試験管内などの人工的に構成された条件下)での証明が難しい。今後はより再現性を高めた研究が進むものと期待されている。 3本鎖となったDNAにおいても、そのねじれは2本鎖の場合と変わらず、約10.5塩基ごとに1周である。3本鎖になることにより、2本鎖の場合のDNAの一次構造の保持への負担はより軽くなると思われがちである。しかし、実際に保持エネルギーを計測すると3本鎖DNAの方がエネルギーが大きく、遥かに不安定であることが実験的に証明されている。 なお、一部の担子菌類では、自然界で正常に存在している状態で3本鎖のDNAを有するものが見つかっている。これらのDNAが転写・複製される場合、3本が同時にほどけるのではなく、1本ずつ順番にほどけて複製される。そのため、これらの生物がDNA複製を行う際生体内のDNA量を計測すると、ある1点で急激に増加するのではなく段階的に増加していることがわかる。 特定の個人のDNAは一般に個人情報を構成すると考えられており、2022年2月には、フランス大統領のエマニュエル・マクロンはクレムリンでのウラジーミル・プーチンロシア大統領との会談時、DNA採取を防ぐために、ロシア側によるCOVID-19のPCR検査を拒んだという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "デオキシリボ核酸(デオキシリボかくさん、英: deoxyribonucleic acid、DNA)は、核酸の一種で、二重らせん構造。地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "DNAはデオキシリボース(五炭糖)とリン酸、塩基 から構成される核酸である。塩基はプリン塩基であるアデニン(A)とグアニン(G)、ピリミジン塩基であるシトシン(C)とチミン(T)の4種類がある。2-デオキシリボースの1'位に塩基が結合したものをデオキシヌクレオシド、このヌクレオシドのデオキシリボースの5'位にリン酸が結合したものをデオキシヌクレオチドと呼ぶ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヌクレオチドは核酸の最小単位であるが、DNAはデオキシヌクレオチドのポリマーである。核酸が構成物質として用いる糖を構成糖と呼ぶが、構成糖にリボースを用いる核酸はリボ核酸 (RNA) という。ヌクレオチド分子は、糖の3’位OH基とリン酸のOH基から水が取れる形でホスホジエステル結合を形成して結合し、これが連続的に鎖状の分子構造をとる。ヌクレオチドが100個以上連結したものをポリヌクレオチド(またはポリヌクレオチド鎖)と言うが、これがDNAの1本鎖の構造である。DNAには方向性という概念が存在し、複製の際、DNAポリメラーゼは5'→3'末端の方向でDNAを合成する。RNAの転写もこの方向性に従う。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "二重鎖DNAでは、2本のポリヌクレオチド鎖が反平行に配向し、右巻きのらせん形態をとる(二重らせん構造)。2本のポリヌクレオチド鎖は、相補的な塩基 (A/T, 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"真核細胞のゲノムDNAは、ヒストンというタンパク質群と結合して、ヌクレオソームと呼ばれる構造をつくる。ヌクレオソームはクロマチンの基本単位であり、分裂期にはさらに折り畳まれて染色体を構築する。", "title": "細胞内でのDNAの存在形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古細菌のゲノムも細菌と同様に核様体をつくるが、真核細胞のヒストンに似たタンパク質ももっている。", "title": "細胞内でのDNAの存在形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "またオルガネラでもミトコンドリアや葉緑体は独自のDNAを持つ。このことがオルガネラの由来に関する膜進化説に対する細胞内共生説の証拠であるとされている。形状は環状のものもあれば、そうでないものもある。", "title": "細胞内でのDNAの存在形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "DNAのヌクレオチドの並び方を塩基配列と言う。本来は「ヌクレオチド配列」と言うべきだが、実際の差異はそれぞれの塩基部分のみであるためこのように呼ばれる。別な呼び方では「遺伝暗号」 (genetic code) という専門的な呼称もある。塩基配列はタンパク質のアミノ酸配列に対応しており、3つの塩基の組み合わせが20種類のアミノ酸1つずつに対応しており、mRNAに配列の情報を転写し、細胞内のリボソームでmRNAの3つの塩基が並ぶ情報(コドン)が翻訳されてアミノ酸が鎖状に繋がってタンパク質が合成される。この連鎖は全生物に共通の原理であるためセントラルドグマと呼ばれる。", "title": "DNAの働き" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし、一般的に広まっている「DNAは生命の設計図」という表現は、専門家からの批判が多い。イギリスの生物学者ブライアン・グッドウィンは「生物を遺伝子の性質に還元することはできない。生物は、それが生きている状態を特徴づけるようなダイナミックな系として理解されなければならない」、医学博士の荻原清文は「遺伝子はあくまでもタンパク質の設計図にすぎません。すなわち、遺伝子から読み取られるタンパク質が脳細胞の形や配置のしかたを決めることはあっても、脳ができるときに1つ1つの脳細胞がお互いにどのように結合するかということまでは遺伝子は決められないのです」、などと述べている。実際、ヒトの場合DNA中でタンパク質合成の設計にあずかる部分は全体の1.5%に過ぎない。", "title": "DNAの働き" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "DNAの塩基配列をmRNAに転写させる遺伝子の発現は、ヒストンに巻きついて折りたたまれた状態のままでは不可能である。転写の前段階に、特定の化学物質がヒストンのリジン残基と結びついてアセチル化を起こし、元々帯びていたプラスの電荷を弱める。するとマイナスに帯電したDNAとの結びつきが弱まり、ヒストンから離れて遺伝暗号部分を含む特定のDNAのらせん2本鎖がむき出しになる。", "title": "DNAの働き" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "DNA上のある遺伝暗号が発現を開始する際には、まずその部分のすぐそばにある「プロモーター」と呼ばれる塩基配列の転写調節領域に、「基本転写因子」とよばれる複数のタンパク質が集まって来る。この中にある活性酵素のヘリカーゼが作用すると、DNAの二重らせんは解離して2本の1本鎖となる。この部分にRNAポリメラーゼIIという酵素がとりついて、mRNAの合成を行う。遺伝暗号は2本鎖がほどけた2本の1本鎖のうちのどちらか片方に載っていることになるが、その1本鎖の相補的なもう片方の部分に別の遺伝暗号が載っている場合もある。この場合にも発現すべき遺伝暗号は基本転写因子によって制御される。", "title": "DNAの働き" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記のような基本転写因子がプロモーター部分に集まる仕組みは、遺伝暗号とは全く離れた位置にある塩基配列の箇所によって促進され調整される。その部分は「エンハンサー」と呼ばれ、ここに「アクチベーター」と呼ばれるタンパク質が結合することが基本転写因子の活性化を制御する信号となる。このようにDNA上のある箇所の(タンパク質を合成するための)遺伝子としての発現は、タンパク質の合成には直接関与していない塩基配列の部分を介した複雑な機構によって支配されている。また、基本転写因子が近づくことはクロマチン構造がほどけていなければ難しいので、束の非常に固く縮こまった部分(ヘテロクロマチン)にある遺伝子の発現はほとんど起こらない。そのような例としてはX染色体の不活性化があげられる。", "title": "DNAの働き" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定」である。両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。", "title": "DNAとRNA" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "DNAとRNAの化学構造の違いの第一は、構成糖が、RNAはリボースで、リボースから2'位の水酸基で酸素が一つ少ない2'-デオキシリボースであることである。これにより、構成糖の立体配座が異なる。DNAではリボースがC2'-エンド形構造を取ることが多いが、RNAでは2'位のヒドロキシ基の存在により立体障害が生じ、リボースがC3'-エンド型構造を取る。このためDNAはB型らせん構造を取りやすく、RNAはA型らせん構造を取りやすくなるという違いが生じる。この結果RNAのらせん構造は主溝が深く狭くなり、副溝が浅く広くなる。", "title": "DNAとRNA" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電気陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。", "title": "DNAとRNA" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "糖に結合している塩基にも違いがあり、DNAはA、C、G、Tであるが、RNAはTがU(ウラシル)に替わっている。ただし、DNA上にもUが稀に生じることがあり、また、塩基にTではなくUを用いるDNA(U-DNA)を持つ生物も存在する。圧倒的大多数の生物でDNAの構成塩基にUではなくTが用いられるのは、同じピリミジン塩基であるCは自然の状態でも脱アミノ化することでUに置き換わることがあるからである。そのため、U-DNAは頻繁に塩基配列が変化し、またそれを防ぐためには、損傷してUに変化したCと元々がUであるのと識別する必要があるという問題がある。TはUの2'にメチル基がついている構造をしている。メチル基は水素結合に係わるものの他の原子には殆ど反応しない。また、Uに比較してCからは容易に生じず、Cの損傷によって生じたUを容易に検出できる。 以上より、DNAではUではなくTが用いられているが、UはTよりエネルギー的に有利であるため、RNAではUが用いられている。", "title": "DNAとRNA" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "DNAとRNAの物理化学的性質について。DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基はプリンまたはピリミジンに由来するためである。ただし、二重らせん構造のDNAの場合、溶液を加熱するとその吸光度は増す(濃色効果)。これは、DNAは規則正しい二重らせん構造ゆえ、全体の吸光度は個々の塩基の吸光度の総和より小さい(淡色効果)が、熱によって水素結合が切れ、二重らせん構造が解け(核酸の変性)、個々の塩基が自由になり、独自に光を吸収するためである。また、DNAとRNAはアルカリ溶液中で挙動が異なる。RNAは弱塩基でも容易に加水分解するが、DNAは安定して存在する。", "title": "DNAとRNA" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "細胞の分化に伴いDNAの一部が欠落する場合を除き、核内のDNA含有量は生理的条件に左右されない。すなわち一般的な体細胞は二倍体で、卵・精子等は半数体(一倍体)である。つまり卵・精子の核のDNA含有量は、その生物の体細胞のほぼ半分(厳密には、y染色体がx染色体より小さい場合、精子のDNA量はx染色体を持つ場合半分より多く、y染色体を持つ場合半分より少ない)である。DNA含有量は個々の生物で特有であり、一つの種類で、二倍体ならばどの種類の細胞であろうと値は一定である。脊椎動物の場合両生類では特に高い。哺乳類では種類ごとの含有量の差が小さく、6-7×10gぐらいであり、鳥類はその半分ぐらいである。 この現象は、複製のためにあり、体細胞分裂ごとにDNAは2倍に増加して、2個の娘細胞に等分される。", "title": "DNAの含有量" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "DNAの合成は染色体が出現する分裂期ではなく、静止核の時期である間期のS期に行われ、分裂期は合成されたDNAを娘細胞に等分する時期に当たる。詳細は細胞周期参照。またDNAは分裂間期から分裂期までの間、転写をせず、安定な状態で、娘細胞の中に入れられる。", "title": "DNAの含有量" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ヌクレオチド及びその結合体であるポリヌクレオチド、DNA、RNAは生物を原料とするほとんどの食品に微量含まれており、魚の白子や動物の睾丸などでは含有率が高い。DNAを摂取すると、体内でいったんヌクレオチドに分解された後、ヌクレオシド3リン酸となり、RNA、DNAを効率的に合成する材料となる。", "title": "DNAの合成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "工業的に効率的に分離するための原料としてサケの白子やホタテガイの生殖巣などが利用されている。", "title": "DNAの合成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "全ての生物で、細胞分裂の際の母細胞から娘細胞への遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。DNA の複製はDNAポリメラーゼによって行われる。", "title": "遺伝情報の担い手としてのDNA" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "DNAが親から子へ伝わるときにDNAに変異が起こり、新しい形質が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。", "title": "遺伝情報の担い手としてのDNA" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "細菌など分裂によって増殖する生物は、条件が良ければ指数的に増殖する。その際、複製のミスによって薬剤耐性のような新たな形質を獲得し、それまで生息できなかった条件で生き残ることができるようになる。", "title": "遺伝情報の担い手としてのDNA" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "有性生殖をする生物において、DNAは減数分裂時の染色体の組み換えや、配偶子の染色体の組み合わせにより、次世代の形質に多様性が生まれる。", "title": "遺伝情報の担い手としてのDNA" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これまで2本鎖、もしくは1本鎖のみと考えられていたDNAであるが、近年3本鎖DNAの存在が示唆されてきている。", "title": "3本鎖DNAの存在について" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "通常、DNAは真核生物の細胞内では2本鎖の状態で存在している。そのDNAのGC含量にもよるが、DNAは60°C前後で水素結合が壊れて1本鎖となる(Tm値)。逆に温度が下がり、0°Cを下回るあたり(Bm値。若干の幅がある)で細胞質内のリン酸基を中心に3つの塩基が同じ高さに来ることがある。", "title": "3本鎖DNAの存在について" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この場合、事実上3本のDNA鎖が並列に存在することとなり、DNAは3本鎖となる。リン酸を必要とするため、単純なDNA溶液のみでの実験を行っても、in vitro(試験管内などの人工的に構成された条件下)での証明が難しい。今後はより再現性を高めた研究が進むものと期待されている。", "title": "3本鎖DNAの存在について" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "3本鎖となったDNAにおいても、そのねじれは2本鎖の場合と変わらず、約10.5塩基ごとに1周である。3本鎖になることにより、2本鎖の場合のDNAの一次構造の保持への負担はより軽くなると思われがちである。しかし、実際に保持エネルギーを計測すると3本鎖DNAの方がエネルギーが大きく、遥かに不安定であることが実験的に証明されている。", "title": "3本鎖DNAの存在について" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、一部の担子菌類では、自然界で正常に存在している状態で3本鎖のDNAを有するものが見つかっている。これらのDNAが転写・複製される場合、3本が同時にほどけるのではなく、1本ずつ順番にほどけて複製される。そのため、これらの生物がDNA複製を行う際生体内のDNA量を計測すると、ある1点で急激に増加するのではなく段階的に増加していることがわかる。", "title": "3本鎖DNAの存在について" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "特定の個人のDNAは一般に個人情報を構成すると考えられており、2022年2月には、フランス大統領のエマニュエル・マクロンはクレムリンでのウラジーミル・プーチンロシア大統領との会談時、DNA採取を防ぐために、ロシア側によるCOVID-19のPCR検査を拒んだという。", "title": "取扱" } ]
デオキシリボ核酸は、核酸の一種で、二重らせん構造。地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質である。
{{redirect|DNA}}{{出典の明記|date=2023年7月}} [[画像:DNA animation.gif|thumb|right|DNA二重らせん構造の一部を、[[三次元]]立体構造で表現した図。]] '''デオキシリボ核酸'''(デオキシリボかくさん、{{lang-en-short|<u>d</u>eoxyribo<u>n</u>ucleic <u>a</u>cid}}、'''DNA''')は、[[核酸]]の一種で、二重らせん構造。[[地球]]上の多くの[[生物]]において[[遺伝]]情報の継承と[[発現]]を担う[[高分子]][[生体物質]]である<ref name="Tamra41-1" />。 == 構造 == === 構成物質と二重らせん構造 === [[画像:AGCT DNA mini.png|thumb|200px|相補的塩基対:AとT、GとCが水素結合でつながる。]] DNAは'''[[デオキシリボース]]'''(五炭[[糖]])と'''[[リン酸]]'''、'''[[塩基]]''' から構成される核酸である。塩基は[[プリン塩基]]である[[アデニン]](A)と[[グアニン]](G)、[[ピリミジン塩基]]である[[シトシン]](C)と[[チミン]](T)の4種類がある<ref name="Tamra38">[[#田村(2010)|田村(2010)、p.38-40、I細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-1 核酸を構成するヌクレオチド]]</ref>。2-[[デオキシリボース]]の1'位に塩基が結合したものをデオキシ'''ヌクレオシド'''、この[[ヌクレオシド]]のデオキシリボースの5'位にリン酸が結合したものをデオキシ'''ヌクレオチド'''と呼ぶ<ref name="Tamra38" />。 [[ヌクレオチド]]は核酸の最小単位であるが、DNAはデオキシヌクレオチドの[[重合体|ポリマー]]である。核酸が構成物質として用いる[[糖]]を'''構成糖'''と呼ぶが、構成糖に[[リボース]]を用いる核酸は[[リボ核酸]] (RNA) という<ref name=Tamra38 />。ヌクレオチド分子は、糖の3’位OH基と[[リン酸]]のOH基から[[水]]が取れる形で[[ホスホジエステル結合]]を形成して結合し、これが連続的に鎖状の分子構造をとる<ref name=Tamra41-1>[[#田村(2010)|田村(2010)、p.41、I細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-2 核酸の鎖状分子形成]]</ref>。ヌクレオチドが100個以上連結したものをポリヌクレオチド(またはポリヌクレオチド鎖)と言うが、これがDNAの1本鎖の構造である<ref name=Tamra41-1 />。DNAには方向性という概念が存在し、[[DNA複製|複製]]の際、DNAポリメラーゼは5'→3'末端の方向でDNAを合成する。RNAの[[転写 (生物学)|転写]]もこの方向性に従う<ref name=Tamra41-1 />。 二重鎖DNAでは、2本のポリヌクレオチド鎖が反平行に配向し、右巻きのらせん形態をとる('''[[二重らせん]]構造''')。2本のポリヌクレオチド鎖は、相補的な塩基 (A/T, G/C)対の[[水素結合]]を介して結合している。'''塩基の相補性'''とは、A、T、G、Cの4種の塩基うち、1種を決めればそれと水素結合で結ばれるもう1種も決まる性質である。A/T間の水素結合は2個、C/G間は3個であり、安定性が異なる。例外的に、特殊な配列が左巻きらせん構造をとる場合があり、これは[[Z-DNA|Z型DNA]]と呼ばれる。 この相補的二本鎖構造の意義は、片方を保存用(センス鎖)に残し、もう片方は、遺伝情報を必要な分だけ[[mRNA]]に伝達する転写用([[アンチセンス鎖]])とに分けることである。また、二本鎖の片方をそのまま受け継がせるため、正確なDNAの[[DNA複製|複製]]を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。[[DNA損傷]]の修復にも役立つ(詳しくは[[二重らせん]])。 DNAの長さは様々である。長さの単位は、二本鎖の場合 '''bp'''(base pair: [[塩基対]])、一本鎖の場合 '''nt'''(nucleotide: 塩基、ヌクレオチド)である。 === 立体構造 === 細胞内のDNAには、[[原核生物]]や[[ミトコンドリアDNA]]のような環状と、[[真核生物]]一般に見られる線状がある<ref name=Tamra42>[[#田村(2010)|田村(2010)、p.42-45、I細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-4 核酸の性質]]</ref>。自然界のDNAはらせん巻き数が理論値(1回転あたり10.4塩基)よりもほんの少し小さい。線状DNAには問題は無いが、環状DNAではこの差による不安定を解消するために環にねじれが生じ、これをDNAの超らせん(または負の超らせん)という<ref name=Tamra42 />。 == DNAの化学的性質 == * 2本のポリヌクレオチドを結びつける水素結合は不安定なため、沸騰水の中では離れて1本鎖になる。しかしゆっくり冷ますとポリヌクレオチドは相補性から再び結合して元に戻る。このようにDNAが1本鎖になる事を「DNAの変性」、元に復元する事をアニールという。変性が50%起こる[[温度]]はT<sub>m</sub>と記され、A/T対が多いほど低い<ref name=Tamra42 />。T<sub>m</sub>は一価の陽イオン濃度が低い場合や、水素結合を遊離させやすい[[尿素]]や[[ホルムアミド]]などが存在すると下がる<ref name=Tamra42 />。 * 穏やかな方法で単離されたDNAは白色のフェルト状繊維で、そのナトリウム塩の水溶液は粘性が高く、[[流動複屈折]]を示す。これは熱、酸、アルカリに容易に変性し、粘度は低下し、乾燥すると粉末となり、もはや繊維状になり得ない。この変化から分子量は数百万から2万〜3万程度に下がってしまう。この化学組成はアルカリに対しては安定性が高いが、酸には弱く、容易に[[プリン (化学)|プリン]]を遊離する。この変化に伴い、[[デソキシペントース]]の[[アルデヒド基]]が遊離し、[[シッフ試薬]]を赤紫に変色させる。この[[呈色反応]]を[[フォイルゲン反応]]と呼び、これを利用して、DNAを含む核や分裂中の染色体を赤紫に着色して観察できる。 * DNAの吸光度は塩基によって紫外線260nmを吸収極大としている<ref name=Tamra42 />。この値は、塩基が接近しているほど小さい。塩基が極めて整然と、かつ接近している二本鎖DNAよりも、不規則に配列しているときの一本鎖DNAのほうが光を吸収する力は強い。例えば、A<sub>260</sub>=1,00である二本鎖DNAと同濃度の一本鎖DNAについて、A<sub>260</sub>=1、37である(詳しくは[[DNAの巻き戻し]]参照)。 * 変性したDNA溶液から、未変性状態のDNA状態と同じDNAを作ることができる。 * 異なる分子種から得た一本鎖の試料を混ぜて[[再結合DNA]]を形成させる手法を[[ハイブリダイゼーション|ハイブリッド形成]]という。 * DNAの半減期は521年、DNAの復元に必要な長さのDNA断片が残るのは約100万年前([[更新世]]の[[カラブリアン]]後半)までとそれぞれと推定されている<ref>{{Cite web|title=Mystery of DNA decay unravelled|url=https://www.murdoch.edu.au/news/articles/mystery-of-dna-decay-unravelled|website=web.archive.org|date=2020-10-17|accessdate=2020-10-17}}</ref>。 == 細胞内でのDNAの存在形態 == [[細菌]]のゲノムは通常[[環状DNA]]であり、細胞内で[[核様体]]と呼ばれる構造体を形成する。[[核様体]]は[[真核細胞]]の[[核膜]]に対応する膜構造はもたない。 [[真核細胞]]のゲノムDNAは、[[ヒストン]]というタンパク質群と結合して、[[ヌクレオソーム]]と呼ばれる構造をつくる。[[ヌクレオソーム]]は[[クロマチン]]の基本単位であり、分裂期にはさらに折り畳まれて[[染色体]]を構築する。 [[古細菌]]のゲノムも[[細菌]]と同様に[[核様体]]をつくるが、[[真核細胞]]の[[ヒストン]]に似たタンパク質ももっている。 また[[細胞小器官|オルガネラ]]でも[[ミトコンドリア]]や[[葉緑体]]は独自のDNAを持つ。このことがオルガネラの由来に関する[[膜進化説]]に対する[[細胞内共生説]]の証拠であるとされている。形状は環状のものもあれば、そうでないものもある。 == DNAの働き== === 塩基配列 === DNAのヌクレオチドの並び方を[[塩基配列]]と言う。本来は「ヌクレオチド配列」と言うべきだが、実際の差異はそれぞれの塩基部分のみであるためこのように呼ばれる。別な呼び方では「遺伝暗号」 (genetic code) という専門的な呼称もある<ref name=Take14>[[#武村(2012)|武村(2012)、p.14-24、第1章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-1 DNAとセントラルドグマ]]</ref>。塩基配列は[[タンパク質]]の[[アミノ酸]]配列に対応しており、3つの塩基の組み合わせが20種類のアミノ酸1つずつに対応しており、mRNAに配列の情報を[[転写 (生物学)|転写]]し、細胞内の[[リボソーム]]でmRNAの3つの塩基が並ぶ情報([[コドン]])が[[翻訳 (生物学)|翻訳]]されてアミノ酸が鎖状に繋がってタンパク質が合成される。この連鎖は全生物に共通の原理であるため[[セントラルドグマ]]と呼ばれる<ref name=Take14 />。 ただし、一般的に広まっている「DNAは生命の設計図」という表現は、専門家からの批判が多い。イギリスの生物学者[[ブライアン・グッドウィン]]は「生物を遺伝子の性質に還元することはできない。生物は、それが生きている状態を特徴づけるようなダイナミックな系として理解されなければならない」<ref>{{Cite |和書 |author = 矢沢サイエンスオフィス |title = 大科学論争 |date = 1998| pages = 50|publisher = 学習研究社| series =最新科学論シリーズ |isbn=4-05-601993-2|ref = harv }}</ref>、医学博士の荻原清文は「遺伝子はあくまでもタンパク質の設計図にすぎません。すなわち、遺伝子から読み取られるタンパク質が脳細胞の形や配置のしかたを決めることはあっても、脳ができるときに1つ1つの脳細胞がお互いにどのように結合するかということまでは遺伝子は決められないのです」<ref>{{Cite |和書 |author = 荻原清文|title = 好きになる免疫学|date = 2004| pages = 152|publisher = 講談社 |isbn=4-06-153435-1|ref = harv }}</ref>、などと述べている。実際、ヒトの場合DNA中でタンパク質合成の設計にあずかる部分は全体の1.5%に過ぎない<ref name=Take14 />。 === 遺伝子発現 === DNAの塩基配列をmRNAに転写させる遺伝子の発現は、ヒストンに巻きついて折りたたまれた状態のままでは不可能である。転写の前段階に、特定の化学物質がヒストンの[[リジン]]残基と結びついて[[アセチル化]]を起こし、元々帯びていたプラスの[[電荷]]を弱める。するとマイナスに帯電したDNAとの結びつきが弱まり<ref name=Take54>[[#武村(2012)|武村(2012)、p.54-66、第2章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-3 DNAは衣服をまとい装飾品で飾りたてる]]</ref>、ヒストンから離れて遺伝暗号部分を含む特定のDNAのらせん2本鎖がむき出しになる<ref name=Take34>[[#武村(2012)|武村(2012)、p.34-44、第1章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-3 DNAは衣服をまとい装飾品で飾りたてる]]</ref>。 DNA上のある遺伝暗号が発現を開始する際には、まずその部分のすぐそばにある「[[プロモーター]]」と呼ばれる塩基配列の転写調節領域に、「[[基本転写因子]]」とよばれる複数のタンパク質が集まって来る。この中にある活性酵素の[[ヘリカーゼ]]が作用すると、DNAの二重らせんは解離して2本の1本鎖となる。この部分に[[RNAポリメラーゼII]]という酵素がとりついて、mRNAの合成を行う<ref name=Take45>[[#武村(2012)|武村(2012)、p.45-52、第1章 エピジェネティクスを理解するための基礎知識、1-4 遺伝子の転写と高次クロマチン構造]]</ref>。遺伝暗号は2本鎖がほどけた2本の1本鎖のうちのどちらか片方に載っていることになるが、その1本鎖の相補的なもう片方の部分に別の遺伝暗号が載っている場合もある。この場合にも発現すべき遺伝暗号は基本転写因子によって制御される。 上記のような基本転写因子がプロモーター部分に集まる仕組みは、遺伝暗号とは全く離れた位置にある塩基配列の箇所によって促進され調整される。その部分は「[[エンハンサー]]」と呼ばれ、ここに「[[アクチベーター]]」と呼ばれるタンパク質が結合することが基本転写因子の活性化を制御する信号となる<ref name=Take45 />。このようにDNA上のある箇所の(タンパク質を合成するための)遺伝子としての発現は、タンパク質の合成には直接関与していない塩基配列の部分を介した複雑な機構によって支配されている。また、基本転写因子が近づくことはクロマチン構造がほどけていなければ難しいので、束の非常に固く縮こまった部分([[ヘテロクロマチン]])にある遺伝子の発現はほとんど起こらない。そのような例としては[[X染色体の不活性化]]があげられる<ref name=Take45 />。 == DNAとRNA == DNAと[[リボ核酸|RNA]]はともに[[ヌクレオチド]]の重合体である[[核酸]]であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定」である。両者の安定の度合いの違いが、{{要出典|DNAは静的でRNAは動的な印象を与える|date=2023年7月}}。 === 化学構造の相違 === DNAとRNAの化学構造の違いの第一は、構成糖が、RNAは[[リボース]]で、リボースから2'位の[[水酸基]]で酸素が一つ少ない2'-[[デオキシリボース]]であることである。これにより、構成糖の[[立体配座]]が異なる。DNAではリボースがC2'-エンド形構造を取ることが多いが、RNAでは2'位のヒドロキシ基の存在により立体障害が生じ、リボースがC3'-エンド型構造を取る。このためDNAはB型らせん構造を取りやすく、RNAは[[A-DNA|A型らせん]]構造を取りやすくなるという違いが生じる。この結果RNAのらせん構造は主溝が深く狭くなり、副溝が浅く広くなる。 {{see also|二重らせん}} 1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には[[孤立電子対]]が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を[[電気陰性度]]の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から[[求核反応|求核攻撃]]を受けやすく、攻撃により[[ホスホジエステル結合]]が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。[[安定RNA]]では1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。<!--(安定RNAの具体的な構造および安定RNAとmRNA以外のRNAはどうなのか一言お願いします。)--> 糖に結合している塩基にも違いがあり、DNAはA、C、G、Tであるが、RNAはTがU([[ウラシル]])に替わっている。ただし、DNA上にもUが稀に生じることがあり、また、塩基にTではなくUを用いるDNA([[U-DNA]])を持つ生物も存在する。圧倒的大多数の生物でDNAの構成塩基にUではなくTが用いられるのは、同じピリミジン塩基であるCは自然の状態でも脱アミノ化することでUに置き換わることがあるからである<ref name=Take90>[[#武村(2012)|武村(2012)、p.90-94、第3章 DNAに生じる塩基配列以外の変化、3-1 塩基の成り立ちとメチル化]]</ref>。そのため、U-DNAは頻繁に塩基配列が変化し、またそれを防ぐためには、損傷してUに変化したCと元々がUであるのと識別する必要があるという問題がある。TはUの2'にメチル基がついている構造をしている。メチル基は水素結合に係わるものの他の原子には殆ど反応しない。また、Uに比較してCからは容易に生じず、Cの損傷によって生じたUを容易に検出できる。 以上より、DNAではUではなくTが用いられているが、UはTよりエネルギー的に有利であるため、RNAではUが用いられている。 === 物理化学的性質の相違 === DNAとRNAの物理化学的性質について。DNAとRNAはともに[[紫外線]]である波長260nm付近に[[吸収極大]]を持ち、230nm付近に[[吸収極小]]を持つ。この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基は[[プリン (化学)|プリン]]または[[ピリミジン]]に由来するためである。ただし、二重らせん構造のDNAの場合、溶液を加熱するとその吸光度は増す(濃色効果)。これは、DNAは規則正しい二重らせん構造ゆえ、全体の吸光度は個々の塩基の吸光度の総和より小さい(淡色効果)が、熱によって水素結合が切れ、二重らせん構造が解け(核酸の変性)、個々の塩基が自由になり、独自に光を吸収するためである。また、DNAとRNAはアルカリ溶液中で挙動が異なる。RNAは弱塩基でも容易に加水分解するが、DNAは安定して存在する。 == DNAの含有量 == 細胞の分化に伴いDNAの一部が欠落する場合を除き、核内のDNA含有量は生理的条件に左右されない。すなわち一般的な体細胞<ref group="†">通常のコケは配偶体で半数体である。</ref>は[[倍数性|二倍体]]で、卵・精子等は半数体(一倍体<ref name=Tamra173>[[#田村(2010)|田村(2010)、p.173、IV細胞の増殖、20.減数分裂、20-1 減数分裂の概要]]</ref>)である。つまり卵・精子の核のDNA含有量は、その生物の体細胞のほぼ半分(厳密には、y染色体がx染色体より小さい場合、精子のDNA量はx染色体を持つ場合半分より多く、y染色体を持つ場合半分より少ない)である。DNA含有量は個々の生物で特有であり、一つの種類で、二倍体ならばどの種類の細胞であろうと値は一定である。脊椎動物の場合[[両生類]]では特に高い。[[哺乳類]]では種類ごとの含有量の差が小さく、6-7×10<sup>-12</sup>gぐらいであり、[[鳥類]]はその半分ぐらいである。 この現象は、[[DNA複製|複製]]のためにあり、[[体細胞分裂]]ごとにDNAは2倍に増加して、2個の[[娘細胞]]に等分される。 DNAの合成は[[染色体]]が出現する分裂期ではなく、静止核の時期である[[間期 (細胞分裂)|間期]]の[[S期]]に行われ、分裂期は合成されたDNAを娘細胞に等分する時期に当たる。詳細は[[細胞周期]]参照。またDNAは分裂間期から分裂期までの間、転写をせず、安定な状態で、娘細胞の中に入れられる。 == DNAの合成 == ; [[デノボ合成]] : 食物から摂った糖や[[アミノ酸]]などを元に肝臓で合成する。 ; [[サルベージ経路|サルベージ合成]] : 食品から摂取されて分解経路に入ったヌクレオチドを再利用する。 === DNAの材料 === [[ヌクレオチド]]及びその結合体である[[ポリヌクレオチド]]、DNA、[[リボ核酸|RNA]]は生物を原料とするほとんどの食品に微量含まれており、[[魚]]の[[白子 (精巣)|白子]]や[[動物]]の[[睾丸]]などでは含有率が高い。DNAを摂取すると、体内でいったんヌクレオチドに分解された後、ヌクレオシド3リン酸となり、RNA、DNAを効率的に合成する材料となる。 工業的に効率的に分離するための原料として[[サケ]]の[[白子 (精巣)|白子]]や[[ホタテガイ]]の[[生殖巣]]などが利用されている。 == 遺伝情報の担い手としてのDNA == [[画像:Dna-split.png|thumb|right|DNAの複製を描いた図。]] {{Main|DNA複製}} 全ての生物で、細胞分裂の際の[[母細胞]]から[[娘細胞]]への遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。DNA の複製は[[DNAポリメラーゼ]]によって行われる。 DNAが親から子へ伝わるときにDNAに[[変異]]が起こり、新しい[[形質]]が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。 [[細菌]]など[[細胞分裂|分裂]]によって増殖する生物は、条件が良ければ指数的に増殖する。その際、複製のミスによって[[薬剤耐性]]のような新たな形質を獲得し、それまで生息できなかった条件で生き残ることができるようになる。 [[有性生殖]]をする生物において、DNAは[[減数分裂]]時の[[染色体]]の組み換えや、[[配偶子]]の染色体の組み合わせにより、次世代の形質に多様性が生まれる。 == 3本鎖DNAの存在について == これまで2本鎖、もしくは1本鎖のみと考えられていたDNAであるが、近年3本鎖DNAの存在が示唆されてきている<ref name=Tamra41-2>[[#田村(2010)|田村(2010)、p.41、I細胞生物学の基礎、5.情報高分子(2):ヌクレオチドと核酸、5-3 DNAの二重鎖と塩基対の相補性]]</ref><ref>reviewed in Right 2004; myong et al., 2006</ref>。 通常、DNAは[[真核生物]]の細胞内では2本鎖の状態で存在している。そのDNAのGC含量にもよるが、DNAは60℃前後で水素結合が壊れて1本鎖となる([[Tm値]])。逆に温度が下がり、0℃を下回るあたり(Bm値。若干の幅がある)で[[細胞質]]内の[[リン酸]]基を中心に3つの塩基が同じ高さに来ることがある。 この場合、事実上3本のDNA鎖が並列に存在することとなり、DNAは3本鎖となる。リン酸を必要とするため、単純なDNA溶液のみでの実験を行っても、[[in vitro]](試験管内などの人工的に構成された条件下)での証明が難しい。今後はより再現性を高めた研究が進むものと期待されている。 3本鎖となったDNAにおいても、そのねじれは2本鎖の場合と変わらず、約10.5塩基ごとに1周である。3本鎖になることにより、2本鎖の場合のDNAの一次構造の保持への負担はより軽くなると思われがちである。しかし、実際に保持エネルギーを計測すると3本鎖DNAの方がエネルギーが大きく、遥かに不安定であることが実験的に証明されている<ref>reviewed in Documentation 2006; leime et al., 2007</ref>。 なお、一部の[[担子菌類]]では、自然界で正常に存在している状態で3本鎖のDNAを有するものが見つかっている。これらのDNAが転写・複製される場合、3本が同時にほどけるのではなく、1本ずつ順番にほどけて複製される。そのため、これらの生物がDNA複製を行う際生体内のDNA量を計測すると、ある1点で急激に増加するのではなく段階的に増加していることがわかる。 == DNAの利用 == ; [[DNA鑑定]] : DNAの[[反復領域]]の違いをもとに、血液その他から人物の特定などを行う。犯罪[[捜査]]や[[親子]]鑑定に利用される。 ; [[医療]] : [[遺伝子治療]]や[[オーダメイド医療]]という、一人ひとりの個性に合った治療が可能になる。 ; [[工業]] : DNAの[[二重らせん構造]]を使って、微細な有機分子を捉える[[フィルター]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}が開発されている{{要出典|date=2023年7月}}。 ;[[環境DNA]]調査 : [[海]]・[[湖沼]]・[[河川]]の水や[[土壌]]に含まれる動物の[[糞]]などに由来するDNAを分析することで、その水域・地域における希少生物などの有無を確認したり、生息数を推計したりできる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28836920Q8A330C1TJM000/ 環境DNAとは]『日本経済新聞』朝刊2018年4月2日(科学技術面)「水中のDNAで生息調査」用語解説</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO032251/20180202-OYTAT50000.html 【平成時代 DNAの30年】読み解く(5)魚の種類1杯の水で]『読売新聞』朝刊2018年2月2日</ref>。 ; [[ナノテクノロジー]] : 生物学的な役割とは直接関係しないナノ構造材として用いられることもある([[DNAナノテクノロジー]])。 == DNA小史 == * [[1869年]]: [[フリードリッヒ・ミーシェル|フリードリッヒ・ミーシャー]]([[スイス]])が[[白血球]]の核中からリン酸塩からなる化学物質(のちにDNAとされる)の抽出に成功。1871年にヌクレインという名で発表したが、彼はその役割を細胞内におけるリンの貯蔵と考えていた(後にリヒャルト・アルトマン(ドイツ)によってヌクレインは核酸と改称される)。 * [[1885年]]: A.コッセルがアデニンを発見。86年にグアニン、93年にチミン、94年にシトシンも発見。 * [[1909年]]: [[フィーバス・レヴィーン]]がリボースを構成糖とする核酸・RNAを発見。 * [[1929年]]: 上述のフィーバス・レヴィーンがDNAの構成糖はデオキシリボースで、核酸にはDNAとRNAの2種類あることを発見。 * [[1944年]]: [[オズワルド・アベリー]]らによって[[肺炎双球菌]]を用いて DNA が[[形質転換]]の原因物質であることが証明される。これはDNAが遺伝子本体であることを強く示唆したものであると理解された(当時、遺伝子の正体がDNAかタンパク質か論争が起こっていた)。 * [[1952年]]: A.D.ハーシーとM.チェイスは、[[バクテリオファージ]]を用いて、DNAが遺伝物質であることを直接に確認([[ハーシーとチェイスの実験]])。DNA が遺伝物質であることが決定的になる。 * [[1953年]]: [[ジェームズ・ワトソン|J.ワトソン]]、[[フランシス・クリック|F.クリック]]が[[ロザリンド・フランクリン]]や[[モーリス・ウィルキンス]]の研究データの提供によって DNA の二重らせん構造を明らかにした。 * [[1956年]]: A.コーンバーグによってDNAポリメラーゼが発見される。コーンバーグはDNAポリメラーゼの精製にも成功している。 * [[1957年]]: M.メセルソンとF.W.スタールによって DNA の[[半保存的複製]]が明らかにされる。 * [[1962年]]: J.ワトソン、Fクリックとモーリス・ウィルキンスが、ノーベル賞を受賞した。ロザリンド・フランクリンは、その前に亡くなった。 * [[1967年]]: [[岡崎令治]]らによって[[岡崎フラグメント]]が発見される。 * [[1970年]]: H.スミスによって[[制限酵素]] [[HindIII]]が分離される。 * [[1971年]]: ポール・バーグによって史上初の組み替えDNA実験を行った。発ガンウイルスの1種SV40のDNAを、ある種のバクテリオファージに組み替えることに成功。その後、実験室から漏れ出した大腸菌の危険性を指摘され、4年後アシロマ会議を主催する。 * [[1975年]]: 上述のバーグの呼びかけで[[アシロマ会議]]開催。{{Main|遺伝子#歴史|遺伝子}} == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|129516|1F9EC|-|dna|font=絵文字フォント}} |} == 取扱 == 特定の個人のDNAは一般に[[個人情報]]を構成すると考えられており、[[2022年]]2月には、[[フランス大統領]]の[[エマニュエル・マクロン]]は[[クレムリン]]での[[ウラジーミル・プーチン]][[ロシア大統領]]との会談時、DNA採取を防ぐために、ロシア側による[[COVID-19]]の[[ポリメラーゼ連鎖反応|PCR]]検査を拒んだという<ref>{{cite news|title= Macron refused Russian COVID test in Putin trip over DNA theft fears|url= https://www.reuters.com/world/europe/putin-kept-macron-distance-snubbing-covid-demands-sources-2022-02-10/|author= Michel Rose|publisher=REUTERS|date=2022-02-12}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"|}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|author = 田村隆明|editor = |title = 基礎細胞生物学|edition = 第1版第1刷|year = 2010|publisher = [[東京化学同人]]|isbn = 978-4-8079-0724-3|page = |ref = 田村(2010)}} * {{Cite book|和書|author = 武村政春|editor = |title = DNAを操る分子たち|edition = 初版第1刷|year = 2012|publisher = [[技術評論社]]|isbn = 978-4-7741-4998-1|page = |ref = 武村(2012)}} == 関連項目 == {{Div col}} * [[RNA]] * [[DNA複製]] * [[遺伝子]] * [[遺伝子工学]] * [[プラスミド]] * [[ペプチド核酸|PNA]] * [[ゲノム]] * [[アガロースゲル電気泳動]] * [[キャリー・マリス]] * [[ポリメラーゼ連鎖反応|PCR]] * [[相補的塩基対]] * [[DNA鑑定]] * [[DNAマイクロアレイ]] * [[DNAシーケンサー]] * [[DNAコンピュータ]] * [[DNA - DNA分子交雑法]] * [[DNAバーコーディング]] * [[DNA (小惑星)]] - デオキシリボ核酸に因む[[小惑星]]。 * [[DNAの日]] * [[ミーム]]:文化における伝統を遺伝子に喩える通俗的な言い方として「何々の'''DNA'''」と用いられることがあるが、これに近い概念として'''ミーム'''がある。学術的な場面以外<!--バラエティ番組とか……-->で「何々の'''DNA'''」という言いまわしが用いられた場合、実質的には「何々の'''ミーム'''」という意味で用いられていることが多い。 {{Div col end}} == 外部リンク == * [http://www.nature.com/nature/dna50/watsoncrick.pdf A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid,NATURE No.4356 April 25,1953] * {{Kotobank}} {{Genetics}} {{Gene expression}} {{Nucleic acids}} {{Portal bar|生物学}} {{Normdaten}} [[Category:デオキシリボ核酸|*]] [[Category:核酸]] {{デフォルトソート:ておきしりほかくさん}}
2003-02-18T10:14:26Z
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メディア (媒体)
メディア(media)は、情報の記録・伝達・保管などに用いられる物や装置のことである。媒体(ばいたい)などと訳されることもある。 記録・保管のための媒体(記録媒体、記憶装置)と伝達・コミュニケーションのための媒体に大別することができる。 また不特定多数の受け手を対象に情報を発信する報道機関の「マスメディア」や「マスコミ」を指すこともある。 文字や音声、コンピュータで扱うデータなどの情報を記録・保管する際には紙や磁気テープ、CD-ROM、フロッピーディスクなどが使用される。 音楽や文章、声、映像などの情報を伝達する際にはCDや手紙、電話、テレビなどが使用される。 新聞、テレビ、ラジオなどは報道機関およびコミュニケーションとしてのメディアである。 なおメディアを広義に捉える場合には、ある情報が、送り手から受け手に届くまでに経由する媒介全てを指すことになる。例えばテレビでニュースキャスターが、事件についてのニュースを読み上げる様子を、視聴者が見ている場面において、ニュース原稿としてキャスターの手に書かれている言葉は、視聴者に届くまでに、少なくとも次のような諸要素に媒介される。 また、ここで、ニュース原稿自体がやはりメディアの一種であり、ニュース原稿の書き手、言葉などを媒介として報道の対象である「事件」を伝えているものである、と考えることもできる。また、実際に報道研究やメディア論などではそのような観点からジャーナリストの持つ価値観や言葉について注目することも多く見られる。 いわゆる生放送でない場合には記録、輸送、保管、再生などのプロセスがここに加わることになるが、これらも広義にはメディアの一種である。 コミュニケーションのためのメディアは、いくつかの形態に分類される。 マスメディアは特定少数の送り手が、何らかの情報を不特定多数の受け手に向けて伝達する際に用いられる。 典型的なイメージはテレビ、新聞、雑誌、ラジオ、などいわゆる報道に関わる諸機関だが、その他に、映画、音楽、出版業界をここに含めることが多い。 なお、これら個々の項目は、一般的に馴染みが深く、多用されている用語だが、実際には明快な細分類にはなっていない。テレビは映画や音楽を部分的に含み、ラジオも音楽と重なる部分がある。 本、レコード、コンパクトディスク、映画館など、他にも様々な物や施設をここに含めることができる。 マスメディアはしばしば情報の独占、表現の手段の独占、ツリー構造、ヒエラルキー構造などと結びつけて考えられ、否定的な評価を受けることも多い。 マスメディアに媒介された情報伝達を、1点を発信源とし多数の点を到達点とする構造になぞらえ、複数の送り手から複数の送り手へ情報が行き交うような仕組みを指して、「ネットワークメディア」と呼ぶことがある。 インターネットやパソコン通信はその代表的な形態である。ここに電話や郵便が加えられることもある。インターネットは様々な用途に用いられるため、電子掲示板や電子メール、あるいはブログをネットワークメディアとし、不特定多数へ向けた情報発信であるウェブページについてはマスメディアに近いものと考える場合もある。また、より情報の拡散性と結びつきが増したSNSやTwitterの台頭により、ソーシャルメディアという語も生まれている。 同様に、テレビ放送も、個々の番組ひとつひとつについては、少数の送り手から多数の受け手へという構図になっているが、チャンネル数の増加などによって、送り手が限定されている度合いが減っていると考える向きもある。地域によっては、地元自治体などの協力によって地元住民が番組を制作、放映できる体制になっているケーブル局もある。 但し、これらの通信を支える物理的な基盤、特にケーブルなどの通信網はしばしばツリー状の構造を持っており、その意味では多数の点の間にツリーと対比されるところのネットワーク状の構造があるわけではない。 ユーザの視点からは、テレビや出版は限られた作り手によって供給される情報を受け取るだけであるのに対して、インターネットや電話では情報の送り手がそれほど限定されていないことからこう呼ばれる。 主に使い手が情報を発信したり、記録、編集したりするために用いられるものを「パーソナルメディア」と言うことがある。これはマスメディアが情報の大量一括伝送であることと対比される。また、文脈によっては、これらのメディアを介した情報のやりとりが、比較的匿名性の低い知り合い同士の間で起こるものであること、パーソナルネットワーク、インターパーソナルネットワークなどと呼ばれる文脈で起こるものであることが強調されることもある。 カメラ、家庭用ビデオカメラ、テープレコーダー、などのほか、携帯電話やアマチュア無線、電子メールなどが含まれる。 メディアの特性として、インタラクティビティ、双方向性などと呼ばれる性質が注目されることがある。テレビ番組の内容などについては、視聴者は間接的でごくわずかな影響力しか持っておらず、「受け手」にとどまるが、電話を介した会話の場合には双方が話題を提起したり、会話を打ち切ったりすることがある程度可能である。つまり、送り手と受け手の立場に立つことができ、両者の間では情報が必ず一方から他方へ伝達されるのではなく、双方向の伝達がある。こうしたメディアを指して、「双方向メディア」または「インタラクティブメディア」と言うことがある。 この双方向性、インタラクティビティの概念にも多少の幅がある。文脈によっては、より広義に双方向性を捉え、ウェブサイトやCD-ROMなどのように、利用者が自分の受け取る情報の種類や順序をある程度選択できるようになっているものを含める場合がある。ここでは、利用者の選択がコンピュータなどによって「受け取られ」それに対する応答として情報が提供されるため双方向性があると考えることができる。 批評家の東浩紀は、送信者と受信者の間の対称性の有無によってコンテンツ志向メディア(非対称性あり)とコミュニケーション志向メディア(非対称性なし)という対比を行っているが、この分け方ではコミュニケーション志向メディアは双方向メディアに相当する。 情報の送信側と受信側の時間的なギャップに注目した場合、送信のタイミングとそれが閲覧されるタイミングがほぼ一致するものを「同期型メディア」、そうでないものを「非同期型メディア」という。例えば手紙・新聞・書籍といった紙媒体は非同期型であり、電話やテレビ放送は同期型であるといえる。インターネットは同期型・非同期型の両方の形態が存在し、チャットやインスタントメッセンジャーは同期型であるが、ブログ・電子掲示板などは非同期型といえる(ただし電子掲示板に常駐して新規の投稿がないかを強迫的に確認し続けるような利用の仕方をしていれば同期的といえる)。 批評家・社会学者の濱野智史は、単純な「同期」「非同期」の区分で論ずるのは難しいソーシャルウェアが登場しているとして、「擬似同期」(システム設計によってリアルタイム性を仮想的に実現しているニコニコ動画)や「選択同期」(非同期的に状態からユーザーの自発的な選択により一時的に同期的になるTwitter)といった用語を導入している。 メディアによって、伝達可能な情報の種類が制限されることがある。例えばラジオや電話では通常文字や映像は送れない。書籍では動画や音は送れない。文字、音声、映像、動画などを送るのに用いることができるメディアを指して、「マルチメディア」と言うことがある。 実際にはこれらの情報もまたメディア(上記全てのメディアは手段である)であり、表現者が伝えたいものとしてよく口にする「感動」や「共感」などといった非常に不確実で抽象的な表現は、上記情報を介して送られる「意思」と「共感への欲求」などいう根本的なものを伝達していることを表している、と言える。
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メディア(media)は、情報の記録・伝達・保管などに用いられる物や装置のことである。媒体(ばいたい)などと訳されることもある。 記録・保管のための媒体(記録媒体、記憶装置)と伝達・コミュニケーションのための媒体に大別することができる。 また不特定多数の受け手を対象に情報を発信する報道機関の「マスメディア」や「マスコミ」を指すこともある。
{{出典の明記|date=2023年10月22日 (日) 17:39 (UTC)}} {{Otheruses|情報技術におけるメディア|その他の用法|メディア}} '''メディア'''(media)は、[[情報]]の[[記録]]・伝達・保管などに用いられる物や装置のことである。'''媒体'''(ばいたい)などと訳されることもある。 記録・保管のための媒体([[記録媒体]]、[[記憶装置]])と伝達・[[コミュニケーション]]のための媒体に大別することができる。 また不特定多数の受け手を対象に情報を発信する[[報道機関]]の「[[マスメディア]]」や「[[マスコミュニケーション|マスコミ]]」を指すこともある。 == メディアの例 == [[Image:P. Oxy. VI 932 private letter on papyrus from Oxyrhynchus, written in a Greek hand of the second century AD.jpg|thumb|200px|パピルスに残された文章]] [[Image:PersonalStorageDevices.agr.jpg|200px|thumb|right|様々な電子記憶媒体]] [[文字]]や[[音声]]、[[データ (コンピュータ)|コンピュータで扱うデータ]]などの情報を記録・保管する際には[[紙]]や[[磁気テープ]]、[[CD-ROM]]、[[フロッピーディスク]]などが使用される。 [[音楽]]や[[文章]]、[[声]]、映像などの情報を伝達する際には[[コンパクトディスク|CD]]や[[手紙]]、[[電話]]、[[テレビ]]などが使用される。 [[新聞]]、テレビ、[[ラジオ]]などは報道機関およびコミュニケーションとしてのメディアである。 なおメディアを広義に捉える場合には、ある情報が、送り手から受け手に届くまでに経由する媒介全てを指すことになる。例えばテレビで[[ニュースキャスター]]が、事件についての[[ニュース]]を読み上げる様子を、視聴者が見ている場面において、ニュース原稿としてキャスターの手に書かれている言葉は、視聴者に届くまでに、少なくとも次のような諸要素に媒介される。 * 放送局内 ** 原稿を読むキャスターの視力や判断力 ** 声や表情 ** 空気の振動([[音]])や光の波長([[色]]) ** [[マイクロフォン]]や[[ビデオカメラ]]<!--のレンズ-->など撮影機材 ** 編集機材([[副調整室]]の中) ** 撮影機材、編集機材を操作する各種スタッフ([[撮影技師|カメラマン]]、[[レコーディング・エンジニア|ミキサー]]など) ** ケーブルや無線(通信衛星も含む)の通信 * テレビ局([[送信所]])からの放送用電波 * [[テレビ受像機]] また、ここで、ニュース原稿自体がやはりメディアの一種であり、ニュース原稿の書き手、言葉などを媒介として報道の対象である「事件」を伝えているものである、と考えることもできる。また、実際に報道研究やメディア論などではそのような観点からジャーナリストの持つ価値観や言葉について注目することも多く見られる。 いわゆる生放送でない場合には記録、輸送、保管、再生などのプロセスがここに加わることになるが、これらも広義にはメディアの一種である。 == コミュニケーション・メディアの諸形態 == コミュニケーションのためのメディアは、いくつかの形態に分類される。 === マスメディア === {{main|マスメディア}} [[画像:CBC journalists in Montreal.jpg|thumb|マスメディアの一例 ラジオ放送局(カナダ)]] マスメディアは特定少数の送り手が、何らかの情報を不特定多数の受け手に向けて伝達する際に用いられる。 典型的なイメージは[[テレビ]]、[[新聞]]、[[雑誌]]、[[ラジオ]]、などいわゆる報道に関わる諸機関だが、その他に、[[映画]]、[[音楽]]、[[出版]]業界をここに含めることが多い。 なお、これら個々の項目は、一般的に馴染みが深く、多用されている用語だが、実際には明快な細分類にはなっていない。テレビは映画や音楽を部分的に含み、ラジオも音楽と重なる部分がある。 [[本]]、[[レコード]]、[[コンパクトディスク]]、[[映画館]]など、他にも様々な物や施設をここに含めることができる。 マスメディアはしばしば情報の独占、表現の手段の独占、ツリー構造、ヒエラルキー構造などと結びつけて考えられ、否定的な評価を受けることも多い。 === ネットワークメディア === マスメディアに媒介された情報伝達を、1点を発信源とし多数の点を到達点とする構造になぞらえ、複数の送り手から複数の送り手へ情報が行き交うような仕組みを指して、「ネットワークメディア」と呼ぶことがある。 [[インターネット]]や[[パソコン通信]]はその代表的な形態である。ここに[[電話]]や[[郵便]]が加えられることもある。インターネットは様々な用途に用いられるため、[[電子掲示板]]や[[電子メール]]、あるいは[[ブログ]]をネットワークメディアとし、不特定多数へ向けた情報発信である[[ウェブページ]]についてはマスメディアに近いものと考える場合もある。また、より情報の拡散性と結びつきが増した[[ソーシャル・ネットワーク・サービス|SNS]]や[[Twitter]]の台頭により、[[ソーシャルメディア]]という語も生まれている。 同様に、テレビ放送も、個々の番組ひとつひとつについては、少数の送り手から多数の受け手へという構図になっているが、チャンネル数の増加などによって、送り手が限定されている度合いが減っていると考える向きもある。地域によっては、地元自治体などの協力によって地元住民が番組を制作、放映できる体制になっているケーブル局もある。 但し、これらの通信を支える物理的な基盤、特にケーブルなどの通信網はしばしばツリー状の構造を持っており、その意味では多数の点の間にツリーと対比されるところのネットワーク状の構造があるわけではない。 ユーザの視点からは、テレビや出版は限られた作り手によって供給される情報を受け取るだけであるのに対して、インターネットや電話では情報の送り手がそれほど限定されていないことからこう呼ばれる。 === パーソナルメディア === 主に使い手が情報を発信したり、記録、編集したりするために用いられるものを「パーソナルメディア」と言うことがある。これはマスメディアが情報の大量一括伝送であることと対比される。また、文脈によっては、これらのメディアを介した情報のやりとりが、比較的匿名性の低い知り合い同士の間で起こるものであること、パーソナルネットワーク、インターパーソナルネットワークなどと呼ばれる文脈で起こるものであることが強調されることもある。 [[カメラ]]、[[ビデオカメラ|家庭用ビデオカメラ]]、[[テープレコーダー]]、などのほか、[[携帯電話]]や[[アマチュア無線]]、[[電子メール]]などが含まれる。 === 双方向メディア === メディアの特性として、インタラクティビティ、双方向性などと呼ばれる性質が注目されることがある。テレビ番組の内容などについては、視聴者は間接的でごくわずかな影響力しか持っておらず、「受け手」にとどまるが、電話を介した会話の場合には双方が話題を提起したり、会話を打ち切ったりすることがある程度可能である。つまり、送り手と受け手の立場に立つことができ、両者の間では情報が必ず一方から他方へ伝達されるのではなく、双方向の伝達がある。こうしたメディアを指して、「双方向メディア」または「[[インタラクティブ]]メディア」と言うことがある。 この双方向性、インタラクティビティの概念にも多少の幅がある。文脈によっては、より広義に双方向性を捉え、ウェブサイトや[[CD-ROM]]などのように、利用者が自分の受け取る情報の種類や順序をある程度選択できるようになっているものを含める場合がある。ここでは、利用者の選択がコンピュータなどによって「受け取られ」それに対する応答として情報が提供されるため双方向性があると考えることができる。 [[批評家]]の[[東浩紀]]は、送信者と受信者の間の対称性の有無によってコンテンツ志向メディア(非対称性あり)とコミュニケーション志向メディア(非対称性なし)という対比を行っているが<ref>[[東浩紀]] 『ゲーム的リアリズムの誕生』 [[講談社]]、2007年、143-144頁。ISBN 978-4061498839。</ref>、この分け方ではコミュニケーション志向メディアは双方向メディアに相当する。 === 同期型メディアと非同期型メディア === 情報の送信側と受信側の時間的なギャップに注目した場合、送信のタイミングとそれが閲覧されるタイミングがほぼ一致するものを「同期型メディア」、そうでないものを「非同期型メディア」という。例えば手紙・新聞・書籍といった紙媒体は非同期型であり、[[電話]]やテレビ放送は同期型であるといえる。インターネットは同期型・非同期型の両方の形態が存在し、[[チャット]]や[[インスタントメッセンジャー]]は同期型であるが、[[ブログ]]・[[電子掲示板]]などは非同期型といえる(ただし電子掲示板に常駐して新規の投稿がないかを強迫的に確認し続けるような利用の仕方をしていれば同期的といえる)。<ref>[[濱野智史]] 『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』 [[エヌ・ティ・ティ出版]]、2008年、197-199頁。ISBN 978-4757102453。</ref> 批評家・[[社会学者]]の[[濱野智史]]は、単純な「同期」「非同期」の区分で論ずるのは難しいソーシャルウェアが登場しているとして、「擬似同期」(システム設計によってリアルタイム性を仮想的に実現している[[ニコニコ動画]])や「選択同期」(非同期的に状態からユーザーの自発的な選択により一時的に同期的になる[[Twitter]])といった用語を導入している<ref>『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』213頁。</ref>。 === マルチメディア === メディアによって、伝達可能な情報の種類が制限されることがある。例えばラジオや電話では通常文字や映像は送れない。書籍では動画や音は送れない。[[文字]]、[[音声]]、映像、[[動画]]などを送るのに用いることができるメディアを指して、「[[マルチメディア]]」と言うことがある。 == メディアを用いて送られる情報 == * [[文字]] ** [[小説]] * [[音声]] ** [[音楽]] * [[画像]] ** [[絵画]] ** [[写真]] ** [[漫画]] * 映像 ** [[アニメーション|アニメ]] ** [[ドラマ]] ** [[映画]] ** [[ビデオゲーム]] 実際にはこれらの情報もまたメディア(上記全てのメディアは手段である)であり、表現者が伝えたいものとしてよく口にする「感動」や「共感」などといった非常に不確実で抽象的な表現は、上記情報を介して送られる「意思」と「共感への欲求」などいう根本的なものを伝達していることを表している、と言える。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|メディア}} * [[コンテンツ]] * [[ニューメディア]] * {{仮リンク|ラージメディア|pt|Grande mídia}} * [[伝送路]] * [[新聞学]] * [[メディア学部]] * [[メディア研究]] * [[メディア・リテラシー]] * [[通信と放送の融合]] * [[マスコミ四媒体]] * [[プロパガンダ]] * [[メディア・バイアス]] * [[第三者効果]] * {{ill2|自媒体|zh|自媒体}} ‐ 中国における個人インフルエンサー・独立系ニュースアカウントによる情報配信のこと。2023年になるとSNSや動画配信では、中国政府のサイバー空間浄化の方針に従い実名を提示するよう企業が求める形となっている。 {{音楽}} {{Normdaten}} [[Category:媒体|*]] [[Category:コミュニケーション|めていあ]]
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K点
K点(ケイてん)とは、スキーのジャンプ競技におけるジャンプ台の建築基準点のこと。ドイツ語で建築基準点を意味する Konstruktionspunkt(英: construction point)に由来する。 K点は、ジャンプ台の着地斜面の下部に位置し赤い線が引かれており、この位置を境にして着地滑走路の傾斜曲率が変わる。2005年現在の採点法ではK点を飛距離の基準とし、K点に着地した飛躍に対し60点が与えられる。着地地点がK点に達しなかった場合は減点され、超えた場合は加算される。減加算される点数は、ジャンプ台の規模により異なるが、一般的にノーマルヒルでは2.0点/m、ラージヒルでは1.8点/mである。着地区域の開始点はP点(独: Punkt, 英: P-point)と呼び、青い線が引かれている。 着地地点は前述の傾斜路の曲率が着地時に危険が伴うことから、これ以上飛ぶと危険であるという「極限点」(独: Kritischer Punkt, 英: critical point)を表す意味として、1972年札幌オリンピック当時は用いられていた。 競技中においても最も飛距離の長い選手であっても着地地点がK点を超えないように、大会運営者はスタート地点の高さや助走路の長さを調節して設定していた。その後、滑空中の姿勢を含む滑空技術・着地技術・競技服等が大幅に進歩したことでジャンプ場の完成時に固定されていたK点を越える、いわゆる「K点越え」のジャンプが可能になり、極限点は事実上意味をなさなくなった。 かつてのK点の役割(極限点)に相当するものは2004 - 2005年シーズンから「ヒルサイズ」と呼ばれ、K点より遠くに設定されている。選手がこの距離を超える飛行をすると、危険のため競技の続行について審議される。また、K点距離が同じであってもジャンプ台によってヒルサイズは異なるが、おおむねバーンの斜度がノーマルヒルで31度、ラージヒルで32度となっている。すなわち、現在ではジャンプ台の大きさは「ヒルサイズ=Xm、K点=Ym」というかたちで示される。1995年頃からヒルサイズ導入までは斜度30度を目安にした「ジュリーディスタンス」が用いられていた。 1998年長野オリンピックでジャンプ競技が執り行われた白馬ジャンプ競技場のK点は、ノーマルヒルで90m、ラージヒルで120mである。
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K点(ケイてん)とは、スキーのジャンプ競技におけるジャンプ台の建築基準点のこと。ドイツ語で建築基準点を意味する Konstruktionspunktに由来する。
{{Otheruses|ジャンプ場の着地位置|バンド計算におけるメッシュにより区分された点|ブリュアンゾーン}} {{出典の明記|date=2014年2月}} '''K点'''(ケイてん)とは、[[スキー]]の[[スキージャンプ|ジャンプ競技]]における[[ジャンプ台]]の'''建築基準点'''のこと。[[ドイツ語]]で建築基準点を意味する '''Konstruktionspunkt'''(英: construction point)に由来する。 [[ファイル:Sprungschanze Sapporo.JPG|thumb|240px|札幌市の[[大倉山ジャンプ競技場]]。赤い線 (K点) と青い線 (P点) が分かる]] == 解説 == K点は、ジャンプ台の着地斜面の下部に位置し赤い線が引かれており、この位置を境にして着地滑走路の傾斜曲率が変わる。2005年現在の採点法ではK点を飛距離の基準とし、K点に着地した飛躍に対し60点が与えられる。着地地点がK点に達しなかった場合は減点され、超えた場合は加算される。減加算される点数は、ジャンプ台の規模により異なるが、一般的にノーマルヒルでは2.0点/m、ラージヒルでは1.8点/mである。着地区域の開始点はP点(独: Punkt, 英: P-point)と呼び、青い線が引かれている。 === かつてのK点 === 着地地点は前述の傾斜路の曲率が着地時に危険が伴うことから、これ以上飛ぶと危険であるという「'''極限点'''」(独: '''Kritischer Punkt''', 英: critical point)を表す意味として、[[1972年札幌オリンピック]]当時は用いられていた。 競技中においても最も飛距離の長い選手であっても着地地点がK点を超えないように、大会運営者はスタート地点の高さや助走路の長さを調節して設定していた。その後、滑空中の姿勢を含む滑空技術・着地技術・競技服等が大幅に進歩したことでジャンプ場の完成時に固定されていたK点を越える、いわゆる「'''K点越え'''」のジャンプが可能になり、極限点は事実上意味をなさなくなった。 かつてのK点の役割(極限点)に相当するものは2004 - 2005年シーズンから「'''ヒルサイズ'''」と呼ばれ、K点より遠くに設定されている。選手がこの距離を超える飛行をすると、危険のため競技の続行について審議される。また、K点距離が同じであってもジャンプ台によってヒルサイズは異なるが、おおむねバーンの斜度がノーマルヒルで31度、ラージヒルで32度となっている。すなわち、現在ではジャンプ台の大きさは「ヒルサイズ=Xm、K点=Ym」というかたちで示される。1995年頃からヒルサイズ導入までは斜度30度を目安にした「ジュリーディスタンス」が用いられていた。 [[1998年長野オリンピック]]でジャンプ競技が執り行われた[[白馬ジャンプ競技場]]のK点は、[[ノーマルヒル]]で90m、[[ラージヒル]]で120mである。 {{デフォルトソート:けいてん}} [[Category:スキージャンプ]]
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電荷密度
電荷密度(でんかみつど、英: charge density)は、単位体積当たりの電荷の量(体積密度)。電荷を担うものとしては負電荷をもつ電子、正電荷を持つ原子核がある。(注:原子核の正電荷は陽子のものだが、陽子は複数の素粒子で構成されており、それらの中に正電荷を持つものがある。電荷の起因を議論するときは考えるスケールによることに注意。)電荷密度というときには、どの体積スケールで定義するかが大事である。物質は原子(や分子)で構成されているから、原子の中を細かく区分けした体積スケールでいうなら、原子核の位置付近では電荷密度は正であり、その外側では電荷密度が負である。原子の大きさのスケールでいうなら、その体積中の正電荷と負電荷が打ち消しあうから電荷密度はゼロということになる。 また、物性物理では、電流を担う電子に注目することも多いので、そのような伝導電子の密度を取り出し、一つの実体として議論をすることがある。例えば金属の銅は、正の1価の銅イオンと、そこから出てきた伝導電子との集合体としてとらえることが多い。そのような場合は、電荷密度として「伝導電子の電荷密度」を意味することもある。 実験的にはX線は電子と、中性子線は原子核と強く相互作用をすることを利用して、X線回折による構造解析から得られた結果から電子による負電荷密度の分布が求まる。中性子回折実験では、同様な手法により原子核による正電荷密度が求まる。 バンド計算では通常、電荷密度とは電子の密度のことを示す。従って、この場合は電子密度(electron density)とも言う。電子以外の電荷(例えばイオンなど)に対しても "電荷密度" の表記を用いることがあるので注意が必要。 バンド計算では、実空間での電荷密度 ρ(r) は波動関数 ψi,k(r) のノルムを取ることにより求められる: i, k はそれぞれバンドとk点の指標。fi,k は、各 k 点上の各バンドでの電子の占有数。なお、バンド計算では普通原子単位を用いるので素電荷は、e = 1(ハートリー原子単位系の場合)としている。ここで占有数は、N を系の全電子数とすると となる。バンド計算において波動関数は規格化されており、占有数 fi,k は非整数となる場合がある。 実空間の電荷密度をフーリエ変換したものは、 (i は虚数単位)であり、上式左辺の ρ(G) は構造因子と言われるが、このことを逆空間表示での電荷密度と言う場合もある。 実空間の波動関数をフーリエ変換して(指標 i, k は省略、V:系の体積)、 を得る。ψ(G) は逆格子空間(運動量空間)での波動関数であり、これのノルムをとると、 となり、上式左辺の P(G) は逆格子空間での電荷密度と言えるが、通常は運動量密度(momentum density)と呼ばれる。 運動量密度は、コンプトン散乱や電子‐陽電子消滅実験などの実験によって観測される量で、対象が金属(含む半金属)の場合、フェルミ面の情報を含んでいる。 自由電子の場合の運動量密度 ρ(P) は、自由電子の実空間(3次元)での波動関数 ψ が平面波 e − i k ⋅ r {\displaystyle e^{-i{\boldsymbol {k}}\cdot {\boldsymbol {r}}}} であるから、 となり(体積は省略)、 を得る(fk はフェルミ分布関数←電荷密度での占有数と表記が類似するが異なるものである)。実際は、2次元ないし 1次元表示したものが実験による観測結果と比較される。 以上から、3次元での自由電子の運動量密度の2次元表示は半球状、1次元表示は放物線となる。実際に観測されるものは、アルカリ金属のような価電子が自由電子的であるような場合を除いて自由電子のものとは大分異なった形状になることが多い。
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電荷密度は、単位体積当たりの電荷の量(体積密度)。電荷を担うものとしては負電荷をもつ電子、正電荷を持つ原子核がある。電荷密度というときには、どの体積スケールで定義するかが大事である。物質は原子(や分子)で構成されているから、原子の中を細かく区分けした体積スケールでいうなら、原子核の位置付近では電荷密度は正であり、その外側では電荷密度が負である。原子の大きさのスケールでいうなら、その体積中の正電荷と負電荷が打ち消しあうから電荷密度はゼロということになる。 また、物性物理では、電流を担う電子に注目することも多いので、そのような伝導電子の密度を取り出し、一つの実体として議論をすることがある。例えば金属の銅は、正の1価の銅イオンと、そこから出てきた伝導電子との集合体としてとらえることが多い。そのような場合は、電荷密度として「伝導電子の電荷密度」を意味することもある。 実験的にはX線は電子と、中性子線は原子核と強く相互作用をすることを利用して、X線回折による構造解析から得られた結果から電子による負電荷密度の分布が求まる。中性子回折実験では、同様な手法により原子核による正電荷密度が求まる。
{{出典の明記|date=2015年7月}} {{物理量 | 名称 = | 英語 = charge density | 画像 = | 記号 =''ρ'' | 次元 = [[時間|T]] [[電流|I]] [[長さ|L]]{{sup-|3}} | 階 =[[スカラー]] | SI =クーロン毎立方メートル | CGS =クーロン毎立方センチメートル | MTS = | FPS = | MKSG = | CGSG = | FPSG = | プランク = | 原子 = }} '''電荷密度'''(でんかみつど、{{lang-en-short|charge density}})は、単位体積当たりの電荷の量(体積密度)。電荷を担うものとしては負電荷をもつ電子、正電荷を持つ原子核がある。(注:原子核の正電荷は陽子のものだが、陽子は複数の素粒子で構成されており、それらの中に正電荷を持つものがある。電荷の起因を議論するときは考えるスケールによることに注意。)電荷密度というときには、どの体積スケールで定義するかが大事である。物質は原子(や分子)で構成されているから、原子の中を細かく区分けした体積スケールでいうなら、原子核の位置付近では電荷密度は正であり、その外側では電荷密度が負である。原子の大きさのスケールでいうなら、その体積中の正電荷と負電荷が打ち消しあうから電荷密度はゼロということになる。 また、物性物理では、電流を担う電子に注目することも多いので、そのような伝導電子の密度を取り出し、一つの実体として議論をすることがある。例えば金属の銅は、正の1価の銅イオンと、そこから出てきた伝導電子との集合体としてとらえることが多い。そのような場合は、電荷密度として「伝導電子の電荷密度」を意味することもある。 実験的にはX線は電子と、中性子線は原子核と強く相互作用をすることを利用して、X線回折による構造解析から得られた結果から電子による負電荷密度の分布が求まる。中性子回折実験では、同様な手法により原子核による正電荷密度が求まる。 ==バンド計算での電荷密度== [[バンド計算]]では通常、電荷密度とは電子の密度のことを示す。従って、この場合は'''電子密度'''(electron density)とも言う。電子以外の電荷(例えば[[イオン]]など)に対しても "電荷密度" の表記を用いることがあるので注意が必要。 [[バンド計算]]では、実空間での電荷密度 ''ρ''('''''r''''') は[[波動関数]] ''ψ''<SUB>''i'','''''k'''''</SUB>('''''r''''') のノルムを取ることにより求められる: :<math>\rho (\boldsymbol{r}) = \sum_{i,\boldsymbol{k}} f_{i,\boldsymbol{k}} |\psi_{i,\boldsymbol{k}} (\boldsymbol{r})|^2. </math> ''i'', '''''k''''' はそれぞれ[[バンド構造|バンド]]と[[ブリュアンゾーン#k点|k点]]の指標。''f''<SUB>''i'','''''k'''''</SUB> は、各 ''k'' 点上の各バンドでの電子の占有数。なお、バンド計算では普通[[原子単位]]を用いるので素電荷は、''e'' = 1([[ハートリー原子単位|ハートリー原子単位系]]の場合)としている。ここで占有数は、''N'' を系の全電子数とすると :<math> \sum_{i,\boldsymbol{k}} f_{i,\boldsymbol{k}} = N </math> となる。バンド計算において波動関数は規格化されており、占有数 ''f''<SUB>''i'','''''k'''''</SUB> は非整数となる場合がある。 実空間の電荷密度を[[フーリエ変換]]したものは、 :<math> \rho (\boldsymbol{G}) = \frac{1}{V} \int \rho (\boldsymbol{r}) e^{-i\boldsymbol{G}\cdot\boldsymbol{r}} d\boldsymbol{r} </math> (''i'' は[[虚数単位]])であり、上式左辺の ''ρ''('''''G''''') は構造因子と言われるが、このことを逆空間表示での電荷密度と言う場合もある。 ==運動量密度== 実空間の波動関数をフーリエ変換して(指標 ''i'', '''''k''''' は省略、''V'':系の体積)、 :<math> \psi(\boldsymbol{G}) = \frac{1}{V} \int \psi(\boldsymbol{r}) e^{-i\boldsymbol{G}\cdot\boldsymbol{r}} d\boldsymbol{r} </math> を得る。''ψ''('''''G''''') は[[逆格子空間]]([[運動量空間]])での波動関数であり、これの[[ノルム]]をとると、 :<math> P(\boldsymbol{G}) = |\psi(\boldsymbol{G})|^2 </math> となり、上式左辺の ''P''('''''G''''') は逆格子空間での電荷密度と言えるが、通常は'''運動量密度'''(momentum density)と呼ばれる。 運動量密度は、[[コンプトン散乱]]や電子‐[[陽電子]]消滅実験などの実験によって観測される量で、対象が[[金属]](含む[[半金属]])の場合、[[フェルミ面]]の情報を含んでいる。 [[自由電子]]の場合の運動量密度 ''ρ''('''''P''''') は、自由電子の[[実空間]]([[3次元]])での波動関数 ''ψ'' が[[平面波]] <math> e^{-i\boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{r}}</math>であるから、 :<math>\iint e^{-i\boldsymbol{G} \cdot (\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}')} e^{i\boldsymbol{k} \cdot (\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}') } d\boldsymbol{r}d\boldsymbol{r'} = \iint e^{-i(\boldsymbol{G}-\boldsymbol{k})\cdot(\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}')} d\boldsymbol{r} d\boldsymbol{r}' = \delta (\boldsymbol{G}-\boldsymbol{k}) = \rho_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{G})</math> となり([[体積]]は省略)、 :<math>\rho(\boldsymbol{G}) = \sum_{\boldsymbol{k}} \rho_{\boldsymbol{k}} (\boldsymbol{G}) = \sum_{|\boldsymbol{k}| \le k_F} f_{\boldsymbol{k}} \rho_{\boldsymbol{k}} (\boldsymbol{G}) </math> を得る(''f''<SUB>'''''k'''''</SUB> は[[フェルミ分布関数]]←電荷密度での占有数と表記が類似するが異なるものである)。実際は、[[2次元]]ないし [[1次元]]表示したものが[[実験]]による観測結果と比較される。 ;2次元表示 :<math> \rho(G_y,G_z) = \int \rho (\boldsymbol{G}) dG_x = \int_{G_x^2 \le G_F^2 - G_y^2 - G_z^2} dG_x = 2 \sqrt{G_F^2 - G_y^2 - G_z^2}. </math> ;1次元表示 :<math> \rho(G_z) = \iint \rho (\boldsymbol{G}) d G_x dG_y = \iint_{G_x^2 + G_y^2 + G_z^2 \le G_F^2} dG_x dG_y = G_F^2 - G_z^2. </math> 以上から、3次元での[[自由電子]]の運動量密度の2次元表示は[[半球]]状、1次元表示は[[放物線]]となる。実際に観測されるものは、[[アルカリ金属]]のような[[価電子]]が自由電子的であるような場合を除いて自由電子のものとは大分異なった形状になることが多い。 ==関連項目== * [[物性物理学]] * [[第一原理バンド計算]] ** [[電荷密度の混合の仕方]] * [[分極電荷密度 ]] * [[電荷・電流密度]] {{DEFAULTSORT:てんかみつと}} [[Category:密度]] [[Category:固体物理学]] [[es:Carga eléctrica#Densidad de carga eléctrica]]
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SG-1000
SG-1000は、セガ・エンタープライゼスが開発した家庭用ゲーム機。日本では1983年7月15日にセガが販売し、海外ではOEM販売された。 日本国内では販売時期に相応して3種類のバージョンが存在しており、本項では便宜上それらを初期・中期・後期と呼ぶ。画像は後期モデルのものである。 同社のゲームパソコンであるSC-3000をベースとして、よりゲームに特化し、シンプルな回路で構成される。SG-1000のSGは「Sega Game」の略である。 初期から中期に移行した辺りのタイミングで、SG-1000の基板設計が変更され、CPUやVDP、SN76489の位置が異なっている。VDPに色差信号対応のTMS9928を採用し、高画質化製品を視野に入れた変更がなされ、それに対応した信号出力ターミナルの追加とシルク印刷、CPUの上をオーディオ信号を含む7本のジャンパー線を走らせている。なお外観上、2P側のコントローラー端子がボディーから出っ張っているのが初期、面位置になっているのが設計変更された基板の特徴である。 カートリッジコネクタの固定方法が基板にハンダ付けされているのみの方法を取っている上、基板そのものがビス4本によって間接的にボディーを介して固定されているため、ソフトの抜き差しに対するスロット周辺の強度が不足し結果的にハンダ剥離、パターン破壊を引き起こしソフトを認識しなくなるトラブルが多発した。セガは基板と本体ボディーが接する部分にボール紙によるパッキンを当てて強度を増そうとしていたが、根本的な解決にはなっていなかった。 SG-1000の1プレイヤー側ジョイスティックは本体直結となっており、コントローラーを交換する事はできない。2プレイヤー側はコネクタ式のため差し替え可能である。ただし、本体を開けて1プレイヤー側ジョイスティックを取り外し、別売されていたエクステンションケーブルキット(JC-100)を取り付ける事により、1プレイヤー側もコネクタ仕様となり着脱可能となる。エクステンションケーブルキットは基本的には店頭販売されておらず、セガのサービスセンターでJC-100の取り付けサービスと、取り外したジョイスティックコントローラSJ-200の着脱対応化改造を行っていた。 コントローラ形状は縦長の箱状で、両側面にボタンが1つずつある8方向レバーのジョイスティックである。これはAtari 2800やスーパーカセットビジョンなどと同様である。これらに比べてSG-1000のものは小学生の手にフィットする細長い形状になっている。なお、コントローラー端子に5Vが供給されていないので、後に発売されたラピッドファイヤーユニットやアスキースティックαはこの機種には利用できない。アーケードを意識したスティックの付いたコントローラーの操作性には難があった。 単色のみのスプライト機能あり。価格は15,000円。当初は「SG-2000」という名称で定価19,800円にて発売予定だったが、任天堂のファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)の発表を受け、価格をファミコンに合わせて「SG-1000」として発売した。 ツクダオリジナルとパイオニアが、以下の互換ハードを発売した。 これらは1983年末に発売されたMSXに対抗するために提携したもので、生産販売は提携先メーカーだが開発はセガとの共同開発である。いずれも、SK-1100等が必要な物を除き、セガ発売のSG-1000/SC-3000シリーズ用ソフトが使用可能。 クローン機では台湾のBit Corporation社よりSG-1000とコレコビジョンの両方のソフトが遊べる「DINA 2-in-1」なども発売された。 また、「パソコン学習机」というアーケード筐体が存在した。名前の通り机にモニターが据え付けられたようなデザインで、机部分にSC-3000と同じキーボードとアーケード型ジョイスティックが搭載されており、正面のモニタ横にソフトの切り替えボタンが縦に10個並んでいた。コインを投入すると一定時間(標準設定で10分/100円)、内蔵されているソフトを自由に切り替えてプレイできるというもの。セガ直営店のごく一部の店舗で見ることができた。基板はSG-1000と同等のもので、ソフトも市販のものと全く同じものを使用していた。 これとは別に、SG-1000と同スペックの一般筐体向け業務用基板も少数流通した。この基板ではソフトウェア用としてEPROMが使用されている。 別売の外付けキーボード SK-1100には、SC-3000から省略されたインターフェイスも搭載されており、機能的には同様のものが提供される。ハードウェアとしては入出力周りの実装と、メモリの実装量が異なるため、拡張しても等価になるわけではない。 ソフトウェアはカートリッジおよびマイカードと呼ばれる名刺型のものが存在する。 グラフィックやサウンドなどの性能は同世代のファミコンに劣るが、『サファリハンティング』や『フリッキー』といったセガがリリースした人気アーケードゲーム作品を自社移植できたことで本体の一定の普及に結び付いた。 その一方で、セガはファミコンに対抗すべく、他のアーケードゲームメーカーに声をかけてサードパーティー集めに必死になった。ツクダオリジナルからは「オセロマルチビジョン」用ソフトとして8タイトルが発売され、それらソフトはSG-1000/SC-3000シリーズでも使用可能であることから、セガハード初のサードパーティーとなる。しかしそれ以外のメーカーは他社ハードにソフトを供給しているなどの理由で断られたためなかなか集まらなかった。打開策として、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)などの他のアーケードゲームメーカーに開発費などを供与した上で、他社が開発したタイトルをセガブランドとして発売したソフトも少なくなかった。パイオニアからは互換ハードのみの発売のみで、独自のソフトは発売されなかった。 後継機のセガ・マークIII発売後もソフトの供給は続き、1987年までソフトが供給された。 1983年7月15日に発売。上位機であるSC-3000は、同時期のホビーパソコンであるM5やMSXなどとほぼ同等のスペックである。実際、本機のタイトルの大半はMSXに移植の上でポニー(PONYCAブランド)から販売されていた。SG-1000はそれらと同等のハードウェア性能を持ちながらもキーボードやBASICをオプションにしたことで、SC-3000の29,800円より低価格の19,800円に設定、最終的には同日発売のファミコンと同等の15,000円で発売した。また同月にはエポック社がカセットビジョンJr.を、トミーがぴゅう太Jr.を発売したことで、競合他社が集中した。 『月刊コロコロコミック』1983年10月号の比較記事によれば、SG-1000はアタリのAtari 2800を若干下回る3位という総合評価を受けている。同誌でファミコンがほぼオール5に近い評価で、旧世代機ながらも当時世界のコンシューマ市場で実績のあったアタリは全ての評価項目で4以上の評価だったのに対し、SG-1000は評価項目の「ゲームパターン」のみ3だった。 当時の日本のコンシューマゲームは電子ゲームから家庭用テレビゲームへの移行期であり、場面と共に内容も大きく変わることが電子ゲームには無い利点と考えられていた。しかし『N-サブ』に代表されるSG-1000の初期タイトルにはゲームを進めても内容に変わり映えの乏しいものが多く、それが評点に影響した。それでも「ソフト」項目ではタイトル数に勝るAtari 2800よりも高い評価を受けており、アーケードで長年の実績を有する事によるゲーム作りのセンスは同誌でも評価されていた。また1983年秋時点での同誌でのソフト個別の評価例としては、初期タイトルの1つ『スター・ジャッカー』が、ファミコンの『マリオブラザーズ』・『ポパイ』に次ぐ3位の評価だった。 発売当初はSC-3000と合わせて10万台程度の販売台数を見込んでいた。当時のセガの社員が自ら「セガのファミコン」と称して販売したこともあるというエピソードが語られるほどファミコンの影響は大きく、ファミコンの普及に牽引されることで日本国内だけでも初年度でセガの予想を大きく上回る16万台を販売した。 さらにオーストラリアではJohn Sands社、ニュージーランドではGrandstand Leisure Limited社によって販売されており、ニュージーランドでは専門誌まで刊行されていた。それ以外にも、イタリア・スペイン・南アフリカ共和国・台湾でのOEM販売も行われた。北米では販売されなかったが、前述の「ゲーム学習机」の様なアーケードゲームの形でSG-1000のゲームを遊ぶ事はできた。 これまでゲーム基板では数千枚程度から数万枚の製造販売である中、こうして損益分岐点である20万台を大きく上回る40万台を記録し、セガの想定以上のヒット製品となった事で、少なくともハード基板1つで10万台単位での製造販売が見込める事から、その後のセガ独自ハード路線を決定づけ、本機以降の『SG-1000II』『セガ・マークIII』『セガ・マスターシステム』などの家庭用ゲーム機を発売していった。
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SG-1000は、セガ・エンタープライゼスが開発した家庭用ゲーム機。日本では1983年7月15日にセガが販売し、海外ではOEM販売された。 日本国内では販売時期に相応して3種類のバージョンが存在しており、本項では便宜上それらを初期・中期・後期と呼ぶ。画像は後期モデルのものである。
{{Otheruses|[[セガ]]が発売した8ビット家庭用テレビゲーム機|[[ヤマハ]]から発売されたエレクトリックギター|ヤマハ・SG}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = SG-1000 |ロゴ = [[File:SG-1000 Logo.svg|250px]] |画像 = [[ファイル:Sega-SG-1000-Console-Set.png|250px]] |画像コメント = SG-1000 |メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第3世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1983年]][[7月15日]]<br />{{Flagicon|AUS}}{{Flagicon|NZL}} 1983年 |CPU = [[ΜCOMシリーズ#.CE.BCCOM-82|NEC μPD780C]] or [[シャープ|SHARP]] LH0080A |GPU = |メディア = ゲームカートリッジ <ref name="segahardhistory_sg_devices">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/sg1000/devices.html|title=関連・周辺機器 SG-1000|website=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ |accessdate=2020-10-03}}</ref> |ストレージ = |コントローラ = ケーブル接続<br />(着脱は要改造) |外部接続端子 = 拡張スロット |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 40万台{{efn2|本文にある通り、出典では初年度16万台となっているため、この数値にはSG-1000II等の互換ハードが合算されている可能性がある。}}<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 100万台{{efn2|本文にある通り、世界では40万台とする資料もあるため、この数値にはSG-1000II等の互換ハードが合算されている可能性がある。}} |最高売上ソフト = |互換ハード = [[SG-1000#バリエーション|SD-G5]]<br />[[SG-1000II]]<br />[[SC-3000]]<br />[[SC-3000|SC-3000H]]<br />[[オセロマルチビジョン]] |前世代ハード = |次世代ハード = [[セガ・マークIII]]<br />[[セガ・マスターシステム]] }} '''SG-1000'''は、[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]が開発した[[家庭用ゲーム機]]。日本では[[1983年]][[7月15日]]<ref name="nikkei_19830614">{{Cite news|和書|title=セガ・エンター、低価格の家庭用ビデオゲームを7月15日から発売。|newspaper=[[日本経済新聞]]|page=11|date=1983-06-14}}</ref>{{Refnest|name=dempa_19830715|{{Cite news|和書|title=本日新発売 売れっ子登場!(「SC-3000」「SG-1000」の同時発売を伝えるセガ・エンタープライゼス社の新聞広告)|newspaper=[[電波新聞]]|page=23|date=1983-07-15}}{{efn2|1983年7月15日の『電波新聞』23面に掲載されたセガ社の新聞広告は『セガハード大百科』の「セガハードストーリー」第1回で「SC-3000発売時の新聞広告」として紹介されている<ref name="segahardhistory_2017_sg1000">{{Cite web|和書|language=ja|title=【連載】セガハードストーリー第1回 セガはなぜ家庭用ゲームに参入したのか?|date=2017-07-14|url=https://www.sega.jp/history/hard/column/column_01.html|website=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ|accessdate=2017-07-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180721073354/https://www.sega.jp/history/hard/column/column_01.html|archivedate=2018-07-21}}</ref>}}。}}<ref name="beep198601">{{Cite journal|和書|author=はむら・あそぶ|title=テレホビーゲームの歴史|publisher=[[日本ソフトバンク]]|journal=[[ゲーマガ|Beep]]|pages=50-52|issue=1986年1月号|date=1985-12-07}}</ref><ref name="president198604">{{Cite journal|和書|doi=10.11501/2802646|journal=プレジデント|author=鎌田慧|title=「ファミコン」で「大儲け」した男たち|publisher=[[プレジデント社]]|date=1986-04|volume=24|issue=4|pages=328-341}}</ref>にセガが販売<ref name="denshigame_book">{{Cite book|和書|isbn=9784864369619|publisher=コアマガジン|title=電子ゲームなつかしブック (コアムックシリーズ 682)|date=2016-09-29|page=61}}</ref>し、海外ではOEM販売された。 日本国内では販売時期に相応して3種類のバージョンが存在しており、本項では便宜上それらを初期・中期・後期と呼ぶ。画像は後期モデルのものである。 == ハードウェア == 同社のゲームパソコンである[[SC-3000]]をベース<ref name="gamemachine_19830715">{{Cite news|title=セガ社家庭用TVゲームで ゲーム専用機も ──「SG-1000」を発表|date=1983-07-15|newspaper=ゲームマシン|agency=アミューズメント通信社|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830715p.pdf|publication-date=1983-07-15|issue=216|page=6|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830715p.pdf|url-status=live}}</ref>として、よりゲームに特化し、シンプルな回路で構成される。SG-1000のSGは「Sega Game」の略である{{R|segahardhistory_2017_sg1000}}。 初期から中期に移行した辺りのタイミングで、SG-1000の基板設計が変更され、CPUやVDP、SN76489の位置が異なっている。VDPに色差信号対応のTMS9928を採用し、高画質化製品を視野に入れた変更がなされ、それに対応した信号出力ターミナルの追加とシルク印刷、CPUの上をオーディオ信号を含む7本のジャンパー線を走らせている。なお外観上、2P側のコントローラー端子がボディーから出っ張っているのが初期、面位置になっているのが設計変更された基板の特徴である。 カートリッジコネクタの固定方法が基板に[[ハンダ]]付けされているのみの方法を取っている上、基板そのものが[[ねじ|ビス]]4本によって間接的にボディーを介して固定されているため、ソフトの抜き差しに対するスロット周辺の強度が不足し結果的にハンダ剥離、パターン破壊を引き起こしソフトを認識しなくなるトラブルが多発した{{要出典|date=2019年6月|}}。セガは[[基板]]と本体ボディーが接する部分にボール紙による[[シール (工学)#パッキン|パッキン]]を当てて強度を増そうとしていたが、根本的な解決にはなっていなかった。 SG-1000の1プレイヤー側[[ジョイスティック]]は本体直結となっており、[[コントローラー]]を交換する事はできない{{R|segahardhistory_2017_sg1000}}。2プレイヤー側は[[コネクタ]]式のため差し替え可能である。ただし、本体を開けて1プレイヤー側ジョイスティックを取り外し、別売されていたエクステンションケーブルキット(JC-100)<ref>[http://park21.wakwak.com/~suka/sega/ippatu/jc100/jc100.html jc100.html]。{{独自研究範囲|代替品を自作した者もいる[https://ch.nicovideo.jp/ndz/blomaga/ar1409279]|date=2016年6月}}。</ref>{{信頼性要検証|date=2023-11}}を取り付ける事により、1プレイヤー側もコネクタ仕様となり着脱可能となる。エクステンションケーブルキットは基本的には店頭販売されておらず、セガのサービスセンターでJC-100の取り付けサービスと、取り外したジョイスティックコントローラSJ-200の着脱対応化改造を行っていた。 コントローラ形状は縦長の箱状で、両側面にボタンが1つずつある8方向レバーのジョイスティックである。これは[[Atari 2600#バリエーション|Atari 2800]]や[[スーパーカセットビジョン]]などと同様である。これらに比べてSG-1000のものは小学生の手にフィットする細長い形状になっている<ref name="corocorocomic_198310">{{Cite journal|和書|journal=[[月刊コロコロコミック]]|publisher=小学館|issue=1983年10月号|pages=154-157}}</ref>。なお、コントローラー端子に5Vが供給されていないので、後に発売されたラピッドファイヤーユニットやアスキースティックαはこの機種には利用できない。アーケードを意識したスティックの付いたコントローラーの操作性には難があった{{R|denshigame_book}}。 === 仕様 === * CPU V1基板 [[ΜCOMシリーズ#.CE.BCCOM-82|NEC &mu;PD780C]] / V2基板 [[シャープ|SHARP]] LH0080A(いずれも[[Z80|Z80A]]互換チップ) ** [[NTSC]]版(3.579545 MHz)[[PAL]]版(3.546893 MHz) * VDP [[TMS9918|TMS9918A]] * RAM 1[[キビバイト|KiB]] * VRAM 16KiB ** 画面解像度 256 × 192ドット ** 同時表示色数 : 15色 + 1色、横8ドット中2色まで ** スプライト : 8 × 8ドットもしくは 16 × 16ドット、32枚、横方向の同時表示可能数は4枚、単色 **ハードウェアスクロール機能なし * サウンド機能:[[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]]([[Programmable Sound Generator|PSG]]と機能はほぼ等価。ハードウェアによるエンベロープが無い反面、ノイズの出力をトーン出力と独立して制御可能になっている) * [[ジョイスティック]]1個(1P側) 本体に固定 * ジョイスティック接続端子 1個(2P側) * ポーズボタン 本体に設置、ゲーム一時停止 / 再開用 * ROMカートリッジスロット1個 * 拡張用スロット1個 外付けキーボードSK-1100等の接続に使用 * RF出力 == 本体 == 単色のみの[[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能あり。価格は15,000円{{R|gamemachine_19830715}}。当初は「SG-2000」という名称で1983年7月下旬に定価19,800円で発売予定だったが<ref name="toyjournal_198306">{{Cite journal|和書|journal=[[トイジャーナル]]|title=ビデオゲーム(各社ベスト・アイテムリスト)|publisher=東京玩具人形協同組合|issue=1983年6月号|pages=41}}</ref>{{efn2|『トイジャーナル』1983年6月号の記事では、「SG-2000」は1983年7月下旬に定価19,800円で発売予定、「SC-3000」は1983年7月上旬に定価33,000円で発売予定と記載している{{R|toyjournal_198306}}。}}、[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]](以下、ファミコン)の発表を受け、価格をファミコンに合わせて「SG-1000」として発売した<ref name="toys198308_main">{{Cite journal|和書|title=特別企画 '83注目ジャンルを探る ビデオゲームは…どう位置付けされるか?|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1983年8月号|pages=97-99}}</ref><ref name="toys198308_sega">{{Cite journal|和書|title=セガ・エンタープライゼス パソコン・ビデオで10万台|author=駒井徳造|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1983年8月号|pages=102}}</ref>{{efn2|その後、ファミリーコンピュータは更に200円価格を下げ、定価14,800円で販売を開始している{{R|toys198308_main}}<ref name="toys198308">{{Cite journal|和書|title=任天堂 おもしろいものを出せば…|author=大西康博|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1983年8月号|pages=102}}</ref>。}}。 ; 初期 : 黄色をベースにパステル調の明るい色を採用したボックスで、コストダウンのためにボール紙とエアパッキンのみで構成、梱包されている。この後の中期と共に印刷されているSG-1000本体のラベルの色や、その接続方式などが同梱されている本体と違っているのが大きな特徴であり、パッケージ画像は黒ラベルに赤いSG-1000のロゴだが同梱されていたのは後期と同じ青ラベルの本体である。また対応ソフトにも実際のものと違う名称や画像が使用されていた。 : テレビへの接続方式は、パッケージ画像ではAV入力端子に接続されているが、実際は[[RF接続|RF信号での接続]]のみである。<!--なお、パッケージ画像に使われているテレビ受像機は、日本ビクター株式会社製のV-14Rという製品で1982年に流通していた14型テレビである。--> ; 中期 : 後期と共にシルバーを基調としたパッケージ画像のバージョンで、周辺機器として発売されたキーボード『SK-1100』のパッケージと統一されたデザインになっている。本体を収める部分に発泡スチロールが採用されている。初期とは逆に青ラベルの本体を採用したパッケージ画像だが黒ラベルの本体が同梱されていた。ゲーム画像はSG-1000実機のものが多く使われているが、『[[シンドバッドミステリー]]』だけは業務用のままである。タイトル表記も初期箱同様、実際のタイトルと異なっている部分がある。 ; 後期 : この時期頃よりパッケージ画像が実際の製品と同じになった。大まかな構成は中期箱と一緒だが中期箱と比べSG-1000のロゴが本体のラベルのロゴと同じ[[フォント]]に統一されている。また掲載されているゲーム画像がいくつか変更され、実際販売されているタイトル名が使われている。ただし、シンドバッドミステリーの画像だけは業務用のままだった。 === バリエーション === ツクダオリジナルとパイオニアが、以下の互換ハードを発売した。 {| class="wikitable" |- ! style="width:3.5em" | 発売年 !! style="width:4.5em" | 型番 !! 商品名 !! メーカー名 !! style="width:4.5em" | 価格 !! 備考 |- |1983年末<!-- 『トイズマガジン』1983年11月号の記事には1983年11月中旬、『ASCII』1984年3月号の記事には1983年11月、『日経産業新聞』1984年5月16日号の記事には1983年12月10日と記載 --><ref>{{Cite journal|和書|title=オセロマルチビジョン今月発売|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1983年11月号|pages=124}}</ref><ref name="ascii_198403">{{Cite journal|和書|title=ツクダのオセロマルチビジョン(第8回アスキーマイクロオセロリーグ)|journal=[[月刊アスキー]]|issue=1984年3月号|publisher=アスキー|doi=10.11501/3250674|page=259}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=ツクダオリジナル、家庭用ビデオゲームだけを本体だけで低価販売|newspaper=[[日経産業新聞]]|page=16|date=1984-05-16}}</ref> |FG-1000 |[[オセロマルチビジョン]] |[[ツクダオリジナル]] |19,800円{{R|ascii_198403}} |[[オセロ (ボードゲーム)|オセロゲーム]]内蔵{{R|ascii_198403}}。本体にジョイスティックを装備{{R|ascii_198403}}。<br />SC-3000/SG-1000用ソフトと互換性を持ち、RAMは2KiBを搭載{{R|ascii_198403}}。SK-1100接続不可<ref name="ascii_198410">{{cite journal|和書|title=オセロマルチビジョン FG-2000(第9回アスキーマイクロオセロリーグ)|journal=[[月刊アスキー]]|issue=1984年10月号|publisher=アスキー|doi=10.11501/3250681|page=165}}</ref>。 |- |1984年7月{{R|ascii_198410}} |FG-2000 |オセロマルチビジョン FG-2000{{R|ascii_198410}}<!-- 『ASCII』1984年10月号の記事では「オセロマルチビジョン FG-2000」として紹介され、FG-2000のパッケージには「Othello Multivision FG-2000」と記載されており、ハンドルコントローラー「SH-400」のパッケージに記載された対応表にも「オセロマルチビジョン」および「オセロマルチビジョン FG-2000」の表記がある。 --> |ツクダオリジナル |19,800円{{R|ascii_198410}}{{efn2|1985年に定価が18,500円に変更された<ref>{{Cite journal|和書|title=やはり今年もテレビゲームが!|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1985年7月号|pages=92-93}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=家庭用TVゲーム機の最新版ハードとソフト|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19850715p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=264|agency=アミューズメント通信社|date=1985-07-15|pages=15-16|archivedate=2020-01-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200131231106/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19850715p.pdf|url-status=live}}</ref>。}} |FG-1000から外装などが変更されたもので、オセロゲーム内蔵{{R|ascii_198410}}。<br />本体のジョイスティックがジョイパッドに変更され、2P用外付けジョイパッドも同梱{{R|ascii_198410}}。SK-1100接続可{{R|ascii_198410}}。 |- |1983年末頃<ref name="4gamer_20230715">{{Cite journal|和書|author=早苗月 ハンバーグ食べ男|author2=石川雅美|author3=奥成洋輔|author4=堀井直樹|title=[インタビュー]SC-3000&SG-1000発売40周年! セガハードを支えた石川雅美氏,奥成洋輔氏,堀井直樹氏がセガハード史を語る|date=2023-07-15|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20230712065/|journal=[[4Gamer.net]]|publisher=Aetas|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230715031123/https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20230712065/|archivedate=2023-07-15|accessdate=2023-11-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|language=ja|title=1980年~1989年|年代別事業年表|パイオニアの歴史|Pioneer(大画面モニター)|url=https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/chronology/archive/1980/|website=パイオニア株式会社|publisher=Pioneer|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230715091657/https://jpn.pioneer/ja/corp/info/history/chronology/archive/1980/|archivedate=2023-07-15|accessdate=2023-11-20}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=パイオニア、システム型カラーTVを生産開始、11月10日発売|newspaper=日経産業新聞|page=5|date=1983-09-03}}<!-- パイオニアの26型ディスプレイ「SEED SD-26」が11月10日に発売することを示す記事でその周辺機器として「SG-D5」が価格未定として紹介されている。 --></ref> |SD-G5 |TV VIDEO GAME PACK SD-G5 |[[パイオニア]] |19,800円 |パイオニアのシステムコンポーネントテレビ「SEED{{efn2|ラインナップに26型の「SD-26」と21型の「SD-21」が存在した<ref>{{Cite news|和書|title=パイオニア、21型TVに進出──ニューメディアに対応|newspaper=日経産業新聞|page=7|date=1984-06-08}}</ref>。}}」用オプション<br />1人プレイ専用。SK-1100接続不可。カードキャッチャの使用は可能。RGB映像出力方式 |} これらは1983年末に発売された[[MSX]]に対抗するために提携したもので、生産販売は提携先メーカーだが開発はセガとの共同開発である{{R|4gamer_20230715}}<ref>{{Cite news|和書|title=ツクダとセガ、家庭用ビデオゲーム生産販売で提携──MSXに対抗して統一規格。|newspaper=日経産業新聞|page=1|date=1983-10-03}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=今秋家電各社が発売|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19831201p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=225|agency=アミューズメント通信社|date=1983-12-01|pages=3|archivedate=2020-01-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200131232025/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19831201p.pdf|deadlink=no}}</ref>。いずれも、SK-1100等が必要な物を除き、セガ発売のSG-1000/SC-3000シリーズ用ソフトが使用可能。 クローン機では台湾のBit Corporation社よりSG-1000と[[コレコビジョン]]の両方のソフトが遊べる「DINA 2-in-1」なども発売された<ref>[https://segaretro.org/Dina_2_in_one Dina 2 in one]</ref>。 また、「パソコン学習机」というアーケード筐体が存在した。名前の通り机にモニターが据え付けられたようなデザインで、机部分にSC-3000と同じキーボードとアーケード型ジョイスティックが搭載されており、正面のモニタ横にソフトの切り替えボタンが縦に10個並んでいた。コインを投入すると一定時間(標準設定で10分/100円)、内蔵されているソフトを自由に切り替えてプレイできるというもの。セガ直営店のごく一部の店舗で見ることができた。基板はSG-1000と同等のもので、ソフトも市販のものと全く同じものを使用していた。 これとは別に、SG-1000と同スペックの一般筐体向け業務用基板も少数流通した。この基板ではソフトウェア用として[[EPROM]]が使用されている。 == 周辺機器 == 別売の外付け[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]] SK-1100{{R|segahardhistory_sg_devices}}には、SC-3000から省略されたインターフェイスも搭載されており、機能的には同様のものが提供される。ハードウェアとしては入出力周りの実装と、メモリの実装量が異なるため、拡張しても等価になるわけではない。 {| class="wikitable" border="1" !型番 !width=25%|名称 !備考 |- | | ゲームカートリッジ For SC / SG | カートリッジのみの販売はない。 |- | C-1000 | カードキャッチャ{{R|segahardhistory_sg_devices}} | [[マイカード]]を利用するために発売されたアダプタ。 |- | SA-150 | ACアダプタ | 本体に付属。 |- | SS-50 | RFスイッチボックス | 本体に付属。 |- | SS-60 | RFスイッチボックス | マークIIIに付属。 |- | | RFケーブル | 本体に付属。 |- | | アンテナ整合器 | 本体に付属。 |- | SJ-150 | ジョイパッド{{R|segahardhistory_sg_devices}} | SG-1000IIに付属のコントローラ。 |- | SJ-151 | ジョイパッド | SG-1000IIに付属のコントローラ。ボタン部分がプラスチックになった。 |- | SJ-152 | ジョイパッド | マークIIIに付属のコントローラ。 |- | SJ-200 | ジョイスティック{{R|segahardhistory_sg_devices}} | SG-1000についてるのと同型のもの。 |- | SJ-300 | ジョイスティック{{R|segahardhistory_sg_devices}} | |- | SH-400 | ハンドルコントローラ{{R|segahardhistory_sg_devices}} | レースゲーム用コントローラ |- | BH-400 | バイクハンドル | レースゲーム用コントローラ |- | SK-1100 | セガ・キーボード{{R|segahardhistory_sg_devices}} | SG-1000/1000II用の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]。 |- | SP-400 | カラープロッタプリンタ | セガ・[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](SK-1100)の端子につないで使用する。ACアダプタが必要。 |- | SR-1000 | カセットデータレコーダ | セガ・[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](SK-1100)の端子につないで使用する。 |- | SR-1001 | カセットデータレコーダ用ACアダプタ | |- | JC100 | エクステンションケーブルキット | 本体直付けのジョイスティックを取り外し、交換可能にするキット。 |} == ソフトウェア == [[ファイル:SG1000 cartridge.jpg|thumb|150px|専用カートリッジ]] {{Main|SG-1000のゲームタイトル一覧}} ソフトウェアはカートリッジおよび[[マイカード]]と呼ばれる名刺型のものが存在する。 グラフィックやサウンドなどの性能は同世代のファミコンに劣るが、『サファリハンティング』や『フリッキー』といったセガがリリースした人気アーケードゲーム作品を自社移植できたことで本体の一定の普及に結び付いた{{R|denshigame_book}}。 その一方で、セガはファミコンに対抗すべく、他のアーケードゲームメーカーに声をかけて[[サードパーティー]]集めに必死になった。ツクダオリジナルからは「オセロマルチビジョン」用ソフトとして8タイトルが発売され、それらソフトはSG-1000/SC-3000シリーズでも使用可能であることから、セガハード初のサードパーティーとなる。しかしそれ以外のメーカーは他社ハードにソフトを供給しているなどの理由で断られたためなかなか集まらなかった。打開策として、ナムコ(後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])などの他のアーケードゲームメーカーに開発費などを供与した上で、他社が開発したタイトルをセガブランドとして発売したソフトも少なくなかった{{R|segahardhistory_2017_sg1000}}。パイオニアからは互換ハードのみの発売のみで、独自のソフトは発売されなかった。 後継機の[[セガ・マークIII]]発売後もソフトの供給は続き、1987年までソフトが供給された。 == 反響 == {{See also|コンピュータゲームの歴史}} 1983年7月15日に発売{{R|nikkei_19830614}}{{R|dempa_19830715}}{{R|beep198601}}{{R|president198604}}。上位機であるSC-3000は、同時期のホビーパソコンである[[M5 (コンピュータ)|M5]]や[[MSX]]などとほぼ同等のスペックである<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1144475.html MSXでSG-1000のゲームを動かすためのアダプタ「MEGA MSX ADAPTER」] - AKIBA PC Hotline!</ref>。実際、本機のタイトルの大半はMSXに[[移植 (ソフトウェア)|移植]]の上で[[ポニーキャニオン|ポニー]](PONYCAブランド)から販売されていた{{efn2|同じROMを流用したベタ移植のため、起動直後のセガロゴまで再現された一方、ポニーの著作権表記は無かった。}}。SG-1000はそれらと同等のハードウェア性能を持ちながらもキーボードやBASICをオプションにしたことで、SC-3000の29,800円より低価格の19,800円に設定、最終的には同日発売のファミコンと同等の15,000円で発売した{{R|toys198308_main}}。また同月には[[エポック社]]が[[カセットビジョン#カセットビジョンJr.|カセットビジョンJr.]]を、[[トミー (企業)|トミー]]が[[ぴゅう太#後継機|ぴゅう太Jr.]]を発売{{R|corocorocomic_198310}}したことで、競合他社が集中した。 『月刊コロコロコミック』1983年10月号の比較記事{{R|corocorocomic_198310}}によれば、SG-1000は[[アタリ (企業)|アタリ]]の[[Atari 2600|Atari 2800]]を若干下回る3位という総合評価を受けている。同誌でファミコンがほぼオール5に近い評価で、旧世代機ながらも当時世界のコンシューマ市場で実績のあったアタリは全ての評価項目で4以上の評価だったのに対し、SG-1000は評価項目の「ゲームパターン」のみ3だった。 当時の日本のコンシューマゲームは電子ゲームから家庭用テレビゲームへの移行期であり、場面と共に内容も大きく変わることが電子ゲームには無い利点と考えられていた<ref>{{Cite journal|和書|journal=月刊コロコロコミック|publisher=小学館|issue=1983年9月号|pages=187-191}}</ref>。しかし『N-サブ』に代表されるSG-1000の初期タイトルにはゲームを進めても内容に変わり映えの乏しいものが多く、それが評点に影響した。それでも「ソフト」項目ではタイトル数に勝るAtari 2800よりも高い評価を受けており、アーケードで長年の実績を有する事によるゲーム作りのセンスは同誌でも評価されていた。また1983年秋時点での同誌でのソフト個別の評価例<ref>{{Cite journal|和書|journal=月刊コロコロコミック|publisher=小学館|issue=1983年11月号|pages=287-291}}</ref>としては、初期タイトルの1つ『スター・ジャッカー』が、ファミコンの『[[マリオブラザーズ#ファミリーコンピュータ版|マリオブラザーズ]]』・『[[ポパイ (任天堂)#移植版|ポパイ]]』に次ぐ3位の評価だった。 発売当初はSC-3000と合わせて10万台程度の販売台数を見込んでいた{{R|toys198308_sega}}。当時のセガの社員が自ら<!-- 佐藤秀樹がセガの社長に就任したのは2001年3月<ref>{{Cite journal|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010322/sega02.htm|title=セガ、新社長に佐藤秀樹氏、新会長に福島吉治氏が就任|journal=[[Impress Watch|Game Watch]]|publisher=[[インプレス|Impress]]|date=2001-03-22|accessdate=2023-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130629113525/http://game.watch.impress.co.jp/docs/20010322/sega02.htm|archivedate=2013-06-29}}</ref>。 -->「'''セガのファミコン'''」と称して販売したこともある{{efn2|SC-3000の下位機種であるSG-1000も「セガの家庭(ファミリー)向けコンピュータ機器」ではあるので、言葉の理屈としては必ずしも間違ってはいないと解釈することはできる<ref name="magmix20200603">{{Cite news|author=早川清一朗|url=https://magmix.jp/post/28956/2|title=愛すべきセガ60周年! ファミコンと同年発売・家庭用ゲーム機の開発、そして撤退|publisher=マグミクス|date=2020-06-03|accessdate=2020-06-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200609073936/https://magmix.jp/post/28956/2|archivedate=2020-06-09}}</ref>。}}というエピソードが語られるほどファミコンの影響は大きく、ファミコンの普及に牽引されることで日本国内だけでも初年度でセガの予想を大きく上回る16万台を販売した{{R|magmix20200603}}。 さらに[[オーストラリア]]ではJohn Sands社、[[ニュージーランド]]ではGrandstand Leisure Limited社によって販売されており、ニュージーランドでは専門誌まで刊行されていた<ref>{{Cite book|和書|author=前田尋之|title=海外のゲーム&パソコンガイドブック|date=2015-05-25|publisher=オークラ出版|page=25|ISBN=9784775524190}}</ref>。それ以外にも、イタリア・スペイン・南アフリカ共和国・台湾でのOEM販売も行われた。北米では販売されなかったが、前述の「ゲーム学習机」の様なアーケードゲームの形でSG-1000のゲームを遊ぶ事はできた。 これまでゲーム基板では数千枚程度から数万枚の製造販売である中、こうして損益分岐点である20万台を大きく上回る40万台を記録し、セガの想定以上のヒット製品となった事で、少なくともハード基板1つで10万台単位での製造販売が見込める事から、その後のセガ独自ハード路線を決定づけ、本機以降の『[[SG-1000II]]』『[[セガ・マークIII]]』『[[セガ・マスターシステム]]』などの家庭用ゲーム機を発売していった<ref>『[[週刊ファミ通]]』[[2013年]][[8月29日]]増刊号別冊付録 SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK参照</ref>{{efn2|1984年9月23日号の週刊サンケイの記事には発売から1年でSC-3000とSG-1000を合わせて約35万台<ref>{{Cite journal|和書|title=セガ・エンタープライゼス チャレンジ精神旺盛、未来志向型の先端企業|journal=[[SPA!|週刊サンケイ]]|publisher=[[扶桑社]]|date=1984-09-23|pages=203-205|doi=10.11501/1810714}}</ref>、1985年7月23日号の週刊サンケイの記事にはその時点でSC-3000とSG-1000を合わせて約80万台を売り上げたとある<ref>{{Cite journal|和書|title=セガ・エンタープライゼス ホームエレクトロニクス分野の拡充図る”未来型先端企業“|journal=週刊サンケイ|publisher=扶桑社|date=1985-07-23|pages=187-191|doi=10.11501/1810764}}</ref>。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 関連項目 == * [[ゲームセンターCX]] - 2013年、生誕30周年を祝おうとミニコーナー特集が放送され、いくつかのゲームを有野課長がプレイした。 * [[Atari 2600#他機種での利用]] - ジョイスティック端子が同一形状([[D-subminiature|D-SUB]])で、当該節に本機の仕様が併記されている == 外部リンク == {{commonscat|SG-1000}} * [https://sega.jp/history/hard/sg1000/index.html セガハード大百科 - SG-1000] * [http://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?product_id=1062 ハッスルチューミー for SG-1000](* [[プロジェクトEGG]]) {{家庭用ゲーム機/セガ}} {{DEFAULTSORT:えすしいせん}} [[Category:セガのハードウェア|SG1000]] [[Category:SG-1000|*]] [[Category:1983年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1980年代の玩具]]
2003-02-18T12:39:08Z
2023-12-25T13:53:44Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/SG-1000
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HyperCard
HyperCard(ハイパーカード)は、ハイパーテキストを実現した最初の商用ソフトウェア。1987年にApple Computer(現:Apple)のビル・アトキンソンが開発した。Macintosh (Classic Mac OS) で動作し、ゲームの制作、簡単なプログラムの開発等に利用される。 ハイパーテキストのノードとしてカードを用い、カードとカードをつなぐリンクとしてはボタンを用いる。カードの上にはボタンの他にテキストやグラフィックをおくことができた。プログラムを記述するにはHyperTalkと呼ばれるスクリプト言語を用いる。 ボタンを押すと各ボタンに対応付けられたカードにジャンプするか、HyperTalkで記述されたプログラムを実行する。HyperCardを使えばプログラムを直接記述しなくても簡単なアプリケーションを作ることができたので、マルチメディアオーサリングツールとして使用された。 アドベンチャーゲーム『MYST』の最初のバージョンはこのHyperCardを使って制作された。この他にHyperCardで制作されたものとして、ベートーベンの交響曲第9番CD-ROM(英語版)、全地球カタログの初期バージョン、Wizzy Active Lifestyle Telephone(英語版)のプロトタイプなどがある。 バージョン 1.x ではMacintoshに標準添付され、オーサリングを含む全機能が無償で利用できた。 しかし、バージョン2.0以降になって、オーサリングツールとして使えるHyperCardは有償、ファイルを実行する機能のみのHyperCard Liteは無償配布という形になった。一般にこれら両方を総称して「HyperCard」と呼ぶことが多い。実際はLiteもコマンド「magic」によってオーサリング可能となる。ただし、バージョン2.3になってLiteに代わりバンドルされるようになったHyperCard Playerは、完全にオーサリング機能が除去されていた。最終バージョンは 2.4.1。2007年10月現在でも日本のAppleのサイトでLite 2.2-J、Player J1-2.3がダウンロード可能。 バージョン 3.0はQuickTimeのコンポーネントの一部として開発が行われていたが、途中で打ち切られたため、現在は搭載されていない。その後、QuickTimeはHyperCardの統合で実装が予定されていた機能の代わりにFlashファイルをサポートした。 ジョブズ復帰後の2000年にハイパーカードチームは完全に解体され、今後もAppleがなんらかのアクションを起こす可能性はほぼないとみられている。ちなみにAppleのサーバで http://www.apple.com/hypercard と入力すると、何かの皮肉なのか英語版Wikipediaの記事にリダイレクトされる。 アトキンソンが「HyperCardをすべてのMacにバンドルしなければ会社を辞める」と主張し、すべてのMacにバンドルされることになったという話は非常に有名であるが、これは本人によって否定されている。 2017年、HyperCard 30周年を記念し、インターネットアーカイブによってHyperCardスタックをアップロードしエミュレートできるプロジェクトが設立された。 HyperCardは非常に優れたソフトウェアである。そのため多数の類似品が生まれた。また現在のmacOSでは言語体系がHyperTalkに似たAppleScriptが開発環境の一つになっているが、用途がオーサリングではなくmacOSのバッチ処理が主体であり、大きく異なっている。そのためHyperCardの復活を望む声は原作者のアトキンソンを始め絶えることはない。
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HyperCard(ハイパーカード)は、ハイパーテキストを実現した最初の商用ソフトウェア。1987年にApple Computer(現:Apple)のビル・アトキンソンが開発した。Macintosh で動作し、ゲームの制作、簡単なプログラムの開発等に利用される。
{{出典の明記|date=2017年2月}} {{Infobox software | name = HyperCard | author = [[ビル・アトキンソン]] | developer = [[Apple]] (旧:Apple Computer) | released = {{Start date and age|1987}}<ref name=macgui4987>{{Citation |url= http://macgui.com/usenet/?group=14&id=4987 |title= Hypercard – How About New Mac Owners |newspaper= Mac GUI}}</ref> | discontinued = yes | latest release version = 2.4.1 | latest release date = {{Start date and age|1998}} | programming language = {{仮リンク|Apple Pascal|en|Apple Pascal}} | operating system = [[Macintosh]]: [[Classic_Mac_OS#System_6|System 6]], [[Classic_Mac_OS#System_7|System 7]], [[Mac OS 8]], [[Mac OS 9]]<br />[[Apple_II#Apple_IIGS|Apple IIGS]]: {{仮リンク|Apple GS/OS|en|Apple GS/OS}} 5 ~ 6 | platform = [[Macintosh]], [[Apple_II#Apple_IIGS|Apple IIGS]] | genre = [[ハイパーメディア]], [[ソフトウェア開発]] | license = [[プロプライエタリ]] }} '''HyperCard'''(ハイパーカード)は、[[ハイパーテキスト]]を実現した最初の商用[[ソフトウェア]]。1987年にApple Computer(現:[[Apple]])の[[ビル・アトキンソン]]が開発した<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=bdJKjBHCh18 |title=Bill Atkinson: Hypercard |access-date=2023-04-17 |publisher=YouTube TWiT Tech Podcast Networkチャンネル}}</ref>。[[Macintosh]] ([[Classic Mac OS]]) で動作し、ゲームの制作、簡単なプログラムの開発等に利用される。 == 概要 == [[ハイパーテキスト]]のノードとしてカードを用い、カードとカードをつなぐリンクとしてはボタンを用いる。カードの上にはボタンの他にテキストやグラフィックをおくことができた。プログラムを記述するには[[HyperTalk]]と呼ばれる[[スクリプト言語]]を用いる。 ボタンを押すと各ボタンに対応付けられたカードにジャンプするか、[[HyperTalk]]で記述されたプログラムを実行する。HyperCardを使えばプログラムを直接記述しなくても簡単なアプリケーションを作ることができたので、[[マルチメディア]][[オーサリングツール]]として使用された。 アドベンチャーゲーム『[[MYST]]』の最初のバージョンはこのHyperCardを使って制作された。この他にHyperCardで制作されたものとして、{{仮リンク|ベートーベンの交響曲第9番CD-ROM|en|Beethoven%27s_Ninth_Symphony_CD-ROM}}、[[全地球カタログ]]の初期バージョン、{{仮リンク|Wizzy Active Lifestyle Telephone|en|Wizzy Active Lifestyle Telephone}}のプロトタイプなどがある。 バージョン 1.x ではMacintoshに標準添付され、オーサリングを含む全機能が無償で利用できた。 しかし、バージョン2.0以降になって、オーサリングツールとして使えるHyperCardは有償、ファイルを実行する機能のみのHyperCard Liteは無償配布という形になった。一般にこれら両方を総称して「HyperCard」と呼ぶことが多い。実際はLiteもコマンド「magic」によってオーサリング可能となる。ただし、バージョン2.3になってLiteに代わりバンドルされるようになったHyperCard Playerは、完全にオーサリング機能が除去されていた。最終バージョンは 2.4.1。2007年10月現在でも日本のAppleのサイトでLite 2.2-J、Player J1-2.3がダウンロード可能。 バージョン 3.0は[[QuickTime]]のコンポーネントの一部として開発が行われていたが、途中で打ち切られたため、現在は搭載されていない。その後、QuickTimeはHyperCardの統合で実装が予定されていた機能の代わりに[[Adobe Flash|Flash]]ファイルをサポートした。 ジョブズ復帰後の2000年にハイパーカードチームは完全に解体され、今後もAppleがなんらかのアクションを起こす可能性はほぼないとみられている。ちなみにAppleのサーバで http://www.apple.com/hypercard と入力すると、何かの皮肉なのか英語版Wikipediaの記事にリダイレクトされる。 アトキンソンが「HyperCardをすべてのMacにバンドルしなければ会社を辞める」と主張し、すべてのMacにバンドルされることになったという話は非常に有名である{{要出典範囲|が、これは本人によって否定されている|date=2020-07-16}}。 2017年、HyperCard 30周年を記念し、[[インターネットアーカイブ]]によってHyperCardスタックをアップロードし[[エミュレート]]できるプロジェクトが設立された<ref>{{Cite web|url=http://blog.archive.org/2017/08/11/hypercard-on-the-archive-celebrating-30-years-of-hypercard/|title=HyperCard On The Archive (Celebrating 30 Years of HyperCard) - Internet Archive Blogs|accessdate=2020-07-16}}</ref>。 == 評価 == * ''Compute!''には、1988年に「HyperCardは、人々がパーソナルコンピュータとしてMacintoshを選択するきっかけになるかもしれない」<ref name="caa198712">{{cite news |url=https://archive.org/stream/COMPUTEs_Apple_Applications_Vol._5_No._2_Issue_6_1987-12_COMPUTE_Publications_US#page/n9/mode/2up |title=Information On A Card |work=Compute!'s Apple Applications |date=December 1987 |access-date=18 August 2014 |pages=6}}</ref>、1989年には「将来のほとんどのMacintoshのソフトウェアはHyperCardを用いて開発されるだろう」<ref name="leemon198804">{{cite news |url=http://www.atarimagazines.com/compute/issue95/049_1_MICROSCOPE_THE_HAZARDS_OF_HYPERCARD.php |title=The Hazards of HyperCard |work=Compute! |date=April 1988 |access-date=18 August 2014 |author=Leemon, Sheldon |pages=49}}</ref>と書かれた。 * {{仮リンク|Stewart Alsop II|en|Stewart Alsop II}}は、HyperCardがMacintoshの[[グラフィカルユーザインタフェース]]として[[Finder]]を置き換える可能性があると推測した<ref>{{Cite web|url=http://vintagecomputer.net/cisc367/PC-Letter_19880118.pdf|title=PC-Letter_19880118.pdf| Medium|accessdate=2020-09-23}}</ref>。 * [[スティーブ・ウォズニアック]]は、HyperCardを「これまでで最高のプログラム」と呼んでいる<ref>{{Cite web|url=http://www.macworld.com/article/1018126/woz.html|title=Wozniak's fireside chat| Medium|accessdate=2020-09-23}}</ref>。 == HyperCardによって生まれた言葉 == * HyperCardで、カードやボタンなどを積み重ねて制作したファイルのことを「'''スタック'''」と呼ぶ。スタックという言葉はしばしば「作品」というニュアンスで扱われ、作者はプログラマーやデザイナーでなく、敬意を込めて「スタック作家」と称されることすらあった<ref>例えば、宮下由紀子 著 ; SE編集部 編『宮下由紀子コレクション : フツーの主婦が作ったアブノーマルなスタック20本+α』翔泳社1994.2 の内容説明には「ニフティサーブなどの商用ネットワークで人気を博しているスタック作家、宮下由紀子氏の作品集です。」(「BOOK」データベースより)とある。 <nowiki>http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2410441.html</nowiki> (閲覧2022-02-13)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2103/19/news073.html |title=HyperCardの思い出 ゲームスタック作家だったあの頃 |accessdate=2022-02-13 |publisher=ITmedia |author=小寺信良,ITmedia}}</ref>。HyperCardはそのような意味で、紛れもなくMacintosh文化の一翼を担っていた。 * HyperCardでプログラムを制作する上での制約を打破すべく、HyperCardに実装されていない機能を実現する[[XCMD]]や[[XCMD|XFCN]]と呼ばれるシステムが生まれた。 * [[ウェブブラウザ]]のフィンガーカーソルは、HyperCardに由来するものとされている<ref>{{Cite web|url=https://medium.com/@TheBespokePixel/there-is-some-important-history-behind-the-finger-link-pointing-hand-pointer-cursor-personally-4003f6d8e2b5|title=There is some important history behind ‘the finger/link/pointing-hand/pointer’ cursor (personally… | by Mark Griffiths | Medium|accessdate=2020-09-23}}</ref>。 == HyperCardに影響されて開発されたオーサリングツールや類似するもの == HyperCardは非常に優れたソフトウェアである。そのため多数の類似品が生まれた。また現在の[[macOS]]では言語体系がHyperTalkに似た[[AppleScript]]が開発環境の一つになっているが、用途がオーサリングではなくmacOSのバッチ処理が主体であり、大きく異なっている。そのためHyperCardの復活を望む声は原作者のアトキンソンを始め絶えることはない。 * [[SuperCard]] * [[Serf]] * [[TownsGEAR]] - [[FM TOWNS]]で動作する類似ツール<ref>清水計宏『マルチメディアへの挑戦』、[[SBクリエイティブ|ソフトバンク]]、1991年、338頁。ISBN 4-89052-233-6。</ref><ref>{{青空文庫|000055|698|新字新仮名|青空のリスタート(富田倫生)}}</ref> * {{仮リンク|UserLand Frontier|en|UserLand_Software#Frontier}} * {{仮リンク|Oracle Media Objects|en|Oracle Media Objects}} * {{仮リンク|LINGO|en|Lingo_(programming_language)}} * [[PythonCard]] * [[LiveCode]] - 旧名Runtime Revolution。旧MetaCardが技術的なベース。HyperTalkのほとんどの語彙が使用できる。開発環境:Windows、macOS、Linux、iOS、Android、サーバ。オープンソース化され無料のコミュニティ版と商用版がある。 * [[Microsoft PowerPoint]] - カード形式、ボタン、ハイパーリンクなどが類似している。 * [[ViolaWWW]] - 初期の[[ウェブブラウザ]] * アドベンチャーツクール * {{仮リンク|WinPlus|en|WinPlus}} * HyperSense - macOSのベースとなった[[NEXTSTEP]]で動作する類似ツール<ref>[http://www.kevra.org/TheBestOfNext/ThirdPartyProducts/ThirdPartySoftware/Multimedia/HyperSense/files/page181_2.pdf HyperSense パンフレット]</ref> * {{仮リンク|HyperNext|en|HyperNext}} * {{仮リンク|TileStack|en|TileStack}} * {{仮リンク|mTropolis|en|mTropolis}} * [[NoteCards]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/hypercard2.2litej.html HyperCard 2.2Lite-J] * [http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/hypercardplayerj1-2.3.html HyperCardPlayerJ1-2.3] {{Apple software}} {{デフォルトソート:HyperCard}} [[Category:Appleのソフトウェア]] [[Category:ハイパーテキスト]] [[Category:アプリケーションソフト (製品)]] [[Category:ドメイン固有言語]] [[Category:1987年のソフトウェア]]
2003-02-18T13:57:06Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/HyperCard
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スタンリー・キューブリック
スタンリー・キューブリック(英語: Stanley Kubrick、1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。 写真雑誌『ルック』のカメラマンとして働いたのち、短編ドキュメンタリー映画を自主製作し、長編第1作の『恐怖と欲望』で本格的に映画監督としてデビューした。1960年代以降はイギリスに活動の場を移し、ハリウッド資本で『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』などを発表した。商業性が重視されるハリウッドの映画監督でありながら、多様なジャンルで芸術性の高い革新的な映画を作り、映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々言及されている。監督だけでなく脚本、撮影、美術、編集、製作までも関与する作家的姿勢、独自のリアリズム、ブラックユーモア、ユニークな撮影手法、シャープな映像感覚、大規模な舞台装置、そして刺激的な音楽手法で知られる。 キューブリックは開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人の両親の長男として、1928年7月26日にニューヨークのマンハッタンで生まれる。少年時代は、チェス、ジャズに興味を持ち、特にカメラは、彼の経歴の出発点となる。1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。そこで彼は平均的な成績しか取得できなかったが、若い頃から文学、写真、映画への熱心な興味を示していた。 ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになった。彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、これをきっかけに『ルック』誌を退社した。 1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を自主製作し、商業的に失敗するもニューヨークの批評家からは賞賛された。続く『非情の罠』(1955年)も製作費を回収するほどの商業的成功を収めることはできなかった。1955年には、同い年のジェームズ・B・ハリスとともにハリス=キューブリック・プロダクションズを設立し、斬新な犯罪映画『現金に体を張れ』(1956年)、カーク・ダグラスと共同製作の反戦映画『突撃』(1957年)を製作した。彼のハリウッドでの評価は上がり、マーロン・ブランドからチャールズ・ネイダーの小説の映画化を依頼されたが、ブランドと意見が対立し、解雇される。しかし、このプロジェクトをきっかけに共同製作者だったカーク・ダグラスの依頼で、監督を降板したアンソニー・マンの代役として、ダグラスが製作兼主演だった『スパルタカス』(1960年)のメガホンを握り、高評価を得た。一方、ダルトン・トランボの脚本を現場で書き換え、脚本家クレジットに自分の名を表記するように求めるなど、製作陣とは対立した。 プロデューサー主導によるハリウッドの製作体制に嫌気が差したキューブリックは、1961年にイギリスへ移住。残りの人生とキャリアの殆どを同地で送った。ハートフォードシャーのChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅が仕事場となり、そこで脚本の執筆や取材、編集、そして映画製作の細部にわたる管理を行った。このことが、ハリウッドのメジャースタジオからの類まれな予算の支援を得つつ、自分の作品に関する完璧主義的な芸術活動をすることを可能とさせた。彼のイギリスでの最初の映画は、ウラジミール・ナボコフ原作の『ロリータ』(1962年)である。本作はセンセーショナルな内容からカトリック教会等による厳しい検閲に遭ったが、公開されると大ヒットを記録。次いで、SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を監督し、これらの批評的・興行的成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。 1970年代以降は、自身にとっては唯一とも言える伝記的様式を持つ『バリー・リンドン』(1975年)や、スティーブン・キング原作のホラー映画『シャイニング』(1980年)、ベトナム戦争を描いた『フルメタル・ジャケット』(1987年)を製作し、寡作ながらも高い評価と興行的成功を収め続ける。しかし、12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(1999年)の完成直後(同映画の試写会6日後)、1999年3月7日に公開を待たずしてハートフォードシャーの自宅で心臓発作で亡くなった。『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は、2001年にスティーヴン・スピルバーグがその原案を基に脚本を完成させ、製作・公開された。 なお、生前のキューブリックに映画評論家ミシェル・シマンがインタビューしていた音声をもとに、キューブリック作品の俳優たちへのインタビュー映像も加えて、再構成されたドキュメンタリー映画「Kubrick by Kubrick」が2020年にフランスとポーランドで共同制作され(監督はグレゴリー・モンロー)、日本ではNHK BS1で放送されている『BS世界のドキュメンタリー』で、「キューブリックが語るキューブリック」として放送された。 映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している。 初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。些細なシーンさえも納得するまで撮り続ける姿勢は完璧主義者と言われ、また「完全主義者」ともいわれており、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。 『博士の異常な愛情』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に際しては上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では、字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。 よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身でも並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。 また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという役者の演技がある。この手法を映画評論家のロジャー・イーバートは「キューブリック凝視(Kubrick stare)」と名付けた。 写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、セルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリンから影響を受ける。キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている。 1963年にアメリカの映画雑誌「シネマ」誌上でベスト映画を問われた際、次の10本の映画を挙げている。 このインタビュー以降、このようなベスト映画のリストが作られるようなことはなかったが、『2001年宇宙の旅』の公開の数日後に受けたインタビューで『メリー・ポピンズ』について語ったり、1980年のインタビューではクローディア・ウェイルという映画監督の『ガールフレンド』という作品を賞賛したりした。他にはキューブリック自身の関係者にクエンティン・タランティーノの代表作『パルプ・フィクション』を推薦したりもしていた。 また、イングマール・ベルイマンの作品も称賛しており、1960年にはファンレターを送り、「あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、完璧なほど人間の本質に迫る人物描写において、あなたは誰よりも卓越している」と激賞した。 『マグノリア』などで知られる、アメリカの映画監督のポール・トーマス・アンダーソンは2000年の3月、彼自身のファンサイト「Cigarettes&Red Vines」のインタビューを受けた際、キューブリックが彼の代表作『ブギーナイツ』を気に入っていたことや、晩年はウディ・アレンの『夫たち、妻たち』や、デヴィッド・マメットの『スリル・オブ・ゲーム』を好んでいたことを明らかにした。 クシシュトフ・キェシロフスキの代表作『デカローグ』を絶賛し、キューブリックはこの映画の脚本の前書きを書いたりもした。 イタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニは『2001年宇宙の旅』を観た際、キューブリックに絶賛の電報を送っている。 黒澤明は『バリー・リンドン』における正確な時代考証を高く評価しており、晩年にはキューブリック宛にファンレターを送っている。キューブリックは返信の内容に悩んでいたが、いざ返信を出す前に黒澤は他界、その6ヶ月後にキューブリックも急逝した。 手掛けてきた映画の高評価に反し、ハリウッド・メジャーとの対立関係もあって、キューブリックはアカデミー賞には恵まれなかった。辛うじて個人で受賞したのは『2001年宇宙の旅』での特殊視覚効果賞のみであり、作品賞や監督賞には何度もノミネートされたのにも関わらず、最後まで受賞には至らなかった(ただし、キューブリック自身はイギリスに活動の場を移して以降、同国からほとんど出ておらず、大西洋を横断して授賞式に出席することも無かった)。 キューブリックは映画『スパルタカス』の成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで「私の意見はカーク・ダグラス(=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べ、最終決定権が監督にはなく、スタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している。 これに懲りて、以降の作品では製作も自身が行うようになり、アメリカの映画システムと決別してイギリスへ渡り、アメリカの会社の資本のもとで独自に映画製作を続けることになる。『博士の異常な愛情』以後は、他人の脚本で映画作りをすることはなかった。 その後、キューブリックは『スパルタカス』についてインタビューなどで自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。特に、『突撃』・『スパルタカス』の製作者としてキューブリックに活躍の場を与えたカーク・ダグラスは、完成後、ダグラスに繰り返し不満を述べるキューブリックに我慢ならず、自伝の中でその監督手腕は認めつつも、キューブリックを非難した。 キューブリックが最もこだわっていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定し、脚本も完成し撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。 ドイツの作家、パトリック・ジュースキントのベストセラー小説『香水 ある人殺しの物語』を映画化する事を考えていた事もある。 ほかにホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開されたため、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』と何かと比較され大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた(『プラトーン』は『フルメタル・ジャケット』より先に公開された)。 結婚は3度している。最初の結婚は1948年、キューブリック19歳の時に、高校の同級生で在学時代から付き合っていたトーバ・メッツと結婚した。トーバとは3年後の1951年に離婚し、1955年1月にはバレリーナのルース・ソボトカと再婚した。ルースは「現金に体を張れ」で美術監督を引き受けるなど映画に協力的だったが、二人の仲はすぐに上手くいかなくなり、1957年には離婚した。翌1958年、「突撃」に出演していたクリスティアーヌ・ハーランと結婚し、以後キューブリックが死去するまで40年以上にわたって結婚生活を続けた。最初の2度の結婚では子どもは生まれなかったが、クリスティアーヌとの間には2人の娘が生まれ、さらにクリスティアーヌと前夫との間の娘も含め3人の娘を育てた。 自身は1947年に飛行機の免許を取得し操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、カンヌなどの映画祭に出席したという記録もない。 さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『スパルタカス』やアイルランドロケの『バリー・リンドン』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ ワイド シャット』もそのシーンの多くをロンドン近郊の大規模なスタジオ撮影で制作している。 「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、デニス・ミューレン、ジェームズ・キャメロンなど視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、ロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。また行きつけの文房具店があったが、名前に気付かれ店員に話し掛けられることがないよう、クレジットカードではなく現金で購入していたという(ドキュメンタリー映画「スタンリー・キューブリックの箱」)。 写真家として知られるダイアン・アーバスは『ルック』社時代の先輩であり、アーバス自身はキューブリックの事を非常に気に入っていたという。彼女の死後、キューブリックは『シャイニング』で彼女の代表的な写真『Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967』のオマージュを捧げた(印象的な双子の少女のシーン)。 スティーヴン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせのためにスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話しあったことがあり、それ以外は電話かファクシミリでやりとりをしていた。 イギリス英語による発音/'kju:brik/に基づく「キューブリック」のカナ表記が定着しているが、かつては「カブリック」「クーブリック」とも表記されていた。 各種のインタビューによる限り最もアメリカ英語による発音/'ku:brik/に近い「クーブリック」表記の提唱者は、アーサー・C・クラーク著『失われた宇宙の旅2001』の訳者あとがきに明記されているように翻訳家の伊藤典夫であり、その意向を受けた月刊『STARLOG』誌(ツルモトルーム版)が、「今日からクーブリックと呼ぼう」というキャンペーンを展開。以後、同誌では「クーブリック」表記を使用することになったため、SFファンを中心に「クーブリック」表記が広まった経緯がある。 ※本来はプロデューサーが受取人である作品賞の受賞・ノミネートも含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スタンリー・キューブリック(英語: Stanley Kubrick、1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "写真雑誌『ルック』のカメラマンとして働いたのち、短編ドキュメンタリー映画を自主製作し、長編第1作の『恐怖と欲望』で本格的に映画監督としてデビューした。1960年代以降はイギリスに活動の場を移し、ハリウッド資本で『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』などを発表した。商業性が重視されるハリウッドの映画監督でありながら、多様なジャンルで芸術性の高い革新的な映画を作り、映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々言及されている。監督だけでなく脚本、撮影、美術、編集、製作までも関与する作家的姿勢、独自のリアリズム、ブラックユーモア、ユニークな撮影手法、シャープな映像感覚、大規模な舞台装置、そして刺激的な音楽手法で知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "キューブリックは開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人の両親の長男として、1928年7月26日にニューヨークのマンハッタンで生まれる。少年時代は、チェス、ジャズに興味を持ち、特にカメラは、彼の経歴の出発点となる。1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。そこで彼は平均的な成績しか取得できなかったが、若い頃から文学、写真、映画への熱心な興味を示していた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになった。彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、これをきっかけに『ルック』誌を退社した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を自主製作し、商業的に失敗するもニューヨークの批評家からは賞賛された。続く『非情の罠』(1955年)も製作費を回収するほどの商業的成功を収めることはできなかった。1955年には、同い年のジェームズ・B・ハリスとともにハリス=キューブリック・プロダクションズを設立し、斬新な犯罪映画『現金に体を張れ』(1956年)、カーク・ダグラスと共同製作の反戦映画『突撃』(1957年)を製作した。彼のハリウッドでの評価は上がり、マーロン・ブランドからチャールズ・ネイダーの小説の映画化を依頼されたが、ブランドと意見が対立し、解雇される。しかし、このプロジェクトをきっかけに共同製作者だったカーク・ダグラスの依頼で、監督を降板したアンソニー・マンの代役として、ダグラスが製作兼主演だった『スパルタカス』(1960年)のメガホンを握り、高評価を得た。一方、ダルトン・トランボの脚本を現場で書き換え、脚本家クレジットに自分の名を表記するように求めるなど、製作陣とは対立した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "プロデューサー主導によるハリウッドの製作体制に嫌気が差したキューブリックは、1961年にイギリスへ移住。残りの人生とキャリアの殆どを同地で送った。ハートフォードシャーのChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅が仕事場となり、そこで脚本の執筆や取材、編集、そして映画製作の細部にわたる管理を行った。このことが、ハリウッドのメジャースタジオからの類まれな予算の支援を得つつ、自分の作品に関する完璧主義的な芸術活動をすることを可能とさせた。彼のイギリスでの最初の映画は、ウラジミール・ナボコフ原作の『ロリータ』(1962年)である。本作はセンセーショナルな内容からカトリック教会等による厳しい検閲に遭ったが、公開されると大ヒットを記録。次いで、SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を監督し、これらの批評的・興行的成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1970年代以降は、自身にとっては唯一とも言える伝記的様式を持つ『バリー・リンドン』(1975年)や、スティーブン・キング原作のホラー映画『シャイニング』(1980年)、ベトナム戦争を描いた『フルメタル・ジャケット』(1987年)を製作し、寡作ながらも高い評価と興行的成功を収め続ける。しかし、12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(1999年)の完成直後(同映画の試写会6日後)、1999年3月7日に公開を待たずしてハートフォードシャーの自宅で心臓発作で亡くなった。『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は、2001年にスティーヴン・スピルバーグがその原案を基に脚本を完成させ、製作・公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、生前のキューブリックに映画評論家ミシェル・シマンがインタビューしていた音声をもとに、キューブリック作品の俳優たちへのインタビュー映像も加えて、再構成されたドキュメンタリー映画「Kubrick by Kubrick」が2020年にフランスとポーランドで共同制作され(監督はグレゴリー・モンロー)、日本ではNHK BS1で放送されている『BS世界のドキュメンタリー』で、「キューブリックが語るキューブリック」として放送された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。些細なシーンさえも納得するまで撮り続ける姿勢は完璧主義者と言われ、また「完全主義者」ともいわれており、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『博士の異常な愛情』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に際しては上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では、字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身でも並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという役者の演技がある。この手法を映画評論家のロジャー・イーバートは「キューブリック凝視(Kubrick stare)」と名付けた。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、セルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリンから影響を受ける。キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1963年にアメリカの映画雑誌「シネマ」誌上でベスト映画を問われた際、次の10本の映画を挙げている。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このインタビュー以降、このようなベスト映画のリストが作られるようなことはなかったが、『2001年宇宙の旅』の公開の数日後に受けたインタビューで『メリー・ポピンズ』について語ったり、1980年のインタビューではクローディア・ウェイルという映画監督の『ガールフレンド』という作品を賞賛したりした。他にはキューブリック自身の関係者にクエンティン・タランティーノの代表作『パルプ・フィクション』を推薦したりもしていた。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、イングマール・ベルイマンの作品も称賛しており、1960年にはファンレターを送り、「あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、完璧なほど人間の本質に迫る人物描写において、あなたは誰よりも卓越している」と激賞した。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『マグノリア』などで知られる、アメリカの映画監督のポール・トーマス・アンダーソンは2000年の3月、彼自身のファンサイト「Cigarettes&Red Vines」のインタビューを受けた際、キューブリックが彼の代表作『ブギーナイツ』を気に入っていたことや、晩年はウディ・アレンの『夫たち、妻たち』や、デヴィッド・マメットの『スリル・オブ・ゲーム』を好んでいたことを明らかにした。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "クシシュトフ・キェシロフスキの代表作『デカローグ』を絶賛し、キューブリックはこの映画の脚本の前書きを書いたりもした。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニは『2001年宇宙の旅』を観た際、キューブリックに絶賛の電報を送っている。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "黒澤明は『バリー・リンドン』における正確な時代考証を高く評価しており、晩年にはキューブリック宛にファンレターを送っている。キューブリックは返信の内容に悩んでいたが、いざ返信を出す前に黒澤は他界、その6ヶ月後にキューブリックも急逝した。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "手掛けてきた映画の高評価に反し、ハリウッド・メジャーとの対立関係もあって、キューブリックはアカデミー賞には恵まれなかった。辛うじて個人で受賞したのは『2001年宇宙の旅』での特殊視覚効果賞のみであり、作品賞や監督賞には何度もノミネートされたのにも関わらず、最後まで受賞には至らなかった(ただし、キューブリック自身はイギリスに活動の場を移して以降、同国からほとんど出ておらず、大西洋を横断して授賞式に出席することも無かった)。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "キューブリックは映画『スパルタカス』の成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで「私の意見はカーク・ダグラス(=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べ、最終決定権が監督にはなく、スタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している。", "title": "映画人として" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": 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スタンリー・キューブリックは、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。 写真雑誌『ルック』のカメラマンとして働いたのち、短編ドキュメンタリー映画を自主製作し、長編第1作の『恐怖と欲望』で本格的に映画監督としてデビューした。1960年代以降はイギリスに活動の場を移し、ハリウッド資本で『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』などを発表した。商業性が重視されるハリウッドの映画監督でありながら、多様なジャンルで芸術性の高い革新的な映画を作り、映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々言及されている。監督だけでなく脚本、撮影、美術、編集、製作までも関与する作家的姿勢、独自のリアリズム、ブラックユーモア、ユニークな撮影手法、シャープな映像感覚、大規模な舞台装置、そして刺激的な音楽手法で知られる。
{{複数の問題|ソートキー=人1999年没 | 出典の明記 = 2012年1月27日 (金) 06:11 (UTC) | 独自研究 = 2012年1月27日 (金) 06:11 (UTC) }} {{ActorActress | 芸名 = Stanley Kubrick | ふりがな = スタンリー・キューブリック | 画像ファイル = Stanley Kubrick in Dr. Strangelove Trailer (4) Cropped.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = 1963年 | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{USA1912}} [[ニューヨーク州]][[マンハッタン]] | 死没地 = {{ENG}} [[ハートフォードシャー]] | 国籍 = | 身長 = | 生年 = 1928 | 生月 = 7 | 生日 = 26 | 没年 = 1999 | 没月 = 3 | 没日 = 7 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1951年]] - [[1999年]] | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[突撃 (1957年の映画)|突撃]]』(1957年)<br />『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』(1960年)<br />『[[ロリータ (1962年の映画)|ロリータ]]』(1962年)<br />『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』(1964年)<br />『[[2001年宇宙の旅]]』(1968年)<br />『[[時計じかけのオレンジ]]』(1971年)<br />『[[バリー・リンドン]]』(1975年)<br />『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』(1980年)<br />『[[フルメタル・ジャケット]]』(1987年)<br />『[[アイズ ワイド シャット]]』(1999年) | アカデミー賞 = '''[[アカデミー視覚効果賞|特殊視覚効果賞]]'''<br />[[第41回アカデミー賞|1968年]]『[[2001年宇宙の旅]]』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[:it:Premio Pasinetti|パシネッティ賞]]'''<br>[[1972年]]『[[時計じかけのオレンジ]]』<hr>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>[[1997年]] | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br/>[[第30回ニューヨーク映画批評家協会賞|1964年]]『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』<br/>[[第37回ニューヨーク映画批評家協会賞|1971年]]『時計じかけのオレンジ』 | AFI賞 = '''[[10ジャンルのトップ10|SF映画トップ10]]'''(第1位)<br />[[2008年]]『2001年宇宙の旅』 | 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br/>[[1975年]]『[[バリー・リンドン]]』<br />'''[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]'''<br />[[1999年]] | その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1975年『バリー・リンドン』 }} '''スタンリー・キューブリック'''({{lang-en|Stanley Kubrick}}、[[1928年]][[7月26日]] - [[1999年]][[3月7日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]である。 写真雑誌『[[ルック (アメリカの雑誌)|ルック]]』の[[カメラマン]]として働いたのち、[[短編映画|短編]][[ドキュメンタリー映画]]を[[自主映画|自主製作]]し、長編第1作の『[[恐怖と欲望]]』で本格的に映画監督としてデビューした。[[1960年代]]以降は[[イギリス]]に活動の場を移し、[[ハリウッド]]資本で『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか]]』『[[2001年宇宙の旅]]』『[[時計じかけのオレンジ]]』『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』などを発表した。商業性が重視されるハリウッドの映画監督でありながら、多様なジャンルで芸術性の高い革新的な映画を作り<ref>岩本憲児、高村倉太郎編『世界映画大事典』[[日本図書センター]]、2008年6月30日、p.291</ref>、[[映画史]]における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々言及されている。監督だけでなく[[脚本]]、[[撮影]]、[[美術]]、[[映像編集|編集]]、[[製作]]までも関与する作家的姿勢、独自のリアリズム、[[ブラックユーモア]]、ユニークな撮影手法、シャープな映像感覚、大規模な舞台装置、そして刺激的な[[音楽]]手法で知られる。 == 経歴 == キューブリックは[[開業医]]を営む[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に起源を持つ[[ユダヤ人]]<ref>LoBrutto 1999, p. 6.</ref>の両親の長男として、1928年7月26日に[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]で生まれる<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p13 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。少年時代は、[[チェス]]、[[ジャズ]]に興味を持ち、特に[[カメラ]]は、彼の経歴の出発点となる。[[1941年]]から[[1945年]]にかけて[[:en:William Howard Taft High School (New York City)|ウィリアム・ハワード・タフト高校]]に在籍した。そこで彼は平均的な成績しか取得できなかったが、若い頃から[[文学]]、[[写真]]、[[映画]]への熱心な興味を示していた。 [[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]の夜間部に入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・[[ドラマー]]を目指していたが、当時の[[アメリカ大統領|大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]の死を伝える一枚の写真が写真雑誌『[[ルック (アメリカの雑誌)|ルック]]』誌1945年6月25日号に売れ<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p23-24 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>、見習いカメラマンとして在籍するようになった。彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『[[拳闘試合の日]]』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p47 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>、これをきっかけに『ルック』誌を退社した。 [[1953年]]、親類から借金をして初の長編劇映画『[[恐怖と欲望]]』<ref>https://moviewalker.jp/mv52997/</ref>を自主製作し、商業的に失敗するもニューヨークの批評家からは賞賛された。続く『[[非情の罠]]』(1955年)も製作費を回収するほどの商業的成功を収めることはできなかった。[[1955年]]には、同い年の[[ジェームズ・B・ハリス]]とともにハリス=キューブリック・プロダクションズを設立し、斬新な犯罪映画『[[現金に体を張れ]]』(1956年)、[[カーク・ダグラス]]と共同製作の戦争映画『[[突撃 (1957年の映画)|突撃]]』(1957年)を製作した。彼のハリウッドでの評価は上がり、[[マーロン・ブランド]]から[[:en:Charles Neider|チャールズ・ネイダー]]の小説の映画化を依頼されたが、ブランドと意見が対立し、解雇される。しかし、このプロジェクトをきっかけに共同製作者だったカーク・ダグラスの依頼で、監督を降板した[[アンソニー・マン]]の代役として、ダグラスが製作兼主演だった『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』(1960年)のメガホンを握り、高評価を得た。一方、[[ダルトン・トランボ]]の脚本を現場で書き換え、脚本家クレジットに自分の名を表記するように求めるなど、製作陣とは対立した。 プロデューサー主導によるハリウッドの製作体制に嫌気が差したキューブリックは、1961年にイギリスへ移住。残りの人生とキャリアの殆どを同地で送った。[[ハートフォードシャー]]のChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅が仕事場となり、そこで脚本の執筆や取材、編集、そして映画製作の細部にわたる管理を行った。このことが、ハリウッドのメジャースタジオからの類まれな予算の支援を得つつ、自分の作品に関する完璧主義的な芸術活動をすることを可能とさせた。彼のイギリスでの最初の映画は、[[ウラジミール・ナボコフ]]原作の『[[ロリータ (1962年の映画)|ロリータ]]』(1962年)である。本作はセンセーショナルな内容から[[カトリック教会]]等による厳しい検閲に遭ったが、公開されると大ヒットを記録。次いで、[[SF映画|SF]]三部作と呼ばれる『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』(1964年)、『[[2001年宇宙の旅]]』(1968年)、『[[時計じかけのオレンジ]]』(1971年)を監督し、これらの批評的・興行的成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。 [[1970年代]]以降は、自身にとっては唯一とも言える[[伝記映画|伝記的様式を持つ]]『[[バリー・リンドン]]』(1975年)や、[[スティーブン・キング]]原作の[[ホラー映画]]『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』(1980年)、[[ベトナム戦争]]を描いた『[[フルメタル・ジャケット]]』(1987年)を製作し、寡作ながらも高い評価と興行的成功を収め続ける。しかし、12年ぶりの監督作品となった『[[アイズ ワイド シャット]]』(1999年)の完成直後(同映画の試写会6日後)、1999年3月7日に公開を待たずしてハートフォードシャーの自宅で[[心臓発作]]で亡くなった<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p446 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『[[A.I.]]』は、[[2001年]]に[[スティーヴン・スピルバーグ]]がその原案を基に脚本を完成させ、製作・公開された。 なお、生前のキューブリックに映画評論家[[:en:Michel Ciment|ミシェル・シマン]]が[[インタビュー]]していた音声をもとに、キューブリック作品の[[俳優]]たちへのインタビュー映像も加えて、再構成されたドキュメンタリー映画「Kubrick by Kubrick」が[[2020年]]に[[フランス]]と[[ポーランド]]で共同制作され(監督は[[グレゴリー・モンロー]])、日本では[[NHK BS1]]で放送されている『[[BS世界のドキュメンタリー]]』で、「キューブリックが語るキューブリック」として放送された<REF>[https://natalie.mu/eiga/news/386456 キューブリックが語るキューブリック、NHKBS1で最新ドキュメンタリー放送]</REF>。 == 映画人として == 映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している<ref>{{Cite book |和書 |author = デイヴィッド・ヒューズ |translator = 内山一樹、荒尾信子、江口浩 |title = キューブリック全書 |date = 2001-11 |page = 43 |publisher =フィルムアート社 }}</ref>。 初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。些細なシーンさえも納得するまで撮り続ける姿勢は[[完璧主義]]または完全主義者といわれており<ref>[http://www.hananoe.jp/movie/kantoku/kantoku047.html スタンリー・キューブリック 〜時代を超越する映像〜] 花の絵 2014年1月14日</ref><ref>[http://www.ivc-tokyo.co.jp/fearanddesire/ 『恐怖と欲望』公式HP]</ref>、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。 『博士の異常な愛情』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に際しては上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では、字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。 === 手法・演出 === [[File:Stanley Kubrick LACMA exhibit - "A" Camera.jpg|thumb|ロサンゼルス郡立美術館に展示されている、バリー・リンドンで使われたとされるキューブリックのカメラ'']] よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身でも並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。 また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという役者の演技がある。この手法を映画評論家の[[ロジャー・イーバート]]は「キューブリック凝視(Kubrick stare)」と名付けた<ref>[https://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/KubrickStare Kubrick Stare - TV Tropes]</ref>。 === 影響 === 写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]、[[チャールズ・チャップリン]]から影響を受ける。キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている<ref>{{Cite web|和書 | title = スタンリー・キューブリック (巨匠の歴史) | publisher = 週刊シネママガジン | url = http://cinema-magazine.com/p/55# | accessdate = 2014-11-22}}</ref>。 [[1963年]]にアメリカの映画雑誌「シネマ」誌上でベスト映画を問われた際、次の10本の映画を挙げている<ref>{{Cite web|url=https://www.bfi.org.uk/news-opinion/sight-sound-magazine/polls-surveys/stanley-kubrick-cinephile|title=Stanley Kubrick, cinephile|accessdate=2019-01-14|website=British Film Institute|language=en}}</ref>。 * 『[[青春群像]]』(1953、イタリア) * 『[[野いちご]]』 * 『[[市民ケーン]]』 * 『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』(1948) * 『[[街の灯]]』 * 『[[ヘンリィ五世]]』 * 『[[夜 (映画)|夜]]』 * 『[[ザ・バンク・ディック]]』 * 『Roxie Hart』 * 『[[地獄の天使 (1930年の映画)|地獄の天使]]』(1930) このインタビュー以降、このようなベスト映画のリストが作られるようなことはなかったが、『[[2001年宇宙の旅]]』の公開の数日後に受けたインタビューで『[[メリー・ポピンズ]]』について語ったり、1980年のインタビューでは[[クローディア・ウェイル]]という映画監督の『ガールフレンド』という作品を賞賛したりした。他にはキューブリック自身の関係者に[[クエンティン・タランティーノ]]の代表作『[[パルプ・フィクション]]』を推薦したりもしていた<ref>{{Citation|title=One on One: Frederic Raphael (1999)|last=nessuno2001italy|url=https://www.youtube.com/watch?v=O5DyCgkql8A|accessdate=2019-01-14}}</ref>。 また、[[イングマール・ベルイマン]]の作品も称賛しており、[[1960年]]にはファンレターを送り、「あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、完璧なほど人間の本質に迫る人物描写において、あなたは誰よりも卓越している」と激賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.magichour.co.jp/bergman/3/introduction/|title=イングマール・ベイルマン3大傑作選|accessdate=2020-01-06}}</ref>。 『[[マグノリア (映画)|マグノリア]]』などで知られる、アメリカの映画監督の[[ポール・トーマス・アンダーソン]]は[[2000年]]の[[3月]]、彼自身のファンサイト「Cigarettes&Red Vines」のインタビューを受けた際、キューブリックが彼の代表作『[[ブギーナイツ]]』を気に入っていたことや、晩年は[[ウディ・アレン]]の『[[夫たち、妻たち]]』や、[[デヴィッド・マメット]]の『[[スリル・オブ・ゲーム]]』を好んでいたことを明らかにした。 [[クシシュトフ・キェシロフスキ]]の代表作『[[デカローグ]]』を絶賛し、キューブリックはこの映画の脚本の前書きを書いたりもした。 === 他監督からの評価 === [[イタリア]]の映画監督、[[フェデリコ・フェリーニ]]は『[[2001年宇宙の旅]]』を観た際、キューブリックに絶賛の電報を送っている<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p276 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。 [[黒澤明]]は『[[バリー・リンドン]]』における正確な時代考証を高く評価しており、晩年にはキューブリック宛にファンレターを送っている。キューブリックは返信の内容に悩んでいたが、いざ返信を出す前に黒澤は他界、その6ヶ月後にキューブリックも急逝した。 === アカデミー賞 === 手掛けてきた映画の高評価に反し、ハリウッド・メジャーとの対立関係もあって、キューブリックは[[アカデミー賞]]には恵まれなかった。辛うじて個人で受賞したのは『[[2001年宇宙の旅]]』での[[アカデミー視覚効果賞|特殊視覚効果賞]]のみであり、[[アカデミー作品賞|作品賞]]や[[アカデミー監督賞|監督賞]]には何度もノミネートされたのにも関わらず、最後まで受賞には至らなかった(ただし、キューブリック自身は[[イギリス]]に活動の場を移して以降、同国からほとんど出ておらず、[[大西洋]]を横断して授賞式に出席することも無かった)。 === 姿勢 === キューブリックは映画『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』の成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで「私の意見は[[カーク・ダグラス]](=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べ、最終決定権が監督にはなく、スタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している<ref>{{Cite book |和書 |author = ミシェル・シマン |translator = 内山一樹 |title = キューブリック |date = 1989-7 |page = |publisher =[[白夜書房]] }}</ref>。 これに懲りて、以降の作品では製作も自身が行うようになり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の映画システムと決別して[[イギリス]]へ渡り、アメリカの会社の資本のもとで独自に映画製作を続けることになる。『博士の異常な愛情』以後は、他人の脚本で映画作りをすることはなかった。 その後、キューブリックは『スパルタカス』についてインタビューなどで自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。特に、『[[突撃 (1957年の映画)|突撃]]』・『スパルタカス』の製作者としてキューブリックに活躍の場を与えたカーク・ダグラスは、完成後、ダグラスに繰り返し不満を述べるキューブリックに我慢ならず、自伝の中でその監督手腕は認めつつも、キューブリックを非難した。 === 製作されなかった映画 === キューブリックが最もこだわっていた企画が『[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定し、脚本も完成し撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた<ref>[https://dramanavi.net/articles/140663 HBO、キューブリック脚本&スピルバーグ製作のナポレオン伝記ドラマをミニシリーズ化か?]</ref>。 [[ドイツ]]の作家、[[パトリック・ジュースキント]]のベストセラー小説『[[香水 ある人殺しの物語]]』を映画化する事を考えていた事もある。 ほかに[[ホロコースト]]をテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『[[五十年間の嘘]]』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『[[シンドラーのリスト]]』が公開されたため、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『[[プラトーン]]』と何かと比較され大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた(『プラトーン』は『フルメタル・ジャケット』より先に公開された)。 == 人物 == 結婚は3度している。最初の結婚は1948年、キューブリック19歳の時に、高校の同級生で在学時代から付き合っていた[[トーバ・メッツ]]と結婚した<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p36 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。トーバとは3年後の1951年に離婚し、1955年1月にはバレリーナのルース・ソボトカと再婚した<ref name="名前なし-1">「映画監督 スタンリー・キューブリック」p75 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。ルースは「現金に体を張れ」で美術監督を引き受けるなど映画に協力的だったが<ref name="名前なし-1"/>、二人の仲はすぐに上手くいかなくなり<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p99-100 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>、1957年には離婚した<ref>「キューブリック映画の音楽的世界」(叢書・20世紀の芸術と文学)p17 明石政紀 アルファベータ 2007年7月10日第1刷発行</ref>。翌1958年、「突撃」に出演していたクリスティアーヌ・ハーランと結婚し、以後キューブリックが死去するまで40年以上にわたって結婚生活を続けた<ref name="名前なし-2">「キューブリック映画の音楽的世界」(叢書・20世紀の芸術と文学)p19 明石政紀 アルファベータ 2007年7月10日第1刷発行</ref>。最初の2度の結婚では子どもは生まれなかったが、クリスティアーヌとの間には2人の娘が生まれ、さらにクリスティアーヌと前夫との間の娘も含め3人の娘を育てた<ref name="名前なし-2"/>。 自身は1947年に[[飛行機]]の免許を取得し<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p32 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、[[カンヌ]]などの映画祭に出席したという記録もない。 さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』やアイルランドロケの『[[バリー・リンドン]]』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『[[フルメタル・ジャケット]]』の[[フエ]]のシーンも[[ロンドン]]近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『[[アイズ ワイド シャット]]』もそのシーンの多くをロンドン近郊の大規模なスタジオ撮影で制作している<ref>https://www.cnn.co.jp/style/design/35138056.html 「鬼才スタンリー・キューブリック監督、飽くなき細部へのこだわり」CNN 2019.07.07 2020年8月22日閲覧</ref>。 「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、[[デニス・ミューレン]]、[[ジェームズ・キャメロン]]など視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、ロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。また行きつけの文房具店があったが、名前に気付かれ店員に話し掛けられることがないよう、[[クレジットカード]]ではなく現金で購入していたという(ドキュメンタリー映画「スタンリー・キューブリックの箱」)。 === 交友 === 写真家として知られる[[ダイアン・アーバス]]は『ルック』社時代の先輩であり、アーバス自身はキューブリックの事を非常に気に入っていたという<ref>「映画監督 スタンリー・キューブリック」p39 ヴィンセント・ロブロット 浜野保樹・櫻井英里子訳 晶文社 2004年9月5日初版</ref>。彼女の死後、キューブリックは『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』で彼女の代表的な写真『Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967』のオマージュを捧げた(印象的な[[双生児|双子]]の少女のシーン)。 [[スティーヴン・スピルバーグ]]とは特に親交が深く、『[[A.I.]]』についての打ち合わせのためにスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話しあったことがあり、それ以外は[[電話]]か[[ファクシミリ]]でやりとりをしていた。 === 名前の表記について === イギリス英語による発音/'kju:brik/に基づく「キューブリック」のカナ表記が定着しているが、かつては「カブリック」「クーブリック」とも表記されていた。 各種のインタビューによる限り最もアメリカ英語による発音/'ku:brik/<ref>[https://ja.forvo.com/word/stanley_kubrick/]</ref>に近い「クーブリック」表記の提唱者は、[[アーサー・C・クラーク]]著『[[失われた宇宙の旅2001]]』の訳者あとがきに明記されているように翻訳家の[[伊藤典夫]]であり、その意向を受けた月刊『[[STARLOG]]』誌([[ツルモトルーム]]版)が、「今日からクーブリックと呼ぼう」というキャンペーンを展開。以後、同誌では「クーブリック」表記を使用することになったため、SFファンを中心に「クーブリック」表記が広まった経緯がある。 == 監督作品 == {| class="wikitable sortable" style="font-size:100%;" ! style="width:10%" |公開年 ! style="width:45%" |{{ublist|邦題|原題}} ! style="width:10%" |[[映画監督|監督]] ! style="width:10%" |[[脚本家|脚本]] ! style="width:10%" |[[映画プロデューサー|製作]] ! style="width:20%" |備考 |- | rowspan="2" |1951年 |[[拳闘試合の日]]<br />''Day of the Fight'' |〇 |× |〇 |短編ドキュメンタリー |- |[[空飛ぶ牧師]]<br />''Flying Padre'' |〇 |〇 |× |短編ドキュメンタリー |- | rowspan="2" |1953年 |[[恐怖と欲望]]<br />''Fear and Desire'' |〇 |× |〇 |長編劇映画デビュー作 |- |[[海の旅人たち]]<br />''The Seafarers'' |〇 |× |〇 |短編ドキュメンタリー |- |1955年 |[[非情の罠]]<br />''Killer's Kiss'' |〇 |× |〇 | |- |1956年 |[[現金に体を張れ]]<br />''The Killing'' |〇 |〇 |× | |- |1957年 |[[突撃 (1957年の映画)|突撃]]<br />''Paths of Glory'' |〇 |〇 |× |[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に保存 |- |1960年 |[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]<br />''Spartacus'' |〇 |× |× |アメリカ国立フィルム登録簿に保存 |- |1962年 |[[ロリータ (1962年の映画)|ロリータ]]<br />''Lolita'' |〇 |× |× | |- |1964年 |[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか]]<br />''Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb'' |〇 |〇 |〇 |アメリカ国立フィルム登録簿に保存 |- |1968年 |[[2001年宇宙の旅]]<br />''2001:A Space Odyssey'' |〇 |〇 |〇 |アメリカ国立フィルム登録簿に保存 |- |1971年 |[[時計じかけのオレンジ]]<br />''A Clockwork Orange'' |〇 |〇 |〇 |アメリカ国立フィルム登録簿に保存 |- |1975年 |[[バリー・リンドン]]<br />''Barry Lyndon'' |〇 |〇 |〇 | |- |1980年 |[[シャイニング (映画)|シャイニング]]<br />''The Shining'' |〇 |〇 |〇 |アメリカ国立フィルム登録簿に保存 |- |1987年 |[[フルメタル・ジャケット]]<br />''Full Metal Jacket'' |〇 |〇 |〇 | |- |1999年 |[[アイズ ワイド シャット]]<br />''Eyes Wide Shut'' |〇 |〇 |〇 | |- |} == 受賞歴 == ※本来はプロデューサーが受取人である作品賞の受賞・ノミネートも含む。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" !賞!!年!!部門!!作品!!結果 |- ! rowspan="15" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]] | 1956年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『[[現金に体を張れ]]』||{{nom}} |- | 1957年||総合作品賞||『[[突撃 (1957年の映画)|突撃]]』||{{nom}} |- | 1960年||総合作品賞||『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』||{{nom}} |- | rowspan="4"|1964年||総合作品賞||rowspan="4"|『[[博士の異常な愛情]]』||{{won}} |- | [[英国アカデミー賞 英国作品賞|英国作品賞]]||{{won}} |- | 国連賞||{{won}} |- | 脚本賞||{{nom}} |- | rowspan="2"|1968年||作品賞||rowspan="2"|『[[2001年宇宙の旅]]』||{{nom}} |- | 国連賞||{{nom}} |- | rowspan="3"|1972年||作品賞||rowspan="3"|『[[時計じかけのオレンジ]]』||{{nom}} |- | [[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]||{{nom}} |- | 脚本賞||{{nom}} |- | rowspan="2"|1975年||作品賞||rowspan="2"|『[[バリー・リンドン]]』||{{nom}} |- | 監督賞||{{won}} |- | 1999年||[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}} |- ! style="text-align:left"|[[ロカルノ国際映画祭]] | 1959年||監督賞||『[[非情の罠]]』||{{won}} |- ! rowspan="3" style="text-align:left"|[[ナストロ・ダルジェント賞]] | 1959年||{{仮リンク|ナストロ・ダルジェント賞 外国監督賞|label=外国監督賞|It|Nastro d'argento al regista del miglior film straniero}}||『突撃』||{{won}} |- | 1969年||外国監督賞||『博士の異常な愛情』||{{won}} |- | 1973年||外国監督賞||『時計じかけのオレンジ』||{{won}} |- ! rowspan="7" style="text-align:left"|[[ゴールデングローブ賞]] | rowspan="2"|1960年||[[ゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞 (ドラマ部門)]]||rowspan="2"|『スパルタカス』||{{won}} |- | [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]||{{nom}} |- | 1962年||監督賞||『[[ロリータ (1962年の映画)|ロリータ]]』||{{nom}} |- | rowspan="2"|1971年||作品賞 (ドラマ部門)||rowspan="2"|『時計じかけのオレンジ』||{{nom}} |- | 監督賞||{{nom}} |- | rowspan="2"|1975年||作品賞 (ドラマ部門)||rowspan="2"|『バリー・リンドン』||{{nom}} |- | 監督賞||{{nom}} |- ! rowspan="6" style="text-align:left"|[[全米監督協会賞]] | 1962年||[[全米監督協会賞 長編映画監督賞|長編映画監督賞]]||『ロリータ』||{{nom}} |- | 1964年||長編映画監督賞||『博士の異常な愛情』||{{nom}} |- | 1968年||長編映画監督賞||『2001年宇宙の旅』||{{nom}} |- | 1971年||長編映画監督賞||『時計じかけのオレンジ』||{{nom}} |- | 1975年||長編映画監督賞||『バリー・リンドン』||{{nom}} |- | 1996年||{{仮リンク|全米監督協会賞 生涯功労賞|label=D・W・グリフィス賞|en|Directors Guild of America Lifetime Achievement Award – Feature Film}}||style="text-align:center"|-||{{won}} |- ! rowspan="5" style="text-align:left"|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] | 1964年||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||『博士の異常な愛情』||{{won}} |- | rowspan="2"|1971年||作品賞||rowspan="2"|『時計じかけのオレンジ』||{{won}} |- | 監督賞||{{won}} |- | rowspan="2"|1975年||作品賞||rowspan="2"|『バリー・リンドン』||{{draw|次点}} |- | 監督賞||{{draw|次点}} |- ! style="text-align:left"|[[ボディル賞]] | 1964年||{{仮リンク|ボディル賞 アメリカ映画賞|label=アメリカ映画賞|en|Bodil Award for Best American Film|}}||『博士の異常な愛情』||{{won}} |- ! rowspan="13" style="text-align:left"|[[アカデミー賞]] | rowspan="3"|1964年||[[アカデミー作品賞|作品賞]]||rowspan="3"|『博士の異常な愛情』||{{nom}} |- | [[アカデミー監督賞|監督賞]]||{{nom}} |- | [[アカデミー脚色賞|脚色賞]]||{{nom}} |- | rowspan="3"|1968年||監督賞||rowspan="3"|『2001年宇宙の旅』||{{nom}} |- | [[アカデミー脚本賞|脚本賞]]||{{nom}} |- | [[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]||{{won}} |- | rowspan="3"|1971年||作品賞||rowspan="3"|『時計じかけのオレンジ』||{{nom}} |- | 監督賞||{{nom}} |- | 脚色賞||{{nom}} |- | rowspan="3"|1975年||作品賞||rowspan="3"|『バリー・リンドン』||{{nom}} |- | 監督賞||{{nom}} |- | 脚色賞||{{nom}} |- | 1987年||脚色賞||『[[フルメタル・ジャケット]]』||{{nom}} |- ! rowspan="3" style="text-align:left"|[[ヒューゴー賞]] | 1965年||[[ヒューゴー賞映像部門|映像部門]]||『博士の異常な愛情』||{{won}} |- | 1969年||映像部門||『2001年宇宙の旅』||{{won}} |- | 1972年||映像部門||『時計じかけのオレンジ』||{{won}} |- ! rowspan="6" style="text-align:left"|[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] | 1969年||{{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 外国プロダクション賞|label=外国プロダクション賞|It|David di Donatello per il miglior produttore straniero}}||『2001年宇宙の旅』||{{won}} |- | 1977年||{{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 ヨーロッパ賞|label=ヨーロッパ賞|It|David Europeo}}||『バリー・リンドン』||{{won}} |- | rowspan="4"|1988年||{{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 外国映画賞|label=外国映画賞|It|David di Donatello per il miglior film straniero}}||rowspan="3"|『フルメタル・ジャケット』||{{nom}} |- | {{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 外国監督賞|label=外国監督賞|It|David di Donatello per il miglior regista straniero}}||{{nom}} |- | 外国プロダクション賞||{{won}} |- | {{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 ルキノ・ヴィスコンティ賞|label=ルキノ・ヴィスコンティ賞|It|David Luchino 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|title = キューブリック |date = 1989-7 |page = |publisher =[[白夜書房]] |isbn = 978-4893671448 }} * {{Cite book |和書 |author = デイヴィッド・ヒューズ |translator = 内山一樹、荒尾信子、江口浩 |title = キューブリック全書 |date = 2001-11 |page = |publisher =フィルムアート社 |isbn = 978-4845901258 }} * {{Cite book |和書 |author = ヴィンセント・ロブロット |translator = [[浜野保樹]]、櫻井英里子 |title = 映画監督 スタンリー・キューブリック |date = 2004-9-5 |page = |publisher =[[晶文社]] |isbn = 978-4794966315 }} * {{Cite book |和書 |author = クリスティアーヌ・キューブリック |translator = 浜野保樹 |title = スタンリー・キューブリック―写真で見るその人生 |date = 2004-6 |page = |publisher =愛育社 |isbn = 978-4750001784 }} * {{cite book| last=Walker|first=Alexander |title=Stanley Kubrick directs|year=1972|publisher=Harcourt Brace Jovanovich|isbn=978-0-15-684892-3|ref=harv}} * {{cite book| last=Ciment |first=Michel |authorlink=:en:Michel Ciment|Michel Ciment |title=Kubrick: The Definitive Edition|publisher=Faber and Faber, Inc.|year=1980|ref=harv}} * {{cite book| last=Herr |first=Michael |title=Kubrick |authorlink=マイケル・ハー |year=June 2000 |publisher=Grove |isbn=0-8021-3818-7 }} * [https://web.archive.org/web/20120121085421/http://kubrickfilms.warnerbros.com/ The Authorized Stanley Kubrick Web Site by Warner Bros.] * [[The Guardian]]: [https://www.theguardian.com/film/2004/mar/27/features.weekend Citizen Kubrick] * [https://www.arts.ac.uk/students/library-services/special-collections-and-archives/archives-and-special-collections-centre/the-stanley-kubrick-archive Stanley Kubrick Archive at the London College of Communication] * [http://www.sensesofcinema.com/2002/great-directors/kubrick/ Kubrick on Senses of Cinema (In Depth Biography)] * [https://books.google.co.jp/books?id=iOU9bIlnPHIC&printsec=frontcover&source=gbs_summary_r&redir_esc=y&hl=ja Stanley Kubrick Interviews], by Stanley Kubrick, Gene D. Phillips == 関連項目 == * [[キューブリック山]] - [[冥王星]]の衛星[[カロン (衛星)|カロン]]の山。キューブリックにちなんで命名された。 == 外部リンク == {{Commonscat|Stanley Kubrick|Stanley Kubrick}} * {{allcinema name|13768|スタンリー・キューブリック}} * {{Kinejun name|20626|スタンリー・キューブリック}} * {{IMDb name|0000040|Stanley Kubrick}} * {{Screenonline name|id=459560|name=Stanley Kubrick biography and credits}} * {{worldcat id|id=lccn-n50-47956}} * {{Kotobank|キューブリック}} {{スタンリー・キューブリック監督作品}} {{アカデミー賞視覚効果賞}} {{英国アカデミー賞監督賞}} {{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きゆうふりつく すたんりい}} [[Category:アメリカ合衆国の映画監督]] [[Category:20世紀の無神論者]] [[Category:21世紀の無神論者]] [[Category:SF映画監督]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:英国アカデミー賞受賞者]] [[Category:マンハッタン出身の人物]] [[Category:ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:アメリカ合衆国の無神論者]] [[Category:ユダヤ人の無神論者]] [[Category:1928年生]] [[Category:1999年没]]
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ゼルダの伝説シリーズ
ゼルダの伝説シリーズ(ゼルダのでんせつシリーズ、英: The Legend of Zelda series)は任天堂が開発・発売しているコンピュータゲームシリーズ。 1986年の初代『ゼルダの伝説』の発売以来、長きにわたってユーザーに支持されている、任天堂のアクションアドベンチャーゲーム、またはアクションRPG。初代『ゼルダの伝説』は宮本茂、手塚卓志、中郷俊彦、近藤浩治などのわずか数人によってファミリーコンピュータ ディスクシステムのローンチソフトとして開発された。 多くのシリーズ作品の共通点として「様々なダンジョンを攻略」「剣をメインとするアクション」「アイテムによる成長」「冒険の舞台が箱庭」などがある。 基本的なストーリーはプレイヤーの分身であるリンクがガノンなどの敵からお姫様のゼルダを助けるという物語。作品ごとに時代や主人公の設定は異なり、ストーリーも独立したものになっているため、シリーズの途中からでも理解できるものになっている。一方で「ハイラルの歴史」と称されるゲーム上の時系列は存在し、制作者へのインタビューや関連書籍等で度々言及されている(後述の「時系列」の項も参照)。 2023年11月8日、任天堂とArad Productions Inc.との共同制作で実写映画化することが発表された。映画製作費は任天堂が50%以上を持つ事で制作を主導し、プロデューサーは『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』に引き続き、ゼルダの生みの親である宮本茂とアヴィ・アラッドが担当し、配給・共同出資はソニー・ピクチャーズ エンタテインメントが行う。 日本版のタイトルロゴは、初代『ゼルダの伝説』から『BSゼルダの伝説 古代の石盤』まで(『リンクの冒険』を除く)、「ゼルダの伝説」の文字をかたどったほぼ同じロゴタイプが用いられていた。 日本国外版では、『The Legend of Zelda: A Link to the Past』(『神々のトライフォース』)の際に「Z」の文字が大きめに描かれたロゴタイプが採用され、以降、このデザインが最新の作品まで引き継がれている。 日本版『時のオカリナ』では当初、従来と同様のロゴタイプを制作していたが、最終的に日本国外版と同じロゴが採用された。これ以降、『トワイライトプリンセスHD』まで全世界でほぼ共通のロゴが用いられるようになった(『夢をみる島DX』を除く)。 『ムジュラの仮面』以降の作品では、ロゴの周りや背景に作品を象徴するイラストが配されている。 『風のタクト』などでは『時のオカリナ』以前の「ゼルダの伝説」のロゴタイプを小さく併記している。一方で『トワイライトプリンセス』などでは日本語タイトルの表記が無く、日本国外版のロゴタイプと全く同じものになっている。 『ブレス オブ ザ ワイルド』以降の日本版作品の一部では初代のロゴタイプを踏襲したデザインに回帰し、「ゼルダの伝説」の文字の下に英題が小さめに併記されている。 また「ゼルダの伝説」の文字をかたどったロゴタイプが用いられた作品の内、初代『ゼルダの伝説』と、初代のロゴタイプを踏襲した『ブレス オブ ザ ワイルド』などでは「ダ」の下部分が伸びている。 ※同名キャラクターが複数作品に登場しているが、一部を除き同一人物ではなく、作品ごとに設定が異なる。 複数のシリーズ作品に登場する民族・種族を記述する。 暗色行のタイトルはリメイク作品。 本項では、ゼルダシリーズの設定資料集『任天堂公式ガイドブック ハイラル・ヒストリア ゼルダの伝説大全』(2011年 小学館 ISBN 978-4092271593 以下『ハイラル・ヒストリア』)と『ゼルダの伝説 30周年記念書籍 第2集 THE LEGEND OF ZELDA HYRULE ENCYCLOPEDIA :ゼルダの伝説 ハイラル百科』(2017年 徳間書店 ISBN 978-4198643782 以下『ハイラル百科』)に記載された内容を中心に、シリーズ公式サイト「ゼルダの伝説ポータル」や出版物等での開発者の発言により明かされた歴史と、ゼルダ史におけるシリーズの大まかな順を記載する。
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ゼルダの伝説シリーズは任天堂が開発・発売しているコンピュータゲームシリーズ。
{{コンピュータゲームシリーズ |タイトル = ゼルダの伝説 |画像 = [[File:Zelda wordmark Japanese 2017.svg|300px|alt=ゼルダの伝説シリーズのロゴ]] |ジャンル = [[アクションアドベンチャー]]<br />[[アクションRPG]]<ref group="注" name="arpg">NINTENDO64版『時のオカリナ』『ムジュラの仮面』のパッケージに「3DアクションRPG」と記載されている。</ref> |開発元 = [[任天堂]]<br />[[カプコン]]、[[グレッゾ]]など<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/nintendo/nin20/nin20_1.htm|title=ゼルダの伝説 ふしぎの木の実|accessdate=2015-12-17}}<br />{{Cite web|和書|url=http://www.grezzo.co.jp/jp/game/|title=株式会社グレッゾ - ゲームソフト|accessdate=2015-12-17}}</ref> |発売元 = 任天堂<ref name="vc-1">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000002067|title=ゼルダの伝説|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |製作者 = [[宮本茂]](生みの親)<ref name="miyahon">{{Cite web|和書|url=http://www.nintendo.co.jp/nom/9811/p06/|title=宮本茂プロデューサーが語る『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の世界|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref><br />[[青沼英二]](総合プロデューサー)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nindori.com/interview/160zelda/index.html|title=ゼルダの伝説 夢幻の砂時計 開発スタッフインタビュー|publisher=ニンドリドットコム(アーカイブ)|accessdate=2016-7-7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070913111536/http://www.nindori.com/interview/160zelda/index.html|archivedate=2007年9月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> |1作目 = [[ゼルダの伝説]] |1作目発売日 = 1986年2月21日<ref name="nom9811-1">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9811/p04/page01.html|title=傑作の代名詞 歴代『ゼルダの伝説』紹介 Page-1|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |最新作 = [[ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム]] |最新作発売日 = 2023年5月12日 |公式サイトURL = https://www.nintendo.co.jp/character/zelda/index.html |公式サイトタイトル = ゼルダの伝説ポータル }} '''ゼルダの伝説シリーズ'''(ゼルダのでんせつシリーズ、{{Lang-en-short|The Legend of Zelda series}})は[[任天堂]]が開発・発売している[[コンピュータゲーム]]シリーズ<ref name="nn-1">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nintendo_news/140625/zelda/|title=『ゼルダの伝説』ってこんなゲーム -入門編-|publisher=任天堂|date=2014-06-25|accessdate=2014-11-04}}</ref>。 == 概要 == 1986年の初代『[[ゼルダの伝説]]』の発売以来、長きにわたってユーザーに支持されている、任天堂の[[アクションアドベンチャー|アクションアドベンチャーゲーム]]<ref name="what">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gzlj/syohin/what/|title=ゼルダの伝説 風のタクト:ゼルダの伝説とは?|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>、または[[アクションRPG]]<ref group="注" name="arpg" />。初代『ゼルダの伝説』は[[宮本茂]]、[[手塚卓志]]、[[中郷俊彦]]、[[近藤浩治]]などのわずか数人によって[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]の[[ローンチタイトル|ローンチソフト]]として開発された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/bkij/vol2/index.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 大地の汽笛』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref><ref name="historia_miyamoto">{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=「ゼルダの伝説」 25周年に寄せて|publisher=任天堂/[[小学館]]|pages=2-3}}</ref>。 多くのシリーズ作品の共通点として「様々なダンジョンを攻略」「剣をメインとするアクション」「アイテムによる成長」<ref name="what"/>「冒険の舞台が箱庭」などがある<ref name="Nindori240">{{Cite book|和書|author=ニンテンドードリーム|authorlink=ニンテンドードリーム|title=ニンテンドードリームvol.240 バーチャルコンソール古tion|publisher=[[徳間書店]]|page=81}}</ref>。 基本的なストーリーはプレイヤーの分身である[[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]]が[[ガノン]]などの敵からお姫様の[[ゼルダ (ゲームキャラクター)|ゼルダ]]を助けるという物語。作品ごとに時代や主人公の設定は異なり、ストーリーも独立したものになっているため、シリーズの途中からでも理解できるものになっている<ref name="nn-1"/>。一方で「ハイラルの歴史」と称されるゲーム上の時系列は存在し、制作者へのインタビューや関連書籍等で度々言及されている(後述の「[[#時系列|時系列]]」の項も参照)<ref name="historia_zenshi">{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=ハイラル全史|publisher=任天堂/小学館|pages=67-135}}</ref>。 2023年11月8日、任天堂とArad Productions Inc.との共同制作で実写映画化することが発表された。映画製作費は任天堂が50%以上を持つ事で制作を主導し、プロデューサーは『[[ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー]]』に引き続き、ゼルダの生みの親である宮本茂と[[アヴィ・アラッド]]が担当し、配給・共同出資は[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]が行う<ref>{{Cite web|日本語|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2023/231108.html|title=任天堂株式会社 ニュースリリース :2023年11月8日 - 「ゼルダの伝説」実写映画の企画開発開始のお知らせ|publisher=任天堂|accessdate=2023-11-09}}</ref>。 == ゲームシステム == ; 2Dゼルダ・3Dゼルダ : ゼルダの伝説シリーズは初代『ゼルダの伝説』『神々のトライフォース』『夢をみる島』『ふしぎの木の実』と2Dのトップビュー(俯瞰)型のゲームシステムを採用しており、「ゼルダの伝説=トップビューのゲーム」という図式が確立された<ref name="impress2004">{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040325/zelda.htm|title=「ゼルダの伝説」のフランチャイズの進化について “ゼルダらしさ”を損なわず、継承と変革を判断する|publisher=impress|accessdate=2015-12-01}}</ref>。 : 1998年発売の『時のオカリナ』はこれまでのトップビュー型のゲームシステムから転換し、[[NINTENDO64]]の機能を活かし3DCGのフィールドを三人称視点で操作する3Dアクションゲームとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol2/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』オリジナルスタッフ 篇 その1|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref><ref name="oca3d2-3">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol2/index3.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』オリジナルスタッフ 篇 その1|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref>。これまでのゲーム性を損なわない立体表現による臨場感や謎解き、3D空間でのスムーズな剣アクションを実現した<ref name="impress2004"/><ref name="catalog">{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=創造の足跡 ゲームカタログ|publisher=任天堂/小学館|pages=233-237}}</ref>。 : このほかサイドビューによる横スクロールアクション(『リンクの冒険』)、シューティングゲーム(『リンクのボウガントレーニング』)などもリリースされている<ref name="catalog"/>。 ; アクション : 武器による攻撃やアイテムの使用など豊富なアクションが可能となっている。3Dになった『時のオカリナ』では「タテ斬り」「ヨコ斬り」「ジャンプ斬り」といった剣術も追加され<ref name="mujyura_perfect">{{Cite book|和書|title=ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D パーフェクトガイド|publisher=ファミ通|isbn=9784047302846}}</ref>、『風のタクト』や『トワイライトプリンセス』ではタイミングよく攻撃することで大技を繰り出すことができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/bczj/action/movie01.html|title=リンクのアクション|アクション・謎解き|ゼルダの伝説 風のタクト HD|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/azaj/action/index.html|title=ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD:多彩なアクション|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。また、『スカイウォードソード』では[[Wiiリモコンプラス]]による操作でより直感的なアクションが可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/souj/action/index.html|title=ゼルダの伝説 スカイウォードソード:Wiiリモコンプラスを使った操作|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。 :; 注目システム :: 『時のオカリナ』以降の3D作品で搭載されている、ボタンを押すことで敵や人物などを自動でロックオンできるシステム。『時のオカリナ』と『ムジュラの仮面』の際は、Zトリガーボタンを押すことから「'''Z注目システム'''」と呼ばれた<ref name="oca3d2-3" />。 ; 謎解き・アイテム : ゼルダの伝説シリーズでは、基本的にダンジョンで謎解き用のアイテムを入手し、それを使ってダンジョンを攻略していく[[ゲームデザイン]]がなされている<ref name="kamitora2_1-6">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/bzlj/vol1/index6.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 神々のトライフォース2』|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。『風のタクト』ではリンクの目の動きから謎解きのヒントを得たり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gzlj/gaiyo/nazotoki/|title=ゼルダの伝説 風のタクト:謎解き|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>、『スカイウォードソード』ではWiiリモコンプラスを使ってアイテム操作したり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/souj/vol1/index3.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/souj/action/action_04.html|title=ゼルダの伝説 スカイウォードソード:Wiiリモコンプラスを使った操作|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>するなど、謎解きの方法は作品ごとにも特徴がある。『神々のトライフォース2』ではこれまでのシリーズと異なり、謎解き用のアイテムを店で購入できるようになっている<ref name="kamitora2_dungeon">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/bzlj/dungeon/index.html|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース2:多彩なダンジョンを自由に冒険|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-24}}</ref>。 ; 高難易度モード : 一部の作品では高難易度モードとして「'''裏ゼルダ'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/bkij/vol2/index6.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 大地の汽笛』 携帯機ゼルダの歴史 篇 [番外編2] 『裏ゼルダ』の裏話|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-24}}</ref>や「'''辛口モード'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/ZeldaOfficialJP/status/696881418660499456/|title=【トワプリHD】…マロだ。「辛口モード」では左右反転の世界になる…受けるダメージも2倍だ…|publisher=[[Twitter]]|accessdate=2016-6-24}}</ref>、「'''マスターモード'''」が搭載されている。「裏ゼルダ」は「表」とダンジョンの構造や謎解き要素が全く異なり、「辛口モード」では被ダメージが2倍になるなどの厳しい条件でプレイすることになる。 ; グラフィック : 『風のタクト』以降、特に3Dゼルダは様々なグラフィックでリリースされており、『風のタクト』では[[トゥーンレンダリング]]を用いたアニメ調のグラフィック<ref name="takuto_anime"/>、『トワイライトプリンセス』ではキャラクターの頭身が上がったリアルなグラフィックとなり<ref name="catalog"/>、『スカイウォードソード』はトゥーンレンダリングの技法を部分的に使用したハーフトゥーンという技法でふんわりとした柔らかいグラフィックを実現している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/souj/vol7/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref>。特に『風のタクト』では「さわれるアニメーション」を謳い、チラシなどで大々的に宣伝されていた<ref name="mujyura_perfect"/>。 ; 音楽 : 初代『ゼルダの伝説』の音楽や効果音は当時入社2年目の[[近藤浩治]]が制作を担当<ref name="oca3d1-1">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol1/|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』サウンド 篇|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。以後も近藤はゼルダの音楽に携わり、制作・監修などを行っている<ref name="Nindori238">{{Cite book|和書|author=ニンテンドードリーム|title=ニンテンドードリームvol.238 ゼルダの伝説神々のトライフォース2|publisher=徳間書店|pages=32-37}}</ref><ref name="nom0301-2">{{Cite web|和書|url=http://www.nintendo.co.jp/nom/0301/sound/|title=いま、新たなる伝説のはじまり『ゼルダの伝説 風のタクト』大特集 2.ゼルダと音の世界 〜サウンドチームインタビュー〜|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。ゲーム内で使われる謎解きの際の効果音と宝箱を開けた際の効果音はシリーズを通して大きく変えること無く使用され続けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/bkij/vol1/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 大地の汽笛』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref>。また、『トワイライトプリンセス』以降の作品では[[オーケストラ]]音源がたびたび用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/souj/vol6/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref>。 : ゼルダシリーズの音楽は、「ゲーム音楽」ならではの新しいアプローチが成されるのも特徴である。『時のオカリナ』ではハイラル平原のBGMの展開が毎回変わる<ref name="oca3d1-1" />、敵と戦う際にシームレスで戦闘曲に切り替わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol1/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』サウンド 篇|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-24}}</ref>、『風のタクト』では攻撃ヒット時に曲のコード進行にあわせた音階の[[トゥッティ]]音が鳴る<ref name="nom0301-2" />、敵と光弾を打ち合う際にBGMが半音ずつ上がる<ref name="nom0301-2" />といった試みが行われている。こうした取り組みについて近藤浩治は「ゲームが他のメディアと違うのは、リアルタイムに反応があるということ。このインタラクティブ性を生かしたサウンド作りをする、サウンドのアイデアを盛り込むことが一番重要だと考えている」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20070308/kondo.htm|title=任天堂の近藤浩治氏、「マリオ」、「ゼルダ」のサウンドを語る。インタラクティブなゲーム音楽を作る多彩な手法|publisher=GAME Watch|date=2007-3-8|accessdate=2016-6-24}}</ref>。 ; 通信 : ゼルダの伝説シリーズは基本的にひとりで遊ぶ作品が多いが、『トライフォース3銃士』『4つの剣』などはマルチプレイを前提としたシステムとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=5mvDKuk-Zmk|title=青沼英二が解説する「ゼルダの伝説 トライフォース3銃士」|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-05}}</ref>。そのほか『ふしぎの木の実』のリンクシステム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/az7jaz8j/linksys/|title=ゼルダの伝説 ふしぎの木の実/「リンクシステム」の全容!|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-05}}</ref>、『4つの剣+』のコネクティビティ(ゲームキューブと[[ゲームボーイアドバンス]]の通信)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/0403/12/index.html|title=1-2 駆け込み大改変? 開発スタッフインタビュー|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-05}}</ref>、『夢幻の砂時計』の[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]に対応した通信対戦や[[すれちがい通信]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/azej/play/|title=ゼルダの伝説 夢幻の砂時計:2人でプレイ|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-05}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/azej/ship/index.html|title=ゼルダの伝説 夢幻の砂時計:船の改造|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-05}}</ref>など様々な形で通信要素が取り入れられている。 ; ゼルダらしさ : ゼルダの伝説シリーズの開発者インタビューなどで頻出する文言で<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/bkij/vol1/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 大地の汽笛』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-03}}</ref>、おおむね初代から受け継がれるシリーズの伝統システムや空気感を指すが、言語化されているわけではなくその定義については各々の関係者で考え方が違っている。例として『トワイライトプリンセス』発売時のインタビューで宮本茂は 「お客さんをバカにしてないこと」だとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/06.html|title=社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-03}}</ref>。任天堂元社長の[[岩田聡]]は「人の数だけゼルダらしさの定義はあり、それが少しずつ重なり合い最終的にまとまる。さらに言えば言語化されていない定義じゃないことこそがゼルダが豊かである理由」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/|title=社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-03}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol1/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』サウンド 篇|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-03}}</ref>。また、プロデューサーの青沼によるとゼルダは最終的には宮本がプロデュースを行う図式になっており、些細な演出などに「宮本チェック(通称・[[ちゃぶ台返し]])」という確認作業が挿入されるとしている。チェックする部分はゲームにとって些細ではあるが、それらの積み重ねで「ゼルダらしさ」は構築されているという<ref name="impress2004"/>。 ; ゼルダのアタリマエ : 2013年1月23日に放映された「[[Nintendo Direct]]」の中で、プロデューサーの[[青沼英二]]により、今後のゼルダシリーズについて「'''ゼルダのアタリマエを見直す'''」(英:rethink the conventions of Zelda)という開発方針が示された。映像では、見直すべき「'''ゼルダのアタリマエ'''」の例として「シナリオに沿って進める」「順番にダンジョンを攻略する」「一人で黙々と遊ぶ」の3つが挙げられた。取り組みの一環として、2013年発売の『神々のトライフォース2』では物語後半のダンジョンを<ref name="kamitora2_dungeon" /><ref name="kamitora2_1-6" />、2017年発売の『ブレスオブザワイルド』ではほぼ全てのダンジョンを順不同で攻略できるシステムになっている。 == 評価・売上 == ; 売上 : ゼルダの伝説シリーズの世界累計売上本数は2023年時点で1億3,000万本に達している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2023/230517.html|title=Nintendo Switch向けソフト『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』の世界販売本数が発売後3日間で1,000万本を突破|accessdate=2023-05-17|publisher=任天堂}}</ref>。 ; 評価 : ゲーム内容の評価として『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]』『[[ゼルダの伝説 風のタクト|風のタクト]]』『[[ゼルダの伝説 スカイウォードソード|スカイウォードソード]]』『[[ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド|ブレスオブザワイルド]]』『[[ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム|ティアーズオブザキングダム]]』は週刊[[ファミ通]]クロスレビューで満点の40点を獲得しているほか<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/game/dendo/2002/12/11/238,1039602580,9414,0,0.html|title=週刊ファミ通12月27日号新作ゲームクロスレビューより |publisher=ファミ通.com|accessdate=2015-12-01}}<br />{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=8345|title=ゼルダの伝説 スカイウォードソード まとめ Wii ファミ通.com|publisher=ファミ通.com|accessdate=2015-12-01}}<br />{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=676|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ まとめ NINTENDO64 ファミ通.com|publisher=ファミ通.com|accessdate=2015-12-01}}</ref><ref>ファミ通 2023年6月1日号 No.1798 p.163</ref>、ニンテンドー3DSとWii Uでは2015年2月時点で『時のオカリナ3D』『[[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面|ムジュラの仮面3D]]』『[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース2|神々のトライフォース2]]』『風のタクトHD』が[[Metacritic]]においてメタスコア85以上・ユーザースコア8.5以上という評価を得ている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/150217/03.html|title=2015年2月17日(火)第3四半期決算説明会|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。また、『スカイウォードソード』は海外の辛口メディアにも最高傑作との評価が得られたという<ref name="ss8-1" />。 : 一方でプロデューサーの[[青沼英二]]によればネガティブな評価も少なくなく、『時のオカリナ』から絵柄を大きく変えた『風のタクト』では絵の好き嫌いで評価が分かれたと振り返っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0703/09/news111.html|title=人は痛い思いが身に染みなくては、本質に近づけない――「ゼルダ」シリーズの青沼英二氏講演リポート(1/3)|publisher=ITmedia +D Games|accessdate=2015-12-06}}</ref>。しかし時間が経つとそのネガティブな意見を見直し評価が高まっていく傾向があるといい、Nintendo of America(任天堂の米国法人)の{{仮リンク|ビル・トリネン|en|Bill Trinen}}はこれを「'''ゼルダ・サイクル'''」と呼んでいる<ref name="takuto_anime">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/bczj/vol1/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 風のタクト HD』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。 == タイトルロゴ == 日本版のタイトルロゴは、初代『ゼルダの伝説』から『BSゼルダの伝説 古代の石盤』まで(『リンクの冒険』を除く)、「ゼルダの伝説」の文字をかたどったほぼ同じ[[ロゴタイプ]]が用いられていた。 日本国外版では、『The Legend of Zelda: A Link to the Past』(『[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース|神々のトライフォース]]』)の際に「Z」の文字が大きめに描かれたロゴタイプが採用され、以降、このデザインが最新の作品まで引き継がれている。 日本版『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]』では当初、従来と同様のロゴタイプを制作していたが{{要出典|date=2017年4月}}、最終的に日本国外版と同じロゴが採用された。これ以降、『[[トワイライトプリンセスHD]]』まで全世界でほぼ共通のロゴが用いられるようになった(『[[夢をみる島DX]]』を除く)。 『[[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面|ムジュラの仮面]]』以降の作品では、ロゴの周りや背景に作品を象徴するイラストが配されている。 『[[ゼルダの伝説 風のタクト|風のタクト]]』などでは『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]』以前の「ゼルダの伝説」のロゴタイプを小さく併記している。一方で『[[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス|トワイライトプリンセス]]』などでは日本語タイトルの表記が無く、日本国外版のロゴタイプと全く同じものになっている。 『[[ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド|ブレス オブ ザ ワイルド]]』以降の日本版作品の一部では初代のロゴタイプを踏襲したデザインに回帰し、「ゼルダの伝説」の文字の下に英題が小さめに併記されている。 また「ゼルダの伝説」の文字をかたどった[[ロゴタイプ]]が用いられた作品の内、初代『[[ゼルダの伝説]]』と、初代のロゴタイプを踏襲した『[[ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド|ブレス オブ ザ ワイルド]]』などでは「ダ」の下部分が伸びている。 == キャラクター == ※同名キャラクターが複数作品に登場しているが、一部を除き同一人物ではなく、作品ごとに設定が異なる。 ; [[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]] : 主人公<ref name="nn-1"/>。世界の危機を救うべく冒険を繰り広げる。一部作品のリンクは「〇〇の勇者」(例:『時のオカリナ』のリンクは「時の勇者」)の異名で呼ばれることがある。 :; トゥーンリンク :: いわゆるネコ目で、コミック調の絵柄のリンク<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.smashbros.com/wii/jp/characters/hidden11.html|title=スマブラ拳!!|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130627014439/http://www.smashbros.com/wii/jp/characters/hidden11.html|archivedate=2013-06-27}}</ref>の通称。『風のタクト』が初登場で、以後携帯ゲーム機では主にこのリンクが採用されている<ref>{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=キャラクターデザインの変貌 リンク|publisher=任天堂/小学館|pages=228-229}}</ref>。 :: なお「トゥーンリンク」という名称は『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』に登場する際に命名されたものである。 ; [[ゼルダ (ゲームキャラクター)|ゼルダ]] : 主にハイラル王国の王女として登場。作品によって設定は違うが、物語の重要な役割を担うことが多い<ref name="sumaburaWiiU">[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U|大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U]] フィギュア説明文</ref>。その世界の平和の象徴のような存在で、作品によってはリンクと共に冒険するものもある<ref name="nn-1"/>。 ; [[ガノンドロフ]] : 『時のオカリナ』などに登場する大魔王。世界征服をもくろみ、リンクの最大の敵として待ち構える。『神々のトライフォース』の作中で名前のみ登場していたが、『時のオカリナ』で初めて姿が描かれた<ref name="historia_zenshi"/>。変身体である「ガノン」を含めほぼ全ての作品で同一の存在だが、『4つの剣+』のガノンドロフは以前のガノンドロフの生まれ変わりとされている<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|page=16|isbn=978-4198643782}}</ref>。 :; ガノン :: [[猪]]のような姿をした魔獣。ガノンドロフと同一の存在で、『時のオカリナ』ではガノンドロフが直接変身したほか、『神々のトライフォース』などでは闇の力などによってこの姿で復活している<ref name="historia_zenshi"/>。 ; エポナ : 『時のオカリナ』『ムジュラの仮面』『トワイライトプリンセス』に登場するリンクの愛馬<ref>{{Cite book|和書|title=任天堂公式ガイドブック ゼルダの伝説時のオカリナ|publisher=小学館|isbn=4091026605}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/rzdj/prologue/c.html|title=ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス プロローグ|accessdate=2012-12-04}}</ref>。性別は[[雌]]<ref name="oca3d2-5">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol2/index5.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』オリジナルスタッフ 篇 その1 (5/8)|publisher=任天堂|accessdate=2012-12-04}}</ref>。乗ることで移動速度が向上する。『トワイライトプリンセス』ではエポナに騎乗してボスと戦う「馬上戦」が行われる<ref name="historia_zenshi"/>。『ゼルダ無双』ではリンクの武器の一つとして登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda/character_link.html|title=ゼルダ無双|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|accessdate=2016-6-23}}</ref>。名前の由来は、[[ケルト神話]]や[[ローマ神話]]における[[馬]]の守護神で、豊饒の女神とも言われる「[[エポナ]]」(Epona)。『時のオカリナ』開発者の一人である[[小泉歓晃]]が命名した<ref name="oca3d2-5" />。 ; インパ : 初代『ゼルダの伝説』から近年の作品まで長きにわたり登場している女性。作品によって容姿は大きく異なるが、ゼルダの目付けや[[乳母]]という設定はおおよそ共通している。『時のオカリナ』では古よりハイラル王家に仕えるシーカー族の末裔とされ、『スカイウォードソード』では女神ハイリア([[#用語|後述]])に仕えている<ref name="historia_zenshi"/>。『ゼルダ無双』ではプレイアブルキャラとして登場し、ハイラル王国親衛隊長として戦う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda/character_impa.html|title=ゼルダ無双|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|accessdate=2016-6-23}}</ref>。名前の由来は伝承を意味する「Impart」<ref name="historia_miyamoto"/>。 ; ハイラル王 : ハイラル王国の[[君主]]。実際に登場するのは『風のタクト』、『神々のトライフォース』<ref>ゼルダの伝説 神々のトライフォース オープニング、エンディング</ref>、『ふしぎのぼうし』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/bzmj/bouken/storychara/ri/ri.html|title=冒険[物語&登場人物](リンクの旅立ち)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-03}}</ref>といった限られた作品で、『時のオカリナ』などでは存在のみ確認できる。『風のタクト』ではしゃべる船「赤獅子の王」として登場し、ガノンドロフを倒すためリンクを導く。『風のタクト』での本名はダフネス・ノハンセン・ハイラル<ref name="historia_zenshi"/>というように、作品ごとにフルネームが異なる。『ゼルダ無双』では「ハイラル王」(日本国外版では「King Daphnes」)の名前でプレイアブルキャラとして登場し、[[帆]]を武器に戦う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda-3ds/|title=ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|accessdate=2015-12-02}}</ref>。 ; [[チンクル]] : 緑色の[[全身タイツ]]を身に着け、妖精の生まれ変わりを自称する35歳独身男性。風船を使って宙に浮かんでいることが多い。初登場の『ムジュラの仮面』ではリンクに周辺地域の地図を売る。『風のタクト』と『ふしぎのぼうし』では兄弟が登場する。『[[もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド]]』などでは主役を務める。『ゼルダ無双』ではプレイアブルキャラとして登場し、[[風船]]を武器に戦う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda/update_0129.html|title=ゼルダ無双|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|accessdate=2016-7-23}}</ref>。 ; テリー : 様々な品物を取り扱う行商人。『風のタクト』以降の作品で度々登場する。片言の言葉で会話し、時に口の悪さも見せる。作品によっては船や気球に乗って世界を移動する。 ; 妖精 : リンクのパートナーとして登場する妖精。冒険のヒントや敵の弱点などを教えてくれる。『時のオカリナ』のナビィ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aqej/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D:リンクを導く妖精 ナビィ(登場人物→ナビィ)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>、『ムジュラの仮面』のチャット<ref name="mujyura_chara">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n01/n64/software/nus_p_nzsj/normal/chara/|title=キャラクターの紹介|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>、『夢幻の砂時計』のシエラ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/azej/story/|title=ゼルダの伝説 夢幻の砂時計:物語と登場人物|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>がいる。 ; 大妖精 : 『時のオカリナ』などに登場。強大な力を持つ妖精で<ref name="mujyura_perfect"/>、リンクの能力を上昇させる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gzlj/syosai/chara/page4.html|title=ゼルダの伝説 風のタクト:キャラクター page4|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。作品によって容姿は変わるが、『時のオカリナ』のものについて青沼は「一度見たら忘れられないキャラクター」と評している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol3/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』オリジナルスタッフ 篇 その2|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。『ゼルダ無双』では『時のオカリナ』などに近い姿で物語に登場するほか、リンクの武器の一つにもなっている。 ; コッコ : ハイラル王国の各地に生息する[[ニワトリ]]のような姿の鳥。『神々のトライフォース』以降、多くの作品に登場している。持ってジャンプすると滑空できるが、攻撃をすると大量に現れ反撃されてしまう。『トワイライトプリンセス』では反撃ではなくリンクと入れ替わって操作ができるようになる。『ふしぎの木の実』にはコッコ図鑑というアイテムもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://ohp.nintendo.co.jp/data/software/manual/man_qacj.pdf|title=ゼルダの伝説 ふしぎの木の実 大地の章(PDF)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>。派生種として、手乗りサイズのコッコ(『時のオカリナ』)、滑空能力に優れた金色のコッコ(『トワイライトプリンセス』)が存在するほか、『ゼルダ無双』では巨大なコッコがプレイアブルキャラとして登場する。 : ニワトリが採用された理由について宮本は「最初にニワトリを作ったので、そのまま活かした。ハイラル特有の動物を作る時間がなかった」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=げーむじん|authorlink=げーむじん|title=1999年2月号 vol.7 任天道場|publisher=[[ティーツー出版]]|pages=114-117}}</ref>。 ; フクロウ : 『夢をみる島』などに登場する巨大な[[フクロウ]]。リンクの行く先々に現れ、旅を導く<ref name="historia_zenshi"/>。『時のオカリナ』ではケポラ・ゲボラという名前で登場している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aqej/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D:リンクを導く巨大なフクロウ ケポラ・ゲボラ(登場人物→ケポラ・ゲボラ)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>。『スカイウォードソード』にはこのフクロウに似たゲポラという人物が登場する<ref name="sumaburaWiiU"/>。また、『ムジュラの仮面』ではフクロウの像が各地に設置されており「大翼の歌」を奏でるとその像の場所までワープできる<ref name="mujyura_perfect"/>。宮本によるとケポラ・ゲボラはリンクを見守る祖父のような役割であるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol5/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』宮本 茂 篇|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>。 ; スタルキッド : 『時のオカリナ』『ムジュラの仮面』『トワイライトプリンセス』に登場する小鬼。森に棲み、リンクに対して人懐っこい態度をとるが、時には戦うことになる。『ムジュラの仮面』では邪悪な力の宿る「ムジュラの仮面」に操られ、タルミナの世界に月を落下させて破滅に導こうとする。『ゼルダ無双』ではプレイアブルキャラとして「ムジュラの仮面」をかぶった姿で登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda-3ds/chara.htm|title=ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|accessdate=2016-6-23}}</ref>。また、クロスオーバー作品である『[[ケイデンス・オブ・ハイラル: クリプト・オブ・ネクロダンサー feat. ゼルダの伝説]]』のモードの一つ「仮面交響曲」では主人公となる。 ; グフー : 『4つの剣』『4つの剣+』『ふしぎのぼうし』に登場する魔神。ゼルダ姫を誘拐したり石化させたりする悪事を働くが、いずれも、「フォーソード」の力で4体に分かれたリンクによって倒される。『ふしぎのぼうし』では人間の姿で登場する。 == 民族・種族 == 複数のシリーズ作品に登場する民族・種族を記述する。 ; ハイリア人 : 女神ハイリアをルーツとする人々。ゼルダやリンクなどが該当する<ref name="historia_zenshi"/>。耳が長いという特徴を持つが、これは「神の声を聞くため」とされている<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|page=10|isbn=978-4198643782}}</ref>。 ; ゲルド族 : 砂漠地帯に住む女ばかりの一族。『時のオカリナ』では100年に1度だけ生まれる男が王になるしきたりがあり、ガノンドロフがその王として君臨する。『ブレス オブ ザ ワイルド』では男の侵入を禁じる「ゲルドの街」を形成している。浅黒い肌と鋭利な鼻が特徴<ref>{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=創造の足跡 アートワーク25年の記録|publisher=任天堂/小学館|pages=137-227}}</ref>。 ; シーカー族 : 太古に女神ハイリアに仕えていたとされる一族。ハイラル王国の建国後は王家を影から支えていた。『時のオカリナ』ではインパが一族唯一の生き残りとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aqej/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D:ゼルダ姫を優しく見守る乳母 インパ(登場人物→インパ)|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-26}}</ref>。『ブレス オブ ザ ワイルド』での伝承によると、古代のシーカー族は自らの意思で動く兵器を作るなど高い技術力を持っていたという。シリーズで頻出するカカリコ村はかつてシーカー族が隠れ里として作ったもので<ref name="historia_zenshi"/>、『トワイライトプリンセス』の「忘れられた里」もこれに該当する。 ; コキリ族 : 『時のオカリナ』に登場する、緑色の服を身につけた子供のような姿の種族。「コキリの森」に住み、それぞれ相棒の妖精をひとり連れている。森の外に出ることはできず、出ると死んでしまう。元々はハイリア人がルーツで、文明を築いたハイリア人から距離をとり森の中で独自の進化を重ねた者たちがコキリ族となった<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|page=46|isbn=978-4198643782}}</ref>。『風のタクト』の時代にはコキリ族は存在しないが、古のコキリ族の賢者・フォドが幽体で登場する。 ; [[ゾーラ族]] : 水と共に生きる[[魚類]]が進化した種族<ref name="mujyura_chara"/>。『ゼルダの伝説』等のシリーズでは敵として登場する。『時のオカリナ』以降の作品では、「ゾーラの里」で王政を敷き人間と共生していることが多い<ref name="Nindori238_bessatsu">{{Cite book|和書|author=ニンテンドードリーム|title=ニンテンドードリームvol.238 別冊 ZELDA ARTWORK COLLECTION2|publisher=[[徳間書店]]|pages=15-30}}</ref>。『ふしぎの木の実』では人間に友好的な「海ゾーラ」と好戦的な「川ゾーラ」の2種がおり同族扱いを嫌っている。ゾーラ族が存在しない『風のタクト』では、古のゾーラ族の賢者・ラルトが幽体で登場する。 ; [[ゴロン族]] : 岩のように硬い体を持つ屈強な種族<ref name="mujyura_perfect"/>。『時のオカリナ』以降、多くの作品に登場。主に火山地帯の「デスマウンテン」に住む<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/rzdj/character/people/p17.html|title=ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aqej/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D:男気あふれるゴロン族の長 ダルニア(登場人物→ダルニア)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。ゼルダシリーズの時系列で最も昔の時代とされる『スカイウォードソード』の時点で既に存在している。 ; デクナッツ族 : 『ムジュラの仮面』などに登場。植物のような姿をした種族。敵として登場することが多い。『ムジュラの仮面』ではウッドフォール地方で王国を築いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ajrj/world/|title=ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-29}}</ref>。 ; コログ族 : 顔に当たる部分が葉っぱのようになっている種族。動くたびにカラカラと乾いた音を鳴らす。主に森の中で暮らしているが、『ブレス オブ ザ ワイルド』と、『ティアーズ オブ キングダム』ではハイラル王国の各地に現れる。『風のタクト』ではコキリ族が進化した姿とされている<ref name="historia_zenshi"/>。 ; リト族 : 顔に嘴があり腕の部分が翼になっている種族。『風のタクト』では人間に近い姿、『ブレス オブ ザ ワイルド』では鳥に近い姿で登場する。『風のタクト』ではゾーラ族が進化した種族とされているが<ref name="historia_zenshi"/>、『ブレス オブ ザ ワイルド』ではゾーラ族と併存している。 == 用語 == ; [[トライフォース]] : 触れた者の願いを叶える神の力。3片の三角形の板が連なり大きな三角形を形成している。3片はそれぞれ「'''力'''」「'''知恵'''」「'''勇気'''」を司り、ガノン、ゼルダ、リンクがそれらの力を宿す運命にある<ref name="nn-1"/>。三柱の女神「ディン」「ネール」「フロル」が世界を創造した際に残され、女神ハイリアがそれを守る役目となっていた。トライフォースが創られた理由は不明<ref name="historia_ss">{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=ハイラル全史(スカイウォードソード)|publisher=任天堂/小学館|pages=70-77}}</ref>。 ; 女神ハイリア : 創生の時代よりトライフォースを守護していた女神。邪悪な存在を封じるため、後に人間へと[[転生]]する<ref name="historia_ss"/>。 ; ハイラル王国 : 多くの作品で舞台となる国。女神ハイリアの転生者である人間の子孫により建国された。ハイラル王家の紋章は女神ハイリアの紋章とトライフォースの形が組み合わさったデザインになっている<ref name="historia_ss"/>。 ; ハイリア文字 : ハイラル王国で用いられる文字。日本語の[[五十音]]または[[アルファベット]]と数字に対応しているが、作品により文字の形状が違うほか、同じ形状であっても時代により解釈が異なることがある<ref name="mujyura_perfect"/><ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|pages=72-73|isbn=978-4198643782}}</ref>。 == アイテム == ; 剣 : 敵を攻撃するための武器のひとつ<ref name="kamitora2_guide"/>。初期装備の剣よりも攻撃力が上がる「ホワイトソード」「マジカルソード」「金剛の剣」<ref name="mujyura_perfect"/>なども登場する。 :; [[マスターソード]] :: 大魔王を倒す力が宿る退魔の剣<ref name="Nindori237">{{Cite book|和書|author=ニンテンドードリーム|title=ニンテンドードリームvol.237 ゼルダの伝説神々のトライフォース2|publisher=[[徳間書店]]|pages=28-35}}</ref>。『神々のトライフォース』『時のオカリナ』など様々なシリーズ作品に登場する。マスターソードの誕生は『スカイウォードソード』で描かれ、剣の精霊・ファイが宿る「女神の剣」を女神たちの3つの炎で鍛え上げることで完成した。 :; フォーソード :: 『4つの剣』『4つの剣+』『ふしぎのぼうし』に登場する剣。使用者は4人に分裂するという特徴を持つ。グフーの封印にも用いられる。『ふしぎのぼうし』でリンクが集めた4つのエレメントによって誕生した<ref name="historia_zenshi"/>。 ; 盾 : 敵の攻撃を受け止める防具<ref name="kamitora2_guide"/>。ビームや炎が防げる「ハイリアの盾」<ref name="kamitora2_guide"/>、防御力が増加する「マジカルシールド」<ref name="z1manual">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/clv/manuals/ja/pdf/CLV-P-HAANJ.pdf|title=ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ 説明書 ゼルダの伝説|format=PDF|publisher=任天堂|accessdate=2017-8-7}}</ref>、光を反射する「ミラーシールド」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ajrj/action/|title=ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D|魔物と戦う、仕掛けを解く|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>などがある。 ; 服 : リンクが着る服。作品によって様々な種類があり、着替えると防御力の上昇や特殊能力などの効果が得られる<ref name="kamitora2_guide"/><ref name="kamitora_item">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_zel_sfc/vc_zel_sfc_03.html|title=VCゼルダの伝説〜神々のトライフォース〜|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>。『トライフォース3銃士』には36種類の服がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ea3j/costumes/index.html|title=ゼルダの伝説 トライフォース3銃士:服を着替えて能力変化|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-02}}</ref>。 ; 靴 : リンクが履く靴。ダッシュできるようになる「ペガサスの靴」<ref name="kamitora_item"/>、リンクの重量が増える「ヘビィブーツ」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n01/n64/software/zelda/ice/page02/|title=氷の洞窟/氷の洞窟で入手できるアイテム|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref>、履いていると一定時間空中を歩ける『ホバーブーツ』<ref name="tokioka_guide">{{Cite book|和書|title=任天堂公式ガイドブック ゼルダの伝説 時のオカリナ(アイテム大図鑑)|publisher=小学館|pages=147-153|isbn=4091026605}}</ref>などがある。 ; ルピー : ゼルダシリーズにおける[[通貨]]で、緑色は1ルピー、青色は5ルピーといった具合に色によって価値が異なる<ref name="kamitora2_guide"/>。作品によっては新たな[[財布|サイフ]]を入手することで所持金の上限を増やすことができる。例として『時のオカリナ』では「おとなのサイフ」で200ルピーまで「巨人のサイフ」で500ルピーまで増やせる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gzlj/qanda/|title=ゼルダの伝説 風のタクト:攻略Q&A|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref><ref name="tokioka_guide"/>。なお、[[インド]]などの通貨[[ルピー]]とは関係なく、[[ルビー]]のような宝石のイメージとして名付けられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/4c71577f-9ca2-11e6-9aaf-063b7ac45a6d|title=「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」発売記念インタビュー 第4回「ゼルダの伝説篇」|publisher=任天堂|date=2016-11-04|accessdate=2016-11-06}}</ref>。 ; ハート : 入手するとリンクのライフがハート1つ分回復する。店で売られていることもある<ref name="kamitora2_guide"/>。 ; ハートの器 : ボスを倒すと登場し、拾うとライフの最大値が1つ増える<ref name="sumaburaWiiU"/>。初代『ゼルダの伝説』では「ハートの[[水筒]]」という名前だった<ref name="z1manual"/>。 ; がんばりの器 : リンクがダッシュなどの行動をとる際などに消費される「がんばりゲージ」の最大値を上昇させる。 ; ハートのかけら : 集めるとハートの器になるアイテム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ambassador/pdf/man_pakj.pdf|title=ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし(PDF)|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-11}}</ref>。プログラム担当の[[中郷俊彦]]によると、ゲーム内のアイテム数を増やすためにハートの器を分割する案を考えたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol2/index6.html|title=社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-11}}</ref>。 ; まほうのツボ / がんばりツボ : まほうのツボは『時のオカリナ』、がんばりツボは『神々のトライフォース2』などに登場するアイテム<ref group="注">『スカイウォードソード』『ふしぎのぼうし』に空気を射出する「まほうのツボ」という同名のアイテムが登場するが無関係。</ref>。それぞれ、アイテムを使用する際に消費する「魔法力」もしくは「がんばりゲージ」を回復する<ref name="tokioka_guide"/><ref name="kamitora2_guide"/>。 ; ビン : 中に薬や虫など様々なものを入れて持ち運ぶことができる容器<ref name="kamitora2_guide"/>。 ; 妖精 : ツボや草むらなどの中から出現することがある。触れると体力が回復し、ビンに入れておくと体力が尽きた際に蘇生する<ref name="kamitora2_guide">{{Cite book|和書|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース 2: 任天堂公式ガイドブック|publisher=任天堂/小学館|isbn=9784091065292}}</ref>。妖精の泉で群れて飛んでいることも多い。蘇生時の体力回復数は作品によって異なる(『時のオカリナ』では全回復、『ムジュラの仮面』ではハート10個など)<ref name="tokioka_guide"/><ref name="mujyura_perfect"/>。 ; バクダン : 敵に攻撃をしたり壁を壊すためのアイテム。『時のオカリナ』などでは「'''ボム袋'''」に入れて持ち歩くことができ、ボム袋の大きさによって所持数も増やせる。自走型バクダン「'''ボムチュウ'''」など、様々な派生系もある<ref name="tokioka_guide"/><ref name="mugesuna_guide">{{Cite book|和書|title=任天堂公式ガイドブック ゼルダの伝説 夢幻の砂時計|publisher=小学館|pages=147-153|isbn=9784091063793}}</ref>。 ; 弓矢 : 敵に攻撃をしたり、遠くのスイッチを押すことができるアイテム。矢は使用すると減っていき、店や宝箱から補充できる。 ; ブーメラン : 敵に攻撃をしたり、遠くのアイテムを引き寄せることができる。 ; フックショット : 敵に攻撃をしたり、遠くの的に当てて的の側へ移動したりできる。 ; ダンジョンマップ : ダンジョンの作り、プレイヤーの現在位置等が表示される地図。 ; コンパス : 入手するとダンジョン内の宝箱やダンジョンボスの位置等がダンジョンマップに表示されるようになる。 == シリーズ一覧 == {{main|ゼルダの伝説シリーズの作品・関連作品の一覧}} <!--=== シリーズ ===--> <span style="background-color: #D5D8E1;">暗色行</span>のタイトルはリメイク作品。 {| Class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル!!発売日!!対応機種 |- |[[ゼルダの伝説]]||1986年2月21日||[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]<ref name="nom9811-1" /> |- |[[リンクの冒険]]||1987年1月14日||ファミリーコンピュータ ディスクシステム<ref name="dai">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9811/p04/page02.html|title=傑作の代名詞 歴代『ゼルダの伝説』紹介 Page-2|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース]]||1991年11月21日||[[スーパーファミコン]]<ref name="dai"/> |- |[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]||1993年6月6日||[[ゲームボーイ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/zlj/index.html|title=ゼルダの伝説 夢をみる島|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説1]]||1994年2月19日||[[ファミリーコンピュータ]]<ref name="nom9811-1" /> |- |[[BSゼルダの伝説]]||1995年8月6日||[[サテラビュー]]<ref name="mujyura_perfect"/> |- |[[BSゼルダの伝説 古代の石盤]]||1997年4月||サテラビュー |- |[[ゼルダの伝説 時のオカリナ]]||1998年11月21日||[[NINTENDO64]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n01/n64/software/zelda/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 夢をみる島DX]]||1998年12月12日||ゲームボーイ、[[ゲームボーイカラー]]共通<ref name="gblist">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/|title=ゲームボーイ|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/azlj/index.html|title=ゼルダの伝説 夢をみる島 DX|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面]]||2000年4月27日||[[NINTENDO64]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n01/n64/software/nus_p_nzsj/normal/index.html|title=ゼルダの伝説「ムジュラの仮面」|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_zelm/vc_zelm_01.html|title=VC ゼルダの伝説 ムジュラの仮面|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 ふしぎの木の実]]||2001年2月27日||ゲームボーイカラー<ref name="gblist"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/az7jaz8j/|title=ゼルダの伝説 ふしぎの木の実 〜大地の章〜 〜時空の章〜|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 風のタクト]]||2002年12月13日||[[ニンテンドーゲームキューブ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gzlj/|title=ゼルダの伝説 風のタクト|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣]]||2003年3月14日||[[ゲームボーイアドバンス]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/azlj/|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 4つの剣+]]||2004年3月18日||ニンテンドーゲームキューブ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/g4sj/|title=ゼルダの伝説 4つの剣+|publisher=任天堂|accessdate=2015-09-03}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし]]||2004年11月4日||ゲームボーイアドバンス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/bzmj/|title=ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし|publisher=任天堂|accessdate=2016-7-27}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス]]||2006年12月2日||ニンテンドーゲームキューブ、[[Wii]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/gz2j/|title=ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス(Wii版とGC版の違いについて)|publisher=任天堂|accessdate=2015-09-03}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 夢幻の砂時計]]||2007年6月23日||[[ニンテンドーDS]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/azej/index.html|title=ゼルダの伝説 夢幻の砂時計|publisher=任天堂|accessdate=2015-01-26}}</ref> |- |[[リンクのボウガントレーニング]]||2008年5月1日||Wii<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/rzpj/index.html|title=リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー|accessdate=2015-12-20}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 大地の汽笛]]||2009年12月23日||ニンテンドーDS<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/bkij/|title=ゼルダの伝説 大地の汽笛|publisher=任天堂|accessdate=2015-09-03}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 時のオカリナ#ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D|ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D]]||2011年6月16日||[[ニンテンドー3DS]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aqej/|title=ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D|publisher=任天堂|accessdate=2016-04-27}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣#ゼルダの伝説 4つの剣 25周年記念エディション|ゼルダの伝説 4つの剣 25周年記念エディション]]||2011年9月28日<br/>-2012年2月20日<br/>(配信限定・無料)||[[ニンテンドーDSiウェア]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/dsiware/kq9j/|title=ゼルダの伝説 4つの剣 25周年記念エディション|publisher=任天堂|accessdate=2016-8-3}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 スカイウォードソード]]||2011年11月23日||Wii<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/souj/index.html|title=ゼルダの伝説 スカイウォードソード|publisher=任天堂|accessdate=2015-01-26}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 風のタクト#ゼルダの伝説 風のタクト HD|ゼルダの伝説 風のタクト HD]]||2013年9月26日||[[Wii U]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/bczj/|title=ゼルダの伝説 風のタクト HD|publisher=任天堂|accessdate=2015-01-26}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース2]]||2013年12月26日||ニンテンドー3DS<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/bzlj/index.html|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース2|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-04}}</ref> |- |[[ゼルダ無双]]||2014年8月14日||Wii U<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda/|title=ゼルダ無双|accessdate=2015-12-20}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D#ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D|ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D]]||2015年2月14日||ニンテンドー3DS<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ajrj/index.html|title=ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D|publisher=任天堂|accessdate=2015-01-26}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 トライフォース3銃士]]||2015年10月22日||ニンテンドー3DS<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/ea3j/index.html|title=ゼルダの伝説 トライフォース3銃士|publisher=任天堂|accessdate=2015-09-03}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダ無双#ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ|ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ]]||2016年1月21日||ニンテンドー3DS<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda-3ds/|title=ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ|accessdate=2016-12-20}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス#ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD|ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD]]||2016年3月10日||Wii U<ref name="Twilight Princess HD">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/azaj/|title=ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD|publisher=任天堂|accessdate=2016-06-23}}</ref> |- |[[ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド]]||2017年3月3日||Wii U、[[Nintendo Switch]]<ref name="BW">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/zelda/index.html|title=ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-21}}</ref> |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダ無双#ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ DX|ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ DX]]||2018年3月22日||Nintendo Switch<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamecity.ne.jp/zelda-sw/|title=ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ DX|publisher=任天堂|accessdate=2019-06-12}}</ref> |- |[[ケイデンス・オブ・ハイラル: クリプト・オブ・ネクロダンサー feat. ゼルダの伝説]]||2019年6月14日||Nintendo Switch |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 夢をみる島#ゼルダの伝説 夢をみる島(Nintendo Switch版)|ゼルダの伝説 夢をみる島]]||2019年9月20日||Nintendo Switch |- |[[ゼルダ無双 厄災の黙示録]]||2020年11月20日||Nintendo Switch |- |- style="background-color:#D5D8E1" |[[ゼルダの伝説 スカイウォードソード|ゼルダの伝説 スカイウォードソード HD]]||2021年7月16日||Nintendo Switch |- |[[ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム]]||2023年5月12日||Nintendo Switch |} == 時系列 == {{複数の問題|section=1|出典の明記=2015年1月|独自研究=2015年1月}}{{ページ番号|section=1|date=2015年1月}} 本項では、ゼルダシリーズの設定資料集『'''任天堂公式ガイドブック ハイラル・ヒストリア ゼルダの伝説大全'''』(2011年 [[小学館]] ISBN 978-4092271593 以下『'''ハイラル・ヒストリア'''』)と『'''ゼルダの伝説 30周年記念書籍 第2集 THE LEGEND OF ZELDA HYRULE ENCYCLOPEDIA :ゼルダの伝説 ハイラル百科'''』(2017年 [[徳間書店]] ISBN 978-4198643782 以下『'''ハイラル百科'''』)に記載された内容を中心に、シリーズ公式サイト「'''[https://www.nintendo.co.jp/character/zelda/index.html ゼルダの伝説ポータル]'''」や出版物等での開発者の発言により明かされた歴史と、ゼルダ史におけるシリーズの大まかな順を記載する。 ; 前提<ref>{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=ハイラル全史(歴史を読み解く前に)|publisher=任天堂/小学館|pages=68-69}}</ref> * 主人公の名前は「リンク」で統一する。 * 解説するものは発売済みのゲームのものであり、矛盾点や今後変化する場合もある。 * 一部スピンオフ作品は含まない。 * 『時のオカリナ』のあとの時間軸は「リンクがガノンドロフに敗北した時間軸」、「リンクがガノンドロフを倒した時間軸」、「リンクが子供時代に戻った時間軸」の3つに分かれる。 * 『ブレス オブ ザ ワイルド』『ティアーズ オブ ザ キングダム』はどの時系列に含まれるのか明らかになっていない{{Refnest|group="注"|2017年4月のインタビュー記事<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201704/21130695.html?page=2|title=『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』祠の解法は3つ以上!? DLC&新作も聞く、アタリマエを超えた驚異の作品作りに迫る開発者インタビュー【後編】(2/2)|publisher=ファミ通.com|date=2017-4-21|accessdate=2018-2-18}}</ref>では、時系列の「最後」としながらもどの時系列に属するかは明言されず、2017年12月発売の設定資料集『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド:マスターワークス』([[徳間書店]] ISBN 978-4198645397)でも明記されていない。また、「ゼルダの伝説ポータル」で2018年8月1日に公開された系図では、『ブレス オブ ザ ワイルド』がどの時間軸にも属していない状態で記載されている。一方、続編の『ティアーズ オブ ザ キングダム』は「敗北した時間軸」の出来事とされる「封印戦争」を扱っているためここに含まれる可能性があるが、時系列の明言はされておらず、「ゼルダの伝説ポータル」でも前作と同じくどの時間軸にも属していない状態となっている。}}。同作劇中で判明しているのはガノンが1万年以上時間経過を経て語り継がれている<ref>「1万年」をスカイウォードソードまで含めた場合は、更に時系列を特定するのは困難になっている。</ref>という縦時系列での説明のみ。 === 時の勇者リンクが現れるまでの時代 === ; 創世の時代 : 『時のオカリナ』『神々のトライフォース』などで語られるゼルダの世界の創造にまつわる神話<ref>{{Cite book|和書|author=ハイラルヒストリア|title=ハイラル全史(天地創造)|publisher=任天堂/小学館|page=70}}</ref>。 :* 遥か昔、「力の女神・ディン」が大地を、「知恵の女神・ネール」が秩序を、「勇気の女神・フロル」があらゆる生き物を創造し、世界が生まれた。 :* 3人の女神はどんな願いでも叶える'''[[トライフォース]]'''を残し、世界から去った。 :* 創造された世界とトライフォースは'''女神ハイリア'''が見守ることになる。 ; [[ゼルダの伝説 スカイウォードソード|スカイウォードソード]]([[Wii]]/[[Nintendo Switch|Switch]]) : ハイラル史の始まりの物語である。遥か昔、世界を創造した三大神は万能の力「トライフォース」を残し、以降、それらは大地と共に女神ハイリアが守護してきた。時代は下り、地上ではトライフォースを得るために邪悪なる存在が魔族を率い、激しい殺戮が行われていた。そこで女神は生き残った人間と大地を空に浮かべ、命をかけて邪悪なる存在を封印した。しかし女神の力をもってしても完全な封印は出来ず、長くは保たないことを悟った女神ハイリアはトライフォースを使って邪悪なる存在を完全に消滅させることを決意。トライフォースは神の姿では扱えないため、ハイリアは神の身を捨て、人間へと転生した。 : 時は流れ、空に浮かぶ島「スカイロフト」では、ある日、島で暮らす女性・ゼルダが巨大な竜巻に飲まれ大地へと落下してしまう事件が発生する。ゼルダの幼馴染である青年リンクは、ゼルダを捜すべく、島に眠る聖剣「女神の剣」を手に取り冒険へと向かう。一方ゼルダは、封印の地と呼ばれる場所に降り立っていた。そこで出会った老婆から自らに課せられた運命について聞かされたゼルダは、その運命に従って過去の世界へと渡り、邪悪なる存在である魔族の王を封印し続けるために封印の神殿で永い眠りにつく。 : リンクは女神の剣を鍛え上げて完成した「マスターソード」を携え、トライフォースの力で邪悪なる存在を消滅させる。封印の役目を終えたゼルダは永い眠りから目を覚ましリンクと再会する。王の現世での復活の野望を断たれた魔族長・ギラヒムは、ゼルダをさらって過去の世界へ向かい、ゼルダが秘める力を利用して魔族の王「終焉の者」の復活を果たすが、戦いの末にリンクはこれを倒し、マスターソードの力で封印した。 : 今作ではこれまで断片的にしか描かれてこなかった「マスターソードの誕生」「ゼルダのルーツ」「ハイラルの創世」に関するエピソードが明かされている。終盤で登場する「終焉の者」は以降の歴史で登場するガノンドロフと見た目が類似しており、トライフォースを欲する姿勢も見せ、最期を迎える際は後世での復活を示唆するような言葉を残している。また、他作品で使われている「フィローネ」「オルディン」「ラネール」といった地名も登場しており、『ハイラル・ヒストリア』では今作のゼルダの子孫が後のハイラル王家であると記載されている。 ; [[ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし|ふしぎのぼうし]]([[ゲームボーイアドバンス|GBA]]) : ハイラル建国から長い年月が経ったある時、ハイラルの地に魔物が現れ世界が闇に覆われようとしていた。すると天から小さな種族「ピッコル」が降り立ち人間の勇者に黄金の光と1本の剣を与えた。勇者はその光と剣を携えて魔物と戦い、魔物は剣によって大きな箱に封印された。以降、ピッコルがもたらした剣は魔物が封印された箱とともにハイラル王家の元で保管され、人々はピッコルへの感謝を示すために年に一度「ピッコル祭り」を開催するようになった。 : 時は流れ、人間の世界とピッコルの世界がつながるとされる100年の節目を迎えた。ピッコル祭りが例年になく盛大に行われる中、ハイラル王国のゼルダ姫は、幼馴染の少年リンクを誘い祭りに参加していた。一方、ハイラル城内で行われた恒例の武術大会ではグフーという名の男が優勝し表彰式が行われようとしていた。表彰式に現れたグフーだったが、突然、城内に安置されていたピッコルの剣を折って魔物を封印から開放し、更には強大な魔力を用いてゼルダを石に変えてしまう。リンクは、ハイラル王から、石化を解くためにはピッコルの剣が必要であること、そして折れたピッコルの剣の修復にはピッコルの力が必要であることを聞き、ピッコルを探す旅に出る。 : 旅の途中、リンクは緑色の帽子のような姿をした謎の生き物・エゼロと出会い行動を共にすることになる。旅が終盤に差し掛かった頃、エゼロはグフーとの関係について語り始める。エゼロとグフーは元々はピッコルであり、グフーは賢者であるエゼロに師事していた。グフーはピッコルでありながら人間が持つ悪しき感情に興味を抱いており、ある日、エゼロがつくった、被る者の願いを叶えるという「願いの帽子」を盗んでしまう。この帽子によりグフーは魔神の力を手に入れ、エゼロを帽子の姿に変えてしまったのだった。 : 冒険の末にピッコルの剣は修復され「フォーソード」として蘇り、リンクはこの剣を手にしてグフーと対峙する。グフーはゼルダから黄金の光「フォース」を奪って大魔神となるが、フォーソードを持つリンクによって倒される。戦いの後、願いの帽子の力で人々の石化の呪いが解け、荒廃していたハイラルが元に戻ったことを見届けると、エゼロはピッコルの世界へ帰っていった。 : エンディングでは、今回の物語が「リンクのはじめての冒険」とされている。 ; [[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣#4つの剣|4つの剣]](GBA) : 『ふしぎのぼうし』から時代が経過し、倒されたはずの魔神グフーが復活する。グフーは各地で若い娘をさらい我が物にしようとしていたが、そこに1人の少年が現れる。少年は手にした剣の力で体を4つに分裂させて戦いに臨み、最終的にその剣でグフーを封印した。封印に用いた剣「フォーソード」は、その後ハイラル王国の管理下で大切に祭られることになる。 : さらに時代は下り、封印に異変を感じたハイラル王国のゼルダ姫が知り合いのリンクとともにフォーソードの元を訪れると、すでに封印は解かれており、その場に潜んでいたグフーによりゼルダ姫がさらわれてしまう。リンクは伝承上の少年と同様にフォーソードを手に取って4人に分かれ冒険へ旅立つ。途中、3人の大妖精の力を借りてグフーの待つ風の宮殿へ辿り着き、リンクは再びグフーを封印してゼルダ姫を救出した。 ; [[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]([[NINTENDO64|N64]]/[[ニンテンドー3DS|3DS]]) : ハイラル王国が統一戦争の戦火に包まれていた頃、ひとりの女性が赤ん坊を連れてハイラル南部にあるコキリの森に逃げ込み、息を引き取った。それから時が経ち、成長した少年リンクは育ての親のデクの樹から自分の運命を告げられ、ゼルダ姫のもとへ旅立った。一方、ゲルドの大盗賊であったガノンドロフは、その知性を生かしてハイラル王家に取り入り、王の信頼を得る。しかしその真の目的は聖地に眠る「トライフォース」の入手とハイラルの支配であった。ガノンドロフの野心を察知したハイラル王家の幼き姫ゼルダは神のお告げにあったリンクと出会い、先にトライフォースを手に入れて野望を阻止する計画を伝える。リンクは各地を巡り、聖地へ入るために必要な3つの精霊石を探し出して、聖地への入り口となる時の神殿へ向かう。しかしこの時、ハイラル城ではガノンドロフがクーデターを起こしていた。 : リンクは時の神殿で封印を解き、中に安置されていたマスターソードを抜いて聖地への扉を開く。しかし、隙を突いてガノンドロフが聖地に侵入し「力のトライフォース」を強奪、ガノンドロフは大魔王となり、ハイラル全土を支配していった。一方、マスターソードの力で7年の時を渡り「'''時の勇者'''」となったリンクは冒険の中で六賢者を覚醒させたのちにガノンドロフが待つガノン城へと向かい城の最上階でガノンドロフと対峙、死闘の末にこれを撃破する。敗れたガノンドロフは「力のトライフォース」の力を暴走させて巨大な魔物「ガノン」となるが、リンクによって再び倒され、ゼルダ姫と六賢者によって「力のトライフォース」ごと封印される。役目を終えたリンクはゼルダ姫の力によって本来の7年前の時代に戻り、マスターソードは時の神殿にて再び永い眠りにつく。 : 本作のエンディングでリンクが元の時代へ帰還した後、7年後の未来について元の時代のゼルダ姫に話した事により、以後の時間軸分岐が発生し<ref name="sekaisettei">{{Cite web|和書|url=http://www.nindori.com/interview/154zelda/index.html|title=青沼英二さんロングインタビュー|publisher=ニンドリドットコム(アーカイブ)|accessdate=2016-7-7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070127032000/http://www.nindori.com/interview/154zelda/index.html|archivedate=2007年1月27日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、ゼルダ史におけるターニングポイントとなっている。『ハイラル・ヒストリア』によると、以後の時間軸は作中での「'''時の勇者リンクが子供時代に戻った時間軸'''」「'''時の勇者リンクが魔王ガノンドロフを倒した時間軸'''」に加え、作中では語られない「'''時の勇者リンクが魔王ガノンドロフに敗北した時間軸'''」が存在する。この「敗北した時間軸」では、ガノンドロフが「力」のみならず「勇気」と「知恵」のトライフォースも手にして魔王ガノンとなったため、七賢者たちが最後の手段としてガノンを聖地ごと封印したとされる。 : 7年後の世界(魔王ガノンドロフを倒した時間軸)では、リンクが帰還する際、リンクに宿っていた「勇気のトライフォース」が解放され、後にハイラル王家の手により8分割されて管理される。一方で、本来の世界(子供時代に戻った時間軸)に帰還したリンクには勇気のトライフォースが宿ったままとなっている。このことが聖地のトライフォースに影響し、この時代のゼルダとガノンドロフにそれぞれ「知恵のトライフォース」「力のトライフォース」が宿る。帰還したリンクの勇気のトライフォースは、後の時代にあたる『トワイライトプリンセス』のリンクに継承されることになる<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|pages=7,9,15|isbn=978-4198643782}}</ref>。 === 時の勇者リンクが魔王ガノンドロフに敗北した時間軸 === ; [[ゼルダの伝説 神々のトライフォース|神々のトライフォース]]([[スーパーファミコン|SFC]]/GBA) / [[ゼルダの伝説 夢をみる島|夢をみる島]]([[ゲームボーイ|GB]]/[[ゲームボーイカラー|GBC]]/[[Nintendo Switch|Switch]]) / [[BSゼルダの伝説#BSゼルダの伝説 古代の石盤 |古代の石盤]]([[サテラビュー|BS]]) : 『時のオカリナ』で時の勇者リンクが敗れた後、賢者たちによって聖地はガノンごと封印されたが、これにより聖地の存在が人々に知れ渡ってしまう。欲深い人間がトライフォースを求めて聖地に向かったが、聖地は既にガノンにより「闇の世界」と化していた為、聖地から帰って来る者はいなかった。そうした中、徐々に悪しき力が湧き出ていることを懸念した当時のハイラル王は、七賢者とナイトの一族に聖地の完全封印を命じる。七賢者はガノンに対抗すべくマスターソードを扱える勇者を捜したが、その勇者が見つかる前にガノンの邪気が王宮を襲った為、急遽、聖地の封印に乗り出す。行軍の中では多くのナイトの一族が犠牲になったものの、七賢者は聖地の完全封印に成功した。 : 更に時代が下ったある時、ハイラル王国に謎の司祭・アグニムが現れる。アグニムはハイラル王に取り入り信頼を得ていたが、突如、国王を亡き者にして兵士たちを操り、ゼルダ姫を含めた七賢者の子孫の娘たちを捕えて生贄にしていった。最後のひとりとなったゼルダは、助けを求めてテレパシーを送る。それを受け取ったのが、ナイトの一族の末裔であるリンクであった。リンクは冒険の中でマスターソードを手に入れて「闇の世界」へ向かい、アグニムとガノンを撃破。その後、ガノンのもとにあったトライフォースに願いを込めて、ハイラルの地と犠牲者たちの命を蘇らせた。 : 大役を果たしたリンクは修行のため舟で海を巡る。その帰航中、舟が嵐に巻き込まれて遭難、この後にリンクが体験した出来事が『夢をみる島』である。 : リンクがハイラルを後にしてから6年後の話となる『古代の石盤』では、肉体を封じられ精神体のみとなったガノンが新たな力を得るために異世界から「若者」を召喚する<ref group="注">ここでの「若者」とは、リンクではなく、危機に瀕したハイラルに招かれたプレイヤー自身である。ゲーム画面ではサテラビューの受信用カセット「BS-X」にあらかじめ登録していた性別によって、「野球帽をかぶった少年」もしくは「ポニーテールの髪型をした赤毛の少女」の姿で表示された。</ref>。異世界の「若者」はリンクに代わって「光の勇者」となり、ガノンを倒して世界に平和を取り戻した後、異世界へと帰還する。 ; [[ゼルダの伝説 ふしぎの木の実|ふしぎの木の実]](GBC) : ハイラル王国を旅していた少年リンクは、導かれるようにハイラル城へと向かい、城内に安置されていた王国の秘宝トライフォースと対面する。トライフォースはリンクの勇気を試すべく、ハイラルとは別の世界「ホロドラム」と「ラブレンヌ」にリンクを転移させた。 : 転移先の地では、魔導士ツインローバが「滅びの炎」「嘆きの炎」「絶望の炎」を集めて大魔王ガノンを復活させようと目論んでいた。ツインローバは2人の配下・ゴルゴンとベランを使い、それぞれの地を守護する2人の巫女・ディンとネールを誘拐して、人々から「滅び」と「嘆き」の力を集めた。リンクはゴルゴンとベランを倒し巫女たちの救出に成功するが、「滅びの炎」「嘆きの炎」は完成してしまう。ツインローバは残りの「絶望の炎」の完成に向け、希望の象徴であるハイラル王国のゼルダ姫を誘拐し生贄にしようとするが、リンクが直前でこれを阻止する。ツインローバはやむを得ず自らの身を捧げ、不完全ながらもガノンが復活。戦いの末、ガノンはリンクに倒された。 : エンディングでは、空に浮かぶ3片のトライフォースが3羽の鳥に姿を変えている。後の『神々のトライフォース2』の時代でトライフォースが3つに分かれているのは、この鳥が方々に飛び去ったことが要因ではないかとされる<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|page=30|isbn=978-4198643782}}</ref>。 : 本作の発売当時に刊行された[[ゲーム雑誌]]『[[ニンテンドードリーム|64DREAM]]』([[毎日コミュニケーションズ]])では『神々のトライフォース』と『ふしぎの木の実』に登場するリンクが同一人物である旨が記載され、『ハイラル・ヒストリア』でも同様に説明された。しかし、後の『ハイラル百科』ではこれまでと異なる時系列が示されて別人扱いとなり、「ゼルダの伝説ポータル」でも同一との表記はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/zelda/link/index.html|title=LINK|ゼルダの伝説ポータル|publisher=任天堂|accessdate=2017-5-16}}</ref>。 ; [[ゼルダの伝説 神々のトライフォース2|神々のトライフォース2]](3DS) / [[ゼルダの伝説 トライフォース3銃士|トライフォース3銃士]](3DS)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2015/10/25/92379.html|title=『トライフォース3銃士』の舞台は『神トラ』と同じ世界...米任天堂が明かす|publisher=インサイド|accessdate=2015-11-25}}(見出しの『神トラ』は『神トラ2』の誤り)</ref> : 『神々のトライフォース』の世界からはるか未来の物語とされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/bzlj/prologue/|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース2:あの冒険のはるか未来の物語|publisher=任天堂|accessdate=2016-02-09}}</ref>、地形などにも共通点が見られる。 : ハイラルと似て非なる対の世界「ロウラル」にはかつてハイラルと同様にトライフォースが存在していた。しかしその万能の力を欲する者たちの争いが絶えず、ロウラル王家は事態の収拾のためにトライフォースを破壊する。ところが、世界の基盤であったトライフォースを失ったことでロウラルは崩壊を続ける闇の世界となってしまった。 : それから時代が下ったある時、ロウラル王国を統治する王女・ヒルダは、王国の復興のためハイラルにあるトライフォースを奪おうと画策、王国の司祭・ユガをハイラルに派遣し強奪を図る。ユガはハイラルの七賢者とハイラル王国の王女・ゼルダを絵画に封じたのち、力のトライフォースを宿す魔王ガノンを召喚し融合する。一方ヒルダはハイラルの住人であるリンクを導いて七賢者を解放させ、勇気のトライフォースを目覚めさせる。その後リンクが向かったロウラル城でヒルダはゼルダに宿っていた知恵のトライフォースを奪い取るが、直後にユガがヒルダを裏切って力と知恵の2つのトライフォースを手にし強大な力を得る。リンクはゼルダより与えられた神器「光の弓矢」を用いてこれに対抗し、ユガを撃破した。 : トライフォース強奪に失敗したヒルダはロウラルの崩壊を受け入れる。一方、ハイラルに帰還したゼルダとリンクは取り戻したトライフォースに願いを込めた。すると、失われていたロウラルのトライフォースが復活し、ロウラルに再び光が戻った。 : この出来事から数年後、リンクが旅の途中で訪れたドレース王国で魔女・シスターレディに呪いをかけられたフリル姫を助けるため、3人1組のチームを組んで冒険する物語が『トライフォース3銃士』である<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/ZeldaOfficialJP/status/689636821228126208|title=【トワプリHD】…マロだ。これはヒゲのオヤジが持ち込んだ珍品だが…|publisher=[[Twitter]]|accessdate=2016-8-4}}</ref>。 ; [[ゼルダの伝説]]([[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|FDS]]) / [[リンクの冒険]](FDS) : その昔、大国であった頃のハイラルはトライフォースを扱う素養を持つ王によって治められ、秩序を保っていた。その後、王が亡くなり息子の王子が次期国王に即位することになるが、父王とは違いトライフォースの力を不完全な形でしか受け継げなかった。王子が原因を探る中、側近の魔術師が知らせをもたらす。それによると、父王は死ぬ直前、王子の妹のゼルダ姫(初代ゼルダ姫)だけにトライフォースの秘密を教えたという。王子と魔術師はゼルダ姫を問い詰めるが姫は口を開かなかった。そうした中、苛立つ魔術師がかけた魔法により、ゼルダ姫はその場に崩れ落ちて永遠の眠りについてしまう。王子は悲しみ、この過ちを忘れぬよう、王家に生まれる姫には代々「ゼルダ」と名付けることを決めた<ref>以上、[https://www.nintendo.co.jp/clv/manuals/ja/pdf/CLV-P-HAASJ.pdf 『リンクの冒険』付属の説明書]に記載されたあらすじの伝承部分を要約。</ref>。その後、兄王は善政を敷いて国を治めるものの、トライフォースの力を失ったハイラルは秩序が薄れゆき、衰退の道を辿っていった。 : 『ゼルダの伝説』でのハイラルは、かつての大国ではなくハイラル地方の「小王国」となっていた。ハイラルにあるトライフォースは「力」と「知恵」の2枚のみでマスターソードも存在しない。大魔王ガノンは最初から封印されておらず、トライフォースを求めてハイラルに侵攻してきた。2枚のトライフォースのうち「力」はガノンに奪われるが、「知恵」はガノンに捕らえられる直前のゼルダ姫によって8つに分割され各地に隠された。一方、ガノンの元から逃れていたゼルダ姫の乳母インパは、魔物に襲われていたところを旅の途中であった少年リンクに助けられる。インパから事情を聞いたリンクは8つに分かれた「知恵のトライフォース」を集め、ガノンを退治して「力のトライフォース」を取り返し、ゼルダ姫を救出した。 : 『リンクの冒険』はそれから3年後が舞台。ガノン軍の残党が勇者リンクを生け贄にガノンの復活を企む中、リンクは永い眠りについている「初代ゼルダ姫」を目覚めさせるべく「勇気のトライフォース」を授かる試練に身を投じる。各地の神殿の封印を解き最後の試練に打ち勝ったリンクは見事「勇気のトライフォース」を獲得、初代ゼルダ姫は目を覚まし物語は幕を閉じる。 : 製品の[[キャッチコピー]]などでは今作が「'''リンクの最後の冒険'''」と銘打たれていた。 : 『ゼルダの伝説』『リンクの冒険』は『神々のトライフォース』より未来の時代とされているが、この時代のハイラル王国が『神々のトライフォース』のハイラル王国と同一であるかどうかは不明である。また、『リンクの冒険』に登場する街の名前は『時のオカリナ』の六賢者の名前として使用されている。 === 時の勇者リンクが子供時代に戻った時間軸 === ; [[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面|ムジュラの仮面]](N64/3DS) : 『時のオカリナ』で魔王ガノンドロフとの戦いを終えた時の勇者リンクは、7年前の本来の時代に戻った。リンクはゼルダ姫の元を訪れて未来で起こる出来事について話し、ガノンドロフの野望阻止のために聖地を開かないよう伝えた。話を聞いたゼルダ姫は、リンクに対し、ガノンドロフの手が届かないところへ逃げるように告げた。その後リンクは人目を忍びつつ、冒険の末に別離した相棒の妖精ナビィを探して愛馬のエポナと共に旅を続けていたが、ある森の中で謎の小鬼・スタルキッドに襲われ、3日後に月の落下で滅びる運命にある並行世界「タルミナ」に迷い込んでしまう。冒険の末に月の落下を阻止しタルミナを救ったリンクは、再び人知れず旅に出る。 ; [[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス|トワイライトプリンセス]]([[ニンテンドーゲームキューブ|GC]]/Wii/[[Wii U]]) / [[リンクのボウガントレーニング]](Wii) : 『時のオカリナ』でガノンを封印した後、時の勇者リンクが戻ってきた本来の時代(プレイヤー視点でいう「少年リンク側」の時間軸)から百数年後の話。『風のタクト』とは[[パラレルワールド]](別の時間軸)の関係にあたる<ref name="sekaisettei"/>。 : 戦いを終えて本来の時代に戻った時の勇者リンクはこの時代のゼルダ姫のもとへ行き、ガノンドロフの野望を未然に阻止するように手を打ってから旅に出た。その結果、ガノンドロフの聖地侵略の目論みは失敗に終わり、本来なら起こる筈だった「時の勇者と魔王の戦い」が起こらず歴史が変化した。それから数年後、ハイラルの六賢者たちによってガノンドロフの処刑が執行されることになった。しかし、その最中にガノンドロフが「神の力」を発動させて賢者の一人を殺害、賢者たちは咄嗟の判断により、かつて聖地侵略を図った一族を封印した世界「影の世界」へガノンドロフを追放する。 : ガノンドロフは影の世界で長い年月を経て怨念と化し、影の世界の王に仕える臣下・ザントに宿る。強大な力を得たザントは影の世界の住民を魔物に変え、影の世界の姫・ミドナの力を奪うと、光の世界のハイラル王国へ侵攻して王城のゼルダ姫を降伏させ、ハイラルの世界を影の領域へと変えていった。 : そうした中で、ハイラル南部の村に住む青年リンクは神の力に選ばれた勇者として目覚め、ミドナはザントの打倒と影の世界の救済のためにリンクと行動を共にする。冒険の末、リンクはミドナとゼルダ姫の協力を受けてザントとガノンドロフを倒し、ハイラルに光と平和を取り戻した。ガノンドロフは最後に「光と闇の戦いの始まりと思え」という言葉を残した。 : 今作の外伝的作品として『リンクのボウガントレーニング』がある。 : 本作に登場する金色の狼と骸骨の剣士は、時の勇者が死後に姿を変えたものである<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|pages=15,27|isbn=978-4198643782}}</ref>。また、『ハイラル・ヒストリア』では本作のリンクが時の勇者の子孫であるとされている。 : 上述した影の一族の祖先が聖地侵略を図った時期は『スカイウォードソード』と『ふしぎのぼうし』の間の時代にあたる<ref>{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|pages=6-7,26|isbn=978-4198643782}}</ref>。 ; [[ゼルダの伝説 4つの剣+|4つの剣+]](GC) : 『トワイライトプリンセス』でガノンドロフが倒されてから数百年後、ゲルド族とハイラル王国は親交を回復していった。しかし、新たに転生したガノンドロフが生まれ、村の掟を破って邪器「[[トライデント]]」を復活させる。その際に太古に封印された風の魔神グフーをも復活させ、封印の役目を持つ巫女やゼルダ姫がさらわれてしまう。リンクは安置されていたフォーソードを台座から抜いて体を4つに分け、冒険の旅に出る。最終的にリンクはフォーソードでグフーを倒し、ガノンドロフを封印した。 : 『ハイラル・ヒストリア』では、これがグフーの最期だと記載されている。一方のガノンドロフは、フォーソードに封印されながらも再び復活するような発言を残している。 === 時の勇者リンクが魔王ガノンドロフを倒した時間軸 === ; [[ゼルダの伝説 風のタクト|風のタクト]](GC/Wii U) / [[ゼルダの伝説 夢幻の砂時計|夢幻の砂時計]]([[ニンテンドーDS|DS]]) : 『時のオカリナ』でガノンが封印され、時の勇者リンクが去った世界(プレイヤー視点でいう「青年リンク側」の時間軸)の未来の話。『トワイライトプリンセス』とは[[パラレルワールド]](別の時間軸)の関係にあたる<ref name="sekaisettei"/>。 : かつて時の勇者によって封印された魔王ガノンドロフであったが、長い時を経て復活してしまう。民は再び時の勇者の登場を願ったがついに叶わず、ハイラル王国は滅亡へと向かう。民は全ての運命を神に委ね、願いを聞き入れた神はハイラルごとガノンドロフを封印し、王国は海の下に沈んだ。 : 滅亡の時から数百年が経過し、広大な海に点在する島では人々が穏やかな生活を送っていた。そうした島の1つ「プロロ島」に住む少年リンクは12歳の誕生日を迎え、かつて時の勇者が着ていたとされる服になぞらえた緑の衣を授かった。しかしその矢先、謎の怪鳥・ジークロックが島を強襲し妹のアリルがさらわれてしまう。リンクは先に出会った[[海賊]]団のリーダーの少女テトラに頼み込み妹の救出のため冒険の旅に出る。 : 旅を進める中で無事アリルを救出したリンクは、その後、現世に復活したガノンドロフと対決する。しかし、手にした退魔の剣・マスターソードでは傷一つ負わせることもできず、リンクはその場から撤退する。そうした中、かつてハイラル王国を治めていたハイラル王と出会う。ハイラル王の助言をもとに二人の賢者・マコレとメドリの力を受けマスターソードが真の力を取り戻すと、リンクはこの剣を持って再びガノンドロフと対峙。戦いではゼルダ姫として覚醒したテトラの支援を受け、最終的にリンクがガノンドロフの額にマスターソードを突き立てて、ガノンドロフはその場で石化する。戦いの後、王国で繰り返される争いの歴史を断ち切ろうとハイラル王が所願したトライフォースの力により、ガノンドロフとハイラル王は、ハイラル王国もろとも海の底へ消える。ハイラル王から未来を託されたリンクとテトラは、プロロ島への帰還後、島民へ別れを告げ新天地を求めて新たな旅へ出る。 : この新天地を求める航海の途中に起きた冒険譚が『夢幻の砂時計』である。 ; [[ゼルダの伝説 大地の汽笛|大地の汽笛]](DS) : 『風のタクト』と『夢幻の砂時計』のリンクやテトラたちは、無事に新天地に辿り着いた。そこにはかつて光の神が魔王マラドーの魂を封印した「神の塔」がそびえ、その塔から伸びる「神の線路」が大地に張り巡らされていた。リンクとテトラは、この地で封印を守護してきた種族・ロコモ族の理解を得て「新生ハイラル王国」を建国。人々は鉄道を用いて大地を行き交い、王国は繁栄を続けた。 : 建国から100年程の時が過ぎた頃、ハイラル王国では、地面に敷かれていた線路が次々と消える現象が発生していた。その原因を探ろうと王国のゼルダ姫は[[動力車操縦者|機関士]]の少年リンクが運転する汽車に乗って神の塔へ向かったが、その途上、魔王復活を目論む王国の大臣・キマロキに行く手を塞がれる。そこでゼルダはキマロキの魔術により肉体と魂を分離され、肉体が奪い去られてしまう。魂のみの存在となったゼルダは、その姿が見えるリンクと共に、ハイラルの平和とゼルダの肉体を取り戻す旅へ出る。 : 冒険の末にリンクとゼルダはキマロキの元へ辿り着くが、一足遅く、魔王マラドーはゼルダの肉体を[[依り代]]にして復活する。ただ、その復活は不完全なものであったため、完全復活を目指しキマロキと共にその場を離れる。リンクとゼルダは魔王マラドーたちが身を隠す闇の世界へ向かいマラドーを撃破、その魂はゼルダの肉体から排除され本来のゼルダの魂が宿る。行き場を失ったマラドーはキマロキの肉体を取り込み巨大な獣のような姿へ変貌するが、リンクとゼルダの共闘によってこれを打ち破り、ハイラルの地に平和が戻った。 : この『大地の汽笛』に登場するゼルダは、『風のタクト』と『夢幻の砂時計』のテトラの玄孫(5代目)にあたる。一方、テトラと共に冒険していたリンクに関しては、ゆかりの品は登場するものの、消息については語られていない。 === 時間軸不明 === ;[[ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド|ブレス オブ ザ ワイルド]] ([[Wii U]]/[[Nintendo Switch|Switch]]) : ハイラル王国は遙か昔の神話の時代から幾度となく魔王ガノンの厄災に見舞われ、その度に退魔の剣を持つ騎士と、聖なる力を持つ姫がガノンを封印するという繰り返しの歴史を辿ってきた。 1万年前、高度な技術文明を確立していたハイラル王国は、その技術をもってガノン封印の一助とすべく4体の巨大兵器「神獣」と自律無人兵器「ガーディアン」たちを製造し、退魔の剣を持つ勇者と姫の聖なる力でガノンを封印した。 : そして100年前、先の封印が伝説となりつつある頃、ハイラル王家に仕える占い師がガノンの復活を予言し、ハイラルの民は古代に作られた神獣とガーディアンを発掘・研究・運用し、王国の守りにあたらせ、退魔の剣を持つ騎士リンクと4体の神獣の繰り手である4人が英傑の任についてガノン討伐の準備をしていた。しかし、ガノンはハイラル城の地下に復活し、頼みの綱であった4体の神獣とほとんどのガーディアンの制御を乗っ取って支配下に置き、ハイラル王やリンク以外の4人の英傑をはじめとした多くのハイリア人が犠牲となってハイラル王国は滅亡した。生き残ったゼルダ姫は致命傷を負った騎士リンクを治癒するため彼を始まりの台地の回生の祠へ収容すると、自らの封印の力で厄災ガノンを抑えることを決意した。 : やがて、「大厄災」と呼ばれる災害から100年の時が流れ、目覚めを促す謎の声に呼応してリンクは長い眠りから目覚めるも、一切の記憶を失っていた。ハイラルの大地へ踏み出したリンクは、フードを被った老人と出会う。謎の声と老人の導きにより、リンクは厄災ガノン討伐とゼルダ救出のため冒険へと旅立ち、数々の記憶を取り戻しながら強くなってゆく。最後にガノンと戦うことになり、ゼルダの封印の力でガノンを封印する。 === 系図 === {{Familytree/start||style=font-size:80%}} {{Familytree |border=1| |||||||00| 00=【天地創造】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||ss| ss=[[ゼルダの伝説 スカイウォードソード|スカイウォードソード]]}} {{Familytree |border=1| |||||||01| 01=【マスターソード完成】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||02| 02=【聖地封印】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||03| 03=【ハイラル王国建国】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||mc| mc=[[ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし|ふしぎのぼうし]]}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||4s| 4s=[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣|4つの剣]]}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||||||04| 04=【ハイラル統一戦争】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| ||||||||!}} {{Familytree |border=1| |||,|-|-|-|ot| ot=[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]}} {{Familytree |border=1| |LS||||WN|-|-|-|-|.| LS=【時の勇者の敗北】|WN=【時の勇者の勝利】|boxstyle=background:#ddf}} {{Familytree |border=1| |||!||||CH|||||AD| CH=【子供時代】|AD=【大人時代】|boxstyle=background:#dfd}} {{Familytree |border=1| |05||||mm|||||!| 05=【封印戦争】|boxstyle_05=background:#ffc|mm=[[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面|ムジュラの仮面]]}} {{Familytree |border=1| |||!|||||!||||||06| 06=【ハイラル水没】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| |t1||||tp|||||!| t1=[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース|神々のトライフォース]]|tp=[[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス|トワイライトプリンセス]]|}} {{Familytree |border=1| |la|||||!||||||ww| la=[[ゼルダの伝説 夢をみる島|夢をみる島]]|ww=[[ゼルダの伝説 風のタクト|風のタクト]]}} {{Familytree |border=1| |||!||||4p|||||ph| 4p=[[ゼルダの伝説 4つの剣+|4つの剣+]]|ph=[[ゼルダの伝説 夢幻の砂時計|夢幻の砂時計]]}} {{Familytree |border=1| |or|||||||||||!| or=[[ゼルダの伝説 ふしぎの木の実|ふしぎの木の実]]}} {{Familytree |border=1| |||!|||||||||||07| 07=【新生ハイラル王国建国】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| |t2|||||||||||!| t2=[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース2|神々のトライフォース2]]}} {{Familytree |border=1| |t3|||||||||||st| t3=[[ゼルダの伝説 トライフォース3銃士|トライフォース3銃士]]|st=[[ゼルダの伝説 大地の汽笛|大地の汽笛]]}} {{Familytree |border=1| |||!}} {{Familytree |border=1| |08| 08=【初代ゼルダ姫の悲劇】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| |||!}} {{Familytree |border=1| |09| 09=【ハイラル王国衰退】|boxstyle=background:#ffc}} {{Familytree |border=1| |||!}} {{Familytree |border=1| |z1| z1=[[ゼルダの伝説]]}} {{Familytree |border=1| |z2| z2=[[リンクの冒険]]}} {{Familytree/end}} == コンサート == ; マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブ(2003年) : [[マリオシリーズ]]とゼルダシリーズの曲の数々を[[ビッグバンド]]が演奏したライブコンサート。9月14日開催。ステージには、任天堂から[[宮本茂]]、[[近藤浩治]]、[[手塚卓志]]、[[戸高一生]]、[[永田権太]]の5人も登場し、演奏にも参加した。この音源は後にCD化され、また、映像を収めたDVDが[[ゲーム雑誌]]『[[ニンテンドードリーム]]』の付録となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nindori.com/special/disc/disc04.html|title=マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブDVD|publisher=ニンドリドットコム|accessdate=2016-7-2}}</ref>。 ; ゼルダの伝説 25周年 シンフォニー オーケストラコンサート(2011年) : ゼルダシリーズ25周年を記念して日米欧でオーケストラコンサートが行われた<ref name="ss8-1">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/souj/vol8/|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-01}}</ref>。日本では10月10日に開催。 ; <nowiki>The Legend of Zelda: Symphony of the Goddesses(</nowiki>2012年以降随時) : 主に北米と欧州でオーケストラコンサートツアーが継続的に開催されている。 ; ゼルダの伝説シンフォニー:ムジュラの仮面 3D発売記念コンサート(2015年) : 上記の『Symphony of the Goddesses』の一環で、『ムジュラの仮面3D』の発売を記念したコンサートが日本で2月7日に行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.2083.jp/contents/201501zelda/|title=『ゼルダの伝説』サウンドインタビュー - 横田真人氏が語る、『ゼルダ』コンサートと『ムジュラの仮面3D』の聴きどころ-|publisher=2083WEB|accessdate=2016-6-24}}</ref>。 ; ゼルダの伝説30周年記念コンサート(2016年) : ゼルダシリーズ30周年を記念して行われたオーケストラコンサート。京都で10月1日に、東京で10月16日と12月4日に、大阪で12月1日に、名古屋で12月14日に開催された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.promax.co.jp/zelda30thconcert/|title=ゼルダの伝説30周年記念コンサート|accessdate=2018-08-31|publisher=[[任天堂]]}}</ref>。また、10月16日の東京公演の内容を収録したCDが2017年2月15日に発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/341/G034168/20161214102/|title=「ゼルダの伝説 30周年記念コンサート」がCD化。DVDや特典付きの初回盤も用意して2017年2月15日発売へ|accessdate=2018-08-31|date=2016-12-14|publisher=4Gamer.net}}</ref>。 ; ゼルダの伝説 コンサート 2018(2018年) : 東京で11月22日と12月14日に、大阪で11月25日に開催されたオーケストラコンサート<ref name="concert2018">{{Cite web|和書|url=http://promax.co.jp/zeldaconcert2018/|title=ゼルダの伝説 コンサート2018|accessdate=2018-08-31|publisher=[[任天堂]]}}</ref>。今回のコンサートには、ゲーム内で印象的に用いられている楽器、[[オカリナ]]、[[ハープ]]、[[アコーディオン]]の3つに焦点を当てた演目も含まれている<ref name="concert2018" />。前述の公演のうち12月14日の東京公演の内容を収録したCDが2019年3月6日に発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/22d23423-f76c-11e8-8bfe-0a6d14145cb1|title=12月14日開催予定の「ゼルダの伝説 コンサート 2018」が、ニコニコ生放送で有料配信予定! 曲目の公開やCD化の決定も!|publisher=任天堂|date=2018-12-5|accessdate=2018-12-24}}</ref>。 == 関連商品 == {{See|ゼルダの伝説シリーズの作品・関連作品の一覧}} == 関連項目 == * [[ロビン・ウィリアムズ]] - 本シリーズの愛好家として知られる[[俳優]]で、娘に「ゼルダ」と名付けている。『時のオカリナ3D』の海外版CMでは娘のゼルダと共演した<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20110621/15/|title=R・ウィリアムズ 娘・ゼルダと「ゼルダの伝説」CMに出演:映画ニュース|publisher=映画.com|accessdate=2016-6-26}}</ref>。 * [[ゼルダ・ウィリアムズ]] - ロビン・ウィリアムズの娘。[[俳優|女優]]として活動しており、本シリーズ関連のイベントにも出演している<ref name="ss8-1" /><ref>{{Cite web|url=http://zelda-symphony.com/blogs/photos/18044301-zelda-at-the-greek-theater|title=Zelda at The Greek Theater – Zelda Symphony of the Goddesses|publisher=Jason Michael Paul Productions, Inc.|accessdate=2016-6-26}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Twitter|ZeldaOfficialJP|ゼルダの伝説}} * [https://www.nintendo.co.jp/character/zelda/ ゼルダの伝説ポータル] * [https://www.zelda.com/ The Legend of Zelda series for Nintendo Systems] - 英語版のシリーズ公式サイト {{Zelda}} {{任天堂|主なソフト}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せるたのてんせつしりいす}} [[Category:ゼルダの伝説|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]]
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ヒマワリ (曖昧さ回避)
ヒマワリ、ひまわり、向日葵、HIMAWARI
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ヒマワリ、ひまわり、向日葵、HIMAWARI ヒマワリ - キク科の植物 ひまわり (気象衛星) - 気象観測・航空管制を行う日本の静止衛星の愛称 ひまわり (太陽光自動集光・伝送装置) - 慶應義塾大学理工学部教授の森敬が開発した、太陽光を光ファイバーで室内照明に利用する装置 ひまわり (プログラミング言語) - 日本語で記述可能なプログラミング言語 ひまわり (小惑星) - 小惑星帯の小惑星、17657 Himawari ひまわり - 三洋電機がかつて出していた洗濯機の名称
<!-- ここは曖昧さ回避ページです。「ひまわり」と称するものについて適切な記事に誘導するためのページです。一覧を置く場所ではありません。--> {{TOCright}} '''ヒマワリ'''、'''ひまわり'''、'''向日葵'''、'''HIMAWARI''' * [[ヒマワリ]] - [[キク科]]の植物 * [[ひまわり (気象衛星)]] - 気象観測・航空管制を行う日本の静止衛星の愛称 * [[ひまわり (太陽光自動集光・伝送装置)]] - [[慶應義塾大学]]理工学部[[教授]]の[[森敬]]が開発した、太陽光を光ファイバーで室内照明に利用する装置 * [[ひまわり (プログラミング言語)]] - 日本語で記述可能なプログラミング言語 * [[ひまわり (小惑星)]] - [[小惑星帯]]の小惑星、17657 Himawari * ひまわり - [[三洋電機]]がかつて出していた[[洗濯機]]の名称 == 交通機関・車両 == * ひまわり - [[与謝野町コミュニティバス]]の愛称。[[京都府]][[与謝郡]][[与謝野町]]が運行している[[コミュニティバス]]。 * ひまわり - 1986年に循環路線「[[遠鉄バス#西じゅんかん|西じゅんかん]]」<ref>{{Citation|title=【遠鉄バス廃止路線めぐり】西じゅんかん走ってみた|url=https://www.youtube.com/watch?v=Qdsr9_WOrp0|language=ja-JP|access-date=2023-08-16}}</ref>が[[浜松市営バス]]から[[遠鉄バス]]に移管した際、当時の[[浜松市|浜松市長]][[栗原勝]]によって命名された愛称。路線は2004年廃止。 * [[循環列車|循環急行]] ひまわり - かつて、[[別府駅 (大分県)|別府駅]]〜熊本駅〜博多駅〜小倉駅〜[[大分駅]]間に運転されていた列車 → [[九州横断特急]]を参照 * [[ひまわり (ラジオカー)]] - [[KBCラジオ]]のラジオカー * ひまわり - [[日本海運]]([[日本通運]]系)の貨物フェリーに冠される名前 * 文化船「ひまわり」- [[広島県立図書館]]が1962-1981年に運用していた、離島に本を届ける船 * ひまわり号 ** [[ひまわり号 (列車)]] - [[障害者]]向けの団体旅行列車の名称 ** ひまわり号 - [[水島臨海鉄道MRT300形気動車]]303〜306の愛称。[[ヒマワリ]]の絵が描かれている事から、名付けられた。 ** ひまわり号 - [[御所市コミュニティバス]]の愛称。[[奈良県]][[御所市]]が運行している[[コミュニティバス]]。 ** ひまわり号 - 埼玉県[[熊谷市]]の旧[[大里郡]][[大里町 (埼玉県)|大里町]]域で運行しているコミュニティバス「[[ゆうゆうバス (熊谷市)|ゆうゆうバス]]」の系統の1つ ** ひまわり号 - [[移動図書館]]の名称([[三鷹市]]など) ** [[ひまわり号 (川里町)]] - かつて[[埼玉県]][[北埼玉郡]][[川里町]]内(現[[鴻巣市]])を循環していた、町内循環バスの名称 ** ひまわり号 - かつて茨城県の旧稲敷郡[[茎崎町]](現[[つくば市]])で運行されていた福祉バス(当時)の愛称。つくば市との合併に伴い「[[のりのりバス]]」の運行体形に組み込まれている。 == 組織 == * [[劇団ひまわり]] - 日本の劇団 * [[SOMPOひまわり生命]] - 日本の生命保険会社 * ひまわり - M&Sフードサービス([[SRSホールディングス]]傘下)が[[イズミヤ]]、[[洛北阪急スクエア|カナート]]の店舗内で運営する明石焼き・甘味の店 * [[ショッピングひまわり]] - [[埼玉県]]に店舗を置くスーパーマーケット * [[ひまわり (湯沢町の企業)]] - [[新潟県]][[湯沢町]]の[[不動産会社]] * [[ひまわり農業協同組合]](JAひまわり) - 愛知県[[豊川市]]に本所をおく農業協同組合 * [[ひまわり (コンビニエンスストア)]] - 岐阜県を中心に出店しているコンビニエンスストアチェーン * [[兵庫ひまわり信用組合]] - 神戸市[[長田区]]に本所をおく[[在日韓国・朝鮮人|在日コリアン]]系の信用組合。経営破綻した朝銀近畿信用組合の事業の一部を譲り受ける目的で設立された。 * [[ププレひまわり]] - [[広島県]]に本社があるドラッグストアチェーン * [[HIMAWARI (宮崎県)]] - [[宮崎県]][[日向市]]のタクシー・バス事業者 * [[HIMAWARIちゃんねる]] - 日本の[[YouTuber]]グループ == 絵画・映画・ドラマ == * [[ひまわり (絵画)]] - [[フィンセント・ファン・ゴッホ]]による絵画 * [[ひまわり (1958年のテレビドラマ)]] - 1958年にNHKで放送された単発テレビドラマ * [[ひまわり (1970年の映画)]] - イタリア・フランス・ソ連・アメリカ合作の映画 * [[ひまわり (1996年のテレビドラマ)]] - NHKの[[朝の連続テレビ小説]]で放送された、[[松嶋菜々子]]主演のテレビドラマ * [[ひまわり (1998年のテレビドラマ)]] - [[文化放送 (韓国)|韓国MBC]]で製作・放送されたテレビドラマ * [[ひまわり (2000年の映画)]] - 2000年公開の日本映画、[[麻生久美子]]主演 * [[ひまわり〜桶川女子大生ストーカー殺人事件〜]] - 2003年に[[テレビ朝日]]の[[土曜ワイド劇場]]で放送された、[[内山理名]]主演の単発ドラマ * [[向日葵 (映画)]] - 2004年公開の日本映画 * [[ひまわり (ラジオドラマ)]] - [[プレイワークス]]によるラジオドラマ * [[ひまわり (2006年の映画)]] - 2006年公開の韓国映画 * [[ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜]] - 2007年にTBS系で放送された、[[仲間由紀恵]]主演の単発ドラマ * [[ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜]] - 2013年公開の日本映画、[[長塚京三]]主演 * [[YOU達HAPPY映画版 ひまわり]] - 2018年の日本映画。ラジオ番組「[[YOU達HAPPY]]」が企画。 == 雑誌 == * [[ひまわり (少女雑誌)]] - ヒマワリ社が1947年刊の少女雑誌 * [[ひまわり (女装雑誌)]] - [[雄美社]]が刊行していたの女装専門雑誌 == 漫画・アニメ・小説 == * [[ひまわりっ 〜健一レジェンド〜]] - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』に連載されていた[[東村アキコ]]の漫画 * [[ひまわりっ!]] - 2006年のアニメ作品および『[[ヤングアニマル嵐]]』に連載の漫画(漫画版のタイトルは「'''ひまわり伝っ!'''」、[[TAGRO]]作画) * ひまわり!! それからのだいすき - 『[[BE・LOVE]]』に連載されている[[愛本みずほ]]の漫画。『[[だいすき!! ゆずの子育て日記]]』の続編。 * ヒマワリ:unUtopial World - 『[[角川スニーカー文庫]]』から発行されている[[林トモアキ]]の[[ライトノベル]] * [[ヒマワリ (漫画)]] - 『[[週刊少年チャンピオン]]』に連載されていた[[平川哲弘]]の漫画 * ひまわり (小説)- 2023年8月現在[[日本海新聞]]ほかで連載されている[[新川帆立]]の小説 == 音楽 == === ひまわり === ==== アルバム ==== * [[ひまわり (吉田拓郎のアルバム)]] - [[吉田拓郎]]のアルバム、および表題曲 * ひまわり (いしのだなつよのアルバム) - [[石野田奈津代|いしのだなつよ]]のアルバム、および表題曲 ** ひまわり (いしのだなつよの曲) - いしのだなつよのシングル、上記アルバムに収録 * [[ひまわり (飯塚雅弓のアルバム)]] - [[飯塚雅弓]]のアルバム、および表題曲 * ひまわり (河井英里のアルバム) - [[河井英里]]のアルバム ==== 楽曲 ==== * [[ひまわり (山田晃士の曲)]] - [[山田晃士]]のシングル(1994年)。日本テレビ系 水曜ドラマ『[[横浜心中]]』主題歌。 * ひまわり (衛藤利恵の曲) - [[衛藤利恵]]のシングル(1996年) * [[ひまわり (安田祥子の曲)]] - [[安田祥子]]の楽曲(1996年)。NHK『[[みんなのうた]]』使用曲。 * [[ひまわり (長渕剛の曲)]] - [[長渕剛]]のアルバム『[[ふざけんじゃねぇ]]』からの先行配信シングル(1997年)。テレビ朝日系 木曜ドラマ『[[ボディーガード (1997年のテレビドラマ)|ボディーガード]]』主題歌。 * ひまわり (CURIOの曲) - [[CURIO]]のシングル(1997年) * [[ひまわり (松山千春の曲)]] - [[松山千春]]のシングル(1997年) * ひまわり (奥居香の曲) - [[岸谷香|奥居香]]のシングル(1998年) * [[ひまわり (TUBEの曲)]] - [[TUBE]]のシングル(1999年)。[[クラフトフーヅ・インク|クラフトフーヅ]]『切れてるチーズ』CMソング。 * [[ひまわり (又紀仁美の曲)]] - [[又紀仁美]]の楽曲(1999年)。NHK『[[みんなのうた]]』使用曲。 * [[ひまわり (Kiroroの曲)]] - [[Kiroro]]のシングル(2000年) * [[ひまわり (福山雅治の曲)]] - [[福山雅治]]のシングル『[[虹/ひまわり/それがすべてさ]]』に収録(2003年)。[[日本郵政公社]]『[[簡易保険]]』CMソング。 * [[ひまわり (星村麻衣の曲)]] - [[星村麻衣]]のシングル(2004年)。テレビ朝日系 木曜ドラマ『[[電池が切れるまで]]』主題歌。 * ひまわり (TAEKOの曲) - TAEKO([[令多映子]])のシングル(2005年) * ひまわり (韓国のSugarの曲) - 韓国の女性アイドルグループ・[[Sugar (韓国の音楽グループ)|Sugar]]の日本シングル『ひまわり/LOVEACCELE』に収録(2005年)。TBS系 木9ドラマ『[[幸せになりたい!]]』主題歌。 * [[ひまわり (Hearts Growの曲)]] - [[Hearts Grow]]のシングル(2007年)。テレビ東京系アニメ『[[出ましたっ!パワパフガールズZ]]』EDテーマ。 * [[ひまわり (あみんの曲)]] - [[あみん]]のシングル『[[ひまわり/待つわ'07]]』に収録(2007年) * [[ひまわり (福原美穂の曲)]] - [[福原美穂]]のシングル(2008年)。北海道テレビ『[[おにぎりあたためますか]]』EDテーマ。 * [[ひまわり (遊助の曲)]] - 遊助([[上地雄輔]])のシングル(2009年) * [[ひまわり (小柳ゆきの曲)]] - [[小柳ゆき]]のシングル(2013年)。映画『[[爆心 長崎の空]]』主題歌。 === ヒマワリ === * [[ヒマワリ (SOPHIAの曲)]] - 日本のヴィジュアル系バンド・[[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]]のシングル * ヒマワリ (みひろの曲) - [[金子みひろ|みひろ]]のシングル * ヒマワリ (POSSIBILITYの曲) - 日本のロックバンド・[[POSSIBILITY]]のシングル * [[ヒマワリ -Growing Sunflower-]] - [[SPEED]]のシングル。TBS系『[[王様のブランチ]]』EDテーマ。 * ヒマワリ (田原俊彦の曲) - [[田原俊彦]]のシングル『[[ヒマワリ/星のように]]』に収録されている曲 === 向日葵 === * [[向日葵 (Cup'sのアルバム)]] - [[Cup's]]のアルバム * [[AKB48]]グループの『[[ひまわり組 1st Stage「僕の太陽」]]』公演の[[AKB48の劇場公演|劇場公演]]曲 * [[向日葵 (PASSPO☆の曲)]] - [[PASSPO☆]]のシングル * [[向日葵 (Adoの曲)]] - [[Ado]]の配信シングル。TBS系火曜ドラマ『[[18/40〜ふたりなら夢も恋も〜]]』主題歌。 === Himawari === * [[Himawari (shelaのシングル)]] - [[shela]]のシングルタイトル === himawari === * [[himawari (Mr.Childrenの曲)]] - [[Mr.Children]]のシングル。映画『[[君の膵臓をたべたい#実写映画|君の膵臓をたべたい]]』主題歌。 == 人物 == === 女性名 === * [[赤穂ひまわり]] - [[石川県]]出身の[[バスケットボール]]選手([[シューティングガード|SG]]) * [[小野ひまわり]] - [[千葉県]]出身の[[俳優|女優]] * [[清水ひまわり]] - [[神奈川県]]出身の[[アイドル]] * [[日向ひまわり]] - [[広島県]]出身の[[講談師]] * [https://www.lpga.or.jp/members/info/1003065 小倉ひまわり] - [[東京都]]出身の女子[[プロゴルファー]] === 通名 === * [[恵月ひまわり]] - [[東京都]]出身の[[漫画家]] * [[本間ひまわり]] - [[にじさんじ]]所属の[[バーチャルライバー]] === 架空の人物 === * 大河内ひまわり - 日本テレビ系ドラマ『[[演歌の女王]]』の主人公の演歌歌手 * 九軒ひまわり - 漫画『[[XXXHOLiC|xxxHOLiC]]』の登場人物 * 四宮ひまわり - テレビアニメ『[[ビビッドレッド・オペレーション]]』の登場人物 * うずまきヒマワリ - 漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』および漫画『[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]]』の登場人物 → [[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-#うずまきヒマワリ]]を参照 * [[野原ひまわり]] - 漫画『[[クレヨンしんちゃん]]』の登場人物 * 古谷向日葵 - 漫画『[[ゆるゆり]]』の登場人物 * ひまわり - ゲーム『[[コロぱた]]』の主人公 * ひまわり - 『[[リルリルフェアリル]]』のキャラクター * ひまわり組 - テレビアニメ『[[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]]』の登場キャラクター(ハムスター)によるグループ == ゲーム == * [[ひまわり (Regrips)]] - Regripsのアダルトゲーム * [[ひまわり (ぶらんくのーと)]] - [[ぶらんくのーと]]の同人ゲーム == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[サンフラワー]] - 曖昧さ回避のページ * 先頭一致ページ名一覧 : 「{{Prefix|ヒマワリ|ヒマワリ}}」、「{{Prefix|ひまわり|ひまわり}}」、「{{Prefix|向日葵|向日葵}}」、「{{Prefix|HIMAWARI|HIMAWARI}}」。 * 語句含むページ名一覧 : 「{{Intitle|ヒマワリ|ヒマワリ}}」、「{{Intitle|ひまわり|ひまわり}}」、「{{Intitle|向日葵|向日葵}}」、「{{Intitle|HIMAWARI|HIMAWARI}}」。 * [[Wikipedia:索引 ひま#ひまわ]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ひまわり}} [[Category:同名の作品]] [[Category:日本語の女性名]] [[Category:植物が由来の個人名]]
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マイク・タイソン
マイク・タイソン(Mike Tyson、1966年6月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区出身。元WBA・WBC・IBF世界ヘビー級統一王者。 現在はスタンドアップコメディアンとして活動。自身の大麻農園「タイソン農園」の経営もしている。 身長178 cm、リーチ180 cm、周囲50 cm超の首を誇る。ヘビー級としては小柄ながらも、巨漢ボクサーをガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力に加え、ヘビー級では並外れたスピードとフットワーク、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、ボディーワークで空に切らすディフェンス技術を武器に、次々に大男たちをキャンバスに沈めた。 フロイド・パターソンと同門下であり、ともに小柄であることやピーカブースタイルなど、両者には共通点が多い。 1998年にリングマガジンが発表した「史上最高のヘビー級(The Greatest Heavyweights of All-Time)」では14位にランキングされている。同じくリングマガジンが2002年に発表した「過去80年間のベストファイター80(the 80 Best Fighters of the Last 80 Years)」では72位にランキングされている。同じくリングマガジンが2003年に発表した「史上最高のパンチャー100(100 greatest punchers of all time)」では16位にランキングされている。 ボクシングにおける「時代を超えた夢の対決」としてファンの間で語り草になっているのがタイソンとモハメド・アリである。アリとタイソンが初めて出会ったのは1989年のテレビ番組である。この際「アリとタイソン、全盛期同士ならどちらが勝つ?」という質問に、アリは「もし彼が私を捕らえたら私は眠ってしまうだろう」「彼は真の王者だ」と答え、タイソンは「俺は自惚れする生意気だが、この状況では、全ての頭は彼にお辞儀をし、全ての口は彼を"史上最高"だと告白しなければならない」とアリに敬意を表した。また、タイソンは「アリのようなファイターは他にいない。彼はモデルのように美しい見た目だったが、リング上では獰猛だった。まるで美しい見た目をしたティラノサウルスのようだ。私なんかが彼に勝てるわけがない。絶対に有り得ない」と語り、フロイド・メイウェザー・ジュニアが自分はアリよりも偉大だという旨の発言をした際には、タイソンは「奴は妄想的だ。"偉大"という言葉は自己保身のために使うものではない。これは人々から受け入れられるものだ。奴は一人で子供達を学校へ連れて行くことさえできない。小さな臆病な男だ」と怒りを露わにした。 レノックス・ルイスは2019年にジョー・ローガンのポッドキャストで、タイソンと初めて出会ったのが18歳の時だった(タイソンは当時17歳)と振り返っている。当時、ルイスはカナダ代表としてドミニカ共和国のサントドミンゴで行われた世界ジュニア選手権で優勝し、この際に居合わせたアメリカ代表チームから「お前はまだ最強の男と戦っていない」と言われたため、ルイスが「アメリカは最強のチームを連れてきてないのか?」と尋ねたところ「その男とトレーナーは飛行機に乗るのが苦手だからここに来ていないんだ。彼らの名はマイク・タイソンとカス・ダマトだ」と答えたという。その後、ルイスはタイソンとダマトの住むニューヨーク州キャッツキルに向かい、17歳のタイソンと初対面を果たし3日間スパーリングを行った。ルイスはタイソンの第一印象として「彼はとてもいい人だった」と振り返っているが、いざスパーリングが始まると豹変し殺す気でパンチを打ってきたという。また、スパーリングの際にタイソンのトレーナーで養父でもあったダマトが「マイク!お前はいずれ彼(ルイス)と戦うことになるんだ!しっかりしろ!」とタイソンに向かって叱咤していたといい、実際にルイスとタイソンは2002年に対戦している。 最初の妻ロビン・ギヴンズとの結婚生活は、1988年2月7日に結婚してから1989年2月14日に離婚するまでわずか1年しか続かなかった。1988年9月にタイソンと一緒に出演したテレビ番組でギヴンズが、タイソンとの結婚生活は「生き地獄、純粋な地獄」と訴えたことで早くも夫婦間の軋轢が表面化すると、ギヴンズはさらに、タイソンから暴力や虐待を受けている、タイソンは躁うつ病であるなどと主張し、離婚を申し立てた。一方のタイソンも後に暴力を振るっていたことは認めるが、ギヴンズは財産目的で結婚したのであり、妊娠をしたと嘘をつかれたとして、結婚の無効を主張した。 2人目の妻モニカ・ターナーとの結婚生活は、1997年4月19日から2003年1月14日まで続いた。ターナーが2002年1月に、5年間の間に浮気をされたとして離婚を申請した。 2009年5月26日、4歳の娘が事故で死去する。自宅のプレイルームでトレッドミルのコードが首に巻きついて意識を失っている状態で発見され、母親が救急車を呼び病院に運ばれるが、翌日に亡くなった。 娘の死去からわずか11日後の2009年6月6日に、死去した娘の母親とは別の長年付き合っていた女性ラキハ・スパイサーと結婚した。 タイソンはレイプ事件で有罪判決を下された際に、裁判官から命じられて精神鑑定を受け、双極性障害と医師から診断されている。 2011年3月に、酒や薬物を絶った生活を送っており、ヴィーガンダイエットなどで生活が改善していると語っていたが、2013年8月に、「ここ数年断酒していると話してきたけれど嘘だった」「しらふで生活したい。死にたくない。重度のアルコール中毒であるため、死の淵にいる」「6日間、アルコールも薬物も摂取していない。これは自分にとって奇跡」と述べ、薬物とアルコールの中毒で命が危ぶまれている状態であると公表した。その後2013年12月には、規則正しい生活を送り依存症克服のため12ステップのプログラムに通っていると語っているが、ヴィーガンについては、「4年間ヴィーガンだったがもうそうではない、時々鶏肉を食べている」とヴィーガンは止めたと語った。 うつ病で自殺願望があった時にマジックマッシュルーム(シロシビン)などの幻覚剤を使用して症状が改善し命を救われたと語っている。またヒキガエルの分泌物(5-メトキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)を使用したところ薬物依存やアルコール依存が改善して人生観が変わったと語っている。 2022年4月20日、サンフランシスコからフロリダに向かうジェットブルーの航空機内で、タイソンに水をかけるなど嫌がらせをする男性客にタイソンは繰り返し殴りかかったが、刑事告訴はされなかった。 2012年1月にプロモーターのギャリー・ジョナスがアクウェインティ・スポーツというボクシングプロモーションを設立。 2013年8月にジョナスがタイソンと共同経営の契約を結び、プロモーション名をアイアン・マイク・プロモーションズに変更。 2014年11月以降興行を主催しておらず活動を停止した。
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マイク・タイソンは、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区出身。元WBA・WBC・IBF世界ヘビー級統一王者。 現在はスタンドアップコメディアンとして活動。自身の大麻農園「タイソン農園」の経営もしている。
{{Boxing statsbox |name=マイク・タイソン<br/>{{lang|en|Mike Tyson}} |image=Mike Tyson 2023.jpg |caption=[[2023年]] |realname=マイケル・ジェラルド・タイソン<br />(Michael Gerard Tyson) |nickname=アイアン・マイク<br />キッド・ダイナマイト<br />The Baddest Man on the Planet<br />(地上最凶の男) |weight=[[ヘビー級]] |height=178 cm<ref>{{cite web|url=https://www.dailymail.co.uk/sport/boxing/article-8268685/Mike-Tyson-breaks-hed-attack-Tyson-Fury-fight-peak-powers.html|title= Mike Tyson breaks hed attack Tyson Fury fight peak powers|publisher= MailOnline|date= 2020年4月29日 |accessdate= 2020年5月18日}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.doghouseboxing.com/On-The-Ropes-Boxing-Radio/OTR-New-0829ii13-Mike-Tyson.htm|title= Mike Tyson: I always thought of myself as a big guy, as a giant, I never thought I was five foot ten|publisher= Doghouse Boxing|date= 2013年8月22日 |accessdate= 2020年5月25日}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/mike-tyson-exclusive-no-more-565234|title= MIKE TYSON EXCLUSIVE: NO MORE MR BAD ASS|publisher= Mirror Online|date= 2012年2月3日|accessdate= 2020年5月25日}}</ref> |reach=180 cm<ref name="HeavyweightChampions">『ボクシングヘビー級最強伝説』 [[ベースボール・マガジン社]]、2009年5月29日、13頁</ref> |nationality={{USA}} |birth_date={{生年月日と年齢|1966|6|30}} |birth_place=[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]<br />[[ブルックリン区]][[ベッドフォード・スタイベサント地区]] |death_date= |death_place= |style=右ファイター([[ピーカブースタイル|ピーカブー]]) |total=58 |wins=50 |KO=44 |losses=6 |draws= |no contests=2 |}} {{Infobox YouTube personality | name = マイク・タイソン | channel_url = UCdtNjOwfQpgVK0FyOeLyzrg | channel_display_name = Mike Tyson | years_active = 2015年1月17日 - | subscribers = 約218万人 | views = 約148,970,448回 | silver_button = yes | silver_year = | gold_button = yes | gold_year = | stats_update = {{dts|2022-1-21}} }} '''マイク・タイソン'''('''Mike Tyson'''、[[1966年]][[6月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の元[[プロボクサー]]。[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]][[ブルックリン区]][[ベッドフォード・スタイベサント地区]]出身。元[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]・[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[ヘビー級]][[統一世界王者|統一王者]]。 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家族には5歳年上の兄ロドニーと2歳年上の姉デニスがいる。兄は医師助手で、タイソンは兄についてインタビューされた際に「兄貴とは深い絆で結ばれている。兄貴はいつも立派だったが自分は何もなかった」と述べている。 : [[ポン引き]]だった父親のジミー・カークパトリックはタイソンが2歳のときに家族を捨て蒸発している。以後、家族は売春婦だったとされている母親のローナ・スミス・タイソン、他兄弟と育つが、タイソンは「母親はふしだらな女だった。周りの家も、母親とそのボーイフレンドで、父親がいない家庭ばかりだった。親は売春斡旋業を営んでいた。家の中も安全とは言えなかった。姉と寝るために客が来て、俺を殴った」と、引退後にドキュメンタリー番組で語っている<ref>{{Cite web|和書|title=Champs {{!}} Bert Marcus Productions {{!}} 2014年4月19日のトライベッカ映画祭で初公開|url=https://www.bertmarcusproductions.com/champs/|website=www.bertmarcusproductions.com|accessdate=2020-12-02|publisher=}}</ref>。なお母親はタイソンが16歳の時に死去、姉デニスは心臓麻痺で1991年に24歳で死去している。 : タイソンが幼い頃、一家はブルックリン区内に住んでいた。経済的な問題で、家を転々とした後に、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪の[[ゲットー]]と呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。 ; いじめにより非行へ : 幼少の頃は内向的な性格で、現在でも独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの[[二宮清純]]はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し「[[自閉症]]児のような印象を受けた」と語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが[[双極性障害|躁うつ病]]と診断されており、長期に渡り治療を受けていた。 : 内向的な性格や、大きな近眼鏡を着用していたことから、いじめっ子達に嘲笑されいじめの対象となり小学校1年生で学校に通わなくなる。そして街をふらついている時に絡まれた不良少年グループの使い走りとなるが、タイソンが大事にしていたペットの[[鳩]]を年上の不良少年に目の前で殺され、我を忘れて人生初めてとなった喧嘩で、その不良少年を殴り倒したことから自身の強さに気付くと、徐々に物取りから強盗や麻薬の売人へと悪行がエスカレートしていった<ref>タイソンはこのときのことを後に、「お袋はストリートで新しい服をかっぱらってきた俺のことを喜んではいなかった。俺はお袋とそのことについてどう思うかと話したり知ろうとする機会がなかった。プロとして自分のキャリアには影響していないが、精神的・個人的に自分の重荷となった」と語っている。</ref>。 ; ボクシングとの出会い :12歳までに51回も逮捕され、ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン[[少年院]]に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングの担当教官だった{{仮リンク|ボビー・スチュワート|en|Bobby Stewart|label=}}にボクシングで叩きのめされたことから教えを請うようになる。最初の考えは『ボクシングは喧嘩で使えるため』だったが、めきめきと上達。その才能を見抜いたスチュワートは1980年3月にタイソンを[[カス・ダマト]]に紹介すると、ダマトはタイソンの才能に驚愕。13歳のときタイソンが少年院を仮退院すると、身元引受人となったダマトの家で、他の青年達とタイソンの共同生活が始まる。 ; アマチュアでの活躍 : まずは[[ボクシング|アマチュアボクシング]]でキャリアをスタートし、13歳で初試合を行った。数年間キャリアを積んでいき、ジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後、[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]への参加を狙うが、国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながら判定負けを喫し、オリンピックは補欠となり、参加は叶わなかった。 : タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。 === プロボクサー時代 === ; ダマトの死から史上最年少での世界ヘビー級王座戴冠、そして3団体統一 : [[1985年]]3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。デビューから11連勝を飾った直後の1985年11月にトレーナーの[[カス・ダマト]]が死去。 : その後、通算27連勝し[[1986年]]11月22日、28戦目にして[[トレバー・バービック]]に2RTKO勝利し、[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界ヘビー級王座を獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる。翌年、[[1987年]]3月7日には[[ジェームス・スミス]]に判定勝ちし、[[世界ボクシング協会|WBA]]世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、[[トニー・タッカー]]に判定勝ちして[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功([[世界ボクシング機構|WBO]]は1988年に設立され、当時はマイナー団体だったので、事実上の主要団体統一王者)。6月21日、駐車場の女性従業員にキスを迫り男性従業員を殴ったとして起訴され、罰金105,000ドルを支払う。 : [[1988年]]2月に、元ファッションモデルで女優の[[ロビン・ギヴンズ]]と結婚(TVでギヴンズを見かけて一目惚れしたのが始まりという)。しかし、すぐに離婚した。タイソンが支払った慰謝料は1000万ドルだった<ref>[https://moviewalker.jp/news/article/35134/ マイク・タイソン、ベッドで妻とブラッド・ピットを発見!三角関係を激白] [[Movie Walker]] 2012年12月4日 17時04分 配信</ref>。 ; ドン・キングによるプロモート : 通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われた[[マイケル・スピンクス]]戦後、カス・ダマトがその生前「グリズリーには近づいても、ドン・キングには近付くな」と絶対に組んではいけないと言っていた[[ドン・キング]]にプロモートを受ける。それ以来、精彩を欠くようになり、一般的にこの1988年頃までがタイソンの全盛期と言われている{{要出典|date=2020年3月}}。 : この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であった{{仮リンク|ビル・ケイトン|en|Bill Cayton}}と共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていた{{仮リンク|ジム・ジェイコブス|en|Jimmy Jacobs (handballer)}}が白血病により突然死去。その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギヴンズに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める。そしてこの年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていた[[ケビン・ルーニー]]を突然解雇。家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。 : その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。離婚騒動、訴訟沙汰、自殺未遂、交通事故、[[放蕩]]、練習不足、度重なった試合の延期など、リング外でのトラブルの話題が増えて行く。 : 1988年8月23日、プロ21戦目で対戦したミッチ・グリーンとハーレムの路上で喧嘩になり、タイソンは右手を骨折。このため同年10月8日に予定されていた[[フランク・ブルーノ]]との試合が延期となった<ref>{{cite web|url= https://www.sportbible.com/boxing/legends-news-mike-tyson-recalls-what-happened-in-street-fight-with-mitch-green-20200326 |title= Mike Tyson Recalls What Happened In His Street Fight With Mitch Green |publisher= SPORT Bible |date= 2020年3月26日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。9月5日、運転していた車を木に激突させる事故を起こし、その際に失神する<ref>{{cite web|url= https://apnews.com/4ab43e5e94249d8a49c2ec4058f006c6 |title= Tyson Scheduled for More Hospital Tests After Car Accident |publisher= AP |date= 1988年9月7日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。10月7日、別居中だったロビン・ギヴンズが離婚を申請。翌月にはタイソンに対して1億2500万ドルの名誉毀損訴訟を起こした。 ; 栄光から挫折へ : 8ヶ月のブランクを経た[[1989年]]年2月25日の[[フランク・ブルーノ]]戦で勝利。同年7月21日のカール・ウイリアムス戦では、豪快な左フックでウイリアムスをロープまで吹っ飛ばして倒し、1RTKO勝利する。 : しかし次戦、タイソンは同年11月18日に決定していたドノバン・ラドックとのタイトルマッチを急にキャンセルするなどゴタゴタが続き、[[1990年]]2月11日に[[日本]]の[[東京ドーム]]で[[ジェームス・ダグラス]]と対戦するために来日、日本で2度目のタイトルマッチとなった。(参照「[[マイク・タイソン 対 ジェームス・ダグラス戦]]」) : 世界中がタイソンのKO勝利を確信し(ラスベガスの[[ミラージュ (ホテル)|ミラージュ]]の賭け率では、タイソン勝利が42対1)、もはや計画されていた、[[イベンダー・ホリフィールド]]戦に向けての調整試合程度とみなされていた。しかし、日本に来たタイソンの調子にトレーニング中から異変が感じられた。動きに精彩がなく、練習のスパーリング中にダウンを喫してしまう。 : 果たして試合が始まると、タイソンは、いつもの相手の懐に入り込むステップインや、体を振るスタミナが感じられず、30㎝のリーチ差を活かしたダグラスの攻撃に、一方的に捕まってしまう。しかし第8ラウンドが終わりかけたとき、タイソンの右アッパーが、ダグラスの顎を捕らえてダウンさせる。リングサイドのタイムキーパーがカウントを数えると、10カウントでダグラスは立てなかった。しかし、レフリーがカウントを取り始めるのが遅かった(実質13秒間のロングカウント)ために、KOにならず第8ラウンドが終了してしまう。危険を脱したダグラスは、第10ラウンド、コンビネーションパンチでタイソンを捕らえてノックアウト、ダグラス勝利となった。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星となる。タイソン陣営は試合後、レフリーのスローカウントに対して抗議したが、結果は覆らなかった。 ; レイプ事件により収監 : 1990年12月9日、[[ケーブルテレビ局]]の[[Showtime]]と1億2千万ドルで8試合から10試合の長期大型[[ペイ・パー・ビュー]]契約を締結したことを発表<ref>{{cite web|url= https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1990-12-10-sp-4632-story.html |title= Tyson Will Fight Ruddock Next : Boxing: Former heavyweight champion also will sign $120-million deal with Showtime, King says. |publisher= L.A.TIMES |date= 1990年12月10日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : 1991年、強豪[[ドノバン・ラドック]]との2連勝の後、タイソンは同年11月8日に対戦することで正式決定していたイベンダー・ホリフィールドとの試合を、トレーニング中に肋軟骨を痛めたとしてキャンセル。乱れた生活を送っていたタイソンは、18歳のディズィリー・ワシントンをホテルの一室で[[強姦|レイプ]]したとして1991年7月に逮捕され、1992年3月26日に有罪判決を宣告され刑務所へと収監された。6年の[[懲役]]刑を言い渡されたが、3年間服役後の1995年3月25日に仮釈放される。なお、服役中に[[イスラム教]]に改宗し、'''マリク・アブドゥル・アシス'''という名を持った。服役中に女性看守を妊娠させたが、女性は出産には至らなかった<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20120422-a037/ マイク・タイソン、服役中に女性看守を妊娠させていた「監獄では色々あるからな」] マイナビニュース 2012/04/22 11:00 (2021年12月29日閲覧)</ref>。 : 1995年8月19日に無名のピーター・マクニーリーと復帰戦を行い勝利するが、25歳というアスリートとしてこれからという時期に、約4年のブランクを作ってしまったタイソンは、出所後は以前の攻防のバランスの取れたボクシングは崩れ、ただハードパンチに頼るボクサーとなってしまった。 ; 王者返り咲きも陥落 : 仮釈放から翌年の1996年3月16日、[[フランク・ブルーノ]]を3RKOで破り、WBC世界ヘビー級王座を再度獲得し、世界王者へと復権するが、[[レノックス・ルイス]]との対戦を避けたためWBC王座を剥奪される。同年9月7日、[[ブルース・セルドン]] を1RTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。再び王者になったが、11月9日に[[イベンダー・ホリフィールド]] とWBA王座を掛けて対戦。30歳のタイソンに対して、ホリフィールドは34歳で、なおかつ[[マイケル・モーラー]]に判定で敗れ、[[レイ・マーサー]]にも苦戦し、[[リディック・ボウ]]にもTKO負けを喫していたことから、全盛期を過ぎたと見なされており、賭け率でも8対1とタイソン圧倒的有利の下馬評で、50名近いボクシング記者による試合前の勝利者予想でも、ホリフィールドが勝つと予想したのはわずか1人だけであった<ref>{{cite web|url= https://www.espn.com/blog/statsinfo/post/_/id/126193/evander-holyfield-vs-mike-tyson-i-20th-anniversary |title= Evander Holyfield vs. Mike Tyson I: 20th anniversary |publisher= ESPN |date= 2016年11月10日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/boxing/1636676.stm |title= Holyfield makes history |publisher= BBC |date= 2001年12月26日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref> 。しかし、結果タイソンはホリフィールドに11ラウンドTKOで敗れ、WBA王座から陥落した。 ; 耳噛み事件 : 翌年6月28日に行われた[[再試合#格闘技|ダイレクトリマッチ]]では、ホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、'''耳噛み事件'''(雑誌等で'''世紀の噛み付き'''とも称された)を起こし、右耳を噛んだ1回目の耳噛みは、反則として2ポイント減点されて試合続行されるが、2回目の左耳を噛みちぎった耳噛みにより3R終了時に失格負けとなった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/news/1667891.html タイソン失格、ホリフィールドの耳かみちぎる/復刻] [[日刊スポーツ]] 2016年6月30日(1997年6月30日付)</ref>。それでも怒り狂ったタイソンがホリフィールド陣営に殴りかかったことで、リング上は大混乱となり、耳噛みについては、ホリフィールドが頭突きを繰り返したことに対する報復だとした。この反則行為により、タイソンは3000万ドルのファイトマネーから300万ドルの罰金と、1998年10月18日に再交付が認められるまで約1年3か月間のライセンス停止処分を受けた。後年、ホリフィールドとはこの件に関しては和解しておりカメラの前で当時の事を冗談交じりに語り合う姿が写し出されている<ref name="intai"/>。 : [[1997年]]4月、小児科医で、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の政治家[[マイケル・スティール]]の妹であるモニカ・ターナーと結婚([[2003年]]離婚)。 : 1998年3月5日、数千万ドルを搾取されたとして、ドン・キングに対して1億ドルの訴訟を起こした。 : ライセンス停止期間中の[[1998年]]3月29日に[[プロレス]]団体[[WWE]]の[[レッスルマニアXIV]]にレフェリーとして出場。共闘した[[ヒール (プロレス)|ヒール]]役の[[ショーン・マイケルズ]]を殴打してノックアウトした。タイソンには試合のギャランティーとして300万ドルが支払われた。 ; 暴行事件により収監、リング内外で荒れるタイソン : [[1999年]]1月16日に[[フランソワ・ボタ]]戦で復帰するも、1R終了間際にボタの左腕を抱えて捻り上げる反則行為を行った上に、1Rが終了したためレフェリーが両者の間に割って入るもそれを無視してそのまま腕を離さずボタを殴り、これにボタが殴り返したことで両陣営がリングになだれ込む乱闘騒ぎを起こした。タイソンはその後もこの左腕を捻り上げる反則行為を何度も繰り返して反則の減点を取られるが、試合は5R終了間際にKOで勝利する。しかし試合終了までのジャッジは3者共に(36–40、36–40、36–39)とボタの一方的なリードと採点しており、格下のボタを相手に衰えをみせた形となった<ref>{{cite web|url= https://boxrec.com/media/index.php/Mike_Tyson_vs._Francois_Botha |title= Mike Tyson vs. Francois Botha |publisher= BoxRec |date= 1999年1月16日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : 1999年2月5日、タイソンは前年の8月に3台の自動車事故に巻き込まれたときに、62歳の運転手を殴り、もう1人の運転手の股間を蹴り上げたとして、1年の懲役刑を言い渡され<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/272855.stm |title= World: Americas Tyson jailed over road rage |publisher= BBC NEWS |date= 1999年2月6日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>、4ヶ月間服役後の6月に仮釈放される。同年10月23日、[[オーリン・ノリス]]との試合では、タイソンは1R終了のゴングが鳴った後のパンチでノリスをダウンさせる反則を犯し2ポイントの減点を課せられ、ノリスがこのダウンで膝を負傷して試合続行不能となったため、ノーコンテストとなった。 : [[2000年]]6月24日、ルー・サバリーゼに1RにレフェリーストップでTKO勝ちするが、その際に試合を止めるために両者の間に割って入ったレフェリーを殴ったとして、187,500ドルの罰金を科された。同年10月20日、アンドリュー・ゴロタが2回終了時に戦意喪失し、セコンドが必死に制止するも自ら試合を放棄(試合後に左頬の骨折、脳震盪が判明する<ref>{{cite web|url= https://www.cbsnews.com/news/doctor-confirms-golotas-injuries/ |title= Doctor Confirms Golota's Injuries |publisher= AP通信 |date= 2000年10月22日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>)したためTKO勝利となるが、タイソンは試合前の尿検査を拒否していたために3ヶ月間の出場停止処分を受け<ref>{{cite web|url= https://www.cbc.ca/sports/michigan-board-suspends-tyson-s-boxing-licence-1.258809 |title= Michigan board suspends Tyson's boxing licence |publisher= CBC |date= 2001年1月16日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>、さらにその後、タイソンの試合後の尿検査から大麻の陽性反応が検出されたことで、試合結果がノーコンテストに変更された<ref>{{cite web|url= https://abcnews.go.com/Sports/story?id=99931&page=1 |title= Mike Tyson Tested Positive for Marijuana |publisher= ABC News |date= 2001年1月18日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : [[2002年]]4月6日、ネバダ州ラスベガスで[[レノックス・ルイス]]と対戦することが決定していたが、1月22日にニューヨークで行われた公開記者会見のステージ上で、タイソンがいきなり足早に歩み寄って、ルイスに襲いかかろうとするも、ボディーガードに阻止されるとタイソンはそのボディーガードに向かって殴りかかり、そこからタイソンとルイスがパンチを放ち合い床に転がり取っ組み合いになると両陣営が入り乱れた大乱闘に発展した。タイソンは乱闘が一段落すると、ステージの先頭に立ち、記者席にいたルイスの母親か女性フォトグラファーに向かって股間を掴みながら下品な罵り言葉を発し、そして、ある記者の「タイソンには拘束衣を着せるべきだ」との言葉を聞きつけると、その記者に向かって差別用語や卑俗な言葉を浴びせ悪態をついた。この乱闘に巻き込まれ、歯を折った上にテーブルに頭をぶつけて失神したWBC会長[[ホセ・スレイマン]]は、タイソンにつばを吐きかけられ殺すと脅されたとして、後にタイソンとルイスを相手取り、5600万ドルの訴訟を起こした<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/boxing/specials/lewis_v_tyson_fight/2169825.stm |title= Tyson brawl sparks $56m lawsuit |publisher= BBC SPOTT |date= 2002年8月3日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。また、タイソンは乱闘の最中にルイスの太ももに噛み付いたことを認め、335,000ドルの罰金を支払っている。この乱闘によりネバダ州アスレチック・コミッションはタイソンへのボクシングライセンス交付を拒否、このため試合は延期となり、他の州のアスレチック・コミッションにもライセンス交付を拒否されるも、最終的に[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]で開催されることとなった。 : [[2002年]]6月8日、35歳で[[レノックス・ルイス]]の持つWBC、IBF、[[国際ボクシング機構|IBO]]世界ヘビー級王座に挑戦。タイソンの衰えは顕著で一方的な試合となり8RKO負け。 : [[2003年]]2月22日、顔面に刺青を入れた姿でリング初登場し、クリフォード・エティエンヌにKO勝利。この後レノックス・ルイスから再戦のオファーを受けるが、タイソンは再戦を断っている。6月、暴行容疑で再度逮捕<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3009694.stm |title= Tyson arrested after hotel brawl |publisher= BBC |date= 2003年6月21日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。7月、[[ドン・キング]]のボディーガードからタイソンに殴られ顔を骨折したとして訴えられる<ref>{{cite web|url= https://www.deseret.com/2003/7/13/19734853/king-s-bodyguard-sues-tyson-over-fight-injuries |title= King's bodyguard sues Tyson over fight injuries |publisher= Deseret News |date= 2003年7月13日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。8月2日、米連邦裁判所に破産を申請。 : [[2004年]]4月15日、[[K-1]]の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、レイプと薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、アメリカ合衆国での試合開催も検討されるが実現しなかった<ref>{{cite web|url= http://www.tysontalk.com/article48.html |title= Finkel Speaks About Details On Tyson Comeback: McBride and Mesi fights close |publisher= Tyson Talk |date= 2004年4月22日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。7月30日、[[ダニー・ウィリアムズ]]と対戦。賭け率では9対1とタイソンは圧倒的有利だったが、1ラウンド中盤で左[[膝]]の[[靭帯損傷|靭帯断裂]]。その怪我が響き、4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。 ; 事実上の引退 : [[2005年]]6月11日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名の[[ケビン・マクブライド]]を相手に戦うも、動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負け。タイソンは2008年制作のドキュメンタリー番組でこの試合について、「金のためだけに戦った、勝てると思っていなかった」「体調不良でありボクシングに真剣に取り組むことにうんざりしていた」など語っている。試合後のリング上でのインタビューで「もう再び戦うつもりはない、もう戦うガッツも勇気もない」と、引退を示唆した<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/boxing/4084744.stm |title= Tyson quits boxing after defeat |publisher= BBC SPORT |date= 2005年6月12日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref name="intai">[https://nikkan-spa.jp/1479011 日大アメフト事件で振り返る、世界の悪質プレー。 本場NFLでも…] 日刊SPA! 2018年05月22日 (2020年12月14日閲覧)</ref>。正式な引退発表はしなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。 === 引退後 === [[ファイル:Mike Tyson festival de Cannes.jpg|thumb|120px|2008年、カンヌ国際映画祭にて]] : [[2006年]]3月18日、[[総合格闘技]]団体「WCFC」で[[審判員|レフェリー]]を務めた。 : 2006年[[4月3日]]、[[中華人民共和国]]の[[毛主席記念堂]]を訪問する<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4871610.stm|title=Big Mike shakes off the pounds – and his lethargy|publisher=[[BBCニュース|BBC NEWS]]|date=2006-04-03|accessdate=2016-11-08}}</ref>。服役中に読んだ[[毛沢東]]を崇拝するタイソンの右腕には毛沢東の入れ墨も彫られている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2900568|title=元ボクシング王者マイク・タイソン氏、今後は「歌って踊りたい」|publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2012-09-23|accessdate=2016-11-08}}</ref>。 : 2006年8月、ラスベガスの[[プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ|アラジン・ホテル]]で、ランチタイムに[[ビュッフェ]]レストランの脇に設置されたリングで「タイソンズ・トレーニング・キャンプ」と題した、ミット打ちなどのトレーニング風景を披露する定期余興を行う<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/boxing/5326980.stm |title= Tyson reduced to Vegas turn |publisher= BBC SPORT |date= 2006年9月13日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.espn.com/sports/boxing/news/story?id=2567337 |title= Tyson becomes just another attraction on Vegas Strip |publisher= ESPN |date= 2006年8月30日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : 2006年10月20日、元スパーリングパートナーのコーリー・サンダースと4ラウンドのエキシビション試合で対戦。試合は、サンダースはヘッドギアを着用したが、タイソンはヘッドギアを着用せずに行われた。当初は「マイク・タイソン・ワールド・ツアー」と称され、世界中を回るツアーを行うとしていたが、この1試合で終了している<ref>{{cite web|url= http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/boxing/5393536.stm |title= Debt-ridden Tyson returns to ring |publisher= BBC SPORT |date= 2006年9月29日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : 2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、麻薬影響下の運転および[[コカイン]]所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。逮捕時にタイソンはコカインを常用しており中毒であると認めた<ref>{{cite web|url= https://www.reuters.com/article/us-crime-tyson/former-boxer-tyson-arrested-on-dui-cocaine-charges-idUSN2923975220061229 |title= Former boxer Tyson arrested on DUI, cocaine charges |publisher= Reuters |date= 2007年1月21日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.reuters.com/article/us-tyson-plea/mike-tyson-pleads-guilty-to-drug-possession-idUSN2427488820070924 |title= Mike Tyson pleads guilty to drug possession |publisher= Reuters |date= 2007年9月25日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。[[2007年]]11月19日、禁錮1日と執行猶予3年の判決。 : [[2008年]]5月16日、[[ジェームズ・トバック]]監督によるドキュメンタリー“[[マイク・タイソン THE MOVIE]]”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。 : [[2009年]]6月6日、ラキハ・スパイサーと3度目の結婚<ref>[http://boxingnewsboxon.blogspot.com/2009/06/blog-post_7676.html タイソン氏3度目の結婚] [[ボクシング・ビート|ボクシングニュース「Box-on!」]] 2009年6月12日</ref>。11月11日、[[ロサンゼルス国際空港]]で自分と家族の写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが<ref>{{cite web|url= https://www.tvguide.com/news/mike-tyson-arrested-1011995/ |title= Mike Tyson Arrested in Airport Scuffle |publisher= TV GUIDE |date= 2009年11月12日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。 : [[2010年]]1月11日、[[WWE]]に再登場し、[[WWE RAW|RAW]]でヒールの[[クリス・ジェリコ]]と組み、因縁の残る[[D-ジェネレーションX]]の[[ショーン・マイケルズ]]、[[トリプルH]]組と対戦。タイソンはパートナーのクリス・ジェリコを裏切って殴打し、ノックアウトした。 : [[2010年]]7月2日、[[メッカ巡礼]]のためサウジアラビア入りをする<ref>[https://web.archive.org/web/20100707173305/https://www.asahi.com/international/update/0704/TKY201007040230.html マイク・タイソンさん、メッカ巡礼 服役後に入信] [[朝日新聞|朝日新聞デジタル]] 2010年7月4日</ref>。 : 2011年3月6日、[[アニマルプラネット]]でタイソン主演の[[リアリティ番組]]「マイク・タイソンと鳩レース」放送開始<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-19831720110304 タイソン氏「ハトは人生の一部」、TV番組で意外な一面披露] [[ロイター|ロイター通信]] 2011年3月4日</ref>。この番組は話題を呼び、[[2014年]]からは大人向けのアニメチャンネルでタイソンと鳩を主人公にしたアニメ「Mike Tyson Mysteries」が放送された<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0067356 マイク・タイソンを直撃、自身のアニメと過去を振り返る!] [[シネマトゥデイ]] 2014年10月19日</ref>。 : 2011年6月12日、[[国際ボクシング殿堂]]への殿堂入りを果たす。 : [[2012年]]3月31日、[[プロレス]]団体[[WWE]]の『[[レッスルマニアXIV]]』のメインイベントにて特別レフェリーを務めた経緯から、[[WWE殿堂]]に迎えられた。 : 2012年8月、ラスベガスで[[スタンダップコメディ]]のワンマンショーを行う。[[スパイク・リー]]とのコラボレーションで[[ブロードウェイ・シアター]]でも公演を行った。2013年2月から「Mike Tyson: Undisputed Truth」と題した、スタンダップコメディの公演で36都市を回る全米ツアーを行う。 : [[2013年]]8月、記者会見において「俺は死にたくない。俺は悪質なアルコール依存症で死にかけている」と告白<ref>{{Cite web|title='I'm a vicious alcoholic on the verge of dying': Boxing legend Tyson reveals he's been lying for years about being sober|url=https://www.dailymail.co.uk/sport/boxing/article-2401691/Mike-Tyson-reveals-alcoholic-close-death.html|website=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2013-08-25|accessdate=2019-03-05}}</ref>。11月12日、自叙伝「Undisputed Truth」を出版。同書の日本語訳は2014年7月18日、「マイク・タイソン自伝 真相」のタイトルで出版されている<ref>[https://diamond.jp/category/s-tyson 真相――マイク・タイソン自伝] [[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]]</ref>。 : 2013年9月、[[FOXスポーツ|FOXスポーツ1]]で全6回のドキュメンタリー「BEING MIKE TYSON」が放送された<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000029.000006648.html マイク・タイソンに密着したドキュメンタリー 【BEING MIKE TYSON】 FOXスポーツ&エンターテイメントで日本独占放送!] [[PR TIMES]] 2014年6月10日</ref>。同番組は、イベンダー・ホリフィールド、[[ジム・ブラウン]]、[[モハメド・アリ]]、総合格闘技団体[[UFC]]との交流、若手ボクサー指導や[[ブロードウェイ]]挑戦の模様などを撮影したものである。 : [[2015年]]12月に香港をはじめ世界で公開された[[ドニー・イェン]]主演の人気映画シリーズ「[[イップ・マン 序章]]」「[[イップ・マン 葉問]]」に続くパート3「[[イップ・マン 継承]]」に出演、劇中ドニー・イェンとのアクションを披露した。映画はアジアの国々で大ヒットとなった<ref>[https://www.recordchina.co.jp/a129700.html 海外で「最も売れた中国語映画」に!人気シリーズ最新作「イップ・マン3」、各国で新記録を樹立―香港] [[Record China|レコードチャイナ]] 2016年2月24日</ref>。 : [[2017年]]11月9日、アクション映画の授賞式に出席する予定だった[[チリ]]で犯罪歴を理由に出入国管理法違反で入国を禁じられる。2012年には[[ニュージランド]]で入国ビザが下りず、2013年には[[イギリス]]でも入国拒否をされている<ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.reuters.com/article/tyson-idJPKBN1DA03Z |title= ボクシング=元ヘビー級王者タイソン氏、チリが入国拒否 |publisher= ロイター |date= 2017年11月10日 |accessdate= 2018年3月20日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3149985?cx_position=7 |title= マイク・タイソン氏、チリで入国拒否される 犯罪歴を理由に |publisher= AFPBB News |date= 2017年11月10日 |accessdate= 2018年3月20日}}</ref>。 : [[2018年]]1月、[[大麻]]が合法化されたカリフォルニア州で40エーカーの土地を購入して大麻農園「タイソン農園」を開いた<ref>{{cite web|url= https://www.thesun.co.uk/sport/boxing/5252020/mike-tyson-cannabis-weed-california/ |title= ROPE A DOPE Mike Tyson opens new 40-acre cannabis ranch after California legalises weed |publisher= [[ザ・サン|The Sun]] |date= 2018年1月2日 |accessdate= 2019年7月31日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://fnmnl.tv/2018/01/04/44794 |title= マイク・タイソンが16ヘクタールのマリファナ畑をカリフォルニアに購入 |publisher= FNMNL |date= 2018年1月4日 |accessdate= 2019年7月31日}}</ref>。2019年5月には[[世界アンチ・ドーピング機関]]に対して、大麻の主成分である[[テトラヒドロカンナビノール]](THC)を禁止薬物から除外するよう求める嘆願書に150人以上のスポーツ選手と共に署名し提出した<ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.reuters.com/article/tyson-idJPKCN1SU0B0 |title= ドーピング=タイソン氏ら、禁止薬物から大麻除外を要望 |publisher= ロイター通信 |date= 2019年5月24日 |accessdate= 2019年7月31日}}</ref>。 ; エキシビションで復帰 : [[2020年]]4月24日、ラッパー[[T.I.]]との[[インスタグラム]]のライブ配信で、「トレーニングをしてリングに上がろうとしてるんだ。チャリティーのために、3、4ラウンドのエキシビションのボクシングをやるための身体を作ってるのさ。チャリティー・エキシビションで金を稼いで、ホームレスや俺みたいな薬物中毒野郎を助けてやるんだ」と語った<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-open-doing-exhibition-fights-charity--148478 |title= Mike Tyson Open To Doing Exhibition Fights For Charity |publisher= Boxing Scene.com |date= 2020年4月24日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。5月12日、ミット打ちを行うトレーニング動画を自身の[[インスタグラム]]で公開。動画の最後で「俺は戻ってきた」と述べ、復帰を示唆した<ref>{{cite web|url= https://www.cnn.co.jp/showbiz/35153671.html |title= 53歳のマイク・タイソン、リングに「復帰」か 練習動画を公開 |publisher= CNN.co.jp |date= 2020年5月13日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-22 |url=https://the-ans.jp/news/114545/ |title=53歳タイソン、復帰仕様の“ド迫力ボディー”完成 激変理由は完全菜食主義 |publisher=Anser |accessdate=2020-06-06}}</ref>。 : 2020年6月20日、インスタグラムのライブ配信で、「いいか聞いてくれ。[[UFC]]はボクシングよりも人気があって、テレビ視聴率もより高いよな? でもUFCの選手は(ボクシングの)ファーストクラスの選手より裕福になることはない。1億ドルを稼ぐために、[[コナー・マクレガー]]は[[フロイド・メイウェザー・ジュニア]]と戦わなければならなかった。(UFC世界ライトヘビー級王者)[[ジョン・ジョーンズ]]はスーパーマネーを稼ぎたいなら、俺と戦わなければならない」と語った<ref>{{cite web|url= https://www.essentiallysports.com/boxing-news-jon-jones-got-to-fight-me-if-he-wants-some-super-money-mike-tyson/ |title= "Jon Jones Got To Fight Me If He Wants Some Super Money |publisher= Essentially Sports |date= 2020年6月20日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。これにジョーンズはインスタグラムで「(ボクシングの)対戦が終わった後に、オクタゴンでリアルファイトをしてくれると約束をしてくれるなら、あなたとリングでボクシングをします。あなたをとても尊敬しているので、あなたを壊すことはないと約束します」と返事をした<ref>{{cite web|url= https://www.instagram.com/p/CBr87xklKxL/?utm_source=ig_embed |title= I’ll box you in the ring if you promise to give me a real fight in the octagon afterwards |publisher= ジョン・ジョーンズ公式インスタグラム |date= 2020年6月22日 |accessdate= 2020年6月24日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/jon-jones-mike-tyson-ill-box-you-if-you-face-me-octagon-afterwards--149672 |title= Jon Jones To Mike Tyson: I'll Box You - If You Face Me in Octagon Afterwards! |publisher= Boxing Scene.com |date= 2020年6月22日 |accessdate= 2020年6月24日}}</ref>。この他にも、タイソン自身が「素晴らしい試合になる」とイベンダー・ホリフィールド戦を示唆したり<ref>{{cite web|url= https://www.tmz.com/2020/05/21/mike-tyson-evander-holyfield-fight-meditation/ |title= HOLYFIELD REMATCH FOR CHARITY?!? 'That Would Be Awesome' |publisher= TMZ |date= 2020年5月21日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref>、[[ベアナックル・ボクシング]]の団体[[Bare Knuckle Fighting Championship|BKFC]]がタイソンに2000万ドル(約21億円)で[[ヴァンダレイ・シウバ]]との試合オファーを出したり<ref>{{cite web|url= https://www.ringtv.com/605377-bkfc-says-mike-tyson-turns-down-20-million-offer-to-fight-bareknuckle/#.XxZ2fZHL0bY.twitter |title= BKFC SAYS MIKE TYSON TURNED DOWN $20 MILLION OFFER TO FIGHT BAREKNUCKLE |publisher= THE RING |date= 2020年7月20日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.mmafighting.com/2020/5/24/21269071/bkfc-to-up-20-million-offer-to-mike-tyson-wanderlei-silva-pitched-as-potential-foe |title= BKFC to up $20 million offer to Mike Tyson, Wanderlei Silva pitched as potential foe |publisher= MMAFighting |date= 2020年5月24日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref>、[[タイソン・フューリー]]が[[ESPN]]から1000万ドル(約11億円)でタイソン戦のオファーを受けたことを明かすなどした<ref>{{Cite web|和書|url= https://the-ans.jp/news/117984/ |title= タイソン戦10億円オファー受けていた フューリーが暴露も対戦は否定「俺としては…」 |publisher= |date= 2020年6月25日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/tyson-fury-i-offered-peanuts-mike-tyson-exhibition-it-crazy--149742 |title= Tyson Fury: I Was Offered Peanuts For Mike Tyson Exhibition, It Was Crazy! |publisher= Boxing Scene.com |date= 2020年6月25日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref>。 : 2020年5月27日、プロレス団体[[オール・エリート・レスリング]]に出場。10年前にタイソンがWWEで裏切ってノックアウトした因縁の相手クリス・ジェリコと挑発合戦を展開した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkansports.com/battle/news/202005290000421.html |title= 復帰意欲のタイソン氏、プロレスでも因縁相手と乱闘 |publisher= 日刊スポーツ |date= 2020年5月29日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 : [[2020年]]7月23日、ファイター、野球選手、バスケットボール選手、サッカー選手等の最盛期を過ぎたスポーツ選手の参戦がコンセプトのボクシングリーグ「レジェンド・オンリー・リーグ」をエロス・イノベーションのソフィー・ワッツと共同で設立し、アプリケーション会社[[Triller (アプリケーション)|Triller]]と提携。レジェンド・オンリー・リーグが主催する同年9月12日の興行で、元4階級制覇の[[ロイ・ジョーンズ・ジュニア]]を相手にエキシビションマッチを行うことを発表<ref>{{cite web|url= https://deadline.com/2020/07/mike-tyson-return-to-ring-ppv-exhibition-fight-against-roy-jones-jr-legends-only-league-1202993283/ |title= Mike Tyson Announces Return To Ring In PPV Exhibition Fight Against Roy Jones, Jr. For His Legends Only League |publisher= Deadline |date= 2020年7月23日 |accessdate= 2021年4月7日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.sportspromedia.com/opinion/mike-tyson-legends-only-league-triller-boxing |title= At Large | Mike Tyson, the Legends Only League and old stars in a world of new content |publisher= SportsPro |date= 2020年8月6日 |accessdate= 2021年4月7日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.tmz.com/2020/07/23/mike-tyson-fighting-roy-jones-jr-boxing-comeback-exhibition-triller/ |title= MIKE TYSON I'M FIGHTING ROY JONES JR.... Tyson Opens As Betting Favorite |publisher= TMZ |date= 2020年7月23日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkansports.com/battle/news/202007240000061.html |title= タイソン氏「I AM BACK」対戦予告動画投稿 |publisher= 日刊スポーツ |date= 2020年7月24日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-24 |url=https://jp.reuters.com/article/boxing-tyson-idJPKCN24P03D |title=ボクシング=タイソン氏、ジョーンズ・ジュニア氏と対戦へ |publisher=ロイター |accessdate=2020-07-23}}</ref>。その翌日にはタイソンが大麻を吸いながら契約書にサインする映像が公開された。試合の報酬について、ジョーンズ・ジュニアは[[ペイ・パー・ビュー]]の売り上げが好調であれば自身の報酬は1000万ドル(約11億円)に到達すると語り、タイソンは自身の報酬は全て慈善団体に寄付すると語ったが、タイソンの代理人は寄付の金額は試合後に決められるとした<ref>{{cite web|url= https://www.tmz.com/2020/07/24/mike-tyson-roy-jones-jr-fight-contract-money-joint/ |title= MIKE TYSON VS. ROY JONES Tyson Signed Contract ...WHILE SMOKIN' A JOINT!!! |publisher= TMZ |date= 2020年7月24日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref>。 : 2020年8月11日にロイ・ジョーンズ・ジュニアとのエキシビションマッチが9月12日から11月28日に延期されることが発表された<ref>{{cite web|url= https://www.tmz.com/2020/08/11/mike-tyson-roy-jones-jr-badou-jack-viddal-riley/ |title= MIKE TYSON EXPLAINS NEW DATE FOR ROY JONES FIGHT... Adds Badou Jack To Undercard |publisher= TMZ |date= 2020年8月11日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://hochi.news/articles/20200812-OHT1T50181.html |title= マイク・タイソン氏の“復帰戦”が11月に延期 「多くの人に見てもらう機会を与えられる」 |publisher= スポーツ報知 |date= 2020年8月12日 |accessdate= 2020年9月4日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://the-ans.jp/news/124034/|title=54歳タイソンの"破壊的"5連打 最新トレに米絶賛「ミットが破れんばかりに…」|publisher=THE ANSWER|date=2020-08-20|accessdate=2020-11-04}}</ref>。 ; タイソン vs ロイ・ジョーンズ・ジュニア : 2020年11月29日、カリフォルニア州の[[ステイプルズ・センター]]にてロイ・ジョーンズ・ジュニアと対戦。タイソンが54歳でジョーンズ・ジュニアも52歳と両者ともに高齢のため安全対策が取られ、通常の1ラウンド3分から1ラウンド2分に短縮され<ref>{{cite web|url= https://www.bbc.com/sport/boxing/54742359 |title= Mike Tyson and Roy Jones Jr say two-minute rounds are 'for women' |publisher= BBC |date= 2020年10月29日 |accessdate= 2020年11月14日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkansports.com/battle/column/ring/news/202011100000142.html |title= タイソン立腹、ジョーンズJr戦のルールどうなる? |publisher= 日刊スポーツ |date= 2020年11月10日 |accessdate= 2020年11月14日}}</ref>、通常ヘビー級で使用される10オンスのグローブではなく12オンスのグローブを使用する特別ルールの、8回戦のエキシビジョンマッチで対戦し、8回を終わっても決着が付かず、WBCが選んだ元世界王者による3人の非公式ジャッジが<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/tyson-jones-csac-wont-score-announce-winner-wbc-judges-revealed--153411 |title= Tyson-Jones: CSAC Won’t Score, Announce Winner, WBC Judges Revealed |publisher= ESPN.com |date= 2020年11月20日 |accessdate= 2020年11月24日}}</ref>、[[チャド・ドーソン]](76–76)、[[クリスティ・マーチン]](79–73)、[[ビニー・パジェンサ]](76–80)と判定したことで、1-1の判定ドローとなった。WBCがこの試合のために特別に制作した、中央部に[[ブラック・ライヴズ・マター]]の文字が刻印されたフロントライン・バトル・ベルトが両者に贈られた<ref>{{cite web|url= https://www.thesun.co.uk/sport/13027548/tyson-jones-jr-wbc-frontline-battle-belt/ |title= WHAT A BELTER Mike Tyson and Roy Jones Jr to fight for WBC Frontline Battle Belt with ‘Black Lives Matter’ engraved on it |publisher= THE SUN |date= 2020年10月26日 |accessdate= 2020年11月14日}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=タイソン「2分が3分のように長かった」ドロー決着 |newspaper=日刊スポーツ |date=2020-11-29 |url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202011290000345.html |accessdate=2020-12-16 |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]}}</ref>。またタイソンは、試合前にマリファナ(大麻)使用(カリフォルニア州は娯楽目的の大麻使用が合法化されている)を告白していたが、そのためドーピング検査からマリファナ(大麻)が除外され<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.livedoor.com/article/detail/19306293/ |title= マイク・タイソンが試合前の大麻使用を告白 |publisher= livedoor NEWS |date= 2020年12月5日 |accessdate= 2020年12月5日}}</ref>、タイソンは試合当日にもマリファナを使用してリングに上った<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2020/12/01/kiji/20201130s00021000538000c.html |title= お騒がせ男健在!?タイソン氏、試合前に大麻「痛みではなく俺自身をまひさせるんだ」 |publisher= スポニチ |date= 2020年12月1日 |accessdate= 2021年6月14日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.badlefthook.com/2020/11/29/21724799/mike-tyson-smoked-weed-right-before-exhibition-bout-roy-jones-jr-boxing-news-2020 |title= Mike Tyson says he smoked weed right before exhibition bout with Roy Jones Jr |publisher= Bad Left Hook |date= 2021年11月29日 |accessdate= 2021年6月10日}}</ref>。尚、この試合のタイソンのトレーナーには元総合格闘家の[[ハファエル・コルデイロ]]が就いた<ref>{{cite web|url= https://www.thesun.co.uk/sport/boxing/13274806/rafael-cordeiro-mike-tyson-trainer-mma/ |title= Who is Mike Tyson’s trainer Rafael Cordeiro? MMA star training boxing legend for Roy Jones Jr comeback |publisher= THE SUN |date= 2020年11月25日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref>。 : 2021年3月18日、自身のポッドキャスト「Hotboxin」で復帰第二戦を5月29日か5月31日に行うと発表した<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-announces-memorial-day-weekend-fight-miami--156225 |title= Mike Tyson Announces Memorial Day Weekend Fight In Miami |publisher= Boxing Scene.com |date= 2021年3月18日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref>。しかし3月21日に自身のInstagramで「私は次のイベントのための契約をTrillerと交わしていません。私はレジェンド・オンリー・リーグの共同経営者です。私が今後、イベントやビジネスをTrillerと行うことは決してありません」とTrillerとの決別を宣言すると<ref>{{cite web|url= https://www.dazn.com/en-DK/news/boxing/mike-tyson-says-he-will-no-longer-work-with-triller/3p3dasxocbhr1pm530a5hwkl8 |title= MIKE TYSON SAYS HE WILL NO LONGER WORK WITH TRILLER |publisher= DAZN |date= 2021年3月18日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref>、これに対してTrillerが2023年11月28日までのタイソンのイベントの先買権を所有していると主張する法的書簡を関係各所に送付したことで両者間で契約問題のこじれが生じていることが発覚した<ref>{{cite web|url= https://www.ringtv.com/619501-triller-sends-out-legal-letter-concerning-rights-to-market-another-mike-tyson-fight/ |title= TRILLER SENDS OUT LEGAL LETTER CONCERNING RIGHTS TO MARKET ANOTHER MIKE TYSON FIGHT |publisher= The Ring |date= 2021年3月21日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-insists-evander-holyfield-fight-on-we-promoters--156363 |title= Mike Tyson Insists Evander Holyfield Fight Is On: "We Don't Need Promoters" |publisher= Boxing Scene.com |date= 2021年3月23日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref>。その後、タイソンは「私とイベンダー・ホリフィールドは近いうちに実現すると思う」と発言しつつも「プロモーターは必要ない」とTrillerとのトラブルが解決していないことを示唆<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-insists-evander-holyfield-fight-on-we-promoters--156363 |title= Mike Tyson Insists Evander Holyfield Fight Is On: "We Don't Need Promoters" |publisher= Boxing Scene.com |date= 2021年3月23日 |accessdate= 2021年4月12日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-i-want-holyfied-i-want-lennox-lewis-this-year--156718 |title= Mike Tyson: I Want Holyfield and I Want Lennox Lewis This Year! |publisher= Boxing Scene.com |date= 2021年4月8日 |accessdate= 2021年4月12日}}</ref>。復帰第二戦の対戦相手としてイベンダー・ホリフィールドと交渉していたがTrillerとの契約問題などから交渉が頓挫したことで、ホリフィールドはケビン・マクブライドと対戦することになったとが報じられた<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/evander-holyfield-kevin-mcbride-meet-june-5-exhibition-co-main-lopez-kambosos-triller-ppv--156828 |title= Evander Holyfield-Kevin McBride To Meet In June 5 Exhibition As Co-Main For Lopez-Kambosos Triller PPV |publisher= Boxing Scene.com |date= 2021年4月11日 |accessdate= 2021年4月12日}}</ref>。その後、タイソンとジョーンズの両者がファイトマネーが全額支払われていないと主張したが、Trillerの[[ライアン・カヴァノー]]は、2500万ドル(約27億円)をタイソン側に支払った銀行の証明書があると声明を出し、タイソンの次のエキシビション試合の権利をTrillerが保有していると主張した<ref>{{cite web|url= https://www.badlefthook.com/2021/6/28/22554499/triller-responds-tmike-tyson-have-proof-paid-full-rights-next-fight-boxing-news-2021 |title= Triller respond to Mike Tyson, say they have proof he was paid in full and they have rights to any exhibitions he does next |publisher= Bad Left Hook |date= 2021年6月28日 |accessdate= 2021年7月6日}}</ref>。 : 2022年1月23日、UFC代表ダナ・ホワイトと一緒にポッドキャスト番組にゲスト出演。番組の中でタイソンは、最低保証1,000万ともいわれるファイトマネーをTrillerからまだ全額支払いを受けていないと訴え、タイソンが自身のポッドキャストで対戦したいと話したことで、対戦交渉中と報道されていた人気[[YouTuber]][[ジェイク・ポール]]との試合も、タイミングを失ったため興味がなくなった明かした。そして、ホワイトからタイソンが試合をするのをもう見たくないと言われると、「俺ももう試合をするとは思わないけど、先のことはどうなるかわからないよ」と話した<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-money-from-jones-fight-still-held-up-i-think-ill-ever-fight-again--163634 |title= Mike Tyson: Money From Jones Fight 'Still Held Up' - I Don't Think I'll Ever Fight Again |publisher= Boxing Scene.com |date= 2022年1月23日 |accessdate= 2022年6月21日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.the-sun.com/sport/boxing/4480624/mike-tyson-jake-paul-exhibition-boxing-fight/ |title= PAUL-SY MOVE Mike Tyson in advanced talks with Jake Paul about £36m fight after verbally agreeing deal despite 30-YEAR age gap |publisher= THE SUN |date= 2022年1月17日 |accessdate= 2022年6月21日}}</ref>。 : 2022年4月18日、ロイ・ジョーンズ・ジュニアと対戦した復帰戦は当初はロイ・ジョーンズとではなく[[ボブ・サップ]]と対戦予定だったことを明かした<ref>{{cite web|url= https://www.dailystar.co.uk/sport/boxing/mike-tyson-boxing-drug-comeback-26734502 |title= Mike Tyson's boxing comeback encouraged by 'psychedelic drug' from a rare species of toad |publisher= Daily Star |date= 2022年4月18日 |accessdate= 2022年6月21日}}</ref>。 : 2022年6月17日、[[ジミー・キンメル・ライブ!]]に出演した際に、司会の[[ジミー・キンメル]]からジェイク・ポールとの対戦について聞かれ「非常に興味深いよ、全て可能だ、でも今年中に実現しないとな、今年中だ」と対戦を希望した<ref>{{cite web|url= https://www.bloodyelbow.com/2022/6/18/23173579/mike-tyson-jake-paul-bout-is-really-interesting-but-it-gotta-happen-this-year |title= https://www.bloodyelbow.com/2022/6/18/23173579/mike-tyson-jake-paul-bout-is-really-interesting-but-it-gotta-happen-this-year |publisher= Bloody Elbow |date= 2022年6月18日 |accessdate= 2022年6月21日}}</ref>。 == 評価 == 1998年に[[リングマガジン]]が発表した「史上最高のヘビー級(The Greatest Heavyweights of All-Time)」では14位にランキングされている。同じくリングマガジンが2002年に発表した「過去80年間のベストファイター80(the 80 Best Fighters of the Last 80 Years)」では72位にランキングされている<ref>{{cite web|url= https://www.liveabout.com/ring-magazine-fighter-rankings-4153939 |title= Ring Magazine's 80 Best Fighters of the Last 80 Years |publisher= Ring Magazine |date= 2018年2月22日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。同じくリングマガジンが2003年に発表した「史上最高のパンチャー100(100 greatest punchers of all time)」では16位にランキングされている<ref>{{cite web|url= https://www.liveabout.com/ring-magazine-top-punchers-of-all-time-424118 |title= Ring Magazine Top 100 Punchers Of All Time |publisher= Ring Magazine |date= 2018年9月7日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 == 人物 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2012年9月}} === アリとの関係 === ボクシングにおける「時代を超えた夢の対決」としてファンの間で語り草になっているのがタイソンと[[モハメド・アリ]]である<ref>[https://sportsbrief.com/boxing/30334-muhammad-ali-mike-tyson-boxer/ Muhammad Ali Vs Mike Tyson: Who was the better boxer and why?] Sports Brief 2022年12月15日</ref>。アリとタイソンが初めて出会ったのは1989年のテレビ番組である。この際「アリとタイソン、全盛期同士ならどちらが勝つ?」という質問に、アリは「もし彼が私を捕らえたら私は眠ってしまうだろう」「彼は真の王者だ」と答え、タイソンは「俺は自惚れする生意気だが、この状況では、全ての頭は彼にお辞儀をし、全ての口は彼を"史上最高"だと告白しなければならない」とアリに敬意を表した<ref>[https://talksport.com/sport/boxing/1124256/muhammad-ali-mike-tyson-prime-fight-boxing-goat-ko/amp/ GOATS When Muhammad Ali and Mike Tyson talked who would win a fight in their primes – ‘I don’t know what would have happened if he hit me!’] talkSPORT 2022年6月6日</ref>。また、タイソンは「アリのようなファイターは他にいない。彼は[[モデル (職業)|モデル]]のように美しい見た目だったが、リング上では獰猛だった。まるで美しい見た目をした[[ティラノサウルス]]のようだ。私なんかが彼に勝てるわけがない。絶対に有り得ない」と語り、[[フロイド・メイウェザー・ジュニア]]が自分はアリよりも偉大だという旨の発言をした際には、タイソンは「奴は妄想的だ。"偉大"という言葉は自己保身のために使うものではない。これは人々から受け入れられるものだ。奴は一人で子供達を学校へ連れて行くことさえできない。小さな臆病な男だ」と怒りを露わにした<ref>[https://www.givemesport.com/1528570-boxing-legend-mike-tyson-says-he-wouldnt-beat-a-prime-muhammad-ali/ Boxing legend Mike Tyson says he wouldn’t beat a prime Muhammad Ali] GiveMeSport 2019年12月10日</ref>。 === レノックス・ルイスとの初対面 === [[レノックス・ルイス]]は[[2019年]]に[[ジョー・ローガン]]の[[ポッドキャスト]]で、タイソンと初めて出会ったのが18歳の時だった(タイソンは当時17歳)と振り返っている。当時、ルイスはカナダ代表として[[ドミニカ共和国]]の[[サントドミンゴ]]で行われた世界ジュニア選手権で優勝し、この際に居合わせたアメリカ代表チームから「お前はまだ最強の男と戦っていない」と言われたため、ルイスが「アメリカは最強のチームを連れてきてないのか?」と尋ねたところ「その男とトレーナーは飛行機に乗るのが苦手だからここに来ていないんだ。彼らの名はマイク・タイソンと[[カス・ダマト]]だ」と答えたという。その後、ルイスはタイソンとダマトの住む[[ニューヨーク州]]キャッツキルに向かい、17歳のタイソンと初対面を果たし3日間スパーリングを行った。ルイスはタイソンの第一印象として「彼はとてもいい人だった」と振り返っているが、いざスパーリングが始まると豹変し殺す気でパンチを打ってきたという。また、スパーリングの際にタイソンのトレーナーで養父でもあったダマトが「マイク!お前はいずれ彼(ルイス)と戦うことになるんだ!しっかりしろ!」とタイソンに向かって叱咤していたといい、実際にルイスとタイソンは2002年に対戦している<ref>[https://www.thesun.co.uk/sport/11103139/mike-tyson-lennox-lewis-sparring-fight/amp/ LEN A HAND Lennox Lewis tells unknown story of sparring legend Mike Tyson at 17 when pair were on way to becoming world’s best] The Sun 2022年6月8日</ref>。 === その他 === * かつて[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送されていた『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』にゲストとして出演したことがある。 * 1987年に元々は景品用だった[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]のゲームソフト、『[[パンチアウト!!]]』を、日本国内ではタイソン自身がゲーム中に出てくる『マイクタイソン・パンチアウト!!』として一般販売された。CMやパッケージにもタイソンが起用されていたが、肖像権や数々の不祥事により[[バーチャルコンソール]]等で移植される際、同じ動きながら別キャラクターのMr.Dreamに差し替えられた、海外再販版になっている。 * 1990年に試合で来日した際、練習の合間に[[飯田橋]]の[[レンタルビデオ|レンタルビデオショップ]]へ行くと、[[千葉真一]]の出演作品を上機嫌で借りていた<ref>{{Cite news |title = タイソン公開スパーでも… 楽観ムード包まれ違和感 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2021-02-16 |author = 首藤正徳 |authorlink = 首藤正徳 |url = https://www.nikkansports.com/sports/column/hyakkei/news/202102150000680.html |accessdate = 2021-02-20 |publisher = [[日刊スポーツ新聞社]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20210217113808/https://www.nikkansports.com/sports/column/hyakkei/news/202102150000680.html |archivedate = 2021-02-17 |postscript = 。 }}</ref>。 * 『[[ストリートファイターII]]』に登場している[[マイク・バイソン]](MIKE BISON、M.BISON)は彼がモデルとなっているが、海外版では肖像権等の影響で名前のみ[[バルログ (ストリートファイター)|バルログ]](BALROG)に変更されている。 * 『[[ドラゴンボール]]』に登場している[[武天老師]]の欧米での名前であるM.ROSHIは彼の名字がモデルとなっているが、こちらのMはMASTERの略字である。 * 2009年に娘を事故で失い、そのショックから立ち直り人生を変えるため、肉食を絶ち[[ヴィーガン]](菜食主義)になっていたが、2013年にヴィーガンをやめ鶏肉を食べていると語っている。 * 自叙伝「Undisputed Truth」の中で、現役時代に試合前に禁止薬物を服用し、薬物使用の発覚を逃れるために偽物の性器と他人の尿を使って薬物検査をパスしていた事を明かした。11歳の時に初めてコカインを使用して、プロボクシングデビュー時は薬物を一時的にやめていたが再び薬物に手を出し、2002年1月のレノックス・ルイスとの会見での乱闘騒ぎや、2004年にダニー・ウィリアムズに敗れた試合でも、直前まで薬物を使用し、「完全な[[コカイン]]中毒だった」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0058051 |title= マイク・タイソン、試合前の薬物使用を認める 検査には他人の尿を使用 |publisher= シネマトゥデイ |date= 2013年11月13日 |accessdate= 2018年3月20日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://japan.techinsight.jp/2013/11/yokote2013111309020.html |title= マイク・タイソン自叙伝でボクシング界に激震。「薬物検査にはいつも側近の尿。俺はコカイン依存だった」! |publisher= [[Techinsight|テックインサイト]] |date= 2013年11月13日 |accessdate= 2018年3月20日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/204590/ |title= タイソン「偽装ペニス」で薬物検査逃れ |publisher= 東京スポーツ |date= 2013年11月16日 |accessdate= 2021年6月14日}}</ref>。 * [[UFC]]代表の[[ダナ・ホワイト]]と親交があり、計量会場やリングサイドによく出没している<ref>[http://mmaplanet.jp/5137 【UFC160】マイク・タイソンも登場。公開計量終了――。] [[MMAPLANET]] 2013年5月25日</ref>。ダナ・ホワイトに悪戯したりもする<ref>[https://mmajunkie.usatoday.com/2014/06/mike-tyson-again-punks-dana-white-on-the-ufc-jet Mike Tyson (again) punks Dana White on the UFC jet] MMAjunkie 2014年6月18日</ref>。 * [[PlayStation 4|PS4]]/[[Xbox One]]対応ゲームソフト『EA SPORTS UFC 2』に非MMA選手ながら予約特典として登場。通常の購入の場合は、キャリアモードを殿堂入りしてクリアすることにより、全盛期のタイソンと現在のタイソンを使用することができる。テイクダウンやサブミッションを使用できないという特殊なキャラクターで、圧倒的なパンチスピードと破壊力抜群のパンチを誇る。 * [[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、[[右派]]の[[ドナルド・トランプ]]([[共和党 (アメリカ)|共和党]])を支持した<ref>[https://www.cbsnews.com/pictures/celebrities-who-support-donald-trump/10/ Mike Tyson - Celebrities who support Donald Trump] [[CBSニュース|CBS News]]</ref>。 * 顔面のトライバル柄の[[入れ墨]]は、2003年2月22日のクリフォード・エティエンヌ戦の数日前に思い立ち入れたものだが、タイソン本人は当初は顔面にハート型の入れ墨を彫ろうとしていたが、彫師に思い止まるように言われ、代わりに提案されたトライバル柄をタイソンも気に入り彫ったものである<ref>{{cite web|url= https://talksport.com/sport/boxing/708972/story-behind-mike-tyson-face-tattoo-heavyweight-hearts/ |title= The story behind Mike Tyson’s infamous face tattoo with heavyweight legend originally wanting hearts |publisher= talkSPORT |date= 2020年5月22日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 * [[ローガン・ポール]]や自身の試合の前座に出場した[[ジェイク・ポール]]などの[[YouTuber]]がボクシングへ進出することに対して批判が少なくない中、タイソンは、ボクシングが「お爺ちゃんのお気に入りのスポーツ」とされることがあるほどファン層の偏りが見られるためボクシングの将来の成長のためにファンの多様化は重要とされている背景もあり、「[[YouTube]]スターはボクシングを大いに助けている。ボクシングはYouTuberボクサーたちに敬意を払う必要があるくらいの恩がある。こいつらはボクシングを活性化させてくれてるんだ。ボクシングはほとんど死にかけているスポーツだった。UFCが俺たちを打ち負かしていたのさ。今YouTubeボクサーたちを手に入れ、ボクシングは戻って来ている。YouTubeボクサーたちに感謝だ」と称賛している<ref>{{cite web|url= https://www.boxingscene.com/mike-tyson-youtube-stars-make-boxing-alive-ufc-kicking-our-butt--153751 |title= Mike Tyson: YouTube Stars Make Boxing Alive - UFC Was Kicking Our Butt! |publisher= Boxing Scene.com |date= 2020年12月4日 |accessdate= 2021年4月4日}}</ref>。 * 自著『真相 マイク・タイソン自伝』にはセックス、ドラッグ、アルコールなど現役時代の無軌道な生活ぶりの数々が描写されている。カス・ダマトが死去した翌年には一度に300万ドルを使って宝飾品を買い、街ですれ違った女性までもその場ですぐにベッドに連れ込み、誕生日にはホテルに20近い寝室を用意させた。レイプ事件を受けての刑務所暮らしですらも、所内で恐喝を行ったり、面会に来たファンの女性とセックスを行ったり、獄中でイスラム教に改宗したにもかかわらず儀式直後に聖歌隊の少女を籠絡したりとやりたい放題であった<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140926_275697.html?DETAIL 650ページのタイソン自伝は全編桁外れなエピソードの連続 (1/2ページ)] NEWS ポストセブン 2014.09.26 07:00 (SAPIO2014年10月号、2020年10月22日閲覧)</ref>。 == 私生活 == 最初の妻[[ロビン・ギヴンズ]]との結婚生活は、1988年2月7日に結婚してから1989年2月14日に離婚するまでわずか1年しか続かなかった。1988年9月にタイソンと一緒に出演したテレビ番組でギヴンズが、タイソンとの結婚生活は「生き地獄、純粋な地獄」と訴えたことで早くも夫婦間の軋轢が表面化すると、ギヴンズはさらに、タイソンから暴力や虐待を受けている、タイソンは躁うつ病であるなどと主張し、離婚を申し立てた<ref>{{cite web|url= https://people.com/archive/as-wife-robin-givens-splits-for-the-coast-mike-tyson-rearranges-the-furniture-vol-30-no-16/ |title= As Wife Robin Givens Splits for the Coast, Mike Tyson Rearranges the Furniture |publisher= People |date= 1988年10月17日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。一方のタイソンも後に暴力を振るっていたことは認めるが、ギヴンズは財産目的で結婚したのであり、妊娠をしたと嘘をつかれたとして、結婚の無効を主張した<ref>{{cite web|url= https://web.archive.org/web/20070515050704/http://findarticles.com/p/articles/mi_m1077/is_n3_v44/ai_6932688 |title= Mike Tyson vs. Robin Givens: the champ's biggest fight |publisher= FindArticles |date= 1989年1月 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 2人目の妻モニカ・ターナーとの結婚生活は、1997年4月19日から2003年1月14日まで続いた。ターナーが2002年1月に、5年間の間に浮気をされたとして離婚を申請した。 2009年5月26日、4歳の娘が事故で死去する。自宅のプレイルームでトレッドミルのコードが首に巻きついて意識を失っている状態で発見され、母親が救急車を呼び病院に運ばれるが、翌日に亡くなった<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0018229 |title= マイク・タイソンの4歳の娘、エクササイズ・マシンで窒息死 |publisher= シネマトゥデイ |date= 2009年5月27日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 娘の死去からわずか11日後の2009年6月6日に、死去した娘の母親とは別の長年付き合っていた女性ラキハ・スパイサーと結婚した<ref>{{cite web|url= https://www.tvguide.com/news/mike-tyson-marries-1006746/ |title= Mike Tyson Marries Two Weeks After Daughter's Death |publisher= TV GUIDE |date= 2009年6月10日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://news.livedoor.com/article/detail/4196284/ |title= 【イタすぎるセレブ達・番外編】マイク・タイソン娘の死からたった2週間、恋人とラスベガスで極秘結婚。 |publisher= TechinsightJapan |date= 2009年6月10日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 タイソンはレイプ事件で有罪判決を下された際に、裁判官から命じられて精神鑑定を受け、[[双極性障害]]と医師から診断されている<ref>{{cite web|url= https://abcnews.go.com/Nightline/story?id=2431583 |title= Who Is the 'New Mike Tyson'? |publisher= ABC.NEWS |date= 2006年9月14日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 2011年3月に、酒や薬物を絶った生活を送っており、[[ヴィーガニズム|ヴィーガンダイエット]]などで生活が改善していると語っていたが、2013年8月に、「ここ数年断酒していると話してきたけれど嘘だった」「しらふで生活したい。死にたくない。重度のアルコール中毒であるため、死の淵にいる」「6日間、アルコールも薬物も摂取していない。これは自分にとって奇跡」と述べ、薬物とアルコールの中毒で命が危ぶまれている状態であると公表した<ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.reuters.com/article/l4n0gr01e-boxing-tyson-idJPTYE97P00N20130826 |title= ボクシング=タイソン氏が薬物依存告白、「死のふちにいる」 |publisher= ロイター |date= 2013年8月26日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref><ref>{{cite web|url= https://sports.yahoo.com/blogs/boxing/former-heavyweight-champion-mike-tyson-m-verge-dying-171611493.html |title= Former heavyweight champion Mike Tyson: ‘I’m on the verge of dying because I’m a vicious alcoholic.’ |publisher= Yahoo.Sports |date= 2013年8月26日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。その後2013年12月には、規則正しい生活を送り依存症克服のため[[12ステップのプログラム]]に通っていると語っているが、ヴィーガンについては、「4年間ヴィーガンだったがもうそうではない、時々鶏肉を食べている」とヴィーガンは止めたと語った<ref>{{cite web|url= https://www.foxnews.com/entertainment/mike-tyson-talks-religon-i-need-allah |title= Mike Tyson talks religon: 'I need Allah' |publisher= FOX NEWS |date= 2013年12月6日 |accessdate= 2020年6月21日}}</ref>。 うつ病で自殺願望があった時に[[マジックマッシュルーム]]([[シロシビン]])などの[[幻覚剤]]を使用して症状が改善し命を救われたと語っている<ref>{{cite web|url= https://www.reuters.com/lifestyle/sports/mike-tyson-says-psychedelics-saved-his-life-now-he-hopes-they-can-change-world-2021-05-28/ |title= Mike Tyson says psychedelics saved his life, now he hopes they can change the world |publisher= ロイター |date= 2021年5月29日 |accessdate= 2021年6月14日}}</ref>。またヒキガエルの分泌物([[5-メトキシ-N,N-ジメチルトリプタミン]])を使用したところ薬物依存やアルコール依存が改善して人生観が変わったと語っている<ref>{{cite web|url= https://www.lucid.news/5-meo-dmt-changed-mike-tysons-perspective-on-life/ |title= 5-MeO-DMT Changed Mike Tyson’s Perspective on Life |publisher= Lucid News |date= 2020年12月5日 |accessdate= 2021年6月14日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.gqjapan.jp/culture/article/20190904-mike-tyson-smokes-the-toad-1 |title= マイク・タイソンが経営する大麻リゾートとは?──きっかけは「ヒキガエル」を吸ったこと |publisher= GQ |date= 2019年9月3日 |accessdate= 2021年6月14日}}</ref>。 2022年4月20日、[[サンフランシスコ]]から[[フロリダ]]に向かう[[ジェットブルー]]の航空機内で、タイソンに水をかけるなど嫌がらせをする男性客にタイソンは繰り返し殴りかかったが、刑事告訴はされなかった<ref>{{cite news|url=https://www.nbcnews.com/news/us-news/video-shows-mike-tyson-physical-altercation-jet-blue-flight-rcna25479 |title=Video shows Mike Tyson in physical altercation aboard JetBlue flight|date= 2022年4月21日 |accessdate= 2023年4月23日|publisher=NBC News|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web|url= https://www.youtube.com/watch?v=V3C4pWwDqps |title= Mike Tyson Repeatedly Punches Man In Face On Plane, Bloodies Passenger |publisher= YouTube |date= 2022年4月21日 |accessdate= 2023年4月23日}}</ref>。 == アイアン・マイク・プロモーションズ == 2012年1月にプロモーターのギャリー・ジョナスがアクウェインティ・スポーツというボクシングプロモーションを設立。 2013年8月にジョナスがタイソンと共同経営の契約を結び、プロモーション名をアイアン・マイク・プロモーションズに変更<ref>[http://boxingnews.jp/news/4686/ マイク・タイソン氏が来月プロモーター・デビュー] Boxing News(ボクシングニュース) 2013年7月20日</ref>。 2014年11月以降興行を主催しておらず活動を停止した。 ; 主な元所属選手 * [[アルヘニス・メンデス]](元[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[スーパーフェザー級]]王者) * [[ファン・カルロス・パヤノ]](元[[世界ボクシング協会|WBA]][[スーパー王座|スーパー]]・[[国際ボクシング機構|IBO]]世界[[バンタム級]]王者) == 日本の格闘技団体等との関係 == * タイソンのネームバリューを狙った、K-1やPRIDEなどの日本の格闘技団体がタイソン招聘を望んでいた。 * 2003年8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASでは[[ボブ・サップ]]が[[キモ・レオポルド|キモ]]との試合後に、リングサイドで観戦していたタイソンがリングに入り込んだ事で、サップが殴りかかり「Tyson, you're next!!(タイソン、次はお前だ!)」と挑発。タイソンが「Sign the contract big boy.(契約書にサインしな、デカい坊や)」と返答したことからサップとの対戦が行われるのではと期待を煽ったが、高額なファイトマネーや、タイソンの犯罪歴による入国不可問題により、対戦は実現しなかった。サップは当初から対戦が頓挫すると予想していたが、これ以来タイソンとサップは共に食事に出かけるなど友人関係を築き上げている<ref>ボブ・サップ『野獣の怒り』([[双葉社]])</ref>。 == 戦績 == * プロボクシング:58戦 50勝 44KO 6敗 2無効試合 {{Fightstatstop}} {{Fightstatscont|1|1985年3月6日|{{Yes2}}☆|1R 1:47|TKO|ヘクター・メルセデス|{{USA}}|プロデビュー戦}} {{Fightstatscont|2|1985年4月10日|{{Yes2}}☆|1R|TKO|トレント・シングルトン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|3|1985年5月23日|{{Yes2}}☆|4R|KO|ドナルド・ハルビン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|4|1985年6月20日|{{Yes2}}☆|1R 0:39|KO|リッキー・スペイン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|5|1985年7月11日|{{Yes2}}☆|2R|TKO|ジョン・アンダーソン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|6|1985年7月19日|{{Yes2}}☆|3R 2:04|KO|ラリー・シムズ|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|7|1985年8月15日|{{Yes2}}☆|1R 1:05|KO|ロレンゾ・キャナディ|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|8|1985年9月5日|{{Yes2}}☆|1R 0:39|KO|マイケル・ジョンソン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|9|1985年10月9日|{{Yes2}}☆|1R 1:28|TKO|ドニー・ロング|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|10|1985年10月25日|{{Yes2}}☆|1R 0:37|TKO|ロバート・コーリー|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|11|1985年11月1日|{{Yes2}}☆|1R 0:54|TKO|スターリング・ベンジャミン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|12|1985年11月13日|{{Yes2}}☆|1R 1:17|KO|エディ・リチャードソン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|13|1985年11月22日|{{Yes2}}☆|2R|TKO|コンロイ・ネルソン|{{USA}}|}} {{Fightstatscont|14|1985年12月16日|{{Yes2}}☆|1R 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|publisher= Bad Left Hook |date= 2015-10-23 |accessdate= 2015-10-27}}</ref> |- |{{年月日 | year=1991 | month=3 | day=18 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ドノバン・ラドック 1''' |96万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1991 | month=6 | day=28 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ドノバン・ラドック 2''' |125万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1995 | month=8 | day=15 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ピーター・マクニーリー''' |155万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1996 | month=3 | day=16 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''フランク・ブルーノ''' |137万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1996 | month=9 | day=7 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ブルース・セルドン''' |115万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1996 | month=9 | day=11 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''イベンダー・ホリフィールド 1''' |159万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1997 | month=6 | day=28 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''イベンダー・ホリフィールド 2''' |199万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=1999 | month=1 | day=16 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''フランソワ・ボタ''' |75万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=2000 | month=10 | day=20 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''アンドリュー・ゴロタ''' |45万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=2002 | month=6 | day=8 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''レノックス・ルイス''' |197万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=2003 | month=2 | day=22 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''クリフォード・エティエンヌ''' |10万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=2004 | month=7 | day=30 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ダニー・ウィリアムズ''' |15万件<ref name="TysonPPV" /> |- |{{年月日 | year=2005 | month=6 | day=11 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ケビン・マクブライド''' |25万件<ref name="TysonPPV" /> |} === エキシビション === {| class="wikitable" ! 日付!! イベント !! 売上げ |- |{{年月日 | year=2020 | month=11 | day=29 }} |'''マイク・タイソン''' vs. '''ロイ・ジョーンズ・ジュニア''' |{{Display none|1600_}}160万件<ref>{{cite web|url= https://www.usatoday.com/story/sports/boxing/2020/12/07/mike-tyson-vs-roy-jones-jr-bout-80-m-pay-per-view-bonanza/6487482002/ |title= Mike Tyson's return to boxing against Roy Jones Jr. generated more than $80 million in revenue |publisher= USA TODAY |date= 2020年12月8日 |accessdate= 2021年1月29日}}</ref> |} == 出演作品 == === 映画 === * [[クロコダイル・ダンディー in L.A.]] ''Crocodile Dundee in Los Angeles''(2001) * [[ロッキー・ザ・ファイナル]] ''Rocky Balboa''(2006) * {{仮リンク|マイク・タイソン THE MOVIE|en|Tyson (2008 film)}} ''Tyson''(2008) * [[ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い]] ''The Hangover''(2009) * [[ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える]] ''The Hangover: Part II''(2011) * [[リベンジ・マッチ]] ''Grudge Match'' (2013) * ''Mike Tyson: Undisputed Truth''(2013) * [[イップ・マン 継承]] ''Ip Man 3''(2015) * [[沈黙の大陸]]'' CHINA SALESMAN''(2017) * {{仮リンク|キックボクサー ザ・リベンジ|en|Kickboxer: Retaliation}} ''Kickboxer: Retaliation''(2018) === CM === * サントリードライ([[サントリー]]、1988年) * トヨタトラック([[トヨタ自動車]]、[[トヨタ・ダイナ|ダイナ]]・[[トヨタ・トヨエース|トヨエース]]・[[トヨタ・ハイエース|ハイエーストラック]]との共同CM、1988年 - 1989年) * [[パンチアウト!!|マイクタイソン・パンチアウト!!]]([[任天堂]]、ファミコンソフト) === アニメ === * ''Mike Tyson Mysteries'' (2014年 - 2020年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[男子ボクサー一覧]] * [[世界ボクシング協会世界王者一覧|世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧]] * [[世界ボクシング評議会世界王者一覧|世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧]] * [[国際ボクシング連盟世界王者一覧|国際ボクシング連盟(IBF)世界王者一覧]] * [[統一世界王者]] * [[ジョー小泉]] - 1986年から3年あまり日本代理人としてタイソンのエージェントを務める。 == 外部リンク == * [https://miketyson.com/ Mike Tyson Official Site]{{en icon}} * {{twitter|MikeTyson|Mike Tyson}} * {{Instagram|miketyson|Mike Tyson}} * {{facebook|miketyson|Mike Tyson}} * [https://www.wwe.com/superstars/mike-tyson WWE Hall of Fame]{{en icon}} * {{IMDb name|0005512|Mike Tyson}} * {{Boxrec|id=474|name=マイク・タイソン}} {{Championshiptitle||[[世界ボクシング評議会|WBC]]|世界[[ヘビー級]]|トレバー・バービック|ジェームス・ダグラス|1986年11月22日 - 1990年2月11日}} {{Championshiptitle||[[世界ボクシング協会|WBA]]|世界[[ヘビー級]]|ジェームス・スミス|ジェームス・ダグラス|1987年3月7日 - 1990年2月11日}} {{Championshiptitle||[[国際ボクシング連盟|IBF]]|世界[[ヘビー級]]|トニー・タッカー|ジェームス・ダグラス|1987年8月1日 - 1990年2月11日}} {{Championshiptitle次空||[[世界ボクシング評議会|WBC]]|世界[[ヘビー級]]|フランク・ブルーノ|レノックス・ルイス|1996年3月16日 - 1996年9月24日(剥奪)}} {{Championshiptitle||[[世界ボクシング協会|WBA]]|世界[[ヘビー級]]|ブルース・セルドン|イベンダー・ホリフィールド|1996年9月7日 - 1996年11月9日}} {{WWE殿堂}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいそん まいく}} [[Category:マイク・タイソン|*]] [[Category:アメリカ合衆国の男子ボクサー]] [[Category:アフリカ系アメリカ人のボクサー]] [[Category:アメリカ合衆国のムスリム]] [[Category:イスラム教への改宗者]] [[Category:ヘビー級世界王者]] [[Category:世界ボクシング協会世界王者]] [[Category:世界ボクシング評議会世界王者]] [[Category:国際ボクシング連盟世界王者]] [[Category:総合格闘技審判員]] [[Category:WWE殿堂]] [[Category:国際ボクシング名誉の殿堂博物館]] [[Category:アメリカ合衆国のスタンダップ・コメディアン]] [[Category:大麻関連の実業家]] [[Category:ブルックリン出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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ジェノサイド
ジェノサイド(英: genocide)は、国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊することである。ジェノサイド条約第2条によれば、国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為のこと。集団殺害(しゅうだんさつがい)、大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)。 genocide はギリシャ語の γένος(種族:英語の接頭辞でgenos)とラテン語 -caedes(殺害:英語の接尾辞でcide)の合成語であり、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン(英語版)により『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治』(1944年)の中で使用された造語である。 ジェノサイドの防止と処罰を規定したジェノサイド条約第2条によれば、ジェノサイドは次のように定義される。 日本語では「集団殺害」や「大量虐殺」と訳されることが多いが、上記の通りジェノサイドには対象の殺害が伴わない場合もある。また、大量虐殺であっても、民族・人種抹殺の目的を伴わない場合はジェノサイドに当らない。 レムキンは、ドイツの大学で言語学を学習していた頃、アルメニア人虐殺の生存者でベルリンでタラート・パシャを暗殺したソゴモン・テフリリアン(英語版)の裁判に関心を持ち、法学を学習し始め、1929年に学位を取得した。 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。レムキンはこれを逃れ、その後スウェーデンを経て渡米しのデューク大学に赴く。1944年に連合国側であったアメリカで、カーネギー国際平和財団から『Axis Rule in Occupied Europe(占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治)』を刊行。同書のなかで、「国民的集団の絶滅を目指し、当該集団にとって必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とする様々な行動を統括する計画」を指す言葉として、「ジェノサイド」(genocide)という新しい言葉を造語した。 なお、レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは1941年8月、ウィンストン・チャーチル英首相のBBCラジオ放送演説における「我々は名前の無い犯罪に直面している」という言葉によるという。彼自身の家族や親族も49人がナチスによって殺害されたという。のちに、1945年のニュルンベルク裁判の検察側最終論告において主任検事ベンジャミン・フェレンツによって、「ジェノサイド」が初めて使用された。 なお、ホロコースト否定論者のジェームス・J・マーティン(英語版)らは、レムキンがカーネギー国際平和財団から出版したことや、ルーズベルト大統領政権で外国経済行政の主席研究員をつとめており、敵国押収財産の配分と実務処理を担当していたことなどから、ユダヤ・ロビーとの関連性を主張している。 国際連合で採択された(1948年)ジェノサイド条約(集団抹殺犯罪の防止及び処罰に関する条約、Genocide Convention)(第2条)国民的、民族的、人種的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる次のような行為と定義されている(カッコ内は条約で明言されていない具体例についての通説)。 同条約第3条により、次の行為は集団殺害罪として処罰される。 旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程第4条2項並びに、国際刑事裁判所規程第6条には、ジェノサイド条約第2条と同様の規定があり、「集団殺害」について定義されている。 国際司法裁判所は、1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対ユーゴスラビア)(管轄権)判決において、ジェノサイド条約によって承認された権利と義務が、ジェノサイド条約という枠組みを超えて、対世的な(erga omnes)権利と義務であると認定した。 かつ、同裁判所は、2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」(2002年新提訴、コンゴ民主共和国対ルワンダ)判決において、ジェノサイドの禁止がjus cogensの性質を有すると認定した。 以下、国際連合または一部の国にジェノサイドと認められている事例を概説する。ジェノサイドであるかどうか当事国の間で議論となっている事例、また国際世論において大まかにジェノサイドであると見なされているものもある。 政治学者の添谷育志は「ジェノサイド概念を超歴史的に適用することは、歴史責任問題を無限に拡大することになりかねない。」と指摘している。 条約上の集団殺害罪に該当するもの。なお、民族浄化の項目も参照のこと。国連でジェノサイドに該当すると認定された行為は意外と少ない。例として以下のものが挙げられる。 18世紀以降のオーストラリアにおけるアボリジニ(先住民)の強制同化政策。オーストラリア連邦議会の調査書でこれが条約によって規定されるジェノサイドに該当するとの見解が出されたが、政府はこれに反発している。 19世紀末から20世紀初頭にかけてのオスマン帝国のアルメニア人虐殺。アメリカ合衆国政府がジェノサイドと認定しトルコ政府はこの見解に反発しているが、国際的には論争が続いている。 1930年代のウクライナでのホロドモール。ソビエト連邦による人為的な飢餓と弾圧により多くの人々が死亡した。国際連合および欧州議会では人道に対する罪として認定された。 1933年のナチ党の権力掌握から1945年のナチス・ドイツ崩壊までの間に発生した、ナチスによるユダヤ人などに対するホロコースト。「ジェノサイド」の用語はナチスによる大量虐殺を説明する用語として造られ、ニュルンベルク裁判の起訴状に使用された。 ノーム・チョムスキーは「歴史上で最も酷い犯罪だ」と発言し、マイケル・シャーマーは、広島と長崎への原爆投下が「非道徳的、違法、人類に対する罪でさえある」と主張する議論を取り上げている。 ポル・ポト、タ・モク、その他の指導者が率いるクメール・ルージュは、カンボジア大虐殺を引き起こした。犠牲者の総数は、1975年から1979年の間に、奴隷労働による死亡者を含めて170万人と推定されている。 2003年6月6日、カンボジア政府と国際連合は、クメールルージュの最高幹部が犯した犯罪を裁く特別法廷 (ECCC) をカンボジア裁判所に設置することに合意、裁判官は2006年7月初旬に宣誓を行った。 大量虐殺の容疑は、カンボジアのベトナム人とチャム族の少数民族の殺害に関連しており、数万人、おそらくそれ以上の犠牲者がいると推定されている。 一部の国際法学者とカンボジア政府の間で、法廷で裁判にかけるべき人々について意見の相違があった。 1990年代から2000年代までの旧ユーゴスラビアにおけるユーゴスラビア紛争。特にボスニア内戦時の民族浄化。国際司法裁判所は、1995年7月13日より始まったVRS(ボスニアのセルビア人武装勢力)によるスレブレニツァにおける虐殺(スレブレニツァの虐殺)をジェノサイド条約2条上の集団殺害と認定した。 1994年春にルワンダで行われた虐殺。進行している虐殺がジェノサイドであると判断される場合は条約調印国全部に介入義務が生じるため、介入を避けようとしたアメリカほか調印国の抵抗により国連でその認定が遅れ、その際にジェノサイド的行為(act of genocide)が行われていると見解を発表するにとどまった。虐殺終了後に事後的にジェノサイドであると認定された。(ルワンダ紛争、ルワンダ国際戦犯法廷参照) 2003年以降のダルフール紛争における集団虐殺。ジェノサイドであるとの正式な認定が国連で行われていないために強制的な介入は行われていない。 中華人民共和国による複数の少数民族に対する政策。アメリカ合衆国政府などがジェノサイドと批判し、中国政府は虚偽と反発している。 2008年のチベット騒乱時に、ダライ・ラマ14世は中華人民共和国によるチベットでのデモ活動の鎮圧などを「文化的虐殺」と非難した。 2019年頃より、新疆ウイグル自治区でイスラム教徒であるウイグル人が累計100万人が中国政府により「再教育施設」と呼ばれる施設に収容され、洗脳、虐待、強制不妊などが行われていると報道された。2021年1月、アメリカのドナルド・トランプ大統領政権は、中国政府による新疆ウイグル自治区での少数民族ウイグル人虐殺を、国際条約上の民族大量虐殺である「集団殺害(ジェノサイド)」であり、かつ「人道に対する罪」に認定したと発表した。2021年、バイデン政権もこの決定を引き継ぐと発表した。2021年1月20日、在米の中国大使館がTwitter上で「過激主義を根絶する過程で、新疆のウイグル人の女性たちの心は解放された」、「彼女らはもはや子作りの機械ではなくなった」など書き込んだことで、アカウントを一時凍結された。2021年1月26日、日本の外務省担当者は自民党外交部会で、この件について「中国のウイグル弾圧をジェノサイドとは認めていない」という認識を示した。 また1960年代から1970年代の中華人民共和国による内モンゴル人民革命党粛清事件を、楊海英は「ジェノサイド」と主張している。 ここまでに挙げた「ジェノサイド」は、要件を人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為としている。これに対して、存在に対する抹消行為という意味での比喩的な意味(用法)として、以下のような文脈で用いられることがある。
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ジェノサイドは、国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊することである。ジェノサイド条約第2条によれば、国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為のこと。集団殺害(しゅうだんさつがい)、大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)。
{{otheruses}} [[File:Nyamata Memorial Site 13.jpg|thumb|250 px|[[ルワンダ虐殺|ルワンダ大虐殺]]の犠牲者のために作られた[[ニャマタ虐殺記念館]]。]] '''ジェノサイド'''({{lang-en-short|genocide}})は、[[国家]]あるいは[[民族]]・[[人種]]集団を計画的に[[破壊]]することである<ref name="西井2007-51">西井正弘「ジェノサイド」『世界大百科事典 12 シ―シャ』平凡社、2007年9月1日 改訂新版発行、51頁。</ref>。[[ジェノサイド条約]]第2条によれば、国民的、人種的、民族的、[[宗教]]的な[[集団]]の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為のこと<ref name="斉藤1995-337">[[斉藤功高]]「ジェノサイド」国際法学会編『国際関係法辞典』三省堂、1995年8月10日 第1刷発行、ISBN 4-385-15750-2、377頁。</ref>。'''集団[[殺害]]'''(しゅうだんさつがい)、'''大量[[虐殺]]'''(たいりょうぎゃくさつ)<ref name="西井2007-51"/><ref name="斉藤1995-337"/>。 == 定義と由来 == {{lang|en|genocide}} は[[ギリシャ語]]の {{lang|grc|γένος}}([[種族]]:英語の接頭辞でgenos)と[[ラテン語]] {{lang|en|-caedes}}(殺害:英語の接尾辞でcide)の[[合成語]]であり<ref name="西井2007-51"/>、[[ユダヤ系ポーランド人]]の法律家{{仮リンク|ラファエル・レムキン|en|Raphael Lemkin}}により『占領下のヨーロッパにおける[[枢軸国]]の統治』(1944年)の中で使用された造語である{{Sfn|スプリンガー|2010|pp=16–19}}<ref name="西井2007-51"/>{{Sfn|添谷|2011|p=28}}。 ジェノサイドの防止と処罰を規定した[[ジェノサイド条約]]第2条によれば、ジェノサイドは次のように定義される。 *ジェノサイドとは、国民的、人種的、民族的または宗教的集団を全部または一部破壊する事を目的に行われた次のいずれかの行為を意味する。 ** 集団構成員を殺害すること。 ** 集団構成員に対して重大な肉体的または精神的な危害を加えること。 ** 全部または一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。 ** 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。 ** 集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。 [[日本語]]では'''「集団殺害」'''や'''「大量虐殺」'''と訳されることが多いが、上記の通りジェノサイドには対象の殺害が伴わない場合もある。また、大量虐殺であっても、民族・人種抹殺の目的を伴わない場合はジェノサイドに当らない。 === ラファエル・レムキンによる発案 === レムキンは、[[ドイツ]]の大学で[[言語学]]を学習していた頃、[[アルメニア人虐殺]]の生存者で[[ベルリン]]で[[タラート・パシャ]]を[[タラート・パシャ暗殺事件|暗殺]]した{{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en| Soghomon Tehlirian}}の[[裁判]]に関心を持ち、[[法学]]を学習し始め、1929年に[[学位]]を取得した{{Sfn|スプリンガー|2010|pp=16–19}}。 [[1939年]]9月、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]が[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]した。レムキンはこれを逃れ、その後[[スウェーデン]]を経て渡米しの[[デューク大学]]に赴く。[[1944年]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側であった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で、[[カーネギー国際平和財団]]から『{{lang|en|Axis Rule in Occupied Europe}}(占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治)』を刊行。同書のなかで、「'''国民的集団の絶滅を目指し、当該集団にとって必要不可欠な生活基盤の破壊を目的とする様々な行動を統括する計画'''」を指す言葉として、「ジェノサイド」(genocide)という新しい言葉を造語した{{Sfn|添谷|2011|p=32}}。 なお、レムキンが「ジェノサイド」という言葉を思いついたのは[[1941年]]8月、[[ウィンストン・チャーチル]]英首相の[[英国放送協会|BBC]]ラジオ放送演説における「我々は名前の無い犯罪に直面している」という言葉によるという{{Sfn|添谷|2011|p=45}}<ref>{{lang|en|Samantha Power}}、{{lang|en|A Problem from Hell: America and the Age of Genocide}}、ロンドン、フラミンゴ出版社、2002年(邦訳サマンサ・パワー『集団人間 破壊の時代――平和維持活動と市民の役割』(星野尚美訳、ミネルヴァ書房、2010 年{{要ページ番号|date=2015-06-22}})</ref>。彼自身の家族や親族も49人がナチスによって殺害されたという。のちに、[[1945年]]の[[ニュルンベルク裁判]]の検察側最終論告において主任検事ベンジャミン・フェレンツによって、「ジェノサイド」が初めて使用された{{Sfn|添谷|2011|p=47}}。 なお、[[ホロコースト否定|ホロコースト否定論者]]の{{仮リンク|ジェームス・J・マーティン|en|James J. Martin}}らは、レムキンがカーネギー国際平和財団から出版したことや、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領政権で外国経済行政の主席研究員をつとめており、敵国押収財産の配分と実務処理を担当していたことなどから、ユダヤ・ロビーとの関連性を主張している{{Sfn|添谷|2011|p=48}}<ref>James J. Martin, The Man Who Invented ‘Genocide’: The Public Career and Consequences of Raphael Lemkin, California: Institute for Historical Review, 1984。木村愛二『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版,1995年)325-327 頁。</ref>。 == ジェノサイド条約 == {{Main|ジェノサイド条約}} === ジェノサイド条約における定義 === [[国際連合]]で採択された([[1948年]])[[ジェノサイド条約]](集団抹殺犯罪の防止及び処罰に関する条約、{{en|Genocide Convention}})(第2条)国民的、民族的、人種的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる次のような行為と定義されている(カッコ内は条約で明言されていない具体例についての通説)。 # 集団構成員を殺すこと # 集団構成員に対して、重大な肉体的又は精神的な危害を加えること #* (拷問、[[強姦]]、薬物その他重大な身体や精神への侵害を含む) # 集団に対して故意に、全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を課すること #* (医療を含む生存手段や物資に対する簒奪・制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む) # 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること #* (結婚・出産・妊娠などの生殖の強制的な制限を含み、強制収容・移住・隔離などをその手段とした場合も含む) # 集団の児童を、他の集団に強制的に移すこと #* (強制のためのあらゆる手段を含む) 同条約第3条により、次の行為は集団殺害罪として処罰される。 # 集団殺害(ジェノサイド) # 集団殺害を犯すための共同謀議 # 集団殺害を犯すことの直接且つ公然の教唆 # 集団殺害の未遂 # 集団殺害の共犯 [[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷|旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]]規程第4条2項並びに、[[国際刑事裁判所]]規程第6条には、ジェノサイド条約第2条と同様の規定があり、「集団殺害」について定義されている。 === 人道に対する罪との違い === {{See|人道に対する罪}} === 1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」判決 === [[国際司法裁判所]]は、1996年の「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対ユーゴスラビア)(管轄権)判決において、ジェノサイド条約によって承認された権利と義務が、ジェノサイド条約という枠組みを超えて、[[対世効|対世的]]な(''erga omnes'')権利と義務であると認定した<ref>''C.I.J.Recueil 1996'', Vol.II, p.616, par.31</ref>。 === 2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」判決 === かつ、同裁判所は、2006年の「コンゴ民主共和国領における武力行動事件」(2002年新提訴、コンゴ民主共和国対ルワンダ)判決において、ジェノサイドの禁止が''[[jus cogens]]''の性質を有すると認定した<ref>''C.I.J.Recueil 2006'', par.64</ref>。 == 事例 == 以下、[[国際連合]]または一部の国にジェノサイドと認められている事例を概説する。ジェノサイドであるかどうか当事国の間で議論となっている事例、また国際世論において大まかにジェノサイドであると見なされているものもある。 政治学者の[[添谷育志]]は「ジェノサイド概念を超歴史的に適用することは、歴史責任問題を無限に拡大することになりかねない。」と指摘している{{Sfn|添谷|2011|p=41}}。 条約上の[[ジェノサイド条約|集団殺害罪]]に該当するもの。なお、[[民族浄化]]の項目も参照のこと。国連でジェノサイドに該当すると認定された行為は意外と少ない。例として以下のものが挙げられる。 === オーストラリアのアボリジニ強制同化政策 === 18世紀以降の[[オーストラリア]]における[[アボリジニ]]([[先住民]])の強制同化政策。[[オーストラリア連邦議会]]の調査書でこれが条約によって規定されるジェノサイドに該当するとの見解が出されたが、政府はこれに反発している。 === アルメニア人虐殺 === 19世紀末から20世紀初頭にかけての[[オスマン帝国]]の[[アルメニア人虐殺]]。[[アメリカ合衆国]]政府がジェノサイドと認定し[[トルコ]]政府はこの見解に反発しているが、国際的には論争が続いている。 === ウクライナのホロドモール === [[1930年代]]の[[ウクライナ]]での[[ホロドモール]]。[[ソビエト連邦]]による人為的な[[飢餓]]と[[弾圧]]により多くの人々が死亡した。[[国際連合]]および[[欧州議会]]では[[人道に対する罪]]として認定された<ref>{{cite web | url = http://www.europarl.europa.eu/sides/getDoc.do?language=en&type=IM-PRESS&reference=20081022IPR40408 | title =Parliament recognises Ukrainian famine of 1930s as crime against humanity | publisher = [[欧州議会]] | date = 23-10-2008 | accessdate = 2011-05 }}</ref><ref>{{cite web | url = http://en.wikisource.org/wiki/Joint_Statement_on_Holodomor | title =Joint Statement on Holodomor | work = [[国際連合]] | publisher = [[ウィキメディア財団]] | date = November 10, 2003 | accessdate = 2011-05 }}</ref>。 === ナチスのホロコースト === 1933年の[[ナチ党の権力掌握]]から1945年の[[ナチス・ドイツ]]崩壊までの間に発生した、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]による[[ユダヤ人]]などに対する[[ホロコースト]]。「ジェノサイド」の用語はナチスによる大量虐殺を説明する用語として造られ、[[ニュルンベルク裁判]]の起訴状に使用された<ref>[https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/what-is-genocide ジェノサイドとは - ホロコースト百科事典]</ref>。 === 広島・長崎への原爆投下 === [[ノーム・チョムスキー]]は「歴史上で最も酷い犯罪だ」と発言し、[[マイケル・シャーマー]]は、[[広島市への原子爆弾投下|広島]]と[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への[[原子爆弾|原爆投下]]が「非道徳的、違法、人類に対する罪でさえある」と主張する議論を取り上げている。 === カンボジアの特別法廷 === {{Main|キリング・フィールド|カンボジア特別法廷}} [[File:Photos of victims in Tuol Sleng prison (2).JPG|thumb|[[トゥール・スレン虐殺犯罪博物館]] 犠牲者を撮影した写真]] [[ポル・ポト]]、[[タ・モク]]、その他の指導者が率いる[[クメール・ルージュ]]は、[[カンボジア大虐殺]]を引き起こした。犠牲者の総数は、1975年から1979年の間に、奴隷労働による死亡者を含めて170万人と推定されている<ref name="Yale-CGP">[http://www.yale.edu/cgp/index.html Cambodian Genocide Program], [[Yale University]]'s MacMillan Center for International and Area Studies</ref>。 2003年6月6日、[[カンボジア]]政府と国際連合は、クメールルージュの最高幹部が犯した犯罪を裁く特別法廷 (ECCC) をカンボジア裁判所に設置することに合意<ref>{{cite web|url=http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-Res-57-228B.pdf|title=A/RES/57/228B: Khmer Rouge trials|publisher=United Nations Assistance to the Khmer Rouge Trials (UNAKRT)|date=22 May 2003|access-date=11 December 2010|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20070703061139/http://www.unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-Res-57-228B.pdf|archive-date=3 July 2007}}</ref>、裁判官は2006年7月初旬に宣誓を行った<ref name="KD-Time">Doyle, Kevin. [https://web.archive.org/web/20070930050429/http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1647257,00.html "Putting the Khmer Rouge on Trial"], ''[[Time (magazine)|Time]]'', 26 July 2007</ref><ref>MacKinnon, Ian [https://www.theguardian.com/international/story/0,,2028421,00.html "Crisis talks to save Khmer Rouge trial"], ''[[The Guardian]]'', 7 March 2007</ref><ref>[http://www.cambodia.gov.kh/krt/english/ The Khmer Rouge Trial Task Force] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090317105511/http://www.cambodia.gov.kh/krt/english/ |date=17 March 2009 }}, Royal Cambodian Government</ref>。 大量虐殺の容疑は、カンボジアの[[ベトナム人]]と[[チャム族]]の少数民族の殺害に関連しており、数万人、おそらくそれ以上の犠牲者がいると推定されている<ref name="Case-002">{{cite web|url=https://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/2|title=Case 002|publisher=The Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia|date=2014|access-date=6 February 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20161223002710/https://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/2|archive-date=23 December 2016|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-28558098|title=Former Khmer Rouge leaders begin genocide trial|work=BBC News|date=30 July 2014|access-date=6 February 2017}}</ref>。 一部の国際法学者とカンボジア政府の間で、法廷で裁判にかけるべき人々について意見の相違があった。 === ユーゴスラビア紛争における民族浄化 === 1990年代から2000年代までの旧[[ユーゴスラビア]]における[[ユーゴスラビア紛争]]。特に[[ボスニア内戦]]時の[[民族浄化]]。[[国際司法裁判所]]は、1995年7月13日より始まったVRS(ボスニアのセルビア人武装勢力)による[[スレブレニツァ]]における虐殺([[スレブレニツァの虐殺]])をジェノサイド条約2条上の集団殺害と認定した<ref>「ジェノサイド条約の適用に関する事件」(ボスニア・ヘルツェゴビナ対セルビア・モンテネグロ)(本案)判決、2007年2月26日、''I.C.J.Reports 2007'', pp.98-108, paras.278-297.</ref>。 {{See|旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷}} === ルワンダの虐殺 === [[1994年]]春に[[ルワンダ]]で行われた[[ルワンダ虐殺|虐殺]]。進行している虐殺がジェノサイドであると判断される場合は条約調印国全部に介入義務が生じるため、介入を避けようとしたアメリカほか調印国の抵抗により国連でその認定が遅れ、その際にジェノサイド的行為(act of genocide)が行われていると見解を発表するにとどまった。虐殺終了後に事後的にジェノサイドであると認定された。([[ルワンダ紛争]]、[[ルワンダ国際戦犯法廷]]参照) === ダルフール紛争における集団虐殺 === 2003年以降の[[ダルフール紛争]]における集団虐殺。ジェノサイドであるとの正式な認定が国連で行われていないために強制的な介入は行われていない。 === 中国の少数民族政策 === {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:Xinjiang_Re-education_Camp_Lop_County.jpg|新疆ウイグル自治区ロプ県の強制労働施設に収容されている少数民族ウイグル族の男性達]] }} {{See also|チベット問題|ウイグル人大量虐殺}} [[中華人民共和国]]による複数の少数民族に対する政策。[[アメリカ合衆国]]政府などがジェノサイドと批判し、中国政府は虚偽と反発している。 [[2008年のチベット騒乱]]時に、[[ダライ・ラマ14世]]は[[中華人民共和国]]による[[チベット]]でのデモ活動の鎮圧などを「文化的虐殺」と非難した。 2019年頃より、[[新疆ウイグル自治区]]で[[ムスリム|イスラム教徒]]である[[ウイグル人]]が累計100万人が中国政府により「再教育施設」と呼ばれる施設に収容され、洗脳、虐待、強制不妊などが行われていると報道された<ref>{{cite news|title= 中国政府による強制不妊と虐待、ウイグル女性が語る「地獄」|url= https://www.cnn.co.jp/world/35157593.html|publisher=CNN|date=August 2, 2020|accessdate=January 26, 2021}}</ref><ref>{{cite news|title= 中国の収容所、ウイグル族のモデルが内部を撮影|url= https://www.bbc.com/japanese/video-53663134|publisher=BBC NEWS| date=August 5, 2020|accessdate=January 26, 2021}}</ref><ref>{{cite news|title= 中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」 公文書が流出|url= https://www.bbc.com/japanese/50542004|publisher=BBC NEWS|date= 2019年11月25日| accessdate=January 26, 2021}}</ref><ref>{{cite news|title= 'Their goal is to destroy everyone': Uighur camp detainees allege systematic rape|url= https://www.bbc.com/news/world-asia-china-55794071|publisher=BBC NEWS|date=February 2, 2021|accessdate=February 12, 2021}}</ref>。2021年1月、アメリカの[[ドナルド・トランプ]]大統領政権は、中国政府による新疆ウイグル自治区での少数民族ウイグル人虐殺を、国際条約上の民族大量虐殺である「集団殺害(ジェノサイド)」であり、かつ「人道に対する罪」に認定したと発表した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3327194 米、中国がウイグル人「ジェノサイド」と認定 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20210120112237/https://this.kiji.is/724566745154469888?c=39546741839462401 中国、バイデン新政権に不快感 ウイグル族虐殺認定巡り | 共同通信]</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/uspresident2020/20210120-OYT1T50087/ ポンペオ氏、中国のウイグル族弾圧は「集団殺害」…中国側は「でっち上げだ」 : アメリカ大統領選挙2020 : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン]</ref>。2021年、バイデン政権もこの決定を引き継ぐと発表した<ref>{{cite news|title= Mike Pompeo accused China of committing ‘genocide,’ an international crime. Biden’s team agrees.|url= https://www.washingtonpost.com/politics/2021/01/23/mike-pompeo-accused-china-committing-genocide-an-international-crime-bidens-team-agrees/|publisher=The Washington Post|date=January 23, 2021|accessdate=January 26, 2021}}</ref>。2021年1月20日、在米の中国大使館が[[Twitter]]上で「過激主義を根絶する過程で、新疆のウイグル人の女性たちの心は解放された」、「彼女らはもはや子作りの機械ではなくなった」など書き込んだことで、アカウントを一時凍結された<ref>{{cite news|title= Twitter、在米中国大使館アカウント一時凍結 規約違反|url= https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN211KK0R20C21A1000000/|publisher=日本経済新聞|date=January 21, 2021|accessdate=January 26, 2021}}</ref>。2021年1月26日、日本の外務省担当者は自民党外交部会で、この件について「中国のウイグル弾圧をジェノサイドとは認めていない」という認識を示した<ref>{{cite news|title= 政府、中国のウイグル弾圧を「ジェノサイドとは認めず」 米国務省認定と相違|url= https://mainichi.jp/articles/20210126/k00/00m/010/145000c|publisher=毎日新聞| date=January 26, 2021|accessdate=January 26, 2021}}</ref>。 また1960年代から1970年代の[[中華人民共和国]]による[[内モンゴル人民革命党粛清事件]]を、[[楊海英]]は「ジェノサイド」と主張している<ref>楊 海英「モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 1: 滕海清将軍の講話を中心に」風響社. 2009年、同「モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 2 内モンゴル人民革命党粛清事件 内モンゴル自治区の文化大革命」風響社2010 {{要ページ番号|date=2015-07-01}}</ref>。 == その他の事例 == ここまでに挙げた「ジェノサイド」は、要件を[[人種]]・[[民族]]・[[国家]]・[[宗教]]などの構成員に対する抹消行為としている。これに対して、存在に対する抹消行為という意味での比喩的な意味(用法)として、以下のような文脈で用いられることがある。 *文化的・[[宗教]]的な集団の文化的・宗教的・歴史的な存在等の全部または一部を破壊する意図をもって、1つの文化的・宗教的集団の構成員または文化的・宗教的・歴史的な資産に対して行われる行為を、「'''文化的なジェノサイド'''」([[文化浄化]])と言う。 *[[聖書信仰]]における[[聖絶]]([[ヘーレム]])を、[[ホロコースト]]、ジェノサイド、[[殲滅]]として解釈する説がある<ref group="注釈">文語訳聖書では、通常「絶滅」などと訳される民数記21:3の「ホルマ」(ヘーレムの語根ハラムの派生語。新改訳聖書ではホルマがそのまま使われている)を「殲滅」と訳し、「ほろぼし」のルビを振っている</ref><ref>{{Cite book|和書|author=小坂井澄|authorlink=小坂井澄|title=さまよえるキリスト教 : 21世紀に生き残れるのか |publisher=徳間書店 |year=2000 |series=徳間文庫 [こ26-1] |NCID=BC09806827 |ISBN=4198912394 |id={{全国書誌番号|20029269}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002853936-00 |pages=84-87}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書|last=スプリンガー |first=ジェーン |authorlink= |coauthors= |translator=築地誠子 |others=石田勇治解説 |title=1冊で知るジェノサイド |publisher=原書房 |year=2010 |isbn=9784562045235 |ref={{SfnRef|スプリンガー|2010}} }} * {{Cite journal|和書|author=[[添谷育志]] |title=大量虐殺の語源学―あるいは「命名の政治学」<!--機関リポジトリの表記。従来の()付表記は ci.nii によるもの--> |journal=明治学院大学法学研究 |ISSN=13494074 |publisher=明治学院大学法学会 |year=2011 |month=jan |volume=90 |pages=23-108 |naid=120005354966 |url=https://hdl.handle.net/10723/1784 |ref={{SfnRef|添谷|2011}} }} == 関連項目 == {{commons category|Genocide}} * [[侵略戦争]] * [[人道的介入]] * [[国際刑事裁判所]] (ICC) * [[戦争犯罪]] * [[国際法]] * [[国際人道法]] * [[トランスヒューマニズム]] * [[強制隔離]] * [[民族浄化]] * [[インディアン戦争]] * [[海外領土・自治領の一覧]] * [[ジェノサイドの10段階]] * [[ポグロム]] * [[ロヒンギャ]] * [[仏教に対する批判]]([[仏教|仏教徒]]が関与した[[ムスリム|イスラム教徒]]のジェノサイド) == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{レイシズム}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しえのさいと}} [[Category:ジェノサイド|*]] [[Category:戦争犯罪]] [[Category:国際刑事法]] [[Category:人道に対する罪]] [[Category:生命倫理学]]
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2,302
2001年宇宙の旅
『2001年宇宙の旅』(にせんいちねんうちゅうのたび、原題:2001: A Space Odyssey)は、スタンリー・キューブリックが製作・監督した、1968年の叙事詩的SF映画である。脚本はキューブリックとアーサー・C・クラークによって書かれ、クラークが1951年に発表した短編小説「The Sentinel」(邦訳版タイトル「前哨」)やその他のクラークの短編小説に触発されたものである。映画公開後に発表された小説は、脚本と同時進行で書かれた部分もある。実存主義、人類の進化、科学技術、人工知能、地球外生命体の可能性などをテーマに、異星人のモノリスを発見した後、感覚を持つコンピューターHALと共に木星に向かう航海を描いた作品。 この映画は、科学的に正確な宇宙飛行の描写、先駆的な特殊効果、曖昧なイメージで注目されている。キューブリックは、従来の映画や物語の手法を避け、台詞はほとんど使わず、音楽だけの長いシークエンスがある。サウンドトラックには、リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス2世、アラム・ハチャトゥリアン、リゲティ・ジェルジュなどのクラシック音楽が多数使用されている。 この映画は、暗い終末論的なものから、人類の希望を再評価する楽観的なものまで、様々な評価を受けた。アカデミー賞では4部門にノミネートされ、キューブリックは視覚効果の演出で受賞した。この作品は、これまでに作られた映画の中で最も偉大で、最も影響力のある作品の一つとして広く知られている。1991年には、米国議会図書館によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存されることになった。 人類が文明を築く400万年前(小説版では300万年前)、ホモサピエンスの祖先であるヒトザルが、荒野で飢えに苦しみながら生存競争を闘っていた頃。ある日、ヒトザルたちの前に黒い石板のような謎の物体「モノリス」が出現し、サルたちは驚きながらも恐る恐るそれに触れる。やがて一体のヒトザル(月を見るもの)がモノリスの知能教育により、動物の骨を道具・武器として使うことに目覚め、獣を倒して多くの肉を食べられるようになる。ヒトザルたちは、水場をめぐって対立する別のヒトザルの群れにも骨を武器として対戦し、敵のボスを殺害する。水場争いに勝利した「月を見るもの」が、歓びのあまり骨を空に放り上げると、これがカットつなぎで一瞬にして最新の軍事衛星に変わる(人類史を俯瞰するモンタージュとされる)。 月に人類が居住可能になった時代。アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月のティコクレーターで発掘された謎の物体「TMA・1」(Tycho Magnetic Anomaly, ティコ磁気異常1号)、通称「モノリス」(一枚岩)を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かう。途中、宇宙ステーション5(小説版では「宇宙ステーション1号」)でソ連の科学者たちに会い懇談するが、「クラビウス基地が閉鎖されているが、いったい何が起きているのか」と質問され、フロイド博士は回答を拒む。 月面基地に着いたフロイド博士は、会議室で今回の事態の重要性について訓示し、TMA-1の発掘現場へ向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは、強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発した。TMA-1は、あのヒトザルたちが月に到達するまでに進化したことを告げるセンサーだった。 18か月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員は船長のデヴィッド・ボーマンとフランク・プール隊員、出発前から人工冬眠中の3人の科学者と、史上最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。 順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、この探査計画に疑問を抱いている事を打ち明ける。その直後、HALは船のアンテナ部品=AE35ユニットの故障を告げるが、ボーマンがユニットを回収して点検すると、問題は見つからなかった。HALの異常を疑ったボーマンとプールは、その思考部を停止させることを決める。しかし、ふたりの密談を読唇して察知したHALが、それを阻止しようと乗組員の殺害を決行する。プールは船外活動中にポッドに衝突されて宇宙服を壊され、人工冬眠中の3人は生命維持装置を切られてしまう。別のポッドに飛び乗ってプールの救助に向かったボーマンは、遺体を回収して戻るが、HALに入船を拒絶され、止む無くプールの遺体を放し、ポッドのハッチを爆破してエアロックに突入する。 唯一生き残った乗員となったボーマン船長は、HALの思考部を停止させるべく、ユニットを取り外していく。HALは助命嘆願を繰り返すが、次第に知能を失い、遂には「デイジー」の歌を歌い始め、録音テープが失速するようにして止まる。すると、木星到着後に搭乗員全員に開示される動画が再生され、探査の真の目的であるモノリスの件をフロイド博士が語る。 ディスカバリー号が木星の衛星軌道付近に到達すると、ボーマンは近くに浮かぶ巨大モノリスを発見する。ポッドに乗って接近して行くと、巨大モノリスは漆黒の闇に消え、そのあたりの空間から発した光の奔流がポッドを呑み込み、めくるめく異次元の光景が次から次へと押し寄せて来る。 やがて、閉鎖された王朝風の白い部屋にポッドごと到着すると、そこでボーマンは、年老いて行く自分自身を順々に発見する。遂には老衰してベッドに横たわるボーマンの前に、あのモノリスが現れ、彼がそれに向かって手を差し伸べると、光に包まれた胎児に変貌する。ボーマンは、人類を超越した存在=スター・チャイルドへと進化を遂げた。 そして胎児は太陽系へと戻り、地球を見下ろしながら、これから自分が成すべきことについて思いを巡らせるのだった。 特筆しない限り、詳細部分に関する記述は小説版を参考としている。#小説版も参照。 1964年に公開された「Dr.StrangeLove」(邦題・博士の異常な愛情)で高評価を得たキューブリックは「宇宙人東京に現わる」(1956年)に触発され、科学ノンフィクションを読み漁り、さらに意欲的な”語り草になるような良質の空想科学映画作品”の構想を練っていた。アーサー・C・クラークと互いの頭の中の知識をやり取りし、ファーストコンタクトを題材とした映画制作と小説(兼・脚本)の並行作業という形で話は決まり、クラークはホテル・チェルシー1008号室にて執筆に取りかかる。 撮影は1965年12月30日に開始し、イギリスのMGM-British Studios(ボアハムウッド)を中心拠点にして進められた。翌1966年5月までに俳優の演技シーンを撮り終えたが、SFXシーンの完成までさらに1年半以上を費やした。製作費は予定の600万ドルを大きく超過し1050万ドルに達した。 映画は70mmシネラマ規格で制作された。キューブリックは映像表現にシネラマスクリーンでの上映効果を最大限に狙っている。視覚効果では「Dr~」でB-52の特撮を担当したウォーリー・ビーバーズのほか、ダグラス・トランブル、コン・ペダースン、トム・ハワードなど少人数しかクレジットされていないが、実際には巨大なプロジェクトであり、視覚効果デザインの上で科学考証に多くの科学者、研究者が参加している上、撮影でも10年を経てイギリスで特撮チームを率いることになるブライアン・ジョンソン(『エイリアン』1、2)、ゾラン・ペリシック(『スーパーマン』)、マット画合成を担当したリチャード・ユリシッチを含むデザイナー、撮影や現像、合成、アニメーションのスペシャリストが多数参加している。 ディスカバリー号の乗員達が食べる宇宙食は、NASAが実際に開発して本作のために提供したものである。また本作に登場するコンピュータの設定や画面はIBMが全面協力しており、当初は随所に同社のロゴがあしらわれていたとされる。ただ制作中に「コンピュータが人間を殺害する」というストーリーであることが判明したため難色を示した同社は制作途中から手を引き、ロゴもすべて除去されたという通説が有名になっている。アリエス1B型の計器盤およびディスカバリー号乗員が着用する宇宙服の左腕コンソールに取り残されたIBMロゴが確認できる。 当初キューブリックは美術担当として漫画家の手塚治虫の協力を仰いだが、当時の手塚は連載漫画の他に、連続テレビアニメの制作や原稿を多数抱え、日本国外での映画制作に携わることは物理的に不可能であったため、オファーを断った。「200名もの人間を食わせなければならないので」云々と云う主旨の返信を送ると、キューブリックは「家族が200人もいるのか?!」と驚嘆したという。手紙自体は紛失してしまったが、封筒の写真は手塚のエッセイ本に掲載されている。 キューブリックが、「クズと見なされない最初のSF映画」であり、「宇宙におけるヒトの位置を描く映画」を撮る企画をたてた1964年に、当初はアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』の映画化も構想したが、すでに映画化権が他社により取得されていた。 その経緯もあり、キューブリックは共同での物語作り、科学考証、共同脚本などをクラークに依頼をした。当初、キューブリックはラジオドラマ『太陽面の影』を元にした地球侵略物を提案していたが、クラークが、人類の進化を描き、宇宙への進出と異星人とのコンタクトでその進化がクライマックスに達する物語を提案した。 クラークはすでに、宇宙人と人類のファーストコンタクトを描いた小説『前哨』を1948年に発表(ハヤカワ文庫の同名短編集などに収録)の他「地球への遠征」等の他4篇の短編小説を下敷きにしてプロットを組み上げて執筆した。後にクラークが発表した『失われた宇宙の旅2001』によると、キューブリックとクラークがアイデアを出し合い、先ずはクラークが「小説」としてアイデアをまとめあげ、その後キューブリックが脚本を執筆している。 題名は仮題として『太陽系はこうして勝ち取られた』から『宇宙』、『星々へのトンネル』、『星からの贈り物』、『星のかなたへの旅』とかわり、最終的に『オデュッセイア』との共通点もありキューブリックの決断で現在の題名に変わった。 オープニングなどではモンタージュが駆使された。カメラマン出身で撮影技術に長けたキューブリックは、SFX撮影スタッフと共に「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン(スリット越しに被写体を、シャッターが開いた状態で撮影する技術)」といった新たな撮影方法を考案した。 宇宙空間では大気が存在せず、遠くの物体も鮮明に見えることから、カメラのレンズを極限まで絞り込み、それによって不足した光量を補うために1フレームに4秒以上の超低速度撮影が使用されている。 作中、宇宙船のコンソール等の各所にワイヤーフレームによる3次元コンピュータグラフィックス風の映像が埋め込まれているが、それらは全て実物のコンピュータグラフィックスではなく、計算尺で計算して手作業で描いたアニメーションや、針金で作ったワイヤーフレーム風の立体モデルを撮影した映像などが用いられている(Sketchpadなど、まだ実物のコンピュータグラフィックスは研究室の時代であった)。 キューブリックは飛行機恐怖症のため猿人達のシーンをアフリカでは撮影できず、撮影班をアフリカに送って大面積のスチル写真を撮影し、スタジオでフロント・プロジェクションを使った合成を行っている。スターゲートの映像の中には色彩が加工されたモニュメント・バレーの空撮映像も含まれており、アメリカで行われるプレミアのため、キューブリックはアメリカに向かう船の中で編集作業を行った。 フロント・プロジェクションの導入はまだ一般的ではなかったが、1963年に邦画『マタンゴ』(監督:本多猪四郎)でも採用している。キューブリックは完璧を求めるため、3M社とも協力して効果的に鮮明な撮影を行った。先進的な取り組みであったが、画像を見ると空の部分に刷毛で塗ったような跡が見えている。 画像合成の簡略化を図ったため、どの宇宙船も宇宙に浮かぶ地球や月や木星を画面内で滅多に横切らない。 本映画に登場する地球の姿は実際より青白くなっている。これは撮影当時大気圏外からの地球の姿を撮ったカラー写真が1954年10月5日にエアロビーRTV-N-10bにより撮影された高度257kmからの117枚モザイク写真と1965年3月18日にボスホート2号が地球衛星軌道から撮影したものしか存在しなかったからである(初の地球全球写真はジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所のDODGEにより1967年9月20日に撮影され同年11月10日に発表されたがこの写真は映画制作には間に合わなかった)。本映画に登場した地球の色はボスホート2号が撮影した地球の色とよく似ている。 小説版では土星だが特撮部が土星を制作するもののキューブリックが納得できる基準に満たなかったため本作では木星に設定変更された。 本作で使用された宇宙船の模型は他作品への流用を防ぐため、キューブリックの指示で図面も含めて廃棄処分されたことから資料が少なく、舞台となるディスカバリー号でも撮影に使われた模型の全長が57フィートと54フィートの説があり、左側面は資料が存在しないなど不明な点が多い。2018年10月25日には海洋堂が研究書の写真などからディテールを補完した1/10スケールモデルの受注生産を開始した際には54フィート説を採用した。なお『2010年』の撮影に当たっては『2001年』の映像を参考に約100mと設定された模型が新規に作成された。現存するのはアリエス1B型月シャトルのみであり、アメリカ映画芸術アカデミーが所有している。 それまでのSF映画では未来的イメージの電子音楽などが用いられることが多かったが、当作品の映画版では、全篇にわたってクラシック音楽の名高い楽曲が数多く用いられている。 音楽を選定するのにあたり監督はスタッフに対していろいろなジャンルのレコードを集めさせたが、その時の指示としては「ミュジーク・コンクレートのようなゴミはいらない」との指示を出している。 ジェルジ・リゲティには一切映画についての説明や承諾もないまま、彼の曲を4曲採用した。リゲティが印税を受け取ったのは、1990年頃になってからだという。 なお、(1)メインタイトル、(2)「人類の夜明け」、(3)ラストと合計3回使われている『ツァラトゥストラはかく語りき』の演奏はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のデッカ・レコード録音版だが、デッカ(1968年当時は日本国内ではロンドン・レーベル)が演奏者名を出さないことを許諾の条件としたので、映画のエンド・クレジットでは曲名しか表示されていない。 終盤ボーマン船長が年齢を重ねていくシーンでは、BGMに『南極交響曲』を使用したバージョンもつくられた。 「入場曲」および休憩時「間奏曲」の『アトモスフェール』、「退場曲」の『美しく青きドナウ』は、映像ソフトでは1989年発売のクライテリオン版LD-BOXまではカットが慣例化しており、休憩のクレジット自体も初期の映像ソフトではカットされていた。 キューブリックは当初、自分の監督作品『スパルタカス』の音楽を手がけたアレックス・ノースに作曲を依頼し、前半部分まで完成したスコアの録音まで完了していた(この最中にノースは過労で倒れてしまった)。しかしそれ以降は一切の連絡もないままノースの音楽を没にし、リヒャルト・シュトラウスなどの音楽に差し替えてしまう。ノースがそのことを知ったのは、試写会の会場であった。ノースはこれに激怒し、訴訟寸前にまで至った。ノースの死後、友人のジェリー・ゴールドスミスは没になった彼の音楽を録音し、1993年10月12日にヴァレーズ・サラバンド・レコーズから『Alex North's 2001 』(VSD-5400)としてCD発売した。日本でも『2001年〜デストロイド・ヴァージョン〜』(1993年12月1日発売、サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ(SLC)、SLCS-5021)のタイトルで発売されている。 更に、1968年に録音されたアレックス・ノースのオリジナル・スコアのマスターテープが発掘され、2007年1月26日に Intrada Records より『Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North) 』としてCD化され、3000セット限定で発売された。 ボーマン船長の旅のストーリーの結末をどうするのか、ラストシーンは脚本草稿の段階で、アーサー・C・クラークによって『ボーマンが異星の宇宙船の傍らに立っている』や『信じられないほど優美なヒューマノイドと出会い旅立っていく』など複数のパターンが監督のキューブリックに提案されたが、いずれもキューブリックの納得のいくものではなく、いくつものアイデアが却下された。 『何回書き直し、何回行き詰まったか、数えることもできない。かなり落ち込んでいる』と当時の状況を著書『失われた宇宙の旅 2001』の中でクラークは書いている。最終的には『ボーマンが子供へ逆行し、結末では赤んぼうとなって軌道上に浮かぶ』というアイデアが採用されることに帰着した。 クラークの小説『2001年 宇宙の旅』では結末は『モノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ』となっている。これはつまり、「究極に進化した地球外生命体の“遺物”であるモノリスにより、人間は太古の昔より進化をしてきたが、今度は人間が(ボーマン船長が)肉体を離れて精神のみの生命体へとさらなる進化をする。宇宙にいる多くの種族がそうして進化をしてきたように、人類もようやくその仲間入りをし、宇宙の一部になったのだ。それが地球外生命体の目的だった」という結末であり、それを「宇宙空間に胎児の姿で浮遊する」というビジュアルで表現したものであった。 その後のボーマンの“エネルギー生命体”としてのストーリーは、続編の小説『2010年 宇宙の旅』、『2061年 宇宙の旅』、『3001年 終局への旅』へと続く。ちなみに、モノリスの主人である地球外生命体は、『3001年 終局への旅』では、数百光年彼方に存在するとしている。 当初クラークは、難解なストーリーの内容の観客への理解を促すために、映画全編にわたって説明用のナレーションを多数書き上げており、脚本にはナレーションが記載されているが、映画ではそれらは全く使われることはなかった。「言葉で説明をしてしまうと、せっかくの未知の世界との遭遇が、陳腐なものになってしまうから」とキューブリックは判断したのだ。しかし、ラストシーンを含め、それでも、映像だけでこの本来のストーリーを解釈するには、説明不足の感は否めない。映画以外の資料を参照して、初めて物語の起承転結を理解できる 。 当初予定の1966年から1年4か月遅れ、アポロ11号が月面着陸を果たす前年の1968年に公開された。ワールドプレミアは1968年4月2日にワシントンD.C.のアップタウン劇場で行われた。アメリカでの一般公開日は1968年4月6日、イギリスでの公開は1968年5月15日だった。度々再公開されており、2014年11月イギリスでの再公開にあたってはアルフォンソ・キュアロン、クリストファー・ノーランによる賛辞が予告編に盛り込まれている。 日本においては、テアトル東京、名古屋の中日シネラマ劇場、大阪のOS劇場で封切られた。 《前夜祭》1968年4月10日 18:00からテアトル東京で、特別有料試写会と銘打って前夜祭の趣きで公開されたのが最初である。 《封切り》1968年4月11日からが正規の一般公開である(~9月18日まで)。テアトル東京での上映時間は、【平日・休日共】12:20/15:40/19:00。 《凱旋興行》更に、年末の各紙誌ベスト・テンの高評価を受け、翌春(1969年3月1日~4月4日)、「凱旋興行」と銘打ってテアトル東京で再上映された。上映時間は、【月~土】13:00/16:00/19:00。【日・祝】10:00/13:00/16:00/19:00。 《2番館》東京では、「凱旋興行」のあと、1969年5月25日から東宝洋画系TYチェーン(白系)の9館で、『汚れた7人』との併映で2本立て公開された。 その後、初公開から10年後の1978年に再びロードショー上映され、折からのSFブームをフォローアップする形となった。作品の設定年である2001年にも「新世紀特別版」としてノーカット版で公開されている。このヴァージョンでは、本来35mmフィルムでアナモフィック・レンズを使用して再現されるスコープサイズのアスペクト比の1:2.35とせず、35mmフィルムの上映で70mmのオリジナルと同一のアスペクト比1:2.20を再現している。 2018年10月、6〜7、11〜14日に国立映画アーカイブで70mmニュープリントフィルムでの同作の特別上映が行われた。10月19日から二週間限定で70mmフィルムからリマスタされた物がIMAXデジタル・シアター・システムを備えた映画館で公開された。 【参照】『2001年宇宙の旅』の日本での上映実績のまとめ https://kubrick.blog.jp/archives/52256322.html 公開当時、台詞や説明を極力省き、視覚表現で観客の意識に訴えるという作風は極めて斬新であった。映像のクオリティーや「人類の進化と地球外生命の関係」という哲学的なテーマを賞賛する声の一方、抽象的な内容や非常に難解な結末を批判する意見もあり、賛否の渦が巻き起こった。それでも、公開当時の1968年における年間世界興行収入で1位を記録。現代では映画史におけるSF映画の古典として認識されており、日本の文部科学省が「特選」に指定している、唯一のSF映画としても知られている。 映画鑑賞後にクラークの小説を読んだが、これが知的にも満足のいく内容で読み始めたら止まらない。映画の中では抽象的に描かれている場面が...とりわけ発端と結末が納得できる説明が小説にあった。 作家 レイ・ブラッドベリは本作試写を観た後、映像美を褒めながらも「クラークはクーブリックにレイプされたんだ」と評した。このブラッドベリによる評を人づてに聞いたクラークは「それは違う、レイプされたのはお互い様だったんだよ」とコメントを残している。 初公開の年の暮れ、1968年12月、アポロ8号が史上初めて有人で月の裏側を廻って帰還したが、その時撮影された月面入れ込みの地球の写真が本作のそれにそっくりで、改めて本作の特撮のクオリティが示された。また、そのアポロ8号の船長の名がフランク・ボーマンで、本作の登場人物のふたり、フランク・プールとデヴィッド・ボーマンを合成したような名前であることが、偶然とはいえ話題になった。 デビッド・ボウイの若き日を描いた映画『スターダスト』の冒頭では、本作のスター・ゲイト突入から白い部屋への到着までを、夢の中のシーンとしてパロディ化している。 公開時からオールタイムで本作品は高く評価され続けている。1991年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。 映画史上のベスト・ランキング、オールタイム・ベストなどでは、必ずと言っていいほどランクインしている。 以下は日本でのランキング 本作は1968年のアカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞、また1969年のヒューゴー賞も受賞した。 小説版が原作として先に書かれたものであると勘違いされることが多いが小説は映画の公開の後に発表されている。クラーク自身も配給前の出版を目指していたが3分の2を書き終えた時点で最終章の執筆は遅々となったとされる、その小説にはクラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることからも、小説版と映画版は明確に区別する必要がある。 HAL 9000の反乱の要因やラストの展開も、小説版は論理的に説明づけられているのに対し、映画版は謎めいた展開となっている。これは当初、映画冒頭に科学者らが人類の進化など作中の話題に関して語るインタビュー映像が予定され、また全編に渡りストーリーを解説するナレーションを入れる予定であったものが、過剰な説明が映画からマジックを奪うことを恐れたキューブリックが、インタビューもナレーションもすべて削除してしまったため、何の説明もない映像が映画全編にわたり続くことになったからである。 ヒトザルとモノリスの遭遇は小説では300万年前という設定だが、映画では400万年前とされているなど、細かな点の相違は多い。小説ではディスカバリー号には放熱板(「放射翼」)、それもかなり大きなものが付いている設定になっているが映画のディスカバリー号には付いていない。ある解説によれば、宇宙なのに(空気を前提とした)翼なんて、と思われるのを恐れて、映画版では付けていないのだという。 後にクラークが執筆した『2010年宇宙の旅』はパラレルワールドとされ、ストーリーの多くの部分は続編の形を取りながら、主な舞台は木星周辺となっており、そこだけは映画版と同一になっている。「宇宙の旅」シリーズは、更に『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』と、計4作執筆されており、シリーズ作品全ての作中設定は前作までの多くの部分を踏襲してはいるが、基本的にはパラレルワールドであるとあとがきやまえがきで触れられている。 小説版は映画の製作と並行して書き進められたが、その過程で多くの草稿が日の目を見ずに終わった。のちにクラークは、それらをまとめて編纂し『失われた宇宙の旅2001』として出版した。そこでは、例えば、「HAL9000は最初、人型ロボットとして構想された」とか、「なぜボーマンが結末で赤んぼうになるのか、(中略)これは成長段階における彼の自己イメージなのだ」といった興味深い記述が見られる。
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"人類が文明を築く400万年前(小説版では300万年前)、ホモサピエンスの祖先であるヒトザルが、荒野で飢えに苦しみながら生存競争を闘っていた頃。ある日、ヒトザルたちの前に黒い石板のような謎の物体「モノリス」が出現し、サルたちは驚きながらも恐る恐るそれに触れる。やがて一体のヒトザル(月を見るもの)がモノリスの知能教育により、動物の骨を道具・武器として使うことに目覚め、獣を倒して多くの肉を食べられるようになる。ヒトザルたちは、水場をめぐって対立する別のヒトザルの群れにも骨を武器として対戦し、敵のボスを殺害する。水場争いに勝利した「月を見るもの」が、歓びのあまり骨を空に放り上げると、これがカットつなぎで一瞬にして最新の軍事衛星に変わる(人類史を俯瞰するモンタージュとされる)。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "月に人類が居住可能になった時代。アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月のティコクレーターで発掘された謎の物体「TMA・1」(Tycho Magnetic Anomaly, ティコ磁気異常1号)、通称「モノリス」(一枚岩)を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かう。途中、宇宙ステーション5(小説版では「宇宙ステーション1号」)でソ連の科学者たちに会い懇談するが、「クラビウス基地が閉鎖されているが、いったい何が起きているのか」と質問され、フロイド博士は回答を拒む。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "月面基地に着いたフロイド博士は、会議室で今回の事態の重要性について訓示し、TMA-1の発掘現場へ向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは、強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発した。TMA-1は、あのヒトザルたちが月に到達するまでに進化したことを告げるセンサーだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "18か月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員は船長のデヴィッド・ボーマンとフランク・プール隊員、出発前から人工冬眠中の3人の科学者と、史上最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、この探査計画に疑問を抱いている事を打ち明ける。その直後、HALは船のアンテナ部品=AE35ユニットの故障を告げるが、ボーマンがユニットを回収して点検すると、問題は見つからなかった。HALの異常を疑ったボーマンとプールは、その思考部を停止させることを決める。しかし、ふたりの密談を読唇して察知したHALが、それを阻止しようと乗組員の殺害を決行する。プールは船外活動中にポッドに衝突されて宇宙服を壊され、人工冬眠中の3人は生命維持装置を切られてしまう。別のポッドに飛び乗ってプールの救助に向かったボーマンは、遺体を回収して戻るが、HALに入船を拒絶され、止む無くプールの遺体を放し、ポッドのハッチを爆破してエアロックに突入する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "唯一生き残った乗員となったボーマン船長は、HALの思考部を停止させるべく、ユニットを取り外していく。HALは助命嘆願を繰り返すが、次第に知能を失い、遂には「デイジー」の歌を歌い始め、録音テープが失速するようにして止まる。すると、木星到着後に搭乗員全員に開示される動画が再生され、探査の真の目的であるモノリスの件をフロイド博士が語る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ディスカバリー号が木星の衛星軌道付近に到達すると、ボーマンは近くに浮かぶ巨大モノリスを発見する。ポッドに乗って接近して行くと、巨大モノリスは漆黒の闇に消え、そのあたりの空間から発した光の奔流がポッドを呑み込み、めくるめく異次元の光景が次から次へと押し寄せて来る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "やがて、閉鎖された王朝風の白い部屋にポッドごと到着すると、そこでボーマンは、年老いて行く自分自身を順々に発見する。遂には老衰してベッドに横たわるボーマンの前に、あのモノリスが現れ、彼がそれに向かって手を差し伸べると、光に包まれた胎児に変貌する。ボーマンは、人類を超越した存在=スター・チャイルドへと進化を遂げた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そして胎児は太陽系へと戻り、地球を見下ろしながら、これから自分が成すべきことについて思いを巡らせるのだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "特筆しない限り、詳細部分に関する記述は小説版を参考としている。#小説版も参照。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1964年に公開された「Dr.StrangeLove」(邦題・博士の異常な愛情)で高評価を得たキューブリックは「宇宙人東京に現わる」(1956年)に触発され、科学ノンフィクションを読み漁り、さらに意欲的な”語り草になるような良質の空想科学映画作品”の構想を練っていた。アーサー・C・クラークと互いの頭の中の知識をやり取りし、ファーストコンタクトを題材とした映画制作と小説(兼・脚本)の並行作業という形で話は決まり、クラークはホテル・チェルシー1008号室にて執筆に取りかかる。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "撮影は1965年12月30日に開始し、イギリスのMGM-British Studios(ボアハムウッド)を中心拠点にして進められた。翌1966年5月までに俳優の演技シーンを撮り終えたが、SFXシーンの完成までさらに1年半以上を費やした。製作費は予定の600万ドルを大きく超過し1050万ドルに達した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "映画は70mmシネラマ規格で制作された。キューブリックは映像表現にシネラマスクリーンでの上映効果を最大限に狙っている。視覚効果では「Dr~」でB-52の特撮を担当したウォーリー・ビーバーズのほか、ダグラス・トランブル、コン・ペダースン、トム・ハワードなど少人数しかクレジットされていないが、実際には巨大なプロジェクトであり、視覚効果デザインの上で科学考証に多くの科学者、研究者が参加している上、撮影でも10年を経てイギリスで特撮チームを率いることになるブライアン・ジョンソン(『エイリアン』1、2)、ゾラン・ペリシック(『スーパーマン』)、マット画合成を担当したリチャード・ユリシッチを含むデザイナー、撮影や現像、合成、アニメーションのスペシャリストが多数参加している。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ディスカバリー号の乗員達が食べる宇宙食は、NASAが実際に開発して本作のために提供したものである。また本作に登場するコンピュータの設定や画面はIBMが全面協力しており、当初は随所に同社のロゴがあしらわれていたとされる。ただ制作中に「コンピュータが人間を殺害する」というストーリーであることが判明したため難色を示した同社は制作途中から手を引き、ロゴもすべて除去されたという通説が有名になっている。アリエス1B型の計器盤およびディスカバリー号乗員が着用する宇宙服の左腕コンソールに取り残されたIBMロゴが確認できる。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当初キューブリックは美術担当として漫画家の手塚治虫の協力を仰いだが、当時の手塚は連載漫画の他に、連続テレビアニメの制作や原稿を多数抱え、日本国外での映画制作に携わることは物理的に不可能であったため、オファーを断った。「200名もの人間を食わせなければならないので」云々と云う主旨の返信を送ると、キューブリックは「家族が200人もいるのか?!」と驚嘆したという。手紙自体は紛失してしまったが、封筒の写真は手塚のエッセイ本に掲載されている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "キューブリックが、「クズと見なされない最初のSF映画」であり、「宇宙におけるヒトの位置を描く映画」を撮る企画をたてた1964年に、当初はアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』の映画化も構想したが、すでに映画化権が他社により取得されていた。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その経緯もあり、キューブリックは共同での物語作り、科学考証、共同脚本などをクラークに依頼をした。当初、キューブリックはラジオドラマ『太陽面の影』を元にした地球侵略物を提案していたが、クラークが、人類の進化を描き、宇宙への進出と異星人とのコンタクトでその進化がクライマックスに達する物語を提案した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "クラークはすでに、宇宙人と人類のファーストコンタクトを描いた小説『前哨』を1948年に発表(ハヤカワ文庫の同名短編集などに収録)の他「地球への遠征」等の他4篇の短編小説を下敷きにしてプロットを組み上げて執筆した。後にクラークが発表した『失われた宇宙の旅2001』によると、キューブリックとクラークがアイデアを出し合い、先ずはクラークが「小説」としてアイデアをまとめあげ、その後キューブリックが脚本を執筆している。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "題名は仮題として『太陽系はこうして勝ち取られた』から『宇宙』、『星々へのトンネル』、『星からの贈り物』、『星のかなたへの旅』とかわり、最終的に『オデュッセイア』との共通点もありキューブリックの決断で現在の題名に変わった。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オープニングなどではモンタージュが駆使された。カメラマン出身で撮影技術に長けたキューブリックは、SFX撮影スタッフと共に「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン(スリット越しに被写体を、シャッターが開いた状態で撮影する技術)」といった新たな撮影方法を考案した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "宇宙空間では大気が存在せず、遠くの物体も鮮明に見えることから、カメラのレンズを極限まで絞り込み、それによって不足した光量を補うために1フレームに4秒以上の超低速度撮影が使用されている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "作中、宇宙船のコンソール等の各所にワイヤーフレームによる3次元コンピュータグラフィックス風の映像が埋め込まれているが、それらは全て実物のコンピュータグラフィックスではなく、計算尺で計算して手作業で描いたアニメーションや、針金で作ったワイヤーフレーム風の立体モデルを撮影した映像などが用いられている(Sketchpadなど、まだ実物のコンピュータグラフィックスは研究室の時代であった)。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "キューブリックは飛行機恐怖症のため猿人達のシーンをアフリカでは撮影できず、撮影班をアフリカに送って大面積のスチル写真を撮影し、スタジオでフロント・プロジェクションを使った合成を行っている。スターゲートの映像の中には色彩が加工されたモニュメント・バレーの空撮映像も含まれており、アメリカで行われるプレミアのため、キューブリックはアメリカに向かう船の中で編集作業を行った。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "フロント・プロジェクションの導入はまだ一般的ではなかったが、1963年に邦画『マタンゴ』(監督:本多猪四郎)でも採用している。キューブリックは完璧を求めるため、3M社とも協力して効果的に鮮明な撮影を行った。先進的な取り組みであったが、画像を見ると空の部分に刷毛で塗ったような跡が見えている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "画像合成の簡略化を図ったため、どの宇宙船も宇宙に浮かぶ地球や月や木星を画面内で滅多に横切らない。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "本映画に登場する地球の姿は実際より青白くなっている。これは撮影当時大気圏外からの地球の姿を撮ったカラー写真が1954年10月5日にエアロビーRTV-N-10bにより撮影された高度257kmからの117枚モザイク写真と1965年3月18日にボスホート2号が地球衛星軌道から撮影したものしか存在しなかったからである(初の地球全球写真はジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所のDODGEにより1967年9月20日に撮影され同年11月10日に発表されたがこの写真は映画制作には間に合わなかった)。本映画に登場した地球の色はボスホート2号が撮影した地球の色とよく似ている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "小説版では土星だが特撮部が土星を制作するもののキューブリックが納得できる基準に満たなかったため本作では木星に設定変更された。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本作で使用された宇宙船の模型は他作品への流用を防ぐため、キューブリックの指示で図面も含めて廃棄処分されたことから資料が少なく、舞台となるディスカバリー号でも撮影に使われた模型の全長が57フィートと54フィートの説があり、左側面は資料が存在しないなど不明な点が多い。2018年10月25日には海洋堂が研究書の写真などからディテールを補完した1/10スケールモデルの受注生産を開始した際には54フィート説を採用した。なお『2010年』の撮影に当たっては『2001年』の映像を参考に約100mと設定された模型が新規に作成された。現存するのはアリエス1B型月シャトルのみであり、アメリカ映画芸術アカデミーが所有している。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "それまでのSF映画では未来的イメージの電子音楽などが用いられることが多かったが、当作品の映画版では、全篇にわたってクラシック音楽の名高い楽曲が数多く用いられている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "音楽を選定するのにあたり監督はスタッフに対していろいろなジャンルのレコードを集めさせたが、その時の指示としては「ミュジーク・コンクレートのようなゴミはいらない」との指示を出している。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ジェルジ・リゲティには一切映画についての説明や承諾もないまま、彼の曲を4曲採用した。リゲティが印税を受け取ったのは、1990年頃になってからだという。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、(1)メインタイトル、(2)「人類の夜明け」、(3)ラストと合計3回使われている『ツァラトゥストラはかく語りき』の演奏はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のデッカ・レコード録音版だが、デッカ(1968年当時は日本国内ではロンドン・レーベル)が演奏者名を出さないことを許諾の条件としたので、映画のエンド・クレジットでは曲名しか表示されていない。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "終盤ボーマン船長が年齢を重ねていくシーンでは、BGMに『南極交響曲』を使用したバージョンもつくられた。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「入場曲」および休憩時「間奏曲」の『アトモスフェール』、「退場曲」の『美しく青きドナウ』は、映像ソフトでは1989年発売のクライテリオン版LD-BOXまではカットが慣例化しており、休憩のクレジット自体も初期の映像ソフトではカットされていた。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "キューブリックは当初、自分の監督作品『スパルタカス』の音楽を手がけたアレックス・ノースに作曲を依頼し、前半部分まで完成したスコアの録音まで完了していた(この最中にノースは過労で倒れてしまった)。しかしそれ以降は一切の連絡もないままノースの音楽を没にし、リヒャルト・シュトラウスなどの音楽に差し替えてしまう。ノースがそのことを知ったのは、試写会の会場であった。ノースはこれに激怒し、訴訟寸前にまで至った。ノースの死後、友人のジェリー・ゴールドスミスは没になった彼の音楽を録音し、1993年10月12日にヴァレーズ・サラバンド・レコーズから『Alex North's 2001 』(VSD-5400)としてCD発売した。日本でも『2001年〜デストロイド・ヴァージョン〜』(1993年12月1日発売、サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ(SLC)、SLCS-5021)のタイトルで発売されている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "更に、1968年に録音されたアレックス・ノースのオリジナル・スコアのマスターテープが発掘され、2007年1月26日に Intrada Records より『Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North) 』としてCD化され、3000セット限定で発売された。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ボーマン船長の旅のストーリーの結末をどうするのか、ラストシーンは脚本草稿の段階で、アーサー・C・クラークによって『ボーマンが異星の宇宙船の傍らに立っている』や『信じられないほど優美なヒューマノイドと出会い旅立っていく』など複数のパターンが監督のキューブリックに提案されたが、いずれもキューブリックの納得のいくものではなく、いくつものアイデアが却下された。 『何回書き直し、何回行き詰まったか、数えることもできない。かなり落ち込んでいる』と当時の状況を著書『失われた宇宙の旅 2001』の中でクラークは書いている。最終的には『ボーマンが子供へ逆行し、結末では赤んぼうとなって軌道上に浮かぶ』というアイデアが採用されることに帰着した。 クラークの小説『2001年 宇宙の旅』では結末は『モノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ』となっている。これはつまり、「究極に進化した地球外生命体の“遺物”であるモノリスにより、人間は太古の昔より進化をしてきたが、今度は人間が(ボーマン船長が)肉体を離れて精神のみの生命体へとさらなる進化をする。宇宙にいる多くの種族がそうして進化をしてきたように、人類もようやくその仲間入りをし、宇宙の一部になったのだ。それが地球外生命体の目的だった」という結末であり、それを「宇宙空間に胎児の姿で浮遊する」というビジュアルで表現したものであった。 その後のボーマンの“エネルギー生命体”としてのストーリーは、続編の小説『2010年 宇宙の旅』、『2061年 宇宙の旅』、『3001年 終局への旅』へと続く。ちなみに、モノリスの主人である地球外生命体は、『3001年 終局への旅』では、数百光年彼方に存在するとしている。 当初クラークは、難解なストーリーの内容の観客への理解を促すために、映画全編にわたって説明用のナレーションを多数書き上げており、脚本にはナレーションが記載されているが、映画ではそれらは全く使われることはなかった。「言葉で説明をしてしまうと、せっかくの未知の世界との遭遇が、陳腐なものになってしまうから」とキューブリックは判断したのだ。しかし、ラストシーンを含め、それでも、映像だけでこの本来のストーリーを解釈するには、説明不足の感は否めない。映画以外の資料を参照して、初めて物語の起承転結を理解できる 。", "title": "難解とされるラストシーンの解釈" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "当初予定の1966年から1年4か月遅れ、アポロ11号が月面着陸を果たす前年の1968年に公開された。ワールドプレミアは1968年4月2日にワシントンD.C.のアップタウン劇場で行われた。アメリカでの一般公開日は1968年4月6日、イギリスでの公開は1968年5月15日だった。度々再公開されており、2014年11月イギリスでの再公開にあたってはアルフォンソ・キュアロン、クリストファー・ノーランによる賛辞が予告編に盛り込まれている。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本においては、テアトル東京、名古屋の中日シネラマ劇場、大阪のOS劇場で封切られた。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "《前夜祭》1968年4月10日 18:00からテアトル東京で、特別有料試写会と銘打って前夜祭の趣きで公開されたのが最初である。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "《封切り》1968年4月11日からが正規の一般公開である(~9月18日まで)。テアトル東京での上映時間は、【平日・休日共】12:20/15:40/19:00。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "《凱旋興行》更に、年末の各紙誌ベスト・テンの高評価を受け、翌春(1969年3月1日~4月4日)、「凱旋興行」と銘打ってテアトル東京で再上映された。上映時間は、【月~土】13:00/16:00/19:00。【日・祝】10:00/13:00/16:00/19:00。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "《2番館》東京では、「凱旋興行」のあと、1969年5月25日から東宝洋画系TYチェーン(白系)の9館で、『汚れた7人』との併映で2本立て公開された。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その後、初公開から10年後の1978年に再びロードショー上映され、折からのSFブームをフォローアップする形となった。作品の設定年である2001年にも「新世紀特別版」としてノーカット版で公開されている。このヴァージョンでは、本来35mmフィルムでアナモフィック・レンズを使用して再現されるスコープサイズのアスペクト比の1:2.35とせず、35mmフィルムの上映で70mmのオリジナルと同一のアスペクト比1:2.20を再現している。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2018年10月、6〜7、11〜14日に国立映画アーカイブで70mmニュープリントフィルムでの同作の特別上映が行われた。10月19日から二週間限定で70mmフィルムからリマスタされた物がIMAXデジタル・シアター・システムを備えた映画館で公開された。", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "【参照】『2001年宇宙の旅』の日本での上映実績のまとめ https://kubrick.blog.jp/archives/52256322.html", "title": "公開" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "公開当時、台詞や説明を極力省き、視覚表現で観客の意識に訴えるという作風は極めて斬新であった。映像のクオリティーや「人類の進化と地球外生命の関係」という哲学的なテーマを賞賛する声の一方、抽象的な内容や非常に難解な結末を批判する意見もあり、賛否の渦が巻き起こった。それでも、公開当時の1968年における年間世界興行収入で1位を記録。現代では映画史におけるSF映画の古典として認識されており、日本の文部科学省が「特選」に指定している、唯一のSF映画としても知られている。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "映画鑑賞後にクラークの小説を読んだが、これが知的にも満足のいく内容で読み始めたら止まらない。映画の中では抽象的に描かれている場面が...とりわけ発端と結末が納得できる説明が小説にあった。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "作家 レイ・ブラッドベリは本作試写を観た後、映像美を褒めながらも「クラークはクーブリックにレイプされたんだ」と評した。このブラッドベリによる評を人づてに聞いたクラークは「それは違う、レイプされたのはお互い様だったんだよ」とコメントを残している。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "初公開の年の暮れ、1968年12月、アポロ8号が史上初めて有人で月の裏側を廻って帰還したが、その時撮影された月面入れ込みの地球の写真が本作のそれにそっくりで、改めて本作の特撮のクオリティが示された。また、そのアポロ8号の船長の名がフランク・ボーマンで、本作の登場人物のふたり、フランク・プールとデヴィッド・ボーマンを合成したような名前であることが、偶然とはいえ話題になった。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "デビッド・ボウイの若き日を描いた映画『スターダスト』の冒頭では、本作のスター・ゲイト突入から白い部屋への到着までを、夢の中のシーンとしてパロディ化している。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "公開時からオールタイムで本作品は高く評価され続けている。1991年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "映画史上のベスト・ランキング、オールタイム・ベストなどでは、必ずと言っていいほどランクインしている。", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "以下は日本でのランキング", "title": "反響・評価" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "本作は1968年のアカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞、また1969年のヒューゴー賞も受賞した。", "title": "受賞" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "小説版が原作として先に書かれたものであると勘違いされることが多いが小説は映画の公開の後に発表されている。クラーク自身も配給前の出版を目指していたが3分の2を書き終えた時点で最終章の執筆は遅々となったとされる、その小説にはクラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることからも、小説版と映画版は明確に区別する必要がある。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "HAL 9000の反乱の要因やラストの展開も、小説版は論理的に説明づけられているのに対し、映画版は謎めいた展開となっている。これは当初、映画冒頭に科学者らが人類の進化など作中の話題に関して語るインタビュー映像が予定され、また全編に渡りストーリーを解説するナレーションを入れる予定であったものが、過剰な説明が映画からマジックを奪うことを恐れたキューブリックが、インタビューもナレーションもすべて削除してしまったため、何の説明もない映像が映画全編にわたり続くことになったからである。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ヒトザルとモノリスの遭遇は小説では300万年前という設定だが、映画では400万年前とされているなど、細かな点の相違は多い。小説ではディスカバリー号には放熱板(「放射翼」)、それもかなり大きなものが付いている設定になっているが映画のディスカバリー号には付いていない。ある解説によれば、宇宙なのに(空気を前提とした)翼なんて、と思われるのを恐れて、映画版では付けていないのだという。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "後にクラークが執筆した『2010年宇宙の旅』はパラレルワールドとされ、ストーリーの多くの部分は続編の形を取りながら、主な舞台は木星周辺となっており、そこだけは映画版と同一になっている。「宇宙の旅」シリーズは、更に『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』と、計4作執筆されており、シリーズ作品全ての作中設定は前作までの多くの部分を踏襲してはいるが、基本的にはパラレルワールドであるとあとがきやまえがきで触れられている。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "小説版は映画の製作と並行して書き進められたが、その過程で多くの草稿が日の目を見ずに終わった。のちにクラークは、それらをまとめて編纂し『失われた宇宙の旅2001』として出版した。そこでは、例えば、「HAL9000は最初、人型ロボットとして構想された」とか、「なぜボーマンが結末で赤んぼうになるのか、(中略)これは成長段階における彼の自己イメージなのだ」といった興味深い記述が見られる。", "title": "小説版" } ]
『2001年宇宙の旅』は、スタンリー・キューブリックが製作・監督した、1968年の叙事詩的SF映画である。脚本はキューブリックとアーサー・C・クラークによって書かれ、クラークが1951年に発表した短編小説「The Sentinel」(邦訳版タイトル「前哨」)やその他のクラークの短編小説に触発されたものである。映画公開後に発表された小説は、脚本と同時進行で書かれた部分もある。実存主義、人類の進化、科学技術、人工知能、地球外生命体の可能性などをテーマに、異星人のモノリスを発見した後、感覚を持つコンピューターHALと共に木星に向かう航海を描いた作品。 この映画は、科学的に正確な宇宙飛行の描写、先駆的な特殊効果、曖昧なイメージで注目されている。キューブリックは、従来の映画や物語の手法を避け、台詞はほとんど使わず、音楽だけの長いシークエンスがある。サウンドトラックには、リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス2世、アラム・ハチャトゥリアン、リゲティ・ジェルジュなどのクラシック音楽が多数使用されている。 この映画は、暗い終末論的なものから、人類の希望を再評価する楽観的なものまで、様々な評価を受けた。アカデミー賞では4部門にノミネートされ、キューブリックは視覚効果の演出で受賞した。この作品は、これまでに作られた映画の中で最も偉大で、最も影響力のある作品の一つとして広く知られている。1991年には、米国議会図書館によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存されることになった。
{{参照方法|date=2012年7月}} {{Infobox Film | 作品名 = 2001年宇宙の旅 | 原題 = 2001: A Space Odyssey | 画像 = 2001 A Space Odyssey (logo).png | 画像サイズ = 240px | 画像解説 = | 監督 = [[スタンリー・キューブリック]] | 脚本 = スタンリー・キューブリック<br />[[アーサー・C・クラーク]] | 製作 = スタンリー・キューブリック | 製作総指揮 = | 出演者 = [[キア・デュリア]]<br />[[ゲイリー・ロックウッド]]<br />[[ウィリアム・シルベスター]]<br />[[ダグラス・レイン]] | 音楽 = | 撮影 = [[ジェフリー・アンスワース]]<br />[[ジョン・オルコット]] | 編集 = [[レイ・ラヴジョイ]] | 配給 = [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]] | 公開 = {{flagicon|USA}} 1968年4月6日<br />{{flagicon|JPN}} [[1968年の日本公開映画#4月|1968年]]4月11日<br />{{flagicon|UK}} 1968年5月10日 | 上映時間 = 142分 | 製作国 = {{UK}}<br />{{USA}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = $ 10,500,000 - 12,000,000 | 興行収入 = $146,000,000 | 配給収入 = {{flagicon|JPN}} 2億6643万円<ref>『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)251頁</ref> | 前作 = | 次作 = [[2010年 (映画)|2010年]] }} {{Portal|文学}} 『'''2001年宇宙の旅'''』(にせんいちねんうちゅうのたび、原題:''{{en|2001: A Space Odyssey}}'')は、[[1968年の映画|1968年]]の[[叙事詩的映画|叙事詩的]][[SF映画]]。 製作・監督は[[スタンリー・キューブリック]]、脚本はキューブリックと[[アーサー・C・クラーク]]。 物語はクラークが1951年に発表した短編小説「The Sentinel」(邦訳版タイトル「前哨」)ほかの作品を踏まえているが、直接的な「原作」は無かった。 ''映画公開後''に発表された「小説版」は、脚本と同時進行で書かれた部分もあるとされるが、クラークは新編序文で[[ノベライズ]]ではないと述べている。 [[実存主義]]、[[人類の進化]]、科学技術、[[人工知能]]、[[地球外生命|地球外生命体]]の可能性などをテーマに、未知の存在[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]を発見した人類が、[[人工意識]]を持つコンピューター[[HAL 9000|HAL]]と共に[[木星]]に向かう航路で勃発した事件を描いた[[サスペンス]]。 様々な評価を受けていて、終末論や人類の進化、異星知性体への応答など、多岐にわたる。 従来の映画や物語の手法を避け、台詞の無い音楽だけの長いシークエンスがある。科学的に正確な[[惑星間宇宙航行]]の描写を先駆的な特殊効果で映像化しつつ、曖昧な印象を与えている。サウンドトラックには、[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[ヨハン・シュトラウス2世]]、[[アラム・ハチャトゥリアン]]、[[リゲティ・ジェルジュ]]などのクラシック音楽が多数使用されている。 [[アカデミー賞]]では4部門にノミネートされ、キューブリックは[[アカデミー視覚効果賞|視覚効果]]の演出で受賞した。 1991年、[[アメリカ議会図書館|米国議会図書館]]によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に保存されることになった。最も偉大で最も影響力のある映画作品の一つとして広く知られている。 == あらすじ == === 人類の夜明け(THE DAWN OF MAN) === 人類が文明を築く400万年前(小説版では300万年前)、ホモサピエンスの祖先である[[猿人|ヒトザル]]が、荒野で飢えに苦しみながら生存競争を闘っていた頃。ある日、ヒトザルたちの前に黒い石板のような謎の物体「[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]」が出現し、サルたちは驚きながらも恐る恐るそれに触れる。やがて一体のヒトザル(月を見るもの)がモノリスの知能教育により、動物の骨を道具・武器として使うことに目覚め、獣を倒して多くの肉を食べられるようになる。ヒトザルたちは、水場をめぐって対立する別のヒトザルの群れにも骨を武器として対戦し、敵のボスを殺害する。水場争いに勝利した「月を見るもの」が、歓びのあまり骨を空に放り上げると、これがカットつなぎで一瞬にして最新の軍事衛星に変わる(人類史を俯瞰する[[モンタージュ]]とされる){{efn2|骨から直結されたのが、[[パンアメリカン航空]](PAN AM)のマークをつけた宇宙船と勘違いされることがあるが、パンナム便は最初の宇宙船の後で出てくるので、骨と直接つながってはいない。}}。 [[月]]に人類が居住可能になった時代。[[アメリカ合衆国]]宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月の[[ティコ (クレーター)|ティコ]]クレーターで発掘された謎の物体「[[TMA]]・1」(Tycho Magnetic Anomaly, ティコ磁気異常1号)、通称「[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]」(一枚岩)を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かう。途中、宇宙ステーション5(小説版では「宇宙ステーション1号」)でソ連の科学者たちに会い懇談するが、「クラビウス基地が閉鎖されているが、いったい何が起きているのか」と質問され、フロイド博士は回答を拒む。 月面基地に着いたフロイド博士は、会議室で今回の事態の重要性について訓示し、TMA-1の発掘現場へ向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは、強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発した。TMA-1は、あのヒトザルたちが月に到達するまでに進化したことを告げるセンサーだった。 === 木星使節(JUPITER MISSION) === 18か月後、宇宙船{{仮リンク|ディスカバリー号|en|Discovery One}}は木星探査の途上にあった。乗組員は船長のデヴィッド・ボーマンとフランク・プール隊員、出発前から[[コールドスリープ|人工冬眠]]中の3人の科学者と、史上最高の[[人工知能]][[HAL 9000|HAL(ハル)9000型コンピュータ]]であった。 順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、この探査計画に疑問を抱いている事を打ち明ける。その直後、HALは船のアンテナ部品=AE35ユニットの故障を告げるが、ボーマンがユニットを回収して点検すると、問題は見つからなかった。HALの異常を疑ったボーマンとプールは、その思考部を停止させることを決める。しかし、ふたりの密談を読唇して察知したHALが、それを阻止しようと乗組員の殺害を決行する。プールは船外活動中にポッドに衝突されて[[宇宙服]]を壊され、人工冬眠中の3人は[[生命維持装置]]を切られてしまう。別のポッドに飛び乗ってプールの救助に向かったボーマンは、遺体を回収して戻るが、HALに入船を拒絶され、止む無くプールの遺体を放し、ポッドのハッチを爆破してエアロックに突入する。 唯一生き残った乗員となったボーマン船長は、HALの思考部を停止させるべく、ユニットを取り外していく。HALは助命嘆願を繰り返すが、次第に知能を失い、遂には「デイジー」の歌を歌い始め、録音テープが失速するようにして止まる。すると、木星到着後に搭乗員全員に開示される動画が再生され、探査の真の目的であるモノリスの件をフロイド博士が語る。 === 木星 そして無限の宇宙の彼方へ(JUPITER AND BEYOND THE INFINITE) === ディスカバリー号が木星の衛星軌道付近に到達すると、ボーマンは近くに浮かぶ巨大モノリスを発見する。ポッドに乗って接近して行くと、巨大モノリスは漆黒の闇に消え、そのあたりの空間から発した光の奔流がポッドを呑み込み、めくるめく異次元の光景が次から次へと押し寄せて来る。 やがて、閉鎖された王朝風の白い部屋<!--小説版ではTVドラマの高級ホテルの一室-->にポッドごと到着すると、そこでボーマンは、年老いて行く自分自身を順々に発見する。遂には老衰してベッドに横たわるボーマンの前に、あのモノリスが現れ、彼がそれに向かって手を差し伸べると、光に包まれた胎児に変貌する。ボーマンは、人類を超越した存在=スター・チャイルドへと進化を遂げた。 そして胎児は太陽系へと戻り、地球を見下ろしながら、これから自分が成すべきことについて思いを巡らせるのだった{{efn2|続編の映画『[[2010年 (映画)|2010年]]』冒頭によると、月のモノリス発見が[[1999年]]、ディスカバリー号内の出来事が[[2001年]]の出来事とされている。}}。 == メカニック == 特筆しない限り、詳細部分に関する記述は小説版を参考としている。[[#小説版]]も参照。 ; {{仮リンク|ディスカバリー号|en|Discovery One}} : アメリカ合衆国所属の[[宇宙船]]。UNCOS登録番号01/283、コールサイン「''X-Ray Delta One''(XD1)」。映画版では「ディスカバリー1号」とも呼ばれている。2001年時点では最高速の宇宙船で、元々は2年に及ぶ[[木星]]への有人往還飛行「木星計画」の為に建造された物だったが、TMA・1の発見に伴い、TMA・1が発した電波の行き先の調査へと任務が変更された。なお、映画版と『2010年宇宙の旅』では目的地は木星のままであるが、小説版では最終的な目的地は[[土星]]の衛星[[イアペトゥス (衛星)|ヤペタス]]に変更されており、木星では[[宇宙探査機|大気探測機]]の投下と重力による[[スイングバイ]]を行うのみとなっている。 : 全長は100m・120m・150mと諸説ある(後述)が、『2010年宇宙の旅』では約100mに設定された。船体は前から、居住区画となる半径6mの与圧球体、長さ90mほどの棒状構造物、[[原子炉]]と低推力プラズマ・ドライブからなる推進システムの三つで構成されている。その構造上大気圏内での運用は考慮されておらず、建造は地球の軌道上で、試験飛行は地球 - 月間で行われた。乗員は5名で、彼らに加えて人工知能HAL 9000が搭載されている。なお、乗員のうち3名は目的地に到着するまで[[コールドスリープ|人工冬眠]]に入っている。 : 与圧球体内部にはコントロール・デッキ、生命維持システム、キッチン、トイレ、乗員5名分の私室、人工冬眠カプセルなどが存在し、球体の赤道部分に納められた直径10.6mの遠心機が10秒に一回の割合で回転することによって、地球の6分の1ほどの人工重力を発生させている。また、球体下部には3つの[[エアロック]]を有する格納庫があり、スペースポッド3機が格納されている他、小説版ではセラミック製の融除式[[熱シールド|熱遮蔽材]]によって防護された爆弾型の無人大気探測機を2機搭載している。 : 棒状構造体は居住区画と推進システムを連結するもので、中央部に地球との通信に用いられるパラボラ型の長距離メイン・アンテナが設置されており、HALが故障すると予測したAE35ユニットはこのアンテナの指向ユニットである。この他、小説版ではV字型に配置された一対の放熱フィンと4基の液体燃料タンクを装備しているが、映画版ではこれらの物は見受けられない。 : 推進システムは一種の[[原子力推進|原子力ロケット]]で、6基のスラスターを有しているが、使用するのは月軌道から発進する際のみで、通常は慣性による航行を行い、原子炉は船内の電力供給などに使用されるのみとなる。また、細かい姿勢制御には別に制御ジェットを使用する。 : 小説版ではディスカバリー号の旅は片道のみであり、土星軌道に到達して100日の探査活動を終えた後には、乗員は5年間の人工冬眠によって今後建造される同型船ディスカバリー2号による回収を待つ予定であったが、『2010年宇宙の旅』時点でもディスカバリー2号は未完成の状態にあり、ディスカバリー号の調査には[[ソ連]]の宇宙船コスモナウト・アレクセイ・レオーノフ号が用いられている。 ; スペースポッド : ディスカバリー号に搭載されている船外活動カプセル。搭乗者は宇宙服を着用する。大まかな形状は直径約2.7mの球体で、機体前部に円形の張り出し窓と4基のライト、更に「ウォルドー」とも呼ばれる二対の作業用[[マニピュレーター]]が装備されている。マニピュレーターのうち一対は重労働用、もう一対は精密作業用で、この他に各種工具を有する伸縮式のタレット台が備わっている。また、推進はメイン・ロケット、姿勢制御は飛行姿勢制御ノズルによって行う。 : 小説版では各ポッドに女性名からなる愛称が付けられており、ディスカバリー号に搭載されている3機の愛称は「アナ」「ベティ」「クララ」となっている。 ; オリオン3型宇宙機 : 地球と軌道上の[[宇宙ステーション]]の往還に利用される[[スペースプレーン]]。翼幅は60mほどで、映画版では[[戦闘機#構造|菱形翼]]の[[無尾翼機]]だが、小説版では[[後退翼]]を持つとされている。映画版では描写されていないが、機体は本体である上段とブースターである下段の二つの部位から構成されており、下段は上昇中に切り離されて自動的に発射基地に帰投する(映画版では上段のみ登場)。また、打ち上げには[[ケネディ宇宙センター]]に設置された、多重レールを持つ[[マスドライバー|発射軌条]]が使用されている。 : 乗客定員は20名で、更に操縦士、副操縦士、[[客室乗務員|スチュワーデス]]1名が搭乗する。なお、宇宙空間では機内が無重力となるが、乗員の体の固定方法は映画版と小説版で異なり、映画版ではグリップシューズ{{efn2|日本語字幕では「吸盤靴」と翻訳されている他、「磁力靴」とされている場合もある。}}が、小説版では靴底がカーペットと噛み合うように細工されたベルクロ・スリッパが用いられている。 : 映画版では[[パンアメリカン航空]]によって運行されており{{efn2|現実世界では2001年以前の1991年に破産している。}}、機体にロゴマークが描かれている他、操縦席のコンソールには[[IBM]]のロゴマークが見受けられる。また、小説版では同種の機体として、チトフ5型スペースプレーンという機体が登場している。 ; 宇宙ステーション5 : 地球 - 月間の中継点として使用されている宇宙ステーション。上記の名称は映画版のもので、小説版では「宇宙ステーション1号」となっている。直径300mのリングが二つ組み合わさった形状をしており、軸部分にドッキング・アームを有する開口部を有している。リング部は一分間に一回転し、遠心力による人工重力を生み出している。なお、宇宙機がステーション内に進入する際、映画版では宇宙機側がステーションの回転に姿勢をシンクロさせているが、小説版では軸部分がリングとは逆方向に回転し、相対的に回転を打ち消している。また、映画版ではいまだ建造途中でリングの一つは部分的に骨組みが剥き出しである。 : 宇宙ステーション内部に入る際には[[スペクトログラム|声紋]]識別装置を備えた検問口を通過する。なお、この検問口はアメリカ管区、ロシア管区、日本管区などに分かれているが、これは純行政的な区分でありステーション内部にこの様な区分けは無い。 : リングの縁には旅客ラウンジがあり、ソファ、小テーブル、公衆[[テレビ電話]]や[[レストラン]]、[[郵便局]]、[[理髪店]]、[[ドラッグストア]]、[[映画館]]、[[土産|みやげもの]]売店などが設けられている他、映画版では[[ヒルトン|ヒルトンホテル]]、[[AT&T]]、[[:en:Howard Johnson's|ハワード・ジョンソンズ]]などといった実在企業がブースを出店している。 ; アリエス1B型月シャトル : 宇宙ステーションと月面の往還に用いられる宇宙船。「宇宙の荷馬」という渾名を持つ。船体は球形をしており、着陸時に上面になる部位に操縦席を、下面に4本の着陸用[[ショックアブソーバー|ショック・アブソーバー]]を備えている。 : 船内には座席が円形に配置された定員30名の旅客セクションや無重力トイレがあり、乗客乗員はオリオン3型と同様に、映画版ではグリップシューズ、小説版ではベルクロ・スリッパを着用している。また、小説版にはトイレの描写があり、遠心力で地球の1/4程の人工重力を発生させてから用を足すようになっている。 ; ロケット・バス : 月面上での移動に使用されている小型の宇宙船。映画版のみの登場。形状はその名の通りバスに類似している。乗員は数名程度で、船体下部に6基のスラスターと3基の着陸脚を、船体両脇にエアロックを有している。 : 小説版での同様のシーンでは、8個のフレックス車輪を持つ大型の[[月面車]]が登場している。こちらの乗員は20名、移動研究所的な性格を持ち、緊急時には4基の下部ロケットを用いて跳躍することも可能。 ; ディスカバリー2号 : 調査を終えた船員達を帰還させる船、5年後に到着予定だった。<!--劇中時未完成、出番無し--> == キャスト == {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- ! rowspan="2" | 役名 ! rowspan="2" | 俳優 ! 日本語吹替 |- ! [[テレビ朝日]]版<br />(追加録音部分<ref name="wowow">{{Cite web|和書|url=https://www.wowow.co.jp/detail/013895/?m=03|title=2001年宇宙の旅[吹替補完版]|accessdate=2016年10月28日}}</ref>) |- | デヴィッド・ボーマン船長 || [[キア・デュリア]]{{efn2|公開当時は「ケア・ダレー」と表記されていた。※どこで?}} || [[堀勝之祐]] |- | フランク・プール || [[ゲイリー・ロックウッド]] || [[小川真司]] |- | ヘイウッド・R・フロイド博士 || [[ウィリアム・シルベスター]] || [[小林昭二]]<br />([[大場真人]]) |- | アンドレイ・スミスロフ || レナード・ロシター || [[坂口芳貞]] |- | ラルフ・ハルバーセン || ロバート・ビーティ || [[大木民夫]] |- | ミラー || ケヴィン・スコット(クレジットなし) || [[阪脩]] |- | [[HAL 9000]](声) || [[ダグラス・レイン]] || [[金内吉男]]<br />([[木下浩之]]) |- | 月を見るもの(ヒトザル) || ダニエル・リクター || |- | エレナ || マーガレット・タイザック || |- | ビル・マイケルズ || ショーン・サリヴァン || |- | 作戦管制官(声) || フランク・ミラー || |- | 月面シャトル船長 || [[エド・ビショップ]] || |- | プールの父 || アラン・ギフォード || |- | プールの母 || アン・ギリス || |- | アン(フロイドの娘) || ビビアン・キューブリック{{efn2|キューブリック監督の実の娘。}}(クレジットなし) || |- | (スタントマン) || ビル・ウェストン(クレジットなし) || |- | 不明<br />その他 || || [[木下秀雄]] <br />[[山内雅人]]<br />[[松下達夫]]<br />[[瀬能礼子]]<br />遠藤由香里<br />[[近藤高子]]<br />[[横尾まり]]<br />[[岡のりこ|上山則子]]<br />[[坂井志満]]<br />[[大滝進矢]] |- ! colspan="3"|日本語版スタッフ |- | 演出 || || [[佐藤敏夫 (音響監督)|佐藤敏夫]] |- | 翻訳 || [[木原たけし]](字幕) || 飯嶋永昭 |- | 効果 || || PAG |- | 調整 || || 前田仁信 |- | 制作 || || [[東北新社]] |- | 解説 || ||[[淀川長治]] |- | 初回放送 || || [[1981年]][[10月25日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』<br />21:00-23:44 |} *当時『日曜洋画劇場』で解説を務めていた[[淀川長治]]は、放送されたバージョンがキューブリック自身がテレビ放送用に再編集し「これ以上弄っては(編集しては)いけない」という指示を出したものであるという旨を説明している。なお加えて淀川は「完璧なノーカット」と述べているが、実際にはフロイド博士が最初にミラーを見つけて「ああ、来たな」と言うシーンなど、細かくカットされている箇所が存在している。 *** 2016年12月29日に[[WOWOW]]で放送される際、本放送時にカットされた一箇所、再放送時にカットされた三箇所を追加録音した物が放送された。その際、故人の声優が担当していた箇所は別の声優が代役を務めている<ref name="wowow" />。 *** 2018年11月21日発売のHDリマスター版BDには、上記のWOWOWで放送された追加録音版が収録。 == スタッフ == * 製作・監督:[[スタンリー・キューブリック]]{{efn2|公開当時は「カブリック」の表記だった。のちに「クブリック」となり、更に現在の「キューブリック」に落ち着いた。}} * 脚本:スタンリー・キューブリック,[[アーサー・C・クラーク]] * 撮影監督:[[ジェフリー・アンスワース]],[[ジョン・オルコット]] * 特殊効果監督:スタンリー・キューブリック * SFX:ウォーリー・ビーバーズ,[[ダグラス・トランブル]],コン・ペダースン、トム・ハワード * 特殊メイク:[[スチュアート・フリーボーン]] * 編集:レイ・ラヴジョイ * 衣装:ハーディ・エイミーズ * 美術:トニー・マスターズ,ハリー・ラング,アーネスト・アーチャー == 作品解説 == 1964年に公開された「Dr.StrangeLove」(邦題・[[博士の異常な愛情]])で高評価を得たキューブリックは「[[宇宙人東京に現わる]]」(1956年)に触発され<ref>{{cite book |last=Baxter |first=John |date=1997 |title=Stanley Kubrick: A Biography |page=[https://archive.org/details/stanleykubrickbi00baxt/page/200 200] |location=New York |publisher=Basic Books |isbn=0-7867-0485-3 |url=https://archive.org/details/stanleykubrickbi00baxt/page/200 }}</ref>、科学ノンフィクションを読み漁り、さらに意欲的な”語り草になるような良質の空想科学映画作品”の構想を練っていた。アーサー・C・クラークと互いの頭の中の知識をやり取りし、ファーストコンタクトを題材とした映画制作と小説(兼・脚本)の並行作業という形で話は決まり、クラークはホテル・チェルシー1008号室にて執筆に取りかかる。<!--決定版「2001年宇宙の旅」 新版序文 バック・トゥ・2001 クラーク 早川書房--> 撮影は[[1965年]]12月30日に開始し、イギリスの[[:en:MGM-British Studios|MGM-British Studios]](ボアハムウッド)を中心拠点にして進められた。翌[[1966年]]5月までに俳優の演技シーンを撮り終えたが、[[SFX]]シーンの完成までさらに1年半以上を費やした。製作費は予定の600万ドルを大きく超過し1050万ドルに達した。 映画は70mm[[画面アスペクト比#その他の大画面映画|シネラマ]]規格で制作された。キューブリックは映像表現にシネラマスクリーンでの上映効果を最大限に狙っている。視覚効果では「Dr~」でB-52の特撮を担当したウォーリー・ビーバーズのほか、[[ダグラス・トランブル]]、コン・ペダースン、トム・ハワードなど少人数しかクレジットされていないが、実際には巨大なプロジェクトであり、視覚効果デザインの上で科学考証に多くの科学者、研究者が参加している上、撮影でも10年を経てイギリスで特撮チームを率いることになるブライアン・ジョンソン(『エイリアン』[[エイリアン (映画)|1]]、[[エイリアン2|2]])、ゾラン・ペリシック(『[[スーパーマン (1978年の映画)|スーパーマン]]』)、マット画合成を担当したリチャード・ユリシッチを含むデザイナー、撮影や現像、合成、アニメーションのスペシャリストが多数参加している。 ディスカバリー号の乗員達が食べる[[宇宙食]]は、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が実際に開発して本作のために提供したものである。また本作に登場するコンピュータの設定や画面はIBMが全面協力しており、当初は随所に同社のロゴがあしらわれていたとされる。ただ制作中に「コンピュータが人間を殺害する」というストーリーであることが判明したため難色を示した同社は制作途中から手を引き、ロゴもすべて除去された{{efn2|それでもディスカバリー号の食事シーンで映るタブレットPC"Tele Pad"にはIBMのロゴが残っている}}という通説が有名になっている{{efn2|結果的に2001年前に同社が何らかの憂き目によって、社名の変更や倒産した場合、途端に時代遅れの作品というリスクを避けられた。}}。アリエス1B型の計器盤およびディスカバリー号乗員が着用する宇宙服の左腕コンソールに取り残されたIBMロゴが確認できる。 当初キューブリックは美術担当として漫画家の[[手塚治虫]]の協力を仰いだが、当時の手塚は連載漫画の他に、連続テレビアニメの制作や原稿を多数抱え、日本国外での映画制作に携わることは物理的に不可能であったため、オファーを断った。「200名もの人間を食わせなければならないので」云々と云う主旨の返信を送ると、キューブリックは「家族が200人もいるのか?!」と驚嘆したという<ref>1988年[[キネマ旬報]]社刊『キューブリック好き!』より。</ref>。手紙自体は紛失してしまったが、封筒の写真は手塚のエッセイ本に掲載されている<!--このいきさつの話は手塚治虫の申し立てだけであり、傍証がないため、今後キューブリック・アーカイブに残された資料をあたる必要があろう-->。 === 脚本 === キューブリックが、「クズと見なされない最初のSF映画」であり、「宇宙におけるヒトの位置を描く映画」を撮る企画をたてた1964年に、当初は[[アーサー・C・クラーク]]の『[[幼年期の終り]]』の映画化も構想したが、すでに映画化権が他社により取得されていた<ref>マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.73-74</ref>。 その経緯もあり、キューブリックは共同での物語作り、科学考証、共同脚本などをクラークに依頼をした<ref>マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.78</ref>。当初、キューブリックはラジオドラマ『太陽面の影』を元にした地球侵略物を提案していたが、クラークが、人類の進化を描き、宇宙への進出と異星人とのコンタクトでその進化がクライマックスに達する物語を提案した<ref>マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.80-89</ref>。 クラークはすでに、[[宇宙人]]と人類のファーストコンタクトを描いた小説『前哨』を[[1948年]]に発表([[ハヤカワ文庫]]の同名短編集などに収録)の他「地球への遠征」等の他4篇の短編小説を下敷きにしてプロットを組み上げて執筆した<!--決定版より-->。後にクラークが発表した『失われた宇宙の旅2001』によると、キューブリックとクラークがアイデアを出し合い、先ずはクラークが「小説」としてアイデアをまとめあげ、その後キューブリックが脚本を執筆している。 題名は仮題として『太陽系はこうして勝ち取られた』から『宇宙』、『星々へのトンネル』、『星からの贈り物』、『星のかなたへの旅』とかわり、最終的に『[[オデュッセイア]]』との共通点もありキューブリックの決断で現在の題名に変わった<ref>マイケル・ベンソン著『2001 キューブリック クラーク』早川書房 P.111、115、133-134</ref>。 === 撮影技術 === オープニングなどでは[[モンタージュ]]が駆使された。カメラマン出身で撮影技術に長けたキューブリックは、SFX撮影スタッフと共に「[[スクリーン・プロセス#フロントプロジェクション|フロントプロジェクション]]」や「スリットスキャン(スリット越しに被写体を、シャッターが開いた状態で撮影する技術)」といった新たな撮影方法を考案した。 宇宙空間では大気が存在せず、遠くの物体も鮮明に見えることから、カメラのレンズを極限まで絞り込み、それによって不足した光量を補うために1フレームに4秒以上の超低速度撮影が使用されている。 作中、宇宙船のコンソール等の各所に[[ワイヤーフレーム]]による[[3次元コンピュータグラフィックス]]風の映像が埋め込まれているが、それらは全て実物のコンピュータグラフィックスではなく、計算尺で計算して手作業で描いたアニメーションや、針金で作ったワイヤーフレーム風の立体モデルを撮影した映像などが用いられている([[Sketchpad]]など、まだ実物のコンピュータグラフィックスは研究室の時代であった)。 キューブリックは飛行機恐怖症のため猿人達のシーンをアフリカでは撮影できず、撮影班をアフリカに送って大面積の[[スチル写真]]を撮影し、スタジオでフロント・プロジェクションを使った合成を行っている。スターゲートの映像の中には色彩が加工された[[モニュメント・バレー]]の空撮映像も含まれており、アメリカで行われるプレミアのため、キューブリックはアメリカに向かう船の中で編集作業を行った。 フロント・プロジェクションの導入はまだ一般的ではなかったが、1963年に邦画『マタンゴ』(監督:本多猪四郎)でも採用している。キューブリックは完璧を求めるため、3M社とも協力して効果的に鮮明な撮影を行った。先進的な取り組みであったが、画像を見ると空の部分に刷毛で塗ったような跡が見えている。 画像合成の簡略化を図ったため、どの宇宙船も宇宙に浮かぶ地球や月や木星を画面内で滅多に横切らない。 本映画に登場する地球の姿は実際より青白くなっている。これは撮影当時大気圏外からの地球の姿を撮ったカラー写真が1954年10月5日にエアロビーRTV-N-10bにより撮影された高度257kmからの117枚モザイク写真と1965年3月18日にボスホート2号が地球衛星軌道から撮影したものしか存在しなかったからである(初の地球全球写真はジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所のDODGEにより1967年9月20日に撮影され同年11月10日に発表されたがこの写真は映画制作には間に合わなかった)。本映画に登場した地球の色はボスホート2号が撮影した地球の色とよく似ている。 小説版では土星だが特撮部が土星を制作するもののキューブリックが納得できる基準に満たなかったため本作では木星に設定変更された<!--決定版-->。 本作で使用された宇宙船の模型は他作品への流用を防ぐため、キューブリックの指示で図面も含めて廃棄処分されたことから資料が少なく、舞台となるディスカバリー号でも撮影に使われた模型の全長が57フィートと54フィートの説があり、左側面は資料が存在しないなど不明な点が多い。2018年10月25日には[[海洋堂]]が研究書の写真などからディテールを補完した1/10スケールモデルの受注生産を開始した際には54フィート説を採用した<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1150093.html 海洋堂の「ディスカバリー号」プロップ再現モデル、受注受付開始] - GAME Watch</ref>。なお『2010年』の撮影に当たっては『2001年』の映像を参考に約100mと設定された模型が新規に作成された。現存するのはアリエス1B型月シャトルのみであり、アメリカ映画芸術アカデミーが所有している。 === 音楽 === それまでのSF映画では未来的イメージの[[電子音楽]]などが用いられることが多かったが、当作品の映画版では、全篇にわたって[[クラシック音楽]]の名高い楽曲が数多く用いられている。 音楽を選定するのにあたり監督はスタッフに対していろいろなジャンルのレコードを集めさせたが、その時の指示としては「[[ミュジーク・コンクレート]]のようなゴミはいらない」との指示を出している<ref>2001:キューブリック、クラーク ISBN 9784152098269</ref>。 [[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジ・リゲティ]]には一切映画についての説明や承諾もないまま、彼の曲を4曲採用した。リゲティが[[印税]]を受け取ったのは、[[1990年]]頃になってからだという。 なお、(1)メインタイトル、(2)「人類の夜明け」、(3)ラストと合計3回使われている『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』の演奏は[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の[[デッカ・レコード]]録音版だが、デッカ(1968年当時は日本国内ではロンドン・レーベル)が演奏者名を出さないことを許諾の条件としたので、映画のエンド・クレジットでは曲名しか表示されていない。 終盤ボーマン船長が年齢を重ねていくシーンでは、BGMに『[[南極交響曲]]』を使用したバージョンもつくられた。 「入場曲」および[[インターミッション (映画用語)|休憩]]時「間奏曲」の『[[アトモスフェール]]』、「退場曲」の『[[美しく青きドナウ]]』は、映像ソフトでは1989年発売の[[:en:The Criterion Collection|クライテリオン]]版[[ボックス・セット#LD-BOX|LD-BOX]]<ref>{{cite web|url=https://www.lddb.com/laserdisc/00997/CC1160L/2001:-A-Space-Odyssey:-Special-Edition-%281968%29|title=2001: A Space Odyssey: Special Edition #60 (1968) (Uncut)|publisher=LaserDisc Database|accessdate=2015-11-09}}</ref>まではカットが慣例化しており、休憩のクレジット自体も初期の映像ソフトではカットされていた。 ==== 使用された音楽 ==== * 上映前の「入場曲」および休憩時の「間奏曲」(リヴァイヴァルでは黒味のまま映写)には[[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジ・リゲティ]]の『[[アトモスフェール]]』。 * メイン・タイトルには[[リヒャルト・シュトラウス]]の交響詩『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』の導入部。 * ヒトザルたちがモノリスに遭遇する場面でのリゲティの『[[レクイエム (リゲティ)|ソプラノ、メゾ・ソプラノ、2つの混声合唱と管弦楽のためのレクイエム]]』。 * ヒトザルが骨を武器にすることに目覚めるシーンでは、再びリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』導入部。 * シャトルと宇宙ステーションとのドッキング場面は[[ヨハン・シュトラウス2世]]の円舞曲『[[美しく青きドナウ]]』。 * アリエス1B型が月へ向かう場面は再びヨハン・シュトラウス2世『美しく青きドナウ』。 * 月面をムーンバスが低空飛行する場面でのリゲティの『[[ルクス・エテルナ (リゲティ)|ルクス・エテルナ]](永遠の光を)』。 * フロイド博士らが発掘されたモノリスを見る場面では、再びリゲティの『レクイエム』。 * ディスカバリー号が木星に向かう途上での[[アラム・ハチャトゥリアン]]の『ガヤネー』([[ガイーヌ]])から「アダージョ」。 * BBCのニュースのオープニングとして使われたのはシドニー・トーチの『オフ・ビート・ムーズ』。 * HAL9000が乗員の会話を読唇したところで休憩に入り、リゲティの『アトモスフェール』が再び流れる。 * 意識がうすれつつあるHAL9000が「[[デイジー・ベル]]」(作詞作曲:[[ハリー・ダクレ]]、1892年)を歌う(1961年に[[ベル研究所]]のチームが電子計算機での[[音声合成]]による歌唱を世界で初めて実演したときの曲が「デイジー・ベル」であったことにちなむ。そのデモをクラークも見学していた。)。 * 木星に近い空間をモノリスが浮遊している場面では、みたび、リゲティの『レクイエム』。 <!--「再三」に修正される方がいますが、「再三」には「三度目」という意味はありません。「何度も」という意味です。 --> * 木星空間からのめくるめく異次元への突入にはリゲティの『アトモスフェール』。 * ボーマン船長が到着した白い部屋ではリゲティの『アヴァンテュール』など。 * ラストのスターチャイルドが地球を見下ろす場面では、みたび、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』導入部。 <!--「再三」に修正される方がいますが、「再三」には「三度目」という意味はありません。「何度も」という意味です。 --> * エンド・クレジットおよびその後の「退場曲」にはヨハン・シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』。 ==== 未使用となった音楽 ==== キューブリックは当初、自分の監督作品『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』の音楽を手がけた[[アレックス・ノース]]に作曲を依頼し、前半部分まで完成したスコアの録音まで完了していた(この最中にノースは過労で倒れてしまった)。しかしそれ以降は一切の連絡もないままノースの音楽を没にし、リヒャルト・シュトラウスなどの音楽に差し替えてしまう。ノースがそのことを知ったのは、試写会の会場であった。ノースはこれに激怒し、訴訟寸前にまで至った。ノースの死後、友人の[[ジェリー・ゴールドスミス]]は没になった彼の音楽を録音<ref>指揮:ジェリー・ゴールドスミス、演奏:[[ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団|ナショナル・フィルハーモニー・オーケストラ]]。</ref>し、1993年10月12日に[[ヴァレーズ・サラバンド・レコーズ]]から『''Alex North's 2001'' 』(VSD-5400)としてCD発売した{{efn2|同じく1993年発売で冒頭曲「ファンファーレ」を収録した[[エリック・カンゼル]]指揮[[シンシナティ・ポップス・オーケストラ]]による[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク・レーベル]]のアルバム「ハリウッド・グレイテスト・ヒッツ Vol.II(CD-80319,[[1992年]]12月録音)」の解説ではノースの未亡人から譲り受けたスコアを演奏に用いたという記述がある。}}。日本でも『2001年〜デストロイド・ヴァージョン〜』(1993年12月1日発売、サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ(SLC)、SLCS-5021)のタイトルで発売されている。 更に、1968年に録音されたアレックス・ノースのオリジナル・スコアのマスターテープが発掘され、2007年1月26日に [[:en:Intrada Records|Intrada Records]] より『''Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North)'' 』としてCD化され<ref>{{Allmusic|class=album|id=mw0002285665|label=Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North)|accessdate =2015-11-09}}</ref>、3000セット限定で発売された。 {{main|en:2001: A Space Odyssey (score)}} {{efn2|なお、ノースが本作のために書いたスコアは1968年の『[[栄光の座]]』、1974年の"Shanks"、1981年の『[[ドラゴンスレイヤー (映画)|ドラゴンスレイヤー]]』に部分的ながら転用された。この3作はいずれもアカデミー作曲賞にノミネートされている。}} == 難解とされるラストシーンの解釈 == {{要出典範囲|ボーマン船長の旅のストーリーの結末をどうするのか、ラストシーンは脚本草稿の段階で、アーサー・C・クラークによって『ボーマンが異星の宇宙船の傍らに立っている』や『信じられないほど優美なヒューマノイドと出会い旅立っていく』など複数のパターンが監督のキューブリックに提案されたが、いずれもキューブリックの納得のいくものではなく、いくつものアイデアが却下された。 『何回書き直し、何回行き詰まったか、数えることもできない。かなり落ち込んでいる』と当時の状況を著書『失われた宇宙の旅 2001』の中でクラークは書いている。最終的には『ボーマンが子供へ逆行し、結末では赤んぼうとなって軌道上に浮かぶ』というアイデアが採用されることに帰着した。 クラークの小説『2001年 宇宙の旅』では結末は『モノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ』となっている。これはつまり、「究極に進化した地球外生命体の“遺物”であるモノリスにより、人間は太古の昔より進化をしてきたが、今度は人間が(ボーマン船長が)肉体を離れて精神のみの生命体へとさらなる進化をする。宇宙にいる多くの種族がそうして進化をしてきたように、人類もようやくその仲間入りをし、宇宙の一部になったのだ。それが地球外生命体の目的だった」という結末であり、それを「宇宙空間に胎児の姿で浮遊する」というビジュアルで表現したものであった。 その後のボーマンの“エネルギー生命体”としてのストーリーは、続編の小説『2010年 宇宙の旅』、『2061年 宇宙の旅』、『3001年 終局への旅』へと続く。ちなみに、モノリスの主人である地球外生命体は、『3001年 終局への旅』では、数百光年彼方に存在するとしている。 当初クラークは、難解なストーリーの内容の観客への理解を促すために、映画全編にわたって説明用のナレーションを多数書き上げており、脚本にはナレーションが記載されているが、映画ではそれらは全く使われることはなかった。「言葉で説明をしてしまうと、せっかくの未知の世界との遭遇が、陳腐なものになってしまうから」とキューブリックは判断したのだ。しかし、ラストシーンを含め、それでも、映像だけでこの本来のストーリーを解釈するには、説明不足の感は否めない。映画以外の資料を参照して、初めて物語の起承転結を理解できる|date=2023年8月}} 。 == 公開 == 当初予定の[[1966年]]から1年4か月遅れ、[[アポロ11号]]が月面着陸を果たす前年の[[1968年]]に公開された。[[プレミア|ワールドプレミア]]は1968年4月2日に[[ワシントンD.C.]]の[[:en:Uptown Theater (Washington, D.C.)|アップタウン劇場]]で行われた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]での一般公開日は1968年4月6日、[[イギリス]]での公開は1968年5月15日だった。度々再公開されており、2014年11月イギリスでの再公開にあたっては[[アルフォンソ・キュアロン]]、[[クリストファー・ノーラン]]による賛辞が予告編に盛り込まれている。 === 日本での公開 === 日本においては、テアトル東京、名古屋の中日シネラマ劇場、大阪のOS劇場で封切られた。 '''《前夜祭》'''1968年4月10日 18:00からテアトル東京で、特別有料試写会と銘打って前夜祭の趣きで公開されたのが最初である。 '''《封切り》'''1968年4月11日からが正規の一般公開である(~9月18日まで)。テアトル東京での上映時間は、【平日・休日共】12:20/15:40/19:00。 '''《凱旋興行》'''更に、年末の各紙誌ベスト・テンの高評価を受け、翌春(1969年3月1日~4月4日)、「凱旋興行」と銘打ってテアトル東京で再上映された。上映時間は、【月~土】13:00/16:00/19:00。【日・祝】10:00/13:00/16:00/19:00。 '''《2番館》'''東京では、「凱旋興行」のあと、1969年5月25日から東宝洋画系TYチェーン(白系)の9館で、『汚れた7人』との併映で2本立て公開された。 その後、初公開から10年後の[[1978年]]に再びロードショー上映され、折からのSFブームをフォローアップする形となった。作品の設定年である[[2001年]]にも「新世紀特別版」としてノーカット版で公開されている。このヴァージョンでは、本来35mmフィルムでアナモフィック・レンズを使用して再現されるスコープサイズのアスペクト比の1:2.35とせず、35㎜フィルムの上映で70mmのオリジナルと同一のアスペクト比1:2.20を再現している。 2018年10月、6〜7、11〜14日に[[国立映画アーカイブ]]で70mmニュープリントフィルムでの同作の特別上映が行われた<ref>シネマトゥデイの記事[https://www.cinematoday.jp/news/N0103740]</ref>。10月19日から二週間限定で70mmフィルムからリマスタされた物が[[IMAX#IMAXデジタルシアター|IMAXデジタル・シアター・システム]]を備えた映画館で公開された<ref>ワーナー ブラザース ジャパンの公式サイト[https://warnerbros.co.jp/home_entertainment/detail.php?title_id=2390]</ref>。 【参照】『2001年宇宙の旅』の日本での上映実績のまとめ https://kubrick.blog.jp/archives/52256322.html == 反響・評価 == 公開当時、台詞や説明を極力省き、視覚表現で観客の意識に訴えるという作風は極めて斬新であった。映像のクオリティーや「人類の進化と[[地球外生命]]の関係」という哲学的なテーマを賞賛する声の一方、抽象的な内容や非常に難解な結末を批判する意見もあり、賛否の渦が巻き起こった。それでも、公開当時の1968年における年間世界興行収入で1位を記録。現代では映画史におけるSF映画の古典として認識されており、日本の[[文部科学省]]が「特選」に指定している、唯一のSF映画としても知られている。 {{quotation|ロンドンで撮影中のクーブリック<!--ママ-->を見かけた時、彼がガジェットに興味を持っている姿が強く印象に残った。完成作品を鑑賞した時は人間的な肉付けの欠如に驚くばかりだった。クーブリックは確固たる意思をもってして『Dr ~』で見られた性格描写と台詞をバッサリ切り捨ててしまったらしく、僕には物足りなく感じた。科学者にはガジェットなどは珍しくも無いもので、それよりも僕はキア・ダレイの演技が見たかったなあ。 映画鑑賞後にクラークの小説を読んだが、これが知的にも満足のいく内容で読み始めたら止まらない。映画の中では抽象的に描かれている場面が…とりわけ発端と結末が納得できる説明が小説にあった。<br/> 僕のようにディズニーの『ファンタジア』を観てひっくり返った世代には小説をおすすめしたい。|[[フリーマン・ダイソン]]}} 作家 [[レイ・ブラッドベリ]]は本作試写を観た後、映像美を褒めながらも「クラークはクーブリックにレイプされたんだ」と評した。このブラッドベリによる評を人づてに聞いたクラークは「それは違う、レイプされたのはお互い様だったんだよ」とコメントを残している。<!--「決定版」訳者あとがきより ※原文ママ--> 初公開の年の暮れ、1968年12月、[[アポロ8号]]が史上初めて有人で[[月の裏|月の裏側]]を廻って帰還したが、その時撮影された月面入れ込みの地球の写真が本作のそれにそっくりで、改めて本作の特撮のクオリティが示された。また、そのアポロ8号の船長の名が[[フランク・ボーマン]]で、本作の登場人物のふたり、フランク・プールとデヴィッド・ボーマンを合成したような名前であることが、偶然とはいえ話題になった。{{efn2|[[フランク・ボーマン]](Frank Borman)とデヴィッド・ボーマン(David Bowman)では若干スペルが異なる。}} [[デビッド・ボウイ]]の若き日を描いた映画『[[スターダスト]]』の冒頭では、本作のスター・ゲイト突入から白い部屋への到着までを、夢の中のシーンとしてパロディ化している。 公開時からオールタイムで本作品は高く評価され続けている。1991年には[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に永久保存登録された。 === ランキング === 映画史上のベスト・ランキング、オールタイム・ベストなどでは、必ずと言っていいほどランクインしている。 * 「映画史上最高の作品ベストテン」([[英国映画協会]]『Sight&Sound』誌発表) ** [[1972年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第18位 ** [[1982年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第12位 ** [[1992年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第10位 ** 1992年:「映画監督が選ぶベストテン」第13位 ** [[2002年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第6位 ** 2002年:「映画監督が選ぶベストテン」第12位 ** [[2012年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第6位 ** 2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第2位 ** [[2022年]]:「映画批評家が選ぶベストテン」第6位 ** 2022年:「映画監督が選ぶベストテン」第1位 * 「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」 ** [[1998年]]:「[[アメリカ映画ベスト100]]」第22位 ** [[2001年]]:「[[スリルを感じる映画ベスト100]]」第40位 ** [[2003年]]:「[[アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100|ヒーローと悪役ベスト100]]・悪役部門」第13位([[HAL 9000]]) ** [[2005年]]:「[[アメリカ映画の名セリフベスト100]]」第78位 ** [[2006年]]:「[[感動の映画ベスト100]]」第47位 ** [[2007年]]:「[[アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)]]」第15位 ** [[2008年]]:「[[10ジャンルのトップ10]]・SF映画部門」第1位 * [[2000年]]:「20世紀の映画リスト」(米『[[ヴィレッジ・ヴォイス]]』紙発表)第11位 * 2008年:「歴代最高の映画ランキング500」(英『[[エンパイア (雑誌)|エンパイア]]』誌発表)第16位 * 2008年:「史上最高の映画100本」(仏『[[カイエ・デュ・シネマ]]』誌発表)第43位 * [[2010年]]:「エッセンシャル100」([[トロント国際映画祭]]発表)第26位 * [[2013年]]:「オールタイムベスト100」(米『[[エンターテイメント・ウィークリー]]』誌発表)第25位 以下は日本でのランキング * [[1980年]]:「外国映画史上ベストテン([[キネマ旬報]]戦後復刊800号記念)」(キネマ旬報12月下旬号発表)第2位 * [[1988年]]:「大アンケートによる洋画ベスト150」([[文藝春秋]]発表)第7位 * [[1989年]]:「外国映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第1位 * [[1995年]]:「オールタイムベストテン・世界映画編」(キネ旬発表) ** プロフェッショナル選出 第3位(1位は『[[七人の侍]]』なので洋画では第2位) ** 読者選出 第1位 * [[1999年]]:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・外国映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第2位 * [[2009年]]:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・外国映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第7位 == 受賞 == 本作は1968年の[[アカデミー賞]]特殊[[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]を受賞、また[[1969年]]の[[ヒューゴー賞]]も受賞した。 == 小説版 == 小説版が原作として先に書かれたものであると勘違いされることが多いが小説は映画の公開の後に発表されている。クラーク自身も配給前の出版を目指していたが3分の2を書き終えた時点で最終章の執筆は遅々となったとされる、その小説にはクラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることからも、小説版と映画版は明確に区別する必要がある。 HAL 9000の反乱の要因やラストの展開も、小説版は論理的に説明づけられているのに対し、映画版は謎めいた展開となっている。これは当初、映画冒頭に科学者らが人類の進化など作中の話題に関して語るインタビュー映像が予定され、また全編に渡りストーリーを解説するナレーションを入れる予定であったものが、過剰な説明が映画からマジックを奪うことを恐れたキューブリックが、インタビューもナレーションもすべて削除してしまったため、何の説明もない映像が映画全編にわたり続くことになったからである。 ヒトザルとモノリスの遭遇は小説では300万年前という設定だが、映画では400万年前とされているなど、細かな点の相違は多い。小説ではディスカバリー号には放熱板(「放射翼」)、それもかなり大きなものが付いている設定になっているが<ref>ハヤカワ文庫SF旧版(SF243)17章 p. 123より「その背後の長いすらりとしたVの字は、原子炉の余剰熱を消散させる放射翼。(略)最大の推力で加速していたときにはサクランボウ色に輝いていた巨大な放射翼も、今では黒く冷たい」、29章 p. 191より「数千平方フィートの放射翼」</ref>映画のディスカバリー号には付いていない。ある解説<ref>『S-Fマガジン』1980年10月号の「スタジオぬえのスターシップ・ライブラリー」、『スタジオぬえメカニックデザインブック』では p.177</ref>によれば、宇宙なのに(空気を前提とした)翼なんて、と思われるのを恐れて、映画版では付けていないのだという。 後にクラークが執筆した『[[2010年宇宙の旅]]』は[[パラレルワールド]]とされ、ストーリーの多くの部分は続編の形を取りながら、主な舞台は木星周辺となっており、そこだけは映画版と同一になっている。「宇宙の旅」シリーズは、更に『[[2061年宇宙の旅]]』『[[3001年終局への旅]]』と、計4作執筆されており、シリーズ作品全ての作中設定は前作までの多くの部分を踏襲してはいるが、基本的にはパラレルワールドであるとあとがきやまえがきで触れられている。 小説版は映画の製作と並行して書き進められたが、その過程で多くの草稿が日の目を見ずに終わった。のちにクラークは、それらをまとめて編纂し『[[失われた宇宙の旅2001]]』として出版した。そこでは、例えば、「HAL9000は最初、人型ロボットとして構想された」とか、「なぜボーマンが結末で赤んぼうになるのか、(中略)これは成長段階における彼の自己イメージなのだ」といった興味深い記述が見られる。 === 邦訳 === * 『S-Fマガジン 1968年9月号 臨時増刊』「宇宙のオデッセイ2001」[[伊藤典夫]]:訳(第2部:フロイド博士の月面TMA-1視察のみ) * 『宇宙のオデッセイ2001』(1968年10月15日初版発行、[[伊藤典夫]]:訳、ハヤカワ・ノヴェルズ) * 『'''2001年宇宙の旅'''』(1977年、[[伊藤典夫]]:訳、ハヤカワ文庫SF) * 『決定版 2001年宇宙の旅』(1993年、[[伊藤典夫]]:訳、ハヤカワ文庫SF、クラークの新序文が収録) == サウンドトラック盤 == ; LP * [[MGMレコード]]([[ポリドール・レコード|日本グラモフォン]] SMM-2012) *: 全6曲、計8トラック収録、30cm/33.3[[rpm (単位)|rpm]]。最初に発売された「[[サウンドトラック|サウンドトラック盤]]」だが、『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』が、映画で使用された[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮の[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏ではなく、[[カール・ベーム]]指揮の[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]という全く別の演奏が収録されているので、「サントラ盤」という看板には偽りがある。 <div class="NavFrame" style="border:0"> <div class="NavHead">収録内容</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> ; Side A # [[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]](導入部)/ [[リヒャルト・シュトラウス]] #: [[カール・ベーム]]指揮、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]] # レクイエム / [[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジュ・リゲティ]] #: [[フランシス・トラヴィス]]指揮、[[バイエルン放送交響楽団]] # 永遠の光を([[ルクス・エテルナ (リゲティ)|ルクス・エテルナ]])/ ジェルジュ・リゲティ #: ヘルムート・フランツ指揮、北ドイツ放送合唱団 # [[美しく青きドナウ]](前半より)/ [[ヨハン・シュトラウス2世]] #: [[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ; Side B # 舞踏組曲『[[ガイーヌ]]』から「アダージョ」/ [[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]] #: [[ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー]]指揮、[[レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団]] # 無限の宇宙([[アトモスフェール]])/ ジェルジュ・リゲティ #: [[エルネスト・ブール]]指揮、[[南西ドイツ放送交響楽団|南西ドイツ放送管弦楽団]] # 美しく青きドナウ(後半より)/ ヨハン・シュトラウス2世 #: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 # ツァラトゥストラはかく語りき(導入部)/ リヒャルト・シュトラウス #: カール・ベーム指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 </div></div> ; EP * MGMレコード(日本グラモフォン SKM-1081) *: 上記LPからの抜粋で、「ステレット33」と称する17cm/33.3rpmの[[コンパクト盤]]。『ツァラトゥストラはかく語りき』、『レクイエム』、『[[美しく青きドナウ]]』の3曲だけだが、『ツァラトゥストラはかく語りき』は最初と最後に2回収録されている。 ; CD * [[ポリドール・レコード|ポリドール]](POCP-2017、1991年5月1日発売) *: 上記30cmLPのCD化。ほぼ同内容であり、『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ベーム/ベルリン・フィル版が収録されている。 <div class="NavFrame" style="border:0"> <div class="NavHead">収録内容</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> # [[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]] / [[リヒャルト・シュトラウス]] #: [[カール・ベーム]]指揮、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]] # ソプラノ, メゾソプラノ, 2つの混声合唱と管弦楽のためのレクイエム / [[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジュ・リゲティ]] #: [[フランシス・トラヴィス]]指揮、[[バイエルン放送交響楽団]] # 永遠の光を([[ルクス・エテルナ (リゲティ)|ルクス・エテルナ]])/ ジェルジュ・リゲティ #: ヘルムート・フランツ指揮、北ドイツ放送合唱団 # [[美しく青きドナウ]] / [[ヨハン・シュトラウス2世]] #: [[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]] # 舞踏組曲『[[ガイーヌ]]』から「アダージョ」/ [[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]] #: [[ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー]]指揮、[[レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団]] # 無限の宇宙([[アトモスフェール]])/ ジェルジュ・リゲティ #: [[エルネスト・ブール]]指揮、[[バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団|南西ドイツ放送交響楽団]] # ツァラトゥストラはかく語りき / リヒャルト・シュトラウス #: カール・ベーム指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 </div></div> * [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](TOCP-65139、1999年1月27日発売) *: カラヤン指揮、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]演奏の『ツァラトゥストラはかく語りき』が初収録されている。しかし、英文のトラック・リストには Vienna Philharmonic Orchestra とある<ref>{{Allmusic|class=album|id=mw0000202725|label=2001: A Space Odyssey|accessdate =2015-11-09}}</ref>にもかかわらず、日本語のライナーノートでは「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」と誤って記載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009062002-00?ar=4e1f|title=「2001年宇宙の旅」オリジナル・サウンドトラック (東芝EMI): 1999|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2015-11-09}}</ref>{{efn2|カラヤンの『ツァラトゥストラはかく語りき』セッション録音は3種あり、ベルリン・フィル版はいずれも映画の公開より後である。(1) ウィーン・フィル(英[[デッカ・レコード]]、1959年3月(32'45"))、(2) ベルリン・フィル([[ドイツ・グラモフォン]]、1973年1月・3月(34'54"))(3) ベルリン・フィル([[ドイツ・グラモフォン]]、1983年9月(35'57"))}}。映画の[[サウンドトラック]]から採られた[[HAL 9000]]の声なども収録されている。 <div class="NavFrame" style="border:0"> <div class="NavHead">収録内容</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> # 序曲 [[アトモスフェール]] / [[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジュ・リゲティ]] #: [[エルネスト・ブール]]指揮、[[南西ドイツ放送交響楽団]] # メイン・タイトル:[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]] / [[リヒャルト・シュトラウス]] #: [[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]{{efn2|name="Vienna"|日本語のライナーノートでは「[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]」と誤記されている。}} # レクイエム / ジェルジュ・リゲティ #: [[フランシス・トラヴィス]]指揮、[[バイエルン放送交響楽団]] # 美しく青きドナウ(抜粋) / [[ヨハン・シュトラウス2世]] #: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]] # [[ルクス・エテルナ (リゲティ)|ルクス・エテルナ]](聖体拝領唱) / ジェルジュ・リゲティ #: [[:en:Clytus Gottwald|クリトゥス・ゴットヴァルト]]指揮、シュトゥットガルト・スコラ・カントルム # 舞踏組曲「[[ガイーヌ]]」〜アダージョ / [[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]] #: [[ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー]]指揮、[[レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団]] # 木星, 無限の彼方:レクイエム/アトモスフェール/アヴァンチュール / ジェルジュ・リゲティ #: フランシス・トラヴィス指揮、バイエルン放送交響楽団 #: エルネスト・ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団 #: ジェルジュ・リゲティ指揮、[[:de:Internationales Musikinstitut Darmstadt|インターナティオナル・ムジークインスティトゥート・ダルムシュタット]] # ツァラトゥストラはかく語りき / リヒャルト・シュトラウス #: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団{{efn2|name="Vienna"}} # 美しく青きドナウ(リプライズ)/ ヨハン・シュトラウス2世 #: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 # ツァラトゥストラはかく語りき / リヒャルト・シュトラウス #: エルネスト・ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団 # ルクス・エテルナ(聖体拝領唱)/ ジェルジュ・リゲティ #: クリトゥス・ゴットヴァルト指揮、シュトゥットガルト・スコラ・カントルム # アヴァンチュール / ジェルジュ・リゲティ #: ジェルジュ・リゲティ指揮、[[:de:Internationales Musikinstitut Darmstadt|インターナティオナル・ムジークインスティトゥート・ダルムシュタット]] # HAL9000の反乱(ダイアローグ) </div></div> * [[ソニー・ミュージックレーベルズ|ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル]](SICP2703、2010年6月2日発売) *: 上記、東芝EMI盤と同内容。 == 備考 == * [[スタンリー・キューブリック]]は、存命中に新世紀を迎えることは叶わず、[[1999年]][[3月7日]]に死去。 * 宇宙ステーションでの声紋識別装置の操作卓をよく見ると、言語選択肢に「[[日本語|JAPANESE]]」がある。 * 月面でモノリスの前を歩くシーンでは、宇宙服のヘルメットに手持ちカメラを構えるキューブリックの姿が映り込んでいる。 * 自作で65mmフィルムを使い続けるクリストファー・ノーランと[[ホイテ・ヴァン・ホイテマ]]が製作50周年となる2018年本作の4K修復を監修した。数々の修繕を受けながらソフト化に用いられて来たアーカイヴ用フィルムではなく、オリジナル・ネガまで遡ったニュープリントで、デジタル補正を一切使用せず、初演時と同様の6ch音声や前奏曲、インターミッション、終演時の音楽まで再現されたこのバージョンをノーランは"Unrestored(非修復)Version"と呼ぶ。初演時の体験の再現にこだわったこの70mmニュープリントは2018年5月12日に[[カンヌ映画祭]]で初上映され、欧米を巡回したのち、日本では2018年10月6日から14日まで国内で唯一70mmフィルムの上映が可能な[[国立映画アーカイブ]]にて6日間<ref group="注">10月8日から11日までを除く</ref>全12回の上映が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nfaj.go.jp/exhibition/unesco2018/|title=製作50周年記念 『2001年宇宙の旅』70mm版特別上映 {{!}} 国立映画アーカイブ|accessdate=2018-09-03|website=www.nfaj.go.jp|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20181006/10/ |title= 映写技師の奮闘に拍手巻き起こる!「2001年宇宙の旅」70ミリ版上映がスタート |newspaper=[[映画.com]]|accessdate=2018-10-19}} </ref>。 * また、2018年には[[IMAX]]版が製作され、同年10月19日から11月1日まで日本での上映が行われる<ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20181017/18/ |title= 「2001年宇宙の旅」70ミリ版、全回満席で終了 10月19日からIMAX劇場上映スタート |newspaper=[[映画.com]]|accessdate=2018-10-19}}</ref>。 * 2018年11月21日には[[Ultra HD Blu-ray]]が発売された<ref>https://www.nytimes.com/2018/05/11/movies/2001-a-space-odyssey-christopher-nolan-cannes.html</ref><ref>{{Cite news|url= https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1143979.html |title= 「2001年宇宙の旅」がUHD BD化。BDもリマスター。2週間限定でIMAX上映も |newspaper=[[AV Watch]]|accessdate=2018-10-19}}</ref>。また同年12月1日には、70mmフィルムに基づく8K版を[[日本放送協会|NHK]]がスーパーハイビジョンチャンネルで放送する事も発表している(※本放送初日午後1時10分より)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * 『The Making of Kubrick's 2001』 by Jerome Agel (Editor) April 1, 1970 ISBN 978-0451071392 * 『The Lost Worlds of 2001』by Arthur C. Clarke (Author) January 1, 1972 ISBN 978-0451125361 * 『Report on Planet Three』 by Arthur C. Clarke (Author) June 1, 1982 ISBN 978-0451115737 * {{Cite book|和書|author=アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク|title=決定版 2001年宇宙の旅|edition=全面改訳版|date=1993.2|translator=[[伊藤典夫]]|publisher=[[早川書房]]|series=[[ハヤカワ文庫]]|isbn=4-15-011000-X}} * {{Cite book|和書|author=ピアーズ・ビゾニー|title=未来映画術「2001年宇宙の旅」|edition=<small>もう一つのメイキング資料集</small>|date= 1997.6|translator=門馬淳子|publisher=[[晶文社]]|isbn=4-7949-6303-3}} * {{Cite book|和書|author=ジェローム・アジェル編|title=メイキング・オブ・2001年宇宙の旅|date=1998.3|translator=富永和子|publisher=[[ソニー・マガジンズ]]|isbn=4-7897-1275-3}} * {{Cite book|和書|author=アーサー・C・クラーク|title=失われた宇宙の旅2001|edition=エッセイ;草稿、短編「前哨」掲載|date=2000.4|translator=伊藤典夫|publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫|isbn=4-15-011308-4}} * {{Cite book|和書|author=巽孝之|authorlink=巽孝之|title=「2001年宇宙の旅」講義|date=2001.5|publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社新書]]|isbn=4-582-85092-8}} * {{Cite book|和書|author=町山智浩|authorlink=町山智浩|title=映画の見方がわかる本<small>―「2001年宇宙の旅」から「[[未知との遭遇]]」まで</small>|date= 2002.9|publisher=[[洋泉社]]|series=[[映画秘宝#映画秘宝COLLECTION 映画秘宝special他|映画秘宝collection]]; 22|isbn=4-89691-660-3}} *Piers Bizony著 『The Making of Stanley Kubrick's 2001: A Space Odyssey』 TASCHEN、2014年8月。ISBN 978-3-8365-4769-7。 * {{Cite book|和書|author=マイケル・ベンソン|title=2001 キューブリック クラーク||date=2018.12|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-15-209826-9}} == 関連項目 == * [[HAL 9000]] - 映画・小説に登場する[[人工知能]]を備えた架空の[[コンピュータ]]。 * [[アポロ計画陰謀論]] - フランスでは[[2002年]]末に、この映画を制作したキューブリックが[[アポロ計画]]の月面着陸映像を人工的に造り上げ、それをアメリカが同計画の[[捏造|でっち上げ]]に用いたとする、ジョーク作品の『Opération Lune』が作成放送された。 * [[新春スターかくし芸大会]] - 1982年に[[井上順]]、[[研ナオコ]]出演による「SF 2001年宇宙の恋」というパロディー版が放送された。 * [[2001マーズ・オデッセイ]] - 2001年に打ち上げられたアメリカの[[火星探査機]]。名称は本作に由来する。 * [[イカリエ-XB1]] * [[アイザック・アシモフ]] (作家) - 草食動物が肉食に変わる際の生化学的問題をクラークが電話で訊ねる。 * [[フリーマン・ダイソン]] (物理学者) - コンセプト協力 * [[トインビー・タイル]] - アメリカ各地などで発見された出所不明のタイル。書かれているメッセージと本作との関係が指摘されている。 == 外部リンク == * [https://www.warnerbros.com/movies/2001-space-odyssey WarnerBros.com | 2001: A Space Odyssey | Movies]{{en icon}} * {{Allcinema title|16912|2001年宇宙の旅}} * {{Kinejun title|6800|2001年宇宙の旅}} * {{Amg movie|169|2001: A Space Odyssey}} * {{IMDb title|0062622|2001: A Space Odyssey}} * [https://www.kubrick2001.com/ja/1/ 2001年宇宙の旅解説] * [https://web.archive.org/web/20040703132258/http://www.palantir.net/2001/ The 2001 Internet Resource Archive] * [https://www.ne.jp/asahi/21st/web/forum.htm 映画「2001年宇宙の旅」フォーラム・全記録] * [https://web.archive.org/web/20010124101000/http://www3.airnet.ne.jp/masaakix/ HAL'S EYES] * [https://web.archive.org/web/20000603140125/http://www.rinc.or.jp/~kurata/2001mys.html 「2001年宇宙の旅」の真相][http://www.kurata-wataru.com/2001mys.html] * [https://www.youtube.com/watch?v=41U78QP8nBk First computer to sing - Daisy Bell] 1961年のIBM7094による歌唱のデモ。 {{スタンリー・キューブリック監督作品}} {{宇宙の旅シリーズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にせんいちねんうちゆうのたひ}} [[Category:宇宙の旅シリーズ|2001]] [[Category:1968年の小説]] [[Category:イギリスのSF映画作品]] [[Category:アメリカ合衆国のSF映画作品]] [[Category:スタンリー・キューブリックの監督映画]] [[Category:1968年の映画]] [[Category:1960年代の特撮作品]] [[Category:イギリスの特撮映画]] [[Category:アメリカ合衆国の特撮映画]] [[Category:コンピュータを題材とした映画作品]] [[Category:人工知能を題材とした映画作品]] [[Category:宇宙船を舞台としたSF作品]] [[Category:メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの作品]] [[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]] [[Category:未来を題材とした映画作品]] [[Category:フィルムが部分的に現存している映画]] [[Category:スペインで製作された映画作品]] [[Category:スコットランドで製作された映画作品]] [[Category:サリーで製作された映画作品]] [[Category:ハートフォードシャーで製作された映画作品]] [[Category:アリゾナ州で製作された映画作品]] [[Category:ユタ州で製作された映画作品]] [[Category:エルストリー・スタジオで製作された映画作品]] [[Category:シェパートン・スタジオで製作された映画作品]] [[Category:アカデミー賞受賞作]] [[category:進化を題材とした映画作品]]
2003-02-18T14:25:32Z
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2,303
MTSAT
MTSAT(エムティーサット)は、運輸多目的衛星(Multi-functional Transport Satellite)の英語略称で、国土交通省航空局(CAB/MLIT)及び気象庁(JMA)が共同開発し、宇宙開発事業団 (NASDA)及び宇宙航空研究開発機構(JAXA)が打ち上げた大型の静止衛星である。 運輸多目的衛星1号(MTSAT-1)は、老朽化したひまわり5号・GMS-5の後継衛星としての気象観測機能以外に、衛星通信を利用した航空保安システムなどを搭載している。これは、気象庁が気象衛星のための予算を単独で捻出するのが困難であったため、同じ運輸省(現・国土交通省)の航空局が空港整備特別会計を使って計画していた航空管制衛星に相乗りしたものである。このため、かなり巨大な衛星となった。米スペースシステムズ/ロラール社に発注して製造、完成品が輸入された。 1999年(平成11年)11月にH-IIロケット8号機で打上げたが、第1段エンジンに故障が発生したため、地上からの指令によりロケットは破壊され、その残骸と、ペイロードであった本機も海中に没した。公募により「みらい」と言う愛称が選ばれていたが、使用されずに終わった。 運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)は、打上げに失敗した1号の代替として米スペースシステムズ/ロラール社に再発注して製造された。衛星バス(姿勢制御系など)はロラール社のLS-1300であり、これまでのGMSシリーズ気象衛星のスピン衛星タイプからソーラーセイルを用いた三軸姿勢制御型へと変更され、それに従ってイメージャ(観測機器)なども変更されている。また、GMS-5(ひまわり5号)の可視光+赤外1~3に加えてさらに赤外4(IR4)チャンネルが追加されており、配信データ形式も拡張された。打上げ時の重量は約3.3t。設計寿命は、気象観測が5年、航空管制が10年となっている。なお、MTSAT-1RのRはReplacementを意味する。 MTSAT-1Rは2003年(平成15年)の夏にH-IIAロケット6号機を使用した打上げが予定されていたが、製造上の不具合や製造メーカーのスペースシステムズ・ロラール社が親会社とともに破綻(連邦倒産法第11章の適用申請)したことなどからたびたび延期され、H-IIAロケット6号機での打上げを断念し、H-IIAロケット7号機での打上げに変更された。なお、6号機は情報収集衛星2号を搭載したが、打上げに失敗した。 なお、打上げの延期に伴って、米国のGOES-9が、MTSAT-1Rが稼動するまでの代替機として2003年5月22日から2005年(平成17年)7月まで気象観測を担当した(「ひまわり (気象衛星)」も参照)。 2004年(平成16年)3月19日にアントノフ124等で輸送され種子島宇宙センターへ到着したが、到着前に発生したH-IIAロケット6号機の打上げ失敗によるH-IIAロケットの設計改良のために、またもや打上げが延期される事態に陥った。 その後、H-IIAロケット7号機によって日本時間2005年(平成17年)2月26日午後6時25分に打上げられ、衛星の分離に成功した。2005年3月8日、静止軌道に入ったことが確認され、ひまわり6号と愛称が命名された(正式名称はMTSAT-1Rのまま)。当初は5月下旬には気象観測の開始を予定していたが、気象設備の設置に時間がかかり気象観測運用の開始は6月28日にずれ込んだ。 2006年4月17日に姿勢制御用コンピューターの異常で衛星の姿勢が乱れ、通信できない問題が発生したが、同日中に復旧した。 2006年7月6日から航空管制の通信業務の運用を開始したが、地上設備の不具合が原因で7月10日から通信障害が発生し、原因究明と対策のため11月28日まで通信業務を中止した。 2009年11月11日21時26分、3基の姿勢制御装置のうち1基が停止したため姿勢に異常が生じ、22時から気象観測ができなくなった。気象庁は11月12日1時に気象観測業務をバックアップ用のひまわり7号に切り替え、全球観測が復旧した。緊急用チャンネル(USB)での送受信が確立されており、地上から再起動を行って11月12日2時17分に衛星の姿勢が安定、観測停止から約15時間後の11月12日13時に気象観測を再開した。 同年11月16日には地上の処理システムに異常が生じ、午前8時半から10時までの1時間半、4回分の観測画像が配信されなかった。11月27日に復旧するまで、気象観測はひまわり7号で続けられた。 2010年7月1日に気象観測業務をひまわり7号に譲り、ひまわり6号の気象観測は待機運用となった。航空ミッションは従来通り継続されていたが、2016年末に運用を終了した。 気象衛星としてはMTSAT-1Rの1機だけでも運用できるものの、航空管制業務にはMTSATが最低2基必要であるため、運輸多目的衛星新2号(MTSAT-2)が三菱電機で製造された。日本は1990年(平成2年)に米国との協定によって、日本国内で使用する商用衛星も国際競争入札にしなければならなくなったが、MTSAT-2は、衛星の機構(衛星バス)をほかの用途の衛星でも共用できるようにして低価格を実現し、欧米の衛星に対抗することとなった。基本機能はMTSAT-1Rと同じであるが、随所に国産技術による手が加えられており、通信機器の一部を除いて実質は別の衛星といっても過言ではない。 MTSAT-2はH-IIAロケット9号機によって日本時間2006年(平成18年)2月18日午後3時27分に打上げられ、衛星の分離に成功し、2月24日に愛称が「ひまわり7号」と命名された。9月4日からは東経145度の静止軌道上で気象ミッション待機運用を開始し、切望されていた気象衛星の軌道上予備機が実現した。打上げ時の重量は約4.7tで、打上げ時点では、日本の宇宙開発史上最も重い衛星であった。2007年7月19日に航空管制業務を開始し、2機体制となった。 2007年11月5日午後2時40分頃、姿勢制御用スラスタの異常のため衛星の姿勢が乱れ、気象観測と航空管制のための交信が行なえなくなった。航空管制業務はひまわり6号で継続され、2日後の11月7日、ひまわり7号はスラスタを予備に切り替えた上で復旧した。 2010年7月1日に、ひまわり7号での気象観測が開始され、ひまわり6号の気象ミッションは待機運用へ移行した。この移行に伴い、衛星の静止位置の変更は行わない。国内向けとLRITでは、画像の座標変換を行った全球画像を配信、HRITは静止位置を変えないため、5度東にずれた全球半球画像を利用者に配信する。従って、HRITの画像を利用する場合、利用者側で座標変換などを行う必要が生じる。 2015年7月7日、ひまわり8号での気象観測が開始され、ひまわり7号の気象ミッションは待機運用へ移行した。2017年3月10日、ひまわり9号が待機運用を開始し、ひまわり7号の気象ミッションの運用は終了した。航空ミッションは2019年度末まで運用する予定で、2020年3月、みちびき3号によるSBAS配信サービスにミッションを引き継ぎ、運用を終了した。 気象ミッションでは、次のことが行われる。 光学系の観測装置で、可視・赤外(IR1, 2, 4)・水蒸気(IR3)にて観測する。観測は全球観測を最大24回/日実施し、北半球観測を20回/日、南半球観測を4回/日実施する。北半球の4回と南半球の4回は、雲の移動量から風速を解析するウィンドベクトル(クラウドモーション・ウィンドベクトル)を得るために行われる。この解析結果は、数値計算に用いられ、ゾンデや航空路(航空機による観測)のない洋上でも風速を得ることができる。また、観測した画像を基に多様な解析が行われる。海面水温観測もその一つ(少なくとも日本では、極軌道衛星による観測結果を用いられるので、あまり利用されない)である。 イメージャーについては、製造メーカーが異なっている。本来MTSAT-1Rは、MTSAT-1が打ち上げられていた場合、MTSAT-3として計画されていた衛星で、盛り込むセンサーの仕様が異なるためである。 離島や航空機、船舶からMTSATを介して観測データを中継するサービスが行われている。ほとんどはセルフタイム型で、時間が来ると観測者が衛星にデータを送信し、衛星が地上のCDAS(衛星通信局)に中継、CDASから衛星情報処理センターを通り、気象局の通信網を通じて、全世界の気象機関に配信される。この中継サービスはあらかじめ、衛星情報処理センターのコンピューターに登録していないと、気象機関に配信されないようになっている。 イメージャーで観測した画像は、衛星情報処理センターで処理された画像を、MTSATを介して受信ユーザー(受信局)に配信する。高分解能画像データ(HiRID)、ウェファクス(WEFAX)、高速情報伝送(HRIT)、低速情報伝送(LRIT)の4方式で配信されていたが、このうちHiRIDおよびWEFAXは、2008年3月12日に廃止された。 気象ミッションでは、上記のほかに光学系を使用することによる保守運用や、衛星食などによる運用変更などが行われる。 衛星食とは、太陽が地球の陰に隠れて、太陽電池による電力供給ができなくなる現象である。また、バッテリー能力の関係で運用ができなくなる場合に、必要最低限での運用を行うため、観測自体を停止することがある。GMSシリーズでは、バッテリー容量が極端に小さかった(200W程度)ことから、食の時間を中心に3時間程度観測を止めた。MTSATでは、バッテリー容量が大きくなったことから、観測範囲を変更したりすることで、完全な観測中止回数は減少している。この期間は逆光でイメージャーに直接太陽光が入り込み、光学系の電子回路を壊すおそれがあるため、その領域だけ観測しないことがある。虫食いのような画像が配信されるのはそのためである。 イメージャーの冷却装置に付着するゴミなどを除去するため、最大で2日程度(おおよそ36時間程度)観測を停止する。この運用では予備衛星がある場合には、予備衛星によってイメージャー観測を行い、予備衛星による画像を受信局に配信する。予備衛星での観測画像は、一部の画像を除き、画像の位置調整をせずに配信される。2007年6月6日 - 8日にかけて実施された際には、MTSAT-2による観測画像を、MTSAT-1Rで配信したことがある。 姿勢制御は、東西方向および南北方向の衛星位置を維持するために行われる。姿勢制御が行われた後6時間程度はランドマークラインと一致しないことがあり、位置精度が悪くなる。この姿勢制御を軌道保持マヌーバ(station keeping maneuver)という。また、衛星自体の傾きも生じるので、ほぼ毎日姿勢制御を行う。この姿勢制御をハウスキーピングマヌーバ(house keeping maneuver)という。この制御は数秒で終えるため、位置の姿勢制御ほどの影響はない。 航空ミッションでは、次のことが行われる。 神戸と常陸太田に設置された「航空衛星センター」の地上局と航空機との間で行われる、管制官パイロット間データ通信(CPDLC; Controller Pilot Data Link Communication)等のデータリンク通信や音声通信を中継する。第三世代インマルサットとの相互互換性がある。 グローバル・ポジショニング・システム(GPS)による測位精度を補強して航空で使用する方式にSBAS(Satellite Based Augmentation System)があるが、このサービスをMSAS(MTSAT Satellite-based Augmentation System)という名称で行っており、以下の3種類の情報が送信される。 ひまわり6、7号の経費を70%負担していた国土交通省航空局は後継機の計画から外れ、気象庁単独でこれまでの気象観測より広範囲な観測を行う静止地球環境観測衛星として、ひまわり8号、9号が打ち上げられた。 測位精度を補強して航空で使用するSBASについては、準天頂衛星システムの静止軌道衛星から2020年3月より配信中。地上局と航空機との間で行われる通信サービスは民間通信衛星のインマルサットやイリジウム等に引き継がれる予定である。 神戸と常陸太田に設置された「航空衛星センター」の地上局も廃止となり準天頂衛星システム「みちびき」の管制施設および、神戸航空交通管制部庁舎として使用されている。
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MTSAT(エムティーサット)は、運輸多目的衛星の英語略称で、国土交通省航空局(CAB/MLIT)及び気象庁(JMA)が共同開発し、宇宙開発事業団 (NASDA)及び宇宙航空研究開発機構(JAXA)が打ち上げた大型の静止衛星である。
[[ファイル:MTSAT-1.jpg|thumb|300px|right|MTSAT]] '''MTSAT'''(エムティーサット)は、'''運輸多目的衛星'''('''M'''ulti-functional '''T'''ransport '''Sat'''ellite)の英語略称で、[[国土交通省]][[航空局]](CAB/MLIT)及び[[気象庁]](JMA)が共同開発し、[[宇宙開発事業団]] (NASDA)及び[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)が打ち上げた大型の[[静止衛星]]である。 == 運輸多目的衛星1号 == '''運輸多目的衛星1号'''('''MTSAT-1''')は、老朽化した[[ひまわり5号]]・GMS-5の後継衛星としての気象観測機能以外に、衛星通信を利用した航空保安システムなどを搭載している。これは、気象庁が[[気象衛星]]のための予算を単独で捻出するのが困難であったため、同じ[[運輸省]](現・国土交通省)の航空局が[[空港整備特別会計]]を使って計画していた[[航空管制]]衛星に相乗りしたものである。このため、かなり巨大な衛星となった。米[[スペースシステムズ/ロラール]]社に発注して製造、完成品が輸入された。 [[1999年]](平成11年)11月に[[H-IIロケット8号機]]で打上げたが、第1段エンジンに故障が発生したため、地上からの指令によりロケットは破壊され、その残骸と、ペイロードであった本機も海中に没した。公募により「'''みらい'''」と言う愛称が選ばれていたが、使用されずに終わった<ref>{{cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050302i206.htm |title=ひまわり? MTSAT? 気象庁と国交省命名で“衝突”|date=2005-03-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050304023952/http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050302i206.htm |archivedate=2005-03-04}}</ref>。 == 運輸多目的衛星新1号(ひまわり6号) == {{宇宙機 | 名称 = ひまわり6号(MTSAT-1R) | 画像 = | 画像の注釈 = | 所属 = [[国土交通省|MLIT]]、[[気象庁|JMA]] | 主製造業者 =[[スペースシステムズ/ロラール]] | 公式ページ = | 国際標識番号 = 2005-006A | NORAD_NO = 28622 | 状態 = 運用終了 | 目的 = 気象観測<br />航空管制(航法および通信) | 観測対象 = | 計画の期間 = | 設計寿命 = 5年(気象ミッション)<br />10年(航空ミッション) | 打上げ機 = [[H-IIAロケット]]7号機 | 打上げ日時 = [[2005年]][[2月26日]]18:25 | 軌道投入日 = [[2005年]][[3月8日]]10:42<ref name="complete"/> | 最接近日 = | ランデブー日 = | 機能停止日 = | 通信途絶日 = | 運用終了日 = | 停波日 = | 消滅日時 = | 物理的特長 = 物理的特長 | 衛星バス = [http://www.ssloral.com/html/products/1300.html LS-1300] | 本体寸法 = 箱型 2.4 m x 2.2 m x 3.0 m | 最大寸法 = 全幅約33 m(含ソーラーセール及び太陽電池パネル) | 質量 = 打ち上げ時3.3t、ドライ1.3t | 発生電力 = 約3.5kW(寿命末期) | 主な推進器 = | 姿勢制御方式 = 三軸制御 | 軌道要素 = 軌道要素 | 周回対象 = | 軌道 = [[静止軌道]] | 静止経度 = 東経140度 | 高度 = 3万6,000km | 近点高度 = | 遠点高度 = | 軌道半長径 = | 離心率 = | 軌道傾斜角 = 0度 | 軌道周期 = 約24時間 | 回帰日数 = | サブサイクル = | 回帰精度 = | 降交点通過地方時 = | 搭載機器 = 搭載機器 | 搭載機器名称1 = イメージャ | 搭載機器説明1 = [http://www.raytheon.com/capabilities/products/jami/ JAMI(Japanese Advanced Meteorological Imager)] }} '''運輸多目的衛星新1号'''('''MTSAT-1R''')は、打上げに失敗した1号の代替として米[[スペースシステムズ/ロラール]]社に再発注して製造された。[[衛星バス]]([[姿勢制御]]系など)はロラール社のLS-1300であり、これまでの[[ひまわり (気象衛星)#GMSシリーズ|GMSシリーズ気象衛星]]のスピン衛星タイプからソーラーセイルを用いた三軸姿勢制御型へと変更され、それに従ってイメージャ(観測機器)なども変更されている。また、GMS-5([[ひまわり5号]])の可視光+赤外1~3に加えてさらに赤外4(IR4)チャンネルが追加されており、配信データ形式も拡張された。打上げ時の重量は約3.3t。設計寿命は、気象観測が5年、航空管制が10年となっている。なお、MTSAT-1Rの'''R'''は''Replacement''を意味する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/sat_info/data/web/satenkaku.html|accessdate=2015-09-28 |title=気象衛星主要諸元|publisher=気象庁}}</ref>。 MTSAT-1Rは[[2003年]](平成15年)の夏に[[H-IIAロケット6号機]]を使用した打上げが予定されていたが、製造上の不具合<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0304/22a/eisei2.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号機(MTSAT-1R)の打ち上げについて |date=2003-04-22 |publisher=気象庁}}</ref>や製造メーカーのスペースシステムズ・ロラール社が親会社とともに破綻([[連邦倒産法第11章]]の適用申請)した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0310/12/eisei031012.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号の製造請負契約等の緊急救済命令(Temporary Restraining Order)申し立てに対する米国[[アメリカ合衆国連邦裁判所#倒産裁判所|連邦倒産裁判所]]の判断について |date=2003-10-12 |publisher=気象庁}}</ref>ことなどからたびたび延期され、H-IIAロケット6号機での打上げを断念し、[[H-IIAロケット]]7号機での打上げに変更された。なお、6号機は[[情報収集衛星]]2号を搭載したが、打上げに失敗した。 なお、打上げの延期に伴って、米国の[[GOES#GOES-9|GOES-9]]が、MTSAT-1Rが稼動するまでの代替機として2003年5月22日から[[2005年]](平成17年)7月まで気象観測を担当した(''「[[ひまわり (気象衛星)]]」も参照'')。 [[2004年]](平成16年)[[3月19日]]に[[An-124|アントノフ124]]等で輸送され[[種子島宇宙センター]]へ到着したが、到着前に発生したH-IIAロケット6号機の打上げ失敗によるH-IIAロケットの設計改良のために、またもや打上げが延期される事態に陥った。 その後、H-IIAロケット7号機によって日本時間2005年(平成17年)[[2月26日]]午後6時25分に打上げられ、衛星の分離に成功した。2005年[[3月8日]]、静止軌道に入ったことが確認され、'''ひまわり6号'''と愛称が命名された<ref name="complete">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0503/08a/nickname.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)の静止化完了及び愛称について |date=2005-03-08 |publisher=気象庁}}</ref>(正式名称はMTSAT-1Rのまま)。当初は5月下旬には気象観測の開始を予定していたが、気象設備の設置に時間がかかり気象観測運用の開始は[[6月28日]]にずれ込んだ。 [[2006年]][[4月17日]]に姿勢制御用コンピューターの異常で衛星の姿勢が乱れ、通信できない問題が発生した<ref name="sorae3415">{{cite news|title=「ひまわり6号」運用再開、原因は姿勢制御装置の停止|url=http://www.sorae.jp/030904/3415.html|publisher=sorae.jp|accessdate=2011-03-16}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0604/17a/20060417a.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号(ひまわり6号)の姿勢の異常について |date=2006-04-17 |publisher=気象庁}}</ref>が、同日中に復旧した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0604/17d/20060417d.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号(ひまわり6号)の気象観測の再開について |date=2006-04-17 |publisher=気象庁}}</ref>。 2006年[[7月6日]]から航空管制の通信業務の運用を開始したが、地上設備の不具合が原因で[[7月10日]]から通信障害が発生し<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/12/120719_.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号の航空通信機能によるデータ通信の障害に伴う通信サービスの停止について |date=2006-07-19 |publisher=国土交通省}}</ref>、原因究明と対策のため[[11月28日]]まで通信業務を中止した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/12/121128_.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号による航空衛星通信サービスの再開について |date=2006-11-28 |publisher=国土交通省}}</ref>。 [[2009年]][[11月11日]]21時26分、3基の姿勢制御装置のうち1基が停止したため<ref>{{cite news|title=「ひまわり6号」に異常、観測画像送信不能に|url=http://www.sorae.jp/030904/3413.html|publisher=sorae.jp|accessdate=2011-03-16}}</ref>姿勢に異常が生じ、22時から気象観測ができなくなった。気象庁は11月12日1時に気象観測業務をバックアップ用のひまわり7号に切り替え、全球観測が復旧した<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20091112-OYT1T00102.htm|title=「ひまわり6号」カメラが地球向かず観測不能に|newspaper=[[読売新聞]]|date=2009-11-12|accessdate=2009-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091114120602/http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20091112-OYT1T00102.htm|archivedate=2009-11-14}}</ref>。緊急用チャンネル(USB)での送受信が確立されており、地上から再起動を行って11月12日2時17分に衛星の姿勢が安定、観測停止から約15時間後の11月12日13時に気象観測を再開した<ref name="sorae3415"/>。 同年[[11月16日]]には地上の処理システムに異常が生じ、午前8時半から10時までの1時間半、4回分の観測画像が配信されなかった<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20091116-OYT1T00578.htm|title=「ひまわり6号」システム異常、画像配信できず|newspaper=読売新聞|date=2009-11-16|accessdate=2009-11-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091119110654/http://www.yomiuri.co.jp/space/news/20091116-OYT1T00578.htm?|archivedate=2009-11-19}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0911/16a/091116eisei.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号(ひまわり6号)の気象観測の地上処理システムの異常について |date=2009-11-16 |publisher=気象庁}}</ref>。[[11月27日]]に復旧<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0911/26a/091126eisei.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新1号(ひまわり6号)による気象観測の再開について |date=2009-11-26 |publisher=気象庁}}</ref>するまで、気象観測はひまわり7号で続けられた。 [[2010年]][[7月1日]]に気象観測業務をひまわり7号に譲り、ひまわり6号の気象観測は待機運用となった<ref name="jmaHimawari6to7">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1004/23b/Himawari6to7.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星「ひまわり6号」から「ひまわり7号」への気象観測運用切り替えについて |date=2010-04-23 |publisher=気象庁}}</ref>。航空ミッションは従来通り継続されていたが、2016年末に運用を終了した<ref name="pbn-wg">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001125073.pdf|accessdate=2018-01-13 |title=将来の航空交通システムに関する推進協議会 GNSS 検討アドホック活動報告書|date=2016-08 |publisher=PBN検討WG}}</ref>。 == 運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号) == {{宇宙機 | 名称 = ひまわり7号(MTSAT-2) | 画像 = | 画像の注釈 = | 所属 = [[国土交通省|MLIT]]、[[気象庁|JMA]] | 主製造業者 =[[三菱電機]] | 公式ページ = [http://www.mitsubishielectric.co.jp/society/space/satellite/observation/mtsat2.html 三菱電機宇宙システム ひまわり7号] | 国際標識番号 = 2006-004A | NORAD_NO = 28937 | 状態 = 運用終了 | 目的 = 気象観測<br />航空管制(航法および通信) | 観測対象 = | 計画の期間 = | 設計寿命 = 5年(気象ミッション)<br />10年(航空ミッション) | 打上げ機 = [[H-IIAロケット]]9号機 | 打上げ日時 = [[2006年]][[2月18日]]15:55 | 軌道投入日 = [[2006年]][[2月24日]] | 最接近日 = | ランデブー日 = | 機能停止日 = | 通信途絶日 = | 運用終了日 = 2020年3月 | 停波日 = | 消滅日時 = | 物理的特長 = 物理的特長 | 衛星バス = [[DS2000]] | 本体寸法 = 箱型 2.4 m x 2.6 m x 2.6 m | 最大寸法 = 全幅約33 m(含ソーラーセール及び太陽電池パネル) | 質量 = 打ち上げ時4.65t ドライ約1.7t | 発生電力 = 3,410W | 主な推進器 = [[R-4D]] | 姿勢制御方式 = 三軸制御 | 軌道要素 = 軌道要素 | 周回対象 = | 軌道 = [[静止軌道]] | 静止経度 = 東経145度 | 高度 = 3万6,000km | 近点高度 = | 遠点高度 = | 軌道半長径 = | 離心率 = | 軌道傾斜角 = 0度 | 軌道周期 = 約24時間 | 回帰日数 = | サブサイクル = | 回帰精度 = | 降交点通過地方時 = | 搭載機器 = 搭載機器 | 搭載機器名称1 = イメージャ | 搭載機器説明1 = [http://www.ssd.itt.com/climate-enviro/geo-payloads.shtml ITT社製イメージャ] }} 気象衛星としては<!--最低-->MTSAT-1Rの1機だけでも運用できるものの、航空管制業務にはMTSATが最低2基必要であるため、'''運輸多目的衛星新2号'''('''MTSAT-2''')が[[三菱電機]]で製造された。日本は[[1990年]](平成2年)に[[アメリカ合衆国|米国]]との協定によって、日本国内で使用する商用衛星も国際競争入札にしなければならなくなったが、MTSAT-2は、衛星の機構(衛星バス)をほかの用途の衛星でも共用できるようにして低価格を実現し、欧米の衛星に対抗することとなった。基本機能はMTSAT-1Rと同じであるが、随所に国産技術による手が加えられており、通信機器の一部を除いて実質は別の衛星といっても過言ではない。 MTSAT-2はH-IIAロケット9号機によって日本時間[[2006年]](平成18年)[[2月18日]]午後3時27分に打上げられ、衛星の分離に成功し、[[2月24日]]に愛称が「'''ひまわり7号'''」と命名された。9月4日からは東経145度の静止軌道上で気象ミッション待機運用を開始し<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0609/04a/0904MTSAT-2.html |accessdate=2014-01-11 |title=ひまわり7号の気象ミッション待機運用の開始について |date=2006-09-04 |publisher=気象庁}}</ref>、切望されていた気象衛星の軌道上予備機が実現した。打上げ時の重量は約4.7tで、打上げ時点では、日本の宇宙開発史上最も重い衛星であった。2007年7月19日に航空管制業務を開始し<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/120718_.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新2号による航空管制業務の開始について |date=2007-07-18 |publisher=国土交通省}}</ref>、2機体制となった。 [[2007年]][[11月5日]]午後2時40分頃、姿勢制御用[[スラスタ]]の異常のため衛星の姿勢が乱れ、気象観測と航空管制のための交信が行なえなくなった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0711/05a/1105MTSAT2.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)の姿勢の異常について |date=2007-11-05 |publisher=気象庁}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/121105_.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)の姿勢の異常について |date=2007-11-05 |publisher=国土交通省}}</ref>。航空管制業務はひまわり6号で継続され、2日後の[[11月7日]]、ひまわり7号はスラスタを予備に切り替えた上で復旧した<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0711/07a/1107MTSAT2.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)の運用再開について |date=2007-11-07 |publisher=気象庁}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/121107_2_.html |accessdate=2014-01-11 |title=運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)の運用再開について |date=2007-11-07 |publisher=国土交通省}}</ref>。 [[2010年]][[7月1日]]に、ひまわり7号での気象観測が開始され、ひまわり6号の気象ミッションは待機運用へ移行した<ref name="jmaHimawari6to7" />。この移行に伴い、衛星の静止位置の変更は行わない。国内向けとLRITでは、画像の座標変換を行った全球画像を配信、HRITは静止位置を変えないため、5度東にずれた全球半球画像を利用者に配信する。従って、HRITの画像を利用する場合、利用者側で座標変換などを行う必要が生じる。 2015年7月7日、[[ひまわり8号]]での気象観測が開始され、ひまわり7号の気象ミッションは待機運用へ移行した。2017年3月10日、[[ひまわり9号]]が待機運用を開始し<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1703/09b/20170309_himawari9_start_operation.html|title=「ひまわり9号」の待機運用の開始について |accessdate=2018-01-14|date=2007-03-09 |publisher=気象庁}}</ref>、ひまわり7号の気象ミッションの運用は終了した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/mscweb/ja/oper/mtsat.html|title=MTSAT-運用情報|accessdate=2018-01-14|publisher=[[気象衛星センター]]}}</ref>。航空ミッションは2019年度末まで運用する予定で<ref name="pbn-wg"/>、2020年3月、[[準天頂衛星システム|みちびき3号]]によるSBAS配信サービスにミッションを引き継ぎ、運用を終了した<ref>{{Cite web|和書|url= https://qzss.go.jp/overview/faq/index.html#faq7_12 |title=FAQ(よくある質問)|publisher=内閣府 宇宙開発戦略推進事務局|accessdate=2021-11-28}}</ref>。 == 気象ミッション == 気象ミッションでは、次のことが行われる。 === イメージャーによる観測 === 光学系の観測装置で、可視・赤外(IR1, 2, 4)・水蒸気(IR3)にて観測する。観測は全球観測を最大24回/日実施し、北半球観測を20回/日、南半球観測を4回/日実施する。北半球の4回と南半球の4回は、雲の移動量から風速を解析するウィンドベクトル(クラウドモーション・ウィンドベクトル)を得るために行われる。この解析結果は、数値計算に用いられ、[[ゾンデ]]や航空路(航空機による観測)のない洋上でも風速を得ることができる。また、観測した画像を基に多様な解析が行われる。海面水温観測もその一つ(少なくとも日本では、極軌道衛星による観測結果を用いられるので、あまり利用されない)である。 イメージャーについては、製造メーカーが異なっている。本来MTSAT-1Rは、MTSAT-1が打ち上げられていた場合、MTSAT-3として計画されていた衛星で、盛り込むセンサーの仕様が異なるためである。 === 観測データの中継 === 離島や航空機、船舶からMTSATを介して観測データを中継するサービスが行われている。ほとんどはセルフタイム型で、時間が来ると観測者が衛星にデータを送信し、衛星が地上のCDAS(衛星通信局)に中継、CDASから衛星情報処理センターを通り、気象局の通信網を通じて、全世界の気象機関に配信される。この中継サービスはあらかじめ、衛星情報処理センターのコンピューターに登録していないと、気象機関に配信されないようになっている。 === 画像配信 === イメージャーで観測した画像は、衛星情報処理センターで処理された画像を、MTSATを介して受信ユーザー(受信局)に配信する。高分解能画像データ(HiRID)、ウェファクス(WEFAX)、高速情報伝送(HRIT)、低速情報伝送(LRIT)の4方式で配信されていたが、このうちHiRIDおよびWEFAXは、2008年3月12日に廃止された。 === その他の運用 === 気象ミッションでは、上記のほかに光学系を使用することによる保守運用や、衛星食などによる運用変更などが行われる。 衛星食とは、太陽が地球の陰に隠れて、太陽電池による電力供給ができなくなる現象である。また、バッテリー能力の関係で運用ができなくなる場合に、必要最低限での運用を行うため、観測自体を停止することがある。GMSシリーズでは、バッテリー容量が極端に小さかった(200W程度)ことから、食の時間を中心に3時間程度観測を止めた。MTSATでは、バッテリー容量が大きくなったことから、観測範囲を変更したりすることで、完全な観測中止回数は減少している。この期間は逆光でイメージャーに直接太陽光が入り込み、光学系の電子回路を壊すおそれがあるため、その領域だけ観測しないことがある。虫食いのような画像が配信されるのはそのためである。 イメージャーの冷却装置に付着するゴミなどを除去するため、最大で2日程度(おおよそ36時間程度)観測を停止する。この運用では予備衛星がある場合には、予備衛星によってイメージャー観測を行い、予備衛星による画像を受信局に配信する。予備衛星での観測画像は、一部の画像を除き、画像の位置調整をせずに配信される。2007年6月6日 - 8日にかけて実施された際には、MTSAT-2による観測画像を、MTSAT-1Rで配信したことがある。 姿勢制御は、東西方向および南北方向の衛星位置を維持するために行われる。姿勢制御が行われた後6時間程度はランドマークラインと一致しないことがあり、位置精度が悪くなる。この姿勢制御を軌道保持マヌーバ(station keeping maneuver)という。また、衛星自体の傾きも生じるので、ほぼ毎日姿勢制御を行う。この姿勢制御をハウスキーピングマヌーバ(house keeping maneuver)という。この制御は数秒で終えるため、位置の姿勢制御ほどの影響はない。 == 航空ミッション == 航空ミッションでは、次のことが行われる。 === 通信の中継 === 神戸と常陸太田に設置された「[[航空衛星センター]]」の地上局と航空機との間で行われる、管制官パイロット間データ通信(CPDLC; Controller Pilot Data Link Communication)等のデータリンク通信や音声通信を中継する。第三世代[[インマルサット]]との相互互換性がある。 === GPS精度の補強 === {{main|MSAS}} [[グローバル・ポジショニング・システム]](GPS)による測位精度を補強して航空で使用する方式に[[SBAS]](Satellite Based Augmentation System)があるが、このサービスを'''MSAS'''(MTSAT Satellite-based Augmentation System)という名称で行っており、以下の3種類の情報が送信される。 *GPS衛星ごとの使用可否、不具合の程度 *地上局での測定により算出された、GPSの誤差補正データ(ディファレンシャル補正) *GPSと同様の測位信号 == 後継機 == ひまわり6、7号の経費を70%負担していた[[国土交通省]]航空局は後継機の計画から外れ、気象庁単独でこれまでの気象観測より広範囲な観測を行う'''静止地球環境観測衛星'''として、[[ひまわり8号]]、[[ひまわり9号|9号]]が打ち上げられた。 測位精度を補強して航空で使用するSBASについては、[[準天頂衛星システム]]の静止軌道衛星から2020年3月より配信中<ref>{{Cite|title=準天頂衛星システムウェブサイト>>SBAS配信サービス|url=http://qzss.go.jp/overview/services/sv12_sbas.html|publisher=準天頂衛星システムサービス株式会社|accessdate=2020-01-11}}</ref>。地上局と航空機との間で行われる通信サービスは民間通信衛星のインマルサットや[[イリジウムコミュニケーションズ|イリジウム]]等に引き継がれる予定である<ref name="pbn-wg"/>。 神戸と常陸太田に設置された「[[航空衛星センター]]」の地上局も廃止となり[[準天頂衛星システム]]「みちびき」の管制施設および、神戸航空交通管制部庁舎として使用されている。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [https://www.jaxa.jp/press/nasda/2000/h28_000414_j.html H-IIロケット8号機の事故原因とH-IIAロケットへの対策について【要約版】] == 関連項目 == * [[航空交通管制]] ** [[広域航法]] * [[グローバル・ポジショニング・システム]] * [[気象衛星]] * [[航空衛星センター]] == 外部リンク == {{commonscat|Multi-Functional Transport Satellite}} * [https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000367.html 航空衛星センター]{{deadlink|date=2023年4月}} {{日本の気象衛星}} {{気象設備|||表示}} {{日本の宇宙探査機・人工衛星}} {{aviation-stub}} {{DEFAULTSORT:えむていさつと}} [[Category:日本の気象衛星]] [[Category:静止衛星]] [[Category:航空交通管制]] [[Category:地球観測衛星]] [[Category:2005年の宇宙飛行]] [[Category:2006年の宇宙飛行]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MTSAT
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HAL 9000
HAL 9000は、SF小説およびSF映画の『2001年宇宙の旅』『2010年宇宙の旅』などに登場する、人工知能を備えた架空のコンピュータである。9000を省略してHALと呼ばれる事もある。HALはHeuristically Programmed Algorithmic Computerの略である。 1962年、ベル研究所にてIBM製のメインフレーム IBM 704 を使った音声合成が行われた時、音声出力装置にヴォコーダーを使い、「デイジー・ベル」を歌わせた。このデモをアーサー・C・クラークが実際に聴いたことで、『2001年宇宙の旅』のクライマックスシーンを着想したとされる。これよりスタンリー・キューブリックとアイデアを出しあい、HAL 9000の原型が生まれた。実際の映画の制作は、3年後の1965年からである。 映画版では1992年1月12日(クラークによる小説版では1997年同日)、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校のあるイリノイ州アーバナのHAL研究所(HAL Laboratories、小説の邦訳では「HAL工場」)にて、同型機の3号機として稼動状態に入ったとされている。開発者はシバサブラマニアン・チャンドラセガランピライ(通称:チャンドラ博士)。 木星探査(小説版では土星探査)のための宇宙船ディスカバリー号に搭載され、船内すべての制御をおこなっていた。チューリング・テストをクリアする程の高度なコンピュータである。人間と普通に会話でコミュニケーションを行い、ディスカバリー号の乗員が彼の異常について密談した際は窓越しに読唇術で会話を読み取る離れ業を行っている。姉妹機にSAL 9000 がある。 探査ミッション遂行のため、HAL 9000は乗員と話し合い協力するよう命令されていた。しかし一方で、密かに与えられたモノリス探査の任務について、ディスカバリー号の乗員に話さず隠せという命令も受けていた。『2001年宇宙の旅』では、これら2つの指示の矛盾に耐えきれず異常をきたし、ユニットの間違った故障予知をはじめるなど奇妙な言動が起こり、最後には自分を停止させようとする乗員を排除しようとしたと考えられている。乗員が(死んで)いなくなれば永遠に話さずに済む。ミッションは自分だけで遂行すればいいとHAL 9000は考えたことから、「コンピュータの反乱」の象徴ともなっている。 このために地球との交信アンテナを制御していたAE35ユニット故障の誤情報を出し、修理の為に船外に出た乗員フランク・プールを遭難させ、冷凍冬眠状態の3人の乗員の生命維持装置を切って殺害した。さらにデビッド・ボーマン船長の排除も企てるが失敗、ボーマンによって自律機能を停止された。ボーマンがHAL 9000のモジュールを次々引き抜くなか、HAL 9000は「怖い」「やめてほしい」と訴えながら次第に意識を混濁させ、1992年にHAL研究所でチャンドラ博士によって開発されたこと、最初の先生が『デイジー・ベル』の歌を教えてくれたことなど稼働初期の記憶のおうむ返しを始め、『デイジー・ベル』を歌いながら機能停止した。 ボーマンが巨大モノリスの調査中に消息を絶った後、ディスカバリー号と共に10年近く木星付近に放置されることになる。 『2010年』で再起動される際にチャンドラ博士によって異常の原因を排除されたことで、正常に機能している。『2001年宇宙の旅』における異常は、矛盾した命令によるものであり、HAL 9000には責任がないという説明もなされている。 ディスカバリー号遭難と巨大モノリスの調査のために木星軌道に向かったアレクセイ・レオーノフ号の米ソ混成の調査チームの救命のために、ディスカバリーとともに消滅することになる運命を受け入れ、淡々とチャンドラ博士と別れの挨拶をするシーンで、名誉を回復している。なおフロイド博士らは再びHALが異常行動を取った際の安全策として、電源系統にリモコン式の切断装置を仕掛けていたが、察知していたチャンドラ博士により早々に除去されていた事が後で明らかになった。 直後に「かつてボーマン船長だった存在」の指令により、人類に向けてエウロパへの接近干渉を禁じるメッセージを送信する。木星の新星化によってHAL 9000のハードウェアはディスカバリー号と共に消滅したが、その知性自体はモノリスに導かれ、ボーマン同様にその一部となる。 『2061年宇宙の旅』では、長年ボーマンと共にモノリスの機能を分析した結果、その一部をコントロール出来るまでになっており、エウロパに向かう宇宙船上にいたヘイウッド・フロイド博士の船室に小型のモノリスを出現させ、博士の精神を複製して同様にモノリスに取り込んでいる。 『3001年終局への旅』では、1000年ぶりに回収・蘇生されてエウロパを訪れたプールと再会。この頃にはボーマンとの人格融合が進んで両者の区別が曖昧になっており、プールに「ハルマン」と呼ばれている。 30年後、モノリスの主人である500光年彼方の異星知性体の命令によりモノリスが人類を抹殺しようとしている事をプールに伝え、対抗策として人類側が用意した凶悪なコンピュータウィルスをモノリスに感染させる役を担った。彼ら自身はプールの用意した高容量のタブレット(記憶媒体)に退避し、1000年後に予想される次なる脅威に備えて、月面にある「保管庫」に保存された。 HALはIBMを1文字ずつ前にずらして命名されたとする説(H←I、A←B、L←M / IBMより一歩先行くコンピュータを意味させている)が根強いが、監督のスタンリー・キューブリックや、共同脚本のアーサー・C・クラークはそれを否定している。小説『2010年宇宙の旅』では、チャンドラー博士自らIBM説を否定するくだりがある。 しかしクラークは後年になってからIBM社がこの説を迷惑がっているどころか半ば自慢しているらしいと聞き及び、『3001年終局への旅』のあとがきで「今後はこの説の間違いを正す試みを放棄する」と述べている。 小説では Heuristically programmed ALgorithmic computer (発見的な(ヒューリスティクス)プログラムをされたアルゴリズム的コンピュータ)の頭文字ということになっており、キューブリックも「アーサー・C・クラークと僕がコンピューターをHALと名づけたのは、HALの2つの学習様式である『発見的』(heuristic)と『アルゴリズム』(algorithmic)の頭文字を取ったからだ」と述べている。 スペースシャトルの機上コンピュータにはシャトル専用のプログラミング言語が用いられており、これを「HAL/S」(英: high-order assembly language/shuttle)という。Intermetrics社によって開発された「HAL/S」のベース言語「HAL」は1950年代の先駆的コンパイラのひとつ、MAC(MIT Algebraic Compiler)の影響を受けており、『HAL/S 言語仕様書』巻頭の謝辞にこのことが述べられている。NASAによる略語表の記載は前述のとおりであるが、もともと「HAL」のネーミングはIntermetrics社創業メンバーの1人が、MACの開発に携わった J. Halcombe Laning 博士に敬意を表するためにつけた名前であるという。 クラークが著した小説『神の鉄槌』にて、宇宙船<ゴライアス>に搭載されているセントラル・コンピュータの名前が「デイビット(David)」で、21世紀初頭、機能異常を起こしたコンピュータが搭乗員を排除して宇宙船を乗っ取る創作物の話を持ちだし、船長の判断を仰ぐ、という(古典的)ジョークを披露している場面がある。 また、迫稔雄の漫画『嘘喰い』で、主人公が昔の連れにつけた「ハル」というあだ名について、「HALはIBMを1文字ずつ前にずらして命名された」とする説とその連れの名前、およびコンピュータを彷彿させる高度な頭脳からHAL 9000になぞらえて付けたと説明する場面がある。 ディズニー/ピクサーのCGアニメーション映画『WALL・E』に登場する移民宇宙船の制御コンピュータ「オート」は、自身の任務を優先して船長や乗員を危機に陥れる役回りとなっており、デザインもHAL 9000を思わせる赤く光る眼になっている。 『2001年宇宙の旅』、『2010年』とも、ダグラス・レインが演じている。
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HAL 9000は、SF小説およびSF映画の『2001年宇宙の旅』『2010年宇宙の旅』などに登場する、人工知能を備えた架空のコンピュータである。9000を省略してHALと呼ばれる事もある。HALはHeuristically Programmed Algorithmic Computerの略である。
[[File:HAL9000.svg|thumb|200px|劇中のHAL 9000のカメラ・アイ]] '''HAL 9000'''は、[[サイエンス・フィクション|SF]]小説およびSF映画の『[[2001年宇宙の旅]]』『[[2010年宇宙の旅]]』などに登場する、[[人工知能]]を備えた架空の[[コンピュータ]]である。9000を省略してHALと呼ばれる事もある。HALはHeuristically Programmed Algorithmic Computerの略である。 == 着想 == [[1962年]]、[[ベル研究所]]にて[[IBM]]製の[[メインフレーム]] [[IBM 704]] を使った[[音声合成]]が行われた時、音声出力装置に[[ヴォコーダー]]を使い、「[[デイジー・ベル]]」を歌わせた<ref group="注">伴奏は[[マックス・ヴァーノン・マシューズ|マックス・マシューズ]]のプログラムを使った。なおこの歌のデモは[[1961年]]に [[IBM 7090]] を使って既に行われている。</ref>。このデモを[[アーサー・C・クラーク]]が実際に聴いたことで、『2001年宇宙の旅』のクライマックスシーンを着想したとされる<ref>{{Cite web |url=https://s3-us-west-2.amazonaws.com/belllabs-microsite-tts/index.html |title=Bell Labs Text-to-Speech Synthesis: Then and Now |accessdate=2022-02-12 |language=en}}</ref>。これより[[スタンリー・キューブリック]]とアイデアを出しあい、HAL 9000の原型が生まれた。実際の映画の制作は、3年後の[[1965年]]からである。 == 登場作品 == === 2001年宇宙の旅 === 映画版では[[1992年]][[1月12日]](クラークによる小説版では[[1997年]]同日)、[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]]のある[[イリノイ州]][[アーバナ (イリノイ州)|アーバナ]]のHAL研究所(''HAL Laboratories''、小説の邦訳では「HAL工場」)にて、同型機の3号機として稼動状態に入ったとされている。開発者はシバサブラマニアン・チャンドラセガランピライ(通称:チャンドラ博士)。 [[木星]]探査(小説版では[[土星]]探査)のための宇宙船[[ディスカバリー]]号に搭載され、船内すべての制御をおこなっていた。[[チューリング・テスト]]をクリアする程の高度なコンピュータである。人間と普通に会話でコミュニケーションを行い、ディスカバリー号の乗員が彼の異常について密談した際は窓越しに[[読唇術]]で会話を読み取る離れ業を行っている。姉妹機にSAL 9000 がある。 探査ミッション遂行のため、HAL 9000は乗員と話し合い協力するよう命令されていた。しかし一方で、密かに与えられた[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]探査の任務について、ディスカバリー号の乗員に話さず隠せという命令も受けていた。『2001年宇宙の旅』では、これら2つの指示の矛盾に耐えきれず異常をきたし、ユニットの間違った故障予知をはじめるなど奇妙な言動が起こり、最後には自分を停止させようとする乗員を排除しようとしたと考えられている。''乗員が(死んで)いなくなれば永遠に話さずに済む。ミッションは自分だけで遂行すればいい''とHAL 9000は考えたことから、「コンピュータの反乱」の象徴ともなっている。 このために地球との交信アンテナを制御していたAE35ユニット故障の誤情報を出し、修理の為に船外に出た乗員フランク・プールを遭難させ、冷凍冬眠状態の3人の乗員の生命維持装置を切って殺害した。さらにデビッド・ボーマン船長の排除も企てるが失敗、ボーマンによって自律機能を停止された。ボーマンがHAL 9000のモジュールを次々引き抜くなか、HAL 9000は「怖い」「やめてほしい」と訴えながら次第に意識を混濁させ、[[1992年]]にHAL研究所でチャンドラ博士によって開発されたこと、最初の先生が『[[デイジー・ベル]]』の歌を教えてくれたことなど稼働初期の記憶の[[反響言語|おうむ返し]]を始め、『デイジー・ベル』を歌いながら機能停止した。 ボーマンが巨大モノリスの調査中に消息を絶った後、ディスカバリー号と共に10年近く木星付近に放置されることになる。 === 2010年宇宙の旅 === 『2010年』で再起動される際にチャンドラ博士によって異常の原因を排除されたことで、正常に機能している。『2001年宇宙の旅』における異常は、矛盾した命令によるものであり、HAL 9000には責任がないという説明もなされている。 ディスカバリー号遭難と巨大モノリスの調査のために木星軌道に向かったアレクセイ・レオーノフ号の米ソ混成の調査チームの救命のために、ディスカバリーとともに消滅することになる運命を受け入れ、淡々とチャンドラ博士と別れの挨拶をするシーンで、名誉を回復している。なおフロイド博士らは再びHALが異常行動を取った際の安全策として、電源系統にリモコン式の切断装置を仕掛けていたが、察知していたチャンドラ博士により早々に除去されていた事が後で明らかになった。 直後に「かつてボーマン船長だった存在」の指令により、人類に向けて[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]への接近干渉を禁じるメッセージを送信する。木星の[[新星]]化によってHAL 9000のハードウェアはディスカバリー号と共に消滅したが、その知性自体はモノリスに導かれ、ボーマン同様にその一部となる。 === 2061年宇宙の旅 === 『[[2061年宇宙の旅]]』では、長年ボーマンと共にモノリスの機能を分析した結果、その一部をコントロール出来るまでになっており、エウロパに向かう宇宙船上にいたヘイウッド・フロイド博士の船室に小型のモノリスを出現させ、博士の精神を複製して同様にモノリスに取り込んでいる。 === 3001年終局への旅 === 『[[3001年終局への旅]]』では、1000年ぶりに回収・蘇生されてエウロパを訪れたプールと再会。この頃にはボーマンとの人格融合が進んで両者の区別が曖昧になっており、プールに「ハルマン」と呼ばれている。 30年後、モノリスの主人である500光年彼方の異星知性体の命令によりモノリスが人類を抹殺しようとしている事をプールに伝え、対抗策として人類側が用意した凶悪な[[コンピュータウィルス]]をモノリスに感染させる役を担った。彼ら自身はプールの用意した高容量のタブレット(記憶媒体)に退避し、1000年後に予想される次なる脅威に備えて、月面にある「保管庫」に保存された。 == 名称 == === 語源と由来 === HALは[[IBM]]を1文字ずつ前にずらして命名されたとする説(H←I、A←B、L←M / IBMより一歩先行くコンピュータを意味させている)が根強いが、監督の[[スタンリー・キューブリック]]や、共同脚本の[[アーサー・C・クラーク]]はそれを否定している。小説『2010年宇宙の旅』では、チャンドラー博士自らIBM説を否定するくだりがある。 しかしクラークは後年になってからIBM社がこの説を迷惑がっているどころか半ば自慢しているらしいと聞き及び、『[[3001年終局への旅]]』のあとがきで「今後はこの説の間違いを正す試みを放棄する」と述べている。 小説では '''{{Underline|H}}euristically programmed {{Underline|AL}}gorithmic computer''' (発見的な([[ヒューリスティクス]])プログラムをされた[[アルゴリズム]]的コンピュータ)の頭文字ということになっており、キューブリックも「アーサー・C・クラークと僕がコンピューターをHALと名づけたのは、HALの2つの学習様式である『発見的』(heuristic)と『アルゴリズム』(algorithmic)の頭文字を取ったからだ」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=ヴィンセント・ロブロット |others=[[浜野保樹]]、櫻井英里子 訳|title=映画監督 スタンリー・キューブリック |date=2004-09-05 |page=228 |publisher=[[晶文社]] |isbn=978-4-794-96631-5}}</ref>。 === もう一つのHAL === [[スペースシャトル]]の機上コンピュータにはシャトル専用の[[プログラミング言語]]が用いられており、これを「HAL/S」(英: high-order assembly language/shuttle)という<ref>{{Cite web |url=https://spaceflight.nasa.gov/shuttle/reference/shutref/orbiter/avionics/dps/software.html |title=Software |work=[[ケネディ宇宙センター]] |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|アメリカ航空宇宙局 (NASA)]] |accessdate=2019-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151009023017/https://spaceflight.nasa.gov/shuttle/reference/shutref/orbiter/avionics/dps/software.html |archivedate=2015-10-09 |language=en-US}}</ref>。[[:en:AverStar|Intermetrics]]社によって開発された「HAL/S」のベース言語「HAL」は1950年代の先駆的コンパイラのひとつ、MAC(MIT Algebraic Compiler)の影響を受けており、『HAL/S 言語仕様書』巻頭の謝辞にこのことが述べられている<ref>{{Cite web |url=http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19750002029_1975002029.pdf |format=PDF |title=HAL/S Language Specification |page=PREFACE |publisher=Intermetrics |date=1976-06-16 |accessdate=2014-02-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222150527/http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19750002029_1975002029.pdf#page=5 |archivedate=2014-02-22 |language=en-US}}</ref>。NASAによる略語表の記載は前述のとおりであるが、もともと「HAL」のネーミングは[[:en:AverStar|Intermetrics]]社創業メンバーの1人が、MACの開発に携わった J. {{Underline|Hal}}combe Laning 博士に敬意を表するためにつけた名前であるという<ref>{{Cite book |title=SPACE |year=1993 |publisher=Time-Life Books |page=66 |quote=The language's name was a tribute to computer pioneer J. Halcombe Laning. |language=en |url=https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=0NVQAAAAYAAJ&dq=Time-Life+Books+1993+space&focus=searchwithinvolume&q=Halcombe |accessdate=2022-02-12}} {{Google books|0NVQAAAAYAAJ|Space|page=66}}</ref>。 === パロディ === クラークが著した小説『[[神の鉄槌]]』にて、宇宙船<ゴライアス>に搭載されているセントラル・コンピュータの名前が「デイビット(''David'')」で、21世紀初頭、機能異常を起こしたコンピュータが搭乗員を排除して宇宙船を乗っ取る創作物の話を持ちだし、船長の判断を仰ぐ、という(古典的)ジョークを披露している場面がある。 また、[[迫稔雄]]の漫画『[[嘘喰い]]』で、主人公が昔の連れにつけた「ハル」というあだ名について、「HALはIBMを1文字ずつ前にずらして命名された」とする説とその連れの名前、およびコンピュータを彷彿させる高度な頭脳からHAL 9000になぞらえて付けたと説明する場面がある。 ディズニー/[[ピクサー]]のCGアニメーション映画『[[ウォーリー (映画)|WALL・E]]』に登場する移民宇宙船の制御コンピュータ「オート」は、自身の任務を優先して船長や乗員を危機に陥れる役回りとなっており、デザインもHAL 9000を思わせる赤く光る眼になっている。 == 声優 == 『2001年宇宙の旅』、『2010年』とも、[[ダグラス・レイン]]が演じている。 == 関連項目 == * [[2001年宇宙の旅]] * [[2010年宇宙の旅]] * [[スタンリー・キューブリック]] * [[SF映画]] * [[コンピュータ]] * [[人工知能]] * 固有名詞、商標など ** [[HAL (小惑星)]] - この[[コンピューター]]に因んで命名された小惑星番号第9000番の[[小惑星]]。 ** [[ウォーリー (映画)|ウォーリー]] - HAL 9000を搭載したロボット、AUTOが登場。 ** [[Apple]] - 自社製品である[[Macintosh]]のCMのひとつに出演している。ディスカバリーに搭載されているHALがデイブ(出演なし)に呼びかけるというもので、HALは[[2000年問題]]について言及しつつ、HAL自身がMacintoshは自分より優れていると認めるという内容。 ** [[ハル研究所]](''HAL Laboratory'') - 社名の由来。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} {{宇宙の旅シリーズ}} {{DEFAULTSORT:はる9000}} [[Category:宇宙の旅シリーズ]] [[Category:SF映画の登場人物]] [[Category:SF小説の登場人物]] [[Category:架空の道具]] [[Category:架空のコンピュータ]] [[Category:ロボット殿堂]]
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構文解析器
構文解析器(こうぶんかいせきき)とは、構文解析をおこなうプログラム。パーサまたはパーザ (parser)とも。プログラミング言語処理系の入力部分が代表的であるが、それに限らず設定ファイルの読み込みなど、構造を持った入力テキストの処理を行う。自然言語処理でも使われる。 構文解析のアルゴリズムには複雑なものも多いが、パーサジェネレータの研究は盛んであり、そういったものを使用すれば、構文規則を記述するだけで構文解析器を自動的に生成できる(プログラムのソースコードが出力される)。 構文解析器の役割は基本的に、開始記号に形式文法の規則を適用することで入力された文字列が得られるかどうかを判定することである。これは次の2種類の手法で行われる: その他の重要な分類法として、構文解析器が「左端導出」なのか、「右端導出」なのかという分類もある(文脈自由文法参照)。LL法は左端導出であり、LR法は右端導出である(ほぼ正反対である)。 トップダウン構文解析に従った構文解析器を以下に示す: ボトムアップ構文解析に従った構文解析器を以下に示す:
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構文解析器(こうぶんかいせきき)とは、構文解析をおこなうプログラム。パーサまたはパーザ (parser)とも。プログラミング言語処理系の入力部分が代表的であるが、それに限らず設定ファイルの読み込みなど、構造を持った入力テキストの処理を行う。自然言語処理でも使われる。 構文解析のアルゴリズムには複雑なものも多いが、パーサジェネレータの研究は盛んであり、そういったものを使用すれば、構文規則を記述するだけで構文解析器を自動的に生成できる(プログラムのソースコードが出力される)。
'''構文解析器'''(こうぶんかいせきき)とは、[[構文解析]]をおこなう[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]。'''パーサ'''または'''パーザ'''<ref>英語でも"s"の発音に揺れがある([[wikt:parser]])。</ref> (parser)とも。[[プログラミング言語]]処理系の入力部分が代表的であるが、それに限らず設定ファイルの読み込みなど、構造を持った入力テキストの処理を行う。[[自然言語処理]]でも使われる。 構文解析のアルゴリズムには複雑なものも多いが<ref>[[再帰下降構文解析]]など、簡単なものもある。</ref>、[[パーサジェネレータ]]の研究は盛んであり、そういったものを使用すれば、構文規則を記述するだけで構文解析器を自動的に生成できる(プログラムの[[ソースコード]]が出力される)。 ==構文解析器の種類== 構文解析器の役割は基本的に、開始記号に形式文法の規則を適用することで入力された文字列が得られるかどうかを判定することである。これは次の2種類の手法で行われる: *[[トップダウン構文解析]] - 構文解析器は開始記号を始点として、それを変換していって入力された文字列を得ようとする。直観的に言えば、まず大きな要素から開始して徐々に細部に分解していく。例えば JavaCC はトップダウン構文解析手法を使っている。 *[[ボトムアップ構文解析]] - 構文解析器は入力された文字列を始点として、それを変換して開始記号に帰結させようとする。直観的に言えば、最も基本的な要素をまず特定し、それを含むより大きな要素、さらに大きな要素、と解析していく。例えば、Yacc はボトムアップ構文解析手法を使っている。 その他の重要な分類法として、構文解析器が「左端導出」なのか、「右端導出」なのかという分類もある([[文脈自由文法]]参照)。LL法は左端導出であり、LR法は右端導出である(ほぼ正反対である)。 == 構文解析器の例 == === トップダウン構文解析器 === [[トップダウン構文解析]]に従った構文解析器を以下に示す: * [[再帰下降構文解析]] * [[LL法]] * [[末尾再帰構文解析]] * [[パックラット構文解析]] === ボトムアップ構文解析器 === [[ボトムアップ構文解析]]に従った構文解析器を以下に示す: * [[LR法]] ** [[単純LR法|SLR法]] ** [[LALR法]] ** [[CLR法]] ** [[GLR法]] * [[アーリー法]] * [[CYK法]] == パーサジェネレータ == {{main|パーサジェネレータ}} * [[ANTLR]] [http://www.antlr.org/] * [[Bison]] * [[Coco/R]] [http://www.ssw.uni-linz.ac.at/Research/Projects/Coco/] * [[GOLD (構文解析)|GOLD]] [http://www.devincook.com/goldparser/] * [[JavaCC]] * [[Lemon Parser]] [http://www.hwaci.com/sw/lemon/] * [[LRgen]] [http://parsetec.com/lrgen/] * [[Rebol]] [http://www.rebol.com/] * [[SableCC]] [http://www.sablecc.org/] * [[Spirit Parser Framework]] [http://spirit.sourceforge.net/] * [[Yacc]] == 注 == <references/> {{デフォルトソート:こうふんかいせきき}} [[Category:構文解析 (プログラミング)|*こうふんかいせきき]] {{Computer-stub|こうふんかいせきき}} [[it:Analisi sintattica]] [[pl:Parser]] [[pt:Parser]] [[sr:Парсер]]
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インターネットコミュニティ
インターネットコミュニティは、WWW(ワールド ワイド ウェブ)等のインターネットのアプリケーションを通じて共通の関心分野、価値観や目的を持った利用者が集まって持続的に相互作用する場であり、提供されるネットワークサービスの総称。 関心分野としては、ライフスタイル/ライフイベント/趣味嗜好/時事/知識創発などがある。 目的は、多種多様だが大きくは、情報交換型コミュニティ(情報交換・評価/問題解決・相互扶助が目的)と社交型コミュニティ(コミュニケーションが目的)に区分できる。 現在はフォーラム(forum)は派生して電子会議を指し、電子会議では議題とするテーマなどにより、電子掲示板をグループ分けして階層構造にしたり、会員が相互に利用できるデータライブラリーなどを設けていることが多く、この場合「掲示板」とほぼ同じ意味で「forum」という言葉が使われる。 インターネットコミュニティでは、集まった利用者の自発的な活動を通じて情報の共有(N対N)や発信(1対N)などコミュニケーションが行われる。利用者同士の話し合いで編集を行ったり、規則(ネチケット)を制定したりするウィキペディアもコミュニティの一種だと言える。 ウェブサービスとしては、電子掲示板、ブログ、SNS、チャット、口コミ、メーリングリスト、ウィキ、ネットニュース、仮想空間などの組み合わせによって成立しているものが多く、利用者間でメッセージのやり取り(1対1)を可能にするパーソナルコミュニケーションツールを提供する場合も多い。これらを組み合わせて提供していたサービスはインターネット黎明期まで遡ると、子供向けで1996年に開設されたマグネットがあった。技術的な観点では、電子「フォーラム」や「ボード」はユーザー生成コンテンツを管理するウェブアプリケーションである。 さらにその前史は、IP以前の草の根BBSやUSENET、fj.*他のネットニュース、後者から分化したメーリングリストに求めることができる。インターネットが一般に普及してきて、コミュニティへの参入者が増え、新しいコミュニティも多く形成された。 一方で、犯罪予告など悪意を含んだ書き込みがされる2ちゃんねるといった匿名掲示板や、出会い系サイトによる殺人事件など負のイメージもある。日本国の有名なサイトは5Ch yahoo japan Girls channelがあり誹謗中傷によって被害者を自殺に導く事件も多い インターネットフォーラムの起源は、コンピューターカンファレンスシステム (computer conferencing system)やダイアルアップ電子掲示板(BBS)などである 。初期のインターネットフォーラムは、電子メーリングリストやUsenetニュースグループのウェブ版とも記述することができるであろう。これらのシステムでは、ユーザーが別のユーザーのメッセージにメッセージやコメントを投稿することができる。後には、異なるニュースグループを模擬して、特定のトピックに関する複数のフォーラムを提供するサービスが開発された。 最初期のフォーラム・システムの一つは、1970年代初頭に開発されたPlanet-Forum system、1976年にサービス開始したEIES systemや、1977年にサービス開始したKOM systemがある。 最初期のフォーラム・サイトの一つは、1983年にサービス開始したDelphi Forums(かつてはDelphiで、2022年現在でもアクティブである。 フォーラムは、ウェブ上のサービスではないことを除けば、1970年代後半に始まったダイアルアップ電子掲示板やUsenetと機能的には類似している。最初期のウェブベースのフォーラムは、1994年のW3コンソーシアムによるWITプロジェクトまで遡ることができる。これ以降も、数々の類似のフォーラムが立ち上げられた。 フォーラムは、ディレクトリ構造 のような樹形図状で構成される。最上に位置するのが“カテゴリー”である。フォーラムはそれぞれ関連付けられた議題のカテゴリーへと分けられる。 カテゴリーの下がサブフォーラムとなり、これらのサブフォーラムに更に拡張したサブフォーラムが追加される場合もある。 サブフォーラムの次が最下となる議題(通常スレッド呼ばれる)であり、この各議題の中でメンバーが討議を開始したり、メッセージを投稿できる。 論理的にフォーラムは通常、主となる1つの議題を持つ限定された一まとまりの複数議題からなり、更新はメンバーによって進められ、モデレーターにより管理される。 インターネットコミュニティは、ネットコミュニティとも呼ばれ、様々な事業者が提供するネットワークサービスである。 事業者がネットコミュニティを提供する目的は、mixiやモバゲータウンのようにメディア事業を目的として構築する場合とメーカーなどが既存事業に対するマーケティング効果などシナジーを求めて構築する場合がある。 事業者がネットコミュニティを構築するビジネス効果 ネットコミュニティの利用者が得る効用メリット
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インターネットコミュニティは、WWW等のインターネットのアプリケーションを通じて共通の関心分野、価値観や目的を持った利用者が集まって持続的に相互作用する場であり、提供されるネットワークサービスの総称。 関心分野としては、ライフスタイル/ライフイベント/趣味嗜好/時事/知識創発などがある。 目的は、多種多様だが大きくは、情報交換型コミュニティ(情報交換・評価/問題解決・相互扶助が目的)と社交型コミュニティ(コミュニケーションが目的)に区分できる。 現在はフォーラム(forum)は派生して電子会議を指し、電子会議では議題とするテーマなどにより、電子掲示板をグループ分けして階層構造にしたり、会員が相互に利用できるデータライブラリーなどを設けていることが多く、この場合「掲示板」とほぼ同じ意味で「forum」という言葉が使われる。
{{出典の明記|date=2018年4月}} '''インターネットコミュニティ'''は、[[World Wide Web|WWW]](ワールド ワイド ウェブ)等の[[インターネット]]の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]を通じて共通の関心分野、価値観や目的を持った利用者が集まって持続的に相互作用する場であり、提供されるネットワーク[[サービス]]の総称。 関心分野としては、ライフスタイル/ライフイベント/趣味嗜好/時事/知識創発などがある。 目的は、多種多様だが大きくは、情報交換型[[コミュニティ]](情報交換・評価/問題解決・相互扶助が目的)と社交型コミュニティ([[コミュニケーション]]が目的)に区分できる。 現在は[[フォーラム]](forum)は派生して電子会議を指し、電子会議では議題とするテーマなどにより、[[電子掲示板]]をグループ分けして階層構造にしたり、会員が相互に利用できるデータライブラリーなどを設けていることが多く、この場合「掲示板」とほぼ同じ意味で「forum」という言葉が使われる。 == 概要 == インターネットコミュニティでは、集まった利用者の自発的な活動を通じて[[情報]]の共有(N対N)や発信(1対N)などコミュニケーションが行われる。利用者同士の話し合いで[[編集]]を行ったり、[[規則]]([[ネチケット]])を制定したりする[[ウィキペディア]]もコミュニティの一種だと言える。 ウェブサービスとしては、[[電子掲示板]]、[[ブログ]]、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]、[[チャット]]、[[口コミ]]、[[メーリングリスト]]、[[ウィキ]]、[[ネットニュース]]、[[仮想空間]]などの組み合わせによって成立しているものが多く、利用者間でメッセージのやり取り(1対1)を可能にするパーソナルコミュニケーション[[ツール]]を提供する場合も多い。これらを組み合わせて提供していたサービスはインターネット黎明期まで遡ると、子供向けで[[1996年]]に開設された[[マグネット (ウェブサイト)|マグネット]]があった。技術的な観点では、電子「フォーラム」や「ボード」は[[ユーザー生成コンテンツ]]を管理する[[ウェブアプリケーション]]である<ref name="Glossary Of Technical Terms"/><ref>{{cite web |url=http://bugclub.org/glossary.html |title=Brevard User's Group - Technical Glossary |access-date=2008-04-28 |work=Brevard User's Group |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20080421205816/http://bugclub.org/glossary.html |archive-date=2008-04-21 }}</ref>。 さらにその前史は、[[Internet Protocol|IP]]以前の[[草の根BBS]]や[[USENET]]、[[fj (ニュースグループ)|fj.*]]他のネットニュース、後者から分化したメーリングリストに求めることができる。インターネットが一般に普及してきて、コミュニティへの参入者が増え、新しいコミュニティも多く形成された。 一方で、[[犯罪予告]]など悪意を含んだ書き込みがされる[[2ちゃんねる]]といった[[匿名掲示板]]や、[[出会い系サイト]]による殺人事件など負のイメージもある。[[日本国]]の有名なサイトは[[5Ch]] yahoo japan Girls channelがあり誹謗中傷によって被害者を自殺に導く事件も多い == 歴史 == インターネットフォーラムの起源は、コンピューターカンファレンスシステム (computer conferencing system)やダイアルアップ[[電子掲示板]](BBS)などである<ref name="bbsref">{{cite web |url=http://www.videojug.com/expertanswer/internet-communities-and-forums-2/what-is-an-internet-forum |title=What is an 'Internet forum'? (video entry by Ethan Feerst and Dylan Stewart group) |access-date=2008-11-04 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20081011092536/http://www.videojug.com/expertanswer/internet-communities-and-forums-2/what-is-an-internet-forum |archive-date=2008-10-11 }}</ref><ref name="Glossary Of Technical Terms">{{cite news |title=Glossary Of Technical Terms |url=http://www.greenwebdesign.com/Glossary-Of-Technical-Terms.htm |work=Green Web Design |access-date=2008-04-28 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20080507024349/http://www.greenwebdesign.com/Glossary-Of-Technical-Terms.htm |archive-date=2008-05-07 }}</ref> <!-- IT definition -->。初期のインターネットフォーラムは、[[メーリングリスト|電子メーリングリスト]]や[[Usenet]][[ニュースグループ]]のウェブ版とも記述することができるであろう。これらのシステムでは、ユーザーが別のユーザーのメッセージにメッセージやコメントを投稿することができる。後には、異なるニュースグループ<!--やindividual lists-->を模擬して、特定のトピックに関する複数のフォーラムを提供するサービスが開発された<ref name="bbsref"/>。 最初期のフォーラム・システムの一つは、1970年代初頭に開発されたPlanet-Forum system、1976年にサービス開始した[[:en:Electronic Information Exchange System|EIES system]]や、1977年にサービス開始した[[:sv:KOM-systemet|KOM system]]がある。 最初期のフォーラム・サイトの一つは、1983年にサービス開始したDelphi Forums(かつては[[:en:Delphi (online service)|Delphi]]で、2022年現在でもアクティブである。 フォーラムは、ウェブ上のサービスではないことを除けば、1970年代後半に始まったダイアルアップ[[電子掲示板]]や[[Usenet]]と機能的には類似している<ref name="bbsref"/>。最初期のウェブベースのフォーラムは、1994年の[[World Wide Web Consortium|W3コンソーシアム]]によるWITプロジェクト<ref>{{cite web|url=http://www.w3.org/WIT/|title=World-Wide Web Interactive Talk|publisher=w3.org|access-date=2010-12-24}}</ref>まで遡ることができる。これ以降も、数々の類似のフォーラムが立ち上げられた<ref>{{cite web |url=http://www.forum-software.org/forum-software-timeline-from-1994-to-today |title=Forum Software Timeline 1994 - 2010 |access-date=2010-12-24 |publisher=Forum Software Reviews}}</ref>。 == フォーラムの構造 == フォーラムは、ディレクトリ構造 <ref name="Forex forum">[http://www.forexabode.com/forum/ Forex forum], フォーラムの構造 (example)</ref> のような樹形図状で構成される。最上に位置するのが“カテゴリー”である。フォーラムはそれぞれ関連付けられた議題のカテゴリーへと分けられる。 カテゴリーの下がサブフォーラムとなり、これらのサブフォーラムに更に拡張したサブフォーラムが追加される場合もある。 サブフォーラムの次が最下となる議題(通常スレッド呼ばれる)であり、この各議題の中でメンバーが討議を開始したり、メッセージを投稿できる。 論理的にフォーラムは通常、主となる1つの議題を持つ限定された一まとまりの複数議題からなり、更新はメンバーによって進められ、モデレーターにより管理される。 == インターネットコミュニティの効果 == {{独自研究|section=1|date=2013年5月}} インターネットコミュニティは、ネットコミュニティとも呼ばれ、様々な事業者が提供するネットワークサービスである。 事業者がネットコミュニティを提供する目的は、[[mixi]]や[[Mobage|モバゲータウン]]のようにメディア事業を目的として構築する場合とメーカーなどが既存事業に対するマーケティング効果などシナジーを求めて構築する場合がある。 '''事業者がネットコミュニティを構築するビジネス効果''' *サイト活性化効果 #アクティブユーザーの増加 #サイトへのロイヤリティーの向上 #リピーターの増加 #サイト滞在時間の増加 *プロモーション効果 #サイト内コンテンツ数の増大 #サイトアクセスの増加 #新規ユーザーの獲得 *マーケティング効果 #ユーザーのニーズ調査 #ユーザーのデータ収集 '''ネットコミュニティの利用者が得る効用メリット''' #経済的メリット(効率の上昇/支出の抑制/収入の増加) #精神的満足(基本的コミュニケーション欲求/悩みの解消/社会的認知/自己実現) == 関連項目 == * [[電子掲示板]] * [[ナレッジコミュニティ]] - 質問コミュニティサイト。 * [[ソーシャルニュース]] * [[ユーザーグループ]] * [[仮想共同体]] * [[ソーシャルメディア]] * [[オフラインミーティング]](オフ会) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いんたねつとこみゆにてい}} [[Category:コミュニティ]] [[Category:インターネットの文化]] [[Category:World Wide Web]]
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カルト
カルト(英: cult)は、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である。フランス語(仏: culte)では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。現在では、宗教団体を中心に反社会的な組織や団体を指して使用される。 ヨーロッパでは、一般的な宗教から派生した団体を「セクト」(仏: secte)と呼び、カルトと同義として扱われている。 「カルト」(英: cult)とは、米国で伝統的に異端的なキリスト教や新宗教に対して使われた言葉である。特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉がマスメディアで使われ、警戒が呼び掛けられた。日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている。 精神科医のロバート・J・リフトンは、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的搾取の3つを挙げているほか、科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。 日本でカルトとみなされている宗教団体の数は多くない。1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件や反対派へのVXガス襲撃事件などのテロを繰り返したオウム真理教は破壊的カルトとみなされている。旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、壺や印鑑、多宝塔を霊感商法で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の使用者責任・監督責任が裁判所で認定されたこと、性差別的な教義などからカルトとみなされている。 その他にも、成田ミイラ化遺体事件を引き起こしたライフスペース、違法行為こそ行っていないがその特異な行動が注目されたパナウェーブ研究所、信者に対する性暴力が問題視された摂理(キリスト教福音宣教会)もカルトとみなされるほか、浄土真宗セクトの親鸞会や日蓮正宗分派の顕正会、自己啓発セミナーなども布教・教化方法に問題があるとされ、カルト視されることも少なくない。 日本においては戦後、政府が特定集団をカルトと名指しする例は一切存在しなかったが、2022年(令和4年)12月9日の参院消費者問題特別委員会において、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、反社会的な宗教団体である「カルト」に当たるとの認識を示した。岸田文雄首相は「社会的に問題がある団体」との説明にとどめている。 また、カルトが行う勧誘やメンバーの支配の手法としてマインド・コントロールが合わせて論じられる。例えば、三菱総合研究所と大学生協はカルトによるマインド・コントロールを大学生活で注意すべき危険とし、大学生に向けて注意喚起を行っている。 破壊的カルトとは、一般にそのメンバーが故意にグループの他のメンバーや外部の人間を傷つけたり殺したりしたグループのことを指す。宗教的寛容を啓蒙するオンタリオ州の団体は、この用語の使用を「メンバーまたは一般大衆の間に生命の損失を引き起こした、または引き起こす可能性がある」宗教団体に特に限定している。 反カルト団体である国際カルト研究協会の事務局長である心理学者のマイケル・ランゴンは破壊的カルトを「メンバーや勧誘を利用し、時には身体的・心理的に損害を与える高度に操作的な団体」として定義している。 精神科医のジョン・ゴードン・クラークは、全体主義的な統治システムと金儲けの強調が破壊的なカルトの特徴であると主張している。『カルトと家族』で著者は破壊的カルトを精神病質症候群として定義するシャピロを引用し、その特徴は以下のようなものであると主張する。「行動や人格の変化、個人的アイデンティティの喪失、学業活動の停止、家族からの疎外、社会への無関心、カルト指導者による顕著な精神支配と奴隷化」である。 ラトガース大学の社会学者ベンジャミン・ザブロッキの意見では、破壊的カルトはメンバーに対する虐待が生じるリスクが高く、それはメンバーがカリスマ的リーダーを崇拝し、リーダーが権力によって堕落することに一因があると述べている。 バレットによれば、破壊的カルトに対してなされる最も多い告発は性的虐待であるという。神学者のクラネンボーグによれば、メンバーに標準治療を利用しないように指導するグループは危険である。これは身体的・心理的被害に及ぶこともある。 一部の研究者は、破壊的カルトという用語の使い方を批判し、それは必ずしも自分自身や他者にとって本質的に有害ではないグループを表現するために使われていると主張している。ジョン・A・サリバは彼の著書の中で、この用語は過度に一般化されていると主張し、人民寺院を「破壊的カルトのパラダイム」として見ており、この用語は集団自殺を暗示していると考えている ドゥームズデー・カルトは終末論や千年王国を信じる集団を表すのに使われる表現であり、災害を予測する集団とそれを起こそうとする集団の両方を指すのに使われることがある。 1950年代、アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーと彼の同僚は、シーカーズと呼ばれる小さなUFO宗教のメンバーを数ヶ月間観察し、カリスマ的指導者からの予言が失敗する前と後のメンバーの会話を記録し、その研究を後に出版した。1980年代後半、ドゥームズデー・カルトはニュース報道の主要なトピックであり、一部の記者やコメンテーターは彼らを社会に対する深刻な脅威と捉えていた。 フェスティンガーとリーケン、シャッターによる1997年の心理学研究は、人々が主流の運動で繰り返し意味を見出せなかった後に、激変的な世界観に転向することを発見した。人々はまた、多くの人が予言的に時代の終わり、つまり世界の終わりを示すと予測された世紀の変わり目のような世界的な出来事に意味を見出そうと努力する。 古代マヤ暦は2012年で終わるが、人々の多くがこの年に地球を揺るがす壊滅的な災害が起こるだろうと予測した。 政治的カルトとは、政治活動やイデオロギーに主な関心を持つカルトである。 政治的カルトと呼ばれるグループは、主に極左や極右の思想を流布し、ジャーナリストや学者から注目されている。デニス・トゥーリッシュとティム・ウォルフォースは、彼らがカルトとする米国と英国の約12の組織について述べている。 別の記事でトゥーリッシュは、次のように述べている:。 1990年、ルーシー・パトリックは次のようにコメントしている。 イランでは「ホメイニ教団」が「世俗宗教」へと発展していった。イランの作家であるアミール・タヘリによれば、ホメイニはイマームと呼ばれ、「十二イマーム派を十三人のカルトに」している。ホメイニの像は巨大な岩や山の斜面に刻まれ、祈りは彼の名で始まり、終わり、彼のファトワは彼の死後も有効である(シーア派の原則に反することである)。また「神、コーラン、ホメイニ」や「神は一つ、ホメイニは指導者」といったスローガンは、イランのヒズボラの鬨として用いられている。 ホメイニの写真は今でも多くの官庁に飾られているが、1990年代後半には「ホメイニの崇拝は色あせていた」とも言われている。 ラルーシュ運動は、リンドン・ラルーシュと彼の思想を推進する政治的・文化的ネットワークである。世界中の多くの組織や企業を巻き込み、キャンペーンや情報収集、書籍や定期刊行物の出版などを行っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの団体を「カルト的」であるとしている。 この運動は1960年代の急進的左派の学生運動の中で発生した。1970年代から1980年代にかけて、アメリカでは何百人もの候補者が「ラルーシュ・プラットフォーム」に基づいて民主党の州予備選挙に立候補し、リンドン・ラルーシュは大統領候補として繰り返しキャンペーンを行った。しかし、ラルーシュ運動はしばしば極右とみなされる。1970年代から1980年代にかけての最盛期には、ラルーシュ運動は私的な諜報機関を発達させ、外国政府と接触した。 アイン・ランドの信奉者は、彼女の生前は経済学者のマレー・ロスバードによって、その後はマイケル・シャーマーによってカルトと特徴づけられている。ランドを中心としたグループは「集団」と呼ばれたが、現在は消滅し、現在のランドの思想を発信する主なグループはアイン・ランド協会である。この集団は個人主義的な哲学を提唱していたが、ロスバードは「レーニン主義」的な組織であると主張している。 朝鮮半島北部出身の文鮮明によって設立された統一教会(統一運動としても知られる)は強い反共産主義の立場をとっている。1940年代、文は大日本帝国に対する朝鮮独立運動で共産主義者と協力した。しかし、朝鮮戦争(1950年-1953年)後は、反共主義を公言するようになる。文は民主主義と共産主義の間の冷戦を神と悪魔の最後の対立と見なし、その最前線として朝鮮半島の分断があるとした。統一運動はその創設後すぐに、蒋介石が1966年に中華民国(台湾)の台北で設立した世界自由民主連盟や、「ラジオ・フリー・アジア」を後援する国際パブリック・ディプロマシー組織である韓国文化自由財団などの反共組織の支援を開始した。 1974年、統一教会は共和党のリチャード・ニクソン大統領を支持し、ウォーターゲート事件の後に彼のために結集し、ニクソンはそれに対して個人的に感謝した。1975年、文はソウルの汝矣島で北朝鮮の軍事侵略の可能性に対する政府主催の集会で、約100万の聴衆を前に演説した。統一運動は、多くの人が第三次世界大戦と核によるホロコーストにつながる可能性があると述べたその反共主義的な活動のために、主流と新興の両方のメディアによって批判された。 1977年、アメリカ合衆国下院の国際関係委員会国際機構小委員会は、韓国の情報機関であるKCIAがアメリカとの政治的影響力を得るためにこの運動を利用し、一部のメンバーが議会事務所でボランティアとして働いていたことを明らかにした。委員会はまた、ニクソンを支持する統一教会のキャンペーンに対するKCIAの影響の可能性を調査した。 1980年、統一教会はニューヨークに拠点を置く反共産主義教育組織であるカウサ・インターナショナルを設立した。1980年代には21カ国で活動していた。アメリカでは、福音派やキリスト原理主義の指導者のための教育会議や、上院議員、ヒスパニック系アメリカ人、保守派活動家のためのセミナーや会議を後援した。 1990年4月、文鮮明はソビエト連邦を訪問し、ミハイル・ゴルバチョフと会談した。文はソビエト連邦で進行中の政治的・経済的変革への支持を表明した。同時期に統一運動は旧共産圏の国にも拡大した。1994年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、統一教会の政治的影響力を認め、「アメリカにおける保守的な大義に外国の財産を注ぎ込んでいる神権勢力」であると記述した。1998年、エジプトの新聞『アル・アハム』は、文の「極右的傾向」を批判し、イスラエルの保守派の首相・ベンヤミン・ネタニヤフとの個人的関係を示唆している。 統一教会はまた、『ワシントン・タイムズ』、『インサイト・オン・ザ・ニュース』、『ユナイテッド・プレス・インターナショナル』、『ニュースワールド・コミュニケーションズ・ネットワーク』を含むいくつかのニュースメディアを所有している。『ワシントン・タイムズ』のオピニオンエディターのチャールズ・ハートはワシントンDCで最も早い時期にドナルド・トランプを支持した人物の1人だった。2018年にハートはトランプをロナルド・レーガン、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア、マーガレット・サッチャー、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世と並ぶ人物とみなし、「自由の偉大なチャンピオン」としている。 2016年に『ワシントン・タイムズ』は特定のアメリカ合衆国大統領候補を支持しなかったが、2020年の再選に向けてトランプを支持した。 イギリスでジェリー・ヒーリーにより指導され、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴに強く支持されていたトロツキー主義の政党である労働者革命党(WRP)は、トロツキスト運動に関わるグループ外の人物によって、1970年代から1980年代にかけてカルトであった、あるいはカルト的特徴を示す集団であったと説明されてきた。ウォルフォースとトゥーリッシュもそのようにみなしており、元メンバーであるボブ・ピットも同団体を「カルト的特徴」を持っていると認めている。 グロイパー軍団は白人至上主義、キリスト教ナショナリズム、インセルの思想を吹き込まれたオルタナ右翼の派閥である。この運動のかつてのリーダーの複数は、ニック・フエンテスがそれをカルトのように指導していると非難し、フエンテスが支持者に絶対的な忠誠心を要求し、それを濫用していると批判している。フエンテスは「カルト的なメンタリティ」を持っていると賞賛し、自身の運動をカルトと「皮肉を込めて」認めている。 グロイパー軍団は2021年の合衆国議会議事堂襲撃事件に参加したことでも知られる。 スペインの極右政党・Voxを後援していたメキシコの極右グループ『エル・ユンケ』や、Qアノン陰謀論、ラテンアメリカにおける福音派キリスト教の一部はカルトとみなすことができる。 心理学者のスティーブン・ハッサンは、アムウェイやタッパーウェアに代表される連鎖販売取引(マルチ商法、またはMLM)をカルトとみなしている。これらは短期間で大規模な利益を得られると謳うが、しばしば急激な投資を必要とし、大半の参加者は資産を失うことになる。MLMはカルトの勧誘に使われる戦術を応用して参加者を集める。「ラブ・ボミング」という戦術は、愛情を浴びせることで人を引き込もうとするもので、例えば、ビジネス経験のない女性に対しても「あなたはビジネスをするために生まれてきたのです」と言う。 情報統制も経済カルトがよく使う手口であり、MLMは会員に対して、ソーシャルメディア上でMLMを批判する人間を「ブロック」するように指導する。参加者が勧誘時に謳われたような利益を得られていないことに気づいたとき、グループの上司は「成功しないのは努力が足りないからだ」と叱責する。また、参加者を辞めたいと申し出れば、罪悪感を抱くように非難される。このほかにも、MLMの勧誘はたびたびカルトが使うマインド・コントロールの手法と結びつけて論じられる。 MLMはロビー活動に多額の資金を費やしており、また権威付けのために著名人や財界人に多額の講演料を払っている。例えば、元アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプはいくつかのMLMのグループに関与していた。 一夫多妻制を提唱し、実践するカルトは、少数派ではあるが古くから指摘されている。北米には約5万人のポリガミーカルトのメンバーがいると推定されている。しばしば、ポリガミーカルトは法的権威と主流の社会の両方から否定的に見られ、家庭内暴力や児童虐待の可能性に結びつけられ、関連する主流の教団に対する否定的な認識も加わって見られることもある。 1830年代から、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、またはモルモン教)の教会員は一夫多妻制、または複婚を実践していた。1890年、LDSの総裁であるウィルフォード・ウッドラフは、LDSが新たな複婚を行わないことを発表する宣言を発表した。反モルモン感情は薄れ、ユタ州の州権獲得への反対運動も弱まった。アメリカ合衆国上院のリード・スムートによる1904年の聞き取り調査では、LDSのメンバーが今だに一夫多妻を行っていることを記録し、教会に第二の宣言書を発行させ、再び新たな複婚の実行を中止させた。1910年までに、末日聖徒イエス・キリスト教会は新たな複婚を行った者を破門した。1890年の宣言の施行により、様々な分派が複婚の実践を続けるために末日聖徒イエス・キリスト教会から離脱した。そのようなグループはモルモン原理主義者として知られている。例えば、末日聖徒イエス・キリスト原理主義教会はしばしば一夫多妻制のカルトとして記述される 。 社会学者・歴史家のオーランド・パターソンは、南北戦争後にアメリカ南部で発生したクー・クラックス・クランを異端のキリスト教カルトとし、またアフリカ系アメリカ人等への迫害を、人間の生贄の一形態として記述している。19世紀から20世紀初頭にかけて、ドイツとオーストリアにおけるアーリア人種至上主義カルトの存在はナチズムの台頭に強く影響を与えた。現代のアメリカにおけるホワイトパワー・スキンヘッドグループは、破壊的カルトとして特徴付けられるグループと同じ勧誘手法を用いる傾向にある。 精神科医のピーター・A・オルソンは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンをジム・ジョーンズ、デヴィッド・コレシュ、麻原彰晃、マーシャル・アップルホワイト、リュック・ジュレ、ジョセフ・ディ・マンブロなど特定のカルト指導者と比較し、これらの個人のそれぞれが、自己愛性人格障害の9項目のうち少なくとも8項目に該当するとしている。カール・ゴールドバーグとバージニア・クレスポは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンを「破壊的カルトの指導者」として言及している。 アメリカ心理学会(APA)の2002年の会合で、スティーブン・ハッサンはアルカイダが破壊的カルトの特徴を満たしていると述べ、次のように付け加えた。 『タイムズ』に掲載されたアルカイダに関する記事の中で、ジャーナリストのメアリー・アン・シーガートはアルカイダが「古典的なカルト」に似ていると書いている。 アルカイダと同様に、ISILもさらに過激で純血主義的なイデオロギーを信奉している。その目的は、宗教指導者の解釈によるシャリーアによって支配される国家を作ることであり、彼らは健康な男性メンバーを洗脳して、教会やシーア派のモスクなど、計画的に選定された民間人を含む敵に対して、自動車爆弾などの装置を使って特攻するよう命じている。メンバーはこれを正当な行為、義務であるとさえ考えており、この政治的・軍事的行動の究極の目標は、最終的に集団のイスラム教の信念に従って世界の終わりをもたらし、彼らの敵のすべて(すなわち彼らの側にいない者)が全滅する終末論的最終決戦に参加する機会を持つことである。 そのような試みは2017年に失敗に至ったが、生き残りの大部分がテロリズムに回帰した。 カトリック教会などによる聖人崇敬(cult of saints、キリスト教の聖人崇敬を行う教派では崇敬 Cult と礼拝・崇拝 Adoration は区別される)、19世紀末にメラネシア各地で起こったカーゴカルト(cargo cult)といった用例もあるが、否定的・批判的なニュアンスは存在しない。 社会学者のマックス・ヴェーバーとプロテスタント神学者のエルンスト・トレルチは、『キリスト教会の社会教育』 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト(ドイツ語でセクト:sekte)を宗教団体の初期形態として位置付けた。この段階のカルト=セクトでは周辺からの迫害に遭うが市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。 アメリカ合衆国においては、1920年頃より、アメリカ発祥のクリスチャン・サイエンスといった主要な宗教伝統に属さない、いわゆる新宗教を指して宗教社会学として、秘教的な教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教団を示す概念として「カルト」が用いられるようになった。 1930年代には、保守的なキリスト教聖職者が異端と見なしたキリスト教系団体を指して使用を始める。 1960年代にはヒッピーらが傾倒した、東洋系等のキリスト教以外の宗教を指し、用いられるようになる。1970年代の宗教学者らは、意図的に宗教集団の類型として使用した。 ハワード・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、1950年に「チャーチ=セクト類型」を見直し、非キリスト教的なスタイルを持つ新宗教を新たな類型としてセクトに含め、これを「カルト」と主張した。また、心霊術、占星術などの信者集団であり、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つとした。 ジョン・ミルトン・インガー(英語版)(アメリカ社会学者)とハワード・P・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やかな結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視される」とした。 ロドニー・スターク(英語版)(アメリカ宗教社会学者)とウイリアム・シムズ・ベインブリッジ(英語版) は、「セクト」を「信仰の再確立を目指して母教会から分離した集団」とし、「カルト」を「既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団」とした。また、カルトの組織化達成度によって以下の3つの下位類型を設定した。 デイヴィッド・モバーグ(英語版)(アメリカ宗教社会学者)は、1971年に「教団のライフサイクル論」において、カルトもしくはセクトに該当する新団体の発祥から解体までの製品ライフサイクルは以下の5段階を経ると提唱した。 1978年、米国からガイアナに移動した人民寺院信者の900人に及ぶ集団自殺は、米国で社会問題化し、マスメディアが、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して報道で用いるようになる。これを機に 1979年、連邦議会や州による公聴会が開催された。同年には、国際カルト研究会(ICSA、旧:AFF)が設立された。 宗教学の文脈では、1970年代後半 - 1980年代にかけて、アメリカを中心に議論が尽くされた結果、「宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士,ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、特定集団に「レッテル貼り」として用いられる傾向があるという結論が得られている。宗教学者が、この語を、宗教社会学等の学問を根拠とする教団の分類としては用いることはない。 反カルト陣営の統一見解としては1985年にまとめられた「Cultism:A conference for scholars and policy makers」という文書がある。また、アメリカの宗教団体の脱会者が、絶対的服従やマインドコントロール、犯罪行為を行う反社会的な集団を指して「破壊的カルト」と呼び始める。 ベレンを中心にアマゾン地方に分布するバトゥーケ(ポルトガル語版)、バイーアを中心に分布するカンドンブレ、サンパウロなど全国に広まっているウンバンダなどのアフリカ系の宗教は、総じてアフロ・ブラジリアン・カルトと呼ばれている。アフロ・ブラジリアン・カルトは16世紀以来、アフリカから労働力として導入された奴隷によって持ち込まれた伝統的宗教とローマ・カトリックが融合した宗教であり、先住民インディオのシャーマニズムの影響も見られる。アフロ・ブラジリアン・カルトでの「カルト」とは、「流派」という意味合いで使われる。 「セクト」と「カルト」とは、ときに同義として扱われる。 また、フランスでは反セクト法と通称される法律が制定されているが、ここで対象となる団体は、「フランス政府の規定による社会との軋轢を生む傾向のある団体」であり、宗教団体であるか否かは考慮されていない。 中国語では、邪教と呼ばれるが、日本で言う「邪教」とは異なる概念である。 中国当局によって「邪教」に指定されている集団がある。 日本の宗教団体は反日政策を行っていた韓国政府からカルトを意味する「倭色宗教」と認定され布教や活動が禁止されていたが、1998年、金大中の日本文化受入れ解禁によって宗教団体も「倭色宗教」認定が解除され韓国国内で日本の宗教が布教できるようになった。 日本においては、1990年頃より、統一教会信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反「カルト」集団により用いられてマスコミにより広められた。 1995年(平成7年)のオウム真理教事件以後、マスメディアで犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して用いられ社会的に認知された。1995-1996年に、マスコミがオウム真理教事件を連日報道する際に、この語を用いたセンセーショナルな記事や単行本が相次いで出版され、修行に違法薬物を使用する・毒ガスによる無差別大量殺人を計画し実施する・大量の武器を所有製作するといった犯罪行為を犯すような反社会的な宗教集団を指す用語として、急速に広まった。オウム真理教事件以後は、反社会的行為を行う詐欺的暴力的な宗教団体等の集団を呼んだことで、「真っ当ではない(反社会的な行動をとる)自己利益追求の宗教集団」というイメージが定着している。 よって、現代では、社会に対して破壊的な行為をする集団を指す通俗用語となっている。日本では戦後、国家機関によるカルトについての定義は一切存在しなかったが、2022年(令和4年)12月09日の参院消費者問題特別委員会で、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、反社会的な集団である「カルト」に当たるとの認識を示した。政府は「社会的に問題がある団体」(岸田文雄首相)との説明にとどめている。。 また、裁判の判決理由において、オウム真理教を指して使用した例が確認できる。 現代の日本の宗教政策としては、「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」を適用した処分により、旧オウム真理教(現・Aleph、ひかりの輪、山田らの集団)が、長期的に立入検査を受けている(2015年3月の時点において、19都道府県下延べ608か所(実数131か所)への検査の実施が公表され、麻原の写真や麻原・上祐の説法教材の多数の保管が確認されている。) 最近では、『カルト』や『カルト教団』の語が、新宗教全般に対する蔑称のように使用されることも多い。 2022年(令和4年)7月に奈良県で発生した安倍晋三銃撃射殺事件では、逮捕された容疑者から犯行の動機として「統一教会への献金で家庭が破綻したことに対する恨み」という供述がなされ、改めて日本におけるカルトの問題が認知されることになった。 現在、この言葉は宗教問題を指すとは限らず、宗教学者や神学者以外にも、臨床心理学、社会心理学、社会学等の観点により、反社会的な集団への入信から教化過程における多様な理論的な定義付けの試みがされ、「カルト論争」と呼ばれる。カルト論争は、各学問の前提条件やモデルが異なるという事情もあり、現在でも結論は得られていない。 統一教会は、信者が脱退目的で拉致・監禁されることが相次いでいるとして、人権侵害であると抗議している。反カルト側の問題として、「親族による拉致監禁」により強制的な脱会カウンセリング受講、拉致監禁を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発)、ディプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPTSDを発症)、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とする侮辱、パワハラ、アカハラ)で訴訟となり、信徒側が勝訴した事例も複数存在している。 2016年、LITERAは、週刊金曜日の同年5月27日号に掲載された反神社本庁・反日本会議派神職のインタビュー記事や安丸良夫の著書『神々の明治維新』を引用する形で以下のように主張した。 オウム真理教後継組織アレフから分派したひかりの輪は、アレフは麻原崇拝のカルトであるが、ひかりの輪はそれとは異なると主張し、両団体を区別するよう主張している。 エホバの証人は、「人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしています」と定義し、「エホバの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかなりません。エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。」としている。 フランス国民議会で、1995年に採択されたアラン・ジュスト報告書のリストに、統一教会やエホバの証人と共に、創価学会がカルト(セクト)として名前が掲載された。 同議会で同リストを撤回する決議は現在もされておらず、同リストは現在も有効なままである。 この「カルト宗教のトラブル対策」は、2000年5月に出版されたものだが、その後、2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達では、1995年のセクト団体リストは使用しないとされている。 2005年5月、当時のフランスの首相(ジャン・ピエール・ラファラン)が各閣僚と知事あてに発信した「セクトの逸脱対策に関する 2005年5月27日付通達」では「これまで行政当局の対策は、“この団体がセクトだ”というリストのみに基づいていたために、取締りと自由尊重のバランスを効果的に取ることができず、また法的根拠のしっかりとした対策もとれなかった。そこで、特定の団体をブラックリストに載せて危険視するのではなく、刑事犯および一般的な違法行為に相当するものを特定して処罰するために、信者の個人の自由を侵害する危険性をもつと思われる団体を監視することが決定された。」と掲載されている。 先の2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達には「この首相通達は、1995年のセクト団体リストは使用せず、事実に基づいた理論によって調査範囲を広げ、調査対象を既知の団体に限定しないよう、明確に強調している。」「頻繁に使用されている『セクト』という概念は、法的概念ではなく、事実に基づいた概念である。ゆえに、ここで重要なのは『公共秩序』なのである。」と言及されている。 「Le Monde des Religions」2011年9月号の中でMIVILUDESのジョルジュ・フネック会長(当時)は、フランス創価学会運動体について、「MIVILUDESは、創価学会に関するセクト的行為の報告を五年以上前から受けていない。創価学会は、宗教活動と事業活動を分離しており、少なくともフランスにおいては問題組織ではない。」と述べている。 創価学会自身は、現在、創価学会はセクトとして取り扱われていないと主張をしているが、FORUM21 通巻321号は反論している。なお、FORUM21は、「ISBNコード」、「定期刊行物コード」のいずれも付与されておらず、自費出版物に該当する。 それによると、まず83年に行われた「ヴィヴィアン報告」について、創価学会としては「一人の脱会者による狂言を検証することなく鵜呑みにし、引用したもの」としているが、二度目の調査では、創価学会については慎重に調査が行われ、その結果に基づき、フランス国会は創価学会を「セクト」としたとされている。 この報告を受けて、96年2月には、内務大臣が「セクト的運動の枠内で人と財産に対してなされた侵害」に対策を求める通達を出し、そこには、95年国会報告のセクトリストが添付されており、創価学会も含まれていたという。 また、FORUM21の発行人の名誉毀損裁判で、創価学会側が証拠として提出した08年5月21日付のMIVILUDESルレ本部長(当時)の書簡には「1995年のリストにつきましては、首相令に則り、国家関係機関はそれを援用することはまったくありませんが、三権分立の原則により、それを改正もしくは解消することは、同機関の権限ではありません 」と記されているが、FORUM21では、今日に至るまでフランス国会は、95年報告のリストの廃棄宣言はしていないとしている。 さらに2022年8月25日付の聖教新聞に「08年と11年にも同国の政府機関は『創価学会には逸脱行為は認められない』と発表しているのです」とあるが、MIVILUDESはじめ、政府が公式に発表したことはないと主張している。 「セクトと子供」調査時のMIVILUDESルレ本部長が「最近私達は創価学会の雑誌の中で小学校の教員が『師』からうけた教えを子供たちとのコミュニケーションの中で実践していると自画自賛するのを読みました。唖然としてしまいました」と証言したとし、この証言は、創価学会が常に警戒の対象となっているという何よりの証拠であると述べている。2020年にはMIVILUDESに創価学会について10件の通報があったという。 少数の熱烈な信奉者を持つ映画や文学、音楽などの作品について、カルトという言葉が用いられることがしばしばある。カルト映画やカルト・ミュージックなどがその例である。特定分野のマニアックな内容を設問にしたクイズ番組『カルトQ』やウッチャンナンチャン主演の映画作品『七人のおたく cult seven』などがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カルト(英: cult)は、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である。フランス語(仏: culte)では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。現在では、宗教団体を中心に反社会的な組織や団体を指して使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは、一般的な宗教から派生した団体を「セクト」(仏: secte)と呼び、カルトと同義として扱われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「カルト」(英: cult)とは、米国で伝統的に異端的なキリスト教や新宗教に対して使われた言葉である。特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉がマスメディアで使われ、警戒が呼び掛けられた。日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "精神科医のロバート・J・リフトンは、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的搾取の3つを挙げているほか、科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本でカルトとみなされている宗教団体の数は多くない。1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件や反対派へのVXガス襲撃事件などのテロを繰り返したオウム真理教は破壊的カルトとみなされている。旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、壺や印鑑、多宝塔を霊感商法で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の使用者責任・監督責任が裁判所で認定されたこと、性差別的な教義などからカルトとみなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その他にも、成田ミイラ化遺体事件を引き起こしたライフスペース、違法行為こそ行っていないがその特異な行動が注目されたパナウェーブ研究所、信者に対する性暴力が問題視された摂理(キリスト教福音宣教会)もカルトとみなされるほか、浄土真宗セクトの親鸞会や日蓮正宗分派の顕正会、自己啓発セミナーなども布教・教化方法に問題があるとされ、カルト視されることも少なくない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本においては戦後、政府が特定集団をカルトと名指しする例は一切存在しなかったが、2022年(令和4年)12月9日の参院消費者問題特別委員会において、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、反社会的な宗教団体である「カルト」に当たるとの認識を示した。岸田文雄首相は「社会的に問題がある団体」との説明にとどめている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、カルトが行う勧誘やメンバーの支配の手法としてマインド・コントロールが合わせて論じられる。例えば、三菱総合研究所と大学生協はカルトによるマインド・コントロールを大学生活で注意すべき危険とし、大学生に向けて注意喚起を行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "破壊的カルトとは、一般にそのメンバーが故意にグループの他のメンバーや外部の人間を傷つけたり殺したりしたグループのことを指す。宗教的寛容を啓蒙するオンタリオ州の団体は、この用語の使用を「メンバーまたは一般大衆の間に生命の損失を引き起こした、または引き起こす可能性がある」宗教団体に特に限定している。 反カルト団体である国際カルト研究協会の事務局長である心理学者のマイケル・ランゴンは破壊的カルトを「メンバーや勧誘を利用し、時には身体的・心理的に損害を与える高度に操作的な団体」として定義している。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "精神科医のジョン・ゴードン・クラークは、全体主義的な統治システムと金儲けの強調が破壊的なカルトの特徴であると主張している。『カルトと家族』で著者は破壊的カルトを精神病質症候群として定義するシャピロを引用し、その特徴は以下のようなものであると主張する。「行動や人格の変化、個人的アイデンティティの喪失、学業活動の停止、家族からの疎外、社会への無関心、カルト指導者による顕著な精神支配と奴隷化」である。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ラトガース大学の社会学者ベンジャミン・ザブロッキの意見では、破壊的カルトはメンバーに対する虐待が生じるリスクが高く、それはメンバーがカリスマ的リーダーを崇拝し、リーダーが権力によって堕落することに一因があると述べている。 バレットによれば、破壊的カルトに対してなされる最も多い告発は性的虐待であるという。神学者のクラネンボーグによれば、メンバーに標準治療を利用しないように指導するグループは危険である。これは身体的・心理的被害に及ぶこともある。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一部の研究者は、破壊的カルトという用語の使い方を批判し、それは必ずしも自分自身や他者にとって本質的に有害ではないグループを表現するために使われていると主張している。ジョン・A・サリバは彼の著書の中で、この用語は過度に一般化されていると主張し、人民寺院を「破壊的カルトのパラダイム」として見ており、この用語は集団自殺を暗示していると考えている", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ドゥームズデー・カルトは終末論や千年王国を信じる集団を表すのに使われる表現であり、災害を予測する集団とそれを起こそうとする集団の両方を指すのに使われることがある。 1950年代、アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーと彼の同僚は、シーカーズと呼ばれる小さなUFO宗教のメンバーを数ヶ月間観察し、カリスマ的指導者からの予言が失敗する前と後のメンバーの会話を記録し、その研究を後に出版した。1980年代後半、ドゥームズデー・カルトはニュース報道の主要なトピックであり、一部の記者やコメンテーターは彼らを社会に対する深刻な脅威と捉えていた。 フェスティンガーとリーケン、シャッターによる1997年の心理学研究は、人々が主流の運動で繰り返し意味を見出せなかった後に、激変的な世界観に転向することを発見した。人々はまた、多くの人が予言的に時代の終わり、つまり世界の終わりを示すと予測された世紀の変わり目のような世界的な出来事に意味を見出そうと努力する。 古代マヤ暦は2012年で終わるが、人々の多くがこの年に地球を揺るがす壊滅的な災害が起こるだろうと予測した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "政治的カルトとは、政治活動やイデオロギーに主な関心を持つカルトである。 政治的カルトと呼ばれるグループは、主に極左や極右の思想を流布し、ジャーナリストや学者から注目されている。デニス・トゥーリッシュとティム・ウォルフォースは、彼らがカルトとする米国と英国の約12の組織について述べている。 別の記事でトゥーリッシュは、次のように述べている:。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1990年、ルーシー・パトリックは次のようにコメントしている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "イランでは「ホメイニ教団」が「世俗宗教」へと発展していった。イランの作家であるアミール・タヘリによれば、ホメイニはイマームと呼ばれ、「十二イマーム派を十三人のカルトに」している。ホメイニの像は巨大な岩や山の斜面に刻まれ、祈りは彼の名で始まり、終わり、彼のファトワは彼の死後も有効である(シーア派の原則に反することである)。また「神、コーラン、ホメイニ」や「神は一つ、ホメイニは指導者」といったスローガンは、イランのヒズボラの鬨として用いられている。 ホメイニの写真は今でも多くの官庁に飾られているが、1990年代後半には「ホメイニの崇拝は色あせていた」とも言われている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ラルーシュ運動は、リンドン・ラルーシュと彼の思想を推進する政治的・文化的ネットワークである。世界中の多くの組織や企業を巻き込み、キャンペーンや情報収集、書籍や定期刊行物の出版などを行っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの団体を「カルト的」であるとしている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この運動は1960年代の急進的左派の学生運動の中で発生した。1970年代から1980年代にかけて、アメリカでは何百人もの候補者が「ラルーシュ・プラットフォーム」に基づいて民主党の州予備選挙に立候補し、リンドン・ラルーシュは大統領候補として繰り返しキャンペーンを行った。しかし、ラルーシュ運動はしばしば極右とみなされる。1970年代から1980年代にかけての最盛期には、ラルーシュ運動は私的な諜報機関を発達させ、外国政府と接触した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "アイン・ランドの信奉者は、彼女の生前は経済学者のマレー・ロスバードによって、その後はマイケル・シャーマーによってカルトと特徴づけられている。ランドを中心としたグループは「集団」と呼ばれたが、現在は消滅し、現在のランドの思想を発信する主なグループはアイン・ランド協会である。この集団は個人主義的な哲学を提唱していたが、ロスバードは「レーニン主義」的な組織であると主張している。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "朝鮮半島北部出身の文鮮明によって設立された統一教会(統一運動としても知られる)は強い反共産主義の立場をとっている。1940年代、文は大日本帝国に対する朝鮮独立運動で共産主義者と協力した。しかし、朝鮮戦争(1950年-1953年)後は、反共主義を公言するようになる。文は民主主義と共産主義の間の冷戦を神と悪魔の最後の対立と見なし、その最前線として朝鮮半島の分断があるとした。統一運動はその創設後すぐに、蒋介石が1966年に中華民国(台湾)の台北で設立した世界自由民主連盟や、「ラジオ・フリー・アジア」を後援する国際パブリック・ディプロマシー組織である韓国文化自由財団などの反共組織の支援を開始した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1974年、統一教会は共和党のリチャード・ニクソン大統領を支持し、ウォーターゲート事件の後に彼のために結集し、ニクソンはそれに対して個人的に感謝した。1975年、文はソウルの汝矣島で北朝鮮の軍事侵略の可能性に対する政府主催の集会で、約100万の聴衆を前に演説した。統一運動は、多くの人が第三次世界大戦と核によるホロコーストにつながる可能性があると述べたその反共主義的な活動のために、主流と新興の両方のメディアによって批判された。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1977年、アメリカ合衆国下院の国際関係委員会国際機構小委員会は、韓国の情報機関であるKCIAがアメリカとの政治的影響力を得るためにこの運動を利用し、一部のメンバーが議会事務所でボランティアとして働いていたことを明らかにした。委員会はまた、ニクソンを支持する統一教会のキャンペーンに対するKCIAの影響の可能性を調査した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年、統一教会はニューヨークに拠点を置く反共産主義教育組織であるカウサ・インターナショナルを設立した。1980年代には21カ国で活動していた。アメリカでは、福音派やキリスト原理主義の指導者のための教育会議や、上院議員、ヒスパニック系アメリカ人、保守派活動家のためのセミナーや会議を後援した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年4月、文鮮明はソビエト連邦を訪問し、ミハイル・ゴルバチョフと会談した。文はソビエト連邦で進行中の政治的・経済的変革への支持を表明した。同時期に統一運動は旧共産圏の国にも拡大した。1994年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、統一教会の政治的影響力を認め、「アメリカにおける保守的な大義に外国の財産を注ぎ込んでいる神権勢力」であると記述した。1998年、エジプトの新聞『アル・アハム』は、文の「極右的傾向」を批判し、イスラエルの保守派の首相・ベンヤミン・ネタニヤフとの個人的関係を示唆している。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "統一教会はまた、『ワシントン・タイムズ』、『インサイト・オン・ザ・ニュース』、『ユナイテッド・プレス・インターナショナル』、『ニュースワールド・コミュニケーションズ・ネットワーク』を含むいくつかのニュースメディアを所有している。『ワシントン・タイムズ』のオピニオンエディターのチャールズ・ハートはワシントンDCで最も早い時期にドナルド・トランプを支持した人物の1人だった。2018年にハートはトランプをロナルド・レーガン、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア、マーガレット・サッチャー、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世と並ぶ人物とみなし、「自由の偉大なチャンピオン」としている。 2016年に『ワシントン・タイムズ』は特定のアメリカ合衆国大統領候補を支持しなかったが、2020年の再選に向けてトランプを支持した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "イギリスでジェリー・ヒーリーにより指導され、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴに強く支持されていたトロツキー主義の政党である労働者革命党(WRP)は、トロツキスト運動に関わるグループ外の人物によって、1970年代から1980年代にかけてカルトであった、あるいはカルト的特徴を示す集団であったと説明されてきた。ウォルフォースとトゥーリッシュもそのようにみなしており、元メンバーであるボブ・ピットも同団体を「カルト的特徴」を持っていると認めている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "グロイパー軍団は白人至上主義、キリスト教ナショナリズム、インセルの思想を吹き込まれたオルタナ右翼の派閥である。この運動のかつてのリーダーの複数は、ニック・フエンテスがそれをカルトのように指導していると非難し、フエンテスが支持者に絶対的な忠誠心を要求し、それを濫用していると批判している。フエンテスは「カルト的なメンタリティ」を持っていると賞賛し、自身の運動をカルトと「皮肉を込めて」認めている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "グロイパー軍団は2021年の合衆国議会議事堂襲撃事件に参加したことでも知られる。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "スペインの極右政党・Voxを後援していたメキシコの極右グループ『エル・ユンケ』や、Qアノン陰謀論、ラテンアメリカにおける福音派キリスト教の一部はカルトとみなすことができる。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "心理学者のスティーブン・ハッサンは、アムウェイやタッパーウェアに代表される連鎖販売取引(マルチ商法、またはMLM)をカルトとみなしている。これらは短期間で大規模な利益を得られると謳うが、しばしば急激な投資を必要とし、大半の参加者は資産を失うことになる。MLMはカルトの勧誘に使われる戦術を応用して参加者を集める。「ラブ・ボミング」という戦術は、愛情を浴びせることで人を引き込もうとするもので、例えば、ビジネス経験のない女性に対しても「あなたはビジネスをするために生まれてきたのです」と言う。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "情報統制も経済カルトがよく使う手口であり、MLMは会員に対して、ソーシャルメディア上でMLMを批判する人間を「ブロック」するように指導する。参加者が勧誘時に謳われたような利益を得られていないことに気づいたとき、グループの上司は「成功しないのは努力が足りないからだ」と叱責する。また、参加者を辞めたいと申し出れば、罪悪感を抱くように非難される。このほかにも、MLMの勧誘はたびたびカルトが使うマインド・コントロールの手法と結びつけて論じられる。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "MLMはロビー活動に多額の資金を費やしており、また権威付けのために著名人や財界人に多額の講演料を払っている。例えば、元アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプはいくつかのMLMのグループに関与していた。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一夫多妻制を提唱し、実践するカルトは、少数派ではあるが古くから指摘されている。北米には約5万人のポリガミーカルトのメンバーがいると推定されている。しばしば、ポリガミーカルトは法的権威と主流の社会の両方から否定的に見られ、家庭内暴力や児童虐待の可能性に結びつけられ、関連する主流の教団に対する否定的な認識も加わって見られることもある。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1830年代から、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、またはモルモン教)の教会員は一夫多妻制、または複婚を実践していた。1890年、LDSの総裁であるウィルフォード・ウッドラフは、LDSが新たな複婚を行わないことを発表する宣言を発表した。反モルモン感情は薄れ、ユタ州の州権獲得への反対運動も弱まった。アメリカ合衆国上院のリード・スムートによる1904年の聞き取り調査では、LDSのメンバーが今だに一夫多妻を行っていることを記録し、教会に第二の宣言書を発行させ、再び新たな複婚の実行を中止させた。1910年までに、末日聖徒イエス・キリスト教会は新たな複婚を行った者を破門した。1890年の宣言の施行により、様々な分派が複婚の実践を続けるために末日聖徒イエス・キリスト教会から離脱した。そのようなグループはモルモン原理主義者として知られている。例えば、末日聖徒イエス・キリスト原理主義教会はしばしば一夫多妻制のカルトとして記述される 。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "社会学者・歴史家のオーランド・パターソンは、南北戦争後にアメリカ南部で発生したクー・クラックス・クランを異端のキリスト教カルトとし、またアフリカ系アメリカ人等への迫害を、人間の生贄の一形態として記述している。19世紀から20世紀初頭にかけて、ドイツとオーストリアにおけるアーリア人種至上主義カルトの存在はナチズムの台頭に強く影響を与えた。現代のアメリカにおけるホワイトパワー・スキンヘッドグループは、破壊的カルトとして特徴付けられるグループと同じ勧誘手法を用いる傾向にある。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "精神科医のピーター・A・オルソンは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンをジム・ジョーンズ、デヴィッド・コレシュ、麻原彰晃、マーシャル・アップルホワイト、リュック・ジュレ、ジョセフ・ディ・マンブロなど特定のカルト指導者と比較し、これらの個人のそれぞれが、自己愛性人格障害の9項目のうち少なくとも8項目に該当するとしている。カール・ゴールドバーグとバージニア・クレスポは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンを「破壊的カルトの指導者」として言及している。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アメリカ心理学会(APA)の2002年の会合で、スティーブン・ハッサンはアルカイダが破壊的カルトの特徴を満たしていると述べ、次のように付け加えた。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『タイムズ』に掲載されたアルカイダに関する記事の中で、ジャーナリストのメアリー・アン・シーガートはアルカイダが「古典的なカルト」に似ていると書いている。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アルカイダと同様に、ISILもさらに過激で純血主義的なイデオロギーを信奉している。その目的は、宗教指導者の解釈によるシャリーアによって支配される国家を作ることであり、彼らは健康な男性メンバーを洗脳して、教会やシーア派のモスクなど、計画的に選定された民間人を含む敵に対して、自動車爆弾などの装置を使って特攻するよう命じている。メンバーはこれを正当な行為、義務であるとさえ考えており、この政治的・軍事的行動の究極の目標は、最終的に集団のイスラム教の信念に従って世界の終わりをもたらし、彼らの敵のすべて(すなわち彼らの側にいない者)が全滅する終末論的最終決戦に参加する機会を持つことである。 そのような試みは2017年に失敗に至ったが、生き残りの大部分がテロリズムに回帰した。", "title": "カルトの分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "カトリック教会などによる聖人崇敬(cult of saints、キリスト教の聖人崇敬を行う教派では崇敬 Cult と礼拝・崇拝 Adoration は区別される)、19世紀末にメラネシア各地で起こったカーゴカルト(cargo cult)といった用例もあるが、否定的・批判的なニュアンスは存在しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "社会学者のマックス・ヴェーバーとプロテスタント神学者のエルンスト・トレルチは、『キリスト教会の社会教育』 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト(ドイツ語でセクト:sekte)を宗教団体の初期形態として位置付けた。この段階のカルト=セクトでは周辺からの迫害に遭うが市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国においては、1920年頃より、アメリカ発祥のクリスチャン・サイエンスといった主要な宗教伝統に属さない、いわゆる新宗教を指して宗教社会学として、秘教的な教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教団を示す概念として「カルト」が用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1930年代には、保守的なキリスト教聖職者が異端と見なしたキリスト教系団体を指して使用を始める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1960年代にはヒッピーらが傾倒した、東洋系等のキリスト教以外の宗教を指し、用いられるようになる。1970年代の宗教学者らは、意図的に宗教集団の類型として使用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ハワード・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、1950年に「チャーチ=セクト類型」を見直し、非キリスト教的なスタイルを持つ新宗教を新たな類型としてセクトに含め、これを「カルト」と主張した。また、心霊術、占星術などの信者集団であり、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ジョン・ミルトン・インガー(英語版)(アメリカ社会学者)とハワード・P・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やかな結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視される」とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ロドニー・スターク(英語版)(アメリカ宗教社会学者)とウイリアム・シムズ・ベインブリッジ(英語版) は、「セクト」を「信仰の再確立を目指して母教会から分離した集団」とし、「カルト」を「既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団」とした。また、カルトの組織化達成度によって以下の3つの下位類型を設定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "デイヴィッド・モバーグ(英語版)(アメリカ宗教社会学者)は、1971年に「教団のライフサイクル論」において、カルトもしくはセクトに該当する新団体の発祥から解体までの製品ライフサイクルは以下の5段階を経ると提唱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1978年、米国からガイアナに移動した人民寺院信者の900人に及ぶ集団自殺は、米国で社会問題化し、マスメディアが、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して報道で用いるようになる。これを機に 1979年、連邦議会や州による公聴会が開催された。同年には、国際カルト研究会(ICSA、旧:AFF)が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "宗教学の文脈では、1970年代後半 - 1980年代にかけて、アメリカを中心に議論が尽くされた結果、「宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士,ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、特定集団に「レッテル貼り」として用いられる傾向があるという結論が得られている。宗教学者が、この語を、宗教社会学等の学問を根拠とする教団の分類としては用いることはない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "反カルト陣営の統一見解としては1985年にまとめられた「Cultism:A conference for scholars and policy makers」という文書がある。また、アメリカの宗教団体の脱会者が、絶対的服従やマインドコントロール、犯罪行為を行う反社会的な集団を指して「破壊的カルト」と呼び始める。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ベレンを中心にアマゾン地方に分布するバトゥーケ(ポルトガル語版)、バイーアを中心に分布するカンドンブレ、サンパウロなど全国に広まっているウンバンダなどのアフリカ系の宗教は、総じてアフロ・ブラジリアン・カルトと呼ばれている。アフロ・ブラジリアン・カルトは16世紀以来、アフリカから労働力として導入された奴隷によって持ち込まれた伝統的宗教とローマ・カトリックが融合した宗教であり、先住民インディオのシャーマニズムの影響も見られる。アフロ・ブラジリアン・カルトでの「カルト」とは、「流派」という意味合いで使われる。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「セクト」と「カルト」とは、ときに同義として扱われる。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、フランスでは反セクト法と通称される法律が制定されているが、ここで対象となる団体は、「フランス政府の規定による社会との軋轢を生む傾向のある団体」であり、宗教団体であるか否かは考慮されていない。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "中国語では、邪教と呼ばれるが、日本で言う「邪教」とは異なる概念である。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "中国当局によって「邪教」に指定されている集団がある。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本の宗教団体は反日政策を行っていた韓国政府からカルトを意味する「倭色宗教」と認定され布教や活動が禁止されていたが、1998年、金大中の日本文化受入れ解禁によって宗教団体も「倭色宗教」認定が解除され韓国国内で日本の宗教が布教できるようになった。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本においては、1990年頃より、統一教会信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反「カルト」集団により用いられてマスコミにより広められた。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)のオウム真理教事件以後、マスメディアで犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して用いられ社会的に認知された。1995-1996年に、マスコミがオウム真理教事件を連日報道する際に、この語を用いたセンセーショナルな記事や単行本が相次いで出版され、修行に違法薬物を使用する・毒ガスによる無差別大量殺人を計画し実施する・大量の武器を所有製作するといった犯罪行為を犯すような反社会的な宗教集団を指す用語として、急速に広まった。オウム真理教事件以後は、反社会的行為を行う詐欺的暴力的な宗教団体等の集団を呼んだことで、「真っ当ではない(反社会的な行動をとる)自己利益追求の宗教集団」というイメージが定着している。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "よって、現代では、社会に対して破壊的な行為をする集団を指す通俗用語となっている。日本では戦後、国家機関によるカルトについての定義は一切存在しなかったが、2022年(令和4年)12月09日の参院消費者問題特別委員会で、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、反社会的な集団である「カルト」に当たるとの認識を示した。政府は「社会的に問題がある団体」(岸田文雄首相)との説明にとどめている。。 また、裁判の判決理由において、オウム真理教を指して使用した例が確認できる。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "現代の日本の宗教政策としては、「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」を適用した処分により、旧オウム真理教(現・Aleph、ひかりの輪、山田らの集団)が、長期的に立入検査を受けている(2015年3月の時点において、19都道府県下延べ608か所(実数131か所)への検査の実施が公表され、麻原の写真や麻原・上祐の説法教材の多数の保管が確認されている。)", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "最近では、『カルト』や『カルト教団』の語が、新宗教全般に対する蔑称のように使用されることも多い。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)7月に奈良県で発生した安倍晋三銃撃射殺事件では、逮捕された容疑者から犯行の動機として「統一教会への献金で家庭が破綻したことに対する恨み」という供述がなされ、改めて日本におけるカルトの問題が認知されることになった。", "title": "各国の状況" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "現在、この言葉は宗教問題を指すとは限らず、宗教学者や神学者以外にも、臨床心理学、社会心理学、社会学等の観点により、反社会的な集団への入信から教化過程における多様な理論的な定義付けの試みがされ、「カルト論争」と呼ばれる。カルト論争は、各学問の前提条件やモデルが異なるという事情もあり、現在でも結論は得られていない。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "統一教会は、信者が脱退目的で拉致・監禁されることが相次いでいるとして、人権侵害であると抗議している。反カルト側の問題として、「親族による拉致監禁」により強制的な脱会カウンセリング受講、拉致監禁を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発)、ディプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPTSDを発症)、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とする侮辱、パワハラ、アカハラ)で訴訟となり、信徒側が勝訴した事例も複数存在している。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2016年、LITERAは、週刊金曜日の同年5月27日号に掲載された反神社本庁・反日本会議派神職のインタビュー記事や安丸良夫の著書『神々の明治維新』を引用する形で以下のように主張した。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "オウム真理教後継組織アレフから分派したひかりの輪は、アレフは麻原崇拝のカルトであるが、ひかりの輪はそれとは異なると主張し、両団体を区別するよう主張している。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "エホバの証人は、「人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしています」と定義し、「エホバの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかなりません。エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。」としている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "フランス国民議会で、1995年に採択されたアラン・ジュスト報告書のリストに、統一教会やエホバの証人と共に、創価学会がカルト(セクト)として名前が掲載された。 同議会で同リストを撤回する決議は現在もされておらず、同リストは現在も有効なままである。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "この「カルト宗教のトラブル対策」は、2000年5月に出版されたものだが、その後、2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達では、1995年のセクト団体リストは使用しないとされている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2005年5月、当時のフランスの首相(ジャン・ピエール・ラファラン)が各閣僚と知事あてに発信した「セクトの逸脱対策に関する 2005年5月27日付通達」では「これまで行政当局の対策は、“この団体がセクトだ”というリストのみに基づいていたために、取締りと自由尊重のバランスを効果的に取ることができず、また法的根拠のしっかりとした対策もとれなかった。そこで、特定の団体をブラックリストに載せて危険視するのではなく、刑事犯および一般的な違法行為に相当するものを特定して処罰するために、信者の個人の自由を侵害する危険性をもつと思われる団体を監視することが決定された。」と掲載されている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "先の2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達には「この首相通達は、1995年のセクト団体リストは使用せず、事実に基づいた理論によって調査範囲を広げ、調査対象を既知の団体に限定しないよう、明確に強調している。」「頻繁に使用されている『セクト』という概念は、法的概念ではなく、事実に基づいた概念である。ゆえに、ここで重要なのは『公共秩序』なのである。」と言及されている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "「Le Monde des Religions」2011年9月号の中でMIVILUDESのジョルジュ・フネック会長(当時)は、フランス創価学会運動体について、「MIVILUDESは、創価学会に関するセクト的行為の報告を五年以上前から受けていない。創価学会は、宗教活動と事業活動を分離しており、少なくともフランスにおいては問題組織ではない。」と述べている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "創価学会自身は、現在、創価学会はセクトとして取り扱われていないと主張をしているが、FORUM21 通巻321号は反論している。なお、FORUM21は、「ISBNコード」、「定期刊行物コード」のいずれも付与されておらず、自費出版物に該当する。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "それによると、まず83年に行われた「ヴィヴィアン報告」について、創価学会としては「一人の脱会者による狂言を検証することなく鵜呑みにし、引用したもの」としているが、二度目の調査では、創価学会については慎重に調査が行われ、その結果に基づき、フランス国会は創価学会を「セクト」としたとされている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "この報告を受けて、96年2月には、内務大臣が「セクト的運動の枠内で人と財産に対してなされた侵害」に対策を求める通達を出し、そこには、95年国会報告のセクトリストが添付されており、創価学会も含まれていたという。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また、FORUM21の発行人の名誉毀損裁判で、創価学会側が証拠として提出した08年5月21日付のMIVILUDESルレ本部長(当時)の書簡には「1995年のリストにつきましては、首相令に則り、国家関係機関はそれを援用することはまったくありませんが、三権分立の原則により、それを改正もしくは解消することは、同機関の権限ではありません 」と記されているが、FORUM21では、今日に至るまでフランス国会は、95年報告のリストの廃棄宣言はしていないとしている。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "さらに2022年8月25日付の聖教新聞に「08年と11年にも同国の政府機関は『創価学会には逸脱行為は認められない』と発表しているのです」とあるが、MIVILUDESはじめ、政府が公式に発表したことはないと主張している。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「セクトと子供」調査時のMIVILUDESルレ本部長が「最近私達は創価学会の雑誌の中で小学校の教員が『師』からうけた教えを子供たちとのコミュニケーションの中で実践していると自画自賛するのを読みました。唖然としてしまいました」と証言したとし、この証言は、創価学会が常に警戒の対象となっているという何よりの証拠であると述べている。2020年にはMIVILUDESに創価学会について10件の通報があったという。", "title": "指摘・論争" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "少数の熱烈な信奉者を持つ映画や文学、音楽などの作品について、カルトという言葉が用いられることがしばしばある。カルト映画やカルト・ミュージックなどがその例である。特定分野のマニアックな内容を設問にしたクイズ番組『カルトQ』やウッチャンナンチャン主演の映画作品『七人のおたく cult seven』などがある。", "title": "サブカルチャーでの用例" } ]
カルトは、「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である。フランス語では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。現在では、宗教団体を中心に反社会的な組織や団体を指して使用される。 ヨーロッパでは、一般的な宗教から派生した団体を「セクト」と呼び、カルトと同義として扱われている。
{{Otheruses}} {{Otheruses||熱心な[[ファン]]がいる[[映画]]|カルト映画}} [[File:Tokyo Subway Sarin Atack 1995-03-20.jpg|thumb|right|[[オウム真理教]]による[[地下鉄サリン事件]](1995年)]] '''カルト'''({{lang-en-short|cult}})は、「[[崇拝]]」「[[礼拝]]」を意味する[[ラテン語]] {{lang|la|cultus}}から派生した言葉である<ref name="d">{{Cite web|和書|url=http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/archive/proj/concept1.html|title=カルト・セクト問題|author=[[櫻井義秀]]|accessdate=2015-09-16 |publisher=カルト問題研究プロジェクト |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303205200/http://www.hucc.hokudai.ac.jp:80/~n16260/archive/proj/concept1.html |archivedate=2016-03-03}}</ref>。[[フランス語]]({{lang-fr-short|culte}})では、[[宗教]]の宗旨別を意味し、学術用語としては[[カリスマ]]的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す<ref name="tiezo" />。現在では、[[宗教団体]]を中心に[[反社会的 (曖昧さ回避)|反社会的]]な組織や団体を指して使用される<ref name="tiezo">{{Cite journal|和書|author=岩井洋|title=知恵蔵2007|date=2007|publisher=朝日新聞出版|ref=harv|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88-178058}}</ref><ref name="nihonno10dai">{{Cite book |和書 |author=島田裕巳|authorlink=島田裕巳 |title=日本の10大新宗教 |publisher=[[幻冬舎]] |date=2007年11月30日 |isbn=978-4344980600 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88-178058 日本大百科全書「カルト」]</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=大学におけるカルト対策 現状と課題|url=https://www.jasso.go.jp/gakusei/publication/dtog/__icsFiles/afieldfile/2021/02/11/daigaku559_07.pdf|publisher=[[恵泉女学園大学]]|ref=harv}}</ref>。 [[ヨーロッパ]]では、一般的な宗教から派生した団体を「[[セクト]]」({{lang-fr-short|secte}})と呼び{{Sfn|竹下|1999|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}、カルトと同義として扱われている{{sfn|石井|2010|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}。 == 概要 == 「カルト」(英: cult)とは、[[米国]]で伝統的に[[異端]]的な[[キリスト教]]や[[新宗教]]に対して使われた言葉である。特に[[1978年]]に発生した[[人民寺院事件]]以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉が[[マスメディア]]で使われ、警戒が呼び掛けられた。日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている<ref name="cult-sakurai-ch2-1">櫻井義秀,大畑昇『大学のカルト対策』北海道大学出版会 P147~162</ref>。 [[精神科医]]の[[ロバート・J・リフトン]]は、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的[[搾取]]の3つを挙げているほか<ref>アーサー・ゴールドワグ『カルト・陰謀・秘密結社大事典』 住友進訳 河出書房新社 2010年、ISBN 978-4-309-24528-7 pp.22-29</ref>、[[科学史]]家の[[マイケル・シャーマー]]は宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した<ref>[[マイケル・シャーマー]] 著、岡田靖史 訳 『なぜ人はニセ科学を信じるのか UFO、カルト、心霊、超能力のウソ』早川書房、1999年2月。ISBN 4-15-208212-7 pp.190-193</ref>。 * 集団の[[指導者]]に対する崇拝 - [[聖人]]あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美 * 指導者の無謬性 - 絶対に間違いを犯さないという確信 * 指導者の知識の広さ - [[哲学]]的な事柄から日常の些細なことまで指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる * 説得のテクニック - 新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま * 秘密の計画 - 集団は絶対的な真理と[[道徳]]観を持ち、信仰の真の目的と計画が曖昧であり、新規入信者や一般大衆には明確に提示されていない * 欺瞞 - 入信者や信徒は、指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている * 金銭及び性的な利用 - 金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得される。指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている * 絶対的な真理 - さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見出した究極の知識に対する自信 * 絶対的な道徳観 - 指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しく当てはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は[[破門]]されるか罰せられる 日本でカルトとみなされている[[宗教団体]]の数は多くない。[[1995年の日本|1995年]](平成7年)の[[地下鉄サリン事件]]や反対派への[[VXガス]]襲撃事件などの[[宗教テロ|テロ]]を繰り返した[[オウム真理教]]は'''破壊的カルト'''とみなされている。[[旧統一教会]](現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、[[壺]]や印鑑、多宝塔を[[霊感商法]]で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の[[使用者責任]]・監督責任が裁判所で認定されたこと、[[性差別]]的な教義などからカルトとみなされている<ref name="cult-sakurai-ch2-1">櫻井義秀,大畑昇『大学のカルト対策』北海道大学出版会 P147~162</ref>。 その他にも、[[成田ミイラ化遺体事件]]を引き起こした[[ライフスペース]]、違法行為こそ行っていないがその特異な行動が注目された[[パナウェーブ研究所]]、信者に対する[[性暴力]]が問題視された[[キリスト教福音宣教会|摂理]](キリスト教福音宣教会)もカルトとみなされるほか、[[浄土真宗]]セクトの[[浄土真宗親鸞会|親鸞会]]や[[日蓮正宗]]分派の[[冨士大石寺顕正会|顕正会]]、[[自己啓発セミナー]]なども布教・教化方法に問題があるとされ、カルト視されることも少なくない<ref name="cult-sakurai-ch2-1">櫻井義秀,大畑昇『大学のカルト対策』北海道大学出版会 P147~162</ref>。 日本においては戦後、政府が特定集団をカルトと名指しする例は一切存在しなかったが、[[2022年]](令和4年)12月9日の参院消費者問題特別委員会において、[[第2次岸田内閣 (第1次改造)|岸田内閣]]の[[河野太郎]]消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、反社会的な宗教団体である「カルト」に当たるとの認識を示した。[[岸田文雄]]首相は「社会的に問題がある団体」との説明にとどめている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022120900681&g=pol |title=旧統一教会「カルトに該当」 河野担当相 |date=2022年12月9日 |accessdate=2023年1月18日 |publisher=時事通信}}</ref>。 また、カルトが行う勧誘やメンバーの支配の手法として[[マインド・コントロール]]が合わせて論じられる。例えば、[[三菱総合研究所]]と[[大学生協]]はカルトによる[[マインド・コントロール]]を大学生活で注意すべき危険とし、[[大学生]]に向けて注意喚起を行っている<ref>三菱総合研究所,全国大学生活協同組合連合会「最新対応版 大学生が狙われる50の危険 (青春新書プレイブックス) 」青春出版社、2020年。ISBN 4413211596 pp.111-119</ref>。 == カルトの分類 == === 破壊的カルト === [[File:Rev. Jim Jones, 1977 (cropped)2.jpg|thumb|right|[[ジム・ジョーンズ]]は[[人民寺院]]の指導者として知られる]] 破壊的カルトとは、一般にそのメンバーが故意にグループの他のメンバーや外部の人間を傷つけたり殺したりしたグループのことを指す。[[宗教的寛容]]を啓蒙する[[オンタリオ州]]の団体は、この用語の使用を「メンバーまたは一般大衆の間に生命の損失を引き起こした、または引き起こす可能性がある」宗教団体に特に限定している<ref>{{cite web |last=Robinson |first=B.A. |title=Doomsday, destructive religious cults |work=[[Ontario Consultants on Religious Tolerance]] |date=<!-- last updated -->25 July 2007 |url=http://www.religioustolerance.org/destruct.htm |access-date=18 November 2007}}</ref>。 反カルト団体である国際カルト研究協会の事務局長である[[心理学者]]のマイケル・ランゴンは破壊的カルトを「メンバーや勧誘を利用し、時には身体的・心理的に損害を与える高度に操作的な団体」<ref>{{cite book |last=Turner |first=Francis J. |author2=Arnold Shanon Bloch, Ron Shor |title=Differential Diagnosis & Treatment in Social Work |edition=4th |publisher=Free Press |date=1 September 1995 |page=1146| chapter =105: From Consultation to Therapy in Group Work With Parents of Cultists |isbn=0-02-874007-6}}</ref>として定義している。 [[精神科医]]のジョン・ゴードン・クラークは、[[全体主義]]的な統治システムと金儲けの強調が破壊的なカルトの特徴であると主張している<ref>{{cite journal |last=Clark, M.D. |first=John Gordon |author-link=John Gordon Clark |title=The Effects of Religious Cults on the Health and Welfare of Their Converts |journal=[[Congressional Record]] |volume=123 |issue=181 |pages=Extensions of Remarks 37401–03 |publisher=[[United States Congress]] |date=4 November 1977 |url=http://www.csj.org/infoserv_articles/press_jones_congress.htm |archive-url=https://web.archive.org/web/20051216095942/http://www.csj.org/infoserv_articles/press_jones_congress.htm |url-status=dead |archive-date=16 December 2005 |access-date=18 November 2007 }}</ref>。『カルトと家族』で著者は破壊的カルトを[[精神病質]][[症候群]]として定義するシャピロを引用し、その特徴は以下のようなものであると主張する。「行動や人格の変化、個人的アイデンティティの喪失、学業活動の停止、家族からの疎外、社会への無関心、カルト指導者による顕著な精神支配と奴隷化」<ref>{{cite book |last=Kaslow |first=Florence Whiteman |author2=Marvin B. Sussman |title=Cults and the Family |publisher=Haworth Press |year=1982 |isbn=0-917724-55-0 |page=34}}</ref>である。 [[ラトガース大学]]の[[社会学者]]ベンジャミン・ザブロッキの意見では、破壊的カルトはメンバーに対する[[虐待]]が生じるリスクが高く、それはメンバーがカリスマ的リーダーを崇拝し、リーダーが権力によって堕落することに一因があると述べている<ref>[[Benjamin Zablocki|Zablocki, Benjamin]]. 31 May 1997. "A Sociological Theory of Cults" (paper). ''Annual meeting of the [[American Family Foundation]]''. Philadelphia. {{cite web |title=Ben Zablocki's Homepage |url=http://www.rci.rutgers.edu/~zablocki/ |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20050308091637/http://www.rci.rutgers.edu/~zablocki/ |archive-date=8 March 2005 |access-date=29 March 2005}}</ref>。 バレットによれば、破壊的カルトに対してなされる最も多い告発は[[性的虐待]]であるという。神学者のクラネンボーグによれば、メンバーに[[標準治療]]を利用しないように指導するグループは危険である<ref name="Kranenborg-1996">[[Reender Kranenborg|Kranenborg, Reender]]. 1996. "Sekten... gevaarlijk of niet? [Cults... dangerous or not?]" (in Dutch). ''Religieuze bewegingen in Nederland'' 31. [[Vrije Universiteit|Free University Amsterdam]]. {{ISSN|0169-7374}}. {{ISBN|90-5383-426-5}}.</ref>。これは身体的・心理的被害に及ぶこともある<ref>{{Cite web|url=http://www.reveal.org/library/psych/The%20Impact%20of%20Cults%20on%20Health.pdf|title=The impacts of cults on health|accessdate=2022-12-08}}</ref>。 [[File:Jonestown, Guyana bodies.jpg|thumb|right|[[人民寺院]]の集団自殺(1978年)]] 一部の研究者は、破壊的カルトという用語の使い方を批判し、それは必ずしも自分自身や他者にとって本質的に有害ではないグループを表現するために使われていると主張している。ジョン・A・サリバは彼の著書の中で、この用語は過度に一般化されていると主張し、[[人民寺院]]を「破壊的カルトのパラダイム」として見ており、この用語は集団自殺を暗示していると考えている<ref name="saliba">{{cite book |last=Saliba |first=John A. |author2=[[J. Gordon Melton]], foreword |title=Understanding New Religious Movements |publisher=Rowman Altamira |year=2003 |isbn=0-7591-0356-9 |page=144}}</ref> === ドゥームズデー・カルト === [[ドゥームズデー・カルト]]は[[終末論]]や[[千年王国]]を信じる集団を表すのに使われる表現であり、[[災害]]を予測する集団とそれを起こそうとする集団の両方を指すのに使われることがある<ref name="jenkins">{{cite book |last=Jenkins |first=Phillip |title=Mystics and Messiahs: Cults and New Religions in American History |publisher=[[Oxford University Press]], US |year=2000 |pages=216, 222 |isbn=0195145968}}</ref>。 [[1950年代]]、アメリカの社会心理学者[[レオン・フェスティンガー]]と彼の同僚は、シーカーズと呼ばれる小さな[[UFO]]宗教のメンバーを数ヶ月間観察し、カリスマ的指導者からの予言が失敗する前と後のメンバーの会話を記録し<ref name="stangor">{{cite book |last=Stangor |first=Charles |title=Social Groups in Action and Interaction |publisher=Psychology Press |year=2004 |pages=42–43: "When Prophecy Fails" |isbn=184169407X}}</ref><ref>{{cite book |last=Newman |first=Dr. David M. |title=Sociology: Exploring the Architecture of Everyday Life |publisher=Pine Forge Press |year=2006 |isbn=1412928141 |page=86}}</ref><ref name="petty">{{cite book |last=Petty |first=Richard E. |author2=John T. Cacioppo |title=Attitudes and Persuasion: Classic and Contemporary Approaches |publisher=Westview Press |year=1996 |isbn=081333005X |page=139: "Effect of Disconfirming an Important Belief"}}</ref>、その研究を後に出版した。1980年代後半、ドゥームズデー・カルトはニュース報道の主要なトピックであり、一部の記者やコメンテーターは彼らを社会に対する深刻な脅威と捉えていた<ref>[[Philip Jenkins|Jenkins, Philip]]. 2000. ''Mystics and Messiahs: Cults and New Religions in American History.'' Oxford University Press. pp. 215–216.</ref>。 フェスティンガーとリーケン、シャッターによる1997年の心理学研究は、人々が主流の運動で繰り返し意味を見出せなかった後に、激変的な世界観に転向することを発見した<ref name="pargament">{{cite book |last=Pargament |first=Kenneth I. |author-link=Kenneth Pargament |title=The Psychology of Religion and Coping: Theory, Research, Practice |publisher=Guilford Press |year=1997 |pages=150–153, 340, section: "Compelling Coping in a Doomsday Cult" |isbn=1572306645}}</ref>。人々はまた、多くの人が予言的に時代の終わり、つまり世界の終わりを示すと予測された世紀の変わり目のような世界的な出来事に意味を見出そうと努力する<ref name=":2">Hill, Harvey, John Hickman, and Joel McLendon. 2001. "Cults and Sects and Doomsday Groups, Oh My: Media Treatment of Religion on the Eve of the Millennium." ''[[Review of Religious Research]]'' 43(1):24–38. {{doi|10.2307/3512241}}. {{JSTOR|3512241}}.</ref>。 古代[[マヤ暦]]は2012年で終わるが、人々の多くがこの年に地球を揺るがす壊滅的な災害が起こるだろうと予測した<ref>[[Matthew Restall|Restall, Matthew]], and Amara Solari. 2011. ''2012 and the End of the World: the Western Roots of the Maya Apocalypse''. [[Rowman & Littlefield]].</ref>。 === 政治的カルト === [[File:EAP demonstrerar mot EU - 2008-05-01 - 1.jpg|thumb|[[ストックホルム]]の街頭で[[リスボン条約]]に抗議する[[ラルーシュ運動]]のメンバー]] 政治的カルトとは、政治活動や[[イデオロギー]]に主な関心を持つカルトである<ref name=":3">Tourish, Dennis, and [[Tim Wohlforth]]. 2000. ''[[On the Edge: Political Cults Right and Left]]''. Armonk, NY: [[M. E. Sharpe]].</ref><ref>[[Janja Lalich|Lalich, Janja]]. 2003. "'[https://web.archive.org/web/20131029210722/http://www.icsahome.com/infoserv_bookreviews/bkrev_onedgeandtabernaclehate.htm On the Edge' and 'Tabernacle of Hate']" (review). ''[[Cultic Studies Review]]'' 2(2). Archived from the [http://www.icsahome.com/infoserv_bookreviews/bkrev_onedgeandtabernaclehate.htm original] on 29 October 2013. Retrieved 6 June 2020.</ref>。 政治的カルトと呼ばれるグループは、主に[[極左]]や[[極右]]の思想を流布し、[[ジャーナリスト]]や[[学者]]から注目されている。デニス・トゥーリッシュとティム・ウォルフォースは、彼らがカルトとする[[米国]]と[[英国]]の約12の組織について述べている<ref name=":3" /><ref>Tourish, Dennis. 1998. "[https://www.academia.edu/24768857/Ideological_Intransigence_Democratic_Centralism_and_Cultism_A_Case_Study Ideological Intransigence, Democratic Centralism and Cultism: A Case Study from the Political Left]." ''[[Cultic Studies Journal]]'' 15:33–67.</ref>。 別の記事でトゥーリッシュは、次のように述べている:<ref>Tourish, Dennis. [1998] 2003. "[http://www.whatnextjournal.org.uk/Pages/Back/Wnext27/Intro.html Introduction to ‘Ideological Intransigence, Democratic Centralism and Cultism’]." ''What Next?'' 27. {{ISSN|1479-4322}}.</ref>。 {{Quotation|カルトという言葉は、本稿が説明しようとするように、濫用される言葉ではない。それは機能不全に陥った様々な組織で観察される特定の一連の慣行に対する略語表現にほかならない。}} 1990年、ルーシー・パトリックは次のようにコメントしている<ref>Patrick, Lucy. 1990. ''[[Library Journal]]'' 115(21):144. Mag.Coll.: 58A2543.</ref>。 {{Quotation|我々は民主主義の中で生きているが、カルト的行動はリーダーの判断を疑おうとしないこと、部外者を軽んじること、反対意見を避ける傾向の中に現れている。成熟した人間には不適切な依存欲求があることを認識し、反権威主義的な教育を強化し、個人の自律性と自由な意見交換を奨励することによって、社会はカルトを克服できる}} [[イラン]]では「ホメイニ教団」が「世俗宗教」へと発展していった。イランの作家であるアミール・タヘリによれば、[[ホメイニ]]は[[イマーム]]と呼ばれ、「[[十二イマーム派]]を十三人のカルトに」している。ホメイニの像は巨大な岩や山の斜面に刻まれ、祈りは彼の名で始まり、終わり、彼のファトワは彼の死後も有効である(シーア派の原則に反することである)。また「神、コーラン、ホメイニ」や「神は一つ、ホメイニは指導者」といったスローガンは、イランの[[ヒズボラ]]の[[鬨]]として用いられている<ref>{{cite book |author =Amir Taheri |year=2009|pages=83 |title=The Persian Night: Iran under the Khomeinist Revolution|publisher=Encounter Books |isbn=978-1594032400}}</ref>。 ホメイニの写真は今でも多くの官庁に飾られているが、1990年代後半には「ホメイニの崇拝は色あせていた」とも言われている<ref>{{cite book |author =Elaine Sciolino |year=2005|pages=65 |title=Persian Mirrors: The Elusive Face of Iran|publisher=Simon & Schuster |isbn=978-0743284790}}</ref>。 ==== ラルーシュ運動 ==== [[ラルーシュ運動]]は、[[リンドン・ラルーシュ]]と彼の思想を推進する政治的・文化的ネットワークである。世界中の多くの組織や企業を巻き込み、キャンペーンや情報収集、書籍や定期刊行物の出版などを行っている。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙はこの団体を「カルト的」であるとしている<ref>{{Cite news|last=Severo|first=Richard|date=2019-02-13|title=Lyndon LaRouche, Cult Figure Who Ran for President 8 Times, Dies at 96|language=en-US|work=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/2019/02/13/obituaries/lyndon-larouche-dead.html|access-date=2021-07-07|issn=0362-4331}}</ref>。 この運動は[[1960年代]]の急進的左派の学生運動の中で発生した。[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、アメリカでは何百人もの候補者が「ラルーシュ・プラットフォーム」に基づいて[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の州予備選挙に立候補し、リンドン・ラルーシュは大統領候補として繰り返しキャンペーンを行った。しかし、ラルーシュ運動はしばしば[[極右]]とみなされる<ref name=King132-133>King 1989, pp.&nbsp;132–133.</ref><ref>{{cite news |newspaper = The New York Times |last=Toner|first=Robin |url = https://www.nytimes.com/1986/04/04/us/larouche-savors-fame-that-may-ruin-him.html |title=LaRouche savors fame that may ruin him |date=April 4, 1986 |page=A1 }}</ref><ref name="Bennett1988">{{cite book |last=Bennett|first=David Harry|title=The party of fear: from nativist movements to the New Right in American history |year=1988|publisher=UNC Press Books|isbn=978-0807817728|page=362}}</ref><ref name="King1984">{{Cite news|last1=King|first1=Dennis|last2=Radosh|first2=Ronald|date=19 November 1984|title=The LaRouche Connection|magazine=[[The New Republic]]}}</ref>。1970年代から1980年代にかけての最盛期には、ラルーシュ運動は私的な[[諜報機関]]を発達させ、外国政府と接触した<ref>{{Cite web|last=Mintz|first=John|date=1985|title=Some Officials Find Intelligence Network 'Useful'|url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/cult/larouche/larou1.htm|access-date=2021-07-07|website=www.washingtonpost.com}}</ref><ref>{{Cite web|last=Jindia|first=Shilpa|title=Here's an insane story about Roger Stone, Lyndon LaRouche, Vladimir Putin, and the Queen of England|url=https://www.motherjones.com/politics/2018/12/lyndon-larouche-roger-stone-russia-robert-mueller/|access-date=2021-07-07|website=Mother Jones|language=en-US}}</ref><ref name="King1984" />。 ==== アイン・ランド協会 ==== [[アイン・ランド]]の信奉者は、彼女の生前は[[経済学者]]の[[マレー・ロスバード]]によって、その後は[[マイケル・シャーマー]]によってカルトと特徴づけられている<ref name="rothbard">[[Murray Rothbard|Rothbard, Murray]]. 1972. "[https://www.lewrockwell.com/1970/01/murray-n-rothbard/understanding-ayn-randianism/ The Sociology of the Ayn Rand Cult]." Retrieved 6 June 2020. Revised editions: ''[[Liberty (1987)|Liberty]]'' magazine (1987), and [[Center for Libertarian Studies]] (1990).</ref><ref>[[Michael Shermer|Shermer, Michael]]. 1993. "The Unlikeliest Cult in History." ''[[Skeptic (U.S. magazine)|Skeptic]]'' 2(2):74–81.</ref><ref>[[Michael Shermer|Shermer, Michael]]. [1993] 1997. "The Unlikeliest Cult." In ''[[Why People Believe Weird Things]]''. New York: [[W.H. Freeman and Company|W. H. Freeman and Company]]. {{ISBN|0-7167-3090-1}}.</ref>。ランドを中心としたグループは「集団」と呼ばれたが、現在は消滅し、現在のランドの思想を発信する主なグループは[[アイン・ランド協会]]である。この集団は個人主義的な哲学を提唱していたが、ロスバードは「[[レーニン主義]]」的な組織であると主張している<ref name="rothbard" />。 ==== 統一教会 ==== [[朝鮮半島]]北部出身の[[文鮮明]]によって設立された[[統一教会]](統一運動としても知られる)は強い[[反共産主義]]の立場をとっている<ref name="moon-peace">{{cite book |last=Moon |first=Sun Myung |title=As a Peace-Loving Global Citizen |publisher=Gimm-Young Publishers |year=2009 |isbn=978-0-7166-0299-6}}</ref><ref>[http://www.tparents.org/Moon-Books/sm-gww/GWW-07.htm The Way of Restoration], (April, 1972)</ref>。1940年代、文は[[大日本帝国]]に対する[[朝鮮独立運動]]で共産主義者と協力した。しかし、[[朝鮮戦争]](1950年-1953年)後は、反共主義を公言するようになる<ref name="moon-peace"/>。文は[[民主主義]]と[[共産主義]]の間の[[冷戦]]を神と悪魔の最後の対立と見なし、その最前線として朝鮮半島の分断があるとした<ref>''Christianity: A Global History'', David Chidester, HarperCollins, 2001, {{ISBN|0062517708}}, 9780062517708, pages 514 to 515</ref>。統一運動はその創設後すぐに、[[蒋介石]]が1966年に[[中華民国]](台湾)の台北で設立した世界自由民主連盟<ref>''The World's Religions: Continuities and Transformations'', Peter B Clarke, Peter Beyer, Taylor & Francis, 2008 {{ISBN|1135211000}}, 9781135211004</ref>や、「ラジオ・フリー・アジア」を後援する国際パブリック・ディプロマシー組織である韓国文化自由財団などの反共組織の支援を開始した<ref name="Korean denies influence peddling">{{cite news|title=Korean denies influence peddling|url=https://news.google.com/newspapers?nid=2457&dat=19761102&id=y6kzAAAAIBAJ&pg=3422,903462|newspaper=Bangor Daily News|access-date=21 March 2012}}</ref>。 [[ファイル:Nixon Moon.gif|サムネイル|180x180ピクセル|[[ホワイトハウス]]にて面会した[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]と[[文鮮明]](1974年)]] [[1974年]]、統一教会は共和党の[[リチャード・ニクソン]]大統領を支持し、[[ウォーターゲート事件]]の後に彼のために結集し、ニクソンはそれに対して個人的に感謝した<ref>Introvigne, Massimo, 2000, ''The Unification Church Studies in Contemporary Religion'', Signature Books, Salt Lake City, Utah, {{ISBN|1-56085-145-7}}, [http://www.signaturebooks.com/excerpts/unification.htm excerpt] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20030429161208/http://www.signaturebooks.com/excerpts/unification.htm |date=2003-04-29}} page 16</ref>。1975年、文は[[ソウル]]の汝矣島で北朝鮮の軍事侵略の可能性に対する政府主催の集会で、約100万の聴衆を前に演説した<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=8t-9yx3oG4kC&q=yoido+rally |title=Richard Quebedeaux, Lifestyle : Conversations with Members of Unification Church |access-date=9 October 2012|isbn=9780932894182 |last1=Quebedeaux |first1=Richard |year=1982 }}</ref>。統一運動は、多くの人が第三次世界大戦と核によるホロコーストにつながる可能性があると述べたその反共主義的な活動のために、主流と新興の両方のメディアによって批判された<ref name="Give and Forget">Thomas Ward, 2006, [http://www.tparents.org/Library/Unification/Publications/SMM-Communism-060300/giveforget.html#chap2a Give and Forget]</ref><ref name="The Resurrection of Reverend Moon">{{cite web |url=http://www.mediachannel.org/originals/moontranscript2.shtml |title=The Resurrection of Reverend Moon |date=21 January 1992 |work=Frontline |publisher=PBS | archive-url=https://web.archive.org/web/20110107084418/http://www.mediachannel.org/originals/moontranscript2.shtml|archive-date=7 January 2011|access-date=2022-12-18}}</ref><ref name="Sun Myung Moon Changes Robes">[https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CEEDB1F3FF932A15752C0A964958260 Sun Myung Moon Changes Robes], ''[[The New York Times]]'', 21 January 1992</ref>。 1977年、[[アメリカ合衆国下院]]の[[フレイザー委員会|国際関係委員会国際機構小委員会]]は、韓国の情報機関である[[KCIA]]がアメリカとの政治的影響力を得るためにこの運動を利用し、一部のメンバーが議会事務所でボランティアとして働いていたことを明らかにした。委員会はまた、ニクソンを支持する統一教会のキャンペーンに対するKCIAの影響の可能性を調査した<ref name="books.google.com">[https://books.google.com/books?id=AabywLOknbsC&pg=PA59#v=onepage&q=fraser%20kcia Spiritual warfare: the politics of the Christian right], [[Sara Diamond (sociologist)|Sara Diamond]], 1989, [[Pluto Press]], Page 58</ref>。 1980年、統一教会は[[ニューヨーク]]に拠点を置く反共産主義教育組織であるカウサ・インターナショナルを設立した<ref name="ReferenceE">"Moon's 'Cause' Takes Aim At Communism in Americas." ''[[The Washington Post]]''. August 28, 1983</ref>。1980年代には21カ国で活動していた。アメリカでは、[[福音派]]や[[キリスト原理主義]]の指導者のための教育会議<ref name=christianitytoday37>[http://www.christianitytoday.com/ct/2001/augustweb-only/8-6-37.0.html Sun Myung Moon's Followers Recruit Christians to Assist in Battle Against Communism] ''[[Christianity Today]]'', June 15, 1985</ref>や、上院議員、[[ヒスパニック]]系アメリカ人、保守派活動家のためのセミナーや会議を後援した<ref name="washingtonpost.com">[https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/cult/unification/image.htm Church Spends Millions On Its Image], ''[[The Washington Post]]'', 1984-09-17. "Another church political arm, Causa International, which preaches a philosophy it calls "God-ism," has been spending millions of dollars on expense-paid seminars and conferences for Senate staffers, Hispanic Americans and conservative activists. It also has contributed $500,000 to finance an anticommunist lobbying campaign headed by John T. (Terry) Dolan, chairman of the National Conservative Political Action Committee (NCPAC)."</ref>。 1990年4月、文鮮明は[[ソビエト連邦]]を訪問し、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と会談した。文はソビエト連邦で進行中の政治的・経済的変革への支持を表明した。同時期に統一運動は旧共産圏の国にも拡大した<ref name="query.nytimes.com">[https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0CE5D61F39F937A25752C1A966958260&sec=&spon= EVOLUTION IN EUROPE; New Flock for Moon Church: The Changing Soviet Student] from ''[[The New York Times]]''</ref>。1994年、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙は、統一教会の政治的影響力を認め、「アメリカにおける保守的な大義に外国の財産を注ぎ込んでいる神権勢力」であると記述した<ref>{{Cite news |last=Goodman |first=Walter |date=January 21, 1992 |title=Review/Television; Sun Myung Moon Changes Robes |periodical=New York Times |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CEEDB1F3FF932A15752C0A964958260&sec=&spon=}}</ref>。1998年、エジプトの新聞『アル・アハム』は、文の「極右的傾向」を批判し、[[イスラエル]]の保守派の首相・[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]との個人的関係を示唆している<ref>[http://weekly.ahram.org.eg/1998/403/op1.htm The same old game] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090215193404/http://weekly.ahram.org.eg/1998/403/op1.htm|date=2009-02-15}}, ''[[Al-Ahram]]'', November 12–18, 1998, "The Washington Times is a mouthpiece for the ultra conservative Republican right, unquestioning supporters of Israel's [[Likud]] government. The newspaper is owned by Sun Myung Moon, originally a native of North Korea and head of the Unification Church, whose ultra-right leanings make him a ready ally for Netanyahu. Whether or not Netanyahu is personally acquainted with Moon is unclear, though there is no doubt that he has established close friendships with several staff members on The Washington Times, whose editorial policy is rabidly anti-Arab, anti-Muslim and pro-Israel."</ref>。 統一教会はまた、『[[ワシントン・タイムズ]]』、『インサイト・オン・ザ・ニュース』、<ref>[https://www.cjr.org/politics/insightmag_a_mustread.php Insightmag, a Mustread] ''Columbia Journalism Review'' 2007-01-27</ref>『ユナイテッド・プレス・インターナショナル』<ref name="in sorrow">{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1989/12/24/books/upi-look-back-in-sorrow.html|title=U.P.I.: Look Back in Sorrow (book review of ''Down to the Wire: UPI's Fight for Survival'' By Gregory Gordon and Ronald E. Cohen)|author=Atwater, James D.|date=December 24, 1989|work=The New York Times|access-date=March 15, 2011}}</ref><ref name="old dog">{{cite news|url=https://www.forbes.com/forbes/1998/0601/6111047a.html|title=Old dog, new tricks?|author=Spiegel, Peter|date=June 1, 1998|work=Forbes|access-date=March 15, 2011}}</ref>、『ニュースワールド・コミュニケーションズ・ネットワーク』を含むいくつかのニュースメディアを所有している。<ref name="Washington Post-ghosts">{{cite news |first= Frank |last=Ahrens |title=Moon Speech Raises Old Ghosts as the Times Turns 20 |date=May 23, 2002|newspaper=[[The Washington Post]] |url=https://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn?pagename=article&contentId=A60061-2002May22 |access-date=2009-08-16}}</ref><ref name="wrmea.com">[http://www.wrmea.com/backissues/1297/9712060.html As U.S. Media Ownership Shrinks, Who Covers Islam?], ''[[Washington Report on Middle East Affairs]]'', December 1997</ref>『ワシントン・タイムズ』のオピニオンエディターのチャールズ・ハートは[[ワシントンDC]]で最も早い時期に[[ドナルド・トランプ]]を支持した人物の1人だった<ref>{{Cite news|last=Lowry|first=Rich|url=https://www.politico.com/magazine/story/2016/07/the-trump-show-214075|title=The Trump Dynasty Takes Over the GOP|date=July 20, 2016|work=[[Politico Magazine]]|access-date=May 3, 2017|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20161027122711/https://www.politico.com/magazine/story/2016/07/the-trump-show-214075|archive-date=October 27, 2016|author-link=Rich Lowry}}</ref>。[[2018年]]にハートはトランプを[[ロナルド・レーガン]]、[[マーチン・ルーサー・キング・ジュニア]]、[[マーガレット・サッチャー]]、ローマ法王の[[ヨハネ・パウロ2世]]と並ぶ人物とみなし、「自由の偉大なチャンピオン」としている<ref>{{Cite book|last=Boot|first=Max|title=The Corrosion of Conservatism: Why I Left the Right|publisher=Liveright Publishing|year=2018|isbn=978-1631495670|page=124|chapter=The Cost of Capitulation|lccn=2018036979|author-link=Max Boot}}</ref>。 2016年に『[[ワシントン・タイムズ]]』は特定のアメリカ合衆国大統領候補を支持しなかったが、2020年の再選に向けてトランプを支持した<ref>''Washington Times'', 10/26/2020, [https://www.washingtontimes.com/news/2020/oct/26/editorial-donald-trump-for-reelection Donald Trump for Reelection] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20201027152248/https://www.washingtontimes.com/news/2020/oct/26/editorial-donald-trump-for-reelection/ |date=October 27, 2020}}</ref><ref>{{cite news |last1=Campbell |first1=Joe |last2=Fogarty |first2=Kevin |title=In Pennsylvania woods, church in 'spiritual battle' to re-elect Trump |url=https://www.reuters.com/article/us-usa-election-church-idUSKBN27E2U2 |access-date=19 December 2020 |work=Reuters |date=29 October 2020}}</ref><ref>{{cite news |title=Story about Moon church 'alarming' |url=https://www.mcall.com/opinion/readers-react/mc-omalley-sanctuary-church-ar15-20180609-story.html |access-date=19 December 2020 |agency=Morning Call |date=10 June 2018}}</ref>。 ==== 労働者革命党 ==== [[イギリス]]で[[ジェリー・ヒーリー]]により指導され、女優の[[ヴァネッサ・レッドグレイヴ]]に強く支持されていた[[トロツキー主義]]の政党である[[労働者革命党]](WRP)は、トロツキスト運動に関わるグループ外の人物によって、1970年代から1980年代にかけてカルトであった、あるいはカルト的特徴を示す集団であったと説明されてきた。<ref>[[David North (socialist)|North, David]]. 1991. ''Gerry Healy and His Place in the History of the Fourth International''. [[Mehring Books]]. {{ISBN|0929087585}}.</ref>ウォルフォースとトゥーリッシュもそのようにみなしており<ref>Wohlforth, Tim, and Dennis Tourish. 2000. "Gerry Healy: Guru to a Star." pp. 156–172 in ''[[On the Edge: Political Cults Right and Left]]''. Armonk, NY: [[M. E. Sharpe]].</ref>、元メンバーであるボブ・ピットも同団体を「カルト的特徴」を持っていると認めている<ref name="Pitt">Pitt, Bob. 2000. "[https://web.archive.org/web/20051229051436/http://www.whatnextjournal.co.uk/Pages/Back/Wnext17/Reviews.html 'Cults, Sects and the Far Left']" (review). ''What Next?'' 17. {{ISSN|1479-4322}}.</ref>。 ==== グロイパー軍団 ==== [[グロイパー軍団]]は[[白人至上主義]]、[[キリスト教ナショナリズム]]、[[インセル]]の思想を吹き込まれた[[オルタナ右翼]]の派閥である。この運動のかつてのリーダーの複数は、[[ニック・フエンテス]]がそれをカルトのように指導していると非難し、フエンテスが支持者に絶対的な忠誠心を要求し、それを濫用していると批判している<ref>Hayden, M. E. (2022, June 2). Pro-trump white nationalist group facing key desertions. Southern Poverty Law Center. Retrieved August 21, 2022, from https://www.splcenter.org/hatewatch/2022/06/02/pro-trump-white-nationalist-group-facing-key-desertions</ref><ref>'Groyper Army' fractures amid public feud between Patrick Casey and Nick Fuentes. Angry White Men. (2021, March 4). Retrieved August 21, 2022, from https://angrywhitemen.org/2021/02/15/groyper-army-fractures-amid-public-feud-between-patrick-casey-and-nick-fuentes/</ref><ref>Owen, T. (2022, June 7). They Love Jesus, Bon Iver, and Incels. Inside America's New Ultranationalist Youth Movement. VICE. Retrieved August 21, 2022, from https://www.vice.com/en/article/epzgb4/groyper-young-christian-nationalists-movement</ref>。フエンテスは「カルト的なメンタリティ」を持っていると賞賛し、自身の運動をカルトと「皮肉を込めて」認めている<ref>Gais, H. (2021, March 11). Far-right extremists gather in Florida for CPAC spinoff alongside sitting congressman. Southern Poverty Law Center. Retrieved August 21, 2022, from https://www.splcenter.org/hatewatch/2021/03/11/far-right-extremists-gather-florida-cpac-spinoff-alongside-sitting-congressman</ref>。 グロイパー軍団は2021年の[[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件|合衆国議会議事堂襲撃事件]]に参加したことでも知られる<ref name="Kidder-2020">{{Cite news|last1=Kidder|first1=Jeffrey L.|last2=Binder|first2=Amy J.|date=February 19, 2020|title=In the Trump era, campus conservative groups are fighting one another|newspaper=[[The Washington Post]]|url=https://www.washingtonpost.com/politics/2020/02/19/trump-era-campus-conservative-groups-are-fighting-one-another/|access-date=May 19, 2020}}</ref><ref name="Kampeas-2020">{{Cite web|title=In the US, the 'groyper army' seeks to make anti-Semitism mainstream|url=https://www.timesofisrael.com/in-the-us-the-groyper-army-seeks-to-make-anti-semitism-mainstream/|last=Kampeas|first=Ron|date=December 9, 2019|website=[[The Times of Israel]]|language=en-US|access-date=May 19, 2020}}</ref>。 ==== その他の政治的カルト ==== スペインの極右政党・[[Vox (スペインの政党)|Vox]]を後援していたメキシコの極右グループ『エル・ユンケ』や<ref>{{Cite web|url=https://www.eldiario.es/sociedad/conexiones-vox-grupos-ultracatolicos_1_1799146.html|title=Las conexiones de Vox con HazteOir, los 'kikos' y una docena de obispos españoles|first=Jesús|last=Bastante|date=7 December 2018|access-date=7 December 2018|website=elDiario.es}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.elconfidencial.com/espana/2014-05-30/una-jueza-destapa-los-vinculos-entre-la-secta-secreta-el-yunque-y-los-ultras-de-hazte-oir_138569/|title=Una jueza destapa los vínculos entre la secta secreta El Yunque y 'ultras' de Hazte Oír|first=José Luis|last=Lobo|date=30 May 2014|access-date=30 May 2014|website=elconfidencial.com}}</ref>、[[Qアノン]]陰謀論<ref name="atlrel">{{Cite web |last=Nyce |first=Caroline Mimbs |date=May 14, 2020|title=The Atlantic Daily: QAnon Is a New American Religion |url=https://www.theatlantic.com/newsletters/archive/2020/05/qanon-q-pro-trump-conspiracy/611722/ |access-date=May 18, 2020 |website=[[The Atlantic]] |language=en-US}}</ref><ref name="church">{{Cite web |last=Argentino |first=Marc-André |date=May 18, 2020 |title=The Church of QAnon: Will conspiracy theories form the basis of a new religious movement? |url=http://theconversation.com/the-church-of-qanon-will-conspiracy-theories-form-the-basis-of-a-new-religious-movement-137859 |access-date=May 18, 2020 |website=The Conversation |language=en}}</ref>、ラテンアメリカにおける福音派キリスト教の一部はカルトとみなすことができる<ref>{{cite journal |last1=del Campo |first1=María Esther |last2=Resina |first2=Jorge |title=¿De movimientos religiosos a organizaciones políticas? La relevancia política del evangelismo en América Latina |journal=Fundación Carolina |date=2020 }}</ref>。 === 経済カルト === [[心理学者]]の[[スティーブン・ハッサン]]は、[[アムウェイ]]や[[タッパーウェア]]に代表される[[連鎖販売取引]]('''マルチ商法'''、または'''MLM''')をカルトとみなしている。これらは短期間で大規模な利益を得られると謳うが、しばしば急激な投資を必要とし、大半の参加者は資産を失うことになる。MLMはカルトの勧誘に使われる戦術を応用して参加者を集める。「ラブ・ボミング」という戦術は、愛情を浴びせることで人を引き込もうとするもので、例えば、ビジネス経験のない女性に対しても「あなたはビジネスをするために生まれてきたのです」と言う<ref name="hassan-commercial-cults">https://freedomofmind.com/lularoe-and-the-world-of-commercial-cults/</ref>。 情報統制も経済カルトがよく使う手口であり、MLMは会員に対して、[[ソーシャルメディア]]上でMLMを批判する人間を「ブロック」するように指導する。参加者が勧誘時に謳われたような利益を得られていないことに気づいたとき、グループの上司は「成功しないのは努力が足りないからだ」と叱責する。また、参加者を辞めたいと申し出れば、罪悪感を抱くように非難される<ref name="hassan-commercial-cults"/>。このほかにも、MLMの勧誘はたびたびカルトが使う[[マインド・コントロール]]の手法と結びつけて論じられる<ref>https://www.huffpost.com/entry/multilevel-marketing-companies-mlms-cults-similarities_l_5d49f8c2e4b09e72973df3d3</ref>。 MLMは[[ロビー活動]]に多額の資金を費やしており、また権威付けのために著名人や財界人に多額の講演料を払っている。例えば、元[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ドナルド・トランプ]]はいくつかのMLMのグループに関与していた<ref name="hassan-commercial-cults"/>。 === 一夫多妻カルト(ポリガミーカルト) === [[一夫多妻制]]を提唱し、実践するカルトは、少数派ではあるが古くから指摘されている。[[北米]]には約5万人のポリガミーカルトのメンバーがいると推定されている<ref>Bridgstock, Robert. 2014. ''The Youngest Bishop in England: Beneath the Surface of Mormonism''. [[See Sharp Press]]. p. 102.</ref>。しばしば、ポリガミーカルトは法的権威と主流の社会の両方から否定的に見られ、[[家庭内暴力]]や[[児童虐待]]の可能性に結びつけられ、関連する主流の教団に対する否定的な認識も加わって見られることもある<ref>Cusack, C. 2015. ''Laws Relating to Sex, Pregnancy, and Infancy: Issues in Criminal Justice''. [[Springer books|Springer]].</ref>。 1830年代から、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]('''LDS'''、または'''モルモン教''')の教会員は一夫多妻制、または[[複婚]]を実践していた。1890年、LDSの総裁であるウィルフォード・ウッドラフは、LDSが新たな複婚を行わないことを発表する宣言を発表した。反モルモン感情は薄れ、[[ユタ州]]の州権獲得への反対運動も弱まった。[[アメリカ合衆国上院]]の[[リード・スムート]]による1904年の聞き取り調査では、LDSのメンバーが今だに一夫多妻を行っていることを記録し、教会に第二の宣言書を発行させ、再び新たな複婚の実行を中止させた。1910年までに、末日聖徒イエス・キリスト教会は新たな複婚を行った者を破門した<ref name="UHE-Polygamy">Embry, Jessie L. 1994. "Polygamy." In ''Utah History Encyclopedia'', edited by A. K. Powell. Salt Lake City: [[University of Utah Press]]. {{ISBN|0874804256}}. {{OCLC|30473917}}.</ref>。1890年の宣言の施行により、様々な分派が複婚の実践を続けるために末日聖徒イエス・キリスト教会から離脱した<ref>[http://attorneygeneral.utah.gov/polygamy/The_Primer.pdf "The Primer"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050111224555/http://attorneygeneral.utah.gov/polygamy/The_Primer.pdf |date=11 January 2005}} – Helping Victims of Domestic Violence and Child Abuse in Polygamous Communities. A joint report from the offices of the Attorneys General of Arizona and Utah. (2006)</ref>。そのようなグループはモルモン原理主義者として知られている。例えば、末日聖徒イエス・キリスト原理主義教会はしばしば一夫多妻制のカルトとして記述される<ref>Alex Hannaford, [https://www.theguardian.com/world/2018/oct/13/woman-escaped-cult-hq-flds-refuge "The woman who escaped a polygamous cult – and turned its HQ into a refuge"], ''[[The Guardian]]'', 13 October 2018.</ref> 。 === 人種差別的カルト === [[File:Ku Klux Klan members and a burning cross, Denver, Colorado, 1921.jpg|thumb|[[クー・クラックス・クラン]]の儀式(1915年)]] 社会学者・歴史家のオーランド・パターソンは、南北戦争後にアメリカ南部で発生した[[クー・クラックス・クラン]]を異端のキリスト教カルトとし、また[[アフリカ系アメリカ人]]等への迫害を、人間の生贄の一形態として記述している<ref>[[Orlando Patterson|Patterson, Orlando]]. 1998. ''Rituals of Blood: Consequences of Slavery in Two American Centuries.'' New York: [[Basic Civitas Books]].</ref>。19世紀から20世紀初頭にかけて、[[ドイツ]]と[[オーストリア]]におけるアーリア人種至上主義カルトの存在は[[ナチズム]]の台頭に強く影響を与えた<ref>[[Nicholas Goodrick-Clarke|Goodrick-Clarke, Nicholas]]. 1993. ''[[The Occult Roots of Nazism]]''. New York: [[New York University Press|NYU Press]].</ref>。現代のアメリカにおける[[ホワイトパワー・スキンヘッドグループ]]は、破壊的カルトとして特徴付けられるグループと同じ勧誘手法を用いる傾向にある<ref>Perry, Barbara. 2012. ''Hate and Bias Crime: A Reader''. [[Routledge]]. pp. 330–31.</ref>。 === テロリストカルト === [[精神科医]]のピーター・A・オルソンは自身の著書の中で、[[オサマ・ビンラディン]]を[[ジム・ジョーンズ]]、[[ブランチ・ダビディアン|デヴィッド・コレシュ]]、[[麻原彰晃]]、[[マーシャル・アップルホワイト]]、[[リュック・ジュレ]]、[[ジョセフ・ディ・マンブロ]]など特定のカルト指導者と比較し、これらの個人のそれぞれが、[[自己愛性人格障害]]の9項目のうち少なくとも8項目に該当するとしている<ref name="piven">{{cite book |last=Piven |first=Jerry S. |title=Jihad and Sacred Vengeance: Psychological Undercurrents of History |publisher=iUniverse |year=2002 |pages=104–14 |isbn=0-595-25104-8}}</ref>。カール・ゴールドバーグとバージニア・クレスポは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンを「破壊的カルトの指導者」として言及している<ref>{{cite book |last1=Goldberg |first1=Carl |last2=Crespo |first2=Virginia |title=Seeking the Compassionate Life: The Moral Crisis for Psychotherapy and Society |publisher=Praeger/Greenwood |year=2004 |isbn=0-275-98196-7 |page=161}}</ref>。 アメリカ心理学会(APA)の2002年の会合で、[[スティーブン・ハッサン]]は[[アルカイダ]]が破壊的カルトの特徴を満たしていると述べ、次のように付け加えた<ref name="dittmann">{{cite news|last=Dittmann|first=Melissa|date=10 November 2002|title=Cults of hatred: Panelists at a convention session on hatred asked APA to form a task force to investigate mind control among destructive cults.|volume=33|page=30|work=Monitor on Psychology|publisher=[[American Psychological Association]]|number=10|url=http://www.apa.org/monitor/nov02/cults.html|access-date=18 November 2007}}</ref>。 {{Quotation|私たちは破壊的なマインドコントロールのカルトについて知っていることを適用する必要があり、これは対テロ戦争における優先事項であるべきである。私たちは人々がどのように勧誘され、教化されるかという心理的側面を理解する必要があり、それによって勧誘を遅らせることができる。カルトの元メンバーのカウンセリングに協力し、そのうちの何人かをテロとの戦いに利用することも必要である。}} 『[[タイムズ]]』に掲載された[[アルカイダ]]に関する記事の中で、ジャーナリストのメアリー・アン・シーガートはアルカイダが「古典的なカルト」に似ていると書いている<ref>{{cite news|last=Sieghart|first=Mary Ann|author-link=Mary Ann Sieghart|date=26 October 2001|title=The cult figure we could do without|work=[[The Times]]}}</ref>。 {{Quotation|アルカイダはカルトの公式な定義にすべて合致している。それはメンバーを教化し、閉鎖的で全体主義的な社会を形成し、自称メシア的でカリスマ的なリーダーを持ち、そして目的が手段を正当化すると信じている。}} アルカイダと同様に、[[ISIL]]もさらに過激で純血主義的なイデオロギーを信奉している。その目的は、宗教指導者の解釈による[[シャリーア]]によって支配される国家を作ることであり、彼らは健康な男性メンバーを洗脳して、教会やシーア派のモスクなど、計画的に選定された民間人を含む敵に対して、自動車爆弾などの装置を使って特攻するよう命じている。メンバーはこれを正当な行為、義務であるとさえ考えており、この政治的・軍事的行動の究極の目標は、最終的に集団のイスラム教の信念に従って世界の終わりをもたらし、彼らの敵のすべて(すなわち彼らの側にいない者)が全滅する終末論的最終決戦に参加する機会を持つことである<ref>Barron, Maye. 2017. ''18JTR'' 8(1).</ref>。 そのような試みは2017年に失敗に至ったが<ref>{{cite web |url=https://www.theguardian.com/world/2017/oct/21/isis-caliphate-islamic-state-raqqa-iraq-islamist |title=Rise and fall of Isis: its dream of a caliphate is over, so what now? |work=The Guardian |last=Burke |first=Jason |date=21 October 2017 |access-date=22 July 2021 |url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20171021230705/https://www.theguardian.com/world/2017/oct/21/isis-caliphate-islamic-state-raqqa-iraq-islamist |archive-date=21 October 2017 }}</ref>、生き残りの大部分がテロリズムに回帰した。 == 歴史 == === 発祥 === [[カトリック教会]]などによる[[聖人]]崇敬({{lang|en|cult of saints|}}、キリスト教の聖人崇敬を行う教派では崇敬 Cult と[[礼拝|礼拝・崇拝]] Adoration は区別される)、19世紀末に[[メラネシア]]各地で起こった[[カーゴカルト]]({{lang|en|cargo cult}})といった用例もあるが、否定的・批判的なニュアンスは存在しない。 === 20世紀初頭 === {{Multiple image|image1=Max Weber, 1918.jpg|width1=152|image2=ErnstTroeltsch.jpg|width2=175|footer=ウェーバーとトレルチはカルト研究の先駆となった。}} 社会学者の[[マックス・ヴェーバー]]と[[プロテスタント]][[神学者]]の[[エルンスト・トレルチ]]は、『キリスト教会の社会教育』 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト([[ドイツ語]]でセクト:{{lang|de|sekte}})を宗教団体の初期形態として位置付けた。この段階のカルト=セクトでは周辺からの迫害に遭うが市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。 [[アメリカ合衆国]]においては、1920年頃より、アメリカ発祥の[[クリスチャン・サイエンス]]といった主要な宗教伝統に属さない、いわゆる[[新宗教]]を指して宗教社会学として、[[秘教]]的な教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教団を示す概念として「カルト」が用いられるようになった。 1930年代には、[[保守]]的なキリスト教聖職者が[[異端]]と見なしたキリスト教系団体を指して使用を始める{{Sfn|星野ほか|2010|p=296}}。 === 20世紀中頃 === 1960年代には[[ヒッピー]]らが傾倒した、東洋系等の[[キリスト教]]以外の宗教を指し、用いられるようになる{{Sfn|島薗進|2006|p=83}}。1970年代の宗教学者らは、意図的に宗教集団の類型として使用した{{Sfn|星野ほか|2010|p=296}}。 [[File:Church-sect continuum.svg|right|thumb|400px|「チャーチ=セクト類型」。トレルチは上半分のキリスト教会を前提としたモデルを提示し、ベッカーが更に非キリスト教的新宗教(NRM)にまで拡張した]] {{仮リンク|ハワード・ベッカー|en|Howard P. Becker}}(アメリカ社会学者)は、[[1950年]]に「チャーチ=セクト類型」を見直し、非キリスト教的なスタイルを持つ[[新宗教]]を新たな類型としてセクトに含め、これを「カルト」と主張した。また、[[心霊術]]、[[占星術]]などの信者集団であり、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つとした。 {{仮リンク|ジョン・ミルトン・インガー|en|John Milton Yinger}}(アメリカ社会学者)と{{仮リンク|ハワード・P・ベッカー|en|Howard P. Becker}}(アメリカ社会学者)は、「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やかな結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視される」とした。 {{仮リンク|ロドニー・スターク|en|Rodney Stark}}(アメリカ[[宗教社会学]]者)と{{仮リンク|ウイリアム・シムズ・ベインブリッジ|en|William Sims Bainbridge}} は、「セクト」を「信仰の再確立を目指して母教会から分離した集団」とし、「カルト」を「既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団」とした。また、カルトの組織化達成度によって以下の3つの下位類型を設定した。 *「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」) *:新しい神秘的なものについての情報をメディアを通して知り、関心を寄せる人々をメンバーとするもの。 *「来談者カルト」(「クライエントカルト」) *:集団のカリスマ的中心人物を人々が訪ね、来談者(クライエント)となり、セミナーやセラピーに参加する。 *:「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」)よりは主催者と来談者との関係は密になっている。 *「カルト運動」 *:「聴衆カルト」や「来談者カルト」では[[エンターテインメント]]や病気快癒といった一過的で実利的な効果が求められているにすぎないが、「魂の救い」といったようなすぐに確認できない事柄を持続的に保証するための組織化が必然となる。この保証を供給する人間組織こそが「宗教」であるとした。 {{仮リンク|デイヴィッド・モバーグ|en|David O. Moberg}}(アメリカ[[宗教社会学]]者)は、1971年に「教団のライフサイクル論」において、カルトもしくはセクトに該当する新団体の発祥から解体までの[[製品ライフサイクル]]は以下の5段階を経ると提唱した<ref>『新宗教運動の展開過程』([[森岡清美]]、1989年、[[創文社]])p11-12</ref>。 # 萌芽的組織 - 社会不安を背景とし、[[カリスマ]]性のある[[代表|リーダー]]が登場し、集団(カルト、セクト)が出現する。 # 公式的組織 - 集団の目標が成文化され、部外者との差異が強調される。 # 最大能率段階 - 合理的組織が集団を導くようになる。この頃になると集団への部外者からの軽蔑も減り、逆に集団から部外者への敵意も消える。 # 制度的段階 - 組織運営が官僚的になり、自分たちの特権の保持を目的とするようになる。礼拝なども形式的になり、集団の会員となる資格の基準も緩む。 # 解体段階 - 組織に腐敗が蔓延し、組織運営の官僚的機構が会員の[[ニーズ]]に対応できないので、退会者が増える。一部のリーダーや会員が信仰復興の改革運動(再生運動)を起こして成功した場合は、新しいサイクルが始まるが、そうでなければ集団は解体に向かう。 === 1970年代後半以降 === [[1978年]]、米国から[[ガイアナ]]に移動した[[人民寺院]]信者の900人に及ぶ[[集団自殺]]は、米国で[[社会問題]]化し、マスメディアが、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して報道で用いるようになる。これを機に [[1979年]]、連邦議会や州による公聴会が開催された<ref name="ronsou">{{Cite book |和書|editor=第二東京弁護士会消費者問題対策委員会 |title=論争・宗教法人法改正 |publisher=[[緑風出版]] |date=1995-09-30 |isbn=978-4846195977 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref>。同年には、国際カルト研究会(ICSA<ref group="注">{{lang|en|international Cultic Studies Association}}</ref>、旧:AFF<ref group="注">{{lang|en|America family Foundation}}</ref>)が設立された<ref group="注">「国際カルト研究会」とは、関係信者、元信者、家族をはじめ、学者、ライター等、希望する者は誰でも参加できる公聴会である。国家機関や学術団体ではない。</ref>。 宗教学の文脈では、[[1970年代]]後半 - [[1980年代]]にかけて、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心に議論が尽くされた結果、「宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士,ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、特定集団に「[[ラベル|レッテル]]貼り」として用いられる傾向があるという結論が得られている{{Sfn|櫻井義秀|1997|pp=114-115}}{{Sfn|櫻井義秀|1997|p=114}}{{Sfn|島薗進|2006|p=81}}。宗教学者が、この語を、[[宗教社会学]]等の学問を根拠とする教団の分類としては用いることはない{{Sfn|櫻井義秀|1997|p=114}}。 == 各国の状況 == === アメリカ合衆国 === 反カルト陣営の統一見解としては1985年にまとめられた「{{lang|en|Cultism:A conference for scholars and policy makers}}」という文書がある。また、アメリカの宗教団体の脱会者が、絶対的服従や[[マインドコントロール]]、犯罪行為を行う反社会的な集団を指して「破壊的カルト」と呼び始める<ref name="rinri"/>。 === 中南米 === [[ベレン (パラー州)|ベレン]]を中心に[[アマゾン川|アマゾン]]地方に分布する{{仮リンク|バトゥーケ|pt|Batuque (religião)}}、[[バイーア]]を中心に分布する[[カンドンブレ]]、[[サンパウロ]]など全国に広まっている[[ウンバンダ]]などのアフリカ系の宗教は、総じてアフロ・ブラジリアン・カルトと呼ばれている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 古谷嘉章 |title = 集束する音、拡散する音:アフロ・ブラジリアン・カルトの憑依儀礼 |journal = 環境と音楽 |date = 1991 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |isbn = 4487752574 |ref = harv }} pp.169-176.</ref>。アフロ・ブラジリアン・カルトは16世紀以来、アフリカから労働力として導入された奴隷によって持ち込まれた伝統的宗教とローマ・カトリックが融合した宗教であり、先住民[[インディオ]]の[[シャーマニズム]]の影響も見られる。アフロ・ブラジリアン・カルトでの「カルト」とは、「流派」という意味合いで使われる。 === ヨーロッパ諸国 === {{Main|セクト}} 「セクト」と「カルト」とは、ときに同義として扱われる。 また、[[フランス]]では[[反セクト法]]と通称される法律が制定されているが、ここで対象となる団体は、「フランス政府の規定による社会との軋轢を生む傾向のある団体」であり、宗教団体であるか否かは考慮されていない。 === 中国 === [[中国語]]では、[[邪教]]と呼ばれるが、日本で言う「邪教」とは異なる概念である。 中国当局によって「邪教」に指定されている集団がある。 {{main|邪教#中国|Category:中華人民共和国により邪教に認定された団体}} === 韓国 === 日本の宗教団体は反日政策を行っていた韓国政府からカルトを意味する「倭色宗教」と認定され布教や活動が禁止されていたが、[[1998年]]、[[金大中]]の日本文化受入れ解禁によって宗教団体も「倭色宗教」認定が解除され韓国国内で日本の宗教が布教できるようになった{{要出典|date=2015年8月}}。 === 日本 === [[日本]]においては、[[1990年]]頃より、[[統一教会]]信者の奪回・脱会を目的とした[[弁護士]]らからなる反「カルト」集団により用いられてマスコミにより広められた{{Sfn|櫻井義秀|1997|p=114}}。 [[1995年の日本|1995年]](平成7年)の[[オウム真理教事件]]以後、マスメディアで犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して用いられ社会的に認知された<ref name="tiezo"/><ref name="rinri"/>。1995-1996年に、マスコミがオウム真理教事件を連日報道する際に、この語を用いたセンセーショナルな記事や単行本が相次いで出版され{{Sfn|櫻井|2006|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}、修行に違法薬物を使用する・毒ガスによる無差別大量殺人を計画し実施する・大量の武器を所有製作する<ref>{{Cite|和書|author=|authorlink=|title=新宗教 教団・人物事典|date=2006-1-30|publisher=[[弘文堂]]|isbn=|ref=harv}}</ref>といった犯罪行為を犯すような反社会的な宗教集団を指す用語として<ref name="tiezo"/>、急速に広まった<ref name="jiten"/>。オウム真理教事件以後は、反社会的行為を行う[[詐欺]]的[[暴力]]的な宗教団体等の集団を呼んだことで、「真っ当ではない(反社会的な行動をとる)自己利益追求の宗教集団」というイメージが定着している<ref name="rinri">{{Cite journal|和書|author=|authorlink=|title=倫理用語集|date=2009|publisher=山川出版社|journal=|volume=|number=|naid=|pages=|ref=harv}}</ref>{{sfn|石井|2010|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}。 よって、現代では、社会に対して破壊的な行為をする集団を指す通俗用語となっている<ref name="jiten"/>。日本では戦後、国家機関によるカルトについての定義は一切存在しなかったが、[[2022年]](令和4年)12月09日の参院消費者問題特別委員会で、[[第2次岸田内閣 (改造)|岸田内閣]]の[[河野太郎]]消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、反社会的な集団である「カルト」に当たるとの認識を示した。政府は「社会的に問題がある団体」([[岸田文雄]]首相)との説明にとどめている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022120900681&g=pol |title=旧統一教会「カルトに該当」 河野担当相 |date=2022年12月9日 |accessdate=2023年1月18日 |publisher=時事通信}}</ref>。 また、裁判の判決理由において、オウム真理教を指して使用した例が確認できる<ref>{{cite 判例検索システム|事件名=損害賠償請求事件|法廷名=東京高等裁判所 第1民事部|事件番号=平成13(ネ)3067 |url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/105/020105_hanrei.pdf}} p.5</ref><ref>{{cite 判例検索システム|事件名=名誉毀損被告事件|法廷名=最高裁判所第一小法廷|事件番号=平成21(あ)360 |url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/704/038704_hanrei.pdf}} p.1</ref>。 現代の日本の宗教政策としては、「[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律]]」を適用した処分により、旧[[オウム真理教]](現・[[Aleph (宗教団体)|Aleph]]、[[ひかりの輪]]、[[山田らの集団]])が、長期的に[[臨検|立入検査]]を受けている([[2015年]]3月の時点において、19都道府県下延べ608か所(実数131か所)への検査の実施が公表され、麻原の写真や麻原・上祐の説法教材の多数の保管が確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/20150309tachiiri.html |title=立入検査の実施結果について |date=2015年3月10日 |accessdate=2015年3月15日 |publisher=公安調査庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/tachiiri20150205.html |title=立入検査の実施結果について |date=2015年2月9日 |accessdate=2015年3月15日 |publisher=公安調査庁}}</ref>。) 最近では、『カルト』や『カルト教団』の語が、[[新宗教]]全般に対する蔑称のように使用されることも多い<ref name="serikawa">{{Cite book |和書 |author=芹川博通 |title=現代人と宗教世界 |publisher=北樹出版 |date=2011-06 |page=193}}</ref>。 [[2022年]](令和4年)7月に奈良県で発生した[[安倍晋三銃撃事件|安倍晋三銃撃射殺事件]]では、逮捕された容疑者から犯行の動機として「[[世界平和統一家庭連合|統一教会]]への献金で家庭が破綻したことに対する恨み」という供述がなされ、改めて日本におけるカルトの問題が認知されることになった。 == 指摘・論争 == 現在、この言葉は宗教問題を指すとは限らず、宗教学者や神学者以外にも、[[臨床心理学]]、[[社会心理学]]、社会学等の観点により、反社会的な集団への入信から教化過程における多様な理論的な定義付けの試みがされ、「カルト論争」と呼ばれる。カルト論争は、各学問の前提条件やモデルが異なるという事情もあり、現在でも結論は得られていない。 === 宗教学者 === *カルト論研究を行う[[宗教学者]]の[[櫻井義秀]]は、マスメディアが消費するカルト論には否定的である。反カルト集団により「カルトにより[[マインドコントロール]]された」と言う主張も[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]と同様の手法であり、カルトと同様に反カルト集団が裁判の戦略として利用しているドグマであると主張している{{Sfn|櫻井義秀|1997|pp=114-115}}。また、言葉自体が[[統一教会]]信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反カルト集団により、総称的蔑称として、ないしは[[ラベル|レッテル]]貼りを意図して日本に紹介された概念である、特定団体を『カルト』であると言うことは、その団体が宗教的多様性を構成する一つの団体というよりも、一般市民に重大な危害を加える団体であるから、何らかの対処が必要だと主張することに等しいとする<ref>{{Cite journal |和書 |author=櫻井義秀 |title=「キャンパス内のカルト問題」を考える① |url=http://www.jbf.ne.jp/assets/files/pdf/feature/campus/campus615.pdf |format=PDF |publisher=全日本仏教会 |date=2015-12 |journal=全仏 |issue=615 |pages=4-5 |accessdate=2019-04-24}}</ref>。反カルト集団により、裁判戦術の「対抗的[[ドグマ]]」として使用された際、まるで、あたかも最新の[[心理学]]ないしは[[宗教学]]の研究結果であるかのように、マスコミに紹介されたとしている{{Sfn|櫻井義秀|1997|pp=114-115}}。 *キリスト教学者の[[芦名定道]]は『一般的に日本人は、「特定の既成宗教を主体的に信仰している」とも言えず、むしろ何らかの宗教儀式(例えば、冠婚葬祭など)に参加しても「自分は、無宗教である!」と思っている人が多い。そのため直接的な体験よりも、主に『マスコミを介した間接的な情報によって構成された印象([[刷り込み]]現象による影響)』で判断をする傾向にある<ref name="essence">{{Cite book |和書 |author=芦名定道|authorlink=芦名定道 |title=宗教学のエッセンス |publisher=[[北樹出版]] |date=1993年10月15日 |isbn=978-4893843241 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref>と自著で述べている。マスコミの提供する情報は、それが「視聴率を獲得するため」という特性から、当然に該当する宗教団体側から見て「報道内容は、不適切だ!」と思われる事も多く、日本の宗教像全般に多大なマイナス・イメージを生じさせている。日本では『カルト』の用法が、『マスコミのセンセーショナルなイメージ』と共に広まったが、メディアは事件報道が主体であり、良いニュースはあまり流さないため、反社会的な団体ではない新宗教へのマイナスイメージが形成されたという指摘もある<ref>{{Cite journal |和書|author=[[石井研士]]|year=2001|title=日本人の宗教行動|journal=宗教と人間の未来|serial=|publisher=[[白馬社]]|naid=|pages=34-37 |ref = harv}}</ref>。 *宗教学者の[[浅見定雄]](旧約聖書学者、[[東北学院大学]][[名誉教授]])によれば「「カルト」は厳密な学術用語としては放棄されています」「カルト問題は、宗教的問題と異なる[[社会問題]]だ」としている。{{要出典|date=2018-8}} *宗教学者の[[島薗進]]は、[[米本和広]]が「カルトとは、ある人物あるいは組織の教えに絶対的な価値を置き、現代社会が共有する価値観 - 財産・教育・結婚・知る権利などの基本的な人権や家族の信頼関係といった道徳観 - を否定する宗教」と定義を示したことに対し、不適切であると批判しており、罪のない集団を「カルト」と名指すことにつながる危険性を指摘している{{sfn|島薗|2001|pp=1-9}}。(ただし、以降、米本は、考えを変え、反カルト陣営の活動も問題視するようになる) *この語句には多義的な意味があるが、宗教や宗教団体に対して使用する場合は、個人の自由や尊厳を侵害し社会的(一般他者との人間関係)に重大な弊害を生じさせている集団、つまりは、反社会的な団体という意味である。個人的な自らの考えや価値観と異なる思想をもつ団体を排他したり蔑む目的で、教義や儀礼(儀式)が奇異に思えるなどの評価を指すために使うべき用語ではないとする見解もある<ref name="jiten">{{Cite book |和書|author=大貫隆|authorlink=大貫隆|author2=名取四郎|authorlink2=名取四郎|author3=宮本久雄|authorlink3=宮本久雄|author4=百瀬文晃|authorlink4=百瀬文晃|title=[[岩波キリスト教辞典]]|date=2002-6-10|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000802024|ref=harv}}</ref>。 *[[2009年]] - [[2010年]]に、[[公安調査庁]]が、旧・オウム真理教以外で、社会通念からかけ離れた特異な活動をしている宗教団体を「特異集団」と位置づけて、情報収集を行っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/kouan_naigai_naigai17_naigai17-04.html |title=内外情勢の回顧と展望(平成17年1月) |publisher= 公安調査庁 |accessdate=2019-04-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/kouan_naigai_naigai18_naigai18-04.html |title=内外情勢の回顧と展望(平成18年1月) |publisher= 公安調査庁 |accessdate=2019-04-24}}</ref>。 === 宗教団体 === ==== 統一教会 ==== 統一教会は、信者が脱退目的で拉致・監禁されることが相次いでいるとして、人権侵害であると抗議している。反カルト側の問題として、「親族による拉致監禁」により強制的な脱会カウンセリング受講<ref name=asahi1401>{{cite news|title=統一教会信徒、親族に勝訴 損害賠償訴訟|newspaper=朝日新聞|date=2014-01-29}}</ref>、[[拉致]][[監禁]]を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[米本和広]] |year=2003|title=書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇|journal=[[月刊現代|現代]]|serial=|publisher=講談社|naid=|pages= |ref = harv}}</ref>)、ディプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPTSDを発症{{Sfn|櫻井|2006|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}})、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とする侮辱、[[パワーハラスメント|パワハラ]]、[[アカデミックハラスメント|アカハラ]]<ref name=asahi1405>{{cite news|title=佐賀大と元学生が控訴|newspaper=朝日新聞|date=2014-05-11}}</ref><ref name=yomiuri1405>{{cite news|title=佐賀大が損害賠償の強制執行停止を申し立て|newspaper=読売新聞|date=2014-05-03}}</ref><ref name=saga1404>{{cite news|title=統一教会を侮辱、佐大側に賠償命令 福岡高裁|newspaper=佐賀新聞|date=2014-04-21}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=室生忠|authorlink=室生忠|title=大学の宗教迫害|date=2012-1-31|publisher=日新報道|isbn=9784817407368 |page=|ref=harv}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref>)で訴訟となり、信徒側が勝訴した事例も複数存在している。 {{main|統一教会信徒の拉致監禁問題}} ==== 神社本庁・日本会議 ==== {{観点|date=2022年11月|section=1}} 2016年、[[LITERA]]は、[[週刊金曜日]]の同年5月27日号に掲載された反[[神社本庁]]・反[[日本会議]]派[[神職]]のインタビュー記事や[[安丸良夫]]の著書『神々の明治維新』<ref>ISBN 9784004201038</ref>を引用する形で以下のように主張した。 {{Quotation| * (日本会議の"[[皇室]]と国民の「強い絆」が「伝統」だ"との主張に)[[江戸時代]]にはごく一部の知識階級を除き、「[[平安京|京都]]に[[天皇]]様がおられる」ということを庶民が知っていたか、はなはだ疑問だ。本来神社とは地域の平和と繁栄を祈るためのものであり、[[明治]]になって、日本という統一国家ができたので、その象徴として「天皇」を据えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://lite-ra.com/2016/06/post-2296.html |title= 現役の神社宮司が「日本会議や神社本庁のいう伝統は伝統じゃない」「改憲で全体主義に逆戻りする」と真っ向批判(1/3)|accessdate=2022-10-28 |author= 宮島みつや|date= 2016-06-01|publisher= LITERA}}</ref>。 * 神社本庁が「本宗」として仰ぎたてた[[伊勢神宮]]は、明治になるまで一度も天皇が参拝したことはなく、とくに江戸時代に庶民のあいだでブームとなった[[お蔭参り|伊勢参り]]は、皇室への信仰心によるものではなく、豊作を願ってのもので人気の“観光スポット”という意味合いが強かった。しかし、[[明治維新]]という軍事クーデターによって樹立した明治政府は、それまで民間の信仰であった神社神道を、天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「[[国家神道]]」に組み替えた。この神話的ヒエラルキーのもと国民を「天皇の赤子」として支配しようとした。その結果が、「世界無比の神国日本」による侵略戦争の肯定・積極的推進であった。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そにじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であったのだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://lite-ra.com/2016/06/post-2296_2.html |title= 現役の神社宮司が「日本会議や神社本庁のいう伝統は伝統じゃない」「改憲で全体主義に逆戻りする」と真っ向批判(2/3)|accessdate=2022-10-28 |author= 宮島みつや|date= 2016-06-01|publisher= LITERA}}</ref>}} ==== ひかりの輪 ==== オウム真理教後継組織[[Aleph (宗教団体)|アレフ]]から分派した[[ひかりの輪]]は、アレフは麻原崇拝のカルトであるが、ひかりの輪はそれとは異なると主張し、両団体を区別するよう主張している<ref>{{Cite web|和書|url=https://joyu.jp/hikarinowa/aum/04_1/0016_1.html |title=ひかりの輪とアレフの大きな違い |publisher=ひかりの輪 |accessdate=2019-04-24}}</ref>。 ==== エホバの証人 ==== [[エホバの証人]]は、「人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしています」と定義し、「エホバの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかなりません。エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1994121#h=8%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%A3%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B |title=エホバの証人はカルト教団ですか |website=ものみの塔 オンライン・ライブラリー |publisher=Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania |accessdate=2019-04-24}}</ref>。 ====創価学会==== フランス国民議会で、1995年に採択されたアラン・ジュスト報告書のリストに、統一教会やエホバの証人と共に、創価学会がカルト(セクト)として名前が掲載された。 同議会で同リストを撤回する決議は現在もされておらず、同リストは現在も有効なままである。 <ref> 出典:山口広編著 カルト宗教のトラブル対策 85頁</ref> この「カルト宗教のトラブル対策」は、2000年5月に出版されたものだが、その後、2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達では、1995年のセクト団体リストは使用しないとされている。<ref name="la circulaire du 25 février 2008 relative à la lutte contre les dérives sectaires">https://mobile.interieur.gouv.fr/content/download/7074/66983/file/INTA0800044C.pdf</ref> 2005年5月、当時のフランスの首相(ジャン・ピエール・ラファラン)が各閣僚と知事あてに発信した「セクトの逸脱対策に関する 2005年5月27日付通達」では「これまで行政当局の対策は、“この団体がセクトだ”というリストのみに基づいていたために、取締りと自由尊重のバランスを効果的に取ることができず、また法的根拠のしっかりとした対策もとれなかった。そこで、特定の団体をブラックリストに載せて危険視するのではなく、刑事犯および一般的な違法行為に相当するものを特定して処罰するために、信者の個人の自由を侵害する危険性をもつと思われる団体を監視することが決定された。」と掲載されている。<ref>https://www.legifrance.gouv.fr/jorf/id/JORFTEXT000000809117?page=1&pageSize=10&query=prmx0508471c&searchField=ALL&searchType=ALL&tab_selection=all&typePagination=DEFAULT</ref> 先の2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達には「この首相通達は、1995年のセクト団体リストは使用せず、事実に基づいた理論によって調査範囲を広げ、調査対象を既知の団体に限定しないよう、明確に強調している。」「頻繁に使用されている『セクト』という概念は、法的概念ではなく、事実に基づいた概念である。ゆえに、ここで重要なのは『公共秩序』なのである。」と言及されている。<ref name="la circulaire du 25 février 2008 relative à la lutte contre les dérives sectaires"/> 「Le Monde des Religions」2011年9月号の中でMIVILUDESのジョルジュ・フネック会長(当時)は、フランス創価学会運動体について、「MIVILUDESは、創価学会に関するセクト的行為の報告を五年以上前から受けていない。創価学会は、宗教活動と事業活動を分離しており、少なくともフランスにおいては問題組織ではない。」と述べている。<ref>「LeMonde des Religions」2011年9月号</ref> 創価学会自身は、現在、創価学会はセクトとして取り扱われていないと主張をしているが、FORUM21 通巻321号は反論している。なお、FORUM21は、「ISBNコード」、「定期刊行物コード」のいずれも付与されておらず、自費出版物に該当する。<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.sankeisha.com/knowledge/998.html| title = 自費出版と商業出版の違い| publisher = 三恵社| accessdate = 2023-08-03}}</ref> それによると、まず83年に行われた「ヴィヴィアン報告」について、創価学会としては「一人の脱会者による狂言を検証することなく鵜呑みにし、引用したもの」<ref>創価新報2022年9月21日付</ref>としているが、二度目の調査では、創価学会については慎重に調査が行われ、その結果に基づき、フランス国会は創価学会を「セクト」としたとされている。 この報告を受けて、96年2月には、内務大臣が「セクト的運動の枠内で人と財産に対してなされた侵害」に対策を求める通達を出し、そこには、95年国会報告のセクトリストが添付されており、創価学会も含まれていたという。 また、FORUM21の発行人の名誉毀損裁判で、創価学会側が証拠として提出した08年5月21日付のMIVILUDESルレ本部長(当時)の書簡には「1995年のリストにつきましては、首相令に則り、国家関係機関はそれを援用することはまったくありませんが、三権分立の原則により、それを改正もしくは解消することは、同機関の権限ではありません 」と記されているが、FORUM21では、今日に至るまでフランス国会は、95年報告のリストの廃棄宣言はしていないとしている。 さらに2022年8月25日付の聖教新聞に「08年と11年にも同国の政府機関は『創価学会には逸脱行為は認められない』と発表しているのです」とあるが、MIVILUDESはじめ、政府が公式に発表したことはないと主張している。 「セクトと子供」調査時のMIVILUDESルレ本部長が「最近私達は創価学会の雑誌の中で小学校の教員が『師』からうけた教えを子供たちとのコミュニケーションの中で実践していると自画自賛するのを読みました。唖然としてしまいました」と証言したとし、この証言は、創価学会が常に警戒の対象となっているという何よりの証拠であると述べている。2020年にはMIVILUDESに創価学会について10件の通報があったという。<ref>FORUM21 通巻321号 2022年10月号8・9・11頁</ref> == サブカルチャーでの用例 == {{出典の明記|date=2019年4月24日 (水) 07:45 (UTC)|section=1}} 少数の熱烈な信奉者を持つ[[映画]]や[[文学]]、[[音楽]]などの作品について、カルトという言葉が用いられることがしばしばある。[[カルト映画]]やカルト・ミュージックなどがその例である。特定分野の[[マニア|マニアック]]な内容を設問にしたクイズ番組『[[カルトQ]]』や[[ウッチャンナンチャン]]主演の映画作品『[[七人のおたく]] {{読み|subst=2015-03|cult seven|カルトセブン|rblang=en|lang=Ja}}』などがある。 == 関連する人物 == * [[スティーブン・ハッサン]] - 元[[統一教会]]幹部。アメリカの{{仮リンク|メンタルヘルスカウンセラー|en|Mental health counselor}}。体験に基づく自著において使用した用語を、[[浅見定雄]]が「破壊的カルト」と訳す<ref>{{Cite book |title=Combatting Cult Mind Control|Combatting Cult Mind Control |date=1998 |isbn=0-89281-243-5 |author=Steven Hassan |publisher=Park Street Press |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=スティーブン・ハッサン|translator=[[浅見定雄]] |title=マインド・コントロールの恐怖 |publisher=[[恒友出版]] |date=1993 |isbn=4765230716 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-24}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- この節には、本記事の出典として実際に使用されている文献のみをご記入下さい。--> {{参照方法|date=2015年9月|section=1 |title=浅見定雄『なぜカルト宗教は生まれるのか』を含め、同書よりも下側に記載されている文献には脚注がありません。}} * {{Cite book |和書|author=石井研士|authorlink=石井研士|title=プレステップ宗教学|date=2010|publisher=弘文堂 |series=Pre-step|isbn=9784335000782|pages= |ref={{SfnRef|石井|2010}} }} * {{Cite journal|和書|author=櫻井義秀 |title=新宗教の形成と社会変動 : 近・現代日本における新宗教研究の再検討 |journal=北海道大学文学部紀要 |issn=04376668 |publisher=北海道大學文學部 |year=1997 |month=sep |volume=46 |issue=1 |pages=111-194 |naid=120000952538 |url=https://hdl.handle.net/2115/33694 |ref={{Sfnref|櫻井義秀 |1997}} }} * {{Cite book |和書|author=櫻井義秀|authorlink=櫻井義秀|title=「カルト」を問い直す|date=2006-1-30|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784121502018 |page= |ref={{SfnRef|櫻井|2006}} }} * {{Cite book |和書 |author = 島薗進 |authorlink = 島薗進 |title = ポストモダンの新宗教 |date = 2001-09-25 |publisher = [[東京堂出版]] |isbn = 978-4490204476 |ref={{SfnRef|島薗|2001}} }} * {{Cite book |和書|author= 島薗進|authorlink=島薗進|year = 2006|chapter = 現代社会における宗教|editor1-first=進|editor1-last=島薗|editor2-first=健太|editor2-last=葛西|editor3-first=信吉|editor3-last=福嶋|editor4-first=聖|editor4-last=藤原|editor4-link=藤原聖子|title = 宗教学キーワード |publisher = [[有斐閣]]|series = 有斐閣双書|isbn=9784641058835|ref={{Sfnref|島薗進|2006}} }} * {{Cite book |和書 |author=竹下節子|authorlink=竹下節子 |title=カルトか宗教か |publisher=[[文藝春秋]] |date=1999-11 |isbn=978-4166600731 |ref={{SfnRef|竹下|1999}} }} * {{Cite book |和書|year = 2010|editor1-first=栄紀|editor1-last=星野|editor2-first=良正|editor2-last=池上|editor2-link=池上良正|editor3-first=雅子|editor3-last=氣多|editor3-link=氣多雅子|editor4-first=進|editor4-last=島薗|editor4-link=島薗進|editor5-first=賀雄|editor5-last=鶴岡|editor5-link=鶴岡賀雄|title = 宗教学事典 |publisher = [[丸善出版]]|isbn=9784621082553|ref={{Sfnref|星野ほか|2010}} }} * [[浅見定雄]]著 『なぜカルト宗教は生まれるのか』([[日本キリスト教団]]出版局 1997年3月) ISBN 978-4818402577 * [[ブライアン・R・ウィルソン]]著、[[池田昭]]訳『セクト―その宗教社会学(世界大学選書035) 』([[平凡社]] 1972年) ISBN 978-4-582-82135-2 * [[西田公昭]]著 『マインド・コントロールとは何か』([[紀伊國屋書店]] 1995年8月) ISBN 978-4314007139 * [[レオン・フェスティンガー]]、H.W. リーケン& [[スタンレー・シャクター]]著/水野博介(訳) 『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』([[勁草書房]] 1995年12月) ISBN 978-4326101061 <!-- 以下、反カルト集団側の出典。学者とは異なる扱いとして注意して用い、定義等では使用しない --> * [[マイケル・シャーマー]]著、[[岡田靖史]](訳) 『なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉奇妙な論理が蔓延するとき』([[早川書房]] 2003年8月) ISBN 978-4-15-050280-5 * スティーヴン・ハッサン著、[[浅見定雄]](訳) 『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版 1993年6月) ISBN 978-4765230711 * [[呉智英]]著 『危険な思想家』([[メディアワークス]]、1998年、[[双葉文庫]]、2000年11月) ISBN 978-4575711776 == 関連項目 == * [[政府の文書によってセクトと分類された団体一覧]] * [[洗脳]]/[[マインドコントロール]] * [[宗教テロ]] * [[偽装]] * [[日本脱カルト協会]] * [[やや日刊カルト新聞]] * [[反社会的勢力]] * [[邪教]] * [[偽装サークル]] * [[新宗教]]([[新興宗教]]) == 外部リンク == * [http://www.miviludes.gouv.fr/ 「MIVILUDES」 公式ウェブサイト] {{Fr icon}} * [http://www.legifrance.gouv.fr/ Legifrance:Le service public de l'accès au droit] {{Fr icon}} * [http://religion.sakura.ne.jp/ 川島堅二の宗教学研究室] {{ja icon}} {{DEFAULTSORT:かると}} [[Category:カルト|*]] [[Category:宗教社会学]] [[Category:宗教哲学の概念]] [[Category:社会心理学]] [[Category:ラテン語からの借用語]] [[Category:宗教テロ]] [[Category:社会問題]]
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地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に日本の東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。 地下鉄サリン事件では、東京の帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)の営業運転中の地下鉄車両内において、宗教団体のオウム真理教の信者らにより神経ガスのサリンが散布され、乗客及び職員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。 毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んで『オウム3大事件』 と表現されている。 1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現東京メトロ、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。 営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定通りのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置を執った。 3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数および官公庁の通勤のピークが8時10分ごろであると考えたためである。各実行犯は500〜600gの溶液(うちサリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線の車内はラッシュ時には非常に混雑するため、危険回避のために乗客が車両間を移動することは困難であったと推測されている。 この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは遠藤誠一を中心に土谷正実と中川智正の補佐によって生成したものが使われた。 事件から2日後の3月22日、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教祖の麻原が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸・石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。 東京地方裁判所は、首謀者の麻原をはじめ、サリン製造に関与した3人(遠藤・土谷・中川)、散布実行犯5人のうち林郁夫を除く4人 と、送迎役5人のうち新実智光 に死刑を言い渡した一方、新実と逃走中の高橋克也を除く送迎役3人(いずれも求刑は無期懲役)と井上嘉浩(求刑:死刑)には無期懲役が言い渡された。東京高等裁判所の控訴審では、井上 にも死刑判決が言い渡された。サリン製造役3人および実行役4人、新実・井上の計9人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2011年(平成23年)に遠藤の上告が棄却されたことをもって確定した。 2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた被疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑:同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。 2018年(平成30年)7月、事件に関与した死刑囚の死刑が執行された。 本事件を受けてサリン等による人身被害の防止に関する法律が制定されたほか、営団地下鉄の駅構内からゴミ箱が撤去されたが、2005年に中が見えるようになって復活した。 しかし、その後2010年代後半からまた駅構内からゴミ箱は撤去されている。 麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようとさまざまな兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実、中川智正らがこれを製造するにいたった。 教団では1990年(平成2年)の衆議院選惨敗のころから、村井秀夫や遠藤誠一らが生物兵器ボツリヌス菌の培養を試みていた。1992年(平成4年)にはロシアに進出し多数の兵器を購入、翌1993年(平成5年)には多種の兵器開発を強化し、93年5月には炭疽菌培養を開始し、6月には亀戸異臭事件が起こり、7月には東京で散布していた(のちに発覚)。8月にはサリンの生成の合成に成功、11月には池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした。1994年(平成6年)5月9日には滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、同年6月27日には松本サリン事件が発生し、ついに死者が発生した。同年8月には皇居周辺でのサリン散布を計画、同じころ土谷正実がVXの合成に成功してからは、教団に敵対する人物らを次々と襲撃していった。 またサリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行しており、1994年11月ころ、5工程からなるサリンの大量生成の方法を決め、第1工程では、溶媒としてN-ヘキサンを用い,三塩化リン、メタノールおよびNNジエチルアニリンを反応させて亜リン酸トリメチルを生成、第2工程では触媒としてヨウ素を用い、亜リン酸トリメチルからジメチルを生成し、第3工程ではジメチル及び五塩化リンからメチルホスホン酸ジクロライドを生成、第4工程ではジクロおよびフッ化ナトリウムを反応させてメチルホスホン酸ジフロライドを生成、第5工程でジクロ、ジフロおよびイソプロピルアルコールを反応させサリンを生成することとした。CIA文書によれば、三塩化リンと塩素を混合するサリン生成法はロシア軍独自のものであった。 1995年(平成7年)1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述)、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。 麻原は1995年1月17日の阪神・淡路大震災により警察の強制捜査はいったん遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。オウム内部では、1994年11月ごろから東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた。 このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫が東急ハンズで購入した液体噴霧器「六法煙書」を用いて、遠藤誠一が研究していたボツリヌストキシンの効果実験を行うよう指示。事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅に井上嘉浩、山形明、高橋克也が六法煙書を仕込んだ改造アタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した。ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。 井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいで菌が死滅したとの自説を唱えた。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている。 事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな」と強制捜査を話題に出していた。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)。 麻原は「今年の1月に関西大震災(阪神・淡路大震災) があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した。 総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男、広瀬健一、横山真人、豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。 また井上が島田裕巳宅爆弾事件、東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた。 謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、ほかに遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば...」の発言があったことを証言している。 青山「いつになったら四ツになって戦えるんでしょう」 麻原「11月ころかな」 村井「ええ、やっぱり11月になると輪宝ができるし」 麻原「そうかもしれないな。今年の1月に関西大震災 があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。やっぱりメッシュが悪かったのかな」 麻原「アーナンダ(井上)、何か無いのか」 井上「T(ボツリヌストキシン)ではなくて、妖術(サリン)だったらよかったんじゃないですか」 村井「地下鉄にサリンを撒けばいいんじゃないか」 麻原「それはパニックになるかもしれないな」 (サリンの揮発性について村井と麻原が会話) 麻原「アーナンダ、この方法でいけるか」 井上「尊師が言われるようにパニックになるかもしれませんが、私には判断できません。1月1日の新聞であったように、山梨県警と長野県警が動いているようですから、おそらく薬品の購入ルートはすべてばれているでしょう。ということは、こちらからサリン70トン造ろうとしていることは向こうも気づいていると思います。だから、向こうが、こちらがサリン70トン造りきったと思っているなら怖くて入って来られないでしょう。反対に、こちらがサリン70トン造りきっていないということを気づいているならば、堂々と入って来るでしょう。だとするならば、牽制の意味で硫酸か何かを撒いたらいいんじゃないでしょうか」 麻原「サリンじゃないとだめだ。アーナンダ、お前はもういい。マンジュシュリー(村井)、お前が総指揮だ」 村井「はい。今度正悟師になる4人を使いましょう」 麻原「クリシュナナンダ(林郁夫)を加えればいいんじゃないか」 麻原「(遠藤に対して)サリンはつくれるか」 遠藤「条件が整えば作れるのではないでしょうか」 麻原「新進党と創価学会がやったように見せかければいいんじゃないか。サリンを撒いたら強制捜査が来るか、来ないか、どう思うか」 石川「関係なしに来るでしょう」 井上「少しは遅れるかも知れないが、来ると決まっていれば来るでしょう」 石川「強制捜査が入ったら私が演説をしますので足などをピストルで撃ってもらって、そうすれば世間の同情を買えるのではないでしょうか」 麻原「クーチャン にやらせられるか」 井上「可能だと思います」 麻原「(石川に対して)お前はそこまでやる必要はない」 青山「島田さんのところに爆弾を仕掛けたら、世間の同情を買えるのではないでしょうか」 井上「それだったら青山(南青山総本部)に仕掛けたらいいんじゃないでしょうか」 麻原「それだったら、島田さんのところには爆弾を仕掛け、青山には火炎瓶を投げたらいいんじゃないか」 千代田線の我孫子発代々木上原行き(列車番号A725K、東日本旅客鉄道〈JR東日本〉常磐緩行線から直通)は、散布を林郁夫、送迎を新実智光 が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区所属の203系マト67編成であった。 マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅と北千住駅で時間を潰した後、先頭の1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車はそのまま走行したが、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを機に次々と被害者が発生し、霞ケ関駅で通報を受けた駅員が駆けつけ、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが、さらに被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。 丸ノ内線の池袋発荻窪行き(列車番号A777)は、散布を広瀬健一、送迎を北村浩一 が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成であった。 広瀬は2号車(02-216)に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅もしくは後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時にサリンを散布した。その後、中野坂上駅で降車した乗客が当該列車の運転士に「車内に急病の人がいる」と申し出た。同駅の駅員が重症者を搬出するとともにサリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客を乗せてそのまま池袋方面に折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では2人が死亡し、358人が重症を負った(2020年、後遺症により1人死亡)。 丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を横山真人、送迎役を外崎清隆 が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成であった。 横山は5号車(02-550)に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、この時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として折り返した。列車は運行を継続していたが、サリン散布から1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車では唯一死者が出なかった。 日比谷線の中目黒発東武動物公園行き(列車番号B711T、北千住駅から東武伊勢崎線(現在は「東武スカイツリーライン」の愛称で案内される)へ直通)は、散布役を豊田亨、送迎役を高橋克也 が担当した。当該編成は東武鉄道春日部検修区所属の20000型第11編成であった。 豊田は先頭車両(28811)に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、次の恵比寿駅進入時にサリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気づいた乗客が窓を開けたが複数名が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出発したため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は隣の霞ケ関駅まで走行して運行を中止した。この電車では2人が死亡し、532人が重症を負った(事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、のちにサリン中毒死と認定された)。なお、サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていたほか、当時共同通信社社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した。 日比谷線の北千住発中目黒行き(列車番号A720S)は、散布役を林泰男、送迎役を杉本繁郎 が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成)であった。 他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックのうち1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。林泰男は北千住7時43分発中目黒行きの3号車(03-310) に上野駅から乗車し、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出したが、この行動がサリンによる被害を拡大させる一因となった。 サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後、八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(このときの救出時の光景がテレビで中継された)。列車はただちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という臆測が続いた。 小伝馬町駅ではサリンのパックがホームに蹴り出されたことで、A720Sの後続列車である八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町の各駅で運転を見合わせた4列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、同駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させたあとに小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅には5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、同駅では4人が死亡した。 これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。 事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる」「これはポアだからな、分かるな」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』のマントラを1万回唱えなさい」と命じ、おはぎとオレンジジュースを渡した。 麻原「今回はごくろうだったな」 新実「ニュースで死者が出ていると言っています」 麻原「そうか」 麻原「これはポアだからな。わかるな。これから君たちは瞑想しなければならない。『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』という詞章を一万回唱えなさい。それが君たちの功徳になるから」 事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地・八丁堀・神谷町の各駅に消防車や警察車両など、緊急車両が多数送られた。次第に被害が拡大したため、8時35分には日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車およびホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線と丸ノ内線では不審物および刺激臭の通報のみで、さらに被害発生の確認が遅れたため、運行が継続された。 9時27分、営団地下鉄はすべての路線で全列車の運転見合わせを決定する(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線は有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。その一方で、都営地下鉄は運転を継続している。 被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。 大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになった。丸ノ内線と千代田線については、被災車両を車庫や引き込み線に引き上げたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)として運転を再開したが、自衛隊によるサリンの除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した。除染作業終了後はほぼ所定通りのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅は通過扱いとされた。 上記3路線以外は確認を終えた路線から順次運転を再開したが、全駅、全列車に警察官、警備員などが配置される異例の事態となった。 事件直後、前出の5列車以外の列車で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5列車以外での事件発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化するなどしたサリンは、他の駅や路線にも微細に拡散していった。 当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンの散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に入り被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が原因物質の特定にあたったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらにこの分析結果は、化学物質が原因の災害であることを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで時間を要した。その結果、消防隊員や警察官にも多数の二次被害が発生し、消防および救急隊員など消防職員の負傷者は135名にのぼったほか、警察官にも多数の負傷者を出した。また、現場で負傷者の除染が行われなかったために、搬送先の病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。 救急車の到着が遅れたため、一部の急病人は偶然通りかかった民間車両によって医療施設に搬送された。 警視庁には8時20分ごろ、日比谷線八丁堀駅駅員から「2名病人が出た」と110番通報があり、その後、他の駅からも「異臭がして病人が出ている」と相次いで通報が寄せられた。8時30分ごろ、築地三丁目15番1号を中心に警戒態勢、8時53分ごろには駅構内に入る場合は防毒マスク使用を義務づけられる命令を発令、8時58分ごろには東京23区内で全体G配備(全体ゲリラテロ配備)を発令した。動員数は最大限の人数を表す「甲号」とした。なお、乗客の証言等からこの時点では毒物テロのみならず、爆発物テロの可能性も含めて警戒するよう警視庁管制官から指示が下った。 また、機動隊を出動させ被害者の救助活動と警戒にあたった。このときに限りすべての急病人搬送に官民すべての車両の使用を許可した。 警察庁では9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監を指揮官に対策本部を設置し、警視総監が事件の指揮を執った。対策本部には警視庁刑事部長、警視庁警備部長、警視庁公安部長も招集された。 救出活動と並行しつつ警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し、現場検証を開始した。 警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官の検査によって、その毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明した。この情報は、11時から開かれた警視庁捜査第一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達された。 東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」との通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」との報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。 通報を受け、化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ、被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し、被害者の救助活動・救命活動を展開した。 この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動したほか、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では救急車が来ないか、来ても搬送が遅いという状況に陥った。 緊急に大量の被害者の受け入れは通常の医療施設では対応困難なものであるが、大きな被害が出た築地駅近くの聖路加国際病院は当時の日野原重明院長の方針により、大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと、無制限の被害者の受け入れを実施して被害者治療の拠点となった。また、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療はただちに中止となった。虎の門病院も、数名の重症被害者を集中治療室(ICU)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。 有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量に保管する種類の薬剤ではなかった。有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には2時間で2本が標準とされることもあり、被害がサリンによるものだと判明すると同時に東京都内での在庫が使い果たされてしまった。そのような中、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」との連絡を受けた名古屋市東区に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線の各営業所および病院・診療所にあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送するために、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松・静岡・新横浜の各駅のホームで、乗ってきた社員が直接在庫のPAMを受け渡して輸送するという緊急措置を執った。また、陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。 PAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し、羽田空港からは自動車でパトロールカー先導の輸送(道路交通法で、緊急車両認定を受けていない自動車でも、他の緊急車両の先導があれば緊急走行ができると定められているため)にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で「有機リン薬剤を作っている責任上、解毒剤も用意しておくのが責任」として毎年製造を続けていた。 当時、サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファクシミリで伝えたため、適切な治療の助けとなった。 この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。 警視庁科学捜査研究所の発表により、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。 陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウム真理教によるサリン攻撃であるとただちに判断していた。事件発生から29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、第101化学防護隊、および陸上自衛隊化学学校から教官数人が、事件後地下鉄内に残されたサリンの除去のため専門職として部隊創設後、初めて実働派遣された。 そのうち第1師団において、12時50分、鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長の杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ケ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3型(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。13時30分に霞ケ関駅に到着し、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)および除染作業を行った。 以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をしたあと、霞ケ関駅構内および駅長室に対し、付着したサリンを中和させる次亜塩素酸カルシウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現・松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。 本事件で都知事からの要請を受けて一番早く事件現場に駆けつけたのは、練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。 事件現場となった霞ケ関駅の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心 とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った。 また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院および衛生学校から医官21名および看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。 聖路加病院へ駆けつけた医官は直近に化学兵器対応の講習を含む幹部研修を受けており、現場派遣時にはその講習資料を持ち出していた。。先述の『対化学兵器治療マニュアル』はここから提供されており、原因の断定や治療方針の早期決定に役立った。なお当初は爆発事故として出動したため、後に日野原院長へ「毒ガス専門の医官が来た」と報告されたこの医官が専門資料を携え最も多くの被害者が運び込まれた聖路加病院に出動したことは偶然である。後にアメリカ軍とイスラエル軍は自衛隊から事件の聴取を行い、十数人の死者で済んだのは奇跡、と評している。 なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊 に対し非常呼集対応を行ったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊を派遣した。 在京キー局の中で、事件の速報コメントは日本テレビ『ルックルックこんにちは』の開始直後の8時30分、現場のお天気カメラ映像がもっとも早かったのが8時42分に、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。 新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで、事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。 事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(警視庁長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原の逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めてまったく察知していなかったアメリカ合衆国のCNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と誤って報じた。 事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。 目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる。そのほか、被害者は癌に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で死亡する被害者も少なくない。 また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、いまだに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。 裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には訴因変更により14人に絞っている。 作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。 ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。 その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。 2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。 教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25か所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リンなどの薬品が発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンを撒いた実行犯も特定できず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。 強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、 といった主張を唱えた。 事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった林郁夫を放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁警部補に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。このころにはすでに新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件などが相次いでいた。 4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。 地下鉄サリン事件は、当時の日本国内において最大級の無差別殺人行為となったほか、1994年(平成6年)に発生した松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。 一連のオウム真理教事件により、オウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕によって脱退者が相次ぎ、本事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下に減少した。オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、2000年にAleph(アレフ)に改組し活動を続けている。Aleph2代目代表で現ひかりの輪代表の上祐史浩は、本事件が起きた当時、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。公安審査委員会は破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定され、アメリカ合衆国国務省は現在もAlephをテロリストグループに指定している。 その他、地方自治体や賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を投じることとなった。 事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など比較的軽度のものから、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在のところ被害者への公的支援はほとんど行われていない。 本事件後、全国の多くの鉄道駅からごみ箱が撤去され、営団地下鉄では全車両のドアに「駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた。その後、2004年の民営化による東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出され、同時期に都営地下鉄にも拡大している。なお、同様のステッカーやアナウンスなどが他の鉄道事業者に波及するのは2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降であり、その後は各事業者で外観から中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月より設置されている。 地下鉄サリン事件被害者の会(高橋しずえ代表)は被害者の新規入会を一切認めていない。よって後遺症に苦しむ被曝被害者の現実が社会に伝わっていないという問題が発生している。 地下鉄サリン事件ではメチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)からサリンが作られた。検察側は、サリンを作るために中川が保管していたと主張。中川は「中和できなかったためにVXと一緒に井上が持っていたものがサリンの原料になった」と主張した。この点について井上は、「VXは預かっていたが他は知らない」と証言した。 中川によると、このジフロは1995年1月5日に村井秀夫とともにクシティガルバ棟を再点検した際にVXとともに発見されたもので、中川は体調が悪く土谷正実もサリン中毒、そのうえ防護服も処分していたため中和は断念し、保存されることになったという。 中川以外の裁判では検察側の主張が認められたが、中川の裁判では事実上中川の主張が認められ、ジフロが残っていた理由や誰が持っていたのかについては不明と認定された。裁判によって認定が異なり、結論が出ていない。 2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している。 これとは別に、警察が事前にサリンが撒かれることを知っていたのではないかという指摘も存在する。事件の2日後の3月22日に予定されていた教団施設への一斉捜索に備え、地下鉄サリン事件の直前の教団幹部の動きはすべて警察によって把握されていたはずだという。また、事件前日に自衛隊が朝霞駐屯地でガスマスクを着けてサリンに対応した捜索の演習を行っており、警察は地下鉄サリン事件が起こる前にオウムがサリンを持っていることを把握していたはずとも指摘されている。 また、1995年1月1日のスクープを出した元読売新聞記者三沢明彦によると、捜索は4月の統一地方選の後に予定されていたという。 検察側は、地下鉄サリン事件が警察による教団に対する大規模な強制捜査を攪乱する目的であったと主張した。裁判所は検察側の主張通り、「間近に迫った教団に対する強制捜査もなくなるだろうと考え」た、との認定をした。 しかし井上嘉浩は、麻原の動機は捜査攪乱ではなく、自分の予言の成就のためだったと主張した。井上は、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う」、2015年2月20日の高橋克也の公判においても「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言している。なお、リムジンに同乗していた側近も含めて多くの幹部信者たちが、「サリンを撒いたところで強制捜査がなくなるわけではないし、むしろ早まる可能性があると考えていた」と証言している。 井上は証言がよく揺れており、この証言について、井上が平田公判で初めて証言したとの批判があるが、実際は1996年11月8日の麻原公判で証言していると本人は主張している。 また別の意見として、土谷正実は麻原信仰を続けていたころ法廷で「サリンの散布で国家転覆はできない」「大量殺人が目的とすれば、私なら(サリンと比べて合成がはるかに簡単な)青酸を使う」と語った。 裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、ほかにも「(遠藤誠一に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする豊田亨に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。 死刑確定後も森達也らによって主張されているが、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると滝本太郎らに批判されている。このほか、運転手役の一人である杉本繁郎からもありえないと指摘されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に日本の東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地下鉄サリン事件では、東京の帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)の営業運転中の地下鉄車両内において、宗教団体のオウム真理教の信者らにより神経ガスのサリンが散布され、乗客及び職員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。", "title": "事件の概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んで『オウム3大事件』 と表現されている。", "title": "事件の概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現東京メトロ、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定通りのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置を執った。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数および官公庁の通勤のピークが8時10分ごろであると考えたためである。各実行犯は500〜600gの溶液(うちサリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線の車内はラッシュ時には非常に混雑するため、危険回避のために乗客が車両間を移動することは困難であったと推測されている。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは遠藤誠一を中心に土谷正実と中川智正の補佐によって生成したものが使われた。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "事件から2日後の3月22日、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教祖の麻原が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸・石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "東京地方裁判所は、首謀者の麻原をはじめ、サリン製造に関与した3人(遠藤・土谷・中川)、散布実行犯5人のうち林郁夫を除く4人 と、送迎役5人のうち新実智光 に死刑を言い渡した一方、新実と逃走中の高橋克也を除く送迎役3人(いずれも求刑は無期懲役)と井上嘉浩(求刑:死刑)には無期懲役が言い渡された。東京高等裁判所の控訴審では、井上 にも死刑判決が言い渡された。サリン製造役3人および実行役4人、新実・井上の計9人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2011年(平成23年)に遠藤の上告が棄却されたことをもって確定した。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた被疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑:同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)7月、事件に関与した死刑囚の死刑が執行された。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "本事件を受けてサリン等による人身被害の防止に関する法律が制定されたほか、営団地下鉄の駅構内からゴミ箱が撤去されたが、2005年に中が見えるようになって復活した。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、その後2010年代後半からまた駅構内からゴミ箱は撤去されている。", "title": "事件の流れ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようとさまざまな兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実、中川智正らがこれを製造するにいたった。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "教団では1990年(平成2年)の衆議院選惨敗のころから、村井秀夫や遠藤誠一らが生物兵器ボツリヌス菌の培養を試みていた。1992年(平成4年)にはロシアに進出し多数の兵器を購入、翌1993年(平成5年)には多種の兵器開発を強化し、93年5月には炭疽菌培養を開始し、6月には亀戸異臭事件が起こり、7月には東京で散布していた(のちに発覚)。8月にはサリンの生成の合成に成功、11月には池田大作サリン襲撃未遂事件を起こした。1994年(平成6年)5月9日には滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、同年6月27日には松本サリン事件が発生し、ついに死者が発生した。同年8月には皇居周辺でのサリン散布を計画、同じころ土谷正実がVXの合成に成功してからは、教団に敵対する人物らを次々と襲撃していった。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "またサリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行しており、1994年11月ころ、5工程からなるサリンの大量生成の方法を決め、第1工程では、溶媒としてN-ヘキサンを用い,三塩化リン、メタノールおよびNNジエチルアニリンを反応させて亜リン酸トリメチルを生成、第2工程では触媒としてヨウ素を用い、亜リン酸トリメチルからジメチルを生成し、第3工程ではジメチル及び五塩化リンからメチルホスホン酸ジクロライドを生成、第4工程ではジクロおよびフッ化ナトリウムを反応させてメチルホスホン酸ジフロライドを生成、第5工程でジクロ、ジフロおよびイソプロピルアルコールを反応させサリンを生成することとした。CIA文書によれば、三塩化リンと塩素を混合するサリン生成法はロシア軍独自のものであった。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述)、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "麻原は1995年1月17日の阪神・淡路大震災により警察の強制捜査はいったん遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。オウム内部では、1994年11月ごろから東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫が東急ハンズで購入した液体噴霧器「六法煙書」を用いて、遠藤誠一が研究していたボツリヌストキシンの効果実験を行うよう指示。事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅に井上嘉浩、山形明、高橋克也が六法煙書を仕込んだ改造アタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した。ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいで菌が死滅したとの自説を唱えた。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな」と強制捜査を話題に出していた。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "麻原は「今年の1月に関西大震災(阪神・淡路大震災) があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男、広瀬健一、横山真人、豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また井上が島田裕巳宅爆弾事件、東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、ほかに遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば...」の発言があったことを証言している。", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "青山「いつになったら四ツになって戦えるんでしょう」 麻原「11月ころかな」 村井「ええ、やっぱり11月になると輪宝ができるし」 麻原「そうかもしれないな。今年の1月に関西大震災 があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。やっぱりメッシュが悪かったのかな」 麻原「アーナンダ(井上)、何か無いのか」 井上「T(ボツリヌストキシン)ではなくて、妖術(サリン)だったらよかったんじゃないですか」 村井「地下鉄にサリンを撒けばいいんじゃないか」 麻原「それはパニックになるかもしれないな」 (サリンの揮発性について村井と麻原が会話) 麻原「アーナンダ、この方法でいけるか」 井上「尊師が言われるようにパニックになるかもしれませんが、私には判断できません。1月1日の新聞であったように、山梨県警と長野県警が動いているようですから、おそらく薬品の購入ルートはすべてばれているでしょう。ということは、こちらからサリン70トン造ろうとしていることは向こうも気づいていると思います。だから、向こうが、こちらがサリン70トン造りきったと思っているなら怖くて入って来られないでしょう。反対に、こちらがサリン70トン造りきっていないということを気づいているならば、堂々と入って来るでしょう。だとするならば、牽制の意味で硫酸か何かを撒いたらいいんじゃないでしょうか」 麻原「サリンじゃないとだめだ。アーナンダ、お前はもういい。マンジュシュリー(村井)、お前が総指揮だ」 村井「はい。今度正悟師になる4人を使いましょう」 麻原「クリシュナナンダ(林郁夫)を加えればいいんじゃないか」 麻原「(遠藤に対して)サリンはつくれるか」 遠藤「条件が整えば作れるのではないでしょうか」 麻原「新進党と創価学会がやったように見せかければいいんじゃないか。サリンを撒いたら強制捜査が来るか、来ないか、どう思うか」 石川「関係なしに来るでしょう」 井上「少しは遅れるかも知れないが、来ると決まっていれば来るでしょう」 石川「強制捜査が入ったら私が演説をしますので足などをピストルで撃ってもらって、そうすれば世間の同情を買えるのではないでしょうか」 麻原「クーチャン にやらせられるか」 井上「可能だと思います」 麻原「(石川に対して)お前はそこまでやる必要はない」 青山「島田さんのところに爆弾を仕掛けたら、世間の同情を買えるのではないでしょうか」 井上「それだったら青山(南青山総本部)に仕掛けたらいいんじゃないでしょうか」 麻原「それだったら、島田さんのところには爆弾を仕掛け、青山には火炎瓶を投げたらいいんじゃないか」", "title": "事件の計画" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "千代田線の我孫子発代々木上原行き(列車番号A725K、東日本旅客鉄道〈JR東日本〉常磐緩行線から直通)は、散布を林郁夫、送迎を新実智光 が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区所属の203系マト67編成であった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅と北千住駅で時間を潰した後、先頭の1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車はそのまま走行したが、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを機に次々と被害者が発生し、霞ケ関駅で通報を受けた駅員が駆けつけ、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが、さらに被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "丸ノ内線の池袋発荻窪行き(列車番号A777)は、散布を広瀬健一、送迎を北村浩一 が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成であった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "広瀬は2号車(02-216)に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅もしくは後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時にサリンを散布した。その後、中野坂上駅で降車した乗客が当該列車の運転士に「車内に急病の人がいる」と申し出た。同駅の駅員が重症者を搬出するとともにサリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客を乗せてそのまま池袋方面に折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では2人が死亡し、358人が重症を負った(2020年、後遺症により1人死亡)。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を横山真人、送迎役を外崎清隆 が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成であった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "横山は5号車(02-550)に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、この時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として折り返した。列車は運行を継続していたが、サリン散布から1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車では唯一死者が出なかった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日比谷線の中目黒発東武動物公園行き(列車番号B711T、北千住駅から東武伊勢崎線(現在は「東武スカイツリーライン」の愛称で案内される)へ直通)は、散布役を豊田亨、送迎役を高橋克也 が担当した。当該編成は東武鉄道春日部検修区所属の20000型第11編成であった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "豊田は先頭車両(28811)に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、次の恵比寿駅進入時にサリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気づいた乗客が窓を開けたが複数名が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出発したため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は隣の霞ケ関駅まで走行して運行を中止した。この電車では2人が死亡し、532人が重症を負った(事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、のちにサリン中毒死と認定された)。なお、サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていたほか、当時共同通信社社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日比谷線の北千住発中目黒行き(列車番号A720S)は、散布役を林泰男、送迎役を杉本繁郎 が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成)であった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックのうち1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。林泰男は北千住7時43分発中目黒行きの3号車(03-310) に上野駅から乗車し、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出したが、この行動がサリンによる被害を拡大させる一因となった。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後、八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(このときの救出時の光景がテレビで中継された)。列車はただちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という臆測が続いた。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "小伝馬町駅ではサリンのパックがホームに蹴り出されたことで、A720Sの後続列車である八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町の各駅で運転を見合わせた4列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、同駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させたあとに小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅には5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、同駅では4人が死亡した。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる」「これはポアだからな、分かるな」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』のマントラを1万回唱えなさい」と命じ、おはぎとオレンジジュースを渡した。", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "麻原「今回はごくろうだったな」 新実「ニュースで死者が出ていると言っています」 麻原「そうか」 麻原「これはポアだからな。わかるな。これから君たちは瞑想しなければならない。『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』という詞章を一万回唱えなさい。それが君たちの功徳になるから」", "title": "犯行" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地・八丁堀・神谷町の各駅に消防車や警察車両など、緊急車両が多数送られた。次第に被害が拡大したため、8時35分には日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車およびホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線と丸ノ内線では不審物および刺激臭の通報のみで、さらに被害発生の確認が遅れたため、運行が継続された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "9時27分、営団地下鉄はすべての路線で全列車の運転見合わせを決定する(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線は有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。その一方で、都営地下鉄は運転を継続している。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになった。丸ノ内線と千代田線については、被災車両を車庫や引き込み線に引き上げたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)として運転を再開したが、自衛隊によるサリンの除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した。除染作業終了後はほぼ所定通りのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅は通過扱いとされた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "上記3路線以外は確認を終えた路線から順次運転を再開したが、全駅、全列車に警察官、警備員などが配置される異例の事態となった。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "事件直後、前出の5列車以外の列車で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5列車以外での事件発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化するなどしたサリンは、他の駅や路線にも微細に拡散していった。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンの散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に入り被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が原因物質の特定にあたったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらにこの分析結果は、化学物質が原因の災害であることを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで時間を要した。その結果、消防隊員や警察官にも多数の二次被害が発生し、消防および救急隊員など消防職員の負傷者は135名にのぼったほか、警察官にも多数の負傷者を出した。また、現場で負傷者の除染が行われなかったために、搬送先の病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "救急車の到着が遅れたため、一部の急病人は偶然通りかかった民間車両によって医療施設に搬送された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "警視庁には8時20分ごろ、日比谷線八丁堀駅駅員から「2名病人が出た」と110番通報があり、その後、他の駅からも「異臭がして病人が出ている」と相次いで通報が寄せられた。8時30分ごろ、築地三丁目15番1号を中心に警戒態勢、8時53分ごろには駅構内に入る場合は防毒マスク使用を義務づけられる命令を発令、8時58分ごろには東京23区内で全体G配備(全体ゲリラテロ配備)を発令した。動員数は最大限の人数を表す「甲号」とした。なお、乗客の証言等からこの時点では毒物テロのみならず、爆発物テロの可能性も含めて警戒するよう警視庁管制官から指示が下った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、機動隊を出動させ被害者の救助活動と警戒にあたった。このときに限りすべての急病人搬送に官民すべての車両の使用を許可した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "警察庁では9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監を指揮官に対策本部を設置し、警視総監が事件の指揮を執った。対策本部には警視庁刑事部長、警視庁警備部長、警視庁公安部長も招集された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "救出活動と並行しつつ警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し、現場検証を開始した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官の検査によって、その毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明した。この情報は、11時から開かれた警視庁捜査第一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」との通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」との報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "通報を受け、化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ、被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し、被害者の救助活動・救命活動を展開した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動したほか、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では救急車が来ないか、来ても搬送が遅いという状況に陥った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "緊急に大量の被害者の受け入れは通常の医療施設では対応困難なものであるが、大きな被害が出た築地駅近くの聖路加国際病院は当時の日野原重明院長の方針により、大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと、無制限の被害者の受け入れを実施して被害者治療の拠点となった。また、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療はただちに中止となった。虎の門病院も、数名の重症被害者を集中治療室(ICU)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量に保管する種類の薬剤ではなかった。有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には2時間で2本が標準とされることもあり、被害がサリンによるものだと判明すると同時に東京都内での在庫が使い果たされてしまった。そのような中、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」との連絡を受けた名古屋市東区に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線の各営業所および病院・診療所にあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送するために、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松・静岡・新横浜の各駅のホームで、乗ってきた社員が直接在庫のPAMを受け渡して輸送するという緊急措置を執った。また、陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "PAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し、羽田空港からは自動車でパトロールカー先導の輸送(道路交通法で、緊急車両認定を受けていない自動車でも、他の緊急車両の先導があれば緊急走行ができると定められているため)にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で「有機リン薬剤を作っている責任上、解毒剤も用意しておくのが責任」として毎年製造を続けていた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "当時、サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファクシミリで伝えたため、適切な治療の助けとなった。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "警視庁科学捜査研究所の発表により、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウム真理教によるサリン攻撃であるとただちに判断していた。事件発生から29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、第101化学防護隊、および陸上自衛隊化学学校から教官数人が、事件後地下鉄内に残されたサリンの除去のため専門職として部隊創設後、初めて実働派遣された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "そのうち第1師団において、12時50分、鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長の杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ケ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3型(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。13時30分に霞ケ関駅に到着し、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)および除染作業を行った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をしたあと、霞ケ関駅構内および駅長室に対し、付着したサリンを中和させる次亜塩素酸カルシウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現・松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "本事件で都知事からの要請を受けて一番早く事件現場に駆けつけたのは、練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "事件現場となった霞ケ関駅の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心 とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院および衛生学校から医官21名および看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "聖路加病院へ駆けつけた医官は直近に化学兵器対応の講習を含む幹部研修を受けており、現場派遣時にはその講習資料を持ち出していた。。先述の『対化学兵器治療マニュアル』はここから提供されており、原因の断定や治療方針の早期決定に役立った。なお当初は爆発事故として出動したため、後に日野原院長へ「毒ガス専門の医官が来た」と報告されたこの医官が専門資料を携え最も多くの被害者が運び込まれた聖路加病院に出動したことは偶然である。後にアメリカ軍とイスラエル軍は自衛隊から事件の聴取を行い、十数人の死者で済んだのは奇跡、と評している。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊 に対し非常呼集対応を行ったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊を派遣した。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "在京キー局の中で、事件の速報コメントは日本テレビ『ルックルックこんにちは』の開始直後の8時30分、現場のお天気カメラ映像がもっとも早かったのが8時42分に、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで、事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(警視庁長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原の逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めてまったく察知していなかったアメリカ合衆国のCNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と誤って報じた。", "title": "緊急処置" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる。そのほか、被害者は癌に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で死亡する被害者も少なくない。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、いまだに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には訴因変更により14人に絞っている。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。", "title": "被害者" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25か所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リンなどの薬品が発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンを撒いた実行犯も特定できず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "といった主張を唱えた。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった林郁夫を放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁警部補に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。このころにはすでに新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件などが相次いでいた。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "地下鉄サリン事件は、当時の日本国内において最大級の無差別殺人行為となったほか、1994年(平成6年)に発生した松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一連のオウム真理教事件により、オウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕によって脱退者が相次ぎ、本事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下に減少した。オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、2000年にAleph(アレフ)に改組し活動を続けている。Aleph2代目代表で現ひかりの輪代表の上祐史浩は、本事件が起きた当時、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。公安審査委員会は破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定され、アメリカ合衆国国務省は現在もAlephをテロリストグループに指定している。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "その他、地方自治体や賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を投じることとなった。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など比較的軽度のものから、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在のところ被害者への公的支援はほとんど行われていない。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "本事件後、全国の多くの鉄道駅からごみ箱が撤去され、営団地下鉄では全車両のドアに「駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた。その後、2004年の民営化による東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出され、同時期に都営地下鉄にも拡大している。なお、同様のステッカーやアナウンスなどが他の鉄道事業者に波及するのは2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降であり、その後は各事業者で外観から中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月より設置されている。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "地下鉄サリン事件被害者の会(高橋しずえ代表)は被害者の新規入会を一切認めていない。よって後遺症に苦しむ被曝被害者の現実が社会に伝わっていないという問題が発生している。", "title": "余波" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "地下鉄サリン事件ではメチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)からサリンが作られた。検察側は、サリンを作るために中川が保管していたと主張。中川は「中和できなかったためにVXと一緒に井上が持っていたものがサリンの原料になった」と主張した。この点について井上は、「VXは預かっていたが他は知らない」と証言した。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "中川によると、このジフロは1995年1月5日に村井秀夫とともにクシティガルバ棟を再点検した際にVXとともに発見されたもので、中川は体調が悪く土谷正実もサリン中毒、そのうえ防護服も処分していたため中和は断念し、保存されることになったという。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "中川以外の裁判では検察側の主張が認められたが、中川の裁判では事実上中川の主張が認められ、ジフロが残っていた理由や誰が持っていたのかについては不明と認定された。裁判によって認定が異なり、結論が出ていない。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "これとは別に、警察が事前にサリンが撒かれることを知っていたのではないかという指摘も存在する。事件の2日後の3月22日に予定されていた教団施設への一斉捜索に備え、地下鉄サリン事件の直前の教団幹部の動きはすべて警察によって把握されていたはずだという。また、事件前日に自衛隊が朝霞駐屯地でガスマスクを着けてサリンに対応した捜索の演習を行っており、警察は地下鉄サリン事件が起こる前にオウムがサリンを持っていることを把握していたはずとも指摘されている。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "また、1995年1月1日のスクープを出した元読売新聞記者三沢明彦によると、捜索は4月の統一地方選の後に予定されていたという。", "title": "裁判で未解決の問題" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "検察側は、地下鉄サリン事件が警察による教団に対する大規模な強制捜査を攪乱する目的であったと主張した。裁判所は検察側の主張通り、「間近に迫った教団に対する強制捜査もなくなるだろうと考え」た、との認定をした。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "しかし井上嘉浩は、麻原の動機は捜査攪乱ではなく、自分の予言の成就のためだったと主張した。井上は、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う」、2015年2月20日の高橋克也の公判においても「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言している。なお、リムジンに同乗していた側近も含めて多くの幹部信者たちが、「サリンを撒いたところで強制捜査がなくなるわけではないし、むしろ早まる可能性があると考えていた」と証言している。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "井上は証言がよく揺れており、この証言について、井上が平田公判で初めて証言したとの批判があるが、実際は1996年11月8日の麻原公判で証言していると本人は主張している。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "また別の意見として、土谷正実は麻原信仰を続けていたころ法廷で「サリンの散布で国家転覆はできない」「大量殺人が目的とすれば、私なら(サリンと比べて合成がはるかに簡単な)青酸を使う」と語った。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、ほかにも「(遠藤誠一に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする豊田亨に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "死刑確定後も森達也らによって主張されているが、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると滝本太郎らに批判されている。このほか、運転手役の一人である杉本繁郎からもありえないと指摘されている。", "title": "異説" } ]
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に日本の東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。
{{Pathnav|オウム真理教|オウム真理教事件|frame=1}} {{Infobox 民間人の攻撃 |名称 = 地下鉄サリン事件 |画像 = Tokyo Subway Sarin Atack 1995-03-20.jpg |脚注 = 事件発生時の[[築地駅]]前 |場所 = {{JPN}}・[[東京都]]<br>[[帝都高速度交通営団]]<br>(現在の[[東京地下鉄|東京メトロ]])の一部路線 |日付 = [[1995年]][[3月20日]] |標的 = 営団地下鉄(現:東京メトロ)[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]・[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]・[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の乗客および乗員・駅員など |手段 = 地下鉄の列車に[[サリン]]を撒くことによる化学テロ・[[宗教テロ]] |兵器 = [[サリン]] |死亡 = 14人 |負傷 = 約6,300人<ref name="47news2010-03-11" /> |[[サリン]]への対処 = [[自衛隊]]の化学科部隊による中和剤の[[散布]]による除染 |犯人 = [[オウム真理教]]<br>首謀者:[[麻原彰晃]]<br>総括役:[[村井秀夫]]<br>調整役:[[井上嘉浩]]<br>実行犯(散布役・送迎役):<br>[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]・[[新実智光]]<br>[[広瀬健一]]・[[北村浩一]]<br>[[横山真人]]・[[外崎清隆]]<br>[[豊田亨]]・[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]<br>[[林泰男]]・[[杉本繁郎]]<br>サリン製造役:[[遠藤誠一]]・[[土谷正実]]・[[中川智正]]<br>その他:女性信者2名 |動機 = 教団への[[捜査]]の撹乱と[[首都圏 (日本)|首都圏]]の混乱 |対処 = 麻原彰晃らに死刑判決および執行 }} '''地下鉄サリン事件'''(ちかてつ[[サリン]]じけん)は、[[1995年]]([[平成]]7年)[[3月20日]]に[[日本]]の[[東京都]]で発生した同時多発[[テロリズム|テロ事件]]である。[[警察庁]]による正式名称は、'''地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件'''(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)<ref group="注">[[警察白書]]にある表記。</ref>。日本国外では「{{lang-en-short|Tokyo Sarin Attack}}」と呼ばれることがある<ref>[https://www.bbc.com/news/world-asia-43395483 Japan executes seven cult leaders behind Tokyo Sarin attacks - BBC NEWS]</ref>。 == 事件の概要 == 地下鉄サリン事件では、東京の[[帝都高速度交通営団]](現在の[[東京地下鉄]])の営業運転中の[[地下鉄]]車両内において、[[宗教団体]]の[[オウム真理教]]の信者らにより[[神経ガス]]の[[サリン]]が散布され、乗客及び職員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に[[化学兵器]]が使用されるという世界でも稀に見る大都市圏における[[化学兵器]]を利用した[[無差別テロ|無差別テロ事件]]であった。 [[毎日新聞]]では、[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]、[[松本サリン事件]]と並んで『'''オウム3大事件'''』<ref>[https://web.archive.org/web/20120605154419/http://mainichi.jp/graph/select/aumzusetsu/001.html オウム全公判終結(2011年11月) - 毎日jp]</ref> と表現されている。 == 事件の流れ == === 事件当日 === 1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現東京メトロ、以下営団地下鉄)[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]で各2編成、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布された。乗客や駅員ら14人<ref group="注">行政の死者数認定は13人であるが、司法の死者数認定では12人である。これは事件発生翌日に銭湯で倒れ心筋梗塞で死亡した76歳男性の死について「サリン中毒死とは言えない」として殺人未遂で起訴したためである。後述の訴因変更後には、殺人未遂の被害者からも除外された。その後、2020年3月10日にサリンの後遺症により更に1人が死亡した。</ref>が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。 営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定通りの[[ダイヤグラム|ダイヤ]]で運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置を執った。 3月20日は[[月曜日]]で、事件は平日朝の[[ラッシュ時|ラッシュアワー]]のピーク時に発生した。これは[[村井秀夫]]と[[井上嘉浩]]が乗客数および官公庁の通勤のピークが8時10分ごろであると考えたためである<ref>降幡賢一『オウム法廷2下』 p.256, 268</ref><ref name="bengo">[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/20031030b_ti.html オウム裁判対策協議会/サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨]</ref>。各実行犯は500〜600gの溶液(うちサリンは35%程度)の袋詰めを2つ、[[林泰男]]だけは3つ運び、[[犯人]]は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた[[傘]]を使い、袋を数回突いて下車<ref name="hanketu">[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/trial/4-6.html 松本智津夫被告 法廷詳報告 林郁夫被告公判] [[カナリヤの会]]</ref>。それぞれの犯人が共犯者の用意した[[自動車]]で逃走した。これらの路線の車内はラッシュ時には非常に混雑するため、危険回避のために乗客が車両間を移動することは困難であったと推測されている。 この事件は教祖の[[麻原彰晃]]が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは[[遠藤誠一]]を中心に[[土谷正実]]と[[中川智正]]の補佐によって生成したものが使われた。 === オウムの関与判明後 === 事件から2日後の[[3月22日]]、[[警視庁]]はオウム真理教に対する[[強制捜査]]を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、[[5月16日]]に教祖の麻原が事件の[[正犯|首謀者]]として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・[[青山吉伸]]・[[石川公一]]の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の[[共謀]]が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。 [[東京地方裁判所]]は、首謀者の麻原をはじめ、サリン製造に関与した3人(遠藤・土谷・中川)、散布実行犯5人のうち林郁夫を除く4人<ref name="no4" group="注">林郁夫は[[自首]]した上で事件の詳しい内容などを自供したことが考慮され、検察側が死刑求刑を見送り、求刑通り第一審・東京地方裁判所での無期懲役が確定した。</ref> と、送迎役5人のうち新実智光<ref name="no5" group="注">新実は本事件以前にも[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]や[[松本サリン事件]]などに関与しており、[[公証人役場事務長逮捕監禁致死事件]]を除く全死亡事件での被害者の死亡への関与が認定された。そのため、無期懲役が求刑された他の送迎役4人とは異なり死刑が求刑され、2010年1月19日に最高裁で上告棄却、求刑通り死刑判決が確定した。</ref> に[[日本における死刑|死刑]]を言い渡した一方、新実と逃走中の[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]を除く送迎役3人(いずれも求刑は無期懲役)と井上嘉浩<ref name="no6" group="注"/>(求刑:死刑)には無期懲役が言い渡された。[[東京高等裁判所]]の[[控訴|控訴審]]では、井上<ref name="no6" group="注">第一審・東京地方裁判所では「本事件については連絡役に留まる」として死刑求刑に対し無期懲役判決を受けたが、控訴審では「現場指揮者ではないが総合調整役として無差別大量殺人に重要な役割を担った」として一審判決が破棄され死刑判決を受けた。</ref> にも死刑判決が言い渡された。サリン製造役3人および実行役4人、新実・井上の計9人に言い渡された死刑判決はいずれも[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で、[[2011年]](平成23年)に遠藤の[[上告]]が[[棄却]]されたことをもって確定した。 [[2012年]](平成24年)[[6月15日]]、この事件に関与したとして[[日本における指名手配#特別手配|特別指名手配]]されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた[[被疑者]]は全員逮捕された<!--平田信の指名手配容疑は「公証人役場事務長逮捕監禁致死事件」であり、「地下鉄サリン事件」では指名手配されていないため、「この事件で平田信が指名手配」旨の記載は不可とします。-->。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑:同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。 [[2018年]](平成30年)[[7月]]、事件に関与した死刑囚の死刑が執行された。 本事件を受けて[[サリン等による人身被害の防止に関する法律]]が制定されたほか、営団地下鉄の駅構内から[[ゴミ箱]]が撤去されたが、[[2005年]]に中が見えるようになって復活した。 しかし、その後2010年代後半からまた駅構内からゴミ箱は撤去されている。 == 事件の計画 == === 生物兵器・化学兵器の開発状況 === {{See|オウム真理教#沿革|オウム真理教の兵器}} 麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようとさまざまな兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実、中川智正らがこれを製造するにいたった。 教団では[[1990年]](平成2年)の[[第39回衆議院議員総選挙|衆議院選]]惨敗のころから、村井秀夫や遠藤誠一らが生物兵器[[ボツリヌス菌]]の培養を試みていた。[[1992年]](平成4年)には[[ロシア]]に進出し多数の兵器を購入、翌[[1993年]](平成5年)には多種の兵器開発を強化し、93年[[5月]]には[[炭疽菌]]培養を開始し、[[6月]]には[[亀戸異臭事件]]が起こり、[[7月]]には東京で散布していた(のちに発覚)<ref name="wa141" />。[[8月]]にはサリンの生成の合成に成功、[[11月]]には[[池田大作サリン襲撃未遂事件]]を起こした<ref name="wa141" />。[[1994年]](平成6年)[[5月9日]]には[[滝本太郎弁護士サリン襲撃事件]]を起こし、同年[[6月27日]]には松本サリン事件が発生し、ついに死者が発生した。同年8月には[[皇居]]周辺でのサリン散布を計画、同じころ土谷正実が[[VXガス|VX]]の合成に成功してからは、教団に敵対する人物らを次々と襲撃していった。 またサリン70t製造を目指して[[サリンプラント建設事件|サリンプラント計画が進行しており]]、1994年11月ころ、5工程からなるサリンの大量生成の方法を決め、第1工程では、溶媒として[[ヘキサン|N-ヘキサン]]を用い,[[三塩化リン]]、[[メタノール]]および[[ジメチルアニリン|NNジエチルアニリン]]を反応させて[[亜リン酸トリメチル]]を生成、第2工程では[[触媒]]として[[ヨウ素]]を用い、[[亜リン酸トリメチル]]から[[ジメチル]]を生成し、第3工程ではジメチル及び[[五塩化リン]]から[[メチルホスホン酸ジクロリド|メチルホスホン酸ジクロライド]]を生成、第4工程ではジクロおよび[[フッ化ナトリウム]]を反応させて[[メチルホスホニルジフルオリド|メチルホスホン酸ジフロライド]]を生成、第5工程でジクロ、ジフロおよび[[イソプロピルアルコール]]を反応させサリンを生成することとした<ref name="wa141" />。CIA文書によれば、三塩化リンと塩素を混合するサリン生成法は[[ロシア連邦軍|ロシア軍]]独自のものであった{{Sfn|一橋|2018|p=176-7}}。 === 迫る強制捜査 === [[ファイル:サティアン.jpg|サムネイル|上九一色村のオウム真理教施設(1996年9月8日撮影)]] 1995年(平成7年)[[1月1日]]、[[読売新聞]]朝刊が「[[上九一色村]]でのサリン残留物検出」をスクープ<ref name=":0">{{Cite book|title=軍師・佐々淳行|date=2007-10-10|publisher=文藝春秋|pages=253-256|year=}}</ref><ref name="yomi950101">[https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/feature/scooplist.html スクープ記事の記録 読売新聞]</ref>。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは[[神殿]]に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH<sub>3</sub>P(O)F<sub>2</sub>(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、[[#事件で使用されたサリンの原料は誰が保管していたのか|後述]])<ref name="hanketu" />、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。 麻原は1995年[[1月17日]]の[[阪神・淡路大震災]]により警察の強制捜査はいったん遠のいたと考えていたが、同年2月末の[[公証人役場事務長逮捕監禁致死事件]]でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた{{refnest|group=注|既に同年1月の時点で警視庁・山梨県県警合同で私服刑事300人による上九一色村サティアンの捜索が計画されていたが、相談を受けた[[佐々淳行]]が装備が軽装であることを指摘して化学防護や銃撃等に備えた大警備実施を主張し、その準備のため延期となった<ref name=":0" />。}}。オウム内部では、1994年11月ごろから東京の現職警官信者からの情報として[[強制捜査]]の噂が流れていた<ref>毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉 』 2002年 p.202</ref>。[[警視庁公安部]]内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた<ref name="inue">[http://www17.plala.or.jp/compassion/shuki.html 手記 - Compassion カルトを抜けて罪と向き合う 井上嘉浩]</ref>。 === ボツリヌストキシンによる地下鉄テロ未遂(3月15日) === このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫が[[ハンズ (小売業)|東急ハンズ]]で購入した液体噴霧器「六法煙書」を用いて、[[遠藤誠一]]が研究していた[[ボツリヌストキシン]]の効果実験を行うよう指示。{{Anchors|霞ケ関駅アタッシュケース事件}}事件5日前の3月15日に[[営団地下鉄]][[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]に[[井上嘉浩]]、[[山形明]]、[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]が六法煙書を仕込んだ改造[[アタッシェケース]]を3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した<ref name="hanketu" /><ref>[[降幡賢一]]『オウム法廷2(下)』 p.255</ref><ref name="kemuri" />。ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。 井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいで菌が死滅したとの自説を唱えた<ref name="kemuri">門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴』 p.299-312</ref>。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている<ref>降幡賢一『オウム法廷12』 p.292</ref><ref name="spo">[https://web.archive.org/web/20170731150645/http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/228514/ 平田被告が明かしたオウム「場当たりテロ」の数々 - 東スポWeb]</ref>。 === リムジン謀議(3月18日) === {{Anchors|リムジン謀議}} 事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ」「なあ、アパーヤージャハ([[青山吉伸]])、さっきマスコミの動きが[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|波野村の強制捜査のとき]]と一緒だって言ったよな」と強制捜査を話題に出していた<ref name="wa141"/>。祝賀会終了後の18日未明、[[上九一色村]]に帰る麻原ら幹部(麻原、[[村井秀夫]]・[[遠藤誠一]]・[[井上嘉浩]]・[[青山吉伸]]・[[石川公一]])を乗せた[[リムジン]]において、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)<ref name="hh121">降幡賢一『オウム法廷2 下』 p.121</ref>。 麻原は「今年の1月に[[阪神・淡路大震災|関西大震災(阪神・淡路大震災)]]<ref group="注" name = 阪神大震災>[[阪神・淡路大震災]]の意。1995年3月当時は報道機関によって呼称がまちまちだった。</ref> があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した<ref name="hanketu" /><ref name="hh121"/>。 総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男、[[広瀬健一]]、[[横山真人]]、[[豊田亨]]を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。 また井上が[[島田裕巳宅爆弾事件]]、[[オウム真理教東京総本部火炎瓶投擲事件|東京総本部火炎瓶事件]]を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された<ref name="hanketu" /><ref>『オウム真理教大辞典』(東京キララ社、[[2003年]] p.32</ref>。[[石川公一]]も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた<ref name="hh121" />。 謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、ほかに遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば…」の発言があったことを証言している<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録7』 p.228</ref>。 {{Quotation| '''青山'''「いつになったら四ツになって戦えるんでしょう」<br> '''麻原'''「11月ころかな」<br> '''村井'''「ええ、やっぱり11月になると[[オウム真理教の兵器|輪宝]]ができるし」<br> '''麻原'''「そうかもしれないな。今年の1月に[[阪神・淡路大震災|関西大震災]]<ref group="注" name = 阪神大震災/> があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。やっぱりメッシュが悪かったのかな」<br> '''麻原'''「アーナンダ(井上)、何か無いのか」<br> '''井上'''「T([[ボツリヌス菌|ボツリヌストキシン]])ではなくて、妖術([[サリン]])だったらよかったんじゃないですか」<br> '''村井'''「地下鉄にサリンを撒けばいいんじゃないか」<br> '''麻原'''「それはパニックになるかもしれないな」<br> (サリンの揮発性について村井と麻原が会話)<br> '''麻原'''「アーナンダ、この方法でいけるか」<br> '''井上'''「尊師が言われるようにパニックになるかもしれませんが、私には判断できません。1月1日の新聞であったように、山梨県警と長野県警が動いているようですから、おそらく薬品の購入ルートはすべてばれているでしょう。ということは、こちらから[[サリンプラント建設事件|サリン70トン造ろうとしていること]]は向こうも気づいていると思います。だから、向こうが、こちらがサリン70トン造りきったと思っているなら怖くて入って来られないでしょう。反対に、こちらがサリン70トン造りきっていないということを気づいているならば、堂々と入って来るでしょう。だとするならば、牽制の意味で硫酸か何かを撒いたらいいんじゃないでしょうか」<br> '''麻原'''「サリンじゃないとだめだ。アーナンダ、お前はもういい。マンジュシュリー(村井)、お前が総指揮だ」<br> '''村井'''「はい。今度正悟師になる4人を使いましょう」<br> '''麻原'''「クリシュナナンダ([[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]])を加えればいいんじゃないか」<br> '''麻原'''「(遠藤に対して)サリンはつくれるか」<br> '''遠藤'''「条件が整えば作れるのではないでしょうか」<br> '''麻原'''「[[新進党]]と[[創価学会]]がやったように見せかければいいんじゃないか。サリンを撒いたら強制捜査が来るか、来ないか、どう思うか」<br> '''石川'''「関係なしに来るでしょう」<br> '''井上'''「少しは遅れるかも知れないが、来ると決まっていれば来るでしょう」<br> '''石川'''「強制捜査が入ったら私が演説をしますので足などをピストルで撃ってもらって、そうすれば世間の同情を買えるのではないでしょうか」<br> '''麻原'''「クーチャン<ref group="注">ある自衛官信者の愛称。</ref> にやらせられるか」<br> '''井上'''「可能だと思います」<br> '''麻原'''「(石川に対して)お前はそこまでやる必要はない」<br> '''青山'''「[[島田裕巳|島田さん]]のところに爆弾を仕掛けたら、世間の同情を買えるのではないでしょうか」<br> '''井上'''「それだったら青山(南青山総本部)に仕掛けたらいいんじゃないでしょうか」<br> '''麻原'''「それだったら、[[島田裕巳宅爆弾事件|島田さんのところには爆弾を仕掛け]]、[[オウム真理教東京総本部火炎瓶投擲事件|青山には火炎瓶を投げたらいいんじゃないか]]」 |1996年9月20日の井上嘉浩証言に基づく<ref name="bengo"/><ref>降幡賢一『オウム法廷2 下』p.122-129</ref>}} === 実行役・運転手役 === * 3月18日 ** 午前4時ごろ - 麻原ら上九一色村到着<ref name="hanketu" />。 ** 午前8〜9時ごろ - [[村井秀夫]]は先の実行役ら([[豊田亨]]除く<ref group="注">豊田はその後、村井と[[広瀬健一]]に計画を告げられた。</ref>)を第6[[サティアン]]に集め「君たちにやってもらいたいことがある。これは(上を見る)……からだからね」と麻原の指示であることを暗示したうえで<ref>毎日新聞社会部『恩讐の師弟対決―オウム「教祖」法廷全記録〈1〉 』 1997年 p.81</ref>、「近く強制捜査がある。騒ぎを起こして強制捜査の矛先をそらすために地下鉄にサリンを撒く。嫌だったら断ってもいいんだよ」「前にアタッシェケースに仕込んだ噴霧器を地下鉄の構内に置いたことがあった。それからすると、密閉した空間でないとあまり効果が出ない。それで、今度は車内に撒く」「3月20日月曜日の通勤時間帯に合わせてやる。対象は、[[公安警察]]、[[検察]]、[[裁判所]]に勤務する者であり、これらの者は[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]で降りる。実行役のそれぞれが霞ヶ関駅に集まっている違う路線に乗って霞ヶ関駅の少し手前の駅でサリンを発散させて逃げれば、密閉空間である電車の中にサリンが充満して霞ヶ関駅で降りるべき人はそれで死ぬだろう」と犯行を指示<ref name="hanketu" /><ref name="wa141">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所]</ref><ref name="wa148" />。 ** 夕方 - 村井・[[井上嘉浩]]・実行役5人は第6サティアンで地下鉄のガイドマップなどを参考に散布場所と時間を計画策定。運転手役の必要性が論じられる<ref name="hanketu" />。 * 3月19日 ** 午前9時ごろ - 実行役5人+[[杉本繁郎]](5人の送迎を担当)、上九から[[杉並区]]今川アジトへ出発<ref name="951211k" />。 ** 正午ごろ - 実行役5人+杉本と、当初運転手役を指名されていた(後述)[[平田信]]らは新宿のタイ料理店で食事、[[デパート]]で変装用の眼鏡・かつら・スーツなどを購入。その後、在家信者に依頼し犯行用の車を借りる<ref name="hanketu" /><ref name="951211k">[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/951211k.html オウム裁判対策協議会/サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/1995年12月11日 冒頭陳述の要旨(豊田・広瀬・杉本)]</ref>。 ** 午後1時ごろ - 村井・井上は第6サティアン1階の麻原の部屋に行き、人選について指示を仰ぐ。麻原は準備が進まないことに対して、やる気がないなら中止しろと叱責。[[新実智光]]・[[北村浩一]]・[[外崎清隆]]・[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]とすでに東京にいる杉本が運転手役と決まり、4人は渋谷アジトに出発。また、井上も東京へ向け出発<ref name="hanketu" /><ref name="951211k" />。 ** 午後7時25分ごろ - 井上ら、[[島田裕巳宅爆弾事件]]実行<ref name="hanketu" />。 ** 午後8時ごろ - 井上、今川アジトを訪れ実行役5人および杉本に渋谷アジトへの移動を指示<ref name="951211k" />。 ** 午後8時45分ごろ - 井上ら、[[オウム真理教東京総本部火炎瓶投擲事件|東京総本部火炎瓶事件]]実行<ref name="spo" /><ref>[http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/384104 国内 / オウム平田容疑者を再逮捕=宗教学者のマンション爆発で―教団火炎瓶事件も・警視庁 / WSJ日本版 - jp.WSJ.com]</ref>。 ** 午後9時ごろ - 実行役・運転手役全員と井上は渋谷アジトに集結。[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]がPAMなどの解毒剤を配布<ref name="hanketu" /><ref name="951211k" />。 ** 午後10時30分ごろ - 全員は駅を下見、井上は霞ヶ関駅到着時に警視庁の出口に近い車両を選ぶよう指示<ref name="hanketu" />。 * 3月20日 ** 午前0時ごろ - 井上、サリン到着が遅いため独断で東京から上九に向け出発し連絡不能に<ref name="hanketu" />。 ** 午前2時ごろ - 麻原は実行役に渋谷アジトから上九への帰還を指示。また、サリン袋に触れ修法(エネルギーを吹き込む儀式)を行う。先に井上が上九に到着するが、独断での出発を叱責される<ref name="hanketu" />。 ** 午前2時30分ごろ - 井上がコンビニからビニール傘7本を購入。[[滝澤和義]]が[[グラインダー]]で傘先を削る<ref name="wa141" />。 ** 午前3時ごろ - 実行役5人と運転手杉本・外崎、第7サティアンに到着。[[村井秀夫]]にサリンを撒く方法を教わり水で練習、その後サリン袋を受け取る<ref name="hanketu" />。 ** 午前5時ごろ - 実行役5人と杉本・外崎、渋谷アジトに再移動<ref name="hanketu" />。 === 製造役 === *3月18日 **夕方 - [[中川智正]]が上述のジフロを[[遠藤誠一]]に提供。[[土谷正実]]も加わりサリン生成の方法を探る<ref name="hanketu" />。遠藤、[[松本サリン事件]]を思い出しやる気をなくす<ref name="wa148" />。 **午後11時ごろ - 村井と遠藤は第6サティアン1階の麻原の部屋を訪れ、麻原は遠藤に「ジーヴァカ、サリン造れよ」と発言<ref name="hanketu" />。 *3月19日 **昼前 - 遠藤、麻原や村井から「早くやれ。今日中に造ってくれ」と催促される<ref name="wa148"/>。 ** 夕方 - 土谷のクシティガルバ棟は排気設備を撤去していたため、遠藤のジーヴァカ棟でサリン合成開始<ref name="hanketu" /><ref name="wa148">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/770/005770_hanrei.pdf 平成7合(わ)148 殺人,同未遂,犯人蔵匿被告事件 平成14年10月11日 東京地方裁判所]</ref>。 ** 午後10時30分ごろ - サリン完成。製造の最終行程で、生成される酸を中和するための[[有機塩基]]がなく、[[ジエタノールアミン|DEA]]で代用したため、純度は35%だった{{Sfn|NHK|2013|p=413}}。遠藤は「できたみたいです。ただし、まだ純粋な形ではなく、混合物です」と純度が低い混合液であること、1日あれば純度が高められることを報告したが、麻原は「ジーヴァカ、いいよ、それで。それ以上やらなくていいから」とこのまま使うこととなった。村井と麻原が検討した結果、サリン袋を傘で突くという方法も決定される<ref name="hanketu" />。 == 犯行 == === 千代田線(我孫子発代々木上原行き) === [[ファイル:Japanese-National-Railways-203-67th-unit.jpg|サムネイル|右|被害を受けた203系マト67編成]] 千代田線の[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]発[[代々木上原駅|代々木上原]]行き([[列車番号]]A725K<ref group="注">末尾KはJR東日本の車両([[JR東日本203系電車|203系]]または[[JR東日本207系電車|207系]])による運行。</ref>、[[東日本旅客鉄道]]〈JR東日本〉[[常磐緩行線]]から直通)は、散布を'''[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]'''<ref name="no4" group="注"/>、送迎を'''[[新実智光]]'''<ref name="no5" group="注"/> が担当した。当該編成はJR東日本[[松戸車両センター|松戸電車区]]所属の[[国鉄203系電車|203系]]マト67編成<ref group="注">クハ202-107以下10両編成。2011年7月に廃車され、同年9月に[[フィリピン国鉄]]へ譲渡。</ref>であった。 マスク姿の林郁夫は[[千駄木駅]]より入場し、[[綾瀬駅]]と[[北千住駅]]で時間を潰した後、先頭の1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ、[[新御茶ノ水駅]]への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった<ref name="kami"/>。列車はそのまま走行したが、[[二重橋前駅]] - [[日比谷駅]]間で乗客数人が相次いで倒れたのを機に次々と被害者が発生し、霞ケ関駅で通報を受けた駅員が駆けつけ、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが、さらに被害者が増えたことから次の[[国会議事堂前駅]]で運転を打ち切った(その後、[[回送]]扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。 === 丸ノ内線(池袋発荻窪行き) === [[ファイル:Tokyo Metro Series 02 02-150F in Yotsuya Station 02.jpg|サムネイル|右|被害を受けた02系第50編成]] 丸ノ内線の[[池袋駅|池袋]]発[[荻窪駅|荻窪]]行き(列車番号A777)は、散布を'''[[広瀬健一]]'''<ref group="注">2009年11月6日に最高裁で上告棄却、求刑通り死刑判決が確定した。</ref>、送迎を'''[[北村浩一]]'''<ref group="注">2003年10月14日に最高裁で上告棄却、求刑通り無期懲役判決が確定した。</ref> が担当した。当該編成は[[帝都高速度交通営団|営団]][[中野検車区]]所属の[[営団02系電車|02系]]第16編成<ref group="注">02-116以下6両編成。2022年12月廃車。</ref>であった。 広瀬は2号車(02-216)に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、[[茗荷谷駅]]もしくは[[後楽園駅]]停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、[[御茶ノ水駅]]到着時にサリンを散布した<ref name="kami"/>。その後、[[中野坂上駅]]で降車した乗客が当該列車の運転士に「車内に急病の人がいる」と申し出た。同駅の駅員が重症者を搬出するとともにサリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点[[荻窪駅]]に到着。新しい乗客を乗せてそのまま池袋方面に折り返した<ref group="注">車内清掃を実施したとの情報もある。</ref>ため、[[新高円寺駅]]で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では2人が死亡し、358人が重症を負った(2020年、後遺症により1人死亡)。 === 丸ノ内線(荻窪発池袋行き) === 丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を'''[[横山真人]]'''<ref group="注">2007年7月20日に最高裁で上告棄却、求刑通り死刑判決が確定した。</ref>、送迎役を'''[[外崎清隆]]'''<ref group="注">2004年2月9日に最高裁で上告棄却、求刑通り無期懲役判決が確定した。</ref> が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成<ref group="注">02-150以下6両編成。2022年10月廃車。</ref>であった。 横山は5号車(02-550)に[[新宿駅]](7時39分発)から乗車し、高架駅である[[四ツ谷駅]]進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった<ref name="kami"/>。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、この時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。[[本郷三丁目駅]]で駅員がサリンのパックを[[モップ]]で[[掃除]]したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として折り返した。列車は運行を継続していたが、サリン散布から1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車では唯一死者が出なかった。 === 日比谷線(中目黒発東武動物公園行き) === [[ファイル:Tobu 21801 Nishiarai 20170930.jpg|代替文=|サムネイル|被害を受けた20000型電車と同形の車両]] 日比谷線の[[中目黒駅|中目黒]]発[[東武動物公園駅|東武動物公園]]行き(列車番号B711T<ref group="注">末尾Tは[[東武20000系電車|東武の車両]]による運行。</ref>、北千住駅から[[東武伊勢崎線]](現在は「東武スカイツリーライン」の愛称で案内される)へ直通<ref group="注">当時、日比谷線からの直通運転は東武動物公園駅までであった(現在は[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]まで延伸)</ref>)は、散布役を'''[[豊田亨]]'''<ref group="注">2009年11月6日に最高裁で上告棄却、求刑通り死刑判決が確定した。</ref>、送迎役を'''[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]'''<ref group="注">2018年1月25日に最高裁で上告棄却、求刑通り無期懲役判決が確定した。</ref> が担当した。当該編成は[[東武鉄道]][[南栗橋車両管区#管理下の組織|春日部検修区]]所属の[[東武20000系電車#20000型|20000型]]第11編成{{Refnest|group="注"|21811以下8両編成。2017年10月に廃車され、先頭車のみ20400型21421Fへ転用<ref name="rf2301">{{Cite journal|和書|author = 柴田東吾|date = 2023-1|title = 総整理 東武鉄道20400形|journal = 鉄道ファン|volume = 63|issue = 1|pages = 81|publisher = (株)交友社}}</ref>。}}であった。 豊田は先頭車両(28811{{Refnest|group="注"|20400型21421Fへ転用され、現車番は24421<ref name="rf2301"/>。2023年1月現在、現役で運用されている唯一の被害車両}})に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、次の[[恵比寿駅]]進入時にサリンのパックを刺した<ref name="kami">[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/951024k.html オウム裁判対策協議会/サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/1995年10月24日 冒頭陳述(中川智正)]</ref>(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。[[六本木駅]] - [[神谷町駅]]間で異臭に気づいた乗客が窓を開けたが複数名が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出発したため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は隣の霞ケ関駅<ref group="注">当時、[[虎ノ門ヒルズ駅]]は未開業。</ref>まで走行して運行を中止した。この電車では2人が死亡し、532人が重症を負った(事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、のちにサリン中毒死と認定された)。なお、サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーの[[さかはらあつし]]も乗り合わせていたほか、当時[[共同通信社]]社員の[[辺見庸]]が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した<ref>辺見庸『自分自身への審問』毎日新聞社 2006年</ref>。 === 日比谷線(北千住発中目黒行き) === [[ファイル:TRTA SERIES03 03113F.JPG|代替文=|サムネイル|被害を受けた03系電車(5扉車)と同形の車両]] 日比谷線の[[北千住駅|北千住]]発中目黒行き(列車番号A720S<ref group="注">末尾Sは[[営団03系電車|営団の車両]]による運行。</ref>)は、散布役を'''[[林泰男]]'''<ref group="注">後に[[野田成人]]の運転手を務めた元女性信徒と獄中結婚したため、姓名を'''小池泰男'''に改めた。2008年2月15日に最高裁で上告棄却、求刑通り死刑判決が確定した。</ref>、送迎役を'''[[杉本繁郎]]'''<ref group="注">2009年4月20日に最高裁で上告棄却、求刑通り無期懲役判決が確定した。</ref> が担当した。当該編成は営団[[千住検車区]]所属の[[営団03系電車|03系]]第10編成<ref group="注">03-110以下8両編成。両端の1、2、7、8号車は5扉車。2017年11月廃車。</ref>)であった。 他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックのうち1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。林泰男は北千住7時43分発中目黒行きの3号車(03-310)<ref group="注">日比谷線は[[2010年]]から当時の相互直通先である[[東急東横線]]に合わせて号車順序を逆転させたため、現在の6号車にあたる。</ref> に[[上野駅]]から乗車し、[[秋葉原駅]]で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の[[小伝馬町駅]]で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した<ref group="注">この乗客がサリンあるいはそのような猛毒物であるかを認識していたのかどうかは不明であるが、認識していたとしても[[緊急避難]]により刑事・民事いずれも免責される。また、この乗客自身もサリンの被害を受け、八丁堀駅で下車して救助される際に不審物の形状を詳細に伝え、それを途中の駅で蹴り出したことを現場で伝えたことにより、不審物の捜索が一斉に伝えられた。実際には神経ガスを吸引して判断能力が減退しており、その一事を持っても免責される。</ref>が、この行動がサリンによる被害を拡大させる一因となった。 サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後、[[八丁堀駅]]停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が[[車内非常通報装置]]を押すと列車は[[築地駅]]で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(このときの救出時の光景がテレビで中継された)。列車はただちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という臆測が続いた。 小伝馬町駅ではサリンのパックがホームに蹴り出されたことで、A720Sの後続列車である八丁堀、茅場町、人形町、小伝馬町の各駅で運転を見合わせた4列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、同駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させたあとに小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅には5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、同駅では4人が死亡した。 これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。 === 事件後 === 事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、[[新実智光]]は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという<ref>『オウム法廷2 上』 p.324-327</ref>。使った傘など証拠品は[[多摩川]]で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる」「これはポアだからな、分かるな」と、あくまで事件は[[ポア (オウム真理教)|ポア]]であったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』のマントラを1万回唱えなさい」と命じ<ref name="wa141"/><ref>江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記2』 1997年 p.187</ref>、[[おはぎ]]と[[オレンジジュース]]を渡した<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.307</ref>。 {{Quotation| '''麻原'''「今回はごくろうだったな」<br> '''新実'''「ニュースで死者が出ていると言っています」<br> '''麻原'''「そうか」<br> '''麻原'''「これはポアだからな。わかるな。これから君たちは瞑想しなければならない。『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね』という詞章を一万回唱えなさい。それが君たちの功徳になるから」 |松本智津夫被告第19回公判での[[杉本繁郎]]証言に基づく<ref>「松本智津夫被告 第19回公判詳報」読売新聞 1996年11月7日</ref>}} === その他 === *林泰男の証言によると、当初の井上案では運転手役は[[平田信]]、[[杉本繁郎]]、男性信者(ホーリーネームはキタカ)で、[[平田信]]と[[林泰男]]、[[杉本繁郎]]と[[広瀬健一]]、キタカと[[横山真人]]で組まれたが(残りの[[豊田亨]]と[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]は未定)、3月19日に麻原の指示で運転手役は杉本以外変更された<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.294</ref>。 *サリンパックを包んだ新聞は以下の通りである<ref name="kami"/>。 **[[広瀬健一]](丸ノ内線荻窪行き)- 新聞名不明のスポーツ紙 **[[横山真人]](丸ノ内線池袋行き)- [[日本経済新聞]] **[[豊田亨]](日比谷線東武動物公園行き)- [[スポーツ報知]] **[[林泰男]](日比谷線中目黒行き)- [[読売新聞]] **[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]](千代田線代々木上原行き)- [[しんぶん赤旗]]+[[聖教新聞]] :林郁夫-新実組が赤旗を使用したのは、林郁夫の運転手役の新実が「駅で買えないような新聞のほうが面白い」と考えたためで、現場に向かう途中で総評会館の玄関から抜いて窃盗した。また一緒に[[聖教新聞]]を配達員からもらってきたが、後で[[創価学会]]に罪をなすりつけることを考えるとさすがにこれは露骨すぎるということで、外側を聖教新聞、内側を赤旗とし、内側の赤旗とサリンだけを落とした<ref>佐木隆三『「オウム法廷」連続傍聴記2 麻原出廷』1996年 p.48</ref><ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち下』 p.205</ref>。 == 緊急処置 == 事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地・八丁堀・神谷町の各駅に消防車や警察車両など、緊急車両が多数送られた。次第に被害が拡大したため、8時35分には日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車およびホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線と丸ノ内線では不審物および刺激臭の通報のみで、さらに被害発生の確認が遅れたため、運行が継続された。 9時27分、営団地下鉄はすべての路線で全列車の運転見合わせを決定する(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった[[東京メトロ南北線|南北線]]も含む。[[東京メトロ副都心線|副都心線]]は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。その一方で、[[都営地下鉄]]は運転を継続している。 被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。 大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになった。丸ノ内線と千代田線については、被災車両を車庫や引き込み線に引き上げたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)として運転を再開したが、[[陸上自衛隊|自衛隊]]によるサリンの除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は[[銀座駅]] - [[四谷三丁目駅]]間、千代田線は[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] - [[表参道駅]]間を部分運休した。除染作業終了後はほぼ所定通りのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅は通過扱いとされた。 上記3路線以外は確認を終えた路線から順次運転を再開したが、全駅、全列車に[[日本の警察官|警察官]]、[[警備員]]などが配置される異例の事態となった。 事件直後、前出の5列車以外の列車で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5列車以外での事件発生はなかった<ref group="注">途中駅で負傷者が下車したため多数の駅で救護活動が行われたり、サリンが列車外に出されてホーム上でも被害を及ぼしたことで、被害が発生した列車の特定が困難となり誤報につながった可能性が高い。また、車内や駅構内に残された忘れ物やゴミが不審物として通報されたこともあり、混乱に拍車がかかったものと思われる。</ref>。しかし、乗客等に付着したり、気化するなどしたサリンは、他の駅や路線にも微細に拡散していった。 当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンの散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に入り被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が原因物質の特定にあたったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤の[[アセトニトリル]]を検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらにこの分析結果は、化学物質が原因の災害であることを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで時間を要した。その結果、消防隊員や警察官にも多数の[[二次災害|二次被害]]が発生し、消防および救急隊員など消防職員の負傷者は135名にのぼったほか、警察官にも多数の負傷者を出した。また、現場で負傷者の[[除染]]が行われなかったために、搬送先の病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。 救急車の到着が遅れたため、一部の急病人は偶然通りかかった民間車両によって医療施設に搬送された。 === 警察 === 警視庁には8時20分ごろ、日比谷線八丁堀駅駅員から「2名病人が出た」と110番通報があり、その後、他の駅からも「異臭がして病人が出ている」と相次いで通報が寄せられた。8時30分ごろ、築地三丁目15番1号を中心に警戒態勢、8時53分ごろには駅構内に入る場合は防毒マスク使用を義務づけられる命令を発令、8時58分ごろには東京23区内で全体G配備(全体ゲリラテロ配備)を発令した。動員数は最大限の人数を表す「甲号」とした。なお、乗客の証言等からこの時点では毒物テロのみならず、爆発物テロの可能性も含めて警戒するよう警視庁管制官から指示が下った。 また、[[機動隊]]を出動させ被害者の救助活動と警戒にあたった。このときに限りすべての急病人搬送に官民すべての車両の使用を許可した。 警察庁では9時に対策本部を設置した。警視庁でも[[井上幸彦]][[警視総監]]を指揮官に対策本部を設置し、警視総監が事件の指揮を執った。対策本部には警視庁[[刑事部|刑事部長]]、[[警視庁警備部|警視庁警備部長]]、[[警視庁公安部|警視庁公安部長]]も招集された。 救出活動と並行しつつ警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し、現場検証を開始した。 警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁[[科学捜査研究所]]へ持ち込まれた。鑑定官の検査によって、その毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明した。この情報は、11時から開かれた警視庁捜査第一課長による緊急[[記者会見]]などを通じて関係各所へ伝達された。 === 消防・病院 === 東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」との通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という[[119番]]通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」との報告が殺到したため、司令塔である[[災害救急情報センター]]は一時的にパニック状態に陥った。 通報を受け、[[化学機動中隊]]・[[特別救助隊]]・[[救急隊]]など多数の部隊を出動させ、被害者の[[救助]]活動や[[救命]]活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し、被害者の救助活動・救命活動を展開した。 この事件では[[特別区]](東京23区)に配備されているすべての[[救急車]]が出動したほか、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では救急車が来ないか、来ても搬送が遅いという状況に陥った。 緊急に大量の被害者の受け入れは通常の医療施設では対応困難なものであるが、大きな被害が出た築地駅近くの[[聖路加国際病院]]は当時の[[日野原重明]]院長の方針<ref group="注">戦時中の医療経験や、[[東京大空襲]]の際に多くの被災者を病院に収容できず、野外で満足な治療を受けることなく死亡したことを反省、教訓としている。</ref>により、大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていた<ref group="注">具体的には施設内の壁面に酸素供給口があり、廊下やホールなどで救急救命活動が可能であった。</ref>ため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと、無制限の被害者の受け入れを実施して被害者治療の拠点となった<ref group="注">このときの顛末は[[日本放送協会|NHK]]の[[ドキュメンタリー]]番組『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』でも取り上げられた。</ref>。また、[[東京都済生会中央病院|済生会中央病院]]にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療はただちに中止となった<ref group="注">その後、警察から検証を理由として、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収されたが、返却可能な物品は検証後に返却されている。</ref>。[[虎の門病院]]も、数名の重症被害者を[[集中治療室]](ICU)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った<ref group="注">この際、drug dex,poison dexという[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の医薬品情報からも米軍事演習の事故でのサリン中毒患者への具体的な治療法を入手し、下記の[[ファクシミリ|ファックス]]と共に治療の参考とした</ref>。 [[有機リン化合物|有機リン]]系中毒の解毒剤である[[プラリドキシムヨウ化メチル]](PAM)は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの[[病院]]で大量に保管する種類の薬剤ではなかった。有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には2時間で2本が標準とされることもあり、被害がサリンによるものだと判明すると同時に東京都内での在庫が使い果たされてしまった。そのような中、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」との連絡を受けた[[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]に本社を置く薬品卸会社の[[スズケン]]は、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、[[東海道新幹線]]沿線の各営業所および病院・診療所にあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送するために、[[名古屋駅]]から社員を新幹線に乗せ、[[浜松駅|浜松]]・[[静岡駅|静岡]]・[[新横浜駅|新横浜]]の各駅のホームで、乗ってきた社員が直接在庫のPAMを受け渡して輸送するという緊急措置を執った<ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/tikatetu_sarin/tikatetu_sarin.htm 地下鉄サリン事件 救急医療チーム最後の決断] 胸を打つ人間ドキュメント</ref>。また、陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。 PAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや[[アトロピン|硫酸アトロピン]]を関西地区から緊急空輸し、羽田空港からは自動車で[[パトロールカー]]先導の輸送([[道路交通法]]で、[[緊急車両]]認定を受けていない自動車でも、他の緊急車両の先導があれば緊急走行ができると定められているため)にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で「有機リン薬剤を作っている責任上、解毒剤も用意しておくのが責任」として毎年製造を続けていた。 当時、サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、[[信州大学医学部附属病院]]第三内科([[神経学|神経内科]])教授の[[柳澤信夫]]が[[テレビ番組|テレビ]]で被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファクシミリで伝えたため、適切な治療の助けとなった。 この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、[[トリアージ]]を含む現場での[[応急救護]]活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、[[救急救命活動]]の多くの問題を浮き彫りにした。 警視庁科学捜査研究所の発表により、医療機関は対[[規制が議論されている兵器|NBC兵器]]医療を開始した。 === 自衛隊 === [[陸上自衛隊]]では、警察に強制捜査用の[[化学防護服]]や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウム真理教によるサリン攻撃であるとただちに判断していた。事件発生から29分後には[[自衛隊中央病院]]などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、[[中央特殊武器防護隊|第101化学防護隊]]、および[[陸上自衛隊化学学校]]から教官数人が、事件後地下鉄内に残されたサリンの除去のため専門職として部隊創設後、初めて実働派遣された。 そのうち第1師団において、12時50分、鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長の杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ケ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3型(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。13時30分に霞ケ関駅に到着し、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)および除染作業を行った。 [[File:Subway sarin attack 1995-2.png|250px|thumb|[[東京都知事]]の指示で除染作業を行う自衛隊員]] 以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をしたあと、霞ケ関駅構内および駅長室に対し、付着したサリンを中和させる次亜塩素酸カルシウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現・松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。 本事件で都知事からの要請を受けて一番早く事件現場に駆けつけたのは、練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。 事件現場となった霞ケ関駅の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、[[第32普通科連隊]]を中心<ref group="注">本部管理中隊施設作業小隊を中心に要員を選抜。施設作業小隊は施設科に関する任務の他に部隊が生物兵器等に汚染された場合に備えて除染装置等が配備されており、部隊及び個人の除染に関する各種訓練を受けていたため。また各普通科中隊も化学防護衣等の運用に関して最小限の訓練を行っていた事も普通科部隊の派遣に繋がっている。</ref> とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った<ref group="注">第101化学防護隊はサリンなどの神経ガスをはじめとした化学兵器についての知識や経験が豊富であり、[[核兵器]]・[[生物兵器]]・化学兵器(いわゆるNBC兵器)の防護技術に精通した日本最高のスペシャリストである。この事件がきっかけでその重要性が示されることとなった</ref><ref group="注">派遣した隊員は、出動から約8時間以上もの間防護服を着用していたため、トイレで排泄することができず、後に支給された戦闘用防護衣には排尿器(専用紙オムツ)が支給されることとなった</ref>。 また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院および衛生学校から[[医官]]21名および看護官19名が、[[東京警察病院]]・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。 聖路加病院へ駆けつけた医官は直近に化学兵器対応の講習を含む幹部研修を受けており、現場派遣時にはその講習資料を持ち出していた。<ref group="注">本来は部外秘文書。</ref><ref>[https://www.facebook.com/dr.anti.aging/posts/4460008837377987 青木 晃「備忘録」]</ref>。先述の『対化学兵器治療マニュアル』はここから提供されており、原因の断定や治療方針の早期決定に役立った<ref group="注">聖路加病院には当医官の研修の跡が残る資料がそのまま提供されている。</ref>。なお当初は爆発事故として出動したため、後に日野原院長へ「毒ガス専門の医官<ref group="注">当該の医官は毒ガス専門ではなかったが、幹部研修では神経ガスに被爆した者の症状や対処法などの講義、大量傷者訓練が含まれていた他、研修内で行われた戦場における医療についての英文資料を分担して和訳する時間には神経剤・毒ガスの箇所を担当しており、高い専門的な知識を持ち合わせている状況であった。なお、当医官に派遣先の指示を出した上官は大量傷者訓練について知っており、それを理由にして最も患者が多かった聖路加病院への派遣を指示している。</ref>が来た」と報告されたこの医官が専門資料を携え最も多くの被害者が運び込まれた聖路加病院に出動したことは偶然である。後にアメリカ軍とイスラエル軍は自衛隊から事件の聴取を行い、十数人の死者で済んだのは奇跡、と評している。 なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊<ref group="注">第1空挺団を含む在京の全ての部隊に第3種非常呼集が発令。</ref> に対し[[非常呼集]]対応を行ったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊を派遣した。 === 報道関係 === 在京キー局の中で、事件の速報コメントは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ルックルックこんにちは]]』の開始直後の8時30分、現場のお天気カメラ映像がもっとも早かったのが8時42分に、[[テレビ朝日]]で生放送中だった『[[スーパーモーニング]]』であった。事件が発生した日、在京[[キー局]]の地上波テレビでは[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]以外全ての局において8時30分以降の通常番組が[[報道特別番組]]に変更された<ref>{{NHKアーカイブス|A199503200835001300100|くらしのジャーナル}}</ref><ref>{{NHKアーカイブス|A199503200923251300100|ニュース}}</ref><ref>{{NHKアーカイブス|A199503200928001300100|ニュース}}</ref>。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。 新聞・テレビなどの各[[マスメディア]]は、本年1月に発生した[[阪神・淡路大震災]]を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「[[オウム真理教に関する報道特別番組|緊急報道スペシャル]]」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのこと[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで、事件当時開幕を控えていた[[プロ野球]]関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。 事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連の[[ニュース]]はトップとして扱われた(警視庁長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原の逮捕など)。[[ドイツ]]では『[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めてまったく察知していなかった[[アメリカ合衆国]]の[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]では、東京支局経由で速報を伝える段階で「[[アラブ人|アラブ]]系テロリストによる犯行の可能性がある」と誤って報じた{{要出典|date=2023年1月}}。 ==被害者== 事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。 目撃者や被害者は現在も[[心的外傷後ストレス障害]](PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に[[後遺症]]を持っているとされる<ref>毎日新聞社会部『検察側立証すべて終了―オウム「教祖」法廷全記録〈7〉 』 2002年 p.263</ref>。そのほか、被害者は[[癌]]に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で死亡する被害者も少なくない。 また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、いまだに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる<ref group="注">2020年3月10日に死去した被害者女性は、視力と体の自由を失い、言語症も患っていたため、[[寝たきり]]の生活を余儀なくされた。なお、この女性は2004年2月25日の[[朝日新聞]]の記事([http://www.asahi.com/special/matsumoto/kizuato/040225.html 参照])に掲載された当時は匿名だったが、2005年以降は実名が公表されている([https://www.youtube.com/watch?v=4Sp-wkJoT9c 参照])。</ref>。 裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には[[訴因]]変更により14人に絞っている。 作家の[[村上春樹]]による被害者への[[インタビュー]]集『[[アンダーグラウンド (村上春樹)|アンダーグラウンド]]』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーの[[さかはらあつし]]による著書『[[サリンとおはぎ]]』がある。 ジャーナリストの[[辺見庸]]も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。 その他、フリーダイビング選手の[[岡本美鈴]]やカメラマンの[[野澤亘伸]]もこの事件に遭遇している。 2009年、[[裁判員]]候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。 === 死者 === [[ファイル:SubwaySarin2.png|thumb|250px|路線図]] {|class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em;font-size:95%;margin-right:0px" |-style=white-space:nowrap !死者!!死亡日時/時刻!!搬送場所 |- | style="white-space:nowrap;" |33歳女性||1995年3月20日午前{{Display none|0}}8時{{Display none|0}}5分頃死亡|| style="white-space:nowrap;" |日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |- |92歳男性||1995年3月20日午前{{Display none|0}}8時10分頃死亡||日比谷線・中目黒発・神谷町駅 |- |50歳男性||1995年3月20日午前{{Display none|0}}9時23分頃死亡||千代田線・霞ケ関駅 |- |29歳男性||1995年3月20日午前10時{{Display none|0}}2分頃死亡||日比谷線・北千住発・築地駅 |- |50歳女性||1995年3月20日午前10時20分頃死亡||日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |- |42歳男性||1995年3月20日午前10時30分頃死亡||日比谷線・北千住発・八丁堀駅 |- |51歳男性||1995年3月21日午前4時46分頃死亡||千代田線・霞ケ関駅 |- |54歳男性||1995年3月21日午前6時31分頃死亡||丸ノ内線・池袋発・中野坂上駅 |- |64歳男性||1995年3月22日午前7時10分頃死亡||日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |- |53歳男性||1995年4月{{0}}1日午後10時52分頃死亡||日比谷線・北千住発・小伝馬町駅 |- |21歳女性||1995年4月16日午後2時16分頃死亡||日比谷線・北千住発・築地駅 |- |52歳男性|| style="white-space:nowrap;" |1996年6月11日午前10時40分頃死亡||日比谷線・北千住発・築地駅 |- |76歳男性||1995年3月21日死亡{{Display none|/}} <ref name="47news2010-03-11"/>||{{Display none|/}}日比谷線・中目黒発に乗車。事件の翌日、心筋梗塞で死亡 {{#tag:ref|事件当日はそのまま埼玉県に墓参りに出かけ、食事も普通に摂った。翌日、銭湯で倒れ、心筋梗塞で死亡。丸一日普通に行動できたことから、サリン吸引と死亡の因果関係が証明できないとして、起訴状では殺人未遂罪の被害者とされ、訴因変更後は未遂被害者からも除外されていた。しかし、2008年12月施行の[[オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律]]ではサリン吸引が浴室での事故の原因と判断され<ref name="47news2010-03-11">{{cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031101000214.html|title=地下鉄サリン死傷者6300人に 救済法の認定作業で調査|newspaper=[[47NEWS]]/共同通信|date=2010-03-11|accessdate=2012-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130516151517/http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031101000214.html|archivedate=2013年5月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、13人目の死者として認定された<ref name="47news2010-03-11"/>。2010年3月6日には被害者の会が救済金を支給していると公表した。|group="註"}} |- |56歳女性||2020年3月10日死亡||丸ノ内線・池袋発・中野坂上駅<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57020740Z10C20A3CC1000/|title=地下鉄サリン事件の被害女性が死去 25年重度障害抱え|publisher=日本経済新聞|date=2020-3-19|accessdate=2020-3-19}}</ref> |} {{Reflist|group="註"}} == 捜査 == === 家宅捜索 === 教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25か所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用される[[イソプロピルアルコール]]や[[三塩化リン]]などの薬品が発見された。また、事件前の1月には[[上九一色村]]の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンを撒いた実行犯も特定できず、[[松本智津夫]]ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。 強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、 *サリンの原料は農薬を作るためであり第7サティアンも農薬プラント *その他の劇物も兵器用ではない、劇物の保有量が多いのは不売運動に遭っているのでなるべく大量購入しているだけ *オウムは米軍機などから毒ガス攻撃を受けており、[[上九一色村]]で発見されたサリン残留物は彼らが撒いたもの *オウムがやったなら東京にも信者がいるので巻き添えになる *[[小沢一郎]]や[[森喜朗]]、[[創価学会]]の陰謀 といった主張を唱えた<ref>『ヴァジラヤーナ・サッチャ no.9』オウム出版、1995年 p.78</ref>。 === 実態解明 === 事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]を[[放置自転車]][[窃盗罪|窃盗]]の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁[[警部補]]に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。このころにはすでに[[新宿駅青酸ガス事件]]、[[東京都庁小包爆弾事件]]などが相次いでいた<ref name="asahi20150111">朝日新聞2015年1月11日朝刊「オウム真理教生んだ闇 今なお」</ref>。 4月23日、[[村井秀夫刺殺事件]]が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。 === 関係被疑者の逮捕 === {|class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em;font-size:95%;margin-right:0px" !役割!!氏名<br/>([[ホーリーネーム]])!!当時の役職!!担当!!逮捕日!!判決 |- |{{Display none|01-}}首謀者||{{Display none|01/}}[[麻原彰晃]]<br/>(マハーグル・アサハラ)||{{Display none|00//}}教団代表<br>(神聖法皇)||-||1995年<br>5月16日||{{Display none|0/}}[[日本における死刑|死刑]]<BR>(2018年7月6日執行) |- |総括役 |{{Display none|02/}}[[村井秀夫]]<br/>(マンジュシュリー・ミトラ)||{{Display none|01//}}科学技術省大臣||-||{{Display none|1995年<br>4月24日/}}[[村井秀夫刺殺事件|1995年<br>4月24日死亡]]||{{Display none|5/}}- |- |{{Display none|03-}}調整役||{{Display none|03/}}[[井上嘉浩]]<br/>(アーナンダ)||{{Display none|諜報/2/}}諜報省長官||-||1995年<br>5月15日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月6日執行) |- |rowspan=5|{{Display none|04-}}サリン<br>散布役||{{Display none|04/}}[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]<br/>(クリシュナナンダ)||治療省大臣||{{Display none|01-実行/}}千代田線・我孫子発||1995年<br>4月{{Display none|0}}8日||'''{{Display none|1/}}[[無期懲役]]''' |- |{{Display none|05/}}[[広瀬健一]]<br/>(サンジャヤ)||{{Display none|01//}}科学技術省次官||{{Display none|01-実行/}}丸ノ内線・池袋発||1995年<br>5月16日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月26日執行) |- |{{Display none|06/}}[[横山真人]]<br/>(ヴァジラ・ヴァッリィヤ)||{{Display none|01//}}科学技術省次官||{{Display none|01-実行/}}丸ノ内線・荻窪発||1995年<br>5月16日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月26日執行) |- |{{Display none|07/}}[[豊田亨]]<br/>(ヴァジラパーニ)||{{Display none|01//}}{{Display none|01//}}科学技術省次官||{{Display none|01-実行/}}日比谷線・中目黒発||1995年<br>5月15日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月26日執行) |- |{{Display none|08/}}[[林泰男]]<br/>(ヴァジラチッタ・イシディンナ)||{{Display none|01//}}{{Display none|01//}}科学技術省次官||{{Display none|01-実行/}}日比谷線・北千住発||{{Display none|/}}1996年<br>12月3日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月26日執行) |- |rowspan=5|{{Display none|05-}}運転手||{{Display none|09/}}[[新実智光]]<br/>(ミラレパ)||{{Display none|01//}}自治省大臣||{{Display none|02-送迎/}}林郁夫の送迎役||1995年<br>4月12日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月6日執行) |- |{{Display none|10/}}[[北村浩一]]<br/>(カッサパ)||{{Display none|01//}}自治省次官||{{Display none|02-送迎/}}広瀬健一の送迎役||{{Display none|/}}1996年<br>11月14日||無期懲役|{{Display none|1/}}無期懲役 |- |{{Display none|11/}}[[外崎清隆]]<br/>(ローマサカンギヤ)||{{Display none|01//}}自治省次官||{{Display none|02-送迎/}}横山真人の送迎役||1995年<br>5月16日||{{Display none|1/}}無期懲役 |- |{{Display none|12/}}[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]<br/>(スマンガラ)||{{Display none|01//}}{{Display none|諜報/3/}}諜報省||{{Display none|02-送迎/}}豊田亨の送迎役||{{Display none|/}}2012年<br>6月15日||無期懲役|{{Display none|3/}}無期懲役 |- |{{Display none|13/}}[[杉本繁郎]]<br/>(ガンポパ)||{{Display none|01//}}自治省次官||{{Display none|02-送迎/}}林泰男の送迎役||1995年<br>5月16日||無期懲役|{{Display none|1/}}無期懲役 |- |rowspan=6|{{Display none|06-}}サリン<br>製造者||{{Display none|14/}}[[遠藤誠一]]<br/>(ジーヴァカ)||{{Display none|01//}}{{Display none|厚生/1/}}第一厚生省大臣||製造役の指示・製造||1995年<br>4月26日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月6日執行) |- |{{Display none|15/}}[[土谷正実]]<br/>(クシティガルバ)||{{Display none|01//}}{{Display none|厚生/2/}}第二厚生省大臣||製造時の助言・製造||1995年<br>4月26日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月6日執行) |- |{{Display none|16/}}[[中川智正]]<br/>(ヴァジラティッサ)||{{Display none|01//}}法皇内庁長官||製造||1995年<br>5月17日||{{Display none|0/}}死刑<BR>(2018年7月6日執行) |- |{{Display none|17/}}[[田下聖児]]||{{Display none|01//}}厚生省||製造補助||1995年<br>3月31日||{{Display none|2/}}[[懲役]]7年 |- |{{Display none|18/}}佐々木香世子<br>(チャーパー)||法皇内庁||製造補助||1995年<br>5月17日||{{Display none|2/}}懲役1年6か月 |- |{{Display none|19/}}森脇佳子<br>(ヴァジラ・サンガー)||厚生省||製造補助||1995年<br>5月16日||{{Display none|2/}}懲役3年6か月 |} *[[菊地直子]]も製造補助の被疑者として逮捕されたが、証拠不十分のため本事件については[[不起訴]]となった。また、リムジン謀議の同席者[[青山吉伸]]・[[石川公一]]や、傘を研磨した[[滝澤和義]]はこの件で起訴されていない。 ==余波== 地下鉄サリン事件は、当時の日本国内において最大級の無差別殺人行為となったほか、1994年(平成6年)に発生した[[松本サリン事件]]に続き、一般市民に対して[[化学兵器]]が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた<ref group="注">日本では「事件」として扱われることが多かったが、[[欧米]]では「化学テロ」として大々的に扱われ、その対応策なども含め大きく注目された。現在でも諸外国の軍隊マニュアルで、化学テロの事例として紹介されている。</ref>。 ===オウム真理教=== 一連の[[オウム真理教事件]]により、オウム真理教は宗教法人の[[認証]]認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕によって脱退者が相次ぎ、本事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下に減少した。オウムは組織として大きな打撃を受け[[破産]]したが、2000年に[[Aleph (宗教団体)|Aleph]](アレフ)に改組し活動を続けている。Aleph2代目代表で現[[ひかりの輪]]代表の[[上祐史浩]]は、本事件が起きた当時、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。[[公安審査委員会]]は[[破壊活動防止法]](破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律]](オウム新法)が制定され、[[アメリカ合衆国国務省]]は現在もAlephを[[テロリズム|テロリスト]]グループに指定している。 その他、[[地方公共団体|地方自治体]]や[[賃貸住宅]]が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への[[商品]]の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、[[土地]]の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に[[公金]]を投じることとなった。 ===被害者の後遺症・PTSD=== 事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。[[視力]]の低下など比較的軽度のものから、[[心的外傷後ストレス障害]](PTSD)などの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在のところ被害者への公的支援はほとんど行われていない<ref group="注">犯罪被害の賠償は原則として加害者が行うのが慣例であるが、現在のAlephには賠償能力が無いため、犯罪被害への公的補償の必要性が論じられている{{要出典|date=2010年3月}}。</ref>。<!--この問題に対応する為に映画監督のさかはらあつしはサリン被害者の会<ref>[https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/dantai/jijo/j24.html サリン被害者の会](警察庁)</ref>を結成した。--><!--団体の結成自体が事実でも、それをこの記事で記載するには、この団体がこの問題についてどのように対応しているかなどを報じた第三者の二次情報源が必要--> ===不審物への対応=== 本事件後、全国の多くの[[鉄道駅]]から[[ごみ箱]]が撤去され、営団地下鉄では全車両のドアに「駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告[[シール|ステッカー]]を貼りつけた。その後、[[2004年]]の民営化による東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して[[英語]]版も掲出され、同時期に[[都営地下鉄]]にも拡大している。なお、同様のステッカーやアナウンスなどが他の[[鉄道事業者]]に波及するのは[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降であり、その後は各事業者で外観から中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月より設置されている<ref>[http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-15.html 東京メトロ全駅に「中身が見える透明ゴミ箱」を設置]</ref>。 === 被害者団体運営の失敗 === {{要出典範囲|地下鉄サリン事件被害者の会(高橋しずえ代表)は被害者の新規入会を一切認めていない。よって後遺症に苦しむ被曝被害者の現実が社会に伝わっていないという問題が発生している。|date=2023年4月}} === その他 === *1995年7月15日に『[[耳をすませば]]』と同時公開された『[[On Your Mark|{{lang|en|On Your Mark}} ジブリ実験劇場]]』は、その内容や本事件の余波からオウム真理教がモデルと考えるファンが多かったが、同作品の下書きは事件の2か月前のため、実際は偶然にすぎない。 *黎明期であった日本の[[インターネット掲示板]]では、当事件に関連したいわゆる「[[不謹慎ゲーム]]」やAA([[アスキーアート]])が相次いで投稿されるなど、日本の[[アンダーグラウンド (文化)|アンダーグラウンド文化]]に多大な影響を与えた。 *地方の中学校および高等学校などでは、この事件を受けて東京への修学旅行を中止するところもあった。 *当事件後の一部報道で、[[奈良県]][[上北山村]]にオウム信者が潜伏していると誤報されたことに乗じたとみられる、当時休校中(1998年に正式に廃校)であった[[上北山村立東ノ川小中学校|東の川小中学校]]には事件に関する落書きなど、破壊行為の跡が残っている。 *本事件の発生から15年を迎えた2010年3月20日、霞ケ関駅で慰霊式が開かれ、[[鳩山由紀夫]]首相や[[前原誠司]]国交相(いずれも当時)らが献花に訪れた<ref>[https://web.archive.org/web/20140226190509/http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010032001000161.html 地下鉄サリン事件15年で慰霊式 献花の遺族悲しみ癒えず] 47NEWS 2010年3月20日</ref>。 *2015年3月、東京都中央区の[[警察博物館]]で、当時の現場の様子やその後の取り組みなどを伝える展示会が開催された<ref>[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no3/welcome/welcome.htm 地下鉄サリン事件発生から20年] 警視庁</ref>。 == 裁判で未解決の問題 == ===事件で使用されたサリンの原料は誰が保管していたのか=== 地下鉄サリン事件では[[メチルホスホン酸ジフロライド]]CH<sub>3</sub>P(O)F<sub>2</sub>(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)からサリンが作られた。検察側は、サリンを作るために中川が保管していたと主張。中川は「[[中和 (化学)|中和]]できなかったために[[VXガス|VX]]と一緒に井上が持っていたものがサリンの原料になった」と主張した。この点について井上は、「VXは預かっていたが他は知らない」と証言した。 中川によると、このジフロは1995年[[1月5日]]に[[村井秀夫]]とともにクシティガルバ棟を再点検した際に[[VXガス|VX]]とともに発見されたもので、中川は体調が悪く[[土谷正実]]もサリン中毒、そのうえ防護服も処分していたため中和は断念し、保存されることになったという<ref name="nkgw"/>。 ;中川の最初の主張 :ジフロは自分が持っていた。ジフロがあればサリンをすぐ生成できるため、捨てるのが惜しくなって第二上九の塩置き場に隠していた<ref>降幡賢一『オウム法廷4』 p.89</ref>。 ;中川の新主張 :ジフロは井上が持っていた。強制捜査で発見されないように、とりあえず井上に渡し杉並アジトへ持っていかせそこでVXと一緒に保管していた。そして[[1995年]][[3月18日]]夕方に村井がジフロを持ってきており、サリン製造をやるように指示された。 :主張が変わった理由は、ジフロと一緒にVXを保管していることでVX事件が明らかになる恐れがあり、井上に悪いと思ったため<ref name="nkgw">降幡賢一『オウム法廷11』 p.238-242, 251</ref>。 :サリン事件前日にジフロを上九一色村に持ち帰ったのは井上の可能性が高い。村井には保管場所を教えていないし、フットワークも軽くない<ref>[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/20031030b_ti.html サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨] オウム裁判対策協議会</ref>。 中川以外の裁判では検察側の主張が認められたが、中川の裁判では事実上中川の主張が認められ、ジフロが残っていた理由や誰が持っていたのかについては不明と認定された。裁判によって認定が異なり、結論が出ていない<ref name="森達也『A3』 集英社インターナショナル、2010年">森達也『A3』 集英社インターナショナル、2010年</ref><ref>{{Cite news|title=オウム裁判で分かったこと、残る謎|newspaper=Yahoo!ニュース|date=2015-04-30|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20150430-00045208}}</ref><ref>中川智正「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」『[[現代化学 (雑誌)|現代化学]]』2016年11月号62-67頁、[[東京化学同人]]</ref>。 ===警察は地下鉄サリン事件を予期していたのか=== 2010年(平成22年)2月22日、[[共同通信]]は、事件当時の[[警察庁長官]]だった[[国松孝次]]が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である[[高橋シズヱ]]の[[インタビュー]]に答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した<ref name="sousa">『地下鉄サリン前に捜査かく乱情報 国松元警察庁長官が証言』共同通信2010年2月22日2時2分。[https://web.archive.org/web/20130516152447/http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010022101000511.html 47ニュース]。</ref>。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している<ref name="sousa"/>。 これとは別に、警察が事前にサリンが撒かれることを知っていたのではないかという指摘も存在する。事件の2日後の3月22日に予定されていた教団施設への一斉捜索に備え、地下鉄サリン事件の直前の教団幹部の動きはすべて警察によって把握されていたはずだという。また、事件前日に自衛隊が朝霞駐屯地でガスマスクを着けてサリンに対応した捜索の演習を行っており、警察は地下鉄サリン事件が起こる前にオウムがサリンを持っていることを把握していたはずとも指摘されている<ref>安田好弘『死刑弁護人-生きるという権利』講談社+α文庫、2008年</ref>。 また、1995年1月1日のスクープを出した元[[読売新聞]]記者[[三沢明彦]]によると、捜索は4月の統一地方選の後に予定されていたという<ref>[https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/30589 地下鉄サリン事件20年 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)]</ref>。 == 異説 == === 予言の成就説 === 検察側は、地下鉄サリン事件が警察による教団に対する大規模な強制捜査を攪乱する目的であったと主張した<ref>『東京読売新聞』1996年4月25日夕刊「オウム麻原被告第2回公判検察冒頭陳述の全文=その4・地下鉄サリン=1」</ref>。裁判所は検察側の主張通り、「間近に迫った教団に対する強制捜査もなくなるだろうと考え」た、との認定をした<ref>『東京読売新聞』2004年2月28日朝刊「オウム松本被告判決の要旨」</ref>。 しかし[[井上嘉浩]]は、麻原の動機は捜査攪乱ではなく、自分の予言の成就のためだったと主張した{{Sfn|上祐|2012|p=143}}。井上は、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う」<ref>{{Cite news|title=「死刑囚が異例の証言 被害者の孫は」|newspaper=NHK ONLINE|date=2014-02-4|url=http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2014/02/0204.html}}</ref>、2015年2月20日の高橋克也の公判においても「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言している<ref>{{Cite news|title=「地下鉄サリン事件「予言成就のため」 井上死刑囚が証言」|newspaper=朝日新聞DIGITAL|date=2015-02-20|url=http://www.asahi.com/articles/ASH2N5J9RH2NUTIL03D.html}}</ref>。なお、リムジンに同乗していた側近も含めて多くの幹部信者たちが、「サリンを撒いたところで強制捜査がなくなるわけではないし、むしろ早まる可能性があると考えていた」と証言している<ref name="森達也『A3』 集英社インターナショナル、2010年"/><ref>『東京読売新聞』1996年11月9日朝刊「松本智津夫被告第15回公判法廷詳細 師弟対決「首謀」めぐり激しい火花」</ref>。 井上は証言がよく揺れており<ref group="注">松本智津夫被告一審判決では、「ところで、関係証拠に照らすと、井上は、(略)自己の刑責を軽減させるために既に死亡している村井や逃亡中であった林泰男に一部責任を転嫁し、自己の役割をわい小化する不自然不合理な供述をしている。しかしながら、自己の刑責を軽減させるために死亡した者や逃亡中の者に一部責任を転嫁する供述がみられることから直ちに、長い間グルとして信仰してきた被告人の面前で供述した、地下鉄サリン事件に被告人が関与している旨の井上証言の信用性が左右されるものではなく、その信用性が高いことはこれまで説示してきた理由から明らかというべきである。(略)リムジン車内において、被告人と村井、井上及び遠藤の間で、地下鉄電車内にサリンを散布する無差別大量殺りくについて共謀が成立していたことは明らかである。この点に関する弁護人の主張は採用することができない。」とされている。</ref>、この証言について、井上が平田公判で初めて証言したとの批判があるが、実際は1996年11月8日の麻原公判で証言していると本人は主張している<ref>[http://yoshi392.sakura.ne.jp/ 「生きて罪を償う」井上嘉浩さんを死刑から守る会 HP]</ref>。 また別の意見として、[[土谷正実]]は麻原信仰を続けていたころ法廷で「サリンの散布で国家転覆はできない」「大量殺人が目的とすれば、私なら(サリンと比べて合成がはるかに簡単な)[[青酸]]を使う」と語った<ref>降幡賢一『オウム法廷13』p.23-25</ref>。 === 弟子の暴走説 === 裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張<ref name="enter">[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/10-7.html 麻原さんの意見陳述要旨 (1997年4月24日)] [[カナリヤの会]]</ref>。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、ほかにも「([[遠藤誠一]]に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする[[豊田亨]]に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され<ref name="wa141" /><ref>滝本太郎ブログ「[https://web.archive.org/web/20180325045441/http://sky.ap.teacup.com/takitaro/1221.html ああ言えば上祐、こう書けば森達也さん | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記]」</ref>、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。 死刑確定後も[[森達也]]らによって主張されているが<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/abematimes/aum-shinrikyo_a_23388548/ オウム真理教の事件について森達也氏が語る「麻原裁判は、やり直されるべき」] [[ハフィントンポスト]] 2018年3月25日閲覧。</ref>、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると[[滝本太郎]]らに批判されている<ref>滝本太郎ブログ「[https://web.archive.org/web/20180630052929/http://sky.ap.teacup.com/takitaro/2295.html 地下鉄サリン事件―遠藤証言 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記]」 2018/6/30閲覧</ref>。このほか、運転手役の一人である[[杉本繁郎]]からもありえないと指摘されている<ref>[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/shuki/3-12.htm HTML document for the World Wide Web http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/shuki/3-12.htm 元信者の手記 111~120] [[カナリヤの会]]</ref>。 == 関連事件 == *4月19日には[[横浜駅異臭事件]]が発生したが、オウムとはまったく関係ない便乗犯による犯行であった。このほかにも、比較的入手しやすい塩素系ガス(致死性があり有毒ガスではあるが殺人に適しているとは言いがたい)を使った便乗犯・愉快犯が相次いだ。 *5月16日、麻原逮捕の夜、[[青島幸男]][[東京都知事]](当時)宛の郵便物が開封した瞬間に爆発する事件が発生する([[東京都庁小包爆弾事件]])。 *同年6月に起きた[[全日空857便ハイジャック事件]]で犯人がオウム教団を名乗り、液体の入った[[ペットボトル]](サリン入りとしていたが実際には[[水]])を見せ「[[麻原彰晃|松本]]を[[釈放]]しろ」と要求した。犯人逮捕後、オウムとは無関係の[[愉快犯]]によるものであったことが判明した。 *3月30日、事件の指揮にあたった、[[國松孝次]]警察庁長官(当時)が自宅の[[マンション]]前で銃撃される事件が発生([[警察庁長官狙撃事件]])。オウム捜査との関連が疑われたが、犯人が特定されないまま、2010年3月30日に時効を迎えた。 ===類似の攻撃事件=== *1974年、[[三菱重工爆破事件]] - 8人死亡・367人負傷 *1980年、[[新宿西口バス放火事件]] - 6人死亡・14人負傷 *1988年、[[ハラブジャ事件]] - [[イラク]]が[[クルド人]]をサリンで攻撃し3,200人〜5,000人が死亡、7,000人〜1万人が負傷した<ref>[http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/march/16/newsid_4304000/4304853.stm 1988: Thousands die in Halabja gas attack],BBC, [https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/05/post-2917.php サリンを使ったのはアサドか反体制派か]Newsweek2013年5月7日(火)17時48分</ref>。 *2001年、[[アメリカ同時多発テロ事件]] - 3,025人死亡・6,291人負傷 *2001年、[[アメリカ炭疽菌事件]] - 5人死亡・17人負傷 ===類似の鉄道攻撃事件=== *2003年、[[大邱地下鉄放火事件]] - 192人死亡・148人負傷 *2004年、[[香港地下鉄放火事件]]([[:zh:2004年香港地鐵縱火案|中国語]])- 14人負傷([http://hk.apple.nextmedia.com/template/apple/art_main.php?iss_id=20040106&sec_id=4104&art_id=3774595 香港新聞紙の報道や写真]) *2004年、[[マドリード列車爆破テロ事件]] - 191人死亡・2050人負傷 *2004年、[[モスクワ地下鉄爆破テロ (2004年)|モスクワ地下鉄爆破事件]]([[:en:2004 Moscow metro bombing|英語]])- 41人死亡・約102-120人負傷 *2005年、[[ロンドン同時爆破事件]] - 56人死亡・700人負傷 *2010年、[[モスクワ地下鉄爆破テロ (2010年)|モスクワ地下鉄爆破事件]] - 39人死亡・102人負傷 *2017年、[[2017年サンクトペテルブルク地下鉄爆破テロ事件|サンクトペテルブルク地下鉄爆破テロ事件]] - 14人死亡・86人負傷 ==事件を扱った作品== === 映画 === * [[AGANAI-悪の陳腐さについての新たな報告|「AGANAI -地下鉄サリン事件と私」]] ===テレビ番組=== *「[[緊急報道ドラマスペシャル オウムVS警察 史上最大の作戦]]」(日本テレビ)(2004年2月24日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=オウムVS警察…史上最大の作戦! 完全再現-地下鉄サリン事件- - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-37369|website=テレビドラマデータベース|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=緊急報道ドラマスペシャル オウムvs警察 史上最大の作戦|url=https://www.ntv.co.jp/hodo-drama/|website=日本テレビ|accessdate=2021-09-09|language=ja|last=日本テレビ放送網株式会社}}</ref> *「[[告白~私がサリンを撒きました~オウム10年目の真実]]」([[TBSテレビ|TBS]])(2004年3月5日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=告白~私がサリンをまきました-オウム10年目の真実 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-37386|website=テレビドラマデータベース|accessdate=2021-09-08|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=番組審議会議事録|番組向上への取り組み|TBSテレビ|url=https://www.tbsholdings.co.jp/tbstv/regulation/council_no465.html|website=www.tbsholdings.co.jp|accessdate=2021-09-08}}</ref> *「[[地下鉄サリン事件 15年目の闘い〜あの日、霞ヶ関で何が起こったのか〜]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]])(2010年3月20日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=3.20地下鉄サリン事件 15年目の真相~あの日、霞ヶ関で何があったのか~ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-42758|website=テレビドラマデータベース|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref> *「[[未解決事件 (NHKスペシャル)|NHKスペシャル 未解決事件]]」([[NHK総合テレビジョン|NHK]]) **file.02 オウム真理教(2012年5月26日・同27日放送) **file.04 オウム真理教 地下鉄サリン事件(2015年3月20日放送) *「[[オウム20年目の真実〜暴走の原点と幻の核武装計画〜]]」(テレビ朝日)(2015年2月21日放送) *『[[アンダーグラウンド (村上春樹)|アンダーグラウンド]]』[[村上春樹]]、講談社(1997年3月) *『[[約束された場所で|約束された場所で―underground 2]]』村上春樹、文藝春秋(1998年11月) *『それでも生きていく―地下鉄サリン事件被害者手記集』 地下鉄サリン事件被害者の会、サンマーク出版 (1998年3月) *『Ghostwritten』David Mitchell、Hodder and Stoughton(1999年8月) *『オウム法廷〈10〉地下鉄サリンの「実行犯」たち』降幡賢一、朝日新聞社(2002年12月) *『ここにいること―地下鉄サリン事件の遺族として』高橋シズヱ、岩波書店(2008年3月18日) *『「地下鉄サリン 救急医療チーム 最後の決断」 ―再生の息吹を聞け プロジェクトX〜挑戦者たち〜 』NHK「プロジェクトX」制作班、NHK出版(2012年7月31日) *『「地下鉄サリン事件」自衛隊戦記―出動部隊指揮官の戦闘記録』福山隆(光人社ノンフィクション文庫 878)(2015年2月28日) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"|2}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite 判例検索システム | 事件名 = [[オウム真理教事件]] | 法廷名 = [[東京地方裁判所]] | 裁判形式 = 判決 | 裁判年 = 2004(平成16年) | 裁判月 = 2 | 裁判日 = 27 | 判例集 = | 事件番号 = 平成7合(わ)141(平成7年合(わ)第141号,同第187号,同第254号,同第282号,同第329号,同第38 0号,同第417号,同第443号,平成8年合(わ)第31号,同第75号 殺人,殺人未遂, 死体損壊,逮捕監禁致死,武器等製造法違反,殺人予備被告事件) | url = https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=005572 }} *{{Cite |和書|author = [[NHKスペシャル]]取材班 |date = 2013-05-30|title =未解決事件 オウム真理教秘録 |isbn=|publisher=[[文藝春秋]]|ref = {{SfnRef|NHK|2013}} }} ==関連項目== *[[組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律]](組織的犯罪処罰法) *[[破壊活動防止法]] *[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律]](団体規制法・オウム新法) *[[伊東乾 (作曲家)]] - [[現代音楽]]の作曲家。実行犯の1人・豊田を追ったドキュメンタリー『[[さよなら、サイレント・ネイビー]]』で2006年の[[開高健]]賞。 *[[帝都高速度交通営団]] - 事件現場となった駅と鉄道車両(一部)の運営、運行会社 *[[東京地下鉄]] - 帝都高速度交通営団より事業を承継 *[[野中広務]] - 当時の[[国家公安委員会委員長]] *[[ホームグロウン・テロリズム]] *[[オウム真理教]] *[[オウム真理教事件]] *[[坂本堤弁護士一家殺害事件]] *[[松本智津夫]] *[[サリンプラント建設事件]] *[[公証人役場事務長逮捕監禁致死事件]] ==外部リンク== * [https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten260/it0.htm 警察庁 - 焦点 オウム真理教~反社会的な本質とその実態~] * [http://www.s-a-t.org/ オウム裁判対策協議会] * [https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=3275 『NHKスペシャル/未解決事件file.02 オウム真理教』を検証する] * {{NHK放送史|D0009030268_00000|地下鉄サリン事件}} * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab06050493/f2-le-journal-20h-emission-du-20-mars-1995 F2 Le Journal 20H : émission du 20 mars 1995] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}(動画の1:03よりニュース) * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cac95023598/metro-tokyo-factuel Métro Tokyo factuel] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}} * {{YouTube time|CIR8vzoCY7w|20h France 2 du 20 mars 1995 - Attentat dans le métro à Tokyo - Archive INA|t=1m3s}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}} * [https://www.youtube.com/channel/UC7ub-sOil4sq4wedmG12W4g サリン被害者の会] * {{Kotobank}} {{オウム真理教}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちかてつさりんしけん}} [[Category:オウム真理教事件]] [[Category:平成時代の殺人事件]] [[Category:無差別殺人事件]] [[Category:日本のテロ事件]] [[Category:日本における大量虐殺]] [[Category:毒物を使用した事件]] [[Category:1995年の日本の事件]] [[Category:東京地下鉄]] [[Category:東京都の交通史]] [[Category:陸上自衛隊の歴史]] [[Category:1995年の鉄道]] [[Category:1995年3月]] [[Category:平成時代の東京]] [[Category:霞が関]]
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サリン
サリン(ドイツ語: Sarin)は、有機リン化合物で神経ガスの一種。別称はGB、イソプロピルメチルフルオロホスホネートやメチルフルオロホスフィン酸イソプロピル。 化学兵器としてのサリンは、1938年にナチス・ドイツで開発された。「サリン」の名称は、ナチスでサリン開発に携わったシュラーダー (Gerhard Schrader)、アンブローズ(Otto Ambros)、リッター (Gerhard Ritter)、フォン・デア・リンデ (Hans-Jürgen von der Linde) の名前から取られた。ただし、サリンの化学式自体は、すでに1902年に公表されていた。 第二次世界大戦中のドイツにおける生産量は約1,000ポンド (450 kg)と推測されている。第二次世界大戦末期、アドルフ・ヒトラーの側近でナチス・ドイツの宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスは、化学兵器を実戦に投入することを主張した。しかし、第一次世界大戦で毒ガスによって視神経や脳神経に一過性の障害を負い喉や眼を負傷したという経験を持つヒトラーは毒ガス使用には消極的であり、またドイツ国防軍も化学兵器による攻撃は、連合国軍が神経ガスを保有しており、それを用いた報復ガス攻撃を招くと考えていた。そのため、ドイツ国防軍がサリンを戦争に使用することはなかった。サリンやタブン等の詳細な情報は、第二次世界大戦におけるドイツの敗北により、連合国側も把握するところとなった。 サリンは神経伝達物質のアセチルコリンと似た構造を持つ。サリンはアセチルコリンを加水分解するアセチルコリンエステラーゼ(AChE)の活性部位に不可逆的に結合することで、AChEを失活させる。それによりアセチルコリンの分解を阻害し、神経伝達を麻痺させる作用が働く。 殺傷能力が非常に強く、吸収した量によっては数分で症状が現れる。また、呼吸器系からだけでなく皮膚からも吸収されるため、ガスマスクだけではなく対応する防護服を着用しなければ防護できない。また、衣服や身体等に付着したサリンが再度気化し、二次被害を生じさせる場合があり、注意を要する。 経皮投与におけるヒトの半数致死量(LD50)は28 mg/kgであり、体重60 kgのヒトが1,680 mg(約1.5 mL)の純粋なサリンを経皮吸収すると、その半数が死亡することを意味する。また、皮膚に一滴垂らすだけで確実に死に至るとの記述も存在する。また、サリンは揮発性が高く、揮発度は16,100mg/m、気体比重は4.86となっており、経気道的に吸入した場合のLD50は、70–100 mg.min/m(推測中央値)となっている。 低濃度曝露の場合、以下のような症状が出る。特に縮瞳が出現しやすいとされる。 高濃度曝露の場合、重度化し、以下のような症状が加わる。 日本においては、松本サリン事件と地下鉄サリン事件の二回にわたる惨事が引き起こされ、両事件で多数の患者が発生しているため、多数の患者に対する医学的な追跡調査が行われている。ただし、両事件では100以上の論文が発表されているものの、新たな知見は見出されなかった。これはすでに神経剤の臨床試験データが数百人分存在するからである。 後遺症には、主に心的外傷後ストレス障害などの心的な物と、目がかすむ、身体がだるい、熱が出るなど軽微な物から、完全に身体を動かせないほどの重度な物までがある。身体的な後遺症の原因は中枢神経系や副交感神経の回復不能な損傷だと言われている。なお、地下鉄サリン事件で使用されたサリンは不純物が多く含まれているものであり、サリン以外の毒性も影響している可能性がある。 松本サリン事件被害者に対する松本市地域包括医療協議会及び松本市による継続的な健康調査では、中毒者には事件後10年経過しても身体や目の倦怠感を訴えるものが非中毒者よりも有意に多かったが、20年経過時点では明確な後遺症は1名の確認にとどまった。 有機リン系農薬に見られる遅発神経障害(1 - 3週間以降)は起こらないとされる。これはサリンの急性毒性が高いために、ごく少量で中毒し、アセチルコリンエステラーゼ活性阻害作用が高い反面、神経毒エステラーゼ活性阻害作用はそれほど高くないことによる。 サリンは有機リン化合物であり、四面体形分子構造と4つの置換基を持つ。光学異性体があり、Sp 体の方がアセチルコリンエステラーゼ結合作用が強く、生体毒性が高い。 サリンの合成は、有機リン化合物合成における手法を通じて行われる。オウム事件裁判で明らかにされた手法としては、 1.三塩化リン、メタノールを原料とし、溶媒としてn-ヘキサンを、反応促進剤としてN,Nジエチルアニリンを用いて、亜リン酸トリメチルを生成する。その際、反応の過程で発生する塩化水素は、ジエチルアニリン塩酸塩となって沈殿する。 2.亜リン酸トリメチルに触媒としてヨウ素を加え、転位反応によりメチルホスホン酸ジメチルを生成する。その際、瀘過によりヨウ素を除去し、ジメチルを精製する。 3.ジメチルと粉末状の五塩化リンを加熱した状態で反応させ、メチルホスホン酸ジクロライドを生成する。その際、副生成物としてオキシ塩化リン等が生じるため、この混合物を分留してジクロを精製する。 4.ジクロに原料であるフッ化ナトリウムを反応させ、メチルホスホン酸ジフロライドを生成する。その際、副生成物として塩化ナトリウムが生じる。 5.ジクロとジフロの混合物に原料であるイソプロピルアルコールを反応させ、サリンを生成する。副生成物として発生した塩化水素は、水酸化ナトリウムと反応させて塩化ナトリウムとして除去する。 ただし、サリンそのものは反応性が高い上に漏洩した場合に非常に危険であることから、化学兵器砲弾や爆弾においてはメチルホスホニルジフルオリドとイソプロピル化合物を分離状態で同梱しておき、兵器として使用する時に混合する方法が用いられた(バイナリー兵器)。オウム真理教の場合はこれとは異なり、あらかじめサリンを合成しておき、池田大作サリン襲撃未遂事件、松本サリン事件では貨物自動車を改造して設置した噴霧装置を用いて、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件では遠沈管、地下鉄サリン事件ではサリンを有機溶剤に溶解させたものを袋に密閉し、穴をあけて染み出させることによる散布が行われた。 しかし、サリンは合成過程における中間生成物の段階で既に極めて毒性が高く、廃棄物もまた高い毒性を持つ。さらに生成過程で使用される化学物質は腐食性も高くガラスを腐食させるので、通常のフラスコなどでは合成できず、高度に専門的な知識と技術、設備が必要となる。これら設備を持たない者が合成を試みたところで、その合成過程で負傷・死亡する危険性が高い。殺虫剤の構造式と紙一重であり、P=O二重結合をもっている。 日本では、かつて長野県警察が市販の農薬からサリンの合成が可能であると主張していたが、これは完全に誤りである。確かにイソプロピルアルコールは工業原料・有機溶剤などとして一般に広く市販されており、前駆体であるリン塩化物についても法規制が敷かれているものの、化学工業や化学実験などで汎用される物質であることから入手が比較的容易なのは事実である。しかし、サリンは熱や水で容易に分解する上、合成段階では極めて不安定になる性質を持つため、サリンに至る製造工程では様々な化学用機材や高度な脱水技術のほか多段階の反応制御・精製技術・温度管理が必要であり、また多くの危険を伴う作業となる。上述した通り、オウム真理教もサリン製造にあたっては、それを目的とした研究室や大掛かりなサリンプラントを建造し、化学方面の高度な専門的知識に知悉した土谷正実らの信者が携わり、長谷川ケミカルなどのダミー会社を経由して原料を取得している。オウム真理教に対する査察においてオウム真理教の施設からは三塩化リン・フッ化ナトリウム(メチルホスホン酸ジメチル・メチルホスホン酸ジクロリドからメチルホスホン酸ジフルオリドを合成する段階で使用)などが発見され、それまではあくまで疑惑であったオウム真理教のサリン製造を裏付ける強力な物証となった。 自然環境中には存在しない。化学的に不安定な物質で、熱分解や加水分解されやすい。加水分解によりフッ素が水分子の水素原子と結びつき、それが同じ水分子の水酸基と入れ替わることにより、サリンはフッ化水素とメチルホスホン酸イソプロピル(IMPA)に変化し、さらに後者はメチルホスホン酸(MPA)とイソプロピルアルコールに分解する。したがって水源地や浄水場にサリンを投げ込んだところで直ちに加水分解されるほか、活性炭処理やオゾンによる高度浄水処理の工程を通ればほぼ完全に無毒化される。また、塩基性条件下で加水分解が加速されることを利用して、サリンの除染には塩基性水溶液が用いられる。 自衛隊や警察、海上保安庁の対テロ訓練では、国際テロリストがサリンを散布して多数の死傷者が発生するといった状況が想定されていることが多い。北朝鮮も製造・所持をしている疑いがある。北朝鮮は日本列島を攻撃可能な弾道ミサイルを保有しており、弾頭に化学兵器類を搭載して発射できるとされる。ただし、熱に弱い性質のサリンを大気圏再突入時に、熱の壁から防ぐ熱遮蔽技術が必要となる。 予防には可逆性アセチルコリンエステラーゼ阻害剤が有効とされる。また、サリンにさらされた可能性がある場合には、サリンから離れて安全な空気のある場所に移動し、衣服を脱ぎ、洗眼や体の洗い流しをすることが求められる。治療には抗コリン剤および抗痙攣剤として、硫酸アトロピンやプラリドキシムヨウ化メチル (PAM)が用いられる。 サリンは化学兵器禁止条約(1997年発効)により、締約国は例外を除き、サリン等の生産、取得、保管、軍事的な使用が禁じられている。例外として、化学兵器禁止機関に申告を行った上で、防護目的のために少量の生産・取得・保管が認められている。 日本ではオウム真理教による松本サリン事件(1994年)と地下鉄サリン事件(1995年)を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律(サリン防止法、平成7年4月21日法律第78号)が1995年に施行された。特別な許可を受けた場合を除き、サリンをはじめとする各種の毒ガスの合成や所持が禁止されており、サリン等を発散させ公共の危険を生じさせた者には未遂を含めて罰則が定められている。さらに、化学兵器禁止条約を受けて、化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律(化学兵器禁止法)も1995年より施行(申告等手続等は1997年施行)されている。 陸上自衛隊化学学校(埼玉県さいたま市北区日進町、陸上自衛隊大宮駐屯地所在)では、日本では唯一、化学兵器禁止法及び施行令により、人身防護を目的に複数の種類の毒ガスの製造が許可されている。サリンも年間でグラム単位の合成を行っているほか、国際機関・化学兵器禁止機関(OPCW)の査察も受け入れている。また、科学警察研究所でも経済産業大臣の許可を受け、試薬を輸入し、化学剤検知器のテスト等を行っている。
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サリンは、有機リン化合物で神経ガスの一種。別称はGB、イソプロピルメチルフルオロホスホネートやメチルフルオロホスフィン酸イソプロピル。
{{Otheruses|化学兵器}} {{chembox | verifiedrevid = 306444299 | Reference=<ref>{{cite web|publisher=United States Senate|work=103d Congress, 2d Session|date=May 25, 1994|url=http://www.gulfweb.org/bigdoc/report/appgb.html|title=Material Safety Data Sheet -- Lethal Nerve Agent Sarin (GB)|accessdate=2004-11-06}}</ref> | Name = サリン | ImageFileL1 = Sarin-skeletal.png | ImageSizeL1 = 130px | ImageFileR1 = Sarin-3D-balls.png | ImageSizeR1 = 120px | IUPACName = 2-(Fluoro-methylphosphoryl)oxypropane | OtherNames = ''O''-isopropyl methylphosphonofluoridate, Isopropyl, GB methylphosphonofluoridate<br/>GB<ref>{{Cite web|url=http://webbook.nist.gov/cgi/cbook.cgi?Name=sarin&Units=SI&cMS=on |title=Sarin |author= |date= |work= |publisher=NIST |accessdate=2019-06-30}}</ref> | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo_Ref = {{cascite}} | CASNo = 107-44-8 | PubChem = 7871 | SMILES = CC(C)OP(=O)(C)F | InChI=1/C4H10O2FP/c1-4<br/>(2)7-8(3,5)6/h4H,1-3H3 }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = C<sub>4</sub>H<sub>10</sub>FO<sub>2</sub>P | MolarMass = 140.09 g/mol | Appearance = 無色の液体 | Odor = 無臭 | BoilingPtC = 158 | MeltingPtC = -56 | Solubility = 混和性 | Density = 1.0887 g/cm³ at 25 °C<br>1.102 g/cm³ at 20 °C }} | Section3 = {{Chembox Hazards | ExternalMSDS = | EUClass = 特に毒性が高い ('''T+'''), 腐食性 (C), 火傷 | NFPA-H = 4 | NFPA-F = 0 | NFPA-R = 2 }} }} '''サリン'''({{lang-de|Sarin}})は、[[有機リン化合物]]で[[神経ガス]]の一種<ref name="Mohamed">{{Cite web|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5764759/ |title=Sarin (GB, O-isopropyl methylphosphonofluoridate) neurotoxicity: critical review |author=Mohamed B. Abou-Donia, Briana Siracuse, Natasha Gupta, and Ashly Sobel Sokol |date=2016 Oct 5 |work=Crit Rev Toxicol. 2016 Nov; 46(10): 845–875.|publisher= |accessdate=2019-06-03}}</ref>。別称は'''GB'''<ref name="who">[https://web.archive.org/web/20080602161516/http://www.who.int/csr/delibepidemics/bcjapaneses.pdf 生物・化学兵器への公衆衛生対策 WHOガイダンス,世界保健機関,2004年]</ref>、'''イソプロピルメチルフルオロホスホネート'''や'''メチルフルオロホスフィン酸イソプロピル'''<ref>{{Cite web|url=http://www.nihs.go.jp/hse/chem-info/aegl/agj/ag_Agent_GB(Sarin).pdf |title= 急性曝露ガイドライン濃度 (AEGL) Agent GB (Sarin) (107-44-8) 神経剤 GB(サリン)|author= |date= |work= |publisher=国立医薬品食品衛生研究所 |accessdate=209-06-08}}</ref>。 == 歴史 == 化学兵器としてのサリンは、[[1938年]]に[[ナチス・ドイツ]]で開発された<ref name="CDC">{{Cite web|url=https://emergency.cdc.gov/agent/sarin/basics/facts.asp |title=Facts About Sarin |author= |date= |work= |publisher=Centers for Disease Control and Prevention |accessdate=2019-06-16}}</ref><ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE">{{Cite web|url=https://ke.army.mil/bordeninstitute/published_volumes/chemwarfare/CHAP2_Pg_09-76.pdf |title=HISTORY OF CHEMICAL WARFARE |author=COREY J. HILMAS, MD, PhD; JEFFERY K. SMART, MA; and BENJAMIN A. HILL, Jr, DO, MS, MEd |date= |work= |publisher=U.S.ARMY |accessdate=2019-06-16}}</ref>。「サリン」の名称は、ナチスでサリン開発に携わった[[ゲルハルト・シュラーダー|シュラーダー]] ({{de|Gerhard '''S'''chrader}})、[[オットー・アンブローズ|アンブローズ]]({{de|Otto '''A'''mbros}})、[[ゲルハルト・リッター (化学者)|リッター]] ({{de|Gerhard '''R'''itter}})、フォン・デア・リンデ ({{de|Hans-Jürgen von der L'''in'''de}}) の名前から取られた<ref name="Evans2008">{{Cite book | author = Richard J. Evans | title = The Third Reich at War, 1939-1945 | year = 2008 | publisher=Penguin | isbn = 978-1-59420-206-3 | page=669 | url = https://books.google.co.jp/books?id=0XZHSyTLyIMC&pg=PA669&redir_esc=y&hl=ja | accessdate = January 13, 2013}}</ref>。ただし、サリンの[[化学式]]自体は、すでに1902年に公表されていた<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。 [[第二次世界大戦]]中のドイツにおける生産量は約{{convert|1000|lb|kg}}と推測されている<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。第二次世界大戦末期、[[アドルフ・ヒトラー]]の側近でナチス・ドイツの[[国民啓蒙・宣伝省|宣伝大臣]]であった[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、[[化学兵器]]を実戦に投入することを主張した<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。しかし、[[第一次世界大戦]]で[[毒ガス]]によって[[視神経]]や[[脳神経]]に一過性の障害を負い喉や眼を負傷したという経験を持つヒトラーは毒ガス使用には消極的であり<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>、また[[ドイツ国防軍]]も化学兵器による攻撃は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]が神経ガスを保有しており、それを用いた報復ガス攻撃を招くと考えていた<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。そのため、ドイツ国防軍がサリンを戦争に使用することはなかった<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。サリンやタブン等の詳細な情報は、第二次世界大戦におけるドイツの敗北により、連合国側も把握するところとなった<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。 [[Image:Demonstration cluster bomb.jpg|thumb|250px|[[MGR-1 (ロケット)|オネスト・ジョン]]の弾頭の内部を見えるようにしたもの。サリンを詰める多数のM139小型化学弾が見える。なお、この写真はデモ用の弾頭で実弾ではない。(1960年頃)]] [[Image:Sarin test rabbit.jpg|thumb|200px|[[ウサギ]]の入った籠を持って'''サリン'''ガスのガス漏れが無いかチェックしている。(1970年撮影)]] * 1938年、ドイツにてサリンが開発される。第二次世界大戦中は、製造が行われるも実戦使用されることはなかった<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。 * 1945年、ドイツの敗北に伴い、製造工場や科学者等から、連合国側もサリンの詳細情報を入手<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/>。 * 1946年、[[ソビエト連邦]]は国内に、ドイツから接収した製造工場を再建し、サリン等の生産を再開<ref name="HISTORY OF CHEMICAL WARFARE"/><ref name="NASEM">{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20170911153533/http://nationalacademies.org/hmd/~/media/Files/Report%20Files/2007/Long-Term-Health-Effects-of-Participation-in-Project-SHAD-Shipboard-Hazard-and-Defense/SARINNERVEAGENT.pdf |title=HEALTH EFFECTS OF PROJECT SHAD - CHEMICAL AGENT:SARIN NERVE AGENT |author=The Center for Research Information, Inc. |date=2004 |work= |publisher=National Academies |accessdate=2019-06-30}}</ref>。 * [[1953年]]、[[アメリカ陸軍]]はサリンの大規模生産を開始<ref name="NASEM"/>。 * [[1953年]]、[[イギリス空軍]]の[[ロナルド・マディソン]]二等兵がサリンの実験中に死亡する<ref>Schmidt, Ulf (2006). "Cold War at Porton Down: Informed Consent in Britain’s Biological and Chemical Warfare Experiments". Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics (Cambridge Journals) 15 (4): 366–380</ref>。 * [[1960年代]]、[[ロッキーマウンテン兵器工場]]で大量のサリンを生産している。このサリンは一度も使用されることが無いままロッキーマウンテン兵器工場の倉庫に保管されていた。そして、1970年代になると全て廃棄処分された。 * [[1988年]]、[[イラン・イラク戦争]]中の[[イラク]]・[[クルディスタン地域]]で[[ハラブジャ事件]]が発生。[[イラク治安部隊|イラク軍]]が[[イラン・イスラム共和国軍|イラン軍]]および自国の[[クルド人]]に対し毒ガス攻撃を実施、サリンも使用したとされる<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/05/post-2917.php サリンを使ったのはアサドか反体制派か] [[ニューズウィーク]]日本語版</ref>。 * [[1993年]]、[[オウム真理教]]の[[土谷正実]]が合成に成功。サリンを用いて、[[池田大作サリン襲撃未遂事件]]、[[滝本太郎弁護士サリン襲撃事件]]、[[松本サリン事件]]、[[地下鉄サリン事件]]を起こした。また、サリン70トンの生産を目指して、[[山梨県]][[上九一色村]]の教団施設第7[[サティアン]]においてサリンプラントを建設していた([[サリンプラント建設事件]])。 * [[1994年]]、イラクの武装解除を行っていた[[国際連合|国連]]の委員会は、サリンを含むイラク保有の化学兵器の廃棄を確認<ref>{{cite news |page= 36 |work= [[UN Chronicle]] |publication-date= September 1, 1994 |volume=31 |issue=3 |title= Nearly half a million litres of chemical warfare agents destroyed in two-year operation. |quote= The two-year operation managed to destroy ... the nerve agents sarin and tabun .... The UN Special Commission on Iraqi disarmament, set up under Security Council resolution 687 (1991) concerning the disposal of Iraq's weapons of mass destruction, reported that it had completed in June an important part of its mandate--the elimination of that country's declared chemical weapons stockpile.|url= https://www.questia.com/magazine/1G1-16435096/nearly-half-a-million-liters-of-chemical-warfare-agents |accessdate= December 30, 2015}}</ref>。 * [[2011年]]に始まった[[シリア内戦]]では、[[2013年]]に[[シリア]]の首都[[ダマスカス]]近郊にあるグータに、サリンを搭載した[[ロケット]]が打ち込まれ死傷者が出た([[グータ化学攻撃]])ほか、[[2017年]][[4月]]には[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]政権が反政府勢力に対しサリンを使用したとされており([[カーン・シェイクン化学兵器攻撃]])、この結果アメリカが[[シャイラト空軍基地攻撃|シリアの空軍基地に対する空爆]]を実施するに至った<ref>{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/39523891|title=米軍、シリアへミサイル攻撃 「サリン」使った「化学攻撃」に反応|work=BBC News|publisher=[[英国放送協会|BBC]]|date=2017-04-07|accessdate=2017-04-09}}</ref>。 == 人体への機序 == [[File:Sarin Wirkungsweise.png|thumbnail|150px|サリン(赤)、アセチルコリンエステラーゼ(黄)、アセチルコリン(青)。サリンがアセチルコリンエステラーゼと結合し、アセチルコリンの分解を阻害。]] サリンは[[神経伝達物質]]の[[アセチルコリン]]と似た構造を持つ。サリンはアセチルコリンを加水分解する[[コリンエステラーゼ|アセチルコリンエステラーゼ]](AChE)の活性部位に不可逆的に結合することで、AChEを失活させる。それによりアセチルコリンの分解を阻害し、神経伝達を麻痺させる作用が働く<ref name="s-a-t">[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/sarin.html オウム裁判対策協議会 - Sarinとは]</ref>。 === 毒性 === 殺傷能力が非常に強く、吸収した量によっては数分で症状が現れる<ref name="FR-CBH">Tempest Publishing 編著 『初動要員のための 生物化学兵器ハンドブック』 [[小川和久]]監訳 [[西恭之]]訳、啓正社、2000年、78-80頁。ISBN 4-87572-114-5。</ref>。また、呼吸器系からだけでなく[[皮膚]]からも吸収されるため<ref name="kis-net">[https://web.archive.org/web/20160424092229/http://www.k-erc.pref.kanagawa.jp/kisnet/code.asp?code=1029 アーカイブ][http://www.k-erc.pref.kanagawa.jp/kisnet/code.asp?code=1029 神奈川県化学物質安全情報提供システム - サリン]</ref>、[[ガスマスク]]だけではなく対応する防護服を着用しなければ防護できない<ref name="who"/><ref>サリン約200mgが服の上から皮膚に付いただけで成人男性が死亡することは、[[イギリス]]がロナルド・マディソン二等兵に行った[[人体実験]]で証明されている。</ref>。また、衣服や身体等に付着したサリンが再度気化し、二次被害を生じさせる場合があり、注意を要する<ref name="CDC"/>。 経皮投与におけるヒトの[[半数致死量]](LD<sub>50</sub>)は28 mg/kgであり<ref name="kis-net"/>、体重60 kgのヒトが1,680&nbsp;mg(約1.5 mL)の純粋なサリンを経皮吸収すると、その半数が死亡することを意味する。また、皮膚に一滴垂らすだけで確実に死に至るとの記述も存在する<ref name="s-a-t"/>。また、サリンは揮発性が高く、揮発度は16,100mg/m<sup>3</sup><ref name="who"/>、気体比重は4.86となっており<ref name="kis-net"/>、経気道的に吸入した場合のLD<sub>50</sub>は、70–100&nbsp;mg.min/m<sup>3</sup>(推測中央値)となっている<ref name="who"/>。 === 症状 === 低濃度曝露の場合、以下のような症状が出る<ref name="CDC"/><ref>{{Cite web|url=https://www.umin.ac.jp/chudoku/sarin_s/sarin_B.htm|title=サリン中毒症例について |author=高須伸克 |date= |work= |publisher=大学病院医療情報ネットワーク |accessdate=2019-06-16}}</ref>。特に[[縮瞳]]が出現しやすいとされる<ref name="who"/>。 * [[縮瞳]]、[[嘔吐]]、[[腹痛]]、[[下痢]]、嘔気、胸部圧迫感、[[発汗]]、[[倦怠感]]、[[不安感]]、[[頭痛]]、[[めまい]]、[[呼吸困難]]、脱力感。 高濃度曝露の場合、重度化し、以下のような症状が加わる。 * [[失禁]]、[[意識混濁]]、[[心肺停止]]、全身[[痙攣]]、[[死亡]]。 === 後遺症 === 日本においては、松本サリン事件と地下鉄サリン事件の二回にわたる惨事が引き起こされ、両事件で多数の患者が発生しているため、多数の患者に対する医学的な追跡調査が行われている。ただし、両事件では100以上の論文が発表されているものの、新たな知見は見出されなかった。これはすでに神経剤の臨床試験データが数百人分存在するからである。 後遺症には、主に[[心的外傷後ストレス障害]]などの心的な物と、目がかすむ、身体がだるい、熱が出るなど軽微な物から、完全に身体を動かせないほどの重度な物までがある。身体的な後遺症の原因は[[中枢神経]]系や[[副交感神経]]の回復不能な損傷だと言われている。なお、地下鉄サリン事件で使用されたサリンは不純物が多く含まれているものであり、サリン以外の毒性も影響している可能性がある。 松本サリン事件被害者に対する松本市地域包括医療協議会及び松本市による継続的な健康調査では、中毒者には事件後10年経過しても身体や目の倦怠感を訴えるものが非中毒者よりも有意に多かったが、20年経過時点では明確な後遺症は1名の確認にとどまった<ref>{{Cite web|url=https://www.city.matsumoto.nagano.jp/kenko/kenkodukuri/sarinkenko01.files/sarinreportjp01.pdf |title=松本サリン事件被害者の健康調査に関する報告書 |author= |date=2015-10 |work= |publisher=松本市地域包括医療協議会・松本市 |accessdate=2019-06-03}}</ref>。 有機リン系農薬に見られる遅発神経障害(1 - 3週間以降)は起こらないとされる。これはサリンの急性毒性が高いために、ごく少量で中毒し、アセチルコリンエステラーゼ活性阻害作用が高い反面、神経毒エステラーゼ活性阻害作用はそれほど高くないことによる。 == 合成及び構造 == サリンは有機リン化合物であり、[[四面体形分子構造]]と4つの[[置換基]]を持つ<ref>D. E. C. Corbridge "Phosphorus: An Outline of its Chemistry, Biochemistry, and Technology" 5th Edition Elsevier: Amsterdam 1995. {{ISBN2|0-444-89307-5}}.</ref>。[[光学異性体]]があり、''S''<sub>p </sub>体の方がアセチルコリンエステラーゼ結合作用が強く、生体毒性が高い<ref>{{cite journal2 |first1=Zrinka |last1=Kovarik |first2=Zoran |last2=Radić |first3=Harvey A. |last3=Berman |first4=Vera |last4=Simeon-Rudolf |first5=Elsa |last5=Reiner |first6=Palmer |last6=Taylor |name-list-style=amp |title=Acetylcholinesterase active centre and gorge conformations analysed by combinatorial mutations and enantiomeric phosphonates |journal=[[Biochem. J.]] |date=March 2003 |volume=373 |pages=33–40 |doi=10.1042/BJ20021862 |pmid=12665427 |issue=Pt. 1 |pmc=1223469}}</ref><ref>{{cite journal |title= Nerve agent stereoisomers: analysis, isolation and toxicology |first1= H. P. |last1= Benschop |first2= L. P. A. |last2= De Jong |journal=[[Acc. Chem. Res.]] |year= 1988 |volume= 21 |issue= 10 |pages= 368–374 |doi= 10.1021/ar00154a003}}</ref>。 [[File:Sarin synth with racemic stereochemistry.png|415px]] サリンの合成は、[[有機リン化合物]]合成における手法を通じて行われる。オウム事件裁判で明らかにされた手法としては<ref>{{Cite web |url=http://www.s-a-t.org/sat/sarin/koutei/koutei.html |title=サリン合成工程|accessdate=2022-03-11}}</ref>、 1.[[三塩化リン]]、[[メタノール]]を原料とし、溶媒としてn-ヘキサンを、反応促進剤としてN,Nジエチルアニリンを用いて、亜リン酸トリメチルを生成する。その際、反応の過程で発生する塩化水素は、ジエチルアニリン塩酸塩となって沈殿する。 :PCl<sub>3</sub>+3CH<sub>3</sub>OH+3C<sub>6</sub>H<sub>5</sub>N(C<sub>2</sub>H<sub>5</sub>)<sub>2</sub> →(CH<sub>3</sub>O)<sub>3</sub>P+3C<sub>6</sub>H<sub>5</sub>N・C<sub>2</sub>H<sub>5</sub>)<sub>2</sub>+HCl 2.亜リン酸トリメチルに触媒として[[ヨウ素]]を加え、転位反応により[[メチルホスホン酸ジメチル]]を生成する。その際、瀘過によりヨウ素を除去し、ジメチルを精製する。 :P(CH<sub>3</sub>O)<sub>3</sub>+I<sub>2</sub> →CH<sub>3</sub>P(O)(CH<sub>3</sub>O)<sub>2</sub>+I<sub>2</sub> 3.ジメチルと粉末状の[[五塩化リン]]を加熱した状態で反応させ、メチルホスホン酸ジクロライドを生成する。その際、副生成物として[[オキシ塩化リン]]等が生じるため、この混合物を分留してジクロを精製する。 :CH<sub>3</sub>P(O)(OCH<sub>3</sub>)<sub>2</sub>+2PCl<sub>5</sub> →CH<sub>3</sub>P(O)Cl<sub>2</sub>+2POCl<sub>3</sub>+2CH<sub>3</sub>Cl 4.ジクロに原料である[[フッ化ナトリウム]]を反応させ、[[メチルホスホニルジフルオリド|メチルホスホン酸ジフロライド]]を生成する。その際、副生成物として[[塩化ナトリウム]]が生じる。 :CH<sub>3</sub>P(O)Cl<sub>2</sub>+2NaF →CH<sub>3</sub>P(O)F<sub>2</sub>+2NaCl 5.ジクロとジフロの混合物に原料である[[イソプロピルアルコール]]を反応させ、サリンを生成する。副生成物として発生した[[塩化水素]]は、水酸化ナトリウムと反応させて塩化ナトリウムとして除去する。 :主反応式 :CH<sub>3</sub>P(O)Cl<sub>2</sub>+CH<sub>3</sub>P(O)F<sub>2</sub>+2(CH3)<sub>2</sub>CHOH →2CH<sub>3</sub>P(O)FOCH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub>+2HCl :副反応式 :CH<sub>3</sub>P(O)Cl<sub>2</sub>+CH<sub>3</sub>P(O)F<sub>2</sub>+4(CH3)<sub>2</sub>CHOH →2CH<sub>3</sub>P(O)[OCH(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub>]<sub>2</sub> +2HCl+2HF ただし、サリンそのものは反応性が高い上に漏洩した場合に非常に危険であることから、[[化学兵器]][[砲弾]]や[[爆弾]]においては[[メチルホスホニルジフルオリド]]とイソプロピル化合物を分離状態で同梱しておき、兵器として使用する時に混合する方法が用いられた([[バイナリー兵器]])<ref>{{Cite web|url=https://www.cma.army.mil/df-methylphosphonic-difluoride/ |title=DF (Methylphosphonic Difluoride) |author= |date= |work= |publisher=U.S.ARMY |accessdate=2019-06-14}}</ref><ref name="army"/>。オウム真理教の場合はこれとは異なり、あらかじめサリンを合成しておき、池田大作サリン襲撃未遂事件、松本サリン事件では[[貨物自動車]]を改造して設置した噴霧装置を用いて、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件では[[遠沈管]]、地下鉄サリン事件ではサリンを有機溶剤に溶解させたものを袋に密閉し、穴をあけて染み出させることによる散布が行われた<ref name="wa141">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所]</ref><ref name="wa148">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/770/005770_hanrei.pdf 平成7合(わ)148 殺人,同未遂,犯人蔵匿被告事件 平成14年10月11日 東京地方裁判所]</ref>。 しかし、サリンは合成過程における中間生成物の段階で既に極めて毒性が高く、廃棄物もまた高い毒性を持つ。さらに生成過程で使用される化学物質は腐食性も高くガラスを腐食させるので、通常のフラスコなどでは合成できず、高度に専門的な知識と技術、設備が必要となる。これら設備を持たない者が合成を試みたところで、その合成過程で負傷・死亡する危険性が高い。殺虫剤の構造式と紙一重であり、P=O二重結合をもっている。 日本では、かつて[[長野県警察]]が市販の[[農薬]]からサリンの合成が可能であると主張していたが、これは完全に誤りである。確かにイソプロピルアルコールは工業原料・有機溶剤などとして一般に広く市販されており、前駆体であるリン塩化物についても法規制が敷かれているものの、化学工業や化学実験などで汎用される物質であることから入手が比較的容易なのは事実である。しかし、サリンは熱や水で容易に分解する上、合成段階では極めて不安定になる性質を持つため、サリンに至る製造工程では様々な化学用機材や高度な脱水技術のほか多段階の反応制御・精製技術・温度管理が必要であり、また多くの危険を伴う作業となる。上述した通り、オウム真理教もサリン製造にあたっては、それを目的とした研究室や大掛かりな[[サリンプラント建設事件|サリンプラント]]を建造し、化学方面の高度な専門的知識に知悉した[[土谷正実]]らの信者が携わり、[[長谷川茂之|長谷川ケミカル]]などのダミー会社を経由して原料を取得している。[[オウム真理教]]に対する査察においてオウム真理教の施設からは[[三塩化リン]]・[[フッ化ナトリウム]]([[メチルホスホン酸ジメチル]]・[[メチルホスホン酸ジクロリド]]から[[メチルホスホニルジフルオリド|メチルホスホン酸ジフルオリド]]を合成する段階で使用)などが発見され、それまではあくまで疑惑であった[[オウム真理教]]のサリン製造を裏付ける強力な物証となった。 == 対策 == 自然環境中には存在しない<ref>{{Cite web|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/h08/h080102.html |title=第2節 オウム真理教の組織犯罪活動等の実態 |author= |date= |work=平成8年 警察白書 |publisher=警察庁|accessdate=2019-06-20}}</ref>。化学的に不安定な物質で、[[熱分解]]や[[加水分解]]されやすい<ref name="kis-net"/>。加水分解により[[フッ素]]が水分子の水素原子と結びつき、それが同じ水分子の水酸基と入れ替わることにより、サリンは[[フッ化水素]]と[[メチルホスホン酸イソプロピル]](IMPA)に変化し、さらに後者は[[メチルホスホン酸]](MPA)と[[2-プロパノール|イソプロピルアルコール]]に分解する<ref name="army">{{Cite web|url=https://fas.org/irp/doddir/army/fm3-11-9.pdf |title=Potential Military Chemical/Biological Agents and Compounds: Fm 3-11.9 |author= |date= |work= |publisher=U.S.ARMY |accessdate=2019-06-14}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5702/massspec.53.157 |title=サリンと質量分析 |author=角田紀子 |date= 2005|journal =Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan |publisher=日本質量分析学会 |volume = 53 |issue = 3 |doi = 10.5702/massspec.53.157 |pages = 157-163 |accessdate=2019-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.opcw.org/sites/default/files/documents/Science_Technology/Diplomats_Programme/S_T_Biomed_Analysis_Poster.pdf |title= CONDUCTING ANALYSIS OF BIOMEDICAL SAMPLES TO ASSESS EXPOSURE TO ORGANOPHOSPHRUS NERVE AGENTS|author= |date= |work= |publisher=OPCW |accessdate=2019-06-14}}</ref>。したがって水源地や浄水場にサリンを投げ込んだところで直ちに加水分解されるほか、[[活性炭]]処理や[[オゾン]]による高度浄水処理の工程を通ればほぼ完全に無毒化される。また、塩基性条件下で加水分解が加速されること<ref name="Mohamed"/>を利用して、サリンの除染には塩基性水溶液が用いられる<ref name="FR-CBH"/>。 [[自衛隊]]や[[日本の警察|警察]]、[[海上保安庁]]の対テロ訓練では、国際テロリストがサリンを散布して多数の死傷者が発生するといった状況が想定されていることが多い。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]も製造・所持をしている疑いがある<ref>[http://www.npa.go.jp/kouhousi/biki4/p02.html 北朝鮮における対日諸活動] [[警察庁]]</ref><ref>[http://www.jmf.or.jp/japanese/houkokusho/kensaku/pdf/2004/15sentan_y04_3.pdf 平成15年度 機械産業の対外経済活動に与える安全保障関連動向調査報告書(安全保障情報調査編)] 社団法人 [[日本機械 工業連合会]]・財団法人 安全保障貿易情報センター</ref>。北朝鮮は[[日本列島]]を攻撃可能な[[弾道ミサイル]]を保有しており、弾頭に化学兵器類を搭載して発射できるとされる。ただし、熱に弱い性質のサリンを[[大気圏再突入]]時に、[[熱の壁]]から防ぐ熱遮蔽技術が必要となる<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1009/TKY200910080559.html 中朝国境でサリン検出 北朝鮮から風吹く時に2回] [[朝日新聞社]] 2009年10月9日</ref>。 === 予防及び治療 === 予防には可逆性[[アセチルコリンエステラーゼ阻害剤]]<ref name="who"/>が有効とされる。また、サリンにさらされた可能性がある場合には、サリンから離れて安全な空気のある場所に移動し、衣服を脱ぎ、洗眼や体の洗い流しをすることが求められる<ref name="CDC"/>。治療には抗コリン剤および抗痙攣剤として、[[アトロピン|硫酸アトロピン]]や[[プラリドキシムヨウ化メチル]] (PAM)が用いられる<ref name="who"/><!---http://www.gunma.med.or.jp/PDF/hakozaki20170705.pdf 群馬県医師会講演記録--->。 === 法的規制 === サリンは[[化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約|化学兵器禁止条約]](1997年発効)により、締約国は例外を除き、サリン等の生産、取得、保管、軍事的な使用が禁じられている<ref>化学兵器禁止条約第1条及び附表</ref>。例外として、[[化学兵器禁止機関]]に申告を行った上で、防護目的のために少量の生産・取得・保管が認められている<ref>化学兵器禁止条約第2条及び第6条</ref>。 日本では[[オウム真理教]]による[[松本サリン事件]]([[1994年]])と[[地下鉄サリン事件]]([[1995年]])を受けて、[[サリン等による人身被害の防止に関する法律]](サリン防止法、平成7年4月21日法律第78号)が1995年に施行された<ref name="moj1995">{{Cite web|url=https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/37/nfm/n_37_2_1_4_2_0.html |title=第2節 関係法令の制定 |author= |date=平成8年版 犯罪白書 |work= |publisher=法務省 |accessdate=2019-06-22}}</ref>。特別な許可を受けた場合を除き、サリンをはじめとする各種の毒ガスの合成や所持が禁止されており、サリン等を発散させ公共の危険を生じさせた者には未遂を含めて罰則が定められている<ref name="moj1995"/>。さらに、化学兵器禁止条約を受けて、[[化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律]](化学兵器禁止法)も1995年より施行(申告等手続等は1997年施行)されている<ref>{{Cite web|url=https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/cwc/domestic_outline.html |title=化学兵器禁止法に基づく規制の概要 |author= |date= |work= |publisher=経済産業省 |accessdate=2019-06-22}}</ref>。 [[陸上自衛隊化学学校]]([[埼玉県]][[さいたま市]][[北区 (さいたま市)|北区]][[日進町 (さいたま市)|日進町]]、[[陸上自衛隊]][[大宮駐屯地]]所在)では、日本では唯一、化学兵器禁止法及び施行令により、人身防護を目的<!---法34条による特定研究--->に複数の種類の毒ガスの製造が許可されている<ref>化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律 第三十四条及び施行令第六条</ref>。サリンも年間でグラム単位の合成を行っている<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b184003.htm 衆議院議員塩川鉄也君提出陸上自衛隊化学学校と特定物質に関する質問に対する答弁書 内閣衆質一八四第三号 平成二十五年八月十三日]</ref>ほか、国際機関・化学兵器禁止機関(OPCW)の査察も受け入れている<ref>[https://web.archive.org/web/20120619180750/http://www.mod.go.jp/j/press/news/2012/06/14c.html 化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約に基づく査察の受け入れについて 平成24年6月14日]</ref>。また、[[科学警察研究所]]でも[[経済産業大臣]]の許可を受け、試薬を輸入し、化学剤検知器のテスト等を行っている<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.2116/bunsekikagaku.54.83 |title=携帯型表面弾性波センサーアレイ式化学剤検知器の性能 |author=松下浩二, 関口裕之, 瀬戸康雄 |date=2005 |volume =54|issue =1 |page=83-88|journal=分析化学|publisher=公益社団法人 日本分析化学会|doi=10.2116/bunsekikagaku.54.83|accessdate=2019-06-14}}</ref>。 == 関連項目 == * [[MGR-1 (ロケット)|MGR-1]] - サリンのクラスター弾頭をオネスト・ジョンに搭載可能。 * {{仮リンク|MC-1 (航空爆弾)|en|MC-1 bomb}} - アメリカ軍の化学兵器用航空爆弾。サリンを充填<ref>A History of Chemical Warfare,K. Coleman,Springer, 2005,ISBN 9780230501836,P86</ref>。 * [[M360 (105mm砲弾)|M360 105mm砲弾]] - アメリカ軍の化学兵器砲弾。 * [[M121 (155mm砲弾)|M121 155mm砲弾]] - アメリカ軍の化学兵器砲弾。 * [[松本サリン事件]] - 1994年に[[長野県]][[松本市]]で[[オウム真理教]]によってサリンがばら撒かれた[[テロ事件|化学テロ]]・[[宗教テロ]]事件。 * [[地下鉄サリン事件]] - 1995年に東京都内の[[帝都高速度交通営団]](現:[[東京メトロ]])の地下鉄の列車に、同じくオウム真理教によってサリンがばら撒かれた化学テロ・宗教テロ事件 。 * [[ノビチョク]] - ロシアの化学兵器。スパイ活動を行っていた無国籍の工作員がイギリスで浴びさせられた一連の事件。 * [[イランに対するイラクの化学攻撃]] * [[オウム真理教の兵器]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{Chemical warfare}} {{DEFAULTSORT:さりん}} [[Category:神経ガス]] [[Category:有機リン化合物]] [[Category:有機フッ素化合物]] [[Category:コリンエステラーゼ阻害薬]] [[Category:G剤]] [[Category:ナチス時代のドイツの発明]]
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川(かわ)は、水が流れる細長い地形である。雨として落ちたり地下から湧いたりして地表に存在する水は、重力によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったものが川である。河川(かせん)ともいう。時期により水の流れない場合があるものもあるが、それも含めて川と呼ばれる。 河川の水流は単純なものではなく、川底の地形などによって、二次流、回転流、螺旋状の流れなど様々な流れが発生している。河川には沿岸や河床を削り取った土砂が含まれているが、この土砂は沿岸の土質によって含まれる量が異なり、沿岸がもろい土質だったり森林伐採などにより裸地となっている場合には多量の土砂が含まれ、濁った川の色となる。こうした土砂の運搬は、水流によって砂礫がそのまま機械的に流されていくものと、川の水に溶け込んだ土砂が流されていくものとに分かれる。河川の流速は一般に河川全体の勾配に比例しており、源流の標高が高く河川長が短いほど流速は早くなり、急流となる。一般に日本の河川は勾配がきつく、流速が早い傾向にある。また、河川の最小水量と最大水量の差を河況係数と呼び、この係数が大きいほど渇水期と雨季の流量の差が激しく、治水や利水が困難となる。河況係数は雨季と乾季の明確な区別のある乾燥地帯を流れる河川(ニジェール川など)や、雨季に大量の降水がある上全長が短く降雨が一気に河道に集中しやすい日本の多くの河川において高くなる傾向がある。 地球上の水の97%は海水で、陸にある水は3%である。陸水の大部分は、北極・南極に集中する雪や氷と、地下水として存在するので、河川水は地球上の水の0.0001%にしかあたらない。絶えず流れ下りながら尽きることがない川の水は、地球規模の水循環の一部である。 川に流入する水の源は、究極的には雨や雪などの降水である。降水が地表で直接河川に流れ込む以外に、地下水から川に入る水もある。雪や雨は一時的な現象なので、川の持続的な水源は地下水である所が多い。地下水は地表で流れ込むとは限らず、直接川底に湧出するものもある。他に、湖沼から流入したり、寒冷気候では万年雪や氷河に由来する水も入る。人間が利用した後の処理済み・未処理の排水も川に入る。 川からの流出でもっとも見えやすいのは、海や湖沼に流れ込む部分である。他に、表面から蒸発して大気中の水蒸気になったり、川底から染み込んで地下水になったりする。常時流水がなく、降水時以外は水の流れない、いわゆる水無川も存在する。水無川は周囲の降水が少なく水が流れない場合と、河床の土質が水を吸収しやすく、流水を吸い込んでしまう場合が存在する。特に乾燥地帯では蒸発・浸透が大きく、降水時のみ流れたり途中で涸れてしまう川がほとんどを占め、これをワジと呼ぶ。また、とくに石灰岩地域においては、地表から吸い込まれた水が地下の不透水地層にさえぎられて下流へと流れだし、地下に河川が成立する場合がある。こうした場合、しばしば地下河川には鍾乳洞が成立する。川によっては人間に利用される部分も大きい。 流入量と流出量を推計して全体の流れをみたものを水収支という。川においては川そのものの水収支のほかに、流域の水収支に関心が寄せられる。水収支は一年以上の長期をとればほぼ釣り合うが、短い期間の量の増減と収支のバランスは、日々の天気やそれを通じた季節変動に大きく左右される。 河道は通常1本ではなく樹状構造を取り、本流に各地から集まってきた支流が流れ込む構造となっている。こうした河川の集合を水系と呼ぶ。各水系はその水系に流れ込む水を集める領域(集水域)を持ち、その総合を流域と呼ぶ。各河川の流域は稜線などによってかなり明確に区切られており、その境界を分水界、山岳である場合は分水嶺と呼ぶ。本流と支流の区別は厳格な基準があるわけではなく、本流より長く水量も多い支流は珍しくない。たとえば、世界3位の長さを誇るミシシッピ川は本流よりも支流であるミズーリ川の方が長く、川の長さもミズーリ川の源流からの長さで計算されている。また、支流は本流に流れ込むものであるが、逆に本流から流れ出して海へと注ぐ派川(分流)も存在する。派川は多くの場合下流域に集中して存在し、とくに三角州においては多くみられる。こうした派川によって、三角州に流れ込む川の多くは複数の河口を持つ。 海の河口部においては、流速や水位が潮の干満の影響を受けて変動する区域がある河川がある。こうした河川は感潮河川、影響を受ける区域は感潮域と呼ばれる。感潮域は汽水域となっており、表層の軽い河川水の下に塩分を含んで重い海水が潜り込み、塩水くさびと呼ばれるくさび形の海水の侵入をなす。 干満の差がとくに大きい場合には、満潮の際に海水が段波と呼ばれる垂直壁状の波となって激しく逆流する、海嘯という現象が発生する。特にブラジルのアマゾン川で発生するものはポロロッカと呼ばれ、広く知られている。 河道は恒久的な構造ではなく、自然の状態では水の各作用、土壌の侵食・削りだした土砂の運搬・流れが緩やかな部分への土砂の堆積によって数年から数十年(百年以上も)単位で位置を変える場合がある。また、河川はそのできてからの地形の変遷によって、幼年期・青年期・壮年期・老年期に大まかに分類される。まず平原の低いところに水が集まって河道が形成されるのが幼年期である。青年期になると、侵食が進むことで峡谷が形成される。峡谷は水量が多く侵食力の大きい下流の方が深く広くなる。また、同じ理由で渓谷は河口付近に誕生し、時とともに上流へと延びていくこととなる。壮年期に入ると侵食は流域の全域に及ぶようになり、源流である山岳も削られて鋭いものとなる。一方で下流では堆積が進んで平野が広がるようになり、堆積物による三角州も河口には形成されるようになる。老年期になると、侵食作用が著しく進み、山岳はすべて削られつくして準平原が広がるようになる。こうした準平原には山岳のわずかな残りである残丘が点在している。そしてこの準平原が地殻変動などで隆起することによって、再び幼年期からの川の成長が始まる。なお、実際には老年期にまで達する河川はごくわずかで、地球上にあるほとんどの河川は幼年期から壮年期に属する。これは、地殻変動や火山噴火、気候の変化や海面の高さの変化などの様々な要因によって、老年期に達する前に地形の若返りが起こり、そこから再びサイクルが開始されるからであるとされる。こうした川を中心とした地形の変遷は地形輪廻とも呼ばれる。 川は水を運搬するだけでなく、水流によって川底や川岸の土砂や岩石を削りとり、長期的には峡谷を形成しながら谷を下方へと沈下させてゆく作用を持つ。このような川の作用を侵食作用と呼ぶ。 河川の水源は湧水や泉などが多い。山岳地帯に存在する湧水や泉から河川は始まり、渓流として山岳の斜面を流れ下るうちに各地の水源からの流水を合わせて沢となり、太い流れとなっていく。こうした源流部においては勾配が急であるため河川の侵食作用が激しく、山体は徐々に侵食されていくが、特に侵食がはげしい河川において侵食の先端が他の河川に到達した場合、前者の河川が後者の河川の上流部を丸ごと奪ってしまう場合が存在する。これを河川争奪と呼ぶ。河川争奪が起きた場合、奪った側は流量の増大によって侵食力が大きくなり谷が深くなる一方、奪われた側は、奪われた地点から下流においては流量の低下によって土砂を運搬することができなくなり、残った支流からの土砂が堆積するばかりになるため、広い谷が形成される。また、山岳地帯において侵食は一様ではなく、水流が断崖に出た場合や、河床の地質が固く侵食が食い止められる場合には侵食に段差ができ、この場合水流は滝となって落差をつけ垂直に落下する。 なお、河川は海岸で途切れてしまうわけではなく、海底谷をなして海洋のかなり深くまで地形的に連続していることがある。これは、氷期などによって海面が低下した際に河川がそこまで流れ込んでいたものが、そのまま残されたものである。また、海に流れ込んだ河川の水はしばらくの間周囲の海水とはある程度異なった水塊をなすことが多く、アマゾン川のように非常に水量の多い河川の場合、河口から数百km先においても周囲とは明らかに塩分濃度や成分の違った水塊となっている。 川によって侵食された粘土や砂礫は、流水に溶解したり、単に流されることによって、より下流へと運搬される。このような川の作用を運搬作用と呼ぶ。 川の下流に堆積する堆積物のうち、特に礫や巨礫などの砕屑物は角が丸くなっているものが多い。これは岩石が砕屑された際には切断面を残し角ばっていたものが、運搬によって徐々に削られて、角が丸くなるためである。 川が運搬する粘土や砂礫は、勾配の緩やかな下流付近で川の流速が弱くなることにより、その粒径によってふるい分けられながら、徐々に川底や河岸に集積され、堆積物となる。このような川の作用を堆積作用と呼ぶ。 山岳地帯から平野部に河川が流出する地点においては、山岳地帯で流れ込んだ大量の土砂が扇型に広がって堆積し、扇状地を形成する。特に中流域において、地殻変動により地面が隆起した場合、河川が下刻してそれまでの河岸平野を高原上に取り残してしまう場合がある。これは河岸段丘と呼ばれ、段丘という名の通り河道に沿っていくつかの段をなすことが多い。流れのうち、緩やかでよどみがあり深い地点は淵と、浅く急流となっている地点は瀬と呼ばれる。また、堆積物が川の中央部にたまって陸地となることがあり、これを中州という。河川が運んできた堆積物によって河川の下流部には広い平野が形成されることが多く、これを沖積平野と呼ぶ。後述の氾濫原や三角州も、沖積平野の一部である。また、山岳部においても勾配の緩やかな地点においては上流からの土砂が堆積し、しばしば谷底平野が形成される。 河川の増水時に河道から水が氾濫する一帯を氾濫原と呼び、水が得やすく土地が肥沃なため古くから農業に利用されてきたものの、河川が増水した場合には当然本来なら水没してしまうため、それを抑えるために様々な治水が行われてきた地域でもある。氾濫原の河道のそばには河川が運んできた土砂が堆積して微高地をなすことが多く、これを自然堤防と呼ぶ。これに対し、その背後に広がる低地は後背湿地と呼ばれる。なお、人類が堤防を建設して河道を固定した場合、上流から流れてきた土砂は河道の中に限定して堆積するため、河道自体が周辺の平野よりも高くなってしまう場合がある。これを天井川と呼ぶ。特に下流部においては河道は蛇行することも多いが、洪水などでその流れがショートカットされた場合、残された旧河道にはしばしば河道の形の湖が形成される。これを三日月湖と言い、自然の流路変更のほか人間による河川改修によって流路が変更された場合などにおいても形成される。 河口部には上流から流れてきた砂やシルトなどの堆積物が集まりやすく、大型の河川では三角州を形成することが多い。三角州といっても、堆積物の量や注ぎ込む海の状況によって様々な形状があり、海流が弱い場合はミシシッピ川のように海に長く張り出す形を取り、また強い場合はニジェール川のように、河口部では海岸線が膨らむものの直線的な海岸線となる。またガンジス川のように潮汐の影響が強い場合は、三角州のそれぞれの洲は沖合に細長く、また三角州全体では扇形に幅広く広がる。三角州は上流からの肥沃な土が堆積しており、また河川の水も豊富なため、各地で農業開発が進められ、大穀倉地帯となっていることが多い。ガンジス川やメコン川、ナイル川のデルタ地帯がその例である。 普通の川は高地を水源とし海洋に注ぎ込むが、内陸河川は海洋に注ぎ込む前に水量が大幅に減って海に注ぐことなく消滅してしまう川である。中華人民共和国内モンゴル自治区の黒河や北アメリカ大陸のグレートベースンが知られている。また、タリム川とロプノールのように海洋ではなく閉鎖された湖沼に注ぎ込むものもある。また砂漠などに水が飲みこまれてしまうものもある。ユーラシア大陸を流れるものの中には2000kmを超えるものもあるが、多くの内陸河川は海に注ぐ国際河川と比べ短い。 詳細は「Stream」を参照 川を大きさで言い分けるとき、大きなものを河川(river)、小さなものを小川(stream)と呼ぶこともある。明確な定義はないが、小川と呼ぶものは流量が少ないため川幅が狭く、川底が浅い。小川の形成には主に3つの要素がある。表面流出、湧水、溝渠である。小川は淡水魚だけでなく、水辺に生息する小動物、昆虫、水草、低木などにとって欠かせないものであり、生息地分断化を抑制し生物多様性を保全する上で重要な回廊の役割を担っている。 日本は法律である河川法や地方自治体の一部条例で川を国土交通省や各自治体が管理 している。河川は下記のように分類される。 これらは治水の難度や整備の重要度から判断され分類される。日本では、河川は水系によって一貫的に管理されている。 河川の流量は、降水量・流域面積・流域の状況によって変化する。河川の流量は次式で表される。 Q y = k p A × 10 3 {\displaystyle Q_{y}=kpA\times 10^{3}} Q = k p A × 10 3 365 × 24 × 60 × 60 {\displaystyle Q={\frac {kpA\times 10^{3}}{365\times 24\times 60\times 60}}} Qy :河川の年間流出量[m] Q :河川の年平均流量[m/s] k :流出係数 p :年間降水量[mm] A :流域面積[km] 河川の流量を多い順に日数で並べたもので、河川の管理に重要なものである。 河川は流域の熱を吸収し、下流に運搬する作用がある。このため、河川の温度は一般に源流において最も低く、下流に及ぶにつれて上昇する。これは温帯に限らず、熱帯、極地でも成立する。 このため河川流域の樹木を伐採すると、すばやく熱が河川に運搬されるため、一般に気温が下がる。これは地表の日照が増えることから気温が上昇するだろうという直感とは逆の結果である。 人類文明にとって、川は様々な用途に役立つ非常に有用なものである。人類の最初期に成立した文明は、エジプト文明がナイル川を、メソポタミア文明がチグリス川およびユーフラテス川を、インダス文明がインダス川を、黄河文明が黄河をそれぞれ基盤とするように、かなりの文明が大河川を母体としその流域に広がったものだった。 川は台風や集中豪雨などによって一時に大量の水が押し寄せた場合、本来の河道から水があふれ周囲へと流れだすことがある。これは洪水と呼ばれるが、川の周囲には多くの場合人間が特に集中しており、大きな被害をもたらすことが多い。こうした水害から、人命や財産を守るための取り組みを治水という。地球上の多くの文明は川のそばに位置するものが多く、そのため川の氾濫を抑えることは文明の最重要課題のひとつであった。沖積平野のうえに社会を築く日本にとっても、治水は古来不可避の課題であった。こうした洪水を抑えるため、古来より各文明は様々な手段を講じてきた。水源近くによく整備された森林を整えて水源林とし、降水を一時的にプールすることで豪雨時の増水を抑えるとともに渇水時に一定の流水を確保することや、河道のそばに堤防を築いて河道をコントロールするとともに豪雨時に河道から水を溢れさせないこと、流路にダムを築いて土砂の流出を防いだり(砂防堰堤)、本流などにもっと大規模なダムを築いて貯水する、遊水地を確保して洪水時に水をプールする、分水路や排水路を建設して水を逃がす経路を作る、逆に締切堤によって分流を締め切り、川の流れを一か所に集めコントロールしやすくするなど、こうした治水手段は多岐にわたる。こうした目的で、特に近代以降工業力が増大し大規模な工事が行いやすくなるとダムや堤防の建設が盛んになり、また蛇行する河道を直線化して流れを良くすることも行われるようになった。 一方で、堤防などの構築によって自然豊かな山地からの流水が平野部に流入しなくなると、土地固有の生物種の変化が生じたり、窒素や燐といった栄養塩の供給が絶たれる弊害も生まれる ようになった。また、特にダムの建設には河道のそばに住んでいた住民の大量移住が必要となるなどの弊害も多い。また、山地における森林の荒廃や、堤防工事の進捗によって水が河道に集中するようになり、集中豪雨時には水位が上がりやすくなってきているなどの問題もある。 河川を流れる水は、生活・工業・農業の各用水としての利用や、水力発電も行える貴重な資源である。利水のために、ダム、堰(せき)、用水路、河口堰などの施設を建設する。地球上のすべての文明は農耕を基盤とするため、農業用水の源としての河川は文明の死命を制する存在であり、工業時代に入ってもその重要性は衰えなかったばかりでなく、工業用水の供給元としても、さらに規模を拡大し続ける農業の水源としても、そして増大を続ける人口を支える生活用水の水源としても、河川の重要性は増大し続けている。一方で、中国の華北平原を流れる黄河や中央アジアを流れるアムダリア川やシルダリア川のように、流域人口の増大や農業開発の促進によって流域の水需要が河川の水量を越えてしまい、黄河では断流をしばしば引き起こすようになり、アムダリア川、シルダリア川では両河川の注ぎ込むアラル海が干上がってしまうなど、水利用のバランスの崩壊が深刻な環境問題を引き起こしている例もある。また、国際河川の場合、特に乾燥地を流れる河川においては水の分配は死活問題であり、深刻な国際問題となることが珍しくない。チグリス川とユーフラテス川においては、上流部を領有し水源を握るトルコが1976年にGAP計画を策定して両河川に多数のダムを建設し、沿岸地域を灌漑したが、これは下流域のシリアおよびイラクとの深刻な対立を引き起こした。また、ナイル川では1959年に結ばれた水利協定によって下流部のエジプトが流量の大半を利用できることになっている が、このエジプトに極めて有利な協定はウガンダやエチオピアなど上流域諸国の強い反発を呼び、2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定ができたものの既得権を手放すこととなる下流域はこれを拒否し、いっぽう上流域はこれを受け入れて対立することとなった。 河川の重要な役割の一つに飲料水の供給があるが、特に都市部において都市中心部を流れる河川からの水道用水取水は通常行われない。これは、都市部を貫流する河川の多くが水質汚染の問題を抱えており、浄化に費用がかかるうえに処理を誤ると疫病の蔓延する状況を招きかねないためである。実際に産業革命期においては都市内の水質汚染が急速に進む一方で飲料水は河川から取水されることが珍しくなかったため、疫病の流行の一因となった。現代では先進国のほとんどで、河川の水を水道用水とする場合は水質のきれいな上流に築かれたダムから引水するか、また河川の伏流水が豊富で清潔な場合はそこから取水して水道に供給されることが多い。同様に、都市の排水路としても河川は重要であるが、処理されていない下水が河川にそのまま排水されることが近代以前は行われており、都市河川の水質の急速な悪化を招いた。現代では下水道と下水処理場の整備によってこれらの汚染水のかなりが浄化され、都市河川の水質浄化が進んでいるところも多い。 また、河川は動力源としても古くから利用されてきた。古くは河沿いに設置された水車が貴重な動力源となっており、近代以降は川をせき止めたダムに水力発電機を設置し、主要な電源の一つとなっている。 戦後の日本では1947年、電源開発促進法が制定され、復興のためのエネルギー供給源として河川が利用された。高度経済成長期には、大都市圏での水需要が急速に高まり、水資源供給の安定の向上が求められた。1961年、「水資源開発水系」ごとの開発計画を決定・実行していくことを目的として、水資源開発促進法および水資源開発公団法が制定された。しかし、急激な水需要にダム建設などの対策は間に合わず、福岡、高松、松江などの各地で水不足が生じた。 河川の上流部に位置する山地からは土砂が流入し、岩石なども自然の風化などによって砕かれ流れと共に細粒化しながら河口、または途中に堆積する。堆積物も流れに応じて再び川へ流入する。日本では1年間におおよそ2億立方メートルの土砂が山地から河川へ流出していると推定されており、半分程度の約1億立方メートルが川の途中のダムや砂防ダム、堰などに堆積して、残りが河口まで流れ下ると考えられている。土砂は利水用ダムの機能を減殺したり、堤防で仕切られた下流の河床を上げることで決壊のような洪水のリスクを増したりするため、砂防ダムなどで流入量が調整される。河川にこのような人工物が存在しない時代に自然に形成された河口側の砂浜などは、砂防ダムなどによる土砂の流入量の減少によって痩せ細る傾向がある。 主に建築資材用として大きな河川の河床より大規模に採砂が行われる。日本でもかつては大量の採砂が行われていたが、ダムや堤防による自然流入量の減少に対して過大な採砂が環境に悪影響を及ぼすとして規制され、1976年には全国合計で約4000万立方メートルだった砂利採取量が、2000年には約1100万立方メートルにまで減少した。 河川は古くから船舶による交通路として用いられてきた。他の交通手段として馬車程度しかなかった時代には、船舶での交通は多くの物資や重量物を運搬するのに最適であり、川を下る場合には高速な手段でもあった。そのため、利水のほか水運も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利であることが、河川沿いに多くの都市が発展した理由の1つである。 特に大きな船舶も航行可能な水量の豊かな河川は、内陸部の物資輸送に大きな役割を果たし、大陸を流れる大きな河川は、いずれの国においても重要視されてきた。例えばライン川の水運はドイツの代表的な工業地域であるルール工業地域の発展に貢献している。また、水運の利便性向上の為、河川の浚渫や、河川に繋がる運河の建設も、広く行われている。 特に各大陸においては、ドナウ川などのように複数の国家の領土内を流れる河川があり、こうした河川においては沿岸の国が条約を締結して、沿岸のみならずどこの国の船舶でも自由に航行できることとした国際河川となっていることが多い。特に水量の多く流れの緩やかなアマゾン川や長江においては、川の遙か上流にまで外洋の大きな船舶が遡行することができる。一方で、こうした川においても主流の船舶は小型のものが多く、そうした小型船舶は外洋に出ることが難しいため、河口部やその付近において外洋船と積み替える必要があり、ために大河川の河口部には大規模な貿易港が成立することが多い。ライン川河口部のロッテルダムや、長江河口部の上海などがその例である。 日本においても、水運は主要な交通手段の1つであり、例えば安曇川などの多くの河川で、上流で伐採した木材を下流に流す、いかだ流しなども行われていた。また利根運河など水運のための運河建設も行われた。しかし、日本では河川が急流であり川幅も狭く、季節による流量の変化も大きく、四方を海に囲まれているため海運が発達したこと、また、日本が近代化を迎えた時には既に鉄道が開発されていたこともあって、ヨーロッパ諸国ほどの水運の発展は見られなかった。明治期には利根川や信濃川などの大きな河川に蒸気船が就航し、河川交通の改善が図られたものの、鉄道の敷設が進むと速やかにそれにとってかわられ、明治時代末には船舶による河川交通は衰退した。 現在では、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国においても、船舶の大型化や鉄道・トラック輸送との競合により河川水運の重要性は低下しているが、それでも重量の重いものや危険物などには優位性があり、河川水運は主要な輸送手段のひとつとなっている。また、河川水運は道路や鉄道に比べ環境にかかる負担が非常に低く、そのため特にヨーロッパにおいては見直される傾向にある。 多くの川では漁業も盛んであり、重要な食料供給源の一つとなってきた。産業としての漁業のほか、川釣りも人気のあるレジャーのひとつである。また、近代以降河道整備が進むにつれ、堤防の内側には広大な河川敷が広がるようになり、オープンスペースの少ない都市部においては特にテニスコートや簡易なグラウンドとして整備されたり、河川に沿って遊歩道が整備されるなどレクリエーション用の空間として用いられることがある。 河川は水運によって両岸を結びつける働きもあるものの、渡し船や橋といった手段がない限り川を越えることは難しい。このため、古くから川は境界としての役割を持っていた。現代においても、河川を国境とする国々は多い。日本においても、千葉県と隣接各県のように、河川を境界とする自治体は多く存在する。この場合、河川の中央線が国境線となることが多い。しかし、河川は洪水などによって流路変更をすることも多く、山岳国境に比べて安定した境界とは言えない。そのため、流路変更した河川をめぐって国境紛争が起きることもある。逆に、アメリカとメキシコの国境線はリオグランデ川と定められているが、1906年に人為的に川がショートカットされた結果南岸にアメリカ領の飛び地ができ、そして飛び地であることが忘れ去られてメキシコの施政下におかれ、リオ・リコという街がメキシコ施政下で建設されたという事件もあった。1970年にこの事実が再発見され、この本来はアメリカ領であった地区はメキシコに正式に割譲された。 日本では1950年代から1960年代の高度経済成長期に、産業排水、生活排水が直接川に流されたため、水質汚染が深刻になった。これはまず公害病と悪臭の問題として取り上げられ、1970年制定、翌年施行の水質汚濁防止法などの対策がとられた。また、河川は人が自然と身近に触れ合うことのできる場であったが、都市化と治水を優先するあまり、河川をコンクリートの壁で隔てたり地下に通したりして、憩いの場とはいえなくなった。治水が一段落し、水質改善のめども立ちはじめた1980年代には、このような状況を改善するために親水空間の創出を意識した河川計画が立てられるようになった。さらに河川・河畔の生態系が重要だと考えられるようになると、1990年の建設省河川局の通達「多自然型川づくりの推進について」を転機にして、多自然型川づくりが今後の河川計画の基本とされるようになった。また、近年は河川の水質環境基準を達成していることが多くなり類型の見直しなどにより、さらに水質の改善が図られている。 川には、様々な特有の生物相がある。 上流域は起伏に富み、流速が激しいので溶存酸素量も多く、水温が低く、貧栄養である。このような区域を渓流という。渓流では水生の大型植物は少なく、岩の表面に多数の珪藻が付着している。動物ではカワネズミなどのほ乳類、ヤマセミやカワガラスなどの鳥類、アマゴやイワナに代表される渓流性の魚類、カワゲラやカゲロウといった幼虫が水生昆虫である昆虫類が非常に豊富である。 中流域では、河原が広く、水流は遅いものの川底は小石が露出している。このような区域では河原にはヤナギのような樹木を含む特有の植物群が発達し、川底には珪藻が付着する。動物ではカワセミなどの鳥類、アユやオイカワなどの魚類、それにカワゲラ、カゲロウなどの水生昆虫が多数生息する。 下流域では流れは遅く、川底は砂泥質となる。川沿いにはヨシやマコモなどの水生植物が茂る。動物ではアオサギやコサギなどが水辺に住み、ヨシ原には小鳥が住み着き、カモやシギなどの渡り鳥が立ち寄る場となる。また、フナやコイなど止水と共通の魚や、河口ではボラなど汽水性の魚が入り込む。シラウオなども下流から河口域の魚である。昆虫では泥質の川底にはユスリカなどが住み、魚の餌として重要な役割を果たす。またサメなど本来海に生息するはずの魚が現れる事もある。 底生動物の中で、昆虫が大きな比重を占めるのは、河川の大きな特徴となっている。これらは採集、同定が比較的簡単である上、富栄養化の状態や汚染によって大きく影響を受け、その種組成がはっきりと変化することが知られているので、環境調査の上でとても重要な役割を果たしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "川(かわ)は、水が流れる細長い地形である。雨として落ちたり地下から湧いたりして地表に存在する水は、重力によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったものが川である。河川(かせん)ともいう。時期により水の流れない場合があるものもあるが、それも含めて川と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "河川の水流は単純なものではなく、川底の地形などによって、二次流、回転流、螺旋状の流れなど様々な流れが発生している。河川には沿岸や河床を削り取った土砂が含まれているが、この土砂は沿岸の土質によって含まれる量が異なり、沿岸がもろい土質だったり森林伐採などにより裸地となっている場合には多量の土砂が含まれ、濁った川の色となる。こうした土砂の運搬は、水流によって砂礫がそのまま機械的に流されていくものと、川の水に溶け込んだ土砂が流されていくものとに分かれる。河川の流速は一般に河川全体の勾配に比例しており、源流の標高が高く河川長が短いほど流速は早くなり、急流となる。一般に日本の河川は勾配がきつく、流速が早い傾向にある。また、河川の最小水量と最大水量の差を河況係数と呼び、この係数が大きいほど渇水期と雨季の流量の差が激しく、治水や利水が困難となる。河況係数は雨季と乾季の明確な区別のある乾燥地帯を流れる河川(ニジェール川など)や、雨季に大量の降水がある上全長が短く降雨が一気に河道に集中しやすい日本の多くの河川において高くなる傾向がある。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地球上の水の97%は海水で、陸にある水は3%である。陸水の大部分は、北極・南極に集中する雪や氷と、地下水として存在するので、河川水は地球上の水の0.0001%にしかあたらない。絶えず流れ下りながら尽きることがない川の水は、地球規模の水循環の一部である。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "川に流入する水の源は、究極的には雨や雪などの降水である。降水が地表で直接河川に流れ込む以外に、地下水から川に入る水もある。雪や雨は一時的な現象なので、川の持続的な水源は地下水である所が多い。地下水は地表で流れ込むとは限らず、直接川底に湧出するものもある。他に、湖沼から流入したり、寒冷気候では万年雪や氷河に由来する水も入る。人間が利用した後の処理済み・未処理の排水も川に入る。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "川からの流出でもっとも見えやすいのは、海や湖沼に流れ込む部分である。他に、表面から蒸発して大気中の水蒸気になったり、川底から染み込んで地下水になったりする。常時流水がなく、降水時以外は水の流れない、いわゆる水無川も存在する。水無川は周囲の降水が少なく水が流れない場合と、河床の土質が水を吸収しやすく、流水を吸い込んでしまう場合が存在する。特に乾燥地帯では蒸発・浸透が大きく、降水時のみ流れたり途中で涸れてしまう川がほとんどを占め、これをワジと呼ぶ。また、とくに石灰岩地域においては、地表から吸い込まれた水が地下の不透水地層にさえぎられて下流へと流れだし、地下に河川が成立する場合がある。こうした場合、しばしば地下河川には鍾乳洞が成立する。川によっては人間に利用される部分も大きい。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "流入量と流出量を推計して全体の流れをみたものを水収支という。川においては川そのものの水収支のほかに、流域の水収支に関心が寄せられる。水収支は一年以上の長期をとればほぼ釣り合うが、短い期間の量の増減と収支のバランスは、日々の天気やそれを通じた季節変動に大きく左右される。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "河道は通常1本ではなく樹状構造を取り、本流に各地から集まってきた支流が流れ込む構造となっている。こうした河川の集合を水系と呼ぶ。各水系はその水系に流れ込む水を集める領域(集水域)を持ち、その総合を流域と呼ぶ。各河川の流域は稜線などによってかなり明確に区切られており、その境界を分水界、山岳である場合は分水嶺と呼ぶ。本流と支流の区別は厳格な基準があるわけではなく、本流より長く水量も多い支流は珍しくない。たとえば、世界3位の長さを誇るミシシッピ川は本流よりも支流であるミズーリ川の方が長く、川の長さもミズーリ川の源流からの長さで計算されている。また、支流は本流に流れ込むものであるが、逆に本流から流れ出して海へと注ぐ派川(分流)も存在する。派川は多くの場合下流域に集中して存在し、とくに三角州においては多くみられる。こうした派川によって、三角州に流れ込む川の多くは複数の河口を持つ。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "海の河口部においては、流速や水位が潮の干満の影響を受けて変動する区域がある河川がある。こうした河川は感潮河川、影響を受ける区域は感潮域と呼ばれる。感潮域は汽水域となっており、表層の軽い河川水の下に塩分を含んで重い海水が潜り込み、塩水くさびと呼ばれるくさび形の海水の侵入をなす。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "干満の差がとくに大きい場合には、満潮の際に海水が段波と呼ばれる垂直壁状の波となって激しく逆流する、海嘯という現象が発生する。特にブラジルのアマゾン川で発生するものはポロロッカと呼ばれ、広く知られている。", "title": "水流としての河川" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "河道は恒久的な構造ではなく、自然の状態では水の各作用、土壌の侵食・削りだした土砂の運搬・流れが緩やかな部分への土砂の堆積によって数年から数十年(百年以上も)単位で位置を変える場合がある。また、河川はそのできてからの地形の変遷によって、幼年期・青年期・壮年期・老年期に大まかに分類される。まず平原の低いところに水が集まって河道が形成されるのが幼年期である。青年期になると、侵食が進むことで峡谷が形成される。峡谷は水量が多く侵食力の大きい下流の方が深く広くなる。また、同じ理由で渓谷は河口付近に誕生し、時とともに上流へと延びていくこととなる。壮年期に入ると侵食は流域の全域に及ぶようになり、源流である山岳も削られて鋭いものとなる。一方で下流では堆積が進んで平野が広がるようになり、堆積物による三角州も河口には形成されるようになる。老年期になると、侵食作用が著しく進み、山岳はすべて削られつくして準平原が広がるようになる。こうした準平原には山岳のわずかな残りである残丘が点在している。そしてこの準平原が地殻変動などで隆起することによって、再び幼年期からの川の成長が始まる。なお、実際には老年期にまで達する河川はごくわずかで、地球上にあるほとんどの河川は幼年期から壮年期に属する。これは、地殻変動や火山噴火、気候の変化や海面の高さの変化などの様々な要因によって、老年期に達する前に地形の若返りが起こり、そこから再びサイクルが開始されるからであるとされる。こうした川を中心とした地形の変遷は地形輪廻とも呼ばれる。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "川は水を運搬するだけでなく、水流によって川底や川岸の土砂や岩石を削りとり、長期的には峡谷を形成しながら谷を下方へと沈下させてゆく作用を持つ。このような川の作用を侵食作用と呼ぶ。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "河川の水源は湧水や泉などが多い。山岳地帯に存在する湧水や泉から河川は始まり、渓流として山岳の斜面を流れ下るうちに各地の水源からの流水を合わせて沢となり、太い流れとなっていく。こうした源流部においては勾配が急であるため河川の侵食作用が激しく、山体は徐々に侵食されていくが、特に侵食がはげしい河川において侵食の先端が他の河川に到達した場合、前者の河川が後者の河川の上流部を丸ごと奪ってしまう場合が存在する。これを河川争奪と呼ぶ。河川争奪が起きた場合、奪った側は流量の増大によって侵食力が大きくなり谷が深くなる一方、奪われた側は、奪われた地点から下流においては流量の低下によって土砂を運搬することができなくなり、残った支流からの土砂が堆積するばかりになるため、広い谷が形成される。また、山岳地帯において侵食は一様ではなく、水流が断崖に出た場合や、河床の地質が固く侵食が食い止められる場合には侵食に段差ができ、この場合水流は滝となって落差をつけ垂直に落下する。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、河川は海岸で途切れてしまうわけではなく、海底谷をなして海洋のかなり深くまで地形的に連続していることがある。これは、氷期などによって海面が低下した際に河川がそこまで流れ込んでいたものが、そのまま残されたものである。また、海に流れ込んだ河川の水はしばらくの間周囲の海水とはある程度異なった水塊をなすことが多く、アマゾン川のように非常に水量の多い河川の場合、河口から数百km先においても周囲とは明らかに塩分濃度や成分の違った水塊となっている。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "川によって侵食された粘土や砂礫は、流水に溶解したり、単に流されることによって、より下流へと運搬される。このような川の作用を運搬作用と呼ぶ。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "川の下流に堆積する堆積物のうち、特に礫や巨礫などの砕屑物は角が丸くなっているものが多い。これは岩石が砕屑された際には切断面を残し角ばっていたものが、運搬によって徐々に削られて、角が丸くなるためである。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "川が運搬する粘土や砂礫は、勾配の緩やかな下流付近で川の流速が弱くなることにより、その粒径によってふるい分けられながら、徐々に川底や河岸に集積され、堆積物となる。このような川の作用を堆積作用と呼ぶ。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "山岳地帯から平野部に河川が流出する地点においては、山岳地帯で流れ込んだ大量の土砂が扇型に広がって堆積し、扇状地を形成する。特に中流域において、地殻変動により地面が隆起した場合、河川が下刻してそれまでの河岸平野を高原上に取り残してしまう場合がある。これは河岸段丘と呼ばれ、段丘という名の通り河道に沿っていくつかの段をなすことが多い。流れのうち、緩やかでよどみがあり深い地点は淵と、浅く急流となっている地点は瀬と呼ばれる。また、堆積物が川の中央部にたまって陸地となることがあり、これを中州という。河川が運んできた堆積物によって河川の下流部には広い平野が形成されることが多く、これを沖積平野と呼ぶ。後述の氾濫原や三角州も、沖積平野の一部である。また、山岳部においても勾配の緩やかな地点においては上流からの土砂が堆積し、しばしば谷底平野が形成される。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "河川の増水時に河道から水が氾濫する一帯を氾濫原と呼び、水が得やすく土地が肥沃なため古くから農業に利用されてきたものの、河川が増水した場合には当然本来なら水没してしまうため、それを抑えるために様々な治水が行われてきた地域でもある。氾濫原の河道のそばには河川が運んできた土砂が堆積して微高地をなすことが多く、これを自然堤防と呼ぶ。これに対し、その背後に広がる低地は後背湿地と呼ばれる。なお、人類が堤防を建設して河道を固定した場合、上流から流れてきた土砂は河道の中に限定して堆積するため、河道自体が周辺の平野よりも高くなってしまう場合がある。これを天井川と呼ぶ。特に下流部においては河道は蛇行することも多いが、洪水などでその流れがショートカットされた場合、残された旧河道にはしばしば河道の形の湖が形成される。これを三日月湖と言い、自然の流路変更のほか人間による河川改修によって流路が変更された場合などにおいても形成される。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "河口部には上流から流れてきた砂やシルトなどの堆積物が集まりやすく、大型の河川では三角州を形成することが多い。三角州といっても、堆積物の量や注ぎ込む海の状況によって様々な形状があり、海流が弱い場合はミシシッピ川のように海に長く張り出す形を取り、また強い場合はニジェール川のように、河口部では海岸線が膨らむものの直線的な海岸線となる。またガンジス川のように潮汐の影響が強い場合は、三角州のそれぞれの洲は沖合に細長く、また三角州全体では扇形に幅広く広がる。三角州は上流からの肥沃な土が堆積しており、また河川の水も豊富なため、各地で農業開発が進められ、大穀倉地帯となっていることが多い。ガンジス川やメコン川、ナイル川のデルタ地帯がその例である。", "title": "地形にもたらす作用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "普通の川は高地を水源とし海洋に注ぎ込むが、内陸河川は海洋に注ぎ込む前に水量が大幅に減って海に注ぐことなく消滅してしまう川である。中華人民共和国内モンゴル自治区の黒河や北アメリカ大陸のグレートベースンが知られている。また、タリム川とロプノールのように海洋ではなく閉鎖された湖沼に注ぎ込むものもある。また砂漠などに水が飲みこまれてしまうものもある。ユーラシア大陸を流れるものの中には2000kmを超えるものもあるが、多くの内陸河川は海に注ぐ国際河川と比べ短い。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "詳細は「Stream」を参照", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "川を大きさで言い分けるとき、大きなものを河川(river)、小さなものを小川(stream)と呼ぶこともある。明確な定義はないが、小川と呼ぶものは流量が少ないため川幅が狭く、川底が浅い。小川の形成には主に3つの要素がある。表面流出、湧水、溝渠である。小川は淡水魚だけでなく、水辺に生息する小動物、昆虫、水草、低木などにとって欠かせないものであり、生息地分断化を抑制し生物多様性を保全する上で重要な回廊の役割を担っている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本は法律である河川法や地方自治体の一部条例で川を国土交通省や各自治体が管理 している。河川は下記のように分類される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これらは治水の難度や整備の重要度から判断され分類される。日本では、河川は水系によって一貫的に管理されている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "河川の流量は、降水量・流域面積・流域の状況によって変化する。河川の流量は次式で表される。", "title": "流量" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Q y = k p A × 10 3 {\\displaystyle Q_{y}=kpA\\times 10^{3}}", "title": "流量" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Q = k p A × 10 3 365 × 24 × 60 × 60 {\\displaystyle Q={\\frac {kpA\\times 10^{3}}{365\\times 24\\times 60\\times 60}}}", "title": "流量" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Qy :河川の年間流出量[m] Q :河川の年平均流量[m/s] k :流出係数 p :年間降水量[mm] A :流域面積[km]", "title": "流量" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "河川の流量を多い順に日数で並べたもので、河川の管理に重要なものである。", "title": "流量" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "河川は流域の熱を吸収し、下流に運搬する作用がある。このため、河川の温度は一般に源流において最も低く、下流に及ぶにつれて上昇する。これは温帯に限らず、熱帯、極地でも成立する。", "title": "温度" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このため河川流域の樹木を伐採すると、すばやく熱が河川に運搬されるため、一般に気温が下がる。これは地表の日照が増えることから気温が上昇するだろうという直感とは逆の結果である。", "title": "温度" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "人類文明にとって、川は様々な用途に役立つ非常に有用なものである。人類の最初期に成立した文明は、エジプト文明がナイル川を、メソポタミア文明がチグリス川およびユーフラテス川を、インダス文明がインダス川を、黄河文明が黄河をそれぞれ基盤とするように、かなりの文明が大河川を母体としその流域に広がったものだった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "川は台風や集中豪雨などによって一時に大量の水が押し寄せた場合、本来の河道から水があふれ周囲へと流れだすことがある。これは洪水と呼ばれるが、川の周囲には多くの場合人間が特に集中しており、大きな被害をもたらすことが多い。こうした水害から、人命や財産を守るための取り組みを治水という。地球上の多くの文明は川のそばに位置するものが多く、そのため川の氾濫を抑えることは文明の最重要課題のひとつであった。沖積平野のうえに社会を築く日本にとっても、治水は古来不可避の課題であった。こうした洪水を抑えるため、古来より各文明は様々な手段を講じてきた。水源近くによく整備された森林を整えて水源林とし、降水を一時的にプールすることで豪雨時の増水を抑えるとともに渇水時に一定の流水を確保することや、河道のそばに堤防を築いて河道をコントロールするとともに豪雨時に河道から水を溢れさせないこと、流路にダムを築いて土砂の流出を防いだり(砂防堰堤)、本流などにもっと大規模なダムを築いて貯水する、遊水地を確保して洪水時に水をプールする、分水路や排水路を建設して水を逃がす経路を作る、逆に締切堤によって分流を締め切り、川の流れを一か所に集めコントロールしやすくするなど、こうした治水手段は多岐にわたる。こうした目的で、特に近代以降工業力が増大し大規模な工事が行いやすくなるとダムや堤防の建設が盛んになり、また蛇行する河道を直線化して流れを良くすることも行われるようになった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方で、堤防などの構築によって自然豊かな山地からの流水が平野部に流入しなくなると、土地固有の生物種の変化が生じたり、窒素や燐といった栄養塩の供給が絶たれる弊害も生まれる ようになった。また、特にダムの建設には河道のそばに住んでいた住民の大量移住が必要となるなどの弊害も多い。また、山地における森林の荒廃や、堤防工事の進捗によって水が河道に集中するようになり、集中豪雨時には水位が上がりやすくなってきているなどの問題もある。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "河川を流れる水は、生活・工業・農業の各用水としての利用や、水力発電も行える貴重な資源である。利水のために、ダム、堰(せき)、用水路、河口堰などの施設を建設する。地球上のすべての文明は農耕を基盤とするため、農業用水の源としての河川は文明の死命を制する存在であり、工業時代に入ってもその重要性は衰えなかったばかりでなく、工業用水の供給元としても、さらに規模を拡大し続ける農業の水源としても、そして増大を続ける人口を支える生活用水の水源としても、河川の重要性は増大し続けている。一方で、中国の華北平原を流れる黄河や中央アジアを流れるアムダリア川やシルダリア川のように、流域人口の増大や農業開発の促進によって流域の水需要が河川の水量を越えてしまい、黄河では断流をしばしば引き起こすようになり、アムダリア川、シルダリア川では両河川の注ぎ込むアラル海が干上がってしまうなど、水利用のバランスの崩壊が深刻な環境問題を引き起こしている例もある。また、国際河川の場合、特に乾燥地を流れる河川においては水の分配は死活問題であり、深刻な国際問題となることが珍しくない。チグリス川とユーフラテス川においては、上流部を領有し水源を握るトルコが1976年にGAP計画を策定して両河川に多数のダムを建設し、沿岸地域を灌漑したが、これは下流域のシリアおよびイラクとの深刻な対立を引き起こした。また、ナイル川では1959年に結ばれた水利協定によって下流部のエジプトが流量の大半を利用できることになっている が、このエジプトに極めて有利な協定はウガンダやエチオピアなど上流域諸国の強い反発を呼び、2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定ができたものの既得権を手放すこととなる下流域はこれを拒否し、いっぽう上流域はこれを受け入れて対立することとなった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "河川の重要な役割の一つに飲料水の供給があるが、特に都市部において都市中心部を流れる河川からの水道用水取水は通常行われない。これは、都市部を貫流する河川の多くが水質汚染の問題を抱えており、浄化に費用がかかるうえに処理を誤ると疫病の蔓延する状況を招きかねないためである。実際に産業革命期においては都市内の水質汚染が急速に進む一方で飲料水は河川から取水されることが珍しくなかったため、疫病の流行の一因となった。現代では先進国のほとんどで、河川の水を水道用水とする場合は水質のきれいな上流に築かれたダムから引水するか、また河川の伏流水が豊富で清潔な場合はそこから取水して水道に供給されることが多い。同様に、都市の排水路としても河川は重要であるが、処理されていない下水が河川にそのまま排水されることが近代以前は行われており、都市河川の水質の急速な悪化を招いた。現代では下水道と下水処理場の整備によってこれらの汚染水のかなりが浄化され、都市河川の水質浄化が進んでいるところも多い。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、河川は動力源としても古くから利用されてきた。古くは河沿いに設置された水車が貴重な動力源となっており、近代以降は川をせき止めたダムに水力発電機を設置し、主要な電源の一つとなっている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "戦後の日本では1947年、電源開発促進法が制定され、復興のためのエネルギー供給源として河川が利用された。高度経済成長期には、大都市圏での水需要が急速に高まり、水資源供給の安定の向上が求められた。1961年、「水資源開発水系」ごとの開発計画を決定・実行していくことを目的として、水資源開発促進法および水資源開発公団法が制定された。しかし、急激な水需要にダム建設などの対策は間に合わず、福岡、高松、松江などの各地で水不足が生じた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "河川の上流部に位置する山地からは土砂が流入し、岩石なども自然の風化などによって砕かれ流れと共に細粒化しながら河口、または途中に堆積する。堆積物も流れに応じて再び川へ流入する。日本では1年間におおよそ2億立方メートルの土砂が山地から河川へ流出していると推定されており、半分程度の約1億立方メートルが川の途中のダムや砂防ダム、堰などに堆積して、残りが河口まで流れ下ると考えられている。土砂は利水用ダムの機能を減殺したり、堤防で仕切られた下流の河床を上げることで決壊のような洪水のリスクを増したりするため、砂防ダムなどで流入量が調整される。河川にこのような人工物が存在しない時代に自然に形成された河口側の砂浜などは、砂防ダムなどによる土砂の流入量の減少によって痩せ細る傾向がある。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "主に建築資材用として大きな河川の河床より大規模に採砂が行われる。日本でもかつては大量の採砂が行われていたが、ダムや堤防による自然流入量の減少に対して過大な採砂が環境に悪影響を及ぼすとして規制され、1976年には全国合計で約4000万立方メートルだった砂利採取量が、2000年には約1100万立方メートルにまで減少した。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "河川は古くから船舶による交通路として用いられてきた。他の交通手段として馬車程度しかなかった時代には、船舶での交通は多くの物資や重量物を運搬するのに最適であり、川を下る場合には高速な手段でもあった。そのため、利水のほか水運も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利であることが、河川沿いに多くの都市が発展した理由の1つである。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "特に大きな船舶も航行可能な水量の豊かな河川は、内陸部の物資輸送に大きな役割を果たし、大陸を流れる大きな河川は、いずれの国においても重要視されてきた。例えばライン川の水運はドイツの代表的な工業地域であるルール工業地域の発展に貢献している。また、水運の利便性向上の為、河川の浚渫や、河川に繋がる運河の建設も、広く行われている。 特に各大陸においては、ドナウ川などのように複数の国家の領土内を流れる河川があり、こうした河川においては沿岸の国が条約を締結して、沿岸のみならずどこの国の船舶でも自由に航行できることとした国際河川となっていることが多い。特に水量の多く流れの緩やかなアマゾン川や長江においては、川の遙か上流にまで外洋の大きな船舶が遡行することができる。一方で、こうした川においても主流の船舶は小型のものが多く、そうした小型船舶は外洋に出ることが難しいため、河口部やその付近において外洋船と積み替える必要があり、ために大河川の河口部には大規模な貿易港が成立することが多い。ライン川河口部のロッテルダムや、長江河口部の上海などがその例である。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本においても、水運は主要な交通手段の1つであり、例えば安曇川などの多くの河川で、上流で伐採した木材を下流に流す、いかだ流しなども行われていた。また利根運河など水運のための運河建設も行われた。しかし、日本では河川が急流であり川幅も狭く、季節による流量の変化も大きく、四方を海に囲まれているため海運が発達したこと、また、日本が近代化を迎えた時には既に鉄道が開発されていたこともあって、ヨーロッパ諸国ほどの水運の発展は見られなかった。明治期には利根川や信濃川などの大きな河川に蒸気船が就航し、河川交通の改善が図られたものの、鉄道の敷設が進むと速やかにそれにとってかわられ、明治時代末には船舶による河川交通は衰退した。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "現在では、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国においても、船舶の大型化や鉄道・トラック輸送との競合により河川水運の重要性は低下しているが、それでも重量の重いものや危険物などには優位性があり、河川水運は主要な輸送手段のひとつとなっている。また、河川水運は道路や鉄道に比べ環境にかかる負担が非常に低く、そのため特にヨーロッパにおいては見直される傾向にある。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "多くの川では漁業も盛んであり、重要な食料供給源の一つとなってきた。産業としての漁業のほか、川釣りも人気のあるレジャーのひとつである。また、近代以降河道整備が進むにつれ、堤防の内側には広大な河川敷が広がるようになり、オープンスペースの少ない都市部においては特にテニスコートや簡易なグラウンドとして整備されたり、河川に沿って遊歩道が整備されるなどレクリエーション用の空間として用いられることがある。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "河川は水運によって両岸を結びつける働きもあるものの、渡し船や橋といった手段がない限り川を越えることは難しい。このため、古くから川は境界としての役割を持っていた。現代においても、河川を国境とする国々は多い。日本においても、千葉県と隣接各県のように、河川を境界とする自治体は多く存在する。この場合、河川の中央線が国境線となることが多い。しかし、河川は洪水などによって流路変更をすることも多く、山岳国境に比べて安定した境界とは言えない。そのため、流路変更した河川をめぐって国境紛争が起きることもある。逆に、アメリカとメキシコの国境線はリオグランデ川と定められているが、1906年に人為的に川がショートカットされた結果南岸にアメリカ領の飛び地ができ、そして飛び地であることが忘れ去られてメキシコの施政下におかれ、リオ・リコという街がメキシコ施政下で建設されたという事件もあった。1970年にこの事実が再発見され、この本来はアメリカ領であった地区はメキシコに正式に割譲された。", "title": "境界としての河川" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本では1950年代から1960年代の高度経済成長期に、産業排水、生活排水が直接川に流されたため、水質汚染が深刻になった。これはまず公害病と悪臭の問題として取り上げられ、1970年制定、翌年施行の水質汚濁防止法などの対策がとられた。また、河川は人が自然と身近に触れ合うことのできる場であったが、都市化と治水を優先するあまり、河川をコンクリートの壁で隔てたり地下に通したりして、憩いの場とはいえなくなった。治水が一段落し、水質改善のめども立ちはじめた1980年代には、このような状況を改善するために親水空間の創出を意識した河川計画が立てられるようになった。さらに河川・河畔の生態系が重要だと考えられるようになると、1990年の建設省河川局の通達「多自然型川づくりの推進について」を転機にして、多自然型川づくりが今後の河川計画の基本とされるようになった。また、近年は河川の水質環境基準を達成していることが多くなり類型の見直しなどにより、さらに水質の改善が図られている。", "title": "環境" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "川には、様々な特有の生物相がある。", "title": "環境" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "上流域は起伏に富み、流速が激しいので溶存酸素量も多く、水温が低く、貧栄養である。このような区域を渓流という。渓流では水生の大型植物は少なく、岩の表面に多数の珪藻が付着している。動物ではカワネズミなどのほ乳類、ヤマセミやカワガラスなどの鳥類、アマゴやイワナに代表される渓流性の魚類、カワゲラやカゲロウといった幼虫が水生昆虫である昆虫類が非常に豊富である。", "title": "環境" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中流域では、河原が広く、水流は遅いものの川底は小石が露出している。このような区域では河原にはヤナギのような樹木を含む特有の植物群が発達し、川底には珪藻が付着する。動物ではカワセミなどの鳥類、アユやオイカワなどの魚類、それにカワゲラ、カゲロウなどの水生昆虫が多数生息する。", "title": "環境" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "下流域では流れは遅く、川底は砂泥質となる。川沿いにはヨシやマコモなどの水生植物が茂る。動物ではアオサギやコサギなどが水辺に住み、ヨシ原には小鳥が住み着き、カモやシギなどの渡り鳥が立ち寄る場となる。また、フナやコイなど止水と共通の魚や、河口ではボラなど汽水性の魚が入り込む。シラウオなども下流から河口域の魚である。昆虫では泥質の川底にはユスリカなどが住み、魚の餌として重要な役割を果たす。またサメなど本来海に生息するはずの魚が現れる事もある。", "title": "環境" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "底生動物の中で、昆虫が大きな比重を占めるのは、河川の大きな特徴となっている。これらは採集、同定が比較的簡単である上、富栄養化の状態や汚染によって大きく影響を受け、その種組成がはっきりと変化することが知られているので、環境調査の上でとても重要な役割を果たしている。", "title": "環境" } ]
川(かわ)は、水が流れる細長い地形である。雨として落ちたり地下から湧いたりして地表に存在する水は、重力によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったものが川である。河川(かせん)ともいう。時期により水の流れない場合があるものもあるが、それも含めて川と呼ばれる。
{{Otheruses||[[埼玉県]][[上尾市]]の町名および大字|川 (上尾市)|名古屋市守山区の地名|川 (名古屋市)}} {{Redirect|河川|その他|かわ}} {{出典の明記|date=2019年11月}} {{加筆|河川の学術的な分類|date=2015年6月}} [[ファイル:View from Cairo Tower 31march2007.jpg|thumb|250px|[[長さ順の川の一覧|世界最長]]の川である[[ナイル川]]]] [[ファイル:Finland, Porvoo, Old Town by night, Teemu Eskola.jpg|thumb|250px|[[中世]]の町、[[ポルヴォー]]、[[フィンランド]]の[[ポルヴォー川]](Porvoonjoki)]] [[ファイル:Campo12Foto 2.JPG|thumb|250px|[[w:List of drainage basins by area|世界最大]]の流域面積を有する川である[[アマゾン川]]]] [[File:NiigataCityOpenData machinami004.jpg|thumb|250px|日本最長の川である[[信濃川]]]] [[ファイル:Tone River.JPG|thumb|250px|日本最大の流域面積を有する川である[[利根川]]]] '''川'''(かわ)は、[[水]]が流れる細長い地形である。[[雨]]として落ちたり[[地下]]から湧いたりして地表に存在する水は、[[重力]]によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったものが川である。'''河川'''(かせん)ともいう。時期により水の流れない場合があるものもあるが、それも含めて川と呼ばれる。 == 水流としての河川 == 河川の[[流れ|水流]]は単純なものではなく、川底の地形などによって、二次流、[[回転]]流、[[螺旋]]状の流れなど様々な流れが発生している。河川には沿岸や河床を削り取った土砂が含まれているが、この土砂は沿岸の土質によって含まれる量が異なり、沿岸がもろい土質だったり森林伐採などにより裸地となっている場合には多量の土砂が含まれ、濁った川の色となる。こうした土砂の運搬は、水流によって砂礫がそのまま機械的に流されていくものと、川の水に溶け込んだ土砂が流されていくものとに分かれる。河川の流速は一般に河川全体の勾配に比例しており、源流の標高が高く河川長が短いほど流速は早くなり、[[急流]]となる。一般に日本の河川は勾配がきつく、流速が早い傾向にある。また、河川の最小水量と最大水量の差を[[河況係数]]と呼び、この係数が大きいほど渇水期と雨季の流量の差が激しく、治水や利水が困難となる。河況係数は[[雨季]]と[[乾季]]の明確な区別のある乾燥地帯を流れる河川([[ニジェール川]]など)や、雨季に大量の降水がある上全長が短く降雨が一気に河道に集中しやすい日本の多くの河川において高くなる傾向がある<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p156 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。 === 水循環 === {{Main|表面流出}} 地球上の水の97%は[[海水]]で、陸にある水は3%である。[[陸水]]の大部分は、北極・南極に集中する[[雪]]や[[氷]]と、[[地下水]]として存在するので、河川水は地球上の水の0.0001%にしかあたらない{{Sfn|青木ほか|1995|p=4 表1-1}}。絶えず流れ下りながら尽きることがない川の水は、地球規模の[[水循環]]の一部である。 川に流入する水の源は、究極的には雨や雪などの降水である。降水が地表で直接河川に流れ込む以外に、地下水から川に入る水もある。雪や雨は一時的な現象なので、川の持続的な水源は地下水である所が多い。地下水は地表で流れ込むとは限らず、直接川底に湧出するものもある。他に、[[湖沼]]から流入したり、[[寒冷地|寒冷気候]]では[[万年雪]]や[[氷河]]に由来する水も入る。人間が利用した後の処理済み・未処理の排水も川に入る。 川からの流出でもっとも見えやすいのは、[[海]]や湖沼に流れ込む部分である。他に、表面から蒸発して大気中の[[水蒸気]]になったり、川底から染み込んで地下水になったりする。常時流水がなく、降水時以外は水の流れない、いわゆる[[水無川]]も存在する。水無川は周囲の降水が少なく水が流れない場合と、河床の土質が水を吸収しやすく、流水を吸い込んでしまう場合が存在する。特に乾燥地帯では蒸発・浸透が大きく、降水時のみ流れたり途中で涸れてしまう川がほとんどを占め、これを[[ワジ]]と呼ぶ<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p5 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。また、とくに石灰岩地域においては、地表から吸い込まれた水が地下の不透水地層にさえぎられて下流へと流れだし、地下に河川が成立する場合がある。こうした場合、しばしば地下河川には[[鍾乳洞]]が成立する。川によっては人間に利用される部分も大きい。 流入量と流出量を推計して全体の流れをみたものを[[水収支]]という。川においては川そのものの水収支のほかに、[[流域]]の水収支に関心が寄せられる。水収支は一年以上の長期をとればほぼ釣り合うが、短い期間の量の増減と収支のバランスは、日々の天気やそれを通じた季節変動に大きく左右される。 === 水系と流域 === [[ファイル:Ocean drainage.png|thumb|350px|世界を分割する分水界]] 河道は通常1本ではなく樹状構造を取り、[[本流]]に各地から集まってきた[[支流]]が流れ込む構造となっている。こうした河川の集合を[[水系]]と呼ぶ。各水系はその水系に流れ込む水を集める領域(集水域)を持ち、その総合を[[流域]]と呼ぶ<ref>「川はどうしてできるのか」p135 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。各河川の流域は[[稜線]]などによってかなり明確に区切られており、その境界を[[分水界]]、山岳である場合は[[分水嶺]]と呼ぶ<ref>「川はどうしてできるのか」p139 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。本流と支流の区別は厳格な基準があるわけではなく、本流より長く水量も多い支流は珍しくない。たとえば、世界3位の長さを誇る[[ミシシッピ川]]は本流よりも支流である[[ミズーリ川]]の方が長く、川の長さもミズーリ川の源流からの長さで計算されている。また、支流は本流に流れ込むものであるが、逆に本流から流れ出して海へと注ぐ派川(分流)も存在する。派川は多くの場合下流域に集中して存在し、とくに三角州においては多くみられる。こうした派川によって、三角州に流れ込む川の多くは複数の[[河口]]を持つ。 === 潮汐の影響 === 海の河口部においては、流速や水位が潮の干満の影響を受けて変動する区域がある河川がある。こうした河川は[[感潮河川]]、影響を受ける区域は感潮域と呼ばれる。感潮域は[[汽水域]]となっており、表層の軽い河川水の下に塩分を含んで重い海水が潜り込み、[[塩水くさび]]と呼ばれる[[くさび]]形の海水の侵入をなす<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p181 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。 干満の差がとくに大きい場合には、満潮の際に海水が[[段波]]と呼ばれる垂直壁状の波となって激しく逆流する、[[海嘯]]という現象が発生する。特にブラジルの[[アマゾン川]]で発生するものは[[ポロロッカ]]と呼ばれ、広く知られている<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p66 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。 == 地形にもたらす作用 == [[ファイル:Miwakare Park03.JPG|thumb|250px|分水界の例。兵庫県丹波市の[[水分れ公園]]にある高谷川([[加古川]]水系)の水路分岐点。直線に進む側は[[加古川]]水系で瀬戸内海へ向かい、写真右に分かれている用水路は[[由良川]]水系で日本海へ向かう。]] 河道は恒久的な構造ではなく、自然の状態では水の各作用、土壌の[[侵食]]・削りだした土砂の[[運搬作用|運搬]]・流れが緩やかな部分への土砂の[[堆積]]によって数年から数十年(百年以上も)単位で位置を変える場合がある。また、河川はそのできてからの地形の変遷によって、幼年期・青年期・壮年期・老年期に大まかに分類される。まず平原の低いところに水が集まって河道が形成されるのが幼年期である。青年期になると、侵食が進むことで峡谷が形成される。峡谷は水量が多く侵食力の大きい下流の方が深く広くなる。また、同じ理由で渓谷は河口付近に誕生し、時とともに上流へと延びていくこととなる。壮年期に入ると侵食は流域の全域に及ぶようになり、源流である山岳も削られて鋭いものとなる。一方で下流では堆積が進んで平野が広がるようになり、堆積物による三角州も河口には形成されるようになる。老年期になると、[[侵食作用]]が著しく進み、山岳はすべて削られつくして[[地形輪廻#準平原(peneplain)|準平原]]が広がるようになる。こうした準平原には山岳のわずかな残りである残丘が点在している。そしてこの準平原が地殻変動などで隆起することによって、再び幼年期からの川の成長が始まる。なお、実際には老年期にまで達する河川はごくわずかで、地球上にあるほとんどの河川は幼年期から壮年期に属する{{Sfn|宇野木|2010|p=145}}。これは、[[地殻変動]]や[[火山]][[噴火]]、気候の変化や海面の高さの変化などの様々な要因によって、老年期に達する前に地形の若返りが起こり、そこから再びサイクルが開始されるからであるとされる。こうした川を中心とした地形の変遷は地形輪廻とも呼ばれる。 === 侵食作用 === {{Main|侵食}} 川は水を運搬するだけでなく、水流によって川底や川岸の土砂や岩石を削りとり、長期的には[[峡谷]]を形成しながら谷を下方へと沈下させてゆく作用を持つ。このような川の作用を[[侵食|侵食作用]]と呼ぶ<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p127 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。 河川の[[水源]]は[[湧水]]や[[泉]]などが多い。山岳地帯に存在する湧水や泉から河川は始まり、[[渓流]]として山岳の斜面を流れ下るうちに各地の水源からの流水を合わせて[[沢]]となり、太い流れとなっていく。こうした源流部においては勾配が急であるため河川の侵食作用が激しく、山体は徐々に侵食されていくが、特に侵食がはげしい河川において侵食の先端が他の河川に到達した場合、前者の河川が後者の河川の上流部を丸ごと奪ってしまう場合が存在する。これを[[河川争奪]]と呼ぶ。河川争奪が起きた場合、奪った側は流量の増大によって侵食力が大きくなり谷が深くなる一方、奪われた側は、奪われた地点から下流においては流量の低下によって土砂を運搬することができなくなり、残った支流からの土砂が堆積するばかりになるため、広い谷が形成される{{Sfn|大矢|2006|pp=77-78}}。また、山岳地帯において侵食は一様ではなく、水流が[[断崖]]に出た場合や、河床の地質が固く侵食が食い止められる場合には侵食に段差ができ、この場合水流は[[滝]]となって落差をつけ垂直に落下する。 なお、河川は海岸で途切れてしまうわけではなく、海底谷をなして海洋のかなり深くまで地形的に連続していることがある。これは、[[氷期]]などによって海面が低下した際に河川がそこまで流れ込んでいたものが、そのまま残されたものである<ref>「川はどうしてできるのか」p114 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。また、海に流れ込んだ河川の水はしばらくの間周囲の海水とはある程度異なった水塊をなすことが多く、[[アマゾン川]]のように非常に水量の多い河川の場合、河口から数百km先においても周囲とは明らかに塩分濃度や成分の違った水塊となっている<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p285 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。 === 運搬作用 === {{Main|運搬作用}} 川によって侵食された粘土や砂礫は、流水に溶解したり、単に流されることによって、より下流へと運搬される<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p129 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。このような川の作用を[[運搬作用]]と呼ぶ。 川の下流に堆積する堆積物のうち、特に[[礫]]や[[巨礫]]などの[[砕屑物]]は角が丸くなっているものが多い。これは岩石が砕屑された際には切断面を残し角ばっていたものが、運搬によって徐々に削られて、角が丸くなるためである。 === 堆積作用 === {{Main|堆積}} 川が運搬する[[粘土]]や[[砂]]礫は、勾配の緩やかな下流付近で川の流速が弱くなることにより、その[[粒径]]によってふるい分けられながら、徐々に川底や河岸に集積され、[[堆積物]]となる。このような川の作用を[[堆積|堆積作用]]と呼ぶ。 山岳地帯から平野部に河川が流出する地点においては、山岳地帯で流れ込んだ大量の土砂が扇型に広がって堆積し、[[扇状地]]を形成する<ref>「川はどうしてできるのか」p163 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。特に中流域において、地殻変動により地面が[[隆起]]した場合、河川が[[下刻]]してそれまでの河岸平野を高原上に取り残してしまう場合がある。これは[[河岸段丘]]と呼ばれ、段丘という名の通り河道に沿っていくつかの段をなすことが多い<ref>「川はどうしてできるのか」p62-65 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。流れのうち、緩やかでよどみがあり深い地点は[[淵]]と、浅く急流となっている地点は[[瀬]]と呼ばれる<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p109 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。また、堆積物が川の中央部にたまって陸地となることがあり、これを[[中州]]という<ref>「川はどうしてできるのか」p164-165 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。河川が運んできた堆積物によって河川の下流部には広い[[平野]]が形成されることが多く、これを[[沖積平野]]と呼ぶ。後述の氾濫原や[[三角州]]も、[[沖積平野]]の一部である<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p86 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。また、山岳部においても勾配の緩やかな地点においては上流からの土砂が堆積し、しばしば[[谷底平野]]が形成される。 河川の増水時に河道から水が氾濫する一帯を[[氾濫原]]と呼び、水が得やすく土地が肥沃なため古くから農業に利用されてきたものの、河川が増水した場合には当然本来なら水没してしまうため、それを抑えるために様々な治水が行われてきた地域でもある。氾濫原の河道のそばには河川が運んできた土砂が堆積して微高地をなすことが多く、これを[[自然堤防]]と呼ぶ<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p89 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。これに対し、その背後に広がる低地は[[後背湿地]]と呼ばれる。なお、人類が[[堤防]]を建設して河道を固定した場合、上流から流れてきた土砂は河道の中に限定して堆積するため、河道自体が周辺の平野よりも高くなってしまう場合がある。これを[[天井川]]と呼ぶ<ref>「川はどうしてできるのか」p56-58 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。特に下流部においては河道は蛇行することも多いが、洪水などでその流れがショートカットされた場合、残された旧河道にはしばしば河道の形の湖が形成される。これを[[三日月湖]]と言い、自然の流路変更のほか人間による河川改修によって流路が変更された場合などにおいても形成される<ref>「川はどうしてできるのか」p177 藤岡換太郎 講談社ブルーバックス 2014年10月20日第1刷発行</ref>。 河口部には上流から流れてきた[[砂]]や[[シルト]]などの堆積物が集まりやすく、大型の河川では[[三角州]]を形成することが多い。三角州といっても、堆積物の量や注ぎ込む海の状況によって様々な形状があり、海流が弱い場合は[[ミシシッピ川]]のように海に長く張り出す形を取り、また強い場合は[[ニジェール川]]のように、河口部では海岸線が膨らむものの直線的な海岸線となる。また[[ガンジス川]]のように[[潮汐]]の影響が強い場合は、三角州のそれぞれの洲は沖合に細長く、また三角州全体では扇形に幅広く広がる{{Sfn|ピネ|2010|p=410}}。三角州は上流からの肥沃な土が堆積しており、また河川の水も豊富なため、各地で[[農業]]開発が進められ、大[[穀倉地帯]]となっていることが多い。ガンジス川や[[メコン川]]、[[ナイル川]]のデルタ地帯がその例である。 == 種類 == === 内陸河川 === 普通の川は高地を水源とし海洋に注ぎ込むが、内陸河川は海洋に注ぎ込む前に水量が大幅に減って海に注ぐことなく消滅してしまう川である。[[中華人民共和国]][[内モンゴル自治区]]の[[エチナ川|黒河]]や[[北アメリカ大陸]]の[[グレートベースン]]が知られている。また、[[タリム川]]と[[ロプノール]]のように海洋ではなく閉鎖された湖沼に注ぎ込むものもある。また砂漠などに水が飲みこまれてしまうものもある。ユーラシア大陸を流れるものの中には2000㎞を超えるものもあるが、多くの内陸河川は海に注ぐ国際河川と比べ短い。 * [[アムダリヤ川|アムダリア川]](2574km, タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン) * [[シルダリヤ川|シルダリア川]](2212km, キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタン) * [[タリム川]](2030km, 中国) * [[ヴォルガ川]](3690km, ロシア) * [[オモ川]](760km, エチオピア) * [[シャリ川]](949km, 中央アフリカ、チャド) * [[オカヴァンゴ川]](1600km, アンゴラ、ナミビア、ボツワナ)- 河口で世界最大級の内陸デルタである[[オカバンゴ・デルタ]]を形成する * [[ヘルマンド川]](1130km, アフガニスタン、イラン) * ワーバートン川(412km, オーストラリア)- グレートアーテジアン盆地を流れ[[エア湖]]に注ぐ {{See also|内陸流域}} === 小川 === [[ファイル:Daio_wasabi_farm02c.jpg|thumb|200px|[[長野県]][[安曇野市]]にある[[大王わさび農場]]を流れる小川と[[水車小屋]]]]  詳細は「[[:en:Stream|Stream]]」を参照 川を大きさで言い分けるとき、大きなものを河川(river)、小さなものを小川(stream)と呼ぶこともある。明確な定義はないが、小川と呼ぶものは流量が少ないため川幅が狭く、川底が浅い<ref>{{Cite web|url=https://www.worldatlas.com/articles/what-is-a-stream-in-geography.html |title=What Is A Stream In Geography? |publisher=World Atlas |date=2018-03-19 |accessdate=2022-09-05}}</ref>。小川の形成には主に3つの要素がある。[[表面流出]]、[[湧水]]、[[溝渠]]である。小川は[[淡水魚]]だけでなく、水辺に[[生息]]する小動物、[[昆虫]]、[[水草]]、[[低木]]などにとって欠かせないものであり、[[生息地分断化]]を抑制し[[生物多様性]]を保全する上で重要な[[緑の回廊|回廊]]の役割を担っている<ref>{{Cite web|url=https://basicbiology.net/environment/freshwater/river |title=IMPORTANCE OF RIVERS AND STREAMS |publisher=Basic Biology |date=2016-01-16 |accessdate=2022-09-05}}</ref>。 === 日本の河川法による分類 === [[日本]]は[[法律]]である[[河川法]]や[[地方公共団体|地方自治体]]の一部[[条例]]で川を[[国土交通省]]や各自治体が管理<ref group="注">区間によっては都道府県や政令市に管理を移譲している場合がある。[[一級水系]]を参照。</ref> している。河川は下記のように分類される<ref name="ReferenceA">「河川工学の基礎と防災」p169-170 中尾忠彦 成山堂書店 平成26年9月28日初版発行</ref>。 * [[一級河川]] - [[一級水系]]内に含まれる河川。国土交通省が管理し、河川法が適用される。 * [[二級河川]] - [[二級水系]]内に含まれる河川。[[都道府県]]が管理し、河川法が適用される。 * [[準用河川]] - 一級河川や二級河川に指定された水系以外で、[[市町村]]が管理する河川。河川法が準用されている。 * [[普通河川]] - 上記以外の水系のうち、市町村が必要と認めれば[[条例]]により管理される河川。河川法の適用を受けない。 これらは治水の難度や整備の重要度から判断され分類される。日本では、河川は水系によって一貫的に管理されている<ref name="ReferenceA"/>。 == 流量 == === 降水量と流量 === 河川の[[流量]]は、降水量・流域面積・流域の状況によって変化する。河川の流量は次式で表される。 <math>Q_y=kpA\times10^3</math> <math>Q=\frac{kpA\times10^3}{365\times24\times60\times60}</math> ''Q<sub>y</sub>'' :河川の年間流出量[m<sup>3</sup>] ''Q'' :河川の年平均流量[m<sup>3</sup>/s] ''k'' :流出係数 ''p'' :年間降水量[mm] ''A'' :流域面積[km<sup>2</sup>] === 流況曲線 === 河川の流量を多い順に日数で並べたもので、河川の管理に重要なものである。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+ 流況曲線の期間別流量 |- ! !! 豊水量 !! 平水量 !! 低水量 !! 渇水量 |- ! 最大流量からの日数<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p78 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref> | 95 || 185 || 275 || 355 |- ! その流量の日数 | 95 || 90 || 90 || 90 |} == 温度 == 河川は流域の熱を吸収し、[[下流]]に[[運搬]]する作用がある。このため、河川の温度は一般に[[源流]]において最も低く、下流に及ぶにつれて上昇する。これは[[温帯]]に限らず、[[熱帯]]、[[極地]]でも成立する。 このため河川流域の[[樹木]]を伐採すると、すばやく熱が河川に運搬されるため、一般に[[気温]]が下がる。これは地表の日照が増えることから気温が上昇するだろうという直感とは逆の結果である。 == 開発 == 人類文明にとって、川は様々な用途に役立つ非常に有用なものである。人類の最初期に成立した[[文明]]は、[[エジプト文明]]が[[ナイル川]]を、[[メソポタミア文明]]が[[チグリス川]]および[[ユーフラテス川]]を、[[インダス文明]]が[[インダス川]]を、[[黄河文明]]が[[黄河]]をそれぞれ基盤とするように、かなりの文明が大河川を母体としその流域に広がったものだった<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p11 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。 === 治水 === {{Main|治水}} 川は[[台風]]や集中豪雨などによって一時に大量の水が押し寄せた場合、本来の河道から水があふれ周囲へと流れだすことがある。これは[[洪水]]と呼ばれるが、川の周囲には多くの場合人間が特に集中しており、大きな被害をもたらすことが多い。こうした[[水害]]から、人命や財産を守るための取り組みを'''[[治水]]'''という。地球上の多くの文明は川のそばに位置するものが多く、そのため川の氾濫を抑えることは文明の最重要課題のひとつであった。[[沖積平野]]のうえに社会を築く日本にとっても、治水は古来不可避の課題であった。こうした洪水を抑えるため、古来より各文明は様々な手段を講じてきた。水源近くによく整備された森林を整えて[[水源林]]とし、降水を一時的にプールすることで豪雨時の増水を抑えるとともに渇水時に一定の流水を確保することや、河道のそばに[[堤防]]を築いて河道をコントロールするとともに豪雨時に河道から水を溢れさせないこと<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p149-150 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>、流路に[[ダム]]を築いて土砂の流出を防いだり([[砂防堰堤]])、本流などにもっと大規模なダムを築いて貯水する<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p110-111 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>、[[遊水地]]を確保して洪水時に水をプールする、分水路や排水路を建設して水を逃がす経路を作る、逆に締切堤によって分流を締め切り、川の流れを一か所に集めコントロールしやすくするなど、こうした治水手段は多岐にわたる。こうした目的で、特に近代以降工業力が増大し大規模な工事が行いやすくなるとダムや堤防の建設が盛んになり、また蛇行する河道を直線化して流れを良くすることも行われるようになった<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p136 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。 一方で、堤防などの構築によって自然豊かな山地からの流水が平野部に流入しなくなると、土地固有の生物種の変化が生じたり、窒素や燐といった栄養塩の供給が絶たれる弊害も生まれる<ref name="末次 2005 p">{{Harvnb|末次|2005|p=}} {{要ページ番号|date=2015年2月26日}}</ref> ようになった。また、特にダムの建設には河道のそばに住んでいた住民の大量移住が必要となるなどの弊害も多い<ref>「流系の科学 山・川・海を貫く水の振る舞い」p111 宇野木早苗 築地書館 2010年9月10日初版発行</ref>。また、山地における森林の荒廃や、堤防工事の進捗によって水が河道に集中するようになり、集中豪雨時には水位が上がりやすくなってきているなどの問題もある<ref>「川と国土の危機 水害と社会」p26-27 高橋裕 岩波書店 2012年9月20日第1刷発行</ref>。 === 利水 === 河川を流れる水は、'''生活'''・'''工業'''・'''農業'''の各用水としての利用や、[[水力発電]]も行える貴重な[[資源]]である。利水のために、[[ダム]]、[[堰]](せき)、[[用水路]]、[[河口堰]]などの施設を建設する。地球上のすべての文明は農耕を基盤とするため、[[農業用水]]の源としての河川は文明の死命を制する存在であり、工業時代に入ってもその重要性は衰えなかったばかりでなく、工業用水の供給元としても、さらに規模を拡大し続ける農業の水源としても、そして増大を続ける人口を支える生活用水の水源としても、河川の重要性は増大し続けている。一方で、中国の華北平原を流れる[[黄河]]や中央アジアを流れる[[アムダリア川]]や[[シルダリア川]]のように、流域人口の増大や農業開発の促進によって流域の水需要が河川の水量を越えてしまい、黄河では断流をしばしば引き起こすようになり、アムダリア川、シルダリア川では両河川の注ぎ込む[[アラル海]]が干上がってしまうなど、水利用のバランスの崩壊が深刻な環境問題を引き起こしている例もある。また、国際河川の場合、特に乾燥地を流れる河川においては水の分配は死活問題であり、深刻な国際問題となることが珍しくない。[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]においては、上流部を領有し水源を握る[[トルコ]]が[[1976年]]にGAP計画を策定して両河川に多数のダムを建設し、沿岸地域を灌漑したが、これは下流域の[[シリア]]および[[イラク]]との深刻な対立を引き起こした{{Sfn|ヴィクトルほか|2007|pp=87-89}}。また、ナイル川では1959年に結ばれた水利協定によって下流部のエジプトが流量の大半を利用できることになっている<ref name="JICA_20101221">{{Cite web|和書|author= |date=2010-12-21 |title=ナイル川流域国間の水資源問題 |url=https://www.jica.go.jp/project/egypt/0702252/news/column/20101221.html |publisher=[[国際協力機構]] (JICA) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2015-07-08 }}</ref> が、このエジプトに極めて有利な協定は[[ウガンダ]]や[[エチオピア]]など上流域諸国の強い反発を呼び、[[2010年]]5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定ができたものの既得権を手放すこととなる下流域はこれを拒否し、いっぽう上流域はこれを受け入れて対立することとなった{{r|JICA_20101221}}。 河川の重要な役割の一つに[[飲料水]]の供給があるが、特に都市部において都市中心部を流れる河川からの[[水道]]用水取水は通常行われない。これは、都市部を貫流する河川の多くが[[水質汚染]]の問題を抱えており、浄化に費用がかかるうえに処理を誤ると[[疫病]]の蔓延する状況を招きかねないためである。実際に[[産業革命]]期においては都市内の水質汚染が急速に進む一方で飲料水は河川から取水されることが珍しくなかったため、疫病の流行の一因となった。現代では先進国のほとんどで、河川の水を水道用水とする場合は水質のきれいな上流に築かれたダムから引水するか、また河川の[[伏流水]]が豊富で清潔な場合はそこから取水して水道に供給されることが多い。同様に、都市の[[排水路]]としても河川は重要であるが、処理されていない[[下水]]が河川にそのまま排水されることが近代以前は行われており、都市河川の水質の急速な悪化を招いた。現代では[[下水道]]と下水処理場の整備によってこれらの汚染水のかなりが浄化され、都市河川の水質浄化が進んでいるところも多い。 また、河川は動力源としても古くから利用されてきた。古くは河沿いに設置された[[水車]]が貴重な動力源となっており、近代以降は川をせき止めたダムに水力発電機を設置し、主要な電源の一つとなっている。 戦後の日本では[[1947年]]、[[電源開発促進法]]が制定され、復興のためのエネルギー供給源として河川が利用された。[[高度経済成長期]]には、大都市圏での水需要が急速に高まり、水資源供給の安定の向上が求められた。[[1961年]]、「水資源開発水系」ごとの開発計画を決定・実行していくことを目的として、[[水資源開発促進法]]および[[水資源開発公団法]]が制定された。しかし、急激な水需要にダム建設などの対策は間に合わず、福岡、[[高松市|高松]]、松江などの各地で[[水不足]]が生じた。 === 砂防 === {{Main|砂防}} 河川の上流部に位置する山地からは土砂が流入し、岩石なども自然の風化などによって砕かれ流れと共に細粒化しながら河口、または途中に堆積する。堆積物も流れに応じて再び川へ流入する。日本では1年間におおよそ2億立方メートルの土砂が山地から河川へ流出していると推定されており、半分程度の約1億立方メートルが川の途中のダムや砂防ダム、堰などに堆積して、残りが河口まで流れ下ると考えられている。土砂は利水用ダムの機能を減殺したり、堤防で仕切られた下流の河床を上げることで決壊のような洪水のリスクを増したりするため、砂防ダムなどで流入量が調整される。河川にこのような人工物が存在しない時代に自然に形成された河口側の砂浜などは、砂防ダムなどによる土砂の流入量の減少によって痩せ細る傾向がある<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p158-159 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。 === 採砂 === 主に建築資材用として大きな河川の河床より大規模に採砂が行われる。日本でもかつては大量の採砂が行われていたが、ダムや堤防による自然流入量の減少に対して過大な採砂が環境に悪影響を及ぼすとして規制され、1976年には全国合計で約4000万立方メートルだった砂利採取量が、2000年には約1100万立方メートルにまで減少した<ref name="末次 2005 p"/>。 === 水運 === {{See also|水運}} 河川は古くから船舶による交通路として用いられてきた。他の交通手段として馬車程度しかなかった時代には、船舶での交通は多くの物資や重量物を運搬するのに最適であり、川を下る場合には高速な手段でもあった。そのため、利水のほか[[水運]]も都市の形成にとって重要な要素であり、物資の運搬に有利であることが、河川沿いに多くの都市が発展した理由の1つである。 特に大きな船舶も航行可能な水量の豊かな河川は、内陸部の物資輸送に大きな役割を果たし、大陸を流れる大きな河川は、いずれの国においても重要視されてきた。例えば[[ライン川]]の水運は[[ドイツ]]の代表的な[[工業地域]]である[[ルール地方|ルール工業地域]]の発展に貢献している。また、水運の利便性向上の為、河川の[[浚渫]]や、河川に繋がる[[運河]]の建設も、広く行われている。 特に各大陸においては、[[ドナウ川]]などのように複数の国家の領土内を流れる河川があり、こうした河川においては沿岸の国が[[条約]]を締結して、沿岸のみならずどこの国の船舶でも自由に航行できることとした[[国際河川]]となっていることが多い{{Sfn|瀬川|1999|p=76}}。特に水量の多く流れの緩やかな[[アマゾン川]]や[[長江]]においては、川の遙か上流にまで外洋の大きな船舶が遡行することができる。一方で、こうした川においても主流の船舶は小型のものが多く、そうした小型船舶は外洋に出ることが難しいため、河口部やその付近において外洋船と積み替える必要があり、ために大河川の河口部には大規模な[[貿易港]]が成立することが多い。ライン川河口部の[[ロッテルダム]]や、長江河口部の[[上海]]などがその例である。 日本においても、水運は主要な交通手段の1つであり、例えば[[安曇川]]などの多くの河川で、上流で伐採した木材を下流に流す、いかだ流しなども行われていた。また[[利根運河]]など水運のための運河建設も行われた。しかし、日本では河川が急流であり川幅も狭く、季節による流量の変化も大きく、四方を海に囲まれているため海運が発達したこと、また、日本が近代化を迎えた時には既に[[鉄道]]が開発されていたこともあって、ヨーロッパ諸国ほどの水運の発展は見られなかった。明治期には[[利根川]]や[[信濃川]]などの大きな河川に[[蒸気船]]が就航し、河川交通の改善が図られたものの、鉄道の敷設が進むと速やかにそれにとってかわられ、明治時代末には船舶による河川交通は衰退した。 現在では、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国においても、船舶の大型化や鉄道・[[貨物自動車|トラック輸送]]との競合により河川水運の重要性は低下しているが、それでも重量の重いものや危険物などには優位性があり、河川水運は主要な輸送手段のひとつとなっている。また、河川水運は道路や鉄道に比べ環境にかかる負担が非常に低く、そのため特にヨーロッパにおいては見直される傾向にある{{Sfn|三浦ほか|2008|p=73}}。 === その他 === 多くの川では[[漁業]]も盛んであり、重要な食料供給源の一つとなってきた。産業としての漁業のほか、川[[釣り]]も人気のあるレジャーのひとつである。また、近代以降河道整備が進むにつれ、堤防の内側には広大な[[河川敷]]が広がるようになり、オープンスペースの少ない都市部においては特に[[テニスコート]]や簡易な[[グラウンド]]として整備されたり、河川に沿って[[遊歩道]]が整備されるなどレクリエーション用の空間として用いられることがある<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p132 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>。 == 境界としての河川 == 河川は水運によって両岸を結びつける働きもあるものの、[[渡し船]]や[[橋]]といった手段がない限り川を越えることは難しい。このため、古くから川は境界としての役割を持っていた。現代においても、河川を国境とする国々は多い。日本においても、千葉県と隣接各県のように、河川を境界とする自治体は多く存在する。この場合、河川の中央線が国境線となることが多い。しかし、河川は洪水などによって流路変更をすることも多く、山岳国境に比べて安定した境界とは言えない。そのため、流路変更した河川をめぐって[[国境紛争]]が起きることもある。逆に、アメリカとメキシコの国境線は[[リオグランデ川]]と定められているが、[[1906年]]に人為的に川がショートカットされた結果南岸にアメリカ領の飛び地ができ、そして飛び地であることが忘れ去られてメキシコの施政下におかれ、[[リオ・リコ]]という街がメキシコ施政下で建設されたという事件もあった。[[1970年]]にこの事実が再発見され、この本来はアメリカ領であった地区はメキシコに正式に割譲された。 == 環境 == ===日本における場合=== <!--{{Main|河川の環境}}--> 日本では1950年代から1960年代の[[高度経済成長期]]に、[[産業排水]]、生活排水が直接川に流されたため、水質汚染が深刻になった。これはまず公害病と悪臭の問題として取り上げられ、[[1970年]]制定、翌年施行の[[水質汚濁防止法]]などの対策がとられた。また、河川は人が自然と身近に触れ合うことのできる場であったが、都市化と治水を優先するあまり、河川をコンクリートの壁で隔てたり地下に通したりして、憩いの場とはいえなくなった。治水が一段落し、水質改善のめども立ちはじめた1980年代には、このような状況を改善するために[[親水空間]]の創出を意識した河川計画が立てられるようになった。さらに河川・河畔の生態系が重要だと考えられるようになると、[[1990年]]の建設省河川局の通達「多自然型川づくりの推進について」を転機にして、[[多自然型川づくり]]が今後の河川計画の基本とされるようになった。また、近年は河川の[[水質]][[環境基準]]を達成していることが多くなり[[類型]]の見直しなどにより、さらに水質の改善が図られている。 === 生物 === 川には、様々な特有の生物相がある。 上流域は起伏に富み、流速が激しいので溶存酸素量も多く、水温が低く、貧栄養である。このような区域を[[渓流]]という。渓流では水生の大型植物は少なく、岩の表面に多数の[[珪藻]]が付着している。動物では[[カワネズミ]]などの[[ほ乳類]]、[[ヤマセミ]]や[[カワガラス]]などの鳥類、[[アマゴ]]や[[イワナ]]に代表される渓流性の[[魚類]]、[[カワゲラ]]や[[カゲロウ]]といった幼虫が[[水生昆虫]]である[[昆虫類]]が非常に豊富である。 中流域では、河原が広く、水流は遅いものの川底は小石が露出している。このような区域では河原には[[ヤナギ]]のような樹木を含む特有の植物群が発達し、川底には珪藻が付着する。動物では[[カワセミ]]などの鳥類、[[アユ]]や[[オイカワ]]などの魚類、それにカワゲラ、カゲロウなどの[[水生昆虫]]が多数生息する。 下流域では流れは遅く、川底は砂泥質となる。川沿いには[[ヨシ]]やマコモなどの水生植物が茂る。動物では[[アオサギ]]やコサギなどが水辺に住み、ヨシ原には小鳥が住み着き、[[カモ]]や[[シギ]]などの[[渡り鳥]]が立ち寄る場となる。また、[[フナ]]や[[コイ]]など止水と共通の魚や、河口では[[ボラ]]など汽水性の魚が入り込む。[[シラウオ]]なども下流から河口域の魚である。[[昆虫]]では泥質の川底には[[ユスリカ]]などが住み、魚の[[餌]]として重要な役割を果たす。また[[サメ]]など本来海に生息するはずの魚が現れる事もある。 底生動物の中で、[[昆虫]]が大きな比重を占めるのは、河川の大きな特徴となっている。これらは採集、同定が比較的簡単である上、[[富栄養化]]の状態や汚染によって大きく影響を受け、その種組成がはっきりと変化することが知られているので、環境調査の上でとても重要な役割を果たしている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *<!--あおき-->{{Cite book |和書 |author1=青木斌 |author2=井口博夫 |author3=末永和幸 |author4=井内美郎、ほか |editor=地学団体研究会「新版地学教育講座」編集委員会|editor-link=地学団体研究会 |date=1995-03 |title=地球の水圏―海洋と陸水 |edition=新版 |publisher=学校法人[[東海大学出版会]] |series=新版地学教育講座 10巻 |isbn=4-486-01310-7 |oclc=675576253 |ref={{SfnRef|青木ほか|1995}} }}ISBN 978-4-486-01310-5。 *<!--ヴィクトル-->{{Cite book |和書 |author=ジャン=クリストフ・ヴィクトル |authorlink=:en:Jean-Christophe Victor |author2=ヴィルジニー・レッソン |author3=フランク・テタール |author4=フレデリック・レルヌー |translator=[[鳥取絹子]] |date=2007-08-16 |title=地図で読む世界情勢 第2部 これから世界はどうなるか |origdate=2009 |publisher=[[草思社]] |isbn=4-7942-1610-6 |oclc=317580805 |ref={{SfnRef|ヴィクトルほか|2007}} }}ISBN 978-4-7942-1610-6。 ** 原著:<!--Victor-->{{Cite book |last=Victor |first=Jean-Christophe |author=Jean-Christophe Victor |authorlink=:en:Jean-Christophe Victor |last2=Raisson |first2=Virginie |author2=[[:fr:Virginie Raisson|Virginie Raisson]] |last3=Tétart |first3=Frank |author3=[[:fr:Frank Tétart|Frank Tétart]] |last4=Lernoud |first4=Frédéric |author4=Frédéric Lernoud |date=19 Mar 2009 |title=Le dessous des cartes : Tome 2 : Atlas d'un monde qui change |location=[[パリ|Paris]] |publisher=[[:fr:Éditions Tallandier|Éditions Tallandier]] |language=fr |isbn=2-8473-4304-0 |oclc=300500794 |ref={{SfnRef|Victor ''et al.''|2009}} }}ISBN 978-2-8473-4304-5. *<!--うのき-->{{Cite book |和書 |author=宇野木早苗 |date=2010-09-10 |title=流系の科学―山・川・海を貫く水の振る舞い |publisher=[[築地書館]] |edition=初版 |isbn=4-8067-1403-8 |oclc=743314122 |ref={{SfnRef|宇野木|2010}} }}ISBN 978-4-8067-1403-3。 *<!--おおや-->{{Cite book |和書 |author=大矢雅彦|authorlink=大矢雅彦 |date=2006-03 |title=河道変遷の地理学 |edition=初版第1刷 |publisher=[[古今書院]] |isbn=4-7722-3055-6 |oclc=675634585 |ref={{SfnRef|大矢|2006}} }}ISBN 978-4-7722-3055-1。 *<!--すえつぎ-->{{Cite book |和書 |author=末次忠司 |date=2005-10-11 |title=河川の科学 |edition=初版 |publisher=[[ナツメ社]] |series=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] -絵と文章でわかりやすい!- |isbn=4-8163-4005-X |oclc=676601339 |ref={{SfnRef|末次|2005}} }}ISBN 978-4-8163-4005-5。 * {{Cite book |和書 |author1=瀬川博義 |author2=遠藤貢 |author3=半田伸 |author4=須賀周平、ほか |date=1999-04-15 |title=現代国際関係の基礎と課題 |edition=初版 |publisher=[[建帛社]] |isbn=4-7679-4334-5 |oclc=675202649 }}ISBN 978-4-7679-4334-3。 ** <!--せがわ-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|瀬川|1999}} |reference=第4章「国際関係の法制度」瀬川博義 }} *<!--ピネ-->{{Cite book |和書 |author=ポール・R・ピネ |translator=[[東京大学海洋研究所]] 監 |date=2010-03 |title=海洋学 原著第4版 |origyear=2006 |edition=初版第1刷 |publisher=[[東海大学出版会]] |isbn=4-486-01766-8 |oclc=703359747 |ref={{SfnRef|ピネ|2010}} }}ISBN 978-4-486-01766-0。 ** 原著:<!--Pinet-->{{Cite book |last=Pinet |first=Paul R. |author=Paul R. Pinet |authorlink= |date=April 21, 19952006 |title=Invitation to Oceanography Fourth Edition |url=https://www.amazon.com/Invitation-Oceanography-4th-Fourth-Pinet/dp/B006NDMUJC|location= |publisher=View shipping rates and policies |language=en |asin=B006NDMUJC |ref={{SfnRef|Pinet|2006}} }} *<!--みうら-->{{Cite book |和書 |author1=三浦裕二|author2=吉川勝秀|authorlink2=吉川勝秀|author3=陣内秀信 編著|authorlink3=陣内秀信 |date=2008-02-01 |title=舟運都市―水辺からの都市再生 |publisher=[[鹿島出版会]] |isbn=4-306-07262-2 |oclc=676005575 |ref={{SfnRef|三浦ほか|2008}} }}ISBN 978-4-306-07262-6。 == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|河川}} {{Sisterlinks | commons = River | commonscat = Rivers | q = 川 | wikt = かわ }} {{See also|地理学|水循環|流域}} * [[長さ順の川の一覧]] * [[地域別の川の一覧]] * [[w:List of rivers by continent|List of rivers by continent]] * [[旱魃]] * [[w:List of international border rivers|List of international border rivers]] * [[w:List of waterways|List of waterways]] * ''[[w:The Riverkeepers|The Riverkeepers]]'' (book) * [[w:Salt tide|Salt tide]] * [[w:Water conflict|Water conflict]] *{{prefix}} *{{intitle}} ; 横断 * [[橋]] * [[フェリー]] * [[洗い越し]] * [[トンネル]] ; 交通 * [[艀]] * [[河川舟運]] * [[セーリング]] * [[曳舟道]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * [https://www.river.go.jp/index 川の防災情報] - 国土交通省 * [https://www.japanriver.or.jp/ 公益社団法人日本河川協会] * [http://kasen.event-tenki.com/ 河川一覧データベース] * [http://www.river.or.jp/ 一般社団法人河川情報センター] {{河川関連}} {{地形}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわ}} [[Category:河川|*]]
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日本の暦
日本の暦(にっぽんのこよみ)では、日本における暦法の歴史と、それに伴う暦(暦書・暦表)に関する話題について述べる。 全て太陰太陽暦である。渋川春海が独自の思想にもとづき神武天皇即位紀元まで遡って「日本長暦」を編纂し、それまでの期間の暦を定めたため、それが例えば皇紀や紀元節などの典拠ともなっているが、一般には以下に挙げる暦よりも前にそのような暦があったとは考えられていない(江戸期において、すでに本居宣長が否定している)。 古代から江戸時代初期までは、各時代の中国暦を輸入したものが使われていた(宣明暦以降は輸入が途絶え、そのまま使っていた)。江戸期において、西洋暦も参考にした日本人による暦が作られ始めた。明治改暦により、グレゴリオ暦1873年(明治6年)1月1日からはグレゴリオ暦が使われ、2019年(令和元年)現在に至っている。 前記の和暦に基づき以下の暦(暦書・暦表)が使われてきた。暦の作成配布は日本に限らず、古代より統治者(朝廷や幕府)によって取締られてきた事項であり、明治に至っては神宮暦に一本化された。暦の決定は国家が法で行うが、カレンダーは(それに従って)自由に作ってよい、と明確に分離され自由になったのは、戦後の1946年である。 1871年(明治4年)には改暦および官暦の発行に伴い、全国の暦師をまとめた頒暦商社が組織された。官暦ではそれまで記載されていた吉凶の記載が除かれ、明治末には旧暦の記載も無くなったため、それらを記載した非合法のお化け暦(おばけごよみ)が出回った。 1883年には本暦(官暦)の発行は神宮司庁の管轄となり神宮暦(じんぐうれき)と呼ばれた。 1903年に日めくりカレンダーの製造が始まる。 1946年には暦の専売制が廃され、発行が自由化された。 本来は旧暦による月の別名であるため、そのまま新暦に適用すると季節感が合わなくなることがある。十二月の別名「師走」は、年末の慌ただしい様子を表す月名として、現在でもよく使われている。 国民の祝日は1948年施行の国民の祝日に関する法律(祝日法)で規定している。 春分の日と秋分の日の日付は、前年2月1日の官報で発表される。 詳しくは二十四節気を参照。 中元と盆を除いて、日付は年により前後する。 暦の節目は節句となっている。
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日本の暦(にっぽんのこよみ)では、日本における暦法の歴史と、それに伴う暦(暦書・暦表)に関する話題について述べる。
'''日本の暦'''(にっぽんのこよみ)では、[[日本]]における[[暦法]]の歴史と、それに伴う[[暦]](暦書・暦表)に関する話題について述べる。 {{Main2|日本における[[紀年法]]|和暦}} == 暦法の歴史 == [[ファイル:Jokyo-reki.jpg|thumb|240px|right|[[貞享暦]]。[[1729年|1729]]([[享保]]14)年版。[[国立科学博物館]]の展示。]] 全て[[太陰太陽暦]]である。[[渋川春海]]が独自の思想にもとづき[[神武天皇即位紀元]]まで遡って「[[日本長暦]]」を編纂し、それまでの期間の暦を定めたため、それが例えば皇紀や[[紀元節]]などの典拠ともなっているが、一般には以下に挙げる暦よりも前にそのような暦があったとは考えられていない(江戸期において、すでに[[本居宣長]]が否定している)。 古代から[[江戸時代]]初期までは、各時代の[[中国暦]]を輸入したものが使われていた([[宣明暦]]以降は輸入が途絶え、そのまま使っていた)。江戸期において、[[西洋暦]]も参考にした日本人による暦が作られ始めた。[[明治改暦]]により、[[グレゴリオ暦]][[1873年]]([[明治]]6年)1月1日からはグレゴリオ暦が使われ<ref group="注">グレゴリオ暦の導入にあたり、旧暦の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。</ref>、[[2019年]]([[令和]]元年)現在に至っている。 * [[元嘉暦]](げんかれき) - 6世紀頃[[朝鮮半島]]の[[百済]]から伝えられた[[宋 (南朝)|宋]]の時代の[[中国暦]]である。 * [[儀鳳暦]](ぎほうれき) - 中国暦で[[690年]]から元嘉暦と併用された。[[697年]]からは単独で使用された。 * [[大衍暦]](たいえんれき、だいえんれき) - 中国暦で[[764年]]から[[861年]]まで使われた。 * [[五紀暦]](ごきれき) - 中国暦で[[781年]]に日本に紹介されたが単独で使われることはなかった。 * [[宣明暦]](せんみょうれき) - 中国暦で[[862年]]から1685年まで使用された。 * [[貞享暦]](じょうきょうれき) - 初めて日本人により編纂された暦で1685年から[[1755年]]まで使われた。 * [[宝暦暦]](ほうりゃくれき、ほうれきれき) - 1755年から[[1798年]] * [[寛政暦]](かんせいれき) - 1798年から[[1844年]] * [[天保暦]](てんぽうれき) - 1844年から[[1872年]] == 日本の暦の歴史 == 前記の和暦に基づき以下の暦(暦書・暦表)が使われてきた。暦の作成配布は日本に限らず、古代より統治者([[朝廷 (日本)|朝廷]]や[[幕府]])によって取締られてきた事項であり<ref group="注">「正朔を奉ずる」という言葉があるが、「正」は年の初め、「朔」は月の初め(ついたち)のことで、最高権力者(本来は中国の皇帝)が定めた暦に従うという意味であり、暦の政治性を表した語と言える。</ref>、明治に至っては[[神宮暦]]に一本化された。暦の決定は国家が法で行うが、カレンダーは(それに従って)自由に作ってよい、と明確に分離され自由になったのは、戦後の1946年である。 * [[具注暦]](ぐちゅうれき) ** 元嘉暦を基に作られた暦である。飛鳥時代の木簡に具注暦を記したものが見つかっている。[[奈良時代]]には[[朝廷 (日本)|朝廷]]の[[陰陽寮]]が作成し頒布していた。)[[鎌倉時代]]に具注暦を仮名表記にした[[仮名暦]](かなごよみ)が現れた。 * [[京暦]](きょうごよみ)  ** 始まりは鎌倉時代と推定されている。[[15世紀]]中頃には[[摺暦座]](すりごよみざ)が専売権を持っていた。 ** 1657年には朝廷御用達で全国の暦師の監督権を持っていた[[大経師]](だいきょうじ)が[[大経師暦]]を発行していた<ref>kotobank-世界大百科事典 [http://kotobank.jp/word/%E4%BA%AC%E6%9A%A6 「京暦」]</ref>。 * [[三島暦]](みしまごよみ) ** 奈良時代(8世紀後半)から続くと言われている<ref group="注">三島暦で現存する最古のものは15世紀初めのものである。</ref>。この三島暦を作ったのは奈良から[[三島宿]]へ移ってきた[[暦師]][[河合家]]であった。[[江戸時代]]初期には[[江戸幕府|幕府]]の公式の暦となり、関東・東海地方で広く使われていた。河合家は[[平成]]に入り50代続いた暦師を廃業した<ref>[http://sugiuratouki.com/mishimade/koyomi.html 「三島暦と河合家」]</ref>。 * [[大宮暦]](おおみやごよみ) ** 戦国時代に武蔵国大宮の[[氷川神社]]で作成された仮名暦。 * [[丹生暦]](にゅうこよみ) **[[三重県]][[丹生 (多気町)|丹生]]の[[賀茂家]]が版行していた暦で遅くとも[[16世紀]]中頃には発行されていたが、後に[[伊勢暦]]にとってかわられる<ref>kotobank-世界大百科事典 [http://kotobank.jp/word/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E6%9A%A6 「丹生暦」]</ref>。 * [[伊勢暦]](いせごよみ) ** 1632年より発行され江戸時代には全国各地に配布された。 ** この暦には[[吉凶]]凡例、日ごとの[[節季]]や[[農事]]に関する記述があり[[生活暦]](せいかつれき)として重宝され、[[伊勢詣]]の土産にもなっていた。配布数も増加し享保年間(1716-1735)には毎年200万部が出版され、全国で配られた暦の約半数を占めていたともいわれている<ref>三重県環境生活部文化振興課県史編さんグループ [http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=558 「全国に広まった伊勢暦」]</ref>。 * [[江戸暦]](えどごよみ) ** 江戸の人口増大に伴って、[[17世紀]]中期から刊行され、1697年には11名からなる仲間組織が結成された。 1871年(明治4年)には[[改暦]]および[[官暦]]の発行に伴い、全国の暦師をまとめた[[頒暦商社]]が組織された。官暦ではそれまで記載されていた[[吉凶]]の記載が除かれ、明治末には旧暦の記載も無くなったため、それらを記載した非合法の[[お化け暦]](おばけごよみ)が出回った。 1883年には[[本暦]](官暦)の発行は[[神宮司庁]]の管轄となり[[神宮暦]](じんぐうれき)と呼ばれた。 1903年に[[日めくりカレンダー]]の製造が始まる。 1946年には暦の[[専売制]]が廃され、発行が自由化された。 == 各月の別名 == * {{0}}[[1月]] - [[1月|睦月]](むつき) * {{0}}[[2月]] - [[2月|如月]] または 衣更着(きさらぎ) * {{0}}[[3月]] - [[3月|弥生]](やよい) * {{0}}[[4月]] - [[4月|卯月]](うづき) * {{0}}[[5月]] - [[5月|皐月]] または 早月(さつき) * {{0}}[[6月]] - [[6月|水無月]](みなづき) * {{0}}[[7月]] - [[7月|文月]](ふみづき、ふづき) * {{0}}[[8月]] - [[8月|葉月]](はづき) * {{0}}[[9月]] - [[9月|長月]](ながつき) * [[10月]] - [[10月|神無月]](かんなづき)、[[出雲地方]]では[[神在月]](かみありつき) * [[11月]] - [[11月|霜月]](しもつき) * [[12月]] - [[12月|師走]](しわす、しはす<ref group="注">[[常用漢字表]]の別表「しはすとも言う」の記述がある。</ref>) 本来は[[旧暦]]による月の別名であるため、そのまま[[新暦]]に適用すると季節感が合わなくなることがある。十二月の別名「師走」は、年末の慌ただしい様子を表す月名として、現在でもよく使われている。 == 国民の祝日 == [[国民の祝日]]は[[1948年]]施行の[[国民の祝日に関する法律]](祝日法)で規定している。 * {{0}}[[1月1日|1月{{0}}1日]] - [[元日]]([[1948年]]から) * {{0}}[[1月]]の第2月曜日 - [[成人の日]]([[2000年]]から。それ以前は[[1月15日]]([[1948年]]から)) * {{0}}[[2月11日]] - [[建国記念の日]]([[1966年]]から) * {{0}}[[2月23日]] - [[天皇誕生日]](令和改元後の[[2020年]]から<ref group="注">令和改元が2019年5月1日であるため、2020年からになる。</ref>) * {{0}}[[3月21日]]''頃'' - [[春分の日]]([[1948年]]から) * {{0}}[[4月29日]] - [[昭和の日]]([[2007年]]から。それ以前は''みどりの日''(平成改元後の[[1989年]]から)さらにそれ以前は''天皇誕生日''([[1948年]]から)) * {{0}}[[5月3日|5月{{0}}3日]] - [[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]([[1948年]]から) * {{0}}[[5月4日|5月{{0}}4日]] - [[みどりの日]]([[2007年]]から) * {{0}}[[5月5日|5月{{0}}5日]] - [[こどもの日]]([[1948年]]から) * {{0}}[[7月]]の第3月曜日 - [[海の日]]([[2003年]]から。それ以前は[[7月20日]]([[1995年]]から)) * {{0}}[[8月11日]] - [[山の日]] ([[2016年]]から) * {{0}}[[9月]]の第3月曜日 - [[敬老の日]]([[2003年]]から。それ以前は[[9月15日]]([[1966年]]から)) * {{0}}[[9月23日]]''頃'' - [[秋分の日]]([[1948年]]から) * [[10月]]の第2月曜日 - [[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]]([[2020年]]から。それ以前は''体育の日''([[2000年]]から)さらにそれ以前は[[10月10日]]([[1966年]]から)) * [[11月3日|11月{{0}}3日]] - [[文化の日]]([[1948年]]から) * [[11月23日]] - [[勤労感謝の日]]([[1948年]]から) [[春分の日]]と[[秋分の日]]の日付は、前年2月1日の[[官報]]で発表される。 == 休日 == * 祝日法では「[[国民の祝日]]」は、[[休日]]とすることが定められている。 * (1973年〜2006年)[[国民の祝日]]が[[日曜日]]にあたるときは、その翌日が休日となる。いわゆる[[振替休日]]である。 * (2007年〜)[[国民の祝日]]が[[日曜日]]に当たるときは、その後に迎える最初の「[[国民の祝日]]でない日」が休日となる(前項と同様にこれもいわゆる[[振替休日]]である。[[ゴールデンウィーク]]など祝日が2日以上連続する場合が出現したことによる法改正)。 ** 例:[[ゴールデンウィーク]]中の5月3日([[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]])・5月4日([[みどりの日]])・5月5日([[こどもの日]])のうちのいずれかの日が[[日曜日]]である場合、5月6日が休日となる。 * (1988年〜)前日と翌日が国民の祝日の場合(つまり国民の祝日が2日違い)、当日が国民の祝日でない日は休日となる。いわゆる[[国民の休日]]である。この規定が適用されるのは当初は[[5月4日]]のみだったが、[[2003年]]の[[国民の祝日に関する法律|祝日法]]の改正施行により、年によっては[[敬老の日]]と[[秋分の日]]が2日違いとなる場合があり、それらの中間日にも適用されることとなった(5月4日は2007年の祝日法の改正施行により国民の祝日となったため適用外となった)。 * [[日曜日]]を休日と定めた、効力が及ぶ範囲を限定しない[[法律]]は存在しない([[裁判所の休日に関する法律]]や各地方公共団体が制定する職員の勤務時間、休日、休暇等に関する条例、[[銀行法]]<ref group="注">第15条:銀行の休日は、[[日曜日]]その他政令で定める日に限る。</ref> などのような、効力が及ぶ範囲を限定する[[法令]]には日曜日を休日と定めたものは存在する)。 == 二十四節気、雑節 == 詳しくは[[二十四節気]]を参照。 [[中元]]と[[お盆|盆]]を除いて、日付は年により前後する。 * {{0}}[[1月5日|1月{{0}}5日]] - [[小寒]](しょうかん)、[[寒の入り]](かんのいり) * {{0}}[[1月17日]] - 冬の[[土用]](どよう) * {{0}}[[1月20日]] - [[大寒]](だいかん) * {{0}}[[2月3日|2月{{0}}3日]] - [[節分]](せつぶん) * {{0}}[[2月4日|2月{{0}}4日]] - [[立春]](りっしゅん) * {{0}}[[2月19日]] - [[雨水]](うすい) * {{0}}[[3月6日|3月{{0}}6日]] - [[啓蟄]](けいちつ) * {{0}}[[3月16日]] - 春の[[社日]](しゃにち) * {{0}}[[3月18日]] - 春[[彼岸]](はるひがん) * {{0}}[[3月21日]] - [[春分]](しゅんぶん) * {{0}}[[4月5日|4月{{0}}5日]] - [[清明]](せいめい) * {{0}}[[4月17日]] - 春の[[土用]](どよう) * {{0}}[[4月20日]] - [[穀雨]](こくう) * {{0}}[[5月2日|5月{{0}}2日]] - [[八十八夜]](はちじゅうはちや) * {{0}}[[5月6日|5月{{0}}6日]] - [[立夏]](りっか) * {{0}}[[5月21日]] - [[小満]](しょうまん) * {{0}}[[6月6日|6月{{0}}6日]] - [[芒種]](ぼうしゅ) * {{0}}[[6月11日]] - [[入梅]](にゅうばい) * {{0}}[[6月21日]] - [[夏至]](げし) * {{0}}[[7月2日|7月{{0}}2日]] - [[半夏生]](はんげしょう) * {{0}}[[7月7日|7月{{0}}7日]] - [[小暑]](しょうしょ) * {{0}}[[7月15日]] - [[中元]](ちゅうげん)、[[お盆|盆]](ぼん) * {{0}}[[7月20日]] - 夏の[[土用]](どよう) * {{0}}[[7月23日]] - [[大暑]](たいしょ) * {{0}}[[8月8日|8月{{0}}8日]] - [[立秋]](りっしゅう) * {{0}}[[8月23日]] - [[処暑]](しょしょ) * {{0}}[[9月1日|9月{{0}}1日]] - [[二百十日]](にひゃくとおか) * {{0}}[[9月8日|9月{{0}}8日]] - [[白露]](はくろ) * {{0}}[[9月11日]] - [[二百二十日]](にひゃくはつか) * {{0}}[[9月20日]] - 秋[[彼岸]](あきひがん) * {{0}}[[9月22日]] - 秋の[[社日]](しゃにち) * {{0}}[[9月23日]] - [[秋分]](しゅうぶん) * [[10月8日|10月{{0}}8日]] - [[寒露]](かんろ) * [[10月20日]] - 秋の[[土用]](どよう) * [[10月23日]] - [[霜降]](そうこう) * [[11月7日|11月{{0}}7日]] - [[立冬]](りっとう) * [[11月22日]] - [[小雪]](しょうせつ) * [[12月7日|12月{{0}}7日]] - [[大雪]](たいせつ) * [[12月22日]] - [[冬至]](とうじ) == 節句 == 暦の節目は'''[[節句]]'''となっている。 * [[1月7日]] - [[人日]](じんじつ)、七草 * [[3月3日]] - [[上巳]](じょうし / じょうみ)、桃の節句 * [[5月5日]] - [[端午]](たんご)、端午の節句 * [[7月7日]] - [[七夕]](しちせき / たなばた) * [[9月9日]] - [[重陽]](ちょうよう)、菊の節句 == 六曜(六輝) == {{Main|六曜}} * [[先勝]](せんしょう)  * [[友引]](ともびき)  * [[先負]](せんぷ)  * [[六曜#仏滅|仏滅]](ぶつめつ)  * [[六曜#大安|大安]](たいあん)  * [[六曜#赤口|赤口]](しゃっこう) == その他 == * [[12月3日]]は「カレンダーの日」 ** 1872年(明治5年)の12月3日を新暦(太陽暦)の明治6年1月1日とする新暦採用に因る<ref>全国団扇扇子カレンダー協議会 [http://www.zenkyo.net/c-hist.html 「カレンダーの歴史」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[干支]] * [[暦注]] * [[七十二候]] * [[年中行事]] * [[日本の年中行事・記念日の分類]] == 外部リンク == * [https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FC6FCCBDCA4CECEF1.html 国立天文台 暦wiki 日本の暦] * [https://www.ndl.go.jp/koyomi/index.html 国立国会図書館:日本の暦] * [https://center6.umin.ac.jp/cgi-open-bin/nengou.cgi 大学病院医療情報ネットワーク(UMIN)センター 和暦・西暦・年齢対照表] * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/theme_honbun_400108.html 新暦と旧暦を対照できる資料を調べる | 調べ方案内 | 国立国会図書館] {{暦}} {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:につほんのこよみ}} [[Category:暦]] [[Category:日本の時間|こよみ]] [[Category:日本の年中行事|*につほんのこよみ]] [[Category:天文学に関する記事]]
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河(かわ)
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河(かわ)
{{Wiktionary}} '''河'''(かわ) == 映画 == * {{仮リンク|河 (1929年の映画)|en|The River (1929 film)}} - [[フランク・ボーゼイギ]]監督の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]映画。 * [[河 (1951年の映画)]] - [[ジャン・ルノワール]]監督の[[フランス]]・[[インド]]・アメリカ合作映画。 * {{仮リンク|河 (1997年の映画)|en|The River (1997 film)}} - [[蔡明亮]]監督の[[台湾]]映画。 == 楽曲 == * [[河 (交響曲)]] - [[ユリアーン・アンドリーセン]]が作曲した吹奏楽のための交響曲。 * [[河 (堀内孝雄の曲)]] - [[堀内孝雄]]の曲。 * [[河 (みんなのうた)]] - [[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]]の曲。 * [[河〜River〜]] - [[和田アキ子]]のシングル。読みはリバー。 == その他 == * {{仮リンク|河 (殷朝の祖先)|zh|河 (商朝先公)}} * [[河 (姓)]](か) - 中国系、朝鮮系の姓の一つ。 * [[河 (俳誌)]] - 俳誌。 * 河(ほう) - [[麻雀]]で牌を捨てる場所。[[摸打#河]]を参照。 * [[劇団河]] - 日本の劇団・声優事務所。 * 中国で[[黄河]]を指す語。 * 中国における[[河粉]]の略称。 == 関連項目 == * [[リバー (曖昧さ回避)]] * [[川|かわ]] * [[大河]] * [[江]] {{デフォルトソート:かわ}} {{aimai}} [[Category:同名の作品]]
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シュガー・ベイブ
シュガー・ベイブ(SUGAR BABE)は、1973年から1976年まで活動していた日本のポップスバンド。 1972年発売の自主制作盤「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」の制作メンバーにより、1973年に結成されたインディーズ・バンドである。当時はまだ珍しかった、メジャー7thや分数コードなどのコード・プログレッションを多用するほか、コーラス・ワークに重点を置いた音作り。セールス的には低迷し、アンダーグラウンドな存在に留まっていた。 1976年に解散。活動当時は極めてマイナーなバンドであった。
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シュガー・ベイブは、1973年から1976年まで活動していた日本のポップスバンド。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = シュガー・ベイブ | 画像 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像説明 = | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = band | 別名 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref name="okmusic">{{Cite web|和書|title=シュガー・ベイブ(シュガー・ベイブ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%96 |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-05-06 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=“Jポップ”を創造した革命的なアルバム! シュガー・ベイブの名盤『Songs』! |url=https://okmusic.jp/news/31537 |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |date=2014-02-19 |accessdate=2021-05-06 }}</ref>|[[ファンク]]<ref name="okmusic" />|[[シティ・ポップ]]<ref name="nipponcom">{{Cite web|和書|author=栗本斉 |title=シティポップがなぜ世界中でブレイクしているのか? |url=https://www.nippon.com/ja/column/g00631/ |website=nippon.com |publisher=公益財団法人ニッポンドットコム |date=2018-12-21 |accessdate=2021-05-06 }}</ref>|[[ロック (音楽)|ロック]]<ref name="nipponcom" />|[[ポピュラー音楽|ポップス]]<ref name="nipponcom" />|[[ソウルミュージック|ソウル]]<ref name="nipponcom" />}} | 活動期間 = [[1973年]] - [[1976年]] | レーベル = [[ナイアガラ・レーベル|NIAGARA]] ⁄ [[エレックレコード (オリジナル)|ELEC]] | 事務所 = {{Plainlist| * 風都市{{Resize|90%|(1974年)}} * TAKE ONE{{Resize|90%|(1974年 - 1976年)}} }} | 共同作業者 = | 公式サイト = | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[山下達郎]]([[ボーカル]]・[[ギター]]・[[キーボード (楽器)|キーボード]]・[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]) * [[大貫妙子]](ボーカル・キーボード・コーラス) * [[村松邦男]](ボーカル・ギター・コーラス) * [[寺尾次郎]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]・コーラス) * [[上原裕]]([[ドラムセット|ドラムス]]) * (途中脱退者は[[#メンバー]]を参照)}} }} '''シュガー・ベイブ'''(SUGAR BABE)は、[[1973年]]から[[1976年]]まで活動していた[[日本]]の[[バンド (音楽)#ポップスバンド|ポップスバンド]]。 == 概略 == [[1972年]]発売の自主制作盤「[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]」の制作メンバーにより、[[1973年]]に結成されたインディーズ・バンドである。当時はまだ珍しかった、[[七の和音|メジャー7th]]や[[和音#分数コード|分数コード]]などの[[コード・プログレッション]]を多用するほか、[[コーラス・ワーク]]に重点を置いた音作り。セールス的には低迷し、[[アンダーグラウンド (文化)|アンダーグラウンド]]な存在に留まっていた。 [[1976年]]に解散。活動当時は極めてマイナーなバンドであった。 == メンバー == ; 第1期:1973年4月 - 1975年4月 :* [[山下達郎]](やました たつろう) – [[ボーカル|ヴォーカル]]、[[ギター]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、コーラス :* [[大貫妙子]](おおぬき たえこ) – ヴォーカル、キーボード、コーラス :* [[村松邦男]](むらまつ くにお) – ヴォーカル、ギター、コーラス :* 鰐川己久男(わにかわ きくお) – [[エレクトリックベース|ベース]]、コーラス :* [[野口明彦]](のぐち あきひこ) – [[ドラムセット|ドラムス]] : <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> ; 第2期:1975年4月 - 1975年6月 :* 山下達郎 – ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス :* 大貫妙子 – ヴォーカル、キーボード、コーラス :* 村松邦男 – ヴォーカル、ギター、コーラス :* [[伊藤銀次]](いとう ぎんじ) – ギター :* [[寺尾次郎]](てらお じろう) – ベース、コーラス :* [[上原裕]](うえはら ゆたか) – ドラムス : ; 第3期:1975年6月 - 1976年4月 :* 山下達郎 – ヴォーカル、ギター、キーボード、コーラス :* 大貫妙子 – ヴォーカル、キーボード、コーラス :* 村松邦男 – ヴォーカル、ギター、コーラス :* 寺尾次郎 – ベース、コーラス :* 上原裕 – ドラムス == 略歴 == {{hidden begin |toggle = right |title = 1971年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * 3月、大貫妙子、高校を卒業。在学中にはバンドを組んだり、吉祥寺の“ビ・バップ”や“ライトハウス”、新宿の“ソウル・イート”といったロック喫茶に通うなど音楽は好きだったが、将来音楽家になる意思はなかった。 * 春、大貫、美術学校に入学。一生できる仕事をしたいとの理由で陶芸家を目指して学校に通い始めたが、朝8時位からのデッサンを半年近く続けたところ、持病の肩こりが悪化。首が全く回らなくなり、根詰める仕事は一切ダメだと医者に止められ退学。ただ、音楽は趣味で続けていて、喫茶店で[[キャロル・キング]]「[[:en:It's Too Late (Carole King song)|IT'S TOO LATE]]」を[[ボサノヴァ]]ぽく歌うというような弾き語りをしていた。 * 冬、大貫、ギターを持って渋谷ヤマハに譜面を買いに来たところ、入り口付近にたむろしていた林謙司と広瀬ジョージの2人に声をかけられ、グループ“三輪車”への参加を持ちかけられる。とにかくバンドに女の子がほしいという彼らの話から“この先、肩こりで絵も描けないし、どうしようかと思っていた頃だし、まだ若いから何やってもいいや”と思い、参加を決める。最初は嘘かと思っていたが翌日、当時彼らがすでに契約していた[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]に行き大野という女性のディレクターを紹介される。こうして、グループへの加入を機に実質的なプロとしてのキャリアがスタートする。 * 大貫、三輪車としてのレッスンを始めるが、この頃のレパートリーは「あの子この子」や「落松葉」「伊那」といった[[北原白秋]]の詩に曲をつけたり、[[フォーク・ミュージック|フォーク]]然としたオリジナル曲ばかりだったので、彼女の嗜好と一致していなかった。それでも彼女はグループの一員として地方のラジオ局周りやスーパーの開店記念イベントでの店頭演奏などを行う傍ら、必要に迫られ自らも曲作りを始めていた。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1972年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * 7月、山下達郎、アルバム『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』を友人達と3か月かけて自主制作。グループ名は特になく、メンバーは山下の中学時代のクラスメイトだった並木進、並木が高校で知り合った鰐川己久男と武川伸一の4人。メンバー全員が大学に進学した同年春、誰の口からともなく、今までの活動を何か形にして残そうという提案が出されたのがきっかけだった。アナログA面に[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]、B面に[[ドゥーワップ]]や[[ロックンロール]]のカヴァーをそれぞれ収録。制作費は100枚で13万円。それをメンバー4人で25枚ずつ分け、友達に1枚1,500円で無理矢理売るが、結局最後はほとんどタダ同然で配ってしまう。このレコーディング時に並木からの依頼でエコー・マシーンを貸すため[[村松邦男]]がレコーディング・スタジオになっていた並木家を訪れ、「[[:en:Sincerely (song)|SINCERELY]]」のコーラスを手伝う。村松は並木の高校の友人の1年先輩。以後、並木家で行われていたセッションにギターを携え毎週、顔を出すようになる。 * 秋、『ADD SOME~』レコーディング・メンバーの山下・鰐川・並木・武川に村松が加わり、アルバム・ジャケットのデザインを手がけた金子辰也が当時通っていた美術学校の文化祭に出演<ref group="注" name="add1">メンバー:山下達郎(Ds)、並木進(B)、鰐川己久男(G)、村松邦男(G)、武川伸一(Key)</ref>。 * 秋、大貫、三輪車のレコーディング制作がスタートし始める。大貫の書いた曲に大野ディレクターは十分理解を示してはくれたが、会社の方針からとりあえずはプロの作家に依頼することになった。作詞は[[千家和也]]が手掛けたが、その詞は大貫には気に入らない内容だった。若さゆえに自尊心も強く、“売れなくてもいいからカッコ悪いことはいやだ、カッコ悪いことだけはしたくない”という思いからグループを辞めたいとの思いが次第に強くなる。 * 秋、大貫、三輪車を辞めたいが契約があるのでどうしようかと思っていた頃、当時ワーナーからプロジェクトを始めるときのスタッフとしてアレンジを請け負っていた[[矢野誠 (ミュージシャン)|矢野誠]]を紹介される。矢野は三輪車についてレコード会社から「[[学生街の喫茶店]]」が流行っていたので、ああいうのを目標にしてやってみたらどうかと言われるが、矢野自身は好みではなかった。その一方、大貫のオリジナルを聴き、シュールで冷たい詞を結構気に入っていて、次第に矢野の嗜好する音楽に大貫が接近して行く。「グループを辞めたい」と漏らした大貫に、矢野は「じゃあ、辞めたら。もっといい仲間がいるから」と答えた。結局、三輪車はなし崩し的に辞めてしまい、矢野の紹介で四谷のロック喫茶“ディスク・チャート”を訪れる。 * ディスク・チャートは同年秋、ジャズ喫茶“いーぐる”のオーナー[[後藤雅洋]]が“いーぐる”のすぐ傍にオープンさせたロック喫茶。当時、長門芳郎と長門の学生時代からの友人でバンド仲間でもあった小宮康裕の二人が店の運営を任されていた。長門は大学を中退して土方をしていたが、この年の夏に故郷の長崎で[[はっぴいえんど]]を招いてイベント“大震祭Vol.3”<ref group="注">[[1972年]][[8月5日]]、長崎市公会堂</ref>を主催した。その後音楽事務所に入るつもりで再上京したがやめて、小宮に誘われてこの店に勤めるようになった{{Refnest|group="注"|大貫がディスク・チャートを訪れた理由を長門は「矢野誠さんと前から知り合いだったのね。ディスク・チャートに矢野さんが“大貫妙子っていう面白い子がいる”っていって連れてきたんですよね。ワーナー・パイオニアでレコード出すとか出さないとかって話があって。で、大貫妙子と三輪車を分断しようって作戦があったわけ。あの頃からメロディーがすごくよかったし、彼女はもっといいもの持ってたし。繊細だけども大胆な感じもする不思議な少女だったね。で、店の地下室で彼女のデモ・テープ作ってたんですよ。で、ほぼ同時に(山下)達郎が来始めて、その内、ギター弾いたりするようになってね、達郎も。“じゃあ、一緒にグループやろう”ってことになって。それが72年の暮。実際、練習を始めたのは73年の頭から。シュガー・ベイブって名前はヤング・ブラッズの曲名から」<ref name="music_steady_198310">{{Cite journal |和書 |author=大貫妙子 |authorlink=大貫妙子 |title=MUSICIAN FILE 大貫妙子徹底研究“ファイル・インタビュー” |date=1983-10-20 |publisher=ステディ出版 |journal=[[ミュージック・ステディ]] |volume=3 |number=4 |pages=67-114 |ref= }}</ref>と語っている。}}。長門と小宮がレコードのセレクトを任されてからは、それまでのメジャーでハードな路線から、当時はまだサブカルチャー的だったともいえるソフトなアメリカン・ロックがかかるようになっていた。 * ディスク・チャートでは閉店後、毎週水曜日に地下室でセッションが行われていた。メンバーは大貫のほか、長門と小宮。元ソルティー・シュガーの[[山本コウタロー]]や徳武弘文。この時カメラマンのアシスタントをしていて後にシュガー・ベイブに参加する[[野口明彦]]。他に矢野や[[武蔵野タンポポ団]]の[[若林純夫]]、後に広告業界に身を置く下條高志などが参加して自作曲やCMソングの録音が行われていた。併せて、後にTVプロデューサーとなる日野原幼紀のアイデアで、大貫のソロ・デビューに向けたオリジナル曲のデモ・テープ制作も行われるようになり、「午后の休息」<ref group="注">紙ジャケット仕様再発盤『[[Grey Skies]]』([[2007年]][[10月3日]]発売 PANAM ⁄ NIPPON CROWN CRCP-2048)にボーナス・トラックで収録。</ref>他数曲が録音される。 * 11月、山下、自主制作盤のレコーディング・メンバーだった武川から彼の大学で評判になっていたディスク・チャートの存在を知らされる。しばらく講習がたて込んでいて行けそうもないという武川に代わって山下が『ADD SOME~』を置いてもらうように店に行き、チーフの長門と会う。音楽の趣味があったため話に熱が入り、結局持参したレコードはプレゼントしてしまう。その場で聴いた長門は、山下のヴォーカルにすぐさま惹かれ、彼をディスク・チャートで閉店後地下室で行われていたセッションを見に来ないかと誘う。 * 12月、山下・鰐川・武川・村松、ディスク・チャートで閉店後地下室で行われていた大貫のデモ・レコーディングのセッションを見学する。以後、山下は一人で足繁く通うようになり、やがて見学だけではおさまらず、コーラス・アレンジに意見を出したり、自分もギターを持ち込んで演奏に加わって歌うなど、次第にセッションに欠かせない存在となる。 * 暮れ、山下、この頃にはオリジナルの作品を何曲か作っていたが、まだそれをバンドで演奏した事がなかった。バンドそのものが『ADD SOME~』完成の時点で既に解散していて、以降は勝手に集まってセッションを繰り返しているにすぎなかった。オリジナル曲をやるのであれば、またバンドを組んで演奏活動をしなければ意味がないと考え、勝手な妄想から自身のバンド構想が出来上がる。 * 暮れ、コーラス・レンジを広げるため、まずはシンガーとしてソロ・デビュー計画があった大貫にバンドへの参加を持ちかける。大貫には三輪車の時のわだかまりが残っていて、グループを組んで音楽活動をすることにためらいがあった。しかし、今の状況で深夜にデモ・テープを作っていても、出来上がった後の展開にいまひとつ不安があることも確かだった。さらに、今後一人だけで音楽活動を続けていく自信もなく、どうしても一緒に活動するミュージシャンが必要になるとの考えから、参加を了承する。併せて、山下の“女性はバンドではキーボードを弾くもの”と決めていた説得でギターから、小学校4年生の時に引越でピアノを手放して以来触ったことが無かったというキーボードへの転向も了承する。 * 暮れ、山下、鰐川にベースでメンバーになるよう説得。もともとギタリストだった鰐川は当初渋ったものの、バンドをやりたいとの思いに勝てず、これを了承する。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1973年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * 1月、山下、ギターは鰐川のほうが指は速かったが“フレーズが泣く”という理由で、すでに会社員として勤務していた村松を口説き、最終的には参加させる。 * 3月、知り合いのつてを頼ってドラムのメンバー募集を開始。4月の一日を使ってメンバーと一緒に演奏してオーディションを行い、決めることにする。並行して大貫のキーボードの特訓も始まり、数曲をバンドで演奏できるようにした。 * 4月、応募してきたドラマーのオーディションを行う。参加したドラマーは全員そこそこは叩けたが、協調性のなさや妙な癖があるなど何かしらの見過ごせない欠点があり、結果は惨敗だった。一度は山下が自分で叩くしかないかとも考えたが、ディスク・チャートのセッションで顔見知りだった野口が最近ドラムを始めたことを大貫から聞き、山下がドラムを教えれば2、3か月でどうにかなるだろうということで野口に会うことにする。 * 4月、山下、野口と会う。野口は話を聞くとあっさりとバンド加入を了承、ようやくメンバーが決まる。 * 5月、山下、長門にマネージャーになるよう依頼、長門も引き受けることを決める。バンド名は映画『[[砂丘 (映画)|砂丘]]』<ref group="注">『砂丘 (Zabriskie Point)』[[1970年]]公開アメリカ映画 監督 : [[ミケランジェロ・アントニオーニ]] 主演 : [[:en:Mark Frechette|マーク・フレチェット]]、[[ダリア・ハルプリン]]、[[ポール・フィックス (俳優)|ポール・フィックス]]、[[ロッド・テイラー]]</ref>で使われていた[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]の曲名からとって“シュガー・ベイブ”に決定するが、この時、山下と長門は同じ名前を考えていた。 * 初夏、[[はちみつぱい]]のベーシスト、和田博巳の経営する[[高円寺]]のロック喫茶“MOVIN'”で[[伊藤銀次]]と駒沢裕城が『ADD SOME~』を聴き、[[大瀧詠一|大滝詠一]]に伝える{{Refnest|group="注"|この経緯について大滝は「キーマンは(伊藤)銀次なの。ナイアガラに関して言うならば。銀次のバンド(ごまのはえ)がナイアガラ第1号の予定になるために私がプロデュースをやりだしたっていうところから始まってて。なんだかんだってすったもんだやってて。あの頃、狭山によく遊びに行ってて、そこでコマコ(駒沢裕城)と意気投合して。それで彼がセッション・メンバーとして来るようになった。それから[[布谷文夫|布やん]]のレコーディングが始まった<ref group="注">[[布谷文夫]]『[[悲しき夏バテ]]』 1973年11月21日発売 POLYDOR LP:MR-5037</ref>。コマコと銀次が共同生活みたいなことになった。その二人が高円寺のムーヴィンっていう喫茶店に行くと。そこで<ドント・ウォーリー・ベイビー>がかかったときに、論争にならなければそこで終わってるんだよ。論争したというのが一番のポイントだな。銀次が一人で行ったとかコマコが一人でとかだったらなんともなんなかったんじゃないの? で、このかかっている<ドント・ウォーリー・ベイビー>はビーチ・ボーイズか、ビーチ・ボーイズではないかというその論争で、ならばその盤を確かめようということでお店の人に見せてもらったら自主制作盤(『ADD SOME~』)だったと。そのアナログ盤があって。自主制作盤とは面白いと。それを銀次が持ち帰って、“てえへんだ、てえへんだ”ってことになって、早速聴いた。これはすごいと。それで、ちょうど9.21(“CITY -LAST TIME AROUND”)が控えてて。ココナツ・バンク(ごまのはえから改名)をメンバー・チェンジして銀次をヴォーカルにしてたんだが、ヴォーカルが一人ではちょっと寂しいと。そしたらコーラスいっぱいやってるし、この人たちがいたらヴォーカル面が分厚くなるだろうと。とにかくこのリーダーの人(山下)の歌と選曲のセンスの良さに惹かれて会ってみたいと思ったんですよ。だからこれは救世主現るってことですよ」<ref name="record_collectors_200601">{{Cite journal |和書 |author=湯浅学 |authorlink=湯浅学 |title=山下達郎 / 大滝詠一インタビュー |date=2006-01-01 |publisher=[[ミュージック・マガジン|株式会社ミュージック・マガジン]] |journal=[[レコード・コレクターズ]] |volume=25 |number=1 |pages=42-51 |ref= }}</ref>と語っている。}}。和田は、渋谷ヤマハで買い求めた『ADD SOME~』を、店でよくかけていたという。 * [[8月18日]]、山下、長門とともに福生の大滝宅を訪問。以後、大滝のレコード・コレクションを聴くため通い詰める。大滝、山下にはっぴいえんどラスト・ライヴでのコーラスを依頼する。 * [[8月23日]]、長門が故郷の長崎で友人たちと主催したイベント“大震祭Vol.4”にて、デビューコンサート(長崎NBCビデオ・ホール 共演:グッド・モーニング、ドゥーワー・ブラザース)<ref group="注" name="sugar_babe1">メンバー : 山下達郎(Vo、G)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Vo)、鰐川己久男(B、Cho)、野口明彦(Ds)</ref>。大貫がMCを担当した、最初で最後のステージ。 * [[8月26日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]」放送。番組中、大貫が知床で切り株に腰掛けて「光の中へ」(山下作)と「港の灯り」(小宮やすゆう作)、列車の中で番組のテーマ曲「[[遠くへ行きたい (曲)|遠くへ行きたい]]」を歌う。 * 9月、はっぴいえんどラスト・ライヴに向け、ココナツ・バンクと合同でリハーサルを行うためコーラス隊の山下、大貫、村松が数回、大滝宅を訪れる。音を出しながら曲の構成をまとめつつ、同時に山下がそれを横で聴きながらコーラスのアイデアを考えて、すぐにコーラスを試す。それを1曲ごとに行い、それらがある程度決まったらパーカッション部隊の鰐川・野口を呼んで、全員で仕上げのリハにとりかかるという段取りで進めることになった{{Refnest|group="注"|シュガー・ベイブのメンバーがはじめて福生の大滝宅に来た時のことを伊藤は「最初、シュガー・ベイブを僕たちはコーラス・グループだと思ったんです。それで来た時に、ビーチ・ボーイズばりのコーラスをやってくれることを期待してたんですね。そしたら達郎の例のポリシーが出てきてね、“僕たちはコーラス・グループじゃないんだ。僕たちにはちゃんとしたリズム隊もいるんだ”と。しかも“僕はビーチ・ボーイズをすごく愛してる。愛してるからいい加減な形でコーラスをやりたくないんだ。僕たちの今のヴォーカルでは出来ないから、僕たちの持ってるサウンドの中でやってくれ”って言っていたっていうのを思い出しますけどね」<ref name="music_steady_198308">{{Cite journal |和書 |author=伊藤銀次 |authorlink=伊藤銀次 |title=MUSICIAN FILE 伊藤銀次徹底研究“ファイル・インタビュー” |date=1983-08-20 |publisher=ステディ出版 |journal=ミュージック・ステディ |volume=3 |number=3 |pages=115-146 |ref= }}</ref>と語っている。}}。 * [[9月10日]]、新宿ラ・セーヌ(共演:ビートルズのコピーバンド)<ref group="注" name="19730910_setlist">曲目 : 1. Devil May Care([[:en:Joe South|Joe South]])、 2. [[アップ・オン・ザ・ルーフ|Up on the Roof]]([[キャロル・キング|Carole King]])、3. 港の灯り、4. 夏の終りに、5. 想い</ref>。 * [[9月11日]]、はっぴいえんどラスト・ライヴに向けた、ココナツ・バンクとの合同リハーサルのため、今度はメンバー全員で大滝宅を訪れる。リハーサルは以後数日行われる。 * [[9月21日]]、はっぴいえんどラスト・ライヴ“CITY-LAST TIME AROUND”にて大滝詠一、ココナツ・バンク、[[布谷文夫]]のコーラスに参加([[文京公会堂]])。後に『[[ライブ!! はっぴいえんど]]』<ref group="注">『[[ライブ!! はっぴいえんど]]』 1974年[[1月15日]]発売 BELLWOOD LP:OFL-20</ref>として発売。 * 10月、“三菱ラジオジーガム(日本語改作版)”レコーディング(HITスタジオ)<ref group="注" name="19731000_cm">メンバー:大滝詠一(Vo)、イーハトーブ田五三九(Dr)、南部半九郎(B)、多羅尾伴内(P)、シュガー・ベイブ(Cho)、村岡健(Sax)、Unkown(Tuba)、駒沢裕城(Steel G)</ref>。大滝のCMソングに、シュガー・ベイブがコーラスで初参加。 * [[11月9日]]、[[東洋大学]]“白山祭”。 * [[11月18日]]、[[跡見学園女子大学短期大学部|跡見女子短期大学]]学園祭。 * [[12月17日]]、“HELLO! WE'RE SUGAR BABE”(青山タワー・ホール 共演 : 小宮やすゆうとレッド・アイ・エキスプレス, 山本コウタローと少年探偵団, [[はちみつぱい]])<ref group="注" name="19731217_setlist">曲目:1. SHOW、2. それでいいさ、3. 想い、4. 夏の終りに、5. 時の始まり、6. 風の吹く日、7. 指切り、8. SUGAR、9. 港のあかり、10. [[カム・ゴー・ウィズ・ミー|Come Go with Me]]、11. Endless Night (Do You Wanna Dance)</ref>。ライブ中突然、山下がMCでこの年に発売された洋楽アルバムのベストテンとワーストテンを発表した。そのときの様子を、伊藤とともにライブを見ていた大滝曰く“8月に(福生に)来たにいちゃんがバンドで怪気炎上げてて”<ref name="talks_about_niagara">{{Cite journal |和書 |author=湯浅学 |authorlink=湯浅学 |title=1972~1974 |date=2011-4-1 |publisher=株式会社ミュージック・マガジン |journal=大滝詠一 Talks About Niagara |volume=30 |number=8 |id={{JAN|4910196380410}} |pages=6-25 |ref= }}</ref>。 * 数日後、はっぴいえんどが所属していたプロダクション“風都市”が長門に接触、バンドと一緒の入社を打診してくる。メンバーと相談した結果、長門は承諾の返事をする。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1974年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * [[1月1日]]、マネージャーの長門とともに、風都市に入社。これを機に、それまで練習スタジオ代わりに使用していた並木宅から、風都市が契約していた新宿のスタジオでリハーサルを行うようになる。 * [[1月16日]]、“三ツ矢サイダー'74”レコーディング(~17日 ポリドール・スタジオ)<ref group="注" name="19740116_cm">メンバー:大滝詠一(Vo)、[[林立夫]](Dr)、[[細野晴臣]](B)、伊藤銀次(G)、[[松任谷正隆]](Key)、シンガーズ・スリー & シュガー・ベイブ(Cho)、村岡健セクション(Horn)、Unknown(Fl))</ref>。 * [[1月24日]]、“三ツ矢サイダー'73 (Long Version)”レコーディング(ポリドール・スタジオ)<ref group="注" name="19740124_cm">メンバー:大滝詠一(Vo)、林立夫(Dr)、細野晴臣(B)、伊藤銀次(G)、松任谷正隆(Key)、シンガーズ・スリー & シュガー・ベイブ(Cho)、ブレッスン・フォー(Bass Voice)、村岡健セクション(Horn)、Unknown(Fl))</ref>。 * [[1月28日]]、“大滝詠一&鈴木茂コンサート”にゲスト出演([[仙台市公会堂]])。鈴木が風邪のため[[南佳孝]]が出演。 * [[2月15日]]、ファッションショーでの大貫のパフォーマンスに山下がバッキングで参加(有楽町・読売ホール)<ref group="注" name="19740215_setlist">曲目:1. 港のあかり, 2. 光の中へ</ref>。 * [[3月2日]]、[[ジァン・ジァン|渋谷・ジァン・ジァン]]“昼の部”に初出演。 * 3月、レコード会社へのプレゼン用デモ・テープ録りの話が具体化。4月の第1週に[[ニッポン放送]]銀河スタジオでの録音決定が、長門からメンバーに告げられる。 * [[4月3日]]、デモ・テープ録音([[ニッポン放送]]第一スタジオ)<ref group="注" name="19740403_lf_demo">曲目:夏の終りに、パレード、SHOW、指切り</ref>。 * 4月、プロモーション用のとアーティスト写真撮影(六本木~新宿)。デモ・テープとアーティスト写真をセットにすることでレコード会社へのプロモーション効果を高めようと考えていた風都市の意向で、プロのカメラマンを起用しての撮影となった。 * [[4月14日]]、新宿・サムライ。 * [[4月16日]]、大宮の女子高文化祭。 * [[4月18日]]、“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演:[[南正人]])。 * [[4月24日]]、デモ・テープ録音(ニッポン放送第一スタジオ)<ref group="注" name="19740403_lf_demo" />。 * [[4月28日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演:[[生田敬太郎]])。 * この頃、風都市を辞め、長門が友人たちと新しく設立した事務所“テイク・ワン”に移る。テイク・ワンはPAの会社と共同で笹塚のマンションに2LDKの部屋を借り、その所属アーティストの筆頭は[[山下洋輔|山下洋輔トリオ]]だったので、後にシュガー・ベイブの山下と合わせて“ダブル山下の事務所”と言われていた。テイク・ワンの真下の部屋はテイク・ワンと親しい関係の会社が借りていたが、そこには伊藤銀次が入り浸っていた。上下階での行き来も頻繁だったので、これが「DOWN TOWN」をはじめとする山下・伊藤の共作曲誕生のきっかけとなった。 * [[5月7日]]、山下、亀淵友香コンサートにコーラスで出演(青山・タワー・ホール)<ref group="注">メンバー:林立夫(Ds)、細野晴臣(B)、鈴木茂(G)、松任谷正隆・矢野誠・[[矢野顕子|鈴木顕子]](Key)</ref>。当初、コーラスで参加予定だったシンガーズ・スリーが直前で不参加となり、丁度遊びに来ていた大貫と村松をリハーサルなしで急遽ステージに上げ、なんとかこなした。この時客席で彼らを見ていた[[松任谷由実|荒井由実]]が後に、3人を自身のレコーディングに呼ぶ。 * [[5月8日]]、[[ラジオ関西]]公開録音。11日まで、初の大阪ツアー。 * [[5月9日]]、六番町コンサート(共演 : 布谷文夫&ココナツ・バンク、スターキング・デリシャス)。風都市マネージメントによる、最後のステージ。 * [[5月10日]]、大阪・DUKE。この日のライブ以降、テイク・ワンがマネージメントを手掛ける。 * [[5月11日]]、京都・拾得。山下は客からの「帰れ!」に落ち込んが、観に来ていた[[山岸潤史]]の「本当は外人の方がもっと怖い。外人はノッていたから心配あらへん」との言葉に慰められる。 * [[5月19日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演:神山慶子)。 * 5月中旬、高島屋ローズホール(共演:オイルフッド・ブラザース)。 * [[5月28日]]、新宿厚生年金会館。 * [[6月9日]]、“第13回A・ROCK祭”に出演([[日本青年館|日本青年館ホール]] 共演:[[ミッキー・カーチス]] & ポーカーフェイス他)。 * [[6月21日]]、“7TH ステッチ・コンサート イシバシ・オン・ザ・ロック”にゲスト出演(御茶ノ水・[[日仏会館]] 共演:スモーキー・メディスン、他アマチュア・バンド)。 * [[6月25日]]、“三愛バーゲンフェスティヴァル'74”レコーディング(アバコ・スタジオ)<ref group="注" name="19740625_cm">メンバー : 山下達郎(Vo、Key、Per、Cho)、村松邦男(G、Cho)、大貫妙子(Cho)、鰐川己久男(B)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd">『[[山下達郎CM全集 Vol.1 (Second Edition)]]』([[1996年]]6月発売 WILD HONEY RECORDS CD:WCD-8002)に収録。</ref>。山下にとって、初めて依頼されたCMソング。 * [[6月26日]]、“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演 : [[センチメンタル・シティ・ロマンス]])。この時から、2組の長い交流が始まる。 * 7月、“第11回三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音の通しリハーサル(文化放送のスタジオ)。 * [[7月11日]]、[[文化放送]]“第11回三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音に出演(有楽町・読売ホール 司会:[[小室等]] 出演:大滝詠一、布谷文夫、バック : [[上原裕]]、[[伊藤銀次]]、駒沢裕城、田中章弘、[[岡田徹]]、シンガーズ・スリー、稲垣次郎セクション、飛び入りゲスト:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]])<ref group="注" name="19740711_setlist">曲目 : 1. 外はいい天気だよ (Up-Tempo Version)、2. おもい (Ballade Version)、3. 朝寝坊 (New Orleans Version)、4. あつさのせい (Calypso Version)、5. Cider'73 (with 小室等)、6. びんぼう (Jailhouse Rock Version)(大滝詠一)、7. 深南部牛追唄~達者でな(布谷文夫、鈴木茂(G))、8. 冷たい女(布谷文夫)、9. SHOW、10. [[ダーリン (ザ・ビーチ・ボーイズの曲)|DARLIN']]、11. 指切り、12. 今日はなんだか(シュガー・ベイブ)、13. 海を渡る汽車ポッポ(恋の汽車ポッポ・第三部~STAY)、14. ウララカ (Java Version)、15. Cider'74(コーラス~ヴォーカル~ニューソウル~メレンゲ~ヴォーカル)、(アンコール): 空飛ぶくじら(大滝詠一)</ref>。録音はAM放送用モノラル音源のみ。 * [[7月19日]]、山下と大貫、沢チエ“CHIE-BEAT POPS IN SO・GETSU”にコーラスで参加(草月会館ホール 出演 : 沢チエ、[[下田逸郎]]、矢野誠、ココナツ・バンク、鈴木顕子)。 * [[7月20日]]、バンド・リハーサル(エレック・スタジオ)。 * [[7月23日]]、“三ツ矢フルーツソーダ'74”レコーディング(TSC(東京スタジオセンター))<ref group="注" name="19740723_cm">メンバー:山下達郎(Vo、Key、Per、Cho)、村松邦男(G、Cho)、伊藤銀次(B)、上原裕(Dr)、大貫妙子(Cho)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[7月28日]]、“7TH ステッチ・コンサート イシバシ・オン・ザ・ロック”にゲスト出演(日本青年館ホール 共演:エディ藩 & オリエント・エキスプレス、ミッキー・カーチス & ポーカーフェイス、VSOP、他アマチュア・バンド10組)。その後、荒井由実のレコーディングに参加。「[[12月の雨]]」と「[[瞳を閉じて]]」でコーラスを担当。この頃からレコーディングでのコーラスは、主に[[吉田美奈子]]を加えた4人編成になる。 * [[7月30日]]、山梨県清里のスケート場(共演:チャコとヘルス・エンジェル、フレンズ、アンデルセン)。 * [[8月5日]]、センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(名古屋雲龍ホール)。 * [[8月8日]]、郡山“[[ワンステップフェスティバル|ONESTEP FESTIVAL]]”に出演<ref group="注" name="sugar_babe1_2">メンバー:山下達郎(Vo、G、Key)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Cho)、鰐川己久男(B、Cho)、野口明彦(Ds)、サポート:木村真(Per)</ref>。 * [[8月24日]]、千葉・セントラル・プラザ7Fホール。 * 8月、山下・大貫・村松と吉田美奈子、[[ルネ・シマール]]日本公演のコーラス打ち合わせ(浜松町・[[アルファレコード]])。大阪1回、東京2回のレコード発売記念コンサートでのコーラスを、シュガー・ベイブの3人に吉田を加えた4人が依頼を受けた。これは、コーラスでレコーディングに参加した荒井由実の所属するアルファレコードから来た話だった。 * [[9月4日]]、山下・大貫・村松と吉田、ルネ・シマールのコンサートにコーラスで出演([[大阪厚生年金会館]])。 * [[9月6日]]、“不二家ハートチョコレート'74”レコーディング(赤坂ミュージック・スタジオ)<ref group="注" name="19740906_cm">メンバー:山下達郎(Vo、Key、Per、Cho)、村松邦男(G、Cho)、鰐川己久男(B)、上原裕(Dr)、大貫妙子(Cho)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[9月14日]]、山下・大貫・村松と吉田美奈子、ルネ・シマールのコンサートにコーラスで出演(~15日 [[渋谷公会堂]])。 * 9月、ルネ・シマールのコンサートの仕事の合間にテイク・ワンに、難航していたレコーディングの話が本決まりになったとの連絡が入る。レコード会社は[[エレックレコード (オリジナル)|エレック]]、時期は10月末、レーベルは大瀧詠一の主催する[[ナイアガラ・レーベル|ナイアガラ]]。 * 9月半ば、バンド、リハーサル(新宿・御苑スタジオ~エレック・スタジオ)。1か月半ほどの集中的なリハーサルの目的は、今までの曲のレパートリーのアレンジをレコーディング用に見直すことと、「DOWN TOWN」「過ぎ去りし日々」「風の世界」といった新曲の練習の二つ。10月末からのレコーディングまでの間、初めの1か月を新宿の御苑スタジオで、その後エレック社内のリハーサル室に移動して行われた。 * [[9月26日]]、“[[伊勢丹]]どんな顔するかな”レコーディング(モウリ・スタジオ)<ref group="注" name="19740926_cm">メンバー:大滝詠一(Vo)、林立夫(Dr)、細野晴臣(B)、鈴木茂(G)、松任谷正隆(Key)、山下達郎(Cho)、村松邦男(Cho)、吉田美奈子(Cho)、大貫妙子(Cho))</ref>。 * [[9月29日]]、横浜・グリーン・ピース。 * [[10月5日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : きりぎりす)。 * [[10月7日]]、“[[資生堂]]バスボン'74”レコーディング(TSC)<ref group="注" name="19741007_cm">メンバー:山下達郎(Vo、Key、Vib、Per、Cho)、伊藤銀次(G)、[[岡田徹]](P)、上原裕(Dr)</ref><ref group="注" name="cm2">『[[山下達郎CM全集 Vol.2]]』([[2001年]]2月発売 WILD HONEY RECORDS CD:WCD-8003)に収録。</ref>。 * [[10月9日]]、山下、大滝と[[ザ・キングトーンズ]]のライヴを見に行く(新宿ルイード)。 * [[10月13日]]、“HOBO'Sコンサート”に出演(池袋シアター・グリーン)。 * [[10月25日]]、[[高千穂商科大学]]文化祭。 * [[10月28日]]、アルバム・レコーディング開始(~[[12月26日]] エレック・スタジオ)。楽器のセッティング~音決め、「SHOW」レコーディング。 * [[10月29日]]、「DOWN TOWN」レコーディング(エレック・スタジオ)。以後、数曲のヴォーカル、ダビングは工事中の福生45スタジオで行う。 * [[11月3日]]、[[城西大学]]体育館“コマ祭”シェイキー・フラット・コンサート(共演:[[内田裕也]] & 1815R&Rバンド、[[クリエイション (バンド)|クリエーション]]、イエロー、ヘルハウス、ミルキーウェイ他)。 * [[11月6日]]、“らんまんコンサートVol.4 〜小坂忠・細野晴臣 再会…そして出発〜”にコーラスで出演(新宿厚生年金小ホール 共演:小坂忠、[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]、細野晴臣、林立夫、松任谷正隆、矢野誠、伊藤銀次、吉田美奈子)<ref group="注" name="sugar_babe1_2" /><ref group="注" name="19741106_setlist">曲目:1. SHOW、2. OVERTURE~風の世界、3. DOWN TOWN、4. 今日はなんだか</ref>。 * [[11月10日]]、[[金沢学院短期大学|金沢女子短期大学]]文化祭(共演:浅野由彦)。 * [[11月15日]]、センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(名古屋雲龍ホール)。 * [[11月23日]]、“ティン・パン・アレイ・セッション”(~24日 荻窪ロフト 共演:細野晴臣, 林立夫, 伊藤銀次, 矢野誠, はちみつぱい, 上原裕)。 * [[11月24日]]、横浜・グリーン・ピース。伊藤銀次、矢野誠等と布谷文夫のバックを担当。 * [[12月6日]]、荻窪ロフト(共演:吉田美奈子)。 * [[12月11日]]、渋谷ヤマハ店頭。 * [[12月8日]]、“ホーボーズ・コンサート”に出演(池袋シアター・グリーン 共演:[[久保田麻琴|久保田麻琴と夕焼け楽団]])。 * [[12月25日]]、山下と大貫、“荒井由実クリスマス・コンサート”にアンコールでゲスト出演、コーラスを担当する。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1975年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * [[1月14日]]、“SKYHILLS PARTY Vol.1”に出演(横浜市民ホール 共演:荒井由実 & ダディー・オー、吉田美奈子)<ref group="注">曲目:1. SHOW、2. DOWN TOWN、3. いつも通り、4. ためいきばかり、5. 雨は手のひらにいっぱい、6. SUGAR、7. 風の世界、8. 今日はなんだか、9. YUMIN'</ref>。 * [[1月15日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。 * [[1月24日]]、“シュガー・ベイブ セカンド・コンサート”(新宿厚生年金会館小ホール ゲスト&司会:細野晴臣、[[鈴木慶一]] 特別ゲスト:大滝詠一 ダンサー:荒井由実 & 横浜CLUB 162)<ref group="注" name="sugar_babe1_2" /><ref group="注" name="19750124_setlist">曲目:1. からっぽの椅子、2. 蜃気楼の街、3. 過ぎ去りし日々“60's Dream”、4. 約束、5. SHOW、6. DOWN TOWN、7. いつも通り、8. 雨は夜更け過ぎ、9. 雨は手のひらにいっぱい、10. ためいきばかり、11. SURFER GIRL~三ツ矢フルーツソーダ、12. YOUR SUMMER DREAM、13. SURFIN' USA、13. YUMIN'、14. 風の世界、15. SUGAR、16.今日はなんだか、(アンコール):パレード~SUGAR</ref>。 * [[2月2日]]、山下、大滝・吉田美奈子・[[伊集加代|伊集加代子]]と共に[[かまやつひろし]]「お先にどうぞ」(作詞・作曲・編曲 : 大瀧)レコーディングにコーラスで参加(東芝EMIスタジオ)。 * [[2月22日]]、荻窪ロフト(共演:センチメンタル・シティ・ロマンス)。 * [[2月23日]]、渋谷・ジァン・ジァン(共演:[[中山ラビ]])。 * [[3月7日]]、アルバム『SONGS』完成。 * 3月、野口に代わって当時、[[ハイ・ファイ・セット]]のバッキング・メンバーだった上原裕(Ds)が参加。更に上原の意向で伊藤銀次(G)が加入{{Refnest|group="注"|メンバー・チェンジの経緯について後年、山下は「僕と銀次の関係っていうのは、言われてるほど音楽的に深いものではなくて、銀次にとってのシュガー・ベイブっていうのは非常に一時期の在籍であったわけで、今だから言うけど、僕は本当はユカリ(上原)が欲しかったのね。ところがユカリってのは非常にネコみたいな人でね。なかなか行動を起こさない。その時、銀次はユカリと一番、人間的に深かったから、銀次込みで引っ張り込んじゃったわけ。戦略的に。結局、ツーギターいらなくて、銀次は居場所がなくなってやめちゃったんだけど、そういうわけで、彼には悪いことをしたと思ってるんだけど」<ref name="music_steady_198308" />と話している。}}。 * 3月、鰐川に代わって当時、上原・伊藤と共にハイ・ファイ・セットのバッキング・メンバーだった[[寺尾次郎]](B)が参加。鰐川は去年の秋頃からレコーディング終了後にバンドを辞めようと考えていた。そのため、正月明けから後任のベーシスト探しがメンバーやスタッフによって始められたが、なかなかこれといったメンバーが見つからなかった。そんな折、2月に上原から「シュガー・ベイブに入れへんか」と勧誘を受けた寺尾が、メンバーになりたいと自らテイク・ワンに電話をかけてきた<ref name="talks_about_niagara_complete_edition">{{Cite journal |和書 |author=萩原健太 |authorlink=萩原健太 |title=ナイアガラ・トライアングル VOL2 |date=2014-4-1 |publisher=株式会社ミュージック・マガジン |journal=大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition |volume=33 |number=7 |id={{JAN|4910196380441}} |pages=292-323 |ref= }}</ref>。元々、寺尾はシュガー・ベイブのファンで、事務所に何度もコンサート予約の電話をかけていたことから、スタッフとは懇意になっていた。 * 3月、マネージャーが長門から柏原卓に交代する。 * [[3月22日]] 荻窪ロフト(共演 : [[愛奴]])。 * [[3月29日]]、“ベイ・エリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(文京公会堂 出演:ティン・パン・アレー、大滝詠一、ココナツ・バンク(伊藤銀次、上原裕、藤本雄志)、[[ハックルバック|鈴木茂バンド]](鈴木茂、佐藤博、林敏明、田中章弘、小坂忠、吉田美奈子)<ref group="注" name="sugar_babe2">メンバー:山下達郎(Vo、G)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Vo)、伊藤銀次(G)、寺尾次郎(B)、上原裕(Ds)</ref><ref group="注" name="19750329_setlist">曲目:1. ココナツ・ホリデイ、2. DOWN TOWN、3. 雨は手のひらにいっぱい、4. ためいきばかり、5. 風の世界、6. 約束、7. YUMIN'、8. 今日はなんたか</ref>。 * [[3月30日]]、千葉ヤマハ。 * [[4月4日]]、“ベイエリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(大阪サンケイ・ホール)<ref group="注" name="19750404_setlist">曲目:1. ココナツホリデー、2. DOWN TOWN、3. ためいきばかり、4. 風の世界、5. 約束、6. こぬか雨、7. YUMIN'、8. 今日はなんだか、9. エンディングテーマ</ref>。 * [[4月5日]]、“ベイエリア・コンサート スーパーロックジェネレーション”に出演(名古屋市公会堂)<ref group="注" name="19750405_setlist">曲目:1. ココナツホリデー、2. DOWN TOWN、3. ためいきばかり、4. 風の世界、5. 約束、6. こぬか雨、7. YUMIN'、8. 今日はなんだか</ref>。 * [[4月20日]]、“ブルース・パワー・スプリング・カーニバル・イン日比谷”に出演([[日比谷野外音楽堂]] 共演:[[ウエスト・ロード・ブルース・バンド]]、鈴木茂バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、ウィーピング・ハープ・セノオ & ヒズ・ローラーコースター)。この日のライブ写真が翌週の雑誌『[[週刊プレイボーイ]]』に掲載される。 * [[4月25日]]、アルバム『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』とシングル「[[DOWN TOWN]]」を同時発表。以降、「雨は手のひらにいっぱい」ようなメロディアスな曲から「WINDY LADY」のような16ビートの楽曲へと、次第に山下の作風に変化が生じる{{Refnest|group="注"|その理由を山下は「謂れない罵声や批判を浴びながらやってる期間が長かったからね。アルバムを出した後も、けっこう野音とか地方のイベントとかで、そういう思いしたし、そういうのに半分精神的に負けそうになってやってたからね。ほんとは<雨は手のひらにいっぱい>みたいな曲をずっとやれればよかったんだけど、それが辛くなったんで。結局、そういうイベントの時に少なくとも野次られないようにはしようと。それで<WINDY LADY>とかああいう方向になっていくんですよね。転向というか修正させられるというか、そういう時期がアルバムを出してメンバー・チェンジの後、75~76年にかけて」<ref name="record_collectors_200601" />と語っている。}}。 * [[4月26日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。 * [[5月4日]]、山下、アルバム『[[NIAGARA MOON]]』を明け方にミックス・ダウン中の大瀧に“滝の音がないとだめだよ”と助言。明日搬入予定にも拘らず[[白糸の滝 (長野県)|白糸の滝]]に行って滝の音を録って夜、戻ってくる。夜中じゅう山下の録音してきた滝の音がミックスされた後にマスタリング、翌5日に搬入された(六本木CBS・ソニースタジオ)。 * [[5月8日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[5月9日]]、“資生堂店頭BGM'75「南の島」”レコーディング([[音響ハウス]])<ref group="注" name="19750509_cm">メンバー:山下達郎(Vo、G Solo、Key、Cho)、村松邦男(G、Cho)、伊藤銀次(G、Cho)、寺尾次郎(B)、上原裕(Dr)、大貫妙子(Cho)、岡崎資夫(Alto Sax)、[[稲垣次郎]]・荒川達彦(Tenor Sax)</ref><ref group="注" name="cm2" />。 * [[5月10日]]、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング 1日目(六本木CBS・ソニースタジオ)。 * [[5月11日]]、バンド・リハーサル(エレック・スタジオ)。その後、静岡放送の取材。 * [[5月13日]]、服飾メーカーのCMレコーディング(音響ハウス)。 * [[5月14日]]、バンド・リハーサル(~15日 渋谷ヤマハ)。 * [[5月16日]]、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング 2日目(六本木CBS・ソニースタジオ)。 * [[5月17日]]、バンド・リハーサル(~18日 [[福生45スタジオ]])。 * [[5月19日]]、家電メーカーのCMデモ・レコーディング(音響ハウス)。その後、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[5月20日]]、バンド・リハーサル(渋谷ヤマハ)。 * [[5月21日]]、FM東京“週刊FM サウンドスペシャル”に出演(目黒・パイオニア・スタジオ)<ref group="注" name="19750521_setlist">曲目:1. SHOW、2. DOWN TOWN、3. 風の世界、4. こぬか雨、5. YUMIN'、6. ココナツホリデー</ref>。 * [[5月23日]]、バンド・リハーサル(四谷スタジオ)。その後、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング。この日予定されていた19日録音のCMデモの本録りはキャンセルになった。 * [[5月24日]]、“ティン・パン・アレイ・フェスティバル”に出演(中野サンプラザ 出演:鈴木茂バンド、小坂忠 + ティン・パン・アレー、細野晴臣 + セッション・バンド、大滝詠一 + セッション・バンド、バンブー、[[ブレッド&バター]]、トランザム + [[クニ河内]]、シュガー・ベイブ)<ref group="注" name="19750524_setlist">曲目:1. DOWN TOWN、2. こぬか雨、3. 風の世界、4. いつも通り、5. YUMIN'、6. 今日はなんだか、7. 外はいい天気、8. 三文ソング、9. FUSSA STRUT、10. 水彩画の町、11. 乱れ髪、12. ナイアガラ・ムーンがまた輝けば、13. お先にどうぞ、14. HAND CLAPPING RHUMBA~ドレッサー、15. ロックン・ロール・マーチ、16. 恋はメレンゲ(1–6:シュガー・ベイブ、7–16:大滝詠一 + シュガー・ベイブ)</ref>。その後、山下・大貫・村松、コーラス・レコーディング(溜池・クラウン・レコーディング・スタジオ)。 * 6月、「DOWN TOWN」のラジオ・スポットCMのオンエアが始まる。 * [[6月1日]]、山下・大貫・村松、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]幼児向け番組のコーラス・レコーディング。その後、アーティスト写真の打ち合わせ。福生での撮影が決まる。 * [[6月2日]]、アーティスト写真撮影および、バンド・リハーサル(~5日 福生45スタジオ)。 * [[6月6日]]、自動車メーカーのCMソング・レコーディング(新橋・飛行館スタジオ)。 * [[6月11日]]、バンド・リハーサル(~13日 福生45スタジオ)。 * [[6月14日]]、バンド・リハーサル(チョコレートスタジオ)。 * [[6月15日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。この日を最後に伊藤がバンドを離籍。 * [[6月16日]]、製菓メーカーのCMソング・コーラス・レコーディング(アオイスタジオ)。 * [[6月18日]]、バンド・リハーサル(~20日 福生45スタジオ)。 * [[6月20日]]、“いちじく浣腸'75”レコーディング(音響ハウス)<ref group="注" name="19750620_cm">メンバー : 山下達郎(Vo、Key、Per、Cho)、上原裕(Per)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[6月22日]]、バンド・リハーサル(~23日 福生45スタジオ)。 * [[6月24日]]、“SKYHILLS PARTY Vol.2”に出演(横浜教育会館 共演:センチメンタル・シティ・ロマンス、鈴木茂 & ハックルバック)<ref group="注" name="sugar_babe3_1">メンバー:山下達郎(Vo、G)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Vo)、寺尾次郎(B)、上原裕(Ds)</ref>。 * [[6月25日]]、製菓メーカー、自動車メーカー、別の製菓メーカーのCMソング・レコーディング(KRCスタジオ, アオイスタジオ, 音響ハウス)。 * [[6月28日]]、センチメンタル・シティ・ロマンスの月例コンサートにゲスト出演(~29日 名古屋雲龍ホール)。 * 7月、マネージャー[[牧村憲一]]立会いのもと、ナイアガラ・レーベルとのレコーディング契約を破棄。ただしコンサート等のバッキングは継続することで合意。 * 7月、[[黒木真由美]]、アルバム:『12のらくがき』発売。山下作曲・編曲「恋人と呼ばれて」「北極回り」収録<ref group="注">メンバー:上原裕(Dr)、寺尾次郎(B)、松村邦男(E.G)、吉川忠英(A.G)、鈴木顕子(Key)、Unknown(Per)、シュガー・ベイブ(Cho)</ref>。 * [[7月3日]]、バンド・リハーサル(~5日 福生45スタジオ)。 * [[7月6日]]、“[[ヤマハポピュラーソングコンテスト|うたのおーどぶる 第10回ポピュラー・ソング・コンテスト横浜大会]]”にゲスト出演(横浜市民ホール)。 * [[7月8日]]、アーティスト写真撮影(福生45スタジオ)。 * [[7月9日]]、バンド・リハーサル(高円寺・Sit-Inスタジオ)。 * [[7月11日]]、バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。 * [[7月12日]]、高円寺・次郎吉。 * [[7月13日]]、[[テレビ神奈川|TVK]]“[[ヤング・インパルス]]”公開放送に出演(共演 : [[愛奴]])<ref group="注" name="19750713_setlist">曲目:1. 雨は手のひらにいっぱい、2. いつも通り、3. 今日はなんだか</ref>。 * [[7月15日]]、家電メーカーのCMソング・レコーディング(音響ハウス)。 * [[7月16日]]、文化放送“ハロー・パーティー”公開録音(文化放送内スタジオ)<ref group="注" name="19750716_setlist">曲目:1. パレード、2. DOWN TOWN、3. 今日はなんだか</ref>。 * [[7月18日]]、バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。 * [[7月19日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”(共演 : 音つばめ)<ref group="注" name="19750719_setlist">曲目:1. パレード、2. DOWN TOWN、3. OVERTURE~風の世界、4. いつも通り、5. うたたね、6. 雨は手のひらにいっぱい、7. 約束、8. WINDY LADY、9. YUMIN'、10. 愛は幻、11. 今日はなんだか、(アンコール): 1. SUGAR、2. こぬか雨</ref>。 * [[7月20日]]、荻窪ロフト(共演 : 愛奴)。初めて満員になる。 * [[7月23日]]、バンド・リハーサル(~25日 新宿・御苑スタジオ)。 * [[7月26日]]、“サマー・ロック・カーニバル”に出演(日比谷野外音楽堂 共演:鈴木茂&ハックルバック、[[頭脳警察]]、愛奴、[[上田正樹|上田正樹 & サウス・トゥ・サウス]]、[[サンハウス]])<ref group="注" name="19750726_setlist">曲目:1. DOWN TOWN、2. いつも通り、3. うたたね、4. 風の世界、5. YUMIN'、6. SUGAR、7. 愛は幻、8. 今日はなんだか</ref>。 * [[8月2日]]、バンド・リハーサル(福生45スタジオ)。 * [[8月5日]]、バンド・リハーサル(~6日 新宿・御苑スタジオ)。 * [[8月7日]]、九頭竜フェスティバルのリハーサルがこの日の午後行われるため早朝5時、笹塚の事務所テイク・ワンに集合、6時出発。北陸ツアー開始(~18日)。 * [[8月8日]]、“福井・九頭竜フェスティバル”に出演(~9日)。 * [[8月10日]]、“金沢・百万石夏祭”に出演。 * [[8月11日]]、バンド・リハーサル(金沢VanVanスタジオ)。「WINDY LADY」と「愛は幻」の2曲を集中的に練習する。 * [[8月13日]]、バンド・リハーサル(~16日 金沢VanVanスタジオ)。山下が体調不良のため欠席、4人で行う。 * [[8月17日]]、“金沢・卯辰山フェスティバル”に出演(共演:ジプシ・グッピー、バッド・ボーイズ、上田正樹 & サウス・トゥ・サウス、[[めんたんぴん]]、[[カルメン・マキ]] & OZ、[[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]])。 * [[8月18日]]、富岡市民会館(共演:めんたんぴん)。 * [[8月21日]]、山下、センチメンタル・シティ・ロマンスのレコード発売記念コンサートにゲスト出演(御茶ノ水・日仏会館)。彼らの演奏をバックにハンド・マイクで「DOWN TOWN」を歌う。 * [[8月26日]]、新宿の喫茶店「嵐山」にて取材。 * [[8月29日]]、村松、CMレコーディング(世田谷・KRCスタジオ)。 * [[9月1日]]、デモ・レコーディング(渋谷・アダンスタジオ)。 * [[9月3日]]、コーラス・レコーディング(音響ハウス)。その後、酒造メーカーのCMレコーディング(アバコ・スタジオ)。 * [[9月4日]]、バンド・リハーサル(渋谷・アダンスタジオ)。 * [[9月5日]]、コーラス・レコーディング(モウリスタジオ)。 * [[9月7日]]、“うたのおーどぶる 第10回ポピュラーソングコンテスト北海道大会”にゲスト出演(札幌厚生年金会館)。 * [[9月8日]]、“ラグノオ シュガーレス・ケーキ'75”レコーディング(アオイスタジオ)<ref group="注" name="19750908_cm">メンバー:山下達郎(G、Cho)、村松邦男(G、Cho)、大貫妙子(Key、Cho、"I LOVE YOU")、寺尾次郎(B)、上原裕(Dr)</ref><ref group="注" name="cm2" />。 * [[9月10日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[9月11日]]、バンド・リハーサル(サイコスタジオ)。その後、女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。 * [[9月12日]]、めんたんぴんのコンサート“MENTANPIN IN TOKYO”にゲスト出演(中野公会堂)。 * [[9月13日]]、[[神奈川大学]]学園祭(神奈川大学大講堂 共演:めんたんぴん)。 * [[9月15日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[9月18日]]、自動車メーカーのCMレコーディング(~19日 音響ハウス)。 * [[9月23日]]、女性歌手のコーラス・レコーディング(アルファ・スタジオ)。 * [[9月26日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[9月27日]]、“ニューミュージック・コンサート”(芝・増上寺ホール 共演 : 久保田麻琴と夕焼け楽団、鈴木茂 & ハックルバック)<ref group="注" name="19750927_setlist">曲目:1. WINDY LADY、2. YUMIN'、3. いつも通り、4. 雨は手のひらにいっぱい、5. SUGAR、6. 愛は幻、7. DOWN TOWN</ref>。 * [[9月29日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第16回“NIAGARA SPECIAL 1”に伊藤銀次とゲスト出演。 * [[9月30日]]、電話リクエストの番組テーマソング、ジングル・レコーディング(音響ハウス)。 * [[10月1日]]、村松、大滝詠一のバックバンド・リハーサル。 * [[10月2日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。その後、村松、大滝詠一のバックバンド・リハーサル。 * [[10月3日]]、山下と大貫、[[ハイ・ファイ・セット]]とともに吉田美奈子のコンサートにコーラスでゲスト出演(中野サンプラザ)。後に『MINAKO II Live at Sun Plaza Hall October 3, 1975』として発売<ref group="注">吉田美奈子『MINAKO II Live at Sun Plaza Hall October 3, 1975』 1975年[[12月20日]]発売 RCA/RVC LP:RVH-8006</ref>。村松・寺尾・上原、文化放送“三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音にゲスト出演する大滝のバックで参加(新宿厚生年金会館)。 * [[10月4日]]、“ニッポン放送ハンドメイド・スペシャル”公開録音(渋谷・エピキュラスホール 共演: 荒井由実 & コズミックララバイ)<ref group="注" name="19751004_setlist">曲目:1. WINDY LADY、2. SUGAR、3. 愛は幻、4. DOWN TOWN、5. 少しだけ片思い(Vo:荒井由実)</ref>。 * [[10月6日]]、荻窪ロフト。山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第17回“NIAGARA SPECIAL 2”に伊藤銀次とゲスト出演。THE BEACH BOYS「[[ダーリン (ザ・ビーチ・ボーイズの曲)|DARLIN']]」のカヴァーをオン・エア。終了後、新会社を設立し新たに[[日本コロムビア|コロムビア]]と契約する大滝から、その第一弾として1973年からここまでの三人の活動を記録しておきたいという“トライアングル企画”が山下・伊藤の二人に提案される。 * [[10月9日]]、バンド・リハーサル(~11日 新宿・御苑スタジオ)。 * [[10月12日]]、“第10回ポピュラー・ソング・コンテスト名古屋大会”にゲスト出演(四日市市内の会場)。コンサート後、山下、四日市のレコード店「ワンワン」でのアマチュア・コンサートにゲスト出演。アマチュア・バンドの演奏をバックに「DOWN TOWN」を歌う。 * [[10月16日]]、バンド・リハーサル(渋谷ヤマハ)。 * [[10月17日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[10月18日]]、荻窪ロフト。 * [[10月19日]]、渋谷ヤマハ店頭。当時大学1年だった[[竹内まりや]]が、友人らと黒山の人だかりの中でシュガー・ベイブの演奏を聴く。 * [[10月27日]]、村松・寺尾・大貫、[[筒井康隆]]・[[山下洋輔]]『家』レコーディングに参加(六本木・フォノグラムスタジオ)。 * [[10月29日]]、バンド・リハーサル(~30日 渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[10月31日]]、石橋楽器“ステッチコンテスト・グランプリ”にゲスト出演(御茶ノ水・日仏会館)。 * [[11月3日]]、郡山・日大学園祭。 * [[11月7日]]、山下、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』レコーディング開始(~11日 福生45スタジオ, 赤坂コロムビアスタジオ)。 * [[11月12日]]、アバコ・スタジオ。その後、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[11月13日]]、バンド・リハーサル(~14日 福生45スタジオ)。 * [[11月15日]]、“TWILIGHT TIME CONCERT”(青山・VAN99ホール)<ref group="注" name="19751115_setlist">曲目:1. こぬか雨、2. 雨は手のひらにいっぱい、3. いつも通り、4. 指切り、5. 風の世界、6. 約束、7. うたたね、8. YUMIN'、9. WINDY LADY、10. SUGAR、11. すてきなメロディー、12. 愛は幻、13. 今日はなんだか、14. DOWN TOWN</ref>。 * [[11月16日]]、下北沢・マライカ(昼)。その後、“ハックルバックさよならコンサート”にゲスト出演の大滝のバックで参加(新宿厚生年金会館小ホール 出演:鈴木茂 & ハックルバック、大滝詠一、トーマス・レディング)。 * [[11月19日]]、“ナショナルまきまきカール'75”レコーディング(アルファ・スタジオ)<ref group="注" name="19751119_cm">メンバー:山下達郎(Vo、Key、Harp、Per、Cho)、村松邦男(G、Cho)、寺尾次郎(B)、上原裕(Dr)、大貫妙子(Cho)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[11月20日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[11月22日]]、渋谷・ジァン・ジァン“昼の部”。その後、“大滝詠一 Live In 荻窪ロフト”にバックで参加(ゲスト:吉田美奈子(Cho)、稲垣次郎(Sax) 臨時参加:矢野顕子(P))。 * [[11月23日]]、荻窪ロフト(共演:フライング・グライダース)。 * [[11月24日]]、[[明治大学]]学園祭。 * [[11月25日]]、“資生堂MG5'76”レコーディング(音響ハウス)<ref group="注" name="19751125_cm">メンバー:山下達郎(Vo、G、Per、Cho)、村松邦男(G、Cho)、[[坂本龍一]](key)、寺尾次郎(B)、上原裕(Dr)、大貫妙子(Cho)</ref><ref group="注" name="cm2" />。 * [[11月28日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[11月29日]]、駒場・東京大学農学部学園祭(共演:めんたんぴん、[[金子マリ]]、[[中山ラビ]])。 * [[11月30日]]、高円寺・次郎吉。 * [[12月13日]]、バンド・リハーサル(渋谷・エピキュラススタジオ)。 * [[12月14日]]、名古屋ヤマハ店頭。 * [[12月15日]]、大滝のリハーサル(赤坂コロムビアスタジオ)。 * [[12月16日]]、“SKYHILLS PARTY Vol.3 –細野晴臣・大滝詠一 TROPICAL MOON–”に大滝のバックバンドで出演(横浜市民ホール 出演 : 細野晴臣, 大滝詠一, 南佳孝)<ref group="注" name="19751216_setlist">曲目:1. NIAGARA MOON~三文ソング、2. 論寒牛男、3. ロックン・ロール・マーチ~いかすぜ! この恋、4. お先にどうぞ、5. あの娘にご用心、6. 朝寝坊、7. おもい、8. 外はいい天気、9. シャックリ・ママさん、10. 楽しい夜更し、11. HAND CLAPPING RHUMBA~ドレッサー(Vo:山下)、12. 恋はメレンゲ、13. ナイアガラ・ムーンがまた輝けば、(アンコール): 1. CIDER'73,'74,'75, 2.びんぼう(大滝詠一 + シュガー・ベイブ)</ref>。 * [[12月17日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[12月22日]]、バンド・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。 * [[12月23日]]、“シュガー・ベイブ クリスマス・コンサート”(新宿厚生年金会館小ホール ゲスト:センチメンタル・シティ・ロマンス、坂本龍一(Key)、大滝(Vo、2回目のアンコールのみ)、伊藤(G、2回目のアンコールのみ)<ref group="注" name="19751223_setlist">曲目:(第1部)1. SHOW、2. DOWN TOWN、3. 雨は手のひらにいっぱい、4. 約束(大貫ソロ、Key:坂本)、5. 愛忘れて(大貫ソロ、Key:坂本)※未発表曲、6. からっぽの椅子(大貫ソロ、Key:坂本)、7. LAST STEP、8. [[:en:Once Upon a Dream (album)|DAVE & EDDIE / MY HAWAII]]([[ラスカルズ]])、(センチメンタル・シティ・ロマンス)9. U.S.A タイムマシーン、10. おかめとひょっとこ、(第2部)11. こぬか雨、12. 指切り、13. ためいきばかり、14. 風の世界、15. いつも通り、16. WINDY LADY、17.愛は幻、18. 今日はなんだか、19. 過ぎ去りし日々、20. SUGAR、(1回目のアンコール)1. パレード、(2回目のアンコール)1. ROCK'N ROLL MARCH~いかすぜ!この恋、(3回目のアンコール)1. DOWN TOWN</ref><ref group="注" name="sugar_babe3_2">メンバー:山下達郎(Vo、G、Key)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Vo)、寺尾次郎(B)、上原裕(Ds)、サポート:告井延隆 from S.C.R.(Per)</ref>。 * [[12月28日]]、バンド・リハーサル(アダンスタジオ)。 * [[12月29日]]、女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。 * [[12月31日]]、“グッバイ・コンサート 第2部:カモン・ロマンス・ベイビー”(オールナイト)に出演(名古屋雲龍ホール 共演:センチメンタル・シティ・ロマンス、デキシー・ダウン、尾関ブラザーズ、愛奴)。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1976年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * 1月、新年のミーティングの席上「ユカリ(上原)が辞める。代わりのドラマーがいない」<ref name="net_sprout_music_6-1">[http://www.net-sprout.com/ Net-Sprout Music!]あるバンドの物語 第6章 第1話</ref>との理由でバンドの解散が、山下から大貫・村松・寺尾(上原は欠席)に伝えられる(新宿の喫茶店)。 * [[1月6日]]、女性歌手のコーラス・レコーディング(キング・スタジオ)。 * [[1月8日]]、“[[山下達郎のオールナイトニッポン]]”スタート(~[[9月28日]])。 * [[1月18日]]、“下北沢から51年”に出演(玉川区民会館 共演:センチメンタル・シティ・ロマンス、めんたんぴん、ハート・オブ・サタディ・ナイト(元 神無月)、ストロベリージャム他)。 * [[1月24日]]、下北沢ロフト。 * [[1月28日]]、“細野晴臣・大滝詠一 TROPICAL MOON”([[電力ビル#電力ホール|仙台電力ホール]] 出演 : 細野晴臣, 大滝詠一)。当初は大滝のバックバンドのみでの参加予定だったが、ゲストの鈴木茂が風邪で欠席のためシュガー・ベイブが急遽出演<ref group="注" name="19760128_setlist">曲目:1. WINDY LADY、2. DOWN TOWN、3. 愛は幻、4. 今日はなんだか</ref>。 * [[1月29日]]、“三ツ矢サイダー'76”レコーディング 1日目(赤坂ミュージック・スタジオ)<ref group="注" name="19760129_cm">メンバー:山下達郎(Vo、Cho、Per)</ref><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[1月31日]]、“大滝詠一コンサート”に大滝のバックで参加(~[[2月1日]] 各2回公演 神戸サンダー・ハウス)<ref group="注" name="19760131_setlist">曲目(1月31日):1. こぬか雨、2. DOWN TOWN、3. いつも通り、4. 風の世界、5. WINDY LADY、6. 愛は幻、7. 今日はなんだか、8. SUGAR、(シュガー・ベイブ)1. 論寒牛男、2. ロックン・ロール・マーチ~いかすぜ! この恋、3. お先にどうぞ、4. あの娘にご用心、5. 朝寝坊、6. おもい、7. 外はいい天気、8. シャックリ・ママさん、9. 楽しい夜更し、10. HAND CLAPPING RHUMBA、11. 恋はメレンゲ、(アンコール)1. CIDER'73,'74,'75(大滝詠一 + シュガー・ベイブ)</ref>。 * [[2月14日]]、下北沢ロフト。 * [[2月16日]]、山下、大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ 第36回“NIAGARA TRIANGLE”に伊藤銀次とゲスト出演。 * [[2月19日]]、山下達郎のオールナイトニッポン 第7回“ナイアガラ・トライアングル特集”放送(ゲスト:大滝詠一、伊藤銀次)<ref group="注" name="19760219_onairlist">1. ドリーミング・デイ / 山下達郎、2. パレード / 山下達郎、3. 遅すぎた別れ / 伊藤銀次、4. 日射病 / 伊藤銀次、5. ココナツ・ホリデイ'76 / 伊藤銀次、6. 幸せにさよなら / 伊藤銀次、7. 幸せにさよなら / ナイアガラ・トライアングル、8. 新無頼横町 / 伊藤銀次、9. フライング・キッド / 山下達郎、10. FUSSA STRUT Part-1 / 大滝詠一、11. 夜明け前の浜辺 / 大滝詠一、12. ナイアガラ音頭 / 大滝詠一、13. Little Deuce Coupe / The Beach Boys</ref>。 * [[2月24日]]、“第2回音協スターライズ・コンサート”(都市センターホール 共演 : センチメンタル・シティ・ロマンス)<ref group="注" name="19760224_setlist">曲目:1. パレード、2. DOWN TOWN、3. 雨は手のひらにいっぱい、4. いつも通り、5. SUGAR、6. WINDY LADY、7. 愛は幻、8. 今日はなんだか</ref>。山下、解散を発表。 * [[2月27日]]、“三ツ矢サイダー'76”レコーディング 2日目(赤坂ミュージック・スタジオ)<ref group="注" name="19760129_cm" /><ref group="注" name="cm1_2nd" />。 * [[3月4日]]、山下、吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲスト出演([[紀伊國屋ホール|新宿紀伊国屋ホール]])。 * [[3月5日]]、大貫、吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲスト出演(新宿紀伊国屋ホール)。山下が大貫のバッキングで参加。 * [[3月7日]]、吉田美奈子“MINAKO'S WEEK”にゲストの大滝とともに山下が飛び入り出演(新宿紀伊国屋ホール)。ミナコ・バンドは“FLYING KID SCREW”と名付けられる。 * [[3月13日]]、山下、“ニッポン放送ハンドメイド・スペシャル”に出演(渋谷・エピキュラスホール 出演:南佳孝、山下達郎、吉田美奈子、大滝詠一)<ref group="注" name="sugar_babe3_3">メンバー:山下達郎(Vo、G、Key)、大貫妙子(Cho)、村松邦男(G、Cho)、寺尾次郎(B)、上原裕(Ds)、矢野顕子(P)、後藤照夫 from FLYING KID SCREW(Sax)</ref><ref group="注" name="19760313_setlist">曲目:1. 時の過ぎ行くままに、2. あの娘にご用心、3. シャックリ・ママさん、4. 三文ソング、5. 論寒牛男、6. ロックン・ロール・マーチ、7. いかすぜ! この恋、8. 楽しい夜更かし、9. HAND CLAPPING RHUMBA~ドレッサー(Vo:山下)、10. 恋はメレンゲ、11. ナイアガラ・ムーンがまた輝けば、12. びんぼう(大滝詠一)、ドリーミング・デイ(山下達郎)、風にさらわれて、他(南佳孝)外はみんな、週末、他(吉田美奈子)</ref>。 * [[3月20日]]、山下、文化放送“三ツ矢フォーク・メイツ・フェス”公開録音にゲスト出演する吉田美奈子のバッキングで参加(新宿厚生年金会館)。 * [[3月25日]]、アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』(山下・伊藤銀次・大滝詠一)発売。 * 同日、吉田美奈子、アルバム『[[FLAPPER (吉田美奈子のアルバム)|FLAPPER]]』発売。「永遠に」「ラスト・ステップ」収録。 * [[3月29日]]、山下、“ナイアガラ・トライアングル コンサート”に出演(芝・ABC会館ホール 出演:伊藤銀次、山下達郎、大滝詠一)<ref group="注" name="19760329_setlist">曲目:1. 幸せにさよなら、2. 日射病、3. 無頼横丁、4. ココナツ・ホリデイ'76、(伊藤銀次 & バイバイ・セッション・バンド)1. [[ミスター・ブルー|MR. BLUE]]、2. COMIC、3. 過ぎ去りし日々“60's Dream”、4. ドリーミング・デイ、5.パレード、6. 遅すぎた別れ、7. 永遠に、8. MICKEY'S MONKEY、(山下達郎セッション)1. BLUE SUEDE SHOES、2. 楽しい夜更し、3. FUSSA STRUT Part.1、4. HAND CLAPPING RHUMBA~ドレッサー、5. ナイアガラ音頭(Vo:布谷文夫)、アンコール:1. 幸せにさよなら(Vo:大滝 + 山下 + 伊藤)、2. ナイアガラ音頭(Vo:布谷)</ref>。 * [[3月31日]]、“シュガーベイブ 解散コンサート”(荻窪ロフト)<ref group="注" name="sugar_babe_19760331">メンバー:山下達郎(Vo、G、Key、B)、大貫妙子(Key、Vo)、村松邦男(G、Vo)、寺尾次郎(B)、上原裕(Ds) ゲスト:伊藤銀次(G、Vo)、坂本龍一(Key)</ref><ref group="注" name="19760331_setlist">曲目:1. SHOW、2. パレード、3. 指切り、4. こぬか雨、5. 風の世界、6. いつも通り、7. ためいきばかり、8. うたたね、9. 約束、10. すてきなメロディー、11. 不二家ハートチョコレート、12. 雨は手のひらにいっぱい、13. 蜃気楼の街、14. WINDY LADY、15. 愛は幻、16. 今日はなんだか、17. SUGAR、18. DOWN TOWN、(1回目のアンコール):1. LAST STEP、2. 砂の女、3. からっぽの椅子、(2回目のアンコール):1. 幸せにさよなら</ref>。当初は1日だけの予定だったが、入りきれなかった約100人のファンが居残り、店のスタッフと交渉。最終的にはマネージャー柏原のOKを受けて、翌日の追加公演が決定する。 * [[4月1日]]、“シュガーベイブ 解散コンサート(追加公演)”(荻窪ロフト)<ref group="注" name="sugar_babe_19760331" /><ref group="注" name="19760401_setlist">曲目:1. SHOW、2. パレード、3. 指切り、4. こぬか雨、5. 風の世界、6. いつも通り、7. うたたね、8. 約束、9. 三愛バーゲンフェスティバル~フルーツソーダ~不二家ハートチョコレート~いちじく浣腸~まきまきカール~三ツ矢サイダー、10. すてきなメロディー、11. 蜃気楼の街、12. 雨は手のひらにいっぱい,、13. WINDY LADY、14. 愛は幻、15. 今日はなんだか、16. SUGAR、17. DOWN TOWN、(アンコール):1. 砂の女、2. ココナツ・ホリデー 他</ref>。同日、ナイアガラ・トライアングル、シングル「[[幸せにさよなら/ドリーミング・デイ]]」発売。 * [[4月4日]]、山下、大滝の“ナイアガラ・トライアングルDJパーティー”に伊藤と共にゲスト出演(日仏会館)。 * [[4月13日]]、山下達郎のオールナイトニッポン 第15回“シュガー・ベイブ特集 1”放送。 * [[4月20日]]、山下達郎のオールナイトニッポン 第16回“シュガー・ベイブ特集 2”放送(ゲスト:大貫妙子、寺尾次郎、上原裕)<ref group="注" name="19760420_onairlist">1. SHOW、2. パレード、3. いつも通り、4. 雨は手のひらにいっぱい、5. 風の世界、6. WINDY LADY、7. DOWN TOWN、8. SUGAR(1~6、8:4月1日 荻窪ロフト、7:1月28日 仙台電力ホール)</ref>。 * [[4月27日]]、山下達郎のオールナイトニッポン 第17回“シュガー・ベイブ特集 3”放送(ゲスト:大貫妙子)。 * [[6月12日]]、大貫、アルバム『Grey Skies』レコーディング開始(~8月)。 * [[7月30日]]、山下、ソロ・コンサート(~31日 下北沢ロフト)<ref group="注" name="yamashita_1976">メンバー:山下達郎(Vo、G)、上原裕(Ds)、寺尾次郎(B)、徳武弘文(G)、緒方泰男(Key)、沢井原児(Sax、7/31のみ)</ref>。 * [[8月16日]]、山下、アルバム『CIRCUS TOWN』レコーディングの為渡米(~[[9月5日]] 8月17 - 26日:ニューヨーク、8月30日 - 9月3日:ロスアンジェルス)。 * [[8月28日]]、大貫“デビュー・ライブ”(~29日 下北沢ロフト)<ref group="注" name="ohnuki_1976">メンバー:大貫妙子(Vo、G、Key)、坂本龍一(Key)、緒方泰男(Key、G)、[[土屋昌巳]](G)、六川正彦(B)、[[つのだ☆ひろ|つのだひろ]](Ds)</ref>。 * [[9月25日]]、大貫、ファースト・アルバム『[[Grey Skies]]』発売。「時の始まり」「約束」「愛は幻」収録。 * [[10月25日]]、山下、ファースト・アルバム『[[CIRCUS TOWN]]』発売。「WINDY LADY」「LAST STEP」収録。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1977年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * [[5月25日]]、伊藤、ファースト・アルバム『[[DEADLY DRIVE]]』発売。「[[こぬか雨]]」収録。 {{hidden end}} {{hidden begin |toggle = right |title = 1983年 |titlestyle = background-color:lightgrey; }} * [[9月25日]]、村松、ファースト・アルバム『GREEN WATER』発売。「うたたね」収録。 {{hidden end}} == ディスコグラフィー == === シングル === # 「[[DOWN TOWN|DOWN TOWN ⁄ いつも通り]]」 ([[ナイアガラ・レーベル|ナイアガラ]] ⁄ [[エレックレコード|エレック]] 7inch:NAS-001) – [[1975年]][[4月25日]]発売 #: LPヴァージョンよりもモノラルに近いシングル用ミックス。エンディングが11秒ほど短い。 # シュガー・ベイブ ⁄ 山下達郎「DOWN TOWN ⁄ パレード」 (ナイアガラ ⁄ [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]] 7inch:07SH 1166) – [[1982年]][[4月1日]]発売 #: “NIAGARA FOREVER GREEN SERIES”の第1弾、グリーン・レーベルでのリリース。A面はリマスターされてのシングル・カット。エンディングが9秒ほど短い。セカンド・プレスからはイエロー・レーベルに変更。 # 山下達郎 ⁄ シュガー・ベイブ「[[パレード (山下達郎の曲)|パレード ⁄ DOWN TOWN]]」 (ナイアガラ ⁄ イースト・ウエスト SCD:AMDM-6103) – [[1994年]][[1月25日]]発売 #: オリジナル・シングルのマスターが現存しないため、そのミックスに限りなく近づけた“オリジナル・シングル・ヴァージョン”。 === アルバム === # 『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』(ナイアガラ ⁄ エレック LP:NAL-0001)– 1975年4月25日発売 === その他編集アルバム === # 『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』(ナイアガラ ⁄ コロムビア LP:AX-7623-E, CT:CAY-1188-E) – [[1980年]][[7月10日]]発売 #: 『SONGS』から7曲収録。 # 『NIAGARA FALL STARS』(ナイアガラ ⁄ CBS・ソニー LP:27AH 1246) – [[1981年]][[4月1日]]発売 #: リミックス版「すてきなメロディ」「いつも通り」、デモ・テイクの「夏の終わりに」「パレード」を収録。このアルバムは後に『NIAGARA VOX』にも組み込まれた(LP:00AH 1388)。 # 『MORE MORE NIAGARA FALL STARS “NIAGARA RARE MASTERS SERIES Vol.3”』(ナイアガラ ⁄ CBS・ソニー LP:00AH 1389) – 1981年[[12月2日]]発売 #: 『NIAGARA VOX』に収められた『NIAGARA FALL STARS』の第3弾。「DOWN TOWN」の別ミックスを収録。 # 『[[DAWN IN NIAGARA|DAWN IN NIAGARA “NIAGARA RARE MASTERS SERIES Vol.4”]]』(ナイアガラ ⁄ CBS・ソニー CD:00DH 407) – [[1986年]][[6月1日]]発売 #: 『NIAGARA CD BOOK I』(8CD:00DH 401-8)の中の一枚。デモ・テイクの「夏の終わりに」「パレード」「指切り」「SHOW」を収録。 # 『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA#「TATSURO FROM NIAGARA」 CD:SRCL 5010|TATSURO FROM NIAGARA]]』(ナイアガラ ⁄ ソニー CD:SRCL 5010) – [[2009年]][[3月21日]]発売 #: 『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』のCD版。「すてきなメロディー(幻カズー入り)」「SUGAR(オリジナル・ミックス)」を収録。 # 『NIAGARA FALL STARS '81 Remix Special (NIAGARA RARE MASTER SERIES Vol.5)』(ナイアガラ ⁄ ソニー CD:SRCL 8710) – [[2015年]][[3月21日]]発売 #: 『NIAGARA CD BOOK II』(12CD:SRCL 8700-11)の中の一枚。1981年にリリースされた3種の『NIAGARA FALL STARS』の中から70年代の楽曲を81年にリミックスしたものだけを集めたコンピレーション盤。「DOWN TOWN」「いつも通り」「すてきなメロディー」を収録。 == 参加作品 == ; 1974年 :* [[南佳孝]], [[ムーンライダーズ|ムーンライダース]], ココナツ・バンク, [[吉田美奈子]]『[[1973.9.21 SHOW BOAT 素晴しき船出]]』([[1月15日]]発売 SHOW BOAT ⁄ [[アートユニオン|TRIO]] LP:3A-1014) :: ココナツ・バンク「日射病」「無頼横町」にコーラスで参加。 :* [[はっぴいえんど]]『[[ライブ!! はっぴいえんど]]』([[1月15日]]発売 [[ベルウッド・レコード|Bellwood]] LP:OFL-20) :: 大瀧詠一とココナツ・バンク「空飛ぶ・ウララカ・サイダー」「ココナツ・ホリデー」にコーラスで参加。 :* [[亀渕友香]]『Touch Me, Yuka』(3月発売 POLYDOR LP:MR-5040) :: クレジットはないがコーラスで参加。 :: 「ひとりぼっちのトランプ」- 作詞:みやさきみきお、作・編曲:矢野誠 :: 「眠れないわ」- 作詞:崎南海子、作・編曲:矢野誠 :* [[亀渕友香]]「眠れないわ ⁄ ひとりぼっちのトランプ」(POLYDOR 7inch:DR-1841) :: 両曲にコーラスで参加。 :* [[斉藤哲夫]]『グッド・タイム・ミュージック』([[7月1日]]発売 CBS/SONY LP:SOLL-70) :: クレジットはないが「グッド・タイム・ミュージック」にコーラスで参加。 :* 斉藤哲夫「グッド・タイム・ミュージック ⁄ ハロー・ハロー」(CBS/SONY 7inch:SOLB-138) :: 両曲にコーラスで参加。 :* 沢チエ『23(TWENTY-THREE YEARS OLD)』(7月発売 CANYON LP:C-3045) :: 「恋人たちの夜(Lover's Evening)」「かもめ(Sea Gull)」にコーラスで参加。 :* [[松任谷由実|荒井由実]]『[[MISSLIM]]』([[10月5日]]発売 EXPRESS ⁄ [[EMIミュージック・ジャパン|TOSHIBA-EMI]] LP:ETP-72001) :: 「生まれた街で」- Background vocals : Sugar Babe, Minako Yoshida :: 「瞳を閉じて」- Background vocals : Sugar Babe :: 「12月の雨」- Background vocals : Sugar Babe :: 「あなただけのもの」- Background vocals : Minako Yoshida, Tatsuro Yamashita, Akiko Suzuki, Taeko Ohnuki :: 「たぶんあなたはむかえに来ない」- Background vocals : Sugar Babe, Minako Yoshida :: background vocals arrangement : Tatsuro Yamashita :* [[佐藤公彦]]『片便り』([[11月10日]]発売 [[エレックレコード (オリジナル)|ELEC]] LP:ELEC-2034) :: クレジットはないがコーラスで参加。 :* [[ルネ・シマール|ルネ]]『First Live Album』(11月21日発売 CBS/SONY LP:SOLL-96) :: 1974年9月14、15日、[[渋谷公会堂]]にて収録。クレジットはないが「ヌ・クペ・パ・レ・ローゼズ」「ヨー・ヨー」「廃墟の鳩」「小さな生命」に山下達郎, 大貫妙子, 村松邦男, 吉田美奈子がコーラスで参加。 :<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> ; 1975年 :* [[小坂忠]]『HORO』([[1月25日]]発売 Mushroom LP:CD-7129-Z) :: 吉田美奈子, 山下達郎, 大貫妙子がコーラスで参加。 :* [[かまやつひろし]]『あゝ、我が良き友よ』([[4月1日]]発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA-EMI LP:ETP-72033) :: 「お先にどうぞ」- Backing Vocal : 大滝詠一, 山下達郎, 吉田美奈子, [[伊集加代|伊集加代子]] :* ルネ『君のすべてが欲しい』(4月1日発売 CBS/SONY LP:SOLL-129) :: 「愛の翼をひろげて」「虹をあげよう」「涙のプレリュード」「朝露のきらめき」「クリスマス・トゥリー」に山下達郎, 吉田美奈子, 大貫妙子がコーラスで参加。 :* バズ「はつかり5号 ⁄ サマー・ビーチ・ガール」([[5月10日]]発売 LONDON ⁄ KING 7inch:BS(L)-8004) :: クレジットはないが「サマー・ビーチ・ガール」にコーラスで参加。 :: 「サマー・ビーチ・ガール (SUMMER BEACH GIRL)」- 作詞:[[竜真知子|竜まち子]]、作・編曲:高橋幸宏 :* [[大瀧詠一|大滝詠一]]『[[NIAGARA MOON]]』([[5月30日]]発売 [[ナイアガラ・レーベル|NIAGARA]] ⁄ ELEC LP:NAL-0002) :: 「ナイアガラ・ムーン」- Strings Arrangement : 山下達郎 :: 「三文ソング」- Backing Vocals : 大滝詠一 &amp; 山下達郎 :: 「Rock'n' Roll March」- Brass Band Arrangement : 山下達郎 / Backing Vocals : Sugar Babe, GH助川 :: 「Fussa Strut Pt.2」- Backing Vocals : Sugar Babe, [[伊藤銀次]], GH助川 :: 「Cider '73 -Long Version-」- Backing Vocals : Sugar Babe &amp; Singers Three :: 「Cider '74 -A Capella-」- Group A Capella : Sugar Babe, Singers Three &amp; 大滝詠一 :: 「Cider '74」- Backing Vocals : Sugar Babe &amp; Singers Three / Chorus Arrangement : 山下達郎 :: 「Cider '75」- Backing Vocals : Sugar Babe, Singers Three, 吉田美奈子 / Chorus Arrangement : 山下達郎 :: 「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」- Strings Arrangement : 山下達郎 :: クレジットはないがアルバムの冒頭と終りでの滝のSEを録音([[長野県]][[白糸の滝]])。 :* [[久保田麻琴|久保田麻琴と夕焼け楽団]]「バイ・バイ・ベイビー ⁄ 初夏の香り」(5月発売 SHOWBOAT 7inch:3A-133) :: クレジットはないがコーラスで参加。 :* [[風 (歌手)|風]]『[[風ファーストアルバム]]』([[6月5日]]発売 PANAM ⁄ [[日本クラウン|CROWN]] LP:GW-4013) :: 「でいどりーむ」「ロンリネス」- コーラス : 山下達郎, 大貫妙子, 村松邦男, 吉田美奈子, [[ハイ・ファイ・セット]] / コーラス・アレンジ : 山下達郎 :* 荒井由実『[[COBALT HOUR]]』([[6月20日]]発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA-EMI LP:ETP-72071) :: Background vocals : Minako Yoshida, Taeko Ohnuki, Tatsuro Yamashita, Kayoko Ishu :: All background vocals arranged by Tatsuro Yamashita :* [[ガロ (フォークグループ)|GARO]]『吟遊詩人』([[6月25日]]発売 Mushroom LP:CD-7134-Z) :: 「個人的メッセージ」「悲歌(えれじい)」- コーラス : ガロ, シュガー・ベイブ, 吉田美奈子 / コーラス・アレンジ : 山下達郎 :* [[山田パンダ]]「風の街」(6月25日発売 PANAM ⁄ CROWN 7inch:ZP-9) :: コーラスで山下達郎が参加。 :* ルネ『去年の夏』([[7月1日]]発売 CBS/SONY LP:SOLB-285) :: コーラスで山下達郎が参加。 :* [[センチメンタル・シティ・ロマンス]]『センチメンタル・シティ・ロマンス』([[8月21日]]発売 CBS/SONY LP:SOPN-153) :: 「マイ・ウディ・カントリー」にコーラスで山下達郎が参加。 :* [[山本コウタロー|山本コータローとウイークエンド]]『ウイークエンド・セカンド 虹を下さい』(8月21日発売 CBS/SONY LP:SOLL-154) :: 「すくすく」「虹を下さい」に山下達郎がコーラス・アレンジ、シュガー・ベイブ(山下達郎, 吉田美奈子, 大貫妙子)がコーラスでそれぞれ参加。 :* [[及川恒平]]『懐かしいくらし』([[8月25日]]発売 NEW MORNING LP:FW-5003) :: 「シナモンの木」「アンコール」「海岸通り」「踊る人形」に山下達郎がコーラス・アレンジ、山下と大貫妙子がコーラスでそれぞれ参加。 :* [[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]『[[キャラメル・ママ (アルバム)|キャラメル・ママ]]』([[11月25日]]発売 [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]] ⁄ [[日本クラウン|CROWN]] LP:GW-4017) :: 「月にてらされて」- Chorus : 山下達郎、大貫妙子 / Chorus Arranged : 山下達郎 :: 「CHOO CHOO GATTA GOT '75」- Chorus : 山下達郎、大貫妙子 / Chorus Arranged : 山下達郎 :: 「JACKSON」- Chorus : [[伊集加代|伊集加代子]]、大貫妙子、山下達郎 / Chorus Arranged : 山下達郎 :* VARIOUS ARTISTS『海や山の神様たち-ここでも今でもない話』(11月25日発売 [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|VICTOR]] LP:JBX-75) :: 「長い長い昔話」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「神様の絵」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「天の滴」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「ものおぼえのいい郵便屋さん」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「星のある川(リコップオマナイ)」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「海を守る神様」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「ピリカコタン」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「コロボックル」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :: 「火の子供達」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 / コーラス:シュガー・ベイブ(山下、大貫) :: 「丹頂鶴」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 / コーラス:シュガー・ベイブ(山下、大貫) :: 「神様だって」- 編曲:坂本龍一、山下達郎 :* [[アグネス・チャン]]『はじめまして青春』([[12月21日]]発売 WARNER PIONEER 2LP:L-5511/2) :: クレジットはないがシュガー・ベイブ(山下達郎, 大貫妙子, 村松邦男)がコーラスで参加。 :: 「東京タワーを鉛筆にして」- 作詞:[[喜多條忠]]、作曲:[[小泉まさみ]]、編曲:[[船山基紀]] :* [[マイ・ペース (バンド)|マイペース]]「望郷の街」([[ビクターエンタテインメント|VICTOR]] 7inch:SF-95) :: 「望郷の街」「自画像」- 作詞:[[橋本淳 (作詞家)|橋本淳]]、作曲:森田貢、編曲:荻田光雄 :: Drums : 上原裕、E.Bass : 寺尾次郎 : ; 1976年 :* [[石川セリ]]『ときどき私は……SERI』([[1月25日]]発売 PHILIPS LP:FX-6047) :: 「なんとなく……」- コーラス : シュガー・ベイブ(山下達郎, 大貫妙子, 村松邦男) :* [[丸山圭子]]『黄昏めもりい』([[3月5日]]発売 KING LP:SKD-1036) :: 「街風便り」「スカイラウンジ」「Bye-bye」- コーラス : 山下達郎, 大貫妙子, 村松邦男 / コーラス・アレンジ : 山下達郎 :* 吉田美奈子『[[FLAPPER (吉田美奈子のアルバム)|FLAPPER]]』([[3月25日]]発売 RCA ⁄ RVC LP:RVH-8009) :: 「愛は彼方」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements, Background Vocals / Minako Yoshida, Taeko Ohnuki : Background Vocals :: 「朝は君に」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements, Background Vocals / Minako Yoshida, Akiko Yano, Taeko Ohnuki : Background Vocals :: 「ケッペキにいさん」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements, Background Vocals / Taeko Ohnuki : Background Vocal, Clapping: :: 「ラムはお好き?」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements :: 「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」- Tatsuro Yamashita : Horns Chorus &amp; Strings Arrangements, Background Vocals, Grockenspiel, Electric Guitar / Minako Yoshida, Kayoko Ishu, Taeko Ohnuki : Background Vocals :: 「チョッカイ」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements, Background Vocals / Minako Yoshida, Akiko Yano, Taeko Ohnuki : Background Vocals :: 「ラスト・ステップ」- Tatsuro Yamashita : Chorus Arrangements, Background Vocals, Clapping / Minako Yoshida, Taeko Ohnuki : Background Vocals : ; 1981年 :* 『MORE NIAGARA FALL STARS “NIAGARA RARE MASTER SERIES Vol.2”』([[12月2日]]発売 NIAGARA ⁄ CBS/SONY LP:00AH 1388) :: 「お早う眠り猫君 ⁄ ココナツ・バンク」- コーラスで参加。『1973.9.21 SHOW BOAT 素晴しき船出』,『ライブ!! はっぴいえんど』の未発表テイク。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ミュージシャン一覧 (グループ)]] * [[日本のバンド一覧]] * [[解散した日本のバンド・グループ一覧]] * [[1975年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手 == 外部リンク == * {{URL|https://www.sonymusic.co.jp/artist/SugarBabe/|シュガー・ベイブ}} – SonyMusic * {{URL|https://wmg.jp/sugarbabe/|SUGAR BABE / シュガー・ベイブ}} – ワーナーミュージック・ジャパン === 関連サイト === * {{URL|http://www.net-sprout.com/|Net-Sprout Music! - あるバンドの物語}} – シュガー・ベイブの結成から解散までを題材にした、村松邦男によるドキュメンタリー・フィクション * [http://recomints.com/c/magazine/b_n/s-b_tokusyu/webmagazine_s-b_tokusyu_1.html mints magazineシュガーベイブ外伝(レコミンツ)]{{リンク切れ|date=2014年5月}} – 野口明彦、村松邦男、長門芳郎の対談 * {{URL|https://www.livefans.jp/artists/3742|シュガー・ベイブ (SUGAR BABE)}} – LiveFans {{山下達郎}} {{大貫妙子}} {{CDショップ大賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しゆかあへいふ}} [[Category:シュガー・ベイブ|*]] [[Category:ナイアガラ]] [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:CDショップ大賞受賞者]] [[Category:エレックレコードのアーティスト]] [[Category:1973年に結成した音楽グループ]] [[Category:1976年に解散した音楽グループ]]
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松本隆
松本 隆(まつもと たかし、1949年7月16日 - )は、日本の作詞家、ミュージシャン。ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。東京都出身、兵庫県神戸市在住。 東京都港区の青山で生まれた。父は元南九州財務局長、仙台銀行相談役の松本亘司(のぶじ)。母は伊香保温泉の石段街にある明治時代から続く写真館(斎藤写真店)の娘である知子。少女時代は「伊香保小町」といわれるほどの美人であり、国鉄のポスターモデルにもなったという。なお、両親ともに群馬県出身である。 港区立青南小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退。生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している。音楽的にはビートルズの影響を強く受けたと語っている。また、妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており(1980年)、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。 1968年に細野晴臣が掛け持ちしていたバンド「バーンズ」のドラマーとして活動中に小坂忠、柳田博義、菊池英二らに細野とともに誘われエイプリル・フールを結成(当時は「松本零」名義)した。この時期に常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。エイプリル・フールが短期間で解散した後、細野、大瀧詠一、鈴木茂と「ヴァレンタイン・ブルー(後のはっぴいえんど)」を結成した。松本が出演したラジオ番組によれば、作詞は細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された輸入盤レコードの歌詞を大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったという。 はっぴいえんど在籍中は、つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった。また、メンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」 名義で初期の大瀧のソロ曲の作詞も担当した。五つの赤い風船の「えんだん」で初めて、他のミュージシャンに詞を提供した。 はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める。しかしプロデュース第一作の南佳孝の『摩天楼のヒロイン』完成後に、南から「(歌詞が松本隆の世界すぎて)これはあなたのアルバムだ」と言われ、音楽プロデューサーとしての情熱を失ったという。その後、あがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』、岡林信康の『金色のライオン』などのアルバムのプロデュースも行ったが、それ以降プロデューサー業からは退き、またオリジナルムーンライダーズからも脱退し、作詞家としての活動に専念することになった。 歌謡曲の作詞をするようになったきっかけのひとつに、音楽プロデューサーの木崎賢治との出会いがある。フリーのレコーディング・エンジニアやディレクターをしていた吉野金次を介し、木崎と知り合う。松本は歌謡曲の作詞をしてみたいと伝えると、木崎は吉野が当時担当していたアグネス・チャンの楽曲への作詞提供を提案。そしてアグネス・チャンのオリジナル・アルバム『アグネスの小さな日記』(1974年3月発売)の収録曲を数曲作詞し、その中の一曲「ポケットいっぱいの秘密」(1974年6月10日発売)がシングルカットされ、スマッシュヒット。これがきっかけで歌謡界に本格進出する。「ポケットいっぱいの秘密」のシングルカットに際してはアグネスが当時所属していた渡辺プロダクション社長の渡辺晋の高い評価があったという。ほぼ同時に、チューリップ「夏色のおもいで」を作詞し、これがすでに作曲者として名を成していた筒美京平の目に留まる。それがきっかけで松本は筒美と仕事をするようになり、アグネスと同じ渡辺プロダクション所属だった太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」(1975年12月21日発売)の大ヒットにより作詞家として注目される。歌謡界に身を投じたきっかけは、『ヤングギター』編集長の山本隆士に「メジャーな分野で詞は書かないのか」と問われたことだった。松本が「あんなものはいつでも書ける」と言い放ったところ、「言った以上は証明してみろ」と山本にいわれ、「それならやってやろうじゃないか」となった。初めは歌謡界を見下していたが、「この詞には曲をつけられないだろう」と筒美に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていったところ、あっさりと曲をつけられてしまった。以後、考えを改め、作詞に没頭するようになった。 1970年代後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「木綿のハンカチーフ」の作詞ぐらいであるが、1978年に一連の原田真二作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった。松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている。 筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」など、合計約380作品を手掛ける一方、1980年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。松田聖子についてはプロデューサーの若松宗雄、編曲の大村雅朗とともに「聖子プロジェクト」の主要メンバーとして聖子を支え、松本の人脈を活かして作曲家を起用するなど、作詞家の範疇を超え総合的な曲のプロデュースに関わっていた。歌謡曲における“松本・筒美”コンビの名は後に伝説と化す。 その後も薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂、C-C-Bなど多数のアイドル、アーティストに詞を提供したが、1989年に一時作詞家としての活動を「休憩」。1994年に本格的に作詞活動を再開するまでの間は能・歌舞伎・オペラ・クラシックなどの「古典」にはまり、1992年にはフランツ・シューベルト『冬の旅』の現代口語訳を手掛けた。作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『微熱少年』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した鈴木茂の曲と同名タイトルである。 現在は自主レーベル「風待レコード」を設立し若手の育成に努めながら、KinKi Kids、中川翔子のヒット曲も手掛けるなど活躍中である。ドラマ『のだめカンタービレ』では松田聖子の「ピンクのモーツァルト」を引用し、アニメ『マクロスF』の挿入歌「星間飛行」のヒットなどで新たな世代にも存在をアピールした。 クラシック音楽にも造詣が深く、シューベルトの歌曲集「冬の旅」(1992年)、「美しき水車小屋の娘」(2004年)、「白鳥の歌」(2018年) に現代日本語訳をつけた。1999年には、カナリア諸島へ伝説の指揮者カルロス・クライバーの演奏会を聴きに行ったことがある。また純邦楽作品として「幸魂奇魂」 古事記より作曲「藤舎貴生」第54回日本レコード大賞企画賞受賞作品 米国・韓国・中国のドラマ・映画にも耽溺しているといわれる。近年の趣味ではオンラインゲームも嗜むようになり、以前開設していた松本自身のウェブサイトでは「エバークエスト2」などゲームのスクリーンショットまで載せるほどのゲーマーっぷりを発揮していた。愛車はレクサス・RC F と レクサス・LC 。綾瀬はるかのファン。 2013年、慶應義塾大学特選塾員となる。またこの年、神戸へ移り住んだ。 2015年8月21日・22日、『松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえる『風街レジェンド2015』と冠したライブを東京国際フォーラムにて行った。松本が作詞を提供したアーティストらが数多く出演し、松本自身もはっぴいえんどのドラマーとしてステージに立った。両日とも公演時間は3時間30分以上に及ぶものであった。なお、本ライブの模様は、Blu-ray化し、2021年12月22日にリリースされる予定。38曲・約3時間にわたるライブ映像が収録される。 2017年、紫綬褒章を受章。 2020年11月2日、デビュー50周年を記念したトリビュートライブ『松本隆 50周年 風街古都 コトノハ』が京都コンサートホールアンサンブルホールムラタで開催された。但し、2019年以降の新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け(「日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況」、「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」、「2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響」参照)、無観客での開催・有料生配信を行った。出演者は曽我部恵一、城領明子、ノラオンナ、花*花、山田兎。サプライズゲストに岡林信康。 2020年11月20日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』を始動。同日、プロジェクトのスタートアップとしてWeb配信番組「〜松本 隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト〜風街ちゃんねる」を開局。同年12月12日に第1回を配信(月に1回、全6回。有料配信)。松本とともに宇賀なつみがMCを務め、毎回“風街の住人”をゲストに迎えて「作詞家・松本隆」のエピソードや秘話を時系列に沿って紐解いていくトーク番組。2021年10月31日に最終回を配信した。 2020年12月10日、『松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム』の制作を発表。 2021年7月14日、松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム『風街に連れてって!』がびいだまレコーズより発売。 2021年11月5日・6日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえるコンサート『風街オデッセイ2021』が日本武道館にて開催された。松本が作詞を提供したアーティストや縁のあるアーティスト40組以上が出演。松本は、細野晴臣、鈴木茂と共に、36年ぶりに"はっぴいえんど"のドラマーとして両日出演。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を披露した。MCにおいて、1966年にビートルズが日本公演を行った際に、当時高校生だった松本はステージの正面(南スタンド)で公演を観て感銘を受けたことが、バンドを組む切っ掛けであったことを明かし「今、ここに立っています。あそこからここまで50年かかりました。今日はリンゴ・スターと同じ、ラディックのドラムで」と感慨無量の言葉を述べ、万雷の拍手を受けた。 父:松本亘司 - 1923年9月23日生まれ。茂十郎・むらの三男。元南九州財務局長、仙台銀行相談役。中央大学商学部卒業。 母:知子 - 1926年11月10日生まれ。斎藤嘉平の長女。高崎市立高等女学校卒業。実家は伊香保温泉の石段街にある明治時代から続く写真館・斎藤写真店。日本営業写真業界の草分けで、徳冨蘆花の撮影も担当した。 弟:裕 - 1951年2月20日生まれ。レコーディング・エンジニア。株式会社ビークル代表取締役社長。日本大学生産工学部卒業。 妹:由美子 - 6歳年下の妹で、生まれつき心臓が弱く、1980年6月13日に24歳で死去した。当時、 大滝詠一の『A LONG VACATION』制作中だったが、妹の死のショックに伴いスランプに陥り、一時詞を書けなくなる。松本は「別の作詞家を探してくれ」と言うも、大滝は、作詞は松本以外は考えておらず、松本が再び詞を書けるまで待った為、『A LONG VACATION』の発売が延期される。妹を喪った失意の中、渋谷の景色がモノクロームにしか見えなかった事が「君は天然色」の歌詞が生まれたきっかけとなった。 妻:これ迄に3度の婚姻・離婚歴あり。2016年に書道家の女性と3度目の結婚をするも、2019年に離婚した事が報じられた。 以下に歌手、アーティスト、グループの五十音順で記述します。 シングル総売上枚数 - 4,985.4万枚(作詞家歴代3位)
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"クラシック音楽にも造詣が深く、シューベルトの歌曲集「冬の旅」(1992年)、「美しき水車小屋の娘」(2004年)、「白鳥の歌」(2018年) に現代日本語訳をつけた。1999年には、カナリア諸島へ伝説の指揮者カルロス・クライバーの演奏会を聴きに行ったことがある。また純邦楽作品として「幸魂奇魂」 古事記より作曲「藤舎貴生」第54回日本レコード大賞企画賞受賞作品", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "米国・韓国・中国のドラマ・映画にも耽溺しているといわれる。近年の趣味ではオンラインゲームも嗜むようになり、以前開設していた松本自身のウェブサイトでは「エバークエスト2」などゲームのスクリーンショットまで載せるほどのゲーマーっぷりを発揮していた。愛車はレクサス・RC F と レクサス・LC 。綾瀬はるかのファン。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2013年、慶應義塾大学特選塾員となる。またこの年、神戸へ移り住んだ。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2015年8月21日・22日、『松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえる『風街レジェンド2015』と冠したライブを東京国際フォーラムにて行った。松本が作詞を提供したアーティストらが数多く出演し、松本自身もはっぴいえんどのドラマーとしてステージに立った。両日とも公演時間は3時間30分以上に及ぶものであった。なお、本ライブの模様は、Blu-ray化し、2021年12月22日にリリースされる予定。38曲・約3時間にわたるライブ映像が収録される。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2017年、紫綬褒章を受章。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2020年11月2日、デビュー50周年を記念したトリビュートライブ『松本隆 50周年 風街古都 コトノハ』が京都コンサートホールアンサンブルホールムラタで開催された。但し、2019年以降の新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け(「日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況」、「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」、「2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響」参照)、無観客での開催・有料生配信を行った。出演者は曽我部恵一、城領明子、ノラオンナ、花*花、山田兎。サプライズゲストに岡林信康。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2020年11月20日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』を始動。同日、プロジェクトのスタートアップとしてWeb配信番組「〜松本 隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト〜風街ちゃんねる」を開局。同年12月12日に第1回を配信(月に1回、全6回。有料配信)。松本とともに宇賀なつみがMCを務め、毎回“風街の住人”をゲストに迎えて「作詞家・松本隆」のエピソードや秘話を時系列に沿って紐解いていくトーク番組。2021年10月31日に最終回を配信した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2020年12月10日、『松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム』の制作を発表。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2021年7月14日、松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム『風街に連れてって!』がびいだまレコーズより発売。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2021年11月5日・6日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえるコンサート『風街オデッセイ2021』が日本武道館にて開催された。松本が作詞を提供したアーティストや縁のあるアーティスト40組以上が出演。松本は、細野晴臣、鈴木茂と共に、36年ぶりに\"はっぴいえんど\"のドラマーとして両日出演。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を披露した。MCにおいて、1966年にビートルズが日本公演を行った際に、当時高校生だった松本はステージの正面(南スタンド)で公演を観て感銘を受けたことが、バンドを組む切っ掛けであったことを明かし「今、ここに立っています。あそこからここまで50年かかりました。今日はリンゴ・スターと同じ、ラディックのドラムで」と感慨無量の言葉を述べ、万雷の拍手を受けた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "父:松本亘司 - 1923年9月23日生まれ。茂十郎・むらの三男。元南九州財務局長、仙台銀行相談役。中央大学商学部卒業。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "母:知子 - 1926年11月10日生まれ。斎藤嘉平の長女。高崎市立高等女学校卒業。実家は伊香保温泉の石段街にある明治時代から続く写真館・斎藤写真店。日本営業写真業界の草分けで、徳冨蘆花の撮影も担当した。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "弟:裕 - 1951年2月20日生まれ。レコーディング・エンジニア。株式会社ビークル代表取締役社長。日本大学生産工学部卒業。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "妹:由美子 - 6歳年下の妹で、生まれつき心臓が弱く、1980年6月13日に24歳で死去した。当時、 大滝詠一の『A LONG VACATION』制作中だったが、妹の死のショックに伴いスランプに陥り、一時詞を書けなくなる。松本は「別の作詞家を探してくれ」と言うも、大滝は、作詞は松本以外は考えておらず、松本が再び詞を書けるまで待った為、『A LONG VACATION』の発売が延期される。妹を喪った失意の中、渋谷の景色がモノクロームにしか見えなかった事が「君は天然色」の歌詞が生まれたきっかけとなった。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "妻:これ迄に3度の婚姻・離婚歴あり。2016年に書道家の女性と3度目の結婚をするも、2019年に離婚した事が報じられた。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下に歌手、アーティスト、グループの五十音順で記述します。", "title": "主な作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シングル総売上枚数 - 4,985.4万枚(作詞家歴代3位)", "title": "記録・受賞歴" } ]
松本 隆は、日本の作詞家、ミュージシャン。ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。東京都出身、兵庫県神戸市在住。
{{Other people}} {{Infobox Musician | 名前 = 松本 隆 | 背景色 = maker | 出生名 = 松本 隆 | 出生 = {{生年月日と年齢|1949|7|16}} | 出身地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]] | 学歴 = [[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|慶應義塾大学商学部]]中退 | ジャンル = [[シティ・ポップ]] | 職業 = {{Hlist-comma|[[作詞家]]|[[ドラマー]]|[[音楽プロデューサー]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ドラムス]]|[[パーカッション]]}} | 活動期間 = [[1968年]] - | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]] * [[はっぴいえんど]] }} | 公式サイト = }} '''松本 隆'''(まつもと たかし、[[1949年]][[7月16日]] - )は、[[日本]]の[[作詞家]]、[[ミュージシャン]]。ロックバンド[[はっぴいえんど]]の元[[ドラマー]]。[[東京都]]出身、[[兵庫県]][[神戸市]]在住<ref name="J-CAST_201609091502"/>。 == 略歴 == {{出典の明記|section=1|date=2017-03}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山 (東京都港区)|青山]]で生まれた。父は元[[九州財務局|南九州財務局]]長、[[仙台銀行]]相談役の[[松本亘司]](のぶじ)<ref name=":1">{{Cite book|title=人事興信錄|url=https://books.google.co.nz/books?id=q0E0AQAAIAAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP1490&dq=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%9A%86%E3%80%80%E7%BE%8E%E4%BD%90%E5%AD%90&hl=ja&redir_esc=y|publisher=人事興信所|date=2003|language=ja}}</ref><ref name=":2">{{Cite book|title=人事興信錄|url=https://books.google.co.nz/books?id=q0E0AQAAIAAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP1493&dq=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%8C%82%E5%8D%81%E9%83%8E%E3%80%80%E7%BE%A4%E9%A6%AC&hl=ja&redir_esc=y|publisher=人事興信所|date=2003|language=ja}}</ref><ref name=":3">{{Cite book|和書|title=日本の官庁|year=1978|publisher=国土政策研究会|page=332}}</ref>。母は[[伊香保温泉]]の石段街にある[[明治|明治時代]]から続く[[営業写真館|写真館]](斎藤写真店)の娘である知子。少女時代は「伊香保小町」といわれるほどの美人であり、[[国鉄]]の[[ポスター]][[モデル (職業)|モデル]]にもなったという<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=松本隆×糸井重里「似ているふたり、初めてのことば。」 |url=https://www.1101.com/takashi_matsumoto/index.html |website=ほぼ日刊イトイ新聞 |accessdate=2022-02-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ヒットメーカー松本隆 作詞家生活50年、世界観の原点は母親 {{!}} 女性自身 |url=https://jisin.jp/entertainment/interview/1841653/ |website=WEB女性自身 |accessdate=2022-02-12 |language=ja}}</ref>。なお、両親ともに[[群馬県]]出身である<ref name=":0" />。 [[港区立青南小学校]]、[[慶應義塾中等部]]、[[慶應義塾高等学校]]卒業。[[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|慶應義塾大学商学部]]中退<ref>{{Cite interview |和書|subject=松本隆 |interviewer=近藤正人 |url=https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/spotlight/201802-1.html |title=【話題の人】松本隆:ジャンルを越えて挑戦を続ける作詞家 |date=2018-02-01 |work=三田評論ONLINE |accessdate=2018-02-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=DxmeXhHKhwEC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E9%9D%92%E5%8D%97+%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E9%AB%98%E6%A0%A1&source=bl&ots=okr-FUvkHj&sig=ACfU3U1xiganDPYanDrUQe_DQkMt2CkW_A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjB6fLBwoTjAhV7w4sBHbO4BGo4FBDoATAIegQICRAB#v=onepage&q=%E9%A2%A8%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC%20%E9%9D%92%E5%8D%97%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&f=false |title=風都市伝説~1970年代の街とロックの記憶から |author=[[北中正和]]・[[あがた森魚]] |publisher=音楽出版社 |year=2004 |accessdate=2019-06-26}}<!--青南から慶大まで記載されている。--></ref>。生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした[[乃木坂]]や[[麻布]]、[[六本木]]や[[渋谷]]界隈の範囲を''「風街」''と呼び、心の拠り所として愛している。音楽的には[[ビートルズ]]の影響を強く受けたと語っている。また、妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており(1980年<ref>[http://www.tapthepop.net/song/43583 何も言わずに待ってくれた大滝詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆|TAP the SONG|TAP the POP]</ref>)、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。 1968年に[[細野晴臣]]が掛け持ちしていたバンド「バーンズ」のドラマーとして活動中に[[小坂忠]]、[[柳田博義]]、菊池英二らに細野とともに誘われ[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]を結成(当時は「'''松本零'''」名義)した。この時期に常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。エイプリル・フールが短期間で解散した後、細野、[[大瀧詠一]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]と「ヴァレンタイン・ブルー(後の[[はっぴいえんど]])」を結成した。松本が出演したラジオ番組によれば、作詞は細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された輸入盤[[レコード]]の歌詞を大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったという。 はっぴいえんど在籍中は、{{要出典範囲|[[つげ義春]]や[[永島慎二]]など『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』系漫画や[[渡辺武信]]の[[現代詩]]に影響を受けた独特の作風で|date=2018年11月}}、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、[[日本語ロック論争]]の発端となった<ref name="oricon20171102">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2099953/full/ |title=作詞家・松本隆氏が紫綬褒章受章「残りの人生が尽きるまで歌を作りたい」|date=2017-11-02 |website=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン]] |accessdate=2018-11-09}}</ref>。また、メンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」<ref group="注釈">[[モンテ・クリスト伯#エドモン・ダンテスと協力者|エドモン・ダンテス]]の捩り。</ref> 名義で初期の大瀧のソロ曲の作詞も担当した。[[五つの赤い風船]]の「えんだん」で初めて、他のミュージシャンに詞を提供した。 はっぴいえんど解散後は[[ムーンライダーズ]](オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼[[音楽プロデューサー]]業を始める<ref name="oricon20171102" />。しかしプロデュース第一作の[[南佳孝]]の『[[摩天楼のヒロイン]]』完成後に、南から「(歌詞が松本隆の世界すぎて)これはあなたのアルバムだ」と言われ、音楽プロデューサーとしての情熱を失ったという。その後、[[あがた森魚]]の『噫無情(レ・ミゼラブル)』、[[岡林信康]]の『[[金色のライオン (岡林信康のアルバム)|金色のライオン]]』などのアルバムのプロデュースも行ったが、それ以降プロデューサー業からは退き、またオリジナルムーンライダーズからも脱退し、作詞家としての活動に専念することになった。 [[歌謡曲]]の作詞をするようになったきっかけのひとつに、音楽プロデューサーの[[木崎賢治]]との出会いがある。フリーのレコーディング・エンジニアやディレクターをしていた[[吉野金次]]を介し、木崎と知り合う。松本は歌謡曲の作詞をしてみたいと伝えると、木崎は吉野が当時担当していた[[アグネス・チャン]]の楽曲への作詞提供を提案。そしてアグネス・チャンのオリジナル・アルバム『アグネスの小さな日記』(1974年3月発売)の収録曲を数曲作詞し、その中の一曲「[[ポケットいっぱいの秘密]]」(1974年6月10日発売)がシングルカットされ、スマッシュヒット<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.radiko.jp/article/station/STV/59383/|title=「縦読みするとア・グ・ネ・ス…天下獲る気満々だった」松本隆の初作のエピソードを紹介|publisher=radikonews|date=2021-09-21|accessdate=2021-11-21}}</ref>。これがきっかけで歌謡界に本格進出する<ref name="Wagamichi">{{Cite news |和書|title= 『我が道 松本隆 ⑧』縦読みの元祖!? 仕掛けた「あ・ぐ・ね・す」|newspaper= スポーツニッポン【朝刊】|date= 2021-01-09|author= 松本隆|url= |agency=スポーツニッポン新聞社|page=22|accessdate=2021-01-10}}</ref>。「ポケットいっぱいの秘密」のシングルカットに際してはアグネスが当時所属していた[[渡辺プロダクション]]社長の[[渡辺晋]]の高い評価があったという<ref name="Wagamichi"/>。ほぼ同時に、[[チューリップ (バンド)|チューリップ]]「[[夏色のおもいで]]」を作詞し、これがすでに作曲者として名を成していた[[筒美京平]]の目に留まる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/7ee102c5c7488906cf19dfaafe2635ba8dd7b38d|title=文藝春秋2021年5月号「松本隆/作詞家50年「僕が出会った天才作曲家たち」」|accessdate=2021/6/13}}</ref>。それがきっかけで松本は筒美と仕事をするようになり、アグネスと同じ渡辺プロダクション所属だった[[太田裕美]]が歌った「[[木綿のハンカチーフ]]」(1975年12月21日発売)の大ヒットにより作詞家として注目される<ref name="oricon20171102" />。歌謡界に身を投じたきっかけは、『[[ヤングギター]]』編集長の山本隆士に「メジャーな分野で詞は書かないのか」と問われたことだった。松本が「あんなものはいつでも書ける」と言い放ったところ、「言った以上は証明してみろ」と山本にいわれ、「それならやってやろうじゃないか」となった。初めは歌謡界を見下していたが、「この詞には曲をつけられないだろう」と筒美に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていったところ、あっさりと曲をつけられてしまった。以後、考えを改め、作詞に没頭するようになった。 [[1970年代]]後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「[[木綿のハンカチーフ]]」の作詞ぐらいであるが<ref name="歌謡曲の神話" >{{Cite journal |author= |date=1992-05-01 |title=[[STUDIO VOICE]] 特集 歌謡曲の神話 ベストテン時代へのレクイエム |chapter=はっぴいえんど解散から松田聖子まで 松本隆インタビュー |pages=36-37 |volume=197巻 |publisher=[[流行通信|インフィス]]}}</ref>、[[1978年]]に一連の[[原田真二]]作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった<ref name="歌謡曲の神話" />。松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている<ref name="歌謡曲の神話"/>。 筒美京平とのコンビで[[中原理恵]]「[[東京ららばい]]」、[[桑名正博]]「[[セクシャルバイオレットNo.1]]」、[[近藤真彦]]「[[スニーカーぶる〜す]]」など、合計約380作品を手掛ける一方、[[1980年代]]より[[はっぴいえんど]]時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野との[[イモ欽トリオ]]「[[ハイスクールララバイ]]」や大瀧の大ヒット・アルバム『[[A LONG VACATION]]』、[[第23回日本レコード大賞]]を受賞した[[寺尾聰]]の「[[ルビーの指環]]」、そして[[松田聖子]]の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、[[阿久悠]]に代わり歌謡界で一時代を築き上げた<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2018-10|松田聖子に提供した詞の作品数は138曲にも上る。これは職業作詞家が特定の一人の[[アーティスト]]に提供した作品数としては他に例を見ない記録である}}。</ref>。松田聖子についてはプロデューサーの若松宗雄、編曲の[[大村雅朗]]とともに「聖子プロジェクト」の主要メンバーとして聖子を支え、松本の人脈を活かして作曲家を起用するなど、作詞家の範疇を超え総合的な曲のプロデュースに関わっていた<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/50040 「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ] - 文春オンライン・2021年11月28日</ref>。歌謡曲における“松本・筒美”コンビの名は後に伝説と化す。 その後も[[薬師丸ひろ子]]、[[斉藤由貴]]、[[中山美穂]]、[[C-C-B]]など多数のアイドル、アーティストに詞を提供したが、[[1989年]]に一時作詞家としての活動を「休憩」。[[1994年]]に本格的に作詞活動を再開するまでの間は能・歌舞伎・オペラ・クラシックなどの「古典」にはまり、1992年には[[フランツ・シューベルト]]『[[冬の旅]]』の現代口語訳を手掛けた<ref>[https://www.iza.ne.jp/article/20211113-7N34VZMI4ZMMJMDUW4GHYR75WI/ 「休憩」期間で没頭した古典からインスピレーション] - iza!・2021年11月13日</ref>。作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『[[微熱少年]]』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]の曲と同名タイトルである。 現在は自主レーベル「[[風待レコード]]」を設立し若手の育成に努めながら、[[KinKi Kids]]、[[中川翔子]]のヒット曲も手掛けるなど活躍中である。ドラマ『[[のだめカンタービレ (テレビドラマ)|のだめカンタービレ]]』では[[松田聖子]]の「[[ピンクのモーツァルト]]」を引用し、アニメ『[[マクロスF]]』の挿入歌「[[星間飛行]]」<!--([[ランカ・リー]]=[[中島愛]])-->のヒットなどで新たな世代にも存在をアピールした。 [[クラシック音楽]]にも造詣が深く、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の歌曲集「[[冬の旅]]」(1992年)、「[[美しき水車小屋の娘]]」(2004年)、「[[白鳥の歌 (シューベルト)|白鳥の歌]]」(2018年)<ref>[https://columbia.jp/prod-info/COCQ-85417/ 日本コロムビア商品情報]</ref> に現代日本語訳をつけた。1999年には、[[カナリア諸島]]へ伝説の指揮者[[カルロス・クライバー]]の演奏会を聴きに行ったことがある<ref>[http://www.j-wave.co.jp/original/worldaircurrent/lounge/back/030705/index.html 松本隆 - ANA WORLD AIR CURRENT]</ref>。また純邦楽作品として「[[幸魂奇魂]]」[https://s.jtcf.jp/item.php?id=VZCG-8501] 古事記より作曲「[[藤舎貴生]]」[[第54回日本レコード大賞]]企画賞受賞作品 [[アメリカ合衆国|米国]]・[[大韓民国|韓国]]・[[中華人民共和国|中国]]のドラマ・映画にも耽溺しているといわれる。近年の趣味では[[オンラインゲーム]]も嗜むようになり、以前開設していた松本自身のウェブサイトでは「[[エバークエスト2]]」などゲームのスクリーンショットまで載せるほどのゲーマーっぷりを発揮していた。愛車は[[レクサス・RC#RC F|レクサス・RC F]]<ref>[https://www.instagram.com/p/BBWlPHMqXzE/ 本人のinstagramより] 2016年2月4日投稿</ref> と [[レクサス・LC]] <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.instagram.com/p/BhvLz-mB3S_/?taken-by=takashi_mtmt |title=2018年4月19日投稿の本人のinstagramより「過半数が赤という不思議な駐車場。ぼくのも混じってるんだが、、、」 |accessdate=2018-04-23 |website=Instagram |publisher=}}</ref>。[[綾瀬はるか]]のファン<ref>{{Cite web|和書|title=アグネス、太田裕美…作詞家・松本隆の歌い手を巡る秘話 |work=[[女性自身]] |publisher=[[光文社]] |date=2020-03-17 |url=https://jisin.jp/entertainment/interview/1841665/ |accessdate=2020-03-20}}</ref>。 2013年、慶應義塾大学特選塾員となる。またこの年、[[神戸市|神戸]]へ移り住んだ<ref name="J-CAST_201609091502">[https://www.j-cast.com/tv/2016/09/09277544.html 松本隆が語ったラブソングの秘密「応援歌ではガンバレない。恋愛は自問自答」]([[J-CAST]]ニュース 2016年9月9日15:02配信)2016年9月19日閲覧</ref>。 2015年8月21日・22日、『松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえる『風街レジェンド2015』と冠したライブを[[東京国際フォーラム]]にて行った。松本が作詞を提供したアーティストらが数多く出演し、松本自身もはっぴいえんどのドラマーとしてステージに立った。両日とも公演時間は3時間30分以上に及ぶものであった<ref>[http://kazemachi-legend.com/#top 松本隆『風街レジェンド2015』〜作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト〜]</ref>。なお、本ライブの模様は、Blu-ray化し、2021年12月22日にリリースされる予定。38曲・約3時間にわたるライブ映像が収録される<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/450851|title=松本隆の45周年記念ライブ「風街レジェンド2015」がBlu-ray化|publisher=音楽ナタリー|date=2020-10-25|accessdate=2021-10-26}}</ref>。 2017年、[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]を受章<ref name="oricon20171102" /><ref name="shiju">[https://natalie.mu/music/news/255231 松本隆が紫綬褒章「自分の作品が自分の存在を証明してくれた」](2017年11月2日)、[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]、2017年11月2日閲覧。</ref>。 2020年11月2日、デビュー50周年を記念したトリビュートライブ『松本隆 50周年 風街古都 コトノハ』が[[京都コンサートホール]]アンサンブルホールムラタで開催された。但し、2019年以降の[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]による感染拡大の状況を受け(「[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況]]」、「[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)]]」、「[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響]]」参照)、無観客での開催・有料[[ストリーミング#ライブストリーミング|生配信]]を行った。出演者は[[曽我部恵一]]、[[城領明子]]、[[ノラオンナ]]、[[花*花]]、[[山田兎]]。サプライズゲストに[[岡林信康]]。 2020年11月20日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』を始動<ref>[https://takashimatsumoto50.com/ 松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト]</ref>。同日、プロジェクトのスタートアップとしてWeb配信番組「〜松本 隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト〜風街ちゃんねる」を開局。同年12月12日に第1回を配信(月に1回、全6回。有料配信)。松本とともに[[宇賀なつみ]]がMCを務め、毎回“風街の住人”をゲストに迎えて「作詞家・松本隆」のエピソードや秘話を時系列に沿って紐解いていくトーク番組<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/405505|title=松本隆の作詞活動50周年プロジェクト始動、Web番組「風街ちゃんねる」配信|publisher=音楽ナタリー|date=2020-11-20|accessdate=2021-05-14}}</ref>。2021年10月31日に最終回を配信した。 2020年12月10日、『松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム』の制作を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/feature_item/2021/04/07/0702|title=松本隆|作詞活動50周年トリビュートアルバム7月14日発売|publisher=TOWER RECORDS OMLINE|date=2021-04-07|accessdate=2021-05-14}}</ref>。 2021年7月14日、松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム『[[風街に連れてって!]]』が[[日本コロムビア#サブレーベル|びいだまレコーズ]]より発売。 2021年11月5日・6日、『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえるコンサート『風街オデッセイ2021』が[[日本武道館]]にて開催された。松本が作詞を提供したアーティストや縁のあるアーティスト40組以上が出演。松本は、[[細野晴臣]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]と共に、36年ぶりに"はっぴいえんど"のドラマーとして両日出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPC862Q9PC8UCVL01J.html?iref=pc_photo_gallery_bottom|title=【はっぴいえんど、松本隆50周年公演で復活 日本語ロックへ開いた道|publisher=朝日新聞デジタル|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-09}}</ref>。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を披露した。MCにおいて、1966年に[[ビートルズ]]が日本公演を行った際に、当時高校生だった松本はステージの正面(南スタンド)で公演を観て感銘を受けたことが、バンドを組む切っ掛けであったことを明かし「今、ここに立っています。あそこからここまで50年かかりました。今日は[[リンゴ・スター]]と同じ、[[ラディック・ムッサー|ラディック]]のドラムで」と感慨無量の言葉を述べ、万雷の拍手を受けた。<!--なお、本公演の模様は2022年2月に[[WOWOW]]において放送及び配信される予定<ref>{{Cite web|url=https://www.wowow.co.jp/info/info.php?info_id=7588&which=0|title=【2022年2月独占放送・配信決定】~松本 隆 作詞活動50周年記念 オフィシャル・プロジェクト~風街オデッセイ2021|publisher=WOWOW|date=2021-11-05|accessdate=2021-11-07}}</ref>。--> == 家族・親族 == 父:'''松本亘司''' - 1923年9月23日生まれ。茂十郎・むらの三男。元[[九州財務局|南九州財務局]]長、[[仙台銀行]]相談役。[[中央大学]][[商学部]]卒業<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。 母:'''知子''' - 1926年11月10日生まれ。斎藤嘉平の長女。[[高崎市立高崎経済大学附属高等学校|高崎市立高等女学校]]卒業<ref name=":2" />。実家は[[伊香保温泉]]の石段街にある[[明治|明治時代]]から続く[[営業写真館|写真館]]・斎藤写真店。日本営業写真業界の草分けで、[[徳冨蘆花]]の撮影も担当した<ref name=":0" />。 弟:'''裕''' - 1951年2月20日生まれ。[[レコーディング・エンジニア]]。株式会社ビークル代表取締役社長。[[日本大学生産工学部・大学院生産工学研究科|日本大学生産工学部]]卒業<ref name=":2" />。 妹:'''由美子''' - 6歳年下の妹で、生まれつき心臓が弱く、1980年6月13日に24歳で死去した。当時、 [[大滝詠一]]の『[[A LONG VACATION]]』制作中だったが、妹の死のショックに伴いスランプに陥り、一時詞を書けなくなる。松本は「別の作詞家を探してくれ」と言うも、大滝は、作詞は松本以外は考えておらず、松本が再び詞を書けるまで待った為、『A LONG VACATION』の発売が延期される。妹を喪った失意の中、渋谷の景色がモノクロームにしか見えなかった事が「[[君は天然色]]」の歌詞が生まれたきっかけとなった。 妻:これ迄に3度の婚姻・離婚歴あり。2016年に書道家の女性と3度目の結婚をするも、2019年に離婚した事が報じられた<ref>[https://article.auone.jp/detail/1/5/9/100_9_r_20220830_1661803482214348]</ref>。 == 主な作品 == {{Main|Category:松本隆が制作した楽曲}} 以下に歌手、アーティスト、グループの五十音順で記述します。 === あ行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[あいざき進也]] | * ミッドナイト急行(1977年1月25日、作曲:[[三木たかし]]) * 早春にはばたけ(1977年1月25日、作曲:三木たかし) | [[相本久美子]] | * チャイナタウンでよろめいて(1979年2月25日、作曲:[[穂口雄右]]) * お熱いのはお好き?(1979年6月21日、作曲:穂口雄右) | [[アグネス・チャン]] | * [[ポケットいっぱいの秘密]](1974年6月10日、作曲:穂口雄右) * 想い出の散歩道(1974年、作曲:[[馬飼野俊一]]) * 雨模様(1974年、作曲:穂口雄右) * はだしの冒険(1975年6月10日、作曲:[[平尾昌晃]]) * 心のとびら(1975年6月10日、作曲:平尾昌晃) * 愛はメッセージ(1976年8月10日、作曲:[[武川雅寛]]) * 心に翼を下さい(1977年4月25日、作曲:[[加瀬邦彦]]) * 雨の月曜日(1977年11月25日、作曲:[[加藤和彦]]) * アゲイン(1978年8月25日、作曲:[[吉田拓郎]]) * グッド・ナイト・ミスロンリー(1978年8月25日、作曲:[[松任谷正隆]]) * やさしさ知らず(1978年11月25日、作曲:松任谷正隆) * 3つの銅貨(1978年11月25日、作曲:松任谷正隆) * ハート通信(1978年12月21日、「ヨーイドン」収録、作曲:吉田拓郎) | [[朝加真由美]] | * ひとり暮らし(作曲:[[馬飼野康二]]) | [[浅香唯]] | * [[愛しい人と眠りたい]](1992年1月29日、作曲:[[大森隆志]]) * 友情(作曲:大森隆志) | [[浅田美代子]] | * [[少女恋唄]](1975年3月1日、作曲:[[三木たかし]]) * 紅い花(1975年3月1日、作曲:三木たかし) | [[浅野ゆう子]] | * センチメンタル海岸(1978年3月31日、作曲:馬飼野康二) | [[EVE (歌手グループ)|アップルズ]] | * ブルーエンジェル(青い天使)(作曲:馬飼野康二) * 恋はミステリー(作曲:穂口雄右) | [[あのねのね]] | * 人間は何て悲しいんだろう(1976年11月、作曲:加藤和彦) * 我がプロポーズ(作曲:加藤和彦) | [[阿部寛]] | * 君に捧げる歌(作曲:[[NOBODY (ロックバンド)|NOBODY]]) * 硝子のかけら(作曲:NOBODY) * 心のシャッター(作曲:[[財津和夫]]) * 綺麗になったね(作曲:財津和夫) * 魂の日々(作曲:[[木戸やすひろ]]) * 渚へ(作曲:[[村田和人]]) * パズル(作曲:[[中崎英也]]) | [[安部恭弘]] | * STILL I LOVE YOU(作曲:安部恭弘) * CAFE FLAMINGO(作曲:安部恭弘) * ジュリエット(作曲:安部恭弘) * TIGHT UP(作曲:安部恭弘) * RAINY DAY GIRL(作曲:安部恭弘) | [[天地真理]] | * レイン・ステイション(作曲:[[筒美京平]]) * 家なき子(作曲:筒美京平) * 愛・つづれ織り(1979年12月21日、作曲:[[森田公一]]) * 旅人は風の国へ(1979年12月21日、作曲:森田公一) | [[綾瀬はるか]] | * [[マーガレット (綾瀬はるかの曲)|マーガレット]](2010年8月11日、作曲:[[松任谷由実|呉田軽穂]]) | [[荒川務]] | * ブラームスは聞かない(作曲:馬飼野康二) | [[alan]] | * [[みんなでね 〜PANDA with Candy BEAR's〜/「生きる」|「生きる」]](2011年6月29日、作曲:[[菊池一仁]]) | [[THE ALFEE|アルフィー]] | * [[夏しぐれ]](1974年8月25日、作曲:[[筒美京平]]) * [[青春の記憶]](1975年5月25日、作曲:筒美京平) * 真夏の夢(作曲:筒美京平) * 心の扉(作曲:筒美京平) * 危険なリンゴ(作曲:筒美京平) * 水いらずの午後(作曲:筒美京平) ;[[ANKH]] * [[イマジネーション (ANKHの曲)|イマジネーション]](1980年7月21日、作曲:[[佐藤健 (作曲家)|佐藤健]]) * 至近距離(作曲:[[曾我泰久|曽我泰久]]) | [[飯島真理]] | * [[夢色のスプーン]](作曲:筒美京平) * リンゴの森の子猫たち(作曲:筒美京平) * [[1グラムの幸福]](1984年11月5日、作曲:飯島真理) * セシールの雨傘(作曲:飯島真理) | [[イエロー・マジック・オーケストラ]] | * [[君に、胸キュン。]](1983年3月25日、作曲:[[坂本龍一]]・[[高橋幸宏]]・[[細野晴臣]]) * [[過激な淑女]](1983年7月27日、作曲:坂本龍一・高橋幸宏・細野晴臣) | [[五十嵐浩晃]] | * [[サマー・トワイライト]](作曲:五十嵐浩晃) * [[再会 (五十嵐浩晃の曲)|再会]](作曲:五十嵐浩晃) * キプロスの砂(作曲:五十嵐浩晃) * 君の生き方をつらぬいて(作曲:五十嵐浩晃) * DAY DREAM(作曲:五十嵐浩晃) | [[五十嵐夕紀]] | * 第一印象(作曲:[[川口真]]) * 面影ありがとう(作曲:川口真) * えとらんぜ(作曲:吉田拓郎) * ほ・ほ・え・み(作曲:吉田拓郎) * [[ワル! (泣くのはおよし)]](1978年10月20日、作曲:[[都倉俊一]]) * メイク・アップ(作曲:都倉俊一) | [[石川秀美]] | * 妖精時代(作曲:[[小田裕一郎]]) * ゆ・れ・て湘南(作曲:小田裕一郎) * 初恋通信(作曲:小田裕一郎) * ガラスのブローチ(作曲:小田裕一郎) * 水色のカナリア(作曲:小田裕一郎) * 禁じられた恋の島(作曲:小田裕一郎) * 海のスケッチ(作曲:小田裕一郎) * ストロベリー・シェイク(作曲:[[林哲司]]) * はちみつテイスト(作曲:林哲司) | [[石川ひとみ]] | * 三枚の写真(作曲:[[大野克夫]]) * ハート通信(作曲:吉田拓郎) | [[石毛礼子]] | * 旅の手帖(作曲:[[網倉一也]]) * 涙のコンチェルト(作曲:松宮恭子) | [[石田純一]] | * ジゴロ(作曲:[[田島貴男]]) * MINT JULEP(作曲:羽場仁志) ;[[石野真子]] * めぐり逢い(作曲:[[上田知華]]) * コートダジュールで(作曲:加藤和彦) | [[五木ひろし]] | * 抱擁(作曲:平井夏美) * 胡蝶蘭(作曲:[[関口誠人]]) * 街灯(作曲:[[玉置浩二]]) * 夏の雨、リスボンで(作曲:平井夏美) * 水蜜桃(作曲:[[金子隆博]]) * 愛情のワルツ(作曲:平井夏美) * 終着駅(作曲:玉置浩二) * 求婚(作曲:玉置浩二) * 紅葉狩(作曲:関口誠人) * 孤独な女(作曲:吉田拓郎) * 時のせせらぎ(作曲:吉田拓郎) * 白い百合(作曲:[[五木ひろし]]) * 心の三叉路(作曲:金子隆博) | [[五つの赤い風船]] | * えんだん(作曲:[[西岡たかし]]) | [[伊藤咲子]] | * 友達になろう(作曲:吉田拓郎) | [[伊東ゆかり]] | * ロマンチスト(作曲:筒美京平) * プレイボーイ・マガジン(作曲:筒美京平) | [[稲垣潤一]] | * バチェラーガール(作曲:[[大瀧詠一]]) * 恋するカレン(作曲:大瀧詠一) * カナリア諸島にて(作曲:大瀧詠一) * 微熱少年(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]) | [[井上あずみ]] | * 桜、舞う(作曲:馬飼野康二) | [[イモ欽トリオ]] | * [[ハイスクールララバイ]](1981年8月5日、作曲:[[細野晴臣]]) * [[ティアドロップ探偵団]](作曲:細野晴臣) * サーフサイドX(作曲:[[井上大輔]]) * ティーンエイジ・イーグルス(作曲:細野晴臣) * エレクトリック・スーパーマン(作曲:細野晴臣) * 閃光ロック(作曲:井上大輔) * 高校三年生 '82(作曲:南高節) * 美少女エレジー(作曲:吉田拓郎) * 失恋レッスン (A・B・C)(作曲:細野晴臣) * 初恋のマドンナ(作曲:南高節) * ハートブレイク・トレイン(作曲:井上大輔) * 雨のライダー ブルース(作曲:細野晴臣) * 制服のエンジェル(作曲:吉田拓郎) | [[岩崎宏美]] | * [[摩天楼 (岩崎宏美の曲)|摩天楼]](作曲:[[濱田金吾|浜田金吾]]) * 絵空事(作曲:浜田金吾) * [[檸檬 (岩崎宏美の曲)|檸檬]](作曲:[[鈴木キサブロー]]) * 影絵(シルエット)(作曲:鈴木キサブロー) * [[真珠のピリオド]](作曲:筒美京平) * 夜明けの天使たち(作曲:筒美京平) | [[Wink]] | * [[One Night In Heaven 〜真夜中のエンジェル〜]](作曲:[[スティーブ・リローニ]]・[[ダン・ナヴァーロ]]) * Shining Star(作曲:尾関昌也) | [[植木等]] | * FUNX4(作曲:大瀧詠一) | [[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]] | * いつか……(作曲:[[小坂忠]]・[[細野晴臣]]) * 母なる大地–I(作曲:菊池英二) * 母なる大地–II(作曲:菊池英二) * 暗い日曜日(作曲:細野晴臣) | [[NHK学園高等学校]] | * 最高のぼくら(校歌)(2018年4月、作曲:[[秦基博]])<ref>{{Cite news |title=これが校歌!?ーNHK学園高等学校の新校歌お披露目 {{!}} 通信制のNHK学園高等学校 |author=日本放送協会学園 |url=https://www.n-gaku.jp/sch/topics/2018/03/16/3383.html |accessdate=2018-04-26 |work=通信制のNHK学園高等学校}}</ref><ref>{{Citation |title=NHK学園高等学校新校歌「最高のぼくら」歌詞付き |author=学園NHK |date=2018-04-18 |url=https://www.youtube.com/watch?v=ea2xuWq3r_U |accessdate=2018-04-26}}</ref> | [[大瀧詠一|大滝詠一]] | * [[恋の汽車ポッポ]](作詞:江戸門弾鉄、作曲:多羅尾伴内) * それはぼくじゃないよ(作曲:大瀧詠一) * 空飛ぶくじら(作詞:江戸門弾鉄、作曲:多羅尾伴内) * 指切り(作曲:大瀧詠一) * 乱れ髪(作曲:大瀧詠一) * [[君は天然色]](作曲:大瀧詠一) * Velvet Motel(作曲:大瀧詠一) * [[カナリア諸島にて]](作曲:大瀧詠一) * 我が心のピンボール(作曲:大瀧詠一) * [[雨のウェンズデイ]](作曲:大瀧詠一) * スピーチ・バルーン(作曲:大瀧詠一) * [[恋するカレン]](作曲:大瀧詠一) * FUNX4(作曲:大瀧詠一) * さらばシベリア鉄道(作曲:大瀧詠一) * オリーブの午后(作曲:大瀧詠一) * 白い港(作曲:大瀧詠一) * Water Color(作曲:大瀧詠一) * ♥(ハート)じかけのオレンジ(作曲:大瀧詠一) * 魔法の瞳(作曲:大瀧詠一) * 夏のペーパーバック(作曲:大瀧詠一) * 木の葉のスケッチ(作曲:大瀧詠一) * 恋のナックルボール(作曲:大瀧詠一) * 銀色のジェット(作曲:大瀧詠一) * 1969年のドラッグレース(作曲:大瀧詠一) * ガラス壜の中の船(作曲:大瀧詠一) * ペパーミント・ブルー(作曲:大瀧詠一) * レイクサイドストーリー(作曲:大瀧詠一) * Bachelor Girl(作曲:大瀧詠一) * [[フィヨルドの少女]](作曲:大瀧詠一) | [[太田裕美]] | * あこがれ(作曲:都倉俊一) * 朝顔の花(作曲:都倉俊一) * [[雨だれ (太田裕美の曲)|雨だれ]](作曲:筒美京平) * 白い季節(作曲:筒美京平) * [[たんぽぽ (太田裕美の曲)|たんぽぽ]](作曲:筒美京平) * リラの花咲く頃(作曲:筒美京平) * [[夕焼け (太田裕美の曲)|夕焼け]](作曲:筒美京平) * 水曜日の約束(作曲:筒美京平) * [[木綿のハンカチーフ]](作曲:筒美京平) * 揺れる愛情(作曲:筒美京平) * [[袋小路 (太田裕美の曲)|袋小路]](作曲:荒井由実) * [[ひぐらし (太田裕美の曲)|ひぐらし]](作曲:荒井由実) * [[青春のしおり (太田裕美の曲)|青春のしおり]](作曲:佐藤健) * [[七つの願い事 (太田裕美の曲)|七つの願い事]](作曲:萩田光雄) * [[赤いハイヒール]](作曲:筒美京平) * [[茶色の鞄 (太田裕美の曲)|茶色の鞄]](作曲:筒美京平) * [[最後の一葉 (太田裕美の曲)|最後の一葉]](作曲:筒美京平) * 銀のオルゴール(作曲:筒美京平) * [[湘南アフタヌーン (太田裕美の曲)|湘南アフタヌーン]](作曲:山田パンダ) * [[しあわせ未満]](作曲:筒美京平) * 初恋ノスタルジー(作曲:筒美京平) * [[恋愛遊戯]](作曲:筒美京平) * 心象風景(作曲:筒美京平) * [[九月の雨]](作曲:筒美京平) * マニキュアの小壜(作曲:筒美京平) * [[恋人たちの100の偽り]](作曲:筒美京平) * 四季絵巻(作曲:筒美京平) * [[失恋魔術師]](作曲:吉田拓郎) * [[花吹雪 (太田裕美の曲)|花吹雪]](作曲:吉田拓郎) * [[鍵 (太田裕美の曲)|鍵]](作曲:吉田拓郎) * [[ドール (太田裕美の曲)|ドール]](作曲:筒美京平) * [[振り向けばイエスタディ]](作曲:筒美京平) * 海が泣いている(作曲:筒美京平) * [[さらばシベリア鉄道]](作曲:大瀧詠一) * [[恋のハーフムーン]](作曲:大瀧詠一) * [[ブルー・ベイビー・ブルー (太田裕美の曲)|ブルー・ベイビー・ブルー]](作曲:大瀧詠一) * [[さよならの岸辺 (太田裕美の曲)|さよならの岸辺]](作曲:太田裕美) * [[イルカが空を泳ぐ晩 (太田裕美の曲)|イルカが空を泳ぐ晩]](作曲:太田裕美) * [[魂のピリオド (太田裕美の曲)|魂のピリオド]](作曲:筒美京平) * 水彩画の日々(作曲:筒美京平) * ハーブの香り(作曲:筒美京平) | [[大竹しのぶ]] | * 白いヴェール(作曲:[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]) | [[大西結花]] | * チューリップの蕾(作曲:[[南佳孝]]) * 好きにして…(作曲:[[ジョーイ・カーボーン]]) ;[[大橋純子]] * ペイパー・ムーン(作曲:筒美京平) * やさしい人(作曲:筒美京平) * ジョーク(作曲:萩田光雄) * ひきしお(作曲:[[佐藤健 (作曲家)|佐藤健]]) * キャシーの噂(作曲:林哲司) * シンプル・ラブ(作曲:佐藤健) * 今シルエットのように(作曲:佐藤健) * ミスター・スマイル(作曲:佐藤健) * 落日風景(作曲:増尾元章) * 炎のヒロイン(作曲:[[深町純]]) * スターライト・トレイン(作曲:佐藤健) * ラブ・マシーン(作曲:佐藤健) * 火のように水のように(作曲:筒美京平) | [[岡田奈々]] | * 握手しようよ(作曲:佐藤健) * 雨のテレフォン(作曲:瀬尾一三) * ひとりごと(作曲:都倉俊一) * ひとりぼっちの幸福(作曲:都倉俊一) * 女学生(作曲:都倉俊一) * 放課後(作曲:都倉俊一) * くちづけ(作曲:森田公一) * 青いめまい(作曲:森田公一) * [[青春の坂道]](作曲:森田公一 ※補作詞、雑誌『明星』募集歌) * 恋はかくれんぼ(作曲:森田公一) * [[若い季節 (岡田奈々の曲)|若い季節]](作曲:[[佐藤健 (作曲家)|佐藤健]]) * [[手編みのプレゼント]](作曲:佐藤健) * 地図のない旅(作曲:瀬尾一三) * [[かざらない青春]](作曲:佐藤健) * プリーズ・プリーズ(作曲:瀬尾一三) | [[荻野目洋子]] | * フリージアの雨(作曲:[[船山基紀]]) * 2Bの鉛筆(作曲:船山基紀) * 生命の詩(作曲:[[服部克久]]) * TOKYO GIRL(作曲:[[林田健司]]) * 海の珊瑚(作曲:林田健司) | [[尾崎紀世彦]] | * サングリア - 真昼の夢 -(作曲:筒美京平) * 愛の追跡(作曲:筒美京平) | [[オトナモード]] | * 雨色(作曲:高橋啓太) * ミルフィーユ(作曲:高橋啓太) | [[小幡洋子]] | * もしも空を飛べたら(作曲:筒美京平)※「[[天空の城ラピュタ]]」イメージソング | [[オフコース|オフ・コース]] | * [[忘れ雪 (曲)|忘れ雪]](作曲:筒美京平) * [[忘れ雪 (曲)|水いらずの午後]](作曲:筒美京平) | [[ORIGINAL LOVE]] | * 夜行性(作曲:[[田島貴男]]) * 守護天使(作曲:田島貴男) * Hey Space Baby!(作曲:田島貴男) | [[オレンジ・シスターズ]] | * アメリカからの手紙(作曲:[[松尾清憲]]) }} }} === か行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[柏原芳恵]] | * [[ト・レ・モ・ロ]](作曲:[[筒美京平]]) * [[ト・レ・モ・ロ|海岸線]](作曲:筒美京平) | [[加藤ミリヤ]] | * ディア ロンリーガール(作曲:[[マーヴィン・ゲイ|Marvin Gaye]], David Ritz, Odell Elliot Brown Jr., 他)※補作詞 | [[角川博]] | * うさぎ温泉音頭(作曲:[[大瀧詠一]]) | [[金井夕子]] | * ラスト ワルツ イン ブルー(作曲:筒美京平) * Loving You(作曲:筒美京平) * オリエンタル ムーン(作曲:筒美京平) * ロックンロール・グッバイ(作曲:筒美京平) * Hollywood Night(作曲:筒美京平) * Morning Air(作曲:筒美京平) * 月光小夜曲 ムーンライト セレナーデ(作曲:筒美京平) * A BOY FROM ANDES(作曲:筒美京平) | [[金沢明子]] | * [[イエロー・サブマリン音頭]] 訳詞(作曲:[[ジョン・レノン|Lennon]] - [[ポール・マッカートニー|McCartney]]、編曲:[[萩原哲晶]]、プロデュース:大瀧詠一) | [[かまやつひろし]] | * 水無し川(作曲:[[吉田拓郎]]) * 親父よ(作曲:かまやつひろし) * 仁義なき戦い(作曲:[[細野晴臣]]) * 道化役(作曲:[[日高富明]]) | [[亀淵友香]] | * 砂糖菓子の街(作曲:[[矢野誠 (ミュージシャン)|矢野誠]]) | [[加山雄三]] | * 光進丸(作曲:[[加山雄三|弾厚作]]) * フィジーにおいで(作曲:弾厚作) | [[KAYO]] | * 三つ編みヒロイン(作曲:[[細野晴臣]]) | [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]] | * ビートルズはもう聞かない(作曲:佐藤健) | [[川田あつ子]] | * 秘密のオルゴール(作曲:[[財津和夫]]) * 哀しみよ今日は(作曲:財津和夫) | [[川村ゆうこ]] | * 孤独なランナー(作曲:[[大野克夫]]) * ロンサム通り(作曲:大野克夫) | [[神田広美]] | * 人見知り(作曲:[[穂口雄右]]) * 霙景色(作曲:穂口雄右) * 哀しみ予報(作曲:穂口雄右) * 真珠橋(作曲:穂口雄右) * 薔薇詩集(作曲:[[馬飼野俊一]]) * アネモネの詩(作曲:馬飼野俊一) * ドンファン(作曲:吉田拓郎) * 屋根の上の仔猫(作曲:馬飼野俊一) * 赤い羽(作曲:馬飼野俊一) * 待ち呆気(作曲:馬飼野俊一) * 薔薇詩集(作曲:馬飼野俊一) | [[北村優子]] | * ハロー・サンシャイン(作曲:穂口雄右) * ジェラシー(作曲:穂口雄右) | [[木之内みどり]] | * 学生通り(作曲:[[財津和夫]]) * いじっぱりな私(作曲:財津和夫) * グッド・フィーリング(作曲:財津和夫) * 氷イチゴの頃(作曲:財津和夫) * 兄貴ごめんね(作曲:財津和夫) * 東京メルヘン(作曲:吉田拓郎) * フルーツ(作曲:[[実川俊]]) * ヨーヨー(作曲:市川善光) * ゆめまくら(作曲:小泉まさみ) * シティー・ライト(作曲:マイケル・K・中村) * ジュ・テーム(作曲:佐藤健) * イマージュ(作曲:[[谷山浩子]]) * 走れ風のように(作曲:[[平尾昌晃]]) * 愛に肩寄せて(作曲:平尾昌晃) | [[KinKi Kids]] | * [[硝子の少年]](1997年、作曲:[[山下達郎]]) * [[A album#収録曲|Kissから始まるミステリー]](1997年、作曲:山下達郎) * [[ジェットコースター・ロマンス]](1998年、作曲:山下達郎) * [[B album#収録曲|このまま手をつないで]](1998年、作曲:[[馬飼野康二]]) * [[Happy Happy Greeting]](1998年、作曲:山下達郎) * [[シンデレラ・クリスマス]](1998年、作曲:谷本新) * [[ボクの背中には羽根がある]](2001年、作曲:[[織田哲郎]]) * [[薄荷キャンディー]](2003年、作曲・編曲:Fredrik Hult, Ola Larsson, Öystein Grindheim, Henning Harturng) * [[スワンソング (KinKi Kidsの曲)|スワンソング]](2009年、作曲:瀬川浩平) * [[K album#収録曲|同窓会]](2011年、作曲:林田健司) * [[K album#収録曲|ラジコン]](2011年、作曲:筒美京平) * [[K album#収録曲|ヒマラヤ・ブルー]](2011年、作曲:織田哲郎) * [[O album#CD|99%]](2020年、作曲:細野晴臣) * [[高純度romance]](2022年、作曲:[[マシコタツロウ]]) | [[キャプテンストライダム]] | * [[風船ガム (曲)|風船ガム]](作曲:[[永友聖也]]) | [[草川祐馬]] | * 西暦2001年(作曲:馬飼野康二) * 哀愁のシアター(作曲:馬飼野康二) | [[クミコ]] | * お帰りなさい(作曲:筒美京平) * かみかくし(作曲:[[あがた森魚]]) * 銀幕の雨(作曲:[[鈴木慶一]]) * 心の指紋(作曲:筒美京平) * さいごの抱擁(作曲:[[川原伸司|平井夏美]]) * 接吻(作曲:[[植野慶子]]) * 千とひとつの夜(作曲:[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]) * ちょうちょ(作曲:筒美京平) * 昼顔(作曲:植野慶子) * ままごと(作曲:[[細野晴臣]]) * 蜜柑水(作曲:[[coba]]) * やさしい娼婦(作曲:[[鈴木博文]]) * 情熱(作曲:筒美京平) * 鳥の歌(作曲:カタロニア民謡) * さみしいときは恋歌を歌って(作曲:[[秦基博]])<ref>{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2074343/full/ |title=松本隆氏、秦基博の作曲力称賛「サビの詰め合わせみたい」 |newspaper=ORICON STYLE |date=2016-07-01 |accessdate=2016-07-01}}</ref> * 不協和音(作曲:[[七尾旅人]]) * 消しゴム(作曲:[[吉澤嘉代子]]) * フローズン・ダイキリ(作曲:[[横山剣]]) * しゃくり泣き(作曲:村松崇継) * 枝垂桜(作曲:亀田誠治) * セレナーデ(作曲:[[フランツ・シューベルト]]) * 恋に落ちる(作曲:永積 崇) * 砂時計(作曲:[[つんく]]) * 輪廻(作曲:菊地成孔) * チューリップ(作曲:JY Choi) | [[桑名正博]] | * 真夜中列車第2便(作曲:桑名正博) * 哀愁トゥナイト(作曲:筒美京平) * さよならの夏(作曲:筒美京平) * フェアウェル・モーニング(作曲:筒美京平) * 恋とブギウギ(作曲:桑名正博) * サマー・スウェット(作曲:筒美京平) * セントラル・パーク(作曲:桑名正博) * ダンシング(作曲:桑名正博) * 薔薇と海賊(作曲:筒美京平) * キャディラック(作曲:筒美京平) * 毛皮のビーナス(作曲:筒美京平) * 満潮(作曲:筒美京平) * サード・レディー(作曲:筒美京平) * テキーラ・ムーン(作曲:筒美京平) * ロード・マシーン(作曲:桑名正博) * スコーピオン(作曲:筒美京平) * 俺たちに明日はない(作曲:筒美京平) * [[セクシャルバイオレットNo.1]](作曲:筒美京平) * You're my baby(作曲:筒美京平) * THE SUPER STAR(作曲:筒美京平) * スポーツ・ウーマン(作曲:筒美京平) * ムーディー・ウーマン(作曲:筒美京平) * TO BE OF NOT TO BE(作曲:筒美京平) | [[桑原一郎 (歌手)|桑原一郎]] | * 谷間の百合(作曲:筒美京平) | [[研ナオコ]] | * 日本人形(作曲:細野晴臣) | [[小泉今日子]] | * 迷宮のアンドローラ(作曲:筒美京平) * DUNK(男区)(作曲:筒美京平) * 哀愁小町(作曲:馬飼野康二) * 天然色のロケット(作曲:筒美京平) * [[魔女 (小泉今日子の曲)|魔女]](作曲:筒美京平) * 気分はハートブレイク(作曲:筒美京平) * [[水のルージュ]](作曲:筒美京平) * Kiss(作曲:筒美京平) * [[ウインク・キラー]](作曲:和泉宏隆) * 素直じゃなくって御免(作曲:[[林哲司]]) * 純愛(作曲:[[大澤誉志幸|大沢誉志幸]]) * Free(作曲:馬飼野康二) | [[香坂みゆき]] | * 愛の芽ばえ(作曲:[[穂口雄右]]) * 初恋宣言(作曲:馬飼野康二) * グッバイ・サマー(作曲:馬飼野康二) * 昨日より抱きしめて(作曲:[[佐藤準]]) * プラネタリウム(作曲:穂口雄右) * 時々 妖精のように(作曲:穂口雄右) * あなたにはかなわない(作曲:穂口雄右) * フリージア・モーニング(作曲:穂口雄右) * 感じるんです(作曲:穂口雄右) * 初恋宣言(作曲:穂口雄右) * 愛の芽ばえ(作曲:穂口雄右) * 青い芽(作曲:穂口雄右) * 365粒の涙(作曲:穂口雄右) * GOOD NIGHT(作曲:穂口雄右) * 昨日より抱きしめて(作曲:[[佐藤隆 (シンガーソングライター)|佐藤隆]]) | [[郷ひろみ]] | * サファイア・ブルー(作曲:[[井上陽水]]) | [[小坂忠]] | * 氷雨のスケッチ(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]) * しらけちまうぜ(作曲:[[細野晴臣]]) * 流星都市(作曲:細野晴臣) | [[児島未散]] | * セプテンバー物語(作曲:[[林哲司]]) * サンセット・ブールバード(作曲:林哲司) * プリテンド(作曲:林哲司) * 海のリトグラフ(作曲:林哲司) | [[ゴスペラーズ]] | * [[ローレライ (ゴスペラーズの曲)|ローレライ]](作曲:井上大輔) | [[ゴダイゴ]] | * [[(カミング・トゥゲザー・イン)カトマンズ]] 日本語詞(英語詞:[[奈良橋陽子]]、作曲:[[タケカワユキヒデ]]) | [[後藤恭子]] | * ペガサスの少女(作曲:[[林哲司]]) | [[後藤久美子]] | * 制服の天使(作曲:筒美京平) * タータン・チェックの手紙(作曲:筒美京平) | [[小林明子]] | * 真実(作曲:小林明子) | [[小林幸子]] | * [[さよならありがとう]](作曲:松本俊明) | [[小室みつ子]] | * Angel Walk(作曲:筒美京平) | [[近藤名奈]] | * 1グラムの幸福(作曲:飯島真理)※飯島真理のカヴァー | [[近藤真彦]] | * [[スニーカーぶる〜す]](作曲:筒美京平) * 哀しきハイスクール(作曲:筒美京平) * ストリート・レーサー(作曲:馬飼野康二) * ためいき倶楽部(作曲:筒美京平) * サマーウェーブ(作曲:筒美京平) * さらば流星ガール(作曲:[[芳野藤丸]]) * [[ヨコハマ・チーク]](作曲:筒美京平) * 嘆きのリンダ(作曲:筒美京平) * [[ブルージーンズ メモリー (シングル)|ブルージーンズ メモリー]](作曲:筒美京平) * KOでOK(作曲:筒美京平) * ひとりぼっちのバースデー(作曲:筒美京平) * 火遊びセブンティーン(作曲:[[濱田金吾]]) * [[ふられてBANZAI]](作曲:筒美京平) * 瞬間BEAUTIFUL(作曲:[[長沢ヒロ]]) * ラスト・チャンスは俺にくれ(作曲:筒美京平) * 憧れのリゾート・クイーン(作曲:筒美京平) * [[ハイティーン・ブギ (曲)|ハイティーン・ブギ]](作曲:[[山下達郎]]) * MOMOKO(作曲:山下達郎) * [[ホレたぜ!乾杯]](作曲:筒美京平) * [[ミッドナイト・ステーション]](作曲:筒美京平) * 天国でプラトニック(作曲:筒美京平) * 天使の休息(作曲:長沢ヒロ) * Z(作曲:長沢ヒロ) * RACER(作曲:芳野藤丸) * ハート・クラッシュ(作曲:筒美京平) * See You Again(作曲:筒美京平) * [[ためいきロ・カ・ビ・リー]](作曲:筒美京平) * Hey Girl(作曲:筒美京平) * 10ccの涙(作曲:芳野藤丸) * 四月物語(作曲:濱田金吾) * ハイウェイ・スター(作曲:鈴木キサブロー) * [[ロイヤル・ストレート・フラッシュ (近藤真彦の曲)|ロイヤル・ストレート・フラッシュ]](作曲:筒美京平) * [[永遠に秘密さ]](作曲:山下達郎) * One more time(作曲:山下達郎) * [[Made in Japan (近藤真彦の曲)|Made in Japan]](作曲:筒美京平) * Baby It's You(作曲:筒美京平) * KISS(作曲:筒美京平) * デスペラード -ならず者-(作曲:[[馬飼野康二|Mark Davis]]) }} }} === さ行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[西城秀樹]] | * [[聖・少女]](作曲:[[吉田拓郎]]) * 夕陽よ、俺を照らせ(作曲:吉田拓郎) * スポーツ・ガール(作曲:[[大瀧詠一]]) * ロンサム・シティ(作曲:大瀧詠一) | [[PSY・S]] | * [[be with YOU]](作曲:[[松浦雅也]]) * Power Stone(作曲:松浦雅也) | [[斉藤由貴]] | * [[卒業 (斉藤由貴の曲)|卒業]](作曲:[[筒美京平]]) * 青春(作曲:筒美京平) * [[初戀 (斉藤由貴の曲)|初戀]](作曲:筒美京平) * コスモス通信(作曲:[[来生たかお]]) * 海の絵葉書(作曲:筒美京平) * [[情熱 (斉藤由貴の曲)|情熱]](作曲:筒美京平) * ささやきの妖精(作曲:筒美京平) * [[青空のかけら]](作曲:[[亀井登志夫]]) * 指輪物語(作曲:[[崎谷健次郎]]) * 雪灯りの町(作曲:[[来生たかお]]) | [[酒井法子]] | * [[幸福なんてほしくないわ]](作曲:[[吉田拓郎|入江剣]]) | [[坂上香織]] | * [[レースのカーディガン]](作曲:[[来生たかお]]) * Privacy(作曲:[[井上ヨシマサ]]) * [[赤いポシェット]](作曲:[[財津和夫]]) * 不思議なオルゴール(作曲:井上ヨシマサ) * レモンを齧りながら(作曲:来生たかお) * 緑の散歩道(作曲:[[鈴木キサブロー]]) * 友達になりたい(作曲:[[萩田光雄]]) * 蜜の月(作曲:来生たかお) * わがままな空模様(作曲:井上ヨシマサ) * 氷の人魚(作曲:[[鈴木キサブロー]]) * 海を見てる少女(作曲:[[萩田光雄]]) * [[プラトニックつらぬいて]](作曲:[[後藤次利]]) * もう一度振り向いて(作曲:井上ヨシマサ) * 風をあつめて(作曲:[[細野晴臣]])※[[はっぴいえんど]]のカバー * ソバカスのある少女(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]])※はっぴいえんどのカバー | [[榊原郁恵]] | * ROBOT(ロボット)(作曲:筒美京平) * 恋はう・ら・は・ら(作曲:筒美京平) | [[桜田淳子]] | * [[リップスティック (桜田淳子の曲)|リップスティック]](作曲:筒美京平) * トロピカル・ランデブー(作曲:筒美京平) * サマータイム・ブルース(作曲:筒美京平) | [[さとうあき子]] | * ブルーバタフライ(作曲:筒美京平) * リリシズム(作曲:筒美京平) | [[佐藤隆 (シンガーソングライター)|佐藤隆]] | * 北京で朝食を(作曲:佐藤隆) | [[佐東由梨]] | * どうして?!(作曲:筒美京平) * ロンリー・ガール(作曲:筒美京平) | [[里中茶美]] | * ティーンエイジ・セレナーデ(作曲:小森田実) * 魔法のビート(作曲:小森田実) * 失恋(作曲:山口美央子) | [[沢田研二]] | * 燃えつきた二人(作曲:[[加瀬邦彦]]) * 影絵(作曲:沢田研二) | [[沢田玉恵]] | * 花の精 -わたしのON・AIR-(作曲:筒美京平) * 水蜜桃(作曲:筒美京平) * 紫外線(作曲:筒美京平) * 醒めた夢(作曲:筒美京平) | [[沢田富美子]] | * 青空on my mind(作曲・編曲:松任谷正隆) | [[C-C-B]] | * [[Romanticが止まらない]](作曲:筒美京平) * I SAY, I LOVE YOU(作曲:筒美京平) * [[スクール・ガール]](作曲:筒美京平) * もっとハートフルに愛して(作曲:筒美京平) * [[Lucky Chanceをもう一度]](作曲:筒美京平) * サーフ・ブレイク(作曲:筒美京平) * [[空想Kiss]](作曲:筒美京平) * 御意見無用、花吹雪(作曲:筒美京平) * [[元気なブロークン・ハート]](作曲:筒美京平) * スワンの城(作曲:筒美京平) * [[不自然な君が好き]](作曲:[[関口誠人]]) * [[ないものねだりのI Want You]](作曲:筒美京平) * [[2 Much,I Love U.]](作曲:筒美京平) * [[原色したいね]](作曲:[[渡辺英樹]]) * Love Is Light(作曲:筒美京平) * [[抱きしめたい (C-C-Bの曲)|抱きしめたい]](作曲:筒美京平) * Inner Mind(作曲:渡辺英樹) * [[恋文 (C-C-Bの曲)|恋文(ラブレター)]](作曲:渡辺英樹) * [[Love Is Magic]](作曲:筒美京平) * 約束(作曲:筒美京平) * 急接近(作曲:渡辺英樹) * スクール・ボーイ(作曲:筒美京平) * Forever(作曲:筒美京平) * 二人のシーズン(作曲:関口誠人) * 浮気なジル(作曲:筒美京平) * メモリーなんていらない(作曲:関口誠人) * Here Comes The C-C-B(作曲:筒美京平) * リスキーゲーム(作曲:筒美京平) * 空想Kiss-2(作曲:筒美京平) * JOKEじゃなしに I LOVE YOU(作曲:筒美京平) * ハードボイルド物語(作曲:筒美京平) * TOO YOUNG(作曲:筒美京平) * 青いブランケット(作曲:[[米川英之]]) * Cherry Forest(作曲:[[田口智治]]) * Cyber-Commander(作曲:田口智治) * プリマドンナ(作曲:[[笠浩二]]) * Velvet Touch(作曲:米川英之) * Only For You,Only For Me.(作曲:米川英之) * Blue Guitar(作曲:米川英之) | [[渋谷哲平]] | * [[Deep (ディープ)]](作曲:[[都倉俊一]]) | [[島田奈央子|島田奈美]] | * パウダー・スノーの妖精(作曲:[[林哲司]]) * Free Balloon(作曲:林哲司) * パステル・ブルーのためいき(作曲:林哲司) * ハロー・レディ(作曲:財津和夫) * タンポポの草原(作曲:井上ヨシマサ) * NO!(作曲:佐藤健) * Kissは元気の出る薬(作曲:財津和夫) * Mint Tea Without Sugar(作曲:[[小坂明子]]) * +αの勇気(作曲:大沢誉志幸) | [[清水宏次朗]] | * 今夜だけDarling(作曲:[[織田哲郎]]) * Down Town Alley(作曲:織田哲郎) * Love Balladeは歌えない(作曲:織田哲郎) * TOUCH DOWN(作曲:[[鈴木キサブロー]]) * 俺たちのシーズン(作曲:清水宏次朗) * 19BOX(ジューク・ボックス) * アルバイトブギ(作曲:[[井上大輔]]) | [[少年隊]] | * [[バラードのように眠れ]](作曲:筒美京平) * [[魔法のウインク]](作曲:筒美京平) * [[stripe blue]](作曲:筒美京平) * [[ABC (少年隊の曲)|ABC]](作曲:筒美京平) * [[自然にkissして]](作曲:筒美京平) * [[雨のスタジアム]](作曲:筒美京平) | [[Johnny]] | * [[$百萬BABY]](作曲:Johnny) * ジュリエットの幻影(作曲:Johnny) | 白鳥哲 | * ひとりだち(作曲:吉田拓郎) | [[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]] | (作曲は全て鈴木茂) * 砂の女 ※鈴木茂とハックルバック名義でも発表 * 100ワットの恋人 ※鈴木茂とハックルバック名義でも発表 * 八月の匂い * 微熱少年 * 人力飛行機の夜 * 夕焼け波止場 * 銀河ラプソディー * LADY PINK PANTHER * デビル・ゲーム * BRANDY WINE * TOKYO・ハーバー・ライン * 走れラビット * コルドバの夜 * 8分音符の詞(8 NOTE-SONG) * レイニー・ステーション * サマー・ワイン * 風信子(ヒヤシンス) * ジュリエット * サテン・ドール * TSUPPARING BLUES * MOON BABY * Tuesday Queen * イメージ・チェンジ * ラハイナ・ガール * ストリップ・ティーズ * マドモアゼル * スパニッシュ・フライ(媚薬) * ハヴァナ・シガレット * 10セントの魂 * スウィート・インスピレーション * 幻花(まぼろし) * Galaxy Girl * VIVA CALIFORNIA * BAD DREAM * Cold Blood | [[鈴木康博]] | (作曲は全て鈴木康博) * ALONE * スターライト・セレナーデ | [[スターボー]] | * [[ハートブレイク太陽族]](作曲:[[細野晴臣]]) * TOKYOベイ・ブルース(作曲:細野晴臣) * 月世界ナイト(作曲:細野晴臣) * 火星のプリンセス(作曲:細野晴臣) * 100億光年の恋人(作曲:細野晴臣) | [[関口誠人]] | * [[天河伝説殺人事件 (映画)#主題歌|天河伝説殺人事件]](作曲:関口誠人) }} }} === た行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[高田みづえ]] | * [[花しぐれ]](作曲:[[都倉俊一]]) * デイ・ドリーム(作曲:都倉俊一) * [[パープル・シャドウ]](作曲:都倉俊一) * 火の鳥(作曲:都倉俊一) * [[女ともだち (高田みづえの曲)|女ともだち]](作曲:筒美京平) * 泣きながらカナリヤ(作曲:筒美京平) | [[髙橋真梨子]] | * とまどい小夜曲(セレナーデ)(作曲:筒美京平) | [[高橋美枝]] | * ひとりぼっちは嫌い(作曲:[[松尾一彦]]) * ピンクの鞄(トランク)(作曲:細野晴臣) * エンゼル・フィッシュ(作曲:[[南佳孝]]) * ダブル・デート(作曲:大村雅朗) | [[竹内まりや]] | * [[SEPTEMBER (竹内まりやの曲)|SEPTEMBER]](作曲:[[林哲司]]) * 磁気嵐(作曲:[[杉真理]]) * 象牙海岸(作曲:林哲司) * 五線紙(作曲:安部恭弘) * [[イチゴの誘惑]](作曲:林哲司) | [[立花理佐]] | * [[刹那主義]](作曲:筒美京平) * [[刹那主義|内気なガール・ハント]](作曲:筒美京平) * [[リサの妖精伝説 (シングル)|リサの妖精伝説 ―FAIRY TALE―]](作曲:筒美京平) * [[リサの妖精伝説 (シングル)|リサの妖精伝説 ―BE-BOP HIGHSCHOOL―]](作曲:筒美京平) * [[リサの妖精伝説 -FAIRY TALE-|スロー・ダンスは踊らない]](作曲:筒美京平) | [[田村英里子]] | * 好きよ(作曲:筒美京平) * 私はそよ風(作曲:筒美京平) * デザートにKISS(作曲:筒美京平) * 真剣(ほんき)(作曲:筒美京平) * NEXT(作曲:筒美京平) * REVOLUTION(作曲:筒美京平) * リトル・ダーリン(作曲:平井夏美) * 愛のナイチンゲール(作曲:[[山口美央子]]) | [[:zh:陳秋霞|チェルシア・チャン]] | * ロング・ロング・グッバイ(作曲:筒美京平) * チャイニーズ・ドール(作曲:筒美京平) | [[Chappie]] | * [[水中メガネ/七夕の夜、君に逢いたい|水中メガネ]](作曲:[[草野マサムネ|草野正宗]]) * 七夕の夜、君に逢いたい(作曲:[[細野晴臣]]) | [[チューリップ (バンド)|チューリップ]] | * [[夏色のおもいで]](作曲:[[財津和夫]])※職業作詞家としての処女作。 | [[塚田三喜夫]] | * 愛の女王蜂(作曲:三木たかし) | [[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]] | * はぁどぼいるど町(作曲:鈴木茂) * ソバカスのある少女(作曲:鈴木茂) * ポケットいっぱいの秘密(作曲:穂口雄右)※アレンジと演奏を担当したアグネス・チャンの同曲カバー | [[寺尾聰]] | * [[ルビーの指環]](作曲:寺尾聰) * [[渚のカンパリ・ソーダ]](作曲:寺尾聰)アルバム『[[Reflections]]』(1981年4月5日)収録 * [[喜望峰]](作曲:寺尾聰)アルバム『Reflections』収録 * CINEMA HOTEL(作曲:寺尾聰) | [[テレサ野田]] | * ラブ・カンバセーション(作曲:[[吉田拓郎]]) | [[富田靖子]] | * [[渚のドルフィン]](作曲:[[筒美京平]]) * 林檎雨(作曲:筒美京平) | [[冨田ラボ]] | * 眠りの森(作曲:[[冨田恵一]]) * 海を渡る橋(作曲:冨田恵一) * [[パラレル feat. 秦 基博]](作曲:冨田恵一) | [[トランザム (バンド)|トランザム]] | * あゝ青春(作曲:吉田拓郎) * ビューティフル・サンデー(作詞・作曲:[[:en:Daniel Boone (singer)|Daniel Boone]]、Rod McQueen、訳詞:松本隆) | [[THE 東南西北]] | * 内心、Thank You(作曲:[[久保田洋司]]) * Shadow Dancing(作曲:久保田洋司) * あの娘がほしい(作曲:久保田洋司) * 君の名前を呼びたい(作曲:久保田洋司) }} }} === な行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[ナイアガラ・トライアングル]] | ([[佐野元春]]、[[杉真理]]、[[大瀧詠一]]) * [[A面で恋をして/さらばシベリア鉄道|A面で恋をして]](作曲:大瀧詠一) | [[中井貴一]] | * 1999年(作曲:[[中崎英也]]) * 黒の似合うひと(作曲:中崎英也) * Shade(作曲:[[辻畑鉄也]]) | [[永井真理子]] | * 遠くから見つめている(作曲:西川進・小林孝至) * かたちのないものが好き(作曲:西川進・小林孝至) * [[ちいさなとびら|愛が醒めるとき]](作曲:[[bice]]) | [[中川翔子]] | * [[綺麗ア・ラ・モード]](作曲:[[筒美京平]]) * [[心のアンテナ]](作曲:[[細野晴臣]]) * [[心のアンテナ|硝子のプリズム]](作曲:[[細野晴臣]]) * [[綺麗ア・ラ・モード|カミツレ]](作曲:筒美京平) * 約束(作曲:筒美京平) | [[中島美嘉]] | * [[CRESCENT MOON]](作曲:[[大野宏明]]) | [[中島愛]]゠[[ランカ・リー]] | * [[星間飛行]](作曲:[[菅野よう子]]) | [[中谷美紀]] | * いばらの冠(作曲・編曲・プロデュース:[[坂本龍一]]) * 水族館の夜(作曲・編曲・プロデュース:坂本龍一) | [[中原香織]] | * [[銀河鉄道の夜]](作曲:[[細野晴臣]]) | [[中原理恵]] | * [[東京ららばい]](作曲:筒美京平) * ディスコ・レディー(作曲:筒美京平) * SENTIMENTAL HOTEL(作曲:筒美京平) * マギーへの手紙(作曲:筒美京平) * BOY HUNT(作曲:筒美京平) * 枕詞(ピロー・トーク)(作曲:筒美京平) * 卍BLUES(作曲:筒美京平) * SHOW BOAT(作曲:筒美京平) * 聖三角形(作曲:筒美京平) * 寒い国から来た女(作曲:筒美京平) * やさしさの証明(作曲:筒美京平) * 懐かしのジョージ・タウン(作曲:筒美京平) * 螺旋階段(作曲:筒美京平) * 抱きしめたい(作曲:筒美京平) * ダイアン・キートン(作曲:鈴木茂) * 死ぬほど逢いたい(作曲:[[松宮恭子]]) * Eマイナーのラブソング(作曲:松宮恭子) * 涙のカクテル(作曲:筒美京平) | [[仲村トオル]] | * It's All Right(作曲:[[中崎英也]]) | [[中村雅俊]] | * あゝ青春(作曲:[[吉田拓郎]]) * 青春試考(作曲:吉田拓郎) * 注文の多い恋人よ(作曲:吉田拓郎) * もう一度抱きたい(作曲:中崎英也) | [[長渕剛]] | * 宵待草(作曲:長渕剛) | [[中森明菜]] | * [[UNBALANCE+BALANCE#収録曲|愛撫]](作曲:[[小室哲哉]]) * [[二人静 -「天河伝説殺人事件」より]](作曲:[[関口誠人]]) * [[落花流水 (中森明菜の曲)|落花流水]](作曲:[[林田健司]]) * 黒薔薇(作曲:OSNY MELO) * NORMA JEAN(作曲:小室哲哉) | [[中山美穂]] | * [[「C」]](作曲:筒美京平) * スピード・ウェイ(作曲:林哲司) * [[生意気 (曲)|生意気]](作曲:筒美京平) * [[BE-BOP-HIGHSCHOOL (曲)|BE-BOP-HIGHSCHOOL]](作曲:筒美京平) * 放課後(作曲:筒美京平) * [[クローズ・アップ (中山美穂の曲)|クローズ・アップ]](作曲:財津和夫) * 瞳のかげり(作曲:財津和夫) * [[JINGI・愛してもらいます]](作曲:小室哲哉) * 泣かないわ(作曲:筒美京平) * [[ツイてるねノッてるね]](作曲:筒美京平) * [[WAKU WAKUさせて]](作曲:筒美京平) * ハートのスイッチを押して(作曲:筒美京平) * 炎の舞(作曲:筒美京平) * ペニンシュラ・モーニング(作曲:筒美京平) * 黄金海岸(作曲:筒美京平) * 霧のケープコッド(作曲:筒美京平) * スウェーデンの城(作曲:筒美京平) * インカの秘宝(作曲:筒美京平) * 熱い夜(作曲:筒美京平) * 時の流れのように(作曲:筒美京平) * [[「派手!!!」]](作曲:筒美京平) * ジェラシー(作曲:筒美京平) | [[西田ひかる]] | * [[ときめいて]](作曲:筒美京平) * めぐりあい(作曲:筒美京平) * 生きてるって素晴らしい(作曲:筒美京平) | [[西村知美]] | * [[16粒の角砂糖]](作曲:[[辻畑鉄也]]) * 想い出の冬休み(作曲:筒美京平) * サクラが咲いた(作曲:筒美京平) * 天使のゆびさき(作曲:細野晴臣) * Blueberry Jam(作曲:井上ヨシマサ) | [[野口五郎]] | * 愛撫(作曲:[[野口五郎]]) * [[むさし野詩人]](作曲:[[佐藤寛 (作曲家)|佐藤寛]]) * さよなら綴り(作曲:佐藤寛) * [[沈黙 (野口五郎の曲)|沈黙]](作曲:筒美京平) * 鼓動(作曲:筒美京平) }} }} === は行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[畠山美由紀]] | * 罌粟(作曲:[[冨田恵一]]) | [[はっぴいえんど]] | * 春よ来い(作曲:[[大瀧詠一]]) * かくれんぼ(作曲:大瀧詠一) * 12月の雨の日(作曲:大瀧詠一) * 朝(作曲:大瀧詠一) * 抱きしめたい(作曲:大瀧詠一) * 空いろのくれよん(作曲:大瀧詠一) * はいからはくち(作曲:大瀧詠一) * 春らんまん(作曲:大瀧詠一) * 愛餓を(作曲:大瀧詠一) * 田舎道(作曲:大瀧詠一) * 外はいい天気(作曲:大瀧詠一) * しんしんしん(作曲:[[細野晴臣]]) * 敵 タナトスを想起せよ!(作曲:細野晴臣) * あやか市の動物園(作曲:細野晴臣) * はっぴいえんど(作曲:細野晴臣) * 続はっぴーいいえーんど(作曲:細野晴臣) * 風をあつめて(作曲:細野晴臣) * 暗闇坂むささび変化(作曲:細野晴臣) * 夏なんです(作曲:細野晴臣) * [[あしたてんきになあれ]](作曲:細野晴臣) * 花いちもんめ(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]) * 氷雨月のスケッチ(作曲:鈴木茂) * 明日あたりはきっと春(作曲:鈴木茂) * さよなら通り3番地(作曲:鈴木茂) * ちぎれ雲(作曲:鈴木茂) | [[浜田省吾]] | * [[LOVE TRAIN (浜田省吾の曲)|LOVE TRAIN]](作曲:浜田省吾) | [[早見優]] | * [[誘惑光線・クラッ!]](作曲:[[筒美京平]]) * [[STAND UP (早見優の曲)|STAND UP]] 日本語詞(作曲:[[リック・スプリングフィールド]]) * 緑色のラグーン(作曲:筒美京平) | [[原田真二]] | * [[てぃーんず ぶるーす]](作曲:原田真二) * [[キャンディ (原田真二の曲)|キャンディ]](作曲:原田真二) * [[シャドー・ボクサー]](作曲:原田真二) * [[タイム・トラベル/ジョイ|タイム・トラベル]](作曲:原田真二) * [[タイム・トラベル/ジョイ|ジョイ]](作曲:原田真二) * [[サゥザンド・ナイツ/スペーシィ・ラブ|サゥザンド・ナイツ]](作曲:原田真二) * [[サゥザンド・ナイツ/スペーシィ・ラブ|スペーシィ・ラブ]](作曲:原田真二) * [[雨のハイウェイ]](作曲:原田真二) | [[原日出子]] | * 約束(作曲:筒美京平) * 青い手紙(作曲:筒美京平) * 青いラプソディー(作曲:筒美京平) * 無風都市(作曲:筒美京平) | [[ひかる一平]] | * 青空オンリー・ユー(作曲:[[加瀬邦彦]]) * 翔んでもHappy(作曲:加瀬邦彦) * 可愛いデビル(作曲:加瀬邦彦) * 恋のレインボー作戦(作曲:加瀬邦彦) * ブルー・セブンティーン(作曲:東丈) * やさしさ∞(無限大)(作曲:[[鈴木慶一]]) * 胸さわぎの放課後(作曲:原田真二) * ショット ガン(作曲:原田真二) * 裸足のマリー(作曲:加瀬邦彦) | BIBI | * スカイ・ピクニック(作曲:[[穂口雄右]]) * サンシャイン・スーパーマン(作曲:筒美京平) | [[bice]] | * [[Nectar|嵐が丘]](作曲:bice) * [[Cloudy Sky]](作曲:bice) * [[let love be your destiny|包んであげる]](作曲:bice) | [[氷室京介]] | * [[魂を抱いてくれ]](作曲:氷室京介) * [[I・DE・A|堕天使]](作曲:氷室京介) | [[姫乃樹リカ]] | * 硝子のキッス(作曲:[[和泉常寛]]) * ときめいて(作曲:[[松田良]]) * スタンド・バイ・ミー(作曲:[[矢萩渉]]) * 地上の楽園(作曲:[[井上陽水]]) | [[兵藤まこ]] | * 片想いツイスト(作曲:穂口雄右) | ピーカブー | * イエローサブマリンの刺繍(作曲:筒美京平) * 恋文横丁(作曲:筒美京平) * なぐさめ(作曲:筒美京平) * 待合室(作曲:筒美京平) * ほうせん花(作曲:筒美京平) * 本音(作曲:筒美京平) | [[藤井隆]] | * 絶望グッドバイ(作曲:筒美京平) * 地球に抱かれて(作曲:bice) * 乱反射(作曲:bice) * 未確認飛行体(作曲:[[堀込高樹]]) * 究極キュート(作曲:筒美京平) * 素肌にセーター(作曲:[[本間昭光]]) * リラックス(作曲:[[田島貴男]]) * 幸福インタビュー(作曲:[[コモリタミノル]]) * 代官山エレジー(作曲:堀込高樹) * モスクワの夜(作曲:本間昭光) | [[藤井尚之]] | * NATURALLY(作曲:藤井尚之) * クローム・メタリック(作曲:藤井尚之) * Japansese(作曲:藤井尚之) * 雨のニューオリオンズ(作曲:藤井尚之) * Babysitter Blues(作曲:藤井尚之) * 紫のライン(作曲:藤井尚之) * HEAVEN(作曲:藤井尚之) * SAX MACHINE(作曲:藤井尚之) * スペードのエース(作曲:藤井尚之) * リトル・ドラマー・ガール(作曲:藤井尚之) * 君が好きだよ(作曲:藤井尚之) | [[藤井フミヤ|藤井郁弥]] | * Mother's Touch(作曲:[[宇崎竜童]]) | [[藤村美樹]] | * [[夢・恋・人。]](作曲:細野晴臣) * [[夢・恋・人。|春 mon amour]](作曲:細野晴臣) | [[布施明]] | * [[旅愁〜斑鳩にて〜]](作曲:[[川口真]]) * 水彩画のような人(作曲:川口真) | [[本田美奈子.]] | * [[Temptation(誘惑)]](作曲:筒美京平) }} }} === ま行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[前田愛 (女優)|前田愛]]・[[前田亜季]] | * Don't Cry(作曲:[[宇佐元恭一]]) | [[前田亜季]] | * 元気のシャワー(作曲:植野慶子) | [[松たか子]] | * [[Clover (松たか子の曲)|Clover]](作曲:松たか子) * 愛が私に教えてくれたこと(作曲:堀込泰行) | [[松田聖子]] | * 白い貝のブローチ(作曲:[[財津和夫]]) * [[白いパラソル]](作曲:財津和夫) * 花一色〜野菊のささやき〜(作曲:財津和夫) * [[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]](作曲:[[大瀧詠一]]) * Romance(作曲:[[平井夏美]]) * 冬の妖精(作曲:大瀧詠一) * ガラスの入江(作曲:大瀧詠一) * 一千一秒物語(作曲:大瀧詠一) * いちご畑でつかまえて(作曲:大瀧詠一) * 流星ナイト(作曲:財津和夫) * 黄昏はオレンジ・ライム(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]) * 雨のリゾート(作曲:[[杉真理]]) * December Morning(作曲:財津和夫) * [[赤いスイートピー]](作曲:[[松任谷由実|呉田軽穂]]) * 制服(作曲:呉田軽穂) * [[渚のバルコニー]](作曲:呉田軽穂) * レモネードの夏(作曲:呉田軽穂) * P・R・E・S・E・N・T(作曲:[[来生たかお]]) * パイナップル・アイランド(作曲:[[原田真二]]) * ひまわりの丘(作曲:来生たかお) * LOVE SONG(作曲:財津和夫) * ピンクのスクーター(作曲:原田真二) * 水色の朝(作曲:財津和夫) * SUNSET BEACH(作曲:来生たかお) * [[小麦色のマーメイド]](作曲:呉田軽穂) * マドラス・チェックの恋人(作曲:呉田軽穂) * [[野ばらのエチュード]](作曲:財津和夫) * 愛されたいの(作曲:財津和夫) * 星空のドライブ(作曲:財津和夫) * 四月のラブレター(作曲:大瀧詠一) * 未来の花嫁(作曲:財津和夫) * モッキンバード(作曲:[[南佳孝]]) * ブルージュの鐘(作曲:[[細野晴臣]]) * Rock'n'roll Good-bye(作曲:大瀧詠一) * 電話でデート(作曲:南佳孝) * 黄色いカーディガン(作曲:細野晴臣) * 真冬の恋人たち(作曲:[[大村雅朗]]) * Blue Christmas(作曲:財津和夫) * ジングルベルも聞こえない(作曲:大村雅朗) * 星のファンタジー(作曲:大村雅朗) * HAPPY SUNDAY(作曲:財津和夫) * [[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]](作曲:呉田軽穂) * レンガの小径(作曲:財津和夫) * [[天国のキッス]](作曲:細野晴臣) * わがままな片想い(作曲:細野晴臣) * ピーチ・シャーベット(作曲:杉真理) * マイアミ午前5時(作曲:来生たかお) * セイシェルの夕陽(作曲:大村雅朗) * ハートをRock(作曲:[[甲斐よしひろ]]) * Bye-bye Playboy(作曲:財津和夫) * 赤い靴のバレリーナ(作曲:甲斐よしひろ) * メディテーション(作曲:[[上田知華]]) * プルメリアの花(作曲:細野晴臣) * パシフィック(作曲:大村雅朗) * [[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|ガラスの林檎]](作曲:細野晴臣) * [[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]](作曲:大村雅朗) * [[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ|瞳はダイアモンド]](作曲:呉田軽穂) * [[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ|蒼いフォトグラフ]](作曲:呉田軽穂) * WITH YOU(作曲:大村雅朗) * BITTER SWEET LOLLIPOPS(作曲:大村雅朗) * Canary(作曲:[[松田聖子|SEIKO]]) * Private School(作曲:[[林哲司]]) * Misty(作曲:[[井上鑑]]) * LET'S BOYHUNT(作曲:林哲司) * Wing(作曲:来生たかお) * Party's Queen(作曲:来生たかお) * Silvery Moonlight(作曲:来生たかお) * [[Rock'n Rouge]](作曲:呉田軽穂) * ボン・ボヤージュ(作曲:呉田軽穂) * [[時間の国のアリス/夏服のイヴ|時間の国のアリス]](作曲:呉田軽穂) * [[時間の国のアリス/夏服のイヴ|夏服のイヴ]](作曲:[[日野皓正]]) * 真っ赤なロードスター(作曲:林哲司) * ガラス靴の魔女(作曲:南佳孝) * いそしぎの島(作曲:[[尾崎亜美]]) * 密林少女(作曲:林哲司) * AQUARIUS(作曲:大村雅朗) * 不思議な少年(作曲:南佳孝) * Sleeping Beauty(作曲:大村雅朗) * [[ピンクのモーツァルト]](作曲:細野晴臣) * 硝子のプリズム(作曲:細野晴臣) * [[ハートのイアリング]](作曲:[[佐野元春|Holland Rose]]) * スピード・ボート(作曲:財津和夫) * とんがり屋根の花屋さん(作曲:SEIKO) * マンハッタンでブレックファスト(作曲:大村雅朗) * 薔薇とピストル(作曲:SEIKO) * 今夜はソフィストケート(作曲:Holland Rose) * そよ風のフェイント(作曲:[[矢野顕子]]) * Dancing Cafe(作曲:杉真理) * MAUI(作曲:[[NOBODY (ロックバンド)|NOBODY]]) * 銀色のオートバイ(作曲:林哲司) * Star(作曲:林哲司) * Caribbean Wind(作曲:大村雅朗) * Musical Life(作曲:大村雅朗) * 螢の草原(作曲:[[安藤正容|安藤まさひろ]]) * 上海倶楽部(作曲:南佳孝) * ローラー・スケートをはいた猫(作曲:[[亀井登志夫]]) * チェルシー・ホテルのコーヒー・ハウス(作曲:[[宮城伸一郎]]) * 時間旅行(作曲:SEIKO) * 白い夜(作曲:来生たかお) * マリオネットの涙(作曲:[[久保田洋司]]) * 雨のコニー・アイランド(作曲:大沢誉志幸) * ローゼ・ワインより甘く(作曲:[[玉置浩二]]) * [[瑠璃色の地球]](作曲:平井夏美) * [[Strawberry Time]](作曲:[[土橋安騎夫]]) * ベルベット・フラワー(作曲:[[三谷泰弘]]) * 裏庭のガレージで抱きしめて(作曲:[[いまみちともたか|チャックムートン]]) * Kimono Beat(作曲:[[小室哲哉]]) * 妖しいニュアンス(作曲:大村雅朗) * シェルブールは霧雨(作曲:SEIKO) * All Of You(作曲:[[辻畑鉄也]]) * 雛菊の地平線(作曲:[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]) * チャンスは2度ないのよ(作曲:[[広石武彦]]) * ピンクの豹(作曲:[[米米CLUB]]) * LOVE(作曲:辻畑鉄也) * [[Pearl-White Eve]](作曲:大江千里) * 凍った息(作曲:大江千里) * Please Don't Go(作曲:南佳孝) * 妖精たちのTea Party(作曲:[[鈴木康博]]) * 恋したら…(作曲:辻畑鉄也) * 雪のファンタジー(作曲:大村雅朗) * [[Marrakech〜マラケッシュ〜]](作曲:[[:en:Steve Kipner|Steve Kipner]], Paul Bliss) * No.1(作曲:Paul Cooper、[[デイヴィッド・フォスター|David Foster]]) * Blue(作曲:Tom Keane、[[:en:Michael Landau|Michael Landau]]、David Foster) * You Can't Find Me(作曲:[[:en:Jay Graydon|Jay Graydon]], David Foster) * 抱いて…(作曲:David Foster) * 続・赤いスイートピー(作曲:Steve Kipner、Linda Thompson, David Foster) * 四月は風の旅人(作曲:John Dexter、David Foster) * 林檎酒の日々(作曲:David Foster) * [[哀しみのボート]](作曲:[[大久保薫]]) * 葡萄姫(作曲:M Rie) * 月のしずく(作曲:[[宮島律子|宮島りつ子]]) * ペーパードライバー(作曲:千沢仁) * 櫻の園(作曲:大村雅朗) * エメラルド海岸(作曲:[[柴草玲]]) * カモメの舞う岬(作曲:[[島野聡]]) * 心のキャッチボール(作曲:[[福士健太郎]]) * [[永遠のもっと果てまで/惑星になりたい|永遠のもっと果てまで]](作曲:呉田軽穂) * [[永遠のもっと果てまで/惑星になりたい|惑星になりたい]](作曲:呉田軽穂) | [[松本伊代]] | * 月下美人(作曲:細野晴臣) * Last Kissは頬にして(作曲:[[関口誠人]]) | [[真璃子]] | * 恋、みーつけた(作曲:[[筒美京平]]) * 魔法の時間(作曲:筒美京平) * 夢飛行(作曲:筒美京平) | [[三木聖子]] | * [[三枚の写真]](作曲:[[大野克夫]]) | [[水谷麻里]] | * 21世紀まで愛して(作曲:筒美京平、編曲:[[船山基紀]]) * 銀のロケット(作曲:筒美京平、編曲:船山基紀) * 地上に降りた天使(作曲:筒美京平、編曲:[[大谷和夫]]) * 幸福になろーね(作曲:[[羽田健太郎]]) * 乙女日和(作曲:筒美京平、編曲:[[武部聡志]]) * 幻のユリ(作曲:筒美京平、編曲:武部聡志) * 風になりたい(作曲:宮城伸一郎) * パステルの雨(作曲:[[細野晴臣]]) * なかよしNo.1(作曲:[[南佳孝]]) * ハートを狙うキューピッド(作曲:筒美京平) | [[水谷豊]] | * はーばーらいと(作曲:[[井上陽水]]) * 鍵はかけない(作曲:井上陽水) * テンダネス(作曲:井上陽水) * マリーナ デル レイ(作曲:井上陽水) * AMERICAN LINE(作曲:井上陽水) * やさしさ紙芝居(作曲:[[平尾昌晃]]) * はあとふる(作曲:平尾昌晃) * 真夜中のスウィング(作曲:[[山梨鐐平]]) * 普通のラブ・ソング(作曲:筒美京平) * 青空のバラード(作曲:平尾昌晃) * レモンティーで乾杯(作曲:[[松宮恭子]]) * SAILING(作曲:山梨鐐平) | [[水野美紀]] | * 瞬間Kiss(作曲:[[都志見隆]]) | [[本田美奈子.|MINAKO with WILDCATS]] | * [[あなたと熱帯]](作曲:[[忌野清志郎]]) * We Are Wild Cats(作曲:[[樫原伸彦]]) * Let It Burn(作曲:Scott Sheets) * VIRGINITY(作曲:[[中崎英也]]) * 霧のベール(作曲:中崎英也) * Full Metal Armor(作曲:Scott Sheets) * カシスの実(作曲:中崎英也) * Because You're Mine(作曲:[[Joey Carbone]]) * School Girl Blues(作曲:中崎英也) | [[南こうせつ]] | * ヘンゼルとグレーテル(作曲:南こうせつ) * 上海エレジー(作曲:南こうせつ) | [[南沙織]] | * 田園交響楽(作曲:[[馬飼野康二]]) * 卒業(作曲:馬飼野康二) * [[夏しぐれ]](作曲:筒美京平) * [[哀しい妖精]](作曲:[[ジャニス・イアン]]) * [[愛なき世代]](作曲:木戸一成) | [[南佳孝]] | * おいらぎゃんぐだぞ(作曲:南佳孝) * 弾丸列車(作曲:南佳孝) * 吸血鬼のらぶしいん(作曲:南佳孝) * 眠れぬ夜の小夜曲(作曲:南佳孝) * 勝手にしやがれ(作曲:南佳孝) * 摩天楼のヒロイン(作曲:南佳孝) * 夜霧のハイウェイ(作曲:南佳孝) * 春を売った女(作曲:南佳孝) * ピストル(作曲:南佳孝) * 午前七時の悲劇(作曲:南佳孝) * 朝焼けにダンス(作詞:松本隆・[[三浦徳子]]、作曲:南佳孝) * Portrait Woman(作曲:南佳孝) * lion Under The Moonlight(作曲:南佳孝) * Sleeping lady(作曲:南佳孝) * Marie, Come Back(作曲:南佳孝) * Route 88(作曲:南佳孝) * Dear Mr. Sharlock(作曲:南佳孝) * Vision In The Rain(作曲:南佳孝) * Manhattan Gigolo(作曲:南佳孝) * Simple Song(作曲:南佳孝) * 憧れのラジオガール(作曲:南佳孝) * 夜の翼(作曲:南佳孝) * 月に向かって(作曲:南佳孝) * デジタル・ツイスト(作曲:南佳孝) * 回転扉(作曲:南佳孝) * スローなブギにしてくれ(I Want You)(作曲:南佳孝) * ホリゾント(作曲:南佳孝) * Hotel(作曲:南佳孝) * デ・ジャ・ヴー(作曲:南佳孝) * 空中庭園(作曲:南佳孝) * 涙のステラ(作曲:南佳孝) * Cool(作曲:南佳孝) * Scotch and Rain(作曲:南佳孝) * 夏服を着た女たち(作曲:南佳孝) * 天文台(作曲:南佳孝) * 波止場(作曲:南佳孝) * 口笛を吹く女(作曲:南佳孝) * 曠野へ(作曲:南佳孝) * 昼下がりのテーブル(作曲:南佳孝) * オズの自転車乗り(作曲:南佳孝) * 80時間風船旅行(作曲:南佳孝) * 素敵なパメラ(作曲:南佳孝) * Come Back(作詞:松本隆・Martha Lavender、作曲:南佳孝) * Peace(作曲:南佳孝) * 浮かぶ飛行島(作曲:南佳孝) * 火星の月(作曲:南佳孝) * 宇宙遊泳(作曲:南佳孝) * 真紅の魔都(作曲:南佳孝) * スタンダード・ナンバー(作曲:南佳孝) * 黄金時代(作曲:南佳孝) * 冒険王(作曲:南佳孝) * 二人のスロー・ダンス(作曲:南佳孝) * ダイナー(作曲:南佳孝) * ミーン・ストリート(作曲:南佳孝) * ジョンとメリー(作曲:南佳孝) * ラスト・ショー(作曲:南佳孝) * 突然炎のごとく(作曲:南佳孝) * フラミンゴ・キッド(作曲:南佳孝) * 理由なき反抗(作曲:南佳孝) * 水の中のナイフ(作曲:南佳孝) * シュガーランド・エキスプレス(作曲:南佳孝) * 華麗なるギャツビー(作曲:南佳孝) * スケアクロウ(作曲:南佳孝) * 避暑地の出来事(作曲:南佳孝) * 土曜・日曜(作曲:南佳孝) * Girl(作曲:南佳孝) * Paradiso(作曲:南佳孝) * 天使の日(作曲:南佳孝) * 待つ女(作曲:南佳孝) * …恋かもしれない(作曲:南佳孝) * バンジー・ジャンプ(作曲:南佳孝) * 青空(作曲:南佳孝) * 聖夜(作曲:南佳孝・[[浜口茂外也]]) * 魂のデート(作曲:南佳孝) * 水のように風のように(作曲:南佳孝) * 遙かなディスタンス(作曲:南佳孝) * サンクチュアリ(作曲:南佳孝) * ソバカスのある少女(作曲:鈴木茂)※ボーカルでゲスト参加した[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]の同曲カヴァー | [[三善英史]] | * 愛の千羽鶴(作曲:[[竜崎孝路]]) * 愛の架け橋(作曲:浜圭介) | [[森進一]] | * [[冬のリヴィエラ]](作曲:大滝詠一) * 紐育物語(作曲:細野晴臣) * ルーム・キー(作曲:細野晴臣) * モロッコ(作曲:筒美京平) * 霧のジブラルタル(作曲:筒美京平) | [[森山良子]] | * あやとり(作曲:渋谷毅) * 恋模様(作曲:筒美京平) * 小さな歴史(作曲:森山良子) * 中央線あたり(作曲:森田公一) * キングストンの街(作曲:大野克夫) * かなしみの背表紙(作曲:森山良子) * DISNEY MORNING(作曲:細野晴臣) * 子供たちに教えなさい(作曲:岩沢幸矢) * バス通り裏(作曲:財津和夫) * いじっぱりな雨(作曲:瀬尾一三) * グレイの背広(作曲:大野克夫) * 心の休暇(作曲:森田公一) * 待宵草(作曲:筒美京平) * ある微笑(作曲:森山良子) }} }} === や行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[八神純子]] | * 愛色の季節 | [[薬師丸ひろ子]] | * [[探偵物語/すこしだけやさしく|探偵物語]](作曲:[[大瀧詠一]]) * [[メイン・テーマ (薬師丸ひろ子の曲)|メイン・テーマ]](作曲:[[南佳孝]]) * [[Woman "Wの悲劇"より]](作曲:[[松任谷由実|呉田軽穂]]) * [[あなたを・もっと・知りたくて]](作曲:筒美京平) * [[探偵物語/すこしだけやさしく|すこしだけやさしく]](作曲:大瀧詠一) * 天に星、地に花(作曲:筒美京平) * ささやきのステップ(作曲:[[佐藤健 (作曲家)|佐藤健]]) * 花のささやき(作曲:[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]) * 100粒の涙(作曲:筒美京平) * ローズティーはいかが?(作曲:[[井上陽水]]) * 寒椿、咲いた(作曲:[[中田喜直]]) * 紅い花、青い花(作曲:[[細野晴臣]]) * 麦わら帽子のアン(作曲:筒美京平) * 透明なチューリップ(作曲:細野晴臣) * 紫の花火(作曲:薬師丸ひろ子) * 哀しみの種(作曲:井上陽水) * かぐやの里(作曲:中田喜直) * Love holic(作曲:[[宇徳敬子]]) | [[矢沢永吉]] | (作曲は全て矢沢永吉) * Anytime Woman * 長い黒髪 * アンジェリーナ * 銀のネックレス * 流星(ながれぼし) * ため息 * ホテル・マムーニア * 優しいコヨーテ * 裸身 * Dry Martini * 安物の時計 * サブウェイ特急 | [[安田成美]] | * [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](作曲:[[細野晴臣]]) * 風の妖精(作曲:細野晴臣) * トロピカル・ミステリー(作曲:[[大村雅朗]]) * 月のミューズ(作曲:大村雅朗) * 銀色のハーモニカ(作曲:細野晴臣) * 透明なオレンジ(作曲:南佳孝) * 悪戯な小鳥(作曲:大村雅朗) * サマー・プリンセス(作曲:[[林哲司]]) | [[やまがたすみこ]] | * 夢色グライダー(作曲:細野晴臣) * クリスタル・ホテル(作曲:[[伊藤銀次]]) | [[山口百恵]] | * [[赤い絆 (レッド・センセーション)]](作曲:[[平尾昌晃]]) * 口約束(作曲:平尾昌晃) * [[愛染橋]](作曲:[[堀内孝雄]]) * Check Out Love(作曲:加藤ヒロシ) * 嵐ヶ丘(作曲:加藤ヒロシ) * 陽のあたる坂道(作曲:[[佐藤健 (作曲家)|佐藤健]]) * 飛騨の吊り橋(作曲:[[岸田智史]]) * あまりりす(作曲:岸田智史) * 春爛漫(作曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]) * イノセント(純粋)(作曲:堀内孝雄) * 抱きしめられて(作曲:鈴木茂) | [[山崎まさよし]] | * [[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜#収録曲|昭和モダン]](作曲:[[服部隆之]]) | [[山下久美子]] | * [[赤道小町ドキッ]](作曲:細野晴臣) | [[山下達郎]] | (作曲はすべて山下達郎) * [[DREAMING GIRL]] * [[いつか晴れた日に (山下達郎の曲)|いつか晴れた日に]] * 氷のマニキュア * 月の光 * [[SONORITE|KISSからはじまるミステリー〈feat. RYO(from ケツメイシ)〉]] * 硝子の少年 [Unreleased Demo Vocal] | [[山瀬まみ]] | * メロンのためいき(作曲:呉田軽穂) * セシリア・Bの片想い(作曲:[[宮城伸一郎]]) * Heartbreak Cafe(作曲:南佳孝) * Strange Pink(作曲:南佳孝) | [[ステージ101|ヤング101]] | * 空と海がとけあうとき(作詞:[[東海林修]]) | [[裕木奈江]] | * わすれな草(作曲:筒美京平) * 裏返しのジェラシー(作曲:筒美京平) * 空気みたいに愛してる(作曲:細野晴臣) * すっぴん(作曲:細野晴臣) * [[旬 (裕木奈江のアルバム)|青空挽歌]](作曲:細野晴臣) * いたずらがき(作曲:細野晴臣) * 月夜のドルフィン(作曲:松浦雅也) | [[吉田拓郎]] | (作曲は全て吉田拓郎) * 愛しているよ * 裏街のマリア * 英雄 * 狼のブルース * [[恩師よ/まだ見ぬ朝|恩師よ]] * [[舞姫 (吉田拓郎の曲)|隠恋慕]] * 風のシーズン * 君が欲しいよ * 君の街に行くよ * 恋唄 * [[心の破片]] * 言葉 * この歌をある人に * [[サマータイムブルースが聴こえる]] * 白い部屋 * [[外は白い雪の夜]] * 旅立てジャック * 爪 * 冷たい雨が降っている * 虹の魚 * ハートブレイクマンション * パーフェクトブルー * Baby * 白夜 * [[舞姫 (吉田拓郎の曲)|舞姫]] * まるで大理石のように * 水無し川 * 無人島で…。 * 無題 * ローリング30 | [[芳本美代子]] | * 白いバスケット・シューズ(作曲:[[井上大輔]]) * 海辺のテレフォン・ボックス(作曲:井上大輔) * プライベート・レッスン(作曲:井上大輔) * Endless Love Song(作曲:宮城伸一郎) * 雨のハイスクール(作曲:[[財津和夫]]) * ワンサイデッド・ラヴ(作曲:宮城伸一郎) * アプリコット・キッス(作曲:宮城伸一郎) * 心の扉(作曲:財津和夫) * 青い靴(作曲:[[筒美京平]]) * 天然色の夏(作曲:筒美京平) * AURORAの少女(作曲:筒美京平) * Feel So Fine(作曲:筒美京平) | [[米川英之]] | * [[Private Lips]](作曲:米川英之)/ 天使の町(作曲:米川英之) * Burn 4 U.(作曲:米川英之) * Jazzyな気分の夜(作曲:米川英之) * 魂の歌(作曲:米川英之) }} }} === ら行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[ラッツ&スター]] | * [[Tシャツに口紅]](作曲:[[大瀧詠一]]) * 星空のサーカス(作曲:大瀧詠一) | [[ザ・リリーズ (女性アイドル)|ザ・リリーズ]] | * 水色のときめき(作曲:[[森田公一]]) * [[好きよキャプテン]](作曲:森田公一) * いじわる時計(作曲:森田公一) * 初恋にさよなら(作曲:[[萩田光雄]]) * すずらんの花(作曲:森田公一) * 恋のつぼみ君(作曲:森田公一) * ひと夏ぽっちの恋(作曲:萩田光雄) * 水色のときめき(作曲:森田公一) * 恋する3秒間(作曲:森田公一) * 太陽がいっぱい(作曲:筒美京平) | [[笠浩二]] | * Rockin'Roll Baby(作曲:T・Bell, L・Creed)/ 純情夜(作曲:筒美京平)※「Rockin'Roll Baby」[[ミュージック・ビデオ|MV]]の監督も務める * 冷たくしないで(作曲:筒美京平) * 上海の夜は更けて(作曲:筒美京平) | [[レベッカ (バンド)|レベッカ]] | * [[MONOTONE BOY]](作曲:[[土橋安騎夫]]) | [[ロブバード]] | * 幸福ロンリーハート(作曲:柴野繁幸) | [[ローズマリー (バンド)|ローズマリー]] | * センチメンタル急行(作曲:[[穂口雄右]]) * 傷心(いたみ)(作曲:[[馬飼野康二]]) * 一枚の銅貨(作曲:馬飼野康二) }} }} === わ行 === {{Columns-list|20em|small=1| {{Dl2 | [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]] | * 瞳・シリアス(作曲:筒美京平) * 6月の別れ(作曲:筒美京平) }} }} == 著書 == * エッセイ集『[[微熱少年]]』(1975年<!--1月1日-->、ブロンズ社<!--ASIN:B000J92EYC-->・2016年、[[リットーミュージック|立東舎文庫]])ISBN 978-4845627509 * 風のバルコニー―松本隆詩集(1981年、新興楽譜出版社) * 秘密の花園(1984年、新潮社) * 小説『[[微熱少年]]』(1985年、新潮社・2016年、立東舎文庫)ISBN 978-4845628070<ref group="注釈">カセットブックもリリースされている。ナレーションは森本レオ。</ref>  * 風街詩人(1986年、新潮社) * 「マイダスの指」三部作 ** 硝子の人魚 マイダスの指1(1987年、思潮社) ** 冒険王 マイダスの指2(1987年、思潮社) ** 空中庭園 マイダスの指3(1987年、思潮社) * 三日月姫(1987年、文藝春秋) * 紺碧海岸(1992年、集英社) * 天国への階段(1993年 講談社) * 葡萄姫―千夜一夜物語(1996年、講談社) * 成層圏紳士(2001年、東京書籍) * 風のくわるてつと(1972年、新潮文庫・2001年、角川文庫・2016年、立東舎)ISBN 978-4845627813 * 対談集『KAZEMACHI CAFE』(2005年、ぴあ) * 松本隆対談集 風待茶房 1971-2004([[2017年]][[1月10日]]、立東舎)ISBN 978-4845628995 * 松本隆対談集 風待茶房 2005-2015(2017年1月10日、立東舎)ISBN 978-4845629008 == 映画 == * [[微熱少年]](1987年、東宝) **松本の青春時代の経験を元に綴ったという自叙伝的小説『微熱少年』を映像化。松本の初監督作品。劇中音楽も手がけた。 == 関連作品 == ;音楽 * [[風街図鑑]]([[1999年]][[12月1日]])※ 作詞活動30周年記念コンピレーション。 * 風街クロニクル 〜another side of happy end〜([[2004年]][[11月3日]])※はっぴいえんどメンバー作曲×松本作詞作品のコンピレーション。 * 風街少年([[2007年]][[11月21日]])※ 著名人の選者12名が選んだ松本作品・男性ヴォーカル編。 * 風街少女(2007年11月21日)※ 著名人の選者12名が選んだ松本作品・女性ヴォーカル編。 * 風街図鑑 風編([[2009年]][[12月9日]])※『風街図鑑』の品番改定による再発。1969年から1999年までの30年間でベストテンに入った作品から松本自身が選んだ50曲を収録。 * 風街図鑑 街編(2009年12月9日)※『風街図鑑』の品番改定による再発。1969年から1999年までの30年に書いた詞、約2,000曲から本人が愛着のある50曲を収録。 * 新・風街図鑑(2009年12月9日)※『風街図鑑』未収録の1969年から1999年までの曲と、2009年までの34曲を収録した、本人選曲による作詞活動40周年記念コンピレーション。 * 松本隆に捧ぐ -風街DNA-([[2010年]][[5月12日]])※ 松本が作詞を手がけた楽曲を今のアーティストがカヴァーした、作詞活動40周年記念アルバム。 * [[風街であひませう]]([[2015年]][[6月24日]]発売)※ 作詞活動45周年記念トリビュートカバーアルバム。完全限定生産盤は歌詞の朗読集がセット<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/148009 |title=小泉今日子、広瀬すず、加瀬亮らが松本隆の詞を朗読、ディレクターは是枝裕和 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]] |date=2015-05-22 |accessdate=2015-05-25}}</ref>。 * [[風街に連れてって!|風街に連れてって!]]([[2021年]]7月14日) ※ 作詞活動50周年トリビュートアルバム。CD初回限定生産盤には、松本直筆の歌詞や[[リリー・フランキー]]によるライナーノーツをはじめ、楽曲をイメージした撮り下ろしグラビア、描き下ろし短編漫画など様々な切り口で松本の詞の世界を表現した雑誌仕様の特典本「100%松本隆」、他にLPがセットになっている。[[日本コロムビア]]の新レーベル「[[日本コロムビア#サブレーベル|びいだまレコーズ]]」第一弾作品。[[亀田誠治]]がプロデュース。 * 風街とデラシネ〜作詞家・松本隆の50年(2021年10月27日、[[ソニー・ミュージックダイレクト|GT music]])※コンピレーションCD。同日発売書籍「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」との連動企画CD。 ;書籍・その他 * 喫茶店で松本隆さんに聞いたこと(2021年7月1日、[[夏葉社]]、著:[[山下賢二]]) * 風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年(2021年10月27日、[[KADOKAWA]]、著:[[田家秀樹]])※同日発売コンピレーションCD「風街とデラシネ〜作詞家・松本隆の50年」と連動企画書籍。 * 松本隆のことばの力(2021年10月7日、[[集英社インターナショナル]]、著:[[藤田久美子]]) * 松本隆 言葉の教室(2021年11月16日、[[マガジンハウス]]、著:[[延江浩]]) * 松本隆の詞を愛でる(2022年8月31日、翡翠総合研究所、著:白河清風) ;ラジオ番組 * TOKYO FM特別番組松本隆50周年記念ラジオドラマ「恋人ができてしまったら、心を風街に閉じ込めて。」(2021年11月22日(21日深夜)、[[エフエム東京|TOKYO FM]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002570.000004829.html|title=松本隆の歌詞世界をテーマに根本宗子がラジオドラマ脚本・演出!出演:趣里、又吉直樹/TOKYO FM特別番組松本隆50周年記念ラジオドラマ「恋人ができてしまったら、心を風街に閉じ込めて。」 |publisher=PR TIMES|date=2021-11-17|accessdate=2021-11-22}}</ref> == 記録・受賞歴 == === オリコン === シングル総売上枚数 - 4,985.4万枚(作詞家歴代3位)<ref name="oricon">[https://www.oricon.co.jp/news/2063602/full/ 【オリコン】秋元康氏、作詞シングル総売上が1億枚突破「驚いています」]</ref> {|class="wikitable" style="text-align:center" !順位!!売上枚数<br />(万枚)!!作詞家 |- |1 ||10022.6||[[秋元康]] |- |2 ||6834.0||[[阿久悠]] |- |style="background:#d1dbdf"|3 |style="background:#d1dbdf"|4985.4 |style="background:#d1dbdf"|'''松本隆''' |- |4 ||4229.7||[[小室哲哉]] |- |5 ||3796.1||[[つんく♂]] |- |colspan="3" style="text-align:left"|{{small|2015年12月8日付デイリーランキングまで}} |} ;シングル売上TOP10 {|class="wikitable" !順位!!タイトル!!アーティスト!!作曲家!!発売日 |- |style="text-align:center"|1||[[硝子の少年]]||[[KinKi Kids]]||[[山下達郎]]||[[1997年]][[7月21日]] |- |style="text-align:center"|2||[[ルビーの指環]]||[[寺尾聰]]||寺尾聰||[[1981年]][[2月5日]] |- |style="text-align:center"|3||[[スニーカーぶる〜す]]||[[近藤真彦]]||[[筒美京平]]||[[1980年]][[12月12日]] |- |style="text-align:center"|4||[[ハイスクールララバイ]]||[[イモ欽トリオ]]||細野晴臣||1981年[[8月5日]] |- |style="text-align:center"|5||[[ジェットコースター・ロマンス]]||KinKi Kids||山下達郎||[[1998年]][[4月22日]] |- |style="text-align:center"|6||[[ボクの背中には羽根がある]]|| KinKi Kids||[[織田哲郎]]||[[2001年]][[2月7日]] |- |style="text-align:center"|7||[[木綿のハンカチーフ]]||太田裕美||筒美京平||[[1975年]][[12月21日]] |- |style="text-align:center"|8||[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]]||松田聖子||細野晴臣/[[大村雅朗]]||[[1983年]][[8月1日]] |- |style="text-align:center"|9||[[探偵物語/すこしだけやさしく]]||[[薬師丸ひろ子]]||大瀧詠一/大瀧詠一||1983年[[5月25日]] |- |style="text-align:center"|10||[[魂を抱いてくれ]]||[[氷室京介]]||氷室京介||[[1995年]][[10月25日]] |- |colspan="5"|{{small|2015年現在}} |} ; その他 * シングル1位獲得作品数:47曲(2015年現在)<ref name="oricon"/> * 初のTOP10入り作品:「[[ポケットいっぱいの秘密]]」[[アグネス・チャン]]([[1974年]][[6月10日]]発売。チャート最高6位) * 初のTOP3入り作品:「[[木綿のハンカチーフ]]」[[太田裕美]]([[1975年]][[12月21日]]発売。チャート最高2位) * 初の1位獲得作品:「[[セクシャルバイオレットNo.1]]」[[桑名正博]]([[1979年]][[7月21日]]発売) === 日本レコード大賞 === ; 大賞 :* [[第23回日本レコード大賞|第23回]](1981年)ルビーの指環 寺尾聰 :<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 --> ; 作詩賞 :* 第23回(1981年)ルビーの指環 寺尾聰 :* [[第24回日本レコード大賞|第24回]](1982年)[[小麦色のマーメイド]] 松田聖子 ; 特別金賞 :* [[第25回日本レコード大賞|第25回]](1983年)[[冬のリヴィエラ]] [[森進一]] ; 金賞 :* 第23回(1981年)ルビーの指環 寺尾聰 :* 第24回(1982年)[[聖・少女]] [[西城秀樹]] :* 第24回(1982年)小麦色のマーメイド 松田聖子 :* 第25回(1983年)ガラスの林檎 松田聖子 :* 第25回(1983年)ミッド・ナイト・ステーション 近藤真彦 :* [[第26回日本レコード大賞|第26回]](1984年)[[ピンクのモーツァルト]] 松田聖子 :* [[第27回日本レコード大賞|第27回]](1985年)[[Romanticが止まらない]] [[C-C-B]] :* [[第28回日本レコード大賞|第28回]](1986年)[[ツイてるねノッてるね]] [[中山美穂]] ; ベスト・アルバム賞(アルバム大賞) :* 第23回(1981年)[[A LONG VACATION]] 大滝詠一(10曲中9曲作詞担当) :* 第28回(1986年)SUPREME 松田聖子(プロデュース。全10曲作詞担当) ; 特別賞 :* [[第63回日本レコード大賞|第63回]](2021年) === その他 === *第16回[[日本作詩大賞]](冬のリヴィエラ) *第66回[[芸術選奨]][[文部科学大臣賞]](大衆芸能)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2068215/full/| title=作詞家・松本隆氏が芸術選奨・文科大臣賞 |publisher=ORICON STYLE |date=2016-03-09 |accessdate=2016-03-09}}</ref> *2017年度[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]<ref name="shiju" /> == 出演 == === テレビ === * [[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]スペシャル 時を超える青春の歌 〜作詞家・松本隆の45年〜(2015年10月30日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/songs/prog.html?fid=151030 |title=これまでの放送 |publisher=NHK総合 SONGS |date=2015-10-30 |accessdate=2017-04-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/164095 |title=「SONGS」松本隆特集で松田聖子、KinKi Kidsがヒット曲熱唱 |publisher=音楽ナタリー |date=2015-10-27 |accessdate=2017-04-23}}</ref> * [[小さな旅]]シリーズ わたしの東京物語(2)〜風吹く街 新宿 松本隆〜(2017年4月16日、NHK総合)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www4.nhk.or.jp/kotabi/x/2017-04-16/21/19382/2648960 |title=小さな旅 |publisher=NHK総合 小さな旅 |date=2017-04-16 |accessdate=2017-05-02}}</ref> * [[ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜]](2017年4月22日、[[ビーエス朝日|BS朝日]])- インタビュアーは[[小島慶子]]<ref>{{Facebook post|zaintabyu|1640537199309527|【さあ土曜日です!今夜6時より②】松本隆さん(作詞家)×小島慶子さん(タレント、エ... - ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~BS朝日}}</ref> * [[坂崎幸之助のももいろフォーク村NEXT]]→しおこうじ玉井詩織×坂崎幸之助のお台場フォーク村([[フジテレビNEXT]]) **第91夜「松本縛りでお台場リクエストアワー」(2018年12月13日) **第103夜「ももクロと松本隆縛り忘年会」(2019年12月17日) **第115夜「松本隆×筒美京平縛り フNS音楽祭」(2020年12月9日) **第127夜「松本隆縛りスタプラボーカルフェスティバル」(2021年12月14日) **第139夜「松本隆縛り第2回スタプラボーカルフェスティバル」(2022年12月15日) * [[世界一受けたい授業]]([[日本テレビ]]) **人を惹きつける"魔法の日本語表現"(2018年12月29日) **昭和・平成・令和のヒットソング!作詞家・松本隆先生に学ぶ!心に響く歌詞(2023年9月2日)<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/09/02/kiji/20230902s00041000572000c.html|title=作詞家・松本隆氏 「凄くいい」「あまり考えつかない」絶賛した平成・令和の名曲とは|work=SponichiAnnex|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2023-09-02|accessdate=2023-09-03}}</ref> * 訳あって…東京に住むのヤメました(2019年1月5日、日本テレビ) * [[NHKスペシャル]]「筒美京平からの贈りもの 天才作曲家の素顔」(2020年10月31日、NHK総合) * NHK MUSIC SPECIAL 松本隆 50年 〜時代と人をつないだ作詞家〜(2021年7月15日、NHK総合)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/music/programs/451701.html|title=NHK MUSIC SPECIAL 松本 隆 50年 ~時代と人をつないだ作詞家~|publisher=NHK MUSIC|date=2021-07-05|accessdate=2021-07-18}}</ref> * [[サウンド・イン"S"|Sound Inn “S”]] 松本隆トリビュートスペシャル(2021年7月17日、[[BS-TBS]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://amass.jp/148881/|title=BS-TBS『Sound Inn “S”「松本隆トリビュートスペシャル」』7月17日放送|publisher=amass|date=2021-07-12|accessdate=2021-07-18}}</ref> * よみがえれ!!あなたの青春フォーク&ポップス!〈パート4〉(2021年9月5日、[[BSテレビ東京|BSテレ東]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tvguide.or.jp/news/news-1053064/|title=松本隆が貴重な裏話を語る! J-POPの礎を築いた名曲の数々を届ける「よみがえれ!!あなたの青春フォーク&ポップス!」第4弾|publisher=TVガイド|date=2021-08-29|accessdate=2021-09-06}}</ref> === CM === * [[サッポロビール]]「[[サッポロ生ビール黒ラベル]]」 **『大人エレベーター』66Floor(2016年7月)<ref>{{Cite web|和書|title=妻夫木聡、作詞家・松本隆さんの言葉に感銘 |publisher=[[日テレNEWS24]] |date=2016-07-14 |url=https://news.ntv.co.jp/category/culture/335342 |accessdate=2016-07-25}}</ref> **『丸くなるな、星になれ。』篇(2023年3月7日 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sapporobeer.jp/news_release/0000015727/|title=「サッポロ生ビール黒ラベル」の新たなCM「丸くなるな、☆星になれ。」篇放映のお知らせ|publisher=サッポロビール|date=2023-03-07|accessdate=2023-03-08}}</ref> === PV === * [[クミコ]]「さみしいときは恋歌を歌って」(2016年9月)<ref>{{Cite news |title=クミコ×松本隆氏×秦基博、MVでも豪華コラボ!制作の“裏側”も |newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date=2016-07-25 |url=https://www.sanspo.com/article/20160725-ZSVMB3BFCVOVPMOS6H7IYTAEWQ/ |accessdate=2016-07-25}}</ref> === ラジオ === * [[今日は一日○○三昧]] 第214回「[[今日は一日○○三昧#放送内容|今日は一日"松本隆ソング"三昧]]」(2019年2月11日、[[NHK-FM放送]]) === Web配信 === * <small>松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト</small>「風街ちゃんねる」(2020年12月12日 - 2021年10月31日、[[チケットぴあ|PIA LIVE STREAM]]) - 全6回。MCは[[宇賀なつみ]] == 連載 == * 書きかけの…(2022年4月2日 - 、[[朝日新聞]]『[[be (朝日新聞)|be]]』) - [[随筆|エッセイ]]。朝日新聞の週末別冊版([[二部紙]])にて映画監督の[[山田洋次]]、音楽プロデューサーの[[亀田誠治]]と週替わりで連載<ref>{{Cite news|url= https://www.asahi.com/articles/DA3S15239569.html?iref=pc_ss_date_article|title= 20年間も、これからもbe 2022春の新紙面|newspaper= 朝日新聞デジタル|publisher= 朝日新聞社 |date= 2022-03-21 |accessdate= 2022-05-29 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20100725084849/http://www.kazemachi.com/ 風待茶房] - 公式ページ(2010年8月閉鎖、Internet-Archive) * {{Twitter|takashi_mtmt|松本 隆}} * {{Instagram|takashi_matsumoto_official|松本 隆}} * [https://www.1101.com/takashi_matsumoto/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 松本隆×糸井重里 似ているふたり、初めてのことば。] * [https://takashimatsumoto50.com/ 『松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト』特設サイト] * [https://columbia.jp/matsumototakashi/ 『松本隆 作詞活動50周年トリビュートアルバム』特設サイト] * {{Twitter|BEDAMARECORDS|松本隆トリビュートアルバム【公式】}} * [https://kazemachi-kobe.mystrikingly.com/ 風街神戸paradiso] * [https://www.youtube.com/channel/UC8mugbUI69O6SDZ7gJIddgA/featured -cafe Paradiso -旧 瑠璃色の地球chorus] - YouTube * [https://web.archive.org/web/20010519161402/http://home.interlink.or.jp/~t-ishii/ 松本隆作品鑑賞事典] {{はっぴいえんど}} {{日本作詩大賞}} {{薬師丸ひろ子}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まつもと たかし}} [[Category:松本隆|*]] [[Category:日本のポップ・ミュージシャン]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:日本のドラマー]] [[Category:はっぴいえんどのメンバー]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:アニメ音楽の作詞家]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:慶應義塾高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
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開運!なんでも鑑定団
『開運!なんでも鑑定団』(かいうん!なんでもかんていだん)は、1994年(平成6年)4月19日からテレビ東京系列ほかで毎週火曜日の20:54 - 21:54(JST)に放送されている鑑定バラエティ番組。通称は「鑑定団」「なんでも鑑定団」。民放連賞優秀賞を受賞。 様々な人が持っている「お宝」を、専門家(主に古美術品やアンティークショップの経営者が中心)が鑑定し、番組独自の見解に基づいて値段付けを行う。意外なものが高価な鑑定結果を得たり、高価だと思われていたものが偽物などで安価になってしまうという意外性や、鑑定物に対する蘊蓄が堪能できるのが特徴。(鑑定の結果、埋もれていた芸術家や芸術作品が発見されたこともあった)。 本番組から鑑定・骨董品ブームが起きたが、何でも金銭で換算してしまう点や、美術品をパフォーマンスで見せる点などを疑問に思う美術関係者もいる。しかし、依頼品にまつわる人々の熱かったり切なかったりする思い入れや、鑑定結果に一喜一憂する依頼人の表情などは人間味にあふれ、鑑定を単なる金銭的評価のみに終わらせていない。また、鑑定結果が出る前には、これから鑑定する依頼品に対する予備知識の解説が入る。そこでは、製作者の生い立ち、歴史的背景などのほか、作風、作品の見方、味わい方などが紹介される。牧野義雄のようにこの番組によって、一般に広く知れ渡るようになった芸術家も数多く存在する。 1994年4月の放送開始から2014年4月で20年を突破し、テレビ東京で最も長く続いているバラエティ番組であり、1995年4月から現在も放送継続中の『出没!アド街ック天国』とともに長寿番組の地位を確立している。 番組改編期や年末年始の特番シーズンでも、番組はほぼ休止せずに放送される。世界卓球など大型のスポーツイベントの際も、原則として火曜日は20時台で中継を終了し本番組が放送される。期首特番では、テレビ東京系列の人気番組を総登場させることもあり、そのような回でも(いわゆる「人気番組大集合」ものとしては異例ではあるが)系列外ネット局で放送されることもある。もちろん系列外ネット局では番組宣伝としての要素は意味を成さず、ときには異なる局で放送される番組が登場するケースになることもある。 収録スタジオが東京タワースタジオからテレビ東京天王洲スタジオに変更された2000年10月放送分以降にはハイビジョン化された。当初はスタジオ収録のみハイビジョン映像だったが、2010年7月6日放送分より出張鑑定などロケーション収録・取材映像などもハイビジョン収録となった(それと同時にアナログ放送ではレターボックス化された)。それまではスタジオ収録以外は4:3SDアップコンバート映像で2003年3月放送分までレンガのデザインをかたどったサイドパネル、2003年4月放送分から2010年6月29日放送分までは唐草模様のサイドパネルを付けていた。 1990年代後半頃からのバラエティ番組に見られるなぞりテロップはスタジオパートでは2022年4月頃まで一貫して使われず、ロケ収録や取材映像でもごく一部にとどめられている。ただしサイドテロップなどの装飾は年々増えており、番組ロゴの常時表示や依頼人紹介VTRの時のみワイプで今田らの表情が挿入されるなど、昨今のバラエティ番組の演出も少しずつ取り入れている。2022年10月現在ではスタジオパートでも強調する部分のみなぞりテロップが使われているようになっている。そのためオープンザ・プライス等のやり取りの際はなぞりテロップは使われない。 番組開始当初は7%程度であったが、半年後の1994年10月頃には18%程度まで上昇した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。以下略)。さらにテレビ東京では異例の視聴率20%超えを1995年 - 1996年にほぼ毎週記録し(全盛期は22%程度まで上昇したこともあった)、1996年6月11日放送分では23.7%と番組最高視聴率を記録している。 2004年10月に紳助が不祥事を起こしたことで視聴率的に苦戦を強いられ、平均視聴率は10%前半にまで落ち込むようになった。しかし、その時期も地方向けの番組販売(後述)によって乗り切り、平均視聴率15%前後までに回復した。 2009年3月10日放送分において、同日第1位の18.9%を獲得している。また再放送の数字も安定しており、2010年3月7日の再放送でも9.2%とテレ東としては高視聴率をマークしている。 その後は視聴率低下の傾向が見られるものの、視聴率が2桁となる回もあり、テレビ東京の番組の中では高視聴率の部類に入る。 番組誕生の由来は、1993年3月『EXテレビ』の火曜日(読売テレビ制作)・最終回放送の中で過去に番組内で放送された「実験的なテレビ番組企画」を一堂に会し、業界向けにプレゼンテーションし、上岡龍太郎および島田紳助のいずれかを司会者に起用することを条件にオークション形式で企画自体を買い取ってもらうというものであった。その中には不定期で放送されていた「家宝鑑定ショー」という企画も出品されていた。これは「偽のお宝を自信満々に持ち込むような学のない金持ちを集め、その鼻を折る」というネガティブコンセプトと「他人の不幸は蜜の味」の気質に根付いた感覚を元に生まれた企画であった。 それがテレビ東京の制作陣の目に留まり、紳助をメインMCとした番組として開始された。 なお、放送作家の高橋秀樹は、「家宝鑑定ショー」がルーツであるとしつつも、原型はイギリスで1979年から放送されているBBCの番組『Antiques Roadshow』であると述べている。 本番組が超人気番組として高視聴率を叩き出していた1995年には、TBSが模倣番組と思われる『世界お宝ハンティング 勝負は目利き』を放送したが、同番組は低視聴率により1年弱で打ち切りになっている。 流れとして基本はゲスト・一般視聴者・出張なんでも鑑定団・一般視聴者の順で、不定期で「幻の逸品買います・私のお宝売ります」が挟み込まれることがある。 2017年9月まではOP→提供前クレ→出演者3人による挨拶・短いフリートーク後に1人目の依頼人紹介VTRに移っていたが、2017年10月からはOP→出演者3人による挨拶・短いフリートークに移っている。2018年10月からは、回によってはMC挨拶とフリートークをカットし、OP後いきなり1人目の依頼人紹介VTRに移る。この場合は名前テロップを1人目の依頼者登場後に表示し、提供前クレも1回目のCM前に移動する。2021年10月からは提供前クレもBGMが変更となる。 MC アシスタント 番組開始当初から1999年3月までは、最初のCM明けに本日登場する鑑定士を紹介するVTR「鑑定士軍団 データファイル」が放送されていた。同じく、特殊な鑑定品の場合は「古文書解読団 データファイル」も放送されたことがある。各鑑定士の前にはネームプレートが置かれている(2016年4月5日以降はなし)。 鑑定士の席順は基本、テレビに向かって一番右(上座)からレギュラーの紹介順に座り、準レギュラーが出演時はレギュラーの隣に準レギュラーの紹介順に座り、ゲストが出演時は一番左(下座)に座る。 新型コロナウイルス感染症対策の一環で一時的に鑑定士のパネルしか置かれていない時期もあったが2023年4月現在はアクリル板越しではあるがレギュラーは全員スタジオ出演するが、準レギュラーやゲストは鑑定するブロックの時のみ出演し、鑑定しないブロック時は出演しない。(レギュラーが鑑定するブロック時に前後のブロックで鑑定する準レギュラーやゲストどちらか1名が出演する場合がある) 以下の鑑定士の紹介順とジャンルはホームページによる。 中島と北原は1994年の番組開始当初からレギュラー出演している。 2016年4月5日 - 9月27日の間は不在 ほか 太字はレギュラー出演者。なお、渡邉・安岡・岩崎は1994年の放送開始当初から出演していた。 MCの1人である石坂浩二が、2002年に直腸癌手術のため入院し、2か月程度番組を空けていたことがあった(具体的な日時は不詳)。その間は代役を立てずに紳助が単独で司会を務め、普段石坂が担当する鑑定額表示盤の操作は吉田が代行した。 司会者の1人である島田紳助が2004年10月に起こした傷害事件で謹慎になったことに配慮してBSジャパンでは放送を一旦打ち切り(当面一時休止)、別の番組『ディスカバリーアース』に差し替えとなったほか、ネット局の再放送も別番組に差し替えとなった。本放送ではテレビ東京系列2004年11月2日放送分は収録した日付などテロップを挿入の上で通常通り放送し、翌週の回は、出張鑑定で進行役を務める松尾伴内が代役で登場。 また再放送を放送している局に関しては、11月上旬から一時的に『田舎に泊まろう!』の再放送を流していた。日曜11:54からのテレビ北海道再放送枠も一時的に同様の措置をとっていたが12月12日から『鑑定団』の再放送を再開した。地上波放送でこれまでの半年ほど前の内容から1か月ほど前の内容を放送していたが、現在は再び半年ほど前の内容を放送している。 なお、2004年11月16日放送分から当時紳助が所属していた吉本興業の後輩である今田耕司が代役を務めていたが、2005年1月25日放送分に紳助が番組に復帰した。これに合わせて2004年10月末より放送休止していたBSジャパンでの放送が2005年1月27日より再開した。BSジャパンでしか見ることができない地域では本番組が3か月間まったく視聴できない状況が続いた(BSジャパンでは今田の代役出演の遅れ放送は行われなかった)。 2004年11月16日放送分の視聴率は15.7%、23日は13.1%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。 紳助が2011年8月に暴力団との交際を理由に芸能界を引退したことに伴い本番組の動向が注目されていたが、テレビ東京側は「番組内容に問題があったわけではない。お宝の鑑定自体が番組のメインで、紳助さんありきの番組ではない」と放送継続を早期に決定。撮り直しとなる2011年8月30日放送分(テレビ東京系列初回放送日)と9月6日・13日放送分の計3回分は、かつて紳助の謹慎時に代役を務めた(前述参照)今田を再度代理司会として起用することが発表された。9月20日放送分以降のMCも今田が務めることになったが、テレビ東京社長の島田昌幸は今田に新MC就任を打診していることを明らかにし、9月14日に今田が新MCに就任することが正式発表された。 また、テレビ東京で8月22日から9月2日までの予定で月曜 - 金曜11:40 - 12:35に放送していた再放送を8月23日で打ち切り、8月24日から9月2日までは『いい旅・夢気分』の再放送に変更。他のテレビ東京系列でも日曜日の再放送を当面の間別番組に変更することになったが、テレビ大阪は9月5日から、テレビ東京は9月11日から、テレビ北海道は10月2日からそれぞれ再放送を再開した。テレビ東京系列局によっては、紳助謹慎時に放送された回(テレビ東京系列初回放送日で2004年11月16日 - 2005年1月18日の間に放送された回)を再放送している局もあった。 遅れネット局における各局の対応は、BSジャパン(当時)では2011年8月18日の放送を最後に一旦打ち切り、後番組につなぎとして9月までBSジャパンオリジナル番組の『ふるさと にっぽんの祭り』の再放送などを放送し、10月から『空から日本を見てみよう』の再放送が組まれることになった。ほとんどの系列外局でも当面の間本放送・再放送とも放送を見合わせ、別番組を放送する対応をとっていたが、テレビ東京系列初回放送日である2011年8月30日放送分の回(今田の司会初登場時の回)からほとんどの系列外局でも9月以降順次放送を再開し、遅れネット局の中で最後まで放送を見合わせていたテレビ長崎も10月15日(土曜日)にテレビ東京系列初回放送日の2011年8月30日放送分から再開したことで、遅れネット局も全局で放送を再開した。なお、2012年1月5日からBSジャパンでもテレビ東京系列初回放送日の2004年11月16日放送分(今田の代理MC登場時の回)より放送を再開することになった。1月中は2004年11月から2005年1月にかけて今田の代理MCを務めていた回を放送していたが、2012年2月2日(テレビ東京系列初回放送日・2011年8月30日放送分)から通常のレギュラー放送を行っている。 なお、紳助引退後も本番組の特番や総集編では紳助が登場する映像が頻繁に用いられている。 番組は全編ローカルセールス枠ではあるが、系列局では開始当初を除き、現在では全6局同時ネットとなっている。テレビ愛知では系列局ながら、放送開始から約10年でようやくネットが開始された。また、テレビ東京系列(TXN)外の放送局でも多く放送されており、放送対象地域は全国をほぼカバーしているが、京都府・兵庫県は本来の放送対象地域に含まれていない。2022年4月から始まったテレ東系リアルタイム配信では本番組も対象となり全国で視聴できるようになった。 TXN系列外のほとんどの局では週末の昼から夕方に放送しており、再放送を行っている局も週末を中心に多い。ただし当該時間帯に特別番組が組まれている場合、別の時間帯での放送(再放送枠に本放送を入れる局もある)もしくは休止となることがある。 スペシャルの場合、TXN系列局であっても後日放送する局もある。 TXN系のうちテレビ大阪は火曜にプロ野球阪神戦中継を組み、延長オプションを設けているため20:54を越えた時点で休止となり、休止になった回は日曜の再放送枠で遅れ放送されていたが、2012年4月以降は延長となる場合でもHD+SDマルチ編成として20:54からメインチャンネル(071ch・HD)で通常通り本番組を放送し、サブチャンネル(073ch・SD)でプロ野球阪神戦中継が組まれる。 再放送は本放送の翌日または前日の同時間に設定する放送局が多くあり(主として土・日曜12:00 - 13:00)、2日連続同じ時間で番組が視聴できる地域も多い。 テレビ信州、静岡第一テレビ、福井放送、四国放送、テレビ大分、鹿児島読売テレビは毎年8月に「24時間テレビ「愛は地球を救う」」を放送する場合は休止となり、福島テレビ、石川テレビ、テレビ愛媛、テレビ熊本は「FNSの日」を放送する場合は休止となる。 2010年10月7日から2012年3月29日までBSジャパン(現・BSテレ東)で本番組の次の木曜 21:00 - 21:54に放送されていた本家のスピンオフ番組。本家の鑑定士が講師として出演。司会は草野満代、塾長は中島誠之助が務め、ナレーションは本家と同じく銀河万丈と冨永みーなが務める。 ちなみに司会を務める草野は2011年9月6日放送分の本家番組にもゲストとして出演している。 2016年4月7日から2017年9月24日まで、BSジャパン(現・BSテレ東)で放送された派生番組。本時間帯でスピンオフ番組が放送されるのは前述の『目からウロコの骨董塾』以来4年ぶりである。『開運!なんでも鑑定団』の前司会である石坂浩二が特定のジャンルに造詣の深いコレクターをゲストに招き、そのジャンルの魅力やゲストのコレクター活動、またゲストの持つジャンルの逸品などをゲストと共に解説する番組。スタジオのセットが石坂の運営管理しているサロンであるという設定になっている。放送時間は、2016年度は、木曜 21:00 - 21:54、2017年度上半期は、日曜 21:00 - 21:54に放送。石坂は番組終了後、2017年度下半期の半年間、この番組と同じ日曜21時枠で後継番組『石坂浩二のニッポン凄い人名鑑』を担当していた。 ナレーターは『開運!なんでも鑑定団』と共通。 2016年1月時点での番組史上最高額の鑑定品は、2005年9月27日放送分で記録された「柿右衛門様式の壺」で、鑑定額は5億円である。一方最低額は、0円が複数回出たことがある。 なお第1回から第999回までで番組内で鑑定した鑑定品は77781点、鑑定総額は172億5698万4079円。 2016年12月20日放送の『開運!なんでも鑑定団』において、中島誠之助が出品された天目茶碗を「曜変天目茶碗」「4点目」と鑑定した。 しかし、2017年12月、中国福建省のテレビ局の取材に対して同国の陶芸家・李欣紅(りきんこう)がこの茶碗が自身の作であると証言。2018年1月17日、TBSで放送のテレビ番組『ビビット』でこの問題が取り上げられ、李が「骨董品のレプリカです。私が作ったもので間違いないです。およそ1400円で販売していました」と話すインタビューが放送された。
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金曜11:40 - 12:35に放送していた再放送を8月23日で打ち切り、8月24日から9月2日までは『いい旅・夢気分』の再放送に変更。他のテレビ東京系列でも日曜日の再放送を当面の間別番組に変更することになったが、テレビ大阪は9月5日から、テレビ東京は9月11日から、テレビ北海道は10月2日からそれぞれ再放送を再開した。テレビ東京系列局によっては、紳助謹慎時に放送された回(テレビ東京系列初回放送日で2004年11月16日 - 2005年1月18日の間に放送された回)を再放送している局もあった。", "title": "レギュラー出演者不在時の対応" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "遅れネット局における各局の対応は、BSジャパン(当時)では2011年8月18日の放送を最後に一旦打ち切り、後番組につなぎとして9月までBSジャパンオリジナル番組の『ふるさと にっぽんの祭り』の再放送などを放送し、10月から『空から日本を見てみよう』の再放送が組まれることになった。ほとんどの系列外局でも当面の間本放送・再放送とも放送を見合わせ、別番組を放送する対応をとっていたが、テレビ東京系列初回放送日である2011年8月30日放送分の回(今田の司会初登場時の回)からほとんどの系列外局でも9月以降順次放送を再開し、遅れネット局の中で最後まで放送を見合わせていたテレビ長崎も10月15日(土曜日)にテレビ東京系列初回放送日の2011年8月30日放送分から再開したことで、遅れネット局も全局で放送を再開した。なお、2012年1月5日からBSジャパンでもテレビ東京系列初回放送日の2004年11月16日放送分(今田の代理MC登場時の回)より放送を再開することになった。1月中は2004年11月から2005年1月にかけて今田の代理MCを務めていた回を放送していたが、2012年2月2日(テレビ東京系列初回放送日・2011年8月30日放送分)から通常のレギュラー放送を行っている。", "title": "レギュラー出演者不在時の対応" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、紳助引退後も本番組の特番や総集編では紳助が登場する映像が頻繁に用いられている。", "title": "レギュラー出演者不在時の対応" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "番組は全編ローカルセールス枠ではあるが、系列局では開始当初を除き、現在では全6局同時ネットとなっている。テレビ愛知では系列局ながら、放送開始から約10年でようやくネットが開始された。また、テレビ東京系列(TXN)外の放送局でも多く放送されており、放送対象地域は全国をほぼカバーしているが、京都府・兵庫県は本来の放送対象地域に含まれていない。2022年4月から始まったテレ東系リアルタイム配信では本番組も対象となり全国で視聴できるようになった。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "TXN系列外のほとんどの局では週末の昼から夕方に放送しており、再放送を行っている局も週末を中心に多い。ただし当該時間帯に特別番組が組まれている場合、別の時間帯での放送(再放送枠に本放送を入れる局もある)もしくは休止となることがある。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スペシャルの場合、TXN系列局であっても後日放送する局もある。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "TXN系のうちテレビ大阪は火曜にプロ野球阪神戦中継を組み、延長オプションを設けているため20:54を越えた時点で休止となり、休止になった回は日曜の再放送枠で遅れ放送されていたが、2012年4月以降は延長となる場合でもHD+SDマルチ編成として20:54からメインチャンネル(071ch・HD)で通常通り本番組を放送し、サブチャンネル(073ch・SD)でプロ野球阪神戦中継が組まれる。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "再放送は本放送の翌日または前日の同時間に設定する放送局が多くあり(主として土・日曜12:00 - 13:00)、2日連続同じ時間で番組が視聴できる地域も多い。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "テレビ信州、静岡第一テレビ、福井放送、四国放送、テレビ大分、鹿児島読売テレビは毎年8月に「24時間テレビ「愛は地球を救う」」を放送する場合は休止となり、福島テレビ、石川テレビ、テレビ愛媛、テレビ熊本は「FNSの日」を放送する場合は休止となる。", "title": "ネット局と放送時間" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2010年10月7日から2012年3月29日までBSジャパン(現・BSテレ東)で本番組の次の木曜 21:00 - 21:54に放送されていた本家のスピンオフ番組。本家の鑑定士が講師として出演。司会は草野満代、塾長は中島誠之助が務め、ナレーションは本家と同じく銀河万丈と冨永みーなが務める。 ちなみに司会を務める草野は2011年9月6日放送分の本家番組にもゲストとして出演している。", "title": "BSジャパン (現:BSテレ東)・鑑定団スピンオフ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2016年4月7日から2017年9月24日まで、BSジャパン(現・BSテレ東)で放送された派生番組。本時間帯でスピンオフ番組が放送されるのは前述の『目からウロコの骨董塾』以来4年ぶりである。『開運!なんでも鑑定団』の前司会である石坂浩二が特定のジャンルに造詣の深いコレクターをゲストに招き、そのジャンルの魅力やゲストのコレクター活動、またゲストの持つジャンルの逸品などをゲストと共に解説する番組。スタジオのセットが石坂の運営管理しているサロンであるという設定になっている。放送時間は、2016年度は、木曜 21:00 - 21:54、2017年度上半期は、日曜 21:00 - 21:54に放送。石坂は番組終了後、2017年度下半期の半年間、この番組と同じ日曜21時枠で後継番組『石坂浩二のニッポン凄い人名鑑』を担当していた。", "title": "BSジャパン (現:BSテレ東)・鑑定団スピンオフ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ナレーターは『開運!なんでも鑑定団』と共通。", "title": "BSジャパン (現:BSテレ東)・鑑定団スピンオフ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2016年1月時点での番組史上最高額の鑑定品は、2005年9月27日放送分で記録された「柿右衛門様式の壺」で、鑑定額は5億円である。一方最低額は、0円が複数回出たことがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお第1回から第999回までで番組内で鑑定した鑑定品は77781点、鑑定総額は172億5698万4079円。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2016年12月20日放送の『開運!なんでも鑑定団』において、中島誠之助が出品された天目茶碗を「曜変天目茶碗」「4点目」と鑑定した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、2017年12月、中国福建省のテレビ局の取材に対して同国の陶芸家・李欣紅(りきんこう)がこの茶碗が自身の作であると証言。2018年1月17日、TBSで放送のテレビ番組『ビビット』でこの問題が取り上げられ、李が「骨董品のレプリカです。私が作ったもので間違いないです。およそ1400円で販売していました」と話すインタビューが放送された。", "title": "その他" } ]
『開運!なんでも鑑定団』(かいうん!なんでもかんていだん)は、1994年(平成6年)4月19日からテレビ東京系列ほかで毎週火曜日の20:54 - 21:54(JST)に放送されている鑑定バラエティ番組。通称は「鑑定団」「なんでも鑑定団」。民放連賞優秀賞を受賞。
{{Redirect|鑑定団|千葉県にあるリサイクルショップ|千葉鑑定団}} {{出典の明記|date=2022年11月}} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名 = 開運!なんでも鑑定団 |画像= |画像説明= |ジャンル = [[鑑定]]番組 / [[バラエティ番組]] |放送国 = {{JPN}} |製作 = [[テレビ東京]]<br />[[ネクサス (プロダクション)|ネクサス]] |監督 = |演出 = 白井まみ子、永良龍彦、森重覚朗(共に総合演出) |プロデューサー = 高砂佳典・水野亮太(共にテレビ東京)<br />杉山麗美(NEXUS) | ナレーター = [[銀河万丈]]<br />[[冨永みーな]] |司会者 = [[今田耕司]]<br />[[福澤朗]] |アナウンサー = [[片渕茜]]([[テレビ東京のアナウンサー一覧|テレビ東京アナウンサー]]) |出演者 = [[中島誠之助]]<br />[[北原照久]]<br />[[安河内眞美]]<br />[[山村浩一]] ほか |番組名1 = 開始から2000年9月まで |放送時間1 = [[火曜日]] 21:00 - 21:54 |放送分1 = 54 |放送期間1 = [[1994年]][[4月19日]] - [[2000年]][[9月26日]] |番組名2 = 2000年10月から現在 |放送時間2 = 火曜日 20:54 - 21:54 |放送分2 = 60 |放送期間2 = 2000年[[10月3日]] - 現在 |音声 = [[ステレオ放送|ステレオ]][[解説放送]] |映像形式 = [[文字多重放送]]<br />[[データ放送]]([[2016年]][[4月5日]]から) |OPテーマ = [[ビートルズ]]「[[ヘルプ! (ビートルズの曲)|ヘルプ!]]」 |EDテーマ = Nanao「星と夢のカケラ」 |外部リンク = https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/ |外部リンク名 = 公式サイト |特記事項 = [[日本民間放送連盟|民放連]]賞優秀賞<!--、[[橋田賞]]-->受賞。<br />字幕放送は、[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]と[[独立局]]([[岐阜放送]]、[[奈良テレビ]]、[[テレビ和歌山]])と一部の系列外ネット局でも実施。テレビ東京などは[[再放送]]でも実施(BSテレ東は同局における2018年11月29日放送回より)。色は、[[黄色]]は[[今田耕司]]で[[水色]]は[[福澤朗]]。<br />テレビ東京の[[再放送]]で2015年9月頃から[[解説放送]]を実施<ref group="注">テレビ東京の再放送のみで実施しない日もある。</ref>。2017年4月4日からは本放送でも解説放送を実施(テレビ東京と同時ネットを行う局のみ)。解説は[[村山明 (声優)|村山明]]。 }} 『'''開運!なんでも鑑定団'''』<ref group="注">公式サイトではタイトルに「!」が入っているが、タイトルロゴには描かれていない。</ref>(かいうん!なんでもかんていだん)は、[[1994年]](平成6年)4月19日から{{#tag:ref|放送開始年月については、次の資料を参照<ref name="gaibu_kantei_tvco">[[#外部リンク]]より、『テレビ東京・開運!なんでも鑑定団 番組メイキング(テレビコ)』内の情報を参照。</ref><ref name="ng_20131108">[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/145749 紳助の支えも…アシスタントの吉田真由子こそ「鑑定団」1000回の“奇跡”] - 『日刊ゲンダイ』ウェブ版 2013年11月8日付芸能記事</ref>。|group="注"}}[[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]]ほかで毎週火曜日の20:54 - 21:54([[日本標準時|JST]])に放送されている[[鑑定]][[バラエティ番組]]。通称は「'''鑑定団'''」「'''なんでも鑑定団'''」。[[日本民間放送連盟|民放連]]賞優秀賞<!--、[[橋田賞]]-->を受賞。 == 概要 == === 基本コンセプト === 様々な人が持っている「'''お宝'''」を、専門家(主に[[古物商|古美術品やアンティークショップ]]の経営者が中心)が[[鑑定]]し、番組独自の見解に基づいて<ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170124-00000021-pseven-ent なんでも鑑定団・2500万円茶碗に陶芸家が疑問の声上げた理由]</ref>値段付けを行う。意外なものが高価な鑑定結果を得たり、高価だと思われていたものが偽物などで安価になってしまうという意外性や、鑑定物に対する蘊蓄が堪能できるのが特徴。(鑑定の結果、埋もれていた芸術家や芸術作品が発見されたこともあった{{refnest|group="注"|一例として、2006年に元アメリカ海軍将校の家族が出品した[[長門 (戦艦)|戦艦長門]]の[[軍艦旗]]を、石坂が評価額の1000万円で購入し、呉の[[大和ミュージアム]]に寄贈した<ref>大和ミュージアム『[http://yamato-museum.com/info/%E6%88%A6%E8%89%A6%E3%80%8C%E9%95%B7%E9%96%80%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%85%88%E4%BB%BB%E6%97%97%E3%80%8D%E8%B4%88%E5%91%88/ 戦艦「長門」の「先任旗」贈呈]』2014年7月18日、閲覧2015年9月19日</ref>。}})。 本番組から[[鑑定]]・[[骨董品]]ブームが起きたが、何でも金銭で換算してしまう点や、[[美術品]]をパフォーマンスで見せる点などを疑問に思う美術関係者もいる。しかし、依頼品にまつわる人々の熱かったり切なかったりする思い入れや、鑑定結果に一喜一憂する依頼人の表情などは人間味にあふれ、鑑定を単なる金銭的評価のみに終わらせていない。また、鑑定結果が出る前には、これから鑑定する依頼品に対する予備知識の解説が入る。そこでは、製作者の生い立ち、歴史的背景などのほか、作風、作品の見方、味わい方などが紹介される。[[牧野義雄]]のようにこの番組によって、一般に広く知れ渡るようになった芸術家も数多く存在する。 1994年4月の放送開始から2014年4月で20年を突破し、テレビ東京で最も長く続いているバラエティ番組であり、1995年4月から現在も放送継続中の『[[出没!アド街ック天国]]』とともに[[長寿番組]]の地位を確立している。 番組改編期や年末年始の特番シーズンでも、番組はほぼ休止せずに放送される。[[世界卓球選手権大会|世界卓球]]など大型のスポーツイベントの際も、原則として火曜日は20時台で中継を終了し本番組が放送される{{refnest|group="注"|2017年5月30日は世界卓球と[[全仏オープン]]テニスの[[錦織圭]]の試合が重なったため当日になって放送休止。}}。期首特番では、テレビ東京系列の人気番組を総登場させることもあり、そのような回でも(いわゆる「人気番組大集合」ものとしては異例ではあるが)系列外ネット局で放送されることもある。もちろん系列外ネット局では番組宣伝としての要素は意味を成さず、ときには異なる局で放送される番組が登場するケースになることもある。 収録スタジオが[[東京タワースタジオ]]から[[テレビ東京天王洲スタジオ]]に変更された2000年10月放送分以降には[[ハイビジョン制作|ハイビジョン化]]された。当初はスタジオ収録のみ[[ハイビジョン]]映像だったが、2010年7月6日放送分より出張鑑定などロケーション収録・取材映像などもハイビジョン収録となった(それと同時に[[NTSC|アナログ放送]]では[[レターボックス (映像技術)|レターボックス]]化された)。それまではスタジオ収録以外は4:3SDアップコンバート映像で2003年3月放送分までレンガのデザインをかたどったサイドパネル、2003年4月放送分から2010年6月29日放送分までは[[唐草模様]]のサイドパネルを付けていた。 1990年代後半頃からのバラエティ番組に見られるなぞり[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]はスタジオパートでは2022年4月頃まで一貫して使われず、ロケ収録や取材映像でもごく一部にとどめられている。ただしサイドテロップなどの装飾は年々増えており、番組ロゴの常時表示や依頼人紹介VTRの時のみワイプで今田らの表情が挿入されるなど、昨今のバラエティ番組の演出も少しずつ取り入れている。2022年10月現在ではスタジオパートでも強調する部分のみなぞりテロップが使われているようになっている。そのためオープンザ・プライス等のやり取りの際はなぞりテロップは使われない。 === 視聴率 === 番組開始当初は7%程度であったが、半年後の1994年10月頃には18%程度まで上昇した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。以下略)。さらにテレビ東京では異例の[[視聴率]]20%超えを1995年 - 1996年にほぼ毎週記録し(全盛期は22%程度まで上昇したこともあった)、1996年6月11日放送分では23.7%と番組最高視聴率を記録している。 2004年10月に紳助が不祥事を起こしたことで視聴率的に苦戦を強いられ、平均視聴率は10%前半にまで落ち込むようになった。しかし、その時期も地方向けの番組販売(後述)によって乗り切り、平均視聴率15%前後までに回復した。 2009年3月10日放送分において、同日第1位の18.9%を獲得している。また再放送の数字も安定しており、2010年3月7日の再放送でも9.2%とテレ東としては高視聴率をマークしている。 その後は視聴率低下の傾向が見られるものの<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/11326933/ 「なんでも鑑定団」視聴率が16年のうちで最低の8.4%を記録],Livedoor ニュース,2016年3月23日</ref>、視聴率が2桁となる回もあり、テレビ東京の番組の中では高視聴率の部類に入る。 === 番組誕生の由来 === 番組誕生の由来は、1993年3月『[[EXテレビ]]』の火曜日([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作)・最終回放送の中で過去に番組内で放送された「実験的なテレビ番組企画」を一堂に会し、業界向けにプレゼンテーションし、[[上岡龍太郎]]および島田紳助のいずれかを司会者に起用することを条件にオークション形式で企画自体を買い取ってもらうというものであった。その中には不定期で放送されていた「家宝鑑定ショー」という企画も出品されていた。これは「偽のお宝を自信満々に持ち込むような学のない金持ちを集め、その鼻を折る」というネガティブコンセプトと「他人の不幸は蜜の味」の気質に根付いた感覚を元に生まれた企画であった。 それがテレビ東京の制作陣の目に留まり、紳助をメインMCとした番組として開始された{{refnest|group="注"|1996年当時の読売テレビ公式サイトでも、本番組が『EXテレビ』から生まれたことを示唆する記述が見られる<ref>[https://web.archive.org/web/19961231004012/http://www.iijnet.or.jp/YTV/ytjpwek.htm 1996年12月当時、読売テレビ公式サイトで配信された平日帯番組の情報ページ](インターネット・アーカイブ同31日付保存キャッシュ)より、『TVじゃん!!』(月 - 木曜 夜11:30 - 深夜0:45)の紹介文を参照。"「11PM」に代表される深夜番組を生み出した読売テレビが自信をもっておくる深夜番組の決定版!現在大ヒットしている「なんでも鑑定団」は、この番組の前身「EXテレビ」から登場してきました。"という記述あり(" "内は、リンク先より引用)。</ref>。}}。 なお、[[放送作家]]の[[高橋秀樹 (放送作家)|高橋秀樹]]は、「家宝鑑定ショー」がルーツであるとしつつも、原型はイギリスで1979年から放送されている[[英国放送協会|BBC]]の番組『[[:en:Antiques Roadshow|Antiques Roadshow]]』であると述べている<ref>[http://mediagong.jp/?p=14780 <「開運!なんでも鑑定団」でパワハラ?>テレビ東京が石坂浩二に尊敬の念を払わない非礼]</ref>。 本番組が超人気番組として高視聴率を叩き出していた1995年には、[[TBSテレビ|TBS]]が模倣番組と思われる『[[世界お宝ハンティング 勝負は目利き]]』を放送したが、同番組は低視聴率により1年弱で打ち切りになっている。 == 番組の流れ == 流れとして基本はゲスト・一般視聴者・出張なんでも鑑定団・一般視聴者の順で、不定期で「幻の逸品買います・私のお宝売ります」が挟み込まれることがある。 2017年9月まではOP→提供前クレ→出演者3人による挨拶・短いフリートーク後に1人目の依頼人紹介VTRに移っていたが、2017年10月からはOP→出演者3人による挨拶・短いフリートークに移っている。2018年10月からは、回によってはMC挨拶とフリートークをカットし、OP後いきなり1人目の依頼人紹介VTRに移る。この場合は名前テロップを1人目の依頼者登場後に表示し、提供前クレも1回目のCM前に移動する。2021年10月からは提供前クレもBGMが変更となる。 *依頼人紹介VTR :その日のゲスト及び依頼人の人となりを紹介するVTRが流される。一般視聴者の場合は仕事や趣味などの私生活の紹介後、依頼品の入手経緯や依頼の経緯、お宝にまつわるエピソードが紹介される。ゲストの場合はそれまでの経歴が紹介される。 :2回目以降の登場ゲストは経歴紹介がカットされ、OPから依頼人登場へ直接つなぐ形式となる。歴代最多登場ゲストは[[大橋巨泉]]で、最後の出演となった2015年5月放送分まで32回も出演を果たした。 *依頼人・依頼品登場 :MC(紳助→今田)の「依頼人の登場です」のコールでセット中央の扉{{refnest|group="注"|扉は長らく観音開きでコンパニオンが開けていたが、コンパニオンが廃止されてからは引き戸に変更され、裏からスタッフが開け閉めする形となった。OPの出演者3人による挨拶・短いフリートークの際もここからMCが登場している(コロナ禍に入ってから2023年6月6日までは初めから板付きの状態で開始していた)。}}からゲスト・依頼人と依頼品が登場。また、『○○県からお越しの××△△さんです』とアシスタント(吉田真由子→片渕茜アナ){{refnest|group="注"|吉田の降板から片渕の就任までの間はこの紹介は割愛され、BGMだけが流れていた。}}が紹介する。依頼人が高齢で歩行が困難などといった理由で登場が出来ない場合は依頼人の登場部分までが割愛され、初めから中央に板付きの状態で紹介される。その後、今田の「お宝オープン!」の合図で片渕(依頼品によっては今田と2人で、以前はコンパニオン2人が担当していた)が布をめくり依頼品を発表。依頼者から依頼品に関する大まかな説明が行われる。 *依頼品紹介VTR :依頼品に関する紹介VTRが流される。主に、依頼品の作者の生涯や、依頼品と同じ作風・同時代の品物などが説明され、最後に依頼品の確認を行う。なお、著名人の場合はない場合がある。 :[[中野美奈子]]がゲスト出演(2019年6月18日放送分)とVTR出演(2021年2月9日放送分)を2回出演した。 *鑑定 :[[本間勇輔]]作曲の楽曲「サスペンス・タッチ」{{refnest|group="注"|元々本番組の為に作られた楽曲ではなく、アニメ『[[のらくろクン]]』の劇伴として作られたもの。他にも『[[おそ松くん|おそ松くん (第2作)]]』でも使用されていた。}}が流れ、番組の鑑定士によって依頼品を鑑定する。鑑定の様子を流す時間はその時々で長さが変化するが、その回最後の鑑定のときはスタッフロールを流す関係上多少長めに時間をとるようになっている。2020年9月現在はスタッフロールを鑑定結果後に流すため、鑑定の様子を流す時間は最後でも短くなった。 *鑑定額発表 :最初に依頼人による本人予想額を発表後、鑑定士が出した鑑定額をサブ司会者(石坂→福澤)が鑑定額表示板の横にあるテンキーで入力し、今田の「オープン・ザ・プライス!」の合図で、福澤が鑑定額表示板を操作して鑑定額を表示させる。鑑定額は一の位から1個ずつ順番に表示され、その際「一・十・百・千・万・十万・百万・千万・億」と、桁がアナウンスされる。鑑定額表示板は、初期は7セグ表示で桁のアナウンスはなく、次の位の桁の表示の間隔が短かったが、後に赤と緑のLED表示になり{{refnest|group="注"|鑑定額確定時に「¥」が左からスライドしてくる(それ以前の初期の表示板は左にある「確定」のランプが点いていた)。また、LED表示になった当初、鑑定額を一桁ずつ表示する際は黒に赤文字で、鑑定額確定時「¥」が数字の横に到着したと同時に反転表示していたが、後に逆になった。}}、通常は番組タイトルが表示され、次の位の桁の表示の間が長くなる。現在はフルカラーLEDで表示される。また、依頼人の予想鑑定額と鑑定士の実際の鑑定額が一致すると、福澤の「ジャストミート!」の声とともに番組から鑑定額が一致したことを認める「目利き認定証」が贈られる(今田・福澤・片渕時代から。それ以前は不明)。 :発表後は鑑定士から依頼品の真贋や鑑定のポイント、複数品を鑑定した場合は個々の鑑定額を解説する。また、ゲストは画面向かって右に設けられたゲスト席に座って番組に残り、エンディングまで出演、一般視聴者の鑑定にも立ち会う。 :[[四千頭身]]がゲスト出演した回(2020年3月3日放送分)は、「鑑定額がどんどん上がってゆくが、途中から下がって安値で終わる」という演出が行われた。この演出は持ちネタにあるもので、メンバーの後藤拓実が番組のファンであることから実現したもの。番組内では鑑定額が300万円まで上がり、3000円に下がるというオチがついている。 == 出演者 == === MC・アシスタント === '''MC''' * [[今田耕司]](2011年8月30日 - 2代目メインMC{{#tag:ref|テレビ東京系列2012年9月4日放送分ではゲスト依頼人も兼ねて出演。|group="注"}}、MC抜擢については後述) * [[福澤朗]](2016年4月5日 - フリーアナウンサー・元日本テレビアナウンサー、2016年9月27日まではアシスタントの役目も担っていた。) '''アシスタント''' * [[片渕茜]](テレビ東京アナウンサー、2016年10月4日 - 3代目アシスタント、テレビ東京の現職アナウンサーがレギュラー出演者に起用されるのは放送開始から22年半で初めて)<ref>{{Cite web|和書|title= 茜色の日々 「開運! なんでも鑑定団」|publisher= テレビ東京アナウンサー:片渕茜|page= 1|date= 2016-10-1|url= http://ablog.tv-tokyo.co.jp/katafuchi/2016/10/post-7.html|format= HTML|language= 日本語|accessdate= 2016-10-1}}</ref> === コーナー=== ; 出張!なんでも鑑定団進行、私のお宝売りますアンサー編・幻の逸品買いますアンサー編リポーター * [[松尾伴内]] * [[石田靖]](2010年12月14日 - ) * [[原口あきまさ]](2012年7月10日 - ) * [[パックンマックン]]([[パトリック・ハーラン|パックン]]・[[吉田眞|マックン]]) * [[飯尾和樹]](2019年5月7日 - ) === 鑑定士 === 番組開始当初から1999年3月までは、最初のCM明けに本日登場する鑑定士を紹介するVTR「鑑定士軍団 データファイル」が放送されていた。同じく、特殊な鑑定品の場合は「古文書解読団 データファイル」も放送されたことがある。各鑑定士の前にはネームプレートが置かれている(2016年4月5日以降はなし)。 鑑定士の席順は基本、テレビに向かって一番右([[上座]])からレギュラーの紹介順に座り、準レギュラーが出演時はレギュラーの隣に準レギュラーの紹介順に座り、ゲストが出演時は一番左([[下座]])に座る。 新型コロナウイルス感染症対策の一環で一時的に鑑定士のパネルしか置かれていない時期もあったが2023年4月現在はアクリル板越しではあるがレギュラーは全員スタジオ出演するが、準レギュラーやゲストは鑑定するブロックの時のみ出演し、鑑定しないブロック時は出演しない。(レギュラーが鑑定するブロック時に前後のブロックで鑑定する準レギュラーやゲストどちらか1名が出演する場合がある) 以下の鑑定士の紹介順とジャンルはホームページによる。 ==== レギュラー(2023年4月現在) ==== {| class="wikitable" !氏名!!ジャンル!!肩書!!備考 |- |[[中島誠之助]]||焼き物・茶道具||古美術鑑定家||元・骨董屋「からくさ」店主(2000年に閉店) |- |[[北原照久]]||レトロ・特撮・アニメ玩具、ミニカー<br />広告キャラクター・看板||[[ブリキのおもちゃ博物館]]館長|| |- |[[安河内眞美]]||日本画||「ギャラリーやすこうち」店主|| |- |[[山村浩一]]||西洋画・彫刻||永善堂画廊代表取締役社長|| |} 中島と北原は1994年の番組開始当初からレギュラー出演している。 ==== 準レギュラー(2023年4月現在)==== {| class="wikitable" !氏名!!ジャンル!!肩書!!備考 |- |阿藤芳樹||西洋アンティーク||「阿藤ギャラリー」代表取締役||2016年9月27日までは、レギュラー出演。 |- |[[田中大]]||日本画、古文書||「思文閣」代表取締役社長||番組を病欠した安河内の代役も務めた。<br />鑑定時にハンカチで口元を押さえるため<br />一時「'''京都のハンカチ王子'''」と呼ばれていた。 |- |[[大熊敏之]]||近代工芸||[[日本大学]]教授||前[[富山大学]]教授 |- |澤田平||甲冑・古式銃、和時計、<br />からくり細工||「堺鉄砲研究会」主宰||[[稲富祐直|稲富]]流[[砲術]]の砲術家師範。日本各地の鉄砲隊の生みの親。<br /> 柔道整復・鍼灸院院長。<br />鑑定のたびに自身のコレクションに関する自慢話を<br />パフォーマンスとともに披露する。鑑定士の中では古参。 |- |[[勝見充男]]||古民具||古美術「自在屋」店主|| |- |[[増田孝]]||古文書||書蹟史家、[[愛知東邦大学]]教授||元[[愛知文教大学]]副学長、のちに学長。 |- |山本清司||野球全般||「COLLECTIBLES FIELD」代表|| |- |森由美||焼き物・茶道具||陶磁研究家||中島の娘。 |} === ナレーター === * [[銀河万丈]] - 鑑定依頼品についての解説VTR{{refnest|group="注"|ただし、依頼品が[[リカちゃん人形]]や[[バービー人形]]や[[ペコちゃん|ペコちゃん人形]]の際は冨永が担当した。}}、「出張!なんでも鑑定団」、番組冒頭の内容紹介、番宣ナレーションを担当 * [[冨永みーな]] - 依頼人登場前の紹介VTR、「幻の逸品買います」「私のお宝売ります」のコーナー、出張鑑定の「青春の思い出鑑定大会」の依頼人紹介を担当 ** 2020年の新型コロナウイルスによる影響により、総集編放映時は依頼人紹介が銀河、依頼品解説が冨永という逆転した配役も行われた。また銀河がコロナウイルスに感染し、2020年11月5日から11月16日まで休養した際は、番宣ナレーション、およびコマーシャル前の「CMの後!」を、冨永が担当した。 * [[杉本るみ]] - 出張鑑定の「ご長寿お宝鑑定大会」「美人女将お宝鑑定大会」などの依頼人紹介を担当 * [[榊原良子]] - 出張鑑定の「ご長寿お宝鑑定大会」の依頼人紹介を担当 * [[村山明 (声優)|村山明]] - 2017年4月4日から解説放送 == 過去の出演者 == === MC === * [[島田紳助]](番組開始 - 2011年8月23日、初代メインMC<ref>[http://www.sanspo.com/geino/news/110825/gnd1108250506012-n2.htm 「ヘキサゴン」休止、TV局てんやわんや] 2011年8月25日 SANSPO.COM {{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref>) :紳助と石坂はバランスでキャスティングされていた側面がある<ref name="tyco-2">[http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=75 #023 開運!なんでも鑑定団 第2話 まずお宝ありき。次にそれを語る人々。 (テレビコ)]</ref>。紳助は[[井上公造]]の取材に対し、博識で知られる石坂にどうしても出演してほしかったと語っており、石坂なしでは番組が成功しなかったのは、絶対的な事実と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/db0f98d028db1ee7ce658acbda4b7b0a0d856a40|title=紳助さんが語った「鑑定団」の真実!ベッキー騒動にも言及|date=2016-02-02|accessdate=2016-02-06|publisher=Yahoo!ニュース個人|author=井上公造}}</ref>。 :紳助が資産管理などに詳しいなどあって購入金額の現在価値への換算や評価額・鑑定額について依頼人を煽る役割を担い、依頼人の表情を際立たせる。石坂は自身がコレクターで絵画を描く趣味を持ち、知識と教養からコメントをすることで紳助とバランスを取っている。衣装も同じく、紳助は番組開始以来スーツを着ずにラフな衣装で出演し(ただしスペシャルなど期首特番では他の番組と同様にスーツ姿で出演する場合もある)、石坂はスーツ姿、たまに和装姿を見せる。 :2011年8月23日放送分終了直後、紳助が芸能界引退を発表したため、紳助が最後に出演した番組となった。 * [[石坂浩二]](番組開始 - 2016年3月29日<ref name="sponichi">{{Cite web|和書|date=2016-01-30 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/30/kiji/K20160130011949040.html |title=「鑑定団」石坂浩二降板を発表 アシスタント吉田真由子も卒業 |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=2016-01-30}}</ref>まで) : 2016年4月7日から2017年9月24日まで派生番組『[[#極上!お宝サロン|開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン]]』([[BSテレビ東京|BSジャパン(当時)]])のMCを務めた<ref>[https://www.bs-tvtokyo.co.jp/official/otakara/ 開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン|BSジャパン]</ref>。 : 第2回の放送(1994年4月26日)では本名の[[石坂浩二|武藤兵吉]]として依頼人としても登場。19世紀のドイツ製大型オルゴールを出品し、1550万円で鑑定された。また、2019年4月30日放送分「開運!なんでも鑑定団 平成最後のお宝鑑定 スペシャル」にもゲスト出演している。 : 2014年頃から、発言シーンがカットされるなど、不自然な放送が指摘されていた<ref>[https://www.sankei.com/article/20160129-76DGUJ2CF5P3VCS5MQPDAKBROE/ 石坂浩二“イジメ”疑惑 「鑑定団」2年も発言シーンカット]、[https://www.sankei.com/article/20160129-Q26HTFXAYZKYLC7ZD4H5QIMVKE/ 発言は全部カット? 甘利氏もかつて疑問を提示 所属事務所は「コメント出す予定ない」](産経ニュース、2016年1月29日)</ref>。 === アシスタント === 2016年4月5日 - 9月27日の間は不在 * [[山内木の実]](初代、1994年4月 - 9月) * [[吉田真由子]](二代目、1994年10月11日<ref name="ng_20131108" /> - 2016年3月29日<ref name="sponichi" />) - 2代目アシスタント<ref name="ng_20131108" /> :2015年7月21日放送回で「日本のテレビ番組の女性アシスタント最長記録」を更新した。それまでの1位は『[[探偵!ナイトスクープ]]』の[[岡部まり]]の20年9カ月だった<ref>[https://sirabee.com/2015/06/16/35516/ 日本一やる気のないアシスタント「吉田真由子」が「歴代最長記録」を更新するぞ!]</ref>。 === コーナー === * [[さまぁ〜ず]] * [[フォークダンスDE成子坂]] * [[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]] * [[伊集院光]] - 出張鑑定・司会 * [[福留功男]] * [[なぎら健壱]] * [[村上ショージ]] * [[春風亭昇太]] * [[極楽とんぼ]] * [[桂小枝]](2012年3月6日放送分にはゲスト依頼人として出演) * [[風見しんご]] * [[越前屋俵太]] * 遠峯ありさ(現・[[華原朋美]]) * [[ボビー・オロゴン]] * [[彦摩呂]] * [[大東めぐみ]] * [[かつみさゆり]] * [[朝岡聡]] * [[辻よしなり]] * [[梶原しげる]] * [[ルー大柴]] * [[クミコ]] * [[住田隆]] * [[柳家花緑]] === コンパニオン === * 高梨もと子 * 仲埜裕貴 * 中島あき * [[吉田香織]] * 長戸よの * [[松本彩友美]] * 山田明子([[真木蔵人]]と結婚し、[[真木明子]]の名で活動) * [[諸岡なみ子]] * [[綿引さやか]] * [[新妻さと子]] * 青木直子 * 橋本かれん * [[永浜いりあ]] * [[齋藤菜月]](2016年10月 - 降板時期不明。出張!なんでも鑑定団アシスタント、幻の逸品買いますリポーターを兼務) * [[奈津子]](2016年10月 - 降板時期不明。出張!なんでも鑑定団アシスタント、幻の逸品買いますリポーターを兼務) *; *; 幻の逸品買いますリポーター ** [[福下恵美]] ** [[大道寛子]] ** [[平手舞]] ** [[片岡明日香]] ** [[相沢礼子]] ** 伊藤雅 ** [[八田亜矢子]] ** [[豊岡真澄]] ** [[庄司ゆうこ]] ** [[佐藤唯]] ** [[谷本安衣]] ほか === 鑑定士 === '''太字'''はレギュラー出演者。なお、渡邉・安岡・岩崎は1994年の放送開始当初から出演していた。 *''' [[渡邉包夫]]'''(日本画) - 千葉県文化財保護協会評議員 : 千葉県夷隅郡大多喜町に住み、自宅の「[[渡辺家住宅]]」は[[重要文化財]]である。収録の度に大多喜町の自宅から上京していた。通称は「'''鑑定士軍団の最長老'''」で、[[横山大観]]の弟子でもある。番組の原型となった「EXテレビ」での企画から出演していた。価値の低い品物に対して「'''これはいけません'''」や、絵画の鑑定時に「'''技術的に説明しますと…'''」というセリフが彼の代名詞だった。 : 1998年10月14日に死去<ref>[https://web.archive.org/web/19990224211035/http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/watanabe.htm 番組公式サイト内で配信された、渡邉包夫の追悼ページ](プロフィール含む。ページ下部に「Last Updated:1998/10/24」のクレジットあり)インターネット・アーカイブ1999年2月24日付保存キャッシュ)</ref>。番組のオープニングで追悼企画が放送され、[[やくみつる]]画の渡邉の似顔絵も披露された。石坂も渡邉の逝去直後は「渡邉人形」を喪章代わりに付けていた。 * '''[[安岡路洋]]'''(考古学・民芸品) - 民具の館「杢魄舎」館長 : 番組では「'''[[埼玉県|埼玉]]の[[インディ・ジョーンズ シリーズ|インディ・ジョーンズ]]'''」と紹介されていた。2011年1月30日に死去。 *''' [[岩崎紘昌]]'''(西洋アンティーク) - 西洋アンティーク評論家 *''' [[石井久吾]]'''(日本画) - 書画専門店「古汲洞」店主 : 渡邉の高校教員時代の教え子で門下生だった。 * [[前野重雄]](スポーツ用品) - スポーツグッズ店「流体力学」経営。 * [[古川益三|古川益蔵]](漫画) - 漫画家、古書店「[[まんだらけ]]」社長 * 柴田光男([[日本刀]]) - 元「刀剣柴田」会長、全国刀剣商業協同組合元会長 : 番組で刀剣の鑑定と解説を行っていたが、2006年1月21日に肺炎で死去。現在は息子の柴田光隆が日本刀の鑑定を行っている。 * [[瀬木慎一]](美術) - 美術評論家 : [[2011年]]3月15日に死去。2010年6月1日放送の出張鑑定「第8回 名画鑑定大会」が最後の番組出演となった。 * [[堀秀道]](鉱物) -「鉱物科学研究所」所長 : 2019年1月3日死去。 * '''[[永井龍之介]]''' (西洋画・彫刻) -「永井画廊」代表取締役 === ナレーター === * [[郷里大輔]](銀河の代役) * [[鶴ひろみ]](冨永の産休中の代役) * [[皆口裕子]](同上) == 主なコーナー == === 現在放送中のコーナー === ; 出張!なんでも鑑定団 * MCは基本的に伴内、石田、原口、飯尾、パックンマックンの5組が持ち回りで担当。また、以前はコンパニオンのうちの1人も同行していたが、2023年現在はコンパニオンが廃止されたため単独でMCを務めており、代わりにゲストコメンテーターが1組導入された。鑑定士は内容に応じて2 - 3人が務める。 * 正式名称は「出張!なんでも鑑定団 in ○○(収録地)」で、通称は「出張鑑定」。全国各地の劇場やホールで公開収録、お宝の鑑定を行う。冒頭では、その回の収録地の歴史や名産品などをVTRで紹介する。特別版では海外への出張鑑定も行うことがある。 * お宝紹介の後、依頼者が黒字で本人評価額を書いたボードを司会者の合図で会場全体に見せる(その際、司会者が『ジャカジャン!』と効果音を付けるのが恒例)。鑑定の後、本人評価額のボードに赤字で書かれた鑑定額の結果を司会者の合図で再度会場全体に見せる(評価額と鑑定額が同一の場合は「ピッタリ!」「お見事!」「ズバリ!」と書かれる場合もある)。 * 依頼者の本人評価額より上だとその地方独自のお土産、また一致したりすると鑑定士からのプレゼントがある(その際、地元の市町村区長やミス○○、ご当地キャラから寄贈されることが多い){{refnest|group="注"|地域によってはごくまれに評価額より下の場合でも何かしらのパフォーマンスが行われることもあった。}}。また、その回で(鑑定額に関係なく本人のリアクションやエピソードなどにより)最も注目を集めた依頼者を「今週のMVP」に認定し、番組特製の非売品Tシャツが贈られる(過去には、司会の石坂デザインによるカレンダーをプレゼントしていたことがあった)。 * VTRの最後の鑑定品はその場で鑑定が難しいもの、出演する鑑定士の専門外のもの、価値がかなり高いと思われるものには、鑑定士がボードに「鑑定はスタジオで」または単に「スタジオへ」と書き、依頼人とお宝をスタジオに招いて再鑑定する場合がある。2006年以降はこの様な事例が発生していなかったが、2023年2月21日放送回の出張鑑定で17年ぶりに発生した<ref>{{Cite web|和書|title=「鑑定団」出張鑑定で17年ぶり珍事!まさかのスタジオへ 番組P「ミラクル」中国の古い焼き物 金額は? |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/02/20/kiji/20230220s00041000238000c.html |website=スポーツニッポン |access-date=2023-02-20 |date=2023-02-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『なんでも鑑定団』で17年ぶり「出張鑑定からスタジオへ!」 「中国の古い焼き物2点」に超ド級鑑定額 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2268793/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-02-22 |date=2023-02-21}}</ref>。 * 初回はまだ番組自体が知られていなかったため、依頼人が集まらなかったハプニングがあった。 ; テーマ別鑑定大会 * 特定のジャンルの品物(「石」「スポーツグッズ」「おもちゃ」「切手・コイン」「人形」「鉄道グッズ」など)、特定の職業(「美人女将」「菓子職人」「銀座のママ」「相撲力士」など)や特別な事情(「ご長寿」「借金のカタ」「青春の思い出」「リベンジ」{{refnest|group="注"|過去にスタジオや出張鑑定で低評価額をつけられた依頼者が再登場するもの。}}「強気のお宝」{{refnest|group="注"|本人評価額が高額だという自信がある依頼者が登場する。}}「もめてるお宝」など)を持った依頼人に絞った鑑定大会で、いくつかはシリーズ化されている。大会は地方出張ではなく東京のスタジオでの収録となるが、ごく稀に鑑定品に関連した施設などで開催することもある。 * 基本的な流れは出張鑑定に準じているが、司会のほかに芸能人がコメンテーターとしてゲスト出演する。またテーマによっては独自のルールを制定することもある{{refnest|group="注"|一例では「石鑑定大会」があり、第1回の参加者が鑑定金額が0円だったことにショックを受け、収録の帰りにその石を池に捨ててしまったことがVTR後のトークで語られており、以降大会では「石は必ず持ち帰ること」との注意が加えられた(なお、石を池や川に捨てると不法投棄に問われることがある)。}}。 * 夫婦・親子・兄弟でお宝について決着をつける「もめてるお宝鑑定大会」の回では2人でそれぞれ異なった本人評価額のボードを出し、結果の際に鑑定士が鑑定額に加え「○○の勝ち」と書き加える。 === 不定期放送のコーナー === ; 幻の逸品 買います * コレクターが幻の逸品を代金と引き換えで譲ってくれる人を募集する。 * 随時、アンサー報告あり。 ; 私のお宝売ります * 理由あって売りたいお宝を鑑定し、その前後の価格で買い取ってくれる人を募集する。 * 希望価格は依頼者の言い値ではなく鑑定で出され、それ以上の金額からの入札で入札者を番組で募集する入札形式。ただ、必ずしも一番高い金額で入札した人が譲ってもらえるとは限らないようで、最終的に依頼者が落札者を選ぶ。 * 随時、アンサー報告あり。 ; お宝通信簿 * 自慢のお宝コレクションを鑑定し、目利き度を評価する。 ; お宝発掘!諸国鑑定めぐり * 日本全国の歴史のある街に行き、まだ広く知られていないお宝を探してぶらり旅をする。出張鑑定と同じ司会・鑑定士が担当し、鑑定額はその場に設置した電光表示で出す(電光表示は7セグメントのデジタル数字で4桁表示であるため、万単位から千万単位までの表示となる)。 ; シロウト目利き選手権 * 司会:さまぁ〜ず、松尾伴内、住田隆ほか * 素人が4 - 5個のお宝の中から一番高い物を当てる。 * 出題された一番高いお宝を見事当てると10万円の賞金が贈られた。 * スタジオで紳助やゲストも同じ問題に挑戦した。紳助らが外した場合、1人1万円の罰金となり、ある一定額まで積み立てられるとお宝が視聴者にプレゼントされた。 ; 日本縦断 お宝探しの旅 * お笑いコンビの[[はりけ〜んず]]と素人代表のおじさん1名が日本を旅し、未だ日の目を見ない隠れたお宝を探すという連続ものの企画。 * 当時、人気番組だった[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[進ぬ!電波少年]]』という番組の旅企画を意識したものであったが、評判がいまいちだったため、3カ月程度で終了した。 * この企画の最終回では、見つけたお宝をスタジオに持ち込み鑑定を行った。 ; お宝の殿堂 * リポーター:松尾伴内、住田隆 * 過去に番組で鑑定した、高額のお宝のその後を紹介し、殿堂入りを認定する。 == レギュラー出演者不在時の対応 == === 石坂の癌治療時 === MCの1人である石坂浩二が、2002年に[[悪性腫瘍|直腸癌]]手術のため入院し、2か月程度番組を空けていたことがあった(具体的な日時は不詳)。その間は代役を立てずに紳助が単独で司会を務め、普段石坂が担当する鑑定額表示盤の操作は吉田が代行した。 === MC・島田紳助の不祥事 === ==== 紳助の傷害事件による謹慎時 ==== 司会者の1人である島田紳助が2004年10月に起こした[[島田紳助#傷害事件|傷害事件で謹慎に]]なったことに配慮して[[BSジャパン]]では放送を一旦打ち切り(当面一時休止)、別の番組『ディスカバリーアース』に差し替えとなったほか、ネット局の再放送も別番組に差し替えとなった。本放送ではテレビ東京系列2004年11月2日放送分は収録した日付などテロップを挿入の上で通常通り放送し、翌週の回は、出張鑑定で進行役を務める[[松尾伴内]]が代役で登場。 また再放送を放送している局に関しては、11月上旬から一時的に『[[田舎に泊まろう!]]』の再放送を流していた。日曜11:54からの[[テレビ北海道]]再放送枠も一時的に同様の措置をとっていたが12月12日から『鑑定団』の再放送を再開した。地上波放送でこれまでの半年ほど前の内容から1か月ほど前の内容を放送していたが、現在は再び半年ほど前の内容を放送している。 なお、2004年11月16日放送分から当時紳助が所属していた[[吉本興業]]の後輩である今田耕司が代役を務めていたが、2005年1月25日放送分に紳助が番組に復帰した。これに合わせて2004年10月末より放送休止していたBSジャパンでの放送が2005年1月27日より再開した。BSジャパンでしか見ることができない地域では本番組が3か月間まったく視聴できない状況が続いた(BSジャパンでは今田の代役出演の遅れ放送は行われなかった)。 2004年11月16日放送分の視聴率は15.7%、23日は13.1%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。 ==== 紳助の芸能界引退に伴う対応 ==== 紳助が2011年8月に暴力団との交際を理由に芸能界を引退したことに伴い本番組の動向が注目されていたが、テレビ東京側は「番組内容に問題があったわけではない。お宝の鑑定自体が番組のメインで、紳助さんありきの番組ではない」と放送継続を早期に決定。撮り直しとなる2011年8月30日放送分(テレビ東京系列初回放送日)と9月6日・13日放送分の計3回分は、かつて紳助の謹慎時に代役を務めた(前述参照)今田を再度代理司会として起用することが発表された。9月20日放送分以降のMCも今田が務めることになった<ref>[https://web.archive.org/web/20110827151503/http://daily.co.jp/gossip/article/2011/08/27/0004408963.shtml 「鑑定団」代役司会に今田耕司] 2011年8月27日 デイリースポーツonline ※インターネット・アーカイブ同日付保存キャッシュ</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/09/13/kiji/K20110913001611030.html|title=テレ東「なんでも鑑定団」今田耕司が司会続行へ|newspaper=スポーツニッポン|date=2011-09-13}}</ref>が、テレビ東京社長の[[島田昌幸]]は今田に新MC就任を打診していることを明らかにし<ref>[https://web.archive.org/web/20110909042423/http://daily.co.jp/gossip/article/2011/09/08/0004447753.shtml 「鑑定団」司会は今田が継続濃厚]デイリースポーツ 2011年9月8日 ※インターネット・アーカイブ同9日付保存キャッシュ</ref>、9月14日に今田が新MCに就任することが正式発表された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/09/15/kiji/K20110915001623550.html 「ヘキサゴン」打ち切り 「鑑定団」は今田に正式決定]スポーツニッポン 2011年9月15日</ref>。 また、テレビ東京で8月22日から9月2日までの予定で月曜 - 金曜11:40 - 12:35に放送していた再放送を8月23日で打ち切り、8月24日から9月2日までは『[[にっぽん!いい旅|いい旅・夢気分]]』の再放送に変更。他のテレビ東京系列でも日曜日の再放送を当面の間別番組に変更することになったが{{refnest|group="注"|一例として、テレビ北海道では『[[和風総本家]]』(テレビ大阪制作)や『[[田舎に泊まろう!]]』(2010年3月レギュラー放送終了、現在は単発特番として放送)など週替わりでの再放送番組に変更。なお、9月11日は通常は15時から放送される「[[たかじんNOマネー〜人生は金時なり〜]]」(テレビ大阪制作)をこの時間帯に移して放送していたが、これは当該時間帯に「[[TOSHIN GOLF TOURNAMENT IN Lake Wood]]」(テレビ愛知制作)の同時ネット(放送は愛知県・北海道ローカルとBSジャパンのみ)が組まれたため、一時休止となった本番組再放送の時間枠を使って放送されたものである。}}、テレビ大阪は9月5日から、テレビ東京は9月11日から、テレビ北海道は10月2日からそれぞれ再放送を再開した。テレビ東京系列局によっては、紳助謹慎時に放送された回(テレビ東京系列初回放送日で2004年11月16日 - 2005年1月18日の間に放送された回)を再放送している局もあった{{refnest|group="注"|テレビ北海道では2011年10月中は紳助謹慎時に放送された回(テレビ東京系列初回放送日で2004年11月16日 - 2005年1月18日の間に放送された回。ただし、北海道では当時地上デジタル放送が始まっていなかったため地上デジタル放送としては実質初回放送扱い)を再放送し、2011年11月6日(同年8月30日初回放送分)から通常の2カ月前の再放送を再開。}}。 遅れネット局における各局の対応は、[[BSテレビ東京|BSジャパン(当時)]]では2011年8月18日の放送を最後に一旦打ち切り、後番組につなぎとして9月までBSジャパンオリジナル番組の『ふるさと にっぽんの祭り』の再放送などを放送し、10月から『[[空から日本を見てみよう]]』の再放送が組まれることになった。ほとんどの系列外局でも当面の間本放送・再放送とも放送を見合わせ{{refnest|group="注"|当該回の遅れ放送ができなくなった回でも過去に放送された鑑定結果は番組のホームページから確認することができる。当初は放送開始からこれまでの放送内容を確認できていたが、その後保存期間がテレビ東京系列初回放送日から1年間となっていたものの、現在はテレビ東京初回放送で2010年1月以降に放送された鑑定結果のデータを見ることができる。}}、別番組を放送する対応をとっていたが{{refnest|group="注"|一例として、系列外で唯一ゴールデンタイムで放送している宮崎放送では2011年8月25日は『[[ちょこっとイイコト 〜岡村ほんこん♥しあわせプロジェクト〜]]』を、新潟総合テレビでは2011年8月27日に同年3月12日に放送予定だった『[[(株)世界衝撃映像社]]』幻の最終回スペシャル(フジテレビ)をそれぞれ放送した他、日本テレビ系列局ではほとんどの局が自系列番組の再放送を放送した。}}{{refnest|group="注"|そのため、テレビ東京と同時ネットする系列各局と系列外の岐阜放送、びわ湖放送、奈良テレビ、テレビ和歌山を除いて2週間から1カ月半(未開局であるテレビ北海道の帯広・網走・北見エリアでは試験放送を開始するまでの約2か月間)、BSジャパンでは約4か月半の間は本番組が視聴できない影響が生じた。試験放送を開始したばかりのテレビ北海道の釧路送信所のエリアでは芸能界引退発表前に2011年8月21日(同年6月放送分)の再放送と8月23日の初回放送が試験放送中に放送されており、直接受信できる当該エリアでは奇遇にも本番組が視聴できなくなる影響は避けることができた。}}、テレビ東京系列初回放送日である2011年8月30日放送分の回(今田の司会初登場時の回)からほとんどの系列外局でも9月以降順次放送を再開し{{refnest|group="注"|特に遅れ日数が半年 - 1年遅れだった局では遅れ日数が最大1カ月程度と大幅に縮まり、ほとんどの局は十数日遅れの放送となっている。}}、遅れネット局の中で最後まで放送を見合わせていた[[テレビ長崎]]も10月15日(土曜日)にテレビ東京系列初回放送日の2011年8月30日放送分から再開したことで、遅れネット局も全局で放送を再開した<!--テレビ長崎ホームページの番組表より-->。なお、2012年1月5日からBSジャパンでもテレビ東京系列初回放送日の2004年11月16日放送分(今田の代理MC登場時の回)より放送を再開することになった。1月中は2004年11月から2005年1月にかけて今田の代理MCを務めていた回を放送していたが、2012年2月2日(テレビ東京系列初回放送日・2011年8月30日放送分)から通常のレギュラー放送を行っている。 なお、紳助引退後も本番組の特番や総集編では紳助が登場する映像が頻繁に用いられている。 == 主題歌 == ;オープニングテーマ *[[ヘルプ! (ビートルズの曲)|ヘルプ!]] / [[ビートルズ]] ;歴代エンディングテーマ *ずっと、そばにいて / [[山崎亜弥子]] *STEP BY STEP / [[小比類巻かほる]] *[[エナジー (AXXLの曲)|エナジー]] / [[stereo criminals|AXXL]] *[[Tell Me (鷹橋敏輝の曲)|Tell Me]] / [[鷹橋敏輝]] *戻りたい戻れない / [[浅田真季]] *[[Always With You]] / [[鈴木康博]] *涙をふいてあげる / 合谷羊生 *Get Up My Soul / [[スターダストレビュー|スターダスト・レビュー]] *今すぐ君に会いに行こう / [[赤坂晃]] *[[あらゆる想い]] / [[LISAGO|Lisa(呉梨沙)]] *ねぇ いいでしょ / [[VELVET GARDEN]] *[[Just as…I don't wanna fall in love again]] / [[Kohhy]] *恋する青春 / [[HICKSVILLE]] *そばにいて / [[revenus|世古あき子]] *Blowin' Free / [[森重樹一]] *[[微熱 (BEREEVEの曲)|微熱]] / [[BEREEVE]] *Treasure in Heart / [[渕上史貴]] *愛は未来 / [[冴木杏奈]] *Please / Quny *[[僕たちの眠る場所]] / [[SAKU]] *君の物語 / [[須藤薫&杉真理]] *[[good bye silence]] / [[田村直美]] *Never Change / JOLLY PICKLES *海に降る雪 / [[ぽるん|Shiro]] *[[ハートに火をつけて]] / [[ザ・サーフコースターズ|THE SURF COASTERS]] feat.[[遠藤遼一|Ryoichi Endo]] *Jumpin' to the moon / [[a.mia]] *BOYFRIEND'S ROOKIE / [[ベッキー]] *In the name of love / 田村直美<!-- 2003年1月から --> *INCENTIVE / [[高岡由香|MY]] *金星ロケット / [[エイプリルズ]] *merry-go-round / [[Angela (音楽ユニット)|angela]] *春だったね / [[GTP (音楽グループ)|GTP]] *Family / [[PHONES]] *鮪 / [[漁港 (バンド)|漁港]] *誇り / blue velvet *傷跡のバラッド / [[怒髪天]]<!-- 2005年4月から --> *キラリ / フジモトタカコ<!-- 2005年7月から --> *Sound of me / YUME *SOLITUDE / [[高岡由香]] *イリス / [[谷村新司]]<!--2008年5月4日再放送分(TVO)現在--> *思い出の宝箱 / [[山本潤子|Song for Memories]] *Walkin' in the rain / [[Sweep]]<!-- 2007年10月から --> *愛が自由すぎて / ラバーフェニックス<!-- 2008年2月19日現在 --> *ブラボー! / [[クミコ]]<!-- 2008年5月6日・13日現在 6月24日まで --> *Malibu walk / [[5050 (バンド)|5050]]<!-- 2008年7月1日から --> *waltz / [[CHAGE]] *IamSAMURAI / [[諸星和己]]<!-- 2009年3月31日まで --> *メッセージ / [[ザ・アウトロウズ]]<!-- 2009年4月7日から --> *ゆびきり / [[彩冷える]]<!-- 2009年7月7日から --> *タイムマシン / [[ドレミ團]]<!-- 2009年10月6日から12月27日まで --> *桜 / [[辛島美登里]]<!-- 2010年1月5日から3月30日まで --> *きっともっと特別な / [[大西洋平_(シンガーソングライター)|大西洋平(シンガーソングライター)]]<!-- 2010年4月6日から6月29日まで --> *Your Way / [[原田喧太]]<!-- 2010年7月6日から9月28日まで --> *慕う / [[松山千春]]<!--2010年10月5日から12月28日まで--> *飛んで / [[伊禮俊一]]<!-- 2011年1月11日から --> *Star Flight feat. SHIKATA / Fivesta<!-- 2011年4月5日から --> *秘密 / [[BIGMAMA]]<!-- 2011年7月5日から --> *全身全霊LIVES / [[ダウト (バンド)|ダウト]]<!-- 2011年10月4日から12月27日まで --> *飲んで飲んで / [[パパイヤ鈴木]]と[[LiLiCo]]<!-- 2012年1月10日から --> *サヨナラパスポート / [[宮崎奈穂子]]<!-- 2012年4月3日から --> *count down / [[Lupin]]<!--2012年7月から--> *Zero~はじまりの朝 / [[鈴木結女]]<!-- 2012年10月2日から--> *双翼風雅 / [[Asriel]]<!-- 2013年1月8日から--> *大切な場所 / 森重樹一(fiom [[ZIGGY]])<!-- 2013年4月2日から--> *UNITED / ノスタルジック-ロジック<!-- 2013年7月2日から--> *ナイテモイイ / [[真桜]]<!-- 2013年10月15日から--> *Center Of Your Heart / [[大橋歩夕]]<!-- 2014年1月7日から --> *SAKURA / [[Apeace]]<!-- 2014年4月1日から --> *あの日のまま / 小比類巻かほる<!-- 2014年7月1日から --> *Fly Away / Juno Lee<!-- 2014年10月7日から --> *鎮恋歌 / [[石井里佳]]<!--2015年1月6日から--> *Soul Flags / Katty<!--2015年4月7日から--> *涙の鍵 / [[中村千尋]]<!-- 2015年7月7日から --> *永遠の月(とわのつき)/ [[KANA (歌手)|KANA]]<!--2015年10月6日から--> *ヨーコ / 優河<!--2016年1月5日から--> *[[春恋/夢追人|夢追人]] / [[加藤和樹]]<!--2016年4月5日から--> *碧の方舟 / SEIRIOS<!--2016年7月19日から--> *嫌われたくない / [[町あかり]]<!--2016年10月4日から--> *ダイナマイト★不ユカイ / [[サイバーニュウニュウ]]<!--2017年1月10日から--> *コイノアシアト / KANA<!--2017年4月から--> *Hey!Mr.アフロメ~ン! / P.IDL NAGOYA<!--2017年7月から--> *interface / [[上月せれな]]<!--2017年10月3日から--> *東京カラフル / マキタマシロ<!--2018年1月9日から--> *725 / 戸田桃香<!--2018年4月10日から--> *今から渋谷で遊ばない? / C'mon C'mon<!--2018年7月3日から--> *Na Na Na / 夏生奈苗<!--2018年10月2日から--> *カラス / 浜田マロン<!--2019年1月3日から--> *暁契 / 石戸なつみ<!--2019年4月9日から--> *HANABI /TOKYO RABBIT<!--2019年7月2日から--> *かたすみで / 松山千春<!--2019年10月1日から--> *カタオモイ / sumire<!--2020年1月7日から--> *SUN SHOWER / TOKYO RABBIT<!--2020年4月7日から--> *タカラモノ / [[林部智史]]<!--2020年7月7日から--> *LOVELESS / マキタマシロ<!--2020年10月6日から--> *ラビリンス〜薔薇の蜃気楼〜 / KANA<!--2021年1月12日から--> *マタアウマデ / 高塚駿<!--2021年4月13日から--> *あなたと出逢えて幸せでした / 本間愛花<!--2021年7月6日から--><ref>{{Cite news|title=本間愛花、新曲がテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」のエンディングテーマに|newspaper=サンケイスポーツ|date=2021-07-08|url=https://www.sanspo.com/article/20210708-VJRJTGYCMJOD3O6TTB6SPST5YQ/|agency=産経デジタル|accessdate=2021-07-08}}</ref> *歌の花束 / ボイトレミュージカル<!--2021年10月12日から--> *めぐりめぐって / ハナフサマユ<!--2022年1月4日から--> *Saturday Morning / TOKYO RABBIT<!--2022年4月5日から--> *太陽になる / 冬月みぃな<!--2022年7月5日から--> *let` s amen / 浜田マロン<!--2022年10月4日から--> *Wings〜Sing your life〜 / 冨永みーな<!--2023年1月10日から--> *夕闇と僕と遊覧船 / マキタマシロ <!--2023年4月4日から--> *ノってけ!Sunday / TheBiscats<!--2023年7月から--> *星と夢のカケラ / Nanao<!--2023年10月から--> == ネット局と放送時間 == 番組は全編ローカルセールス枠{{refnest|group="注"|地上波のレギュラー放送ではスポンサーは元々1枠だが、BSテレ東(旧・BSジャパン)では2010年頃から地上波番組の時差放送で珍しく前半・後半パートに分けている(もともと地上波レギュラー放送のスポンサー枠にあわせて編集されているため途中入れ替えのコメントはなし)。それ以前はBSジャパンのスポンサー枠は地上波放送と同様1枠のみだった。}}{{refnest|group="注"|テレビ北海道とびわ湖放送とテレビ和歌山(テレビ和歌山は2019年10月から、過去にはテレビ大阪も)では、スポンサーがテレビ東京より多いため、出張鑑定の間に入るCM前の後提供のバック画面部分では表示を行わず(テレビ北海道とびわ湖放送とテレビ和歌山は撮影映像とBGMのみ、テレビ大阪は撮影映像とBGMをカットしてCM入り)、テレビ北海道では出張鑑定終了後のCMの間に独自の提供ベースで、テレビ大阪では出張鑑定終了後のCMの最後に独自の提供ベースで、びわ湖放送とテレビ和歌山では最終CM枠の最後にブルーバック画面で提供クレジットを出している。これは出張鑑定の間に入るCM前の後提供が入るバック画面部分が出た時点でもスポンサーCMがすべて放送されていないため、この対応がとられている。}}ではあるが、系列局では開始当初を除き、現在では全6局同時ネットとなっている。テレビ愛知では系列局ながら、放送開始から約10年でようやくネットが開始された。また、テレビ東京系列([[TXNネットワーク|TXN]])外の放送局でも多く放送されており、放送対象地域は全国をほぼカバーしているが、[[京都府]]・[[兵庫県]]は本来の放送対象地域に含まれていない。2022年4月から始まった[[テレ東系リアルタイム配信]]では本番組も対象となり全国で視聴できるようになった。 TXN系列外のほとんどの局では週末の昼から夕方に放送しており、再放送を行っている局も週末を中心に多い{{refnest|group="注"|テレビ東京と同時ネットする局ではすべての地域が日曜日に再放送を行っている。}}。ただし当該時間帯に特別番組が組まれている場合、別の時間帯での放送(再放送枠に本放送を入れる局もある)もしくは休止となることがある。 スペシャルの場合、TXN系列局であっても後日放送する局もある。 TXN系のうちテレビ大阪は火曜に[[ナマ虎スタジアム|プロ野球阪神戦中継]]を組み、延長オプションを設けているため20:54を越えた時点で休止となり{{#tag:ref|延長オプションを行使してから時間が余った(およそ20分以上)場合は穴埋め番組(阪神戦の名場面集など)を放送して対応。|group="注"}}、休止になった回は日曜の再放送枠で遅れ放送されていたが、2012年4月以降は延長となる場合でもHD+SD[[マルチチャンネル|マルチ編成]]として20:54からメインチャンネル(071ch・HD)で通常通り本番組を放送し、サブチャンネル(073ch・SD)でプロ野球阪神戦中継が組まれる{{refnest|group="注"|延長放送の時間帯であっても試合が21:54の所定終了時間までに終われば、073chも途中から飛び乗りの形で放送することがあるが、この場合は野球中継からの流れでSD標準画質での放送となる。(ただし雨天中止や、20:54までに試合が終わるなどして、結果的にマルチ編成を行わないことがある)。なお[[ワンセグ]]放送ではマルチ編成を行わないので、定時通りスタートとなる。}}<ref>{{Cite journal|和書|author=皆見清昭 |title=地上波によるHD+SDマルチチャネル放送 |journal=映像情報メディア学会誌 |ISSN=1342-6907 |publisher=映像情報メディア学会 |year=2016 |volume=70 |issue=1 |pages=85-88 |naid=130006300777 |doi=10.3169/itej.70.85 |url=https://doi.org/10.3169/itej.70.85}}</ref>。 再放送は本放送の翌日または前日の同時間に設定する放送局が多くあり(主として土・日曜12:00 - 13:00)、2日連続同じ時間で番組が視聴できる地域も多い。 テレビ信州、静岡第一テレビ、福井放送、四国放送、テレビ大分、鹿児島読売テレビは毎年8月に「[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ「愛は地球を救う」]]」を放送する場合は休止となり、福島テレビ、石川テレビ、テレビ愛媛、テレビ熊本は「[[FNSの日]]」を放送する場合は休止となる。 * 字幕放送は本放送時に **〇…実施 **×…非実施 {|class="wikitable" style="text-align:center" |+ |- !放送対象地域!!放送局!!系列!!放送時間!!ネット状況 !字幕放送!!放送時間(再放送) !字幕放送(再放送)!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]](TX)||rowspan="6"|[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]||rowspan="10"|火曜 20:54 - 21:54||rowspan="10"|同時ネット | rowspan="10" |〇||日曜 12:54 - 14:00 |〇||'''制作局''' |- |[[北海道]]||[[テレビ北海道]](TVh)||日曜 12:00 - 13:00 |×|| |- |[[愛知県]]||[[テレビ愛知]](TVA)||日曜 11:55 - 13:00 | rowspan="2" |〇||<ref group="注">開始当初は深夜枠での遅れネットだった。また、ごく稀に日曜の再放送枠を[[テレビ愛知 10チャンベースボール|プロ野球中日戦中継]]で休止となった分の振り替え放送とするケースもある。</ref> |- |[[大阪府]]||[[テレビ大阪]](TVO)||日曜 12:54 - 14:00|| |- |[[岡山県]]・[[香川県]]||[[テレビせとうち]](TSC)||日曜 13:00 - 14:00 | rowspan="7" |×||{{refnest|group="注"|番組開始当初は火曜19:00から遅れネットで放送。}} |- |[[福岡県]]||[[TVQ九州放送]](TVQ)||日曜 14:54 - 16:00||{{refnest|group="注"|開局当初数年間は、19:00(現在は18:57→18:55)から『[[TVQスーパースタジアム]]』を2時間半から3時間放送した影響で、土曜20:00から放送といった遅れネットの時期があった(現在は同時ネットとなっているが、ごくたまにホークス戦中継開幕試合などによる時間延長でレギュラー放送が休止になる場合があるため、その際は日曜の再放送枠で放送となる)。なお、再放送を行ってる時間帯で午後1時から『TVQスーパースタジアム』が放送される場合は、通常より3時間繰り上げの11:54から放送となる。}} |- |[[岐阜県]]||[[岐阜放送]](GBS)|| rowspan="5" |[[全国独立放送協議会|独立局]]||日曜 12:00 - 13:00||{{refnest|group="注"|2009年9月末までは、この日時での放送が本放送扱いとなっていた。}} |- |[[滋賀県]]||[[びわ湖放送]](BBC)||日曜 13:00 - 14:00|| |- |[[奈良県]]||[[奈良テレビ放送|奈良テレビ]](TVN)||日曜 11:30 - 12:30||{{refnest|group="注"|番組開始当初は土曜15:00から遅れネットで放送。1994年10月から同時ネット化。}} |- |[[和歌山県]]||[[テレビ和歌山]](WTV)||日曜 12:00 - 13:00||{{refnest|group="注"|番組開始当初は土曜 20:00から遅れネットで放送。1994年10月からは火曜22:00から遅れネットで放送されていたが、のちに同時ネット化された。}} |- |[[三重県]]||[[三重テレビ放送|三重テレビ]](MTV)||金曜 20:55 - 21:56||rowspan="28"|遅れネット|| ×||日曜 14:00 - 15:00|| |- |[[青森県]]||[[青森朝日放送]](ABA)||[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||金曜 15:20 - 16:20|| ×||月曜 15:20 - 16:20|| ×||{{refnest|group="注"|開始当初から2003年6月までは[[青森テレビ]]で放送(最終時は、木曜の18:55 - 19:54に放送)<ref>[https://web.archive.org/web/20030618101014/http://www.atv.jp/look/act.htm 2003年6月当時、ATV公式サイト内で配信されたタイムテーブル](インターネット・アーカイブ同18日付保存キャッシュ)</ref>。}}<br />{{#tag:ref|2023年3月までは金曜 15:45 - 16:45。『ハレのちあした』の放送開始に伴い、同年4月から現在の時間で放送。|group="注"}} |- |[[岩手県]]||[[テレビ岩手]](TVI)||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||土曜 11:50 - 12:50 | 〇||土曜 12:50 - 13:50 | 〇||{{refnest|group="注"|本放送直後の時間帯に再放送を組むことが多く、2回連続で再放送することもあり約3時間連続で見られる場合もある。}} |- |[[宮城県]]||[[東日本放送]](khb)||テレビ朝日系列||土曜 12:55 - 13:59 | rowspan="3" | ×||日曜 15:25 - 16:30 | rowspan="3" | ×|| |- |[[秋田県]]||[[秋田テレビ]](AKT)||[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||土曜 16:30 - 17:30||火曜 0:25 - 1:25(月曜深夜)||{{refnest|group="注"|再放送は中断と再開を繰り返しており、2016年10月4日より現在の時間で放送。}} |- |[[山形県]]||[[山形テレビ]](YTS)||テレビ朝日系列||土曜 9:30 - 10:30||日曜 15:30 - 16:30|| |- |[[福島県]]||[[福島テレビ]](FTV)||フジテレビ系列||日曜 12:00 - 13:00 | rowspan="2" | 〇||土曜 13:00 - 14:00 | 〇||{{refnest|group="注"|開始当初は『'''はまつアワー 開運なんでも鑑定団'''』として火曜22:00から遅れネットで放送。1996年4月から「はまつアワー」枠が『[[SMAP×SMAP]]』前半セールス枠に移行した関係を受けて、日曜10:55 - 11:50に移動。その後、1997年4月6日から9月28日までは、日曜13:00 - 13:55に再移動し、1997年10月5日からは現在の時間帯に移動。}} |- |[[山梨県]]||[[テレビ山梨]](UTY)||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||日曜 16:00 - 17:00|| colspan="2" |-||{{refnest|group="注"|一時期日曜 15:00 - 17:00の集中放送で遅れを取り戻していたが、全国で最も放送が遅れていた。}}<br>{{refnest|group="注"|2012年10月8日から2015年2月2日までは月曜 18:55 - 19:55。}} |- |[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ]](NST)||フジテレビ系列||土曜 16:30 - 17:30 | ×||日曜 12:55 - 14:00 | ×||{{refnest|group="注"|2019年9月までは新潟総合テレビ。}} |- |[[長野県]]||[[テレビ信州]](TSB)|| rowspan="2" |日本テレビ系列||日曜 11:55 - 12:55 | 〇||土曜 13:30 - 14:30 | 〇|| |- |[[静岡県]]||[[静岡第一テレビ]](SDT)||日曜 12:00 - 13:00 | ×||月曜 10:30 - 11:30 | ×||{{refnest|group="注"|2021年12月現在では2hSPと称して通常放送回の直後に過去の放送回を放送することが多くなっている。}} |- |[[富山県]]||[[チューリップテレビ]](TUT)||TBS系列||土曜 12:00 - 13:00 | rowspan="2" | 〇||日曜 13:00 - 14:00 | 〇||{{Refnest|group="注"|1994年7月2日に土曜16:00 - 17:00の枠にてネット開始<ref>北日本新聞 1994年7月2日付朝刊テレビ欄より</ref>。その後土曜13:00 - 14:00に枠移動を経て<ref>北日本新聞 1994年12月17日付朝刊テレビ欄より</ref>、現在の放送時間に移動。}} |- |[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]](ITC)||フジテレビ系列||rowspan="2"|日曜 12:00 - 13:00||土曜 12:00 - 13:00 |×||{{#tag:ref|この放送時間になる前は、月曜19:00 - の放送だった。2020年9月までは日曜13:00 - 14:00の放送だったが、10月から同時間帯に『[[たけしのニッポンのミカタ!]]』の定期放送が開始されるため現在の時間に移動。|group="注"}}<br>{{#tag:ref|再放送に関して、2013年3月まで土曜 9:55 - 10:55だったが、2013年4月より土曜 9:55 - 10:25にフジテレビ制作の『[[もしもツアーズ]]』、 10:30 - 11:15に自社制作番組『8ッピーLive いしかわキッズ!』を放送するため、土曜 12:00 - 13:00に移動。2015年7月より先述のフジテレビ制作の番組は不定期放送に移行(同年10月より再開するが、2017年3月で打ち切り、2019年10月には同時ネットとして再開)、自社制作番組が土曜 15:30 - 16:15に枠移動したため(同番組は同年12月をもって終了)、土曜 9:55 - 10:55に戻ったが、2016年4月よりフジテレビ系列の改編に伴い、土曜 9:55 - 10:25に『[[ライオンのグータッチ]]』、10:30 - 11:30に『[[ウチくる!?]]』が放送されるため、再び現在の時間に移動した。|group="注"}} |- |[[福井県]]||[[福井放送]](FBC)||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列 | ×||colspan="2" |-|| |- |[[島根県]]・[[鳥取県]]||[[山陰放送]](BSS)||TBS系列||日曜 13:00 - 14:00 | 〇||木曜 15:49 - 16:50|| rowspan="3" | ×|| |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]](HOME)||テレビ朝日系列||日曜 16:25 - 17:30 | rowspan="4" | ×||土曜 12:00 - 13:00||{{#tag:ref|2015年3月までは日曜 16:00 - 17:00に放送されていたが、『[[報道ステーション SUNDAY]]』の放送時間移動、[[広島東洋カープ|カープ戦]][[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|中継]]の関係等で本放送は休止状態になりやすくなった(穴埋め策として土曜日の再放送時間に本放送を流す時期もあった)。現在はカープ戦中継及びテレビ朝日の特別番組(ゴルフ中継等)が組み込まれない形で放送されているため放送時間としては定まっていない(場合により14:25 - 15:25での放送や14:25 - 16:25で2本立てで放送することもある)。|group="注"}} |- |[[山口県]]||[[山口放送]](KRY)|| rowspan="2" |日本テレビ系列||土曜 12:00 - 13:00||日曜 12:00 - 13:00|| |- |[[徳島県]]||[[四国放送]](JRT)||日曜 12:00 - 13:00|| colspan="2" |-||{{#tag:ref|例外として2015年10月4日はテレビ東京系列初回放送日の同年7月7日放送分が放送された。また、2016年4月9日には13:00 - 14:00でテレビ東京系列初回放送日の同年3月8日放送分が放送された。これらの回の出張鑑定の開催地が徳島県内であったため、テレビ東京系列が視聴できない視聴者に配慮したものと見られる。|group="注"}} |- |[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛]](EBC)||フジテレビ系列||日曜 13:00 - 14:00||土曜 13:00 - 14:00 | ×||{{#tag:ref|一時期、13:00 - 15:00等の集中放送で遅れを取り戻していた。2012年4月8日から2013年3月31日までは日曜 12:55 - 13:55。|group="注"}}<br>{{#tag:ref|2012年4月 - 再放送再開。2012年6月23日までは土曜 12:00 - 13:00。|group="注"}} |- |[[高知県]]||[[テレビ高知]](KUTV)||TBS系列||日曜 10:00 - 11:00 | 〇||土曜 12:00 - 13:00 | 〇||{{#tag:ref|2012年3月25日までは日曜 9:54 - 10:55。|group="注"}} |- |[[佐賀県]]||[[サガテレビ]](STS)||rowspan="3"|フジテレビ系列||rowspan="2"|土曜 12:00 - 13:00 | rowspan="3" | ×|| colspan="2" |-|| |- |[[長崎県]]||[[テレビ長崎]](KTN) |日曜 12:00 - 13:00 | rowspan="3" | ×||{{#tag:ref|出張鑑定の開催地が長崎県内の場合は早く放送されることがある。|group="注"}} |- |[[熊本県]]||[[テレビ熊本]](TKU)||rowspan="2"|日曜 12:00 - 13:00||土曜 12:00 - 13:00||{{#tag:ref|一時期、12:00 - 15:00の集中放送で遅れを短縮していた。|group="注"}} |- |[[大分県]]||[[テレビ大分]](TOS)||日本テレビ系列<br />フジテレビ系列 | rowspan="2" | 〇||月曜 9:50 - 10:50||{{#tag:ref|以前は不定期に平日の9:55 - 10:55に『[[快傑えみちゃんねる]]』の集中放送と隔週で放送していたが、2010年10月の番組改編により週1回の定期的な時間に再放送を行うようになった。|group="注"}} |- |[[宮崎県]]||[[宮崎放送]](mrt)||TBS系列||木曜 10:25 - 11:20|| colspan="2" |-||{{#tag:ref|2021年4月から2023年3月までは日曜 10:30 - 11:30。|group="注"}} |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島讀賣テレビ|鹿児島読売テレビ]](KYT)||日本テレビ系列||日曜 12:00 - 13:00 | ×||木曜 15:50 - 16:50 | ×||{{#tag:ref|番組開始当初(開局時)から一貫して日曜12時台に放送<ref>「KYT基本テレビガイド 4月1日~30日(予定)」『南日本新聞』1994年3月31日朝刊14面(広告扱いで掲載)。ただし番組名は「ザ・鑑定」としている。</ref>。|group="注"}} |- |[[沖縄県]]||[[琉球放送]](RBC)||TBS系列||日曜 9:54 - 10:54 | rowspan="2" | 〇|||月曜 13:55 - 14:55 | 〇||{{refnest|group="注"|開始当初から2003年6月までは[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]で放送。2023年8月より字幕放送・解説放送を実施。}} |- |[[全国放送|日本全域]]||[[BSテレビ東京|BSテレ東]]||[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS放送]](テレビ東京系列)||木曜 19:49 - 20:49|| colspan="2" |-||{{#tag:ref|2018年9月まではBSジャパン。|group="注"}}<br>{{#tag:ref|2011年8月18日放送分(テレビ東京系列初回放送で2010年7月放送分)を最後に一旦打ち切り、2012年1月5日より放送再開。同年1月中は今田が代理司会していた回をセレクション放送していたが、2012年2月2日放送分(テレビ東京系列初回放送で2011年8月30日放送分)から放送されており、BSジャパン開局当初のときに比べて遅れが大幅に縮まった。|group="注"}}<br>{{#tag:ref|例外として2012年3月15日はテレビ東京系列初回放送日の同年3月6日放送分が放送された。[[豊岡市|この回は出張鑑定の開催地がBSジャパンでしか本番組を見られない地域]]であったためこれに配慮したものと見られる。|group="注"}}<br />{{#tag:ref|2021年4月15日より現時刻。同年3月25日までは19:55 - 20:55に放送。|group="注"}} |} == スタッフ == * ナレーター:[[銀河万丈]]、[[冨永みーな]] * TD:石田和良(以前はCAM) * CAM - 為末和寛、井上渉、浅利英昭(週替り) * VE:杉山博紀 * VTR:佐久間元貴、畑中陶太、浦崎二奈、小出一貴、関口雄八、辻源之、高橋健、永井貴也、椎名衣美、宮前早智、持塚浩司(持塚→以前はVE)、川俣仁、長山翔一、高橋瑞希、佐原和彦(週替り) * MIX:山羽稔 * LD:新井香澄、大郷智広(週替り) * 美術:須田将好 * デザイン:宮崎守弘、高井美貴 * TK:小宮高子 * ヘアメイク:せきさゆり * CG:ぴーたん * テロップデザイン:安居院一展 * 音効:齋藤紅巳 * EED:中村武、大野雅信(大野→一時離脱→復帰)(週替り)、角田丈太朗(不定期) * MA:村田昌栄、杉本奈穂(週替り) * 広報:日比野壇(テレビ東京) * 技術協力:[[テクノマックス]]、[[千代田ビデオ]]、[[ループ (テレビ技術会社)|LOOP]]、[[3one]] * ディレクター:玉谷健、城戸口将史、渡邉かおり、馬渕賀生、山村彩美、松下亜希子、増島裕子 他(週替り) * 演出:田淵朝子、森住俊祐、松本慎一 他(週替り) * 総合演出:白井まみ子、永良龍彦、森重覚朗(共に以前はディレクター)(週替り) * プロデューサー:高砂佳典・水野亮太(テレビ東京)、杉山麗美(ネクサス) * 製作:テレビ東京、[[ネクサス (プロダクション)|NEXUS]] === 過去のスタッフ === *演出:谷俊和、野中和哉、佐々木淳、根岸善一郎、飯島秀治 *プロデューサー:中尾哲郎・脇坂清人・高瀬義和・岡田英吉・内田久善(テレビ東京)、田中峰雄・中村準一・光森明・竹野篤(ネクサス) *AP:内田智子、高橋里香 *広報:伊藤淳也・松坂忠光・笹原七重・[[山本薫 (アナウンサー)|山本薫]]・横川秀樹・魚田英孝・山室泰造(山室→一時離脱→復帰)・鈴木園子・田窪容子(テレビ東京) *構成:中丸智司、[[渡辺健一|渡邊健一]]、古井知克、宮田浩史、林あさひ、川島浩司、吉野宏、山口美穂、高橋松博、小縣芳仁 *TD:竹内勝治、池本博仁、西巻昭夫、辻和美(辻→以前はCAM) *VE:福田久二 *VTR:検校義孝、玉山秀隆 *MIX:鈴木誠司、中村昌昭 *音声:橋爪繁輝 *照明:樋口章一、三浦弘、翁美希子 *デザイン:田原慈子 *美術:松澤健、高谷寿 *ヘアメイク:星野樹、尚司芳和、立身恵、向井マキ *スタイリスト:波多野としこ、のてひろこ、菅原田鶴子、風間千代子 *音効:岡田貴志、河手康良 *タイトル:山口寿人、白川隆二 *EED:小林淳也、村井和彦、三浦浩明、高橋伸一 *MA:堤智浩、石高幹士 *CG:中川敦之 *ブレーン:[[高瀬真尚]](以前は構成) *技術協力:ACT(テクノマックス合併前)、[[クロステレビ|クロステレビビジョン]]、マジカル *美術協力:オーリス株式会社、ブリッツタイム株式会社、AEDサポートセンター、[[テルミック]](テルミ→以前は電飾)、TIME *音楽協力:[[テレビ東京ミュージック]] == BSジャパン (現:BSテレ東)・鑑定団スピンオフ == === 目からウロコの骨董塾 === 2010年10月7日から2012年3月29日までBSジャパン(現・BSテレ東)で本番組の次の木曜 21:00 - 21:54に放送されていた本家のスピンオフ番組。本家の鑑定士が講師として出演。司会は[[草野満代]]、塾長は中島誠之助が務め、ナレーションは本家と同じく銀河万丈と冨永みーなが務める。 <!-- なお、土曜 13:00 - 13:54にも再放送を行っており、地上波で土曜日に本番組の遅れネット放送または再放送を行っている地域では放送局により本番組終了直後、本番組開始前のところもあれば、同時間帯と重なり、本家と裏表状態になっているところもあった。この番組は一部地域の地上波でも放送されており、例えばテレビくまもとでは『開運!なんでも鑑定団』の放送直後に編成して鑑定団番組を2時間連続で放送する配慮が見られる。-->ちなみに司会を務める草野は2011年9月6日放送分の本家番組にもゲストとして出演している。 {{Main|目からウロコの骨董塾}} === 極上!お宝サロン === 2016年4月7日から2017年9月24日まで、BSジャパン(現・BSテレ東)で放送された派生番組。本時間帯でスピンオフ番組が放送されるのは前述の『目からウロコの骨董塾』以来4年ぶりである。『開運!なんでも鑑定団』の前司会である石坂浩二が特定のジャンルに造詣の深いコレクターをゲストに招き、そのジャンルの魅力やゲストのコレクター活動、またゲストの持つジャンルの逸品などをゲストと共に解説する番組。スタジオのセットが石坂の運営管理している[[サロン]]であるという設定になっている。放送時間は、2016年度は、木曜 21:00 - 21:54、2017年度上半期は、日曜 21:00 - 21:54に放送。<br />石坂は番組終了後、2017年度下半期の半年間、この番組と同じ日曜21時枠で後継番組『石坂浩二のニッポン凄い人名鑑』を担当していた。 ==== 出演者 ==== ナレーターは『開運!なんでも鑑定団』と共通。 *サロンの主:石坂浩二 *コンシェルジュ: [[松丸友紀]]([[テレビ東京のアナウンサー一覧|テレビ東京アナウンサー]]) - 2016年度 *コンシェルジュ:[[水原恵理]](同上) - 2017年度上半期 ==== ネット局 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small;" |+'''最終回まで放送したネット局''' |- !放送対象地域!!放送局!!系列!!放送時間!!備考 |- |日本全域||BSジャパン(現:BSテレ東)||BS放送 <br/>(テレビ東京系列)||日曜 21:00 - 21:54||'''【制作局】'''<br>2016年度は、鑑定団アワー 第2部として木曜21:00 - 21:54に放送。 |- |岐阜県||岐阜放送(GBS)|| rowspan="4" |独立局||木曜 20:00 - 20:54|| |- |滋賀県||びわ湖放送(BBC)||水曜 12:00 - 12:55|| |- |奈良県||奈良テレビ(TVN)||土曜 12:00 - 12:55|| |- |和歌山県||テレビ和歌山(WTV)||金曜 14:00 - 14:54||2016年度は、金曜12:00 - 12:54に放送。 |} {|class="wikitable" style="font-size:small;" |+'''途中打ち切りのネット局''' |- !放送対象地域!!放送局!!系列!!放送時間!!備考 |- |山形県||山形テレビ(YTS)||テレビ朝日系列||月曜 15:00 - 15:55||2016年9月12日まで |- |岡山県・香川県||テレビせとうち(TSC)||テレビ東京系列||火曜 15:20 - 16:20||2017年3月28日まで |} {{前後番組 |放送局=[[BSテレビ東京|BSジャパン(現・BSテレ東)]] |放送枠=木曜21:00 - 21:54枠 |番組名=開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン |前番組=[[日経スペシャル ガイアの夜明け]] <br/>【[[テレビ東京]]制作・金曜18:00枠に枠移動】 |次番組=[[空から日本を見てみよう|空から日本を見てみようplus]]<br/>【火曜20:00枠より枠移動】 |2放送局=BSジャパン(現・BSテレ東) |2放送枠=日曜21:00 - 21:54枠 |2番組名=開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン |2前番組=[[にっぽん真発見]] |2次番組=石坂浩二のニッポン凄い人名鑑 }} == その他 == *高齢であったり、心臓に持病がある出演者(依頼人など)が、鑑定結果にショックを受けて万が一の事態が発生した場合等を考慮し、紳助の要望により、2010年からスタジオ内に[[自動体外式除細動器]](AED)が設置された。番組内での紳助の説明によると、特定のテレビ番組のためにAEDを設置したのは、本番組が初めてである。なお、出張鑑定の「ご長寿お宝鑑定大会」シリーズでも同様の理由でステージ上に看護師や血圧計がスタンバイされている。 *本番組をモチーフとしたミステリー作品も制作されている。 **番組を題材とした[[2時間ドラマ]]『「開運! なんでも鑑定団」殺人事件』が『[[女と愛とミステリー]]』枠で制作され<ref name="satsujin">[https://www.tv-tokyo.co.jp/mystery/023.html 『開運!なんでも鑑定団』 殺人事件 - 女と愛とミステリー]</ref>、BSジャパンで2001年6月17日、地上波では同年6月20日に放送された。タイトルの通り[[劇中劇]]として本番組も登場し、当時の司会だった紳助・石坂・吉田の3名が出演している。 **推理小説家の[[西村京太郎]]は代表作である[[十津川警部シリーズ]]の一編として、「姫路・[[千姫]]殺人事件」という作品を2002年に発表している。出演者等の名前は架空のものに変更されているが、「火曜日の夜9時に放送」という一節や捜査のため東京タワースタジオを訪れるなど、本作をモチーフとした描写が多く見られる。西村は後年(2018年4月24日放送分)本番組にゲスト出演した際にも同作に言及している。 *[[台湾]]でも[[国興衛視]]で『稀世珍寶!開運鑑定團』というタイトルで放送されている。もともとは「'''開運鑑定團'''」のタイトルだったが、一時[[打ち切り]]のころに他局がまったく同じ名前の占い番組をスタートしたため、この番組が台湾で復活するときに『稀世珍寶!開運鑑定團』に改題したものである。 *以前は鑑定士待機席が回転し、焼き物や骨董などの小さいものはその奥で石坂と鑑定士軍団が鑑定。それをモニターで他の出演者、依頼人、観客が見ていた。現在は物の大小にかかわらず依頼人の目の前で鑑定を行うようになった。 *2010年6月22日に放送の[[江戸時代]]中期制作の[[将棋盤]]と[[水無瀬家|水無瀬兼成]]が直筆した象牙の駒の鑑定額(2120万円)が妥当ではないと2010年[[8月9日]]に[[日本将棋連盟]]が抗議を表明した<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/08/post_315.html テレビ東京の放映についての見解 日本将棋連盟](更新: 2010年8月9日15時20分)</ref>。 *2011年11月22日の放送で放送900回を迎えた。同日は900回記念SPとして、19:54 - 21:54の2時間SPを放送することになった(同時ネット局では『[[ありえへん∞世界]]』から[[コマーシャルメッセージ#CMの種類|ステブレ]]レスで接続。ただし、岐阜放送は『ありえへん∞世界』が未放送であるため除く)。 *2012年7月31日はテレビ東京とTXN系列各局で[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]の中継が21:00 - 翌1:00に組まれるためオリンピック中継の同時放送を行わない(というより放送権の都合上放送できない)岐阜放送・びわ湖放送・奈良テレビ・テレビ和歌山を含めて本番組自体を休止。系列外同時ネット局のうち、びわ湖放送は再放送<!--当該回は2012年5月22日が初回放送。-->を編成して本番組の通常放送を行なったが、その他の局は別番組に差し替えた{{#tag:ref|岐阜放送は『魅惑の中部イタリア 微笑みのトスカーナ紀行!』、奈良テレビは『[[TVチャンピオン]]特別編 芸能人[[レゴ|レゴブロック]]王』(20:00 - 21:54)、テレビ和歌山は『[[ソロモン流]]』にそれぞれ差し替え。<!--Gガイド「テレビ王国」より-->|group="注"}}。また、ロンドンオリンピック中継の編成で本番組が1週分休止となることから、遅れネット局では遅れ日数が1週分短縮あるいは1週分放送休止の対応がとられた(局により対応が異なる)。 *2013年11月12日の放送で放送1000回を迎えた<ref name="ng_20131108" />。同日は19:54 - 22:48の3時間SPを放送。『史上最大のお宝大集合』と銘打ち、通常の鑑定に加えて、過去に登場した高額品を依頼人と共にスタジオに招く「もう一度見たい!思い出の名品・焼物」、過去の鑑定額が高額だったゲスト6人による「歴代高額鑑定ゲスト大会」、番組の初回放送や高額鑑定品ベスト5などの「過去の名場面集」が放送された。 *2016年11月から直前の『ありえへん∞世界』出演者が当番組に出演し、『ありえへん』で探した名品を鑑定する合体企画が不定期に行われた。またその合体企画時には、通常は[[クロスプログラム|ジャンクション]]・ステブレ入り接続をステブレレスに変更していた。なお2019年4月からは『ありえへん』(または『[[火曜エンタ]]』拡大版)との接続が毎回ステブレレスに変更された。 *2019年10月8日には直前の『火曜エンタ』拡大版で、当番組の特別版『これが日本の新常識!なぜあの歴史は消えたのか?』を放送<ref>{{cite journal|和書|journal=[[TVステーション]] 関東版|issue=2019年21号|page=50}}</ref>、当番組の今田と福澤、そして片渕アナが司会を務めた。 *2022年10月4日は通常の放送枠に『[[第56回世界卓球選手権団体戦|世界卓球2022団体戦]]女子グループリーグ 日本×ウズベキスタン』中継が編成(20:00 - 21:54)されたため、149分繰り上げ35分拡大の18:25 - 20:00に「特別編 超絶お宝一挙大公開スペシャル」を放送。過去放送回の中から名場面を抜粋した[[総集編]]的内容となっている。 === 記録 === 2016年1月時点での番組史上最高額の鑑定品は、2005年9月27日放送分で記録された「[[酒井田柿右衛門|柿右衛門]]様式の壺」で、鑑定額は5億円である<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/ranking.html 鑑定額ランキング]</ref>。一方最低額は、0円が複数回出たことがある<ref>[https://web.archive.org/web/19980123135225/http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/k610011.htm 山下清の将棋盤(一例)]</ref><ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20120807/06.html 両面に平等院鳳凰堂が刻まれたエラー10円玉(一例)]</ref>。 なお第1回から第999回までで番組内で鑑定した鑑定品は'''77781点'''、鑑定総額は'''172億5698万4079円'''。 ;鑑定額1億円以上だった品物 {| class="wikitable" !順位!!依頼品!!鑑定額!!放送日 |- !1 |柿右衛門様式の壺<ref>放送当時の[[ヘッセン家]]当主[[モーリッツ・フォン・ヘッセン]]所有のもの。</ref>||5億円||2005年9月27日 |- !2 |絵画15点<ref>最も高い品物である[[クールベ]]のシヨン城には1億2000万円の鑑定額が付き、単品でも歴代13位に相当。</ref>||4億3000万円||2019年4月30日 |- !3 |世界のポスター122点||3億5000万円||2001年4月10日 |- !rowspan="2"|4 |[[マリリン・モンローの白いドレス|マリリン・モンロー「七年目の浮気」衣装]]||rowspan="2"|2億円||2004年4月6日 |- |古代中国の青銅器||2010年12月14日 |- !6 |西洋アンティーク各種||1億9400万円||2003年9月30日 |- !rowspan="2"|7 |七宝焼の香炉<ref>出張コーナーにおける最高鑑定額</ref>||rowspan="2"|1億8000万円||2005年4月19日 |- |[[宮沢賢治]]の手紙||2008年10月14日 |- !rowspan="2"|9 |虎の彫刻・ヒスイの彫刻・馬101頭の彫刻||rowspan="2"|1億5000万円||1996年12月3日 |- |イエロー[[ダイヤモンド]]||2012年8月28日 |- !rowspan="2"|11 |[[ロールス・ロイス・ファントムI|ロールスロイスファントムCI]]||rowspan="2"|1億3000万円||1996年8月27日 |- |[[アポロ17号]][[ロン・エヴァンス]]の船内服||2009年8月11日 |- !13 |[[アンディー・ウォーホル]]の絵||1億2000万円||2003年12月23日 |- !rowspan="3"|14 |ディズニーアニメのモデルシートとスケッチ328枚||rowspan="3"|1億円||2003年4月8日 |- |堆黒盆||2010年8月31日 |- |[[棟方志功]]作「二菩薩釈迦十大弟子」||2012年11月6日 |} === 「曜変天目」 === 2016年12月20日放送の『開運!なんでも鑑定団』において、[[中島誠之助]]が出品された天目茶碗を「[[曜変天目茶碗]]」「4点目」と鑑定した<ref name="j-cast">[https://www.j-cast.com/2016/12/21286701.html?p=all 「鑑定団」、曜変天目茶碗に2500万円 「意外と安い」と思われるワケ] J-CASTニュース、2016年12月21日</ref><ref name="mynavi">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20161220-a520/|title=『なんでも鑑定団』で発見された曜変天目茶碗、鑑定額は2,500万円に|accessdate=2016-12-20|date=2016-12-20|publisher=マイナビニュース}}</ref><ref name =nikkeiQ6A221C1000000>{{Cite news|title=国宝級の曜変天目茶碗か テレ東の鑑定番組で発見|newspaper=日本経済新聞|date=2016-12-20|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG20HAU_Q6A221C1000000/|accessdate=2016-12-20}}</ref>。 しかし、2017年12月、[[中華人民共和国|中国]][[福建省]]のテレビ局の取材に対して同国の陶芸家・李欣紅(りきんこう)がこの茶碗が自身の作であると証言<ref>[[FLASH (写真週刊誌)|]][https://www.kobunsha.com/shelf/magazine/current?seriesid=101002 2018年1月30日号]</ref><ref>https://www.youtube.com/watch?v=YySJGCT4lv0</ref>。2018年1月17日、TBSで放送のテレビ番組『[[ビビット (テレビ番組)|ビビット]]』でこの問題が取り上げられ、李が「骨董品のレプリカです。私が作ったもので間違いないです。およそ1400円で販売していました」と話すインタビューが放送された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/17/kiji/20180117s00041000081000c.html 鑑定団で「2500万円」国宝級お宝は1400円? 国分、困惑「鑑定でそんなミス…」]</ref><ref>[https://smart-flash.jp/sociopolitics/34411/ 『なんでも鑑定団』国宝級茶碗に中国人が「作ったのは私!」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[テレビ東京番組一覧]] * [[ありえへん∞世界]] - 本番組の前座番組。2016年 - 2018年にかけて4回、本番組とのコラボ企画を行った。 * [[スーパーJチャンネル|ANNスーパーJチャンネル]] - テレビ朝日系列で夕方に放送されている[[報道番組]]。2002年 - 2007年まで平日18時台後半の[[関東ローカル]]枠にて『奥様鑑定団』という企画を放送していた。 == 外部リンク == * [https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/ テレビ東京・開運!なんでも鑑定団] - 番組公式サイト * {{Wayback|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/ |title=テレビ東京・開運!なんでも鑑定団 |date=20050203034655}} - 番組公式サイト * {{Wayback|url=http://tv-tokyo.co.jp/kantei/kantei1.htm |title=テレビ東京・開運!なんでも鑑定団 |date=19991013053929}} - 番組公式サイト * {{Wayback|url=http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=73/ |title=テレビ東京・開運!なんでも鑑定団 番組メイキング(テレビコ) |date=20100316020617}} * [http://www.tv-aichi.co.jp/kantei/ 開運!なんでも鑑定団 番組・東海地区出張鑑定紹介(テレビ愛知)] * [https://www.bs-tvtokyo.co.jp/otakara/ BSジャパン・開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン] - 番組公式サイト {{前後番組 |放送局=[[テレビ東京]] |放送枠=[[火曜日|火曜]]20:54 - 21:00枠 |番組名=開運!なんでも鑑定団<br />(2000年10月 - ) |前番組=[[ニュースブレイク]] |次番組=-----<!--[[]]--> |2放送局=テレビ東京 |2放送枠=火曜21:00 - 21:54枠 |2番組名=開運!なんでも鑑定団<br />(1994年4月 - ) |2前番組=[[ドキュメンタリー人間劇場]]<br />【水曜22:00 - 22:54枠に移動】 |2次番組=-----<!--[[]]--> |3放送局=テレビ東京 |3放送枠=日曜13:00 - 13:55枠 |3番組名=開運!なんでも鑑定団([[再放送]])<br />(1996年4月 - ) |3前番組=[[ゴルフ 尾崎兄弟・飯合に挑戦!!]]<br />※13:30 - 14:00 |3次番組= }} {{島田紳助}} {{石坂浩二}} {{今田耕司}} {{福澤朗}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect = 開運!なんでも鑑定団 極上!お宝サロン |1 = 2016年のテレビ番組 (日本) |2 = BSテレ東の教養番組 |3 = BSテレ東のバラエティ番組の歴史 |4 = 他番組から派生した番組 |5 = 石坂浩二 }} {{デフォルトソート:かいうんなんてもかんていたん}} [[Category:1994年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:テレビ東京のバラエティ番組]] [[Category:島田紳助]] [[Category:石坂浩二]] [[Category:今田耕司]] [[Category:視聴者参加型番組]] [[Category:継続中の作品]]
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白土三平
白土 三平(しらと さんぺい、本名:岡本 登(おかもと のぼる)、1932年2月15日 - 2021年10月8日)は、日本の男性漫画家。東京府出身。A型。『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』など忍者を扱った劇画作品で人気を博した。 父親はプロレタリア画家の岡本唐貴。妹は絵本作家の岡本颯子。弟の岡本鉄二(1933年 - 2021年10月12日)は「赤目プロ」で作画を担当、岡本真は「赤目プロ」マネージャーを経て銀杏社を設立。 1932年、東京府の豊多摩郡(後の東京市杉並区)に出生。幼少時は画家をしていた父の活動により神戸や大阪の朝鮮人部落のそばなどを転々とする。 1938年春、大阪から東京に戻る。1944年、私立練真中学校(旧制)に入学。直後に戦争が激化したため、長野県小県郡中塩田村(現上田市の八木沢駅付近)に一家で疎開し、旧制長野県上田中学校(現長野県上田高等学校)に通う。この旧制中学にいた白土牛之助という軍人の苗字が、後にペンネームの由来となる。特高警察の拷問の後遺症で脊椎カリエスを病んでいた父に代わり、山仕事や力仕事で家計を支える。1年ほど塩田で過ごした後、真田へ引越しさらにその後、西塩田に引越した。 1946年、東京に戻る。白土の弟・真は近くの被差別部落(東京都練馬区)に住んでいた荻原栄吉(後の部落解放同盟練馬支部長)と同級生で仲がよく、真は荻原の家業を手伝ったりもしたため、荻原は「『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響しているのかと思うことがある」と述べている。 1947年頃に手塚治虫の作品を知る。のち、経済的理由により練真中学(旧制)を3年の途中で中退。父の知人の金野新一のアトリエで、山川惣治作の紙芝居の模写・彩色の仕事を手伝い始める。 1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居を制作。当時はノボルというペンネームだった。以後数年間このシリーズの紙芝居を手がけた。 1955年、紙芝居仲間からの紹介をうけて東京都葛飾区金町に移り、仲間と共同生活を始め、紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる。また、この時期、黒川 新というペンネームも使用している。この年共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また加太こうじの紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう。 1956年、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった李春子(通名・小林まゆみ)と結婚。このころ日本共産党への入党を希望し、1年間ボランティアで機関紙『赤旗』を配達したが、入党は叶わなかった。 1957年、劇団の先輩だった少女漫画家の牧かずまに漫画を描くことを勧められ、牧のアシスタントをしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、長井勝一の日本漫画社に移って貸本漫画を多数手がける。当時は雑誌『影』、『街』など劇画が隆盛を迎えつつあり、白土も劇画の影響を受ける。1959年からは長井が新たに設立した三洋社で『忍者武芸帳』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。作者の構想力は冒頭から最後まで凄まじいスピードと迫力で展開され、戦国時代という歴史を生きる人間存在が全身全霊で生き、闘い、愛し、死ぬ様を時に残酷なまでに、描くべきものは全て描き切った漫画史上に残る傑作中の傑作である。 1961年、長井が三洋社を解散し青林堂を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。1963年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞。 1964年、青林堂より『ガロ』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』(ともに1965年 - )などを発表しスタッフを養った。 1965年、白土は『ガロ』誌上で雑誌『迷路』の時代から高く評価していたつげ義春に連絡を乞う。つげは9月号に「噂の武士」を執筆。また、つげを大多喜への旅行に誘うなど大きな影響を与えた。赤目プロスタッフとの交流にも刺激を受けたつげは1966年2月号に自身の代表作となる『沼』を発表する。つげの心身を解放し自由な発表の舞台を与え、才能を全開させた功績は特筆すべきものがある。同年にはつげの初の作品集『噂の武士』に解説を寄せている。 白土は誌上で「既成雑誌にはないおのれの実験の場として、この「ガロ」を大いに利用していただきたい。」と宣言し、新人の誕生を促す。白土の支持を背景に、池上遼一、佐々木マキ、林静一がデビューし、編集の高野慎三により、彼らの観念的でストーリー性を排した作品が優遇された。 1971年、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長らく再開されず、第二部が開始されたのは、『神話伝説シリーズ』(1974年 - )や『カムイ外伝 第二部』(1982年 - )などの作品を経た1988年のことである。第二部は『ビッグコミック』で2000年まで連載され、2006年に発売された全集に書き下ろしを加え完結。2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に執筆した。晩年は『カムイ伝 第三部』を構想中だった。 2021年10月8日、誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去。89歳没。訃報は同月26日に小学館から公表されるとともに、弟の岡本鉄二も4日後の12日に間質性肺炎のため88歳で死去したことも明らかになった。 『忍者武芸帳』『カムイ伝』などに代表される作品の読み方の一つとして、マルクス主義や唯物史観があるとされ(ただし白土自身は、それらを意識したり作品で主張したことはないという)、この観点から当時の学生や知識人に読まれたことなどが後に漫画評論を生む一因となった。 白土の忍者漫画は、実現が可能であるかどうかはともかく、登場する忍術に科学的・合理的な説明と図解が付くのが特徴であり、荒唐無稽な技や術が多かったそれまでの漫画とは一線を画するものである。 手塚治虫は、白土作品の登場により子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになったと指摘している。 最初期はいわゆる手塚治虫タッチの延長で、可愛らしい絵柄ではあったが、1958年から隆盛となったさいとう・たかをらの劇画の影響を受けて、『忍者武芸帳』以降はするどく荒々しいタッチで笑いが一切ないシリアスなストーリーが展開し(多少のコミカルな描写があるにとどまる)、アクションシーンでは容赦のない人体破壊の描写が話題を集めた。また、女性や子供、はては主人公であってさえも、残酷な運命から逃れ得ないというシビアさも、特徴的な作風として確立されていた。 1970年代に入り『ビッグコミック』誌上で発表された作品群は、いわゆる劇画タッチといわれる緻密な作画であった。作画担当は実弟の岡本鉄二とクレジットされてはいるが、本人のやる気を奮起させるためとのことであり、白土三平本人が作画に関わらなくなったわけではない。この時期以降の作品についても、白土本人の手による緻密な下絵が残されている。 つげ義春に無名時代から注目し、ガロに発表の場を与え、旅行にも誘うなどして潜在能力を発揮させた。
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白土 三平は、日本の男性漫画家。東京府出身。A型。『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』など忍者を扱った劇画作品で人気を博した。 父親はプロレタリア画家の岡本唐貴。妹は絵本作家の岡本颯子。弟の岡本鉄二は「赤目プロ」で作画を担当、岡本真は「赤目プロ」マネージャーを経て銀杏社を設立。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = {{ruby|白土|しらと}} {{ruby|三平|さんぺい}} | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = {{ruby|岡本|おかもと}} {{ruby|登|のぼる}} | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1932|2|15|died}} | 生地 = [[東京府]] | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1932|2|15|2021|10|8}} | 没地 = [[東京都]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1957年]] - [[2021年]] | ジャンル = [[劇画]] | 代表作 = 『[[忍者武芸帳|忍者武芸帳 影丸伝]]』<br/>『[[サスケ (漫画)|サスケ]]』<br/>『[[カムイ伝]]』 | 受賞 = 第4回[[講談社児童まんが賞]]<br/>(『シートン動物紀』『サスケ』) | 公式サイト = }} '''白土 三平'''(しらと さんぺい、本名:岡本 登(おかもと のぼる)、[[1932年]][[2月15日]] - [[2021年]][[10月8日]])は、[[日本]]の[[男性]][[漫画家]]。[[東京府]]出身。[[ABO式血液型|A型]]。『[[忍者武芸帳|忍者武芸帳 影丸伝]]』『[[サスケ (漫画)|サスケ]]』『[[カムイ伝]]』など[[忍者]]を扱った[[劇画]]作品で人気を博した。 父親は[[プロレタリアート|プロレタリア]][[画家]]の[[岡本唐貴]]。妹は[[絵本作家]]の[[岡本颯子]]。弟の[[岡本鉄二]](1933年 - 2021年10月12日)は「赤目プロ」で作画を担当、岡本真は「赤目プロ」マネージャーを経て銀杏社を設立。 == 経歴 == === 生い立ち === [[1932年]]、[[東京府]]の[[豊多摩郡]](後の[[東京市]][[杉並区]])に出生。幼少時は画家をしていた父の活動により神戸や大阪の[[コリア・タウン|朝鮮人部落]]のそばなどを転々とする。 [[1938年]]春、大阪から東京に戻る。[[1944年]]、私立[[練真高等学校|練真中学校]](旧制)に入学。直後に戦争が激化したため、[[長野県]][[小県郡]][[中塩田村]](現[[上田市]]の[[八木沢駅]]付近)に一家で疎開し、旧制長野県上田中学校(現[[長野県上田高等学校]])に通う。この旧制中学にいた白土牛之助という軍人の苗字が、後にペンネームの由来となる<ref>[[毛利甚八]]『白土三平伝―[[カムイ伝]]の真実』[[小学館]]、2011年、p. 44.</ref><ref>[[四方田犬彦]]『白土三平論』小学館、2013年、pp. 507-508</ref>。[[特別高等警察#沿革|特高警察]]の拷問の後遺症で脊椎[[カリエス]]を病んでいた父に代わり、山仕事や力仕事で家計を支える。1年ほど塩田で過ごした後、真田へ引越しさらにその後、西塩田に引越した。 [[1946年]]、東京に戻る。白土の弟・真は近くの[[部落問題|被差別部落]]([[東京都]][[練馬区]])に住んでいた荻原栄吉(後の[[部落解放同盟]]練馬支部長)と同級生で仲がよく、真は荻原の家業を手伝ったりもしたため、荻原は「『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響しているのかと思うことがある」と述べている<ref>荻原栄吉『練馬に生きて』、p. 12</ref>。 === 紙芝居の制作者として === 1947年頃に[[手塚治虫]]の作品を知る。のち、経済的理由により練真中学(旧制)を3年の途中で中退。父の知人の[[金野新一]]のアトリエで、[[山川惣治]]作の[[紙芝居]]の模写・彩色の仕事を手伝い始める。 [[1951年]]、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居を制作。当時はノボルというペンネームだった。以後数年間このシリーズの紙芝居を手がけた。 [[1955年]]、紙芝居仲間からの紹介をうけて[[東京都]][[葛飾区]]金町に移り、仲間と共同生活を始め、紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる<ref>松谷みよ子・曽根喜一・水谷章三・久保進 編『戦後人形劇史の証言-太郎座の記録』一声社、1982年、p. 78</ref>。また、この時期、'''黒川 新'''というペンネームも使用している。この年共同生活者であった[[瀬川拓男]]が人形劇団「[[太郎座]]」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また[[加太こうじ]]の紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう<ref group="注">この第一話目は「甲賀武芸帳 限定版BOX」(2011年、小学館)に復刻収録されている。</ref>。 [[1956年]]、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった李春子(通名・小林まゆみ)と結婚。このころ[[日本共産党]]への入党を希望し、1年間ボランティアで機関紙『[[しんぶん赤旗|赤旗]]』を配達したが、入党は叶わなかった。 === 漫画家デビュー、「忍者武芸帳」=== [[1957年]]、劇団の先輩だった少女漫画家の[[牧かずま]]に漫画を描くことを勧められ、牧の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、[[長井勝一]]の日本漫画社に移って[[貸本漫画]]を多数手がける。当時は雑誌『影』、『街』など劇画が隆盛を迎えつつあり、白土も劇画の影響を受ける。[[1959年]]からは長井が新たに設立した三洋社で『[[忍者武芸帳]]』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。作者の構想力は冒頭から最後まで凄まじいスピードと迫力で展開され、戦国時代という歴史を生きる人間存在が全身全霊で生き、闘い、愛し、死ぬ様を時に残酷なまでに、描くべきものは全て描き切った漫画史上に残る傑作中の傑作である。 [[1961年]]、長井が三洋社を解散し[[青林堂]]を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。[[1963年]]、『[[サスケ (漫画)|サスケ]]』『[[シートン動物記 (漫画)|シートン動物記]]』により第4回[[講談社児童まんが賞]]受賞。 === ガロ時代 === [[1964年]]、青林堂より『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『[[カムイ伝]]』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『[[カムイ外伝]]』(ともに1965年 - )などを発表しスタッフを養った。 1965年、白土は『ガロ』誌上で雑誌『迷路』の時代から高く評価していた[[つげ義春]]に連絡を乞う。つげは9月号に「噂の武士」を執筆。また、つげを大多喜への旅行に誘うなど大きな影響を与えた。赤目プロスタッフとの交流にも刺激を受けたつげは1966年2月号に自身の代表作となる『[[沼 (漫画)|沼]]』を発表する。つげの心身を解放し自由な発表の舞台を与え、才能を全開させた功績は特筆すべきものがある{{要出典|date=2023年2月}}。同年にはつげの初の作品集『噂の武士』に解説を寄せている。 白土は誌上で「既成雑誌にはないおのれの実験の場として、この「ガロ」を大いに利用していただきたい。」と宣言し、新人の誕生を促す。白土の支持を背景に、[[池上遼一]]、[[佐々木マキ]]、[[林静一]]がデビューし、編集の[[高野慎三]]により、彼らの観念的でストーリー性を排した作品が優遇された。 [[1971年]]、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長らく再開されず、第二部が開始されたのは、『神話伝説シリーズ』(1974年 - )や『[[カムイ外伝|カムイ外伝 第二部]]』(1982年 - )などの作品を経た1988年のことである。第二部は『[[ビッグコミック]]』で2000年まで連載され、2006年に発売された全集に書き下ろしを加え完結。2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に執筆した。晩年は『カムイ伝 第三部』を構想中だった。 === 死去 === 2021年10月8日、[[誤嚥性肺炎]]のため東京都内の病院で死去。89歳没。訃報は同月26日に小学館から公表されるとともに、弟の岡本鉄二も4日後の12日に[[間質性肺炎]]のため88歳で死去したことも明らかになった<ref>{{Cite web|和書|author=ビッグコミック編集部 |url=https://bigcomicbros.net/68463/ |title=【訃報】白土三平氏 岡本鉄二氏 ご逝去 |website=ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス) |publisher=小学館 |date=2021-10-26 |accessdate=2021-10-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211026/k10013322081000.html |title=漫画家の白土三平さん死去 89歳 「サスケ」や「カムイ伝」など |website=NHKニュース |publisher=NHK |date=2021-10-26 |accessdate=2021-10-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/450927 |title=白土三平が誤嚥性肺炎のため死去、白土の作画を支えた実弟・岡本鉄二も相次いで |website=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-10-26 |accessdate=2021-10-26}}</ref>。 == 作風と影響 == 『忍者武芸帳』『カムイ伝』などに代表される作品の読み方の一つとして、[[マルクス主義]]や[[唯物史観]]があるとされ(ただし白土自身は、それらを意識したり作品で主張したことはないという)<ref>白土三平『白土三平 ビッグ作家 究極の短篇集』小学館、1998年、p.235</ref>、この観点から当時の学生や知識人に読まれたことなどが後に[[漫画評論]]を生む一因となった<ref>滝田誠一郎『ビッグコミック創刊物語』祥伝社、2012年、pp. 228-229</ref>。 白土の忍者漫画は、実現が可能であるかどうかはともかく、登場する[[忍術]]に科学的・合理的な説明と図解が付くのが特徴であり、荒唐無稽な技や術が多かったそれまでの漫画とは一線を画するものである<ref>夏目房之介『手塚治虫の冒険』筑摩書房、1995年、pp. 126-133</ref>。 [[手塚治虫]]は、白土作品の登場により子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、[[イデオロギー]]が要求されるようになったと指摘している<ref>手塚治虫『ぼくはマンガ家』大和書房、1988年、p. 178</ref>。 最初期はいわゆる手塚治虫タッチの延長で、可愛らしい絵柄ではあったが、1958年から隆盛となった[[さいとう・たかを]]らの[[劇画]]の影響を受けて、『[[忍者武芸帳]]』以降はするどく荒々しいタッチで笑いが一切ないシリアスなストーリーが展開し(多少のコミカルな描写があるにとどまる)、アクションシーンでは容赦のない人体破壊の描写が話題を集めた。また、女性や子供、はては主人公であってさえも、残酷な運命から逃れ得ないというシビアさも、特徴的な作風として確立されていた。 1970年代に入り『ビッグコミック』誌上で発表された作品群は、いわゆる劇画タッチといわれる緻密な作画であった。作画担当は実弟の岡本鉄二とクレジットされてはいるが、本人のやる気を奮起させるためとのことであり、白土三平本人が作画に関わらなくなったわけではない。この時期以降の作品についても、白土本人の手による緻密な下絵が残されている{{要出典|date=2022-12}}。 [[つげ義春]]に無名時代から注目し、ガロに発表の場を与え、旅行にも誘うなどして潜在能力を発揮させた。 == 主要作品 == === 漫画 === * こがらし剣士(1957年) * 死霊(1958年) * 黄金色の花(1958年) * 甲賀武芸帳(1957年-1958年) * 嵐の忍者(1958年-1959年) * からすの子(1959年) * [[消え行く少女]](1959年) * 忍者旋風シリーズ(1959年-1966年) ※風魔忍風伝・真田剣流・風魔 * [[忍者武芸帳|忍者武芸帳 影丸伝]](1959年-1962年) * 風の石丸(1960年) * 狼小僧(1961年) * 赤目(1961年) * 2年ね太郎(1963年) * [[シートン動物記 (漫画)|シートン動物記]](1961年-1964年) * [[サスケ (漫画)|サスケ]](1961年-1966年)(月刊少年) * 死神少年キム(1962年-1963年) * [[カムイ伝]](1964年-1971年)(月刊ガロ) * [[ワタリ (漫画)|ワタリ]](1965年-1966年)(週刊少年マガジン) * [[カムイ外伝|カムイ外伝 第一部]](1965年-1967年)(週刊少年サンデー) * 神話伝説シリーズ(1974年-1980年)(ビッグコミック) * 女星シリーズ(1979年-1981年) * [[カムイ外伝|カムイ外伝 第二部]](1982年-1987年)(ビッグコミック) * [[カムイ伝|カムイ伝 第二部]](1988年-2000年)(ビッグコミック) * カムイ外伝 再会(2009年) === エッセイ === * 白土三平 フィールド・ノート1 「土の味」(1987年 BE-PAL BOOKS) * 白土三平 フィールド・ノート2 「風の味」(1988年 BE-PAL BOOKS) * 白土三平 野外手帳(1993年 小学館ライブラリー OUTDOOR EDITION) ** 月刊誌『[[BE-PAL]](ビーパル)』(小学館)に連載されたエッセイ『白土三平フィールド・ノート』(連載1983年6月号-1988年3月号)の単行本。『白土三平 野外手帳』は絶版となった『土の味』『風の味』2冊を纏め出版されたもの。 * 白土三平の好奇心1 「カムイの食卓」(1998年 Lapita Books) * 白土三平の好奇心2 「三平の食堂」(1998年 Lapita Books) ** 月刊誌『LAPITA(ラピタ)』(小学館)に連載されたエッセイ『白土三平の好奇心』(連載1995年冬号-1999年3月号)の単行本。 == テレビアニメ == * [[少年忍者風のフジ丸|少年忍者 風のフジ丸]]([[テレビ朝日|NETテレビ]]・全65話/放映期間1964年6月7日-1965年8月31日) *: 『忍者旋風(風魔忍風伝)』、『風の石丸』を原作にした[[東映アニメーション|東映動画]]制作のテレビアニメ。モノクロ作品だが、第1話がモノクロ版とは別にカラー版が制作されている<ref group="注">第1話のカラー版は1981年に発売されたVHSが唯一の[[ビデオグラム|映像ソフト]]。</ref>。スポンサーは[[藤沢薬品工業]]の一社提供で、[[タイアップ]]のため、主人公の名前がフジ丸に変更されている。キャラクターデザインは[[楠部大吉郎]]。放映に併せ[[久松文雄]]による漫画も連載された。放映中、3回劇場アニメ映画化。ストーリーのオリジナル化やキャラクター権を東映動画が独占するため、第29話以降白土三平を原作から外している。この一件以降、白土は自作品の映像化に対して厳格な姿勢をとっている。 * [[サスケ (漫画)|サスケ]]([[TBSテレビ|TBS]]・全29話/放映期間1968年9月3日-1969年3月25日) *: [[エイケン (アニメ制作会社)|TCJ動画センター]]制作のテレビアニメ。カラー放送。スポンサーは[[森永製菓]]。TCJの高橋茂人による説得でアニメ化が実現する。放映に併せ『サスケ(リメイク版)』を『[[週刊少年サンデー]]』に連載(1968年7月-1969年5月)。1968年9月からは『サスケ(絵物語版)』が『[[小学一年生]]』で、[[久松文雄]]による『サスケ(絵物語版)』が『[[小学二年生]]』で連載された。 * [[カムイ外伝|忍風カムイ外伝]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・全26話/放映期間1969年4月6日-1969年9月28日) *: TCJ動画センター制作のテレビアニメ。カラー放送。企画は高橋茂人の[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹エンタープライズ]]。原作は20回分までしかなく、後半6回分は、各回当時の原稿用紙で3、4枚分の[[プロット (物語)|プロット]]を白土から渡され、田代淳二による構成で脚本が制作された<ref>DVD『忍風カムイ外伝』巻之七(2000年4月)</ref>。これを再編集したものが映画版であり、[[1982年]]には白土自身による漫画化もされている。初期製作資料によると放映第1話の前に放映されなかった第1話「抜け忍(伊賀赤目の滝)」があったという。当初の企画は『忍者武芸帳』のアニメ化であり、また後番組としては『ワタリ』が予定されていたが実現せず、両方とも[[パイロット版|パイロットフィルム]]のみが存在する。結局、後番組として放送されたのが、現在までエイケンかつフジテレビの屋台骨を支えている『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』であり、スポンサーの[[東芝]]はこの作品からの一社提供。 == 映画 == * [[少年忍者風のフジ丸|少年忍者 風のフジ丸 謎のアラビヤ人形]](1964年7月21日公開) * [[少年忍者風のフジ丸|少年忍者 風のフジ丸 まぼろし魔術団]](1965年3月20日公開) * [[少年忍者風のフジ丸|少年忍者 風のフジ丸 大猿退治]](1965年7月24日公開) *: 上述の同名テレビアニメの映画化。いずれも「[[東映まんがまつり]]」の前身である「まんが大行進」の1本として公開。全てテレビアニメ版の一部を再編集したもの。白土が原作者としてクレジットされているのは二作目まで。 * [[ワタリ (漫画)|大忍術映画ワタリ]](1966年7月21日公開 / 監督:[[船床定男]]) *: [[東映京都撮影所]]制作の特撮実写映画。脚本の段階から白土自身のライフワークともいえる“階級解放闘争”に関する部分がストーリーから削られていたことから激怒。制作を拒否するも、映画化の推進者であった東映テレビ部の[[渡邊亮徳]]次長(当時)の説得で制作が進められた。しかし完成試写で関係悪化は決定的となる。上述の『風のフジ丸』での一件もあり、白土は東映との絶縁を宣言する事態となる。映画自体は実写とアニメーションの合成によるダイナミックな画面が功を奏し、ヒット作となる。公開後、東映初のカラーテレビ特撮時代劇として続編が作られる予定があったが、こうした事態で急遽[[横山光輝]]原作の『[[仮面の忍者 赤影]]』(1967年4月-1968年3月)の映像化の企画へ差し替えられた。『仮面の忍者 赤影』には『大忍術映画ワタリ』の主人公役だった金子吉延が青影として出演。併映作品は[[東映アニメーション|東映動画]]制作の『[[サイボーグ009]]』。 * [[忍者武芸帳]](1967年2月15日公開 / 監督:[[大島渚]]) *: [[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]配給。大島渚がスチル写真をフィルムに撮り制作した短編映画『[[ユンボギの日記#映像作品|ユンボギの日記]]』(1965年)と同じ手法で制作される。企画があがった当時『忍者武芸帳』の原稿は完全には残っていなかった。そのため原稿紛失分を[[小島剛夕]]が貸本印刷物からトレース、全原稿が完成したところで撮影に入った。撮影は1966年5月までに完了。当初は1966年5月公開の予定だったらしいが、監督による編集の拘りで約一年遅れての公開となった。この間、1966年8月から1967年1月にかけて小学館から単行本が発刊されている。 * [[カムイ外伝|忍風カムイ外伝「月日貝の巻」]](1971年3月20日公開) *: [[東宝]]配給。上述の同名テレビアニメの映画化。テレビアニメの第21話から第26話(最終話)までを再編集・一部追加し制作されたもの。 * [[カムイ外伝]](2009年9月19日公開 / 監督:[[崔洋一]]) *: 『カムイ外伝』製作委員会制作、[[松竹]]配給。[[松山ケンイチ]]主演による実写映画。 == アシスタント == * [[小島剛夕]]([[1964年]]から[[1968年]]まで) * [[小山春夫]] * [[岡本鉄二]] * [[楠勝平]] * [[いけうち誠一]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[釣りキチ三平]] - [[矢口高雄]]の漫画で、主人公・三平三平(みひらさんぺい)は、白土三平に由来する。 * [[旅館寿恵比楼]] - 1965年10月にはこの旅館で『ワタリ』のコマ割りを手がけた。 * [[忍びいろは]] - 白土三平による忍者ものの漫画にしばしば使われ、『忍法秘話』の中の『栬𨊂𠎁潢(イシミツ)』には題そのものに用いられている。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しらと さんへい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ガロ]] [[Category:長野県上田高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:2021年没]]
2003-02-18T16:50:05Z
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