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1,478 | ビデオ | ビデオ(Video) 聞くとは、狭義にはテレビジョン技術において、電気信号を用いた映像(映像信号またはビデオ信号)の処理技術と、それを利用した周辺技術全般に関わる用語である。広義では、コンピュータのディスプレイなど、テレビジョンで用いられるビデオ信号によらない画像を利用する機器全般に用いられる。基本的には、動画を扱う場合が多い。
通常、次のように修飾的に用いる。
ビデオ技術はアナログ信号を用いた技術のほか、デジタルビデオ技術を含む。また、ビデオ信号に必須の時間軸管理技術は、他のデジタル技術も応用した記録型DVDやハードディスクを用いたレコーダにあっても必須のものである。ビデオレコーダー
日本において一般的な文脈で単に「ビデオ」と呼んだ場合、ビデオテープ、特にVHSを指す用法も多く、VHSが普及していた時代(凡そ 1980 - 2000年代)によく見られた。 | [
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| ビデオ(Video) 聞くとは、狭義にはテレビジョン技術において、電気信号を用いた映像(映像信号またはビデオ信号)の処理技術と、それを利用した周辺技術全般に関わる用語である。広義では、コンピュータのディスプレイなど、テレビジョンで用いられるビデオ信号によらない画像を利用する機器全般に用いられる。基本的には、動画を扱う場合が多い。 通常、次のように修飾的に用いる。 ビデオカメラ:風景、人物など実物を撮影してビデオ信号を得る機器(撮像機器ともいう)。家庭用のものは、後述のビデオ信号記録装置(ビデオテープレコーダ)と一体になっている物が多い(→カムコーダ)。
ビデオ信号処理装置:ビデオ信号を加工(処理)する装置。
ビデオ信号記録装置:ビデオ信号を記録する装置。一般にはビデオテープレコーダ、ハイブリッドビデオレコーダなど。家庭用ビデオテープレコーダを「ホームビデオ」「ビデオデッキ」または、単に「ビデオ」と表記することがある。同様にディスク媒体(記録型DVDやハードディスクドライブを用いたビデオレコーダあるいはプレーヤも「ビデオ」と呼ばれることがある。
ビデオグラム:ビデオによる映像を利用したコンテンツまたはソフトウェア。電気的録音録画物、ビデオソフトともいう。
媒体別
ビデオテープ:磁気テープを用いる映像記録媒体。VHS、ベータマックスなど。
ビデオディスク:ディスクメディアの映像記録媒体。DVD、Blu-ray Discなど。
流通別
セルビデオ:販売するために制作されたビデオソフト。
レンタルビデオまたはビデオレンタル:作品が収録されたビデオを有料で貸し出すサービス。
分野
オリジナルビデオ - 劇場公開を前提としないパッケージ専用の映画。ビデオ映画、Vシネマなどとも。
ビデオ表示端末:いわゆるビデオモニター。
ビデオカード:コンピュータの表示回路を実装したプリント基板。
ビデオメール:動画付き電子メール。
ビデオゲーム:日本ではテレビゲームと呼ばれる。
ビデオポーカー:ビデオモニターに表示されたトランプでポーカーの役を作るゲーム。
ビデオフォン/ビデオコール:日本ではテレビ電話と呼ばれる。
ホームビデオ - 家庭用の「ビデオ信号記録装置」や「カムコーダー」、一般に流通している「セルビデオ」や「レンタルビデオ」などを示す言葉。ワーナー・ホーム・ビデオなど社名に入れている企業もある。 ビデオ技術はアナログ信号を用いた技術のほか、デジタルビデオ技術を含む。また、ビデオ信号に必須の時間軸管理技術は、他のデジタル技術も応用した記録型DVDやハードディスクを用いたレコーダにあっても必須のものである。ビデオレコーダー | {{Otheruses|映像技術|[[GNOME]]の[[ソフトウェア]]|ビデオ (GNOME)}}
{{出典の明記|date=2012年5月}}
[[Image:Composite.jpg|thumb|200px|[[コンポジット映像信号]]の接続に使われる[[黄色]]の[[RCA端子]]]]
'''ビデオ'''(Video)''{{Audio|En-us-video.ogg|聞く}}''とは、狭義には[[テレビ|テレビジョン]]技術において、[[電気信号]]を用いた映像([[映像信号]]またはビデオ信号)の処理技術と、それを利用した周辺技術全般に関わる用語である。広義では、[[コンピュータ]]の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]など、テレビジョンで用いられるビデオ信号によらない[[画像]]を利用する機器全般に用いられる。基本的には、[[動画]]を扱う場合が多い。
通常、次のように修飾的に用いる。
* '''[[ビデオカメラ]]''':風景、人物など実物を撮影してビデオ信号を得る機器('''撮像機器'''ともいう)。[[家庭]]用のものは、後述のビデオ信号記録装置(ビデオテープレコーダ)と一体になっている物が多い(→[[カムコーダ]])。
* '''[[ビデオ信号処理装置]]''':{{仮リンク|ビデオ信号を加工|en|Video processing}}(処理)する装置。
* '''[[ビデオ信号記録装置]]''':ビデオ信号を記録する装置。一般には[[ビデオテープレコーダ]]、ハイブリッドビデオレコーダなど。家庭用ビデオテープレコーダを「ホームビデオ」「ビデオデッキ」または、単に「ビデオ」と表記することがある。同様にディスク媒体([[記録型DVD]]や[[ハードディスクドライブ]]を用いたビデオレコーダあるいはプレーヤも「ビデオ」と呼ばれることがある。
* '''[[ビデオグラム]]''':ビデオによる映像を利用した[[コンテンツ]]または[[ソフトウェア]]。'''電気的録音録画物'''、'''ビデオソフト'''ともいう。
** 媒体別
*** '''[[磁気テープ#ビデオ用|ビデオテープ]]''':磁気テープを用いる映像記録媒体。[[VHS]]、[[ベータマックス]]など。
*** '''[[ビデオディスク]]''':[[ディスクメディア]]の映像記録媒体。[[DVD]]、[[Blu-ray Disc]]など。
** 流通別
*** '''[[セルビデオ]]''':販売するために制作されたビデオソフト。
*** '''[[レンタルビデオ]]'''または'''ビデオレンタル''':作品が収録されたビデオを有料で貸し出すサービス。
** 分野
*** '''[[オリジナルビデオ]]''' - 劇場公開を前提としないパッケージ専用の映画。'''ビデオ映画'''、'''Vシネマ'''などとも。
* '''[[ビデオ表示端末]]'''({{Lang-en|[[w:Video display terminal|Video Display Terminal]]}}, VDT):いわゆる[[ビデオモニター]]。
* '''[[ビデオカード]]''':コンピュータの表示回路([[Video Graphics Array|VGA]]など)を実装したプリント基板。
* '''{{仮リンク|ビデオメール|en|video mail}}''' (Video mail):[[動画]]付き[[電子メール]]。
* '''[[テレビゲーム|ビデオゲーム]]'''({{Lang-en|[[w:Video game|video game]]}}):日本では'''テレビゲーム'''と呼ばれる。
* '''[[ビデオポーカー]]''':ビデオモニターに表示された[[トランプ]]で[[ポーカー]]の役を作るゲーム。
* '''[[ビデオフォン]]'''({{Lang-en|[[w:videophone|videophone]]}})/'''[[ビデオコール]]'''({{Lang-en|[[w:Video call|video call]]}}):日本では'''テレビ電話'''と呼ばれる。
* '''ホームビデオ''' - [[家庭]]用の「ビデオ信号記録装置」や「[[カムコーダー]]」、一般に流通している「セルビデオ」や「レンタルビデオ」などを示す言葉。[[ワーナー・ホーム・ビデオ]]など社名に入れている企業もある。
ビデオ技術は[[アナログ|アナログ信号]]を用いた技術のほか、[[デジタルビデオ]][[技術]]を含む。また、ビデオ信号に必須の時間軸管理技術は、他の[[デジタル|デジタル技術]]も応用した記録型DVDやハードディスクを用いたレコーダにあっても必須のものである。[[ビデオレコーダー]]
== 曖昧さ回避 ==
日本において一般的な文脈で単に「'''ビデオ'''」と呼んだ場合、[[ビデオテープ]]、特に[[VHS]]を指す用法も多く、VHSが普及していた時代(凡そ [[1980年代|1980]] - [[2000年代]])によく見られた。
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|video|ビデオ}}
* [[映像機器]]
* [[情報機器]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひてお}}
[[Category:ビデオ|*]]
[[Category:情報機器]]
[[Category:ラテン語起源の言葉]] | 2003-02-14T03:47:07Z | 2023-09-30T05:33:21Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記",
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA |
1,479 | 2000年代 | 2000年代(にせんねんだい)
20世紀と21世紀に跨がる大きな区切りの年代であり、21世紀初頭において、00年代(ぜろぜろねんだい)や0(ゼロ)年代(ぜろねんだい)と呼称されることもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2000年代について記載する。 | [
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| 2000年代(にせんねんだい) 西暦(グレゴリオ暦)2000年から2009年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。
西暦2000年から2099年までの100年間を指す。21世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
西暦2000年から2999年までの1000年間を指す。3千年紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。 20世紀と21世紀に跨がる大きな区切りの年代であり、21世紀初頭において、00年代(ぜろぜろねんだい)や0(ゼロ)年代(ぜろねんだい)と呼称されることもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2000年代について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|2000年代の日本}}
{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2000 | 年 = 2000 }}
<imagemap>File:2000s decade montage3.png|'''上段''': (左)2001年の[[アメリカ同時多発テロ事件]]で、攻撃によって炎上する[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]。(中央)2002年の欧州連合で導入された通貨「[[ユーロ]]」。(右)2003年に始まった[[イラク戦争]]で引き倒される[[サッダーム・フセイン]]の彫像。<br />'''中段''': (左)2004年に発生した[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]による津波は、多くの被害者を出した。(右)2001年から始まった[[対テロ戦争]]で、軍用ヘリコプターに乗り込む米国軍。<br /> '''下段''': (左)2007年から2008年の[[サブプライムローン問題]]を端とする[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]。(中央)2008年に開催された[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の開会式の花火を見つめる中国兵。(右)[[YouTube]]や[[Facebook]]、[[Twitter]]や[[RSS]]など、世界中に[[ソーシャルメディア]]が広まった。|420px|thumb
rect 1 1 234 178 [[アメリカ同時多発テロ事件]]
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'''2000年代'''(にせんねんだい)
# [[西暦]]([[グレゴリオ暦]])2000年から2009年までの10年間を指す[[十年紀]]。'''本項で詳述する'''。
# 西暦2000年から2099年までの100年間を指す。[[21世紀]]とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
# 西暦2000年から2999年までの1000年間を指す。[[3千年紀]]とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
20世紀と21世紀に跨がる大きな区切りの年代であり<ref group="注">2000年から2099年までの100年間([[世紀]]の観点)、あるいは2000年から2999年までの1000年間([[千年紀]]の観点)を2000年代とする場合もあるが、21世紀初頭において2000年から2009年までの10年間([[十年紀]]の観点)を2000年代とするのが一般的な用法である。</ref>、21世紀初頭において、'''00年代'''(ぜろぜろねんだい)や'''0(ゼロ)年代'''(ぜろねんだい)と呼称されることもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2000年代について記載する。
== できごと ==
=== 2000年 ===
{{Main|2000年}}
* [[1月1日]] - [[コンピュータ]]の[[2000年問題]]の発生が注目されたが、大きな問題などは起こらずに無事[[年越し]]を迎えた。
* [[6月13日]]〜[[6月15日|15日]] - [[平壌直轄市|平壌]]で[[朝鮮半島]]分断後初の[[南北首脳会談]]が開かれる。
* [[7月21日]]〜[[7月23日|23日]] - [[第26回主要国首脳会議|九州・沖縄サミット]]が[[沖縄県]][[名護市]]で開催。
* [[7月25日]] - [[エールフランス]]の[[コンコルド]]機、[[パリ]]で離陸直後に[[コンコルド墜落事故|墜落]]、死者114人。
* [[9月6日]]〜[[9月8日|8日]] - {{仮リンク|国連ミレニアム・サミット|en|Millennium Summit}}が[[ニューヨーク]]で開催され、8日の本会議では[[国連ミレニアム宣言]]が採択された。この宣言をもとに[[2015年]]までの国際目標として、[[ミレニアム開発目標]](MDGs)が2001年に取りまとめられている<ref>[https://www.jica.go.jp/aboutoda/sdgs/achievement_MDGs.html ミレニアム開発目標(MDGs)の達成状況]/[https://www.jica.go.jp/aboutoda/sdgs/about_MDGs.html MDGsの概要と8つの目標] - 独立行政法人[[国際協力機構]] (JICA)</ref><ref>[https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_mill.html 活動指針:ミレニアム開発目標]/[https://www.unicef.or.jp/mdgs/ ミレニアム開発目標(MDGs)] - 公益財団法人[[日本ユニセフ協会]]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html ODA(政府開発援助):ミレニアム開発目標(MDGs)] - [[外務省]] (2019年7月25日)</ref>。
* [[9月15日]]〜[[10月1日]] - [[2000年シドニーオリンピック|シドニーオリンピック]](第27回[[夏季オリンピック]])開催。
* [[10月18日]]〜[[10月29日|29日]] - [[2000年シドニーパラリンピック|シドニーパラリンピック]](第11回夏季[[パラリンピック]])開催。
* [[11月7日]] - [[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]が当選。
=== 2001年 ===
{{Main|2001年}}
* [[1月1日]] - [[3千年紀]]・[[21世紀]]が始まる。
* [[4月1日]] - 異性同士の[[結婚]]と全く同じ権利を保障する、世界初の[[同性結婚]]法が[[オランダ]]で施行された。
* [[9月11日]] - '''[[アメリカ同時多発テロ事件]]'''発生。
* [[10月7日]] - [[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]を始めとした連合諸国が[[アフガニスタン]]の[[ターリバーン政権]]に対して空爆([[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]])。
* [[11月17日]] - [[iPod]]発売。
=== 2002年 ===
{{Main|2002年}}
* [[1月1日]] - [[欧州連合|EU]]域内12カ国、通貨を[[ユーロ]]に統合。
* [[2月8日]]〜[[2月24日|24日]] - [[2002年ソルトレークシティオリンピック|ソルトレイクシティオリンピック]](第19回[[冬季オリンピック]])開催。<!--2000年代最初の冬季オリンピック-->
* [[3月7日]]〜[[3月16日|16日]] - [[2002年ソルトレイクシティパラリンピック|ソルトレイクシティパラリンピック]](第8回冬季パラリンピック)開催。
* [[4月24日]] - [[瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件]]が起こる。
* [[5月20日]] - [[東ティモール]]独立。
* [[5月31日]]〜[[6月30日]] - [[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・日韓大会]]が開催。<!--2000年代最初のFIFAワールドカップ-->
* [[9月17日]] - 初の[[日朝首脳会談]]。10月15日に[[拉致]]被害者5名が日本へ帰国。
* [[9月20日]] - [[スイス]]と東ティモールが[[国際連合|国連]]に加盟。
* [[10月]] - [[バリ島爆弾テロ事件 (2002年)|バリ島爆弾テロ事件]]、[[モスクワ劇場占拠事件]]など、多数の死者を出したテロが相次ぐ。
=== 2003年 ===
{{Main|2003年}}
* [[2月1日]] - [[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア号]]が地球へ帰還の際に空中分解。
* [[3月20日]] - '''[[イラク戦争]]'''開戦。[[サッダーム・フセイン]]政権崩壊。
* [[7月26日]] - イラク復興特措法が成立。
* [[11月18日]] - [[マイケル・ジャクソン]]が性的虐待の容疑で逮捕される。[[2005年]][[6月13日]]、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。
* [[12月14日]] - [[サッダーム・フセイン]]大統領が、[[アメリカ軍|米軍]]により拘束される。
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]東部の広い地域で大規模な停電、約5000万人に影響。
* [[重症急性呼吸器症候群|SARS]]がアジアを中心に世界的に大流行。
* [[イラク]]北部で、日本人[[外交官]]2人とイラク人計3人が銃撃され死亡する。
=== 2004年 ===
{{Main|2004年}}
* [[3月11日]] - [[マドリード列車爆破テロ事件]]が起こり、スペインで政権交代。
* [[8月13日]]〜[[8月29日|29日]] - [[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]](第28回夏季オリンピック)開催。<!--21世紀最初の夏季オリンピック-->
* [[9月17日]]〜[[9月28日|28日]] - [[2004年アテネパラリンピック|アテネパラリンピック]](第12回夏季パラリンピック)開催。
* [[10月1日]] - [[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]で[[シアトルマリナーズ]]の[[イチロー]]が84年ぶりに年間最多安打262の新記録を樹立。
* [[12月]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]拉致被害者で[[曽我ひとみ]]の夫[[チャールズ・ジェンキンス]]が日本へ帰国来日。
* [[12月26日]] - '''[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]'''発生。[[インド洋]]周辺各国に[[津波]]の大被害。死者・行方不明者約30万人。
=== 2005年 ===
{{Main|2005年}}
*[[1月20日]] - [[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]が2期目の[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。
*[[3月25日]] - [[9月25日]] - [[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]開催。
*[[4月2日]] - [[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が死去。
*[[7月7日]] - [[ロンドン同時爆破事件]]。
*[[7月26日]] - 日本人[[宇宙飛行士]][[野口聡一]]が搭乗した[[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]の打ち上げに成功。
*[[8月29日]] - [[ハリケーン・カトリーナ]]がアメリカ南部を襲う。
*[[10月8日]] - [[パキスタン]]で[[マグニチュード]]7.6の[[パキスタン地震 (2005年)|地震]]が発生。
*[[10月27日]] - [[2005年パリ郊外暴動事件|パリ郊外暴動事件]]。
*[[11月16日]] - 中国で[[鳥インフルエンザ]]感染者が死亡したと発表。中国で感染による死者は初めて。
=== 2006年 ===
{{Main|2006年}}
* [[2月10日]]〜[[2月26日|26日]] - [[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]](第20回冬季オリンピック)開催。
* [[3月10日]]〜[[3月19日|19日]] - [[2006年トリノパラリンピック|トリノパラリンピック]](第9回冬季パラリンピック)開催。
* [[3月13日]]〜[[3月20日|20日]] - 第1回[[ワールド・ベースボール・クラシック]]開催。
* [[2006 FIFAワールドカップ]]開幕。
* [[7月5日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[テポドン2号]]の発射実験。
* [[10月9日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が初の地下[[核実験]]実施。
* [[12月21日]] - [[トルクメニスタン]]の[[サパルムラト・ニヤゾフ]][[大統領]]が死去。
* [[12月30日]] - [[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]元大統領死刑執行。
=== 2007年 ===
{{Main|2007年}}
* [[1月1日]] - [[ブルガリア]]、[[ルーマニア]]が[[ヨーロッパ連合]]加盟。[[エストニア]]、[[リトアニア]]、[[スロベニア]]が[[ユーロ]]導入。
* [[4月1日]] - これ以降発売の[[第三世代携帯電話]]への[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]搭載義務化。
=== 2008年 ===
{{Main|2008年}}
* [[2月9日]]〜[[11月15日]] - 世界各地で[[第34回主要国首脳会議]]が開催。
* [[2月10日]] - [[ソウル特別市|ソウル]]の[[崇礼門]]が放火により焼失。
* [[3月10日]]〜[[4月26日]] - [[2008年のチベット騒乱|チベット暴動]]が起こる。
* [[4月27日]] - [[ミャンマー]]に[[サイクロン・ナルギス]]が発生。
* [[5月12日]] - 中華人民共和国で[[四川大地震]]が起こる。
* [[5月28日]] - [[ネパール]]で[[王制]]が廃止される
* [[8月8日]]〜[[8月24日|24日]] - [[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]](第29回夏季オリンピック)開催。
* [[9月6日]]〜[[9月17日|17日]] - [[2008年北京パラリンピック|北京パラリンピック]](第13回夏季パラリンピック)開催。
* [[9月15日]] - '''[[リーマン・ショック]]'''。以降、本格的な[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]に発展。
* [[10月11日]] - 米政府が北朝鮮の[[テロ支援国家]]指定を解除。
* [[11月14日]]〜[[11月15日|15日]] - [[第1回20か国・地域首脳会合]](G20)が開催。
=== 2009年 ===
{{Main|2009年}}
* [[1月20日]] - [[バラク・オバマ]]、第44代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]の大統領は同国史上初。
* [[2月17日]] - [[アメリカ合衆国]]でアナログテレビ放送の停波が始まる。
* [[3月24日]] - 第2回[[ワールド・ベースボール・クラシック]]が開催。
* [[5月23日]] - [[大韓民国]]の[[盧武鉉]]元大統領が自宅の敷地内の崖から転落死する。
* [[6月25日]] - [[歌手]]の[[マイケル・ジャクソン]]が死去。
* [[8月18日]] - [[大韓民国]]の[[金大中]]元大統領が死去。
* [[メキシコ]]から世界各国に[[2009年新型インフルエンザ|新型インフルエンザ]]が大流行する([[2009年新型インフルエンザの世界的流行]])。
* [[2009年ウイグル騒乱|ウイグル騒乱]]が起こる。
== 世相と文化 ==
=== 社会 ===
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]単独覇権の時代が続くと予想されていたが、[[アメリカ同時多発テロ]]以降[[イスラーム過激派]]による[[テロ]]が多発。対抗して始まった[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]、[[イラク戦争]]は泥沼化し、[[サブプライムローン]]問題を発端に世界中の金融機関で信用収縮の連鎖が勃発、[[リーマンショック]]以降の[[世界金融危機 (2007年-)|世界同時不況]]を招き、先進国を中心に市場の収縮が起こった。
*これらにより日米欧のプレゼンスが低下。 経済成長著しい[[インド]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[ブラジル]]、資源価格の高騰の恩恵を受けた[[ロシア]]・[[中東]]産油国など[[BRICs]]諸国をはじめとする[[G20]][[新興国]]が台頭していった。 [[ベトナム]]は海外からの投資が好調で、高度経済成長が始まる。[[インドネシア]]では2000年代前半、[[タイ王国|タイ]]では2000年代中頃から政治的な混乱が多発した。一方で経済成長に伴い新興国の環境問題も深刻化した。
* 反米感情を背景にラテンアメリカでは左派政権が次々誕生し、地域統合の機運が高まった。
* 旧[[東側諸国|東側]]の[[中央ヨーロッパ|中欧]]諸国や[[バルト三国]]の[[欧州連合|EU]]加盟以降、これらの国へ生産拠点を移す動きが活発化し、中東欧諸国と西欧諸国との一体性が強まる。一方、[[冷戦]]時にこの地域で影響力を発揮してきたロシアとの摩擦も顕在化。
* [[重症急性呼吸器症候群]] (SARS) や[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザ (A/H1N1)]] といった[[新興感染症]]が[[エピデミック]]を起こした。
* 資源価格高騰と[[地球温暖化]]の社会問題化に伴い、欧州諸国を中心に[[太陽光発電]]・[[風力発電]]など[[再生可能エネルギー]]の利用が本格化。[[原子力発電]]も見直された。
* [[2001年]]に[[オランダ]]で世界初の[[同性結婚]]が認められると、その後は[[ヨーロッパ]]の各地(主に[[北ヨーロッパ|北欧]]および[[西ヨーロッパ|西欧]])や[[北アメリカ|北米]]、[[南アメリカ|南米]]、[[オセアニア]]、[[南アフリカ共和国]]でも同性結婚およびそれに準ずる[[シビル・ユニオン|パートナーシップ制度]]容認の流れが広がった。
=== コンピュータとインターネット ===
* [[パーソナルコンピュータ]]や[[携帯電話]]が[[コモディティ化]]し、インターネットの利用が広がる。[[デジタルオーディオプレーヤー]]、[[スマートフォン]]など[[インターネット]]の利用を前提とした[[デジタル家庭電化製品|デジタル家電]]製品が大ヒットし、新しいデジタルライフスタイルが浸透していく。一方で、インターネットを利用した犯罪や[[コンピュータセキュリティ]]が深刻な社会問題となった。
*[[Yahoo!]]、[[Google]]、[[Amazon.com]]、[[MySpace]]、[[Facebook]]、[[YouTube]]、[[Twitter]]などのネットサービスが現れ、人々のライフスタイルを変えた。 [[ウィキペディア|Wikipedia]]もこの時代に登場した。
=== 通信 ===
* [[第3世代移動通信システム]] (3G)である[[W-CDMA]]や[[CDMA2000]]などが登場したが、従来のデジタル方式の移動通信システムを完全に置き換えるに至らず、日本や韓国など一部の地域を除いて[[第2世代移動通信システム]] (2G)である[[GSM]]とその発展システムが依然として広く使われ続けた。
=== コンピュータゲーム ===
* [[テレビゲーム]]市場では2000年代の前半([[ゲーム機#第6世代|第6世代]])に[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCEI) の「[[PlayStation 2]]」が前世代機に引き続いて市場をリードしていたが、後半([[ゲーム機#第7世代|第7世代]])になると[[任天堂]]が「[[Wii]]」で挽回し、さらに[[マイクロソフト]]の「[[Xbox 360]]」、SCEIの「[[PlayStation 3]]」もそれに続く形で三つ巴の様相を呈した。[[携帯型ゲーム]]では引き続き任天堂の「[[ゲームボーイアドバンス]]」や「[[ニンテンドーDS]]」シリーズが世界的に覇権を握っている。
<gallery>
ファイル:Sony-PlayStation-2-30001-wController-L.png|PlayStation 2
ファイル:GameCube-Console-Set.png|ニンテンドーゲームキューブ
ファイル:Xbox-Console-Set.png|Xbox
ファイル:Microsoft-Xbox-360-Pro-Flat-wController-L.png|Xbox 360
ファイル:Sony-PlayStation-3-CECHA01-wController-L.png|PlayStation 3
ファイル:Wii-Console.png|Wii
ファイル:Nintendo-Game-Boy-Advance-Purple-FL.png|ゲームボーイアドバンス
ファイル:PSP-1000.png|PlayStation Portable
ファイル:Nintendo DS Trans.png|ニンテンドーDS
</gallery>
=== 音楽 ===
* インターネットの普及により音楽はデジタル化され、2001年に登場した[[iPod]]をはじめとする[[デジタルオーディオプレーヤー]]の人気が上昇する。それに伴い、米国のみならず世界的にCD、レコードなど物理媒体の売上が著しく減少した。
* 2000年代初頭、[[Napster]]などの[[P2P]]ネットワークの登場により、[[MP3]]データの違法ダウンロードが横行した。
* 2003年に開始された[[iTunes Music Store]]により、楽曲の[[デジタル・ダウンロード]]販売が普及した。
* [[ヒップホップ]]の商業的人気がピークに達した。[[エミネム]]は2000年代を通して最も売れたミュージシャンとなった。
=== 建築 ===
{{See also|2000年代の建築}}
; {{Visible anchor|超高層建築物・構築物}}
<gallery widths="140px" heights="210px" perrow="7">
File:Canton tower in asian games opening ceremony.jpg|<div align="center">[[広州塔]]<br />([[中華人民共和国|中国]][[広州市]]の[[電波塔]])</div>
File:2ifc at twilight.jpg|<div align="center">[[国際金融中心 (香港)|国際金融中心]]<br />(中国[[香港]])</div>
</gallery>
== 人物 ==
=== アメリカ合衆国とヨーロッパ ===
==== 政治 ====
* [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス16世]]([[1927年]] - [[2022年]])
* [[ジャック・シラク]]([[1932年]] - [[2019年]])
* [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]([[1936年]] - )
* [[ディック・チェイニー]]([[1941年]] - )
* [[ゲアハルト・シュレーダー]]([[1944年]] - )
* [[ルドルフ・ジュリアーニ]]([[1944年]] - )
* [[ジョージ・W・ブッシュ|ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]([[1946年]] - )
* [[アル・ゴア]]([[1948年]] - )
* [[ゴードン・ブラウン]]([[1951年]] - )
* [[トニー・ブレア]]([[1953年]] - )
* [[アンゲラ・メルケル]]([[1954年]] - )
* [[ニコラ・サルコジ]]([[1955年]] - )
* [[バラク・オバマ]]([[1961年]] - )
==== 思想と哲学 ====
* [[アントニオ・ネグリ]]([[1933年]] - )
* [[エルネスト・ラクラウ]]([[1935年]] - [[2014年]])
* [[シャンタル・ムフ]]([[1943年]] - )
* [[ジョセフ・E・スティグリッツ|ジョセフ・ユージン・スティグリッツ]]([[1943年]] - )
* [[ナンシー・フレイザー]]([[1947年]] - )
* [[マーサ・ヌスバウム]]([[1947年]] - )
* [[デイヴィッド・ライアン]]([[1948年]] - )
* [[トニー・ジャット]]([[1948年]] - [[2010年]])
* [[ドゥルシラ・コーネル]]([[1950年]] - )
* [[エマニュエル・トッド]]([[1951年]] - )
* [[ポール・クルーグマン]]([[1953年]] - )
* [[スティーブン・ピンカー]]([[1954年]] - )
* [[マイケル・ハート]]([[1960年]] - )
* [[デイビッド・チャーマーズ]]([[1966年]] - )
==== 文学 ====
* [[ドリス・レッシング]]([[1919年]] - [[2013年]])
* [[W・G・ゼーバルト|ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト]]([[1944年]] - [[2001年]])
* [[トム・クランシー]]([[1947年]] - )
* シャンタル・トマ([[1948年]] - )
* [[パスカル・キニャール]]([[1948年]] - )
* [[スティーグ・ラーソン]]([[1954年]] - [[2004年]])
* ライオネル・シュライヴァー([[1957年]] - )
* [[フィリップ・クローデル]]([[1962年]] - )
* [[ダン・ブラウン]]([[1964年]] - )
* [[ジョナサン・リテル]]([[1967年]] - )
* [[ジョナサン・サフラン・フォア]]([[1977年]] - )
==== 芸術 ====
* [[レベッカ・ホルン]]([[1944年]] - )
* [[ダニエル・リベスキンド]]([[1946年]] - )
* [[マルレーネ・デュマス]]([[1953年]] - )
* [[アンドレアス・グルスキー]]([[1955年]] - )
* [[アンディー・ゴールズワージー]]([[1956年]] - )
* [[ジュリアン・オピー]]([[1958年]] - )
* [[ロン・ミュエク]]([[1958年]] - )
* [[グレイソン・ペリー]]([[1960年]] - )
* トーマス・デマンド([[1964年]] - )
* [[マーク・クイン]]([[1964年]] - )
* [[オラファー・エリアソン]]([[1967年]] - )
* [[ヴォルフガング・ティルマンス]]([[1968年]] - )
* [[マーティン・クリード]]([[1968年]] - )
* [[バンクシー]](生年月日未公表)
==== ファッション ====
* [[アナ・ウィンター]]([[1949年]] - )
* カリーヌ・ロワトフェルド([[1954年]] - )
* [[アレキサンダー・マックイーン]]([[1969年]] - [[2010年]])
==== 映画とエンターテイナー ====
* [[モーガン・フリーマン]]([[1937年]] - )
* [[ミヒャエル・ハネケ]]([[1942年]] - )
* [[アラン・リックマン]]([[1946年]] - [[2016年]])
* [[ペドロ・アルモドバル]]([[1951年]] - )
* [[ジャン=ピエール・ジュネ|ジャン・ピエール・ジュネ]]([[1953年]] - )
* [[ロン・ハワード]]([[1954年]] - )
* [[ラース・フォン・トリアー]]([[1956年]] - )
* [[アキ・カウリスマキ]]([[1957年]] - )
* [[ティム・バートン]]([[1958年]] - )
* [[ショーン・ペン]]([[1960年]] - )
* [[ジョージ・クルーニー]]([[1961年]] - )
* [[スティーヴン・ソダーバーグ]]([[1963年]] - )
* [[ミシェル・ゴンドリー]]([[1963年]] - )
* [[ジョニー・デップ]]([[1963年]] - )
* [[ラッセル・クロウ]]([[1964年]] - )
* [[フランソワ・オゾン]]([[1967年]] - )
* [[ニコール・キッドマン]]([[1967年]] - )
* [[フィリップ・シーモア・ホフマン]]([[1967年]] - [[2014年]])
* [[ガイ・ピアース]]([[1967年]] - )
* [[ダニエル・クレイグ]]([[1968年]] - )
* [[ウィル・スミス]]([[1968年]] - )
* [[クリストファー・ノーラン]]([[1970年]] - )
* [[ヒラリー・スワンク]]([[1974年]] - )
* [[アンジェリーナ・ジョリー]]([[1975年]] - )
* [[シャーリーズ・セロン]]([[1975年]] - )
* [[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]([[1975年]] - )
* [[ヒース・レジャー]]([[1979年]] - [[2008年]])
==== 音楽 ====
* [[マライア・キャリー]]([[1969年]] - )
* [[エミネム]]([[1972年]] - )
* [[ブリトニー・スピアーズ]]([[1981年]] - )
* [[ビヨンセ]]([[1981年]] - )
* [[アヴリル・ラヴィーン]]([[1984年]] - )
* [[レディー・ガガ]]([[1986年]] - )
* [[リアーナ]]([[1988年]] - )
==== 科学と技術 ====
* [[シドニー・ブレナー]]([[1927年]] - [[2019年]])
* [[ジョン・サルストン]]([[1942年]] - [[2018年]])
* [[ロバート・ホロビッツ]]([[1947年]] - )
* [[スティーブ・ジョブズ]]([[1955年]] - [[2011年]])
* [[ラリー・ペイジ]]([[1973年]] - )
* [[セルゲイ・ブリン]]([[1973年]] - )
==== スポーツ ====
* [[ジョー・トーリ]]([[1940年]] - )
* [[トニー・ラルーサ]]([[1944年]] - )
* [[ダスティ・ベイカー]]([[1949年]] - )
* [[テリー・フランコーナ]]([[1959年]] - )
* [[ランディ・ジョンソン]]([[1963年]] - )
* [[オリバー・カーン]]([[1969年]] - )
* [[シャキール・オニール]]([[1972年]] - )
* [[ジネディーヌ・ジダン]]([[1972年]] - )
* [[デレク・ジーター]]([[1974年]] - )
* [[デビッド・ベッカム]]([[1975年]] - )
* [[アレックス・ロドリゲス]]([[1975年]] - )
* [[ティム・ダンカン]]([[1976年]] - )
* [[ケビン・ガーネット]]([[1976年]] - )
* [[ロイ・ハラデイ]]([[1977年]] - [[2017年]])
* [[ティエリ・アンリ]]([[1977年]] - )
* [[ミロスラフ・クローゼ]]([[1978年]] - )
* [[ダーク・ノヴィツキー]]([[1978年]] - )
* [[コービー・ブライアント]]([[1978年]] - [[2020年]])
* [[ダビド・ビジャ]]([[1981年]] - )
* [[クリスティアーノ・ロナウド]]([[1985年]] - )
* [[マイケル・フェルプス]]([[1985年]] - )
=== ロシアと旧ソ連諸国 ===
* [[ウラジーミル・プーチン]]([[1952年]] - )
* [[ヴィクトル・ユシチェンコ]]([[1954年]] - )
* [[ユーリヤ・ティモシェンコ]]([[1960年]] - )
* [[ドミートリー・メドヴェージェフ]]([[1965年]] - )
* [[グリゴリー・ペレルマン]]([[1966年]] - )
* [[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]([[1967年]] - )
* [[エフゲニー・プルシェンコ]]([[1982年]] - )
=== ラテンアメリカ ===
* [[ウゴ・チャベス]]([[1954年]] - [[2013年]])
* [[カフー]]([[1970年]] - )
* [[ロナウド]]([[1976年]] - )
* [[ロナウジーニョ]]([[1980年]] - )
* [[ウサイン・ボルト]]([[1986年]] - )
* [[リオネル・メッシ]]([[1987年]] - )
=== サハラ以南のアフリカ ===
* [[ワンガリ・マータイ]]([[1940年]] - [[2011年]])
* [[タボ・ムベキ]]([[1942年]] - )
* [[ウィリアム・ケントリッジ]]([[1955年]] - )
=== 中央・西アジア ===
* [[サッダーム・フセイン]]([[1937年]] - [[2006年]])
* [[オルハン・パムク]]([[1952年]] - )
* [[ウサーマ・ビン・ラーディン]]([[1957年]] - [[2011年]])
* [[モフセン・マフマルバフ]]([[1957年]] - )
* [[ムハンマド・オマル]]([[1959年]]? - [[2013年]])
=== 東南アジア ===
* [[グロリア・アロヨ]]([[1947年]] - )
* [[リー・シェンロン]]([[1952年]] - )
=== 中国 ===
* [[黄菊]]([[1938年]] - [[2007年]])
* [[曽慶紅]]([[1939年]] - )
* [[呉邦国]]([[1941年]] - )
* [[胡錦濤]]([[1942年]] - )
* [[温家宝]]([[1942年]] - )
* [[陳良宇]]([[1946年]] - )
* [[蔡國強]]([[1957年]] - )
* [[艾未未]]([[1957年]] - )
=== 台湾 ===
* [[陳水扁]]([[1950年]] - )
* [[アン・リー|李安]]([[1954年]] - )
=== 韓国 ===
* [[李明博]]([[1941年]] - )
* [[盧武鉉]]([[1946年]] - [[2009年]])
* [[安貞桓]]([[1976年]] - )
* [[朴智星]]([[1981年]] - )
== フィクションのできごと ==
* 前半 - 「十月事件」発生。10月前半、地球が唐突に[[低軌道]]より下に生じた漆黒の「シールド」に覆われ、贋物と見られる太陽を除くすべての天体が観測不能になり、あらゆる[[人工衛星]]も消滅する。5年後に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]のARV[[宇宙探査機|探査船]]が収集したデータにより、地球上での1秒の間にシールド外では3.17年が経過していることが判明。シールドによるこの時間的傾斜は、正体不明の知性体「仮定体」のコントロールによるものと推測される。(小説『{{仮リンク|時間封鎖|en|Spin (novel)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ロバート・チャールズ・ウィルスン|authorlink=ロバート・チャールズ・ウィルスン |title = 時間封鎖 上 |publisher = [[東京創元社]] |year = 2008 |pages = 16-39,46-48,67,76-82,91,116,170,227-229,254,271 |isbn = 978-4-488-70603-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = ロバート・チャールズ・ウィルスン |title = 時間封鎖 下 |publisher = 東京創元社 |year = 2008 |page = 83 |isbn = 978-4-488-70604-3}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[十年紀の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
== 外部リンク ==
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/2000%E5%B9%B4%E4%BB%A3 |
1,481 | ノーベル物理学賞 | ノーベル物理学賞(ノーベルぶつりがくしょう)は、ノーベル賞の一部門。アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つで、自然科学分野で権威ある賞。物理学の分野において重要な発見を行った人物に授与される。
対象となる分野は大きく分けて、天文学や天体物理学、原子物理学、素粒子物理学の3分野であるが、気象学など地球科学からの受賞もある。
ノーベル物理学賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には宝箱を持ち雲の中から現れた自然の女神のベールを科学の神(科学のゲニウス)が持ち上げる素顔を眺めている姿がデザインされている(化学賞と共通)。 | [
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| ノーベル物理学賞(ノーベルぶつりがくしょう)は、ノーベル賞の一部門。アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つで、自然科学分野で権威ある賞。物理学の分野において重要な発見を行った人物に授与される。 対象となる分野は大きく分けて、天文学や天体物理学、原子物理学、素粒子物理学の3分野であるが、気象学など地球科学からの受賞もある。 ノーベル物理学賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には宝箱を持ち雲の中から現れた自然の女神のベールを科学の神(科学のゲニウス)が持ち上げる素顔を眺めている姿がデザインされている(化学賞と共通)。 | {{Infobox award
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'''ノーベル物理学賞'''(ノーベルぶつりがくしょう)は、[[ノーベル賞]]の一部門。[[アルフレッド・ノーベル]]の遺言によって創設された5部門のうちの一つで、[[自然科学分野]]で権威ある賞。[[物理学]]の分野において重要な発見を行った人物に授与される<ref>{{Cite web|和書|title=記録で見るノーベル賞|まるわかりノーベル賞2018|NHK NEWS WEB |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2018/table.html |website=www3.nhk.or.jp |access-date=2023-10-01 |last=日本放送協会}}</ref>。
対象となる分野は大きく分けて、[[天文学]]や[[天体物理学]]、[[原子物理学]]、[[素粒子物理学]]の3分野であるが、[[気象学]]など[[地球科学]]からの受賞もある<ref>{{Cite web|和書|title=ノーベル物理学賞に真鍋淑郎氏 二酸化炭素の温暖化影響を予測|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211005/k10013292011000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-10-05|last=日本放送協会}}</ref>。
ノーベル物理学賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には宝箱を持ち雲の中から現れた[[母なる自然|自然の女神]]のベールを[[科学の神]](科学の[[ゲニウス]])が持ち上げる素顔を眺めている姿がデザインされている([[ノーベル化学賞|化学賞]]と共通)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.award-press.jp/2015/10/02/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB/ |title=ノーベル賞のメダル |publisher=アワードプレス |accessdate=2017-10-04 |deadlinkdate=2020年6月}}</ref>。
== 歴代受賞者 ==
=== 1900年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由<ref name="nobelprizeorg">{{Cite web |author=Nobel Web AB 2011 |url=https://www.nobelprize.org/prizes/lists/all-nobel-prizes/ |title=All Nobel Laureates |publisher=[[ノーベル財団]] |language=en |accessdate=2011-10-04}}</ref>・原著ないし関連論文
|-
|style="white-space:nowrap"|[[1901年]]
|[[画像:WilhelmRöntgen.JPG|75px]]
|[[ヴィルヘルム・レントゲン]]<br>[[:en:Wilhelm Röntgen|Wilhelm Conrad Röntgen]]
|{{DEU1871}}
|後に彼に因んで命名される{{Efn2|X線の別名として「レントゲン線」(Röntgen ray) というものがある。}}注目すべき放射線[[X線]]の発見<br>Nature: '''53''' (1896) 274-276
|-
|rowspan="2"|[[1902年]]
|[[画像:Hendrik Antoon Lorentz.jpg|75px]]
|[[ヘンドリック・ローレンツ]]<br>[[:en:Hendrik Lorentz|Hendrik Antoon Lorentz]]
|{{NLD}}
|rowspan="2"|[[放射]]現象に対する[[磁性]]の影響{{Efn2|[[ゼーマン効果]]として知られている。}}の研究
|-
|[[画像:Pieter Zeeman.jpg|75px]]
|[[ピーター・ゼーマン]]<br>[[:en:Pieter Zeeman|Pieter Zeeman]]
|{{NLD}}
|-
|rowspan="3"|[[1903年]]
|[[画像:Paul Nadar - Henri Becquerel.jpg|75px]]
|[[アンリ・ベクレル]]<br>[[:en:Henri Becquerel|Antoine Henri Becquerel]]
|{{FRA1870}}
|自発的[[放射能]]の発見
|-
|[[画像:PierreCurie.jpg|75px]]
|[[ピエール・キュリー]]<br>[[:en:Pierre Curie|Pierre Curie]]
|{{FRA1870}}
|rowspan="2"|ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究{{Efn2|実際には[[ラジウム]]の研究に対して授与された。}}
|-
|[[画像:Mariecurie.jpg|75px]]
|[[マリ・キュリー]]<br>[[:en:Marie Curie|Marie Curie, née Sklodowska]]
|{{FRA1870}}<br>({{POL1815}}出身)
|-
|[[1904年]]
|[[画像:John William Strutt.jpg|75px]]
|[[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|レイリー卿<br>(ジョン・ウィリアム・ストラット)]]<br>[[w:John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh|Lord Rayleigh <br>(John William Strutt)]]
|{{GBR3}}
|重要な[[気体]]の[[密度]]に関する研究、およびこの研究により成された[[アルゴン]]の発見
|-
|[[1905年]]
|[[画像:Phillipp Lenard in 1900.jpg|75px]]
|[[フィリップ・レーナルト]]<br>[[w:Philipp Lenard|Philipp Eduard Anton von Lenard]]
|{{DEU1871}}<br>{{Nowrap|({{HUN1867}}出身)}}
|[[陰極線]]に関する研究
|-
|[[1906年]]
|[[画像:J.J Thomson.jpg|75px]]
|[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]<br>[[:en:J. J. Thomson|Joseph John Thomson]]
|{{GBR3}}
|気体の[[電気伝導]]{{Efn2|即ち陰極線である。}}に関する理論および実験的研究
|-
|[[1907年]]
|[[画像:Albert Abraham Michelson2.jpg|75px]]
|[[アルバート・マイケルソン]]<br>[[w:Albert A. Michelson|Albert Abraham Michelson]]
|{{USA1896}}
|彼が考案した精密光学機器[[マイケルソン干渉計]]{{Efn2|[[マイケルソン・モーリーの実験]]にも用いられた。}}とそれによる[[分光学]]および[[計量学]]の研究
|-
|[[1908年]]
|[[画像:Gabriel Lippmann2.jpg|75px]]
|[[ガブリエル・リップマン]]<br>[[:en:Gabriel Lippmann|Gabriel Lippmann]]
|{{FRA1870}}
|彼が考案した、[[干渉 (物理学)|光干渉]]に基づき鮮明に色を複製する手法{{Efn2|[[カラー写真]]を世界で初めて実現し、これに対しノーベル賞が授与されている。}}
|-
|rowspan="2"|[[1909年]]
|[[画像:Guglielmo Marconi.jpg|75px]]
|[[グリエルモ・マルコーニ]]<br>[[:en:Guglielmo Marconi|Guglielmo Marconi]]
|{{ITA1861}}
|rowspan="2"|[[無線通信]]の進展への貢献
|-
|[[画像:Ferdinand Braun.jpg|75px]]
|[[フェルディナント・ブラウン]]<br>[[w:Karl Ferdinand Braun|Karl Ferdinand Braun]]
|{{DEU1871}}
|}
=== 1910年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1910年]]
|[[画像:Johannes Diderik van der Waals.jpg|75px]]
|[[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]<br>[[:en:Johannes Diderik van der Waals|Johannes Diderik van der Waals]]
|{{NLD}}
|気体および液体の[[状態方程式 (化学)|状態方程式]]に関する研究{{Efn2|[[ファンデルワールスの状態方程式]]が彼に帰せられる。}}
|-
|[[1911年]]
|[[画像:Wilhelm Wien 1911.jpg|75px]]
|[[ヴィルヘルム・ヴィーン]]<br>[[:en:Wilhelm Wien|Wilhelm Wien]]
|{{DEU1871}}
|[[熱放射]]を支配する法則に関する発見{{Efn2|[[ヴィーンの変位則]]・[[ヴィーンの放射法則]]が彼に帰せられる。}}<br>Ann. Phys.: '''58''' (1896) 662-669<br>Philos. Mag. ser5: '''43''' (1897) 214-220
|-
|[[1912年]]
|[[画像:Nils Gustaf Dalén.jpg|75px]]
|[[ニルス・グスタフ・ダレーン]]<br>[[:en:Gustaf Dalén|Nils Gustaf Dalén]]
|{{SWE}}
|[[灯台]]や[[灯浮標]]などの照明用ガス貯蔵器に取り付ける自動調節機の発明
|-
|[[1913年]]
|[[画像:Kamerlingh portret.jpg|75px]]
|[[ヘイケ・カメルリング・オネス]]<br>[[:en:Heike Kamerlingh Onnes|Heike Kamerlingh Onnes]]
|{{NLD}}
|低温における物性の研究{{Efn2|特に[[水銀]]において[[超伝導]]を発見している。}}、特にその成果である[[液体ヘリウム]]の生成
|-
|[[1914年]]
|[[画像:Max von Laue.jpg|75px]]
|[[マックス・フォン・ラウエ]]<br>[[:en:Max von Laue|Max von Laue]]
|{{DEU1871}}
|[[結晶]]による[[X線回折]]現象の発見
|-
|rowspan="2"|[[1915年]]
|[[画像:Wh-bragg.jpg|75px]]
|[[ヘンリー・ブラッグ]]<br>[[:en:William Henry Bragg|Sir William Henry Bragg]]||{{UK}}
|rowspan="2"|[[X線結晶構造解析|X線による結晶構造解析]]に関する研究{{Efn2|[[ブラッグの法則]]が彼らに帰せられる。}}<br>Nature: '''90''' (1912) 219-219 (William Henry Bragg)<br>Nature: '''90''' (1912) 410-410 (William Lawrence Bragg)
|-
|[[画像:Wl-bragg.jpg|75px]]
|[[ローレンス・ブラッグ]]<br>[[:en:William Lawrence Bragg|William Lawrence Bragg]]
|{{GBR3}}
|-
|[[1916年]]
|colspan="2"|受賞者なし
|
|賞金はノーベル物理学賞の基金に割り当てられた
|-
|[[1917年]]
|[[画像:Charles Glover Barkla 01.jpg|75px]]
|[[チャールズ・バークラ]]<br>[[:en:Charles Glover Barkla|Charles Glover Barkla]]
|{{GBR3}}
|[[元素]]の[[特性X線]]の発見
|-
|[[1918年]]
|[[画像:Max Planck (Nobel 1918).jpg|75px]]
|[[マックス・プランク]]<br>[[:en:Max Planck|Max Karl Ernst Ludwig Planck]]
|{{DEU1871}}
|[[プランクの法則|エネルギー量子の発見]]による物理学の進展への貢献<br>Annalen der Physik: '''1''' (1900) 719<br>Annalen der Physik: '''4''' (1901) 553
|-
|[[1919年]]
|[[画像:Johannes Stark.jpg|75px]]
|[[ヨハネス・シュタルク]]<br>[[:en:Johannes Stark|Johannes Stark]]
|{{DEU1919}}
|[[カナル線]]の[[ドップラー効果]]、および[[電場]]中での[[スペクトル線]]の分裂{{Efn2|この現象は[[シュタルク効果]]として知られている。}}の発見
|}
=== 1920年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1920年]]
|[[画像:Guillaume 1920.jpg|75px]]
|[[シャルル・エドゥアール・ギヨーム]]<br>[[:en:Charles Édouard Guillaume|Charles Edouard Guillaume]]
|{{CHE}}
|[[インバー]]合金の発見とそれによる精密測定の開発
|-
|[[1921年]]
|[[画像:Einstein1921 by F Schmutzer 4.jpg|75px]]
|[[アルベルト・アインシュタイン]]<br>[[:en:Albert Einstein|Albert Einstein]]
|{{CHE}}
|[[理論物理学]]に対する貢献、特に[[光電効果]]の法則の発見<br>Ann. Phys. (Berlin): '''17''' (1905) 132-148<br>Ann. Phys. (Berlin): '''20''' (1906) 199-206<br>Ann. Phys. (Berlin): '''22''' (1907) 180-190<br>Phys. Z.: '''10''' (1909) 185-193<br>Verh. der Deutschen Physikal. Gesellschaft: '''18''' (1916) 318-328<br>Phys. Z.: '''18''' (1917) 121-128
|-
|[[1922年]]
|[[画像:Niels Bohr.jpg|75px]]
|[[ニールス・ボーア]]<br>[[:en:Niels Bohr|Niels Henrik David Bohr]]
|{{DNK}}
|[[原子]]構造と原子から放射に関する研究についての貢献<br>Philos. Mag. ser.6: '''26''' (1913) 1-24<br>Philos. Mag. ser.6: '''26''' (1913) 476-502<br>Philos. Mag. ser.6: '''26''' (1913) 857-875<br>
|-
|[[1923年]]
|[[画像:Robert Andrews Millikan 1920s.jpg|75px]]
|[[ロバート・ミリカン]]<br>[[:en:Robert Andrews Millikan|Robert Andrews Millikan]]
|{{USA1912}}
|[[電気素量]]{{Efn2|[[ミリカンの油滴実験]]にて電気素量を決定した。}}および[[光電効果]]{{Efn2|これにより[[プランク定数]]を決定した。}}に関する研究<br>Phys. Mag. XIX: '''6''' (1910), 209<br>Phys. Rev. '''2''' (1913), 109-143
|-
|[[1924年]]
|[[画像:1924 Karl Manne Siegbahn.jpg|75px]]
|[[マンネ・シーグバーン]]<br>[[:en:Manne Siegbahn|Karl Manne Georg Siegbahn]]
|{{SWE}}
|[[X線分光学]]における研究および発見
|-
|rowspan="2"|[[1925年]]
|[[画像:James Franck 1925.jpg|75px]]
|[[ジェイムス・フランク]]<br>[[:en:James Franck|James Franck]]
|{{DEU1919}}
|rowspan="2"|[[電子]]の[[原子]]に対する衝突を支配する法則の発見{{Efn2|原子の[[エネルギー準位]]が離散的であることを示した[[フランク=ヘルツの実験]]による授与である。}}
|-
|[[画像:Gustav Hertz.jpg|75px]]
|[[グスタフ・ヘルツ]]<br>[[:en:Gustav Ludwig Hertz|Gustav Ludwig Hertz]]
|{{DEU1919}}
|-
|[[1926年]]
|[[画像:Jean Perrin 1926.jpg|75px]]
|[[ジャン・ペラン]]<br>[[:en:Jean Baptiste Perrin|Jean Baptiste Perrin]]
|{{FRA1870}}
|物質の不連続的構造に関する研究、特に[[沈殿]][[相平衡|平衡]]についての発見{{Efn2|3種の異なる手法で求めた[[アヴォガドロ数]]が一致することを示し、[[分子]]が実在であることを確立した。}}<br />Ann. de Chim. et de Phys. (VIII): '''18''' (1909) 5-114
|-
|rowspan="2"|[[1927年]]
|[[画像:Arthur Compton.jpg|75px]]
|[[アーサー・コンプトン]]<br>[[:en:Arthur Compton|Arthur Holly Compton]]
|{{USA1912}}
|彼に因んで命名された[[コンプトン効果]]の発見
|-
|[[画像:Charles Thomson Rees Wilson at 1927 Solvay conference.jpg|75px]]
|[[チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン]]<br>[[:en:Charles Thomson Rees Wilson|Charles Thomson Rees Wilson]]
|{{GBR}}
|[[霧箱]](蒸気の凝縮により[[荷電粒子]]の飛跡を観察できるようにする方法)の考案
|-
|[[1928年]]
|[[画像:Owen Richardson.jpg|75px]]
|[[オーエン・リチャードソン]]<br>[[:en:Owen Willans Richardson|Owen Willans Richardson]]
|{{GBR}}
|[[熱電子]]効果の研究、特に彼に因んで命名された[[リチャードソンの法則]]の発見<br>Proc. Cambridge Philos. Soc.: '''11''' (1901) 286-295<br>Philos. Mag. ser.6: '''23''' (1912) 263-278<br>Science: '''38''' (1913) 57-61<br>
|-
|[[1929年]]
|[[画像:Broglie Big.jpg|75px]]
|[[ルイ・ド・ブロイ]]<br>[[:en:Louis de Broglie|Prince Louis-Victor Pierre Raymond de Broglie]]
|{{FRA1870}}
|電子の[[波動]]的特性{{Efn2|これは[[物質波]]またはド・ブロイ波として知られている。}}の発見
|}
=== 1930年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1930年]]
|[[画像:Sir CV Raman.JPG|75px]]
|[[チャンドラセカール・ラマン]]<br>[[:en:C. V. Raman|Sir Chandrasekhara Venkata Raman]]
|{{IND1885}}
|[[光散乱]]に関する研究と彼に因んで命名された[[ラマン効果]]の発見<br>Nature: '''121''' (1928) 501<br>Indian J. Phys.: '''2''' (1928) 387
|-
|[[1931年]]
|colspan="2"|受賞者なし
|
|賞金はノーベル物理学賞の基金に割り当てられた
|-
|[[1932年]]
|[[画像:Werner Heisenberg at 1927 Solvay Conference.JPG|75px]]
|[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]<br>[[:en:Werner Heisenberg|Werner Karl Heisenberg]]
|{{DEU1919}}
|[[量子力学]]の創始{{Efn2|[[ハイゼンベルクの運動方程式]]は彼に帰せられる。}}ならびにその応用、特に同素異形の[[水素]]{{Efn2|オルト水素・パラ水素として知られている。}}の発見<br>
Z. Phys.: '''33''' (1925) 879-893
|-
|rowspan="2"|[[1933年]]
|[[画像:Erwin Schrödinger (1933).jpg|75px]]
|[[エルヴィン・シュレーディンガー]]<br>[[:en:Erwin Schrödinger|Erwin Schrödinger]]
|{{AUT1918}}
|rowspan="2"|[[原子論]]の新しく有効な形式の発見{{Efn2|[[シュレーディンガー方程式]]・[[ディラック方程式]]は彼らに帰せられる。}}<br>
Phys. Rev.: '''28''' (1926) 1049-1970 (Schrödinger) <br>
Proc. R. Soc. Lond. A: '''117''' (1928) 610-624 (Dirac)<br>Proc. R. Soc. Lond. A: '''118''' (1928) 351-361 (Dirac)<br>Proc. R. Soc. Lond. A: '''133''' (1931) 60-72 (Dirac)
|-
|[[画像:Dirac 4.jpg|75px]]
|[[ポール・ディラック]]<br>[[w:Paul Dirac|Paul Adrien Maurice Dirac]]
|{{GBR}}
|-
|[[1934年]]
|colspan="2"|受賞者なし
|
|賞金の3分の1はノーベル財団の基金に、残り3分の2はノーベル物理学賞の基金に割り当てられた
|-
|[[1935年]]
|[[画像:James Chadwick.jpg|75px]]
|[[ジェームズ・チャドウィック]]<br>[[:en:James Chadwick|James Chadwick]]
|{{GBR}}
|[[中性子]]の発見<br>Nature: '''129''' (1932) 312
|-
|rowspan="2"|[[1936年]]
|[[画像:Hess.jpg|75px]]
|[[ヴィクトール・フランツ・ヘス]]<br>[[:en:Victor Francis Hess|Victor Franz Hess]]
|{{AUT1918}}
|[[宇宙線]]の発見<br>
Phys. Z.: '''13''' (1912) 1084-1091
|-
|[[画像:Carl_David_Anderson.jpg|75px]]
|[[カール・デイヴィッド・アンダーソン]]<br>[[:en:Carl David Anderson|Carl David Anderson]]
|{{USA1912}}
|[[陽電子]]の発見<br>Phys. Rev.: '''43''' (1933) 491-498<br>Phys. Rev.: '''44''' (1933) 406-423
|-
|rowspan="2"|[[1937年]]
|[[画像:Clinton Davisson.jpg|75px]]
|[[クリントン・デイヴィソン]]<br>[[:en:Clinton Davisson|Clinton Joseph Davisson]]
|{{USA1912}}
|rowspan="2"|[[結晶]]による[[電子線回折]]現象の発見
|-
|[[画像:George Paget Thomson.jpg|75px]]
|[[ジョージ・パジェット・トムソン]]<br>[[:en:George Paget Thomson|George Paget Thomson]]
|{{GBR}}
|-
|[[1938年]]
|[[画像:Enrico Fermi 1943-49.jpg|75px]]
|[[エンリコ・フェルミ]]<br>[[:en:Enrico Fermi|Enrico Fermi]]
|{{ITA1861}}
|[[中性子]]放射による新[[放射性元素]]の存在証明および関連して[[熱中性子]]による[[原子核]]反応の発見<br>Z. f. Phys.: '''88''' (1934) 161<br>Nuovo Cim.: '''11''' (1934) 1
|-
|[[1939年]]
|[[画像:Ernest Lawrence.jpg|75px]]
|[[アーネスト・ローレンス]]<br>[[:en:Ernest Lawrence|Ernest Orlando Lawrence]]
|{{USA1912}}
|[[サイクロトロン]]の発明・開発およびその成果、特に[[人工放射性元素]]
|}
=== 1940年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1940年]]
|rowspan="3" colspan="2"|受賞者なし
|rowspan="3"|
|rowspan="3"|賞金の3分の1はノーベル財団の基金に、残り3分の2はノーベル物理学賞の基金に割り当てられた
|-
|[[1941年]]
|-
|[[1942年]]
|-
|[[1943年]]
|[[画像:Otto Stern.jpg|75px]]
|[[オットー・シュテルン]]<br>[[:en:Otto Stern|Otto Stern]]
|{{USA1912}}
|分子線の手法の開発{{Efn2|これにより[[シュテルン=ゲルラッハの実験]]が行われた。}}への貢献と[[陽子]]の[[磁気モーメント]]の発見
|-
|[[1944年]]
|[[画像:II Rabi.jpg|75px]]
|[[イジドール・イザーク・ラービ]]<br>[[:en:Isidor Isaac Rabi|Isidor Isaac Rabi]]
|{{USA1912}}
({{AUT1867}}出身)
|彼が考案した、[[原子核]]の磁気的性質{{Efn2|実際には[[磁気モーメント]]である。}}を測定する共鳴法{{Efn2|この方法は[[核磁気共鳴|NMR]]に応用される。}}<br>Phys. Rev.: '''55''' (1939) 526
|-
|[[1945年]]
|[[画像:Wolfgang Pauli ETH-Bib Portr 01042.jpg|75px]]
|[[ヴォルフガング・パウリ]]<br>[[w:Wolfgang Pauli|Wolfgang Pauli]]
|{{USA1912}}
({{AUT1867}}出身)
|[[パウリの排他原理|パウリ原理]]とも呼ばれる排他律の発見<br>Z. f. Phys.: '''31''' (1925) 765-783
|-
|[[1946年]]
|[[画像:Bridgman.jpg|75px]]
|[[パーシー・ブリッジマン]]<br>[[:en:Percy Williams Bridgman|Percy Williams Bridgman]]
|{{USA1912}}
|超高圧装置の発明と、それによる高圧物理学に関する発見
|-
|[[1947年]]
|[[画像:Appleton.jpg|75px]]
|[[エドワード・アップルトン]]<br>[[:en:Edward Victor Appleton|Sir Edward Victor Appleton]]
|{{GBR}}
|上層大気の物理的研究、特に[[アップルトン層]]の発見
|-
|[[1948年]]
|[[画像:Blackett-large.jpg|75px]]
|[[パトリック・ブラケット]]<br>[[:en:Patrick Blackett, Baron Blackett|Patrick Maynard Stuart Blackett]]
|{{GBR}}
|[[チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン|ウィルソン]]の[[霧箱]]の手法の発展と、それによる[[原子核物理学]]および[[宇宙線]]の分野における発見
|-
|[[1949年]]
|[[画像:Yukawa.jpg|75px]]
|[[湯川秀樹]]<br>[[:en:Hideki Yukawa|Hideki Yukawa]]
|{{JPN1947}}
|[[核力]]の理論的研究{{Efn2|[[湯川ポテンシャル]]は彼に帰せられる。}}に基づく[[中間子]]の存在の予想<br>Proc. Phys. Math. Soc. Jap.: '''17''' (1935) 48
|}
=== 1950年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1950年]]
|[[画像:Cecil Powell.jpg|75px]]
|[[セシル・パウエル]]<br>[[w:C. F. Powell|Cecil Frank Powell]]
|{{GBR}}
|写真による[[原子核崩壊]]過程の研究方法の開発およびその方法による諸中間子の発見
|-
|rowspan="2"|[[1951年]]
|[[画像:Cockcroft.jpg|75px]]
|[[ジョン・コッククロフト]]<br>[[:en:John Cockcroft|Sir John Douglas Cockcroft]]
|{{GBR}}
|rowspan="2"|人工的に加速した{{Efn2|これに用いた回路が[[コッククロフト・ウォルトン回路]]として知られている。}}原子核粒子による[[原子核変換]]についての先駆的研究
|-
|[[画像:Ernest Walton.jpg|75px]]
|[[アーネスト・ウォルトン]]<br>[[:en:Ernest Walton|Ernest Thomas Sinton Walton]]
|{{IRL}}
|-
|rowspan="2"|[[1952年]]
|[[画像:Felix Bloch, Stanford University.jpg|75px]]
|[[フェリックス・ブロッホ]]<br>[[:en:Felix Bloch|Felix Bloch]]
|{{CHE}}
|rowspan="2"|[[核磁気共鳴|核磁気]]の精密な測定における新しい方法{{Efn2|[[核磁気共鳴]]として知られている。}}の開発とそれについての発見<br>Phys. Rev.: '''69''' (1946) 127 (Bloch)<br>Phys. Rev.: '''70''' (1946) 460-474 (Bloch)<br>Phys. Rev.: '''69''' (1946) 37-38 (Purcell)<br>Phys. Rev.: '''73''' (1948) 679-712 (Purcell)
|-
|[[画像:Edward Mills Purcell.jpg|75px]]
|[[エドワード・ミルズ・パーセル]]<br>[[:en:Edward Mills Purcell|Edward Mills Purcell]]
|{{USA1912}}
|-
|[[1953年]]
|[[画像:Zernike.jpg|75px]]
|[[フリッツ・ゼルニケ]]<br>[[:en:Frits Zernike|Frits (Frederik) Zernike]]
|{{NLD}}
|位相差を用いた手法の実証、特に[[位相差顕微鏡]]の発明<br>Physica: '''1''' (1934) 689-704<br>Z. Tech. Phys.: '''16''' (1935) 454-457<br>Physica: '''9''' (1942) 686-698<br>Physica: '''9''' (1942) 974-986
|-
|rowspan="2"|[[1954年]]
|[[画像:Max Born.jpg|75px]]
|[[マックス・ボルン]]<br>[[:en:Max Born|Max Born]]
|{{GBR}}
|[[量子力学]]に関する基礎研究、特に[[波動関数]]の確率解釈{{Efn2|[[ボルンの確率解釈]]と呼ばれている。}}
|-
|[[画像:Bothe.jpg|75px]]
|[[ヴァルター・ボーテ]]<br>[[:en:Walther Bothe|Walther Bothe]]
|{{FRG}}
|コインシデンス法による[[原子核反応]]とそれによる発見
|-
|rowspan="2"|[[1955年]]
|[[画像:Willis Lamb 1955.jpg|75px]]
|[[ウィリス・ラム]]<br>[[w:Willis Lamb|Willis Eugene Lamb]]
|{{USA1912}}
|[[水素]][[スペクトル]]の微細構造{{Efn2|[[ラムシフト]]と呼ばれている。}}に関する発見
|-
|[[画像:Polykarp Kusch.jpg|75px]]
|[[ポリカプ・クッシュ]]<br>[[:en:Polykarp Kusch|Polykarp Kusch]]
|{{USA1912}}
|彼が考案した[[電子]]の[[磁気モーメント]]の正確な決定法{{Efn2|原子線を用いた核磁気共鳴分光の詳細な解析から、[[異常磁気モーメント|電子の磁気モーメントがボーア磁子よりも0.1%程度大きい]]ことを実験的に発見した。この事実は[[ラムシフト]]と同様、[[ディラック方程式]]を超える理論が必要であることの明白な証拠となった。}}
|-
|rowspan="3"|[[1956年]]
|[[画像:William Shockley, Stanford University.jpg|75px]]
|[[ウィリアム・ショックレー]]<br>[[:en:William Shockley|William Bradford Shockley]]
|{{USA1912}}
|rowspan="3"|[[半導体]]の研究および[[トランジスタ]]効果の発見
|-
|[[画像:Bardeen.jpg|75px]]
|[[ジョン・バーディーン]]<br>[[:en:John Bardeen|John Bardeen]]
|{{USA1912}}
|-
|[[画像:Brattain.jpg|75px]]
|[[ウォルター・ブラッテン]]<br>[[:en:Walter Houser Brattain|Walter Houser Brattain]]
|{{USA1912}}
|-
|rowspan="2"|[[1957年]]
|[[画像:CNYang.jpg|75px]]
|[[楊振寧]]<br>[[w:Chen-Ning Yang|Chen Ning Yang]]
|{{USA1912}}<br>({{CHN1928}}出身)
|rowspan="2"|[[素粒子]]物理学における重要な発見に導いた、いわゆる[[パリティ (物理学)|パリティ]]についての洞察的な研究{{Efn2|[[基本相互作用]]の[[ローレンツ変換|ローレンツ対称性]]から相互作用の[[CPT対称性]]が帰結される。理論物理学者は3つの基本相互作用([[強い相互作用|強]]、[[電磁相互作用|電磁]]、[[弱い相互作用|弱]])について、[[荷電共役変換|C]],[[パリティ_(物理学)|P]],[[T対称性|T]]の各対称性が個別に成立すると考えていた。しかし、リーとヤンは膨大な文献検証の結果として、弱い相互作用においては[[パリティ対称性の破れ|P対称性が破れている]]可能性を指摘、同時に、[[中性子]]や[[中間子]]の弱い相互作用による崩壊を通じてこの可能性を直接検証可能な実験を提案した。}}<br>
Phys. Rev.: '''104''' (1956) 254-258 (Yang and Lee)<br>
Phys. Rev.: '''106''' (1957) 340-345 (Yang and Lee)<br>
Phys. Rev.: '''105''' (1957) 1413-1415 (検証実験、[[ウーの実験|コバルト60の崩壊を通じて]])<br>
Phys. Rev.: '''105''' (1957) 1415-1417 (検証実験、パイ中間子崩壊を通じて)
|-
|[[画像:TD Lee.jpg|75px]]
|[[李政道]]<br>[[:en:Tsung-Dao Lee|Tsung-Dao Lee]]
|{{USA1912}}<br>({{CHN1928}}出身)
|-
|rowspan="3"|[[1958年]]
|[[画像:Cerenkov.jpg|75px]]
|[[パーヴェル・チェレンコフ]]<br>[[w:Pavel Cherenkov|Pavel Alekseyevich Cherenkov]]
|{{SSR}}
|rowspan="3"|[[チェレンコフ放射|チェレンコフ効果]]の発見とその解釈<br>C.R. Acad. Sci. USSR: '''2''' (1934) 451 (Cherenkov)<br>C.R. Acad. Sci. USSR: '''14''' (1937) 107 (Frank and Tamm)
|-
|[[画像:Ilya Frank.jpg|75px]]
|[[イリヤ・フランク]]<br>[[w:Ilya Frank|Ilya Mikhailovich Frank]]
|{{SSR}}
|-
|[[画像:Igor Tamm.jpg|75px]]
|[[イーゴリ・タム]]<br>[[w:Igor Tamm|Igor Yevgenyevich Tamm]]
|{{SSR}}
|-
|rowspan="2"|[[1959年]]
|[[画像:Segre.jpg|75px]]
|[[エミリオ・セグレ]]<br>[[:en:Emilio G. Segrè|Emilio Gino Segrè]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[反陽子]]の発見<br>Phys. Rev.: '''100''' (1955) 947-950 (Segrè and Chamberlain)
|-
|[[画像:Owen Chamberlain.jpg|75px]]
|[[オーウェン・チェンバレン]]<br>[[:en:Owen Chamberlain|Owen Chamberlain]]
|{{USA}}
|}
=== 1960年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|[[1960年]]
|[[画像:Donald Glaser.jpg|75px]]
|[[ドナルド・グレーザー]]<br>[[:en:Donald A. Glaser|Donald Arthur Glaser]]
|{{USA}}
|[[泡箱]]の発明<br>Phys. Rev.: '''87''' (1952) 665-665
|-
|rowspan="2"|[[1961年]]
|[[画像:Robert Hofstadter.jpg|75px]]
|[[ロバート・ホフスタッター]]<br>[[:en:Robert Hofstadter|Robert Hofstadter]]
|{{USA}}
|[[原子核]]内での[[電子線散乱]]とそれによる[[核子]]の構造の発見{{Efn2|[[タリウム]]賦活[[ヨウ化ナトリウム]]が優れた[[シンチレーター]]として機能することを発見、[[ガンマ線]]や[[荷電粒子]]のエネルギーの精密測定を可能にした。これを高エネルギー電子散乱に応用、[[原子核]]や[[核子]]の電荷や磁気モーメントの分布測定を通じて原子核の内部構造を明らかにした。}}
Phys. Rev. Lett.: '''5''' (1960) 263-265
Phys. Rev. Lett.: '''6''' (1961) 293-296
|-
|[[画像:Mossbauer.jpg|75px]]
|[[ルドルフ・メスバウアー]]<br>[[:en:Rudolf Mössbauer|Rudolf Ludwig Mössbauer]]
|{{FRG}}
|[[ガンマ線]]の[[共鳴吸収]]についての研究および、それに関連する彼に因んで命名された[[メスバウアー効果]]の発見
|-
|[[1962年]]
|[[画像:Landau.jpg|75px]]
|[[レフ・ランダウ]]<br>[[w:Lev Landau|Lev Davidovich Landau]]
|{{SSR}}
|彼が確立した凝縮系物理の理論、特に[[液体ヘリウム]]について
|-
|rowspan="3"|[[1963年]]
|[[画像:Wigner.jpg|75px]]
|[[ユージン・ウィグナー]]<br>[[:en:Eugene Wigner|Eugene Paul Wigner]]
|{{USA}}<br>({{HUN1867}}出身)
|[[原子核]]および[[素粒子]]に関する理論への貢献、特に[[対称性]]の基本原理の発見とその応用
|-
|[[画像:Maria Goeppert-Mayer.jpg|75px]]
|[[マリア・ゲッパート=メイヤー]]<br>[[:en:Maria Goeppert-Mayer|Maria Goeppert-Mayer]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[原子核]]の殻構造に関する発見{{Efn2|[[殻模型]]と呼ばれている。}}<br>Phys. Rev.: '''75''' (1949) 1766–1766 (Jensen)<br>Phys. Rev.: '''79''' (1950) 1019–1019 (Jensen)
|-
|[[画像:Jensen.jpg|75px]]
|[[ヨハネス・ハンス・イェンゼン]]<br>[[:en:J. Hans D. Jensen|J. Hans D. Jensen]]
|{{FRG}}
|-
|rowspan="3"|[[1964年]]
|[[画像:Charles Hard Townes-Nibib-2007-retouched.jpg|75px]]
|[[チャールズ・タウンズ]]<br>[[w:Charles H. Townes|Charles Hard Townes]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[量子エレクトロニクス]]分野の基礎研究および、[[メーザー]]・[[レーザー]]原理に基づく振動子・増幅器の構築
|-
|[[画像:Basov.jpg|75px]]
|[[ニコライ・バソフ]]<br>[[w:Nikolay Basov|Nikolay Gennadiyevich Basov]]
|{{SSR}}
|-
|[[画像:Aleksandr Prokhorov.jpg|75px]]
|[[アレクサンドル・プロホロフ]]<br>[[w:Aleksandr Prokhorov|Aleksandr Mikhailovich Prokhorov]]
|{{SSR}}
|-
|rowspan="3"|[[1965年]]
|[[画像:Tomonaga.jpg|75px]]
|[[朝永振一郎]]<br>[[w:Sin-Itiro Tomonaga|Shin-ichiro Tomonaga]]
|{{JPN1947}}
|rowspan="3"|[[量子電磁力学]]の分野における基礎研究と、[[素粒子物理学]]についての深い結論{{Efn2|[[相互作用描像#状態の時間発展|朝永・シュウィンガー方程式]]・[[ファインマンダイアグラム]]は彼らに帰せられる。}}<br>Prog. Theor. Phys.: '''1''' (1946) 27-42 (Tomonaga)<br>Phys. Rev.: '''82''' (1951) 664-679 (Schwinger)<br>Phys. Rev.: '''80''' (1950) 440-457(Feynman)<br>Phys. Rev.: '''84''' (1951) 108-128 (Feynman)
|-
|[[画像:Schwinger.jpg|75px]]
|[[ジュリアン・シュウィンガー]]<br>[[:en:Julian Schwinger|Julian Schwinger]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:RichardFeynman-PaineMansionWoods1984 copyrightTamikoThiel bw.jpg|75px]]
|[[リチャード・P・ファインマン]]<br>[[:en:Richard Feynman|Richard P. Feynman]]
|{{USA}}
|-
|[[1966年]]
|[[画像:Kastler.jpg|75px]]
|[[アルフレッド・カストレル]]<br>[[:en:Alfred Kastler|Alfred Kastler]]
|{{FRA}}
|原子のラジオ波共鳴を研究するための光学的手法の発見および開発{{Efn2|[[光ポンピング法]]を開発した。}}
|-
|[[1967年]]
|[[画像:Hans Bethe.jpg|75px]]
|[[ハンス・ベーテ]]<br>[[:en:Hans Bethe|Hans Albrecht Bethe]]
|{{USA}}
|[[原子核反応]]理論への貢献、特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見<br>Phys. Rev.: '''55''' (1939) 434-456
|-
|[[1968年]]
|[[画像:Luis Alvarez ID badge.png|75px]]
|[[ルイス・ウォルター・アルヴァレズ]] <br>[[:en:Luis Walter Alvarez|Luis Walter Alvarez]]
|{{USA}}
|[[素粒子物理学]]に対する決定的な貢献、特に彼がもたらした水素[[泡箱]]を用いた手法、およびデータ解析の発展により可能となった多数の共鳴状態の発見
|-
|[[1969年]]
|[[画像:Murray Gell-Mann.jpg|75px]]
|[[マレー・ゲルマン]]<br>[[:en:Murray Gell-Mann|Murray Gell-Mann]]
|{{USA}}
|[[素粒子]]の分類およびその相互作用に関する貢献と発見{{Efn2|[[中野・西島・ゲルマンの法則|NNG則]]、ユニタリー群SU(3)を用いた[[ハドロン]]の{{仮リンク|八道説|en|Eightfold way (physics)}}、[[クォーク]]模型、[[:en:Current_algebra|カレント代数]]、[[弱い相互作用]]のV-A型ラグランジアン、走る結合定数と[[くりこみ群]]のゲルマン・ロウ方程式、[[粒子反粒子振動]]など。}}<br>
Phys. Rev.: '''92''' (1953) 833-834<br>Phys. Rev.: '''125''' (1962) 1067-1084<br>Phys. Lett.: '''8''' (1964) 214-215
|}
=== 1970年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="2"|[[1970年]]
|[[画像:YoungAlfven.jpg|75px]]
|[[ハンス・アルヴェーン]]<br>[[:en:Hannes Alfvén|Hannes Olof Gösta Alfvén]]
|{{SWE}}
|[[プラズマ物理学]]の様々な部分への有意義な応用{{Efn2|[[アルヴェーン波]]が彼に帰せられる。}}を伴う、[[電磁流体力学]]における基礎的研究および発見
|-
|[[画像:Louis Neel 1970.jpg|75px]]
|[[ルイ・ネール]]<br>[[:en:Louis Néel|Louis Eugène Félix Néel]]
|{{FRA}}
|[[固体物理学]]における重要な応用をもたらした[[反強磁性]]{{Efn2|[[ネール温度]]が彼に帰せられる。}}および<br>[[フェリ磁性]]に関する基礎的研究および発見
|-
|[[1971年]]
|[[画像:Dennis Gabor 1971b.jpg|75px]]
|[[ガーボル・デーネシュ]]<br>[[:en:Dennis Gabor|Dennis Gabor]]
|{{GBR}}<br>({{HUN1867}}出身)
|[[ホログラフィー]]の発明および発展<br>Nature: '''161''' (1948) 777-779<br>Proc. Roy. Soc.: '''A197''' (1949) 454<br>Proc. Phys. Soc.: '''B64''' (1951) 449
|-
|rowspan="3"|[[1972年]]
|[[画像:Bardeen.jpg|75px]]
|[[ジョン・バーディーン]]<br>[[:en:John Bardeen|John Bardeen]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|一般に[[BCS理論]]{{Efn2|受賞者3人の頭文字である。特にクーパーには[[クーパー対]]が帰せられる。}}と呼ばれている、彼らが共同で発展させた[[超伝導]]についての理論<br>Phys. Rev.: '''108''' (1957) 1175-1204 (Bardeen, Cooper, and Schrieffer)
|-
|[[画像:Nobel Laureate Leon Cooper in 2007.jpg|75px]]
|[[レオン・クーパー]]<br>[[:en:Leon Cooper|Leon Neil Cooper]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:John Robert Schrieffer.jpg|75px]]
|[[ジョン・ロバート・シュリーファー]]<br>[[:en:John Robert Schrieffer|John Robert Schrieffer]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1973年]]
|[[画像:Leo Esaki 1959.jpg|75px]]
|[[江崎玲於奈]]<br>[[:en:Leo Esaki|Leo Esaki]]
|{{JPN1947}}
|rowspan="2"|[[半導体]]内および[[超伝導体]]内の各々における[[トンネル効果]]の実験的発見<br>Phys. Rev. Lett.: '''5''' (1960) 147-148 (Giaever)<br>Phys. Rev. Lett.: '''5''' (1960) 464-466 (Giaever)
|-
|[[画像:Ivar Giaever.jpg|75px]]
|[[アイヴァー・ジェーバー]]<br>[[:en:Ivar Giaever|Ivar Giaever]]
|{{USA}}<br>({{NOR}}出身)
|-
|[[画像:Brian Josephson, March 2004.jpg|75px]]
|[[ブライアン・ジョゼフソン]]<br>[[w:Brian Josephson|Brian David Josephson]]
|{{GBR}}
|[[トンネル接合]]を通過する[[超電流]]の性質、特に[[ジョセフソン効果]]としてよく知られる普遍的現象の理論的予測<br>Phys. Lett.: '''1''' (1962) 251-253<br>Adv. Phys.: '''14''' (1965) 419
|-
|rowspan="2"|[[1974年]]
|
|[[マーティン・ライル]]<br>[[:en:Martin Ryle|Sir Martin Ryle]]
|{{GBR}}
|[[電波天文学]]における先駆的研究(観測および発明、特に[[開口合成]]技術に関して)
|-
|
|[[アントニー・ヒューイッシュ]]<br>[[:en:Antony Hewish|Antony Hewish]]
|{{GBR}}
|電波天文学における先駆的研究([[パルサー]]の発見に果たした決定的な役割{{Efn2|ヒューイッシュは1950年代に、長波長帯で観測される電波シンチレーション(視線方向のプラズマ密度の時間的に不規則な揺らぎにより引き起こされる電波強度の揺らぎ)を観測する技術を開発している。1960年代初めはこれを用いて惑星間プラズマを研究しその副産物として電波[[クエーサー]]を発見していた。明るい電波源の時間的に速く変動する成分を0.1秒以下の時間スケールで記録できるようにした装置設計が、電波源全部がシンチレーションからなるように見える、[[PSR B1919+21|奇妙な電波源]]の発見を導いた。}})
|-
|rowspan="3"|[[1975年]]
|[[画像:Aage Bohr.jpg|75px]]
|[[オーゲ・ニールス・ボーア]]<br>[[w:Aage Bohr|Aage Niels Bohr]]
|{{DNK}}
|rowspan="3"|[[核子]]の[[集団運動]]と[[独立粒子運動]]との関係の発見、<br>およびこの関係に基づく[[原子核]]構造に関する理論の開発{{Efn2|[[集団運動模型]]を提唱した。}}
|-
|[[画像:Mottelson,Ben 1963 Kopenhagen.jpg|75px]]
|[[ベン・ロイ・モッテルソン]]<br>[[:en:Ben Roy Mottelson|Ben Roy Mottelson]]
|{{DNK}}<br>({{USA}}出身)
|-
|[[画像:James Rainwater 2.jpg|75px]]
|[[レオ・ジェームス・レインウォーター]]<br>[[:en:James Rainwater|Leo James Rainwater]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|[[1976年]]
|[[画像:Burton Richter - charm quark.jpg|75px]]
|[[バートン・リヒター]]<br>[[:en:Burton Richter|Burton Richter]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[ジェイプサイ中間子|新種の重い素粒子]]の発見についての先駆的研究<br>Phys. Rev. Lett.: '''33''' (1974) 1404-1406 (S. C. C. Ting)<br>Phys. Rev. Lett.: '''33''' (1974) 1406-1408 (B. Richter)<br>Phys. Rev. Lett.: '''33''' (1974) 1408-1410 ([[:en:Laboratori Nazionali di Frascati|フラスカティ国立研究所(LNF)]]による追実験)<br>Phys. Rev. Lett.: '''25''' (1970) 1523-1526 (J/ψの予兆){{Efn2|1970年、[[レオン・レーダーマン|レーダーマン]]が別目的でティンと同様の実験を行っていた。装置設計として質量分解能を犠牲にしていたので、[[ミュー粒子]][[対生成]]の散乱断面積について[[ジェイプサイ中間子|J/ψ]]の[[不変質量]]である3GeV付近に「奇妙な肩」を観測したものの「[[:en:Resonance_(particle_physics)|共鳴状態]]を示す強い証拠はない」と結論せざるを得ず、結果としてJ/ψの発見を逃している。}}
|-
|[[画像:Samuel ting 10-19-10.jpg|75px]]
|[[サミュエル・ティン]](丁肇中)<br>[[:en:Samuel C. C. Ting|Samuel Chao Chung Ting]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1977年]]
|[[画像:Andersonphoto.jpg|75px]]
|[[フィリップ・アンダーソン]]<br>[[:en:Philip Warren Anderson|Philip Warren Anderson]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[磁性体]]と無秩序系の[[電子構造]]の基礎理論的研究{{Efn2|[[アンダーソン局在]]、[[モット絶縁体]]、[[ヴァン・ヴレック常磁性]]などがそれぞれ彼らに帰せられる。}}<br>Phys. Rev.: '''109''' (1958) 1492-1505 (Anderson)<br>Proc. Roy. Soc.: A'''62''' (1949) 416 (Mott)<br>Rev. Mod. Phys. '''40''' (1968) 677-683 (Mott)<br>Phys. Rev. Lett.: '''35''' (1975) 1293-1296 (Mott)
|-
|[[画像:Mott,Nevill Francis 1952 London.jpg|75px]]
|[[ネヴィル・モット]]<br>[[:en:Nevill Francis Mott|Sir Nevill Francis Mott]]
|{{GBR}}
|-
|[[画像:JH van Vleck 1974.jpg|75px]]
|[[ジョン・ヴァン・ヴレック]]<br>[[w:John Hasbrouck Van Vleck|John Hasbrouck Van Vleck]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1978年]]
|[[画像:Pyotr L Kapitsa Russian physicist 1964.jpg|75px]]
|[[ピョートル・カピッツァ]]<br>[[w:Pyotr Kapitsa|Pyotr Leonidovich Kapitsa]]
|{{SSR}}
|[[低温物理学]]における基礎的発明および諸発見{{Efn2|[[ヘリウム4]]の[[超流動]]を発見した。}}
|-
|[[画像:Arno Penzias.jpg|75px]]
|[[アーノ・ペンジアス]]<br>[[:en:Arno Allan Penzias|Arno Allan Penzias]]
|{{USA}}<br>({{DEU1933}}出身)
|rowspan="2"|[[宇宙マイクロ波背景放射]]の発見{{Efn2|この放射は約3[[ケルビン]]に相当するため、検出するには相当の低温技術が必要となる。}}<br>Astrophys.J.: '''142''' (1965) 419
|-
|
|[[ロバート・ウッドロウ・ウィルソン|ロバート・W・ウィルソン]]<br>[[:en:Robert Woodrow Wilson|Robert Woodrow Wilson]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"| [[1979年]]
|[[画像:Sheldon Glashow at Harvard cropped.jpg|75px]]
|[[シェルドン・グラショー]]<br>[[:en:Sheldon Lee Glashow|Sheldon Lee Glashow]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|素粒子間に働く[[ワインバーグ=サラム理論|弱い相互作用と電磁相互作用を統一した相互作用についての理論]]への貢献、特に[[:en:Neutral current|弱中性カレント]]の予想{{Efn2|受賞者発表のあった1979年10月時点で、[[ウィークボソン]]の直接検出には至っていない(直接検出は1983年)。スウェーデン王立科学アカデミーは2つの実験事実、つまり(1)疑う余地のない弱中性カレントが泡箱写真として記録・検出されたことと、(2)様々な実験から得られた[[:en:Weinberg angle|弱混合角]]の値が不確かさの範囲内で一致したこと、をもって3人への授与を決めた。}}<br>
Nucl. Phys.: '''22''' (1961) 579-588 (Glashow)<br>
"Elementary Particle Theory" (1968) 367-377 (Salam)<br>
Phys. Rev. Lett.: '''19''' (1967) 1264-1266 (Weinberg)<br>
Phys. Lett. B: '''46''' (1973) 121-124, 138-140 (弱中性カレントの検出)<br>
Proc. 19th Int. Conf. HEP (Tokyo, 1978), 882-903 (弱混合角の値が一致)
|-
|[[画像:Abdus Salam 1987.jpg|75px]]
|[[アブドゥッサラーム]]<br>[[:en:Abdus Salam|Abdus Salam]]
|{{PAK}}
|-
|[[画像:Steven weinberg 2010.jpg|75px]]
|[[スティーヴン・ワインバーグ]]<br>[[:en:Steven Weinberg|Steven Weinberg]]
|{{USA}}
|}
=== 1980年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="2"|[[1980年]]
|[[画像:James-cronin.jpg|75px]]
|[[ジェイムズ・クローニン]]<br>[[w:James Cronin|James Cronin]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|中性[[K中間子]]崩壊における[[CP対称性の破れ|基礎的な対称性の破れ]]の発見<br>Phys. Rev. Lett.: '''13''' (1964) 138-140 (Cronin, and Fitch)
|-
|[[画像:Val Fitch.jpg|75px]]
|[[ヴァル・フィッチ]]<br>[[:en:Val Logsdon Fitch|Val Logsdon Fitch]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1981年]]
|[[画像: Nicolaas Bloembergen 1981.jpg|75px]]
|[[ニコラス・ブルームバーゲン]]<br>[[:en:Nicolaas Bloembergen|Nicolaas Bloembergen]]
|{{USA}}<br>({{NLD}}出身)
|rowspan="2"|[[レーザー]]分光学への貢献<br>Phys. Rev.: '''104''' (1956) 324-327 (Bloembergen)<br>Phys. Rev.: '''127''' (1962) 1918-1939 (Bloembergen)
|-
|[[画像:Artur Schawlow, Stanford University.jpg|75px]]
|[[アーサー・ショーロー]]<br>[[:en:Arthur Leonard Schawlow|Arthur Leonard Schawlow]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:Kai Manne Börje Siegbahn 2.jpg|75px]]
|[[カイ・シーグバーン]]<br>[[w:Kai Siegbahn|Kai Manne Börje Siegbahn]]
|{{SWE}}
|高分解能[[光電子分光]]法の開発
|-
|[[1982年]]
|
|[[ケネス・ウィルソン]] <br>[[:en:Kenneth G. Wilson|Kenneth G. Wilson]]
|{{USA}}
|[[相転移]]に関連した臨界現象に関する理論{{Efn2|ウィルソンの[[繰り込み群|くりこみ群]]として知られている。}}<br>Phys. Rev. B: '''4''' (1971) 3174-3183<br>Phys. Rev. B: '''4''' (1971) 3184-3205<br>Phys. Rev. Lett.: '''28''' (1972) 240-243<br>Phys. Rev. Lett.: '''28''' (1972) 548-551<br>Phys. Rep.: '''12''' (1974) 75-199<br>Rev. Mod. Phys.: '''47''' (1975) 773-840
|-
|rowspan="2"|[[1983年]]
|[[画像:Subrahmanyan_Chandrasekhar.gif|75px]]
|[[スブラマニアン・チャンドラセカール]]<br>[[w:Subrahmanyan Chandrasekhar|Subrahmanyan Chandrasekhar]]
|{{USA}}<br>({{IND}}出身)
|星の構造および[[進化]]にとって重要な物理的過程に関する理論的研究{{Efn2|[[チャンドラセカール限界]]が彼に帰せられる。}}<br>Philos. Mag.: '''11''' (1931) 592<br>Astrophys. J.: '''74''' (1931) 81<br>Astrophys. J.: '''96''' (1942) 161
|-
|[[画像:William_A._Fowler_Los_Alamos_ID.png|75px]]
|[[ウィリアム・ファウラー]]<br>[[:en:William Alfred Fowler|William Alfred Fowler]]
|{{USA}}
|[[宇宙の元素合成|宇宙における化学元素の生成]]にとって重要な[[原子核反応]]に関する理論的および実験的研究<br>Rev. Mod. Phys.: '''29''' (1957) 547-650
|-
|rowspan="2"|[[1984年]]
|[[画像:Carlo Rubbia W and Z bosons.jpg|75px]]
|[[カルロ・ルビア]]<br>[[:en:Carlo Rubbia|Carlo Rubbia]]
|{{ITA}}
|rowspan="2"|[[弱い相互作用]]を媒介する場である[[ウィークボソン|W粒子およびZ粒子]]の発見を導いた巨大プロジェクトへの決定的貢献
CERN/ISR-PO: 70-5(1970) (van der Meer)<br>
CERN/ISR-PO: 72-31(1972) (van der Meer)<br>
CERN/SPSC: 78-06(1978) (Rubbia)<br>
IEEE Trans. Nucl. Sci.: '''26''' (1979) 3455-3461 (Rubbia, van der Meer)<br>Phys. Lett. B: '''122''' (1983) 103-116 (Rubbia, van der Meer)<br>Phys. Lett. B: '''126''' (1983) 398-410 (Rubbia)
|-
|[[画像:Simon_Van_der_Meer.png|75px]]
|[[シモン・ファンデルメール]]<br>[[:en:Simon van der Meer|Simon van der Meer]]
|{{NLD}}
|-
|[[1985年]]
|[[画像:Klaus von Klitzing 2015.jpg|75px]]
|[[クラウス・フォン・クリッツィング]]<br>[[:en:Klaus von Klitzing|Klaus von Klitzing]]
|{{FRG}}
|[[量子ホール効果]]の発見{{Efn2|[[フォン・クリッツィング定数]]が彼に帰せられる。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''45''' (1980) 494-497<br>Metrologia: '''21''' (1985) 11-19
|-
|rowspan="3"|[[1986年]]
|
|[[エルンスト・ルスカ]]<br>[[:en:Ernst Ruska|Ernst Ruska]]
|{{FRG}}
|[[電子]]を用いた光学に関する基礎研究、特に最初の[[電子顕微鏡]]の設計
|-
|[[画像:Gerd Binnig sw.jpg|75px]]
|[[ゲルト・ビーニッヒ]]<br>[[:en:Gerd Binnig|Gerd Binnig]]
|{{FRG}}
|rowspan="2"|[[走査型トンネル電子顕微鏡]]の設計<br>Phys. Rev. Lett.: '''49''' (1982) 57-61 (Binnig, and Rohrer)
|-
|[[画像:Rohrer.jpg|75px]]
|[[ハインリッヒ・ローラー]]<br>[[:en:Heinrich Rohrer|Heinrich Rohrer]]
|{{CHE}}
|-
|rowspan="2"|[[1987年]]
|[[画像:Ibmgb.jpg|75px]]
|[[ヨハネス・ベドノルツ]]<br>[[w:Georg Bednorz|J. Georg Bednorz]]
|{{FRG}}
|rowspan="2"|[[セラミックス]]の[[超伝導]]体{{Efn2|LBCOとして知られる[[高温超伝導]]体である。}}を発見したことによる重要なブレイクスルー<br>Zeitschrift für Physik B '''64''' (1986) 189-193 (Bednorz, and Muller)
|-
|[[画像:Karl Alexander Mueller.jpg|75px]]
|[[カール・アレクサンダー・ミュラー]]<br>[[:en:K. Alex Müller|Karl Alexander Müller]]
|{{CHE}}
|-
|rowspan="3"|[[1988年]]
|[[画像:Leon M. Lederman.jpg|75px]]
|[[レオン・レーダーマン]]<br>[[:en:Leon M. Lederman|Leon M. Lederman]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[ニュートリノ]]ビーム法、および[[ミューニュートリノ]]の発見による[[レプトン (素粒子)|レプトン]]の二重構造の実証<br>Phys. Rev. Lett.: '''9''' (1962) 36–44 (Lederman, Schwartz, and Steinberger)
|-
|
|[[メルヴィン・シュワーツ]]<br>[[:en:Melvin Schwartz|Melvin Schwartz]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:Jack-Steinberger-2008.JPG|75px]]
|[[ジャック・シュタインバーガー]]<br>[[:en:Jack Steinberger|Jack Steinberger]]
|{{USA}}<br>({{DEU1919}}出身)
|-
|rowspan="3"|[[1989年]]
|[[画像:Norman_Foster_Ramsey_1970_(cropped).jpg|75px]]
|[[ノーマン・ラムゼー]]<br>[[:en:Norman Foster Ramsey, Jr.|Norman F. Ramsey]]
|{{USA}}
|分離振動場法{{Efn2|[[ラムゼー共鳴]]法として知られている。}}の開発、およびその水素[[メーザー]]や[[原子時計]]への応用<br>Phys. Rev.: '''76''' (1949) 996<br>Phys. Rev.: '''78''' (1950) 695-699<br>Phys. Rev.: '''78''' (1950) 699–703<br>Phys. Rev.: '''126''' (1962) 603–615<br>J. Res. Nat. Bur. Stand.: '''88''' (1983) 301-320<br>Rev. Mod. Phys.: '''62''' (1990) 541–552
|-
|
|[[ハンス・デーメルト]]<br>[[:en:Hans Georg Dehmelt|Hans G. Dehmelt]]
|{{USA}}<br>({{DEU1919}}出身)
|rowspan="2"|[[イオントラップ|イオントラップ法]]の開発<br>Phys. Rev. Lett.: '''41''' (1978) 233-236<br>Phys. Rev. A: '''22''' (1980) 1137-1140<br>Phys. Rev. Lett.: '''55''' (1985) 67-70<br>Phys. Rev. Lett.: '''56''' (1986) 2797-2799<br>Phys. Rev. Lett.: '''59''' (1987) 26-29 (Dehmelt)
|-
|
|[[ヴォルフガング・パウル]]<br>[[:en:Wolfgang Paul|Wolfgang Paul]]
|{{FRG}}
|}
=== 1990年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="3"|[[1990年]]
|[[画像:Physics Nobel laureate Jerry Friedman, 2016.jpg|75px]]
|[[ジェローム・アイザック・フリードマン]]<br>[[:en:Jerome Isaac Friedman|Jerome I. Friedman]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[素粒子物理学]]における[[クォーク]]模型の展開に決定的な重要性{{Efn2|実験結果はクォーク・パートンモデルと非常によく一致し、解析から[[核子]]は[[クォーク|電荷を持つより基本的な構成子]]からなる複合粒子であること、基本構成子は核子内で自由粒子のように振る舞っていること、[[グルーオン|電荷を持たない成分]]も運動量移行を担うことが明らかになった。}}を持った、[[陽子]]および束縛[[中性子]]標的による[[電子]]の[[深非弾性散乱]]に関する先駆的研究<br>Phys. Rev. Lett.: '''23''' (1969) 930-934<br>Phys. Rev. Lett.: '''23''' (1969) 935-939
|-
|[[画像:Henry Kendall by Tom Frost.jpg|75px]]
|[[ヘンリー・ケンドール]]<br>[[:en:Henry Way Kendall|Henry W. Kendall]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:Richard_E._Taylor.jpg|75px]]
|[[リチャード・E・テイラー]]<br>[[:en:Richard E. Taylor|Richard E. Taylor]]
|{{CAN}}
|-
|[[1991年]]
|[[画像:Pierre-Gilles crop.jpg|75px]]
|[[ピエール=ジル・ド・ジェンヌ|ピエール=ジル・ドゥジェンヌ]]<br>[[:en:Pierre-Gilles de Gennes|Pierre-Gilles de Gennes]]
|{{FRA}}
|単純な[[系 (自然科学)|系]]の秩序現象を研究するために開発された手法が、より複雑な物質、特に[[液晶]]や[[高分子]]{{Efn2|ノーベル賞受賞講演の論文タイトルが"Soft Matter"であったことから、これらの研究分野が[[ソフトマター物理学|ソフトマター]]と呼ばれるようになった。}}の研究にも一般化できることの発見<br>Phys. Lett. A: '''38''' (1972) 339-340<br>Macromolecules: '''8''' (1975) 80<br>J. Physique: '''39''' (1978) 77<br>Rev. Mod. Phys.: '''57''' (1985) 827-863<br>Adv. Colloid Interface Sci.: '''27''' (1987) 189<br>Mater. Res. Soc. Bull.: '''16''' (1991) 20
|-
|[[1992年]]
|[[画像:CHARPAK Georges-24x50-2005 cropped.JPG|75px]]
|[[ジョルジュ・シャルパク]]<br>[[:en:Georges Charpak|Georges Charpak]]
|{{FRA}}<br>({{POL1918}}出身)
|粒子検知器、特に[[ドリフトチェンバー|多線式比例計数管]]の発明および発展{{Efn2|荷電粒子に対する優れた位置敏感型検出器である多線式比例計数管を開発、これと電算機とを組み合わせることにより素粒子反応の検出から解析までを極めて迅速にかつ一挙に行えるシステムを構築した。}}<br>Nucl. Instrum. Methods: '''62''' (1968) 262-268<br>Nucl. Instrum. Methods: '''80''' (1970) 13-34
|-
|rowspan="2"|[[1993年]]
|[[画像:Russell Alan Hulse.jpg|75px]]
|[[ラッセル・ハルス]]<br>[[:en:Russell Alan Hulse|Russell A. Hulse]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[重力]]研究の新しい可能性を開いた新型[[連星パルサー]]の発見{{Efn2|[[PSR B1913+16]]を発見、パルス周期が周期変動する様子から連星系に関する5個の[[軌道要素]]を決定し3個の[[一般相対論]]的効果(特に公転周期減少)を検出した。
一般相対論が正しい理論だと仮定すると重力波の放出によって連星系からエネルギーが持ち去られて軌道長半径が徐々に小さくなるが、公転周期減少の理論値と観測値とが観測誤差の範囲内で一致することを示し、間接的ながら重力波の初検出に成功した。太陽系で検証済みの一般相対論が、はるかに強い重力場の中性子星近傍にも正しく適用可能であることを示すとともに、観測事実を説明できない幾つかの重力理論を合理的に排除することにも貢献した。}}<br>
Astrophys. J. Lett.: '''195''' (1975) L51-L53<br>
Astrophys. J. Lett.: '''206''' (1976) L53-L58<br>
Astrophys. J.: '''253''' (1982) 908-920<br>
Philos. Trans. R. Soc. London Ser. A: '''341''' (1992) 117-134<br>
Phys. Rev. D: '''45'''(1992) 1840-1868
|-
|[[画像:2008JosephTaylor.jpg|75px]]
|[[ジョゼフ・テイラー]]<br>[[w:Joseph Hooton Taylor, Jr.|Joseph Hooton Taylor, Jr.]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|[[1994年]]
|[[画像:Bertram Brockhouse.jpg|75px]]
|[[バートラム・ブロックハウス]]<br>[[:en:Bertram Brockhouse|Bertram N. Brockhouse]]
|{{CAN}}
|凝縮体の研究に用いる[[中性子散乱]]技術の開発についての先駆的貢献([[中性子分光法]]の開発)<br>Phys. Rev.: '''111''' (1958) 747-754<br>Rev. Mod. Phys.: '''30'''(1958)236-249(erratum RMP '''30'''(1958)1177)<br>Phys. Rev. Lett.: '''2''' (1959) 256-258<br>Phys. Rev.: '''119'''(1960)980-999
|-
|[[画像:HD.3F.113_(10347363986).jpg|75px]]
|[[クリフォード・シャル]]<br>[[:en:Clifford Shull|Clifford G. Shull]]
|{{USA}}
|凝縮体の研究に用いる中性子散乱技術の開発についての先駆的貢献([[中性子回折]]技術の開発)<br>Phys. Rev.: '''76''' (1949) 1256-1257<br>Phys. Rev.: '''81''' (1951) 527-535<br>Phys. Rev.: '''83''' (1951) 333-345<br>Rev. Mod. Phys.: '''25'''(1953)100-107<br>Phys. Rev.: '''97''' (1955) 304-310
|-
|rowspan="2"|[[1995年]]
|[[画像:Martin Perl - tau.jpg|75px]]
|[[マーチン・パール]]<br>[[:en:Martin Lewis Perl|Martin L. Perl]]
|{{USA}}
|[[レプトン (素粒子)|レプトン]]物理学の先駆的実験([[タウ粒子]]の発見)<br>Phys. Rev. Lett.: '''35''' (1975) 1489-1492<br>Phys. Lett. B: '''63''' (1976) 466-470
|-
|[[画像:Frederick Reines.jpg|75px]]
|[[フレデリック・ライネス]]<br>[[:en:Frederick Reines|Frederick Reines]]
|{{USA}}
|レプトン物理学の先駆的実験([[ニュートリノ]]の検出)<br>Science: '''124''' (1956) 103-104
|-
|rowspan="3"|[[1996年]]
|[[画像:Nobel Laureate David Morris Lee in 2007.jpg|75px]]
|[[デビッド・リー (物理学者)|デビッド・リー]]<br>[[:en:David Lee (physicist)|David M. Lee]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[ヘリウム3]]の[[超流動]]の発見{{Efn2|ポメランチュク冷却装置の圧力異常からヘリウム3の相転移を実験的に観測、超流動ヘリウム3について理論的に予言されていた数々の磁気的性質をNMRにより確認して超流動状態が実現していることを明らかにした。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''28''' (1972) 885-888 (Osheroff, Richardson, and Lee)<br>Phys. Rev. Lett.: '''29''' (1972) 920-923 (Osheroff, Richardson, and Lee)<br>Phys. Rev. A: '''8''' (1973) 1633–1637 (Osheroff, Richardson, and Lee)
|-
|[[画像:Douglas Osheroff 2011-08-08 cropped.JPG|75px]]
|[[ダグラス・D・オシェロフ]]<br>[[w:Douglas Osheroff|Douglas D. Osheroff]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:Robert Coleman Richardson.jpg|75px]]
|[[ロバート・リチャードソン (物理学者)|ロバート・リチャードソン]]<br>[[:en:Robert Coleman Richardson|Robert C. Richardson]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1997年]]
|[[画像:Steven Chu official portrait headshot.jpg|75px]]
|[[スティーブン・チュー]]<br>[[:en:Steven Chu|Steven Chu]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[レーザー]]光を用いて[[原子]]を冷却および捕捉する手法の開発{{Efn2|チューはNa原子に[[:en:Doppler cooling|ドップラー冷却]]を適用して[[:en:Optical molasses|光糖蜜]]を作成し、原子集団をドップラー冷却限界温度の240μKにまで冷却できることを証明。フィリップスは[[:en:Magneto-optical trap|磁気光学トラップ]]中のNa原子がドップラー冷却限界温度を大幅に下回る40μKにまで冷却されていることを発見。コーエンタヌージは[[:en:Sisyphus cooling|偏光勾配冷却]]という新たなメカニズムによってこれを解明、またVSCPTを開発してHe原子を2μKにまで冷却した。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''55''' (1985) 48-51 (Chu)<br>Phys. Rev. Lett.: '''57''' (1986) 314-317 (Chu)<br>Phys. Rev. Lett.: '''61''' (1988) 169-172 (Phillips)<br>Phys. Rev. Lett.: '''57''' (1986) 1688-1691 (Cohen-Tannoudji)<br>Phys. Rev. Lett.: '''59''' (1987) 1659-1662 (Cohen-Tannoudji)<br>Phys. Rev. Lett.: '''61''' (1988) 826-829 (Cohen-Tannoudji)<br>J. Opt. Soc. Am. B.: '''6''' (1989) 2023-2045 (Cohen-Tannoudji)
|-
|[[画像:Claude Cohen-Tannoudji.JPG|75px]]
|[[クロード・コーエン=タヌージ]]<br>[[:en:Claude Cohen-Tannoudji|Claude Cohen-Tannoudji]]
|{{FRA}}<br>({{DZA}}出身)
|-
|[[画像:William D. Phillips.jpg|75px]]
|[[ウィリアム・ダニエル・フィリップス]]<br>[[:en:William Daniel Phillips|William D. Phillips]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[1998年]]
|[[画像:Robert Laughlin, Stanford University.jpg|75px]]
|[[ロバート・B・ラフリン]]<br>[[:en:Robert B. Laughlin|Robert B. Laughlin]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|分数電荷の[[励起状態]]を持つ新たな[[量子流体]]の形態{{Efn2|分数[[量子ホール効果]]として知られる。}}の発見<br>Phys. Rev. Lett.: '''48''' (1982) 1559-1562 (Tsui and Störmer)<br>Phys. Rev. Lett.: '''50''' (1983) 1395-1398 (Laughlin)
|-
|[[画像:Horst Störmer cropped.jpg|75px]]
|[[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー]]<br>[[:en:Horst Ludwig Störmer|Horst L. Störmer]]
|{{DEU}}
|-
|[[画像:Daniel_Chee_Tsui.jpg|75px]]
|[[ダニエル・ツイ]]<span xml:lang="zh">(崔琦)</span><br>[[:en:Daniel C. Tsui|Daniel C. Tsui]]
|{{USA}}<br>({{ROC}}出身)
|-
|rowspan="2"|[[1999年]]
|[[画像:Gerard 't Hooft.jpg|75px]]
|[[ヘーラルト・トホーフト]]<br>[[w: Gerard 't Hooft|Gerardus 't Hooft]]
|{{NLD}}
|rowspan="2"|物理学における[[電弱相互作用]]の量子構造の解明{{Efn2|[[ヤン=ミルズ理論]]が、ゲージ対称性を保存する場合も自発的に破る場合も[[繰り込み]]可能であることを数学的に証明した。}}<br>Nucl. Phys.: '''B7''' (1968) 637-650 (Veltman)<br>Nucl. Phys.: '''B33''' (1971) 173-199 ('t Hooft)<br>Nucl. Phys.: '''B35''' (1971) 167-188 ('t Hooft)<br>Nucl. Phys.: '''B44''' (1972) 189-213 ('t Hooft and Veltman)<br>Nucl. Phys.: '''B50''' (1972) 318-353 ('t Hooft and Veltman)
|-
|[[画像:Martinus Veltman.jpg|75px]]
|[[マルティヌス・フェルトマン]]<br>[[:en:Martinus J. G. Veltman|Martinus J. G. Veltman]]
|{{NLD}}
|}
=== 2000年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="3"|[[2000年]]
|[[画像:Zhores Alferov.jpg|75px]]
|[[ジョレス・アルフョーロフ]]<br>[[:en:Zhores Alferov|Zhores I. Alferov]]
|{{RUS}}
|rowspan="2"|情報通信技術における基礎研究(高速エレクトロニクスおよび[[光エレクトロニクス]]に利用される[[半導体ヘテロ構造]]の開発{{Efn2|クレーマーはヘテロ接合を採用した半導体の優位性を初めて指摘し、アルフョーロフはヘテロ接合に基づく半導体レーザーの作成に成功した。}})
|-
|[[画像:Herbert Kroemer.jpg|75px]]
|[[ハーバート・クレーマー]]<br>[[:en:Herbert Kroemer|Herbert Kroemer]]
|{{DEU}}
|-
|[[画像:Jack_Kilby_1960s.png|75px]]
|[[ジャック・キルビー]]<br>[[:en:Jack Kilby|Jack S. Kilby]]
|{{USA}}
|情報通信技術における基礎研究([[集積回路]]の発明)
|-
|rowspan="3"|[[2001年]]
|[[画像:Physics Nobel Laureate Eric Allin Cornell, in June of 2015.jpg|75px]]
|[[エリック・コーネル]]<br>[[:en:Eric Allin Cornell|Eric A. Cornell]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[第1族元素|アルカリ]]金属原子{{Efn2|コーネルとワイマンは[[ルビジウム]]を、ケターレは[[ナトリウム]]を用いた。}}の希薄気体での[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の実現、および凝縮体の性質に関する基礎的研究<br>Science '''269''' (1995) 198–201 (Cornell and Wieman)<br>Phys. Rev. Lett.: '''77''' (1996) 420-423 (Cornell and Wieman)<br>Phys. Rev. Lett.: '''75''' (1995) 3969-3973 (Ketterle)
|-
|[[画像:Ketterle.jpg|75px]]
|[[ヴォルフガング・ケターレ]]<br>[[:en:Wolfgang Ketterle|Wolfgang Ketterle]]
|{{DEU}}
|-
|[[画像:Carl Wieman.jpg|75px]]
|[[カール・ワイマン]]<br>[[:en:Carl Wieman|Carl E. Wieman]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[2002年]]
|[[画像:Raymond Davis, Jr 2001.jpg|75px]]
|[[レイモンド・デイビス]]<br>[[:en:Raymond Davis, Jr.|Raymond Davis Jr.]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[天体物理学]]への先駆的貢献、特に宇宙[[ニュートリノ]]の検出{{Efn2|デービスは[[太陽ニュートリノ問題|太陽ニュートリノ]]の観測により太陽ニュートリノ問題を提起し、小柴は[[超新星]][[SN 1987A]]から飛来したニュートリノの観測により[[恒星]]の[[重力崩壊]]の機構を明らかにした。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''12''' (1964) 303-305 (Davis)<br>Phys. Rev. Lett.: '''20''' (1968) 1205-1209 (Davis)<br>Phys. Rev. Lett.: '''58''' (1987) 1490-1493 (Koshiba)<br>Phys. Rev. D: '''38'''(1988) 448-458 (Koshiba)<br>Phys. Rev. Lett.: '''77'''(1996) 1683-1686 (Koshiba)<br>Phys. Rev. Lett.: '''81''' (1998) 1562-1567 (Koshiba)
|-
|[[画像:Masatoshi Koshiba 2002.jpg|75px]]
|[[小柴昌俊]]<br>[[w:Masatoshi Koshiba|Masatoshi Koshiba]]
|{{JPN}}
|-
|[[画像:RiccardoGiacconi.jpg|75px]]
|[[リカルド・ジャコーニ]]<br>[[:en:Riccardo Giacconi|Riccardo Giacconi]]
|{{USA}}
|宇宙X線源{{Efn2|[[さそり座X-1]]を指す。}}の発見を導いた天体物理学への先駆的貢献<br>Phys. Rev. Lett.: '''9''' (1962) 439-443<br>Phys. Rev. Lett.: '''11''' (1963) 530-535
|-
|rowspan="3"|[[2003年]]
|[[画像:AA Abrikosov ANL1.jpg|75px]]
|[[アレクセイ・アブリコソフ]]<br>[[:en:Alexei Alexeyevich Abrikosov|Alexei A. Abrikosov]]
|{{USA}}<br>{{RUS}}
|rowspan="3"|[[超伝導]]と[[超流動]]の理論に関する先駆的貢献{{Efn2|[[ギンツブルグ-ランダウ理論]]がギンツブルグ(および1962年受賞の[[レフ・ランダウ|ランダウ]])に帰せられる。アブリコソフはこれを出発点に第二種超伝導体の挙動を理論的に説明した。レゲットはヘリウム3の超流動に理論的説明を与えている。}}<br>Sov. Phys. JETP: '''5''' (1957) 1174-1182 (Abrikosov)<br>Zh. Eksp. Teor. Fiz. '''32''' (1957) 1442-1452 (Abrikosov)<br>Zh. Eksp. Teor. Fiz.: '''20''' (1950) 1064-1082 (Ginzburg)<br>Phys. Rev.: '''140''' (1965) A1869-A1888 (Leggett)<br>Phys. Rev.: '''147''' (1966) 119-130 (Leggett)<br>Phys. Rev. Lett.: '''29''' (1972) 1227-1230 (Leggett)<br>Phys. Rev. Lett.: '''31''' (1973) 352-355 (Leggett)<br>Rev. Mod. Phys.: '''47''' (1975) 331-414 (Leggett)<br>Phys. Rev. Lett. '''46''' (1981) 211-214 (Leggett)
|-
|[[画像:Ginzburg in MSU opaque.jpg|75px]]
|[[ヴィタリー・ギンツブルク]]<br>[[:en:Vitaly Ginzburg|Vitaly L. Ginzburg]]
|{{RUS}}
|-
|[[画像:Nobel Laureate Sir Anthony James Leggett in 2007.jpg|75px]]
|[[アンソニー・レゲット]]<br>[[:en:Anthony James Leggett|Anthony J. Leggett]]
|{{GBR}}<br>{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[2004年]]
|[[画像:David Gross cropped.JPG|75px]]
|[[デイビッド・グロス]]<br>[[:en:David Gross|David J. Gross]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|[[強い相互作用]]における[[漸近的自由性]]の理論的発見<br>Phys. Rev. Lett.: '''30''' (1973) 1343–1346 (Gross and Wilczek)<br>Phys. Rev. D: '''8''' (1973) 3633-3652 (Gross and Wilczek)<br>Phys. Rev. D: '''9''' (1974) 980-993 (Gross and Wilczek)<br>Phys. Rev. Lett.: '''30''' (1973) 1346-1349 (Politzer)<br>Phys. Rep.: '''14''' (1974) 129-180 (Politzer)
|-
|
|[[H. デビッド・ポリツァー]]<br>[[w:Hugh David Politzer|H. David Politzer]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:FrankStockholm2004.jpg|75px]]
|[[フランク・ウィルチェック]]<br>[[:en:Frank Wilczek|Frank Wilczek]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="3"|[[2005年]]
|[[画像:Roy Glauber Dec 10 2005.jpg|75px]]
|[[ロイ・グラウバー]]<br>[[:en:Roy J. Glauber|Roy J. Glauber]]
|{{USA}}
|[[光学]][[コヒーレンス]]{{Efn2|コヒーレント状態にある光の一例として[[レーザー]]が挙げられる。}}の量子論への貢献{{Efn2|[[量子光学]]においてこの業績が広く用いられている。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''10''' (1963) 84-86<br>Phys. Rev.: '''130''' (1963) 2529-2539<br>Phys. Rev.: '''131''' (1963) 2766-2788
|-
|[[画像:John L. Hall.jpg|75px]]
|[[ジョン・ホール (物理学者)|ジョン・ホール]]<br>[[:en:John L. Hall|John L. Hall]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[周波数コム|光周波数コム]]技術{{Efn2|[[秒]]を規定する[[原子時計]]の周波数帯と光の周波数帯とを測定精度を損なわずに直接リンクすることを可能にし、レーザーの周波数測定精度を飛躍的に向上させた。}}を含む、[[レーザー]]に基づく精密[[分光法]]の開発への貢献<br>Science: '''288''' (2000) 635-639 (Hall)<br>Rev. Sci. Instrum.: '''72''' (2001) 3749-3771 (Hall)<br>Phys. Rev. Lett.: '''87''' (2001) 270801 [4-pages] (Hall)<br>Phys. Rev. Lett.: '''82''' (1999) 3568-3571 (Hansch)<br>Phys. Rev. Lett.: '''84''' (2000) 5102-5105 (Hall and Hansch)<br>Phys. Rev. Lett.: '''84''' (2000) 5496-5499 (Hansch)<br>Phys. Rev. Lett.: '''85''' (2000) 2264-2267 (Hansch)
|-
|[[画像:Theodor Haensch.jpg|75px]]
|[[テオドール・ヘンシュ]]<br>[[:en:Theodor W. Hänsch|Theodor W. Hänsch]]
|{{DEU}}
|-
|rowspan="2"|[[2006年]]
|[[画像:John-C-Mather.jpg|75px]]
|[[ジョン・C・マザー]]<br>[[:en:John C. Mather|John C. Mather]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|[[宇宙マイクロ波背景放射]]が[[黒体放射]]の形をとることおよびその非等方性の発見{{Efn2|[[宇宙マイクロ波背景放射|CMB]]が2.73Kの黒体放射スペクトルと完全に一致することは宇宙がかつて超高温の熱平衡状態にあった証拠として[[ビッグバン]]を、10万分の1K程度の非等方性は[[量子ゆらぎ]]が宇宙スケールにまで拡大された証拠として[[宇宙のインフレーション]]を支持する強い観測的証拠である。}}<br>Astrophys. J.: '''420''' (1994) 439-444<br>Astrophys. J.: '''464''' (1996) L1-L4
|-
|[[画像:George Smoot cropped.jpg|75px]]
|[[ジョージ・スムート]]<br>[[:en:George Smoot|George F. Smoot]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|[[2007年]]
|[[画像:Albert fert 15 janvier 2009 Spintronique Paris Descartes.JPG|75px]]
|[[アルベール・フェール]]<br>[[:en:Albert Fert|Albert Fert]]
|{{FRA}}
|rowspan="2"|[[巨大磁気抵抗効果|巨大磁気抵抗]]の発見{{Efn2|[[スピントロニクス]]の端緒を開いた発見である。この業績が[[ハードディスク]]の容量増加に大きく貢献している。}}<br>Phys. Rev. Lett.: '''61''' (1988) 2472-2475 (Fert)<br>Phys. Rev. B: '''39''' (1989) 4828-4830 (Grünberg)
|-
|[[画像:Peter Gruenberg 01.jpg|75px]]
|[[ペーター・グリューンベルク]]<br>[[:en:Peter Grünberg|Peter Grünberg]]
|{{DEU}}
|-
|rowspan="3"|[[2008年]]
|[[画像:YoichiroNambu.jpg|75px]]
|[[南部陽一郎]]<br>[[:en:Yoichiro Nambu|Yoichiro Nambu]]
|{{USA}}<br>({{JPN}}出身)
|[[素粒子物理学]]および[[原子核物理学]]における[[自発的対称性の破れ]]の機構の発見<br>Phys. Rev.: '''117''' (1960) 648<br>Phys. Rev.: '''122''' (1961) 345-358<br>Phys. Rev.: '''124''' (1961) 246-254
|-
|[[画像:Makoto Kobayashi-press conference Dec 07th, 2008-2b.jpg|75px]]
|[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]<br>[[:en:Makoto Kobayashi (physicist)|Makoto Kobayashi]]
|{{JPN}}
|rowspan="2"|自然界において[[クォーク]]が少なくとも3世代以上存在することを予言する、[[対称性の破れ]]{{Efn2|ここでは[[CP対称性の破れ]]を指している。}}の起源の発見{{Efn2|[[小林・益川理論]]が彼らに帰せられる。}}<br>[http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/ptpwww/Contents/pdf49-2/492-km.pdf Progress of Theoretical Physics '''Vol. 49''' No. 2 (1973) pp. 652-657]
|-
|[[画像:Toshihide Masukawa-press conference Dec 07th, 2008-3.jpg|75px]]
|[[益川敏英]]<br>[[:en:Toshihide Maskawa|Toshihide Maskawa]]
|{{JPN}}
|-
|rowspan="3"|[[2009年]]
|[[画像:Charles K. Kao cropped 2.jpg|75px]]
|[[チャールズ・カオ]]<span xml:lang="zh">(高錕)</span><br>[[:en:Charles K. Kao|Charles K. Kao]]
|{{GBR}}<br>{{USA}}<br>({{ROC}}出身、1948年香港移住)
|[[光通信]]を目的とした[[光ファイバー|ファイバー]]内[[光]]伝達に関する画期的業績{{Efn2|1960年代中ごろまでガラス製光ファイバーの伝送損失は数千dB/kmもあった。Kaoは1966年から1969年にかけて低損失ガラス棒材の透過損失率の精密測定を系統的に実施し、鉄などの遷移金属不純物が極めて大きな損失係数を有することを明らかにした。加えて、当該不純物量を十分に低減できれば、石英ガラス製光ファイバーによって20dB/km以下、最終的には数dB/km程度の伝送損失が実現可能であることを定量的に指摘した。1970年に不純物濃度を改善した石英系ガラス素材を用いた光ファイバーによって伝送損失20dB/kmが実現されたことにより、光ファイバーは低損失性、化学的安定性、柔軟性に優れた光伝送媒体として注目されるようになった。}}<br>
Proc. IEE: '''113''' (1966) 1151-1158<br>
J. Phys. E: Sci. Instrum.: '''1''' (1968) 1063-1068<br>
J. Phys. E: Sci. Instrum.: '''2''' (1969) 331-335<br>
J. Phys. E: Sci. Instrum.: '''2''' (1969) 579-583
|-
|[[画像:Nobel Prize 2009-Press Conference KVA-23.jpg|75px]]
|[[ウィラード・ボイル]]<br>[[:en:Willard Boyle|Willard Boyle]]
|{{USA}}<br>{{CAN}}
|rowspan="2"|撮像[[半導体]][[電子回路|回路]]である[[CCDイメージセンサ|CCDセンサー]]の発明<br>Bell System Tech. J.: '''49''' (1970) 587-593
|-
|[[画像:Nobel Prize 2009-Press Conference KVA-27.jpg|75px]]
|[[ジョージ・E・スミス]]<br>[[:en:George E. Smith|George E. Smith]]
|{{USA}}
|}
=== 2010年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="2"|[[2010年]]
|[[画像:Geim.jpg|75px]]
|[[アンドレ・ガイム]]<br>[[:en:Andre Geim|Andre Geim]]
|{{NLD}}<br>({{RUS}}出身)
|rowspan="2"|二次元物質[[グラフェン]]に関する革新的実験{{Efn2|単層のグラフェンを初めて作成した。}}
|-
|[[画像:Konstantin Novoselov at MIPT.jpg|75px]]
|[[コンスタンチン・ノボセロフ]]<br>[[:en:Konstantin Novoselov|Konstantin Novoselov]]
|{{RUS}}<br>{{UK}}
|-
|rowspan="3"|[[2011年]]
|[[画像:Nobel Prize 2011-Press Conference KVA-DSC 7744.jpg|75px]]
|[[ソール・パールマッター]]<br>[[:en:Saul Perlmutter|Saul Perlmutter]]
|{{USA}}
|rowspan="3"|遠方の[[超新星]]の観測を通した[[宇宙]]の[[宇宙の加速|加速膨張]]の発見<br>Astrophys. J.: '''517''' (1999) 565-586 (Perlmutter)<br>Astrophys. J.: '''507''' (1998) 46-63 (Schmidt)<br>Astron. J.: '''116''' (1998) 1009-1038 (Riess)
|-
|[[画像:Brian Schmidt.jpg|75px]]
|[[ブライアン・P・シュミット]]<br>[[:en:Brian Schmidt|Brian Schmidt]]
|{{AUS}}<br>{{USA}}
|-
|[[画像:Adam Riess Agr cover.jpg|75px]]
|[[アダム・リース (天体物理学者)|アダム・リース]]<br>[[:en:Adam Riess|Adam Riess]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|[[2012年]]
|[[画像:Serge Haroche - Théâtre de la Commune d'Aubervilliers - 4 mai 2009.jpg|75px]]
|[[セルジュ・アロシュ]]<br>[[:en:Serge Haroche|Serge Haroche]]
|{{FRA}}<br>({{MAR}}出身)
|rowspan="2"|個別の量子系に対する計測および制御{{Efn2|この技術の応用による[[量子コンピュータ]]の実現が期待される。}}を可能にする画期的な実験的手法に関する業績<ref>[[セルジュ・アロシュ|Serge Haroche]], Jean-Michel Raimond & Michel Brune ; ''Le chat de Schrödinger se prête à l'expérience - Voir en direct le passage du monde quantique au monde classique'', La Recherche 301 (Septembre 1997) 50 (disponible [http://www.larecherche.fr/content/recherche/article?id=19544 ''en ligne'']{{リンク切れ|date=2020年6月}})</ref><ref>[[セルジュ・アロシュ|Serge Haroche]] ; ''Une exploration au cœur du monde quantique'', dans : ''Qu'est-ce que l'Univers'' ?, Vol. 4 de l'Université de Tous les Savoirs (sous la direction d'Yves Michaux), Odile Jacob (2001) 571.</ref><ref>[http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=quantum-computing-with-ions Christopher R. Monroe en David J. Wineland. "Quantum Computing with Ions." Scientific American, 11 augustus 2008.]</ref><ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 2012 |publisher=Nobel Foundation |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2012/index.html |accessdate=2012-10-09}}</ref>
|-
|[[画像:David Wineland 2008crop.jpg|75px]]
|[[デービッド・ワインランド]]<br>[[w:David J. Wineland|David J. Wineland]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|[[2013年]]
|[[画像:Francois Englert.jpg|75px]]
|[[フランソワ・アングレール]]<br>[[:en:François Englert|François Englert]]
|{{BEL}}
|rowspan="2"|[[欧州原子核研究機構]] (CERN) によって存在が確認された[[素粒子]]([[ヒッグス粒子]])に基づく、[[質量]]の起源を説明するメカニズムの理論的発見<ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 2013 |publisher=Nobel Foundation |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2013/index.html |accessdate=2013-10-11}}</ref><br>
Phys. Rev. Lett.: '''13''' (1964) 321 (Englert)<br>
Phys. Rev. Lett.: '''13''' (1964) 508 (Higgs)<br>
Phys. Rev.: '''145''' (1966) 1156 (Higgs)
|-
|[[画像:Higgs, Peter (1929)3.jpg|75px]]
|[[ピーター・ヒッグス]]<br>[[:en:Peter Higgs|Peter Higgs]]
|{{UK}}
|-
|rowspan="3"|[[2014年]]
|[[画像:Isamu Akasaki 20141211.jpg|75px]]
|[[赤﨑勇]]<br>[[:en:Isamu Akasaki|Isamu Akasaki]]
|{{JPN}}
|rowspan="3"|高輝度で省電力の[[白|白色]]光源を実現可能にした[[青色発光ダイオード]]の発明<ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 2014 |publisher=Nobel Foundation |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2014/index.html |accessdate=2014-10-07}}</ref>
|-
|[[画像:Hiroshi Amano 20141211.jpg|75px]]
|[[天野浩]]<br>[[:en:Hiroshi Amano|Hiroshi Amano]]
|{{JPN}}
|-
|[[画像:Professor Shuji Nakamura (Cropped).jpg|75px]]
|[[中村修二]]<br>[[:en:Shuji Nakamura|Shuji Nakamura]]
|{{USA}}<br>({{JPN}}出身)
|-
|rowspan="2"|[[2015年]]
|[[画像:Takaaki Kajita 5171-2015.jpg|75px]]
|[[梶田隆章]]<br>[[:en:Takaaki Kajita|Takaaki Kajita]]
|{{JPN}}
|rowspan="2"|素粒子「[[ニュートリノ]]」が質量を持つことを示す[[ニュートリノ振動]]の発見<ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 2015 |publisher=Nobel Foundation |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2015/index.html |accessdate=2015-10-06}}</ref><br>
Nucl. Phys. B-Proc. Supp.: '''77''' (1999) 43 (McDonald)<br>
Nucl. Phys. B-Proc. Supp.: '''77''' (1999) 123 (Kajita)
|-
|[[画像:Arthur B. McDonald 5193-2015.jpg|75px]]
|[[アーサー・B・マクドナルド]]<br>[[:en:Arthur B. McDonald|Arthur B. McDonald]]
|{{CAN}}
|-
|rowspan="3"|[[2016年]]
|[[画像:DavidThouless 1995 UW.jpg|75px]]
|[[デイヴィッド・J・サウレス]]<br>[[:en:David J. Thouless|David J. Thouless]]
|{{GBR}}<br>{{USA}}
|rowspan="3"|物質のトポロジカル相とトポロジカル相転移の理論的発見<ref>{{Cite journal |year=1973 |title=Ordering, metastability and phase transitions in two-dimensional systems |url=http://stacks.iop.org/0022-3719/6/i=7/a=010 |journal=Journal of Physics C: Solid State Physics |volume=6 |issue=7 |page=1181 |ref=harv |first1=J. M. |last1=Kosterlitz|first2=D. J. |last2=Thouless}}</ref><ref>{{Cite journal |year=1983 |title=Continuum dynamics of the 1-D Heisenberg antiferromagnet: Identification with the O(3) nonlinear sigma model |url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/037596018390631X |journal=Physics Letters A|volume=93 |issue=9 |pages=464–468 |ref=harv|issn=0375-9601 |first1=F.D.M. |last1=Haldane |doi=10.1016/0375-9601(83)90631-X}}</ref>
|-
|[[画像:Duncan Haldane.jpg|75px]]
|[[ダンカン・ホールデン]]<br>[[:en:Duncan Haldane|Duncan Haldane]]
|{{GBR}}<br>{{SVN}}
|-
|[[画像:Jkosterl.jpg|75px]]
|[[ジョン・M・コステリッツ]]<br>[[:en:Michael Kosterlitz|Michael Kosterlitz]]
|{{GBR}}<br>{{USA}}
|-
|rowspan="3" |[[2017年]]
|[[画像:Rainer Weiss - December 2006.jpg|75px]]
|[[レイナー・ワイス]]<br>[[:en:Rainer Weiss|Rainer Weiss]]
|{{USA}}<br>({{GER}}出身)
|rowspan="3"|[[LIGO]]検出器および[[重力波 (相対論)|重力波]]の観測への決定的な貢献
|-
|[[画像:05-0367-92D.hr.jpg|75px]]
|[[バリー・バリッシュ]]<br>[[:en:Barry Barish|Barry Barish]]
|{{USA}}
|-
|[[画像:Kip Thorne at Caltech.jpg|75px]]
|[[キップ・ソーン]]<br>[[:en:Kip Thorne|Kip Thorne]]
||{{USA}}
|-
|rowspan="3" |[[2018年]]
|[[画像:Arthur Ashkin EM1B5678 (44417135450).jpg|75px]]
|[[アーサー・アシュキン]]<br>[[:en:Arthur Ashkin|Arthur Ashkin]]
|{{USA}}
|[[光ピンセット]]の開発と生体システムへの応用
|-
|[[画像:Gérard Mourou (cropped).jpg|75px]]
|[[ジェラール・ムル]]<br>[[:en:Gérard Mourou|Gérard Mourou]]
|{{FRA}}
|rowspan="2"|超高出力・[[超短パルス]]レーザーの[[チャープパルス増幅|生成方法]]の開発
|-
|[[画像:Donna Strickland, OSA Holiday Party 2012.jpg|75px]]
|[[ドナ・ストリックランド]]<br>[[:en:Donna Strickland|Donna Strickland]]
||{{CAN}}
|-
|rowspan="3" |[[2019年]]
|[[画像:Jim Peebles.jpg|75px]]
|[[ジェームズ・ピーブルス]]<br>[[:en:Jim Peebles|Jim Peebles]]
|{{USA}}<br>({{CAN}}出身)
|物理宇宙論における理論的発見
|-
|[[画像:Michel Mayor astrophysicien.JPG|75px]]
|[[ミシェル・マイヨール]]<br>[[:en:Michel Mayor|Michel Mayor]]
|{{SWI}}
|rowspan="2" |太陽型恒星を周回する[[太陽系外惑星]]の発見
|-
|[[画像:Didier Queloz at the ESO 50th Anniversary Gala Event - 01.jpg|75px]]
|[[ディディエ・ケロー]]<br>[[:en:Didier Queloz|Didier Queloz]]
|{{SWI}}
|}
=== 2020年代 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%;margin:10px 0px"
!年度
!colspan=2|受賞者名
!国籍
!受賞理由{{R|nobelprizeorg}}・原著ないし関連論文
|-
|rowspan="3"|[[2020年]]
|[[ファイル:Roger Penrose-6Nov2005.jpg|75px]]
|[[ロジャー・ペンローズ]]<br>[[:en:Roger Penrose|Roger Penrose]]
|{{GBR}}
|[[ブラックホール]]の形成が[[一般相対性理論]]の強力な裏付けであることの発見
|-
|[[ファイル:Reinhard Genzel.jpg|75px]]
|[[ラインハルト・ゲンツェル]]<br>[[:en:Reinhard Genzel|Reinhard Genzel]]
|{{DEU}}
|rowspan="2"|我々の[[銀河系]]の中心にある[[超大質量ブラックホール|超大質量コンパクト天体]]{{Efn2|[[いて座A*]]として知られる。}}の発見
|-
|[[ファイル:Andrea_Ghez.jpg|75px]]
|[[アンドレア・ゲズ]]<br>[[:en:Andrea M. Ghez|Andrea M. Ghez]]
|{{USA}}
|-
| rowspan="3" |[[2021年]]
|[[ファイル:Crafoord Prize EM1B0732 (42329290061).jpg|75px]]
|[[真鍋淑郎]]<br>[[:en:Syukuro Manabe|Syukuro Manabe]]
|{{USA}}<br>({{JPN}}出身)
| rowspan="2" |[[地球]]の[[気候]]の物理的モデリング、[[気候変動]]の定量化、[[地球温暖化]]の確実な予測
|-
|
|[[クラウス・ハッセルマン]]<br>[[:en:Klaus Hasselmann|Klaus Hasselmann]]
|{{DEU}}
|-
|[[ファイル:Parisi giorgio.jpg|75px]]
|[[ジョルジョ・パリージ]]<br>[[:en:Giorgio Parisi|Giorgio Parisi]]
|{{ITA}}
|[[原子]]から[[惑星]]のスケールまでの[[物理システム]]の無秩序と[[ゆらぎ|変動]]の相互作用の発見<br>
Phys. Rev. Lett.: '''43''' (1979) 1754-1756<br>
J. Phys. A: Math. Gen.: '''13''' (1980) L115-L121<br>
Sci. Sin.: '''24''' (1981) 483-496<br>
J. Phys. A: Math. Gen.: '''17''' (1984) 3521-3531<br>
Phys. Rev. Lett.: '''52''' (1984) 1156-1159
|-
| rowspan="3" |[[2022年]]
|[[ファイル:Alain-Aspect-ForMemRS.jpg|75px]]
|[[アラン・アスペ]]<br>[[:en:Alain Aspect|Alain Aspect]]
|{{FRA}}
| rowspan="3" |[[量子もつれ]]状態の[[光子]]を用いた実験による[[ベルの不等式]]の破れの実証と、[[量子情報科学]]における先駆的研究
|-
|[[ファイル:JohnClauser.jpg|75px]]
|[[ジョン・クラウザー]]<br>[[:en:John Clauser|John F. Clauser]]
|{{USA}}
|-
|[[ファイル:Zeilinger_with_sculpture_by_Voss-Andreae.jpg|75px]]
|[[アントン・ツァイリンガー]]<br>[[:en:Anton Zeilinger|Anton Zeilinger]]
|{{AUT}}
|-
| rowspan="3" |[[2023年]]
|
|[[ピエール・アゴスティーニ]]<br/>[[:en:Pierre Agostini|Pierre Agostini]]
|{{USA}}<br>({{FRA}}出身)
| rowspan="3" |物質中の電子ダイナミクスの測定を可能にするアト秒パルス光を生成する実験手法の開発
|-
|[[ファイル:Ferenc_Krausz.jpg|75px]]
|[[フェレンツ・クラウス]]<br>[[:en:Ferenc Krausz|Ferenc Krausz]]
|{{AUT}}<br>({{HUN}}出身)
|-
|[[ファイル:Anne_LHuiller_01.JPG|75px]]
|[[アンヌ・リュイリエ]]<br>[[:en:Anne_L'Huillier|Anne L'Huillier]]
|{{SWE}}<br>({{FRA}}出身)
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{出典の明記|section=1|date=2020年6月12日 (金) 18:00 (UTC)}}
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nobel laureates in Physics}}
{{Commonscat|Nobel Prize in Physics}}
*[[ノーベル賞を巡る論争#物理学賞]]
*[[ウルフ賞物理学部門]]
*[[ローレンツメダル]]
*[[オスカル・クライン記念講座]]
*[[ディラック賞]]
*[[王立天文学会ゴールドメダル]]
*[[ブルース・メダル]]
== 外部リンク ==
*[https://www.nobelprize.org/prizes/physics/ The Nobel Prize in Physics] - 公式サイト {{en icon}}
{{NobelPrizes}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のおへるふつりかくしよう}}
[[Category:ノーベル賞|ふつりかく]]
[[Category:物理学の賞]]
[[Category:物理学史]]
[[Category:スウェーデン王立科学アカデミー]]
[[Category:人名を冠した賞]] | 2003-02-14T03:51:12Z | 2023-10-22T22:46:30Z | false | false | false | [
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1,482 | フリーウェア | フリーウェア (freeware) または無料ソフトウェアとは、オンラインソフトの中で、無料で提供されるソフトウェアのことである。フリーソフト、フリーソフトウェアとも呼ばれる。これに対し、有料、もしくは試用期間後や追加機能に課金されるオンラインソフトはシェアウェアと呼ばれる。なお、フリーソフトウェア財団の主張する「自由なソフトウェア」を意味するフリーソフトウェア (英: Free Software) とは意味が異なる。本項では便宜上、「フリーウェア」の語を無料のソフトウェア、「フリーソフトウェア」の語を「自由なソフトウェア」の意味で用いている。
フリーウェアは「無料で使用できる」ことに重点を置いた呼称であり、それ以外のライセンス条件、とくに変更・再配布などの条件はまちまちで、ソースコードが付属しないために変更ができなかったり、有償配布(販売)や営利利用の禁止など一定の制限が課せられているものも多い。プロプライエタリなフリーウェアは、開発力のあるユーザーにソースコードのダウンロードや所持、貢献などを許可しながらも、開発の方向性とビジネスの可能性を残すことができる。個人が開発しているフリーウェアは有料化されシェアウェアとなったり、HDDのクラッシュ、PCの盗難、ライセンス上の問題、その他の理由で管理できなくなり更新・配布が停止されることが多々ある。
フリーウェア (freeware) という用語は Andrew Fluegelman による造語である。彼は自分の作ったPC-Talkという通信プログラムを配布しようとしたが、配布コストの関係上、伝統的な配布方法を使いたくはなかったので、新しい方法で配布を行い、そこでフリーウェアという言葉を使った。
ただし、実際には、現在でいう所のシェアウェア(shareware)の手法を用いてPC-Talkを配布した。ちなみに以前に彼はfreewareという言葉の商標を持っていた(その後放棄している)。
日本のパソコン通信の黎明期の1980年代後半には、PC-VANやアスキーネットなどで、フリーウェアやシェアウェア、アメリカ産のパブリックドメインソフトウェア (PDS) などを集めて提供するコーナーを PDSと呼んでいた。雑誌や単行本等でのフリーウェアの紹介の際にも、便宜上、PDSと総称していた実態があった。PDSの本来の意味は、著作権が放棄されたソフトウェアであるが、著作権を放棄しているとは言い難いものも含めて PDS という風潮があり、これに対する疑問の声が1990年頃より上がるようになった。
1990年時点においても『PDS白書』『マッキントッシュPDS大図鑑part2』といった書籍が出版されている実情があったが、こういった状態を是正する動きが出て、PC-VANはPDSコーナーをOSL(オンライン・ソフトウェア・ライブラリ)と改称し、アスキーネットもpoolからPDSの名称を外した。
そして、無料で利用できるソフトウェアに対して、PDSに代わる言葉として、当初、一般的に使われるようになったのがフリーウェア、フリーソフト、フリーソフトウェアであった。
しかし、フリーウェアという名称は、その当時は商標として登録されている問題が指摘されたためあまり使われなくなり、日本ではフリーソフトやフリーソフトウェアと呼び換えられることが多かった。特に書籍やCD-ROMなどの商品に収録される場合は、商標上の問題からフリーウェアではなく、フリーソフトと呼ばれることがほとんどである。
一例として、FM TOWNSシリーズ向けに「フリーウェアコレクション」というCD-ROMを富士通が頒布していたが、Vol.4より「フリーソフトウェアコレクション」に名称が改められた。書籍でも1990年12月発行の『J-3100SS/GS定番フリーソフトウェア集』、1991年発行の『フリーソフトウェア派宣言』といったタイトルのものが出始めるようになった。
以後の日本国内のコミュニティにおいてもこれが一般に定着し、2006年現在に至っている。
なお、フリーソフトというのは説明の通り日本独自の呼び方(和製英語)で、英語圏ではこのような呼び方はしないので注意が必要である。
その一方で、フリーウェアとシェアウェアを総称する形でオンラインソフト(オンラインソフトウェア)という呼称がPC-VANや一部のメディアで使われることもあった。現在でも、窓の杜やVectorなどの著名なウェブサイトで積極的に使われているため、この呼び方はある程度普及している。
日本におけるフリーソフト、フリーウェアには高性能なものが多くある。
その代表例がアーカイバのLHAや、CADソフトのJw_cadである。特にJw_cadは価格が数十万円する市販ソフトよりも操作性がよく、パソコン通信でサポートされる点が優秀とされ、同ソフトを収録したムックが4万部出荷される人気を集めた。そのためこれに脅威を感じたCADソフトメーカーの申し入れにより、1994年に日本パーソナル・コンピュータソフトウェア協会でフリーソフト検討小委員会が設けられ、Jw_cadについて意見が交わされる事態にまで至った。この他にもパソコン通信ターミナルソフトのWTERMなどを代表例として、パソコン雑誌の付録やムックに収録されて、市販ソフトを凌ぐものが少なからず存在した。
しかし、パソコンのOSの主流がMS-DOSだった頃には日本国内で圧倒的に多数だったフリーウェアも、Microsoft Windowsが普及する頃になると、ニフティサーブのシェアウェア送金代行サービスなど商用パソコン通信で決済が可能になったことや、開発環境を揃えるのに費用がかかるようになったため、高機能なソフトはシェアウェアの形で発表されることも多くなっていった。
フリーウェアはフリーソフトウェアに比べ、有料化や開発停止になりやすく、セキュリティ的に安全な状態で使えなくなる場合が多い。特にlibpngやzlibなどの脆弱性が時々見つかっているが、それらを含むフリーウェアにおいてきちんと更新している例は少ない。フリーソフトウェアでは開発が停止しても、各ディストロのメンテナ等がセキュリティパッチを当てたりなどの対応をする場合が多いが、ソースコードが提供されていなかったり再配布が不可能だったりするフリーウェアにおいてそれは不可能である。
フリーウェアでは電子署名が無いのにHTTPやFTPなどの中間者攻撃が可能な方法で公開されているという場合が多く、安全にダウンロードできない場合が多い (対してミラーされることの多いフリーソフトウェアでは、HTTPSで電子署名の公開鍵を配って、ソフトウェアには電子署名して公開しているという場合が多い)。特に二次配布サイトや雑誌収録において改竄されていないかを確認するには意識してチェックサムなどを確認する必要があるが、一次配布サイトにおいてチェックサムが安全な方法で公開されていない場合も多い。
窓の杜やVectorのようなフリーウェア配布サイトでは脆弱性の検査までは行っていないが、ウイルス検査は公開前と感染の疑いがある場合のみに行われている。しかし、2006年9月27日にはVectorにおいて新型ウイルスによって大規模なサイト内ウイルス感染が起きている。また、ウイルス感染したソフトウェアを使うことで開発環境に感染し、その開発環境で開発したソフトウェアにまで感染することもあり、2009年夏にはDelphiを狙ったInducが感染を拡大し、Vectorや窓の杜の他、雑誌のDTMマガジンにまで感染したソフトウェアが収録されている。
フリーウェアと類似した形態をとるが、一定の対価を要求あるいは希望するものに、以下のようなものがある。
また、典型的なフリーウェアは、個人ユーザーが開発・配布するものが一般的だが、企業によって開発・配布されるものも少なくない。その多くは有用なものであるが、中には以下のようなものも存在する。 | [
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| フリーウェア (freeware) または無料ソフトウェアとは、オンラインソフトの中で、無料で提供されるソフトウェアのことである。フリーソフト、フリーソフトウェアとも呼ばれる。これに対し、有料、もしくは試用期間後や追加機能に課金されるオンラインソフトはシェアウェアと呼ばれる。なお、フリーソフトウェア財団の主張する「自由なソフトウェア」を意味するフリーソフトウェア とは意味が異なる。本項では便宜上、「フリーウェア」の語を無料のソフトウェア、「フリーソフトウェア」の語を「自由なソフトウェア」の意味で用いている。 フリーウェアは「無料で使用できる」ことに重点を置いた呼称であり、それ以外のライセンス条件、とくに変更・再配布などの条件はまちまちで、ソースコードが付属しないために変更ができなかったり、有償配布(販売)や営利利用の禁止など一定の制限が課せられているものも多い。プロプライエタリなフリーウェアは、開発力のあるユーザーにソースコードのダウンロードや所持、貢献などを許可しながらも、開発の方向性とビジネスの可能性を残すことができる。個人が開発しているフリーウェアは有料化されシェアウェアとなったり、HDDのクラッシュ、PCの盗難、ライセンス上の問題、その他の理由で管理できなくなり更新・配布が停止されることが多々ある。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
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{{Otheruseslist|[[無償]]提供される[[オンラインソフトウェア|オンラインソフト]]|[[フリーソフトウェア財団]]が提唱する「自由なソフトウェア」の概念|フリーソフトウェア}}
'''フリーウェア''' (''freeware'') または'''[[無料]]ソフトウェア'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gnu.org/philosophy/fs-translations.ja.html|title=“free software”という用語の各言語訳|website=[[GNUプロジェクト]]|language=ja|access-date=2019-08-13}}</ref>とは、[[オンラインソフトウェア|オンラインソフト]]の中で、無料で提供される[[ソフトウェア]]のことである。'''フリーソフト'''、'''フリーソフトウェア'''とも呼ばれる。これに対し、有料、もしくは試用期間後や追加機能に課金されるオンラインソフトは'''[[シェアウェア]]'''と呼ばれる。なお、[[フリーソフトウェア財団]]の主張する「自由なソフトウェア」を意味する'''[[フリーソフトウェア]]''' ({{Lang-en-short|Free Software}}) とは意味が異なる。本項では便宜上、「フリーウェア」の語を無料のソフトウェア、「フリーソフトウェア」の語を「自由なソフトウェア」の意味で用いている。
フリーウェアは「無料で使用できる」ことに重点を置いた呼称であり、それ以外の[[ライセンス]]条件、とくに変更・再配布などの条件はまちまちで、[[ソースコード]]が付属しないために変更ができなかったり、有償配布(販売)や営利利用の禁止など一定の制限が課せられているものも多い。[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なフリーウェアは、開発力のあるユーザーにソースコードのダウンロードや所持、貢献などを許可しながらも、開発の方向性とビジネスの可能性を残すことができる。個人が開発しているフリーウェアは有料化されシェアウェアとなったり、HDDのクラッシュ、PCの盗難、ライセンス上の問題、その他の理由で管理できなくなり更新・配布が停止されることが多々ある。
== 用語の歴史 ==
フリーウェア (freeware) という用語は Andrew Fluegelman による造語である。彼は自分の作ったPC-Talkという通信プログラムを配布しようとしたが、配布コストの関係上、伝統的な配布方法を使いたくはなかったので、新しい方法で配布を行い、そこでフリーウェアという言葉を使った。
ただし、実際には、現在でいう所の[[シェアウェア]](''shareware'')の手法を用いてPC-Talkを配布した。ちなみに以前に彼は''freeware''という言葉の商標を持っていた(その後放棄している)。
== 日本における状況 ==
=== 呼称、呼び替え ===
日本の[[パソコン通信]]の黎明期の[[1980年代]]後半には、[[PC-VAN]]や[[アスキーネット]]などで、フリーウェアやシェアウェア、アメリカ産の[[パブリックドメインソフトウェア]] (PDS) などを集めて提供するコーナーを '''PDS'''と呼んでいた。雑誌や単行本等でのフリーウェアの紹介の際にも、便宜上、PDSと総称していた実態があった<ref>ハイテクライト著『PDSでソフト・グルメになる本』HBJ出版局、1989年、p.2</ref>。PDSの本来の意味は、'''著作権が放棄されたソフトウェア'''であるが、著作権を放棄しているとは言い難いものも含めて PDS という風潮があり、<!-- 日本では著作権が放棄できないとはされておらず、方式主義か無方式主義かも無関係 -->これに対する疑問の声が1990年頃より上がるようになった<ref>[http://www.st.rim.or.jp/~phinloda/ フィンローダ]([[ニフティサーブ]]プログラマーズフォーラムSYSOP)「[http://www.st.rim.or.jp/~phinloda/ruins/ruins104.html ものを思ふ頃」]」 1990年2月6日</ref>。
1990年時点においても『PDS白書』『マッキントッシュPDS大図鑑part2』といった書籍が出版されている実情があったが、こういった状態を是正する動きが出て、PC-VANはPDSコーナーをOSL(オンライン・ソフトウェア・ライブラリ)と改称し、アスキーネットもpoolからPDSの名称を外した。
そして、無料で利用できるソフトウェアに対して、PDSに代わる言葉として、当初、一般的に使われるようになったのが'''フリーウェア'''、'''フリーソフト'''、'''フリーソフトウェア'''であった。
しかし、フリーウェアという名称は、その当時は[[商標]]として登録されている問題が指摘されたためあまり使われなくなり、日本ではフリーソフトやフリーソフトウェアと呼び換えられることが多かった<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』([[SBクリエイティブ|ソフトバンク]])1995年9月号、115頁。</ref>。特に[[本|書籍]]やCD-ROMなどの商品に収録される場合は、商標上の問題からフリーウェアではなく、フリーソフトと呼ばれることがほとんどである。
一例として、[[FM TOWNS]]シリーズ向けに「フリーウェアコレクション」という[[CD-ROM]]を富士通が頒布していたが、Vol.4より「フリーソフトウェアコレクション」に名称が改められた。書籍でも1990年12月発行の『J-3100SS/GS定番フリーソフトウェア集』、1991年発行の『フリーソフトウェア派宣言』といったタイトルのものが出始めるようになった。
以後の日本国内のコミュニティにおいてもこれが一般に定着し、2006年現在に至っている。
なお、フリーソフトというのは説明の通り日本独自の呼び方([[和製英語]])で、英語圏ではこのような呼び方はしないので注意が必要である。
その一方で、フリーウェアとシェアウェアを総称する形で[[オンラインソフト]](オンラインソフトウェア)という呼称がPC-VANや一部のメディアで使われることもあった。現在でも、[[窓の杜]]や[[ベクター (企業)|Vector]]などの著名な[[ウェブサイト]]で積極的に使われているため、この呼び方はある程度普及している。
=== 特徴 ===
日本におけるフリーソフト、フリーウェアには高性能なものが多くある。
その代表例が[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイバ]]の[[LHA]]や、[[CAD]]ソフトの[[Jw_cad]]である。特にJw_cadは価格が数十万円する市販ソフトよりも操作性がよく、パソコン通信でサポートされる点が優秀とされ、同ソフトを収録した[[ムック (出版)|ムック]]が4万部出荷される人気を集めた。そのためこれに脅威を感じたCADソフトメーカーの申し入れにより、[[1994年]]に日本パーソナル・コンピュータソフトウェア協会でフリーソフト検討小委員会が設けられ、Jw_cadについて意見が交わされる事態にまで至った。この他にもパソコン通信ターミナルソフトのWTERMなどを代表例として、[[パソコン雑誌]]の付録やムックに収録されて、市販ソフトを凌ぐものが少なからず存在した。
しかし、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[オペレーティングシステム|OS]]の主流が[[MS-DOS]]だった頃には日本国内で圧倒的に多数だったフリーウェアも、[[Microsoft Windows]]が普及する頃になると、ニフティサーブのシェアウェア送金代行サービスなど商用パソコン通信で決済が可能になったことや、開発環境を揃えるのに費用がかかるようになったため、高機能なソフトは[[シェアウェア]]の形で発表されることも多くなっていった。
== セキュリティ問題 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年5月}}
{{独自研究|section=1|date=2012年5月}}
フリーウェアはフリーソフトウェアに比べ、有料化や開発停止になりやすく、セキュリティ的に安全な状態で使えなくなる場合が多い。特にlibpngやzlibなどの脆弱性が時々見つかっているが、それらを含むフリーウェアにおいてきちんと更新している例は少ない。フリーソフトウェアでは開発が停止しても、各ディストロのメンテナ等がセキュリティパッチを当てたりなどの対応をする場合が多いが、ソースコードが提供されていなかったり再配布が不可能だったりするフリーウェアにおいてそれは不可能である。
* ファイル共有ソフト[[Winny]]の作者逮捕による開発停止後、リモートでコードが実行可能な脆弱性が見つかる<ref>[https://japan.cnet.com/article/20418703/ 「Winny」に複数の脆弱性--対策予定なく、利用停止呼びかける]</ref>
* ペイントソフト[[ペイントツールSAI|SAI]]のシェアウェア化
* 漫画閲覧ソフト[[マンガミーヤ]]による[[Xpdf]]のライセンス侵害による開発停止 (開発停止後にもXpdfの脆弱性は複数見つかっている)
* ウェブブラウザ[[Sleipnir]]のソースコード盗難による開発継続不可 (その後、スクラッチからSleipnir2が製作されたが、空白期間は脆弱性への対応などができない状態であった)
* UNLHA32 の開発停止及びセキュリティ脆弱性から来る使用中止の呼び掛け。開発停止したフリーウェアのなかにはUNLHA32を含むものが数多くあるが、それらが脆弱なままとなる。
フリーウェアでは[[電子署名]]が無いのにHTTPやFTPなどの中間者攻撃が可能な方法で公開されているという場合が多く、安全にダウンロードできない場合が多い (対してミラーされることの多いフリーソフトウェアでは、HTTPSで電子署名の公開鍵を配って、ソフトウェアには電子署名して公開しているという場合が多い)。特に二次配布サイトや雑誌収録において改竄されていないかを確認するには意識してチェックサムなどを確認する必要があるが、一次配布サイトにおいてチェックサムが安全な方法で公開されていない場合も多い。
[[窓の杜]]や[[Vector]]のようなフリーウェア配布サイトでは脆弱性の検査までは行っていないが、ウイルス検査は公開前と感染の疑いがある場合のみに行われている<ref>[http://www.vector.co.jp/info/vtest.html 『Vector』のウイルスチェック体制]</ref><ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/info/about/viruscheck.html 窓の杜でのウイルスチェックについて]</ref>。しかし、2006年9月27日にはVectorにおいて新型ウイルスによって大規模なサイト内ウイルス感染が起きている<ref>[http://www.vector.co.jp/info/060927_system_maint.html 弊社サイトのウイルス感染に関するお詫びとご説明(修正版)]</ref>。また、ウイルス感染したソフトウェアを使うことで開発環境に感染し、その開発環境で開発したソフトウェアにまで感染することもあり、2009年夏にはDelphiを狙ったInducが感染を拡大し<ref>[http://www.computerworld.jp/topics/vs/159649.html Delphiに感染、開発したアプリにマルコードを組み込む新手のウイルスが登場]</ref>、Vectorや窓の杜<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/310435.html Delphi汚染ウイルス、「Vector」「窓の杜」収録ソフトに感染確認]</ref>の他、雑誌の[[DTMマガジン]]にまで感染したソフトウェアが収録されている<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/311438.html DTMマガジン9月号付録DVDの収録フリーソフトが「Induc」感染]</ref>。
== 類似の概念 ==
フリーウェアと類似した形態をとるが、一定の対価を要求あるいは希望するものに、以下のようなものがある。
<!--クリップルウェア (Crippleware)、-->
; [[シェアウェア]] (Shareware)
: フリーウェアと同じように配布されるが、試用期間後は支払いを要求したりするもの。<!--機能が不完全で、フル機能を使うために支払いをする場合はクリップルウェアである。-->
; [[ドネーションウェア]] (Donationware)
: 作者がソフトウェアを使うすべての者に対して作者やあるいは[[チャリティー]]といった第三者への寄付金を要求するもの。寄付が任意であれば、ドネーションウェアはフリーウェアであるか、あるいは他のカテゴリーに入るとされている。
; [[ポストカードウェア]] (Postcardware)
: 基本的にはフリーウェアであるが、作者が謝辞やフィードバックのポストカードを送ることを要求しているもの。
; [[メールウェア]] (Mailware)
: ポストカードウェアとほぼ同じで、フィードバックを[[電子メール]]で送ることを要求しているもの。まれにフィードバックを送ることでユーザ登録(無料)され、[[ライセンスキー]]が送られてくるものもある。それまではシェアウェア同様機能が制限されたりする。
また、典型的なフリーウェアは、個人ユーザーが開発・配布するものが一般的だが、企業によって開発・配布されるものも少なくない。その多くは有用なものであるが、中には以下のようなものも存在する。
; 客寄せ (Loss leader)
: 消費者にサービスを使ってもらうためや、消費者を誘い商品を買わせるために無料で配られるようなもの。販促目的でよく使われる。
; [[アドウェア]] (Adware)
: フリーウェアとして配布されるが、そのソフトウェアを使うためには広告を見ることが要求されるもの。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年9月|section=1}}
* The History of Shareware by Michael E. Callahan
* GNU's declaration that "freeware" is not the same as "free software"
* Making Sense of Freeware, Open Source, and Shareware
* Andrew Fluegleman: In Memoriam by Kevin Strehlo
* Paul Lutus: CareWare concept
* [http://www.catb.org/~esr/jargon/html/F/freeware.html The Jargon File]
== 関連項目 ==
* [[フリーゲーム]]
* [[フリーソフトウェア#自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア]]
{{Software distribution}}
{{DEFAULTSORT:ふりいうえあ}}
[[Category:ソフトウェアの分類]]
[[Category:ソフトウェア]]
[[Category:フリーウェア|*]]
[[Category:パソコン通信]] | 2003-02-14T03:52:48Z | 2023-10-25T05:46:04Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2 |
1,483 | ノーベル平和賞 | ノーベル平和賞(、ノルウェー語: Nobels fredspris)は、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つ。
ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェー政府が授与主体である。ノーベル平和賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には三位一体を表現した図案「Pro pace et fraternitate gentium」の文が刻まれている(受賞者名も刻まれる)。
創設者のノーベルは遺言で、平和賞を「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべしとしている。他のノーベル賞と異なり、団体も授与対象となっているのが特徴である。政治情勢の影響を受けやすく、第一次世界大戦、第二次世界大戦の時期等、受賞者がないことも見られた。
当時業績とされた実績が後から欠陥があったり、効果のないものと判明したりするために失望を招くことが多発している。そのため、賞の価値が批判されるなど受賞者選定や賞そのものの妥当性が度々指摘されており、廃止の声も上がっているという。
また、受賞前の実績だけではなく、受賞後の政治的情勢を誘引する目的で贈られる場合もある。賞は、12月10日午後1時(現地時間)からオスロのオスロ市庁舎で授賞式が行われる。
毎年の受賞は最高3人。選考はノルウェーの国会が指名する5人の委員と選考を取り仕切る1人の書記で構成されているノルウェー・ノーベル委員会が行う。各国に推薦依頼状(通常非公表)を送り、推薦された候補者より選ばれる。2013年には259の個人と組織(うち50の組織)の推薦があり、過去最大の数とされている。受賞が決まるのは例年10月頃。候補者の名前は50年間公表されない。個人の場合は生存していること、組織の場合は現存することが条件であり、物故者への追贈はない。死後この賞を受けたのはダグ・ハマーショルドのみ(存命中に授与が決定していたため)。
トマーシュ・マサリク、ウィリアム・ハワード・タフトなどの政治家、ニコライ2世、ハイレ・セラシエ1世といった君主、レフ・トルストイ、ピエール・ド・クーベルタンなどが候補となっていたことが公表されている。
現在では独裁者とされる人物が推薦された例もある。1939年にはアドルフ・ヒトラーが推薦されているが、これは反ファシズムの立場を取るスウェーデンの国会議員によるもので、皮肉を意図したものであったとされる。しかし武田知弘によると、推薦したのはエリク・ゴットフリード・クリスティアン・ブラント(英語版)でこのジョーク説は第二次世界大戦後にノーベル平和賞委員会とブラントの後付けの言い訳にすぎず、1938年9月に開かれたズデーテン割譲を巡るミュンヘン会談の結果を受けて世界に平和をもたらしたとして、ネヴィル・チェンバレンが称賛されたようにイギリスとドイツに挟まれるスウェーデンは大戦回避をもたらしたヒトラーを推薦したとしている。しかし推薦を受けた直後の1939年9月にナチス・ドイツはポーランドに侵攻を開始したため推薦は取り消された。他にベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン、フアン・ペロン夫妻もノミネートされているが、受賞には至っていない。
ジェーン・アダムズは1916年に初めて推薦を受けて以来、1931年に受賞するまでにのべ91回の推薦を受けた。これは推薦を受けた回数としては最多のものである。
賞金額は1901年当時の賞金額を、その年の貨幣価値に換算されたものが贈られる。2012年以降、平和賞の賞金は一つの賞あたり、800万スウェーデン・クローナとされている。このため共同受賞となった場合には、受賞金額を受賞者達で分け合うことになる。1976年に受賞したベティ・ウィリアムズ、マイレッド・コリガン=マグワイアの組織は、賞金の分配でもめてバラバラになってしまった。
医学・物理・化学の科学3賞は、業績に対してある程度客観的な評価と期間を経て選考決定される。しかし、ノーベル平和賞は「現在進行形の事柄に関わる人物」も受賞対象になり、毎年選考に向けて、選考委員に対するロビー活動や政治行動が多く起こるため、選考結果を巡り、世界中で度々論議が起こる。科学3賞や、賞そのものに対して批判のあるノーベル経済学賞と比べ、政治色が強くなりがちである。平和賞受賞者が、その後に世界の失望を招くこともあり、問題視されている。
2020年にニューヨーク・タイムズは過去30年間のノーベル平和賞受賞者のうち、当時業績とされたモノは後から考えると欠陥があったり、効果のないものと判明したりした6人の「疑わしい」受賞者として、エチオピアのアビィ・アハメド首相(2019年受賞)、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問(1991年受賞)、イスラエルのシモン・ペレス元首相、同イツハク・ラビン元首相、パレスチナ解放機構のヤーセル・アラファト議長(1994年受賞)、韓国の金大中・元大統領(2000年受賞)、アメリカ合衆国のバラク・オバマ元大統領(2009年受賞)の名を挙げている。ノルウェー・オスロ国際平和研究所のウーダル所長も「最近では現在進行中のことに対して賞を授け、候補者たちが賞に見合った振る舞いをするよう促している」として「これは非常に危険な行為」と指摘している。
ノーベル平和賞受賞者の一部は、戦争を助長したと思われる行動を取ったこともあり、「ノーベル平和賞でなくノーベル戦争賞と呼ばなければいけない」という皮肉もある。特に中東和平問題について広瀬隆は、イスラエルとパレスチナ解放機構の秘密会談が行われた背景にアラブ人が不利になる可能性を指摘していた。
ノルウェー外交による政治アピールの側面もあるとの見方もある。2015年10月9日付けの『ディ・ヴェルト』は「ノーベル平和賞における巨大な誤った決定」との見出しで、同紙が疑問に思う『ノーベル平和賞受賞者』を列挙した。
マハトマ・ガンディーはノーベル平和賞を受賞しなかった。死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている。 | [
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"text": "賞金額は1901年当時の賞金額を、その年の貨幣価値に換算されたものが贈られる。2012年以降、平和賞の賞金は一つの賞あたり、800万スウェーデン・クローナとされている。このため共同受賞となった場合には、受賞金額を受賞者達で分け合うことになる。1976年に受賞したベティ・ウィリアムズ、マイレッド・コリガン=マグワイアの組織は、賞金の分配でもめてバラバラになってしまった。",
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"text": "マハトマ・ガンディーはノーベル平和賞を受賞しなかった。死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている。",
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| ノーベル平和賞(ノーベルへいわしょう、は、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つ。 ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェー政府が授与主体である。ノーベル平和賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔、裏面には三位一体を表現した図案「Pro pace et fraternitate gentium」の文が刻まれている。 | {{Infobox award
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[[画像:Storting Spring 2016.JPG|250px|thumb|ノーベル平和賞受賞者を決定するノルウェー議会]]
[[画像:Oslo rådhus2.jpg|250px|thumb|オスロ市庁舎外観]]
[[画像:1974 Nobel Peace Prize awarded to Eisaku Satō.jpg|250px|thumb|1974年のノーベル平和賞のメダル]]
{{読み仮名|'''ノーベル平和賞'''|ノーベルへいわしょう|{{lang-no|Nobels fredspris}}}}は、[[ノーベル賞]]の一部門で、[[アルフレッド・ノーベル]]の[[遺言]]によって創設された5部門のうちの一つ<ref name="yoshitake2011">[http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun13-4/02yoshitake.pdf ノーベル賞の国際政治学 -ノーベル平和賞の歴史的発展と選考過程-,吉武信彦,高崎経済大学地域政策学会,地域政策研究,vol.13-4,pp.23-40,2011-02]</ref><ref name="emb">[https://www.no.emb-japan.go.jp/Japanese/Nikokukan/nikokukan_files/nouberuheiwashou.pdf ノーベル平和賞、在ノルウェー日本国大使館]</ref>。
ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルは[[スウェーデン]]と[[ノルウェー]]両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェー政府が授与主体である。ノーベル平和賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には[[三位一体]]を表現した図案「{{lang|no|Pro pace et fraternitate gentium}}」の文が刻まれている(受賞者名も刻まれる)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.award-press.jp/2015/10/02/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB/ |title=ノーベル賞のメダル |publisher=アワードプレス |accessdate=2017-10-04}}</ref>。
== 概要 ==
創設者のノーベルは遺言で、平和賞を「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべしとしている<ref name="yoshitake2011"/><ref name="emb"/>。他のノーベル賞と異なり、団体も授与対象となっているのが特徴である<ref name="emb"/>。政治情勢の影響を受けやすく、[[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]の時期等、受賞者がないことも見られた<ref name="emb"/>。
当時業績とされた実績が後から欠陥があったり、効果のないものと判明したりするために失望を招くことが多発している。そのため、賞の価値が批判されるなど受賞者選定や賞そのものの妥当性が度々指摘されており<ref>{{Cite web|和書|title=2016年は誰が手にした? ノーベル平和賞なんていらない理由|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1611/17/news027.html|website=ITmedia ビジネスオンライン|date=2016-11-17|accessdate=2020-11-16|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=金大中・オバマ・スーチー…米紙が選ぶ「疑わしいノーベル平和賞」(朝鮮日報日本語版)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/1a16f9573827ea71ce2a7a4b374c93671c4abc91|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2020-11-16|language=ja|publisher=|quote= NYTは同日「疑わしいノーベル平和賞受賞者の増加」と題する記事で「ノーベル平和賞は過去30年間で最低でも6回、受賞前あるいは受賞後の言動に価値がない、場合によってはばかげていると見なされる人物を選んだ」と報じた。}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=なぜノーベル平和賞の受賞者は、その後に世界の「失望」を招くのか|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8578.php|website=Newsweek日本版|date=2017-10-04|accessdate=2020-11-16|language=ja}}</ref>、廃止の声も上がっているという。
また、受賞前の実績だけではなく、受賞後の政治的情勢を誘引する目的で贈られる場合もある。賞は、[[12月10日]]午後1時(現地時間)からオスロの[[オスロ市庁舎]]で授賞式が行われる。
== 選定方式 ==
毎年の受賞は最高3人。選考はノルウェーの国会が指名する5人の委員と選考を取り仕切る1人の書記で構成されている[[ノルウェー・ノーベル委員会]]が行う。各国に推薦依頼状(通常非公表)を送り、推薦された候補者より選ばれる。2013年には259の個人と組織(うち50の組織)の推薦があり、過去最大の数とされている<ref name="nobelfact">[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/facts/peace/ Facts on the Nobel Peace Prize] - ノーベル賞公式サイト(英語)</ref>。受賞が決まるのは例年10月頃。候補者の名前は50年間公表されない<ref name="nobelfact"/>。個人の場合は生存していること、組織の場合は現存することが条件であり、物故者への追贈はない。死後この賞を受けたのは[[ダグ・ハマーショルド]]のみ(存命中に授与が決定していたため)<ref name="nobelfact"/>。
[[トマーシュ・マサリク]]、[[ウィリアム・ハワード・タフト]]などの政治家、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]、[[ハイレ・セラシエ1世]]といった君主、[[レフ・トルストイ]]、[[ピエール・ド・クーベルタン]]などが候補となっていたことが公表されている<ref name="nobelfact"/>。
現在では[[独裁者]]とされる人物が推薦された例もある。1939年には[[アドルフ・ヒトラー]]が推薦されているが、これは反ファシズムの立場を取るスウェーデンの国会議員によるもので、皮肉を意図したものであったとされる<ref name="nobelfact"/>。しかし[[武田知弘]]によると、推薦したのは{{仮リンク|エリク・ゴットフリード・クリスティアン・ブラント|en|Erik Gottfrid Christian Brandt}}でこのジョーク説は第二次世界大戦後にノーベル平和賞委員会とブラントの後付けの言い訳にすぎず、[[1938年]]9月に開かれた[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|ズデーテン割譲]]を巡る[[ミュンヘン会談]]の結果を受けて世界に平和をもたらしたとして、[[ネヴィル・チェンバレン]]が称賛されたようにイギリスとドイツに挟まれるスウェーデンは大戦回避をもたらしたヒトラーを推薦したとしている。しかし推薦を受けた直後の1939年9月にナチス・ドイツは[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]を開始したため推薦は取り消された<ref>{{Cite|和書|author=[[武田知弘]]
|title=なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか|publisher=[[ビジネス社]]|date=2019-10-15|pages=65|isbn =978-4-8284-2136-0}}</ref>。他に[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[ヨシフ・スターリン]]、[[フアン・ペロン]]夫妻もノミネートされているが、受賞には至っていない<ref name="nobelfact"/>。
[[ジェーン・アダムズ]]は1916年に初めて推薦を受けて以来、1931年に受賞するまでにのべ91回の推薦を受けた。これは推薦を受けた回数としては最多のものである<ref name="nobelfact"/>。
== 賞金 ==
賞金額は1901年当時の賞金額を、その年の貨幣価値に換算されたものが贈られる<ref>[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/about/amounts/index.html The Nobel Prize Amounts] - ノーベル賞公式サイト(英語)</ref>。2012年以降、平和賞の賞金は一つの賞あたり、800万[[スウェーデン・クローナ]]とされている<ref name="nobelfact"/>。このため共同受賞となった場合には、受賞金額を受賞者達で分け合うことになる。1976年に受賞した[[ベティ・ウィリアムズ]]、[[マイレッド・コリガン・マグワイア|マイレッド・コリガン=マグワイア]]の組織は、賞金の分配でもめてバラバラになってしまった{{要出典|date=2017年12月}}。
== 論争と批判 ==
{{see also|ノーベル賞を巡る論争#平和賞}}
医学・物理・化学の科学3賞は、業績に対してある程度客観的な評価と期間を経て選考決定される。しかし、ノーベル平和賞は「現在進行形の事柄に関わる人物」も受賞対象になり、毎年選考に向けて、選考委員に対する[[ロビー活動]]や政治行動が多く起こるため、選考結果を巡り、世界中で度々論議が起こる。科学3賞や、賞そのものに対して批判のある[[ノーベル経済学賞]]と比べ、政治色が強くなりがちである。平和賞受賞者が、その後に[[世界]]の失望を招くこともあり、問題視されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8578_4.php |title=なぜノーベル平和賞の受賞者は、その後に世界の「失望」を招くのか |publisher=アワードプレス |accessdate=2017-10-04}}</ref>。
2020年に[[ニューヨーク・タイムズ]]は過去30年間のノーベル平和賞受賞者のうち、当時業績とされたモノは後から考えると欠陥があったり、効果のないものと判明したりした6人の「疑わしい」受賞者として、[[エチオピア]]の[[アビィ・アハメド]]首相(2019年受賞)、[[ミャンマー]]の[[アウンサンスーチー|アウン・サン・スー・チー]][[ミャンマーの国家顧問|国家顧問]](1991年受賞)、[[イスラエル]]の[[シモン・ペレス]]元[[イスラエルの首相|首相]]、同[[イツハク・ラビン]]元首相、[[パレスチナ解放機構]]の[[ヤーセル・アラファト]]議長(1994年受賞)、[[大韓民国|韓国]]の[[金大中]]・元[[大統領 (大韓民国)|大統領]](2000年受賞)、[[アメリカ合衆国]]の[[バラク・オバマ]]元[[アメリカ合衆国大統領|大統領]](2009年受賞)の名を挙げている。ノルウェー・オスロ国際平和研究所のウーダル所長も「最近では現在進行中のことに対して賞を授け、候補者たちが賞に見合った振る舞いをするよう促している」として「これは非常に危険な行為」と指摘している<ref name=":0" />。
ノーベル平和賞受賞者の一部は、[[戦争]]を助長したと思われる行動を取ったこともあり、「ノーベル平和賞でなく'''ノーベル戦争賞'''と呼ばなければいけない」という皮肉もある<ref>{{Cite news |title=今回はマララさん…「ノーベル平和賞は論争を呼ぶ賞」 |newspaper=[[中央日報]] |date=2014-10-13 |url=http://japanese.joins.com/article/214/191214.html |accessdate=2014-10-13}}</ref>。特に[[中東]]和平問題について[[広瀬隆]]は、[[イスラエル]]と[[パレスチナ解放機構]]の秘密会談が行われた背景に[[アラブ人]]が不利になる可能性を指摘していた{{efn2|広瀬は根拠を示すために、まず当事者のイスラエル、会場の山荘を提供した[[:en:Orkla Group]]、その実質的な支配者である[[:en:Nobel Industries]]、[[アンブロシアーノ銀行#その後|ハンブローズ銀行]]、[[ヴァレンベリ家]]、そして[[ロスチャイルド]]を家系図と役員兼任関係で纏め上げた<ref>『地球のゆくえ』 集英社 1994年 系図8 一九九三年中東和平秘密会談の内幕</ref>。}}。
ノルウェー外交による政治アピールの側面もあるとの見方もある。2015年10月9日付けの『[[ディ・ヴェルト]]』は「ノーベル平和賞における巨大な誤った決定」との見出しで、同紙が疑問に思う『ノーベル平和賞受賞者』を列挙した。
;成果の価値の有無で物議を醸すことになった受賞例
* 1973年には、[[ベトナム戦争]]の[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]調印を理由に、[[アメリカ合衆国]]の[[ヘンリー・キッシンジャー]]と[[ベトナム民主共和国|ベトナム民主共和国(北ベトナム)]]の[[レ・ドゥク・ト]]が共同受賞したが、キッシンジャーへの授与に対しては、ノーベル平和賞委員会の中でも激しい議論が巻き起こり、反対した2人の委員が、抗議のため辞任するほどだった。平和賞の授与主体であるノルウェー政府は、激しい世論の批判にさらされ、当時の国王[[オーラヴ5世 (ノルウェー王)|オラフ5世]]が、首都オスロの路上で雪玉を投げ付けられる事件まで起きた。またレ・ドゥク・トは、[[ベトナム]]に[[平和]]が訪れていない事を理由に、平和賞の受賞を辞退した。その後、ベトナム民主共和国はパリ和平協定を破って、[[ベトナム共和国|南ベトナム]]への攻撃を再開し、1975年4月30日には[[サイゴン陥落]]させ、ベトナム全土を武力統一し、1976年に[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]を樹立させた。
* [[ミャンマー]]民主化運動の指導者として、[[1991年]]に受賞したミャンマーの[[アウンサンスーチー|アウン・サン・スー・チー]]は、[[2016年]]の総選挙で率いる[[国民民主連盟]]が大勝し、事実上の[[首相]]に相当する「[[ミャンマーの国家顧問|国家顧問]]」に就任したが、[[民族浄化]]との指摘もある[[ロヒンギャ]]問題への対応が消極的であるとして、平和賞の取り消しを求める請願運動がインターネット上で行われ、36万を超える[[署名]]が寄せられている。これに対し選考委員会は、取り消しに関する条項が存在しないことを理由に、行わないとの声明を出している<ref>{{Cite news |url=https://www.cnn.co.jp/world/35124851.html|title=スーチー氏のノーベル平和賞は剥奪せず 選考委員会 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |publisher=CNN.co.jp |date=2018-08-30}}</ref> 。
* 1994年には、[[オスロ合意|パレスチナ和平合意]]締結を理由に、[[イスラエル]]の[[イツハク・ラビン]][[イスラエルの首相|首相]]と[[シモン・ペレス]]外相、[[パレスチナ解放機構]] (PLO) の[[ヤーセル・アラファト]]議長が共同受賞したが、パレスチナの平和は続かず、やがて武力紛争が再開された。
* 2000年に史上初の[[南北首脳会談#第1回南北首脳会談(2000年6月)|南北首脳会談]]を実現させたとして受賞した[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]の[[金大中]]も、政権発足当時から受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、会談の相手国である[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に5億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]を不法に送金していたことが、後年アメリカに政治[[亡命]]した大韓民国国家安全企画部(現:[[大韓民国国家情報院|韓国国家情報院]])の元職員によって暴露され、「カネで買った平和賞」との批判が巻き起こった。
* 2002年には、アメリカ合衆国の[[ジミー・カーター]]元[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が受賞した。当時アメリカの[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権が行おうとしていた[[イラク戦争]]に対して、ヨーロッパとりわけ[[北欧]]諸国は反対の立場をとっており、カーターの受賞は、カーターが北ヨーロッパ同様に[[イラク]]攻撃に懐疑的であったことによると考えられている。また2005年に受賞した[[エジプト]]の[[モハメド・エルバラダイ]]は、イラク戦争を契機に、アメリカに対して批判的態度を採っており、この受賞もブッシュ政権への批判であると指摘されている<ref>[http://rocketnews24.com/?p=16717 ノーベル平和賞はしばしば政治的に使われていた] [[ロケットニュース24]]</ref>。
* 2007年には、環境問題提起によるアメリカの元[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[アル・ゴア]]への授賞も、上記と同じように政治的な意味合いが強かったのではないかとされている。[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年の大統領選挙]]は、ゴア対ブッシュとなり、後者の勝利が決定に至るまで、紆余曲折([[ブッシュ対ゴア事件]]参照)があったことは周知の事実である。また、同じく候補だった[[イレーナ・センドラー]](ポーランドのシンドラーとも呼ばれる反ホロコーストレジスタンスの活動家)の方が平和賞の趣旨に沿った活動を行っており、より相応しかったのではないかと言う批判も根強かった<ref name="ifsw.org">[http://www.ifsw.org/en/p38000913.html?force_folder=038000059International Federation of Social Workers (IFSW) – IFSW supported nomination of Irena Sendler for Nobel Peace Prize]. IFSW. 2010年12月10日閲覧</ref>。
* 2009年には、当時現職の[[アメリカ合衆国大統領]][[バラク・オバマ]]が、[[チェコ|チェコ共和国]][[プラハ]]での「核なき世界」演説に代表される「核軍縮政策の呼びかけ」などを理由に受賞したが、「演説だけで受賞」と言う揶揄や、大統領就任1年目で実績が乏しい段階での授与だったため、「時期尚早ではないか」との論議が巻き起こった<ref>{{Cite news |date=2009-10-10 |url=http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=a1Yq5eJ2DR7U |title=オバマ大統領へのノーベル平和賞授与に批判-「早まった聖人化」 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] |accessdate=2011-01-29}}</ref><ref>{{Cite news |author=[[クリストファー・ヒッチェンズ]] |date=2009-12-22 |url=http://newsweekjapan.jp/stories/2009/12/post-849.php |title=あまりに軽いオバマのサプライズ受賞 |publisher=[[ニューズウィーク]] |accessdate=2011-01-29}}</ref>。平和賞推薦の締め切りが、オバマの大統領就任12日後だったことも、驚きに拍車をかけることとなった<ref>{{Cite news |url=http://articles.cnn.com/2009-10-09/world/nobel.peace.prize_1_norwegian-nobel-committee-international-diplomacy-and-cooperation-nuclear-weapons?_s=PM:WORLD |publisher=CNN |title=Obama:Nobel Peace Prize is call to action |date=2009-10-09}}</ref> 。その後、オバマ政権は受賞後の2010年以降相次いで[[臨界前核実験]]を強行したり<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM13025_T11C10A0NN0000/|title=オバマ政権初の臨界前核実験 4年ぶり、9月中旬実施 「データ収集目的」 国際的反発も|newspaper=日本経済新聞|date=2010-10-13|accessdate=2023-07-20}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM07029_X01C12A2EB1000/|title=米が臨界前核実験 オバマ政権で4回目 核安全保障局が発表|newspaper=日本経済新聞|date=2012-12-07|accessdate=2023-07-20}}</ref>2013年の[[シリア内戦]]への武力介入の動きに対しても批判が挙がっている<ref>{{cite news|url=https://jp.reuters.com/article/l4n0gx061-analysis-obama-syria-idJPTYE98102L20130902|title=焦点:消極的な「世界の警察」、シリア攻撃めぐる米大統領の憂慮|newspaper=ロイター|date=2013-09-02|accessdate=2023-07-20}}</ref>ほか、2015年には[[アフガニスタン]]で、1999年受賞者である[[国境なき医師団]]が運営している[[クンドゥーズ病院爆撃事件|クンドゥーズの病院]]を、[[誤爆|誤った情報に基づいて攻撃]]し、[[戦争犯罪]]と指弾されるなど<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/world/35071433.html |title=アフガン病院誤爆 国連、「戦争犯罪の可能性も」 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |publisher=CNN.co.jp |date=2015-10-05 |accessdate=2016-04-26}}</ref>、おおよそ「平和」とは裏腹の行動を数多く行いこれも受賞に関して賛否が分かれる要因となっている。
* 2012年には、[[ヨーロッパ]]の平和と[[和解]]への長年の貢献を評価したとして、[[欧州連合]]が受賞。しかし評価する声もある一方、通貨[[ユーロ]]の[[2010年欧州ソブリン危機|ソブリン危機]]の影響が強い中での受賞に、中国[[新華社]]は「平和賞の名声損なう」<ref>『中国新華社「平和賞の名声損なう」と批判論評』 [[産経新聞]]2012年10月13日</ref>、[[チェコ]][[チェコの大統領|大統領]][[ヴァーツラフ・クラウス]](当時)は「悲劇的な過ち」<ref>『授賞は「悲劇的過ち」チェコ大統領」と批判論評』産経新聞2012年10月13日</ref> 、[[ロシア]]人権活動家[[リュドミラ・アレクセーエワ]]は「正しいとはいえない」<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/121013/erp12101300480003-n1.htm |title=「政治的」また批判の声 実績より期待感後押し |newspaper=産経新聞 |date=2012-10-13}}</ref> 、[[イラン]]の[[ナガヴィー・ホセイニー]]報道官は「政治的に利用されるための道具となっている」<ref>{{Cite news
|url=http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/32455-%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E3%80%81%E3%80%8C%E8%A5%BF%E5%81%B4%E3%81%AF%E3%80%81%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%B3%9E%E3%82%92%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E3%81%AB%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%80%8D |title=イラン国会、「西側は、ノーベル平和賞を政治的に利用」 |newspaper=[[イラン・イスラム共和国放送]] |date=2012-10-13}}</ref>とそれぞれコメントし、政治的との批判が挙がった。
* 2014年の[[パキスタン]]の女性人権活動家である[[マララ・ユスフザイ]]の受賞については「若過ぎではないのか」(史上初の未成年者)<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date2&k=2014101000816 「若過ぎる」と懸念も=マララさん、一躍人権のヒロインに―ノーベル平和賞] 時事通信2014年10月10日</ref> 、「[[イスラム国家]]を敵に回した」などの声が挙がった。
* 2017年の[[核兵器廃絶国際キャンペーン]] (ICAN) の受賞については、アメリカ合衆国やロシア連邦など、主要[[核保有国]]が駐在[[特命全権大使]]の授賞式出席をボイコットするなど反発している。
* 2019年に受賞した[[エチオピア]]の[[アビィ・アハメド]]首相は、翌年、国内の反政府勢力の一つ[[ティグレ人民解放戦線]]に対し、事実上の[[宣戦布告]]を行った<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-06 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3314259?cx_part=search|title=エチオピア軍が北部州政府と「戦争突入」 ノーベル平和賞の首相が命令 |publisher=AFP |accessdate=2020-11-26}}</ref>。軍事衝突([[ティグレ紛争]])の結果、数週間で数百人の死者と数万人の避難民を生み出した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-27 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3318175?cx_part=top_topstory&cx_position=1 |title=エチオピア首相、北部勢力への「最終」攻勢を命令 |publisher=AFP |accessdate=2020-11-26}}</ref>。
;母国から批判を招いた受賞者
* [[カール・フォン・オシエツキー]](1935年授賞、[[ナチス・ドイツ|ドイツ(ナチス政権下)]])や[[アンドレイ・サハロフ]](1975年授賞、[[ソビエト連邦]])、[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ワレサ]](1983年授賞、[[ポーランド人民共和国]])、[[アウンサンスーチー]](1991年授賞、[[ミャンマー]])、[[劉暁波]](2010年授賞、[[中華人民共和国]])、[[メモリアル (人権団体)|メモリアル]](2022年受賞、[[ロシア]])、[[アレシ・ビャリャツキ]](2022年受賞、[[ベラルーシ]])<ref>{{cite news|url=https://digital.asahi.com/articles/ASQB866KNQB8UHBI011.html?iref=pc_ss_date_article|title=平和賞は「軍事作戦」「政治的道具」 ロシアとベラルーシが猛反発|newspaper=朝日新聞|date=2022-10-08|accessdate=2023-07-20}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221008/k10013852711000.html|title=ノーベル平和賞 ウクライナ国内では批判的な反応も|newspaper=NHK|date=2022-10-08|accessdate=2023-07-20}}</ref>、[[ナルゲス・モハンマーディ]](2023年受賞、[[イラン]])のように、[[独裁]]ないし[[権威主義]]的傾向が強い母国で反権力又は反戦争運動をしている[[政治犯]]とされている人物への授賞は、該当国の政府から強い反発を引き起こしている。ナチス・ドイツの「[[ドイツ芸術科学国家賞]]」、ソビエト連邦の「[[レーニン平和賞]]」、中国の「[[孔子平和賞]]」のような、ノーベル賞に対抗した賞がそれぞれの国家によって作られる例もある(但しレーニン平和賞は1949年に「スターリン平和賞」として創設されたもので、サハロフの受賞がきっかけの創設ではない)。
* 受賞者が政治犯として当事国に拘束されていたり、出国が認められなかった場合には、本人が授賞式に出席できないケースもたびたびある。オシエツキー以後、刑務所に入れられる、あるいは軟禁状態にあるなど、身体を拘束されている最中にノーベル平和賞の授与が決まった人物には、1991年に受賞したアウンサンスーチーと2010年に受賞した劉暁波と2022年に受賞したアレシ・ビャリャツキ、2023年に受賞したナルゲス・モハンマーディがいる。サハロフとワレサとビャリャツキの場合は妻が、アウンサンスーチーの場合は夫と息子が、モハンマーディの場合は二人の子供が代理出席した。なお、オシエツキーの場合は代理出席した弁護士が、賞金のみを受け取り横領した。劉の場合は、妻の出国を中国が認めなかったため、家族の代理出席も出来なかった。
;受賞しなかったことで疑念を招いたケース
[[マハトマ・ガンディー]]はノーベル平和賞を受賞しなかった。死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている<ref>https://www.nobelprize.org/prizes/themes/mahatma-gandhi-the-missing-laureate/</ref>。
*1937年には、彼の支持者の運動が時として暴力を伴ったものに発展したことや、政治的な立場の一貫性に対する疑問、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。
*1947年は、当時インドですでに起きていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立への対処に関し、ガンディーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしたことで、選考委員の間に受賞に対する疑問が起きた。
*1948年は最終候補3人の1人で選考委員からは高い評価を得ていたが、故人に対してノーベル賞を与えられるかどうかで議論が起きた。当時は規定で除外されていなかったが、何らかの組織に所属していなかったガンディーの場合賞金を誰が受け取るかが問題になった。最終的に、受賞決定後に死亡した場合以外は故人に賞を与えるのは不適切だという結論となった。ガンディーがもう1年長生きしておれば、賞を与えられていたと考えるのが合理的であろう。
*ガンディーがそれまでの他の平和賞受賞者とは異なるタイプの平和運動家であったこと、1947年当時のノーベル委員会には今日のように平和賞を地域紛争の平和的調停に向けたアピールとする考えがなかったことが影響している。委員会がイギリスの反発を恐れたという明確な証拠は見当たらない。
== 受賞者 ==
=== 1900年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|rowspan="2"|1901
|[[File:Jean Henri Dunant.jpg|75px]]
|[[アンリ・デュナン]]
|{{CHE}}
|[[赤十字|国際赤十字]]の創設と[[ジュネーヴ条約]]制定に向けての貢献
|-
|[[File:Frederic Passy.jpg|75px]]
|[[フレデリック・パシー]]
|{{FRA1870}}
|[[列国議会同盟]]や国際平和会議の創設を主導したこと
|-
|rowspan="2"|1902
|[[File:Ducommun.jpg|75px]]
|[[エリー・デュコマン]]
|rowspan="2"|{{CHE}}
|[[国際平和ビューロー]]の名誉事務局長として
|-
|[[File:Charles Albert Gobat2.jpg|75px]]
|[[シャルル・ゴバ]]
|[[列国議会同盟]]の事務総長として
|-
|1903
|[[File:Cremer.jpg|75px]]
|[[ウィリアム・ランダル・クリーマー]]
|{{GBR3}}
|{{仮リンク|国際仲裁連盟|en|International Arbitration League}}の書記として
|-
|1904
|[[File:Logo of Institut de Droit International.svg|75px]]
|[[万国国際法学会]]
|{{World}}
|不明瞭であった戦争法規の存在を喚起するなど、国際法の科学の一般的原則を策定する学会の労力に対して
|-
|1905
|[[File:Bertha von Suttner nobel.jpg|75px]]
|[[ベルタ・フォン・ズットナー]]
|{{AUT1867}}
|『武器を捨てよ!』の著作と、平和運動への寄与に対して
|-
|1906
|[[File:President Theodore Roosevelt, 1904.jpg|75px]]
|[[セオドア・ルーズベルト]]
|{{USA1896}}
|アメリカ合衆国大統領として[[日露戦争]]の講和を斡旋したことに対して
|-
|rowspan="2"|1907
|[[File:Ernesto Teodoro Moneta.jpg|75px]]
|[[エルネスト・テオドロ・モネータ]]
|{{ITA1861}}
|ロンバルディア平和調停連盟の議長として
|-
|[[File:Louis Renault jurist.gif|75px]]
|[[ルイ・ルノー (法学者)|ルイ・ルノー]]
|{{FRA1870}}
|フランスを代表する国際法学者であり、ハーグ平和会議における[[常設仲裁裁判所]]の判事として
|-
|rowspan="2"|1908
|[[File:KParnoldson.jpg|75px]]
|[[ポントゥス・アルノルドソン]]
|{{SWE}}
|{{仮リンク|スウェーデン平和と仲裁協会|en|Swedish Peace and Arbitration Society}}の創設者として
|-
|[[File:Fredrik Bajer nobel.jpg|75px]]
|[[フレデリック・バイエル]]
|{{DNK}}
|スカンディナヴィア半島の和平を推進し、[[国際平和ビューロー]]の名誉議長を務めたこと
|-
|rowspan="2"|1909
|[[File:Beernaert.gif|75px]]
|[[オーギュスト・ベールナールト]]
|{{BEL}}
|2度に亘る[[ハーグ平和会議]]の代表を務め、[[列国議会同盟]]を先導したことに対して
|-
|[[File:PaulBalluet.gif|75px]]
|[[エストゥールネル・ド・コンスタン]]
|{{FRA1870}}
|英仏、独仏の相互理解のための国際仲裁に関する顕著な外交実績に対して
|}
=== 1910年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1910
|[[File:IPB logo svg.svg|75px]]
|[[国際平和ビューロー]]
|{{World}}
|様々な国家間の平和社会の連携のための行動に対して
|-
|rowspan="2"|1911
|[[File:TMCasser.jpg|75px]]
|[[トビアス・アッセル]]
|{{NLD}}
|[[常設仲裁裁判所|国際常設仲裁裁判所]]の設立
|-
|[[File:Alfred Hermann Fried nobel.jpg|75px]]
|[[アルフレート・フリート]]
|{{AUT1867}}
|{{仮リンク|ドイツ平和協会|en|German Peace Society}}の創設
|-
|1912
|[[File:Elihu Root, bw photo portrait, 1902.jpg|75px]]
|[[エリフ・ルート]]
|{{USA1912}}
|国際仲裁にかける強い関心と、彼の国際裁判所についての草案に対して
|-
|1913
|[[File:HenriLaFontaine.jpg|75px]]
|[[アンリ・ラ・フォンテーヌ]]
|{{BEL}}
|国際平和ビューローの代表者として
|-
|1914
|colspan="4" rowspan="3" align="center"|なし
|-
|1915
|-
|1916
|-
|1917
|[[File:Emblem of the ICRC.svg|75px]]
|[[赤十字国際委員会]]
|{{World}}
|
|-
|1918
|colspan="4" align="center"|なし
|-
|1919
|[[File:President Woodrow Wilson portrait December 2 1912.jpg|75px]]
|[[ウッドロウ・ウィルソン]]
|{{USA1912}}
|[[国際連盟]]創設への貢献
|}
=== 1920年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1920
|[[File:Léon Bourgeois.jpg|75px]]
|[[レオン・ブルジョワ]]
|{{FRA1870}}
|[[国際連盟]]の総会議長として
|-
|rowspan="2"|1921
|[[File:Hjalmar branting stor bild.jpg|75px]]
|[[カール・ヤルマール・ブランティング]]
|{{SWE}}
|国際連盟に対する貢献
|-
|[[File:Christian Lous Lange.jpg|75px]]
|[[クリスティアン・ランゲ]]
|{{NOR}}
|[[ノルウェー・ノーベル委員会]]の事務総長、[[列国議会同盟]]の事務局長として
|-
|1922
|[[File:Fridtjof Nansen LOC 03377u-3.jpg|75px]]
|[[フリチョフ・ナンセン]]
|{{NOR}}
|戦争難民の帰国および飢餓難民救済活動
|-
|1923
|colspan="4" rowspan="2" align="center"|なし
|-
|1924
|-
|rowspan="2"|1925
|[[File:Austen Chamberlain nobel.jpg|75px]]
|[[オースティン・チェンバレン]]
|{{GBR3}}
|[[ロカルノ条約]]締結の主役として
|-
|[[File:Charles Dawes, Bain bw photo portrait.jpg|75px]]
|[[チャールズ・ドーズ]]
|{{USA1912}}
|ドイツの経済を回復し安定させる計画についての研究
|-
|rowspan="2"|1926
|[[File:Aristide Briand 2.jpg|75px]]
|[[アリスティード・ブリアン]]
|{{FRA1870}}
|rowspan="2"|[[ロカルノ条約]]の締結に尽力
|-
|[[File:Bundesarchiv Bild 146-1989-040-27, Gustav Stresemann.jpg|75px]]
|[[グスタフ・シュトレーゼマン]]
|{{DEU1919}}
|-
|rowspan="2"|1927
|[[File:Ferdinand Buisson 1924.jpg|75px]]
|[[フェルディナン・ビュイソン]]
|{{FRA1870}}
|rowspan="2"|独仏融和への貢献に対して
|-
|[[File:Ludwig Quidde nobel.jpg|75px]]
|[[ルートヴィッヒ・クヴィデ]]
|{{DEU1919}}
|-
|1928
|colspan="4" align="center"|なし
|-
|1929
|[[File:FrankKellogg.jpg|75px]]
|[[フランク・ケロッグ]]
|{{USA1912}}
|[[不戦条約|ケロッグ・ブリアン協定]]締結に尽力
|}
=== 1930年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1930
|[[File:Nathan Söderblom nobel.jpg|75px]]
|[[ナータン・セーデルブロム]]
|{{SWE}}
|キリスト教相互の団結([[エキュメニズム]])のみならず、世界平和のためにキリスト教会を関与させることへの彼の尽力に対して
|-
|rowspan="2"|1931
|[[File:Jane Addams profile.jpg|75px]]
|[[ジェーン・アダムズ]]
|rowspan="2" |{{USA1912}}
|[[婦人国際平和自由連盟]]の指導とその社会改革に対して
|-
|[[File:Nicholas Murray Butler ppmsca.03668.jpg|75px]]
|[[ニコラス・バトラー]]
|[[不戦条約]]の締結推進とアメリカ合衆国における平和運動の先導者として
|-
|1932
|colspan="4" align="center"|なし
|-
|1933
|[[File:Norman Angell 01.jpg|75px]]
|[[ラルフ・ノーマン・エンジェル]]
|{{GBR}}
|『[[大いなる幻影]]』の著作と、国際連盟への支援、並びに反戦論の敷衍による国際平和への貢献に対して
|-
|1934
|[[File:1910 Arthur Henderson.jpg|75px]]
|[[アーサー・ヘンダーソン]]
|{{GBR}}
|{{仮リンク|世界軍縮会議|en|World Disarmament Conference}}の議長として
|-
|1935
|[[File:Carl von Ossietzky.jpg|75px]]
|[[カール・フォン・オシエツキー]]
|{{DEU1935}}
|反戦主義的ジャーナリズム活動を称えて
|-
|1936
|[[File:Carlos Saavedra Lamas.jpg|75px]]
|[[カルロス・サアベドラ・ラマス]]
|{{ARG}}
|パラグアイとボリビア間の対立の仲介
|-
|1937
|[[File:Robert Cecil, 1st Viscount Cecil of Chelwood - Project Gutenberg eText 15306.jpg|75px]]
|[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]
|{{GBR}}
|[[国際連盟]]における彼の業績に対して
|-
|1938
|[[File:Flag of the League of Nations (1939–1941).svg|75px|border]]
|[[ナンセン国際難民事務所]]
|{{World}}
|その難民救助活動に対して
|-
|1939
|colspan="4" align="center"|なし{{efn2|[[ロバート・ベーデン・パウエル]]に決定していたが、第二次世界大戦勃発により賞自体が取り消された。}}
|}
=== 1940年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1940
|colspan="4" rowspan="4" align="center"|なし
|-
|1941
|-
|1942
|-
|1943
|-
|1944
|[[File:Emblem of the ICRC.svg|75px]]
|[[赤十字国際委員会]]
|{{World}}
|
|-
|1945
|[[File:Hull-Cordell-LOC.jpg|75px]]
|[[コーデル・ハル]]
|{{USA1912}}
|[[国際連合憲章]]の起草を称えて
|-
|rowspan="2"|1946
|[[File:EmilyGreeneBalch.jpg|75px]]
|[[エミリー・グリーン・ボルチ]]
|rowspan="2"|{{USA1912}}
|[[婦人国際平和自由連盟]]名誉国際会長として
|-
|[[File:John Raleigh Mott, 1910.jpg|75px]]
|[[ジョン・モット]]
|[[キリスト教青年会]]会長として
|-
|rowspan="2"|1947
|rowspan="2"|[[File:Quaker star-T.svg|75px]]
|[[イギリス・フレンズ協議会]]
|{{GBR}}
|rowspan="2"|その慈善活動への熱意に対して
|-
|[[アメリカ・フレンズ奉仕団]]
|{{USA1912}}
|-
|1948
|colspan="4" align="center"|なし
|-
|1949
|[[File:John Boyd Orr nobel.jpg|75px]]
|[[ジョン・ボイド・オア]]
|{{GBR}}
|[[国際連合食糧農業機関]]の長官や、「国家平和協議会」の議長として
|}
=== 1950年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1950
|[[File:Ralph Bunche - 1963 March on Washington.jpg|75px]]
|[[ラルフ・バンチ]]
|{{USA1912}}
|パレスチナ和平調停に尽力し、アラブ諸国とイスラエルの停戦交渉に貢献
|-
|1951
|[[File:Léon Jouhaux nobel.jpg|75px]]
|[[レオン・ジュオー]]
|{{FRA1946}}
|[[国際労働機関]]創設への貢献に対して
|-
|1952
|[[File:Bundesarchiv Bild 183-D0116-0041-019, Albert Schweitzer.jpg|75px]]
|[[アルベルト・シュヴァイツァー]]
|{{BRD}}
|[[ランバレネ]]における外科医としての診療活動に対して
|-
|1953
|[[File:General George C. Marshall, official military photo, 1946.JPEG|75px]]
|[[ジョージ・マーシャル]]
|{{USA1912}}
|[[マーシャル・プラン]]に対して
|-
|1954
|[[File:Emblem of the United Nations.svg|75px]]
|[[国際連合難民高等弁務官事務所]]
|{{World}}
|東西冷戦下の難民のための政治的、法的保護に対して
|-
|1955
|colspan="4" rowspan="2" align="center"|なし
|-
|1956
|-
|1957
|[[File:Lester B. Pearson with a pencil.jpg|75px]]
|[[レスター・B・ピアソン]]
|{{CAN1957}}
|第二次中東戦争時に国連緊急軍の創設を提唱
|-
|1958
|[[File:Georges Pire 1958.jpg|75px]]
|[[ドミニク・ピール]]
|{{BEL}}
|第二次世界大戦後のヨーロッパでの難民救済活動
|-
|1959
|[[File:Philip Noel-Baker 1942.jpg|75px]]
|[[フィリップ・ノエル=ベーカー]]
|{{GBR}}
|生涯を通じた国際平和と国際協力への熱心な活動に対して
|}
=== 1960年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1960
|[[File:Albert Lutuli nobel.jpg|75px]]
|[[アルバート・ルツーリ]]
|{{ZAF1928}}
|[[アフリカ民族会議]]の議長であり、南アフリカ共和国の対アパルトヘイト闘争において最前線で活動したこと
|-
|1961
|[[File:Dag Hammarskjöld.jpg|75px]]
|[[ダグ・ハマーショルド]]{{efn2|遺贈}}
|{{SWE}}
|世界の平和と協力を推進し、国際連合の強化に尽力
|-
|1962
|[[File:Pauling.jpg|75px]]
|[[ライナス・ポーリング]]
|{{USA}}
|核兵器に対する反対運動
|-
|rowspan="2"|1963
|[[File:Emblem of the ICRC.svg|75px]]
|[[赤十字国際委員会]]
|rowspan="2"|{{World}}
|rowspan="2"|[[ジュネーヴ条約]]の原則の推進と[[国際連合]]との連携
|-
|[[File:Emblem of the IFRC.svg|75px]]
|[[国際赤十字赤新月社連盟]]
|-
|1964
|[[File:Martin Luther King Jr NYWTS.jpg|75px]]
|[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]
|{{USA}}
|アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動
|-
|1965
|[[File:UNICEF Logo.svg|75px]]
|[[国際連合児童基金]]
|{{World}}
|国際援助機関として
|-
|1966
|colspan="4" rowspan="2" align=center|なし
|-
|1967
|-
|1968
|[[File:René Cassin nobel.jpg|75px]]
|[[ルネ・カサン]]
|{{FRA}}
|[[国連人権宣言]]の起草に対して
|-
|1969
|[[File:Flag of ILO.svg|75px|border]]
|[[国際労働機関]]
|{{World}}
|労働条件や生活水準の改善のための取組みに対して
|}
=== 1970年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1970
|[[File:Norman Borlaug (cropped).jpg|75px]]
|[[ノーマン・ボーローグ]]
|{{USA}}
|世界の食糧不足の改善に尽くした
|-
|1971
|[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F057884-0009, Willy Brandt.jpg|75px]]
|[[ヴィリー・ブラント]]
|{{BRD}}
|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を含めた東欧諸国との関係正常化を目的とした、彼の[[東方外交]]に対して
|-
|1972
|colspan="4" align=center|なし
|-
|rowspan="2"|1973
|[[File:Henry Kissinger.jpg|75px]]
|[[ヘンリー・キッシンジャー]]
|{{USA}}
|rowspan="2"|ベトナム戦争の和平交渉
|-
|[[File:LeDucTho1973.jpg|75px]]
|[[レ・ドゥク・ト]]{{efn2|受賞辞退}}
|{{flagicon|VNM}} [[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]
|-
|rowspan="2"|1974
|[[File:Seán MacBride 1984.jpg|75px]]
|[[ショーン・マクブライド]]
|{{IRL}}
|人権に強い関心を示し、欧州評議会を通じて欧州人権条約を規定し、アムネスティ・インターナショナルを創設、並びに国際法律家委員会の事務総長を務めたこと
|-
|[[File:Eisaku Sato 19641109.jpg|75px]]
|[[佐藤栄作]]
|{{JPN1947}}
|[[非核三原則]]の提唱
|-
|1975
|[[File:RIAN archive 25981 Academician Sakharov.jpg|75px]]
|[[アンドレイ・サハロフ]]
|{{SSR}}
|人権や軍縮、およびすべての国家間協力のための彼の奮闘に対して
|-
|rowspan="2"|1976
|[[File:Betty Williams.jpg|75px]]
|[[ベティ・ウィリアムズ]]
|rowspan="2"|{{GBR}}
|rowspan="2"|北アイルランドの平和運動への貢献
|-
|[[File:Mairead Corrigan Gaza crop.jpg|75px]]
|[[マイレッド・コリガン・マグワイア]]
|-
|1977
|
|[[アムネスティ・インターナショナル]]
|{{World}}
|チリ・ピノチェト政権における国民への弾圧を告発
|-
|rowspan="2"|1978
|[[File:Anwar Sadat cropped.jpg|75px]]
|[[アンワル・アッ=サーダート]]
|{{EGY}}
|rowspan="2"|[[キャンプ・デービッド合意]]
|-
|[[File:Menachem Begin 2.jpg|75px]]
|[[メナヘム・ベギン]]
|{{ISR}}
|-
|1979
|[[File:MotherTeresa 090.jpg|75px]]
|[[マザー・テレサ]]
|{{IND}}
|長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみの中にいる人々に安息をもたらした
|}
=== 1980年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1980
|[[File:Adolfo Pérez Esquivel agosto 2011.jpg|75px]]
|[[アドルフォ・ペレス・エスキベル]]
|{{ARG}}
|ラテンアメリカの人権向上への尽力に対して
|-
|1981
|[[File:Emblem of the United Nations.svg|75px]]
|[[国際連合難民高等弁務官事務所]]
|{{World}}
|難民の移住と定着と処遇の改善に資する活動に対して
|-
|rowspan="2"|1982
|[[File:ARB-Alva-Myrdal.jpg|75px]]
|[[アルバ・ライマル・ミュルダール]]
|{{SWE}}
|rowspan="2"|国連の軍縮交渉において重要な役割を果たし、国際的な認知を得た、壮大な実績に対して
|-
|[[File:Alfonso Garcia Robles 1981.jpg|75px]]
|[[アルフォンソ・ガルシア・ロブレス]]
|{{MEX}}
|-
|1983
|[[File:Lech Walesa OAF Visit.jpg|75px]]
|[[レフ・ヴァウェンサ]]
|{{POL1952}}
|[[独立自主管理労働組合「連帯」|「連帯」]]の結党と、民主化運動の発起に対して
|-
|1984
|[[File:Desmond tutu 20070607 2.jpg|75px]]
|[[デズモンド・ムピロ・ツツ]]
|{{ZAF1961}}
|南アフリカにおけるアパルトヘイトの問題を解決するための運動における統一的指導者としての役割に対して
|-
|1985
|<!-- no non-free images allowed -->
|[[核戦争防止国際医師会議]]
|{{World}}
|核戦争がもたらす悲惨な結果について理解を広めるのに貢献
|-
|1986
|[[File:Elie Wiesel.jpg|75px]]
|[[エリ・ヴィーゼル]]
|{{USA}}
|「[[ホロコースト]]に関する大統領委員会」の議長として
|-
|1987
|[[File:OscarArias.jpg|75px]]
|[[オスカル・アリアス・サンチェス]]
|{{CRI}}
|中央アメリカにおける和平調停への尽力と、ニカラグアとエルサルバドルの間の紛争を仲裁した功績に対して
|-
|1988
|[[File:United Nations Peacekeeping Logo.svg|75px]]
|[[国際連合平和維持活動]]
|{{World}}
|国連の基本的信条の実現に向けての重要な貢献に対して
|-
|1989
|[[File:Dalai Lama at WhiteHouse (cropped).jpg|75px]]
|[[ダライ・ラマ14世]]
|{{TIB}}
|非暴力によるチベット解放闘争と、チベットの歴史と文化遺産の保存のための、寛容と相互尊重に基づく平和的解決の提唱
|}
=== 1990年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|1990
|[[File:Mikhail Gorbachev 1987.jpg|75px]]
|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]
|{{SSR}}
|冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカによる共産圏の民主化
|-
|1991
|[[File:Aung San Suu Kyi.jpg|75px]]
|[[アウンサンスーチー]]
|{{MMR1989}}
|ミャンマーの人権と民主主義の確立のための非暴力闘争に対して
|-
|1992
|[[File:Rigoberta Menchu Tum.JPG|75px]]
|[[リゴベルタ・メンチュウ]]
|{{GTM}}
|グアテマラ先住民の人権と権利の向上のための努力に対して
|-
|rowspan="2"|1993
|[[File:Nelson Mandela-2008.jpg|75px]]
|[[ネルソン・マンデラ]]
|rowspan="2"|{{ZAF1961}}
|rowspan="2"|アパルトヘイト体制を平和的に終結させて新しい民主的な南アフリカの礎を築いたため
|-
|[[File:Frederik Willem de Klerk.jpg|75px]]
|[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]
|-
|rowspan="3"|1994
|[[File:ArafatEconomicForum.jpg|75px]]
|[[ヤーセル・アラファート]]
|{{PSE}}
|rowspan="3"|中東へ平和を築く努力に対して
|-
|[[File:Yitzhak Rabin (1986) cropped.jpg|75px]]
|[[イツハク・ラビン]]
|rowspan="2"|{{ISR}}
|-
|[[File:Shimon Peres World Economic Forum 2007.jpg|75px]]
|[[シモン・ペレス]]
|-
|rowspan="2"|1995
|[[File:Josef Rotblat ID badge.png|75px]]
|[[ジョセフ・ロートブラット]]
|{{GBR}}
|rowspan="2"|国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して
|-
|[[File:Peace sign.svg|75px]]
|[[パグウォッシュ会議]]
|{{World}}
|-
|rowspan="2"|1996
|[[File:Carlosbelo.jpg|75px]]
|[[カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ]]
|rowspan="2"|{{TLS}}
|rowspan="2"|東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決への尽力
|-
|[[File:EastTimor.JoseRamosHorta.01.jpg|75px]]
|[[ジョゼ・ラモス=ホルタ]]
|-
|rowspan="2"|1997
|[[File:Icbl english.pdf|75px]]
|[[地雷禁止国際キャンペーン]]
|{{World}}
|rowspan="2"|対人地雷の禁止および除去に対する貢献
|-
|[[File:JodyWilliamsMay2010.jpg|75px]]
|[[ジョディ・ウィリアムズ]]
|{{USA}}
|-
|rowspan="2"|1998
|[[File:John Hume 2008.jpg|75px]]
|[[ジョン・ヒューム]]
|rowspan="2"|{{GBR}}
|rowspan="2"|北アイルランド紛争の平和的解決の模索への尽力に対して
|-
|[[File:David Trimble.jpg|75px]]
|[[デヴィッド・トリンブル]]
|-
|1999
|<!-- no non-free images allowed -->
|[[国境なき医師団]]
|{{World}}
|アフリカ・アジア・南米の各大陸における、その先駆的な人道的活動に対して
|}
=== 2000年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|2000
|[[File:Kim Dae-jung (Cropped).png|75px]]
|[[金大中]]
|{{KOR}}
|韓国、および一般に東アジアの民主主義と人権のための努力、特に北朝鮮との平和と和解のため
|-
|rowspan="2"|2001
|<!--75px-->[[File:Flag of the United Nations.svg|75px]]
|[[国際連合]]
|{{World}}
|rowspan="2"|より良く組織され、より平和な世界のための取組みに対して
|-
|[[File:Kofi Annan4 2007 04 20.jpg|75px|Kofi Annan, Photo:Harry Wad]]
|[[コフィー・アナン]]
|{{GHA}}
|-
|2002
|[[File:Jimmy Carter.jpg|75px]]
|[[ジミー・カーター]]
|{{USA}}
|数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した
|-
|2003
|[[File:Shirin Ebadi - Fronteiras do Pensamento São Paulo 2011 (5839607998, cropped).jpg|75px]]
|[[シーリーン・エバーディー]]
|{{IRN}}
|民主主義と人権擁護に対する貢献
|-
|2004
|[[File:Wangari Maathai portrait by Martin Rowe.jpg|75px]]
|[[ワンガリ・マータイ]]
|{{KEN}}
|持続可能な開発、民主主義と平和に対する貢献
|-
|rowspan="2"|2005
|[[File:Flag of IAEA.svg|75px|border]]
|[[国際原子力機関]]
|{{World}}
|rowspan="2"|原子力エネルギーの平和的利用に対する貢献
|-
|[[File:Mohamed ElBaradei.jpg|75px]]
|[[モハメド・エルバラダイ]]
|{{EGY}}
|-
|rowspan="2"|2006
|[[File:Professor Muhammad Yunus- Building Social Business Summit (8758300102).jpg|75px]]
|[[ムハマド・ユヌス]]
|rowspan="2"|{{BGD}}
|rowspan="2"|貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献
|-
|<!--[[File:Grameen bank logo.png|75px]]-->
|[[グラミン銀行]]
|-
|rowspan="2"<!-- |—-->|2007
|<!-- no non-free images allowed -->
|[[気候変動に関する政府間パネル]]
|{{World}}
|rowspan="2"|人為的気候変動(地球温暖化)についての問題点を広く知らしめ、気候変動防止に必要な措置への基盤を築くために努力したことに対して
|-
|[[File:Al Gore.jpg|75px]]
|[[アル・ゴア]]
|{{USA}}
|-
|2008
|[[File:Martti Ahtisaari.jpg|75px]]
|[[マルッティ・アハティサーリ]]
|{{FIN}}
|インドネシア・アチェ武装勢力の紛争解決への尽力に対して
|-
|2009
|[[File:Official portrait of Barack Obama.jpg|75px]]
|[[バラク・オバマ]]
|{{USA}}
|国際外交、および、諸民族間における協力強化のため、並外れた努力を払い、世界中の人々に、良き将来への希望を与えた
|}
=== 2010年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|2010
|
|[[劉暁波]]
|{{CHN}}
|中国の基本的人権確立のために長期にわたる非暴力の闘いを継続した
|-
|rowspan="3"|2011
|[[File:Ellen Johnson-Sirleaf, April 2010.jpg|75px]]
|[[エレン・ジョンソン・サーリーフ]]
|rowspan="2"|{{LBR}}
|rowspan="3"|平和構築活動に女性が安全かつ全面的に参加できるよう求めて非暴力の活動を行った
|-
|[[File:Leymah-gbowee-at-emu-press-conference.jpg|75px]]
|[[レイマ・ボウィ]]
|-
|[[File:Tawakkul Karman (2011).jpg|75px]]
|[[タワックル・カルマン]]
|{{YEM}}
|-
|2012
|[[File:Flag of Europe.svg|75px|border]]
|[[欧州連合]]
|{{EUR}}
|欧州地域の安定および協調路線を図る取り組みを評価して
|-
|2013
|
|[[化学兵器禁止機関]]
|{{World}}
|化学兵器の排除のための多大な努力
|-
|rowspan="2"|2014
|[[File:Malala Yousafzai par Claude Truong-Ngoc novembre 2013 02.jpg|75px]]
|[[マララ・ユスフザイ]]<ref>{{cite web|url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/2014/press.html|title=The Nobel Peace Prize 2014 - Press Release|author=Nobel Media AB 2014|publisher=Nobelprize.org|date=2014-10-10|accessdate=2021-04-29}}</ref>
|{{PAK}}
|rowspan="2"|児童と青年に対する抑圧に対する戦いとすべての児童のための教育への権利への貢献を称えて
|-
|[[File:Kailash Satyarthi.jpg|75px]]
|[[カイラシュ・サティーアーティ]]
|{{IND}}
|-
|2015
|[[File:Tunisian national dialogue (October 2012).jpg|75px]]
|[[チュニジア国民対話カルテット]]
|{{TUN}}
|[[ジャスミン革命]]後の民主化への貢献に対して
|-
|2016
|[[File:Juan Manuel Santos and Lula (cropped).jpg|75px]]
|[[フアン・マヌエル・サントス]]
|{{COL}}
|50年以上にわたった[[コロンビア内戦]]の終結に向けた決然たる努力に対して
|-
|2017
|[[File:Logo ICAN Internationale Kampagne zur Abschaffung von Atomwaffen.svg|75px]]
|[[核兵器廃絶国際キャンペーン]]
|{{CHE}}
|核兵器の使用による、人類への壊滅的な結果に注目を集めさせ、その廃絶のための[[核兵器禁止条約|条約]]締結を達成した画期的な努力に対して
|-
|rowspan="2"|2018
|[[File:Denis Mukwege par Claude Truong-Ngoc novembre 2014.jpg|75px]]
|[[デニス・ムクウェゲ]]
|{{COD}}
|rowspan="2"|戦場や紛争地域において兵器として用いられる戦時性暴力を終結させるための努力に対して
|-
|[[File:Nadia Murad 2017 (cropped).jpg|75px]]
|[[ナーディーヤ・ムラード]]
|{{IRQ}}
|-
|2019
|[[File:Abiy_Ahmed_during_state_visit_of_Reuven_Rivlin_to_Ethiopia,_May_2018.jpg|75px]]
|[[アビィ・アハメド]]
|{{ETH}}
|平和と国際協力を達成するための努力、殊に[[エチオピア・エリトリア国境紛争|隣国エリトリアとの国境紛争]]を解決するための決定的な指導力に対して
|}
=== 2020年代 ===
{|align="center" class="wikitable sortable"
!年
!colspan="2"|受賞者名
!出身国
!受賞理由
|-
|2020
|
[[ファイル:World Food Programme Logo Simple.svg|75px]]
|[[国際連合世界食糧計画]]
|{{World}}
|飢餓克服への努力、紛争地域の平和のための貢献、そして飢餓を戦争や紛争の武器として使用することを防ぐための努力において原動力としての役割を果たしたことに対して
|-
| rowspan="2" |2021
|[[ファイル:Maria_Ressa.jpg|75px]]
|[[マリア・レッサ]]
|{{PHL}}
| rowspan="2" |民主主義と恒久的な平和の前提条件である[[表現の自由]]を守るための努力に対して
|-
|[[ファイル:2018-06-20_Boris_Nemzow_Preis_2018-9831.jpg|75px]]
|[[ドミトリー・ムラトフ]]
|{{RUS}}
|-
| rowspan="3" |2022
|[[ファイル:Alaksandr_Bialacki.jpg|75px]]
|[[アレシ・ビャリャツキ]]
|{{BLR}}
| rowspan="3" |母国における市民社会の代表として、長年にわたり、権力を批判し、市民の基本的人権を守るための権利を促進し、また、戦争犯罪、人権侵害、権力の濫用を記録する多大な努力によって、平和と民主主義のために、市民社会の重要性を示したことに対して
<!--The Peace Prize laureates represent civil society in their home countries. They have for many years promoted the right to criticise power and protect the fundamental rights of citizens. They have made an outstanding effort to document war crimes, human right abuses and the abuse of power. Together they demonstrate the significance of civil society for peace and democracy.-->
|-
|
|[[メモリアル (人権団体)|メモリアル]]
|{{RUS}}
|-
|[[ファイル:The_Center_for_Civil_Liberties_logo.svg|75px]]
|[[市民自由センター]]
|{{UKR}}
|-
|2023
|[[ファイル:Narges_Karim_Mohammadi_–_BBC_Persian,_Feb_24,_2021.jpg|75px]]
| [[ナルゲス・モハンマーディ]]
|{{IRN}}
|イランにおける女性への弾圧に抵抗し、すべての人々の人権と自由を促進するための戦いに対して
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nobel Peace Prize laureates|ノーベル平和賞受賞者}}
{{Wikinews|ノーベル平和賞は国際原子力機関とエルバラダイ事務局長}}
{{ウィキポータルリンク|平和}}
*[[ノーベル平和賞コンサート]]
*[[学生平和賞]]
*[[ドイツ芸術科学国家賞]] - カール・フォン・オシエツキーが授与した時にナチス・ドイツがノーベル賞の国内の代替として設立した賞。以後ナチス・ドイツではドイツ人の全ノーベル賞の受賞を禁じた。
*[[レーニン平和賞]]-[[ヨシフ・スターリン]]の70歳の誕生日記念に、'''国際スターリン平和賞'''として[[社会主義]]・[[共産主義]]への貢献に対する褒賞のために作られたが、スターリン批判以後に改称された。
*[[孔子平和賞]] - 劉暁波が授与された時に反発した中国が設立した賞。平和賞のみであり、他の分野に関して中国人はそのままノーベル賞となっている。
*[[オスロ国際平和研究所]]
== 外部リンク ==
*[https://www.nobelprize.org/prizes/peace/ The Nobel Peace Prize] - 公式サイト{{en icon}}
* {{Kotobank}}
{{NobelPrizes}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のおへるへいわしよう}}
[[Category:ノーベル賞|へいわ]]
[[Category:平和の賞]]
[[Category:人権の賞]]
[[Category:ノルウェーの賞]]
[[Category:人名を冠した賞]] | 2003-02-14T03:56:22Z | 2023-12-09T23:07:48Z | false | false | false | [
"Template:Infobox award",
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"Template:PAK",
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"Template:POL1952",
"Template:MMR1989",
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"Template:FRA1946",
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"Template:AUT1867",
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"Template:KEN",
"Template:IRQ",
"Template:Kotobank",
"Template:NobelPrizes",
"Template:EGY",
"Template:TIB",
"Template:TUN"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%B3%9E |
1,484 | 1990年代 | 1990年代(せんきゅうひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1990年から1999年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1990年代について記載する。 | [
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| 1990年代(せんきゅうひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1990年から1999年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1990年代について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1990年代の日本}}
{{出典の明記|date=2013年1月}}
{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1990 | 年 = 1990 }}
<imagemap>File:1990s decade montage.png|'''上段''':(左)1990年に打ち上げられた[[ハッブル宇宙望遠鏡]]。(右)1991年に起きた[[湾岸戦争]]の砂漠の嵐作戦で、炎上する油田の上空を飛行する米空軍の[[F-16]]と[[F-15 (戦闘機)|F-15]]。<br />'''中段''':(左上)1994年に起きた[[ルワンダ虐殺]]によって、数十万におよぶ人命が失われる。(左下)1997年9月6日の[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]]の王室国民葬の葬列。数百万のイギリス国民がその死を悼んだ。(右)1993年9月13日の[[オスロ合意]]。<br /> '''下段''':(左) 1996年に誕生した[[ドリー (羊)|ドリー]]は、成体の[[体細胞]]から[[クローニング|クローン技術]]で生み出された最初の哺乳類である。(中央)1991年の[[ソ連8月クーデター|8月クーデター]]で[[ベールイ・ドーム]](ロシア共和国最高会議ビル)前で演説する[[ボリス・エリツィン]]。その後の12月26日に[[ソビエト連邦]]が崩壊する([[ソビエト連邦の崩壊]])。(右)開始から10年の間に、[[World Wide Web]]が世界的に広がる。|420px|thumb
rect 1 1 147 118 [[ハッブル宇宙望遠鏡]]
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rect 119 276 274 411 [[ソビエト連邦の崩壊]]
rect 1 275 116 411 [[ドリー (羊)]]
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'''1990年代'''(せんきゅうひゃくきゅうじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[1990年]]から[[1999年]]までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた1990年代について記載する。
== できごと ==
=== 1990年 ===
{{Main|1990年}}
* [[3月21日]] - [[ナミビア]]が[[南アフリカ共和国]]から独立
* [[6月11日]] - [[ペルー]]で行われた大統領選で[[日系人]]の[[アルベルト・フジモリ]]が当選。
* [[1990 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップイタリア大会]]開催。
* [[8月2日]] - [[イラク治安部隊|イラク軍]]が[[クウェート]]へ侵攻。
* [[9月30日]] - ソ連と[[大韓民国|韓国]]が[[国交]]を樹立。
* [[10月3日]] - [[ドイツ民主共和国|東]][[西ドイツ|西]][[ドイツ]]が統一('''[[ドイツ再統一]]''')。
* [[11月28日]] - [[イギリス]]では[[マーガレット・サッチャー]]が11年における政権から交代し、新たに[[ジョン・メージャー]]が[[イギリスの首相|首相]]となる。
* [[チリ]]民政復帰
=== 1991年 ===
{{Main|1991年}}
* [[1月13日]] - [[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[リトアニア|リトアニア共和国]]の独立運動を武力で鎮圧([[血の日曜日事件 (リトアニア)|血の日曜日事件]])。
* [[1月17日]] - '''[[湾岸戦争]]'''が勃発。
* [[4月16日]] - [[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]大統領がソ連国家元首として初めて来日。[[海部俊樹]][[内閣総理大臣|首相]]と会談。
* [[8月19日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]で[[ソユーズ (派閥)|共産党保守派]]による[[クーデター]]が発生([[ソ連8月クーデター]])。
* [[8月20日]] - [[ラトビア]]・[[リトアニア]]・[[エストニア]]再独立。
* [[9月28日]] - ジャズ・トランペッターの[[マイルス・デイヴィス]]が死去。
* [[11月13日]] - [[ティム・バーナーズ=リー]]、[[World Wide Web]]を[[インターネット]]上で公開。
* [[11月24日]] - [[クイーン (バンド)|クイーン]]の[[フレディ・マーキュリー]]が死去。
* [[12月25日]] - ゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任。'''[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]'''。その後「ロシア連邦」へ。
* [[ドイツ]]、[[ベルリン]]への首都移転決定。
* 6月に[[ピナトゥボ山|ピナトゥボ火山]]噴火。地球が一時的に寒冷化する。
* 科学者の[[飯島澄男]]によって[[カーボンナノチューブ]]が発見される。
* [[ウォーリーをさがせ!]]ブームが起こる。
* [[ユーゴスラビア連邦共和国]]で[[スロベニア]]、[[クロアチア]]が連邦からの独立を宣言。コソボも両国に倣って統合から離脱しようとし、[[ユーゴスラビア紛争]]が始まる。クロアチアとの紛争は泥沼化する。
* [[マツダ・787|マツダ・787B]]、日本車としてはじめて[[ル・マン24時間レース]]総合優勝。
* [[ミャンマー]]の[[アウンサンスーチー]]に[[ノーベル平和賞]]。
=== 1992年 ===
{{Main|1992年}}
* [[2月8日]] - [[1992年アルベールビルオリンピック|アルベールビルオリンピック]]開催。
* [[4月29日]] - [[ロサンゼルス暴動]]勃発。
* [[7月25日]] - [[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナオリンピック]]開催。
* [[8月24日]] - [[中華人民共和国|中国]]と[[大韓民国|韓国]]が国交を樹立。
* [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]勃発。セルビア、クロアチア、[[ムスリム]]の三勢力が入り乱れて悲惨な内戦となる。
*宮沢喜一の下でPKO協力法制定。
=== 1993年 ===
{{Main|1993年}}
* [[1月1日]] - [[ヨーロッパ]]で[[欧州連合]](EU)が発足。
* [[1月20日]] - [[ビル・クリントン]]、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]を継いで[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。
* [[マーク・アンドリーセン]]ら、Webブラウザ[[NCSA Mosaic]]を公開。World Wide Webの普及が始まるきっかけとなった。
* [[10月4日]] - [[ロシア]]で[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領と議会勢力の対立が激化し、[[10月政変]]が勃発。
=== 1994年 ===
{{Main|1994年}}
* [[2月12日]] - [[1994年リレハンメルオリンピック|リレハンメルオリンピック]]開催。
* [[4月5日]] - [[ニルヴァーナ (アメリカ合衆国のバンド)|ニルヴァーナ]]のボーカル、[[カート・コバーン]]死亡。
* [[パレスチナ自治政府]]設立。
* [[ルワンダ]]で百万人以上が虐殺。
* [[4月27日]] - [[南アフリカ共和国]]で全人種参加選挙、[[ネルソン・マンデラ]]が大統領に。
* [[5月1日]] - [[アイルトン・セナ]]がレース中の事故で死去。
* [[5月6日]] - [[英仏海峡トンネル]]開通。
* [[7月8日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]である[[金日成]]が死去。
* [[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップアメリカ大会]]開催。
* [[8月12日]] - [[メジャーリーグベースボール]]が232日間に及ぶプロスポーツ史上最長の[[ストライキ]]に突入、[[1994年のワールドシリーズ]]も中止される(→[[1994年から1995年のMLBストライキ]])。
=== 1995年 ===
{{Main|1995年}}
* [[1月1日]] - [[世界貿易機関|WTO]]発足。
* 1月17日 - [[阪神・淡路大震災]]発生。
* [[オーストリア]]、[[フィンランド]]、[[スウェーデン]]が[[欧州連合|EU]]へ加盟。
* [[4月19日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]中南部[[オクラホマシティ]]で爆破テロ事件。
* 6月 - たまごっち(第1期)が発売。
* [[第二次世界大戦]]終戦50年。
* [[フランス]]、[[ムルロア環礁]]で核実験強行。
* [[メジャーリーグベースボール]]で[[野茂英雄]][[投手]]が日本人初の新人王獲得。
* [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]発売。PC業界における一大ブームを巻き起こす。
* [[11月4日]] - [[イスラエル]]の[[イツハク・ラビン|ラビン]]首相が暗殺される。
=== 1996年 ===
{{Main|1996年}}
* [[3月23日]] - [[中華民国]]([[台湾]])で初の[[台湾総統選挙|総統選挙]]。[[李登輝]]が当選し、[[台湾正名運動|台湾本土化]]が本格化。
* [[WHO健康開発総合研究センター]]開所。
* [[7月19日]] - [[アトランタオリンピック]]開催。
* [[12月17日]] - [[ペルー]]首都リマで[[在ペルー日本大使公邸占拠事件]]。4か月後の翌1997年(平成9年)4月22日にペルー警察の突入によって解決。
=== 1997年 ===
{{Main|1997年}}
* [[2月19日]] - [[中華人民共和国]]の最高実力者である[[鄧小平]]が死去。
* ザイールが内乱で独裁政権崩壊、国名が[[コンゴ民主共和国]]となる。
* [[7月1日]] - [[香港]]、[[イギリス]]から[[中華人民共和国]]へ返還。
* [[アジア通貨危機|アジア通貨危機。]]
* [[プロゴルファー]]の[[タイガー・ウッズ]]が[[ネグロイド|黒人]]初・史上最年少の21歳6か月で[[マスターズゴルフトーナメント|マスターズ]]を制覇。さらに年間最年少賞金王にも輝く。
* [[8月31日]] - [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ元皇太子妃]]、[[パリ]]で交通事故死。
* [[マザー・テレサ]]死去。
* 世界初の量産型[[ハイブリッドカー]]、[[トヨタ・プリウス]]が発売。
=== 1998年 ===
{{Main|1998年}}
* [[インド|印]][[パキスタン|パ]]核実験。
* [[インドネシア]]の[[スハルト]]政権崩壊。
* [[1998 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップフランス大会]]開催。
* [[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]開催。
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[ミサイル]]の[[テポドン (ミサイル)|テポドン]]を自国の領土から発射。[[日本海]]と[[日本列島]]上空を通過し[[太平洋]]に落下。
* [[メジャーリーグベースボール]]の[[セントルイス・カージナルス]]所属の[[マーク・マグワイア]]選手と[[シカゴ・カブス]]所属の[[サミー・ソーサ]]が年間最多[[本塁打]]数新記録を争い、マグアイアが37年ぶりに70本の年間本塁打数の新記録を更新(→[[1998年のMLBシーズン最多本塁打記録対決]])
* [[Microsoft Windows 98|Windows 98]]が発売
=== 1999年 ===
{{Main|1999年}}
* [[コソボ紛争]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]軍が介入し[[セルビア]]を空爆。
* [[コロンビア・キンディオ地震]]が発生。犠牲者1000人以上。
* ヨーロッパ単一通貨[[ユーロ]]登場。
* [[ヨルダン]]のフセイン国王死去。
* [[茨城県]][[東海村]]の[[原子力]]施設で[[東海村JCO臨界事故|臨界事故]]発生。
* [[トルコ]]西部地震・[[921大地震|台湾大地震]]発生。
* [[2000年問題]]騒動。
* [[ルノー]]、[[日産自動車]]へ資本参加。
* [[マカオ]]、[[ポルトガル]]から[[中華人民共和国]]へ返還。
* [[パナマ運河]]、アメリカ合衆国から[[パナマ]]へ返還。
* 翌年の幕明けに向けて、[[ミレニアム]]の[[カウントダウン]]が世界各地で催される。また、[[2000年問題]]の動向が注目される中の[[年越し]]。
== 世相 ==
=== 社会 ===
* 東西[[冷戦]]終結後、旧[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[東ヨーロッパ|東欧]]地域を中心に[[民族主義]]による[[紛争]]が多発するようになった。
* [[アフリカ]]で[[エボラ出血熱]]流行。[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]が蔓延する。
* [[東南アジア諸国連合|ASEAN]]諸国で急速な経済発展。[[タイ王国|タイ]]・[[マレーシア]]・[[インドネシア]]が特に顕著な成長を遂げ、政治の民主化も進んだ。しかし、1997年の[[アジア通貨危機]]で打撃を受ける。
* [[中華人民共和国]]沿海部・都市部の経済成長に伴い、農村出身の[[民工]]が大量に都市部へ流入([[盲流]])。国有企業改革に伴い、失業者が多数発生する。
* 各国で[[オープンスカイ協定|航空自由化]]が進み、[[格安航空会社]]が台頭する。
=== コンピュータとインターネット ===
* 先進国で[[インターネット]]が爆発的普及。[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)の普及率も大幅に増加した。
* [[マルチメディア]]ブーム。[[CD-ROM]]や[[ハードディスクドライブ]]など当時としては大容量のデジタル媒体が普及、パソコンのCPUは[[32ビット]]に移行し、[[QuickTime]]や[[Adobe Shockwave|Shockwave]]などで動画や音声を取り扱う環境が整った。また、[[解像度]]は低いものの[[動画]]や[[音声]]を多用した[[ゲーム]]が登場した。前述の[[インターネット]]と連携して実験的なコンテンツ配信も行われるようになった。
* 当時としては写実的な[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]を高速に操作できる[[シリコングラフィックス]]の[[ワークステーション]]が登場して映画製作で活用されるようになり、特に予算が潤沢に用意できる大作映画において[[VFX]]が格段に進歩した([[ジュラシック・パーク (映画)|ジュラシック・パーク]]が代表的)。
* 比較的安価だが高解像度かつ色数の豊富なグラフィックを扱える[[Amiga]]や[[Mac (コンピュータ)|Macintosh]]がクリエイター向けに広く普及し、中小規模の制作会社でも商業レベルのデジタルコンテンツが制作できるようになった。
* [[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]や[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]で現代的な[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]が普及した。一般家庭でも最低限導入できる水準のコンピュータ環境が整った。
*[[コンピュータゲーム|ゲーム]]は[[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]から[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]]へ移行した(据え置き型[[ゲーム機]]第5世代)。1990年代前半には[[バーチャル・リアリティ]]が一時的に流行したが、世の中の期待に性能が追いつかず失望された。
=== 通信 ===
* 先進国で[[携帯電話]]の普及が始まる(主に[[第2世代移動通信システム]] (2G) に当たる[[GSM]]、[[PDC]]、[[D-AMPS]]方式を採用。1990年代後半に[[cdmaOne]]が登場した)。
* [[無線呼び出し|ポケベル]]が[[在籍者 (学習者)|中高生]]にまで普及した。
== 文化と芸術 ==
=== 建築 ===
{{See also|1990年代の建築}}
; {{Visible anchor|超高層建築物・構築物}}
<gallery widths="140px" heights="210px" perrow="7">
File:Petronas Panorama II.jpg|<div align="center">[[ペトロナスツインタワー]]([[マレーシア]]・[[クアラルンプール]])</div>
</gallery>
=== 大衆文化 ===
==== 音楽 ====
* [[グランジ]]、[[ジェネレーションX]]と呼ばれる世代の圧倒的な支持を受ける。
* [[ブリットポップ]]、イギリスを中心に広まる。
* [[ヒップホップ]]、ポップス界に台頭。アメリカ合衆国では[[ロック (音楽)|ロック]]は傍流に退く。
==== スポーツ ====
* [[ミゲル・インドゥライン]]、1991年から1995年にかけて[[ツール・ド・フランス]]個人総合5連覇を達成したほか、1992年・1993年の[[ジロ・デ・イタリア]]個人総合優勝、1995年の[[世界選手権自転車競技大会]]個人タイムトライアルで優勝の他、1994年には[[アワーレコード]]の世界記録を更新。
==== コンピュータゲーム ====
* [[テレビゲーム]]市場では1990年代の前半(''[[ゲーム機#第4世代|第4世代]]'')に[[任天堂]]の「[[スーパーファミコン#海外版|Super Nintendo Entertainment System]]」(SNES, 日本では「[[スーパーファミコン]]」として発売)が前世代機に引き続いて市場をリード([[北アメリカ|北米]]では[[セガ]]の「[[メガドライブ#北米市場|Sega Genesis]]」も互角以上のシェア争いを展開)していたが、後半(''[[ゲーム機#第5世代|第5世代]]'')になると[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCEI) の「[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]」が市場をリードし、任天堂の牙城を崩した。一方、[[携帯型ゲーム]]では任天堂の「[[ゲームボーイ]]」シリーズが世界的にヒットしており、1990年代の後半に発売された同ゲーム機のソフト『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』は世界中で大ブーム([[ポケットモンスター|ポケモン]]ブーム)となった。
<gallery>
ファイル:Nintendo-Super-Famicom-Set-FL.png|スーパーファミコン
ファイル:SNES-Mod1-Console-Set.png|Super Nintendo Entertainment System
ファイル:Sega-Saturn-JP-Mk1-Console-Set.png|セガサターン
ファイル:PSX-Console-wController.png|PlayStation
ファイル:Game-Boy-FL.png|ゲームボーイ
ファイル:Nintendo-Game-Boy-Color-FL.png|ゲームボーイカラー
</gallery>
== 人物 ==
=== アメリカ合衆国と東西ヨーロッパ ===
==== 政治 ====
* [[ヘルムート・コール]]([[1930年]] - [[2017年]])
* [[ジャック・シラク]]([[1932年]] - [[2019年]])
* [[ジャン・クレティエン]]([[1934年]] - )
* [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]([[1936年]] - )
* [[ロマーノ・プローディ]]([[1939年]] - )
* [[ジョン・メージャー]]([[1943年]] - )
* [[ゲアハルト・シュレーダー]]([[1944年]] - )
* [[ビル・クリントン]]([[1946年]] - )
* [[マッシモ・ダレマ]]([[1949年]] - )
* [[トニー・ブレア]]([[1953年]] - )
==== 思想と哲学 ====
* [[サミュエル・P・ハンティントン|サミュエル・フィリップス・ハンティントン]]([[1927年]] - [[2008年]])
* [[エレーヌ・カレール=ダンコース|エレーヌ・カレール・ダンコース]]([[1929年]] - )
* [[イアン・ハッキング]]([[1936年]] - [[2023年]])
* ドミニク・ジャニコー([[1937年]] - [[2002年]])
* [[ジャレド・ダイアモンド]]([[1937年]] - )
* [[アンソニー・ギデンズ]]([[1938年]] - )
* [[フィリップ・ラクー=ラバルト|フィリップ・ラクー・ラバルト]]([[1940年]] - [[2007年]])
* [[ジャン=リュック・ナンシー|ジャン・リュック・ナンシー]]([[1940年]] - )
* [[ジョルジョ・アガンベン]]([[1942年]] - )
* [[ガヤトリ・C・スピヴァク|ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク]]([[1942年]] - )
* [[ダニエル・デネット]]([[1942年]] - )
* [[ポール・チャーチランド]]([[1942年]] - )
* [[テリー・イーグルトン]]([[1943年]] - )
* [[フリードリヒ・キットラー]]([[1943年]] - [[2011年]])
* [[ジャン=リュック・マリオン]]([[1946年]] - )
* [[スラヴォイ・ジジェク]]([[1949年]] - )
* [[ヨアン・ペテル・クリアーノ]]([[1950年]] - [[1991年]])
* [[コリン・マッギン]]([[1950年]] - )
* ロベルト・エスポジト([[1950年]] - )
* [[イヴ・セジウィック]]([[1950年]] - [[2009年]])
* [[フランシス・フクヤマ]]([[1952年]] - )
* [[ジャン・ブリクモン]]([[1952年]] - )
* [[ノルベルト・ボルツ]]([[1953年]] - )
* [[アラン・ソーカル]]([[1955年]] - )
* [[ジュディス・バトラー]]([[1956年]] - )
* [[カトリーヌ・マラブー]]([[1959年]] - )
==== 文学 ====
* [[コーマック・マッカーシー]]([[1933年]] - )
* [[ドン・デリーロ]]([[1936年]] - )
* [[マイケル・オンダーチェ]]([[1943年]] - )
* [[スティーヴン・ミルハウザー]]([[1943年]] - )
* [[イアン・マキューアン]]([[1948年]] - )
* [[マイケル・カニンガム]]([[1952年]] - )
* [[ユン・チアン]]([[1952年]] - )
* パトリック・マッケーブ([[1955年]] - )
* [[エルヴェ・ギベール]]([[1955年]] - [[1991年]])
* [[ニコルソン・ベイカー]]([[1957年]] - )
* [[ミシェル・ウエルベック]]([[1958年]] - )
* [[ジェフリー・ユージェニデス]]([[1960年]] - )
* [[ダグラス・クープランド]]([[1961年]] - )
* [[J・K・ローリング]]([[1965年]] - )
==== 芸術 ====
* [[ロバート・ヴェンチューリ]]([[1925年]] - [[2018年]])
* [[フランク・ゲーリー]]([[1929年]] - )
* [[クリスチャン・ボルタンスキー]]([[1944年]] - [[2021年]])
* [[レム・コールハース]]([[1944年]] - )
* [[バーバラ・クルーガー]]([[1945年]] - )
* [[ミヒャエル・ゾーヴァ]]([[1945年]] - )
* [[アントニー・ゴームリー]]([[1950年]] - )
* [[ザハ・ハディッド]]([[1950年]] - )
* [[ビル・ヴィオラ]]([[1951年]] - )
* [[シンディ・シャーマン]]([[1954年]] - )
* [[アニッシュ・カプーア]]([[1954年]] - )
* シュテファン・バルケンホール([[1957年]] - )
* [[トーマス・ルフ]]([[1958年]] - )
* [[ピピロッティ・リスト]]([[1962年]] - )
* [[ダミアン・ハースト]]([[1965年]] - )
* [[マシュー・バーニー]]([[1967年]] - )
* [[サム・テイラー=ジョンソン|サム・テイラー・ウッド]]([[1967年]] - )
==== 音楽 ====
* [[プラシド・ドミンゴ]]([[1941年]] - )
* [[ホセ・カレーラス]]([[1946年]] - )
* [[マライア・キャリー]]([[1969年]] - )
==== ファッション ====
* [[ミウッチャ・プラダ]]([[1949年]] - )
* [[ドルチェ&ガッバーナ]]
** ドメニコ・ドルチェ([[1958年]] - )
** ステファノ・ガッバーナ([[1962年]] - )
* [[ジョン・ガリアーノ]]([[1960年]] - )
==== 映画とエンターテイメント ====
* [[マノエル・ド・オリヴェイラ]]([[1908年]] - [[2015年]])
* [[ケン・ローチ]]([[1936年]] - )
* [[モーガン・フリーマン]]([[1937年]] - )
* [[アンソニー・ホプキンス]]([[1937年]] - )
* [[クシシュトフ・キェシロフスキ]]([[1941年]] - [[1996年]])
* [[トミー・リー・ジョーンズ]]([[1946年]] - )
* [[スーザン・サランドン]]([[1946年]] - )
* [[パトリス・ルコント]]([[1947年]] - )
* [[ロビン・ウィリアムズ]]([[1951年]] - [[2014年]])
* [[ロバート・ゼメキス]]([[1952年]] - )
* [[リーアム・ニーソン]]([[1952年]] - )
* [[ピアース・ブロスナン]]([[1953年]] - )
* [[ジェームズ・キャメロン]]([[1954年]] - )
* [[コーエン兄弟]]
** ジョエル・コーエン([[1954年]] - )
** イーサン・コーエン([[1957年]] - )
* [[ケビン・コスナー]]([[1955年]] - )
* [[ウーピー・ゴールドバーグ]]([[1955年]] - )
* [[トム・ハンクス]]([[1956年]] - )
* [[シャロン・ストーン]]([[1958年]] - )
* [[ティム・ロビンス]]([[1958年]] - )
* [[フランク・ダラボン]]([[1959年]] - )
* [[マシュー・ボーン]]([[1960年]] - )
* [[ジム・キャリー]]([[1962年]] - )
* [[クエンティン・タランティーノ]]([[1963年]] - )
* [[ブラッド・ピット]]([[1963年]] - )
* [[ニコラス・ケイジ]]([[1964年]] - )
* [[ジュリエット・ビノシュ]]([[1964年]] - )
* [[キアヌ・リーブス]]([[1964年]] - )
* [[ウォシャウスキー兄弟]]
** ラナ・ウォシャウスキー([[1965年]] - )
** アンディ・ウォシャウスキー([[1967年]] - )
* [[ジュリア・ロバーツ]]([[1967年]] - )
* [[キャメロン・ディアス]]([[1972年]] - )
* [[グウィネス・パルトロー]]([[1972年]] - )
* [[レオナルド・ディカプリオ]]([[1974年]] - )
* [[ケイト・ウィンスレット]]([[1975年]] - )
==== 科学と技術 ====
* [[ジョン・ナッシュ]]([[1928年]] - [[2015年]])
* [[スチュアート・カウフマン]]([[1939年]] - )
* [[イアン・ウィルムット]]([[1944年]] - )
* [[エドワード・ウィッテン]]([[1951年]] - )
* [[アンドリュー・ワイルズ]]([[1953年]] - )
* [[キース・キャンベル (生物学者)|キース・キャンベル]]([[1954年]] - [[2012年]])
* [[ビル・ゲイツ]]([[1955年]] - )
* [[リサ・ランドール]]([[1962年]] - )
* [[ダンカン・ワッツ]]([[1971年]] - )
=== 旧ソ連諸国とロシア ===
* [[アナトリー・ルキヤノフ]]([[1930年]] - [[2019年]])
* [[ボリス・エリツィン]]([[1931年]] - [[2007年]])
* [[レオニード・クラフチュク]]([[1934年]] - [[2022年]])
* [[スタニスラフ・シュシケビッチ]]([[1934年]] - [[2022年]])
* [[ゲンナジー・ヤナーエフ]]([[1937年]] - [[2010年]])
* [[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]([[1940年]] - )
* [[サパルムラト・ニヤゾフ]]([[1940年]] - [[2006年]])
* [[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]([[1941年]] - [[2006年]])
* [[ルスラン・ハズブラートフ]]([[1942年]] - [[2023年]])
* [[ジョハル・ドゥダエフ]]([[1944年]] - [[1996年]])
* [[ニキータ・ミハルコフ]]([[1945年]] - )
* [[アレクサンドル・ルツコイ]]([[1947年]] - )
* [[アレクサンドル・ソクーロフ]]([[1951年]] - )
* [[アレクサンドル・ルカシェンコ]]([[1954年]] - )
* [[ウラジミール・ソローキン]]([[1955年]] - )
=== ラテンアメリカ ===
* [[アルベルト・フジモリ]]([[1938年]] - )
* [[ドゥンガ]]([[1963年]] - )
* [[ロマーリオ]]([[1966年]] - )
=== サハラ以南のアフリカ ===
* [[ネルソン・マンデラ]]([[1918年]] - [[2013年]])
* [[ロバート・ムガベ]]([[1924年]] - [[2019年]])
* [[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]([[1936年]] - [[2021年]])
* ジャン・カンバンダ([[1955年]] - )
=== 西アジア ===
* [[イツハク・ラビン]]([[1922年]] - [[1995年]])
* [[シモン・ペレス]]([[1923年]] - [[2016年]])
* [[ヤーセル・アラファート]]([[1929年]] - [[2004年]])
* [[ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]([[1934年]] - [[2017年]])
* [[サッダーム・フセイン]]([[1937年]] - [[2006年]])
* [[アッバス・キアロスタミ]]([[1940年]] - [[2016年]])
* [[モハンマド・ハータミー]]([[1943年]] - )
=== 南アジア ===
* [[ナラシンハ・ラーオ]]([[1921年]] - [[2004年]])
* [[コチェリル・ラーマン・ナラヤナン]]([[1921年]] - [[2005年]])
* [[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]([[1926年]] - [[2018年]])
* [[サティヤ・サイ・ババ]]([[1926年]] - [[2011年]])
* [[アマルティア・セン]]([[1933年]] - )
* [[シェーカル・カプール]]([[1945年]] - )
* [[ナワーズ・シャリーフ]]([[1949年]] - )
* [[ラジニカーント]]([[1949年]] - )
* [[アルンダティ・ロイ]]([[1961年]] - )
* [[プーラン・デーヴィー]]([[1963年]] - [[2001年]])
=== 東南アジア ===
* [[フィデル・ラモス]]([[1928年]] - [[2022年]])
* [[ユスフ・ハビビ]]([[1936年]] - [[2019年]])
* [[ジョセフ・エストラーダ]]([[1937年]] - )
* [[ゴー・チョクトン]]([[1941年]] - )
* [[ノロドム・ラナリット]]([[1944年]] - [[2021年]])
* [[アウンサンスーチー]]([[1945年]] - )
* [[フン・セン]]([[1951年]] - )
=== オセアニア ===
* [[ジェーン・カンピオン]]([[1954年]] - )
=== 中国 ===
* [[鄧小平]]([[1904年]] - [[1997年]])
* [[江沢民]]([[1926年]] - [[2022年]])
* [[李鵬]]([[1928年]] - [[2019年]])
* [[朱鎔基]]([[1928年]] - )
* [[董建華]]([[1937年]] - )
* [[張芸謀|張藝謀]]([[1951年]] - )
* [[チェン・カイコー|陳凱歌]]([[1952年]] - )
* [[ユン・チアン|張戎]]([[1952年]] - )
* [[何厚鏵]]([[1955年]] - )
* [[莫言]]([[1955年]] - )
* [[レスリー・チャン|張國榮]]([[1956年]] - [[2003年]])
* [[ウォン・カーウァイ|王家衛]]([[1958年]] - )
* 張暁剛([[1958年]] - )
* [[コン・リー|鞏俐]]([[1965年]] - )
=== 台湾 ===
* [[李登輝]]([[1923年]] - [[2020年]])
* [[テレサ・テン|鄧麗君]]([[1953年]] - [[1995年]])
=== 韓国 ===
* [[金大中]]([[1925年]] - [[2009年]])
* [[金泳三]]([[1927年]] - [[2015年]])
* [[洪明甫]]([[1969年]] - )
== フィクションのできごと ==
<!--明確な発生年が確認できない出来事のみ記載。-->
* 前半 - コラプサー・ジャンプを用いて宇宙開拓を行っていた国連探検移民団の移民船のうち1隻が、[[アルデバラン]]星系で異星の宇宙船の攻撃を受け撃沈される。事件の発生地である[[牡牛座]](トーラス)からこの異星人は「トーラン」と命名され、トーランから移民船を防衛すべく国連探検軍(UNEF)が創設される。(小説『[[終りなき戦い]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョー・ホールドマン|authorlink=ジョー・ホールドマン |title = 終りなき戦い |publisher = [[早川書房]] |year = 1985 |page = 21 |isbn = 4-15-010634-7}}</ref>
* 中頃 - [[地球のトロヤ群|地球公転軌道前方のトロヤ点]]に、光を完全に吸収する平均直径約1,400キロメートルの天体「トロヤ物体」が出現。[[IBM]]-[[ITT (企業)|ITT]]のスキップシップによる探査飛行によって、トロヤ物体内部には1万5千人の居住に適した人工的な環境を持つセルが1億以上存在することが判明する。(小説『{{仮リンク|アグネスとヘクトルたちの物語|en|The Monkeys Thought 'Twas All in Fun}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= オースン・スコット・カード|authorlink=オースン・スコット・カード |title = 無伴奏ソナタ〔新訳版〕 |publisher = 早川書房 |year = 2014 |pages = 271-276,278-281,283-292,299-307,319,322,330 |isbn = 978-4-15-011940-9}}</ref>
* 後半 - 宇宙船「シラノ」で[[火星]]に達し、[[大シルチス|シルチス陥没地]]で[[後期旧石器時代|5万年前]]の火星文明の遺跡を発掘していた学術調査隊が、大学だったと見られる建物の内部で初めて[[火星人]]の死体を発見。その1週間後には建物内で[[周期表|元素表]]が発見され、これを二言語併記資料として用いることで火星語の本格的な解読が可能になる。(小説『{{仮リンク|オムニリンガル|en|Omnilingual}}』)<ref>{{Cite journal |和書 |author = H・ビーム・パイパー |authorlink = H・ビーム・パイパー|title = オムニリンガル |date = 1968-12 |publisher = 早川書房 |journal = [[S-Fマガジン]] 1968年 12月号 |volume = 9 |issue = 13 |naid = |pages = 45・46・55 - 59・71 - 78頁 |ref = }}</ref>
* 199×年5月下旬 - [[カノープス]]近辺に母星がある異星人「円盤人」の飛行物体群が、地球人との接触を目的として世界各地の主要都市に着陸。各地域派遣隊の代表が、地球人に対し「音楽話法」によって友好的な挨拶を行う。(小説『[[うるさい!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 小松左京|authorlink=小松左京 |title = 虚空の足音 |publisher = [[文藝春秋]] |year = 1980 |pages = 79-88 |isbn = 978-4-16-717607-5}}</ref>
* 199×年某月 - 東京湾海底地震を伴い、[[紀元前11千年紀以前|1万数千年前]]の遺跡がある東京湾新島が出現。それと同時に、後に「オーガ」と命名される巨大[[怪獣]]が[[東京湾]]海底に現れ、29日に[[三浦半島]]沖で海底調査船「[[しんかい6500]]」や[[海上自衛隊]]の護衛艦隊などを全滅させた後、[[東京ディズニーランド]]付近から上陸し、東京を蹂躙した後に地中に消える。(漫画『[[神の獣]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 巴啓祐|authorlink=巴啓祐 |title = 神の獣 |publisher = [[講談社]] |year = 1992 |pages = 3-15,28-40,48-69,81-117,132,135,254,255 |isbn = 978-4-06-319329-9}}</ref>
* 199X年 - 宇宙知的生命共同体の手によって、世界中の人間が突然[[健忘|記憶喪失症]](アムネジア)を発症。これにより文明は崩壊する。(小説・アニメ『[[風の名はアムネジア]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 菊地秀行|authorlink=菊地秀行 |title = 風の名はアムネジア |publisher = [[朝日ソノラマ]] |year = 1983 |pages = 19,38-43,191,203-205 |isbn = 978-4-257-76260-7}}</ref>
* 199X年 - 遠宇宙で発生した[[重力崩壊]]に伴う大爆発により、ダイヤモンドより硬い物質でできたブロック群「クォース」が発生。あらゆる物体を砕きつつ地球に迫るクォースに対し、形が四角形になると分子分解を起こすという性質を利用しクォースを消滅させるため、「ブロックピース」の発射装置を搭載した戦闘機が開発される。(ゲーム『[[クォース]]』)<ref>[[ファミリーコンピュータ]]版『クォース』説明書 [[コナミ]]、1990年、3・4頁。</ref>
* 199X年 - 東京シティに存在するメインコンピューター「ランドマスター」が、超エネルギー物質「フリーゾン」を狙い地球侵攻を目論む侵略星人「ワルダー軍団」について警告する星間メッセージを受信。これを受け、スーパーメカニック群の開発と地球防衛隊「ダイアクロン」の結成が決定される。(玩具『[[ダイアクロン]]』)<ref>[https://www.takaratomy.co.jp/products/diaclone/story ストーリー] - ダイアクロン オフィシャルサイト、2018年8月9日閲覧。</ref>
* 199X年 - [[天王寺]]上空に存在する現世と異世界「DEEP大阪」の接点で、かつて[[聖徳太子]]によって行われた封印が限界を迎える。封印を破って異世界のエネルギーが放出され、周辺の物体をDEEP大阪へと吸い込み始める。(ゲーム『[[通天閣 (ゲーム)|通天閣]]』)<ref>『通天閣』取扱説明書 [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]、1995年、2頁。</ref>
* 地球と火星の間の[[太陽周回軌道|軌道]]を周回する[[人工惑星]]「ケプラー4号」が、[[ふたご座]]の一角から放たれた複数の画像からなる人為的な電波信号を約3日間に渡って受信。それと同時に、月面[[コペルニクス (クレーター)|コペルニクス]]のラインホルト天文台が、ふたご座の方角にある恒星の光に周期的なゆらぎが生じているのを観測する。(小説『[[銀河を呼ぶ声]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 石原藤夫|authorlink=石原藤夫 |title = 画像文明 |publisher = 早川書房 |year = 1976 |pages = 239-247,251-253,258-261 |isbn = 978-4-15-030076-0}}</ref>
* [[バーナード星|バーナード]]などの近傍恒星系の探査を主目的とした、無人探査船「ダイダロス・シリーズ」7機による外宇宙探査計画が開始される。(小説『[[航空宇宙軍史]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 谷甲州|authorlink=谷甲州 |title = [[仮装巡洋艦バシリスク|航空宇宙軍史 仮装巡洋艦バシリスク]] |publisher = 早川書房 |year = 1985 |pages = 43-47 |isbn = 978-4-15-030200-9}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 終わりなき索敵〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 1996 |page = 345 |isbn = 978-4-15-030570-3}}</ref>
* [[ケンタウルス座]]方面から飛来した異星人「フィスプ(旅する群れ)」が、地球近傍に達すると同時に地球への攻撃を開始。[[北アメリカ大陸]]や[[アフリカ大陸]]などの一部は降下してきたフィスプに占領される。その後、[[アメリカ軍]]はフィスプへの反撃手段として原子力宇宙戦艦「大天使(ミカエル)」の建造を開始する。(小説『[[降伏の儀式]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=ラリー・ニーヴン|authorlink1=ラリー・ニーヴン|author2=ジェリー・パーネル|authorlink2=ジェリー・パーネル |title = 降伏の儀式 上 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1988 |isbn = 978-4-488-65404-7}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author1=ラリー・ニーヴン|authorlink1=ラリー・ニーヴン|author2=ジェリー・パーネル|authorlink2=ジェリー・パーネル |title = 降伏の儀式 下 |publisher = 東京創元社 |year = 1988 |isbn = 978-4-488-65405-4}}</ref>
* [[モルディブ諸島|マルディヴ諸島]]沖・深度4000メートルの海底で、深海調査船が作業中に[[チタニウム]]と[[セシウム]]の合金でできた全長3メートルの金属塊を発見。これはインドの国立科学センターと日本の国立冶金研究所によって調査され、[[2005年]]に地球外の生物の手によるものと判断される。(小説『[[たそがれに還る]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 光瀬龍|authorlink=光瀬龍 |title = たそがれに還る |publisher = 早川書房 |year = 1973 |pages = 206-208 |isbn = 978-4-15-030003-6}}</ref>
* 太陽系[[惑星X|第10番惑星]]の存在が[[宇宙望遠鏡]]によって確認され、「魔王星(ルシファー)」と名付けられる。(漫画『[[2001夜物語]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 星野之宣|authorlink=星野之宣 |title = 2001夜物語【1】 |publisher = [[双葉社]] |year = 1995 |page = 161 |isbn = 978-4-575-72030-3}}</ref>
* 有人宇宙船で火星に達した第一次探検隊が、文字が刻まれた[[ダイヤモンド]]製の「井戸」と、その近くで砂に埋もれていた火星人のミイラなどを発見。隊員に水をかけられたミイラが爆発を起こしたことから、井戸は水で死体を分解する葬儀場であると推測される。(小説『[[ノウンスペース]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author = ラリイ・ニーヴン |title = ノウンスペース・シリーズ 太陽系辺境空域 |publisher = 早川書房 |year = 1979 |pages = 63-76,86,148,363 |isbn = 978-4-15-010348-4}}</ref>
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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1,486 | カール・シューリヒト | カール・アドルフ・シューリヒト(ドイツ語:Carl Adolph Schuricht, 1880年7月3日 - 1967年1月7日)は、ドイツの作曲家であり、20世紀の最も重要なオーケストラ指揮者の一人。
1923年から1944年までヴィースバーデンの音楽総監督を務め、グスタフ・マーラーの作品の解釈で国際的な名声を得た。また、ライプツィヒ交響楽団(現:MDR交響楽団)首席指揮者(1931-1933)、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者(1944)、ベルリン・フィルハーモニー合唱団(Philharmonischer Chor Berlin)芸術監督(1933-1934)を務めた。終戦前にドイツを離れ、スイスに移住。
以後、コンセルトヘボウ管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などの客演指揮者として活躍。特にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは親密な関係を築き、1960年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者に任命された。ザルツブルク音楽祭にも何度か出演し、海外ツアーでも国際的な成功を収めた。
ウィーン古典派の作品やアントン・ブルックナーの交響曲の重要な解釈者とされていた。
ダンツィヒ生まれ。父親カール・コンラート・シューリヒト(Carl Conrad Schuricht)(1856年1月27日 - 1880年6月9日)はオルガン奏者で、代々受け継がれてきたオルガン製作者であり、祖父のカール・ゴットヒルフ・シューリヒトも一緒に働いていた。父は息子カールが生まれる3週間前に、バルト海で楽器を運搬中に船から転落して溺れた雇い人を助けようとして命を落とした。カールの母親はポーランドのオラトリオ歌手・ピアニストのアマンダ・ルドヴィカ・アルヴィネ・シューリヒト=ヴジノウスカ(Amanda Ludowika Alwine Schuricht, née Wusinowska)(1847年12月11日 - 1935年12月11日)であり、幼少から音楽に囲まれた環境に育った。母親が再婚しなかったため、少年は叔父に育てられた。
シューリヒトは、1886年からベルリンのフリードリヒス-レアルギムナジウムに、1892年からヴィースバーデンのケーニヒス-レアルギムナジウムに通った。詩人のヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフやアーダルベルト・シュティフターに興味を持った。6歳からヴァイオリンとピアノを学び、11歳で最初の作品を作曲し(2つのオペラのリブレットも書いた)、15歳で指揮を始めた。最初の師匠はヴィースバーデン宮廷カペルマイスターのフランツ・マンシュテット であった。
1902年にはクジンスキ財団の作曲賞を受賞し、フランツ・フォン・メンデルスゾーン(フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの甥)から奨学金を受け、これにより1901年にベルリンのシュテルン音楽院に入学。1903年までピアノをエルンスト・ルドルフに、作曲をエンゲルベルト・フンパーディンク とハインリッヒ・ファン・アイケン に師事した。また、ヴァイオリニストのアンリ・マルトーや作家のフリードリヒ・リーンハルトとも親交があった。
1901年から1902年までマインツ国立歌劇場のコレペティートル(声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1904年から1906年までは、病気のために仕事ができなかったが、1906年には、ゲオルク・ヒュットナーの代わりにドルトムント・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めた。1907/1908年には、ツヴィッカウ市立劇場でオペレッタのカペルマイスターを務めている。その後、バート・クロイツナッハ・クア交響楽団の指揮者を引継ぎ、ゴスラーでオラトリオと男声合唱のコンサートの指導者を務めた。特に彼はドイツにおけるフレデリック・ディーリアスの作品の紹介に励んだ。
1909年にはジークフリート・オックスの後を継いで、フランクフルト・アム・マインにあるリュール・オラトリオ協会(Rühl’schen Oratorienvereins)の合唱指揮者に就任。1912年から1944年まで長くヴィースバーデン市の音楽監督(1923年からは音楽総監督) の地位にあった。1928年から1933年まで、シューリヒトはホテル・オラニエンに住んでいた。1930年から1939年の間、クアハウス・ヴィースバーデンにおいて、ヴィースバーデン市立管弦楽団の定期公演で指揮を執った。シューリヒトは、古典派、ロマン派、そして現代音楽 をプログラム に組み込んだ。例えばアルバン・ベルク、クロード・ドビュッシー、パウル・ヒンデミット、モーリス・ラヴェル、マックス・レーガー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーなどである。1913年にヴィースバーデンで、グスタフ・マーラーの交響曲第8番を初演したことで、評判はドイツ全土および国外にまで広まった。
1914年にはロンドンのクイーンズ・ホール、ミラノのスカラ座にブラームスの交響曲第1番でデビュー(ミラノには1940年代にも数回)。1921年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮し、1925年からはブルーノ・ワルターと共にベルリン・フィルの定期演奏会を指揮した。プログラムにはマーラーの交響曲第6番が含まれていた。1921年夏、ヴィースバーデンで開催された第4回ブラームス音楽祭では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとともに4つのコンサートのうち2つを指揮した。1923年にヴィースバーデンで開催された初のドイツ・マーラー音楽祭でも指揮者を務めた。1927年にはアメリカのセントルイス交響楽団に客演した。1929年夏には、シャルロッテンブルク宮殿にある、プロイセン科学芸術国民教育省保護下の外国人のためのドイツ音楽院において指揮講座を開いた。1930年から1939年にかけては、オランダのスヘフェニンゲンでサマーコンサートを指揮し、コンセルトヘボウ管弦楽団やハーグのレジデンス・オーケストラとも交流した。
1930年代初頭のライプツィヒでは、後にトーマスカントル(ライプツィヒ聖トーマス教会およびライプツィヒ市音楽監督)となるギュンター・ラミンと競って放送局のオーケストラの首席指揮者の座を獲得 し、1931年から1933年までライプツィヒ放送管弦楽団の首席指揮者を務めた。前任者のアルフレート・センドレイはユダヤ系だったため、放送局から追放されていた。シューリヒトの指揮の下、このオーケストラはドイツで最も優れたラジオ・オーケストラに成長した が、ゲヴァントハウスの理事会は1934年にヘルマン・アーベントロートを採用した。
1933年にはオットー・クレンペラー(ユダヤ系のためアメリカに亡命)からベルリン・フィルハーモニー合唱団を引き継ぎ、1934年まで指揮した。そこでシューリヒトは、マルセル・ポートのアレグロ・シンフォニック、ボリス・ブラッハーのコンツェルタンテ・ムジーク(ブラッハーの出世作) や、ブラッハーのハムレットとカール・ヘラーのヴァイオリン協奏曲 の初演を担当し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前にはポリドールに多数のSP録音を行う)を指揮した。1934年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。1937年から1944年にかけては、フランクフルト放送交響楽団の第一客演指揮者を務めた。1942年と1943年には占領下のパリでフランス国立管弦楽団に客演した。
パウル・ファン・ケンペンの退団後、1943年から1944年までドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の第一客演指揮者を務めた。第二次世界大戦末期(1944年8月)には、アドルフ・ヒトラーが承認したゴットベグナーデテン-リストの最も重要な指揮者に含まれていたため、本国戦線を含む戦時中の派兵を免れた。1944年10月1日にシューリヒトはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。音楽評論家のカール・ラウフは、その年の7月に『ドレスドナー・ツァイトゥング』紙にカール・シューリヒトに関して陶酔的なコメントを書いている。彼を「我々の時代の最初の指揮者」の一人とみなし、ドレスデンの音楽文化について十分な見識を持っていることを証明しているとした。
多くの音楽家が兵役に召集されたため、ドレスデンでは十分な練習をすることができなくなった。1940年代には、国家社会主義体制との相違が増大し、例えば、政治的圧力により1933年9月に離婚したユダヤ人の元妻 の海外移住を支援した。シューリヒトは1944年に収容所に送られることになり、知り合いのゲシュタポの兵士から事前に警告を受け、1944年11月にドイツを出国しスイスに亡命した。音楽ライターのフレート・ハーメルは、これはドイツからの追放に他ならないと語っている。編集者のトマス・カイルベルトは、シューリヒトの政権に対する態度を、国内亡命(Innere Emigration)とし、歴史家のマリアンネ・ブダーはトーマスカントルであるギュンター・ラミンの「困難な状況」と比較している。音楽学者ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、「好ましくない作曲家」を指揮していることに体制への抵抗を見出すことさえできるとした。一方、音楽史家のフレート・K.・プリーベルクは、シューリヒトが1944年までナチスの体制下で恩恵を受けていたとの見解から、彼の経歴をより批判的に捉えている。
シューリヒトはスイスに移住し、1944年末にヴァレー州のクラン=モンタナに定住した。ルツェルン音楽祭で知り合ったスイス人のマリア・マルタ・バンツとチューリッヒで結婚した。エルネスト・アンセルメ の誘いを受けてスイス・ロマンド管弦楽団に入団し、数年間で60回以上のコンサートに出演した。マーラーやブルックナーを多く取り上げたことで、保守的な地方の音楽家の批判に囲まれた 。
1946年にザルツブルク音楽祭が再開された際、シューリヒトはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、モーツァルトを演奏した。1955年3月、だらけたウィーン・フィルの演奏態度に腹を立てたシューリヒトは、ブルックナーの交響曲第9番を情熱的に指揮して、見事にオーケストラを立ち直らせた。こうしたことがあって、口さがないウィーン・フィルの楽団員もシューリヒトには一目置いて、「偉大な老紳士」と称して特別に敬愛していたという。1956年と1958年 にはウィーン楽友協会でフルトヴェングラー記念コンサート、ザルツブルク・モーツァルト週間を指揮した。
モーツァルトの生誕200年にあたる1956年1月27日に、ウィーン・フィルの戦後初のアメリカ・カナダ演奏旅行に同行するはずだったエーリヒ・クライバーがチューリッヒで急逝した。ウィーン・フィルは首席指揮者として、前日にザルツブルクのモーツァルテウム大ホールで成功を収めたシューリヒトを選出する。シューリヒトは指揮者のアンドレ・クリュイタンスと共に、戦後初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカとカナダをツアーし、12のコンサートを開き(ワシントンのDARコンスティテューション・ホールとニューヨークのカーネギー・ホールなど) 大成功を収めた。この時、ベートーヴェン、ベルク、ブルックナー、ハイドン、メンデルスゾーン、モーツァルト、ヨハン・シュトラウス、ウェーバーが演奏された。このツアーから、シューリヒトとウィーン・フィルの蜜月が始まった。12月10日の人権デーに合わせて、国連総会にも登場。1957年、シューリヒトはヨハン・シュトラウスのワルツ『美しく青きドナウ』でフィルハーモニー舞踏会を開き、1958年にはウィーン・フィルと再共演し、スイス、フランス、オーストリア、スペインで大規模なヨーロッパツアーを行った。以後、シュテファン大聖堂での演奏会(モーツァルト『レクイエム』)など、両者の黄金時代が続いた。1960年、1961年、1964年、1965年にまたもザルツブルク音楽祭に客演。彼が国際的な名声を獲得したのはこの時期だけである。
1950年代と1960年代には、シュトゥットガルト放送交響楽団を何度か指揮した。また、NDR交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、バイエルン放送交響楽団とも共演した。
1957年にイリノイ州ハイランド・パークのラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団に、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団に客演する。1963年と1965年には渡英し、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでロンドン交響楽団を指揮した。
シューリヒトは1943年からレマン湖畔のコルソー・シュル・ヴヴェイに別荘を所有していた が、1967年1月7日にスイスの病院で死去した。86歳没。1965年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となった。2011年、彼の骨壷はヴィースバーデンの北の墓地の名誉の墓に移された。
シューリヒトはバッハからマーラー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ディーリアスまでレパートリーが広い が、特にウィーン古典主義と後期ロマン派に傾倒しており、モーツァルトやブルックナー、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲の演奏が知られている。また、グスタフ・マーラーへ大いなる音楽的な情熱を注いでいた。若い時代の一時期を除くとオペラの指揮はほとんどなく、リヒャルト・ワーグナーの作品にはあまり熱心ではなかった。同時代の指揮者としては例外的に歌劇場との関係も薄いが、そのことに関しては彼自身も遺憾であったと述懐している。
ザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィルやウィーン・フィルとの積極的な共演で世界的に有名になり、ブルーノ・ワルターやヴィルヘルム・フルトヴェングラー だけでなく、クレメンス・クラウス、アルトゥーロ・トスカニーニ、オットー・クレンペラーに肩を並べると言われるようになった。
シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年はリウマチの悪化により、杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場した。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が、彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に(そしてオーケストラの楽員にも)大きな感銘を与えた。
シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。彼の楽譜の読みはどの指揮者よりも個性的で、ある時はザッハリヒに厳しく響かせたり、ある時はテンポを動かしながらロマンティックに歌わせるなど、決して一筋縄ではいかない意外性があったが、音楽全体は確信と明晰さにあふれていた。また、同じ曲でも決して毎回同じようには指揮せず、演奏するたびに新鮮な感動と発見を聴き手に与えた。
シューリヒトは指揮者として客観性を重視していた。シュトゥットガルトの音楽編集者ゲッツ・ティームは、彼のリズムの明快さをピエール・ブーレーズと比較している。彼のモットーは「何かを創造することは、それを使用することより優れている」。音楽学者ベルナルド・ガヴォティは、作品に忠実で、適切で、融通無碍であると評している。1955年、彼は連載「偉大な解釈者(Die großen Interpreten)」でシューリヒトを肯定的に評価した。彼は、シューヒリヒトを、聴き手の感覚のあらゆる能力に対応できる「現代の3、4人の最も偉大な指揮者」の1人に数えている。音楽学者のリヒャルト・シャールとヴィリー・タッポレットは「解釈において堅固な精神性が牽引している」のだと語っている。音楽学者のマティアス・マイヤーは、シューリヒトの解釈を「バランスがとれて完璧」と呼んだ。また、オペラ演出家のルドルフ・シュルツ=ドーンブルクはシューリヒトについて次のように述べている「このそびえ立つ小柄な男の仕事ぶりと音楽作りは、作曲家の作品に対して完全に一歩下がった芸術的な謙虚さに特徴があった」。
ヴィースバーデン市には「カール・シューリヒト通り」がある。また、ヴィースバーデンのクアハウスには、カール・シューリヒト・サロンとクリスチャン・ツァイス・ザールの前の記念碑がある。
シューリヒトは室内楽、歌曲、管弦楽作品、ソナタを作曲した。以下の作品はヴィースバーデンの Drei-Lilien-Verlag から出版されている。
上記に加え:
1955年の遺言で、カール・シューリヒトは全財産を4番目 の妻(1944年以降)マルタ・シューリヒト=バンツ(1916-2011)に遺贈した。後にヘルムート・ヴァイスバッハに訴訟を起こされた。ヨハネス・シューリヒト(Johannes Schuricht、1916年生まれ、後にヘルムート・シューリヒトと名乗る)は、1908年から1922年までのフレデリケ・ハイネマンとの結婚生活の間に生まれた息子で、ハンス・ヴァイスバッハの養子である。
シューリヒトは、子供の父性を常に疑っており、生前、娘婿と孫への養育費を3万スイスフランに制限していた。ヴォー州民事裁判所は1969年に原告に有利な判決を下した。マルタ・シューリヒトは、1971年にスイス連邦最高裁判所が「父親が離婚した妻とその息子の子供の養育費として支払った金銭は補償の対象にならない」との理由で却下した判決を不服として抗告した。(BGE 97 II 209)
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"text": "1901年から1902年までマインツ国立歌劇場のコレペティートル(声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1904年から1906年までは、病気のために仕事ができなかったが、1906年には、ゲオルク・ヒュットナーの代わりにドルトムント・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めた。1907/1908年には、ツヴィッカウ市立劇場でオペレッタのカペルマイスターを務めている。その後、バート・クロイツナッハ・クア交響楽団の指揮者を引継ぎ、ゴスラーでオラトリオと男声合唱のコンサートの指導者を務めた。特に彼はドイツにおけるフレデリック・ディーリアスの作品の紹介に励んだ。",
"title": "略歴と業績"
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"text": "1909年にはジークフリート・オックスの後を継いで、フランクフルト・アム・マインにあるリュール・オラトリオ協会(Rühl’schen Oratorienvereins)の合唱指揮者に就任。1912年から1944年まで長くヴィースバーデン市の音楽監督(1923年からは音楽総監督) の地位にあった。1928年から1933年まで、シューリヒトはホテル・オラニエンに住んでいた。1930年から1939年の間、クアハウス・ヴィースバーデンにおいて、ヴィースバーデン市立管弦楽団の定期公演で指揮を執った。シューリヒトは、古典派、ロマン派、そして現代音楽 をプログラム に組み込んだ。例えばアルバン・ベルク、クロード・ドビュッシー、パウル・ヒンデミット、モーリス・ラヴェル、マックス・レーガー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーなどである。1913年にヴィースバーデンで、グスタフ・マーラーの交響曲第8番を初演したことで、評判はドイツ全土および国外にまで広まった。",
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"text": "1914年にはロンドンのクイーンズ・ホール、ミラノのスカラ座にブラームスの交響曲第1番でデビュー(ミラノには1940年代にも数回)。1921年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮し、1925年からはブルーノ・ワルターと共にベルリン・フィルの定期演奏会を指揮した。プログラムにはマーラーの交響曲第6番が含まれていた。1921年夏、ヴィースバーデンで開催された第4回ブラームス音楽祭では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとともに4つのコンサートのうち2つを指揮した。1923年にヴィースバーデンで開催された初のドイツ・マーラー音楽祭でも指揮者を務めた。1927年にはアメリカのセントルイス交響楽団に客演した。1929年夏には、シャルロッテンブルク宮殿にある、プロイセン科学芸術国民教育省保護下の外国人のためのドイツ音楽院において指揮講座を開いた。1930年から1939年にかけては、オランダのスヘフェニンゲンでサマーコンサートを指揮し、コンセルトヘボウ管弦楽団やハーグのレジデンス・オーケストラとも交流した。",
"title": "略歴と業績"
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"text": "1930年代初頭のライプツィヒでは、後にトーマスカントル(ライプツィヒ聖トーマス教会およびライプツィヒ市音楽監督)となるギュンター・ラミンと競って放送局のオーケストラの首席指揮者の座を獲得 し、1931年から1933年までライプツィヒ放送管弦楽団の首席指揮者を務めた。前任者のアルフレート・センドレイはユダヤ系だったため、放送局から追放されていた。シューリヒトの指揮の下、このオーケストラはドイツで最も優れたラジオ・オーケストラに成長した が、ゲヴァントハウスの理事会は1934年にヘルマン・アーベントロートを採用した。",
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"text": "1933年にはオットー・クレンペラー(ユダヤ系のためアメリカに亡命)からベルリン・フィルハーモニー合唱団を引き継ぎ、1934年まで指揮した。そこでシューリヒトは、マルセル・ポートのアレグロ・シンフォニック、ボリス・ブラッハーのコンツェルタンテ・ムジーク(ブラッハーの出世作) や、ブラッハーのハムレットとカール・ヘラーのヴァイオリン協奏曲 の初演を担当し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前にはポリドールに多数のSP録音を行う)を指揮した。1934年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。1937年から1944年にかけては、フランクフルト放送交響楽団の第一客演指揮者を務めた。1942年と1943年には占領下のパリでフランス国立管弦楽団に客演した。",
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"text": "パウル・ファン・ケンペンの退団後、1943年から1944年までドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の第一客演指揮者を務めた。第二次世界大戦末期(1944年8月)には、アドルフ・ヒトラーが承認したゴットベグナーデテン-リストの最も重要な指揮者に含まれていたため、本国戦線を含む戦時中の派兵を免れた。1944年10月1日にシューリヒトはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。音楽評論家のカール・ラウフは、その年の7月に『ドレスドナー・ツァイトゥング』紙にカール・シューリヒトに関して陶酔的なコメントを書いている。彼を「我々の時代の最初の指揮者」の一人とみなし、ドレスデンの音楽文化について十分な見識を持っていることを証明しているとした。",
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"text": "多くの音楽家が兵役に召集されたため、ドレスデンでは十分な練習をすることができなくなった。1940年代には、国家社会主義体制との相違が増大し、例えば、政治的圧力により1933年9月に離婚したユダヤ人の元妻 の海外移住を支援した。シューリヒトは1944年に収容所に送られることになり、知り合いのゲシュタポの兵士から事前に警告を受け、1944年11月にドイツを出国しスイスに亡命した。音楽ライターのフレート・ハーメルは、これはドイツからの追放に他ならないと語っている。編集者のトマス・カイルベルトは、シューリヒトの政権に対する態度を、国内亡命(Innere Emigration)とし、歴史家のマリアンネ・ブダーはトーマスカントルであるギュンター・ラミンの「困難な状況」と比較している。音楽学者ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、「好ましくない作曲家」を指揮していることに体制への抵抗を見出すことさえできるとした。一方、音楽史家のフレート・K.・プリーベルクは、シューリヒトが1944年までナチスの体制下で恩恵を受けていたとの見解から、彼の経歴をより批判的に捉えている。",
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"text": "シューリヒトはスイスに移住し、1944年末にヴァレー州のクラン=モンタナに定住した。ルツェルン音楽祭で知り合ったスイス人のマリア・マルタ・バンツとチューリッヒで結婚した。エルネスト・アンセルメ の誘いを受けてスイス・ロマンド管弦楽団に入団し、数年間で60回以上のコンサートに出演した。マーラーやブルックナーを多く取り上げたことで、保守的な地方の音楽家の批判に囲まれた 。",
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"text": "1946年にザルツブルク音楽祭が再開された際、シューリヒトはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、モーツァルトを演奏した。1955年3月、だらけたウィーン・フィルの演奏態度に腹を立てたシューリヒトは、ブルックナーの交響曲第9番を情熱的に指揮して、見事にオーケストラを立ち直らせた。こうしたことがあって、口さがないウィーン・フィルの楽団員もシューリヒトには一目置いて、「偉大な老紳士」と称して特別に敬愛していたという。1956年と1958年 にはウィーン楽友協会でフルトヴェングラー記念コンサート、ザルツブルク・モーツァルト週間を指揮した。",
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"text": "モーツァルトの生誕200年にあたる1956年1月27日に、ウィーン・フィルの戦後初のアメリカ・カナダ演奏旅行に同行するはずだったエーリヒ・クライバーがチューリッヒで急逝した。ウィーン・フィルは首席指揮者として、前日にザルツブルクのモーツァルテウム大ホールで成功を収めたシューリヒトを選出する。シューリヒトは指揮者のアンドレ・クリュイタンスと共に、戦後初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカとカナダをツアーし、12のコンサートを開き(ワシントンのDARコンスティテューション・ホールとニューヨークのカーネギー・ホールなど) 大成功を収めた。この時、ベートーヴェン、ベルク、ブルックナー、ハイドン、メンデルスゾーン、モーツァルト、ヨハン・シュトラウス、ウェーバーが演奏された。このツアーから、シューリヒトとウィーン・フィルの蜜月が始まった。12月10日の人権デーに合わせて、国連総会にも登場。1957年、シューリヒトはヨハン・シュトラウスのワルツ『美しく青きドナウ』でフィルハーモニー舞踏会を開き、1958年にはウィーン・フィルと再共演し、スイス、フランス、オーストリア、スペインで大規模なヨーロッパツアーを行った。以後、シュテファン大聖堂での演奏会(モーツァルト『レクイエム』)など、両者の黄金時代が続いた。1960年、1961年、1964年、1965年にまたもザルツブルク音楽祭に客演。彼が国際的な名声を獲得したのはこの時期だけである。",
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"text": "1950年代と1960年代には、シュトゥットガルト放送交響楽団を何度か指揮した。また、NDR交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、バイエルン放送交響楽団とも共演した。",
"title": "略歴と業績"
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"text": "1957年にイリノイ州ハイランド・パークのラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団に、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団に客演する。1963年と1965年には渡英し、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでロンドン交響楽団を指揮した。",
"title": "略歴と業績"
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"text": "シューリヒトは1943年からレマン湖畔のコルソー・シュル・ヴヴェイに別荘を所有していた が、1967年1月7日にスイスの病院で死去した。86歳没。1965年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となった。2011年、彼の骨壷はヴィースバーデンの北の墓地の名誉の墓に移された。",
"title": "略歴と業績"
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"text": "シューリヒトはバッハからマーラー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ディーリアスまでレパートリーが広い が、特にウィーン古典主義と後期ロマン派に傾倒しており、モーツァルトやブルックナー、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲の演奏が知られている。また、グスタフ・マーラーへ大いなる音楽的な情熱を注いでいた。若い時代の一時期を除くとオペラの指揮はほとんどなく、リヒャルト・ワーグナーの作品にはあまり熱心ではなかった。同時代の指揮者としては例外的に歌劇場との関係も薄いが、そのことに関しては彼自身も遺憾であったと述懐している。",
"title": "レパートリー・評価"
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"text": "ザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィルやウィーン・フィルとの積極的な共演で世界的に有名になり、ブルーノ・ワルターやヴィルヘルム・フルトヴェングラー だけでなく、クレメンス・クラウス、アルトゥーロ・トスカニーニ、オットー・クレンペラーに肩を並べると言われるようになった。",
"title": "レパートリー・評価"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年はリウマチの悪化により、杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場した。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が、彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に(そしてオーケストラの楽員にも)大きな感銘を与えた。",
"title": "レパートリー・評価"
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"text": "シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。彼の楽譜の読みはどの指揮者よりも個性的で、ある時はザッハリヒに厳しく響かせたり、ある時はテンポを動かしながらロマンティックに歌わせるなど、決して一筋縄ではいかない意外性があったが、音楽全体は確信と明晰さにあふれていた。また、同じ曲でも決して毎回同じようには指揮せず、演奏するたびに新鮮な感動と発見を聴き手に与えた。",
"title": "レパートリー・評価"
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"text": "シューリヒトは指揮者として客観性を重視していた。シュトゥットガルトの音楽編集者ゲッツ・ティームは、彼のリズムの明快さをピエール・ブーレーズと比較している。彼のモットーは「何かを創造することは、それを使用することより優れている」。音楽学者ベルナルド・ガヴォティは、作品に忠実で、適切で、融通無碍であると評している。1955年、彼は連載「偉大な解釈者(Die großen Interpreten)」でシューリヒトを肯定的に評価した。彼は、シューヒリヒトを、聴き手の感覚のあらゆる能力に対応できる「現代の3、4人の最も偉大な指揮者」の1人に数えている。音楽学者のリヒャルト・シャールとヴィリー・タッポレットは「解釈において堅固な精神性が牽引している」のだと語っている。音楽学者のマティアス・マイヤーは、シューリヒトの解釈を「バランスがとれて完璧」と呼んだ。また、オペラ演出家のルドルフ・シュルツ=ドーンブルクはシューリヒトについて次のように述べている「このそびえ立つ小柄な男の仕事ぶりと音楽作りは、作曲家の作品に対して完全に一歩下がった芸術的な謙虚さに特徴があった」。",
"title": "レパートリー・評価"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "ヴィースバーデン市には「カール・シューリヒト通り」がある。また、ヴィースバーデンのクアハウスには、カール・シューリヒト・サロンとクリスチャン・ツァイス・ザールの前の記念碑がある。",
"title": "受賞歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "シューリヒトは室内楽、歌曲、管弦楽作品、ソナタを作曲した。以下の作品はヴィースバーデンの Drei-Lilien-Verlag から出版されている。",
"title": "作曲作品"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "上記に加え:",
"title": "作曲作品"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1955年の遺言で、カール・シューリヒトは全財産を4番目 の妻(1944年以降)マルタ・シューリヒト=バンツ(1916-2011)に遺贈した。後にヘルムート・ヴァイスバッハに訴訟を起こされた。ヨハネス・シューリヒト(Johannes Schuricht、1916年生まれ、後にヘルムート・シューリヒトと名乗る)は、1908年から1922年までのフレデリケ・ハイネマンとの結婚生活の間に生まれた息子で、ハンス・ヴァイスバッハの養子である。",
"title": "家族と遺産相続争い"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "シューリヒトは、子供の父性を常に疑っており、生前、娘婿と孫への養育費を3万スイスフランに制限していた。ヴォー州民事裁判所は1969年に原告に有利な判決を下した。マルタ・シューリヒトは、1971年にスイス連邦最高裁判所が「父親が離婚した妻とその息子の子供の養育費として支払った金銭は補償の対象にならない」との理由で却下した判決を不服として抗告した。(BGE 97 II 209)",
"title": "家族と遺産相続争い"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "EMIやデッカ、コンサート・ホール・ソサエティ盤など多数のスタジオ録音が残されているが、放送用録音の発掘も現在盛んに行われている。",
"title": "レコーディング"
}
]
| カール・アドルフ・シューリヒトは、ドイツの作曲家であり、20世紀の最も重要なオーケストラ指揮者の一人。 1923年から1944年までヴィースバーデンの音楽総監督を務め、グスタフ・マーラーの作品の解釈で国際的な名声を得た。また、ライプツィヒ交響楽団首席指揮者(1931-1933)、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者(1944)、ベルリン・フィルハーモニー合唱団芸術監督(1933-1934)を務めた。終戦前にドイツを離れ、スイスに移住。 以後、コンセルトヘボウ管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などの客演指揮者として活躍。特にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは親密な関係を築き、1960年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者に任命された。ザルツブルク音楽祭にも何度か出演し、海外ツアーでも国際的な成功を収めた。 ウィーン古典派の作品やアントン・ブルックナーの交響曲の重要な解釈者とされていた。 | {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = カール・シューリヒト<br />{{lang|de|Carl Schuricht}}
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| Img_capt = 1910年頃
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| Background = classic
| Birth_name = {{lang|de|Carl Adolph Schuricht}}
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[シュテルン音楽院]]<!-- 個人のみ -->
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| Occupation = [[指揮者]]<br/>[[作曲家]]
| Years_active =
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{{Portal クラシック音楽}}
'''カール・アドルフ・シューリヒト'''([[ドイツ語]]:'''Carl Adolph Schuricht''', [[1880年]][[7月3日]] - [[1967年]][[1月7日]])は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]であり、20世紀の最も重要なオーケストラ[[指揮者]]の一人<ref name=":3">Frank Wohlfahrt: ''Das Porträt. Carl Schuricht''. In: ''Neue Zeitschrift für Musik'' 118 (1957), S. 226 f.</ref>。
1923年から1944年まで[[ヴィースバーデン]]の[[音楽監督|音楽総監督]]を務め、[[グスタフ・マーラー]]の作品の解釈で国際的な名声を得た。また、ライプツィヒ交響楽団(現:[[MDR交響楽団]])首席指揮者(1931-1933)、[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]首席指揮者(1944)、ベルリン・フィルハーモニー合唱団([[:de:Philharmonischer Chor Berlin|Philharmonischer Chor Berlin]])芸術監督(1933-1934)を務めた。終戦前にドイツを離れ、[[スイス]]に移住。
以後、[[コンセルトヘボウ管弦楽団]]、[[スイス・ロマンド管弦楽団]]、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]などの客演指揮者として活躍。特に[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]とは親密な関係を築き、1960年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者に任命された。[[ザルツブルク音楽祭]]にも何度か出演し、海外ツアーでも国際的な成功を収めた。
[[ウィーン古典派]]の作品や[[アントン・ブルックナー]]の[[交響曲]]の重要な解釈者とされていた<ref>[[カール・ダールハウス]], [[:de:Hans Heinrich Eggebrecht|ハンス・ハインリヒ・エッゲブレヒト]], Kurt Oehl (編): ''Brockhaus-Riemann Musiklexikon''. Band 4, Mainz 1995, S. 9538.</ref>。
== 略歴と業績 ==
=== 出身と学歴 ===
[[グダニスク|ダンツィヒ]]生まれ<ref name=":0">''[https://www.gedanopedia.pl/gdansk/?title=SCHURICHT_CARL_CONRAD SCHURICHT CARL CONRAD]'' Gedanopedia(ポーランド語)</ref><ref name=":1">Stephan Hörner: ''Schuricht, Carl Adolph.'' In: ''Neue Deutsche Biographie'' (NDB). Band 23, Berlin 2007, S. 761.</ref>。父親カール・コンラート・シューリヒト(Carl Conrad Schuricht)(1856年1月27日 - 1880年6月9日)はオルガン奏者で、代々受け継がれてきたオルガン製作者であり、祖父の[[:de:Schuricht (Orgelbauer)#Orgelbauer|カール・ゴットヒルフ・シューリヒト]]も一緒に働いていた<ref name=":0" /><ref name=":1" />。父は息子カールが生まれる3週間前に、バルト海で楽器を運搬中に船から転落して溺れた雇い人を助けようとして命を落とした<ref>Werner Renkewitz, Jan Janca, Hermann Fischer: ''Geschichte der Orgelbaukunst in Ost- und Westpreußen von 1333 bis 1944.'' Band II, 2. ''Von Johann Preuß bis E. Kemper & Sohn, Lübeck/Bartenstein.'' Siebenquart Verlag, Köln 2015. S. 249.</ref><ref name=":2">Tony Canstatt: ''Unsere Künstler. Karl Schuricht''. In: ''Neue Musik-Zeitung'' 12 (1912), S. 257 f.</ref>。カールの母親はポーランドの[[オラトリオ]]歌手・[[ピアニスト]]のアマンダ・ルドヴィカ・アルヴィネ・シューリヒト=ヴジノウスカ(Amanda Ludowika Alwine Schuricht, née Wusinowska)(1847年12月11日 - 1935年12月11日)であり、幼少から音楽に囲まれた環境に育った。母親が再婚しなかったため、少年は叔父に育てられた。
シューリヒトは、1886年から[[ベルリン]]の[[:de:Friedrichs-Gymnasium Berlin|フリードリヒス-レアルギムナジウム]]に、1892年からヴィースバーデンのケーニヒス-レアルギムナジウムに通った。詩人の[[ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ]]や[[アーダルベルト・シュティフター]]に興味を持った。6歳から[[ヴァイオリン]]と[[ピアノ]]を学び、11歳で最初の作品を作曲し(2つの[[オペラ]]の[[リブレット (音楽)|リブレット]]も書いた)、15歳で[[指揮 (音楽)|指揮]]を始めた。最初の師匠はヴィースバーデン宮廷カペルマイスターの[[:de:Franz Mannstädt|フランツ・マンシュテット]]<ref>Kurt Buchholz: ''Er prägte Wiesbadens Ruf als Musikstadt – Vor 40 Jahren starb der Dirigent und Ehrenbürger der Stadt Carl Schuricht. Letzte Ruhestätte auf dem Nordfriedhof''. In: ''Wiesbadener Tagblatt'' vom 3. Juli 2007.</ref> であった。
1902年にはクジンスキ財団の作曲賞を受賞し、[[:de:Franz von Mendelssohn der Jüngere|フランツ・フォン・メンデルスゾーン]]([[フェリックス・メンデルスゾーン|フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ]]の甥)から奨学金を受け<ref>Bernard Gavoty: ''Die Großen Interpreten. Carl Schuricht.'' Genf 1955, S. 24.</ref>、これにより1901年にベルリンの[[シュテルン音楽院]]に入学<ref name=":10">Jörg Hofmann: ''Straßen-Geschichten''. In: ''Wiesbadener Tagblatt'' vom 12. September 2008.</ref>。1903年までピアノをエルンスト・ルドルフに、作曲を[[エンゲルベルト・フンパーディンク]]<ref>Wolfgang Schreiber: ''Große Dirigenten.'' München 2007, S. 360.</ref> とハインリッヒ・ファン・アイケン<ref name=":1" /><ref name=":2" /> に師事した。また、[[ヴァイオリニスト]]の[[アンリ・マルトー]]や[[作家]]の[[:de:Friedrich Lienhard|フリードリヒ・リーンハルト]]とも親交があった<ref name=":2" />。
=== キャリアの形成 ===
==== ヴィースバーデンの音楽総監督 ====
[[1901年]]から1902年まで[[マインツ]]国立歌劇場の[[コレペティートル]](声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1904年から1906年までは、病気のために仕事ができなかったが、1906年には、ゲオルク・ヒュットナーの代わりに[[:de:Dortmunder Philharmoniker|ドルトムント・フィルハーモニー管弦楽団]]の指揮者を務めた。1907/1908年には、[[:de:Theater Plauen-Zwickau|ツヴィッカウ市立劇場]]で[[オペレッタ]]の[[カペルマイスター]]を務めている<ref name=":3" />。その後、[[バート・クロイツナハ|バート・クロイツナッハ]]・クア交響楽団の指揮者を引継ぎ、[[ゴスラー]]で[[オラトリオ]]と[[男声合唱]]のコンサートの指導者を務めた。特に彼はドイツにおける[[:de:Frederick Delius|フレデリック・ディーリアス]]の作品の紹介に励んだ<ref name=":4">Pierre Gorjat: ''Carl Schuricht: vingt ans après...'' In: ''Revue Musicale de Suisse Romande'' 4 (1987), 192 ff.</ref>。
[[ファイル:Kurhaus Wiesbaden.jpg|サムネイル|クアハウス・ヴィースバーデン]]
1909年には[[ジークフリート・オックス]]の後を継いで、[[フランクフルト・アム・マイン]]にあるリュール・オラトリオ協会(''Rühl’schen Oratorienvereins)''の[[合唱指揮者]]に就任。[[1912年]]から[[1944年]]まで長く[[ヴィースバーデン]]市の音楽監督(1923年からは音楽総監督)<ref name=":5">Stephan Hörner: ''Schuricht, Carl Adolph.'' In: ''Neue Deutsche Biographie'' (NDB). Band 23, Berlin 2007, S. 762.</ref> の地位にあった。1928年から1933年まで、シューリヒトはホテル・オラニエンに住んでいた。1930年から1939年の間、[[:de:Kurhaus Wiesbaden|クアハウス・ヴィースバーデン]]において、ヴィースバーデン市立管弦楽団の定期公演で指揮を執った。シューリヒトは、[[古典派音楽|古典派]]、[[ロマン派音楽|ロマン派]]、そして[[現代音楽]]<ref name=":6">Wolfgang Schreiber: ''Große Dirigenten.'' München 2007, S. 361.</ref> をプログラム<ref name=":4" /> に組み込んだ。例えば[[アルバン・ベルク]]、[[クロード・ドビュッシー]]、[[パウル・ヒンデミット]]、[[モーリス・ラヴェル]]、[[マックス・レーガー]]、[[アルノルト・シェーンベルク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]などである。1913年にヴィースバーデンで、[[グスタフ・マーラー]]の[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]を初演したことで、評判はドイツ全土および国外にまで広まった。
1914年には[[ロンドン]]の[[:en:Queen’s Hall|クイーンズ・ホール]]、[[ミラノ]]の[[スカラ座]]に[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]でデビュー(ミラノには1940年代にも数回)。1921年には[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]を初めて指揮し、1925年からは[[ブルーノ・ワルター]]と共にベルリン・フィルの定期演奏会を指揮した。プログラムにはマーラーの[[交響曲第6番 (マーラー)|交響曲第6番]]が含まれていた。1921年夏、ヴィースバーデンで開催された第4回ブラームス音楽祭では、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]とともに4つのコンサートのうち2つを指揮した。1923年にヴィースバーデンで開催された初のドイツ・マーラー音楽祭でも指揮者を務めた<ref name=":5" />。1927年には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[セントルイス交響楽団]]に客演した。1929年夏には、[[シャルロッテンブルク宮殿]]にある、プロイセン科学芸術国民教育省保護下の外国人のためのドイツ音楽院において指揮講座を開いた。1930年から1939年にかけては、[[オランダ]]の[[スヘフェニンゲン]]でサマーコンサートを指揮し<ref name=":7">Bernard Gavoty: ''Die Großen Interpreten. Carl Schuricht.'' Genf 1955, S. 25.</ref>、[[コンセルトヘボウ管弦楽団]]や[[ハーグ]]のレジデンス・オーケストラとも交流した。
==== ライプツィヒ放送管弦楽団首席指揮者および客演指揮者 ====
1930年代初頭の[[ライプツィヒ]]では、後に[[トーマスカントル]](ライプツィヒ[[聖トーマス教会]]およびライプツィヒ市音楽監督)となる[[ギュンター・ラミン]]と競って放送局のオーケストラの首席指揮者の座を獲得<ref>Jörg Clemen; Steffen Lieberwirth: ''Mitteldeutscher Rundfunk. Die Geschichte des Sinfonieorchesters''. Altenburg 1999, S. 49.</ref> し、1931年から1933年までライプツィヒ放送管弦楽団の首席指揮者を務めた。前任者の[[:de:Alfred Szendrei|アルフレート・センドレイ]]はユダヤ系だったため、放送局から追放されていた。シューリヒトの指揮の下、このオーケストラはドイツで最も優れたラジオ・オーケストラに成長した<ref>''Die Musik'', Band 26, 1933.</ref> が、[[ゲヴァントハウス]]の理事会は1934年に[[ヘルマン・アーベントロート]]を採用した<ref>Thomas Höpel: ''Von der Kunst- zur Kulturpolitik. Städtische Kulturpolitik in Deutschland und Frankreich 1918–1939''. Franz Steiner Verlag, Stuttgart 2007.</ref>。
1933年には[[オットー・クレンペラー]](ユダヤ系のためアメリカに亡命)からベルリン・フィルハーモニー合唱団を引き継ぎ、1934年まで指揮した<ref>Peter Muck: ''Einhundert Jahre Berliner Philharmonisches Orchester''. 2. Band, Hans Schneider, Tutzing 1982, {{ISBN2| 3-7952-0340-6}}, S. 108.</ref>。そこでシューリヒトは、[[マルセル・ポート]]のアレグロ・シンフォニック、[[ボリス・ブラッハー]]のコンツェルタンテ・ムジーク(ブラッハーの出世作)<ref>''Ehrengrab Boris Blacher'', berlin.friedparks.de</ref> や、ブラッハーのハムレットと[[カール・ヘラー]]のヴァイオリン協奏曲<ref>Fred K. Prieberg: ''Handbuch Deutsche Musiker 1933–1945''. CD-ROM-Lexikon, Kiel 2004, S. 6455.</ref> の初演を担当し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前には[[ポリドール・レコード|ポリドール]]に多数の[[レコード|SP]]録音を行う)を指揮した<ref name=":8">Fred Hamel: ''Carl Schuricht 70 Jahre''. In: ''Musica'' 9 (1950), 362 f.</ref>。1934年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。1937年から1944年にかけては、[[フランクフルト放送交響楽団]]の第一客演指揮者を務めた<ref>Alfred Sous: ''Ein Orchester für das Radio. Das Radio-Sinfonie-Orchester Frankfurt''. Kramer, Frankfurt 1998.</ref>。1942年と1943年には占領下のパリで[[フランス国立管弦楽団]]に客演した<ref>''Carl Schuricht in Paris''. In: ''Pariser Zeitung'', 24. November 1942.</ref>。
[[パウル・ファン・ケンペン]]の退団後、1943年から1944年まで[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]の第一客演指揮者を務めた。[[第二次世界大戦]]末期(1944年8月)には、[[アドルフ・ヒトラー]]が承認した[[:de:Gottbegnadeten-Liste|ゴットベグナーデテン-リスト]]の最も重要な指揮者に含まれていたため、本国戦線を含む戦時中の派兵を免れた<ref>Oliver Rathkolb: ''Führertreu und gottbegnadet. Künstlereliten im Dritten Reich''. Österreichischer Bundesverlag, Wien 1991, {{ISBN2| 3-215-07490-7}}.</ref><ref>Ernst Klee: ''Das Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945.'' S. Fischer, Frankfurt am Main 2007, {{ISBN2| 978-3-10-039326-5}}.</ref>。1944年10月1日にシューリヒトは[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者に就任した。音楽評論家の[[:de:Karl Laux|カール・ラウフ]]は、その年の7月に『[[:de:Dresdner Zeitung|ドレスドナー・ツァイトゥング]]』紙にカール・シューリヒトに関して陶酔的なコメントを書いている。彼を「我々の時代の最初の指揮者」の一人とみなし、ドレスデンの音楽文化について十分な見識を持っていることを証明しているとした<ref>Vgl. „Mit grosser Genugtuung werden die Dresdner Musikfreunde von der Berufung Carl Schurichts an die Spitze der Dresdner Philharmoniker Kenntnis nehmen. Dem Musikleben unserer Stadt ist damit ein neuer, kraeftiger Impuls gegeben, der sich mannigfach auswirken wird. [...] Nicht nur, dass Carl Schuricht zu den allerersten Dirigenten unserer Zeit gehoert, die Loesung ist auch deshalb als besonders gluecklich und zukunftsverheissend zu nennen, da Schuricht schon seit langem mit dem Orchester wie mit dem Dresdner Publikum aufs engste zusammengewachsen ist. In letzter Zeit konnte man geradezu von ‚Schuricht-Konzerten‘ der Dresdner Philharmonie sprechen. Der begeisterte Anklang, den sie im Publikum gefunden haben, ist ein Beweis dafuer, wie heimisch Schuricht in Dresden ist.“ (Dieter Härtwig: ''Die Dresdner Philharmonie. Eine Chronik des Orchesters 1870 bis 1970''. VEB Deutscher Verlag für Musik, Leipzig 1970, S. 105.)</ref>。
==== 亡命とスイス時代 ====
多くの音楽家が兵役に召集されたため、ドレスデンでは十分な練習をすることができなくなった。1940年代には、国家社会主義体制との相違が増大し、例えば、政治的圧力により1933年9月に離婚したユダヤ人の元妻<ref>Ulrich Drüner (編): ''[http://www.musik-druener.de/Kat.%2064/Ergaenzungsliste_zu_Kat.64.pdf 1907 bis 1957. 50 Jahre Musik in Deutschland.]'' (PDF; 3,3 MB) Ergänzungsliste zu Katalog 64, Stuttgart 2009, S. 34 f.</ref> の海外移住を支援した<ref name=":4" />。シューリヒトは1944年に収容所に送られることになり、知り合いの[[ゲシュタポ]]の兵士から事前に警告を受け、1944年11月にドイツを出国し[[スイス]]に亡命した<ref>Stefan Jaeger (編): ''Das Atlantisbuch der Dirigenten: Eine Enzyklopädie.'' Zürich 1985, S. 336.</ref>。音楽ライターのフレート・ハーメルは、これはドイツからの追放に他ならないと語っている<ref name=":8" />。編集者のトマス・カイルベルトは、シューリヒトの政権に対する態度を、国内亡命([[:de:Innere Emigration|Innere Emigration]])とし<ref>Thomas Keilberth (編): ''Joseph Keilberth. Ein Dirigentenleben im 20. Jahrhundert.'' Wien 2007, S. 72.</ref>、歴史家の[[:de:Marianne Buder|マリアンネ・ブダー]]はトーマスカントルであるギュンター・ラミンの「困難な状況」と比較している<ref>Marianne Buder (編): ''Hans Chemin-Petit. Betrachtung einer Lebensleistung. Festschrift zum 75. Geburtstag am 24. Juli 1977.'' Berlin 1977, S. 114.</ref>。音楽学者[[:de:Hans Heinz Stuckenschmidt|ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット]]は、「好ましくない作曲家」を指揮していることに体制への抵抗を見出すことさえできるとした<ref name=":9">Fred K. Prieberg: ''Handbuch Deutsche Musiker 1933–1945''. CD-ROM-Lexikon, Kiel 2004, S. 6456 f.</ref>。一方、音楽史家の[[:de:Fred K. Prieberg|フレート・K.・プリーベルク]]は、シューリヒトが1944年までナチスの体制下で恩恵を受けていたとの見解から、彼の経歴をより批判的に捉えている<ref name=":9" />。
シューリヒトはスイスに移住し、1944年末に[[ヴァレー州]]の[[クラン=モンタナ]]に定住した。[[ルツェルン音楽祭]]で知り合ったスイス人のマリア・マルタ・バンツと[[チューリッヒ]]で結婚した<ref name=":11">''Martha Schurichts Urne soll nach Wiesbaden''. In: ''Wiesbadener Kurier'', 25. Juni 2011.</ref>。[[エルネスト・アンセルメ]]<ref name=":7" /> の誘いを受けて[[スイス・ロマンド管弦楽団]]に入団し、数年間で60回以上のコンサートに出演した<ref name=":4" />。マーラーや[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]を多く取り上げたことで、保守的な地方の音楽家の批判に囲まれた 。
===国際的な名声===
====ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関係====
1946年に[[ザルツブルク音楽祭]]が再開された際、シューリヒトはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、ブラームス、ブルックナー、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を演奏した。[[1955年]]3月、だらけたウィーン・フィルの演奏態度に腹を立てたシューリヒトは、ブルックナーの[[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]]を情熱的に指揮して、見事にオーケストラを立ち直らせた。こうしたことがあって、口さがないウィーン・フィルの楽団員もシューリヒトには一目置いて、「偉大な老紳士」と称して特別に敬愛していたという。1956年と1958年<ref>ドイツ語版Wikipediaでは1968年となっているが、1967年に死去しているため、1958年の誤りであろう。</ref> には[[ウィーン楽友協会]]でフルトヴェングラー記念コンサート、[[ザルツブルク]]・モーツァルト週間を指揮した。
[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の生誕200年にあたる[[1956年]][[1月27日]]に、ウィーン・フィルの戦後初のアメリカ・[[カナダ]]演奏旅行に同行するはずだった[[エーリヒ・クライバー]]が[[チューリッヒ]]で急逝した。ウィーン・フィルは首席指揮者として、前日に[[ザルツブルク]]の[[ザルツブルク・モーツァルテウム大学|モーツァルテウム]]大ホールで成功を収めたシューリヒトを選出する。シューリヒトは指揮者の[[アンドレ・クリュイタンス]]と共に、戦後初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカとカナダをツアーし、12のコンサートを開き(ワシントンの[[:en:DAR Constitution Hall|DARコンスティテューション・ホール]]と[[ニューヨーク]]の[[カーネギー・ホール]]など)<ref>''The Saturday Review'', 24. November 1956.</ref> 大成功を収めた。この時、ベートーヴェン、ベルク、ブルックナー、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、モーツァルト、[[ヨハン・シュトラウス2世|ヨハン・シュトラウス]]、[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]が演奏された。このツアーから、シューリヒトとウィーン・フィルの蜜月が始まった。12月10日の人権デーに合わせて、[[国連総会]]にも登場。1957年、シューリヒトはヨハン・シュトラウスのワルツ『[[美しく青きドナウ]]』でフィルハーモニー舞踏会を開き、1958年にはウィーン・フィルと再共演し、スイス、[[フランス]]、[[オーストリア]]、[[スペイン]]で大規模なヨーロッパツアーを行った。以後、[[シュテファン大聖堂]]での演奏会(モーツァルト『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]』)など、両者の黄金時代が続いた。1960年、1961年、1964年、1965年にまたもザルツブルク音楽祭に客演。彼が国際的な名声を獲得したのはこの時期だけである<ref name=":6" />。
==== 晩年の国際的な活躍と死去 ====
1950年代と1960年代には、[[シュトゥットガルト放送交響楽団]]を何度か指揮した。また、[[NDR交響楽団]]、[[フランクフルト放送交響楽団]]、[[ベルリン・ドイツ交響楽団]]、[[バイエルン放送交響楽団]]とも共演した<ref name=":6" />。
[[1957年]]に[[イリノイ州]]ハイランド・パークの[[ラヴィニア音楽祭]]で[[シカゴ交響楽団]]に、[[タングルウッド音楽祭]]で[[ボストン交響楽団]]に客演する<ref>Irving Kolodin: ''Schuricht and Egk at Tanglewood''. In: ''The Saturday Review'', 17. August 1957.</ref>。1963年と1965年には渡英し、[[ロンドン]]の[[ロイヤル・フェスティバル・ホール]]で[[ロンドン交響楽団]]を指揮した。
シューリヒトは1943年から[[レマン湖]]畔のコルソー・シュル・[[ヴヴェイ]]に別荘を所有していた<ref>Dieter Härtwig: ''Carl Schuricht und die Dresdner Philharmonie – Zum 125. Geburtstag des großen Dirigenten''. In: ''Dresdner Neueste Nachrichten'' vom 15. Juli 2005, S. 10.</ref> が、[[1967年]][[1月7日]]に[[スイス]]の病院で死去した。{{没年齢|1880|7|3|1967|1|7}}。[[1965年]]に[[ザルツブルク音楽祭]]でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となった。2011年、彼の骨壷はヴィースバーデンの[[:de:Nordfriedhof (Wiesbaden)|北の墓地]]の名誉の墓に移された<ref name=":11" />。
== レパートリー・評価 ==
シューリヒトは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]から[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[フレデリック・ディーリアス|ディーリアス]]までレパートリーが広い<ref>Götz Thieme: ''Weitere Folgen der Hänssler-Reihe zeigen: der Dirigent Carl Schuricht ist ein inspirierter Sachwalter der Partitur – Ein Großer im Schatten von Großen''. In: ''Stuttgarter Zeitung'' vom 31. August 2005, S. 26.</ref> が、特に[[古典派音楽#ウィーン古典派|ウィーン古典派]]と[[ロマン派音楽#後期ロマン派音楽(1850-)|後期ロマン派]]に傾倒しており、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の交響曲の演奏が知られている。また、グスタフ・マーラーへ大いなる音楽的な情熱を注いでいた。若い時代の一時期を除くと[[オペラ]]の指揮はほとんどなく、[[リヒャルト・ワーグナー]]の作品にはあまり熱心ではなかった<ref>Wolfgang Schreiber: ''Große Dirigenten.'' München 2007, S. 362.</ref>。同時代の指揮者としては例外的に[[歌劇場]]との関係も薄いが、そのことに関しては彼自身も遺憾であったと述懐している<ref>ヨセフ・ミュラー=マライン、ハネス・ラインハルト編『ヨーロッパの音楽家 その体験的告白』(佐々木庸一訳)、音楽之友社、1965年</ref>。
ザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィルやウィーン・フィルとの積極的な共演で世界的に有名になり、[[ブルーノ・ワルター]]や[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]<ref>J. L.: ''Mort du chef d'orchestre Karl Schuricht''. In: ''Le Monde'', 8./9. Januar 1967.</ref> だけでなく、[[クレメンス・クラウス]]、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]、[[オットー・クレンペラー]]に肩を並べると言われるようになった<ref name=":3" /><ref name=":4" />。
シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年は[[リウマチ]]の悪化により、杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場した。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が、彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に(そしてオーケストラの楽員にも)大きな感銘を与えた。
シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。彼の楽譜の読みはどの指揮者よりも個性的で、ある時はザッハリヒに厳しく響かせたり、ある時はテンポを動かしながらロマンティックに歌わせるなど、決して一筋縄ではいかない意外性があったが、音楽全体は確信と明晰さにあふれていた。また、同じ曲でも決して毎回同じようには指揮せず、演奏するたびに新鮮な感動と発見を聴き手に与えた。
シューリヒトは指揮者として客観性を重視していた。[[シュトゥットガルト]]の音楽編集者ゲッツ・ティームは、彼のリズムの明快さを[[ピエール・ブーレーズ]]と比較している<ref>Götz Thieme: ''Eine DVD erinnert an den großen Dirigenten Carl Schuricht – Luzider Sachwalter''. In: ''Stuttgarter Zeitung'' vom 1. März 2006, S. 30.</ref>。彼のモットーは「何かを創造することは、それを使用することより優れている」<ref name=":10" />。[[音楽学者]]ベルナルド・ガヴォティは、作品に[[:de:Werktreue|忠実]]で、適切で、融通無碍であると評している<ref name=":12">Bernard Gavoty: ''Die Großen Interpreten. Carl Schuricht.'' Genf 1955, S. 6.</ref>。1955年、彼は連載「偉大な解釈者(Die großen Interpreten)」でシューリヒトを肯定的に評価した<ref name=":12" />。彼は、シューヒリヒトを、聴き手の感覚のあらゆる能力に対応できる「現代の3、4人の最も偉大な指揮者」の1人に数えている<ref>Vgl. „Warum wir Carl Schuricht lieben? Weshalb wir ihn ohne Zögern zu den drei oder vier grössten Dirigenten unserer Zeit zählen? Weil dieser wunderbare Künstler uns, seit langer Zeit nur unvergessliche Aufführungen schenkt. Weil Schuricht auf dem Podium eine Freude für Ohr, Herz und Auge bedeutet. Weil er gleichzeitig Maler, Bildhauer, Dichter sowie Musiker ist, ein Grosser unter den Grossen. [...]“ (Bernard Gavoty: ''Die Großen Interpreten. Carl Schuricht.'' Genf 1955, S. 3.)</ref>。音楽学者のリヒャルト・シャールとヴィリー・タッポレットは「解釈において堅固な精神性が牽引している」のだと語っている<ref>Richard Schaal, Willy Tappolet: ''Schuricht, Carl.'' In: Friedrich Blume (編): ''Musik in Geschichte und Gegenwart'' (MGG). Band 12, Bärenreiter, Kassel 1965, S. 328.</ref>。音楽学者のマティアス・マイヤーは、シューリヒトの解釈を「バランスがとれて完璧」と呼んだ<ref>Matthias Meyer: ''Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin. 1923–1998.'' Rundfunk-Orchester und Chöre, Berlin 1998, S. 60.</ref>。また、オペラ演出家のルドルフ・シュルツ=ドーンブルクはシューリヒトについて次のように述べている「このそびえ立つ小柄な男の仕事ぶりと音楽作りは、作曲家の作品に対して完全に一歩下がった芸術的な謙虚さに特徴があった」<ref>Gabriele Jung: ''Carl Schuricht für heute neu entdeckt. An den herausragenden Dirigenten erinnern eine CD-Box sowie ein Buch und eine Ausstellung''. In: ''Aar-Bote'' vom 21. Februar 2004.</ref>。
== 受賞歴 ==
=== 栄典 ===
* 1936:ギリシャ政府[[:de:Phönix-Orden|フェニックス勲章]]
* 1938:[[:de:Orden von Oranien-Nassau|オレンジ・ナッソー騎士団長]](オランダ)
* 1944:[[戦功十字章|戦功十字章(1939)]]II.剣のない階級<ref>Fred K. Prieberg: ''Handbuch Deutsche Musiker 1933–1945''. CD-ROM-Lexikon, Kiel 2004, S. 6453.</ref>(ドイツ)
* 1948:オランダ・ブルックナー・メダル
* 1950:国際ブルックナー協会アントン・ブルックナー・メダル
* 1953:[[ドイツ連邦共和国功労勲章]]大十字章
* 1953:[[:de:Liste der Ehrenbürger von Wiesbaden|ヴィースバーデン市の名誉市民]]
* 1955:[[:de:Goethe-Plakette (Hessisches Ministerium für Wissenschaft und Kunst)|ヘッセン州のゲーテの盾]]
* 1956:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニコライ・メダル
* 1957:アメリカ・ブルックナー協会名誉会員
* 1957:オーストリア共和国連邦大統領[[アードルフ・シェルフ]]により[[:de:Lehrstuhl|教授]]に任命<ref>''Neue Zeitschrift für Musik'' 118 (1957), S. 571.</ref>
* 1958:[[:de:Internationale Gustav Mahler Gesellschaft|国際グスタフ・マーラー協会]]ウィーン金メダル<ref>{{Cite web|url=https://gustav-mahler.org/?frabre=/gesellschaft/medaille.cfm|title=Die goldene Mahler-Medaille|accessdate=2020-7-26|publisher=Internationalen Gustav Mahler Gesellschaft Wien}}</ref>
* 1960:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者
* 1961:[[:de:Mozartgemeinde Wien|モーツァルト・コミュニティ・ウィーン]]・モーツァルトメダル<ref>{{Cite web|url=http://www.viennatouristguide.at/Gedenktafeln/pers/M/mozart_1_zmed.htm|title=Mozartmedaille|accessdate=2020-7-26|publisher=Mozartgemeinde Wien}}</ref>
* 1965:[[:de:Orden Alfons X. des Weisen|アルフォンソ10世賢者大十字勲章]](スペイン)
=== さらなる栄誉 ===
ヴィースバーデン市には「カール・シューリヒト通り」がある。また、ヴィースバーデンのクアハウスには、カール・シューリヒト・サロンとクリスチャン・ツァイス・ザールの前の記念碑がある<ref>''Gesucht war Carl Schuricht''. In: ''Main-Taunus-Kurier'' vom 15. August 2007.</ref>。
== 作曲作品 ==
シューリヒトは[[室内楽]]、[[歌曲]]、[[管弦楽]]作品、[[ソナタ]]を作曲した<ref name=":7" />。以下の作品はヴィースバーデンの Drei-Lilien-Verlag から出版されている。
* [[ピアノ]]のためのソナタ ヘ短調 作品1
* 秋の小品 作品2 ピアノとオーケストラのための
* 5つの歌曲 作品3
* 3つの前奏曲 作品4 ピアノのための
上記に加え:
* 歌曲 思い出
* オーケストラのための北欧幻想曲(楽章:岩場の嵐/オーロラ/冬の夜/山の自由)
* ドラマの前奏曲「ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン」フリッツ・リーンハルトによる 1905年3月23日にダンツィヒで上演、1906年3月16日にダンツィヒで改訂<ref>Danziger Zeitung 1905, Nr. 142 (24.3.), Danziger Neueste Nachrichten 1905, Nr. 71 (24.3.), Danziger Neueste Nachrichten 1906, Nr. 65 (17.3.)</ref>
== 家族と遺産相続争い ==
1955年の遺言で、カール・シューリヒトは全財産を4番目<ref>''Martha Schurichts Urne soll nach Wiesbaden - EHRENGRAB Dirigenten-Witwe starb in der Schweiz''. In: ''Wiesbadener Tagblatt'' vom 25. Juni 2011.</ref> の妻(1944年以降)マルタ・シューリヒト=バンツ<ref name=":1" />(1916-2011)に遺贈した。後にヘルムート・ヴァイスバッハに訴訟を起こされた。ヨハネス・シューリヒト(Johannes Schuricht、1916年生まれ、後にヘルムート・シューリヒトと名乗る)は、1908年から1922年までのフレデリケ・ハイネマンとの結婚生活の間に生まれた息子で、[[:de:Hans Weisbach|ハンス・ヴァイスバッハ]]の養子である<ref>Jörg Clemen; Steffen Lieberwirth: ''Mitteldeutscher Rundfunk. Die Geschichte des Sinfonieorchesters''. Altenburg 1999, S. 69.</ref>。
シューリヒトは、子供の父性を常に疑っており、生前、娘婿と孫への養育費を3万スイスフランに制限していた。[[ヴォー州]]民事裁判所は1969年に原告に有利な判決を下した。マルタ・シューリヒトは、1971年に[[:de:Bundesgericht (Schweiz)|スイス連邦最高裁判所]]が「父親が離婚した妻とその息子の子供の養育費として支払った金銭は補償の対象にならない」との理由で却下した判決を不服として抗告した。(BGE 97 II 209)<ref>{{Cite web|url=https://www.servat.unibe.ch/dfr/bge/c2097209.html|title=29. Arrêt de la IIe Cour civile du 28 octobre 1971 dans la cause Schuricht contre Weisbach.|accessdate=2020-7-26|publisher=DFR}}</ref>
== 著作 ==
* 『私の人生から』1954年12月16日の[[ジュネーヴ|ジュネーブ]]、アテネウムホールでの講演(ヴィリー・タッポレットが書き起こした原稿)
== レコーディング ==
[[EMI]]や[[デッカ・レコード|デッカ]]、[[コンサート・ホール・ソサエティ]]盤など多数のスタジオ録音が残されているが、放送用録音の発掘も現在盛んに行われている。
* [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:[[交響曲第35番 (モーツァルト)|交響曲第35番]]、[[交響曲第36番 (モーツァルト)|交響曲第36番]]、[[交響曲第38番 (モーツァルト)|交響曲第38番『プラハ』]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番]]、『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]』(シュテファン大聖堂ライブ)など。
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:交響曲全集([[パリ音楽院管弦楽団]])、『[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|英雄]]』([[フランス国立放送管弦楽団]])など。
* [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]:[[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番]]、[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]](ウィーン・フィルとのライブ)、[[交響曲第7番 (ブルックナー)|交響曲第7番]]、[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]、[[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]]。
*バッハ、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]など多数。
== 映画 ==
* ''Carl Schuricht – Portrait eines Lebens''. Dokumentarfilm, BRD 1956–1958, 監督:ロルフ・ウンケル、[[:de:Dieter Ertel|ディーター・アーテル]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* ミシェル・シェヴィ(扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳)『大指揮者カール・シューリヒト 生涯と芸術』(2009年 アルファベータ刊)
* José A. Bowen: ''Schuricht, Carl''. In: [[スタンリー・セイディ|スタンリ・セイディ]](編):''[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]''. Band 22, Macmillan, London [u. a.] 2001, {{ISBN2| 0-333-60800-3}}, S. 820.
* Julian Caskel: ''Schuricht, Carl''. In: Julian Caskel, Hartmut Hein (編): ''Handbuch Dirigenten. 250 Porträts''. Bärenreiter, Kassel 2015, {{ISBN2| 978-3-7618-2174-9}}, S. 360–361.
* Jörg Clemen, Steffen Lieberwirth: ''Mitteldeutscher Rundfunk.'' ''Die Geschichte des Sinfonieorchesters''. Verlag Klaus-Jürgen Kamprad, Altenburg 1999, {{ISBN2| 3-930550-09-1}}, S. 48 ff.
* Richard Schaal, Willy Tappolet: Schuricht, Carl. In: Friedrich Blume (編): Die Musik in Geschichte und Gegenwart (MGG). Erste Ausgabe, Band 12 (Schoberlechner – Symphonische Dichtung). Bärenreiter/Metzler, Kassel u. a. 1965, DNB 550439609, Sp. 328
* Ulf Scharlau: Schuricht, Carl. In: Ludwig Finscher (編): Die Musik in Geschichte und Gegenwart. Zweite Ausgabe, Personenteil, Band 15 (Schoof – Stranz). Bärenreiter/Metzler, Kassel u. a. 2006, {{ISBN2| 3-7618-1135-7}} (Online-Ausgabe, für Vollzugriff Abonnement erforderlich)
* ''Schuricht, Carl.'' In: ''Brockhaus-Riemann Musiklexikon.'' CD-Rom, Directmedia Publishing, Berlin 2004, {{ISBN2| 3-89853-438-3}}, S. 9538.
* Bernard Gavoty: ''Die Großen Interpreten.'' ''Carl Schuricht.'' Verlag R. Kisler, Genf 1955.
* {{NDB|23|761|762|Schuricht, Carl Adolph|Stephan Hörner|117311332}}
* Fred K. Prieberg: ''Handbuch Deutsche Musiker 1933–1945''. CD-ROM-Lexikon, Kiel 2004, S. 6453 ff.
* Wolfgang Schreiber: ''Große Dirigenten''. Piper Verlag, München 2007, ISBN 978-3-492-25072-6, S. 353 ff.
* Frank Wohlfahrt: ''Carl Schuricht''. Freie Akademie der Künste, Hamburg 1960.
== 外部リンク ==
* {{DNB-Portal|117311332|TYP=Werke von und über}}
* {{DDB|Person|117311332}}
* {{Discogs artist}}(英語)
* {{Munzinger|00000003503}}(ドイツ語)
* [http://carlschuricht.com/Schuricht.htm カールシューリヒトホームページ] (英語)
* バッハカンタータスでの [http://www.bach-cantatas.com/Bio/Schuricht-Carl.htm カールシューリト](英語)
* {{OstdtBio|schuricht-carl|Schuricht, Carl}}(ドイツ語)
* オーストリアのメディアライブラリのオンラインアーカイブにある [https://www.mediathek.at/atom/08F3B493-229-00292-00000CD4-08F2C29F// カールシューリヒト](ドイツ語)
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1,487 | BASIC | ■カテゴリ / ■テンプレート
BASIC(ベーシック)は手続き型プログラミング言語のひとつ。
名前は「beginners' all-purpose symbolic instruction code」のバクロニムである。日本語では「初心者向け汎用記号命令コード」を意味する。
誕生したのが1964年であり、当時普及していたプログラミング言語FORTRANにいくつかの点で似ている。構文は、FORTRANの文法が基になっているとしばしば解説されている。
BASICはインタープリタ方式で動くものと、コンパイラ方式で動くものに大別できる。現時点では、構文の様式が大きく異なる2種類のBASICが存在している。構造化前のBASICと、構造化後のBASICである。
したがって両者はかなり異なっており、明確に区別して論じる必要がある。
構造化以前のBASICの行番号とGOTO文については、基本的な例を示しつつ#構造化以前のBASICの節で解説する。また、BASICの基本的な予約語や、ステートメントとコマンドの区別(ステートメントはPRINT, FOR NEXT, IFなど、コマンドはRUN, LIST, SAVEなど)についても、同節で解説する。
最初のBASICは、1964年、米国ダートマス大学で、数学者ジョン・ケメニー(1926年-1992年)とトーマス・カーツ(1928年 - )がもともと教育目的を想定して開発したものである。このBASICを「ダートマスBASIC」という。行番号の使用や構文は、当時主流だった言語FORTRANの影響を受けている。彼らはこれで金儲けをする気はなく特許なども取得せず、今風に言うと「パブリックドメイン」のようなものにしようと考えていたので普及することになった。このダートマスBASICはコンパイラだった。BASICはGEとの提携を経て大学の外にも普及していくことになり、1970年代後半や1980年代のマイコン、パーソナルコンピュータなどの多くの機種で次々と採用され、普及していった。1970年代後半~1980年代のBASICのほとんどはインタプリタ方式でマザーボード上のROM(Read Only Memory)にあらかじめ書き込まれた状態で供給されていた。一部のBASICはインタプリタ方式でもROMに書き込まれておらず補助記憶装置から読み込まれたり(たとえば日本ではシャープのMZ-80シリーズなど)、あるいはコンパイラ方式のBASICで高速で実行できるものも開発・供給された。
1964年、米国ダートマス大学にて、数学者ジョン・ケメニー(1926年-1992年)とトーマス・カーツ(1928年 - )により、教育用などを目的としてダートマスBASICが開発された。これは同時期にともに開発された、タイムシェアリングシステムDTSS上のラインエディタ(テレタイプ端末環境)で利用されるよう設計されていた。
BASICは、GEとの提携を経て、学外にも普及した。ダートマス大学のオリジナルはコンパイラだったが、パソコンなどの商用版では基本機能を最小限にしたうえでインタプリタとして実装されることが多く、独自の発展を遂げた。
詳しく説明すると、もっとも初期に使用したのはゼネラル・エレクトリック(GE)であり、GEはGE-225というマシンをダートマス大学に納入していたのである。
BASICの方言(異仕様)は、1970年ころ、GEがBASICの第4版を使っているころに現れ始めた。新しいバージョンを待たず、ver.5を用いたマシンをGEがリリースしたころからである。ダートマス大のケメニーとカーツの2人が「BASIC the Sixth(BASIC 第六版)」をリリースした1年後くらいに、ズレが生じはじめた。当時のBASICの異バージョンはGordon Eubanks(シマンテック社のCEO)によるもので、彼は1970年にBASIC-Cを開発した。(なお、BASIC-Eは現在のJavaのような技術を用いており、命令文は一種の中間コードに変換された後に機械語に変換されるものである。)Eubanksも彼の開発したBASIC-Eについては(ダートマス大の2人同様に)法的に保護せず、次のCBASICでそのような措置をとった。CBASICは彼の会社 Compiler Systems社から販売された。あまりにも次々とBASICの異バージョンが現れるので、ANSIも1974年にBASICの標準化の必要性を感じ始めた。ANSI内に標準化委員会が立ちあがり、BASICの2つの標準、つまり当時その委員会で「ミニマルBASIC(minimal BASIC)」つまり最小のBASICと呼ばれたものと、もう一方は「スタンダード BASIC(Standard BASIC)」と呼ばれたものを作成しようと取り組んだ。だがBASICの標準化は難しく、その委員会が長年かけて「標準化」の仕事をやっと完了したころには、とうにBASICは世界中で(さまざまな機種で、異仕様で、とっくにROMなどに実装されて)広く使われてしまっていた。そのようなわけで、(実際上)標準BASIC(Standard BASIC)というものは現れないことになったのである。
史上初の市販のパーソナルコンピュータとされているのはMITS社のAltair 8800であり、1975年、このAltair 8800向けにハーバード大のビル・ゲイツ、ポール・アレン、モンティ・ダヴィドゥフの3人が(マイクロソフトという設立したての法人の名のもとに)Altair BASICを開発し、MITS社との契約のもと配布された。1976年4月11日にはスティーブ・ウォズニアックによって開発されたパーソナルコンピュータ・キットApple Iがアップル社から発売され、このマシンのために同じくウォズニアックが開発したen:Integer BASICが供給され(当初はデータレコーダのカセットテープの形で供給され、後にApple IIが発売されてからROM版も供給された)、翌1977年6月にはキットタイプではない完成品タイプのApple IIが発売となり、それにもやはりINTEGER BASICが、だが今度は最初からROMに書き込まれた形で搭載された。
1970年代末から1980年代初頭にかけての一時期は、少数のエレクトロニクス好きのホビースト(趣味的にやっている人々)たちは、8ビットCPUのコンピュータをキットなどから自作しその上でTiny BASICを動かしたり、その上でスタートレックなどのゲームを動かすことなどを楽しんでいた。
だが大多数の人々はコンピュータを実務に使いたいと感じており、キットではなく最初から完成品の、動作することが確実なコンピュータを求めていた。メーカー側はそうした要望に応えてターンキーシステム(キット品ではない、最初から動く完成品)を開発しそれにBASICインタプリタをROMに書き込んだ形で搭載するようになり、BASICは一気に当時のマイクロコンピュータ(パーソナルコンピュータ)の標準言語の地位を獲得した。この時に搭載されたBASICインタプリタはほとんどがマイクロソフト製で、同社躍進のきっかけとなった。また、マイクロソフト製BASICは中間コードを使用する構造になっており、汎用機を再現した極めてエミュレータに近いランタイム形式の実行環境でもあったため、当時の互換性が皆無なコンピュータ事情の中でも、スクリプト自体の移植は容易だった。
その後、(MS-DOS発表以前の)パソコンに、操作を提供するのにも使われ、しばしばROM-BASICとしてハードウェアに組み込まれた。電源投入後にエディタ込みで利用できることから、現在における、シェル、インタフェースとしての役割ももち、ローダなどの役割も担った。入力の効率化のため、省略形式での入力や、1980年代後半には、ラベル、インデントへの内部的な対応、C言語への橋渡し、日本では漢字の利用など、様々な機種ごとの独自の発展を遂げた。当時のPCの処理速度は遅いので、処理の高速化が必要な部分はデータ形式でアセンブリ言語による処理を呼び出すなどの手法もとられた。
1980年代後半から1990年代前半ころにはC言語がパーソナルコンピュータのユーザにも少しずつ知られるようになり、早く知り、早くCコンパイラを入手した人から順に、(構造化以前の)BASICの代わりにC言語を使うことが増えていった。
一方で1990年代などでもプログラミングの専門家ではない数学者が、あいかわらず行番号を使用する数値計算用のBASICを開発するなどということ(UBASIC)も行われつづけた。
BASICは1970年代後半から1980年代にかけて、当時黎明期にあり、次々と各社が製造に乗り出したパーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)の各機種に続々と搭載されていくことになり、パーソナルコンピュータ業界の発展にも貢献した。
だが、前述の「標準化できなかった経緯」の節で説明したように、BASICを最初に開発したダートマス大の2人は今で言う「パブリックドメイン」でいいと漠然と考えていて(つまり、うかつなことに、権利を確保しておいて世の中のBASICの仕様をコントロールしようともせず)、また標準化団体のANSIも後手にまわってしまったので、BASICには「方言」が乱立する状況になってしまった。(関係者を弁護するなら、最初から標準化をしておかないと普及していくプログラミング言語に一体どのようなことが起きてしまうかということについて、開発者の2人や当時のANSIに限らず、当時はまだ誰も経験しておらず、そもそも誰にも用心・警戒心が無かった。)
マイクロコンピュータやパーソナルコンピュータに標準搭載されたBASICは、たいてい各メーカーのひとつひとつの機種ごとに独自拡張が行われた(おもに画面操作やI/Oの直接操作などについて、その機種でしか通用しない、独自の仕様が次々と導入された)。コモドール社のPET 2001のCommodore BASICに類似したシャープのS-BASIC、SEGAのベーシックカートリッジ、次第にシェアを増やしたマイクロソフト製のBASIC(MBASIC、BASICA、G-BASIC、GW-BASICの移植版)や、その命令体系を引き継ぎ実装したものである、F-BASIC、Hu-BASIC、カタカナで表現するG-BASIC(前述のマイクロソフトの物とは異なる)以外にも、C言語を意識したX-BASICなど、さまざまなBASICを各社が独自に開発した。
この結果、「あるパソコンのBASICで書かれたプログラムは、他のパソコンではそのままでは動かすことができない」という、残念な状態になってしまった。たとえBASICの開発会社が同じでも、別の機種では動かない状況になってしまったのである。BASICを用いていては、開発者はせっかく苦労してコンピュータプログラムを開発しても、たいていはわずか1機種でしか動かず、また企業がソフトウェアをビジネス目的で開発・販売しようとする場合でもBASICでプログラムを開発しては、わずか1機種のユーザにしか売れず、それではあまり儲からないので、はじめから開発を躊躇しがちになる、という状況だったのである。
プログラミング言語で最初から標準化をしておかないと、どのような残念な状況になってしまうか、ということを人類は初めて経験したわけで、BASICで得られた苦い教訓が、後に開発されるさまざまな高級言語で活かされていくことになり、プログラミング言語で「方言」が乱立しないようにし、機種を超えてひとつのコンピュータプログラムが使えるようにする施策、「プラットフォーム・フリー」戦略へと繋がっていくことになる。
初期のTiny BASICはともかくとしても、BASIC実装処理系のメイン・メモリの制限により言語仕様が極めて制限された実装が存在した。
処理プログラムの大きさや速度の制限を改善あるいは回避するテクニックを紹介する。いくつかは、ソースの読みやすさを犠牲にするようなテクニックでもあった。
次のようなコンパイラがある。
しかし、パソコンに内蔵または標準添付されていたインタプリタと違い、コンパイラは別売であったり、高価であったり、実行にはランタイムライブラリを必要であったりする場合があった。このことから、BASICインタプリタによる開発に習熟したユーザーは、より高速で柔軟なプログラムを求めて、機械語(アセンブリ言語)や、C言語などに移行していった。
また、コンパイラと称していても、実際はインタプリタとソースコードを同梱した実行ファイルを作るだけ、というものもある。中間表現と、そのインタプリタ、という構成のものもある。
急速に広まったBASICだが、構造化機能の無いBASICは教育に使うな、などとコンピュータサイエンティストの一部から酷評されたりもした。1975年にはすでに、エドガー・ダイクストラから激しく批判された"How do we tell truths that might hurt?"などが知られる。
行番号とGOTO文は特に激しく批判された。(構造化前の)BASICのIF文とGOTO文を組み合わせて使用する文(「IF .... THEN GOTO ...」)を頻発せざるを得ず、IF + GOTO文を増やすほどスパゲティプログラムになってしまう、ということはしばしば指摘された。
さらにBASICには局所変数(ローカル変数)が無いなど、他にも問題は多い。つまり、プログラムのどこからでもアクセス可能な大域変数(グローバル変数)しかなく、これもまたスパゲティプログラムを誘発する要因である。
BASICの標準化が望まれたが、マイコン・パソコンの急激な普及で標準化は後手後手にまわり、各メーカーの独自拡張はすでに各機種のROMに書き込まれているわけで後から書き換えるわけにもいかず、各メーカーは競合関係にあり自社のものを標準に採用して他社のものは排除してくれと考えるわけで、後手にまわってしまった標準化団体も一部のメーカーだけを優遇するわけにもいかず、ともかく後手にまわってしまった標準化というのは非常に難しいので、 結局、「どの機種のBASICでも、共通で使われている、ごく基本的な機能」に絞った小規模の仕様だけが「標準」として制定されるにとどまった。ANSI X3.60-1978「American National Standard for the Programming Language Minimal BASIC」は、日本では JIS C 6207-1982「電子計算機プログラム言語 基本BASIC」として規格化された。制定直後にJISの分類の再編があり、電気電子のCから情報のXに移動してJIS X 3003となったが、次節のFull BASICのJIS化の際に改訂として同じ番号を使うという形で旧規格として消滅した。
すでに多数の重要な機能は、各機種のBASICの「方言」として実装されてしまっていて後からそれを削るわけにもいかず、基本以外の高度な部分の標準化はされず乱立状態は放置されたので、結局、各社は高度な機能は方言で実装しつづけたわけで、実際上はBASICの標準化は失敗したままに終わった。
日本では1990年代後半から、高等学校や大学入試センター試験の数学に、標準化された基本BASICの範囲で書かれたプログラミングが扱われるようになった。つまり、「基本BASIC」は実機では「有名無実」だが、(特定メーカーに依らないので)試験問題に使うのに無難な題材として使われる。
ダートマスBASICは、他のBASIC(ケメニーらは「ストリート」BASIC、と呼んだ)とは異なって既に1970年代後半から構造化などが進んでおり、ANSIでは新しい規格の策定も進んでいたが、これをパソコン向けにアレンジしたTrue BASICが、1984年に開発された(日本ではクレオから発売)。構造化の他、行列演算の機能など、学術的(特に数学的)な方面の拡張も特徴である。そしてTrue BASICとほぼ同一の構造化BASICであるFull BASICがISO/IEC 10279 (Information technology−Programming languages−Full BASIC) がINCITS/ISO/IEC JTC 1によって1991年に規格化された。また日本でもJISによる翻訳として、JIS X 3003-1993『電子計算機プログラム言語 Full BASIC (The Programming Language Full BASIC)』が1993年に規格化された。
マイクロソフトはFull BASIC規格の策定には参加しなかったが、1985年にFull BASICに類した構造化や特徴を追加した独自規格のQuickBASICを発売した。これは自社のMS-DOS用のGW-BASICの上位互換で、コンパイラ並に動作を高速にした上にコンパイルもできるようにしたもので、Version4.5まで発売した後に1991年のVisual Basicへと繋がっていった。
QuickBASICとの互換性を考慮したフリーなBASICとしてQB64(英語版)やFreeBASICがある。
MS-DOS上で動作するGUI拡張環境として、1985年にMicrosoft Windows 1.0が登場し、のちに独立したオペレーティングシステム (OS) としても普及を始めた。GUIオペレーティング環境はコンピュータの操作に直感性をもたらしたが、Windows上で動作するGUIアプリケーションソフトウェアは、ボタンのような画面上に表示された視覚的なGUI部品(ウィジェット、コントロール)をユーザーがマウスで操作することに反応して動作する、イベント駆動型のプログラムである。Windowsアプリケーション向けのプログラミング言語や開発環境として、マイクロソフトはC/C++を用いた開発ツール(Microsoft C/C++、のちのMicrosoft Visual C++)だけでなく、構造化BASICを用いた開発ツールとして「Visual Basic」(VB) も提供した。VBは前述のQuickBASICから発展したもので、Rapid Application Development (RAD) 方式の本格的な統合開発環境 (IDE) でもあり、生産性と直感性に優れていた。
Windows自体はC/C++を使って開発されており、マイクロソフトの開発エンジニアたちはC/C++に慣れていたわけだが、それでもBASICを見捨てることはしなかった。 もともとビル・ゲイツはAltair 8800向けのAltair BASICを最初の製品としてビジネスの道を切り開き、その後も多数の自社BASICを開発してマイクロソフトを大きくしたので、マイクロソフト社はBASICとともに大きくなってきたわけであり、簡単にBASICを捨ててしまうような選択はしなかったのである。また、マーケティング的(商売的)に見てもこの判断は賢かった。既存ユーザが受け入れやすい選択肢を提供することで、ユーザが他社に逃げてしまうことを防いだわけである。
Visual Basicでは、業務用のソフトウェア、プロフェッショナル用のソフトウェアなども多数開発されるようになった。Visual Basicは旧BASICとは異なり、もはや「初心者用」でも「ホビー用」でもなかった。C言語やC++同様に、プロでもその気になればまともに使える言語になったのである。なお、C/C++は言語仕様上、そもそもGUIプログラミングや統合開発環境との親和性、コンパイル速度などに問題があった。プロパティなどの便利な機能をサポートし、またシンプルな言語仕様を持つVBのほうがGUIプログラミングに向いていた、という側面もある。VBは後発のDelphiやC++Builderの設計思想にも影響を与えている。
また、「PC/AT互換機とWindowsの組み合わせ」というプラットフォームが一般化したことで、1970年代や1980年代には起きていた「BASICの方言の乱立」の問題が解消されていくことになった。Windowsが走るマシンであれば、どのメーカーが製造したパソコンであろうが、MicrosoftのVisual Basicが「標準的なBasic」という位置づけになっていき、いわば「標準語」のようなものがひとつに定まったのである。ただしVisual Basicは、Windowsというプラットフォームに依存する言語、開発環境にすぎなかった。Windows以外のMacintoshやLinuxといったプラットフォームでは使えないものであった。
なお、VBのサブセットであり、アプリケーションを制御するためのドメイン固有言語・マクロ記述言語としてVisual Basic for Applications (VBA) も登場し、主にMicrosoft Office (MS Office) 向けに提供されている。Officeに統合開発環境が標準的に組み込まれており、専業のアプリケーション開発者以外の一般ユーザーにも利用可能であることからエンドユーザー・コンピューティングの普及に寄与し、事務作業の効率アップやプログラミングの入門にも使われることになり、入門者をプログラミングの世界にいざなう役割も担った。ただし、VBAのマクロ機能を悪用したコンピュータウイルスも出現し、利便性と引き換えにセキュリティホールの温床にもなったことから、Office 2007以降の既定のファイル形式ではVBAは使えなくなっており、また既定でVBAは無効化されている。
VBから発展したVB.NETは、C#とともに登場したモダンなオブジェクト指向言語であり、アプリケーションの開発および実行に.NET Framework環境を必要とする。のちにMonoや.NET Coreにも移植され、WindowsだけでなくLinuxやmacOSでも利用可能なクロスプラットフォームな言語となった。Xamarinを利用することでAndroidやiOSで動作するアプリケーションも開発することができる。
だが大学ではBASICの使用は構造化BASICも含めて減っていった。大学では、構造化言語の中でも、特定メーカーに依存せずプラットフォームを超えて使え、方言が乱立しなかったC言語を教えることが一般化した。また、特定のOSやCPUアーキテクチャに依存せず、無料で使えるJavaなどの洗練された後発言語の普及により、BASICは開発環境としては選択肢のひとつでしかなくなっていった。
なお、コンパイラで開発した場合、実行ファイルとは別に、巨大なランタイムライブラリが必要となる処理系が多い。このため配布に必要なファイルのサイズが大きくなり、敬遠されることもある。
もともとVB.NETは姉妹言語のC#やF#と比べて、新しい言語機能のサポートが遅れる傾向にあったが、マイクロソフトは2023年2月、VB.NETには今後新しい言語構文を追加せず、安定性に重きを置く方針であることを発表した。VB.NETのサポート自体は継続されるが、言語の進化は止まっている。
プログラミング言語の人気度 (popularity) を示す指標のひとつとしてTIOBEインデックスが存在する。この指標は実際の言語利用状況とはやや異なるが、2023年9月現在、PythonやC系統の言語が上位を独占する中、Visual Basicは一定の地位を維持している。TIOBEが発表した2021年11月のランキングでは、トップ10は上から順に、Python、C、Java、C++、C#、Visual Basic、JavaScript、アセンブリ言語、 SQL、PHPとなっていて、つまり2021年11月時点でVisual Basicは6位だった。一方、RedMonkによる2021年6月のランキングでは、VBは20位以内にも入っておらず圏外だった。
構造化ということを意識していなかったパソコン用のROM/Disk-Basic環境で、構造化プログラムを記述するために作られたプリプロセッサである。アスキーの書籍の形(アスキー書籍編集部編著「構造化BASIC RATBASのすすめ」 (ISBN 978-4-87148-152-6) )で、1985年に公開された。これは、独自の構造化された構文で記述されたソースプログラムを処理し、行番号やGOTO文を使うROM/Disk-Basicに変換するプログラムで、すべてBasicで記述されていた。RATBASという名前は構造化FortranのRatforなどに倣ったものである。RATBASは、スタンドアローンのBasicプログラムと、μ-UXの外部コマンドとして作成されたサブセット版がある。μ-UXとは、年刊AhSKI!の1984年号に掲載された、Disk-Basicで記述されたUnix風のオペレーティング環境であるUni+を拡張したものである。
海外ではボーランドが独自にALGOL風の拡張を施したTurbo Basicを発売した。
現在、BASICもオブジェクト指向化が見受けられる。その代表例がVisual Basic .NETやREALbasicやActiveBasicやFreeBASIC等で、四者とも既に完全なオブジェクト指向言語になっていると言える。
構造化以前のBASICは、行番号とGOTO文があることが特徴のひとつである。
BASICのエッセンスを説明し簡単なプログラム例を示すために、BASICのステートメントとコマンドについて説明する。 本来のBASIC、ダートマスBASICではステートメントとコマンドを明確に区別する。ダートマスBASICのルールを説明する。
行番号を持ち、プログラム本文の中に書かれるコード行はステートメント(文、statement)と呼ぶ。
処理系に指示を与えるワード(プログラムの外の命令)はコマンド(命令、command)と呼ぶ。
きわめてシンプルな例を挙げる。
画面に次のように入力したとする。
するとBASICの処理系は、行番号10から40までの文をプログラムとして扱う。次にRUNと入力し(すると「40 NEXT」の次の行に「RUN」と表示され)リターンキーなどを押すと、行番号10の行すなわち「10 REM 5つ数える」から順に実行され、行番号20から行番号40まではループとして扱い5回繰り返す。この場合の出力は次のとおり。
なお、「REM」はステートメントであり、ソースコードを読む人のための注釈文(英: remark)の文頭に置かれる。REMで始まる行はプログラムの実行結果に何ら影響を与えない。
また、前述のプログラムに編集を加えたい場合は、続いて例えば次のように入力する。
このように入力すると、行番号10の文は書き換えられ(つまり上書きされ、以前のものは消え)、20行目と30行目の間に行番号25の「 25 IF I = 3 THEN GOTO 40」が挿入された、とBASICの処理系は判断する。 そしてRUNと入力すると、やはり行番号10から実行し、出力は次のとおり。
Webブラウザ上でBASICの動作をエミュレートするWebサイト・Webサービスが公開されている。手軽に最低限の雰囲気を理解することができる。
構造化以前のBASICが動作していたコンピュータ実機の新品販売は、ほとんどは終了となっている。そのためインターネットオークションなどを利用して、中古品を入手するしかない。
すでに新品販売されていないゲーム機のBASICは以下のとおり。
最近、復刻パソコン、つまり1980年代などのパソコンが、ほぼ以前どおりのシステム内容で(しかも端子類はHDMIやUSBに変更されていたり、SDメモリカード用スロットなども追加されていたりするなど、最近の仕様に改良されて)、新品で販売されるようになっている。それらのほとんどでBASICが動き、ユーザはBASICプログラミングを楽しむことができる。
現在、新品で販売されているパソコン上で動くBASIC
Android OS上で動くBASIC、つまりAndroidスマートフォン群やAndroidタブレット群などで動くBASICは以下のとおり。
iOS上で動く(つまりiPhoneやiPadで動く)BASICは以下のとおり。
現在新品で販売されている(子供向けの)ゲーム機のBASIC
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "詳しく説明すると、もっとも初期に使用したのはゼネラル・エレクトリック(GE)であり、GEはGE-225というマシンをダートマス大学に納入していたのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "BASICの方言(異仕様)は、1970年ころ、GEがBASICの第4版を使っているころに現れ始めた。新しいバージョンを待たず、ver.5を用いたマシンをGEがリリースしたころからである。ダートマス大のケメニーとカーツの2人が「BASIC the Sixth(BASIC 第六版)」をリリースした1年後くらいに、ズレが生じはじめた。当時のBASICの異バージョンはGordon Eubanks(シマンテック社のCEO)によるもので、彼は1970年にBASIC-Cを開発した。(なお、BASIC-Eは現在のJavaのような技術を用いており、命令文は一種の中間コードに変換された後に機械語に変換されるものである。)Eubanksも彼の開発したBASIC-Eについては(ダートマス大の2人同様に)法的に保護せず、次のCBASICでそのような措置をとった。CBASICは彼の会社 Compiler Systems社から販売された。あまりにも次々とBASICの異バージョンが現れるので、ANSIも1974年にBASICの標準化の必要性を感じ始めた。ANSI内に標準化委員会が立ちあがり、BASICの2つの標準、つまり当時その委員会で「ミニマルBASIC(minimal BASIC)」つまり最小のBASICと呼ばれたものと、もう一方は「スタンダード BASIC(Standard BASIC)」と呼ばれたものを作成しようと取り組んだ。だがBASICの標準化は難しく、その委員会が長年かけて「標準化」の仕事をやっと完了したころには、とうにBASICは世界中で(さまざまな機種で、異仕様で、とっくにROMなどに実装されて)広く使われてしまっていた。そのようなわけで、(実際上)標準BASIC(Standard BASIC)というものは現れないことになったのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "史上初の市販のパーソナルコンピュータとされているのはMITS社のAltair 8800であり、1975年、このAltair 8800向けにハーバード大のビル・ゲイツ、ポール・アレン、モンティ・ダヴィドゥフの3人が(マイクロソフトという設立したての法人の名のもとに)Altair BASICを開発し、MITS社との契約のもと配布された。1976年4月11日にはスティーブ・ウォズニアックによって開発されたパーソナルコンピュータ・キットApple Iがアップル社から発売され、このマシンのために同じくウォズニアックが開発したen:Integer BASICが供給され(当初はデータレコーダのカセットテープの形で供給され、後にApple IIが発売されてからROM版も供給された)、翌1977年6月にはキットタイプではない完成品タイプのApple IIが発売となり、それにもやはりINTEGER BASICが、だが今度は最初からROMに書き込まれた形で搭載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1970年代末から1980年代初頭にかけての一時期は、少数のエレクトロニクス好きのホビースト(趣味的にやっている人々)たちは、8ビットCPUのコンピュータをキットなどから自作しその上でTiny BASICを動かしたり、その上でスタートレックなどのゲームを動かすことなどを楽しんでいた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "だが大多数の人々はコンピュータを実務に使いたいと感じており、キットではなく最初から完成品の、動作することが確実なコンピュータを求めていた。メーカー側はそうした要望に応えてターンキーシステム(キット品ではない、最初から動く完成品)を開発しそれにBASICインタプリタをROMに書き込んだ形で搭載するようになり、BASICは一気に当時のマイクロコンピュータ(パーソナルコンピュータ)の標準言語の地位を獲得した。この時に搭載されたBASICインタプリタはほとんどがマイクロソフト製で、同社躍進のきっかけとなった。また、マイクロソフト製BASICは中間コードを使用する構造になっており、汎用機を再現した極めてエミュレータに近いランタイム形式の実行環境でもあったため、当時の互換性が皆無なコンピュータ事情の中でも、スクリプト自体の移植は容易だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後、(MS-DOS発表以前の)パソコンに、操作を提供するのにも使われ、しばしばROM-BASICとしてハードウェアに組み込まれた。電源投入後にエディタ込みで利用できることから、現在における、シェル、インタフェースとしての役割ももち、ローダなどの役割も担った。入力の効率化のため、省略形式での入力や、1980年代後半には、ラベル、インデントへの内部的な対応、C言語への橋渡し、日本では漢字の利用など、様々な機種ごとの独自の発展を遂げた。当時のPCの処理速度は遅いので、処理の高速化が必要な部分はデータ形式でアセンブリ言語による処理を呼び出すなどの手法もとられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半から1990年代前半ころにはC言語がパーソナルコンピュータのユーザにも少しずつ知られるようになり、早く知り、早くCコンパイラを入手した人から順に、(構造化以前の)BASICの代わりにC言語を使うことが増えていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "一方で1990年代などでもプログラミングの専門家ではない数学者が、あいかわらず行番号を使用する数値計算用のBASICを開発するなどということ(UBASIC)も行われつづけた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "BASICは1970年代後半から1980年代にかけて、当時黎明期にあり、次々と各社が製造に乗り出したパーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)の各機種に続々と搭載されていくことになり、パーソナルコンピュータ業界の発展にも貢献した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "だが、前述の「標準化できなかった経緯」の節で説明したように、BASICを最初に開発したダートマス大の2人は今で言う「パブリックドメイン」でいいと漠然と考えていて(つまり、うかつなことに、権利を確保しておいて世の中のBASICの仕様をコントロールしようともせず)、また標準化団体のANSIも後手にまわってしまったので、BASICには「方言」が乱立する状況になってしまった。(関係者を弁護するなら、最初から標準化をしておかないと普及していくプログラミング言語に一体どのようなことが起きてしまうかということについて、開発者の2人や当時のANSIに限らず、当時はまだ誰も経験しておらず、そもそも誰にも用心・警戒心が無かった。)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "マイクロコンピュータやパーソナルコンピュータに標準搭載されたBASICは、たいてい各メーカーのひとつひとつの機種ごとに独自拡張が行われた(おもに画面操作やI/Oの直接操作などについて、その機種でしか通用しない、独自の仕様が次々と導入された)。コモドール社のPET 2001のCommodore BASICに類似したシャープのS-BASIC、SEGAのベーシックカートリッジ、次第にシェアを増やしたマイクロソフト製のBASIC(MBASIC、BASICA、G-BASIC、GW-BASICの移植版)や、その命令体系を引き継ぎ実装したものである、F-BASIC、Hu-BASIC、カタカナで表現するG-BASIC(前述のマイクロソフトの物とは異なる)以外にも、C言語を意識したX-BASICなど、さまざまなBASICを各社が独自に開発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "この結果、「あるパソコンのBASICで書かれたプログラムは、他のパソコンではそのままでは動かすことができない」という、残念な状態になってしまった。たとえBASICの開発会社が同じでも、別の機種では動かない状況になってしまったのである。BASICを用いていては、開発者はせっかく苦労してコンピュータプログラムを開発しても、たいていはわずか1機種でしか動かず、また企業がソフトウェアをビジネス目的で開発・販売しようとする場合でもBASICでプログラムを開発しては、わずか1機種のユーザにしか売れず、それではあまり儲からないので、はじめから開発を躊躇しがちになる、という状況だったのである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "プログラミング言語で最初から標準化をしておかないと、どのような残念な状況になってしまうか、ということを人類は初めて経験したわけで、BASICで得られた苦い教訓が、後に開発されるさまざまな高級言語で活かされていくことになり、プログラミング言語で「方言」が乱立しないようにし、機種を超えてひとつのコンピュータプログラムが使えるようにする施策、「プラットフォーム・フリー」戦略へと繋がっていくことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "初期のTiny BASICはともかくとしても、BASIC実装処理系のメイン・メモリの制限により言語仕様が極めて制限された実装が存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "処理プログラムの大きさや速度の制限を改善あるいは回避するテクニックを紹介する。いくつかは、ソースの読みやすさを犠牲にするようなテクニックでもあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "次のようなコンパイラがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかし、パソコンに内蔵または標準添付されていたインタプリタと違い、コンパイラは別売であったり、高価であったり、実行にはランタイムライブラリを必要であったりする場合があった。このことから、BASICインタプリタによる開発に習熟したユーザーは、より高速で柔軟なプログラムを求めて、機械語(アセンブリ言語)や、C言語などに移行していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また、コンパイラと称していても、実際はインタプリタとソースコードを同梱した実行ファイルを作るだけ、というものもある。中間表現と、そのインタプリタ、という構成のものもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "急速に広まったBASICだが、構造化機能の無いBASICは教育に使うな、などとコンピュータサイエンティストの一部から酷評されたりもした。1975年にはすでに、エドガー・ダイクストラから激しく批判された\"How do we tell truths that might hurt?\"などが知られる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "行番号とGOTO文は特に激しく批判された。(構造化前の)BASICのIF文とGOTO文を組み合わせて使用する文(「IF .... THEN GOTO ...」)を頻発せざるを得ず、IF + GOTO文を増やすほどスパゲティプログラムになってしまう、ということはしばしば指摘された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "さらにBASICには局所変数(ローカル変数)が無いなど、他にも問題は多い。つまり、プログラムのどこからでもアクセス可能な大域変数(グローバル変数)しかなく、これもまたスパゲティプログラムを誘発する要因である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "BASICの標準化が望まれたが、マイコン・パソコンの急激な普及で標準化は後手後手にまわり、各メーカーの独自拡張はすでに各機種のROMに書き込まれているわけで後から書き換えるわけにもいかず、各メーカーは競合関係にあり自社のものを標準に採用して他社のものは排除してくれと考えるわけで、後手にまわってしまった標準化団体も一部のメーカーだけを優遇するわけにもいかず、ともかく後手にまわってしまった標準化というのは非常に難しいので、 結局、「どの機種のBASICでも、共通で使われている、ごく基本的な機能」に絞った小規模の仕様だけが「標準」として制定されるにとどまった。ANSI X3.60-1978「American National Standard for the Programming Language Minimal BASIC」は、日本では JIS C 6207-1982「電子計算機プログラム言語 基本BASIC」として規格化された。制定直後にJISの分類の再編があり、電気電子のCから情報のXに移動してJIS X 3003となったが、次節のFull BASICのJIS化の際に改訂として同じ番号を使うという形で旧規格として消滅した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "すでに多数の重要な機能は、各機種のBASICの「方言」として実装されてしまっていて後からそれを削るわけにもいかず、基本以外の高度な部分の標準化はされず乱立状態は放置されたので、結局、各社は高度な機能は方言で実装しつづけたわけで、実際上はBASICの標準化は失敗したままに終わった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本では1990年代後半から、高等学校や大学入試センター試験の数学に、標準化された基本BASICの範囲で書かれたプログラミングが扱われるようになった。つまり、「基本BASIC」は実機では「有名無実」だが、(特定メーカーに依らないので)試験問題に使うのに無難な題材として使われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ダートマスBASICは、他のBASIC(ケメニーらは「ストリート」BASIC、と呼んだ)とは異なって既に1970年代後半から構造化などが進んでおり、ANSIでは新しい規格の策定も進んでいたが、これをパソコン向けにアレンジしたTrue BASICが、1984年に開発された(日本ではクレオから発売)。構造化の他、行列演算の機能など、学術的(特に数学的)な方面の拡張も特徴である。そしてTrue BASICとほぼ同一の構造化BASICであるFull BASICがISO/IEC 10279 (Information technology−Programming languages−Full BASIC) がINCITS/ISO/IEC JTC 1によって1991年に規格化された。また日本でもJISによる翻訳として、JIS X 3003-1993『電子計算機プログラム言語 Full BASIC (The Programming Language Full BASIC)』が1993年に規格化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトはFull BASIC規格の策定には参加しなかったが、1985年にFull BASICに類した構造化や特徴を追加した独自規格のQuickBASICを発売した。これは自社のMS-DOS用のGW-BASICの上位互換で、コンパイラ並に動作を高速にした上にコンパイルもできるようにしたもので、Version4.5まで発売した後に1991年のVisual Basicへと繋がっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "QuickBASICとの互換性を考慮したフリーなBASICとしてQB64(英語版)やFreeBASICがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "MS-DOS上で動作するGUI拡張環境として、1985年にMicrosoft Windows 1.0が登場し、のちに独立したオペレーティングシステム (OS) としても普及を始めた。GUIオペレーティング環境はコンピュータの操作に直感性をもたらしたが、Windows上で動作するGUIアプリケーションソフトウェアは、ボタンのような画面上に表示された視覚的なGUI部品(ウィジェット、コントロール)をユーザーがマウスで操作することに反応して動作する、イベント駆動型のプログラムである。Windowsアプリケーション向けのプログラミング言語や開発環境として、マイクロソフトはC/C++を用いた開発ツール(Microsoft C/C++、のちのMicrosoft Visual C++)だけでなく、構造化BASICを用いた開発ツールとして「Visual Basic」(VB) も提供した。VBは前述のQuickBASICから発展したもので、Rapid Application Development (RAD) 方式の本格的な統合開発環境 (IDE) でもあり、生産性と直感性に優れていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "Windows自体はC/C++を使って開発されており、マイクロソフトの開発エンジニアたちはC/C++に慣れていたわけだが、それでもBASICを見捨てることはしなかった。 もともとビル・ゲイツはAltair 8800向けのAltair BASICを最初の製品としてビジネスの道を切り開き、その後も多数の自社BASICを開発してマイクロソフトを大きくしたので、マイクロソフト社はBASICとともに大きくなってきたわけであり、簡単にBASICを捨ててしまうような選択はしなかったのである。また、マーケティング的(商売的)に見てもこの判断は賢かった。既存ユーザが受け入れやすい選択肢を提供することで、ユーザが他社に逃げてしまうことを防いだわけである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "Visual Basicでは、業務用のソフトウェア、プロフェッショナル用のソフトウェアなども多数開発されるようになった。Visual Basicは旧BASICとは異なり、もはや「初心者用」でも「ホビー用」でもなかった。C言語やC++同様に、プロでもその気になればまともに使える言語になったのである。なお、C/C++は言語仕様上、そもそもGUIプログラミングや統合開発環境との親和性、コンパイル速度などに問題があった。プロパティなどの便利な機能をサポートし、またシンプルな言語仕様を持つVBのほうがGUIプログラミングに向いていた、という側面もある。VBは後発のDelphiやC++Builderの設計思想にも影響を与えている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、「PC/AT互換機とWindowsの組み合わせ」というプラットフォームが一般化したことで、1970年代や1980年代には起きていた「BASICの方言の乱立」の問題が解消されていくことになった。Windowsが走るマシンであれば、どのメーカーが製造したパソコンであろうが、MicrosoftのVisual Basicが「標準的なBasic」という位置づけになっていき、いわば「標準語」のようなものがひとつに定まったのである。ただしVisual Basicは、Windowsというプラットフォームに依存する言語、開発環境にすぎなかった。Windows以外のMacintoshやLinuxといったプラットフォームでは使えないものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、VBのサブセットであり、アプリケーションを制御するためのドメイン固有言語・マクロ記述言語としてVisual Basic for Applications (VBA) も登場し、主にMicrosoft Office (MS Office) 向けに提供されている。Officeに統合開発環境が標準的に組み込まれており、専業のアプリケーション開発者以外の一般ユーザーにも利用可能であることからエンドユーザー・コンピューティングの普及に寄与し、事務作業の効率アップやプログラミングの入門にも使われることになり、入門者をプログラミングの世界にいざなう役割も担った。ただし、VBAのマクロ機能を悪用したコンピュータウイルスも出現し、利便性と引き換えにセキュリティホールの温床にもなったことから、Office 2007以降の既定のファイル形式ではVBAは使えなくなっており、また既定でVBAは無効化されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "VBから発展したVB.NETは、C#とともに登場したモダンなオブジェクト指向言語であり、アプリケーションの開発および実行に.NET Framework環境を必要とする。のちにMonoや.NET Coreにも移植され、WindowsだけでなくLinuxやmacOSでも利用可能なクロスプラットフォームな言語となった。Xamarinを利用することでAndroidやiOSで動作するアプリケーションも開発することができる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "だが大学ではBASICの使用は構造化BASICも含めて減っていった。大学では、構造化言語の中でも、特定メーカーに依存せずプラットフォームを超えて使え、方言が乱立しなかったC言語を教えることが一般化した。また、特定のOSやCPUアーキテクチャに依存せず、無料で使えるJavaなどの洗練された後発言語の普及により、BASICは開発環境としては選択肢のひとつでしかなくなっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、コンパイラで開発した場合、実行ファイルとは別に、巨大なランタイムライブラリが必要となる処理系が多い。このため配布に必要なファイルのサイズが大きくなり、敬遠されることもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "もともとVB.NETは姉妹言語のC#やF#と比べて、新しい言語機能のサポートが遅れる傾向にあったが、マイクロソフトは2023年2月、VB.NETには今後新しい言語構文を追加せず、安定性に重きを置く方針であることを発表した。VB.NETのサポート自体は継続されるが、言語の進化は止まっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "プログラミング言語の人気度 (popularity) を示す指標のひとつとしてTIOBEインデックスが存在する。この指標は実際の言語利用状況とはやや異なるが、2023年9月現在、PythonやC系統の言語が上位を独占する中、Visual Basicは一定の地位を維持している。TIOBEが発表した2021年11月のランキングでは、トップ10は上から順に、Python、C、Java、C++、C#、Visual Basic、JavaScript、アセンブリ言語、 SQL、PHPとなっていて、つまり2021年11月時点でVisual Basicは6位だった。一方、RedMonkによる2021年6月のランキングでは、VBは20位以内にも入っておらず圏外だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "構造化ということを意識していなかったパソコン用のROM/Disk-Basic環境で、構造化プログラムを記述するために作られたプリプロセッサである。アスキーの書籍の形(アスキー書籍編集部編著「構造化BASIC RATBASのすすめ」 (ISBN 978-4-87148-152-6) )で、1985年に公開された。これは、独自の構造化された構文で記述されたソースプログラムを処理し、行番号やGOTO文を使うROM/Disk-Basicに変換するプログラムで、すべてBasicで記述されていた。RATBASという名前は構造化FortranのRatforなどに倣ったものである。RATBASは、スタンドアローンのBasicプログラムと、μ-UXの外部コマンドとして作成されたサブセット版がある。μ-UXとは、年刊AhSKI!の1984年号に掲載された、Disk-Basicで記述されたUnix風のオペレーティング環境であるUni+を拡張したものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "海外ではボーランドが独自にALGOL風の拡張を施したTurbo Basicを発売した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "現在、BASICもオブジェクト指向化が見受けられる。その代表例がVisual Basic .NETやREALbasicやActiveBasicやFreeBASIC等で、四者とも既に完全なオブジェクト指向言語になっていると言える。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "構造化以前のBASICは、行番号とGOTO文があることが特徴のひとつである。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "BASICのエッセンスを説明し簡単なプログラム例を示すために、BASICのステートメントとコマンドについて説明する。 本来のBASIC、ダートマスBASICではステートメントとコマンドを明確に区別する。ダートマスBASICのルールを説明する。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "行番号を持ち、プログラム本文の中に書かれるコード行はステートメント(文、statement)と呼ぶ。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "処理系に指示を与えるワード(プログラムの外の命令)はコマンド(命令、command)と呼ぶ。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "きわめてシンプルな例を挙げる。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "画面に次のように入力したとする。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "するとBASICの処理系は、行番号10から40までの文をプログラムとして扱う。次にRUNと入力し(すると「40 NEXT」の次の行に「RUN」と表示され)リターンキーなどを押すと、行番号10の行すなわち「10 REM 5つ数える」から順に実行され、行番号20から行番号40まではループとして扱い5回繰り返す。この場合の出力は次のとおり。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお、「REM」はステートメントであり、ソースコードを読む人のための注釈文(英: remark)の文頭に置かれる。REMで始まる行はプログラムの実行結果に何ら影響を与えない。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また、前述のプログラムに編集を加えたい場合は、続いて例えば次のように入力する。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "このように入力すると、行番号10の文は書き換えられ(つまり上書きされ、以前のものは消え)、20行目と30行目の間に行番号25の「 25 IF I = 3 THEN GOTO 40」が挿入された、とBASICの処理系は判断する。 そしてRUNと入力すると、やはり行番号10から実行し、出力は次のとおり。",
"title": "構造化以前のBASIC"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "Webブラウザ上でBASICの動作をエミュレートするWebサイト・Webサービスが公開されている。手軽に最低限の雰囲気を理解することができる。",
"title": "具体例"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "構造化以前のBASICが動作していたコンピュータ実機の新品販売は、ほとんどは終了となっている。そのためインターネットオークションなどを利用して、中古品を入手するしかない。",
"title": "具体例"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "すでに新品販売されていないゲーム機のBASICは以下のとおり。",
"title": "具体例"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "最近、復刻パソコン、つまり1980年代などのパソコンが、ほぼ以前どおりのシステム内容で(しかも端子類はHDMIやUSBに変更されていたり、SDメモリカード用スロットなども追加されていたりするなど、最近の仕様に改良されて)、新品で販売されるようになっている。それらのほとんどでBASICが動き、ユーザはBASICプログラミングを楽しむことができる。",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "現在、新品で販売されているパソコン上で動くBASIC",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "Android OS上で動くBASIC、つまりAndroidスマートフォン群やAndroidタブレット群などで動くBASICは以下のとおり。",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "iOS上で動く(つまりiPhoneやiPadで動く)BASICは以下のとおり。",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "現在新品で販売されている(子供向けの)ゲーム機のBASIC",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "現在販売されているマシンで動くBASIC"
}
]
| BASIC(ベーシック)は手続き型プログラミング言語のひとつ。 名前は「beginners' all-purpose symbolic instruction code」のバクロニムである。日本語では「初心者向け汎用記号命令コード」を意味する。 | {{出典の明記|date=2021年5月}}
{{独自研究|date=2023-09}}
{{Otheruses|プログラミング言語|その他の用法|ベーシック}}
{{プログラミング言語}}
'''BASIC'''(ベーシック)は[[手続き型プログラミング|手続き型プログラミング言語]]のひとつ。
名前は「{{lang|en|'''b'''eginners' '''a'''ll-purpose '''s'''ymbolic '''i'''nstruction '''c'''ode}}」の[[バクロニム]]である。日本語では「初心者向け汎用記号命令コード」を意味する。
==概要==
誕生したのが1964年であり、当時普及していたプログラミング言語[[FORTRAN]]にいくつかの点で似ている。構文は、FORTRANの文法が基になっているとしばしば解説されている。
BASICは[[インタープリタ]]方式で動くものと、[[コンパイラ]]方式で動くものに大別できる。{{いつ範囲|date=2023-09|現時点}}では、構文の様式が大きく異なる2種類のBASICが存在している。[[構造化]]前のBASICと、構造化後のBASICである。
;構造化されていないBASIC (Unstructured BASIC)
:[[1970年代]] - [[1980年代]]の[[コンピュータ]]([[マイクロコンピュータ]]や[[パーソナルコンピュータ|パソコン]])で初心者向け・教育用の[[プログラミング言語]]として、非常に広く使われたものである。[[行番号]]と[[goto文|GOTO文]](大域ジャンプ)を用いる原始的なBASICであり、分岐やループでは常にジャンプ先の行番号を意識しなければならず、[[構造化プログラミング]]が不可能である。行番号とGOTOを用いたプログラミングは、まるでスパゲティが絡み合ったような複雑なコード([[スパゲティプログラム]])となりがちで、コードの再利用性が低いうえに[[バグ]]を誘発しやすく、熟練したプログラマにとってもプログラムの[[デバッグ]]や安全な機能拡張は困難だった<ref>[https://japan.zdnet.com/glossary/exp/BASIC/?s=4 用語検索 - ZDNET Japan]</ref>。のちに構造化プログラミングに対応した[[Pascal]]や[[C言語]]が登場・普及して比較されるようになると、BASICは激しい批判を浴びるようになり、実用的なプログラミング用途ではC言語などに負けて廃れていった。
;構造化されたBASIC (Structured BASIC)
:順次実行・選択・反復といった[[制御構造]]を利用する[[構造化プログラミング]]を実現できるように、行番号およびGOTO文を廃止したものである。'''構造化BASIC'''とも呼ばれる。いくつかの流派で成立したが、特に1991 - 1993年頃に正式に規格として制定された[[#Full BASIC|Full BASIC]]の仕様は構造化がしっかりしてあり、他の点でも改良が加えられてある。このFull BASICの仕様とは互換性がないものの、別の構造化BASICとしての発展を遂げた'''[[Visual Basic]]'''(VB)をベースに、[[オブジェクト指向]]にも完全対応したモダンな言語のひとつとして'''[[Visual Basic .NET]]'''(VB.NET)がある。
したがって両者はかなり異なっており、明確に区別して論じる必要がある。
構造化以前のBASICの行番号とGOTO文については、基本的な例を示しつつ[[#構造化以前のBASIC]]の節で解説する。また、BASICの基本的な[[予約語]]や、ステートメントとコマンドの区別(ステートメントはPRINT, FOR NEXT, IFなど、コマンドはRUN, LIST, SAVEなど)についても、同節で解説する。
;歴史
最初のBASICは、[[1964年]]、[[アメリカ合衆国|米国]][[ダートマス大学]]で、数学者[[ジョン・ジョージ・ケメニー|ジョン・ケメニー]]([[1926年]]-[[1992年]])とトーマス・カーツ([[1928年]] - )がもともと教育目的を想定して開発したものである。このBASICを「[[ダートマスBASIC]]」という。行番号の使用や構文は、当時主流だった言語FORTRANの影響を受けている。彼らはこれで金儲けをする気はなく特許なども取得せず、今風に言うと「[[パブリックドメイン]]」のようなものにしようと考えていたので普及することになった。このダートマスBASICは[[コンパイラ]]だった。BASICは[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]との提携を経て大学の外にも普及していくことになり、1970年代後半や1980年代の[[マイコン]]、[[パーソナルコンピュータ]]などの多くの機種で次々と採用され、普及していった。1970年代後半~1980年代のBASICのほとんどはインタプリタ方式でマザーボード上の[[Read only memory|ROM]](Read Only Memory)にあらかじめ書き込まれた状態で供給されていた。一部のBASICはインタプリタ方式でもROMに書き込まれておらず補助記憶装置から読み込まれたり(たとえば日本ではシャープの[[MZ-80]]シリーズなど)、あるいはコンパイラ方式のBASICで高速で実行できるものも開発・供給された。
==歴史==
[[1964年]]、[[アメリカ合衆国|米国]][[ダートマス大学]]にて、数学者[[ジョン・ジョージ・ケメニー|ジョン・ケメニー]]([[1926年]]-[[1992年]])とトーマス・カーツ([[1928年]] - )により、教育用などを目的としてダートマスBASICが開発された。これは同時期にともに開発された、[[タイムシェアリングシステム]][[DTSS]]上の[[ラインエディタ]](テレタイプ端末環境)で利用されるよう設計されていた。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=WYPNjSoDrqw YouTube Dartmouthチャンネル「Birth of BASIC」]</ref>
BASICは、[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]との提携を経て、学外にも普及した。ダートマス大学のオリジナルは[[コンパイラ]]だったが<!--(ただし、完全オンメモリ動作・1パスという、きわめて軽く動作するものであり、言語仕様もそのような「軽い」コンパイルのために設計されている)-->、パソコンなどの商用版では基本機能を最小限にしたうえでインタプリタとして実装されることが多く、独自の発展を遂げた。
詳しく説明すると、もっとも初期に使用したのは[[ゼネラル・エレクトリック]](GE)であり、GEは[[GE-225]]というマシンをダートマス大学に納入していたのである<ref name="history_of_B">[https://www.q7basic.org/History%20of%20BASIC.pdf History of BASIC]</ref>。
;多数の方言の登場と標準化できなかった経緯
BASICの[[方言]](異仕様)は、1970年ころ、GEがBASICの第4版を使っているころに現れ始めた<ref name="history_of_B" />。新しいバージョンを待たず、ver.5を用いたマシンをGEがリリースしたころからである<ref name="history_of_B" />。ダートマス大のケメニーとカーツの2人が「BASIC the Sixth(BASIC 第六版)」をリリースした1年後くらいに、ズレが生じはじめた<ref name="history_of_B" />。当時のBASICの異バージョンはGordon Eubanks(シマンテック社のCEO)によるもので<ref name="history_of_B" />、彼は1970年にBASIC-Cを開発した<ref name="history_of_B" />。(なお、BASIC-Eは現在のJavaのような技術を用いており、命令文は一種の中間コードに変換された後に機械語に変換されるものである。<ref name="history_of_B" />)Eubanksも彼の開発したBASIC-Eについては(ダートマス大の2人同様に)法的に保護せず<ref name="history_of_B" />、次のCBASICでそのような措置をとった<ref name="history_of_B" />。CBASICは彼の会社 Compiler Systems社から販売された<ref name="history_of_B" />。あまりにも次々とBASICの異バージョンが現れるので<ref name="history_of_B" />、[[ANSI]]も1974年にBASICの標準化の必要性を感じ始めた<ref name="history_of_B" />。ANSI内に標準化委員会が立ちあがり、BASICの2つの標準、つまり当時その委員会で「ミニマルBASIC(minimal BASIC)」つまり最小のBASICと呼ばれたものと<ref name="history_of_B" />、もう一方は「スタンダード BASIC(Standard BASIC)」と呼ばれたものを作成しようと取り組んだ<ref name="history_of_B" />。だがBASICの標準化は難しく、その委員会が長年かけて「標準化」の仕事をやっと完了したころには、とうにBASICは世界中で(さまざまな機種で、異仕様で、とっくにROMなどに実装されて)広く使われてしまっていた。そのようなわけで、(実際上)標準BASIC(Standard BASIC)というものは現れないことになったのである<ref name="history_of_B" />。
===8ビットパソコンの普及とBASIC===
史上初の市販の[[パーソナルコンピュータ]]とされているのはMITS社の[[Altair 8800]]であり、1975年、このAltair 8800向けにハーバード大のビル・ゲイツ、ポール・アレン、モンティ・ダヴィドゥフの3人が(マイクロソフトという設立したての法人の名のもとに)[[Altair BASIC]]を開発し、MITS社との契約のもと配布された。1976年4月11日には[[スティーブ・ウォズニアック]]によって開発されたパーソナルコンピュータ・キット[[Apple I]]がアップル社から発売され、このマシンのために同じくウォズニアックが開発した[[:en:Integer BASIC]]が供給され(当初は[[データレコーダ]]のカセットテープの形で供給され、後にApple IIが発売されてからROM版も供給された)、翌1977年6月にはキットタイプではない完成品タイプの[[Apple II]]が発売となり、それにもやはりINTEGER BASICが、だが今度は最初からROMに書き込まれた形で搭載された。
[[1970年代]]末から[[1980年代]]初頭にかけての一時期は、少数のエレクトロニクス好きのホビースト(趣味的にやっている人々)たちは、[[8ビット]][[CPU]]の[[コンピュータ]]をキットなどから自作しその上で[[Tiny BASIC]]を動かしたり、その上でスタートレックなどのゲームを動かすことなどを楽しんでいた。
だが大多数の人々はコンピュータを実務に使いたいと感じており、キットではなく最初から完成品の、動作することが確実なコンピュータを求めていた。メーカー側はそうした要望に応えて[[ターンキーシステム]](キット品ではない、最初から動く完成品)を開発しそれにBASICインタプリタを[[Read Only Memory|ROM]]に書き込んだ形で搭載するようになり、BASICは一気に当時のマイクロコンピュータ(パーソナルコンピュータ)の標準言語の地位を獲得した。この時に搭載されたBASICインタプリタはほとんどが[[マイクロソフト]]製で、同社躍進のきっかけとなった。また、マイクロソフト製BASICは中間コードを使用する構造になっており、汎用機を再現した極めて[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]に近いランタイム形式の実行環境でもあったため、当時の互換性が皆無なコンピュータ事情の中でも、スクリプト自体の移植は容易だった。
その後、([[MS-DOS]]発表以前の)パソコンに、操作を提供するのにも使われ、しばしば[[ROM-BASIC]]として[[ハードウェア]]に組み込まれた。電源投入後にエディタ込みで利用できることから、現在における、シェル、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]としての役割ももち、ローダなどの役割も担った。入力の効率化のため、省略形式での入力や、1980年代後半には、[[ラベル]]、[[インデント]]への内部的な対応、C言語への橋渡し、日本では[[漢字]]の利用など、様々な機種ごとの独自の発展を遂げた。当時のPCの処理速度は遅いので、処理の高速化が必要な部分はデータ形式でアセンブリ言語による処理を呼び出すなどの手法もとられた。
1980年代後半から1990年代前半ころにはC言語がパーソナルコンピュータのユーザにも少しずつ知られるようになり、早く知り、早くCコンパイラを入手した人から順に、(構造化以前の)BASICの代わりにC言語を使うことが増えていった。
一方で1990年代などでもプログラミングの専門家ではない数学者が、あいかわらず行番号を使用する数値計算用のBASICを開発するなどということ([[UBASIC]])も行われつづけた。
===「方言」の乱立===
BASICは1970年代後半から1980年代にかけて、当時黎明期にあり、次々と各社が製造に乗り出した[[パーソナルコンピュータ]]([[マイクロコンピュータ]])の各機種に続々と搭載されていくことになり、パーソナルコンピュータ業界の発展にも貢献した。
だが、前述の「標準化できなかった経緯」の節で説明したように、BASICを最初に開発したダートマス大の2人は今で言う「パブリックドメイン」でいいと漠然と考えていて(つまり、うかつなことに、権利を確保しておいて世の中のBASICの仕様をコントロールしようともせず)、また標準化団体のANSIも後手にまわってしまったので、BASICには「[[方言 (プログラミング言語)|方言]]」が乱立する状況になってしまった。(関係者を弁護するなら、最初から標準化をしておかないと普及していくプログラミング言語に一体どのようなことが起きてしまうかということについて、開発者の2人や当時のANSIに限らず、当時はまだ誰も経験しておらず、そもそも誰にも用心・警戒心が無かった。)
[[マイクロコンピュータ]]や[[パーソナルコンピュータ]]に標準搭載されたBASICは、たいてい各メーカーのひとつひとつの機種ごとに独自拡張が行われた(おもに画面操作や[[I/O]]の直接操作などについて、その機種でしか通用しない、独自の仕様が次々と導入された)。コモドール社の[[PET 2001]]のCommodore BASICに類似したシャープの[[S-BASIC]]、[[SEGA]]のベーシックカートリッジ、次第にシェアを増やしたマイクロソフト製のBASIC([[MBASIC]]、[[BASICA]]、[[G-BASIC]]、[[GW-BASIC]]の移植版)や、その命令体系を引き継ぎ実装したものである、[[F-BASIC]]、[[Hu-BASIC]]、[[カタカナ]]で表現するG-BASIC(前述のマイクロソフトの物とは異なる)以外にも、[[C言語]]を意識したX-BASICなど、さまざまなBASICを各社が独自に開発した。
この結果、「あるパソコンのBASICで書かれた[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は、他のパソコンではそのままでは動かすことができない」という、残念な状態になってしまった。たとえBASICの開発会社が同じでも、別の機種では動かない状況になってしまったのである。BASICを用いていては、開発者はせっかく苦労してコンピュータプログラムを開発しても、たいていはわずか1機種でしか動かず、また企業がソフトウェアをビジネス目的で開発・販売しようとする場合でもBASICでプログラムを開発しては、わずか1機種のユーザにしか売れず、それではあまり儲からないので、はじめから開発を躊躇しがちになる、という状況だったのである。
{{独自研究範囲|date=2023-09|プログラミング言語で最初から[[標準化]]をしておかないと、どのような残念な状況になってしまうか、ということを人類は初めて経験したわけで、BASICで得られた苦い教訓が、後に開発されるさまざまな高級言語で活かされていくことになり、プログラミング言語で「方言」が乱立しないようにし、機種を超えてひとつのコンピュータプログラムが使えるようにする施策、「プラットフォーム・フリー」戦略へと繋がっていくことになる。}}
====方言の例====
[[ファイル:N-88BASIC_v1.0.gif|thumb|[[PC-8800シリーズ]]のN88BASICのドロー画面]]
*[[カーソル]]位置を指定する<code>LOCATE</code>文は、別の処理系では<code>CURSOR</code>文
*音楽を演奏する<code>PLAY</code>文、<code>MUSIC</code>文とそれらに記述される[[Music Macro Language|MML]]
*画面モードを指定する<code>CONSOLE</code>文
*[[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能を使用する命令
*VRAMと配列変数の内容をやりとりする命令
*条件付きループを実現する<code>WHILE</code>〜<code>WEND</code>
*<code>GOTO</code>, <code>GOSUB</code>文の飛び先を指定するラベル
*<code>CALL</code>, <code>CMD</code>, <code>SET</code>などで始まる命令文
====メイン・メモリの制限による処理系の実装例====
初期のTiny BASICはともかくとしても、BASIC実装処理系のメイン・メモリの制限により言語仕様が極めて制限された実装が存在した。
*数値型は整数型のみ、また数値演算は整数演算のみ
*変数名は頭文字1文字または2文字程度しか認識しない
*文字列の長さが限られる(255文字など)
*配列の大きさ(添字の最大値)が限られる
====中間コードサイズを小さくしたり処理を速くする、機種依存性のあるテクニックの例====
処理プログラムの大きさや速度の制限を改善あるいは回避するテクニックを紹介する。いくつかは、ソースの読みやすさを犠牲にするようなテクニックでもあった。
*プログラムの初めに全ての変数のデフォルトを整数だと宣言する(<code>DEFINT A-Z</code>)。これはきちんと%などを付けて整数変数として書いてあるプログラムでは意味がないし、小数演算があるプログラムなのにこれを書くとまともに動かなくなる。整数の範囲の演算しかしていないが、%を付けずに書かれているプログラムを後から改善する場合だけに意味のあるテクニック。
*命令を省略形で書く(<code>PRINT</code>→<code>?</code>、<code>LET A=B</code>→<code>A=B</code>、<code>REM</code>→<code>'</code> など)
:ただし、中間コードを採用している処理系では、<code>?</code>と入力しても<code>PRINT</code>に展開されるので、結果は変わらない。また、<code>REM</code>を<code>'</code>と書くのはかえってサイズが増える。
*余白やコメントを入れない<ref name="mycom13">{{Cite book|和書
| author=小池慎一
| title=マイコンピュータ No.13
| chapter=6.BASICプログラミングテクニック
| year=1984
| date=1984-6-1
| page=114
| publisher=[[CQ出版社]]|isbn = }}</ref>
*<code>NEXT</code>の変数名を省略する(可能な処理系のみ)
*一行に複数の文を詰め込んで(マルチステートメント)を使用して行の制限一杯に命令文を詰め込む<ref name="mycom13"/>
*よく使う変数は早めに確保する(実行時に毎回変数領域の先頭から検索されるため)
*よく呼び出すサブルーチンは先頭に配置する(同じような理由。なお、一度通過した<code>GOTO</code>/<code>GOSUB</code>命令のオペランドを内部で行番号からメモリアドレスに書き換える処理系ではあまり効果がない)
*キャラクタコードをバイナリと見立て、バイナリに相当するデータを直接プログラムに記述する
=== コンパイラ ===
次のような[[コンパイラ]]がある。
*''BASCOM''(マイクロソフト BASIC-80 [[CP/M]]用インタプリタ)
*MS-DOS用[[N88-BASIC]]コンパイラ([[日本電気]] [[PC-9800シリーズ]])
*F-BASIC386コンパイラ([[富士通]] [[FM TOWNS]])
*[[MSX-BASIC|MSXべーしっ君]]([[アスキー (企業)|アスキー]] [[MSX]])
**[[実行ファイル]]は生成しない
*[[X-BASIC]]コンバーター([[シャープ]] [[X68000]])
**[[C言語]]に変換した上でのコンパイル
*[[FreeBASIC]]コンパイラ([[Microsoft Windows]]、[[Linux]]、[[DOSエクステンダ]]、[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]])
**フリーで[[GNU General Public License|GPL]]形式の[[Intel 80386|80386]]向けコンパイラで、現代向けに多数の機能追加が行われている{{efn|GUIアプリケーション開発や[[オブジェクト指向プログラミング]]機構の搭載、[[OpenGL]]や[[SDL]]等多数の[[ライブラリ]]を使用可能。}}が、[[QuickBASIC]]との互換性もある。
しかし、パソコンに内蔵または標準添付されていたインタプリタと違い、コンパイラは別売であったり、高価であったり、実行には[[ランタイムライブラリ]]を必要であったりする場合があった。このことから、BASICインタプリタによる開発に習熟したユーザーは、より高速で柔軟なプログラムを求めて、[[機械語]]([[アセンブリ言語]])や、[[C言語]]などに移行していった。
また、コンパイラと称していても、実際はインタプリタと[[ソースコード]]を同梱した[[実行ファイル]]を作るだけ、というものもある。[[中間表現]]と、そのインタプリタ、という構成のものもある。
===行番号とGOTO文への批判===
急速に広まったBASICだが、構造化機能の無いBASICは教育に使うな、などと[[計算機科学|コンピュータサイエンティスト]]の一部から酷評されたりもした。[[1975年]]にはすでに、[[エドガー・ダイクストラ]]から激しく批判された"How do we tell truths that might hurt?"などが知られる<!--([[Apple II]]などのパソコンが普及する以前の発言であることに注意)-->。
行番号と[[goto文|GOTO文]]は特に激しく批判された。(構造化前の)BASICのIF文とGOTO文を組み合わせて使用する文(「IF .... THEN GOTO ...」)を頻発せざるを得ず、IF + GOTO文を増やすほど[[スパゲティプログラム]]になってしまう、ということはしばしば指摘された。
さらにBASICには局所変数([[ローカル変数]])が無いなど、他にも問題は多い。つまり、プログラムのどこからでもアクセス可能な大域変数([[グローバル変数]])しかなく、これもまたスパゲティプログラムを誘発する要因である。
===「基本BASIC」という標準化、およびその失敗===
BASICの標準化が望まれたが、マイコン・パソコンの急激な普及で標準化は後手後手にまわり、各メーカーの独自拡張はすでに各機種のROMに書き込まれているわけで後から書き換えるわけにもいかず、各メーカーは競合関係にあり自社のものを標準に採用して他社のものは排除してくれと考えるわけで、後手にまわってしまった標準化団体も一部のメーカーだけを優遇するわけにもいかず、ともかく後手にまわってしまった標準化というのは非常に難しいので、
結局、「どの機種のBASICでも、共通で使われている、ごく基本的な機能」に絞った小規模の仕様だけが「標準」として制定されるにとどまった。ANSI X3.60-1978「American National Standard for the Programming Language Minimal BASIC」は、日本では JIS C 6207-1982「電子計算機プログラム言語 基本BASIC」として規格化された。制定直後にJISの分類の再編があり、電気電子のCから情報のXに移動してJIS X 3003となったが、次節のFull BASICのJIS化の際に改訂として同じ番号を使うという形で旧規格として消滅した。
すでに多数の重要な機能は、各機種のBASICの「方言」として実装されてしまっていて後からそれを削るわけにもいかず、基本以外の高度な部分の標準化はされず乱立状態は放置されたので、結局、各社は高度な機能は方言で実装しつづけたわけで、実際上はBASICの標準化は失敗したままに終わった。
日本では[[1990年代]]後半から、[[高等学校]]や[[大学入試センター試験]]の数学に、標準化された基本BASICの範囲で書かれたプログラミングが扱われるようになった。つまり、「基本BASIC」は実機では「有名無実」だが、(特定メーカーに依らないので)試験問題に使うのに無難な題材として使われる。
=== 構造化BASIC ===
==== Full BASIC ====
[[ダートマスBASIC]]は、他のBASIC(ケメニーらは「ストリート」BASIC、と呼んだ{{efn|英語で「[[走り屋]]による競走」を意味する [[:en:Street racing|Street racing]] といったような street の語義を意識して使っている。}})とは異なって既に1970年代後半から構造化などが進んでおり、ANSIでは新しい規格の策定も進んでいたが、これをパソコン向けにアレンジした[[True BASIC]]が、1984年に開発された(日本では[[クレオ (ソフトウェア)|クレオ]]から発売)。構造化の他、行列演算の機能など、学術的(特に数学的)な方面の拡張も特徴である。そしてTrue BASICとほぼ同一の構造化BASICである[[Full BASIC]]が'''ISO/IEC 10279''' (Information technology−Programming languages−Full BASIC) が[[情報技術規格国際委員会|INCITS]]/[[ISO/IEC JTC 1]]によって1991年に規格化された。また日本でも[[日本産業規格|JIS]]による翻訳として、JIS X 3003-1993『電子計算機プログラム言語 Full BASIC (The Programming Language Full BASIC)』が1993年に規格化された。
;Full BASICの主な特徴
:*構造化に対応する制御文を追加した(<code>DO</code>〜<code>LOOP</code>、<code>DO WHILE</code>〜<code>LOOP WHILE</code>など)
:*<code>IF</code>文が多行に渡るブロック<code>IF</code>(<code>IF</code>〜<code>THEN</code>〜<code>ELSE</code>〜<code>ENDIF</code>)も可能となった
:*<code>LET</code>を省略できないようにした(True BASICでは<code>OPTION NOLET</code>または<code>NOLET</code>を実行すると省略可能)
:*[[スコープ (プログラミング)|スコープ]]の概念を取り入れた
:**外部副プログラム(<code>EXTERNAL SUB</code>〜<code>END SUB</code>)や外部関数(<code>EXTERNAL FUNCTION</code>〜<code>END FUNCTION</code>)の中で[[ローカル変数]]が使用できるようになった
:**副プログラムと関数は戻り値を戻すかどうかで区別される
:**[[再帰]]処理の実装が容易になった
:*計算精度や丸めの方法を規定した
:*配列の添字を1から始めるようにした(<code>OPTION BASE</code>命令で0から始まるようにすることも可能)
:*[[行列]]演算機能
:*構文のアドホックな所などを極力排除した
:*予約語を極力少なくした
:*I/Oを直接操作するなどシステムに干渉する命令は持たないようにした(True BASICでは拡張ライブラリとして提供)
:*グラフィック命令を規定した。なお、(0, 0) が、デフォルトでは、コンピュータ系に多い左上ではなく数学などで伝統的な左下である(変更できる。高機能なBASICに多かった、任意にスクリーンとウインドウのそれぞれの座標を設定できるタイプである)
:*Minimal BASICの上位互換である
:*パソコン向けのそれまでのBASICとは命令の互換性が低い
:**サブルーチン(<code>GOSUB</code>〜<code>RETURN</code>)は規格として残ってはいるが、使用は推奨されない
====QuickBASIC====
マイクロソフトはFull BASIC規格の策定には参加しなかったが、[[1985年]]にFull BASICに類した構造化や特徴を追加した独自規格の[[QuickBASIC]]を発売した。これは自社のMS-DOS用の[[GW-BASIC]]の上位互換で、コンパイラ並に動作を高速にした上にコンパイルもできるようにしたもので、Version4.5まで発売した後に[[1991年]]の[[Microsoft Visual Basic|Visual Basic]]へと繋がっていった。
QuickBASICとの互換性を考慮した[[フリーソフトウェア|フリー]]なBASICとして{{仮リンク|QB64|en|QB64}}や[[FreeBASIC]]がある。
====Windowsの普及とVisual Basicの普及====
MS-DOS上で動作する[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]拡張環境として、1985年に[[Microsoft Windows 1.0]]が登場し、のちに独立した[[オペレーティングシステム]] (OS) としても普及を始めた。GUIオペレーティング環境はコンピュータの操作に直感性をもたらしたが、Windows上で動作するGUI[[アプリケーションソフトウェア]]は、[[ボタン (GUI)|ボタン]]のような画面上に表示された視覚的なGUI部品([[ウィジェット (GUI)|ウィジェット]]、コントロール)をユーザーがマウスで操作することに反応して動作する、イベント駆動型のプログラムである。Windowsアプリケーション向けのプログラミング言語や開発環境として、マイクロソフトはC/[[C++]]を用いた開発ツール(Microsoft C/C++、のちの[[Microsoft Visual C++]])だけでなく、構造化BASICを用いた開発ツールとして「[[Visual Basic]]」(VB) も提供した。VBは前述のQuickBASICから発展したもので、[[Rapid Application Development]] (RAD) 方式の本格的な[[統合開発環境]] (IDE) でもあり、生産性と直感性に優れていた。
Windows自体はC/C++を使って開発されており、マイクロソフトの開発エンジニアたちはC/C++に慣れていたわけだが、それでもBASICを見捨てることはしなかった。
もともとビル・ゲイツはAltair 8800向けのAltair BASICを最初の製品としてビジネスの道を切り開き、その後も多数の自社BASICを開発してマイクロソフトを大きくしたので、マイクロソフト社はBASICとともに大きくなってきたわけであり、簡単にBASICを捨ててしまうような選択はしなかったのである。また、マーケティング的(商売的)に見てもこの判断は賢かった。既存ユーザが受け入れやすい選択肢を提供することで、ユーザが他社に逃げてしまうことを防いだわけである。
Visual Basicでは、業務用のソフトウェア、プロフェッショナル用のソフトウェアなども多数開発されるようになった。Visual Basicは旧BASICとは異なり、もはや「初心者用」でも「ホビー用」でもなかった。C言語やC++同様に、プロでもその気になればまともに使える言語になったのである。なお、C/C++は言語仕様上、そもそもGUIプログラミングや統合開発環境との親和性、コンパイル速度などに問題があった。[[プロパティ (プログラミング)|プロパティ]]などの便利な機能をサポートし、またシンプルな言語仕様を持つVBのほうがGUIプログラミングに向いていた、という側面もある。VBは後発の[[Delphi]]や[[C++Builder]]の設計思想にも影響を与えている。
また、「PC/AT互換機とWindowsの組み合わせ」というプラットフォームが一般化したことで、1970年代や1980年代には起きていた「BASICの方言の乱立」の問題が解消されていくことになった。Windowsが走るマシンであれば、どのメーカーが製造したパソコンであろうが、MicrosoftのVisual Basicが「標準的なBasic」という位置づけになっていき、いわば「標準語」のようなものがひとつに定まったのである。ただしVisual Basicは、Windowsというプラットフォームに依存する言語、開発環境にすぎなかった。Windows以外のMacintoshやLinuxといったプラットフォームでは使えないものであった。
なお、VBのサブセットであり、アプリケーションを制御するための[[ドメイン固有言語]]・マクロ記述言語として[[Visual Basic for Applications]] (VBA) も登場し、主に[[Microsoft Office]] (MS Office) 向けに提供されている。Officeに統合開発環境が標準的に組み込まれており、専業のアプリケーション開発者以外の一般ユーザーにも利用可能であることから[[エンドユーザー・コンピューティング]]の普及に寄与し、事務作業の効率アップやプログラミングの入門にも使われることになり、入門者をプログラミングの世界にいざなう役割も担った。ただし、VBAのマクロ機能を悪用したコンピュータウイルスも出現し、利便性と引き換えにセキュリティホールの温床にもなったことから、Office 2007以降の既定のファイル形式ではVBAは使えなくなっており、また既定でVBAは無効化されている。
VBから発展したVB.NETは、[[C Sharp|C#]]とともに登場したモダンなオブジェクト指向言語であり、アプリケーションの開発および実行に[[.NET Framework]]環境を必要とする。のちに[[Mono (ソフトウェア)|Mono]]や[[.NET Core]]にも移植され、Windowsだけでなく[[Linux]]や[[macOS]]でも利用可能な[[クロスプラットフォーム]]な言語となった。[[Xamarin]]を利用することで[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]や[[iOS]]で動作するアプリケーションも開発することができる<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/xamarin/cross-platform/platform/visual-basic/xamarin-forms Xamarin.Forms using Visual Basic.NET - Xamarin | Microsoft Learn]</ref><ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/xamarin/cross-platform/platform/visual-basic/native-apps Visual Basic in Xamarin.Android and Xamarin.iOS - Xamarin | Microsoft Learn]</ref>。
;地位の低下
だが大学ではBASICの使用は構造化BASICも含めて減っていった。大学では、構造化言語の中でも、特定メーカーに依存せずプラットフォームを超えて使え、方言が乱立しなかった[[C言語]]を教えることが一般化した。また、特定のOSやCPUアーキテクチャに依存せず、無料で使える[[Java]]などの洗練された後発言語の普及により、BASICは開発環境としては選択肢のひとつでしかなくなっていった。
なお、コンパイラで開発した場合、実行ファイルとは別に、巨大なランタイムライブラリが必要となる処理系が多い。このため配布に必要なファイルのサイズが大きくなり、敬遠されることもある。
もともとVB.NETは姉妹言語の[[C Sharp|C#]]や[[F Sharp|F#]]と比べて、新しい言語機能のサポートが遅れる傾向にあったが、マイクロソフトは2023年2月、VB.NETには今後新しい言語構文を追加せず、安定性に重きを置く方針であることを発表した<ref>[https://devblogs.microsoft.com/dotnet/update-to-the-dotnet-language-strategy/ Update to the .NET language strategy - .NET Blog]</ref>。VB.NETのサポート自体は継続されるが、言語の進化は止まっている。
プログラミング言語の人気度 (popularity) を示す指標のひとつとして[[:en:TIOBE index|TIOBEインデックス]]が存在する。この指標は実際の言語利用状況とはやや異なるが、2023年9月現在、[[Python]]やC系統の言語が上位を独占する中、Visual Basicは一定の地位を維持している<ref>[https://www.tiobe.com/tiobe-index/ TIOBE Index - TIOBE]</ref>。TIOBEが発表した2021年11月のランキングでは、トップ10は上から順に、Python、C、Java、C++、C#、Visual Basic、JavaScript、アセンブリ言語、 SQL、PHPとなっていて<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35179662/ あの人気言語が下降傾向?Pythonは首位維持--TIOBEプログラミング言語ランキング - ZDNET Japan]</ref>、つまり2021年11月時点でVisual Basicは6位だった。一方、RedMonkによる2021年6月のランキングでは、VBは20位以内にも入っておらず圏外だった<ref>[https://redmonk.com/sogrady/2021/08/05/language-rankings-6-21/ The RedMonk Programming Language Rankings: June 2021 – tecosystems]</ref>。
=== その他の現代化BASIC ===
* [[十進BASIC]] - 日本人数学者が開発した数値計算用FullBASIC
====RATBAS====
構造化ということを意識していなかったパソコン用のROM/Disk-Basic環境で、構造化プログラムを記述するために作られた[[プリプロセッサ]]である。[[アスキー (企業)|アスキー]]の書籍の形(アスキー書籍編集部編著「構造化BASIC RATBASのすすめ」 (ISBN 978-4-87148-152-6) )で、[[1985年]]に公開された。これは、独自の構造化された構文で記述されたソースプログラムを処理し、行番号やGOTO文を使うROM/Disk-Basicに変換するプログラムで、すべてBasicで記述されていた。RATBASという名前は構造化Fortranの[[Ratfor]]などに倣ったものである。RATBASは、[[スタンドアローン]]のBasicプログラムと、[[Uni+|μ-UX]]の外部コマンドとして作成されたサブセット版がある。μ-UXとは、[[年刊AhSKI!]]の[[1984年]]号に掲載された、Disk-Basicで記述されたUnix風のオペレーティング環境である[[Uni+]]を拡張したものである。
====その他====
海外では[[ボーランド]]が独自に[[ALGOL]]風の拡張を施した[[Turbo Basic]]を発売した。
===オブジェクト指向とBASIC===
{{いつ範囲|date=2023-09|現在}}、BASICも[[オブジェクト指向]]化が見受けられる。その代表例が[[Visual Basic .NET]]や[[REALbasic]]や[[ActiveBasic]]や[[FreeBASIC]]等で、四者とも既に完全なオブジェクト指向言語になっていると言える。
==構造化以前のBASIC==
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
| onlysourced = false
| 名前 = (構造化以前の)BASIC
| ロゴ = AtariBasic.png
| ロゴ説明 = [[Atari 8ビット・コンピュータ]]用の{{仮リンク|Atari BASIC|en|Atari BASIC}} ({{Start date and age|1979}})
| ロゴサイズ = 300px
| 登場時期 = {{Start date and age|1964|04|01}}
| 設計者 = [[John G. Kemeny]]・[[Thomas E. Kurtz]]
| 開発者 = <!-- 開発者 -->
| 最新リリース = <!-- 最新版リリース -->
| 最新リリース日 = <!-- 最新版リリース年月日、{{start date and age|YYYY|MM|DD}} -->
| 型付け = <!-- 型システム -->
| 処理系 =
[[ダートマスBASIC]],
[[Tiny BASIC]],
[[Microsoft BASIC]],
[[QuickBASIC]],
QB64,
[[Casio Basic]],
[[Turbo Basic]](PowerBASIC),
Applesoft BASIC,
Atari BASIC,
BBC BASIC,
Commodore BASIC,
Liberty BASIC,
Sinclair BASIC,
TI-BASIC
| 影響を受けた言語 = <!-- 影響を受けた言語 -->
| 影響を与えた言語 =
[[Visual Basic]],
[[Visual Basic .NET]],
[[Hot Soup Processor]],
[[COMAL]],
[[GRASS]]
| プラットフォーム = <!-- プラットフォーム -->
| ライセンス = <!-- ライセンス -->
| ウェブサイト = <!-- ウェブサイト、{{URL|https://...}} -->
| 拡張子 = <!-- 拡張子 -->
| wikibooks = <!-- 日本語版ウィキブックス -->
}}
構造化以前のBASICは、行番号とGOTO文があることが特徴のひとつである。
=== ステートメントとコマンド ===
BASICのエッセンスを説明し簡単なプログラム例を示すために、BASICのステートメントとコマンドについて説明する。
本来のBASIC、ダートマスBASICではステートメントとコマンドを明確に区別する。ダートマスBASICのルールを説明する<ref>[https://www.dartmouth.edu/basicfifty/commands.html DARTMOUTH, BASIC at 50]</ref>。
行番号を持ち、プログラム本文の中に書かれるコード行は'''ステートメント'''([[文 (プログラミング)|文]]、{{lang|en|statement}})と呼ぶ。
:たとえば次のようなキーワード([[予約語]])から始まるものがステートメントである。
*'''PRINT''' - 出力(印字)する。たとえば「PRINT A」と書くと、変数 A の値を画面などに出力する。
*'''FOR'''と'''NEXT''' - 両者を前後に組み合わせて使うことで、FORの文からNEXTの文までがループ(繰り返し処理)となる。
*'''GOTO''' - 「GOTO <行番号>」という書式で、指定された行番号へジャンプする。
*'''GOSUB'''および'''RETURN''' - 「GOSUB + <行番号>」という書式。GOSUB文で指定された行番号へジャンプするが、ジャンプ先で行番号の順に実行していき、RETURNというワードに到達するとジャンプ元の位置に戻る。
*'''END''' - ダートマスBASICではプログラムの最終行に書かなければいけない。(実装によってはENDを書かないとコンピュータが暴走するものもあった。ENDを省略できる実装が次第に増えた。)
処理系に指示を与えるワード(プログラムの外の命令)は'''[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]'''(命令、{{lang|en|command}})と呼ぶ。
:たとえば次のようなワードである。
*'''RUN''' - プログラムを実行する。
*'''LIST''' - プログラムを行番号の小さいほうから順に、リスト状に画面に表示する。
*'''SAVE''' - 現在のプログラムをストレージに保存する。
=== プログラム例、実行法、出力例 ===
きわめてシンプルな例を挙げる。
画面に次のように入力したとする。
<syntaxhighlight lang="basic">
10 REM 5つ数える
20 FOR I = 1 TO 5
30 PRINT I
40 NEXT
</syntaxhighlight>
するとBASICの処理系は、行番号10から40までの文を[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]として扱う。次に<code>'''RUN'''</code>と入力し(すると「40 NEXT」の次の行に「RUN」と表示され)リターンキーなどを押すと、行番号10の行すなわち「10 REM 5つ数える」から順に実行され、行番号20から行番号40まではループとして扱い5回繰り返す。この場合の出力は次のとおり。
1
2
3
4
5
なお、「REM」はステートメントであり、ソースコードを読む人のための注釈文({{lang-en-short|[[wikt:remark|remark]]}})の文頭に置かれる。REMで始まる行はプログラムの実行結果に何ら影響を与えない。
また、前述のプログラムに編集を加えたい場合は、続いて例えば次のように入力する。
<syntaxhighlight lang="basic">
10 REM 5つ数える(“3”だけ飛ばす)
25 IF I = 3 THEN GOTO 40
</syntaxhighlight>
このように入力すると、行番号<code>10</code>の文は書き換えられ(つまり上書きされ、以前のものは消え)、20行目と30行目の間に行番号25の「 25 IF I = 3 THEN GOTO 40」が挿入された、とBASICの処理系は判断する。 そして'''RUN'''と入力すると、やはり行番号10から実行し、出力は次のとおり。
1
2
4
5
===主な特徴===
*[[高水準言語]]である。
*BASICはFORTRANの影響を受けており、いくつか似た特徴がある。[[ALGOL]]を始祖とする[[Pascal]]や[[C言語]]とは系統が大きく異なる。ただし、演算子のスタイルや、大文字と小文字を区別しないなどの点で、Pascalとの類似性は見られる。
*[[ダートマスBASIC]]は[[コンパイラ]]だが、他のBASICは[[インタプリタ]]として実装された処理系が多い。
*構造化以前のBASICでは、すべての行頭に[[行番号]]を必要とする。
*基本的に先頭行(行番号が一番小さい行)から1行ずつ実行される。
*'''GOTO'''文(GOTO <行番号>)があると、<行番号>で指定された行番号にジャンプしてその行を実行する。たとえば「GOTO 250」と書かれていたら、行番号250にジャンプする。行番号は、[[テレタイプ端末]]時代に処理系と一体の行指向[[テキストエディタ]]で扱うのに便利であったので採用されてしまった。ジャンプ先をただの数字(行番号)で示すので、ある程度以上の行数を書くとGOTO文が増え、直観的には分かりづらい行だらけになる。アルファベットなども使って意味付けされた単語(ラベル)で行き先を指定するジャンプではないので、一行ずつ焦点を当てると、どういう意図で書かれたコードなのかが不明瞭な行ばかりになってしまう。また、通常ある程度以上の規模のプログラムは分岐判断が多数含まれるので、IFとGOTOを組み合わせた文を多数使うことになり、ある程度の行数以上のプログラムを書くと[[スパゲティプログラム]]になりやすい。だが{{いつ範囲|date=2023-09|現在}}でも[[互換性]]のために両者を残している処理系もある。ラベルを用いて「GOTO *LABEL」のように指定できる実装もある。
*プログラム中の[[予約語]](キーワード)にはステートメントやコマンドの他に関数がある。それらと同じ文字並びを変数名として使うことはできない。
*文字列変数の内容等を除いて、大文字と小文字を区別しない。入力の時点で全て大文字に変換される処理系もあった。
*算術[[演算子]]以外の記号は極力使わない。論理演算子は<code>AND</code>、<code>OR</code>、<code>XOR</code>、<code>NOT</code>である。括弧は[[演算の優先順位]]も、[[サブルーチン]]の[[引数]]も、[[配列]]もすべて「<code>()</code>」のみを用いる。ブロックも「<code>{}</code>」のような括弧ではなく「<code>FOR</code>文から<code>NEXT</code>文までの間」といった構文により指定する。
*代入と比較はどちらも「<code>=</code>」である。代入はLET文(たとえば「LET A = 10」など)とするのが本来の書式だが、キーワード「LET」を省略した構文も許される方言ばかりになったので、結局「<code>A = 1</code>」のような、代入文なのか比較文なのか見た目の印象が非常に紛らわしいものばかりになり、バグ頻発の原因ともなった。
*明示的な変数宣言を必要とせず、変数を使用し始めたところで宣言したものと解釈される。
*使ったことのない変数を使うと変数が作られ、また中身は自動的に初期化される(数値型は0、文字列型は[[空文字列]])。
*[[第一級オブジェクト|ファーストクラス]]の型は数値型と[[文字列]]型である。数値は[[浮動小数点数]]だけのものもあるが、整数型などがあるものもある。文字列型の変数名は末尾に「<code>$</code>」を付ける、といった規則のものもある。
*LEFT$, MID$, RIGHT$など、文字列操作関数もそれなりの数備えていることが多い。
*編集環境を兼ねた[[コマンドラインインタプリタ]]を持つものもある。(一種の[[シェル]]のようなもの。[[LISP]]の[[REPL]]とはやや異なる。)
== 具体例 ==
===Web上で動くBASIC===
[[Webブラウザ]]上でBASICの動作をエミュレートするWebサイト・Webサービスが公開されている。手軽に最低限の雰囲気を理解することができる。
* [http://www.quitebasic.com/ Quite BASIC] (外部リンク) - ブラウザ上でBASICコードを書いてWeb上で実行できるサービス
* [https://uso800-basic.appspot.com/UsoBasic.jsp USO 800 BASIC] (外部リンク) - [[N88-BASIC]]のように利用可能なBASICコード実行サービス。Web上で動作し、サイトの外観も当時の[[N88-BASIC]]さながらである。
===構造化以前のBASICの具体的実装例===
構造化以前のBASICが動作していたコンピュータ実機の新品販売は、ほとんどは終了となっている。そのため[[インターネットオークション]]などを利用して、中古品を入手するしかない。
==== 各組織、各社のBASIC ====
*[[ダートマスBASIC]](1964年 - )
*{{仮リンク|BASIC-PLUS|en|BASIC-PLUS}}(1970年 - 。DECが[[PDP-11]]のタイムシェアリングシステム[[RSTS/E]]用に開発したものであり、1970年代から1980年代にかけて使われた)
*[[Tiny BASIC]] (1976年 - 。黎明期の[[パーソナルコンピュータ|マイコン]]用など)
*[[Apple 6K BASIC]] 別名{{仮リンク|Integer BASIC|en|Integer BASIC}}(1976年 - 。[[スティーブ・ウォズニアック]]が独力で[[Apple I]]や[[Apple II]]用に開発したもの)
*{{仮リンク|Level I BASIC|en|Level I BASIC}}(1977年 - 。[[TRS-80]]向けBASIC)
*{{仮リンク|Commodore BASIC|en|Commodore BASIC}} - コモドール[[PET 2001]](1977年 - )に搭載されていたBASIC
:以下、シャープのBASICは「コモドール系」と呼ぶことも可能ではある
*[[S-BASIC]] - (1978年 -。シャープ [[MZ-80]]用BASIC。[[シャープ]]純正BASIC。MZ-80はCommodore PETの影響を受けておりBASICもPETに似ているが、それでもシャープが自力開発したもの。命令セットは互換性のため後継製品もそれに準拠して独自拡張した物となっている。
**SP-5030 (1978年12月 -。MZ-80K, Cなど用BASIC。データレコーダ用のカセットテープで供給された)。「SP-5030」が言語の品番かカセットの品番かはやや曖昧。「MZ-80 SERIES BASIC解説」が付属した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1212/25/news130.html 「BASICの海へ」──「MZ-80」伝説のマニュアル、シャープが公開 Twitterがきっかけ - ITmedia NEWS]</ref>。
**SB-5520 (MZ-80B用など)
*[[BASIC-S25]] (シャープ[[MZ-2500]])
*[[SC-3000|BASIC LEVEL II他]](SEGAのSC-3000/SG-1000等のためのBASIC)
*[[WICS]] (1981年-。MZ-80K及びMZ-80Bシリーズ用のBASICに極力似せた表記方法を採用した、インタープリタ兼コンパイラ 整数型プログラミング言語)
*[[Hu-BASIC]] (1982年 -) - シャープ MZ-80シリーズ用だが、ハドソン社が開発したものでMicrosoftのBASICに似せたもの。
*[[:en:BBC BASIC]](1981年 - ) - イギリスの[[BBC Micro]]に搭載されたBASIC。Locomotive Softwareが開発。
*[[:en:Locomotive BASIC]](1984年 - ) - [[アムストラッドCPC]]などに搭載されたBASIC。上述のBBC BASICをLocomotive Softwareが改良したもの。
*[[G-BASIC]] (1982年 -。[[トミー (企業)|トミー]][[ぴゅう太]]用BASIC、命令語を日本語に置き換えてある。同機には別売のBASIC 1もあり) ※同機とは関係ない、マイクロソフト製の同名のBASICがある
*MW-BASIC (BASIC-09 [[OS-9]]用)
*[[BASIC-G]] ([[東芝パソコンシステム|ソード]]の[[M5 (コンピュータ)|M5]]のBASIC、整数型しか使えないが高速だった。同機には実数用の[[BASIC-F]]もあり)
*[[Casio Basic]]([[CFX-9850G]]: 1996年 - 。[[カシオ計算機|カシオ]][[FP-1000|FPシリーズ]]用のBASICで10進演算による精度の高い計算を得意とした。8ビット用のC82-BASICと[[16ビット]]用C86-BASICがある)
*SHARP BASIC ([[ポケットコンピュータ|ポケコン]]用のBASIC)
*[[X-BASIC]] ([[X68000]]の[[C言語]]ライクなBASIC、ハドソン製。)
====マイクロソフト系====
*[[Altair BASIC]](1975年 -。[[Altair 8800]]用。マイクロソフトの最初の製品であり、その後の[[Microsoft BASIC]]の起源となった。)
**[[MBASIC]] ([[CP/M]]用のBASIC)
*[[QuickBASIC]] (1985年 - 。Visual Basicの原型となった構造化BASIC)
**[[QBasic]] (QuickBASICの簡易版、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] / [[Microsoft Windows 98|98]]の[[CD-ROM]]に英語版が付属)
**[[Microsoft BASIC Professional Development System]] (QuickBASICの進化形で、標準でISAMデータベースが構築でき、MS-MASM、MS-C、Quick C、MS-FORTRAN等との言語混在開発が可能な、プロユースの構造化BASIC)
*[[Microsoft GW-BASIC]] - かつてMicrosoftが1983年頃出していたBASICで、2020年5月にオープンソース化された<ref>[https://github.com/microsoft/GW-BASIC microsoft/GW-BASIC: The original source code of Microsoft GW-BASIC from 1983]</ref>。ただし実行環境やバイナリは提供されていない。
*[[MSX-BASIC]] ([[MSX]]用のマイクロソフトBASIC、スプライト機能などを拡張、N88などより原型に近い)
*[[N-BASIC]] ([[PC-8000シリーズ]]などのBASIC)
**[[N88-BASIC]] ([[PC-8800シリーズ]](マイクロソフト製)、[[PC-9800シリーズ]](日本電気製)のBASIC、PC-9800シリーズ用は別途コンパイラもあり)
*[[Apple 10K BASIC]] (Apple Computer製、Apple II+以降)
*BASCOM (CP/M用BASICコンパイラ)
*[[F-BASIC]] ([[富士通#パーソナルコンピュータ|FMシリーズ]]のBASIC、[[富士通]]製)
*[[N80-BASIC]] ([[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]]などのBASIC)
*[[N60-BASIC]]、[[N60m-BASIC]]、[[N66-BASIC]]、[[N66SR-BASIC]] ([[PC-6000シリーズ]]、[[PC-6600シリーズ]]のBASIC)
*[[N100 BASIC]] ([[PC-100]]のBASIC)
*[[N82-BASIC]] ([[PC-8200シリーズ|PC-8201]]のBASIC)
*[[Hu-BASIC]] ([[ハドソン]]製のマイクロソフト系命令セットのBASIC。固定のシステムをROMで持たない[[MZ-80|MZ-80K]]で利用できるよう市販されたが、後に[[MZ-700]]や[[X1 (コンピュータ)|X1/turbo/turboZシリーズ]]では標準添付のシステムとなり、X1では名前を変えつつ標準のシステムとして最終機まで継承された)
*[[BASIC-M25]] (シャープ[[MZ-2500]]用の実装。コピーライトはシャープとなっているが、ハドソン製でもマイクロソフト製でも無い。日本語のラベルや、インデントのタブコード化、常駐プログラムとの併用など本体に合わせ高機能なBASICとなっている)
*[[BASIC-M28]] (シャープ[[MZ-2861]])
*[[IchigoJam#プログラミング言語|IchigoJam BASIC]](IchigoJam用の実装。MSXの影響を強く受けているため、独自拡張を含むもののMSX-BASICのサブセットの様な命令セットとなっている)
*SONY BASIC(ソニー[[SMC-70]]、[[SMC-777]]/Cに搭載されたBASICインタープリタ、マイクロソフト系命令セットを備えているが、直接の関係はなく、ビー・ユー・ジー社(現[[ビー・ユー・ジーDMG森精機|ビー・ユー・ジーDMG森精機株式会社]])が開発した<ref>{{Cite web|和書|title=About BUG - History|url=https://www.bug.co.jp/about/20th/20th_23.html|website=www.bug.co.jp|accessdate=2019-11-12}}</ref>)
: これらは命令セットの仕様が共通なだけで、必ずしもマイクロソフト製というわけではない。
====ゲーム機====
すでに新品販売されていないゲーム機のBASICは以下のとおり。
*[[ファミリーベーシック]] (NS-HuBASIC)([[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]、[[任天堂]]・[[シャープ]]・[[ハドソン]]共同開発)
*[[PCエンジン]]でべろBASIC(PCエンジン用開発ツール、[[徳間書店インターメディア]]が販売、[[ハドソン]]・[[日本電気ホームエレクトロニクス]]開発)
*[[GAME BASIC for SEGASATURN]] ([[セガサターン]]、MSX-BASICライク)
*[[BASIC STUDIO]] ([[PlayStation 2]]、[[アートディンク]]開発)
*[[プチコン]]・[[プチコン#プチコンmkII|プチコンmkII]] (SmileBasic)([[ニンテンドーDSi|ニンテンドーDSi/DSi LL]]・[[ニンテンドー3DS|3DS]]・[[Newニンテンドー3DS|New 3DS]]、JOEDOWN・[[スマイルブーム]]・[[ロケットスタジオ]]共同開発)
**[[プチコン3号]] (ニンテンドー3DS販売終了、Newニンテンドー3DSも2020年9月16日に販売終了)
== 現在販売されているマシンで動くBASIC ==
=== 現在新品で販売されている復刻機のBASIC ===
{{いつ範囲|date=2023-09|最近}}、復刻パソコン、つまり1980年代などのパソコンが、ほぼ以前どおりのシステム内容で(しかも端子類は[[HDMI]]や[[USB]]に変更されていたり、SDメモリカード用スロットなども追加されていたりするなど、{{いつ範囲|date=2023-09|最近}}の仕様に改良されて)、新品で販売されるようになっている。それらのほとんどでBASICが動き、ユーザはBASICプログラミングを楽しむことができる。
* [[:en:Commodore BASIC]]([[The C64]]([[コモドール64]]のフルサイズ復刻機)、The C64 MINI(コモドール64のミニサイズ復刻機)などで動く)
* [[N-BASIC]] ver 1.1 ([[ハル研究所]]から販売されている[[PasocomMini]] PC-8001で動く<ref>[https://www.pcmini.jp/product_pc-8001/ PasocomMini PC-8001製品情報 │ パソコンミニ公式ウェブサイト]</ref>)
{{節スタブ|date=2021年4月}}
===現行パソコンで動くBASIC===
現在、新品で販売されているパソコン上で動くBASIC
;マイクロソフトBASIC・ならびにその類似系
*[[Microsoft Visual Basic|Visual Basic]] - マイクロソフト
**[[Visual Basic for Applications]] (VBA)
**[[Visual Basic .NET]] (VB.NET)
*[[Small Basic]] - マイクロソフト
*[[99Basic]](Windows用フリーウェア 国産)
*[[ActiveBasic]](Windows用フリーウェア 国産)
*[[BASIC/98]](Windows用 国産 [[N88-BASIC]]互換) - 有限会社電脳組
*[[Xojo]](旧:[[REALbasic]])(Windows・[[Mac OS]]・[[Linux]])
*{{仮リンク|Jabaco|en|Jabaco}}(Visual Basicに似たコードでJRE上で動くソフトウェアを開発するコンパイラ)
*[[XBLite]]
*[[Android-Basic]] (Android用)
*[[FreeBASIC]]([[QuickBASIC]]互換、コンパイラ型、GPL)(Windows・Linux・[[DOSエクステンダ]]・[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]])
*{{仮リンク|QB64|en|QB64}}([[QuickBASIC]]互換)
;独自系
*[[PureBasic]](マルチプラットフォーム、AmigaOS版はオープンソース)
*[[FutureBASIC]](Mac OS、構文はQuickBASIC互換<!--なので、Full BASICに近い-->)
*[[BCX]](GPLv2 + BCX例外ライセンスのオープンソースソフトウェア BASIC → C言語トランスレータでインラインC/[[C++]]およびアセンブリを扱えるなどの特徴を持つ)
*[[UBASIC]](DOS用フリーウェア 多倍長演算に特化)
*[[DarkBASIC]](ゲーム製作に特化したBASIC言語、Windows専用、特に3Dゲーム)
*[[GLBasic]](GCCコンパイラを内部で利用するマルチプラットフォーム開発環境)
;Full BASIC系(規格準拠)
* {{仮リンク|True BASIC|en|True BASIC}} - [https://www.truebasic.com/ 公式サイト(外部リンク)](Full BASIC規格の原型、[[MS-DOS]]・Windows・Mac OS・UNIX、現在は英語版のみ、BASICを作った[[ジョン・ジョージ・ケメニー]]と{{仮リンク|トーマス・ユージン・カーツ|en|Thomas Eugene Kurtz|label=トーマス・E・カーツ}}によって作られたBASIC)
*[[十進BASIC]]<ref>[http://hp.vector.co.jp/authors/VA008683/index.htm 十進BASICのホームページ]</ref> (JIS Full BASICに準拠、Windows・Linux・Mac OS用フリーウェア、英語名Decimal BASIC)
*[[Ultra BASIC]] - 株式会社[[ラネクシー]]
;旧式構文系
*[[Chipmunk Basic]](Windows・Mac OS・[[UNIX]]用フリーウェア、インタプリタのみ)
*[[PC-BASIC]] (外部リンク)http://www.pc-basic.org/ (Windows・Mac OS・Linux・UNIX・GPL系・GW BASIC互換エミュレート機能搭載型インタープリター)
=== Android OS用のBASIC ===
[[Android OS]]上で動くBASIC、つまりAndroid[[スマートフォン]]群やAndroid[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]群などで動くBASICは以下のとおり。
*[[Android-Basic]] (Android用)
*[https://play.google.com/store/apps/details?id=org.dyndns.vivi.TinyBASIC2 Tiny BASIC v2] タートルグラフィックスを備えた Android 用 BASIC インタプリタ
*BASIC! 別名rfo-basic http://basic.amsstudio.jp/<ref>AndroidでBASIC!で遊ぼう[改訂版]kindle
2016年11月20日発行
著者:BASIC!友の会
発行:BASIC!友の会出版</ref>
*[http://applion.jp/android/app/net.sourceforge.x11basic/X11-BASIC X11-BASIC - Androidアプリ]
=== iOS用のBASIC ===
[[iOS]]上で動く(つまり[[iPhone]]や[[iPad]]で動く)BASICは以下のとおり。
*[http://applion.jp/iphone/app/394924289/ Hand BASIC] - CBM Flavor
*[https://itunes.apple.com/jp/app/basic-ii/id581692436?mt=8 BASIC-II]
===現行ゲーム機などのBASIC===
現在新品で販売されている(子供向けの)ゲーム機のBASIC
<!-- ハードが新品販売終了 *[[プチコン|プチコン・プチコンmkII]] (SmileBasic)([[ニンテンドーDSi|ニンテンドーDSi/DSi LL]]・[[ニンテンドー3DS]]・[[Newニンテンドー3DS]]、JOEDOWN・[[スマイルブーム]]・[[ロケットスタジオ]]共同開発)-->
<!-- [[プチコン3号]] (ニンテンドー3DSはとうの昔に販売終了、Newニンテンドー3DSも2020年9月16日に販売終了)-->
*[[プチコン4]] ([[Nintendo Switch]])
== 関連項目 ==
* [[FORTRAN]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連書籍==
{{Wikibooks|BASIC|BASIC}}
*マイコンBASIC互換表 [[CQ出版社]]
* Kemeny, John G. & Kurtz, Thomas E. (1985). ''Back to BASIC: The History, Corruption and Future of the Language''. Addison-Wesley Publishing Company, Inc. ISBN 0-201-13433-0.
** 松田健生訳、市川新解説(1990)『バック・トゥ・BASIC 開発者が語る言語の歴史と設計思想』[[啓学出版]]、ISBN 4-7665-1074-7
{{BASIC}}
{{プログラミング言語一覧}}
{{典拠管理}}
[[Category:BASIC|*]]
[[Category:パソコンの歴史]]
[[Category:教育用プログラミング言語]] | 2003-02-14T04:15:15Z | 2023-12-11T03:38:44Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/BASIC |
1,488 | インタプリタ | インタプリタ(英: interpreter)とは、プログラミング言語で書かれたソースコードないし中間表現を逐次解釈しながら実行するプログラムのこと。「インタープリタ」「インタープリター」などと表記することもある。
インタプリタは、およそ次のいずれかの動作をするプログラムである。
このように程度の差はあるが、ソフトウェアがソフトウェアを実行するという形になる。
いずれにしても、「インタプリタ言語」などという分類は本来は存在しない。単にそれぞれの言語の代表的な処理系の実装がインタプリタであったというだけで、理論上はどの言語であってもインタプリタとコンパイラのどちらでも作ることができる。しかしながら、インタプリタかしか存在しない言語があるが故に、「インタプリタ言語」や「コンパイラ言語」と区別されているのが現実である。インタプリタは実行中何度もプログラムを再解釈するため、ダイナミックディスパッチ(英語版)やダイナミックバインディング、リフレクション、動的型付けのような機能を実現することが容易である。一方、コンパイラは事前にCPUで実行できるように変換するだけで実行には関与しないため、実行中に振る舞いを変更したいときはそのためのプログラムを別途用意しなければならないケースがほとんどである。さらに、自前の言語から既存の何らかの表現に変換するには、その表現と対応付けるための知識と技術が必要であり、言語機能が大規模化や複雑化するほど、既存の表現との互換性をできるだけ確保しながら、自前の言語での振る舞いを実現することは難しくなる。中間表現も自前であれば、変換する手間はずっと楽になる。
インタプリタは各仮想命令に紐づく命令ボディとディスパッチ機構をもち、ホストマシン上で実行可能になっている(例: x86マシンコードbinファイル)。仮想命令群からなるコードを引数としてインタプリタが実行されると、仮想命令に基づいて制御が移行され対応する命令ボディが実行される。これを繰り返すことでインタプリタはコードを実行する。
命令ボディ(英: instruction body、命令本体とも)は仮想命令をホスト言語でエミュレートするコードである。命令ボディがホストマシンで実行されることで仮想命令が事実上実行される。すなわち命令ボディは仮想命令の実装である。例えば二項和仮想命令 ADD2 に対応してC言語で書かれた push(pop() + pop()) は命令ボディである。
ディスパッチ(英: dispatch)は仮想命令に基づいた命令ボディから命令ボディへの制御移行メカニズムである。ディスパッチの最もシンプルな例はSwitch文(Jump命令)である。ある仮想命令の実行後、次の仮想命令に対応する命令ボディへ制御を移す(Jumpする)ことでその仮想命令実装が実行される。
プログラミング言語処理系の実装には、インタプリタとコンパイラの2つがある、とされてきた。インタプリタは実行を行うが、コンパイラは実行を行わない、という差がある。
インタプリタは、インタプリタが提供する言語のプログラム文を1文ずつ、インタプリタを実装した言語の機能を呼び出していく(単純な)方式が一般的であった。コマンドラインインタプリタではこれに加えて、別のプログラムに処理を委ねて一つの機能を実現する。
この時代のインタプリタの長所と欠点については、およそ次のような解説がされることが一般的であった。
その後、そうした欠点を解消すべく、(1990年代ころになって)毎回毎回、(高級言語から)機械語に変換するのではなく、中間言語に変換することで高速化をはかるインタプリタなどが作りだされた。
改良の結果、古典的な意味での「インタプリタ」と「コンパイラ」の双方の性質を備えたようなインタプリタが登場し、複雑化してきている。
(近年の)インタプリタがおこなう、(旧来の)コンパイラが行っているような変換のひとつとしては、高速化などを目的とした、実行時コンパイラによる動的コンパイルを挙げることができる。
インタプリタという手法、すなわち、「そのハードウェアが直接解釈するのではないプログラム」を受け取り、「プログラムで実装された抽象的な、あるいは仮想上のコンピュータで解釈実行する」というプログラムの実行法は、コンピュータが登場した時から、ないしそれ以前からある。
万能チューリングマシンは、「どんなチューリングマシンについても、それを模擬できるチューリングマシン」というもので、ある種のエミュレータないしインタプリタであり、考察されたのは電子式のコンピュータの誕生する以前である。
EDSAC(実用的な機能を持ったプログラム内蔵方式の世界初の電子計算機とされている)において既に、ある種のインタプリタが実装されていたことが記録に残っている。同機におけるプログラミングの技法が書かれた The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer の chapter 2 の § 2-22 Interpretive subroutines で説明されているが、複素数演算などのサブルーチンを明示的にサブルーチンとして呼ぶのではなく、通常の加減算などと同様の形式のプログラムをインタプリタで解釈してそれらのサブルーチンを利用する、というものである。また日本においても、パンチカードを入力としてパッチパネルの配線によるプログラミングで処理するような機械で、配線によってある種のインタプリタのようなものを実装し、パンチカードの内容をデータとしてではなくプログラムのように扱う、というような例があると言われている。
最初の Lisp インタプリタはスティーブ・ラッセルが IBM 704 上に実装した。これにはエピソードがあり、ジョン・マッカーシーが「Lisp の論文」で「数学的」に示したものだったのであるが、マッカーシー自身は実装できるものだとは考えていなかった。それを、論文を読んだ、院生であったラッセルが、実装可能だと言って数学的な記述から変換して機械語で実装してみせたという。
1960年代には(現在のJavaなどと同様な)、プログラミング言語から中間表現にコンパイルし、それをインタプリタで実行する、というような手法も一般的になった(pコードマシンを参照)。
プログラム開発中、プログラマは頻繁にソースコードに手を加える。コンパイラの場合、ソースコードを変更するたびにコンパイルし、リンクして実行ファイルを完成させないと、そのプログラムを実行できない。プログラムが大きくなると、ビルドの完了を待っている時間が長くなる。一方、インタプリタではソースコードをそのまま実行するか中間表現に変換するだけなので、ほとんど待つ必要がなく、修正がうまくいったかどうかのテストをより素早く確認できる。
この特性を利用したプログラムとしてREPLがある。入力を受け取る(Read)、入力の評価(Eval)、評価結果を提示する(Print)を繰り返す(Loop)、テスト環境の一つである。評価はインタプリタに限らずコンパイラで行なわれるかもしれないが、ユーザからの入力は常にソースコードの断片であり、それを逐次実行するという点で一種のインタプリタということもできる。実際、その挙動はソースコードを指定せずに起動したBASICなどのそれとよく似ている。しかし、テスト環境も兼ねているため、エラーが起きた場合のメッセージが詳細であることが多い。関数型言語や論理型言語では、通常は機械語にコンパイルする処理系であっても用意される。
AOTコンパイラ方式では事前に生成された機械語実行ファイルがユーザーに配布される。機械語はプロセッサアーキテクチャに依存するため、このバイナリは特定のプロセッサでしか動作しない(可搬性が低い)。
一方インタプリタ形式ではソースコードとインタプリタが配布される。インタプリタは機械語実行ファイルであるため環境に依存するが、ソースコードには環境に依存しない言語を採用できる。その場合環境に合わせたインタプリタを事前配布しておけば、アーキテクチャに依存しないプログラムの配布が可能である(可搬性が高い)。またインタプリタの代わりにJITコンパイラを用いても同様の利点が得られる。同一動作の保証はインタプリタ実装に依存しており(JITであればコンパイラ)、互換性バグの例として表計算マクロやWebページ(HTML)が挙げられる。
AOTコンパイラ方式では1つのバイナリを実行するだけでプログラムが機能する。一方インタプリタ方式では、まずインタプリタをインストールしその上でソースコードを動かす必要がある。その結果全体のプログラムサイズが大きくなり、ユーザーの手間が増える場合がある(複雑性が高い)。またJITコンパイル方式でも同様の複雑性が生まれる。
インタプリタ用コード(高級言語コードあるいはバイトコード)は機械語バイナリより容易に解読できる(可読性が高い)。ゆえに配布後のデバッグや修正が容易な一方、知的財産保護上の問題を起こしうる。そのための暗号化・難読化を考慮した言語・システムが存在する。またJITコンパイル方式でも同様の可読性に関する特性が現れる。
インタプリタ方式の実行速度はコンパイラ方式の実行速度よりも遅い傾向がある。
コンパイラではプログラム内の文の解析を実行前に1回だけ行うが、単純な実装のインタプリタではそれを文ごとに実行時に毎回行うため、実行性能が低くなる。単純な実装のインタプリタでは変数にアクセスする際も識別子とメモリ上の位置のマッピングを確認しなければならず、しかもそれを実行中に何度も行わなければならないので、遅くなる。
またディスパッチはインタプリタが本質的に抱えるコストである。コンパイル方式では事前(コンパイル時)にディスパッチ相当の命令ボディ整列がおこなわれるため、実行時にディスパッチコストが発生しない。ゆえにインタプリタ方式ではディスパッチコスト×命令数分の追加コストが本質的に掛かる。
ディスパッチは分岐予測を難しくする。ゆえにパイプライン方式を採用するCPUにおいて速度へ影響を与える。影響の大きさは分岐予測器の性能に左右され、2000年代以前のCPUではインタプリタの低速度がこのペナルティによって引き起こされるとされていた。予測器の性能が上昇した2010年代以降のCPU(例: x86 Haswell)ではその影響は小さい。
インタプリタによる開発の速さとコンパイラによる実行の速さの間で、様々な妥協案が考案されてきた。一部の LISP 処理系などでは、インタプリタのコードとコンパイルされたコードが相互に呼び出しあうことができ、変数も共有できる。そのため、あるルーチンをインタプリタで評価しデバッグした後、先行してコンパイルして実行性能を高めつつ、他のルーチンを開発し続けることができる。多くのインタプリタはソースコードをそのまま実行するわけではなく、よりコンパクトな内部形式に変換している。多くの BASIC インタプリタは予約語を1バイトのトークンに置換し、それをジャンプテーブルのインデックスとして使用する。PBASIC など一部のインタプリタでは、バイト単位ではなくビット単位でプログラムの短縮を行っており、例えばコマンドを5ビットで表し、一般に16ビットで表される定数をその数値の大きさに対応して可変長(3、6、10、18ビットなど)で表し、アドレスオペランドとして「ビットオフセット」を用意している。多くの BASIC インタプリタは独自にトークン化された内部表現を保存し、読み込むことができる。
インタプリタがコンパイラと同様の字句解析と構文解析を行い、その結果生成された抽象構文木を解釈することもある。
プログラムの実行時間はコンパイラよりもインタプリタの方が長いが、コンパイル時間と実行時間を合計すればインタプリタでの実行時間よりも長くなることがある。プロトタイピングとテストにおいては、この差が重要となる。
その他の技法に制御フロー解析や静的単一代入がある。
それ自体はインタプリタの手法とも言えるしコンパイラの手法とも言える。そのどちらと言うよりも、中間表現の1種類というべきかもしれない。仮想関数テーブルやテーブルジャンプによるフロー制御に似ていなくもない。
スレッデッドコードは、呼び出されるべきサブルーチンのアドレスのみが順番に羅列されたものである。「直接スレッディング」の場合は、そのアドレスが指す先は機械語のサブルーチンである。他にもいくつかのバリエーションがある。「サブルーチン・スレッディング」は最も違うタイプのバリエーションで、アドレスのみではなく、機械語のCALL命令として羅列するので、ハードウェアのプロセッサで直接実行できる。これは実行のオーバーヘッドは極小だが、メモリ効率は悪い。サブルーチン・スレッディング以外のスレッデッドコードは、きわめて単純なインタプリタで実行できる。Forthでは「内部インタプリタ」と呼んでいる(これは、Forth言語自体を実装しているインタプリタである「外部インタプリタ」と対になっている)。
ソースコードを実行可能な形にするには、まず、ソースコードを構文木に変換する必要がある。構文木のまま、インタプリタ型の処理系で実行する処理系もあるが、構文木をさらに、中間コード(バイトコードなど)などの中間表現に変換してから実行する物もある。中間コードをバイトコードと呼んでいる処理系ではそのインタプリタをバイトコードインタプリタと呼ぶ。Java や .NET Framework のように、中間コードの仕様を公開しファイルに書き出すものもあるし、仕様は公開せず処理系内部だけで使用するものもある。動的コンパイルを使っているインタプリタは、内部で実機の機械語に変換し実行する。
インタプリタとコンパイラの間には様々な中間的実装が存在し、それぞれにプログラム実行前に行われる解析の度合いが異なる。例えば Emacs Lisp はバイトコードにコンパイルされ、LISP のソースを高度に圧縮し最適化した表現にしているが、それは機械語コードではない(したがって特定のプラットフォームに依存しない)。この「コンパイル」されたコードを解釈するのがバイトコードインタプリタである(それ自体は C で書かれている)。この場合のコンパイルされたコードは仮想機械の機械語コードであり、仮想機械はハードウェアで実装されておらず、バイトコードインタプリタとして実装されている。同様の手法は Open Firmware システムで使われている Forth コードでも使われている。ソース言語は「Fコード」(バイトコードの一種)にコンパイルされ、それを仮想機械が解釈実行する。他にPコードマシンなどがある。
コントロール・テーブル(英語版)はコンパイラを通さなくとも生成でき、バイトコードインタプリタと同様の方法でカスタマイズされたインタプリタでの適切なアルゴリズム的制御構造を記述できる。
インタプリタとコンパイラの中間的手法の1つとして、ソースコードを最適化された抽象構文木 (AST) に変換し、その木構造にしたがってプログラムを実行するか、実行時コンパイラでの機械語コード生成に使用する方法がある。この方式では各文を1回だけ構文解析する必要がある。バイトコードに比べると、ASTではプログラムの全体的構造や文と文の関係を保持でき(それらはバイトコードでは失われる)、圧縮するとさらにコンパクトな表現になる。そのため、実行時コンパイラにとってはバイトコードよりもASTの方が優れた中間表現だとして提案されてきた。また、実行時の解析もより優れたものにできる。
しかし、ASTはバイトコードよりも冗長であるため、インタプリタとしてはオーバーヘッドが大きくなるという問題がある。CRuby の場合は、1.8までは構文木インタプリタであったが、1.9では(開発中には YARV と呼ばれていた)バイトコードインタプリタに入れ替えられ、性能が向上した。
インタプリタとコンパイラの境界をさらにぼやけさせる方式として、中間表現を実行時コンパイラ (JIT) でコンパイルし、実行時にネイティブの機械語にコンパイルする技法がある。これはネイティブなコードの実行効率を実現する代わり、ASTやバイトコードを最初にコンパイルする際に起動時間やメモリ使用量が増大するという欠点がある。これを補う技法として適応的最適化(英語版)があり、インタプリタが実行中のプログラムを性能解析して最も頻繁に実行される部分をネイティブのコードにコンパイルする。これらの技法は1980年代の Smalltalk などの言語で使われ始めた。
実行時コンパイルは近年多くの言語処理系で採用されており、Java、.NET Framework、最近のJavaScript の実装でも JIT が採用されている。
他のインタプリタ言語に変換して、ターゲット言語のインタプリタ上で実行する方式。例えば CoffeeScript は JavaScript に変換されて、JavaScript インタプリタ上で実行される。
通常C言語はコンパイラで処理されるが、デバッグ目的および教育目的のインタプリタ型のC言語の処理系もある。MS-DOS時代に、いくつかの製品が提供されていた。C-Terpなどがその様な製品の例である。C/C++のインタプリタはほかにCINTやChがある。
パンチカードシステムにおいて、パンチカードを読み込んで、その内容を人間が読める形式(文字)でパンチカード上に印字する機械をインタプリタと呼ぶ。例えば、IBM 550(英語版) Numeric Interpreter (1930年) や IBM 557(英語版) Alphabetic Interpreter (1954年) がある。 | [
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"text": "インタプリタ(英: interpreter)とは、プログラミング言語で書かれたソースコードないし中間表現を逐次解釈しながら実行するプログラムのこと。「インタープリタ」「インタープリター」などと表記することもある。",
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"text": "インタプリタは各仮想命令に紐づく命令ボディとディスパッチ機構をもち、ホストマシン上で実行可能になっている(例: x86マシンコードbinファイル)。仮想命令群からなるコードを引数としてインタプリタが実行されると、仮想命令に基づいて制御が移行され対応する命令ボディが実行される。これを繰り返すことでインタプリタはコードを実行する。",
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"text": "命令ボディ(英: instruction body、命令本体とも)は仮想命令をホスト言語でエミュレートするコードである。命令ボディがホストマシンで実行されることで仮想命令が事実上実行される。すなわち命令ボディは仮想命令の実装である。例えば二項和仮想命令 ADD2 に対応してC言語で書かれた push(pop() + pop()) は命令ボディである。",
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"text": "ディスパッチ(英: dispatch)は仮想命令に基づいた命令ボディから命令ボディへの制御移行メカニズムである。ディスパッチの最もシンプルな例はSwitch文(Jump命令)である。ある仮想命令の実行後、次の仮想命令に対応する命令ボディへ制御を移す(Jumpする)ことでその仮想命令実装が実行される。",
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"text": "プログラミング言語処理系の実装には、インタプリタとコンパイラの2つがある、とされてきた。インタプリタは実行を行うが、コンパイラは実行を行わない、という差がある。",
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"text": "インタプリタは、インタプリタが提供する言語のプログラム文を1文ずつ、インタプリタを実装した言語の機能を呼び出していく(単純な)方式が一般的であった。コマンドラインインタプリタではこれに加えて、別のプログラムに処理を委ねて一つの機能を実現する。",
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"text": "この時代のインタプリタの長所と欠点については、およそ次のような解説がされることが一般的であった。",
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"text": "その後、そうした欠点を解消すべく、(1990年代ころになって)毎回毎回、(高級言語から)機械語に変換するのではなく、中間言語に変換することで高速化をはかるインタプリタなどが作りだされた。",
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"text": "改良の結果、古典的な意味での「インタプリタ」と「コンパイラ」の双方の性質を備えたようなインタプリタが登場し、複雑化してきている。",
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"text": "(近年の)インタプリタがおこなう、(旧来の)コンパイラが行っているような変換のひとつとしては、高速化などを目的とした、実行時コンパイラによる動的コンパイルを挙げることができる。",
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"text": "インタプリタという手法、すなわち、「そのハードウェアが直接解釈するのではないプログラム」を受け取り、「プログラムで実装された抽象的な、あるいは仮想上のコンピュータで解釈実行する」というプログラムの実行法は、コンピュータが登場した時から、ないしそれ以前からある。",
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"text": "万能チューリングマシンは、「どんなチューリングマシンについても、それを模擬できるチューリングマシン」というもので、ある種のエミュレータないしインタプリタであり、考察されたのは電子式のコンピュータの誕生する以前である。",
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"text": "EDSAC(実用的な機能を持ったプログラム内蔵方式の世界初の電子計算機とされている)において既に、ある種のインタプリタが実装されていたことが記録に残っている。同機におけるプログラミングの技法が書かれた The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer の chapter 2 の § 2-22 Interpretive subroutines で説明されているが、複素数演算などのサブルーチンを明示的にサブルーチンとして呼ぶのではなく、通常の加減算などと同様の形式のプログラムをインタプリタで解釈してそれらのサブルーチンを利用する、というものである。また日本においても、パンチカードを入力としてパッチパネルの配線によるプログラミングで処理するような機械で、配線によってある種のインタプリタのようなものを実装し、パンチカードの内容をデータとしてではなくプログラムのように扱う、というような例があると言われている。",
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"text": "最初の Lisp インタプリタはスティーブ・ラッセルが IBM 704 上に実装した。これにはエピソードがあり、ジョン・マッカーシーが「Lisp の論文」で「数学的」に示したものだったのであるが、マッカーシー自身は実装できるものだとは考えていなかった。それを、論文を読んだ、院生であったラッセルが、実装可能だと言って数学的な記述から変換して機械語で実装してみせたという。",
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"title": "長所と短所"
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"text": "この特性を利用したプログラムとしてREPLがある。入力を受け取る(Read)、入力の評価(Eval)、評価結果を提示する(Print)を繰り返す(Loop)、テスト環境の一つである。評価はインタプリタに限らずコンパイラで行なわれるかもしれないが、ユーザからの入力は常にソースコードの断片であり、それを逐次実行するという点で一種のインタプリタということもできる。実際、その挙動はソースコードを指定せずに起動したBASICなどのそれとよく似ている。しかし、テスト環境も兼ねているため、エラーが起きた場合のメッセージが詳細であることが多い。関数型言語や論理型言語では、通常は機械語にコンパイルする処理系であっても用意される。",
"title": "長所と短所"
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"text": "AOTコンパイラ方式では事前に生成された機械語実行ファイルがユーザーに配布される。機械語はプロセッサアーキテクチャに依存するため、このバイナリは特定のプロセッサでしか動作しない(可搬性が低い)。",
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"text": "一方インタプリタ形式ではソースコードとインタプリタが配布される。インタプリタは機械語実行ファイルであるため環境に依存するが、ソースコードには環境に依存しない言語を採用できる。その場合環境に合わせたインタプリタを事前配布しておけば、アーキテクチャに依存しないプログラムの配布が可能である(可搬性が高い)。またインタプリタの代わりにJITコンパイラを用いても同様の利点が得られる。同一動作の保証はインタプリタ実装に依存しており(JITであればコンパイラ)、互換性バグの例として表計算マクロやWebページ(HTML)が挙げられる。",
"title": "長所と短所"
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"text": "AOTコンパイラ方式では1つのバイナリを実行するだけでプログラムが機能する。一方インタプリタ方式では、まずインタプリタをインストールしその上でソースコードを動かす必要がある。その結果全体のプログラムサイズが大きくなり、ユーザーの手間が増える場合がある(複雑性が高い)。またJITコンパイル方式でも同様の複雑性が生まれる。",
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"text": "インタプリタ用コード(高級言語コードあるいはバイトコード)は機械語バイナリより容易に解読できる(可読性が高い)。ゆえに配布後のデバッグや修正が容易な一方、知的財産保護上の問題を起こしうる。そのための暗号化・難読化を考慮した言語・システムが存在する。またJITコンパイル方式でも同様の可読性に関する特性が現れる。",
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"text": "インタプリタによる開発の速さとコンパイラによる実行の速さの間で、様々な妥協案が考案されてきた。一部の LISP 処理系などでは、インタプリタのコードとコンパイルされたコードが相互に呼び出しあうことができ、変数も共有できる。そのため、あるルーチンをインタプリタで評価しデバッグした後、先行してコンパイルして実行性能を高めつつ、他のルーチンを開発し続けることができる。多くのインタプリタはソースコードをそのまま実行するわけではなく、よりコンパクトな内部形式に変換している。多くの BASIC インタプリタは予約語を1バイトのトークンに置換し、それをジャンプテーブルのインデックスとして使用する。PBASIC など一部のインタプリタでは、バイト単位ではなくビット単位でプログラムの短縮を行っており、例えばコマンドを5ビットで表し、一般に16ビットで表される定数をその数値の大きさに対応して可変長(3、6、10、18ビットなど)で表し、アドレスオペランドとして「ビットオフセット」を用意している。多くの BASIC インタプリタは独自にトークン化された内部表現を保存し、読み込むことができる。",
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"text": "それ自体はインタプリタの手法とも言えるしコンパイラの手法とも言える。そのどちらと言うよりも、中間表現の1種類というべきかもしれない。仮想関数テーブルやテーブルジャンプによるフロー制御に似ていなくもない。",
"title": "バリエーション"
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"text": "スレッデッドコードは、呼び出されるべきサブルーチンのアドレスのみが順番に羅列されたものである。「直接スレッディング」の場合は、そのアドレスが指す先は機械語のサブルーチンである。他にもいくつかのバリエーションがある。「サブルーチン・スレッディング」は最も違うタイプのバリエーションで、アドレスのみではなく、機械語のCALL命令として羅列するので、ハードウェアのプロセッサで直接実行できる。これは実行のオーバーヘッドは極小だが、メモリ効率は悪い。サブルーチン・スレッディング以外のスレッデッドコードは、きわめて単純なインタプリタで実行できる。Forthでは「内部インタプリタ」と呼んでいる(これは、Forth言語自体を実装しているインタプリタである「外部インタプリタ」と対になっている)。",
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "通常C言語はコンパイラで処理されるが、デバッグ目的および教育目的のインタプリタ型のC言語の処理系もある。MS-DOS時代に、いくつかの製品が提供されていた。C-Terpなどがその様な製品の例である。C/C++のインタプリタはほかにCINTやChがある。",
"title": "デバッグ、教育用"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "パンチカードシステムにおいて、パンチカードを読み込んで、その内容を人間が読める形式(文字)でパンチカード上に印字する機械をインタプリタと呼ぶ。例えば、IBM 550(英語版) Numeric Interpreter (1930年) や IBM 557(英語版) Alphabetic Interpreter (1954年) がある。",
"title": "パンチカード"
}
]
| インタプリタとは、プログラミング言語で書かれたソースコードないし中間表現を逐次解釈しながら実行するプログラムのこと。「インタープリタ」「インタープリター」などと表記することもある。 インタプリタは、およそ次のいずれかの動作をするプログラムである。 ソースコードを直接解釈実行する。
ソースコードを何らかの効率的な中間的なコード(中間表現)に、最初に全て変換して、あるいは、逐次変換しながら、解釈実行する。
何らかのコンパイラが生成し出力した、何らかの効率的な(マシンに依存しない、あるいは、マシン依存の)中間表現を解釈実行する。 このように程度の差はあるが、ソフトウェアがソフトウェアを実行するという形になる。 いずれにしても、「インタプリタ言語」などという分類は本来は存在しない。単にそれぞれの言語の代表的な処理系の実装がインタプリタであったというだけで、理論上はどの言語であってもインタプリタとコンパイラのどちらでも作ることができる。しかしながら、インタプリタかしか存在しない言語があるが故に、「インタプリタ言語」や「コンパイラ言語」と区別されているのが現実である。インタプリタは実行中何度もプログラムを再解釈するため、ダイナミックディスパッチやダイナミックバインディング、リフレクション、動的型付けのような機能を実現することが容易である。一方、コンパイラは事前にCPUで実行できるように変換するだけで実行には関与しないため、実行中に振る舞いを変更したいときはそのためのプログラムを別途用意しなければならないケースがほとんどである。さらに、自前の言語から既存の何らかの表現に変換するには、その表現と対応付けるための知識と技術が必要であり、言語機能が大規模化や複雑化するほど、既存の表現との互換性をできるだけ確保しながら、自前の言語での振る舞いを実現することは難しくなる。中間表現も自前であれば、変換する手間はずっと楽になる。 | {{Redirect|インタープリタ|元々の意味|通訳|その他|インタープリタ (曖昧さ回避)}}
{{複数の問題
|出典の明記=2019年3月
|正確性=2019年3月
}}{{プログラムの実行}}
'''インタプリタ'''({{lang-en-short|interpreter}})とは、[[プログラミング言語]]で書かれた[[ソースコード]]ないし[[中間表現]]を逐次[[解釈]]しながら[[実行 (コンピュータ)|実行]]する[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]のこと<ref>{{Cite book|和書
| author= bit 編集部
|title= bit 単語帳
| year=1990
| date=1990-8-15
|page=19
|publisher=[[共立出版]]|isbn =4-320-02526-1 }}</ref>。「インタープリタ」「インタープリター」などと表記することもある。
インタプリタは、およそ次のいずれかの動作をするプログラムである。
# [[ソースコード]]を直接解釈実行する。
# ソースコードを何らかの効率的な中間的なコード([[中間表現]])に、最初に全て変換して、あるいは、逐次変換しながら、解釈実行する。
# 何らかの[[コンパイラ]]が生成し出力した、何らかの効率的な(マシンに依存しない、あるいは、マシン依存の)中間表現を解釈実行する<ref group="注">この意味では、[[CPU]]は機械語インタプリタであると見ることができる。</ref>。
このように程度の差はあるが、ソフトウェアがソフトウェアを実行するという形になる。
いずれにしても、「インタプリタ言語」などという分類は本来は存在しない。単にそれぞれの言語の代表的な処理系の実装がインタプリタであったというだけで、理論上はどの言語であってもインタプリタとコンパイラのどちらでも作ることができる。しかしながら、インタプリタかしか存在しない言語があるが故に、「インタプリタ言語」や「コンパイラ言語」と区別されているのが現実である。インタプリタは実行中何度もプログラムを再解釈するため、{{仮リンク|ダイナミックディスパッチ|en|Dynamic_dispatch}}や[[ダイナミックバインディング]]、[[リフレクション (情報工学)|リフレクション]]、[[動的型付け]]のような機能を実現することが容易である。一方、コンパイラは事前にCPUで実行できるように変換するだけで実行には関与しないため、実行中に振る舞いを変更したいときはそのためのプログラムを別途用意しなければならないケースがほとんどである。さらに、自前の言語から既存の何らかの表現に変換するには、その表現と対応付けるための知識と技術が必要であり、言語機能が大規模化や複雑化するほど、既存の表現との互換性をできるだけ確保しながら、自前の言語での振る舞いを実現することは難しくなる。中間表現も自前であれば、変換する手間はずっと楽になる。
== 仕組み ==
インタプリタは各仮想命令に紐づく命令ボディとディスパッチ機構をもち、ホストマシン上で実行可能になっている(例: x86マシンコードbinファイル)。仮想命令群からなるコードを引数としてインタプリタが実行されると、仮想命令に基づいて制御が移行され対応する命令ボディが実行される。これを繰り返すことでインタプリタはコードを実行する。
=== 命令ボディ ===
'''命令ボディ'''({{lang-en-short|instruction body}}、命令本体とも)は仮想命令をホスト言語で[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレート]]するコードである<ref name=":0">"An interpreter dispatches a ''virtual instruction body'' to emulate each virtual instruction in turn." Zaleski (2007). ''YETI: a GraduallY Extensible Trace Interpreter''. University of Toronto.</ref>。命令ボディがホストマシンで実行されることで仮想命令が事実上実行される。すなわち命令ボディは仮想命令の実装である。例えば二項和仮想命令 <code>ADD2</code> に対応してC言語で書かれた <code>push(pop() + pop())</code> は命令ボディである。
=== ディスパッチ ===
'''ディスパッチ'''({{lang-en-short|dispatch}})は仮想命令に基づいた命令ボディから命令ボディへの[[制御構造|制御]]移行メカニズムである<ref name=":0" /><ref>"we defined dispatch as the mechanism used by a high level language virtual machine to transfer control from the code to emulate one virtual instruction to the next." Zaleski (2007). ''YETI: a GraduallY Extensible Trace Interpreter''. University of Toronto.</ref>。ディスパッチの最もシンプルな例は[[Switch文]]([[分岐命令|Jump命令]])である。ある仮想命令の実行後、次の仮想命令に対応する命令ボディへ制御を移す(Jumpする)ことでその仮想命令実装が実行される。
== 誤解 ==
プログラミング言語処理系の実装には、インタプリタと[[コンパイラ]]の2つがある、とされてきた。インタプリタは<u>[[実行 (コンピュータ)|実行]]を行う</u>が、コンパイラは[[実行 (コンピュータ)|実行]]を行わない、という差がある。
インタプリタは、インタプリタが提供する言語のプログラム文を1文ずつ、インタプリタを実装した言語の機能を呼び出していく(単純な)方式が一般的であった。コマンドラインインタプリタではこれに加えて、別のプログラムに処理を委ねて一つの機能を実現する。
この時代のインタプリタの長所と欠点については、およそ次のような解説がされることが一般的であった。
*(長所)プログラムを作成している途中でも、とりあえず書かれた箇所まで実行させることができ、プログラマの期待通りの動作をしている場合も、期待通りの動作をしていない場合も、早期にそれを確認・発見し、そして修正後すばやく実行、再確認できる。
*(短所)実行速度が遅い。([[ループ (プログラミング)|ループ]](=繰り返し)の箇所などでは)1度構文解釈した文でも、毎回(あらためて、最初から)[[解釈]]と実行を行うので、コンパイラ方式に比べて実行速度が遅くなる。(ループを全く含まないような、全ての命令が一回だけ解釈され、一回だけ実行されるような(ある意味、特殊な)プログラムであれば、解釈+実行のトータルの時間は、インタプリタでもコンパイラでもさほど差は生じない。だが、実用的なプログラムは一般的に、多数のループを含んでおり、そうしたプログラムではインタプリタのほうが実行を完了するまでの時間が多くかかり、特に、ループ回数が多ければ多いほど(古典的な、単純な)インタプリタの相対的な遅さは顕著になってくる。→[[#長所と短所]]
その後、そうした欠点を解消すべく、(1990年代ころになって)毎回毎回、(高級言語から)機械語に変換するのではなく、中間言語に変換することで高速化をはかるインタプリタなどが作りだされた。
改良の結果、古典的な意味での「インタプリタ」と「コンパイラ」の双方の性質を備えたようなインタプリタが登場し、複雑化してきている。
(近年の)インタプリタがおこなう、(旧来の)コンパイラが行っているような変換のひとつとしては、高速化などを目的とした、[[実行時コンパイラ]]による[[動的コンパイル]]を挙げることができる。
<ref group="注">現在では、「インタプリタ / コンパイラ」という区分に関しては状況が変わっており、{{誰|date=2015年8月}}に言わせると『だが、それらは必ずしも相互排他的に2つに分類できるわけではない。なぜなら多くのインタプリタ方式の処理系は、コンパイラが行っているような変換も内部で行っているからだ。{{要出典|date=2015年8月}}」とも言われ、『「インタプリタ言語」あるいは「コンパイラ言語」といった呼称も見掛けることがあるが、これらは単にその言語の規範的実装がインタプリタかコンパイラかを示しているに過ぎない(実際、詳しく調べれば、実験的な程度の実装まで含めれば両方ともあるということも多い)。』という見解も出てくることになる。[[高水準言語]]は基本的に抽象であり、(理想的には)特定の実装からは独立している。しかし、[[動的プログラミング言語]]のようにインタプリタでの実装が向いている方向性の言語、あるいはその逆もあるということは確かである。
</ref>
== 歴史 ==
インタプリタという手法、すなわち、「そのハードウェアが直接解釈するのではないプログラム」を受け取り、「プログラムで実装された抽象的な、あるいは仮想上のコンピュータで解釈実行する」というプログラムの実行法は、コンピュータが登場した時から、ないしそれ以前からある。
[[チューリングマシン#万能チューリングマシン|万能チューリングマシン]]は、「どんなチューリングマシンについても、それを模擬できるチューリングマシン」というもので、ある種の[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]ないしインタプリタであり、考察されたのは電子式のコンピュータの誕生する以前である。
[[EDSAC]](実用的な機能を持った[[プログラム内蔵方式]]の世界初の電子計算機とされている)において既に、ある種のインタプリタが実装されていたことが記録に残っている。同機におけるプログラミングの技法が書かれた ''The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer'' の chapter 2 の ''§ 2-22 Interpretive subroutines'' で説明されているが、複素数演算などのサブルーチンを明示的にサブルーチンとして呼ぶのではなく、通常の加減算などと同様の形式のプログラムをインタプリタで解釈してそれらのサブルーチンを利用する、というものである。また日本においても、[[パンチカード]]を入力として[[パッチパネル]]の配線によるプログラミングで処理するような機械で、配線によってある種のインタプリタのようなものを実装し、パンチカードの内容をデータとしてではなくプログラムのように扱う、というような例があると言われている<ref>[http://id.nii.ac.jp/1001/00006268/ 日本のソフトウェアの草創期:座談会:日本のソフトウェアの草創期]</ref>。
最初の Lisp インタプリタは[[スティーブ・ラッセル]]が [[IBM 704]] 上に実装した。これにはエピソードがあり、[[ジョン・マッカーシー]]が「Lisp の論文」<ref>''Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine, Part I'' のこと</ref>で「数学的」に示したものだったのであるが、マッカーシー自身は実装できるものだとは考えていなかった。それを、論文を読んだ、院生であったラッセルが、実装可能だと言って数学的な記述から変換して機械語で実装してみせたという。<ref>''History of Lisp'' の、§3 の最後のほうに、次のようにある「S.R. Russell noticed that ''eval'' could serve as an interpreter for LISP, promptly hand coded it, and we now had a programming language with an interpreter. (段落) The unexpected appearance of an interpreter ...(後略)」</ref><ref>[[ポール・グレアム]]の『ハッカーと画家』(原著「{{lang|en|Hackers & Painters}}、185ページ)によれば、マッカーシーは「ラッセルは『ねえ、この <code>eval</code> をプログラムしようか』と言った。…私は『ほう、ほう。君は理論と実際を混同している。この ''eval'' は読み物として書いたもので、実際に動かすために書いたものじゃない』と答えた。しかし彼はそれをやってのけた。つまり彼は私の論文にある ''eval'' を [[IBM 704]] の機械語にコンパイルして、[[バグ]]を修正し、それを {{lang|en|LISP}} インタプリタだと宣伝したし、実際それはそのとおりだった。だからその時点で {{lang|en|LISP}} は今日のような形態を本質的に備えていた」と述べたという。</ref>
1960年代には(現在のJavaなどと同様な)、プログラミング言語から中間表現にコンパイルし、それをインタプリタで実行する、というような手法も一般的になった([[pコードマシン]]を参照)。
== 長所と短所 ==
===開発時に修正作業が容易===
プログラム開発中、プログラマは頻繁にソースコードに手を加える。コンパイラの場合、ソースコードを変更するたびにコンパイルし、[[リンケージエディタ|リンク]]して[[実行ファイル]]を完成させないと、そのプログラムを実行できない。プログラムが大きくなると、[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]の完了を待っている時間が長くなる。一方、インタプリタではソースコードをそのまま実行するか中間表現に変換するだけなので、ほとんど待つ必要がなく、修正がうまくいったかどうかのテストをより素早く確認できる。
この特性を利用したプログラムとして[[REPL]]がある。入力を受け取る(Read)、入力の評価(Eval)、評価結果を提示する(Print)を繰り返す(Loop)、テスト環境の一つである。評価はインタプリタに限らずコンパイラで行なわれるかもしれないが、ユーザからの入力は常にソースコードの断片であり、それを逐次実行するという点で一種のインタプリタということもできる。実際、その挙動はソースコードを指定せずに起動したBASICなどのそれとよく似ている。しかし、テスト環境も兼ねているため、エラーが起きた場合のメッセージが詳細であることが多い。[[関数型言語]]や[[論理型言語]]では、通常は[[機械語]]にコンパイルする[[処理系]]であっても用意される。
=== 可搬性 ===
[[AOTコンパイラ]]方式では事前に生成された[[機械語]][[実行ファイル]]がユーザーに配布される。[[機械語]]はプロセッサアーキテクチャに依存するため、このバイナリは特定のプロセッサでしか動作しない([[可搬性]]が低い)。
一方インタプリタ形式ではソースコードとインタプリタが配布される。インタプリタは機械語実行ファイルであるため環境に依存するが、ソースコードには環境に依存しない言語を採用できる。その場合環境に合わせたインタプリタを事前配布しておけば、アーキテクチャに依存しないプログラムの配布が可能である([[可搬性]]が高い)。またインタプリタの代わりに[[JITコンパイル|JITコンパイラ]]を用いても同様の利点が得られる。同一動作の保証はインタプリタ実装に依存しており(JITであればコンパイラ)、互換性バグの例として表計算マクロやWebページ(HTML)が挙げられる。
=== 複雑性 ===
[[AOTコンパイラ]]方式では1つのバイナリを実行するだけでプログラムが機能する。一方インタプリタ方式では、まずインタプリタを[[インストール]]しその上でソースコードを動かす必要がある。その結果全体のプログラムサイズが大きくなり、ユーザーの手間が増える場合がある(複雑性が高い)。また[[JITコンパイル]]方式でも同様の複雑性が生まれる。
=== 可読性 ===
インタプリタ用コード(高級言語コードあるいは[[バイトコード]])は[[機械語]]バイナリより容易に解読できる([[可読性]]が高い)。ゆえに配布後のデバッグや修正が容易な一方、[[知的財産権|知的財産]]保護上の問題を起こしうる。そのための[[暗号]]化・[[難読化コード|難読化]]を考慮した言語・システムが存在する。また[[JITコンパイル]]方式でも同様の可読性に関する特性が現れる。
===速度===
インタプリタ方式の実行速度はコンパイラ方式の実行速度よりも遅い傾向がある。
コンパイラではプログラム内の[[文 (プログラミング)|文]]の解析を実行前に1回だけ行うが、単純な実装のインタプリタではそれを文ごとに実行時に毎回行うため、実行性能が低くなる。単純な実装のインタプリタでは変数にアクセスする際も識別子とメモリ上の位置のマッピングを確認しなければならず、しかもそれを実行中に何度も行わなければならないので、遅くなる。
また[[インタプリタ#ディスパッチ|ディスパッチ]]はインタプリタが本質的に抱えるコストである。コンパイル方式では事前(コンパイル時)にディスパッチ相当の命令ボディ整列がおこなわれるため、実行時にディスパッチコストが発生しない。ゆえにインタプリタ方式ではディスパッチコスト×命令数分の追加コストが本質的に掛かる。
[[インタプリタ#ディスパッチ|ディスパッチ]]は[[分岐予測]]を難しくする。ゆえに[[命令パイプライン|パイプライン]]方式を採用する[[CPU]]において速度へ影響を与える<ref>"Conventional wisdom states that this indirect jump incurs a major performance degradation on deeply pipelined architectures because it is hardly predictable" Rohou, et al. (2015). ''Branch Prediction and the Performance of Interpreters - Don’t Trust Folklore''. International Symposium on Code Generation and Optimization, Feb 2015, Burlingame, United States.</ref>。影響の大きさは分岐予測器の性能に左右され、2000年代以前のCPUではインタプリタの低速度がこのペナルティによって引き起こされるとされていた。予測器の性能が上昇した2010年代以降のCPU(例: x86 [[Haswellマイクロアーキテクチャ|Haswell]])ではその影響は小さい<ref>"we show that the accuracy of indirect branch prediction is no longer critical for interpreters." Rohou, et al. (2015). ''Branch Prediction and the Performance of Interpreters - Don’t Trust Folklore''. International Symposium on Code Generation and Optimization, Feb 2015, Burlingame, United States.</ref>。
インタプリタによる開発の速さとコンパイラによる実行の速さの間で、様々な妥協案が考案されてきた。一部の {{lang|en|LISP}} 処理系などでは、インタプリタのコードとコンパイルされたコードが相互に呼び出しあうことができ、変数も共有できる。そのため、あるルーチンをインタプリタで評価しデバッグした後、先行してコンパイルして実行性能を高めつつ、他のルーチンを開発し続けることができる。多くのインタプリタはソースコードをそのまま実行するわけではなく、よりコンパクトな内部形式に変換している。多くの {{lang|en|BASIC}} インタプリタは[[予約語]]を1[[バイト (情報)|バイト]]の[[スレッデッドコード#トークン・スレッディング|トークン]]に置換し、それを[[ジャンプテーブル]]のインデックスとして使用する。{{lang|en|[[PBASIC]]}} など一部のインタプリタでは、バイト単位ではなくビット単位でプログラムの短縮を行っており、例えばコマンドを5ビットで表し、一般に16ビットで表される定数をその数値の大きさに対応して可変長(3、6、10、18ビットなど)で表し、アドレスオペランドとして「ビットオフセット」を用意している。多くの {{lang|en|BASIC}} インタプリタは独自にトークン化された内部表現を保存し、読み込むことができる。
インタプリタがコンパイラと同様の[[字句解析]]と[[構文解析]]を行い、その結果生成された[[抽象構文木]]を解釈することもある。
プログラムの実行時間はコンパイラよりもインタプリタの方が長いが、コンパイル時間と実行時間を合計すればインタプリタでの実行時間よりも長くなることがある。[[プロトタイピング]]と[[ソフトウェアテスト|テスト]]においては、この差が重要となる。
その他の技法に[[制御フローグラフ|制御フロー解析]]や[[静的単一代入]]がある。
== バリエーション ==
=== スレッデッドコード ===
{{Main|スレッデッドコード}}
それ自体はインタプリタの手法とも言えるしコンパイラの手法とも言える。そのどちらと言うよりも、中間表現の1種類というべきかもしれない。[[仮想関数テーブル]]や[[テーブルジャンプ]]によるフロー制御に似ていなくもない。
スレッデッドコードは、呼び出されるべきサブルーチンのアドレスのみが順番に羅列されたものである。「直接スレッディング」の場合は、そのアドレスが指す先は機械語のサブルーチンである。他にもいくつかのバリエーションがある。「サブルーチン・スレッディング」は最も違うタイプのバリエーションで、アドレスのみではなく、機械語のCALL命令として羅列するので、ハードウェアのプロセッサで直接実行できる。これは実行のオーバーヘッドは極小だが、メモリ効率は悪い<ref group="注">つまり、近年では高速化にはキャッシュのほうが重要なので、高速化に有利か否かはわからない。</ref>。サブルーチン・スレッディング以外のスレッデッドコードは、きわめて単純なインタプリタで実行できる。[[Forth]]では「内部インタプリタ」と呼んでいる(これは、Forth言語自体を実装しているインタプリタである「外部インタプリタ」と対になっている)。
=== バイトコード ===
{{Main|バイトコード}}
ソースコードを実行可能な形にするには、まず、ソースコードを構文木に変換する必要がある。構文木のまま、インタプリタ型の処理系で実行する処理系もあるが、構文木をさらに、中間コード([[バイトコード]]など)などの[[中間表現]]に変換してから実行する物もある。中間コードをバイトコードと呼んでいる処理系ではそのインタプリタをバイトコードインタプリタと呼ぶ。{{lang|en|[[Java]]}} や {{lang|en|[[.NET Framework]]}} のように、中間コードの仕様を公開しファイルに書き出すものもあるし、仕様は公開せず処理系内部だけで使用するものもある。[[動的コンパイル]]を使っているインタプリタは、内部で実機の[[機械語]]に変換し実行する。
インタプリタとコンパイラの間には様々な中間的実装が存在し、それぞれにプログラム実行前に行われる解析の度合いが異なる。例えば {{lang|en|[[Emacs Lisp]]}} は[[バイトコード]]にコンパイルされ、{{lang|en|LISP}} のソースを高度に圧縮し最適化した表現にしているが、それは機械語コードではない(したがって特定のプラットフォームに依存しない)。この「コンパイル」されたコードを解釈するのがバイトコードインタプリタである(それ自体は [[C言語|{{lang|en|C}}]] で書かれている)。この場合のコンパイルされたコードは[[仮想機械]]の機械語コードであり、仮想機械はハードウェアで実装されておらず、バイトコードインタプリタとして実装されている。同様の手法は {{lang|en|[[Open Firmware]]}} システムで使われている {{lang|en|Forth}} コードでも使われている。ソース言語は「Fコード」(バイトコードの一種)にコンパイルされ、それを[[仮想機械]]が解釈実行する。他に[[Pコードマシン]]などがある。
{{仮リンク|コントロール・テーブル|en|Control table}}はコンパイラを通さなくとも生成でき、バイトコードインタプリタと同様の方法でカスタマイズされたインタプリタでの適切なアルゴリズム的[[制御構造]]を記述できる。
=== 抽象構文木 ===
インタプリタとコンパイラの中間的手法の1つとして、ソースコードを最適化された[[抽象構文木]] (AST) に変換し、その木構造にしたがってプログラムを実行するか、[[実行時コンパイラ]]での機械語コード生成に使用する方法がある<ref>[http://lambda-the-ultimate.org/node/716 {{lang|en|AST intermediate representations}}] — {{lang|en|Lambda the Ultimate forum}}</ref>。この方式では各文を1回だけ構文解析する必要がある。バイトコードに比べると、ASTではプログラムの全体的構造や文と文の関係を保持でき(それらはバイトコードでは失われる)、圧縮するとさらにコンパクトな表現になる<ref>[http://www.ics.uci.edu/~franz/Site/pubs-pdf/C05.pdf {{lang|en|A Tree-Based Alternative to Java Byte-Codes}}] — トーマス・キスラー、マイケル・フランズ</ref>。そのため、実行時コンパイラにとってはバイトコードよりもASTの方が優れた中間表現だとして提案されてきた。また、実行時の解析もより優れたものにできる。
しかし、ASTはバイトコードよりも冗長であるため、インタプリタとしてはオーバーヘッドが大きくなるという問題がある<ref>[http://webkit.org/blog/189/announcing-squirrelfish/ {{lang|en|Annoucing SquirelFish}}]</ref>。{{lang|en|CRuby}} の場合は、1.8までは構文木インタプリタであったが、1.9では(開発中には {{lang|en|YARV}} と呼ばれていた)バイトコードインタプリタに入れ替えられ、性能が向上した。
=== 実行時コンパイル ===
インタプリタとコンパイラの境界をさらにぼやけさせる方式として、中間表現を[[実行時コンパイラ]] (JIT) でコンパイルし、実行時にネイティブの[[機械語]]にコンパイルする技法がある。これはネイティブなコードの実行効率を実現する代わり、ASTやバイトコードを最初にコンパイルする際に起動時間やメモリ使用量が増大するという欠点がある。これを補う技法として{{仮リンク|適応的最適化|en|Adaptive optimization}}があり、インタプリタが実行中のプログラムを[[性能解析]]して最も頻繁に実行される部分をネイティブのコードにコンパイルする。これらの技法は1980年代の {{lang|en|[[Smalltalk]]}} などの言語で使われ始めた<ref>L. ドイチュ、A. シフマン、[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=800017.800542 {{lang|en|Efficient implementation of the Smalltalk-80 system}}]、{{lang|en|Proceedings of 11th POPL symposium}}、1984年</ref>。
実行時コンパイルは近年多くの言語処理系で採用されており、[[Javaプラットフォーム|{{lang|en|Java}}]]、{{lang|en|[[.NET Framework]]}}、最近の{{lang|en|[[JavaScript]]}} の実装でも JIT が採用されている。
===トランスレータ方式===
他のインタプリタ言語に変換して、ターゲット言語のインタプリタ上で実行する方式。例えば {{lang|en|[[CoffeeScript]]}} は {{lang|en|[[JavaScript]]}} に変換されて、{{lang|en|JavaScript}} インタプリタ上で実行される。
== 応用 ==
* インタプリタは、[[コマンドラインインタプリタ|コマンドライン]]用言語や[[グルー言語]]でよく使われている。
* [[自己書き換えコード]]はインタプリタでは容易に実装できる。これは {{lang|en|LISP}} と[[人工知能]]研究がインタプリタの起源であったこととも関係している。
* [[仮想機械]]を使って、あるアーキテクチャを別のアーキテクチャ上で実行させる[[仮想化]]は、基本的にインタプリタである。
* [[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]]: インタプリタまたは仮想機械はソースコードの命令を全て実際に実行することを強制されない。特に[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]を脅かすような処理の実行は拒否できる。
==デバッグ、教育用==
通常[[C言語]]はコンパイラで処理されるが、デバッグ目的および教育目的のインタプリタ型のC言語の処理系もある。MS-DOS時代に、いくつかの製品が提供されていた。C-Terpなどがその様な製品の例である。C/C++のインタプリタはほかに[[:en:CINT|CINT]]や[[:en:Ch_interpreter|Ch]]がある。
== パンチカード ==
[[タビュレーティングマシン|パンチカードシステム]]において、[[パンチカード]]を読み込んで、その内容を人間が読める形式(文字)でパンチカード上に印字する機械をインタプリタと呼ぶ。例えば、{{lang|en|{{仮リンク|IBM 550|en|IBM 550}} Numeric Interpreter}} (1930年) や {{lang|en|{{仮リンク|IBM 557|en|IBM 557}} Alphabetic Interpreter}} (1954年) がある。
== プログラミング言語 ==
*{{lang|en|[[ActionScript]]}}
*{{lang|en|[[APL]]}}
*{{lang|en|[[AWK]]}}
*{{lang|en|[[Bash]]}}
*{{lang|en|[[BASIC]]}}(古典的な[[マイクロコンピュータ]]用)<!-- VBをBASICと数えると、インタプリタが一般的とは言えないかも -->
*{{仮リンク|CFScript|en|CFScript|label={{lang|en|CFScript}}}}
*{{lang|en|[[Common Lisp]]}}
*{{lang|en|[[Csh]]}}
*{{lang|en|[[Curl (プログラミング言語)|Curl]]}}
*[[dBASE#dBASE プログラミング言語|{{lang|en|dBASE}}]]
*{{lang|en|[[Emacs Lisp]]}}
*[[Microsoft Visual FoxPro|{{lang|en|FoxPro}}]]
*{{lang|en|[[Hot Soup Processor]]}}
*{{lang|en|[[HyperTalk]]}}
*{{lang|en|[[Io (プログラミング言語)|Io]]}}
*{{仮リンク|JavaFX Script|en|JavaFX Script|label={{lang|en|Java FX Script}}}}
*{{lang|en|[[JavaScript]]}}
*{{lang|en|[[Mathematica]]}}
*{{lang|en|[[MATLAB]]}}
*{{lang|en|[[Perl]]}}({{要出典範囲|第5版まで|date=2017年1月}})
*{{lang|en|[[PostScript]]}}
*{{lang|fr|[[Prolog]]}}
*{{lang|en|[[REXX]]}}
*{{lang|en|[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]}}
*{{lang|en|[[Python]]}}
*{{lang|en|[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]}}
*[[R言語|{{lang|en|R}}]]
*[[S言語|{{lang|en|S}}]]
*{{lang|en|[[Scheme]]}}
*{{lang|en|[[SKILL (プログラミング言語)|SKILL]]}}
*{{lang|en|[[Tcl]]}}
*{{lang|en|[[TeX]]}}
*{{lang|en|[[VBScript]]}}
*{{lang|en|[[XSL Transformations|XSL]]}}
*{{lang|en|[[Windows PowerShell]]}}
*[[なでしこ_(プログラミング言語)|なでしこ]]
*[[ひまわり_(プログラミング言語)|ひまわり]]
===インタプリタとコンパイラ方式が併用のもの===
====「共通言語ランタイム」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Boo (プログラミング言語)|Boo]]}}
*{{lang|en|[[C Sharp|C#]]}}
*{{lang|en|[[J Sharp|J#]]}}
*{{lang|pl|[[Nemerle]]}}
*{{lang|en|[[Microsoft Visual Basic .NET|Visual Basic .NET]]}}
====「{{lang|en|Erlang VM}}」({{lang|en|BEAM}})のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Erlang]]}}
*{{lang|en|[[Elixir (プログラミング言語)|Elixir]]}}
====「{{lang|en|Java}}仮想機械」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Ceylon]]}}
*{{lang|en|[[Clojure]]}}
*{{lang|en|[[Fortress]]}}
*{{lang|en|[[Groovy]]}}
*{{lang|en|[[Java]]}}
*{{lang|en|[[Kotlin]]}}
*{{lang|en|[[Noop (プログラミング言語)|Noop]]}}
*{{lang|en|[[Scala]]}}
*{{lang|en|[[Processing]]}}
===={{lang|en|JavaScript}} に変換されるもの====
*{{lang|en|[[Ceylon]]}}
*{{lang|en|[[CoffeeScript]]}}
*{{lang|en|[[Dart]]}}
*{{lang|en|[[Haxe]]}}
*{{lang|en|[[JSX]]}}
*{{lang|en|[[TypeScript]]}}
====「{{lang|pt|Lua}} VM」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|pt|[[Lua]]}}
====「Pコードマシン」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|fr|[[Pascal]]}}
====「{{lang|en|Parrot}}」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Raku]]}}
====「{{lang|en|Smalltalk VM}}」のバイナリー・コードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Smalltalk]]}}
====VBAのPコードにコンパイルされるもの====
*{{lang|en|[[Visual Basic for Applications]]}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[コマンドラインインタプリタ]]
* [[動的コンパイル]]
* [[部分評価]]
* [[スクリプト言語]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
* [http://www.columbia.edu/acis/history/interpreter.html {{lang|en|IBM Card Interpreters}}] — コロンビア大学
* [https://www.archive.org/download/TheoreticalFoundationsForPracticaltotallyFunctionalProgramming/33429551_PHD_totalthesis.pdf {{lang|en|Theoretical Foundations For Practical 'Totally Functional Programming'}}] (特に {{lang|en|Chapter 7}}) インタプリタとは何かについて定式化しようとした博士論文
* {{YouTube|_C5AHaS1mOA|{{lang|en|Interpreters and Compilers}}}} インタプリタとコンパイラの概念的差異を説明した短いアニメーション(英語)
{{FOLDOC}}
{{プログラミング言語一覧}}
{{プログラミング言語の関連項目}}
{{コンピュータ科学}}
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[[Category:インタプリタ|*]]
[[Category:プログラミング言語の実装]]
[[Category:システムソフトウェア]] | 2003-02-14T04:24:00Z | 2023-07-30T07:46:30Z | false | false | false | [
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1,489 | ボードゲーム | ボードゲーム(Board Game)とは、専用のボード(盤)上で駒(石とも言う)を置く、動かす、取り除くなどして遊ぶゲームの総称。盤上ゲーム、盤上遊戯とも呼ばれる。また、「ボドゲ」と略されることもある。
玩具屋等の店頭では、いわゆるアナログゲーム・テーブルゲーム全般をボードゲームとして販売していることもあるが、一般的なゲームの分類では、特定のボード上に駒や石を置くことで局面を表現するゲームを指す。なお、ボードゲーム以外のアナログゲームとしては、カードゲーム(トランプ、UNOなど。手持ちのカードによって局面が決まる点がボードゲームとは異なる)、タイルゲーム(麻雀、ドミノなど。本質的にはカードゲームと同様で手牌によって局面が決まる点がボードゲームとは異なる)、ダイスゲーム(丁半、チンチロリンなど)、立体ゲーム(ジェンガ、黒ひげ危機一発など)などがある(詳しくはテーブルゲームを参照)。
ボードゲームは、ゲームの特徴や歴史的な変遷に基づいて、一般的に次の5つに分類される。
もっとも、5種類のゲームが完全に峻別されているわけではない。例えば、キツネとガチョウではキツネ側は捕獲を目指すがガチョウ側は包囲を目指すといった具合に、複数の要素が融合したゲームも存在している(なお、キツネとガチョウは歴史的経緯から包囲ゲームに分類されることが多い)。また、サイコロを使用するがゴールではなく資産のやり取りを目的にしたモノポリーのように、伝統的な分類が当てはまらない新たなゲームが次々と登場している。
定期的に大会が開催されてきた伝統的ボードゲームとしては、バックギャモン、チェッカー(ドラフツ)、チェス、シャンチー、将棋、囲碁、オセロ(リバーシ)、連珠(五目並べ)、オワリ(マンカラ)などがある。このうち、ワールドマインドスポーツゲームズでは、チェッカー(ドラフツ)、チェス、シャンチー、囲碁の4つのボードゲームが採用され、マインドスポーツオリンピアードのデカメタロンでは、バックギャモン、チェッカー(ドラフツ)、チェス、囲碁、オセロ(リバーシ)の5つのボードゲームが採用された。
一般的なボードゲームでは、ボード上に全ての情報が表示されていることから大抵はゲーム理論における完全情報ゲームに該当し、なかでも伝統的なボードゲームは二人零和有限確定完全情報ゲームに該当するものが多い。ただし、例外として競走ゲームはサイコロを使うため通常は確定の条件を満たさない。
ボードゲームの歴史は、遺跡の発掘品によって、少なくとも紀元前3000年以前まで遡ると推定されている。最古のボードゲームは競走ゲームであったと考えられている。
これまでに発掘されている中で最古のボードゲームは、紀元前3500年頃および紀元前3100年頃の古代エジプトの遺跡から発見された競走ゲームのセネトである。セネトに類似するゲームは、その後も世界各地で見つかっており、紀元前3000年頃の現在のイラン南東部の都市シャフレ・ソフテの遺跡からも発掘されているほか、中国では雙陸、日本では盤双六と言う名前で伝わり、日本では人々のあまりの熱中ぶりに権力者がプレイを禁止したほどだったという。セネトは東ローマ帝国でタブラとなり、イギリスでバックギャモンと呼ばれるようになったと考えられている。
また古代エジプトの遺跡からは、セネトのほかにメーヘン(英語版)という神話的蛇神の形をしたボードを用いるゲームが発掘されている。
古代メソポタミアでは、紀元前2600年頃の都市国家ウル(現在のイラク南部にあたる場所にあった、人類史上最も古い部類の都市国家のひとつ)の遺跡から競走ゲームの「ウル王朝のゲーム」が発見されている。
アメリカ大陸で古くから遊ばれてきたのは競走ゲームのパトリである。パトリはアステカでプレイされていたが、それ以前のテオティワカンやマヤでも同様のゲームと思われる盤のあとが残る。このゲームはスペインによる征服によって姿を消したとされているが、プルックとの関連も指摘されている。
中東では10世紀頃にAlquerqueと呼ばれるゲームがプレイされており、これが各地で姿を変えてドラフツ(チェッカー)となったとされる。また、リバーシ(オセロ)はイギリス式チェッカーが発祥とも言われる。
捕獲ゲームの初期のものとしては、古代インドのチャトランガがある。チャトランガは6世紀頃にはすでにあったとされており、チャトランガが世界各地に伝わって駒の種類等が変化していき、西欧のチェス、中国のシャンチー、日本の将棋などが成立したと考えられている。
北欧では、ヴァイキングの間で5世紀の初め頃からタフル(英語版)(別名、ヴァイキングのゲーム)と呼ばれるゲームが遊ばれるようになった。これは、2人のプレイヤーが攻める側と逃げる側に分かれて、攻める側は相手の包囲、逃げる側は脱出を目指すという非対称のゲームである。のちにキツネをモチーフにするようになり、キツネとガチョウになったと考えられている。また、アイルランドではフィドヘルというゲームが伝承に残されており、プレイ方法は不明であるが、タフルのバリエーションの一つではないかともいわれている。
古代中国では春秋時代(BC 770 - 403)に包囲ゲームの囲碁が生まれたと考えられている。囲碁用具を使った遊びの中から五目並べが生まれ、これを整備して連珠が作られた。また、オセロは囲碁が発祥との説もある。
こうして、いくつかの古代ゲームが各地で発展して様々な伝統ゲームが生まれていった。
20世紀に入ると、ボードゲームは新たな展開を見せる。軍事作戦や会社の経営などのできごとを盤上で細かく再現したモノポリーなどのシミュレーションゲームが盛んに遊ばれるようになった。その後は、いわゆるユーロゲームなど、従来の伝統ゲームの枠にとらわれないゲームが次々と考案されている。
伝統ゲームと現代ゲームの区別は独占・排他的な考案・著作権やメーカー等による商標・頒布権の有無によると考えることが出来るが、19世紀台のものを明確に区別することは難しい。ここでは便宜上、19世紀末(1900年)までに誕生し、現在もプレイされているゲームを伝統ゲームとして列記する。すでにプレイされていないゲームは歴史の項を参照。
競走ゲーム
捕獲ゲーム
包囲ゲーム
配列ゲーム
マンカラ
便宜上、ここでは20世紀以降(1901年以降)に考案されたものを挙げる(考案者名、考案年、発祥国が明らかな場合、括弧内にできるだけ示す)。 | [
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"text": "アメリカ大陸で古くから遊ばれてきたのは競走ゲームのパトリである。パトリはアステカでプレイされていたが、それ以前のテオティワカンやマヤでも同様のゲームと思われる盤のあとが残る。このゲームはスペインによる征服によって姿を消したとされているが、プルックとの関連も指摘されている。",
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"text": "北欧では、ヴァイキングの間で5世紀の初め頃からタフル(英語版)(別名、ヴァイキングのゲーム)と呼ばれるゲームが遊ばれるようになった。これは、2人のプレイヤーが攻める側と逃げる側に分かれて、攻める側は相手の包囲、逃げる側は脱出を目指すという非対称のゲームである。のちにキツネをモチーフにするようになり、キツネとガチョウになったと考えられている。また、アイルランドではフィドヘルというゲームが伝承に残されており、プレイ方法は不明であるが、タフルのバリエーションの一つではないかともいわれている。",
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"text": "古代中国では春秋時代(BC 770 - 403)に包囲ゲームの囲碁が生まれたと考えられている。囲碁用具を使った遊びの中から五目並べが生まれ、これを整備して連珠が作られた。また、オセロは囲碁が発祥との説もある。",
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"title": "歴史"
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"text": "伝統ゲームと現代ゲームの区別は独占・排他的な考案・著作権やメーカー等による商標・頒布権の有無によると考えることが出来るが、19世紀台のものを明確に区別することは難しい。ここでは便宜上、19世紀末(1900年)までに誕生し、現在もプレイされているゲームを伝統ゲームとして列記する。すでにプレイされていないゲームは歴史の項を参照。",
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]
| ボードゲームとは、専用のボード(盤)上で駒(石とも言う)を置く、動かす、取り除くなどして遊ぶゲームの総称。盤上ゲーム、盤上遊戯とも呼ばれる。また、「ボドゲ」と略されることもある。 | [[File:US Navy 110713-N-NT881-124 Personnel Specialist 2nd Class James Vail, left, and Boatswain's Mate 2nd Class Nathaniel Eaton play board games with ch.jpg|thumb|[[アメリカ]]の『[[モノポリー]]』は多くの[[言語]]に[[翻訳]]され、多くの[[国]]で発売されている。]]
[[File:Board Games in North America 01.JPG|thumb|ボードゲームの箱([[北米]]のボードゲーム群)]]
{{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム|[[ファイル:WikiProject Board game.png|36px]]|break=yes}}
'''ボードゲーム'''(Board Game)とは、専用のボード(盤)上で[[コマ|駒]]([[碁石|石]]とも言う)を置く、動かす、取り除くなどして遊ぶ[[ゲーム]]の総称。'''盤上ゲーム'''、'''盤上遊戯'''とも呼ばれる。また、「'''ボドゲ'''」と略されることもある。
== 概要 ==
玩具屋等の店頭では、いわゆる[[アナログゲーム]]・[[テーブルゲーム]]全般をボードゲームとして販売していることもあるが、一般的なゲームの分類では、特定のボード上に駒や石を置くことで局面を表現するゲームを指す<ref name="masukawa1978">{{Cite book |author=増川宏一 |title=盤上遊戯 |publisher=法政大学出版 |series=ものと人間の文化史 29 |year=1978}}</ref><ref group="注">ただし、一般的にボードゲームと呼ばれるゲームであっても、コンピュータゲーム(テレビゲーム)化されていることがよくあり、この場合は実際のボードや駒を使わずに画面上でプレイすることになる。</ref>。なお、ボードゲーム以外のアナログゲームとしては、カードゲーム([[トランプ]]、[[UNO (ゲーム)|UNO]]など。手持ちのカードによって局面が決まる点がボードゲームとは異なる<ref name="masukawa1978" />)、タイルゲーム([[麻雀]]、[[ドミノ]]など。本質的にはカードゲームと同様で手牌によって局面が決まる点がボードゲームとは異なる<ref name="masukawa1978" />)、ダイスゲーム([[丁半]]、[[チンチロリン]]など)、立体ゲーム([[ジェンガ]]、[[黒ひげ危機一発]]など)などがある(詳しくは[[テーブルゲーム]]を参照)。
ボードゲームは、ゲームの特徴や歴史的な変遷に基づいて、一般的に次の5つに分類される<ref>寒川恒夫;岸野雄三;山下晋司;大林太良(編)『民族遊戯大事典』大修館書店(1998/07)ISBN 978-4-469-01260-6、増川宏一『盤上遊戯』法政大学出版局(1978/07)、増川宏一『ゲームの系統と変遷』INAX(1994/06)</ref>。
#競走ゲーム - [[サイコロ]]などを使って盤上の駒を動かしていき、どちらが先にゴールに到達できるかを競う。[[すごろく]]、[[バックギャモン]]など。
#捕獲ゲーム - 盤上で駒を動かして相手の駒を捕獲していき、相手の駒の全滅させたり特定の駒([[キング (チェス)|キング]]など)を追い詰めたりすることを競う。[[チェッカー]](ドラフツ)、[[チェス]]、[[シャンチー]]、[[将棋]]など。
#包囲ゲーム - 盤上の相手の駒を取り囲むことで捕獲したり勢力を広げたりすることを競う。[[囲碁]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]](リバーシ)など。
#配列ゲーム - 盤上に駒を特定の形で並べることを競う。[[連珠]](五目並べ)、[[ナイン・メンズ・モリス]]など。
#[[マンカラ]] - 種蒔きと呼ばれる方法で盤上の穴から穴へと駒を動かしていき、最終的に取った駒の数などを競う。[[マンカラ#"Oware"|オワリ]]、{{仮リンク|スンカ|en|Southeast_Asian_mancala}}など。
もっとも、5種類のゲームが完全に峻別されているわけではない。例えば、[[キツネとガチョウ]]ではキツネ側は捕獲を目指すがガチョウ側は包囲を目指すといった具合に、複数の要素が融合したゲームも存在している(なお、キツネとガチョウは歴史的経緯から包囲ゲームに分類されることが多い)。また、サイコロを使用するがゴールではなく資産のやり取りを目的にした[[モノポリー]]のように、伝統的な分類が当てはまらない新たなゲームが次々と登場している。
定期的に大会が開催されてきた伝統的ボードゲームとしては、'''バックギャモン、チェッカー(ドラフツ)、チェス、シャンチー、将棋、囲碁、オセロ(リバーシ)、連珠(五目並べ)、オワリ(マンカラ)'''などがある。このうち、[[ワールドマインドスポーツゲームズ]]では、チェッカー(ドラフツ)、チェス、シャンチー、囲碁の4つのボードゲームが採用され<ref group="注">ボードゲーム以外には、[[コントラクトブリッジ]]などのカードゲーム等も採用されている。</ref>、[[マインドスポーツオリンピアード]]のデカメタロンでは、バックギャモン、チェッカー(ドラフツ)、チェス、囲碁、オセロ(リバーシ)の5つのボードゲームが採用された<ref group="注">ボードゲーム以外には、[[暗算]]や[[メモリースポーツ|記憶力]]などの競技も採用されている。</ref>。
一般的なボードゲームでは、ボード上に全ての情報が表示されていることから大抵は[[ゲーム理論]]における完全情報ゲームに該当し、なかでも伝統的なボードゲームは[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に該当するものが多い。ただし、例外として競走ゲームはサイコロを使うため通常は確定の条件を満たさない。
== 歴史 ==
[[ファイル:Maler der Grabkammer der Nefertari 003.jpg|thumb|right|180px|セネトをするネフェルタリ([[紀元前|BC]]1298-1235 頃)]]
[[ファイル:Tabula - boardgame - Zeno game.svg|thumb|right|180px|480年に東ローマ帝国皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]が興じた時の盤の記録]]
ボードゲームの歴史は、遺跡の発掘品によって、少なくとも紀元前3000年以前まで遡ると推定されている。最古のボードゲームは競走ゲームであったと考えられている。
これまでに発掘されている中で最古のボードゲームは、紀元前3500年頃および紀元前3100年頃の古代エジプトの遺跡から発見された競走ゲームの'''[[セネト]]'''である。セネトに類似するゲームは、その後も世界各地で見つかっており、紀元前3000年頃の現在のイラン南東部の都市[[シャフレ・ソフテ]]の遺跡からも発掘されているほか、中国では雙陸、日本では[[盤双六]]と言う名前で伝わり、日本では人々のあまりの熱中ぶりに権力者がプレイを禁止したほどだったという。セネトは東ローマ帝国で[[タブラ (ゲーム)|タブラ]]となり、イギリスで[[バックギャモン]]と呼ばれるようになったと考えられている。
[[File:Mehen, egyptian snake game - rmo leiden, 5th-6th dynasty 2575-2150bc.jpg|thumb|right|180px|古代エジプトのMehen]]
また古代エジプトの遺跡からは、セネトのほかに{{仮リンク|メーヘン|en|Mehen (game)}}という神話的蛇神の形をしたボードを用いるゲームが発掘されている。
[[File:British Museum Royal Game of Ur.jpg|thumb|right|180px|古代シュメールの[[ウル]]の遺跡で見つかった[[ウル王朝のゲーム]]。(紀元前2600年)]]
古代メソポタミアでは、紀元前2600年頃の都市国家[[ウル]](現在の[[イラク]]南部にあたる場所にあった、人類史上最も古い部類の都市国家のひとつ)の遺跡から競走ゲームの「[[ウル王朝のゲーム]]」が発見されている。
アメリカ大陸で古くから遊ばれてきたのは競走ゲームの[[パトリ (ゲーム)|パトリ]]である。パトリは[[アステカ]]でプレイされていたが、それ以前の[[テオティワカン]]や[[マヤ]]でも同様のゲームと思われる盤のあとが残る。このゲームはスペインによる征服によって姿を消したとされているが、[[プルック]]との関連も指摘されている。
中東では10世紀頃に[[:en:Alquerque|Alquerque]]と呼ばれるゲームがプレイされており、これが各地で姿を変えてドラフツ([[チェッカー]])となったとされる。また、リバーシ([[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]])はイギリス式チェッカーが発祥とも言われる。
[[File:Black figure plate with warriors playing a board game Antikensammlung Berlin 1.jpg|thumb|right|180px|古代ギリシアのボードゲームをする兵士。(BC 520年)]]
[[ファイル:KnightsTemplarPlayingChess1283.jpg|thumb|right|180px|テンプル騎士団とチェス(1283年)]]
捕獲ゲームの初期のものとしては、古代インドの'''[[チャトランガ]]'''がある。チャトランガは6世紀頃にはすでにあったとされており、チャトランガが世界各地に伝わって駒の種類等が変化していき、西欧の[[チェス]]、中国の[[シャンチー]]、日本の[[将棋]]などが成立したと考えられている。
[[File:Gs 19, Ockelbo (game).jpg|thumb|right|140px|北欧の古いゲーム]]
北欧では、[[ヴァイキング]]の間で5世紀の初め頃から'''{{仮リンク|タフル|en|Tafl games}}'''(別名、ヴァイキングのゲーム)と呼ばれるゲームが遊ばれるようになった。これは、2人のプレイヤーが攻める側と逃げる側に分かれて、攻める側は相手の包囲、逃げる側は脱出を目指すという非対称のゲームである。のちにキツネをモチーフにするようになり、[[キツネとガチョウ]]になったと考えられている。また、アイルランドでは[[フィドヘル]]というゲームが伝承に残されており、プレイ方法は不明であるが、タフルのバリエーションの一つではないかともいわれている。
[[File:Anonymous-Astana Graves Wei Qi Player.jpg|thumb|right|180px|碁を打つ女性([[744年]])]]
古代中国では[[春秋時代]](BC 770 - 403)に包囲ゲームの'''[[囲碁]]'''が生まれたと考えられている。囲碁用具を使った遊びの中から[[五目並べ]]が生まれ、これを整備して[[連珠]]が作られた。また、オセロは囲碁が発祥との説もある。
こうして、いくつかの古代ゲームが各地で発展して様々な伝統ゲームが生まれていった。
20世紀に入ると、ボードゲームは新たな展開を見せる。[[軍事作戦]]や会社の[[経営]]などのできごとを盤上で細かく再現した[[モノポリー]]などの[[シミュレーションゲーム]]が盛んに遊ばれるようになった。その後は、いわゆる[[ユーロゲーム]]など、従来の伝統ゲームの枠にとらわれないゲームが次々と考案されている。
== 伝統ゲーム ==
伝統ゲームと現代ゲームの区別は独占・排他的な考案・[[著作権]]やメーカー等による[[商標]]・[[頒布権]]の有無によると考えることが出来るが、19世紀台のものを明確に区別することは難しい。ここでは便宜上、19世紀末(1900年)までに誕生し、現在もプレイされているゲームを伝統ゲームとして列記する。すでにプレイされていないゲームは歴史の項を参照。
競走ゲーム
* [[すごろく]]
* [[蛇と梯子]](インド式すごろく。生まれた時代は不明。19世紀にイギリスへ伝わり世界に広まった)
* [[パチーシ]] (バックギャモンに類似したインドのゲーム。後に米国で「[[:en:Parcheesi]]」となる)
* [[バックギャモン]]([[タブラ (ゲーム)|タブラ]]に基づいて17世紀頃にイギリスで考案。その後、1920年にアメリカでダブリングキューブが導入されて現在の形になった)
* [[ユンノリ]](朝鮮半島のボードゲーム。4つの駒をゴールまで到達させれば勝ちとなるが、その過程で相手の駒を捕獲したりすることもできる)
* [[ハルマ]] (1883年か1884年にアメリカで考案。自分の駒を相手よりも先にすべて移動すれば勝ちとなるが、他の競走ゲームとは異なりサイコロを使わない。[[:en:Chinese checkers]]、[[ダイヤモンドゲーム]]の原型)
捕獲ゲーム
* [[プルック]](ブル {{smaller|([[:en:Bul (game)|英語版]])}}。アメリカ大陸先住民族がプレイしているボードゲーム。ゲームの存在に関する最初の報告は1902-1903年だが、それより前から存在した。サイコロを使用して駒を動かして相手の駒を捕獲する)
* [[チェッカー#その他の様式|ドラフツ]](相手の駒を飛び越えることで捕獲できる。バリエーションとしてイギリスの[[チェッカー]]が有名)
* [[チェス]](インドの[[チャトランガ]]が、[[ペルシャ]]に伝わり、いくつかの経路で9世紀にはヨーロッパに伝わり、西暦1000年ころには全ヨーロッパに広がり、1200年ころからルールの改変が行われた。1475年ころにはおおむね現在のチェスのルールになったらしい<ref>Hooper, David; Whyld, Kenneth (1992). The Oxford Companion to Chess, Second edition. Oxford; New York: Oxford University</ref>)
* [[シャンチー]](チャトランガが中国で変化したもの。将が九宮と呼ばれる領域から出られない点に特徴がある)
* [[チャンギ]](シャンチーが朝鮮で変化したもの)
* [[将棋]](チャトランガが日本で変化したもの。捕獲した相手の駒を自分の持ち駒として使用できる点に特徴がある。[[中将棋]]など古将棋と呼ばれるバリエーションがある。北陸地方では将棋から発展して[[ごいた]]というタイルゲームもプレイされている)
* [[軍人将棋]](日本のゲームだが、中国には[[軍棋]]という名前で従前から類似のゲームがある。駒が伏せられており、完全情報ゲームではないことに特徴があるボードゲーム。相手の駒を捕獲しつつゲームを進め、相手の総司令部を占領すれば勝ちとなる)
包囲ゲーム
* [[:en:Fox games|キツネのゲーム]](北欧、14世紀以前。Taflが発展したものと考えられている。Halatafl(キツネの尻尾)、キツネとイヌなど様々なバリエーションがあるが、現在最も有名なのは[[キツネとガチョウ]]である。2人のプレイヤーがそれぞれキツネとガチョウを担当し、キツネはガチョウの捕獲、ガチョウはキツネの包囲を目指す)
* [[十六むさし]](日本のボードゲーム。キツネとガチョウと同じように親と子に分かれてプレイする非対称なゲームである。親は子を挟んで捕獲し、子は親を包囲することを目指す)
* [[囲碁]](古代中国が発祥であり、日本を含めた東アジア全体で細かいルールが少しずつ整備されてきた)
* [[オセロ (ボードゲーム)#オセロとリバーシ|リバーシ]](イギリス発祥で[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]とほぼ同様のゲーム。リバーシは19世紀以前からプレイされていたが、オセロという名前は20世紀に日本で命名された)
配列ゲーム
* [[五目並べ]](囲碁用具を使用して18世紀以前からプレイされていた。19世紀に日本でルールが整備され、[[連珠]]となった)
* [[ナイン・メンズ・モリス]](古代ローマ時代に生まれたと考えられ、[[中世]]イングランドで流行)
マンカラ
* [[マンカラ#"Oware"|オワリ]](ガーナを中心にアフリカで最も普及しているマンカラ系ゲーム)
* {{仮リンク|スンカ|en|Southeast_Asian_mancala}}(東南アジアのマンカラ系ゲーム)
フリック系(デクステリティー系)
* [[カロム]](インドで発祥した後、地球規模で普及、世界で最も遊ばれているボードゲーム)
* [[クロキノール]](カナダを中心に遊ばれている)
== 現代ゲーム ==
便宜上、ここでは20世紀以降(1901年以降)に考案されたものを挙げる(考案者名、考案年、発祥国が明らかな場合、括弧内にできるだけ示す)。
=== ア行 ===
* アイルオブスカイ
* [[アーカムホラー]]
* [[アグリコラ (ゲーム)|アグリコラ]](Uwe Rosenberg考案、独Lookout Games社より2007年発売)
* [[アクワイア]](Sid Sackson考案、米3M社より1962年発売)
* アズール
* [[穴掘りモグラ]]、モグラカンパニー(1995年、ベルトラム・カエスとヴァージニア・チャーベス考案、ドイツ)
* [[アバロン (ボードゲーム)|アバロン]](1987年、 Michel LaletとLaurent Léviが考案)
* アフリカ
* [[アベ・カエサル]](Wolfgang Riedesser考案、独Pro Ludo社より1989年発売)
* アムレット
* [[アリマア]](2002年にOmar Syed考案)
* アルナック
* アルハンブラ
* アンダーカバー、アンダーカバー2
* イースター島
* イスタンブール
* 1号線で行こう(Stefan Dorra考案、ドイツ、1995年発売)
* [[1856 (ボードゲーム)|1856]]
* インカの黄金
* インテリーゲ
* [[ヴィラパレッティ]](Zoch Verlag考案、2001年発売)
* [[ウイングスパン (ボードゲーム)|ウイングスパン]](Elizabeth Hargrave考案、Stonemaier Games社より2019年発売)
* [[ウサギとハリネズミ]]
* ウボンゴ
* ウミガメの島
* エアラインズ
* [[エルフェンランド]]
* エントデッカー、ニューエントデッカー
* 王と枢機卿
* 王への請願
* オールザウェイホーム
* [[億万長者ゲーム]]
* [[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]、[[オセロ (ボードゲーム)#オセロとリバーシ|リバーシ]]
* [[おばけキャッチ]]
* [[おばけ屋敷ゲーム]]
* オルレアン
=== カ行 ===
* [[ガイスター]]、ファンタスミ(Alex Randolph考案、1982年発売)
* [[海戦ゲーム]]
* [[カタンの開拓者たち]]([[クラウス・トイバー]]考案、独Kosmos社より1995年発売)
* カピトール
* カヤナック
* [[マンカラ#"Kalah"_カラハ|カラハ]](20世紀に欧米で流行したマンカラ)
* [[カラバンデ]]
* [[カルカソンヌ (ゲーム)|カルカソンヌ]](Klaus-Jürgen Wred考案、独Hans im Glück Verlag社より2000年発売)
* [[カルタヘナ (ゲーム)|カルタヘナ]]
* ケーブマンカーリング
* [[貴族の務め]]
* キャメルアップ
* キャントストップ
* [[魚雷戦ゲーム]]
* キングダムビルダー
* [[クラウン (ボードゲーム)|クラウン]]
* [[グリード (ダイスゲーム)|グリード]]
* {{仮リンク|クルード|en|Cluedo}}
* [[グローカルヘキサイト]]
* [[原始スープ]]
* [[コズミック・エンカウンター]]
* [[ごいた]]
=== サ行 ===
* ザーガランド
* [[サタスペ#その他|サタスペボードゲーム 大大阪]]
* [[サッカーチェス]]
* [[ザップ・ゼラップ]]
* 砂漠を越えて
* [[サムライ (ボードゲーム)|サムライ]]
* サンクトペテルブルク
* [[シークエンス]]
* [[ジェンガ]]
* ジャストワン
* シャーク
* ジャワ
* [[ジャンクション (玩具)|ジャンクション]]
* [[人生ゲーム]](1960年、米国。その後、バリエーション多数)
* すしごー
* [[スクラブル]](1938年 Alfred Mosher Butts考案。米国)
* [[スコットランドヤード (ボードゲーム)|スコットランドヤード]]
* {{仮リンク|ストラテゴ|en|Stratego}}(20世紀初頭の西洋軍人将棋)
* ストーンエイジ
* [[世界の七不思議 (ボードゲーム)|世界の七不思議]]
* [[戦国武将ゲーム]]
=== タ行 ===
* 大聖堂
* タージマハール
* [[たった今考えたプロポーズの言葉を君に捧ぐよ。]]
* ダブルナイン
* タロ
* [[チクタクバンバン]]
* [[チグリス・ユーフラテス]]
* [[チケット・トゥ・ライド]]
* チャオチャオ
* [[ツイスター (ゲーム)|ツイスター]]
* ツィクスト
* [[冷たい料理の熱い戦い]]
* [[ティカル (ボードゲーム)|ティカル]]
* [[テイク・イット・イージー]]
* [[ディプロマシー]]
* テラ〜わたしたちの地球〜
* テラフォーミングマーズ
* テラミスティカ
* テレストレーション
* 天下鳴動
* [[テンペスト (ゲーム)|テンペスト]]
* どきどきワクワク相性チェックゲーム
* [[ドミニオン (カードゲーム)|ドミニオン]]
* トランスアメリカ
* ドラダ
* [[ドルンター&ドリューバー]]
* [[トレインレイダー]]
=== ナ行 ===
* ナッシュ
* [[汝は人狼なりや?]]
* ノートルダム
=== ハ行 ===
* {{仮リンク|バウザック|de|Bausack}}
* パッチワーク(Uwe Rosenberg考案、独Lookout Games社より2014年発売)
* バラージ
* バルバロッサ(一部では粘土ゲームとも呼ばれる)
* バロンポテトの晩餐会
* [[パンデミック (ボードゲーム)|パンデミック]]
* ピクショナリー
* ピクチャーズ
* ヒストリー・オブ・ザ・ワールド
* ヒューゴ、[[ミッドナイトパーティー (ボードゲーム)|ミッドナイトパーティー]]
* [[フィーア]]
* フィフティーンダイス
* [[フィレンツェの匠]]
* [[プエルトリコ (ボードゲーム)|プエルトリコ]]
* プエブロ
* [[ブラフ (ゲーム)|ブラフ]]
* ブルームサービス
* [[ブロックス]]
* ベガス
* ヘキセンレンネン
* [[ヘックス (ボードゲーム)|ヘックス]]
* [[宝石の煌き]]
=== マ行 ===
* [[マスターマインド]]
* [[街コロ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/053/1053726/ |title=ボードゲーム『街コロ』が“ドイツ年間ゲーム大賞 2015”にノミネート! 日本作品の快挙 |work=[[電撃オンライン]] |publisher=株式会社[[KADOKAWA]] |date=2015-05-19 |accessdate=2016-05-07}}</ref><!--ボードゲームなのかカードゲームなのかダイスゲームなのか微妙ながら、ボードゲームとして扱われていたので追加。-->
** 街コロ通
* マルコポーロの旅路
* [[マンハッタン (ゲーム)|マンハッタン]]
* [[ミシシッピ・クィーン]]
* ミスターダイアモンド
* ミリオンダイス
* ミリオンヒットメーカー
* モダンアート
* [[モノポリー]](20世紀初頭、米国)
* モンバサ
=== ヤ行 ===
* [[野球盤]](第二次世界大戦前。日本)
* [[郵便馬車 (ボードゲーム)|郵便馬車]](2006年、ドイツ)
* 指輪物語
=== ラ行 ===
* [[ラー (ゲーム)|ラー]]
* ラックオー
* {{仮リンク|ラビリンス (ボードゲーム)|en|Amazing Labyrinth|label=ラビリンス}}
* [[ラミーキューブ]]
* [[リスク (ボードゲーム)|リスク]](Albert Lamorisse考案、仏Miro Company社より1957年発売)
* ルクソール
* レーベンヘルツ
* レジスタ・サッカーゲーム
* レディーファースト
* [[ロジカル真王]]
* ロストシティ
=== ワ行 ===
* [[ワルモノ2]]
* ワイナリーの四季(Jamey StegmaierとAlan Stone考案、Stonemaier Games社より2013年発売)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ユーロゲーム]]
* [[ウォー・シミュレーションゲーム]]
* [[アナログゲーム]]
* [[テーブルゲーム]]
* [[カードゲーム]]
* [[ヘクス]]
== 外部リンク ==
{{commons category|Board games}}
*[http://www.h-eba.com/heba/GAME/history1.html 盤上ゲームの系統と変遷]
*{{CRD|1000311802|ボードゲームの歴史について書いてある本を見たい。|[[さいたま市立中央図書館]]}}
{{コンピュータゲームのジャンル}}
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{{DEFAULTSORT:ほおとけえむ}}
[[Category:ボードゲーム|*]]
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1,490 | チャット | チャット (Chat) とは、インターネットを含むコンピュータネットワーク上のデータ通信回線を利用したリアルタイムコミュニケーションのこと。Chatは英語での雑談のことであり、ネットワーク上のチャットも雑談同様に会話を楽しむための手段である。
歴史が古いサイトでは、「Internet Relay Chat (IRC)」が有り、電子掲示板 (BBS)、ネットニュース、メーリングリストなどとの違いはリアルタイム性があるかないかである(下記参照)。
ICQはチャットルームで多数の人がチャットするのとは違い、個人同士でチャットが出来るツールである。ICQと同じようなツールはその後数種類現れ、メッセンジャーとも呼ばれている。
かつてはリアルタイムで参加者が文字入力を通して行うコミュニケーションがチャットと同義であったが、ブロードバンドが普及したことにより文字だけではなくさまざまな情報を送れるようになったので、チャットの種類も増えている傾向にある。
チャットと呼ばれる物はいくらか種類がある。それぞれの違いはコミュニケーションの手段に何を使うかである。
本項では、主にテキストチャットについて記述する。
チャットの場合は、常にリアルタイムで進行しているため、数文字〜数十文字程度の文章を書き込んで進行することがほとんどだが、それでもなお文章入力のキー入力が間に合わずに話が進んでしまうこともしばしばである。特に10名を越える参加者が居るチャットでは、発言が間に合わずに他人の発言で返答を返したい相手の発言が画面上から消えてしまう(これをチャット用語で「流れる」という)ことも有るため、幾つかの簡略的な表現で、会話を行うことも多い。
そもそもルールが定められていないインターネット上では、参加者がネチケットを自主的に守ることによって秩序が保たれている。ネチケットについては、ネチケットガイドラインを参照。リアルタイムで参加者同士が交流するチャットは常に荒れる可能性があり、チャットルームを設置する管理者によって厳格に定められていることも少なくない。また、部屋には「空気」が少なからず存在しこれを読めない人は荒らしと扱われることが多い。そのため、入室する際は会話のログ等を見てから入室することが推奨される。
基本的には年齢・性別・居住地の秘匿が必須となっている。実際に会わず、かつトラブルの防止のためにも秘匿はあらためて必要とされるルールである。最近では、日本国内における法律「個人情報保護法」が浸透されているせいか、ネット上で秘匿するユーザーが増え、このガイドラインを参照せずとも、「個人の情報を守るのは自己責任」と考えているユーザーもいる。ただ、最近は「会話がしやすくなるから」という理由で年齢だけを公開するユーザーも増えている。
部屋の私物化も誉められた行為ではないと言われる。他の利用者がいる部屋に数人(主に友人やネットで知り合った人など)で入り、その友人にしか分からないような話題しかせず、他の利用者がその部屋を使えなくなり、退出せざるを得ない状況を作る行為は非常に嫌われる。そのため、数人で入る際は空室に入ることが推奨される。
MSNチャットでは、児童向けのチャットコーナーを設置して、未成年者の活発な意見交換を期待したが、児童偏愛などの変質者が子供の振りをして入り浸り、参加者から言葉巧みに個人情報を聞き出して、それを恐喝のねたにして、性的搾取を行う事件が多発し、2003年9 - 10月に閉鎖もしくは利用年齢を引き上げる措置を行っていたが、結果的に2005年に廃止された。MSNは廃止理由としてユーザーの減少、管理的な問題等をあげている。
主なチャットプログラムおよびプロトコルは、次のとおり:
プロトコル
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ブラウザベースのチャットサービス(ウェブチャット(英語版)を参照してください) | [
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"title": "ソフトウェアとプロトコル"
}
]
| チャット (Chat) とは、インターネットを含むコンピュータネットワーク上のデータ通信回線を利用したリアルタイムコミュニケーションのこと。Chatは英語での雑談のことであり、ネットワーク上のチャットも雑談同様に会話を楽しむための手段である。 歴史が古いサイトでは、「Internet Relay Chat (IRC)」が有り、電子掲示板 (BBS)、ネットニュース、メーリングリストなどとの違いはリアルタイム性があるかないかである(下記参照)。 ICQはチャットルームで多数の人がチャットするのとは違い、個人同士でチャットが出来るツールである。ICQと同じようなツールはその後数種類現れ、メッセンジャーとも呼ばれている。 | {{WikipediaPage|ウィキペディア利用者同士で対話できるチャットのチャンネルについては、[[Wikipedia:チャット]]をご覧ください。}}
{{Otheruses|[[コンピュータネットワーク]]上の[[コミュニケーション]]}}
{{複数の問題
|出典の明記=2010年2月
|独自研究=2009年2月}}
'''チャット''' (Chat) とは、[[インターネット]]を含む[[コンピュータネットワーク]]上のデータ通信回線を利用したリアルタイム[[コミュニケーション]]のこと。Chatは[[英語]]での'''[[雑談]]'''のことであり、ネットワーク上のチャットも雑談同様に[[会話]]を楽しむための手段である。
<!--意味不明な記述 複数の人がネットワーク上に用意された1か所に参加し、テキストを入力してリアルタイムに会話を行うシステム。-->歴史が古いサイトでは、「[[Internet Relay Chat]] (IRC)」が有り、[[電子掲示板]] (BBS)、[[ネットニュース]]、[[メーリングリスト]]などとの違いはリアルタイム性があるかないかである(下記参照)。
[[ICQ]]はチャットルームで多数の人がチャットするのとは違い、個人同士でチャットが出来るツールである。ICQと同じようなツールはその後数種類現れ、[[インスタントメッセンジャー|メッセンジャー]]とも呼ばれている。
<br />
== チャットの種類 ==
かつてはリアルタイムで参加者が文字入力を通して行うコミュニケーションがチャットと同義であったが、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]が普及したことにより文字だけではなくさまざまな情報を送れるようになったので、チャットの種類も増えている傾向にある。
チャットと呼ばれる物はいくらか種類がある。それぞれの違いはコミュニケーションの手段に何を使うかである。
* テキストチャット - 文字。標準的なチャット。
* [[ボイスチャット]] - [[音声]]
* [[ビデオチャット]] - [[動画]]。電話回線を利用したものは[[テレビ電話]]と呼ばれる。アダルト系は[[ライブチャット]]と呼ばれる。
* [[お絵かきチャット]] - 絵画機能を持ったと呼ばれる物。基本的に文字で交流を行うが、参加者がどの様な絵を描いているかリアルタイムで知ることが出来る。
本項では、主にテキストチャットについて記述する。
== チャット上での用語・表現 ==
チャットの場合は、常にリアルタイムで進行しているため、数文字〜数十文字程度の文章を書き込んで進行することがほとんどだが、それでもなお文章入力のキー入力が間に合わずに話が進んでしまうこともしばしばである。特に10名を越える参加者が居るチャットでは、発言が間に合わずに他人の発言で返答を返したい相手の発言が画面上から消えてしまう(これをチャット用語で「流れる」という)ことも有るため、幾つかの簡略的な表現で、会話を行うことも多い。
; 部屋・ルーム : 部屋とは英語でルームだが、チャットの起源は電子会議であるため、それを催す[[会議室]]のことを指す。一般的に部屋ともルームとも言う。
; 落ちる : 回線を切ること、単にチャット画面を終了させること。down から来ているものと予想される。古くは通信回線の都合やパソコンの動作不良で通信状態が終了してしまった「事故」も指した。語源はオフライン“OFF Line(回線切断)”から来ている。現在、事故や無言でチャットを終了させた場合「闇落ち」と言われる場合がある
; 「>」「<」 : 特定の相手にコメントする場合に用いる簡易[[接続詞]]。「>」は左にコメントを、右に固有名詞を入れて[[二人称]]的に扱う。例えば「こんばんは>スズキ」なら「スズキさん、こんばんは」という程度の意味だが、「落ちます>ALL」なら、参加者全員にお別れを云っていることになる。「<」は[[三人称]]的に用いるが「大変ですね<イトウ」なら、「イトウさんは大変なんですね」といった感じで問い掛けているような意味に使われる。これらの場合、固有名詞は大抵、敬称を略して使われる。
; [[サーバログ|ログ]] : かつてはチャット専用ソフトウェアがパソコン内に作成する会話記録の[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を指したが、今日ではチャットサーバが保持している直前までの過去の数十〜数百分の発言記録もこう呼ぶ。
; [[Read Only Member|ROM]] : Read Only Memberの略。会話に参加しないこと。読み込み専門という意味で、[[Read Only Memory]]を捩ってこう呼ぶ。本来の意味とは異なるが、一般利用者が一時的にパソコンの前から外れるときにも使われる(「ROMする」といった言い方で使われる)。
; AWAY : ROMに対して、チャットサーバに接続し、かつ「トイレに行く」などのように私用でチャットから外れログさえ見られない状況になることを指す。チャットクライアントソフトウェアで/awayと入力すると、そのステータスに入るのだが、入らないクライアントもあるため、チャット常習者はAWAYと言う人もいる。英語だとそんなときにトイレに行く時と同様「お花をつみにいってきます」との言葉を用いられている場合もあった。AFK(Away From Keyboard:キーボードから離れる)とも言われる。
; 流す : 一定量の過去ログを保持しているチャットサーバから、過去の発言を消すために、新たな発言を容量分だけ書き込むこと。意図せずに消えてしまった場合には「流れた」と表現する。
; [[荒らし]] : 会話に無関係な書き込みや、同じ発言を繰り返す、他人の感情を逆撫でるような発言をする、そのチャットの利用者とわざと同じ名前を使い本人が荒らしたように見せるなどをして、参加者を不快にさせる行為をする者全般をこう呼ぶ。[[スパム (メール)|スパム]]行為も同様である。
; [[オフ会]] : オフ会とはオフライン"OFF Line"でルームを越えて現実世界の場で集団的に会うことを言う。オフライン・ミーティング(略して「オフミ」)とも言う。
; ボードチャット : 通常の[[電子掲示板]]へ間隔の短い[[レス]]を行うことで、あたかもチャットをしているかのように利用すること。[[2ちゃんねる]]の[[実況板]]やパソコン通信の[[壁#比喩的な「壁」|壁会議室]]がこの目的でよく利用されている。ボードチャットに関わっていない掲示板利用者にとっては、自分の[[電子掲示板#書き込み|書き込み]]が流れてしまったり、興味のない書き込みを大量に読まされることになるため、嫌われる傾向にある。掲示板の管理者が特に許可している場合を除いては実行は推奨されない。
== ルール・基本 ==
そもそもルールが定められていないインターネット上では、参加者が[[ネチケット]]を自主的に守ることによって秩序が保たれている。ネチケットについては、[https://www.cgh.ed.jp/netiquette/rfc1855j.html ネチケットガイドライン]を参照。リアルタイムで参加者同士が交流するチャットは常に荒れる可能性があり、チャットルームを設置する管理者によって厳格に定められていることも少なくない。また、部屋には「空気」が少なからず存在しこれを読めない人は[[荒らし]]と扱われることが多い。そのため、入室する際は会話のログ等を見てから入室することが推奨される。
基本的には年齢・性別・居住地の秘匿が必須となっている。実際に会わず、かつトラブルの防止のためにも秘匿はあらためて必要とされるルールである。最近では、日本国内における法律「[[個人情報保護法]]」が浸透されているせいか、ネット上で秘匿するユーザーが増え{{要出典|date=2009年11月}}、このガイドラインを参照せずとも、「個人の情報を守るのは自己責任」と考えているユーザーもいる。ただ、最近は「会話がしやすくなるから」という理由で年齢だけを公開するユーザーも増えている。
部屋の私物化も誉められた行為ではないと言われる。他の利用者がいる部屋に数人(主に友人やネットで知り合った人など)で入り、その友人にしか分からないような話題しかせず、他の利用者がその部屋を使えなくなり、退出せざるを得ない状況を作る行為は非常に嫌われる。そのため、数人で入る際は空室に入ることが推奨される。
== チャット上でのトラブル ==
[[MSN]]チャットでは、児童向けのチャットコーナーを設置して、未成年者の活発な意見交換を期待したが、児童偏愛などの変質者が子供の振りをして入り浸り、参加者から言葉巧みに個人情報を聞き出して、それを恐喝のねたにして、性的搾取を行う事件が多発し<ref>[https://web.archive.org/web/20031009104249/http://www.zdnet.co.jp/news/0309/24/xert_chat.html ZDNN記事「MSN、スパムと小児性愛問題でチャットルーム閉鎖へ」](インターネットアーカイブのキャッシュより)</ref>、[[2003年]]9 - 10月に閉鎖もしくは利用年齢を引き上げる措置を行っていたが、結果的に2005年に廃止された。[[MSN]]は廃止理由としてユーザーの減少、管理的な問題等をあげている。<!--
具体的に事例が欲しいです。実際に起きていれば、何らかの文献に記載されていてもおかしくない→ また日本国内でもチャット上で他人の個人情報を流して書類送検されたりする事件も後を断たず{{要出典}}、イタズラ電話を誘発する等の問題が発生しており、場合によってはネット[[ストーカー]]事件に発展し、ネット上のみならず実社会でも付き纏われるなどの事件もおきている。-->
== ソフトウェアとプロトコル ==
主なチャットプログラムおよびプロトコルは、次のとおり:
<!-- No external links in this section, Wikipedia articles only please -->
プロトコル
* [[I2P]]
* [[Internet Relay Chat]] (IRC)
* [[Matrix_(プロトコル)|Matrix]]
* [[Extensible Messaging and Presence Protocol|XMPP]]
チャットプログラム
* [[37signals|Campfire]]
* [[Gadu-Gadu]]
* [[Google Meet]]
* [[ICQ]] (OSCAR)
* [[Paltalk]]
* [[Tencent QQ|QQ]]
* [[Skype]]
* [[TeamSpeak]] (TS)
* [[WhatsApp]]
複数のプロトコルをサポートするチャットプログラム
* [[Adium]]
* [[Kopete]]
* [[IBM Lotus Sametime|IBM Sametime]]
* [[Miranda IM]]
* [[Pidgin]]
* [[Trillian]]
ブラウザベースのチャットサービス({{仮リンク|ウェブチャット|en|Web_chat}}を参照してください)
* [[Chatwork]]
* [[Facebook]]
* [[Slack]]
* [[Trillian]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[インスタントメッセンジャー]]
* [[グループウェア]]
* [[チャットボット]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ちやつと}}
[[Category:チャット|*ちやつと]]
[[Category:コンピュータを介したコミュニケーション]]
[[Category:パソコン通信]]
[[Category:会話]] | null | 2023-05-24T22:50:50Z | false | false | false | [
"Template:要出典",
"Template:仮リンク",
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88 |
1,491 | 2003年 | 2003年(2003 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。平成15年。
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。 | [
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| 2003年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。平成15年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|2003年の日本}}
{{出典の明記|date=2012年10月16日 (火) 15:54 (UTC)}}
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
{{年代ナビ|2003}}
{{YearInTopic
| 年 = 2003
}}
{{year-definition|2003}}
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=2003}}
* [[干支]]:[[癸未]](みずのと ひつじ)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]15年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2663年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4336年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]92年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]92年
* [[仏滅紀元]]:2545年 - 2546年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1423年10月27日 - 1424年11月7日
* [[ユダヤ暦]]:5763年4月27日 - 5764年4月6日
* [[UNIX時間|Unix Time]]:1041379200 - 1072915199
* [[ユリウス通日|修正ユリウス日]](MJD):52640 - 53004
* [[リリウス日]](LD):153481 - 153845
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=2003}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* 1月10日 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[核拡散防止条約]](NPT)脱退を宣言<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/kedo/index.html 朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)]外務省 2006年6月</ref>。
=== 2月 ===
* 2月1日 - [[アメリカ航空宇宙局]]、[[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア号]]、帰還のため[[大気圏]]突入後、[[テキサス州]]上空で空中分解、墜落。宇宙飛行士7名全員死亡([[コロンビア号空中分解事故]])。
* 2月1日 - [[ニース条約]]が発効。
* 2月5日 - 東ヨーロッパの[[ユーゴスラビア連邦共和国]]が[[セルビア・モンテネグロ]]に改称。
* 2月18日 - [[大韓民国]]で[[地下鉄]]放火事件が発生([[大邱地下鉄放火事件]])。192人が死亡。
* 2月24日 - [[ノラ・ジョーンズ]]が第45回[[グラミー賞]]の主要4部門を含む8部門で受賞(現地時間は2月23日)。
* 2月24日 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が地対艦ミサイルを[[日本海]]に向け発射。
=== 3月 ===
* 3月12日 - {{仮リンク|ゾラン・ジンジッチ暗殺事件|en|Assassination of Zoran Đinđić}}
* 3月19日 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[オーストラリア]]・[[ポーランド]]・[[ペシュメルガ]]による[[イラク]]侵攻作戦開始([[イラク戦争]]開戦)。
* 3月頃から - [[中華人民共和国|中国]]で新型肺炎[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]が大流行。
=== 4月 ===
* 4月1日 - 俳優・[[レスリー・チャン]]が飛び降り自殺。
* 4月4日 - [[SARS]](重症急性呼吸器症候群)が、新感染症に指定され、7月の終息宣言までに32ヶ国で患者774人が死亡。
* 4月14日 - 国際[[ヒトゲノム計画]]によって[[ヒトゲノム]]解読の全作業を完了。
* 4月28日 - アメリカ合衆国で[[iTunes Store|iTunes Music Store]]が開始される。20万曲を用意、楽曲の価格は1曲一律1ドル。
=== 5月 ===
* 5月9日 - [[はやぶさ (探査機)|小惑星探査機はやぶさ]]が[[M-Vロケット|M-V]]5号機によって[[内之浦宇宙空間観測所]]から打ち上げられる。
* 5月10日〜11日 - [[リトアニア]]で[[欧州連合加盟をめぐるリトアニアの国民投票|欧州連合加盟をめぐる国民投票]]が実施。投票者の91.1%が[[欧州連合]]加盟を支持。
=== 6月 ===
* 6月2日 - [[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]が発売される。
* 6月6日 - [[盧武鉉]](ノ・ムヒョン)韓国大統領、国賓として来日、天皇と会見(〜9日)。
=== 7月 ===
* 7月1日 - [[香港]]50万人デモ行進、基本法23條に対する抗議、「七一遊行」を言う。
* 7月2日 - [[プラハ]]で開かれた第115回[[国際オリンピック委員会|IOC]]総会で2010年の[[冬季オリンピック]]の開催地が[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]に決定。
* 7月10日 - [[香港]][[新界]]荃灣区・[[屯門公路]]の汀九橋段で発生したバスの転落事故。死者21人、負傷者20人。{{See also|屯門公路2階建てバス転落事故}}
* 7月12日 - 米原子力空母[[ロナルド・レーガン (空母)|ロナルド・レーガン]]が就役。存命中の元米大統領の名が空母に命名されるのは史上初。
* 7月13日 - [[イラク]]の暫定統治機関として[[イラク統治評議会]]が設置される。
* 7月15日 - [[タイム・ワーナー|AOLタイム・ワーナー]]は同社内の[[ネットスケープ・コミュニケーションズ|ネットスケープ]]部門を解体、同日に[[Mozilla Foundation]]が設立される。
* 7月21日 - [[世界水泳選手権]]。
* 7月26日 - [[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク復興支援特別措置法]]が成立。
* 7月30日 - メキシコ工場で[[フォルクスワーゲン・タイプ1]]の生産が終了し、65年の歴史に幕を下ろす。
=== 8月 ===
* 8月1日 - 北朝鮮の[[地下放送]]「[[救国の声放送|救国の声]]」が放送中止。
* 8月2日 - [[パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち]]公開。
* 8月6日 - [[上海協力機構]]加盟五カ国([[中華人民共和国|中国]]・[[ロシア]]・[[ウズベキスタン]]・[[キルギスタン]]・[[タジキスタン]])が[[テロ]]対策を目的とした合同軍事演習を実施。(8月12日まで)
* 8月14日 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]で東部を中心に大規模な[[停電]]([[2003年北アメリカ大停電]]、BLACKOUT 2003)。
*8月28日-[[ピザ配達人爆死事件]]が起こる。
* 8月29日 - [[フランス]]全土の記録的な[[猛暑]]による死者が11000人以上と発表される。
=== 9月 ===
* 9月5日 - 米[[ディズニーランド]]で[[ローラーコースター|ジェットコースター]](ビッグサンダーマウンテン)脱線。1人死亡、10人が負傷。
* 9月16日 - [[名古屋立てこもり放火事件]]
* 9月20日 - [[G7]]財相会議開催。
* 9月28日 - [[イタリア]]で大規模[[停電]]。
=== 10月 ===
*10月1日- [[宇宙航空研究開発機構]]、JAXAが誕生。
* 10月7日 - [[カリフォルニア州]][[知事]]に[[俳優]]・[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]が当選。
* 10月15日 - [[中華人民共和国|中国]]が初の有人宇宙船「[[神舟5号]]」の打ち上げに成功。
* 10月19日 -
**[[マザー・テレサ]]が[[カトリック教会]]の[[福者]]に列せられる。
**[[スティルインラブ]]が[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬クラシック牝馬三冠]]を達成。
* 10月24日 - [[macOS|Mac OS X]] [[Mac OS X v10.3|v10.3 Panther]]が発売される。
* 10月31日 - [[マレーシアの首相]][[マハティール・ビン・モハマド]]退陣。
* 10月31日-[[たま (バンド)|たま]] 解散
=== 11月 ===
* 11月20日 - アメリカ合衆国の[[歌手]]・[[マイケル・ジャクソン]]が性的虐待の容疑で逮捕される。
* 11月23日 - [[グルジア]]で政変。[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]大統領が辞任。(いわゆる「[[バラ革命]]」)
* 11月24日 - [[コロンビア]]で2001年2月に[[誘拐]]され、[[コロンビア革命軍]]が[[身代金]]を要求していた日本企業の現地法人副社長が射殺遺体で見つかる([[コロンビア邦人副社長誘拐事件]])。
* 11月29日 - [[イラク]]北部で[[日本大使館]]の公用車が襲撃され、日本人[[外交官]]2人とイラク人運転手が死亡([[イラク日本人外交官射殺事件]])。
=== 12月 ===
* 12月8日 - 東南アジア・スポーツ大会開催。
* 12月12日 - [[ポール・マーティン]]が第21代[[カナダ首相]]に就任。
* 12月13日 - [[アメリカ軍]]が[[サッダーム・フセイン]]イラク元大統領を拘束。
* 12月19日 - [[リビア]]が大量破壊兵器の破棄を表明。
* 12月20日 - 九広西鉄([[港鉄]][[西鉄線]])通車。
* 12月26日 - [[バム地震]]が発生。
=== 日付不明 ===
* 「パナマ歴史地区とサモン・ボリーバル」が、[[パナマ・ビエホとパナマ歴史地区]]として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に拡大登録される。
== 経済 ==
* [[円 (通貨)|円]]対[[アメリカ合衆国ドル|ドル]] [[為替レート]]
** 始値 - 1ドル=119円86銭
** 最高値 - 1ドル=121円86銭(3月??日)
** 最低値 - 1ドル=106円63銭(12月??日)
** 終値 - 1ドル=107円5銭
== 天候・天災・観測等 ==
=== 天候・天災 ===
* [[ヨーロッパ]]で[[熱波]]。[[フランス]]と[[アイルランド]]では高齢者を中心に3万人以上の死者。
* 9月19日 - 大型[[ハリケーン・イザベル]]が米国の[[ノースカロライナ州]]に上陸。
=== 天文現象 ===
* 8月27日 - [[2003年火星大接近|火星大接近]]。
* 11月23日 - [[南極大陸]]で[[皆既日食]]を観測。
== 芸術・文化・ファッション ==
=== スポーツ ===
{{see|2003年のスポーツ}}
=== 映画 ===
{{main|2003年の映画}}
* [[エレファント (映画)|エレファント]]
* [[オールド・ボーイ]]
* [[キル・ビル#Vol.1|キル・ビル Vol.1]]
* [[殺人の追憶]]
* [[スクール・オブ・ロック]]
* [[ターミネーター3]]
* [[父、帰る]]
* [[ドッグヴィル]]
* [[パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち]]
* [[ビッグ・フィッシュ]]
* [[ファインディング・ニモ]]
* [[ベルヴィル・ランデブー]]
* [[マッハ!!!!!!!!]]
* [[マトリックス リローデッド]]
* [[マトリックス レボリューションズ]]
* [[ミスティック・リバー]]
* [[ラスト サムライ]]
* [[ラブ・アクチュアリー]]
* [[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]]
* [[ロスト・イン・トランスレーション]]
<!--* [[ブラザー・ベア]]-->
<!--* [[ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション]]-->
* [[劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ]]
=== 音楽 ===
{{main|2003年の音楽}}
* 4月29日、米国で[[ITunes Store|iTunes Music Store]]がスタート。音楽のダウンロード販売サービスとして大成功をおさめる。
=== 文学 ===
{{see|2003年の文学}}
=== ゲーム ===
* 代表作に[[ファイナルファンタジーシリーズ|FFシリーズ]]を持つ[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]と同じく[[ドラゴンクエストシリーズ|ドラクエシリーズ]]を持つ[[エニックス]]が[[4月1日]]付けで合併し、[[スクウェア・エニックス]]となる。
=== 世相 ===
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]主導による[[イラク戦争]]でそれを支持する[[イギリス]]や[[日本]]、[[オーストラリア]]などと、反対する[[フランス]]や[[ドイツ]]、[[ロシア]]などで世界の大国が二分化した。
== 誕生 ==
{{see also|2003年の日本#誕生|Category:2003年生}}
=== 1月 ===
* [[1月3日]] - [[グレタ・トゥーンベリ]]、環境活動家
* [[1月4日]] - [[ジェイデン・マーテル]]、俳優
* [[1月5日]] - [[本郷柚巴]]、アイドル、モデル([[NMB48]])
* [[1月17日]] - [[有加里ののか]]、[[AV女優]]
* [[1月19日]] - [[佐竹桃華]]、女優
* [[1月20日]] -[[井手上漠]]、タレント、モデル
* [[1月23日]] - [[愛宝すず]]、[[AV女優]]
* [[1月25日]] - [[酒井唯菜]]、女優、タレント、モデル
* [[1月29日]] - [[平野ひかる]]、元アイドル([[AKB48]])
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - [[野村実代]]、[[SKE48]]
* [[2月5日]] - [[Koki]]、モデル、女優、作曲家
* [[2月5日]] - [[水沢林太郎]]、モデル、俳優
* [[2月5日]] - [[宮﨑小雪]]、キックボクサー
* [[2月10日]] - [[堀ノ内百香]]、元[[NMB48]]
* [[2月11日]] - [[小堀柊]]、アイドル ([[OCTPATH]])
* [[2月12日]] - [[Little Glee Monster#メンバー|カマラみゆアイダ]]、歌手([[Little Glee Monster]])
* [[2月12日]] - [[荻原詠理]]、[[カーリング]]選手
* [[2月15日]] - [[加藤結李愛]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]]
* [[2月15日]] - [[響野こひめ]]、女優、元アイドル([[PiXMiX]])
* [[2月17日]] - [[伊藤壮吾]]、タレント、ダンサー ([[SUPER★DRAGON]])
* [[2月17日]] - [[中嶋優月]]、アイドル([[櫻坂46]])
* [[2月18日]] - [[すず]]、[[YouTuber]](すずしょうと)
* [[2月20日]] - [[オリヴィア・ロドリゴ]]、女優、歌手
* [[2月21日]] - [[岩田陽菜]]、アイドル([[STU48]])
* [[2月24日]] - [[沢口愛華]]、グラビアアイドル
* [[2月27日]] - [[武田智加]]、アイドル([[HKT48]])
=== 3月 ===
* [[3月2日]] - [[キム・ダヨン]]、アイドル、モデル([[Kep1er]])
* 3月3日 - [[斎藤愛莉]]、女優
* [[3月4日]] - [[小山璃奈]]、ファッションモデル、元アイドル([[マジカル・パンチライン]])
* [[3月7日]] - [[内村颯太]]、ジュニア(旧[[ジャニーズJr.]]) ([[少年忍者]])
* [[3月8日]] - [[芦川うらら]]、[[体操競技]]選手
* [[3月10日]] - [[吉田美月喜]]、女優、モデル
* [[3月3日]] - [[柴田柚菜]]、アイドル、女優、元[[子役]]([[乃木坂46]])
* [[3月11日]] - [[STU48#元正規メンバー|門脇美優菜]]、元アイドル、モデル([[STU48]])
* [[3月12日]] - [[ソン・ドヒョン]]、プロアイスホッケー選手
* [[3月17日]] - [[中西アルノ]]、アイドル(乃木坂46)
* [[3月28日]] - [[石川翔鈴]]、モデル、女優、インフルエンサー、[[YouTuber|Youtuber]]
* [[3月28日]] - [[佐久良咲希]]、[[AV女優]]
* [[3月30日]] - [[村上和叶]]、元アイドル(HKT48)
* [[3月31日]] - [[根本悠楓]]、プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]])
* [[3月31日]] - [[町田穂花]]、元アイドル([[ラストアイドル]])
=== 4月 ===
* [[4月2日]] - [[小浜桃奈]]、モデル、コメンテーター、TikToker、女性向けファッション誌編集長
* [[4月4日]] - [[黒坂莉那]]、モデル
* [[4月5日]] - [[石田隼都]]、プロ野球選手([[読売ジャイアンツ]])
* [[4月6日]] - [[森田愛生]]、アイドル、女優([[FAVO♡]])、([[いちごみるく色に染まりたい。]])
* [[4月7日]] - [[鉄腕アトム]]、ロボット
* [[4月9日]] - [[小澤愛実]]、アイドル (元[[ラストアイドル]]、[[≒JOY]])
* [[4月9日]] - [[小園健太]]、プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ]])
* [[4月9日]] - [[結城りな]]、アイドル([[ukka]])
* [[4月10日]] - [[国本梨紗]]、モデル
* [[4月17日]] - [[森木大智]]、プロ野球選手([[阪神タイガース]])
* [[4月17日]] - [[川﨑桜]]、アイドル([[乃木坂46]])
* [[4月18日]] - [[鶴屋美咲]]、アイドル([[Girls²]])
* [[4月18日]] - [[桜井美里]]、元アイドル([[ukka]])
* [[4月19日]] - [[西村拓哉]]、ジュニア(旧[[ジャニーズJr]])
* [[4月19日]] - [[山岡愛姫]]、タレント、女優、元プロレスラー
* [[4月19日]] - [[早河ルカ]]、モデル
* [[4月23日]] - [[三阪咲]]、シンガーソングライター
* [[4月24日]] - [[星いぶき]]、女子プロレスラー
* [[4月25日]] - [[福島蓮]]、プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]])
* [[4月26日]] - [[岩崎春果]]、アイドル、モデル([[mignon]]、(元[[原宿駅前パーティーズ]]ふわふわ)
* [[4月27日]] - [[宇咲]]、アイドル([[#バババンビ]])
* [[4月29日]] - [[加藤晴空]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[4月29日]] - [[秋山正雲]]、プロ野球選手([[千葉ロッテマリーンズ]])
* [[4月29日]] - [[沖玲萌]]、タレント([[フジコーズ]])
* [[4月29日]] - [[鎌田彩樺]]、アイドル([[SUPER☆GiRLS]])
* [[4月30日]] - [[小森航大郎]]、プロ野球選手([[東京ヤクルトスワローズ]])
* [[4月30日]] - [[松木玖生]]、サッカー選手([[FC東京]])
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[川﨑春花]]、プロ[[ゴルファー]]
* [[5月2日]] - [[相川くるみ]]、女優、元アイドル([[FAVO♡]])
* [[5月3日]] - [[ヴァサイェガ渉]]、ジュニア(旧[[ジャニーズJr.]]) ([[少年忍者]])
* [[5月3日]] - [[畔柳亨丞]]、プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]])
* [[5月4日]] - [[鈴木優愛]]、グラビアアイドル、タレント
* [[5月5日]] - [[鍵山優真]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[5月8日]] - [[尾木波菜]]、アイドル([[≠ME]])
* [[5月9日]] - [[奥村梨穂]]、グラビアアイドル
* [[5月14日]] - [[泉舞子]]、グラビアアイドル
* [[5月16日]] - [[エマ・バーンズ]]、歌手 ([[821 (ガールズユニット)|821]])、女優、ファッションモデル
* [[5月16日]] - [[黒嵜菜々子]]、アイドル、モデル([[Peel the Apple]])
* [[5月19日]] - [[菱川花菜]]、声優
* [[5月18日]] - [[前川右京]]、プロ野球選手([[阪神タイガース]])
* [[5月20日]] - [[山下葉留花]]、アイドル ([[日向坂46]])
* [[5月24日]] - [[一ノ瀬美空]]、アイドル([[乃木坂46]])
* [[5月26日]] - [[増田彩乃]]、モデル、アイドル([[A♡Z]]、Lapilaz)
* [[5月28日]] - [[遠藤史人]]、俳優
* [[5月28日]] - [[咲田ゆな]]、タレント、グラビアアイドル
* [[5月28日]] - [[大津綾也]]、プロ野球選手([[読売ジャイアンツ]])
* [[5月30日]] - [[藤川らるむ]]、モデル、映画評論家
=== 6月 ===
* [[6月1日]] - [[松谷綺]]、キックボクサー
* [[6月1日]] - [[新倉愛海]]、アイドル([[アップアップガールズ(2)]])
* [[6月1日]] - [[松谷綺]]、キックボクサー
* [[6月1日]] - [[三木つばき]]、スノーボード選手
* [[6月2日]] - [[池田彪馬]]、俳優、歌手 ([[SUPER★DRAGON]])
* [[6月2日]] - [[望月慎太郎]]、テニス選手
* [[6月3日]] - [[大白桃子]]、アイドル、グラビアアイドル
* [[6月7日]] - [[西田汐里]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]])
* [[6月8日]] - [[今井陽菜]]、タレント([[フジコーズ]])
* [[6月9日]] - [[込江海翔]]、[[俳優]]
* [[6月11日]] - [[加部亜門]]、俳優
* [[6月14日]] - [[染谷莉亜奈]]、モデル
* [[6月14日]] - [[中村守里]]、女優、元アイドル([[ラストアイドル]])
* [[6月14日]] - [[味谷大誠]]、プロ野球選手([[中日ドラゴンズ]])
* [[6月15日]] - [[谷川亜華葉]]、競泳選手
* [[6月16日]] - [[尾関彩美悠]]、[[プロゴルファー]]
* [[6月17日]] - [[広本瑠璃]]、アイドル([[OCHA NORMA]])
* [[6月24日]] - [[ENHYPEN|ソヌ]]、アイドル([[ENHYPEN]])
* [[6月24日]] - [[石川古都]]、女優、元アイドル([[FAVO♡]])
* [[6月24日]] - [[阪口樂]]、プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]])
* [[6月24日]] - [[多田成美]]、女優、ファッションモデル
* [[6月25日]] - [[花田侑樹]]、プロ野球選手([[読売ジャイアンツ]])
* [[6月27日]] - [[張本智和]]、卓球選手
* [[6月27日]] - [[ラウール (アイドル)|ラウール]]、アイドル、俳優([[Snow Man]])
* [[6月29日]] - [[ジュード・ベリンガム]]、[[サッカーイングランド代表]]
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[ペイトン尚未]]、声優
* [[7月5日]] - [[加藤乃愛]]、Tiktoker
* [[7月6日]] - [[齊藤なぎさ]]、元アイドル、モデル([[=LOVE]])
* [[7月8日]] - [[吉澤悠華]]、アイドル([[マジカル・パンチライン]])
* [[7月8日]] - [[琴手計太希]]、[[大相撲力士]]
* [[7月10日]] - [[里仲菜月]]、アイドル([[Task have Fun]])
* [[7月10日]] - [[堀川桃香]]、スピードスケート選手
* [[7月10日]] - [[水上凜巳花]]、元アイドル、モデル([[HKT48]])
* [[7月13日]] - [[柏木こなつ]]、[[AV女優]]
* [[7月13日]] - [[ワイアット・オレフ]]、俳優
* [[7月16日]] - [[隅野和奏]]、アイドル、モデル([[NMB48]])
* [[7月16日]] - [[古川陽介]]、サッカー選手 ([[ジュビロ磐田]])
* [[7月18日]] - [[牧浦乙葵]]、女優、元アイドル([[PiXMiX]])
* [[7月20日]] - [[新谷ゆづみ]]、女優、元アイドル([[さくら学院]])、([[Ciào Smiles]])
* [[7月21日]] - [[松村キサラ]]、モデル、女優
* [[7月21日]] - [[RUANN]]、[[シンガーソングライター]]
* [[7月21日]] - [[加藤洸稀]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[7月24日]] - [[北村來嶺彩]]、歌手
* [[7月24日]] - [[小谷皐月]]、モデル
* [[7月25日]] - [[庵原涼香]]、女優
* [[7月25日]] - [[栁田大輝]]、陸上競技選手
* [[7月26日]] - [[水野遥香]]、グラビアアイドル
* [[7月28日]] - [[小出夏花]]、歌手
* [[7月30日]] - [[河西結心]]、アイドル([[つばきファクトリー]])
* [[7月31日]] - [[松本来夢]]、女優
* [[7月31日]] - [[平尾帆夏]]、アイドル ([[日向坂46]])
=== 8月 ===
* [[8月1日]] - [[江口紗耶]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]])
* [[8月1日]] - [[清宮レイ]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* [[8月3日]] - [[佐藤美波]]、アイドル([[AKB48]])
* [[8月3日]] - [[嶋﨑斗亜]]、ジュニア(旧[[ジャニーズJr.]]) ([[Lil かんさい]])
* [[8月4日]] - [[野原未蘭]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]]
* [[8月5日]] - [[飯沼愛]]、女優、モデル
* [[8月7日]] - [[梅山恋和]]、元アイドル、モデル([[NMB48]])
* [[8月9日]] - [[中村一葉|KAZUHA]]、アイドル、モデル([[LE SSERAFIM]])
* [[8月9日]] - [[信濃宙花]]、アイドル([[STU48]])
* [[8月13日]] - [[金子みゆ]]、元[[アイドル]]、[[インフルエンサー]] (元[[LinQ]])
* [[8月13日]] - [[若山耀人]]、俳優
* [[8月13日]] - [[タン・ジュンサン]]、俳優
* [[8月15日]] - [[住吉りをん]]、フィギュアスケート選手
* [[8月17日]] - [[中野伸哉]]、サッカー選手([[ガンバ大阪]])
* [[8月17日]] - [[大河原翔]]、プロ野球選手([[東北楽天ゴールデンイーグルス]])
* [[8月17日]] - [[緑川希星]]、タレント、レースクイーン
* [[8月18日]] - [[マックス・チャールズ]]、[[子役]]
* [[8月19日]] - [[増田來亜]]、女優、歌手 ([[Girls2|Girls<sup>2</sup>]])、ダンサー
* [[8月20日]] - [[ガブリエル・ド・ベルジック]]、[[ベルギー王国]]の王族
* [[8月21日]] - [[古川夏凪]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[8月22日]] - [[伯桜鵬哲也]]、[[大相撲力士]]
* [[8月24日]] - [[池田陵真]]、プロ野球選手([[オリックス・バファローズ]])
* [[8月25日]] - [[田村俊介]]、プロ野球選手([[広島東洋カープ]])
* [[8月27日]] - [[原菜乃華]]、女優、モデル
* [[8月28日]] - [[クヮヴェンジャネ・ウォレス]]、子役
=== 9月 ===
*[[9月1日]] - [[アン・ユジン|ユジン]]、アイドル([[IVE (音楽グループ)|IVE]]、元[[IZ*ONE]])
* [[9月3日]] - [[ジャック・ディラン・グレイザー]]、俳優
* [[9月4日]] - [[青木勇貴斗]]、[[スケートボード]]選手
* [[9月4日]] - [[山本姫香]]、グラビアアイドル、ファッションモデル
* [[9月6日]] - [[吉田唄菜]]、フィギュアスケート選手
* [[9月6日]] - [[夏目ここな]]、声優
* [[9月8日]] - [[代木大和]]、プロ野球選手([[読売ジャイアンツ]])
* [[9月10日]] - [[石川雷蔵]]、俳優
* [[9月12日]] - [[木村大成]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[9月14日]] - [[今村麻莉愛]]、アイドル([[HKT48]])
* [[9月16日]] - [[夢みるアドレセンス#メンバー|最上真凪]]、アイドル([[夢みるアドレセンス]])
* [[9月17日]] - [[森秋彩]]、[[フリークライマー]]
* [[9月19日]] - [[八木栞]]、アイドル([[つばきファクトリー]])
* [[9月25日]] - [[豊島心桜]]、タレント、女優、グラビアアイドル
* [[9月27日]] - [[髙橋未来虹]]、 アイドル([[日向坂46]])
=== 10月 ===
* [[10月2日]] - [[林瑠奈]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* [[10月2日]] - [[檜山光成]]、ジュニア(旧[[ジャニーズJr.]])([[ジャニーズJr.#少年忍者|少年忍者]])
* [[10月3日]] - [[窪塚愛流]]、俳優
* [[10月5日]] - [[藤原大祐]]、俳優
* [[10月6日]] - [[片岡凜]]、女優
* [[10月6日]] - [[大辻理紀]]、[[大相撲力士]]
* [[10月7日]] - [[小林蘭]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[10月9日]] - [[雨宮凜々子]]、タレント([[フジコーズ]])
* [[10月10日]] - [[カイくん]]、[[タレント]][[イヌ|犬]]
* [[10月11日]] - [[石黒友月]]、[[SKE48]]
* [[10月11日]] - [[風間球打]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[10月11日]] - [[星月梨杏]]、タレント
* [[10月17日]] - [[鈴木るりか]]、[[小説家]]
* [[10月18日]] - [[中西花]]、[[フリーアナウンサー]]、タレント
* [[10月18日]] - [[屋敷優成]]、サッカー選手([[大分トリニータ]])
* [[10月20日]] - [[松川虎生]]、プロ野球選手([[千葉ロッテマリーンズ]])
* [[10月21日]] - [[太田遥香]]、元アイドル([[アンジュルム]])
* [[10月22日]] - [[福留光帆]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[10月22日]] - [[相川暖花]]、アイドル([[SKE48]])
* [[10月22日]] - [[笠原桃奈]]、アイドル([[ME:I]]、元[[アンジュルム]])
* [[10月23日]] - [[井本彩花]]、女優
* [[10月24日]] - [[伊藤優絵瑠]]、アイドル([[HKT48]])
* [[10月24日]] - [[中井卓大]]、サッカー選手 (スペイン、[[CFラージョ・マハダオンダ]])
* [[10月25日]] - [[西川怜]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[10月27日]] - [[千葉恵里]]、アイドル、モデル、YouTuber([[AKB48]])
=== 11月 ===
* [[11月2日]] - [[市川優月]]、アイドル([[AMEFURASSHI]]、[[浪江女子発組合]])
* [[11月2日]] - [[竹山日向]]、プロ野球選手([[東京ヤクルトスワローズ]])
* [[11月4日]] - [[麻生真彩]]、元アイドル([[さくら学院]])
* [[11月5日]] - [[山田なる]]、ナルハワールド、アイドル([[GANG PARADE]])
* [[11月5日]] - [[深沢鳳介]]、プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ]])
* [[11月5日]] - [[宮津航一]]、「ふるさと元気子ども食堂」代表
* [[11月6日]] - [[高嶺のなでしこ#メンバー|星谷美来]]、アイドル([[高嶺のなでしこ]])
* [[11月6日]] - [[山崎琢磨]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[11月8日]] - [[ルイーズ・ウィンザー]]、[[イギリス]]の王族
* [[11月9日]] - [[長尾しおり]]、元[[SUPER☆GiRLS]]
* [[11月10日]] - [[浅井裕華]]、アイドル([[SKE48]])
* [[11月12日]] - [[水島美結]]、アイドル([[AKB48]])
* [[11月13日]] - [[小合麻由佳|マユカ]]、アイドル、モデル([[NiziU]])
* [[11月18日]] - [[奥原妃奈子]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[11月18日]] - [[小高サラ]]、女優、元アイドル([[超ときめき♡宣伝部|ときめき♡宣伝部]])
* [[11月19日]] - [[竹内月音]]、アイドル([[ナナランド]]、元[[ザ・コインロッカーズ]])
* [[11月19日]] - [[前田銀治]]、プロ野球選手([[東北楽天ゴールデンイーグルス]])
* [[11月20日]] - [[久保怜音]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[11月21日]] - [[猪子れいあ]]、グラビアアイドル、元アイドル([[ラストアイドル]])
* [[11月28日]] - [[甲斐心愛]]、アイドル([[STU48]])
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[日髙麻鈴]]、女優、元アイドル([[さくら学院]])
* [[12月1日]] - [[星野真生]]、プロ野球選手([[中日ドラゴンズ]])
* [[12月6日]] - [[川名凜]]、歌手、アイドル(アンジュルム)
* [[12月7日]] - [[カタリナ=アマリア・ファン・オラニエ=ナッサウ]]、[[オランダ]]の王族
* [[12月8日]] - [[沢村りさ]]、アイドル([[Lily of the valley]])
* [[12月8日]] - [[宮田くるみ]]、アイドル([[iSPY]]、元[[Ciào Smiles]]/キャンディzoo)
* [[12月8日]] - [[AKARI (キックボクサー)|AKARI]]、[[キックボクサー|キックボクサ]]
* [[12月10日]] - [[川又優菜]]、アイドル、モデル([[STU48]])
* [[12月12日]] - [[田口愛佳]]、アイドル、女優([[AKB48]])
* [[12月16日]] - [[桐島十和子]]、アイドル([[PiXMiX]])
* [[12月17日]] - [[岡本姫奈]]、アイドル([[乃木坂46]])
* [[12月20日]] - [[道枝咲]]、元アイドル([[AKB48]])
* [[12月23日]] - [[有澤一華]]、アイドル([[Juice=Juice]])
* [[12月23日]] - [[篠塚大登]]、[[卓球]]選手
* [[12月24日]] - [[田鍋梨々花]]、モデル、女優
* [[12月25日]] - [[立花明音]]、タレント、元アイドル([[ザ・コインロッカーズ]])
* [[12月25日]] - [[羽田慎之介]]、プロ野球選手([[埼玉西武ライオンズ]])
* [[12月25日]] - [[高嶺のなでしこ#メンバー|城月菜央]]、アイドル([[高嶺のなでしこ]])
* [[12月28日]] - [[鈴木恋奈]]、アイドル([[SKE48]])
== 死去 ==
{{See|訃報 2003年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[アレクセイ・アブリコソフ]]、[[ヴィタリー・ギンツブルク]]、[[アンソニー・レゲット]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ピーター・アグレ]]、[[ロデリック・マキノン]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ポール・ラウターバー]]、[[ピーター・マンスフィールド]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ジョン・クッツェー]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[シーリーン・エバーディー]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ロバート・エングル]]、[[クライヴ・グレンジャー]]
== フィクションのできごと ==
* 2月 - [[アルバート・ウェスカー]]によって流された新型B.O.W.開発の情報を受け、[[アンブレラ (バイオハザードシリーズ)|アンブレラ]][[ロシア]]支部にあるコーカサス研究所に私設対バイオハザード部隊が制圧に潜入、[[クリス・レッドフィールド]]、[[ジル・バレンタイン]]が新型B.O.W.「T-A.L.O.S.」の撃破に成功。同時にアンブレラが裁判で全面敗訴したことで、アンブレラが崩壊する。(ゲーム『[[バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ]]』)
* 6月 - 日本・宇宙開発公団の新型[[再使用型宇宙往還機|スペースシャトル]]「スピリッツ号」が、[[地球周回軌道|衛星軌道]]上でゾンダー「EI-01」と接触。EI-01は首都圏に落下し、スピリッツ号に搭乗していた宇宙飛行士・獅子王凱は瀕死の重傷を負った後、[[サイボーグ]]に改造される。(アニメ『[[勇者王ガオガイガー]]』)<ref>[http://www.gaogaigar.net/TV/sp/clm02.html#clm02a ベターマン年表] - 『勇者王ガオガイガー』公式サイト。2018年3月10日閲覧。</ref><ref>[http://www.gaogaigar.net/TV/chara/01.html 獅子王 凱] - 『勇者王ガオガイガー』公式サイト。2018年3月10日閲覧。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 竹田裕一郎|authorlink=竹田裕一郎 |title = 勇者王ガオガイガーFINAL1 勇者王新生! 〜獅子王 凱の神話〜 |publisher = [[メディアファクトリー]] |year = 2003 |pages = 12-14,256 |isbn = 978-4-8401-0764-8}}</ref>
* 夏(詳細な日時は不明) - 小惑星ユリシーズの落下により多大な被害を被った[[ユージア|ユージア大陸]]において、他の大陸諸国と難民問題などで対立を深めていた[[エルジア王国|エルジア共和国]]が事態の解決を図り隣国の中立国サンサルバシオンに侵攻。[[大陸戦争 (ACE COMBAT)|大陸戦争]]勃発。(ゲーム『[[エースコンバット04 シャッタードスカイ]]』)
* 11月 - 地球統合軍の月面アポロ基地において、[[マクロス (架空の兵器)|マクロス級]]2番艦「SDF-2」(後の[[メガロード-01]])の建造が開始される。(アニメ『[[マクロスシリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = |title = MACROSS PERFECT MEMORY |publisher = [[みのり書房]] |year = 1984 |page = 55}}</ref>
* 12月? - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[ジェット推進研究所]]が打ち上げた[[火星探査機]]「[[ビーグル2号]]」<ref group="注釈">小説版では史実通り[[欧州宇宙機関|ESA]]の探査機となっている。</ref>が、火星から[[デストロン (トランスフォーマー)#ムービー(実写)|ディセプティコン]]の映像を送信した後に破壊される。(映画『[[トランスフォーマー (2007年の映画)|トランスフォーマー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アラン・ディーン・フォスター|authorlink=アラン・ディーン・フォスター |title = トランスフォーマー |publisher = [[早川書房]] |year = 2007 |pages = 299-302 |isbn = 978-4-15-011622-4}}</ref><ref>[https://spaceinfo.jaxa.jp/ja/mars_express.html マーズ・エクスプレス] - [[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]宇宙情報センター。2016年9月25日閲覧。</ref>
* 不明 - 両極の氷を溶かす人工太陽の計画が進行する中、制御基地の1つを建設中の[[ポドカメンナヤ・ツングースカ川|ツングースカ]]地方の地下から、コイルが納められた金属製の円筒が発掘される。その後、コイルに記録されていた「報告」が解読され、円筒はかつて[[ツングースカ大爆発|ツングースカに墜落]]した[[金星人]]の[[宇宙探査機|無人宇宙船]]由来のものであると判明。これを受け、宇宙船「コスモクラートル号」の金星への派遣が決定される。(小説『{{仮リンク|金星応答せず|en|The Astronauts}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= スタニスワフ・レム|authorlink=スタニスワフ・レム |title = 金星応答せず |publisher = 早川書房 |year = 1981 |pages = 21-73 |isbn = 978-4-15-010417-7}}</ref>
* 不明 - [[中国]]と[[ベトナム]]の間で[[南沙諸島]]をめぐる紛争が勃発。これを機に戦略自衛隊が設立される。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』)
* 不明 - [[アメリカ国家安全保障局]]が、合衆国の脅威となるデジタル暗号システム対策・機密漏洩防止のための特殊部隊「サードエシュロン」を設立する。(ゲーム『[[スプリンターセル]]』)
<!--* 不明 - [[WMAP|ウィルキンスン・マイクロ波異方性探査機]]によって、初めて[[ダークエネルギー|ダーク・エネルギー]]が観測される。(小説『{{仮リンク|タイム・オデッセイ|en|A Time Odyssey}}』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author1=アーサー・C・クラーク|authorlink1=アーサー・C・クラーク|author2=スティーヴン・バクスター|authorlink2=スティーヴン・バクスター |title = 〈タイム・オデッセイ2〉 太陽の盾 |publisher = 早川書房 |year = 2008 |page = 17 |isbn = 978-4-15-208912-0}}</ref> / フィクションではない-->
* 不明 - [[北京大学]]のリー・ヤン女史が、氷の[[同位体]]である縮退物質「[[アイス・セカンド]]」の結晶化に成功する。(アニメ『[[トップをねらえ!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = |title = トップをねらえ大全! |publisher = [[バンダイビジュアル]] |year = 2012 |page = 138 |isbn = 978-4-04-899247-3}}</ref>
* 不明 - 製薬企業アンブレラの崩壊後、アンブレラが極秘に開発していたB.O.W.が世界中に拡散、バイオテロが各地で起こり始めたことを受け、製薬企業連盟の出資の元、対バイオテロ対策のNGO団体『[[BSAA]]』が設立される。(ゲーム『[[バイオハザードシリーズ]]』)
* 以下の諸作品の舞台
** 映画『[[最後の猿の惑星]]』
** ゲーム『[[ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド|ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド4]]』
** 漫画『[[魔法先生ネギま!]]』
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|2003}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
* {{仮リンク|2003年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2003}}
* [[ヨーロッパ熱波 (2003年)]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/2003%E5%B9%B4 |
1,492 | FM-7 | FM-7(エフ・エム・セブン)は富士通が発売した8ビットパソコンであり、正式名称はFUJITSU MICRO 7。富士通はこのFM-7のヒットにより、シャープ、NECと共にパソコン御三家と呼ばれる様になる。
FM-7は1982年11月8日、FM-8の廉価版後継機種として発売された。開発時の名称はFM-8Jr.(ジュニア)。FM-8と一定の互換性があり、アプリケーション、OS(CP/M、FLEX、UCSD Pascal、OS-9)、開発言語、ツール、周辺機器の資産継承が考慮されていた。FM-8を含んで、FM-7/8シリーズと呼ばれ、CPUの高速化等、実質的にはFM-8の性能が向上した後継機にあたる。
モトローラ社のMPU 68B09をメインCPUとグラフィックを独立制御するディスプレイサブシステムへそれぞれ搭載する2CPUのアーキテクチャを採用。FM-8と同様にオプションのZ80カードが搭載可能になっており、CP/Mや、Oh!Xで使われたS-OS"SWORD"など、Z80CPUベースのシステムを動作させることも可能になっている。このZ80カード用スロットは後にユーザベースで63C09を搭載するハードウェアにも使われた。F-BASIC V3.0がROMに搭載されている。漢字ROMカード、フロッピーディスクドライブはオプション。
発売当初のイメージキャラクターはタモリ。キャッチコピーは「青少年は興奮する」。
競合機種と同等のカラー表示にPSGがつき価格が安かったことから、FM-7は一定の普及をみて、富士通をパソコン御三家の地位にまで押し上げた。FM-7に端を発する低価格・高性能という路線はPCユーザ拡大に貢献し、'80年代パソコンブームの原動力となった。
FM-7が販売面で成功したのは本体価格が126,000円という低価格にもかかわらず、当時の最新機能を盛り込み1クラス上のPCに匹敵または凌駕する性能を備えていたことにある。同時期の人気機種は、NEC PC-8801(228,000円)、PC-9801(298,000円)、日立 ベーシックマスターレベル3(298,000円、後に価格改定)。学生を中心に人気があった「パピコン」ことNEC PC-6001(89,800円)やコモドールVIC-1001(69,800円)などの初心者PCのユーザー層にも大きな影響を与え、その成功からFM-7を引き継ぐ形で、後継機が完全上位互換で作られていく形になる。
FM-8から引き続き、広いメモリ領域とVRAM領域の確保と処理速度向上のためにメイン(演算部)、サブ(主にグラフィック部)に独立した6809を搭載する贅沢なアーキテクチャを採用した。FM-8を祖とするこの設計は、マルチCPUとしてではなく、ホストCPUと表示端末の関係にあり、サブCPUに処理の大きな表示周りの作業をさせることによるメインCPUの負担を軽減することに目的があった。また、このグラフィックスサブシステムの実装ではキャラクターコードをハードウェア的にフォントに展開するテキストVRAMを持たなかったため、20並びに25行のスクロール処理における転送量軽減のため、2ラインごとのハードウェアスクロール機能を備えている。ハードウェアによるスクロールが使えない画面モードでは、当時の処理速度と比較して広大なグラフィックVRAMを再描画する必要があり、リスト表示などでのスクロールのもたつきや、カーソルを移動するとその通り道にあったグラフィックも消えてしまうという制限も引き継いでいる。また、リアルタイムゲームが流行すると両システム間の転送容量に制限や処理のタイムラグがあったこと、キーボードのスキャンを専用CPUに任せ、チャタリング除去なども行っているためにBREAK以外のキーでは押下した結果しか認識できず、ユーザの間ではリアルタイムゲーム向きではないとされ、議論になった。前述のとおり、任意のコードの実行を想定して設計されているわけではないサブシステムではあったが、サブシステムモニタ開発時にデバッグ用に実装されたメンテナンスコマンドの利用や、そのノウハウの蓄積、後述する内部技術資料の積極的な公開により、サブシステムで任意のプログラムを実行することで描画の高速化や、高速にデータを転送するテクニックなどが考案され、ハードウェア的なキー入力の制限を除けば競合機種と同等のゲームが発売されるようになっていった。
他社と同様、富士通も本体添付品や別売マニュアルという形でBIOS、I/Oアドレス、ファームウェア、システムコマンド等を積極的に公開した。また富士通の支援により、FMシリーズ専門誌『Oh!FM』(日本ソフトバンク、後の『Oh!FM TOWNS』)をはじめとして、技術評論社や工学社などから『活用マニュアル』などと呼ばれる良質なリファレンスマニュアルが多く出版された。またショウルームやサポートセンター経由では、内部技術資料なども必要に応じて比較的簡単に入手できた。
回路設計の問題としては、同等の音源を搭載した他機種に比較して、サウンド出力にデジタル回路からリークしたノイズも多く、音割れも見られた。
1985年、スペインのSECOINSA社という富士通に近い会社より FM-7 が販売されている。
他のモデルのように実装機器による商品バリエーションは無いが、後期にリファインされた同等の機種が発売された。
FM-77(エフ・エム・セブン・セブン)は1984年、FM-7後継機種としてFM-NEW7とともに発売された。FM-11と同様にキーボードを分離し、3.5インチフロッピーディスクドライブ、JIS第一水準漢字ROMを本体に内蔵したモデルである。ディスク版F-BASIC V3.0L2.0とFM Logoが付属した。
キーボードはパラレルインターフェースで、コードは黄色い(D1/D2のみ。L2/L4は本体同色)カールコードとなっているが太い。本体色はオフホワイト。
本体の発熱量が高く、長時間使用し続けているとフロッピードライブに入れたディスクまで熱くなるという特徴があった。
拡張性がFM-7に比べ大きく向上し、メモリ管理ユニット(MMU)であるメモリ・マネージメント・レジスタ(MMR)を搭載してメイン側のメモリアドレス空間が256KiBに広がったほか、サブシステムが改良され、サイクルスチールによりVRAMアクセスのタイミングなどが向上し、表示が高速化された。ただし、MMR使用時にはMPUクロックが2MHzから1.6MHzに低下した。
専用オプションとして、400ラインセット、1MBフロッピィコントロールカード、スーパーインポーズユニットなども用意された。
400ラインセットは99,800円と大変高価であったため、後にRAM容量と日本語ワードプロセッサが削られた廉価版の400ラインセットIIが49,800円で用意された。
1MBフロッピィコントロールカードは当初F-BASIC V3.5とOS-9 Level II(OS-9 Level IIの起動にはRAMが最低128KB必要だが、400ラインカードはなくても可能)でしかサポートされていなかったが、後に400ラインセット不要で使用できるようにF-BASIC V3.1が用意された。
スーパーインポーズユニットは200ラインでしか使用できないため、400ラインセットとは排他的に使用する必要があった。
FM-7とはほぼ完全上位互換であるが、MPUクロックをFM-8相当に落とす機能は削除されている。
ブートモードは従来機種のディップスイッチ方式からボタン式スイッチ方式に変更され、BOOT1、BOOT2、BASICの3種類から選択できる。 BOOT1スイッチは1MBフロッピィDOSモード、BOOT2スイッチは320KBフロッピィDOSモード、BASICスイッチはF-BASICモードになっており、FM-7/NEW7と比較して1MBフロッピィDOSモードが追加された。なお、FM-NEW7と異なり全ロットでフロッピィディスクのステップレートの変更はできない。
また、グラフィックモードスイッチでサイクルスチールのON/OFFが選択でき、OFF時にはFM-7/NEW7同等の描画速度となる。
内蔵オプションは互換スロットが用意されていたため、FM-7用の各種増設カードはほぼそのまま使用可能になっているが、ミニフロッピィディスクインタフェースカード、漢字ROMカード等、すでに実装済の機能と等価の一部周辺機器については利用できない(利用する必要がない)。
外部オプションはインタフェースコネクタが変更されたため同じケーブルでは接続できなくなったが、信号線は変更されなかったため、ケーブルさえ用意できればFM-7用の各種外部オプションは使用可能。
FM77AVはFM-7/FM-77シリーズの上位機種となるシリーズ。1985年に初代機が発売され、FM TOWNSシリーズの発売される直前の1988年秋までマイナーチェンジが繰り返された。初代FM77AVはメタリックダークグレーに近い色であるが、基本的に黒に近い色を基調としたデザインでシリーズは展開されている。イメージキャラは南野陽子。
FM16βSD/FM16π等と同様、FM-7の系譜では本機より、正式な機種名からは「FM」と「77」との間のハイフンは無くなった。しかし、従来機種の流れから、ソフトウェアパッケージや、雑誌記事、Webの記述などでは、ハイフンを入れて記述されることも多く見られる。
従来の640ドット×200ライン8色が2画面持てるようになったほか、320ドット×200ライン4096色という当時では画期的な色数の同時発色を可能とし、キャッチコピーではカラー化した映画などで使われた語である「総天然色」にかけて「総、天、然、ショック。」とうたった。セットの専用モニターはテレビチューナー内蔵で、単体でもテレビ放送が受信可能でビデオ入力端子も装備(スピーカーはモノラル)。
AV40シリーズでは全てのピクセルに対し26万色から任意の色を表示できるようになっているが、選択可能な色数が画素数を上回ったため広告から同時発色の記述はなくなっている。
オプションのビデオディジタイズカード(現在でいうビデオキャプチャカード)増設で専用テレビを通じてテレビ放送・ビデオ入力などからの画像取り込みもできた。
4096色モードではパレットの割り当てにより、重ね合わせ付きの64色2画面・16色3画面・8色4画面・単色12画面モードなどにすることができた。また、VRAMのオフセット指定による横8ドット/縦1ドットごとのハードウェアスクロール機能があり、オフセットは2画面別々に設定できた。このため、家庭用ゲーム機並みのゲーム画面も実現可能だった。アナログRGBディスプレイのコネクタおよびケーブルはEIAJ規格のRGB21ピンのクロスケーブルが使われた。
また、サブシステム側MPUを停止することにより、メインMPUからVRAMなどサブシステム側の資源に直接アクセスすることが可能になったほか、新サブシステムの機能としてハードウェアによる直線補間・論理演算機能付きのLINEコマンドやPAINTコマンドなどを搭載した。FM-8/7/77では1ドット単位で描画していたSYMBOLコマンドも直線補間機能を利用するようになり高速化している。キーボードは押下だけではなく開放も認識できるようになった。
キーボードは初代FM77AVでは電話の受話器と同じ4ピンモジュラージャックを使用した細いカールコードによる接続で、初代FM77AVのキーボードは赤外線によるワイヤレス接続やnキーロールオーバーもサポートしていたが、これらの機能は後継機種ではコストダウンのため段階的に撤廃される。AV20/AV40では電話回線と同じ6ピンモジュラージャック、AV20EX/AV40EX/AV40SXはS端子と同形状の4ピンミニDINコネクタを使用している。
キーボードエンコーダには仕掛けがあり、特定の操作をするとマニュアルに無い機能があったり、隠しメッセージが表示されるようになっている。
FM77AVシリーズは、1989年3月末までに累計10万台を販売した。
FM-7/77シリーズとは高い互換性を持つ。
内蔵オプションは、Z80カード用スロットが削除されたためメインCPUの切替が不可能になりCP/MなどのOSはサポートされなくなったが、FM-7互換スロットは用意されたため各種増設カードはほぼそのまま使用可能だった。
外部オプションは、一部インタフェースが仕様変更されたためモジュール方式のI/O拡張ユニットやFM-77に用意された専用オプションなどは使用できなくなったが、プリンターなどはケーブルさえ用意すればそのまま使用可能だった。
起動時のBASICモード/DOSモードを選択するブートモードスイッチおよびサイクルスチールのON/OFFを選択するグラフィックモードスイッチなど従来機種と同等のスイッチは用意されており、FM-7/77同様BASICモードでディスクを入れずに起動するとF-BASIC V3.0(ROMモード)が起動する。
これはブート機構に工夫がなされており、リセットがかかると先ずイニシエータROMが表に出てそこから起動。画面モード、アナログパレットなど、新規デバイスの初期化を行い、モードスイッチを読み取ってBASIC ROMを有効化させたりRAM領域にするかなどの設定を行った後、従来のブート機構に制御を移すという2段構えの初期化機構が採用されており、これによって新たなモードスイッチを用いない上位互換を確保している。
このため、FM77AV専用ではないアプリケーションソフトやゲームソフトにも、リアルタイムキースキャン・DMACに対応する「リバイバー」(アルシスソフトウェア)、DMACに対応する「キス・オブ・マーダー 殺意の接吻」(リバーヒルソフト)など、FM77AVで拡張されたハードウェアの機能を使用出来るようになっているものが存在する。 | [
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"text": "モトローラ社のMPU 68B09をメインCPUとグラフィックを独立制御するディスプレイサブシステムへそれぞれ搭載する2CPUのアーキテクチャを採用。FM-8と同様にオプションのZ80カードが搭載可能になっており、CP/Mや、Oh!Xで使われたS-OS\"SWORD\"など、Z80CPUベースのシステムを動作させることも可能になっている。このZ80カード用スロットは後にユーザベースで63C09を搭載するハードウェアにも使われた。F-BASIC V3.0がROMに搭載されている。漢字ROMカード、フロッピーディスクドライブはオプション。",
"title": "FM-7"
},
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"text": "発売当初のイメージキャラクターはタモリ。キャッチコピーは「青少年は興奮する」。",
"title": "FM-7"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "競合機種と同等のカラー表示にPSGがつき価格が安かったことから、FM-7は一定の普及をみて、富士通をパソコン御三家の地位にまで押し上げた。FM-7に端を発する低価格・高性能という路線はPCユーザ拡大に貢献し、'80年代パソコンブームの原動力となった。",
"title": "FM-7"
},
{
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"text": "FM-7が販売面で成功したのは本体価格が126,000円という低価格にもかかわらず、当時の最新機能を盛り込み1クラス上のPCに匹敵または凌駕する性能を備えていたことにある。同時期の人気機種は、NEC PC-8801(228,000円)、PC-9801(298,000円)、日立 ベーシックマスターレベル3(298,000円、後に価格改定)。学生を中心に人気があった「パピコン」ことNEC PC-6001(89,800円)やコモドールVIC-1001(69,800円)などの初心者PCのユーザー層にも大きな影響を与え、その成功からFM-7を引き継ぐ形で、後継機が完全上位互換で作られていく形になる。",
"title": "FM-7"
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"text": "FM-8から引き続き、広いメモリ領域とVRAM領域の確保と処理速度向上のためにメイン(演算部)、サブ(主にグラフィック部)に独立した6809を搭載する贅沢なアーキテクチャを採用した。FM-8を祖とするこの設計は、マルチCPUとしてではなく、ホストCPUと表示端末の関係にあり、サブCPUに処理の大きな表示周りの作業をさせることによるメインCPUの負担を軽減することに目的があった。また、このグラフィックスサブシステムの実装ではキャラクターコードをハードウェア的にフォントに展開するテキストVRAMを持たなかったため、20並びに25行のスクロール処理における転送量軽減のため、2ラインごとのハードウェアスクロール機能を備えている。ハードウェアによるスクロールが使えない画面モードでは、当時の処理速度と比較して広大なグラフィックVRAMを再描画する必要があり、リスト表示などでのスクロールのもたつきや、カーソルを移動するとその通り道にあったグラフィックも消えてしまうという制限も引き継いでいる。また、リアルタイムゲームが流行すると両システム間の転送容量に制限や処理のタイムラグがあったこと、キーボードのスキャンを専用CPUに任せ、チャタリング除去なども行っているためにBREAK以外のキーでは押下した結果しか認識できず、ユーザの間ではリアルタイムゲーム向きではないとされ、議論になった。前述のとおり、任意のコードの実行を想定して設計されているわけではないサブシステムではあったが、サブシステムモニタ開発時にデバッグ用に実装されたメンテナンスコマンドの利用や、そのノウハウの蓄積、後述する内部技術資料の積極的な公開により、サブシステムで任意のプログラムを実行することで描画の高速化や、高速にデータを転送するテクニックなどが考案され、ハードウェア的なキー入力の制限を除けば競合機種と同等のゲームが発売されるようになっていった。",
"title": "FM-7"
},
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"tag": "p",
"text": "他社と同様、富士通も本体添付品や別売マニュアルという形でBIOS、I/Oアドレス、ファームウェア、システムコマンド等を積極的に公開した。また富士通の支援により、FMシリーズ専門誌『Oh!FM』(日本ソフトバンク、後の『Oh!FM TOWNS』)をはじめとして、技術評論社や工学社などから『活用マニュアル』などと呼ばれる良質なリファレンスマニュアルが多く出版された。またショウルームやサポートセンター経由では、内部技術資料なども必要に応じて比較的簡単に入手できた。",
"title": "FM-7"
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{
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"tag": "p",
"text": "回路設計の問題としては、同等の音源を搭載した他機種に比較して、サウンド出力にデジタル回路からリークしたノイズも多く、音割れも見られた。",
"title": "FM-7"
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"text": "1985年、スペインのSECOINSA社という富士通に近い会社より FM-7 が販売されている。",
"title": "FM-7"
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{
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"text": "他のモデルのように実装機器による商品バリエーションは無いが、後期にリファインされた同等の機種が発売された。",
"title": "FM-7"
},
{
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"text": "FM-77(エフ・エム・セブン・セブン)は1984年、FM-7後継機種としてFM-NEW7とともに発売された。FM-11と同様にキーボードを分離し、3.5インチフロッピーディスクドライブ、JIS第一水準漢字ROMを本体に内蔵したモデルである。ディスク版F-BASIC V3.0L2.0とFM Logoが付属した。",
"title": "FM-77"
},
{
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"text": "キーボードはパラレルインターフェースで、コードは黄色い(D1/D2のみ。L2/L4は本体同色)カールコードとなっているが太い。本体色はオフホワイト。",
"title": "FM-77"
},
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"text": "本体の発熱量が高く、長時間使用し続けているとフロッピードライブに入れたディスクまで熱くなるという特徴があった。",
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"text": "拡張性がFM-7に比べ大きく向上し、メモリ管理ユニット(MMU)であるメモリ・マネージメント・レジスタ(MMR)を搭載してメイン側のメモリアドレス空間が256KiBに広がったほか、サブシステムが改良され、サイクルスチールによりVRAMアクセスのタイミングなどが向上し、表示が高速化された。ただし、MMR使用時にはMPUクロックが2MHzから1.6MHzに低下した。",
"title": "FM-77"
},
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"text": "専用オプションとして、400ラインセット、1MBフロッピィコントロールカード、スーパーインポーズユニットなども用意された。",
"title": "FM-77"
},
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"text": "400ラインセットは99,800円と大変高価であったため、後にRAM容量と日本語ワードプロセッサが削られた廉価版の400ラインセットIIが49,800円で用意された。",
"title": "FM-77"
},
{
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"text": "1MBフロッピィコントロールカードは当初F-BASIC V3.5とOS-9 Level II(OS-9 Level IIの起動にはRAMが最低128KB必要だが、400ラインカードはなくても可能)でしかサポートされていなかったが、後に400ラインセット不要で使用できるようにF-BASIC V3.1が用意された。",
"title": "FM-77"
},
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"text": "スーパーインポーズユニットは200ラインでしか使用できないため、400ラインセットとは排他的に使用する必要があった。",
"title": "FM-77"
},
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"text": "FM-7とはほぼ完全上位互換であるが、MPUクロックをFM-8相当に落とす機能は削除されている。",
"title": "FM-77"
},
{
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"text": "ブートモードは従来機種のディップスイッチ方式からボタン式スイッチ方式に変更され、BOOT1、BOOT2、BASICの3種類から選択できる。 BOOT1スイッチは1MBフロッピィDOSモード、BOOT2スイッチは320KBフロッピィDOSモード、BASICスイッチはF-BASICモードになっており、FM-7/NEW7と比較して1MBフロッピィDOSモードが追加された。なお、FM-NEW7と異なり全ロットでフロッピィディスクのステップレートの変更はできない。",
"title": "FM-77"
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"text": "また、グラフィックモードスイッチでサイクルスチールのON/OFFが選択でき、OFF時にはFM-7/NEW7同等の描画速度となる。",
"title": "FM-77"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "内蔵オプションは互換スロットが用意されていたため、FM-7用の各種増設カードはほぼそのまま使用可能になっているが、ミニフロッピィディスクインタフェースカード、漢字ROMカード等、すでに実装済の機能と等価の一部周辺機器については利用できない(利用する必要がない)。",
"title": "FM-77"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "外部オプションはインタフェースコネクタが変更されたため同じケーブルでは接続できなくなったが、信号線は変更されなかったため、ケーブルさえ用意できればFM-7用の各種外部オプションは使用可能。",
"title": "FM-77"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "FM77AVはFM-7/FM-77シリーズの上位機種となるシリーズ。1985年に初代機が発売され、FM TOWNSシリーズの発売される直前の1988年秋までマイナーチェンジが繰り返された。初代FM77AVはメタリックダークグレーに近い色であるが、基本的に黒に近い色を基調としたデザインでシリーズは展開されている。イメージキャラは南野陽子。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "FM16βSD/FM16π等と同様、FM-7の系譜では本機より、正式な機種名からは「FM」と「77」との間のハイフンは無くなった。しかし、従来機種の流れから、ソフトウェアパッケージや、雑誌記事、Webの記述などでは、ハイフンを入れて記述されることも多く見られる。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "従来の640ドット×200ライン8色が2画面持てるようになったほか、320ドット×200ライン4096色という当時では画期的な色数の同時発色を可能とし、キャッチコピーではカラー化した映画などで使われた語である「総天然色」にかけて「総、天、然、ショック。」とうたった。セットの専用モニターはテレビチューナー内蔵で、単体でもテレビ放送が受信可能でビデオ入力端子も装備(スピーカーはモノラル)。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "AV40シリーズでは全てのピクセルに対し26万色から任意の色を表示できるようになっているが、選択可能な色数が画素数を上回ったため広告から同時発色の記述はなくなっている。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "オプションのビデオディジタイズカード(現在でいうビデオキャプチャカード)増設で専用テレビを通じてテレビ放送・ビデオ入力などからの画像取り込みもできた。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "4096色モードではパレットの割り当てにより、重ね合わせ付きの64色2画面・16色3画面・8色4画面・単色12画面モードなどにすることができた。また、VRAMのオフセット指定による横8ドット/縦1ドットごとのハードウェアスクロール機能があり、オフセットは2画面別々に設定できた。このため、家庭用ゲーム機並みのゲーム画面も実現可能だった。アナログRGBディスプレイのコネクタおよびケーブルはEIAJ規格のRGB21ピンのクロスケーブルが使われた。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また、サブシステム側MPUを停止することにより、メインMPUからVRAMなどサブシステム側の資源に直接アクセスすることが可能になったほか、新サブシステムの機能としてハードウェアによる直線補間・論理演算機能付きのLINEコマンドやPAINTコマンドなどを搭載した。FM-8/7/77では1ドット単位で描画していたSYMBOLコマンドも直線補間機能を利用するようになり高速化している。キーボードは押下だけではなく開放も認識できるようになった。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "キーボードは初代FM77AVでは電話の受話器と同じ4ピンモジュラージャックを使用した細いカールコードによる接続で、初代FM77AVのキーボードは赤外線によるワイヤレス接続やnキーロールオーバーもサポートしていたが、これらの機能は後継機種ではコストダウンのため段階的に撤廃される。AV20/AV40では電話回線と同じ6ピンモジュラージャック、AV20EX/AV40EX/AV40SXはS端子と同形状の4ピンミニDINコネクタを使用している。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "キーボードエンコーダには仕掛けがあり、特定の操作をするとマニュアルに無い機能があったり、隠しメッセージが表示されるようになっている。",
"title": "FM77AV"
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{
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"text": "FM77AVシリーズは、1989年3月末までに累計10万台を販売した。",
"title": "FM77AV"
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"text": "FM-7/77シリーズとは高い互換性を持つ。",
"title": "FM77AV"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "内蔵オプションは、Z80カード用スロットが削除されたためメインCPUの切替が不可能になりCP/MなどのOSはサポートされなくなったが、FM-7互換スロットは用意されたため各種増設カードはほぼそのまま使用可能だった。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "外部オプションは、一部インタフェースが仕様変更されたためモジュール方式のI/O拡張ユニットやFM-77に用意された専用オプションなどは使用できなくなったが、プリンターなどはケーブルさえ用意すればそのまま使用可能だった。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "起動時のBASICモード/DOSモードを選択するブートモードスイッチおよびサイクルスチールのON/OFFを選択するグラフィックモードスイッチなど従来機種と同等のスイッチは用意されており、FM-7/77同様BASICモードでディスクを入れずに起動するとF-BASIC V3.0(ROMモード)が起動する。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "これはブート機構に工夫がなされており、リセットがかかると先ずイニシエータROMが表に出てそこから起動。画面モード、アナログパレットなど、新規デバイスの初期化を行い、モードスイッチを読み取ってBASIC ROMを有効化させたりRAM領域にするかなどの設定を行った後、従来のブート機構に制御を移すという2段構えの初期化機構が採用されており、これによって新たなモードスイッチを用いない上位互換を確保している。",
"title": "FM77AV"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "このため、FM77AV専用ではないアプリケーションソフトやゲームソフトにも、リアルタイムキースキャン・DMACに対応する「リバイバー」(アルシスソフトウェア)、DMACに対応する「キス・オブ・マーダー 殺意の接吻」(リバーヒルソフト)など、FM77AVで拡張されたハードウェアの機能を使用出来るようになっているものが存在する。",
"title": "FM77AV"
}
]
| FM-7(エフ・エム・セブン)は富士通が発売した8ビットパソコンであり、正式名称はFUJITSU MICRO 7。富士通はこのFM-7のヒットにより、シャープ、NECと共にパソコン御三家と呼ばれる様になる。 | {{ページ番号|date=2019年8月}}
'''FM-7'''(エフ・エム・セブン)は[[富士通]]が発売した8[[ビット]][[パーソナルコンピュータ|パソコン]]であり、正式名称はFUJITSU MICRO 7。富士通はこのFM-7のヒットにより、[[シャープ]]、[[日本電気|NEC]]と共に[[パソコン御三家]]と呼ばれる様になる。
== FM-7 ==
{{Infobox information appliance
| name = FM-7
| title =
| aka =
| logo = <!-- [[file:]]を使用 -->
| image = <!-- include the [[file:]] tag, and do specify the image's width-->
| caption = <!-- logoを指定しない場合に使用 -->
| developer = [[富士通]]
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| type = [[パーソナルコンピュータ]]
| generation =
| releasedate = {{Start date|1982|11|08}}<ref>「富士通、パソコン3機種を開発―1月から月産計3万台、半導体の社内販売急増へ」『日経産業新聞』 1982年11月9日、4面。</ref>
| lifespan =
| price = 126,000円
| discontinued = {{Start date|1984|04}}<ref name="fm7_discont">{{Cite book|和書|author=小林紀興|title=富士通の大逆襲計画|year=1987|publisher=講談社|ISBN=4061928074|page=95}}</ref>
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| website =
}}
FM-7は[[1982年]]11月8日、[[FM-8]]の[[廉価版]]後継機種として発売された{{Sfn |ASCII 1983年1月号 |p=82}}。開発時の名称はFM-8Jr.(ジュニア)。FM-8と一定の[[互換性]]があり、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]、[[オペレーティングシステム|OS]]([[CP/M]]、[[:en:FLEX (operating system)|FLEX]]、[[UCSD Pascal]]{{Sfn |ASCII 1983年1月号 |p=83}}、[[OS-9]])、開発言語、ツール、周辺機器の資産継承が考慮されていた。FM-8を含んで、FM-7/8シリーズと呼ばれ、CPUの高速化等、実質的にはFM-8の性能が向上した後継機にあたる。
モトローラ社のMPU [[MC6809|68B09]]をメインCPUとグラフィックを独立制御するディスプレイサブシステムへそれぞれ搭載する2CPUのアーキテクチャを採用。FM-8と同様にオプションの[[Z80]]カードが搭載可能{{efn2|回路はほぼ同じだがFM-8用と形状が異なり互換性はない。}}になっており、[[CP/M]]や、[[Oh!X]]で使われた[[Oh!X#S-OS|S-OS"SWORD"]]など、Z80CPUベースのシステムを動作させることも可能{{efn2|同時にZ80エミュレーション版も同時に掲載されており、速度は遅いものの、Z80カードなしでもSWORDは実行可能になっている。}}になっている。このZ80カード用スロットは後にユーザベースで[[MC6809#6309|63C09]]を搭載するハードウェアにも使われた。F-BASIC V3.0がROMに搭載されている。[[漢字]]ROMカード、[[フロッピーディスク]]ドライブ{{efn2|発売当初は5.25インチのみ。後に3.5インチも発売される。}}はオプション。
発売当初の[[イメージキャラクター]]は[[タモリ]]。キャッチコピーは「青少年は興奮する」<ref>『年鑑広告キャンペーン 1983』222-223頁。{{NDLJP|12022603/114}}</ref>。
競合機種と同等のカラー表示にPSGがつき価格が安かったことから、FM-7は一定の普及をみて、富士通をパソコン御三家の地位にまで押し上げた。FM-7に端を発する低価格・高性能という路線はPCユーザ拡大に貢献し、'80年代パソコン[[流行|ブーム]]の原動力となった。
FM-7が販売面で成功したのは本体価格が126,000円という低価格にもかかわらず、当時の最新機能を盛り込み1クラス上のPCに匹敵または凌駕する性能を備えていたことにある。同時期の人気機種は、NEC [[PC-8801]](228,000円)、[[PC-9801]](298,000円)、日立 [[ベーシックマスター]]レベル3(298,000円、後に価格改定)。学生を中心に人気があった「パピコン」ことNEC [[PC-6001]](89,800円)や[[コモドール]][[VIC-1001]](69,800円)などの初心者PCのユーザー層にも大きな影響を与え、その成功からFM-7を引き継ぐ形で、後継機が完全上位互換で作られていく形になる。
FM-8から引き続き、広いメモリ領域と[[VRAM]]領域の確保と処理速度向上のためにメイン(演算部)、サブ(主にグラフィック部)に独立した6809を搭載する贅沢なアーキテクチャを採用した。FM-8を祖とするこの設計は、マルチCPUとしてではなく、ホストCPUと表示端末の関係にあり、サブCPUに処理の大きな表示周りの作業をさせることによるメインCPUの負担を軽減することに目的があった。また、このグラフィックスサブシステムの実装ではキャラクターコードをハードウェア的にフォントに展開するテキストVRAMを持たなかったため、20並びに25行のスクロール処理における転送量軽減のため、2ラインごと{{efn2|200ラインのグラフィック画面で10ラインと、8ライン単位のスクロールを実現するため、公約数の2ラインごとのオフセット表示が実装されている。}}のハードウェアスクロール機能を備えている。ハードウェアによるスクロールが使えない画面モードでは、当時の処理速度と比較して広大なグラフィックVRAMを再描画する必要があり、リスト表示などでのスクロールのもたつきや、カーソルを移動するとその通り道にあったグラフィックも消えてしまうという制限も引き継いでいる。また、[[アクションゲーム|リアルタイムゲーム]]が流行すると両システム間の転送容量に制限や処理のタイムラグがあったこと、キーボードのスキャンを専用CPUに任せ、チャタリング除去なども行っているためにBREAK以外のキーでは押下した結果しか認識できず、ユーザの間ではリアルタイムゲーム向きではないとされ、議論になった{{efn2|多くのアクションゲームではキーの押下時にその方向へ直進し、キーを離す代わりに主にテンキーの5等、別のキーを押下させることでキーの開放の代わりとして停止するなど特徴的な実装がなされ、シューティングゲームなど同じキーに対して連続したキー入力が必要な機能にはBREAKキーを割り当てる形になっていた。}}。前述のとおり、任意のコードの実行を想定して設計されているわけではないサブシステムではあったが、サブシステムモニタ開発時にデバッグ用に実装されたメンテナンスコマンド{{efn2|正式名称はTESTコマンド。FM-8では、コマンド$3Fに続き、サブシステムの開発者の名前であるYAMAUCHIの8文字を渡す必要があったため、通称YAMAUCHIコマンドと呼ばれる。FM-7以降は任意の8文字を渡すことで実行できることから、その場所を8バイトのワークとして使うことも可能だった。}}の利用や、そのノウハウの蓄積、後述する内部技術資料の積極的な公開により、サブシステムで任意のプログラムを実行することで描画の高速化や、高速にデータを転送するテクニックなどが考案され、ハードウェア的なキー入力の制限を除けば競合機種と同等のゲームが発売されるようになっていった。
他社と同様、富士通も本体添付品や別売マニュアルという形で[[Basic Input/Output System|BIOS]]、I/Oアドレス、ファームウェア、システムコマンド等を積極的に公開した。また富士通の支援により、FMシリーズ専門誌『[[Oh!FM]]』([[ソフトバンク|日本ソフトバンク]]、後の『Oh!FM TOWNS』)をはじめとして、[[技術評論社]]や[[工学社]]などから『活用マニュアル』などと呼ばれる良質なリファレンスマニュアルが多く出版された。またショウルームやサポートセンター経由では、内部技術資料なども必要に応じて比較的簡単に入手できた。
回路設計の問題としては、同等の音源を搭載した他機種に比較して、サウンド出力にデジタル回路からリークしたノイズも多く、音割れも見られた。
1985年、スペインのSECOINSA社という富士通に近い会社より FM-7 が販売されている<ref>[https://terrytak.web.fc2.com/0407.html フジツウ・エスパーニャ (FESA) 同窓会]</ref><ref>[http://museo8bits.com/ficha.php?nombre=fm7 Fujitsu / Secoinsa FM-7]</ref><ref>[http://zonadepruebas.org/deepfb/ordenadores/fm7/fm7.htm Fujitsu FM-7 (Fujitsu Micro 7)]</ref>。
=== 従来機種との互換性 ===
; FM-8との主な共通点。
* [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]一体型筐体。
* メモリマップ、[[入出力|I/O]]マップ等の設計。
* サブシステムに関する機能、設計。
** メイン側とは128バイトの共有RAMを通じてコマンドやデータをやりとりする。
** 表示画面(640×200ドット、8色。グラフィックスサブシステムによって、テキストもグラフィック画面へ描画される。{{efn2|同世代の他機種の様に独立したテキスト[[VRAM]]という概念はなく、サブCPU側にテキスト・アトリビュート領域として用意された約4KBの「コンソールバッファ」がそれに相当する。}})
*** ハードウェアで画面の2ライン単位での縦スクロール並びに、256ドット単位と実用的ではないが横スクロールも可能。
** キースキャンに専用4ビットマイコンを使用したキーボード{{efn2|BREAKキーのみメインCPUに対してハードウェア割り込みを発生したり、メインCPU側の専用I/Oで押下/解放の判定が可能になっているが、キーボードはメインシステム/サブシステムに対して文字コードしか送信しないため、それ以外のキーは開放されたことを検出する手段が無い。[[nキーロールオーバー]]、キーリピートに対応している。}}。
; FM-8との主な差異。
* MPUクロックの高速化(メイン1.2MHz→2MHz、サブ1MHz→2MHz)。
** FM-8と同じ速度にするモードもある。
* ソフトウェア制御可能なF-BASIC ROMとRAMの[[バンク切替]]機能の追加。
** これはFM-8でROM-BASIC以外のOSを利用するためにDIP-SWにてBASIC ROMを切り離し全メモリ領域をRAMとして利用するために用意されていた機構がソフトウェア制御にて可能になったもの{{efn2|システムROMの裏側に隠れているため同様の仕組みは他の機種も含め「裏RAM」という俗称で呼ばれていた。}}。データレコーダからソフトウェアをロードする当時のシステムで32KB多くRAM領域を確保できることは非常に有効であり、FM-7専用ゲームソフトがFM-8で動作しない大きな原因の一つにもなった{{efn2|それを可能にするための改造は当時非常にポピュラーなFM-8のハードウェア改造の一つであった。}}。
* サウンド機能(PSG3声)、[[インデックスカラー|カラーパレット]]機能、マルチページ機能の追加。
* キーボードのメインCPU側からのBREAKキー以外のキーコード読み取り機能、メインCPU側へのキーボード及びタイマ割り込み機能を追加。
* 拡張スロットを内蔵し、工具を使用せずにオプションカードの増設が可能。
** 拡張スロット用カードとして、漢字ROMカード(JIS第一水準のみ搭載)、FDDインタフェースカード、RS-232Cカード、Z80 CPUカード、音声合成ボードなどが発売された。
* 使用頻度の低い[[RS-232|RS-232C]]、アナログ入力ポート{{efn2|FM-8では主に[[ジョイスティック]]の接続に用いられた。}}、[[磁気バブル|バブルカセット]]ホルダ等の機能を削除。
** プリンタポート(パラレルポート)に接続する[[ジョイスティック]]がいくつかの[[サードパーティー]]から発売されていた。
** ごく初期にはFM-8互換のアナログ入力ポートを増設して接続する[[ジョイスティック]]も発売されていた。
** 後にFM音源カードが富士通[[純正]]のオプションとして発売され、これには[[Atari 2600#コントローラ|ATARI仕様]]のジョイスティック端子も装備していた。
** RS-232Cインタフェース+漢字ROM+辞書ROMを搭載した日本語通信カードも、FM77AVシリーズ末期の時代に純正オプションとして発売された。
* キーボード専用マイコンの仕様改善{{efn2|たとえば「"」を入力する場合、FM-8では「2」キーよりも先にShiftキーを離すと、数字の「2」を続いて入力したとみなされ、「"2」がサブシステムへ渡されたが、FM-7ではShiftキーを先に離しても「"」のみが入力されるようになった。}}。
*富士通から発売された[[MSX]]規格パソコンである[[FM-X]]と連携動作を可能とするインタフェイスボードが発売されていた。
=== 基本仕様 ===
; FM-7
* [[CPU]]: メイン [[MC6809|MBL68B09]](入力外部周波数4.9/8MHz切換機能付{{Sfn |ASCII 1983年1月号 |p=82}})、サブ MC6809(入力外部周波数4/8MHz切換機能付)
* ROM: F-BASIC 32KB、ブートローダ 2KB、サブシステムモニタ 8KB、キャラクタ 2KB
* RAM: メイン64KB(BASICでのフリーエリアは32KB)、コンソール処理用4KB<ref name="名前なし-1">富士通 FM-7 ユーザーズマニュアル システム解説書</ref>、[[VRAM]] 48KB
* Text Mode: 80×20/25、40×20/25{{efn2|グラフィックス画面にフォントを直接描画。}}
* Graphic Mode: 640×200モノクロ3プレーン若しくはカラー1プレーン。パレット機能付き。
* Sound: PSG([[Programmable Sound Generator#AY-3-8910の仕様|AY-3-8910]]あるいはAY-3-8913などの相当品); 入力クロックは 1.2288 MHz
* 電源(消費電力): AC100V 50/60Hz(最大70W)
* 使用条件: 温度 0〜35℃,湿度 20〜80%,(ただし結露しない事)
; 本体添付品
* 簡易言語 NEW VIPカセットテープ(表計算ソフト)
* 簡易言語 NEW VIP操作マニュアル
* FM-7 ユーザーズマニュアル システム解説書
* FM-7 ユーザーズマニュアル システム仕様書
* FM-7 F-BASIC 文法書
* FM-7 F-BASIC ポケットブック
* FMシリーズ F-BASIC入門
; オプション
* 本体内蔵オプション:
** MB22405 漢字ROMカード([[JIS_X_0208#漢字集合|JIS第一水準漢字]]ROM)
** MB22435 ひらがなROMカード
** MB22407 [[フロッピーディスク|ミニフロッピィ]]インタフェースカード
** MB28021 [[Z80]]カード(5"版 CP/M-80とのセット)
** MB22406 [[RS-232C]]カード
** MB22436 [[マウス_(コンピュータ)|マウス]]セット
** MB22437 音声合成カード
** MB22459 [[FM音源]]カード([[YM2203]]搭載)
** FM77-101 日本語通信カード([[RS-232C]]インタフェース、JIS第一水準漢字ROM、辞書ROMを搭載)
* 外部オプション:
** MB26002 I/O拡張ユニット{{Sfn |ASCII 1983年7月号|p=160}}
** MB27607 薄型ミニFDユニット{{Sfn |ASCII 1983年7月号|p=161}}
** MB27608 FD増設ユニット{{Sfn |ASCII 1983年7月号|p=161}}
** MB22439 [[MIDI]]アダプタ
** MB27501 FMデータレコーダー{{Sfn |ASCII 1983年7月号|p=161}}
** FM-8用ミニフロッピィアダプタ。本体I/O拡張コネクタへ接続<ref name="名前なし-1"/>。
* 動作する主要OS:
** [[OS-9]]/6809 Level 1
** [[:en:FLEX (operating system)|FLEX]]
** [[CP/M-80]](Z80カード使用時)
=== FM-7シリーズ ===
他のモデルのように実装機器による商品バリエーションは無いが、後期にリファインされた同等の機種が発売された。
* FM-7 [MB25010]([[1982年]]11月発売)126,000円。
[[ファイル:FM-New7, May 2013.jpg|thumb|FM-New7]]
* FM-NEW7 [MB25015]([[1984年]]5月発売)99,800円。
** FM-7の廉価モデル。ゲートアレイの利用により集積率を上げ、基板のサイズ、レイアウトは大幅に変更された他、ROM BASICなどでバグが修正されている等の違いはあるが機種としてはほぼ等価である。簡易言語 NEW VIPの添付がなくなった。初期ロットではフロッピィディスクのステップレートを変更できる新ブートROMを搭載していたが、いくつかの市販ソフトが動作しない問題があったためすぐにFM-7のブートROMに戻された。
== FM-77 ==
{{Infobox information appliance
| name = FM-77
| title =
| aka =
| logo = <!-- [[file:]]を使用 -->
| image = <!-- include the [[file:]] tag, and do specify the image's width-->
| caption = <!-- logoを指定しない場合に使用 -->
| developer = [[富士通]]
| manufacturer =
| family =
| type = [[パーソナルコンピュータ]]
| generation =
| releasedate =
| lifespan =
| price =
| discontinued =
| unitssold =
| unitsshipped =
| media =
| os =
| power =
| soc = <!-- system-on-chip -->
| cpu =
| memory =
| storage =
| memory card =
| display =
| graphics =
| sound =
| input =
| controllers =
| camera =
| touchpad =
| connectivity =
| platform = <!-- ...unless the appliance is a platform itself -->
| service = <!-- 提供されているオンラインサービス -->
| dimensions =
| weight =
| topgame =
| compatibility=
| predecessor = FM-NEW7
| successor = FM77AV
| related =
| website =
}}
'''FM-77'''(エフ・エム・セブン・セブン)は[[1984年]]、FM-7後継機種としてFM-NEW7とともに発売された。[[FM-11]]と同様にキーボードを分離し、3.5インチ[[フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブ]]、[[日本工業規格|JIS]]第一水準漢字ROMを本体に内蔵したモデルである。ディスク版F-BASIC V3.0L2.0と[[LOGO|FM Logo]]が付属した。
キーボードはパラレルインターフェースで、コードは黄色い(D1/D2のみ。L2/L4は本体同色)カールコードとなっているが太い。本体色はオフホワイト。
本体の発熱量が高く、長時間使用し続けているとフロッピードライブに入れたディスクまで熱くなるという特徴があった。
拡張性がFM-7に比べ大きく向上し、[[メモリ管理ユニット]](MMU)であるメモリ・マネージメント・レジスタ(MMR)を搭載してメイン側の[[メモリ]]アドレス空間が256KiBに広がったほか、サブシステムが改良され、[[サイクルスチール]]によりVRAMアクセスのタイミングなどが向上し、表示が高速化された。ただし、MMR使用時にはMPUクロックが2MHzから1.6MHzに低下した。
専用オプションとして、400ラインセット、1MBフロッピィコントロールカード、スーパーインポーズユニットなども用意された。
400ラインセットは99,800円と大変高価であったため、後にRAM容量と日本語ワードプロセッサが削られた廉価版の400ラインセットIIが49,800円で用意された。
1MBフロッピィコントロールカードは当初F-BASIC V3.5とOS-9 Level II(OS-9 Level IIの起動にはRAMが最低128KB必要だが、400ラインカードはなくても可能)でしかサポートされていなかったが、後に400ラインセット不要で使用できるようにF-BASIC V3.1が用意された。
スーパーインポーズユニットは200ラインでしか使用できないため、400ラインセットとは排他的に使用する必要があった。
=== 従来機種との互換性 ===
FM-7とはほぼ完全上位互換であるが、MPUクロックをFM-8相当に落とす機能は削除されている。
ブートモードは従来機種のディップスイッチ方式からボタン式スイッチ方式に変更され、BOOT1、BOOT2、BASICの3種類から選択できる。
BOOT1スイッチは1MBフロッピィDOSモード、BOOT2スイッチは320KBフロッピィDOSモード、BASICスイッチはF-BASICモードになっており、FM-7/NEW7と比較して1MBフロッピィDOSモードが追加された。なお、FM-NEW7と異なり全ロットでフロッピィディスクのステップレートの変更はできない。
また、グラフィックモードスイッチで[[サイクルスチール]]のON/OFFが選択でき、OFF時にはFM-7/NEW7同等の描画速度となる。
内蔵オプションは互換スロットが用意されていたため、FM-7用の各種増設カードはほぼそのまま使用可能になっているが、ミニフロッピィディスクインタフェースカード、漢字ROMカード等、すでに実装済の機能と等価の一部周辺機器については利用できない(利用する必要がない)。
外部オプションはインタフェースコネクタが変更されたため同じケーブルでは接続できなくなったが、信号線は変更されなかったため、ケーブルさえ用意できればFM-7用の各種外部オプションは使用可能。
=== 基本仕様 ===
; FM-77D1/D2
* CPU: メインMC6809(2MHz)、サブ[[MC6809|MBL68B09E]](2MHz)
* ROM: F-BASIC 32KB、ブートローダ 4KB、サブシステムモニタ 8KB、キャラクタ 2KB、JIS第一水準漢字 128KB
* RAM: メイン64KB(最大256KB)、サブ5KB、[[VRAM]] 48KB
* [[フロッピーディスク|FDD]]: 3.5"2D×2(D2),3.5"2D(D1)
* OS: F-BASIC V3.0L2.0、FM Logo
* Text Mode: 80×20/25、40×20/25
* Graphic Mode: 640×200モノクロ3プレーン若しくはカラー1プレーン。パレット機能付き。
* Sound: PSG([[Programmable Sound Generator#AY-3-8910の仕様|AY-3-8910]])
* 電源(消費電力):AC100V 50/60Hz(最大100W)
* 使用条件:温度 5〜35℃、湿度 20〜80%(ただし結露しない事)
; 本体添付品
* FM Logo(作図言語)
* FM-77 77をつかおう
* FM-77 ユーザーズマニュアル F-BASIC入門
* FM-77 ユーザーズマニュアル ファームウェア解説
* FM-77 ユーザーズマニュアル ハードウェア解説
* FM-77 F-BASIC 文法書
* FM-77 ディスクユーティリティ操作手引書
* FMシリーズ FM Logo プログラミング入門
* FMシリーズ FM Logo V2.0 リファレンスマニュアル
; 追加オプション(基本はFM-7に準ずる)
* 本体内蔵オプション:
** MB28121 400ラインセット(400ラインカード、192KB [[Random Access Memory|RAM]]カード、F-BASIC V3.5、日本語[[ワードプロセッサ]]FM-JWP/77 のセット)
** MB28122 400ラインセットII(400ラインカード、64KB [[Random Access Memory|RAM]]カード、F-BASIC V3.5 のセット)
** MB22454 1MBフロッピィコントロールカード
** MB28021J Z80カード(3.5"版 CP/M-80とのセット)
* 外部オプション:
** MB22610 スーパーインポーズユニット
** MB26002J I/O拡張ユニット(接続ケーブルがFM-7と異なる)
** MB22439J MIDIアダプタ(接続ケーブルがFM-7と異なる)
* 動作する主要OS:
** F-BASIC V3.5(400ラインセット使用時)
** [[OS-9]]/6809 Level 2(400ラインセット使用時{{efn2|ただし必要となるのは拡張RAMカードであり、400ラインカードはなくても起動時に警告は出るものの動作する。}})
=== FM-77シリーズ ===
* 初代([[1984年]]5月発売)カールコード黄色。
** FM-77D1 [MB25240] FDD1基搭載。198,000円。
** FM-77D2 [MB25250] FDD2基搭載。228,000円。1984年度グッドデザイン賞受賞<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/10619 受賞番号:59K1044(受賞対象:FM-77D2(MB-25250))]</ref>
* 二代目 FDD2基搭載。カールコード白色。
** FM-77L4 [MB25260]([[1985年]]2月発売)400ラインセットII搭載。F-BASIC V3.5付属。238,000円。
** FM-77L2 [MB25255]([[1985年]]5月発売)[[FM音源]]カード搭載。193,000円。
== FM77AV ==
{{Infobox information appliance
| name = FM77AV
| title =
| aka =
| logo = <!-- [[file:]]を使用 -->
| image = <!-- include the [[file:]] tag, and do specify the image's width-->
| caption = <!-- logoを指定しない場合に使用 -->
| developer = [[富士通]]
| manufacturer =
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| type = [[パーソナルコンピュータ]]
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| releasedate =
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| compatibility=
| predecessor = FM-77
| successor =
| related =
| website =
}}
'''FM77AV'''はFM-7/FM-77シリーズの上位機種となるシリーズ。[[1985年]]に初代機が発売され、[[FM TOWNS]]シリーズの発売される直前の[[1988年]]秋までマイナーチェンジが繰り返された。初代FM77AVはメタリックダークグレーに近い色であるが、基本的に黒に近い色を基調としたデザインでシリーズは展開されている。イメージキャラは[[南野陽子]]。
FM16βSD/FM16π等と同様、FM-7の系譜では本機より、正式な機種名からは「FM」と「77」との間のハイフンは無くなった。しかし、従来機種の流れから、ソフトウェアパッケージや、雑誌記事、Webの記述などでは、ハイフンを入れて記述されることも多く見られる。
従来の640ドット×200ライン8色が2画面持てるようになったほか、320ドット×200ライン4096色という当時では画期的な色数の同時発色を可能とし、キャッチコピーではカラー化した映画などで使われた語である「総天然色」にかけて「総、天、然、ショック。」とうたった。セットの専用[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]は[[テレビ]][[チューナー]]内蔵で、単体でも[[NTSC|テレビ放送]]が受信可能で[[コンポジット映像信号|ビデオ]]入力端子も装備([[スピーカー]]は[[モノラル]])。
AV40シリーズでは全てのピクセルに対し26万色から任意の色を表示できるようになっているが、選択可能な色数が画素数を上回ったため広告から同時発色の記述はなくなっている。
オプションのビデオディジタイズカード(現在でいうビデオキャプチャカード)増設で専用テレビを通じて[[テレビ]]放送・[[ビデオ信号記録装置|ビデオ]]入力などからの画像取り込みもできた。
4096色モードではパレットの割り当てにより、重ね合わせ付きの64色2画面・16色3画面・8色4画面・単色12画面モードなどにすることができた。また、VRAMのオフセット指定による横8ドット/縦1ドットごとのハードウェアスクロール機能があり、オフセットは2画面別々に設定できた。このため、[[家庭用ゲーム機]]並みの[[ゲーム]]画面も実現可能だった。アナログRGBディスプレイのコネクタおよびケーブルは[[EIAJ]]規格の[[RGB21ピン]]のクロスケーブルが使われた。
また、サブシステム側MPUを停止することにより、メインMPUからVRAMなどサブシステム側の資源に直接アクセスすることが可能になったほか、新サブシステムの機能としてハードウェアによる直線補間・論理演算機能付きのLINEコマンドやPAINTコマンドなどを搭載した。FM-8/7/77では1ドット単位で描画していたSYMBOLコマンドも直線補間機能を利用するようになり高速化している。キーボードは押下だけではなく開放も認識できる{{efn2|キーを押した時にMakeコード、キーを離した時にBreakコードが発行される機能が新設された。従って、基本的にはFM77AVシリーズ専用として新たに作られたソフトウェアでなければメリットは享受できない。}}ようになった。
キーボードは初代FM77AVでは電話の受話器と同じ4ピン[[Registered jack|モジュラージャック]]を使用した細いカールコードによる接続<ref>[https://classicpc.org/jp/category/item/itemgenre/fm77/ FM77 | クラシックPC研究会]</ref>で、初代FM77AVのキーボードは[[赤外線]]によるワイヤレス接続やnキーロールオーバーもサポートしていたが、これらの機能は後継機種ではコストダウンのため段階的に撤廃される。AV20/AV40では電話回線と同じ6ピンモジュラージャック、AV20EX/AV40EX/AV40SXは[[S端子]]と同形状の4ピン[[ミニDINコネクタ]]を使用している。
キーボードエンコーダには仕掛けがあり、特定の操作をするとマニュアルに無い機能があったり、隠しメッセージが表示されるようになっている。
FM77AVシリーズは、1989年3月末までに累計10万台を販売した<ref>『コンピュートピア』1989年5月号、16頁。{{NDLJP|3250143/9}} - 原文では「FM77シリーズ」表記だが、昭和60年に販売とある。</ref>。
=== 従来機種との互換性 ===
FM-7/77シリーズとは高い互換性を持つ。
内蔵オプションは、[[Z80]]カード用スロットが削除されたためメインCPUの切替が不可能になり[[CP/M]]などのOSはサポートされなくなったが、FM-7互換スロットは用意されたため各種増設カードはほぼそのまま使用可能だった。
外部オプションは、一部インタフェースが仕様変更されたためモジュール方式のI/O拡張ユニットやFM-77に用意された専用オプションなどは使用できなくなったが、[[プリンター]]などはケーブルさえ用意すればそのまま使用可能だった。
起動時のBASICモード/DOSモードを選択するブートモードスイッチおよび[[サイクルスチール]]のON/OFFを選択するグラフィックモードスイッチなど従来機種と同等のスイッチは用意されており、FM-7/77同様BASICモード{{efn2|初代FM77AVのみ。FM77AV20/AV40以降はDOSモードでも同様にF-BASIC V3.0が起動する。}}でディスクを入れずに起動するとF-BASIC V3.0(ROMモード)が起動する。
これはブート機構に工夫がなされており、リセットがかかると先ずイニシエータROMが表に出てそこから起動。画面モード、アナログパレットなど{{efn2|AV20/40/20EX/40EX/40SXではメモリマッピングレジスタなども追加。}}、新規デバイスの初期化を行い、モードスイッチを読み取ってBASIC ROMを有効化させたりRAM領域にするかなどの設定を行った後、従来のブート機構に制御を移す{{efn2|初代FM77AVのみ。FM77AV20/AV40以降は任意のドライブから起動可能な新たなブート機構をRAMに展開し、そこに制御を移している。}}という2段構えの初期化機構が採用されており、これによって新たなモードスイッチを用いない上位互換を確保している。
このため、FM77AV専用ではないアプリケーションソフトやゲームソフトにも、リアルタイムキースキャン・DMACに対応する「リバイバー」([[サイバーヘッド (ゲーム会社)|アルシスソフトウェア]])、DMACに対応する「キス・オブ・マーダー 殺意の接吻」([[リバーヒルソフト]])など、FM77AVで拡張されたハードウェア{{efn2|VRAMのバンク切り替えやMMRやダイレクトアクセスやキーボードエンコーダの新機能など。}}の機能を使用出来るようになっているものが存在する。
=== 基本仕様 ===
; FM77AV-1/2
* CPU: MC6809(2MHz)×2(メイン、サブ)
* ROM: F-BASIC 32KB、イニシエータ 8KB、サブシステムモニタ 28KB、キャラクタ 4KB、JIS第一水準漢字 128KB
* RAM: メイン128KB(最大192KB)、サブ5KB、[[VRAM]] 96KB
* FDD: 3.5"2D×2(AV-2),3.5"2D(AV-1)
* OS: F-BASIC V3.3L10
* Text Mode: 80×20/25(3bit color),40×20/25(3bit color/12bit color) character
* Graphic Mode: 640×200(3bit color)×2,320×200(12bit color) pixel
* Sound: [[YM2203]]による[[FM音源]]、SSGを各々8オクターブの音域で3音同時出力可能。
* キーボード: シリンドリカル・ステップドスカルプチャキーボード、nキーロールオーバー機能、ワイヤレス機能搭載
* ジョイスティック: アタリ規格9pin端子×2
; 追加オプション(基本はFM-7に準ずる)
* 内部オプション
** FM77MD201/FM77MD202 モデムカード-1200
** FM77-121 SCSIカード
** FM77EM64 拡張RAMカード-64(AV用)
** FM77EM64A 拡張RAMカード-64(AV20/AV20EX用)
** FM77EM256 拡張RAMカード-256(AV40/AV40EX/AV40SX用)
** FM77-211 日本語カード(AV/AV20/AV20EX用、JIS第二水準漢字ROM、辞書ROM、64KB RAMを搭載。学習RAMのバッテリーバックアップ機能付き)
** FM77-411 ビデオディジタイズカード(AV用)
** FM77-412 ビデオディジタイズカード(AV40/AV20用)
** FM77-413 ビデオディジタイズカード(AV40EX/AV20EX用)
** FM77-414 ビデオカード(AV20EX/AV40EX用。ビデオディジタイズカードにビデオコンバート機能を追加したもの)
** FM77-171 文字放送カード
** FM77-143 ハンディイメージスキャナインタフェースカード
** FM77-421 音声認識カード
** FM77-431 音声合成カード
* 外部オプション
** FM77-601 I/O拡張ユニット(FM-7/77のものとは異なり、内部オプションの32ピンカードが3枚装着できるユニット。FM-7/77でも使用可能)
** FM77-401 MIDIアダプタ
** FMAV-401 ステレオミュージックボックス(本体と別にMML解析用のCPUや[[YM2151|FM音源]]を搭載したインテリジェントな[[MIDI]]楽器。FM-7/77でも使用可能。)
* 動作する主要OS:
** [[OS-9]]/6809 Level 2
=== FM77AVシリーズ ===
* 初代([[1985年]]10月発売)ワイヤレスキーボード、nキーロールオーバー対応。F-BASIC V3.3L10添付。
** FM77AV-1 FDD1基搭載。128,000円。
** FM77AV-2 FDD2基搭載。158,000円。
* 二代目([[1986年]]発売)2DD/2D兼用FDD搭載、ワイヤレスキーボード、[[nキーロールオーバー|2キーロールオーバー]]。
** FM77AV20-1 FDD1基搭載。138,000円。F-BASIC V3.3L20添付。
** FM77AV20-2 FDD2基搭載。168,000円。F-BASIC V3.3L20添付。
** FM77AV40 FDD2基搭載。228,000円。日本語カード搭載。VRAM144KB(320×200×262,144色1画面・640×400×8色1画面)、[[Direct Memory Access|DMAC]]追加。F-BASIC V3.4L10添付。MMUのアドレス空間が1MiBに拡張され、最大搭載メモリが、960KBとなっている。
* 三代目([[1987年]]発売)2DD/2D兼用FDD2基搭載。MMR使用時にクロックスピードが2MHz→1.6MHzに落ちないモードを追加{{efn2|実際にはMMRの有効/無効に関わらずメモリアクセスがノーウェイトで行われる。}}。
** FM77AV20EX 128,000円。カセットインターフェースが廃止。[[Direct Memory Access|DMAC]]追加。F-BASIC V3.3L30添付。
** FM77AV40EX 168,000円。VRAM192KB、640×400×8色・320×200×4096色 2画面・640×200×8色 4画面。F-BASIC V3.4L20添付。
* 最終機([[1988年]]11月発売)本体色変更(黒色→マーブル色)
** FM77AV40SX 178,000円。F-BASIC V3.4L21添付。
*** ビデオディジタイズ、スーパーインポーズ等ができる機能を標準で搭載したFM77AV40EXのマイナーチェンジモデル。RGB出力端子はそれまでのEIAJ-21ピン端子から、D-sub25ピンに変更されている。また、FM77AV40EXでは隠し機能{{efn2|基板上のジャンパピンをはずすことによって有効になる。}}だったアップスキャンコンバータ(HSYNC 15kHzから24kHzへの変換)が正式な機能となった他、カセットインターフェースが廃止されている。ビデオディジタイズ・ビデオコンバート機能(FM77-414相当)を標準装備。グレー色の本体の前面とキーボードの上面に大理石のような塗装が施されており、[[墓石]]パソコンと呼ばれることもあった。FM-7シリーズの最終機となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年1月号 |volume=7 |issue=1 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-1-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年1月号}} }}
* {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年1月号 |volume=7 |issue=7 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-7-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年7月号}} }}
=== 関連書籍 ===
* 「FM-7/8活用研究」 工学社 1983年。
* 「[[Oh!FM]]」日本ソフトバンク。
== 関連項目 ==
* [[FM-8]]
* [[FM-11|FM-11シリーズ]]
* [[FM-X]]
* [[FM-16β|FM-16βシリーズ]]
* [[FM-16π]]
* [[FMRシリーズ]]
* [[FM TOWNS|FM TOWNSシリーズ]]
* [[FMV|FMVシリーズ]]
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}}
* [https://www.fujitsu.com/jp/about/plus/museum/products/computer/personalcomputer/fm7.html 富士通ミュージアム FM-7]
* [http://fm-7.com/ Oh!FM-7]
* [http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0017.html コンピュータ博物館:日本のコンピュータ:パーソナルコンピュータ:富士通:FM77AV(エフエム セブン セブン エー ブイ)]
* [https://web.archive.org/web/20010720011635/http://www.asahi-net.or.jp/~BY3H-OND/ Version(R)'s HOMEPAGE]
{{Computer-stub}}
{{富士通のパーソナルコンピュータ}}
{{富士通}}
[[Category:富士通のパーソナルコンピュータ]]
[[Category:富士通の歴史]]
[[Category:グッドデザイン賞]] | null | 2023-06-02T00:02:50Z | false | false | false | [
"Template:Cite journal",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:Computer-stub",
"Template:Reflist",
"Template:NDLJP",
"Template:Sfn",
"Template:Efn2",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:富士通のパーソナルコンピュータ",
"Template:富士通",
"Template:ページ番号",
"Template:Infobox information appliance"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/FM-7 |
1,493 | ソースコード | ソースコード(英: source code)は、プログラミング言語で書かれた、コンピュータプログラムを表現する文字列(テキストまたはテキストファイル)である。
ソースコードはプログラミング言語を用いて書かれるものであり、各種コンピュータハードウェア(プロセッサ)のための機械語や仮想機械のための中間表現(バイトコード)よりも、人間が読み書きするのに適している。
ソースコードをコンピュータがどのように処理するかは、そのプログラミング言語の処理系によってさまざまである。与えられたソースコードをそのまま、インタプリタによって逐次的に実行する処理系もあるし、事前にソースコードをコンパイラによって機械語(またはアセンブリ言語)で書かれたオブジェクトコードに変換し、リンカによってライブラリやリソースと結合して実行可能ファイル(ロードモジュール)を生成し、オペレーティングシステムがその実行可能ファイルをメモリに読み込んでプログラムを実行するケースもある。コンパイル時に機械語には直接変換せず、いったん仮想機械向けの中間表現に変換しておき、実行時コンパイラによってプログラム実行時に環境に合わせた機械語にコンパイルする処理系もある。
設計から実装へ、というプログラミングの過程(詳細は「プログラミング 」の記事を参照)で、ソースコードを記述することを特に指してコーディングという。
ソースコードの量は通例ソフトウェアの規模に比例して増大する。ごく小規模のソフトウェアではソースコードが単一のソースファイルに収まるケースもあるが、大規模なソフトウェアでは通例機能ごとにソースコードを分類し、複数のソースファイルに分散して記述することでソースコードのメンテナンス性を確保する。ソースコードの行数をもとにソフトウェア開発プロジェクトの規模を見積もる手法も存在する。
ソースコードの定義は明瞭でない。しかし様々な定義が試みられている。
Linux Information Project (LINFO) はソースコードを「プレーンテキストの形で1から人間によって書かれたソフトウェア。例えば人が読めるアルファベットの形であったり、人によってコンピュータにタイプされたりするもの」と定義している。すなわちソースコードはプレーンテキスト(人の言葉)で書かれたもので、機械が生成・変換したのではなく人が1から書いてできているソフトウェアの実体を指す。ソース(源)という語が示すように、ソフトウェアはソースコードを変換(コンパイル)して生成した機械語によって動作するため、ソースコードはソフトウェアの源/ソースである。
ソースコードは人が書くものだが、より抽象度の高い表現でソフトウェアを記述し、それを基に従来人が書いていたソースコードを機械に書かせる(機械に生成させる)ことが古くからおこなわれてきた(トランスパイラ、自動プログラミング)。機械が生成したコードは人が書いたものではなく、また機械の生成物であって生成元(ソース)ではないため、上記の定義からするとソースコードではない。ただし従来ソースコードだったものが生成されているので、この種の中間コードもソースコードと呼ばれることがある(c.f. 自動プログラミング § ソースコード生成)。現代のソフトウェア開発では大元の高水準ソースコードが幾重にもわたって中水準のソースコードまたは中間表現にコンパイル/トランスパイルされ、最終的に機械語のコード/プログラムとなる場合が多い(例: C#→CIL→機械語、TypeScript→JavaScript ES6→JavaScript ES5→機械語)。
アセンブリ言語のような低水準言語のプログラムを、ニーモニックを使って手作業で記述したものはソースコードと言えるが、プログラムの規模が増大した現代では保守性の観点から、低水準言語を直接使ってプログラムを記述する機会は少ない。通例ソースコードは高水準言語を使って記述・保守されるようになっている。
ソースコードはソフトウェアの開発段階を経て機械語を生成した後でもそのソフトウェアの保守に不可欠であり、類似ソフトウェアの新たな開発や既存ソフトウェアの改善に有用であり、また、ソフトウェアに制御されるハードウェアの内容を知る大きな手がかりともなるため、ソースコードを独占あるいは逆に公開することは大きな意味を持つ。
一般に人間には機械語は扱いがたく、20世紀末から始まったPCで使用されている大規模なOSや、アプリケーション・プログラムを機械語で書くことはほとんど不可能である。そのため、通常は人間にとって理解のしやすいプログラミング言語によって書かれたソースコードとしてプログラムを作成し、その後にコンパイラなどを用いてまとめて機械語に変換する。変換された機械語プログラム(バイナリ)は数値の羅列にすぎず、人間には理解が極めて困難である。機械語を各プロセッサに対応するアセンブリ言語のニーモニックに変換して表示することで、命令レベルのプログラム内容を把握することも可能ではあるが、読解の効率や保守性の点で問題がある。従って、既存のプログラム上の誤りであるバグを修正したり、改良を加えたりするためには元のソースコードが必須である。
知的財産権を収益の根幹とするソフトウェア産業では、ソースコードを企業秘密として保持し、使用者には機械語プログラムの複製の使用権を販売することで利益を得ていることが多い。このような考え方の下に開発されているソフトウェアはプロプライエタリソフトウェアと呼ばれる。これらの企業にとってはソースコードは独占すべき重要な資産である。もしソースコードが流出すれば、自社の開発成果が競合他社の製品に利用される恐れがある。
これに対し、ソースコードを積極的に公開しようとする考え方もある。
通例、ソースコードから実行コードへの変換で多くの情報が失われるため、実行コードから完全なオリジナルのソースコードを得ることはできない(不可逆変換)。しかし、実行コードしか入手できない場合であっても、時間と手間を掛ければリバースエンジニアリングによってソースコードに近いものを作り出すことは可能である。このため、真に機密保持が重要なプログラム、例えば暗号化装置のようなものでは意図的にプログラムが複雑に構成され、物理的にも読み出しにくいハードウェアに記録されているものがある(セキュリティについては隠蔽によるセキュリティ(英語版)も参照のこと)。
Java VMや.NET Frameworkなど、仮想マシンあるいは中間言語方式のフレームワーク上で動作するアプリケーションソフトウェアは、バイナリ形式にコンパイルおよびビルドされた後も型名や変数名といったプログラム自身に関するメタデータを多く含んでおり、逆コンパイルによりJavaやC#といった高水準言語のソースコードに変換することもできることから、比較的リバースエンジニアリングしやすい性質を持つ。プロプライエタリな商用ソフトウェアにこのようなフレームワークを利用する場合、第三者によるリバースエンジニアリングを防止するために、難読化 (obfuscation) を施すこともある。
兵器で使用されるプログラムのソースコードはきわめて重要な機密とされる場合が多い。
プログラムに起因する兵器の限界や制限を知っていれば、対抗手段を得られる可能性が高くなる、という指摘がある。
コンピュータプログラムのことを「コード」と呼ぶ慣習は元々は、プログラミング言語が広く使われるより以前のコンピュータの黎明期に、機械語ないしそれを直接表現する、「ニモニック」(mnemonic) によるアセンブリ言語のプログラムが、まるで暗号のようだ、ということで出来たものである(なお、暗号学では「コード」とは暗号の分類の一つである。「コード (暗号) 」の記事などを参照)。
よってその由来からは、「ソースファイル」はともかく「ソースコード」とはコンピュータプログラムのものだけを指すことになるが、ハードウェア記述言語によるハードウェアの記述なども広義としてソースコードと呼ばれていることもある。
コーディングという言葉は、元々はアセンブリ言語のようなごく低水準の言語でプログラムを書く作業、というきわめて限定された意味から派生して、一般にソースコードを記述する、という意味になった語である。しかし、近年はHTMLを書くという意味にも使われるなど濫用され気味である(なお、デモシーンでは機械語のテクニックを駆使して高効率のプログラムを書く、というような本来の意味に近い意味で使われている)。
プログラムを「算譜」等とした過去の日本語訳の類例として、ソースコードを原算帳と訳した例がある。 | [
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"text": "ソースコード(英: source code)は、プログラミング言語で書かれた、コンピュータプログラムを表現する文字列(テキストまたはテキストファイル)である。",
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"text": "ソースコードはプログラミング言語を用いて書かれるものであり、各種コンピュータハードウェア(プロセッサ)のための機械語や仮想機械のための中間表現(バイトコード)よりも、人間が読み書きするのに適している。",
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"text": "ソースコードをコンピュータがどのように処理するかは、そのプログラミング言語の処理系によってさまざまである。与えられたソースコードをそのまま、インタプリタによって逐次的に実行する処理系もあるし、事前にソースコードをコンパイラによって機械語(またはアセンブリ言語)で書かれたオブジェクトコードに変換し、リンカによってライブラリやリソースと結合して実行可能ファイル(ロードモジュール)を生成し、オペレーティングシステムがその実行可能ファイルをメモリに読み込んでプログラムを実行するケースもある。コンパイル時に機械語には直接変換せず、いったん仮想機械向けの中間表現に変換しておき、実行時コンパイラによってプログラム実行時に環境に合わせた機械語にコンパイルする処理系もある。",
"title": "概要"
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"text": "設計から実装へ、というプログラミングの過程(詳細は「プログラミング 」の記事を参照)で、ソースコードを記述することを特に指してコーディングという。",
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"text": "ソースコードの量は通例ソフトウェアの規模に比例して増大する。ごく小規模のソフトウェアではソースコードが単一のソースファイルに収まるケースもあるが、大規模なソフトウェアでは通例機能ごとにソースコードを分類し、複数のソースファイルに分散して記述することでソースコードのメンテナンス性を確保する。ソースコードの行数をもとにソフトウェア開発プロジェクトの規模を見積もる手法も存在する。",
"title": "概要"
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"text": "ソースコードの定義は明瞭でない。しかし様々な定義が試みられている。",
"title": "定義"
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"text": "Linux Information Project (LINFO) はソースコードを「プレーンテキストの形で1から人間によって書かれたソフトウェア。例えば人が読めるアルファベットの形であったり、人によってコンピュータにタイプされたりするもの」と定義している。すなわちソースコードはプレーンテキスト(人の言葉)で書かれたもので、機械が生成・変換したのではなく人が1から書いてできているソフトウェアの実体を指す。ソース(源)という語が示すように、ソフトウェアはソースコードを変換(コンパイル)して生成した機械語によって動作するため、ソースコードはソフトウェアの源/ソースである。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ソースコードは人が書くものだが、より抽象度の高い表現でソフトウェアを記述し、それを基に従来人が書いていたソースコードを機械に書かせる(機械に生成させる)ことが古くからおこなわれてきた(トランスパイラ、自動プログラミング)。機械が生成したコードは人が書いたものではなく、また機械の生成物であって生成元(ソース)ではないため、上記の定義からするとソースコードではない。ただし従来ソースコードだったものが生成されているので、この種の中間コードもソースコードと呼ばれることがある(c.f. 自動プログラミング § ソースコード生成)。現代のソフトウェア開発では大元の高水準ソースコードが幾重にもわたって中水準のソースコードまたは中間表現にコンパイル/トランスパイルされ、最終的に機械語のコード/プログラムとなる場合が多い(例: C#→CIL→機械語、TypeScript→JavaScript ES6→JavaScript ES5→機械語)。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "アセンブリ言語のような低水準言語のプログラムを、ニーモニックを使って手作業で記述したものはソースコードと言えるが、プログラムの規模が増大した現代では保守性の観点から、低水準言語を直接使ってプログラムを記述する機会は少ない。通例ソースコードは高水準言語を使って記述・保守されるようになっている。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "ソースコードはソフトウェアの開発段階を経て機械語を生成した後でもそのソフトウェアの保守に不可欠であり、類似ソフトウェアの新たな開発や既存ソフトウェアの改善に有用であり、また、ソフトウェアに制御されるハードウェアの内容を知る大きな手がかりともなるため、ソースコードを独占あるいは逆に公開することは大きな意味を持つ。",
"title": "ソースコードの公開・非公開"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "一般に人間には機械語は扱いがたく、20世紀末から始まったPCで使用されている大規模なOSや、アプリケーション・プログラムを機械語で書くことはほとんど不可能である。そのため、通常は人間にとって理解のしやすいプログラミング言語によって書かれたソースコードとしてプログラムを作成し、その後にコンパイラなどを用いてまとめて機械語に変換する。変換された機械語プログラム(バイナリ)は数値の羅列にすぎず、人間には理解が極めて困難である。機械語を各プロセッサに対応するアセンブリ言語のニーモニックに変換して表示することで、命令レベルのプログラム内容を把握することも可能ではあるが、読解の効率や保守性の点で問題がある。従って、既存のプログラム上の誤りであるバグを修正したり、改良を加えたりするためには元のソースコードが必須である。",
"title": "ソースコードの公開・非公開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "知的財産権を収益の根幹とするソフトウェア産業では、ソースコードを企業秘密として保持し、使用者には機械語プログラムの複製の使用権を販売することで利益を得ていることが多い。このような考え方の下に開発されているソフトウェアはプロプライエタリソフトウェアと呼ばれる。これらの企業にとってはソースコードは独占すべき重要な資産である。もしソースコードが流出すれば、自社の開発成果が競合他社の製品に利用される恐れがある。",
"title": "ソースコードの公開・非公開"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "これに対し、ソースコードを積極的に公開しようとする考え方もある。",
"title": "ソースコードの公開・非公開"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "通例、ソースコードから実行コードへの変換で多くの情報が失われるため、実行コードから完全なオリジナルのソースコードを得ることはできない(不可逆変換)。しかし、実行コードしか入手できない場合であっても、時間と手間を掛ければリバースエンジニアリングによってソースコードに近いものを作り出すことは可能である。このため、真に機密保持が重要なプログラム、例えば暗号化装置のようなものでは意図的にプログラムが複雑に構成され、物理的にも読み出しにくいハードウェアに記録されているものがある(セキュリティについては隠蔽によるセキュリティ(英語版)も参照のこと)。",
"title": "リバースエンジニアリング"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "Java VMや.NET Frameworkなど、仮想マシンあるいは中間言語方式のフレームワーク上で動作するアプリケーションソフトウェアは、バイナリ形式にコンパイルおよびビルドされた後も型名や変数名といったプログラム自身に関するメタデータを多く含んでおり、逆コンパイルによりJavaやC#といった高水準言語のソースコードに変換することもできることから、比較的リバースエンジニアリングしやすい性質を持つ。プロプライエタリな商用ソフトウェアにこのようなフレームワークを利用する場合、第三者によるリバースエンジニアリングを防止するために、難読化 (obfuscation) を施すこともある。",
"title": "リバースエンジニアリング"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "兵器で使用されるプログラムのソースコードはきわめて重要な機密とされる場合が多い。",
"title": "兵器のソースコード"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "プログラムに起因する兵器の限界や制限を知っていれば、対抗手段を得られる可能性が高くなる、という指摘がある。",
"title": "兵器のソースコード"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "コンピュータプログラムのことを「コード」と呼ぶ慣習は元々は、プログラミング言語が広く使われるより以前のコンピュータの黎明期に、機械語ないしそれを直接表現する、「ニモニック」(mnemonic) によるアセンブリ言語のプログラムが、まるで暗号のようだ、ということで出来たものである(なお、暗号学では「コード」とは暗号の分類の一つである。「コード (暗号) 」の記事などを参照)。",
"title": "用語の由来"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "よってその由来からは、「ソースファイル」はともかく「ソースコード」とはコンピュータプログラムのものだけを指すことになるが、ハードウェア記述言語によるハードウェアの記述なども広義としてソースコードと呼ばれていることもある。",
"title": "用語の由来"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "コーディングという言葉は、元々はアセンブリ言語のようなごく低水準の言語でプログラムを書く作業、というきわめて限定された意味から派生して、一般にソースコードを記述する、という意味になった語である。しかし、近年はHTMLを書くという意味にも使われるなど濫用され気味である(なお、デモシーンでは機械語のテクニックを駆使して高効率のプログラムを書く、というような本来の意味に近い意味で使われている)。",
"title": "用語の由来"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "プログラムを「算譜」等とした過去の日本語訳の類例として、ソースコードを原算帳と訳した例がある。",
"title": "用語の由来"
}
]
| ソースコードは、プログラミング言語で書かれた、コンピュータプログラムを表現する文字列(テキストまたはテキストファイル)である。 | {{WikipediaPage|ソースコードの記述方法|Help:ウィキテキストにおけるHTML#syntaxhighlight}}
{{出典の明記| date = 2017年10月}}
{{色}}[[ファイル:CodeCmmt002.svg|thumb|[[Java]]のソースコードを[[シンタックスハイライト]]した例。[[赤]] (R255,G0,B0: {{Color|red|■}}) の範囲と[[緑]] (R0,G129,B0: {{Color|#008100|■}}<!-- "green" は R0,G128,B0 であり、当該SVG画像の文字色とは若干異なる。 -->) の行で示されているのが[[コメント (コンピュータ)|コメント]]で、[[青]] (R0,G0,B255: {{Color|blue|■}}) で示されているのが有効なコードである。]]{{プログラムの実行}}
'''ソースコード'''({{lang-en-short|source code}})は、[[プログラミング言語]]で書かれた、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]を表現する[[文字列]](テキストまたは[[テキストファイル]])である。
== 概要 ==
ソースコードは[[プログラミング言語]]を用いて書かれるものであり、各種[[コンピュータ]][[ハードウェア]]([[プロセッサ]])のための[[機械語]]や[[仮想機械]]のための[[中間表現]]([[バイトコード]])よりも、[[人間]]が読み書きするのに適している。
ソースコードをコンピュータがどのように処理するかは、そのプログラミング言語の処理系によってさまざまである。与えられたソースコードをそのまま、[[インタプリタ]]によって逐次的に実行する処理系もあるし、事前にソースコードを[[コンパイラ]]によって[[機械語]](または[[アセンブリ言語]])で書かれた[[オブジェクトファイル|オブジェクトコード]]に変換し、[[リンケージエディタ|リンカ]]によって[[ライブラリ]]やリソースと結合して[[実行可能ファイル]](ロードモジュール)を生成し、[[オペレーティングシステム]]がその実行可能ファイルを[[メモリ]]に読み込んでプログラムを実行するケースもある。コンパイル時に機械語には直接変換せず、いったん仮想機械向けの中間表現に変換しておき、[[実行時コンパイラ]]によってプログラム実行時に環境に合わせた機械語にコンパイルする処理系もある。
設計から実装へ、という[[プログラミング]]の過程(詳細は「[[プログラミング]] 」の記事を参照)で、ソースコードを記述することを特に指して'''コーディング'''という。
ソースコードの量は通例ソフトウェアの規模に比例して増大する。ごく小規模のソフトウェアではソースコードが単一のソースファイルに収まるケースもあるが、大規模なソフトウェアでは通例機能ごとにソースコードを分類し、複数のソースファイルに分散して記述することでソースコードのメンテナンス性を確保する。ソースコードの行数をもとにソフトウェア開発プロジェクトの規模を見積もる手法も存在する。
== 定義 ==
ソースコードの定義は明瞭でない。しかし様々な定義が試みられている。
Linux Information Project (LINFO) はソースコードを「[[プレーンテキスト]]の形で1から人間によって書かれたソフトウェア。例えば人が読めるアルファベットの形であったり、人によってコンピュータにタイプされたりするもの」と定義している<ref>''Source code'' (also referred to as ''source'' or ''code'') is the version of ''software'' as it is originally ''written'' (i.e., typed into a computer) by a human in ''plain text'' (i.e., human readable alphanumeric characters). [http://www.linfo.org/source_code.html LINFO. Source Code Definition.]</ref>。すなわちソースコードはプレーンテキスト(人の言葉)で書かれたもので、機械が生成・変換したのではなく人が1から書いてできているソフトウェアの実体を指す。ソース(源)という語が示すように、ソフトウェアはソースコードを変換(コンパイル)して生成した[[機械語]]によって動作するため、ソースコードはソフトウェアの源/ソースである。
ソースコードは人が書くものだが、より抽象度の高い表現でソフトウェアを記述し、それを基に従来人が書いていたソースコードを機械に書かせる(機械に生成させる)ことが古くからおこなわれてきた([[トランスパイラ]]、[[自動プログラミング]])。機械が生成したコードは人が書いたものではなく、また機械の生成物であって生成元(ソース)ではないため、上記の定義からするとソースコードではない。ただし従来ソースコードだったものが生成されているので、この種の中間コードもソースコードと呼ばれることがある(c.f. {{節リンク|自動プログラミング|ソースコード生成}})。現代のソフトウェア開発では大元の高水準ソースコードが幾重にもわたって中水準のソースコードまたは[[中間表現]]にコンパイル/トランスパイルされ、最終的に機械語のコード/プログラムとなる場合が多い(例: [[C Sharp|C#]]→[[共通中間言語|CIL]]→機械語、[[TypeScript]]→JavaScript ES6→JavaScript ES5→機械語)。
[[アセンブリ言語]]のような[[低水準言語]]のプログラムを、[[ニーモニック]]を使って手作業で記述したものはソースコードと言えるが、プログラムの規模が増大した現代では保守性の観点から、低水準言語を直接使ってプログラムを記述する機会は少ない。通例ソースコードは[[高水準言語]]を使って記述・保守されるようになっている。
== ソースコードの公開・非公開 ==
ソースコードは[[ソフトウェア]]の開発段階を経て機械語を生成した後でもそのソフトウェアの保守に不可欠であり、類似ソフトウェアの新たな開発や既存ソフトウェアの改善に有用であり、また、ソフトウェアに制御される[[ハードウェア]]の内容を知る大きな手がかりともなるため、ソースコードを独占あるいは逆に公開することは大きな意味を持つ{{efn|ただし、動的な[[ウェブページ]]の制御に使われるプログラミング言語である[[JavaScript]]のソースコードは、[[ウェブサイト]]作成に使われる[[HyperText Markup Language|HTML]]や[[Cascading Style Sheets|CSS]]同様、本来[[ウェブブラウザ]]でいったんローカルにダウンロードして実行するものであるため、閲覧可能なウェブページのものであれば誰でも見ることが可能である。}}。
一般に人間には機械語は扱いがたく、20世紀末から始まった[[パーソナルコンピュータ|PC]]で使用されている大規模な[[オペレーティングシステム|OS]]や、アプリケーション・プログラムを機械語で書くことはほとんど不可能である。そのため、通常は人間にとって理解のしやすいプログラミング言語によって書かれたソースコードとしてプログラムを作成し、その後にコンパイラなどを用いてまとめて機械語に変換する。変換された機械語プログラム(バイナリ)は数値の羅列にすぎず、人間には理解が極めて困難である。機械語を各プロセッサに対応する[[アセンブリ言語]]の[[ニーモニック]]に変換して表示することで、命令レベルのプログラム内容を把握することも可能ではあるが、読解の効率や保守性の点で問題がある。従って、既存のプログラム上の誤りである[[バグ]]を修正したり、改良を加えたりするためには元のソースコードが必須である。
知的財産権を収益の根幹とするソフトウェア産業では、ソースコードを企業秘密として保持し、使用者には機械語プログラムの複製の使用権を販売することで利益を得ていることが多い。このような考え方の下に開発されているソフトウェアは[[プロプライエタリソフトウェア]]と呼ばれる。これらの企業にとってはソースコードは独占すべき重要な資産である。もしソースコードが流出すれば、自社の開発成果が競合他社の製品に利用される恐れがある。
これに対し、ソースコードを積極的に公開しようとする考え方もある。
{{main|オープンソース}}<!--本記事では以下のようにオープンソースについて詳しく記述する必要はないのでは?-->
* [[アメリカ合衆国]]の政府資金によるソフトウェア開発では、開発成果は納税者である国民に還元すべきであるとの考えから、ソースコードを一般に公開する場合も多い。
* [[リチャード・ストールマン]]と[[フリーソフトウェア財団]]の考えによれば、コンピュータの利用者は自由にソフトウェアによる恩恵を享受できるべきであり、その実現に反するソースコードの独占・隠蔽は許されない不道徳である([[フリーソフトウェア運動]])。
* [[エリック・レイモンド]]に代表される[[オープンソース]]支持者の中には、ソースコードの公開がソフトウェアの発展のためには有用であるという考え方もある{{efn|オープンソース支持者の考えでは、例えば有用なソフトウェアの場合、ソースコードを公開すると直ちに世界中の[[ソフトウェア開発者]]が興味を引かれてソースコードを読み漁るので、重要なバグは直ちに修正される。足りない機能は直ちに追加される。レイモンドはこのことを論文「[[伽藍とバザール]]」の中で「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」[http://www.tlug.jp/docs/cathedral-bazaar/cathedral-paper-jp.html]と言い表した。これは[[Linux]]のような成功したオープンソースプロジェクトに共通する性質である。}}。
* [[レッドハット]]のビジネスモデルのように、知的所有権よりはブランドイメージとユーザーサポート、安心感を売る形態の場合、ソースコードの公開が戦略的に有意義であることもある。ソースコードを独占しておくよりは、それを公開することでそのソフトウェアを普及させ、市場の拡大に役立てた方が良い場合である。
* [[UNIX]]や[[Linux]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]のように、OSのソースコードが公開され、ライセンスの範囲内で利用と改変が許可されていることが、サードパーティの参入障壁を下げ、ハードウェアおよび[[アプリケーションソフトウェア]]の実行プラットフォームの普及につながっているケースもある。
== リバースエンジニアリング ==
通例、ソースコードから実行コードへの変換で多くの情報が失われるため、実行コードから完全なオリジナルのソースコードを得ることはできない(不可逆変換)。しかし、実行コードしか入手できない場合であっても、時間と手間を掛ければ[[リバースエンジニアリング]]によってソースコードに近いものを作り出すことは可能である。このため、真に機密保持が重要なプログラム、例えば暗号化装置のようなものでは意図的にプログラムが複雑に構成され、物理的にも読み出しにくいハードウェアに記録されているものがある(セキュリティについては{{仮リンク|隠蔽によるセキュリティ|en|Security through obscurity}}も参照のこと)。
[[Java仮想マシン|Java VM]]や[[.NET Framework]]など、[[仮想マシン]]あるいは[[中間言語]]方式のフレームワーク上で動作する[[アプリケーションソフトウェア]]は、バイナリ形式にコンパイルおよび[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]された後も型名や変数名といったプログラム自身に関する[[メタデータ]]を多く含んでおり、逆コンパイルによりJavaやC#といった高水準言語のソースコードに変換することもできることから、比較的リバースエンジニアリングしやすい性質を持つ。プロプライエタリな商用ソフトウェアにこのようなフレームワークを利用する場合、第三者によるリバースエンジニアリングを防止するために、[[難読化 (ソフトウェア)|難読化]] (obfuscation) を施すこともある。
== 兵器のソースコード ==
[[兵器]]で使用されるプログラムのソースコードはきわめて重要な[[機密]]とされる場合が多い{{efn|[[軍用機]]の例では日本の国産戦闘機開発計画[[F-2 (航空機)|FS-X]]の交渉に際して、原型となった戦闘機[[F-16 (戦闘機)|F-16]]の飛行制御用プログラムについて、ソースコードの閲覧を許すソースライセンスの供与の可否が米国で問題となり、否決されたという例がある。<!--その結果、FS-Xの飛行制御用プログラムは、F-16用のプログラムを参考にすることなく、全く独自で開発されている。--><!--ブラックボックスとして供与された、の間違いじゃないすかコレ?-->}}。
<!--問題として、輸出する兵器の制御プログラム内に[[トロイの木馬 (ソフトウェア)|トロイの木馬]]を含めておけば、輸出先と敵対した場合でも優位に立つことができ、--><!-- これはバックドアの話であって、ソースコードとは直接関係ないはず。 -->プログラムに起因する兵器の限界や制限を知っていれば、対抗手段を得られる可能性が高くなる、{{要出典|date=2009年12月|という指摘がある}}。
== 用語の由来 ==
コンピュータプログラムのことを「コード」と呼ぶ慣習は元々は、[[プログラミング言語]]が広く使われるより以前のコンピュータの黎明期に、[[機械語]]ないしそれを直接表現する、「ニモニック」(mnemonic) による[[アセンブリ言語]]のプログラムが、まるで[[暗号]]のようだ、ということで出来たものである(なお、暗号学では「コード」とは暗号の分類の一つである。「[[コード (暗号)]] 」の記事などを参照)。
よってその由来からは、「ソースファイル」はともかく「ソースコード」とはコンピュータプログラムのものだけを指すことになるが、[[ハードウェア記述言語]]によるハードウェアの記述なども広義としてソースコードと呼ばれていることもある。
コーディングという言葉は、元々は[[アセンブリ言語]]のようなごく[[低水準言語|低水準の言語]]でプログラムを書く作業、というきわめて限定された意味から派生して、一般にソースコードを記述する、という意味になった語である。しかし、{{いつ範囲|date=2017年10月|近年}}は[[HyperText Markup Language|HTML]]を書くという意味にも使われるなど濫用され気味である(なお、[[デモシーン]]では機械語のテクニックを駆使して高効率のプログラムを書く、というような本来の意味に近い意味で使われている)。
=== 和訳 ===
プログラムを「算譜」等とした過去の日本語訳の類例として、ソースコードを'''原算帳'''と訳した例がある<ref>{{cite journal|和書
|title=数学者用ワープロSPE
|author=島内剛一
|publisher=[[日本数学会]]
|date=1988-07-29
|journal=数学
|volume=40|number=3
|page=72
|url=https://doi.org/10.11429/sugaku1947.40.264
|doi=10.11429/sugaku1947.40.264
|accessdate=2019-05-02}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[オブジェクトファイル]]
* [[実行ファイル]]
* [[重複コード]]
* [[機械語]]
* [[コンパイラ]]
* [[インタプリタ]]
* [[ソフトウェア品質]]
* [[プログラミング作法]]
* [[LOC]]
* [[バージョン管理システム]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そおすこおと}}
[[Category:ソースコード|*]]
[[Category:プログラミング]] | 2003-02-14T04:50:03Z | 2023-12-31T07:56:11Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite journal",
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"Template:プログラムの実行",
"Template:いつ範囲",
"Template:Reflist",
"Template:WikipediaPage",
"Template:出典の明記",
"Template:色",
"Template:Color",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:節リンク",
"Template:Efn",
"Template:要出典",
"Template:Notelist"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
1,494 | 10月1日 | 10月1日(じゅうがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。
| [
{
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"tag": "p",
"text": "10月1日(じゅうがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。",
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"tag": "p",
"text": "",
"title": "できごと"
}
]
| 10月1日(じゅうがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。 | {{カレンダー 10月}}
'''10月1日'''(じゅうがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から274日目([[閏年]]では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。
== できごと ==
[[File:1910Ford-T.jpg|thumb|180px|T型フォード(画像は1910年式)販売開始(1908)]]
[[File:Shinkansen 0 series car 21-2 at Japanese Railway Museum.jpg|thumb|180px|東海道新幹線開業(当時使用されていた0系電車)(1964)]]
[[File:CDP101a.jpg|thumb|180px|世界初のCDプレーヤー「ソニー・CDP-101」発売(1982)]]
[[File:JReastE2_N1_Omiya_20130320.jpg|thumb|180px|北陸新幹線長野開業(当時使用されていたE2系電車)(1997)]]
[[File:Early pitch invasion at Kanjuruhan Stadium before stampede - ANTARA TV.jpg|thumb|180px|スタジアムにて警備隊がサポーターをピッチから追い出す際の画像 (2022)]]
* [[紀元前330年代|紀元前331年]] - [[ガウガメラの戦い]]。[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]が[[アケメネス朝|ペルシア帝国]]を破る。
* [[366年]] - [[ローマ教皇]]に[[ダマスス1世 (ローマ教皇)|ダマスス1世]]が就任。
* [[959年]] - [[ウェセックス家]]の王族[[エドガー (イングランド王)|エドガー]]が[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]]に即位した。のちにエドガー平和王と称された。
* [[965年]] - ローマ教皇に[[ヨハネス13世 (ローマ教皇)|ヨハネス13世]]が即位。
* [[1553年]] - [[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]が[[イングランド王]]に戴冠。
* [[1730年]] - [[オスマン帝国]]の[[スルタン]]であった[[アフメト3世]]が{{仮リンク|パトロナ・ハリル|en|Patrona Halil}}の乱により退位を余儀なくされる。[[チューリップ時代]]の終焉。
* [[1779年]] - [[スウェーデン]]の[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]によって[[フィンランド]]に[[タンペレ]]市が建設される<ref>{{Cite web |title=Tampere Day |url=https://tampereenpaiva.tampere.fi/en/ |access-date=29 Mar 2023 |publisher=City of Tampere |language=en}}</ref>。
* [[1791年]] - [[フランス革命]]: [[立法議会]]が召集。
* [[1795年]] - [[フランス革命戦争]]: [[南ネーデルラント]]が{{仮リンク|スプリモンの戦い|en|Battle of Sprimont}}を経てフランスに併合。
* [[1800年]] - [[第三次サン・イルデフォンソ条約]]の署名により[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]が[[スペイン]]から[[フランス]]に返還される。
* [[1814年]] - [[ウィーン会議]]開幕。[[1815年]][[6月9日]]まで。
* 1829年 - 南アフリカ初となる大学、[[南アフリカ大学]]設立のための会議が行われる。
* [[1831年]] - [[ズアーブ兵]]が創設。
* [[1843年]] - [[ニュース・オブ・ザ・ワールド]]が[[ロンドン]]で創刊。
* [[1847年]] - [[シーメンス]]が設立される。当時は[[電信]]、[[電車]]、[[電子機器]]の製造会社であった。
* [[1861年]] - [[イザベラ・ビートン]]の『''{{仮リンク|ビートン夫人の家政読本|en|Mrs Beeton's Book of Household Management}}''』が出版。
* [[1869年]] - [[オーストリア]]で世界初の[[はがき|郵便はがき]]を発行。
* [[1880年]] - [[ジョン・フィリップ・スーザ]]が[[アメリカ海兵隊]]軍楽隊の[[指揮者]]になる。
* [[1885年]] - [[東京ガス|東京瓦斯]]創立([[東京府]]瓦斯局の払い下げ)。
* [[1890年]] - [[ヨセミテ国立公園]]創設。
* [[1891年]] - [[スタンフォード大学]]開学。
* [[1898年]] - 東京・京都・大阪の[[市制特例]]廃止。
* 1898年 - {{仮リンク|ウィーン経済大学|en|Vienna University of Economics and Business}}が設立。
* [[1903年]] - 第1回[[ワールドシリーズ]]開幕。[[ボストン・レッドソックス|ボストン・アメリカンズ]]VS[[ピッツバーグ・パイレーツ]]の顔合わせ。
* 1903年 - [[浅草公園六区|浅草六区]]に日本初の常設映画館・[[電気館]]が開館。
* [[1907年]] - [[鉄道国有法]]による日本の私鉄17社の買収・[[国有化]]が完了。
* [[1908年]] - [[フォード・モーター]]が[[フォード・モデルT|T型フォード]]の販売を開始。
* [[1910年]] - [[日本コロムビア|日本コロムビア株式会社]]設立。
* 1910年 - [[ロサンゼルス・タイムズ爆破事件]]。
* [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]: 「[[アラビアのロレンス]]」こと[[トーマス・エドワード・ロレンス|T・E・ロレンス]]率いるアラブ軍が[[ダマスカス]]に入城。
* 1918年 - [[ヒヴァ・ハン国]]最後の君主として[[サイード・アブドゥッラー]]が即位。
* [[1920年]] - 日本で初の[[国勢調査]]を実施。
* [[1930年]] - [[鉄道省]]が特別急行列車「[[つばめ (列車)|燕]]」の運転を開始。
* 1930年 - [[威海市|威海]]が[[イギリス]]から[[国民政府|中華民国]]に返還。
* [[1936年]] - [[フランシスコ・フランコ|フランコ]]が[[スペイン内戦]]の反乱軍主席・総司令官に就任。
* [[1938年]] - [[ナチス・ドイツ]]が[[ズデーテン地方]]に進駐。
* [[1939年]] - 第二次世界大戦: {{仮リンク|ワルシャワ包囲戦 (1939年)|en|Siege of Warsaw (1939)|label=ワルシャワ包囲戦}}の末ドイツが[[ワルシャワ]]を占領。
* [[1940年]] - [[ペンシルベニア・ターンパイク]]開通。
* [[1942年]] - 午前7時15分、[[りすぼん丸]]が米潜水艦グルーパーの[[魚雷]]攻撃を受ける。翌日沈没し乗船のイギリス人捕虜が脱走・溺死などする。
* [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が[[ナポリ]]を占領。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[バナバ島|オーシャン島]]の日本海軍[[第四艦隊 (日本海軍)#第四艦隊(三代目)|第四艦隊]][[海軍根拠地隊|第4根拠地隊]]第67警備隊分遣隊隊長鈴木直臣海軍少佐が[[オーストラリア海軍|豪]]フリゲート[[リバー級フリゲート|ダイアマンティナ]]上で[[オーストラリア陸軍|豪]]{{仮リンク|第11旅団 (オーストラリア軍)|label=第11旅団|en|11th Brigade (Australia)}}に対する降伏文書に署名する。
* [[1946年]] - ドイツの戦争犯罪者を裁く[[ニュルンベルク裁判]]が終了。
* 1946年 - [[大邱10月事件]]。南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。
* [[1947年]] - [[F-86セイバー]]が初飛行。
* [[1948年]] - [[東京都区部|東京]]・[[大阪市|大阪]]・[[京都市|京都]]・[[横浜市|横浜]]・[[川崎市|川崎]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[神戸市|神戸]]・[[福岡市|福岡]]で警察通報用電話([[110番]])を設置。
* [[1949年]] - [[中華人民共和国開国大典]]が開催。
* [[1950年]] - [[毛沢東暗殺陰謀事件]]。
* 1950年 - [[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|神宮外苑競技場]]にて、第1回[[早慶サッカー定期戦|早稲田大学対慶應義塾大学サッカー定期戦]]が開催される(日本のサッカーにおける初のナイトゲーム)。
* [[1952年]] - [[第25回衆議院議員総選挙]]が行われる。
* 1952年 - [[中国放送|ラジオ中国(RCC、現:中国放送)]]開局。
* [[1953年]] - [[米韓相互防衛条約]]調印。
* 1953年 - [[RSKラジオ|ラジオ山陽(現:RSK山陽放送)]]、[[西日本放送ラジオ|ラジオ香川(現:西日本放送)]]、[[南海放送]]、[[熊本放送|ラジオ熊本(現:熊本放送)]]、[[大分放送|ラジオ大分(現:大分放送)]]、以上5局開局。
* [[1954年]] - [[沖縄県|沖縄]]初の民放放送局・[[琉球放送]](RBC)開局。
* [[1955年]] - [[新疆ウイグル自治区]]設立。
* [[1957年]] - 初の[[五千円紙幣|5000円札]]を発行([[聖徳太子]]の肖像)。
* [[1958年]] - 米国航空諮問委員会 (NACA) を母体として[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) が設立される。
* [[1959年]] - [[青森放送]]、[[山口放送]]、[[大分放送]]、以上3局のテレビジョン放送局が開局。
* [[1960年]] - [[ナイジェリア]]が[[イギリス]]から独立。
* 1960年 - [[宮崎放送|ラジオ宮崎]]のテレビジョン放送(現:宮崎放送)開局。
* [[1961年]] - 東・北[[カメルーン]]が統合してカメルーン連邦共和国が成立。
* 1961年 - [[アメリカ国防情報局]]が設立。
* 1961年 - [[CTVテレビジョンネットワーク]]が開局。
* 1961年 - [[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[ロジャー・マリス]]がシーズン61号目のホームランを打ち、[[1927年]]に[[ベーブ・ルース]]が打ち立てたシーズン最多本塁打記録を破る。
* 1961年 - 国鉄が「[[サンロクトオ]]」と呼ばれる大規模ダイヤ改正実施。
* [[1962年]] - [[日本財団]]の前身である日本船舶振興会が創立。
* 1962年 - [[仙台放送]]開局。
* [[1964年]] - [[東海道新幹線]][[東京駅]] - [[新大阪駅]]間開業。それに伴う[[1964年10月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]実施。[[新幹線0系電車|0系車両]]の営業運転開始。
* [[1966年]] - [[江崎グリコ]]から「[[ポッキー]]」が発売。
* 1966年 - {{仮リンク|ウェストコースト航空956便墜落事故|en|West Coast Airlines Flight 956}}。
* [[1967年]] - [[東京新聞]]の編集・発行権を株式会社[[東京新聞社]]から[[中日新聞社|中部日本新聞社(現:中日新聞社)]]に承継。
* [[1968年]] - 国鉄が「[[ヨンサントオ]]」と呼ばれる大規模ダイヤ改正実施。
* [[1969年]] - [[宇宙開発事業団]] (NASDA) が設立される。
* 1969年 - [[コンコルド]]が初めて[[超音速]]飛行に成功。
* 1969年 - [[北京地下鉄]]が開業。
* 1969年 - [[福井テレビジョン放送]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.fukui-tv.co.jp/?page_id=18511 |title=会社概要 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=福井テレビジョン放送株式会社}}</ref>、[[秋田テレビ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=秋田テレビについて {{!}} AKT秋田テレビ |url=https://www.akt.co.jp/corporate/index/about |website=AKT秋田テレビ |access-date=29 Mar 2023}}</ref>開局。
* 1969年 - [[フジテレビジョン]]をキーステーションとする放送ネットワーク・[[フジネットワーク]](FNS)発足。加盟21社。
* [[1970年]] - [[宮城テレビ放送]](ミヤギテレビ)開局。
* [[1971年]] - [[第一銀行]]と[[日本勧業銀行]]が合併し、[[第一勧業銀行]]が発足。
* 1971年 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]][[オーランド]]に[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]が開園。
* [[1975年]] - [[東日本放送]]、[[テレビ新広島]]開局。
* 1975年 - [[マニラ]]で[[プロボクシング]][[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界統一[[ヘビー級]]タイトルマッチ「[[モハメド・アリ]]対[[ジョー・フレージャー]]第3戦」、通称[[スリラー・イン・マニラ]]。[[モハメド・アリ]]が勝利。
* [[1977年]] - サッカーの神様・[[ペレ]]が現役を引退。
* [[1978年]] - [[ツバル]]がイギリスから独立。
* [[1979年]] - [[香港MTR]]が開業。
* [[1980年]] - 国鉄で[[1980年10月1日国鉄ダイヤ改正|白紙ダイヤ改正]]実施。
* 1980年 - [[テレビ信州]]開局。
* [[1981年]] - 内閣が「常用漢字表」を告示。[[常用漢字]]が定められる。
* 1981年 - [[福島放送]]開局。「東京十二チャンネル」(愛称:東京12チャンネル)が「[[テレビ東京]]」に社名変更。
* 1981年 - 「ラジオ関東」が「[[アール・エフ・ラジオ日本]]」(愛称:ラジオ日本)に社名変更。
* [[1982年]] - [[ヘルムート・コール]]が[[西ドイツ]]首相に就任。
* 1982年 - [[ソニー]]が世界初の[[コンパクトディスク|CD]]プレーヤー「[[CDP-101]]」を発売。同時に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]からCDソフト50タイトルが発売。
* 1982年 - [[鹿児島放送]]、[[エフエム長崎]]開局。
* 1982年 - [[エプコット]](EPCOT、Experimental Prototype Community of Tomorrow)がフロリダの[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]にオープン。
* [[1983年]] - [[新潟テレビ21]]開局。
* [[1985年]] - [[第1次インティファーダ]]: [[イスラエル]]空軍が[[チュニス]]の[[パレスチナ解放機構|PLO]]本部を爆撃。
* 1985年 - [[テレビせとうち]]、[[エフエム岩手]]、[[エフエム群馬]]開局。
* [[1986年]] - [[エフエム山陰]]開局。
* [[1987年]] - [[エフエムラジオ新潟]]開局。
* 1987年 - [[ロサンゼルス]]近くで{{仮リンク|ウィッターナロウズ地震|en|1987 Whittier Narrows earthquake}}発生。
* [[1988年]] - [[J-WAVE|エフエムジャパン(現:J-WAVE)]]、[[長野エフエム放送|長野エフエム放送(FM長野)]]開局。
* [[1989年]] - [[テレビ北海道]]、[[テレビユー山形]]、[[熊本朝日放送]]、[[ベイエフエム]]開局。
* [[1990年]] - [[チューリップテレビ|テレビユー富山(現:チューリップテレビ)]]、[[兵庫エフエム放送|Kiss FM KOBE]]、[[エフエム大分]]開局。
* 1990年 - [[ルワンダ紛争|ルワンダ内戦]]が開戦。
* [[1991年]] - [[青森朝日放送]]、[[北陸朝日放送]]開局。
* 1991年 - [[クロアチア紛争|クロアチア独立戦争]]: {{仮リンク|ドゥブロヴニク包囲戦|en|Siege of Dubrovnik}}が始まる。
* [[1992年]] - [[秋田朝日放送]]、[[あいテレビ|伊予テレビ(現:あいテレビ)]]、[[エフエム鹿児島]]開局。
* [[1993年]] - [[山口朝日放送]]、[[大分朝日放送]]、[[ZIP-FM]]開局。
* 1993年 - 静岡県民放送(愛称:静岡けんみんテレビ (SKT))が[[静岡朝日テレビ]] (SATV) に社名変更。
* [[1994年]] - [[パラオ]]がアメリカ合衆国の[[信託統治]]から独立。
* [[1995年]] - [[琉球朝日放送]]、[[エフエム福島]]開局。
* [[1996年]] - [[岩手朝日テレビ]]開局。
* [[1997年]] - [[北陸新幹線]]の[[高崎駅]] - [[長野駅]]間が先行開業。
* 1997年 - [[磐越自動車道]]が全線開通。
* 1997年 - [[TXNネットワーク|テレビ東京系]]で[[朝]]の[[子供]]向け[[番組]]、「[[おはスタ]]」放送開始。
* 1997年 - [[広島サティ]]が開店。2011年史上最後まで存続した「サティ」である。
* [[2000年]] - [[ケイディディ|KDD]]、[[第二電電|DDI]]、[[日本移動通信|IDO]]が合併し、株式会社ディーディーアイ ([[KDDI]]、現:KDDI株式会社) となる。
* [[2001年]] - [[TBSホールディングス|東京放送]] (TBS) がラジオ部門の放送免許を子会社のTBSラジオ&コミュニケーションズ(現:[[TBSラジオ]])に承継。これに伴い、[[TBSテレビ]]の[[コールサイン]]がこれまでの「JOKR-TV」から「JORX-TV」に変更。
* 2001年 - [[東京都]][[三鷹市]]に[[三鷹の森ジブリ美術館]]が開館<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ghibli-museum.jp/diary/008791/ |title=美術館日誌 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=Museo d'Arte Ghibli |work=三鷹の森ジブリ美術館 |date=1 Oct 2001}}</ref>。
* 2001年 - [[国家公務員]]の旧姓使用が可能になる。
* [[2002年]] - [[身体障害者補助犬法]]が施行。
* [[2003年]] - 東海道新幹線の東京駅 - [[新横浜駅]]間に[[品川駅]]が開業。
* 2003年 - [[宇宙科学研究所]]、[[航空宇宙技術研究所]]、[[宇宙開発事業団]]の3機関が[[宇宙航空研究開発機構]]に統合される。
* 2003年 - ジェイフォンが世界最大の携帯通信事業者・ボーダフォン(現:[[ソフトバンクモバイル]])にブランド変更。
* 2003年 - 全国朝日放送(愛称:テレビ朝日、略称:ANB)が[[テレビ朝日]](略称:EX)に社名変更。
* [[2004年]] - [[イチロー]]が、[[ジョージ・シスラー]]のメジャーリーグ年間最多安打記録(257安打)を84年ぶりに更新する258安打を達成(最終成績は262安打)。
* [[2005年]] - [[道路関係四公団]]([[日本道路公団]]・[[本州四国連絡橋公団]]・[[首都高速道路公団]]・[[阪神高速道路公団]])が民営化。
* [[2006年]] - [[阪神電気鉄道]]が阪急ホールディングスと経営統合して[[阪急阪神ホールディングス]]が発足。
* 2006年 - ボーダフォンが[[ソフトバンクモバイル]]へ、日本テレコムが[[ソフトバンクテレコム]] へそれぞれ社名変更。
* 2006年 - [[日本航空インターナショナル]]が[[日本航空ジャパン]](旧:[[日本エアシステム]])を吸収合併。
* 2006年 - [[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律|障害者自立支援法]]施行。
* [[2007年]] - 日本で[[郵政民営化|郵政事業が完全民営化]]。これに伴い[[日本郵政|日本郵政株式会社]]が持株会社としてグループ経営を開始。
* 2007年 - 一般向けの[[緊急地震速報]]が開始。
* 2007年 - [[MSN]]が[[産経新聞]]と提携し、[[MSN産経ニュース]]サービス開始。
* [[2008年]] - 松下電器産業株式会社が「[[パナソニック|パナソニック株式会社]]」に社名変更、グループ名称も松下グループから「[[パナソニックグループ]]」に変更。
* 2008年 - [[フジテレビジョン]](旧法人)が「[[フジ・メディア・ホールディングス]]」に商号変更、日本初の[[放送持株会社]]に移行。旧フジテレビジョンの放送免許および放送事業を会社分割により設立された新法人の「フジテレビジョン」に承継。
* 2008年 - [[大阪個室ビデオ店放火事件]]。客15人が死亡。
* 2008年 - [[観光庁]]および[[運輸安全委員会]]が発足。[[海難審判庁]]および[[船員労働委員会]]を廃止。
* [[2009年]] - [[産経新聞西部本部|産経新聞九州・山口特別版]]が創刊。これにより、九州(山口)の全国紙が全て揃う。
* [[2010年]] - [[たばこ税]]が[[増税]]される。過去最大規模のたばこ増税であり、[[日本たばこ産業]]の代表的な[[紙巻きたばこ]]銘柄である「[[メビウス (たばこ)|マイルドセブン]]」の定価が300円から410円に値上げされた。
* 2010年 - [[デイヴィッド・ロイド・ジョンストン]]が第28代[[カナダ総督]]に就任。
* 2010年 - 中国時間([[中国標準時|CST]])18時59分、[[嫦娥2号]]が打ち上げ。
* [[2011年]] - [[暴力団排除条例]]が[[東京都]]と[[沖縄県]]で施行され、日本の全都道府県で暴力団排斥のための条例が整備される。
* [[2012年]] - [[障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律]](通称:障害者虐待防止法)が施行される。
* 2012年 - [[新日本製鐵]]と[[住友金属工業]]が合併して新日鐵住金(現:[[日本製鉄]])が発足。
* 2012年 - [[香港ラマ島船衝突事故]]が発生。死者数は38人で、香港では過去40年で最悪の事故になった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35022573.html |title=香港沖の船衝突事故、死者38人に 船員7人逮捕 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=Cable News Network. A Warner Bros. Discovery Company. |date=3 Oct 2012 |website=CNN.co.up}}</ref>。
* 2012年 - [[日本テレビ放送網]](旧法人)が放送持株会社に移行、「[[日本テレビホールディングス]]」に商号変更。旧日本テレビ放送網の放送免許および放送事業などの現業全般を会社分割により設立された新法人の「日本テレビ放送網」へ承継。
* [[2014年]] - 株式会社[[KADOKAWA]]と株式会社[[ドワンゴ]]が統合して株式会社[[KADOKAWA・DWANGO]]が発足。
* 2014年 - 第13代[[北大西洋条約機構事務総長]]に[[イェンス・ストルテンベルグ]]が就任。
* [[2015年]] - 江崎グリコと[[グリコ乳業]]が経営統合(存続法人は江崎グリコ)。
* 2015年 - アメリカ[[オレゴン州]]で[[アムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件]]が発生。10人が死亡、7人が負傷した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20151002-T2DDMSF3E5JDPMH5TNMWFIX6A4/ |title=米短大で銃乱射、10人死亡 西部オレゴン州 |publisher=[[産経新聞]] |date=2 Oct 2015 |accessdate=29 Mar 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - スペイン・[[カタルーニャ州]]で[[2017年カタルーニャ独立住民投票|独立の是非を問う住民投票]]が行われる。
* 2017年 - [[2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件]]<ref>{{Cite web|和書 |title=ラスベガス乱射、少なくとも59人死亡 527人負傷と警察 |url=https://www.bbc.com/japanese/41466370 |website=BBC NEWS JAPAN |date=2 Oct 2017 |access-date=29 Mar 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - [[本庶佑]]が[[ジェームズ・P・アリソン]]とともに[[ノーベル医学生理学賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9D5RGKL9DPLBJ007.html |title=ノーベル医学生理学賞に本庶佑・京都大特別教授 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=1 Oct 2018}}</ref>。
*2018年 - USMCAこと[[米国・メキシコ・カナダ協定]]が合意される。なお署名は前日。
* 2018年 - [[貴乃花光司]]が[[9月25日]]に提出した退職願と、[[貴乃花部屋]]所属力士の[[常盤山部屋|千賀ノ浦部屋]]への移籍願を[[日本相撲協会]]が受諾。同部屋が消滅するとともに、[[年寄名跡#功績顕著によるもの(一代年寄)|一代年寄]]がいなくなった<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/02/kiji/20181002s00005000075000c.html |title=退職と力士らの移籍承認 貴乃花部屋消滅 協会執行部と親方の溝埋まらぬまま |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=2 Oct 2018}}</ref>。
* [[2019年]] - [[消費税]]が8%から10%に増税。同時に飲食料品・新聞の税率を据え置く[[軽減税率]]が導入される。
* [[2020年]] - [[東京証券取引所]]がシステム障害のため終日取引停止、終日取引停止は全面システム化以降初<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-10-01/QHHWSLT0AFGZ01 |title=東証現物売買を終日停止、停止時間は過去最長に-下期相場初日 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |date=1 Oct 2020}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://sp.m.jiji.com/movie/show/1994 |title=東証、全銘柄の売買終日停止 システム障害で初―札幌、名古屋、福岡も |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[時事通信社]] |website=JIJI.COM |date=1 Oct 2020}}</ref>。
* 2020年 - [[アレクサンダー・デ・クロー]]が第71代[[ベルギー]][[ベルギーの首相|首相]]に就任<ref>{{Cite web|和書 |title=ベルギー首相にデクロー氏 7政党が連立で合意 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64453230Q0A930C2000000/ |date=30 Sep 2020 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。
* [[2021年]] - [[ドバイ国際博覧会]]が始まる。[[2022年]][[3月31日]]まで開催。
* [[2022年]] - [[カンジュルハン・スタジアムの悲劇]]: [[インドネシア]][[カンジュルハン・スタジアム]]にて暴動が起き、125人が死亡した<ref>{{Cite web|和書 |title=インドネシアのスタジアムで悲劇 サポーター乱闘→警察が催涙弾発射→パニックで125人死亡 - 海外サッカー : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202210020000436.html |website= |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]]}}</ref>。
* 2022年 - JR東日本[[只見線]]が11年ぶりに全線で運転を再開<ref>{{Cite web|和書 |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71893 |title=只見線のキセキ、11年の長い年月を経てよみがえる橋と駅 |access-date=11 Apr 2023 |publisher=[[日本ビジネスプレス|Japan Business Press Co.,Ltd.]] |date=24 Sep 2022}}</ref>。
* [[2023年]] - [[インボイス制度]]が施行。
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=== 日本の自治体改編 ===
* [[1889年]] - 愛知県[[名古屋市]]、鳥取県[[鳥取市]]、徳島県[[徳島市]]が市制施行。
* [[1898年]] - [[東京市]]制が施行。
* 1898年 - 滋賀県[[大津市]]が市制施行。
* [[1902年]] - 広島県[[呉市]]が市制施行。
* [[1924年]] - 山形県[[鶴岡市]]が市制施行。
* [[1927年]] - 神奈川県[[横浜市]]で区制施行。[[鶴見区 (横浜市)|鶴見]]・[[神奈川区|神奈川]]・[[中区 (横浜市)|中]]・[[保土ケ谷区|保土ケ谷]]・[[磯子区|磯子]]の5区を設置。
* [[1929年]] - 愛知県[[瀬戸市]]が市制施行。
* [[1932年]] - 東京市が周辺の82町村を編入し、20区増えて35区になる。
* [[1933年]] - 和歌山県[[新宮市]]が市制施行。
* [[1937年]] - 愛知県[[半田市]]が市制施行。
* [[1940年]] - 秋田県[[能代市]]、神奈川県[[藤沢市]]が市制施行。
* [[1942年]] - 兵庫県[[相生市]]が市制施行。
* [[1947年]] - 北海道[[留萌市]]、神奈川県[[茅ヶ崎市]]が市制施行。
* [[1950年]] - 鹿児島県[[串木野市]](現 [[いちき串木野市]])が市制施行。
* [[1953年]] - 鳥取県[[倉吉市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 青森県[[五所川原市]]、山形県[[上山市]]、栃木県[[真岡市]]、三重県[[亀山市]]、高知県[[須崎市]]が市制施行。
* [[1958年]] - 宮城県[[角田市]]、宮城県[[名取市]]、山形県[[天童市]]、福島県[[二本松市]]、千葉県[[勝浦市]]、東京都[[小金井市]]、大阪府[[柏原市]]、熊本県[[宇土市]]、鹿児島県[[垂水市]]・[[西之表市]]・[[谷山市]](現 [[鹿児島市]]の一部)が市制施行。
* [[1959年]] - 高知県[[南国市]]が市制施行。
* [[1962年]] - 東京都[[小平市]]が市制施行。
* [[1966年]] - 福島県[[浜通り]]5市4町5村の合併により[[いわき市]]が発足。
* 1966年 - 埼玉県[[戸田市]]が市制施行。
* [[1970年]] - 茨城県[[取手市]]、東京都[[狛江市]]・[[清瀬市]]・[[東久留米市]]・[[東大和市]]が市制施行。
* [[1971年]] - 埼玉県[[久喜市]]が市制施行。
* [[1972年]] - 埼玉県[[蓮田市]]、京都府[[向日市]]・[[長岡京市]]、愛媛県[[東予市]](現 [[西条市]]の一部)が市制施行。
* [[1986年]] - 埼玉県[[幸手市]]が市制施行。
* [[1987年]] - 大阪府[[大阪狭山市]]が市制施行。
* [[1991年]] - 埼玉県[[日高市]]、奈良県[[香芝市]]、大阪府[[阪南市]]が市制施行。
* [[1992年]] - 福岡県[[前原市]]が市制施行。
* [[1994年]] - 愛知県[[日進市]]が市制施行。
* [[1997年]] - 福岡県[[古賀市]]が市制施行。
* [[1999年]] - 石川県[[金沢市]]で、尾張町2丁目の[[住居表示]]の一部を[[主計町 (金沢市)|主計町]]に変更。全国初の[[旧町名復活運動|旧町名復活]]。
* [[2001年]] - 滋賀県[[栗東市]]が市制施行。
* [[2004年]] - 三重県[[志摩市]]、滋賀県[[甲賀市]]・[[湖南市]]・[[野洲市]]、奈良県[[葛城市|{{JIS90フォント|葛}}城市]]、徳島県[[吉野川市]]が市制施行。
* [[2005年]] - 北海道[[渡島支庁]]の[[山越郡]][[八雲町]]と[[檜山支庁]]の[[爾志郡]][[熊石町]]が合併して渡島支庁の[[二海郡]][[八雲町]]に。檜山支庁が南北に分断される。
* 2005年 - 島根県[[鹿足郡]][[六日市町]]、[[柿木村]]が合併し、[[吉賀町]]に。
* 2005年 - 埼玉県[[上福岡市]]ほか1町が合併して[[ふじみ野市]]に。
* 2005年 - 福井県[[武生市]]ほか1町が合併して[[越前市]]に。
* 2005年 - 兵庫県[[龍野市]]ほか3町が合併して[[たつの市]]に。
* 2005年 - 沖縄県[[平良市]]ほか4町村が合併して[[宮古島市]]に。
* 2005年 - 秋田県[[にかほ市]]、茨城県[[桜川市]]、栃木県[[那須烏山市]]、長野県[[安曇野市]]、大分県[[由布市]]が市制施行。
* [[2009年]] - 愛知県[[春日町 (愛知県)|春日町]]が[[清須市]]に編入。
* [[2012年]] - 埼玉県[[白岡市]]が市制施行。
日本の自治体数は2023年1月時点で1788。これらの自治体の改編を全て記載するのは難しいという理由で、他ページでもコメントアウトないし削除されていたたためコメントアウト-->
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[File:Paul Dukas.jpg|thumb|120px|[[作曲家]][[ポール・デュカス]](1865-1935)誕生。{{audio|Apprentice.ogg|交響的スケルツォ『魔法使いの弟子』を聴く}}]]
[[File:JimmyCarterPortrait.jpg|thumb|120px|第39代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジミー・カーター]](1924-)誕生]]
[[File:Mark McGwire on June 29, 2011.jpg|thumb|120px|[[マーク・マグワイア]](1963-)誕生]]
* [[208年]] - [[アレクサンデル・セウェルス]]、[[ローマ皇帝]](+ [[235年]])
* [[1207年]] - [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1272年]])
* [[1480年]] - {{仮リンク|聖カジェタン|en|Saint Cajetan}}、司祭(+ [[1547年]])
* [[1507年]] - [[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]、[[マニエリスム]]の建築家(+ [[1573年]])
* [[1542年]] - [[アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ]]、[[探検家]](+ [[1595年]])
* [[1550年]] - {{仮リンク|アン・オブ・セイント・バーソロミュー|en|Anne of Saint Bartholomew|Anne of Saint Bartholomew}}、修道女(+ [[1626年]])
* [[1620年]] - [[ニコラース・ベルヘム]]、画家(+ [[1683年]])
* [[1671年]] - {{仮リンク|ルイージ・グイド・グランディ|en|Luigi Guido Grandi}}、司祭、数学者(+ [[1742年]])
* [[1685年]] - [[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1740年]])
* [[1691年]] - [[アーサー・オンズロー]]、[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]](+[[1768年]])
* [[1696年]] ([[元禄]]9年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[松平定英]]、第6代[[伊予松山藩|松山藩]]主 (+ [[1733年]])
* [[1719年]] - [[ジョン・ブライ (第3代ダーンリー伯爵)|ジョン・ブライ]]、第3代[[ダーンリー伯爵]](+ [[1781年]])
* [[1730年]] - [[リチャード・ストックトン]]、弁護士、法学者、政治家(+ [[1781年]])
* [[1760年]] - [[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]、[[作家]](+ [[1844年]])
* [[1771年]] - [[ピエール・バイヨ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1842年]])
* [[1787年]] ([[天明]]7年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[森長義]]、第6代[[三日月藩]]主 (+ [[1837年]])
* [[1791年]]([[ユリウス暦]][[9月20日]]) - [[セルゲイ・アクサーコフ]]、[[小説家]](+ [[1859年]])
* [[1800年]] ([[宝暦]]5年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[内田正容]]、第6代[[小見川藩]]主 (+ [[1870年]])
* [[1814年]] - [[エルヴェ・フェイ]]、[[フェイ彗星]]を発見した天文学者(+ [[1902年]])
* [[1832年]] - [[ヘンリー・クレイ・ワーク]]、作曲家、[[作詞家]](+ [[1884年]])
* 1832年 - {{仮リンク|キャロライン・ハリソン|en|Caroline Harrison}}、第24代[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ベンジャミン・ハリソン]]の[[ファーストレディ]](+ [[1892年]])
* [[1835年]] - {{仮リンク|アダム・ポリツェル|en|Ádám Politzer}}、医師、[[解剖学者]](+ [[1920年]])
* [[1842年]] - [[シャルル・クロス]]、[[詩人]]、[[発明家]](+ [[1888年]])
* [[1847年]] - [[アニー・ベサント]]、神智学者、女性解放活動家、社会主義者(+ [[1933年]])
* 1847年([[弘化]]4年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[戸田忠友]]、第7代[[宇都宮藩]]主、[[子爵]] (+ [[1924年]])
* [[1849年]] - [[スティーブ・ベリャン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1932年]])
* [[1861年]] - [[フィリップ・バーン=ジョーンズ]]、[[画家]](+ [[1926年]])
* [[1865年]] - [[ポール・デュカス]]、作曲家(+ [[1935年]])
* [[1878年]] - [[オトマール・スパン]]、[[経済学者]](+ [[1950年]])
* [[1879年]] - [[長谷川時雨]]、[[劇作家]]、[[小説家]](+ [[1941年]])
* [[1881年]] - [[ウィリアム・ボーイング]]、[[ボーイング]]の設立者(+ [[1956年]])
* [[1882年]] - [[内藤伸]]、[[彫刻家]](+ [[1967年]])
* [[1887年]] - [[田中静壱]]、軍人(+ [[1945年]])
* [[1890年]] - [[スタンリー・ホロウェイ]]、俳優(+ [[1982年]])
* [[1893年]] - [[葉問]](イップ・マン)、[[中国武術]]家(+ 1972年)
* [[1895年]] - {{仮リンク|リヤーカト・アリ・カーン|en|Liaquat Ali Khan}}、初代[[パキスタンの首相|パキスタン首相]](+ [[1951年]])
* [[1896年]] - {{仮リンク|テッド・ヒーリー|en|Ted Healy}}、俳優(+ [[1937年]])
* [[1897年]] - [[三村伸太郎]]、[[脚本家]](+ [[1970年]])
* [[1898年]] - [[久慈次郎]]、[[野球選手]](+ [[1939年]])
* [[1899年]] - [[ジョゼフ・ギルモ]]、[[陸上競技選手]](+ [[1975年]])
* [[1903年]] - [[長谷川才次]]、[[時事通信社]]初代代表取締役(+ [[1978年]])
* 1903年 - [[ウラディミール・ホロヴィッツ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Vladimir-Horowitz |title=Vladimir Horowitz|Russian pianist |access-date=29 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[ピアニスト]](+ [[1989年]])
* 1903年 - [[鶴田義行]]、[[水泳選手一覧|水泳選手]](+ [[1986年]])
* 1903年 - {{仮リンク|ピエール・ヴェイロン|en|Pierre Veyron}}、レーシングドライバー(+ [[1970年]])
* [[1904年]] - [[オットー・ロベルト・フリッシュ]]、物理学者(+ [[1979年]])
* [[1906年]] - [[小野寺百合子]]、[[翻訳家]](+ [[1998年]])
* [[1907年]] - [[服部良一]]、作曲家(+ [[1993年]])
* 1907年 - [[パールトシュ・エデン]]、[[ヴィオラ]]奏者、[[作曲家]](+ [[1977年]])
* [[1908年]] - [[ヘアマン・ダーヴィド・コッペル]]、ピアニスト(+ [[1998年]])
* [[1910年]] - ボニー・パーカー、犯罪者([[ボニーとクライド]])(+ [[1934年]])
* 1910年 - [[アッティリオ・パヴェージ]]、[[自転車競技]]([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])選手(+ [[2011年]])
* [[1911年]] - [[椎名麟三]]、小説家(+ [[1973年]])
* 1911年 - [[アーウィン・コスタル]]、[[作曲家]](+ [[1994年]])
* [[1912年]] - {{仮リンク|キャスリーン・オレレンショー|en|Kathleen Ollerenshaw}}、[[数学者]]、[[天文学者]]、マンチェスター市長(+ [[2014年]])
* 1912年 - [[レフ・グミリョフ]]、[[歴史家]]、[[民俗学者]]、[[人類学者]](+ [[1992年]])
* [[1913年]] - [[エリオ・グレイシー]]、[[ブラジリアン柔術|ブラジリアン柔術家]](+ [[2009年]])
* [[1914年]] - [[ダニエル・J・ブーアスティン]]、歴史家(+ [[2004年]])
* [[1915年]] - [[浅野勝三郎]]、プロ野球選手(+ 没年不明)
* 1915年 - [[ジェローム・ブルーナー]]、[[心理学者]](+ [[2016年]])
* [[1919年]] - {{仮リンク|ボブ・ボイド|en|Bob Boyd (baseball)}}、野球選手(+ [[2004年]])
* [[1920年]] - [[ウォルター・マッソー]]、[[俳優]](+ [[2000年]])
* [[1921年]] - [[江戸家猫八 (3代目)|三代目・江戸家猫八]]、[[ものまね]]師(+ [[2001年]])
* 1921年 - [[ジェームズ・ホイットモア]]、俳優(+ [[2009年]])
* [[1922年]] - [[山西由之]]、実業家(+ [[1986年]])
* 1922年 - [[別所毅彦]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1999年]])
* 1922年 - [[楊振寧]]、物理学者
* [[1923年]] - [[フェルナン・サストル]]、[[フランスサッカー協会]]会長(+ [[1998年]])
* [[1924年]] - [[乙羽信子]]、[[俳優|女優]](+ [[1994年]])
* 1924年 - [[ジミー・カーター]]、政治家、第39代[[アメリカ合衆国大統領]]
* 1924年 - [[ボブ・ガイゲル]]、[[プロレスラー]](+ [[2014年]])
* 1924年 - [[ウィリアム・レンキスト]]、第16代[[アメリカ合衆国最高裁判所長官]](+ [[2005年]])
* [[1925年]] - [[ジョゼ・ベヤールト]]、[[自転車競技]]([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])選手(+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[森塚敏]]、俳優(+ [[2006年]])
* [[1927年]] - [[トム・ボズリ]]、俳優(+ [[2010年]])
* [[1928年]] - [[ローレンス・ハーヴェイ]]、俳優、[[映画監督]](+ [[1973年]])
* 1928年 - [[ウィリー・メレス]]、[[レーシングドライバー]](+ [[1969年]])
* 1928年 - [[シヴァージ・ガネーサン]]、俳優(+ [[2001年]])
* 1928年 - [[ジョージ・ペパード]]、俳優(+ [[1994年]])
* 1928年 - [[朱鎔基]]、[[中華人民共和国]]第5代[[国務院総理]]
* [[1929年]] - {{仮リンク|ボニー・オーウェンズ|en|Bonnie Owens}}、[[シンガーソングライター]](+ [[2006年]])
* [[1930年]] - [[フィリップ・ノワレ]]、俳優(+ [[2006年]])
* 1930年 - [[リチャード・ハリス]]、俳優(+ [[2002年]])
* 1930年 - [[高木公男]]、元プロ野球選手
* [[1931年]] - [[シルヴァーノ・ブッソッティ]]、[[芸術家]](+ [[2021年]])
* 1931年 - [[フランク・ガードナー]]、[[レーシングドライバー]](+ [[2009年]])
* 1931年 - [[大里晴信]]、[[審判員 (野球)|プロ野球審判員]](+ [[2019年]])
* [[1932年]] - [[斯波重治]]、[[音響監督]]
* 1932年 - [[アルバート・コリンズ]]、ギタリスト(+ [[1993年]])
* [[1934年]] - [[海老一染之助]]、[[太神楽]]師(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20171207-Q33OEEANLRMOBP4OJQRYGK7NHY/ |title=海老一染之助さん、急性肺炎で死去 日本のお正月を彩り続けた傘回し芸 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=7 Dec 2017}}</ref>)
* 1934年 - [[伊奈努]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://npb.jp/bis/players/11313807.html |title=伊奈 努(阪神タイガース) |access-date=29 Mar 2023 |publisher=日本野球機構}}</ref>、プロ野球選手(+ [[1984年]])
* 1934年 - [[エミリオ・ボティン]]、[[銀行家]](+ [[2014年]])
* [[1935年]] - [[ウォルター・デ・マリア]]、[[彫刻家]]、[[音楽家]](+ [[2013年]])
* 1935年 - [[横溝桂]]、元プロ野球選手
* 1935年 - [[ジュリー・アンドリュース]]、女優、[[歌手]]
* [[1936年]] - [[ダンカン・エドワーズ]]、[[サッカー選手]](+ [[1958年]])
* 1936年 - [[松本惟子]]、政治家
* 1936年 - [[トラルフ・エンヤン]]、元[[スキージャンプ]]選手
* 1936年 - [[アントワネット・フーク]]、[[精神分析家]]、[[政治学者]]、[[評論家]](+ [[2014年]])
* [[1938年]] - [[三宅孝夫]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[ステラ・スティーヴンス]]、女優(※1936年説あり)(+ [[2023年]])
* [[1940年]] - {{仮リンク|スティーヴ・オルーク|en|Steve O'Rourke}}、レーシングドライバー(+ [[2003年]])
* [[1941年]] - [[松村正晴]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[安東功]]、元プロ野球選手
* 1942年 - [[ジャン=ピエール・ジャブイーユ]]、レーシングドライバー
* 1942年 - {{仮リンク|ギュンター・ヴァルラフ|en|Günter Wallraff}}、ジャーナリスト
* [[1943年]] - [[浜田光夫]]、俳優
* 1943年 - [[うつみ宮土理]]、[[タレント]]、女優
* 1943年 - [[ジャン=ジャック・アノー]]、[[映画監督]]
* 1943年 - [[宗村宗二]]、レスリング選手
* [[1945年]] - [[ロッド・カルー]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[ラーム・ナート・コーヴィンド]]、政治家、第14代[[インド]][[インドの大統領|大統領]]
* 1945年 - [[ダニー・ハサウェイ]]、歌手、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[1979年]])
* [[1946年]] - [[小川ローザ]]、タレント
* 1946年 - [[デイヴ・ホランド]]、[[ミュージシャン]]
* 1946年 - [[ティム・オブライエン]]、小説家
* 1946年 - [[エワ・クロブコフスカ]]、陸上競技選手
* [[1947年]] - [[マリスカ・ヴェレス]]、[[歌手]]([[ショッキング・ブルー]])(+ [[2006年]])
* 1947年 - {{仮リンク|バズ・カプラ|en|Buzz Capra}}、野球選手
* 1947年 - [[アーロン・チカノーバー]]、[[生化学者]]
* 1947年 - [[スティーヴン・コリンズ]]、俳優
* [[1948年]] - [[梅津正樹]]、元[[アナウンサー]]
* 1948年 - [[ピーター・ブレイク (ヨットマン)|ピーター・ブレイク]]、[[ヨットマン]]
* [[1949年]] - [[アンドレ・リュウ]]、[[指揮者]]、[[ヴァイオリニスト]]
* [[1950年]] - [[スーザン・グリーンフィールド]]、[[神経学者]]
* 1950年 - {{仮リンク|ボリス・モロコフ|en|Boris Morukov}}、[[宇宙飛行士|コスモノート]]
* 1950年 - [[ランディ・クエイド]]、俳優
* 1950年 - {{仮リンク|ジーン・マンソン|en|Jeane Manson}}、歌手
* [[1951年]] - [[原田伸郎]]、タレント
* [[1952年]] - [[島津雅彦]]、俳優
* 1952年 - [[三沢淳]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* 1952年 - [[執行重徳]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[薗部潔史]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[飯山正樹]]、元プロ野球選手
* 1953年 - {{仮リンク|ピート・ファルコン|en|Pete Falcone}}、元プロ野球選手
* 1953年 - [[グレテ・ワイツ]]、[[陸上競技]]選手(+ [[2011年]])
* 1953年 - [[クラウス・ヴォーヴェライト]]、政治家、ベルリン市長
* [[1954年]] - {{仮リンク|ブルーノ・ビニ|en|Bruno Bini}}、サッカー選手
* [[1955年]] - [[村尾信尚]]、[[経済学者]]、[[ニュースキャスター]]
* 1955年 - [[ジェフ・リアドン]]、野球選手
* [[1956年]] - [[テリーザ・メイ]]、政治家、第76代[[イギリス首相]]
* 1956年 - [[バンス・ロー]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[アンドルス・アンシプ]]、政治家、第15代[[エストニア]][[エストニアの首相|首相]]
* [[1957年]] - [[人見元基]]、ミュージシャン(元 [[VOW WOW]])
* 1957年 - {{仮リンク|エヴァ・タルドス|en|Éva Tardos}}、数学者
* [[1958年]] - [[中村正人]]、ミュージシャン([[DREAMS COME TRUE|ドリームズ・カム・トゥルー]])
* 1958年 - [[三東ルシア]]、女優、歌手
* 1958年 - [[阪本順治]]、[[映画監督]]
* [[1959年]] - [[ユッスー・ンドゥール]]、歌手
* 1959年 - [[轟進一]]、[[ものまねタレント]]
* [[1960年]] - [[平瀬りえ]]、女優
* [[1963年]] - [[マーク・マグワイア]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[嘉多山信]]、ギタリスト
* [[1964年]] - [[松浦勝人]]、[[音楽プロデューサー]]
* [[1965年]] - [[柏原芳恵]]、歌手
* 1965年 - [[柳沢まさひで]]、[[キャラクターデザイナー]]
* 1965年 - [[田島俊雄]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[DJ OSSHY]]、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]
* [[1966年]] - [[金沢健一]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[ジョージ・ウェア]]、元サッカー選手、第25代[[リベリアの大統領|リベリア大統領]]
* [[1967年]] - [[田中善則]]、元野球選手
* [[1968年]] - [[吉井晃]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[水本勝己]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[佐藤康光]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* 1969年 - [[宮里久美]]、元歌手、声優
* 1969年 - [[横山健]]、ミュージシャン([[Hi-STANDARD]]、Ken Yokoyama、[[BBQ CHICKENS]])
* [[1970年]] - [[的山哲也]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[ソン・イルグク]]、 俳優
* [[1972年]] - [[エサ・ホロパイネン]]、ミュージシャン
* 1972年 - [[吉田ゐさお]]、ミュージシャン
* 1972年 - [[柴山智加]]、女優
* [[1973年]] - [[キム・ソナ|金宣兒]]、女優
* [[1974年]] - [[河口恭吾]]、ミュージシャン
* [[1975年]] - [[ブランドン・ナイト (野球)|ブランドン・ナイト]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[松下香織]]、アナウンサー
* [[1976年]] - [[与座よしあき]]、お笑い芸人、俳優
* 1976年 - [[森本とみやす]]、俳優
* [[1977年]] - [[滝川クリステル]]、[[アナウンサー]]
* 1977年 - [[ドワイト・フィリップス]]、陸上競技選手
* [[1978年]] - [[直弘龍治]]、[[バレーボール]]選手
* 1978年 - 堤太輝、お笑い芸人([[どりあんず]])
* 1978年 - [[内田ナナ]]、モデル
* 1978年 - [[高橋裕二]]、アナウンサー
* 1978年 - [[安斎摩紀]]、アナウンサー
* [[1979年]] - [[松原健之]]、歌手
* 1979年 - [[吉田有希 (モデル)|吉田有希]]、モデル
* 1979年 - [[中原龍太郎]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、作曲家
* [[1980年]] - [[大谷亮平]]、 俳優
* 1980年 - [[チャド・オーベラ]]、プロ野球選手
* [[1981年]] - [[大友慧]]、 元サッカー選手
* 1981年 - [[篠田光亮]]、俳優
* [[1982年]] - [[山根明季子]]、[[ピアニスト]]
* [[1983年]] - [[ミルコ・ヴチニッチ]]、元サッカー選手
* [[1984年]] - [[皆川佑馬]]、元俳優
* 1984年 - [[アビゲイル・ピーターセン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1984年 - [[マット・ケイン]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[クリス・ジョンソン (内野手)|クリス・ジョンソン]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[みづきあかり]]、タレント、元[[グラビアアイドル]]
* 1985年 - [[RYO (ORANGE RANGE)|RYO]]、ミュージシャン([[ORANGE RANGE]])
* [[1986年]] - [[神田沙也加]]、女優、タレント(+ [[2021年]])
* 1986年 - [[佐々木彩]]、元アナウンサー
* 1986年 - [[細貝沙羅]]、元アナウンサー
* 1986年 - [[山口達也 (競艇選手)|山口達也]]、競艇選手
* 1986年 - [[アーロン・ポレダ]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[ギタウ・ダニエル]]、陸上競技選手
* 1987年 - [[相葉裕樹]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=3377 |title=相葉裕樹|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=29 Mar 2023 |publisher=animateTimes}}</ref>、俳優
* 1987年 - [[エリック・コマツ]]、元プロ野球選手
* [[1989年]] - [[ブリー・ラーソン]]、女優、[[シンガーソングライター]]
* 1989年 - [[鈴木彩]]、タレント
* [[1990年]] - [[片山萌美]]、グラビアアイドル、女優
* [[1991年]] - [[あいか (アイドル)|あいか]]、元グラビアアイドル
* 1991年 - [[川﨑孝之]]、陸上フィギュアスケーター
* 1991年 - [[ロビー・レイ]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[レナン・カルバーリョ・モッタ]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[坂井太陽]]、俳優
* 1992年 - [[丸山隼]]、俳優
* 1992年 - [[大貫彩香]]、グラビアアイドル、舞台女優
* 1992年 - [[ザンダー・ボガーツ]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[サイ・スニード|サイスニード]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[浜田智博]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[石橋朋美]]、バレーボール選手
* [[1993年]] - [[水沢奈子]]、タレント、グラビアアイドル
* 1993年 - [[一山本大生]]、大相撲力士
* [[1994年]] - [[池田隆英]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[DREAMCATCHER#メンバー|シヨン]]、アイドル([[DREAMCATCHER]])
* [[1996年]] - [[鈴木優華]]、ファッションモデル、女優
* [[1997年]] - [[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]、声優
* 1997年 - [[森田力斗]]、俳優
* 1997年 - [[坂口楓華]]、競輪選手
* 1997年 - [[五十嵐カノア]]、プロサーファー
* [[2000年]] - [[小玉梨々華]]、アイドル([[わーすた]])
* 2000年 - [[カッレ・ロバンペラ]]、ラリードライバー
* [[2006年]] - 徳永羚海、アイドル([[徳永羚海|AKB48]])
* 生年不明 - [[逢川じゅん]]、声優
* 生年不明 - [[逢沢ゆりか]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2001年]] - [[パンくん]]、[[チンパンジー]]
== 忌日 ==
{{multiple image
| footer = [[天武天皇]](631?-686)崩御
| image1 = Emperor Tenmu.jpg
| width1 = 100
| alt1 = 天武天皇
| image2 = TenmuJitoTomb.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 野口王墓
}}
[[File:Don john.jpg|thumb|120px|[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の庶子[[ドン・フアン・デ・アウストリア]](1547?-1578)没。[[レパントの海戦]]に勝利]]
{{multiple image
| footer = [[越後長岡藩]][[家老]][[河井継之助]](1827-1868)戦傷死
| image1 = Kawai Tugunosuke.jpg
| width1 = 100
| alt1 = 河井継之助
| image2 = Grave of Tuginosuke Kawai at Eiryo-ji temple in Nagaoka.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 河井継之助の墓
}}
{{multiple image
| footer = [[イギリス]]の[[画家]][[エドウィン・ランドシーア]](1802-1873)没。[[トラファルガー広場]]のライオン像を手掛けた
| image1 = Watkins - Edwin Landseer.jpg
| width1 = 100
| alt1 = エドウィン・ランドシーア
| image2 = Trafalgar square lion.JPG
| width2 = 100
| alt2 = トラファルガー広場のライオン像
}}
[[File:Tom Clancy at Burns Library cropped.jpg|thumb|100px|[[テクノスリラー]]小説の第一人者[[トム・クランシー]](1947-2013)没]]
* [[686年]]([[朱鳥]]元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]])- [[天武天皇]]、第40代[[天皇]](* [[631年]]?)
* [[959年]] - [[エドウィ]]、[[イングランド王国|イングランド王]](* [[941年]]?)
* [[1404年]] - [[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]]、第203代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1350年]])
* [[1499年]] - [[マルシリオ・フィチーノ]]、[[哲学者]](* [[1433年]])
* [[1578年]] - [[ドン・フアン・デ・アウストリア]]、[[軍人]](* [[1547年]]?)
* [[1648年]]([[慶安]]元年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[松平直基]]、[[姫路藩|姫路藩主]](* [[1604年]])
* [[1684年]] - [[ピエール・コルネイユ]]、[[劇作家]](* [[1606年]])
* [[1708年]] - [[ジョン・ブロウ]]、[[作曲家]](* [[1649年]])
* [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]])- [[小山良師]]、[[赤穂藩]][[足軽大将|足軽頭]](* [[1648年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]])- [[柳沢吉里]]、[[郡山藩|郡山藩主]](* [[1687年]])
* [[1814年]]([[文化 (元号)|文化]]11年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])- [[中山愛親]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](* [[1741年]])
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]])- [[河井継之助]]、[[越後長岡藩]][[家老]](* [[1827年]])
* [[1873年]] - [[エドウィン・ランドシーア]]、[[画家]](* [[1802年]])
* [[1901年]] - [[アブドゥッラフマーン・ハーン]]、[[アフガニスタン|アフガニスタン王]](* [[1844年]])
* [[1903年]] - [[田村怡与造]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中将]](* [[1854年]])
* [[1910年]] - [[大和田建樹]]、[[作詞家]](* [[1857年]])
* [[1911年]] - [[ヴィルヘルム・ディルタイ]]、哲学者(* [[1833年]])
* [[1929年]] - [[アントワーヌ・ブールデル]]、[[彫刻家]](* [[1861年]])
* 1929年 - [[リー・リッチモンド]]、プロ野球選手(* [[1857年]])
* [[1931年]] - [[小堀鞆音]]、[[日本画家]](* [[1864年]])
* [[1937年]] - [[多嘉王]]、[[皇族]](* [[1875年]])
* [[1938年]] - [[元田肇]]、第24代[[衆議院議長]](* [[1858年]])
* [[1948年]] - [[プラヤー・マノーパコーンニティターダー]]、初代[[タイの首相|タイ王国首相]](* [[1884年]])
* [[1962年]] - [[塩入松三郎]]、[[土壌|土壌学者]](* [[1889年]])
* [[1964年]] - [[ダグラス・マクレガー]]、[[心理学者]](* [[1906年]])
* [[1967年]] - [[東海林稔]]、[[衆議院議員]](* [[1903年]])
* [[1979年]] - [[ロイ・ハリス]]、作曲家(* [[1898年]])
* 1979年 - [[水谷八重子 (初代)]]、[[俳優|女優]](* [[1905年]])
* [[1984年]] - [[ウォルター・オルストン]]、[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](* [[1911年]])
* [[1990年]] - [[カーチス・ルメイ]]、[[アメリカ空軍]]参謀総長(* [[1906年]])
* [[1992年]] - [[ペトラ・ケリー]]、政治家(* [[1947年]])
* [[1994年]] - [[パウル・ローレンツェン]]、哲学者、数学者、論理学者 (* [[1915年]])
* [[1998年]] - [[来栖三郎 (法学者)|来栖三郎]]、[[法学者]](* [[1912年]])
* [[2001年]] - [[古今亭志ん朝]]、[[落語家]](* [[1938年]])
* [[2004年]] - [[フランク・エベレスト]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1920年]])
* 2004年 - [[リチャード・アヴェドン]]、[[写真家]](* [[1923年]])
* 2004年 - {{仮リンク|ブルース・パーマー (ベーシスト)|label=ブルース・パーマー|en|Bruce Palmer}}、[[ベーシスト]](* [[1946年]])
* [[2006年]] - [[米澤嘉博]]<ref>{{Cite web|和書 |title=コミケ代表・マンガ評論家の米沢さん死去 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0610/02/news009.html |website=ITmedia NEWS |access-date=29 Mar 2023 |date=2 Oct 2006}}</ref>、[[漫画評論家]]、元[[コミックマーケット]]代表(* [[1953年]])
* [[2007年]] - [[テツオ・オカモト]]、[[競泳]]選手(* [[1932年]])
* 2007年 - [[アル・オーター]]、[[円盤投]]選手(* [[1936年]])
* [[2009年]] - [[マサオ・ミヨシ]]、英文学者(* [[1928年]])
* 2009年 - [[清水賢]]、[[プロ野球選手]](* [[1942年]])
* [[2013年]] - [[ジュリアーノ・ジェンマ]]、[[俳優]]、[[彫刻家]](* [[1938年]])
* 2013年 - [[トム・クランシー]]<ref>{{Cite web|和書 |title=人気作家トム・クランシー氏死去、66歳 「レッド・オクトーバーを追え」 |url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35037965.html |publisher=Cable News Network. A Warner Bros. Discovery Company. |access-date=29 Mar 2023 |date=3 Oct 2013 |website=CNN.co.up}}</ref>、小説家(* [[1947年]])
* [[2016年]] - [[康蓮鶴]]、政治家(* [[1932年]])
* [[2017年]] - [[スティーブン・パドック]]、[[2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件|ラスベガス・ストリップ銃乱射事件]]の容疑者(* [[1953年]])
* [[2018年]] - [[シャルル・アズナブール]]<ref>{{Cite web|和書 |title=シャルル・アズナブールさん死去 仏のシャンソン歌手:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASLB172D5LB1UHBI03H.html?iref=ogimage_rek |website=[[朝日新聞デジタル]] |date=1 Oct 2018 |access-date=29 Mar 2023}}</ref>、[[歌手]](* [[1924年]])
* [[2019年]] - [[カレル・ゴット]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20191003000363 |title=チェコの歌手K・ゴットさん死去/共産党体制時代から人気 |publisher=[[四国新聞社]] |date=3 Oct 2019 |accessdate=29 Mar 2023}}</ref>、歌手(* [[1939年]])
* [[2021年]] - [[下森定]]、法学者(* [[1930年]])
* [[2022年]] - [[花井幸子]]、ファッションデザイナー(* [[1937年]])
* 2022年 - [[渡辺長武]]、レスリング選手(* [[1940年]])
* 2022年 - [[アントニオ猪木]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanspo.com/article/20221001-I3ILFBSYXNGJBJNWIO44SQCPUM/ |title=アントニオ猪木さんが死去 全身性アミロイドーシスで闘病 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=1 Oct 2022}}</ref>、[[プロレスラー]]、政治家(* [[1943年]])
* [[2023年]] - [[金永日]]、政治家(* [[1947年]])
* 2023年 - [[ティム・ウェイクフィールド]]、プロ野球選手(* [[1966年]])
* 2023年 - [[茂垣周平]]、[[声優]](* [[1989年]])
* 2023年 - [[パトリツィア・ヤネチコヴァ]]、[[オペラ]]歌手、[[ミュージカル]]歌手(* [[1998年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]が5年ごとに行われる。({{JPN}})
* [[共同募金]]がはじまる。({{JPN}})
* 更衣([[衣替え]])({{JPN}})
* [[日本経済団体連合会|経団連]]の定める「採用選考に関する企業の倫理憲章」に基づく、[[内定]]の解禁日<ref>{{Cite web|和書 |title=採用選考に関する企業の倫理憲章 |url=https://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/015.html |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[日本経団連]] |date=15 Mar 2011}}</ref>。主要企業はこの日に[[内定式]]を行う。({{JPN}})
* [[国際高齢者デー]]
*: [[1990年]]12月の国連総会で制定された[[国際デー]]の一つ。
* [[国際音楽の日]]
*: バイオリン奏者の[[ユーディ・メニューイン]]が国際紛争が絶えないことを憂いて提唱し、[[1977年]]にチェコで開催された国際音楽評議会総会において制定。日本では、[[1994年]]11月に公布・施行された音楽文化の振興のための学習環境の整備等に関する法律(平成6年11月25日法律第107号)で10月1日を「国際音楽の日」とすることが定められ、翌年から実施された。
* {{仮リンク|世界ベジタリアンデー|en|World Vegetarian Day}}
* [[独立記念日]]({{NGA}})
*: [[1960年]]のこの日、ナイジェリアが[[イギリス]]から独立したことに由来。
* 独立記念日({{CYP}})
*: [[1960年]]に、キプロスが[[イギリス]]から独立したことに由来。独立宣言を行ったのは[[8月16日]]だが、独立記念日は10月1日となっている。
* 独立記念日({{TUV}})
*: [[1978年]]のこの日、ツバルがイギリスから独立したことに由来。
* 独立記念日({{PLW}})
*: [[1994年]]のこの日、パラオが[[アメリカ合衆国]]の[[信託統治]]から独立したことに由来。
* [[子供の日]]({{SGP}})
* [[国軍の日]]({{KOR}})
*: [[1950年]]のこの日、[[朝鮮戦争]]の東部戦線において陸軍第三師団が[[38度線]]を突破したことに由来。
* [[国慶節]]({{PRC}})
*: [[1949年]]のこの日に中華人民共和国が成立したことに由来。中華人民共和国では、この日から1週間が「十・一」と呼ばれる[[ゴールデンウィーク]](中国語で「黄金周」)となる。
* 法の日({{JPN}})
*: [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]、[[検察庁]]、[[日本弁護士連合会]](日弁連)の進言により[[法務省]]が[[1960年]]に制定。[[1928年]]のこの日に[[陪審法]]が施行されたことにちなむ。
* デザインの日({{JPN}})
*: [[通商産業省]]等が[[1990年]]に制定。[[1959年]]のこの日にデザイン奨励審議会が設置されたことにちなむ。
* 土地の日({{JPN}})
*: [[国土庁]]が[[1997年]]に制定。「十」と「一」を組み合わせると「土」の字になることから。
* [[日本酒]]の日({{JPN}})
*: 日本酒造組合中央会が[[1978年]]に、若者の[[日本酒]]離れを食い止めるために制定。新米で酒造りを始めるのが10月で、酒壺を表す「[[酉]]」の字は[[十二支]]の10番目、さらに「酒造年度」が10月1日(現在では[[7月1日]])から始めることから、何かと[[酒]]に関係の深いこの日を、[[清酒]]をPRする「日本酒の日」とした。
* [[醤油]]の日({{JPN}})
*: 日本醤油協会等の醤油関連団体が[[2003年]]に決定。由来は、「10」が[[干支]]で「酉」にあたり、酉が瓶(かめ)に由来する象形文字であることと、「醤油」という語に「酉」が含まれることから。
* [[コーヒー]]の日({{JPN}})
*: [[全日本コーヒー協会]]が[[1983年]]に制定。国際コーヒー協会が定めた「コーヒー年度」の始まりの日であることから。
*: 2015年に上記を踏まえ「[[国際コーヒーの日]]」が制定された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2060074/full/ |title=渡辺直美、コーヒードレスでサンバ披露 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=1 Oct 2015 |accessdate=29 Mar 2023}}</ref>。
* [[日本茶]]の日({{JPN}})
*: [[伊藤園]]が制定。[[天正]]15年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1587年]][[11月1日]])に[[豊臣秀吉]]が[[北野大茶湯]]を催したことにちなむ。
* [[印章]]の日({{JPN}})
*: 全日本印章業組合連合会が制定。[[1873年]]のこの日、公式の書類には実印を押すように定めた[[太政官布告]]が発布されたことに因む。
* [[眼鏡|メガネ]]の日({{JPN}})
*: 日本眼鏡関連団体協議会が[[1997年]]に制定。漢数字の「一〇〇一」が眼鏡の形に似ていることからこの日となった。
* [[ネクタイ]]の日({{JPN}})
*: 日本ネクタイ組合連合会が[[1971年]]に制定。[[1884年]]のこの日、小山梅吉が日本で初めてネクタイの製造を始めたことにちなむ。
* [[補助犬]]の日({{JPN}})
*: 2002年(平成14年)、[[身体障害者補助犬法]]が施行されたことにより「補助犬の日」とされる。
* 福祉用具の日({{JPN}})
*: 福祉用具関係団体で構成する「福祉用具の日」創設連絡会が[[2001年]]11月に制定。[[1993年]]のこの日、福祉用具法が施行された。
* [[浄化槽]]の日({{JPN}})
*: [[厚生省]]・[[環境庁]]・[[建設省]]が[[1987年]]に制定。[[1985年]]のこの日、[[浄化槽法]]が全面施行された。
* 展望の日({{JPN}})
*: 全日本タワー協議会が2006年に制定。10を「テン」、1を「ボー(棒)」と読む。協議会に加盟する各タワーでイベントが行われる。
[[ファイル:Tokyo-tower pink-ribon.JPG|thumb|乳がん月間。活動のシンボルであるピンク色にライトアップされた東京タワー]]
* [[乳がん]]月間/乳がん早期発見強化月間( - [[10月31日]])({{JPN}})
*: 乳がん患者などによる「あけぼの会」が[[1994年]]に制定。ピンク色のリボンを活動のシンボルとし、協賛する企業などにより高層ビルやタワーがピンク色にライトアップされる。
* [[都民の日]]({{JPN}}・[[東京都]])
*: [[1898年]]10月1日に[[市制特例]]が廃止され、[[東京市]]役所が設置されたことに由来し、東京都が[[1952年]]に制定。この日は都立高校・東京都内の市区町村立小中学校は休みになる。ただし、2002年の学校週5日制実施以降、授業時間数を確保するために都民の日でも休校とせず、平常通りに授業を行う学校も増えている。
* 荒川線の日({{JPN}})
*: [[1974年]]10月1日に[[東京都電車|都電]]で存続対象として残された27・32系統が統合され、[[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]] - [[早稲田停留場|早稲田]]間の直通運転を開始し、[[都電荒川線|荒川線]]の名称が制定されたことに由来。
* [[磁石]]の日({{JPN}})
*: 磁石の特性や機能、存在価値をより広く社会に認知してもらうことを目的とする。磁石が「+(N極)と-(S極)」から成り立つことにちなんで、「+(N極)と-(S極)」を漢数字に見立てて制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nichilaymagnet.co.jp/news/detail.php?post_id=18 |title=10月1日は「磁石の日」です。 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=ニチレイマグネット株式会社 |date=30 Sep 2022}}</ref>。
* 新BSチャンネル8局開局(秋のBSの日){{JPN}}
*: [[アニマックス]]などのチャンネルが開局した日。
* uniの日({{JPN}})
*: [[1958年]]10月1日に[[三菱鉛筆]]のロングセラー商品、高級鉛筆「uni(ユニ)」が発売されたことに由来。発売50周年を機に、日本記念日協会により制定。
* 闘魂アントニオ猪木の日({{JPN}})<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hochi.news/articles/20230608-OHT1T51083.html?page=1 |title=アントニオ猪木さん、命日の「10月1日」が記念日登録…「闘魂アントニオ猪木の日」として制定 |access-date=8 June 2023 |publisher=スポーツ報知 |date=8 June 2022}}
</ref>
*: 2023年に制定。この日はアントニオ猪木の命日である。
* [[諏訪湖]]の日({{JPN}}・[[長野県]])
*: [[2018年]]に制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.nagano.lg.jp/suwachi/suwachi-kikaku/vision/suwakonohi.html|title=10月1日は「諏訪湖の日」!/諏訪地域振興局|publisher=[[長野県]]|date=2023-09-11|accessdate=2023-09-13}}</ref>
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1001|date=2023年3月}}
* 1947年(昭和22年)- 椿美禰子が[[大森 (大田区)|大森]]の[[割烹]][[旅館]]「松月」に再訪し、[[金田一耕助]]と面談。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第13章<ref group="注">玉虫元[[伯爵]]が殺害された日の翌日</ref>)
* 1982年(昭和57年)- [[七曲署|七曲警察署]]の石塚誠刑事が[[射殺]]される。(『[[太陽にほえろ!]]』第525話「石塚刑事殉職」<ref>{{Cite web|和書 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011152134-00 |title=太陽にほえろ!1982 disc 9-10 DISC2〈第525話〉太陽にほえろ!スペシャル石塚刑事殉職(ゴリさん) |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]サーチ}}</ref>)
* 1998年 - 滅菌作戦及びコードダブルエックス実行。[[ラクーンシティ]]消滅。(ゲーム『[[バイオハザードシリーズ]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1959年]] - 陳念、ゲーム『[[豪血寺一族]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=陳 念 |url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_gkt/vc_gkt_06.html |access-date=29 Mar 2023 |work=『VC 豪血寺一族』 |publisher=[[任天堂]]}}</ref>
* [[1974年]] - 長深田澄夫、ゲーム『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |page = 92 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 }}</ref>
* 生年不明 - 志摩リン、漫画・アニメ『[[ゆるキャン△]]』の主人公のひとり<ref>{{Twitter status|yurucamp_anime|1575863054293778442}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://yurucamp.jp/first/character/ |title=Character|志摩リン |publisher=[[あfろ]]・[[芳文社]]/野外活動サークル |accessdate=29 Mar 2023 |work=『ゆるキャン△』}}</ref>
* 生年不明 - 新多シン、アニメ『[[新幹線変形ロボ シンカリオン|新幹線変形ロボ シンカリオンZ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|shinkalion|1441960719080202241}}</ref>
* 生年不明 - 来栖川姫子、漫画・アニメ『[[神無月の巫女]]』のヒロイン<ref name=":0">{{Twitter status|shitaya_noriko|1178945921679159296}}</ref>
* 生年不明 - 姫宮千歌音、漫画・アニメ『神無月の巫女』のもうひとりのヒロイン<ref name=":0" />
* 生年不明 - あつみ詩鶴、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/atsumi_shizuru |title=山形 あつみ詩鶴 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 平戸基恵、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/hirado_motoe |title=長崎 平戸基恵 |access-date=29 Mar 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
*生年不明 - ウタ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/anime/character/characters/UTA |title=ウタ |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - 佐伯虎次郎、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1443592739849785348}}</ref>
* 生年不明 - 重吾、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1443591544678744069}}</ref>
* 生年不明 - 志波空鶴、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 108 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-874079-3 }}</ref>
*生年不明 - 西野貴未、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2012|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=[[集英社]]|location=|isbn=978-4-08-879478-5|date=|volume=5巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - 対木もこ、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=対木 もこ(ついき もこ) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=29 Mar 2023 |work=『咲-Saki-』 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - 大和・クリスティーナ・和子、漫画・アニメ『[[NEW GAME!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://newgame-anime.com/character/ |title=大和・クリスティーナ・和子 |publisher=[[得能正太郎]]・[[芳文社]]/NEW GAME!!製作委員会 |accessdate=29 Mar 2023 |work=『NEW GAME!!』}}</ref>
* 生年不明 - 萩野千秋、漫画・アニメ『[[ひなこのーと]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://hinakonote.jp/character.html |title=キャラクター 荻野千秋 |work=『ひなこのーと』 |accessdate=29 Mar 2023 |publisher=[[三月 (漫画家)|三月]]・[[KADOKAWA]]刊/ひなこのーと製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#黒歌|黒歌]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|603340033752367104}}</ref>
* 生年不明 - 松田メイ、アニメ『[[あはれ!名作くん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aware_meisaku|1311320145286123521}}</ref>
* 生年不明 - 勝田聡子、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=『劇場版ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/03_01/ |title=勝田 聡子 |accessdate=29 Mar 2023 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - ヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hai-furi.com/character/06_02/ |title=ヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク |access-date=29 Mar 2023 |publisher=AAS/新海上安全整備局 |work=『劇場版ハイスクール・フリート』}}</ref>
* 生年不明 - 松永涼、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20150 |title=松永 涼(まつなが りょう) |access-date=29 Mar 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 五代律、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)|ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130508_161371/ |title=【ガールフレンド(仮)通信32】長い黒髪が魅力的な美少女剣士 五代律ちゃん(CV:羅弘美) |access-date=29 Mar 2023 |publisher=ファミ通App |date=2013-05-08}}</ref>
* 生年不明 - 夕霧、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/yugiri.php |title=夕霧 |work=『閃乱カグラNewWave Gバースト』 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |accessdate=29 Mar 2023}}</ref>
* 生年不明 - 新阪ルナ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|914295046891073537}}</ref>
* 生年不明 - 美唄イムラ、ゲーム『ステーションメモリーズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1046558060397744131}}</ref>
* 生年不明 - 南みれぃ、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1443719810337021955}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=柴崎恵美子 |title=テレビ超ひゃっか プリパラ アイドルずかん |publisher=[[小学館]] |year=2016 |page=8 |ISBN=978-4-09-750417-7}}</ref>
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* 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#ハロー、ハッピーワールド!|ミッシェル(奥沢美咲)]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/okusawa-misaki/ |title=奥沢 美咲 |publisher=[[ブシロード]] |accessdate=29 Mar 2023 |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ! 』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#星見純那|星見純那]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1178685938232369152}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[フレッド・ホイル]](著書『[[フレッド・ホイル#研究以外の活動|10月1日では遅すぎる]]』)
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1,495 | 囲碁 | 囲碁()とは、交互に盤上に石を置いて行き自分の石で囲んだ領域の広さを競う、2人で行うボードゲームの一種。単に碁()とも呼ばれる。
2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動させたりすることはできない(対角線上に囲っても取り除けない)。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。
アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば二人零和有限確定完全情報ゲームである。勝敗は、より大きな地を確保することで決定される(#勝敗に関するルール)。ゲームの終了は、将棋やチェスと同じように、一方が負けを認めること(投了という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。ほかのボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約がきわめて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。対局結果は「片方の勝利」「引き分け(持碁)」「無勝負」「両負け」の4種類が規定されている。
発祥は中国と考えられており、2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で爛柯(らんか)等さまざまな別称を持つ(#囲碁の別称とその意味)。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。日本では駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は日本語の慣用句としても定着している(#囲碁に由来する慣用表現)。
西洋的な価値観からはチェスなどと同様マインドスポーツ(つまり競技)でもあり、国際囲碁連盟は国際オリンピック委員会が承認する国際スポーツ団体総連合に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。中国・広州で開催される2010年アジア競技大会では競技種目として採用された。
日本語では「囲碁を打つ」と表現するが、なぜこの表現が使われるのかはよく分かっていない。
「碁」という字は、本来は「棋・棊」の異体字で意味も発音も同じだった。中国では「囲棋」(新字体による代用表記。繁:圍棋 / 簡:围棋)と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。
少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』や『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代には17路盤が使われていたと考えられている。伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。
初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。その後、5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。その時代から日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。現在確認されている「囲碁を打つ」という表現の最も古い例は、古今和歌集に収録された紀友則の詞書である。
室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。
東アジア以外にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80か国以上で打たれており、世界選手権も行われている。
囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。
主なルールは5つ。
石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。
しかしその直後、今度は下図のように▲の黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。詳しくはコウの項目を参照。
囲碁は、先手の黒が有利な競技である。そのため、対等な条件にするために、「コミ」というルールがある。
ランダム(ニギリやジャンケンなど)によって手番が決められた場合に設定される。現在の日本ルールでは、6目半を先手の黒が負担しなければならない。後手の白の獲得した地よりも、7目以上多く獲得しないと、勝ちと認められない。0目から6目多く白より獲得しても、その場合は、後手の白の勝ちとなるため、引き分けも起こらない。このような設定の対局を、交替で先番が打てることから、「互先(たがいせん)」という。
また、ハンディキャップ戦として置碁がある。指導目的の碁にも用いられる。
下手(したて)が黒を持ち、上手(うわて)が白を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。
あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は一般的に2子(もく/し)から9子の範囲で調節される。棋力の差が大きければ、その分、置き石も多くなる。置石の場合、上手(うわて)の白から打ち始める。
下手(したて)が、置き石なしの状態で先に打つ場合は、「定先(じょうせん)」という。
コミのルールがつかないため、陣地の目数が同じ場合は、持碁(ジゴ)と呼ばれ、引き分けとなる(ルールによっては、勝敗を設定することもある)。
(詳しくは置碁の項目を参照)。
先に述べた着手禁止点のルールから、2か所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。
なお、下図右下の黒は独立した2か所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。
通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。
近年では隅の着点は小目と星、三々がほとんどで、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。江戸時代には小目以外の着点はほとんど打たれていなかったが、20世紀に入って星、さらに近年の人工知能の発達によって三々の打ち方が増えてきている。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからである。
以下は19路盤での布石の例である。
中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。
中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、
などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。
ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。
序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。
大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行とともに、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。
一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みのバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁の最大の壁だった。
基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼすべてが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率のいいほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。
碁を打つうえで重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できる、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。
囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率がいい状態を「石の働きがいい」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。
また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、そのときに残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。
囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。
アマチュアは、初心者は30 - 50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。
プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。
日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。
日本、中国、韓国、台湾に囲碁のプロ組織がある。
日本では1612年に江戸幕府の下御城碁が始まり、家元四家制が成立し、棋士の収入と身分が保証されたが、明治維新の際にその制度は崩壊した。以後、各派が分かれて活動したが、1924年に各派がまとまって日本棋院を設立した。日本棋院は各種棋戦実施・免状発行のほか、書籍・用品の販売などを行って収入を得て、プロに賞金を与えるとともに、職員を雇用する。韓国では1945年に韓国棋院の前身となる漢城棋院が、中国では1962年に中国囲棋協会が設立され、のちにそれぞれプロ制度が確立した。財政的には各種棋戦のスポンサーとして新聞社が大きな役割を占める。
人工知能AlphaGoの対局では世界で約6000万人が観戦した。世界競技人口は国際囲碁連盟によると2016年時点で1800万人(うちアジアが1700万人)、ルールを知っているのは4650万人とされる。中国では2023年時点で国内の囲碁人口は6000万人超、段級位者は約1500万人とされる。
日本国内では、アマチュア囲碁強豪の菊池康郎は1980年の著書『囲碁に強くなる本』において「日本の囲碁人口は1000万人と言われ、中高生のクラブ活動では囲碁がもっとも人気がある」「21世紀に入って、もっとも脚光を浴びる大衆娯楽の一つに、囲碁があげられている」と記している。1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で、若年層に囲碁ブームが生まれた。しかし、1980年代を境に長期減少傾向にある。
日本で1年に1回以上囲碁の対局を行う、いわゆる「囲碁人口」は、『レジャー白書』(財団法人日本生産性本部)によると以下の通り。
囲碁の特徴として、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、出現しうる局面の総数やゲーム木のサイズがほかの二人零和有限確定完全情報ゲームに比べてもきわめて大きくなることが挙げられる。また、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。
19路盤の着点の総数は 19 = 361目 であり、ここに黒石、白石、空点をランダムに配置したとき、その組合せの総数は3、およそ1.7×10(173桁)となる。この中には着手禁止点に石があるなどの非合法な盤面が含まれるため、この値より囲碁の合法な局面数は小さくなる。合法な局面の総数の正確な値は2016年に求められ、約2.1×10(171桁)であることが明らかにされた。正確な値は下記のとおりである。
これは将棋の10 - 10、チェスの10、シャンチー(象棋)の10、オセロの10、チェッカーの10などと比べても非常に大きい。
ほかの大きさの碁盤の総局面数も算出されており、13路盤では約3.7×10、9路盤では約1.0×10である。
ゲーム木の複雑性は、将棋で10、チェスで10、シャンチーで10と見積もられるのに対し、囲碁では10と見積もられている。
コンピュータによる探索を利用して19路盤より小さな碁盤における最善手順の研究もなされている。結果は持碁(2路盤)、黒勝ち(3路盤)、持碁(4路盤)、黒勝ち(5路盤)となることが2003年までに解明されている。5路盤のときは初手天元で黒25目勝ちとなる。5路盤の解析は『週刊碁』の連載(1993–1994)で趙治勲(名誉名人・二十五世本因坊)によって既に行われていたが、初手が隅から始まる場合の手順に見落としのあったことが判明した。6路盤や7路盤は黒勝ちと予想されている。
チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には引退した将棋棋士の米長邦雄がコンピュータに敗れた。こうしたほかのゲームにおけるコンピュータの躍進と比較すると、コンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代前半においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であった。
コンピュータ囲碁がほかのゲームに比較して進歩が緩やかだったのは、前述の囲碁の総局面数の多さやゲーム木の複雑性も影響しているが、それだけではない。将棋やチェス、シャンチーより局面数の少ない9路盤においても、2005年まではコンピュータはアマチュア初段の域を出ることができていなかった。初めてコンピュータが9路盤でプロに公の舞台で勝ったのは2008年のエキシビジョンマッチでのMoGo対タラヌ・カタリン戦(1勝2敗)であるが、プロ側が9路盤の対策を練った2012年の電気通信大のイベント、2014年の第1回囲碁電王戦ではいずれもコンピュータ側が全敗した。
こうしたコンピュータ囲碁の進歩の難しさの一因に、囲碁において評価関数を作るのが非常に難しい点が挙げられる。将棋やチェスでは駒の損得や局面の状態に応じた評価関数が作りやすく、オセロにおいても隅や辺の重要な部分のパターンで評価関数が作成されてきた。しかし囲碁にはそうした評価方法が存在せず、すべての石の価値が平等であり、オセロの隅のように大きな重みをもつ箇所も存在しない。「形のよさ」「厚み」「味のよさ」「石の軽さ」などが複雑に絡み合っており、評価関数を設定することで強いコンピュータを作るのは非常に困難であった。
しかし2006年、レミ・クーロンがモンテカルロ法を応用して作成したCrazy Stoneがひとつの転機となる。クーロンはこれを「モンテカルロ木探索」と名付けた。従来の評価関数を作成して着手を選択させる手法とは異なり、モンテカルロ木探索ではコンピュータにランダムな着手を繰り返させて多数の対局を行わさせ、さらにその中で有望な展開に多くの探索を繰り返させ、もっとも勝率が高くなる着手を決定させる。従来の手法よりモンテカルロ木探索は囲碁に適合し、ほかのプログラムもこぞってこれを採用した。コンピュータ囲碁の棋力は2006年から1年に1-2子ほどの速さで向上し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力にまで達したが、そこからは棋力の伸びが停滞した。2015年の段階でも、コンピュータがプロに勝つにはまだ10年以上かかるとクーロンや他の関係者は語っていた。
ところが、2016年にモンテカルロ木探索にディープラーニングとニューラルネットワークの技術を組み合わせたAlphaGoをGoogle DeepMind社が発表した。AlphaGoは数千万の棋譜による学習ののち、数百万の自己対戦を繰り返し強化された。ヨーロッパのプロ棋士である樊麾に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との五番勝負も4勝1敗で制した。2017年には中国のトップ棋士である柯潔とも三番勝負を行い、3連勝して人間との戦いから引退した。
AlphaGoの登場は、コンピュータがプロを上回るのはまだまだ先だろうと考えていた囲碁界に大きな衝撃を与えた。AlphaGoの技術を使用した囲碁AIはプロ棋士を凌駕する棋力を有するようになり、AlphaGoをはじめとする囲碁AIのさまざまな手法は従来の定石や布石に大きな影響を与え、新たな布石や定石の流行を生むようになった。形勢判断も従来の目算から数値による表現に変わりつつある。
囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが中には中国の故事に由来するものも多い。
そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。
この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結びつけたものである。
囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。
『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜が降りたあとで橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が2つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が2人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。
碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(1か月以上)も差があり、こじつけという見方もある。
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"text": "日本語では「囲碁を打つ」と表現するが、なぜこの表現が使われるのかはよく分かっていない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "「碁」という字は、本来は「棋・棊」の異体字で意味も発音も同じだった。中国では「囲棋」(新字体による代用表記。繁:圍棋 / 簡:围棋)と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』や『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代には17路盤が使われていたと考えられている。伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。その後、5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。その時代から日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。現在確認されている「囲碁を打つ」という表現の最も古い例は、古今和歌集に収録された紀友則の詞書である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "東アジア以外にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80か国以上で打たれており、世界選手権も行われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "主なルールは5つ。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "しかしその直後、今度は下図のように▲の黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。詳しくはコウの項目を参照。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "囲碁は、先手の黒が有利な競技である。そのため、対等な条件にするために、「コミ」というルールがある。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ランダム(ニギリやジャンケンなど)によって手番が決められた場合に設定される。現在の日本ルールでは、6目半を先手の黒が負担しなければならない。後手の白の獲得した地よりも、7目以上多く獲得しないと、勝ちと認められない。0目から6目多く白より獲得しても、その場合は、後手の白の勝ちとなるため、引き分けも起こらない。このような設定の対局を、交替で先番が打てることから、「互先(たがいせん)」という。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、ハンディキャップ戦として置碁がある。指導目的の碁にも用いられる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "下手(したて)が黒を持ち、上手(うわて)が白を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は一般的に2子(もく/し)から9子の範囲で調節される。棋力の差が大きければ、その分、置き石も多くなる。置石の場合、上手(うわて)の白から打ち始める。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "下手(したて)が、置き石なしの状態で先に打つ場合は、「定先(じょうせん)」という。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "コミのルールがつかないため、陣地の目数が同じ場合は、持碁(ジゴ)と呼ばれ、引き分けとなる(ルールによっては、勝敗を設定することもある)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "(詳しくは置碁の項目を参照)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "先に述べた着手禁止点のルールから、2か所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、下図右下の黒は独立した2か所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "近年では隅の着点は小目と星、三々がほとんどで、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。江戸時代には小目以外の着点はほとんど打たれていなかったが、20世紀に入って星、さらに近年の人工知能の発達によって三々の打ち方が増えてきている。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからである。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "以下は19路盤での布石の例である。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。",
"title": "対局の進行"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行とともに、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みのバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁の最大の壁だった。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼすべてが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率のいいほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "碁を打つうえで重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できる、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率がいい状態を「石の働きがいい」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、そのときに残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。",
"title": "基本戦略"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アマチュアは、初心者は30 - 50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本、中国、韓国、台湾に囲碁のプロ組織がある。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本では1612年に江戸幕府の下御城碁が始まり、家元四家制が成立し、棋士の収入と身分が保証されたが、明治維新の際にその制度は崩壊した。以後、各派が分かれて活動したが、1924年に各派がまとまって日本棋院を設立した。日本棋院は各種棋戦実施・免状発行のほか、書籍・用品の販売などを行って収入を得て、プロに賞金を与えるとともに、職員を雇用する。韓国では1945年に韓国棋院の前身となる漢城棋院が、中国では1962年に中国囲棋協会が設立され、のちにそれぞれプロ制度が確立した。財政的には各種棋戦のスポンサーとして新聞社が大きな役割を占める。",
"title": "競技としての囲碁"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "人工知能AlphaGoの対局では世界で約6000万人が観戦した。世界競技人口は国際囲碁連盟によると2016年時点で1800万人(うちアジアが1700万人)、ルールを知っているのは4650万人とされる。中国では2023年時点で国内の囲碁人口は6000万人超、段級位者は約1500万人とされる。",
"title": "競技人口の概要"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本国内では、アマチュア囲碁強豪の菊池康郎は1980年の著書『囲碁に強くなる本』において「日本の囲碁人口は1000万人と言われ、中高生のクラブ活動では囲碁がもっとも人気がある」「21世紀に入って、もっとも脚光を浴びる大衆娯楽の一つに、囲碁があげられている」と記している。1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で、若年層に囲碁ブームが生まれた。しかし、1980年代を境に長期減少傾向にある。",
"title": "競技人口の概要"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本で1年に1回以上囲碁の対局を行う、いわゆる「囲碁人口」は、『レジャー白書』(財団法人日本生産性本部)によると以下の通り。",
"title": "競技人口の概要"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "囲碁の特徴として、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、出現しうる局面の総数やゲーム木のサイズがほかの二人零和有限確定完全情報ゲームに比べてもきわめて大きくなることが挙げられる。また、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "19路盤の着点の総数は 19 = 361目 であり、ここに黒石、白石、空点をランダムに配置したとき、その組合せの総数は3、およそ1.7×10(173桁)となる。この中には着手禁止点に石があるなどの非合法な盤面が含まれるため、この値より囲碁の合法な局面数は小さくなる。合法な局面の総数の正確な値は2016年に求められ、約2.1×10(171桁)であることが明らかにされた。正確な値は下記のとおりである。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "これは将棋の10 - 10、チェスの10、シャンチー(象棋)の10、オセロの10、チェッカーの10などと比べても非常に大きい。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ほかの大きさの碁盤の総局面数も算出されており、13路盤では約3.7×10、9路盤では約1.0×10である。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ゲーム木の複雑性は、将棋で10、チェスで10、シャンチーで10と見積もられるのに対し、囲碁では10と見積もられている。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "コンピュータによる探索を利用して19路盤より小さな碁盤における最善手順の研究もなされている。結果は持碁(2路盤)、黒勝ち(3路盤)、持碁(4路盤)、黒勝ち(5路盤)となることが2003年までに解明されている。5路盤のときは初手天元で黒25目勝ちとなる。5路盤の解析は『週刊碁』の連載(1993–1994)で趙治勲(名誉名人・二十五世本因坊)によって既に行われていたが、初手が隅から始まる場合の手順に見落としのあったことが判明した。6路盤や7路盤は黒勝ちと予想されている。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には引退した将棋棋士の米長邦雄がコンピュータに敗れた。こうしたほかのゲームにおけるコンピュータの躍進と比較すると、コンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代前半においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であった。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "コンピュータ囲碁がほかのゲームに比較して進歩が緩やかだったのは、前述の囲碁の総局面数の多さやゲーム木の複雑性も影響しているが、それだけではない。将棋やチェス、シャンチーより局面数の少ない9路盤においても、2005年まではコンピュータはアマチュア初段の域を出ることができていなかった。初めてコンピュータが9路盤でプロに公の舞台で勝ったのは2008年のエキシビジョンマッチでのMoGo対タラヌ・カタリン戦(1勝2敗)であるが、プロ側が9路盤の対策を練った2012年の電気通信大のイベント、2014年の第1回囲碁電王戦ではいずれもコンピュータ側が全敗した。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "こうしたコンピュータ囲碁の進歩の難しさの一因に、囲碁において評価関数を作るのが非常に難しい点が挙げられる。将棋やチェスでは駒の損得や局面の状態に応じた評価関数が作りやすく、オセロにおいても隅や辺の重要な部分のパターンで評価関数が作成されてきた。しかし囲碁にはそうした評価方法が存在せず、すべての石の価値が平等であり、オセロの隅のように大きな重みをもつ箇所も存在しない。「形のよさ」「厚み」「味のよさ」「石の軽さ」などが複雑に絡み合っており、評価関数を設定することで強いコンピュータを作るのは非常に困難であった。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "しかし2006年、レミ・クーロンがモンテカルロ法を応用して作成したCrazy Stoneがひとつの転機となる。クーロンはこれを「モンテカルロ木探索」と名付けた。従来の評価関数を作成して着手を選択させる手法とは異なり、モンテカルロ木探索ではコンピュータにランダムな着手を繰り返させて多数の対局を行わさせ、さらにその中で有望な展開に多くの探索を繰り返させ、もっとも勝率が高くなる着手を決定させる。従来の手法よりモンテカルロ木探索は囲碁に適合し、ほかのプログラムもこぞってこれを採用した。コンピュータ囲碁の棋力は2006年から1年に1-2子ほどの速さで向上し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力にまで達したが、そこからは棋力の伸びが停滞した。2015年の段階でも、コンピュータがプロに勝つにはまだ10年以上かかるとクーロンや他の関係者は語っていた。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ところが、2016年にモンテカルロ木探索にディープラーニングとニューラルネットワークの技術を組み合わせたAlphaGoをGoogle DeepMind社が発表した。AlphaGoは数千万の棋譜による学習ののち、数百万の自己対戦を繰り返し強化された。ヨーロッパのプロ棋士である樊麾に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との五番勝負も4勝1敗で制した。2017年には中国のトップ棋士である柯潔とも三番勝負を行い、3連勝して人間との戦いから引退した。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "AlphaGoの登場は、コンピュータがプロを上回るのはまだまだ先だろうと考えていた囲碁界に大きな衝撃を与えた。AlphaGoの技術を使用した囲碁AIはプロ棋士を凌駕する棋力を有するようになり、AlphaGoをはじめとする囲碁AIのさまざまな手法は従来の定石や布石に大きな影響を与え、新たな布石や定石の流行を生むようになった。形勢判断も従来の目算から数値による表現に変わりつつある。",
"title": "囲碁と数学"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが中には中国の故事に由来するものも多い。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結びつけたものである。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜が降りたあとで橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が2つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が2人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(1か月以上)も差があり、こじつけという見方もある。",
"title": "文化における囲碁"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "他にも棋、棊、弈、弈棋、間接的な異称では、白黒、手談、斧の柄、忘憂、坐隠などの別称がある。",
"title": "文化における囲碁"
}
]
| 囲碁とは、交互に盤上に石を置いて行き自分の石で囲んだ領域の広さを競う、2人で行うボードゲームの一種。単に碁とも呼ばれる。 | {{Otheruses||雑誌|囲碁 (雑誌)}}
{{参照方法|date=2013年5月}}
{{囲碁}}
{{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム}}
{{読み仮名|'''囲碁'''|いご}}とは、交互に盤上に[[石]]を置いて行き自分の石で囲んだ領域の広さを競う、2人で行う[[ボードゲーム]]の一種。単に{{読み仮名|'''碁'''|ご}}とも呼ばれる。
==概要==
2人のプレイヤーが、[[碁石]]と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の[[格子]]が描かれた[[碁盤]]と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動させたりすることはできない(対角線上に囲っても取り除けない)。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面の'''より広い領域(地)を確保する(囲う)こと'''である。
[[アブストラクトゲーム]]、[[ボードゲーム]]の一種で、[[ゲーム理論]]の言葉で言えば[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]である<ref group="注">日本の公式戦で使用される[[囲碁のルール]]である「[http://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/ 日本囲碁規約]」の規定上は対局者が合意しないと、無限に続く可能性もあるため、有限なゲームとは分類されないが、事実上有限なゲームで、広くプレイされているゲームであるため、適切な停止条件を考慮した上で、[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]として研究されている。</ref>。勝敗は、より大きな[[地 (囲碁)|地]]を確保することで決定される([[#勝敗に関するルール]])。ゲームの終了は、[[将棋]]や[[チェス]]と同じように、一方が負けを認めること([[投了]]という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。ほかのボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約がきわめて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。対局結果は「片方の勝利」「引き分け([[持碁]])」「無勝負」「両負け」の4種類が規定されている。
発祥は中国と考えられており、2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で'''爛柯'''(らんか)等さまざまな別称を持つ([[#囲碁の別称とその意味]])。日本でも[[平安時代]]から広く親しまれ、[[枕草子]]や[[源氏物語]]といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。[[江戸時代]]には[[家元]]四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年では[[インターネット]]を経由して対戦する[[ネット碁]]も盛んである。日本では[[ダメ (囲碁)|駄目]]、[[布石]]、[[捨て石]]、[[定石]]など、数多くの囲碁用語は日本語の慣用句としても定着している([[#囲碁に由来する慣用表現]])。
西洋的な価値観からは[[チェス]]などと同様[[マインドスポーツ]](つまり競技)でもあり、[[国際囲碁連盟]]は[[国際オリンピック委員会]]が承認する[[国際競技連盟連合|国際スポーツ団体総連合]]に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。[[中華人民共和国|中国]]・[[広州市|広州]]で開催される[[2010年アジア競技大会]]では競技種目として採用された。
日本語では「囲碁を打つ」と表現するが、なぜこの表現が使われるのかはよく分かっていない<ref name=":3">[https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=378 第359回 将棋は「指す」で、碁は「打つ」ではなかったのか? - 日本語、どうでしょう?] - [[ジャパンナレッジ]]</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|囲碁の歴史}}
「碁」という字は、本来は「棋・棊」の異体字で意味も発音も同じだった。中国では「囲棋」([[新字体]]による代用表記。[[繁体字|繁]]:{{lang|zh-hant|圍棋}} / [[簡体字|簡]]:{{lang|zh-hans|围棋}})と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは[[呉音]]と[[漢音]]の違いに由来する。
少なくとも[[春秋時代]]には成立していたようで、『[[論語]]』や『[[孟子 (書物)|孟子]]』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は[[前漢]]時代には17路盤が使われていたと考えられている<ref>{{Cite web|和書|title=日本囲碁連盟 {{!}} 囲碁用語「十七路盤」 |url=https://www.ntkr.co.jp/igoyogo/yogo_444.html |website=www.ntkr.co.jp |access-date=2023-04-13}}</ref>。伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。
[[ファイル:Sui Dynasty Go Board.jpg|サムネイル|[[隋]]の碁盤]]
初期の碁石は、[[唐]][[宋 (王朝)|宋]]期のものが残っている。その後、[[5世紀]]には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。その時代から日本の貴族を中心に広く遊ばれ、[[正倉院]]には碁盤と碁石が収められている。[[清少納言]]や[[紫式部]]も碁をよく打ったとされ、[[枕草子]]や[[源氏物語]]中にも囲碁と思われるものが登場する。現在確認されている「囲碁を打つ」という表現の最も古い例は、[[古今和歌集]]に収録された[[紀友則]]の詞書である<ref name=":3" />。
[[室町時代]]末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には戦国武将たちに好まれ、[[織田信長]]に[[本因坊算砂|日海]](本因坊算砂)が[[名人 (囲碁)|名人]]の称号を許されたと言われる<ref group="注">実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は[[本因坊算砂]]を参照。</ref>。[[江戸時代]]には[[江戸幕府|幕府]]から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる[[御城碁]]が行われたり、[[碁会所]]が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。
東アジア以外にも[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]などでも行われている。今日、囲碁は世界80か国以上で打たれており、[[世界選手権大会|世界選手権]]も行われている。
== 用具・囲碁用語 ==
[[ファイル:Blank Go board.png|thumb|碁盤]]
[[ファイル:Go stones in bowls.jpg|thumb|碁笥に入った碁石]]
;[[碁盤]]
:板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の線分を引いたもの。碁石を置くのは縦線と横線の交点である<ref name="日本棋院_用具解説" />。一般に、縦横19本ずつの'''19路盤'''が使われる。初心者向け、お好み対局向けに'''13路盤'''や'''9路盤'''、'''7路盤'''や'''6路盤'''もある。古来使用されたものには17路盤も存在した。
:線は、もっとも外側にあるものから順に第1線、第2線、第3線……のように呼ぶ。また第4線の交点や辺の中間、碁盤の中心にある黒点を'''[[星 (囲碁)|星]]'''と呼び、19路盤の場合、9つある(右図参照)。碁盤の中央にある星を特に'''[[天元 (着点)|天元]]'''という<ref name="日本棋院_用具解説">{{Cite web|和書|title=囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/kigu.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>。
:碁盤の交点[[座標]]は、先手の黒から見て、横の座標を左から右に1から19の[[算用数字]]で、縦の座標を上から下に一から十九の[[漢数字]]で表すことが多く、これは[[数学]]の[[直交座標系]]における第四象限と考えるとわかりやすい。この場合、右上隅の星は「16の四」、天元は「10の十」と表現する。
:座標については、上述の表記がもっとも伝統的なものであり新聞や雑誌でももっぱらこの表記法が用いられるが、海外の囲碁ファンの増加などもあり算用数字と[[アルファベット]]で座標を表現することもある。ただし、その表現方法は統一されていない。横の座標はアルファベット、縦の座標は算用数字を用いるが、「数字の1とアルファベットのIの混合を避けるために、Iを用いないかどうか」、「数字の0とアルファベットのOの混合も避けるために、Oも用いないかどうか」、「縦の座標を上から下にとる(直交座標系における第四象限)か、下から上にとるか(同じく第一象限)」は場合によってまちまちである。
;[[碁石]]
:単に'''石'''ともいう。黒・白の2色あり、合わせて碁盤を埋め尽くせる数(黒181、白180<ref>{{Cite web|和書|title=囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/knowledge.html#004|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>)だけ用意される(グリーン碁石と呼ばれる、濃い緑と薄い緑の2色のものもある<ref>{{Cite web|和書|title=囲碁,棋聖戦,上達の指南|url=http://kisei.yomiuri.co.jp/column/|website=読売新聞 囲碁コラム|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>)。碁石を入れる器を'''[[碁笥]]'''(ごけ)と言う<ref name="日本棋院_用具解説" />。盤上の碁石を数えるときの単位は「'''子'''(もく)」であり、一つを一子(いちもく)、二つを二子(にもく)などと表す<ref>ふりがな付きの使用例:日本棋院発行の月刊碁ワールド2012年10月号38ページ、週刊碁2012年11月19日号18面1段最終行。</ref>。しかしながら、囲碁特有の読み方であるため、「子」が「し」と読まれることもある。「子(もく)」ではなく「目(もく)」の字を当てることもある。
== ルール ==
{{Main|囲碁のルール}}
囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと[[中国ルール]]、中国ルールを元に台湾で考案された[[計点制ルール]]などがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。
主なルールは5つ。
# [[碁盤]]の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。
# [[地 (囲碁)|地]](自分の領域)の多いほうが勝利。
# 相手の石は上下左右を囲うと取れる。
# 着手禁止点(自殺手)
# [[コウ]]
=== 着手に関するルール ===
*黒、白の対局者が交互に自分の石を盤上の交互に着手する権利を持つ<ref name="規約1-2条">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第1条・第2条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku01-02.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>{{Efn2|あくまでも、権利であるため、パスをして相手に手番を渡すことが認められる<ref name="規約1-2条" />。}}。着手した石は、取られない限りそこから動かせず、盤上の石が何らかの事情で動いた場合は元の位置に戻して対局を続行する<ref name="規約13-14条">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第13条・第14条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku13-14.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>。
*相手の石に縦横に隙間なく取り囲まれると、その石は盤上に存在できなくなる<ref name="規約4条">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第4条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku04.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>。一方の着手により他方の石が盤上に存在できなくなった場合、それらの石は[[ハマ]]として取りあげる<ref name="規約5条" />。盤面から取り除いた時点で着手の完了とする<ref name="規約5条">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第5条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku05.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>。下図の場合、黒がそれぞれ1と打った場合、△の白が取り上げられる。取られる1手前の状態を「[[アタリ (囲碁)|アタリ]]」と言い、下図の白石はそれぞれアタリの状態である<ref>{{Cite web|和書|title=囲碁の基本:囲碁の打ち方 アタリ|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/atari.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref>。
{{碁盤 9x9
| | | | | | | | |
| b| | | | | | | |
|wT| b| | | | b| b| |
|b1| | | | b|wT|wT| b|
| | | | |b1|wT| b| |
| | | | | | b| | |
| | | | | | | | |
|b1| | | | | | | |
|wT| b| | | | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
*'''自殺手は禁止'''(自ら取り囲まれた状態にする手の禁止)。たとえば下図で白が左上aや右上bに打つのは反則となる(黒からは打ってよい<ref>{{Cite web|和書|title=囲碁の基本:囲碁の打ち方 石を打てない所|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/kinshi.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref>)。このときのaやbの地点を、白からみて着手禁止点と呼ぶ。ただし、その石を打った時点で相手の石を取ることができる場合は例外である。左下cや右下dに打てば▲の黒が取れるため、ここに白が打つのは反則にならない。<ref>{{Cite web|和書|title=着手禁止|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/school_teach/digest/07.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-01|language=ja}}</ref><!-- (この項全体に対する出典なので、句点の後ろに置く) -->
{{碁盤 9x9
| A| w| b| | | | | |
| b| b| | | | | b| |
| | | | | | b| B| b|
| | | | | | | b| |
| w| w| w| | | | | |
|bT|bT| w| | | | | |
| C| w| b| | | | | w| w
| b| b| b| | | | w|bT|bT
| | | | | | | w|bT| D
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。
{{碁盤 9x9
| w| b| | | | | | |
| b| | | | | w| b| |
| | | | | w| b| w| b|
| | | | | | w| b| |
| | b| w| w| | | | |
| b| w| b| b| w| | | |
| b| w| w| b| w| | | |
| | b| b| w| b| | | |
| | | | b| | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
* '''自分が打つことによって、相手が打った直前の局面に戻してはならない。'''下図の形で、黒がaに打てば△の白石を取り上げることができる。
{{碁盤 9x9
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | b| w| | |
| | | | b|wT| A| w| |
| | | | | b| w| | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
しかしその直後、今度は下図のように▲の黒1子が[[アタリ (囲碁)|アタリ]]となっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形を[[コウ]](劫)と呼ぶ<ref name="日本棋院_コウ説明">{{Cite web|和書|title=囲碁の基本:囲碁の打ち方 コウ|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/ko.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref>。これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、'''同一局面の反復は禁止'''とされている<ref group="注">「直前」のみならず、対局中のすべての同一局面の再現の禁止は[[スーパーコウルール]]と呼ばれる。日本ルールでは採用されていない。</ref>。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる<ref name="日本棋院_コウ説明" />。詳しくは[[コウ]]の項目を参照。
{{碁盤 9x9
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | b| w| | |
| | | | b| B|bT| w| |
| | | | | b| w| | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
===ハンディキャップ(コミ、置石)===
囲碁は、先手の黒が有利な競技である。そのため、対等な条件にするために、「コミ」というルールがある。
ランダム(ニギリやジャンケンなど)によって手番が決められた場合に設定される。現在の日本ルールでは、6目半を先手の黒が負担しなければならない。後手の白の獲得した地よりも、7目以上多く獲得しないと、勝ちと認められない。0目から6目多く白より獲得しても、その場合は、後手の白の勝ちとなるため、引き分けも起こらない。このような設定の対局を、交替で先番が打てることから、「互先(たがいせん)」という。
また、[[ハンデキャップ|ハンディキャップ]]戦として[[置き碁|置碁]]がある<ref name="日本棋院_置碁">{{Cite web|和書|title=囲碁の基本:対局のルール・流れ|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/start.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-01|language=ja}}</ref>。指導目的の碁にも用いられる。
下手(したて)が黒を持ち、上手(うわて)が白を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである<ref name="日本棋院_置碁" />。
あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は一般的に2子(もく/し)から9子の範囲で調節される。棋力の差が大きければ、その分、置き石も多くなる。置石の場合、上手(うわて)の白から打ち始める。
下手(したて)が、置き石なしの状態で先に打つ場合は、「定先(じょうせん)」という。
コミのルールがつかないため、陣地の目数が同じ場合は、持碁(ジゴ)と呼ばれ、引き分けとなる(ルールによっては、勝敗を設定することもある)。
(詳しくは[[置き碁|置碁]]の項目を参照)。
=== 石の死活 ===
{{seealso|死活}}
先に述べた着手禁止点のルールから、2か所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。
なお、下図右下の黒は独立した2か所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。
{{碁盤 9x9
| A| b| w| | | | | |
| b| b| w| | | | | |
| B| b| w| | | | | |
| b| b| w| | | | | |
| w| w| w| | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | w| w| w| w
| | | | | | w| b| b| b
| | | | | | w| b| C| D
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
*自分がどう打っても相手が正しく対応すれば二眼を作ることができない石の一団は「死に」である。終局後に、死んでいる石はハマに加えられる。
*特殊なケースとして、両方ともに二眼がないが、互いに手出しできない形がある。これは「[[セキ (囲碁)|セキ]]」と呼ばれ、双方とも生きとして扱われる。詳細は[[セキ (囲碁)|セキ]]の項目を参照。
=== 勝敗に関するルール ===
*一方の活き石のみの一団に囲まれた空点<ref group="注">双方の石ともに打たれていない点のこと</ref>のことを'''地'''と呼ぶ(日本ルールでは石の数は勝敗に関係ない)<ref>{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第8条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku08.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref>。
*地の面積とハマの数の和の大小によって勝敗を争う。形勢判断などでは、この和の数値のことを地というため、たとえば、黒地○○目、白地○○目などというときは、この和のことを言う。下図は9路盤での終局図の一例。▲の黒石は生きられないため、「ハマ」として取り上げられ、黒地に埋められる。左上から左下に広がった黒地はこれを埋めて29目、右上から右下を占拠した白地は23目で、この場合「黒の盤面6目勝ち」となる。
{{碁盤 9x9
| | | | | | | b| w|
| | | | | | b| b| w|
| | | | | | b| w| w|
| | | b| | | b| w| |
| | | | b| b| b| w| |
| | | b| w| w| w|bT|bT|
| | | b| w| | | w| w|
| | | b| w| | | | |
| | | b| w| | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
*ただし囲碁の互先では、先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「[[コミ]]」が設定されている。現在、通常コミは6目半とされており、この分を白地に足して計算する<ref name="日本棋院_置碁" />。つまり上図では白が29目半になるため、コミを入れて計算した場合「白の半目勝ち」ということになる。半目とは、0.5目と同じ意味である。
*以前のルールでは、これ以上は打っても得をする場所がないと双方が認めて合意すると「終局」となり、その後でダメ(打っても得をしない箇所)を埋めて互いの地を数えることとされていた<ref name="規約変更_6" />。しかし、ルールが改変され<ref name="規約変更_6">{{Cite web|和書|title=Ⅳ 日本囲碁規約改定の概要(6)「ダメ詰め」、「手入れ」の交互着手原則(根拠の明確化)|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/gaiyo-06.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>、ダメしか残っていなくても、すべてダメを埋めてからでないと終局することができないとされた<ref name="規約9">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第9条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku09.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>(インターネット対局では、双方がパスをすることによって終局とするケースが多い)。
*対局中に'''三コウ'''以上の多元コウ、'''[[長生]]'''、'''循環コウ'''が発生し、双方譲らず同型反復となった場合、対局は無勝負扱いとなる<ref name="規約_11-12">{{Cite web|和書|title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第11条・12条|囲碁の日本棋院|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku11-12.html|website=囲碁の日本棋院|accessdate=2021-08-02|language=ja}}</ref>。詳しくは「[[コウ]]」の項目を参照。
*対局停止後に対局者が発見した有効な着手が勝敗に影響するため終局に合意できない、対局中に盤上の石が移動したまま対局が進行した際に石を元に戻して続行することに対局者が合意できない場合、の2例において「両負け」としている<ref>{{Cite web |title=Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説 第十三条(両負け) |url=https://www.nihonkiin.or.jp/match/kiyaku/kiyaku13-14.html |website=囲碁の日本棋院 |access-date=2023-12-11 |language=ja}}</ref>。
== 対局の進行 ==
=== 序盤 ===
通常、対局が始まるとしばらくは[[布石]]が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番([[上手と下手|上手]])が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。
近年では隅の着点は小目と星、三々がほとんどで、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。[[江戸時代]]には小目以外の着点はほとんど打たれていなかったが、[[20世紀]]に入って星、さらに近年の人工知能の発達によって三々の打ち方が増えてきている。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからである。
;[[三々]](さんさん)
:碁盤の隅から3・3の位置のこと。地に対してもっとも堅い手であるが、中央への働きが弱い。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
| | |b| |
| |x| | |
| | | | |
|24|u=u|r=r}}
;[[小目]](こもく)
:碁盤の隅から3・4あるいは4・3の位置のこと。古来から布石の基本とされる。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
| |w| | |
| |x|b| |
| | | | |
|24|u=u|r=r}}
;[[星 (囲碁)|星]](ほし)
:碁盤の隅から4・4の位置のこと。現在の布石の花形。また[[置碁]]ではこの位置に石を置いて打ち始める。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
| | | | |
| |b| | |
| | | | |
|24|u=u|r=r}}
;[[目ハズシ|目外し]](もくはずし)
:碁盤の隅から3・5あるいは5・3の位置のこと。相手の作戦をくじくための物として打たれることが多い。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
|w | | | |
| |x| | |
| | |b | |
|24|u=u|r=r}}
;[[高目]](たかもく)
:碁盤の隅から4・5あるいは5・4の位置のこと。[[目外し]]と同じように使われるが、目外しより多少地に甘く(意識が低い)、中央重視の場合に打たれる。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
| | | | |
|w |x| | |
| | b| | |
|24|u=u|r=r}}
;[[五ノ五]](ごのご)
:碁盤の隅から5・5のこと。打たれる頻度はかなり低い。
{{碁盤 5x5
| | | | |
| | | | |
| | | | |
| |x| | |
|b | | | |
|24|u=u|r=r}}
;[[大高目]](おおたかもく)
:碁盤の隅から4・6、あるいは6・4、あるいは6・6、あるいは15・15の位置のこと。
;[[天元 (着点)|天元]](てんげん)
:碁盤の中心。中心に打つため四方すべての向きからの[[シチョウ]]に有利であるが、五の五・大高目とともにいまだあまり研究がなされていない。五の五同様、打たれる頻度はかなり低い。
{{碁盤 9x9
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | |b | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
|24|u=u|d=d|l=l|r=r}}
以下は19路盤での布石の例である。
;二連星(にれんせい)
:隣接する2つの隅の[[星 (囲碁)|星]]を占める布石のことを指す。黒白問わずよく打たれている。
;[[三連星]](さんれんせい)
:二連星の間の辺の星をさらに占めた布石。基本的に実利にとらわれず、中央を目指す碁になる。[[武宮正樹]]九段が愛用する布石。
;[[中国流]](ちゅうごくりゅう)
:隅の[[星 (囲碁)|星]]と内側向きの[[小目]]に、さらにその間にある星脇(右上を[[星 (囲碁)|星]]、右下を[[小目]]とすると、右辺の星のひとつずつ右・下に位置するところ)(小目から見て五間ジマリ)に並べられた布石。打ち出したのは日本人だが、大会で中国の若手が一様に使用しこの名前がついたといわれる。お互いの応手により実利・厚みのどちらにも転換することが可能。ただし、戦いになると一本調子になるところがある。[[加藤正夫]]などが愛用した。
;高中国流
:話し言葉の上では「たかいちゅうごくりゅう」と呼ばれ、書き言葉では普通「高中国流」。中国流との違いは辺の石が第三線ではなく、第四線にあることである。そのため実利より戦いを求める布石になる。地に甘いため2000年以降は打たれることが少なくなっている。
;[[ミニ中国流]](ミニちゅうごくりゅう)
:原型は[[本因坊道策]]の時代から打たれている。自分の[[小目]]の先にある相手の隅の[[星 (囲碁)|星]]に小ゲイマガカリして受けさせたあと、星脇にヒラく。この星脇の石と小目の位置関係が中国流と同じことからこの名前がついた。1990年代から日本・中国・韓国で主に研究され、流行している布石である。
=== 中盤 ===
中盤は死活の絡んだ'''戦い'''になる。互いに[[死活]]がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。[[攻め]]、[[サバキ]]、[[シノギ]]の技量が問われる。
中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、
*自分の模様を広げる。模様に手を入れて地模様にする。
*相手の模様を制限する(模様を「値切る」という)。
*相手の模様に打ち込んで生きる。
*自分の弱い石を守る。
*相手の弱い石を攻撃することで利益を得る(相手の石を取る、相手の石をイジメながら別の石を取ったり、厚みを築いたり、確定地を作ったりする)。
*自分の石を捨てて(相手に取らせて)別のところで利益を得る([[捨て石]]あるいは[[フリカワリ]])。
などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。
=== 終盤 ===
[[ヨセ]]は双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを'''大ヨセ'''、およそ10目以下を'''小ヨセ'''と呼ぶ。
序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。
== 基本戦略 ==
大まかに囲っている地域(これを'''[[模様 (囲碁)|模様]]'''という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行とともに、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、[[フリカワリ]]という戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。
一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間には[[トレードオフ]]の関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を'''実利'''重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、[[厚み (囲碁)|厚み]]である。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みのバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁の最大の壁だった。
=== 布石 ===
基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼすべてが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。
=== 石の形 ===
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率のいいほぼ必然的な着手の仕方、つまり[[形 (囲碁)|石の形]]を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。
=== 厚み ===
碁を打つうえで重要な要素として[[厚み (囲碁)|厚み]]がある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間[[ヒラキ (囲碁)|ヒラキ]]の真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できる、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。
=== 石の働き ===
囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率がいい状態を「石の働きがいい」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。
また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、そのときに残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは[[本因坊道策]]とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。
== 競技としての囲碁 ==
=== 段級位制度 ===
{{main|囲碁の段級位制}}
囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは[[日本棋院]]・[[関西棋院]]が認定をしている。
アマチュアは、初心者は30 - 50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。
プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。
{{節スタブ}}
=== 囲碁の大会 ===
{{main|棋戦 (囲碁)}}
日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。
=== プロ組織 ===
{{seealso|棋士 (囲碁)}}
[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]、[[台湾]]に囲碁のプロ組織がある<ref>[https://www.nihonkiin.or.jp/player/docs/saiyokitei2019.pdf 日本棋院棋士採用規程平成30年12月4日改定]</ref>。
日本では1612年に江戸幕府の下[[御城碁]]が始まり、家元四家制が成立し、棋士の収入と身分が保証されたが、[[明治維新]]の際にその制度は崩壊した<ref name=iwahashi>岩橋 培樹 [http://shiten.agi.or.jp/shiten/200909/shiten200909_27-36.pdf 東アジアに展開される碁ビジネス -現代的な創造産業としての現状と可能性-](2009年)</ref><ref name=matsumoto>松本忠義 [https://ouc.daishodai.ac.jp/files/ams_labo/publication/bulletin/%5BPDF%EF%BC%9A414KB%5D.pdf 囲碁史における定説・通論研究の基礎、方法論]</ref>。以後、各派が分かれて活動したが、1924年に各派がまとまって[[日本棋院]]を設立した<ref name=matsumoto/>。日本棋院は各種棋戦実施・免状発行のほか、書籍・用品の販売などを行って収入を得て、プロに賞金を与えるとともに、職員を雇用する<ref name=iwahashi/>。韓国では1945年に[[韓国棋院]]の前身となる漢城棋院が、中国では1962年に[[中国囲棋協会]]が設立され、のちにそれぞれプロ制度が確立した<ref name=iwahashi/>。財政的には各種棋戦のスポンサーとして新聞社が大きな役割を占める<ref name=iwahashi/>。
==== 現在の日本のトップ棋士 ====
{{七大タイトル保持者}}
== 競技人口の概要 ==
[[人工知能]][[AlphaGo]]の対局では世界で約6000万人が観戦した<ref>{{cite web|url=http://www.wired.com/2016/03/sadness-beauty-watching-googles-ai-play-go/?mbid=social_fb|title=The Sadness and Beauty of Watching Google’s AI Play Go|accessdate=12 March 2016|date=11 March 2016|work=WIRED}}</ref>。世界競技人口は[[国際囲碁連盟]]によると2016年時点で1800万人(うちアジアが1700万人)、ルールを知っているのは4650万人とされる<ref>https://www.intergofed.org/wp-content/uploads/2016/06/2016_Go_population_report.pdf</ref>。中国では2023年時点で国内の囲碁人口は6000万人超、段級位者は約1500万人とされる<ref>{{Cite web|和書|title=中国囲碁がなぜ「世界の言語」となったのか |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3464892 |website=www.afpbb.com |date=2023-05-22 |access-date=2023-10-15 |language=ja}}</ref>。
日本国内では、アマチュア囲碁強豪の[[菊池康郎]]は1980年の著書『囲碁に強くなる本』において「日本の囲碁人口は1000万人と言われ、中高生のクラブ活動では囲碁がもっとも人気がある」「21世紀に入って、もっとも脚光を浴びる大衆娯楽の一つに、囲碁があげられている」と記している。[[1999年]]ごろには[[漫画]]『[[ヒカルの碁]]』の影響で、若年層に囲碁ブームが生まれた。しかし、1980年代を境に長期減少傾向にある。
日本で1年に1回以上囲碁の対局を行う、いわゆる「囲碁人口」は、『[[レジャー白書]]』(財団法人[[日本生産性本部]])によると以下の通り。
*1976年 770万人(調査開始)<ref name="jinko">[http://www.igodb.jp/cgi-bin/patio/patio.cgi?mode=view&no=95 日本の囲碁人口]</ref>
*1982年 1130万人(ピーク)<ref name="jinko"/>
*1985年 700万人<ref name="jinko"/>
*1990年 570万人<ref name="jinko"/>
*1995年 490万人<ref name="jinko"/>
*2000年 460万人<ref name="jinko"/>
*2002年 480万人([[ヒカルの碁]]ブーム)<ref name="jinko"/>
*2005年 450万人<ref name="jinko"/>
*2008年 250万人(訪問留置法による調査の最後の年)<ref name="jinko"/>
*2009年 640万人(ネット調査開始)<ref name="jinko"/>
*2010年 610万人<ref>[http://www.asahi.com/shougi/topics/TKY201109130339.html asahi.com(朝日新聞社):囲碁人口610万人、将棋1200万人 レジャー白書 - 将棋]</ref>
*2015年 250万人<ref name="jinko"/>
*2020年 180万人<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c68ada738acff6ed19484fcb85524bda659012a3 将棋人口は530万人、囲碁人口は180万人と減少――コロナ禍が大きく影響(古作登) - 個人 - Yahoo!ニュース]</ref><ref>[https://mj-news.net/news/20211020167412 「レジャー白書2021」麻雀人口400万人で前年比110万人減 – 麻雀ウォッチ]</ref>
== 囲碁と数学 ==
{{seealso|[[:en:Go and mathematics]]}}
囲碁の特徴として、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、出現しうる局面の総数や[[ゲーム木]]のサイズがほかの[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に比べてもきわめて大きくなることが挙げられる。また、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。
=== 合法な局面の総数 ===
19路盤の着点の総数は 19<sup>2</sup> = 361目 であり、ここに黒石、白石、空点をランダムに配置したとき、その[[組合せ (数学)|組合せ]]の総数は3<sup>361</sup>、およそ1.7×10<sup>172</sup>(173桁)となる。この中には着手禁止点に石があるなどの非合法な盤面が含まれるため、この値より囲碁の合法な局面数は小さくなる。合法な局面の総数の正確な値は[[2016年]]に求められ、約2.1×10<sup>170</sup>(171桁)であることが明らかにされた<ref name=":0">{{Cite journal|url=https://tromp.github.io/go/gostate.pdf|title=Combinatorics of Go|year=2007|author1=John Tromp|author2=Gunnar Farnebäck|publisher=Springer|series=Lecture Notes in Computer Science|volume=4630|doi=10.1007/978-3-540-75538-8_8}}</ref>。正確な値は下記のとおりである<ref name=":0" />。
{{Quotation|208 168 199 381 979 984 699 478 633 344 862 770 286 522 453 884 530 548 425 639 456 820 927 419 612 738 015 378 525 648 451 698 519 643 907 259 916 015 628 128 546 089 888 314 427 129 715 319 317 557 736 620 397 247 064 840 935 ≃ 2.1×10^170}}
これは[[将棋]]の10<sup>68</sup> - 10<sup>69</sup><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nara-wu.ac.jp/math/personal/shinoda/legal.pdf|title=将棋における実現可能局面数について|accessdate=2018-12-22|website=www.nara-wu.ac.jp|publisher=篠田正人、奈良女子大学理学部}}</ref>、[[チェス]]の10<sup>50</sup><ref name=":1">{{Cite journal|和書|last=美添一樹|date=2008-06-15|title=モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00060963/|journal=情報処理|volume=49|issue=6|pages=686–693|language=ja}}</ref>、[[シャンチー]](象棋)の10<sup>48</sup><ref name="CCC">[http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150709211006/http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf|date=2015年7月9日}}</ref>、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]の10<sup>28</sup><ref name=":1" />、[[チェッカー]]の10<sup>20</sup><ref name=":1" />などと比べても非常に大きい。
ほかの大きさの碁盤の総局面数も算出されており、13路盤では約3.7×10<sup>79</sup>、9路盤では約1.0×10<sup>38</sup>である<ref name=":0" />。
=== ゲーム木のサイズ ===
[[ゲーム木]]の複雑性は、将棋で10<sup>226</sup>、チェスで10<sup>123</sup>、シャンチーで10<sup>150</sup>と見積もられるのに対し、囲碁では10<sup>400</sup>と見積もられている<ref name="CCC" />{{Refnest|group="注"|ただし、数学的な解のある合法な局面数とは異なり、ゲーム木の総数には明確な定義がない。ゲーム木のサイズは合法手の数と多くの棋譜の平均手数から求められているが、平均手数が数手変わるだけで算出結果が何桁も変わるため、数学的にはあまり根拠がないという指摘がある<ref>{{Cite journal|和書|author=田中哲朗 |year=2013 |url=https://doi.org/10.11429/sugaku.0651093 |title=ゲームの解決 |journal=数学 |ISSN=0039470X |publisher=日本数学会 |volume=65 |issue=1 |pages=93-102 |doi=10.11429/sugaku.0651093 |CRID=1390001205066482304}}</ref>。}}。
=== 小路盤の解析 ===
コンピュータによる探索を利用して19路盤より小さな碁盤における最善手順の研究もなされている。結果は持碁(2路盤)、黒勝ち(3路盤)、持碁(4路盤)、黒勝ち(5路盤)となることが2003年までに解明されている<ref name="I12">{{Citation|author=伊藤毅志|title=コンピュータ囲碁研究の歩み|year=2012|volume=27|pages=497–500|journal=人工知能学会誌|doi=10.11517/jjsai.27.5_497}}</ref><ref group="注">ただし、これらの知見はその前からプロ棋士による研究などで既に得られており、コンピュータによって初めて明らかになったものではない。</ref>。5路盤のときは初手天元で黒25目勝ちとなる<ref name="5x5">{{Cite Web|author=Erik van der Werf|title=5x5 Go is solved|url=http://erikvanderwerf.tengen.nl/5x5/5x5solved.html|accessdate=2022-03-27}}(初手が天元・辺・隅である場合の最善手順のGIFアニメーションあり)</ref>。5路盤の解析は『[[週刊碁]]』の連載(1993–1994)で[[趙治勲]](名誉名人・二十五世本因坊)によって既に行われていたが、初手が隅から始まる場合の手順に見落としのあったことが判明した<ref name="5x5" />。6路盤や7路盤は黒勝ちと予想されている<ref name="I12" />。
=== コンピュータ囲碁 ===
{{Seealso|コンピュータ囲碁}}チェスの世界では、[[1996年]]の[[ガルリ・カスパロフ]]との対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった[[村上健]]がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが[[シャンチー#称号|大師]]との対局に勝利、2012年には引退した[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]の[[米長邦雄]]がコンピュータに敗れた。こうしたほかのゲームにおけるコンピュータの躍進と比較すると、コンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代前半においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であった。
コンピュータ囲碁がほかのゲームに比較して進歩が緩やかだったのは、前述の囲碁の総局面数の多さやゲーム木の複雑性も影響しているが、それだけではない。将棋やチェス、シャンチーより局面数の少ない9路盤においても、2005年まではコンピュータはアマチュア初段の域を出ることができていなかった<ref name=":1" />。初めてコンピュータが9路盤でプロに公の舞台で勝ったのは[[2008年]]のエキシビジョンマッチでのMoGo対[[タラヌ・カタリン]]戦(1勝2敗)である<ref name=":1" />が、プロ側が9路盤の対策を練った2012年の電気通信大のイベント、[[2014年]]の第1回囲碁電王戦ではいずれもコンピュータ側が全敗した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/igo/topics/TKY201211270576.html|title=コンピューターにプロ全勝 九路盤、巧みにミス誘う|accessdate=2018-12-22|website=|publisher=朝日新聞|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20140211-a106/|title=「第1回囲碁電王戦」プロ棋士の張豊猷八段と平田智也三段がコンピュータに全勝|accessdate=2018-12-22|date=2014-02-11|website=マイナビニュース|language=ja}}</ref>。
こうしたコンピュータ囲碁の進歩の難しさの一因に、囲碁において評価関数を作るのが非常に難しい点が挙げられる<ref name=":1" />。将棋やチェスでは駒の損得や局面の状態に応じた評価関数が作りやすく、オセロにおいても隅や辺の重要な部分のパターンで評価関数が作成されてきた<ref name=":1" />。しかし囲碁にはそうした評価方法が存在せず、すべての石の価値が平等であり、オセロの隅のように大きな重みをもつ箇所も存在しない。「形のよさ」「厚み」「味のよさ」「石の軽さ」などが複雑に絡み合っており、評価関数を設定することで強いコンピュータを作るのは非常に困難であった<ref name=":1" />。
しかし2006年、レミ・クーロンが[[モンテカルロ法]]を応用して作成した[[Crazy Stone]]がひとつの転機となる<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2016/03/15/the-mystery-of-go/|title=なぜ「囲碁」だったのか。なぜ「10年かかる」と言われていたのか──AlphaGo前日譚|WIRED.jp|accessdate=2018-12-22|website=WIRED.jp|language=ja-jp}}</ref>。クーロンはこれを「[[モンテカルロ木探索]]」と名付けた。従来の評価関数を作成して着手を選択させる手法とは異なり、モンテカルロ木探索ではコンピュータにランダムな着手を繰り返させて多数の対局を行わさせ、さらにその中で有望な展開に多くの探索を繰り返させ、もっとも勝率が高くなる着手を決定させる<ref name=":1" />。従来の手法よりモンテカルロ木探索は囲碁に適合し、ほかのプログラムもこぞってこれを採用した<ref name=":2" />。コンピュータ囲碁の棋力は2006年から1年に1-2子ほどの速さで向上し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力にまで達したが、そこからは棋力の伸びが停滞した。2015年の段階でも、コンピュータがプロに勝つにはまだ10年以上かかるとクーロンや他の関係者は語っていた<ref name=":2" />。
ところが、2016年にモンテカルロ木探索に[[ディープラーニング]]と[[ニューラルネットワーク]]の技術を組み合わせた[[AlphaGo]]を[[DeepMind|Google DeepMind]]社が発表した。AlphaGoは数千万の棋譜による学習ののち、数百万の自己対戦を繰り返し強化された。ヨーロッパのプロ棋士である樊麾に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である[[李世ドル|李世乭]]との五番勝負も4勝1敗で制した。2017年には中国のトップ棋士である[[柯潔]]とも三番勝負を行い、3連勝して人間との戦いから引退した。{{Seealso|AlphaGo対李世ドル|AlphaGo対柯潔}}AlphaGoの登場は、コンピュータがプロを上回るのはまだまだ先だろうと考えていた囲碁界に大きな衝撃を与えた。AlphaGoの技術を使用した囲碁AIはプロ棋士を凌駕する棋力を有するようになり、AlphaGoをはじめとする囲碁AIのさまざまな手法は従来の定石や布石に大きな影響を与え、新たな布石や定石の流行を生むようになった。形勢判断も従来の目算から数値による表現に変わりつつある<ref>{{Cite web|和書|title=囲碁AIブームに乗って、若手棋士の間で「AWS」が大流行 その理由とは? |url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1902/22/news006_4.html |website=ITmedia エンタープライズ |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。
== 文化における囲碁 ==
=== 囲碁の別称とその意味 ===
囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが中には中国の故事に由来するものも多い。
そのような故事由来の異称の代表である'''[[爛柯]]'''(らんか)は中国の神話・伝説を記した『[[述異記 (任ボウ)|述異記]]』の次のような話に由来する。[[晋 (春秋)|晋]]の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子から[[ナツメ]]をもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄('''柯''')が朽('''爛''')ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。
この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの[[神仙]]に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として'''坐隠'''(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、'''手談'''(しゅだん)と同じく『[[世説新語]]』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結びつけたものである。
囲碁の用具に着目した異称として'''烏鷺'''(うろ)がある。碁石の黒白を[[カラス]](烏)と[[サギ]](鷺)にたとえている。'''方円'''(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は[[天円地方]]で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「'''烏鷺の争い'''」とも言う。
『[[太平広記]]』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が[[タチバナ|橘]]の庭園を持っていたが、あるとき霜が降りたあとで橘の実を収穫した。しかし3、4[[斗]]も入りそうな甕のように大きな実が2つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が2人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は'''橘中の楽'''(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」([[シャンチー]])である。
碁盤には、「天元→[[北極星]]」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(1か月以上)も差があり、こじつけという見方もある。
他にも'''棋'''、'''棊'''、'''弈'''、'''弈棋'''、間接的な異称では、'''白黒'''、'''手談'''、'''斧の柄'''、'''忘憂'''、'''坐隠'''などの別称がある。
=== 囲碁に由来する慣用表現 ===
;傍目八目・岡目八目(おかめ はちもく)
:そばで見ていると冷静だから対局者の見落としている手も見え、八目ぐらい見通せる<ref>日本棋院「別冊囲碁クラブNo.37囲碁雑学ものしり百科304ページ「岡目」の項 昭和56年12月」</ref><!--観戦している者の方が、実際に対戦している者よりも八手先の手を読むことができる-->意から、当事者よりも第三者の方がかえって物事の真実や得失がよく分かる例え<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%82%8D%E7%9B%AE%E5%85%AB%E7%9B%AE/|title=おかめはちもく|accessdate=2020-09-24|publisher=goo辞書(デジタル大辞泉)}} ただし「八目」が「八手先」を指すと解釈するのは無理がある。</ref>。
;一目置く(いちもく おく)
:棋力に明らかに差のある者どうしが対局する場合、弱い方が先に石を置いてから始めることから、相手を自分より優れていると見なして敬意を表すること。その強調形の『一目も二目も置く』が使われることもある。
:なお、[[ハンデ]]付で対局する「[[置き碁]]」については、2目以上を置く場合をそのように呼ぶことが多く、1目を置く(黒で先手し、[[コミ]]を出さずに対局する)場合については、一般に「先(せん)」という呼び方が用いられる。
;[[ダメ (囲碁)|駄目]](だめ)
:自分の地にも相手の地にもならない目のこと。転じて役に立たないこと、上手くいかないこと、してはいけないこと。また、そのさま。
;[[駄目押し]](だめおし)
:終局後、計算しやすいように駄目に石を置いてふさぐこと。転じて、念を入れて確かめること。また、既に勝利を得るだけの点を取っていながら、さらに追加点を入れることにもいう。
:実際の囲碁用語としては「'''駄目詰め'''」の方が多用される。
;[[八百長]](やおちょう)
:[[江戸時代]]末期、[[八百屋]]の長兵衛、通称八百長なる人物が、よく[[相撲]]の親方と碁を打ち、相手に勝てる腕前がありながら、常に一勝一敗になるように細工してご機嫌を取ったとことに由来する。長兵衛が行っていたのはいわゆる「接待碁」であるが、後に相撲その他の競技において、あらかじめ対戦者と示し合わせておき、表面上真剣に勝負しているかのように見せかけることを指すようになった。
;碁に凝ると親の死目に逢わぬ(ご に こると おやの しにめ に あわぬ)
:碁は熱中しやすく親の死目にも逢えない程である。
;碁に負けたら将棋に勝て(ご に まけたら しょうぎ に かて)
:一方で負けても別の場所で巻き返せという慣用表現。
;[[布石]](ふせき)
:序盤、戦いが起こるまでの石の配置。転じて、将来のためにあらかじめ用意しておくこと。また、その用意。
;[[定石]](じょうせき)
:布石の段階で双方が最善手を打つことでできる決まった石の配置。転じて、物事に対するお決まりのやり方。
;[[捨て石]]、捨石(すていし)
:対局の中で、助けても価値の低い石や助けることの難しい石をあえて相手に取らせること。転じて、一部分をあえて犠牲にすることで全体としての利益を得ること。
;[[死活]](しかつ)、死活問題(しかつもんだい)
:石の生き死にのこと。また、それを[[詰碁]]の問題にしたもの。転じて、商売などで、生きるか死ぬかという問題ごとにも用いられる。
;[[大局観]](たいきょくかん)
:的確な形勢判断を行う能力・感覚のこと。転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のこと。
;目算(もくさん)
:自分と相手の地を数えて形勢判断すること。転じて、目論見や見込み、計画(を立てること)を指す。
=== 囲碁を扱った作品 ===
==== 文芸 ====
*『[[源氏物語]]』「空蝉」「竹河」「手習」「宿木」
*『[[枕草子]]』「心ゆかしきもの」「遊びわざは…」「碁をやむごとなき人の打つとて…」
*『[[偐紫田舎源氏]]』第四編。村荻と空衣の対局を足利次郎光氏が覗き見する。
*[[川端康成]]『[[名人 (小説)|名人]]』
*[[斎藤栄]]『黒水晶物語』『黒白の奇蹟』
*[[竹本健治]]『囲碁殺人事件』他
*[[内田康夫]]『本因坊殺人事件』
*[[水原秀策]]『黒と白の殺意』
*[[遠田潤子]]『月桃夜』
*[[冲方丁]]『[[天地明察]]』
*[[宮内悠介]]『盤上の夜』(短編集、短編「盤上の夜」「原爆の局」を収録)
*[[トレヴェニアン]]『シブミ』
*シャン・サ『碁を打つ女』
*ノ・スンイル『オールイン』
*[[百田尚樹]]『幻庵』
==== 映画 ====
*『[[未完の対局]]』[[佐藤純彌]]監督([[南里征典]]による同名[[小説化|ノベライゼーション]]もある)
*『[[Π (映画)|π]]』[[ダーレン・アロノフスキー]]監督
*『[[ビューティフル・マインド]]』[[ロン・ハワード]]監督
*『[[呉清源〜極みの棋譜〜]]』[[田壮壮]]監督
*『[[鬼手]](キシュ)』[[リ・ゴン]]監督
*『[[勝負 (2023年の映画)|勝負]]』
==== 文楽・歌舞伎====
*祇園祭礼信仰記、金閣寺の段 - “国崩し”[[松永久秀|松永大膳]]と[[豊臣秀吉|此下東吉]]との対局から碁笥を利用した決定的な場面につながる。この話は囲碁用語を解さないとストーリーが理解できない。
==== 漫画 ====
*[[山松ゆうきち]]『[[天元坊]]』
*[[島本和彦]]『[[逆襲棋士瞳]]』
*[[倉多江美]]『[[お父さんは急がない]]』『続・お父さんは急がない』
*[[ほったゆみ]](原作)・[[小畑健]](画)『[[ヒカルの碁]]』
*[[岡野玲子]]『[[陰陽師 (漫画)|陰陽師]]』
*[[諸星大二郎]]『[[碁娘伝]]』
*[[川原泉]]『[[かぼちゃ計画]]』
*[[竹本健治]]『[[入神]]』
*[[赤塚不二夫]]『ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言』
*[[モリエサトシ]]『[[星空のカラス]]』
*[[宇城はやひろ]]『[[みことの一手!]]』
*[[高木ユーナ]]『群舞のペア碁』
====落語====
*[[笠碁]]
*[[碁泥]]
==== その他 ====
* [[アタリ (企業)|アタリ]] - [[アメリカ合衆国]]のゲーム会社。創業者のノーラン・ブッシュネルが囲碁好きで、囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名。詳細は[[アタリ (企業)|アタリ]]を参照。このあとに子会社として「[[テンゲン]]」、ノーランが次に作った会社に「センテ」([[ノーラン・ブッシュネル]]参照)があった。
* 1988年より、市名が囲碁を想起させる[[青森県]][[黒石市]](白石黒石囲碁交流を促進する会)と宮城県[[白石市]](白石黒石囲碁親交会)との間で親善囲碁将棋交流大会が毎年開催されている。
* 1968年に[[イギリス]]・[[東海旅客鉄道|トランスアトランティック・レコード]]から発売された[[ジョン・レンボーン]]と[[バート・ヤンシュ]]の[[レコード#LP盤|LP]]『[[華麗なる出会い|ジョン・アンド・バート]]』のカバーには、両人が囲碁にうち興じる写真が使われている。
* [[デンソー]]の[[QRコード]]は、囲碁からヒントを得て開発された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*[[中山典之]]『囲碁の世界』岩波新書 1986年
*『囲碁・将棋文化史展-その伝来から近代まで』[[国立国会図書館]] 1988年
*『江戸時代の囲碁の本―文化遺産詳解』日本棋院 1996年
*水口藤雄『囲碁の文化誌―起源伝説からヒカルの碁まで (碁スーパーブックス) 』日本棋院 2001年
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Go|Go (game)}}
{{Wikibooks|囲碁|囲碁}}
{{Wikinewscat}}
{{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}}
* [[囲碁用語一覧]]
* [[囲碁の形勢判断]]
* [[囲碁の手合割]]
* [[日本囲碁大系]]
* [[現代囲碁大系]]
* [[詰碁]]
* [[ペア碁]]
* [[棋戦 (囲碁)]]
*[[棋士 (囲碁)]]
* [[NHK杯テレビ囲碁トーナメント]]
* [[囲碁フォーカス]]([[NHK囲碁講座]])
* [[将棋]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/ 囲碁の歴史(日本棋院)]
* [https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/index.html 楽しい囲碁入門(日本棋院)]
* {{Kotobank|碁}}
{{囲碁用語}}
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[[Category:囲碁|*]]
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[[Category:インドアスポーツ]] | 2003-02-14T05:19:36Z | 2023-12-14T05:08:09Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%A2%81 |
1,496 | Domain Name System | Domain Name System(ドメイン・ネーム・システム、DNS)とは、コンピュータネットワーク上のホスト名や電子メールのアドレスに使われるドメイン名と、IPアドレスとの対応づけ(正引き、逆引き)を管理するために使用されているシステムである。後述の通りインターネットのシステムとして開発されているが、インターネットに限定したシステムではなく、それ以外のネットワークでも応用できる。
1983年に、インターネットを使った階層的な分散型データベースシステムとして、Information Sciences Institute(ISI)のポール・モカペトリスとジョン・ポステルにより開発された。
インターネットに接続されているすべてのコンピュータは、固有のIPアドレスを持っている。インターネット上のコンピュータにアクセスするためには、そのコンピュータの IPアドレスを知る必要がある。しかし、IPアドレスは0から255までの数値を4つ組み合わせ(IPv4の場合)で表現されるため、人間には記憶しにくい。そのため、IPアドレスを文字列で扱うことができるような機構として、インターネットドメイン名が考案された。そして、ドメイン名からIPアドレスを引き出す機能(正引き)が、DNSの代表的な機能である。このほか、ドメイン名に関連するメールサーバ情報なども取り扱っている。
DNSは、ホスト名(たとえばja.wikipedia.org)の入力に対して、DNSサーバと呼ばれるコンピュータを参照し、そのホストが持つIP アドレス(たとえば130.94.122.197)を検索するシステムである。喩えるならば、DNSは氏名から電話番号を自動で調べる電話帳のようなものである。
たとえば、ウェブブラウザにURIを入力してネットワークにアクセスする際、ブラウザはURIを解析して、アクセスすべきWebサーバのホスト名を取り出し、後述のリゾルバAPIに渡す。リゾルバAPI(通常はOS内部での働き)は、Webサーバのホスト名をDNSサーバに問い合わせて返ってきたIPアドレスにより、ホスト名をIPアドレスに変換してブラウザに返す。ブラウザは、得られたIPアドレスを使用して、Webサーバとの通信を開始する。このようにしてブラウザはインターネットにアクセスする。
ホスト名から、そのホストにアクセスするためのIPアドレスを得ることを、ホスト名の「解決」(resolve)と呼び、これを行うためのクライアント側のしくみやプログラムを「リゾルバ」(resolver)または「ネームリゾルバ」という。
DNSに格納されている情報を「レコード」(DNSレコード、リソースレコード)と呼ぶ。レコードは格納する情報によって種類が分類分けされている。レコードの種類は「DNSレコードタイプの一覧」を参照。
ただし現実の電話帳との違いは、この情報がインターネット上のいくつものコンピュータ(DNSサーバ)に分散して格納されているところにある。インターネットには莫大な数のコンピュータが接続されており、これらのホスト名と IPアドレスは日々更新されつづけているため、インターネット上のすべてのホスト名を一台のコンピュータで集中管理することは現実的ではなかった。そのためインターネット上のコンピュータをある単位で区分けして、それぞれのグループがもつデータをグループごとのコンピュータに別々に管理させるようにした。これが DNS の基本的なアイデアである。このグループをドメインと呼ぶ。各グループには英数字とハイフン( - )からなるラベル(ドメイン名)がつけられており、異なるドメインの情報は異なるコンピュータに格納される。
今でこそDNSはホスト名とIPアドレスの対応づけに使用されるのがほとんどだが、もともとは電子メールの配送方法やコンピュータの機種名を登録するなどといった用途も考えられていた。
ドメイン名は階層的な構造をもっている。たとえばja.wikipedia.orgというホスト名はja、wikipedia、orgという3つの階層に区切ることができる。ja.wikipedia.orgというホストはwikipedia.orgドメインに所属しており、このドメインはさらにorgドメインに所属している。ドメイン名は一個の巨大な木構造をなしており、この構造をドメイン名前空間(Domain Name Space)と呼ぶ。ドメイン名前空間は頂点に.(ルート)ノードを持ち、そこから.com、.org、.jp などの各トップレベルドメイン(TLD)が分かれている。
各ドメインはゾーンと呼ばれる管轄に分けて管理されている。ゾーンはドメイン名前空間上のある一部分に相当し、それぞれのゾーンは独立したDNSコンテンツサーバと呼ばれるコンピュータによって管理されている(ドメイン名の委譲)。DNSコンテンツサーバは、管理しているゾーンのホスト名とIPアドレスの組を記述したデータベースを持っており、クライアントマシン(あるいはDNSキャッシュサーバ)からの要求に応じて、あるホスト名に対応するIPアドレスを返す。DNSクライアントはルートサーバからいくつものDNSサーバをたどっていき、最終的なホスト名のIPアドレスを得る(DNSの再帰検索)。
具体的な例として、ja.wikipedia.orgというホスト名の IPアドレスを検索することを考えると、再帰検索は、トップレベルドメインをルートサーバに問い合わせることからはじまる。ja.wikipedia.orgというホスト名はwikipedia.orgドメインに属し、またwikipedia.orgドメインはorgドメインに属するため、クライアントは最初にorgドメインのDNSサーバ(ネームサーバ)のIPアドレスを得なければならない。
まず、クライアントは適当なルートサーバをひとつ選ぶ。ここでは A.ROOT-SERVERS.NET(198.41.0.4)とする。現在、ルートサーバに登録されているorgドメインのネームサーバは9つあり、そのうちのひとつはa7.nstld.com(192.5.6.36)である。
つぎにクライアントは、このネームサーバにwikipedia.orgドメインのネームサーバの IPアドレスを問い合わせる。するとそのネームサーバのホスト名はdns34.register.com(216.21.226.87)であることがわかる。
最後に、このネームサーバにja.wikipedia.orgのIPアドレスを問い合わせる。するとこのサーバは最終的な答130.94.122.197を返す。こうして目的とするホスト名のIPアドレスを検索できる。
DNSはデータを分散して保持する多数の権威DNSサーバと、キャッシュサーバからなる。authoritativeネームサーバ(「権威DNSサーバ」、「権威あるDNS」とも)は自らが担当する一定の範囲のドメイン名の名前解決を内部のデータベースを使って行い、その結果のIPアドレスを送り返す。キャッシュDNSサーバは権威DNSサーバの回答結果を一定期間保存して代わりに回答する機能を持ち、権威DNSサーバの負荷を分散する。
DNS over HTTPS (DoH)は、リゾルバとのDNSクエリのやり取りをHTTPS上で行うことで、セキュリティとプライバシーを向上させる。これは RFC 8484 で定義され、MIMEタイプとしてapplication/dns-messageを使う。
DNS over TLS(DoT)は、TLSプロトコルを介してリゾルバとのDNSクエリをやり取りする。効果はDoHと同様である。
DNSは、ほとんどのインターネット利用者が普段意識していない透過的なシステムだが、その役割は非常に重要である。あるドメインを管理しているDNSサーバが停止してしまうと、そのドメイン内のホストを示すURLやメールアドレスの名前解決などができなくなり、ネットワークが利用者とつながっていてもそのドメイン内のサーバ類には事実上アクセスできなくなる。そのため、重要なDNSサーバは二重化されていることが多い。
またDNS偽装を行うと、情報を容易に盗聴・偽装することができてしまう。情報レコードの不正な書き換えを防止するため、コンテンツサーバのマスタ(プライマリ)はインターネット(外部)から隠匿し、インターネットには特定のマスタのコピー(ゾーン転送)を受け取るスレーブ(セカンダリ)を公開するなどの構成を組んで、防衛手段を講じる。 | [
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"text": "DNS over HTTPS (DoH)は、リゾルバとのDNSクエリのやり取りをHTTPS上で行うことで、セキュリティとプライバシーを向上させる。これは RFC 8484 で定義され、MIMEタイプとしてapplication/dns-messageを使う。",
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"text": "DNS over TLS(DoT)は、TLSプロトコルを介してリゾルバとのDNSクエリをやり取りする。効果はDoHと同様である。",
"title": "DNS over HTTPS (DoH) / DNS over TLS (DoT)"
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"text": "DNSは、ほとんどのインターネット利用者が普段意識していない透過的なシステムだが、その役割は非常に重要である。あるドメインを管理しているDNSサーバが停止してしまうと、そのドメイン内のホストを示すURLやメールアドレスの名前解決などができなくなり、ネットワークが利用者とつながっていてもそのドメイン内のサーバ類には事実上アクセスできなくなる。そのため、重要なDNSサーバは二重化されていることが多い。",
"title": "存在意義"
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"text": "またDNS偽装を行うと、情報を容易に盗聴・偽装することができてしまう。情報レコードの不正な書き換えを防止するため、コンテンツサーバのマスタ(プライマリ)はインターネット(外部)から隠匿し、インターネットには特定のマスタのコピー(ゾーン転送)を受け取るスレーブ(セカンダリ)を公開するなどの構成を組んで、防衛手段を講じる。",
"title": "存在意義"
}
]
| Domain Name System(ドメイン・ネーム・システム、DNS)とは、コンピュータネットワーク上のホスト名や電子メールのアドレスに使われるドメイン名と、IPアドレスとの対応づけ(正引き、逆引き)を管理するために使用されているシステムである。後述の通りインターネットのシステムとして開発されているが、インターネットに限定したシステムではなく、それ以外のネットワークでも応用できる。 1983年に、インターネットを使った階層的な分散型データベースシステムとして、Information Sciences Institute(ISI)のポール・モカペトリスとジョン・ポステルにより開発された。 インターネットに接続されているすべてのコンピュータは、固有のIPアドレスを持っている。インターネット上のコンピュータにアクセスするためには、そのコンピュータの IPアドレスを知る必要がある。しかし、IPアドレスは0から255までの数値を4つ組み合わせ(IPv4の場合)で表現されるため、人間には記憶しにくい。そのため、IPアドレスを文字列で扱うことができるような機構として、インターネットドメイン名が考案された。そして、ドメイン名からIPアドレスを引き出す機能(正引き)が、DNSの代表的な機能である。このほか、ドメイン名に関連するメールサーバ情報なども取り扱っている。 | {{redirect|DNS}}
{{複数の問題
|出典の明記=2021-04
|更新=2021-04}}
{{IPstack}}
[[ファイル:Structure DNS.jpg|thumb|400px|ドメインの階層構造]]
'''Domain Name System'''(ドメイン・ネーム・システム、'''DNS''')とは、コンピュータネットワーク上の[[ホスト名]]や[[電子メール]]のアドレスに使われる[[ドメイン名]]と、[[IPアドレス]]との対応づけ([[正引き]]、[[逆引き]])を管理するために使用されているシステムである。後述の通りインターネットのシステムとして開発されているが、インターネットに限定したシステムではなく、それ以外のネットワークでも応用できる。
[[1983年]]に、[[インターネット]]を使った階層的な分散型[[データベース]]システムとして、[[Information Sciences Institute]](ISI)の[[ポール・モカペトリス]]と[[ジョン・ポステル]]により開発された<ref>{{cite web | title=ISI Marks 20th Anniversary of Domain Name System | website=[[Information Sciences Institute]] | date=2003-06-26 | url=https://www.isi.edu/news/story/59 | accessdate=2022-11-06}}</ref>。
インターネットに接続されているすべてのコンピュータは、固有の[[IPアドレス]]を持っている。インターネット上のコンピュータにアクセスするためには、そのコンピュータの IPアドレスを知る必要がある。しかし、IPアドレスは0から255までの数値を4つ組み合わせ(IPv4の場合)で表現されるため、人間には記憶しにくい。そのため、IPアドレスを文字列で扱うことができるような機構として、[[ドメイン名|インターネットドメイン名]]が考案された。そして、ドメイン名からIPアドレスを引き出す機能([[正引き]])が、DNSの代表的な機能である。このほか、ドメイン名に関連するメールサーバ情報なども取り扱っている。
== 動作 ==
DNSは、ホスト名(たとえば<code>ja.wikipedia.org</code>)の入力に対して、[[DNSサーバ]]と呼ばれるコンピュータを参照し、そのホストが持つIP アドレス(たとえば<code>130.94.122.197</code>)を[[検索]]するシステムである。喩えるならば、DNSは氏名から電話番号を自動で調べる電話帳のようなものである。
たとえば、[[ウェブブラウザ]]に[[Uniform Resource Identifier|URI]]を入力してネットワークにアクセスする際、ブラウザはURIを解析して、アクセスすべきWebサーバのホスト名を取り出し、後述のリゾルバ[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]に渡す。リゾルバAPI(通常は[[オペレーティングシステム|OS]]内部での働き)は、Webサーバのホスト名をDNSサーバに問い合わせて返ってきたIPアドレスにより、ホスト名をIPアドレスに変換してブラウザに返す。ブラウザは、得られたIPアドレスを使用して、Webサーバとの通信を開始する。このようにしてブラウザはインターネットにアクセスする。
ホスト名から、そのホストにアクセスするためのIPアドレスを得ることを、ホスト名の「'''[[名前解決|解決]]'''」(resolve)と呼び、これを行うためのクライアント側のしくみやプログラムを「'''[[リゾルバ]]'''」(resolver)または「'''ネームリゾルバ'''」という。
DNSに格納されている情報を「'''レコード'''」(DNSレコード、リソースレコード)と呼ぶ。レコードは格納する情報によって種類が分類分けされている。レコードの種類は「[[DNSレコードタイプの一覧]]」を参照。
ただし現実の電話帳との違いは、この情報がインターネット上のいくつものコンピュータ(DNSサーバ)に分散して格納されているところにある。インターネットには莫大な数のコンピュータが接続されており、これらのホスト名と IPアドレスは日々更新されつづけているため、インターネット上の'''すべての'''ホスト名を一台のコンピュータで集中管理することは現実的ではなかった。そのためインターネット上のコンピュータをある単位で区分けして、それぞれのグループがもつデータをグループごとのコンピュータに別々に管理させるようにした。これが DNS の基本的なアイデアである。このグループを'''ドメイン'''と呼ぶ。各グループには英数字とハイフン( <code>-</code> )からなるラベル([[ドメイン名]])がつけられており、異なるドメインの情報は異なるコンピュータに格納される。
今でこそDNSはホスト名とIPアドレスの対応づけに使用されるのがほとんどだが、もともとは[[電子メール]]の配送方法やコンピュータの機種名を登録するなどといった用途も考えられていた。
ドメイン名は階層的な構造をもっている。たとえば<code>ja.wikipedia.org</code>というホスト名は<code>ja</code>、<code>wikipedia</code>、<code>org</code>という3つの階層に区切ることができる。<code>ja.wikipedia.org</code>というホストは<code>wikipedia.org</code>ドメインに所属しており、このドメインはさらに<code>org</code>ドメインに所属している。ドメイン名は一個の巨大な[[木構造 (データ構造)|木構造]]をなしており、この構造を[[ドメイン名前空間]](Domain Name Space)と呼ぶ。ドメイン名前空間は頂点に<code>.</code>(ルート)ノードを持ち、そこから<code>[[.com]]</code>、<code>[[.org]]</code>、<code>[[.jp]]</code> などの各[[トップレベルドメイン]](TLD)が分かれている。
各ドメインはゾーンと呼ばれる管轄に分けて管理されている。ゾーンはドメイン名前空間上のある一部分に相当し、それぞれのゾーンは独立した[[DNSコンテンツサーバ]]と呼ばれるコンピュータによって管理されている([[ドメイン名の委譲]])。DNSコンテンツサーバは、管理しているゾーンのホスト名とIPアドレスの組を記述したデータベースを持っており、クライアントマシン(あるいは[[DNSキャッシュサーバ]])からの要求に応じて、あるホスト名に対応するIPアドレスを返す。DNSクライアントはルートサーバからいくつものDNSサーバをたどっていき、最終的なホスト名のIPアドレスを得る(DNSの再帰検索)。
=== DNSサーバの役割 ===
{{see also|DNSサーバ|ルートサーバ}}
具体的な例として、<code>ja.wikipedia.org</code>というホスト名の IPアドレスを検索することを考えると、再帰検索は、[[トップレベルドメイン]]を[[ルートサーバ]]に問い合わせることからはじまる。<code>ja.wikipedia.org</code>というホスト名は<code>wikipedia.org</code>ドメインに属し、また<code>wikipedia.org</code>ドメインは<code>org</code>ドメインに属するため、クライアントは最初に<code>org</code>ドメインのDNSサーバ(ネームサーバ)の[[IPアドレス]]を得なければならない。
まず、クライアントは適当なルートサーバをひとつ選ぶ。ここでは <code>A.ROOT-SERVERS.NET</code>(<code>198.41.0.4</code>)とする。現在{{いつ|date=2019年12月}}、[[ルートサーバ]]に登録されている<code>org</code>ドメインのネームサーバは9つあり、そのうちのひとつは<code>a7.nstld.com</code>(<code>192.5.6.36</code>)である。
つぎにクライアントは、このネームサーバに<code>wikipedia.org</code>ドメインのネームサーバの IPアドレスを問い合わせる。するとそのネームサーバのホスト名は<code>dns34.register.com</code>(<code>216.21.226.87</code>)であることがわかる。
最後に、このネームサーバに<code>ja.wikipedia.org</code>のIPアドレスを問い合わせる。するとこのサーバは最終的な答<code>130.94.122.197</code>を返す。こうして目的とするホスト名のIPアドレスを検索できる。
===権威サーバとキャッシュサーバ===
DNSはデータを分散して保持する多数の権威DNSサーバと、キャッシュサーバからなる。authoritativeネームサーバ(「権威DNSサーバ」<ref name="nic">{{Cite web|和書|title=インターネット用語1分解説~権威DNSサーバ(authoritative name server)とは~ |url=https://www.nic.ad.jp/ja/basics/terms/authoritative-nameserver.html |website=JPNIC |date=2012-09-18 |accessdate=2022-11-06}}</ref>、「権威あるDNS」<ref>{{Cite web|和書|title=第7回 DNSの仕組みについて |url=https://lpi.or.jp/lpic_all/linux/network/network07.shtml |website=Linux技術者認定機関 LPI-Japan [エルピーアイジャパン] |accessdate=2022-11-06}}</ref>とも)は自らが担当する一定の範囲のドメイン名の名前解決を内部のデータベースを使って行い、その結果のIPアドレスを送り返す<ref name="nic" />。キャッシュDNSサーバは権威DNSサーバの回答結果を一定期間保存して代わりに回答する機能を持ち、権威DNSサーバの負荷を分散する<ref>{{Cite web|和書|title=重要技術 DNSの仕組み |url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/security_previous/juyogijutsu/dnssec01.htm |website=国民のための情報セキュリティサイト |accessdate=2022-11-06}}</ref>。
== DNS over HTTPS (DoH) / DNS over TLS (DoT) ==
{{Main|DNS over HTTPS|DNS over TLS}}
DNS over HTTPS (DoH)は、リゾルバとのDNSクエリのやり取りを[[HTTPS]]上で行う<ref group="注">つまり、ポート53を使わずにポート443を使う。</ref>ことで、セキュリティとプライバシーを向上させる。これは {{IETF RFC|8484}} で定義され、[[メディアタイプ|MIMEタイプ]]として<code>application/dns-message</code>を使う。
[[DNS over TLS]](DoT)は、[[Transport Layer Security|TLS]]プロトコルを介してリゾルバとのDNSクエリをやり取りする。効果はDoHと同様である。
== 存在意義 ==
DNSは、ほとんどのインターネット利用者が普段意識していない透過的なシステムだが、その役割は非常に重要である。あるドメインを管理している[[DNSサーバ]]が停止してしまうと、そのドメイン内のホストを示す[[URL]]や[[メールアドレス]]の名前解決などができなくなり、ネットワークが利用者とつながっていてもそのドメイン内のサーバ類には事実上アクセスできなくなる。そのため、重要なDNSサーバは[[冗長化|二重化]]されていることが多い。
また[[DNS偽装]]を行うと、情報を容易に盗聴・偽装することができてしまう。情報レコードの不正な書き換えを防止するため、コンテンツサーバのマスタ(プライマリ)はインターネット(外部)から隠匿し、インターネットには特定のマスタのコピー(ゾーン転送)を受け取るスレーブ(セカンダリ)を公開するなどの構成を組んで、防衛手段を講じる。
== 関連語句 ==
* [[DNSサーバ]]
** [[ダイナミックドメインネームシステム|Dynamic Domain Name System]](ダイナミックDNS、DDNS)
** [[リゾルバ]]
** [[djbdns]] - DNSサーバ用ソフトウェア。
** [[BIND]]
** [[unbound]] - オープンソースのDNSキャッシュサーバ
** [[DNSルートゾーン]]
** [[DNSゾーン転送]]
** [[DNSレコードタイプの一覧]]
*** [[MXレコード]]
*** {{仮リンク|SRVレコード|en|SRV record}}
*** [[Glue Record]]
** [[DNSBL]](DNSブラックリスト)
** [[DNSラウンドロビン]]
** {{仮リンク|EDNS0|en|Extension mechanisms for DNS}} (extension mechanisms for DNS version 0)
* [[ドメイン名]]
** [[トップレベルドメイン]] (TLD)
** [[国際化ドメイン名]]
** [[Fully Qualified Domain Name]](FQDN)
* [[地域インターネットレジストリ]]
** [[レジストラ]]
* [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]
* [[名前解決]]
** [[正引き]]
** [[逆引き#逆引き (DNS)|逆引き]]
* [[ディレクトリ・サービス]]
* [[DNS偽装]]
* [[誕生日攻撃]]
* [[DNS-Pinning]] ([[DNSリバインディング]]{{enlink|DNS rebinding}})
* [[DNS Security Extensions]] (DNSSEC)
* [[エニーキャスト]]
== 関連プロトコル ==
* [https://tools.ietf.org/html/std13 STD0013]
** {{IETF RFC|1034}} : DOMAIN NAMES - CONCEPTS AND FACILITIES
** {{IETF RFC|1035}} : DOMAIN NAMES - IMPLEMENTATION AND SPECIFICATION
* {{IETF RFC|8310}}: Usage Profiles for DNS over TLS and DNS over DTLS - [[Transport Layer Security|TLS]](TCPを使用)および[[Datagram Transport Layer Security|DTLS]](UDPを使用)上でDNSメッセージのやり取りを行うプロトコルの規定。セキュリティやプライバシー保護の向上を意図している。
* {{IETF RFC|8484}}: DNS Queries over HTTPS - [[HTTPS]]上でDNSメッセージのやり取りを行うプロトコルの規定。使用するHTTPのバージョンとしては[[HTTP/2]]が推奨されている。こちらも、セキュリティやプライバシー保護の向上を意図している。
* [[マルチキャストDNS]] - mDNS とも表現される
* [[LLMNR]] - Link Local Multicast Name Resolution
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://dnsops.jp/documents.html 日本DNSオペレーターズグループ | 権威DNSサービス調査]
{{URI scheme}}
{{Normdaten}}
[[Category:Domain Name System|*DNS]]
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|0882]] | 2003-02-14T05:19:52Z | 2023-10-24T14:47:22Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/Domain_Name_System |
1,497 | エイダ・ラブレス | ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(Augusta Ada King, Countess of Lovelace, 1815年12月10日 - 1852年11月27日)は、19世紀のイギリスの貴族・数学者。主にチャールズ・バベッジの考案した初期の汎用計算機である解析機関についての著作で、世界初のコンピュータープログラマーとして知られる。詩人第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの一人娘であり、数学を愛好した。ミドルネームのエイダで知られる。旧姓バイロン。
エイダは詩人ジョージ・ゴードン・バイロンとその妻アナベラ・ミルバンクの間にできた、唯一の嫡出子である。ファーストネームのオーガスタは、バイロンの異母姉オーガスタ・リーからとられている。彼女は自分の子供の父親がバイロンではないかと噂されたが、それを払拭するためにバイロンに結婚を勧め、バイロンはしぶしぶアナベラを選んだといわれている。1816年1月16日、アナベラはバイロンと別れ、生後1か月のエイダを連れて行った。4月21日、バイロンは離婚届にサインをして、数日後にはイギリスを離れた。その後、彼は2人に会うことはなかった。
エイダは母の元で育ったが、その容貌は傍目から見ても父親に似た美しさだったという。母のアン・イザベラ・ミルバンクには教養があり、数学者ウィリアム・フレンドに数学を教わったこともあった。「平行四辺形のプリンセス」とも称された数学者である母の影響で、エイダも数学に高い興味を持ち、結婚後もそのことが彼女の人生を支配した。エイダは神経が繊細で、目標が達成できないと強いストレスによるノイローゼ症状を呈することがあった。母親が幼少期のエイダに数学の教育を受けさせたのは、その矯正の意味もあったとされている。彼女は何人かの家庭教師に数学と科学の手ほどきを受けた。そのうちのひとりはウィリアム・フレンドの娘婿であるド・モルガンである。
1835年に彼女はキング男爵(儀礼称号)ウィリアム・キング(父親の死後ラブレース伯爵を襲爵)と結婚し、3人の子供をもうけた。
1833年6月5日、エイダは、友人で研究者でもあり科学的著作を残しているメアリー・サマヴィルからチャールズ・バベッジを紹介された。その席には、ディヴィッド・ブリュースター、チャールズ・ホイートストン、チャールズ・ディケンズ、マイケル・ファラデーらもいた。そこでエイダはバベッジの階差機関の説明を聞き、強い興味を示した。数学をまじめに学び始めたのはこの後だとする説もある。いずれにしても、その後バベッジとは師弟関係が成立し、エイダはバベッジから多くの教えを受けた。
1842年から1843年にかけての9か月間にエイダは、バベッジがイタリアで解析機関について講演した際の記録をイタリアの数学者で政治家ルイジ・メナブレア(英語版、イタリア語版)が出版したものを(ホィートストン経由で)入手し、英語に翻訳したが、バベッジの勧めもあって本文の2倍以上の分量の訳注を付けた。その中に掲載された、パンチカードを利用したベルヌーイ数を求めるための解析機関用プログラムのコードは、世界初のコンピュータプログラムと言われている。ただし、このプログラムはバベッジ自身が書き、エイダは単にバベッジのコーディングミス(バグ)を指摘しただけだというのが定説となっており、実際にバベッジがその訳注に載っているプログラムを全て書いたという証拠も見つかっている。ただ、彼女の文章は、バベッジ自身も気づかなかった解析機関の可能性に言及している。この件はバベッジとエイダの共同研究のスタートだったとみなされている。自らを「詩的な科学者」と自認するエイダは、「たとえば、これまで音楽学の和音理論や作曲論で論じられてきた音階の基本的な構成を、数値やその組み合わせに置き換えることができれば、解析エンジンは曲の複雑さや長さを問わず、細密で系統的な音楽作品を作曲できるでしょう」と述べている。
2人の知見は長らく評価されなかったが、約100年後の1940年代初頭に電気や真空管を動力とする初の実用的なコンピュータが開発されるに至り、まったく無関係な形で「再発見」された。さらに数十年後の1970年代にいたり、コンピュータがただの計算機ではなく芸術を生み出すツールにもなるというエイダの発想は現実のものとなった。 また、人工知能に対する彼女の意見は、ほぼ100年後にソフトウェア分野での予言者であるアラン・チューリングが計算する機械と知性(英語版)の中でラブレス夫人の反論(Lady Lovelace's Objection)として引用し、不朽のものとなる。
エイダ・ラブレスは子宮癌を患い、1852年11月27日、36歳で死去した。直接の死因は医師が施した瀉血だった。皮肉なことに彼女は父親と同じ年齢で亡くなっただけでなく、父親と同じ瀉血という間違った治療法が死因となった。彼女の娘 アン・ブラント(英語版)は中近東への旅行とアラブ馬のブリーダーとして有名となり、更にその娘のジュディス・ブラント(英語版)はリットン伯ネヴィル(リットン調査団団長リットン伯ヴィクターの弟)と結婚し一男二女を儲けた。
エイダ自身の願いにより、彼女の遺体は父であるバイロンの隣に葬られた。
10月の第2火曜日は「エイダ・ラブレスの日」と制定されている。
伝記作者たちはエイダは数学が不得意だったと指摘しており、エイダ・ラブレスがバベッジの機関のプログラムについて深く理解していたかについては議論がある。単に貴族が社会とのつながりを持つためにバベッジを利用しただけではないかという者もいる。ただし、最近ではエイダとバベッジの間で交わされた書簡によって、いくつかの事実も分かってきている。
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| ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングは、19世紀のイギリスの貴族・数学者。主にチャールズ・バベッジの考案した初期の汎用計算機である解析機関についての著作で、世界初のコンピュータープログラマーとして知られる。詩人第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの一人娘であり、数学を愛好した。ミドルネームのエイダで知られる。旧姓バイロン。 | {{出典の明記|date=2013年12月26日 (木) 15:05 (UTC)|ソートキー=人 1852年没}}
{{表記揺れ案内
|表記1=エイダ・ラブレス
|表記2=エイダ・ラヴレス
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[[File:Ada Lovelace portrait.jpg|thumb|200px|right|1840年ごろの肖像画、<br>(作)[[アルフレッド・エドワード・シャロン]] ]]
[[File:Ada Byron daguerreotype by Antoine Claudet 1843 or 1850 - cropped.png|thumb|right|{{仮リンク|アントワーヌ・クロード|en|Antoine Claudet}}による[[ダゲレオタイプ|銀板写真]]。1843年または1850年の写真とされる。]]
'''ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング'''(Augusta Ada King, Countess of Lovelace, [[1815年]][[12月10日]] - [[1852年]][[11月27日]])は、19世紀の[[イギリス]]の[[貴族]]・[[数学者]]。主に[[チャールズ・バベッジ]]の考案した初期の汎用計算機である[[解析機関]]についての著作で、世界初の[[プログラマ|コンピュータープログラマー]]として知られる<ref>{{cite journal|last=Phillips|first=Ana Lena|date=November–December 2011|title=Crowdsourcing Gender Equity: Ada Lovelace Day, and its companion website, aims to raise the profile of women in science and technology|url=https://www.americanscientist.org/article/crowdsourcing-gender-equity|journal=American Scientist|volume=99|issue=6|page=463|doi=10.1511/2011.93.463}}</ref><ref name="Lovelace Google">{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/technology/2012/dec/10/ada-lovelace-honoured-google-doodle|title=Ada Lovelace honoured by Google doodle|date=10 December 2012|newspaper=[[The Guardian]]|location=London|access-date=10 December 2012}}</ref>。詩人第6代[[バイロン男爵]][[ジョージ・ゴードン・バイロン]]の一人娘であり、[[数学]]を愛好した。ミドルネームのエイダで知られる。旧姓バイロン。
== 生涯 ==
エイダは詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]とその妻アナベラ・ミルバンクの間にできた、唯一の嫡出子である。ファーストネームのオーガスタは、バイロンの異母姉[[オーガスタ・リー]]からとられている。彼女は自分の子供の父親がバイロンではないかと噂されたが、それを払拭するためにバイロンに結婚を勧め、バイロンはしぶしぶアナベラを選んだといわれている。[[1816年]]1月16日、アナベラはバイロンと別れ、生後1か月のエイダを連れて行った。4月21日、バイロンは離婚届にサインをして、数日後にはイギリスを離れた。その後、彼は2人に会うことはなかった。
エイダは母の元で育ったが、その容貌は傍目から見ても父親に似た美しさだったという。母のアン・イザベラ・ミルバンク<ref name="イグノトフスキー17p">{{Cite book|和書|author=レイチェル・イグノトフスキー|title=世界を変えた50人の女性科学者|publisher=創元社|date=2018|page=17|isbn=}}</ref>には教養があり、数学者ウィリアム・フレンドに数学を教わったこともあった。「平行四辺形のプリンセス」とも称された数学者である母の影響で<ref name="イグノトフスキー17p"/>、エイダも数学に高い興味を持ち、結婚後もそのことが彼女の人生を支配した。エイダは神経が繊細で、目標が達成できないと強い[[ストレス (生体)|ストレス]]による[[ノイローゼ]]症状を呈することがあった。母親が幼少期のエイダに[[数学]]の教育を受けさせたのは、その矯正の意味もあったとされている。彼女は何人かの家庭教師に数学と[[科学]]の手ほどきを受けた。そのうちのひとりはウィリアム・フレンドの娘婿である[[オーガスタス・ド・モルガン|ド・モルガン]]である{{Sfn|ラインゴールド|1988|p=33}}。
1835年に彼女はキング[[男爵]]([[儀礼称号]])ウィリアム・キング(父親の死後ラブレース[[伯爵]]を襲爵)と結婚し、3人の子供をもうけた<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/12649 |title=世界初のソフトウェア・プログラマー、エイダ・ラブレスの偉業 |publisher = Forbes JAPAN 編集部 |accessdate=2019-12-15}}</ref>。
[[1833年]]6月5日、エイダは、友人で研究者でもあり科学的著作を残している[[メアリー・サマヴィル]]から[[チャールズ・バベッジ]]を紹介された。その席には、[[ディヴィッド・ブリュースター]]、[[チャールズ・ホイートストン]]、[[チャールズ・ディケンズ]]、[[マイケル・ファラデー]]らもいた。そこでエイダはバベッジの[[階差機関]]の説明を聞き、強い興味を示した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.grucom.jp/archive/web/1430/ |title=プログラムを、世界で最初に書いたとされるプログラマー。エイダ・ラブレス |publisher = 株式会社グルコム |accessdate=2019-12-15}}</ref>。数学をまじめに学び始めたのはこの後だとする説もある。いずれにしても、その後バベッジとは師弟関係が成立し、エイダはバベッジから多くの教えを受けた。
1842年から1843年にかけての9か月間にエイダは、バベッジがイタリアで[[解析機関]]について講演した際の記録をイタリアの数学者で政治家{{仮リンク|ルイジ・メナブレア|en|Luigi Federico Menabrea|it|Luigi Federico Menabrea}}が出版したものを(ホィートストン経由で)入手し、英語に翻訳したが、バベッジの勧めもあって本文の2倍以上の分量の訳注を付けた<ref name="イグノトフスキー17p"/>。その中に掲載された、[[パンチカード]]を利用した[[ベルヌーイ数]]を求めるための解析機関用プログラムのコードは、世界初の[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]と言われている<ref name="イグノトフスキー17p"/>。ただし、このプログラムはバベッジ自身が書き、エイダは単にバベッジのコーディングミス([[バグ]])を指摘しただけだというのが定説となっており、実際にバベッジがその訳注に載っているプログラムを全て書いたという証拠も見つかっている。ただ、彼女の文章は、バベッジ自身も気づかなかった解析機関の可能性に言及している。この件はバベッジとエイダの共同研究のスタートだったとみなされている<ref name="イグノトフスキー17p"/>。自らを「詩的な科学者」と自認する<ref name="イグノトフスキー17p"/>エイダは、「たとえば、これまで音楽学の和音理論や作曲論で論じられてきた音階の基本的な構成を、数値やその組み合わせに置き換えることができれば、解析エンジンは曲の複雑さや長さを問わず、細密で系統的な音楽作品を作曲できるでしょう」と述べている<ref name="Forbes JAPAN">{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/12649/4/1/1 |title=世界初のソフトウェア・プログラマー、エイダ・ラブレスの偉業 |publisher = Forbes JAPAN 編集部 |accessdate=2019-12-15}}</ref>。
2人の知見は長らく評価されなかったが、約100年後の1940年代初頭に電気や真空管を動力とする初の実用的なコンピュータが開発されるに至り、まったく無関係な形で「再発見」された<ref name="Forbes JAPAN"/>。さらに数十年後の1970年代にいたり、コンピュータがただの計算機ではなく芸術を生み出すツールにもなるというエイダの発想は現実のものとなった<ref name="Forbes JAPAN"/>。
また、人工知能に対する彼女の意見は、ほぼ100年後にソフトウェア分野での予言者であるアラン・チューリングが{{仮リンク|計算する機械と知性|en|Computing Machinery and Intelligence}}の中でラブレス夫人の反論(Lady Lovelace's Objection)として引用し、不朽のものとなる{{Sfn|ラインゴールド|1988|p=37}}<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.unixuser.org/~euske/doc/turing-ja/index.html
| title = Computing Machinery and Intelligence 計算する機械と知性
| accessdate = 2022-2-14}}</ref>。
エイダ・ラブレスは[[子宮癌]]を患い、1852年11月27日、36歳で死去した。直接の死因は医師が施した[[瀉血]]だった。皮肉なことに彼女は父親と同じ年齢で亡くなっただけでなく、父親と同じ瀉血という間違った治療法が死因となった。彼女の娘 {{仮リンク|アン・ブラント|en|Anne Blunt, 15th Baroness Wentworth}}は中近東への旅行とアラブ馬のブリーダーとして有名となり、更にその娘の{{仮リンク|ジュディス・ブラント|en|Judith Blunt-Lytton, 16th Baroness Wentworth}}は[[ネヴィル・ブルワー=リットン|リットン伯ネヴィル]]([[リットン調査団]]団長[[ヴィクター・ブルワー=リットン|リットン伯ヴィクター]]の弟)と結婚し一男二女を儲けた。
エイダ自身の願いにより、彼女の遺体は父であるバイロンの隣に葬られた。
10月の第2火曜日は「エイダ・ラブレスの日」と制定されている<ref name="イグノトフスキー17p"/>。
== 位置づけについての論争 ==
伝記作者たちはエイダは数学が不得意だったと指摘しており、エイダ・ラブレスがバベッジの機関のプログラムについて深く理解していたかについては議論がある。単に貴族が社会とのつながりを持つためにバベッジを利用しただけではないかという者もいる。ただし、最近ではエイダとバベッジの間で交わされた書簡によって、いくつかの事実も分かってきている。
* エイダは、コサインが無限大になるというメナブレアの記述間違いに全く気づいていない。
* 書簡の中でエイダは独自にプログラムを書いていて、独特の[[コーディングスタイル]]からバベッジが書いたものでないことは明らかである。
* 躁鬱症状が書簡からも見て取れ、「自分は天才」と書いたものもあれば、ひどく落ち込んでいることもあり、判断がむずかしい。
[[コンピュータ科学]]の歴史においても、[[フェミニズム]]的にも、エイダ・ラブレスは特殊な地位を占めている。そのため、彼女の貢献がどれだけだったのかを現存の資料から断定することは難しい。
== 著作 ==
* {{cite journal
| last = Menabrea
| first = Luigi Federico
| last2 = Lovelace
| first2 = Augusta Ada
| title = Sketch of the Analytical Engine invented by Charles Babbage Esq.
| journal = Scientific Memoirs
| volume = 3
| pages = 668-731
| editor = Richard Taylor
| year = 1843
}} - エイダによる注釈 "Note G"に、解析機関を用いてベルヌーイ数を求めるプログラムが書かれている。
== 備考 ==
* エイダは[[ゴシック小説]]『[[フランケンシュタイン]]』の作者[[メアリー・シェリー]]の親友でもある。
* バベッジの研究が中断した後、エイダはギャンブルにのめり込み多額の借金を負った。また癌に冒された上、母のバイロン夫人から痛み止めに使用していた[[阿片]]を取り上げられるといった仕打ちを受けるなど<!--(そもそも父・詩人バイロンが母<バイロン夫人>の姉と[[不倫]]し<これが原因で離婚>た経緯がありバイロン夫人はエイダを憎んでいた)-->、晩年は不遇であった。<!-- カッコ内は本当かどうかわからないのでコメントアウト(Melan)-->
* [[1980年]]12月10日(エイダの誕生日)、[[アメリカ国防総省]]は新しい[[プログラミング言語]]を[[Ada]]と名づけた。[[MIL規格]]番号(MIL-STD-1815)は、彼女の生まれた年にちなんでいる。
* エイダの肖像は[[マイクロソフト]]社の認証用[[ホログラフィー|ホログラム]]ステッカーに見ることができる。
* 2012年のエイダの誕生日12月10日には生誕197年を記念して、検索エンジンサイトのGoogleのトップページのロゴ([[Google Doodle]])が彼女と数種類のプログラム言語をあしらったものに一日限定で変更された<ref>{{Cite web|和書| author = Google | authorlink = Google | url = https://www.google.com/doodles/ada-lovelaces-197th-birthday?hl=ja | title = エイダ ラブレース生誕 197 周年 | date = 2012年12月10日 | website = [[Google Doodle|Google Doodle アーカイブ]] | publisher = [[Google|Google LLC]] / [[Google#日本法人|グーグル合同会社]] | accessdate = 2021-08-15}}</ref>。
* [[2022年]][[9月20日]](米国時間)、[[NVIDIA]]はGPU「[[NVIDIA GeForce|GeForce]] RTX 40シリーズ」とワークステーション向けGPU「RTX 6000」に搭載されるGPUアーキテクチャ「Ada Lovelace」を彼女の名前にちなんで命名した<ref>{{Cite news|url= https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1441388.html |title= NVIDIA、従来より最大4倍速い「GeForce RTX 4090」。1,599ドルで10月12日発売 - PC Watch |newspaper= PC Watch |publisher= インプレス |date= 2022-09-21 |accessdate= 2022-09-21 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1441493.html |title= NVIDIA、性能2倍のプロ向けGPU「RTX 6000」発表。Ada Lovelaceアーキテクチャ採用 - PC Watch |newspaper= PC Watch |publisher= インプレス |date= 2022-09-21 |accessdate= 2022-09-21 }}</ref>。
== フィクションでの扱い ==
* [[スチームパンク]]小説『ディファレンス・エンジン』([[ブルース・スターリング]]、[[ウィリアム・ギブスン]]共著/1990年)では、エイダは主要登場人物の一人である。この[[歴史改変SF|歴史改変]]小説ではバベッジの機械が完成・大量生産され、1世紀早く(機械式の)コンピュータ時代が到来した世界を描いている。
* [[山田正紀]]のSF小説『エイダ』(1994年)は、エイダのプログラムの影響で様々なパラレルワールドが生まれる様を描いている。
* 映画『クローン・オブ・エイダ』(''Conceiving Ada'', 監督:[[リン・ハーシュマン・リーソン]]/1997年)は、現代の女性科学者が19世紀のエイダと交信する物語である。[[ティルダ・スウィントン]]がエイダを演じている。
* ドラマシリーズ『[[フランケンシュタイン・クロニクル]]』のシーズン2(2017年)に登場し、[[オートマトン]]の製作に関わる。
* イギリスの長寿SFドラマシリーズ『[[ドクター・フー]]』新シリーズの第12シリーズ第2話「[[スパイフォール]]」パート2に登場し、ドクターと共に地球と人類を救う。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* レイチェル・イグノトフスキー『世界を変えた50人の女性科学者』創元社、2018年
* {{Cite book|和書
| author= ハワード・ラインゴールド 著、栗田昭平 監訳、青木真美 訳
| title= 思考のための道具 異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?
| year=1988
| date=1988-8-10
| publisher=[[パーソナルメディア株式会社]]|isbn = 4-89362-035-5|ref={{Sfnref|ラインゴールド|1988}} }}
== 関連項目 ==
* [[エイダ・ラブレス賞]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
* [http://www.fourmilab.ch/babbage/sketch.html Sketch of the Analytical Engine invented by Charles Babbage Esq.] 原論文をHTML形式にしたもの。
* [http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test.html チューリング・テスト再考] 途中、エイダ・ラブレスについて記述あり
* [http://googlejapan.blogspot.jp/2012/12/1843.html Google Doodles for エイダ・ラブレス]
* [https://findingada.com エイダ・ラブレス デー]{{en icon}}
* [https://forbesjapan.com/articles/detail/12649 Forbes JAPAN 編集部 世界初のソフトウェア・プログラマー、エイダ・ラブレスの偉業]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らふれす えいた}}
[[Category:エイダ・ラブレス|*]]
[[Category:19世紀イングランドの数学者|151210]]
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[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:バイロン家|えいた]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9 |
1,498 | Ada | Ada(エイダ)は、構造化・静的型付け・命令型・オブジェクト指向のパラダイムを持つ汎用プログラミング言語の一つである。構文はAlgol系である。
史上初のプログラマとされるエイダ・ラブレスの名前にちなんでAdaと命名されている。ADAと表記するのは誤り。
フリーのコンパイラとしては、GNATなどがある。
1979年、米国国防総省が信頼性、保守性に優れた、主として組み込みシステム向けの言語を作りたいという意図のもと、国際競争入札を行い4社に発注、各設計仕様書の表紙が赤、青、黄、緑だったことから、そのままそれぞれの言語名称としてRED、BLUE、YELLOW、GREENと呼ばれた。この入札で優勝したのはフランス人チームで、公平を期すため選定時にはGREENと名付けられた。そのような理由から、イメージカラーは緑である。特徴的な要件としては、大規模開発や長期保守性の観点から、
などがあった。
プログラム言語としての機能としては、
など、当時としては先進的な機能を意欲的に取り入れたため、米国国防総省は大きなものとなってしまった言語仕様をまとめるのに、初版のStrawman(わら男、案山子の意味もある)からWoodenman(木男)、Tinman(ブリキ男、前述の案山子とともに『オズの魔法使い』に出てくる)、Ironman(鉄男)、最終版のSteelman(鋼鉄男)に至るまで5つのバージョンに分けて策定を行った。
言語仕様の大きさや厳密さのため、当時のコンピュータが持っていた資源では、処理系の実装にミニコンやワークステーション程度を必要とし、16ビットパソコンには市場性といった事情もあり実装はほとんどない。実際にはAdaは、大企業において、主として信頼性や保守性を要求されるシステムの開発でのみ普及した。というよりも、実際にどの程度徹底されたかは不明だが、策定の主体であった米国国防総省が発注するようなもの、即ち兵器の開発において条件とされたと言われる。
この時期としては先進的であった、その他の特徴としては、
などがあげられる。
策定作業中に仕様が大きくなっていった際には、仕様が高度に巨大化した言語が、兵器のように高度な信頼性を要求される分野に、国防総省の「お墨付き」として使用されることを危ぶむ向きもあった。たとえばアントニー・ホーアは1980年度のチューリング賞受賞者だが、その受賞記念講演 (Turing Award Lecture) "The Emperor's Old Clothes" において、自身のALGOL 68(en:ALGOL 68、やはり仕様の巨大化で知られる)に関する経験などに触れたうえで、Adaへの憂慮で締めくくっている。
言語仕様は、最初に1983年にMIL規格として規格化され、エイダ・ラブレスの生年である1815年に因んで、MIL-STD-1815と採番された。この規格はANSI標準、1987年にISO標準 ISO/IEC 8652:1987 として標準化された。
1990年より、主としてタスキング仕様の改善およびオブジェクト指向の導入を目的として、ISO標準 (ISO/IEC 8652:1987) の改訂作業が開始された。1995年2月15日にISO標準として改訂が承認され、オブジェクト指向言語のうち、史上初の国際標準となった。1995年の規格は、オブジェクト指向の他、下記のような仕様も標準化されている。
2000年にTechnical Amendmentが発行された(ISO/IEC 8652:1995/COR1:2000)。同改訂版は、JISでは2002年版 (JIS X 3009:2002) に対応する。JIS X 3009は本文の翻訳はしていない「要約JIS」であった。2012年1月20日を以って「国際規格周知を目的として要約JISを発行したが,周知としての目的は終了したため。」として廃止されている。
Ada の ISO 規格は、その後、2005年と2012年にも改訂されている。
Adaのソースコードは各パッケージの宣言部を .ads ファイル (specification file) に、実装部を .adb ファイル (body file) に記述する。
リファレンスマニュアルなどでは慣例的に3スペース(空白3個)のインデントが使われている。大文字と小文字を区別しないが、識別子は慣例的に単語の先頭を大文字にして、さらに単語間をアンダースコアでつなぐ(キャメルケースとスネークケースの併用)。
最近の利用例としてはF-22戦闘機や97式魚雷などがある。ただしこの分野でもAdaの陳腐化が進んでおり、F-35戦闘機以降はC++へ移行している。
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"text": "民生品ではあまり利用されていないが、信頼性を重視する航空機の制御ソフトウェアに利用されることがある。例としてはボーイング777など。",
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]
| Ada(エイダ)は、構造化・静的型付け・命令型・オブジェクト指向のパラダイムを持つ汎用プログラミング言語の一つである。構文はAlgol系である。 史上初のプログラマとされるエイダ・ラブレスの名前にちなんでAdaと命名されている。ADAと表記するのは誤り。 フリーのコンパイラとしては、GNATなどがある。 | {{出典の明記|date=2019-09}}
{{Otheruses|プログラミング言語|その他の「Ada」|ADA}}
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
| onlysourced = false
| name = Ada
| released = {{start date and age|1983}}
| designer = [[ジャン・イシュビア]]<br />1995年拡張は[[S. Tucker Taft]]主導
| latest release version = ISO/IEC 8652:2012 (Ada 2012)
| latest release date =
| dialects = Ada 83{{-}}Ada 95{{-}}Ada 2005{{-}}Ada 2012
| typing = nominative, [[型システム#型の安全性|安全な]][[型システム#強い型付けと弱い型付け|強い]][[静的型付け]]
| implementations = [[GNAT]] ([[GNUコンパイラコレクション|GCC]]) 他
| influenced = [[C++]], [[PL/SQL]], [[VHDL]], [[Java]], [[C言語]] ([[C99]])
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|ロゴ=Ada horizon green logo with slogan.svg}}
'''Ada'''(エイダ)は、[[構造化プログラミング|構造化]]・[[静的型付け]]・[[命令型プログラミング|命令型]]・[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]]の[[プログラミングパラダイム|パラダイム]]を持つ汎用[[プログラミング言語]]の一つである。構文は[[Algol]]系である。
史上初の<!-- 女性 -->[[プログラマ]]とされる[[エイダ・ラブレス]]の名前にちなんで'''Ada'''と命名されている。'''ADA'''と表記するのは誤り。
フリーの[[コンパイラ]]としては、[[GNAT]]などがある。
== 特徴 ==
[[ファイル:Ada types.png|thumb|right|Adaのデータ型の階層構造]]
1979年、[[米国国防総省]]が信頼性、保守性に優れた、主として[[組み込みシステム]]向けの言語を作りたいという意図のもと、国際競争入札を行い4社に発注、各設計仕様書の表紙が赤、青、黄、緑だったことから、そのままそれぞれの言語名称としてRED、BLUE、YELLOW、GREENと呼ばれた。この入札で優勝したのはフランス人チームで、公平を期すため選定時にはGREENと名付けられた。そのような理由から、イメージカラーは緑である。特徴的な要件としては、大規模開発や長期保守性の観点から、
* コーディング効率よりも可読性を重視すること
* [[プリプロセッサ]]マクロを持たないこと
などがあった。
プログラム言語としての機能としては、
* 強い型検査(コンパイル時および実行時)。属性によって型に関する情報が取得できる。
* 複雑な型を持つ定数。
* 手続き・関数・演算子の多重定義。
* プラグマを使った処理系依存の機能の指定。
* パッケージ(後に[[C++]]が[[名前空間|namespace]]として追従)
* [[ジェネリックプログラミング|汎用プログラミング]](後にC++が[[テンプレート (プログラミング)|テンプレート]]として追従)
* [[並行計算|並行プログラミング]](タスク、entry/accept/select文など)
* [[例外処理|例外]]
など、当時としては先進的な機能<ref group="注釈">先進的ということは、言い換えれば「こなれていない」ということであり、兵器のようなシステムでは冒険的過ぎると言えなくもない。</ref>を意欲的に取り入れたため、[[米国国防総省]]は大きなものとなってしまった言語仕様をまとめるのに、初版のStrawman(わら男、[[かかし|案山子]]の意味もある)からWoodenman(木男)、Tinman(ブリキ男、前述の案山子とともに『[[オズの魔法使い]]』に出てくる)、Ironman(鉄男)、最終版のSteelman(鋼鉄男)に至るまで5つのバージョンに分けて策定を行った。
言語仕様の大きさや厳密さのため、当時のコンピュータが持っていた資源では、処理系の実装に[[ミニコンピュータ|ミニコン]]や[[ワークステーション]]程度を必要とし、16ビット[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]には市場性といった事情もあり実装はほとんどない。実際にはAdaは、大企業において、主として信頼性や保守性を要求されるシステムの開発でのみ普及した。というよりも、実際にどの程度徹底されたかは不明だが、策定の主体であった米国国防総省が発注するようなもの、即ち[[兵器]]の開発において条件とされたと言われる。
この時期としては先進的であった、その他の特徴としては、
; コンパイラの認定制度
: 仕様準拠か否かの検証プログラムキットが規定され、合格しない処理系は「Adaコンパイラ」と称することができない。
; 自動ビルド
: 複数モジュールの依存性から、再コンパイルの要否を自動判定する(いわゆる[[Makefile]]の記述が不要)
などがあげられる。
策定作業中に仕様が大きくなっていった際には、仕様が高度に巨大化した言語が、兵器のように高度な信頼性を要求される分野に、国防総省の「お墨付き」として使用されることを危ぶむ向きもあった。たとえば[[アントニー・ホーア]]は1980年度の[[チューリング賞]]受賞者だが<ref>[http://amturing.acm.org/award_winners/hoare_4622167.cfm C. Antony R. Hoare - A.M. Turing Award Laureate]</ref>、その受賞記念講演 (Turing Award Lecture) ''"The Emperor's Old Clothes"'' において、自身のALGOL 68([[:en:ALGOL 68]]、やはり仕様の巨大化で知られる)に関する経験などに触れたうえで、Adaへの憂慮で締めくくっている<ref group="注釈">この講演は、2通りのソフトウェアの設計構築法について述べた ''"One way is to make it so simple that there are obviously no deficiencies and the other way is to make it so complicated that there are no obvious deficiencies."''; 「ひとつめの方法は'''あきらかに'''欠陥が無いようにso simpleにするというもので、もうひとつの方法は'''あきらかな'''欠陥が無いようにso complicatedにするというものである」という文章でも知られる。</ref>。
== 標準 ==
言語仕様は、最初に1983年に[[MIL規格]]として規格化され、[[エイダ・ラブレス]]の生年である1815年に因んで、'''MIL-STD-1815'''と採番された。この規格は[[ANSI]]標準、1987年に[[国際標準化機構|ISO]]標準 ISO/IEC 8652:1987 として標準化された。
1990年より、主としてタスキング仕様の改善および[[オブジェクト指向]]の導入を目的として、ISO標準 (ISO/IEC 8652:1987) の改訂作業が開始された。1995年2月15日にISO標準として改訂が承認され、[[オブジェクト指向言語]]のうち、史上初の国際標準となった。1995年の規格は、オブジェクト指向の他、下記のような仕様も標準化されている。
* 他言語 ([[C言語|C]]/[[FORTRAN]]/[[COBOL]]) との相互運用インターフェイス
*: この時点でC++との相互運用インターフェイスが標準化できなかったのは、C++の標準化がまだだったからである(C++の標準は、紛糾を経て約3年半後の1998年9月1日に承認された)
* [[分散処理]] (RPC)
2000年にTechnical Amendmentが発行された(ISO/IEC 8652:1995/COR1:2000)。同改訂版は、JISでは2002年版 (JIS X 3009:2002) に対応する。JIS X 3009は本文の翻訳はしていない「要約JIS」であった。2012年1月20日を以って「国際規格周知を目的として要約JISを発行したが,周知としての目的は終了したため。」として廃止されている。
Ada の ISO 規格は、その後、2005年と2012年にも改訂されている。
== コード例 ==
Adaのソースコードは各パッケージの宣言部を .ads ファイル (specification file) に、実装部を .adb ファイル (body file) に記述する。
リファレンスマニュアルなどでは慣例的に3スペース(空白3個)の[[インデント]]が使われている。大文字と小文字を区別しないが、識別子は慣例的に単語の先頭を大文字にして、さらに単語間を[[アンダースコア]]でつなぐ([[キャメルケース]]とスネークケースの併用)。
=== Hello World ===
<syntaxhighlight lang="ada">
-- Ada.Text_IO パッケージを取り込む。
with Ada.Text_IO;
-- use 節で指定することでパッケージ名の修飾を省略することも可能。
--use Ada.Text_IO;
procedure Program is
begin
Ada.Text_IO.Put_Line("Hello, world!");
--Put_Line("Hello, world!");
end Program;
</syntaxhighlight>
=== ループと条件分岐 ===
<syntaxhighlight lang="ada">
with Ada.Text_IO, Ada.Integer_Text_IO, Ada.Float_Text_IO;
use Ada.Text_IO;
procedure Program is
I : Integer := 0;
F : Float;
begin
for I in 0 .. 10 loop
-- 左寄せで出力。
Ada.Integer_Text_IO.Put(I, 0);
if I mod 2 = 0 then
Put_Line(": even number.");
else
Put_Line(": odd number.");
end if;
F := Float(I) * 0.1;
Ada.Float_Text_IO.Put(F, 0, 1, 0);
Put_Line("");
end loop;
end Program;
</syntaxhighlight>
== 利用例 ==
{{いつ範囲|date=2019-09|最近}}の利用例としては[[F-22 (戦闘機)|F-22戦闘機]]や[[97式魚雷]]などがある。ただしこの分野でもAdaの陳腐化が進んでおり、[[F-35 (戦闘機)|F-35戦闘機]]以降はC++へ移行している。
民生品ではあまり利用されていないが、信頼性を重視する航空機の制御ソフトウェアに利用されることがある。例としては[[ボーイング777]]など。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.adaic.com Ada Information Clearing House]
* [http://www.ada-auth.org/arm.html Ada規格]
* [http://archive.adaic.com/docs/reports/steelman/intro.htm Steelman仕様]
* [https://www.adacore.com/about-ada About Ada - Adacore]
== 関連項目 ==
* [[予約語 (Ada)]]
* [[ジェネリックプログラミング]]
{{プログラミング言語一覧}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:Ada}}
[[Category:プログラミング言語]]
[[Category:並行計算]]
[[Category:ISO/IEC標準]]
[[Category:JIS]]
[[Category:エイダ・ラブレス]]
[[Category:エポニム]] | null | 2023-06-02T20:08:26Z | false | false | false | [
"Template:プログラミング言語一覧",
"Template:Normdaten",
"Template:出典の明記",
"Template:Otheruses",
"Template:Infobox プログラミング言語",
"Template:いつ範囲",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/Ada |
1,501 | コピーレフト | コピーレフト(英: copyleft)は、著作権(英: copyright)に対する考え方で、著作権を保持したまま、二次的著作物も含めて、すべての者が著作物を利用・再配布・改変できなければならないという考え方である。リチャード・ストールマンがフリーソフトウェア運動の一環として熱心に広めた考えである。コンピュータプログラムの特にバイナリに変換されることを前提としたソースコードについてのものであったが、その後、CC BY-SAなどを用いてソースコード以外の著作物にも適用しようという動きがある。
コピーレフトの考えでは、著作権者はそのコピー(複製物)の受取人に対して撤回の出来ないライセンスを認め、販売を含む再配布を許可し、翻案(改変)されることも可能とする必要がある。逆に、コピーレフトを利用する側では、このライセンスのものをコピーや変更、再配布する時にはこのライセンスをそのまま適用し、それを明確に示さなければならない。
コピーレフトの定義をまとめると次のようになる。
コピーレフトという概念について、フリーソフトウェア財団および同代表のリチャード・ストールマンはフリーソフトウェア運動の一環として普及を推進している。
コピーレフト以外にもフリーソフトウェアのライセンスは数多く存在し、BSDライセンスやMIT licenseなどの、オープンソースソフトウェアで適用されているものがある。これらは二次的著作物へのライセンス適用や、使用可能なソースコードのコピーを義務づけていないため、コピーレフトではない。よく議論されることに、これらのライセンスとコピーレフトのどちらがより自由なライセンスであるのか?というものがある。これは視点の問題で、他のライセンスでは制作者など、現在のライセンス保持者の自由を最大限にしたもので、コピーレフトでは今後のライセンス保持者の自由を最大限にしたものだと考えることができる。
リチャード・ストールマンが copyleft という語を気に入ったのは、1984年にドン・ホプキンスがリチャード・ストールマンに宛てて送った「Copyleft — all rights reversed」(コピーレフト―全てのright(ここでは右の意)は逆さにされている)というフレーズに由来する。
これは著作権表示によく使われる「Copyright — all rights reserved」(著作権―全ての権利は留保されている)という句のもじりである。このある種のミームは、1980年頃のコンピュータ文化(1960年代生まれのミニコンピュータ文化と70年代生まれのマイクロコンピュータ文化が渾然としていた)の裡に育まれていたもので、1976年に発表されたLi-Chen WangによるTiny BASICインタプリタのソースコードに見られるのが、今日知られている確認例である。
rightに「正しい」という意味があることに掛けてそれを逆にした「all wrongs reversed」(全ての間違いは逆さにされている)というバージョンもある。
インセンティヴ論に基づく著作権制度という議論はあるものの、著作物を不特定多数の者が利用できるようにすることは、著作物をより発展させるための有用な手段となる場合がある。これは典型的な商業ソフトウェアが制作・流布される際に、複製や内的構造の研究(リバースエンジニアリング)や改変が禁じられているために、既存のソフトウェアを改良して新しいより優れたソフトウェアを開発する可能性が閉ざされている、という点を考えると分かりやすい。あるいは、インターネットを支える基礎的な技術はソフトウェアを共有し改良し合うことで発展してきたということを考えても良い。
一般に、芸術作品や評論、解説文、コンピュータプログラムなどを含む著作物は、その作者が著作権を持っている。そのため、作者の許可を得なければ改変したり、(個人的なバックアップを除いて)複製したり、配布・販売することはできない。しかし、このような制度の枠組みは、作品を共有して多人数で共同的な創造活動を行う際にはかえって妨げとなる場合がある。
そのためにまず最初に行われたのは、明示的に著作権を放棄したり(パブリックドメイン)、放棄はしないが「誰でも自由に使って良い」と宣言したり、という形で共有する方法であった。
ところが、本当に誰でも自由に使えることにしてしまうと、共有・発展という作者の意図に反するような利用が行われることもある。パブリックドメインの状態にある著作物を改変した場合、二次的著作物はパブリックドメインになるわけではなく、改変者に著作権が帰属することになるためである。
このような問題をストールマンが経験した際に、コピーレフトという発想が生まれた。シンボリックス社から、ストールマンが作成したLISPインタプリタを使いたいと打診された際、ストールマンは彼の作品のパブリックドメイン版を提供した。シンボリックス社はそのプログラムを拡張して更に強力なものにした。そして、彼のもともとのプログラムに対して拡張した部分を見せてくれるよう求めた時に、シンボリックス社はそれを拒否した。これは法的にはどうすることもできなかった。
このような経緯のため、以降のソフトウェアの公開に際してストールマンは、著作権を主張し利用する際の決まりをライセンスに書くようになり、これがコピーレフトへと繋がっていった。
つまり、利用権を共有するための仕組みとして、著作権を放棄するのではなく、ライセンス(利用許諾)の形で共有と共同的な創造活動を保護する方法を採る。すなわち、「著作権は私が有していて複製・改変・配布(販売)には私の許可がいるのだが、ソフトウェアを共有して発展させるという意図に反しないならば、いつでも誰に対しても利用を許可する」という形態を採る。
その様な仕組みには、
後者の「独占的な状態への移行を許さない」強い共有の仕組みは、特にフリーソフトウェア財団 (FSF) によって(コピーライトに対する)コピーレフトと呼ばれている。 しかしながら、ライセンスに反する形で利用され、著作権が侵害される事例も後を絶たない。
コピーレフトライセンスを構成するときに基本となる法的考え方は、独占的なライセンスを構成する場合と同じく、著作物の再配布に制限を設けるコピーライトである。この制限を厳しくして二次著作物の作成まで阻害しているのが独占的なライセンスであり、二次著作物のライセンスの変質を許し、自己のライセンスの適用例が縮小再生産されるほど緩いのがパブリックドメインである。
コピーレフトに於いては、二次以降の著作物にも一次著作物と同一のライセンスが適用される という性質(「ウイルス性」「ライセンス感染」などと呼ばれる)が確保される様に、再配布制限をコピーライトによって設ける。この「ウイルス性」「ライセンス感染」の性質により、自己複製能力を獲得した生物が増殖するのと同様に、自己のライセンスを拡大再生産して広げる力をコピーレフトは得る。
その法的強制力の根拠は独占的なライセンスと同じくコピーライトであり、コピーライト無しにはコピーレフトは効力を持ち得ない。独占的なライセンス以外の使用法を示し、コピーライトの新たな可能性を発見したこの方法は「コピーライト・ハック」とも呼ばれる。
しかし以上はある意味で、「法(ルール)に、その精神にではなく、文字通りに従う」という行為であり、もし将来、仮に「コピーレフトこそが正しい」ということになって現行著作権制度が部分的に解体されたとするならば、それと同時に瓦解する。従って、ジャーゴンファイルの「hack」の項の第1義にある「a quick job that produces what is needed, but not well.」その通りの意味の「ハック」とも言える。
コピーレフトの考えが導入されているライセンスには以下のようなものがある。
コピーレフトではないライセンスの例としては以下のものがある。
また、コピーレフトの概念をプログラム以外のものに適用しているライセンスには以下のようなものがある。 | [
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"text": "コピーレフトの定義をまとめると次のようになる。",
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"text": "コピーレフト以外にもフリーソフトウェアのライセンスは数多く存在し、BSDライセンスやMIT licenseなどの、オープンソースソフトウェアで適用されているものがある。これらは二次的著作物へのライセンス適用や、使用可能なソースコードのコピーを義務づけていないため、コピーレフトではない。よく議論されることに、これらのライセンスとコピーレフトのどちらがより自由なライセンスであるのか?というものがある。これは視点の問題で、他のライセンスでは制作者など、現在のライセンス保持者の自由を最大限にしたもので、コピーレフトでは今後のライセンス保持者の自由を最大限にしたものだと考えることができる。",
"title": "概念"
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"text": "これは著作権表示によく使われる「Copyright — all rights reserved」(著作権―全ての権利は留保されている)という句のもじりである。このある種のミームは、1980年頃のコンピュータ文化(1960年代生まれのミニコンピュータ文化と70年代生まれのマイクロコンピュータ文化が渾然としていた)の裡に育まれていたもので、1976年に発表されたLi-Chen WangによるTiny BASICインタプリタのソースコードに見られるのが、今日知られている確認例である。",
"title": "歴史的背景"
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"text": "rightに「正しい」という意味があることに掛けてそれを逆にした「all wrongs reversed」(全ての間違いは逆さにされている)というバージョンもある。",
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"text": "インセンティヴ論に基づく著作権制度という議論はあるものの、著作物を不特定多数の者が利用できるようにすることは、著作物をより発展させるための有用な手段となる場合がある。これは典型的な商業ソフトウェアが制作・流布される際に、複製や内的構造の研究(リバースエンジニアリング)や改変が禁じられているために、既存のソフトウェアを改良して新しいより優れたソフトウェアを開発する可能性が閉ざされている、という点を考えると分かりやすい。あるいは、インターネットを支える基礎的な技術はソフトウェアを共有し改良し合うことで発展してきたということを考えても良い。",
"title": "思想的背景"
},
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"text": "一般に、芸術作品や評論、解説文、コンピュータプログラムなどを含む著作物は、その作者が著作権を持っている。そのため、作者の許可を得なければ改変したり、(個人的なバックアップを除いて)複製したり、配布・販売することはできない。しかし、このような制度の枠組みは、作品を共有して多人数で共同的な創造活動を行う際にはかえって妨げとなる場合がある。",
"title": "思想的背景"
},
{
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"text": "そのためにまず最初に行われたのは、明示的に著作権を放棄したり(パブリックドメイン)、放棄はしないが「誰でも自由に使って良い」と宣言したり、という形で共有する方法であった。",
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"text": "ところが、本当に誰でも自由に使えることにしてしまうと、共有・発展という作者の意図に反するような利用が行われることもある。パブリックドメインの状態にある著作物を改変した場合、二次的著作物はパブリックドメインになるわけではなく、改変者に著作権が帰属することになるためである。",
"title": "思想的背景"
},
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"title": "思想的背景"
},
{
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"text": "このような経緯のため、以降のソフトウェアの公開に際してストールマンは、著作権を主張し利用する際の決まりをライセンスに書くようになり、これがコピーレフトへと繋がっていった。",
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"text": "後者の「独占的な状態への移行を許さない」強い共有の仕組みは、特にフリーソフトウェア財団 (FSF) によって(コピーライトに対する)コピーレフトと呼ばれている。 しかしながら、ライセンスに反する形で利用され、著作権が侵害される事例も後を絶たない。",
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"title": "法的・技術的背景"
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"text": "コピーレフトに於いては、二次以降の著作物にも一次著作物と同一のライセンスが適用される という性質(「ウイルス性」「ライセンス感染」などと呼ばれる)が確保される様に、再配布制限をコピーライトによって設ける。この「ウイルス性」「ライセンス感染」の性質により、自己複製能力を獲得した生物が増殖するのと同様に、自己のライセンスを拡大再生産して広げる力をコピーレフトは得る。",
"title": "法的・技術的背景"
},
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"text": "その法的強制力の根拠は独占的なライセンスと同じくコピーライトであり、コピーライト無しにはコピーレフトは効力を持ち得ない。独占的なライセンス以外の使用法を示し、コピーライトの新たな可能性を発見したこの方法は「コピーライト・ハック」とも呼ばれる。",
"title": "法的・技術的背景"
},
{
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"text": "しかし以上はある意味で、「法(ルール)に、その精神にではなく、文字通りに従う」という行為であり、もし将来、仮に「コピーレフトこそが正しい」ということになって現行著作権制度が部分的に解体されたとするならば、それと同時に瓦解する。従って、ジャーゴンファイルの「hack」の項の第1義にある「a quick job that produces what is needed, but not well.」その通りの意味の「ハック」とも言える。",
"title": "法的・技術的背景"
},
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"text": "コピーレフトの考えが導入されているライセンスには以下のようなものがある。",
"title": "ライセンス種別"
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"text": "コピーレフトではないライセンスの例としては以下のものがある。",
"title": "ライセンス種別"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、コピーレフトの概念をプログラム以外のものに適用しているライセンスには以下のようなものがある。",
"title": "ライセンス種別"
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]
| コピーレフトは、著作権に対する考え方で、著作権を保持したまま、二次的著作物も含めて、すべての者が著作物を利用・再配布・改変できなければならないという考え方である。リチャード・ストールマンがフリーソフトウェア運動の一環として熱心に広めた考えである。コンピュータプログラムの特にバイナリに変換されることを前提としたソースコードについてのものであったが、その後、CC BY-SAなどを用いてソースコード以外の著作物にも適用しようという動きがある。 | {{出典の明記|date=2015年8月18日 (火) 06:39 (UTC)}}
{{特殊文字|説明=文字としてのコピーレフトマーク}}
[[ファイル:Copyleft.svg|thumb|right|150px|コピーレフトのシンボル(🄯)としてしばしば使われるアイコン。Cの文字が左右逆になっている。]]
'''コピーレフト'''({{lang-en-short|copyleft}})は、[[著作権]]({{lang-en-short|copyright}})に対する考え方で、著作権を保持したまま、[[二次的著作物]]も含めて、すべての者が[[著作物]]を利用・再配布・改変できなければならないという考え方である<ref name="gnu-copyleft">{{citeweb|author=Free Software Foundation|url=https://www.gnu.org/copyleft/copyleft.html|title=What is Copyleft?|date=2018-01-01|accessdate=2018-02-09}}</ref>。[[リチャード・ストールマン]]が[[フリーソフトウェア運動]]の一環として熱心に広めた考えである<ref name="ucsb-copyleft" />。[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]の特に[[バイナリ]]に変換されることを前提とした[[ソースコード]]についてのものであったが、その後、[[継承 (クリエイティブ・コモンズ)|CC BY-SA]]などを用いて[[ソースコード]]以外の著作物にも適用しようという動きがある<ref>{{Cite web|url = https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/|title = Attribution-ShareAlike 4.0 International (CC BY-SA 4.0)|date = |accessdate = August 14, 2015|website = Creative Commons|publisher = Creative Commons}}</ref>。
== 概念 ==
コピーレフトの考えでは、[[著作権者]]はそのコピー([[複製]]物)の受取人に対して撤回の出来ない[[ライセンス]]を認め、[[販売]]を含む再配布を許可し、[[翻案]](改変)されることも可能とする必要がある<ref name="gnu-copyleft" />。逆に、コピーレフトを利用する側では、このライセンスのものをコピーや変更、再配布する時にはこのライセンスをそのまま適用し、それを明確に示さなければならない。
コピーレフトの定義をまとめると次のようになる。
* [[著作物]]の利用、[[コピー]]、[[再配布]]、[[翻案]]を制限しない
*[[ 改変]]したもの([[二次的著作物]])の再配布を制限しない
* 二次的著作物の利用、コピー、再配布、翻案を制限してはならない
* コピー、再配布の際には、その後の利用と翻案に制限が無いよう、全ての情報を含める必要がある([[ソフトウェア]]では[[ソースコード]]含む)
* 翻案が制限されない反面、原著作物の二次的著作物にも同一のコピーレフトのライセンスを適用し、これを明記しなければならない
コピーレフトという概念について、[[フリーソフトウェア財団]]および同代表の[[リチャード・ストールマン]]は[[フリーソフトウェア運動]]の一環として普及を推進している<ref name="ucsb-copyleft">{{citeweb|url=http://innovate.ucsb.edu/799-richard-stallman-free-software-and-copyleft| title=Richard Stallman, Free Software, and Copyleft| publisher=University of California, Santa Barbara|accessdate=2018-03-01}}</ref>。
コピーレフト以外にも[[フリーソフトウェア]]のライセンスは数多く存在し、[[BSDライセンス]]や[[MIT license]]などの、[[オープンソースソフトウェア]]で適用されているものがある。これらは二次的著作物へのライセンス適用や、使用可能なソースコードのコピーを義務づけていないため、コピーレフトではない<ref name="gnu-licenses-list">{{citeweb|author=GNU Porject|authorlink=GNUプロジェクト|date=2018-02-10|url=https://www.gnu.org/licenses/license-list.html|title=Various Licenses and Comments about Them|accessdate=2018-02-09}}</ref>。よく議論されることに、これらのライセンスとコピーレフトのどちらがより自由なライセンスであるのか?というものがある{{要出典|date=2018年2月}}。これは視点の問題で、他のライセンスでは制作者など、現在のライセンス保持者の自由を最大限にしたもので、コピーレフトでは今後のライセンス保持者の自由を最大限にしたものだと考えることができる{{要出典|date=2018年2月}}。
== 歴史的背景 ==
[[リチャード・ストールマン]]が {{lang|en|copyleft}} という語を気に入ったのは、1984年に[[ドン・ホプキンス]]が[[リチャード・ストールマン]]に宛てて送った「{{lang|en|Copyleft — [[all rights reversed|all rights '''reversed''']]}}」(コピーレフト―全てのright(ここでは右の意)は逆さにされている)というフレーズに由来する<ref name="autogenerated1">{{cite web|url=https://www.gnu.org/gnu/thegnuproject.html |title=About the GNU Project |publisher=[[Free Software Foundation]] |first=Richard |last=Stallman |authorlink=リチャード・ストールマン |date=21 January 2008 |accessdate=23 August 2008}}</ref>。
これは著作権表示によく使われる「{{lang|en|Copyright — [[all rights reserved|all rights '''reserved''']]}}」(著作権―全ての権利は留保されている)という句のもじりである。このある種のミームは、1980年頃のコンピュータ文化(1960年代生まれのミニコンピュータ文化と70年代生まれのマイクロコンピュータ文化が渾然としていた)の裡に育まれていたもので、1976年に発表されたLi-Chen Wangによる[[Tiny BASIC]]インタプリタのソースコードに見られるのが、今日知られている確認例である<ref>{{Cite journal|last=Wang |first=Li-Chen |title=Palo Alto Tiny BASIC |journal=[[Dr. Dobb's Journal|Dr. Dobb's Journal of Computer Calisthenics & Orthodontia, Running Light Without Overbyte]] |volume=1 |issue=5 |pages=12–25 |date=May 1976}} (NB. Source code begins with the following six lines. "TINY BASIC FOR INTEL 8080; VERSION 1.0; BY LI-CHEN WANG; 10 JUNE, 1976; @COPYLEFT; ALL WRONGS RESERVED". The June date in the May issue is correct. The magazine was behind schedule, the June and July issues were combined to catch up.)</ref><ref>{{Cite journal|last=Rauskolb |first=Roger |title=Dr. Wang's Palo Alto Tiny BASIC |journal=Interface Age |volume=2 |issue=1 |pages=92–108 |date=December 1976}} (NB. The source code begins with the following nine lines: "<tt>TINY BASIC FOR INTEL 8080; VERSION 2.0; BY LI-CHEN WANG; MODIFIED AND TRANSLATED TO INTEL MNEMONICS; BY ROGER RAUSKOLB; 10 OCTOBER, 1976 ; @COPYLEFT; ALL WRONGS RESERVED</tt>")</ref>。
rightに「正しい」という意味があることに掛けてそれを逆にした「{{lang|en|all wrongs reversed}}」(全ての間違いは逆さにされている)というバージョンもある{{要出典|date=2018年2月}}。
== 思想的背景 ==
=== 著作物の利用権の共有 ===
[[インセンティヴ論]]に基づく著作権制度という議論はあるものの、[[著作物]]を不特定多数の者が利用できるようにすることは、著作物をより発展させるための有用な手段となる場合がある。これは典型的な商業ソフトウェアが[[制作]]・流布される際に、複製や内的構造の研究([[リバースエンジニアリング]])や改変が禁じられているために、既存のソフトウェアを改良して新しいより優れたソフトウェアを開発する可能性が閉ざされている、という点を考えると分かりやすい。あるいは、[[インターネット]]を支える基礎的な技術はソフトウェアを共有し改良し合うことで発展してきたということを考えても良い。
一般に、芸術作品や評論、解説文、コンピュータプログラムなどを含む著作物は、その作者が[[著作権]]を持っている。そのため、作者の許可を得なければ改変したり、(個人的なバックアップを除いて)複製したり、配布・販売することはできない。しかし、このような制度の枠組みは、作品を共有して多人数で共同的な創造活動を行う際にはかえって妨げとなる場合がある。
そのためにまず最初に行われたのは、明示的に著作権を放棄したり([[パブリックドメイン]])、放棄はしないが「誰でも自由に使って良い」と宣言したり、という形で共有する方法であった。
ところが、本当に誰でも自由に使えることにしてしまうと、共有・発展という作者の意図に反するような利用が行われることもある。パブリックドメインの状態にある著作物を改変した場合、[[二次的著作物]]は[[パブリックドメイン]]になるわけではなく、改変者に著作権が帰属することになるためである。
このような問題をストールマンが経験した際に、コピーレフトという発想が生まれた。[[シンボリックス]]社から、ストールマンが作成した[[LISP]]インタプリタを使いたいと打診された際、ストールマンは彼の作品の[[パブリックドメイン]]版を提供した。シンボリックス社はそのプログラムを拡張して更に強力なものにした。そして、彼のもともとのプログラムに対して拡張した部分を見せてくれるよう求めた時に、シンボリックス社はそれを拒否した。これは法的にはどうすることもできなかった。
=== 共有状態の維持・拡大 ===
このような経緯のため、以降のソフトウェアの公開に際してストールマンは、著作権を主張し利用する際の決まりをライセンスに書くようになり、これがコピーレフトへと繋がっていった。
つまり、利用権を共有するための仕組みとして、著作権を放棄するのではなく、ライセンス(利用許諾)の形で共有と共同的な創造活動を保護する方法を採る。すなわち、「著作権は私が有していて複製・改変・配布(販売)には私の許可がいるのだが、ソフトウェアを共有して発展させるという意図に反しないならば、いつでも誰に対しても利用を許可する」という形態を採る。
その様な仕組みには、
* 「コピー/改変した共有物を共有的な状態から、独占的な状態へ移行させる事」を一定の条件の元に誰にでも許すパブリックドメインに近い仕組みと、
* 「独占的な状態への移行を許さない」より強い共有的な仕組みがある。
後者の「独占的な状態への移行を許さない」強い共有の仕組みは、特に[[フリーソフトウェア財団]] (FSF) によって([[著作権|コピーライト]]に対する)'''コピーレフト'''と呼ばれている。
<!--
しかし、コピーレフトはコピーライトを否定するものではない。通常コピーライトと言ったとき、これは著作物を独占的に使用するための著作権法上の権利を意味する。これに対し、コピーレフトは共有を前提にした著作と権利者の保護を行なうために著作権法を利用している。
-->
しかしながら、ライセンスに反する形で利用され、著作権が侵害される事例も後を絶たない。
{{see also|GNU General Public License#法廷におけるGPL}}
== 法的・技術的背景 ==
[[File:Software-license-classification-mark-webbink.svg|thumb|upright=2.0|ライセンスの[[コピーライト]]の制約強度、左:[[パブリックドメイン]]は緩く、右:[[企業秘密]]は厳しい]]
{{see also|ライセンス#コンピュータ関連|ソフトウェアライセンス|GNU General Public License#コピーレフト|ライセンス感染}}
コピーレフト[[ライセンス]]を構成するときに基本となる法的考え方は、独占的なライセンスを構成する場合と同じく、[[著作物]]の再配布に制限を設ける[[コピーライト]]である。この制限を厳しくして[[二次著作物]]の作成まで阻害しているのが独占的なライセンスであり、二次著作物のライセンスの変質を許し、自己のライセンスの適用例が[[縮小再生産]]されるほど緩いのが[[パブリックドメイン]]である。
コピーレフトに於いては、二次以降の著作物にも一次著作物と同一のライセンスが適用される
という性質(「[[ウイルス]]性」「[[ライセンス感染]]」などと呼ばれる)が確保される様に、再配布制限をコピーライトによって設ける。この「ウイルス性」「ライセンス感染」の性質により、自己複製能力を獲得した生物が増殖するのと同様に、自己のライセンスを[[拡大再生産]]して広げる力をコピーレフトは得る。
その法的強制力の根拠は独占的なライセンスと同じくコピーライトであり、コピーライト無しにはコピーレフトは効力を持ち得ない。独占的なライセンス以外の使用法を示し、コピーライトの新たな可能性を発見したこの方法は「コピーライト・ハック」とも呼ばれる<ref>{{citeweb|url=http://ocl4ed.oeru.org/courseware/the-right-license/essential-freedoms/|title=The essential freedoms|publisher=OCL4Ed|accessdate=2018-03-01}}</ref>。
しかし以上はある意味で、「法(ルール)に、その精神にではなく、文字通りに従う」という行為であり、もし将来、仮に「コピーレフトこそが正しい」ということになって現行著作権制度が部分的に解体されたとするならば、それと同時に瓦解する。従って、ジャーゴンファイルの「{{lang|en|hack}}」の項<ref>http://catb.org/jargon/html/H/hack.html</ref>の第1義にある「{{lang|en|a quick job that produces what is needed, but not well.}}」その通りの意味の「ハック」とも言える。
== ライセンス種別 ==
コピーレフトの考えが導入されているライセンスには以下のようなものがある。
*{{lang|en|[[GNU General Public License]]}} - [[GNUプロジェクト]]の強いコピーレフト性を持つライセンス
*{{lang|en|[[GNU Lesser General Public License]]}} - GNUプロジェクトの弱いコピーレフト性を持つライセンス
*{{lang|en|[[Mozilla Public License]]}} - Mozillaプロジェクトのライセンス
コピーレフトではないライセンスの例としては以下のものがある。
*{{lang|en|[[Q Public License]]}} - 以前の[[Qt]]に適用されたライセンス<ref group="注釈">現行の[[Qt]]はGPLv3と商用ライセンスなどとの[[デュアルライセンス|マルチライセンス形式]]を採用している。</ref>
*{{lang|en|[[MIT License]]}}
*[[BSDライセンス]]
また、コピーレフトの概念を[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]以外のものに適用しているライセンスには以下のようなものがある。
*{{lang|en|[[Open Content License]]}}
*{{lang|en|[[GNU Free Documentation License]]}}
*[[継承 (クリエイティブ・コモンズ)|CC Attribution-ShareAlike]]
<!--
== その他 ==
GNU GPL以前に、ストールマンが作った[[Emacs]]専用のライセンス ({{lang|en|Emacs General Public Licence}}) があり、これを元にその他一般的なプログラムに広く共通して使える形に改変したものが、GNU GPLである。
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== 文字コード ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ライセンス感染]]
* [[継承 (クリエイティブ・コモンズ)]]
== 外部リンク ==
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* [http://www.gnu.org/philosophy/pragmatic.html Copyleft: Pragmatic Idealism]
* [http://ossforum.jp/node/798 II-2-1. ライセンスの伝搬性 - 日本OSS推進フォーラム]
* {{PDFlink|[http://lc.linux.or.jp/lc2002/papers/hatta0918p.pdf 「コピーレフト」とは何か]}} - [[2002年]]の[[Japan Linux Conference]]で[[八田真行]]により語られたコピーレフトの概説。本記事の通り、コピーレフトが[[著作権|コピーライト]]の逆の概念でもなく、むしろ両立するものであることを記述している。
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1,502 | スキー | スキー(英: skiing)は、2枚もしくは1枚の専用の板を両足に履き、雪上をより素早く降りるための移動手段として用いられている。語源はノルウェー語で「薄い板」を指す「スキー」から。漢名は滑雪。
ヨーロッパのアルプス地方で普及したアルペンスキーを楽しむ人が多いが、クロスカントリースキーやテレマークスキーのような、アルペンスキーより先にノルウェーのスカンディナヴィア半島で発展したノルディックスキーも同じく人気がある。
日本では積雪期にも宿屋が営業する温泉地に愛好者が集まり、やがてスキー場として発展した(山形県の五色温泉や長野県の野沢温泉がその奔り)。
1本の専用の板に正面を向いた状態で両足を揃えて固定するものに関しては「モノスキー」を参照。
スキーの発祥は、紀元前2500年頃から積雪期に交通手段、あるいは狩人が獲物を追って雪の山野を移動する手段であると推定されており、古代のスキーと思われるものが北欧をはじめとしてシベリア・中国・朝鮮半島・樺太など広範囲で発見されている。
中国では、紀元前8000年頃の壁画にスキーをしていると考えられる姿が描かれていた、ロシアでは紀元前6000年頃のスキーの遺跡が発掘されている。ノルウェーのスカンディナヴィア半島で、紀元前2500年ごろの壁画に狩りをする人達のスキーを履いた姿が描かれてい、その他にもスカンディナビア半島の丘陵地に住む人々の間にスキーの神としてウルとスカディが伝承されている。その他にも、樺太や沿海州のアイヌ民族が用いた「ストー」や、朝鮮半島の山岳地帯で用いられた「ソルメ」など、雪上を歩き、滑走する機能を持つスキーの原型と考えられている。日本での古いスキーの記述は、1794年に菅江真澄が描いた「立ちソリ」や1808年に間宮林蔵が樺太から沿海州方面を探検したのちに表した『北蝦夷図説』の中にある、スキーを履いている樺太アイヌの図がある。
19世紀中頃からノルウェー南部のテレマルク 地方を中心にスポーツや、登山者の山麓での移動手段や、西洋のアルプス地方の弓術と組み合わせた戦の技術として進化を遂げた。スキー自体を楽しむ人々が増えるにつれてスキーの練習に適した斜面のある山麓に練習場(ゲレンデ)ができ、本来の目的から独立したスポーツの場としてスキー場と呼ばれるようになった。
1825年、テレマルク地方に生まれたソンドレ・ノルハイム(ノルウェー語版、ノルウェー語 (ニーノシュク)版、英語版)によって「歩く、飛ぶ、滑る」といった現代まで残るスキー技術がスポーツとして確立され、1860年代には、スキー板とスキー靴を固定するビンディングが考案される。これが近代ノルディックスキーの始まりである。
1870年代になるとスキーが戦争用のものから移動の早さや飛距離を競う近代スポーツとして登場するようになり、1879年にはノルウェーのクリスチャニアオスロにて初の大規模なスキー大会が開催された。この大会にクリスチャニアのテレマルク地方から参加・活躍した少年達の技法が注目され、「テレマーク技術」として広がる。その後1883年にはスキー連盟が設立された。
1880年に、フリチョフ・ナンセンがスキーでのグリーンランド横断に成功した事でスキーが世界の関心を集め、ナンセンの『グリーンランド横断記』に強い刺激を受けたオーストリアのマチアス・ツダルスキーが、踵を固定して滑降時の安定を図る「リリエンフェルト式バインディング」を考案し、併せて1896年には急峻なアルプスの山岳滑降に適応する一本杖の「リリエンフェルター・シーラウフ・テヒニック(リリエンフェルト・スキー滑降術)」も発表した。この事でシュテムなどの技術が体系化され、アルペンスキーの根源になった。
一方で、マチアス・ツダルスキーの技術はテレマークやクリスチャニアの技術を主張するノルウェー派との間で論争を引き起こす事となるが、20世紀に入ってオーストリアの将校・ゲオルク・ビルゲリーがノルウェー派とマチアス・ツダルスキーの両方の技術長所を取り入れた二本杖のシュテムを中心とした技術を発表し、一応の決着を見た。
1907年、ハンネス・シュナイダーによって、オーストリアのサンクト・アントンなどにスキー学校が設立される。シュナイダーによって、アルプスの急峻な山々の滑降に対応し シュテムなどの技術が体系化された。これは「アールベルグ・バイブル(アールベルグスキー術)」と呼ばれ、後のアルペンスキー技術に多大な影響を与えた。この技術と書籍は日本にも輸入され、さらにシュナイダー自身も1930年に来日し、滞在中に映画の上映・講演・雪上での実技指導を行っている。
1921年にローザンヌのオリンピック会議で冬季オリンピックの開催が検討され、1924年にフランスのシャモニーにて第1回冬季オリンピック(シャモニーオリンピック)が開催された。この大会ではクロスカントリースキー、ノルディック複合、スキージャンプがスキー競技として採用されている。冬季オリンピック開催の同年には国際スキー連盟 (FIS) も誕生した。アルペン競技は第4回のガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピック(1936年)から採用されている。
1930年頃、オーストリア・チロル地方の「インスブルック派」と呼ばれる人々が、アールベルグスキー術でのシュテム技術の高速滑走の不利を感じて新しい技術を模索していたが、その中でアントン・ゼーロスはシュテム技術を用いずに立ち上がり抜重とローテーションを回転原動力としたパラレル技術を考案し、「テンポ・パラレルシュブンク」を完成した。その後、エミール・アレがアントン・ゼーロスの技術を徹底的に研究して、自ら世界チャンピオンの実績を残し、その技術を「スキー・フランセ(フランス・スキー術)」として発表した。その一方で、オーストリアのトニイ・ドウチアとクルト・ラインルは身体をひねり込むローテーションを否定して外向・外傾の技術を主張し、1933年に「今日のスキー」を出版した。またミュンヘン大学のオイゲン・マティアス教授は、スキー傷害の観点からローテーションを使わない技術を模索し、サンモリッツのスキー学校長ジョバニ・テスタとの共同研究で1936年に「自然なスキー」を出版した。なお、日本においては1940年に「今日のスキー」が、1941年には「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、ほぼ時を同じくしてそれぞれの技術が日本に紹介される事となった。
1951年にはオーストリアのツールスで「第1回国際スキー教育会議(略称、インタースキー、以降も同様)」が開催され、以後2年ごとに開催される。
1955年開催の「第3回インタースキー」においては、シュテファン・クルッケンハウザー(ドイツ語版)教授によってオーストリアの伝統的なシュテム技術を改善し、新たに「バインシュピール技術」を発表、同年に「オーストリア・スキー教程」を発刊した。バインシュピール技術が世界各国から注目された事で、フランス提唱のローテーション技術との間で激しい論争が展開されるが、この事が一般スキーヤーの技術と指導法に対する関心を集めてスキー普及にも貢献した。その一方で、その後のより高速を求める競技スキーの世界で技術の共通化傾向が見られるようになり、1968年のアスペンで行われた「第8回インタースキー」において「世界のスキーはひとつ」をキャッチフレーズに、各国の技術の長所を取り入れた、現在のスキー技術に通じる技術の融合の方針へと進んでいった。その後「第9回インタースキー」(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)において、「ヴェーレンテクニック(オーストリア)」「アバルマン(フランス)」「シュロイダーテクニック(西ドイツ)」「OKテクニック(スイス)」「曲進系(日本)」といった各国開発の技術が発表されたが、名称の違いこそあれ、技術内容は類似していた。これらの技術を確固たる理論構成に導く研究をしたのがオーストリアのフランツ・ポピヒラーで、1974年に「新オーストリア・スキー教程」を出版し、下肢の運動ではなく、ナチュラルスタンス(自然体)でシンプルかつ機能的な運動というコンセプトとした考えの元に「シュヴィンゲン技術」と名付け、「プルークボーゲン」「シュテムターン」「パラレルウムシュタイゲン」「パラレルターン」「シェーレンウムシュタイゲン」に系統づけて理論化し、1991年の「第14回インタースキー」(オーストリア・サンアントン)において発表し、世界的に大きな影響を与えた。
1980年代になると交互操作とステップ系の技術に関心が集まり、1983年の「第12回インタースキー」(イタリア)において日本が人間の基本動作である「バイベタリズム」をターンの主運動とする独自の指導法を提唱した。これは「シュヴィンゲン」とともに注目を引く事となった。
1990年代からカービングスキーやショートスキーなど、ターンのしやすい板が普及し、この事でかつてのバインシュピール的なスキー技術が影をひそめる事となる。2003年にはオーストリアが「第17回インタースキー」(スイス・で開催)において「パラレルカービングターン技術」としての成果を発表した。
2010年頃からはバックカントリーの人気の高まりから、トップ側が反り上がったロッカーと呼ばれる技術を用いた板が広まってきた。
日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)において、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(英語版)少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)が陸軍第13師団に着任し、歩兵第58連隊の営庭を利用して堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、全日本スキー連盟では2003年に1月12日を「スキーの日」と制定した。
レルヒは日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田歩兵第58連隊に着任、その翌年の1912年には北海道旭川第7師団に着任した。
レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は三角山を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した遠藤吉三郎がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。
スキーは登山用具としても注目され、1923年1月には、当時の日本登山界のリーダーである槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫が冬の立山登山に利用した(板倉は帰路遭難死)。
1924年のシャモニーオリンピック開催と国際スキー連盟誕生を受け、日本では翌年の1925年に全日本スキー連盟が創設された。
1940年と1941年に相次いで、「今日のスキー」と「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、それぞれの技術が紹介されるが(上記参照)、日本のスキー関係者の間では「外傾技術」に共鳴する人が多く、1947年(昭和22年)には外傾技術を中心とした全日本スキー連盟のテキスト「一般スキー術」が出版された。しかし当時でも少なからずローテーション技術を主張する声があり、1954年(昭和29年)にピエール・ギョーとアンリ・オレイエが来日して全国各地でフランス・スキー技術の指導が行われた事でローテーション技術と外傾技術の議論が活発に行われた。
1958年(昭和33年)に「オーストリア・スキー教程」が日本でも出版され、その直後にはオーストリア職業スキー教師連盟のルディ・マットが来日し、全国各地でオーストリアスキー技術が紹介・指導された事で日本のスキー技術はオーストリア・スキーに傾倒していき、1959年(昭和34年)にはバインシュピール技術が基となる「SAJスキーテキスト」が発刊された。その後の1960年(昭和35年)にルディ・マットが再来日したほか、1963年(昭和38年)にはオーストリア国立スキー学校総責任者のシュテファン・クルッケンハウザー教授とデモンストレーターのフランツ・フルトナー他2名が来日して、全国各地で講演・映画上映・実地指導を行い、これを受けてバインシュピール技術が日本のスキー界に根付いていった。
1965年(昭和40年)には「第7回インタースキー」(オーストリア・バドガシュタイン)に、日本から初めて10名(うちデモンストレーター5名)の代表団が送り込まれた。以降、日本は毎回参加し、1979年(昭和54年)にはアジア初となる日本・蔵王で「第11回インタースキー」が、1995年(平成7年)には日本・野沢温泉で「第15回インタースキー」が開催された。
1923年(大正12年)に、第1回冬季オリンピック大会の選考会を兼ねて、北海道小樽で第1回全日本スキー選手権大会が開催された。
冬季オリンピックの参加は1928年(昭和3年)の第2回冬季オリンピック(スイス・サンモリッツ大会)が初となり、7名の選手が送り込まれた。
1956年(昭和31年)には第7回冬季オリンピック(イタリア・コルチナ・ダンペッツオ大会)に参加した回転(スラローム)選手の猪谷千春が2位に入賞し、日本初のメダリストとなった。
以降の日本のスキーに関連した冬季オリンピック(メダリスト)については以下を参照の事。
またメダルには届かなかったが、第20回冬季オリンピック(イタリア・トリノ)では皆川賢太郎が4位に入賞、湯浅直樹が7位に入賞し、アルペンスキーでは猪谷千春以来50年ぶりの入賞を果たしている。
オリンピック以外では、ノルディック複合個人総合で1993年(平成5年)から1995年(平成7年)にかけてのワールドカップ(ノルディック複合)で荻原健司が3連覇を成し遂げ、さらに1995年での世界選手権でもこの種目で優勝している。また、アルペンスキーでは海和俊宏・岡部哲也・木村公宣がワールドカップ(アルペン)で上位入賞を果たしている。
スキーで雪上を歩行したり、ジャンプ、滑降、登行するために、以下のような用具が必要である。
また、身に付けるものに
などがあると良い。
アルペンスキー技術は大きく分けて、推進技術と制動技術の2種類に分類される。推進のものには、真下方向に向かって真っ直ぐに滑る直滑降やレールターン・カービングターンなどがある。制動のものには、谷脚に体重を乗せ、板はフォールライン(最大傾斜線)に垂直または斜滑降方向に向きつつ、真下や斜め方向に向かってスキー板をずらして滑る横滑りや、プフルークボーゲン・ステムターンと、パラレルターンにおけるスキッディングターンなどがある。 | [
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"text": "1955年開催の「第3回インタースキー」においては、シュテファン・クルッケンハウザー(ドイツ語版)教授によってオーストリアの伝統的なシュテム技術を改善し、新たに「バインシュピール技術」を発表、同年に「オーストリア・スキー教程」を発刊した。バインシュピール技術が世界各国から注目された事で、フランス提唱のローテーション技術との間で激しい論争が展開されるが、この事が一般スキーヤーの技術と指導法に対する関心を集めてスキー普及にも貢献した。その一方で、その後のより高速を求める競技スキーの世界で技術の共通化傾向が見られるようになり、1968年のアスペンで行われた「第8回インタースキー」において「世界のスキーはひとつ」をキャッチフレーズに、各国の技術の長所を取り入れた、現在のスキー技術に通じる技術の融合の方針へと進んでいった。その後「第9回インタースキー」(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)において、「ヴェーレンテクニック(オーストリア)」「アバルマン(フランス)」「シュロイダーテクニック(西ドイツ)」「OKテクニック(スイス)」「曲進系(日本)」といった各国開発の技術が発表されたが、名称の違いこそあれ、技術内容は類似していた。これらの技術を確固たる理論構成に導く研究をしたのがオーストリアのフランツ・ポピヒラーで、1974年に「新オーストリア・スキー教程」を出版し、下肢の運動ではなく、ナチュラルスタンス(自然体)でシンプルかつ機能的な運動というコンセプトとした考えの元に「シュヴィンゲン技術」と名付け、「プルークボーゲン」「シュテムターン」「パラレルウムシュタイゲン」「パラレルターン」「シェーレンウムシュタイゲン」に系統づけて理論化し、1991年の「第14回インタースキー」(オーストリア・サンアントン)において発表し、世界的に大きな影響を与えた。",
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"text": "1980年代になると交互操作とステップ系の技術に関心が集まり、1983年の「第12回インタースキー」(イタリア)において日本が人間の基本動作である「バイベタリズム」をターンの主運動とする独自の指導法を提唱した。これは「シュヴィンゲン」とともに注目を引く事となった。",
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"text": "1990年代からカービングスキーやショートスキーなど、ターンのしやすい板が普及し、この事でかつてのバインシュピール的なスキー技術が影をひそめる事となる。2003年にはオーストリアが「第17回インタースキー」(スイス・で開催)において「パラレルカービングターン技術」としての成果を発表した。",
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"text": "2010年頃からはバックカントリーの人気の高まりから、トップ側が反り上がったロッカーと呼ばれる技術を用いた板が広まってきた。",
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"text": "日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)において、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(英語版)少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)が陸軍第13師団に着任し、歩兵第58連隊の営庭を利用して堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、全日本スキー連盟では2003年に1月12日を「スキーの日」と制定した。",
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"text": "レルヒは日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田歩兵第58連隊に着任、その翌年の1912年には北海道旭川第7師団に着任した。",
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"text": "レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は三角山を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した遠藤吉三郎がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。",
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"text": "スキーは登山用具としても注目され、1923年1月には、当時の日本登山界のリーダーである槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫が冬の立山登山に利用した(板倉は帰路遭難死)。",
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"text": "1924年のシャモニーオリンピック開催と国際スキー連盟誕生を受け、日本では翌年の1925年に全日本スキー連盟が創設された。",
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"text": "1940年と1941年に相次いで、「今日のスキー」と「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、それぞれの技術が紹介されるが(上記参照)、日本のスキー関係者の間では「外傾技術」に共鳴する人が多く、1947年(昭和22年)には外傾技術を中心とした全日本スキー連盟のテキスト「一般スキー術」が出版された。しかし当時でも少なからずローテーション技術を主張する声があり、1954年(昭和29年)にピエール・ギョーとアンリ・オレイエが来日して全国各地でフランス・スキー技術の指導が行われた事でローテーション技術と外傾技術の議論が活発に行われた。",
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"text": "1958年(昭和33年)に「オーストリア・スキー教程」が日本でも出版され、その直後にはオーストリア職業スキー教師連盟のルディ・マットが来日し、全国各地でオーストリアスキー技術が紹介・指導された事で日本のスキー技術はオーストリア・スキーに傾倒していき、1959年(昭和34年)にはバインシュピール技術が基となる「SAJスキーテキスト」が発刊された。その後の1960年(昭和35年)にルディ・マットが再来日したほか、1963年(昭和38年)にはオーストリア国立スキー学校総責任者のシュテファン・クルッケンハウザー教授とデモンストレーターのフランツ・フルトナー他2名が来日して、全国各地で講演・映画上映・実地指導を行い、これを受けてバインシュピール技術が日本のスキー界に根付いていった。",
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"text": "1965年(昭和40年)には「第7回インタースキー」(オーストリア・バドガシュタイン)に、日本から初めて10名(うちデモンストレーター5名)の代表団が送り込まれた。以降、日本は毎回参加し、1979年(昭和54年)にはアジア初となる日本・蔵王で「第11回インタースキー」が、1995年(平成7年)には日本・野沢温泉で「第15回インタースキー」が開催された。",
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"text": "1923年(大正12年)に、第1回冬季オリンピック大会の選考会を兼ねて、北海道小樽で第1回全日本スキー選手権大会が開催された。",
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"text": "冬季オリンピックの参加は1928年(昭和3年)の第2回冬季オリンピック(スイス・サンモリッツ大会)が初となり、7名の選手が送り込まれた。",
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"text": "1956年(昭和31年)には第7回冬季オリンピック(イタリア・コルチナ・ダンペッツオ大会)に参加した回転(スラローム)選手の猪谷千春が2位に入賞し、日本初のメダリストとなった。",
"title": "スキーの歴史"
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"text": "以降の日本のスキーに関連した冬季オリンピック(メダリスト)については以下を参照の事。",
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"text": "またメダルには届かなかったが、第20回冬季オリンピック(イタリア・トリノ)では皆川賢太郎が4位に入賞、湯浅直樹が7位に入賞し、アルペンスキーでは猪谷千春以来50年ぶりの入賞を果たしている。",
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"text": "オリンピック以外では、ノルディック複合個人総合で1993年(平成5年)から1995年(平成7年)にかけてのワールドカップ(ノルディック複合)で荻原健司が3連覇を成し遂げ、さらに1995年での世界選手権でもこの種目で優勝している。また、アルペンスキーでは海和俊宏・岡部哲也・木村公宣がワールドカップ(アルペン)で上位入賞を果たしている。",
"title": "スキーの歴史"
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"text": "スキーで雪上を歩行したり、ジャンプ、滑降、登行するために、以下のような用具が必要である。",
"title": "必要な用具"
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"text": "また、身に付けるものに",
"title": "必要な用具"
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"text": "などがあると良い。",
"title": "必要な用具"
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"text": "アルペンスキー技術は大きく分けて、推進技術と制動技術の2種類に分類される。推進のものには、真下方向に向かって真っ直ぐに滑る直滑降やレールターン・カービングターンなどがある。制動のものには、谷脚に体重を乗せ、板はフォールライン(最大傾斜線)に垂直または斜滑降方向に向きつつ、真下や斜め方向に向かってスキー板をずらして滑る横滑りや、プフルークボーゲン・ステムターンと、パラレルターンにおけるスキッディングターンなどがある。",
"title": "アルペンスキー技術"
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]
| スキーは、2枚もしくは1枚の専用の板を両足に履き、雪上をより素早く降りるための移動手段として用いられている。語源はノルウェー語で「薄い板」を指す「スキー」から。漢名は滑雪。 ヨーロッパのアルプス地方で普及したアルペンスキーを楽しむ人が多いが、クロスカントリースキーやテレマークスキーのような、アルペンスキーより先にノルウェーのスカンディナヴィア半島で発展したノルディックスキーも同じく人気がある。 日本では積雪期にも宿屋が営業する温泉地に愛好者が集まり、やがてスキー場として発展した(山形県の五色温泉や長野県の野沢温泉がその奔り)。 1本の専用の板に正面を向いた状態で両足を揃えて固定するものに関しては「モノスキー」を参照。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年1月
| 脚注の不足 = 2023年1月
| 更新 = 2023年1月12日 (木) 06:54 (UTC)
| 言葉を濁さない = 2023年1月12日 (木) 06:57 (UTC)
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[[ファイル:Ski_Famille_-_Family_Ski_Holidays.jpg|サムネイル|270x270ピクセル|[[アルペンスキー]]]]
'''スキー'''({{lang-en-short|skiing}})は、2枚もしくは1枚の専用の板を両足に履き、雪上をより素早く降りるための移動手段として用いられている。語源は[[ノルウェー語]]で「薄い板」を指す「スキー」から。漢名は'''滑雪'''。
[[ヨーロッパ]]の[[アルプス山脈|アルプス]]地方で普及した[[アルペンスキー]]を楽しむ人が多いが、[[クロスカントリースキー]]や[[テレマークスキー]]のような、アルペンスキーより先に[[ノルウェー]]の[[スカンディナヴィア半島]]で発展した[[ノルディックスキー]]も同じく人気がある。
[[日本]]では積雪期にも宿屋が営業する[[温泉街|温泉地]]に愛好者が集まり、やがて[[スキー場]]として発展した([[山形県]]の[[五色温泉 (山形県)|五色温泉]]や[[長野県]]の[[野沢温泉]]がその奔り)。
1本の専用の板に正面を向いた状態で両足を揃えて固定するものに関しては「[[スキー板#モノスキー|モノスキー]]」を参照。
== スキーの歴史 ==
<!--[[#参考資料|後述の参考資料より抜粋]]{{Sfn|日本スキー教程|p=7-22「第1章 スキーの歴史」}}{{Sfn|長岡外史|p=}}{{Sfn|朔風荘|p=}}{{Sfn|坂部護郎遺稿集|p=}}-->
スキーの発祥は、紀元前2500年頃から積雪期に交通手段、あるいは[[狩猟|狩人]]が獲物を追って雪の山野を移動する手段であると推定されており、古代のスキーと思われるものが[[北ヨーロッパ|北欧]]をはじめとして[[シベリア]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[朝鮮半島]]・[[樺太]]など広範囲で発見されている。
中国では、紀元前8000年頃の壁画にスキーをしていると考えられる姿が描かれていた、[[ロシア]]では紀元前6000年頃のスキーの遺跡が発掘されている<ref>http://www.bbc.com/travel/story/20101221-travelwise-where-did-skiing-come-from</ref>。ノルウェーのスカンディナヴィア半島で、紀元前2500年ごろの壁画に狩りをする人達のスキーを履いた姿が描かれてい、その他にもスカンディナビア半島の丘陵地に住む人々の間にスキーの神として[[ウル (北欧神話)|ウル]]と[[スカジ (北欧神話)|スカディ]]が伝承されている{{Sfn|日本スキー教程|p=8「第1章 スキーの歴史 (1)スキーの始まり 1)スキーのルーツ」}}。その他にも、樺太や[[沿海州]]の[[アイヌ]]民族が用いた「ストー」や、朝鮮半島の山岳地帯で用いられた「ソルメ」など、雪上を歩き、滑走する機能を持つスキーの原型と考えられている{{Sfn|日本スキー教程|p=8「第1章 スキーの歴史 (1)スキーの始まり 1)スキーのルーツ」}}。日本での古いスキーの記述は、1794年に[[菅江真澄]]が描いた「立ちソリ」や1808年に[[間宮林蔵]]が樺太から[[沿海州]]方面を探検したのちに表した『北蝦夷図説』の中にある、スキーを履いている[[樺太アイヌ]]の図がある{{Sfn|日本スキー教程|p=8「第1章 スキーの歴史 (1)スキーの始まり 1)スキーのルーツ」}}。
[[19世紀]]中頃からノルウェー南部の[[テレマルク県|テレマルク]] 地方を中心にスポーツや、登山者の山麓での移動手段や、西洋の[[アルプス山脈|アルプス]]地方の弓術と組み合わせた戦の技術として進化を遂げた。スキー自体を楽しむ人々が増えるにつれてスキーの練習に適した斜面のある山麓に練習場([[スキー場|ゲレンデ]])ができ、本来の目的から独立したスポーツの場としてスキー場と呼ばれるようになった。
1825年、テレマルク地方に生まれた{{仮リンク|ソンドレ・ノルハイム|no|Sondre Norheim|nn|Sondre Norheim|en|Sondre Norheim}}によって「歩く、飛ぶ、滑る」といった現代まで残るスキー技術がスポーツとして確立され、[[1860年代]]には、スキー板とスキー靴を固定するビンディングが考案される。これが近代[[ノルディックスキー]]の始まりである。
[[1870年代]]になるとスキーが戦争用のものから移動の早さや飛距離を競う近代スポーツとして登場するようになり、1879年にはノルウェーのクリスチャニア[[オスロ]]にて初の大規模なスキー大会が開催された。この大会にクリスチャニアのテレマルク地方から参加・活躍した少年達の技法が注目され、「[[テレマークスキー|テレマーク技術]]」として広がる。その後1883年にはスキー連盟が設立された{{Sfn|日本スキー教程|p=8-9「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 2)スポーツとしてのスキーの興隆」}}。
1880年に、[[フリチョフ・ナンセン]]がスキーでの[[グリーンランド]]横断に成功した事でスキーが世界の関心を集め、ナンセンの『グリーンランド横断記』に強い刺激を受けた[[オーストリア]]のマチアス・ツダルスキーが、踵を固定して滑降時の安定を図る「リリエンフェルト式バインディング」を考案し、併せて1896年には急峻なアルプスの山岳滑降に適応する一本杖の「リリエンフェルター・シーラウフ・テヒニック(リリエンフェルト・スキー滑降術)」も発表した。この事で[[ステムターン|シュテム]]などの技術が体系化され、[[アルペンスキー]]の根源になった{{Sfn|日本スキー教程|p=9-10「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 2)アルペンスキーの興隆」}}。
一方で、マチアス・ツダルスキーの技術はテレマークやクリスチャニアの技術を主張するノルウェー派との間で論争を引き起こす事となるが、[[20世紀]]に入ってオーストリアの[[将校]]・ゲオルク・ビルゲリーがノルウェー派とマチアス・ツダルスキーの両方の技術長所を取り入れた二本杖のシュテムを中心とした技術を発表し、一応の決着を見た{{Sfn|日本スキー教程|p=9-10「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 2)アルペンスキーの興隆」}}。
1907年、[[ハンネス・シュナイダー]]によって、オーストリアの[[サンクト・アントン・アム・アールベルク|サンクト・アントン]]などにスキー学校が設立される。シュナイダーによって、[[アルプス山脈|アルプス]]の急峻な山々の滑降に対応し [[ステムターン|シュテム]]などの技術が体系化された。これは「アールベルグ・バイブル(アールベルグスキー術)」<!--「リリエンフェルター・シーラウフ・テヒニック」は前述の「マチアス・ツダルスキー」考案の物で、全く別物です。-->と呼ばれ、後のアルペンスキー技術に多大な影響を与えた。この技術と書籍は日本にも輸入され、さらにシュナイダー自身も1930年に来日し、滞在中に映画の上映・講演・雪上での実技指導を行っている{{Sfn|日本スキー教程|p=9-10「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 2)アルペンスキーの興隆」}}。
1921年に[[ローザンヌ]]の[[近代オリンピック|オリンピック]]会議で[[冬季オリンピック]]の開催が検討され、1924年に[[フランス]]の[[シャモニー]]にて第1回冬季オリンピック([[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|シャモニーオリンピック]])が開催された。この大会では[[クロスカントリースキー]]、[[ノルディック複合]]、[[スキージャンプ]]がスキー競技として採用されている。冬季オリンピック開催の同年には[[国際スキー連盟]] (FIS) も誕生した。[[アルペンスキー|アルペン競技]]は第4回の[[1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック|ガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピック]](1936年)から採用されている{{Sfn|日本スキー教程|p=11「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 4)競技スキーとアルペンスキーの技術の革新」}}。
1930年頃、オーストリア・[[チロル]]地方の「インスブルック派」と呼ばれる人々が、アールベルグスキー術でのシュテム技術の高速滑走の不利を感じて新しい技術を模索していたが、その中でアントン・ゼーロスはシュテム技術を用いずに立ち上がり抜重とローテーションを回転原動力とした[[パラレルターン|パラレル]]技術を考案し、「テンポ・パラレルシュブンク」を完成した。その後、エミール・アレがアントン・ゼーロスの技術を徹底的に研究して、自ら世界チャンピオンの実績を残し、その技術を「スキー・フランセ(フランス・スキー術)」として発表した{{Sfn|日本スキー教程|p=11「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 4)競技スキーとアルペンスキーの技術の革新」}}。その一方で、オーストリアのトニイ・ドウチアとクルト・ラインルは身体をひねり込むローテーションを否定して外向・外傾の技術を主張し、1933年に「今日のスキー」を出版した{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。また[[ミュンヘン大学]]のオイゲン・マティアス教授は、スキー傷害の観点からローテーションを使わない技術を模索し、[[サンモリッツ]]のスキー学校長ジョバニ・テスタとの共同研究で1936年に「自然なスキー」を出版した{{Sfn|日本スキー教程|p=11「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 4)競技スキーとアルペンスキーの技術の革新」}}。なお、日本においては1940年に「今日のスキー」が、1941年には「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、ほぼ時を同じくしてそれぞれの技術が日本に紹介される事となった{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。
1951年にはオーストリアのツールスで「第1回国際スキー教育会議(略称、インタースキー、以降も同様)」が開催され、以後2年ごとに開催される{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。
1955年開催の「第3回インタースキー」においては、{{仮リンク|シュテファン・クルッケンハウザー|de|Stefan Kruckenhauser}}教授によってオーストリアの伝統的なシュテム技術を改善し、新たに「バインシュピール技術」を発表、同年に「オーストリア・スキー教程」を発刊した{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。バインシュピール技術が世界各国から注目された事で、フランス提唱のローテーション技術との間で激しい論争が展開されるが、この事が一般スキーヤーの技術と指導法に対する関心を集めてスキー普及にも貢献した。その一方で、その後のより高速を求める競技スキーの世界で技術の共通化傾向が見られるようになり、1968年の[[アスペン (コロラド州)|アスペン]]で行われた「第8回インタースキー」において'''「世界のスキーはひとつ」'''をキャッチフレーズに、各国の技術の長所を取り入れた、現在のスキー技術に通じる技術の融合の方針へと進んでいった{{Sfn|日本スキー教程|p=14「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)世界のスキーはひとつ――技術論争の終焉」}}。その後「第9回インタースキー」(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)において、「ヴェーレンテクニック(オーストリア)」「アバルマン(フランス)」「シュロイダーテクニック([[西ドイツ]])」「OKテクニック([[スイス]])」「曲進系(日本)」といった各国開発の技術が発表されたが、名称の違いこそあれ、技術内容は類似していた。これらの技術を確固たる理論構成に導く研究をしたのがオーストリアのフランツ・ポピヒラーで、1974年に「新オーストリア・スキー教程」を出版し、下肢の運動ではなく、ナチュラルスタンス(自然体)でシンプルかつ機能的な運動というコンセプトとした考えの元に「シュヴィンゲン技術」と名付け、「プルークボーゲン」「シュテムターン」「パラレルウムシュタイゲン」「パラレルターン」「シェーレンウムシュタイゲン」に系統づけて理論化し、1991年の「第14回インタースキー」(オーストリア・サンアントン)において発表し、世界的に大きな影響を与えた{{Sfn|日本スキー教程|p=14「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)世界のスキーはひとつ――技術論争の終焉」}}。
[[1980年代]]になると交互操作とステップ系の技術に関心が集まり、1983年の「第12回インタースキー」([[イタリア]])において日本が人間の基本動作である「バイベタリズム」をターンの主運動とする独自の指導法を提唱した。これは「シュヴィンゲン」とともに注目を引く事となった{{Sfn|日本スキー教程|p=14「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)世界のスキーはひとつ――技術論争の終焉」}}。
[[1990年代]]から[[カービングスキー]]やショートスキーなど、ターンのしやすい板が普及し、この事でかつてのバインシュピール的なスキー技術が影をひそめる事となる。2003年にはオーストリアが「第17回インタースキー」(スイス・で開催)において「パラレル[[カービングターン]]技術」としての成果を発表した{{Sfn|日本スキー教程|p=14「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)世界のスキーはひとつ――技術論争の終焉」}}。
2010年頃からは[[バックカントリー]]の人気の高まりから、トップ側が反り上がったロッカーと呼ばれる技術を用いた板が広まってきた。
=== 日本への伝来と潮流 ===
日本におけるスキーの伝来は[[明治]]時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に[[新潟県]][[中頸城郡]][[高田市|高田町]](現・[[上越市]])において、{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー帝国陸軍|en|Austro-Hungarian Army|label=}}少佐([[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代)の[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ|テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)]]が[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第13師団 (日本軍)|第13師団]]に着任し、[[歩兵第58連隊]]の営庭を利用して[[堀内文次郎]]連隊長や[[鶴見宜信]]大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、[[全日本スキー連盟]]では2003年に[[1月12日]]を「スキーの日」と制定した<ref>{{Cite news |title=スキーの日:[[レルヒ少佐]]を顕彰 上越で式典 |url=http://mainichi.jp/area/niigata/news/20130113ddlk15040029000c.html |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞 |date=2013-01-13 |accessdate=2013-01-15}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 3)日本の近代スキーの始まり」}}。
[[ファイル:Stone monument of skiing originated in Japan.jpg|thumb|「大日本スキー発祥之地」記念碑(新潟県上越市[[金谷山]]スキー場)]]
[[ファイル:Memorial for skiing originated in Japan, 20121206.jpg|thumb|日本スキー発祥記念館(新潟県上越市金谷山)]]
レルヒは日本陸軍の[[長岡外史]]中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田[[歩兵第58連隊]]に着任、その翌年の1912年には[[北海道]][[旭川市|旭川]][[第7師団 (日本軍)|第7師団]]に着任した{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 3)日本の近代スキーの始まり」}}。
レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は[[三角山 (札幌市)#幻となった日本のスキー発祥の地|三角山]]を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した[[遠藤吉三郎]]がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回[[全日本スキー選手権大会]]が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。
スキーは[[登山]]用具としても注目され、1923年1月には、当時の日本登山界のリーダーである[[槇有恒]]、[[板倉勝宣]]、[[三田幸夫]]が冬の[[立山]]登山に利用した(板倉は帰路遭難死)<ref>[http://www.tatecal.or.jp/tatecal/proceedings/11-19-55.pdf 立山カルデラ研究紀要第11号-芦峅ガイドの系譜p23] 五十嶋一晃 2017年12月2日閲覧</ref>。
1924年のシャモニーオリンピック開催と国際スキー連盟誕生を受け、日本では翌年の1925年に[[全日本スキー連盟]]が創設された{{Sfn|日本スキー教程|p=11「第1章 スキーの歴史 (2)近代スキーの興隆と発展 4)競技スキーとアルペンスキーの技術の革新」}}。
1940年と1941年に相次いで、「今日のスキー」と「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、それぞれの技術が紹介されるが([[#世界のスキーの潮流|上記]]参照)、日本のスキー関係者の間では「外傾技術」に共鳴する人が多く、1947年(昭和22年)には外傾技術を中心とした全日本スキー連盟のテキスト「一般スキー術」が出版された{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。しかし当時でも少なからずローテーション技術を主張する声があり、1954年(昭和29年)にピエール・ギョーとアンリ・オレイエが来日して全国各地でフランス・スキー技術の指導が行われた事でローテーション技術と外傾技術の議論が活発に行われた{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 1)外傾技術とローテーション技術」}}。
1958年(昭和33年)に「オーストリア・スキー教程」が日本でも出版され、その直後にはオーストリア職業スキー教師連盟のルディ・マットが来日し、全国各地でオーストリアスキー技術が紹介・指導された{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 2)バインシュピール技術と日本のスキーの発展」}}事で日本のスキー技術はオーストリア・スキーに傾倒していき、1959年(昭和34年)にはバインシュピール技術が基となる「SAJスキーテキスト」が発刊された{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 2)バインシュピール技術と日本のスキーの発展」}}。その後の1960年(昭和35年)にルディ・マットが再来日したほか、1963年(昭和38年)にはオーストリア国立スキー学校総責任者のシュテファン・クルッケンハウザー教授とデモンストレーターのフランツ・フルトナー他2名が来日して、全国各地で講演・映画上映・実地指導を行い{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 2)バインシュピール技術と日本のスキーの発展」}}、これを受けてバインシュピール技術が日本のスキー界に根付いていった。
1965年(昭和40年)には「第7回インタースキー」(オーストリア・バドガシュタイン)に、日本から初めて10名(うちデモンストレーター5名)の代表団が送り込まれた{{Sfn|日本スキー教程|p=11-12「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 2)バインシュピール技術と日本のスキーの発展」}}。以降、日本は毎回参加し、1979年(昭和54年)にはアジア初となる日本・蔵王で「第11回インタースキー」が、1995年([[平成]]7年)には日本・野沢温泉で「第15回インタースキー」が開催された{{Sfn|日本スキー教程|p=16「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 5)社会の変化とスキーの多様化」}}。
;その他
:アルペンスキーではないが、北海道・サハリンの先住民[[アイヌ]]においては、雪中[[かんじき]]として2種の履物ヌソオフトとストーが見られる。ヌソは犬ぞりの意味で御者が身に着ける幅が広いスキーのような形状の物で、ストーは当時の新聞では露式寒敷とされていたロシアやサハリンから伝来したカンジキ式スキーである。こういった物が日本には伝来していたが、日本には20世紀に至るまでスキーは定着していなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=中浦皓至 |title=日本スキーの発祥前史についての文献的研究 |journal=北海道大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=13457543 |publisher=北海道大学大学院 |year=2001 |volume=84 |pages=85-106 |naid=120000970808 |doi=10.14943/b.edu.84.85 |url=https://doi.org/10.14943/b.edu.84.85}}</ref>。
=== 日本における競技スキーの潮流 ===
1923年([[大正]]12年)に、第1回冬季オリンピック大会の選考会を兼ねて、[[北海道]][[小樽市|小樽]]で第1回全日本スキー選手権大会が開催された{{Sfn|日本スキー教程|p=16「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)日本における競技スキーの興隆と発展」}}。
冬季オリンピックの参加は1928年(昭和3年)の[[1928年サンモリッツオリンピック|第2回冬季オリンピック(スイス・サンモリッツ大会)]]が初となり、7名の選手が送り込まれた{{Sfn|日本スキー教程|p=16「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)日本における競技スキーの興隆と発展」}}。
1956年(昭和31年)には[[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|第7回冬季オリンピック(イタリア・コルチナ・ダンペッツオ大会)]]に参加した[[回転 (スキー)|回転(スラローム)]]選手の[[猪谷千春]]が2位に入賞し、日本初のメダリストとなった{{Sfn|日本スキー教程|p=16「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)日本における競技スキーの興隆と発展」}}。
以降の日本のスキーに関連した冬季オリンピック(メダリスト)については以下を参照の事。
* [[1972年札幌オリンピック|第11回冬季オリンピック(日本・札幌)]]
* [[1980年レークプラシッドオリンピック|第13回冬季オリンピック(アメリカ・レークプラシッド)]]
* [[1992年アルベールビルオリンピック|第16回冬季オリンピック(フランス・アルベールビル)]]
* [[1994年リレハンメルオリンピック|第17回冬季オリンピック(ノルウェー・リレハンメル)]]
* [[1998年長野オリンピック|第18回冬季オリンピック(日本・長野)]]
* [[2002年ソルトレークシティオリンピック|第19回冬季オリンピック(アメリカ・ソルトレークシティ)]]
* [[2014年ソチオリンピック|第22回冬季オリンピック(ロシア・ソチ)]]
* [[2018年平昌オリンピック|第23回冬季オリンピック(韓国・平昌)]]
* [[2022年北京オリンピック|第24回冬季オリンピック(中国・北京)]]
またメダルには届かなかったが、[[2006年トリノオリンピック|第20回冬季オリンピック(イタリア・トリノ)]]では[[皆川賢太郎]]が4位に入賞、[[湯浅直樹]]が7位に入賞し、アルペンスキーでは猪谷千春以来50年ぶりの入賞を果たしている。
オリンピック以外では、[[ノルディック複合]]個人総合で1993年(平成5年)から1995年(平成7年)にかけての[[ノルディック複合・ワールドカップ|ワールドカップ(ノルディック複合)]]で[[荻原健司]]が3連覇を成し遂げ、さらに1995年での世界選手権でもこの種目で優勝している。また、アルペンスキーでは[[海和俊宏]]・[[岡部哲也]]・[[木村公宣]]が[[アルペンスキー・ワールドカップ|ワールドカップ(アルペン)]]で上位入賞を果たしている{{Sfn|日本スキー教程|p=16「第1章 スキーの歴史 (3)現代のスキー 4)日本における競技スキーの興隆と発展」}}。
== 必要な用具 ==
'''スキー'''で雪上を歩行したり、ジャンプ、滑降、登行するために、以下のような用具が必要である。
* [[スキー板]]
* [[スキーブーツ]]
* [[ビンディング]]
* [[ストック (スキー)|スキーストック]]
* [[クライミングスキン|シール]]
また、身に付けるものに
* [[スキーウェア]]
* スキーグローブ
* パンツ
* [[帽子]] {{Small|または}} [[ヘルメット]]
* [[ゴーグル]] {{Small|または}} [[サングラス]]
などがあると良い。
{{see also|アルペンスキー#用具|アルペンスキー#服装}}
== アルペンスキー技術 ==
{{main|アルペンスキー#滑走技術}}
[[ファイル:アルペンスキー コブ.jpg|thumb|アルペンスキー コブ]]
[[アルペンスキー]]技術は大きく分けて、推進技術と制動技術の2種類に分類される。推進のものには、真下方向に向かって真っ直ぐに滑る'''[[アルペンスキー#直滑降|直滑降]]'''や[[レールターン]]・[[カービングターン]]などがある。制動のものには、谷脚に体重を乗せ、板はフォールライン(最大傾斜線)に垂直または斜滑降方向に向きつつ、真下や斜め方向に向かってスキー板をずらして滑る'''[[アルペンスキー#横滑り|横滑り]]'''や、[[プフルークボーゲン]]・[[ステムターン]]と、[[パラレルターン]]におけるスキッディングターンなどがある。
== スキー競技 ==
* [[アルペンスキー]]
** [[アルペンスキー|アルペン]](競技スキー)
*** [[回転 (スキー)|回転]](スラローム、SL)
*** [[大回転]](ジャイアントスラローム、GS)
*** [[スーパー大回転]](スーパーG、SG)
*** [[滑降]](ダウンヒル、DH)
*** [[アルペンスキー複合|複合]](コンバインド、CB)
*** [[スピードスキー]](キロメーターランセ)
** [[フリースタイルスキー|フリースタイル]]
*** [[モーグル]]
*** [[モーグル|デュアルモーグル]]
*** [[エアリアル]]
*** [[アクロ (スキー)|アクロ]](旧バレエスキー)
*** [[スキークロス]]
*** [[ハーフパイプ]]
*** [[スロープスタイル]]
** [[基礎スキー]](デモスキー)
* [[ノルディックスキー]]
** [[スキージャンプ|ジャンプ]]
** [[クロスカントリースキー|クロスカントリー]](距離)
** [[ノルディック複合]](複合)
** [[テレマークスキー]]
** [[バイアスロン]]
== 関連団体 ==
* [[国際スキー連盟]] (FIS)
* [[全日本スキー連盟]] (SAJ)
* [[日本職業スキー教師協会|日本職業スキー教師協会(日本プロスキー教師協会)]] (SIA)
== 陸上用スキー ==
* [[カービングローラー]]、RSV - [[ローラースケート#インラインスケート|インラインスケート]]やツリス等よりもスキー板に近いローラースキー。
* [[ローラースキー]] - クロスカントリースキーに近い状態でトーレーニングができるように開発されたローラースキー。
* [[グラススキー]] - キャタピラベルト状のスキー用具グラススキーを使用し芝の上を滑る。
* [[プラスノースキー]] - プラスチック製ブラシマットが敷かれたゲレンデに水を撒き、スキー板で滑る人工芝スキー場。スノーマットはPIS・LAB(ピスラボ)、アストロターフ等がある。
* グレステン・スポーツ(グレステンスキー) - 雪のないゲレンデにグレステンの専用マットが敷かれ、グランジャーと呼ばれる特殊な車輪をつけた陸上スキー用具を使って滑る。グランジャーはアルペンスケートのほか、ミニホイールタイプなどもある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟|authorlink=全日本スキー連盟 |title=日本スキー教程 |date=2018年11月 |publisher=[[山と溪谷社]] |isbn=978-4-635-46021-7 |ref={{SfnRef|日本スキー教程}} }}
* {{Cite book |和書 |author=イデア書院 |title=[[長岡外史]] |date=1929年 |publisher=イデア書院 |isbn= |ref={{SfnRef|長岡外史}} }} 258-259頁。
* {{Cite book |和書 |author=白川朔風|authorlink=白川朔風 |title=朔風荘 |date=1950年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|朔風荘}} }} 13-14頁、71-72頁。
* {{Cite book |和書 |author=坂部護郎|authorlink=坂部護郎 |title=[[坂部護郎]]遺稿集 |date=1976年 |publisher=スキージャーナル |isbn= |ref={{SfnRef|坂部護郎遺稿集}} }} 40-41頁。
[[#歴史|上記「歴史」]]において参考資料としている'''「日本スキー教程」'''については、書中にて以下の書籍を参考文献としている。内容は日本スキー教程P.17「第1章 スキーの歴史【参考文献】」より。
* {{Cite book |和書 |author=玉川学園教育研究所 |title=[[ハンネス・シュナイダー|シュナイダー]]とアールベルグスキー術 |date=1930年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|アールベルグスキー術}} }}
* {{Cite book |和書 |author=坂部護郎|authorlink=坂部護郎 |title=雪の王者 シュナイダーは語る |date=1930年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|シュナイダーは語る}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟|authorlink=全日本スキー連盟 |title=[[全日本スキー連盟]]スキー教程 |date=1965年 |publisher=[[平凡社]] |isbn= |ref={{SfnRef|スキー教程1965版}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟 |title=[[全日本スキー連盟|SAJ]]スキー教程 |date=1965年 |publisher=[[スキージヤーナル|スキージャーナル株式会社]] |isbn= |ref={{SfnRef|スキー教程1969版}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟 |title=SAJスキー教程 |date=1971年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|スキー教程1969版}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高田典衛|authorlink=高田典衛 |title=綬業としての体育 |date=1972年 |publisher=[[明治図書出版|明治図書]] |isbn= |ref={{SfnRef|綬業としての体育}} }}
* {{Cite book |和書 |author=福岡孝行|authorlink=福岡孝行 |title=日墺スキー 65年史 |date=1976年 |publisher=日墺スキー65周年記念事業出版 |isbn= |ref={{SfnRef|日墺スキー 65年史}} }}
* {{Cite book |和書 |author=福岡孝行 |title=日本のスキー発達史 |date=1976年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|日本のスキー発達史}} }}※上記「日墺スキー 65年史」からの抜粋
* {{Cite book |和書 |author=高橋藤樹|authorlink=高橋藤樹 |title=新体育 Vol.49 No.9 「雪中用具の発達」 |date=1979年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|雪中用具の発達}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高橋隆<!--編集者向け注記:ウィキペディア日本語版内にある[[高橋隆]]の記事は競馬騎手の記事です。この箇所へのリンク付与に際してはその点にご注意願います。--> |title=新体育 Vol.49 No.9 「雪中交通具としてのスキー」 |date=1979年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|雪中交通具としてのスキー}} }}
* {{Cite book |和書 |author1=福岡孝行|authorlink1=福岡孝行|author2=福岡孝純|authorlink2=福岡孝純|title=新版スキー |date=1984年 |publisher=[[ベースボール・マガジン社|ベースボールマガジン社]] |isbn= |ref={{SfnRef|新版スキー}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟|authorlink=全日本スキー連盟 |title=1986版 日本スキー教程 |date=1986年 |publisher=[[スキージヤーナル|スキージャーナル株式会社]] |isbn= |ref={{SfnRef|スキー教程1986版}} }}
* {{Cite book |和書 |author=財団法人日本体育協会|authorlink=日本スポーツ協会 |title=C級スポーツ指導員教本 |date=1990年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|C級スポーツ指導員教本}} }}※著者名は書籍中の原文のままとしている
* {{Cite book |和書 |author=財団法人日本体育協会 |title=B級スポーツ指導員教本 |date=1990年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|B級スポーツ指導員教本}} }}※著者名は書籍中の原文のままとしている
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟|authorlink=全日本スキー連盟 |title=日本スキー指導教本 |date=1993年 |publisher=[[スキージヤーナル|スキージャーナル株式会社]] |isbn= |ref={{SfnRef|日本スキー指導教本1993版}} }}
* {{Cite book |和書 |author=財団法人日本レクレーション協会|authorlink=日本レクリエーション協会 |title=レクレーション・コーディネーター |date=1994年 |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|レクレーション・コーディネーター}} }}※著者名は書籍中の原文のままとしている
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟|authorlink=全日本スキー連盟 |title=日本スキー教程 |date=1994年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|日本スキー教程1994版}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=全日本スキー連盟|editor-link=全日本スキー連盟 |title=1994版 「日本スキー教程」 |date=1994年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|1994版 「日本スキー教程」}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟編 |title=2000版 「日本スキー教程・指導理論編」 |date=2000年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|2000版 「日本スキー教程・指導理論編」}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟 |title=日本スキー教程 指導理論編 |date=2001年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|2001版 日本スキー教程・指導理論編}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟 |title=日本スキー教程 技術と指導 |date=2003年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|2003版 日本スキー教程 技術と指導}} }}
* {{Cite book |和書 |author=全日本スキー連盟 |title=安全へのシュプール |date=2004年 |publisher=スキージャーナル株式会社 |isbn= |ref={{SfnRef|=安全へのシュプール}} }}
* {{Cite book |和書 |author=カール・ウイルヘルム・アムンセン|authorlink=カール・ウイルヘルム・アムンセン |translator=[[宇良島多浪]] |title=ノルウェースキーはかくして始まった |date= |publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|=ノルウェースキーはかくして始まった}} }}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Skiing|Skiing}}
* [[山スキー]]
* [[カービングスキー]]
* [[スキーボード]]
* [[スクォール]] - モノスキーのように一枚の板だが、さらに細く足を前後させて装着。スノーボードとスキーの中間的なスポーツ。
* [[スノースクート]] - 前後のスキー板に[[自転車]]の[[フレーム (自転車)|フレーム]]と[[ハンドルバー (自転車)|ハンドル]]を付けたようなもの。
* [[スノーモト]] - スノーモートとも言う。スノースクートに[[サドル (自転車)|サドル]]を付けたもの。[[マウンテンバイク]]の前輪にスキー板、後輪に[[無限軌道]]を付けたものは "KtraK"。
* [[チェアスキー]]
* [[スノーボード]]
* [[スキーブーム]]
* [[清水礼留飛]] - 「礼留飛」の名前が[[#日本への伝来と潮流|上記]]のテオドール・エドレル・フォン・レルヒに由来するスキージャンプ選手。
== 外部リンク ==
* [https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/sisetu-ski.html 日本スキー発祥記念館](新潟県上越市) - テオドール・エドレル・フォン・レルヒが日本で初めて本格的なスキー指導をおこなった[[金谷山]]にある記念館。
* [https://nozawaski.com/summer/skimuseum/ 日本スキー博物館]([http://www.nozawaski.com/ 野沢温泉スキー場]) - 株式会社野沢温泉が経営する博物館。
* [http://www.arachina.com/news/travel-news/2012112905.htm 中国六大スキー場]
* [https://www.ski-tenki.com/ スキー場データベース] - {{いつ範囲|現在の|date=2021年9月|post-text=の}}積雪情報・ゲレンデ情報を伝えるウェブメディア。
* [https://yukibancho.jp/ 雪番長] - 全国400カ所のスキー場情報・天気・積雪を伝えるウェブメディア。
{{スキー競技}}
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[[Category:スキー|*]]
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[[Category:ブーツ系スポーツ]]
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[[Category:冬の季語]] | 2003-02-14T05:37:05Z | 2023-12-10T13:03:13Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC |
1,503 | C Sharp | ■カテゴリ / ■テンプレート
C#(シーシャープ)は、マイクロソフトが開発した、汎用のマルチパラダイムプログラミング言語である。C#は、Javaに似た構文を持ち、C++に比べて扱いやすく、プログラムの記述量も少なくて済む。また、C#は、Windowsの.NET Framework上で動作することを前提として開発された言語であるが、2023年現在はクロスプラットフォームな.NETランタイム上で動作する。
デスクトップ・モバイルを含むアプリケーション開発や、ASP.NETをはじめとするWebサービスの開発フレームワーク、ゲームエンジンのUnityでの採用事例などもある。
マルチパラダイムをサポートする汎用高レベルプログラミング言語で、静的型付け、タイプセーフ、スコープ、命令型、宣言型、関数型、汎用型、オブジェクト指向(クラスベース)、コンポーネント指向のプログラミング分野を含んでいる。
共通言語基盤 (CLI) といった周辺技術も含め、マイクロソフトのフレームワークである「.NET」の一部である。また、以前のVisual J++で「非互換なJava」をJavaに持ち込もうとしたマイクロソフトとは異なり、その多くの仕様を積極的に公開し、標準化機構に託して自由な利用を許す (ECMA-334,ISO/IEC 23270:2003,JIS X 3015) など、同社の姿勢の変化があらわれている。
設計はデンマークのアンダース・ヘルスバーグによる。
構文はC系言語(C,C++など)の影響を受けており、その他の要素には以前ヘルスバーグが所属していたボーランド設計のDelphiの影響が見受けられる。また、主要言語へのasync/await構文や、ヘルスバーグが言語設計に関わるTypeScriptでのジェネリクス採用など、他言語への影響も見られる。
開発にはボーランドのTurbo PascalやDelphiを開発したアンダース・ヘルスバーグを筆頭として多数のDelphi開発陣が参加している。
C#は共通言語基盤(共通言語ランタイムなど)が解釈する共通中間言語にコンパイルされて実行される。
自動ボックス化、デリゲート、 プロパティ、インデクサ、カスタム属性、ポインタ演算操作、構造体(値型オブジェクト)、多次元配列、可変長引数、などの機能を持つ。また、Javaと同様に大規模ライブラリ、プロセッサ・アーキテクチャに依存しない実行形態、ガベージコレクション、JITコンパイルによる実行の高速化、などが実現されている(もっともこれらはC#の機能というより.NET によるものである)。
.NET構想における中心的な開発言語であり、XML WebサービスやASP.NETの記述にも使用される。他の.NET系の言語でも記述可能だが、.NET APIはC#からの利用を第一に想定されており、他の.NET系言語(特に2023年以降新構文の追加なしと宣言されたVB.NET)では利用できない、あるいは将来的に利用できなくなる機能が存在する。
マイクロソフトの統合開発環境(Microsoft Visual Studio)では、Microsoft Visual C#がC#に対応している。また、Visual Studio Codeに専用のC#向け拡張(C# DevKit)を導入することでクロスプラットフォームで開発することが可能。
共通言語仕様のCLSによって、他のCLS準拠の言語(F#やVisual Basic .NETやVisual C++ (C++/CLI) など)と相互に連携することができる。
さまざまな意味において、基盤であるCLIの機能をもっとも反映している言語であるといえる。C#にある組み込み型のほとんどは、CLIフレームワークに実装されている値型と対応している。
しかし、C#の言語仕様はコンパイラのコード生成については何も言及していないため、CLRに対応しなければならないとか、共通中間言語 (CIL) などの特定のフォーマットのコードを生成しなければならないとかいうことは述べられていない。
そのため、理論的にはC++やFORTRANのように環境依存のマシン語を生成することも可能である。しかし、現在存在するすべてのC#コンパイラはCLIをターゲットにしている。
.NET 7.0以降で可能になった事前コンパイルの一種である「Native AOT」でデプロイすることで実行可能な環境依存のバイナリを出力することが可能である。しかしながらこの手法もCLIとランタイムを事前に各アーキテクチャ向けのバイナリに変換しているだけであり、CLIを経由することに変わりはない。
特殊な例としては、UnityのScripting Backendである「IL2CPP」や「Burst」がある。 IL2CPPはC#をコンパイルしたCLIをさらにC++コードへと変換後、ネイティブバイナリへC++コンパイラによってコンパイルされる。BurstはC#をコンパイルしたCLIをLLVMコンパイラによってネイティブバイナリへコンパイルするものである。
C#のHello Worldは以下の通りである。1行での記述が可能。
あえて冗長に記載すると下記の様になる。
このコードは問題なくコンパイルが通るが、以下のような冗長な記述が含まれる。
C#では、CやC++と比較してさまざまな制限や改良が加えられている。また、仕様の多くはC#言語というよりは、基盤である .NET そのものに依拠している。Javaで導入された制限および改良をC#でも同様に採用しているものが多いが、C#で新たに導入された改良がのちにJavaにも同様に採用されたものもある。その例を次に挙げる。
部分型 (Partial Type) が導入された。以下のようにクラスや構造体の宣言にpartial修飾子をつけることで、その宣言を分割することができる。
これは以下と同義である:
これによって、巨大なクラスを分割したり、自動生成されたコードを分離したりすることができる。partial 修飾子はすべての宣言につける必要がある。
ジェネリクスが導入された。これは.NET Framework 2.0の機能である。クラス、構造体、インタフェース、デリゲート、メソッドに対して適用することができる。
.NETのGenericsはC++のテンプレート、あるいはJavaにおけるそれとも異なるもので、コンパイルによってではなく実行時にランタイムによって特殊化される。これによって異なる言語間の運用を可能にし、リフレクションによって型パラメーターに関する情報を取得することができる。また、where節によって型パラメーターに制約を与えることができる。一方、C++のように型パラメーターとして式を指定することはできない。なお、ジェネリックメソッドの呼び出し時に引数によって型パラメーターが推論できる場合、型パラメーターの指定は省略できる。
静的クラスが導入された。static属性をクラスの宣言につけることで、クラスはインスタンス化できなくなり、静的なメンバーしか持つことができなくなる。
イテレータ#C# 2.0を参照。
yieldキーワードによるコルーチンを使うことで、イテレータの生成を楽に実装できるようになった。
クロージャの機能を提供する匿名デリゲートが導入された。
Property Accessors プロパティのget もしくは setアクセサのどちらかにアクセス修飾子を指定することでアクセス制御が別個にできるようになった。次の例では、getアクセサはpublic、setアクセサはprivateである。
nullを保持できる値型、Nullableが導入された。
int?はNullable<int>の糖衣構文である。また、nullを保持しているNull許容型のインスタンスをボックス化しようとすると、単に空参照 (null) に変換される。
また、null結合演算子 (??)が導入された。これは、nullでない最初の値を返す。
この演算子は主にNullable型を非Nullable型に代入するときに使われる。
var キーワードが導入され、型推論を利用したローカル変数の宣言ができるようになった。
拡張メソッド (extension method) が導入された。既存のクラスを継承して新たなクラスを定義することなく、新たなインスタンスメソッドを疑似的に追加定義することができる。具体的には、入れ子になっていない、非ジェネリックの静的クラス内に、this 修飾子をつけた、拡張メソッドを追加する対象の型の引数を最初に持つメソッドをまず定義する。これによって、通常の静的メソッドとしての呼び出しの他に、指定した型のインスタンスメソッドとしての呼び出しを行うことができるメソッドを作ることができる。以下に例を挙げる:
この例は、文字列(string 型のインスタンス)を指定した回数繰り返し連結したものを返すメソッド Repeat を、既存の string 型に追加している。このメソッドは、以下のように呼び出すことができる:
また、列挙型やインタフェースなど本来メソッドの実装を持ち得ない型に、見かけ上インスタンスメソッドを追加することも可能である。以下に例を挙げる:
このメソッドは以下のように呼び出すことができる:
拡張メソッドは糖衣構文の一種であり、カプセル化の原則に違反するものではないが、必要な場合に限り注意して実装することがガイドラインとして推奨されている。
部分メソッドが導入された。部分型(partial 型)内で定義された private で、かつ戻り値が void のメソッドに partial 修飾子をつけることでメソッドの宣言と定義を分離させることができる。定義されていない部分メソッドは何も行わず、何らエラーを発生させることもない。例えば:
上のコードにおいて Method() を呼び出すと、Did something. と表示されるだけだが、ここで以下のコード:
を追加した上で Method() を呼び出すと、[DEBUG: Some message] Did something. と表示される。
ラムダ式が導入された。この名前はラムダ計算に由来する。
以下の匿名メソッド
は、ラムダ式を使って次のように記述できる:
ラムダ式は匿名メソッドと同様に扱えるが、式形式のラムダがExpression<TDelegate>型として扱われた場合のみ匿名メソッドとして扱われず、コンパイラによって式木を構築するコードに変換される。匿名デリゲートが実行前にコンパイルされたCILを保持するのに対し、式木はCILに実行時コンパイル可能であるDOMのような式の木構造そのものを保持する。これはLINQクエリをSQLクエリなどに変換する際に役立つ。
以下は、3つの任意の名前の変数、整数、括弧、及び四則演算子のみで構成された式を逆ポーランド記法に変換する汎用的なコードである:
オブジェクトの初期化が式として簡潔に記述できるようになった。
また、コレクションの初期化も同様に簡潔に記述できるようになった。
但し、上のコードでは匿名の変数に便宜的に __p、__l、__d と命名している。実際はプログラマはこの変数にアクセスすることはできない。
プロパティをより簡潔に記述するための自動実装プロパティが導入された。プロパティの定義に get; set; と記述することで、プロパティの値を保持するための匿名のフィールド(プログラマは直接参照することはできない)と、そのフィールドにアクセスするためのアクセサが暗黙に定義される。また、C# 5.0 までは get;とset;のどちらか片方だけを記述することは出来なかったが、C# 6.0 からは get; のみが可能。以下のコード:
は、以下のようなコードに相当する動作をする:
但し、上のコードでは匿名のフィールドに便宜的に __value と命名している。実際はプログラマはこのフィールドにアクセスすることはできない。
一時的に使用される型を簡単に定義するための匿名型が導入された。以下に例を挙げる:
上の式は、以下の内容のクラスを暗黙に定義する。定義されたクラスは匿名であるが故にプログラマは参照できない。
同じ型、同じ名前のプロパティを同じ順序で並べた匿名型は同じであることが保証されている。即ち、以下のコード:
において、her.GetType() == him.GetType() は true である。
new キーワードを用いた配列の宣言の際、型を省略できるようになった。匿名型の配列を宣言する際に威力を発揮する。
LINQ をサポートするために、クエリ式が導入された。これは SQL の構文に類似しており、最終的に通常のメソッド呼び出しに変換されるものである。以下に例を示す:
上のコードは以下のように変換される:
C# 3.0で追加された構文の多くは式であるため、より巨大な式(当然クエリ式も含まれる)の一部として組み込むことができる。旧来複数の文に分けたり、作業用の変数を用意して記述していたコードを単独の式としてより簡潔に記述できる可能性がある。
出井秀行著の『実戦で役立つ C#プログラミングのイディオム/定石&パターン』(技術評論社、2017年)という書籍ではクエリ構文よりメソッド構文を推奨しており、クエリ構文ではLINQの全ての機能を使用できるわけではないこと、メソッド呼び出しは処理を連続して読める可読性があること、メソッド呼び出しであればMicrosoft Visual Studioの強力なインテリセンスが利用できることを理由に、著者はクエリ構文をほとんど使用していないと記している。
dynamicキーワードが導入され、動的型付け変数を定義できるようになった。dynamic型として宣言されたオブジェクトに対する操作のバインドは実行時まで遅延される。
VBやC++に実装されているオプション引数・名前付き引数が、C#でも利用できるようになった。
ジェネリクスの型引数に対してin、out修飾子を指定することにより、ジェネリクスの共変性・反変性を指定できるようになった。
静的 using ディレクティブを利用することで、型名の指定無しに他クラスの静的メンバーの呼び出しを行えるようになった。利用するにはusing staticの後に完全修飾なクラス名を指定する。
catchの後にwhenキーワードを使用することで、処理する例外を限定することができるようになった。
out引数で値を受け取る場合、その場所で変数宣言可能となった。
is式の構文が拡張され、型の後ろに変数名を宣言できるようになった。 拡張されたis式はマッチした場合に宣言した変数にキャストした値を代入し、さらにtrueと評価される。 マッチしなかった場合はfalseと評価され、宣言した変数は未初期化状態となる。
switch文のマッチ方法が拡張され、caseラベルに従来の「定数パターン」に加え、新たに「型パターン」を指定できるようになった。 また、「型パターン」のcaseラベルでは、when句に条件を指定することができる。 「型パターン」を含むswitch文では、必ずしも条件が排他的でなくなったため、最初にマッチしたcaseラベルの処理が実行される。
タプルのための軽量な構文が導入された。従来のSystem.Tupleクラスとは別に、System.ValueTuple構造体が新しく追加された。
2個以上の要素を持つタプルのための記法が導入された。 引数リストと同様の形式で、タプルを記述できる。
多値戻り値を簡単に扱えるように、分解がサポートされた。
分解はタプルに限らない。Deconstruct()メソッドが定義されたクラスでも、分解を利用できる。
以下に、DateTime型に分解を導入する例を示す。
上記のコードでDateTime型にDeconstruct()拡張メソッドを定義し、
のように左辺で3つの変数に値を受け取ることができる。
分解、out引数、パターンマッチングで、値の破棄を明示するために_が利用できるようになった。 破棄された値は、後で参照することはできない。
refキーワードの使用方法が拡張された。これによって、安全な参照の使い道が広がった。
戻り値の型をrefで修飾することで、オブジェクトの参照を戻り値とすることができる。
変数の寿命は変わらないため、メソッド終了時に破棄されるローカル変数をref戻り値とすることはできない。
ローカル変数の型をrefで修飾することで、参照を代入することができる。
Mainメソッドの戻り値として、Task型、Task(int)型が認められた。
型推論可能な場面では、defaultの型指定は省略可能となった。
C#7.2で追加された仕様は以下の通り。
値型におけるパフォーマンス向上を意図した複数の機能が追加された。
引数にinを指定することで、読み取り専用参照渡しを指定できる。 また、戻り値にref readonlyを指定することで、読み取り専用参照戻り値を指定できる。
これにより、構造体のコピーを避けると共に、意図しない値の変更を抑止できる。
構造体宣言時にreadonlyを指定することで、真の読み取り専用構造体を定義できる。 readonly構造体の全てのフィールドはreadonlyでなければならず、thisポインタも読み取り専用となる。
これにより、メンバーアクセス時の意図しない防御的コピーを抑止できる。
構造体宣言時にrefを指定することで、ヒープ領域へのコピーを防ぐ構造体がサポートされる。 ref構造体では、box化できない、配列を作成できない、型引数になることができない、など、ヒープ領域へのコピーを防ぐための厳しい制限がかかる。
この機能は、Span<T>のような構造体をサポートするために利用され、unsafe文脈以外でのstackallocの利用をも可能とする。
C#4.0で追加された名前付き引数が末尾以外でも利用できるようになった。
同一アセンブリ内、かつ、継承先からのアクセス許可を表すprivate protectedアクセス修飾子が追加された。
十六進リテラルの0x、二進リテラルの0bの直後のアンダースコアが認められた。
C#7.3では以下の仕様が追加された。
C# 8.0で追加された仕様は以下の通り。
参照型にnull許容性を指定できるようになった。参照型の型名に?を付加した場合にnull許容参照型となる。
参照型の型名に?を付加しない場合、null非許容参照型となる。
フロー解析レベルでのnull許容性チェックが行われる。null許容値型のNullable<T>のような新しい型は導入されない。
参照型のnull許容性は、null許容コンテキストによって有効、無効の切り替えが可能である。 C#7.3以前の互換性のために、既定では無効となっている。
null許容参照型の変数名の後に !を使用することで、フロー解析時の警告が免除される。
インタフェースのメンバーに既定の実装を指定できるようになった。また、インタフェースに静的メンバーを持つことができるようになった。
さらに、インタフェースのメンバーにアクセシビリティを指定できるようになった。
switch式が追加された。 プロパティパターン、タプルパターン、位置指定パターンの追加により、再帰的なパターンマッチングが可能になった。
IAsyncEnumerable<T> インタフェースを返すことで、イテレータ構文と非同期構文の共存が可能になった。
await foreachによって非同期ストリームを列挙する。
IndexとRangeを指定できる専用構文が追加された。
C# 9.0で追加された仕様は以下の通り。
C# 10.0で追加された仕様は以下の通り。
C# 11.0で追加された仕様は以下の通り。
エスケープなどの加工を施さない文字列を3個の二重引用符で括って表現できる様になった。
属性の型が型引数を持てる様になった。
リストや配列に対するパターンマッチが可能になった。
また、Span<char>やReadOnlySpan<char>に対するパターンマッチが可能になった。
C# 12.0で追加された仕様は以下の通り。
レコード型以外のclass, structでプライマリコンストラクターが使えるようになった。
配列、コレクション、Span<T>などの初期化の記法が共通の記法([])で書けるようになった。
コレクション式で複数のコレクションをインライン展開できる新しい演算子(..)が追加された。
C#の言語仕様は標準化団体Ecma Internationalを通じて公開・標準化されており、第三者がマイクロソフトとは無関係にコンパイラや実行環境を実装することができる。 現段階で、C#コンパイラの実装は次の5つが知られている。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "■カテゴリ / ■テンプレート",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "C#(シーシャープ)は、マイクロソフトが開発した、汎用のマルチパラダイムプログラミング言語である。C#は、Javaに似た構文を持ち、C++に比べて扱いやすく、プログラムの記述量も少なくて済む。また、C#は、Windowsの.NET Framework上で動作することを前提として開発された言語であるが、2023年現在はクロスプラットフォームな.NETランタイム上で動作する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "デスクトップ・モバイルを含むアプリケーション開発や、ASP.NETをはじめとするWebサービスの開発フレームワーク、ゲームエンジンのUnityでの採用事例などもある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "マルチパラダイムをサポートする汎用高レベルプログラミング言語で、静的型付け、タイプセーフ、スコープ、命令型、宣言型、関数型、汎用型、オブジェクト指向(クラスベース)、コンポーネント指向のプログラミング分野を含んでいる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "共通言語基盤 (CLI) といった周辺技術も含め、マイクロソフトのフレームワークである「.NET」の一部である。また、以前のVisual J++で「非互換なJava」をJavaに持ち込もうとしたマイクロソフトとは異なり、その多くの仕様を積極的に公開し、標準化機構に託して自由な利用を許す (ECMA-334,ISO/IEC 23270:2003,JIS X 3015) など、同社の姿勢の変化があらわれている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "設計はデンマークのアンダース・ヘルスバーグによる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "構文はC系言語(C,C++など)の影響を受けており、その他の要素には以前ヘルスバーグが所属していたボーランド設計のDelphiの影響が見受けられる。また、主要言語へのasync/await構文や、ヘルスバーグが言語設計に関わるTypeScriptでのジェネリクス採用など、他言語への影響も見られる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "開発にはボーランドのTurbo PascalやDelphiを開発したアンダース・ヘルスバーグを筆頭として多数のDelphi開発陣が参加している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "C#は共通言語基盤(共通言語ランタイムなど)が解釈する共通中間言語にコンパイルされて実行される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "自動ボックス化、デリゲート、 プロパティ、インデクサ、カスタム属性、ポインタ演算操作、構造体(値型オブジェクト)、多次元配列、可変長引数、などの機能を持つ。また、Javaと同様に大規模ライブラリ、プロセッサ・アーキテクチャに依存しない実行形態、ガベージコレクション、JITコンパイルによる実行の高速化、などが実現されている(もっともこれらはC#の機能というより.NET によるものである)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": ".NET構想における中心的な開発言語であり、XML WebサービスやASP.NETの記述にも使用される。他の.NET系の言語でも記述可能だが、.NET APIはC#からの利用を第一に想定されており、他の.NET系言語(特に2023年以降新構文の追加なしと宣言されたVB.NET)では利用できない、あるいは将来的に利用できなくなる機能が存在する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトの統合開発環境(Microsoft Visual Studio)では、Microsoft Visual C#がC#に対応している。また、Visual Studio Codeに専用のC#向け拡張(C# DevKit)を導入することでクロスプラットフォームで開発することが可能。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "共通言語仕様のCLSによって、他のCLS準拠の言語(F#やVisual Basic .NETやVisual C++ (C++/CLI) など)と相互に連携することができる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "さまざまな意味において、基盤であるCLIの機能をもっとも反映している言語であるといえる。C#にある組み込み型のほとんどは、CLIフレームワークに実装されている値型と対応している。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "しかし、C#の言語仕様はコンパイラのコード生成については何も言及していないため、CLRに対応しなければならないとか、共通中間言語 (CIL) などの特定のフォーマットのコードを生成しなければならないとかいうことは述べられていない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "そのため、理論的にはC++やFORTRANのように環境依存のマシン語を生成することも可能である。しかし、現在存在するすべてのC#コンパイラはCLIをターゲットにしている。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": ".NET 7.0以降で可能になった事前コンパイルの一種である「Native AOT」でデプロイすることで実行可能な環境依存のバイナリを出力することが可能である。しかしながらこの手法もCLIとランタイムを事前に各アーキテクチャ向けのバイナリに変換しているだけであり、CLIを経由することに変わりはない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "特殊な例としては、UnityのScripting Backendである「IL2CPP」や「Burst」がある。 IL2CPPはC#をコンパイルしたCLIをさらにC++コードへと変換後、ネイティブバイナリへC++コンパイラによってコンパイルされる。BurstはC#をコンパイルしたCLIをLLVMコンパイラによってネイティブバイナリへコンパイルするものである。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "C#のHello Worldは以下の通りである。1行での記述が可能。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "あえて冗長に記載すると下記の様になる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "このコードは問題なくコンパイルが通るが、以下のような冗長な記述が含まれる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "C#では、CやC++と比較してさまざまな制限や改良が加えられている。また、仕様の多くはC#言語というよりは、基盤である .NET そのものに依拠している。Javaで導入された制限および改良をC#でも同様に採用しているものが多いが、C#で新たに導入された改良がのちにJavaにも同様に採用されたものもある。その例を次に挙げる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "部分型 (Partial Type) が導入された。以下のようにクラスや構造体の宣言にpartial修飾子をつけることで、その宣言を分割することができる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これは以下と同義である:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これによって、巨大なクラスを分割したり、自動生成されたコードを分離したりすることができる。partial 修飾子はすべての宣言につける必要がある。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ジェネリクスが導入された。これは.NET Framework 2.0の機能である。クラス、構造体、インタフェース、デリゲート、メソッドに対して適用することができる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": ".NETのGenericsはC++のテンプレート、あるいはJavaにおけるそれとも異なるもので、コンパイルによってではなく実行時にランタイムによって特殊化される。これによって異なる言語間の運用を可能にし、リフレクションによって型パラメーターに関する情報を取得することができる。また、where節によって型パラメーターに制約を与えることができる。一方、C++のように型パラメーターとして式を指定することはできない。なお、ジェネリックメソッドの呼び出し時に引数によって型パラメーターが推論できる場合、型パラメーターの指定は省略できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "静的クラスが導入された。static属性をクラスの宣言につけることで、クラスはインスタンス化できなくなり、静的なメンバーしか持つことができなくなる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "イテレータ#C# 2.0を参照。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "yieldキーワードによるコルーチンを使うことで、イテレータの生成を楽に実装できるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "クロージャの機能を提供する匿名デリゲートが導入された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "Property Accessors プロパティのget もしくは setアクセサのどちらかにアクセス修飾子を指定することでアクセス制御が別個にできるようになった。次の例では、getアクセサはpublic、setアクセサはprivateである。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "nullを保持できる値型、Nullableが導入された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "int?はNullable<int>の糖衣構文である。また、nullを保持しているNull許容型のインスタンスをボックス化しようとすると、単に空参照 (null) に変換される。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、null結合演算子 (??)が導入された。これは、nullでない最初の値を返す。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この演算子は主にNullable型を非Nullable型に代入するときに使われる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "var キーワードが導入され、型推論を利用したローカル変数の宣言ができるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "拡張メソッド (extension method) が導入された。既存のクラスを継承して新たなクラスを定義することなく、新たなインスタンスメソッドを疑似的に追加定義することができる。具体的には、入れ子になっていない、非ジェネリックの静的クラス内に、this 修飾子をつけた、拡張メソッドを追加する対象の型の引数を最初に持つメソッドをまず定義する。これによって、通常の静的メソッドとしての呼び出しの他に、指定した型のインスタンスメソッドとしての呼び出しを行うことができるメソッドを作ることができる。以下に例を挙げる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この例は、文字列(string 型のインスタンス)を指定した回数繰り返し連結したものを返すメソッド Repeat を、既存の string 型に追加している。このメソッドは、以下のように呼び出すことができる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、列挙型やインタフェースなど本来メソッドの実装を持ち得ない型に、見かけ上インスタンスメソッドを追加することも可能である。以下に例を挙げる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "このメソッドは以下のように呼び出すことができる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "拡張メソッドは糖衣構文の一種であり、カプセル化の原則に違反するものではないが、必要な場合に限り注意して実装することがガイドラインとして推奨されている。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "部分メソッドが導入された。部分型(partial 型)内で定義された private で、かつ戻り値が void のメソッドに partial 修飾子をつけることでメソッドの宣言と定義を分離させることができる。定義されていない部分メソッドは何も行わず、何らエラーを発生させることもない。例えば:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "上のコードにおいて Method() を呼び出すと、Did something. と表示されるだけだが、ここで以下のコード:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "を追加した上で Method() を呼び出すと、[DEBUG: Some message] Did something. と表示される。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ラムダ式が導入された。この名前はラムダ計算に由来する。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "以下の匿名メソッド",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "は、ラムダ式を使って次のように記述できる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ラムダ式は匿名メソッドと同様に扱えるが、式形式のラムダがExpression<TDelegate>型として扱われた場合のみ匿名メソッドとして扱われず、コンパイラによって式木を構築するコードに変換される。匿名デリゲートが実行前にコンパイルされたCILを保持するのに対し、式木はCILに実行時コンパイル可能であるDOMのような式の木構造そのものを保持する。これはLINQクエリをSQLクエリなどに変換する際に役立つ。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "以下は、3つの任意の名前の変数、整数、括弧、及び四則演算子のみで構成された式を逆ポーランド記法に変換する汎用的なコードである:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "オブジェクトの初期化が式として簡潔に記述できるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、コレクションの初期化も同様に簡潔に記述できるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "但し、上のコードでは匿名の変数に便宜的に __p、__l、__d と命名している。実際はプログラマはこの変数にアクセスすることはできない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "プロパティをより簡潔に記述するための自動実装プロパティが導入された。プロパティの定義に get; set; と記述することで、プロパティの値を保持するための匿名のフィールド(プログラマは直接参照することはできない)と、そのフィールドにアクセスするためのアクセサが暗黙に定義される。また、C# 5.0 までは get;とset;のどちらか片方だけを記述することは出来なかったが、C# 6.0 からは get; のみが可能。以下のコード:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "は、以下のようなコードに相当する動作をする:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "但し、上のコードでは匿名のフィールドに便宜的に __value と命名している。実際はプログラマはこのフィールドにアクセスすることはできない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一時的に使用される型を簡単に定義するための匿名型が導入された。以下に例を挙げる:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "上の式は、以下の内容のクラスを暗黙に定義する。定義されたクラスは匿名であるが故にプログラマは参照できない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同じ型、同じ名前のプロパティを同じ順序で並べた匿名型は同じであることが保証されている。即ち、以下のコード:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "において、her.GetType() == him.GetType() は true である。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "new キーワードを用いた配列の宣言の際、型を省略できるようになった。匿名型の配列を宣言する際に威力を発揮する。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "LINQ をサポートするために、クエリ式が導入された。これは SQL の構文に類似しており、最終的に通常のメソッド呼び出しに変換されるものである。以下に例を示す:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "上のコードは以下のように変換される:",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "C# 3.0で追加された構文の多くは式であるため、より巨大な式(当然クエリ式も含まれる)の一部として組み込むことができる。旧来複数の文に分けたり、作業用の変数を用意して記述していたコードを単独の式としてより簡潔に記述できる可能性がある。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "出井秀行著の『実戦で役立つ C#プログラミングのイディオム/定石&パターン』(技術評論社、2017年)という書籍ではクエリ構文よりメソッド構文を推奨しており、クエリ構文ではLINQの全ての機能を使用できるわけではないこと、メソッド呼び出しは処理を連続して読める可読性があること、メソッド呼び出しであればMicrosoft Visual Studioの強力なインテリセンスが利用できることを理由に、著者はクエリ構文をほとんど使用していないと記している。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "dynamicキーワードが導入され、動的型付け変数を定義できるようになった。dynamic型として宣言されたオブジェクトに対する操作のバインドは実行時まで遅延される。",
"title": "言語仕様"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "VBやC++に実装されているオプション引数・名前付き引数が、C#でも利用できるようになった。",
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ジェネリクスの型引数に対してin、out修飾子を指定することにより、ジェネリクスの共変性・反変性を指定できるようになった。",
"title": "言語仕様"
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{
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"text": "静的 using ディレクティブを利用することで、型名の指定無しに他クラスの静的メンバーの呼び出しを行えるようになった。利用するにはusing staticの後に完全修飾なクラス名を指定する。",
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"text": "catchの後にwhenキーワードを使用することで、処理する例外を限定することができるようになった。",
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"text": "out引数で値を受け取る場合、その場所で変数宣言可能となった。",
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "is式の構文が拡張され、型の後ろに変数名を宣言できるようになった。 拡張されたis式はマッチした場合に宣言した変数にキャストした値を代入し、さらにtrueと評価される。 マッチしなかった場合はfalseと評価され、宣言した変数は未初期化状態となる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "switch文のマッチ方法が拡張され、caseラベルに従来の「定数パターン」に加え、新たに「型パターン」を指定できるようになった。 また、「型パターン」のcaseラベルでは、when句に条件を指定することができる。 「型パターン」を含むswitch文では、必ずしも条件が排他的でなくなったため、最初にマッチしたcaseラベルの処理が実行される。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "タプルのための軽量な構文が導入された。従来のSystem.Tupleクラスとは別に、System.ValueTuple構造体が新しく追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2個以上の要素を持つタプルのための記法が導入された。 引数リストと同様の形式で、タプルを記述できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "多値戻り値を簡単に扱えるように、分解がサポートされた。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "分解はタプルに限らない。Deconstruct()メソッドが定義されたクラスでも、分解を利用できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "以下に、DateTime型に分解を導入する例を示す。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "上記のコードでDateTime型にDeconstruct()拡張メソッドを定義し、",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "のように左辺で3つの変数に値を受け取ることができる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "分解、out引数、パターンマッチングで、値の破棄を明示するために_が利用できるようになった。 破棄された値は、後で参照することはできない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "refキーワードの使用方法が拡張された。これによって、安全な参照の使い道が広がった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "戻り値の型をrefで修飾することで、オブジェクトの参照を戻り値とすることができる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "変数の寿命は変わらないため、メソッド終了時に破棄されるローカル変数をref戻り値とすることはできない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ローカル変数の型をrefで修飾することで、参照を代入することができる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "Mainメソッドの戻り値として、Task型、Task(int)型が認められた。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "型推論可能な場面では、defaultの型指定は省略可能となった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "C#7.2で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "値型におけるパフォーマンス向上を意図した複数の機能が追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "引数にinを指定することで、読み取り専用参照渡しを指定できる。 また、戻り値にref readonlyを指定することで、読み取り専用参照戻り値を指定できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "これにより、構造体のコピーを避けると共に、意図しない値の変更を抑止できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "構造体宣言時にreadonlyを指定することで、真の読み取り専用構造体を定義できる。 readonly構造体の全てのフィールドはreadonlyでなければならず、thisポインタも読み取り専用となる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "これにより、メンバーアクセス時の意図しない防御的コピーを抑止できる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "構造体宣言時にrefを指定することで、ヒープ領域へのコピーを防ぐ構造体がサポートされる。 ref構造体では、box化できない、配列を作成できない、型引数になることができない、など、ヒープ領域へのコピーを防ぐための厳しい制限がかかる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "この機能は、Span<T>のような構造体をサポートするために利用され、unsafe文脈以外でのstackallocの利用をも可能とする。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "C#4.0で追加された名前付き引数が末尾以外でも利用できるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "同一アセンブリ内、かつ、継承先からのアクセス許可を表すprivate protectedアクセス修飾子が追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "十六進リテラルの0x、二進リテラルの0bの直後のアンダースコアが認められた。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "C#7.3では以下の仕様が追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "C# 8.0で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "参照型にnull許容性を指定できるようになった。参照型の型名に?を付加した場合にnull許容参照型となる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "参照型の型名に?を付加しない場合、null非許容参照型となる。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "フロー解析レベルでのnull許容性チェックが行われる。null許容値型のNullable<T>のような新しい型は導入されない。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "参照型のnull許容性は、null許容コンテキストによって有効、無効の切り替えが可能である。 C#7.3以前の互換性のために、既定では無効となっている。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "null許容参照型の変数名の後に !を使用することで、フロー解析時の警告が免除される。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "インタフェースのメンバーに既定の実装を指定できるようになった。また、インタフェースに静的メンバーを持つことができるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "さらに、インタフェースのメンバーにアクセシビリティを指定できるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "switch式が追加された。 プロパティパターン、タプルパターン、位置指定パターンの追加により、再帰的なパターンマッチングが可能になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "IAsyncEnumerable<T> インタフェースを返すことで、イテレータ構文と非同期構文の共存が可能になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "await foreachによって非同期ストリームを列挙する。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "IndexとRangeを指定できる専用構文が追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "C# 9.0で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "C# 10.0で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "C# 11.0で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "エスケープなどの加工を施さない文字列を3個の二重引用符で括って表現できる様になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "属性の型が型引数を持てる様になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "リストや配列に対するパターンマッチが可能になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "また、Span<char>やReadOnlySpan<char>に対するパターンマッチが可能になった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "C# 12.0で追加された仕様は以下の通り。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "レコード型以外のclass, structでプライマリコンストラクターが使えるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "配列、コレクション、Span<T>などの初期化の記法が共通の記法([])で書けるようになった。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "コレクション式で複数のコレクションをインライン展開できる新しい演算子(..)が追加された。",
"title": "言語仕様"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "C#の言語仕様は標準化団体Ecma Internationalを通じて公開・標準化されており、第三者がマイクロソフトとは無関係にコンパイラや実行環境を実装することができる。 現段階で、C#コンパイラの実装は次の5つが知られている。",
"title": "実装"
}
]
| C#(シーシャープ)は、マイクロソフトが開発した、汎用のマルチパラダイムプログラミング言語である。C#は、Javaに似た構文を持ち、C++に比べて扱いやすく、プログラムの記述量も少なくて済む。また、C#は、Windowsの.NET Framework上で動作することを前提として開発された言語であるが、2023年現在はクロスプラットフォームな.NETランタイム上で動作する。 デスクトップ・モバイルを含むアプリケーション開発や、ASP.NETをはじめとするWebサービスの開発フレームワーク、ゲームエンジンのUnityでの採用事例などもある。 マルチパラダイムをサポートする汎用高レベルプログラミング言語で、静的型付け、タイプセーフ、スコープ、命令型、宣言型、関数型、汎用型、オブジェクト指向(クラスベース)、コンポーネント指向のプログラミング分野を含んでいる。 共通言語基盤 (CLI) といった周辺技術も含め、マイクロソフトのフレームワークである「.NET」の一部である。また、以前のVisual J++で「非互換なJava」をJavaに持ち込もうとしたマイクロソフトとは異なり、その多くの仕様を積極的に公開し、標準化機構に託して自由な利用を許す など、同社の姿勢の変化があらわれている。 設計はデンマークのアンダース・ヘルスバーグによる。 構文はC系言語(C,C++など)の影響を受けており、その他の要素には以前ヘルスバーグが所属していたボーランド設計のDelphiの影響が見受けられる。また、主要言語へのasync/await構文や、ヘルスバーグが言語設計に関わるTypeScriptでのジェネリクス採用など、他言語への影響も見られる。 | {{Otheruses|プログラミング言語|音名のC♯|嬰ハ}}
{{記事名の制約|title=C#}}
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
| onlysourced = false
| name = C#
| released = {{start date and age|2000}}
| designer = [[マイクロソフト]]([[アンダース・ヘルスバーグ]]率いるチーム)
| latest release version = 12.0
| latest release date = {{release date and age|2023|11|14}}<ref>{{Cite web|date=2023-11-14|url=https://devblogs.microsoft.com/dotnet/announcing-csharp-12/|title=Announcing C# 12|publisher=[[マイクロソフト]]|accessdate=2023-12-19}}</ref>
| dialects =
| typing = 強い[[静的型付け]](4.0から動的型導入)
| implementations = [[共通言語ランタイム|CLR]], [[Mono (ソフトウェア)|Mono]]
| influenced = [[D言語]], [[F Sharp|F#]], [[Java]], [[Nemerle]], [[Vala]], [[TypeScript]]
| operating system = [[Microsoft Windows|Windows]], [[macOS]], [[Linux]]など
| license = [[Apacheライセンス]] (Roslyn)
| website = {{ConditionalURL}}
|ロゴ=C Sharp Icon.png}}
{{プログラミング言語|index = しいしやあふ}}
'''C#'''(シーシャープ)は、[[マイクロソフト]]が開発した、汎用の[[マルチパラダイムプログラミング言語]]である。C#は、[[Javaの文法|Javaに似た構文]]を持ち、[[C++]]に比べて扱いやすく、プログラムの記述量も少なくて済む。また、C#は、Windowsの[[.NET Framework]]上で[[ランタイムシステム|動作]]することを前提として開発された言語であるが、2023年現在は[[クロスプラットフォーム]]な[[.NET]]ランタイム上で動作する。
[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]・[[モバイル]]を含むアプリケーション開発や、[[ASP.NET Core|ASP.NET]]をはじめとするWebサービスの開発フレームワーク、[[ゲームエンジン]]の[[Unity (ゲームエンジン)|Unity]]での採用事例などもある。
マルチパラダイムをサポートする汎用高レベルプログラミング言語で、[[静的型付け]]、[[型安全性|タイプセーフ]]、[[スコープ (プログラミング)|スコープ]]、[[命令型プログラミング|命令型]]、[[宣言型プログラミング|宣言型]]、[[関数型プログラミング|関数型]]、[[ジェネリックプログラミング|汎用型]]、[[オブジェクト指向]]([[クラスベース]])、[[:en:Component-based_software_engineering|コンポーネント指向]]のプログラミング分野を含んでいる。
[[共通言語基盤]] (CLI) といった周辺技術も含め、マイクロソフトのフレームワークである'''「.NET」'''の一部である。また、以前の[[Microsoft Visual J++|Visual J++]]で「非互換なJava」をJavaに持ち込もうとしたマイクロソフトとは異なり、その多くの{{Efn|全てではなく一部にプロプライエタリなコンポーネントもある。そのため、それに依存するものなど、後述のMonoなどで制限がある場合がある<ref name="InfoQ-Microsoft-Community-Promise">{{Cite web|和書|url=https://www.infoq.com/jp/news/2009/07/Microsoft-Community-Promise/ |title=誰でもC#とCLIの正式な実装が可能に |author=Abel Avram |date=2009-07-29 |website=InfoQ |accessdate=2019-12-02}}</ref>。}}仕様を積極的に公開し、標準化機構に託して自由な利用を許す (ECMA-334,ISO/IEC 23270:2003,JIS X 3015) など、同社の姿勢の変化があらわれている。
設計はデンマークの[[アンダース・ヘルスバーグ]]による。
構文はC系言語([[C言語|C]],[[C++]]など)の影響を受けており、その他の要素には以前[[アンダース・ヘルスバーグ|ヘルスバーグ]]が所属していた[[ボーランド]]設計の[[Delphi]]の影響が見受けられる。また、主要言語への[[Async/await|async/await]]構文や、ヘルスバーグが言語設計に関わる[[TypeScript]]での[[ジェネリックプログラミング|ジェネリクス]]採用など、他言語への影響も見られる。
== 概要 ==
開発にはボーランドの[[Turbo Pascal]]や[[Delphi]]を開発した[[アンダース・ヘルスバーグ]]を筆頭として多数のDelphi開発陣が参加している。
C#は[[共通言語基盤]]([[共通言語ランタイム]]など)が解釈する[[共通中間言語]]に[[コンパイル]]されて実行される。<!--
基本的な書式が[[C言語]]風になっているため、初見の構文は[[サン・マイクロシステムズ]]による[[Java]]に近いと言われるが、実際の構文はDelphiに準じており、[[C言語]]風ということもあり[[C++ Builder]]の独自拡張構文に極めて近い内容となっている。また[[プロパティ (プログラミング)|プロパティ]]や[[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]]など[[Delphi]]の構文そのまま、もしくは名称変更しただけの機能となっているものが多い。
--><!--
↑Delphiの構文(syntax)はどこをどう見たってPascalでしょう? この文章は、はっきり言って、「構文」という語について、構文(syntax)ではないよくわからない何かのことを「構文」と言っているので何を言いたいのかよくわからなくなっているように見える。
-->
[[ボックス化|自動ボックス化]]、[[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]]、
[[プロパティ (プログラミング)|プロパティ]]、[[インデクサ]]、[[メタデータ (共通言語基盤)|カスタム属性]]、[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]演算操作、[[構造体]](値型オブジェクト)、[[配列|多次元配列]]、[[引数|可変長引数]]、などの機能を持つ。また、Javaと同様に大規模[[ライブラリ]]、[[プロセッサ・アーキテクチャ]]に依存しない実行形態、[[ガベージコレクション]]、[[ジャストインタイムコンパイル方式|JITコンパイル]]による実行の高速化、などが実現されている(もっともこれらはC#の機能というより.NET によるものである)。
.NET構想における中心的な開発言語であり、[[Extensible Markup Language|XML]] [[Webサービス]]や[[ASP.NET]]の記述にも使用される。他の.NET系の言語でも記述可能だが、.NET APIはC#からの利用を第一に想定されており、他の.NET系言語(特に2023年以降新構文の追加なしと宣言されたVB.NET<ref>{{Cite Web | title = Visual Basic 言語の戦略 - Visual Basic | Microsoft Learn | publisher = Microsoft | date = 2023/05/10 | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/visual-basic/getting-started/strategy | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>)では利用できない、あるいは将来的に利用できなくなる機能が存在する。
マイクロソフトの[[統合開発環境]]([[Microsoft Visual Studio]])では、[[Microsoft Visual C Sharp|Microsoft Visual C#]]がC#に対応している。また、[[Visual Studio Code]]に専用のC#向け拡張(C# DevKit)を導入することでクロスプラットフォームで開発することが可能<ref>{{Cite Web | title = Visual Studio Code 用の C# 開発キット - Visual Studio Subscription | Microsoft Learn | publisher = Microsoft | date =
2023/10/13 | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/visualstudio/subscriptions/vs-c-sharp-dev-kit | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>。
共通言語仕様のCLSによって、他のCLS準拠の言語([[F Sharp|F#]]や[[Microsoft Visual Basic .NET|Visual Basic .NET]]や[[Microsoft Visual C++|Visual C++]] ([[C++/CLI]]) など)と相互に連携することができる。
== バージョンおよびリリース時期 ==
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! rowspan="2" | バージョン
! colspan="3" | 言語仕様
! style="width:6em;" rowspan="2" | リリース時期
! rowspan="2" | .NET
! rowspan="2" | [[Visual Studio]]
|-
! [[Ecma International|ECMA]]<ref name="ECMA-334">{{Cite web|url=https://ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-334/ |title=Standard ECMA-334 |publisher=ECMA |accessdate=2023-12-23}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ecma-international.org/flat/publications/standards/Ecma-334-arch.htm |title=Standard ECMA-334-archive |accessdate=2018-11-13 |deadlinkdate=2022-06-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181113210355/http://www.ecma-international.org/flat/publications/standards/Ecma-334-arch.htm |archivedate=2018-11-13}}</ref>
! [[ISO/IEC]]
! style="width:8em;" | [[マイクロソフト]]
|-
| 1.0
| rowspan="2"|{{Nowrap begin}}[https://www.ecma-international.org/wp-content/uploads/ECMA-334_2nd_edition_december_2002.pdf ECMA-334:2003]{{Wrap}}(2002年12月){{Nowrap end}}
| rowspan="2"|{{Nowrap begin}}[https://www.iso.org/standard/36768.html ISO/IEC 23270:2003]{{Wrap}}(2003年4月){{Nowrap end}}
| [http://download.microsoft.com/download/a/9/e/a9e229b9-fee5-4c3e-8476-917dee385062/CSharp%20Language%20Specification%20v1.0.doc 2002年1月]
| 2002年1月
| {{No wrap|.NET Framework 1.0}}
| .NET (2002){{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
|-
| {{Plainlist|*1.1<ref group="b" name="ufcpp-ap_ver1#sec-generated-title-2">{{Cite web|和書|url=https://ufcpp.net/study/csharp/cheatsheet/ap_ver1/#sec-generated-title-2 |title=C# 1.0 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C |accessdate=2021-01-23}}</ref>
*1.2{{R|ufcpp-ap_ver1#sec-generated-title-2|group="b"}}
}}
| [http://download.microsoft.com/download/5/e/5/5e58be0a-b02b-41ac-a4a3-7a22286214ff/csharp%20language%20specification%20v1.2.doc 2003年10月]
| 2003年4月
| .NET Framework 1.1{{R|ufcpp-ap_ver1#sec-generated-title-2|group="b"}}
| .NET 2003{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}{{R|ufcpp-ap_ver1#sec-generated-title-2|group="b"}}
|-
| 2.0
| {{Nowrap begin}}[https://www.ecma-international.org/wp-content/uploads/ECMA-334_4th_edition_june_2006.pdf ECMA-334:2006]{{Wrap}}(2006年6月){{Nowrap end}}
| {{Nowrap begin}}[https://www.iso.org/standard/42926.html ISO/IEC 23270:2006]{{Wrap}}(2006年9月){{Nowrap end}}
| [http://download.microsoft.com/download/9/8/f/98fdf0c7-2bbd-40d3-9fd1-5a4159fa8044/csharp%202.0%20specification_sept_2005.doc 2005年9月]
| {{No wrap|2005年11月}}
| {{Plainlist|*.NET Framework 2.0<ref group="b">{{Cite web|和書|url=https://ufcpp.net/study/csharp/ap_ver2.html |title=C# 2.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C |accessdate=2021-01-23}}</ref>
*.NET Framework 3.0
}}
| 2005{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
|-
| 3.0
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| [http://download.microsoft.com/download/3/8/8/388e7205-bc10-4226-b2a8-75351c669b09/CSharp%20Language%20Specification.doc 2007年8月]
| 2007年11月
| {{Plainlist|*.NET Framework 2.0{{Efn|name="exLINQ"|(LINQを除く)<ref name="danielmoth1">{{cite web|url=http://www.danielmoth.com/Blog/using-c-30-from-net-20.aspx |title=Using C# 3.0 from .NET 2.0 |publisher=Danielmoth.com |date=May 13, 2007 |accessdate=October 4, 2012}}</ref>}}
*.NET Framework 3.0{{Efn|name="exLINQ"}}
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| 2008{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
|-
| 4.0
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2010年4月
| 2010年4月
| .NET Framework 4<ref group="b">{{Cite web|和書|url=https://ufcpp.net/study/csharp/ap_ver4.html |title=C# 4.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C |accessdate=2021-01-23}}</ref>
| 2010{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
|-
| 5.0
| {{Nowrap begin}}[https://www.ecma-international.org/wp-content/uploads/ECMA-334_5th_edition_december_2017.pdf ECMA-334:2017]{{Wrap}}(2017年12月){{Nowrap end}}
| {{Nowrap begin}}[https://www.iso.org/standard/75178.html ISO/IEC 23270:2018]{{Wrap}}(2018年12月){{Nowrap end}}
| [https://www.microsoft.com/en-us/download/details.aspx?id=7029 2013年6月]
| 2012年8月
| .NET Framework 4.5<ref group="b">{{Cite web|和書|url=https://ufcpp.net/study/csharp/ap_ver5.html |title=C# 5.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C |accessdate=2021-01-23}}</ref>
| {{Ubl|2012{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}|2013}}
|-
| 6.0
| {{Nowrap begin}}[https://ecma-international.org/wp-content/uploads/ECMA-334_6th_edition_june_2022.pdf ECMA-334:2022]{{Wrap}}(2022年6月){{Nowrap end}}
| {{n/a}}
| [https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/language-specification/ Draft]
| 2015年7月
| {{Plainlist|*.NET Framework 4.6<ref>{{Cite news|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/712658.html |title=Microsoft、「.NET Framework 4.6」を正式公開 |newspaper=窓の杜 |accessdate=2021-01-23}}</ref>
*.NET Core 1.0
*.NET Core 1.1
}}
| 2015{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
|-
| 7.0
| {{Nowrap begin}}[https://ecma-international.org/wp-content/uploads/ECMA-334_7th_edition_december_2023.pdf ECMA-334:2023]{{Wrap}}(2023年12月){{Nowrap end}}
| {{Nowrap begin}}[https://www.iso.org/standard/86347.html ISO/IEC 20619:2023 ]{{Wrap}}(2023年9月){{Nowrap end}}
| {{n/a}}
| 2017年3月
| .NET Framework 4.7<ref>{{Cite news|url=https://www.infoq.com/jp/news/2017/05/net47-released/ |title=.NET Framework 4.7が一般公開される |newspaper=InfoQ |accessdate=2021-01-23}}</ref>
| 2017 version 15.0<ref group="a">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/visualstudio/releasenotes/vs2017-relnotes-v15.0#details-of-whats-new-in-150-2622804 |title=Visual Studio 2017 バージョン 15.0 リリース ノート |website=Microsoft Docs |accessdate=2021-01-23}}</ref>
|-
| 7.1
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2017年8月
| .NET Core 2.0{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
| 2017 version 15.3<ref group="a">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releasenotes/vs2017-relnotes-v15.3#cs71 |title=Visual Studio 2017 15.3 Release Notes |website=Microsoft Docs |accessdate=2018-11-12}}</ref>
|-
| 7.2
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2017年11月
| .NET Core 2.0{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
| 2017 version 15.5<ref group="a">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releasenotes/vs2017-relnotes-v15.5 |title=Visual Studio 2017 15.5 Release Notes |website=Microsoft Docs |accessdate=2018-11-12}}</ref>
|-
| 7.3
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2018年5月
| {{Plainlist|*.NET Core 2.1<ref group="b">{{Cite web|和書|url=https://ufcpp.net/study/csharp/cheatsheet/ap_ver7_3/ |title=C# 7.3 の新機能 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C |accessdate=2021-01-23}}</ref>
*.NET Core 2.2
*.NET Framework 4.8
}}
| 2017 version 15.7<ref group="a">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releasenotes/vs2017-relnotes-v15.7 |title=Visual Studio 2017 15.7 Release Notes |website=Microsoft Docs |accessdate=2018年8月24}}</ref>
|-
| 8.0
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2019年9月
| {{Plainlist|*.NET Core 3.0<ref>{{Cite news|url=https://www.infoq.com/jp/news/2019/12/microsoft-releases-dotnet-core-3/ |title=Micorsoftが.NET Core 3.0をリリース |newspaper=InfoQ |accessdate=2021-01-23}}</ref>
*.NET Core 3.1
}}
| 2019 version 16.3<ref group="a">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releases/2019/release-notes#16.3.0 |title=Visual Studio 2019 Release Notes |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-09-30}}</ref>
|-
| 9.0
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| 2020年11月
| .NET 5.0<ref name="announce-netcore50">{{Cite web|url=https://devblogs.microsoft.com/dotnet/announcing-net-5-0/ |title=Announcing .NET 5.0 |date=2020-11-10 |author=Richard Lander |language=en |website=.NET Blog |publisher=Microsoft |accessdate=2020-11-11}}</ref>
| 2019 version 16.8<ref group="a">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releases/2019/release-notes#16.8.0 |title=Visual Studio 2019 Release Notes |website=Microsoft Docs |accessdate=2020-11-10}}</ref>
|-
| 10.0<ref group="a">{{Cite web|title=What's new in C# 10 |url=https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/whats-new/csharp-10 |access-date=2022-06-28 |website=docs.microsoft.com |language=en-us}}</ref>
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| [https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/proposals/csharp-10.0/record-structs Proposal]
| 2021年12月
| {{ubl|.NET 6.0|.NET 6.0.1}}
| 2022 version 17.0<ref group="a" name="visualstudio.com.2022">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/visualstudio/releases/2022/release-notes |title=Visual Studio 2022 version 17.0 Release Notes |website=docs.microsoft.com |accessdate=2022-06-28}}</ref>
|-
| 11.0<ref group="a" name="cs11_mslearn">{{Cite web|和書|title=C# 11 の新機能 |url=https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-11 |access-date=2023-08-15 |website=Microsoft Learn |language=ja-jp}}</ref><ref group="b" name="cs11_ufcpp">{{Cite web|和書|title=C# 11.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 |url=https://ufcpp.net/study/csharp/cheatsheet/ap_ver11/ |access-date=2023-08-15 |website=++C++; // 未確認飛行 C |language=ja-jp}}</ref>
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| [https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/proposals/csharp-11.0 C# feature specifications]
| 2022年11月<ref group="a" name="net7.0_dotnetblog">{{Cite web|title=.NET 7 is Available Today |url=https://devblogs.microsoft.com/dotnet/announcing-dotnet-7/ |access-date=2023-08-15 |website=.NET Blog |language=en-us}}</ref>{{R|cs11_ufcpp|group="b"}}
| .NET 7.0{{R|net7.0_dotnetblog|group="a"}}{{R|cs11_ufcpp|group="b"}}
| 2022 version 17.4{{R|net7.0_dotnetblog|group="a"}}<ref group="a">{{Cite web|和書|title=Visual Studio 2022 バージョン 17.4 リリース ノート |url=https://learn.microsoft.com/ja-jp/visualstudio/releases/2022/release-notes-v17.4 |access-date=2023-08-15 |website=Microsoft Learn |language=ja-jp}}</ref>{{R|cs11_ufcpp|group="b"}}
|-
| 12.0<ref group="a" name="cs12_mslearn">{{Cite web|和書|title= C# 12 の新機能 |url=https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-12 |access-date=2023-12-19 |website=Microsoft Learn |language=ja-jp}}</ref><ref group="b" name="cs12_ufcpp">{{Cite web|和書|title=C# 12.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 |url=https://ufcpp.net/study/csharp/cheatsheet/ap_ver12/ |access-date=2023-12-19 |website=++C++; // 未確認飛行 C |language=ja-jp}}</ref>
| {{n/a}}
| {{n/a}}
| [https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/proposals/csharp-12.0/primary-constructors C# feature specifications]
| 2023年11月<ref group="a" name="net8.0_dotnetblog">{{Cite web|title=Announcing .NET 8 |url=https://devblogs.microsoft.com/dotnet/announcing-dotnet-8/ |access-date=2023-12-19 |website=.NET Blog |language=en-us}}</ref>{{R|cs12_ufcpp|group="b"}}
| .NET 8.0{{R|net8.0_dotnetblog|group="a"}}{{R|cs12_ufcpp|group="b"}}
| 2022 version 17.8{{R|net8.0_dotnetblog|group="a"}}<ref group="a">{{Cite web|和書|title=Visual Studio 2022 バージョン 17.8 リリース ノート |url=https://learn.microsoft.com/ja-jp/visualstudio/releases/2022/release-notes-v17.8 |access-date=2023-12-19 |website=Microsoft Learn |language=ja-jp}}</ref>
|}
== 言語仕様 ==
さまざまな意味において、基盤である[[共通言語基盤|CLI]]の機能をもっとも反映している言語であるといえる。C#にある組み込み型のほとんどは、CLIフレームワークに実装されている値型と対応している。
しかし、C#の言語仕様はコンパイラのコード生成については何も言及していないため、[[共通言語ランタイム|CLR]]に対応しなければならないとか、[[共通中間言語]] (CIL) などの特定のフォーマットのコードを生成しなければならないとかいうことは述べられていない。
そのため、理論的には[[C++]]や[[FORTRAN]]のように環境依存のマシン語を生成することも可能である。しかし、現在存在するすべてのC#コンパイラはCLIをターゲットにしている。
.NET 7.0以降で可能になった事前コンパイルの一種である'''「Native AOT」'''でデプロイすることで実行可能な環境依存のバイナリを出力することが可能である。しかしながらこの手法もCLIとランタイムを事前に各アーキテクチャ向けのバイナリに変換しているだけであり、CLIを経由することに変わりはない。<ref>{{Cite Web | title = Native AOT deployment overview - .NET | Microsoft Learn | publisher = Microsoft | date = 2023/09/12 | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/core/deploying/native-aot/ | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
特殊な例としては、UnityのScripting Backendである「[[Unity (ゲームエンジン)#IL2CPP|IL2CPP]]」<ref>{{Cite Web | title = IL2CPP の概要 - Unity マニュアル | publisher = Unity | date = | url = https://docs.unity3d.com/ja/2023.2/Manual/IL2CPP.html | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>や「Burst」<ref>{{Cite Web | title = Burst の概要 | Burst | 1.8.2 | publisher = Unity | date = | url = https://docs.unity3d.com/ja/Packages/[email protected]/manual/index.html | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>がある。
IL2CPPはC#をコンパイルしたCLIをさらにC++コードへと変換後、ネイティブバイナリへC++コンパイラによってコンパイルされる。BurstはC#をコンパイルしたCLIを[[LLVM|LLVMコンパイラ]]によってネイティブバイナリへコンパイルするものである。
=== Hello World ===
C#の[[Hello World]]は以下の通りである<ref>{{Cite Web | title = Hello World - C# の概要に関する対話型チュートリアル | Microsoft Learn | publisher = Microsofit | date = | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/tour-of-csharp/tutorials/hello-world?tutorial-step=1 | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>。1行での記述が可能。
<syntaxhighlight lang="csharp">
Console.WriteLine("Hello World!");
</syntaxhighlight>
あえて冗長に記載すると下記の様になる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
using System;
namespace Wikipedia
{
class Program
{
static void Main(string[] args)
{
Console.WriteLine("Hello World!");
}
}
}
</syntaxhighlight>
このコードは問題なくコンパイルが通るが、以下のような冗長な記述が含まれる。
* 不要な<code>using</code> <ref>暗黙的な using ディレクティブ {{Cite Web | title = .NET プロジェクト SDK の概要 | Microsoft Learn | publisher = | date = | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/core/project-sdk/overview#implicit-using-directives | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
* 省略可能な<code>namespace</code>(<code>"Wikipedia"</code>)の宣言 <ref name="toplevelstatement">{{Cite Web | title = 最上位レベルのステートメント - C# チュートリアル - C# | Microsoft Learn | publisher = | date = | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/tutorials/top-level-statements | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
* 省略可能な<code>class</code>(<code>"Program"</code>)の宣言 <ref name="toplevelstatement" />
* 省略可能な[[エントリーポイント|エントリーポイント関数]](<code>Main</code>)の宣言 <ref name="toplevelstatement" />
=== CやC++からの改良点 ===
C#では、CやC++と比較してさまざまな制限や改良が加えられている。また、仕様の多くはC#言語というよりは、基盤である .NET そのものに依拠している。Javaで導入された制限および改良をC#でも同様に採用しているものが多いが、C#で新たに導入された改良がのちにJavaにも同様に採用されたものもある。その例を次に挙げる。
==== 構文や構文以外の改良点 ====
* 外のブロックで宣言した変数と同じ名前の変数を、内のブロックで再宣言(シャドウ)してはいけない。再宣言は便利なこともあれば、混乱や曖昧のもとと主張されることもあるが、C#では禁止されている。
* C#には[[ブーリアン型|ブール型]]<code>bool</code>が存在し、<code>[[while文|while]]</code>文や<code>[[if文|if]]</code>文のように条件をとるステートメントには、<code>bool</code>型の式を与えなければならない。C言語では、ブール型が無く<code>int</code>型(0を偽とし、非0を真とする)に兼用させた上、([[ヌルポインタ]]を偽とみなすこととするといろいろと便利だった、ということもあり)ポインタでも<code>while</code>文や<code>if</code>文に与える式にできる、という仕様としていた。これは便利なこともあったが、本来比較式を記述すべきところで誤って代入式を記述してもコンパイル適合となってしまうなど、ミスが見逃されることもあった。C#では{{要出典範囲|date=2017年11月|ミスを防止するため}}に、そのような仕様ではなくブール型を独立させ、またブール型を厳密に要求する場所を多くしている。
* <code>[[switch文|switch]]</code>文に整数型あるいは整数型に準ずる型のみならず、文字列型<code>string</code>を使用できる。<code>case</code>ラベルには、整数型あるいは整数型に準ずる型の定数のみならず、文字列リテラル(文字列定数)を使用できる。
** C# 7.0 以降では <code>case</code>ラベルに複雑な[[パターンマッチング]]を行うことが可能で複雑な判定を簡易な記述で記載が可能。<ref group="b">{{Cite Web | title = パターン マッチング - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C | publisher = | date = | url = https://ufcpp.net/study/csharp/datatype/patterns/ | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
* 組み込み型のサイズおよび内部表現が仕様で定められており、プラットフォームや処理系に依存しない。[[浮動小数点数]]は[[IEEE 754]]に準拠する<ref group="a">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/previous-versions/cc406734(v=msdn.10)?redirectedfrom=MSDN |title=2-2 変数と定数 |website=Microsoft Docs |accessdate=2018-11-11}}</ref>。文字および文字列は[[UTF-16]]エンコーディングを採用する<ref group="a">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/standard/base-types/character-encoding |title=.NET での文字エンコード |website=Microsoft Docs |accessdate=2018-11-11}}</ref>。
** C# 9.0以降では CPUによってサイズの異なる整数型 <code>nint/nuint</code>が追加された <ref group="b">{{Cite Web | title = C# 9.0 の新機能 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C | publisher = | date = 2020/05/09 | url = https://ufcpp.net/study/csharp/cheatsheet/ap_ver9/#nint | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
** C# 11.0 以降では文字列を[[UTF-8]]として扱う「UTF-8文字列リテラル」が追加された<ref>{{Cite Web | title = 組み込みの参照型 - C# リファレンス - C# | Microsoft Learn | publisher = Microsoft | date = 2023/05/10 | url = https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/builtin-types/reference-types#utf-8-string-literals | accessdate = 2023-12-23 }}</ref>
==== ポインタとメモリ管理 ====
* ポインタをサポートする。ポインタは<code>unsafe</code>スコープ内のみで使用することができ、適切な権限をもつプログラムのみが<code>unsafe</code>とマークされたコードを実行することができる。オブジェクトへのアクセスの大部分は管理された安全な参照によってなされ、大部分の算術演算はオーバフローのチェックがなされる。<code>unsafe</code>ポインタは値型や文字列を指すことができる。セーフコードでは、必ずしもそうする必要はないものの、<code>IntPtr</code>型を通してポインタをやりとりすることができる。
* マネージドなメモリを明示的に解放する方法は存在せず、参照されなくなったメモリは[[ガベージコレクション|ガベージコレクタ]]によって自動的に解放される。ガベージコレクタは、メモリの解放忘れによって起こるメモリリークを解消する。C#は、データベース接続のようなアンマネージドなリソースに対しても明示的に制御する方法を提供している。これは<code>IDisposable</code>[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]と<code>using</code>ステートメントによってなされる。
==== 名前空間とオブジェクト指向な型システム ====
* [[グローバル変数]]やグローバルメソッドは存在しない。すべての[[フィールド (計算機科学)|フィールド]]と[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]はクラスあるいは構造体の一部として宣言されなければならない。
: 例えばC/C++の<code>[[printf]]()</code>関数のように[[名前空間]]レベルに存在するフリー関数を定義することはできない。ほとんどの場合クラスおよび構造体は名前の衝突を避けるために[[名前空間]]に所属する。
* 名前空間は階層構造をもつ。つまり、名前空間は他の名前空間の中に宣言することができる。
* 組み込みの値型を含めたすべての型は、<code>object</code>クラス (<code>System.Object</code>) の派生型である。つまり<code>object</code>クラスのもつすべてのプロパティやメソッドを継承する。例えば、すべての型は<code>ToString()</code>メソッドをもつ。
* クラス (<code>class</code>) は参照型であり、構造体 (<code>struct</code>) および列挙型 (<code>enum</code>) は値型である。構造体はクラスよりも軽量で、C/C++との相互運用性に優れるが、派生型を定義することができない。
* クラスおよび構造体は複数の[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]を実装することができるが、[[多重継承]]はサポートされない。
* C#はC++に比べて型安全である。既定の暗黙変換は、整数の範囲を広げる変換や、派生クラスから基底クラスへの変換といった、安全な変換のみに限定される。これは、コンパイル時、[[ジャストインタイムコンパイル方式|JITコンパイル]]時、そして一部の動的なケースでは実行時に強制される。ブール型と整数型、列挙型と整数型、の間は暗黙変換はできない。暗黙変換をユーザー定義する際は、明示的にそのように指定しなければならない。これはC++のコンストラクタとは違った仕様である。
* 列挙型のメンバーは、列挙型のスコープの中に置かれる。また、列挙型の定数名を取得することができる。さらに、列挙型の定数名から動的に定数値を得ることができる。
* [[アクセサ]]の定義と利用を簡略化するために[[プロパティ (プログラミング)|プロパティ]]構文を利用できる。C++およびJavaにおける[[カプセル化]]では、通例getter/setterアクセサとなるメンバー関数あるいはメソッドを定義して利用するが、C#ではプロパティ機能により、[[カプセル化]]を維持しつつ、あたかも[[フィールド (計算機科学)|フィールド]]を直接読み書きするような直感的な構文でオブジェクトの状態にアクセスすることができる。プロパティによってメンバーのアクセス制御やデータの正当性チェックを実行することができる。なお、[[イベントハンドラー]]に利用するデリゲートのカプセル化にはイベント構文 (<code>event</code>) が用意されている。
* [[ジェネリクス]]([[総称型]])の採用([[#ジェネリクス|C# 2.0]]以降)。C++のテンプレート、Javaのジェネリックスと異なりコンパイル後も型情報が保持される。また、Javaのジェネリクスと異なりプリミティブ型も型変数として使うことができる。
=== C# 2.0からの仕様 ===
==== 部分型 ====
部分型 ({{Lang|en|Partial Type}}) が導入された<ref group="a" name="whats-new-csharp-version-history">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-version-history |title=C# の歴史 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref>。以下のようにクラスや構造体の宣言に<code>partial</code>修飾子をつけることで、その宣言を分割することができる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
partial class MyClass { int a; }
partial class MyClass { int b; }
</syntaxhighlight>
これは以下と同義である:
<syntaxhighlight lang="csharp">
class MyClass { int a; int b; }
</syntaxhighlight>
これによって、巨大なクラスを分割したり、自動生成されたコードを分離したりすることができる。<code>partial</code> 修飾子はすべての宣言につける必要がある。
{{Sfn|高橋|2005|p=70}}
==== ジェネリクス ====
[[総称型|ジェネリクス]]が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。これは.NET Framework 2.0の機能である。クラス、構造体、[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]、デリゲート、メソッドに対して適用することができる。
.NETのGenericsはC++の[[テンプレート (プログラミング)|テンプレート]]、あるいは[[Java]]におけるそれとも異なるもので、コンパイルによってではなく実行時にランタイムによって特殊化される。これによって異なる言語間の運用を可能にし、リフレクションによって型パラメーターに関する情報を取得することができる。また、<code>where</code>節によって型パラメーターに制約を与えることができる。一方、C++のように型パラメーターとして[[式 (プログラミング)|式]]を指定することはできない。なお、ジェネリックメソッドの呼び出し時に引数によって型パラメーターが推論できる場合、型パラメーターの指定は省略できる。
{{Sfn|高橋|2005|pp=63–64}}
{{See also|ジェネリックプログラミング#C#と.NETのジェネリックプログラミング}}
==== 静的クラス ====
静的クラスが導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。<code>static</code>属性をクラスの宣言につけることで、クラスは[[インスタンス]]化できなくなり、静的なメンバーしか持つことができなくなる。
{{Sfn|高橋|2005|p=70}}
==== イテレータ ====
[[イテレータ#C# 2.0]]を参照。
{{Sfn|高橋|2005|pp=68–70}}
===== yieldキーワード =====
<code>yield</code>キーワードによる[[コルーチン]]を使うことで、[[ジェネレータ (プログラミング)|イテレータの生成]]を楽に実装できるようになった。
==== 匿名デリゲート ====
[[クロージャ]]の機能を提供する匿名[[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]]が導入された。
==== プロパティに対する個別のアクセス制御 ====
{{Lang|en|Property Accessors}}
プロパティの<code>get</code> もしくは <code>set</code>アクセサのどちらかにアクセス修飾子を指定することでアクセス制御が別個にできるようになった{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。次の例では、<code>get</code>アクセサは<code>public</code>、<code>set</code>アクセサは<code>private</code>である。
<syntaxhighlight lang="csharp">
public class MyClass
{
private string status = string.Empty;
public string Status
{
get { return status; }
private set { status = value; }
}
}
</syntaxhighlight>
{{Sfn|高橋|2005|pp=70, 71}}
==== Null許容型とnull結合演算子 ====
nullを保持できる値型、<code>Nullable</code>が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int? i = 512;
i = null;
int? j = i + 500; //jはnullとなる。nullとの演算の結果はnullになる。
</syntaxhighlight>
<code>int?</code>は<code>Nullable<int></code>の[[糖衣構文]]である。また、nullを保持しているNull許容型のインスタンスを[[ボックス化]]しようとすると、単に空参照 (null) に変換される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.microsoft.com/ja-jp/download/confirmation.aspx?id=55984 |title=null 許容型のボックス化 (C# プログラミング ガイド) |publisher=Microsoft |format=pdf |accessdate=2008-06-02}}</ref>。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int? x = null;
object o = x;
System.Console.WriteLine(o == null); //Trueが出力される
</syntaxhighlight>
{{Sfn|高橋|2005|p=68}}
また、[[null合体演算子|null結合演算子]] (<code>??</code>)が導入された。これは、<code>null</code>でない最初の値を返す。
<syntaxhighlight lang="csharp">
object obj1 = null;
object obj2 = new object();
object obj3 = new object();
return obj1 ?? obj2 ?? obj3; // obj2 を返す
</syntaxhighlight>
この演算子は主に<code>Nullable</code>型を非<code>Nullable</code>型に代入するときに使われる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int? i = null;
int j = i ?? -1; // nullをint型に代入することはできない
</syntaxhighlight>
==== その他 ====
* [[無名関数#C#の無名関数|匿名メソッド]]{{Sfn|高橋|2005|pp=66, 67}}
* External Aliases/Namespace Aliases Qualifiers{{Sfn|高橋|2005|p=71}}
* [[ディレクティブ#C#|プラグマディレクティブ]]/C言語の様な固定長の配列表記{{Lang|en|Fix Size Buffers}}{{Sfn|高橋|2005|p=72}}
=== C# 3.0からの仕様 ===
==== varキーワード ====
<code>var</code> キーワードが導入され、[[型推論]]を利用したローカル変数の宣言ができるようになった{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
var s = "foo";
// 上の文は右辺が string 型であるため、次のように解釈される:
string s = "foo";
// 以下に挙げる文は誤りである(コンパイルエラーとなる):
var v; // 初期化式を欠いている (型を推論する対象が存在しない)
var v = null; // 型が推論できない (曖昧である)
</syntaxhighlight>
==== 拡張メソッド ====
拡張メソッド (extension method) が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。既存のクラスを継承して新たなクラスを定義することなく、新たなインスタンスメソッドを疑似的に追加定義することができる。具体的には、入れ子になっていない、非ジェネリックの静的クラス内に、<code>this</code> 修飾子をつけた、拡張メソッドを追加する対象の型の引数を最初に持つメソッドをまず定義する。これによって、通常の静的メソッドとしての呼び出しの他に、指定した型のインスタンスメソッドとしての呼び出しを行うことができるメソッドを作ることができる。以下に例を挙げる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
public static class StringUtil
{
public static string Repeat(this string str, int count)
{
var array = new string[count];
for (var i = 0; i < count; ++i) array[i] = str;
return string.Concat(array);
}
}
</syntaxhighlight>
この例は、文字列(<code>string</code> 型のインスタンス)を指定した回数繰り返し連結したものを返すメソッド <code>Repeat</code> を、既存の <code>string</code> 型に追加している。このメソッドは、以下のように呼び出すことができる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 静的メソッドとしての呼び出し
StringUtil.Repeat("foo", 4);
// 拡張メソッドとしての呼び出し
"foo".Repeat(4);
// (どちらの例も "foofoofoofoo" を返す)
</syntaxhighlight>
また、[[列挙型]]や[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]など本来メソッドの実装を持ち得ない型に、見かけ上インスタンスメソッドを追加することも可能である。以下に例を挙げる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
public enum Way
{
None, Left, Right, Up, Down
}
public static class EnumUtil
{
public static Way Reverse(this Way src)
{
switch (src)
{
case Way.Left: return Way.Right;
case Way.Right: return Way.Left;
case Way.Up: return Way.Down;
case Way.Down: return Way.Up;
default: return Way.None;
}
}
}
</syntaxhighlight>
このメソッドは以下のように呼び出すことができる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
Way l = Way.Left;
Way r = l.Reverse(); // Way.Right
</syntaxhighlight>
拡張メソッドは[[糖衣構文]]の一種であり、[[カプセル化]]の原則に違反するものではないが、必要な場合に限り注意して実装することがガイドラインとして推奨されている<ref group="a">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/programming-guide/classes-and-structs/extension-methods |title=拡張メソッド (C# プログラミング ガイド) |website=Microsoft Docs |accessdate=2018-11-10}}</ref>。
==== 部分メソッド ====
部分メソッドが導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。部分型(<code>partial</code> 型)内で定義された <code>private</code> で、かつ戻り値が <code>void</code> のメソッドに <code>partial</code> 修飾子をつけることでメソッドの宣言と定義を分離させることができる。定義されていない部分メソッドは何も行わず、何らエラーを発生させることもない。例えば:
<syntaxhighlight lang="csharp">
partial class Class
{
partial void DebugOutput(string message);
void Method()
{
DebugOutput("Some message");
Console.WriteLine("Did something.");
}
}
</syntaxhighlight>
上のコードにおいて <code>Method()</code> を呼び出すと、<tt>Did something.</tt> と表示されるだけだが、ここで以下のコード:
<syntaxhighlight lang="csharp">
partial class Class
{
partial void DebugOutput(string message)
{
Console.Write("[DEBUG: {0}] ", message);
}
}
</syntaxhighlight>
を追加した上で <code>Method()</code> を呼び出すと、<tt>[DEBUG: Some message] Did something.</tt> と表示される。
==== ラムダ式 ====
ラムダ式が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。この名前は[[ラムダ計算]]に由来する。
以下の匿名メソッド
<syntaxhighlight lang="csharp">
// iを変数としてi+1を返すメソッド
delegate (int i) { return i + 1; }
</syntaxhighlight>
は、ラムダ式を使って次のように記述できる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
(int i) => i + 1; /* 式形式のラムダ */
//或いは:
(int i) => { return i + 1; }; /* ステートメント形式のラムダ */
</syntaxhighlight>
ラムダ式は匿名メソッドと同様に扱えるが、式形式のラムダが<code>Expression<TDelegate></code>型として扱われた場合のみ匿名メソッドとして扱われず、コンパイラによって式木を構築するコードに変換される。匿名デリゲートが実行前にコンパイルされた[[共通中間言語|CIL]]を保持するのに対し、式木は[[共通中間言語|CIL]]に実行時コンパイル可能である[[Document Object Model|DOM]]のような式の[[木構造 (データ構造)|木構造]]そのものを保持する。これは[[統合言語クエリ|LINQ]]クエリをSQLクエリなどに変換する際に役立つ。
以下は、3つの任意の名前の変数、整数、括弧、及び四則演算子のみで構成された式を[[逆ポーランド記法]]に変換する汎用的なコードである:
<syntaxhighlight lang="csharp">
public static string ToRPN(Expression<Func<int, int, int, int>> expression)
{
return Parse((BinaryExpression) expression.Body).TrimEnd(' ');
}
private static string Parse(BinaryExpression expr)
{
string str = "";
if (expr.Left is BinaryExpression)
{
str += Parse((BinaryExpression) expr.Left);
}
else if (expr.Left is ParameterExpression)
{
str += ((ParameterExpression) expr.Left).Name + " ";
}
else if (expr.Left is ConstantExpression)
{
str += ((ConstantExpression) expr.Left).Value + " ";
}
if (expr.Right is BinaryExpression)
{
str += Parse((BinaryExpression) expr.Right);
}
else if (expr.Right is ParameterExpression)
{
str += ((ParameterExpression) expr.Right).Name + " ";
}
else if (expr.Right is ConstantExpression)
{
str += ((ConstantExpression) expr.Right).Value + " ";
}
return str + expr.NodeType.ToString()
.Replace("Add", "+")
.Replace("Subtract", "-")
.Replace("Multiply", "*")
.Replace("Divide", "/")
+ " ";
}
// 呼び出し例:
ToRPN((x, y, z) => (x + 1) * ((y - 2) / z)); // "x 1 + y 2 - z / *" を返す
</syntaxhighlight>
==== オブジェクト初期化の簡略化 ====
オブジェクトの初期化が式として簡潔に記述できるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
var p = new Point { X = 640, Y = 480 };
// 上の文は次のように解釈される:
Point __p = new Point();
__p.X = 640;
__p.Y = 480;
Point p = __p;
</syntaxhighlight>
また、コレクションの初期化も同様に簡潔に記述できるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
var l = new List<int> {1, 2, 3};
var d = new Dictionary<string, int> {{"a", 1}, {"b", 2}, {"c", 3}};
// 上の文は次のように解釈される:
List<int> __l = new List<int>();
__l.Add(1);
__l.Add(2);
__l.Add(3);
List<int> l = __l;
Dictionary<string, int> __d = new Dictionary<string, int>();
__d.Add("a", 1);
__d.Add("b", 2);
__d.Add("c", 3);
Dictionary<string, int> d = __d;
</syntaxhighlight>
但し、上のコードでは匿名の変数に便宜的に __p、__l、__d と命名している。実際はプログラマはこの変数にアクセスすることはできない。
==== 自動実装プロパティ ====
プロパティをより簡潔に記述するための自動実装プロパティが導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。プロパティの定義に <code>get; set;</code> と記述することで、プロパティの値を保持するための匿名のフィールド(プログラマは直接参照することはできない)と、そのフィールドにアクセスするためのアクセサが暗黙に定義される。また、C# 5.0 までは <code>get;</code>と<code>set;</code>のどちらか片方だけを記述することは出来なかったが、C# 6.0 からは <code>get;</code> のみが可能。以下のコード:
<syntaxhighlight lang="csharp">
public int Value { get; set; }
</syntaxhighlight>
は、以下のようなコードに相当する動作をする:
<syntaxhighlight lang="csharp">
private int __value;
public int Value
{
get { return __value; }
set { __value = value; }
}
</syntaxhighlight>
但し、上のコードでは匿名のフィールドに便宜的に <code>__value</code> と命名している。実際はプログラマはこのフィールドにアクセスすることはできない。
==== 匿名型 ====
一時的に使用される型を簡単に定義するための匿名型が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。以下に例を挙げる:
<syntaxhighlight lang="csharp">
new { Name = "John Doe", Age = 20 }
</syntaxhighlight>
上の式は、以下の内容のクラスを暗黙に定義する。定義されたクラスは匿名であるが故にプログラマは参照できない。
<syntaxhighlight lang="csharp">
public string Name { get; }
public int Age { get; }
</syntaxhighlight>
同じ型、同じ名前のプロパティを同じ順序で並べた匿名型は同じであることが保証されている。即ち、以下のコード:
<syntaxhighlight lang="csharp">
var her = new { Name = "Jane Doe", Age = 20 }
var him = new { Name = "John Doe", Age = 20 }
</syntaxhighlight>
において、<code>her.GetType() == him.GetType()</code> は <code>true</code> である。
==== 配列宣言の型省略 ====
<code>new</code> キーワードを用いた配列の宣言の際、型を省略できるようになった。匿名型の配列を宣言する際に威力を発揮する。
<syntaxhighlight lang="csharp">
var a = new[] {"foo", "bar", null};
// 上の文は次のように解釈される:
string[] a = new string[] {"foo", "bar", null};
// 以下の文:
var a = new[] {"foo", "bar", 123};
// は次のように解釈されることなく、誤りとなる:
object[] a = new object[] {"foo", "bar", 123};
</syntaxhighlight>
==== クエリ式 ====
[[Language Integrated Query|LINQ]] をサポートするために、クエリ式が導入された{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。これは [[SQL]] の構文に類似しており、最終的に通常のメソッド呼び出しに変換されるものである。以下に例を示す:
<syntaxhighlight lang="csharp">
var passedStudents =
from s in students
where s.MathScore + s.MusicScore + s.EnglishScore > 200
select s.Name;
</syntaxhighlight>
上のコードは以下のように変換される:
<syntaxhighlight lang="csharp">
var passedStudents = students
.Where(s => s.MathScore + s.MusicScore + s.EnglishScore > 200)
.Select(s => s.Name);
</syntaxhighlight>
C# 3.0で追加された構文の多くは式であるため、より巨大な式(当然クエリ式も含まれる)の一部として組み込むことができる。旧来複数の文に分けたり、作業用の変数を用意して記述していたコードを単独の式としてより簡潔に記述できる可能性がある。
出井秀行著の『実戦で役立つ C#プログラミングのイディオム/定石&パターン』(技術評論社、2017年)という書籍ではクエリ構文よりメソッド構文を推奨しており、クエリ構文ではLINQの全ての機能を使用できるわけではないこと、メソッド呼び出しは処理を連続して読める可読性があること、メソッド呼び出しであれば[[Microsoft Visual Studio]]の強力な[[インテリセンス]]が利用できることを理由に、著者はクエリ構文をほとんど使用していないと記している。
=== C# 4.0からの仕様 ===
==== dynamicキーワード ====
dynamicキーワードが導入され、[[動的型付け|動的型付け変数]]を定義できるようになった{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。dynamic型として宣言されたオブジェクトに対する操作のバインドは実行時まで遅延される。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// xはint型と推論される:
var x = 1;
// yはdynamic型として扱われる:
dynamic y = 2;
public dynamic GetValue(dynamic obj)
{
// objにValueが定義されていなくとも、コンパイルエラーとはならない:
return obj.Value;
}
</syntaxhighlight>
==== オプション引数・名前付き引数 ====
[[Microsoft_Visual_Basic|VB]]や[[C++]]に実装されているオプション引数・名前付き引数が、C#でも利用できるようになった{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
public void MethodA()
{
// 第1引数と第2引数を指定、第3引数は未指定:
Console.WriteLine("Ans: " + MethodB(1, 2)); // Ans: 3 … 1 + 2 + 0となっている
// 第1引数と第3引数を指定、第2引数は未指定:
Console.WriteLine("Ans: " + MethodB(A: 1, C: 3)); // Ans: 4 … 1 + 0 + 3となっている
}
// 引数が指定されなかった場合のデフォルト値を等号で結ぶ:
public int MethodB(int A = 0, int B = 0, int C = 0)
{
return A + B + C;
}
</syntaxhighlight>
==== ジェネリクスの共変性・反変性 ====
ジェネリクスの型引数に対してin、out修飾子を指定することにより、ジェネリクスの共変性・反変性を指定できるようになった{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
IEnumerable<string> x = new List<string> { "a", "b", "c" };
// IEnumerable<T>インターフェイスは型引数にout修飾子が指定されているため、共変である。
// したがって、C# 4.0では次の行はコンパイルエラーにならない
IEnumerable<object> y = x;
</syntaxhighlight>
=== C# 5.0からの仕様 ===
* 非同期処理 ([[async/await]]){{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
* 呼び出し元情報属性{{R|whats-new-csharp-version-history|group="a"}}
* foreach の仕様変更
=== C# 6.0からの仕様 ===
* 自動実装プロパティの初期化子<ref group="a" name="whats-new-60">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-6 |title=C# 6 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref>
* get のみの自動実装プロパティおよびコンストラクタ代入{{R|whats-new-60|group="a"}}
<!-- * パラメータなしの struct コンストラクタ -->
* 静的 using ディレクティブ{{R|whats-new-60|group="a"}}
* インデックス初期化子{{R|whats-new-60|group="a"}}
* catch/finally での await{{R|whats-new-60|group="a"}}
* 例外フィルタ{{R|whats-new-60|group="a"}}
* 式形式のメンバー (expression-bodied members){{R|whats-new-60|group="a"}}
* [[null条件演算子]]{{R|whats-new-60|group="a"}}
* [[文字列補間]](テンプレート文字列){{R|whats-new-60|group="a"}}
* nameof 演算子{{R|whats-new-60|group="a"}}
* #pragma
* コレクションの初期化子での拡張メソッド{{R|whats-new-60|group="a"}}
* オーバーロード解決の改善{{R|whats-new-60|group="a"}}
==== 静的 using ディレクティブ ====
静的 using ディレクティブを利用することで、型名の指定無しに他クラスの静的メンバーの呼び出しを行えるようになった。利用するには<code>using static</code>の後に完全修飾なクラス名を指定する。
<syntaxhighlight lang="csharp">
using static System.Math;
// ↑ソースコードの上部で宣言
class Hogehoge {
// System.Math.Pow() , System.Math.PI を修飾無しで呼び出す
double area = Pow(radius, 2) * PI;
}
</syntaxhighlight>
==== 例外フィルタ ====
<code>catch</code>の後に<code>when</code>キーワードを使用することで、処理する例外を限定することができるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
try {
// ...
}
catch (AggregateException ex) when (ex.InnerException is ArgumentException) {
// ...
}
</syntaxhighlight>
=== C# 7.0からの仕様 ===
* 出力変数宣言
* パターンマッチング (is 式/switch 文)
* タプル (タプル記法/分解/値の破棄)
* ローカル関数
* 数値リテラルの改善(桁セパレータ/バイナリリテラル)
* ref戻り値、ref変数
* 非同期戻り値型の汎用化
* Expression-bodied 機能の拡充(コンストラクタ/デストラクタ/get/set/add/remove)
* Throw 式
==== 出力変数宣言 ====
<code>out</code>引数で値を受け取る場合、その場所で変数宣言可能となった<ref group="a" name="whats-new-70">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-7 |title=C# 7.0 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref>。
<syntaxhighlight lang="csharp">
total += int.TryParse("123", out var num) ? num : 0;
</syntaxhighlight>
==== パターンマッチング ====
===== is 式の拡張 =====
<code>is</code>式の構文が拡張され、型の後ろに変数名を宣言できるようになった{{R|whats-new-70|group="a"}}。
拡張された<code>is</code>式はマッチした場合に宣言した変数にキャストした値を代入し、さらに'''true'''と評価される。
マッチしなかった場合は'''false'''と評価され、宣言した変数は未初期化状態となる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
void CheckAndSquare(object obj) {
// objの型チェックと同時にnumに値を代入する。
if (obj is int num && num >= 0) {
num = num * num;
}
else {
num = 0;
}
// if文の条件セクションは、ifの外側と同じスコープ
Console.WriteLine(num);
}
</syntaxhighlight>
===== switch 文の拡張 =====
<code>switch</code>文のマッチ方法が拡張され、<code>case</code>ラベルに従来の「定数パターン」に加え、新たに「型パターン」を指定できるようになった。
また、「型パターン」の<code>case</code>ラベルでは、<code>when</code>句に条件を指定することができる。
「型パターン」を含む<code>switch</code>文では、必ずしも条件が排他的でなくなったため、最初にマッチした<code>case</code>ラベルの処理が実行される。<ref group="a">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/keywords/switch |title=switch (C# リファレンス) |website=Microsoft Docs |accessdate=2017-09-10}}</ref>
<syntaxhighlight lang="csharp">
void Decide(object obj) {
switch (obj) {
case int num when num < 0:
Console.WriteLine($"{num}は負の数です。");
break;
case int num:
Console.WriteLine($"{num}を二乗すると{num * num}です。");
break;
case "B":
Console.WriteLine($"これはBです。");
break;
case string str when str.StartsWith("H"):
Console.WriteLine($"{str}はHから始まる文字列です。");
break;
case string str:
Console.WriteLine($"{str}は文字列です。");
break;
case null:
Console.WriteLine($"nullです");
break;
default:
Console.WriteLine("判別できませんでした");
break;
}
}
</syntaxhighlight>
==== タプル ====
[[タプル]]のための軽量な構文が導入された{{R|whats-new-70|group="a"}}。従来の<code>System.Tuple</code>クラスとは別に、<code>System.ValueTuple</code>構造体が新しく追加された。
===== タプル記法 =====
2個以上の要素を持つタプルのための記法が導入された。
引数リストと同様の形式で、タプルを記述できる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// タプル記法
(int, string) tuple = (123, "Apple");
Console.WriteLine($"{tuple.Item1}個の{tuple.Item2}");
</syntaxhighlight>
===== 分解 =====
多値戻り値を簡単に扱えるように、分解がサポートされた{{R|whats-new-70|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
var tuple = (123, "Apple");
// 分解
(int quantity, string name) = tuple;
Console.WriteLine($"{quantity}個の{name}");
</syntaxhighlight>
分解はタプルに限らない。<code>Deconstruct()</code>メソッドが定義されたクラスでも、分解を利用できる{{R|whats-new-70|group="a"}}。
以下に、<code>DateTime</code>型に分解を導入する例を示す。
<syntaxhighlight lang="csharp">
static class DateExt {
public static void Deconstruct(this DateTime dateTime, out int year, out int month, out int day) {
year = dateTime.Year;
month = dateTime.Month;
day = dateTime.Day;
}
}
</syntaxhighlight>
上記のコードで<code>DateTime</code>型に<code>Deconstruct()</code>拡張メソッドを定義し、
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 分解
(int year, int month, int day) = DateTime.Now;
</syntaxhighlight>
のように左辺で3つの変数に値を受け取ることができる。
==== 値の破棄 ====
分解、out引数、パターンマッチングで、値の破棄を明示するために<code>_</code>が利用できるようになった。
破棄された値は、後で参照することはできない。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 年と日は使わない
(_, int month, _) = DateTime.Now;
// 解析結果だけ取得し、変換された値は使わない
bool isNumeric = int.TryParse(str, out _);
switch (obj) {
// string型で分岐するが、値は使わない
case string _:
// Do something.
break;
}
</syntaxhighlight>
==== ref戻り値、ref変数 ====
<code>ref</code>キーワードの使用方法が拡張された。これによって、安全な参照の使い道が広がった。
===== ref戻り値 =====
戻り値の型を<code>ref</code>で修飾することで、オブジェクトの参照を戻り値とすることができる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 二つの参照引数の内、値の大きいものの参照戻り値を返す
static ref int Max(ref int left, ref int right) {
if (left >= right) {
return ref left;
}
else {
return ref right;
}
}
</syntaxhighlight>
変数の寿命は変わらないため、メソッド終了時に破棄されるローカル変数をref戻り値とすることはできない。
<syntaxhighlight lang="csharp">
static int s_count = 1;
// メンバーの参照はref戻り値になる。
static ref int ReturnMember() {
return ref s_count;
}
// ref引数はもちろんref戻り値になる。
static ref int ReturnRefParam(ref int something) {
return ref something;
}
// ローカル変数をref戻り値とすることはできない。
// static ref int ReturnLocal() {
// int x = 1;
// return ref x;
// }
</syntaxhighlight>
===== ref変数 =====
ローカル変数の型を<code>ref</code>で修飾することで、参照を代入することができる。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 参照戻り値を参照変数で受け取る
ref int max = ref Max(ref x, ref y);
// limitとmaxは同じ値を参照する
ref int limit = ref max;
</syntaxhighlight>
=== C# 7.1からの仕様 ===
==== 非同期なMainメソッド ====
Mainメソッドの戻り値として、<code>Task</code>型、<code>Task(int)</code>型が認められた<ref group="a" name="whats-new-71">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-7-1 |title=C# 7.1 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref>。
<syntaxhighlight lang="csharp">
static Task Main()
</syntaxhighlight>
<syntaxhighlight lang="csharp">
static Task<int> Main()
</syntaxhighlight>
==== default式 ====
型推論可能な場面では、<code>default</code>の型指定は省略可能となった{{R|whats-new-71|group="a"}}。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int number = default;
string name = default;
</syntaxhighlight>
=== C# 7.2からの仕様 ===
C#7.2で追加された仕様は以下の通り<ref group="a" name="whats-new-72">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-7-2 |title=C# 7.2 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://blogs.msdn.microsoft.com/dotnet/2017/11/15/welcome-to-c-7-2-and-span/ |title=Welcome to C# 7.2 and Span |author=Mads Torgersen |date=2017-11-15 |language=en |website=.NET Blog |publisher=Microsoft |accessdate=2017-11-23}}</ref>。
==== 値型の参照セマンティクス ====
値型におけるパフォーマンス向上を意図した複数の機能が追加された。
===== in参照渡し、ref readonly参照戻り値 =====
引数に<code>in</code>を指定することで、読み取り専用参照渡しを指定できる。
また、戻り値に<code>ref readonly</code>を指定することで、読み取り専用参照戻り値を指定できる。
これにより、構造体のコピーを避けると共に、意図しない値の変更を抑止できる。
===== readonly構造体 =====
構造体宣言時に<code>readonly</code>を指定することで、真の読み取り専用構造体を定義できる。
readonly構造体の全てのフィールドは<code>readonly</code>でなければならず、<code>this</code>ポインタも読み取り専用となる。
これにより、メンバーアクセス時の意図しない防御的コピーを抑止できる。
===== ref構造体 =====
構造体宣言時に<code>ref</code>を指定することで、[[ヒープ領域]]へのコピーを防ぐ構造体がサポートされる。
ref構造体では、box化できない、配列を作成できない、型引数になることができない、など、[[ヒープ領域]]へのコピーを防ぐための厳しい制限がかかる。
この機能は、<code>Span<T></code>のような構造体をサポートするために利用され、unsafe文脈以外での<code>stackalloc</code>の利用をも可能とする。
==== 末尾以外の場所での名前付き引数 ====
C#4.0で追加された[[#オプション引数・名前付き引数|名前付き引数]]が末尾以外でも利用できるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
Hogehoge(name: "John", 17);
</syntaxhighlight>
==== private protected アクセス修飾子 ====
同一アセンブリ内、かつ、継承先からのアクセス許可を表す<code>private protected</code>アクセス修飾子が追加された。
==== 数値リテラルの改善 ====
十六進リテラルの<code>0x</code>、二進リテラルの<code>0b</code>の直後のアンダースコアが認められた。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int bin = 0b_01_01;
int hex = 0x_AB_CD;
</syntaxhighlight>
=== C# 7.3からの仕様 ===
C#7.3では以下の仕様が追加された<ref group="a" name="whats-new-73">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-7-3 |title=C# 7.3 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref>。
* ジェネリック型制約の種類の追加
** <code>System.Enum</code>, <code>System.Delegate</code>
** <code>unmanaged</code> (文脈キーワード)
<syntaxhighlight lang="csharp">
unsafe class MyGenericsClass<T1,T2,T3>
where T1 : System.Enum
where T2 : System.Delegate
where T3 : unmanaged {
public MyGenericsClass(T1 enum1, T1 enum2, T2 func, T3 unmanagedValue) {
if (enum1.HasFlag(enum2)) {
func.DynamicInvoke();
}
else {
T3* ptr = &unmanagedValue;
}
}
}
</syntaxhighlight>
* <code>ref</code>ローカル変数の再割り当て
* <code>stackalloc</code>初期化子
* Indexing movable fixed buffers
* カスタム<code>fixed</code>ステートメント
* オーバーロード解決ルールの改善
* 出力変数宣言の利用箇所の追加
<syntaxhighlight lang="csharp">
class MyOutVar {
// メンバー変数初期化子やコンストラクタ初期化子で出力変数宣言が可能
readonly int x = int.TryParse("123", out var number) ? number : -1;
}
</syntaxhighlight>
* タプル同士の比較
<syntaxhighlight lang="csharp">
(long, long) tuple = (1L, 2L);
// タプルのすべての要素間で == が比較可能
if (tuple == (1, 2)) { }
// 要素数が異なるタプル同士は比較できない。
//if (tuple == (1, 2, 3)) { }
</syntaxhighlight>
* バッキングフィールドに対するAttribute指定
<syntaxhighlight lang="csharp">
// C#7.2までは無効な指定(コンパイル自体は可能。無視される)
// C#7.3からはバッキングフィールドに対するAttribute指定と見なされる
[field: NonSerialized]
public int MyProperty { get; set; }
</syntaxhighlight>
=== C# 8.0からの仕様 ===
C# 8.0で追加された仕様は以下の通り。<ref group="a" name="whats-new-80">{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/whats-new/csharp-8 |title=C# 8.0 の新機能 |website=Microsoft Docs |accessdate=2019-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.infoq.com/jp/news/2019/12/microsoft-releases-csharp-8/ |title=MicrosoftがC# 8.0をリリース |date=2019-12-10 |website=InfoQ |accessdate=2019-12-12}}</ref>
==== null許容参照型 ====
参照型にnull許容性を指定できるようになった。参照型の型名に<code>?</code>を付加した場合にnull許容参照型となる。
参照型の型名に<code>?</code>を付加しない場合、null非許容参照型となる。
フロー解析レベルでのnull許容性チェックが行われる。null許容値型の<code>Nullable<T></code>のような新しい型は導入されない。
===== null許容コンテキスト =====
参照型のnull許容性は、null許容コンテキストによって有効、無効の切り替えが可能である。
C#7.3以前の互換性のために、既定では無効となっている。
* Nullable コンパイルオプション: プロジェクト全体でのnull許容コンテキストを指定する
* <code>#nullable</code> ディレクティブ: ソースコードの部分ごとにnull許容コンテキストを指定する
** <code>annotations</code> オプション、<code>warnings</code>オプションにより、適用範囲を限定できる
===== null免除演算子 =====
null許容参照型の変数名の後に <code>!</code>を使用することで、フロー解析時の警告が免除される。
==== インタフェースの既定メンバー ====
[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]のメンバーに既定の実装を指定できるようになった。また、[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]に静的メンバーを持つことができるようになった。
さらに、[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]のメンバーにアクセシビリティを指定できるようになった。
* 既定のアクセシビリティは、従来通り <code>public</code> となる。
* 実装があるインスタンスメンバーは、既定で <code>virtual</code> となり <code>override</code>可能である。
* 実装を<code>override</code>させないために<code>sealed</code>を指定することができる。
==== パターンマッチングの拡張 ====
<code>switch</code>式が追加された。
プロパティパターン、タプルパターン、位置指定パターンの追加により、再帰的なパターンマッチングが可能になった。
* switch式
* 再帰パターン
** プロパティパターン
** タプルパターン
** 位置指定パターン
==== 非同期ストリーム ====
<code>IAsyncEnumerable<T></code>
[[インタフェース (抽象型)|インタフェース]]を返すことで、イテレータ構文と非同期構文の共存が可能になった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
async IAsyncEnumerable<int> EnumerateAsync() {
await Task.Delay(100);
yield return 1;
await Task.Delay(100);
yield return 2;
}
</syntaxhighlight>
<code>await foreach</code>によって非同期ストリームを列挙する。
<syntaxhighlight lang="csharp">
async void SpendAsync() {
await foreach (var item in EnumerateAsync()) {
Console.WriteLine(item);
}
}
</syntaxhighlight>
==== 範囲指定 ====
<code>Index</code>と<code>Range</code>を指定できる専用構文が追加された。
<syntaxhighlight lang="csharp">
Index a = 1; // new Index(1, fromEnd: false)
Index b = ^1; // new Index(1, fromEnd: true)
Range range = a..b; // new Range(start: a, end: b)
</syntaxhighlight>
==== その他の仕様 ====
* 静的ローカル関数
* null結合代入演算子
* 構造体の読み取り専用メンバー
* using 宣言
* ref構造体のDispose
* ジェネリクスを含むアンマネージ型
* 式中の<code>stackalloc</code>
* 文字列補間のトークン順序の緩和
=== C# 9.0からの仕様 ===
C# 9.0で追加された仕様は以下の通り。
<ref group="a" name="whats-new-90">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/whats-new/csharp-9|title=What's new in C# 9.0|website=Microsoft Docs|accessdate=2021-10-17}}</ref>
* レコード
* プロパティのinitアクセサ
* 最上位レベルステートメント
* パターンマッチングの拡張
* new式の型推論
* 条件演算子の型推論
* 共変戻り値
* GetEnumeratorの拡張メソッド対応
* 静的匿名関数
* ラムダ式引数の破棄
* ローカル関数への属性適用
* パフォーマンスと相互運用
** ネイティブサイズの整数型(<code>nint</code> <code>nuint</code>型)
** 関数ポインタ(<code>delegate*</code>型)
** 変数初期化フラグの抑制
* コードジェネレータのサポート
** モジュール初期化子
** 部分メソッドの拡張
=== C# 10.0からの仕様 ===
C# 10.0で追加された仕様は以下の通り。
<ref group="a" name="whats-new-10">{{Cite web|url=https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/whats-new/csharp-10|title=What's new in C# 10.0|website=Microsoft Docs|accessdate=2022-11-03}}</ref>
*レコード構造体
* 構造体型の機能強化
* 補間された文字列ハンドラー
* global using ディレクティブ
* ファイル スコープの名前空間の宣言
* 拡張プロパティのパターン
* ラムダ式の機能強化
* const 補間文字列を許可する
* レコードの型で ToString() を封印できる
* 限定代入の機能強化
* 同じ分解で代入と宣言の両方を許可する
* メソッドで AsyncMethodBuilder 属性を許可する
* CallerArgumentExpression 属性
* 拡張 #line pragma
* 警告ウェーブ 6
=== C# 11.0からの仕様 ===
C# 11.0で追加された仕様は以下の通り。{{R|cs11_mslearn|group="a"}}{{R|cs11_ufcpp|group="b"}}
==== 生文字列リテラル ====
エスケープなどの加工を施さない文字列を3個の二重引用符で括って表現できる様になった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
string logMsg = """
原因不明のエラーが発生しました。
詳細はログファイル "C:\Logs\exception.log" を確認してください。
""";
</syntaxhighlight>
==== 汎用属性 ====
属性の型が型引数を持てる様になった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// 属性
[AttributeUsage(AttributeTargets.Class, AllowMultiple = true, Inherited = true)]
public class ConverterContractAttribute<TFrom, TTo> : Attribute { }
// 使用例
[ConverterContract<byte, string>()]
[ConverterContract<sbyte, string>()]
[ConverterContract<short, string>()]
[ConverterContract<ushort, string>()]
[ConverterContract<int, string>()]
[ConverterContract<uint, string>()]
[ConverterContract<long, string>()]
[ConverterContract<ulong, string>()]
public class IntToStringConverter
{
// ...
}
</syntaxhighlight>
==== パターンマッチングの拡張 ====
リストや配列に対するパターンマッチが可能になった<ref group="a">{{Cite web|和書|title=リスト パターン |url=https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/operators/patterns#list-patterns |access-date=2023-08-15 |website=Microsoft Learn |language=ja-jp}}</ref><ref group="b">{{Cite web|和書|title=リスト パターン |url=https://ufcpp.net/study/csharp/datatype/patterns/?p=2#list |access-date=2023-08-15 |website=++C++; // 未確認飛行 C |language=ja-jp}}</ref>。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int[] nums = new[] { 0, 1, 2, 3, 4, 5 };
if (nums is [ 0, 1, 2, .. ]) {
Console.WriteLine("配列は 0, 1, 2 から始まります。");
} else {
Console.WriteLine("配列は 0, 1, 2 から始まりません。");
}
</syntaxhighlight>
また、Span<char>やReadOnlySpan<char>に対するパターンマッチが可能になった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
bool CheckSignature(ReadOnlySpan<char> sig)
{
return sig is "HOGE";
}
</syntaxhighlight>
==== ジェネリック型数値演算 ====
{{empty section}}
==== その他の仕様 ====
* UTF-8 文字列リテラル
* 文字列補間式の改行
* ファイルローカル型
* 必須メンバー
* auto-default 構造体
* nameof のスコープ拡張
* IntPtr に別名 nint、UIntPtr に別名 nuint が付いた
* ref フィールド
* scoped ref 変数
* メソッドグループからデリゲートへの変換の改善
* 警告ウェーブ 7
=== C# 12.0からの仕様 ===
C# 12.0で追加された仕様は以下の通り。{{R|cs12_mslearn|group="a"}}{{R|cs12_ufcpp|group="b"}}
==== class, structのプライマリ コンストラクター ====
レコード型以外のclass, structでプライマリコンストラクターが使えるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
class Example(string message)
{
public string Message { get; } = message;
}
</syntaxhighlight>
==== コレクション式 ====
配列、コレクション、<code>Span<T></code>などの初期化の記法が共通の記法(<code>[]</code>)で書けるようになった。
<syntaxhighlight lang="csharp">
// Create an array:
int[] a = [1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8];
// Create a list:
List<string> b = ["one", "two", "three"];
// Create a span
Span<char> c = ['a', 'b', 'c', 'd', 'e', 'f', 'h', 'i'];
</syntaxhighlight>
==== スプレッド演算子 ====
コレクション式で複数のコレクションをインライン展開できる新しい演算子(<code>..</code>)が追加された。
<syntaxhighlight lang="csharp">
int[] row0 = [1, 2, 3];
int[] row1 = [4, 5, 6];
int[] row2 = [7, 8, 9];
// 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,
int[] single = [.. row0, .. row1, .. row2];
</syntaxhighlight>
==== その他の仕様 ====
* インライン配列
* 既定のラムダ パラメーター
* 任意の型の別名設定
* <code>ref readonly</code> パラメーター
* 試験段階の属性
* インターセプター
== 実装 ==
C#の言語仕様は標準化団体[[Ecma International]]を通じて公開・標準化されており、第三者がマイクロソフトとは無関係にコンパイラや実行環境を実装することができる{{R|InfoQ-Microsoft-Community-Promise}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.infoq.com/jp/articles/java-dotnet-patents/ |title=Javaと.NETの特許問題への短い紹介 |author=Tim Smith |date=2010-10-04 |website=InfoQ |accessdate=2019-12-02}}</ref>。
現段階で、C#コンパイラの実装は次の5つが知られている。
* マイクロソフト製
** Visual Studio 2015 以降で使用されている、{{仮リンク|.NETコンパイラプラットフォーム|en|.NET Compiler Platform}} (コードネームRoslyn)。[[Apacheライセンス]]の[[オープンソース]]プロジェクトで[[GitHub]]で公開されている<ref>[https://github.com/dotnet/roslyn dotnet/roslyn - GitHub]</ref>。[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、[[Linux]]で動作する。C#のコンパイラはC#、VB.NETのコンパイラはVB.NETで実装されている。以前のコンパイラと比べて、リファクタリングやIDE、スクリプティングなどへの利用が可能なAPIが公開されており、コンパイラ以外への様々な応用が可能。
** Visual Studio 2013 まで使われていた、マイクロソフトによるVisual C# コンパイラ。
** 2006年のC# 2.0当時の、マイクロソフトによる[http://www.microsoft.com/downloads/details.aspx?FamilyId=8C09FD61-3F26-4555-AE17-3121B4F51D4D&displaylang=en Shared Source Common Language Infrastructure]。共通言語基盤 (CLI) とC#コンパイラがソースコードで公開されている。
* [http://www.mono-project.com/ Mono Project]による[[Mono (ソフトウェア)|Mono]]内の Mono Compiler Suite (mcs)。
* 2012年まで開発されていた、[http://dotgnu.org/ DotGNU Project]による[[Portable.NET]]内の the C-Sharp code compiler (cscc)。
== 名称 ==
* ECMA-334 3rd/4th/5th edition <!-- 1st/2ndでは「NUMBER SIGN # (U+000D)」と書かれているが、おそらくただの誤記。 -->によると、'''C#''' は「'''C Sharp'''」(シーシャープ)と発音し、'''LATIN CAPITAL LETTER C (U+0043)''' の後に '''NUMBER SIGN # (U+0023)''' と書く<ref>[http://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-334.htm Standard ECMA-334 C# Language Specification]</ref>。 音楽の[[変化記号|シャープ]] (♯, MUSIC SHARP SIGN (U+266F)) ではなく[[番号記号|ナンバーサイン]] (#) を採用したのは、[[フォント]]や[[ブラウザ]]などの技術的な制約に加え、[[ASCII]]コードおよび標準的キーボードには前者の記号が存在しないためである。
* "#"接尾辞は、他の.NET言語にも使用されており、[[J Sharp|J#]](Javaのマイクロソフトによる実装)、[[A Sharp|A#]]([[Ada]]から)、[[F Sharp|F#]]([[System F]]などから<ref>[https://www.networkworld.com/article/2271225/software/the-a-z-of-programming-languages--f-.html The A-Z of programming languages: F# | Network World]</ref>)が含まれる。また"#"接尾辞は[[Gtk Sharp|Gtk#]]([[GTK (ツールキット)|GTK]]などの[[GNOME]]ライブラリの.NETラッパ)、[[Cocoa Sharp|Cocoa#]]([[Cocoa (API)]]のラッパ)などのライブラリにも使用されている。そのほか、[[SharpDevelop]]などの"Sharp"を冠する関連ソフトウェアも存在する。
* C#という名称の解釈として、「(A-Gで表された)直前の音を半音上げる」という音楽記号の役割に着目し、「C言語を改良したもの」を意味したのではないか、{{要出典範囲|date=2018年11月|というものがある}}。これは、[[C++]]の名称が「C言語を1つ進めたもの」という意味でつけられたことにも似ている。
* [[アンダース・ヘルスバーグ]]は、「C#」が「C++++」(すなわち「C++をさらに進めたもの」)にみえるのが由来である、と語っている<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fdotnet/insiderseye/20060215cscommunity/cscommunity_01.html レポート:コミュニティスペシャルセッション with Anders Hejlsberg in Microsoft Developers Conference 2006]</ref><ref>[http://www.microsoft.com/japan/msdn/community/person/andershejlsberg/communityreport.aspx C#への期待。アンダースからの返答]</ref>。
== 注釈 ==
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
=== 公式発表 ===
{{Reflist|group="a"}}
=== 個人サイト ===
{{Reflist|group="b"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite magazine|和書|author = 高橋 忍|title = C# 2.0の新しい言語仕様 |journal = C MAGAZINE(2005年2月号) |volume = 17 |issue = 2 |publisher = ソフトバンク パブリッシング |ref = {{Sfnref|高橋|2005}}}}
* {{Cite book|和書 |title=独習C# |date=2022-07-21 |year=2022 |publisher=翔泳社 |author=山田祥寛 |ref=harv |edition=第5版 |series=独習 |isbn=978-4-7981-7556-0}}
== 関連項目 ==
* 言語仕様
** {{仮リンク|C Sharpの文法|en|C Sharp syntax|label=C#の文法}}
** [[C Sharpのデータ型|C#のデータ型]]
** [[キーワード (C Sharp)|キーワード (C#)]]
* 実行環境
** [[.NET]] (旧:[[.NET Core]])
** [[.NET Framework]]
** [[Mono (ソフトウェア)|Mono]]
** [[Xamarin]]
* 開発環境
** [[Microsoft Visual Studio|Visual Studio]]
*** [[Microsoft Visual C Sharp|Visual C#]]
** [[Visual Studio Code]]
** {{仮リンク|JetBrains Rider|en|JetBrains#IDEs|label=JetBrains Rider}} - [[ジェットブレインズ]]社の[[.NET]]向け統合開発環境
** [[MonoDevelop]] - OSSの統合開発環境
*** [[Xamarin Studio]]
*** [[MonoDevelop#Visual_Studio_for_Mac|Visual Studio for Mac]]
** [[SharpDevelop]] - フリーの統合開発環境
* 比較
** [[C SharpとJavaの比較|C#とJavaの比較]]
== 外部リンク ==
* [https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/ C# 関連のドキュメント - はじめに、チュートリアル、リファレンス。 | Microsoft Docs] - 公式ウェブサイト<small>(日本語)</small>
* 言語仕様
** [https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/language-specification Introduction - C# language specification | Microsoft Learn] - C# 言語仕様、Microsoft Docs
** [https://ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-334/ ECMA-334 - Ecma International] ECMA-334 C# 言語仕様{{en icon}}
** {{cite jis|X|3015|2008|name=プログラム言語C#}}
* [https://www.mono-project.com/docs/about-mono/languages/csharp/ C# Compiler | Mono] Mono C# コンパイラ{{en icon}}
{{.NET}}
{{プログラミング言語一覧}}
{{ISO}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:C#}}
[[Category:.NET Framework]]
[[Category:並行計算]]
[[Category:C Sharp]] | 2003-02-14T05:42:58Z | 2023-12-29T13:34:44Z | false | false | false | [
"Template:Ubl",
".NET",
"Template:Otheruses",
"Template:Infobox プログラミング言語",
"Template:Sfn",
"Template:仮リンク",
"Template:Notelist",
"Template:プログラミング言語一覧",
"Template:Efn",
"Template:No wrap",
"Template:Plainlist",
"Template:要出典範囲",
"Template:Cite news",
"Template:Reflist",
"Template:Cite Web",
"Template:プログラミング言語",
"Template:See also",
"Template:Cite book",
"Template:Cite jis",
"Template:ISO",
"Template:記事名の制約",
"Template:R",
"Template:Lang",
"Template:Empty section",
"Template:Cite magazine",
"Template:En icon",
"Template:Normdaten",
"Template:Nowrap begin",
"Template:Wrap",
"Template:Nowrap end",
"Template:N/a",
"Template:Cite web"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/C_Sharp |
1,504 | 2月15日 | 2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。",
"title": null
}
]
| 2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。 | {{カレンダー 2月}}
'''2月15日'''(にがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から46日目にあたり、年末まであと319日([[閏年]]では320日)ある。
== できごと ==
[[ファイル:World98.jpg|237x237px|サムネイル|メイン号爆沈を報じる「ザ・ワールド」紙(1898年)]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-2005-0004, Italien, Monte Cassino.jpg|180x180px|サムネイル|連合軍による爆撃で破壊されたモンテ・カッシーノ修道院(1944年)]]
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| fotter = 1965年、カナダ国旗が現行のものへと変更される。
| width = 180
| image1 = Canadian Red Ensign (1957-1965).svg
| alt1 = 旧カナダ国旗 (1957-1965)
| caption1 = 旧カナダ国旗
| image2 = Flag of Canada.svg
| caption2 = 現行カナダ国旗
| alt2 = 現行カナダ国旗
}}
* [[1637年]] - [[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]が[[神聖ローマ皇帝]]に即位。
* [[1763年]] - [[プロイセン王国|プロイセン]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]などが[[七年戦争]]の講和条約である[[フベルトゥスブルク条約]]を締結。
* [[1819年]] - [[シモン・ボリバル]]が[[ベネズエラ]]の[[アンゴストゥーラ]]で独立派幹部と会談。[[大コロンビア]]の創設とボリバルの[[大統領]]就任で合意。
* [[1862年]] - [[鮒佐|大野佐吉]]が浅草瓦町(現在の[[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]])で[[鮒佐]]を創業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.funasa.com/history.html |title=鮒佐の歴史|沿革 |access-date=1 Mar 2023 |publisher=鮒佐}}</ref>。[[醤油]]で煮る現在の[[佃煮]]の形を創り上げる。
* [[1867年]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]のワルツ『[[美しく青きドナウ]]』が初演される。
* [[1877年]] - [[西南戦争]]: [[西郷隆盛]]率いる薩摩軍の部隊が、[[熊本市|熊本]]へ向けて[[鹿児島市|鹿児島]]を出発。
* [[1881年]] - 料亭[[紅葉館|芝紅葉館]]が開館する<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/minato-city/text-list/d110120/ht003590 |title=港区のあゆみ|歴史年表 |access-date=1 Mar 2023 |publisher=東京都港区}}</ref>。
* [[1883年]] - [[渋沢栄一]]らが日本初の電力会社・[[東京電燈]]を設立。
* [[1892年]] - [[第2回衆議院議員総選挙]]。
* [[1897年]] - [[京都鉄道]]・[[二条駅]] - 嵯峨駅(現在の[[嵯峨嵐山駅]])が開業。現在の[[山陰本線]]の初の開通区間。
* [[1898年]] - メイン号事件。アメリカの戦艦「[[メイン (ACR-1)|メイン号]]」がハバナ港内で原因不明の爆沈。[[米西戦争]]の発端となる。
* [[1900年]] - [[田中正造]]が、[[足尾鉱毒事件|足尾鉱毒問題]]解決のために[[憲政本党]]を離党。
* [[1902年]] - [[ベルリン地下鉄]]が開業。
* [[1906年]] - イギリスの労働代表委員会を議会政党に改組し[[労働党 (イギリス)|労働党]]が成立。
* [[1922年]] - オランダ・[[デン・ハーグ|ハーグ]]に[[常設国際司法裁判所]]が設立。
* [[1938年]] - 東京都下の[[カフェー (風俗営業)|カフェー]]、[[バー (酒場)|バー]]、[[喫茶店]]などで一斉手入れ。約2000人の不良学生が検挙される<ref>東京の盛り場、抜き打ち二千人検挙『東京日日新聞』昭和13年2月16日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p71 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]: [[シンガポール]]のイギリス軍が[[山下奉文]]中将率いる日本軍に無条件降伏。
* [[1943年]] - [[鉄道省]]が戦力増強を目的に[[ダイヤ改正]]を実施。[[東海道本線]]を走る[[特急]]列車の運転廃止、地方の[[急行]]列車などの運転縮小が行われた<ref>特急「かもめ」廃止、戦力増強ダイヤ『毎日新聞』昭和18年2月10日東京版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p606 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦・[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が[[モンテ・カッシーノ]]修道院を爆撃。([[モンテ・カッシーノの戦い]])
* [[1948年]] - 日本で[[司法省 (日本)|司法省]]を廃止し[[法務庁]]を設置。
* [[1951年]] - [[イギリス]]が鉄鋼業を国有化。
* [[1954年]] - アメリカとカナダが[[遠距離早期警戒線]]の設定に合意。
* [[1955年]] - 文部省が、[[重要無形文化財]]指定制度に基づく第一次指定を告示。初の[[人間国宝]]認定。
* [[1961年]] - [[サベナ航空548便墜落事故]]。
* [[1965年]] - [[カナダの国旗]]が、それまでの[[ユニオンジャック]]入りのものから、現在の[[サトウカエデ]]の葉をデザインしたものに改められる。
* [[1966年]] - [[コロンビア]]で[[解放の神学]]を掲げた[[カミロ・トーレス]][[神父]]が政府軍との戦闘で戦死。
* [[1967年]] - 東京国際空港に時限爆弾が仕掛けられる。
* [[1971年]] - [[イギリス]]の[[通貨]]制度の十進法への切り替えが完了。1[[スターリング・ポンド|ポンド]]=240[[ペニー|ペンス]]が1ポンド=100ペンスに。({{仮リンク|十進法の日|en|Decimal Day}})
* [[1977年]] - [[弘前大教授夫人殺し事件|弘前大学教授夫人殺人事件]]で、事件発生から28年目で再審無罪の判決。
* [[1981年]] - [[日本劇場]]が閉館。[[日劇ダンシングチーム]] (NDT) が解散。
* [[1989年]] - [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]: [[ソビエト連邦|ソ連]]軍の[[アフガニスタン]]からの撤退が完了。
* 1989年 - [[国民の祝日に関する法律|祝日法]]改正により、[[天皇誕生日]]が[[12月23日]]となり、[[4月29日]]は[[みどりの日]]に。
* [[1991年]] - [[チェコスロバキア]]・[[ハンガリー]]・[[ポーランド]]が地域協力機構[[ヴィシェグラード・グループ]]を結成。
* [[1995年]] - [[ケビン・ミトニック]]が、アメリカ合衆国でもっともセキュリティが堅いシステムに侵入したとして[[連邦捜査局|FBI]]に逮捕される。
* 1995年 - プログラミング言語[[Ada]]の[[国際標準化機構|ISO]]規格改訂。Adaは、史上初の国際規格化された[[オブジェクト指向言語]]となる。
* [[1998年]] - [[阪神電気鉄道]]と[[山陽電気鉄道]]が[[大阪梅田駅 (阪神)|阪神梅田駅]] - [[山陽姫路駅]]間に[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]の運転を開始。
* [[1999年]] - [[ナイロビ]]のギリシャ大使館に匿われていた[[クルド労働者党]]の元リーダー[[アブドゥッラー・オジャラン]]が逮捕される。
* [[2005年]] - [[カリフォルニア州]][[サンマテオ (カリフォルニア州)|サンマテオ]]に[[YouTube]]が設立される。
* [[2011年]] - [[2011年リビア内戦]]勃発。
* [[2013年]] - 世界時19時25分(日本時間16日4時25分)、直径45mの小惑星{{mpl|2012 DA|14}}が地球表面から2万7700kmのところを通過<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-16 |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35028318.html |title=小惑星が地球の近くを無事通過、ロシアの隕石とは「関係ない」 |publisher=CNN.co.up |accessdate=1 Mar 2023 |page=1}}</ref>。
* 2013年 - [[ロシア]]・[[チェリャビンスク州]]に[[隕石]]が落下し、多数の負傷者が出る<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-16 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1507B_V10C13A2CR8000/ |title=冬の空、一瞬真っ白に ロシアの隕石落下 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=1 Mar 2023}}</ref>。([[2013年チェリャビンスク州の隕石落下]])
* [[2019年]] - [[ドナルド・トランプ]]が、[[メキシコとアメリカの壁]]建築を目的とした{{仮リンク|合衆国南部国境に関する非常事態宣言|en|National Emergency Concerning the Southern Border of the United States}}を発令<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41304380V10C19A2000000/ |title=トランプ氏、壁建設で非常事態宣言へ 与野党対立激化も |access-date=2 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=15 Feb 2015}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1368年]] - [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Sigismund-Holy-Roman-emperor |title=Sigismund Holy|Roman emperor |access-date=2 Feb 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1437年]])
* [[1562年]]([[永禄]]5年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[前田利長]]、[[戦国大名]]、[[加賀藩]]初代藩主(+ [[1614年]])
* [[1564年]]([[ユリウス暦]]) - [[ガリレオ・ガリレイ]]、[[物理学者]]、[[天文学者]](+ [[1642年]])
* [[1571年]] - [[ミヒャエル・プレトリウス]]、[[作曲家]]、[[オルガニスト]]、[[音楽理論|音楽理論家]](+ [[1621年]])
* [[1591年]]([[天正]]19年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[栗山利章|栗山大膳(利章)]]、[[江戸時代]]前期の[[筑前国|筑前]][[福岡藩]][[家老]](+ [[1652年]])
* [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[津軽信義]]、[[弘前藩]]3代藩主(+ [[1655年]])
* [[1709年]]([[宝永]]6年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[間部詮方]]、[[鯖江藩]]2代藩主(+ [[1785年]])
* [[1710年]] - [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]、[[フランス王国|フランス]]王(+ [[1774年]])
* [[1739年]] ‐ [[シャルル=アンリ・サンソン]]、[[死刑執行人]](+ [[1806年]])
* [[1748年]] - [[ジェレミ・ベンサム]]、[[法学者]](+ [[1832年]])
* [[1759年]] - [[フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ]]、[[文献学|文献学者]]、[[評論家]](+ [[1824年]])
* [[1762年]]([[宝暦]]12年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[松平信道]]、[[丹波亀山藩|亀山藩]]3代藩主(+ [[1791年]])
* [[1763年]](宝暦13年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[田村村資]]、[[一関藩]]3代藩主(+ [[1808年]])
* [[1803年]]([[享和]]3年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[松平頼誠]]、[[守山藩]]5代藩主(+ [[1862年]])
* [[1817年]] - [[シャルル=フランソワ・ドービニー]]、画家(+ [[1878年]])
* [[1820年]] - [[スーザン・B・アンソニー]]、[[公民権運動]]指導者(+ [[1906年]])
* [[1823年]]([[道光]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[李鴻章]]、[[政治家]](+ [[1901年]])
* [[1827年]]([[文政]]10年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[本多忠寛 (神戸藩主)|本多忠寛]]、[[神戸藩]]6代藩主(+ [[1885年]])
* [[1828年]]([[文政]]11年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[阿部正外]]、[[白河藩]]7代藩主(+ [[1887年]])
* [[1836年]]([[天保]]6年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[松平容保]]、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主、[[京都守護職]](+ [[1893年]])
* [[1845年]] - [[エリフ・ルート]]、第38代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1937年]])
* [[1856年]] - [[エミール・クレペリン]]、[[精神医学|精神医学者]](+ [[1926年]])
* [[1861年]] - [[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、[[哲学|哲学者]]、数学者(+ [[1947年]])
* 1861年 - [[シャルル・エドゥアール・ギヨーム]]、[[物理学者]](+ [[1938年]])
* 1861年 - [[ハルフォード・マッキンダー]]、[[地理学者]](+ [[1947年]])
* [[1866年]] - [[ビリー・ハミルトン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1940年]])
* [[1873年]] - [[ハンス・フォン・オイラー=ケルピン]]、[[化学者]](+ [[1964年]])
* [[1874年]] - [[アーネスト・シャクルトン]]、[[探検家]](+ [[1922年]])
* [[1877年]] - [[ルイ・ルノー (実業家)|ルイ・ルノー]]、[[実業家]]、[[ルノー]]創業者(+ [[1944年]])
* [[1882年]] - [[ジョン・バリモア]]、[[俳優]](+ [[1942年]])
* [[1888年]] - [[九鬼周造]]、哲学者(+ [[1941年]])
* [[1890年]] - [[宇垣纏]]、[[海軍軍人]](+ [[1945年]])
* [[1892年]] - [[ジェームズ・フォレスタル]]、初代[[アメリカ合衆国国防長官]](+ [[1949年]])
* [[1895年]] - [[平泉澄]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1984年]])
* [[1898年]] - [[井伏鱒二]]、[[小説家]](+ [[1993年]])
* 1898年 - [[トト (俳優)|トト]]、[[俳優]](+ [[1967年]])
* [[1899年]] - [[ジョルジュ・オーリック]]、[[作曲家]](+ [[1983年]])
* 1899年 - [[ゲイル・ソンダガード]]、[[俳優|女優]](+ [[1985年]])
* [[1901年]] - [[犬塚稔]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](+ [[2007年]])
* [[1903年]] - [[平山嵩]]、[[建築家]](+ [[1986年]])
* [[1904年]] - [[三浦敬三]]、プロ[[スキー|スキーヤー]](+ [[2006年]])
* 1904年 - [[更科源蔵]]、[[詩人]]、[[アイヌ]]文化研究家(+ [[1985年]])
* [[1905年]] - [[ハロルド・アーレン]]、[[作曲家]](+ [[1986年]])
* [[1906年]] - [[竹腰重丸]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[1980年]])
* [[1907年]] - [[シーザー・ロメロ]]、[[俳優]](+ [[1994年]])
* [[1908年]] - [[近藤日出造]]、[[漫画家]](+ [[1979年]])
* [[1909年]] - [[ミープ・ヒース]]、[[諸国民の中の正義の人]](+ [[2010年]])
* 1909年 - [[吾妻徳穂]]、[[舞踏家|舞踊家]](+ [[1998年]])
* [[1911年]] - [[淀井敏夫]]、[[彫刻家]](+ [[2005年]])
* [[1915年]] - [[梅崎春生]]、[[小説家]](+ [[1965年]])
* [[1917年]] - [[小佐野賢治]]、[[実業家]](+ [[1986年]])
* [[1920年]] - [[坂田栄男]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[2010年]])
* 1920年 - [[久保亮五]]、[[物理学者]](+ [[1995年]])
* [[1921年]] - [[桜むつ子]]、女優(+ [[2005年]])
* 1921年 - [[斎藤眞]]、[[政治学者]](+ [[2008年]])
* [[1923年]] - [[ジョー・バナシャク]]、レコード・レーベル経営者(+ [[1985年]])
* [[1926年]] - [[松谷みよ子]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2015年]])
* [[1929年]] - [[立川清登]]、[[バリトン]]歌手(+ [[1985年]])
* 1929年 - [[グラハム・ヒル]]、[[レーシングドライバー]](+ [[1975年]])
* [[1931年]] - [[黒田清]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2000年]])
* 1931年 - [[クレア・ブルーム]]、女優
* 1931年 - [[和田弘]]、[[歌手]](+ [[2004年]])
* 1931年 - [[韓昌祐]]、実業家
* [[1932年]] - [[白土三平]]、漫画家(+ [[2021年]])
* [[1933年]] - [[岡本健治]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[ニクラウス・ヴィルト]]、[[計算機科学|計算機科学者]]
* [[1935年]] - [[穂積良行]]、政治家(+ [[2020年]])
* 1935年 - [[峰恵研]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[2002年]])
* [[1937年]] - [[山根伸介]]、[[チャンバラトリオ]](+ [[2015年]])
* 1937年 - [[ロバート・K・レスラー]]、元[[連邦捜査局|FBI]]捜査官 (+ [[2013年]])
* [[1939年]] - [[広川太一郎]]、声優(+ [[2008年]])
* [[1941年]] - [[中山大三郎]]、[[作曲家]]、[[作詞家]](+ [[2005年]])
* [[1942年]] - [[近藤正臣]]、俳優
* [[1943年]] - [[清水章吾]]、俳優
* [[1944年]] - [[小原伊佐美]]、[[調教師]]
* [[1945年]] - [[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[迫田七郎]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[わたせせいぞう]]、漫画家
* 1945年 - [[ダグラス・ホフスタッター]]、[[認知科学|認知科学者]]、[[コンピュータ科学]]者
* [[1947年]] - [[ジョン・クーリッジ・アダムズ]]、作曲家
* [[1948年]] - [[大古誠司]]、バレーボール選手、監督
* [[1950年]] - [[矢島正雄]]、[[脚本家]]、[[漫画原作者]]
* 1950年 - [[西野泰広]]、[[発達心理学|発達心理学者]]
* 1950年 - [[ツイ・ハーク]](徐克)、[[映画監督]]
* [[1951年]] - [[いしかわじゅん]]、漫画家
* 1951年 - [[トミー・クルーズ]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[ジェーン・シーモア (女優)|ジェーン・シーモア]] 、女優
* [[1954年]] - [[浜井識安]]、[[空手家]]、[[経営コンサルタント]](+ [[2023年]])
* 1954年 - [[立川志の輔]]、[[落語家]]
* 1954年 - [[山本和男]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[陸奥A子]]、漫画家
* 1954年 - [[マット・グレイニング]]、漫画家
* 1954年 - [[稲生高善]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[米村でんじろう]]、サイエンスプロデューサー
* 1955年 - [[クリストファー・マクドナルド]]、俳優
* [[1956年]] - [[浅田美代子]]、[[タレント]]
* 1956年 - [[井出洋介]]、プロ[[麻雀|雀士]]
* 1956年 - [[レイ・コージ]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[ひかわきょうこ]]、漫画家
* [[1958年]] - [[多賀竜昇司]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄8代[[鏡山 (相撲)|鏡山]]
* 1958年 - [[トニー・タッブス]]、[[プロボクサー]]
* [[1959年]] - [[坂上みき]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* [[1960年]] - [[師岡正雄]]、[[アナウンサー]]
* [[1961年]] - [[松浦英信]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[畑恵]]、アナウンサー
* 1962年 - [[宮嵜雅則]]、[[厚生労働技官]]
* [[1964年]] - [[小田静枝]]、[[タレント]]
* [[1965年]] - [[水間詠子]]、[[ボディビルダー]]
* 1965年 - [[神谷百子]]、[[マリンバ]][[演奏者|奏者]]
* 1965年 - [[ウルトラマンロビン]]、[[プロレスラー]]
* [[1966年]] - [[山内嘉弘]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[堀ちえみ]]、女優、タレント
* 1967年 - [[ひと美]]、[[声優]]
* 1967年 - [[光田健一]]、[[ミュージシャン]]
* [[1968年]] - [[月亭方正]]、[[落語家]]、タレント
* 1968年 - [[浅田弘幸]]、漫画家
* 1968年 - [[和央ようか]]、女優、歌手、元[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]主演男役スター
* [[1969年]] - [[小市慢太郎]]、俳優
* [[1970年]] - [[今沢カゲロウ]]、[[ベーシスト]]、[[作曲家]]
* 1970年 - [[吉田万里子 (プロレスラー)|吉田万里子]]、[[プロレスラー]]
* [[1971年]] - [[レイ・セフォー]]、[[格闘家]]
* [[1972年]] - [[桜井誠 (活動家)|桜井誠]]、作家、市民活動家
* 1972年 - [[ヤロミール・ヤーガー]]、アイスホッケー選手
* [[1973年]] - [[上山徹郎]]、漫画家
* 1973年 - [[サラ・ウィンター]]、女優
* 1973年 - [[波多野里奈]]、アナウンサー
* [[1974年]] - 浜本広晃、お笑いタレント([[テンダラー]])
* 1974年 - [[池田貴史]]、ミュージシャン
* 1974年 - [[アレクサンダー・ヴルツ]]、レーシングドライバー
* [[1975年]] - [[野溝美子]]、[[熊本放送|熊本放送(RKK)]]アナウンサー
* [[1976年]] - [[シリル・アビディ]]、格闘家
* 1976年 - [[自見英子]]、政治家
* [[1977年]] - [[小湊美和]]、[[歌手]]
* 1977年 - [[マシュー・ランデル]]、プロ野球選手
* [[1978年]] - [[インリン]]、タレント
* 1978年 - [[ショコラ (歌手)|ショコラ]]、歌手
* [[1979年]] - [[浅井晴美]]、[[声優]]
* 1979年 - [[斎藤司 (お笑い芸人)|斎藤司]]、お笑いタレント([[トレンディエンジェル]])
* [[1980年]] - [[エレーナ・ソコロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1981年]] - 上江洌清作、ミュージシャン([[MONGOL800]])
* [[1982年]] - [[板倉雄一]]、漫画家
* 1982年 - [[豊島ミホ]]、作家
* 1982年 - [[出村美苗|MINAE]]、モデル
* [[1983年]] - [[ラッセル・マーティン]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[山本伸一 (野球)|山本伸一]]、元プロ野球選手、競輪選手
* 1983年 - [[崔俊蓆]]、元プロ球選手
* [[1984年]] - [[mink]]、歌手
* 1984年 - [[木村優里]]、タレント
* 1984年 - [[ネイト・シャーホルツ]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[南乃花]]、アイドル、タレント
* [[1986年]] - [[小清水亜美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=479 |title=小清水亜美|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=2 Mar 2023 |publisher=animate Times |date=14 Feb 2023}}</ref>、[[声優]]
* 1986年 - [[藤原良平]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[ジョニー・クエト]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[宮嶋麻衣]]、女優
* 1986年 - [[ファウティノ・デロスサントス]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[浅倉杏美]]、声優
* 1987年 - [[オルガ・ブクレーエワ]]、バレーボール選手
* 1987年 - [[佐崎愛里]]、元[[レースクイーン]]
* [[1988年]] - [[草野博紀]]、[[歌手]]
* 1988年 - [[森岡龍]]、俳優
* 1988年 - [[ルイ・パトリシオ]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[西脇綾香]]、歌手([[Perfume]])
* 1989年 - [[葵 (女優)|葵]]、女優
* 1989年 - [[金原杏奈]]、[[ファッションモデル]]
* 1989年 - [[董慧博]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1990年]] - [[井上琴絵]]、[[バレーボール]]選手
* 1990年 - 大トニー、お笑い芸人([[マテンロウ]])
* 1990年 - [[海老沼匡]]、柔道選手
* 1990年 - [[住岡梨奈]]、[[シンガーソングライター]]
* 1990年 - [[小岩井ことり]]、声優
* 1990年 - [[シャルル・ピック]]、レーシングドライバー
* 1990年 - [[ノエミ・シニョリーレ]]、バレーボール選手
* 1990年 - [[ミシェル・マセド・ローシャ・マシャド]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[斎藤嘉樹]]、俳優
* 1991年 ‐ [[中島悠]]、キュービスト
* 1991年 - [[リッチ・スワン]]、プロレスラー
* [[1992年]] - [[山谷祥生]]、声優
* 1992年 - Raehwan、アイドル、ミュージシャン([[BIGSTAR]])
* 1992年 - [[エルネスト・シルバ]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[大野菜摘]]、女優
* [[1994年]] - [[渡邉ひかる]]、アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 1994年 - [[チン・セヨン]]、女優
* [[1995年]] - [[メーガン・ザ・スタリオン]]、[[ラッパー]]
* [[1996年]] - [[貴島明日香]]、ファッションモデル
* 1996年 - [[山西利和]]、[[陸上競技]]選手
* [[1997年]] - [[岡村大八]]、サッカー選手
* [[1998年]] - 齋藤冬優花、アイドル([[櫻坂46]])
* 1998年 - D1、アイドル、ミュージシャン([[DKB (音楽グループ)|DKB]])
* [[1999年]] - [[尾形春水]]、元アイドル(元[[モーニング娘。]])
* 1999年 - [[原英莉花]]、プロゴルファー
* 1999年 - [[谷川翔]]、[[体操競技選手]]
* [[2000年]] - [[羽鳥世那]]、元子役
* [[2001年]] - [[丹生明里]]、アイドル([[日向坂46]])
* 2001年 - [[仲地礼亜]]、プロ野球選手
* 生年不詳 - [[篠原千絵]]、漫画家
* 生年不詳 - [[北原文野]]、漫画家
* 生年不明 - [[筏井かなえ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.rme.jp/talent/women/kanae-ikadai.html |title=筏井 かなえ |access-date=2 Mar 2023 |publisher=RME株式会社}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[石川夕香]]、声優
* 生年不詳 - [[泉久実子]]、声優
* 生年不詳 - [[佐々木智代]]、声優
* 生年不詳 - [[平井啓二]]、声優
* 生年不詳 - [[藤堂はな]]、[[ライブアイドル]]
== 忌日 ==
* [[1152年]] - [[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1093年]])
* [[1162年]]([[応保]]2年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]) - [[藤原宗輔]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1077年]])
* [[1491年]]([[延徳]]3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[足利義視]]、[[室町幕府]]の[[武将]](* [[1439年]])
* [[1591年]]([[天正]]19年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[豊臣秀長]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、[[豊臣秀吉]]の弟(* [[1540年]])
* [[1621年]] - [[ミヒャエル・プレトリウス]]、[[作曲家]](* [[1571年]]?)
* [[1637年]] - [[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]、神聖ローマ皇帝(* [[1578年]])
* [[1601年]]([[慶長]]6年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[末次元康]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、[[毛利元就]]の八男(* [[1560年]])
* [[1781年]] - [[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]、[[詩人]]、[[劇作家]]、[[思想家]]、[[評論家]](* [[1729年]])
* [[1804年]]([[享和]]4年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[高橋至時]]、[[天文学者]](* [[1764年]])
* [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[松平容住]]、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]第6代藩主(* [[1779年]])
* [[1844年]] - [[ヘンリー・アディントン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/henry-addington-1st-viscount-sidmouth |title=Past Prime Ministers Henry Addington 1st Viscount Sidmouth |access-date=2 Mar 2023 |website=GOV.UK |language=En}}</ref>、[[イギリスの首相]](* [[1757年]])
* [[1846年]] - [[オットー・フォン・コツェブー]]、航海士、[[探検家]](* [[1787年]])
* [[1857年]] - [[ミハイル・グリンカ]]、作曲家(* [[1804年]])
* [[1869年]]([[明治]]2年1月5日) - [[横井小楠]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]士、[[儒教|儒学者]](* [[1809年]])
* [[1881年]] - [[大政 (侠客)|大政]]、[[侠客]](* [[1832年]])
* [[1883年]] - [[華頂宮博厚親王]]、[[皇族]](* [[1875年]])
* [[1922年]] - [[嶌田川儀兵衞]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1844年]])
* 1922年 - [[宇都宮太郎]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大将]](* [[1861年]])
* [[1923年]] - [[一ノ矢藤太郎]]、大相撲力士(* [[1856年]])
* [[1925年]] - [[木下利玄]]、[[歌人]](* [[1886年]])
* [[1927年]] - [[ヤーコプ・ハイルマン]]、[[実業家]](* [[1846年]])
* [[1928年]] - [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]、イギリスの首相(* [[1852年]])
* [[1930年]] - [[ジュリオ・ドゥーエ]]、イタリアの[[軍人]]、[[軍事学者]](* [[1869年]])
* [[1935年]] - [[バジル・ホール・チェンバレン]]、[[日本学|日本学者]](* [[1850年]])
* [[1944年]] - [[河合栄治郎]]、[[経済学者]](* [[1891年]])
* [[1946年]] - [[コーネリアス・ジョンソン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1913年]])
* [[1958年]] - [[徳永直]]、[[小説家]](* [[1899年]])
* [[1959年]] - [[オーエン・リチャードソン]]、[[物理学者]](* [[1879年]])
* [[1961年]] - [[マリベル・ビンソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1911年]])
* [[1965年]] - [[ナット・キング・コール]]、[[歌手]](* [[1919年]])
* [[1968年]] - [[リトル・ウォルター]]、[[ハーモニカ]]奏者(* [[1930年]])
* [[1972年]] - [[エドガー・スノー]]、[[ジャーナリスト]](* [[1905年]])
* [[1974年]] - [[クット・アッテルベリ]]、作曲家(* [[1887年]])
* [[1980年]] - [[新田次郎]]、小説家(* [[1912年]])
* [[1981年]] - [[カール・リヒター]]、[[指揮者]](* [[1926年]])
* [[1983年]] - [[大西良慶]]、[[法相宗|北法相宗]]の[[僧]](* [[1875年]])
* [[1984年]] - [[エセル・マーマン]]、歌手、[[俳優|女優]](* [[1908年]])
* 1984年 - [[渋沢秀雄]]、[[実業家]]、[[文化人]](* [[1892年]])
* [[1986年]] - [[今久留主淳]]、[[プロ野球選手]](* [[1918年]])
* [[1988年]] - [[リチャード・P・ファインマン]]、[[物理学者]](* [[1918年]])
* [[1992年]] - [[ウィリアム・シューマン]]、[[作曲家]](* [[1910年]])
* [[1993年]] - [[石橋犀水]]、[[書家]](* [[1896年]])
* [[1999年]] - [[山岡久乃]]、女優(* [[1926年]])
* [[2000年]] - [[進藤武松]]、[[彫刻家]](* [[1909年]])
* [[2002年]] - [[根津嘉一郎 (2代目)]]、実業家(* [[1913年]])
* 2002年 - [[熊川好生]]、政治家、初代[[浦安市]]市長(* [[1932年]])
* [[2003年]] - [[奥田元宋]]、[[日本画家]](* [[1912年]])
* 2003年 - [[吉村道明]]、[[プロレスラー]](* [[1926年]])
* [[2005年]] - [[劉炳森]]、[[書家]]、[[政治家]](* [[1937年]])
* [[2006年]] - [[アンドレイ・ペトロフ]]、作曲家(* [[1930年]])
* [[2007年]] - [[ロバート・アドラー]]、[[発明家]](* [[1913年]])
* 2007年 - [[レイ・エバンズ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20070217000209 |title=R・エバンズ氏死去/「ケ・セラ・セラ」の米作詞家 |access-date=2 Mar 2023 |publisher=[[四国新聞]] |date=17 Feb 2007}}</ref>、[[作詞家]](* [[1915年]])
* [[2020年]] - [[トニー・フェルナンデス]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202002160000233.html |title=元西武トニー・フェルナンデス氏死去 現地メディア |access-date=2 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=16 Feb 2020}}</ref>、プロ野球選手(* [[1962年]])
* [[2023年]] - [[飯塚昭三]]、[[声優]](* [[1933年]])
== 記念日・年中行事 ==
* {{仮リンク|国旗の日 (カナダ)|en|National Flag of Canada Day|label=国旗の日}}({{CAN}})
*: [[1965年]]のこの日、[[カナダの国旗]]が、現在の[[カエデの葉|サトウカエデの葉]]をデザインしたものに改められたことを記念。
* [[建国記念日]]({{SRB}})
*: [[1804年]]の{{仮リンク|第1次セルビア暴動|en|First Serbian Uprising}}と[[1835年]]の最初の憲法制定を記念。
* {{仮リンク|全面防衛|en|Total Defence (Singapore)}}の日({{SGP}})
* ジョン・フラムの日({{VUT}})
*: [[タンナ島]]における[[カーゴ・カルト]]の偶像、[[ジョン・フラム]]が再来するとされている日。
* [[春一番]]名付けの日({{JPN}})
*: [[安政]]6年([[1859年]])旧暦[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]、壱岐郷ノ浦の漁師53人が五島沖で突風に遭い全員が死亡した<ref>{{Cite web|和書|url=http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo70226a.htm|title=春一番と木枯らし1号 「番」「号」違いは? : もの知り百科 : 暮らし 社会 : 関西発 |publisher=読売新聞|date=2007-02-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080221010533/http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo70226a.htm|archivedate=2008-02-21|accessdate=15 Nov 2023}}</ref>。それ以前から、郷ノ浦の漁師の間で春の初めの強い南風が「春一」と呼ばれており、これが「春一番」の語源とされていることによる。
* [[かまくら]]({{JPN}})
*: [[秋田県]][[横手市]]で行われるお祭り。水神様をまつる小正月行事で毎年2月15日、16日に開催される。約450年の歴史があるといわれており、かまくらの中に子どもたちが入って「はいってたんせ(かまくらに入ってください)」「おがんでたんせ(水神様をおがんでください)」と言いながら、甘酒やお餅を振る舞う。もともとはかまくらの中にまつられた水神様にお賽銭を上げて、家内安全・商売繁盛・五穀豊穣などを祈願する行事だったが、時代の変化とともに現在のような形になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yokotekamakura.com/event/3-5/ |title=横手の雪まつり【かまくら】 |access-date=15 Nov 2023 |publisher=一般社団法人 横手市観光協会}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=54}}</ref>。
*西行忌({{JPN}})
*: 歌人・[[西行]]法師は文治6年2月16日(新暦1190年[[3月23日]])73歳で入寂。西行は藤原氏の出自で、[[鳥羽天皇|鳥羽院]](鳥羽法皇)の[[北面武士]]として活躍するが、保延6年(1140年)、23歳で出家する。その後、諸国を巡る漂白の旅に出て、多くの和歌を残す。
*: 桜をこよなく愛していた西行は、「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」という歌を残し、2月15日から1日後の2月16日にこの世を去った<ref>{{Cite web |url=https://benesse.jp/kyouiku/201503/20150320-6.html |title=桜の歌人・西行。桜になにを見ていた? |access-date=15 Nov 2023 |publisher=[[ベネッセコーポレーション|Benesse Corporation]] |date=20 Mar 2015}}</ref>。「望月のころ」という西行の願いを汲み、2月15日が「西行忌」とされている<ref>{{Cite web |url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/373-2-15 |title=2月15日は西行忌 |access-date=15 Nov 2023 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=15 Feb 2020}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0215|date=Feb 2023}}
* [[1860年]] - 十五少年、漂流開始。([[ジュール・ヴェルヌ]]『[[十五少年漂流記]]』)
* [[1950年]] - [[野比のび助]]([[野比のび太|のび太]]の父親)が、[[野比玉子|片岡玉子]](のび太の母親)と知り合う。(原作版『[[ドラえもん]]』)
* [[1999年]] - ジャン=ポール・ガゼーのシーマン研究日記が日本の増田家の蔵から発見される<ref>ジャン=ポール・ガゼー(著)、[[神崎京介]](訳)、[[斎藤由多加]](監修)『ジャン=ポール・ガゼーの日記 失われた24日間』[[幻冬舎]]、1999年、8頁。{{ISBN2|4-87728-314-5}}。</ref>。(ゲーム『[[シーマン]]』)
* 西暦不明 - [[関東豪学連|伊達臣人]]が教官を殺害し、男塾を追放される(男塾二・一五事件)(漫画『[[魁!!男塾]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 2137年 - 鏑木彗、アニメ『[[蒼穹のファフナー|蒼穹のファフナー EXODUS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://fafner-exodus.jp/special/character/sui.html |title=鏑木 彗 |access-date=15 Nov 2023 |publisher=XEBEC |work=『蒼穹のファフナー EXODUS』}}</ref>
* 生年不明 - 月島唯、アニメ『[[落語天女おゆい]]』の主人公<ref>{{Cite web |url=http://www.rakugo-tennyo.com/chara/index.html |title=月島唯=落語天女(言霊天女) |access-date=15 Nov 2023 |publisher=桂歌若プロジェクト・落語天女製作委員会 |work=『落語天女おゆい』}}</ref>
* 生年不明 - 堀北鈴音、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/horikita.html |title=堀北 鈴音 |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |accessdate=15 Nov 2023 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - シャーロット・リンリン(ビッグ・マム)、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/CharlotteLinlin.html |title=シャーロット・リンリン |access-date=15 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#音の五人衆|多由也]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|year=2005|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|page=101|isbn=4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 木下久志、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870555-2|volume=4巻|page=50}}</ref>
* 生年不明 - 障子目蔵、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-15/ |title=障子目蔵 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=15 Nov 2023|work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 臼沢塞、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=臼沢 塞(うすざわ さえ) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=15 Nov 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 円城寺三毛、ボカロ歌唱・アニメ『[[ACTORS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://actorsmusic.jp/character/enjoji/ |title=円城寺 三毛 |publisher=[[エグジットチューンズ|EXIT TUNES]] |accessdate=15 Nov 2023 |work=『ACTORS』}}</ref>
* 生年不明 - [[ジョン・クローリー]]、ゲーム『[[龍虎の拳]]』シリーズに登場するキャラクター<ref name=SNK>{{Twitter status|snk_enter|964010404039950336}}</ref>
* 生年不明 - [[アーデルハイド・バーンシュタイン]]、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|SNKPofficial_jp|1493408174522892293}}</ref>
* 生年不明 - 新城テツ、ゲーム・漫画・アニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード|カードファイト!!ヴァンガード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vanguard_zero_|1360191763588075523}}</ref>
* 生年不明 - 栗六杏、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|1625676272260067328}}</ref>
* 生年不明 - グラッド、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=52&cate=name&cont=Grad |title=グラッド |access-date=15 Nov 2023 |publisher=[[ジークレスト| GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#鳳ミチル|鳳ミチル]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1096295509503823873}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://revuestarlight.bushimo.jp/character/michiru/ |title=鳳ミチル |access-date=15 Nov 2023 |publisher=Project Revue Starlight [[エイチーム|Ateam Entertainment Inc.]] [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] [[ブシロード|bushiroad]] |work=『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-』}}</ref>
* 生年不明 - 鐘嵐珠、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/lanzhu/ |title=鐘 嵐珠 |publisher=プロジェクトラブライブ! プロジェクトラブライブ!サンシャイン!! プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] [[ブシロード|bushiroad]] |accessdate=15 Nov 2023 |work=『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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1,505 | C++ | C++(シープラスプラス)は、汎用プログラミング言語のひとつである。派生元であるC言語の機能や特徴を継承しつつ、表現力と効率性の向上のために、手続き型プログラミング・データ抽象・オブジェクト指向プログラミング・ジェネリックプログラミングといった複数のプログラミングパラダイムが組み合わされている。C言語のようにハードウェアを直接扱うような下位層向けの低水準言語としても、複雑なアプリケーションソフトウェアを開発するための上位層向け高水準言語としても使用可能である。アセンブリ言語以外の低水準言語を必要としないこと、使わない機能に時間的・空間的コストを必要としないことが、言語設計の重要な原則となっている。
C++は、1983年にAT&Tベル研究所の計算機科学者ビャーネ・ストロヴストルップによって公開された。また様々なプラットフォームでその開発環境が導入された。1998年からISOとIECの共同で言語仕様とテンプレートライブラリの標準化が行われるようになり、その後2003年、2011年、2014年、2017年、2020年に標準規格が改訂されている。2021年時点での最新規格は「ISO/IEC 14882:2020」通称「C++20」である。
ストロヴストルップはプログラミング言語C with Classes(クラス付きのC言語)の開発を1979年に開始した。彼は大規模なソフトウェアの開発に有用な特徴をSimulaが備えていることに気がついたが、Simulaは実行速度が遅く実用的ではなかった。一方でBCPLは実行速度こそ速かったものの、大規模なソフトウェア開発を念頭に置いた場合にあまりにも低級だった。
これらの事情を鑑みて、ストロヴストルップは当時既に汎用的な言語だったC言語にSimulaの特徴を取り入れることを試みた。この取り組みにあたってはALGOL68やAda、CLU、ML等の言語の影響も受けている。最初はクラスと派生クラス、型検査機構の強化、インライン関数、デフォルト引数の機能を、Cfrontを介してC言語に追加した。1985年10月に最初の商用リリースがなされた。
1983年にはC with ClassesからC++に名称を変更した。この際に、仮想関数と、関数と演算子の多重定義、参照型、const型、ユーザー制御可能な自由領域メモリ制御、型検査機構の改良、BCPL形式の(「//」による)行単位のコメントなどの機能が追加された。1985年には『The C++ Programming Language』の初版が出版された(邦訳『プログラミング言語C++』1988年))。この時点では公式な標準が策定されていなかったために、この本が事実上のリファレンスとなった。1989年C++のバージョン2.0として、多重継承と抽象クラス、静的メンバ関数、constメンバ関数、protectedメンバ等の機能が追加されたものがリリースされた。1990年に『The Annotated C++ Reference Manual (ARM)』(邦訳『注解C++リファレンスマニュアル』)が出版され、将来の標準化の土台となるものを提供した。後に追加された機能にはテンプレートと例外処理、名前空間、新形式のキャスト、ブール型が含まれた。
ARMが事実上の標準として使われた時代が続いたが、標準化が進んだ。C++言語の最初の標準は1998年にISO/IEC 14882:1998として承認された。2003年の改訂版を経て、2011年にメジャーアップデートとして制定されたのがISO/IEC 14882:2011、通称「C++11」である。このバージョンは、元々、非公式に「C++0x」と呼ばれていた。2000年代中に制定され、正式に「C++09」と呼称されることを見越した仮称だったが、2000年代中には実現しなかった。2011年8月10日まで続いた最終国際投票で C++0x は全会一致で承認された。これにより C++0x と呼ばれてきた C++ の次期改正案はついに国際標準になり、C++11と呼べるようになった。また、2014年にはISO/IEC 14882:2014、通称「C++14」が策定された。2017年にはISO/IEC 14882:2017、通称「C++17」が策定された。2020年にはISO/IEC 14882:2020、通称「C++20」が策定された。
C++言語の進化に伴い、標準ライブラリもまた進化していった。C++標準ライブラリに最初に追加されたのは、従来のC言語の printf() や scanf() といった関数を置き換えるストリームI/Oライブラリである。また、C++98における標準ライブラリへの追加で最も重要なものはStandard Template Library (STL) である。C++11では、正規表現による検索・置換や複数スレッドでの同時実行、ハッシュテーブル・ハッシュセットの追加などさらなる拡充が続いている。
長年にわたる作業の後、ANSIとISOの合同委員会はプログラミング言語C++を1998年に標準化した (ISO/IEC 14882:1998)。1998年の標準の公式なリリースから数年間にわたって委員会は不具合の報告を続け、2003年に改訂版を出版した。2003年12月に制定された日本工業規格(現:日本産業規格)JIS X 3014:2003「プログラム言語C++」(日本産業標準調査会、経済産業省)は、ISO/IEC 14882:2003 (E) の日本語訳である。
2007年11月15日、C++ Technical Report 1 (TR1) という技術報告書(テクニカルレポート)がリリースされた。これは規格の公式な一部ではなかったが、次の版のC++に含まれると期待される、標準ライブラリへの数多くの拡張を与えた。TR1の内容は、多少の修正を加えてC++11に取り込まれている。
2011年9月1日、C++98以来初の大きな改訂となるISO/IEC 14882:2011が発行された。
2014年8月18日、ISO/IEC 14882:2014 (C++14) が投票で承認され、同年12月15日に公式に出版された。
2017年12月1日、ISO/IEC 14882:2017 (C++17) が公式に発行された。
2020年9月4日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20) が投票で承認され、同年12月15日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20)に公式に出版された。
C++20に続いて次期改訂版となるべきISO/IEC 14882:2023 (C++23) の仕様策定については、2019年末から始まったCovid-19の世界的流行により開発者同士の対面によるミーティングの開催を図ることが大変難しくなったことから、仕様策定が非常に難航している状況である。
C++に対しては、今もなお要望が絶えない。特にBoost C++ライブラリを開発しているBoostコミュニティはC++の方向性の決定に大きく貢献し、さらにC++標準化委員会へ改良すべき点などを意見している。現在はマルチパラダイムプログラミングをより自然に行えるようにすることに力が注がれており、たとえばBoostでは、C++の関数型プログラミングやメタプログラミングの可能性を模索している。
C++11と呼ばれている新しいバージョンのC++標準ではこれらの一部が取り込まれ、今後のC++でもさらなる追加が行われると見られている。
この名称はRick Mascittiの功績で、最初に使用されたのは1983年の12月である。初期の研究期間では、開発中の言語は「C with Classes」と呼ばれていた。最終名は、変数の値を一つ加算する、C言語の++(インクリメント)演算子からの派生である。また一般的な命名規則での「+」の使用は、機能強化されたコンピュータプログラムを意味する。ストロヴストルップによれば「この名前は、C言語からの変更の革新的な本質を示している」ということである。C+は、より初期の無関係なプログラミング言語の名前である。
ストロヴストルップは著書『The C++ Programming Language』の前文で名前の起源を語り、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の付録から「C++」が連想されるかもしれないと付け加えている。ニュースピークという架空の言語の解説に宛てられた3つの章の中に、科学技術に関する専門用語とジャーゴンの解説に宛てられた「C vocabulary」という章がある。ニュースピークで「ダブルプラス」は最上級の修飾語である。ゆえにニュースピークで「C++」は「最も極端な専門用語またはジャーゴン」という意味になるだろう。
1992年、Rick Mascittiは名前について非公式に質問されると、彼はおふざけのつもりで命名したという旨の回答をした。彼はこの言語の正式な名称になるとは夢にも思っていなかった。
ビャーネ・ストロヴストルップは著書『C++の設計と進化(1994)』でC++を設計する際に用いたルールを述べている。
C++のコンパイラがどのようにコードを出力しメモリのレイアウトを決めるのかということについては『Inside the C++ Object Model』(Lippman, 1996)に記載されている。ただしコンパイラが出力するコードの仕様はコンパイラ制作者の裁量に任されている。
1998年に施行されたANSI/ISO C++ 規格は言語仕様とライブラリの2つのパートで構成される。ライブラリ規格の大半はStandard Template Library (STL) とC言語の標準ライブラリの改良版についての内容である。標準規格以外にも様々なライブラリが数多く存在し、リンカを使用することにより、C言語/FORTRAN/Pascal/BASICのような言語を用いて作成されたライブラリを利用できる。規格外のライブラリが利用できるかどうかはコンパイラに依存する。
C++標準ライブラリはC++向けに若干の最適化が施されたC言語標準ライブラリを含んでいる。C++標準ライブラリの大部分はSTLである。 コンテナ(可変長配列やリストなど)、コンテナを配列のように扱えるようにするイテレータ、検索やソートを行うアルゴリズムといった有用なツールが提供されている。さらにmapやmultimapのような連想配列や、setやmultisetのようなソート済みコンテナも提供され、これらは全てインターフェイスに互換性がある。テンプレートを用いることにより、あらゆるコンテナ(またはイテレータで定義したシーケンス)に適用できる汎用的なアルゴリズムを記述できる。C言語と同様にライブラリの機能には#include ディレクティブを使ってヘッダファイルを読み込むことによってアクセスする。C++には69本の標準ヘッダファイルがあるが、このうち19本については非推奨となっている。
STLは標準規格に採用される前は、ヒューレット・パッカードの(一時はシリコングラフィックスの)商用ライブラリだった。STLは標準規格の単なる一部分に過ぎず規格書にSTLという表記は見られないが、入出力ストリーム、国際化、デバッグ機能、およびC言語標準ライブラリ等の、STL以外の部分と区別するために、今でも多くの人がSTLという用語を使っている。
大半のC++コンパイラはSTLを含むC++標準ライブラリの実装を提供している。STLPortのようなコンパイラ非依存のSTLも存在する。様々な目的でC++標準ライブラリを独自に実装しているプロジェクトは他にもある。
C++の標準ライブラリは大きく次のように分けられる。多種多様な実行環境が存在することを考慮して、GUIに関するライブラリは標準に含まれていない。
以下に、C++で広く使われていると思われるライブラリを挙げる。
C言語に、オブジェクト指向プログラミングをはじめとする様々なプログラミングパラダイムをサポートするための改良が加えられたものといえる。ただし、他のプログラミング言語と違い、旧来のCと同様に手続き型言語としても扱えるという特徴がある。また、C言語と比べて型チェックが厳しくなっており、型安全性が向上している。このことから、C++をbetter Cというふうに呼ぶことがある。すなわち、基本的にC言語に対して上位互換性がある。初期のC++はCへのトランスレータとして実装され、C++プログラムを一旦Cプログラムに変換してからコンパイルしていた。
ただし、C++という名称が定まった当初の時期から、C言語とC++との間には厳密な互換性はない。当時、Cとの互換性について議論の末、「C++とANSI Cの間には不正当な非互換性はない」という合意が形成されることとなった。そのため、正当な非互換性を巡って多くの議論が発生した。ただし、まだANSIによるC言語の標準規格も策定途中の時期である。
その後、先祖であるC言語のANSIによる標準規格制定時には、関数のプロトタイプ宣言やconst修飾など、C++の機能がC言語に取り入れられることにもなった。C99の出現により、//コメントなどのC++で使われていた便利な機能が加わってCとC++の互換性が高まる一方、別々に審議し、別の時期に発行していることと、開発対象が必ずしも同じでないために利害関係者が異なることによる違いもある。
C++はCにクラスのサポートを追加しただけでなく、さらに次のような多種多様な機能を持っており、言語仕様は大変複雑である。言語処理系すなわちコンパイラの実装も、Cなどと比べて難易度が非常に高い。
ここから、よりオブジェクト指向を強化し、「なんでもあり」ではない代わりにシンプルで分かりやすくスマートな設計を目指した新たな言語(JavaやD言語など)が作られることとなった。
C++はC言語およびそのプリプロセッサの構文をほぼ継承している。以下のサンプルはビャーネ・ストロヴストルップの書籍「The C++ Programming Language, 4th Edition」(ISBN 978-0321563842) の「2.2.1 Hello, World!」に記載されている標準C++ライブラリのストリーム機能を用いて標準出力に出力するHello worldプログラムである。
書籍でも明記されているが、main()関数で意図的に返り値を返さない手法が使用されている。
C++には、四則演算、ビット演算、論理演算、比較演算、メンバーアクセスなどの30を超える演算子がある。メンバーアクセス演算子 (.と.*) のような一部の例外はあるが、大半の演算子はユーザー定義によるオーバーロードが可能である。オーバーロード可能な演算子が豊富に揃えられているため、C++を一種のドメイン固有言語として利用できる。またオーバーロード可能な演算子はスマートポインタや関数オブジェクトのような組み込み型の機能を模倣したユーザー定義クラスの実装や、テンプレートメタプログラミングのような先進的な実装テクニックに欠かせないものとなっている。演算子をオーバーロードしても演算の優先順位は変化せず、また演算子のオペランドの数も変化しない。ただし指定したオペランドが無視される可能性はある。
C++には、ジェネリックプログラミングを実現する機能としてテンプレートが存在する。テンプレートにできる対象は、関数とクラスである。C++14以降では変数もテンプレートの対象となった。テンプレートはコード中の型および定数をパラメータ化できる。テンプレートのパラメータ(テンプレート仮引数)に、型、コンパイル時定数またはその他のテンプレート(テンプレート実引数)を与えることで、テンプレートはコンパイル時にインスタンス化(実体化・具現化などとも)される。コンパイラは関数やクラスをインスタンス化するために、テンプレート仮引数をテンプレート実引数に置き換える。テンプレートはジェネリックプログラミング、テンプレートメタプログラミング、コード最適化などのために利用される強力なツールであるが、一定のコストを伴う。各テンプレートのインスタンスはテンプレート仮引数毎にテンプレートコードのコピーを生成するためコードサイズが肥大化する。これはコンパイル時に実型引数の情報を削除することで単一の型インスタンスを生成するランタイム型のジェネリクスを実装したJavaなどの言語とは対照的である。なお、C# (.NET Framework) は実行時コンパイラにより実型引数の情報を削除することなく複数の型インスタンスを生成する方式を採用しており、C++とJavaの中間的なアプローチとなっている。
テンプレートとプリプロセッサマクロはいずれもコンパイル時に処理される言語機能であり、静的な条件に基づいたコンパイルが行われるが、テンプレートは字句の置き換えに限定されない。テンプレートはC++の構文と型を解析し、厳密な型チェックに基づいた高度なプログラムの流れの制御ができる。マクロは条件コンパイルに利用できるが、新しい型の生成、再帰的定義、型の評価などは行えないため、コンパイル前のテキストの置き換えや追加・削除といった用途に限定される。つまりマクロは事前に定義されたシンボルに基づいてコンパイルの流れを制御できるものの、テンプレートとは異なり独立して新しいシンボルを生成することはできない。テンプレートは静的な多態(下記参照)とジェネリックプログラミングのためのツールである。
C++のテンプレートはコンパイル時におけるチューリング完全なメカニズムである。これはテンプレートメタプログラミングを用いて実行する前にコンピュータが計算可能なあらゆる処理を表現できることを意味している。
概略すれば、テンプレートはコードの記述に本来必要な型や定数を明確にすることなく抽象的な記述ができる、パラメータ化された関数またはクラスである。テンプレート仮引数に実引数を与えてインスタンス化した結果は、テンプレート仮引数に指定した型に特化した形で記述されたコードと全く等価になる。これによりテンプレートは、汎用的かつおおまかに記述された関数およびクラス(テンプレート)と、特定の型に特化した実装(インスタンス化されたテンプレート)の依存関係を解消し、パフォーマンスを犠牲にすることなく抽象化できる手段を提供する。
C++はC言語にオブジェクト指向プログラミングをサポートするための改良を加えたものといえる。C++のクラスには、オブジェクト指向言語で一般的な抽象化、カプセル化、継承、多態の4つの機能がある。オブジェクトは実行時に生成されるクラスの実体である。クラスは実行時に生成される様々なオブジェクトのひな形と考えることができる。
なお、C++はSmalltalkなどに見られるメッセージ転送の概念によるオブジェクト指向を採用していない。
カプセル化とは、データ構造を保証し、演算子が意図したとおりに動作し、クラスの利用者が直感的に使い方を理解できるようにするためにデータを隠蔽することである。クラスや関数はC++の基礎的なカプセル化のメカニズムである。クラスのメンバはpublic、protected、privateのいずれかとして宣言され明示的にカプセル化できる。publicなメンバはどの関数からでもアクセスできる。privateなメンバはクラスのメンバ関数から、またはクラスが明示的にアクセス権を与えたフレンド関数からアクセスできる。protectedなメンバはクラスのメンバおよびフレンド関数に加えてその派生クラスのメンバからもアクセスできる。
オブジェクト指向では原則としてクラスのメンバ変数にアクセスする全ての関数はクラスの中にカプセル化されなければならない。C++ではメンバ関数およびフレンド関数によりこれをサポートするが、強制はされない。プログラマはメンバ変数の一部または全体をpublicとして定義でき、型とは無関係な変数をpublicな要素として定義できる。このことからC++はオブジェクト指向だけでなく、モジュール化のような機能分割のパラダイムもサポートしているといえる。
一般的には、全てのデータをprivateまたはprotectedにして、クラスのユーザに必要最小限の関数のみをpublicとして公開することがよい習慣であると考えられている。このようにしてデータの実装の詳細を隠蔽することにより、設計者はインターフェイスを変更することなく後日実装を根本から変更できる 。
継承を使うと他のクラスの資産を流用できる。基底クラスからの継承はpublic、protected、privateのいずれかとして宣言する。このアクセス指定子により、派生クラスや全く無関係なクラスが基底クラスのpublicおよびprotectedメンバにアクセスできるかどうかを決定できる。普通はpublic継承のみがいわゆる派生に対応する。残りの二つの継承方法はあまり利用されない。アクセス指定子を省略した場合、構造体はpublic継承になるのに対し、クラスではprivate継承になる。基底クラスをvirtualとして宣言することもできる。これは仮想継承と呼ばれる。仮想継承は基底クラスのオブジェクトが一つだけ存在することを保証するものであり、多重継承の曖昧さの問題を避けることができる。
多重継承はC++の中でもしばしば問題になる機能である。多重継承では複数の基底クラスから一つのクラスを派生できる。これにより継承関係が複雑になる。例えばFlyingCatクラスはCatクラスとFlyingMammalクラスから派生できる。JavaやC#では、基底クラスの数を一つに制限する一方で、複数のインターフェイスを実装でき、これにより制約はあるものの多重継承に近い機能を実現できる(実装の多重継承ではなく型の多重継承)。インターフェイスはクラスと異なり抽象メソッド(純粋仮想関数)を宣言できるのみであり、関数の実装やフィールド(メンバ変数)は定義できない。JavaとC#のインターフェイスは、C++の抽象基底クラスと呼ばれる純粋仮想関数宣言のみを持つクラスに相当する。JavaやC#の継承モデルを好むプログラマは、C++において実装の多重継承は使わず、実装の継承は単一継承に絞り、抽象基底クラスによる型の多重継承のみを使うポリシーを採用することもできる。
多態 (ポリモーフィズム) は様々な場面で多用されている機能である。多態により、状況や文脈に応じてオブジェクトに異なる振る舞いをさせることができる。逆に言うと、オブジェクト自身が振る舞いを決定することができる。
C++は静的な多態と動的な多態の両方をサポートする。コンパイル時に解決される静的な多態は柔軟性に劣るもののパフォーマンス面で有利である。一方、実行時に解決される動的な多態は柔軟性に優れているもののパフォーマンス面で不利である。
関数のオーバーロードは名称が同じ複数の関数を宣言できる機能である。ただし引数は異なっていなければならない。個々の関数は引数の数や型の順序で区別される。同名の関数はコードの文脈によってどの関数が呼ばれるのかが決まる。関数の戻り値の型で区別することはできない。
関数を宣言する際にプログラマはデフォルト引数を指定できる。関数を呼び出すときに引数を省略した場合はデフォルト引数が適用される。関数を呼び出すときに宣言よりも引数の数が少ない場合は、左から右の順で引数の型が比較され、後半部分にデフォルト引数が適用される。たいていの場合は一つの関数にデフォルト引数を指定するよりも、引数の数が異なる関数をオーバーロードする方が望ましい。
C++のテンプレートでは、より洗練された汎用的な多態を実現できる。特にCuriously Recurring Template Patternにより仮想関数のオーバーライドをシミュレートした静的な多態を実装できる。C++のテンプレートは型安全かつチューリング完全であるため、テンプレートメタプログラミングによりコンパイラに条件文を再帰的に解決させて実行コードを生成させることにも利用できる。
基底クラスへのポインタおよび参照は、正確に型が一致するオブジェクトだけでなく、その派生クラスのオブジェクトを指すことができる(リスコフの置換原則)。これにより、複数の異なる派生型を、同一の基底型で統一的に扱うことが可能となる。また、基底型へのポインタの配列やコンテナは、複数の異なる派生型へのポインタを保持できる。派生オブジェクトから基底オブジェクトへの変換(アップキャスト)では、リスコフの置換原則により、明示的なキャストは必要ない。
dynamic_castは基底オブジェクトから派生オブジェクトへの変換(ダウンキャスト)を実行時に安全に行うための演算子である。この機能は実行時型情報 (RTTI) に依存している。あるオブジェクトが特定の派生型のオブジェクトであることがあらかじめ分かっている場合はstatic_cast演算子でキャストすることもできる。static_castは純粋にコンパイル時に解決されるため動作が速く、またRTTIを必要としない。また、static_castは従来のC言語形式のキャスト構文と違い継承階層のナビゲーションをサポートするため、多重継承した場合もメモリレイアウトを考慮したダウンキャストを実行することができる。ただし、static_castでは多重継承において継承関係を持たない基底型同士のキャスト(クロスキャスト)を実行することはできず、dynamic_castを用いる必要がある。とはいえ、ダウンキャストやクロスキャストが必要となる場合、通例そのプログラムの設計に問題があることが多く、本来は仮想関数のオーバーライドによる多態を用いるべきである。
クラスのメンバー関数をvirtualキーワードで修飾することにより、派生クラスでオーバーライド(再定義)することが可能な仮想関数 (virtual function) となる。仮想関数は「メソッド」と呼ばれることもある。派生クラスにて、基底クラスの仮想関数と名前および引数の数や型の順序が同じ関数を定義することでオーバーライドする(C++11以降では、overrideキーワードにより修飾することでオーバーライドを明示することもできる)。基底クラスの仮想関数を派生クラスでオーバーライドした場合、実際に呼び出される関数はオブジェクトの型によって決定される。基底クラスのポインタのみが与えられた場合、コンパイラはオブジェクトの型をコンパイル時に特定できず正しい関数を呼び出せないため、実行時にこれを特定する。これをダイナミックディスパッチと呼ぶ。仮想関数により、オブジェクトに割り当てられた実際の型に従って、最上位の派生クラスで実装した関数が呼び出される。一般的なC++コンパイラは仮想関数テーブルを用いる。オブジェクトの型が判明している場合はスコープ解決演算子を利用して仮想関数テーブルを使わないようにバイパスすることもできるが、一般的には実行時に仮想関数の呼び出しを解決するのが普通である。
通常のメンバー関数に加え、オーバーロードした演算子やデストラクタも仮想関数にできる。原則的にはクラスが仮想関数を持つ場合はデストラクタも仮想関数にすべきである。コンストラクタやその延長線上にあるコピーコンストラクタはコンパイルされた時点でオブジェクトの型が確定しないため仮想関数にできない。しかし、派生オブジェクトへのポインタが基底オブジェクトへのポインタとして渡された場合に、そのオブジェクトのコピーを作らなければならない場合は問題が生じる。このような場合はclone()関数(またはそれに準じる物)を仮想関数として作成するのが一般的な解決方法である。clone()は派生クラスのコピーを生成して返す。
= 0をメンバー関数宣言の末尾セミコロンの直前に挿入することにより、メンバー関数を純粋仮想関数 (pure virtual function) にできる。純粋仮想関数を持つクラスは純粋仮想クラスと呼ばれ、このクラスからオブジェクトを生成することはできない。このような純粋仮想クラスは基底クラスとしてのみ利用できる。派生クラスは純粋仮称関数を継承するため、派生クラスのオブジェクトを生成したい場合は全ての純粋仮想関数をオーバーライドして実装しなければならない。純粋仮想関数を持つクラスのオブジェクトを生成しようと試みるようなプログラムは行儀が悪い。
型消去 (type erasure) と呼ばれる、テンプレートを活用して動的な(プログラム実行時の)多態性を実現する手法が存在する。この手法はC++の標準ライブラリでもstd::functionやstd::shared_ptrの削除子で採用されている。いずれも、コンストラクタや代入演算子で(一定の条件を満たす)任意のオブジェクトを実引数として渡せるようにすることから多態性を実現している。
C99の制定前、C言語とC++との分かりやすい差異として、// で始まり改行で終わる、単一行コメントの有無があった。
単一行コメントはもともと、C言語の祖先にあたるBCPLに含まれていた仕様である。現在のC++のコンパイラの多くがC言語のコンパイラとしても使えるようになっているのと同様に、C言語が生まれて間もない頃は、C言語に加えB言語やBCPLのコンパイルができるコンパイラが用いられていた。それらコンパイラは、C言語のソースであってもBCPLと同様に単一行コメントが使用できるよう独自の拡張がなされていたため、BCPLの単一行コメントに慣れ親しんでいたプログラマ達は、C言語でも単一行コメントを使い続けた。その慣習がC++の誕生時まで生き残っていたため、C++では単一行コメントを「復活」させることになった。
そのためもあって、C言語での仕様外の単一行コメントの使用は半ば常習と化し、C99によって単一行コメントが正式に規格として組み入れられた。
LALR(1)のような旧式のパースアルゴリズムを用いてC++のパーサを記述することは比較的難しい。その理由の一つはC++の文法がLALRではないことである。このため、コード分析ツールや、高度な修正を行うツール(リファクタリングツールなど)は非常に少ない。この問題を取り扱う方法としてLALR(1)でパースできるように改良されたC++の亜種(SPECS)を利用する方法がある。GLRパーサのようにより強力でシンプルなパーサもあるが処理が遅い。
パースはC++を処理するツールを作成する際の最も難しい問題ではない。このようなツールはコンパイラと同じように識別子の意味を理解しなければならない。従ってC++を処理する実用的なシステムはソースコードをパースするだけでなく、各識別子の定義を正確に適用し(つまりC++の複雑なスコープのルールを正確に取り扱い)、型を正しく特定できなければならない。
いずれにせよC++ソースコード処理ツールが実用的であるためには、GNU GCCやVisual C++で使われているような、様々なC++の方言を取り扱えなければならず、適切な分析処理やソース変換やソース出力などが実装できなければならない。GLRのような先進的なパースアルゴリズムとシンボルテーブルを組み合わせてソースコードを変換する方法を利用すればあらゆるC++ツールを開発できる。
その言語文法の複雑さゆえ、C++規格に準拠したコンパイラを開発するのは一般的に難しい。20世紀末から何年にも渡りC++に部分的に準拠した様々なコンパイラが作られ、テンプレートの部分特殊化などの部分で実装にばらつきがあった。中でも、テンプレートの宣言と実装を分離できるようにするためのexportは問題のキーワードの一つだった。exportを定義したC++98規格がリリースされてから5年後の2003年前半にComeau C/C++が初めてexportを実装した。2004年にBorland C++ Builder Xがexportを実装した。これらのコンパイラはいずれもEDGのフロントエンドをベースにしていた。大半のコンパイラで実装されていないexportは多くのC++関連書籍(例えば"Beginning ANSI C++", Ivor Horton著)にサンプルが記されているが、exportが記載されていることによる問題は特に指摘されていない。GCCをはじめとするその他のコンパイラでは全くサポートしていない。Herb SutterはC++の標準規格からexportを削除することを推奨していたが、C++98では最終的にこれを残す決定がなされた。結局、C++11では実装の少なさ・困難さを理由に削除された。
コンパイラ開発者の裁量で決められる範囲を確保するため、C++標準化委員会は名前修飾や例外処理などの実装に依存する機能の実装方法を決定しないことに決めた。この決定の問題は、コンパイラが異なるとオブジェクトファイルの互換性が保証されない点である。特定の機種やOSでコンパイラの互換性を持たせ、バイナリレベルでのコード再利用性を高めようとするABIのような非標準の規格もあり、一部のコンパイラではこうした準規格を採用している。
2019年現在のメジャーなC++コンパイラ(gcc, Clang, Intel C++ Compiler, Microsoft Visual C++など)の最新版はC++11およびC++14規格にほぼ準拠しており、特にClangは2013年4月時点でC++11の全機能を実装完了した。ただしマイナーアップデートとなるC++17を含めると、処理系間でのばらつきは依然として存在する。
C++は基本的にC言語の上位互換であるが、厳密には異なる。C言語で記述された大半のプログラムはC++でコンパイルできるように簡単に修正できるが、C言語では正当でもC++では不正になる部分や、C++とは動作が異なる部分が若干存在する。
例えば、C言語では汎用ポインタvoid*は他の型へのポインタに暗黙的に変換できるが、C++ではキャスト演算子によって変換を明示する必要がある。またC++ではnewやclassといった数多くの新しいキーワードが追加されたが、移植の際に元のC言語のプログラムでそれらが識別子(例えば変数名)として使われていると、問題になる。
C言語の標準規格であるC99やその後継C11ではこうした非互換性の一部が解決されており、//形式のコメントや宣言とコードの混在といったC++の機能がC言語でサポートされている。その一方でC99では、可変長配列、複素数型の組み込み変数、指示初期化子、複合リテラルといった、C++でサポートしていない数多くの新機能が追加された。C99で追加された新機能の一部はC++11に反映され、C++14に対してもC99やC11との互換性を向上される提案が行われた。また、可変長配列や複素数型などのC99に追加された機能の一部はC11でオプションとなった。
C++で書かれた関数をC言語で書かれたプログラムから呼び出す、あるいはその逆を行なう場合など、C言語のコードとC++のコードを混在させるためにはCリンケージを利用する必要があり、関数をextern "C"で個別に修飾するか、extern "C" { ... }のブロックの中で宣言しなければならない。また、関数引数や戻り値などのインターフェイスはC言語互換形式に合わせる必要がある。Cリンケージを利用した関数については、C++名前修飾がされず、名前修飾に依存している関数オーバーロード機能は利用できない。
C/C++の相互運用性が確保されていることで、慣れ親しんだC言語標準ライブラリ関数の大半をC++でもそのまま利用し続けることができるということはC++の大きなメリットのひとつである。 | [
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"text": "C++(シープラスプラス)は、汎用プログラミング言語のひとつである。派生元であるC言語の機能や特徴を継承しつつ、表現力と効率性の向上のために、手続き型プログラミング・データ抽象・オブジェクト指向プログラミング・ジェネリックプログラミングといった複数のプログラミングパラダイムが組み合わされている。C言語のようにハードウェアを直接扱うような下位層向けの低水準言語としても、複雑なアプリケーションソフトウェアを開発するための上位層向け高水準言語としても使用可能である。アセンブリ言語以外の低水準言語を必要としないこと、使わない機能に時間的・空間的コストを必要としないことが、言語設計の重要な原則となっている。",
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"text": "C++は、1983年にAT&Tベル研究所の計算機科学者ビャーネ・ストロヴストルップによって公開された。また様々なプラットフォームでその開発環境が導入された。1998年からISOとIECの共同で言語仕様とテンプレートライブラリの標準化が行われるようになり、その後2003年、2011年、2014年、2017年、2020年に標準規格が改訂されている。2021年時点での最新規格は「ISO/IEC 14882:2020」通称「C++20」である。",
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"text": "ストロヴストルップはプログラミング言語C with Classes(クラス付きのC言語)の開発を1979年に開始した。彼は大規模なソフトウェアの開発に有用な特徴をSimulaが備えていることに気がついたが、Simulaは実行速度が遅く実用的ではなかった。一方でBCPLは実行速度こそ速かったものの、大規模なソフトウェア開発を念頭に置いた場合にあまりにも低級だった。",
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"text": "これらの事情を鑑みて、ストロヴストルップは当時既に汎用的な言語だったC言語にSimulaの特徴を取り入れることを試みた。この取り組みにあたってはALGOL68やAda、CLU、ML等の言語の影響も受けている。最初はクラスと派生クラス、型検査機構の強化、インライン関数、デフォルト引数の機能を、Cfrontを介してC言語に追加した。1985年10月に最初の商用リリースがなされた。",
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"text": "1983年にはC with ClassesからC++に名称を変更した。この際に、仮想関数と、関数と演算子の多重定義、参照型、const型、ユーザー制御可能な自由領域メモリ制御、型検査機構の改良、BCPL形式の(「//」による)行単位のコメントなどの機能が追加された。1985年には『The C++ Programming Language』の初版が出版された(邦訳『プログラミング言語C++』1988年))。この時点では公式な標準が策定されていなかったために、この本が事実上のリファレンスとなった。1989年C++のバージョン2.0として、多重継承と抽象クラス、静的メンバ関数、constメンバ関数、protectedメンバ等の機能が追加されたものがリリースされた。1990年に『The Annotated C++ Reference Manual (ARM)』(邦訳『注解C++リファレンスマニュアル』)が出版され、将来の標準化の土台となるものを提供した。後に追加された機能にはテンプレートと例外処理、名前空間、新形式のキャスト、ブール型が含まれた。",
"title": "歴史"
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"text": "ARMが事実上の標準として使われた時代が続いたが、標準化が進んだ。C++言語の最初の標準は1998年にISO/IEC 14882:1998として承認された。2003年の改訂版を経て、2011年にメジャーアップデートとして制定されたのがISO/IEC 14882:2011、通称「C++11」である。このバージョンは、元々、非公式に「C++0x」と呼ばれていた。2000年代中に制定され、正式に「C++09」と呼称されることを見越した仮称だったが、2000年代中には実現しなかった。2011年8月10日まで続いた最終国際投票で C++0x は全会一致で承認された。これにより C++0x と呼ばれてきた C++ の次期改正案はついに国際標準になり、C++11と呼べるようになった。また、2014年にはISO/IEC 14882:2014、通称「C++14」が策定された。2017年にはISO/IEC 14882:2017、通称「C++17」が策定された。2020年にはISO/IEC 14882:2020、通称「C++20」が策定された。",
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"text": "C++言語の進化に伴い、標準ライブラリもまた進化していった。C++標準ライブラリに最初に追加されたのは、従来のC言語の printf() や scanf() といった関数を置き換えるストリームI/Oライブラリである。また、C++98における標準ライブラリへの追加で最も重要なものはStandard Template Library (STL) である。C++11では、正規表現による検索・置換や複数スレッドでの同時実行、ハッシュテーブル・ハッシュセットの追加などさらなる拡充が続いている。",
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"text": "長年にわたる作業の後、ANSIとISOの合同委員会はプログラミング言語C++を1998年に標準化した (ISO/IEC 14882:1998)。1998年の標準の公式なリリースから数年間にわたって委員会は不具合の報告を続け、2003年に改訂版を出版した。2003年12月に制定された日本工業規格(現:日本産業規格)JIS X 3014:2003「プログラム言語C++」(日本産業標準調査会、経済産業省)は、ISO/IEC 14882:2003 (E) の日本語訳である。",
"title": "歴史"
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"text": "2007年11月15日、C++ Technical Report 1 (TR1) という技術報告書(テクニカルレポート)がリリースされた。これは規格の公式な一部ではなかったが、次の版のC++に含まれると期待される、標準ライブラリへの数多くの拡張を与えた。TR1の内容は、多少の修正を加えてC++11に取り込まれている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "2011年9月1日、C++98以来初の大きな改訂となるISO/IEC 14882:2011が発行された。",
"title": "歴史"
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"text": "2014年8月18日、ISO/IEC 14882:2014 (C++14) が投票で承認され、同年12月15日に公式に出版された。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 11,
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"text": "2017年12月1日、ISO/IEC 14882:2017 (C++17) が公式に発行された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2020年9月4日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20) が投票で承認され、同年12月15日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20)に公式に出版された。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "C++20に続いて次期改訂版となるべきISO/IEC 14882:2023 (C++23) の仕様策定については、2019年末から始まったCovid-19の世界的流行により開発者同士の対面によるミーティングの開催を図ることが大変難しくなったことから、仕様策定が非常に難航している状況である。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "C++に対しては、今もなお要望が絶えない。特にBoost C++ライブラリを開発しているBoostコミュニティはC++の方向性の決定に大きく貢献し、さらにC++標準化委員会へ改良すべき点などを意見している。現在はマルチパラダイムプログラミングをより自然に行えるようにすることに力が注がれており、たとえばBoostでは、C++の関数型プログラミングやメタプログラミングの可能性を模索している。",
"title": "歴史"
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"text": "C++11と呼ばれている新しいバージョンのC++標準ではこれらの一部が取り込まれ、今後のC++でもさらなる追加が行われると見られている。",
"title": "歴史"
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"text": "この名称はRick Mascittiの功績で、最初に使用されたのは1983年の12月である。初期の研究期間では、開発中の言語は「C with Classes」と呼ばれていた。最終名は、変数の値を一つ加算する、C言語の++(インクリメント)演算子からの派生である。また一般的な命名規則での「+」の使用は、機能強化されたコンピュータプログラムを意味する。ストロヴストルップによれば「この名前は、C言語からの変更の革新的な本質を示している」ということである。C+は、より初期の無関係なプログラミング言語の名前である。",
"title": "歴史"
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"text": "ストロヴストルップは著書『The C++ Programming Language』の前文で名前の起源を語り、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の付録から「C++」が連想されるかもしれないと付け加えている。ニュースピークという架空の言語の解説に宛てられた3つの章の中に、科学技術に関する専門用語とジャーゴンの解説に宛てられた「C vocabulary」という章がある。ニュースピークで「ダブルプラス」は最上級の修飾語である。ゆえにニュースピークで「C++」は「最も極端な専門用語またはジャーゴン」という意味になるだろう。",
"title": "歴史"
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"text": "1992年、Rick Mascittiは名前について非公式に質問されると、彼はおふざけのつもりで命名したという旨の回答をした。彼はこの言語の正式な名称になるとは夢にも思っていなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "ビャーネ・ストロヴストルップは著書『C++の設計と進化(1994)』でC++を設計する際に用いたルールを述べている。",
"title": "哲学"
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"text": "C++のコンパイラがどのようにコードを出力しメモリのレイアウトを決めるのかということについては『Inside the C++ Object Model』(Lippman, 1996)に記載されている。ただしコンパイラが出力するコードの仕様はコンパイラ制作者の裁量に任されている。",
"title": "哲学"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1998年に施行されたANSI/ISO C++ 規格は言語仕様とライブラリの2つのパートで構成される。ライブラリ規格の大半はStandard Template Library (STL) とC言語の標準ライブラリの改良版についての内容である。標準規格以外にも様々なライブラリが数多く存在し、リンカを使用することにより、C言語/FORTRAN/Pascal/BASICのような言語を用いて作成されたライブラリを利用できる。規格外のライブラリが利用できるかどうかはコンパイラに依存する。",
"title": "標準ライブラリ"
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"text": "C++標準ライブラリはC++向けに若干の最適化が施されたC言語標準ライブラリを含んでいる。C++標準ライブラリの大部分はSTLである。 コンテナ(可変長配列やリストなど)、コンテナを配列のように扱えるようにするイテレータ、検索やソートを行うアルゴリズムといった有用なツールが提供されている。さらにmapやmultimapのような連想配列や、setやmultisetのようなソート済みコンテナも提供され、これらは全てインターフェイスに互換性がある。テンプレートを用いることにより、あらゆるコンテナ(またはイテレータで定義したシーケンス)に適用できる汎用的なアルゴリズムを記述できる。C言語と同様にライブラリの機能には#include ディレクティブを使ってヘッダファイルを読み込むことによってアクセスする。C++には69本の標準ヘッダファイルがあるが、このうち19本については非推奨となっている。",
"title": "標準ライブラリ"
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"text": "STLは標準規格に採用される前は、ヒューレット・パッカードの(一時はシリコングラフィックスの)商用ライブラリだった。STLは標準規格の単なる一部分に過ぎず規格書にSTLという表記は見られないが、入出力ストリーム、国際化、デバッグ機能、およびC言語標準ライブラリ等の、STL以外の部分と区別するために、今でも多くの人がSTLという用語を使っている。",
"title": "標準ライブラリ"
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{
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"text": "大半のC++コンパイラはSTLを含むC++標準ライブラリの実装を提供している。STLPortのようなコンパイラ非依存のSTLも存在する。様々な目的でC++標準ライブラリを独自に実装しているプロジェクトは他にもある。",
"title": "標準ライブラリ"
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"tag": "p",
"text": "C++の標準ライブラリは大きく次のように分けられる。多種多様な実行環境が存在することを考慮して、GUIに関するライブラリは標準に含まれていない。",
"title": "標準ライブラリ"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "以下に、C++で広く使われていると思われるライブラリを挙げる。",
"title": "外部ライブラリ"
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"text": "C言語に、オブジェクト指向プログラミングをはじめとする様々なプログラミングパラダイムをサポートするための改良が加えられたものといえる。ただし、他のプログラミング言語と違い、旧来のCと同様に手続き型言語としても扱えるという特徴がある。また、C言語と比べて型チェックが厳しくなっており、型安全性が向上している。このことから、C++をbetter Cというふうに呼ぶことがある。すなわち、基本的にC言語に対して上位互換性がある。初期のC++はCへのトランスレータとして実装され、C++プログラムを一旦Cプログラムに変換してからコンパイルしていた。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ただし、C++という名称が定まった当初の時期から、C言語とC++との間には厳密な互換性はない。当時、Cとの互換性について議論の末、「C++とANSI Cの間には不正当な非互換性はない」という合意が形成されることとなった。そのため、正当な非互換性を巡って多くの議論が発生した。ただし、まだANSIによるC言語の標準規格も策定途中の時期である。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後、先祖であるC言語のANSIによる標準規格制定時には、関数のプロトタイプ宣言やconst修飾など、C++の機能がC言語に取り入れられることにもなった。C99の出現により、//コメントなどのC++で使われていた便利な機能が加わってCとC++の互換性が高まる一方、別々に審議し、別の時期に発行していることと、開発対象が必ずしも同じでないために利害関係者が異なることによる違いもある。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "C++はCにクラスのサポートを追加しただけでなく、さらに次のような多種多様な機能を持っており、言語仕様は大変複雑である。言語処理系すなわちコンパイラの実装も、Cなどと比べて難易度が非常に高い。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ここから、よりオブジェクト指向を強化し、「なんでもあり」ではない代わりにシンプルで分かりやすくスマートな設計を目指した新たな言語(JavaやD言語など)が作られることとなった。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "C++はC言語およびそのプリプロセッサの構文をほぼ継承している。以下のサンプルはビャーネ・ストロヴストルップの書籍「The C++ Programming Language, 4th Edition」(ISBN 978-0321563842) の「2.2.1 Hello, World!」に記載されている標準C++ライブラリのストリーム機能を用いて標準出力に出力するHello worldプログラムである。",
"title": "特徴"
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{
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"text": "書籍でも明記されているが、main()関数で意図的に返り値を返さない手法が使用されている。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "C++には、四則演算、ビット演算、論理演算、比較演算、メンバーアクセスなどの30を超える演算子がある。メンバーアクセス演算子 (.と.*) のような一部の例外はあるが、大半の演算子はユーザー定義によるオーバーロードが可能である。オーバーロード可能な演算子が豊富に揃えられているため、C++を一種のドメイン固有言語として利用できる。またオーバーロード可能な演算子はスマートポインタや関数オブジェクトのような組み込み型の機能を模倣したユーザー定義クラスの実装や、テンプレートメタプログラミングのような先進的な実装テクニックに欠かせないものとなっている。演算子をオーバーロードしても演算の優先順位は変化せず、また演算子のオペランドの数も変化しない。ただし指定したオペランドが無視される可能性はある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "C++には、ジェネリックプログラミングを実現する機能としてテンプレートが存在する。テンプレートにできる対象は、関数とクラスである。C++14以降では変数もテンプレートの対象となった。テンプレートはコード中の型および定数をパラメータ化できる。テンプレートのパラメータ(テンプレート仮引数)に、型、コンパイル時定数またはその他のテンプレート(テンプレート実引数)を与えることで、テンプレートはコンパイル時にインスタンス化(実体化・具現化などとも)される。コンパイラは関数やクラスをインスタンス化するために、テンプレート仮引数をテンプレート実引数に置き換える。テンプレートはジェネリックプログラミング、テンプレートメタプログラミング、コード最適化などのために利用される強力なツールであるが、一定のコストを伴う。各テンプレートのインスタンスはテンプレート仮引数毎にテンプレートコードのコピーを生成するためコードサイズが肥大化する。これはコンパイル時に実型引数の情報を削除することで単一の型インスタンスを生成するランタイム型のジェネリクスを実装したJavaなどの言語とは対照的である。なお、C# (.NET Framework) は実行時コンパイラにより実型引数の情報を削除することなく複数の型インスタンスを生成する方式を採用しており、C++とJavaの中間的なアプローチとなっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "テンプレートとプリプロセッサマクロはいずれもコンパイル時に処理される言語機能であり、静的な条件に基づいたコンパイルが行われるが、テンプレートは字句の置き換えに限定されない。テンプレートはC++の構文と型を解析し、厳密な型チェックに基づいた高度なプログラムの流れの制御ができる。マクロは条件コンパイルに利用できるが、新しい型の生成、再帰的定義、型の評価などは行えないため、コンパイル前のテキストの置き換えや追加・削除といった用途に限定される。つまりマクロは事前に定義されたシンボルに基づいてコンパイルの流れを制御できるものの、テンプレートとは異なり独立して新しいシンボルを生成することはできない。テンプレートは静的な多態(下記参照)とジェネリックプログラミングのためのツールである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "C++のテンプレートはコンパイル時におけるチューリング完全なメカニズムである。これはテンプレートメタプログラミングを用いて実行する前にコンピュータが計算可能なあらゆる処理を表現できることを意味している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "概略すれば、テンプレートはコードの記述に本来必要な型や定数を明確にすることなく抽象的な記述ができる、パラメータ化された関数またはクラスである。テンプレート仮引数に実引数を与えてインスタンス化した結果は、テンプレート仮引数に指定した型に特化した形で記述されたコードと全く等価になる。これによりテンプレートは、汎用的かつおおまかに記述された関数およびクラス(テンプレート)と、特定の型に特化した実装(インスタンス化されたテンプレート)の依存関係を解消し、パフォーマンスを犠牲にすることなく抽象化できる手段を提供する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "C++はC言語にオブジェクト指向プログラミングをサポートするための改良を加えたものといえる。C++のクラスには、オブジェクト指向言語で一般的な抽象化、カプセル化、継承、多態の4つの機能がある。オブジェクトは実行時に生成されるクラスの実体である。クラスは実行時に生成される様々なオブジェクトのひな形と考えることができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、C++はSmalltalkなどに見られるメッセージ転送の概念によるオブジェクト指向を採用していない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "カプセル化とは、データ構造を保証し、演算子が意図したとおりに動作し、クラスの利用者が直感的に使い方を理解できるようにするためにデータを隠蔽することである。クラスや関数はC++の基礎的なカプセル化のメカニズムである。クラスのメンバはpublic、protected、privateのいずれかとして宣言され明示的にカプセル化できる。publicなメンバはどの関数からでもアクセスできる。privateなメンバはクラスのメンバ関数から、またはクラスが明示的にアクセス権を与えたフレンド関数からアクセスできる。protectedなメンバはクラスのメンバおよびフレンド関数に加えてその派生クラスのメンバからもアクセスできる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "オブジェクト指向では原則としてクラスのメンバ変数にアクセスする全ての関数はクラスの中にカプセル化されなければならない。C++ではメンバ関数およびフレンド関数によりこれをサポートするが、強制はされない。プログラマはメンバ変数の一部または全体をpublicとして定義でき、型とは無関係な変数をpublicな要素として定義できる。このことからC++はオブジェクト指向だけでなく、モジュール化のような機能分割のパラダイムもサポートしているといえる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一般的には、全てのデータをprivateまたはprotectedにして、クラスのユーザに必要最小限の関数のみをpublicとして公開することがよい習慣であると考えられている。このようにしてデータの実装の詳細を隠蔽することにより、設計者はインターフェイスを変更することなく後日実装を根本から変更できる 。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "継承を使うと他のクラスの資産を流用できる。基底クラスからの継承はpublic、protected、privateのいずれかとして宣言する。このアクセス指定子により、派生クラスや全く無関係なクラスが基底クラスのpublicおよびprotectedメンバにアクセスできるかどうかを決定できる。普通はpublic継承のみがいわゆる派生に対応する。残りの二つの継承方法はあまり利用されない。アクセス指定子を省略した場合、構造体はpublic継承になるのに対し、クラスではprivate継承になる。基底クラスをvirtualとして宣言することもできる。これは仮想継承と呼ばれる。仮想継承は基底クラスのオブジェクトが一つだけ存在することを保証するものであり、多重継承の曖昧さの問題を避けることができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "多重継承はC++の中でもしばしば問題になる機能である。多重継承では複数の基底クラスから一つのクラスを派生できる。これにより継承関係が複雑になる。例えばFlyingCatクラスはCatクラスとFlyingMammalクラスから派生できる。JavaやC#では、基底クラスの数を一つに制限する一方で、複数のインターフェイスを実装でき、これにより制約はあるものの多重継承に近い機能を実現できる(実装の多重継承ではなく型の多重継承)。インターフェイスはクラスと異なり抽象メソッド(純粋仮想関数)を宣言できるのみであり、関数の実装やフィールド(メンバ変数)は定義できない。JavaとC#のインターフェイスは、C++の抽象基底クラスと呼ばれる純粋仮想関数宣言のみを持つクラスに相当する。JavaやC#の継承モデルを好むプログラマは、C++において実装の多重継承は使わず、実装の継承は単一継承に絞り、抽象基底クラスによる型の多重継承のみを使うポリシーを採用することもできる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多態 (ポリモーフィズム) は様々な場面で多用されている機能である。多態により、状況や文脈に応じてオブジェクトに異なる振る舞いをさせることができる。逆に言うと、オブジェクト自身が振る舞いを決定することができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "C++は静的な多態と動的な多態の両方をサポートする。コンパイル時に解決される静的な多態は柔軟性に劣るもののパフォーマンス面で有利である。一方、実行時に解決される動的な多態は柔軟性に優れているもののパフォーマンス面で不利である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "関数のオーバーロードは名称が同じ複数の関数を宣言できる機能である。ただし引数は異なっていなければならない。個々の関数は引数の数や型の順序で区別される。同名の関数はコードの文脈によってどの関数が呼ばれるのかが決まる。関数の戻り値の型で区別することはできない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "関数を宣言する際にプログラマはデフォルト引数を指定できる。関数を呼び出すときに引数を省略した場合はデフォルト引数が適用される。関数を呼び出すときに宣言よりも引数の数が少ない場合は、左から右の順で引数の型が比較され、後半部分にデフォルト引数が適用される。たいていの場合は一つの関数にデフォルト引数を指定するよりも、引数の数が異なる関数をオーバーロードする方が望ましい。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "C++のテンプレートでは、より洗練された汎用的な多態を実現できる。特にCuriously Recurring Template Patternにより仮想関数のオーバーライドをシミュレートした静的な多態を実装できる。C++のテンプレートは型安全かつチューリング完全であるため、テンプレートメタプログラミングによりコンパイラに条件文を再帰的に解決させて実行コードを生成させることにも利用できる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "基底クラスへのポインタおよび参照は、正確に型が一致するオブジェクトだけでなく、その派生クラスのオブジェクトを指すことができる(リスコフの置換原則)。これにより、複数の異なる派生型を、同一の基底型で統一的に扱うことが可能となる。また、基底型へのポインタの配列やコンテナは、複数の異なる派生型へのポインタを保持できる。派生オブジェクトから基底オブジェクトへの変換(アップキャスト)では、リスコフの置換原則により、明示的なキャストは必要ない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "dynamic_castは基底オブジェクトから派生オブジェクトへの変換(ダウンキャスト)を実行時に安全に行うための演算子である。この機能は実行時型情報 (RTTI) に依存している。あるオブジェクトが特定の派生型のオブジェクトであることがあらかじめ分かっている場合はstatic_cast演算子でキャストすることもできる。static_castは純粋にコンパイル時に解決されるため動作が速く、またRTTIを必要としない。また、static_castは従来のC言語形式のキャスト構文と違い継承階層のナビゲーションをサポートするため、多重継承した場合もメモリレイアウトを考慮したダウンキャストを実行することができる。ただし、static_castでは多重継承において継承関係を持たない基底型同士のキャスト(クロスキャスト)を実行することはできず、dynamic_castを用いる必要がある。とはいえ、ダウンキャストやクロスキャストが必要となる場合、通例そのプログラムの設計に問題があることが多く、本来は仮想関数のオーバーライドによる多態を用いるべきである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "クラスのメンバー関数をvirtualキーワードで修飾することにより、派生クラスでオーバーライド(再定義)することが可能な仮想関数 (virtual function) となる。仮想関数は「メソッド」と呼ばれることもある。派生クラスにて、基底クラスの仮想関数と名前および引数の数や型の順序が同じ関数を定義することでオーバーライドする(C++11以降では、overrideキーワードにより修飾することでオーバーライドを明示することもできる)。基底クラスの仮想関数を派生クラスでオーバーライドした場合、実際に呼び出される関数はオブジェクトの型によって決定される。基底クラスのポインタのみが与えられた場合、コンパイラはオブジェクトの型をコンパイル時に特定できず正しい関数を呼び出せないため、実行時にこれを特定する。これをダイナミックディスパッチと呼ぶ。仮想関数により、オブジェクトに割り当てられた実際の型に従って、最上位の派生クラスで実装した関数が呼び出される。一般的なC++コンパイラは仮想関数テーブルを用いる。オブジェクトの型が判明している場合はスコープ解決演算子を利用して仮想関数テーブルを使わないようにバイパスすることもできるが、一般的には実行時に仮想関数の呼び出しを解決するのが普通である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "通常のメンバー関数に加え、オーバーロードした演算子やデストラクタも仮想関数にできる。原則的にはクラスが仮想関数を持つ場合はデストラクタも仮想関数にすべきである。コンストラクタやその延長線上にあるコピーコンストラクタはコンパイルされた時点でオブジェクトの型が確定しないため仮想関数にできない。しかし、派生オブジェクトへのポインタが基底オブジェクトへのポインタとして渡された場合に、そのオブジェクトのコピーを作らなければならない場合は問題が生じる。このような場合はclone()関数(またはそれに準じる物)を仮想関数として作成するのが一般的な解決方法である。clone()は派生クラスのコピーを生成して返す。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "= 0をメンバー関数宣言の末尾セミコロンの直前に挿入することにより、メンバー関数を純粋仮想関数 (pure virtual function) にできる。純粋仮想関数を持つクラスは純粋仮想クラスと呼ばれ、このクラスからオブジェクトを生成することはできない。このような純粋仮想クラスは基底クラスとしてのみ利用できる。派生クラスは純粋仮称関数を継承するため、派生クラスのオブジェクトを生成したい場合は全ての純粋仮想関数をオーバーライドして実装しなければならない。純粋仮想関数を持つクラスのオブジェクトを生成しようと試みるようなプログラムは行儀が悪い。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "型消去 (type erasure) と呼ばれる、テンプレートを活用して動的な(プログラム実行時の)多態性を実現する手法が存在する。この手法はC++の標準ライブラリでもstd::functionやstd::shared_ptrの削除子で採用されている。いずれも、コンストラクタや代入演算子で(一定の条件を満たす)任意のオブジェクトを実引数として渡せるようにすることから多態性を実現している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "C99の制定前、C言語とC++との分かりやすい差異として、// で始まり改行で終わる、単一行コメントの有無があった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "単一行コメントはもともと、C言語の祖先にあたるBCPLに含まれていた仕様である。現在のC++のコンパイラの多くがC言語のコンパイラとしても使えるようになっているのと同様に、C言語が生まれて間もない頃は、C言語に加えB言語やBCPLのコンパイルができるコンパイラが用いられていた。それらコンパイラは、C言語のソースであってもBCPLと同様に単一行コメントが使用できるよう独自の拡張がなされていたため、BCPLの単一行コメントに慣れ親しんでいたプログラマ達は、C言語でも単一行コメントを使い続けた。その慣習がC++の誕生時まで生き残っていたため、C++では単一行コメントを「復活」させることになった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "そのためもあって、C言語での仕様外の単一行コメントの使用は半ば常習と化し、C99によって単一行コメントが正式に規格として組み入れられた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "LALR(1)のような旧式のパースアルゴリズムを用いてC++のパーサを記述することは比較的難しい。その理由の一つはC++の文法がLALRではないことである。このため、コード分析ツールや、高度な修正を行うツール(リファクタリングツールなど)は非常に少ない。この問題を取り扱う方法としてLALR(1)でパースできるように改良されたC++の亜種(SPECS)を利用する方法がある。GLRパーサのようにより強力でシンプルなパーサもあるが処理が遅い。",
"title": "C++ソースコードの処理とパーサ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "パースはC++を処理するツールを作成する際の最も難しい問題ではない。このようなツールはコンパイラと同じように識別子の意味を理解しなければならない。従ってC++を処理する実用的なシステムはソースコードをパースするだけでなく、各識別子の定義を正確に適用し(つまりC++の複雑なスコープのルールを正確に取り扱い)、型を正しく特定できなければならない。",
"title": "C++ソースコードの処理とパーサ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "いずれにせよC++ソースコード処理ツールが実用的であるためには、GNU GCCやVisual C++で使われているような、様々なC++の方言を取り扱えなければならず、適切な分析処理やソース変換やソース出力などが実装できなければならない。GLRのような先進的なパースアルゴリズムとシンボルテーブルを組み合わせてソースコードを変換する方法を利用すればあらゆるC++ツールを開発できる。",
"title": "C++ソースコードの処理とパーサ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "その言語文法の複雑さゆえ、C++規格に準拠したコンパイラを開発するのは一般的に難しい。20世紀末から何年にも渡りC++に部分的に準拠した様々なコンパイラが作られ、テンプレートの部分特殊化などの部分で実装にばらつきがあった。中でも、テンプレートの宣言と実装を分離できるようにするためのexportは問題のキーワードの一つだった。exportを定義したC++98規格がリリースされてから5年後の2003年前半にComeau C/C++が初めてexportを実装した。2004年にBorland C++ Builder Xがexportを実装した。これらのコンパイラはいずれもEDGのフロントエンドをベースにしていた。大半のコンパイラで実装されていないexportは多くのC++関連書籍(例えば\"Beginning ANSI C++\", Ivor Horton著)にサンプルが記されているが、exportが記載されていることによる問題は特に指摘されていない。GCCをはじめとするその他のコンパイラでは全くサポートしていない。Herb SutterはC++の標準規格からexportを削除することを推奨していたが、C++98では最終的にこれを残す決定がなされた。結局、C++11では実装の少なさ・困難さを理由に削除された。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "コンパイラ開発者の裁量で決められる範囲を確保するため、C++標準化委員会は名前修飾や例外処理などの実装に依存する機能の実装方法を決定しないことに決めた。この決定の問題は、コンパイラが異なるとオブジェクトファイルの互換性が保証されない点である。特定の機種やOSでコンパイラの互換性を持たせ、バイナリレベルでのコード再利用性を高めようとするABIのような非標準の規格もあり、一部のコンパイラではこうした準規格を採用している。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2019年現在のメジャーなC++コンパイラ(gcc, Clang, Intel C++ Compiler, Microsoft Visual C++など)の最新版はC++11およびC++14規格にほぼ準拠しており、特にClangは2013年4月時点でC++11の全機能を実装完了した。ただしマイナーアップデートとなるC++17を含めると、処理系間でのばらつきは依然として存在する。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "C++は基本的にC言語の上位互換であるが、厳密には異なる。C言語で記述された大半のプログラムはC++でコンパイルできるように簡単に修正できるが、C言語では正当でもC++では不正になる部分や、C++とは動作が異なる部分が若干存在する。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "例えば、C言語では汎用ポインタvoid*は他の型へのポインタに暗黙的に変換できるが、C++ではキャスト演算子によって変換を明示する必要がある。またC++ではnewやclassといった数多くの新しいキーワードが追加されたが、移植の際に元のC言語のプログラムでそれらが識別子(例えば変数名)として使われていると、問題になる。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "C言語の標準規格であるC99やその後継C11ではこうした非互換性の一部が解決されており、//形式のコメントや宣言とコードの混在といったC++の機能がC言語でサポートされている。その一方でC99では、可変長配列、複素数型の組み込み変数、指示初期化子、複合リテラルといった、C++でサポートしていない数多くの新機能が追加された。C99で追加された新機能の一部はC++11に反映され、C++14に対してもC99やC11との互換性を向上される提案が行われた。また、可変長配列や複素数型などのC99に追加された機能の一部はC11でオプションとなった。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "C++で書かれた関数をC言語で書かれたプログラムから呼び出す、あるいはその逆を行なう場合など、C言語のコードとC++のコードを混在させるためにはCリンケージを利用する必要があり、関数をextern \"C\"で個別に修飾するか、extern \"C\" { ... }のブロックの中で宣言しなければならない。また、関数引数や戻り値などのインターフェイスはC言語互換形式に合わせる必要がある。Cリンケージを利用した関数については、C++名前修飾がされず、名前修飾に依存している関数オーバーロード機能は利用できない。",
"title": "互換性"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "C/C++の相互運用性が確保されていることで、慣れ親しんだC言語標準ライブラリ関数の大半をC++でもそのまま利用し続けることができるということはC++の大きなメリットのひとつである。",
"title": "互換性"
}
]
| C++(シープラスプラス)は、汎用プログラミング言語のひとつである。派生元であるC言語の機能や特徴を継承しつつ、表現力と効率性の向上のために、手続き型プログラミング・データ抽象・オブジェクト指向プログラミング・ジェネリックプログラミングといった複数のプログラミングパラダイムが組み合わされている。C言語のようにハードウェアを直接扱うような下位層向けの低水準言語としても、複雑なアプリケーションソフトウェアを開発するための上位層向け高水準言語としても使用可能である。アセンブリ言語以外の低水準言語を必要としないこと、使わない機能に時間的・空間的コストを必要としないことが、言語設計の重要な原則となっている。 C++は、1983年にAT&Tベル研究所の計算機科学者ビャーネ・ストロヴストルップによって公開された。また様々なプラットフォームでその開発環境が導入された。1998年からISOとIECの共同で言語仕様とテンプレートライブラリの標準化が行われるようになり、その後2003年、2011年、2014年、2017年、2020年に標準規格が改訂されている。2021年時点での最新規格は「ISO/IEC 14882:2020」通称「C++20」である。 | {{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
| onlysourced = false
| name = C++
| paradigm = [[手続き型プログラミング]]、[[抽象データ型|データ抽象化]]、[[オブジェクト指向プログラミング]]、[[ジェネリックプログラミング]]<ref name="名前なし-1">『プログラミング言語C++』第4版、pp.12-13。</ref>
| released = {{start date and age|1983}}
| latest release version = ISO/IEC 14882:2020
| latest release date = {{start date and age|2020|12|15}}
| latest preview version = ISO/IEC 14882:2023
| latest preview date = <!-- {{start date and age|YYYY|MM|DD}} -->
| typing = nominative, [[型システム#型の安全性|安全でない]][[型システム#強い型付けと弱い型付け|強い]][[静的型付け]]
| implementations = [[GNUコンパイラコレクション|GCC]]、[[Clang]]、[[Microsoft Visual C++]]、[[Intel C++ Compiler]]、[[C++ Builder]]
| influenced = [[Java]]、[[Rust (プログラミング言語)|Rust]]、[[C Sharp|C#]]、[[C++/CLI]]、[[D言語]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]
| website = {{ConditionalURL}}
}}
'''C++'''('''シープラスプラス''')は、[[汎用プログラミング言語]]のひとつである。派生元である[[C言語]]の機能や特徴を継承しつつ、表現力と効率性の向上のために、[[手続き型プログラミング]]・[[抽象データ型|データ抽象]]・[[オブジェクト指向プログラミング]]・[[ジェネリックプログラミング]]といった複数の[[プログラミングパラダイム]]が組み合わされている<ref name="名前なし-1"/>。C言語のようにハードウェアを直接扱うような下位層向けの[[低水準言語]]としても、複雑な[[アプリケーションソフトウェア]]を開発するための上位層向け[[高水準言語]]としても使用可能である。[[アセンブリ言語]]以外の[[低水準言語]]を必要としないこと、使わない機能に時間的・空間的コストを必要としないことが、言語設計の重要な原則となっている<ref>『C++の設計と進化』、pp.152-153。</ref><ref>『プログラミング言語C++』第4版、p.11。</ref>。
C++は、1983年に[[ベル研究所|AT&Tベル研究所]]の計算機科学者[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]によって公開された。また様々な[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]でその開発環境が導入された。1998年から[[国際標準化機構|ISO]]と[[国際電気標準会議|IEC]]の共同で言語仕様と[[Standard Template Library|テンプレートライブラリ]]の標準化が行われるようになり、その後2003年、2011年、2014年、2017年、2020年に標準規格が改訂されている。2021年時点での最新規格は「ISO/IEC 14882:2020」通称「[[C++20]]」である。
== 歴史 ==
ストロヴストルップはプログラミング言語'''C with Classes'''(クラス付きのC言語)の開発を[[1979年]]に開始した。彼は大規模なソフトウェアの開発に有用な特徴を[[Simula]]が備えていることに気がついたが、Simulaは実行速度が遅く実用的ではなかった。一方で[[BCPL]]は実行速度こそ速かったものの、大規模なソフトウェア開発を念頭に置いた場合にあまりにも[[低級言語|低級]]だった。
これらの事情を鑑みて、ストロヴストルップは当時既に汎用的な言語だったC言語にSimulaの特徴を取り入れることを試みた。この取り組みにあたっては[[ALGOL|ALGOL68]]や[[Ada]]、[[CLU]]、[[プログラミング言語ML|ML]]等の言語の影響も受けている。最初はクラスと派生クラス、型検査機構の強化、[[インライン関数]]、デフォルト引数の機能を、[[Cfront]]を介してC言語に追加した。[[1985年]][[10月]]に最初の商用リリースがなされた<ref name="invention">{{cite web| url=http://public.research.att.com/~bs/bs_faq.html#invention|title=Bjarne Stroustrup's FAQ - When was C++ invented?|accessdate=2006-05-30|language = English}}</ref>。
[[1983年]]にはC with Classesから'''C++'''に名称を変更した。この際に、[[仮想関数]]と、関数と演算子の[[多重定義]]、[[参照 (情報工学)|参照]]型、<code>const</code>型、ユーザー制御可能な自由領域メモリ制御、型検査機構の改良、BCPL形式の(「<code>//</code>」による)行単位のコメントなどの機能が追加された。[[1985年]]には『The C++ Programming Language』の初版が出版された(邦訳『プログラミング言語C++』[[1988年]]))。この時点では公式な標準が策定されていなかったために、この本が事実上のリファレンスとなった。[[1989年]]C++のバージョン2.0として、[[多重継承]]と[[抽象クラス]]、静的[[メンバ関数]]、<code>const</code>メンバ関数、[[アクセス制御|<code>protected</code>]]メンバ等の機能が追加されたものがリリースされた。[[1990年]]に『The Annotated C++ Reference Manual (ARM)』<ref>{{Cite book|author=Bjarne Stroustrup|author2=Margaret A. Ellis|year=1990|title=The Annotated C++ Reference Manual|publisher=Addison-Wesley Professional|isbn=978-0201514599}}</ref>(邦訳『注解C++リファレンスマニュアル』<ref>{{Cite book|和書|author=Bjarne Stroustrup; Margaret A. Ellis|others=足立高徳、小山裕司
|year=2001|title=The Annotated C++ Reference Manual|publisher=シイエム・シイ|isbn=978-4901280396}}</ref>)が出版され、将来の標準化の土台となるものを提供した。後に追加された機能には[[テンプレート (プログラミング)|テンプレート]]と[[例外処理]]、[[名前空間]]、新形式の[[型変換|キャスト]]、[[ブール型]]が含まれた。
ARMが事実上の標準として使われた時代が続いたが、標準化が進んだ。C++言語の最初の標準は[[1998年]]にISO/IEC 14882:1998として承認された。2003年の改訂版を経て、[[2011年]]にメジャーアップデートとして制定されたのがISO/IEC 14882:2011、通称「'''[[C++11]]'''」である。このバージョンは、元々、非公式に「C++0x」と呼ばれていた。[[2000年代]]中に制定され、正式に「C++09」と呼称されることを見越した仮称だったが、2000年代中には実現しなかった。2011年8月10日まで続いた最終国際投票で C++0x は全会一致で承認された。これにより C++0x と呼ばれてきた C++ の次期改正案はついに国際標準になり、[[C++11]]と呼べるようになった。また、[[2014年]]にはISO/IEC 14882:2014、通称「'''[[C++14]]'''」が策定された。[[2017年]]にはISO/IEC 14882:2017、通称「'''[[C++17]]'''」が策定された。2020年にはISO/IEC 14882:2020、通称「'''[[C++20]]'''」が策定された。
C++言語の進化に伴い、標準ライブラリもまた進化していった。C++標準ライブラリに最初に追加されたのは、従来のC言語の <code>[[printf|printf()]]</code> や <code>[[scanf|scanf()]]</code> といった関数を置き換えるストリームI/Oライブラリである。また、C++98における標準ライブラリへの追加で最も重要なものは[[Standard Template Library]] (STL) である。C++11では、[[正規表現]]による検索・置換や複数[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]での同時実行、[[ハッシュテーブル]]・ハッシュセットの追加などさらなる拡充が続いている。
=== 国際規格 ===
{| class="wikitable"
|-
! 規格出版日 !! C++ 国際規格 !! 非公式名称 !! 対応する日本工業規格
|-
| 1998年9月1日
| ISO/IEC 14882:1998<ref>[http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?csnumber=25845&ICS1=35&ICS2=60 ISO/IEC 14882:1998]</ref>
| C++98
| ―
|-
| 2003年10月16日
| ISO/IEC 14882:2003<ref>[http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?ics1=35&ics2=60&ics3=&csnumber=38110 ISO/IEC 14882:2003]</ref>
| [[C++03]]
| JIS X 3014:2003
|-
| 2007年11月15日
| ISO/IEC TR 19768:2007<ref>[http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?ics1=35&ics2=60&ics3=&csnumber=43289 ISO/IEC TR 19768:2007]</ref>
| [[C++ Technical Report 1|C++TR1]]
| ―
|-
| 2011年9月1日
| ISO/IEC 14882:2011<ref>[http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_ics/catalogue_detail_ics.htm?ics1=35&ics2=60&ics3=&csnumber=50372 ISO/IEC 14882:2011]</ref>
| [[C++11]]
| ―
|-
| 2014年12月15日
| ISO/IEC 14882:2014<ref>[http://www.iso.org/iso/home/store/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=64029 ISO/IEC 14882:2014]</ref>
| [[C++14]]
| ―
|-
| 2017年12月
| ISO/IEC 14882:2017<ref>https://www.iso.org/standard/68564.html</ref>
| [[C++17]]
| ―
|-
| 2020年12月15日
| ISO/IEC 14882:2020<ref>https://www.iso.org/standard/79358.html</ref>
| [[C++20]]
| ―
|}
長年にわたる作業の後、[[ANSI]]とISOの合同委員会はプログラミング言語C++を1998年に標準化した (ISO/IEC 14882:1998)。1998年の標準の公式なリリースから数年間にわたって委員会は不具合の報告を続け、[[2003年]]に改訂版を出版した。[[2003年]][[12月]]に制定された日本工業規格(現:[[日本産業規格]]){{cite jis|X|3014|2003|name=プログラム言語C++}}は、ISO/IEC 14882:2003 (E) の日本語訳である。
2007年11月15日、[[C++ Technical Report 1]] (TR1) という技術報告書(テクニカルレポート)がリリースされた。これは規格の公式な一部ではなかったが、次の版のC++に含まれると期待される、標準ライブラリへの数多くの拡張を与えた。TR1の内容は、多少の修正を加えてC++11に取り込まれている。
2011年9月1日、C++98以来初の大きな改訂となるISO/IEC 14882:2011が発行された。
2014年8月18日、ISO/IEC 14882:2014 (C++14) が投票で承認され<ref>[http://isocpp.org/blog/2014/08/we-have-cpp14 We have C++14! : Standard C++]</ref>、同年12月15日に公式に出版された。
2017年12月1日、ISO/IEC 14882:2017 (C++17) が公式に発行された。
2020年9月4日、ISO/IEC 14882:2020 ([[C++20]]) が投票で承認され<ref>{{cite web |title=Current Status |url=https://isocpp.org/std/status |website=isocpp.org |accessdate=7 September 2020}}</ref><ref>{{cite web |title=C++20 Approved -- Herb Sutter |url=https://isocpp.org/blog/2020/09/cpp20-approved-herb-sutter |website=isocpp.org |accessdate=8 September 2020}}</ref>、同年12月15日、ISO/IEC 14882:2020 (C++20)に公式に出版された<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/standard/79358.html|title=ISO/IEC 14882:2020|accessdate=2021-3-16}}</ref>。
C++20に続いて次期改訂版となるべきISO/IEC 14882:2023 (C++23) <ref>{{Cite web|title=Working Draft, Standard for Programming Language C ++|url=http://open-std.org/JTC1/SC22/WG21/docs/papers/2020/n4878.pdf|date=2020-12-15|accessdate=2021-3-16}}</ref>の仕様策定については、2019年末から始まった[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|Covid-19]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的流行]]により開発者同士の対面によるミーティングの開催を図ることが大変難しくなったことから<ref name="businessplan">{{Cite web|title=Business Plan and Convener's Report: ISO/IEC JTC1/SC22/WG21 (C++)|url=http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg21/docs/papers/2020/n4862.pdf|first=Herb|last=Sutter|author-link=Herb Sutter|date=29 July 2020|accessdate=2021-3-16}}</ref><ref name="meetings">{{Cite web|title=Upcoming Meetings, Past Meetings|url=https://isocpp.org/std/meetings-and-participation/upcoming-meetings|accessdate=2021-3-16}}</ref><ref name="minutes2020-11">{{Cite web|title=WG21 2020-11 Virtual Meeting: Minutes of Meeting|date=2020-11-19|accessdate=2021-3-16|first=Nina|last=Ranns|url=http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg21/docs/papers/2020/n4877.pdf}}</ref>、仕様策定が非常に難航している状況である。
=== 将来 ===
C++に対しては、今もなお要望が絶えない。特に[[Boost C++ライブラリ]]を開発しているBoostコミュニティはC++の方向性の決定に大きく貢献し、さらにC++標準化委員会へ改良すべき点などを意見している。現在はマルチパラダイムプログラミングをより自然に行えるようにすることに力が注がれており、たとえばBoostでは、C++の[[関数型言語|関数型プログラミング]]や[[メタプログラミング]]の可能性を模索している。
[[C++11]]と呼ばれている新しいバージョンのC++標準ではこれらの一部が取り込まれ、今後のC++でもさらなる追加が行われると見られている。
=== C++という名称 ===
この名称はRick Mascittiの功績で、最初に使用されたのは1983年の12月である。初期の研究期間では、開発中の言語は「C with Classes」と呼ばれていた。最終名は、変数の値を一つ加算する、C言語の<code>++</code>([[インクリメント]])演算子からの派生である。また一般的な命名規則での「+」の使用は、機能強化されたコンピュータプログラムを意味する。ストロヴストルップによれば「この名前は、C言語からの変更の革新的な本質を示している」ということである。C+は、より初期の無関係なプログラミング言語の名前である。
ストロヴストルップは著書『The C++ Programming Language』の前文で名前の起源を語り、[[ジョージ・オーウェル]]の小説『[[1984年 (小説)|1984年]]』の付録から「C++」が連想されるかもしれないと付け加えている。[[ニュースピーク]]という架空の言語の解説に宛てられた3つの章の中に、科学技術に関する専門用語とジャーゴンの解説に宛てられた「C vocabulary」という章がある。ニュースピークで「ダブルプラス」は最上級の修飾語である。ゆえにニュースピークで「C++」は「最も極端な専門用語またはジャーゴン」という意味になるだろう。
1992年、Rick Mascittiは名前について非公式に質問されると、彼はおふざけのつもりで命名したという旨の回答をした。彼はこの言語の正式な名称になるとは夢にも思っていなかった。
== 哲学 ==
ビャーネ・ストロヴストルップは著書『[[:en:The Design and Evolution of C++|C++の設計と進化]](1994)』でC++を設計する際に用いたルールを述べている。
* C++はCと同等の実行効率と移植性を持つ[[型システム|静的に型付け]]された汎用言語である。
* C++は直接的かつ包括的に複数のプログラミングスタイル([[手続き型プログラミング]]、[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]、[[オブジェクト指向]]、[[ジェネリックプログラミング]])をサポートする。
* C++はもしプログラマが間違っている可能性があったとしても[[プログラマ]]に選択の余地を与える。
* C++は可能な限りC言語との互換性を持ち、C言語からスムーズに移行できる。
* C++はプラットフォームに固有な機能や汎用的でない機能の実装を避ける。
* C++は利用しない機能についてはオーバーヘッドが生じない(ゼロオーバーヘッドの原則)。
* C++は高級な実行環境を必要としない。
C++のコンパイラがどのようにコードを出力しメモリのレイアウトを決めるのかということについては『Inside the C++ Object Model』(Lippman, 1996)に記載されている。ただしコンパイラが出力するコードの仕様はコンパイラ制作者の裁量に任されている。
== 標準ライブラリ ==
{{Main|標準C++ライブラリ}}
1998年に施行された[[ANSI]]/[[国際標準化機構|ISO]] C++ [[標準化|規格]]は言語仕様と[[標準C++ライブラリ|ライブラリ]]の2つのパートで構成される。ライブラリ規格の大半は[[Standard Template Library]] (STL) とC言語の標準ライブラリの改良版についての内容である。標準規格以外にも様々なライブラリが数多く存在し、リンカを使用することにより、[[C言語]]/[[FORTRAN]]/[[Pascal]]/[[BASIC]]のような言語を用いて作成されたライブラリを利用できる。規格外のライブラリが利用できるかどうかはコンパイラに依存する。
C++標準ライブラリはC++向けに若干の最適化が施されたC言語標準ライブラリを含んでいる。C++標準ライブラリの大部分はSTLである。 [[コンテナ (データ型)|コンテナ]]([[可変長配列]]や[[連結リスト|リスト]]など)、コンテナを配列のように扱えるようにする[[イテレータ]]、検索やソートを行う[[アルゴリズム]]といった有用なツールが提供されている。さらに<code>map</code>や<code>multimap</code>のような[[連想配列]]や、<code>set</code>や<code>multiset</code>のようなソート済みコンテナも提供され、これらは全てインターフェイスに互換性がある。テンプレートを用いることにより、あらゆるコンテナ(またはイテレータで定義したシーケンス)に適用できる汎用的なアルゴリズムを記述できる。C言語と同様に[[ライブラリ]]の機能には<code>#include</code> [[ディレクティブ]]を使ってヘッダファイルを読み込むことによってアクセスする。C++には[[標準C++ライブラリ#Standard headers|69本の標準ヘッダファイル]]があるが、このうち19本については非推奨となっている。
STLは標準規格に採用される前は、[[ヒューレット・パッカード]]の(一時は[[シリコングラフィックス]]の)商用ライブラリだった。STLは標準規格の単なる一部分に過ぎず規格書にSTLという表記は見られないが、入出力ストリーム、国際化、デバッグ機能、およびC言語標準ライブラリ等の、STL以外の部分と区別するために、今でも多くの人がSTLという用語を使っている。
大半のC++コンパイラはSTLを含むC++標準ライブラリの実装を提供している。[[STLPort]]のようなコンパイラ非依存のSTLも存在する。様々な目的でC++標準ライブラリを独自に実装しているプロジェクトは他にもある。
C++の標準ライブラリは大きく次のように分けられる。多種多様な実行環境が存在することを考慮して、[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]に関するライブラリは標準に含まれていない。
* 言語サポート([[実行時型情報]]や例外処理など)
* 診断([[表明 (プログラミング)|アサート]]やエラー情報{{要説明|date=2021-05}})
* 汎用ユーティリティ(タプル、[[動的メモリ確保]]、スマートポインタ、[[メタプログラミング]]など)
* [[文字列]]および[[正規表現]]
* ロケール([[国際化と地域化]])
* コンテナ([[データ構造]])、イテレータ、アルゴリズム(いわゆる[[Standard Template Library|STL]])
* 数値演算
* [[入出力]]
* アトミック演算([[不可分操作]]) - C++11以降
* [[スレッド (コンピュータ)|スレッド]] - C++11以降
* [[疑似乱数]]エンジン - C++11以降
== 外部ライブラリ ==
以下に、C++で広く使われている{{独自研究範囲|date=2019-05|と思われる}}ライブラリを挙げる。
; [[Boost C++ライブラリ]]
: 様々なC++汎用ライブラリの集合。[[正規表現]]を扱うBoost.Regexや[[無名関数]]([[ラムダ計算]])を簡潔に記述できるBoost Lambda Libraryなどがある。C++11やC++14などでも、Boostに存在するライブラリが標準ライブラリに採用されたり、標準ライブラリとして提案された項目がBoostで先行して実装されたりしている。これにより、実際に実装・使用することでの知見が得られ、標準ライブラリとして採用される際に活かされている。
; [[Apache Xerces]]
: C++での主要[[Extensible Markup Language|XML]][[構文解析器|パーサ]]の一つ。Java版も存在する。
; [[xUnit|CppUnit]]
: C++での[[ユニットテスト]]フレームワーク。 クラス毎の動作確認に威力を発揮する。
== 特徴 ==
[[C言語]]に、[[オブジェクト指向プログラミング]]をはじめとする様々なプログラミングパラダイムをサポートするための改良が加えられたものといえる。ただし、他のプログラミング言語と違い、旧来のCと同様に手続き型言語としても扱えるという特徴がある。また、C言語と比べて型チェックが厳しくなっており、型安全性が向上している。このことから、C++を''better C''というふうに呼ぶことがある。すなわち、基本的にC言語に対して上位互換性がある。初期のC++はCへのトランスレータとして実装され、C++プログラムを一旦Cプログラムに変換してから[[コンパイラ|コンパイル]]していた。
ただし、C++という名称が定まった当初の時期から、C言語とC++との間には厳密な互換性はない<ref>{{Cite web|url=https://isocpp.org/files/papers/N0007.pdf|title=C++: as close as possible to C – but no closer|accessdate=2016-11-19|last=Koenig|first=Andrew|coauthors=Bjarne Stroustrup|date=1989-05-11|format=PDF|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.stroustrup.com/bs_faq.html#C-is-subset|title=Stroustrup: FAQ Is C a subset of C++?|accessdate=2016-11-19|last=Stroustrup|first=Bjarne|language=英語}}</ref>。当時、Cとの互換性について議論の末、「C++とANSI Cの間には不正当な非互換性はない」という合意が形成されることとなった。そのため、正当な非互換性を巡って多くの議論が発生した<ref>『C++の設計と進化』、pp.124-125。</ref>。ただし、まだANSIによるC言語の標準規格も策定途中の時期である。
その後、先祖であるC言語のANSIによる標準規格制定時には、関数のプロトタイプ宣言や<code>const</code>修飾など、C++の機能がC言語に取り入れられることにもなった。[[C99]]の出現により、<code>//</code>コメントなどのC++で使われていた便利な機能が加わってCとC++の互換性が高まる一方、別々に審議し、別の時期に発行していることと、開発対象が必ずしも同じでないために利害関係者が異なることによる違いもある{{要出典|date=2016年5月}}。
C++はCにクラスのサポートを追加しただけでなく、さらに次のような多種多様な機能を持っており、言語仕様は大変複雑である。言語処理系すなわちコンパイラの実装も、Cなどと比べて難易度が非常に高い。
* [[多重継承]]
* [[テンプレート (プログラミング)|テンプレート]]
* [[演算子]]の[[多重定義|オーバーロード]]
* [[例外処理]]
* [[実行時型情報]] (RTTI)
ここから、よりオブジェクト指向を強化し、「なんでもあり」ではない代わりにシンプルで分かりやすくスマートな設計を目指した新たな言語([[Java]]や[[D言語]]など)が作られることとなった。
=== Hello, World! ===
{{警告|この節のサンプルは編集しないでください。詳細は編集コメントを参照してください。}}
C++はC言語およびそのプリプロセッサの構文をほぼ継承している。以下のサンプルは[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]の書籍「The C++ Programming Language, 4th Edition」(ISBN 978-0321563842) の「2.2.1 Hello, World!」に記載されている[[標準C++ライブラリ]]のストリーム機能を用いて[[標準ストリーム#標準出力 (stdout)|標準出力]]に出力する[[Hello world]]プログラムである<ref>{{cite book|author = Bjarne Stroustrup|date = 2000年|pages=46|title = The C++ Programming Language | edition=Special Edition | publisher = Addison-Wesley | isbn = 0-201-70073-5 }}</ref><ref group="※">[http://www.research.att.com/~bs/3rd_issues.html Open issues for The C++ Programming Language (3rd Edition)] - このコードはストロヴストルップ自身による訂正文からの引用(633ページ)。<code>std::endl</code>を<code>'\n'</code>に改めている。また<code>main</code>関数がデフォルトで0を返す件については[http://www.research.att.com/~bs/bs_faq2.html#void-main www.research.att.com]及び[http://www.delorie.com/djgpp/v2faq/faq22_25.html www.delorie.com/djgpp/] を参照されたし。このデフォルト仕様は<code>main</code>関数のみであり他の関数にはない。</ref>。
<!--
***************************************************************
*
* 注意:
*
* この"Hello World"のサンプルを修正する前にノートページでコンセンサス
* を得てください。ここは個人の主張を発表する場ではありません。
* この件については (英語版Wikipediaで) 何度も議論されています。
*
* コンセンサスを得ずにこのサンプルを修正した場合は数分以内にリバートされます。
*
* "using namespace std;"と"using std::cout;"を使うべきだと思うかもしれません。
* "\n"ではなく"std::endl"を使うべきだと思うかもしれません。
* "return 0;"を最後に付けるべきだと思うかもしれません。
* "int argc, char ** argv"をmain関数に付けるべきだと思うかもしれません。
* 古いコンパイラは"#include <iostream.h>"と記述しなければならないと思うかもしれません。
* C言語の"printf"も利用できると思うかもしれません。
*
* でも修正しないでください。
*
* 最終的に現状のまま修正しないということで結論が出ています。
* このサンプルはC++の原作者であるストロヴストルップが記述した
* "Hello, World!"であり、彼の著書"The C++ Programming Language, 4th Edition"
* に記載されているものです。
*
***************************************************************
--><syntaxhighlight lang="cpp">
#include <iostream>
int main()
{
std::cout << "Hello, World!\n";
}
</syntaxhighlight><!-- インデントはASCII空白4文字で固定とします。 -->
書籍でも明記されているが、<code>main()</code>関数で意図的に返り値を返さない手法が使用されている。
===演算子と演算子のオーバーロード===
{{Main|CとC++の演算子}}
C++には、四則演算、ビット演算、論理演算、比較演算、メンバーアクセスなどの30を超える演算子がある<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/expressions#Operators 式 - cppreference.com]</ref>。メンバーアクセス演算子 (<code>.</code>と<code>.*</code>) のような一部の例外はあるが、大半の演算子はユーザー定義によるオーバーロードが可能である。オーバーロード可能な演算子が豊富に揃えられているため、C++を一種の[[ドメイン固有言語]]として利用できる。またオーバーロード可能な演算子は[[スマートポインタ]]や[[関数オブジェクト]]のような組み込み型の機能を模倣したユーザー定義クラスの実装や、テンプレートメタプログラミングのような先進的な実装テクニックに欠かせないものとなっている。演算子をオーバーロードしても[[演算の優先順位]]は変化せず、また演算子のオペランドの数も変化しない。ただし指定したオペランドが無視される可能性はある。
===テンプレート===
{{Main|テンプレート (プログラミング)}}
C++には、[[ジェネリックプログラミング]]を実現する機能として'''テンプレート'''が存在する。テンプレートにできる対象は、関数とクラスである。C++14以降では変数もテンプレートの対象となった。テンプレートはコード中の型および定数をパラメータ化できる。テンプレートのパラメータ(テンプレート仮引数)に、型、コンパイル時定数またはその他のテンプレート(テンプレート実引数)を与えることで、テンプレートはコンパイル時に'''インスタンス化'''(実体化・具現化などとも)される。コンパイラは関数やクラスをインスタンス化するために、テンプレート仮引数をテンプレート実引数に置き換える。テンプレートは[[ジェネリックプログラミング]]、[[テンプレートメタプログラミング]]、コード最適化などのために利用される強力なツールであるが、一定のコストを伴う。各テンプレートのインスタンスはテンプレート仮引数毎にテンプレートコードのコピーを生成するためコードサイズが肥大化する。これはコンパイル時に実型引数の情報を削除することで単一の型インスタンスを生成するランタイム型のジェネリクスを実装した[[Java]]などの言語とは対照的である。なお、[[C Sharp|C#]] ([[.NET Framework]]) は[[実行時コンパイラ]]により実型引数の情報を削除することなく複数の型インスタンスを生成する方式を採用しており、C++とJavaの中間的なアプローチとなっている。
テンプレートとプリプロセッサマクロはいずれもコンパイル時に処理される言語機能であり、静的な条件に基づいたコンパイルが行われるが、テンプレートは字句の置き換えに限定されない。テンプレートはC++の構文と型を解析し、厳密な型チェックに基づいた高度なプログラムの流れの制御ができる。マクロは条件コンパイルに利用できるが、新しい型の生成、再帰的定義、型の評価などは行えないため、コンパイル前のテキストの置き換えや追加・削除といった用途に限定される。つまりマクロは事前に定義されたシンボルに基づいてコンパイルの流れを制御できるものの、テンプレートとは異なり独立して新しいシンボルを生成することはできない。テンプレートは静的な[[ポリモーフィズム|多態]](下記参照)と[[ジェネリックプログラミング]]のためのツールである。
C++のテンプレートはコンパイル時における[[チューリング完全]]なメカニズムである。これは[[テンプレートメタプログラミング]]を用いて実行する前にコンピュータが計算可能なあらゆる処理を表現できることを意味している。
概略すれば、テンプレートはコードの記述に本来必要な型や定数を明確にすることなく抽象的な記述ができる、パラメータ化された関数またはクラスである。テンプレート仮引数に実引数を与えてインスタンス化した結果は、テンプレート仮引数に指定した型に特化した形で記述されたコードと全く等価になる。これによりテンプレートは、汎用的かつおおまかに記述された関数およびクラス(テンプレート)と、特定の型に特化した実装(インスタンス化されたテンプレート)の依存関係を解消し、パフォーマンスを犠牲にすることなく抽象化できる手段を提供する。
===オブジェクト===
C++は[[C言語]]に[[オブジェクト指向プログラミング]]をサポートするための改良を加えたものといえる。C++のクラスには、オブジェクト指向言語で一般的な[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]、[[カプセル化]]、[[継承 (プログラミング)|継承]]、[[ポリモーフィズム|多態]]の4つの機能がある。オブジェクトは実行時に生成されるクラスの実体である。クラスは実行時に生成される様々なオブジェクトのひな形と考えることができる。
なお、C++は[[Smalltalk]]などに見られる[[メッセージ転送]]の概念によるオブジェクト指向を採用していない。
====カプセル化====
[[カプセル化]]とは、データ構造を保証し、演算子が意図したとおりに動作し、クラスの利用者が直感的に使い方を理解できるようにするためにデータを隠蔽することである。クラスや関数はC++の基礎的なカプセル化のメカニズムである。クラスのメンバは<code>public</code>、<code>protected</code>、<code>private</code>のいずれかとして宣言され明示的にカプセル化できる。<tt>public</tt>なメンバはどの関数からでもアクセスできる。<tt>private</tt>なメンバはクラスのメンバ関数から、またはクラスが明示的にアクセス権を与えたフレンド関数からアクセスできる。<tt>protected</tt>なメンバはクラスのメンバおよびフレンド関数に加えてその派生クラスのメンバからもアクセスできる。
オブジェクト指向では原則としてクラスのメンバ変数にアクセスする全ての関数はクラスの中にカプセル化されなければならない。C++ではメンバ関数およびフレンド関数によりこれをサポートするが、強制はされない。プログラマはメンバ変数の一部または全体を<tt>public</tt>として定義でき、型とは無関係な変数を<tt>public</tt>な要素として定義できる。このことからC++はオブジェクト指向だけでなく、[[モジュール|モジュール化]]のような機能分割のパラダイムもサポートしているといえる。
一般的には、全ての[[データ]]を<tt>private</tt>または<tt>protected</tt>にして、クラスのユーザに必要最小限の関数のみを<tt>public</tt>として公開することがよい習慣であると考えられている。このようにしてデータの実装の詳細を隠蔽することにより、設計者はインターフェイスを変更することなく後日実装を根本から変更できる<ref>{{cite book
| first1 = Herb
| last1 = Sutter
| first2 = Andrei
| last2 = Alexandrescu
| authorlink1 = Herb Sutter
| authorlink2 = Andrei Alexandrescu
| date = 2004
| title = C++ Coding Standards: 101 Rules, Guidelines, and Best Practices
| publisher = Addison-Wesley
}}
</ref>
<ref>{{cite book
|last1=Henricson
|first1=Mats
|last2=Nyquist
|first2=Erik
|title=Industrial Strength C++
|publisher=Prentice Hall
|date=1997
|isbn=0-13-120965-5}}
</ref>。
====継承====
[[継承 (プログラミング)|継承]]を使うと他のクラスの資産を流用できる。基底クラスからの継承は<code>public</code>、<code>protected</code>、<code>private</code>のいずれかとして宣言する。このアクセス指定子により、派生クラスや全く無関係なクラスが基底クラスの<tt>public</tt>および<tt>protected</tt>メンバにアクセスできるかどうかを決定できる。普通は<tt>public</tt>継承のみがいわゆる''派生''に対応する。残りの二つの継承方法はあまり利用されない。アクセス指定子を省略した場合、[[構造体]]は<tt>public</tt>継承になるのに対し、クラスでは<tt>private</tt>継承になる。基底クラスを<code>virtual</code>として宣言することもできる。これは[[仮想継承]]と呼ばれる。仮想継承は基底クラスのオブジェクトが一つだけ存在することを保証するものであり、多重継承の曖昧さの問題を避けることができる。
'''多重継承'''はC++の中でもしばしば問題になる機能である。多重継承では複数の基底クラスから一つのクラスを派生できる。これにより継承関係が複雑になる。例えば<code>FlyingCat</code>クラスは<code>Cat</code>クラスと<code>FlyingMammal</code>クラスから派生できる。[[Java]]や[[C Sharp|C#]]では、基底クラスの数を一つに制限する一方で、複数の[[インタフェース (抽象型)|インターフェイス]]を実装でき、これにより制約はあるものの多重継承に近い機能を実現できる(実装の多重継承ではなく型の多重継承)。インターフェイスはクラスと異なり抽象メソッド(純粋仮想関数)を宣言できるのみであり、関数の実装やフィールド(メンバ変数)は定義できない。JavaとC#のインターフェイスは、C++の抽象基底クラスと呼ばれる純粋仮想関数宣言のみを持つクラスに相当する。JavaやC#の継承モデルを好むプログラマは、C++において実装の多重継承は使わず、実装の継承は単一継承に絞り、抽象基底クラスによる型の多重継承のみを使うポリシーを採用することもできる。
===多態===
{{main|ポリモーフィズム}}
[[ポリモーフィズム|多態 (ポリモーフィズム) ]]は様々な場面で多用されている機能である。多態により、状況や文脈に応じてオブジェクトに異なる振る舞いをさせることができる。逆に言うと、オブジェクト自身が振る舞いを決定することができる。
C++は'''静的な多態'''と'''動的な多態'''の両方をサポートする。コンパイル時に解決される静的な多態は柔軟性に劣るもののパフォーマンス面で有利である。一方、実行時に解決される動的な多態は柔軟性に優れているもののパフォーマンス面で不利である。
====静的な多態====
関数のオーバーロードは名称が同じ複数の関数を宣言できる機能である。ただし引数は異なっていなければならない。個々の関数は[[引数]]の数や型の順序で区別される。同名の関数はコードの文脈によってどの関数が呼ばれるのかが決まる。関数の戻り値の型で区別することはできない。
関数を宣言する際にプログラマはデフォルト引数を指定できる。関数を呼び出すときに引数を省略した場合はデフォルト引数が適用される。関数を呼び出すときに宣言よりも引数の数が少ない場合は、左から右の順で引数の型が比較され、後半部分にデフォルト引数が適用される。たいていの場合は一つの関数にデフォルト引数を指定するよりも、引数の数が異なる関数をオーバーロードする方が望ましい。
C++のテンプレートでは、より洗練された汎用的な多態を実現できる。特に[[:en:Curiously Recurring Template Pattern|Curiously Recurring Template Pattern]]により仮想関数のオーバーライドをシミュレートした静的な多態を実装できる。C++のテンプレートは型安全かつ[[チューリング完全]]であるため、[[テンプレートメタプログラミング]]によりコンパイラに条件文を再帰的に解決させて実行コードを生成させることにも利用できる。
====動的な多態====
=====派生=====
基底クラスへのポインタおよび参照は、正確に型が一致するオブジェクトだけでなく、その派生クラスのオブジェクトを指すことができる([[リスコフの置換原則]])。これにより、複数の異なる派生型を、同一の基底型で統一的に扱うことが可能となる。また、基底型へのポインタの配列やコンテナは、複数の異なる派生型へのポインタを保持できる。派生オブジェクトから基底オブジェクトへの変換([[アップキャスト]])では、リスコフの置換原則により、明示的なキャストは必要ない。
<code>dynamic_cast</code>は基底オブジェクトから派生オブジェクトへの変換([[ダウンキャスト]])を実行時に安全に行うための演算子である。この機能は[[実行時型情報]] (RTTI) に依存している。あるオブジェクトが特定の派生型のオブジェクトであることがあらかじめ分かっている場合は<code>static_cast</code>演算子でキャストすることもできる。<code>static_cast</code>は純粋にコンパイル時に解決されるため動作が速く、またRTTIを必要としない。また、<code>static_cast</code>は従来のC言語形式のキャスト構文と違い継承階層のナビゲーションをサポートするため、多重継承した場合もメモリレイアウトを考慮したダウンキャストを実行することができる。ただし、<code>static_cast</code>では多重継承において継承関係を持たない基底型同士のキャスト([[クロスキャスト]])を実行することはできず、<code>dynamic_cast</code>を用いる必要がある。とはいえ、ダウンキャストやクロスキャストが必要となる場合、通例そのプログラムの設計に問題があることが多く、本来は仮想関数のオーバーライドによる多態を用いるべきである。
=====仮想関数=====
クラスのメンバー関数を<code>virtual</code>キーワードで修飾することにより、派生クラスで[[オーバーライド]](再定義)することが可能な仮想関数 (virtual function) となる。仮想関数は「[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]」と呼ばれることもある<ref>{{cite book | quote = A virtual member function is sometimes called a ''method''.| first = Bjarne | last = Stroustrup | authorlink = Bjarne Stroustrup | date = 2000 | page = 310 | title = The C++ Programming Language | edition = Special Edition | publisher = Addison-Wesley | isbn = 0-201-70073-5 }} </ref>。派生クラスにて、基底クラスの仮想関数と名前および引数の数や型の順序が同じ関数を定義することでオーバーライドする([[C++11]]以降では、<code>override</code>キーワードにより修飾することでオーバーライドを明示することもできる)。基底クラスの仮想関数を派生クラスで[[オーバーライド]]した場合、実際に呼び出される関数はオブジェクトの型によって決定される。基底クラスのポインタのみが与えられた場合、コンパイラはオブジェクトの型をコンパイル時に特定できず正しい関数を呼び出せないため、実行時にこれを特定する。これをダイナミックディスパッチと呼ぶ。仮想関数により、オブジェクトに割り当てられた実際の型に従って、最上位の派生クラスで実装した関数が呼び出される。一般的なC++コンパイラは[[仮想関数テーブル]]を用いる。オブジェクトの型が判明している場合はスコープ解決演算子を利用して仮想関数テーブルを使わないようにバイパスすることもできるが、一般的には実行時に仮想関数の呼び出しを解決するのが普通である。
通常のメンバー関数に加え、オーバーロードした演算子やデストラクタも仮想関数にできる。原則的にはクラスが仮想関数を持つ場合はデストラクタも仮想関数にすべきである。コンストラクタやその延長線上にあるコピーコンストラクタはコンパイルされた時点でオブジェクトの型が確定しないため仮想関数にできない。しかし、派生オブジェクトへのポインタが基底オブジェクトへのポインタとして渡された場合に、そのオブジェクトのコピーを作らなければならない場合は問題が生じる。このような場合は<code>clone()</code>関数(またはそれに準じる物)を仮想関数として作成するのが一般的な解決方法である。<code>clone()</code>は派生クラスのコピーを生成して返す。
<code>= 0</code>をメンバー関数宣言の末尾セミコロンの直前に挿入することにより、メンバー関数を'''純粋仮想関数''' (pure virtual function) にできる。純粋仮想関数を持つクラスは純粋仮想クラスと呼ばれ、このクラスからオブジェクトを生成することはできない。このような純粋仮想クラスは基底クラスとしてのみ利用できる。派生クラスは純粋仮称関数を継承するため、派生クラスのオブジェクトを生成したい場合は全ての純粋仮想関数をオーバーライドして実装しなければならない。純粋仮想関数を持つクラスのオブジェクトを生成しようと試みるようなプログラムは行儀が悪い。
=====テンプレート=====
[[型消去]] (type erasure) と呼ばれる、テンプレートを活用して動的な(プログラム実行時の)多態性を実現する手法が存在する。この手法はC++の標準ライブラリでも<code>std::function</code>や<code>std::shared_ptr</code>の削除子で採用されている。いずれも、コンストラクタや代入演算子で(一定の条件を満たす)任意のオブジェクトを実引数として渡せるようにすることから多態性を実現している。
=== 単一行コメント ===
C99の制定前、C言語とC++との分かりやすい差異として、<code>//</code> で始まり改行で終わる、'''単一行[[コメント (コンピュータ)|コメント]]'''の有無があった。
単一行コメントはもともと、C言語の祖先にあたる[[BCPL]]に含まれていた仕様である。現在のC++のコンパイラの多くがC言語のコンパイラとしても使えるようになっているのと同様に、C言語が生まれて間もない頃は、C言語に加え[[B言語]]やBCPLのコンパイルができるコンパイラが用いられていた。それらコンパイラは、C言語のソースであってもBCPLと同様に単一行コメントが使用できるよう独自の拡張がなされていたため、{{独自研究範囲|BCPLの単一行コメントに慣れ親しんでいたプログラマ達は、C言語でも単一行コメントを使い続けた。その慣習がC++の誕生時まで生き残っていたため、C++では単一行コメントを「復活」させることになった。|date=2018-08}}
{{独自研究範囲|そのためもあって、C言語での仕様外の単一行コメントの使用は半ば常習と化し、|date=2018-08}}C99によって単一行コメントが正式に規格として組み入れられた。
==C++ソースコードの処理とパーサ==
[[LALR法|LALR(1)]]のような旧式のパースアルゴリズムを用いてC++の[[構文解析|パーサ]]を記述することは比較的難しい<ref>{{cite web|author=Andrew Birkett |url=http://www.nobugs.org/developer/parsingcpp/ |title=Parsing C++ at nobugs.org |publisher=Nobugs.org |date= |accessdate=2009-07-03}}</ref>。その理由の一つはC++の文法がLALRではないことである。このため、コード分析ツールや、高度な修正を行うツール([[リファクタリング (プログラミング)|リファクタリング]]ツールなど)は非常に少ない。この問題を取り扱う方法としてLALR(1)でパースできるように改良されたC++の亜種([[:en:Significantly Prettier and Easier C++ Syntax|SPECS]])を利用する方法がある。[[GLR法|GLRパーサ]]のようにより強力でシンプルなパーサもあるが処理が遅い。
パースはC++を処理するツールを作成する際の最も難しい問題ではない。このようなツールはコンパイラと同じように識別子の意味を理解しなければならない。従ってC++を処理する実用的なシステムはソースコードをパースするだけでなく、各識別子の定義を正確に適用し(つまりC++の複雑なスコープのルールを正確に取り扱い)、型を正しく特定できなければならない。
いずれにせよC++ソースコード処理ツールが実用的であるためには、[[GNUコンパイラコレクション|GNU GCC]]や[[Microsoft Visual C++|Visual C++]]で使われているような、様々なC++の方言を取り扱えなければならず、適切な分析処理やソース変換やソース出力などが実装できなければならない。GLRのような先進的なパースアルゴリズムとシンボルテーブルを組み合わせてソースコードを変換する方法を利用すればあらゆるC++ツールを開発できる。
== 互換性 ==
その言語文法の複雑さゆえ、C++規格に準拠したコンパイラを開発するのは一般的に難しい。20世紀末から何年にも渡りC++に部分的に準拠した様々なコンパイラが作られ、[[テンプレートの部分特殊化]]などの部分で実装にばらつきがあった。中でも、テンプレートの宣言と実装を分離できるようにするための<code>export</code>は問題のキーワードの一つだった。<tt>export</tt>を定義したC++98規格がリリースされてから5年後の2003年前半に[[:en:Comeau C/C++|Comeau C/C++]]が初めて<tt>export</tt>を実装した。2004年に[[C++ Builder|Borland C++ Builder X]]が<tt>export</tt>を実装した。これらのコンパイラはいずれも[[:en:Edison Design Group|EDG]]の[[フロントエンド]]をベースにしていた。大半のコンパイラで実装されていない<tt>export</tt>は多くのC++関連書籍(例えば"''Beginning ANSI C++''", Ivor Horton著)にサンプルが記されているが、<tt>export</tt>が記載されていることによる問題は特に指摘されていない。[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]をはじめとするその他のコンパイラでは全くサポートしていない。[[:en:Herb Sutter|Herb Sutter]]はC++の標準規格から<tt>export</tt>を削除することを推奨していたが<ref> {{PDFlink|[http://anubis.dkuug.dk/jtc1/sc22/wg21/docs/papers/2003/n1426.pdf Why We Can’t Afford Export]|266 KB}}</ref>、C++98では最終的にこれを残す決定がなされた<ref>{{cite web|url=http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg21/docs/papers/2003/n1459.html|title=Minutes of J16 Meeting No. 36/WG21 Meeting No. 31, April 7-11, 2003|date=2003-04-25|accessdate=2006-09-04}}</ref>。結局、C++11では実装の少なさ・困難さを理由に削除された。
コンパイラ開発者の裁量で決められる範囲を確保するため、C++標準化委員会は[[名前修飾]]や[[例外処理]]などの実装に依存する機能の実装方法を決定しないことに決めた。この決定の問題は、[[コンパイラ]]が異なると[[オブジェクトファイル]]の互換性が保証されない点である。特定の機種や[[オペレーティングシステム|OS]]でコンパイラの互換性を持たせ、バイナリレベルでのコード再利用性を高めようとする[[アプリケーションバイナリインタフェース|ABI]]<ref>{{cite web|url=http://www.codesourcery.com/cxx-abi/|title=C++ ABI|accessdate=2006-05-30}}</ref>のような非標準の規格もあり、一部のコンパイラではこうした準規格を採用している。
2019年現在のメジャーなC++コンパイラ([[GNUコンパイラコレクション|gcc]], [[Clang]], [[Intel C++ Compiler]], [[Microsoft Visual C++]]など)の最新版はC++11およびC++14規格にほぼ準拠しており、特に[[Clang]]は2013年4月時点でC++11の全機能を実装完了した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20130422-a057/|title=LLVM Clang、C++11にフル対応|accessdate=2013-09-07|author=後藤大地|date=2013-04-22|publisher=マイナビニュース}}</ref><ref>{{Cite web|title=GCC 4.8 Release Series — Changes, New Features, and Fixes - GNU Project |url=https://gcc.gnu.org/gcc-4.8/changes.html|website=gcc.gnu.org|access-date=2022-11-07}}</ref>。ただしマイナーアップデートとなるC++17を含めると、処理系間でのばらつきは依然として存在する。
=== C言語との互換性 ===
C++は基本的に[[C言語]]の上位互換であるが、厳密には異なる<ref>{{cite web|url=http://public.research.att.com/~bs/bs_faq.html#C-is-subset|title=Bjarne Stroustrup's FAQ - Is C a subset of C++?|accessdate=2008-01-18}}</ref>。C言語で記述された大半のプログラムはC++でコンパイルできるように簡単に修正できるが、C言語では正当でもC++では不正になる部分や、C++とは動作が異なる部分が若干存在する。
例えば、C言語では汎用ポインタ<code>void*</code>は他の型へのポインタに暗黙的に変換できるが、C++ではキャスト演算子によって変換を明示する必要がある。またC++では<code>new</code>や<code>class</code>といった数多くの新しいキーワードが追加されたが、移植の際に元のC言語のプログラムでそれらが識別子(例えば変数名)として使われていると、問題になる。
C言語の標準規格である[[C99]]やその後継[[C11 (C言語)|C11]]ではこうした非互換性の一部が解決されており、<code>//</code>形式のコメントや宣言とコードの混在といったC++の機能がC言語でサポートされている。その一方でC99では、可変長配列、複素数型の組み込み変数、指示初期化子、複合リテラルといった、C++でサポートしていない数多くの新機能が追加された<ref>{{cite web|url=http://home.datacomm.ch/t_wolf/tw/c/c9x_changes.html|title=C9X -- The New C Standard|accessdate=2008-12-27}}</ref>。C99で追加された新機能の一部は[[C++11]]に反映され、[[C++14]]に対してもC99やC11との互換性を向上される提案が行われた。また、可変長配列や複素数型などのC99に追加された機能の一部はC11でオプションとなった<ref>可変長配列: §6.7.6.2</ref><ref>[https://www.buildinsider.net/small/clang/01 C言語の最新事情を知る: C99の仕様 - Build Insider]</ref>。
C++で書かれた関数をC言語で書かれたプログラムから呼び出す、あるいはその逆を行なう場合など、C言語のコードとC++のコードを混在させるためにはCリンケージを利用する必要があり、関数を<code>extern "C"</code>で個別に修飾するか、<code>extern "C" { ... }</code>のブロックの中で宣言しなければならない。また、関数引数や戻り値などのインターフェイスはC言語互換形式に合わせる必要がある。Cリンケージを利用した関数については、C++名前修飾がされず、名前修飾に依存している関数オーバーロード機能は利用できない。
C/C++の相互運用性が確保されていることで、慣れ親しんだC言語標準ライブラリ関数の大半をC++でもそのまま利用し続けることができるということはC++の大きなメリットのひとつである。
== 主なC++処理系 ==
* [[Microsoft Visual C++]] (MSVC)
* [[C++ Builder]] ([[ボーランド|Borland]] C++ Compiler, BCC)
* [[GNUコンパイラコレクション|g++]]
* [[Intel C++ Compiler]] (ICC/ICL)
* [[Clang]]
== 注釈 ==
{{Reflist|group="※"}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin|1}}
* {{Cite book |和書 |last=Stroustrup |first=Bjarne |authorlink=ビャーネ・ストロヴストルップ |year=1998 |origyear=1997|translator=ロングテール、長尾高弘 |title=プログラミング言語C++ |edition=第3版 |series=アスキーアジソンウェスレイシリーズ |publisher=アジソン・ウェスレイ・パブリッシャーズ・ジャパン , アスキー (発売) |ncid=BA39336320 |isbn=475611895X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |last=Stroustrup |first=Bjarne |authorlink=ビャーネ・ストロヴストルップ |year=2015 |origyear=2013 |translator=柴田望洋 |title=プログラミング言語C++ |edition=第4版 |publisher=SB Creative |isbn=978-4-7973-7595-4 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |last=Stroustrup |first=Bjarne |authorlink=ビャーネ・ストロヴストルップ |year=2005 |origyear=1994 |title=C++の設計と進化 |editor=[[エピステーメー|επιστημη]]監修 |translator=[[岩谷宏]] |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]] |ncid=BA70383225 |isbn=4797328541 |ref=harv}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|CPlusPlus|C++}}
{{プログラミング言語|lang=オブジェクト指向言語|cat=}}
* [[C++11]] (C++0x)
* [[C++14]]
* [[C++17]]
* [[C++/CLI]]
* [[Embedded C++]]
* [[JavaとC++の比較]]
* [[SystemC]] - C++言語ベースのハードウェア記述言語
* [[テンプレートメタプログラミング]]
* [[キーワード (C++)]]
* [[CとC++の演算子]]
== 外部リンク ==
* [https://isocpp.org Standard C++ Foundation]{{En icon}}
* [https://cpprefjp.github.io cpprefjp - C++日本語リファレンス]
* [https://ja.cppreference.com/w/ cppreference.com C++リファレンス]
{{C++}}
{{プログラミング言語一覧}}
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{{DEFAULTSORT:Cふらすふらす}}
[[Category:C++|*]]
[[Category:オブジェクト指向言語]]
[[Category:JIS]] | 2003-02-14T05:47:50Z | 2023-12-06T00:20:00Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/C%2B%2B |
1,506 | Simula | ■カテゴリ / ■テンプレート
SIMULA(シミュラ; SIMUlation LAnguage)は、オルヨハン・ダールとクリステン・ニガードによってALGOL60を拡張する形で1960年代に開発が始められたシミュレーション用途のプログラミング言語である。
ALGOLのbegin ... endで囲まれた部分であるブロック(block)の概念を実体的な実例(instance)として扱うことを目的として、クラス(class)の構文と対象(object、オブジェクト)の概念を初めて導入した言語である。初期のオブジェクト指向プログラミング言語の一つである。
オスロのノルウェー計算センターのクリステン・ニガードとオルヨハン・ダールが1962年から1967年にかけて、Simula の元となる Simula I と Simula67 を ALGOL 60 の拡張として設計/実装した。Simula は当初シミュレーションに用いられたが、のちに汎用言語となった。名前「Simula」は「シミュレーション言語」を意味する英語「simulation language」と「簡潔な汎用言語」を意味する英語「simple universal language」の二つに由来する。
主に北欧圏で使用されたこと、言語的な未成熟さもあって広く普及することはなかったが、後続言語に与えた影響は大きい。特にSmalltalk は Simula のオブジェクト概念を一般化したものだと言うことができる。C++ もまた、当初はC言語に Simula のクラスなどの仕組みを追加したものであった。
開発の動機は、ある制限下におかれたモデル群の全体の挙動をどう記述するか、というものである。気体の分子運動を例にとると、システム全体を考えてその中の項として分子を扱うよりも、一つの一つの気体分子をモデル化し、それぞれの相互作用の結果をシステムとして捉える方が自然で取り扱いやすい。その為には小さなモデル、関連する法則、それらを一度に複数取り扱う能力が必要となる。こうして属性を備えたオブジェクト概念と、それに従属するメソッド概念が生まれたのである。
Simula 67 ではオブジェクト、 クラス、サブクラス、継承、動的束縛(仮想関数)、コルーチン、 ディスクリートイベントシミュレーション、ガベージコレクションの機能をもち、オブジェクト指向プログラミングの基本概念はすべてここで発案されているといえる。
Simula はプログラミングパラダイムとして最初のオブジェクト指向言語であると考えられる。その名前が示すように Simula はシミュレーションを行うために設計され、その必要性から今日のオブジェクト指向言語で使われる多くの機能のためのフレームワークを提供した。なお、Simula 当時「オブジェクト指向」という言葉はまだない。この用語はアラン・ケイが Simula の概念として70年代ごろに使い出したのが始まりといわれている。従ってその意味では Simula が世界最初のオブジェクト指向言語であり、Simula は「オブジェクト指向として再認識が可能な最古の言語」ということができる。
VLSI設計、プロセス、プロトコル、アルゴリズムといったシミュレーションや、組版、コンピュータグラフィックス、教育といったアプリケーションソフトに Simula は利用された。Simula 形式のオブジェクトは C++、Java、C# で再実装されており、Simula の影響を受けていることが知られている。C++ の開発者であるビャーネ・ストロヴストルップはBCPLのような機械語を出力し高速に動作する低レベル言語に Simula が提供する開発効率を高める機能を導入するため、C++ 開発時に Simula 67 の影響を大きく受けていることを認めている。
クリステン・ニガードは1957年からコンピュータシミュレーションの開発を始めた。ニガードはコンピュータの動作とシミュレーションプログラムに要求されるものの不整合を適切に記述する方法が必要であると考えた。既存のコンピュータ言語で彼のアイデアを実現するにはプログラミングのスキル以外に何かが必要であると思われた。オルヨハン・ダールは1962年1月にニガードの業務に参加した。1962年3月までにはシミュレーション用プログラミング言語のメインコンセプトは固まっていた。ディクリートイベントシステムを持つシミュレーション専用のプログラミング言語 SIMULA I が開発された。
UNIVAC は UNIVAC 1107 を発売するにあたりニガードを1962年3月下旬に招待した。その際にニガードは UNIVAC のボブ・バーマーシステムプログラミング部長に Simula のアイデアを説明した。バーマーは ALGOL の熱烈なファンであり、Simula プロジェクトに説得力を感じた。IFIP(情報処理国際連合)が主催する情報処理の第2回国際会議の議長を務めていたバーマーは論文「SIMULA — An Extension of ALGOL to the Description of Discrete-Event Networks」を提出したニガードを会議に招待した。
ノルウェー計算機センターは UNIVAC との契約に基づいてダールがSIMULA Iを実装するため UNIVAC 1107 を1963年8月に特別価格で譲り受けた。これは UNIVAC 用 ALGOL 60コンパイラを元に実装された。1965年1月には UNIVAC 1107 上で完全な SIMULA I を利用できた。ダールとニガードはその後の2年間に渡り Simula を教えることに費やした。Simula は複数の国に広がり、SIMULA I は後に バロース B5000 やロシアの URAL-16 に移植された。
アントニー・ホーアは1966年にレコードクラスのコンストラクタの概念を導入し、ダールとニガードは一般的なプロセス概念という要求を満たすためプリフィックスの概念などを導入してこれを拡張した。ダールとニガードはクラスとサブクラスの宣言についての論文を1967年3月にオスロで開催された IFIP のシミュレーション用言語についてのワーキングカンファレンスで発表した。この論文は Simula 67 の最初の正式な定義となった。1967年6月に言語を規格化して複数の実装を始めるためのカンファレンスが開催された。ダールはデータ型とクラスの概念の統一化を提案した。これは激論を巻き起こし委員会から却下された。SIMULA 67 は SIMULA 標準化グループ (SSG) の最初の会議で1968年2月に正式に標準化された。
Simula は Smalltalk やその後のオブジェクト指向言語に影響を及ぼした。Simula だけがコルーチンをサポートした言語ではないし、真の並列性は持たないが、アクターモデルの概念を呼び起こすのに役立った。
60年代後期から70年代前期にかけて Simula の4つの主要な実装があった。
これらの実装は様々なプラットフォームに移植された。TOPS-10 用ではメンバ変数とメソッドの public、protected、private が実装され、後に Simula 87 に統合された。Simula 87 は最新の標準規格であり、下記の3つの実装があることが知られている。
2001年11月に米国電気電子学会 (IEEE) は、「SIMULA 67 の設計と実装によりオブジェクト指向の基礎概念を導きだした」ことを讃えフォン・ノイマンメダルをダールとニガードに授与した。2002年2月には「プログラミング言語 Simula I 及び Simula 67 の実装によりオブジェクト指向を出現させた基礎的アイデア」を表彰して2001年度チューリング賞をACMより受賞した。両名は6月と8月にそれぞれ死去したため、シアトルで開催される OOPSLA カンファレンス2002で行われる予定であったACMチューリング賞の講演に出席できなかった。
研究所はプログラミング言語 Simula にちなんで名付けられた研究所であり、ニガードはオープン時の2001年から非常勤職員として働いていた。
空のファイルはソースコードのサイズを基準とした場合で最も小さな Simula のプログラムである。これは1つのダミーのステートメントのみで構成される。
しかしながら合理的に考えれば最小のプログラムは空のブロックとして表現される。
これは起動してすぐに終了するプログラムである。Simula ではプログラム自身が値を返す return文 を持たない。
Simulaで記述された Hello world の例である。Simula は大文字と小文字を厳密に区別する。
クラス、サブクラス、仮想関数を用いた現実的な例を以下に示す。
上記の例には1つの親クラス(Glyph)と2つのサブクラス(Char, Line)があり、1つの仮想関数と2つの実装がある。メインプログラムから実行を開始する。Simula は純粋仮想関数を持つクラスをインスタンス化できるため抽象基底クラスの概念が無い。これは上記の例にある全てのクラスがインスタンス化できるということである。しかしながら純粋仮想関数を呼び出すとランタイムライブラリエラーを引き起こす。
Simula は名前呼び(call by name、評価戦略を参照)をサポートしているため Jensen's Device(en:Jensen's Device)を容易に実装できる。デフォルトはALGOLと異なり値呼び(call by value)であるため、Jensen's Deviceを実装する際には、名前呼びであることを明示する必要がある。
単純な例として総和関数 ∑ {\displaystyle \sum } の実装例を以下に示す。
上記のコードは値(l)と式(u)を制御するために名前呼びを用いている。これにより式で使用する値を制御できる。Simula の標準規格は for 文にある種の制約があるため上記の例では while 文を使用している。
以下の式は次のように実装できる。
Z = ∑ i = 1 100 1 ( i + a ) 2 {\displaystyle Z=\sum _{i=1}^{100}{1 \over (i+a)^{2}}}
Simula にはディスクリートイベントシミュレーションを行うためのシミュレーションパッケージが含まれている。このシミュレーションパッケージはSimulaのオブジェクト指向とコルーチンのコンセプトに基づいている。
下記の例で Sam、Sally、Andy は服を買おうとしている。彼らは1つの試着室を共有しなければならない。3人は正規分布によりランダムに約12分間店内を探索し、同様に試着室を約3分間占有する。以下は彼らが試着室をどのように使うのかをシミュレーションするものである。
メインブロックが Simulation でプレフィックスされることによりシミュレーションを実行できる。シミュレーションパッケージはどこのブロックからでも自由に利用でき、シミュレーションしているものそれ自体をシミュレーションするときにはシミュレーションを再帰的にネストできる。
試着室オブジェクトはキュー(door)により試着室にアクセスできる。誰かが使用中の試着室を使おうとしたときはこのキュー(Wait (door))で待たなければならない。誰かが試着室を出るとき、列の先頭にいる者がキューからリリース(Activate door.first)されてドアキューから削除(door.First.Out)される。
Person は Process のサブクラスでありその動作は hold(店内を探索する時間と試着室で過ごす時間)を用いて記述され、試着室に出入りするために試着室オブジェクト内でメソッドを呼び出す。
メインプログラムは全てのオブジェクトを生成し、全ての Person オブジェクトをイベントキューに投入するためにアクティベートする。メインプログラムはシミュレーション時間で100分間待ってからプログラムを終了する。 | [
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"text": "開発の動機は、ある制限下におかれたモデル群の全体の挙動をどう記述するか、というものである。気体の分子運動を例にとると、システム全体を考えてその中の項として分子を扱うよりも、一つの一つの気体分子をモデル化し、それぞれの相互作用の結果をシステムとして捉える方が自然で取り扱いやすい。その為には小さなモデル、関連する法則、それらを一度に複数取り扱う能力が必要となる。こうして属性を備えたオブジェクト概念と、それに従属するメソッド概念が生まれたのである。",
"title": "概要"
},
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"tag": "p",
"text": "Simula 67 ではオブジェクト、 クラス、サブクラス、継承、動的束縛(仮想関数)、コルーチン、 ディスクリートイベントシミュレーション、ガベージコレクションの機能をもち、オブジェクト指向プログラミングの基本概念はすべてここで発案されているといえる。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 7,
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"text": "Simula はプログラミングパラダイムとして最初のオブジェクト指向言語であると考えられる。その名前が示すように Simula はシミュレーションを行うために設計され、その必要性から今日のオブジェクト指向言語で使われる多くの機能のためのフレームワークを提供した。なお、Simula 当時「オブジェクト指向」という言葉はまだない。この用語はアラン・ケイが Simula の概念として70年代ごろに使い出したのが始まりといわれている。従ってその意味では Simula が世界最初のオブジェクト指向言語であり、Simula は「オブジェクト指向として再認識が可能な最古の言語」ということができる。",
"title": "概要"
},
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"text": "VLSI設計、プロセス、プロトコル、アルゴリズムといったシミュレーションや、組版、コンピュータグラフィックス、教育といったアプリケーションソフトに Simula は利用された。Simula 形式のオブジェクトは C++、Java、C# で再実装されており、Simula の影響を受けていることが知られている。C++ の開発者であるビャーネ・ストロヴストルップはBCPLのような機械語を出力し高速に動作する低レベル言語に Simula が提供する開発効率を高める機能を導入するため、C++ 開発時に Simula 67 の影響を大きく受けていることを認めている。",
"title": "概要"
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"text": "クリステン・ニガードは1957年からコンピュータシミュレーションの開発を始めた。ニガードはコンピュータの動作とシミュレーションプログラムに要求されるものの不整合を適切に記述する方法が必要であると考えた。既存のコンピュータ言語で彼のアイデアを実現するにはプログラミングのスキル以外に何かが必要であると思われた。オルヨハン・ダールは1962年1月にニガードの業務に参加した。1962年3月までにはシミュレーション用プログラミング言語のメインコンセプトは固まっていた。ディクリートイベントシステムを持つシミュレーション専用のプログラミング言語 SIMULA I が開発された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "UNIVAC は UNIVAC 1107 を発売するにあたりニガードを1962年3月下旬に招待した。その際にニガードは UNIVAC のボブ・バーマーシステムプログラミング部長に Simula のアイデアを説明した。バーマーは ALGOL の熱烈なファンであり、Simula プロジェクトに説得力を感じた。IFIP(情報処理国際連合)が主催する情報処理の第2回国際会議の議長を務めていたバーマーは論文「SIMULA — An Extension of ALGOL to the Description of Discrete-Event Networks」を提出したニガードを会議に招待した。",
"title": "歴史"
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"text": "ノルウェー計算機センターは UNIVAC との契約に基づいてダールがSIMULA Iを実装するため UNIVAC 1107 を1963年8月に特別価格で譲り受けた。これは UNIVAC 用 ALGOL 60コンパイラを元に実装された。1965年1月には UNIVAC 1107 上で完全な SIMULA I を利用できた。ダールとニガードはその後の2年間に渡り Simula を教えることに費やした。Simula は複数の国に広がり、SIMULA I は後に バロース B5000 やロシアの URAL-16 に移植された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "アントニー・ホーアは1966年にレコードクラスのコンストラクタの概念を導入し、ダールとニガードは一般的なプロセス概念という要求を満たすためプリフィックスの概念などを導入してこれを拡張した。ダールとニガードはクラスとサブクラスの宣言についての論文を1967年3月にオスロで開催された IFIP のシミュレーション用言語についてのワーキングカンファレンスで発表した。この論文は Simula 67 の最初の正式な定義となった。1967年6月に言語を規格化して複数の実装を始めるためのカンファレンスが開催された。ダールはデータ型とクラスの概念の統一化を提案した。これは激論を巻き起こし委員会から却下された。SIMULA 67 は SIMULA 標準化グループ (SSG) の最初の会議で1968年2月に正式に標準化された。",
"title": "歴史"
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"text": "Simula は Smalltalk やその後のオブジェクト指向言語に影響を及ぼした。Simula だけがコルーチンをサポートした言語ではないし、真の並列性は持たないが、アクターモデルの概念を呼び起こすのに役立った。",
"title": "歴史"
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"text": "60年代後期から70年代前期にかけて Simula の4つの主要な実装があった。",
"title": "歴史"
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"text": "これらの実装は様々なプラットフォームに移植された。TOPS-10 用ではメンバ変数とメソッドの public、protected、private が実装され、後に Simula 87 に統合された。Simula 87 は最新の標準規格であり、下記の3つの実装があることが知られている。",
"title": "歴史"
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"text": "2001年11月に米国電気電子学会 (IEEE) は、「SIMULA 67 の設計と実装によりオブジェクト指向の基礎概念を導きだした」ことを讃えフォン・ノイマンメダルをダールとニガードに授与した。2002年2月には「プログラミング言語 Simula I 及び Simula 67 の実装によりオブジェクト指向を出現させた基礎的アイデア」を表彰して2001年度チューリング賞をACMより受賞した。両名は6月と8月にそれぞれ死去したため、シアトルで開催される OOPSLA カンファレンス2002で行われる予定であったACMチューリング賞の講演に出席できなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "研究所はプログラミング言語 Simula にちなんで名付けられた研究所であり、ニガードはオープン時の2001年から非常勤職員として働いていた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "空のファイルはソースコードのサイズを基準とした場合で最も小さな Simula のプログラムである。これは1つのダミーのステートメントのみで構成される。",
"title": "サンプルコード"
},
{
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"tag": "p",
"text": "しかしながら合理的に考えれば最小のプログラムは空のブロックとして表現される。",
"title": "サンプルコード"
},
{
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"text": "これは起動してすぐに終了するプログラムである。Simula ではプログラム自身が値を返す return文 を持たない。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "Simulaで記述された Hello world の例である。Simula は大文字と小文字を厳密に区別する。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "クラス、サブクラス、仮想関数を用いた現実的な例を以下に示す。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "上記の例には1つの親クラス(Glyph)と2つのサブクラス(Char, Line)があり、1つの仮想関数と2つの実装がある。メインプログラムから実行を開始する。Simula は純粋仮想関数を持つクラスをインスタンス化できるため抽象基底クラスの概念が無い。これは上記の例にある全てのクラスがインスタンス化できるということである。しかしながら純粋仮想関数を呼び出すとランタイムライブラリエラーを引き起こす。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "Simula は名前呼び(call by name、評価戦略を参照)をサポートしているため Jensen's Device(en:Jensen's Device)を容易に実装できる。デフォルトはALGOLと異なり値呼び(call by value)であるため、Jensen's Deviceを実装する際には、名前呼びであることを明示する必要がある。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "単純な例として総和関数 ∑ {\\displaystyle \\sum } の実装例を以下に示す。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "上記のコードは値(l)と式(u)を制御するために名前呼びを用いている。これにより式で使用する値を制御できる。Simula の標準規格は for 文にある種の制約があるため上記の例では while 文を使用している。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "以下の式は次のように実装できる。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "Z = ∑ i = 1 100 1 ( i + a ) 2 {\\displaystyle Z=\\sum _{i=1}^{100}{1 \\over (i+a)^{2}}}",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "Simula にはディスクリートイベントシミュレーションを行うためのシミュレーションパッケージが含まれている。このシミュレーションパッケージはSimulaのオブジェクト指向とコルーチンのコンセプトに基づいている。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "下記の例で Sam、Sally、Andy は服を買おうとしている。彼らは1つの試着室を共有しなければならない。3人は正規分布によりランダムに約12分間店内を探索し、同様に試着室を約3分間占有する。以下は彼らが試着室をどのように使うのかをシミュレーションするものである。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "メインブロックが Simulation でプレフィックスされることによりシミュレーションを実行できる。シミュレーションパッケージはどこのブロックからでも自由に利用でき、シミュレーションしているものそれ自体をシミュレーションするときにはシミュレーションを再帰的にネストできる。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "試着室オブジェクトはキュー(door)により試着室にアクセスできる。誰かが使用中の試着室を使おうとしたときはこのキュー(Wait (door))で待たなければならない。誰かが試着室を出るとき、列の先頭にいる者がキューからリリース(Activate door.first)されてドアキューから削除(door.First.Out)される。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "Person は Process のサブクラスでありその動作は hold(店内を探索する時間と試着室で過ごす時間)を用いて記述され、試着室に出入りするために試着室オブジェクト内でメソッドを呼び出す。",
"title": "サンプルコード"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "メインプログラムは全てのオブジェクトを生成し、全ての Person オブジェクトをイベントキューに投入するためにアクティベートする。メインプログラムはシミュレーション時間で100分間待ってからプログラムを終了する。",
"title": "サンプルコード"
}
]
| SIMULAは、オルヨハン・ダールとクリステン・ニガードによってALGOL60を拡張する形で1960年代に開発が始められたシミュレーション用途のプログラミング言語である。 ALGOLのbegin ... endで囲まれた部分であるブロック(block)の概念を実体的な実例(instance)として扱うことを目的として、クラス(class)の構文と対象(object、オブジェクト)の概念を初めて導入した言語である。初期のオブジェクト指向プログラミング言語の一つである。 | {{Infobox プログラミング言語
|名前={{lang|en|Simula}}
|ロゴ=Simula - logo.svg
|パラダイム=[[マルチパラダイムプログラミング言語|マルチパラダイム]]: [[構造化プログラミング]]、[[オブジェクト指向プログラミング]]
|登場時期=1967年
|設計者=[[Ole-Johan Dahl]]、[[Kristen Nygaard]]
|処理系=[http://www.gnu.org/software/cim/cim.html {{lang|en|GNU Cim}}]
|影響を受けた言語={{lang|en|[[ALGOL 60]]}}
|影響を与えた言語={{lang|en|[[Smalltalk]]}}をはじめとするオブジェクト指向プログラミング言語
}}
{{プログラミング言語}}
'''SIMULA'''(シミュラ; '''SIMU'''lation '''LA'''nguage)は、[[オルヨハン・ダール]]と[[クリステン・ニガード]]によって[[ALGOL60]]を拡張する形で1960年代に開発が始められた[[シミュレーション]]用途の[[プログラミング言語]]である<ref>{{harvp|Dahl|Nygaard|1966}}</ref>。
ALGOLの<code>begin ... end</code>で囲まれた部分である'''ブロック'''(block)の概念を実体的な実例(instance)として扱うことを目的として、'''クラス'''(class)の構文と対象(object、'''オブジェクト''')の概念を初めて導入した言語である<ref>{{harvp|ダイクストラ|1975|p=202}}</ref>。初期の[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向プログラミング言語]]の一つである。
== 概要 ==
[[オスロ]]のノルウェー計算センターの[[クリステン・ニガード]]と[[オルヨハン・ダール]]が[[1962年]]から[[1967年]]にかけて、{{lang|en|Simula}} の元となる {{lang|en|'''Simula I'''}} と '''{{lang|en|Simula}}67''' を [[ALGOL60|{{lang|en|ALGOL}} 60]] の拡張として設計/実装した。{{lang|en|Simula}} は当初シミュレーションに用いられたが、のちに汎用言語となった。名前「{{lang|en|Simula}}」は「シミュレーション言語」を意味する英語「{{lang|en|<u>simu</u>lation <u>la</u>nguage}}」と「簡潔な汎用言語」を意味する英語「{{lang|en|<u>sim</u>ple <u>u</u>niversal <u>la</u>nguage}}」の二つに由来する。
主に北欧圏で使用されたこと、言語的な未成熟さもあって広く普及することはなかったが、後続言語に与えた影響は大きい。特に{{lang|en|[[Smalltalk]]}} は {{lang|en|Simula}} のオブジェクト概念を一般化したものだと言うことができる。{{lang|en|[[C++]]}} もまた、当初は[[C言語]]に {{lang|en|Simula}} のクラスなどの仕組みを追加したものであった。
開発の動機は、ある制限下におかれたモデル群の全体の挙動をどう記述するか、というものである。気体の分子運動を例にとると、[[システム]]全体を考えてその中の項として分子を扱うよりも、一つの一つの気体分子をモデル化し、それぞれの相互作用の結果をシステムとして捉える方が自然で取り扱いやすい。その為には小さなモデル、関連する法則、それらを一度に複数取り扱う能力が必要となる。こうして[[属性]]を備えた[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]概念と、それに従属する[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]概念が生まれたのである。
{{lang|en|Simula}} 67 では[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]、 [[クラス (コンピュータ)|クラス]]、[[サブクラス (計算機科学)|サブクラス]]、[[継承 (プログラミング)|継承]]、[[メソッド (計算機科学)|動的束縛(仮想関数)]]、[[コルーチン]]、 ディスクリートイベントシミュレーション、[[ガベージコレクション]]の機能をもち、オブジェクト指向プログラミングの基本概念はすべてここで発案されているといえる。
{{lang|en|Simula}} は[[プログラミングパラダイム]]として最初の[[オブジェクト指向]]言語であると考えられる。その名前が示すように {{lang|en|Simula}} はシミュレーションを行うために設計され、その必要性から今日のオブジェクト指向言語で使われる多くの機能のためのフレームワークを提供した。なお、{{lang|en|Simula}} 当時「オブジェクト指向」という言葉はまだない。この用語は[[アラン・ケイ]]が {{lang|en|Simula}} の概念として70年代ごろに使い出したのが始まりといわれている。従ってその意味では {{lang|en|Simula}} が世界最初のオブジェクト指向言語であり、{{lang|en|Simula}} は「オブジェクト指向として再認識が可能な最古の言語」ということができる。
[[VLSI]]設計、[[プロセス]]、[[プロトコル]]、[[アルゴリズム]]といったシミュレーションや、[[組版]]、[[コンピュータグラフィックス]]、[[教育]]といったアプリケーションソフトに {{lang|en|Simula}} は利用された。{{lang|en|Simula}} 形式のオブジェクトは {{lang|en|C++}}、{{lang|en|[[Java]]}}、{{lang|en|[[C Sharp|C#]]}} で再実装されており、{{lang|en|Simula}} の影響を受けていることが知られている。{{lang|en|C++}} の開発者である[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]は[[BCPL]]のような機械語を出力し高速に動作する低レベル言語に {{lang|en|Simula}} が提供する開発効率を高める機能を導入するため、{{lang|en|C++}} 開発時に {{lang|en|Simula}} 67 の影響を大きく受けていることを認めている。
== 歴史 ==
クリステン・ニガードは1957年からコンピュータシミュレーションの開発を始めた。ニガードはコンピュータの動作とシミュレーションプログラムに要求されるものの不整合を適切に記述する方法が必要であると考えた。既存の[[コンピュータ言語]]で彼のアイデアを実現するにはプログラミングのスキル以外に何かが必要であると思われた。オルヨハン・ダールは1962年1月にニガードの業務に参加した。1962年3月までにはシミュレーション用プログラミング言語のメインコンセプトは固まっていた。ディクリートイベントシステムを持つシミュレーション専用のプログラミング言語 '''{{lang|en|SIMULA I}}''' が開発された。
{{lang|en|[[UNIVAC]]}} は {{lang|en|UNIVAC}} 1107 を発売するにあたりニガードを1962年3月下旬に招待した。その際にニガードは {{lang|en|UNIVAC}} の[[ボブ・バーマー]]システムプログラミング部長に {{lang|en|Simula}} のアイデアを説明した。バーマーは {{lang|en|ALGOL}} の熱烈なファンであり、{{lang|en|Simula}} プロジェクトに説得力を感じた。IFIP([[情報処理国際連合]])が主催する情報処理の第2回国際会議の議長を務めていたバーマーは論文「SIMULA — An Extension of ALGOL to the Description of Discrete-Event Networks」を提出したニガードを会議に招待した。
ノルウェー計算機センターは {{lang|en|UNIVAC}} との契約に基づいてダールがSIMULA Iを実装するため {{lang|en|UNIVAC }} 1107 を1963年8月に特別価格で譲り受けた。これは {{lang|en|UNIVAC}} 用 [[ALGOL|{{lang|en|ALGOL}} 60]]コンパイラを元に実装された。1965年1月には {{lang|en|UNIVAC}} 1107 上で完全な {{lang|en|SIMULA I}} を利用できた。ダールとニガードはその後の2年間に渡り {{lang|en|Simula}} を教えることに費やした。{{lang|en|Simula}} は複数の国に広がり、{{lang|en|SIMULA I}} は後に [[バロース B5000]] やロシアの {{lang|ru-Latn|URAL}}-16 に移植された。
[[アントニー・ホーア]]は1966年にレコードクラスのコンストラクタの概念を導入し、ダールとニガードは一般的なプロセス概念という要求を満たすためプリフィックスの概念などを導入してこれを拡張した。ダールとニガードは[[クラス (コンピュータ)|クラス]]と[[サブクラス (計算機科学)|サブクラス]]の宣言についての論文を1967年3月に[[オスロ]]で開催された IFIP のシミュレーション用言語についてのワーキングカンファレンスで発表した。この論文は {{lang|en|Simula}} 67 の最初の正式な定義となった。1967年6月に言語を規格化して複数の実装を始めるためのカンファレンスが開催された。ダールは[[データ型]]と[[クラス (コンピュータ)|クラス]]の概念の統一化を提案した。これは激論を巻き起こし委員会から却下された。{{lang|en|SIMULA 67}} は {{lang|en|SIMULA}} 標準化グループ (SSG) の最初の会議で1968年2月に正式に標準化された。
{{lang|en|Simula}} は {{lang|en|Smalltalk}} やその後のオブジェクト指向言語に影響を及ぼした。{{lang|en|Simula}} だけが[[コルーチン]]をサポートした言語ではないし、真の並列性は持たないが、[[アクターモデル]]の概念を呼び起こすのに役立った。
60年代後期から70年代前期にかけて {{lang|en|Simula}} の4つの主要な実装があった。
*{{lang|en|UNIVAC}} 1100 用。Norwegian Computing Center (NCC) が開発。
*[[System/360|{{lang|en|Sysmtem}}/360]] 用および [[System/370|{{lang|en|System}}/370]] 用。スウェーデン国立防衛研究所 (FOA) が開発。
*CDC 3000 用。オスロ市シェラーにある[[オスロ大学]]の {{lang|en|Joint Computer Installation}} で開発。
*{{lang|en|[[TOPS-10]]}} 用。{{lang|en|ENEA AB}} が開発。
これらの実装は様々なプラットフォームに移植された。{{lang|en|TOPS-10}} 用ではメンバ変数とメソッドの <code>public</code>、<code>protected</code>、<code>private</code> が実装され、後に {{lang|en|Simula}} 87 に統合された。{{lang|en|Simula}} 87 は最新の標準規格であり、下記の3つの実装があることが知られている。
*{{lang|en|Simula AS}}
*{{lang|en|Lund Simula}}
*[http://www.gnu.org/software/cim/cim.html {{lang|en|GNU Cim}}]
2001年11月に[[IEEE|米国電気電子学会 (IEEE) ]]は、「{{lang|en|SIMULA 67}} の設計と実装によりオブジェクト指向の基礎概念を導きだした」ことを讃え[[フォン・ノイマンメダル]]をダールとニガードに授与した。2002年2月には「プログラミング言語 {{lang|en|Simula I}} 及び {{lang|en|Simula 67}} の実装によりオブジェクト指向を出現させた基礎的アイデア」を表彰して2001年度[[チューリング賞]]を[[Association for Computing Machinery|ACM]]より受賞した。[http://www.acm.org/announcements/turing_obit.html 両名は6月と8月にそれぞれ死去したため]、シアトルで開催される {{lang|en|[[OOPSLA]]}} カンファレンス2002で行われる予定であった[http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/journals/cacm/turing.html ACMチューリング賞]の講演に出席できなかった。
研究所はプログラミング言語 {{lang|en|Simula}} にちなんで名付けられた研究所であり、ニガードはオープン時の2001年から非常勤職員として働いていた。
==サンプルコード==
===最小のプログラム===
空のファイルはソースコードのサイズを基準とした場合で最も小さな {{lang|en|Simula}} のプログラムである。これは1つのダミーのステートメントのみで構成される。
しかしながら合理的に考えれば最小のプログラムは空のブロックとして表現される。
<syntaxhighlight lang="simula">
Begin
End ;
</syntaxhighlight>
これは起動してすぐに終了するプログラムである。{{lang|en|Simula}} ではプログラム自身が値を返す [[Return文|<code>return</code>文]] を持たない。
===古典的 {{lang|en|Hello World}}===
Simulaで記述された {{lang|en|[[Hello world]]}} の例である。{{lang|en|Simula}} は大文字と小文字を厳密に区別する。
<syntaxhighlight lang="simula">
Begin
OutText ("Hello World!") ;
Outimage ;
End ;
</syntaxhighlight>
=== 典型的サブクラスと仮想関数 ===
クラス、サブクラス、仮想関数を用いた現実的な例を以下に示す。
<syntaxhighlight lang="simula">
Begin
Class Glyph ;
Virtual: Procedure print Is Procedure print ;
Begin
End ;
Glyph Class Char (c) ;
Character c ;
Begin
Procedure print ;
OutChar(c) ;
End ;
Glyph Class Line (elements) ;
Ref (Glyph) Array elements ;
Begin
Procedure print ;
Begin
Integer i ;
For i:= 1 Step 1 Until UpperBound (elements, 1) Do
elements (i) .print ;
OutImage ;
End ;
End ;
Ref (Glyph) rg ;
Ref (Glyph) Array rgs (1 : 4) ;
! Main program;
rgs (1):- New Char ('A') ;
rgs (2):- New Char ('b') ;
rgs (3):- New Char ('b') ;
rgs (4):- New Char ('a') ;
rg:- New Line (rgs) ;
rg.print ;
End ;
</syntaxhighlight>
上記の例には1つの親クラス(<code>Glyph</code>)と2つのサブクラス(<code>Char</code>, <code>Line</code>)があり、1つの[[仮想関数]]と2つの[[実装]]がある。メインプログラムから実行を開始する。{{lang|en|Simula}} は純粋仮想関数を持つクラスを[[オブジェクト (プログラミング)|インスタンス化]]できるため抽象基底クラスの概念が無い。これは上記の例にある全てのクラスがインスタンス化できるということである。しかしながら純粋仮想関数を呼び出すと[[ランタイムライブラリ]][[エラー]]を引き起こす。
===名前呼び===
{{lang|en|Simula}} は名前呼び({{lang|en|call by name}}、[[評価戦略]]を参照)をサポートしているため {{lang|en|Jensen's Device}}([[:en:Jensen's Device]])を容易に実装できる。デフォルトは{{lang|en|ALGOL}}と異なり値呼び({{lang|en|call by value}})であるため、{{lang|en|Jensen's Device}}を実装する際には、名前呼びであることを明示する必要がある。
単純な例として総和関数<math>\sum</math>の実装例を以下に示す。
<syntaxhighlight lang="simula">
Real Procedure Sigma (l, m, n, u) ;
Name l, u ;
Integer l, m, n ;
Real u ;
Begin
Real s ;
l:= m ;
While l <= n Do
Begin
s := s + u ;
l := l + 1 ;
End ;
Sigma := s ;
End ;
</syntaxhighlight>
上記のコードは値(<code>l</code>)と式(<code>u</code>)を制御するために名前呼びを用いている。これにより式で使用する値を制御できる。{{lang|en|Simula}} の標準規格は <code>for</code> 文にある種の制約があるため上記の例では <code>while</code> 文を使用している。
以下の式は次のように実装できる。
<math>Z = \sum_{i=1}^{100}{1 \over (i + a)^2}</math>
<syntaxhighlight lang="simula">Z:= Sigma (i, 1, 100, 1 / (i + a) ** 2) ;</syntaxhighlight>
===シミュレーション===
{{lang|en|Simula}} にはディスクリートイベントシミュレーションを行うための[[シミュレーション]]パッケージが含まれている。このシミュレーションパッケージはSimulaの[[オブジェクト指向]]と[[コルーチン]]のコンセプトに基づいている。
下記の例で <code>Sam</code>、<code>Sally</code>、<code>Andy</code> は服を買おうとしている。彼らは1つの試着室を共有しなければならない。3人は正規分布によりランダムに約12分間店内を探索し、同様に試着室を約3分間占有する。以下は彼らが試着室をどのように使うのかをシミュレーションするものである。
<syntaxhighlight lang="simula">
Simulation
Begin
Class FittingRoom ;
Begin
Ref (Head) door ;
Boolean inUse ;
Procedure request ;
Begin
If inUse Then
Begin
Wait (door) ;
door.First.Out ;
End ;
inUse := True ;
End ;
Procedure leave ;
Begin
inUse := False ;
Activate door.First ;
End ;
door:- New Head ;
End ;
Procedure report (message) ;
Text message ;
Begin
OutFix (Time, 2, 0) ;
OutText (": " & message) ;
OutImage ;
End;
Process Class Person (pname) ;
Text pname ;
Begin
While True Do
Begin
Hold (Normal (12, 4, u)) ;
report (pname & " is requesting the fitting room") ;
fittingroom1.request ;
report (pname & " has entered the fitting room") ;
Hold (Normal (3, 1, u)) ;
fittingroom1.leave ;
report (pname & " has left the fitting room") ;
End ;
End ;
Integer u ;
Ref (FittingRoom) fittingRoom1 ;
fittingRoom1 :- New FittingRoom ;
Activate New Person ("Sam") ;
Activate New Person ("Sally") ;
Activate New Person ("Andy") ;
Hold (100) ;
End;
</syntaxhighlight>
メインブロックが <code>Simulation</code> でプレフィックスされることによりシミュレーションを実行できる。シミュレーションパッケージはどこのブロックからでも自由に利用でき、シミュレーションしているものそれ自体をシミュレーションするときにはシミュレーションを再帰的にネストできる。
試着室オブジェクトはキュー(<code>door</code>)により試着室にアクセスできる。誰かが使用中の試着室を使おうとしたときはこのキュー(<code>Wait (door)</code>)で待たなければならない。誰かが試着室を出るとき、列の先頭にいる者がキューからリリース(<code>'''Activate''' door.first</code>)されてドアキューから削除(<code>door.First.Out</code>)される。
<code>Person</code> は <code>Process</code> のサブクラスでありその動作は <code>hold</code>(店内を探索する時間と試着室で過ごす時間)を用いて記述され、試着室に出入りするために試着室オブジェクト内でメソッドを呼び出す。
メインプログラムは全てのオブジェクトを生成し、全ての <code>Person</code> オブジェクトをイベントキューに投入するためにアクティベートする。メインプログラムはシミュレーション時間で100分間待ってからプログラムを終了する。
==脚注==
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |last=Dahl |author=Ole-Johan Dahl |first=Ole-Johan |last2=Nygaard |first2=Kristen |year=1966 |date=1966-09-01 |title=SIMULAーan ALGOL Based Simulation Language |url=http://www.znu.ac.ir/cv/afsharchim/lectures/artikkel1966cacm.pdf |journal=Communications of the ACM |volume=9 |issue=9 |pages=671–678 |ref=harv |doi=10.1145/365813.365819 |issn=0001-0782 |author2=Kristen Nygaard}}
* {{Cite book |ref=harv |author=Ole-Johan Dahl |title=SIMULA Common Base Language |url=http://www.eah-jena.de/~kleine/history/languages/Simula-CommonBaseLanguage.pdf |year=1970 |author2=Bjørn Myhrhaug |author3=Kristen Nygaard |archive-url=https://web.archive.org/web/20150402202054/http://www.eah-jena.de/~kleine/history/languages/Simula-CommonBaseLanguage.pdf |archive-date=2015-04-02}}
* {{Cite web |url=http://www.edelweb.fr/Simula/ |title=IBM System 360/370 and Historical Documentation |access-date=2017年9月16日 |website=www.edelweb.fr |archive-url=https://web.archive.org/web/20060518132022/http://www.edelweb.fr/Simula/ |archive-date=2006/05/18}}
* {{Cite book |ref=harv |author=E. W. Dijkstra |title=Structured Programming |year=1972 |publisher=Academic Press, London |isbn=0-12-200550-3 |author2=C. A. R. Hoare |author3=Ole-Johan Dahl}}
** {{Cite book |和書 |ref={{harvid|ダイクストラ|1975}} |author=E. W. ダイクストラ |title=構造化プログラミング |year=1975 |publisher=サイエンス社 |translator=野下 浩平 |author2=C. A. R. ホーア |author3=O.-J. ダール}}
* {{Cite book |和書 |ref=harv |author=落水 浩一郎 |title=ソフトウェア工学実践の基礎 : 分析・設計・プログラミング |year=1993 |publisher=日科技連出版社}}
==関連項目==
* [[構造化プログラミング]]
* [[抽象データ型]]
* [[ALGOL]]
* [[オブジェクト指向]]
==外部リンク==
* [https://staff.um.edu.mt/jskl1/talk.html {{lang|en|INTRODUCTION TO OOP IN SIMULA}}]
* [http://www.ifi.uio.no/~cim/cim_toc.html {{lang|en|Cim}}]
* [http://linux.maruhn.com/sec/cim.html {{lang|en|Cim — Simula to C translator. Mother of all OO-languages}}] — {{lang|en|Cim}} の配布ページ
** [http://www.volny.cz/petr-novak/cim/ {{lang|en|Cim 3.33 for MS Windows}}] — 上記の {{lang|en|Windows}} 版
* [https://history-computer.com/simula-guide/ {{lang|en|Simula – Guide: History, Origin, and More}}]
{{プログラミング言語一覧}}
{{authority control}}
[[Category:オブジェクト指向言語|SIMULA]] | null | 2022-06-18T09:18:24Z | false | false | false | [
"Template:Harvp",
"Template:Cite web",
"Template:プログラミング言語一覧",
"Template:Authority control",
"Template:Infobox プログラミング言語",
"Template:プログラミング言語",
"Template:Lang",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite book"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/Simula |
1,507 | IPアドレス | IPアドレス(アイピーアドレス、英: IP address)は、Internet Protocol(IP)で通信相手を識別するための番号である。インターネットアドレスとも呼ばれる。
IPアドレスは、IPネットワーク上の情報機器を識別するために指定するネットワーク層における識別用の番号である。データリンク層のMACアドレスを物理アドレスということに対応して、論理アドレスとも呼ばれる。IPのバージョン(IPv4とIPv6)に応じて、IPv4のIPアドレス(IPv4アドレス)とIPv6のIPアドレス(IPv6アドレス)がある。当初、RFC 791でIPを定義した際に、IPが現在のIPv4に当たるもののみであったことから、狭義では、単にIPアドレスと呼称した場合にIPv4のIPアドレスを意味する場合がある。
IPアドレスは、IPv4では32ビット、IPv6では128ビットの数値である。この数値のうち、最上位ビット(MSB)に近い側をネットワーク部、最下位ビット(LSB)に近い側をホスト部として区別する。ネットワーク部がネットワークを指定し、ホスト部がそのネットワーク内の機器を指定する。ネットワーク部とホスト部の区別にはサブネットマスクを用いることができる(ある)。
IPv4のIPアドレスの表記法には以下の規則がある。IPv6については「IPv6」および「IPv6アドレス」の記事で取り扱う。
gethostbyname() や inet_aton() など、IPアドレスを解釈する実装の一部では以下のような表記も許している。
これらの表記は、URL StandardでURLの一部分として定義されている。ただし、オペレーティングシステム(OS)やアプリケーション(例:ウェブブラウザソフト)、ネットワーク機器などによっては利用できないことがある。また悪意のある者がフィッシングサイトなどのURLを偽装するために用いる場合もあるので、注意が必要である。
IPアドレスは、次の5つのアドレスクラスに分かれている。
クラスAからクラスCまでは、ネットワーク部とホスト部の境界が8ビット単位で区分けされている。クラスAはネットワーク部が短く(8ビット)、ホスト部が長い(24ビット)。すなわち、多くの機器を保有する大組織や多くの顧客を有する大規模なインターネットサービスプロバイダ(ISP)に割り当てるのに適している。クラスCはその逆である。これは、日本の電話番号において東京などの人口が多い地域には03のような短い市外局番が割り当てられ、人口の少ない地域には長い市外局番が割り当てられているのと同じである。クラスAが約1,677万台、クラスBが65,534台、クラスCが254台のホストを接続できる。
しかし、アドレスクラスを用いたIPアドレス割り当てには問題が生じた。ほとんどのネットワーク(たとえばインターネットサービスプロバイダ)ではクラスAでは大きすぎ、クラスCでは小さすぎたため割り当ての要求がクラスBに集中したのである。クラスBの割り当てを受けたネットワークの中には65,534台のホスト(インターネットサービスプロバイダであれば接続ユーザー数)を同時にすべて接続することがまれであるネットワークも存在し、IPアドレスが無駄に消費されることになった。そこで現在ではアドレスクラスを使わず、ネットワーク部とホスト部の境界を8ビット単位に固定せずに細分化する可変長サブネットマスクやCIDR(Classless Inter-Domain Routing)の使用が一般化している。
IPアドレスの割り当て範囲を示すために、IPアドレスの末尾に「/」(スラッシュ)とともにネットワークアドレス長を付記して表すことも多い。IPv4の場合、MSB側からのビット数でネットワークアドレス長を表す。例えば192.168.0.0/24の表記の場合、ネットワーク部はMSBから24ビットで残り8ビットがホスト部となる。アドレスクラスでなく可変長サブネットマスクを使用した場合、ネットワークアドレス長の数字は必ずしも8の倍数にはならないことになる。
「CIDR」は、「サイダー」と読む。
Classless Inter-Domain Routingを用いることで、複数のIPアドレスを範囲指定して一つのアドレスブロックとして扱うことができる。例えば、192.168.1.0 - 192.168.1.255という範囲のIPアドレスは、192.168.1.0/24として表すことができる。CIDRを使うことでアドレスブロックの集約や分割が容易に行えることから、IPパケットのルーティングで主に活用されている。例えば、203.0.113.0/26、203.0.113.64/26、203.0.113.128/26、203.0.113.192/26の4つのアドレスブロックは、203.0.113.0/24として集約することができる。
例えば69.208.0.0を含むIPアドレス群の場合、CIDRと開始アドレスおよび終了アドレスの関係は以下のようになる。
通信可能な範囲のことをスコープという。IPアドレスは、それぞれにスコープが決められている。(→一覧)
後述するプライベートIPアドレス、リンクローカルアドレス、特殊用途のIPアドレスなどを除いたIPアドレスは「グローバルIPアドレス」と呼び、インターネットの接続用に利用され、重複が発生しないように管理される。そのため、ICANNを頂点とした階層的な委譲関係によって、世界的な管理が行われている。
通常、パソコンやルーターなどをインターネットに接続すると、ISPに割り振られているグローバルIPアドレスの中の1つがパソコンなどに割り当てられる。
プライベートIPアドレス(ローカルIPアドレス)は、プライベートネットワーク(外部から利用できない社内LANなど)のアドレスとして使うことができる。異なるプライベートネットワークを相互接続してルーティングすることも可能である。
プライベートIPアドレスとして、次のアドレス空間が予約されている。ネットワークの規模に応じて、使い分ける必要がある。
WindowsなどではIPアドレスが設定されておらず、DHCPサーバも見付からない場合には自動的に169.254で始まるクラスBのIPアドレスが振られる(APIPAという機能)。これはリンクローカルアドレスと呼ばれ単一のLAN内での通信に使うことができるが、ルーティングができないなどプライベートアドレスとは異なるものである。
プライベートIPアドレスとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。その方法として、NAPT(実装としてはIPマスカレードやipfwなど)やプロキシサーバがある。
インターネット接続サービスによってはインターネットに接続する機器にグローバルIPアドレスではなく、このプライベートIPアドレスを割り当てることもある。
プライベートIPアドレスとこれに関する仕組みによって、グローバルIPアドレスを多量に消費することなくインターネットに接続できる機器を増やすことができる。
2012年4月にRFC 6598として発行したインターネットサービスプロバイダ(ISP)が契約者に貸し出すIPアドレスで、範囲は100.64.0.0/10。
ISP Shared Addressは、個々のISPのネットワーク内でのみ使用可能なIPアドレスで、キャリアグレードNAT(CGN)によりISP Shared AddressとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。
IPアドレス枯渇問題により、契約者が増加しても、ISPが契約者に貸し出すグローバルIPアドレスを新規に獲得できなくなった。
しかし、ISPが契約者にプライベートIPアドレスを割り当てると、該当するIPアドレスを契約者のローカルネットワーク内で使用できなくなる。例えば、NTTが提供するフレッツの地域IP網においてプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)を使用しているため、フレッツの利用者がプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)をローカルネットワーク内で使用できない。
そこで、ISP Shared Addressの導入により、ISPはISP Shared Addressを使用し、ISPの契約者は、任意のプライベートIPアドレスが使用できるようになる。
なお、/10というアドレス範囲は、東京地域を網羅するISPがISP Shared Addressを導入するには、/10程度のアドレス範囲が必要であるという、日本からの提案がベースになっている。
一部のアドレスおよびブロックは、特殊な用途に使われる。それぞれのスコープに応じて、通常、機器に割り振るべきではない。詳細はIPv4#特別用途のアドレスを参照のこと。
グローバルIPアドレスは、まずインターネットレジストリ(APNICやJPNICなど)からISPにまとまった単位で付与される。これを割り振り(allocation)という。ISPは末端の利用者(個人、法人など)に対して、利用契約に基づいてIPアドレスを払い出す。これを割り当て(assignment)という。かつて一部の大学やIT企業が非営利でインターネットを支えていた時代には、レジストリからこれらの組織に直接割り当てられる例が多かったが、今日では商用ISPが発達したため、新規の割り当てではそのような例は少ない。インターネットレジストリにもIANA(Internet Assigned Numbers Authority) →RIR(Regional Internet Registry)→NIR(National Internet Registry)→LIR(Local Internet Registry)といった階層構造が存在する。
個人契約者の場合、グローバルIPアドレス1個を動的に割り当てる(接続ごとにIPアドレスが変わることがある)ものがほとんどである。ただしISPや契約プランによってはプライベートIPアドレスやISP Shared Addressを割り当てるもの(CATV接続に多い)、グローバルIPアドレス1個を固定で割り当てるもの、複数のグローバルIPアドレスを固定で割り当てるものもある。割り当ての通信プロトコルはダイヤルアップ接続ではPPP、ADSL・FTTHなどではPPPoE、CATVや公衆無線LAN(ホットスポット)ではDHCPによることが一般的である。
法人契約の場合はDNSやメールなどの各種サーバを運用するケースが多いこと、VPN(仮想専用網)などによる取引先などとのデータのやりとりにおいて、IPアドレスによる認証やアクセス制限があることなどの理由により、複数(多いのは4個から16個程度)のグローバルIPアドレスを固定で割り当てる契約が一般的である。
なお、家庭内や組織内でのプライベートIPアドレスの割り当てはDHCP(専用サーバの他、一般向けのいわゆるブロードバンドルーターに実装されている)によることが一般的である。ただし、サーバやルーターのLAN側など固定IPアドレスを必要とするものや、割り当てを厳密に管理したい場合には固定IPアドレスの割り当てが行われる。
2019年3月現在、特殊な用途のものを除く、すべてのIPv4のグローバルアドレスを誰かに割り当てた状態になりつつある。すなわちIPv4のグローバルアドレスに空きがなく、インターネット上に公開するIP機器の増設が不可能になるという問題が発生している。不動産に例えると、これまでは新規分譲で土地が提供されて建物を建築できていたが、分譲する土地がなくなったために、既存の建物が建っている土地を地上げして再開発しない限り新たな建物を建てられなくなった状態である。
2017年2月15日 LACNICのIPv4アドレス在庫が/11ブロック以下となり、AFRINICを除く4つのRIRでIPv4アドレス在庫枯渇の最終段階になった。
この枯渇問題の対策として、IPv6の普及が進められている。 | [
{
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"text": "IPアドレスは、IPネットワーク上の情報機器を識別するために指定するネットワーク層における識別用の番号である。データリンク層のMACアドレスを物理アドレスということに対応して、論理アドレスとも呼ばれる。IPのバージョン(IPv4とIPv6)に応じて、IPv4のIPアドレス(IPv4アドレス)とIPv6のIPアドレス(IPv6アドレス)がある。当初、RFC 791でIPを定義した際に、IPが現在のIPv4に当たるもののみであったことから、狭義では、単にIPアドレスと呼称した場合にIPv4のIPアドレスを意味する場合がある。",
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"text": "IPアドレスは、IPv4では32ビット、IPv6では128ビットの数値である。この数値のうち、最上位ビット(MSB)に近い側をネットワーク部、最下位ビット(LSB)に近い側をホスト部として区別する。ネットワーク部がネットワークを指定し、ホスト部がそのネットワーク内の機器を指定する。ネットワーク部とホスト部の区別にはサブネットマスクを用いることができる(ある)。",
"title": "概要"
},
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"text": "IPv4のIPアドレスの表記法には以下の規則がある。IPv6については「IPv6」および「IPv6アドレス」の記事で取り扱う。",
"title": "表記"
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"text": "gethostbyname() や inet_aton() など、IPアドレスを解釈する実装の一部では以下のような表記も許している。",
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"text": "これらの表記は、URL StandardでURLの一部分として定義されている。ただし、オペレーティングシステム(OS)やアプリケーション(例:ウェブブラウザソフト)、ネットワーク機器などによっては利用できないことがある。また悪意のある者がフィッシングサイトなどのURLを偽装するために用いる場合もあるので、注意が必要である。",
"title": "表記"
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"text": "IPアドレスは、次の5つのアドレスクラスに分かれている。",
"title": "アドレスクラス"
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"text": "クラスAからクラスCまでは、ネットワーク部とホスト部の境界が8ビット単位で区分けされている。クラスAはネットワーク部が短く(8ビット)、ホスト部が長い(24ビット)。すなわち、多くの機器を保有する大組織や多くの顧客を有する大規模なインターネットサービスプロバイダ(ISP)に割り当てるのに適している。クラスCはその逆である。これは、日本の電話番号において東京などの人口が多い地域には03のような短い市外局番が割り当てられ、人口の少ない地域には長い市外局番が割り当てられているのと同じである。クラスAが約1,677万台、クラスBが65,534台、クラスCが254台のホストを接続できる。",
"title": "アドレスクラス"
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{
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"text": "しかし、アドレスクラスを用いたIPアドレス割り当てには問題が生じた。ほとんどのネットワーク(たとえばインターネットサービスプロバイダ)ではクラスAでは大きすぎ、クラスCでは小さすぎたため割り当ての要求がクラスBに集中したのである。クラスBの割り当てを受けたネットワークの中には65,534台のホスト(インターネットサービスプロバイダであれば接続ユーザー数)を同時にすべて接続することがまれであるネットワークも存在し、IPアドレスが無駄に消費されることになった。そこで現在ではアドレスクラスを使わず、ネットワーク部とホスト部の境界を8ビット単位に固定せずに細分化する可変長サブネットマスクやCIDR(Classless Inter-Domain Routing)の使用が一般化している。",
"title": "アドレスクラス"
},
{
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"text": "IPアドレスの割り当て範囲を示すために、IPアドレスの末尾に「/」(スラッシュ)とともにネットワークアドレス長を付記して表すことも多い。IPv4の場合、MSB側からのビット数でネットワークアドレス長を表す。例えば192.168.0.0/24の表記の場合、ネットワーク部はMSBから24ビットで残り8ビットがホスト部となる。アドレスクラスでなく可変長サブネットマスクを使用した場合、ネットワークアドレス長の数字は必ずしも8の倍数にはならないことになる。",
"title": "アドレスクラス"
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"text": "「CIDR」は、「サイダー」と読む。",
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"text": "Classless Inter-Domain Routingを用いることで、複数のIPアドレスを範囲指定して一つのアドレスブロックとして扱うことができる。例えば、192.168.1.0 - 192.168.1.255という範囲のIPアドレスは、192.168.1.0/24として表すことができる。CIDRを使うことでアドレスブロックの集約や分割が容易に行えることから、IPパケットのルーティングで主に活用されている。例えば、203.0.113.0/26、203.0.113.64/26、203.0.113.128/26、203.0.113.192/26の4つのアドレスブロックは、203.0.113.0/24として集約することができる。",
"title": "アドレスクラス"
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{
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"text": "例えば69.208.0.0を含むIPアドレス群の場合、CIDRと開始アドレスおよび終了アドレスの関係は以下のようになる。",
"title": "アドレスクラス"
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"text": "通信可能な範囲のことをスコープという。IPアドレスは、それぞれにスコープが決められている。(→一覧)",
"title": "スコープ"
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{
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"text": "後述するプライベートIPアドレス、リンクローカルアドレス、特殊用途のIPアドレスなどを除いたIPアドレスは「グローバルIPアドレス」と呼び、インターネットの接続用に利用され、重複が発生しないように管理される。そのため、ICANNを頂点とした階層的な委譲関係によって、世界的な管理が行われている。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "通常、パソコンやルーターなどをインターネットに接続すると、ISPに割り振られているグローバルIPアドレスの中の1つがパソコンなどに割り当てられる。",
"title": "スコープ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "プライベートIPアドレス(ローカルIPアドレス)は、プライベートネットワーク(外部から利用できない社内LANなど)のアドレスとして使うことができる。異なるプライベートネットワークを相互接続してルーティングすることも可能である。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "プライベートIPアドレスとして、次のアドレス空間が予約されている。ネットワークの規模に応じて、使い分ける必要がある。",
"title": "スコープ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "WindowsなどではIPアドレスが設定されておらず、DHCPサーバも見付からない場合には自動的に169.254で始まるクラスBのIPアドレスが振られる(APIPAという機能)。これはリンクローカルアドレスと呼ばれ単一のLAN内での通信に使うことができるが、ルーティングができないなどプライベートアドレスとは異なるものである。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "プライベートIPアドレスとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。その方法として、NAPT(実装としてはIPマスカレードやipfwなど)やプロキシサーバがある。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "インターネット接続サービスによってはインターネットに接続する機器にグローバルIPアドレスではなく、このプライベートIPアドレスを割り当てることもある。",
"title": "スコープ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "プライベートIPアドレスとこれに関する仕組みによって、グローバルIPアドレスを多量に消費することなくインターネットに接続できる機器を増やすことができる。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2012年4月にRFC 6598として発行したインターネットサービスプロバイダ(ISP)が契約者に貸し出すIPアドレスで、範囲は100.64.0.0/10。",
"title": "スコープ"
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{
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"text": "ISP Shared Addressは、個々のISPのネットワーク内でのみ使用可能なIPアドレスで、キャリアグレードNAT(CGN)によりISP Shared AddressとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。",
"title": "スコープ"
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{
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"text": "IPアドレス枯渇問題により、契約者が増加しても、ISPが契約者に貸し出すグローバルIPアドレスを新規に獲得できなくなった。",
"title": "スコープ"
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{
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"text": "しかし、ISPが契約者にプライベートIPアドレスを割り当てると、該当するIPアドレスを契約者のローカルネットワーク内で使用できなくなる。例えば、NTTが提供するフレッツの地域IP網においてプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)を使用しているため、フレッツの利用者がプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)をローカルネットワーク内で使用できない。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "そこで、ISP Shared Addressの導入により、ISPはISP Shared Addressを使用し、ISPの契約者は、任意のプライベートIPアドレスが使用できるようになる。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、/10というアドレス範囲は、東京地域を網羅するISPがISP Shared Addressを導入するには、/10程度のアドレス範囲が必要であるという、日本からの提案がベースになっている。",
"title": "スコープ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一部のアドレスおよびブロックは、特殊な用途に使われる。それぞれのスコープに応じて、通常、機器に割り振るべきではない。詳細はIPv4#特別用途のアドレスを参照のこと。",
"title": "特殊用途のIPアドレス"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "グローバルIPアドレスは、まずインターネットレジストリ(APNICやJPNICなど)からISPにまとまった単位で付与される。これを割り振り(allocation)という。ISPは末端の利用者(個人、法人など)に対して、利用契約に基づいてIPアドレスを払い出す。これを割り当て(assignment)という。かつて一部の大学やIT企業が非営利でインターネットを支えていた時代には、レジストリからこれらの組織に直接割り当てられる例が多かったが、今日では商用ISPが発達したため、新規の割り当てではそのような例は少ない。インターネットレジストリにもIANA(Internet Assigned Numbers Authority) →RIR(Regional Internet Registry)→NIR(National Internet Registry)→LIR(Local Internet Registry)といった階層構造が存在する。",
"title": "IPアドレスの付与"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "個人契約者の場合、グローバルIPアドレス1個を動的に割り当てる(接続ごとにIPアドレスが変わることがある)ものがほとんどである。ただしISPや契約プランによってはプライベートIPアドレスやISP Shared Addressを割り当てるもの(CATV接続に多い)、グローバルIPアドレス1個を固定で割り当てるもの、複数のグローバルIPアドレスを固定で割り当てるものもある。割り当ての通信プロトコルはダイヤルアップ接続ではPPP、ADSL・FTTHなどではPPPoE、CATVや公衆無線LAN(ホットスポット)ではDHCPによることが一般的である。",
"title": "IPアドレスの付与"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "法人契約の場合はDNSやメールなどの各種サーバを運用するケースが多いこと、VPN(仮想専用網)などによる取引先などとのデータのやりとりにおいて、IPアドレスによる認証やアクセス制限があることなどの理由により、複数(多いのは4個から16個程度)のグローバルIPアドレスを固定で割り当てる契約が一般的である。",
"title": "IPアドレスの付与"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、家庭内や組織内でのプライベートIPアドレスの割り当てはDHCP(専用サーバの他、一般向けのいわゆるブロードバンドルーターに実装されている)によることが一般的である。ただし、サーバやルーターのLAN側など固定IPアドレスを必要とするものや、割り当てを厳密に管理したい場合には固定IPアドレスの割り当てが行われる。",
"title": "IPアドレスの付与"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2019年3月現在、特殊な用途のものを除く、すべてのIPv4のグローバルアドレスを誰かに割り当てた状態になりつつある。すなわちIPv4のグローバルアドレスに空きがなく、インターネット上に公開するIP機器の増設が不可能になるという問題が発生している。不動産に例えると、これまでは新規分譲で土地が提供されて建物を建築できていたが、分譲する土地がなくなったために、既存の建物が建っている土地を地上げして再開発しない限り新たな建物を建てられなくなった状態である。",
"title": "IPアドレス枯渇問題"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2017年2月15日 LACNICのIPv4アドレス在庫が/11ブロック以下となり、AFRINICを除く4つのRIRでIPv4アドレス在庫枯渇の最終段階になった。",
"title": "IPアドレス枯渇問題"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この枯渇問題の対策として、IPv6の普及が進められている。",
"title": "IPアドレス枯渇問題"
}
]
| IPアドレスは、Internet Protocol(IP)で通信相手を識別するための番号である。インターネットアドレスとも呼ばれる。 | {{Otheruses2||IPv6アドレス|IPv6アドレス}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年2月
| 更新 = 2021年2月
}}
'''IPアドレス'''(アイピーアドレス、{{lang-en-short|IP address}})は、[[Internet Protocol]](IP)で通信相手を識別するための番号である。'''インターネットアドレス'''とも呼ばれる<ref>[https://www.ny.ics.keio.ac.jp/ipsjts1/db-ver3a/htm/rx01j0eg.htm TR X 0055:2002 インターネット利用者のための用語]</ref><ref name=":0">{{Kotobank|IPアドレス}}</ref>。
== 概要 ==
IPアドレスは、[[IPネットワーク]]上の[[情報機器]]を識別するために指定する[[ネットワーク層]]における識別用の番号である。[[データリンク層]]の[[MACアドレス]]を物理アドレスということに対応して、'''論理アドレス'''とも呼ばれる。IPのバージョン([[IPv4]]と[[IPv6]])に応じて、IPv4のIPアドレス([[IPv4アドレス]])とIPv6のIPアドレス([[IPv6アドレス]])がある。当初、{{IETF RFC|791}}でIPを定義した際に、IPが現在のIPv4に当たるもののみであったことから、狭義では、単にIPアドレスと呼称した場合にIPv4のIPアドレスを意味する場合がある。
IPアドレスは、IPv4では32[[ビット]]、IPv6では128ビットの数値である。この数値のうち、[[最上位ビット]](MSB)に近い側をネットワーク部、[[最下位ビット]](LSB)に近い側をホスト部として区別する。ネットワーク部がネットワークを指定し、ホスト部がそのネットワーク内の機器を指定する。ネットワーク部とホスト部の区別には[[サブネットマスク]]を用いることができる(ある)。
== 表記 ==
[[ファイル:Ipv4 address ja.svg|thumb|250px|IPv4の構造。十進法を[[二進法]]に変換し、8桁の数字(8ビット)で1バイトとなる。その8ビットが4つに区切られ、合計で32ビット(= 4バイト)となっている。<!-- もっといい説明方法が思い浮かばない・・ -->]]
{{see also|IPv6アドレス}}
IPv4のIPアドレスの表記法には以下の規則がある。''IPv6については「[[IPv6]]」および「[[IPv6アドレス]]」の記事で取り扱う。''
* 通常は、'''ドット付き十進表記'''<ref group="注">{{lang-en-short|dotted decimal notation}}</ref>あるいは'''ドットアドレス'''<ref group="注">{{lang-en-short|dot address}}</ref>と呼ばれる 0 - 255 の数字4組(8ビット × 4 = 32ビット)を[[終止符|ドット]]で繋いだ記法で表記される。
** (例)192.168.0.1
<code>gethostbyname()</code> や <code>inet_aton()</code> など、IPアドレスを解釈する実装の一部では以下のような表記も許している。
* 数字が3組のときは、3番目は16ビットと解釈される。
** (例)192.168.1 (= 192.168.0.1)
* 数字が2組のときは、2組目は24ビットと解釈される。
** (例)192.11010049 (= 192.168.0.1、'''168''' × 256<sup>2</sup> + '''0''' × 256 + '''1''' = 11010049)
* ドットがないときは、単一の32ビット数と解釈される。ロングIPアドレスなどとも呼ばれる。
** (例)3232235521 (= 192.168.0.1、'''192''' × 256<sup>3</sup> + '''168''' × 256<sup>2</sup> + '''0''' × 256 + '''1''' = 3232235521)
* 各数字は0xを前置すると16進数、0を前置すると8進数と解釈される。
** (例)<code>0xC0A80001</code> (= 192.168.0.1)
** (例)<code>0xC0.0250.1</code> (= 192.168.0.1、(C0→192、250→168))
これらの表記は、URL Standardで[[Uniform Resource Locator|URL]]の一部分として定義されている<ref>{{Cite web|url=https://url.spec.whatwg.org/#host-parsing|title=URL Standard 3.5. Host parsing|accessdate=2017-07-30|author=WHATWG|authorlink=WHATWG|date=2017-07-30|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.w3.org/Bugs/Public/show_bug.cgi?id=26431|title=26431 – Define IPv4 parsing|accessdate=2017-07-30|authorlink=|coauthors=|date=2015-07-01|publisher=W3C|language=英語}}</ref>。ただし、[[オペレーティングシステム]](OS)やアプリケーション(例:[[ウェブブラウザ]]ソフト)、ネットワーク機器などによっては利用できないことがある。また悪意のある者が[[フィッシング (詐欺)|フィッシング]]サイトなどのURLを偽装するために用いる場合もあるので、注意が必要である。
== アドレスクラス ==
IPアドレスは、次の5つのアドレスクラスに分かれている。
{| class="wikitable"
!クラス!!アドレス範囲!!用途(先頭ビットの値)
|-
|クラスA||0.0.0.0 - 127.255.255.255||[[サブネットマスク#ネットワークアドレス|ネットワークアドレス]]長は8ビット、[[サブネットマスク#ホストアドレス|ホストアドレス]]長は24ビット。{{IETF RFC|791}}<nowiki/>で規定。(0-で始まる)
|-
|クラスB||128.0.0.0 - 191.255.255.255||ネットワークアドレス長は16ビット、ホストアドレス長も16ビット。{{IETF RFC|791}}<nowiki/>で規定。(10-で始まる)
|-
|クラスC||192.0.0.0 - 223.255.255.255||ネットワークアドレス長は24ビット、ホストアドレス長は8ビット。{{IETF RFC|791}}<nowiki/>で規定。(110-で始まる)
|-
|クラスD||224.0.0.0 - 239.255.255.255||[[IPマルチキャスト]]専用。{{IETF RFC|1112}}<nowiki/>で規定。(1110-で始まる)
|-
|クラスE||240.0.0.0 - 255.255.255.255||将来の使用のために予約されている。{{IETF RFC|1112}}<nowiki/>で規定。(1111-で始まる)
|}
クラスAからクラスCまでは、ネットワーク部とホスト部の境界が8ビット単位で区分けされている。クラスAはネットワーク部が短く(8ビット)、ホスト部が長い(24ビット)。すなわち、多くの機器を保有する大組織や多くの顧客を有する大規模な[[インターネットサービスプロバイダ]](ISP)に割り当てるのに適している。クラスCはその逆である。これは、日本の[[電話番号]]において[[東京]]などの人口が多い地域には03のような短い[[市外局番]]が割り当てられ、人口の少ない地域には長い市外局番が割り当てられているのと同じである。クラスAが約1,677万台、クラスBが65,534台、クラスCが254台のホストを接続できる。
しかし、アドレスクラスを用いたIPアドレス割り当てには問題が生じた。ほとんどのネットワーク(たとえばインターネットサービスプロバイダ)ではクラスAでは大きすぎ、クラスCでは小さすぎたため割り当ての要求がクラスBに集中したのである。クラスBの割り当てを受けたネットワークの中には65,534台のホスト(インターネットサービスプロバイダであれば接続ユーザー数)を同時にすべて接続することがまれであるネットワークも存在し、IPアドレスが無駄に消費されることになった。そこで現在ではアドレスクラスを使わず、ネットワーク部とホスト部の境界を8ビット単位に固定せずに細分化する可変長[[サブネットマスク]]やCIDR([[Classless Inter-Domain Routing]])の使用が一般化している。
IPアドレスの割り当て範囲を示すために、IPアドレスの末尾に「/」([[スラッシュ (記号)|スラッシュ]])とともにネットワークアドレス長を付記して表すことも多い。IPv4の場合、MSB側からのビット数でネットワークアドレス長を表す。例えば192.168.0.0/24の表記の場合、ネットワーク部はMSBから24ビットで残り8ビットがホスト部となる。アドレスクラスでなく可変長サブネットマスクを使用した場合、ネットワークアドレス長の数字は必ずしも8の倍数にはならないことになる。<!--IPv6の場合希望-->
=== CIDR表 ===
「CIDR」は、「サイダー」と読む。
{{lang|en|[[Classless Inter-Domain Routing]]}}を用いることで、複数のIPアドレスを範囲指定して一つのアドレスブロックとして扱うことができる。例えば、192.168.1.0 - 192.168.1.255という範囲のIPアドレスは、192.168.1.0/24として表すことができる。CIDRを使うことでアドレスブロックの集約や分割が容易に行えることから、IPパケットの[[ルーティング]]で主に活用されている。例えば、203.0.113.0/26、203.0.113.64/26、203.0.113.128/26、203.0.113.192/26の4つのアドレスブロックは、203.0.113.0/24<ref group="注">このアドレスブロックは、{{IETF RFC|5737}}<nowiki/>で例示用アドレスとして予約されている。</ref>として集約することができる。
例えば69.208.0.0を含むIPアドレス群の場合、CIDRと開始アドレスおよび終了アドレスの関係は以下のようになる。
{| class="wikitable"
!CIDR!!開始アドレス!!終了アドレス!!含まれるアドレス数!!二進法表記したプレフィックス部分のアドレス
|-
|69.208.0.0'''/0'''||0.0.0.0||255.255.255.255||style="text-align:right"|4,294,967,296||********.********.********.********
|-
|69.208.0.0'''/1'''||0.0.0.0||127.255.255.255||style="text-align:right"|2,147,483,648||0*******.********.********.********
|-
|69.208.0.0'''/4'''||64.0.0.0||79.255.255.255||style="text-align:right"|268,435,456||0100****.********.********.********
|-
|69.208.0.0'''/8'''||69.0.0.0||69.255.255.255||style="text-align:right"|16,777,216||01000101.********.********.********
|-
|69.208.0.0'''/11'''||69.192.0.0||69.223.255.255||style="text-align:right"|2,097,152||01000101.110*****.********.********
|-
|69.208.0.0'''/12'''||69.208.0.0||69.223.255.255||style="text-align:right"|1,048,576||01000101.1101****.********.********
|-
|69.208.0.0'''/13'''||69.208.0.0||69.215.255.255||style="text-align:right"|524,288||01000101.11010***.********.********
|-
|69.208.0.0'''/14'''||69.208.0.0||69.211.255.255||style="text-align:right"|262,144||01000101.110100**.********.********
|-
|69.208.0.0'''/15'''||69.208.0.0||69.209.255.255||style="text-align:right"|131,072||01000101.1101000*.********.********
|-
|69.208.0.0'''/16'''||69.208.0.0||69.208.255.255||style="text-align:right"|65,536||01000101.11010000.********.********
|-
|69.208.0.0'''/17'''||69.208.0.0||69.208.127.255||style="text-align:right"|32,768||01000101.11010000.0*******.********
|-
|69.208.0.0'''/18'''||69.208.0.0||69.208.63.255||style="text-align:right"|16,384||01000101.11010000.00******.********
|-
|69.208.0.0'''/19'''||69.208.0.0||69.208.31.255||style="text-align:right"|8,192||01000101.11010000.000*****.********
|-
|69.208.0.0'''/20'''||69.208.0.0||69.208.15.255||style="text-align:right"|4,096||01000101.11010000.0000****.********
|-
|69.208.0.0'''/21'''||69.208.0.0||69.208.7.255||style="text-align:right"|2,048||01000101.11010000.00000***.********
|-
|69.208.0.0'''/22'''||69.208.0.0||69.208.3.255||style="text-align:right"|1,024||01000101.11010000.000000**.********
|-
|69.208.0.0'''/23'''||69.208.0.0||69.208.1.255||style="text-align:right"|512||01000101.11010000.0000000*.********
|-
|69.208.0.0'''/24'''||69.208.0.0||69.208.0.255||style="text-align:right"|256||01000101.11010000.00000000.********
|-
|69.208.0.0'''/25'''||69.208.0.0||69.208.0.127||style="text-align:right"|128||01000101.11010000.00000000.0*******
|-
|69.208.0.0'''/26'''||69.208.0.0||69.208.0.63||style="text-align:right"|64||01000101.11010000.00000000.00******
|-
|69.208.0.0'''/27'''||69.208.0.0||69.208.0.31||style="text-align:right"|32||01000101.11010000.00000000.000*****
|-
|69.208.0.0'''/28'''||69.208.0.0||69.208.0.15||style="text-align:right"|16||01000101.11010000.00000000.0000****
|-
|69.208.0.0'''/29'''||69.208.0.0||69.208.0.7||style="text-align:right"|8||01000101.11010000.00000000.00000***
|-
|69.208.0.0'''/30'''||69.208.0.0||69.208.0.3||style="text-align:right"|4||01000101.11010000.00000000.000000**
|-
|69.208.0.0'''/31'''||69.208.0.0||69.208.0.1||style="text-align:right"|2||01000101.11010000.00000000.0000000*
|-
|69.208.0.0'''/32'''||69.208.0.0||69.208.0.0||style="text-align:right"|1||01000101.11010000.00000000.00000000
|}
* 表の見方の例
** 69.208.0.0/16は、69.208.0.0から69.208.255.255までの65,536個のアドレスを含む。
** 69.208.0.0/24は、69.208.0.0から69.208.0.255までの256個のアドレスを含む。
== スコープ ==
通信可能な範囲のことをスコープという。IPアドレスは、それぞれにスコープが決められている。(→[[IPv4#予約アドレス一覧|一覧]])
=== グローバルIPアドレス ===
後述するプライベートIPアドレス、リンクローカルアドレス、特殊用途のIPアドレスなどを除いたIPアドレスは「グローバルIPアドレス」と呼び、インターネットの接続用に利用され、重複が発生しないように管理される。そのため、[[ICANN]]を頂点とした階層的な委譲関係によって、世界的な管理が行われている。
通常、パソコンや[[ルーター]]などをインターネットに接続すると、[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]に割り振られているグローバルIPアドレスの中の1つがパソコンなどに割り当てられる。
=== プライベートIPアドレス ===
プライベートIPアドレス(ローカルIPアドレス)は、[[プライベートネットワーク]](外部から利用できない社内[[Local Area Network|LAN]]など)のアドレスとして使うことができる。異なるプライベートネットワークを相互接続して[[ルーティング]]することも可能である。
プライベートIPアドレスとして、次のアドレス空間が予約されている。ネットワークの規模に応じて、使い分ける必要がある。
{| class="wikitable"
|-
!クラス!!範囲!!サブネットマスク!!アドレス数
|-
|クラスA||10.0.0.0 - 10.255.255.255||255.0.0.0||16,777,216(16,777,216 × 1 サブネット)
|-
|クラスB × 16||172.16.0.0 - 172.31.255.255||255.240.0.0||1,048,576(65,536 × 16 サブネット)
|-
|クラスC × 256||192.168.0.0 - 192.168.255.255||255.255.0.0||65,536(256 × 256 サブネット)
|}
=== リンクローカルアドレス ===
{{main|リンクローカルアドレス}}
[[Microsoft Windows|Windows]]などではIPアドレスが設定されておらず、[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]サーバも見付からない場合には自動的に169.254で始まるクラスBのIPアドレスが振られる([[APIPA]]という機能)。これはリンクローカルアドレスと呼ばれ単一のLAN内での通信に使うことができるが、[[ルーティング]]ができないなどプライベートアドレスとは異なるものである。
=== プライベートIPアドレスとインターネット ===
プライベートIPアドレスとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。その方法として、NAPT(実装としては[[ネットワークアドレス変換|IPマスカレード]]やipfwなど)や[[プロキシ|プロキシサーバ]]がある。
[[インターネットサービスプロバイダ|インターネット接続サービス]]によってはインターネットに接続する機器にグローバルIPアドレスではなく、このプライベートIPアドレスを割り当てることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000042587.pdf |title=IPv4アドレス在庫枯渇対応に関する広報戦略ワーキンググループ(第4回)配布資料 資料WG広4-2 ケーブルテレビ業界のIPv4アドレス枯渇対応とIPv6化 |accessdate=2017-11-26 |author=日本ケーブルラボ事務局山下良蔵 |date=2009-10-21 |format=PDF |work= |publisher=総務省 |page=15}}</ref>。
プライベートIPアドレスとこれに関する仕組みによって、グローバルIPアドレスを多量に消費することなくインターネットに接続できる機器を増やすことができる。
=== ISP Shared Address ===
2012年4月に<nowiki></nowiki>{{IETF RFC|6598}}<nowiki></nowiki>として発行したインターネットサービスプロバイダ(ISP)が契約者に貸し出すIPアドレスで、範囲は100.64.0.0/10。
ISP Shared Addressは、個々のISPのネットワーク内でのみ使用可能なIPアドレスで、[[キャリアグレードNAT]](CGN)によりISP Shared AddressとグローバルIPアドレスを相互変換することにより、インターネットに接続することができる。
[[IPアドレス枯渇問題]]により、契約者が増加しても、ISPが契約者に貸し出すグローバルIPアドレスを新規に獲得できなくなった。
しかし、ISPが契約者にプライベートIPアドレスを割り当てると、該当するIPアドレスを契約者のローカルネットワーク内で使用できなくなる。例えば、NTTが提供する[[フレッツ]]の地域IP網においてプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)を使用しているため、[[フレッツ]]の利用者がプライベートIPアドレス(10.0.0.0/8)をローカルネットワーク内で使用できない。
そこで、ISP Shared Addressの導入により、ISPはISP Shared Addressを使用し、ISPの契約者は、任意のプライベートIPアドレスが使用できるようになる。
なお、/10というアドレス範囲は、東京地域を網羅するISPがISP Shared Addressを導入するには、/10程度のアドレス範囲が必要であるという、日本からの提案がベースになっている。
== 特殊用途のIPアドレス ==
一部のアドレスおよびブロックは、特殊な用途に使われる。それぞれのスコープに応じて、通常、機器に割り振るべきではない。詳細は[[IPv4#特別用途のアドレス]]を参照のこと。
== IPアドレスの付与 ==
グローバルIPアドレスは、まずインターネットレジストリ([[Asia-Pacific Network Information Centre|APNIC]]や[[日本ネットワークインフォメーションセンター|JPNIC]]など)から[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]にまとまった単位で付与される。これを'''割り振り'''(allocation)という。ISPは末端の利用者(個人、法人など)に対して、利用契約に基づいてIPアドレスを払い出す。これを'''割り当て'''(assignment)という。かつて一部の[[大学]]やIT企業が非営利でインターネットを支えていた時代には、レジストリからこれらの組織に直接割り当てられる例が多かったが、今日では商用ISPが発達したため、新規の割り当てではそのような例は少ない。インターネットレジストリにも[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA(Internet Assigned Numbers Authority)]] →RIR(Regional Internet Registry)→NIR(National Internet Registry)→LIR(Local Internet Registry)といった階層構造が存在する<ref>「[https://www.nic.ad.jp/ja/basics/terms/allocation-assignment.html インターネット用語1分解説 - 割り振り (Allocation)、割り当て (Assignment) とは]」『JPNIC News & Views』8巻(2002年1月15日)、日本ネットワークインフォメーションセンター。</ref>。
個人契約者の場合、グローバルIPアドレス1個を動的に割り当てる(接続ごとにIPアドレスが変わることがある)ものがほとんどである。ただしISPや契約プランによってはプライベートIPアドレスやISP Shared Addressを割り当てるもの([[ケーブルテレビ|CATV]]接続に多い)、グローバルIPアドレス1個を固定で割り当てるもの、複数のグローバルIPアドレスを固定で割り当てるものもある。割り当ての[[通信プロトコル]]は[[ダイヤルアップ接続]]では[[Point-to-Point Protocol|PPP]]、[[ADSL]]・[[FTTH]]などでは[[PPPoE]]、CATVや[[公衆無線LAN]](ホットスポット)では[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]によることが一般的である。
法人契約の場合は[[DNSサーバ|DNS]]や[[メールサーバ|メール]]などの各種[[サーバ]]を運用するケースが多いこと、[[Virtual Private Network|VPN(仮想専用網)]]などによる取引先などとのデータのやりとりにおいて、IPアドレスによる認証やアクセス制限があることなどの理由により、複数(多いのは4個から16個程度)のグローバルIPアドレスを固定で割り当てる契約が一般的である。
なお、家庭内や組織内でのプライベートIPアドレスの割り当てはDHCP(専用サーバの他、一般向けのいわゆるブロードバンドルーターに実装されている)によることが一般的である。ただし、サーバやルーターのLAN側など固定IPアドレスを必要とするものや、割り当てを厳密に管理したい場合には固定IPアドレスの割り当てが行われる。
== IPアドレス枯渇問題 ==
{{main|IPアドレス枯渇問題}}
2019年3月現在、特殊な用途のものを除く、すべての[[IPv4]]のグローバルアドレスを誰かに割り当てた状態になりつつある。すなわちIPv4のグローバルアドレスに空きがなく、インターネット上に公開するIP機器の増設が不可能になるという問題が発生している。不動産に例えると、これまでは新規分譲で土地が提供されて建物を建築できていたが、分譲する土地がなくなったために、既存の建物が建っている土地を地上げして再開発しない限り新たな建物を建てられなくなった状態である。
2017年2月15日 LACNICのIPv4アドレス在庫が/11ブロック以下となり、[[AFRINIC]]を除く4つのRIRでIPv4アドレス在庫枯渇の最終段階になった<ref>{{cite web|url=http://www.lacnic.net/web/anuncios/2017-fase-final-de-agotamiento-de-ipv4|title=LACNIC Announces the Start of the Final Phase of IPv4 Exhaustion|date=2017-02-15|accessdate=2017-11-19|publisher=LACNIC}}</ref>。
この枯渇問題の対策として、[[IPv6]]の普及が進められている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[IPv6アドレス]]
* [[IPアドレス枯渇問題]]
* [[IPv4]]
* [[IPv6]]
* [[:en:List of assigned /8 IP address blocks|グローバルIPアドレス(クラスA)]]
* [[プライベートネットワーク|プライベートIP]]
* [[Domain Name System]](DNS)
* [[ホスト名]]([[ドメイン名]])
* [[Dynamic Host Configuration Protocol]](DHCP)
* [[MACアドレス]]
* [[ポート番号]]
* [[Mobile IP]]
* [[サブアロケーション]]
* [[アサインメントウィンドウ]]
* [[ネットワークアドレス変換|NAT]]
* [[NAPT|IPマスカレード(NAPT:ネットワークアドレス変換)]]
* {{仮リンク|ジオロケーション|en|Internet geolocation}}(geolocation)/[[ジオロケーティング]](geolocating)/[[GeoIP]]
== 外部リンク ==
* [https://www.iana.org/assignments/ipv4-address-space/ipv4-address-space.xhtml IANA IPv4 Address Space Registry]
* [https://www.nic.ad.jp/timeline/20th/ 日本におけるインターネット資源管理の歴史 | JPNIC]
* {{Kotobank|IPアドレス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:IPあとれす}}
[[Category:IPアドレス|*]]
[[Category:Internet Protocol|あとれす]] | 2003-02-14T05:58:09Z | 2023-11-23T12:36:15Z | false | false | false | [
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Normdaten",
"Template:IETF RFC",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Kotobank",
"Template:複数の問題",
"Template:See also",
"Template:Lang",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:仮リンク",
"Template:Otheruses2"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/IP%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9 |
1,508 | 戦争 | 戦争(せんそう、英: war)とは、兵力による国家間の闘争である。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは国際紛争の平和的解決である。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、違法性が認定されてきた。
21世紀に入り、地球規模で敷設されたITインフラを通して膨大な情報が世界中で流通するようになると、物理的な攻撃を伴わない国家間の争いが増加した。そのような争いの比喩として、情報戦・経済戦争・貿易戦争・サイバー戦争・受験戦争などという言葉も用いられるようになった。
戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為(行為説)、または用いた結果生じる国家間の対立状態である(状態説)。一般に、国家もしくはそれに準ずる集団が、自衛や利益の確保を目的に武力を行使し、戦闘を起こす事。戦争は太古から続く人類の営みの側面であり、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段であると言える。
政治だけでなく、経済、地理、文化、技術など広範にわたる人間の活動が密接に関わっており、その歴史的な影響は非常に大きい。近代以降の戦争は陸海空軍等の軍隊のみの武力戦だけでなく、一般国民を広く巻き込む総力戦の様相を呈することもあり、外交戦、宣伝戦、謀略戦、経済戦、貿易戦、補給戦、技術戦、精神戦などの闘争を本質的に包括しており、相互に関係している。そして結果的には、その規模にもよるが、国際関係や社会や経済など幅広い分野に破壊的な影響を与え、軍人や民間人の人的被害からインフラの破壊、経済活動の阻害など社会のあらゆる部分に物的被害を与えることとなる。一方で、科学、技術、外交、戦略論、組織論、戦術論、兵器・武器の発展をもたらしてきた側面もある。また、軍需景気により生産設備に被害を受けなかった戦勝国や第三国の経済が潤う場合もある(例:第一次世界大戦と第二次世界大戦後の米国や第一次世界大戦後と朝鮮戦争後の日本)。また、戦争の敗北により近代オリンピックやFIFAワールドカップ等のスポーツ国際大会への参加を禁じられるケースもある。
今では、大規模戦争の多くが総力戦や核戦争となり、勝敗に関わらず国家や国民をいたずらに消耗させる事から起こりにくくなっている。帝国主義のような戦争による国家の成長は過去のものとなり、人道主義の観点からも忌避される傾向となっている。1928年のパリ不戦条約締結以降、国際法的に自衛戦争以外の侵略戦争は禁止されている。2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、世界的には対テロ戦争が主流となった。
その発展や勝敗には原則的、法則的な事象が関連していると考えられており、軍事学において戦理や戦略・戦術理論の研究、戦闘教義の開発、兵器開発、定量的な作戦研究、戦史研究などが行われている。国連憲章2条4項は戦争だけでなく武力の行使を一般的に禁止した(武力不行使原則)。
戦争という概念は国際法上の概念と軍事上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない。
軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば国家であるが、法的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。米軍では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、平和維持活動や対テロリズム作戦などを展開する「紛争」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している。また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。
国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。
ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。
歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、文化人類学の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い。考古学では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている。
猿人や原人の食人説が、オーストラリアの考古学者レイモンド・ダートによって1960年代まで繰り返し主張された。また、1930年代に北京原人食人説がドイツの人類学者フランツ・ワイデンライヒによって疑われた。しかし、世間では北京原人食人説はいよいよ有名になってしまった。これらのことから、猿人・原人の食べ合いが人類の歴史とともにあったと解釈し、広めたのがアメリカの作家ロバート・アードリーであった。さらに動物行動学を興してノーベル賞を受けたオーストリアのコンラート・ローレンツは『攻撃』という、人類の攻撃的本能を説いた。この本能説がさらに広がった。という説を立てている。
ただし、猿人の殺人・食人の疑いを考古学者ボブ・ブレインが示している。また、北京原人の食人説については、その後の研究で世界の人類学者が疑いを示している。
判明している情報では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年である。
文字記録が残っていない先史時代の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいるアフリカやオセアニアの地域から、その形態を推察することができる。狩猟採集社会の観察からは、原初のヒトが置かれた環境においても資源の獲得や縄張り争いによって集団対集団の戦争が行われることを示唆している。
イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である。
縄文時代の暴力による死亡率は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。
12,000 - 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに116個もの石器(細石器)が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている。
古代では、農業の発達により人口が増加し経済的な富が蓄えられたことで、国家体制が整えられていき通信が整備された。この為、戦争の規模や軍事組織も拡大した。それぞれの文明は自己の安全を保障し、また自己の勢力を拡大するために闘争し、集団的利益のために征服戦争すら行われた。
また土器・石器から青銅器・鉄器を利用した兵器や武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアやローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。
古代、西ローマ帝国がゲルマンの同盟部族に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、フランク王国(欧州北西部)、西ゴート王国(イベリア半島)、ブルグント王国(欧州東部)などが成立していった。中世前期に成立した神聖ローマ帝国は8世紀から15世紀に至るまでイスラムの王朝とレコンキスタの戦いを行った。
中世盛期には、フランクとモンゴルの同盟を後ろ盾として、カトリック教会そのものが呼びかけて数次にわたる十字軍戦争も行われたが成果は乏しかった。また、西フランク王国はフランドルのブルッヘにハンザ同盟の在外商館や取引所を置き国際貿易を拡大させていたが、14世紀になるとフランス王国とイングランド王国とのあいだで百年戦争が争われた。この戦費の調達においてフランスはジェノヴァ共和国、イングランドはヴェネツィア共和国に戦債(英語版)を引き受けさせている。
中世ヨーロッパにおいては儀式的な要素も根強く残っており、カトリック教会による世俗権力への政治的な統制は戦争の発生を抑制していた。ただし中世にも多くの軍人らが存在し、また技術的には甲冑を装備した騎兵が有力であったが、たとえばイギリスのプランタジネット朝とフランスのバロア朝による百年戦争は王位をめぐって長期間にわたってフランスにおいて行われたものの、フランス社会全体に作戦期間相応の壊滅的な被害をもたらすことはなく、断続的かつ散発的な戦闘が休戦を挟みながら行われていた。これは長期間にわたって大規模な戦力を維持することが当時の軍隊には能力的に困難であったことや、キリスト教世界としての政治的な団結を保持していたこと、また軍事技術の制約から作戦行動の長期化や大規模化が難しかったことなどが理由として挙げられる。戦争の恐怖はむしろ作戦部隊の兵站(物資の補給)業務が不在であり、また規律が不十分な兵士たちが自らの糧食を確保するために勝手に現地で略奪を行うため、現地住民はそのたびに被害を受けていた。
中世後期、イベリア半島のスペインは遠洋航海を可能とするキャラック船を発明し、15世紀初頭からポルトガルとともに大航海時代を齎し、アフリカ、インド、東南アジア、南アメリカに進出するが、こうした貿易船は海賊対策のため軍船としても発達し、スペイン帝国、ポルトガル海上帝国が形成される。1440年代には商人は日本にも到達し鉄砲を伝える。
1453年、オスマン帝国が東ローマ帝国(ギリシャ)を滅亡させ地中海の制海権を獲得し、地中海の交易に高い関税がかかるようになる。1496年にイタリアを巡って起きたイタリア戦争は欧州のほとんどの国を巻き込み、のちの1557年にスペインとフランスが破産を宣言するに至って終結した。この戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩があった。
一方、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は1477年にヴァロワ・ブルゴーニュ家のネーデルラントを承継し、1516年にはスペイン王も兼ねるようになり、1528年にユトレヒトのカトリック司教領を没収し、1531年にはオスマンとの争いやイタリア戦争の戦費調達等のためブラバント公国にアントワープ証券取引所を設立し、ガレオン船の造船などにより経済や貿易を発達させた。欧州の各国も、これに倣って証券取引所を設立した。
1534年にイギリス国教会がカトリック教会から離脱しプロテスタントの思想が広まり始め、この流れから宗教改革が進行してゆき、フランスはユグノー戦争に入り、神聖ローマ帝国ではネーデルラント17州フランドルのオランダ人蜂起により八十年戦争が勃発し、またさらに英西戦争が始まる。スペイン・ハプスブルグ家は1580年にポルトガルを承継するが、プロテスタント勢力が支配的になったネーデルラント北部はハプスブルクから独立した形になり、1602年にアムステルダム証券取引所とオランダ東インド会社を設立して植民地を拡大し、オランダ海上帝国を形成していく。また同時にオランダ・ポルトガル戦争(英語版)も始まる。
欧州の八十年戦争は、1648年のヴェストファーレン条約により北部のネーデルラント連邦共和国が正式に独立したことにより終結したが、1651年からは4次に渡る英蘭戦争が生じ1784年まで続いた。神聖同盟はオスマントルコと大トルコ戦争も争い、その後はハプスブルク帝国内における継承戦争もあった。こうした中で戦列艦が発達した。
これらの戦争と並行して、フランスやイングランドがアジアやアメリカ大陸に植民を行ったが、北アメリカでは16世紀から18世紀にかけて、植民地の造営を巡りインディアン戦争やフレンチ・インディアン戦争、アメリカ独立戦争が生じた。
帝国主義に基づく植民地支配は富の集積を実現し、英国は産業革命を実現できた。それによって工業の発達が軍艦や銃器の性能を引き上げた。軍事技術の発達は戦争の形態を大きく変化させる。グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)は軍事改革の中で常備軍の制度を確立し、その後の戦争のあり方を基礎付けた。また計画的な兵站や規律を保つための軍事教育などもこのころに整備され、各国で同様の制度が採用されるようになる。特に歩兵の重要性が小銃の開発により高まったことは、完璧な陣形や規律正しさを軍隊の各兵員に求めることになる。また火砲の登場により砲兵という兵科が確立されたのもこの時代であり、戦略や戦術、軍事土木工学などの分野も大きな前進を見る。近代化が、さらなる戦争の拡大につながると考える人が、非常に多数派である。
アメリカ大陸では19世紀前半には米英戦争、19世紀後半には米墨戦争、南北戦争、米西戦争、米比戦争があった。
フランスで起こったフランス革命が国民国家の体制をもたらして中央集権に基づく徴兵制によって、軍隊の大規模化を可能とした。そしてナポレオン・ボナパルトはこれまでの戦略・作戦・戦術の抜本的な合理化を行う改革に取り組み、国家総力戦の体制の原型を整えた。さらに銃器・火砲などの兵器の発展が被害者数を甚大なものとし、ナポレオンはこのような高度な軍事力を運用して殲滅戦を行い、ナポレオン戦争においてはヨーロッパ大陸のほとんどを支配するに至った。このナポレオンの戦争指導はアメリカ南北戦争やその後の軍事研究に大きな影響を残す。
第一次世界大戦や第二次世界大戦では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消費が長期間にわたるという新しい戦争の形態である国家総力戦が発生した。その戦争形態を維持する必要性から「国家総力戦体制」と呼ばれる戦時体制が出現することになる。
第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約200万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず、戦争の長期化と大規模化が決定付けられた。結果的にはこのような大戦争によりもたらされる経済的または心理的な損害により、各国は深刻な社会的混乱や政治的な打撃を被った。このような戦争を繰り返さないためにも国際連盟を通じた戦争の抑制が企図されたがアメリカは参加せず、またドイツは莫大な賠償金により経済的な打撃を受ける。第二次世界大戦においては再び大規模な戦争が繰り返され、この大戦ではせん滅的な長期戦に展開して一次世界大戦の二倍の戦死者が出た。また航空機の発達によって航空作戦が実施されるようになり、航空機による戦略爆撃は戦闘員だけでなく民間人にも多数の被害者が出ることとなり、政治的または経済的な混乱が長期間にわたって続いた。
世界大戦の反省から国際連合などの国際機関が発展して戦争の抑制が図られるものの、アメリカとソビエトの台頭、さらに大量破壊兵器の登場によって核兵器やミサイルによる核戦争の可能性を生み出した。また現代的な軍事技術の開発が躍進的に進んだことから現代の戦争の勝敗は科学技術の開発に大きく左右されるようになっている。しかし同時に従来の正規軍による軍事作戦とは異なる革命または反乱という“非対称の戦争”が行われるようになり不正規戦争と呼ばれるようになる。核戦争へと発展しないように限定的かつ段階的な軍事力が行使される戦争として限定戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連によるアフガン侵攻など)が行われるに至っている。
冷戦後はイデオロギーの対立というよりも民族・宗教の対立による内戦が世界各地で勃発するようになり、形態はかつての伝統的な戦争よりも複雑多様化している(ボスニア紛争など)。特にイスラム原理主義や民族主義によるテロが先進国を悩ませ、それに対する報復戦争や内戦が起きる事態となっている(アメリカによるアフガン侵攻、イラク戦争、チェチェン紛争など)。
2つの世界大戦以後から冷戦期にかけて、領土の占有を最終目的とする形態の戦争は減少し、特に冷戦後は、政治体制や宗教体制を自陣の望むものとするための戦争や紛争が主体となっている。
2020年から2021年にかけて、インドと中華人民共和国の両国兵士がヒマラヤの国境付近で戦闘状態に陥ったが、核兵器を持ち合う両国は戦闘を戦争レベルに発展させないために、あえて火器を使用せずにクギを打った棒や素手で攻撃をするものとなった。数十人単位の死者が出るという穏やかなものではなかったが、新たな戦争の形態や抑止の在り方を示唆するものとなった。
2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が行われ、ロシアの領土拡大を目的とした本格的な侵略戦争が勃発した。20世紀に起きた2度の世界大戦の反省を踏まえて、国際協調が進められていた21世紀においては珍しい形態の戦争であり、国際社会の秩序を大きく揺るがす事態となった。SNS時代の到来により、SNSでもリアルタイムに戦況が報じられるようになった。
戦争の類型に関しては、時代や戦術・戦略の変化に伴って多様化しており、また観察する視点によってもさまざまな見方ができるため、断定的に行うことは難しい。
※「自衛戦争」「予防戦争」「制裁戦争」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。
フランスの歴史学者ジョルジュ・カステラン(フランス語版)によると、戦争は歴史的な観点から以下のように分類される。
人類黎明期の戦争
戦争にどのように勝利するのかではなく、戦争とは何なのかという問題を考察するためには戦争の内部の構造がどのようになっており、どのような原理が認められるのかを明らかにすることが必要である。古代の戦争学的な論考に、哲学者プラトンの『国家』があり、その中で哲学者ソクラテスはさまざまな領域の職人、専門家によって構成された自足的な国家を想定しているが、国家が成立したとしても人間の欲求は際限なく拡大し続けるために、自足する以上の資源を求めて他の共同体に対して戦争が発生すると論じている。これは戦争の根本を国家に求める見方であり、実際に軍事史においても国家は戦争の主要な行為主体であった。しかし、これは戦争の限定された本質を明らかにしているに過ぎない。戦争がランダムに起こったわけではないことは留意すべきだから、親社会的な行動などが戦争を防ぐのに役立つかどうかは、やはり興味があるところである。
そもそも戦争が成り立つ以前に、人間がなぜ対立するのかという問題がある。社会学者ヴェーバーの『社会学の根本概念』によれば、ある主体が相手の抵抗を排除してでも自分自身の意志を達成しようとする意図に方向付けられた社会的関係が闘争であると定義する。またこの闘争は物理的暴力に基づいた闘争や闘争手段を非暴力的なものに限定した平和的な闘争に分類できる。このような闘争が社会の中で発生する根本的な理由について政治思想家ホッブズは『リヴァイアサン』において国家や政治団体が存在しない自然状態を想定している。つまり各個人がそれぞれ等しく自己保存の法則に従って生活資源を獲得するため、また敵の攻撃を予防するために、結果として万人の万人に対する闘争が生じることになる。闘争において常に暴力が使用されるとは限らない。暴力によって相手を抹消しなくとも、交渉や協力によって争点を解決することは原理的に不可能ではない。しかし経済学者マルサスが『人口論』で述べているように、人口は生活手段の分量を超えて常に増大されるため、その過剰人口の出現は疫病、飢餓、戦争などの積極的制限によって調整されるために闘争は流血の事態にまで発展することになる。なぜなら生存が脅かされる事態は人間にとって常に極限状況であり、社会全体にとっても闘争を暴力化させる重大な動機でありうるものである。
暴力とは万人が持つ個人の身体的、精神的な諸力の中でも他者に対して強制的に働きかける力に限定することができる。これは政治思想家アーレントの定義であり、暴力は他者との相互作用を通じて行使する必要はなく、その機能は相手を殺害することである。しかし戦争における暴力を論考した研究では、暴力を通じてある種の相互作用が発生することが論考されている。この領域における古典的な著作に軍事学者クラウゼヴィッツの『戦争論』がある。戦争を特徴付ける最も重要な要素として着目されるべきは暴力である。クラウゼヴィッツによれば暴力は三種類の相互作用をもたらすものであり、それは相互に敵対的感情と敵対的意図を拡大させる第1の相互作用、相手を撃滅しようとする第2の相互作用、そして戦闘手段を敵と拮抗させようとする第3の相互作用である。これら相互作用を前提として考えれば、戦争における暴力は無制限に拡大する理論的な必然性がある。つまり集団間の戦争を想定すれば、それは暴力の性質に従って相互に暴力手段を拡大し続けながら相手を攻撃し続け、またそのための敵意を増大させ続けることになる。クラウゼヴィッツはこのような戦争の理念型を絶対戦争と呼んだ。しかし同時にこのような形態の戦争は現実の戦争で出現しているわけではない。その理由として絶対戦争と並んで提起されているものが政治目的の着眼点である。つまり戦争の無制限的な暴力化を抑制するものとして政治的制約が作用しており、戦争の性質を規定しているというものである。このことを端的に表現するクラウゼヴィッツの命題が「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長である」というものである。
戦争は単なる暴力的な闘争状況であるだけでなく、本質的に政治が連関しているというクラウゼヴィッツの考察は政治学者シュミットによってより思想的に発展された。シュミットは独自の友敵理論を展開する中で政治的な概念には常に闘争的な意味があり、不可避的に敵と味方に区分されると論じる。このような政治観はマキアヴェッリの政治思想やマルクスの階級闘争などにも認められるものである。シュミットによれば政治に内在する敵と味方の二分法はさらに敵概念の詳細に注意することで深めることができる。シュミットは『パルチザンの理論』において三種類の敵を導入しており、すなわち因習的で形式的な性質を持つ在来的な敵、実際的な性質を伴う現実の敵、犯罪者という性格を持つ絶対的な敵である。在来的な敵は人道的なルールに基づいた国家間の戦争における敵であり、現実の敵とは自らの実存にとって脅威となる敵、そして絶対的な敵とは相手を文明や階級、民族に対する犯罪者として差別化される敵である。戦争において相手がどのような特性を持つ敵なのかによって、政治目的は相手に僅かな制裁を加えるように軍事的手段を制限することも、また相手の存在を根本的に抹消させる軍事的手段を拡大させることも可能にするのである。戦争にとって政治の重要性は普遍的なものであり、戦争の規模、期間、列度、その影響は政治の状況や機能によって左右されると考えられる。
戦争における諸活動は高度に複雑であり、量的には以下のように分類することができる。
兵士単位での戦いである「決闘」が複数集まって、「合戦」が構成され、複数の合戦から交戦が構成されている。ただしこのような個々の兵士の活動、師団の活動、国家の活動などで戦争の全体像を区分することはできない。交戦単位が艦艇や航空機となれば戦闘と決闘の間の区分は消失するものであり、また総力戦に至らない戦争においてはより事態は複雑である。
戦争は人間社会における対立によって生じるものであり、何らかの意志や理由を伴う。しかし戦争の原因についての一般理論は未だ完成されていない。その発生の過程にはさまざまな要因、誘因、環境が有機的に起因するは確かであり、無政府状態、勢力均衡、攻撃・防御バランス、好戦的イデオロギー、ナショナリズム、誤認などの多くの理論が提唱されている。ここではいくつかの戦争の原因として考えられている学術考察または理論について述べる。(戦争哲学をも参照)
国際政治学ではまず国際社会において戦争が生じる理由は、国際政治が無政府状態(アナーキー)であることがまず挙げられる。すなわち国際政治には国内政治のように中央政府のような集権体制が不在であり、紛争の平和的解決が強制できない。従って各国は自助努力を行う必要性に迫られる。第二に情報の不完全性がある。つまり戦争を回避するために必要な情報が必ずしも入手できず、例えば軍事情報についてはしばしば軍事機密によって秘匿されるために合意達成が確認できず、ここに猜疑心が生じる可能性がある。そして三つ目の原因として国内政治と国際政治の相互作用の関係が挙げられる。
軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに長期的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる。
世界的な大国が存在することによってその統一的な影響力を用いて国際秩序を安定化させる「単極平和論」が存在する。このような国際体制においては反抗できる勢力がそもそも存在しないため、戦争が発生する可能性を大きく低減できる。また反抗勢力を圧倒することによって覇権国家も政治的目的を達成するために軍事力を行使する必要がなくなる。ただしこの場合、属国群が長期的な不満を覇権国家に対して形成する危険性がある。平和主義の中で語られる世界連邦政府構想や国連常備軍構想は世界全体の単極平和論を志向したものと言え、現在のパックス・アメリカーナは完全ではないが単極勢力構造に近い形態とされる。日本の江戸時代や中国の統一王朝時代、米国が新大陸においてアメリカ先住民掃討に専念する一方米墨戦争や南北戦争があった孤立主義(モンロー主義)時代などは概ね平和が保たれており、地域における単極平和論を支持する例とされる。
また勢力が均衡する二つの大国が互いに拮抗する場合、戦争が発生しにくいとする「双極平和論」も論じられる。この理論は不確実性による誤認・誤算によって戦争が勃発する点に注目し、双極であれば相互に相手の動向により的確に対応できるようになるため、安定的に勢力が均衡する可能性を論じている。米ソ冷戦時代が双極勢力分布の分かりやすい例であり、現実には双方の軍拡競争やベトナム戦争や朝鮮戦争といった代理戦争は起こったが、恐怖の均衡により米ソの直接の戦争は起こらなかった。
また複数の大国が存在する場合、戦争は発生しにくいとする「多極平和論」もある。複数の国家がより柔軟かつ適切に同盟や勢力圏を形成することが可能となるので、対立関係が硬直化しにくいとし、勢力均衡を維持しやすいと論じている。現実の例としては戦前の米・英・独・仏・ソ連(ロシア)・イタリア・日本が世界における列強として君臨した時代がある。第二次世界大戦前のヨーロッパ、中国の三国志時代や日本の戦国時代などは地域内で複数の勢力が存在していた。
しかし、どの勢力分布も歴史的に見れば戦争の頻度や規模を最小化することについて最適な組み合わせではないと一般的には考えられている(勢力均衡を参照)。なお、国連憲章の目指すところは国連常備軍による単極平和論であり、1極を覇権国家専有武力ではなく国連加盟国共同武力とすることで覇権国の専横を防ぎつつ平和を目指す考え方である。
1970年代になるとそれまでの勢力均衡理論による静態的な国際情勢の理解から転換して、世界秩序の構成要素の国力などは可変的であると考える動態説が現れた。例えばイマニュエル・ウォーラーステインは16世紀以降の資本主義の発達は世界に強国と弱国の格差を生み、巨視的には中核、準周辺、周辺の世界システムを形成した。さらに中核においても、時代的には長期的優勢と中期的優勢の二種類があることが認められ、長期的優勢では生産力の拡大からプロレタリアートの政治運動に次いで福祉国家化及び社会主義的世界経済へと段階的に進んでいき、中期的優勢では資本主義の矛盾が表面化、経済成長の停滞、恐慌などに次いで準周辺国への技術移転並びに相対的な優位の低下という段階を進むとしている。また1987年にはジョージ・モデルスキーによって大規模な戦争は大体100年周期で発生する点に注目した100年周期説が提唱された。これはあらゆる秩序のエントロピー的衰退、国際的な秩序形成の衝動などが理由として挙げられている。
経済と戦争の危機には全く相反する視点がある。 まず第一に国際経済が停滞・後退すれば戦争の危機は高まるという考え方である。経済成長が不況や恐慌などによって悪化すれば、その縮小した利益をめぐる利害関係が国内経済、国際経済において悪化し、それが戦争の危機を高めることになると考えられる。また軍事費の拡大によって市場に資本を投入し、経済成長を促すため、軍拡競争が激化することも考えられるからである。
一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して資源や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な世論や社会的な心理が形成されると考えられる。
ただし、経済と戦争の関係性についてはデータや指標が非対称である場合や研究途上であることもあって、完結に結論できない。
数学のゲーム理論においては囚人のジレンマ状況とチキンゲーム状況の理論が戦争のモデルとされている。
囚人のジレンマによると、例えば核兵器の保有を両方が自制するのが最も平和で安全であるが、疑心暗鬼の心理が働いて両方とも核保有で自国の安全と相手国の支配権を得たいと考える。しかしながら自国だけ自制して相手国が核を保有した場合には自ら不利になることを選ぶことになる。ただし両国とも核保有すると核戦争勃発の危険が最大となる。
チキンゲームによると、例えば両国とも利益の追求を完全に放棄すれば最も平和で安全であり、また互いに申し合わせた妥協を履行すれば二分した利益と安全を確保できる。一方で相手国が譲歩することを衝突の直前まで期待して強硬策を実施して成功すれば半分以上の利益を確保出来るが、失敗すれば戦争が勃発することになる。
ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな軍事的、政治的要因だけでなく、法的、経済的、社会的、集団心理的、文化的な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる。
歴史から学び、国内的な事情と国外的な環境を関係させ、個人の感情や意思を内包した歴史的必然性に戦争の原因というものは求められるべきものである。バターフィールドの『ウィッグ史観批判』で「歴史の教訓とは、人間の変化はかくも複雑であり、人間の行為や決断の最終的結果は決して予言できるような性質のものではないということである。歴史の教訓は、ただ細部の研究においてのみ学ぶことができ、歴史の簡略化の中では見失われてしまう。歴史の簡略化が、歴史的真理と正反対の宣伝のため企てられることが多いのもそのためである」と論じられているとおり、本質的に戦争、特に近代における複合的な国際政治の展開によって発生する戦争は単一の誘因によって引き起こされたとする考えはきわめて側面的な考えである。
軍事学において戦争はその作戦戦略の差異を主体別に見て侵略と防衛の二つの作用が衝突して発生するものであると考えられる。 まず侵略には法的な定義も存在するが、軍事的な定義としては外敵または内敵によって軍事力が先制行使され、侵入(invasion)、攻撃(attack)などの攻勢の作戦行動が実行されることである。一方で防衛は狭義には侵略に反応してこれを排除するために軍事力が使用され、防御や後退などの防勢の作戦行動が実行されることであり、広義には抑止活動をも含む。
侵略はその手段から直接侵略と間接侵略に分類される。直接侵略は外国が軍事力の行使を行う伝統的な侵略方式であり、間接侵略は防衛側の国家内の反政府勢力などを教唆、指導したうえで反乱、革命などによって軍事力を間接的に行使する侵略方式である。実際の侵略はこの二種類の手段を同時に使用する場合や、時間差で使用する場合などがある。 また敵が内敵であれば、これもまた区別して考えられる。内敵とは国内の勢力が主体とり、政府転覆や国体の破壊などを目的を持ち、武力を行使する敵である。内敵の侵略は外国に一時的に外国に逃れ、外部から侵略する外部侵略と、内部でゲリラ戦や反乱、クーデターなどを行う内部侵略の方式がある。内敵と外敵は軍事目的が同じであるので、結託しやすい。
防衛は安全保障形態から集団安全保障と個別的安全保障に大別される。集団的安全保障は集団内の国家が侵略を行った場合にその他の国々が侵略国に制裁を行うことによって防衛国を援助することで安全を保障することである。個別的安全保障は防衛国が独力で、または同盟国の援助によって安全を保障することである。 個別的安全保障はさらに単独防衛(自主防衛)、同盟、集団防衛、中立の形態がある。集団防衛は防衛的な性格のみを持つために集団安全保障の側面も持つ。同盟にはその作戦目標から侵略的な場合と防衛的な場合がある。自主防衛は防衛線の位置によって前方防衛、国境防衛、国土防衛に区分される。前方防衛は国境よりも遠隔地において侵略してくる敵を排除する防衛方式であり、公海上で行われることが多い。国境防衛は国境において軍事力を準備し、侵略する敵を待ち受けてこれを排除する防衛方式であり、国境線を要塞化することが多い。国土防衛は国境を突破して国土に侵略する敵を国内において排除する防衛方式である。しかし一般的に兵法などでは、侵略する側は、防衛する戦力の3倍の戦力であることが望まれるので、小国と大国の戦争でもない限り、完全に侵略されることはまずない。
戦争は永遠に続くものではなく、一定の段階を過ぎれば収束していく(ただし、ゲリラ戦や断続的なテロ攻撃は戦線を維持する必要がないため、戦争とは本質的に性質が異なる)。兵力や軍需物資の補填などの兵站能力的限界から、どのような国家、勢力でも激しい戦闘を長期間にわたって継続することは不可能であるからである。その発展の過程は無秩序に見えるが、ある程度の段階が存在していると考えられている。
安定的な秩序が維持されており、各国(一部の国では平時においても国内の不安定がある)は基本的に平和に過ごしている。戦争の危機は認識されておらず、準備もなされていない。
戦争勃発の誘因となりうる事件や問題が発生・表面化し、急速に事態が緊張化していく。奇襲を受ける場合はこの段階を通過しない場合もある。この時点ではまだ戦争を未然に防止することは外交によって可能であると考えられるが、不安定化末期から準戦時の外交交渉はしばしば非常に切迫したものとなる。
戦争の危機が高まり、急速に事態が緊張化して制御不能となっていく。国家として戦時体制が敷かれ、軍隊が動員され、外交交渉は絶望的になっていく(最後通牒、宣戦布告を参照)。この段階になればもはや事態を収拾しようとすることは極めて困難となる。この時点で戦争勃発を阻止しようとするのは遅すぎる。
開戦を告げる宣戦布告が行われ(これは伝統的な国際法に基づく行為であり、現代では行われない場合もある)、軍隊が戦場に展開し、敵戦力との戦闘に入る。また戦時体制に基づいてあらゆる経済、情報開示、生活が軍事上の必要から統制される。この段階で戦争の経過を当初の計画通りに進んでいるかなどを考慮し、いかに有利に戦争を収束させるかという点が注目される。
一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが講和条約と呼ばれるものである(休戦協定は戦闘の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは外交官にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。
戦争終結してもその決着が新たな問題や不満を生んでいれば、それが起因して新しい戦争をもたらすこととなる。外交的な解決が不可能となった場合、戦争は軍事力を以って自国の利益を相手から奪うことができる。ただしその過程で失われるものは人命、経済基盤、生活の安全だけでなく、勝敗によっては国際的な信用や政府、国家主権が奪われる場合もある。なお近現代においては敗北で民族が消滅することはない。
主権国家体制において付庸国(附庸国、ふようこく)、従属国(じゅうぞくこく)(英: vassal state)とは、宗主国から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が宗主国の国内法により制限を受ける国家を指す。。
主権を不完全にしか持たないため、被保護国と合わせて半主権国(英: semisovereign state)、従属国(英: dependent state)とも呼ばれる。
傀儡政権(かいらいせいけん、英語: puppet government)とは、ある領域を統治する政権が、名目上には独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権を指す。
戦争には武力を用いた戦闘から、諜報・諜報活動、輸送、外交交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を warfare と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる。
政治戦とは戦争における政治的な闘争の局面である。政治戦には我の政府と国民、敵の政府と国民、国際社会という主に五つの行為主体があり、国際社会に働きかける政治戦を国際政治戦、敵政府に対する政治戦を直接当事者政治戦、敵国民に対する政治戦を間接当事者政治戦、自国民や政府内部に対する政治戦を国内政治戦と呼ぶ。戦争によって得られた戦果は外交交渉を通じて政治的な権力または影響力として政治戦に貢献する。
武力戦は戦争において最も激しい闘争の局面であり、主に戦闘において行われる。対立する戦力同士が互いに支配領域の制圧、敵戦力の無力化や撃破などを目的として作戦し、武力を行使して敵対する勢力を排除する。この過程で殺傷・破壊活動が行われ損害が生じる。戦闘を遂行するためには兵士たちの体力と技能だけでなく、戦術、武器や爆発物の知識、兵器操作の技能、戦術的知能、チームワーク、軍事的リーダーシップ、また後方においては作戦戦略、戦場医療、兵器開発などの総合的な国家、組織、個人の能力求められる困難な活動である。(戦闘を参照)
情報戦は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に諜報・諜報活動によって行われ、相互に相手の軍事的な情報に限らず、経済的、政治的な状況に関する情報を得るために合法的に外交官や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に防諜として相手国のスパイを摘発するための国内における捜査も行われ、敵の情報活動を妨害する。
補給戦は後方支援または兵站を巡る闘争であり、特に補給と輸送を行う際に発生する闘争の局面を言う。兵力や物資の補填がなければ前線の部隊は戦闘力が維持できず、また戦闘以外の被害による損害は戦闘によるものよりも時には非常に多くなるため、戦闘が活発でない時期であっても物資は絶えず輸送されなければならない。すなわち戦場には常時消費物資を送り続けなければ戦闘力が低下することにつながるため、輸送作戦を確実に実施することは前線の勝敗を左右する作戦である。この輸送作戦を的確に実行するのに必要な経済的、軍事的、事務的な努力は非常に巨大なものである。また相手国も航空阻止、破壊工作、後方地域への攻撃などでこの輸送作戦を妨害してくるため、輸送部隊の司令官は強行輸送や強行補給という手段を用いて、これに対抗しなければならない場合もある。つまり戦争においてはどのようにして効率的な輸送作戦を遂行し、適量の物資を調達して、適地に輸送し、的確に分配するかという兵站上の困難に常に直面することになる。
外交交渉は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が国益を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための外交も戦争の行方に大きな影響を与える。(外交交渉を参照)
電子戦とは通信機器などで用いられる電磁波を巡る争いである。平時においても情報収集などを目的とした電波の傍受や分析などの電子戦は行われているが、戦時においては指揮組織、通信拠点、SAM システムに対してより攻撃的なECMが実施される。現代の戦争においては非常に重要な通信手段は電磁波を用いたものが多く、また通信手段は指揮統率における要であるため、その重要性は大きい。日露戦争以降世界各国の軍隊が電子戦に対応する部隊を保有するようになっている。
謀略とは敵国の戦争指導を妨げる活動であり、一般的に極秘裏に遂行される。間接的には政治的・外交的・経済的・心理的な妨害活動があり、直接的には軍事的な破壊工作がある。破壊工作とは交通拠点、政府機関、生産施設、堤防、国境線などの重要拠点に対する爆発物などを用いた放火や爆破などの活動のことである。しばしば敵国に特殊部隊やスパイを送りこんで実行するが、秘密裏にかつ迅速に行われるために無効化が難しい。敵部隊の戦闘力の無力化などを目的とした戦闘とは性格が異なり、対反乱作戦や対テロ作戦に分類される。
心理戦とは、テレビや新聞などを用いた広報活動、政党や思想団体の政治活動、学校教育などによって情報を計画的に活用し、民衆や組織の思想や考えを誘導し、自らに有利に動くように間接的に働きかけるさまざまな活動と、敵の同様の手段へ対抗する活動の総称である。戦争が開始されれば両国とも自国の正統性を主張し、支持を得ようと試みる。また相手国の国民に対して、自国に有利になるように反政府活動を支援したり、相手国の非人道性を宣伝することによって政権の行動を制限することなどが可能である。これは対ゲリラ作戦や対テロ作戦、政権転覆などさまざまな局面で実施される(心理戦を参照)。
軍備拡張競争は軍備の量的な拡張と軍事技術の開発競争を言う。現代の戦争において勝利を納めるには、兵力や戦略のみならず、優秀な兵器が不可欠である。そのため、敵国・対立国より優れた兵器を多く保持することが重要になり、戦時中はもちろん平時においても、その開発・生産が活発に行われている。
例えば、東西冷戦においては、米ソの直接対決こそなかったものの、核兵器や戦車などの熾烈な開発競争が行われ(核兵器については、開発競争により核戦力の均衡が保たれていたからこそ現実に核戦争が起こらなかったとする見方もある)、代理戦争はそれらの兵器の実験場でもあった。また、人類を宇宙や月に送った宇宙開発競争も、ロケット技術が戦略核を搭載する大陸間弾道ミサイルなどのミサイル技術に直結していたことが大きな推進力となっていた。
戦争に関する国際法には大きく二つの体系がある。軍事力の行使が合法かどうかを定めている「開戦法規」 (jus ad bellum, ユス・アド・ベッルム)」と、戦争におけるさまざまな行為を規律する「交戦法規」 (jus ad bello, ユス・アド・ベッロ) の二つである。前者は国連憲章が基本的に根拠になっており、後者は「戦時国際法」「武力紛争法」「国際人道法」とも呼ばれ、その主な根拠となっている条約にジュネーブ条約などがある。一般的に戦争犯罪と呼ばれる行為とは、戦時国際法に違反する行為を指す。(極東国際軍事裁判におけるA級戦犯はこの戦時国際法とは無関係である)また戦時国際法は作戦領域から、陸戦法規、海戦法規、空戦法規に分類されることもある。
伝統的国際法においては、戦争は国家の権利であったが、現代国際法においては武力行使の禁止に伴い、戦争そのものが禁止されている。具体的には、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)および1945年の国連憲章2条4項により、武力行使は違法化された。ただしパリ不戦条約では実質的な紛争解決機能が盛り込まれなかったために第二次世界大戦が勃発し、そのため国連憲章が改めて定められた。国連憲章において国際社会の平和と安全が破壊される違法行為があれば、集団安全保障体制で場合によっては軍事的措置を講ずることも定められた。また国連加盟国は個別的、集団的自衛権の行使が認められている。すなわち現代における戦争を行う原則は以下の通りとなる。
戦争においては無制限の暴力が交戦国によって行使されるが、しかし現代の戦時国際法においては「軍事的必要性」と「人道性」の原則がある。軍事的必要性はさまざまな軍事作戦の遂行に不可欠な行動などを正当化する原則であり、一方で人道性とは最小限の人命損失、不要な破壊、文民に対する攻撃、過剰な苦痛などの軍事作戦にとって不適切な行動を禁止する原則である。またこのほかにも戦時国際法においては攻撃目標、戦闘方法、非戦闘員の対応、中立国との関係などが定められており、軍隊の各級指揮官や部隊の戦闘行動を規定している。この戦時国際法を違反することは、国際社会からの非難を受けることや、責任者が戦争犯罪に問われることなどによって処罰されることになり得る(戦時国際法を参照)。
物品・サービスのシェア・覇権争いなどを、現実の戦争になぞらえて「○○戦争」と呼ばれることがある(ビデオ戦争、ゲーム機戦争、ブラウザ戦争、HY戦争など)。 | [
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"text": "戦争(せんそう、英: war)とは、兵力による国家間の闘争である。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは国際紛争の平和的解決である。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、違法性が認定されてきた。",
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"text": "21世紀に入り、地球規模で敷設されたITインフラを通して膨大な情報が世界中で流通するようになると、物理的な攻撃を伴わない国家間の争いが増加した。そのような争いの比喩として、情報戦・経済戦争・貿易戦争・サイバー戦争・受験戦争などという言葉も用いられるようになった。",
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"text": "戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為(行為説)、または用いた結果生じる国家間の対立状態である(状態説)。一般に、国家もしくはそれに準ずる集団が、自衛や利益の確保を目的に武力を行使し、戦闘を起こす事。戦争は太古から続く人類の営みの側面であり、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段であると言える。",
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"text": "政治だけでなく、経済、地理、文化、技術など広範にわたる人間の活動が密接に関わっており、その歴史的な影響は非常に大きい。近代以降の戦争は陸海空軍等の軍隊のみの武力戦だけでなく、一般国民を広く巻き込む総力戦の様相を呈することもあり、外交戦、宣伝戦、謀略戦、経済戦、貿易戦、補給戦、技術戦、精神戦などの闘争を本質的に包括しており、相互に関係している。そして結果的には、その規模にもよるが、国際関係や社会や経済など幅広い分野に破壊的な影響を与え、軍人や民間人の人的被害からインフラの破壊、経済活動の阻害など社会のあらゆる部分に物的被害を与えることとなる。一方で、科学、技術、外交、戦略論、組織論、戦術論、兵器・武器の発展をもたらしてきた側面もある。また、軍需景気により生産設備に被害を受けなかった戦勝国や第三国の経済が潤う場合もある(例:第一次世界大戦と第二次世界大戦後の米国や第一次世界大戦後と朝鮮戦争後の日本)。また、戦争の敗北により近代オリンピックやFIFAワールドカップ等のスポーツ国際大会への参加を禁じられるケースもある。",
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"text": "今では、大規模戦争の多くが総力戦や核戦争となり、勝敗に関わらず国家や国民をいたずらに消耗させる事から起こりにくくなっている。帝国主義のような戦争による国家の成長は過去のものとなり、人道主義の観点からも忌避される傾向となっている。1928年のパリ不戦条約締結以降、国際法的に自衛戦争以外の侵略戦争は禁止されている。2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、世界的には対テロ戦争が主流となった。",
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"text": "その発展や勝敗には原則的、法則的な事象が関連していると考えられており、軍事学において戦理や戦略・戦術理論の研究、戦闘教義の開発、兵器開発、定量的な作戦研究、戦史研究などが行われている。国連憲章2条4項は戦争だけでなく武力の行使を一般的に禁止した(武力不行使原則)。",
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"text": "戦争という概念は国際法上の概念と軍事上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない。",
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"text": "軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば国家であるが、法的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。米軍では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、平和維持活動や対テロリズム作戦などを展開する「紛争」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している。また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。",
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"text": "国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。",
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"text": "ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。",
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"text": "歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、文化人類学の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い。考古学では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている。",
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"text": "猿人や原人の食人説が、オーストラリアの考古学者レイモンド・ダートによって1960年代まで繰り返し主張された。また、1930年代に北京原人食人説がドイツの人類学者フランツ・ワイデンライヒによって疑われた。しかし、世間では北京原人食人説はいよいよ有名になってしまった。これらのことから、猿人・原人の食べ合いが人類の歴史とともにあったと解釈し、広めたのがアメリカの作家ロバート・アードリーであった。さらに動物行動学を興してノーベル賞を受けたオーストリアのコンラート・ローレンツは『攻撃』という、人類の攻撃的本能を説いた。この本能説がさらに広がった。という説を立てている。",
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"text": "ただし、猿人の殺人・食人の疑いを考古学者ボブ・ブレインが示している。また、北京原人の食人説については、その後の研究で世界の人類学者が疑いを示している。",
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"text": "判明している情報では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年である。",
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"text": "文字記録が残っていない先史時代の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいるアフリカやオセアニアの地域から、その形態を推察することができる。狩猟採集社会の観察からは、原初のヒトが置かれた環境においても資源の獲得や縄張り争いによって集団対集団の戦争が行われることを示唆している。",
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"text": "イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である。",
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"text": "縄文時代の暴力による死亡率は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。",
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"text": "12,000 - 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに116個もの石器(細石器)が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている。",
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"text": "古代では、農業の発達により人口が増加し経済的な富が蓄えられたことで、国家体制が整えられていき通信が整備された。この為、戦争の規模や軍事組織も拡大した。それぞれの文明は自己の安全を保障し、また自己の勢力を拡大するために闘争し、集団的利益のために征服戦争すら行われた。",
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"text": "また土器・石器から青銅器・鉄器を利用した兵器や武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアやローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。",
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"text": "古代、西ローマ帝国がゲルマンの同盟部族に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、フランク王国(欧州北西部)、西ゴート王国(イベリア半島)、ブルグント王国(欧州東部)などが成立していった。中世前期に成立した神聖ローマ帝国は8世紀から15世紀に至るまでイスラムの王朝とレコンキスタの戦いを行った。",
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"text": "中世盛期には、フランクとモンゴルの同盟を後ろ盾として、カトリック教会そのものが呼びかけて数次にわたる十字軍戦争も行われたが成果は乏しかった。また、西フランク王国はフランドルのブルッヘにハンザ同盟の在外商館や取引所を置き国際貿易を拡大させていたが、14世紀になるとフランス王国とイングランド王国とのあいだで百年戦争が争われた。この戦費の調達においてフランスはジェノヴァ共和国、イングランドはヴェネツィア共和国に戦債(英語版)を引き受けさせている。",
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"text": "中世ヨーロッパにおいては儀式的な要素も根強く残っており、カトリック教会による世俗権力への政治的な統制は戦争の発生を抑制していた。ただし中世にも多くの軍人らが存在し、また技術的には甲冑を装備した騎兵が有力であったが、たとえばイギリスのプランタジネット朝とフランスのバロア朝による百年戦争は王位をめぐって長期間にわたってフランスにおいて行われたものの、フランス社会全体に作戦期間相応の壊滅的な被害をもたらすことはなく、断続的かつ散発的な戦闘が休戦を挟みながら行われていた。これは長期間にわたって大規模な戦力を維持することが当時の軍隊には能力的に困難であったことや、キリスト教世界としての政治的な団結を保持していたこと、また軍事技術の制約から作戦行動の長期化や大規模化が難しかったことなどが理由として挙げられる。戦争の恐怖はむしろ作戦部隊の兵站(物資の補給)業務が不在であり、また規律が不十分な兵士たちが自らの糧食を確保するために勝手に現地で略奪を行うため、現地住民はそのたびに被害を受けていた。",
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"text": "中世後期、イベリア半島のスペインは遠洋航海を可能とするキャラック船を発明し、15世紀初頭からポルトガルとともに大航海時代を齎し、アフリカ、インド、東南アジア、南アメリカに進出するが、こうした貿易船は海賊対策のため軍船としても発達し、スペイン帝国、ポルトガル海上帝国が形成される。1440年代には商人は日本にも到達し鉄砲を伝える。",
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"text": "1453年、オスマン帝国が東ローマ帝国(ギリシャ)を滅亡させ地中海の制海権を獲得し、地中海の交易に高い関税がかかるようになる。1496年にイタリアを巡って起きたイタリア戦争は欧州のほとんどの国を巻き込み、のちの1557年にスペインとフランスが破産を宣言するに至って終結した。この戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩があった。",
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"text": "一方、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は1477年にヴァロワ・ブルゴーニュ家のネーデルラントを承継し、1516年にはスペイン王も兼ねるようになり、1528年にユトレヒトのカトリック司教領を没収し、1531年にはオスマンとの争いやイタリア戦争の戦費調達等のためブラバント公国にアントワープ証券取引所を設立し、ガレオン船の造船などにより経済や貿易を発達させた。欧州の各国も、これに倣って証券取引所を設立した。",
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"text": "1534年にイギリス国教会がカトリック教会から離脱しプロテスタントの思想が広まり始め、この流れから宗教改革が進行してゆき、フランスはユグノー戦争に入り、神聖ローマ帝国ではネーデルラント17州フランドルのオランダ人蜂起により八十年戦争が勃発し、またさらに英西戦争が始まる。スペイン・ハプスブルグ家は1580年にポルトガルを承継するが、プロテスタント勢力が支配的になったネーデルラント北部はハプスブルクから独立した形になり、1602年にアムステルダム証券取引所とオランダ東インド会社を設立して植民地を拡大し、オランダ海上帝国を形成していく。また同時にオランダ・ポルトガル戦争(英語版)も始まる。",
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"text": "欧州の八十年戦争は、1648年のヴェストファーレン条約により北部のネーデルラント連邦共和国が正式に独立したことにより終結したが、1651年からは4次に渡る英蘭戦争が生じ1784年まで続いた。神聖同盟はオスマントルコと大トルコ戦争も争い、その後はハプスブルク帝国内における継承戦争もあった。こうした中で戦列艦が発達した。",
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"text": "これらの戦争と並行して、フランスやイングランドがアジアやアメリカ大陸に植民を行ったが、北アメリカでは16世紀から18世紀にかけて、植民地の造営を巡りインディアン戦争やフレンチ・インディアン戦争、アメリカ独立戦争が生じた。",
"title": "歴史"
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"text": "帝国主義に基づく植民地支配は富の集積を実現し、英国は産業革命を実現できた。それによって工業の発達が軍艦や銃器の性能を引き上げた。軍事技術の発達は戦争の形態を大きく変化させる。グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)は軍事改革の中で常備軍の制度を確立し、その後の戦争のあり方を基礎付けた。また計画的な兵站や規律を保つための軍事教育などもこのころに整備され、各国で同様の制度が採用されるようになる。特に歩兵の重要性が小銃の開発により高まったことは、完璧な陣形や規律正しさを軍隊の各兵員に求めることになる。また火砲の登場により砲兵という兵科が確立されたのもこの時代であり、戦略や戦術、軍事土木工学などの分野も大きな前進を見る。近代化が、さらなる戦争の拡大につながると考える人が、非常に多数派である。",
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"text": "アメリカ大陸では19世紀前半には米英戦争、19世紀後半には米墨戦争、南北戦争、米西戦争、米比戦争があった。",
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"text": "フランスで起こったフランス革命が国民国家の体制をもたらして中央集権に基づく徴兵制によって、軍隊の大規模化を可能とした。そしてナポレオン・ボナパルトはこれまでの戦略・作戦・戦術の抜本的な合理化を行う改革に取り組み、国家総力戦の体制の原型を整えた。さらに銃器・火砲などの兵器の発展が被害者数を甚大なものとし、ナポレオンはこのような高度な軍事力を運用して殲滅戦を行い、ナポレオン戦争においてはヨーロッパ大陸のほとんどを支配するに至った。このナポレオンの戦争指導はアメリカ南北戦争やその後の軍事研究に大きな影響を残す。",
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"text": "第一次世界大戦や第二次世界大戦では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消費が長期間にわたるという新しい戦争の形態である国家総力戦が発生した。その戦争形態を維持する必要性から「国家総力戦体制」と呼ばれる戦時体制が出現することになる。",
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"text": "第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約200万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず、戦争の長期化と大規模化が決定付けられた。結果的にはこのような大戦争によりもたらされる経済的または心理的な損害により、各国は深刻な社会的混乱や政治的な打撃を被った。このような戦争を繰り返さないためにも国際連盟を通じた戦争の抑制が企図されたがアメリカは参加せず、またドイツは莫大な賠償金により経済的な打撃を受ける。第二次世界大戦においては再び大規模な戦争が繰り返され、この大戦ではせん滅的な長期戦に展開して一次世界大戦の二倍の戦死者が出た。また航空機の発達によって航空作戦が実施されるようになり、航空機による戦略爆撃は戦闘員だけでなく民間人にも多数の被害者が出ることとなり、政治的または経済的な混乱が長期間にわたって続いた。",
"title": "歴史"
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"text": "世界大戦の反省から国際連合などの国際機関が発展して戦争の抑制が図られるものの、アメリカとソビエトの台頭、さらに大量破壊兵器の登場によって核兵器やミサイルによる核戦争の可能性を生み出した。また現代的な軍事技術の開発が躍進的に進んだことから現代の戦争の勝敗は科学技術の開発に大きく左右されるようになっている。しかし同時に従来の正規軍による軍事作戦とは異なる革命または反乱という“非対称の戦争”が行われるようになり不正規戦争と呼ばれるようになる。核戦争へと発展しないように限定的かつ段階的な軍事力が行使される戦争として限定戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連によるアフガン侵攻など)が行われるに至っている。",
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"text": "冷戦後はイデオロギーの対立というよりも民族・宗教の対立による内戦が世界各地で勃発するようになり、形態はかつての伝統的な戦争よりも複雑多様化している(ボスニア紛争など)。特にイスラム原理主義や民族主義によるテロが先進国を悩ませ、それに対する報復戦争や内戦が起きる事態となっている(アメリカによるアフガン侵攻、イラク戦争、チェチェン紛争など)。",
"title": "歴史"
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"text": "2つの世界大戦以後から冷戦期にかけて、領土の占有を最終目的とする形態の戦争は減少し、特に冷戦後は、政治体制や宗教体制を自陣の望むものとするための戦争や紛争が主体となっている。",
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"text": "2020年から2021年にかけて、インドと中華人民共和国の両国兵士がヒマラヤの国境付近で戦闘状態に陥ったが、核兵器を持ち合う両国は戦闘を戦争レベルに発展させないために、あえて火器を使用せずにクギを打った棒や素手で攻撃をするものとなった。数十人単位の死者が出るという穏やかなものではなかったが、新たな戦争の形態や抑止の在り方を示唆するものとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が行われ、ロシアの領土拡大を目的とした本格的な侵略戦争が勃発した。20世紀に起きた2度の世界大戦の反省を踏まえて、国際協調が進められていた21世紀においては珍しい形態の戦争であり、国際社会の秩序を大きく揺るがす事態となった。SNS時代の到来により、SNSでもリアルタイムに戦況が報じられるようになった。",
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"text": "戦争の類型に関しては、時代や戦術・戦略の変化に伴って多様化しており、また観察する視点によってもさまざまな見方ができるため、断定的に行うことは難しい。",
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"text": "※「自衛戦争」「予防戦争」「制裁戦争」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。",
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"text": "フランスの歴史学者ジョルジュ・カステラン(フランス語版)によると、戦争は歴史的な観点から以下のように分類される。",
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"text": "人類黎明期の戦争",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "戦争にどのように勝利するのかではなく、戦争とは何なのかという問題を考察するためには戦争の内部の構造がどのようになっており、どのような原理が認められるのかを明らかにすることが必要である。古代の戦争学的な論考に、哲学者プラトンの『国家』があり、その中で哲学者ソクラテスはさまざまな領域の職人、専門家によって構成された自足的な国家を想定しているが、国家が成立したとしても人間の欲求は際限なく拡大し続けるために、自足する以上の資源を求めて他の共同体に対して戦争が発生すると論じている。これは戦争の根本を国家に求める見方であり、実際に軍事史においても国家は戦争の主要な行為主体であった。しかし、これは戦争の限定された本質を明らかにしているに過ぎない。戦争がランダムに起こったわけではないことは留意すべきだから、親社会的な行動などが戦争を防ぐのに役立つかどうかは、やはり興味があるところである。",
"title": "戦争の本性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "そもそも戦争が成り立つ以前に、人間がなぜ対立するのかという問題がある。社会学者ヴェーバーの『社会学の根本概念』によれば、ある主体が相手の抵抗を排除してでも自分自身の意志を達成しようとする意図に方向付けられた社会的関係が闘争であると定義する。またこの闘争は物理的暴力に基づいた闘争や闘争手段を非暴力的なものに限定した平和的な闘争に分類できる。このような闘争が社会の中で発生する根本的な理由について政治思想家ホッブズは『リヴァイアサン』において国家や政治団体が存在しない自然状態を想定している。つまり各個人がそれぞれ等しく自己保存の法則に従って生活資源を獲得するため、また敵の攻撃を予防するために、結果として万人の万人に対する闘争が生じることになる。闘争において常に暴力が使用されるとは限らない。暴力によって相手を抹消しなくとも、交渉や協力によって争点を解決することは原理的に不可能ではない。しかし経済学者マルサスが『人口論』で述べているように、人口は生活手段の分量を超えて常に増大されるため、その過剰人口の出現は疫病、飢餓、戦争などの積極的制限によって調整されるために闘争は流血の事態にまで発展することになる。なぜなら生存が脅かされる事態は人間にとって常に極限状況であり、社会全体にとっても闘争を暴力化させる重大な動機でありうるものである。",
"title": "戦争の本性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "暴力とは万人が持つ個人の身体的、精神的な諸力の中でも他者に対して強制的に働きかける力に限定することができる。これは政治思想家アーレントの定義であり、暴力は他者との相互作用を通じて行使する必要はなく、その機能は相手を殺害することである。しかし戦争における暴力を論考した研究では、暴力を通じてある種の相互作用が発生することが論考されている。この領域における古典的な著作に軍事学者クラウゼヴィッツの『戦争論』がある。戦争を特徴付ける最も重要な要素として着目されるべきは暴力である。クラウゼヴィッツによれば暴力は三種類の相互作用をもたらすものであり、それは相互に敵対的感情と敵対的意図を拡大させる第1の相互作用、相手を撃滅しようとする第2の相互作用、そして戦闘手段を敵と拮抗させようとする第3の相互作用である。これら相互作用を前提として考えれば、戦争における暴力は無制限に拡大する理論的な必然性がある。つまり集団間の戦争を想定すれば、それは暴力の性質に従って相互に暴力手段を拡大し続けながら相手を攻撃し続け、またそのための敵意を増大させ続けることになる。クラウゼヴィッツはこのような戦争の理念型を絶対戦争と呼んだ。しかし同時にこのような形態の戦争は現実の戦争で出現しているわけではない。その理由として絶対戦争と並んで提起されているものが政治目的の着眼点である。つまり戦争の無制限的な暴力化を抑制するものとして政治的制約が作用しており、戦争の性質を規定しているというものである。このことを端的に表現するクラウゼヴィッツの命題が「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長である」というものである。",
"title": "戦争の本性"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "戦争は単なる暴力的な闘争状況であるだけでなく、本質的に政治が連関しているというクラウゼヴィッツの考察は政治学者シュミットによってより思想的に発展された。シュミットは独自の友敵理論を展開する中で政治的な概念には常に闘争的な意味があり、不可避的に敵と味方に区分されると論じる。このような政治観はマキアヴェッリの政治思想やマルクスの階級闘争などにも認められるものである。シュミットによれば政治に内在する敵と味方の二分法はさらに敵概念の詳細に注意することで深めることができる。シュミットは『パルチザンの理論』において三種類の敵を導入しており、すなわち因習的で形式的な性質を持つ在来的な敵、実際的な性質を伴う現実の敵、犯罪者という性格を持つ絶対的な敵である。在来的な敵は人道的なルールに基づいた国家間の戦争における敵であり、現実の敵とは自らの実存にとって脅威となる敵、そして絶対的な敵とは相手を文明や階級、民族に対する犯罪者として差別化される敵である。戦争において相手がどのような特性を持つ敵なのかによって、政治目的は相手に僅かな制裁を加えるように軍事的手段を制限することも、また相手の存在を根本的に抹消させる軍事的手段を拡大させることも可能にするのである。戦争にとって政治の重要性は普遍的なものであり、戦争の規模、期間、列度、その影響は政治の状況や機能によって左右されると考えられる。",
"title": "戦争の本性"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "戦争における諸活動は高度に複雑であり、量的には以下のように分類することができる。",
"title": "戦争の構成"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "兵士単位での戦いである「決闘」が複数集まって、「合戦」が構成され、複数の合戦から交戦が構成されている。ただしこのような個々の兵士の活動、師団の活動、国家の活動などで戦争の全体像を区分することはできない。交戦単位が艦艇や航空機となれば戦闘と決闘の間の区分は消失するものであり、また総力戦に至らない戦争においてはより事態は複雑である。",
"title": "戦争の構成"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "戦争は人間社会における対立によって生じるものであり、何らかの意志や理由を伴う。しかし戦争の原因についての一般理論は未だ完成されていない。その発生の過程にはさまざまな要因、誘因、環境が有機的に起因するは確かであり、無政府状態、勢力均衡、攻撃・防御バランス、好戦的イデオロギー、ナショナリズム、誤認などの多くの理論が提唱されている。ここではいくつかの戦争の原因として考えられている学術考察または理論について述べる。(戦争哲学をも参照)",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "国際政治学ではまず国際社会において戦争が生じる理由は、国際政治が無政府状態(アナーキー)であることがまず挙げられる。すなわち国際政治には国内政治のように中央政府のような集権体制が不在であり、紛争の平和的解決が強制できない。従って各国は自助努力を行う必要性に迫られる。第二に情報の不完全性がある。つまり戦争を回避するために必要な情報が必ずしも入手できず、例えば軍事情報についてはしばしば軍事機密によって秘匿されるために合意達成が確認できず、ここに猜疑心が生じる可能性がある。そして三つ目の原因として国内政治と国際政治の相互作用の関係が挙げられる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに長期的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "世界的な大国が存在することによってその統一的な影響力を用いて国際秩序を安定化させる「単極平和論」が存在する。このような国際体制においては反抗できる勢力がそもそも存在しないため、戦争が発生する可能性を大きく低減できる。また反抗勢力を圧倒することによって覇権国家も政治的目的を達成するために軍事力を行使する必要がなくなる。ただしこの場合、属国群が長期的な不満を覇権国家に対して形成する危険性がある。平和主義の中で語られる世界連邦政府構想や国連常備軍構想は世界全体の単極平和論を志向したものと言え、現在のパックス・アメリカーナは完全ではないが単極勢力構造に近い形態とされる。日本の江戸時代や中国の統一王朝時代、米国が新大陸においてアメリカ先住民掃討に専念する一方米墨戦争や南北戦争があった孤立主義(モンロー主義)時代などは概ね平和が保たれており、地域における単極平和論を支持する例とされる。",
"title": "戦争の原因"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また勢力が均衡する二つの大国が互いに拮抗する場合、戦争が発生しにくいとする「双極平和論」も論じられる。この理論は不確実性による誤認・誤算によって戦争が勃発する点に注目し、双極であれば相互に相手の動向により的確に対応できるようになるため、安定的に勢力が均衡する可能性を論じている。米ソ冷戦時代が双極勢力分布の分かりやすい例であり、現実には双方の軍拡競争やベトナム戦争や朝鮮戦争といった代理戦争は起こったが、恐怖の均衡により米ソの直接の戦争は起こらなかった。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また複数の大国が存在する場合、戦争は発生しにくいとする「多極平和論」もある。複数の国家がより柔軟かつ適切に同盟や勢力圏を形成することが可能となるので、対立関係が硬直化しにくいとし、勢力均衡を維持しやすいと論じている。現実の例としては戦前の米・英・独・仏・ソ連(ロシア)・イタリア・日本が世界における列強として君臨した時代がある。第二次世界大戦前のヨーロッパ、中国の三国志時代や日本の戦国時代などは地域内で複数の勢力が存在していた。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、どの勢力分布も歴史的に見れば戦争の頻度や規模を最小化することについて最適な組み合わせではないと一般的には考えられている(勢力均衡を参照)。なお、国連憲章の目指すところは国連常備軍による単極平和論であり、1極を覇権国家専有武力ではなく国連加盟国共同武力とすることで覇権国の専横を防ぎつつ平和を目指す考え方である。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1970年代になるとそれまでの勢力均衡理論による静態的な国際情勢の理解から転換して、世界秩序の構成要素の国力などは可変的であると考える動態説が現れた。例えばイマニュエル・ウォーラーステインは16世紀以降の資本主義の発達は世界に強国と弱国の格差を生み、巨視的には中核、準周辺、周辺の世界システムを形成した。さらに中核においても、時代的には長期的優勢と中期的優勢の二種類があることが認められ、長期的優勢では生産力の拡大からプロレタリアートの政治運動に次いで福祉国家化及び社会主義的世界経済へと段階的に進んでいき、中期的優勢では資本主義の矛盾が表面化、経済成長の停滞、恐慌などに次いで準周辺国への技術移転並びに相対的な優位の低下という段階を進むとしている。また1987年にはジョージ・モデルスキーによって大規模な戦争は大体100年周期で発生する点に注目した100年周期説が提唱された。これはあらゆる秩序のエントロピー的衰退、国際的な秩序形成の衝動などが理由として挙げられている。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "経済と戦争の危機には全く相反する視点がある。 まず第一に国際経済が停滞・後退すれば戦争の危機は高まるという考え方である。経済成長が不況や恐慌などによって悪化すれば、その縮小した利益をめぐる利害関係が国内経済、国際経済において悪化し、それが戦争の危機を高めることになると考えられる。また軍事費の拡大によって市場に資本を投入し、経済成長を促すため、軍拡競争が激化することも考えられるからである。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して資源や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な世論や社会的な心理が形成されると考えられる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ただし、経済と戦争の関係性についてはデータや指標が非対称である場合や研究途上であることもあって、完結に結論できない。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "数学のゲーム理論においては囚人のジレンマ状況とチキンゲーム状況の理論が戦争のモデルとされている。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "囚人のジレンマによると、例えば核兵器の保有を両方が自制するのが最も平和で安全であるが、疑心暗鬼の心理が働いて両方とも核保有で自国の安全と相手国の支配権を得たいと考える。しかしながら自国だけ自制して相手国が核を保有した場合には自ら不利になることを選ぶことになる。ただし両国とも核保有すると核戦争勃発の危険が最大となる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "チキンゲームによると、例えば両国とも利益の追求を完全に放棄すれば最も平和で安全であり、また互いに申し合わせた妥協を履行すれば二分した利益と安全を確保できる。一方で相手国が譲歩することを衝突の直前まで期待して強硬策を実施して成功すれば半分以上の利益を確保出来るが、失敗すれば戦争が勃発することになる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな軍事的、政治的要因だけでなく、法的、経済的、社会的、集団心理的、文化的な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "歴史から学び、国内的な事情と国外的な環境を関係させ、個人の感情や意思を内包した歴史的必然性に戦争の原因というものは求められるべきものである。バターフィールドの『ウィッグ史観批判』で「歴史の教訓とは、人間の変化はかくも複雑であり、人間の行為や決断の最終的結果は決して予言できるような性質のものではないということである。歴史の教訓は、ただ細部の研究においてのみ学ぶことができ、歴史の簡略化の中では見失われてしまう。歴史の簡略化が、歴史的真理と正反対の宣伝のため企てられることが多いのもそのためである」と論じられているとおり、本質的に戦争、特に近代における複合的な国際政治の展開によって発生する戦争は単一の誘因によって引き起こされたとする考えはきわめて側面的な考えである。",
"title": "戦争の原因"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "軍事学において戦争はその作戦戦略の差異を主体別に見て侵略と防衛の二つの作用が衝突して発生するものであると考えられる。 まず侵略には法的な定義も存在するが、軍事的な定義としては外敵または内敵によって軍事力が先制行使され、侵入(invasion)、攻撃(attack)などの攻勢の作戦行動が実行されることである。一方で防衛は狭義には侵略に反応してこれを排除するために軍事力が使用され、防御や後退などの防勢の作戦行動が実行されることであり、広義には抑止活動をも含む。",
"title": "侵略と防衛"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "侵略はその手段から直接侵略と間接侵略に分類される。直接侵略は外国が軍事力の行使を行う伝統的な侵略方式であり、間接侵略は防衛側の国家内の反政府勢力などを教唆、指導したうえで反乱、革命などによって軍事力を間接的に行使する侵略方式である。実際の侵略はこの二種類の手段を同時に使用する場合や、時間差で使用する場合などがある。 また敵が内敵であれば、これもまた区別して考えられる。内敵とは国内の勢力が主体とり、政府転覆や国体の破壊などを目的を持ち、武力を行使する敵である。内敵の侵略は外国に一時的に外国に逃れ、外部から侵略する外部侵略と、内部でゲリラ戦や反乱、クーデターなどを行う内部侵略の方式がある。内敵と外敵は軍事目的が同じであるので、結託しやすい。",
"title": "侵略と防衛"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "防衛は安全保障形態から集団安全保障と個別的安全保障に大別される。集団的安全保障は集団内の国家が侵略を行った場合にその他の国々が侵略国に制裁を行うことによって防衛国を援助することで安全を保障することである。個別的安全保障は防衛国が独力で、または同盟国の援助によって安全を保障することである。 個別的安全保障はさらに単独防衛(自主防衛)、同盟、集団防衛、中立の形態がある。集団防衛は防衛的な性格のみを持つために集団安全保障の側面も持つ。同盟にはその作戦目標から侵略的な場合と防衛的な場合がある。自主防衛は防衛線の位置によって前方防衛、国境防衛、国土防衛に区分される。前方防衛は国境よりも遠隔地において侵略してくる敵を排除する防衛方式であり、公海上で行われることが多い。国境防衛は国境において軍事力を準備し、侵略する敵を待ち受けてこれを排除する防衛方式であり、国境線を要塞化することが多い。国土防衛は国境を突破して国土に侵略する敵を国内において排除する防衛方式である。しかし一般的に兵法などでは、侵略する側は、防衛する戦力の3倍の戦力であることが望まれるので、小国と大国の戦争でもない限り、完全に侵略されることはまずない。",
"title": "侵略と防衛"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "戦争は永遠に続くものではなく、一定の段階を過ぎれば収束していく(ただし、ゲリラ戦や断続的なテロ攻撃は戦線を維持する必要がないため、戦争とは本質的に性質が異なる)。兵力や軍需物資の補填などの兵站能力的限界から、どのような国家、勢力でも激しい戦闘を長期間にわたって継続することは不可能であるからである。その発展の過程は無秩序に見えるが、ある程度の段階が存在していると考えられている。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "安定的な秩序が維持されており、各国(一部の国では平時においても国内の不安定がある)は基本的に平和に過ごしている。戦争の危機は認識されておらず、準備もなされていない。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "戦争勃発の誘因となりうる事件や問題が発生・表面化し、急速に事態が緊張化していく。奇襲を受ける場合はこの段階を通過しない場合もある。この時点ではまだ戦争を未然に防止することは外交によって可能であると考えられるが、不安定化末期から準戦時の外交交渉はしばしば非常に切迫したものとなる。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "戦争の危機が高まり、急速に事態が緊張化して制御不能となっていく。国家として戦時体制が敷かれ、軍隊が動員され、外交交渉は絶望的になっていく(最後通牒、宣戦布告を参照)。この段階になればもはや事態を収拾しようとすることは極めて困難となる。この時点で戦争勃発を阻止しようとするのは遅すぎる。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "開戦を告げる宣戦布告が行われ(これは伝統的な国際法に基づく行為であり、現代では行われない場合もある)、軍隊が戦場に展開し、敵戦力との戦闘に入る。また戦時体制に基づいてあらゆる経済、情報開示、生活が軍事上の必要から統制される。この段階で戦争の経過を当初の計画通りに進んでいるかなどを考慮し、いかに有利に戦争を収束させるかという点が注目される。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが講和条約と呼ばれるものである(休戦協定は戦闘の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは外交官にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "戦争終結してもその決着が新たな問題や不満を生んでいれば、それが起因して新しい戦争をもたらすこととなる。外交的な解決が不可能となった場合、戦争は軍事力を以って自国の利益を相手から奪うことができる。ただしその過程で失われるものは人命、経済基盤、生活の安全だけでなく、勝敗によっては国際的な信用や政府、国家主権が奪われる場合もある。なお近現代においては敗北で民族が消滅することはない。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "主権国家体制において付庸国(附庸国、ふようこく)、従属国(じゅうぞくこく)(英: vassal state)とは、宗主国から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が宗主国の国内法により制限を受ける国家を指す。。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "主権を不完全にしか持たないため、被保護国と合わせて半主権国(英: semisovereign state)、従属国(英: dependent state)とも呼ばれる。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "傀儡政権(かいらいせいけん、英語: puppet government)とは、ある領域を統治する政権が、名目上には独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権を指す。",
"title": "戦争の過程"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "戦争には武力を用いた戦闘から、諜報・諜報活動、輸送、外交交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を warfare と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "政治戦とは戦争における政治的な闘争の局面である。政治戦には我の政府と国民、敵の政府と国民、国際社会という主に五つの行為主体があり、国際社会に働きかける政治戦を国際政治戦、敵政府に対する政治戦を直接当事者政治戦、敵国民に対する政治戦を間接当事者政治戦、自国民や政府内部に対する政治戦を国内政治戦と呼ぶ。戦争によって得られた戦果は外交交渉を通じて政治的な権力または影響力として政治戦に貢献する。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "武力戦は戦争において最も激しい闘争の局面であり、主に戦闘において行われる。対立する戦力同士が互いに支配領域の制圧、敵戦力の無力化や撃破などを目的として作戦し、武力を行使して敵対する勢力を排除する。この過程で殺傷・破壊活動が行われ損害が生じる。戦闘を遂行するためには兵士たちの体力と技能だけでなく、戦術、武器や爆発物の知識、兵器操作の技能、戦術的知能、チームワーク、軍事的リーダーシップ、また後方においては作戦戦略、戦場医療、兵器開発などの総合的な国家、組織、個人の能力求められる困難な活動である。(戦闘を参照)",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "情報戦は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に諜報・諜報活動によって行われ、相互に相手の軍事的な情報に限らず、経済的、政治的な状況に関する情報を得るために合法的に外交官や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に防諜として相手国のスパイを摘発するための国内における捜査も行われ、敵の情報活動を妨害する。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "補給戦は後方支援または兵站を巡る闘争であり、特に補給と輸送を行う際に発生する闘争の局面を言う。兵力や物資の補填がなければ前線の部隊は戦闘力が維持できず、また戦闘以外の被害による損害は戦闘によるものよりも時には非常に多くなるため、戦闘が活発でない時期であっても物資は絶えず輸送されなければならない。すなわち戦場には常時消費物資を送り続けなければ戦闘力が低下することにつながるため、輸送作戦を確実に実施することは前線の勝敗を左右する作戦である。この輸送作戦を的確に実行するのに必要な経済的、軍事的、事務的な努力は非常に巨大なものである。また相手国も航空阻止、破壊工作、後方地域への攻撃などでこの輸送作戦を妨害してくるため、輸送部隊の司令官は強行輸送や強行補給という手段を用いて、これに対抗しなければならない場合もある。つまり戦争においてはどのようにして効率的な輸送作戦を遂行し、適量の物資を調達して、適地に輸送し、的確に分配するかという兵站上の困難に常に直面することになる。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "外交交渉は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が国益を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための外交も戦争の行方に大きな影響を与える。(外交交渉を参照)",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "電子戦とは通信機器などで用いられる電磁波を巡る争いである。平時においても情報収集などを目的とした電波の傍受や分析などの電子戦は行われているが、戦時においては指揮組織、通信拠点、SAM システムに対してより攻撃的なECMが実施される。現代の戦争においては非常に重要な通信手段は電磁波を用いたものが多く、また通信手段は指揮統率における要であるため、その重要性は大きい。日露戦争以降世界各国の軍隊が電子戦に対応する部隊を保有するようになっている。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "謀略とは敵国の戦争指導を妨げる活動であり、一般的に極秘裏に遂行される。間接的には政治的・外交的・経済的・心理的な妨害活動があり、直接的には軍事的な破壊工作がある。破壊工作とは交通拠点、政府機関、生産施設、堤防、国境線などの重要拠点に対する爆発物などを用いた放火や爆破などの活動のことである。しばしば敵国に特殊部隊やスパイを送りこんで実行するが、秘密裏にかつ迅速に行われるために無効化が難しい。敵部隊の戦闘力の無力化などを目的とした戦闘とは性格が異なり、対反乱作戦や対テロ作戦に分類される。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "心理戦とは、テレビや新聞などを用いた広報活動、政党や思想団体の政治活動、学校教育などによって情報を計画的に活用し、民衆や組織の思想や考えを誘導し、自らに有利に動くように間接的に働きかけるさまざまな活動と、敵の同様の手段へ対抗する活動の総称である。戦争が開始されれば両国とも自国の正統性を主張し、支持を得ようと試みる。また相手国の国民に対して、自国に有利になるように反政府活動を支援したり、相手国の非人道性を宣伝することによって政権の行動を制限することなどが可能である。これは対ゲリラ作戦や対テロ作戦、政権転覆などさまざまな局面で実施される(心理戦を参照)。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "軍備拡張競争は軍備の量的な拡張と軍事技術の開発競争を言う。現代の戦争において勝利を納めるには、兵力や戦略のみならず、優秀な兵器が不可欠である。そのため、敵国・対立国より優れた兵器を多く保持することが重要になり、戦時中はもちろん平時においても、その開発・生産が活発に行われている。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "例えば、東西冷戦においては、米ソの直接対決こそなかったものの、核兵器や戦車などの熾烈な開発競争が行われ(核兵器については、開発競争により核戦力の均衡が保たれていたからこそ現実に核戦争が起こらなかったとする見方もある)、代理戦争はそれらの兵器の実験場でもあった。また、人類を宇宙や月に送った宇宙開発競争も、ロケット技術が戦略核を搭載する大陸間弾道ミサイルなどのミサイル技術に直結していたことが大きな推進力となっていた。",
"title": "戦争のさまざまな局面"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "戦争に関する国際法には大きく二つの体系がある。軍事力の行使が合法かどうかを定めている「開戦法規」 (jus ad bellum, ユス・アド・ベッルム)」と、戦争におけるさまざまな行為を規律する「交戦法規」 (jus ad bello, ユス・アド・ベッロ) の二つである。前者は国連憲章が基本的に根拠になっており、後者は「戦時国際法」「武力紛争法」「国際人道法」とも呼ばれ、その主な根拠となっている条約にジュネーブ条約などがある。一般的に戦争犯罪と呼ばれる行為とは、戦時国際法に違反する行為を指す。(極東国際軍事裁判におけるA級戦犯はこの戦時国際法とは無関係である)また戦時国際法は作戦領域から、陸戦法規、海戦法規、空戦法規に分類されることもある。",
"title": "国際法における戦争"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "伝統的国際法においては、戦争は国家の権利であったが、現代国際法においては武力行使の禁止に伴い、戦争そのものが禁止されている。具体的には、1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)および1945年の国連憲章2条4項により、武力行使は違法化された。ただしパリ不戦条約では実質的な紛争解決機能が盛り込まれなかったために第二次世界大戦が勃発し、そのため国連憲章が改めて定められた。国連憲章において国際社会の平和と安全が破壊される違法行為があれば、集団安全保障体制で場合によっては軍事的措置を講ずることも定められた。また国連加盟国は個別的、集団的自衛権の行使が認められている。すなわち現代における戦争を行う原則は以下の通りとなる。",
"title": "国際法における戦争"
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"text": "戦争においては無制限の暴力が交戦国によって行使されるが、しかし現代の戦時国際法においては「軍事的必要性」と「人道性」の原則がある。軍事的必要性はさまざまな軍事作戦の遂行に不可欠な行動などを正当化する原則であり、一方で人道性とは最小限の人命損失、不要な破壊、文民に対する攻撃、過剰な苦痛などの軍事作戦にとって不適切な行動を禁止する原則である。またこのほかにも戦時国際法においては攻撃目標、戦闘方法、非戦闘員の対応、中立国との関係などが定められており、軍隊の各級指揮官や部隊の戦闘行動を規定している。この戦時国際法を違反することは、国際社会からの非難を受けることや、責任者が戦争犯罪に問われることなどによって処罰されることになり得る(戦時国際法を参照)。",
"title": "国際法における戦争"
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"text": "物品・サービスのシェア・覇権争いなどを、現実の戦争になぞらえて「○○戦争」と呼ばれることがある(ビデオ戦争、ゲーム機戦争、ブラウザ戦争、HY戦争など)。",
"title": "比喩的な用法"
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]
| 戦争とは、兵力による国家間の闘争である。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは国際紛争の平和的解決である。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、違法性が認定されてきた。 21世紀に入り、地球規模で敷設されたITインフラを通して膨大な情報が世界中で流通するようになると、物理的な攻撃を伴わない国家間の争いが増加した。そのような争いの比喩として、情報戦・経済戦争・貿易戦争・サイバー戦争・受験戦争などという言葉も用いられるようになった。 | {{Otheruseslist|歴史上の戦争|戦争の一覧|戦争一覧|その他の「戦争」|戦争 (曖昧さ回避)}}
{{multiple image|perrow = 2|total_width=400
| image1 = Tiepolo_Vercellae.jpg
| caption1 = [[ウェルケラエの戦い]]、[[紀元前101年]]
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| caption3 = [[遼陽会戦]]、1904年
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| caption4 = [[珊瑚海海戦]]。炎上中の空母レキシントン。[[第二次世界大戦]](1942年)
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| caption5 = [[核戦争]]。核砲弾によるテストが行われたグレイブル実験。[[アップショット・ノットホール作戦]](1953年)
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| caption6 = [[湾岸戦争]]、[[砂漠の嵐作戦]]。[[アメリカ空軍]]の[[F-16 (航空機)|F-16]]、F-15C、[[F-15E (航空機)|F-15E]](1991年)
}}
'''戦争'''(せんそう、{{lang-en-short|war}})とは、[[兵力]]による[[国家]]間の闘争である<ref name="国際法辞典217-219">「戦争」[[#国際法辞典|『国際法辞典』]]、217-219頁。</ref>。広義には[[内戦]]や[[反乱]]も含む([[戦争一覧]])。集団を形成するようになる有史以来、人類が繰り返してきたものである。戦争に対を為すのは[[国際紛争の平和的解決]]である<ref name="国際法辞典118-119">「国際紛争の平和的解決」[[#国際法辞典|『国際法辞典』]]、118-119頁。</ref>。[[銀行]]などが引受けた巨額の戦費は慢性的な[[租税]]負担となる。[[市民]]生活に対する制限と攻撃は[[個人の尊厳]]を蹂躙する。時代ごとの考え方によって、[[違法性]]が認定されてきた<ref>三石善吉 [http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2004/03.MITSUISHI.pdf 戦争の違法化とその歴史] 東京家政学院筑波女子大学紀要第8集 2004年 pp.37-49.</ref>。
[[21世紀]]に入り、地球規模で敷設されたITインフラを通して膨大な情報が世界中で流通するようになると、物理的な攻撃を伴わない国家間の争いが増加した。そのような争いの比喩として、[[情報戦]]・[[経済戦争]]・[[貿易摩擦|貿易戦争]]・[[サイバー戦争]]・[[受験戦争]]などという言葉も用いられるようになった。
== 概説 ==
[[画像:Jaakarit_vaasan_torilla.jpg|thumb|200px|[[フィンランド内戦]], [[1918年]]。[[ヴァーサ]]の広場に集まったイェーガー大隊。マンネルハイムが視察している。]]
戦争とは軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為(行為説)、または用いた結果生じる国家間の対立状態である(状態説)。一般に、国家もしくはそれに準ずる集団が、自衛や利益の確保を目的に武力を行使し、戦闘を起こす事。戦争は太古から続く[[人類]]の営みの側面であり、最も原始的かつ[[暴力]]的な紛争解決手段であると言える。
[[政治]]だけでなく、[[経済]]、[[地理学|地理]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]、[[技術]]など広範にわたる[[人間]]の活動が密接に関わっており、その[[歴史]]的な[[影響]]は非常に大きい。近代以降の戦争は陸海空軍等の[[軍隊]]のみの武力戦だけでなく、一般国民を広く巻き込む[[総力戦]]の様相を呈することもあり、外交戦、宣伝戦、謀略戦、経済戦、貿易戦、[[補給戦]]、技術戦、精神戦などの闘争を本質的に包括しており、相互に関係している<ref>本郷健『戦争の哲学』(原書房、1978年)46-47頁</ref>。そして結果的には、その規模にもよるが、[[国際関係]]や[[社会]]や経済など幅広い分野に破壊的な影響を与え、[[軍人]]や[[民間人]]の人的被害から[[インフラストラクチャー|インフラ]]の破壊、経済活動の阻害など[[社会]]のあらゆる部分に物的被害を与えることとなる。一方で、[[科学]]、技術、[[外交]]、[[戦略]]論、[[組織 (社会科学)|組織]]論、[[戦術]]論、[[兵器]]・[[武器]]の発展をもたらしてきた側面もある。また、[[軍需景気]]により生産設備に被害を受けなかった[[戦勝国]]や[[第三国]]の経済が潤う場合もある(例:[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国|米国]]や第一次世界大戦後と[[朝鮮戦争]]後の[[日本]])。また、戦争の敗北により[[近代オリンピック]]や[[FIFAワールドカップ]]等のスポーツ国際大会への参加を禁じられるケースもある。
今では、大規模戦争の多くが[[総力戦]]や[[核戦争]]となり、勝敗に関わらず国家や国民をいたずらに消耗させる事から起こりにくくなっている。[[帝国主義]]のような戦争による国家の成長は過去のものとなり、[[人道主義]]の観点からも忌避される傾向となっている。[[1928年]]のパリ[[不戦条約]]締結以降、[[国際法]]的に[[自衛戦争]]以外の[[侵略戦争]]は禁止されている。[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降、世界的には[[対テロ戦争]]が主流となった。
その発展や勝敗には原則的、法則的な事象が関連していると考えられており、[[軍事学]]において[[戦理]]や戦略・戦術理論の研究、[[戦闘教義]]の開発、[[兵器]]開発、定量的な[[OR|作戦研究]]、[[軍事史|戦史]]研究などが行われている。[[s:国際連合憲章#第2条|国連憲章2条]]4項は戦争だけでなく武力の行使を一般的に禁止した([[武力不行使原則]])<!-- <ref name="杉原9"/> -->。
== 定義 ==
戦争という[[概念]]は[[国際法]]上の概念と[[軍事]]上の概念では差異があるため、区別して用いなければならない。
軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば[[国家]]であるが、[[法 (法学)|法]]的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。[[アメリカ軍|米軍]]では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、[[平和維持活動]]や対[[テロリズム]]作戦などを展開する「[[紛争]]」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している<ref>Field Manual 100-5, Operations, Department of the Army(1993)</ref>。また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。
[[国際法]]において、戦争の当事者は一般的に[[国家]]であると考えられており、伝統的な慣習[[国際法]]の観点からは[[宣戦布告]]によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での[[武力衝突]]は紛争と呼ばれ、たとえば[[民族]]間であれば「[[民族紛争]]」と呼ばれる。
ただし、[[国家]]でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、[[南北戦争]]において[[1861年]]に[[イギリス]]が南軍に対して[[交戦団体]]承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。
* [[内戦]]の当事者は一国内における[[政府]]と反逆者(反政府勢力や、革命などにより新政権樹立を目指す勢力・政治団体等も含まれる)である。厳密には[[国際法]]上の「戦争」ではない。ただし、既存政府側による交戦者承認があれば国際法上の[[戦時国際法|戦争法規]]が適用される。
* [[独立戦争]]の当事者は全体としての国家と部分としての[[地域]]や[[植民地]]である。これは内戦の一種であるという見方と、独立しようとする勢力を暫定的に国家とみなして国家間の対立とする見方が可能である。ただし、現代においては[[国連憲章]]にも謳われている人民自決権の概念が国際社会の根本的な価値として認められたことからも、植民地支配及び外国による占領に対し並びに[[人種差別]]体制に対する武力紛争の場合は内戦(非国際武力紛争)ではなく国際的武力紛争として扱われる。これに伴い、国家間に適用される国際人道法ならびに[[戦争法規]]が適用されることになる。
歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、{{要出典範囲|[[文化人類学]]の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い|date=2015年11月}}。[[考古学]]では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている<ref>佐原真「日本・世界の戦争の起源」、仮名関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年</ref>。
== 歴史 ==
{{main|軍事史}}
[[ファイル:MokoShuraiE-Kotoba IV.jpg|thumb|200px|『[[蒙古襲来絵詞]]』から、元・高麗軍に白兵攻撃を仕掛ける日本軍。左端で首を取っている武士は[[竹崎季長]]{{Sfn|服部|2017|p=190}}]]
[[猿人]]や[[原人]]の[[食人]]説が、オーストラリアの考古学者[[レイモンド・ダート]]によって1960年代まで繰り返し主張された。また、1930年代に[[北京原人]]食人説がドイツの人類学者[[フランツ・ワイデンライヒ]]によって疑われた。しかし、世間では北京原人食人説はいよいよ有名になってしまった。これらのことから、猿人・原人の食べ合いが人類の歴史とともにあったと解釈し、広めたのがアメリカの作家[[ロバート・アードリー]]であった。さらに動物行動学を興してノーベル賞を受けたオーストリアの[[コンラート・ローレンツ]]は『[[攻撃行動|攻撃]]』という、人類の攻撃的本能を説いた。この本能説がさらに広がった。という説を立てている。
ただし、猿人の殺人・食人の疑いを考古学者ボブ・ブレインが示している。また、北京原人の食人説については、その後の研究で世界の人類学者が疑いを示している<ref>佐原真「ヒトはいつ戦い始めたか」、金関恕・春成秀爾編『戦争の考古学』佐原真の仕事4 岩波書店</ref>。
判明している情報では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年である<ref>本当の戦争―すべての人が戦争について知っておくべき437の事 ISBN 978-4087734102</ref>。
<!--
戦争とは人間の攻撃あるいは防御行動の帰結による状態の一種であり、その影響は兵器や通信などの軍事技術の領域から国民国家や国際社会の形成にまで及ぶ。戦争は[[人類]]の全歴史を通じ、全地域において行われてきた。6000年以内の史料が残っている時代に限定したとしても、戦史家によれば戦争が起こった回数は15000回以上であると考えられている。<ref>防衛大学校軍事学研究会『軍事学入門』(かや書房)98頁</ref>もっとも、その程度と頻度にはその政治的環境による有意な差がある。何をもって戦争の始まりとみなすかは諸説があり、定見とよべるものはない。
-->
=== 先史時代 ===
[[文字]]記録が残っていない[[先史時代]]の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいる[[アフリカ]]や[[オセアニア]]の地域から、その形態を推察することができる。狩猟採集社会の観察からは、原初のヒトが置かれた環境においても資源の獲得や縄張り争いによって集団対集団の戦争が行われることを示唆している。
イラクの[[シャニダール洞窟]]に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である<ref>佐原真「戦争について考える」、『考古学つれづれ草』小学館 2002年</ref>。
縄文時代の暴力による[[死亡率]]は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ3Z52KVJ3ZTZNB018.html 朝日新聞2016年3月31日]2016年4月10日閲覧</ref>
12,000 - 10,000年前頃([[後期旧石器時代]]末)の[[ナイル川]]上流にある[[ジェベル=サハバ117遺跡]]は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに116個もの石器([[細石器]])が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている<ref>佐原真「日本・世界の戦争の起源」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店</ref>。
<!--
ある文化での戦争形態は[[儀式]]的な側面が強く、ある集団の習慣などが他の集団により侵害された場合に自らの正当性を示すため、対立勢力が対峙する中で一騎打ちの形態で行われる。使用される[[武器]]も鉄製ではないため、死者が出ることはほとんどなく{{fact}}、死者が出てしまった場合はすぐに[[除霊]]の儀式を受けなくてはいけない。このような方法で決着をつけるのには、いくつかの理由が存在する。まず小規模な集団同士の紛争となるため、全面的な対決となれば双方共に壊滅的な被害が生じることが考えられる。また紛争の争点となるものはしばしば領土の所有権をめぐるものであるため、敵を全滅させる必要性が存在しないことも理由としてある。したがって政治的または経済的な利益のために政策的に戦争を行うことは非常にまれであったと思われる{{fact}}。
-->
=== 古代文明の戦争 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[ファイル:Siege-alesia-vercingetorix-jules-cesar.jpg|200px|thumb|right|[[古代ローマ]]の英雄[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]を描いた戦争画]]
[[古代]]では、[[農業]]の発達により人口が増加し経済的な富が蓄えられたことで、[[国家]]体制が整えられていき[[通信]]が整備された。この為、戦争の規模や軍事組織も拡大した。それぞれの文明は自己の安全を保障し、また自己の勢力を拡大するために闘争し、集団的利益のために征服戦争すら行われた。
また[[土器]]・[[石器]]から[[青銅器]]・[[鉄器]]を利用した[[兵器]]や[[武器]]の開発が進み、[[軍事力]]の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が[[都市国家]]へと成長し、[[ペルシア]]や[[ローマ]]のような[[帝国]]に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には[[科学]][[技術]]が発達して、戦車(二輪)や投石器、[[弓矢]]などが新[[兵器]]として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から[[会戦]]という形態に移行していった。
=== 中世ヨーロッパ ===
[[ファイル:Gothic Battle of Mons Lactarius on Vesuvius.jpg|200px|thumb|right|[[552年]]に起きた[[東ローマ帝国]]と[[東ゴート王国]]の戦い]]
古代、[[西ローマ帝国]]が[[ゲルマン]]の[[フォエデラティ|同盟部族]]に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、[[フランク王国]](欧州北西部)、[[西ゴート王国]]([[イベリア半島]])、[[ブルグント王国]](欧州東部)などが成立していった。[[中世前期]]に成立した[[神聖ローマ帝国]]は8世紀から15世紀に至るまで[[ウマイヤ朝|イスラムの王朝]]と[[レコンキスタ]]の戦いを行った。
[[中世盛期]]には、[[フランクとモンゴルの同盟]]を後ろ盾として、カトリック教会そのものが呼びかけて数次にわたる[[十字軍]]戦争も行われたが成果は乏しかった。また、[[西フランク王国]]は[[フランドル]]の[[ブルッヘ]]に[[ハンザ同盟]]の在外商館や[[取引所]]を置き国際貿易を拡大させていたが、14世紀になると[[フランス王国]]と[[イングランド王国]]とのあいだで[[百年戦争]]が争われた。この戦費の調達においてフランスは[[ジェノヴァ共和国]]、イングランドは[[ヴェネツィア共和国]]に{{仮リンク|戦債|en|War bond|preserve=1}}を引き受けさせている。
[[中世]]ヨーロッパにおいては儀式的な要素も根強く残っており、[[カトリック教会]]による世俗権力への政治的な統制は戦争の発生を抑制していた。ただし中世にも多くの軍人らが存在し、また技術的には甲冑を装備した騎兵が有力であったが、たとえば[[イギリス]]の[[プランタジネット朝]]と[[フランス]]の[[バロア朝]]による[[百年戦争]]は王位をめぐって長期間にわたってフランスにおいて行われたものの、フランス社会全体に作戦期間相応の壊滅的な被害をもたらすことはなく、断続的かつ散発的な戦闘が休戦を挟みながら行われていた。これは長期間にわたって大規模な戦力を維持することが当時の軍隊には能力的に困難であったことや、キリスト教世界としての政治的な団結を保持していたこと、また軍事技術の制約から作戦行動の長期化や大規模化が難しかったことなどが理由として挙げられる。戦争の恐怖はむしろ作戦部隊の[[兵站]](物資の補給)業務が不在であり、また規律が不十分な兵士たちが自らの糧食を確保するために勝手に現地で略奪を行うため、現地住民はそのたびに被害を受けていた。
[[中世後期]]、イベリア半島のスペインは遠洋航海を可能とする[[キャラック船]]を発明し、15世紀初頭からポルトガルとともに[[大航海時代]]を齎し、アフリカ、インド、東南アジア、南アメリカに進出するが、こうした貿易船は[[海賊]]対策のため軍船としても発達し、[[スペイン帝国]]、[[ポルトガル海上帝国]]が形成される。1440年代には[[商人]]は日本にも到達し[[鉄砲伝来|鉄砲]]を伝える。
=== 近世ヨーロッパ ===
1453年、[[オスマン帝国]]が[[東ローマ帝国]](ギリシャ)を滅亡させ地中海の[[制海権]]を獲得し、地中海の交易に高い関税がかかるようになる。1496年にイタリアを巡って起きた[[イタリア戦争]]は欧州のほとんどの国を巻き込み、のちの1557年にスペインとフランスが破産を宣言するに至って終結した。この戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩があった<ref name="Max Boot 2006">Max Boot, ''War Made New: Technology, Warfare, and the Course of History, 1500 to Today'' (New York: Penguin Group Inc., 2006), 4–5.</ref>。
一方、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]]は1477年に[[ヴァロワ・ブルゴーニュ家]]の[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]を承継し、1516年には[[スペイン]]王も兼ねるようになり、1528年に[[ユトレヒト]]の[[司教領|カトリック司教領]]を没収し、1531年にはオスマンとの争いやイタリア戦争の戦費調達等のため[[ブラバント公国]]に[[アントワープ証券取引所]]を設立し、[[ガレオン船]]の造船などにより経済や貿易を発達させた。欧州の各国も、これに倣って[[証券取引所]]を設立した。
1534年に[[イギリス国教会]]が[[カトリック教会]]から離脱しプロテスタントの思想が広まり始め、この流れから[[宗教改革]]が進行してゆき、フランスは[[ユグノー戦争]]に入り、[[神聖ローマ帝国]]では[[ネーデルラント17州]][[フランドル]]のオランダ人蜂起により[[八十年戦争]]が勃発し、またさらに[[英西戦争]]が始まる。[[スペイン・ハプスブルグ家]]は1580年にポルトガルを承継するが、プロテスタント勢力が支配的になった[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント北部]]はハプスブルクから独立した形になり、1602年に[[アムステルダム証券取引所]]と[[オランダ東インド会社]]を設立して[[植民地]]を拡大し、[[オランダ海上帝国]]を形成していく。また同時に{{仮リンク|オランダ・ポルトガル戦争|en|Dutch–Portuguese War|preserve=1}}も始まる。
欧州の八十年戦争は、1648年の[[ヴェストファーレン条約]]により北部の[[ネーデルラント連邦共和国]]が正式に独立したことにより終結したが、1651年からは4次に渡る[[英蘭戦争]]が生じ1784年まで続いた。[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]はオスマントルコと[[大トルコ戦争]]も争い、その後は[[ハプスブルク帝国]]内における継承戦争もあった。こうした中で[[戦列艦]]が発達した。
これらの戦争と並行して、フランスやイングランドがアジアやアメリカ大陸に植民を行ったが、北アメリカでは16世紀から18世紀にかけて、[[植民地]]の造営を巡り[[インディアン戦争]]や[[フレンチ・インディアン戦争]]、[[アメリカ独立戦争]]が生じた。
=== 戦争の近代化 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[ファイル:Napoleons retreat from moscow.jpg|200px|thumb|right|[[ナポレオン戦争]]における[[1812年ロシア戦役]]]]
[[帝国主義]]に基づく[[植民地]]支配は富の集積を実現し、[[イギリス|英国]]は[[産業革命]]を実現できた。それによって[[工業]]の発達が[[軍艦]]や[[銃器]]の性能を引き上げた。[[軍事技術]]の発達は戦争の形態を大きく変化させる。[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)]]は軍事改革の中で[[常備軍]]の制度を確立し、その後の戦争のあり方を基礎付けた。また計画的な兵站や規律を保つための[[軍事教育]]などもこのころに整備され、各国で同様の制度が採用されるようになる。特に[[歩兵]]の重要性が[[小銃]]の開発により高まったことは、完璧な陣形や規律正しさを軍隊の各兵員に求めることになる。また[[火砲]]の登場により[[砲兵]]という兵科が確立されたのもこの時代であり、戦略や戦術、軍事[[土木工学]]などの分野も大きな前進を見る。近代化が、さらなる戦争の拡大につながると考える人が、非常に多数派である。
アメリカ大陸では19世紀前半には[[米英戦争]]、19世紀後半には[[米墨戦争]]、[[南北戦争]]、[[米西戦争]]、[[米比戦争]]があった。
=== ナポレオン戦争 ===
[[フランス]]で起こった[[フランス革命]]が[[国民国家]]の体制をもたらして中央集権に基づく[[徴兵制]]によって、軍隊の大規模化を可能とした。そして[[ナポレオン・ボナパルト]]はこれまでの[[戦略]]・[[作戦]]・[[戦術]]の抜本的な合理化を行う改革に取り組み、[[国家総力戦]]の体制の原型を整えた。さらに[[銃器]]・[[火砲]]などの[[兵器]]の発展が被害者数を甚大なものとし、ナポレオンはこのような高度な軍事力を運用して殲滅戦<ref group="注釈">敵を完全に殲滅して敵国の抵抗力を徹底的に破壊する戦略。</ref>を行い、[[ナポレオン戦争]]においてはヨーロッパ大陸のほとんどを支配するに至った。このナポレオンの戦争指導はアメリカ南北戦争やその後の軍事研究に大きな影響を残す。
=== 世界大戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[ファイル:1944 NormandyLST.jpg|200px|thumb|right|[[ノルマンディー上陸作戦]]]]
[[第一次世界大戦]]や[[第二次世界大戦]]では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消費が長期間にわたるという新しい戦争の形態である[[国家総力戦]]が発生した。その戦争形態を維持する必要性から「国家総力戦体制」と呼ばれる[[戦時体制]]が出現することになる。
第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約200万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず、戦争の長期化と大規模化が決定付けられた。結果的にはこのような大戦争によりもたらされる経済的または心理的な損害により、各国は深刻な社会的混乱や政治的な打撃を被った。このような戦争を繰り返さないためにも国際連盟を通じた戦争の抑制が企図されたがアメリカは参加せず、またドイツは莫大な賠償金により経済的な打撃を受ける。第二次世界大戦においては再び大規模な戦争が繰り返され、この大戦ではせん滅的な長期戦に展開して一次世界大戦の二倍の戦死者が出た。また航空機の発達によって[[航空作戦]]が実施されるようになり、航空機による[[戦略爆撃]]は[[戦闘員]]だけでなく[[民間人]]にも多数の被害者が出ることとなり、政治的または経済的な混乱が長期間にわたって続いた。
=== 冷戦期 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
世界大戦の反省から[[国際連合]]などの[[国際機関]]が発展して戦争の抑制が図られるものの、アメリカと[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソビエト]]の台頭、さらに[[大量破壊兵器]]の登場によって[[核兵器]]や[[ミサイル]]による[[核戦争]]の可能性を生み出した。また現代的な[[軍事技術]]の開発が躍進的に進んだことから現代の戦争の勝敗は[[テクノロジー|科学技術]]の開発に大きく左右されるようになっている。しかし同時に従来の正規軍による軍事作戦とは異なる革命または反乱という“非対称の戦争”が行われるようになり[[不正規戦争]]と呼ばれるようになる。核戦争へと発展しないように限定的かつ段階的な軍事力が行使される戦争として[[限定戦争]]([[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連によるアフガン侵攻]]など)が行われるに至っている。
=== 冷戦後 ===
[[ファイル:US Army soldiers in a firefight near Al Doura, Baghdad.jpg|200px|thumb|right|[[イラク戦争]]における[[アメリカ軍|米軍]]]]
冷戦後は[[イデオロギー]]の対立というよりも[[民族]]・[[宗教]]の対立による[[内戦]]が世界各地で勃発するようになり、形態はかつての伝統的な戦争よりも複雑多様化している([[ボスニア紛争]]など)。特に[[イスラム原理主義]]や[[民族主義]]による[[テロ]]が[[先進国]]を悩ませ、それに対する報復戦争や内戦が起きる事態となっている(アメリカによるアフガン侵攻、[[イラク戦争]]、[[チェチェン紛争]]など)。
2つの世界大戦以後から冷戦期にかけて、領土の占有を最終目的とする形態の戦争は減少し、特に冷戦後は、政治体制や宗教体制を自陣の望むものとするための戦争や紛争が主体となっている<ref>石津朋之、ウィリアムソン・マーレー著 『21世紀のエア・パワー』 芙蓉書房出版 2006年10月25日第1刷発行 ISBN 482950384X</ref>。
2020年から2021年にかけて、[[インド]]と[[中華人民共和国]]の両国兵士がヒマラヤの国境付近で戦闘状態に陥ったが、核兵器を持ち合う両国は戦闘を戦争レベルに発展させないために、あえて[[火器]]を使用せずに[[クギ]]を打った棒や素手で攻撃をするものとなった。数十人単位の死者が出るという穏やかなものではなかったが、新たな戦争の形態や抑止の在り方を示唆するものとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-06-26 |url=https://special.sankei.com/a/international/article/20200626/0001.html |title=クギを打った棒や素手で殴り合い 中印衝突で 奇妙な戦闘の舞台裏|publisher=産経新聞 |accessdate=2021-02-13}}</ref>。
[[2022年]]2月24日、[[ロシア]]による[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]が行われ、ロシアの領土拡大を目的とした本格的な[[侵略戦争]]が勃発した。[[20世紀]]に起きた2度の[[世界大戦]]の反省を踏まえて、[[国際協調主義|国際協調]]が進められていた[[21世紀]]においては珍しい形態の戦争であり、国際社会の秩序を大きく揺るがす事態となった<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア、ウクライナ複数都市を攻撃 首都空港巡り戦闘(写真=AP) |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR246ZK0U2A220C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-02-24 |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]時代の到来により、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]でもリアルタイムに戦況が報じられるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=ロシアのウクライナ侵攻、ネット上に情報続々 宣戦布告はYouTubeに、火の手の様子はTwitterに、航空機の状況はFlightradar24に |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2202/24/news126.html |website=ITmedia NEWS |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。
== 分類 ==
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争の類型に関しては、時代や[[戦術]]・[[戦略]]の変化に伴って多様化しており、また観察する視点によってもさまざまな見方ができるため、断定的に行うことは難しい。
=== 規模による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* [[総力戦]]とは[[国家]]の軍事力の増強に人的物的資源の全てを投入する形態の戦争であり、[[第二次世界大戦]]がこの代表例である。全面戦争とも言う。
* [[限定戦争]]とは全面的な戦争を避け、[[外交]]手段や限定的な軍事力を用いることによって政治目的を達成する戦争の形態である。局地戦、制限戦争とも言う。
=== 期間による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* 長期戦とは長期間にわたって行われる戦争である。作戦戦略的に両者が防勢または一方が防勢に出ている状態である場合が多く、戦術的には陣地防御や後退行動に出ている場合が多い。歴史に見れば、[[第一次世界大戦]]、[[日中戦争]]は典型的な長期戦であった。
* 短期戦とは短期間にわたって行われる戦争である。作戦戦略的に両者が攻勢に出ている状態である場合が多く、戦術的には機動攻撃に出ている場合が多い。実際には発生していないが、[[核戦争]]が勃発すれば短期戦となると考えられている。
<gallery caption="期間による分類" mode="packed" height="180">
File:British Mark I male tank Somme 25 September 1916.jpg| [[第一次世界大戦]]、[[ソンムの戦い]]に展開するマークI戦車「雄型」(1916年)
File:Bundesarchiv_Bild_101III-Zschaeckel-206-35,_Schlacht_um_Kursk,_Panzer_VI_(Tiger_I).jpg|[[第二次世界大戦]]、ティーガーI戦車を伴った[[第2SS装甲師団 ダス・ライヒ|『ダス・ライヒ』装甲擲弾兵師団]]の兵 士(1943年)
File:KoreanWarRefugeeWithBaby.jpg|[[朝鮮戦争]](1950年 - 1953年)
File:Members_of_5_Platoon_7_RAR_waiting_for_US_Army_helicopters_in_August_1967.JPG|[[ベトナム戦争]](1967年)
</gallery>
=== 戦法による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* [[殲滅]]戦とは短期間において敵戦力の徹底的な撃滅を目指して行う戦い方、またはその戦いを言うものであり、核兵器を用いない限りこれは局地の戦闘においてのみ適用され、戦争全体を言うことは厳密にはできない。
* 消耗戦とは長期間において敵戦力を徐々に減殺することを目指して行う戦い方、またはその戦いである。現実の戦争では遅滞作戦などで消耗戦となることが多い。
=== 正規性による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* '''正規戦'''とは国家間で遂行される伝統的な戦争の形態であり、近代に特に多く見られる形態の戦争である。堂々と部隊を戦闘展開し、[[攻撃 (軍事)|攻撃]]と[[防御 (軍事)|防御]]を行って勝敗を競うものであり、第一次世界大戦や第二次世界大戦がその代表例である。ただし、戦争の違法化や世界の複雑化などに伴い国家が正規戦を遂行するには莫大なコストと膨大な犠牲が伴うようになったため、現代においてこの形態の戦争は[[フォークランド紛争]]が挙げられる程度で、国家間が直接衝突する戦争は非常に少なくなっていたが、2022年には[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナに侵攻]]し、フォークランド紛争を遥かに上回る大規模な全面戦争が勃発している。
* '''不正規戦'''とは、伝統的な国家間の戦争ではなく、非国家の武装勢力と国家の[[軍隊]]という非対称的な構図の元に行われる争いのことであり、近年この形態の戦争が増加しつつある。主に[[テロ]]や[[ゲリラ戦]]が展開され、長期化する傾向にあることが特徴と言える。[[ベトナム戦争]]や[[チェチェン紛争]]、[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]などが例として挙げられる。
* 双方による[[宣戦布告]]なしになし崩し的に大規模な戦闘に発展した[[満州事変]]、[[日中戦争]](当時は「支那事変」と呼ばれた)はいずれの範疇に入るか微妙である。
=== 強度による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* 高強度紛争または戦争とは国家間による軍事力の行使であり、伝統的な戦争の形態である。
* 中強度紛争または[[紛争]]とは武装勢力同士の武力衝突、もしくは国家間の比較的小規模な武力衝突などを指す。[[国際法]]においては厳密な意味において、[[国家]]が主体となる戦争よりも包括的な概念である。また[[アメリカ軍|米軍]]においては全面的な戦争と、平時における混乱の中間段階だと認識されている。内戦も代理戦争とならない限り、しばしばこれに分類される。
** [[内戦]]は諸勢力が一国内において争う形態の戦争である。反政府運動や独立運動、[[反乱]]などが含まれ、国民は能動的、組織的に政府軍に対する作戦行動をとる。[[フランス革命]]や[[国共内戦]]や[[ズールー戦争]]などが挙げられる。大規模化することは少ないが、現代における戦争のほとんどが内戦の形態である。
* [[低強度紛争]]は国内の混乱から中強度紛争までの過程を指す。組織的な[[テロ]]や謀略戦、反乱活動、[[恐怖政治]]などがこれにあたる。
** [[恐怖政治]]とは国家が国民に対して行う武力を積極的に用いる政治であり、反政府の武装勢力が組織化されていない場合は、[[内乱]]の形態と非常に類似している。概ね国民は戦争自体を望んでいるわけではなく、組織的な作戦行動も限定的である。近代以降、国家の制度的、法律的な中央集権化が急速に進み、恐怖政治はより一層高度化することが可能となった。恐怖政治においては、通常の戦争よりも遥かに虐殺的な攻撃が政府によって行われる。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]や[[中国共産党]]などは恐怖政治を行った代表格として考えられている。
<gallery caption="内戦" mode="packed" height="180">
File:Bundesarchiv Bild 183-H25224, Guernica, Ruinen.jpg|[[スペイン内戦]](1937年)
File:11ACRCambodia1970.jpg|[[カンボジア内戦]](1970年)
File:Camille Chamoun Sports City Stadium 1982 - Aerial.jpg|[[レバノン内戦]](1982年)
</gallery>
=== 手段による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[ファイル:Hiroshima aftermath.jpg|thumb|220px|[[核戦争]]。[[核兵器]]を使用した戦争・[[広島市]](1945年)]]
* [[核戦争]]とは、[[核兵器]]を主要な兵器として用いた戦争の形態であり、[[冷戦]]期においては米ソが核兵器やミサイルの技術開発や軍拡を積極的に行い、核戦争に備えていた。対義語として非核戦争がある。冷戦体制がなくなったため、勃発の危険性は低下したと考えられているが、現在でも核兵器は完全に撤廃されているわけではない([[核戦争]]を参照)。
* [[大量破壊兵器]]とは、人間を大量に殺傷すること、または人工構造物(建造物や船など)に対して多大な破壊をもたらすことが可能な[[兵器]]のことを指す。
* [[非対称戦争]]とは、交戦主体間の軍事技術に大きな開きがある戦争である。典型例としては[[大航海時代]]におけるヨーロッパの軍隊と新大陸やアフリカの原住民との戦争が挙げられる。現代の先進国と開発途上国との戦争が非対称戦争と言えるかについては議論がある。
* [[サイバー戦争]]
* [[:en:Chemical_warfare|化学戦争]]([[化学兵器]])
* [[:en:Biological_warfare|生物戦争]]([[生物兵器]])
* [[:en:Radiological_warfare|放射能戦争]]([[放射能兵器]])
* [[:en:Space_warfare|宇宙戦争]]
* [[電子戦]]
* [[航空戦]]([[航空作戦]])
* [[陸戦]]
* [[海戦]]
<gallery caption="手段による分類" mode="packed" height="180">
File:Japanese Special Naval Landing Forces in Battle of Shanghai 1937.jpg|化学戦争。[[化学兵器]]、 サムネイル、[[日中戦争]]にて、防毒マスクを着けて突撃命令を待つ[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[海軍陸戦隊|陸戦隊]](1937年)
File:Trinity_Detonation_T%26B.jpg|[[核戦争]]。[[トリニティ実験]]での核爆発 (1945年)
File:Loutherbourg-Spanish_Armada.jpg|[[海戦]]。[[アルマダの海戦]]を描いた『無敵艦隊の敗北』(1797年)
File:Boeing B-52 dropping bombs.jpg|[[航空戦]]。爆弾を投下する[[B-52 (航空機)|B-52F]](1960年代)
File:Gerichteter-laser-dod-zeichnung_1-960x640.jpg|[[:en:Space_warfare|宇宙戦争]]。宇宙レーザーコンセプト
File:Petrol_truck_shipments_halted_during_Shamoon_attacks_on_1_September_2012.png|[[サイバー戦争]]。ウイルス「シャムーン(Shamoon)」2012年
</gallery>
=== 目的による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* [[侵略戦争]]は敵の領土に侵攻し、積極的に敵を求めてこれを攻撃、獲得した都市、領域を占領する攻勢作戦の方式をとった戦争である。戦術的には機動[[攻撃 (軍事)|攻撃]]を行い、獲得した地域や拠点はこれを[[占領]]する。
* [[防衛戦争]]は侵略してくる敵に対してこれを破砕し、自らの領土や財産などを守るための防勢作戦の方式をとった戦争である。戦術的には各種[[防御]]を行い、進攻する敵を排除する。
* [[宗教戦争]]とは主に宗教的(理念的)な組織による戦争である。熱狂的な信仰者はしばしば確信的な動機を持つため、政治的な外交交渉による解決が不可能な場合がある。また殉教の思想が戦闘員に普及している場合は、より積極的、好戦的になる傾向があるため、敵対勢力に対する攻撃が無差別テロなどに結びつく危険性がある。
※「[[自衛戦争]]」「[[予防戦争]]」「[[制裁戦争]]」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。
* 覇権戦争とは世界の覇権を制している覇権国家に対して、覇権を取ろうとすることによって起きる戦争である。<ref>{{Cite journal|last=Gilpin|first=Robert|date=1988|title=The Theory of Hegemonic War|url=https://www.jstor.org/stable/204816|journal=The Journal of Interdisciplinary History|volume=18|issue=4|pages=591–613|doi=10.2307/204816|issn=0022-1953}}</ref>覇権戦争をするのは大国同士であることが多いため、戦争の規模は大きくなりやすい。現在では米中の覇権戦争が繰り広げられているが、どちらも核武装しており武力を使うと被害が少しではすまないと分かっているため、経済戦争が起きている。
=== 歴史による分類 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
フランスの[[歴史学]]者{{仮リンク|ジョルジュ・カステラン|fr|Georges Castellan}}によると、戦争は歴史的な観点から以下のように分類される。
[[人類]][[黎明]]期の戦争
* [[部族]]または[[民族|種族]]社会の戦争
* [[地域国家]]時代の戦争
* [[都市国家]]時代の戦争
* [[古代]]帝国時代の戦争
* [[中世]]の戦争
* 前期[[近代]]の戦争([[宗教戦争]]、[[民族主義]]戦争、[[植民地]]戦争など)
* 後期近代の戦争([[第一次世界大戦]]までの戦争、[[第二次世界大戦]]間での戦争)
== 戦争の本性 ==
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争にどのように勝利するのかではなく、戦争とは何なのかという問題を考察するためには戦争の内部の構造がどのようになっており、どのような原理が認められるのかを明らかにすることが必要である。古代の戦争学的な論考に、哲学者[[プラトン]]の『[[国家]]』があり、その中で哲学者[[ソクラテス]]はさまざまな領域の職人、専門家によって構成された自足的な国家を想定しているが、国家が成立したとしても人間の欲求は際限なく拡大し続けるために、自足する以上の資源を求めて他の共同体に対して戦争が発生すると論じている。これは戦争の根本を[[国家]]に求める見方であり、実際に軍事史においても国家は戦争の主要な行為主体であった。しかし、これは戦争の限定された本質を明らかにしているに過ぎない。戦争がランダムに起こったわけではないことは留意すべきだから、親社会的な行動などが戦争を防ぐのに役立つかどうかは、やはり興味があるところである<ref>{{Cite web |title=Relationship Between Conflict and Prosocial Behaviours |url=https://www.visionofhumanity.org/experience-of-conflict-and-prosocial-behaviours/ |website=Vision of Humanity |date=2023-04-04 |access-date=2023-04-08 |language=en-US |first=Puja |last=Pandit}}</ref>。
=== 闘争 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
そもそも戦争が成り立つ以前に、人間がなぜ[[対立]]するのかという問題がある。社会学者[[マックス・ヴェーバー|ヴェーバー]]の『社会学の根本概念』によれば、ある主体が相手の抵抗を排除してでも自分自身の意志を達成しようとする意図に方向付けられた社会的関係が[[闘争]]であると定義する。またこの闘争は物理的暴力に基づいた闘争や闘争手段を非暴力的なものに限定した平和的な闘争に分類できる。このような闘争が社会の中で発生する根本的な理由について政治思想家[[ホッブズ]]は『[[リヴァイアサン (ホッブズ)|リヴァイアサン]]』において国家や政治団体が存在しない[[自然状態]]を想定している。つまり各個人がそれぞれ等しく自己保存の法則に従って生活資源を獲得するため、また敵の攻撃を予防するために、結果として万人の万人に対する闘争が生じることになる。闘争において常に暴力が使用されるとは限らない。暴力によって相手を抹消しなくとも、交渉や協力によって争点を解決することは原理的に不可能ではない。しかし経済学者[[マルサス]]が『[[人口論]]』で述べているように、人口は生活手段の分量を超えて常に増大されるため、その過剰人口の出現は疫病、飢餓、戦争などの積極的制限によって調整されるために闘争は流血の事態にまで発展することになる。なぜなら生存が脅かされる事態は人間にとって常に極限状況であり、社会全体にとっても闘争を暴力化させる重大な動機でありうるものである。
=== 暴力 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[暴力]]とは万人が持つ個人の身体的、精神的な諸力の中でも他者に対して強制的に働きかける力に限定することができる。これは政治思想家[[ハンナ・アーレント|アーレント]]の定義であり、暴力は他者との相互作用を通じて行使する必要はなく、その機能は相手を殺害することである。しかし戦争における暴力を論考した研究では、暴力を通じてある種の相互作用が発生することが論考されている。この領域における古典的な著作に軍事学者[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の『[[戦争論]]』がある。戦争を特徴付ける最も重要な要素として着目されるべきは[[暴力]]である。クラウゼヴィッツによれば暴力は三種類の相互作用をもたらすものであり、それは相互に敵対的感情と敵対的意図を拡大させる第1の相互作用、相手を撃滅しようとする第2の相互作用、そして戦闘手段を敵と拮抗させようとする第3の相互作用である。これら相互作用を前提として考えれば、戦争における暴力は無制限に拡大する理論的な必然性がある。つまり集団間の戦争を想定すれば、それは暴力の性質に従って相互に暴力手段を拡大し続けながら相手を攻撃し続け、またそのための敵意を増大させ続けることになる。クラウゼヴィッツはこのような戦争の理念型を[[絶対戦争]]と呼んだ。しかし同時にこのような形態の戦争は現実の戦争で出現しているわけではない。その理由として絶対戦争と並んで提起されているものが政治目的の着眼点である。つまり戦争の無制限的な暴力化を抑制するものとして[[政治]]的制約が作用しており、戦争の性質を規定しているというものである。このことを端的に表現するクラウゼヴィッツの命題が「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長である」というものである。
=== 政治 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争は単なる暴力的な闘争状況であるだけでなく、本質的に政治が連関しているというクラウゼヴィッツの考察は政治学者[[シュミット]]によってより思想的に発展された。シュミットは独自の友敵理論を展開する中で政治的な概念には常に闘争的な意味があり、不可避的に敵と味方に区分されると論じる。このような政治観は[[マキアヴェッリ]]の政治思想や[[カール・マルクス|マルクス]]の階級闘争などにも認められるものである。シュミットによれば政治に内在する敵と味方の二分法はさらに敵概念の詳細に注意することで深めることができる。シュミットは『[[パルチザンの理論]]』において三種類の敵を導入しており、すなわち因習的で形式的な性質を持つ在来的な敵、実際的な性質を伴う現実の敵、犯罪者という性格を持つ絶対的な敵である。在来的な敵は人道的なルールに基づいた国家間の戦争における敵であり、現実の敵とは自らの実存にとって脅威となる敵、そして絶対的な敵とは相手を文明や階級、民族に対する犯罪者として差別化される敵である。戦争において相手がどのような特性を持つ敵なのかによって、政治目的は相手に僅かな制裁を加えるように軍事的手段を制限することも、また相手の存在を根本的に抹消させる軍事的手段を拡大させることも可能にするのである。戦争にとって政治の重要性は普遍的なものであり、戦争の規模、期間、列度、その影響は政治の状況や機能によって左右されると考えられる。
== 戦争の構成 ==
戦争における諸活動は高度に複雑であり、量的には以下のように分類することができる。
# 戦争 (war)
# 会戦 (campaign)
# 戦闘 (battle, combat)
# 交戦 (engagement)
# 合戦 (action)
# 決闘 (duel)
兵士単位での戦いである「決闘」が複数集まって、「合戦」が構成され、複数の合戦から交戦が構成されている<ref>飯田浩司著 『軍事OR入門』 三恵社 2008年9月10日改訂版発行 ISBN 9784883616428 195頁</ref>。ただしこのような個々の兵士の活動、師団の活動、国家の活動などで戦争の全体像を区分することはできない。交戦単位が艦艇や航空機となれば戦闘と決闘の間の区分は消失するものであり、また総力戦に至らない戦争においてはより事態は複雑である。
== 戦死者数の多かった戦争 ==
{| class=wikitable
|-
! 戦死者<br />(単位:百万人)
! 年
! 戦争名
|-
| 60.7〜84.6 || 1939〜1945年 || [[第二次世界大戦]] ([[第二次世界大戦の犠牲者]])<ref name="Wallinsky1996">Wallinsky, David: ''David Wallechinsky's Twentieth Century: History With the Boring Parts Left Out'', Little Brown & Co., 1996, {{ISBN2|0-316-92056-8|978-0-316-92056-8}} – cited by [http://necrometrics.com/20c5m.htm#Second White]</ref><ref name="Brzezinski1994">Brzezinski, Zbigniew: ''Out of Control: Global Turmoil on the Eve of the Twenty-first Century'', Prentice Hall & IBD, 1994, – cited by [http://necrometrics.com/20c5m.htm#Second White]</ref>
|-
| 60 || 13世紀 || [[モンゴル帝国|モンゴルの征服]] ([[:en:Mongol conquests|Mongol invasions]] と [[:en:List of Mongol and Tatar attacks in Europe|Tatar invasions]])<ref>Ping-ti Ho, "An Estimate of the Total Population of Sung-Chin China", in ''Études Song'', Series 1, No 1, (1970) pp. 33–53.</ref><ref>{{cite web|url=http://necrometrics.com/pre1700a.htm#Mongol |title=Mongol Conquests |publisher=Users.erols.com |accessdate=2011-01-24}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.globalwebpost.com/genocide1971/articles/general/worst_massacres.htm |archive-url=https://web.archive.org/web/20030517105614/http://www.globalwebpost.com/genocide1971/articles/general/worst_massacres.htm |dead-url=yes |archive-date=17 May 2003 |title=The world's worst massacres Whole Earth Review |accessdate=2011-01-24 |year=1987 |df= }}</ref>
|-
| 40 || 1850〜1864年 || [[太平天国の乱]] ([[回民蜂起]])<ref>{{cite web|url=http://concise.britannica.com/ebc/article-9380148/Taiping |title=Taiping Rebellion – Britannica Concise |publisher=Britannica |accessdate=2011-01-24}}</ref>
|-
| 39 || 1914〜1918年 ||[[第一次世界大戦]]([[第一次世界大戦の犠牲者]])<ref>{{cite web|author= Michael Duffy |url=http://www.firstworldwar.com/features/casualties.htm |title=Military Casualties of World War One |publisher=Firstworldwar.com |date=22 August 2009 |accessdate=2011-01-24}}</ref>
|-
| 36 || 755〜763年 || [[安史の乱]](不確実な)<ref>{{cite web|url=http://necrometrics.com/pre1700a.htm#AnLushan |title=Selected Death Tolls for Wars, Massacres and Atrocities Before the 20th Century |publisher=Users.erols.com |accessdate=2011-01-24}}</ref>
|-
| 25 || 1616〜1662年 || [[清]]、[[明]]の征服<ref name="users.erols">McFarlane, Alan: ''The Savage Wars of Peace: England, Japan and the Malthusian Trap'', Blackwell 2003, {{ISBN2|0-631-18117-2|978-0-631-18117-0}} – cited by [http://necrometrics.com/pre1700a.htm#Manchu17c White]</ref>
|-
| 20 || 1937〜1945年 || [[日中戦争]]<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwtwo/nuclear_01.shtml |title=Nuclear Power: The End of the War Against Japan |publisher=BBC News |accessdate=2011-01-24}}</ref>
|-
| 20 || 1370〜1405年 || [[ティムール]]の征服<ref>{{cite web|url=http://necrometrics.com/pre1700a.htm#Timur |title=Timur Lenk (1369–1405) |publisher=Users.erols.com |accessdate=2011-01-24}}</ref><ref>[http://necrometrics.com/pre1700a.htm#Asian Matthew White's website] (a compilation of scholarly death toll estimates)</ref>
|-
| 16 || 1862〜1877年 || [[回民蜂起]]{{citation needed|date=July 2016}}
|-
| 5–9 || 1917〜1922年 || [[ロシア内戦]] と [[:en:Allied intervention in the Russian Civil War|Foreign Intervention]]<ref>{{cite web|url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUScivilwar.htm |title=Russian Civil War |publisher=Spartacus.schoolnet.co.uk |accessdate=2011-01-24 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101205201225/http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUScivilwar.htm |archivedate=5 December 2010 }}</ref>
|}
== 戦争の原因 ==
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争は人間社会における対立によって生じるものであり、何らかの[[意志]]や理由を伴う。しかし戦争の[[原因]]についての一般理論は未だ完成されていない。その発生の過程にはさまざまな要因、誘因、[[環境]]が有機的に起因するは確かであり、無政府状態、勢力均衡、攻撃・防御バランス、好戦的[[イデオロギー]]、[[ナショナリズム]]、誤認などの多くの理論が提唱されている。ここではいくつかの戦争の原因として考えられている学術考察または理論について述べる。([[戦争哲学]]をも参照)
=== 国際政治 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[国際政治学]]ではまず[[国際社会]]において戦争が生じる理由は、国際政治が[[無政府状態]](アナーキー)であることがまず挙げられる。すなわち国際政治には国内政治のように中央政府のような集権体制が不在であり、紛争の平和的解決が強制できない。従って各国は自助努力を行う必要性に迫られる。第二に[[情報]]の不完全性がある。つまり戦争を回避するために必要な情報が必ずしも入手できず、例えば軍事情報についてはしばしば[[軍事機密]]によって秘匿されるために合意達成が確認できず、ここに猜疑心が生じる可能性がある。そして三つ目の原因として国内政治と国際政治の相互作用の関係が挙げられる。
=== 歴史統計 ===
軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに長期的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる<ref>ジェイムズ・F・ダニガン、ウィリアム・マーテル著、北詰洋一訳『戦争回避のテクノロジー』(河出書房、1990年)37頁</ref>。
* 長期的な不満とは[[領土]]問題、[[国境]]問題、地方の[[独立]]要求など、長期的に慢性化した不満を指す。この例としては[[日露戦争]]、[[パレスティナ問題]]、[[中東戦争]]などが挙げられる。
* 国内的な混乱とは国内の民族間対立、反政府運動など、国内における諸勢力の対立による収集不可能な事態を指す。この例として[[フランス革命]]、[[ルワンダ内戦]]などが挙げられる。
* 軍事的な優位とは、軍事力が非常に優位にあると認識し、戦争を簡単に解決できると考えることである。[[政府]]や[[世論]]にとってその認識が戦争開始の判断材料となる場合があるが、その優位の認識が実際軍事力を把握していない現実性のないものであった場合、開戦しても予想通りの戦果を挙げることができず、戦争が長期化、悪化する可能性が高い。この例として[[冬戦争]]、[[独ソ戦]]、[[朝鮮戦争]]、[[イラン・イラク戦争]]が挙げられる。
* 軍事的な劣位とは、軍事力が非常に劣位にあると認識し、先制攻撃だけが残された手段であると考えることである。この認識によって政府や国民が恐怖や焦りに支配され、軍事的優劣や戦争遂行の見通しを忘れてしまい、戦争開始を決断する場合がある。この例として[[奴隷反乱]]、[[インディアン戦争]]、[[太平洋戦争]]などが挙げられる。
=== 勢力分布 ===
世界的な大国が存在することによってその統一的な影響力を用いて国際秩序を安定化させる「単極平和論」が存在する。このような国際体制においては反抗できる勢力がそもそも存在しないため、戦争が発生する可能性を大きく低減できる。また反抗勢力を圧倒することによって覇権国家も政治的目的を達成するために軍事力を行使する必要がなくなる。ただしこの場合、属国群が長期的な不満を覇権国家に対して形成する危険性がある。平和主義の中で語られる[[世界連邦運動|世界連邦]]政府構想や国連常備軍構想は世界全体の単極平和論を志向したものと言え、現在の[[パックス・アメリカーナ]]は完全ではないが単極勢力構造に近い形態とされる。日本の[[江戸時代]]や中国の統一王朝時代、米国が新大陸においてアメリカ先住民掃討に専念する一方[[米墨戦争]]や[[南北戦争]]があった[[孤立主義]]([[モンロー主義]])時代などは概ね平和が保たれており、地域における単極平和論を支持する例とされる。
また勢力が均衡する二つの大国が互いに拮抗する場合、戦争が発生しにくいとする「双極平和論」も論じられる。この理論は不確実性による誤認・誤算によって戦争が勃発する点に注目し、双極であれば相互に相手の動向により的確に対応できるようになるため、安定的に勢力が均衡する可能性を論じている。米ソ冷戦時代が双極勢力分布の分かりやすい例であり、現実には双方の軍拡競争や[[ベトナム戦争]]や朝鮮戦争といった代理戦争は起こったが、恐怖の均衡により米ソの直接の戦争は起こらなかった。
また複数の大国が存在する場合、戦争は発生しにくいとする「多極平和論」もある。複数の国家がより柔軟かつ適切に同盟や勢力圏を形成することが可能となるので、対立関係が硬直化しにくいとし、勢力均衡を維持しやすいと論じている。現実の例としては戦前の米・英・独・仏・ソ連(ロシア)・イタリア・日本が世界における列強として君臨した時代がある。[[第二次世界大戦]]前の[[ヨーロッパ]]、[[中国]]の三国志時代や[[日本]]の戦国時代などは地域内で複数の勢力が存在していた。
しかし、どの勢力分布も歴史的に見れば戦争の頻度や規模を最小化することについて最適な組み合わせではないと一般的には考えられている<ref>防衛大学校・安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房、2005年)24-25頁</ref>([[勢力均衡]]を参照)。なお、国連憲章の目指すところは国連常備軍による単極平和論であり、1極を覇権国家専有武力ではなく国連加盟国共同武力とすることで覇権国の専横を防ぎつつ平和を目指す考え方である。
=== 地政学的・安全保障要因 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* [[遠交近攻]]:国境を接せず、領土紛争のない遠国と同盟して、国境を接する隣国を軍事的に圧迫して領土紛争を有利に解決しようとすることは2000年以上前から現在も行われている
* [[合従連衡]]:強大国と複数弱小国の構図になった場合、弱小国側は個別では各個撃破されてしまうので小国同盟(合従)を結んで強大国から自衛したほうがよい。強大国側は小国の「対岸の火事心理」を利用してAを除いたBCDと同盟を結んで(連衡)Aを併呑し、次いでCDと同盟を結んでBを侵略併呑し、合従同盟を破壊して、各個撃破してゆくのが合理的であり、現在でも使われている。
* 孤立化による併合:軍事力の直接行使は大国にとっても損害が大きいので、第三国に対して併呑対象の国と同盟を結ばないよう圧力をかけて併呑対象を孤立化させ、次いで併呑対象へ武器・物資を援助しないように圧力をかけて武装解除に追い込み、同時に併呑対象を経済的に依存させることで、抵抗の意思を挫き、軍事力・経済制裁による恫喝だけで併呑する
* 新興覇権国家は、自国の安全保障のため周囲を衛星国で固めることを志向する傾向が歴史上頻繁に見られる。
* 自然国境をはさんで老大国側の飛び地(または衛星国)が新興大国側にあるときは、新興大国側はそれを奪取して勢力境界線を自然国境に置こうとしてしばしば戦争がおきる原因となってきた。
=== 国家主義・民族的要因 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
* よく「現代では戦争で利益が得られることはないので戦争は起こらない」とする意見があるが、実際には「利益」を掲げて戦争が行われたのは必ずしも多数派とはいえない。また「国際社会の制裁を考えれば戦争などするはずがない」とする意見もあるが、国際社会の制裁や国民の餓死をものともせず核ミサイルの開発にひた走る国家も数例ある。特に近代以降においては大衆動員の必要性もあって、国家主義に訴える戦争目的が掲げられる場合が多い。例えて言えば、日本が北日本と南日本に分断されていた場合、[[民族]]統一を求める心情は金銭的利得とはなんら関係がないし、国際的な制裁も気にせず武力統一にひた走る人々が発生しても不自然ではない。小さな島嶼ですら、その奪還のために死にたくないと思う国民だけでなく、死を賭けても奪還したいという国民も発生するが、それは金銭的利得というよりも国家主義による。中国や北朝鮮が統一を求めるのも、台湾や韓国が併合されるのを嫌がるのも国家主義によるところが大きく、ソ連崩壊後も極東に於ける冷戦が継続中で軍縮交渉が困難な原因となっている。
* 19世紀の[[ドイツ統一戦争|ドイツ]]・[[イタリア統一戦争|イタリア]]も、ベトナム戦争も、朝鮮戦争も背景にあるのは[[国家主義]]である。
* 一方で、[[バルカン半島]]のような民族混在地は民族分布によって国境線を引くことが難しいために、戦争や少数民族虐殺の頻発する原因となっている。
* また、併合しようとする土地の少数民族の国家主義を煽り、一旦分離独立させてから保護国化するという手口もパナマ独立(米国が保護国化)や東ティモール独立(豪州が保護国化)など史上に散見される。
* また、経済困難や貧民の増大は「閉塞感」を増加させ、国家主義が蔓延しやすい。国家主義に憑かれた国民は対外強硬・排外主義に走りやすく、そのような国民の支持を得て、対外強硬に走る政治家が発生した例も多い。[[尊王攘夷]]、[[ナチス]]や[[ロシア自由民主党]]([[ネオナチ]])の勃興などの例が見られる。
=== 動態説 ===
1970年代になるとそれまでの[[勢力均衡]]理論による静態的な国際情勢の理解から転換して、世界秩序の構成要素の[[国力]]などは可変的であると考える動態説が現れた。例えば[[イマニュエル・ウォーラーステイン]]は16世紀以降の[[資本主義]]の発達は世界に強国と弱国の格差を生み、巨視的には中核、準周辺、周辺の世界システムを形成した。さらに中核においても、時代的には長期的優勢と中期的優勢の二種類があることが認められ、長期的優勢では生産力の拡大から[[プロレタリアート]]の政治運動に次いで[[福祉国家]]化及び[[社会主義]]的世界経済へと段階的に進んでいき、中期的優勢では資本主義の矛盾が表面化、経済成長の停滞、恐慌などに次いで準周辺国への技術移転並びに相対的な優位の低下という段階を進むとしている。また1987年には[[ジョージ・モデルスキー]]によって大規模な戦争は大体100年周期で発生する点に注目した100年周期説が提唱された。これはあらゆる秩序の[[エントロピー]]的衰退、国際的な秩序形成の衝動などが理由として挙げられている<ref>栗栖弘臣『安全保障概論』(BBA社、1997)116-119頁</ref>。
=== 国際経済の動向 ===
[[経済]]と戦争の危機には全く相反する視点がある。
まず第一に[[国際経済]]が停滞・後退すれば戦争の危機は高まるという考え方である。経済成長が[[不況]]や[[恐慌]]などによって悪化すれば、その縮小した利益をめぐる利害関係が国内経済、国際経済において悪化し、それが戦争の危機を高めることになると考えられる。また[[軍事費]]の拡大によって[[市場]]に[[資本]]を投入し、経済成長を促すため、軍拡競争が激化することも考えられるからである。
一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して[[資源]]や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な[[世論]]や[[社会]]的な[[心理]]が形成されると考えられる<ref>防衛大学校・安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房、2005年)25-27頁</ref>。
ただし、経済と戦争の関係性についてはデータや指標が非対称である場合や研究途上であることもあって、完結に結論できない<ref>防衛大学校安全保障学研究会『最新版 安全保障学入門』(亜紀書房、2005年)31-32頁</ref>。
=== ゲーム理論 ===
[[数学]]の[[ゲーム理論]]においては[[囚人のジレンマ]]状況と[[チキンゲーム]]状況の理論が戦争のモデルとされている。
[[囚人のジレンマ]]によると、例えば核兵器の保有を両方が自制するのが最も平和で安全であるが、疑心暗鬼の心理が働いて両方とも核保有で自国の安全と相手国の支配権を得たいと考える。しかしながら自国だけ自制して相手国が核を保有した場合には自ら不利になることを選ぶことになる。ただし両国とも核保有すると核戦争勃発の危険が最大となる。
[[チキンゲーム]]によると、例えば両国とも[[利益]]の追求を完全に放棄すれば最も平和で安全であり、また互いに申し合わせた妥協を履行すれば二分した利益と安全を確保できる。一方で相手国が譲歩することを衝突の直前まで期待して強硬策を実施して成功すれば半分以上の利益を確保出来るが、失敗すれば戦争が勃発することになる<ref>栗栖弘臣『安全保障概論』(ブックビジネスアソシエイツ社、1997年)
131-133頁</ref>。
=== 戦争原因の複雑性 ===
ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな[[軍事]]的、[[政治]]的要因だけでなく、[[法 (法学)|法]]的、[[経済]]的、[[社会]]的、[[集団心理]]的、[[文化的]]な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる{{efn|[[ベイジル・リデル=ハート]]は『戦争に関する考察(Thoghts on War)』において戦争の原因は突き詰めれば心理的なものであると考え、全感覚(あらゆる方面における知覚)を用いて戦争を理解しなければ、戦争を防止する展望は持ち得ないと論じた<ref>松村劭『名将たちの戦争学』(文春新書、2001年)18頁</ref>。}}。
[[歴史]]から学び、国内的な事情と国外的な環境を関係させ、個人の[[感情]]や[[意思]]を内包した歴史的[[必然性]]に戦争の原因というものは求められるべきものである。[[バターフィールド]]の『ウィッグ史観批判』で「歴史の教訓とは、人間の変化はかくも複雑であり、人間の行為や決断の最終的結果は決して予言できるような性質のものではないということである。歴史の教訓は、ただ細部の研究においてのみ学ぶことができ、歴史の簡略化の中では見失われてしまう。歴史の簡略化が、歴史的[[真理]]と正反対の宣伝のため企てられることが多いのもそのためである」と論じられているとおり<ref>古賀斌『戦争革命の理論』(東洋書館、1952年)128-139頁</ref>、本質的に戦争、特に近代における複合的な国際政治の展開によって発生する戦争は単一の誘因によって引き起こされたとする考えはきわめて側面的な考えである<ref group="注釈">[[戦争哲学]]の前提として戦争の原因論はその性質から観察者の哲学的・政治的・歴史学的・法学的な立場や[[バイアス]]などに大きく関わる。例えば決定論の立場で戦争の原因論を考察した場合、あらゆる要因がその戦争の発生を決定付けているために人間は本質的に戦争に責任を持つことができないということとなり、原因は起因したそれら諸要素となる。</ref>。
== 侵略と防衛 ==
[[軍事学]]において戦争はその作戦戦略の差異を主体別に見て侵略と防衛の二つの作用が衝突して発生するものであると考えられる。
まず[[侵略]]には法的な定義も存在するが、軍事的な定義としては外敵または内敵によって軍事力が先制行使され、侵入(invasion)、[[攻撃 (軍事)|攻撃]](attack)などの攻勢の作戦行動が実行されることである{{efn|国際政治学において侵略と認定する条件として、第一に武力行使、第二に先制攻撃、第三に武力による目的達成の意思、が挙げられており、自衛や制裁などの免責理由がないこととして価値中立的な定義としている。ただし、侵略の条件に「意思」が挙げられていることはこの定義の法律的性質を現すものであり、ある特定の価値観が存在していると指摘できる。そのため、軍事上の事実的行為として侵略は武力の先制使用であると考えられている<ref>服部実『防衛学概論』(原書房、1980年)33-34頁</ref>。}}。一方で[[防衛]]は狭義には侵略に反応してこれを排除するために軍事力が使用され、[[防御]]や[[後退]]などの防勢の作戦行動が実行されることであり、広義には抑止活動をも含む。
=== 侵略 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[侵略]]はその手段から[[直接侵略]]と[[間接侵略]]に分類される。直接侵略は外国が軍事力の行使を行う伝統的な侵略方式であり、間接侵略は防衛側の国家内の反政府勢力などを教唆、指導したうえで[[反乱]]、[[革命]]などによって軍事力を間接的に行使する侵略方式である。実際の侵略はこの二種類の手段を同時に使用する場合や、時間差で使用する場合などがある。
また敵が内敵であれば、これもまた区別して考えられる。内敵とは国内の勢力が主体とり、政府転覆や国体の破壊などを目的を持ち、武力を行使する敵である。内敵の侵略は外国に一時的に外国に逃れ、外部から侵略する外部侵略と、内部でゲリラ戦や反乱、[[クーデター]]などを行う内部侵略の方式がある。内敵と外敵は軍事目的が同じであるので、結託しやすい。
=== 防衛 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[防衛]]は[[安全保障]]形態から[[集団安全保障]]と個別的[[安全保障]]に大別される。集団的安全保障は集団内の国家が侵略を行った場合にその他の国々が侵略国に制裁を行うことによって防衛国を援助することで安全を保障することである。個別的安全保障は防衛国が独力で、または同盟国の援助によって安全を保障することである。
個別的安全保障はさらに単独防衛(自主防衛)、[[同盟]]、集団防衛、[[中立]]の形態がある。集団防衛は防衛的な性格のみを持つために集団安全保障の側面も持つ。同盟にはその作戦目標から侵略的な場合と防衛的な場合がある。自主防衛は防衛線の位置によって前方防衛、国境防衛、国土防衛に区分される。前方防衛は国境よりも遠隔地において侵略してくる敵を排除する防衛方式であり、[[公海]]上で行われることが多い。国境防衛は[[国境]]において軍事力を準備し、侵略する敵を待ち受けてこれを排除する防衛方式であり、国境線を要塞化することが多い。国土防衛は国境を突破して国土に侵略する敵を国内において排除する防衛方式である。しかし一般的に兵法などでは、侵略する側は、防衛する戦力の3倍の戦力であることが望まれるので、小国と大国の戦争でもない限り、完全に侵略されることはまずない。
== 戦争の過程 ==
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|250px|[[黒船来航]]は[[強制外交]]。嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航<br/><small>[[マシュー・ペリー]]に随行した画家[[ヴィルヘルム・ハイネ]]による[[リトグラフ]]</small>]]
戦争は永遠に続くものではなく、一定の段階を過ぎれば収束していく(ただし、[[ゲリラ戦]]や断続的な[[テロ]]攻撃は戦線を維持する必要がないため、戦争とは本質的に性質が異なる)。兵力や軍需物資の補填などの[[兵站]]能力的限界から、どのような国家、勢力でも激しい戦闘を長期間にわたって継続することは不可能であるからである。その発展の過程は無秩序に見えるが、ある程度の段階が存在していると考えられている<ref>防衛大学校・安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房、2005年)182頁の『軍事力によるエスカレーションの具体例』の図、及びジェイムズ・F・ダニガン、ウィリアム・マーテル著、北詰洋一訳『戦争回避のテクノロジー』(河出書房、1990年)32-36頁を参考とした。</ref>。
=== 平時 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
安定的な秩序が維持されており、各国(一部の国では平時においても国内の不安定がある)は基本的に平和に過ごしている。戦争の危機は認識されておらず、準備もなされていない。
* 艦隊・部隊などの相互訪問などの軍事交流、独立記念日などの国家行事の支援など。
* 災害救助、医療支援、測量活動支援、調査活動支援など。
* 同盟国や友好国との共同[[軍事訓練]]などによる関係の増進。
* [[武器]]・[[兵器]]の売却、教官派遣、留学生交換などによる友好関係、勢力圏の増進。
=== 危機 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争勃発の誘因となりうる事件や問題が発生・表面化し、急速に事態が緊張化していく。奇襲を受ける場合はこの段階を通過しない場合もある。この時点ではまだ戦争を未然に防止することは[[外交]]によって可能であると考えられるが、不安定化末期から準戦時の[[外交交渉]]はしばしば非常に切迫したものとなる。
* 部隊・[[艦隊]]の配備、編成の変更などによる政治的メッセージの発信。
* 対象国の近隣地域への[[軍事力]]の[[展開 (軍事)|展開]]。
* 上記をバックにした[[外交官]]や[[士官]]級の[[外交交渉]]。
* [[外交政策]]や[[軍事作戦]]によって行われる[[危機管理]]。
=== 準戦時 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争の危機が高まり、急速に事態が緊張化して制御不能となっていく。国家として[[戦時体制]]が敷かれ、[[軍隊]]が動員され、[[外交交渉]]は絶望的になっていく([[最後通牒]]、[[宣戦布告]]を参照)。この段階になればもはや事態を収拾しようとすることは極めて困難となる。この時点で戦争勃発を阻止しようとするのは遅すぎる。
* 配給制や統制経済などの[[戦時体制]]の準備。
* [[予備役]]の動員や[[民間防衛]]の準備体勢への移行。
* 外交関係の断交や外交使節団の召還。
* 破壊工作員や[[スパイ]]の潜入、謀略活動。
* 対象国にとって重要な陸海空の交通路の封鎖。
* 対象国に向かう船舶などの[[臨検]]、抑留、[[拿捕]]。
* 対象国の主要交通路の封鎖、口座凍結などの[[金融]]制裁などの[[経済制裁]]。
* 交戦地域の設定。
=== 戦時 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
開戦を告げる[[宣戦布告]]が行われ(これは伝統的な[[国際法]]に基づく行為であり、現代では行われない場合もある)、[[軍隊]]が戦場に展開し、敵戦力との[[戦闘]]に入る。また[[戦時体制]]に基づいてあらゆる[[経済]]、[[情報]]開示、生活が軍事上の必要から統制される。この段階で戦争の経過を当初の計画通りに進んでいるかなどを考慮し、いかに有利に戦争を収束させるかという点が注目される。
* [[戦時体制]]の実施と[[予備役]]・[[民間防衛]]の総動員。
* 情報統制や[[スパイ]]摘発・相手国の宣伝対策などの[[防諜]]政策の展開。
* 相手国に対する[[世論]]誘導を目的とした広報政策の展開。
* [[スパイ]]・同調者・協力者の獲得工作の展開。
* [[テロリスト]]、[[革命家]]、協力者、破壊工作員などによる工作活動(ほとんどは政府の判定のみに基づき、後日冤罪や政府特務機関の自演だったと判明する例もある)。
* 限定地域(海域)における軍事施設・艦艇などに対する[[攻撃 (軍事)|攻撃]]、[[占領]]。
* 限定地域以外における軍事施設・艦艇などに対する攻撃、占領。
* 軍事施設などに対する攻撃、占領。
* [[兵器]]や[[武器]]の[[生産]]施設となっている工業地帯に対する攻撃、占領。
* [[首都]]、統治機関、主要都市など政経中枢に対する攻撃、占領。
=== 終結 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが[[講和条約]]と呼ばれるものである([[休戦協定]]は[[戦闘]]の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは[[外交官]]にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。
* 戦闘[[作戦]]の長期的な停滞。
* 戦争遂行の[[外交]]的・内政的な問題の発生。
* 攻撃的な戦闘行動の停止([[停戦]])。
* 和平交渉の開始、暫定的に戦争を休止する休戦協定の締結。
* 戦後の双方の地位を定めた講和条約の締結と、議会での批准。
* 敗戦した政府組織の[[亡命]]。
=== 戦後 ===
戦争終結してもその決着が新たな問題や不満を生んでいれば、それが起因して新しい戦争をもたらすこととなる。[[外交]]的な解決が不可能となった場合、戦争は[[軍事力]]を以って自国の利益を相手から奪うことができる。ただしその過程で失われるものは人命、[[経済]]基盤、生活の安全だけでなく、勝敗によっては国際的な信用や[[政府]]、国家主権が奪われる場合もある。なお近現代においては敗北で民族が消滅することはない。
* [[占領行政]]として占領軍の住民に対する[[宣撫工作]]と統治及び[[治安]]維持
* 占領地の[[法律]]や[[教育]]の再編と[[道徳]][[思想]]及び使用[[言語]]の変更などの同化政策。
* 抵抗勢力([[レジスタンス運動|レジスタンス]])による[[ゲリラ戦]]の展開。
* 亡命政府の国土奪回のための[[軍事力]]の造成。
[[主権国家体制]]において'''[[付庸国]]'''(附庸国、ふようこく)、'''[[従属国]]'''(じゅうぞくこく)({{lang-en-short|vassal state}})とは、'''[[宗主国]]'''<!-- [[宗主国]]の記事はこの意味で解説されていないので、リンクしない。 -->から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が宗主国の国内法により制限を受ける国家を指す。<ref name="hyouzyun">{{Cite book|和書 |editor=寺沢一、山本草二、広部和也編 |title=標準 国際法 |edition=初版 |year=1989 |month=6 |publisher=青林書院 |isbn=978-4417007517 |pages=112頁 |chapter=Ⅲ国家の成立16国家結合}}</ref>。
[[主権]]を不完全にしか持たないため、被保護国と合わせて[[従属国#従属国(狭義)|半主権国]]({{lang-en-short|semisovereign state}})、[[従属国]]({{lang-en-short|dependent state}})<ref>{{Cite book|和書 |author=佐分晴夫 |title=日本大百科全書 |accessdate=2010-04-11 |publisher=小学館 |chapter=従属国 |chapterurl=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BE%93%E5%B1%9E%E5%9B%BD/ }}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>とも呼ばれる。
[[傀儡政権]](かいらいせいけん、{{lang-en|puppet government}})とは、ある領域を統治する[[政権]]が、名目上には独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・[[国家]]によって管理・統制・指揮されている政権を指す<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%82%80%E5%84%A1&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=02898000 Yahoo Dictionary>JapanKnowledge>大辞泉>傀儡政権]{{リンク切れ|date=2019年6月}}</ref><ref>[http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E5%82%80%E5%84%A1&match=beginswith&itemid=DJR_kairai_-020-_seikenn_-01 Exite>三省堂>大辞林>傀儡政権]{{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref>。
== 戦争のさまざまな局面 ==
戦争には武力を用いた[[戦闘]]から、[[諜報]]・[[諜報活動]]、輸送、[[外交]]交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を ''warfare'' と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる<ref>防衛大学校・防衛学研究会『軍事学入門』(かや書房、2000年)及びジェイムズ・F・ダニガン著、岡芳輝訳『新・戦争のテクノロジー』(河出書房新社、1992年)などを参考にし、主要な闘争の局面について整理した。</ref>。
=== 政治戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
政治戦とは戦争における政治的な闘争の局面である。政治戦には我の政府と国民、敵の政府と国民、国際社会という主に五つの行為主体があり、国際社会に働きかける政治戦を国際政治戦、敵政府に対する政治戦を直接当事者政治戦、敵国民に対する政治戦を間接当事者政治戦、自国民や政府内部に対する政治戦を国内政治戦と呼ぶ。戦争によって得られた戦果は外交交渉を通じて政治的な権力または影響力として政治戦に貢献する。
=== 武力戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
武力戦は戦争において最も激しい闘争の局面であり、主に戦闘において行われる。対立する戦力同士が互いに支配領域の制圧、敵戦力の無力化や撃破などを目的として[[作戦]]し、武力を行使して敵対する勢力を排除する。この過程で殺傷・破壊活動が行われ損害が生じる。戦闘を遂行するためには兵士たちの体力と技能だけでなく、[[戦術]]、[[武器]]や[[爆発物]]の知識、[[兵器]]操作の技能、戦術的知能、チームワーク、[[軍事的リーダーシップ]]、また後方においては作戦[[戦略]]、戦場[[医療]]、[[兵器]]開発などの総合的な[[国家]]、[[組織 (社会科学)|組織]]、[[個人]]の能力求められる困難な活動である。([[戦闘]]を参照)
=== 情報戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[情報戦]]は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に[[諜報]]・[[諜報活動]]によって行われ、相互に相手の[[軍事]]的な[[情報]]に限らず、[[経済]]的、[[政治]]的な状況に関する情報を得るために合法的に[[外交官]]や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に[[防諜]]として相手国の[[スパイ]]を摘発するための国内における捜査も行われ、敵の[[情報活動]]を妨害する。
=== 補給戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[補給戦]]は[[後方支援]]または[[兵站]]を巡る闘争であり、特に補給と輸送を行う際に発生する闘争の局面を言う。兵力や物資の補填がなければ前線の部隊は[[戦闘力]]が維持できず、また戦闘以外の被害による損害は戦闘によるものよりも時には非常に多くなるため、戦闘が活発でない時期であっても物資は絶えず輸送されなければならない。すなわち戦場には常時消費物資を送り続けなければ戦闘力が低下することにつながるため、輸送作戦を確実に実施することは前線の勝敗を左右する作戦である。この輸送作戦を的確に実行するのに必要な経済的、軍事的、事務的な努力は非常に巨大なものである。また相手国も[[航空阻止]]、破壊工作、後方地域への攻撃などでこの輸送作戦を妨害してくるため、輸送部隊の司令官は強行輸送や強行補給という手段を用いて、これに対抗しなければならない場合もある。つまり戦争においてはどのようにして効率的な輸送作戦を遂行し、適量の物資を調達して、適地に輸送し、的確に分配するかという[[兵站]]上の困難に常に直面することになる。
=== 外交交渉 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[外交交渉]]は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が[[国益]]を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための[[外交]]も戦争の行方に大きな影響を与える。([[外交交渉]]を参照)
=== 電子戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[電子戦]]とは通信機器などで用いられる[[電磁波]]を巡る争いである。平時においても情報収集などを目的とした電波の傍受や分析などの電子戦は行われているが、戦時においては[[指揮 (軍事)|指揮]]組織、通信拠点、[[SAM]]{{要曖昧さ回避|date=2021年4月}} システムに対してより攻撃的な[[電子攻撃|ECM]]が実施される。現代の戦争においては非常に重要な通信手段は電磁波を用いたものが多く、また通信手段は[[指揮 (軍事)|指揮]][[統率]]における要であるため、その重要性は大きい。[[日露戦争]]以降世界各国の[[軍隊]]が電子戦に対応する部隊を保有するようになっている。
=== 謀略戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
謀略とは敵国の戦争指導を妨げる活動であり、一般的に極秘裏に遂行される。間接的には政治的・外交的・経済的・心理的な妨害活動があり、直接的には軍事的な破壊工作がある。破壊工作とは交通拠点、政府機関、生産施設、堤防、国境線などの重要拠点に対する爆発物などを用いた[[放火]]や爆破などの活動のことである。しばしば敵国に[[特殊部隊]]や[[スパイ]]を送りこんで実行するが、秘密裏にかつ迅速に行われるために無効化が難しい。敵部隊の戦闘力の無力化などを目的とした[[戦闘]]とは性格が異なり、[[対反乱作戦]]や対テロ作戦に分類される。
=== 心理戦 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[心理戦]]とは、[[テレビ]]や[[新聞]]などを用いた広報活動、[[政党]]や[[思想]]団体の政治活動、[[学校]][[教育]]などによって情報を計画的に活用し、[[民衆]]や組織の[[思想]]や考えを誘導し、自らに有利に動くように間接的に働きかけるさまざまな活動と、敵の同様の手段へ対抗する活動の総称である。戦争が開始されれば両国とも自国の正統性を主張し、支持を得ようと試みる。また相手国の国民に対して、自国に有利になるように反政府活動を支援したり、相手国の非人道性を宣伝することによって政権の行動を制限することなどが可能である。これは対[[ゲリラ]]作戦や対[[テロ]]作戦、政権転覆などさまざまな局面で実施される([[心理戦]]を参照)。
=== 軍備拡張競争 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
[[軍備拡張競争]]は軍備の量的な拡張と軍事技術の開発競争を言う。現代の戦争において勝利を納めるには、兵力や戦略のみならず、優秀な[[兵器]]が不可欠である。そのため、敵国・対立国より優れた兵器を多く保持することが重要になり、戦時中はもちろん平時においても、その開発・生産が活発に行われている。
例えば、東西[[冷戦]]においては、米ソの直接対決こそなかったものの、[[核兵器]]や[[戦車]]などの熾烈な開発競争が行われ(核兵器については、開発競争により核戦力の均衡が保たれていたからこそ現実に[[核戦争]]が起こらなかったとする見方もある)、[[代理戦争]]はそれらの兵器の実験場でもあった。また、人類を宇宙や月に送った[[宇宙開発競争]]も、[[ロケット]]技術が戦略核を搭載する[[大陸間弾道ミサイル]]などの[[ミサイル]]技術に直結していたことが大きな推進力となっていた。
== 国際法における戦争 ==
戦争に関する[[国際法]]には大きく二つの体系がある。軍事力の行使が合法かどうかを定めている「開戦法規」 (jus ad bellum, <small>ユス・アド・ベッルム</small>)」と、戦争におけるさまざまな行為を規律する「交戦法規」 (jus ad bello, <small>ユス・アド・ベッロ</small>) の二つである。前者は[[国際連合憲章|国連憲章]]が基本的に根拠になっており、後者は「[[戦時国際法]]」「武力紛争法」「国際人道法」とも呼ばれ、その主な根拠となっている条約に[[ジュネーブ条約]]などがある。一般的に[[戦争犯罪]]と呼ばれる行為とは、戦時国際法に違反する行為を指す。([[極東国際軍事裁判]]における[[A級戦犯]]はこの戦時国際法とは無関係である)また戦時国際法は作戦領域から、陸戦法規、海戦法規、空戦法規に分類されることもある<ref>防衛大学校・防衛学研究会『軍事学入門』(かや書房、2000年)52-53頁</ref>。
=== 開戦法規 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
伝統的国際法においては、戦争は[[国家]]の権利であったが、現代国際法においては武力行使の禁止に伴い、戦争そのものが禁止されている。具体的には、1928年のパリ不戦条約([[ケロッグ=ブリアン条約]])および1945年の[[国際連合憲章|国連憲章]]2条4項により、武力行使は違法化された。ただしパリ不戦条約では実質的な紛争解決機能が盛り込まれなかったために[[第二次世界大戦]]が勃発し、そのため国連憲章が改めて定められた。国連憲章において国際社会の平和と安全が破壊される違法行為があれば、集団安全保障体制で場合によっては軍事的措置を講ずることも定められた。また国連加盟国は個別的、[[集団的自衛権]]の行使が認められている。すなわち現代における戦争を行う原則は以下の通りとなる。
# 国家の自衛の場合(同51条)。
# 安全保障理事会において認定された「国際社会の平和と秩序への脅威」に対する強制行動(第七章)
# 地域的取極や地域的安全保障枠組みにおける強制行動(第八章)。
=== 戦時国際法 ===
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
戦争においては無制限の暴力が交戦国によって行使されるが、しかし現代の戦時国際法においては「軍事的必要性」と「人道性」の原則がある。軍事的必要性はさまざまな軍事作戦の遂行に不可欠な行動などを正当化する原則であり、一方で人道性とは最小限の人命損失、不要な破壊、文民に対する攻撃、過剰な苦痛などの軍事作戦にとって不適切な行動を禁止する原則である。またこのほかにも戦時国際法においては攻撃目標、戦闘方法、非戦闘員の対応、中立国との関係などが定められており、軍隊の各級指揮官や部隊の戦闘行動を規定している。この戦時国際法を違反することは、国際社会からの非難を受けることや、責任者が戦争犯罪に問われることなどによって処罰されることになり得る([[戦時国際法]]を参照)。
== 比喩的な用法 ==
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
物品・サービスのシェア・覇権争いなどを、現実の戦争になぞらえて「○○戦争」と呼ばれることがある([[ビデオ戦争]]、[[日本におけるゲーム機戦争|ゲーム機戦争]]、[[ブラウザ戦争]]、[[HY戦争]]など)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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*{{Cite book|和書|author=筒井若水|year=2002|title=国際法辞典|publisher=有斐閣|isbn=4-641-00012-3|ref=国際法辞典}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|戦争}}
{{sisterlinks|commons=Category:War}}
* [[軍事]]、[[軍事学]]
** [[軍事力]]、[[軍隊]]、[[戦略]]、[[戦術]]、[[兵器]]、[[武器]]、その他は[[軍事]]の関連記事を参照
** [[内戦]]、[[反乱]]、[[紛争]]、[[革命]]、[[クーデター]]
** [[戦役]]、[[作戦]]、[[戦闘]]
** [[安全保障]]、[[外交]]、[[軍縮]]、[[国際関係論]]、[[軍事学]]
* 戦争の歴史・戦史
** [[戦争一覧]]、[[戦闘一覧]]、[[軍事史]]
*** {{仮リンク|遠征戦争|en|Expeditionary warfare}}
* 法律
** [[国際法]]、[[戦時国際法]]、[[戦争犯罪]]、[[フーゴー・グローティウス|グローティウス]]
** [[戦争哲学]]、[[正戦論]]
* 思想・社会運動・社会心理
** [[軍国主義]]、[[平和主義]]
** [[テロ|テロリズム]]、[[ジェノサイド]]
** [[戦争画]]、[[戦争映画]]、[[戦争漫画]]、[[反戦運動]]、[[戦争柄]]
* その他
** {{ill2|戦争ツーリズム|en|War tourism}}(観戦)
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** {{ill2|中世の戦争|en|Medieval warfare}}
*** [[ヘラルド・オブ・アームズ]](紋章官) ‐ 紋章に関する知識から、敵味方の部隊の位置と出自、活躍について把握が行えたことから従軍した。
== 外部リンク ==
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[[Category:戦争|*]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89 |
1,509 | F-BASIC | F-BASIC(エフベーシック)は、富士通が自社のパソコンブランドであるFMシリーズに搭載したBASIC言語。マイクロソフト系BASICに由来する命令セットを持つ。
当時としては画像や音声を扱う機能が豊富であった。
共通点として、コマンド画面では行ごとにRETURNキーを押さなくても画面上の全変更行が更新されたため、比較的スクリーンエディタ風の編集が出来た。
F-BASIC V1.0/V3.0では、本体内蔵のROM BASICにはフロッピーディスク用の命令等が含まれておらず、ディスク使用時には別売のDISK-BASICを購入して起動時に読み込ませる必要があった。このディスク拡張部分は本体RAMの上位アドレス部分(ROM領域の直前)に展開され、ROM BASICの命令と同じように使用することができた。F-BASIC V2.0以降で拡張された命令も同様の仕組みで実装されている。
後にこの部分の仕様が解析されると、ユーザが独自に新たな命令を定義してBASICを拡張することが可能であることが判明したため、『I/O』(工学社)や『Oh!FM』(日本ソフトバンク)等の専門誌ではユーザやライターらが開発した拡張命令等がほぼ毎月のように掲載されるようになった。
『Oh!FM TOWNS』1992年8月号のアンケートの集計結果によると、FM TOWNSユーザーのF-BASIC386所有率は半数以上に達していた。
特定の機種用の言語であったF-BASICだったが、Windows上で動作するバージョンも登場した。
何度かバージョンアップが行われたものの、Windows XPはサポートされないまま、2006年3月末をもって販売を終了した。最終バージョンは6.3。
従来のF-BASICに近い「手続き型」のほか、Microsoft Visual Basicに近く、WindowsのGUIを使った「イベント駆動型」での開発が可能。
しかし設計はあまり洗練されておらず、GUIの部品にアクセスするには、ATTACH命令で変数と部品を接続しなければならないうえ、Visual BASICのような「プロパティ」の概念がなく、複雑な名前の命令を呼ぶ必要があるなど、煩雑で扱いにくいプログラムになりがちであった。例としてテキストボックスのテキストを変更するプログラムは、Visual BASICではText1.Text = "Wikipedia"と書くだけで良いのに対して、F-BASICでは以下のように書く必要がある。 | [
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| F-BASIC(エフベーシック)は、富士通が自社のパソコンブランドであるFMシリーズに搭載したBASIC言語。マイクロソフト系BASICに由来する命令セットを持つ。 | {{複数の問題|独自研究=2019年3月|出典の明記=2019年3月}}
'''F-BASIC'''(エフベーシック)は、[[富士通]]が自社の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]ブランドである[[富士通#パーソナルコンピュータ|FMシリーズ]]に搭載した[[BASIC]]言語。マイクロソフト系BASICに由来する命令セットを持つ。
== 8ビット機用 ==
;F-BASIC V1.0 ([[FM-8]])
:マイクロソフト製6809用BASICをベースに開発された最初のF-BASIC。当時は「FUJITSU MICRO 8 BASIC」と称していた。
;F-BASIC V2.0 (FM-8)
:8インチ/5.25インチ[[フロッピーディスク]]版でのみ提供されたバージョン。変数の内容を保持したままでのプログラム連結実行のための<code>CHAIN</code>文/<code>COMMON</code>文、配列を消去する<code>ERASE</code>文、プリンタ出力のための<code>LLIST</code>文/<code>LPRINT</code>文/<code>LPRINT USING</code>文/<code>LPOS</code>関数、<code>PRINT USING</code>文/<code>LPRINT USING</code>文での書式制御文字列の追加、<code>OPEN</code>文でのプリンタに対するオプション指定の追加、ユーザープログラムの自動スタート機能などが追加された。また、文字列領域のガベージコレクションが改良され、文字変数1つあたり2バイト余計にメモリを必要とするようになったが、ガベージコレクション処理は大幅に高速化された。バリエーションとして128KBバブルカセットに対応したF-BASIC V2.2(128KBバブルカセットにより供給)が存在する。
;F-BASIC V3.0 ([[FM-7|FM-7/77シリーズ]])
:F-BASIC V2.0を基にしたFM-7シリーズの標準BASIC。このバージョンから起動メッセージが「FUJITSU F-BASIC」となる。カラーパレット機能を制御する<code>COLOR=</code>文、マルチページ機能を制御する<code>SCREEN</code>文、[[Music Macro Language|MML]]による音楽演奏を行う<code>PLAY</code>文、[[Programmable_Sound_Generator|PSG]]の直接制御を行う<code>SOUND</code>文などが拡張された。バブルカセットに対する<code>BUBINI/BUBR/BUBW</code>文及びアナログポートに対する<code>ANPORT</code>関数は削除された<ref>ただし予約語としては残っている。公式発表ではANPORT関数は削除されたことになっているが、実際は処理も残っている。</ref>。バリエーションとして1MBフロッピーディスクに対応したF-BASIC V3.1(3.5インチフロッピーディスクにより供給)が存在する。
;F-BASIC V4.0 ([[FM-11|FM-11ST/AD/EX]])
:メモリマッピングレジスタを活用するようになり、F-BASICインタプリタが巨大化し、テキストエリアも拡大された。画面編集の方式が今までのスクリーンエディタ的な編集のほか、他メーカー機同様にRETURNキーを押した行が入力したのと同じ効果をもつようになった。640x400ピクセルのグラフィックモードの追加、[[BREAKキー]]をコントロールする<code>STOP ON/OFF</code>文、漢字表示のための<code>KANJI</code>文、外字登録のための<code>DEF KANJI</code>文、式の評価をファイルに出力する<code>WRITE/WRITE#</code>文、テキスト画面の色やアトリビュートを設定する<code>COLOR@</code>文、漢字のグラフィック画面への拡大描画を行える<code>SYMBOL@</code>文、グラフィック画面のハードウェアスクロールが可能な<code>ROLL</code>文、テキスト画面上に時刻を表示する<code>CLOCK ON/OFF</code>文、ライトペン割り込み制御の<code>PEN</code>文/<code>ON PEN GOSUB</code>文、<code>PEN ON/OFF/STOP</code>文が追加された。また、<code>AUTO</code>文での注釈行自動発生機能、<code>HARDC</code>文でのテキスト画面・グラフィック画面個別のハードコピー、<code>SCREEN</code>文での画面モード指定、<code>LINE</code>文でのラインスタイル指定、<code>PAINT</code>文でのタイルペイント対応、<code>SIN/COS/TAN</code>などの数学関数の倍精度演算化が行われた。このバージョンから文字列領域とスタックバッファの扱いが逆になり(文字列領域はメモリがある限り確保、スタックバッファは<code>CLEAR</code>文で確保される)、それに伴い<code>CLEAR</code>文の文法も変更された。基本的にBASICインタプリタはフロッピーディスクからRAM領域に展開されるが、ディスクドライブを標準装備していないFM-11STでは起動時に専用のROMカードからRAM領域にBASICインタプリタを展開する方式となった。バリエーションとして128KBバブルカセットに対応したF-BASIC V4.2、ハードディスクに対応したF-BASIC V4.3が存在する。
;F-BASIC V5.0 (FM-11AD2/AD2+)
:F-BASIC V4.0の日本語文字列対応版。プログラムに(JISコードではなく)直接日本語文字列を記述できるようになる。また、それに関連した日本語文字列操作関数も追加された。このバージョンからアナログポートに対する<code>ANPORT</code>関数が正式に削除された。
;F-BASIC V3.5 ([[FM-7#FM-77|FM-77]]、FM-77L4)
:FM-77用400ラインカード(オプション。FM-77L4は標準装備)に対応したBASIC。ほぼF-BASIC V5.0のFM-77版といえるもので、画面モードは単色のみながら日本語文字列にも対応された。FM-77はライトペンに対応していないため<code>PEN</code>文は削除された。400ラインセット付属の192KB RAMカードを装着した場合には、RAMディスクが使用できる。
;F-BASIC V3.3L10〜L12 ([[FM-7#FM77AV|FM77AVシリーズ]])
:F-BASIC V3.5をベースに開発されたFM77AV専用のF-BASICでAudio/Visual機能が強化されており、320x200ピクセル4,096色モードやスーパーインポーズ機能、ビデオディジタイズ機能などが使えるようになり、<code>PLAY</code>文/<code>SOUND</code>文のFM音源やMIDIへの対応などが行われた。画面編集の方式がF-BASIC V3.0までと同様のものに戻ったほか、日本語文字列にも対応していないため、F-BASIC V5.0/V3.5に存在した<code>KANJI/ROLL/CLOCK</code>文および日本語文字列操作関数などは削除された<ref>ただし予約語としては残っている。</ref>。FM-77+拡張RAMカードでも起動できたが、FM77AV独自機能が使用出来ないよう制限がかけられていた。
;F-BASIC V3.3L20 (FM77AVシリーズ)
:F-BASIC V3.3L10に2DDフロッピーディスクサポート、日本語文字列対応機能、内蔵RS-232Cインタフェースのボーレート制御機能などを追加したバージョン。日本語モード切り換えのための<code>KANJI ON/OFF</code>文、RS-232Cインタフェースのボーレート制御のための<code>BAUD</code>文が追加された<ref>BAUDの中間コードにBUBINIと同じコードを使用したため、BUBINIはV3.3L20/L3.4L10以降予約語からも削除されている。</ref>。日本語モード対応に伴い、F-BASIC V3.3L10で削除された日本語文字列操作関数および<code>SYMBOL@</code>文が復活した。
;F-BASIC V3.4L10 (FM77AV40)
:F-BASIC V3.3L20に640x400ピクセル8色モード、320x200ピクセル262,144色モードを追加したバージョン。このバージョンから日本語モードでの各種メッセージが日本語化されるようになる。オプションの拡張RAMカード-256を搭載したうえでセットアップユーティリティにより所定の設定を行うと、RAMディスクが使用できる。
;F-BASIC V3.3L30 (FM77AVシリーズ)、V3.4L20〜21 (FM77AV40シリーズ)
:F-BASIC V3.4L10をベースに開発されたF-BASIC。日本語モードでの漢字表示が従来比約2倍に高速化され、FM77AV20EX/40EXでのMMR使用時のクロックダウンが抑制されるほか、FM77AV40/20EX/40EXではフロッピーディスクアクセスにDMAコントローラを利用するようになり、音楽演奏中のディスクアクセスによるテンポ遅れが解消された。また、リセットせずに使用ドライブ/ファイル数を切り替えられる<code>NEW ON</code>文が追加された。FM77AV40/40EXでRAMディスクを使用している場合、V3.4L10ではリセットごとに内容が初期化されていたが、V3.4L20では内容が保持されるようになった。なお、このバージョンからデータレコーダのサポートが削除された。この2つのバージョンは起動プロセス、起動メッセージおよびバージョンスタンプ情報を除き、極力コードの統一化が図られた。バリエーションとして、レベルアップサービスによって提供された400ラインモードおよび262,144色モード用サブシステムコードを含むFM77AV40専用版のF-BASIC V3.4L20<ref>FM77AV40は本体に400ラインモードおよび262,144色モード用サブシステムをROMとして持っていなかったため、FM77AV40EX版とは別に用意された</ref>、FM77AV40SXに付属したF-BASIC V3.4L21が存在した。F-BASIC V3.4L21はF-BASIC V3.4L20のバグ修正版にして8ビット機F-BASICの最終バージョン。F-BASICインタプリタ内部のエントリアドレスが一部異なるため、F-BASIC V3.4L20の拡張BASICが使えない場合が存在した。
当時としては画像や音声を扱う機能が豊富であった。
共通点として、コマンド画面では行ごとにRETURNキーを押さなくても画面上の全変更行が更新されたため、比較的スクリーンエディタ風の編集が出来た。
F-BASIC V1.0/V3.0では、本体内蔵のROM BASICにはフロッピーディスク用の命令等が含まれておらず、ディスク使用時には別売の[[DISK-BASIC]]を購入して起動時に読み込ませる必要があった。このディスク拡張部分は本体RAMの上位アドレス部分(ROM領域の直前)に展開され、ROM BASICの命令と同じように使用することができた。F-BASIC V2.0以降で拡張された命令も同様の仕組みで実装されている。
後にこの部分の仕様が解析されると、ユーザが独自に新たな命令を定義してBASICを拡張することが可能であることが判明したため、『[[I/O_(雑誌)|I/O]]』([[工学社]])や『[[Oh!FM]]』([[ソフトバンククリエイティブ|日本ソフトバンク]])等の専門誌ではユーザやライターらが開発した拡張命令等がほぼ毎月のように掲載されるようになった。
== 16ビット機用 ==
;F-BASIC86 V1.0 (FM-11)
:16ビット化([[CP/M]]-86上で動作)。F-BASIC V5.0の8086コード版といえるもので、CPUやOSの違いから<code>DEF SEG</code>文や<code>INP</code>関数、<code>OUT</code>文、<code>SYSTEM</code>文などが追加されているが、<code>PLAY</code>文・<code>SOUND</code>文は割愛されているほか、データレコーダのサポートが削除されている。
;F-BASIC86 V2.0/V2.1 ([[FM-16β|FM16βシリーズ]])
:[[CP/M]]-86上で動作。日本語モードへの切り替え命令が<code>SCREEN 6</code>文から<code>KANJI ON/OFF</code>文に変更されている。日本語モードでの各種メッセージが日本語化されている。ワールド座標に対応したほか、<code>CIRCLE</code>文のアルゴリズムが変更され従来よりきれいな円を描画することができるようになっており、<code>LINE</code>文、<code>CIRCLE</code>文の塗りつぶしを枠と別の色(タイルパターンも使用可能)で塗りつぶす機能に対応した。<code>OPEN</code>文の文法としてNECのN88-BASIC同様の書式が使用可能となっている。8ビット機用F-BASICフォーマットのフロッピーディスクの読み書きにも対応している。後に発売されたFM16βSDではフリーエリアの減少を最低限にとどめるため、F-BASIC86 V2.1をCPUカード上のROMに搭載しており、FM-16βFD/HDにおいても同バージョンのフロッピーディスクによる供給が行われた。
;F-BASIC86 V2.1 ([[FM16π]])
:FM16β用F-BASIC V2.1のサブセット仕様。ROMカートリッジにより供給される。
;F-BASIC86 V3.1 (FM16βシリーズ、[[FMRシリーズ]])
:MS-DOS上で動作。基本的にF-BASIC86 V2.1のMS-DOS版といった感じだが、日本語変数名への対応、BASICの文法を国語化する<code>KOKUGO ON/OFF</code>文、チャイルドプロセスを呼び出す<code>CHILD</code>文などが追加されている。8ビット機用F-BASICフォーマットのフロッピーディスクの読み書き機能は削除され、外部ツールを利用する形となった。
;F-BASIC86HG (FM16βシリーズ、FMRシリーズ)
:MS-DOS上で動作。F-BASIC86 V3.1を大幅に拡張しサブプログラムの概念を導入したものだが、中間コードに互換性がないためF-BASIC86 V3.1のプログラムを実行するには付属のユーティリティを使用する必要がある。
== 32ビット機用 ==
;F-BASIC386 ([[FM TOWNS]])
:実行画面とは独立したスクリーンエディタを装備。[[スプライト (映像技術)|スプライト]]や[[サウンド]]などの機能が拡張された。[[コンパイラ]](V1.1L21〜)も発売された。V2.1からは構造化に対応した。
:[[隠しコマンド]]のほか、<code>BEEP &HFB386</code>というコマンドを実行すると隠しドキュメントが表示されるという[[イースター・エッグ (おまけ要素)|イースター・エッグ]]がある<ref name="OF_9412_75">「F-BASIC386の隠し機能!」『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』1994年12月号、75頁。</ref>(V2.1L20で実行すると、前述の隠しコマンドの解説が表示される<ref name="OF_9412_75" />)。
;GearBASIC (FM TOWNS用のGUI式の開発環境。[[TownsGEAR]]のスクリプト)
:行番号がない。
:TownsGEARのV2.1L20以後には付属マニュアルに記載されていない拡張命令が存在し、[[FM TOWNS#Townsシステムソフトウェア|Townsシステムソフトウェア]]のCD-ROMに収録されているドキュメントファイルにそれに関する記述がある<ref>『Oh!FM TOWNS』1993年11月号(表記上は「秋の特別号」)、54頁。</ref>。
『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』1992年8月号のアンケートの集計結果によると、FM TOWNSユーザーのF-BASIC386所有率は半数以上に達していた<ref>『Oh!FM TOWNS』1993年10月号、49頁。</ref>。
== Windows用 ==
特定の機種用の言語であったF-BASICだったが、Windows上で動作するバージョンも登場した。
;F-BASIC コンパイラ for [[Windows 3.1]]
:Microsoft Windows環境でコンパイルして使用可能。Visual Basicでは必須だった[[ランタイムライブラリ]]を必要としない実行ファイルを生成できた。
;F-BASIC V4.1 ([[Windows 95]])
;F-BASIC97 V5.0 (Windows 95、[[Windows NT 4.0]])
;F-BASIC V6.0 (Windows 95、[[Windows 98]]、Windows NT 4.0)
;F-BASIC V6.3 (Windows 95、Windows 98、Windows NT 4.0、[[Windows 2000]]、[[Windows Me]])
:[[MS-DOS]] BASIC([[N88-BASIC]])のプログラムをWindowsに移行でき、[[GUI]]コントロールで構成されている。F-BASIC97 V5.0のみ名称に「97」が入っているのは、FM-11用F-BASIC V5.0とのバージョン番号の重複を回避するためである。
何度かバージョンアップが行われたものの、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]はサポートされないまま、[[2006年]]3月末をもって販売を終了した<ref name="富士通F-BASIC">{{Cite web|和書|url=https://www.fmworld.net/product/soft/fbasic/ |title=F-BASIC V6.3 情報 |publisher=富士通株式会社 |date=2011-04-01 |accessdate=2019-03-16}}</ref>。最終バージョンは6.3<ref name="富士通F-BASIC" />。
従来のF-BASICに近い「手続き型」のほか、[[Microsoft Visual Basic]]に近く、Windowsの[[GUI]]を使った「イベント駆動型」での開発が可能。
しかし設計はあまり洗練されておらず、GUIの部品にアクセスするには、ATTACH命令で変数と部品を接続しなければならないうえ、Visual BASICのような「プロパティ」の概念がなく、複雑な名前の命令を呼ぶ必要があるなど、煩雑で扱いにくいプログラムになりがちであった。例としてテキストボックスのテキストを変更するプログラムは、Visual BASICでは<code>Text1.Text = "Wikipedia"</code>と書くだけで良いのに対して、F-BASICでは以下のように書く必要がある。
<syntaxhighlight lang="vb">
COMMON SHARED TEXT1 AS OBJECT
TEXT1.ATTACH GETDLGITEM("TEXT1")
TEXT1.SETWINDOWTEXT "Wikipedia"
</syntaxhighlight>
==脚注==
<references />
== 参考文献 ==
*『[[Oh!FM]]』 1988年3月号 [[SBクリエイティブ|日本ソフトバンク]] 特集:比較F-BASIC学 入門 こんなにあったF-BASICのバージョン F-BASICの変遷を考える〔緒方 渉〕
== 外部リンク ==
*[https://www.fmworld.net/product/soft/fbasic/ F-BASIC V6.3 情報] - 富士通株式会社
{{BASIC}}
[[Category:BASIC]]
[[Category:富士通のソフトウェア]] | 2003-02-14T06:23:25Z | 2023-09-26T06:24:12Z | false | false | false | [
"Template:複数の問題",
"Template:Cite web",
"Template:BASIC"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/F-BASIC |
1,510 | 谷山浩子 | 谷山 浩子(たにやま ひろこ、1956年8月29日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター。本名:中西 浩子(なかにし ひろこ)。
東京都杉並区で生まれ、神奈川県横浜市で育つ。現在の所属プロダクションはヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス (YMEH) 。所属レコード会社はヤマハミュージックコミュニケーションズ。
1962年よりピアノを習い始め、7歳で初めての楽曲「星の夜」を作詞・作曲する。お茶の水女子大学附属中学校、お茶の水女子大学附属高等学校に入学。
中学校時代からキングレコードに曲の持ち込みを始め、ベイビーブラザーズ(後のフィンガー5)のシングル「白い天使」(1970年11月20日発売)B面曲に「ぼくたちの秘密」が採用される(原題は「誰も知らない」)。当時は14歳であった。中学生の頃に作品の持ち込みを始めた理由は、通っていた中学校から走って30秒の所にキングレコードがあり、また知り合いの知り合いがキングレコードのディレクターだったため。
本来は作曲家志望であり、自分で歌うことは想定していなかったが、キングレコードの音楽ディレクターから「自分で歌ってみない?」と言われ、ピアノを弾きながら歌う弾き語りスタイルでレコーディングが行われた。
1972年4月25日、アルバム『静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』をキングレコードからリリースし、最初のデビューを果たす。
1972年10月1日、NHKの「ヤング101」のメンバーとなり、1973年1月からNHK総合テレビジョンの音楽番組『ステージ101』に出演した。番組終了までヤング101に在籍。1974年3月31日に放映された最終回には出演していないが、エンドクレジットには含まれた。
1974年5月5日、第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で「お早うございますの帽子屋さん」が入賞。
第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で入賞する以前に、オレンジ猫(谷山のエッセイ集『おとめちっく・サラダ・たいむ』では おれんじ猫と表記)という音楽デュオを友人と結成、楽曲「忘れもの」で出場し、関東甲信越大会まで進出した。オレンジ猫は、谷山浩子(ピアノ、作曲)と友人(ヴォーカル、作詞)からなるデュオであり、当時のコンテスト審査員に荒井由実がいた。出番終了後に「ユーミンがオレンジ猫を好評価していた」と伝え聞いたときのエピソードを後に谷山は回想している。オレンジ猫は健闘するも敗退したため、残りの日程は谷山がソロ名義でコンテスト参加を続行したという。
以下、第7回ポピュラーソングコンテスト関東甲信越大会パンフレットより時系列で記載。
1981年のアルバム『時の少女』から3作にわたり橋本一子が主な編曲を担当し、そうした機運の中で出逢ったのが石井AQである。石井は1985年のアルバム『眠れない夜のために』をプロデュース。以降現在に至るまで大部分のアルバムのプロデュースや編曲、コンサートやライブのサポートを務める共同作業者として活動をともにしている
デビュー後は音楽活動と並行して著述活動も続け、1979年に初の童話集『谷山浩子童話館』を刊行。1983年には八曜社から初のエッセイ集『悪魔祓いの浩子さん』を刊行した。
1982年からはニッポン放送『オールナイトニッポン』木曜2部のレギュラーを担当し、ラジオパーソナリティとしても人気を博す。
1985年にはNHK『みんなのうた』で「恋するニワトリ」「まっくら森の歌」が放送された。NHK『みんなのうた』ではそのほか、「しっぽのきもち」「おはようクレヨン」「空のオカリナ」「そっくりハウス」などが放送された。これらの作品を幼少時から視聴していた人々からは今なお根強い人気があり、『みんなのうた』の特番が組まれると決まって取り上げられる作品群である。
世間に知られている作品は存在するものの大ヒット曲はなく、故に「売れない歌手」を自称しているが、その中でヒットチャートに上ったのは斉藤由貴への提供作品群である。1986年に「土曜日のタマネギ」「MAY」(両曲とも作詞を担当)などがヒットした。
アニメーション関連の作品では、宮崎駿監督のアニメ映画『未来少年コナン・劇場版』の主題歌『愛をもう一度 / なつかしい朝』(歌:研ナオコ)を提供し、1979年8月5日に7インチシングル盤として発売された。また、スタジオジブリ制作の『ゲド戦記』挿入歌、『コクリコ坂から』挿入歌など宮崎吾朗監督作品にも携わっている。
初代PC-8001(1979年発売)の時代からパソコン(当時は「マイコン」と呼ばれていた)に触れているというパソコンマニアとしても知られており、『Oh!FM』→『Oh!FM TOWNS』(日本ソフトバンク)、『PCfan』(毎日コミュニケーションズ)など複数のパソコン雑誌でエッセイを長期にわたり連載した。1989年には『コンプティーク・ソーサリアンシナリオコンテスト』の審査員、1992年には『パソコンアート・コンテスト』(主催:日本電気)の審査員を務めたことがある。また、PC-9801用のアドベンチャーゲーム『TADL』にも関わっている。1998年には初のCD-ROM『それゆけ!マル廃ゲーマーズ』を発表した。
1986年よりアスキー実験ネットなどでパソコン通信を初体験。パソコン通信で「谷山浩子」のハンドルネームを用いて発言していたところ「谷山のファンが谷山の名前を名乗っている」と勘違いされ、「うちは実名主義ですから、ニックネームを使うのはやめてください」と警告されたことがあるという。1992年にはNECの商用パソコン通信ネットワーク「PC-VAN」で、日本初となるパソコン通信での小説連載を開始した。インターネットの普及以降も、ブログや動画サイト、Twitterなどを音楽活動と趣味に積極的に活用している。
1987年から、一般の個人・団体が主催者となる「101人コンサート」を開始する。第1回開催は東村山市中央公民館であった。翌1988年からは青山円形劇場での「101人コンサートスペシャル」を開催。青山円形劇場では毎年秋(1994年 - 2001年は隔年)にスペシャル公演を開催した。「101人コンサート」は、収容人数が100人から300人程度の会場で「電気と屋根がある場所ならどこでも」というコンセプトで、石井AQ(シンセサイザー)と2人で2001年まで全国各地で開催し、14年間で公演開催数が300以上に達した(青山円形劇場でのスペシャル公演を含む)。1997年にはデビュー25周年を迎え、第300回「101人コンサート」をBunkamuraオーチャードホールで開催した。
2002年にはデビュー30周年を迎える。以降は、青山円形劇場公演に代わるものとして「猫森集会」が新宿の全労済ホールスペース・ゼロで開催され、同時に全国を回るピアノソロツアー「谷山浩子ソロライブ」も行われている。なお、従来ファンクラブのイベントの名称として「ねこ森集会」が使われていたが、こちらは「ねこ森集会 Limited」と改称している。
1997年4月から約2年間、ヤマハ音楽振興会の関連会社でファンクラブの運営や物販事業など営利事業を行っていた株式会社常磐を所属事務所としていた。2000年にヤマハによってヤマハミュージックコミュニケーションズが設立された際、中島みゆきらと共に同社へ移籍する。
2012年にはデビュー40周年を迎える。これを記念して、同年から翌2013年にかけて、かねてからライブのゲストとして出演することが多かったROLLYとの共作でアルバムを発表、東京・東京国際フォーラムと大阪・サンケイホールブリーゼにて特別公演を開催、『谷山浩子40周年記念百科全書』の発売、オールナイトニッポンモバイルの開始、『オールナイトニッポン45周年記念45時間スペシャル』(2013年2月23日(土) 28:00-29:00)へ出演するなど、様々な企画が行われた。
若い頃、歌手活動で最も苦手だったのは観客の前で唄うライブやコンサートであったが、30歳を超えてから次第に慣れていき、ライブが楽しく、観客を楽しませる余裕もできたと述べている。
1996年に結婚したが、2019年に夫と死別。翌2020年には乳がんと診断され、同年9月から治療を開始したため、2021年春頃までのコンサートの開催を見送った。
2019年には、NHK『みんなのうた』で「花さかニャンコ」が放送された。2020年12月11日からYouTube公式チャンネルで「谷山浩子のSORAMIMIラジオ」の配信を開始した。
独特の幻想的作風を特徴としており、現実離れした内容の歌詞が多い。また、楽曲制作だけに留まらず幻想的小説も多数執筆、並行して小説と内容がリンクした同名の歌を制作するなど、個人で今で言うメディアミックス作品も制作しており、統一された世界観に裏打ちされた作品が特徴である。
作家としてはファンタジー作品を発表し続けており、ジュブナイル的な作品が多い。メルヘン的な文体で甘やかな印象があるが、文芸評論家の石堂藍は「作品の内実を窺うと、心理学的象徴や夢への傾倒が強く見られる」と述べ、谷山が付けている夢日記の影響を指摘している。アマチュアに徹することで、余分なものを豊かに持つ谷山ならではの世界を描いている。
ポニーキャニオン時代に発売された『ねこの森には帰れない』から『僕は鳥じゃない』までのアルバム25作はその大半が長らく入手困難となっていたが、2011年に紙ジャケットシリーズとしてヤマハミュージックコミュニケーションズから全作、再発売された。特にオリジナルがLP盤だったタイトルは、当時の装丁を忠実に再現し制作されている。音源のリマスタリングはされていないものの、全てBlu-spec CD規格が採用されている。プレ40周年企画の一環であり、“全25作購入でもれなく『オリジナル特製BOXプレゼント』がもらえる応募券” が封入されていた。
2006年にはスタジオジブリ製作の映画『ゲド戦記』の挿入歌『テルーの唄』の作曲を行った。
1971年頃、創価学会よりソノシートで作品をリリース。以下は確認できたタイトル。
このうち、『悲しみの時計少女』『電報配達人がやってくる』は、NHK-FMの番組『サウンド夢工房』にてラジオドラマ化された。『悲しみの時計少女』は『サウンド夢工房』以降、後番組である『青春アドベンチャー』で2回再放送されるほどの人気を博している。
「谷山浩子\HIROKO TANIYAMA」は、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスによって商標として登録されている。 | [
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"title": "書籍"
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{
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"text": "「谷山浩子\\HIROKO TANIYAMA」は、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスによって商標として登録されている。",
"title": "商標"
}
]
| 谷山 浩子は、日本の歌手、シンガーソングライター。本名:中西 浩子。 東京都杉並区で生まれ、神奈川県横浜市で育つ。現在の所属プロダクションはヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス (YMEH)。所属レコード会社はヤマハミュージックコミュニケーションズ。 | {{存命人物の出典明記|date=2021年5月}}
{{Infobox Musician
| 名前 = 谷山 浩子
| 背景色 = singer
| 出生名 = 谷山 浩子<!--(旧姓)-->
| 別名 = 中西 浩子(本名)
| 出生 = {{生年月日と年齢|1956|8|29}}<ref name="history" />
| 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[横浜市]]<ref name="history" />
| 死没 =
| 学歴 = [[お茶の水女子大学附属高等学校]]卒業
| ジャンル = [[ニューミュージック]]
| 職業 = [[歌手]]・[[シンガーソングライター]]
| 担当楽器 = [[ピアノ]]・[[歌唱|ボーカル]]
| 活動期間 = [[1972年]] -
| レーベル = [[キングレコード]](1972年)→<br />[[ポニーキャニオン|キャニオン]]・[[アードバーク (レーベル)|AARD-VARK]](1975年 - 1999年)→<br />[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]](2000年 - )
| 事務所 = [[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス]]
| 共同作業者 = [[石井AQ]]
| 公式サイト = [https://www.taniyamahiroko.com/s/y06/?ima=2349 谷山浩子オフィシャルウェブサイト]<br />[http://taniyama.hiroko.com 谷山浩子 プライベート・ページ]
}}
'''谷山 浩子'''(たにやま ひろこ、[[1956年]][[8月29日]]<ref name="history" /> - )は、[[日本]]の[[歌手]]、[[シンガーソングライター]]<ref name="history">[https://www.taniyamahiroko.com/s/y06/page/history?ima=0000 ヒストリー - バイオグラフィー] 谷山浩子オフィシャルウェブサイト、2021年5月1日閲覧。</ref>。本名:中西 浩子(なかにし ひろこ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoueikai.com/link3 |title=21~30回生 | 鏡影会 お茶の水女子大附属中学校同窓会 |publisher =お茶の水女子大学 |accessdate=2023-04-28}}</ref>。
[[東京都]]<ref name="history" />[[杉並区]]<ref name="dare">{{Cite web|和書|url=http://taniyama.hiroko.com/hiroko/taniyama/dare.html |title=谷山浩子とは何者か。 |publisher=谷山浩子 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080603144313/http://taniyama.hiroko.com/hiroko/taniyama/dare.html |archivedate=2008-06-03 |accessdate=2023-04-28}}</ref>で生まれ、[[神奈川県]][[横浜市]]で育つ<ref name="history" />。現在の所属プロダクションは[[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス]] (YMEH) {{efn2|[[2007年]][[8月1日]]に[[ヤマハ音楽振興会]]からヤマハミュージックアーティスト (YMA) へ移籍、2017年にYMAは[[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス#過去の傘下企業|吸収合併]]しYMEHとなる。}}。所属レコード会社は[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]。
== 略歴 ==
=== デビューまで ===
[[1962年]]よりピアノを習い始め、7歳で初めての楽曲「星の夜」を作詞・作曲する<ref name="history" />。[[お茶の水女子大学附属中学校]]<ref name="history" />、[[お茶の水女子大学附属高等学校]]に入学<ref name="history" />。
中学校時代から[[キングレコード]]に曲の持ち込みを始め、ベイビーブラザーズ(後の[[フィンガー5]])のシングル「白い天使」([[1970年]][[11月20日]]発売)B面曲に「ぼくたちの秘密」が採用される(原題は「誰も知らない」)。当時は14歳であった。中学生の頃に[[楽曲|作品]]の持ち込みを始めた理由は、通っていた中学校から走って30秒の所にキングレコードがあり、また知り合いの知り合いがキングレコードのディレクターだったため。
本来は[[作曲家]]志望であり、自分で歌うことは想定していなかったが、キングレコードの[[音楽ディレクター]]から「自分で歌ってみない?」と言われ<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/taniyama_/status/1614251249406480384?t=M_hboUniYkHRgOgTwU87Ag&s=19|accessdate=2023-1-15|title=谷山浩子 ツイッター|website= Twitter}}</ref>、ピアノを弾きながら歌う[[弾き語り]]スタイルでレコーディングが行われた{{efn2|レコーディング時期が[[1971年]]であることが、[[国際標準レコーディングコード|ISRC]]年次コードにも反映されている(例:[[デビュー]][[シングル#EP盤|作]]「銀河系はやっぱりまわってる」識別コード:JPKI0'''71'''51014)。}}<ref name="minc">[http://www.minc.gr.jp/index.aspx 音楽の森 music Forest データベース検索より]</ref>。
[[1972年]]<ref name="history" />[[4月25日]]、[[スタジオ・アルバム|アルバム]]『[[静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜]]』と[[シングル#シングル盤|シングル]]『銀河系はやっぱりまわってる』を[[キングレコード]]からリリースし、最初の[[デビュー]]を果たす。
[[1972年]][[10月1日]]、[[日本放送協会|NHK]]の「[[ステージ101|ヤング101]]」<ref>CD『GOLDEN☆BEST / ステージ101 ヤング青春の日々』(Sony Music House MHCL240-1)ライナーノーツ。</ref>のメンバーとなり、[[1973年]]1月から[[NHK総合テレビジョン]]の[[音楽番組]]『[[ステージ101]]』に出演した。番組終了まで[[ステージ101|ヤング101]]に在籍。[[1974年]][[3月31日]]に放映された最終回には出演していないが、[[エンドクレジット]]には含まれた。
1974年5月5日、[[ヤマハポピュラーソングコンテスト#第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会|第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会]]で「お早うございますの帽子屋さん」が入賞<ref name="history" />。
*第8回ポピュラーソングコンテストに「ネコの森には帰れない」(カタカナ表記)を応募。デビューが決まったので幻に。
*翌[[1975年]][[2月10日]]に[[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]]から「お早うございますの帽子屋さん」をシングルとしてリリースし2度目のデビューを果たす<ref name="history" />。
*[[みなみらんぼう]]のバックでツアーをまわる。レコーディングでもピアノ・コーラスで参加。
*そして[[1977年]][[3月15日]]、シングル『河のほとりに』をキャニオン・レコードからリリースし、本格的にプロデビュー<ref name="history" />。同年5月25日、ファーストアルバム『[[ねこの森には帰れない]]』をキャニオンレコードよりリリース<ref name="history" />。以上の経緯から、谷山本人は「デビューが3回ある」と語っている<ref name="dare" />。
第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会で入賞する以前に、'''オレンジ猫'''(谷山の[[エッセイ]]集『おとめちっく・サラダ・たいむ』では '''おれんじ猫'''と表記<ref name="otometic">谷山浩子『おとめちっく・サラダ・たいむ』[[1991年]]、[[小学館]][[パレット文庫]]。ISBN 978-4094200416</ref>)という[[二人組#音楽|音楽デュオ]]を友人と結成、楽曲「忘れもの」で出場し、関東甲信越大会まで進出した。オレンジ猫は、谷山浩子(ピアノ、作曲)と友人(ヴォーカル、作詞)からなるデュオであり、当時のコンテスト審査員に[[松任谷由実|荒井由実]]がいた。出番終了後に「[[松任谷由実|ユーミン]]がオレンジ猫を好評価していた」と伝え聞いたときのエピソードを後に谷山は回想している。オレンジ猫は健闘するも敗退したため、残りの日程は谷山がソロ名義で<!--再エントリー?、-->コンテスト参加を続行したという<ref name="otometic" />。
以下、[[ヤマハポピュラーソングコンテスト#第7回ポピュラーソングコンテスト|第7回ポピュラーソングコンテスト]]関東甲信越大会[[パンフレット]]より時系列で記載。
*1973年10月20日 [[ヤマハホール]] ハンドメイドコンサート10月
**「忘れもの」作詞・佐々木雅世 作曲・谷山浩子 歌・オレンジ猫
**1974年2月16日 [[読売ホール]] 自作自演応募の部大会出場、さらに関東甲信越大会まで出場。
*1974年2月17日 読売ホール 譜面応募の部大会
**「スケッチブック」編曲・萩田光雄、「お早うございますの帽子屋さん」編曲・松任谷正隆の2曲出場。関東甲信越大会へは「お早うございますの帽子屋さん」が出場。
*1974年3月24日 中野サンプラザ 関東甲信越大会
**「忘れもの」オレンジ猫、「お早うございますの帽子屋さん」の2曲で出場。
=== デビュー後 ===
{{節スタブ||date=2021年5月}}
[[1981年]]のアルバム『[[時の少女]]』から3作にわたり[[橋本一子]]が主な[[編曲]]を担当し、そうした機運の中で出逢ったのが[[石井AQ]]である。石井は[[1985年]]のアルバム『[[眠れない夜のために]]』を[[音楽プロデューサー|プロデュース]]。以降現在に至るまで大部分のアルバムのプロデュースや編曲、コンサートやライブのサポートを務める共同作業者として活動をともにしている
デビュー後は音楽活動と並行して著述活動も続け、[[1979年]]に初の[[童話]]集『谷山浩子童話館』を刊行<ref name="history" />。[[1983年]]には八曜社から初の[[エッセイ]]集『悪魔祓いの浩子さん』を刊行した<ref name="history" />。
[[1982年]]からは[[ニッポン放送]]『[[オールナイトニッポン]]』木曜2部のレギュラーを担当し<ref name="history" />、[[ラジオパーソナリティ]]としても人気を博す。
[[1985年]]には[[日本放送協会|NHK]]『[[みんなのうた]]』で「[[恋するニワトリ]]」「[[水玉時間#まっくら森の歌|まっくら森の歌]]」が放送された<ref name="history" />。NHK『みんなのうた』ではそのほか、「[[しっぽのきもち]]」「[[おはようクレヨン]]」「[[空のオカリナ]]」「[[そっくりハウス]]」などが放送された。これらの作品を幼少時から視聴していた人々からは今なお根強い人気があり、『みんなのうた』の特番が組まれると決まって取り上げられる作品群である。
世間に知られている作品は存在するものの[[ヒット曲|大ヒット曲]]はなく、故に「売れない歌手」を自称しているが、その中で[[ヒットチャート]]に上ったのは[[斉藤由貴]]への提供作品群である。[[1986年]]に「[[土曜日のタマネギ]]」「[[MAY (斉藤由貴の曲)|MAY]]」(両曲とも作詞を担当)などがヒットした。
[[アニメーション]]関連の作品では、[[宮崎駿]]監督の[[アニメーション映画|アニメ映画]]『[[未来少年コナン#映画版|未来少年コナン・劇場版]]』の[[主題歌]]『[[愛をもう一度|愛をもう一度 / なつかしい朝]]』(歌:[[研ナオコ]])を提供し、[[1979年]][[8月5日]]に[[レコード#7インチシングル盤|7インチシングル盤]]として発売された。また、[[スタジオジブリ]]制作の『[[ゲド戦記]]』挿入歌、『[[コクリコ坂から]]』挿入歌など[[宮崎吾朗]]監督作品にも携わっている。
初代[[PC-8001]]([[1979年]]発売)の時代から[[パーソナルコンピュータ|パソコン]](当時は「[[マイクロコンピュータ|マイコン]]」と呼ばれていた)に触れているというパソコン[[マニア]]としても知られており、『[[Oh!FM]]』→『Oh!FM TOWNS』([[ソフトバンククリエイティブ|日本ソフトバンク]])、『[[PCfan]]』([[毎日コミュニケーションズ]])など複数の[[パソコン雑誌]]でエッセイを長期にわたり連載した。[[1989年]]には『[[コンプティーク]]・[[ソーサリアン]]シナリオコンテスト』の審査員、[[1992年]]には『パソコンアート・コンテスト』(主催:[[日本電気]])の審査員を務めたことがある。また、[[PC-9801]]用の[[アドベンチャーゲーム]]『TADL』にも関わっている。[[1998年]]には初の[[CD-ROM]]『それゆけ!マル廃ゲーマーズ』を発表<ref name="history" />した。
[[1986年]]よりアスキー実験ネットなどで[[パソコン通信]]を初体験<ref name="history" />。パソコン通信で「谷山浩子」の[[ハンドルネーム]]を用いて発言していたところ「谷山のファンが谷山の名前を名乗っている」と勘違いされ、「うちは実名主義ですから、ニックネームを使うのはやめてください」と警告されたことがあるという<ref>[[古瀬幸広]]『ネットワーカーズハンドブック コンピュータ・エイジのための電子生活マニュアル』p.104、[[翔泳社]]、[[1991年]]。ISBN 4-915673-81-2</ref>。[[1992年]]には[[日本電気|NEC]]の商用パソコン通信ネットワーク「[[PC-VAN]]」で、日本初となるパソコン通信での小説連載を開始した<ref name="history" />。[[インターネット]]の普及以降も、[[ブログ]]や[[動画共有サービス|動画サイト]]、[[Twitter]]などを音楽活動と趣味に積極的に活用している。
[[1987年]]から、一般の個人・団体が主催者となる「'''101人コンサート'''」を開始する<ref name="history" />。第1回開催は[[東村山市]]中央[[公民館]]であった<ref name="history" />。翌[[1988年]]からは[[青山円形劇場]]での「101人コンサートスペシャル」を開催<ref name="history" />。青山円形劇場では毎年秋([[1994年]] - [[2001年]]は隔年)にスペシャル公演を開催した<ref name="history" />。「101人コンサート」は、収容人数が100人から300人程度の会場で「電気と屋根がある場所ならどこでも」というコンセプトで、石井AQ([[シンセサイザー]])と2人で[[2001年]]まで全国各地で開催し、14年間で公演開催数が300以上に達した(青山円形劇場でのスペシャル公演を含む)。[[1997年]]にはデビュー25周年を迎え、第300回「101人コンサート」を[[Bunkamuraオーチャードホール]]で開催した<ref name="history" />。
[[2002年]]にはデビュー30周年を迎える<ref name="history" />。以降は、青山円形劇場公演に代わるものとして「'''猫森集会'''」が[[新宿]]の[[スペース・ゼロ|全労済ホールスペース・ゼロ]]で開催され、同時に全国を回るピアノソロツアー「谷山浩子ソロライブ」も行われている。なお、従来ファンクラブのイベントの名称として「ねこ森集会」が使われていたが、こちらは「ねこ森集会 Limited」と改称している。
[[1997年]][[4月]]から約2年間、[[ヤマハ音楽振興会]]の関連会社でファンクラブの運営や物販事業など営利事業を行っていた株式会社常磐を所属事務所としていた。[[2000年]]に[[ヤマハ]]によって[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]が設立された際、[[中島みゆき]]らと共に同社へ移籍する。
[[2012年]]にはデビュー40周年を迎える<ref name="history" />。これを記念して、同年から翌[[2013年]]にかけて、かねてからライブのゲストとして出演することが多かった[[ROLLY]]との[[#谷山浩子×ROLLY(THE 卍)|共作]]でアルバムを発表、東京・[[東京国際フォーラム]]と大阪・[[ブリーゼタワー#サンケイホールブリーゼ|サンケイホールブリーゼ]]にて特別公演を開催、『谷山浩子40周年記念百科全書』の発売、[[オールナイトニッポンモバイル]]の開始、『[[たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル#担当パーソナリティー|オールナイトニッポン45周年記念45時間スペシャル]]』(2013年2月23日(土) 28:00-29:00)へ出演するなど、様々な企画が行われた。
若い頃、歌手活動で最も苦手だったのは観客の前で唄うライブやコンサートであったが、30歳を超えてから次第に慣れていき、ライブが楽しく、観客を楽しませる余裕もできたと述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210512133025/https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/gogocafe/ThFsPq9Ekf.html |title=谷山浩子さん/人生には苦手が必要(武内陶子のごごカフェ) |publisher=NHK |date=2021-05-12 |accessdate=2022-08-13}}</ref>。
[[1996年]]に結婚したが<ref>[https://web.archive.org/web/20000226123556/http://www.sankei.co.jp/kusano/97/live/music/96taniyama.html Music Treasure インタビュー&ライブレポート 谷山浩子「101人コンサート スペシャル96」 日時・96年11月17日(日)/会場・青山円形劇場]、産経新聞、1996年11月19日。</ref>、[[2019年]]に夫と死別<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20190218-ZBEJPAQ2HRNYNK4ZEPGJFMJDRU/ |title=谷山浩子、夫死去 ツイッターで発表「表面はすごく平穏です」 |newspaper=SANSPO.COM |publisher=産経デジタル |date=2019-02-18 |accessdate=2019-02-22}}</ref>。翌[[2020年]]には[[乳がん]]と診断され、同年9月から治療を開始したため、[[2021年]]春頃までのコンサートの開催を見送った。
[[2019年]]には、NHK『みんなのうた』で「[[花さかニャンコ]]」が放送された。2020年[[12月11日]]から[[YouTube]]公式チャンネルで「谷山浩子のSORAMIMIラジオ」の[[ネット配信|配信]]を開始した<ref name="history" />。
== 音楽性 ==
独特の[[ファンタジー|幻想的]]作風を特徴としており、現実離れした内容の[[歌詞]]が多い。また、楽曲制作だけに留まらず幻想的[[小説]]も多数執筆、並行して小説と内容がリンクした同名の歌を制作するなど、個人で今で言う[[メディアミックス]]作品も制作しており、統一された[[世界観]]に裏打ちされた作品が特徴である。
作家としては[[ファンタジー]]作品を発表し続けており、[[ジュブナイル]]的な作品が多い。[[メルヘン]]的な文体で甘やかな印象があるが、[[文芸評論|文芸評論家]]の[[石堂藍]]は「作品の内実を窺うと、[[心理学]]的[[象徴#精神科学での定義|象徴]]や[[夢#心理学における夢の理解|夢]]への傾倒が強く見られる」と述べ、谷山が付けている[[夢分析|夢日記の影響]]を指摘している。アマチュアに徹することで、余分なものを豊かに持つ谷山ならではの世界を描いている<ref>[[石堂藍]]「挑戦するファンタジー」『[[幻想文学 (雑誌)|幻想文学]]58 特集 女性ファンタジスト2000』、[[幻想文学企画室]] 編集、アトリエOCTA、[[2000年]]</ref>。
== 音楽 ==
=== シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚
!発売日
!タイトル
!c/w
!規格
!規格品番
!概要
!最高位
|-
! colspan="8" |[[キングレコード]]
|-
!1st
|[[1972年]][[4月25日]]
|'''銀河系はやっぱりまわってる'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:原田良一
|天使のつぶやき<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:原田良一
|[[レコード#EP盤|EP]]
|BS-1527
|
|
|-
! colspan="8" |[[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]] / [[アードバーク (レーベル)|AARD-VARK]]
|-
!2nd
|[[1975年]][[2月10日]]
|'''お早うございますの帽子屋さん'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[萩田光雄]]
|夕暮れの街角で<br />作詞:[[泉明子]]<br />作曲:谷山浩子<br />編曲:萩田光雄
| rowspan="18" |EP
|AV-48
|[[ヤマハポピュラーソングコンテスト#第7回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会|第7回ポピュラーソングコンテスト]]入賞曲。
|
|-
!3rd
|[[1977年]][[3月25日]]
|'''河のほとりに'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[クニ河内]]・[[戸塚修]]
|風を忘れて<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[船山基紀]]
|V-19
|
|29位
|-
!4th
|[[1977年]][[10月10日]]
|'''窓'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[小野崎孝輔]]
|ゲームの終わり<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:萩田光雄
|V-24
|
|91位
|-
!5th
|[[1978年]][[9月21日]]
|'''忘れられた部屋で'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:小野崎孝輔
|星のマリオネット<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[瀬尾一三]]
|V-32
|
|72位
|-
!6th
|[[1979年]][[2月21日]]
|'''あやつり人形'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:ジーノ・メスコリ
|六月の花嫁<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[福井峻]]
|V-36
|
|96位
|-
!7th
|[[1979年]][[9月21日]]
|'''風を追いかけて'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:瀬尾一三
|風の子供<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[大村雅朗]]
|V-41
|
|
|-
!8th
|[[1980年]][[3月21日]]
|'''[[カントリーガール#谷山浩子のシングル|カントリーガール]]'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[山川恵津子]]
|ミスティーナイト<br />作詞・安田義文 作曲:谷山浩子<br />編曲:山川恵津子
|V-48
|
|55位
|-
!9th
|[[1980年]][[3月21日]]
|'''夕暮れの街角で'''<br />作詞:泉明子<br />作曲:谷山浩子<br />編曲:ジャン・ムージィ
|今日は雨降り<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:ジャン・ムージィ
|7A-0009
|
|
|-
!10th
|[[1981年]][[3月21日]]
|'''ごめんね'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[平野孝幸]]
|あの子の愛した三毛猫<br />作詞・朝久義智 作曲:谷山浩子<br />編曲:平野孝幸
|7A-0060
|
|
|-
!11th
|[[1982年]][[4月21日]]
|'''てんぷら☆さんらいず'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[鳴海寛]]・山川恵津子
|おやすみ<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:鳴海寛・山川恵津子
|7A-0176
|
|
|-
!12th
|[[1982年]][[10月5日]]
|'''サーカス'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:平野孝幸
|地上の星座<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:平野孝幸
|7A-0222
|
|83位
|-
!13th
|[[1983年]][[3月21日]]
|'''たんぽぽ'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[倉田信雄]]
|ほうき星の歌<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:倉田信雄
|7A-0258
|
|75位
|-
!14th
|[[1983年]][[9月21日]]
|'''風になれ -みどりのために-'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[鷺巣詩郎]]
|なおちゃん<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:鷺巣詩郎
|7A-0314
|[[エーザイ]]の[[胃腸薬]]「サクロン」の[[コマーシャルソング|CMソング]]
|69位
|-
!15th
|[[1984年]][[5月21日]]
|'''ラ・ラ・ルウ'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:鷺巣詩郎
|O YA SU MI<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[松下誠]]
|7A-0379
|
|
|-
!16th
|[[1984年]][[11月21日]]
|'''{{仮リンク|DESERT MOON (デニス・デ・ヤングの曲)|en|Desert Moon (song)|label=DESERT MOON}}'''<br />作詞・作曲:[[:en:Dennis DeYoung|Dennis De Young]]<br />日本語詞:谷山浩子<br />編曲:鷺巣詩郎
|銀河通信<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:鷺巣詩郎
|7A-0450
|当時[[スティクス (バンド)|スティクス]]のメンバーであった{{仮リンク|デニス・デ・ヤング|en|Dennis DeYoung}}のソロデビュー曲の[[日本語]][[カバー]]。
|55位
|-
!17th
|[[1985年]][[4月21日]]
|'''ブルーブルーブルー'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[川島裕二]]
|メリーメリーゴーラウンド<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:川島裕二
|7A-0473
|
|
|-
!18th
|[[1986年]][[8月21日]]
|'''夕焼けリンゴ'''<br />作詞:谷山浩子<br />作曲・編曲:[[崎谷健次郎]]
|ガラスの巨人<br />作詞:谷山浩子<br />作曲:崎谷健次郎<br />編曲:谷山浩子・石井AQ
|7A-0614
|
|
|-
!19th
|[[1986年]][[11月19日]]
|'''[[MAY (斉藤由貴の曲)|MAY]]'''<br />作詞:谷山浩子<br />作曲:[[堀川まゆみ|MAYUMI]]<br />編曲:大村雅朗
|Pyun Pyun<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:大村雅朗
|7A-0659
|[[斉藤由貴]]への[[MAY (斉藤由貴の曲)|提供曲]]の[[セルフカバー]]
|85位
|-
! colspan="8" |ポニーキャニオン / AARD-VARK
|-
!20th
|[[1991年]][[5月21日]]
|'''海の時間'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[斎藤ネコ]]
|心だけそばにいる 〜HERE IN MY HEART〜<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:斎藤ネコ
| rowspan="3" |[[8センチCD|8cmCD]]
|PCDA-00182
|
|
|-
!21st
|[[1992年]][[9月2日]]
|'''ひとみの永遠'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:斎藤ネコ
|会いたくて<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[石井AQ]]・谷山浩子
|PCDA-00346
|
|94位
|-
!22nd
|[[1994年]][[6月17日]]
|'''夜のブランコ'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:倉田信雄
|ひとりでお帰り<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:斎藤ネコ
|PCDA-00590
|
|
|-
! colspan="8" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!rowspan="2"|23rd
|rowspan="2"|[[2012年]][[10月24日]]
|rowspan="2"|'''同じ月を見ている'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:石井AQ・谷山浩子
|[[まっくら森の歌]]<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[乾裕樹]]・石井AQ
| rowspan="2" |[[12cmCD]]
| rowspan="2" |YCCW-30030
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|95位
|-
|[[恋するニワトリ]]<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[岡崎倫典]]
|-
!24th
|2019年4月2日
|'''[[花さかニャンコ]]'''<br />作詞・作曲:谷山浩子<br />編曲:[[栗原正己]]
| -
|ネット配信
|YCCI-10435
|
|
|}
=== シングルカセット ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚
!発売日
!タイトル
!c/w
!概要
!規格
! 規格品番
|-
! colspan="7" |[[ポニーキャニオン|ポニー]]
|-
!1st
|1986年4月21日
|'''GO GO マリオ!!'''<br />作詞・作曲・編曲:SUPER MORIYA BAND
|GO GO マリオ!!(カラオケ)
|'''プリンセス・ピーチ'''名義。<br />[[ファミリーコンピュータ]]用[[ゲームソフト]]『[[スーパーマリオブラザーズ]]』の地上[[背景音楽|BGM]]に歌詞をつけたもので、元々は[[小峯隆生]]の[[オールナイトニッポン]]のリスナーが創作して歌ったテープを投稿したもの。それを採用し放送したところ評判となり、一部手直しした上で谷山が登場人物の[[ピーチ姫|プリンセス・ピーチ]]名義で『GO GO マリオ!!』を歌った。間奏での[[ナレーション]]も行っている。<br />カテゴリーが子供向けになっているため、値段設定も子供向けにしている。<br />2008年1月23日に発売された『[[オールナイトニッポン|オールナイトニッポン EVERGREEN 5]]』にボーナストラックとして収録されている。
|[[コンパクトカセット|CT]]
|7P1002
|}
=== オリジナルアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!最高位
|-
! colspan="6" |[[キングレコード]]
|-
!rowspan="5"|1st
|1972年4月25日
|rowspan="5"|'''[[静かでいいな 〜谷山浩子15の世界〜]]'''
|[[レコード#LP盤|LP]]
|SKD-1009
|rowspan="4"|
|-
|rowspan="2"|1983年12月21日
|LP
|K25A-484
|-
|[[コンパクトカセット|CT]]
|K25H-468
|-
|1994年2月5日
|[[コンパクトディスク|CD]]
|KICS-8010
|-
|2007年9月12日
|CD
|YCCW-10036
|150位
|-
! colspan="6" |[[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]] / [[アードバーク (レーベル)|AARD-VARK]]
|-
!rowspan="5"|2nd
|1977年5月25日
|rowspan="5"|'''[[ねこの森には帰れない]]'''
|LP
|VF-9011
|rowspan="5"|
|-
|1980年6月1日
|CT
|25P7144
|-
|1983年12月5日
|CD
|D35A0028
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00258
|-
|2011年7月20日
|[[ブルースペックCD|Blu-spec CD]]
|YCCW-10131
|-
!rowspan="6"|3rd
|rowspan="2"|1978年3月10日
|rowspan="6"|'''[[もうひとりのアリス]]'''
|LP
|VX-9001
|rowspan="6"|
|-
|CT
|CF9071
|-
|1980年6月
|CT
|25P7145
|-
|1985年4月21日
|CD
|D32A0071
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00259
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10132
|-
!rowspan="4"|4th
|rowspan="2"|1978年12月5日
|rowspan="4"|'''[[鏡の中のあなたへ]]'''
|LP
|C25A0024
|rowspan="4"|
|-
|CT
|25P7034
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00260
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10133
|-
!rowspan="4"|5th
|rowspan="2"|1979年11月5日
|rowspan="4"|'''[[夢半球]]'''
|LP
|C25A0058
|rowspan="4"|
|-
|CT
|25P7083
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00261
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10134
|-
!rowspan="4"|6th
|rowspan="2"|1980年11月21日
|rowspan="4"|'''[[ここは春の国]]'''
|LP
|C28A0130
|63位
|-
|CT
|28P6029
|rowspan="3"|
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00262
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10135
|-
!rowspan="4"|7th
|rowspan="2"|1981年11月21日
|rowspan="4"|'''[[時の少女]]'''
|LP
|C28A0195
|rowspan="4"|
|-
|CT
|28P6115
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00263
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10136
|-
!rowspan="5"|8th
|rowspan="3"|1983年4月21日
|rowspan="5"|'''[[たんぽぽサラダ]]'''
|LP
|C28A0271
|27位
|-
|CT
|28P6224
|rowspan="4"|
|-
|CD
|D35A0016
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00264
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10137
|-
!rowspan="4"|9th
|rowspan="2"|1984年5月21日
|rowspan="4"|'''[[水の中のライオン]]'''
|LP
|C28A0332
|23位
|-
|CT
|28P6324
|rowspan="3"|
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00265
|-
|2011年7月20日
|Blu-spec CD
|YCCW-10138
|-
!rowspan="5"|10th
|rowspan="3"|1985年6月5日
|rowspan="5"|'''[[眠れない夜のために]]'''
|LP
|C28A0410
|27位
|-
|CT
|28P6429
|rowspan="4"|
|-
|CD
|D32A0077
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00266
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10139
|-
!rowspan="5"|11th
|rowspan="3"|1985年10月5日
|rowspan="5"|'''[[空飛ぶ日曜日]]'''
|LP
|C28A0438
|27位
|-
|CT
|28P6475
|rowspan="4"|
|-
|CD
|D32A0119
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00267
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10140
|-
!rowspan="5"|12th
|rowspan="3"|1986年10月21日
|rowspan="5"|'''[[水玉時間]]'''
|LP
|C28A0522
|34位
|-
|CT
|28P6594
|rowspan="4"|
|-
|CD
|D32A0236
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00268
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10141
|-
!rowspan="5"|13th
|rowspan="3"|1987年9月5日
|rowspan="5"|'''[[透明なサーカス]]'''
|LP
|C28A0592
|41位
|-
|CT
|28P6713
|rowspan="4"|
|-
|CD
|D32A0311
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00269
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10142
|-
! colspan="6" |ポニーキャニオン / AARD-VARK
|-
!rowspan="5"|14th
|rowspan="3"|1988年5月21日
|rowspan="5"|'''[[しっぽのきもち]]'''
|LP
|C28A0637
|rowspan="3"|42位
|-
|CT
|28P6800
|-
|CD
|D32A0362
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00270
|rowspan="2"|
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10143
|-
!rowspan="5"|15th
|rowspan="3"|1989年1月21日
|rowspan="5"|'''[[お昼寝宮・お散歩宮]]'''
|LP
|C28A0686
|rowspan="3"|48位
|-
|CT
|28P6868
|-
|CD
|D32A0416
|-
|1991年5月21日
|CD
|PCCA-00271
|rowspan="2"|
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10144
|-
!rowspan="3"|16th
|rowspan="2"|1990年2月21日
|rowspan="3"|'''[[冷たい水の中をきみと歩いていく]]'''
|CD
|PCCA-00044
|rowspan="2"|35位
|-
|CT
|PCTA-00032
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10145
|
|-
!rowspan="3"|17th
|rowspan="2"|1991年5月21日
|rowspan="3"|'''[[ボクハ・キミガ・スキ]]'''
|CD
|PCCA-00272
|rowspan="2"|34位
|-
|CT
|PCTA-00089
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10147
|
|-
!rowspan="3"|18th
|rowspan="2"|1992年6月3日
|rowspan="3"|'''[[歪んだ王国]]'''
|CD
|PCCA-00370
|rowspan="2"|29位
|-
|CT
|PCTA-00137
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10148
|
|-
!rowspan="2"|19th
|1993年5月21日
|rowspan="2"|'''[[天空歌集]]'''
|CD
|PCCA-00444
|37位
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10149
|
|-
!rowspan="2"|20th
|1994年7月21日
|rowspan="2"|'''[[銀の記憶]]'''
|CD
|PCCA-00617
|55位
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10150
|
|-
!rowspan="2"|21st
|1995年9月21日
|rowspan="2"|'''[[漂流楽団]]'''
|CD
|PCCA-00801
|59位
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10151
|
|-
!rowspan="2"|22nd
|1996年11月7日
|rowspan="2"|'''[[しまうま (アルバム)|しまうま]]'''
|CD
|PCCA-01024
|70位
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10152
|
|-
!rowspan="2"|23rd
|1998年9月18日
|rowspan="2"|'''[[カイの迷宮]]'''
|CD
|PCCAX-00013
|rowspan="2"|
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10155
|-
!rowspan="2"|24th
|1999年10月20日
|rowspan="2"|'''[[僕は鳥じゃない]]'''
|CD
|PCCA-01389
|rowspan="2"|
|-
|2011年9月14日
|Blu-spec CD
|YCCW-10157
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!25th
|2001年1月24日
|'''[[心のすみか]]'''
| rowspan="10" |CD
|YCCW-00003
|
|-
!26th
|2002年4月17日
|'''[[翼 (アルバム)|翼]]'''
|YCCW-00038
|
|-
!27th
|2002年10月23日
|'''[[そっくりハウス]]'''
|YCCW-00040
|
|-
!28th
|2003年9月17日
|'''[[宇宙の子供]]'''
|YCCW-00042
|
|-
!29th
|2004年9月15日
|'''[[Mezzo Piano (アルバム)|Mezzo Piano]]'''
|YCCW-10007
|
|-
!30th
|2005年2月23日
|'''[[月光シアター]]'''
|YCCW-10013
|
|-
!31st
|2006年9月13日
|'''[[テルーと猫とベートーヴェン]]'''
|YCCW-10029
|47位
|-
!32nd
|2007年11月7日
|'''[[フィンランドはどこですか?]]'''
|YCCW-10038
|75位
|-
!33rd
|2011年9月14日
|'''[[夢みる力]]'''
|YCCW-10159
|66位
|-
!34th
|2017年9月13日
|'''[[月に聞いた11の物語]]'''
|YCCW-10312
|22位
|-
!rowspan="2"|35th
|rowspan="2"|2019年9月11日
|rowspan="2"|'''[[花さかニャンコ]]'''
|CD+[[DVD]]
|YCCW-10365/B(初回盤)
|rowspan="2"|35位
|-
| rowspan="2" |CD
|YCCW-10366
|-
!'''36th'''
|2021年11月17日
|'''[[浩子の宅録]]'''
|YCCW-10394
|28位
|}
=== セルフカバーアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!最高位
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!rowspan="2"|1st
|rowspan="2"|2008年9月10日
|rowspan="2"|'''[[タマで弾き語り]]'''
|CD+DVD
|YCCW-10051/B(初回盤)
|rowspan="2"|60位
|-
|CD
|YCCW-10052
|}
=== ライブアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!最高位
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!rowspan="2"|1st
|rowspan="2"|2014年9月10日
|rowspan="2"|'''谷山浩子 デビュー40周年記念コンサート at 東京国際フォーラム'''
|3CD+DVD
|YCCW-10238/40/B (初回限定BOX仕様)
|rowspan="2"|30位
|-
|2CD
|YCCW-10241/2
|-
!rowspan="2"|2nd
|rowspan="2"|2018年9月12日
|rowspan="2"|'''谷山浩子コンサート ~デビュー45周年大収穫祭~'''
|3CD+DVD
|YCCW-10347/9/B(初回盤)
|rowspan="2" |31位
|-
|2CD
|YCCW-10350/1
|-
!3rd
|2023年9月13日
|'''谷山浩子50周年イヤーフィナーレ ~コンサート2023~'''
|2CD
|YCCW-10418/9
|29位
|}
=== ベストアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!最高位
|-
! colspan="6" |[[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]] / [[アードバーク (レーベル)|AARD-VARK]]
|-
! rowspan="3" |1st
|rowspan="2"|1983年11月21日
| rowspan="3" |'''[[谷山浩子 BEST SELECTION]]'''
|LP
|C28A0303
|rowspan="2"|
|-
|CT
|28P6277
|-
|1984年12月5日
|CD
|D33A0046
|
|-
!rowspan="2"|2nd
|rowspan="2"|1985年11月21日
|rowspan="2"|'''[[谷山浩子 THE BEST]]'''
|CD
|D32A0134
|rowspan="2"|
|-
|CT
|36P1312
|-
! rowspan="2" |3rd
| rowspan="2" |1987年2月5日
| rowspan="2" |'''[[谷山浩子 スーパーベスト]]'''
|CD
|D32P6052
|
|-
|CT
|36P1404
|
|-
! rowspan="3" |4th
| rowspan="2" |1987年7月21日
| rowspan="3" |'''[[谷山浩子 ベスト ア・ラ・カルト]]'''
|CD
|D32P6090
|
|-
|CT
|32P9217
|
|-
|1989年3月21日
|[[GOLD CD]]
|D35A0502
|
|-
!rowspan="3"|5th
|rowspan="2"|1990年11月14日
|rowspan="3"|'''[[カントリーガール#谷山浩子のアルバム|カントリーガール]]'''
|CD
|PCCA-00119
|rowspan="2"|58位
|-
|CT
|PCTA-00063
|-
|2011年8月17日
|Blu-spec CD
|YCCW-10146
|
|-
!rowspan="2"|6th
|1997年9月17日
|rowspan="2"|'''[[Memories (谷山浩子のアルバム)|Memories]]'''
|2CD
|PCCA-01124
|rowspan="2"|
|-
|2011年9月14日
|2Blu-spec CD
|YCCW-10153
|-
!rowspan="2"|7th
|1999年6月17日
|rowspan="2"|'''[[HIROKO TANIYAMA '70S]]'''
|CD
|PCCAX-00015
|rowspan="2"|
|-
|2011年3月2日
|CD
|YCCW-10125
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!8th
|2000年9月20日
|'''[[HIROKO TANIYAMA '80S]]'''
|CD
|YCCW-00001
|
|-
!9th
|2001年9月19日
|'''[[HIROKO TANIYAMA '90S]]'''
|CD
|YCCW-00030
|
|-
!10th
|2005年12月7日
|'''[[白と黒 (谷山浩子のアルバム)|白と黒]]'''
|2CD
|YCCW-10018
|121位
|-
!11th
|2011年3月2日
|'''[[HIROKO TANIYAMA '00S]]'''
|CD
|YCCW-10126
|227位
|-
!12th
|2012年4月25日
|'''[[花とゆめ (アルバム)|花とゆめ]]'''
|2CD
|YCCW-10171/2
|78位
|-
!13th
|2017年4月26日
|'''[[谷山浩子 45th シングルコレクション]]'''
|3CD
|YCCW-10302/4
|26位
|-
!14th
|2022年4月27日
|'''[[ネコとコバン]]'''
|2CD
|YCCW-10403/4
|34位
|}
==== カセットテープ ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
|-
|1979年3月
|'''谷山浩子スペシャル'''
|35P8036
|
<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# あやつり人形
# 忘れられた部屋で
# お早うございますの帽子屋さん
# あたしの恋人
# 風を忘れて
# 雲雀
# 不思議なアリス
# 本日は雪天なり
# 夕暮れの街角で
# 青い鳥
SIDE B
# 河のほとりに
# 窓
# ねこの森には帰れない
# 六月の花嫁
# 私の愛した人
# 星のマリオネット
# 朝の扉をひらく時
# 鏡よ鏡
# 紙ひこうき
# ゲームの終わり
}}
</div></div>
|-
|1981年10月
|'''谷山浩子が選ぶマイベスト20'''
|36P1041
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# お早ようございますの帽子屋さん
# 河のほとりに
# 本日は雪天なり
# 眠レナイ夜
# あやつり人形
# 鏡よ鏡
# 雲雀
# もみの木
# 紙ひこうき
# イーハトーヴの魔法の歌
SIDE B
# 窓
# 朝の扉をひらく時
# すずかけ通り三丁目
# 陽だまりの少女
# テングサの歌
# 赤い靴
# そのとき
# あたしの恋人
# エッグムーン
# ねこの森には帰れない
}}
</div></div>
|-
|1982年11月21日
|'''谷山浩子 ベストヒット 全曲集'''
|36P1117
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# サーカス
# 河のほとりに
# てんぷら★さんらいず
# 風を追いかけて
# お早ようございますの帽子屋さん
# ねこの森には帰れない
# 窓
# 真夜中の太陽
# 静かに
# おやすみ
SIDE B
# カントリーガール
# 忘れられた部屋で
# あやつり人形
# 風を忘れて
# 時の少女
# ここは春の国
# 鏡よ鏡
# 夕暮れの街角で
# 星のマリオネット
# ごめんね
}}
</div></div>
|-
| rowspan="2" |1983年4月21日
|'''谷山浩子 A面コレクション'''
|25P7271
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全12曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# お早ようございますの帽子屋さん
# 河のほとりに
# 窓
# 忘れられた部屋で
# あやつり人形
# 風を追いかけて
SIDE B
# カントリーガール
# 夕暮れの街角で
# ごめんね
# てんぷら☆さんらいず
# サーカス
# たんぽぽ
}}
</div></div>
|-
|'''谷山浩子 B面コレクション'''
|25P7272
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全12曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# 夕暮れの街角で
# 風を忘れて
# ゲームの終わり
# 星のマリオネット
# 六月の花嫁
# 風の子供
SIDE B
# ミスティナイト
# 今日は雨降り
# あの子の愛した三毛猫
# おやすみ
# 地上の星座
# ほうき星の歌
}}
</div></div>
|-
|1983年6月21日
|'''童話館/谷山浩子'''
|36P1170
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# 朝の扉をひらく時
# すずかけ通り三丁目
# 本日は雪天なり
# 鏡よ鏡
# 雲雀
# 窓
# あやつり人形
# 陽だまりの少女
# もみの木
# テングサの歌
SIDE B
# エッグムーン
# カーニバル
# 街
# 静かに
# てんぷら★さんらいず
# おやすみ
# 地上の星座
# たんぽぽ食べて
# SEAGULL
# リカちゃんのポケット
}}
</div></div>
|-
|1984年2月5日
|'''谷山浩子 ベスト 20'''
|36P1238
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# 河のほとりに
# カントリーガール
# 忘れられた部屋で
# サーカス
# 窓
# お早ようございますの帽子屋さん
# 夕暮れの街角で
# たんぽぽ食べて
# おやすみ
# 風を追いかけて
SIDE B
# 風になれ~みどりのために~
# たんぽぽ
# てんぷら☆さんらいず
# ごめんね
# あやつり人形
# ねこの森には帰れない
# LADY DAISY
# スケッチブック
# テングサの歌
# 船
}}
</div></div>
|-
|1984年6月5日
|'''谷山浩子 ベスト16'''
|32P9140
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全16曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# ラ・ラ・ルウ
# カントリーガール
# 風になれ~みどりのために~
# おやすみ
# サーカス
# てんぷら☆さんらいず
# 船
# 河のほとりに
SIDE B
# 紙ひこうき
# 忘れられた部屋で
# ねこの森には帰れない
# もみの木
# テングサの歌
# ごめんね
# お早うございますの帽子屋さん
# 地上の星座
}}
</div></div>
|-
|1985年1月5日
|'''谷山浩子 ベストヒット 全曲集'''
|36P1277
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全20曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# DESERT MOON
# ラ・ラ・ルウ
# 夕暮れの街角で
# 忘れられた部屋で
# カントリーガール
# 窓
# 河のほとりに
# ほうき星の歌
# たんぽぽ
# 地上の星座
SIDE B
# サーカス
# てんぷら☆さんらいず
# 夜のブランコ
# ごめんね
# 時の少女
# 風を追いかけて
# あやつり人形
# おやすみ
# キャロットスープの唄
# 船
}}
</div></div>
|-
|1985年6月21日
|'''THE SPECIAL SERIES 谷山浩子'''
|28P6440
|
<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全12曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|SIDE A
# ブルーブルーブルー
# DESERT MOON
# 風になれ-みどりのために-
# てんぷら☆さんらいず
# カントリーガール
# 夕暮れの街角で
SIDE B
# 河のほとりに
# お早ようございますの帽子屋さん
# 窓
# 忘れられた部屋で
# あやつり人形
# ラ・ラ・ルウ
}}
</div></div>
|}
=== 紙ジャケットシリーズ ===
ポニーキャニオン時代に発売された『ねこの森には帰れない』から『僕は鳥じゃない』までのアルバム25作はその大半が長らく入手困難となっていたが、[[2011年]]に紙ジャケットシリーズとしてヤマハミュージックコミュニケーションズから全作、再発売された。特にオリジナルがLP盤だったタイトルは、当時の装丁を忠実に再現し制作されている。音源の[[リマスタリング]]はされていないものの、全て[[ブルースペックCD|Blu-spec CD]]規格が採用されている。プレ40周年企画の一環であり、“全25作購入でもれなく『オリジナル特製BOXプレゼント』{{efn2|商品は新装紙ジャケット再発作品を収納する専用の箱であった。}}がもらえる応募券” が封入されていた。
* 2011年7月20日『ねこの森には帰れない』『もうひとりのアリス』『鏡の中のあなたへ』『夢半球』『ここは春の国』『時の少女』『たんぽぽサラダ』『水の中のライオン』
* 2011年8月17日『眠れない夜のために』『空飛ぶ日曜日』『水玉時間』『透明なサーカス』『しっぽのきもち』『お昼寝宮・お散歩宮』『冷たい水の中をきみと歩いていく』『カントリーガール』『ボクハ・キミガ・スキ』
* 2011年9月14日『歪んだ王国』『天空歌集』『銀の記憶』『漂流楽団』『しまうま』『Memories』『カイの迷宮』『僕は鳥じゃない』
=== タイアップ曲 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!楽曲!!タイアップ!!時期
|-
|ミスティーナイト||[[ラジオ関西]]『ギャルギャルコーベ』今月の歌||1980年
|-
|風になれ -みどりのために-||[[エーザイ]] 緑の[[胃腸薬|胃ぐすり]]・[[エーザイ#胃腸薬|新サクロン]] イメージソング||1983年
|-
|DESERT MOON||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[テレビドラマ#日本|TVドラマ]]『[[青い瞳の聖ライフ]]』主題歌||1984年
|-
|恋するニワトリ||[[日本放送協会|NHK]]『[[みんなのうた]]』2月・3月期 放送曲||rowspan="2"|1985年
|-
|まっくら森の歌||NHK『みんなのうた』8月・9月期 放送曲
|-
|しっぽのきもち||NHK『みんなのうた』8月・9月期 放送曲||1986年
|-
|おはようクレヨン||NHK『みんなのうた』6月・7月期 放送曲||1987年
|-
|ひとみの永遠||[[大正製薬]]「アイリス」[[コマーシャルメッセージ|CF]]イメージソング||1992年
|-
|そっくりハウス||NHK『みんなのうた』10月・11月期 放送曲||2002年
|-
|同じ月を見ている||[[NHKラジオ]]『[[ラジオ深夜便]]』「深夜便のうた」より||2012年
|-
|花さかニャンコ||NHK『みんなのうた』4月・5月期 放送曲||2019年
|-
|きみがいるから
|NHK『みんなのうた』4月・5月期 放送曲
|2022年
|}
=== 共作アルバム ===
==== 谷山浩子×[[ROLLY]](THE 卍) ====
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!最高位
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!1st
|2012年9月12日
|'''[[ROLLY&谷山浩子のからくり人形楽団]]'''
| rowspan="2" |CD
|YCCW-10178
|61位
|-
!2nd
|2013年9月11日
|'''[[暴虐のからくり人形楽団]]'''
|YCCW-10199
|57位
|}
==== 谷山浩子×[[栗コーダーカルテット]] ====
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!最高位
|-
! colspan="6" |[[ヤマハミュージックコミュニケーションズ]]
|-
!1st
|2016年9月14日
|'''ひろコーダー☆栗コーダー'''
|CD
|YCCW-10282
|39位
|}
=== 参加作品 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
!発売日
!作品
!歌
!参加曲
!作詞
!作曲
!規格
!規格品番
!概要
|-
|rowspan="2"|2007年9月5日
|rowspan="2"|早ね早おき朝ごはん〜生活あそびうた〜
|谷山浩子
|「早ね早おき朝ごはん」
|rowspan="2"|谷山浩子
|rowspan="2"|谷山浩子
| rowspan="2" |CD
| rowspan="2" |KICG-8283
|文部科学省からの依頼で作成。『早寝早起き朝ごはん』全国協議会テーマソング。
|-
|[[林原めぐみ]]
|「おひるねしましょう」
|
|}
=== 他アーティストのアルバム等へのボーカル・ピアノ伴奏等の参加 ===
* 途上にて([[みなみらんぼう]])サブボーカル
* とり残されて([[中村俊男]])ピアノ
* Kyoji-Travelin' ([[野沢亨司]]) コーラス
* 今だけの真実 ([[斉藤由貴]]) ピアノ
=== 非売品 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
! !!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番!!概要
|-
!雑誌付録
|1974年
|'''私たちのつくった歌<窓>'''
|[[レコード#EP盤|EP]]
|UGD-2001
|[[学研ホールディングス|学習研究社]]の月刊誌『ミュージック・エコー』誌の創刊3周年記念作曲コンクール入賞曲4曲を収録した[[おまけ#付録|付録]]EP盤{{efn2|「[[レコード#EP盤|EP]]」とされているが「[[コンパクト盤]]」の可能性もある。}}。B1「夏の窓辺で」の作曲と歌唱を担当している。
|-
! rowspan="4" |非売品
|1980年
|'''[[ヤマハ発動機]]社歌・応援歌'''
|EP
|SG-547
|全6曲。A1の「ヤマハ発動機社歌」の作曲を担当。非売品。入手困難。『猫森集会』(2007年9月19日、新宿・全労済ホールスペース・ゼロ公演)で谷山自身が唄った。2008年発売のアルバム『タマで弾き語り』で新たにレコーディング・収録された。
|-
|1982年
|'''風流るゝ里に -谷山浩子こころのアルバム-'''
|LP
|FRS-280
|[[兵庫県]]各地の[[民謡]]をアレンジして収録したもの。全18曲。地元兵庫県内の[[図書館]]・[[兵庫県#行政区画|市町村]][[役所#地方公共団体の役所|役場]]などの[[公共機関]]へ配布された。非売品、廃盤、枚数限定(50枚しかプレスされていない)。現在入手も視聴も極めて困難な音盤となっている。
|-
|2006年
|'''[[袋井市歌〜ここがふるさと〜|袋井市歌 〜ここがふるさと〜]]'''
|CD
|
|作詞:谷山浩子 作曲:[[大島ミチル]] 歌唱:[[唐澤まゆこ]]<br />[[静岡県]][[袋井市]]と[[浅羽町]]が合併したことにより新しい市歌として「[[袋井市歌〜ここがふるさと〜]]」を2006年4月9日に制定。袋井市立袋井図書館に5枚収蔵されており、袋井市在住者・在勤者・在学者向けに貸出も行われている。<br />『猫森集会』(2006年9月19日・20日両日、新宿・全労済ホールスペース・ゼロ公演)および『谷山浩子ソロライブツアー 2006~2007』(2007年2月17日・18日両日、静岡県[[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]]・[[ライブハウス]]「[[窓枠 (ライブハウス)|窓枠]]」公演)の[[アンコール#ポピュラー系音楽におけるアンコール|アンコール]]で谷山自身が[[弾き語り]]で唄った。それ以後も全国各地のコンサートで度々唄われており、2008年発売のアルバム『タマで弾き語り』で新たにレコーディング・収録された。
|-
|2013年
|'''かごしまショコラ保育園のうた'''
|
|
|谷山浩子デビュー40周年の節目に同保育園の園歌として依頼され制作された。
|}
=== 教材 ===
* ジュニア アドバンス コース1([[ヤマハ音楽振興会#概要|ヤマハ音楽教育システム]]、CD)
: ヤマハ音楽教育システムの教材CD(1)-5に「キャロットスープの歌」(本人歌唱)が収録されている。
* アンサンブルJr.2(ヤマハ音楽振興会、CD)
: ヤマハ音楽教育システムのアンサンブルジュニアコース教材CD(2)-18に「パセリ パセリ」(歌唱=[[杉並児童合唱団]])が収録されている。
* アンサンブルJr.3(ヤマハ音楽振興会、CD)
: ヤマハ音楽教育システムのアンサンブルジュニアコース教材CD(3)-19に「お早うございますの帽子屋さん」(歌唱=児童合唱団)が収録されている。
=== 提供曲 ===
==== あ行 ====
* [[青木まり子]]
** 好きかも。(作詞・作曲:谷山浩子 2012年)
* [[石川さゆり]]
** 少女([[作詞]]・[[作曲]]:谷山浩子 2012年)
* [[石川ひとみ]]
** ひとりぼっちのサーカス(作詞・作曲:谷山浩子 1979年)
* [[石野真子]]
** 私はオレンジ(作詞・作曲:谷山浩子 1978年)
** 待ちぼうけ(作詞・作曲:谷山浩子 1978年)
** イカルスの子守唄(作詞・作曲:谷山浩子 1978年)
** Cafe Memories(作詞・作曲:谷山浩子 2013年)
* [[今井麻美]]
** [[THE IDOLM@STER STATION!!! FIRST TRAVEL|SHADOWLESS]](作詞・作曲:谷山浩子 2010年)
* [[岩男潤子]]
** すみれの谷(作詞・作曲:谷山浩子 1990年)
** 空のオカリナ(作詞・作曲:谷山浩子 1996年)
** ハーブガーデン(作詞・作曲:谷山浩子 1996年)
** あなたを忘れたい(作詞:谷山浩子 作曲:[[岩男潤子]] 1996年)
** 鳥籠姫(作詞・作曲:谷山浩子 1996年)
** ねこ曜日(作詞・作曲:谷山浩子 1996年)
** Dream Dream(作詞:谷山浩子 作曲:[[崎谷健次郎]] 1997年)
** はじめてのさよなら(作詞:谷山浩子・岩男潤子 作曲:崎谷健次郎 1997年)
** 好きな人がいるの(作詞:谷山浩子 作曲:岩男潤子 1997年)
** 風のジャンヌ(作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1997年)
** おひさま(作詞・作曲:谷山浩子 1997年)
***「僕は鳥じゃない」に収録されている「おひさま」は、このカバーではない。 歌詞の内容から、この曲の続編と推測される。
** SHIPPO(作詞・作曲:谷山浩子 1997年)
** あそびにいこうよ!(作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1997年)
** パタパタ(作詞:岩男潤子 作曲:谷山浩子 1997年)
** May Storm(作詞:谷山浩子 作曲:[[いしいめぐみ]] 1997年)
** 翼になれ(作詞:谷山浩子 作曲:いしいめぐみ 1997年)
** [[ここにいるよ (岩男潤子の曲)|ここにいるよ]](作詞:谷山浩子 作曲:岩男潤子 1997年)
** おもちゃ(作詞:谷山浩子 作曲:[[澤近泰輔]] 1999年)
** ピヨの恩返し(作詞・作曲:谷山浩子 2015年)
* [[上坂すみれ]]
** [[来たれ!暁の同志#通常盤|無限マトリョーシカ]](作詞:谷山浩子 作曲:{{lang|ru|Лесной пу тешественник}} 2014年)
==== か行 ====
* [[河合奈保子]]
** こわれたオルゴール(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** WEATHER SONG(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** 渚のライムソーダ(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** 風の船(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** 45日(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** MY LOVE(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
* [[木之内みどり]]
** イマージュ(作詞:[[松本隆]] 作曲:谷山浩子 1977年)
* [[コスミック・インベンション]]
** ひこうき雲(作詞:谷山浩子 作曲:[[小田啓義]] 1981年)
* [[小林千絵]]
** 水色のカチューシャ(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
==== さ行 ====
* [[斉藤由貴]]
** [[土曜日のタマネギ]](作詞:谷山浩子 作曲:[[亀井登志夫]] 1986年)
** [[チャイム (斉藤由貴のアルバム)#収録曲|自転車に乗って]](作詞:谷山浩子 作曲:亀井登志夫 1986年)
** [[チャイム (斉藤由貴のアルバム)#収録曲|SORAMIMI]](作詞・作曲:谷山浩子 1986年)
** [[MAY (斉藤由貴の曲)|MAY]](作詞:谷山浩子 作曲:[[堀川まゆみ|MAYUMI]] 1987年)
** [[風夢#収録曲|ひまわり]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1987年)
** [[PANT#収録曲|ブルー・サブマリン]](作詞:谷山浩子 作曲:[[岡本朗]] 1988年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|LUCKY DRAGON]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|N'oublie pas mai 〜5月を忘れないで〜]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|ガラスの天球儀]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|LUNA]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|永遠のたそがれ]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|DOLL HOUSE]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|雨色時計店]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[âge (アルバム)#収録曲|In my house]](作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1989年)
** [[何もかも変わるとしても#収録曲|のらねこ]](作詞:谷山浩子 作曲:亀井登志夫 2010年)
** [[何もかも変わるとしても#収録曲|おうちでかくれんぼ]](作詞・作曲:谷山浩子 2010年)
** [[何もかも変わるとしても#収録曲|樹]](作詞:谷山浩子 作曲:亀井登志夫 2010年)
* [[ザ・キャラクターズ]]
** 好き、好き、好き(作詞:[[片桐和子 (作詞家)|片桐和子]] 作曲:谷山浩子 1971年)
* [[沢田聖子]]
** 星より遠い(作詞・作曲:谷山浩子 2003年)
* [[杉本理恵]]
** 落ちて来た少年(作詞・作曲:谷山浩子 1991年)
** さよならのペガサス(作詞・作曲:谷山浩子 1991年)
** ガラスのラビリンス(作詞・作曲:谷山浩子 1992年)
** やすらぎのゆびわ(作詞・作曲:谷山浩子 1992年)
==== た行 ====
* [[高田みづえ]]
** [[潮騒のメロディー|子守唄を聞かせて]](作詞・作曲:谷山浩子 1979年)
** 水玉時間(作詞・作曲:谷山浩子 1985年)
* [[高部知子]]
** 白いハイヒール(作詞・作曲:谷山浩子 1984年)
** おやすみ(作詞・作曲:谷山浩子 1984年)
* [[手嶌葵]]
** 岸を離れる日(作詞・作曲:谷山浩子 2007年)
** テルーの唄(作詞:宮崎吾朗 作曲:谷山浩子 2006年)
** 朝ごはんの歌(作詞:宮崎吾朗、谷山浩子 作曲:谷山浩子 2011年)
** 初恋の頃(作詞:宮崎吾朗、谷山浩子 作曲:谷山浩子 2011年)
* [[豊崎愛生]]
** [[love your life|何かが空を飛んでくる]](作詞・作曲:谷山浩子 2009年)
** [[春風 SHUN PU|KARA-KURI DOLL]](作詞・作曲:谷山浩子 2011年)
** FANTASY(作詞・作曲:谷山浩子 2013年)
==== な行 ====
* [[西田ひかる]]
** 心だけそばにいる〜here in my heart〜(作詞:谷山浩子 作曲:いしいめぐみ 1991年)
** Miracle(作詞:谷山浩子 作曲:[[上杉洋史]] 1994年)
* [[野咲たみこ]]
** うさぎ(作詞・作曲:谷山浩子 1985年)
==== は行 ====
* [[フィンガー5|ベイビー・ブラザーズ]]
** 僕たちの秘密(作詞・作曲:谷山浩子 1970年)
==== ま行 ====
* [[麻里絵]]
** オレンジハウスにさようなら(作詞・作曲:谷山浩子 1977年)
** 想い出駆けてくる(作詞:武田全弘 作曲:谷山浩子 1978年)
* [[宮崎美子]]
** PEARL DOLL(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
** 私の心はハンバーグ(作詞・作曲:谷山浩子 1983年)
* [[MEG (歌手・ファッションデザイナー)|MEG]]
** 旅立ちの歌(作詞・作曲:谷山浩子 2013年)
* [[持田香織]]
** きみのともだち(作詞:持田香織 作曲:谷山浩子 2010年)
* [[森山良子]]
** ポプラ・ポプラ(作詞・作曲:谷山浩子 1992年)
==== や行 ====
* [[八木さおり]]
** RAINY(作詞:谷山浩子 作曲:[[松尾清憲]] 1987年)
** シャボン玉戦争(作詞:谷山浩子 作曲:崎谷健次郎 1987年)
** 円盤上の"I love you"(作詞:谷山浩子 作曲:MAYUMI 1987年)
** Heart Beatきかせて(作詞:谷山浩子 作曲:MAYUMI 1988年)
** オリーブの天気予報(作詞:谷山浩子 作曲:[[井上ヨシマサ]] 1988年)
** トライアングル(作詞・作曲:谷山浩子 1988年)
** 流星少年(作詞・作曲:谷山浩子 1988年)
** 瞬間の魔法(作詞:谷山浩子 作曲:MAYUMI 1988年)
* [[由紀さおり]]・[[安田祥子]]
** さよならのかわりに(作詞・作曲:谷山浩子 2000年)
==== ら行 ====
* ロウィナ・コルテス
** 六月の花嫁(作詞・作曲:谷山浩子 1977年)
** 吟遊詩人の森(作詞・作曲:谷山浩子 1977年)
** 銀の指環(作詞・作曲:谷山浩子 1977年)
** あのね(作詞・作曲:谷山浩子 1977年)
=== 映画・ドラマ等の主題歌・挿入曲 ===
2006年には[[スタジオジブリ]]製作の映画『ゲド戦記』の挿入歌『テルーの唄』の作曲を行った。
* [[未来少年コナン#映画版|未来少年コナン]]([[1979年]]9月1日公開、[[東映]])
** [[愛をもう一度]](作詞・作曲:谷山浩子 歌:[[研ナオコ]])
** [[愛をもう一度|なつかしい朝]](作詞・作曲:谷山浩子 歌:研ナオコ)
* 漂流([[1981年]]6月6日公開、[[東宝]])
** 漂流(作詞:谷山浩子、作曲:[[松居慶子|土居慶子]] 歌:[[大友裕子]])
* [[ななこSOS#テレビアニメ版|ななこSOS]]([[1983年]]4月2日初回放送、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
** 愛のシュークリーム(作詞・作曲:谷山浩子 歌:高橋みゆき)
** 恋のタマゴ(作詞・作曲:谷山浩子 歌:高橋みゆき)
* [[青い瞳の聖ライフ]]([[1984年]]10月17日初回放送、フジテレビ)
** DESERT MOON(作詞・作曲:Dennis De Young 日本語詞・歌:谷山浩子)
* [[綿の国星#アニメーション映画|綿の国星]]([[1984年]]2月11日公開、[[日本ヘラルド映画]])
** 鳥は鳥に(作詞:[[大島弓子]]・谷山浩子 作曲:谷山浩子 歌:遠藤優子)
* 恋する女たち([[1986年]]12月13日公開、東宝)
** MAY(作詞:谷山浩子 作曲:MAYUMI 歌:斉藤由貴)
* 風のファンタジー小さな沼の物語ベニイトトンボの詩([[1988年]]7月23日公開、パル企画)
** 夕暮れ(作詞:谷山浩子 作曲:[[大島ミチル]] 歌:浜田良美)
** はじめて夏(作詞:谷山浩子作詞 作曲:大島ミチル 歌:新倉芳美)
* [[孔雀王#孔雀王 アシュラ伝説|孔雀王アシュラ伝説]]([[1990年]]公開、[[東宝東和]])
** ASHURA(作詞:谷山浩子、作曲:石井めぐみ 歌:[[グロリア・イップ]])
* ガラスの脳([[2000年]]1月29日公開、東宝)
** DOOR(作詞:谷山浩子、作曲:崎谷健次郎、歌:[[石井聖子]])
* [[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]([[2006年]]7月29日公開、東宝)
** テルーの唄(作詞:[[宮崎吾朗]] 作曲:谷山浩子 歌:[[手嶌葵]])
* [[コクリコ坂から]] (2011年7月16日公開、東宝)
** 朝ごはんの歌(作詞:宮崎吾朗、谷山浩子 作曲:谷山浩子 歌:手嶌葵)
** 初恋の頃(作詞:宮崎吾朗、谷山浩子 作曲:谷山浩子 歌:手嶌葵)
** 紺色のうねりが(原案 - 宮沢賢治 / 作詞 - 宮崎駿・宮崎吾朗 / 作曲 - 谷山浩子 / 編曲 - 武部聡志 / 歌:手嶌葵)
=== 漫画のイメージアルバム ===
* [[はみだしっ子]](LP、1983年2月21日)
*: [[三原順]]の同名コミック・イメージアルバム。作詞・作曲・プロデュースを担当している。
** われらはみだしっ子(作詞・作曲:谷山浩子 歌:[[小山茉美]]・[[藤田淑子]]・[[間嶋里美]]・雪野ゆき)
** 笑い猫(アンジー)(作詞・作曲:谷山浩子 、歌:藤田淑子)
** ボクは鳥だ(サーニン)(作詞・作曲:谷山浩子 歌:間嶋里美)
** 冬の果実(グレアム)(作詞・作曲:谷山浩子 歌:小山茉美)
** Smile for Me(マックス)(作詞・作曲:谷山浩子 歌:雪野ゆき)
** 冬(作曲:谷山浩子)
** 春(作曲:谷山浩子)
** はみだしっ子のテーマ(作曲:谷山浩子)
* ネコじゃないモン!(LP、1983年9月21日)
*: [[矢野健太郎 (漫画家)|矢野健太郎]]の同名コミック・イメージアルバム。作詞・作曲・プロデュースを担当している。
** ネコじゃないモン!(作詞・作曲:谷山浩子、歌:[[児島由美]])
** Feel so Nyan-Nyan(作詞・作曲:谷山浩子、歌:児島由美)
** 尚子(作詞・作曲:谷山浩子、歌:松代真)
** Pastel Weather(作詞・作曲:谷山浩子、歌:児島由美)
** Instrumental〜ネコじゃないモン!〜(作曲:谷山浩子)
** ふり向けば青春(作詞・作曲:谷山浩子、歌:斉藤克也)
** あたしの好きなLonely Boy(作詞・作曲:谷山浩子、歌:谷山浩子・山崎うさぎ・小達とまと)
** ふたり(作詞・作曲:谷山浩子、歌:児島由美・松代真)
** ネコじゃないモン! フィナーレ(作詞・作曲:谷山浩子、歌:Cats Chorus)
** おやすみなさい(作詞・作曲:谷山浩子、歌:児島由美)
* [[空色のメロディ]](ワーナー・パイオニア、CD/LP、1988年3月10日)
*: [[水沢めぐみ]]の同名コミック・イメージアルバム。全ての曲の作曲を担当している。
** ポニーテール白書(作詞:水沢めぐみ、作曲:谷山浩子、歌:[[笠原弘子]])
** シロツメクサの想い出(作詞:水沢めぐみ、作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
** つめくさの灯り(作曲:谷山浩子)
** 雨傘ワルツ(作詞・作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
** メッセージ(作詞:水沢めぐみ・谷山浩子、作曲:谷山浩子、歌:水沢めぐみ)
** 空色のメロディ〜大好きなグリーンフィールド(作詞:水沢めぐみ、作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
** いつかきみと…(作詞:水沢めぐみ・谷山浩子、作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
** 不思議な少女(作詞:水沢めぐみ・谷山浩子、作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
** ハチのお散歩(作曲:谷山浩子)
** 女の子気分(作詞:水沢めぐみ、作曲:谷山浩子、歌:笠原弘子)
* 楠劇場(ユーメックス/東芝EMI、CD、1988年6月25日)
*: [[楠桂]]の同名コミックのイメージアルバム。「マギー」「かくしんぼ」「鬼魔」は楠桂の既存作品を下敷に作られた曲。「リカちゃんのポケット」は逆に谷山浩子の曲をイメージして漫画作品が描かれた。単にコミックのイメージアルバムというより相互にイメージを得た共作的展開といえる。
** マギー(作詞・作曲:谷山浩子、歌:上野洋子)
** 半蛇(はんにゃ)の女(作詞:楠桂、作曲:谷山浩子、歌:石井AQ・伊藤ひとみ)
** リカちゃんのポケット(作詞・作曲:谷山浩子、歌:上野洋子)
** かくしんぼ(作詞・作曲:谷山浩子、歌:伊藤ひとみ)
** 夢童(ゆめわらわ)(作詞:楠桂、作曲:谷山浩子、歌:上野洋子)
** 鬼魔(おにこごめ)(作詞・作曲:谷山浩子、歌:伊藤ひとみ)
* シークエンス ORIGINAL ALBUM(ユーメックス/東芝EMI、CD、1990年1月26日)
*: みずき健の同名コミックのイメージ・アルバム
** MORNING TIME(作詞・作曲:谷山浩子、歌:[[上野洋子]])
** 恋人(作詞・作曲:谷山浩子、歌:上野洋子)
** COTTON COLOR(作詞・作曲:谷山浩子、歌:上野洋子)
=== ソノシート ===
[[1971年]]頃、[[創価学会]]より[[ソノシート]]で作品をリリース。以下は確認できたタイトル。
* 『ぼくたちの地球』(33{{sfrac|1|3}}回転・5曲収録。side1「ぼくたちの地球」「今はじまる」の作詞・作曲)
* 『ぼくら師子の子』(33{{sfrac|1|3}}回転・7曲収録。side1「走れメロス」、side2「ぼくたちの地球」「今始まる」の作詞・作曲)
* 『少年部愛唱歌・今はじまる・夜は明けた・走れメロス』(33{{sfrac|1|3}}回転・6曲収録。side2「今はじまる」「夜は明けた」「走れメロス」の作詞・作曲・歌唱)
=== CM曲 ===
* [[雪印乳業]](現:[[雪印メグミルク]])[[ネオソフト]] -「おいしい顔ってどんな顔?」
* [[明治製菓]](現:[[明治 (企業)|明治]])[[マインクネッケ]] オリジナル曲
* [[パナソニック|ナショナル(現:パナソニック)]] 暖房器具
* [[ライオン (企業)|ライオン]] [[アクロン (洗剤)|アクロン]]
* [[カゴメ]] [[トマトジュース]] -「トマトの森」
== 書籍 ==
=== 小説・詩 ===
*『谷山浩子童話館』(1979年、[[六興出版]])ISBN 978-4845360178
*『人形のいる街』(1981年、総和出版)
*『[[川原由美子]]イラスト集―シ・ュ・ン・カ・ン』(1984年、[[小学館]])ISBN 978-4091995315
*『猫森集会』(1986年、[[サンリオ]])ISBN 978-4101372037
*『恋するニワトリ・たまごラブレターぽん!』(1986年、[[くもん出版]])ISBN 978-4875762867
*『サヨナラおもちゃ箱』(1987年、サンリオ)ISBN 978-4387870289
*『[[お昼寝宮・お散歩宮#小説|お昼寝宮・お散歩宮]]』(1988年、サンリオ)ISBN 978-4387880677(1992年、[[角川文庫]])ISBN 978-4041819012
*『コイビトの耳はネコのみみ!』(1989年、[[集英社]])ISBN 978-4086112826
*『白のキラコと手品師』(1989年、サンリオ)ISBN 978-4387891185
*『電報配達人がやってくる』(1989年、サンリオ)ISBN 978-4835447582
*『きみの瞳につまずいたネコ』(1990年、集英社)ISBN 978-4086113960
*『ユキのバースデイシアター』(1990年、サンリオ)ISBN 978-4387901631
*『[[ボクハ・キミガ・スキ#小説|ボクハ・キミガ・スキ]]』(1991年、集英社)ISBN 978-4086115353
*『悲しみの時計少女』(1991年、サンリオ)ISBN 978-4387912026
*『きみが見ているサーカスの夢』(1992年、集英社)ISBN 978-4086116503
*『少年・卵』(1993年、サンリオ)ISBN 978-4387930822
*『ひとりでお帰り』(1994年、集英社)ISBN 978-4086118194
*『四十七秒の恋物語』(1994年、[[廣済堂出版]])ISBN 978-4331056127
*『おひさまにキッス~お話の贈りもの~』(1997年、小学館)ISBN 978-4097274124
* 『つぶやきあつめ』
: *『猫森集会』の巻末に同じものが掲載されているが、独立して製本・出版されたものが存在する。
<!-- 「つぶやきあつめ」はコンサートグッズとして発売された? -->
*『Amazonで変なもの売ってる』(2014年、イースト・プレス)ISBN 978-4781611785
このうち、『悲しみの時計少女』『電報配達人がやってくる』は、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]の番組『[[サウンド夢工房]]』にてラジオドラマ化された。『悲しみの時計少女』は『サウンド夢工房』以降、後番組である『[[青春アドベンチャー]]』で2回再放送されるほどの人気を博している。
=== エッセイ・その他 ===
*『悪魔祓いの浩子さん』(1983年、八曜社)(1986年、[[新潮文庫]])ISBN 978-4101372020
: 初のエッセイ集
*『別冊SFイズム(2)わくわく谷山浩子』(1983年、発行:[[シャピオ]]、発売:[[みき書房]]) (2013年 復刊ドットコム) ISBN 978-4835449685
: 谷山浩子を特集している[[SFイズム]]増刊号。ミニ・ソノシート「初恋」が付録として添付。何故SF雑誌が特集を組んだのか、本人も「納得いかない」とインタビューに答えていた。
*『猫の森には帰れない』(1984年、[[新潮文庫]]) ISBN 978-4101372013
: 歌詞集。レコードの歌詞がほぼそのまま綴られている。
*『おとめちっく・サラダ・たいむ』(1991年、小学館[[パレット文庫]])ISBN 978-4094200416
*『それゆけ!マル廃ゲーマーズ』(1992年、[[角川書店]]) ISBN 978-4048833097
: 道具を使わずに出来る「言葉遊び」からコンピューターゲームまで、谷山浩子お気に入りのゲームの紹介本。
*『浩子の半熟コンピュータ』(1998年、[[毎日コミュニケーションズ]]) ISBN 978-4839900328
*『そっくりハウス―イラストソングブック』(2002年、[[ヤマハミュージックメディア]]) ISBN 978-4636206517
: イラスト付楽譜集。(絵:山田塔子)
*『まっくら森』(2004年、[[サンマーク出版]]) ISBN 978-4763195647
: 谷山浩子作詞「まっくら森の歌」をもとにした絵本。(著:利光晋世、絵:本橋靖昭)
* 猫の目 魚の目 ひろこの目(1989年9月号より雑誌『Cobalt』に数年間連載。単行本未収録)
*『輪舞-ロンド』(2004年、SFアラモード)
: [[吾妻ひでお]]との合作漫画。作詞担当。『増刊号アニメディア・SFアニメディア』(Vol.1~Vol.2、1985年、[[学習研究社]])掲載。2004年に新たに新作書き下ろしを加え、谷山のファンサークル・「SFアラモード」から復刻刊行された。
*『谷山浩子40周年記念百科全書 Encyclopedia of Hiroko Taniyama』 (2012年 日興企画) ISBN 978-4888776622
*『真夜中の図書館』(2015年、[[ヤマハミュージックメディア]]) ISBN 978-4636915907
*『ヒロコとニャンコと音楽の魔法{{efn2|「みんなのうた」テキストの連載コラム「谷山浩子のつれづれ語り」を加筆・修正し、栗コーダーカルテットとの対談を加えたもの。}}<ref name="hanmoto">[https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784140057360 版元ドットコム]</ref>』(2023年3月25日発売 [[NHK出版]]) ISBN 978-4-14-005736-0
== DVD・ビデオ ==
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル
!規格!!規格品番
|-
! rowspan="3" |1st
| rowspan="2" |1995年9月21日
| rowspan="3" |'''1991谷山浩子コンサート with ねこ森アンサンブル'''
|VHS
|PCVP-50613
|-
|LD
|PCLP-00199
|-
|2020年9月16日
|DVD
|YCBW-10102
|-
! rowspan="4" |2nd
| rowspan="3" |1999年4月21日
| rowspan="4" |'''谷山浩子の幻想図書館~雪の女王~'''
|VHS
|PCVP-52536
|-
|LD
|PCLP-00695
|-
| rowspan="2" |DVD
|PCBP-00093
|-
|2019年1月30日
|YCBW-10088
|-
!3rd
|2005年9月14日
|'''谷山浩子の幻想図書館 Vol.3 ~アタゴオルは猫の森~'''
|2DVD
|YCBW-10005/6
|-
!4th
|2009年9月9日
|'''うたのえほん'''
| rowspan="3" |DVD
|YCBW-10022
|-
!5th
|2015年9月16日
|'''谷山浩子101人コンサートスペシャル at 青山円形劇場1988'''
|YCBW-10058
|-
!6th
|2022年9月14日
|'''谷山浩子デビュー50周年記念コンサート~5人でオールリクエスト~'''
|YCBW-10108
|}
== CD-ROM ==
* 谷山浩子のそれゆけ!マル廃ゲーマーズ(ゲーム、1998年4月22日、Inner Brain)
* ねこ森通信アーカイブ100(CD-ROM、ファンクラブ会報100号を記念し、100号までの会報をデータ化したもの)
== 舞台 ==
* [[夜会]] vol.11『ウィンター・ガーデン』([[2000年]])
*: デビュー当時からの盟友、[[中島みゆき]]と共演。
* [[音楽劇]]シリーズ『幻想図書館』
** Vol.1『[[雪の女王]]』(原作:[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]、1998年)
** Vol.2『[[不思議の国のアリス]]』(原作:[[ルイス・キャロル]]、2002年)
** Vol.3『[[アタゴオルは猫の森]]』(原作:[[ますむらひろし]]、2005年)
*音楽劇『空間読書の会』
** 第一回『第七官界彷徨』(原作:[[尾崎翠]]、2004年)
== ラジオドラマ ==
*不思議の国のヒロコの不思議 - NHK-FM FMシアター、谷山浩子原作、1987年1月17日 22:00-23:00(主人公ヒロコは[[三田寛子]])、前テーマ曲「草の仮面」、後テーマ曲「MOON SONG」
*谷山浩子の電報配達人がやってくる - NHK-FM [[サウンド夢工房]]、谷山浩子原作、1991年7月22日~26日 22:45-23:00 全10回、ナレーター、宮沢いちこ役、前テーマ曲「パジャマの樹」、後テーマ曲「海の時間」
*谷山浩子の悲しみの時計少女 - NHK-FM サウンド夢工房、谷山浩子原作、1992年2月3日~14日 22:45-23:00全10回、ヒロコ(主人公)役、テーマ曲「銀河通信」
*おしまいの日 - NHK-FM 特集ダミーヘッドのサイコミステリー、[[新井素子]]原作、1993年1月4日~15日 22:45-23:00 全10回、坂田三津子(主人公)役、前テーマ曲「COTTON COLOR」、後テーマ曲「会いたくて」
*みずほのくにのはじめのたかくら - NHK-FM 特集サラウンドファンタジー、[[三枝和子]]原作「女王卑弥呼」より、1993年2月11日 18:00-19:00、迦具漏比売(かぐろ姫)役
*神様 - NHK-FM FMシアター、[[川上弘美]]原作、2002年4月6日(1時間)、「私」(主人公)役、後テーマ曲「神様」 2002年度[[文化庁芸術祭]]大賞(ラジオ部門)受賞
== ラジオパーソナリティ ==
*[[谷山浩子のオールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]]、1982年4月8日-1986年4月3日 木曜2部 27:00-29:00)
**[[オールナイトニッポンアゲイン]](ニッポン放送、2006年11月19日 19:00-20:00)
**[[オールナイトニッポンR スペシャルナイト]](ニッポン放送、2007年1月20日 27:00-28:30)
**[[オールナイトニッポンGOLD オールナイトニッポン45周年特別企画]](ニッポン放送、2012年5月11日 22:00-23:50)
**[[オールナイトニッポンモバイル]](ニッポン放送、携帯ダウンロード販売番組、2012年6月- )
**[[ROLLY]] & 谷山浩子の[[オールナイトニッポンR]](ニッポン放送、2012年10月14日 27:00-29:00)
**[[たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル|オールナイトニッポン45時間スペシャル]]「谷山浩子のオールナイトニッポン」(ニッポン放送、2013年2月23日 28:00-29:00)
**[[オールナイトニッポンR]](ニッポン放送、2017年9月2日 27:00-28:30){{efn2|[[京都放送|KBS京都]]他11局は[[裏送り]]で29:00まで。}}
*[[谷山浩子のニャンニャンしてネ!]](ニッポン放送、1982年11月6日-1985年3月 土曜 22:30-23:00)
*[[イルカのミュージックハーモニー|ミュージックハーモニー]](代打、ニッポン放送、2007年3月25日 07:00-09:00)
*[[CRミュージックスペース558]] ギャルギャルコーベ([[ラジオ関西]]、(1)1978年10月4日-1979年4月4日 (2)1979年10月15日-1980年3月24日 (3)1980年10月14日-1981年3月31日)
**(1)水曜日 (2)(3)月曜日18:10-20:00 西島三重子、中島みゆきと週替わりで出演。
*よみがえれ!ふるさとのうた 谷山浩子兵庫うたの旅([[ラジオ関西]]、1981年4月5日-1982年3月28日、日曜日11:00-11:10)兵庫の仕事歌を紹介するミニ番組
*FMサウンド・パステル([[エフエム東京|FM東京]]、1984年12月3日-1986年3月31日)
*アレスコ・マイハートフルセレクション([[エフエム東京|FM東京]]、1991年6月2日-1991年6月30日 日曜 18:00-18:50)
*すずかけ通り三丁目([[全国FM放送協議会|JFN]]系列FM局、1988年4月7日-1992年3月)
*ミスティ・ナイト([[エフエムナックファイブ|NACK5]]、1994年7月-1997年3月 土曜 22:00-23:00)
*パッチリ7([[日経ラジオ社|ラジオたんぱ]]、1982年4月-1983年3月30日 水曜担当 07:00-07:40)
== 商標 ==
「谷山浩子\HIROKO TANIYAMA」は、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスによって[[商標]]として登録されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://search.toreru.jp/homes/detail?registration_number=3073533|title=商標「谷山浩子\HIROKO TANIYAMA」の詳細情報|work=Toreru商標検索|publisher=株式会Toreru|accessdate=2022-07-29}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"
! 登録項目等 !! 内容等
|-
| '''商標''' || style="text-align:left;"|谷山浩子\HIROKO TANIYAMA
|-
| '''称呼''' || style="text-align:left;"|タニヤマヒロコ,ヒロコタニヤマ
|-
| '''出願番号''' || style="text-align:left;"|商願平04-233183
|-
| '''出願日''' || style="text-align:left;"|1992年(平成4年)9月29日
|-
| '''登録番号''' || style="text-align:left;"|第3073533号
|-
| '''登録日''' || style="text-align:left;"|1995年(平成7年)8月31日
|-
| '''権利者''' || style="text-align:left;"|株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
|-
| '''役務等区分''' || style="text-align:left;"|41類
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[岩代駅]]([[紀勢本線]]の駅で『テングサの歌』に登場する)
* [[エフエム豊橋]](谷山浩子の曲のみを流す『ヒロコマニア』という番組がある)
* [[調布エフエム放送]](谷山浩子の曲のみを流す『谷山浩子ノセカイ』という番組がある)
* [[中京テレビ放送]](かつて同局の[[局名告知]]で『夜のブランコ』が使用された)
* [[中島みゆき]]
* [[斎藤ネコ]]
* [[石井AQ]]
* [[ROLLY]]
* [[斉藤由貴]]
* [[山口とも]]
* [[1972年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手
* [[ステージ101]]
* [[みず谷なおき]]…漫画家。谷山浩子のファンであり、代表作である漫画のメインヒロインの名前が谷山に由来している。
== 外部リンク ==
* [https://www.taniyamahiroko.com/ 谷山浩子オフィシャルウェブサイト]
* {{Wayback|url=http://www.taniyamahiroko.com/40th_anniversary/ |title=谷山浩子 40周年 特設サイト|date=20121019004830}}
* {{Wayback|url=http://taniyama.hiroko.com/ |title=谷山浩子プライベート・ページ|date=20210826033300}}
* {{Wayback|url=http://blog.hiroko.com/ |title=谷山浩子がどこかこのへんに…|date=20210126142539}} - [[ブログ]]
* {{Twitter|taniyama_|谷山浩子}}
* {{Twitter|taniyama_stf|谷山浩子スタッフ}}
* {{YouTube|c=UCss8JLUMtLPQtqF9wVWkFEQ|谷山浩子}}
* [https://web.archive.org/web/19970708190802/http://hiroko.campusnet.or.jp/ TANIYAMA HIROKO HOME PAGE]
* [https://web.archive.org/web/20001019203657/http://www.sankei.co.jp/kusano/98/people/taniyama/98taniyama.html PEOPLE INTERVIEW]
{{Authority control}}
{{谷山浩子}}
{{デフォルトソート:たにやま ひろこ}}
[[Category:日本の女性シンガーソングライター]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:ヤマハミュージックコミュニケーションズのアーティスト]]
[[Category:ポプコン出身者]]
[[Category:お茶の水女子大学附属高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:1956年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:登録商標]]
[[Category:ヤング101(NHK総合テレビ『ステージ101』)のメンバー]] | 2003-02-14T06:25:50Z | 2023-12-05T22:08:36Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B1%B1%E6%B5%A9%E5%AD%90 |
1,511 | OASYS | OASYS(オアシス)は、富士通の神田泰典らによって開発された、日本語ワードプロセッサ(以下ワープロ)専用機およびワープロソフトの名称であり、「Rupo」(東芝)、「書院」(シャープ)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。現在、個人向け・法人向け共に販売は終了しており、サポートも順次終了する。
本項ではOASYSを含むオフィススイートであるOASYS SuperOffice(オアシス スーパーオフィス)やビューアであるOASYS Viewerについても記述する。
OASYSは特にプロユースにおいて大きなシェアを誇り、他社製品と比較して仕様の個性が強かった。その強い個性故、ワープロを評する場合はOASYS対それ以外という視点になりがちで、実際にはシェアが第1位であったにも関わらず、「OASYS使用者は少数派」という矛盾したイメージを抱く者も多かった。
以下に特徴を列記する。
OASYSでは親指シフトキーボードと呼ばれる独自開発のキーボードを採用した(旧JIS配列や新JIS配列、また50音順配列の製品もある。親指シフト配列のパーソナルワープロ製品に、50音順マスクという付属品を付けた時代《OASYS Lite S ~ F-ROM8 の約三年間)》もある。50音順マスク廃止後は、代わりにかなサーチが搭載された)。他社も日本語ワープロ黎明期には様々な入力方法を模索したが、OASYS以外は速やかに(旧)JISキーボードに収束した。その中で親指シフトキーボードを採用し続けたOASYSは異彩を放っていた。
一般的なワープロは、1行目から文字入力が基本であるが、OASYSは任意の場所へカーソルを移動して自由に文字入力ができた。
他社が文法処理の高度化・漢字変換の自動化を積極的に進めたのに対して、OASYSは消極的であった。
日本語ワープロの先駆けとなった東芝のJWシリーズではワープロ販売初期の日本語ワープロであるJW-10の時点ですでに単文節変換を実現していたのに対し、OASYSは後発にもかかわらず一号機であるOASYS100では単語変換のみとし、その後の製品でも単文節変換を基本とした。後に他社との競合上複文節変換をサポートはしたものの、単文節変換のみに切り替える設定を残し続けた。
単文節変換では他社製品で起こりがちだった文節の区切り間違いが原理的に発生しなかった。また、複雑な文法処理をしないことと相まって奇天烈な誤変換をしにくい利点をも生んだ。これを指して愛用者は「OASYSは日本語として無意味な変換をしない」と評した。しかし、使い込まなくては理解できない利点であり、カタログスペックでは見劣りした。
また、学習機能も単純で、単に直近に使用した語が第一候補になるものであった。他社製品では文脈や長期的な使用頻度への配慮が裏目に出て「先ほどと同じ語を変換したのになぜか違う漢字が出てくる」ことがあったが、OASYSではそのようなことは基本的に無かった。同音異義語がある語であっても「先ほど変換して正しい候補を選んだ」記憶があれば変換結果を確認する必要がなく、慣れればキーはおろか画面すら時々しか見ずに原稿に集中できる操作が可能であった。
後には複文節変換をサポートし、「AI辞書」と称する文法処理もするようになったが、積極的に宣伝することは無かった。カタログで高度な文法処理を誇らしげに謳う他社とは対照的であった。複文節変換は操作性が練り込まれておらず、他社との対抗上一応搭載しただけのように感じさせるものであったため、単文節変換に切り替えて使う者も多かった。
上記のごとく複雑な文法処理をしない方針と併せて、変換キーを押さずともキー入力の時点で辞書を先読みすることにより、初期の製品でも十分に高いレスポンスを示した。どんなに速い操作をしても正しい操作である限り必ず追随してくることによりオペレータは安心して操作に専念できた。
他社のワープロが現在のパソコンと同じ挿入モードを速やかに採用したのに対し、OASYSは挿入モードの採用が遅れた。しかし、OASYS の上書きモードは独特の書き味を持つため、根強い愛好者がいる。
いわゆる罫線モードへの移行なしに、いきなり機能シフト+矢印キーで一筆書きのように罫線を引ける。失敗した場合も機能シフト+シフト+矢印キーで消しゴムのように消せる。だからあらかじめ表の全体が頭に浮かんでなくても、下書きしながら表を作っていくことができる。OASYSの罫線機能は直観的な分かりやすさから支持者が多く、テキストエディタのマクロで操作法を模倣したものが多数ある。取っつきが良い反面、OASYSの罫線は行間罫線ではなく文字罫線であり、見栄えが間延びするのを嫌う場合は、表の作成後に行間を半分に設定するという、良くも悪くも場当たり的な対処法が取られる。
罫線機能のキー操作はOASYS/winでも継承された。そのため一般的なWindowsアプリケーション、及びMS-DOS時代からのMicrosoftのアプリケーションでは「Shiftキー + 矢印キー」でカーソル位置からの「範囲選択」になるのに対し、OASYS/winでは罫線を引くことになった。利用者が勤め先企業でのみで富士通製のPC上で富士通製のアプリケーション(主にOASYS)を使用しているならば問題とならないものの、自宅でもPCを保有しているようなユーザーだと、Windowsの「共通インターフェース」「共通操作」が通用せず、自宅より勤め先の方が作業効率が落ちるという現象が生じた。
Microsoft Wordのようなスタイルシートベースの文書の構造化を志向するワープロに対して、日本のワープロ専用機は場当たり的な操作体系を特徴とするのであるが、それゆえ凝った文書を作ると全体の手間数が増える(たとえば見出しの変わり目で左端設定(インデント)などを設定し直さねばならない)のを見越したように、豊富な機能キーで機能を一発で呼び出せるよう配慮がしてある(ゆえに文書作成中に画面がメニューで埋まってしまうことが無く、文書作成に集中できる効果もある)。あまり頭のよいやり方ではないかもしれないが、OASYSの支持者の多くは、テキストエディタの延長のような愚直な身軽さを好んだのである。
OASYSでは書式設定をするのに1ページ目で「前頁」キーを押すと現れる「0ページ」と呼ばれる画面を使った。
OASYSは日本語ワープロとして先発ではなかった。OASYS一号機であるOASYS100は、ワープロ販売初期の日本語ワープロである東芝JW-10(1978年9月)に遅れること2年近く、1980年5月に発表された。当時はすでに東芝とシャープが製品を販売しており、発表だけならば他にも数社がしていた。
後発にも関わらず堅実な機能と低価格でビジネス市場でシェア第1位を獲得した。初めて100万円を切る価格を打ち出した My OASYS(1982年)はイメージキャラクターに高見山を起用。またキャッチコピーは「ザ・文房具」とし、体の大きな高見山関との対比したコンパクトさや親しみやすさが強調された。また日本語ワードプロセッサの略語として「ワープロ」という言葉を広告の中で用いて、この言葉が一般に定着するきっかけとなった。
OASYS 300A(1988年)は本格的なDTPソフトを内蔵した。
2機種しか発売されなかった OASYS 30 直系機。ハードディスク(IDE)搭載モデル。一部を除き FMRシリーズ と互換性がある。搭載されている CPU は VM technology VM865C110HL-V16 (80286互換) である(そのほか周辺機器制御用に RICOH RU6102MF や AMD N80186 が登載されているロットもある)。液晶パネルに致命的な欠陥を抱えているため(ビネガーシンドロームが発生しやすい)、直射日光を避け、キーボードを開いた状態で暗室かつ風通しの良い低温・低湿環境での保管が推奨される。
OASYS 40AP は OASYS 30AP-101 のビジネスモデルである。ハードディスク容量は 170MB へ増量された。最後のトランスポータブル機(AS はボックス型)であり、最後の TYPE-W 型インクリボン対応機でもある。 MS-DOS は別売り。
OASYS 40AS は 40 シリーズの最終機であり OASYS 40 AP から内蔵プリンターおよび関連ソフトウェア機能(名刺メーカー、文例集の一部、特殊印刷、別売りのPCプリンタサポートなど)を非搭載にして MS-DOS 3.1 と PCサーバ連携をプリインストールした LAN (NetWare) 対応モデル(使用には専用 LAN カード OACFC-601 および MARS_NWE などの NetWare 互換サーバーが必要)。メインボードと外装、システム以外は 40APと共通部品である。キートップに MS-DOS (従来機では用紙送りのキーに対応する位置) の標記がありメニューからワンタッチで MS-DOS が起動できる。SRAM カードに MS-DOS をインストールできるため、復旧用システムデータがあれば OASYS Pocket シリーズの復旧にも使用できる。末期まで販売された 40AP とは対照的に生産期間は1年と短いためか、中古市場ではほとんど流通してない希少機でもある。
説明書がない場合は「拡張機能+シフト+文末」を押すことで、使い方ガイド(オンラインヘルプ)を表示でき、40AP ではハードコピー機能を使うことで簡易的な説明書を手に入れることも可能である。
家庭用ワープロの市場にも積極的に進出した。大胆な機能削減で22万円という当時としては画期的な低価格を実現したOASYS Lite(1984年)のような低価格攻勢で、家庭用市場でもシェア第1位を獲得した。
OASYS Liteは液晶8文字という極端に小さなディスプレイで、他社からは「おもちゃ」「ワードプロセッサ(文書処理機)とは言えない」と評されたが、市場には受け入れられた。富士通が当初称していた「日本語電子タイプライタ」としては OASYS Lite の機能で十分であった言える。実際、打った文字をその都度印字していく「逐次印刷」の設定での動作はまさにタイプライタそのものだった。CM展開は、女優の秋吉久美子が同機を持ってアメリカの砂漠を行くというもので、キャッチコピーは「思わず言葉でカメラしました」。可搬性とパーソナル製、リアルタイム入力機械であることを強調し、当時一部に残っていた「ワープロは清書機械」というイメージを払拭しようとした。
OASYS Lite M2 はOASYS Lite M の後継機である。この機種唯一かつ最大の特徴としてTV出力アダプタ F1160EA2 が使用できることである。このオプションを利用することで編集画面をテレビへ表示できるようになる。当時、ワープロ専用機でもテレビ出力へ対応したものはわずかに存在した。
OASYS Lite F・ROM7 / F・ROM9(1986年)で機能拡張用にICメモリカード(「F・ROMカード=フロムカード」)を採用した。このカードはPCMCIAの規格発行以前のもので、現在のPCカードとは形状が異なる(セガマイカード、Huカードと同様の形状)。
OASYS Lite Quirin (1987年) は女性用ワープロとして開発された限定三百名にのみ懸賞品として提供された非売品モデル。OASYS Lite K と基本仕様に類似点がある。親指シフトキーボード単体として見ると、この機種以降ではピンクとブルーの配色を採用したものは存在しない。本機のデザイナーは François Quirin である。
OASYS 30AF(1986年)は把手が着いて電源コードも掃除機のように本体内に収納できる縦型の「トランスポータブル」デザインで、ニフティサーブへアクセスするパソコン通信機能を装備。「ワープロ通信」と呼んでいた。30AFに始まる30シリーズのワープロ通信機能メニューからは、MS-DOSプロンプトに降りることが出来た(別途、オプションが必要)。機種によりBIOSに細かい差異があるが、おおよそFMR互換であったので、FMR用のソフトがわずかな修正で走った。30シリーズのICカードは Type II のPCカードの初期の規格と互換性があり、市販のSRAMカードがほぼ使えた。フラッシュメモリは使えない。
OASYS 30AFIII (1988年) は OASYS 30AFII の後継機でありAFシリーズの最終機である。後の OASYS のリファレンスモデルの一つともなった。後の機種と比較すると、機能や動作速度は劣る面は多いがキーボードの作りはかなり良いものとなっている (構造は板バネ+フレキシブル基板)。この機種では OASYS Lite で記録されたカセットテープの文書をフロッピーディスクへメディアコンバートするためのオプションが用意されている。この機種に限らないがシステムに仕様の不具合 (年号の切り替えに非対応、2000年問題非対応) があり皮肉にもシステムの時間は永遠に昭和のままである。この不具合は西暦の下二桁を和暦見なして時刻設定を行い、文書中の年号を手作業で書き換えることである程度は回避可能である。
OASYS 30LG-101 は実験的なモデルであり、操作体系の刷新を図ったが当時は賛否両論であった。この成果は OASYS LX の千番台へ引き継がれる。
OASYS 30AX-CD は 30シリーズ唯一のCD-ROMドライブ標準搭載機(ほかの機種は検索ソフト、接続ケーブル、CD-ROMドライブは別売り品)であり、EPWING 形式 CD-ROM 辞典としてワードハンターが標準添付されている。また、この機種にしか搭載されなかった機能としては、本格的なグラフィックスを使用したビジュアルメニューがある(作業内容を Working Time / Personal Time / Creative Time / Setup Time の四大別したアイコンで表示し、選択後にリストメニューで行いたい作業を選ぶ)。
30AXIIやAX-CDではDTP機能がオプションで用意された (AX-301 / SX-301 は標準搭載)。
後継の30AX301・401(CRTモデルの30SX301・401やラップトップモデルの30LX651を含む)ではDTP機能が標準搭載された。ただし、その後の機種には搭載されなかった。
30AP101(1994年5月発表)では、パーソナル向けモデルとしては記憶媒体としてハードディスクが初搭載された。
PDAとしての機能を持ったポケットサイズワープロである。
1991年に初代のOASYSポケットが商品化された。印刷機能はオプション(印刷カード別売り)であった。
OASYS Pocket 2で印刷機能が標準内蔵され、OASYS Pocket 3(1994年)でMS-DOSモードが内蔵された。
なお、OASYS Pocket 3 の解像度は公開されていないが、実際のところ HP200LX と同じく 640×200 (モノクロCGA相当) である。
OASYS 35DX-101(1993年)はDOS/Vが正式サポートされた。
PC/AT互換機としてハードウェアのコストを削減し、また OASYS 48V の一部機種でWindows 3.1を採用するなど、PCとの融合路線をアピールした。
OASYS Vシリーズ(1994年)では、30AXシリーズのような外観のモデルの他、FMVと共通の筐体を持つモデルも登場し、ハードウェアの差異は、キーボードとハードディスクの領域の一部をOASYS区画としている程度であった。
1989年3月にOASYS30シリーズのラップトップモデルとして、OASYS 30LXが登場し、その後、LXシリーズは普及機の主力シリーズに成長した。
LX-3000(1994年)は、ワープロで初めてタッチパネルのユーザインタフェースを搭載し、注目を集めた。以後、この「ゆびタッチ」操作を活用した機能が次々と登場し、ワープロ専用機の枠をはみ出して行くことになる。
LX-2100/3100/3100C(1995年)で液晶画面がVGA相当の縦480ドットに拡大。3100CではDSTNカラー液晶も搭載された。
LX-3500T/3500CT(1995年)ではカラースキャナを搭載し、特に3500CTにおいてはカラー液晶との相性が非常に良く、官製ハガキによる挨拶状(年賀状や暑中見舞いなど)の作成が一気に身近になったため、LXシリーズの中でも屈指の人気商品となった。
LX-4500NT(1996年)で「ゆびタッチ」操作のウェブブラウザを搭載。「タッチインターネット」と称していた。しかし、当時の普及価格帯ワープロ専用機では快適なWebブラウズは難しく、販売も振るわなかった。
その後も、BOXタイプの「Mariott(マリオット・1996年)」、スーパーディスクドライブを搭載した「LX-6500SD(1997年)」「LX-7500SD(1998年)」、Webブラウズ機能とカラー印刷機能を強化した「LX-9500SD(1998年)」など、コンスタントに製品を発売した。
LX-S5000 (1999年) は LX-9500SD の後継機である。ゆびタッチ対応最終機種。スーパーディスクが廃止され、コードレスカラースキャナ搭載、システム全般の動作速度向上などが行われた。なお、システム・版数アップディスクを紛失していても、補助メニューから作成可能となった(2HDフロッピーディスクが一枚必要)。
また、ハイエンド機種と併せて「LX-B110(1997年)」「LX-C300(1998年)」といったスタンダード機種も発売した。OASYSワープロの最終機種は「LX-C700(2000年)」である(2000年11月生産終了)。
基本的に、LX-6500SD以降に搭載されている CPU は AMD Am486 DE2 (DX2からライトバックキャッシュを削除したもの)である。
LXシリーズの末期モデルでは順次入力 (シフトロック) が廃止されているため、怪我などで片手で打たざるを得ない利用者の機種移行には注意が必要である。
パーソナルコンピュータが高性能化するに従いワープロソフトという競争相手との戦いで劣勢に立たされ、次第に販売量を落としていき、2001年2月には、ワープロ専用機の生産中止を発表した。
2008年5月には、印刷用リボンカセットの販売も終了している。
OASYSシリーズの操作性をできるかぎり忠実に再現したワープロソフトとして販売されている。富士通製パソコンであるFMRシリーズやFM TOWNSシリーズで動作するワープロソフト「FM-OASYS」として商品化され、現在のWindowsをプラットフォームとするワープロソフトOASYSにつながっている。
PC-9800シリーズの独走を止めるべく投入したFM-16βが商業的に失敗し、再起を図ったFMRシリーズの全機種共通の柱の1つとして、ワープロ専用機市場におけるOASYSの優位が活用された。MS-DOSのFEPにOAK(オアシスかな漢字変換)が標準装備され、キーボード配列もOASYSと親和性を持たせてあり、そしてワープロソフトFM-OASYSが用意された。
多くの機種でフロッピー版とハードディスク版があった。高機能化により、フロッピー版は容量の制限から印刷などの作業のたびにフロッピーを交換せねばならず大変不便であった。FMRノートのようにROMカードで提供される機種もあった。ちなみに、FMRノートは、フロッピーディスク版の利用もできた(ハードディスクにインストールして利用)。FM TOWNS版はTownsOSではなくFMR-50互換の16色モードで動作し、FM TOWNSに内蔵された辞書ROMを活用するが、MS-DOS上のOAKよりユーザー辞書が強化されていた。
ファイル形式もMS-DOSと異なる独自のものであり、半角8文字までというMS-DOSの制限にとらわれず、OASYS専用機と同様、日本語で長い文書名を付けることができた(文書名を付けないと自動的に1行目が文書名になる)。反面、ハードディスク上にMS-DOSからアクセスできない独自の区画を設定する必要があった。
Windows版OASYSの歴史はFMVよりも古い。家庭市場を狙ったFMVデスクパワーの登場により、OASYS/Winプレインストールモデルが用意された。
FMVのデスクトップ機は台湾メーカー製のマザーボードを採用した機種が多いが、OASYS専用機のフロッピーを読み書きするために、FDDのコネクタとケーブルを制御線が1本多い独自仕様とし互換性を確保していた。
富士通以外でもOASYS専用機のフロッピーが読める機種が一部確認されている。
また、富士通製(動作保証はFMVのみ)またはロジテック製の一部のUSBフロッピードライブにOASYS付属のドライバを組み込むことによっても、OASYS専用機フロッピーを読み書きすることができる。
また、Vista以降のWindows上では内蔵ドライブを使ったOASYS専用機フロッピーの読み書きをサポートしないため、こちらの方法を使う必要がある。しかし、2社ともUSBフロッピードライブの生産を終了しており、入手は困難である。
OASYS付属ドライバの供給元であるアンテナハウス製「リッチテキスト・コンバータ」を別途購入すれば、2社以外のドライブでの読み込みも可能になる。アンテナハウス社の動作確認FDDの一覧には、オウルテックやアイ・オー・データ、イメーション製のドライブがいくつか掲載されている(但し2016年2月現在、大半は販売終了品である)。
但しWindows 10では、ワープロ専用機のディスクの読み書きについて動作保証外であるとのアナウンスがなされている。
アイコンやパッケージには、万年筆のペン先がデザインされている。
罫線機能の項でも述べたように、OASYS/winでは一般的なWindowsのキー操作である「Shift + 矢印」が「範囲選択」ではなく「罫線作成」になっている。
Windows 3.0/3.1はMS-DOSと同様にファイル名の長さに制限があるが、OASYS/WinおよびOASYS for Windowsは、DOS上のファイル名は6桁の文字列を生成し、OASYSの文書選択画面で日本語の文書名を見せることで、専用機同様の使い心地を実現していた。
ワープロソフトと同時に「富士通フォントシステム」もインストールされ、WIFEフォント形式のモトヤ製フォントが多種使えた。
OASYS for Windows 95 V4.0以降でWindows 95に、4.1以降でWindows NTに対応した。
Windows 95とWord 95を同日発売したマイクロソフトに対して、ジャストシステム(一太郎7)とロータス(ワードプロ)は32ビット化と同時にソフトを全面的に再設計したため、開発スケジュールに無理がありバグが十分取れずに出荷しシェアを失ったのに対して、OASYS for Windows V4.0は、同V3.0の事実上の32ビット版という手堅いバージョンアップであったのが幸いして、大きな苦情は聞かれなかった。
OASYS V5(1998年)は、FMV-DESKPOWER DCに搭載の「新OASYS」(Windows 95上で動作した)とOASYS for Windows 95を統合したソフトとして発表された。
専用機のカルク(表計算)などの資産が活用できるOASYS Office V5も用意され、非常に大規模なソフトウェアとなった
また、ワープロ専用機の縮小にともない開発部隊を統合し、以後のバージョンアップを行うことになる。
OASYS V6(1999年)では、OASYS Officeに代わり、OASYSとロータス・スーパーオフィス(IBM ロータス)のカスタマイズ版を搭載した(ワードプロを除く)、OASYS SuperOfficeが販売されるようになった。
これにはOASYS 1-2-3、OASYSアプローチ、OASYSオーガナイザーが含まれる。後のバージョンで若干構成が変更され、OASYS プレゼンテーションが追加されたり、ロータスオーガナイザーがそのまま搭載されたりしている。
OASYS 2002 (V9相当、2001年) でWindows XPに対応した。
OASYS V10(2006年)ではWindows Vista(32bit)に対応した。
さらに発売後のアップデートで
にも対応する。
ただし、ロータス・スーパーオフィスの開発が打ち切られており、Vista以降のWindowsに対応したバージョンが存在しないため、OASYS SuperOfficeに含まれるソフトウェアのうち、OASYS、Japanist以外はVista以降のWindowsに対応しない。
このためSuperOffice版のユーザーは、Vista以降のWindowsにインストールする際に非対応ソフトウェアを外すため、特殊な手順をふむ必要がある。
また、V10ではOASYSから「英文法チェック機能」および「英文スペルチェック機能」がライセンス期間満了のため削除され、OASYSプレゼンテーションからMicrosoft PowerPointのデータ変換機能が削除されている。
OASYS V10は、個人向けは2020年9月に販売終了、2023年9月にサポート終了(予定)。法人向けは2021年5月に販売終了、2026年6月にサポート終了(予定)。
V8以降のOASYSに付属するCD-ROM。インストールしなくてもOASYSの基本機能を実行することができる。OAKやJapanistは含まれない。ディスクメディアであるため修正パッチの適用が不可能で、後発のOSに対応することができない。
V8の対応OSは、Windows 95、98、Me、NT4.0、2000。2002ではWindows XPが追加される。
V10では対応OSが大幅に変更され、Windows 2000、XP、Server 2003のみとなった。なお、出荷時期によってはレーベル面にVistaの文字が追加されているものがあり、この版であればVista、さらに7でも使用できる。
ハードディスク内のOASYS文書を検索、表示、印刷できる無償のソフトウェア。表示に必要なフォントも付属している。編集はできず、サポートもない。 対応ドライブが必要だが、OASYS専用機のフロッピーを読み込み、文書の表示、印刷、変換ができる「OASYSフロッピィビューア」も付属する。
最新版はV8。特にファイルフォーマットに変更がないため、2002やV10のファイルでも読み込める。ただし、無償配布されているものはWindows XPまでのOSにしか対応していない。
すでにワープロ専用機のサポートは終了しているため、システムディスクの修正版は存在しておらず、新元号には対応していない。そのため、「にちじ」と入力し「漢字辞書」キーを押しただけでは平成のままとなってしまう。新元号に対応するには「令和」と変換したあとに「単語登録」キーを押して「令和」を登録範囲指定し、読みを「れいわ」、品詞を「名詞」として単語登録することで「令和元年」を正常に変換できるようになる。
ワープロソフトについては、公式サイトによれば2019年5月31日のOASYS V10 のアップデート公開で新元号に対応した。 | [
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"text": "OASYS(オアシス)は、富士通の神田泰典らによって開発された、日本語ワードプロセッサ(以下ワープロ)専用機およびワープロソフトの名称であり、「Rupo」(東芝)、「書院」(シャープ)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。現在、個人向け・法人向け共に販売は終了しており、サポートも順次終了する。",
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"text": "本項ではOASYSを含むオフィススイートであるOASYS SuperOffice(オアシス スーパーオフィス)やビューアであるOASYS Viewerについても記述する。",
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"text": "OASYSは特にプロユースにおいて大きなシェアを誇り、他社製品と比較して仕様の個性が強かった。その強い個性故、ワープロを評する場合はOASYS対それ以外という視点になりがちで、実際にはシェアが第1位であったにも関わらず、「OASYS使用者は少数派」という矛盾したイメージを抱く者も多かった。",
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"text": "以下に特徴を列記する。",
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"text": "OASYSでは親指シフトキーボードと呼ばれる独自開発のキーボードを採用した(旧JIS配列や新JIS配列、また50音順配列の製品もある。親指シフト配列のパーソナルワープロ製品に、50音順マスクという付属品を付けた時代《OASYS Lite S ~ F-ROM8 の約三年間)》もある。50音順マスク廃止後は、代わりにかなサーチが搭載された)。他社も日本語ワープロ黎明期には様々な入力方法を模索したが、OASYS以外は速やかに(旧)JISキーボードに収束した。その中で親指シフトキーボードを採用し続けたOASYSは異彩を放っていた。",
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"text": "一般的なワープロは、1行目から文字入力が基本であるが、OASYSは任意の場所へカーソルを移動して自由に文字入力ができた。",
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"text": "他社が文法処理の高度化・漢字変換の自動化を積極的に進めたのに対して、OASYSは消極的であった。",
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"text": "日本語ワープロの先駆けとなった東芝のJWシリーズではワープロ販売初期の日本語ワープロであるJW-10の時点ですでに単文節変換を実現していたのに対し、OASYSは後発にもかかわらず一号機であるOASYS100では単語変換のみとし、その後の製品でも単文節変換を基本とした。後に他社との競合上複文節変換をサポートはしたものの、単文節変換のみに切り替える設定を残し続けた。",
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"text": "単文節変換では他社製品で起こりがちだった文節の区切り間違いが原理的に発生しなかった。また、複雑な文法処理をしないことと相まって奇天烈な誤変換をしにくい利点をも生んだ。これを指して愛用者は「OASYSは日本語として無意味な変換をしない」と評した。しかし、使い込まなくては理解できない利点であり、カタログスペックでは見劣りした。",
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"text": "また、学習機能も単純で、単に直近に使用した語が第一候補になるものであった。他社製品では文脈や長期的な使用頻度への配慮が裏目に出て「先ほどと同じ語を変換したのになぜか違う漢字が出てくる」ことがあったが、OASYSではそのようなことは基本的に無かった。同音異義語がある語であっても「先ほど変換して正しい候補を選んだ」記憶があれば変換結果を確認する必要がなく、慣れればキーはおろか画面すら時々しか見ずに原稿に集中できる操作が可能であった。",
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"text": "後には複文節変換をサポートし、「AI辞書」と称する文法処理もするようになったが、積極的に宣伝することは無かった。カタログで高度な文法処理を誇らしげに謳う他社とは対照的であった。複文節変換は操作性が練り込まれておらず、他社との対抗上一応搭載しただけのように感じさせるものであったため、単文節変換に切り替えて使う者も多かった。",
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"text": "上記のごとく複雑な文法処理をしない方針と併せて、変換キーを押さずともキー入力の時点で辞書を先読みすることにより、初期の製品でも十分に高いレスポンスを示した。どんなに速い操作をしても正しい操作である限り必ず追随してくることによりオペレータは安心して操作に専念できた。",
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"text": "他社のワープロが現在のパソコンと同じ挿入モードを速やかに採用したのに対し、OASYSは挿入モードの採用が遅れた。しかし、OASYS の上書きモードは独特の書き味を持つため、根強い愛好者がいる。",
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"text": "いわゆる罫線モードへの移行なしに、いきなり機能シフト+矢印キーで一筆書きのように罫線を引ける。失敗した場合も機能シフト+シフト+矢印キーで消しゴムのように消せる。だからあらかじめ表の全体が頭に浮かんでなくても、下書きしながら表を作っていくことができる。OASYSの罫線機能は直観的な分かりやすさから支持者が多く、テキストエディタのマクロで操作法を模倣したものが多数ある。取っつきが良い反面、OASYSの罫線は行間罫線ではなく文字罫線であり、見栄えが間延びするのを嫌う場合は、表の作成後に行間を半分に設定するという、良くも悪くも場当たり的な対処法が取られる。",
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"text": "罫線機能のキー操作はOASYS/winでも継承された。そのため一般的なWindowsアプリケーション、及びMS-DOS時代からのMicrosoftのアプリケーションでは「Shiftキー + 矢印キー」でカーソル位置からの「範囲選択」になるのに対し、OASYS/winでは罫線を引くことになった。利用者が勤め先企業でのみで富士通製のPC上で富士通製のアプリケーション(主にOASYS)を使用しているならば問題とならないものの、自宅でもPCを保有しているようなユーザーだと、Windowsの「共通インターフェース」「共通操作」が通用せず、自宅より勤め先の方が作業効率が落ちるという現象が生じた。",
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"text": "Microsoft Wordのようなスタイルシートベースの文書の構造化を志向するワープロに対して、日本のワープロ専用機は場当たり的な操作体系を特徴とするのであるが、それゆえ凝った文書を作ると全体の手間数が増える(たとえば見出しの変わり目で左端設定(インデント)などを設定し直さねばならない)のを見越したように、豊富な機能キーで機能を一発で呼び出せるよう配慮がしてある(ゆえに文書作成中に画面がメニューで埋まってしまうことが無く、文書作成に集中できる効果もある)。あまり頭のよいやり方ではないかもしれないが、OASYSの支持者の多くは、テキストエディタの延長のような愚直な身軽さを好んだのである。",
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"text": "OASYSでは書式設定をするのに1ページ目で「前頁」キーを押すと現れる「0ページ」と呼ばれる画面を使った。",
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"text": "OASYS Liteは液晶8文字という極端に小さなディスプレイで、他社からは「おもちゃ」「ワードプロセッサ(文書処理機)とは言えない」と評されたが、市場には受け入れられた。富士通が当初称していた「日本語電子タイプライタ」としては OASYS Lite の機能で十分であった言える。実際、打った文字をその都度印字していく「逐次印刷」の設定での動作はまさにタイプライタそのものだった。CM展開は、女優の秋吉久美子が同機を持ってアメリカの砂漠を行くというもので、キャッチコピーは「思わず言葉でカメラしました」。可搬性とパーソナル製、リアルタイム入力機械であることを強調し、当時一部に残っていた「ワープロは清書機械」というイメージを払拭しようとした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "OASYS Lite M2 はOASYS Lite M の後継機である。この機種唯一かつ最大の特徴としてTV出力アダプタ F1160EA2 が使用できることである。このオプションを利用することで編集画面をテレビへ表示できるようになる。当時、ワープロ専用機でもテレビ出力へ対応したものはわずかに存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "OASYS Lite F・ROM7 / F・ROM9(1986年)で機能拡張用にICメモリカード(「F・ROMカード=フロムカード」)を採用した。このカードはPCMCIAの規格発行以前のもので、現在のPCカードとは形状が異なる(セガマイカード、Huカードと同様の形状)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "OASYS Lite Quirin (1987年) は女性用ワープロとして開発された限定三百名にのみ懸賞品として提供された非売品モデル。OASYS Lite K と基本仕様に類似点がある。親指シフトキーボード単体として見ると、この機種以降ではピンクとブルーの配色を採用したものは存在しない。本機のデザイナーは François Quirin である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "OASYS 30AF(1986年)は把手が着いて電源コードも掃除機のように本体内に収納できる縦型の「トランスポータブル」デザインで、ニフティサーブへアクセスするパソコン通信機能を装備。「ワープロ通信」と呼んでいた。30AFに始まる30シリーズのワープロ通信機能メニューからは、MS-DOSプロンプトに降りることが出来た(別途、オプションが必要)。機種によりBIOSに細かい差異があるが、おおよそFMR互換であったので、FMR用のソフトがわずかな修正で走った。30シリーズのICカードは Type II のPCカードの初期の規格と互換性があり、市販のSRAMカードがほぼ使えた。フラッシュメモリは使えない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "OASYS 30AFIII (1988年) は OASYS 30AFII の後継機でありAFシリーズの最終機である。後の OASYS のリファレンスモデルの一つともなった。後の機種と比較すると、機能や動作速度は劣る面は多いがキーボードの作りはかなり良いものとなっている (構造は板バネ+フレキシブル基板)。この機種では OASYS Lite で記録されたカセットテープの文書をフロッピーディスクへメディアコンバートするためのオプションが用意されている。この機種に限らないがシステムに仕様の不具合 (年号の切り替えに非対応、2000年問題非対応) があり皮肉にもシステムの時間は永遠に昭和のままである。この不具合は西暦の下二桁を和暦見なして時刻設定を行い、文書中の年号を手作業で書き換えることである程度は回避可能である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "OASYS 30LG-101 は実験的なモデルであり、操作体系の刷新を図ったが当時は賛否両論であった。この成果は OASYS LX の千番台へ引き継がれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "OASYS 30AX-CD は 30シリーズ唯一のCD-ROMドライブ標準搭載機(ほかの機種は検索ソフト、接続ケーブル、CD-ROMドライブは別売り品)であり、EPWING 形式 CD-ROM 辞典としてワードハンターが標準添付されている。また、この機種にしか搭載されなかった機能としては、本格的なグラフィックスを使用したビジュアルメニューがある(作業内容を Working Time / Personal Time / Creative Time / Setup Time の四大別したアイコンで表示し、選択後にリストメニューで行いたい作業を選ぶ)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "30AXIIやAX-CDではDTP機能がオプションで用意された (AX-301 / SX-301 は標準搭載)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "後継の30AX301・401(CRTモデルの30SX301・401やラップトップモデルの30LX651を含む)ではDTP機能が標準搭載された。ただし、その後の機種には搭載されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "30AP101(1994年5月発表)では、パーソナル向けモデルとしては記憶媒体としてハードディスクが初搭載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "PDAとしての機能を持ったポケットサイズワープロである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1991年に初代のOASYSポケットが商品化された。印刷機能はオプション(印刷カード別売り)であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "OASYS Pocket 2で印刷機能が標準内蔵され、OASYS Pocket 3(1994年)でMS-DOSモードが内蔵された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、OASYS Pocket 3 の解像度は公開されていないが、実際のところ HP200LX と同じく 640×200 (モノクロCGA相当) である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "OASYS 35DX-101(1993年)はDOS/Vが正式サポートされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "PC/AT互換機としてハードウェアのコストを削減し、また OASYS 48V の一部機種でWindows 3.1を採用するなど、PCとの融合路線をアピールした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "OASYS Vシリーズ(1994年)では、30AXシリーズのような外観のモデルの他、FMVと共通の筐体を持つモデルも登場し、ハードウェアの差異は、キーボードとハードディスクの領域の一部をOASYS区画としている程度であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1989年3月にOASYS30シリーズのラップトップモデルとして、OASYS 30LXが登場し、その後、LXシリーズは普及機の主力シリーズに成長した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "LX-3000(1994年)は、ワープロで初めてタッチパネルのユーザインタフェースを搭載し、注目を集めた。以後、この「ゆびタッチ」操作を活用した機能が次々と登場し、ワープロ専用機の枠をはみ出して行くことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "LX-2100/3100/3100C(1995年)で液晶画面がVGA相当の縦480ドットに拡大。3100CではDSTNカラー液晶も搭載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "LX-3500T/3500CT(1995年)ではカラースキャナを搭載し、特に3500CTにおいてはカラー液晶との相性が非常に良く、官製ハガキによる挨拶状(年賀状や暑中見舞いなど)の作成が一気に身近になったため、LXシリーズの中でも屈指の人気商品となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "LX-4500NT(1996年)で「ゆびタッチ」操作のウェブブラウザを搭載。「タッチインターネット」と称していた。しかし、当時の普及価格帯ワープロ専用機では快適なWebブラウズは難しく、販売も振るわなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その後も、BOXタイプの「Mariott(マリオット・1996年)」、スーパーディスクドライブを搭載した「LX-6500SD(1997年)」「LX-7500SD(1998年)」、Webブラウズ機能とカラー印刷機能を強化した「LX-9500SD(1998年)」など、コンスタントに製品を発売した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "LX-S5000 (1999年) は LX-9500SD の後継機である。ゆびタッチ対応最終機種。スーパーディスクが廃止され、コードレスカラースキャナ搭載、システム全般の動作速度向上などが行われた。なお、システム・版数アップディスクを紛失していても、補助メニューから作成可能となった(2HDフロッピーディスクが一枚必要)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、ハイエンド機種と併せて「LX-B110(1997年)」「LX-C300(1998年)」といったスタンダード機種も発売した。OASYSワープロの最終機種は「LX-C700(2000年)」である(2000年11月生産終了)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "基本的に、LX-6500SD以降に搭載されている CPU は AMD Am486 DE2 (DX2からライトバックキャッシュを削除したもの)である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "LXシリーズの末期モデルでは順次入力 (シフトロック) が廃止されているため、怪我などで片手で打たざるを得ない利用者の機種移行には注意が必要である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "パーソナルコンピュータが高性能化するに従いワープロソフトという競争相手との戦いで劣勢に立たされ、次第に販売量を落としていき、2001年2月には、ワープロ専用機の生産中止を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2008年5月には、印刷用リボンカセットの販売も終了している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "OASYSシリーズの操作性をできるかぎり忠実に再現したワープロソフトとして販売されている。富士通製パソコンであるFMRシリーズやFM TOWNSシリーズで動作するワープロソフト「FM-OASYS」として商品化され、現在のWindowsをプラットフォームとするワープロソフトOASYSにつながっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "PC-9800シリーズの独走を止めるべく投入したFM-16βが商業的に失敗し、再起を図ったFMRシリーズの全機種共通の柱の1つとして、ワープロ専用機市場におけるOASYSの優位が活用された。MS-DOSのFEPにOAK(オアシスかな漢字変換)が標準装備され、キーボード配列もOASYSと親和性を持たせてあり、そしてワープロソフトFM-OASYSが用意された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "多くの機種でフロッピー版とハードディスク版があった。高機能化により、フロッピー版は容量の制限から印刷などの作業のたびにフロッピーを交換せねばならず大変不便であった。FMRノートのようにROMカードで提供される機種もあった。ちなみに、FMRノートは、フロッピーディスク版の利用もできた(ハードディスクにインストールして利用)。FM TOWNS版はTownsOSではなくFMR-50互換の16色モードで動作し、FM TOWNSに内蔵された辞書ROMを活用するが、MS-DOS上のOAKよりユーザー辞書が強化されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ファイル形式もMS-DOSと異なる独自のものであり、半角8文字までというMS-DOSの制限にとらわれず、OASYS専用機と同様、日本語で長い文書名を付けることができた(文書名を付けないと自動的に1行目が文書名になる)。反面、ハードディスク上にMS-DOSからアクセスできない独自の区画を設定する必要があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "Windows版OASYSの歴史はFMVよりも古い。家庭市場を狙ったFMVデスクパワーの登場により、OASYS/Winプレインストールモデルが用意された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "FMVのデスクトップ機は台湾メーカー製のマザーボードを採用した機種が多いが、OASYS専用機のフロッピーを読み書きするために、FDDのコネクタとケーブルを制御線が1本多い独自仕様とし互換性を確保していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "富士通以外でもOASYS専用機のフロッピーが読める機種が一部確認されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、富士通製(動作保証はFMVのみ)またはロジテック製の一部のUSBフロッピードライブにOASYS付属のドライバを組み込むことによっても、OASYS専用機フロッピーを読み書きすることができる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、Vista以降のWindows上では内蔵ドライブを使ったOASYS専用機フロッピーの読み書きをサポートしないため、こちらの方法を使う必要がある。しかし、2社ともUSBフロッピードライブの生産を終了しており、入手は困難である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "OASYS付属ドライバの供給元であるアンテナハウス製「リッチテキスト・コンバータ」を別途購入すれば、2社以外のドライブでの読み込みも可能になる。アンテナハウス社の動作確認FDDの一覧には、オウルテックやアイ・オー・データ、イメーション製のドライブがいくつか掲載されている(但し2016年2月現在、大半は販売終了品である)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "但しWindows 10では、ワープロ専用機のディスクの読み書きについて動作保証外であるとのアナウンスがなされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "アイコンやパッケージには、万年筆のペン先がデザインされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "罫線機能の項でも述べたように、OASYS/winでは一般的なWindowsのキー操作である「Shift + 矢印」が「範囲選択」ではなく「罫線作成」になっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0/3.1はMS-DOSと同様にファイル名の長さに制限があるが、OASYS/WinおよびOASYS for Windowsは、DOS上のファイル名は6桁の文字列を生成し、OASYSの文書選択画面で日本語の文書名を見せることで、専用機同様の使い心地を実現していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ワープロソフトと同時に「富士通フォントシステム」もインストールされ、WIFEフォント形式のモトヤ製フォントが多種使えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "OASYS for Windows 95 V4.0以降でWindows 95に、4.1以降でWindows NTに対応した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "Windows 95とWord 95を同日発売したマイクロソフトに対して、ジャストシステム(一太郎7)とロータス(ワードプロ)は32ビット化と同時にソフトを全面的に再設計したため、開発スケジュールに無理がありバグが十分取れずに出荷しシェアを失ったのに対して、OASYS for Windows V4.0は、同V3.0の事実上の32ビット版という手堅いバージョンアップであったのが幸いして、大きな苦情は聞かれなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "OASYS V5(1998年)は、FMV-DESKPOWER DCに搭載の「新OASYS」(Windows 95上で動作した)とOASYS for Windows 95を統合したソフトとして発表された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "専用機のカルク(表計算)などの資産が活用できるOASYS Office V5も用意され、非常に大規模なソフトウェアとなった",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "また、ワープロ専用機の縮小にともない開発部隊を統合し、以後のバージョンアップを行うことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "OASYS V6(1999年)では、OASYS Officeに代わり、OASYSとロータス・スーパーオフィス(IBM ロータス)のカスタマイズ版を搭載した(ワードプロを除く)、OASYS SuperOfficeが販売されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "これにはOASYS 1-2-3、OASYSアプローチ、OASYSオーガナイザーが含まれる。後のバージョンで若干構成が変更され、OASYS プレゼンテーションが追加されたり、ロータスオーガナイザーがそのまま搭載されたりしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "OASYS 2002 (V9相当、2001年) でWindows XPに対応した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "OASYS V10(2006年)ではWindows Vista(32bit)に対応した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "さらに発売後のアップデートで",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "にも対応する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ただし、ロータス・スーパーオフィスの開発が打ち切られており、Vista以降のWindowsに対応したバージョンが存在しないため、OASYS SuperOfficeに含まれるソフトウェアのうち、OASYS、Japanist以外はVista以降のWindowsに対応しない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "このためSuperOffice版のユーザーは、Vista以降のWindowsにインストールする際に非対応ソフトウェアを外すため、特殊な手順をふむ必要がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また、V10ではOASYSから「英文法チェック機能」および「英文スペルチェック機能」がライセンス期間満了のため削除され、OASYSプレゼンテーションからMicrosoft PowerPointのデータ変換機能が削除されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "OASYS V10は、個人向けは2020年9月に販売終了、2023年9月にサポート終了(予定)。法人向けは2021年5月に販売終了、2026年6月にサポート終了(予定)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "V8以降のOASYSに付属するCD-ROM。インストールしなくてもOASYSの基本機能を実行することができる。OAKやJapanistは含まれない。ディスクメディアであるため修正パッチの適用が不可能で、後発のOSに対応することができない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "V8の対応OSは、Windows 95、98、Me、NT4.0、2000。2002ではWindows XPが追加される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "V10では対応OSが大幅に変更され、Windows 2000、XP、Server 2003のみとなった。なお、出荷時期によってはレーベル面にVistaの文字が追加されているものがあり、この版であればVista、さらに7でも使用できる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ハードディスク内のOASYS文書を検索、表示、印刷できる無償のソフトウェア。表示に必要なフォントも付属している。編集はできず、サポートもない。 対応ドライブが必要だが、OASYS専用機のフロッピーを読み込み、文書の表示、印刷、変換ができる「OASYSフロッピィビューア」も付属する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "最新版はV8。特にファイルフォーマットに変更がないため、2002やV10のファイルでも読み込める。ただし、無償配布されているものはWindows XPまでのOSにしか対応していない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "すでにワープロ専用機のサポートは終了しているため、システムディスクの修正版は存在しておらず、新元号には対応していない。そのため、「にちじ」と入力し「漢字辞書」キーを押しただけでは平成のままとなってしまう。新元号に対応するには「令和」と変換したあとに「単語登録」キーを押して「令和」を登録範囲指定し、読みを「れいわ」、品詞を「名詞」として単語登録することで「令和元年」を正常に変換できるようになる。",
"title": "新元号への対応策"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ワープロソフトについては、公式サイトによれば2019年5月31日のOASYS V10 のアップデート公開で新元号に対応した。",
"title": "新元号への対応策"
}
]
| OASYS(オアシス)は、富士通の神田泰典らによって開発された、日本語ワードプロセッサ(以下ワープロ)専用機およびワープロソフトの名称であり、「Rupo」(東芝)、「書院」(シャープ)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。現在、個人向け・法人向け共に販売は終了しており、サポートも順次終了する。 本項ではOASYSを含むオフィススイートであるOASYS SuperOfficeやビューアであるOASYS Viewerについても記述する。 | {{Otheruses|富士通のワードプロセッサ|[[コルグ]]の[[シンセサイザー]]|コルグ・OASYS|[[KREVA]]のアルバム|OASYS (アルバム)|ドイツの自動車関連企業|OASys|コンタクトレンズ|アキュビュー}}
{{画像提供依頼|代表的な機種本体|date=2012年10月|cat=製品}}
{{Infobox Software
|名称 = OASYS
|ロゴ =
|スクリーンショット =
|説明文 = 日本語ワードプロセッサ
|開発元 = [[富士通]]
|最新版 = 10
|最新版発表日 = {{release date|2006|12|4}}
|対応OS = [[Microsoft Windows]]
|種別 = [[日本語]][[ワードプロセッサ]]
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|公式サイト = [http://software.fujitsu.com/jp/oasys/ ワープロソフト OASYS]
|}}
{{Infobox Software
|名称 = OASYS SuperOffice
|ロゴ =
|スクリーンショット =
|説明文 = オフィススイート
|開発元 = [[富士通]]
|最新版 = 10
|最新版発表日 = {{release date|2007|3|16}}
|対応OS = [[Microsoft Windows]]
|種別 = [[オフィススイート]]
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|公式サイト = [http://software.fujitsu.com/jp/oasys/ ワープロソフト OASYS]
|}}
{{Infobox Software
|名称 = OASYS Viewer
|ロゴ =
|スクリーンショット =
|説明文 = ビューア
|開発元 = [[富士通]]
|最新版 = 8
|最新版発表日 =
|対応OS = [[Microsoft Windows]]
|種別 = ビューア
|ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
|公式サイト = [http://software.fujitsu.com/jp/oasys/download/oasviewer/ OASYS Viewer V8]
|}}
<!--ソフトウェア概要テンプレート-->
'''OASYS'''(オアシス)は、[[富士通]]の[[神田泰典]]らによって開発された、[[日本語]][[ワードプロセッサ]](以下ワープロ)専用機および[[ワープロソフト]]の名称であり、「[[Rupo]]」([[東芝]])、「[[書院]]」([[シャープ]])、「[[文豪]]」([[日本電気|NEC]])<!--時期の早い順に並べた-->と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。現在、個人向け・法人向け共に販売は終了しており、サポートも順次終了する。
<!-- 親指シフトキーボードについては別項で散々論じている→ 本機の特徴は[[親指シフト|親指シフトキーボード]]の採用である。ローマ字→かな→漢字の変換に比べ、脳内に浮かんだ文字列をそのまま入力でき、習熟には一定の期間の訓練が必要であるものの、高速な入力が可能であるため、特にプロユースにおいて圧倒的なシェアを誇った。 -->
本項ではOASYSを含む[[オフィススイート]]である'''OASYS SuperOffice'''(オアシス スーパーオフィス)やビューアである'''OASYS Viewer'''についても記述する。
== 特徴 ==
OASYSは特にプロユースにおいて大きなシェアを誇り、他社製品と比較して仕様の個性が強かった。その強い個性故、{{要出典|範囲=ワープロを評する場合はOASYS対それ以外という視点になりがちで、実際には[[市場占有率|シェア]]が第1位であったにも関わらず、「OASYS使用者は少数派」という矛盾したイメージを抱く者も多かった。|date=2021年9月}}<!--プロユースとそれ以外の台数の差が不明確で、家電や事務機ルートではさほど存在感を示していなかったOASYSがシェアトップであったかどうか立証頂きたく。-->
以下に特徴を列記する。
=== 親指シフトキーボードの採用 ===
OASYSでは[[親指シフトキーボード]]と呼ばれる独自開発のキーボードを採用した(旧JIS配列や新JIS配列、また50音順配列の製品もある。{{要出典|範囲=親指シフト配列のパーソナルワープロ製品に、50音順マスクという付属品を付けた時代《OASYS Lite S ~ F-ROM8 の約三年間)》|date=2021年9月}}もある。50音順マスク廃止後は、代わりにかなサーチが搭載された)。他社も日本語ワープロ黎明期には様々な入力方法を模索したが、OASYS以外は速やかに(旧)JISキーボードに収束した。その中で親指シフトキーボードを採用し続けたOASYSは異彩を放っていた。
{{Main|親指シフト}}
=== 任意の場所へ自由に文字入力 ===
{{要出典|範囲=一般的なワープロは、1行目から文字入力が基本である|date=2021年9月}}<!--他社製品にも同様のものがありOASYSの特筆すべき特徴とは思われません。-->が、OASYSは任意の場所へカーソルを移動して自由に文字入力ができた。
=== 堅実な漢字変換機能 ===
他社が文法処理の高度化・漢字変換の自動化を積極的に進めたのに対して、OASYSは消極的であった。
日本語ワープロの先駆けとなった[[東芝]]のJWシリーズではワープロ販売初期の日本語ワープロである[[JW-10]]の時点ですでに単文節変換を実現していたのに対し、OASYSは後発にもかかわらず一号機であるOASYS100では単語変換のみとし、その後の製品でも単文節変換を基本とした。後に他社との競合上複文節変換をサポートはしたものの、単文節変換のみに切り替える設定を残し続けた。
単文節変換では他社製品で起こりがちだった文節の区切り間違いが原理的に発生しなかった。また、複雑な文法処理をしないことと相まって奇天烈な誤変換をしにくい利点をも生んだ。{{要出典|範囲=これを指して愛用者は「OASYSは日本語として無意味な変換をしない」と評した。しかし、使い込まなくては理解できない利点であり、カタログスペックでは見劣りした。|date=2021年9月}}
また、学習機能も単純で、単に直近に使用した語が第一候補になるものであった<!-- 末期の製品を改めて使ってみても「ことが殆どであった」と表現を和らげる必要はないように感じられる --><!--個人的な印象で断言されるのは困ります。-->。他社製品では文脈や長期的な使用頻度への配慮が裏目に出て「先ほどと同じ語を変換したのになぜか違う漢字が出てくる」ことがあったが、OASYSではそのようなことは基本的に無かった。同音異義語がある語であっても「先ほど変換して正しい候補を選んだ」記憶があれば変換結果を確認する必要がなく、慣れればキーはおろか画面すら時々しか見ずに原稿に集中できる操作が可能であった。
後には複文節変換をサポートし、「AI辞書」と称する文法処理もするようになったが、積極的に宣伝することは無かった。{{要出典|範囲=カタログで高度な文法処理を誇らしげに謳う他社とは対照的であった。複文節変換は操作性が練り込まれておらず、他社との対抗上一応搭載しただけのように感じさせるものであったため、単文節変換に切り替えて使う者も多かった。|date=2021年9月}}
=== レスポンスへのこだわり ===
上記のごとく複雑な文法処理をしない方針と併せて、変換キーを押さずともキー入力の時点で辞書を先読みすることにより、初期の製品でも十分に高いレスポンスを示した。<!--キーに触れるたびに辞書の先読みのために[[フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブ]]が動作し、キーからアクセス音が聞こえてくるかのような錯覚を覚えるほどだった。--><!--全機種辞書ディスクではないのでは?-->どんなに速い操作をしても正しい操作である限り必ず追随してくることによりオペレータは安心して操作に専念できた。
=== 上書きモードが基本 ===
他社のワープロが現在のパソコンと同じ挿入モードを速やかに採用したのに対し、OASYSは挿入モードの採用が遅れた。{{要出典|範囲=しかし、OASYS の上書きモードは独特の書き味を持つため、根強い愛好者がいる。|date=2021年9月}}
=== 罫線機能 ===
いわゆる罫線モードへの移行なしに、いきなり機能シフト+矢印キーで一筆書きのように罫線を引ける。失敗した場合も機能シフト+シフト+矢印キーで消しゴムのように消せる。だからあらかじめ表の全体が頭に浮かんでなくても、下書きしながら表を作っていくことができる。{{要出典|範囲=OASYSの罫線機能は直観的な分かりやすさから支持者が多く、[[テキストエディタ]]の[[マクロ言語|マクロ]]で操作法を模倣したものが多数ある。|date=2021年9月}}<!--その手法はOASYSが初めて採用したわけではありません。-->取っつきが良い反面、OASYSの罫線は行間罫線ではなく文字罫線であり、見栄えが間延びするのを嫌う場合は、表の作成後に行間を半分に設定するという、良くも悪くも場当たり的な対処法が取られる。
罫線機能のキー操作はOASYS/winでも継承された。そのため一般的なWindowsアプリケーション、及びMS-DOS時代からのMicrosoftのアプリケーションでは「Shiftキー + 矢印キー」でカーソル位置からの「範囲選択」になるのに対し、OASYS/winでは罫線を引くことになった。利用者が勤め先企業でのみで富士通製のPC上で富士通製のアプリケーション(主にOASYS)を使用しているならば問題とならないものの、自宅でもPCを保有しているようなユーザーだと、Windowsの「共通インターフェース」「共通操作」が通用せず、自宅より勤め先の方が作業効率が落ちるという現象が生じた。
=== 豊富な機能キー ===
[[Microsoft Word]]のような[[スタイルシート]]ベースの文書の構造化を志向するワープロに対して、日本のワープロ専用機は場当たり的な操作体系を特徴とするのであるが、それゆえ凝った文書を作ると全体の手間数が増える(たとえば見出しの変わり目で[[字下げ|左端設定(インデント)]]などを設定し直さねばならない)のを見越したように、豊富な[[ファンクションキー|機能キー]]で機能を一発で呼び出せるよう配慮がしてある(ゆえに文書作成中に画面がメニューで埋まってしまうことが無く、文書作成に集中できる効果もある)。{{要出典|範囲=あまり頭のよいやり方ではないかもしれないが、OASYSの支持者の多くは、テキストエディタの延長のような愚直な身軽さを好んだのである。|date=2021年9月}}
=== 0ページ ===
OASYSでは書式設定をするのに1ページ目で「前頁」キーを押すと現れる「0ページ」と呼ばれる画面を使った。
== 歴史 ==
=== ビジネス機シリーズ ===
OASYSは日本語ワープロとして先発ではなかった。OASYS一号機であるOASYS100は、ワープロ販売初期の日本語ワープロである[[東芝]][[JW-10]](1978年9月)に遅れること2年近く、1980年5月に発表された。当時はすでに東芝と[[シャープ]]が製品を販売しており、発表だけならば他にも数社がしていた。
{{要出典|範囲=後発にも関わらず堅実な機能と低価格でビジネス市場でシェア第1位を獲得した。|date=2021年9月}}<!--シェア1位の根拠となるデータ、及び期間(年)をお示しください。-->初めて100万円を切る価格を打ち出した [[My OASYS]](1982年)は[[イメージキャラクター]]に[[高見山大五郎|高見山]]を起用。またキャッチコピーは「ザ・文房具」とし、体の大きな高見山関との対比したコンパクトさや親しみやすさが強調された。また日本語ワードプロセッサの[[略語]]として「ワープロ」という言葉を広告の中で用いて、{{要出典|範囲=この言葉が一般に定着するきっかけとなった。|date=2021年9月}}
OASYS 300A(1988年)は本格的な[[DTP]]ソフトを内蔵した。
==== OASYS 40 シリーズ ====
2機種しか発売されなかった OASYS 30 直系機。ハードディスク(IDE)搭載モデル。一部を除き [[FMRシリーズ]] と互換性がある。搭載されている CPU は VM technology VM865C110HL-V16 (80286互換) である(そのほか周辺機器制御用に RICOH RU6102MF や AMD N80186 が登載されているロットもある)。液晶パネルに致命的な欠陥を抱えているため(ビネガーシンドロームが発生しやすい)、直射日光を避け、キーボードを開いた状態で暗室かつ風通しの良い低温・低湿環境での保管が推奨される。
OASYS 40AP は OASYS 30AP-101 のビジネスモデルである。ハードディスク容量は 170MB へ増量された。最後のトランスポータブル機(AS はボックス型)であり、最後の TYPE-W 型インクリボン対応機でもある。 MS-DOS は別売り。
OASYS 40AS は 40 シリーズの最終機であり OASYS 40 AP から内蔵プリンターおよび関連ソフトウェア機能(名刺メーカー、文例集の一部、特殊印刷、別売りのPCプリンタサポートなど)を非搭載にして MS-DOS 3.1 と PCサーバ連携をプリインストールした LAN ([[NetWare]]) 対応モデル(使用には専用 LAN カード OACFC-601 および MARS_NWE などの NetWare 互換サーバーが必要)。メインボードと外装、システム以外は 40APと共通部品である。キートップに MS-DOS (従来機では用紙送りのキーに対応する位置) の標記がありメニューからワンタッチで MS-DOS が起動できる。SRAM カードに MS-DOS をインストールできるため、復旧用システムデータがあれば OASYS Pocket シリーズの復旧にも使用できる。末期まで販売された 40AP とは対照的に生産期間は1年と短いためか、中古市場ではほとんど流通してない希少機でもある。
説明書がない場合は「拡張機能+シフト+文末」を押すことで、使い方ガイド(オンラインヘルプ)を表示でき、40AP ではハードコピー機能を使うことで簡易的な説明書を手に入れることも可能である。
=== パーソナル機シリーズ ===
[[ファイル:Fujitsu OASYS Pocket.JPG|thumb|250px|[[オアシスポケット]]。]]
家庭用ワープロの市場にも積極的に進出した。大胆な機能削減で22万円という当時としては画期的な低価格を実現した[[OASYS Lite]](1984年)のような低価格攻勢で、{{要出典|範囲=家庭用市場でもシェア第1位を獲得した。|date=2021年9月}}
==== OASYS Liteシリーズ ====
OASYS Liteは液晶8文字という極端に小さなディスプレイで、他社からは「おもちゃ」「ワードプロセッサ(文書処理機)とは言えない」と評されたが、市場には受け入れられた。富士通が当初称していた「日本語電子タイプライタ」としては OASYS Lite の機能で十分であった言える。実際、打った文字をその都度印字していく「逐次印刷」の設定での動作はまさにタイプライタそのものだった。CM展開は、女優の[[秋吉久美子]]が同機を持ってアメリカの砂漠を行くというもので、キャッチコピーは「思わず言葉でカメラしました」。可搬性とパーソナル製、リアルタイム入力機械であることを強調し、当時一部に残っていた「ワープロは清書機械」というイメージを払拭しようとした。
OASYS Lite M2 はOASYS Lite M の後継機である。この機種唯一かつ最大の特徴としてTV出力アダプタ F1160EA2 が使用できることである。このオプションを利用することで編集画面をテレビへ表示できるようになる。当時、ワープロ専用機でもテレビ出力へ対応したものはわずかに存在した。
[[OASYS Lite F・ROM7]] / F・ROM9(1986年)で機能拡張用にICメモリカード(「F・ROMカード=フロムカード」)を採用した。このカードはPCMCIAの規格発行以前のもので、現在の[[PCカード]]とは形状が異なる(セガマイカード、Huカードと同様の形状)。
[[OASYS Lite Quirin]] (1987年) は女性用ワープロとして開発された限定三百名にのみ懸賞品として提供された非売品モデル。OASYS Lite K と基本仕様に類似点がある。親指シフトキーボード単体として見ると、この機種以降ではピンクとブルーの配色を採用したものは存在しない。本機のデザイナーは François Quirin である。
==== OASYS 30シリーズ ====
[[OASYS 30AF]](1986年)は把手が着いて電源コードも掃除機のように本体内に収納できる縦型の「トランスポータブル」デザインで、[[ニフティサーブ]]へアクセスする[[パソコン通信]]機能を装備。「ワープロ通信」と呼んでいた。30AFに始まる30シリーズのワープロ通信機能メニューからは、[[MS-DOS]]プロンプトに降りることが出来た(別途、オプションが必要)。機種により[[Basic Input/Output System|BIOS]]に細かい差異があるが、おおよそFMR互換であったので、FMR用のソフトがわずかな修正で走った。30シリーズのICカードは Type II のPCカードの初期の規格と互換性があり、市販の[[SRAMカード]]がほぼ使えた。[[フラッシュメモリ]]は使えない。
OASYS 30AFIII (1988年) は OASYS 30AFII の後継機でありAFシリーズの最終機である。後の OASYS のリファレンスモデルの一つともなった。後の機種と比較すると、機能や動作速度は劣る面は多いがキーボードの作りはかなり良いものとなっている (構造は板バネ+フレキシブル基板)。この機種では OASYS Lite で記録されたカセットテープの文書をフロッピーディスクへメディアコンバートするためのオプションが用意されている。{{独自研究範囲|この機種に限らないがシステムに仕様の不具合 (年号の切り替えに非対応、2000年問題非対応) があり皮肉にもシステムの時間は永遠に昭和のままである。この不具合は西暦の下二桁を和暦見なして時刻設定を行い、文書中の年号を手作業で書き換えることである程度は回避可能である。|date=2021年9月}}
OASYS 30LG-101 は実験的なモデルであり、操作体系の刷新を図ったが当時は賛否両論であった。この成果は OASYS LX の千番台へ引き継がれる。
OASYS 30AX-CD は 30シリーズ唯一の[[CD-ROM]]ドライブ標準搭載機(ほかの機種は検索ソフト、接続ケーブル、CD-ROMドライブは別売り品)であり、EPWING 形式 CD-ROM 辞典としてワードハンターが標準添付されている。また、この機種にしか搭載されなかった機能としては、本格的なグラフィックスを使用したビジュアルメニューがある(作業内容を Working Time / Personal Time / Creative Time / Setup Time の四大別したアイコンで表示し、選択後にリストメニューで行いたい作業を選ぶ)。
30AXIIやAX-CDではDTP機能がオプションで用意された (AX-301 / SX-301 は標準搭載)。
後継の30AX301・401(CRTモデルの30SX301・401やラップトップモデルの30LX651を含む)ではDTP機能が標準搭載された。ただし、その後の機種には搭載されなかった。
30AP101(1994年5月発表)では、パーソナル向けモデルとしては記憶媒体としてハードディスクが初搭載された<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0081.html OASYS 30AP-101 -コンピュータ博物館]</ref>。
==== OASYS Pocketシリーズ ====
[[携帯情報端末|PDA]]としての機能を持ったポケットサイズワープロ<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0080.html OASYS Pocket -コンピュータ博物館]</ref>である。
1991年に初代の[[オアシスポケット|OASYSポケット]]が商品化された。印刷機能はオプション(印刷カード別売り)であった。
[[オアシスポケット|OASYS Pocket 2]]で印刷機能が標準内蔵され、[[オアシスポケット|OASYS Pocket 3]](1994年)でMS-DOSモードが内蔵された。
{{独自研究範囲|なお、OASYS Pocket 3 の解像度は公開されていないが、実際のところ HP200LX と同じく 640×200 (モノクロCGA相当) である。|date=2021年9月}}
==== DOS/Vパソコンの顔をもつOASYS ====
OASYS 35DX-101(1993年)は[[DOS/V]]が正式サポートされた。
[[PC/AT互換機]]としてハードウェアのコストを削減し、また OASYS 48V の一部機種で[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]を採用するなど、PCとの融合路線をアピールした。
OASYS Vシリーズ<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0084.html OASYS Vシリーズ -コンピュータ博物館]</ref>(1994年)では、30AXシリーズのような外観のモデルの他、[[FMV]]と共通の筐体を持つモデルも登場し、ハードウェアの差異は、キーボードとハードディスクの領域の一部をOASYS区画としている程度であった。
==== LXシリーズ ====
1989年3月にOASYS30シリーズのラップトップモデルとして、OASYS 30LX<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0010.html OASYS 30LX -コンピュータ博物館]</ref>が登場し、その後、LXシリーズは普及機の主力シリーズに成長した。
LX-3000(1994年)は、ワープロで初めて[[タッチパネル]]の[[ユーザインタフェース]]を搭載し、注目を集めた。以後、この「'''ゆびタッチ'''」操作を活用した機能が次々と登場し、ワープロ専用機の枠をはみ出して行くことになる。
LX-2100/3100/3100C(1995年)で液晶画面が[[Video Graphics Array|VGA]]相当の縦480ドットに拡大。3100Cでは[[STN液晶|DSTNカラー液晶]]も搭載された。
LX-3500T/3500CT(1995年)では[[イメージスキャナ|カラースキャナ]]を搭載し、特に3500CTにおいてはカラー液晶との相性が非常に良く、官製ハガキによる挨拶状(年賀状や暑中見舞いなど)の作成が一気に身近になったため、LXシリーズの中でも屈指の人気商品となった。
LX-4500NT(1996年)で「ゆびタッチ」操作の[[ウェブブラウザ]]を搭載。「タッチインターネット」と称していた。しかし、当時の普及価格帯ワープロ専用機では快適なWebブラウズは難しく、販売も振るわなかった。
その後も、BOXタイプの「Mariott(マリオット・1996年)」、[[スーパーディスク]]ドライブを搭載した「LX-6500SD(1997年)」「LX-7500SD(1998年)」、Webブラウズ機能とカラー印刷機能を強化した「LX-9500SD(1998年)」など、コンスタントに製品を発売した。
LX-S5000 (1999年) は LX-9500SD の後継機である。ゆびタッチ対応最終機種。スーパーディスクが廃止され、コードレスカラースキャナ搭載、システム全般の動作速度向上などが行われた。なお、システム・版数アップディスクを紛失していても、補助メニューから作成可能となった(2HDフロッピーディスクが一枚必要)。
また、ハイエンド機種と併せて「LX-B110(1997年)」「LX-C300(1998年)」といったスタンダード機種も発売した。OASYSワープロの最終機種は「LX-C700(2000年)」である(2000年11月生産終了)。
基本的に、LX-6500SD以降に搭載されている CPU は AMD Am486 DE2 (DX2からライトバックキャッシュを削除したもの)である。
LXシリーズの末期モデルでは順次入力 (シフトロック) が廃止されているため、怪我などで片手で打たざるを得ない利用者の機種移行には注意が必要である。
=== ワープロ専用機の終焉 ===
[[パーソナルコンピュータ]]が高性能化するに従い[[ワープロソフト]]という競争相手との戦いで劣勢に立たされ、次第に販売量を落としていき、[[2001年]]2月には、ワープロ専用機の生産中止を発表した。
[[2008年]]5月には、印刷用リボンカセットの販売も終了している<ref>[https://www.fmworld.net/oasysworld/new/expendables_end.html ワープロ専用機OASYS用リボンカセットの販売終了について] - 富士通、2008年6月2日</ref>。
=== ワープロソフトのOASYS ===
OASYSシリーズの操作性をできるかぎり忠実に再現したワープロソフトとして販売されている。富士通製パソコンであるFMRシリーズや[[FM TOWNS]]シリーズで動作するワープロソフト「[[FM-OASYS]]」として商品化され、現在のWindowsをプラットフォームとするワープロソフトOASYSにつながっている。
==== FM-OASYS ====
[[PC-9800シリーズ]]の独走を止めるべく投入した[[FM-16β]]が商業的に失敗し、再起を図ったFMRシリーズの全機種共通の柱の1つとして、ワープロ専用機市場におけるOASYSの優位が活用された。[[MS-DOS]]の[[FEP]]に[[Japanist|OAK(オアシスかな漢字変換)]]が標準装備され、キーボード配列もOASYSと親和性を持たせてあり、そしてワープロソフトFM-OASYSが用意された。
多くの機種でフロッピー版とハードディスク版があった。高機能化により、フロッピー版は容量の制限から印刷などの作業のたびにフロッピーを交換せねばならず大変不便であった。FMRノートのようにROMカードで提供される機種もあった。ちなみに、FMRノートは、フロッピーディスク版の利用もできた(ハードディスクにインストールして利用)。FM TOWNS版は[[TownsOS]]ではなくFMR-50互換の16色モードで動作し、FM TOWNSに内蔵された辞書ROMを活用するが、MS-DOS上のOAKよりユーザー辞書が強化されていた。
ファイル形式もMS-DOSと異なる独自のものであり、半角8文字までというMS-DOSの制限にとらわれず、OASYS専用機と同様、日本語で長い文書名を付けることができた(文書名を付けないと自動的に1行目が文書名になる)。反面、ハードディスク上にMS-DOSからアクセスできない独自の区画を設定する必要があった。
==== OASYS for Windows ====
Windows版OASYSの歴史はFMVよりも古い。家庭市場を狙ったFMVデスクパワーの登場により、OASYS/Winプレインストールモデルが用意された。
FMVの[[デスクトップパソコン|デスクトップ機]]は台湾メーカー製のマザーボードを採用した機種が多いが、OASYS専用機のフロッピーを読み書きするために、FDDの[[コネクタ]]と[[ケーブル]]を制御線が1本多い独自仕様とし互換性を確保していた。
富士通以外でもOASYS専用機のフロッピーが読める機種が一部確認されている。
また、富士通製(動作保証はFMVのみ)またはロジテック製の一部のUSBフロッピードライブにOASYS付属のドライバを組み込むことによっても、OASYS専用機フロッピーを読み書きすることができる。
また、Vista以降のWindows上では内蔵ドライブを使ったOASYS専用機フロッピーの読み書きをサポートしないため、こちらの方法を使う必要がある。しかし、2社ともUSBフロッピードライブの生産を終了しており、入手は困難である。
OASYS付属ドライバの供給元である[[アンテナハウス]]製「[[リッチテキスト・コンバータ]]」を別途購入すれば、2社以外のドライブでの読み込みも可能になる。アンテナハウス社の動作確認FDDの一覧には、[[オウルテック]]やアイ・オー・データ、イメーション製のドライブがいくつか掲載されている(但し2016年2月現在、大半は販売終了品である)。
但しWindows 10では、ワープロ専用機のディスクの読み書きについて動作保証外であるとのアナウンスがなされている<ref>[http://www.antenna.co.jp/rtc/rtc20win10.html リッチテキスト・コンバータ20 Windows10対応について]</ref>。
アイコンやパッケージには、万年筆のペン先がデザインされている。
罫線機能の項でも述べたように、OASYS/winでは一般的なWindowsのキー操作である「Shift + 矢印」が「範囲選択」ではなく「罫線作成」になっている。
===== 主なバージョン =====
Windows 3.0/3.1はMS-DOSと同様にファイル名の長さに制限があるが、OASYS/WinおよびOASYS for Windowsは、DOS上のファイル名は6桁の文字列を生成し、OASYSの文書選択画面で日本語の文書名を見せることで、専用機同様の使い心地を実現していた。
ワープロソフトと同時に「富士通フォントシステム」もインストールされ、[[フォント|WIFEフォント]]形式の[[モトヤ]]製フォントが多種使えた。
OASYS for Windows 95 V4.0以降で[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]に、4.1以降で[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]に対応した。
{{独自研究範囲|Windows 95と[[Microsoft Word|Word 95]]を同日発売した[[マイクロソフト]]に対して、[[ジャストシステム]]([[一太郎|一太郎7]])と[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]](ワードプロ)は32ビット化と同時にソフトを全面的に再設計したため、開発スケジュールに無理があり[[バグ]]が十分取れずに出荷しシェアを失ったのに対して、OASYS for Windows V4.0は、同V3.0の事実上の32ビット版という手堅いバージョンアップであったのが幸いして、大きな苦情は聞かれなかった。|date=2021年9月}}
OASYS V5(1998年)は、FMV-DESKPOWER DCに搭載の「新OASYS」(Windows 95上で動作した)とOASYS for Windows 95を統合したソフトとして発表された。
専用機のカルク(表計算)などの資産が活用できる'''OASYS Office''' V5も用意され、非常に大規模なソフトウェアとなった
また、ワープロ専用機の縮小にともない開発部隊を統合し、以後のバージョンアップを行うことになる。
OASYS V6(1999年)では、OASYS Officeに代わり、OASYSと[[ロータス・スーパーオフィス]]([[IBM]] [[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]])のカスタマイズ版を搭載した(ワードプロを除く)、'''OASYS SuperOffice'''が販売されるようになった。
これにはOASYS 1-2-3、OASYSアプローチ、OASYSオーガナイザーが含まれる。後のバージョンで若干構成が変更され、OASYS プレゼンテーションが追加されたり、ロータスオーガナイザーがそのまま搭載されたりしている。
OASYS 2002 (V9相当、2001年) で[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]に対応した。
OASYS V10(2006年)では[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]](32bit)に対応した。
さらに発売後のアップデートで
*[[Microsoft Windows 7|Windows 7]](当初は32bitのみ。その後64bitにも対応した)
*[[Microsoft Windows 8|Windows 8/8.1]]
*[[Microsoft Windows 10|Windows 10]](2015年10月30日のアップデートrel.07F以降の適用で対応)
にも対応する。
ただし、ロータス・スーパーオフィスの開発が打ち切られており、Vista以降のWindowsに対応したバージョンが存在しないため、OASYS SuperOfficeに含まれるソフトウェアのうち、OASYS、[[Japanist]]以外はVista以降のWindowsに対応しない。
このためSuperOffice版のユーザーは、Vista以降のWindowsにインストールする際に非対応ソフトウェアを外すため、特殊な手順をふむ必要がある<ref>[http://software.fujitsu.com/jp/oasys/lineup/office_install.html OASYS SuperOffice V10 インストール方法] - 富士通</ref>。
また、V10ではOASYSから「英文法チェック機能」および「英文スペルチェック機能」がライセンス期間満了のため削除され、OASYSプレゼンテーションから[[Microsoft PowerPoint]]のデータ変換機能が削除されている。
OASYS V10は、個人向けは2020年9月に販売終了、2023年9月にサポート終了。法人向けは2021年5月に販売終了、2024年5月にサポート終了(予定)<ref name="fmworld200519">[https://www.fmworld.net/biz/fmv/whatsnew/20200519/ 親指シフトキーボードおよび関連商品の販売終了について] - 富士通、2020年5月19日</ref>。
===== 携帯OASYS =====
V8以降のOASYSに付属するCD-ROM。インストールしなくてもOASYSの基本機能を実行することができる。OAKやJapanistは含まれない。ディスクメディアであるため修正パッチの適用が不可能で、後発のOSに対応することができない。
V8の対応OSは、Windows 95、98、Me、NT4.0、2000。2002ではWindows XPが追加される。
V10では対応OSが大幅に変更され、Windows 2000、XP、Server 2003のみとなった。なお、出荷時期によってはレーベル面にVistaの文字が追加されているものがあり、この版であればVista、さらに7<ref>7の文字は記載されていない版もあるので、Vistaの文字列の有無で判断する必要がある。</ref>でも使用できる。
===== OASYS Viewer =====
ハードディスク内のOASYS文書を検索、表示、印刷できる無償のソフトウェア。表示に必要なフォントも付属している。編集はできず、サポートもない。
対応ドライブが必要だが、OASYS専用機のフロッピーを読み込み、文書の表示、印刷、変換ができる「OASYSフロッピィビューア」も付属する。
最新版はV8。特にファイルフォーマットに変更がないため、2002やV10のファイルでも読み込める。ただし、無償配布されているものはWindows XPまでのOSにしか対応していない<ref>2002やV10のパッケージ版に付属するビューアは除く。</ref>。
=== OASYSの主な歴史 ===
==== 通常版 ====
*1980年5月 - OASYS100を発売。単語変換、最新使用語優先学習方式を採用<ref>『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p109</ref>。FDD2基、親指シフトキーボードを搭載。270万円。
*1982年11月 - OASYS100Gを発売。画面サイズが拡大。
*1984年5月 - OASYS100G2を発売。ハードディスク搭載、単語変換に加えて文節変換機能を搭載。
*1986年11月 - OASYS100GXを発売。
*1987年6月 - OASYS100GX-CDを発売。CD-ROMが使用可能、複文節変換機能を追加。
==== 廉価版 ====
*1981年8月 - OASYS100Jを発売。小型軽量化、低価格化(159万円)を実現。
*1983年11月 - OASYS100Fを発売。単語変換に加えて文節変換機能を搭載。
*1985年10月 - OASYS100F2を発売。
*1987年6月 - OASYS100FXを発売。複文節変換機能を追加。
==== ポータブル版 ====
*1982年5月 - My OASYSを発売。小型軽量化、低価格化(75万円)を実現。
*1983年4月 - My OASYS 2を発売。低価格化(48万円)を実現。
*1984年7月 - My OASYS 2sを発売。低価格化を実現。
*1986年11月 - OASYS30AFを発売。小型軽量化、低価格化(24万8千円)を実現。液晶大画面を搭載。単語変換に加えて文節変換機能を搭載。
*1987年6月 - OASYS30AF2を発売。複文節変換機能を追加。
==== ラップトップ版 ====
*1984年5月 - OASYS Liteを発売。小型軽量化、低価格化(22万円)を実現。
*1985年7月 - OASYS Lite Sを発売。50音入力用キーボードカバー、単語変換に加えて文節変換機能を搭載。低価格化(8万2千円)を実現。
*1985年9月 - OASYS Lite Fを発売。画面サイズ(40字×5行)。キーボード部とプリンタ部を分離できた。
*1985年11月 - OASYS Lite Kを発売。画面サイズ(20字×2行)
*1986年4月 - OASYS Lite F2を発売。
*1986年11月 - OASYS Lite F-ROM7を発売。FROMカードをサポート。
*1987年10月 - OASYS Lite F-ROM10を発売。画面サイズ、JISキーボードを追加。
==== OASYSパソコン(OASYS Vシリーズ) ====
*1996年8月30日 - OASYS V-5166D6/5133D6を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1996/Aug/1-3.html 新 OASYSパソコン「OASYS V-5166D6/5133D6」発売] - 富士通、1996年8月1日</ref>。
==== OASYS for Windows ====
*1996年1月 - OASYS for Windows V3.0を発売<ref name="v3-3a-4">[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1996/May/22.html Windows95 完全対応! 32ビット版ワープロソフト「OASYS95 」新発売] - 富士通、1996年5月22日</ref>。
*1996年5月24日 - OASYS for Windows V3.0Aを発売<ref name="v3-3a-4" />。
*1996年7月下旬 - OASYS for Windows95 V4.0(OASYS95 V4.0)を発売<ref name="v3-3a-4" />。
*1997年2月14日 - OASYS for Windows95 V4.1(OASYS95 V4.1)を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1997/Jan/14.html WindowsNT4.0に対応した日本語ワープロソフト「OASYS95 V4.1」新発売] - 富士通、1997年1月14日</ref>。
*1998年1月23日 - OASYS V5、OASYS Office V5を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1997/Nov/12.html Windows用ワープロソフト「OASYS V5」新発売] - 富士通、1997年11月12日</ref>。
*1998年9月18日 - OASYS V6、OASYS SuperOffice V6を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1998/Aug/20.html 富士通とロータスの連携ソフトウェア製品 新発売] - 富士通、1998年8月20日</ref>。
*1999年11月19日 - OASYS V7、OASYS SuperOffice V7を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/1999/Oct/12.html Windows用ワープロソフト「OASYS V7」新発売] - 富士通、1999年10月12日</ref>。
*2000年11月10日 - OASYS V8、OASYS SuperOffice V8を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/2000/09/25-1.html Windows用ワープロソフトウェア「OASYS V8.0」新発売] - 富士通、2000年9月25日</ref>。日本語入力ソフトOAKが付属する最後のバージョン。
*2001年12月7日 - OASYS 2002、OASYS SuperOffice 2002(V9相当)を発売<ref>[http://pr.fujitsu.com/jp/news/2001/11/6-1.html ワープロソフト「OASYS 2002」と日本語入力ソフト「Japanist 2002」を販売] - 富士通、2001年11月6日</ref>。日本語入力ソフトがOAK由来のJapanistへ変更。
*2006年12月4日 - OASYS V10を発売。
*2007年3月16日 - OASYS SuperOffice V10を発売。
*2007年11月23日 - OASYS V10がアップデートによりWindows Vistaへ対応。
*2009年12月11日 - OASYS V10がアップデートによりWindows 7(32ビット版)へ対応。
*2012年3月30日 - OASYS V10がアップデートによりWindows 7(64ビット版)へ対応。
*2015年10月30日 - OASYS V10がアップデートによりWindows 10に対応。
*2020年9月30日 - OASYS V10の個人向け販売を終了<ref name="fmworld200519" />。
*2021年5月31日 - OASYS V10の法人向け販売を終了<ref name="fmworld200519" />。
*2023年9月30日 - OASYS V10の個人向けサポートを終了<ref name="fmworld200519" />。
*2024年5月31日 - OASYS V10の法人向けサポートを終了(予定)<ref name="fmworld200519" />。
== その他 ==
*「[[々]]」を[[MS-IME]]などでは「おなじ」にて変換するがOASYSでは「のま」と入力すると変換できたことは有名である。<!--現在でも「のま」を辞書登録し「々」の読みとする人が多い。-->ちなみに[[wnn]]でも「のま」で「々」と変換可能。
*OASYSの命名は公募によるもので、応募者は「OFFICE AUTOMATION SYSTEM」の[[頭字語]]であるとしている。ちなみに、砂漠にあるオアシスのつづりは[[OASIS]]。他の候補には「キーポン」「JET富士」「Sum」などがあったという。
*富士通のPCである[[FMV]]は、初期のころには[[プリインストール]]のワープロソフトとしてOASYSを選ぶことも出来た。しかし、[[1999年]]頃からOASYSを選ぶことが出来ないモデルが増え始め、現在ではOASYSをプリインストールしたPCはない。
== 新元号への対応策 ==
すでにワープロ専用機のサポートは終了しているため、システムディスクの修正版は存在しておらず、新元号には対応していない。そのため、「にちじ」と入力し「漢字辞書」キーを押しただけでは[[平成]]のままとなってしまう。新元号に対応するには「[[令和]]」と変換したあとに「単語登録」キーを押して「令和」を登録範囲指定し、読みを「れいわ」、品詞を「名詞」として単語登録することで「令和元年」を正常に変換できるようになる。
ワープロソフトについては、公式サイトによれば2019年5月31日のOASYS V10 のアップデート公開で新元号に対応した。
== 出典 ==
*[http://www.ykanda.jp/ OASYS and CAMELLIA homepage]
*[http://www.ykanda.jp/catalog/catalog.htm カタログ]
*[http://www.ykanda.jp/txt/oalist.txt FOAUによるリスト]
*OASYS 40AP/40AP オアシスガイド
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 外部リンク ==
*[http://software.fujitsu.com/jp/oasys/ 公式サイト]
*[https://www.fmworld.net/oasysworld/ OASYS WORLD(富士通)]
*[http://software.fujitsu.com/jp/oasys/download/oasviewer/ OASYS Viewer V8]
*[http://kusup.la.coocan.jp/oasbora.htm おあしすぼらぼら]
{{ワープロソフト}}
{{表計算ソフト}}
[[Category:ワードプロセッサ|おあしす]]
[[Category:文書作成ソフト|おあしす]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/OASYS |
1,512 | PC/AT | IBM PC AT(IBMピーシーエーティー、英語: IBM Personal Computer AT)は1984年にIBMが発売したパーソナルコンピュータ。型番は「IBM 5170」。略称はPC AT、PC/AT、AT等。前身はIBM PC XT、後継はIBM PS/2。なお当アーキテクチャを継承した各社による製品群はPC/AT互換機を参照。
正式名称は「IBM Personal Computer AT」、型番は「IBM 5170」である。ATはAdvanced Technology(先進技術)を意味する。
PC/ATは、IBM PCおよびIBM PC XTの後継機種として登場した。Intel 80286を搭載し、システムバス(拡張スロット)を16ビット化(ATバス。後にISAとして規定された)し、ビデオ(グラフィック)にEGAを搭載した。
初代IBM PCと同様に、オープンアーキテクチャを採用し、内部仕様の多くが公開されたため、Compaq、Dellなど多くのメーカーからPC/AT互換機が発売された。
PC/AT及びその互換機のキラーアプリケーションともいえるソフトウェアが、表計算ソフト「Lotus 1-2-3」であった。アメリカ合衆国では、税務計算の必要性やApple II用アプリケーション「VisiCalc」などのヒットなど、表計算ソフトが受け入れられる下地があった。「1-2-3」は1983年にIBM PC用のアプリケーション(8086のリアルモードで稼働)として登場したが、R3ではPC/AT以降に特化したモード(80286のプロテクトモード)が追加された。PC/ATの性能をフルに引き出すことで、互換性を重視した「Microsoft Multiplan」をはるかに凌駕する再計算スピードや、豊富なアドオンによるカスタマイズ性の高さをセールスポイントとしてアピールし、大ベストセラーとなった。互換機メーカは、PC/ATとの互換性よりも「1-2-3互換」(1-2-3 Compatible)を売りにするほどであった。
マイクロソフトは、IBMによるPC DOSの権利譲渡の要求を頑なに拒んだ。逆に、自社ブランド (MS-DOS) でのオペレーティングシステム (OS) の各社へのOEM供給や単独販売を行うようになった。これにより、MS-DOSはCP/M-86との競争に勝利し、また互換機によるIBM純正機の市場シェア低下という結果をもたらしたのである。これに対し、IBMは失った市場を取り戻す為、IBM PS/2によりクローズドアーキテクチャ路線への方向転換を画策したのだが、その時には既に、市場はAT一色に染まっていた。 | [
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| IBM PC ATは1984年にIBMが発売したパーソナルコンピュータ。型番は「IBM 5170」。略称はPC AT、PC/AT、AT等。前身はIBM PC XT、後継はIBM PS/2。なお当アーキテクチャを継承した各社による製品群はPC/AT互換機を参照。 | {{infobox Information appliance
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|releasedate=1984年8月14日<ref>{{cite journal|last1=Somerson|first1=Paul|title=AT the Party|journal=PC Magazine|date=Nov 13, 1984|page=123|url=https://books.google.co.jp/books?id=-Ukz6hjZEA4C&pg=PA117&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false|accessdate=5 July 2014|ref=PC Magazine, Nov. 13, 1984, Page 123}}</ref><ref>日本では1985年11月25日だが、法人販売のみで、個人を含めた一般販売はされなかった。「日本IBM、「PC」日本でも発売―直販・特約店ルートで。」『日経産業新聞』 1985年11月26日、7面。</ref>
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'''IBM PC AT'''(IBMピーシーエーティー、{{lang-en|IBM Personal Computer AT}})は[[1984年]]に[[IBM]]が発売した[[パーソナルコンピュータ]]。型番は「IBM 5170」。略称は'''PC AT'''、'''PC/AT'''、'''AT'''等。前身は[[IBM PC XT]]、後継は[[IBM PS/2]]。なお当[[アーキテクチャ]]を継承した各社による製品群は'''[[PC/AT互換機]]'''を参照。
== 呼称 ==
正式名称は「IBM Personal Computer AT」、型番は「IBM 5170」である。ATはAdvanced Technology(先進技術)を意味する。
== 概要 ==
PC/ATは、[[IBM PC]]および[[IBM PC XT]]の後継機種として登場した。[[Intel 80286]]を搭載し、システムバス([[拡張スロット]])を16ビット化('''ATバス'''。後に[[Industry Standard Architecture|ISA]]として規定された)し、ビデオ(グラフィック)に[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]を搭載した。
初代IBM PCと同様に、[[オープンアーキテクチャ]]を採用し、内部仕様の多くが公開されたため、[[コンパック|Compaq]]、[[デル|Dell]]など多くのメーカーから[[PC/AT互換機]]が発売された。
PC/AT及びその互換機の[[キラーアプリケーション]]ともいえる[[ソフトウェア]]が、[[表計算ソフト]]「[[Lotus 1-2-3]]」であった。[[アメリカ合衆国]]では、税務計算の必要性や[[Apple II]]用アプリケーション「[[VisiCalc]]」などのヒットなど、表計算ソフトが受け入れられる下地があった。「1-2-3」は1983年にIBM PC用のアプリケーション(8086の[[リアルモード]]で稼働)として登場したが、R3ではPC/AT以降に特化したモード(80286の[[プロテクトモード]])が追加された。PC/ATの性能をフルに引き出すことで、互換性を重視した「[[Microsoft Multiplan]]」をはるかに凌駕する再計算スピードや、豊富なアドオンによる[[カスタム|カスタマイズ]]性の高さをセールスポイントとしてアピールし、大ベストセラーとなった。互換機メーカは、PC/ATとの互換性よりも「1-2-3互換」(1-2-3 Compatible)を売りにするほどであった。
[[マイクロソフト]]は、IBMによる[[PC DOS]]の権利譲渡の要求を頑なに拒んだ。逆に、自社ブランド ([[MS-DOS]]) での[[オペレーティングシステム]] (OS) の各社へのOEM供給や単独販売を行うようになった。これにより、MS-DOSは[[CP/M-86]]との競争に勝利し、また互換機によるIBM純正機の市場シェア低下という結果をもたらしたのである。これに対し、IBMは失った市場を取り戻す為、[[IBM PS/2]]によりクローズドアーキテクチャ路線への方向転換を画策したのだが、その時には既に、市場はAT一色に染まっていた{{要出典|date=2020年5月}}。
== 基本仕様 ==
* [[CPU]]: [[Intel 80286|80286]] 6[[メガヘルツ|MHz]](後に8MHz)
* [[記憶装置|メモリ]]: 256KB - 512KB(標準)
* 外部記憶: [[ハードディスクドライブ]] 20 - 30MB(標準)、[[フロッピーディスク]]ドライブ 1.2MB×2基
* [[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]: [[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]
* 84または101[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]
* [[シリアルポート]]
* [[パラレルポート]]
* [[Industry Standard Architecture|AT拡張バス]](後のISAバス)([[XTバス]]も装備)
== 歴史 ==
{{main|IBM PC#IBM PCファミリー}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[PC/AT互換機]]
* [[Industry Standard Architecture|ISAバス]]
* AT[[マザーボード]]
== 外部リンク ==
* [http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/pc25/pc25_PH06.html IBM PCとPS/2の系列図]{{en icon}}
* [http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/pc25/pc25_tenyears.html IBM PCの最初の10年]{{en icon}}
* [https://atmarkit.itmedia.co.jp/fsys/pcencyclopedia/003pc_history01/pc_hist01.html 本家IBM PCの歴史(1)~IBM PC誕生(元麻布春男)]
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[[Category:IBMのパーソナルコンピュータ]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/PC/AT |
1,514 | 玉音放送 | 玉音放送(ぎょくおんほうそう、旧字体: 玉音󠄁放送󠄁)とは、天皇の肉声を放送すること。
通常、1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。
この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。
ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日、の御前会議において昭和天皇の裁可を仰ぎ、7月26日に連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。
ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。
御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を臣民(国民)に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。
連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。
放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤のレコード、玉音盤()再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった。
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに国体を護持することができ、忠実なお前たち臣民の赤誠(真心)を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。
『大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣の阿南惟幾が「戦局日ニ非()ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。
終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである。
当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった。また聖断が下された御前会議に陪席していた迫水は御前会議での昭和天皇の発言を組み入れて詔書案を作成した。これにより天皇の意思が反映されるという異例な詔書となった。
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は内閣情報局次長の久富達夫が内閣情報局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は8月14日16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、宮内大臣や侍従長らが見守る中で朗読は行われた。
2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は、日本電気音響(現・デノン コンシューマー マーケティング)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。
作業は翌8月15日午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、坂下門を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた(宮城事件)。録音盤は、録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。
事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる)」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる)」と定め、「正盤」は東京放送会館へ、「副盤」は第一生命館の予備のスタジオへと持ち込まれた。
当日正午の時報のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢である。
国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kWに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。
玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。
特記なき文は、和田信賢によるアナウンス。
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)
1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。
御名御璽昭和二十年八月󠄁十四日內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太郞
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所 さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず 然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず 世界の大勢また我に利あらず しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや 是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり 朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず 帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く 且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり 思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず 汝臣民の衷情も朕よく是れを知る 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す 朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む 宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし 汝臣民それ克く朕が意を体せよ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
玉音放送全文の現代語訳。
私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。 先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。 しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。 それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。 そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。 これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。 日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。 更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。 考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。 あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。 然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。 感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。 正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、宮内庁が保管する原盤と、戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の複製とがあるとされている。
一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPがNHK浜松支局内のライブラリーに保管され、2017年には同ライブラリーがNHKアーカイブス(川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。
玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する。玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「御文庫」に長らく収蔵されたのち三の丸尚蔵館に、その後宮内庁の倉庫に移された。
そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は1975年(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からNHK放送博物館に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた。現在は修復措置を施したうえ、窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。
宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、2014年(平成26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。その後デジタルリマスターが実施され、2015年(平成27年)6月30日には第125代天皇明仁、美智子、皇太子・徳仁親王(現・天皇)、秋篠宮文仁親王の4人がこの復元された音声を聞いたという。原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている。宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年8月1日にこの原盤と復元音声、1946年(昭和21年)5月24日に放送された食糧問題に関する御言葉を録音した原盤も公開(これは1962年にフォノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も1965年(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した。
広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。
8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長の安東義良は東郷茂徳外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし総理大臣官邸が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、大東亜省次官の田尻愛義に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている。
安東義良が作成した詔書案 | [
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"text": "玉音放送(ぎょくおんほうそう、旧字体: 玉音󠄁放送󠄁)とは、天皇の肉声を放送すること。",
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"text": "通常、1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。",
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"text": "この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。",
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"text": "ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日、の御前会議において昭和天皇の裁可を仰ぎ、7月26日に連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。",
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"text": "ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。",
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"text": "御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を臣民(国民)に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。",
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"text": "昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。",
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"text": "前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。",
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"text": "連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。",
"title": "概要"
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"text": "放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "放送はアセテート盤のレコード、玉音盤()再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった。",
"title": "概要"
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{
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"text": "玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに国体を護持することができ、忠実なお前たち臣民の赤誠(真心)を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "『大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。",
"title": "終戦詔書"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣の阿南惟幾が「戦局日ニ非()ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。",
"title": "終戦詔書"
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"text": "終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである。",
"title": "終戦詔書"
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"text": "当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった。また聖断が下された御前会議に陪席していた迫水は御前会議での昭和天皇の発言を組み入れて詔書案を作成した。これにより天皇の意思が反映されるという異例な詔書となった。",
"title": "終戦詔書"
},
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"tag": "p",
"text": "終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は内閣情報局次長の久富達夫が内閣情報局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。",
"title": "録音と放送"
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{
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"text": "日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は8月14日16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、宮内大臣や侍従長らが見守る中で朗読は行われた。",
"title": "録音と放送"
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"text": "2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。",
"title": "録音と放送"
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"text": "玉音放送は、日本電気音響(現・デノン コンシューマー マーケティング)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。",
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"text": "作業は翌8月15日午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、坂下門を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた(宮城事件)。録音盤は、録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。",
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"text": "当日正午の時報のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢である。",
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"text": "国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。",
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"text": "正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kWに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。",
"title": "玉音放送と前後のラジオ放送"
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"text": "謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)",
"title": "玉音放送と前後のラジオ放送"
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"text": "1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。",
"title": "玉音放送と前後のラジオ放送"
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"text": "御名御璽昭和二十年八月󠄁十四日內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太郞",
"title": "全文"
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"text": "朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり",
"title": "全文"
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"text": "そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所 さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず 然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず 世界の大勢また我に利あらず しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや 是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり 朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず 帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く 且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり 思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず 汝臣民の衷情も朕よく是れを知る 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す 朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む 宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし 汝臣民それ克く朕が意を体せよ",
"title": "全文"
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"text": "御名御璽",
"title": "全文"
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"text": "昭和二十年八月十四日",
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"text": "玉音放送全文の現代語訳。",
"title": "全文"
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"text": "私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。",
"title": "全文"
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"text": "そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。 先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。 しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。 それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。 そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。 これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。",
"title": "全文"
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"text": "私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。 日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。 更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。 考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。 あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。 然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。",
"title": "全文"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。 感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。 正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。",
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"text": "御名御璽",
"title": "全文"
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"text": "昭和二十年八月十四日",
"title": "全文"
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"text": "内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎",
"title": "全文"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、宮内庁が保管する原盤と、戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の複製とがあるとされている。",
"title": "玉音盤"
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"text": "一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPがNHK浜松支局内のライブラリーに保管され、2017年には同ライブラリーがNHKアーカイブス(川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。",
"title": "玉音盤"
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"text": "玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する。玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「御文庫」に長らく収蔵されたのち三の丸尚蔵館に、その後宮内庁の倉庫に移された。",
"title": "玉音盤"
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"text": "そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は1975年(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からNHK放送博物館に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた。現在は修復措置を施したうえ、窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。",
"title": "玉音盤"
},
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"text": "宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、2014年(平成26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。その後デジタルリマスターが実施され、2015年(平成27年)6月30日には第125代天皇明仁、美智子、皇太子・徳仁親王(現・天皇)、秋篠宮文仁親王の4人がこの復元された音声を聞いたという。原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている。宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年8月1日にこの原盤と復元音声、1946年(昭和21年)5月24日に放送された食糧問題に関する御言葉を録音した原盤も公開(これは1962年にフォノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も1965年(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した。",
"title": "玉音盤"
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"text": "広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。",
"title": "もう一つの詔書案"
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"text": "8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長の安東義良は東郷茂徳外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし総理大臣官邸が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、大東亜省次官の田尻愛義に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている。",
"title": "もう一つの詔書案"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "安東義良が作成した詔書案",
"title": "もう一つの詔書案"
}
]
| 玉音放送とは、天皇の肉声を放送すること。 通常、1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。 この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。 | {{試聴|filename=Imperial_Rescript_on_the_Termination_of_the_War.ogg|title=玉音放送|type=speech}}
'''玉音放送'''(ぎょくおんほうそう、{{旧字体|'''玉音󠄁放送󠄁'''}})とは、[[天皇]]の肉声を[[放送]]すること。
通常、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]][[正午]]([[日本標準時]])に、当時[[日本]]唯一の放送局だった[[社団法人]][[日本放送協会]](現在の[[NHKラジオ第1放送]])から放送された「'''[[大東亜戦争]]終結ノ詔書'''」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の[[朗読|音読]]レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。
この放送は、[[第二次世界大戦]]における[[枢軸国]]側の日本の[[ポツダム宣言]]受諾による終戦([[日本の降伏]])を[[日本国民]]に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を[[終戦の日]](終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、[[日本国政府|日本政府]]主催で[[全国戦没者追悼式]]を[[日本武道館]]で行い、正午に[[黙祷]]を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏文書|降伏文書]]が調印された同年[[9月2日]]のことである。
== 概要 ==
{{Multiple image
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|header = 御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」
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|image1 = Imperial Rescript on the Termination of the War1.jpg
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|alt1 = 1頁目
|alt2 = 2・3頁目
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|caption1 = 1頁目
|caption2 = 2・3頁目(2頁目に補入や、紙を貼って訂正を行った跡が見られる)
|caption3 = 4・5頁目
|caption4 = 6・7頁目
}}
[[ソ連対日参戦|ソビエト連邦からの宣戦布告]]を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)[[鈴木貫太郎]]は、1945年(昭和20年)[[8月14日]]、の[[御前会議]]において[[昭和天皇]]の[[聖断|裁可]]を仰ぎ、[[7月26日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]から示された[[ポツダム宣言]]の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる[[聖断]])を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の[[伊藤之雄]]は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている<!--{{R|昭和天皇実録 iza14090905120002 2/3}}-->。
[[ポツダム宣言]]は「全[[日本軍|日本国軍隊]]ノ[[無条件降伏]]」(第13条)などを定めていたため、その受諾は[[大東亜戦争]]において、[[日本の降伏|大日本帝国の軍隊が降伏]]することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。
御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議([[鈴木貫太郎内閣]])にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書([[s:ja:大東亞戰爭終結ノ詔書|大東亜戦争終結ノ詔書]]、戦争終結ニ関スル詔書)として[[公布|発布]]された。この詔書は、[[天皇大権]]に基づいてポツダム宣言の受諾に関する[[勅旨]]を[[臣民]]([[国民]])に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、[[中立|中立国]]の[[スイス]]および[[スウェーデン]]駐在の日本公使館を通じて[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]、[[ソビエト連邦]]など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の政府側に伝達された。
昭和天皇は詔書を[[朗読]]して[[レコード|レコード盤]]に[[録音]]させ<ref group="注">この玉音(天皇の肉声)が録音されたレコード盤を'''玉音盤'''という。</ref>、翌15日[[正午]]より[[ラジオ]]放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は[[大日本帝国憲法|法制]]上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の一部には徹底抗戦を唱え、[[クーデター]]を意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった([[宮城事件]]、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。
連合国軍の攻撃は、[[アメリカ軍]]は数日前から[[兵庫県]][[宝塚市]]などに8月15日の空襲予告を行っていたが<ref name="ik090821">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik090821.html|title=<4> 戦争 人間性奪い家庭も破壊|date=2009-08-21|accessdate=2015-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130602172823/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik090821.html|archivedate=2013年6月2日}}</ref>、15日未明の[[土崎空襲]]を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「[[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]]」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県[[長生郡]]に向かった[[TBF (航空機)|グラマン TBF アヴェンジャー]]らが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦で[[スーパーマリン スピットファイア#シーファイア|スーパーマリン シーファイア]]が[[零式艦上戦闘機]]との戦闘で撃墜され、脱出した[[フレッド・ホックレー]]少尉が陸軍[[第147師団 (日本軍)|第147師団]]歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した([[一宮町事件]])。
放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員([[アナウンサー]])[[和田信賢]]によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて[[情報局]]総裁[[下村宏]]が天皇自らの[[勅語]]朗読であることを説明し、国歌「[[君が代]]」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。
放送は[[アセテート盤]]<ref group="注">のちにレコード盤消滅まで全盛となったビニール盤、バイナルではない。これが登場するのは[[1950年代]]。</ref>のレコード、{{読み仮名|'''玉音盤'''|ぎょくおんばん}}再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上<ref group="注">それに加え当時は電波管制のために全国共通の[[周波数]](860[[キロヘルツ|キロサイクル]])を用いていた上に、後述の通り電波出力を通常より大きくしていたため、放送局間の地域では相互の電波が干渉し、受信状態が非常に悪くなった(『真空管の伝説』p.167)。</ref>、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な[[漢語]]が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった<ref>日本ラジオ博物館 [https://web.archive.org/web/20090313110433/http://www.japanradiomuseum.jp/gyokuon.html 玉音放送とラジオ]</ref><ref>平和祈念展示資料館 [http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_020_1.pdf 戦地で聞いた玉音放送]</ref>。
玉音放送において「'''朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり'''」(私は[[アメリカ合衆国|米国]]・[[イギリス|英国]]・[[中華民国の歴史|支那]]・[[ソビエト連邦|蘇連]]の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“[[皇居前広場]]でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「'''堪え難きを堪え、忍び難きを忍び'''」の部分が戦時中の困苦と[[連合国軍占領下の日本|占領される]]ことへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である<ref group="注">[[日本初の一覧#政治・軍事、ほか|日本はこの戦争で初めて外国に敗北し、降伏することになった。]]</ref>{{refnest|group="注"|この放送では「敗北」や「降伏」といった言葉を用いることができなかったため、昭和天皇はあえて[[明治天皇]]が[[1895年]]([[明治]]28年)の[[三国干渉]]に屈服した際に述べた言葉(「堪ヘ難キヲ…」)を繰り返したとされる<ref>[[ベン=アミー・シロニー]]『天皇陛下の経済学』山本七平監訳、光文社文庫、[[1986年]]([[昭和]]61年)p.153。</ref>。}}(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに[[国体]]を護持することができ、忠実なお前たち[[臣民]]の赤誠(真心)を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。
== 終戦詔書 ==
『'''大東亜戦争終結ノ詔書'''』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「'''終戦詔書'''」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、[[天皇大権]]に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された<ref>{{Cite web|和書|date= 1945-08-14|url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962077/4?tocOpened=1|title= 官報 號外|format=PDF |publisher= 印刷局|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2018-08-15}}</ref>。大まかな内容は[[内閣書記官長]]・[[迫水久常]]が作成し、[[8月9日]]以降に漢学者・[[川田瑞穂]](内閣嘱託)が起草、さらに14日に[[安岡正篤]]([[大東亜省]]顧問)が刪修して完成{{refnest|group="注"|内閣嘱託の[[小川一平]]及び大東亜省次官[[田尻愛義]]も作成に関与・協力したという<ref>吉川弘文館『国史大辞典』第7巻「終戦の詔書」(執筆者 : 波多野澄雄))。</ref>。}}し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者による[[クーデター]]を恐れた[[陸軍大臣]]の[[阿南惟幾]]が「{{読み仮名|'''戦局日ニ非'''|あらざる}}'''ニシテ'''」の改訂を求め、「'''戦局必スシモ好転セス'''」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の[[御璽]]を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な[[詔勅]]である。全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。
終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp.456 - 457 2012年</ref>。
当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp.464 - 466 2012年</ref>。また聖断が下された御前会議に陪席していた迫水は御前会議での昭和天皇の発言を組み入れて詔書案を作成した。これにより天皇の意思が反映されるという異例な詔書となった。
== 録音と放送 ==
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は[[内閣情報局]]次長の[[久富達夫]]が内閣情報局総裁の[[下村宏]]に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この[[宮内省]]への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)<ref name="doraku">{{Cite web|和書|url=http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110810.html|title = DO楽 昭和史再訪セレクション vol.56 玉音放送 「終戦」の記憶、鮮烈に刻む|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111011183554/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110810.html|archivedate=2011-08-10|accessdate=2011-08-15}}</ref>が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は[[8月14日]]16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『[[昭和天皇実録]]』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、[[宮内大臣]]や侍従長らが見守る中で朗読は行われた<ref name="asahi20150709"/>。
2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに[[接続詞]]が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は、日本電気音響(現・[[デノン コンシューマー マーケティング]])製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、[[SPレコード|SP盤]]規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。
作業は翌[[8月15日]]午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、[[坂下門]]を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする[[近衛歩兵第2連隊|近衛歩兵第二連隊]]第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀[[古賀秀正]]少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた([[宮城事件]])<ref name="doraku" />。録音盤は、録音後に[[侍従]]の[[徳川義寛]]により[[皇后宮職]]事務官室の書類入れの軽[[金庫]]に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。
事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる<ref name="mainichi20150801">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20150801mog00m040003000c.html|title=玉音放送:深夜 軍服姿で録音|newspaper=毎日新聞|date=2015-08-01|accessdate=2015-09-24}}</ref>)」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる<ref name="mainichi20150801" />)」と定め、「正盤」は[[NHK東京放送会館|東京放送会館]]へ、「副盤」は[[第一生命館]]の予備のスタジオへと持ち込まれた<ref>{{Cite book|和書|author=半藤一利|year=2006|title=日本のいちばん長い日 決定版|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-748315-9|pages=p284・p291}}</ref>。
当日正午の[[時報]]のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)[[和田信賢]]である。
[[国際放送]]([[NHKワールド・ラジオ日本|ラジオ・トウキョウ]])では[[平川唯一]]が厳格な[[文語体 (日本語)|文語体]]による[[英語]]訳文書([[:wikisource:en:Imperial Rescript on Surrender|Imperial Rescript on the Termination of the War]])を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙に全文が掲載されることとなった。
== 玉音放送と前後のラジオ放送 ==
[[File:Asahi Shimbun Extra Edition newspaper clipping (15 August 1945 issue).jpg|thumb|150px|8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報([[朝日新聞]])]]
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10 [[キロワット|kW]]に規制されていた[[空中線電力|出力]]を60 kW<ref group="注">メイン局の場合。他の局の場合も可能な限り出力の向上を行ったらしい。(『真空管の伝説』p.167)</ref>に増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに[[短波]]により[[NHKワールド・ラジオ日本|東亜放送]]を通じて中国占領地、[[満洲]]、[[朝鮮]]、[[台湾]]、南方諸地域にも放送された<ref>この章、竹山昭子『玉音放送』([[晩聲社]]、1989年、ISBN 4891881844)、および『戦争と放送』([[社会思想社]]、1994年、ISBN 4390603698)より。</ref>。
=== 予告放送 ===
玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「[[役所|官公署]]、[[事務所]]、[[工場]]、[[停車場]]、[[郵便局]]などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「[[新聞]]が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。
=== 15日正午の放送内容 ===
特記なき文は、和田信賢によるアナウンス。
# 正午の時報
# 「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」
# 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)
# 国歌[[君が代]]奏楽
# [[#原文|大東亜戦争終結ノ詔書]](昭和天皇の録音盤再生)
# 国歌君が代奏楽
# 「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)
# 玉音放送の解説(以下全文)・「謹んで詔書を奉読いたします」
# 終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
# 「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は[[同盟通信社|同盟通信]]から配信されたニュース原稿のタイトル)
# [[:s:昭和二十年八月十四日内閣告諭|内閣告諭]](14日付の[[内閣総理大臣]]・[[鈴木貫太郎]]の内閣告諭)
# これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の[[御前会議]]の模様を伝える内容)
# 交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
# 一度は[[ソビエト連邦|ソ連]]を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
# 万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(昭和天皇による終戦決意)
# [[ポツダム宣言]](ポツダム宣言の要旨)
# [[カイロ宣言]](カイロ宣言の要旨)
# 共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
# 緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
# 鈴木総理大臣放送の予告(14時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際には[[内閣総辞職]]を決定する閣議が行われたため、19時のニュースに続いて放送された)
;8. 昭和天皇の録音盤再生後の解説文(日本放送協会 和田信賢放送員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.a-takamori.com/post/190817|title=和田信賢というアナウンサー|publisher=[[高森明勅]] 公式サイト|date=2021-03-27|accessdate=2023-03-24}}</ref>)
{{Quotation|
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)
}}
=== 15日の放送 ===
1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。
# 7時21分(9分間)
# 正午(37分半、玉音放送を含む)
# 15時(40分間)
# 17時(20分間)
# 19時(40分間)
# 21時(18分間)
== 全文 ==
=== 原文 ===
{{Quotation|{{kyujitai|'''朕󠄁深ク世界ノ大勢ト帝󠄁國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク'''<br>'''朕󠄁ハ帝󠄁國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受󠄁諾スル旨通󠄁吿セシメタリ'''<br>'''抑〻帝󠄁國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄁ノ拳󠄁拳󠄁措カサル所󠄁'''<br>'''曩ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝󠄁國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固ヨリ朕󠄁カ志ニアラス'''<br>'''然ルニ交󠄁戰已ニ四歲ヲ閱シ朕󠄁カ陸海將兵ノ勇󠄁戰朕󠄁カ百僚有司ノ勵精朕󠄁カ一億衆庻ノ奉公󠄁各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス'''<br>'''世界ノ大勢亦我ニ利アラス'''<br>'''加之敵ハ新ニ殘虐󠄁ナル爆彈ヲ使󠄁用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害󠄂ノ及󠄁フ所󠄁眞ニ測ルヘカラサルニ至ル'''<br>'''而モ尙交󠄁戰ヲ繼續セムカ終󠄁ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延󠄂テ人類ノ文󠄁明󠄁ヲモ破却スヘシ'''<br>'''斯ノ如クムハ朕󠄁何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ'''<br>'''是レ朕󠄁カ帝󠄁國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所󠄁以ナリ'''<br>'''朕󠄁ハ帝󠄁國ト共ニ終󠄁始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟󠄁邦󠄁ニ對シ遺󠄁憾ノ意󠄁ヲ表セサルヲ得ス'''<br>'''帝󠄁國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及󠄁其ノ遺󠄁族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク'''<br>'''且戰傷ヲ負󠄁ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕󠄁ノ深ク軫念スル所󠄁ナリ'''<br>'''惟フニ今後帝󠄁國ノ受󠄁クヘキ苦難ハ固ヨリ尋󠄁常ニアラス'''<br>'''爾臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル'''<br>'''然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨ク所󠄁堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス'''<br>'''朕󠄁ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ'''<br>'''若シ夫レ情󠄁ノ激スル所󠄁濫ニ事端ヲ滋󠄁クシ或ハ同胞󠄁排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道󠄁ヲ誤󠄁リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕󠄁最モ之ヲ戒ム'''<br>'''宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道󠄁遠󠄁キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建󠄁設ニ傾ケ道󠄁義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期󠄁スヘシ'''<br>'''爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意󠄁ヲ體セヨ'''<p>'''御名御璽'''<br>昭和二十年八月󠄁十四日<br>內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太郞}}}}
=== 現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな ===
{{Quotation|朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所<br>
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず<br>
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず<br>
世界の大勢また我に利あらず<br>
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る<br>
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし<br>
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや<br>
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり<br>
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず<br>
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く<br>
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり<br>
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず<br>
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る<br>
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す<br>
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り<br>
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む<br>
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし<br>
汝臣民それ克く朕が意を体せよ<br>
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎}}
===現代語訳===
玉音放送全文の現代語訳<ref name="現代語訳及">{{Cite web |publisher=加藤恕(ひろし)のバードビュー(Bird's eye view) |url=https://ameblo.jp/ameba25292/ |title=玉音放送の全文 現代語訳及び英文 Imperial Rescript on Surrender |date=2015-08-14 |accessdate=2019-11-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191102211831/https://ameblo.jp/ameba25292/entry-12061876130.html |archivedate=2019年11月2日}}</ref>。
{{Quotation|[[昭和天皇|私]]は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
私は、[[日本国政府|帝国政府]]に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[中華民国|中国]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]の4国に対して、それらの共同宣言([[ポツダム宣言]])を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代[[天皇]]が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。<br>
先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と[[東アジア]]諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。<br>
しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、[[日本軍|我が陸海将兵]]の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。<br>
それ所か、[[日本への原子爆弾投下|敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い]]、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。<br>
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。<br>
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。<br>
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。<br>
日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。<br>
更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。<br>
考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。<br>
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。<br>
然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。<br>
感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。 <br>
正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。<br>
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
}}
== 玉音盤 ==
[[ファイル:Gyokuon-ban.jpg|thumb|玉音盤(副盤)<br />(玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)<br />[[NHK放送博物館]]所蔵]]
玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、[[宮内庁]]が保管する原盤と、戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の複製とがあるとされている<ref name="asahi20150709">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH793411H79UTIL005.html|title=「玉音放送」記録の原盤、初公開へ 宮内庁が8月に予定|newspaper=朝日新聞|date=2015-07-09|archiveurl=|archivedate=|accessdate=2015-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150709082052/http://www.asahi.com/articles/ASH793411H79UTIL005.html|archivedate=2015-07-09}}</ref>。
一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる<ref name="nhk20150709">{{Cite news|url =http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150709/k10010144271000.html|title=「玉音放送」の原盤 来月にも初めて公開へ|newspaper=NHK|date=2015-07-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150708225521/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150709/k10010144271000.html|archivedate=2015-07-08|accessdate=2015-08-05}}</ref><ref name="nikkei20150709">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG09H8Q_Z00C15A7CR8000/|title=皇居内の戦争記録、8月1日公開 防空壕内の映像など|newspaper=日本経済新聞|date=2015-07-09|accessdate=2015-07-10}}</ref>。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPが[[NHK浜松支局]]内のライブラリーに保管され<ref name=archives150731>[https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail067.html 私たちが耳にしてきた“玉音放送”とは?] - NHKアーカイブス・2015年7月31日</ref>、2017年には同ライブラリーが[[NHKアーカイブス (施設)|NHKアーカイブス]](川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。
玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する<ref name="nhk20150709"/>。玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「[[御文庫]]」に長らく収蔵されたのち[[三の丸尚蔵館]]に、その後宮内庁の倉庫に移された<ref name="nhk20150709"/><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20150801-27RMHG6JMFOCTDOROB62AFR3P4/|title=反乱軍の手逃れ70年…曲折あった原盤の命運|newspaper=産経ニュース|date=2015-08-01|accessdate=2015-09-23}}</ref>。
そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は[[1975年]](昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁から[[NHK放送博物館]]に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた<ref name="nhk20150709" />。現在は修復措置を施したうえ、[[窒素]]ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。
宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、[[2014年]]([[平成]]26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。その後[[デジタルリマスター]]が実施され、[[2015年]](平成27年)[[6月30日]]には第125代天皇[[明仁]]、[[上皇后美智子|美智子]]、[[皇太子]]・[[徳仁|徳仁親王]](現・天皇)、[[秋篠宮文仁親王]]の4人がこの復元された音声を聞いたという<ref name="nhk20150709"/><ref name="nikkei20150709"/>。原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている<ref name="yomiuri20150801">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150801-OYT1T50015.html|title=玉音放送、10秒以上短かった…原盤を初の公開|newspaper=読売新聞|date=2015-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150805022343/http://www.yomiuri.co.jp/national/20150801-OYT1T50015.html|archivedate=2015-08-05|accessdate=2015-08-05}}</ref>。宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年[[8月1日]]にこの原盤と復元音声、[[1946年]](昭和21年)[[5月24日]]に放送された'''[[飯米獲得人民大会#天皇の声明|食糧問題に関する御言葉]]'''を録音した原盤も公開<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syokuryo/syokuryo.html 昭和21年5月にラジオ放送された昭和天皇のお言葉]</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20150801-CH3C3ZFKINNILI4RFTNVEORAPQ/ もう一つの玉音放送「食糧問題に関するお言葉」 戦後復興に向け国民に助け合い呼びかけ]</ref>(これは1962年にフォノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も[[1965年]](昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した<ref name="nhk20150709" /><ref name="nikkei20150709"/><ref name="yomiuri20150801" /><ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20150710k0000m040032000c.html|title=宮内庁:玉音放送原盤、8月1日に初公表|newspaper=毎日新聞|date=2015-07-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150710195945/http://mainichi.jp/select/news/20150710k0000m040032000c.html|archivedate=2015-07-10|accessdate=2015-08-05}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150801/k10010174441000.html|title=「玉音放送」原盤を初公開|newspaper=NHK|date=2015-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150731224618/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150801/k10010174441000.html|archivedate=2015-07-31|accessdate=2015-08-05}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150801-OYT1T50016.html|title=よみがえる昭和天皇の肉声、原盤奪おうと事件も|newspaper=読売新聞|date=2015-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150805022643/http://www.yomiuri.co.jp/national/20150801-OYT1T50016.html|archivedate=2015-08-05|accessdate=2015-08-05}}</ref>。
== エピソード ==
*公式には終戦の[[詔書]]が最初の玉音放送であるが、[[1928年]](昭和3年)[[12月2日]]の[[観兵式|大礼観兵式]]に、[[ラジオ放送]]の[[マイクロフォン|マイク]]が昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが一度起こっている。宮中筋は「天皇の肉声を放送する事は憚りあり」として、これを数日後に封印されたことがあった<ref>竹山昭子『ラジオの時代 ― ラジオは茶の間の主役だった』([[世界思想社]]、2002年、141-148頁、ISBN 4790709418)</ref>。
* [[佐藤卓己]]『八月十五日の神話』([[ちくま新書]]、[[2005年]])では、「報道機関には前もって[[日本の降伏]]が知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影した[[写真]]を、放送前にあらかじめ準備した」といった捏造記事の制作が紹介されている。
*詔書作成の過程で[[安岡正篤]]は「時運ノ趨ク所」(じうんのおもむくところ)は「成り行きまかせ」の意味であるため天皇の言葉としてふさわしくない、ここは道義の至上命令を意味する「義命ノ存スル所」{{refnest|group="注"|典拠は[[春秋左氏伝]]の『信以て義を行い、義以て命を成す』による<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p.438 2012年</ref>。}}に変えるべきだ、と迫水久常に進言した。迫水はこれを受けて文案を作り直したが、そのあとの閣議で、漢和辞典に出ていないような難しい言葉では国民が理解できないだろうという意見があり、元に戻されてしまった。これについて安岡は「不見識きわまりない」と憤慨し、以後詔書について話すことを一切拒んだ<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p.490 2012年</ref>。
*詔書の原案では「遺族ニ想ヲ致セハ断腸ノ思ヒアリ」となっていた。安岡は「断腸ノ思ヒ」は私情であり公の場で使うべきでないとして「五内為ニ裂ク」(ごだいためにさく)に変更するように指示した。この点も閣議で難解と指摘された。迫水は安岡から聞いたとおり、これは「五臓が引き裂かれる思い」の意味であって公に使える、と説明するとこのまま受け入れられた。迫水はのちになって「五内為ニ裂ク」は難解の見本のようなものと回想している<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp.458 - 459 2012年</ref>。
* その後、式典・行事などの報道で天皇の肉声が放送されるのは珍しいことではなくなったが、'''2011年(平成23年)3月16日'''、第125代天皇明仁は[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])の発生から5日後に、メディアを通して全国民へ向け自ら語りかける形の'''[[東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば|ビデオメッセージ]]'''を発した。このような形での「おことば」は、在位中の天皇では初めてであったため、一部では「[[平成]]の玉音放送」とも呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|author=岩井克己|date=2011-04-01|url=https://webronza.asahi.com/national/articles/2011032900008.html|title=戦後初、天皇陛下の全国民への語りかけ|publisher=[[論座]]|accessdate=2013-07-20}}</ref>。
== もう一つの詔書案 ==
広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。
8月10日の御前会議のあと、[[外務省]]政務局長の[[安東義良]]は[[東郷茂徳]]外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし[[総理大臣官邸]]<!-- 総理大臣官邸 の文字列ですが、[[総理大臣公邸]]へのリンクとなっていましたので修正しました。もし修正前が正しく(文字列が違っていた)のであれば、再度修正をお願いいたします。 -->が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、[[大東亜省]]次官の[[田尻愛義]]に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 pp.468 - 473 2012年</ref>。
安東義良が作成した詔書案
{{Quotation|{{kyujitai|敕語<br>朕󠄁ハ東亞ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平󠄁和ニ寄與シ、列國トノ交󠄁誼ヲ篤クシ、萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニセンコトヲ冀ヒタルモ、帝󠄁國ノ自存自衞ノ爲止ムナク米英兩國ト釁端ヲ開クニ至リ、茲ニ四年ニ垂ントス<br>此間朕󠄁カ勇󠄁武ナル陸海󠄀將兵ハ挺󠄀身國難󠄀ニ赴キ、朕󠄁カ百僚有司ハ碎身職務ニ勵精󠄀シ、朕󠄁カ忠誠ナル衆庶ハ困苦缺乏ニ耐ヘテ其本分󠄁ヲ盡シタルニ拘ラス、戰遂󠄂ニ利アラス、戰爭ハ益󠄁〻慘烈トナリ朕󠄁カ赤子ノ犧牲日ニ月󠄁ニ增大シ將ニ國本ヲ危クスルニ至レリ、而モ交󠄁戰相手國ノ流血モ止ル處知ラス人類󠄀ノ不幸之ニ過󠄁キル無シ<br>朕󠄁ハ戰争ノ慘禍󠄀ヨリ人類󠄀ヲ救フノ道󠄁ハ卽時干戈ヲ收ムル外無キヲ思ヒ、敢テ米英支及󠄁蘇聯ノ參加セル共同宣言ノ條件ヲ受󠄁諾スヘク決意󠄁シ、朕󠄁カ政府ニ命シ交󠄁戰各國トノ交󠄁涉ニ當ラシム<br>帝󠄁國ノ拂フ犧牲ハ甚大ナリ、來ラントスル艱難󠄀ヲ克服󠄁シテ悠久ナル皇國ノ生命ヲ護持スルハ朕󠄁カ忠良ナル衆庶ニ信倚スル所󠄁ナリ、汝有衆感情󠄁ノ激發ニ動セス、冷靜苦難󠄀ヲ忍󠄁フノ眞勇󠄁ヲ發揮シ、一致協力平󠄁和ト復興ノ大業ニ邁進󠄁センコトヲ期󠄁セヨ}}
|安東義良|読売新聞編『昭和史の天皇 4玉音放送まで』中公文庫 p.472 2012年}}
== 参考文献 ==
* 小森陽一『天皇の玉音放送』(五月書房、2003年8月)※玉音放送のCDが付属。
* 川上和久『CDブック 昭和天皇 玉音放送』(あさ出版、2015年6月)
== 関連番組 ==
* [[アニメンタリー 決断]] 第25話「最後の決断」([[タツノコプロ|竜の子プロダクション]]制作・日本テレビ系、1971年放送) - ポツダム宣言受諾から御前会議、玉音放送に至るまでの、下村総裁をはじめ、徹底抗戦を唱え玉音盤を奪取しようとする陸軍の一部将校など、さまざまな立場からの決断が描かれている。
* [[連続テレビ小説]]「[[本日も晴天なり]]」(第35話=第6週<!--当時は連続性を重視したため、週タイトルなし-->・その5 [[1981年]][[11月13日]] [[NHK総合テレビジョン]]にて生放送)<ref>[https://thetv.jp/program/0000944566/35/ 第35話 本日も晴天なり ―連続テレビ小説―(35)](ザテレビジョン)</ref> - 玉音放送の当時の音源を交えて再現したもの。原本の和田に相当する進行役の本多を[[山本紀彦]]が演じた。
* [[ザ・スクープ]]スペシャル「終戦特別企画 誰も知らない玉音放送 "日本のいちばん長い日"の真実」(テレビ朝日、2011年8月14日放送)
* NHK BSプレミアム「玉音放送を作った男たち<ref>[https://www.tvu.co.jp/program/gyokuon_201508_2/ ザ・プレミアム「玉音放送を作った男たち」](テレビマンユニオン)/[https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2019-08-09&ch=10&eid=05243 ザ・プレミアム「玉音放送を作った男たち」](NHK番組表)</ref>」 - [[下村宏]]ら玉音放送の制作状況や放送に携わった人々をドラマ形式で。[[テレビマンユニオン]]製作([[NHK]]、2015年8月1日放送)
* [[ニコニコ生放送]]「【終戦の日】玉音放送」 - ニコ生終戦特別企画として玉音放送をノーカットで配信<ref>[https://blog.nicovideo.jp/niconews/ni055309.html 玉音放送・戦没者追悼式ほか[終戦70年特別企画]] - [[ニコニコ動画]]</ref><ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20150814-a519/|title=「玉音放送」ニコ生で8/15正午より放送、戦後70年を終戦特番で考える|newspaper=マイナビニュース|date=2015年8月14日|accessdate=2015-08-15}}</ref>。2015年以降、毎年8月15日正午からノーカットで配信する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Image:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg}}
{{Wikisource|大東亞戰爭終結ノ詔書|大東亜戦争終結ノ詔書}}
{{Wikisource|昭和二十年八月十四日内閣告諭|内閣告諭(戦争終結ニ当リ)}}
* [[大東亜共栄圏]]
* [[大東亜戦争]]
* [[罪己詔]]
* [[昭和天皇]]
* [[迫水久常]] - [[川田瑞穂]] - [[安岡正篤]]
* [[阿南惟幾]] - [[大西瀧治郎]]
* [[終戦の日]]
* [[対日戦勝記念日]]
* [[日本の降伏]]
* [[日本の降伏文書]]
* [[宮城事件]]
* [[ポツダム宣言]]
* [[八月革命説]]
* [[人間宣言]]
* [[日本のいちばん長い日]]
* [[おことば]] - 玉音放送と同様、天皇がマスメディアを通じて自らのメッセージを放送した例
** [[東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば]]
** [[象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/index.html 当庁が管理する先の大戦関係の資料について]
**[[宮内庁]]が原盤から[[デジタルリマスター]]され、[[平成]]27年([[2015年]])[[8月1日]]に公開された玉音放送の音源など。
* {{NHK放送史|D0009060066_00000|終戦の詔書(玉音放送)}}
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001410387_00000 昭和天皇、終戦の玉音放送] - [[NHKアーカイブスポータル#テーマ|NHK戦争証言アーカイブス]]
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001410388_00000 昭和天皇、終戦の玉音放送(2015年8月1日宮内庁発表版)] - [[NHKアーカイブスポータル#テーマ|NHK戦争証言アーカイブス]]
* [https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/comic/history/?id=nhk003 玉音放送、終戦から生まれたのど自慢] - マンガで読むNHKヒストリー
* [https://www.huffingtonpost.jp/2014/08/14/gyokuon-hoso_n_5677338.html 玉音放送 現代語訳] - [[ハフポスト]] 2014年8月14日
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3935/ww2/index.html |title=開戦と終戦 |date=20021122155512}} - 開戦の臨時ニュースと終戦の詔書を、文字と音声で確認できる。
* [https://www.denon.jp/ja-jp/museum/history_gyokuon.html デノン Premium Audio Brand] - 歴史のページで玉音盤の録音に使用された機材の写真等が掲載されている。
* {{Kotobank}}
{{大日本帝国}}
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[[Category:日本の降伏]]
[[Category:日本の詔勅]]
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[[Category:1945年のラジオ番組 (日本)]] | 2003-02-14T06:40:06Z | 2023-11-28T05:36:58Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3%E6%94%BE%E9%80%81 |
1,520 | 1996年 | 1996年(1996 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。平成8年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]]:[[丙子]](ひのえ ね)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2656年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4329年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]85年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]85年
* [[仏滅紀元]]:2538年 - 2539年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1416年8月9日 - 1417年8月20日
* [[ユダヤ暦]]:5756年4月9日 - 5757年4月21日
* [[UNIX時間]]:820454400 - 852076799
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※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1996}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月8日]] - [[青山剛昌]]の[[名探偵コナン|同名漫画]]原作のTVアニメ『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』が[[よみうりテレビ]]・[[東京ムービー]]→[[トムス・エンタテインメント|TMS]]の制作により、よみうりテレビ・[[日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]]で同日の[[読売テレビ制作月曜夜7時台枠のアニメ|夜7時30分から8時枠]]で放送開始。
* [[1月17日]] - [[チェコ]]が[[欧州連合|EU]]への加盟を申請。
* [[1月30日]] - [[HIV]]感染を理由に引退していた、アメリカNBAの[[マジック・ジョンソン]]がNBAに復帰。
=== 2月 ===
* [[2月]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ワシントン州]]の中学校で14歳の少年がライフル銃乱射。
* [[2月10日]] - [[IBM]]のコンピューター・[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]が[[ガルリ・カスパロフ]]と[[チェス]]で初対戦([[ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ]])。
* [[2月11日]] - 日本の[[ロックバンド]]・[[BUMP OF CHICKEN]]が現編成での初ステージを踏む。
* [[2月14日]] - [[羽生善治]]が史上初となる[[将棋]]タイトル七冠独占を達成。
* [[2月27日]] - [[ポケットモンスター 赤・緑]]が[[任天堂]]から発売される。
* [[2月28日]] - イギリスのチャールズ皇太子、ダイアナ皇太子妃夫妻が離婚。
=== 3月 ===
* [[3月23日]] - [[李登輝]]、[[台湾地区|台湾]]初の中華民国総統直接選挙で当選。
=== 4月 ===
* [[4月25日]] - [[ボリス・エリツィン|エリツィン]]露大統領、[[江沢民]]主席と[[北京市|北京]]会談。
* [[4月28日]] - [[オーストラリア]][[タスマニア州]]で[[ポートアーサー事件]]が発生。
=== 5月 ===
* [[5月8日]] - 全人種の平等などを規定した[[南アフリカ共和国憲法]]が施行される。
* [[5月27日]] - [[第一次チェチェン紛争]]の休戦成立。
* [[5月31日]] - [[2002 FIFAワールドカップ]]における[[日本]]と[[大韓民国|韓国]]の共同開催が決定。
=== 6月 ===
* [[6月8日]] - [[中華人民共和国|中国]]が[[核実験]]。
* [[6月25日]] - [[サウジアラビア]]の米軍基地宿舎で爆発し、米国人ら7人が死亡。
* [[6月28日]] - [[ベトナム共産党]]第8回党大会、[[ドー・ムオイ]]を書記長に再選、「工業化・現代化」を提唱。
* [[6月]] - [[マレーシア]]の[[クアラルンプール]]に[[ペトロナスツインタワー]]完成(41階と42階にはスカイブリッジがあり、タワーの補強の役目を担っていると言われている)。なお、この時点では世界一の高さを誇ったが、2003年10月17日、台湾の[[台北101]]が世界一となっている。
=== 7月 ===
* [[7月3日]] - [[ボリス・エリツィン]]、[[ロシア]]大統領決選投票で再選。
<!-- 特筆性があるなら、「誕生」節に記載すべき * [[7月5日]] - 世界初の[[クローン]][[ヒツジ|羊]]『[[ドリー (羊)|ドリー]]』が[[スコットランド]]で生まれる。 -->
* [[7月8日]] - [[ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)]]の子、{{仮リンク|アムシェル・ロートシルト|en|Amschel Rothschild}}が変死。
* [[7月12日]] - [[イギリス|英国]]の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)、[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]と離婚合意。
* [[7月17日]] - [[ポルトガル語諸国共同体]]結成。
* 7月17日 - 米・[[ニューヨーク]]沖で[[トランス・ワールド航空|トランス・ワールド航空 (TWA)]] 機が墜落し、乗客乗員230人全員が死亡([[トランス・ワールド航空800便墜落事故]])。
* [[7月20日]] - [[8月4日]] - [[アトランタオリンピック]]開催。
* [[7月24日]] - [[ウクライナ]]西部[[フメリニツキー原子力発電所|フメリニツキ原子力発電所]]で、[[放射能]]漏れ事故が発生し、作業員1人が死亡。
* [[7月26日]] - [[大韓民国|韓国]]、[[京畿道]]と[[江原道 (南)|江原道]]で集中豪雨があり、死者行方不明者が多数でる。
* [[7月27日]] - [[アメリカ合衆国]][[ジョージア州]][[アトランタ]]の「センテニアル・オリンピック・パーク」内のイヴェントステージ付近で、爆弾テロが発生、2人が死亡し、110人が負傷。
* 7月27日 - [[インドネシア]]の首都[[ジャカルタ]]で、軍・警察が野党の「インドネシア民主党」党本部から[[メガワティ]]党派を強制排除したのをきっかけに1万人が暴徒化。
* 7月27日 - オーストラリアの[[シドニー]]で開催されていた「米豪定期閣僚会議」が『シドニー宣言(共同安全保障宣言)』を発表し終了。
=== 8月 ===
* [[8月6日]] - [[アメリカ航空宇宙局]]が[[南極大陸|南極]]で採取された[[火星]]由来の[[隕石]]の破片『[[アラン・ヒルズ84001]]』から微小な生命活動が行われた可能性を示す物質が検出されたと発表。
* [[8月7日]] - [[スペイン]]の[[アラゴン州]][[ウエスカ県]]{{仮リンク|ビエスカス|es|Biescas}}で[[土石流]]が発生。下流にあった[[キャンプ場]]を直撃し、87人が死亡。({{仮リンク|ビエスカスキャンプ場土砂災害|es|Riada del camping de Biescas}})<ref>{{Cite web |title=Biescas: 25 años de la tragedia que obligó a cambiar las normas de los campings |url=https://elpais.com/videos/2021-08-06/biescas-25-anos-de-la-tragedia-que-obligo-a-cambiar-las-normas-de-los-campings.html |website=El País |date=2021-08-06 |access-date=2023-06-29 |language=es}}</ref><ref>{{Cite journal|last=White|first=Sue|last2=García-Ruiz|first2=José M.|last3=Martí|first3=Carlos|last4=Valero|first4=Blas|last5=Errea|first5=M. Paz|last6=Gómez-Villar|first6=Amelia|date=1997-11|title=The 1996 Biescas campsite disaster in the Central Spanish Pyrenees, and its temporal and spatial context|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/(SICI)1099-1085(199711)11:143.0.CO;2-7|journal=Hydrological Processes|volume=11|issue=14|pages=1797–1812|language=en|doi=10.1002/(SICI)1099-1085(199711)11:14<1797::AID-HYP605>3.0.CO;2-7}}</ref>
* [[8月22日]] - [[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が{{仮リンク|個人責任と就労機会調停法|en|Personal Responsibility and Work Opportunity Act}}に署名し、社会福祉改革を断行する。
=== 9月 ===
* [[9月10日]] - [[国際連合総会|国連総会]]で[[包括的核実験禁止条約]](CTBT)が採択される。
* [[9月18日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]ゲリラ、[[大韓民国|韓国]]東海岸に侵入。([[江陵浸透事件]])
* [[9月23日]] - [[藤子・F・不二雄]]が死去。
* [[9月25日]] - [[アイルランド]]のマグダレン修道院閉鎖。
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[国境なき医師団]]が[[ソウル平和賞]]を受賞。
=== 11月 ===
* [[11月5日]] - アメリカ大統領選で[[ビル・クリントン]]再選。
* [[11月12日]] - [[ニューデリー空中衝突事故]]。349人死亡。
=== 12月 ===
* [[12月5日]] - 日本の[[原爆ドーム]]が[[世界遺産]]に登録される。
* [[12月12日]] - [[大韓民国]]が[[経済協力開発機構]]に加盟。
* [[12月17日]] - [[在ペルー日本大使公邸占拠事件]]発生、翌年[[4月22日]]解決。
* [[12月20日]] - [[Apple|Apple Computer]]、[[NeXT]]を買収し[[OPENSTEP]]を[[Classic Mac OS|Mac OS]]の後継とすることを発表。[[スティーブ・ジョブズ]]がApple Computerに復帰。
* [[12月26日]] - [[ジョンベネ殺害事件]]発生。
== 周年 ==
<!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください。また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 -->
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。
* [[4月26日]] - [[チェルノブイリ原子力発電所事故]]から10周年。
* [[7月15日]] - [[ボーイング社]](米[[ワシントン州]][[シアトル]])創業80周年。
* [[7月26日]] - [[スエズ運河]]国有化宣言から30周年。
* [[12月25日]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]から5周年。
== 天候・天災・観測等 ==
* [[3月]]下旬 - [[百武彗星 (C/1996 B2)|百武彗星]]が地球に接近。非常に明るくなる。
== 芸術・文化・ファッション・テレビ ==
=== スポーツ ===
* [[アトランタオリンピック]]開催。
==== モータースポーツ ====
* [[1996年のF1世界選手権|F1世界選手権]]
** ドライバーズチャンピオン・[[デイモン・ヒル]]
** コンストラクターズチャンピオン・[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ・ルノー]]
=== 音楽 ===
{{Main|1996年の音楽}}
* [[スパイス・ガールズ]]のシングル「[[ワナビー (曲)|Wannabe]]」が世界37カ国でチャート1位を獲得。
* [[カーペンターズ]]、「[[青春の輝き]]」「[[トップ・オブ・ザ・ワールド (カーペンターズの曲)|トップ・オブ・ザ・ワールド]]」リバイバルヒット
=== 映画 ===
{{main|1996年の映画}}
* [[ミッション:インポッシブル]]
* [[インデペンデンス・デイ]]
* [[スペース・ジャム]]
* [[ジャイアント・ピーチ]]
* [[ノートルダムの鐘]]
* [[トレインスポッティング]]
* [[秘密と嘘]]
* [[浮き雲 (映画)|浮き雲]]
* [[マーズ・アタック!]]
* [[イングリッシュ・ペイシェント]]
=== ゲーム ===
* [[任天堂]]が[[家庭用ゲーム機]]「'''[[NINTENDO64]]'''」を発売。
* 任天堂が[[ゲームボーイ]]用ソフト『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』を日本で発売(日本国外では[[1998年]]〜[[1999年]]に発売)。全世界で最終的に4500万本売り上げ(『青』、『ピカチュウ』を含む)、[[ロールプレイングゲーム]]史上売上高世界一を記録した。
<gallery widths="180px" heights="130px">
Nintendo-64-wController-L.jpg|NINTENDO64
</gallery>
== 誕生 ==
{{see also|1996年の日本#誕生|Category:1996年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「1996年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
=== 1月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[アンドレアス・ペレイラ]]、サッカー選手
* 1月1日 - [[クン (NCT)|クン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]、[[NCT (音楽グループ)|WayV]]、[[NCT U]])
* [[1月2日]] - [[于小雨]]、フィギュアスケート選手
* [[1月3日]] - [[フローレンス・ピュー]]、女優
* 1月3日 - [[ソル・イナ]]、女優、モデル
* [[1月4日]] - [[桜田佳歩]]、声優
* [[1月5日]] - [[エマ・ボルジャー]]、女優
* 1月5日 - [[マックス・ボルドリー]]、[[俳優]]
* [[1月6日]] - ウ・ジユン、歌手([[Bolbbalgan4|BOL4]])
* [[1月7日]] - [[范蘊若]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]]( + [[2020年]])
* 1月7日 - パク・ソウン、俳優
* [[1月8日]] - [[クリス・パダック]]、野球選手([[投手]])
* 1月8日 - [[佐野玲於]]、ダンサー、俳優([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* [[1月9日]] - [[永原和可那]]、バドミントン選手
* [[1月10日]] - [[大原櫻子]]、シンガーソングライター、女優
* 1月10日 - [[パク・チユン|パク・へユン]]、アイドル([[Cherry Bullet]])
* [[1月11日]] - [[楓 (ダンサー)|楓]]、ダンサー、ファッションモデル(元[[Happiness]]、元[[E-girls]])
* 1月11日 - [[草間リチャード敬太]]、アイドル、俳優(関西ジャニーズJr.、[[Aぇ! group]])
* [[1月12日]] - [[橋本愛 (1996年生)|橋本愛]]、女優
* 1月12日 - ヘビン、元アイドル(元[[MOMOLAND]])
* [[1月13日]] - [[稲村亜美]]、グラビアアイドル、タレント
* [[1月15日]] - [[ダヴ・キャメロン]]、女優、歌手
* [[1月16日]] - [[ジェニー (BLACKPINK)|ジェニー]]、アイドル、モデル([[BLACKPINK]])
* [[1月18日]] - [[サラ・ギルマン]]、女優
* [[1月20日]] - [[ヤン・ヘジ]]、女優
* [[1月21日]] - [[マルコ・アセンシオ]]、サッカー選手
* [[1月22日]] - [[市來玲奈]]、元アイドル、アナウンサー(元[[乃木坂46]])
* 1月22日 - イ・テビン、元アイドル、俳優(元[[MYTEEN]])
*1月22日 - [[佐々木久美 (アイドル)|佐々木久美]]、アイドル([[日向坂46]])
* [[1月23日]] - [[アウロ・アウヴァロ・ダ・クルス・ジュニオル]]、サッカー選手
* [[1月24日]] - [[辻佳奈美]]、テニス選手
* [[1月25日]] - [[スンヒ]]、アイドル([[OH MY GIRL]])
* [[1月26日]] - [[ザカリア・バカリ]]、サッカー選手
* [[1月27日]] - [[並木万里菜]]、アナウンサー
* [[1月28日]] - [[樋口黎]]、レスリング選手
* [[1月30日]] - [[柏原明日架]]、プロゴルファー
* [[1月31日]] - [[ジョエル・コートニー]]、俳優
=== 2月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[2月1日]] - [[ドヨン]]、アイドル(NCT、NCT U、[[NCT 127|NCT127]])
* [[2月3日]] - [[熊谷知博]]、俳優
* [[2月5日]] - [[大山千広]]、競艇選手
* [[2月7日]] - [[ピエール・ガスリー]]、レーシングドライバー
*[[2月8日]] - [[ロベルト・ケネディ・ヌネス・ド・ナシメント]]、サッカー選手
*2月8日 - [[藤原丈一郎]]、アイドル、俳優([[なにわ男子]])
* [[2月9日]] - [[ジミー・ベネット]]、俳優
* 2月9日 - [[キム・チョンハ]]、元アイドル、歌手(元[[I.O.I]])
* [[2月10日]] - [[新山詩織]]、シンガーソングライター
* [[2月11日]] - [[ヨナタン・ター]]、サッカー選手
* [[2月12日]] - [[千葉一磨]]、俳優、タレント
* [[2月15日]] - [[貴島明日香]]、ファッションモデル、女優
* [[2月16日]] - [[小松菜奈]]、女優、モデル
* [[2月17日]] - [[サーシャ・ピーターズ]]、女優
* [[2月18日]] - [[久松郁実]]、タレント、モデル
* [[2月19日]] - [[菅原梨央]]、タレント
* [[2月20日]] - [[伊藤万理華]]、元アイドル、女優(元[[乃木坂46]])
* [[2月21日]] - [[ソフィー・ターナー]]、女優
* [[2月22日]] - [[原風佳]]、タレント
* [[2月23日]] - [[デアンジェロ・ラッセル]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* [[2月24日]] - [[金城茉奈]]、女優(+ 2020年)
* 2月24日 - ウォンタク、アイドル(元RAINZ)
* [[2月25日]] - [[ウルフ・アロン]]、[[柔道家]]
* [[2月26日]] - [[西尾優希]]、アナウンサー
* [[2月27日]] - [[テン (NCT)|テン]]、アイドル(NCT U、[[WayV]]、[[SuperM]])
* [[2月28日]] - [[カールステン・ワーホルム|カルステン・ワーホルム]]、陸上競技選手
=== 3月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[3月1日]] - [[葉詩文]]、水泳選手
* [[3月2日]] - キム・ヨングク、アイドル(元[[JBJ]])
* [[3月3日]] - [[須藤駿介]]、アナウンサー
* [[3月4日]] - [[ティモ・バウムガルトル]]、サッカー選手
* [[3月5日]] - [[遠野ひかる]]、声優
* [[3月5日]] - [[テイラー・マリー・ヒル]]、ファッションモデル
* 3月5日 - [[エマニュエル・ムディエイ]]、バスケットボール選手
* [[3月6日]] - [[ティモ・ヴェルナー]]、サッカー選手
* 3月6日 - [[閻涵]]、フィギュアスケート選手
* [[3月8日]] - [[田代りさ]]、タレント
* [[3月9日]] - [[マリア・アンドレイチク]]、陸上競技選手
* [[3月10日]] - [[チョ・ジョンウン]]、子役
* 3月10日 - [[呂彦青]]、プロ野球選手
* [[3月11日]] - [[川口翔子]]、タレント
* [[3月12日]] - [[根岸拓哉]]、俳優
* [[3月13日]] - [[テイエムオペラオー]]、[[競走馬]]
* [[3月15日]] - {{仮リンク|ジンジン (JINJIN)|ko|진진 (1996년)}}、アイドル([[ASTRO (音楽グループ)|ASTRO]])
* [[3月16日]] - [[アンナ・オフチャロワ]]、フィギュアスケート選手
* [[3月17日]] - 東條麻依子、アナウンサー
* [[3月18日]] - [[朱正廷]]、アイドル、俳優([[NINE PERCENT]])
* [[3月21日]] - ハン・ジヒョン、女優
*[[3月23日]] - [[アレクサンダー・アルボン]]、レーシングドライバー
* [[3月24日]] - [[マイルス・ターナー]]、バスケットボール選手([[センター (バスケットボール)|C]])
* [[3月25日]] - [[坂口佳穂]]、ビーチバレー選手、タレント
* [[3月26日]] - [[鍬原拓也]]、プロ野球選手
* [[3月27日]] - ヨウォン、アイドル([[PENTAGON (音楽グループ)|PENTAGON]])
* [[3月28日]] - [[ベンジャマン・パヴァール]]、サッカー選手
* [[3月30日]] - 當山美智子、タレント
* [[3月31日]] - カン・ソンヒョン、俳優
=== 4月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[4月1日]] - おぎのかな、タレント
* [[4月2日]] - [[ポリーナ・アガフォノワ]]、フィギュアスケート選手
* [[4月3日]] - [[岩元颯オリビエ]]、サッカー選手
* [[4月4日]] - [[オースティン・マホーン]]、歌手
* [[4月5日]] - 萩原汐希、タレント
* [[4月6日]] - [[小野寺天汰]]、[[空手家]]、[[テコンドー]]選手
* [[4月7日]] - ローリー・ブルイン、スノーボード選手
* [[4月8日]] - [[宮原華音]]、タレント
* [[4月9日]] - [[広瀬裕也]]、声優
* [[4月9日]] - [[ジオヴァニ・ロ・チェルソ]]、サッカー選手
* [[4月10日]] - [[アンドレアス・クリステンセン]]、サッカー選手
* 4月10日 - [[タナシ・コッキナキス]]、テニス選手
* [[4月11日]] - [[デレ・アリ]]、サッカー選手
* [[4月12日]] - [[ポリーナ・コロベイニコワ]]、フィギュアスケート選手
* [[4月13日]] - [[中元日芽香]]、元アイドル、心理カウンセラー(元[[乃木坂46]])
* [[4月14日]] - [[アビゲイル・ブレスリン]]、女優
* [[4月15日]] - [[渡部峻]]、アナウンサー
* [[4月16日]] - [[池田エライザ]]、女優、モデル、歌手、監督
* [[4月17日]] - [[佐藤ミケーラ倭子]]、元アイドル(元アイドリング!!!35号)
* [[4月18日]] - [[興津正太郎]]、俳優
* [[4月19日]] - [[植田海]]、プロ野球選手
* [[4月21日]] - [[タヴィ・ゲヴィンソン]]、雑誌ライター、編集者、女優
* [[4月22日]] - [[青木詩織]]、アイドル([[SKE48]])
* [[4月23日]] - [[アレックス・マルケス]]、オートバイレーサー
* [[4月24日]] - [[霧島鐵力]]、力士
* [[4月25日]] - [[前田佳織里]]、声優
* [[4月25日]] - [[アリソン・アシュリー・アーム]]、女優
* [[4月26日]] - [[山口真司]]、サッカー選手
* [[4月27日]] - [[志村滉]]、サッカー選手
* [[4月28日]] - [[トニー・レヴォロリ]]、俳優
* [[4月29日]] - [[戸川大輔]]、プロ野球選手
* [[4月30日]] - [[中村誠]]、プロ野球選手
=== 5月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[5月1日]] - [[青山聖佳]]、陸上競技選手
* [[5月2日]] - 松田華音、ミュージシャン
* [[5月3日]] - [[ドマンタス・サボニス]]、バスケットボール選手([[パワーフォワード|PF]]/[[センター (バスケットボール)|C]])
* [[5月4日]] - [[内藤もゆの]]、女優
* [[5月5日]] - [[ブリトニー・シンプソン]]、フィギュアスケート選手
* [[5月6日]] - [[徐紫茵|シュイ・ズーイン]]、歌手、女優
* [[5月7日]] - イ・サンヒョク、プロゲーマー
* [[5月8日]] - [[伊藤将司]]、プロ野球選手
* [[5月9日]] - [[弭間花菜]]、アナウンサー
* [[5月10日]] - [[向田茉夏]]、元アイドル(元[[SKE48]])
* [[5月11日]] - [[宮武美桜]]、タレント
* [[5月12日]] - [[パク・ソンス]]、サッカー選手
* [[5月13日]] - [[佐々木健 (左投手)|佐々木健]]、プロ野球選手
* [[5月14日]] - [[マーティン・ギャリックス]]、DJ、音楽プロデューサー。
* [[5月15日]] - [[バーディー (歌手)|バーディー]]、シンガーソングライター
* 5月15日 - [[アレックス・ベルドゥーゴ]]、プロ野球選手
* [[5月18日]] - [[角野友基]]、スノーボード選手
* [[5月19日]] - [[岡田夢以]]、[[アイドル]]、[[タレント]]、[[声優]]、[[俳優|女優]]。
* [[5月19日]] - コギョル、アイドル([[UP10TION]])
* [[5月20日]] - [[甲野優美]]、タレント
* [[5月21日]] - [[古賀紗理那]]、バレーボール選手
* [[5月22日]] - [[清水優心]]、プロ野球選手
* [[5月23日]] - [[野口美和]]、アナウンサー
* [[5月24日]] - [[浅田春奈]]、アナウンサー
* [[5月25日]] - [[山田朱莉]]、ファッションモデル
* [[5月26日]] - [[堀池亮介]]、アナウンサー
* [[5月27日]] - [[キム・ジェファン (歌手)|キム・ジェファン]]、アイドル(元[[Wanna One]])
* [[5月29日]] - [[井上理香子]]、アイドル([[Fairies]])
* [[5月30日]] - [[重田倫明]]、プロ野球選手
* [[5月31日]] - ノーマニ・コーディ、歌手([[Fifth Harmony]])
=== 6月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[6月1日]] - [[トム・ホランド (俳優)|トム・ホランド]]、俳優
* 6月1日 - [[山本祥彰 |山本祥彰]]、[[YouTuber]]、クイズプレイヤー、[[著作家|ライター]]
* [[6月2日]] - [[伊藤凌]]、タレント
* [[6月3日]] - [[吉﨑綾]]、タレント
* [[6月6日]] - [[井上祐貴]]、俳優
* [[6月7日]] - [[宗佑磨]]、プロ野球選手
* [[6月8日]] - ジニョク、アイドル([[UP10TION]])
* [[6月10日]] - {{仮リンク|ジュン (JUN)|ko|준 (1996년)}}、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* [[6月11日]] - [[佐々木彩夏]]、アイドル([[ももいろクローバーZ]])
* [[6月11日]] - [[ジェシー (アイドル)|ジェシー]]、アイドル、俳優、声優([[SixTONES]])
* [[6月12日]] - 矢野瞳、タレント
* [[6月13日]] - [[キングスレイ・コマン]]、サッカー選手
* 6月13日 - [[コディ・スミット=マクフィー]]、俳優
* [[6月14日]] - [[関根梓]]、アイドル
* [[6月15日]] - {{仮リンク|ホシ (HOSHI)|ko|호시}}、アイドル(SEVENTEEN)
* [[6月16日]] - [[佐藤寛太]]、俳優
* [[6月18日]] - [[三吉彩花]]、モデル、女優
* [[6月19日]] - チャンミ、アイドル([[AOA (音楽グループ)|AOA]])
* [[6月20日]] - [[緒形敦]]、俳優
* [[6月21日]] - [[淺間大基]]、プロ野球選手
* [[6月22日]] - [[楢崎智亜]]、スポーツクライミング選手
* [[6月23日]] - [[安田聖愛]]、タレント
* [[6月24日]] - [[梶原夕希也]]、サッカー選手
* [[6月25日]] - [[グスタボ・サントス・コスタ]]、サッカー選手
* [[6月26日]] - Mamiko、ミュージシャン
* [[6月27日]] - [[矢口蒼依]]、タレント
* [[6月28日]] - [[ドナ・ベキッチ]]、テニス選手
* 6月28日 - [[ミロト・ラシツァ]]、サッカー選手
* [[6月29日]] - [[バルト・ラムセラール]]、サッカー選手
* [[6月30日]] - [[岡本和真]]、プロ野球選手
=== 7月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[7月1日]] - [[アデリナ・ソトニコワ]]、フィギュアスケート選手
* [[7月3日]] - [[赤枝里々奈]]、元アイドル(元SKE48)
* [[7月4日]] - [[高杉真宙]]、俳優
* 7月4日 - [[ロウン]]、アイドル、俳優、モデル([[SF9]])
* [[7月5日]] - [[庄司理紗]]、フィギュアスケート選手
* [[7月6日]] - [[辻美優]]、声優、女優
* [[7月7日]] - [[小島和哉]]、プロ野球選手
* 7月7日 - [[ユン・チェギョン]]、アイドル([[I.B.I]])
* [[7月8日]] - [[古畑星夏]]、モデル、女優
* [[7月9日]] - [[栗林良吏]]、プロ野球選手
* [[7月10日]] - [[ムン・ガヨン]]、女優、モデル
* [[7月11日]] - [[アンドリヤ・ジヴコヴィッチ]]、サッカー選手
* [[7月12日]] - [[ムサ・デンベレ (フランスのサッカー選手)|ムサ・デンベレ]]、サッカー選手
* [[7月13日]] - [[キーリー・マーシャル]]、女優
* [[7月14日]] - [[髙山和真]]、サッカー選手
* [[7月16日]] - [[渡邉剣]]、俳優
* [[7月17日]] - [[北野日奈子]]、女優、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* 7月17日 - {{仮リンク|ウォヌ|ko|원우 (가수)}}、アイドル(SEVENTEEN)
* [[7月18日]] - [[ヤング・リーン]]、ラッパー
* 7月18日 - [[ハイメ・バリア]]、野球選手
* [[7月19日]] - [[オ・ハヨン]]、アイドル、女優([[Apink]])
* [[7月20日]] - [[ベン・シモンズ]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* [[7月22日]] - [[スカイラー・ギソンド]]、俳優、声優
* [[7月24日]] - [[宮本秀明]]、プロ野球選手
* [[7月25日]] - [[マリア=オリンピア]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の王女
* [[7月26日]] - [[北川航也]]、サッカー選手
* [[7月27日]] - [[久保拓眞]]、プロ野球選手
* [[7月28日]] - [[佐々木渉]]、サッカー選手
* [[7月29日]] - [[藤井皓哉]]、プロ野球選手
* [[7月30日]] - [[小瀧望]]、アイドル、俳優([[WEST.]])
* [[7月31日]] - [[ブレイク・マイケル]]、俳優
* 7月31日 - [[林家ぽん平]]、落語家
=== 8月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[8月1日]] - ヨヌ、元アイドル、女優(元[[MOMOLAND]])
* [[8月2日]] - [[ケストン・ヒウラ]]、プロ野球選手
* [[8月3日]] - [[小郷裕哉]]、プロ野球選手
* [[8月4日]] - [[糸原美波]]、女優
* [[8月5日]] - [[チョ・スンヨン]]、アイドル、歌手(元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* 8月5日 - [[村上茉愛]]、体操競技選手
* [[8月6日]] - [[黒瀬サラ]]、タレント
* [[8月7日]] - [[リアム・ジェームズ]]、子役
* 8月7日 - [[ダニ・セバージョス]]、サッカー選手
* [[8月8日]] - [[松岡菜摘]]、アイドル([[HKT48]])
* [[8月9日]] - ウォン・ドクヒョン、俳優
* [[8月10日]] - [[河出奈都美]]、アナウンサー
* [[8月12日]] - [[フリオ・ウリアス]]、野球選手(投手)
* 8月12日 - [[ユジン (歌手)|チェ・ユジン]]、アイドル([[CLC (音楽グループ)|CLC]]、[[Kep1er]])
* [[8月14日]] - [[ニール・モペイ]]、サッカー選手
* [[8月15日]] - [[妹尾直哉]]、サッカー選手
* [[8月16日]] - [[ケーレブ・ドレッセル]]、競泳選手
* 8月16日 - [[吉田朱里]]、元アイドル、モデル、YouTuber(元[[NMB48]])
* [[8月17日]] - [[伊藤彩沙]]、声優
* [[8月19日]] - [[ラウラ・テソーロ]]、歌手、女優
* [[8月20日]] - 平井美優、アナウンサー
* [[8月22日]] - [[守屋都弥]]、サッカー選手
* [[8月23日]] - [[井手口陽介]]、サッカー選手
* [[8月24日]] - [[白井健三]]、体操競技選手
* [[8月25日]] - [[渋谷凪咲]]、アイドル([[NMB48]]、元[[AKB48]])
* [[8月26日]] - [[グレイシー・ドジーニー]]、女優
* [[8月27日]] - [[中熊大智]]、プロ野球選手
* [[8月28日]] - [[キム・セジョン]]、元アイドル、歌手(元[[gugudan]]、元[[I.O.I]])
* [[8月29日]] - [[鎌田菜月]]、アイドル([[SKE48]])
* [[8月29日]] - [[ダリル・ネイタ]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=https://worldathletics.org/athletes/great-britain-ni/daryll-neita-14476603|title=Daryll NEITA|publisher=World Athletics|accessdate=2022-07-17}}</ref>
* [[8月30日]] - [[ガブリエウ・バルボーザ・アウメイダ]]、サッカー選手
* [[8月30日]] - [[伊藤裕季也]]、プロ野球選手
* [[8月31日]] - [[大盛穂]]、プロ野球選手
=== 9月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[9月1日]] - [[ゼンデイヤ]]、女優、歌手、ダンサー
* [[9月2日]] - [[佐野皓大]]、プロ野球選手
* [[9月3日]] - [[セーラ (タレント)|セーラ]]、タレント
* 9月3日 - [[ジョイ (Red Velvet)|ジョイ]]、アイドル、女優([[Red Velvet]])
* [[9月4日]] - [[林瑞輝]]、サッカー選手
* [[9月5日]] - [[リハイロ・ジヴコヴィッチ]]、サッカー選手
* 9月5日 - イ・スヒョン、アイドル([[I.B.I]])
* 9月5日 - 大倉明日香([[ASCA (歌手)]])
* [[9月6日]] - [[ジョーダン・ヒックス]]、プロ野球選手
* [[9月7日]] - [[ドノバン・ミッチェル]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* [[9月8日]] - [[唯月ふうか]]、歌手
* 9月8日 - [[高木美佑]]、声優
* [[9月9日]] - [[荒井健太郎]]、俳優
* [[9月10日]] - [[漆原大晟]]、プロ野球選手
* [[9月12日]] - [[眉村ちあき]]、シンガーソングライター
* [[9月13日]] - [[石橋遼大]]、お笑い芸人([[四千頭身]])
* [[9月14日]] - [[大森元貴]]、ミュージシャン
* [[9月14日]] - スビン、アイドル([[宇宙少女]])
* 9月14日 - ジェニ、元アイドル(元[[DIA]])
* [[9月15日]] - [[古畑奈和]]、アイドル(元SKE48)
* [[9月16日]] - [[横浜流星]]、俳優、モデル
* [[9月17日]] - [[エステバン・オコン]]、レーシングドライバー
* 9月17日 - [[ドゥイェ・チャレタ=ツァル]]、サッカー選手
* 9月17日 - [[エラ・パーネル]]、女優
* 9月17日 - ヨンジェ、アイドル(元[[GOT7]])
* [[9月18日]] - OLNL、ラッパー
* [[9月19日]] - [[兒玉遥]]、元アイドル、女優(元[[HKT48]]、元[[AKB48]])
* [[9月20日]] - [[ジェローム・シンクレア]]、サッカー選手
* [[9月21日]] - [[渕上舞 (アイドル)|渕上舞]]、アイドル([[HKT48]])
* [[9月22日]] - [[アントワーヌ・ユベール]]、レーシングドライバー( +[[2019年]])
* 9月22日 - イ・ヨンジェ、韓国の記者(+[[2023年]])
* [[9月23日]] - [[松尾太陽]]、歌手([[超特急]])
* [[9月23日]] - [[エフゲニー・リロフ]]、競技選手
* [[9月26日]] - [[都丸紗也華]]、グラビアアイドル、タレント
* [[9月27日]] - [[茂木力也]]、サッカー選手
* [[9月28日]] - [[佐々木美波]]、アナウンサー
* [[9月30日]] - [[山田遥楓]]、プロ野球選手
=== 10月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[10月1日]] - [[鈴木ゆうか]]、ファッションモデル、女優
* [[10月2日]] - [[岩下大輝]]、プロ野球選手
* [[10月3日]] - [[ケレチ・イヘアナチョ]]、サッカー選手
* [[10月4日]] - [[小川雄大]]、サッカー選手
* [[10月5日]] - [[重本ことり]]、元アイドル、元タレント(元[[Dream5]])
* [[10月7日]] - [[黒田真友香]]、ファッションモデル
* [[10月8日]] - [[高梨沙羅]]、[[スキージャンプ]]選手
* [[10月8日]] - 若井滉斗、ミュージシャン
* [[10月9日]] - [[ベラ・ハディッド]]、ファッションモデル
* [[10月10日]] - [[岸田行倫]]、プロ野球選手
* [[10月11日]] - [[ライデル・マルティネス]]、[[プロ野球選手]]
* [[10月12日]] - [[伊藤美来]]、声優
* [[10月14日]] - [[太田光 (野球)|太田光]]、プロ野球選手
* [[10月15日]] - [[堀未央奈]]、アイドル([[乃木坂46]])
* [[10月17日]] - ユ・ヨンヒョク、プロゲーマー
* [[10月19日]] - [[嫁阪翔太]]、サッカー選手
* [[10月20日]] - [[三浦透子]]、女優、歌手
* [[10月22日]] - [[小林廉]]、俳優
* [[10月23日]] - [[木村有希 (モデル)|木村有希]]、モデル、タレント
* [[10月24日]] - [[ラファエル・デバース]]、プロ野球選手
* 10月24日 - [[ジェイレン・ブラウン]]、バスケットボール選手([[スモールフォワード|SF]])
* [[10月25日]] - [[古川琴音]]、女優
* 10月25日 - イェナン、アイドル([[PENTAGON]])
* [[10月26日]] - [[杉原凜]]、アナウンサー
* [[10月27日]] - [[キム・ウソク]]、アイドル、歌手、俳優([[UP10TION]]、元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* [[10月29日]] - [[篠原梨菜]]、アナウンサー
* [[10月30日]] - [[デビン・ブッカー]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 10月30日 - [[佐藤勝利]]、アイドル、俳優([[Sexy Zone]])
* 10月30日 - [[譜久村聖]]、歌手、アイドル([[モーニング娘。]])
=== 11月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[11月1日]] - [[ショーン・ゲラエル]]、レーシングドライバー
* 11月1日 - [[ジョンヨン]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 11月1日 - [[キム・ミンジェ]]、俳優
* 11月1日 - [[リル・ピープ]]、ラッパー( - [[2017年]])
* [[11月3日]] - [[アリア・ウォーレス]]、女優
* [[11月4日]] - [[ケイトリン・ホワイエク]]、フィギュアスケート選手
* 11月4日 - [[マイケル・クリスチャン・マルティネス]]、フィギュアスケート選手
* [[11月5日]] - [[サビーナ・アルシンベコバ]]、バレーボール選手<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metrohk.com.hk/index.php?cmd=detail&id=237852 |title=成名感壓力少女仍單身|publisher=都市日報|accessdate=2014-10-06|language=[[中国語]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141006054051/http://www.metrohk.com.hk/index.php?cmd=detail&id=237852|archivedate=2014-10-06}}</ref>
* [[11月6日]] - ソニュル、アイドル([[UP10TION]])
* 11月6日 - チャン・スンヨン、アイドル([[CLC]])
* [[11月7日]] - [[ロード (歌手)|ロード]]、シンガーソングライター
* 11月7日 - [[岡部麟]]、アイドル([[AKB48]])
* [[11月8日]] - [[小林陵侑]]、[[スキージャンプ]]選手
* [[11月9日]] - [[佐藤朱 (アイドル)|佐藤朱]]、元アイドル、東北放送アナウンサー(元AKB48)
* [[11月9日]] - [[モモ (歌手)|モモ]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* [[11月10日]] - [[キム・ヘユン|キム・へユン]]、女優
* [[11月11日]] - [[菅なな子]]、元アイドル(元SKE48)
* [[11月14日]] - [[西口直人]]、プロ野球選手
* [[11月15日]] - [[渡部香生子]]、競技選手
* [[11月16日]] - [[新田真剣佑]]、俳優、モデル
* [[11月17日]] - [[頓宮裕真]]、プロ野球選手
* [[11月18日]] - [[小川紗季]]、元アイドル(元[[スマイレージ]])
* [[11月18日]] - [[ノア・リンガー]]、女優
* 11月18日 - ソン、元アイドル(元[[CLC]])
* [[11月19日]] - [[沖野綾亜]]、[[琉球放送]]アナウンサー
* 11月19日 - [[萱和磨]]、体操選手
* [[11月20日]] - 室加奈子、アイドル(元NMB48)
* [[11月21日]] - ソイ、元アイドル、女優(元[[gugudan]])
* [[11月22日]] - [[ウジ (SEVENTEEN)|ウジ]]、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* [[11月22日]] - [[マディソン・ダヴェンポート]]、女優
* [[11月23日]] - [[アンナ・ヤノフスカヤ]]、フィギュアスケート選手
* [[11月24日]] - [[小川諒也]]、サッカー選手
* [[11月25日]] - ウン・ソウ、俳優
* [[11月26日]] - ユンチャン、俳優
* [[11月27日]] - [[中尾暢樹]]、俳優
* [[11月28日]] - [[正門良規]]、アイドル、俳優(関西ジャニーズJr.、[[Aぇ! group]])
* 11月28日 - [[六世野村万之丞]]、狂言師
* [[11月30日]] - [[刈谷友衣子]]、ファッションモデル
=== 12月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1996年の日本」項内に記入-->
* [[12月1日]] - [[野村勇]]、プロ野球選手
* [[12月2日]] - チャ・ユンジ、歌手
* [[12月3日]] - [[今川宇宙]]、女優、イラストレーター
* [[12月4日]] - [[広田亮平]]、俳優
* [[12月5日]] - [[勧修寺保都]]、俳優
* [[12月6日]] - [[ステファニー・スコット]]、女優、歌手
* [[12月7日]] - [[斎藤翔太]]、サッカー選手
* [[12月8日]] - [[岸潤一郎]]、プロ野球選手
* [[12月9日]] - [[片山友希]]、女優
* [[12月10日]] - [[佐藤綾乃 (スピードスケート選手)|佐藤綾乃]]、[[スピードスケート]]選手
* 12月10日 - [[カン・ダニエル]]、アイドル、俳優(元[[Wanna One]])
* 12月10日 - [[ジョー・バロウ]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[12月11日]] - [[ヘイリー・スタインフェルド]]、女優、歌手
* 12月11日 - [[瀬尻稜]]、プロスケートボーダー選手
* [[12月12日]] - [[美山加恋]]、声優
* 12月12日 - [[渡辺貴裕]]、俳優
* [[12月13日]] - [[グレイバー・トーレス]]、プロ野球選手
* [[12月14日]] - [[福田俊]]、プロ野球選手
* [[12月16日]] - [[真山りか]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
* [[12月17日]] - [[エリザベータ・トゥクタミシェワ]]、フィギュアスケート選手
* 12月17日 - [[岩橋玄樹]]、元アイドル、元俳優、歌手(元[[King&Prince]])
* [[12月18日]] - [[齋藤綱記]]、プロ野球選手
* [[12月19日]] - [[味野和明日架]]、タレント
* [[12月20日]] - [[市ノ瀬加那]]、声優
* [[12月21日]] - [[馬嘉伶]]、アイドル(AKB48)
* 12月21日 - ケイトリン・デバー、女優
* [[12月22日]] - チョンジン、アイドル([[MYTEEN]])
* [[12月23日]] - ウ・ウォンジェ、ラッパー
* [[12月24日]] - [[野津山幸宏]]、声優
* [[12月26日]] - [[松井愛莉]]、女優、モデル
* [[12月27日]] - [[辰己涼介]]、プロ野球選手
* [[12月28日]] - [[吉本実憂]]、女優、歌手
* [[12月29日]] - [[サナ]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* [[12月31日]] - [[平尾知佳]]、サッカー選手
== 死去 ==
{{See|訃報 1996年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[デビッド・リー (物理学者)|デビッド・リー]]、[[ダグラス・D・オシェロフ]]、[[ロバート・リチャードソン (物理学者)|ロバート・リチャードソン]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ロバート・カール]]、[[ハロルド・クロトー]]、[[リチャード・スモーリー]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ピーター・ドハーティー]]、[[ロルフ・ツィンカーナーゲル]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ヴィスワヴァ・シンボルスカ]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ]]、[[ジョゼ・ラモス=ホルタ]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ジェームズ・マーリーズ]]、[[ウィリアム・ヴィックリー]]
== フィクションのできごと ==
* 2月 - [[第三次世界大戦|第3次核大戦]]勃発。(漫画・アニメ『[[攻殻機動隊]]』)
* 夏 - 月面[[危難の海|危の海]]を横断調査していた探検隊が、危の海内にある山の山頂にて、異星の知的存在の手によるものと見られる結晶状のピラミッド形建造物を発見する。(小説『{{仮リンク|前哨 (小説)|label = 前哨|en|The Sentinel (short story)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 前哨 |publisher = [[早川書房]] |year = 1985 |pages = 263-274 |isbn = 978-4-15-010607-2}}</ref>
* [[9月28日]] - 地質学教授エドワード・ショーらが、[[デスヴァレー (カリフォルニア州)|デスバレー]]に出現した宇宙船と思われる地図にない[[スコリア丘|火山灰円錐丘]]に空いた洞窟の中で、瀕死状態の異星人「客」を発見。その後、「客」は調査のために[[ヴァンデンバーグ空軍基地]]に移送される。また、同時期に[[グレートビクトリア砂漠|グレート・ビクトリア砂漠]]でも類似する事態が発生する。(小説『[[天空の劫火]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレッグ・ベア|authorlink=グレッグ・ベア |title = 天空の劫火〔上〕 |publisher = 早川書房 |year = 1988 |pages = 33,35-54,61-66,82-97 |isbn = 978-4-15-010797-0}}</ref>
* [[10月3日]] - 国連の火星観測基地が異星人「グラドス人」の襲撃を受け壊滅。[[蒼き流星SPTレイズナー#SPT|SPT]]「レイズナー」を奪いグラドス軍から脱走したアルバトロ・ナル・エイジ・アスカが、火星観測基地および基地を訪れていたコズミック・カルチャー・クラブ生徒の生存者と接触する。(アニメ『[[蒼き流星SPTレイズナー]]』)<ref>[http://plus.animax.co.jp/programs/detail/74-00225#contents 蒼き流星SPTレイズナー] - [[アニマックス|アニマックスPLUS]]。2016年6月19日閲覧。</ref><ref>[http://www.layzner.net/world/ WORLD] - アニメ「蒼き流星SPTレイズナー」公式サイト。2016年6月19日閲覧。</ref><ref>[http://www.layzner.net/story/ STORY[第1話 〜 第13話]] - アニメ「蒼き流星SPTレイズナー」公式サイト。2016年6月19日閲覧。</ref><ref>[http://www.layzner.net/character/ CHARACTER[地球側(第1話 〜 第25話)]] - アニメ「蒼き流星SPTレイズナー」公式サイト。2016年6月19日閲覧。</ref>
* [[10月29日]] - 夜見山北中学校で当時、3年3組の担任をしていた美術教師の三神怜子が帰宅途中に通り魔に刺殺され、遺体は近くを流れる夜見山川で発見される。(小説・アニメ『[[Another]]』)
* [[11月20日]] - ロサンゼルスの刑事ジョン・スパルタンが冷凍刑に処される。(映画『[[デモリションマン]]』)
* [[12月28日]] - 12モンキーズによって謎のウイルスがまかれ、全人類の99%が死滅する(映画『[[12モンキーズ]]』)
* 不明 - カーン・ノニエン・シンら優生人類が「優生戦争」に敗れ、宇宙船「ボタニー・ベイ」で地球を脱出する。(特撮テレビ番組『[[宇宙大作戦]]』)
* 不明 - 一九九六年エリート徴兵法制定。異星人「トーラン」の攻撃に対抗すべく、UNEF(国連探検軍)隷下に縮潰星(コラプサー)近傍の基地惑星防衛を任務とする歩兵軍が編成される。(小説『[[終りなき戦い]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョー・ホールドマン|authorlink=ジョー・ホールドマン |title = 終りなき戦い |publisher = 早川書房 |year = 1985 |page = 21 |isbn = 978-4-15-010634-8}}</ref>
* 不明 - アービー彗星の接近で地殻変動が起き、太古に死滅した筈の恐竜が目覚める。この事態に対し、「ボーンフリー隊」が結成される。(特撮テレビ番組『[[恐竜探険隊ボーンフリー]]』)<ref>{{Cite book|和書|author=大石真司・江口水基・島崎淳・間宮尚彦|title=円谷プロ全怪獣図鑑|publisher=[[小学館]]|year=2013|page=132|isbn=978-4-09-682074-2|date=}}</ref>
* 不明 - 「イヤー・ゼロ」。新生児の段階で選ばれた一握りの子供が、人間らしい感情を持たず、ただ命令に従って戦うだけの人間兵器「ソルジャー」へと育成されることが始まる。(映画『[[ソルジャー (映画)|ソルジャー]]』)
* 不明 - WCS(世界宇宙協会)が火星に第一次探検隊を派遣するが、ハース・レンコーン大尉ら一部の隊員が火星への宇宙人撃退用の要塞の建設を主張して反乱を起こし、火星に置き去りにされる。(漫画・アニメ『[[鉄腕アトム]]』「火星探検の巻」)
* 不明 - 日本がアメリカから八千億ドレン(架空の通貨)でハワイ州を買収し、新たに「ハワイ県」とする。また、ソ連とヨーロッパ諸国からなる「ユートラム連合」と、南米諸国からなる「南米連合」が結成される。(アニメ『[[トップをねらえ!]]』)<ref>『トップをねらえ! 濃縮CD-ROM大図鑑』収録「おまけ年表」 [[ガイナックス]]、1996年。{{ASIN|B005YNHX7G}}。</ref>
* 不明 - BETAの侵攻によって国土を失った東南アジア諸国が「大東亜連合」を結成する。(ゲーム『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』)<ref name = "TE">{{Cite book |和書 |author= 吉宗鋼紀|authorlink=吉宗鋼紀 |title = マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス 3 虚耗の檻穽 |publisher = [[エンターブレイン]] |year = 2009 |page = 183 |isbn = 978-4-7577-4521-6}}</ref>
* 不明 - 各国共同による先進戦術機技術開発計画「プロミネンス計画」が開始され、根拠地に選ばれた国連軍ユーコン基地の拡張工事が開始される。(ゲーム・アニメ『[[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]]』)<ref name = "TE" />
* 不明 - 11代目ドクターが[[アメリア・ポンド]]の家の庭に墜落。時間の裂け目を通ってプリズナー・ゼロがアメリアの家へ侵入する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/1996%E5%B9%B4 |
1,521 | フィンセント・ファン・ゴッホ | フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(オランダ語: Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。
主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。
なお、オランダ人名のファン(van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。
ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。
1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。
生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(後世)。
弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100枚以上の作品を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(作品)。
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。
フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。
父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。
フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20 km(キロメートル)離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。
1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。
1869年7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。
ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった。
1873年5月、ファン・ゴッホはロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。8月末からロワイエ家の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか......僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。
1875年5月、ファン・ゴッホはパリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。
同年(1876年)4月、ファン・ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、彼はアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていた彼は、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした。ジョージ・エリオットの『牧師館物語(英語版)』や『アダム・ビード(英語版)』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた。
その年のクリスマス、ファン・ゴッホはエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ファン・ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っている。
ファン・ゴッホは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ファン・ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ファン・ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語とラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった。精神的に追い詰められたファン・ゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った。1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された。ファン・ゴッホはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた。
こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。
同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。
伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。
クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。
同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。
1881年4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。夏の間、最近夫を亡くした従姉のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。
ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。
11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。
1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(ドイツ語版)(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。
同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。
ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。
同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた。
1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。
夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。
同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。
1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。
金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。
1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(英語版)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。
1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(英語版)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。
同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタン、トゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。
ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。英泉作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、ファン・ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、愛読していたことが窺える。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい。
同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。
ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。
ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(英語版)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(英語版)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。
同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした。
7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。
一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『アルルの寝室』)。
同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。
一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。......彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。......色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70 kmのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。
同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。
一方、その10年あまり後、晩年のゴーギャンが書いた自伝『前後録』の中では、ファン・ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手に突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた。
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった。
同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(フランス語版)療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。
ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。
ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。......何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。......今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた。
1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。
一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。
体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。
同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」 と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。......また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50 cm(センチメートル)×100 cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。
この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。......こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。
浮世絵に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家エドムンド・ウォルポール・ブルック(英語版)と知り合った。エドムンドはイギリス人の父ジョン・ヘンリー・ブルック(英語版)がジャパン・デイリー・ヘラルドのディレクター(1867年から)で、日本で活動していた。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。
テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。......兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。
テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。
ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている。2016年7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された。
ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える)。このうち、てんかんもしくは統合失調症とする説が最も有力である。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。
孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、アスペルガー症候群であったとする見解もある。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い。
ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。
ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった。
ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、1893年3月、コペンハーゲンでゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した。パリの新興の画商アンブロワーズ・ヴォラールも、1895年と1896年に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した。
1893年、ベルナールが『メルキュール・ド・フランス』誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した。
1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。
1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。
オランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。
ドイツでは、ベルリンの画商パウル・カッシーラーが、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、ハンブルク、ドレスデン、ベルリン、ウィーンと、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った。もっとも、ファン・ゴッホを「フランス絵画」と見て批判する声もあった。1928年にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、ヴァッカー・スキャンダルが明るみに出た(→#真贋・来歴をめぐる問題)。
ロンドンでは、ロジャー・フライが1910年11月、「マネとポスト印象派の画家たち」と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した。
1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた。
アメリカ合衆国では、1929年、ニューヨーク近代美術館のこけら落とし展覧会で、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、1935年に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。ナチス・ドイツの退廃芸術押収から逃れた作品の受入先ともなった。
1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した。
書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた。1934年にはアーヴィング・ストーンがLust for Lifeと題する伝記小説(邦訳『炎の人ゴッホ』)を発表し、全米のトップセラーとなった。
1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している。
第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた。
1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した。
1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にファン・ゴッホを題材としたドキュメンタリーおよびフィクションの映像作品は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている。劇場公開された代表的な作品としては次のようなものがある。
第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった。
さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田火災(安田火災海上、現損害保険ジャパン)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。......またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。
さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。
ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。
ファン・ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである。
1910年(明治43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。 1925年、日本美術協会主催でフランス現代美術展覧会が開催。出品作にはゴッホの『裸体』(出典ママ)が含まれていたが、警視庁による事前検閲で「善良な風紀を紊す恐れがある」との指摘を受け、公開は控えられた。 以降、第2次世界大戦前の日本で、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。
戦後は、ファン・ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄が、1948年「ゴッホの手紙」を著した。劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた。1958年に初めて東京国立博物館と京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる。
画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている。ゴッホ美術館によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家アントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある。
テオ宛の書簡は、ヨーにより1914年に「書簡集」が刊行され、この「書簡集」およびヨーが巻頭に記した回想解説をもとに、あらゆる伝記、小説、伝記映画でのゴッホ像は形成された。ただしこの「書簡集」は、手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある。
1952年から1954年にかけ、ヨーの息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが、テオ宛の書簡だけでなく、ベルナールやラッパルト宛のものや、ファン・ゴッホが受け取ったものも網羅した完全版「書簡全集」をオランダで出版し、日本語訳も含め各国で翻訳された。
2009年秋ゴッホ美術館が15年をかけ、決定版といえる「書簡全集」を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに、日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。同時にウェブ版も無料公開されている。
ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した。生前はほとんど評価されなかったが、死後、『星月夜』、『ひまわり』、『アイリス』、『アルルの寝室』など、多くの油絵の名作が人気を博することになった。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである。素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある。
今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でもアムステルダムのゴッホ美術館には『ジャガイモを食べる人々』、『花咲くアーモンドの木の枝』、『カラスのいる麦畑』などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている。アムステルダム近郊のオッテルローには、熱心なコレクター、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(英語版)が1938年オランダ政府に寄贈して設立されたクレラー・ミュラー美術館があり、『夜のカフェテラス』などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている。
ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。
フルスケルのカタログに掲載された油絵を時期とジャンルで分けると、概ね次のようになる。
前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという。他方、長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された。
また、史上最高価格で落札された『医師ガシェの肖像』については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた。
ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた。
当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった。
しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派や新印象派が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた。
また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している。1888年9月の『夜のカフェ』では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の『アルルの寝室』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている。
単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。
ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」 を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」 と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。
サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる。
ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった。
ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。......星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている。
こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、フェルディナント・ホドラー、エドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した。エミール・ノルデやエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら多くのドイツ・オーストリアの画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、エゴン・シーレやリヒャルト・ゲルストルなど、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる。
ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている。
当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている。
ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。
ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある。
アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。
ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える。
西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている。
後に、ファン・ゴッホは『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている。
サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。......それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった。
西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている。
ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼〔ミレー〕の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。
アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話 に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人......の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。
サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。
ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。 | [
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"text": "フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(オランダ語: Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。",
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"text": "主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。",
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"text": "フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。",
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"text": "フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20 km(キロメートル)離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。",
"title": "生涯"
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"text": "1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。",
"title": "生涯"
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"text": "1869年7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。",
"title": "生涯"
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"text": "ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1873年5月、ファン・ゴッホはロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。8月末からロワイエ家の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか......僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1875年5月、ファン・ゴッホはパリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。",
"title": "生涯"
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"text": "同年(1876年)4月、ファン・ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、彼はアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていた彼は、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした。ジョージ・エリオットの『牧師館物語(英語版)』や『アダム・ビード(英語版)』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた。",
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"text": "その年のクリスマス、ファン・ゴッホはエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ファン・ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っている。",
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"text": "ファン・ゴッホは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ファン・ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ファン・ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語とラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった。精神的に追い詰められたファン・ゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った。1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された。ファン・ゴッホはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた。",
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"text": "こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1881年4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。夏の間、最近夫を亡くした従姉のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(ドイツ語版)(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(英語版)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。",
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(英語版)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタン、トゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。英泉作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、ファン・ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、愛読していたことが窺える。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい。",
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。",
"title": "生涯"
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"text": "ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(英語版)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(英語版)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした。",
"title": "生涯"
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"text": "7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『アルルの寝室』)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。......彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。......色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70 kmのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "一方、その10年あまり後、晩年のゴーギャンが書いた自伝『前後録』の中では、ファン・ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手に突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(フランス語版)療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。......何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。......今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」 と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。......また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50 cm(センチメートル)×100 cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。......こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "浮世絵に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家エドムンド・ウォルポール・ブルック(英語版)と知り合った。エドムンドはイギリス人の父ジョン・ヘンリー・ブルック(英語版)がジャパン・デイリー・ヘラルドのディレクター(1867年から)で、日本で活動していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。......兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている。2016年7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える)。このうち、てんかんもしくは統合失調症とする説が最も有力である。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。",
"title": "病因"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、アスペルガー症候群であったとする見解もある。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い。",
"title": "病因"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。......何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、1893年3月、コペンハーゲンでゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した。パリの新興の画商アンブロワーズ・ヴォラールも、1895年と1896年に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した。",
"title": "後世"
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"tag": "p",
"text": "1893年、ベルナールが『メルキュール・ド・フランス』誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した。",
"title": "後世"
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"tag": "p",
"text": "1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "オランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ドイツでは、ベルリンの画商パウル・カッシーラーが、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、ハンブルク、ドレスデン、ベルリン、ウィーンと、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った。もっとも、ファン・ゴッホを「フランス絵画」と見て批判する声もあった。1928年にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、ヴァッカー・スキャンダルが明るみに出た(→#真贋・来歴をめぐる問題)。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ロンドンでは、ロジャー・フライが1910年11月、「マネとポスト印象派の画家たち」と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、1929年、ニューヨーク近代美術館のこけら落とし展覧会で、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、1935年に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。ナチス・ドイツの退廃芸術押収から逃れた作品の受入先ともなった。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた。1934年にはアーヴィング・ストーンがLust for Lifeと題する伝記小説(邦訳『炎の人ゴッホ』)を発表し、全米のトップセラーとなった。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している。",
"title": "後世"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた。",
"title": "後世"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した。",
"title": "後世"
},
{
"paragraph_id": 90,
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"text": "1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にファン・ゴッホを題材としたドキュメンタリーおよびフィクションの映像作品は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている。劇場公開された代表的な作品としては次のようなものがある。",
"title": "後世"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田火災(安田火災海上、現損害保険ジャパン)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。......またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。",
"title": "後世"
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"paragraph_id": 94,
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"text": "ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。",
"title": "後世"
},
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"paragraph_id": 95,
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"text": "ファン・ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1910年(明治43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。 1925年、日本美術協会主催でフランス現代美術展覧会が開催。出品作にはゴッホの『裸体』(出典ママ)が含まれていたが、警視庁による事前検閲で「善良な風紀を紊す恐れがある」との指摘を受け、公開は控えられた。 以降、第2次世界大戦前の日本で、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "戦後は、ファン・ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄が、1948年「ゴッホの手紙」を著した。劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた。1958年に初めて東京国立博物館と京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる。",
"title": "後世"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている。ゴッホ美術館によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家アントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある。",
"title": "手紙"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "テオ宛の書簡は、ヨーにより1914年に「書簡集」が刊行され、この「書簡集」およびヨーが巻頭に記した回想解説をもとに、あらゆる伝記、小説、伝記映画でのゴッホ像は形成された。ただしこの「書簡集」は、手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある。",
"title": "手紙"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "1952年から1954年にかけ、ヨーの息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが、テオ宛の書簡だけでなく、ベルナールやラッパルト宛のものや、ファン・ゴッホが受け取ったものも網羅した完全版「書簡全集」をオランダで出版し、日本語訳も含め各国で翻訳された。",
"title": "手紙"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2009年秋ゴッホ美術館が15年をかけ、決定版といえる「書簡全集」を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに、日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。同時にウェブ版も無料公開されている。",
"title": "手紙"
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{
"paragraph_id": 102,
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"text": "ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した。生前はほとんど評価されなかったが、死後、『星月夜』、『ひまわり』、『アイリス』、『アルルの寝室』など、多くの油絵の名作が人気を博することになった。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである。素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 103,
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"text": "今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でもアムステルダムのゴッホ美術館には『ジャガイモを食べる人々』、『花咲くアーモンドの木の枝』、『カラスのいる麦畑』などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている。アムステルダム近郊のオッテルローには、熱心なコレクター、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(英語版)が1938年オランダ政府に寄贈して設立されたクレラー・ミュラー美術館があり、『夜のカフェテラス』などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "フルスケルのカタログに掲載された油絵を時期とジャンルで分けると、概ね次のようになる。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという。他方、長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "また、史上最高価格で落札された『医師ガシェの肖像』については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派や新印象派が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している。1888年9月の『夜のカフェ』では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の『アルルの寝室』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」 を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」 と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった。",
"title": "作品"
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"text": "ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。......星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている。",
"title": "作品"
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"text": "こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、フェルディナント・ホドラー、エドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した。エミール・ノルデやエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら多くのドイツ・オーストリアの画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、エゴン・シーレやリヒャルト・ゲルストルなど、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる。",
"title": "作品"
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"text": "ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている。",
"title": "作品"
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"text": "当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている。",
"title": "作品"
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"text": "ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。......僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。",
"title": "作品"
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"text": "ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある。",
"title": "作品"
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"text": "アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。",
"title": "作品"
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"text": "ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える。",
"title": "作品"
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"text": "西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている。",
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"text": "後に、ファン・ゴッホは『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている。",
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"paragraph_id": 126,
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"text": "サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。......それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 127,
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"text": "西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている。",
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"text": "ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼〔ミレー〕の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。",
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"text": "アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話 に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人......の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。",
"title": "作品"
}
]
| フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは、オランダのポスト印象派の画家。 主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代とサン=レミでの療養時代に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。 なお、オランダ人名のファン(van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。 | {{Infobox 芸術家
| bgcolour = #6495ED
| 名前 = フィンセント・ファン・ゴッホ<br />{{Lang|nl|Vincent van Gogh}}
| 画像 = VanGogh 1887 Selbstbildnis.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明文 = 『[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]』([[1887年]][[春]])<br />[[シカゴ美術館]]蔵
| 誕生日 = [[1853年]][[3月30日]]
| 出生地 = {{NED}}・[[北ブラバント州]][[ズンデルト|フロート・ズンデルト]]
| 死没年 = {{死亡年月日と没年齢|1853|3|30|1890|7|29}}
| 死没地 = {{FRA1870}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]
| 墓地 = {{FRA}}・[[ヴァル=ドワーズ県]][[オーヴェル=シュル=オワーズ]]共同墓地<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/memorial/1055/vincent-van_gogh |title=Vincent Van Gogh |publisher=Find a Grave |accessdate=2021-03-03}}</ref>
| 墓地座標 = {{Coord|49|4|30.8|N|2|10|43.8|E|type:landmark|display=inline}}
| 国籍 = {{NED}}
| 芸術分野 = [[絵画]]
| 教育 = [[ブリュッセル王立美術アカデミー]](1880年末一時在籍)<br />[[アントウェルペン王立芸術学院]](1886年初頭一時在籍)<br />[[フェルナン・コルモン]]画塾(1886年)
| 運動・動向 = [[ポスト印象派]](後期印象派)
| 代表作 = 『[[ジャガイモを食べる人々]]』、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』、『[[糸杉と星の見える道]]』、『[[星月夜]]』、『[[カラスのいる麦畑]]』など
| 後援者 = [[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](弟)
| 被影響芸術家 = [[アントン・モーヴ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]、[[印象派]]、[[ジャポネズリー]]([[浮世絵]])
| 与影響芸術家 = [[ポスト印象派]]、[[世紀末芸術]]、[[フォーヴィスム]]、[[ドイツ表現主義]]、[[アントナン・アルトー]]、[[芥正彦]]など多数
}}
'''フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Vincent_willem_van_gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>({{Lang-nl|Vincent Willem van Gogh}}、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[ポスト印象派]]の[[画家]]。
主要作品の多くは[[1886年]]以降の[[フランス]]居住時代、特にアルル時代([[1888年]] - [[1889年]]5月)と[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]での療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、[[ポスト印象派]]を代表する画家である<ref>[https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/27427 ポスト印象派の絵画に没入する。「Immersive Museum」第2弾が日本橋三井ホールで開催中]</ref>。[[フォーヴィスム]]や[[ドイツ表現主義]]など、[[20世紀美術|20世紀の美術]]にも大きな影響を及ぼした。
なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。
== 概要 ==
{{Multiple image
| align= right
| image1= VincentVanGoghFoto.jpg | width1= 120 | caption1= グーピル商会の画廊で働いていた19歳頃のファン・ゴッホ{{sfn|吉屋|2005|p=42}}。現存する唯一の写真。
<ref group="注釈">もう1枚、長らく13歳の時の写真とされてきた物があったが、後に弟テオの物と判明している。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/gogh-photo-theo_jp_5c5d88b9e4b0974f75b39952 |title=有名な「13歳のゴッホの写真」、実際は「弟のテオ」だったと判明 |publisher=ハフポスト |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3199840 |title=巨匠画家「ゴッホ」の写真…実は弟のテオだった |publisher=AFPBB News |date=2018-11-30 |accessdate=2021-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |title=2枚しかないゴッホの写真 1枚は弟でした |publisher=[[日本放送協会]] |date=2018-11-30 |accessdate=2018-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181130214926/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181130/k10011729081000.html |archivedate=2018-11-30 }}</ref>
| image2= Theo van Gogh 1878 (cropped).jpg | width2= 105 | caption2= 1878年(当時21歳)の弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオ]]。兄の支援者であり理解者。
}}
ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部の[[ズンデルト]]で[[牧師の子供|牧師の家に生まれた]](''[[#出生、少年時代(1853年-1869年)|出生、少年時代]]'')。1869年、画商[[グーピル商会]]に勤め始め、[[デン・ハーグ|ハーグ]]、[[ロンドン]]、[[パリ]]で働くが、1876年、商会を解雇された(''[[#グーピル商会(1869年-1876年)|グーピル商会]]'')。その後イギリスで教師として働いたりオランダの[[ドルトレヒト]]の書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、[[アムステルダム]]で[[神学部]]の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(''[[#聖職者への志望(1876年-1880年)|聖職者への志望]]'')。以降、オランダの[[エッテン=ルール|エッテン]](''[[#エッテン(1881年)|1881年4月-12月]]'')、ハーグ(''[[#ハーグ(1882年-1883年)|1882年1月-1883年9月]]'')、[[ニューネン]](''[[#ニューネン(1883年末-1885年)|1883年12月-1885年11月]]'')、[[ベルギー]]の[[アントウェルペン]](''[[#アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)|1885年11月-1886年2月]]'')と移り、弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『[[ジャガイモを食べる人々]]』はこの時代の主要作品である。
1886年2月、テオを頼ってパリに移り、[[印象派]]や[[新印象派]]の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『[[タンギー爺さん]]』などが知られる。日本の[[浮世絵]]にも関心を持ち、収集や模写を行っている(''[[#パリ(1886年-1888年初頭)|パリ時代]]'')。1888年2月、南フランスの[[アルル]]に移り、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』や『[[夜のカフェテラス]]』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末から[[ポール・ゴーギャン]]を迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(''[[#アルル(1888年-1889年5月)|アルル時代]]'')。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『[[星月夜]]』など多くの風景画、人物画を描き続けた(''[[#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)|サン=レミ時代]]'')。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊の[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]に移り、画作を続けたが(''[[#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)|オーヴェル時代]]'')、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(''[[#死(1890年7月)|死]]'')。発作等の原因については、[[てんかん]]、[[統合失調症]]など様々な仮説が研究者によって発表されている(''[[#病因|病因]]'')。
生前に売れた絵は『[[赤い葡萄畑]]』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『[[炎の人ゴッホ]]』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(''[[#後世|後世]]'')。
弟テオや友人らと交わした多くの[[フィンセント・ファン・ゴッホの手紙|手紙]]が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(''[[#手紙|手紙]]'')。約10年の活動期間の間に、[[油絵]]約860点、[[水彩画]]約150点、[[素描]]約1030点、[[版画]]約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100枚以上の作品を残した<ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/index.html |title=The Vincent van Gogh Gallery |author=David Brooks |accessdate=2013-02-26 }}</ref>。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]」のほか身近な人々の[[肖像画]]、花の[[静物画]]、[[風景画]]などが多く、特に『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンや[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]と並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は[[表現主義]]の先駆けでもあった(''[[#作品|作品]]'')。
== 生涯 ==
=== 出生、少年時代(1853年-1869年) ===
[[ファイル:Maison natale de Vincent Van Gogh.jpg|thumb|left|160px|中央右寄りがファン・ゴッホの生家[[ズンデルト]]の牧師館{{sfn|デーネカンプほか|2016|p=13}}。]]
フィンセント・ファン・ゴッホは、[[1853年]]3月30日、[[オランダ]]南部の[[北ブラバント州]][[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]にほど近い[[ズンデルト]]{{Refnest|group="注釈"|ズンデルトの村のうち、中心部を占めるフロート・ズンデルト(大ズンデルト)地区で生まれた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=19}}。}}の村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母[[アンナ・コルネリア・カルベントゥス]](1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、[[オランダ改革派]]の[[牧師]]であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した{{sfn|二見|2010|pp=2-3}}。ブラバントは、オランダ北部とは異なり[[カトリック教会|カトリック]]の人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=21}}{{Refnest|group="注釈"|ブラバントは従来からカトリックの影響の強い土地であったが、1839年、オランダとこれから独立したベルギーとの間の条約により南北に分割され、ズンデルトを含む北部はオランダに帰属した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=20}}。}}。
フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている{{sfn|二見|2010|pp=2-3}}。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている{{sfn|二見|2010|p=2}}。
{| class="wikitable" style="float:center"
|+ファン・ゴッホの家族<ref group="注釈">詳細な家系図については、{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/misc/archives/family_tree.htm |title=The Van Gogh Family Tree |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2021-03-03}}</ref>
|{{Image label begin |width=400 |image=Famille van Gogh.JPG |float=center}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.36 |y=0.22 |text=父テオドルス}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.55 |y=0.22 |text=[[アンナ・コルネリア・カルベントゥス|母アンナ]]}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.01 |y=0.46 |text=フィンセント}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.20 |y=0.46 |text=妹アンナ}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.37 |y=0.46 |text=[[テオドルス・ファン・ゴッホ|弟テオ]]}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.51 |y=0.46 |text=妹エリーザベト}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.71 |y=0.46 |text=[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ|妹ヴィル]]}}
{{Image label small |scale=400 |x=0.89 |y=0.46 |text=弟コル}}
{{Image label end}}<br />
|}
父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の[[1852年]]3月30日に、[[死産]]の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた{{sfn|吉屋|2005|p=23}}{{Refnest|group="注釈"|この兄は数週間生きていたとの説もあるが、ズンデルト村役場の出生登録には、戸籍係の手で「死亡」と書き込まれており、死産であることが明確である。牧師館のすぐ近くの教会で同名の兄の墓を目にする体験は、少年ファン・ゴッホの心理に影響を与えた可能性が指摘されている{{sfn|トラルボー|1992|pp=20-23}}。}}。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ|ヴィレミーナ]](通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた{{sfn|二見|2010|p=3}}。
[[ファイル:Van Gogh Barn-and-farmhouse.jpg|thumb|right|150px|『農場の家と納屋』1864年2月、素描。]]
フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、[[ヒース]]の広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=37-39}}。[[1860年]]からズンデルト村の学校に通っていたが、[[1861年]]から[[1864年]]まで、妹アンナとともに[[家庭教師]]の指導を受けた{{sfn|二見|2010|p=3}}。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している{{sfn|トラルボー|1992|pp=28,31}}。1864年10月からは約20 km([[キロメートル]])離れた[[ゼーフェンベルゲン]]のヤン・プロフィリ[[寄宿学校]]に入った{{sfn|二見|2010|p=3}}。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している{{sfn|吉屋|2005|p=33}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let090/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡90 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1876年9月2日 - 8日頃、アイズルワース、[[#CL|CL: 82a-1]]、{{Lang|en|It was an autumn day and I stood on the front steps of Mr Provily’s school...}})。</ref>。
[[1866年]]9月15日、[[ティルブルフ]]に新しくできた国立高等市民学校、[[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる{{sfn|吉屋|2005|pp=37-38}}。[[1868年]]3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない{{sfn|吉屋|2005|p=262}}。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let403/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡403 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年11月5日頃、ニーウ・アムステルダム、[[#CL|CL: 339a]]、{{Lang|en|My youth has been austere and cold, and sterile...}})。</ref>。
=== グーピル商会(1869年-1876年) ===
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Netherlands location map.svg|center|300px|オランダの地図]]
<!-- 国家 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:170px;top:160px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:75px;top:300px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:95%;right:30px;top:280px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div>
<!-- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:122px;top:135px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[アムステルダム]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:70px;top:175px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[デン・ハーグ|ハーグ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:132px;top:170px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ユトレヒト]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;top:205px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ドルトレヒト]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:138px;top:225px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ティルブルフ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:97px;top:215px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ゼーフェンベルゲン]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:192px;top:223px">[[エッテン=ルール|エッテン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:172px;top:235px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:192px;top:233px">[[ズンデルト]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;right:40px;top:85px">''[[ドレンテ州]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:255px;top:98px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ニーウ・アムステルダム (オランダ)|ニーウ・アムステルダム]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:62px;top:98px">[[ホーヘフェーン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:80px;top:260px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[アントウェルペン]]'''</div>
<!-- 海洋 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;color:blue;left:10px; top:120px">''[[北海]]''</div>
</div>
|}
==== ハーグ支店 ====
[[ファイル:Gogh Goupil&Cie.jpg|thumb|left|200px|ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。]]
[[1869年]]7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商[[グーピル商会]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]支店の店員となり、ここで約4年間過ごした{{Refnest|group="注釈"|セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=64-66}}。}}。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている{{sfn|二見|2010|p=25}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let312/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡312 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年2月11日、ハーグ、[[#CL|CL: 266]]、{{Lang|en|I sometimes think that when I first came to The Hague...}})。</ref>。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 |quote= Tersteeg sent the parents good reports...}}</ref>、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=75}}。[[1872年]]夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時[[レイスウェイク]]まで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=76}}。
ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くの[[マウリッツハイス美術館]]で[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]ら[[オランダ黄金時代の絵画]]に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興の[[ハーグ派]]の絵にも触れる機会があった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=71}}。
==== ロンドン支店 ====
[[1873年]]5月、ファン・ゴッホは[[ロンドン]]支店に転勤となった{{sfn|二見|2010|p=26}}。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=81-82}}。8月末からロワイエ家の下宿に移った{{sfn|二見|2010|p=341}}。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 | quote= Ursula made a deep impression upon him...}}</ref>。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている{{Refnest|group="注釈"|娘の名前は実際にはウージェニ・ロワイエであった{{sfn|二見|2010|p=28}}。}}。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let183/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡183 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年11月12日、エッテン、[[#CL|CL: 157]]、{{Lang|en|What kind of love did I have in my 20th year?...}})。</ref>、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある{{sfn|二見|2010|pp=27-34}}。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、[[チャールズ・スポルジョン]]の説教を聞きに行ったり、[[ジュール・ミシュレ]]、[[イポリット・テーヌ]]の著作、また[[エルネスト・ルナン]]の『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=104-108}}。
==== パリ本店、解雇 ====
[[ファイル:Galerie Goupil2.jpg|thumb|right|160px|グーピル商会のパリ・シャプタール通り店。]]
[[1875年]]5月、ファン・ゴッホは[[パリ]]本店に転勤となった{{sfn|二見|2010|p=35}}{{Refnest|group="注釈"|1874年10月にパリ本店に一時転勤となり、1875年1月に新しくなったロンドン支店に戻り、同年5月に再びパリ本店に移った{{sfn|二見|2010|p=341}}。}}。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、[[聖書]]や[[トマス・ア・ケンピス]]の『[[キリストに倣いて]]』に読みふけった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=110-111}}。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=112-113}}。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=36}}。翌[[1876年]]1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた{{sfn|二見|2010|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let065/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡65 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1875年1月10日、パリ、[[#CL|CL: 50]]、{{Lang|en|His Hon. took the words out of my mouth...}})。</ref>。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=114}}{{sfn|デーネカンプほか|2016|p=43}}。この事件は両親に衝撃と失望を与えた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=115}}。
=== 聖職者への志望(1876年-1880年) ===
==== イギリスの寄宿学校 ====
{{multiple image
| align = left
| image1 = Vincent van Gogh - Vicarage and Church at Etten.jpg | width1= 200 | caption1= 『エッテンの牧師館と教会』1876年4月。グーピル商会を解雇された23歳のファン・ゴッホは、イギリスに発つ前、[[エッテン=ルール|エッテン]]の実家に立ち寄り、家族に別れを告げた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=118}}{{Refnest|group="注釈"|父は[[1875年]]10月、ここエッテンの教会の牧師となり、一家は[[ヘルヴォイルト]]から移り住んでいた{{sfn|二見|2010|p=36}}。}}。
}}
同年(1876年)4月、ファン・ゴッホはイギリスに戻り、[[ラムズゲート]]の港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外の[[アイズルワース]]に移ることとなり、彼はアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、[[伝道師]]になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていた彼は、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした{{sfn|二見|2010|pp=38-40}}。[[ジョージ・エリオット]]の『{{仮リンク|牧師館物語|en|Scenes of Clerical Life}}』や『{{仮リンク|アダム・ビード|en|Adam Bede}}』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=126}}。
==== ドルトレヒトの書店 ====
[[ファイル:Scheffersplein en Voorstraat, Dordrecht (1877).jpg|thumb|right|170px|[[ドルトレヒト]]のスヘッフェルス広場。左から3軒目がブリュッセ&ファン・ブラーム書店{{sfn|デーネカンプほか|2016|pp=48-49}}。]]
その年のクリスマス、ファン・ゴッホは[[エッテン=ルール|エッテン]]の父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=142}}、翌[[1877年]]1月から5月初旬まで、[[南ホラント州]][[ドルトレヒト]]の書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては[[聖書]]の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ファン・ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日には[[オランダ改革派]]教会だけでなく[[ジャンセニスム|ヤンセン派]]教会、[[カトリック教会]]、[[ルター派]]教会に行っていたと語っている{{sfn|二見|2010|pp=40-42}}。
==== アムステルダムでの受験勉強 ====
ファン・ゴッホは、ますます[[聖職者]]になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=154}}。同年3月、[[アムステルダム]]のコル叔父や、母の姉の夫[[ヨハネス・ストリッケル]]牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ファン・ゴッホの[[神学部]]受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ファン・ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった{{sfn|二見|2010|pp=43-44}}。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタから[[ギリシャ語]]と[[ラテン語]]を習った。しかし、その複雑な[[文法]]や、[[代数学|代数]]、[[幾何学|幾何]]、[[歴史]]、[[地理 (科目)|地理]]、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった{{sfn|吉屋|2005|pp=72-76}}。精神的に追い詰められたファン・ゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=167}}。[[1878年]]2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=169}}。ファン・ゴッホはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=181-182}}。
==== ラーケンの伝道師養成学校 ====
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Map of Belgium.svg|250px|center|ベルギーの地図]]
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:130px;top:100px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:170px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:5px;top:140px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:85%;right:0px;top:160px">'''{{LinkColor|grey|ルクセンブルク}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:95%;right:0px;top:50px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:115px;top:60px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ブリュッセル]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:117px;top:20px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[アントウェルペン]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:125px;top:55px">[[ラーケン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:50px;top:90px">''[[ボリナージュ]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:86px;top:100px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[モンス]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:160px;top:102px">[[クウェム]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:154px;top:27px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ヘール (ベルギー)|ヘール]]</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;color:blue;left:5px; top:5px">''[[北海]]''</div>
</div>
|}
こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月から[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]北郊[[ラーケン]]の伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、[[フランドル]]生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のため[[ボリナージュ]]に行くことにするとテオに書いている{{sfn|二見|2010|pp=48-49}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let148/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡148 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1878年11月13日頃及び15日 - 16日、ラーケン、[[#CL|CL: 126]]、{{Lang|en|I should like to go there as an evangelist...}})。</ref>。
==== ボリナージュ ====
同年(1878年)12月、彼はベルギーの[[炭鉱]]地帯、[[ボリナージュ]]地方([[モンス]]近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。[[1879年]]1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった{{sfn|二見|2010|pp=49-51}}{{sfn|吉屋|2005|pp=84-87}}。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=198}}。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=202}}。
[[ファイル:Cuesmes JPG001.jpg|thumb|left|1880年、ファン・ゴッホ(当時27歳)がクウェムで暮らした家。ここにいる時に彼は画家となることを決めた。]]
伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方の[[クウェム]](モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ{{sfn|トラルボー|1992|p=63}}。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された{{sfn|吉屋|2005|p=90}}。[[1880年]]3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=207-208}}。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親が[[ヘール (ベルギー)|ヘール]]の精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った{{sfn|二見|2010|p=57}}。
クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった{{sfn|吉屋|2005|pp=91-92}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let155/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡155 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年6月22日 - 24日頃、クウェム、[[#CL|CL: 133]]、{{Lang|en|I learned at Etten...}})。</ref>。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである{{sfn|吉屋|2005|p=93}}。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let158/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡158 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1880年9月24日、クウェム、[[#CL|CL: 136]]、{{Lang|en|it was in this extreme poverty that I felt my energy return...}})。</ref>。[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の複製を手本に素描を練習したり、[[シャルル・バルグ]]のデッサン教本を模写したりした{{sfn|二見|2010|p=58}}。
==== ブリュッセル ====
同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然[[ブリュッセル]]に出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、[[ブリュッセル王立美術アカデミー]]に在籍していた画家[[アントン・ファン・ラッパルト]]と交友を持つようになった{{sfn|二見|2010|pp=59-60}}。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家[[ウィレム・ルーロフス|ヴィレム・ルーロフス]]から、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた{{sfn|吉屋|2005|p=94}}。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている<ref>Van Gogh Museum ([http://vangoghletters.org/en/let160 Letter 160, Note 3])。</ref>。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた{{sfn|吉屋|2005|p=95}}。
=== オランダ時代 ===
==== エッテン(1881年) ====
[[ファイル:Portrait-of-Vincent-van-Gogh,-the-Artist's-Grandfather.jpg|thumb|right|170px|『祖父フィンセント』1881年、エッテン。鉛筆。]]
[[ファイル:Kee Vos met zoon Jan.jpg|thumb|left|150px|ゴッホ(当時27歳)の片思いの相手ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。]]
[[1881年]]4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、[[エッテン=ルール|エッテン]]の実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた{{sfn|吉屋|2005|p=95}}。夏の間、最近夫を亡くした[[従姉]]のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた{{sfn|二見|2010|pp=61-62}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let179/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡179 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年11月3日、エッテン、[[#CL|CL: 153]]、{{Lang|en|I wanted to tell you that...}})。</ref>。
ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった{{sfn|吉屋|2005|pp=98-99}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let228/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡228 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月16日、ハーグ、[[#CL|CL: 193]]、{{Lang|en|I put my fingers in the flame of the lamp and said...}})。</ref>。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった{{sfn|二見|2010|p=64}}。
11月27日、[[デン・ハーグ|ハーグ]]に向かい、義理の従兄弟で画家の[[アントン・モーヴ]]から絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった{{sfn|二見|2010|pp=65,67}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let194/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡194 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1881年12月29日、ハーグ、[[#CL|CL: 166]]、{{Lang|en|At Christmas I had a rather violent argument...}})。</ref>。
==== ハーグ(1882年-1883年) ====
[[ファイル:AntonMauve.jpg|thumb|right|100px|[[ハーグ派]]の画家[[アントン・モーヴ]]。ファン・ゴッホに絵の指導をした。]]
[[1882年]]1月、彼は[[デン・ハーグ|ハーグ]]に住み始め、オランダ写実主義・[[ハーグ派]]の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに[[油絵]]と[[水彩画]]の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た{{sfn|二見|2010|pp=67-68}}。ハーグの絵画協会[[プルクリ・スタジオ]]の準会員に推薦したのもモーヴであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=256}}。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃に{{ill2|クラシーナ・マリア・ホールニク|de|Sien Hoornik}}(通称シーン)という身重の[[娼婦]]をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている{{sfn|二見|2010|pp=72-73}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let224/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡224 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年5月7日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 192]]、{{Lang|en|Today I met Mauve and had a very regrettable conversation...}})。</ref>。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=258}}。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=261-264}}。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100[[フランス・フラン|フラン]]のテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=270-275}}{{Refnest|group="注釈"|当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていた。それでもファン・ゴッホは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにした{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=271-272,300}}。}}。
[[ファイル:Van-Gogh-Perspective-frame.jpg|thumb|left|150px|1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使用していた{{sfn|ピックヴァンス|1986|p=55}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let254/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡254 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1882年8月5日 - 6日、ハーグ、[[#CL|CL: 223]]、{{Lang|en|In my last letter you’ll have found a little scratch of that perspective frame.}})。</ref>。]]
同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた{{sfn|二見|2010|pp=70-71}}。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった{{sfn|二見|2010|p=75}}。ファン・ゴッホは同年6月、[[淋病]]で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた{{sfn|二見|2010|pp=76-78}}。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、[[スヘフェニンゲン]]の海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=302-306,308-309}}。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した{{sfn|二見|2010|p=86}}。
ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、[[1883年]]5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=86}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let342/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡342 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年5月10日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 294]]、{{Lang|en|342 Her mood can be such that it’s almost unbearable, even for me, quick-tempered, wilfully wrong, in short, sometimes I despair.}})。</ref>。ファン・ゴッホは、オランダ北部の[[ドレンテ州]]に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州の[[ホーヘフェーン]]へ発った{{sfn|二見|2010|p=90}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let380/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡380 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年9月2日、ハーグ、[[#CL|CL: 318]]、{{Lang|en|Today I had a quiet day with her...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送った。ヴィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育された。後年になってシーンの叔父はヴィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案した。だがシーンは申出を拒否すると「私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ファン・ゴッホはこの子の名の由来なのですから」と告げた{{sfn|Wilkie|2005|p=185}}。しかし、ファン・ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していた{{sfn|トラルボー|1992|p=101}}。[[1904年]]、シーンは水死している{{sfn|トラルボー|1992|p=112}}。}}。また、同年10月からはドレンテ州[[ニーウ・アムステルダム (オランダ)|ニーウ・アムステルダム]]の[[泥炭]]地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した{{sfn|二見|2010|pp=92-94}}。
<gallery>
ファイル:Vincent Willem van Gogh 016.jpg|『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩、39 × 55 cm。個人コレクション<sup>F 943, JH 156</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - Sorrow.jpg|シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)。
ファイル:WLANL - h3m3ls - Vincent van Gogh Two women in the moor 1883.jpg|『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。油彩、キャンバス、27.8 × 36.5 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0129V1962 |title=Women on the Peat Moor |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2021-03-03|language=en}}</ref><sup>F 19, JH 409</sup>。
</gallery>
==== ニューネン(1883年末-1885年) ====
[[ファイル:Overzicht schuur, voormalig atelier van van Gogh - Nuenen - 20338022 - RCE.jpg|thumb|right|180px|ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はファン・ゴッホ(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。]]
同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ[[北ブラバント州]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]の農村([[アイントホーフェン]]の東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、[[1884年]]1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した{{sfn|二見|2010|pp=95-97}}。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古い[[オーク]]の[[織機]]や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=98-100}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let440/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡440 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年3月20日、ニューネン、[[#CL|CL: 364]]、{{Lang|en|...if I continue to receive the usual from you, I may regard it as money that I’ve earned...}})。</ref>。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=380}}。[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]など明るい[[印象派]]の作品に関心を注ぐテオと、[[バルビゾン派]]を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた{{sfn|二見|2010|pp=100,104}}。
1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットは[[ストリキニーネ]]を飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=414}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let456/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡456 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1884年9月16日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 375]]、{{Lang|en|Something has happened, Theo...}})。</ref>。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=405-406}}。[[1885年]]3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=106}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let489/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡489 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月4日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 397]]、{{Lang|en|I felt as you did, in so far as when you write that the work didn’t yet proceed as usual...}})。</ref>。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=435-436}}。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『[[ジャガイモを食べる人々]]』を完成させた{{sfn|二見|2010|p=107}}。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、[[アカデミズム絵画]]を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}。
夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、[[ミソサザイ]]の巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いた[[エミール・ゾラ]]の小説『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する{{sfn|二見|2010|pp=111-112}}。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた{{sfn|二見|2010|p=113}}。
同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都[[アムステルダム]]の[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]を訪れ、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[フランス・ハルス]]、[[ヤーコプ・ファン・ロイスダール|ロイスダール]]などの17世紀オランダ(いわゆる[[オランダ黄金時代の絵画|黄金時代]])の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の[[聖書]]と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『[[生きる歓び (小説)|生きる歓び]]』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った{{sfn|二見|2010|pp=113-114}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let535/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡535 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年10月13日頃、ニューネン、[[#CL|CL: 427]]、{{Lang|en|What particularly struck me when I saw the old Dutch paintings again is...}})。</ref>。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=466-467}}。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された{{sfn|トラルボー|1992|p=160}}。
<gallery>
ファイル:Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|『[[ジャガイモを食べる人々]]』1885年4月-5月、ニューネン。油彩、キャンバス、82 × 114 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005V1962 |title=The Potato Eaters |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 82, JH 764</sup>。最初の本格的作品と言われる。
ファイル:Van Gogh - Stillleben mit Bibel.jpeg|『{{仮リンク|開かれた聖書の静物画|it|Natura morta con Bibbia}}』1885年10月、ニューネン。油彩、キャンバス、65.7 × 78.5 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0008V1962 |title=Still Life with Bible |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 117, JH 946</sup>。
</gallery>
=== アントウェルペン(1885年末-1886年初頭) ===
[[ファイル:AntwerpenAcademie.JPG|thumb|left|120px|[[アントウェルペン王立芸術学院]](アカデミー)。32歳の時入校。]]
1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーの[[アントウェルペン]]へ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた{{sfn|二見|2010|p=117}}。[[1886年]]1月から、[[アントウェルペン王立芸術学院]]で人物画や石膏デッサンのクラスに出た{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んで[[ヌード]]のデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=479-487}}。}}。また、美術館やカテドラルを訪れ、特に[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の絵に関心を持った。さらに、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の小説『シェリ』を読んでその[[ジャポネズリー]](日本趣味)に魅了され、多くの[[浮世絵]]を買い求めて部屋の壁に貼った{{sfn|二見|2010|pp=118-120}}。
金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を[[画材]]とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した{{sfn|二見|2010|pp=120,122}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let558/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡558 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1886年2月4日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 449]]、{{Lang|en|When you think that I went to live in my own studio on 1 May...}})。</ref>{{Refnest|group="注釈"|テオには言っていないが、ファン・ゴッホは医者で[[梅毒]]の治療を受けている。また、その治療のため投与された[[水銀]]の副作用にも苦しめられていたと思われる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=477-478}}。}}。また、アントウェルペンの頃から、[[アブサン]]([[ニガヨモギ]]を原料とする[[リキュール]])を飲むようになった{{sfn|Callow|1996|p=253}}。
=== パリ(1886年-1888年初頭) ===
{{multiple image
| image1 = John Peter Russell, Vincent van Gogh, 1886.jpg | width1 = 110
| image2 = Henri de Toulouse-Lautrec 056.jpg |width2 = 125
| footer = [[ジョン・ピーター・ラッセル]]によるファン・ゴッホの肖像画(左、1886年)と、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]による肖像画(1887年)。ファン・ゴッホは32歳から34歳にかけてパリに住み、若い画家たちと交友を持った。
}}
[[ファイル:BERNARD Emile et Vincent VAN GOGH (de dos) assis au bord de la Seine à Asnières, 1886.jpg|thumb|left|150px|[[セーヌ川]]のほとりで写真に写る[[エミール・ベルナール (画家)|ベルナール]]とファン・ゴッホ(後ろ姿){{sfn|デーネカンプほか|2016|p=124}}。]]
[[1886年]]2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車で[[パリ]]に向かい、[[モンマルトル]]の弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からは{{仮リンク|ルピック通り|en|Rue Lepic}}の[[アパルトマン]]に2人で転居した{{sfn|二見|2010|p=123}}。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い{{sfn|トラルボー|1992|pp=208,214}}。モンマルトルの[[フェルナン・コルモン]]の画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性[[トルソー]]の素描などを残している{{sfn|二見|2010|pp=124-125}}。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身の[[ジョン・ピーター・ラッセル]]とは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=509-514}}。
1886年当時のパリでは、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[クロード・モネ]]、[[カミーユ・ピサロ]]といった今までの[[印象派]]画家とは異なり、[[純色]]の微細な色点を敷き詰めて表現する[[ジョルジュ・スーラ]]、[[ポール・シニャック]]といった[[新印象派]]・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した{{sfn|二見|2010|pp=125-126}}。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところで[[アドルフ・モンティセリ]]の絵を見てから、この画家に傾倒するようになった{{sfn|二見|2010|p=126}}。カフェ・タンブランの女店主{{仮リンク|アゴスティーナ・セガトーリ|en|Agostina Segatori}}にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『[[カフェ・タンブランの女]]』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=517,521,537-538}}。
[[ファイル:Title page Paris Illustre Le Japon vol 4 May 1886.jpg|thumb|left|140px|『パリ・イリュストレ』1886年の日本特集号。画商・[[林忠正]]が大半を執筆し、パリで2万5000部が完売した{{sfn|西岡|2016|pp=83-84}}。]]
[[ファイル:Vincent van Gogh photo.jpg|thumb|160px|1886年頃にパリで撮影されたファン・ゴッホと考えられている肖像写真]]
同居のテオとは口論が絶えず、[[1887年]]3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=524,529}}。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=530-535}}。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、[[アルマン・ギヨマン]]といった画家の作品を購入するようになった。これを機に、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]や、コルモン画塾の筆頭格だった[[ルイ・アンクタン]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]といった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=544-550}}。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー([[タンギー爺さん]])の店も、若い画家たちの交流の場となっていた{{sfn|二見|2010|pp=130-131}}。
ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにある[[サミュエル・ビング]]の店で多くの日本版画を買い集めた{{sfn|二見|2010|pp=131-132}}。1887年の「[[タンギー爺さん]]」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、[[渓斎英泉]]の『雲龍打掛の花魁』、[[歌川広重]]の『[[名所江戸百景]]』「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している{{sfn|二見|2010|pp=140-141}}。英泉作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、ファン・ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、愛読していたことが窺える{{sfn|西岡|2016|p=84}}。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=556}}。
同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した{{sfn|二見|2010|pp=133-134}}。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが{{sfn|Hulsker|1990|p=256}}、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=552-553}}。同月、[[ポール・ゴーギャン]]が[[カリブ海]]の[[マルティニーク]]からフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる{{sfn|二見|2010|p=142}}。
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Van Gogh - Gipstorso (weiblich).jpeg |石膏彫刻の女性トルソー。1886年6月、パリ。油彩、厚紙、46.4 × 38.1 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0089V1962 |title=Torso of Venus |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 216b, JH 1060</sup>。
Van Gogh - Montmartre bei der oberen Mühle.jpeg |『[[モンマルトル]]』1887年初頭、パリ。油彩、キャンバス、43.6 × 33 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/27954 |title=Terrace and Observation Deck at the Moulin de Blute-Fin |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 272, JH 1183</sup>。
Van Gogh - Le Moulin de la Galette3.jpeg |『{{仮リンク|ムーラン・ド・ラ・ギャレット (ファン・ゴッホ)|en|Le Moulin de la Galette (Van Gogh series)|label=ムーラン・ド・ラ・ギャレット}}』1886年10月、パリ。油彩、キャンバス、38.5 × 46 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-moulin-de-la-galette |title=Moulin de la Galette |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 227, JH 1170</sup>。
Vincent van Gogh - Courtesan- after Eisen - Google Art Project.jpg |『おいらん([[渓斎英泉|栄泉]]を模して)』1887年10月-11月、パリ。油彩、キャンバス、100.7×60.7 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0116V1962 |title=Courtesan (after Eisen) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 373, JH 1298</sup>。
Vincent van Gogh - Bloeiende pruimenboomgaard- naar Hiroshige - Google Art Project.jpg |『ジャポネズリー:梅の開花([[歌川広重|広重]]を模して)』1887年10月-11月、パリ。油彩、キャンバス、55.6 × 46.8 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0115V1962 |title=Flowering Plum Orchard (after Hiroshige) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 371, JH 1296</sup>。
Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |『[[タンギー爺さん]]』1887年秋、パリ。油彩、キャンバス、92 × 75 cm。[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-rodin.fr/en/collections/paintings/pere-tanguy |title=Père Tanguy |publisher=Musée Rodin |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 363, JH 1351</sup>。
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=== アルル(1888年-1889年5月) ===
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:France map Lambert-93 with rivers and regions-blank.svg|300px|center|フランスの地図]]
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:120px;top:130px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:80%;left:045px;top:010px">'''{{LinkColor|grey|イギリス}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:013px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:70%;left:230px;top:115px">'''{{LinkColor|grey|スイス}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:250px;top:160px">'''{{LinkColor|grey|イタリア}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:015px;top:220px">'''{{LinkColor|grey|スペイン}}'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:137px;top:68px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[パリ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:185px;top:204px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:110px;top:208px">'''[[アルル]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:30px;top:89px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ポン=タヴァン]]</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 -->
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:190px;top:250px">''[[地中海]]''</div>
</div>
|}
==== ゴーギャン到着まで ====
ファン・ゴッホは、[[1888年]]2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスの[[アルル]]に到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった{{sfn|二見|2010|pp=142-143}}{{sfn|トラルボー|1992|p=217}}。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。[[エドガー・ドガ]]、モネ、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー]]、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そして[[アルマン・ギヨマン]]、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった{{sfn|二見|2010|p=144}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let584/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡584 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月10日、アルル、[[#CL|CL: 468]]、{{Lang|en|Nevertheless, artists won’t find a better way than — to join together, give their pictures to the association, and share the sale price...}})。</ref>。
[[ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|thumb|left|180px|『[[アルルの跳ね橋]]』で描かれたラングロワ橋。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。]]
ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため[[日本]]みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let587/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡587 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年3月18日、アルル、[[#CL|CL: B2]]、{{Lang|en|I want to begin by telling you that this part of the world seems to me as beautiful as Japan...}})。</ref>。3月中旬には、アルルの街の南の[[運河]]にかかるラングロワ橋を描き(『[[アルルの跳ね橋]]』)、3月下旬から4月にかけては[[アンズ]]や[[モモ]]、[[リンゴ]]、[[プラム]]、[[ナシ|梨]]と、花の季節の移ろいに合わせて[[果樹園]]を次々に描いた{{sfn|二見|2010|pp=145-147}}。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家{{仮リンク|クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン|en|Christian Mourier-Petersen}}と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家{{仮リンク|ドッジ・マックナイト|en|Dodge MacKnight}}やベルギーの画家[[ウジェーヌ・ボック]]とも親交を持った{{sfn|マーフィー|2017|pp=79-85}}。
同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「[[黄色い家]]」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}の調査によれば、「黄色い家」は、「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいたがその後空き家になっていた不動産である。マリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ファン・ゴッホを賃借人として紹介したようである{{sfn|マーフィー|2017|pp=120-121}}。}}(ベッドなどの[[家具]]がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。[[ポン=タヴァン]]にいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている{{sfn|二見|2010|pp=149-151}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let616/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡616 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年5月29日、アルル、[[#CL|CL: 493]]、{{Lang|en|I thought of Gauguin and here we are — if Gauguin wants to come here there’s Gauguin’s fare, and then there are the two beds or the two mattresses we absolutely have to buy.}})。</ref>。5月30日頃、[[地中海]]に面した[[サント=マリー=ド=ラ=メール]]の海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=152-153}}。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊や[[ミストラル]](北風)と戦いながら、毎日のように外に出て[[クロー平野]]の麦畑や、[[修道院]]の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日には[[ズアーブ兵]](アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=155,157,160}}。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした{{sfn|マーフィー|2017|p=134}}。
7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、[[ピエール・ロティ]]の『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『[[ラ・ムスメ]]』という題を付けた{{sfn|二見|2010|pp=162,164}}。同月、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]の肖像を描いた{{sfn|二見|2010|p=165}}。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』を4作続けて制作した{{sfn|二見|2010|pp=166-167}}。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『[[夜のカフェ]]』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす[[居酒屋]]であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=170-171}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let677/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡677 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月9日、アルル、[[#CL|CL: 534]]、{{Lang|en|In my painting of the night café I’ve tried to express the idea that the café is a place...}})。</ref>。
一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた{{sfn|二見|2010|p=165}}。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『[[夜のカフェテラス]]』を描き上げた{{sfn|二見|2010|pp=173-175}}。9月下旬、『[[黄色い家]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=178}}。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』){{sfn|二見|2010|pp=182-183}}。
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ファイル: Van Gogh -Die Brücke von Langlois in Arles mit Wäscherinnen.jpeg|『[[アルルの跳ね橋]]』1888年3月、アルル。油彩、キャンバス、54 × 65 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-bridge-at-arles-pont-de-langlois |title=Bridge at Arles (Pont de Langlois) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 397, JH 1368</sup>。
ファイル: Van Gogh - Die Ebene "La Crau" bei Arles mit Montmajour im Hintergrund.jpeg |『{{仮リンク|収穫 (絵画)|es|La cosecha (Van Gogh)|label=収穫}}』(麦秋のクローの野)1888年6月、アルル。油彩、キャンバス、73.4 × 91.8 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0030V1962 |title=The Harvest |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 412, JH 1440</sup>。
ファイル: Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne.jpeg|『日没の種まく人』1888年6月、アルル。油彩、キャンバス、64 × 80.5 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-the-sower |title=The Sower |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 422, JH 1470</sup>。[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の構図に基づく。
ファイル: Vincent Willem van Gogh 128.jpg |『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』1888年8月、アルル。油彩、キャンバス、92.0 × 73.0 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.pinakothek.de/kunst/meisterwerk/vincent-van-gogh/sonnenblumen |title=Sonnenblumen |publisher=Die Pinakotheken |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 456, JH 1561</sup>。
ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |『[[夜のカフェ]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89 cm。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]])<sup>F 463, JH 1575</sup>。
ファイル: Gogh4.jpg |『[[夜のカフェテラス]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。
ファイル:Starry Night Over the Rhone.jpg|『{{仮リンク|ローヌ川の星月夜|en|Starry Night Over the Rhône}}』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=078696&cHash=cb71019294 |title=La nuit étoilée |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 474, JH 1592</sup>。
ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |『[[黄色い家]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。
ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。
</gallery>
==== ゴーギャンとの共同生活 ====
[[ファイル:Paul Gauguin 1891.png|thumb|right|160px|[[ポール・ゴーギャン]]。ファン・ゴッホと弟テオの提案を受け入れ、[[ポン=タヴァン]]を離れて2か月間アルルに滞在した。]]
同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった{{sfn|二見|2010|p=185}}{{Refnest|group="注釈"|ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家[[エミール・シェフネッケル]]に、「この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。」と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというファン・ゴッホとは全く相容れない動機であった{{sfn|圀府寺|2009|p=175}}}}。2人は、街の南東のはずれにある[[アリスカン]]の散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『[[赤い葡萄畑]]』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]』){{sfn|二見|2010|pp=187-189}}。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた{{sfn|二見|2010|p=190}}。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている{{sfn|二見|2010|p=192}}。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた{{sfn|二見|2010|pp=190-191}}。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=193}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let723/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡723 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年12月1日頃、アルル、[[#CL|CL: 560]]、{{Lang|en|You can sense how in my element that makes me feel...}})。</ref>。
[[ファイル:Paul Gauguin 104.jpg|thumb|left|180px|ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写は[[カリカチュア]]的ともいえる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=686}}{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホの死後、ゴーギャンは『前後録』の中で、ゴッホがこの作品を見て「こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。」と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている{{sfn|小林英樹|2002|pp=126-128}}。}}。]]
一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼は[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]の絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている{{sfn|二見|2010|p=192}}。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=194}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let724/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡724 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年12月11日頃、アルル、[[#CL|CL: 565]]、{{Lang|en|I myself think that Gauguin had become a little disheartened by the good town of Arles...}})。ゴーギャンよりテオ宛書簡(同Note 1、{{Lang|en|I am obliged to return to Paris; Vincent and I can absolutely not live side by side without trouble...}})。</ref>。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70 kmの[[モンペリエ]]に行き、[[ファーブル美術館]]を訪れた。ファン・ゴッホは特に[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワや[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]について熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた{{sfn|二見|2010|pp=194-197}}。
[[ファイル:Le Forum Républicain (Arles) - 30 December 1888 - Vincent van Gogh ear incident.jpg|thumb|right|180px|「耳切り事件」を報じる『ル・フォロム・レピュブリカン』紙。この事件でゴーギャンとの共同生活は終わりを告げた。]]
同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した{{Refnest|group="注釈"|事件後にアルル市立病院を訪れたポール・シニャックから、伝記作家{{仮リンク|ギュスターヴ・コキオ|en|Gustave Coquiot}}が聞き取ったところによれば、耳全体ではなく、[[耳たぶ]]を切り落としたとされており、多くの伝記もこれに従う{{sfn|マーフィー|2017|p=67}}{{sfn|二見|2010|p=336}}。死の床にあるファン・ゴッホを[[ポール・ガシェ|ガシェ医師]]が描いたスケッチ(''[[#死(1890年7月)|死(1890年7月)]]'')によれば、左の[[耳介]]の大部分は無傷で残っているようにも見える。他方、当時娼館に臨場した警察官アルフォンス・ロベールは、新聞紙の包みに「耳がまるごとありました」と述べている({{sfn|マーフィー|2017|pp=203-204}})。{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}が発見した、市立病院でファン・ゴッホを診察したレー医師作成の説明図によれば、耳たぶの一部だけを残してほとんど耳全体が切り落とされている{{sfn|マーフィー|2017|pp=210-215}}。}}。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
{{Quotation|先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}の調査によれば、ラシェルの本名はガブリエル・ベルラティエといい、娼婦ではなく、娼館の小間使いや店の掃除をして働く19歳の女性であった{{sfn|マーフィー|2017|pp=303-308}}。}}を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。|『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日{{sfn|二見|2010|p=198}} }}
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、彼から伝え聞いた話として、1889年1月1日[[消印]]の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。
{{Quotation|「アルルを去る前の晩、私の後をヴァンサンが追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を[[逮捕]]した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、[[剃刀]]で耳を切り落とした。それから大きな[[ベレー帽]]をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」{{sfn|二見|2010|pp=199-200}}}}
一方、その10年あまり後、晩年のゴーギャンが書いた自伝『前後録』の中では、ファン・ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手に突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある{{sfn|二見|2010|pp=199-200}}。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた{{sfn|二見|2010|p=199}}。
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Red vineyards.jpg|『[[赤い葡萄畑]]』1888年11月、アルル。油彩、キャンバス、73 × 91 cm。[[プーシキン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.arts-museum.ru/data/fonds/europe_and_america/j/0000_1000/2787_Krasnye_vinogradniki_v_Arle_Monmazhur/index.php?sea_val=Van%20Gogh&lang=en |title=Red Vineyard at Arles (Montmajour) |publisher=The Pushkin State Museum of Fine Arts |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 495, JH 1626</sup>。
Gauguin Misères humaines.jpg|ゴーギャン『ぶどうの収穫――人間の悲哀』1888年11月。ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』と同時期の作品。
Vincent van Gogh - The Arlesienne - Google Art Project.jpg|『[[アルルの女 (ジヌー夫人)]]』1888年11月、アルル。油彩、キャンバス、92.5 × 73.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=14058 |title=L'Arlésienne |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 489, JH 1625</sup>。
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==== アルル市立病院 ====
{{multiple image
| align = left
| image1 = Drawing of the mutilation of Vincent van Gogh's ear.jpg | width1= 120 | caption1= レー医師が1930年に[[アーヴィング・ストーン]]のために描いたファン・ゴッホの耳の図。上図には「点線に沿ってかみそりで耳をそぎ落とした」、下図には「耳たぶの一部だけが残った」と説明がある{{sfn|マーフィー|2017|p=215}}。
}}
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの[[婚約]]を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=705-706}}。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに[[哲学]]や[[神学]]をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している{{sfn|二見|2010|p=201}}{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=706-707}}。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った{{sfn|マーフィー|2017|pp=218-219}}。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた{{sfn|マーフィー|2017|p=231}}。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された{{sfn|マーフィー|2017|pp=233-235}}。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは[[1889年]]1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let728/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡728 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年1月2日、アルル、[[#CL|CL: 567]]、{{Lang|en|I’ll stay here at the hospital for another few days...}})。</ref>。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った{{sfn|二見|2010|pp=202-206}}{{sfn|マーフィー|2017|pp=241-243}}。
[[ファイル:Arles Hotel Dieu garden.jpg|thumb|right|180px|アルル市立病院の中庭。当時35歳のファン・ゴッホが収容された。]]
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に[[包帯]]をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]』も完成させた{{sfn|二見|2010|pp=207-210}}。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った{{sfn|マーフィー|2017|p=253}}。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない[[幻覚]]はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された{{sfn|二見|2010|pp=211-213}}{{sfn|マーフィー|2017|p=260}}。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか[[精神病院]]に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された{{sfn|二見|2010|pp=214-215}}{{sfn|マーフィー|2017|pp=261-262}}<ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/misc/archives/petition_e.htm |title=The Arles Petition: Petition, report and inquest |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-26}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}は著書で「黄色い家」をファン・ゴッホに貸していた家主ベルナール・スーレが、「黄色い家」を新たにたばこ屋に貸すために、親戚・知人の署名を集めてファン・ゴッホの追い出しを画策したのではないかと推測している{{sfn|マーフィー|2017|pp=279-282}}。}}。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した{{sfn|マーフィー|2017|p=272}}。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=729-730}}。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている{{sfn|マーフィー|2017|p=267}}。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=731-736}}。
そんな中、3月23日、画家[[ポール・シニャック]]がアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=742-743}}。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった{{sfn|マーフィー|2017|pp=293-294}}。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた{{sfn|マーフィー|2017|pp=294-296}}。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ{{sfn|二見|2010|pp=218-219}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let760/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡760 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年4月21日、アルル、[[#CL|CL: 585]]、{{Lang|en|At the end of the month I’d still wish to go to the mental hospital at St-Rémy or another institution...}})。</ref>。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった{{sfn|マーフィー|2017|p=296}}。
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Van Gogh - Selbstbildnis mit verbundenem Ohr und Pfeife.jpeg |『[[包帯をしてパイプをくわえた自画像]]』1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、51 × 45 cm。個人コレクション<sup>F 529, JH 1658</sup>。退院後に担当医らのために描かれた2枚の自画像のうち1枚{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=718}}。
Van Gogh - Bildnis Doktor Félix Rey.jpeg |『{{仮リンク|レー医師の肖像|fr|Portrait du docteur Rey}}』1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、64 × 53 cm。[[プーシキン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.arts-museum.ru/data/fonds/europe_and_america/j/0000_1000/2832_Portret_doktora_Feliksa_Reya/index.php?sea_val=Van%20Gogh&lang=en |title=Portrait of Doctor Rey |publisher=The Pushkin State Museum of Fine Arts |accessdate=2017-12-18}}</ref><sup>F 500, JH 1659</sup>。
Van Gogh - La Berceuse (Augustine Roulin).jpeg|『[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]』1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、92.7 × 73.8 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/27949 |title=Madame Roulin Rocking the Cradle (La berceuse) |publisher=Art Institute of Chicago |accessdate=2017-12-23}}</ref><sup>F 506, JH 1670</sup>。
Van Gogh - Garten des Hospitals in Arles1.jpeg|『アルルの病院の中庭』1889年4月、アルル。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。{{仮リンク|ラインハルト・コレクション|en|Am Römerholz}}<sup>F 519, JH 1687</sup>。
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=== サン=レミ(1889年5月-1890年5月) ===
{{multiple image
| align = right
| image1 = Gogh Saint-Paul-de Mausole.jpg | width1= 80 | caption1= [[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]の療養所の病室。当初ファン・ゴッホは3か月程度の滞在のつもりだったが、36歳から37歳までの1年間、療養生活を送った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=754}}。
}}
同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にある[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]の{{仮リンク|サン=ポール=ド=モーゾール修道院|fr|Monastère Saint-Paul-de-Mausole}}療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いた[[てんかん]]発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している{{sfn|二見|2010|p=225}}。
ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=754}}、療養所の庭で[[イチハツ]]の群生や[[ライラック|アイリス]]を描いた{{sfn|二見|2010|pp=225-226}}。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、[[アルピーユ山脈]]の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出て[[オリーブ]]畑や[[イトスギ|糸杉]]を描くようになった{{sfn|二見|2010|p=228}}。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と[[三日月]]に、S字状にうねる雲を描いた『[[星月夜]]』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的[[デッサン]]によって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている{{sfn|二見|2010|p=231}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let782/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡782 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月18日、サン=レミ、[[#CL|CL: 595]]、{{Lang|en|It’s not a return to the romantic or to religious ideas...}})。</ref>。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている{{sfn|二見|2010|pp=230,246}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let781/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡781 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年6月16日、パリ、[[#CL|CL: T10]]、{{Lang|en|All of them have a power of colour which you hadn’t attained before...}})。</ref>。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=768}}。
ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている{{sfn|二見|2010|p=234}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let797/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡797 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年8月22日、サン=レミ、[[#CL|CL: 601]]、{{Lang|en|You can imagine that I’m very deeply distressed that the attacks have recurred when... For many days I’ve been absolutely distraught... This new crisis, my dear brother, came upon me in the fields...}})。</ref>。9月初めには意識は清明に戻り、[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『[[ピエタ]]』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=236-239}}。また、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家が[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を解釈するのになぞらえている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let805/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡805 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月20日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 607]]、{{Lang|en|Very well – but in music it isn’t so – and if such a person plays some Beethoven he’ll add his personal interpretation to it...}})。</ref>。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=246-248,252}}。
<gallery>
ファイル:Van Gogh - Iris (Schwertlilien).jpeg |『[[アイリス (絵画)|アイリス]]』1889年5月、サン=レミ。油彩、キャンバス、74.3 × 94.3 cm。[[J・ポール・ゲティ美術館]](米[[カリフォルニア州]])<ref>{{Cite web |url=http://www.getty.edu/art/collection/objects/826/vincent-van-gogh-irises-dutch-1889/ |title=Irises |publisher=The J. Paul Getty Trust |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 608, JH 1691</sup>。
ファイル:Van Gogh - Starry Night - Google Art Project.jpg|『[[星月夜]]』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.7 × 92.1 cm。[[ニューヨーク近代美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.moma.org/collection/works/79802 |title=The Starry Night |publisher=The Museum of Modern Art |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 612, JH 1731</sup>。
ファイル:Van Gogh - Zypressen.jpeg|『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、93.4 × 74 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437980 |title=Cypresses |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 613, JH 1746</sup>。
ファイル:Van Gogh - Olivenhain1.jpeg|『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、72 × 92 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-olive-grove |title=Olive grove |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 585, JH 1758</sup>。
ファイル: Van Gogh - Weizenfeld mit Schnitter bei aufgehender Sonne.jpeg |『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.2 × 92.7 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0049V1962 |title=Wheatfield with a Reaper |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 618, JH 1773</sup>。
ファイル:Van Gogh - Straßenarbeiter auf dem Boulvard Victor Hugo in Saint-Rémy.jpeg|『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.4 × 91.8 cm。[[クリーブランド美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.clevelandart.org/art/1947.209 |title=The Large Plane Trees (Road Menders at Saint-Rémy), 1889 |publisher=The Cleveland Museum of Art |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 658, JH 1861</sup>。
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[[ファイル:Jo Bonger and son Vincent Willem van Gogh 1890 (cropped).jpg|thumb|left|100px|[[ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル|ヨー]]とその子[[フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ|フィンセント・ヴィレム]]。]]
1889年の[[クリスマス]]の頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった{{sfn|二見|2010|p=254}}。[[1890年]]1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた{{sfn|二見|2010|p=258}}。1月31日にテオとヨーの間に息子([[フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ|フィンセント・ヴィレム]]と名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『[[花咲くアーモンドの木の枝]]』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとに[[アルルの女 (ジヌー夫人)|ジヌー夫人]]の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった{{sfn|二見|2010|pp=259-260}}。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている{{sfn|二見|2010|p=262}}。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の[[灯油]]を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている{{sfn|二見|2010|pp=264-265}}。
一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家の[[アルベール・オーリエ]]が『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、[[ブリュッセル]]で開かれた[[20人展]]ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した{{sfn|吉屋|2005|p=200}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=803,806}}。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『[[赤い葡萄畑]]』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーの[[アンナ・ボック]])、テオから兄に伝えられた{{sfn|二見|2010|p=260}}。3月には、パリで開かれた[[アンデパンダン展]]に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている{{sfn|二見|2010|pp=261-262}}。
体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]と親しい医師[[ポール・ガシェ]]を頼って、パリ近郊の[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]に転地することにした。最後に『[[糸杉と星の見える道]]』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った{{sfn|二見|2010|pp=264-266}}。
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ファイル:Van Gogh - Blühende Mandelbaumzweige.jpeg |『[[花咲くアーモンドの木の枝]]』1890年2月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73.3 × 92.4 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0176V1962 |title=Almond Blossom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 671, JH 1891</sup>。
ファイル: Vincent van Gogh - Road with Cypress and Star - c. 12-15 May 1890.jpg |『[[糸杉と星の見える道]]』1890年5月、サン=レミ。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-country-road-in-provence-by-night-1 |title=Country road in Provence by Night |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 683, JH 1967</sup>。
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=== オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月) ===
[[ファイル:Paul Gachet2.jpg|thumb|140px|[[ポール・ガシェ|ガシェ]](当時61歳)は、[[ホメオパシー]]を用いる医師であり、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。]]
[[ファイル:Gogh Ravoux Auvers.jpg|thumb|left|200px |ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊した[[ラヴー旅館]]の部屋。37歳のファン・ゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。]]
同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れた[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]の農村に着き、[[ポール・ガシェ]]医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|Then I’ve found in Dr Gachet a ready-made friend and...}})。</ref> と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場の[[ラヴー旅館]]に滞在することにした{{sfn|二見|2010|pp=268-269}}。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、[[セイヨウトチノキ]](マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、[[医師ガシェの肖像|ガシェの肖像]]などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=269-271}}。6月初めには、さらに『[[オーヴェルの教会]]』を描いた{{sfn|二見|2010|p=272}}。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=825-830}}。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=273-274}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=830}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let881/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡881 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月10日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 640]]、{{Lang|en|Sunday has left me a very pleasant memory.}})。</ref>。6月末から50 cm([[センチメートル]])×100 cmの長い[[キャンバス]]を使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた{{sfn|二見|2010|p=279}}。
[[ファイル:Van Gogh's Palette.jpg|thumb|left|140px|オーヴェルに残されていたファン・ゴッホのパレット([[オルセー美術館]]){{sfn|デーネカンプほか|2016|p=102}}。]]
この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている{{sfn|二見|2010|p=280}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let894/letter.html#translation |title=テオよりフィンセント宛書簡894 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月30日・7月1日、パリ、[[#CL|CL: T39]])。</ref>。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、[[アルベール・オーリエ]]や、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない{{sfn|小林英樹|2009|pp=262-263}}{{Refnest|group="注釈"|小林英樹の著書では、子供ヴィレムが生まれ自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているファン・ゴッホとの間に、テオのブッソ=ヴァラドン商会去就問題を前に避けがたい対立関係が生じていたとした上で{{sfn|小林英樹|2009|pp=201-202}}、7月6日にヨーとファン・ゴッホが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し{{sfn|小林英樹|2009|pp=236-237}}、ファン・ゴッホが疎外感から自殺する原因になったと指摘する{{sfn|小林英樹|2009|p=273}}。一方、[[高階秀爾]]の著書では、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子フィンセント・ヴィレムを連れて一家で帰省する予定だったのに対し、ファン・ゴッホはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望しており、7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうとする。そして、テオが7月14日付けの手紙で「明朝[[ライデン]]に発つ」と知らせてきたことでフィンセントは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたとする{{sfn|高階|1984|pp=209-215}}。}}。ファン・ゴッホは、7月10日頃、[[オーヴェル=シュル=オワーズ|オーヴェル]]からテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『[[カラスのいる麦畑]]』、『[[ドービニーの庭]]』)を描き上げたことを伝えている{{sfn|二見|2010|pp=282-283}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let898/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡898 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月10日頃、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 649]]、{{Lang|en|It’s no small thing when all together we feel the daily bread in danger...}})。</ref>。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題{{Refnest|group="注釈"|テオとドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えた{{sfn|二見|2010|pp=285-286}}。}}に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている{{sfn|二見|2010|pp=286-289}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let902/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡902 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年7月23日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: 651]]、{{Lang|en|As regards the state of peace in your household,...}})。</ref>。
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ファイル:Vincent van Gogh - Dr Paul Gachet - Google Art Project.jpg |『[[医師ガシェの肖像]]』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、68.2 × 57 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=751 |title=Le docteur Paul Gachet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 754, JH 2014</sup>。
ファイル: L'église d'Auvers-sur-Oise.jpg |『[[オーヴェルの教会]]』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、93 × 74.5 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=755 |title=L'église d'Auvers-sur-Oise, vue du chevet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 789, JH 2006</sup>。
ファイル:Whitehousenight.jpg |『[[夜の白い家]]』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、59 × 72.5 cm。[[エルミタージュ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/digital-collection/01.+paintings/39642 |title=White House at Night |publisher=The State Hermitage Museum |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 766, JH 2031</sup>。
ファイル:Vincent Willem van Gogh 073.jpg|『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、102.6 × 50 cm。[[バーゼル市立美術館]]<sup>F 772, JH 2048</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - Wheatfield under thunderclouds - Google Art Project.jpg |『荒れ模様の空の麦畑』1890年7月、オーヴェル。油彩、キャンバス、50.4 × 101.3 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0106V1962 |title=Wheatfield under Thunderclouds |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 778, JH 2097</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - Wheatfield with crows - Google Art Project.jpg |『[[カラスのいる麦畑]]』1890年7月、オーヴェル。油彩、キャンバス、50.5 × 103 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0149V1962 |title=Wheatfield with Crows |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 779, JH 2117</sup>。
ファイル:Van Gogh - Der Garten von Daubigny1.jpeg |『[[ドービニーの庭]]』1890年7月、オーヴェル。油彩、キャンバス、54 × 101.5 cm。バーゼル市立美術館<sup>F 777, JH 2105</sup>。
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=== 死(1890年7月) ===
[[ファイル:Vincent-van-gogh-echo-pontoisien-august7-1890.jpg|thumb|right|200px|ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)]]
[[ファイル:Gachet-VanGoghdead1890.jpg|thumb|left|120px|ガシェ医師による死の床のファン・ゴッホのスケッチ(1890年7月29日)。]]
[[ファイル:Vincent van Gogh - Tree Roots and Trunks (F816).jpg|thumb|right|200px|『木の根と幹』、1890年7月、オーヴェル、油彩、キャンバス、50 × 100 cm。[[ファン・ゴッホ美術館]] <sup>F 816, JH 2113 </sup> 。<br />本作をファン・ゴッホの[[絶筆]]とする説がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200728223550/https://this.kiji.is/660948039103612001 |title=ゴッホ最後の絵、場所特定 「木の根と幹」パリ近郊 |website=共同通信 |publisher=共同通信社 |date=2020-07-29 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。]]
[[浮世絵]]に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家{{仮リンク|エドムンド・ウォルポール・ブルック|en|Edmund_Walpole_Brooke|preserve=1}}と知り合った。エドムンドは[[イギリス人]]の父{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ブルック|en|John Henry Brooke|preserve=1}}が[[ジャパン・デイリー・ヘラルド]]の[[ディレクター]](1867年から)で、日本で活動していた<ref>[https://web.archive.org/web/20210607184306/https://news.artnet.com/art-world/vincent-van-gogh-edmund-walpole-brooke-1976668 Can This $45 Thrift Store Painting Provide Clues About Vincent Van Gogh’s Final Days in France? Art Historians Are Hoping So.] Sarah Cascone, June 7, 2021.</ref>{{efn|[[大阪大学]]の[[小寺司]]美術史教授による研究がある<ref>{{Cite web|title=Tsukasa Kodera|url=https://tsukasakodera.academia.edu/research#papers|access-date=2021-06-14|website=tsukasakodera.academia.edu}}</ref>。}}。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は[[銃創]]であり、左乳首の下、3、4 cmの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の[[暈]]に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした{{sfn|二見|2010|p=295}}。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた{{sfn|二見|2010|pp=292-293}}。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没{{sfn|二見|2010|p=296}}。7月30日、[[葬儀]]が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間[[シャルル・ラヴァル]]や、[[タンギー爺さん|ジュリアン・フランソワ・タンギー]]など、12名ほどが参列した{{sfn|二見|2010|pp=298-299}}。
テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている{{sfn|二見|2010|pp=297-298}}。
[[ファイル:Auvers-sur-Oise Cimetière 977.JPG|thumb|right|200px|オーヴェルにあるファン・ゴッホ(左)とテオの墓]]
テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商[[ポール・デュラン=リュエル]]に協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった{{sfn|二見|2010|pp=302-303}}{{sfn|木下|2002|p=110}}一方、9月12日頃、テオは[[めまい]]がするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは[[梅毒]]の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、[[ユトレヒト]]近郊の診療所に移送され療養を続けたが、[[1891年]]1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された{{sfn|二見|2010|pp=302-304}}。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、[[1905年]]6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された<ref>{{Cite web |url=http://www.wormwoodsociety.org/index.php/science-articles/667-vincent-van-gogh-and-the-thujone-connection- |title=Vincent van Gogh and the Thujone Connection |author=Arnold, Wilfred Niels |publisher=The Wormwood Society |accessdate=2013-12-04}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://communityoflights.com/art/vincent-van-gogh |title=Vincent van Gogh |publisher=Community of Lights |accessdate=2013-12-04}}</ref>。[[1914年]]4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の[[墓石]]が並ぶことになった{{sfn|二見|2010|p=304}}。
ファン・ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて[[自殺]]を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張もある。[[2011年]]にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、地元の少年達との小競り合いの末に、彼らが持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったとする説を唱えた。[[ゴッホ美術館|ファン・ゴッホ美術館]]は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている<ref name="BBCVanGogh">{{cite web |url=https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-15328583 |title=Van Gogh did not kill himself, authors claim |author= |date=2011-10-17 |accessdate=2021-03-03 |website=BBC News |publisher=BBC |language=en}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|左脇腹から下方向に撃ったとされる[[銃創]]の状況、凶器とされる[[ピストル]]が発見されていないことなどから他殺である可能性が高いとした上で{{sfn|小林利延|2008|pp=39-51}}、経済面での対立などを挙げてテオによる犯行を示唆している{{sfn|小林利延|2008|pp=192-219}}。}}。[[2016年]]7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、[[1960年]]にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3093759 |title=ゴッホが自殺に使用したとされる拳銃を展示、ゴッホ美術館 写真3枚 国際ニュース|website=AFPBB News|publisher=AFP通信|date=2016-07-13|accessdate=2021-03-03}}</ref>。
== 病因 ==
ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える{{sfn|トラルボー|1992|p=286}})。このうち、[[てんかん]]もしくは統合失調症とする説が最も有力である{{sfn|木下|2002|p=100}}。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている{{sfn|トラルボー|1992|pp=286-287}}。
; てんかん説
: アルルの病院の上層部による診断は「全般的[[せん妄]]を伴う急性[[躁病]]」であったが、若いフェリクス・レー医師だけが「一種のてんかん」と考え、ファン・ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきたてんかんとは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レーの診断を支持した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=749-751}}。
; [[統合失調症]]説
: [[カール・ヤスパース]]は、てんかんのうち強直間代発作における典型的症状である強直[[痙攣]]が見られないことから、てんかん説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て[[統合失調症]]との判定に傾いている{{sfn|小山田|2006|p=69}}。
; [[梅毒]]性麻痺説
: ファン・ゴッホは、アントウェルペン滞在中に梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。ランゲ・アイヒバウムは、「急性梅毒性分裂・てんかん様障害」との診断を下している{{sfn|小山田|2006|pp=65-69}}。
; [[メニエール病]]説
: メニエール病とは[[内耳]]の病気で、ひどい[[目まい]]、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。ファン・ゴッホは「目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ」と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある{{sfn|小山田|2006|p=60}}。
; [[アブサン]]中毒説
: ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料の[[ニガヨモギ]]に含まれる[[ツジョン]]という有毒成分があり、[[振戦せん妄]]、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とする[[アルコール中毒]]を引き起こす{{sfn|小山田|2006|pp=47-50}}。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤である[[テレビン油]]がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある{{sfn|小山田|2006|pp=59-60}}。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある{{sfn|マーフィー|2017|pp=186-188}}。
; [[急性間欠性ポルフィリン症]]説
: [[ポルフィリン]]誘導体の代謝異常により、間欠的な腹痛、悪心、嘔吐を伴い、[[光過敏症]]となり、神経症状を引き起こすとされている、まれな病気である。この説に対しては、遺伝的な説明が不十分との意見もある{{sfn|小山田|2006|p=127}}<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1991/12/21/arts/new-explanation-given-for-van-gogh-s-agonies.html |title=New Explanation Given For van Gogh's Agonies |author=Natalie Angier |newspaper=New York Times |date=1991-12-21 |accessdate=2021-03-03|language=en}}</ref>。
孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、[[アスペルガー症候群]]であったとする見解もある{{sfn|フィッツジェラルド|2009|pp=258-271}}。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い{{sfn|木下|2002|p=100}}。
== 後世 ==
=== 1890年代の評価 ===
{{multiple image
|image1 = Aurier, Albert, BNF Gallica.jpg |width1 = 100
|image2 = Octave Mirbeau formal portrait.jpg |width2 = 90
|footer = 早期からファン・ゴッホの作品を賞賛した[[アルベール・オーリエ]](左)と[[オクターヴ・ミルボー]]。
}}
ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している{{Refnest|アルベール・オーリエ「孤立者たち――フィンセント・ファン・ゴッホ」『メルキュール・ド・フランス』1890年1月10日。近藤學訳{{sfn|エニック|2005|pp=269-278}} }}。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった{{sfn|エニック|2005|p=45}}。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉[[アンナ・ボック]]が400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている{{sfn|エニック|2005|p=66}}{{Refnest|group="注釈"|マルク・エド・トラルボーは著書で、『赤い葡萄畑』の約15か月前にファン・ゴッホの自画像がテオからロンドンの画商に売られていることを指摘している{{sfn|トラルボー|1992|pp=299-300}}。}}。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある{{sfn|エニック|2005|p=71}}。
[[ファイル:Richard Roland Holst - Van Gogh exposition.jpg|thumb|left|160px|1892年、アムステルダムでのファン・ゴッホ回顧展で、{{仮リンク|リシャルト・ロラント=ホルスト|de|Richard Roland Holst}}が描いたカタログの表紙。沈む太陽と、萎れゆくひまわりを通じ、聖人・殉教者としてのゴッホを表現している{{sfn|圀府寺|2010|pp=111-112}}{{sfn|西岡|2016|pp=42-43}}。]]
ゴッホ死後の[[1891年]]2月、[[ブリュッセル]]の20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。[[オクターヴ・ミルボー]]は、このアンデパンダン展について、『[[エコー・ド・パリ]]』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている{{sfn|二見|2010|pp=307-308}}。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「[[写実主義]]者」であると同時に「[[象徴主義]]者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「[[自然主義]]の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている{{sfn|エニック|2005|p=59}}。唯一、シャルル・メルキが[[1893年]]に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「[[こて (工具)|こて]]に山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。……何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった{{sfn|エニック|2005|pp=46-50}}。
ヨーは、[[1892年]]、[[アムステルダム]]での素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した{{sfn|二見|2010|p=308}}。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、[[1893年]]3月、[[コペンハーゲン]]でゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した{{sfn|ソールツマン|1999|pp=110-112}}。パリの新興の画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]も、[[1895年]]と[[1896年]]に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した{{sfn|二見|2010|p=309}}<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/exhibitions/picasso/themes.html |title=Cézanne to Picasso: Ambroise Vollard, Patron of the Avant-Garde |publisher=The Art Institute of Chicago |year=2006 |accessdate=2015-06-29 }}</ref>。
[[1893年]]、ベルナールが『メルキュール・ド・フランス』誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの[[伝記]]的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。[[1894年]]、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている{{sfn|エニック|2005|pp=55-56}}。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した{{sfn|エニック|2005|p=56}}。
=== 社会的受容と伝説の流布(20世紀前半) ===
[[1900年]]頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100[[フラン (通貨)|フラン]]で買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は[[大衆]]に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、[[展覧会]]や[[美術館]]への公衆のアクセスであった{{sfn|エニック|2005|pp=66-67}}。
==== 展覧会 ====
[[1901年]]3月には、'''パリ'''の[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]で65点の油絵が展示され、この展覧会は[[アンリ・マティス]]、[[アンドレ・ドラン]]、[[モーリス・ド・ヴラマンク]]という[[フォーヴィスム]]の主要な画家たちに大きな影響を与えた。[[1905年]]3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(''→[[#絵画史的意義|絵画史的意義]]'')。
'''オランダ'''でも、[[ドルドレヒト]]、[[レイデン]]、[[デン・ハーグ|ハーグ]]、アムステルダム、[[ロッテルダム]]など、各地で展覧会が開催され、1905年には[[アムステルダム市立美術館]]で474点という大規模の回顧展が開催された{{sfn|二見|2010|pp=309-310}}。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った{{sfn|新関|2011|p=340}}。
'''ドイツ'''では、[[ベルリン]]の画商[[パウル・カッシーラー]]が、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、[[ハンブルク]]、[[ドレスデン]]、ベルリン、[[ウィーン]]と、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した{{sfn|ソールツマン|1999|pp=171,174}}{{sfn|木下|2002|p=110}}。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った{{sfn|ソールツマン|1999|pp=174-175}}。もっとも、ファン・ゴッホを「フランス絵画」と見て批判する声もあった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=218-219}}。[[1928年]]にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、[[オットー・ヴァッカー|ヴァッカー]]・スキャンダルが明るみに出た{{sfn|ソールツマン|1999|p=241}}''(→[[#真贋・来歴をめぐる問題]])''。
'''[[ロンドン]]'''では、[[ロジャー・フライ]]が[[1910年]]11月、「マネとポスト印象派の画家たち」と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した{{sfn|ソールツマン|1999|pp=197-198}}。
[[1937年]]には、[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]の一環として大規模な回顧展が開かれた{{sfn|エニック|2005|p=289}}。
'''[[アメリカ合衆国]]'''では、[[1929年]]、[[ニューヨーク近代美術館]]のこけら落とし展覧会で、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]、[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、[[1935年]]に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ{{sfn|ソールツマン|1999|pp=349-350}}。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。[[ナチス・ドイツ]]の[[退廃芸術]]押収から逃れた作品の受入先ともなった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=331-338}}。
==== 書簡集と伝記の出版 ====
[[ファイル:Johanna Bonger.jpeg|thumb|left|160px|回顧展の開催、書簡集の出版などファン・ゴッホの知名度向上に努めた、テオの妻[[ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル|ヨー]]。しかし、兄弟の物語を美化して広めたとの批判も受ける{{sfn|高階|2008|p=164}}。]]
[[1911年]]、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。[[1914年]]、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した{{sfn|二見|2010|pp=310-311}}{{sfn|小林英樹|2009|pp=257-258}}{{Refnest|新訳も刊行されている<ref>{{Cite book|和書|author=ヨー ファン・ゴッホ=ボンゲル |others=マーティン・ゲイフォード(解説)、林卓行(監修、翻訳)、吉川真理子(翻訳) |title=フィンセント・ファン・ゴッホの思い出 |date=2020-01-27 |publisher=[[東京書籍]] |series=Artist by Artist |volume= |isbn=978-4487813247 }}</ref>。}}。
書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった{{sfn|エニック|2005|p=77}}。すなわち、「強い使命感」、「並外れた[[天才]]」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死([[殉教]]のイメージ)」、「後世における成就」といった[[モチーフ (物語)|モチーフ]]が伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の[[聖人]]伝を構成する要素と同じであることが指摘されている{{sfn|エニック|2005|pp=78-80}}。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた{{sfn|エニック|2005|pp=81,87,92}}。[[1934年]]には[[アーヴィング・ストーン]]が''{{Lang|en|Lust for Life}}''と題する伝記小説(邦訳『[[炎の人ゴッホ]]』)を発表し、全米のトップセラーとなった<ref name="炎の人">訳者「解説」、アーヴィング・ストーン『炎の人ゴッホ』、[[新庄哲夫]]訳、[[中公文庫]]、1990年。ISBN 4122017238 所収(pp.822-23)。</ref>。
==== 精神医学的研究 ====
[[1920年]]のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、[[1924年]]フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った{{sfn|エニック|2005|pp=141,281,309}}。他方、[[アントナン・アルトー]]は、[[1947年]]に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している{{sfn|エニック|2005|pp=154-159}}。
=== 大衆文化への取込み(20世紀後半) ===
第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、[[映画]]、[[芝居]]、[[バレエ]]、[[オペラ]]、[[歌謡曲]]、[[広告]]、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、[[絵葉書]]、[[Tシャツ]]、[[テレフォンカード]]等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった{{sfn|エニック|2005|p=170}}。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた{{sfn|高階|2008|p=164}}。
1970年代、[[ヤン・フルスケル]]がファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=390-391}}。[[1984年]]、ニューヨークの[[メトロポリタン美術館]]が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。[[1987年]]には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=378-381,387-389,394}}。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる[[1990年]]には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した{{sfn|ソールツマン|1999|p=380}}。
==== 映画 ====
[[ファイル:Kirk Douglas 1955.jpg|thumb|right|150px|映画『[[炎の人ゴッホ]]』を主演した時の[[カーク・ダグラス]](1955年)。]]
1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にファン・ゴッホを題材としたドキュメンタリーおよびフィクションの映像作品は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている{{sfn|エニック|2005|pp=170,173}}。劇場公開された代表的な作品としては次のようなものがある。
*『ファン・ゴッホ』([[1948年]]、[[フランス]])
*: [[アラン・レネ]]監督の[[短編映画]](日本では劇場未公開)。
*『[[炎の人ゴッホ]]』(''{{Lang|en|Lust for Life}}'', [[1955年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]])
*: 監督[[ヴィンセント・ミネリ]]、出演[[カーク・ダグラス]]。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なファン・ゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。ゴーギャンを演じたアンソニー・クインがアカデミー助演男優賞を受賞。
*『[[ゴッホ (映画)|ゴッホ]]』(''{{Lang|en|Vincent & Theo}}'', [[1990年]]、アメリカ)
*: 監督[[ロバート・アルトマン]]、出演[[ティム・ロス]]。神話化されたファン・ゴッホの物語の[[脱構築]]を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は、他の作品に比べれば感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。
*『[[夢 (映画)|夢]]』(Dreams, 1990年、[[日本]]・アメリカ)
*: 監督[[黒澤明]]。八つのエピソードのうちの一つ「鴉」が、主人公の日本人がファン・ゴッホの絵画世界の中に入り込んで本人に出会う夢話となっている。ファン・ゴッホを演じたのは[[映画監督]]の[[マーティン・スコセッシ]]。
*『{{仮リンク|ヴァン・ゴッホ (1991年の映画)|label=ヴァン・ゴッホ|en|Van Gogh (1991 film)}} 』(Van Gogh, 1991年、フランス)
*: 監督[[モーリス・ピアラ]]。ゴッホの最晩年、オーヴェル=シュル=オワーズにおける2カ月の生活を描く。医師ガシェの娘マルグリットとの関係なども描かれ、快活で人間味のあるゴッホが描かれている。
*『[[ゴッホ 最期の手紙]]』(Loving Vincent, 2017年、イギリス・ポーランド合作)
*: 監督{{仮リンク|ドロタ・コビエラ|en|Dorota Kobiela}}、{{仮リンク|ヒュー・ウェルチマン|en|Hugh Welchman}}。全編が、ゴッホの油絵タッチで描かれたアニメーション映画。俳優の演じた実写映像をもとにしている。ゴッホの死後に周囲の人物が自分たちのゴッホ像を語る形式なのでそのキャラクターは判然としない。第30回ヨーロッパ映画賞長編アニメ映画賞受賞。
*『[[永遠の門 ゴッホの見た未来]]』(At Eternity's Gate, 2018年、アメリカ合衆国、イギリス、フランス合作)
*: 監督[[ジュリアン・シュナーベル]]。ゴッホを[[ウィレム・デフォー]]が演じている。デフォーは本作の演技で[[第75回ヴェネツィア国際映画祭|ヴェネツィア国際映画祭]][[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]を受賞した。本作のゴッホは浮世離れした感性の鋭い芸術家として描かれている。
=== 作品の高騰 ===
第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000[[スターリング・ポンド|ポンド]]台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた{{sfn|瀬木|1999|pp=137-138}}。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』が[[クリスティーズ]]で520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された{{sfn|瀬木|1999|pp=138-139}}。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、[[サザビーズ]]やクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった{{sfn|ソールツマン|1999|pp=371-372}}。
さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった{{sfn|エニック|2005|p=172}}。1988年2月4日付「[[リベラシオン]]」紙は、「昨年([[1987年]])3月30日、[[ロンドン]]のクリスティーズにて日本の安田火災([[安田火災海上]]、現[[損害保険ジャパン]])が[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]を3630万ドル{{Refnest|name="NYT 39.9M"|group="注釈"|「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙によれば、落札価格は36,292,500ドル、10%の手数料を加え3990万ドルであるとされる<ref>{{Cite news |url= https://www.nytimes.com/1987/03/31/arts/van-gogh-sets-auction-record-39.9-million.html |title=Van Gogh Sets Auction Record: $39.9 Million |newspaper=New York Times | author=Francis X. Clines |date=1987-03-31 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。}}(約58億円)で落札した{{Refnest|group="注釈"|この「ひまわり」は、現在は[[SOMPO美術館]]が所蔵している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sompo-museum.org/collection/ |title=フィンセント・ファン・ゴッホ |publisher=SOMPO美術館 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。}}瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……また[[アイリス (絵画)|アイリス]]は、(同年)11月11日に、[[ニューヨーク]]のサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている{{sfn|エニック|2005|p=171}}。日本の[[バブル景気]]であふれたマネーが[[円高]]に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=413-414}}。
さらに、[[1990年]]5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで[[齊藤了英]]が『[[医師ガシェの肖像]]』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し<ref name="A5" />{{Refnest|name="ガシェ"|group="注釈"|落札額7500万ドルに、買い手が負担する手数料10%を加えた額{{sfn|ソールツマン|1999|p=457}}。}}、各紙で大々的に報じられた{{sfn|エニック|2005|p=172}}。この作品は、ヨーによって[[1898年]]頃にわずか300[[フラン (通貨)|フラン]]で売却されたと伝えられるものである<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/1998/04/28/books/books-of-the-times-a-van-gogh-portrait-once-obscure-now-unseen.html |title=BOOKS OF THE TIMES; A van Gogh Portrait, Once Obscure, Now Unseen |author=Michiko Kazutani |newspaper=New York Times |date=1998-04-28 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった<ref name="wolf">{{Cite web|url=https://theartwolf.com/art-market/most-expensive-paintings/|title=The Most Expensive Paintings ever sold|publisher=theartwolf.com|accessdate=2012-07-17}}</ref>。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた{{sfn|ソールツマン|1999|pp=463,477}}。
ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている{{sfn|瀬木|1999|p=136}}。
ファン・ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである<ref name="A5">{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/misc/faq.htm |title=Frequently Asked Questions: A5 |author= David Brooks |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref>。
{| class="wikitable"
! 作品名 !! 画像 !! [[フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#凡例|F]] !! [[フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#凡例|JH]] !! 競売日 !! 価格([[アメリカ合衆国ドル|米ドル]])
|-
| [[ひまわり (絵画)|ひまわり]](15本のひまわり)|| [[ファイル:Van Gogh Vase with Fifteen Sunflowers.jpg|60px]] || 457 || 1666 || [[1987年]]3月30日 || 3950万ドル<ref name="NYT 39.9M" group="注釈" />
|-
| [[アイリス (絵画)|アイリス]] || [[ファイル:VanGoghIrises2.jpg|60px]] || 608 || 1691 || 1987年11月11日 || 5390万ドル
|-
| [[医師ガシェの肖像]] || [[ファイル:Portrait of Dr. Gachet.jpg|60px]] || 753 || 2007 || [[1990年]]5月15日 || 8250万ドル<ref name="ガシェ" group="注釈" />
|-
| [[自画像 (ゴッホ)|自画像]](あごひげのないもの)|| [[ファイル:Vincent Willem van Gogh 102.jpg|60px]] || 525 || 1665 || [[1998年]]11月19日 || 7150万ドル
|-
| [[アルルの女 (ジヌー夫人)]] || [[ファイル:Van Gogh - L'Arlesienne IV.jpg|60px]] || 543 || 1895 || [[2006年]]5月2日 || 4030万ドル<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2006/05/03/arts/design/03auction.html |title=A Famous Face, and Now an Auction Star |author=Vogel, Carol |newspaper=New York Times |date=2006-05-03 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>
|}
=== 日本での受容 ===
[[1910年]](明治43年)、[[森鷗外]]が『[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、[[日本]]の公刊物では最初の例であるが{{sfn|木下|1992|pp=37-39}}、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、[[武者小路実篤]]らの[[白樺派]]であった。1910年に創刊された『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]、マティスなど、[[印象派]]から[[ポスト印象派]]、[[フォーヴィスム]]までの芸術を、順序もなく一気に取り上げた{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。第1年(1910年)11月号には[[斎藤与里]]による最初の評論が掲載{{sfn|木下|2002|p=59}}、第2年([[1911年]])2月号からは[[児島喜久雄]]訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年([[1912年]])11月号には「ゴオホ特集」が掲載された{{sfn|東|1980|pp=12-14,16}}。特集号には、多くの作品の写真版、[[阿部次郎]]の訳したヨーによる回想録、武者小路や[[柳宗悦]]の寄稿などが掲載された{{sfn|東|1980|p=46}}{{Refnest|group="注釈"|武者小路はロダンとともにファン・ゴッホを熱愛し、『白樺』第3年(1912年)7月号には「バンゴオホよ/燃えるが如き意力を持つ汝よ/汝を思ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく/ゆきつくす処までゆく力わく/あゝ、/ゆきつくす処までゆく力わく」という讃仰詩を発表している{{sfn|東|1980|pp=45-46}}。}}。そして、[[1920年]](大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、大阪の実業家[[山本顧彌太]]に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された<ref>{{Cite news|和書| title=新しい村の武者小路実篤氏にゴッホの名画を購う代として二万円を贈った奇談 床しき匿名の大阪紳士 令兄公共子と箱根山中の邂逅が因| newspaper=[[神戸大学]]新聞記事| date=1920-02-21| author=[[大正日日新聞]]| url=https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100287112| accessdate=2023-05-26| publisher={{anchors|[[出版社]]}}文庫| archiveurl=| archivedate=| ref= | postscript=}}</ref>{{sfn|東|1980|pp=22-23}}{{Refnest|group="注釈"|白樺美術館第1回展は[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の[[星製薬]]階上で行われ、この『ひまわり』は日本で展示された最初のファン・ゴッホ作品となったが、その後、[[1945年]][[芦屋市|芦屋]]で空爆のため焼失した{{sfn|二見|2010|p=167}}。この展覧会では、ほかにセザンヌ、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]、ドラクロワ、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ|シャバンヌ]]、ロダンの作品が展示されたが、武者小路が夢見た白樺美術館は第1回展覧会だけで終わり、建物もついに建たなかった{{sfn|東|1980|pp=43-45}}。}}。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である{{sfn|高階|1996|pp=244,249-250}}{{Refnest|group="注釈"|その要因として、当時の知識人の情報源であったドイツやイギリスで、ちょうどこの時期に[[ユリウス・マイヤー=グラーフェ]]や[[ロジャー・フライ]]がファン・ゴッホ賛美の評論を出したこと、社会と自己の個性との対立という白樺派の課題に、社会の無理解に苦悩する純粋な魂という英雄像が合致していたことが挙げられている{{sfn|高階|1996|pp=250-261}}。}}。他方、画壇でも、[[1912年]](大正2年)に第1回[[フュウザン会|ヒュウザン会]]展を開催した[[岸田劉生]]ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた{{sfn|東|1980|pp=24,26-27}}。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった{{sfn|木下|2002|pp=90-91}}。
1925年、日本美術協会主催でフランス現代美術展覧会が開催。出品作にはゴッホの『裸体』(出典ママ)が含まれていたが、[[警視庁]]による事前検閲で「善良な風紀を紊す恐れがある」との指摘を受け、公開は控えられた<ref>「ゴッホなど四点に撤去命令」『東京日日新聞』1925年9月3日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.630 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
以降、第2次世界大戦前の日本で、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され{{Refnest|group="注釈"|例えば、[[1913年]]、日本洋画協会出版部から、日本で最初の『ゴーホ画集』(5枚1組袋入りのもの)が出版された{{sfn|木下|2002|p=110}}。}}、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、[[佐伯祐三]]や[[高田博厚]]らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている{{sfn|新関|2011|p=343}}{{Refnest|group="注釈"|日本では白樺派などの影響でいち早くファン・ゴッホに対する熱狂が起きたが、この時期1920年代に実物のファン・ゴッホ作品を見ることが出来たのはパリの美術館ではわずか3点しかなくパリの[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]に10数点程度であった。このため特にファン・ゴッホの最後期の油彩画を20点ほど所蔵していたガシェ家は、ゴッホ作品を見たい日本人には貴重な場であった。ガシェ家は多くの来訪者を迎えたが、1922年3月9日から芳名帳を作成することになった。最初の署名者(最初の訪問者ではないことに注意)である[[黒田重太郎]]を筆頭に、[[土田麦穂]]、[[小野竹喬]]、[[坂田一男]]、[[佐伯祐三]]ら多くの日本人画家や、画家以外でも[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]、[[矢代幸雄]]、[[相馬政之助]]、[[高田博厚]]らの名前が芳名帳に記されている{{sfn|尾本|2012|}}。}}。[[1927年]]から1930年代にかけて、[[斎藤茂吉]]や[[式場隆三郎]]がゴッホの病理についての医学的分析を発表した{{sfn|木下|1992|p=143-146,152-156}}。
戦後は、ファン・ゴッホ[[複製画]]の展覧会を見て衝撃を受けたという[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が、[[1948年]]「ゴッホの手紙」を著した{{sfn|木下|1992|p=189}}。[[劇団民藝]]代表の[[滝沢修]]が、[[1951年]]から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた[[新劇]]作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』([[三好十郎]]脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた{{sfn|西岡|2011|pp=138-140}}。[[1958年]]に初めて[[東京国立博物館]]と[[京都市美術館]]で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる{{sfn|新関|2011|pp=343-344}}。
== 手紙 ==
{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの手紙}}
[[ファイル:The Public-Soup-Kitchen F272 Vincent van Gogh.jpg|thumb|right|200px|ゴッホの手紙に描かれた[[炊き出し]]所のスケッチ<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let324/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡324 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1883年3月4日頃、ハーグ、[[#CL|CL: 272]]、Sketch A)。</ref>]]
画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている{{sfn|木下|2002|p=28}}。[[ゴッホ美術館]]によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家[[アントン・ファン・ラッパルト]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、妹[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ]](通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/letter_writer_1.html |title=Van Gogh as a letter-writer |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-09-10 }}</ref>。
テオ宛の書簡は、ヨーにより[[1914年]]に「書簡集」が刊行され、この「書簡集」およびヨーが巻頭に記した回想解説をもとに、あらゆる伝記、小説、伝記映画でのゴッホ像は形成された。ただしこの「書簡集」は、手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある{{sfn|圀府寺|2010|pp=198-201}}。
[[1952年]]から[[1954年]]にかけ、ヨーの息子[[フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ]]が、テオ宛の書簡だけでなく、ベルナールやラッパルト宛のものや、ファン・ゴッホが受け取ったものも網羅した完全版「書簡全集」をオランダで出版し、日本語訳も含め各国で翻訳された<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/publications_5.html |title=Publication history: The first collected edition of 1952-1954 and thereafter |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2015-11-14}}</ref>。
[[2009年]]秋[[ゴッホ美術館]]が15年をかけ、決定版といえる「書簡全集」を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに、日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。同時にウェブ版も無料公開されている{{sfn|圀府寺|2010|pp=198-201}}<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/ |title=Vincent van Gogh The Letters |website=Van Gogh Museum |date= |accessdate=2021-03-03 |language=en}}ウェブ版ゴッホ書簡集(ゴッホ美術館)</ref>。
== 作品 ==
=== カタログ ===
{{Commons|Van Gogh works by date|ゴッホの年代順作品一覧}}
{{See also|フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧}}
{{multiple image |direction=vertical |width=200 |image1=Van Gogh Museum, Kurokawa wing.jpg|image2=Entrance Kröller-Müller Museum.JPG |footer=[[アムステルダム]]の[[ゴッホ美術館|ファン・ゴッホ美術館]](上)と[[オランダ]]・[[オッテルロー]]にある[[クレラー・ミュラー美術館]]。}}
ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の[[油絵]]を制作した<ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/painting/main_az.htm |title=The Paintings |author= David Brooks |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-18 }}</ref>。生前はほとんど評価されなかったが、死後、『[[星月夜]]』、『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』、『[[アイリス (絵画)|アイリス]]』、『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』など、多くの油絵の名作が人気を博することになった<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghgallery.com/painting/ |title=Vincent van Gogh Paintings |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref>。油絵のほか、[[水彩画]]150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghgallery.com/watercolors/ |title=Watercolors |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/watercolours/main.htm |title=The Watercolours |author= David Brooks |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-18 }}</ref>。[[素描]]は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、[[木炭]]などが用いられ、これらが混用されることもある<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghgallery.com/drawings/ |title=Vincent van Gogh Drawings |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/drawings/main_az.htm |title=The Drawings |author= David Brooks |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-18 }}</ref>。
今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でも[[アムステルダム]]の[[ゴッホ美術館]]には『[[ジャガイモを食べる人々]]』、『[[花咲くアーモンドの木の枝]]』、『[[カラスのいる麦畑]]』などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている<ref name="museums">{{Cite web |url=http://www.vangoghgallery.com/museum/ |title=Vincent van Gogh Museums |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref>。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている{{sfn|ソールツマン|1999|p=98}}。アムステルダム近郊の[[オッテルロー]]には、熱心なコレクター、{{仮リンク|ヘレーネ・クレラー=ミュラー|en|Helene Kröller-Müller}}が[[1938年]]オランダ政府に寄贈して設立された[[クレラー・ミュラー美術館]]があり、『[[夜のカフェテラス]]』などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている{{sfn|ソールツマン|1999|p=175}}<ref>{{Cite web |url=http://krollermuller.nl/en/van-gogh-gallery |title=Van Gogh Gallery |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2015-12-20}}</ref>。
ファン・ゴッホ作品の[[カタログ・レゾネ]](作品総目録)を最初にまとめたのが[[ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユ]]であり、[[1928年]]、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。[[1962年]]、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された{{sfn|瀬木|2017|pp=94-95,104}}。ここでは作品に'''F番号'''が付けられている。また、1980年代に[[ヤン・フルスケル]]が全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらには'''JH番号'''が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている<ref>{{Cite web |url=http://www.vggallery.com/misc/faq.htm |title=Frequently Asked Questions: A6, A6a |author= David Brooks |publisher= The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref>。
フルスケルのカタログに掲載された油絵を時期とジャンルで分けると、概ね次のようになる{{sfn|千足|2015|p=52}}<ref group="注釈">ジャンル分けや制作時期の認定は若干の差異や変化はあり得る。</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
! 時期 !! 人物画 !! [[自画像 (ゴッホ)|自画像]] !! 風景画 !! 静物画 !! [[フィンセント・ファン・ゴッホの模写作品|模写]] !! その他 !! 合計
|-
! エッテン
| 0 || 0 || 0 || 1 || 0 || 0 || 1
|-
! ハーグ
| 9 || 0 || 14 || 0 || 0 || 2 || 25
|-
! ドレンテ
| 2 || 0 || 5 || 0 || 0 || 0 || 7
|-
! ニューネン
| 97 || 0 || 48 || 41 || 0 || 2 || 188
|-
! アントウェルペン
| 4 || 0 || 2 || 0 || 0 || 1 || 7
|-
! パリ
| 22 || 28 || 79 || 80 || 3 || 13 || 225
|-
! アルル
| 49 || 6 || 105 || 29 || 0 || 0 || 189
|-
! サン=レミ
| 13 || 3 || 78 || 9 || 20 || 2 || 125
|-
! オーヴェル
| 15 || 0 || 52 || 13 || 0 || 1 || 81
|-
! 合計
| 211 || 37 || 383 || 173 || 23 || 21 || 848
|}
=== 真贋・来歴をめぐる問題 ===
前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、[[贋作]]も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに[[相続]]された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている<ref name="NYT1990">{{Cite news |title=ART; Is It or Isn't It? A Van Gogh Languishes in Limbo |author=Glenn Collins |date=1990-07-08 |newspaper=New York Times |url=https://www.nytimes.com/1990/07/08/arts/art-is-it-or-isn-t-it-a-van-gogh-languishes-in-limbo.html |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。[[1927年]]、[[ベルリン]]の[[オットー・ヴァッカー]]画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった{{sfn|新関|2011|pp=342-343}}。この裁判では[[X線]]鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある<ref name="NYT1990" />。ほかにも初期の収集家だった[[エミール・シェフネッケル]]やガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという<ref>{{Cite news |title=Masterpieces, or Art by Masters of Deception?; Museums and Scholars Sort Through Dozens of van Gogh Paintings to Find the Fakes |author=Judith H. Dobrzynski |newspaper=New York Times |date=1998-08-03 |url=https://www.nytimes.com/1998/08/03/arts/masterpieces-art-masters-deception-museums-scholars-sort-through-dozens-van-gogh.html |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。他方、長年偽作とされていた『[[モンマジュールの夕暮れ]]』は、[[2013年]]、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された<ref>{{Cite web |title=New Vincent van Gogh painting identified |url=https://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-24014186 |date=2013-09-09 |website=BBC News |publisher=BBC |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。
また、史上最高価格で落札された『[[医師ガシェの肖像]]』については、1999年の調査で、[[ナチス・ドイツ]]の[[ヘルマン・ゲーリング]]が1937年に[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の[[シュテーデル美術館]]から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた{{sfn|瀬木|1999|pp=143-145}}。
=== 作風 ===
==== 初期 ====
ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってから[[アントン・モーヴ]]の手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた<ref name="Metropolitan">{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/gogh/hd_gogh.htm |title=Heilbrunn Timeline of Art History: Vincent van Gogh (1853-1890) |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2012-07-17 }}</ref>。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた<ref name="before-and-after">{{Cite web |url=http://www.vangoghgallery.com/painting/beforeafter.html |title=Before and After |publisher=Van Gogh Gallery |accessdate=2012-07-15 }}</ref>。特に[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた{{sfn|吉屋|2005|p=96}}。
当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具を[[チューブ (容器)|チューブ]]から直接画面に絞り出すこともあった{{sfn|西岡|2016|pp=96-98}}。
==== 印象派と浮世絵の影響(パリ) ====
[[ファイル:Van Gogh - Das Restaurant de la Siréne in Asniéres.jpeg|thumb|right|180px|『[[アニエール=シュル=セーヌ|アニエール]]のレストラン』1887年夏、パリ。印象派の強い影響が見られる{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-67}}。]]
しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは[[印象派]]や[[新印象派]]が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた{{sfn|圀府寺|2010|pp=63-64}}。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった<ref name="before-and-after" />。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。[[クロード・モネ]]が『[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-72}}<ref group="手紙" name="L549">[http://vangoghletters.org/en/let549 フィンセントよりテオ宛書簡549](1885年12月19日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 441]]、{{Lang|en|However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...}})。</ref>。
[[ファイル:Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne3.jpeg|thumb|left|180px|『種まく人』1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ時代に模写した広重の「亀戸梅屋舗」の影響が見られる{{sfn|二見|2010|p=191}}{{sfn|吉屋|2005|pp=159-160}}。]]
また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る[[浮世絵]]を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味([[ジャポネズリー]])は[[エドゥアール・マネ|マネ]]、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には[[日本の開国]]に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある{{sfn|高階・上|1975|pp=163-166}}。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=157-160}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let686/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡686 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月23日又は24日、アルル、[[#CL|CL: 542]]、{{Lang|en|And we wouldn’t be able to study Japanese art...}})。</ref>。このように、制度や組織に縛られない[[ユートピア]]への憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、[[ナザレ派]]、[[ラファエル前派]]、[[バルビゾン派]]、[[ポン=タヴァン派]]、[[ナビ派]]と続く19世紀の[[プリミティヴィスム]]の系譜に属するものといえる{{sfn|圀府寺|2009|pp=160-161}}。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している{{sfn|吉屋|2005|pp=158-160}}。1888年9月の『[[夜のカフェ]]』では、全ての線が[[消失点]]に向かって収束していたのに対し、10月の『[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している{{sfn|池上|2014|pp=139-45}}。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらの[[クロワゾニスム]]とも軌を一にしている{{sfn|二見|1980|pp=19-21}}。
==== 激しいタッチと色彩(アルル) ====
{{色}}
単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却と[[バロック絵画|バロック]]的・[[ロマン主義]]的な感情表出に向かっている{{sfn|二見|1980|pp=32-33}}。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちに[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?page=4210&lang=en |title=Flower Still Life, 1875 |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-02-28 }}</ref><ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let689/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡689 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月26日、アルル、[[#CL|CL: 541]]、{{Lang|en|And in the end, without intending to, I’m forced to lay the paint on thickly, à la Monticelli...}})。</ref>。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である{{sfn|小林英樹|2002|p=88}}。
[[ファイル:BYR color wheel.svg|thumb|right|100px|[[色相環]]]]
ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、[[補色]]に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、[[色相環]]で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代に[[シャルル・ブラン]]の著書を通じて補色の理論を理解していた{{sfn|新関|2011|p=74}}{{Refnest|group="注釈"|補色理論を普及させたのは[[ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール]]の『色彩の同時対照の法則』(1839年)であったが、ゴッホはドラクロワをその確立者と考えていた{{sfn|新関|2011|pp=77-80}}。}}。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」<ref group="手紙" name="L673">[http://vangoghletters.org/en/let673 フィンセントよりテオ宛書簡673](1888年9月3日、アルル、[[#CL|CL: 531]]、{{Lang|en|To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...}})。</ref> を目指したと書いたり、『[[夜のカフェ]]』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let676/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡676 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月8日、アルル、[[#CL|CL: 533]]、{{Lang|en|I’ve tried to express the terrible human passions with the red and the green.}})。</ref> と考えたりしている{{sfn|圀府寺|2010|p=71}}。同じアルル時代の『[[夜のカフェテラス]]』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる{{sfn|圀府寺|2010|p=122}}。
==== 渦巻くタッチ(サン=レミ) ====
[[ファイル:Vincent Van Gogh, autoritratto, 1889, 02.JPG|thumb|left|90px|サン=レミ時代の『[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]』背景に現れる渦巻くタッチ。]]
サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている{{sfn|二見|1980|pp=31,52-55}}。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる{{sfn|西岡|2016|pp=162-165}}。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる{{sfn|西岡|2011|p=137}}。
=== 絵画史的意義 ===
{{See also|西洋美術史}}
ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、[[オディロン・ルドン]]らとともに、[[ポスト印象派]](後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった{{sfn|高階・上|1975|p=144}}。
ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な[[遠近法]]、[[明暗法]]、肉付法を否定した点で、[[アカデミズム絵画]]から敵視されたが、広い意味で[[ギュスターヴ・クールベ]]以来の[[写実主義]]を突き詰めようとするものであった{{sfn|高階・上|1975|pp=94-97,146-148}}。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる{{sfn|高階・上|1975|p=115}}。ゴーギャンやルドンに代表される[[象徴主義]]は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた{{sfn|高階・上|1975|pp=150-151}}。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙([[タブラ・ラーサ]])ではないことを明確に意識していた{{sfn|高階・下|1975|p=20}}。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった{{sfn|西岡|2011|p=98}}。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた{{sfn|高階・上|1975|pp=175-176}}。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、[[ブロンド]]の髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている{{sfn|高階・下|1975|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let663/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡663 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年8月18日、アルル、[[#CL|CL: 520]]、{{Lang|en|Because instead of trying to render exactly what I have before my eyes, I use colour more arbitrarily in order to express myself forcefully...}})。</ref>。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている<ref group="手紙" name="L673" />。
こうした姿勢は既に20世紀初頭の[[表現主義]]を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、[[ナビ派]]をはじめとする彼ら[[世紀末芸術]]の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]において感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とする[[ドイツ表現主義]]に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、[[フェルディナント・ホドラー]]、[[エドヴァルド・ムンク]]などの世紀末芸術の画家に傾倒した{{sfn|高階・下|1975|pp=3-4,20-21}}。[[エミール・ノルデ]]や[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]ら多くの[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、[[エゴン・シーレ]]や[[リヒャルト・ゲルストル]]など、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2007/03/23/arts/design/23gogh.html |title=Modern Dutch Master, but Citizen of the World |author=Martha Schwendener |newspaper=New York Times |date=2007-03-23 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスでは[[フォーヴィスム]]として現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れた[[モーリス・ド・ヴラマンク]]は、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた{{sfn|高階・下|1975|pp=36-37,54-55}}。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の[[抽象絵画]]にもつながる要素を持っていたといえる{{sfn|高階・下|1975|p=181}}。
=== 主題とモチーフ ===
ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた{{sfn|高階|1984|pp=32-34,124}}。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている{{sfn|圀府寺|2009|pp=281-282}}。
当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけての[[エンブレム・ブック]]が復刊されるなど、絵画モチーフの[[図像学]]的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている{{sfn|圀府寺|2009|pp=27-37}}。
==== 肖像画 ====
ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、[[タンギー爺さん]](パリ時代)、[[アルルの女 (ジヌー夫人)|ジヌー夫人]]、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]と妻オーギュスティーヌ([[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女|ゆりかごを揺らす女]])らその家族(アルル時代)、[[医師ガシェの肖像|医師ガシェ]]とその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの[[肖像画]]を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は[[大聖堂]]よりは人間の眼を描きたい」<ref group="手紙" name="L549" />と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」{{sfn|圀府寺|2010|pp=177-179}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let879/letter.html#translation |title=フィンセントよりヴィル宛書簡879 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、[[#CL|CL: W22]]、{{Lang|en|What I’m most passionate about, much much more than all the rest in my profession – is the portrait, the modern portrait...}})。</ref>。
<gallery>
ファイル:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|『[[パシアンス・エスカリエの肖像]]』[[1888年]]8月、アルル。油彩、キャンバス、69 × 56 cm。個人コレクション<sup>F 444, JH 1563</sup>。
ファイル:Van Gogh Portrait Eugene Boch.jpg|『[[ウジェーヌ・ボック]]の肖像』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、60.3 × 45.4 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=&nnumid=744 |title=Eugène Boch |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 462, JH 1574</sup>。
ファイル:Van Gogh - Der Zuave (Halbfigur).jpeg|『ズアーブ兵の肖像』1888年6月、アルル。油彩、キャンバス、65.8 × 55.7 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0067V1962 |title=The Zouave |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 423, JH 1486</sup>。
ファイル:Vangogh mousme.jpg|『[[ラ・ムスメ]]』1888年7月、アルル。油彩、キャンバス、73.3 × 60.3 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.46626.html |title=La Mousmé |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-12-23}}</ref><sup>F 431, JH 1519</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - Portret van de postbode Joseph Roulin.jpg|『[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]』1888年8月、アルル。油彩、キャンバス、81.3 × 65.4 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/postman-joseph-roulin-32542 |title=Postman Joseph Roulin |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-12-23}}</ref><sup>F 432, JH 1522</sup>。
</gallery>
==== 自画像 ====
{{Main|自画像 (ゴッホ)}}
ファン・ゴッホは多くの[[自画像]]を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている<ref>{{Cite web |url= http://www.visual-arts-cork.com/genres/self-portraits.htm |title=Encyclopedia of Irish and World Art, art of self-portrait |accessdate=2012-07-14 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|油彩、水彩、デッサンを合わせて43点(ただし贋作の疑いがあるものもある)とする文献もある{{sfn|瀬木|2017|pp=101-102}}。}}。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる{{sfn|粟津|1993|pp=31-32}}。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる{{sfn|圀府寺|2009|pp=155,171}}。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある{{sfn|千足|2015|p=54}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let681/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡681 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1888年9月16日、アルル、[[#CL|CL: 537]]、{{Lang|en|I purposely bought a good enough mirror...}})。</ref>。
アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している{{sfn|粟津|1993|p=33}}。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。
<gallery>
ファイル:Van Gogh Self-Portrait with Straw Hat 1887-Detroit.jpg|[[1887年]]春、パリ。油彩、パネルにキャンバス、34.9 × 26.7 cm。[[デトロイト美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.dia.org/art/collection/object/self-portrait-46065 |title=Self Portrait, 1887 |publisher=Detroit Institute of Arts |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 526, JH 1309</sup>。
ファイル:Self-portrait with Felt Hat by Vincent van Gogh.jpg| 『暗色のフェルト帽をかぶった自画像』1887年9月–10月、パリ。油彩、キャンバス、44.5 × 37.2 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0016V1962 |title=Self-Portrait with Grey Felt Hat |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 344, JH 1353</sup>。
ファイル:Van_Gogh_self_portrait_as_an_artist.jpg|『[[イーゼル]]の前の自画像(画家としての自画像)』[[1887年]]12月-[[1888年]]2月、パリ。油彩、キャンバス、65.1 × 50 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0022V1962 |title=Self-Portrait as a Painter |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21 }}</ref><sup>F 522, JH 1356</sup>。
ファイル:Van Gogh self-portrait dedicated to Gauguin.jpg|『[[坊主としての自画像]]』1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、61.5 × 50.3 cm。[[フォッグ美術館]](米国[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]])<ref>{{Cite web |url=https://www.harvardartmuseums.org/collections/object/299843 |title=Self-Portrait Dedicated to Paul Gauguin |publisher=Harvard Art Museums |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 476, JH 1581</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - National Gallery of Art.JPG|[[1889年]]8月、サン=レミ。油彩、キャンバス、57.8 × 44.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.106382.html |title=Self-Portrait |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 626, JH 1770</sup>。
ファイル:Vincent van Gogh - Self-Portrait - Google Art Project.jpg|[[1889年]]9月、サン=レミ。油彩、キャンバス、65 × 54.2 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=747 |title=Portrait de l'artiste |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 627, JH 1772</sup>。
</gallery>
==== ひまわり ====
[[ファイル:Vincent van Gogh - Sunflowers Berceuse triptych - letter.jpg|thumb|right|200px|ファン・ゴッホのテオ宛書簡に描かれた、三連画のアイディアを伝えるスケッチ(1889年5月、サン=レミ)。]]
{{Main|ひまわり (絵画)}}
ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点の[[ひまわり]]の絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった{{sfn|吉屋|2005|pp=181-182}}。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える{{sfn|高階|1984|p=40}}。
西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように{{Refnest|group="注釈"|実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、{{仮リンク|向日性|en|Heliotropism}}はないが、西欧では一般に向日性を持つと信じられていた{{sfn|圀府寺|2010|p=106}}。}}、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=108-111}}{{sfn|吉屋|2005|p=184}}。
後に、ファン・ゴッホは『[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、[[祭壇画]]のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている{{sfn|圀府寺|2010|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let776/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡776 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年5月23日頃、サン=レミ、[[#CL|CL: 592]]、{{Lang|en|You must know, too, that...}})。</ref>。
==== 糸杉 ====
[[ファイル:Van Gogh - Weizenfeld mit Zypressen.jpeg|thumb|right|200px|『糸杉のある小麦畑』1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73 × 93.5 cm。個人コレクション<sup>F 717, JH 1756</sup>。]]サン=レミ時代に、[[イトスギ|糸杉]]が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。……それは、線としても、比例としても、まるでエジプトの[[オベリスク]]のように美しい。」と書いている{{sfn|高階|1984|pp=151-152}}。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風[[ミストラル]]から農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった{{sfn|マーフィー|2017|p=95}}。
西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった{{Refnest|group="注釈"|ジョージ・ファーガスン『キリスト教美術における記号と象徴』は、「糸杉が死と結び付けられる理由はいくつかある。例えば、それは暗い葉叢を見せているし、ひとたび伐り倒されると、二度とその根から芽を出すことはない等である。」と説明している{{sfn|高階|1984|p=153}}。}}。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている{{sfn|高階|1984|pp=153-156}}。
==== 模写 ====
{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの模写作品}}
{{Multiple image
|align=left
|image1=Jean-François Millet (II) 013.jpg |width1=120|caption1=ミレー『種まく人』1850年。油彩、キャンバス。[[ボストン美術館]]。
|image2=Vincent Willem van Gogh 025.jpg |width2=120|caption2=ファン・ゴッホ『種まく人』1889年10月、サン=レミ。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。個人コレクション<sup>F 690, JH 1837</sup>。
}}
ファン・ゴッホは、最初期から[[バルビゾン派]]の画家[[ジャン=フランソワ・ミレー]]を敬愛しており、これを[[模写]]したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、[[アルフレッド・サンシエ]]の『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼{{Interp|ミレー|和文=1}}の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている{{sfn|二見|2010|p=107}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let495/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡495 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1885年4月21日、ニューネン、[[#CL|CL: 402]]、{{Lang|en|How rightly it was said of Millet’s figures...}})。</ref>。
アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは[[聖書]]における[[キリスト]]のたとえ話<ref group="注釈">[[マルコによる福音書]] [[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:26|第4章 26節から29節]]には次のようにある。「また、イエスは言われた。『[[神の王国|神の国]]は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」。</ref> に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」<ref group="注釈">[[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:14|マルコによる福音書 第4章 14節]]「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」</ref>、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働{{Refnest|group="注釈"|[[創世記]] [[s:創世記(口語訳)#3:19|第3章 19節]]で楽園を追放された[[アダム]]に告げられる「お前は顔に汗を流してパンを得る」という言葉は、ミレーやファン・ゴッホにおいては「掘る人」の図像と結び付けられていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=186-188}}。}}、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=94-105}}{{sfn|圀府寺|2009|pp=193-195}}。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている{{sfn|高階|1984|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let800/letter.html#translation |title=フィンセントよりテオ宛書簡800 |accessdate=2021-03-04 <!-- |website=Vincent van Gogh The Letters -->|language=en}}(1889年9月5日 - 6日、サン=レミ、[[#CL|CL: 604]]、{{Lang|en|I then saw in this reaper...}})。</ref>。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている{{sfn|高階|1984|p=142}}。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている{{sfn|圀府寺|2009|pp=215-216}}。
{{multiple image
| align = right
| image1 = B073 Rembrandt.jpg |width1=100 |caption1=レンブラント『ラザロの復活』
| image2 = Vincent Van Gogh- La Résurrection de Lazare (d’après Rembrandt).JPG | width2= 180 | caption2=ファン・ゴッホ『ラザロの復活』1890年、サン=レミ。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0169V1962 |title=The Raising of Lazarus (after Rembrandt) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 677, JH 1972</sup>。
}}
サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家である[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、ミレーらの[[版画]]や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した{{sfn|ホンブルク|2001|p=62}}。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『[[ピエタ]]』や『[[善きサマリア人]]』、レンブラントからは『天使の半身像』や『[[ラザロ]]の復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である{{sfn|ホンブルク|2001|pp=83,93-105}}。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている<ref group="手紙">{{Cite web|和書|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let632/letter.html#translation |title=フィンセントよりベルナール宛書簡632 |website=Vincent van Gogh The Letters |accessdate=2021-03-04 |language=en}}(1888年6月26日、アルル、[[#CL|CL: B8]]、{{Lang|en|The figure of Christ has been painted...}})。</ref>。サン=レミでは、そのほかに[[ギュスターヴ・ドレ]]の『監獄の中庭』や[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]の『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない{{sfn|ホンブルク|2001|pp=123-132}}。
ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる{{sfn|圀府寺|2010|pp=161-171}}。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている{{sfn|圀府寺|2009|pp=78-79}}。
== 関連項目 ==
* [[ファン・ゴッホ (小惑星)]]
* [[ジャンヌ・カルマン]] - アルル在住だった世界最長寿の女性。[[1988年]]、113歳のときに生前のファン・ゴッホの印象をテレビ・インタビューで語った。生前のファン・ゴッホの目撃者がカラーテレビでその印象を語った記録は彼女のインタビューが唯一である。
* ゴッホを描いた映像作品
** [[ゴッホとドクター]]
** [[ゴッホちゃん]]
* {{ill2|インパスト|en|Impasto}} - ゴッホの作品の特徴である厚塗り技法。
*「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」 - 2022年6月18日から2023年1月9日まで[[ところざわサクラタウン#角川武蔵野ミュージアム(1-5F)|角川武蔵野ミュージアム]]にて、ゴッホが見た世界を追体験する体感型デジタルアート展が開催された<ref>[https://kadcul.com/event/77 角川武蔵野ミュージアム]</ref>。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Vincent van Gogh|Vincent van Gogh}}
* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり)
* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク)
* {{Kotobank|ゴッホ}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=東珠樹 |title=白樺派と近代美術 |publisher=東出版 |date=1980-07-01 |asin=B000J8121O |ref={{sfnref|東|1980}} }}
* {{Cite book |和書 |author=粟津則雄 |authorlink=粟津則雄 |title=自画像は語る |publisher=[[新潮社]] |date=1993-01-01 |isbn=978-4103266020 |ref={{sfnref|粟津|1993}} }}
* {{Cite book |和書 |author=池上英洋 |authorlink=池上英洋 |title=西洋美術史入門〈実践編〉 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくまプリマー新書]] |date=2014-03-05 |isbn=978-4-480-68913-9 |ref={{sfnref|池上|2014}} }}
* {{Cite book |和書 |author=インゴ・F・ヴァルター |authorlink=:de:Ingo F. Walther |author2=ライナー・メッツガー |authorlink2=:de:Rainer Metzger |title=ゴッホ全油彩画 |publisher=[[タッシェン]] |edition=Taschen 25 Anniversary Ed |date=2007-07-30 |isbn=978-4887832923}}
*: 作品の技法、寸法、カタログ番号等の情報は、所蔵館ウェブサイト(各脚注リンク参照)を優先したが、それがないときは本書によった。
* {{Cite book |和書 |author=ナタリー・エニック |authorlink=:fr:Nathalie Heinich |others=[[三浦篤]]訳 |title=ゴッホはなぜゴッホになったか――芸術の社会学的考察 |publisher=[[藤原書店]] |date=2005-03-01 |isbn=978-4894344266 |ref={{sfnref|エニック|2005}} }}
* {{Cite journal |和書 |author=尾本圭子 |title=ガシェ家芳名録の資料的意義について |journal=お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報 |publisher=[[お茶の水女子大学]]比較日本学教育研究センター編集・発行 |date=2012-03 |url=https://hdl.handle.net/10083/51883 |naid=40019312698 |ref={{sfnref|尾本|2012}} }}
* {{Cite book |和書 |author=小山田義文 |title=ゴッホ――千日の光芒 |publisher=[[三元社]] |date=2006-04-01 |isbn=978-4883031740 |ref={{sfnref|小山田|2006}} }}
* {{Cite book |和書 |author=木下長宏 |authorlink=木下長宏 |title=思想史としてのゴッホ――複製受容と想像力 |publisher=學藝書林 |date=1992-07-01 |isbn=978-4905640868 |ref={{sfnref|木下|1992}} }}
* {{Cite book |和書 |author=木下長宏 |authorlink=木下長宏 |title=ゴッホ――闘う画家 |publisher=[[六耀社]] |series=Rikuyosha art view |date=2002-02-01 |isbn=978-4897374239 |ref={{sfnref|木下|2002}} }}
* {{Cite book |和書 |author=圀府寺司 |authorlink=圀府寺司 |title=ファン・ゴッホ――自然と宗教の闘争 |publisher=[[小学館]] |date=2009-03-27 |isbn=978-4-09-387739-8 |ref={{sfnref|圀府寺|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |author=圀府寺司 |authorlink=圀府寺司 |title=ゴッホ――日本の夢に懸けた芸術家 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川文庫]] Kadokawa Art Selection |date=2010-09-25 |isbn=978-4043943791 |ref={{sfnref|圀府寺|2010}} }}
** {{Cite book |和書 |author=圀府寺司 |authorlink=圀府寺司 |title=ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 |publisher=[[KADOKAWA]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |date=2019-09-21 |isbn=978-4044005283 |ref=}} - 上記の新版
* {{Cite book |和書 |author=小林利延 |title=ゴッホは殺されたのか――伝説の情報操作 |publisher=[[朝日新聞社]] |series=[[朝日新書]] |date=2008-02-13 |isbn=978-4-02-273194-4 |ref={{sfnref|小林利延|2008}} }}
* {{Cite book |和書 |author=小林英樹 |title=耳を切り取った男 |publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]] |date=2002-07-01 |isbn=978-4140807064 |ref={{sfnref|小林英樹|2002}} }}
* {{Cite book |和書 |author=小林英樹 |title=完全版 ゴッホの遺言 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公文庫]] |edition=完全版 |date=2009-10-24 |isbn=978-4-12-205218-5 |ref={{sfnref|小林英樹|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |author=瀬木慎一 |authorlink=瀬木慎一 |title=西洋名画の値段 |publisher=新潮社 |series=[[新潮選書]] |date=1999-12-01 |isbn=978-4106005763 |ref={{sfnref|瀬木|1999}} }}
* {{Cite book |和書 |author=瀬木慎一 |authorlink=瀬木慎一 |title=真贋の世界――美術裏面史 贋作の事件簿 |publisher=[[河出書房新社]] |date=2017-05-29 |isbn=978-4-309-25578-1 |ref={{sfnref|瀬木|2017}} }}
* {{Cite book |和書 |author=千足伸行 |authorlink=千足伸行 |title=ゴッホを旅する |publisher=[[論創社]] |date=2015-08-11 |isbn=978-4-8460-1458-2 |ref={{sfnref|千足|2015}} }}
* {{Cite book |和書 |author=シンシア・ソールツマン |others=[[島田三蔵]]訳 |title=ゴッホ「医師ガシェの肖像」の流転 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春文庫]] |date=1999-12-01 |origyear=1998 |isbn=978-4167309923 |ref={{sfnref|ソールツマン|1999}} }}
* 高階秀爾『近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで カラー版』[[中公新書]](上・下)、改版2017年9月。ゴッホは上巻
** {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=中央公論社 |series=[[中公新書]] |volume=上 |date=1975-02-25 |isbn=978-4121003850|ref={{sfnref|高階・上|1975}} }}
** {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=中央公論社 |series=[[中公新書]] |volume=下 |date=1975-02-25 |isbn=978-4121003867|ref={{sfnref|高階・下|1975}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=ゴッホの眼 |publisher=[[青土社]] |date=2005-03-01 |origyear=1984 |isbn=978-4791761746 |ref={{sfnref|高階|1984}} }}
** {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=ゴッホの眼 |publisher=[[青土社]] |edition=新装版 |date=2019-05-25 |origyear=1984 |isbn=978-4791771592 |ref=}}- 上記の新版
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=日本絵画の近代―江戸から昭和まで |publisher=[[青土社]] |date=1996-08-01 |isbn=978-4791754816 |ref={{sfnref|高階|1996}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |authorlink=高階秀爾 |title=近代美術の巨匠たち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波現代文庫]] |date=2008-01-16 |isbn=978-4-00-602130-6 |ref={{sfnref|高階|2008}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ニーンケ・デーネカンプ |author2=ルネ・ファン・ブレルク |author3=タイオ・メーデンドルプ |others=鮫島圭代訳、[[千足伸行]]監修、[[ファン・ゴッホ美術館]]編集 |title=ゴッホの地図帖――ヨーロッパをめぐる旅 |publisher=[[講談社]] |date=2016-09-29 |origyear=2015 |isbn=978-4-06-220196-4 |ref={{sfnref|デーネカンプほか|2016}} }}
* {{Cite book|和書 |author=マルク・エド・トラルボー |authorlink=:nl:Mark Tralbaut |others=[[坂崎乙郎]] |title=ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ |publisher=[[河出書房新社]] |date=1992-10-01 |isbn=978-4309261621 |ref={{sfnref|トラルボー|1992}} }}
* {{Cite book |和書 |author=新関公子 |authorlink=新関公子 |title=ゴッホ 契約の兄弟――フィンセントとテオ・ファン・ゴッホ |publisher=[[ブリュッケ]] |date=2011-11-01 |isbn=978-4-434-16117-9 |ref={{sfnref|新関|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=西岡文彦 |authorlink=西岡文彦 |title=簡単すぎる名画鑑賞術 |date=2011-12-01 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま文庫]] |isbn=978-4-480-42885-1 |ref={{sfnref|西岡|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=西岡文彦 |authorlink=西岡文彦 |title=謎解きゴッホ――見方の極意 魂のタッチ |date=2016-09-06 |publisher=[[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] |isbn=978-4-309-41475-1 |ref={{sfnref|西岡|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ロナルド・ピックヴァンス |authorlink=:en:Ronald Pickvance |others=[[二見史郎]]訳 |title=アルルのファン・ゴッホ |publisher=[[みすず書房]] |date=1986-12-01 |isbn=978-4622015260|ref={{sfnref|ピックヴァンス|1986}} }}
* {{Cite book |和書 |author=M.フィッツジェラルド |authorlink=:en:Michael Fitzgerald (psychiatrist) |others=井上敏明監訳、倉光弘己・栗山昭子・林知代訳 |title=天才の秘密――アスペルガー症候群と芸術的独創性 |publisher=[[世界思想社教学社|世界思想社]] |date=2009-10-09 |origyear=2005 |isbn=978-4-7907-1439-2 |ref={{sfnref|フィッツジェラルド|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |author=二見史郎 |authorlink=二見史郎 |title=抽象芸術の誕生――ゴッホからモンドリアンまで |publisher=[[紀伊國屋書店]] |date=1980-08-01 |asin=B000J8665G |ref={{sfnref|二見|1980}} }}
** {{Cite book |和書 |author=二見史郎 |authorlink=二見史郎 |title=抽象芸術の誕生――ゴッホからモンドリアンまで |publisher=[[紀伊國屋書店]] |series=精選復刻 紀伊国屋新書 |date=1994-01-01|origyear=1980 |isbn=978-4314006408 |ref=}} - 上記の復刻版
* {{Cite book |和書 |author=二見史郎 |authorlink=二見史郎 |title=ファン・ゴッホ詳伝 |publisher=[[みすず書房]] |date=2010-11-03 |isbn=978-4-622-07571-4 |ref={{sfnref|二見|2010}} }}
* {{Cite book |和書 |author=コルネリア・ホンブルク |others=野々川房子訳 |title=ゴッホ オリジナルとは何か?――19世紀末のある挑戦 |publisher=[[美術出版社]] |date=2001-12 |origyear=1996 |isbn=978-4568201697 |ref={{sfnref|ホンブルク|2001}} }}
* {{Cite book |和書 |author=バーナデット・マーフィー |authorlink=:de:Bernadette Murphy |others=山田美明訳 |title=ゴッホの耳――天才画家最大の謎 |publisher=[[早川書房]] |date=2017-09-21 |origyear=2016 |isbn=978-4-15-209713-2 |ref={{sfnref|マーフィー|2017}} }}
* {{Cite book |和書 |author=吉屋敬 |title=青空の憂鬱――ゴッホの全足跡を辿る旅 |publisher=[[評論社]] |date=2005-05-01 |isbn=978-4566050693 |ref={{sfnref|吉屋|2005}} }}
* {{Cite book |last=Callow |first=Philip |authorlink=:en:Philip Callow |title=Vincent van Gogh: A Life |location=Chicago |publisher=Ivan R. Dee |edition=Reprint |date=1996-09-01 |id= ISBN 978-1566631341 |language=en |ref={{sfnref|Callow|1996}} }}
* {{Cite book |last=Hulsker |first=Jan |authorlink=ヤン・フルスケル |title=Vincent and Theo van Gogh; A dual biography |location=Ann Arbor |publisher=Fuller Publications |edition=Subsequent |date=1990-03-01 |isbn=978-0940537057 |language=[[英語]]、[[オランダ語]] |ref={{sfnref|Hulsker|1990}} }}
* {{Cite book |author=Naifeh, Steven |authorlink=:en:Steven Naifeh |author2=Smith, Gregory White |authorlink2=:en:Gregory White Smith |title=Van Gogh: The Life |location=United States |publisher=Random House Trade Paperbacks |edition=Reprint |date=2012-12-04 |language=en |isbn=978-0375758973 |ref={{sfnref|Naifeh|Smith|2012}} }}
** {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・ネイフ |authorlink=:en:Steven Naifeh |author2=グレゴリー・ホワイト・スミス |authorlink2=:en:Gregory White Smith |title=ファン・ゴッホの生涯 |publisher=[[国書刊行会]] |date=2016-10-18 |id=(上)ISBN 978-4-336-06045-7、(下)ISBN 978-4-336-06046-4 |ref= }}- 上記の日本語訳
* {{Cite book |last=Wilkie |first=Kenneth |title=The Van Gogh File: The Myth and the Man |publisher=Souvenir Press Ltd, |edition=Main |date=2005-04-28 |isbn=978-0-285-63691-0 |language=en |ref={{sfnref|Wilkie|2005}} }}
* {{Cite web|和書|url=http://gogh-japan.jp/point/point2.html |title=『ゴッホ展――めぐりゆく日本の夢』 |publisher=NHK、NHKプロモーション、北海道新聞 |date= |accessdate=2018-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180817001841/http://gogh-japan.jp/point/point2.html |archivedate=2018-08-17}} - (2017年 - 2018年 巡回展)図録、北海道立近代美術館、東京都美術館、京都国立近代美術館
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 手紙の出典 ===
{{Reflist|group="手紙"|2}}
:;手紙の番号、日時・場所等は、次のゴッホ美術館による改訂版書簡集による。
* {{Cite book |url= http://vangoghletters.org/vg/ |accessdate=2021-03-04 |author= Leo Jansen |author2=Hans Luijten |author3= Nienke Bakker (eds.) |title=Vincent van Gogh - The Letters |year=2009 |location= Amsterdam & The Hague |publisher= Van Gogh Museum & Huygens ING |edition= December 2010 |language=en}}
* '''{{Anchors|CL}}CL(Complete Letters)番号'''は、次の旧版書簡集(1952年 - 1954年にオランダで刊行された''Verzamelde brieven''、英語版は1958年に刊行。)において付された番号である。
* {{Cite book|author=V. W. van Gogh (ed.) |title=The complete letters of Vincent van Gogh |publisher=Thames and Hudson |location=London |year=1958}}
* {{Cite web |url= http://www.vggallery.com/letters/main.htm |author=David Brooks (ed.) |title=The Letters |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |language=en |accessdate=2021-03-04 }}
* 『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻([[二見史郎]]・[[宇佐見英治]]・島本融・[[粟津則雄]]訳、[[みすず書房]]、1969年 - 1970年)
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 1|year=1969 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J9271M |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 2|year=1970 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J9271C |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 3|year=1970 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J92712 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 4|year=1970 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J9270S |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 5|year=1970 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J9270I |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 6|year=1970 |publisher=みすず書房 |volume= |asin=B000J92708 |ref= }}
*新装改版『ファン・ゴッホ書簡全集』全6巻(二見史郎 ほか訳、みすず書房、1984年)
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 1|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015413 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 2|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015420 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 3|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015437 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 4|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015444 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 5|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015451 |ref= }}
** {{Cite book|和書|author= |others= |title=ファン・ゴッホ書簡全集 6|year=1984 |publisher=みすず書房 |volume= |edition=改版 |isbn=978-4622015468 |ref= }}
=== 出典 ===
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1,522 | 佐鳴湖 | 佐鳴湖(さなるこ)は、静岡県浜松市西区・中区にまたがって所在する湖。河川法上は、浜名湖と同様に二級河川都田川水系に属する。
約2000年前の縄文時代後期あたりから、浜名湖とともに海から徐々に切り離されて出来上がった自然湖。成立後は淡水化していったが、新川によって浜名湖とつながっているために、1498年(明応7年)に起きた明応地震や度重なる暴風雨によって浜名湖と遠州灘を隔てていた箇所が決壊して浜名湖が汽水化したのに伴い、満潮時にわずかだが海水が流入してくるようになり、淡水で生息する魚の他に汽水性の魚も見られる珍しい湖となった。
最近では浜名湖の塩水化の進行にともない塩分濃度が上昇し、1%を超えることもある。
人間の生活面では、蜆塚遺跡に見られるように縄文時代から貝の採集や漁業が行われ、1901年(明治34年)に漁業協同組合が設立された頃は、主にウナギ漁を行なう50人ほどの漁師がいた。1952年ごろには200人以上が従事しており、現在でも南岸の入野漁協を中心に湖面漁業が行なわれている。
2000年、佐鳴湖西岸から東神田川に合流する新川放水路が完成し、流出河川が追加された。
湖は浜松市西区と中区の境に位置する。水深は浅く、平均で約2m、最大でも2.5mほどである。流入河川は段子川と新川(西川)、および御前谷排水路がある。流出河川は新川と旧新川で、共に浜名湖に接続している。
佐鳴湖に生息する主な種は以下の通りである。総魚種は約90種を数える。
2007年度には、イシカワシラウオ、アカエイ、シマフグ、ハオコゼ,2015年度にはチワラスボなども見られた。ときおり大量のニホンイサザアミが発生することがあり,夜間にボラやハゼ類,エビ類が盛んに捕食する光景が見られる。湖内生物の重要な餌となっているようで,このような年にはマハゼやニホンウナギの漁獲が多い。2014年あたりからはこれらの不漁が続いているが,ニホンイサザアミの発生量と相間がある可能性が大きい。また,密放流によるものか、外来種のオオクチバスやブルーギルの侵入もあるが、湖水が塩分を含むため、河川流入部などの淡水域や園路沿いの池などにしかみられない。
水生生物として目立つものに,ミシシッピアカミミガメ(湖内外),クサガメ(湖内外)、ブルーギル(湖外の池、特定外来種),オオクチバス(湖外の池、特定外来種),ウシガエル(湖外の池、特定外来種),アメリカザリガニ(湖外の池),カムルチー(湖内),ハクレン(湖内),カダヤシ(淡水域、特定外来種)、アフリカツメガエル(主に下流域),タイワンシジミ(種名同定は仮:主に淡水域)、植物としては、オオフサモ(湖外の池、特定外来種)、アレチウリ(特定外来種)、オオブタクサなどがある。
昭和30年代の後半頃から急激に水質汚濁が進み、湖水の栄養塩濃度が、一年の大部分で富栄養化レベルを遥かに超えるような状態となった。水質や周辺環境は悪化し、かつてはアオコが大量発生・腐敗し、水は濁って異臭を放ち、さらには死んだ魚が岸に打ち上げられている光景がしばしば見られた。
このような事態を重く受け止めた静岡県や浜松市は、佐鳴湖の水質改善のために調査や対策を行ってきた。県の事業ではヘドロ(屁泥)の底泥浚渫による除去を、市および県の事業としては上流域の下水道整備などの対策を行った。こうした対策は一定の成果はあったものの、佐鳴湖特有の性質(後述)も災いし、1999年(平成11年度)以降に年平均COD値(Mn法)が11mg/Lから12mg/Lとほぼ横ばいとなるなど、水質改善の決め手とはならなかった。
そして、環境省が発表した2001年度の全国の湖沼の水質調査結果(公共用水域水質測定結果)では、水の汚濁度を示すCOD(化学的酸素要求量)の年平均値が、2000年度まで全国ワースト1位であった手賀沼(千葉県)を抜き、全国ワースト1位となった。東海地方では、油ヶ淵(愛知県碧南市・安城市)と並んで汚い湖沼とされた。
しかし、その後も流域の下水道普及事業とともに、直接浄化施設の建設や湖岸におけるヨシの植栽など新たな水質改善対策(ただし、下水道整備以外の事業のCOD改善効果は不明)を継続的に取り入れていった結果、水質は改善し2007年度の年平均COD値は9.3mg/Lとなり、全国ワースト1位から抜け出すこととなった。さらに、2009年度には7.6mg/Lとなり、全国ワースト5位以内から抜け出すことができた。
なお、2009年(平成17年度)時点のCOD値は、環境省の定める環境基準(湖沼Bの佐鳴湖は5mg/L以下)と比較して依然として高水準であるため、引き続き、水質改善のための対策が行われている。
汚濁度の高い湖ではあるが重金属や有毒化学物質などのいわゆる有害物質が高濃度で存在するというデータはない。現時点で遊泳や飲用には適さないが、魚介類を採取して食すことで問題は起きていない。
汚濁の原因としては、周辺地域の急激かつ過剰な開発により湧水量が減少し,生活排水や事業系排水が増大したことが挙げられる。流域の開発事業はいまだに行われており,流域の台地法面に残された貴重な緑地はなお減り続けている。また,天竜川水系からの三方原用水による利水で三方原台地での農業が盛んとなり農業排水などの負荷が急速に増大したことが挙げられる。それらの排水に含まれる窒素(硝酸イオン)やリン(リン酸イオン)を栄養源にして、植物プランクトンが異常繁殖する。周辺湧水は比較的高濃度の硝酸イオンを含んでおり,場所によってはNO3-N値で6~7 ppmに達し,農地の施肥量が減少しても濃度が低下する兆しはない。
環境省の公共用水域水質測定結果による、近年のCOD値を並べる。
佐鳴湖には縄文時代からヤマトシジミが生息しており、近くには蜆塚遺跡が残っている。1970年代までは佐鳴湖でシジミ狩りをできるほど多くのヤマトシジミが生息していたが、水質の悪化により絶滅してしまった。ヤマトシジミは水中の懸濁物を取り入れ有機物を濾過し餌とする懸濁物消費者で汽水域の物質循環や水の浄化作用に大きな働きをしている。ヤマトシジミを復活させ、それを活用して佐鳴湖の水質浄化を目指す活動をしている佐鳴湖シジミプロジェクト協議会や高等学校がある。佐鳴湖シジミプロジェクト協議会は、2008年度に木曽川水系から親のヤマトシジミを再導入し、人の手をかけながら増殖試験、育成試験などを行っている。佐鳴湖の東岸に「シジミハウス」というビニールハウスを設置し、湖から取り込んだ水を用いてシジミを育てている。そのシジミを用いた実験によると、シジミは佐鳴湖水の濁度、CODを減少させることができる。
佐鳴湖の周囲の、主に西岸と東岸は『佐鳴湖公園』として整備され、市民の憩いの場となっている。公園は浜松市西区と中区にまたがる。面積は42.72ha。
1949年(昭和24年)に佐鳴湖の西岸の一部に計画、整備された『根川山公園』が元となり、これが後に計画区域拡大を受けて『佐鳴湖公園』と改称され、東岸側も整備された。その後長期に渡り西岸側と東岸側で分断する形となっていたが、2007年3月21日に北岸が開園、分断されていた西岸と東岸が接続された。将来的には、佐鳴湖を一周できる公園として整備が進められている。
自然環境を売りにした公園でもあり、緑も多く、野鳥の観察スポットとしても名高い。湖という環境である事から、水遊びや釣りを楽しむこともできる。西岸には谷戸の一部を残した『根川湿地』と呼ばれる人工の湿地帯が広がる。
現在の佐鳴湖公園は以前よりもかなり狭くなっている。特に,昭和63年から平成11年度にかけての大規模湖内浚渫土による埋立を行い,親水湖岸整備を行った。現在の湖岸に見られるグリ石は人工的に投入されたものであり,西岸などにはかつての湖岸の名残の構造物が残る。
佐鳴湖の環境改善を目的として,静岡県と浜松市が予算を出し合い2015年度に新たに佐鳴湖地域協議会が発足した。前身は,清流ルネッサンスII佐鳴湖地域協議会。行政が事務局となり,関係市民団体,流域自治会,学識経験者,関連行政部署により構成される。年数回の会議開催とともに,各種浄化対策事業を実施,イベントとして市民参加の水質調査(年4回、2020年度から取りやめ),ヨシ刈り,魚類調査(平成28年度より),佐鳴湖交流会(年1回)などを開催している。令和2年度からの新規事業として、行動の主体を市民に移すための人材育成事業「佐鳴湖プラットフォーム(仮称)」を実施中。 | [
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"text": "昭和30年代の後半頃から急激に水質汚濁が進み、湖水の栄養塩濃度が、一年の大部分で富栄養化レベルを遥かに超えるような状態となった。水質や周辺環境は悪化し、かつてはアオコが大量発生・腐敗し、水は濁って異臭を放ち、さらには死んだ魚が岸に打ち上げられている光景がしばしば見られた。",
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"text": "このような事態を重く受け止めた静岡県や浜松市は、佐鳴湖の水質改善のために調査や対策を行ってきた。県の事業ではヘドロ(屁泥)の底泥浚渫による除去を、市および県の事業としては上流域の下水道整備などの対策を行った。こうした対策は一定の成果はあったものの、佐鳴湖特有の性質(後述)も災いし、1999年(平成11年度)以降に年平均COD値(Mn法)が11mg/Lから12mg/Lとほぼ横ばいとなるなど、水質改善の決め手とはならなかった。",
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"text": "しかし、その後も流域の下水道普及事業とともに、直接浄化施設の建設や湖岸におけるヨシの植栽など新たな水質改善対策(ただし、下水道整備以外の事業のCOD改善効果は不明)を継続的に取り入れていった結果、水質は改善し2007年度の年平均COD値は9.3mg/Lとなり、全国ワースト1位から抜け出すこととなった。さらに、2009年度には7.6mg/Lとなり、全国ワースト5位以内から抜け出すことができた。",
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"text": "汚濁の原因としては、周辺地域の急激かつ過剰な開発により湧水量が減少し,生活排水や事業系排水が増大したことが挙げられる。流域の開発事業はいまだに行われており,流域の台地法面に残された貴重な緑地はなお減り続けている。また,天竜川水系からの三方原用水による利水で三方原台地での農業が盛んとなり農業排水などの負荷が急速に増大したことが挙げられる。それらの排水に含まれる窒素(硝酸イオン)やリン(リン酸イオン)を栄養源にして、植物プランクトンが異常繁殖する。周辺湧水は比較的高濃度の硝酸イオンを含んでおり,場所によってはNO3-N値で6~7 ppmに達し,農地の施肥量が減少しても濃度が低下する兆しはない。",
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"text": "佐鳴湖には縄文時代からヤマトシジミが生息しており、近くには蜆塚遺跡が残っている。1970年代までは佐鳴湖でシジミ狩りをできるほど多くのヤマトシジミが生息していたが、水質の悪化により絶滅してしまった。ヤマトシジミは水中の懸濁物を取り入れ有機物を濾過し餌とする懸濁物消費者で汽水域の物質循環や水の浄化作用に大きな働きをしている。ヤマトシジミを復活させ、それを活用して佐鳴湖の水質浄化を目指す活動をしている佐鳴湖シジミプロジェクト協議会や高等学校がある。佐鳴湖シジミプロジェクト協議会は、2008年度に木曽川水系から親のヤマトシジミを再導入し、人の手をかけながら増殖試験、育成試験などを行っている。佐鳴湖の東岸に「シジミハウス」というビニールハウスを設置し、湖から取り込んだ水を用いてシジミを育てている。そのシジミを用いた実験によると、シジミは佐鳴湖水の濁度、CODを減少させることができる。",
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"text": "自然環境を売りにした公園でもあり、緑も多く、野鳥の観察スポットとしても名高い。湖という環境である事から、水遊びや釣りを楽しむこともできる。西岸には谷戸の一部を残した『根川湿地』と呼ばれる人工の湿地帯が広がる。",
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"text": "現在の佐鳴湖公園は以前よりもかなり狭くなっている。特に,昭和63年から平成11年度にかけての大規模湖内浚渫土による埋立を行い,親水湖岸整備を行った。現在の湖岸に見られるグリ石は人工的に投入されたものであり,西岸などにはかつての湖岸の名残の構造物が残る。",
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"text": "佐鳴湖の環境改善を目的として,静岡県と浜松市が予算を出し合い2015年度に新たに佐鳴湖地域協議会が発足した。前身は,清流ルネッサンスII佐鳴湖地域協議会。行政が事務局となり,関係市民団体,流域自治会,学識経験者,関連行政部署により構成される。年数回の会議開催とともに,各種浄化対策事業を実施,イベントとして市民参加の水質調査(年4回、2020年度から取りやめ),ヨシ刈り,魚類調査(平成28年度より),佐鳴湖交流会(年1回)などを開催している。令和2年度からの新規事業として、行動の主体を市民に移すための人材育成事業「佐鳴湖プラットフォーム(仮称)」を実施中。",
"title": "佐鳴湖地域協議会"
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]
| 佐鳴湖(さなるこ)は、静岡県浜松市西区・中区にまたがって所在する湖。河川法上は、浜名湖と同様に二級河川都田川水系に属する。 | {{独自研究|date=2016年12月}}
{{Infobox 湖
|名称=佐鳴湖
|画像=[[ファイル:Lake Sanaru.jpg|285px|{{国土航空写真}}1983年度]]
|所在地={{JPN}}<br>[[静岡県]][[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]]・[[中区 (浜松市)|中区]]<br />{{日本の位置情報|34|42|38|137|41|25|佐鳴湖|34.710556,137.690278|佐鳴湖}}<br />{{Location map|Japan Shizuoka Prefecture#Japan|width=220|float=center|relief=1|caption=佐鳴湖の位置}}
|面積=1.13
|周囲長=5.5
|最大水深=2.5
|平均水深=2
|貯水量=0.0024
|標高=0.1
|成因=海跡湖
|淡汽=汽水
|湖沼型=過栄養湖
|透明度=0.48
}}
[[ファイル:LakeSanaru1.jpg|thumb|280px|佐鳴湖公園からの眺め(2010年4月)]]
[[ファイル:LakeSanaru2.JPG|thumb|280px|佐鳴湖漕艇場(2010年4月)]]
'''佐鳴湖'''(さなるこ)は、[[静岡県]][[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]]・[[中区 (浜松市)|中区]]にまたがって所在する<ref>{{Cite web|和書|author=国土地理院|authorlink=国土地理院|date=2015-03-06|title=平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積|url=https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20141001.pdf|format=PDF|accessdate=2015-03-24}}</ref>[[湖]]。[[河川法]]上は、[[浜名湖]]と同様に二級河川[[都田川]]水系に属する。
== 歴史 ==
約2000年前の[[縄文時代]]後期あたりから、[[浜名湖]]とともに海から徐々に切り離されて出来上がった自然湖。成立後は淡水化していったが、[[新川 (都田川水系)|新川]]によって浜名湖とつながっているために、[[1498年]](明応7年)に起きた[[明応地震]]や度重なる暴風雨によって浜名湖と[[遠州灘]]を隔てていた箇所が決壊して浜名湖が汽水化したのに伴い、[[潮汐|満潮]]時にわずかだが海水が流入してくるようになり、淡水で生息する魚の他に汽水性の魚も見られる珍しい湖となった。
最近では浜名湖の塩水化の進行にともない塩分濃度が上昇し、1%を超えることもある。
人間の生活面では、[[蜆塚遺跡]]に見られるように縄文時代から貝の採集や[[漁業]]が行われ、[[1901年]](明治34年)に[[漁業協同組合]]が設立された頃は、主にウナギ漁を行なう50人ほどの漁師がいた。[[1952年]]ごろには200人以上が従事しており<ref>[https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100040/ht202130 湖面漁業(浜名湖・佐鳴湖)](浜松市史 四)</ref>、現在でも南岸の入野漁協を中心に湖面漁業が行なわれている<ref>[http://www.sanaruko-net.com/profile/profile3.html 生物の生息状況](佐鳴湖地域協議会)</ref>。
2000年、佐鳴湖西岸から東神田川に合流する新川放水路が完成し、流出河川が追加された。
== 地理 ==
湖は[[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]]と[[中区 (浜松市)|中区]]の境に位置する。水深は浅く、平均で約2m、最大でも2.5mほどである。流入河川は[[段子川]]と[[新川 (都田川水系)|新川(西川)]]、および御前谷排水路がある。流出河川は新川と旧新川で、共に浜名湖に接続している。
== 生物相 ==
佐鳴湖に生息する主な種は以下の通りである。総魚種は約90種を数える。
* 淡水魚:[[ギンブナ]]、[[オイカワ]]、[[アユ]]、[[コイ]]、[[ニホンウナギ]]、[[ハクレン]],[[ニゴイ]],[[ミナミメダカ]]、[[ヌマチチブ]]
* 汽水魚:[[ボラ]]、[[スズキ (魚)|スズキ]]、[[マハゼ]]、ウロハゼ、カワアナゴ、[[コノシロ]]、[[サッパ]]、[[ヒイラギ (魚)|ヒイラギ]]、[[キチヌ]]、[[クロダイ]]、[[カライワシ]]
* 甲殻類:[[モクズガニ]]、ガザミ類、[[テナガエビ]]、ミナミテナガエビ、[[スジエビ]]、ニホンイサザアミ、'''端脚類('''ヨコエビ類)、フナムシ類、フジツボ類:比較的大型のもののみ記載
2007年度には、[[イシカワシラウオ]]、[[アカエイ]]、[[シマフグ]]、[[ハオコゼ]],2015年度には[[チワラスボ]]なども見られた。ときおり大量の[[ニホンイサザアミ]]が発生することがあり,夜間にボラやハゼ類,エビ類が盛んに捕食する光景が見られる。湖内生物の重要な餌となっているようで,このような年にはマハゼやニホンウナギの漁獲が多い。2014年あたりからはこれらの不漁が続いているが,ニホンイサザアミの発生量と相間がある可能性が大きい。また,密放流によるものか、外来種の[[オオクチバス]]や[[ブルーギル]]の侵入もあるが、湖水が塩分を含むため、河川流入部などの淡水域や園路沿いの池などにしかみられない<ref name=":0" />。
== 外来種問題 ==
水生生物として目立つものに,[[ミシシッピアカミミガメ]](湖内外),[[クサガメ]](湖内外)、[[ブルーギル]](湖外の池、特定外来種),[[オオクチバス]](湖外の池、特定外来種),[[ウシガエル]](湖外の池、特定外来種),[[アメリカザリガニ]](湖外の池),[[カムルチー]](湖内),[[ハクレン]](湖内),[[カダヤシ]](淡水域、特定外来種)、[[アフリカツメガエル]](主に下流域),[[タイワンシジミ]](種名同定は仮:主に淡水域)、植物としては、[[オオフサモ]](湖外の池、特定外来種)、[[アレチウリ]](特定外来種)、[[オオブタクサ]]などがある<ref name=":0">{静岡県戦略課題研究報告書「快適空間『佐鳴湖』の創造」、平成20年、静岡県産業部。ただしこの時点での未記載種もあり。概要版とフォローアップ版リンク https://www.pref.shizuoka.jp/sangyou/sa-130/kenkyuu/_notes/project_senryaku.html}</ref><ref>{同フォローアップ研究報告書、平成21年、静岡県産業部}</ref>。
== 水質汚濁問題 ==
{{出典の明記|date=2018-5|section=1}}
昭和30年代の後半頃から急激に[[水質汚濁]]が進み、湖水の栄養塩濃度が、一年の大部分で富栄養化レベルを遥かに超えるような状態となった。水質や周辺環境は悪化し、かつてはアオコが大量発生・[[腐敗]]し、水は濁って異臭を放ち、さらには死んだ魚が岸に打ち上げられている光景がしばしば見られた<ref>{{Cite web|和書|title=佐鳴湖の水質・環境の改善について |url=https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/square/room/opinion/kankyo/2020-1342-1343.html |website=浜松市公式ホームページ |access-date=2022-07-13 |language=ja |last=浜松市}}</ref>。
このような事態を重く受け止めた静岡県や浜松市は、佐鳴湖の水質改善のために調査や対策を行ってきた。県の事業では[[ヘドロ]](屁泥)の底泥浚渫による除去を、市および県の事業としては上流域の[[下水道]]整備などの対策を行った。こうした対策は一定の成果はあったものの、[[#水質改善が芳しくない理由|佐鳴湖特有の性質]](後述)も災いし、[[1999年]](平成11年度)以降に年平均COD値(Mn法)が11mg/Lから12mg/Lとほぼ横ばいとなるなど、水質改善の決め手とはならなかった<ref name=":0" />。
そして、[[環境省]]が発表した[[2001年]]度の全国の湖沼の水質調査結果(公共用水域水質測定結果)では、水の汚濁度を示す[[化学的酸素要求量|COD]](化学的酸素要求量)の年平均値が、[[2000年]]度まで全国ワースト1位であった[[手賀沼]]([[千葉県]])を抜き、全国ワースト1位となった。[[東海地方]]では、[[油ヶ淵]]([[愛知県]][[碧南市]]・[[安城市]])と並んで汚い湖沼とされた。
しかし、その後も流域の下水道普及事業とともに、直接浄化施設の建設や湖岸における[[ヨシ]]の植栽など新たな水質改善対策(ただし、下水道整備以外の事業のCOD改善効果は不明)を継続的に取り入れていった結果、水質は改善し[[2007年]]度の年平均COD値は9.3mg/Lとなり、全国ワースト1位から抜け出すこととなった。さらに、[[2009年]]度には7.6mg/Lとなり、全国ワースト5位以内から抜け出すことができた。<ref>{{Cite web|和書|title=日本一汚い湖と呼ばれた佐鳴湖の水質改善が進む |url=https://jp-hamamatsu.com/sanaru-lake-news/ |website=【公式】浜松市正直観光協会 観光・旅行・遊び場・デートスポット・グルメ・ランチ |date=2021-09-06 |access-date=2022-07-13 |language=ja |first=【公式】浜松市正直観光協会 |last=観光・旅行・遊び場・デートスポット・グルメ・ランチ}}</ref>
なお、2009年(平成17年度)時点のCOD値は、環境省の定める[[環境基準]](湖沼Bの佐鳴湖は5mg/L以下)と比較して依然として高水準であるため、引き続き、水質改善のための対策が行われている。
汚濁度の高い湖ではあるが[[重金属]]や[[毒|有毒]][[化学物質]]などのいわゆる[[有害物質]]が高濃度で存在するというデータはない。現時点で遊泳や飲用には適さないが、魚介類を採取して食すことで問題は起きていない。
=== 水質汚濁の原因 ===
汚濁の原因としては、周辺地域の急激かつ過剰な[[開発]]により湧水量が減少し,[[生活排水]]や事業系排水が増大したことが挙げられる。流域の開発事業はいまだに行われており,流域の台地法面に残された貴重な緑地はなお減り続けている。また,天竜川水系からの[[三方原用水]]による利水で三方原台地での農業が盛んとなり農業排水などの負荷が急速に増大したことが挙げられる。それらの排水に含まれる[[窒素]]([[硝酸イオン]])や[[リン]](リン酸イオン)を栄養源にして、植物[[プランクトン]]が異常繁殖する。周辺湧水は比較的高濃度の硝酸イオンを含んでおり,場所によってはNO3-N値で6~7 ppmに達し,農地の施肥量が減少しても濃度が低下する兆しはない<ref name=":0" />。
=== COD値の動き ===
環境省の公共用水域水質測定結果による、近年のCOD値を並べる。
{| class="wikitable"
|-
!調査年度!!COD(mg/L)!!順位!!備考
|-
|1994年(平成6年)||13||ワースト2位||
|-
|1995年(平成7年)||12||同上||千葉県の[[印旛沼]]と同順位
|-
|1996年(平成8年)||13||同上||単独ワースト2位
|-
|1997年(平成9年)||11||同上||印旛沼と同順位
|-
|1998年(平成10年)||9.7||ワースト4位||
|-
|1999年(平成11年)||11||ワースト3位||茨城県の[[牛久沼]]と同順位</tr>
|-
|2000年(平成12年)||12||ワースト2位||
|-
|2001年(平成13年)||12||ワースト1位||以降2006年まで、ワースト1位を保持
|-
|2002年(平成14年)||11||同上||
|-
|2003年(平成15年)||12||同上||
|-
|2004年(平成16年)||11||同上||
|-
|2005年(平成17年)||11||同上||
|-
|2006年(平成18年)||11||同上||
|-
|2007年(平成19年)||9.3||ワースト3位||ワースト1位から脱出(代わって千葉県の印旛沼がワースト1位となる)
|-
|2008年(平成20年)||9.0||ワースト4位||
|-
|2009年(平成21年)||7.6|| ||ワースト5位以内から脱出
|}
* COD値は年平均値であり、3桁目は四捨五入している。
* 佐鳴湖は「湖沼B」に分類されるため、CODの環境基準値は5mg/L以下である。
* 記録上の年平均ピーク値は、[[1972年]](昭和47年)の測定で記録された18mg/Lである。
=== ヤマトシジミを用いた水質浄化 ===
佐鳴湖には縄文時代から[[ヤマトシジミ (貝)|ヤマトシジミ]]が生息しており、近くには[[蜆塚遺跡]]が残っている。1970年代までは佐鳴湖でシジミ狩りをできるほど多くのヤマトシジミが生息していたが、水質の悪化により絶滅してしまった。ヤマトシジミは水中の懸濁物を取り入れ有機物を濾過し餌とする懸濁物消費者で汽水域の物質循環や水の浄化作用に大きな働きをしている。ヤマトシジミを復活させ、それを活用して佐鳴湖の水質浄化を目指す活動をしている佐鳴湖シジミプロジェクト協議会や高等学校がある。佐鳴湖シジミプロジェクト協議会は、2008年度に[[木曽川]]水系から親のヤマトシジミを再導入し、人の手をかけながら増殖試験、育成試験などを行っている。佐鳴湖の東岸に「シジミハウス」というビニールハウスを設置し、湖から取り込んだ水を用いてシジミを育てている。<ref>{{Cite web|和書|author=中日新聞|authorlink=中日新聞|date=2018|title=佐鳴湖シジミ復活へ 市民団体が養殖研究10年|url=https://www.chunichi.co.jp/article/42457|accessdate=2021-12-05}}</ref>そのシジミを用いた実験によると、シジミは佐鳴湖水の濁度、CODを減少させることができる。<ref>{{Cite web|和書|author=静岡県立浜松北高等学校|authorlink=静岡県立浜松北高等学校|date=|title=第35回 山崎賞 ヤマトシジミによる佐鳴湖浄化の研究 第三報|url=https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/sonota/ronnbunshu/h30/183105.pdf|accessdate=2021-11-28}}</ref>
== 佐鳴湖公園 ==
佐鳴湖の周囲の、主に西岸と東岸は'''『佐鳴湖公園』'''として整備され、市民の憩いの場となっている。公園は浜松市西区と[[中区 (浜松市)|中区]]にまたがる。面積は42.72ha。<ref>{{Cite web|和書|author=浜松市|authorlink=浜松市役所|url=http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koen-kan/park/parks/sanaruko/sanaru_index.html |title=佐鳴湖公園|accessdate=2015-03-24}}</ref>
[[1949年]](昭和24年)に佐鳴湖の西岸の一部に計画、整備された『根川山公園』が元となり、これが後に計画区域拡大を受けて『佐鳴湖公園』と改称され、東岸側も整備された。その後長期に渡り西岸側と東岸側で分断する形となっていたが、[[2007年]][[3月21日]]に北岸が開園、分断されていた西岸と東岸が接続された。将来的には、佐鳴湖を一周できる公園として整備が進められている。
自然環境を売りにした公園でもあり、緑も多く、野鳥の観察スポットとしても名高い。湖という環境である事から、水遊びや釣りを楽しむこともできる。西岸には谷戸の一部を残した『根川湿地』と呼ばれる人工の[[湿原|湿地帯]]が広がる。
現在の佐鳴湖公園は以前よりもかなり狭くなっている。特に,昭和63年から平成11年度にかけての大規模湖内浚渫土による埋立を行い,親水湖岸整備を行った。現在の湖岸に見られるグリ石は人工的に投入されたものであり,西岸などにはかつての湖岸の名残の構造物が残る。
== 佐鳴湖地域協議会 ==
佐鳴湖の環境改善を目的として,静岡県と浜松市が予算を出し合い2015年度に新たに[http://www.sanaruko-net.com/ 佐鳴湖地域協議会]が発足した。前身は,清流ルネッサンスII佐鳴湖地域協議会。行政が事務局となり,関係市民団体,流域自治会,学識経験者,関連行政部署により構成される。年数回の会議開催とともに,各種浄化対策事業を実施,イベントとして市民参加の水質調査(年4回、2020年度から取りやめ),ヨシ刈り,魚類調査(平成28年度より),佐鳴湖交流会(年1回)などを開催している。令和2年度からの新規事業として、行動の主体を市民に移すための人材育成事業「佐鳴湖プラットフォーム(仮称)」を実施中。
== 見所やイベント ==
* 公園を中心とした佐鳴湖の周囲は浜松市の[[サクラ]]の名所として知られ、毎年の[[花見]]シーズンには多くの花見客でにぎわう。浜松市漕艇場があり、ボート競技も盛んである。
* 佐鳴湖すぐ沿岸にある'''根川山'''は、国土地理院の地形図に掲載された山のうち静岡県一低い山(標高32.0m)である。
* 佐鳴湖の水質浄化事業の一環として、毎年[[夏]]には'''佐鳴湖花火大会'''が催される。
* 「佐鳴湖里山保全・復元活動」が行われ、平成14年度[[手づくり郷土賞]](地域活動部門)[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part17_H14/2003_22202.pdf 受賞]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 参考資料 ==
* [https://www.env.go.jp/water/suiiki/index.html 公共用水域の水質測定結果 - 環境省]
* [http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/life/env/mizukankyo/sanaru.htm 浜松市/佐鳴湖流域 - 浜松市の水環境]
* [https://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-890/jigyo/kawa/sanaruko/about.html 静岡県/佐鳴湖北岸の整備計画(佐鳴湖とは)]
* 静岡県戦略課題研究「快適空間『佐鳴湖』の創造』研究報告書 - 静岡県産業部(平成20年3月)総ページ数580
== 関連人物 ==
* [[下位香代子]]
* [[光永康則]]
== 関連項目 ==
* [[日本の湖沼一覧]]
* [[水質汚濁]]
* [[水質]]、[[底質]]、[[底質汚染]]
* [[苺ましまろ]] - 佐鳴湖が登場する[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品
* [[怪物王女]] - 佐鳴湖東岸の「[[佐鳴台]]」をモチーフにした「笹鳴町」が舞台の[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品
* [[佐鳴予備校]] - 校名の由来となった
== 外部リンク ==
* [https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koen-kan/park/parks/sanaruko/sanaru_index.html 浜松市/佐鳴湖公園]
* [https://www.entetsuassist-dms.com/sanaru-park/ 水と緑のオアシス](浜松公園緑地協会)
{{日本の湖沼}}
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[[Category:中部地方の湖]]
[[Category:静岡県の地形]]
[[Category:浜松市の公園]]
[[category:浜松市西区の地理]]
[[Category:浜松市中区の地理]] | 2003-02-14T07:31:29Z | 2023-11-13T00:25:59Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%B3%B4%E6%B9%96 |
1,523 | User Datagram Protocol | User Datagram Protocol(ユーザ データグラム プロトコル、UDP)はIPネットワーク上のアプリケーション間データグラム送信を実現する通信プロトコルである。
UDPはインターネットを始めとしたInternet Protocolネットワーク上で利用される通信プロトコルである。ホスト間通信を担うIP上でアプリケーション間通信を可能にする。通信はデータグラム方式、すなわち到達保証・流量制御・順序制御をせず、データグラムをステートレス・コネクションレスに相手側へと送信する。またブロードキャストとマルチキャストをサポートしている。
デイヴィッド・P・リード(英語版)が1980年に設計し、RFC 768 で定義した(STD番号: 6)。非常にシンプルに設計されており公式仕様のRFC 768はわずか3ページである。インターネット・プロトコル・スイートの観点ではトランスポート層プロトコルに属する。IPヘッダにおけるプロトコル番号は17である。OSI参照モデルに当てはめるのであればトランスポート層に相当する。しばしば対比されるプロトコルにTCPやSCTPがある。
アプリケーション間通信に必要な最低限の機能をもった軽量プロトコルであり、適時性・低レイテンシが要求されるサービスで利用される。特に途中でデータが抜け落ちても問題が少ない音声や画像のストリーム形式での配信(VoIP、MPEG-TS、IP放送など)、小さなデータをリアルタイムで大量に転送するオンラインゲームなどで活用される。上位プロトコルとしてはSNMP、TFTP、DNS、DHCP、RTPなどが挙げられる。
設計方針として輻輳制御を持たないため、ネットワークが輻輳する原因となるケースが問題点として存在する。
UDPはInternet Protocol上で利用されるプロトコルであり、IPと合わせてUDP/IPスタックとして機能する。一方でUDPはそれ単体でプロトコルであり、UDP自体で提供する明確な機能がある。以下はこの2つの観点に基づいた機能の説明である。
次の表はIP、UDP/IPスタック、TCP/IPスタックが提供する機能の比較である。
すなわちUDP/IPは「ネットワークのネットワークにおけるトランザクション指向のアプリケーション間データグラム送信」を実現する。UDPはこれを最小限のプロトコルで実現するよう意図されているため、UDP/IPはTCP/IPより少ない機能のみを提供する。単一パケットの到達保証や複数パケットに渡る流量制御・順序制御はサポートしていない(データグラムモデル)。このため、UDPを Unreliable Datagram Protocol(信頼できないデータグラム・プロトコル)と呼ぶこともある。
UDPは2つの機能のみを提供する。
IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。UDPはポート機能を提供することで1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする。またIPはヘッダチェックサムによる宛先誤り検出を可能にするが、そのままだとペイロードの破壊を検出できない。UDPはIPアドレス・ポート・ペイロードに基づくチェックサムを提供することで単一データグラムのルーティング誤りおよびデータ破壊を (100%ではないが) 検出できる。
すなわちUDPはアプリケーション間通信を可能にし、パケットトランザクション(all-or-nothing通信)を提供する。
UDPの送受信単位はユーザデータグラム(英: user datagram)であり、UDPヘッダ(英: UDP header)およびデータ(英: data)から構成される。ビット列として次の構造を持つ。
UDPヘッダには4つのフィールドがあり、それぞれ2バイト(16ビット)である。そのうち2つ(ピンク色の部分)はIPv4ではオプションである。IPv6では送信元ポート番号だけがオプションである(後述)。
チェックサムの計算法は RFC 768 で以下のように定義されている。
IPヘッダからの情報で作られる擬似ヘッダとUDPヘッダとデータを長さが2オクテットの倍数になるように(必要なら)値がゼロのオクテットでパディングし、各2オクテットの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットをチェックサムとする。
つまり、全16ビットワードを1の補数演算で足しあわせる。その合計を1の補数化すればUDPのチェックサム・フィールドの値になる。
チェックサム計算の結果がゼロになる場合(16ビット全部が0)、チェックサムを省略する場合と区別するため、その1の補数(全ビットが1)を設定する。
IPv4とIPv6ではチェックサム計算に使うデータに差異がある。
IPv4上のUDPでは、実際のIPv4ヘッダからの情報から作った擬似ヘッダをチェックサム計算に使用する。擬似ヘッダは実際のIPv4ヘッダそのものではない。以下にチェックサム計算にのみ使用する擬似ヘッダを示す。
送信元IPアドレスとあて先IPアドレスはIPv4ヘッダにある値である。プロトコル番号はUDPを表すので17 (0x11) である。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータの全長である。
UDPチェックサム計算はIPv4ではオプションである。チェックサムを使わない場合はゼロを設定する。
IPv6上のUDPでは、チェックサムは基本的に必須である。ただしUDP上でトンネリングプロトコルを利用する場合は例外的に計算を省略しゼロに設定して良い。チェックサムの計算法は RFC 2460 で次のように文書化されている。
トランスポート層かそれより上位のプロトコルで、IPヘッダ内のアドレスをチェックサム計算に使う場合、IPv6では128ビットのIPv6のアドレスを使用する。
チェックサム計算では、実際のIPv6ヘッダを真似た次のような擬似ヘッダを用いる。
送信元IPアドレスはIPv6ヘッダにある値を使う。あて先IPアドレスは最終的なあて先であり、IPv6パケットにルーティングヘッダがなければIPv6ヘッダ内のあて先IPアドレスを使い、さもなくば送信側ではルーティングヘッダの最後の要素を、受信側ではIPv6ヘッダのあて先IPアドレスを使う。次のヘッダというフィールドはプロトコル番号を意味し、UDPなので17を指定する。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータを合わせた長さである。
UDPモジュールはソケットを介してプログラムからアクセスする場合が多い。ポート番号0は送信側プロセスが応答を期待していない場合は使うことも許されている。
UDPを利用するインターネットの重要なアプリケーションはいくつもある。以下はその例である。
UDP上に信頼性保証プロトコルを載せて利用するケースも存在する。TFTPなどのアプリケーションでは、アプリケーション層で必要に応じて基本的な信頼性機構を付与している。消失訂正符号(英語版)は一つの選択肢である。
UDPは設計方針として輻輳制御を提供しない。これがネットワーク全体への負荷を引き起こすケースがある。
帯域の大きな部分を消費して輻輳を起こしやすいUDPアプリケーションは、インターネットの安定性を危険にさらす可能性があり、実際に帯域を大幅に占める事態が発生している。制御できないUDPトラフィックによって輻輳崩壊になる可能性を低減するためのネットワーク機構が提案されてきた。現状では、ルーターなどのネットワーク機器でのパケット・キューイングやパケット・ドロッピングが過度なUDPトラフィックをスローダウンさせる唯一の手段となっている。Datagram Congestion Control Protocol (DCCP) はこの問題を部分的に解決すべく設計されたプロトコルで、ストリーミングなどの高転送レートのUDPストリームに対してTCPのような輻輳制御を追加するものである。
POS、会計、データベースなどのTCPを使っているシステムはUDPトラフィックに圧迫されつつある。TCPでパケットを喪失すると、輻輳制御が働いて転送レートを抑えるというのも一因である。リアルタイム・アプリケーションもビジネス・アプリケーションもビジネスには重要なので、Quality of Service のソリューション開発が大切だとする者もいる。 | [
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"text": "IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。UDPはポート機能を提供することで1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする。またIPはヘッダチェックサムによる宛先誤り検出を可能にするが、そのままだとペイロードの破壊を検出できない。UDPはIPアドレス・ポート・ペイロードに基づくチェックサムを提供することで単一データグラムのルーティング誤りおよびデータ破壊を (100%ではないが) 検出できる。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "すなわちUDPはアプリケーション間通信を可能にし、パケットトランザクション(all-or-nothing通信)を提供する。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "UDPの送受信単位はユーザデータグラム(英: user datagram)であり、UDPヘッダ(英: UDP header)およびデータ(英: data)から構成される。ビット列として次の構造を持つ。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "UDPヘッダには4つのフィールドがあり、それぞれ2バイト(16ビット)である。そのうち2つ(ピンク色の部分)はIPv4ではオプションである。IPv6では送信元ポート番号だけがオプションである(後述)。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "チェックサムの計算法は RFC 768 で以下のように定義されている。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "IPヘッダからの情報で作られる擬似ヘッダとUDPヘッダとデータを長さが2オクテットの倍数になるように(必要なら)値がゼロのオクテットでパディングし、各2オクテットの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットをチェックサムとする。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "つまり、全16ビットワードを1の補数演算で足しあわせる。その合計を1の補数化すればUDPのチェックサム・フィールドの値になる。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "チェックサム計算の結果がゼロになる場合(16ビット全部が0)、チェックサムを省略する場合と区別するため、その1の補数(全ビットが1)を設定する。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "IPv4とIPv6ではチェックサム計算に使うデータに差異がある。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "IPv4上のUDPでは、実際のIPv4ヘッダからの情報から作った擬似ヘッダをチェックサム計算に使用する。擬似ヘッダは実際のIPv4ヘッダそのものではない。以下にチェックサム計算にのみ使用する擬似ヘッダを示す。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "送信元IPアドレスとあて先IPアドレスはIPv4ヘッダにある値である。プロトコル番号はUDPを表すので17 (0x11) である。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータの全長である。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "UDPチェックサム計算はIPv4ではオプションである。チェックサムを使わない場合はゼロを設定する。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "IPv6上のUDPでは、チェックサムは基本的に必須である。ただしUDP上でトンネリングプロトコルを利用する場合は例外的に計算を省略しゼロに設定して良い。チェックサムの計算法は RFC 2460 で次のように文書化されている。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "トランスポート層かそれより上位のプロトコルで、IPヘッダ内のアドレスをチェックサム計算に使う場合、IPv6では128ビットのIPv6のアドレスを使用する。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "チェックサム計算では、実際のIPv6ヘッダを真似た次のような擬似ヘッダを用いる。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "送信元IPアドレスはIPv6ヘッダにある値を使う。あて先IPアドレスは最終的なあて先であり、IPv6パケットにルーティングヘッダがなければIPv6ヘッダ内のあて先IPアドレスを使い、さもなくば送信側ではルーティングヘッダの最後の要素を、受信側ではIPv6ヘッダのあて先IPアドレスを使う。次のヘッダというフィールドはプロトコル番号を意味し、UDPなので17を指定する。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータを合わせた長さである。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "UDPモジュールはソケットを介してプログラムからアクセスする場合が多い。ポート番号0は送信側プロセスが応答を期待していない場合は使うことも許されている。",
"title": "仕組み"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "UDPを利用するインターネットの重要なアプリケーションはいくつもある。以下はその例である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "UDP上に信頼性保証プロトコルを載せて利用するケースも存在する。TFTPなどのアプリケーションでは、アプリケーション層で必要に応じて基本的な信頼性機構を付与している。消失訂正符号(英語版)は一つの選択肢である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "UDPは設計方針として輻輳制御を提供しない。これがネットワーク全体への負荷を引き起こすケースがある。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "帯域の大きな部分を消費して輻輳を起こしやすいUDPアプリケーションは、インターネットの安定性を危険にさらす可能性があり、実際に帯域を大幅に占める事態が発生している。制御できないUDPトラフィックによって輻輳崩壊になる可能性を低減するためのネットワーク機構が提案されてきた。現状では、ルーターなどのネットワーク機器でのパケット・キューイングやパケット・ドロッピングが過度なUDPトラフィックをスローダウンさせる唯一の手段となっている。Datagram Congestion Control Protocol (DCCP) はこの問題を部分的に解決すべく設計されたプロトコルで、ストリーミングなどの高転送レートのUDPストリームに対してTCPのような輻輳制御を追加するものである。",
"title": "問題点"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "POS、会計、データベースなどのTCPを使っているシステムはUDPトラフィックに圧迫されつつある。TCPでパケットを喪失すると、輻輳制御が働いて転送レートを抑えるというのも一因である。リアルタイム・アプリケーションもビジネス・アプリケーションもビジネスには重要なので、Quality of Service のソリューション開発が大切だとする者もいる。",
"title": "問題点"
}
]
| User Datagram ProtocolはIPネットワーク上のアプリケーション間データグラム送信を実現する通信プロトコルである。 | {{redirect|UDP|ヌクレオチドの一種のUDP|ウリジン二リン酸}}
{{IPstack}}
'''User Datagram Protocol'''(ユーザ データグラム プロトコル、'''UDP''')は[[Internet Protocol|IP]][[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上のアプリケーション間[[データグラム]]送信を実現する[[通信プロトコル]]である<ref name=":0">"User Datagram Protocol ... make available a datagram mode of packet-switched computer communication in the environment of an interconnected set of computer networks." UDP specification ... provides a procedure for application programs to send messages to other programs ... is transaction oriented" UDP specification.</ref>。
== 概要 ==
UDPは[[インターネット]]を始めとした[[Internet Protocol]]ネットワーク上で利用される[[通信プロトコル]]である<ref name=":1" />。ホスト間通信を担うIP上でアプリケーション間通信を可能にする<ref name=":2" />。通信は[[データグラム]]方式、すなわち到達保証・流量制御・順序制御をせず、データグラムを[[ステートレス・プロトコル|ステートレス]]・[[コネクションレス型通信|コネクションレス]]に相手側へと送信する。また[[ブロードキャスト]]と[[マルチキャスト]]をサポートしている<ref name="forouzan">Forouzan, B.A. (2000). ''TCP/IP: Protocol Suite, 1st ed''. New Delhi, India: Tata McGraw-Hill Publishing Company Limited.</ref>。
{{仮リンク|デイヴィッド・P・リード|en|David P. Reed}}が1980年に設計し、{{IETF RFC|768}} で定義した([[インターネット標準|STD]]番号: 6)。非常にシンプルに設計されており公式仕様の{{IETF RFC|768}}はわずか3ページである。[[インターネット・プロトコル・スイート]]の観点では[[トランスポート層]]プロトコルに属する。IPヘッダにおける[[プロトコル番号]]は17である。[[OSI参照モデル]]に当てはめるのであれば[[トランスポート層]]に相当する。しばしば対比されるプロトコルに[[Transmission Control Protocol|TCP]]や[[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]]がある。
アプリケーション間通信に必要な最低限の機能をもった軽量プロトコルであり、適時性・低[[レイテンシ]]が要求されるサービスで利用される<ref name="kuroseross">{{Cite book|last=Kurose|first=J. F.|last2=Ross|first2=K. W.|year=2010|title=Computer Networking: A Top-Down Approach|edition=5th|location=Boston, MA|publisher=Pearson Education|isbn=9780131365483}}</ref>。特に途中でデータが抜け落ちても問題が少ない音声や画像の[[ストリーム]]形式での配信([[VoIP]]、[[MPEG-2システム|MPEG-TS]]、[[IP放送]]など)、小さなデータをリアルタイムで大量に転送する[[オンラインゲーム]]などで活用される。上位プロトコルとしては[[Simple Network Management Protocol|SNMP]]、[[Trivial File Transfer Protocol|TFTP]]、[[Domain Name System|DNS]]、[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]、[[Real-time Transport Protocol|RTP]]などが挙げられる。
設計方針として[[輻輳制御]]を持たないため、ネットワークが輻輳する原因となるケースが問題点として存在する。
== 機能 ==
UDPは[[Internet Protocol]]上で利用されるプロトコルであり<ref name=":1">"This protocol assumes that the Internet Protocol ... is used as the underlying protocol." UDP specification.</ref>、IPと合わせてUDP/IPスタックとして機能する。一方でUDPはそれ単体でプロトコルであり、UDP自体で提供する明確な機能がある。以下はこの2つの観点に基づいた機能の説明である。
=== UDP/IPスタック ===
次の表はIP、UDP/IPスタック、TCP/IPスタックが提供する機能の比較である。
{| class="wikitable"
|+表. IP, UDP/IP, TPC/IP 比較
!
!IP
!UDP/IP
!TCP/IP
|-
|ホスト間通信 by アドレス
|✔
|✔
|✔
|-
|アプリ間通信 by ポート
| -
|✔
|✔
|-
|パケットトランザクション
|△<ref>IP header のみトランザクション成立</ref>
|✔
|✔
|-
|バイトストリーム送信
| -
| -
|✔
|-
|信頼性/到達保証
| -
| -
|✔
|-
|流量制御
| -
| -
|✔
|-
|順序制御
| -
| -
|✔
|-
|輻輳制御
| -
| -
|✔
|}
すなわちUDP/IPは「ネットワークのネットワークにおけるトランザクション指向のアプリケーション間データグラム送信<ref name=":0" />」を実現する。UDPはこれを最小限のプロトコルで実現するよう意図されているため<ref>"This protocol provides a procedure ...with a minimum of protocol mechanism" UDP specification.</ref>、UDP/IPはTCP/IPより少ない機能のみを提供する。単一パケットの到達保証や複数パケットに渡る流量制御・順序制御はサポートしていない(データグラムモデル)。このため、UDPを ''Unreliable Datagram Protocol''(信頼できないデータグラム・プロトコル)と呼ぶこともある<ref>{{Cite web |[email protected] |url=http://ipv6.com/articles/general/User-Datagram-Protocol.htm |title=UDP Protocol Overview |publisher=Ipv6.com |date= |accessdate=2012-02-27}}</ref>。
=== UDP ===
UDPは2つの機能のみを提供する。
* ホスト内通信振り分け: [[ポート (コンピュータネットワーク)|ポート]]
* データグラム完全性チェック: チェックサム
IPはホスト間通信を可能にするが、そのままだとホストへの全信号を1つのアプリケーションのみが受け取る。UDPはポート機能を提供することで1ホスト内複数アプリケーションへの通信振り分けを可能にする。またIPはヘッダチェックサムによる宛先誤り検出を可能にするが、そのままだとペイロードの破壊を検出できない。UDPはIPアドレス・ポート・ペイロードに基づくチェックサムを提供することで単一データグラムのルーティング誤りおよびデータ破壊を (100%ではないが) 検出できる<ref>"UDP header contains ... the destination address ... This information gives protection against misrouted datagrams." UDP specification.</ref>。
すなわちUDPはアプリケーション間通信を可能にし<ref name=":2">"This protocol provides a procedure for application programs to send messages to other programs" UDP specification.</ref>、パケットトランザクション(all-or-nothing通信<ref>「正常かわからないパケット」が存在せず、「壊れた/届かないパケット」と「正常なパケット」のみからなる</ref>)を提供する<ref>"The protocol is transaction oriented" UDP specification.</ref><ref name="clark">Clark, M.P. (2003). ''Data Networks IP and the Internet, 1st ed''. West Sussex, England: John Wiley & Sons Ltd.</ref>。
== 仕組み ==
=== パケット構造 ===
UDPの送受信単位は'''ユーザデータグラム'''({{lang-en-short|user datagram}})であり、'''UDPヘッダ'''({{lang-en-short|UDP header}})および'''データ'''({{lang-en-short|data}})から構成される。ビット列として次の構造を持つ。
{| class="wikitable" style="margin: 0 auto; text-align: center;"
|- style="text-align:center;"
! オフセット(ビット)
! colspan="16" style="width:150px;"|0 – 15
! colspan="16" style="width:150px;"|16 – 31
|- style="text-align:center;"
! 0
| colspan="16" style="background:#fdd;"|送信元ポート番号
| colspan="16"|宛先ポート番号
|- style="text-align:center;"
! 32
| colspan="16"|データ長
| colspan="16" style="background:#fdd;"|チェックサム
|- style="text-align:center;"
! 64+
| colspan="32"| <br />データ<br />
|}
UDPヘッダには4つのフィールドがあり、それぞれ2バイト(16ビット)である<ref name="kuroseross"/>。そのうち2つ(ピンク色の部分)はIPv4ではオプションである。IPv6では送信元ポート番号だけがオプションである(後述)。
; 送信元ポート番号
: 送信元のポート番号で、相手からの応答が不要の場合はゼロ。それ以外の値の場合、必要なら相手からの応答を受け付けるポート番号を示す。送信元がクライアントの場合、[[エフェメラルポート]]番号ということが多い。送信元がサーバの場合、ウェルノウンポート番号ということが多い<ref name="forouzan"/>。
; 宛先ポート番号
: 宛先のポート番号であり、必須である。送信元ポート番号と同様、宛先がクライアントならエフェメラルポート、サーバならウェルノウンポートということが多い<ref name="forouzan"/>。
; データ長
: ヘッダとデータを含むデータグラム全体のバイト数を指定する。ヘッダが8バイトなので、それが最小値となる。理論上の上限は65,535バイト(ヘッダ8バイト + データ65,527バイト)である。下位層が[[IPv4]]の場合、実際の上限は65,507バイト(IPヘッダ20バイトとUDPヘッダ8バイトを差し引いた値)となる<ref name="forouzan"/>。
: [[IPv6]]のジャンボグラム機能では、65,535バイトを越えるサイズのUDPパケットを扱える<ref>{{IETF RFC|2675}}</ref>。この場合、IPv6のオプションヘッダでサイズを指定し、最大4,294,967,295バイト(2<sup>32</sup> - 1)を指定できるので、ヘッダ部の8バイトを差し引くと最大4,294,967,287バイトのデータを扱える。
; チェックサム
: ヘッダとデータの誤り検出に使用。送信元がチェックサムを生成しない場合、このフィールドの値はゼロとする<ref name="rfc768" />。IPv6ではオプションではないので、ゼロにはできない<ref name="rfc2460" />。<ref>{{Cite book |和書 |title=マスタリング TCP/IP 入門編 第6版 |year=2019 |pages=260-261 |author1=井上直也 |author2=松山公保 |author3=荒井透 |author4=苅田幸雄 |publisher=オーム社 |ISBN=978-4-274-22447-8}}<!-- 2019年11月30日 第6版第1刷発行 --></ref>
=== チェックサム ===
チェックサムの計算法は {{IETF RFC|768}} で以下のように定義されている。
<blockquote>
IPヘッダからの情報で作られる擬似ヘッダとUDPヘッダとデータを長さが2オクテットの倍数になるように(必要なら)値がゼロのオクテットでパディングし、各2オクテットの1の補数の総和の1の補数の下位16ビットをチェックサムとする<ref name="rfc768">Postel, J. (August 1980). {{IETF RFC|768}}: User Datagram Protocol. ''Internet Engineering Task Force''. Retrieved from //tools.ietf.org/html/rfc768</ref>。
</blockquote>
つまり、全16ビットワードを[[1の補数]]演算で足しあわせる。その合計を1の補数化すればUDPのチェックサム・フィールドの値になる。
チェックサム計算の結果がゼロになる場合(16ビット全部が0)、チェックサムを省略する場合と区別するため、その1の補数(全ビットが1)を設定する。
[[IPv4]]と[[IPv6]]ではチェックサム計算に使うデータに差異がある。
==== IPv4 擬似ヘッダ ====
IPv4上のUDPでは、実際のIPv4ヘッダからの情報から作った擬似ヘッダをチェックサム計算に使用する。擬似ヘッダは実際のIPv4ヘッダそのものではない。以下にチェックサム計算にのみ使用する擬似ヘッダを示す。
{| class="wikitable" style="margin: 0 auto; text-align: center;"
|- style="text-align:center;"
! bits
! colspan="8" style="width:75px;"|0 – 7
! colspan="8" style="width:75px;"|8 – 15
! colspan="8" style="width:75px;"|16 – 23
! colspan="8" style="width:75px;"|24 – 31
|- style="text-align:center;"
! 0
| colspan="32" style="background:#fdd;"| 送信元IPアドレス
|- style="text-align:center;"
! 32
| colspan="32" style="background:#fdd;"| あて先IPアドレス
|- style="text-align:center;"
! 64
| colspan="8" style="background:#fdd;"| ゼロ
| colspan="8" style="background:#fdd;"| [[プロトコル番号]]
| colspan="16" style="background:#fdd;"| UDP長
|- style="text-align:center;"
! 96
| colspan="16"| 送信元ポート番号
| colspan="16"| 宛先ポート番号
|- style="text-align:center;"
! 128
| colspan="16"| データ長
| colspan="16"| チェックサム
|- style="text-align:center;"
! 160+
| colspan="32"| <br />データ<br />
|}
送信元IPアドレスとあて先IPアドレスはIPv4ヘッダにある値である。[[プロトコル番号]]はUDPを表すので17 (0x11) である。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータの全長である。
UDPチェックサム計算はIPv4ではオプションである。チェックサムを使わない場合はゼロを設定する。
==== IPv6 擬似ヘッダ ====
IPv6上のUDPでは、チェックサムは基本的に必須である。ただしUDP上でトンネリングプロトコルを利用する場合は例外的に計算を省略しゼロに設定して良い<ref name="rfc6935"> Eubanks, M., Chimento, P., and M. Westerlund, "IPv6 and UDP Checksums for Tunneled Packets", {{IETF RFC|6935}}, April 2013.</ref>。チェックサムの計算法は {{IETF RFC|2460}} で次のように文書化されている。
<blockquote>
トランスポート層かそれより上位のプロトコルで、IPヘッダ内のアドレスをチェックサム計算に使う場合、IPv6では128ビットのIPv6のアドレスを使用する<ref name="rfc2460">Deering S. & Hinden R. (December 1998). {{IETF RFC|2460}}: Internet Protocol, Version 6 (IPv6) Specification. ''Internet Engineering Task Force''. Retrieved from //tools.ietf.org/html/rfc2460</ref>。
</blockquote>
チェックサム計算では、実際のIPv6ヘッダを真似た次のような擬似ヘッダを用いる。
{| class="wikitable" style="margin: 0 auto; text-align: center;"
|- style="text-align:center;"
! bits
! colspan="8" style="width:75px;"|0 – 7
! colspan="8" style="width:75px;"|8 – 15
! colspan="8" style="width:75px;"|16 – 23
! colspan="8" style="width:75px;"|24 – 31
|- style="text-align:center;"
! 0
| colspan="32" rowspan="4" style="background:#fdd;"| 送信元IPアドレス
|- style="text-align:center;"
! 32
|- style="text-align:center;"
! 64
|- style="text-align:center;"
! 96
|- style="text-align:center;"
! 128
| colspan="32" rowspan="4" style="background:#fdd;"| あて先IPアドレス
|- style="text-align:center;"
! 160
|- style="text-align:center;"
! 192
|- style="text-align:center;"
! 224
|- style="text-align:center;"
! 256
| colspan="32" style="background:#fdd;"| UDP長
|- style="text-align:center;"
! 288
| colspan="24" style="background:#fdd;"| ゼロ
| colspan="8" style="background:#fdd;"| 次のヘッダ
|- style="text-align:center;"
! 320
| colspan="16"| 送信元ポート番号
| colspan="16"| 宛先ポート番号
|- style="text-align:center;"
! 352
| colspan="16"| データ長
| colspan="16"| チェックサム
|- style="text-align:center;"
! 384+
| colspan="32"| <br />データ<br />
|}
送信元IPアドレスはIPv6ヘッダにある値を使う。あて先IPアドレスは最終的なあて先であり、IPv6パケットにルーティングヘッダがなければIPv6ヘッダ内のあて先IPアドレスを使い、さもなくば送信側ではルーティングヘッダの最後の要素を、受信側ではIPv6ヘッダのあて先IPアドレスを使う。次のヘッダというフィールドは[[プロトコル番号]]を意味し、UDPなので17を指定する。UDP長フィールドはUDPのヘッダとデータを合わせた長さである。
=== UDPモジュール ===
UDPモジュールは[[ソケット (BSD)|ソケット]]を介してプログラムからアクセスする場合が多い。ポート番号0は送信側プロセスが応答を期待していない場合は使うことも許されている。
== 用途 ==
UDPを利用するインターネットの重要なアプリケーションはいくつもある。以下はその例である。
* [[Domain Name System]] (DNS): 1つのクエリに素早く1つの応答パケットを返すだけなのでUDPを使用
* [[Simple Network Management Protocol]] (SNMP)
* [[Routing Information Protocol]] (RIP)<ref name="kuroseross" />
* [[Dynamic Host Configuration Protocol]] (DHCP)
* [[Network Time Protocol]] (NTP)
* [[ストリーミング]]、ゲーミング、[[VoIP]]: パケット喪失 = 若干の品質低下、[[再送]]待ちはシステムを停止させてしまう
UDP上に信頼性保証プロトコルを載せて利用するケースも存在する。[[Trivial File Transfer Protocol|TFTP]]などのアプリケーションでは、アプリケーション層で必要に応じて基本的な信頼性機構を付与している<ref name="forouzan" />。{{仮リンク|消失訂正符号|en|erasure code}}は一つの選択肢である。
== 問題点 ==
{{出典の明記| date = 2023年1月| section = 1}}
UDPは設計方針として[[輻輳制御|輻輳]]制御を提供しない。これがネットワーク全体への負荷を引き起こすケースがある。
帯域の大きな部分を消費して輻輳を起こしやすいUDPアプリケーションは、インターネットの安定性を危険にさらす可能性があり、実際に帯域を大幅に占める事態が発生している。制御できないUDPトラフィックによって輻輳崩壊になる可能性を低減するためのネットワーク機構が提案されてきた。現状では、[[ルーター]]などのネットワーク機器でのパケット・キューイングやパケット・ドロッピングが過度なUDPトラフィックをスローダウンさせる唯一の手段となっている。[[Datagram Congestion Control Protocol]] (DCCP) はこの問題を部分的に解決すべく設計されたプロトコルで、ストリーミングなどの高転送レートのUDPストリームに対してTCPのような輻輳制御を追加するものである。
[[販売時点情報管理|POS]]、[[会計ソフトウェア|会計]]、[[データベース管理システム|データベース]]などのTCPを使っているシステムはUDPトラフィックに圧迫されつつある。TCPでパケットを喪失すると、輻輳制御が働いて転送レートを抑えるというのも一因である。リアルタイム・アプリケーションもビジネス・アプリケーションもビジネスには重要なので、[[Quality of Service]] のソリューション開発が大切だとする者もいる<ref>{{Cite web |url=http://www.serviceassurancedaily.com/2007/08/whiteboard-series-nice-guys-finish-last-the-impact-of-voicevideo-on-data-applications/ |title=The impact of voice/video on data applications |publisher=Networkperformancedaily.com |date= |accessdate=2011-08-17}}</ref>。
== 規格 ==
* {{IETF RFC|768}} – User Datagram Protocol
* {{IETF RFC|2460}} – Internet Protocol, Version 6 (IPv6) Specification
* {{IETF RFC|2675}} - IPv6 Jumbograms
* {{IETF RFC|4113}} – Management Information Base for the UDP
* {{IETF RFC|4347}} - [[Datagram Transport Layer Security]]
* {{IETF RFC|5405}} – Unicast UDP Usage Guidelines for Application Designers
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[UDP-Lite]]
* [[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧]]
* [[UDPヘルパーアドレス]]
* [[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]]
* [[Reliable User Datagram Protocol]] (RUDP)
==外部リンク==
* [https://condor.depaul.edu/~jkristof/papers/udpscanning.pdf The Trouble with UDP Scanning (PDF)]
* [http://www.networksorcery.com/enp/protocol/udp.htm Breakdown of UDP frame]
* [http://www.faqs.org/docs/iptables/udpconnections.html UDP connections]
{{Normdaten}}
{{OSI}}
[[Category:トランスポート層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|0768]] | 2003-02-14T07:40:18Z | 2023-11-05T18:22:38Z | false | false | false | [
"Template:Redirect",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Normdaten",
"Template:OSI",
"Template:IPstack",
"Template:仮リンク",
"Template:Lang-en-short",
"Template:IETF RFC",
"Template:出典の明記",
"Template:Cite web"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/User_Datagram_Protocol |
1,525 | ソフトウェア | ソフトウェア
(英: software)は、コンピューター分野でハードウェア(物理的な機械)と対比される用語で、何らかの処理を行うコンピュータ・プログラムや、さらには関連する文書などを指す。
「ソフトウェア」は「ハードウェア」の対比語であり、コンピュータの分野以外でも、物理的な装置の対比語として使われている。
DVDなどで物理的な記録メディアに対する映像(動画)や音楽等のコンテンツ、組織・都市・軍事などで施設・設備・車両などに対する規則・運用・教育などを意味する。
ある機能をもつソフトウェアに対して、「ソフトウェア」という言葉が接頭辞・形容詞的に用いられることがある。エンコードをするソフトウェアを「ソフトウェアエンコーダ」、DVDを再生するソフトウェアを「ソフトウェアDVDプレーヤー」と呼ぶことがある。情報を処理する(DVD再生の場合は、DVDに収録されたデジタル画像データを可視化する)際に、専用のハードウェア(DVD再生機)で処理されるか、パーソナルコンピュータなどの汎用的なコンピュータ上のソフトウェアで処理されるかを区別するためである。
ソフトウェアはコストゼロで複製できる。すなわちソフトウェア量産の限界費用は0である。
これはソフトウェアがデジタルデータの一種であることに由来する。デジタルデータはゼロコストで複製(コピー・アンド・ペースト)が可能であるため、ソフトウェアもゼロコストで複製できる。同じ大根を1本、車を1台、マッサージを1回追加で生産するには少なくないコストが発生するため、複製コストゼロはソフトウェアがもつ著しい特徴の1つである。
ソフトウェアは、一般的にはワープロソフトなど特定の作業や業務を目的としたアプリケーションソフトウェア(応用ソフトウェア、アプリ)と、ハードウェアの管理や基本的な処理をアプリケーションソフトウェアやユーザーに提供するオペレーティングシステム (OS) などのシステムソフトウェアに分類される。
階層に基づく分類では、ソフトウェアは機能を提供する相手の階層によって分類される。提供相手はエンドユーザー(人間)からアプリケーションソフトウェアまで様々である。
コンピュータのハードウェアを管理・制御するなど、コンピュータの稼動自体に必要となるソフトウェアである。 典型的なシステムソフトウェアとして、オペレーティングシステム (OS) があり、様々なソフトウェア処理のプロセスに対し、CPUやメモリの割り当てを管理したり、記憶装置にデータファイルを正しく読み書きできるようにするなど、さまざまな処理を行っている。キーボードやマウスなどの入力機器からの信号を、後述のアプリケーションソフトウェアに通知したり、アプリケーションソフトウェアの要求に応じて、画面への図形や文字の表示を行うのも、オペレーティングシステムの機能である。
パーソナルコンピュータをはじめとする、家庭用のコンピュータ機器では、これらのソフトウェアは購入時にコンピュータ本体に同梱あるいはプリインストールされていることが多い。
そのほか、オペレーティングシステムでは提供されない機能のうち、さまざまなアプリケーションソフトウェアで利用される一般性のある機能を提供するものを、ミドルウェアという。
アプリケーションソフトウェアは、利用者の目的に応じた機能を提供するソフトウェアである。
一般事務で利用されるワープロや表計算ソフトウェアを初め、娯楽を目的としたゲームソフトや、工場の作業を自動化するファクトリーオートメーション、事務手続きや経営を管理するためのビジネスソフトウェア、ブラウザ、教育や医療などあらゆる目的に応じてソフトウェアが開発されている。ソフトウェアの開発自体に使われるプログラミングツールもある。
これらのアプリケーションソフトウェアは、既製品をパッケージソフトウェアなどのかたちで購入するほか、利用者自身が、目的を果たすソフトウェアを開発する場合もある。 大規模なものでは銀行の預貯金口座を管理する勘定系システムやJRの「みどりの窓口」で使われるマルスなどのオンラインシステムを始め、販売や営業、生産などの各種業務管理システムなどの個別開発のソフト群(各企業内でのコンピュータシステム(情報システム)の一部を形成する)から、小は表計算ソフトのテンプレート、ワープロソフトのマクロ、科学技術シミュレーション、グラフィックスやアニメーションのためのスクリプトなどが含まれる。電子メールフィルタなども一種のユーザー作成ソフトウェアである。ユーザーは自身の作成したこれらのソフトウェアの重要性に気づいていないことが多い。ユーザー作成ソフトウェアが購入されたアプリケーションソフトウェアとうまく統合されていると、多くのユーザーはその区別ができない。
ハードウェアに基づく分類ではソフトウェアが機能するハードウェアによって分類される。ハードウェアには特定機能のみを提供する組み込みシステムから汎用計算をサポートするパーソナルコンピュータまで様々である。
特定の機能を実現するために家電製品や機械等に組み込まれるコンピュータシステムのこと。 ソフトウェアは、明らかにコンピュータとわかるもの以外に、様々な機器に搭載されて稼働している。 近年では、家庭用機器の高機能化に伴い、携帯電話やゲーム機をはじめ、多くの電化製品や自動車などの機能を実現するために必要不可欠なものとなっている。
LSIなどを例にとると、LSIの物理的な回路そのものはハードウェアであり、その回路によって表現される処理手順はソフトウェアと考えられる。
一般的なソフトウェアは、補助記憶装置の中に機械語として記録されている。なお機械語は中央処理装置(CPU)の製品種別ごとに異なっている。ソフトウェアの利用時には補助記憶装置の内容が主記憶装置に読み込まれた後、中央処理装置において、データの移動、計算、制御フローなどの処理が実行される。これにより機械語は、コンピュータの状態を次々と変化させる。従ってソフトウェアは、ハードウェアの状態を変化させる命令列と考えられる。
記憶装置に異なる命令群を読み込んで計算を制御する概念は階差機関の一部としてチャールズ・バベッジが考案した。これら、ほとんどの近代ソフトウェアの基礎となる理論はアラン・チューリングの1935年の論文 Computable numbers with an application to the Entscheidungsproblem で初めて提唱された。
ソフトウェアの表現である機械語は、中央処理装置への命令となる2進数の値から構成されている。機械語の種類には、記憶装置間でのデータの移動や、条件による処理の分岐命令、演算などがある。これらを組み合わせて、1つずつ順に演算が実行される逐次処理や、条件つきで実行される処理、繰り返し実行されるループ処理などが実現される。一連の命令列をひとまとめにしたものをサブルーチンと呼び、他のサブルーチンを「呼び出す」命令もある。
例えば、メニューから 「コピー」 というエントリを選択したとき、ソフトウェアがどのように機能するか考えてみよう。この場合、条件付き命令列が実行され、メモリ上の「文書」領域にあるデータからテキストが、一般に「クリップボード」と呼ばれる中間的記憶領域にコピーされる。別のメニューエントリである 「貼り付け」 が選ばれると、ソフトウェアはクリップボードから特定の領域にテキストをコピーする命令列を実行する。
中央処理装置が複数あるシステムでは、命令列は複数同時並行的に実行できる(マルチプロセッシング)。
ソフトウェアの品質としては、利用者や開発者の立場から、様々な尺度が考えられる。
ソフトウェアは法律上、知的財産として扱われ、著作権法や特許法によって保護される。
一般的には著作者がそのソフトウェアの利用範囲を明確にした利用許諾契約書を用意しており、ソフトウェアの利用者はこれに合意しなければ利用できない。この契約事項または合意事項を、ソフトウェアライセンスという。著作権者が利用許諾契約書を用意していない場合は著作権法の範囲での利用が可能である。
また、コンピュータを利用する発明について特許権が認められる場合がある。
その他、日本の使用者からみると、会計処理上(税法上)は、無形固定資産として扱われる。減価償却期間は5年間での定額償却である。
「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(略称:医薬品医療機器等法、薬機法、旧称:薬事法)」により、疾病診断用プログラム、疾病治療用プログラム、疾病予防用プログラム、および、それらを記録した記録媒体についても、副作用又は機能の障害が生じた場合において、人の生命及び健康に影響を与えるおそれがある場合には、医療機器として制限を受ける。これは、医療機器のIT化に伴って、医療的な効果を謳うソフトウェア単体についても他の医療機器と同様の規制が必要になったためである(医薬品医療機器等法第23条の2関係、医薬品医療機器等法第39条関係)。
ソフトウェア開発を主な事業としている企業であっても、製品をパッケージ等の形でユーザーにライセンス販売しているのは一部である。
ライセンス販売以外のソフトウェアビジネスとして、以下のような形態がある。
ITコンサルティングや技術者派遣など、顧客が主体となっているソフトウェア開発に参加して、ソフトウェア開発技術や労働力を販売するビジネス。
ソフトウェアや情報システム等を自社で稼働させ、顧客がシステムを利用することによって、売上を上げるビジネス。SaaSやクラウドコンピューティングのようにシステム利用者が直接使用料を支払う形式のほか、ネットショッピング等のシステムを、出品者に利用させて手数料を課金する方式や、ソーシャル・ネットワーキング・サービスやウェブサイト検索エンジンを無償で提供し、システムの一部分に表示させる広告を販売するなどの方法で収益を上げる形式もある。
スマートフォンやネットワーク機器など、高度なソフトウェアを搭載した機器や製品を販売するビジネス。
また、インターネット上で無償で公開されているオープンソースソフトウェアの開発に協力し、成果を自社のサービスなどに組み込むことが広く行われている。
2011年における企業別のソフトウェア売上高は以下の通りである。 | [
{
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"text": "ソフトウェア",
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},
{
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"text": "(英: software)は、コンピューター分野でハードウェア(物理的な機械)と対比される用語で、何らかの処理を行うコンピュータ・プログラムや、さらには関連する文書などを指す。",
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},
{
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"text": "「ソフトウェア」は「ハードウェア」の対比語であり、コンピュータの分野以外でも、物理的な装置の対比語として使われている。",
"title": "ハードウェアの対比語としてのソフトウェア"
},
{
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"text": "DVDなどで物理的な記録メディアに対する映像(動画)や音楽等のコンテンツ、組織・都市・軍事などで施設・設備・車両などに対する規則・運用・教育などを意味する。",
"title": "ハードウェアの対比語としてのソフトウェア"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ある機能をもつソフトウェアに対して、「ソフトウェア」という言葉が接頭辞・形容詞的に用いられることがある。エンコードをするソフトウェアを「ソフトウェアエンコーダ」、DVDを再生するソフトウェアを「ソフトウェアDVDプレーヤー」と呼ぶことがある。情報を処理する(DVD再生の場合は、DVDに収録されたデジタル画像データを可視化する)際に、専用のハードウェア(DVD再生機)で処理されるか、パーソナルコンピュータなどの汎用的なコンピュータ上のソフトウェアで処理されるかを区別するためである。",
"title": "ハードウェアの対比語としてのソフトウェア"
},
{
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"text": "ソフトウェアはコストゼロで複製できる。すなわちソフトウェア量産の限界費用は0である。",
"title": "性質"
},
{
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"text": "これはソフトウェアがデジタルデータの一種であることに由来する。デジタルデータはゼロコストで複製(コピー・アンド・ペースト)が可能であるため、ソフトウェアもゼロコストで複製できる。同じ大根を1本、車を1台、マッサージを1回追加で生産するには少なくないコストが発生するため、複製コストゼロはソフトウェアがもつ著しい特徴の1つである。",
"title": "性質"
},
{
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"text": "ソフトウェアは、一般的にはワープロソフトなど特定の作業や業務を目的としたアプリケーションソフトウェア(応用ソフトウェア、アプリ)と、ハードウェアの管理や基本的な処理をアプリケーションソフトウェアやユーザーに提供するオペレーティングシステム (OS) などのシステムソフトウェアに分類される。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "階層に基づく分類では、ソフトウェアは機能を提供する相手の階層によって分類される。提供相手はエンドユーザー(人間)からアプリケーションソフトウェアまで様々である。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "コンピュータのハードウェアを管理・制御するなど、コンピュータの稼動自体に必要となるソフトウェアである。 典型的なシステムソフトウェアとして、オペレーティングシステム (OS) があり、様々なソフトウェア処理のプロセスに対し、CPUやメモリの割り当てを管理したり、記憶装置にデータファイルを正しく読み書きできるようにするなど、さまざまな処理を行っている。キーボードやマウスなどの入力機器からの信号を、後述のアプリケーションソフトウェアに通知したり、アプリケーションソフトウェアの要求に応じて、画面への図形や文字の表示を行うのも、オペレーティングシステムの機能である。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "パーソナルコンピュータをはじめとする、家庭用のコンピュータ機器では、これらのソフトウェアは購入時にコンピュータ本体に同梱あるいはプリインストールされていることが多い。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "そのほか、オペレーティングシステムでは提供されない機能のうち、さまざまなアプリケーションソフトウェアで利用される一般性のある機能を提供するものを、ミドルウェアという。",
"title": "分類"
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"text": "アプリケーションソフトウェアは、利用者の目的に応じた機能を提供するソフトウェアである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "一般事務で利用されるワープロや表計算ソフトウェアを初め、娯楽を目的としたゲームソフトや、工場の作業を自動化するファクトリーオートメーション、事務手続きや経営を管理するためのビジネスソフトウェア、ブラウザ、教育や医療などあらゆる目的に応じてソフトウェアが開発されている。ソフトウェアの開発自体に使われるプログラミングツールもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "これらのアプリケーションソフトウェアは、既製品をパッケージソフトウェアなどのかたちで購入するほか、利用者自身が、目的を果たすソフトウェアを開発する場合もある。 大規模なものでは銀行の預貯金口座を管理する勘定系システムやJRの「みどりの窓口」で使われるマルスなどのオンラインシステムを始め、販売や営業、生産などの各種業務管理システムなどの個別開発のソフト群(各企業内でのコンピュータシステム(情報システム)の一部を形成する)から、小は表計算ソフトのテンプレート、ワープロソフトのマクロ、科学技術シミュレーション、グラフィックスやアニメーションのためのスクリプトなどが含まれる。電子メールフィルタなども一種のユーザー作成ソフトウェアである。ユーザーは自身の作成したこれらのソフトウェアの重要性に気づいていないことが多い。ユーザー作成ソフトウェアが購入されたアプリケーションソフトウェアとうまく統合されていると、多くのユーザーはその区別ができない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "ハードウェアに基づく分類ではソフトウェアが機能するハードウェアによって分類される。ハードウェアには特定機能のみを提供する組み込みシステムから汎用計算をサポートするパーソナルコンピュータまで様々である。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "特定の機能を実現するために家電製品や機械等に組み込まれるコンピュータシステムのこと。 ソフトウェアは、明らかにコンピュータとわかるもの以外に、様々な機器に搭載されて稼働している。 近年では、家庭用機器の高機能化に伴い、携帯電話やゲーム機をはじめ、多くの電化製品や自動車などの機能を実現するために必要不可欠なものとなっている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "LSIなどを例にとると、LSIの物理的な回路そのものはハードウェアであり、その回路によって表現される処理手順はソフトウェアと考えられる。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
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"text": "一般的なソフトウェアは、補助記憶装置の中に機械語として記録されている。なお機械語は中央処理装置(CPU)の製品種別ごとに異なっている。ソフトウェアの利用時には補助記憶装置の内容が主記憶装置に読み込まれた後、中央処理装置において、データの移動、計算、制御フローなどの処理が実行される。これにより機械語は、コンピュータの状態を次々と変化させる。従ってソフトウェアは、ハードウェアの状態を変化させる命令列と考えられる。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "記憶装置に異なる命令群を読み込んで計算を制御する概念は階差機関の一部としてチャールズ・バベッジが考案した。これら、ほとんどの近代ソフトウェアの基礎となる理論はアラン・チューリングの1935年の論文 Computable numbers with an application to the Entscheidungsproblem で初めて提唱された。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
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"text": "ソフトウェアの表現である機械語は、中央処理装置への命令となる2進数の値から構成されている。機械語の種類には、記憶装置間でのデータの移動や、条件による処理の分岐命令、演算などがある。これらを組み合わせて、1つずつ順に演算が実行される逐次処理や、条件つきで実行される処理、繰り返し実行されるループ処理などが実現される。一連の命令列をひとまとめにしたものをサブルーチンと呼び、他のサブルーチンを「呼び出す」命令もある。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
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"text": "例えば、メニューから 「コピー」 というエントリを選択したとき、ソフトウェアがどのように機能するか考えてみよう。この場合、条件付き命令列が実行され、メモリ上の「文書」領域にあるデータからテキストが、一般に「クリップボード」と呼ばれる中間的記憶領域にコピーされる。別のメニューエントリである 「貼り付け」 が選ばれると、ソフトウェアはクリップボードから特定の領域にテキストをコピーする命令列を実行する。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "中央処理装置が複数あるシステムでは、命令列は複数同時並行的に実行できる(マルチプロセッシング)。",
"title": "コンピュータハードウェアとの関係"
},
{
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"text": "ソフトウェアの品質としては、利用者や開発者の立場から、様々な尺度が考えられる。",
"title": "品質"
},
{
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"text": "ソフトウェアは法律上、知的財産として扱われ、著作権法や特許法によって保護される。",
"title": "ソフトウェアと法律"
},
{
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"text": "一般的には著作者がそのソフトウェアの利用範囲を明確にした利用許諾契約書を用意しており、ソフトウェアの利用者はこれに合意しなければ利用できない。この契約事項または合意事項を、ソフトウェアライセンスという。著作権者が利用許諾契約書を用意していない場合は著作権法の範囲での利用が可能である。",
"title": "ソフトウェアと法律"
},
{
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"text": "また、コンピュータを利用する発明について特許権が認められる場合がある。",
"title": "ソフトウェアと法律"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その他、日本の使用者からみると、会計処理上(税法上)は、無形固定資産として扱われる。減価償却期間は5年間での定額償却である。",
"title": "ソフトウェアと法律"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(略称:医薬品医療機器等法、薬機法、旧称:薬事法)」により、疾病診断用プログラム、疾病治療用プログラム、疾病予防用プログラム、および、それらを記録した記録媒体についても、副作用又は機能の障害が生じた場合において、人の生命及び健康に影響を与えるおそれがある場合には、医療機器として制限を受ける。これは、医療機器のIT化に伴って、医療的な効果を謳うソフトウェア単体についても他の医療機器と同様の規制が必要になったためである(医薬品医療機器等法第23条の2関係、医薬品医療機器等法第39条関係)。",
"title": "ソフトウェアと法律"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ソフトウェア開発を主な事業としている企業であっても、製品をパッケージ等の形でユーザーにライセンス販売しているのは一部である。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ライセンス販売以外のソフトウェアビジネスとして、以下のような形態がある。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ITコンサルティングや技術者派遣など、顧客が主体となっているソフトウェア開発に参加して、ソフトウェア開発技術や労働力を販売するビジネス。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ソフトウェアや情報システム等を自社で稼働させ、顧客がシステムを利用することによって、売上を上げるビジネス。SaaSやクラウドコンピューティングのようにシステム利用者が直接使用料を支払う形式のほか、ネットショッピング等のシステムを、出品者に利用させて手数料を課金する方式や、ソーシャル・ネットワーキング・サービスやウェブサイト検索エンジンを無償で提供し、システムの一部分に表示させる広告を販売するなどの方法で収益を上げる形式もある。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "スマートフォンやネットワーク機器など、高度なソフトウェアを搭載した機器や製品を販売するビジネス。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、インターネット上で無償で公開されているオープンソースソフトウェアの開発に協力し、成果を自社のサービスなどに組み込むことが広く行われている。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2011年における企業別のソフトウェア売上高は以下の通りである。",
"title": "ソフトウェアとビジネス"
}
]
| ソフトウェア は、コンピューター分野でハードウェア(物理的な機械)と対比される用語で、何らかの処理を行うコンピュータ・プログラムや、さらには関連する文書などを指す。 | [[Image:Operating system placement-ja.svg|thumb|ソフトウェアの階層図。上から[[ユーザー]](人間)、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]、[[オペレーティングシステム]]、[[ハードウェア]]。通常はアプリケーションとオペレーティングシステムが「ソフトウェア」である。]]
'''ソフトウェア'''({{lang-en-short|software}})は、[[コンピュータ|コンピューター]]分野で[[ハードウェア]](物理的な機械)と対比される用語で、何らかの処理を行う[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]や、さらには関連する文書などを指す<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%82%A2-90310#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 - ソフトウェア(大辞林、ブリタニカ国際大百科事典)]</ref>。
== ハードウェアの対比語としてのソフトウェア ==
「ソフトウェア」は「[[ハードウェア]]」の対比語であり、[[コンピュータ]]の分野以外でも、物理的な装置の対比語として使われている。
[[DVD]]などで物理的な[[メディア (媒体)|記録メディア]]に対する映像([[動画]])や[[音楽]]等の[[コンテンツ]]、組織・都市・軍事などで施設・設備・車両などに対する規則・運用・教育などを意味する<ref>software..(n.d.). ''Dictionary.com Unabridged (v 1.1)''. 2007年4月13日閲覧, from Dictionary.com website: http://dictionary.reference.com/browse/software</ref>。
ある機能をもつソフトウェアに対して、「ソフトウェア」という言葉が[[接頭辞]]・[[形容詞]]的に用いられることがある。[[エンコード]]をするソフトウェアを「ソフトウェアエンコーダ」、[[DVD]]を再生するソフトウェアを「ソフトウェアDVDプレーヤー」と呼ぶことがある。情報を処理する(DVD再生の場合は、DVDに収録されたデジタル画像データを可視化する)際に、専用の[[ハードウェア]](DVD再生機)で処理されるか、[[パーソナルコンピュータ]]などの汎用的なコンピュータ上のソフトウェアで処理されるかを区別するためである。
== 性質 ==
=== 複製コストがゼロ ===
ソフトウェアはコストゼロで複製できる。すなわちソフトウェア量産の[[限界費用]]は0である<ref>"デジタルデータでは、ほぼ完全な複製を、追加的費用すなわち限界費用がほぼゼロで行うことが可能である。" [https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd121120.html (2)2つ目のキーワード:限界費用] of 総務省. (2019). ''[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/r01.html 情報通信白書 令和元年版]''.</ref>。
これはソフトウェアがデジタル[[データ (コンピュータ)|データ]]の一種であることに由来する。デジタルデータはゼロコストで複製([[コピー・アンド・ペースト]])が可能であるため、ソフトウェアもゼロコストで複製できる。同じ大根を1本、車を1台、マッサージを1回追加で生産するには少なくないコストが発生するため、複製コストゼロはソフトウェアがもつ著しい特徴の1つである。
== 分類 ==
ソフトウェアは、一般的には[[ワープロソフト]]など特定の作業や[[業務]]を目的とした[[アプリケーションソフトウェア]](応用ソフトウェア、アプリ)と、[[ハードウェア]]の管理や基本的な処理をアプリケーションソフトウェアや[[ユーザー (コンピュータ)|ユーザー]]に提供する[[オペレーティングシステム]] (OS) などの[[システムソフトウェア]]に分類される<ref>「メディアリテラシ」(Computer Science Library 15)p36 植田祐子・増永良文著 サイエンス社 2013年8月10日初版発行</ref>。
=== 階層 ===
階層に基づく分類では、ソフトウェアは機能を提供する相手の階層によって分類される。提供相手はエンドユーザー(人間)からアプリケーションソフトウェアまで様々である。
==== システムソフトウェア ====
{{main|システムソフトウェア}}
コンピュータのハードウェアを管理・制御するなど、コンピュータの稼動自体に必要となるソフトウェアである。
典型的なシステムソフトウェアとして、[[オペレーティングシステム]] (OS) があり、様々なソフトウェア処理の[[プロセス]]に対し、CPUやメモリの割り当てを管理したり、記憶装置にデータファイルを正しく読み書きできるようにするなど、さまざまな処理を行っている。キーボードやマウスなどの[[入力機器]]からの信号を、後述のアプリケーションソフトウェアに通知したり、アプリケーションソフトウェアの要求に応じて、画面への図形や文字の表示を行うのも、オペレーティングシステムの機能である。
[[パーソナルコンピュータ]]をはじめとする、家庭用のコンピュータ機器では、これらのソフトウェアは購入時にコンピュータ本体に同梱あるいは[[プリインストール]]されていることが多い。
そのほか、オペレーティングシステムでは提供されない機能のうち、さまざまなアプリケーションソフトウェアで利用される一般性のある機能を提供するものを、[[ミドルウェア]]という。
==== アプリケーションソフトウェア ====
{{main|アプリケーションソフトウェア}}
アプリケーションソフトウェアは、利用者の目的に応じた機能を提供するソフトウェアである。
一般事務で利用される[[ワープロ]]や[[表計算]]ソフトウェアを初め、娯楽を目的とした[[ゲームソフト]]や、工場の作業を自動化する[[ファクトリーオートメーション]]、事務手続きや経営を管理するための[[ビジネスソフトウェア]]、[[ブラウザ]]、教育や医療などあらゆる目的に応じてソフトウェアが開発されている。ソフトウェアの開発自体に使われる[[プログラミングツール]]<ref>2003年の「基本情報技術者テキスト No.1 コンピュータシステム」の139、140ページにおいては、これを「言語プロセッサ」としてOSの構成要素に含めていた。</ref>もある。
これらのアプリケーションソフトウェアは、既製品を[[パッケージソフトウェア]]などのかたちで購入するほか、利用者自身が、目的を果たすソフトウェアを開発する場合もある。
大規模なものでは[[銀行]]の預貯金口座を管理する[[勘定系システム]]や[[JR]]の「[[みどりの窓口]]」で使われる[[マルス (システム)|マルス]]などの[[オンラインシステム]]を始め、販売や営業、生産などの各種業務管理システムなどの個別開発のソフト群(各企業内での[[コンピュータシステム]]([[情報システム]])の一部を形成する)から、小は[[表計算ソフト]]のテンプレート、[[ワープロソフト]]のマクロ、科学技術シミュレーション、グラフィックスやアニメーションのためのスクリプトなどが含まれる。[[電子メール]]フィルタなども一種のユーザー作成ソフトウェアである。ユーザーは自身の作成したこれらのソフトウェアの重要性に気づいていないことが多い。ユーザー作成ソフトウェアが購入されたアプリケーションソフトウェアとうまく統合されていると、多くのユーザーはその区別ができない。
=== ハードウェア ===
ハードウェアに基づく分類ではソフトウェアが機能するハードウェアによって分類される。ハードウェアには特定機能のみを提供する組み込みシステムから汎用計算をサポートするパーソナルコンピュータまで様々である。
==== 組み込みシステム ====
{{main|組み込みシステム}}
特定の機能を実現するために家電製品や機械等に組み込まれるコンピュータシステムのこと。
ソフトウェアは、明らかにコンピュータとわかるもの以外に、様々な機器に搭載されて稼働している。
近年では、家庭用機器の高機能化に伴い、携帯電話やゲーム機をはじめ、多くの電化製品や自動車などの機能を実現するために必要不可欠なものとなっている。
== コンピュータハードウェアとの関係 ==
[[LSI]]などを例にとると、LSIの物理的な回路そのものはハードウェアであり、その回路によって表現される処理手順はソフトウェアと考えられる。
一般的なソフトウェアは、[[補助記憶装置]]の中に[[機械語]]として記録されている。なお機械語は[[中央処理装置|中央処理装置(CPU)]]の製品種別ごとに異なっている。ソフトウェアの利用時には補助記憶装置の内容が[[主記憶装置]]に読み込まれた後、中央処理装置において、データの移動、計算、[[制御構造|制御フロー]]などの処理が実行される。これにより機械語は、コンピュータの状態を次々と変化させる。従ってソフトウェアは、ハードウェアの状態を変化させる命令列と考えられる。
[[記憶装置]]に異なる命令群を読み込んで計算を制御する概念は[[階差機関]]の一部として[[チャールズ・バベッジ]]が考案した。これら、ほとんどの近代ソフトウェアの基礎となる理論は[[アラン・チューリング]]の[[1935年]]の論文 ''Computable numbers with an application to the Entscheidungsproblem'' で初めて提唱された<ref>Hally, Mike (2005:79). ''Electronic brains/Stories from the dawn of the computer age''. British Broadcasting Corporation and Granta Books, London. ISBN 1-86207-663-4.</ref>。
{{main|機械語}}
ソフトウェアの表現である機械語は、中央処理装置への命令となる2進数の値から構成されている。機械語の種類には、記憶装置間でのデータの移動や、条件による処理の[[分岐命令]]、演算などがある。これらを組み合わせて、1つずつ順に演算が実行される逐次処理や、条件つきで実行される処理、繰り返し実行される[[ループ (プログラミング)|ループ]]処理などが実現される。一連の命令列をひとまとめにしたものを[[サブルーチン]]と呼び、他のサブルーチンを「呼び出す」命令もある。
例えば、メニューから 「コピー」 というエントリを選択したとき、ソフトウェアがどのように機能するか考えてみよう。この場合、条件付き命令列が実行され、メモリ上の「文書」領域にあるデータからテキストが、一般に「クリップボード」と呼ばれる中間的記憶領域にコピーされる。別のメニューエントリである 「貼り付け」 が選ばれると、ソフトウェアはクリップボードから特定の領域にテキストをコピーする命令列を実行する。
中央処理装置が複数あるシステムでは、命令列は複数同時並行的に実行できる([[マルチプロセッシング]])。
== ソフトウェア作成 ==
{{main|プログラミング|ソフトウェア工学}}
== 品質 ==
ソフトウェアの品質としては、利用者や開発者の立場から、様々な尺度が考えられる。
{{main|ソフトウェア品質}}
== ソフトウェアと法律 ==
{{節スタブ}}
=== 資産としてのソフトウェア ===
ソフトウェアは法律上、知的財産として扱われ、著作権法や特許法によって保護される。
一般的には著作者がそのソフトウェアの利用範囲を明確にした利用許諾契約書を用意しており、ソフトウェアの利用者はこれに合意しなければ利用できない。この契約事項または合意事項を、[[ソフトウェアライセンス]]という。著作権者が利用許諾契約書を用意していない場合は著作権法の範囲での利用が可能である。{{main|ソフトウェアライセンス}}
また、コンピュータを利用する発明について特許権が認められる場合がある。{{main|ソフトウェア特許}}
その他、日本の使用者からみると、会計処理上([[税法]]上)は、無形[[固定資産]]として扱われる。[[減価償却]]期間は5年間での定額償却である。
=== 医療用ソフトウェアの規制 ===
{{main|ヘルスソフトウェア}}
「[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]](略称:医薬品医療機器等法、薬機法、旧称:薬事法)」により、疾病診断用プログラム、疾病治療用プログラム、疾病予防用プログラム、および、それらを記録した記録媒体についても、副作用又は機能の障害が生じた場合において、人の生命及び健康に影響を与えるおそれがある場合には、医療機器として制限を受ける。これは、医療機器のIT化に伴って、医療的な効果を謳うソフトウェア単体についても他の医療機器と同様の規制が必要になったためである(医薬品医療機器等法第23条の2関係、医薬品医療機器等法第39条関係)。
==ソフトウェアとビジネス==
ソフトウェア開発を主な事業としている企業であっても、製品をパッケージ等の形でユーザーにライセンス販売しているのは一部である。
ライセンス販売以外のソフトウェアビジネスとして、以下のような形態がある。
*技術・役務の提供
IT[[コンサルティング]]や技術者派遣など、顧客が主体となっているソフトウェア開発に参加して、ソフトウェア開発技術や労働力を販売するビジネス。
*ソフトウェアサービスの提供
ソフトウェアや情報システム等を自社で稼働させ、顧客がシステムを利用することによって、売上を上げるビジネス。[[SaaS]]や[[クラウドコンピューティング]]のようにシステム利用者が直接使用料を支払う形式のほか、ネットショッピング等のシステムを、出品者に利用させて手数料を課金する方式や、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]やウェブサイト[[検索エンジン]]を無償で提供し、システムの一部分に表示させる広告を販売するなどの方法で収益を上げる形式もある。
*ソフトウェアを組み込んだ機器や製品の販売
スマートフォンやネットワーク機器など、高度なソフトウェアを搭載した機器や製品を販売するビジネス。
また、インターネット上で無償で公開されている[[オープンソースソフトウェア]]の開発に協力し、成果を自社のサービスなどに組み込むことが広く行われている。
===企業別の売上高===
2011年における企業別のソフトウェア売上高は以下の通りである<ref>地理 統計要覧 2014年版 ISBN 978-4-8176-0382-1 P,104</ref>。
{| class="wikitable"
|-
!順位
!企業名 (国)
!ソフト売上高<br />(百万ドル)
!全売上高<br />(百万ドル)
!全売上高に占める<br />ソフトウェアの割合(%)
!従業員数<br />(千人)
|-
| style="text-align:center"|1
|[[IBM]] ([[アメリカ合衆国|米]])
| style="text-align:right"|84,808
| style="text-align:right"|106,916
| style="text-align:center"|79.3
| style="text-align:right"|433
|-
| style="text-align:center"|2
|[[マイクロソフト]] (米)
| style="text-align:right"|60,399
| style="text-align:right"|69,943
| style="text-align:center"|86.4
| style="text-align:right"|90
|-
| style="text-align:center"|3
|[[ヒューレット・パッカード]] (米)
| style="text-align:right"|39,171
| style="text-align:right"|130,687
| style="text-align:center"|30.0
| style="text-align:right"|350
|-
| style="text-align:center"|4
|[[オラクル (企業)|オラクル]] (米)
| style="text-align:right"|28,678
| style="text-align:right"|35,622
| style="text-align:center"|80.5
| style="text-align:right"|108
|-
| style="text-align:center"|5
|[[アクセンチュア]](米)
| style="text-align:right"|25,507
| style="text-align:right"|27,353
| style="text-align:center"|93.3
| style="text-align:right"|236
|-
| style="text-align:center"|6
|[[EMCコーポレーション]] (米)
| style="text-align:right"|20,008
| style="text-align:right"|20,008
| style="text-align:center"|100.0
| style="text-align:right"|54
|-
| style="text-align:center"|7
|[[SAP (企業)|SAP]] ([[ドイツ|独]])
| style="text-align:right"|18,464
| style="text-align:right"|18,464
| style="text-align:center"|100.0
| style="text-align:right"|56
|-
| style="text-align:center"|8
|[[コンピュータ・サイエンシズ・コーポレーション|CSC]] (米)
| style="text-align:right"|16,042
| style="text-align:right"|16,042
| style="text-align:center"|100.0
| style="text-align:right"|91
|-
| style="text-align:center"|9
|[[キャップジェミニ]] ([[フランス|仏]])
| style="text-align:right"|15,546
| style="text-align:right"|15,546
| style="text-align:center"|100.0
| style="text-align:right"|120
|-
| style="text-align:center"|10
|[[日立製作所]] ([[日本|日]])
| style="text-align:right"|14,916
| style="text-align:right"|21,526
| style="text-align:center"|69.3
| style="text-align:right"|324
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|FLOSS}}
* [[コンピューティング]]
* [[Software as a Service]]
* [[プログラミング言語]]
* [[ソフトウェア開発工程]]
* [[ソフトウェア工学]]
* [[クローズドソース]]
* [[運用制約]]
* [[コンピュータシステム]]
* [[ソフトウェアのリグレッション]]
* [[ゲームソフト]]
* [[製造物責任法]]
== 外部リンク ==
* 医療用ソフトウェアの規制関連
** [https://www.good-hs.jp/ ヘルスソフトウェア推進協議会]
** {{PDFlink|[https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/20_guideline.pdf ヘルスソフトウェアに関する開発ガイドライン 経済産業省]}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そふとうえあ}}
[[Category:ソフトウェア|*]]
[[Category:コンピュータの仕組み]] | 2003-02-14T07:48:28Z | 2023-08-30T11:22:49Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2 |
1,526 | 自転車 | 自転車(じてんしゃ、英: bicycle、bike)は、一般には、ふたつの車輪を前後に一直線に並べた構造をもち、乗り手の力によって駆動し、かつ乗り手の操縦(運転)によって地上を走行する二輪車のこと。広義には、「三輪車」や(ほろ付き)四輪車など二輪車でないもの、水上自転車や氷上自転車など地上以外を走行するものも含む。
冒頭で挙げた定義文以外に、自転車の定義には、たとえば次のようなものがある。
英語の 「bicycle」や「bike」 は車輪の数に着目した命名法であり、「二輪」を意味する。英語では3輪のものはtricycle(トライシクル)と呼ぶ。日本語の「自転車」には車輪の数に関する言葉が含まれておらず、三輪や四輪も含む。
自転車の歴史、特に黎明期の記録については現在もヨーロッパ各国を中心に資料の発掘と検証が続けられており、長らく定説とされてきたものを覆す研究も提示されている。自転車の起源に当たる乗り物、またその着想についてはこれまでも様々な説が浮上してきた。(レオナルド・ダ・ヴィンチの自転車スケッチ説など)日本においては陸船車も参照のこと。
1817年、ドイツ人のカール・フォン・ドライス男爵が発明したドライジーネ(Draisine)が二輪自転車の起源とされている。これは木製の乗り物で、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えていた。クランクやペダル、チェーンといった駆動装置はなく、足で直接地面を蹴って走るものであったが、当時の書物には、ドライジーネが37kmを2時間30分で走ることができたという記録が示されている。これは時速15km/hに相当するかなりのスピードであった。
1815年、インドネシアのタンボラ山が大噴火した影響で翌年まで世界的な異常低温気候が続き、作物が十分に育たずに馬の大量死が起きた。ドライス男爵は馬の代わりを探して、車輪付きの乗り物「馬のいらない四輪馬車」を考案。ドイツ・バーデンにおいて、「馬のいらない四輪馬車」の特許を申請した。しかし、これは画期的なものとは考えられず却下されてしまった。1817年、ドライスは試行錯誤の末、二本足で地面を蹴って走る「ドライジーネ」を発明した。1817年6月12日、ドライジーネを一般に公開。マンハイムからシュヴェツィンゲンまで約15 kmの区間をわずか1時間で往復。そのスピードは駅馬車よりも速く、人々に大きな衝撃を与えた。更に1カ月後の1817年7月、ドライスはドライジーネにまたがり、駅馬車とレースを行った。駅馬車の4分の1の所要時間となる4時間で約50 kmを走破。当時の書物には、駅馬車に完勝した記録が残っており、これが二輪車が初めて歴史に登場した記録であり、史上初の二輪車レースの記録とされている。1817年、バーデンとパリの登記所にて「ドライジーネ」の特許は受理され、1818年1月22日、ドライス男爵はバーデンにて10年にわたる商業権を認められた。
ドライジーネの登場と同時代にフランスやソ連(現・ロシア)で同様の二輪車が発明されていたという起源の主張があり、日本でも1970年頃まではフランスの「セレリフェール」という二輪車が自転車の始祖であるという説が有力であった。しかし、それらは後の研究で反証され、存在の立証ができずに自転車の正史としては認められることはなかった。特にイタリアで主張されたレオナルド・ダ・ヴィンチの自転車のスケッチは大きな物議をかもすことになった。1500年代にレオナルド・ダ・ヴィンチが自転車のスケッチをしたという原稿が見つかった。しかし、これは1960年代にダ・ビンチの手書き原稿を修復したイタリア人のある修道士が、もともと描かれていた二つの円を自転車の車輪に見立て、ペダルやチェーンなどを加筆することで、自転車に仕立てたものだとされている。このスケッチが描かれた紙は、16世紀に保存上の必要から二つ折りに糊付けされていたが、修道士が加筆する直前、歴史学者のペドレッチが強い照明を使い透かした当初、描かれていたのは二つの円だけだった。
1839年に、イギリスのマックミランによってペダル式の自転車が最初に考案された。
1861年にフランスでミショー型が発売された。これは現在の小児用の三輪車と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものであった。ピエール・ミショーがオリビエ兄弟(en)より出資を受けて製造販売を始めたもので、これは初めて工業製品として量産された自転車でもある。なお、ミショー型については、ミショーの元で雇用されていたピエール・ラルマンが「自分こそがペダル付き二輪車の発明者であり、ミショーにそのアイデアを盗用された」と主張し、1866年にアメリカにて特許を取得している。
1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させたペニー・ファージング型自転車を発売し好評を博したため、多くのメーカーが追随。前輪は拡大を続け、直径が1.5メートルを超えるものも出現した。当時盛んに行われたレースなどスポーツ用に特化したもので、長距離のクロスカントリーライドまで行われた。しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難であり、転倒すれば高所より頭から落ちるような危険な乗り物であった。日本ではだるま車などと呼ばれた。
1879年に英国人ヘンリー・ジョン・ローソン(英語: Harry John Lawson) により後輪をチェーンで駆動し、座席(サドル)の高さが低いため重心が低く、乗員の足が容易に地面に届く物が製作され、ビシクレット(Bicyclette...二つの小輪)と名付けられた。これが英語の Bicycle の元となった。
1884年スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)、ハンバー、マキャモン(McCammon)(en)、BSAなどがビシクレットに改良を加えた自転車を発売する。
1885年にジェームズ・スターレーの甥ジョン・ケンプ・スターレーが「ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)」の販売を開始する。側面から見て菱形のシルエットを持つダイヤモンド型のフレームを持ち、前後輪が同じ大きさで、後輪チェーン駆動の現在の自転車に近い姿になった。この安全型自転車の登場により、それまでのスピードは出るが危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、またそれまでスポーツ用が主な用途だった自転車は日常の手軽な交通手段としての側面を強くしていった。
しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製であり、乗り心地は非常に悪く「ボーン・シェーカー」(骨ゆすり)とも呼ばれるようなものであった。これが大幅に改善されるのは、1888年にジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを実用化してからのことである。この発明はすぐに自転車に使用され、乗り心地と速度の大幅な向上をもたらした。その後フリーホイール機構が普及し、自転車の基本がほぼ完成された。
地上を移動する目的において、ヒトの筋力が最も効率良く発揮される手段が自転車である。自重を支えつつ歩いたり走ることに比べて筋力を効率的に進む目的に充てられ、より速く遠くに進むことができる。
自転車は、自動車に比べて安価に購入でき、燃料が不要なことから、道路整備が遅れ国民の所得水準が低い発展途上国では重要な移動手段である。また自動車などと比較して、移動距離当たりのエネルギーが少ない上、路上の専有面積が少なく、有害な排出ガスが発生しないので、ヨーロッパ諸国など都市化が十分に進んだ先進国でもここ数十年、再評価されるようになってきている。自動車に依存した生活が運動不足をもたらし健康をむしばむことが、近年理解されるようになり、健康を重視する欧州諸国や日本などでは健康増進効果への期待の面からも、また環境への負荷を小さくする面でも高く評価され、積極的に利用されるようになっている。
日本の道路交通法では「軽車両」に分類される。 運転免許を取得する必要は無いが、自転車でも交通事故は起き、運転者自身や、衝突した人が怪我をしたり死亡することもあり、自転車の運転者には(自動車や自動二輪を運転することと同様に)安全運転を心掛けることが求められる。道路交通法を遵守しつつ走行しなければならない。
主な自転車に関する道路交通法の規定を以下に記す。
これらの違反について警察官による取り締まりも強化されるようになった。同時に、自転車利用の促進のため、道路での走行ルールの明確化、走行場所の法的な明確化・確保もされた。なおそれと連動して自転車専用レーン整備のための行政的な推進も図られる。
平成後期より、自転車に乗る人に「自転車保険」(事故時の損害賠償などに対応するもの)への加入を義務化する地方自治体も現れた。2015年10月に兵庫県で義務化が開始され、以降全国に広まる。
フレームは自転車を構成する各部品が組み付けられる車台である。自転車のフレームは伝統的にフロントフォークとセットで製造され、流通してきた歴史があり、公的な強度・耐久性試験もフレームとフロントフォークを組み付けた状態で行われる。この場合、フロントフォークを含めた構造物はフレームセットと呼ばれる。 一方、スポーツ用の自転車においてはフロントフォークを含まないフレーム単体で製造、販売されることも多い。
フロントフォークとフレームはステアリングコラムと呼ばれる軸構造によって回転可能に接続され、ヘッドパーツと呼ばれる転がり軸受け構造によって滑らかに操舵できるようになっている。
ホイールとタイヤによって構成される。ホイールのハブとリムとの間は金属製のワイヤースポークによって支え、ハブには滑らかに回転するために転がり軸受け構造を採用し、タイヤは中空で、円形の断面形状を持つものが一般的である。
2輪の自転車では前輪が、後輪が駆動を受け持つ構成が多いが、ベロシペードおよびペニー・ファージングまでは駆動と操舵の両方を前輪で行っていた。リカンベントの一部には駆動と操舵の両方を前輪で受け持つ構成の車種があるほか、前輪で駆動し後輪で操舵するものもある。
2輪の自転車では、操舵用のハンドルは棒状でフロントフォークの最上部に固定され、フロントフォークを直接回転させる構造のものが一般的である。操舵に必要な機能以外にも、強くこぐ際には運転者が上体を支えるよりどころとしての機能を持つため、用途によりさまざまな形態がある。3輪以上の自転車では、リンク機構によって操作を操舵輪に伝達する構造を持つものが多い。
運転者が座る部分はまたがって座るサドル型が一般的で、前方が細く、後方が広くなっている形状のものがほとんどである。
運転者が体重をかける割合が少ない用途では、こぎやすさを重視して細長く、運転者の体重の多くをサドルに乗せる乗車姿勢の車種では幅が広く作られていて、スプリングを備えたものもある。リカンベントでは運転者の背中までの広い範囲を支える椅子型(シート)のものが多い。
手漕ぎ自転車(ハンドサイクル)及び特殊なもの(主に遊戯用)を除けば、運転者が動力を与えるのにはクランクの先端に回転可能に支持されたペダルで行われる。
単純な平板状のものは踏み込む力だけを動力とするが、革紐などによって足を固定するトウクリップや、クリートと呼ばれる金具を備えた靴を固定するビンディングペダルによって、踏み込む力だけでなく足を引き上げる力も動力として利用できるペダルもある。
クランクには運転者の体格や体力、車体各部の寸法などに応じて選択できるように、いくつかの異なる長さのバリエーションを持つ製品もある。
ドライブトレインは、クランク、軸受、チェーンホイール(後述)、チェーン(あるいはコグドベルトや少数ではあるがシャフト)、スプロケット(あるいはカセットスプロケット)、フリーホイールなどによって構成される。
運転者の足や腕によって回転されるクランクはボトムブラケット(BB)と呼ばれる軸受け構造で支持される。 クランクの回転はローラーチェーンとスプロケットの組合せにより駆動輪へと伝達されるものが一般的である。19世紀末の安全型自転車が登場するまでは前輪の軸がクランクと直結しているものが通常であった。また、初期の自転車用チェーンはブロックチェーン(block chain)と呼ばれるもので、現在用いられているローラーチェーンとは構造が異なっていた。
スプロケットのうちクランクと同軸にあるスプロケットは自転車においてはチェーンホイールと呼び、単に「スプロケット」と呼ぶ場合は駆動輪と同軸にある被駆動スプロケットを指す。駆動輪のスプロケット軸にはフリーホイールが内蔵されていて、クランキングを止めて惰性で走行することができる車種がほとんどである。フリーホイールは安全型自転車の後期になって普及した一方、トラック自転車競技や室内自転車競技に用いられる自転車には現代でもフリーホイールは組み込まれていない。
変速機をもつ車種もあり、チェーンホイールとスプロケットの組合せを複数持ち、チェーンを掛け替える方式の外装変速機と、ハブ内部に歯車を持ち、スプロケットの回転速度を増速あるいは減速してホイールに伝達する内装変速機がある。外装変速機には複数のスプロケットをまとめてハブから分離することができる構造のものがあり、カセットスプロケットと呼ばれる。前後のディレイラによってチェーンの位置を左右に移動させ、チェーンと組み合わさるチェーンホイールやスプロケットを変える。
多くの場合はハンドルバーの端部に備えられたレバーで操作し、コントロールケーブルやリンク機構で操作が伝達される。クランクを逆転させることで作動するコースターブレーキと呼ばれるものも一部で採用されている。エラストマー製の摩擦材がリムを挟んで制動する構造や、ハブにと同軸に備えられた円筒を皮革など帯状の摩擦材を巻き付けて制動する構造のものが多く採用されている。
日本では公道を走行する自転車にはブレーキ装置を前後両輪に備えることが義務づけられている。
日本では道路交通法第52条により夜間の点灯義務がある。夜間は必ず前照灯を点灯させなければならない(前照灯を点灯しない自転車は、明るい間しか走行させられない)。前方を照射するための部品でもあるが、それよりも、周囲の歩行者や車両の運転者に、自転車の存在に気付いてもらうこと(被視認性)が主たる目的であり、双方の安全や人命にかかわる非常に重要な部品・装置である。
前照灯は、あらかじめ自転車に備わっているものでも良いし、購入時に前照灯がついていない場合は後付けでも良い。後付けの前照灯というのは、自転車販売店のほか、ホームセンターや百均などでも販売されている。
前輪のリムに接触させたダイナモの回転子が前輪の動きに合わせて回転し発電して発光するリムダイナモ式が古くから用いられている。前輪のハブにダイナモを取り付け、夜間走行中に自動的に点灯するハブダイナモ式も増えている。他に、乾電池や太陽電池と二次電池で発光する前照灯も販売されている。
後部に設置し自車の存在を知らせ、後部からの被視認性を向上させる。他の車両の前照灯の光を反射して赤く光る反射材と、赤い光を後方に照射する尾灯とがある。日本では道路交通法第52条および第63条の9により夜間に運転する場合は反射材か尾灯の少なくとも一方を装備する必要がある。
自転車の車輪や車体を電源や反射塗料、無機ELなどで発光させ、側面からの被視認性を向上させるもの。 反射塗料を塗装した自転車としては、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコのMission Bicycle Companyによる「Lumen」がある。これは、車体に再帰反射粒子を含有する物質を粉体塗装したもので、フレーム全体が光を反射する。Kickstarterで15,000ドルを目標に出資を募ったところ、60,000ドル以上を集めている。自動車メーカーのボルボは、自転車向けの光反射スプレー「LifePaint」を、2015年にイギリスで試験発売している。また、マルキン自転車(ホダカ)も「レアルタシティ ハイブリッド」を発売している。
無機EL発光体を使用した自転車としては、カインズが2015年11月に発売した「光る自転車KiLaCle(キラクル)」がある。これは、前輪で発生させた電気を利用し、自ら発光することにより視認性を向上させたモデルである。
自車の接近を音で伝えるための部品。指でレバーを操作し、ベルを鳴らすものが多い。
道路交通法第54条により、警音器を鳴らす義務がある場面がある。また、法令で規定されている場面以外では鳴らしてはならないとされている。
道路交通法に記述されているのは「鳴らす義務」であり、自転車に警音器を整備する義務は無い。ただし、多くの都道府県の道路交通法施行細則や条例で整備を義務化している。例えば、東京都では条例(東京都道路交通規則第8条第9項)により警音器が整備されていない自転車に乗車することを禁じている。
通勤や通学のために広く使われている。大人が幼稚園児・保育園児を送り迎えするのにも使われている。小・中・高生が習い事や塾に通うためにも使われている。
レンタサイクルは、最近では世界各国の都市部で、駅前やバスターミナルなどの交通拠点近くに配備されることが増えてきており、なかでも、都市部に同一規格の多数の「レンタル・ステーション」が用意されていて、都合のよいステーションで借り別のステーションで返却できるシステムはその利便性から、ヨーロッパなどで急速に普及しつつある。フランス・パリではこのタイプのシステムがすでに大規模に整備されている。
中国の都市部では、不特定多数の人々で膨大な数の自転車をシェアするシェア自転車のシステムが大人気となり急速に広まっている。システムの登録者は、スマホのアプリを使ってどこでも解錠と施錠ができ、利用したい時は空いている自転車の場所をスマホの画面で検索可能、というシステムである。
2010年代からは、自転車を持ち主が使わない間に貸し出す「自転車シェアリング」もアメリカや中国、日本国内で普及しつつある。
ヨーロッパ諸国では自転車の利用が非常に盛んな国が多い。欧州諸国では、1990年代以降自転車が環境や健康にもたらす効果を重視し、自転車を都市交通の重要な担い手と位置づけている。
オランダ、デンマーク、スウェーデン、ドイツなど多くの国で自転車交通教育の推進によって自転車交通が促進されている。通行規則は自動車やバスなど同じ道路を走る他の車両と一体として整備され、全ての車両の運転者に等しく、車道での安全走行が規則として徹底される。自転車または二輪車のための専用レーン整備が進められる一方で、専用レーンがない場合でも、自転車は車道を走行する車両とみなされ交通規則が適用されている。
オランダやデンマークでは通勤利用者に対する購入時の金銭的補助がある。スイスでは山岳地帯であるにもかかわらず、自転車観光ルートを充実させ、ルートガイドを徹底することにより、自転車による観光が推進されている。ドイツ、オランダ、サンフランシスコなど、鉄道車両などの公共交通機関に折りたたむことなく、そのままの状態で自転車を持ち込むことができる場所も多い。これにより自転車で最終目的地に到達できる可能性が増す。
近年、共有自転車(コミュニティサイクル、バイシクルシェアリング)を都市内で大規模に導入する動きもみられ、ヴェリブ (フランス・パリの自転車貸出システム)はその中でも代表例で、街中。
南アメリカのコロンビアの首都ボゴタは、市長提唱による自転車交通推進によって短期間に欧州的な自転車都市となった。長年毎週日曜日には中心の7番街でシクロ・ビア(自転車天国)と呼ばれる自転車中心に歩行者やローラースケーターたちへの道路の開放が行われてきたが、1990年代後半以降は地域を拡大し、さらに大規模に行われるようになった。
インドでも自転車は多く利用されている。インドは自転車生産でも世界有数の国となっている。
北米(アメリカ合衆国・カナダ)は典型的な車社会で、4輪の自動車ばかりが前面に出がちだが、ニューヨーク市、サンフランシスコなどの都市では、渋滞の影響をさほど受けずにスムースに移動できる手段として重宝されている。都市内部のビルの上層階の住宅に住み都市内部の別のビルの職場へと通勤する者や、自転車便などによってさかんに利用されている。歩行者や自転車運転者を護るために、自転車レーンが設けられている道路が多い。また米国全土で、スポーツやレジャーなどのための自転車利用が行われている。
日本は国土の多くが自転車利用に不向きな山岳にもかかわらず、自転車普及率は世界的に見ても高い。保有台数は8655万台で、人口1.5人当たり1台にのぼる(2005年)。これは西欧で特に自転車利用が多いオランダ(人口0.9人当たり1台)、ドイツ(同1.2人)、に次いでベルギー(同1.9人)と同等の水準であり、アメリカ、中国、イギリス、フランス、イタリアといった国々を上回る。
自転車は標識で通行を認められた歩道を除き、車道の左側を走ると定められており、車道の右側および認められていない歩道を走行すると「逆走」ということになり道路交通法違反である。2016年12月には自転車活用推進法が制定され、これに伴いさまざまな施策が立案されている。
都市部では公共交通機関が発達している一方、自動車優先の交通政策が敷かれ、自転車が交通手段として明確に位置づけられていなかった。
自転車による移動は生物と機械の両方の中で、その移動に要するエネルギーの量に関して突出して効率的であり、人間がある距離をある速度で移動するのに必要なエネルギーの量で比べると自転車は徒歩の5分の1に過ぎないという定説がある。1950年代の中期に、現在の「財団法人自転車産業振興協会自転車技術研究所」の前身にあたる「自転車生産技術開放研究室」がまとめた研究により、この数値はおおむね正しいことが確認された。この際には、被験者の呼気に含まれる二酸化炭素の量から消費カロリーを推算する手法が用いられた。
こうした数値を基に、一般的な自転車で1kgの物体(車体を含む)を1km移動させるのに必要なカロリーは、おおよそ自動車の6分の1、ジャンボジェット機の4分の1程度しか必要ないとの試算もある。
自転車で1時間でどれだけの距離が走れるかについて競い記録を残すHour recordというものがある。
瞬間的な速度の記録に関しては、平地単独走行で全風圧を受けての最高速度の記録は、2013年12月6日、メキシコのアグアスカリエンテス・二百周年自転車競技場(Velódromo Bicentenario)でフランス人フランソワ・ペルヴィがUCIトラック自転車競技ワールドカップ・メキシコ大会のスプリント予選(200 mフライングタイムトライアル)で出した世界記録9秒347は速度換算では77.03 km/hとなる。これがユネスコ所管の唯一公式にしてサイクリストが全風圧を受ける通常形態の安全型自転車による最速記録といえる。
機材の形態にとらわれない記録挑戦では、2015年9月19日、米国ネヴァダ州バトルマウンテン(Battle Mountain)郊外の一時的に閉鎖した公道でカナダ人トッド・ライカート(Todd Reichert)がタイヤ接地面のみわずかに開口したストリームラインボディのリカンベント Eta で達成した139.45 km/hがヒト一人のみの出力による最高速度記録であった。Etaは極めて低い位置に仰向いて座り前輪を両脚で挟むように前端のクランクを回すため、後輪駆動は構造上ほぼ不可能で前輪駆動を採用している。また前を見通す視界はなくカメラ映像に依存する。2016年9月19日、同地、同プロジェクトによって記録は144.17 km/hに更新された。
世界各国に自転車メーカーが存在し、多くの自転車が製造されている。
2009年には全世界で一年に1億3000万台の自転車が販売され、そのうちの66%が中華人民共和国で製造された。ただし世界最大の自転車メーカーは台湾に本社があるジャイアント・マニュファクチャリング(GIANT)であり、2014年の統計によると この一社だけで世界の自転車製造の10%を占めており、およそ600万台を製造した(同社は台湾、オランダ、中華人民共和国、ハンガリーに製造所を所有している)。その他ジャイアントに次ぐ世界大手の名を挙げるとメリダ・インダストリー、ドレル en:Dorel Industries(カナダに本社があり、キャノンデールブランドを抱える)、アクセルグループ(en:Accell。オランダの自転車メーカー)を挙げることができる。自転車の部品にも焦点をあてると、シマノが最大手である。
2011年には、世界の自転車市場の規模は610億ドルにのぼった。
欧州諸国の中ではポルトガルが最大の製造国で、2020年の統計で およそ260万台を製造した。
自転車メーカーの一覧は別記事「自転車メーカー一覧」が参照可能である。
日本国内で販売される自転車についての統計資料は(日本の)自転車産業振興協会が集計しており、その資料によると、日本で販売された自転車は2021年の1年間でおよそ689万台で、そのほとんどは輸入されている。
自転車の製造は、自転車のフレーム自体やボールベアリング、ワッシャー、スプロケットなどの特別な部品の両方に高度な技術を必要とするため、金属加工技術の進歩を促し、他の高度な産業にも影響を与えた。これらの製造を通じて熟練した金属加工技術を身に付けた労働者は、初期の自動車や飛行機の開発に大きな役割を果たした。また、自転車製造業は機械化や大量生産(のちにフォード・モーターやゼネラルモーターズも採用した)、垂直統合(のちにフォードも採用した)、積極的な広告(1898年の米国の雑誌のすべての広告のうち10%は自転車メーカーが占めていた)、道路改善のためのロビイング(などいくつもの産業モデルを開発し、他の産業に伝授する役割を果たした。また、自転車産業は年間のモデルチェンジを初めて採用、この方式はゼネラル・モーターズにも受け継がれ、大成功をおさめた。
初期の自転車は、ファッショナブルなエリートによって財力を誇示するために消費されるもののひとつであった。そのため、例えばバービー人形などの着せ替え人形において人形本体より着せ替え用の服などのアクセサリがよく消費されるように、自転車それ自体よりもそれにつけるためのカスタムパーツのの消費が多くなることがあった。
自転車の普及によって自転車メッセンジャー、自転車教室などの新たな職業が生まれ、また自転車レースも開催されるようになった。自転車レースの形態はのちにオートバイレースや自動車レースへとつながっていった。
初期の自動車や飛行機の開発者には自転車によって機械製造の基礎を身に付けたものが多く、飛行機を発明したライト兄弟もオハイオ州デイトンの自転車屋であった。いくつかの自動車メーカーは自転車メーカーから成長してきたものである。イギリスのローバーは1878年にStarley & Sutton Co. of Coventryとして創業したときは自転車メーカーであり、1901年に自動車の製造を開始した。同じくイギリスのモーリスも1910年の創業時は自転車メーカーであり、1913年に自動車メーカーとなった。チェコのシュコダもオーストリア=ハンガリー帝国時代の1895年にラウリン&クレメント社として創業したときは自転車メーカーで、自動車業進出は1901年のことであった。また、日本の本田技研工業は自転車メーカーではなかったが、自転車に搭載するモペッド用の補助エンジン制作からスタートして世界有数の自動車メーカーとなった企業である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "自転車(じてんしゃ、英: bicycle、bike)は、一般には、ふたつの車輪を前後に一直線に並べた構造をもち、乗り手の力によって駆動し、かつ乗り手の操縦(運転)によって地上を走行する二輪車のこと。広義には、「三輪車」や(ほろ付き)四輪車など二輪車でないもの、水上自転車や氷上自転車など地上以外を走行するものも含む。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "冒頭で挙げた定義文以外に、自転車の定義には、たとえば次のようなものがある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "英語の 「bicycle」や「bike」 は車輪の数に着目した命名法であり、「二輪」を意味する。英語では3輪のものはtricycle(トライシクル)と呼ぶ。日本語の「自転車」には車輪の数に関する言葉が含まれておらず、三輪や四輪も含む。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "自転車の歴史、特に黎明期の記録については現在もヨーロッパ各国を中心に資料の発掘と検証が続けられており、長らく定説とされてきたものを覆す研究も提示されている。自転車の起源に当たる乗り物、またその着想についてはこれまでも様々な説が浮上してきた。(レオナルド・ダ・ヴィンチの自転車スケッチ説など)日本においては陸船車も参照のこと。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "1817年、ドイツ人のカール・フォン・ドライス男爵が発明したドライジーネ(Draisine)が二輪自転車の起源とされている。これは木製の乗り物で、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えていた。クランクやペダル、チェーンといった駆動装置はなく、足で直接地面を蹴って走るものであったが、当時の書物には、ドライジーネが37kmを2時間30分で走ることができたという記録が示されている。これは時速15km/hに相当するかなりのスピードであった。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1815年、インドネシアのタンボラ山が大噴火した影響で翌年まで世界的な異常低温気候が続き、作物が十分に育たずに馬の大量死が起きた。ドライス男爵は馬の代わりを探して、車輪付きの乗り物「馬のいらない四輪馬車」を考案。ドイツ・バーデンにおいて、「馬のいらない四輪馬車」の特許を申請した。しかし、これは画期的なものとは考えられず却下されてしまった。1817年、ドライスは試行錯誤の末、二本足で地面を蹴って走る「ドライジーネ」を発明した。1817年6月12日、ドライジーネを一般に公開。マンハイムからシュヴェツィンゲンまで約15 kmの区間をわずか1時間で往復。そのスピードは駅馬車よりも速く、人々に大きな衝撃を与えた。更に1カ月後の1817年7月、ドライスはドライジーネにまたがり、駅馬車とレースを行った。駅馬車の4分の1の所要時間となる4時間で約50 kmを走破。当時の書物には、駅馬車に完勝した記録が残っており、これが二輪車が初めて歴史に登場した記録であり、史上初の二輪車レースの記録とされている。1817年、バーデンとパリの登記所にて「ドライジーネ」の特許は受理され、1818年1月22日、ドライス男爵はバーデンにて10年にわたる商業権を認められた。",
"title": "自転車の歴史"
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"tag": "p",
"text": "ドライジーネの登場と同時代にフランスやソ連(現・ロシア)で同様の二輪車が発明されていたという起源の主張があり、日本でも1970年頃まではフランスの「セレリフェール」という二輪車が自転車の始祖であるという説が有力であった。しかし、それらは後の研究で反証され、存在の立証ができずに自転車の正史としては認められることはなかった。特にイタリアで主張されたレオナルド・ダ・ヴィンチの自転車のスケッチは大きな物議をかもすことになった。1500年代にレオナルド・ダ・ヴィンチが自転車のスケッチをしたという原稿が見つかった。しかし、これは1960年代にダ・ビンチの手書き原稿を修復したイタリア人のある修道士が、もともと描かれていた二つの円を自転車の車輪に見立て、ペダルやチェーンなどを加筆することで、自転車に仕立てたものだとされている。このスケッチが描かれた紙は、16世紀に保存上の必要から二つ折りに糊付けされていたが、修道士が加筆する直前、歴史学者のペドレッチが強い照明を使い透かした当初、描かれていたのは二つの円だけだった。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1839年に、イギリスのマックミランによってペダル式の自転車が最初に考案された。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1861年にフランスでミショー型が発売された。これは現在の小児用の三輪車と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものであった。ピエール・ミショーがオリビエ兄弟(en)より出資を受けて製造販売を始めたもので、これは初めて工業製品として量産された自転車でもある。なお、ミショー型については、ミショーの元で雇用されていたピエール・ラルマンが「自分こそがペダル付き二輪車の発明者であり、ミショーにそのアイデアを盗用された」と主張し、1866年にアメリカにて特許を取得している。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させたペニー・ファージング型自転車を発売し好評を博したため、多くのメーカーが追随。前輪は拡大を続け、直径が1.5メートルを超えるものも出現した。当時盛んに行われたレースなどスポーツ用に特化したもので、長距離のクロスカントリーライドまで行われた。しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難であり、転倒すれば高所より頭から落ちるような危険な乗り物であった。日本ではだるま車などと呼ばれた。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1879年に英国人ヘンリー・ジョン・ローソン(英語: Harry John Lawson) により後輪をチェーンで駆動し、座席(サドル)の高さが低いため重心が低く、乗員の足が容易に地面に届く物が製作され、ビシクレット(Bicyclette...二つの小輪)と名付けられた。これが英語の Bicycle の元となった。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1884年スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)、ハンバー、マキャモン(McCammon)(en)、BSAなどがビシクレットに改良を加えた自転車を発売する。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1885年にジェームズ・スターレーの甥ジョン・ケンプ・スターレーが「ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)」の販売を開始する。側面から見て菱形のシルエットを持つダイヤモンド型のフレームを持ち、前後輪が同じ大きさで、後輪チェーン駆動の現在の自転車に近い姿になった。この安全型自転車の登場により、それまでのスピードは出るが危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、またそれまでスポーツ用が主な用途だった自転車は日常の手軽な交通手段としての側面を強くしていった。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製であり、乗り心地は非常に悪く「ボーン・シェーカー」(骨ゆすり)とも呼ばれるようなものであった。これが大幅に改善されるのは、1888年にジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを実用化してからのことである。この発明はすぐに自転車に使用され、乗り心地と速度の大幅な向上をもたらした。その後フリーホイール機構が普及し、自転車の基本がほぼ完成された。",
"title": "自転車の歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "地上を移動する目的において、ヒトの筋力が最も効率良く発揮される手段が自転車である。自重を支えつつ歩いたり走ることに比べて筋力を効率的に進む目的に充てられ、より速く遠くに進むことができる。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "自転車は、自動車に比べて安価に購入でき、燃料が不要なことから、道路整備が遅れ国民の所得水準が低い発展途上国では重要な移動手段である。また自動車などと比較して、移動距離当たりのエネルギーが少ない上、路上の専有面積が少なく、有害な排出ガスが発生しないので、ヨーロッパ諸国など都市化が十分に進んだ先進国でもここ数十年、再評価されるようになってきている。自動車に依存した生活が運動不足をもたらし健康をむしばむことが、近年理解されるようになり、健康を重視する欧州諸国や日本などでは健康増進効果への期待の面からも、また環境への負荷を小さくする面でも高く評価され、積極的に利用されるようになっている。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日本の道路交通法では「軽車両」に分類される。 運転免許を取得する必要は無いが、自転車でも交通事故は起き、運転者自身や、衝突した人が怪我をしたり死亡することもあり、自転車の運転者には(自動車や自動二輪を運転することと同様に)安全運転を心掛けることが求められる。道路交通法を遵守しつつ走行しなければならない。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "主な自転車に関する道路交通法の規定を以下に記す。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これらの違反について警察官による取り締まりも強化されるようになった。同時に、自転車利用の促進のため、道路での走行ルールの明確化、走行場所の法的な明確化・確保もされた。なおそれと連動して自転車専用レーン整備のための行政的な推進も図られる。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "平成後期より、自転車に乗る人に「自転車保険」(事故時の損害賠償などに対応するもの)への加入を義務化する地方自治体も現れた。2015年10月に兵庫県で義務化が開始され、以降全国に広まる。",
"title": "自転車の位置づけ"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "フレームは自転車を構成する各部品が組み付けられる車台である。自転車のフレームは伝統的にフロントフォークとセットで製造され、流通してきた歴史があり、公的な強度・耐久性試験もフレームとフロントフォークを組み付けた状態で行われる。この場合、フロントフォークを含めた構造物はフレームセットと呼ばれる。 一方、スポーツ用の自転車においてはフロントフォークを含まないフレーム単体で製造、販売されることも多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "フロントフォークとフレームはステアリングコラムと呼ばれる軸構造によって回転可能に接続され、ヘッドパーツと呼ばれる転がり軸受け構造によって滑らかに操舵できるようになっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ホイールとタイヤによって構成される。ホイールのハブとリムとの間は金属製のワイヤースポークによって支え、ハブには滑らかに回転するために転がり軸受け構造を採用し、タイヤは中空で、円形の断面形状を持つものが一般的である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2輪の自転車では前輪が、後輪が駆動を受け持つ構成が多いが、ベロシペードおよびペニー・ファージングまでは駆動と操舵の両方を前輪で行っていた。リカンベントの一部には駆動と操舵の両方を前輪で受け持つ構成の車種があるほか、前輪で駆動し後輪で操舵するものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2輪の自転車では、操舵用のハンドルは棒状でフロントフォークの最上部に固定され、フロントフォークを直接回転させる構造のものが一般的である。操舵に必要な機能以外にも、強くこぐ際には運転者が上体を支えるよりどころとしての機能を持つため、用途によりさまざまな形態がある。3輪以上の自転車では、リンク機構によって操作を操舵輪に伝達する構造を持つものが多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "運転者が座る部分はまたがって座るサドル型が一般的で、前方が細く、後方が広くなっている形状のものがほとんどである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "運転者が体重をかける割合が少ない用途では、こぎやすさを重視して細長く、運転者の体重の多くをサドルに乗せる乗車姿勢の車種では幅が広く作られていて、スプリングを備えたものもある。リカンベントでは運転者の背中までの広い範囲を支える椅子型(シート)のものが多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "手漕ぎ自転車(ハンドサイクル)及び特殊なもの(主に遊戯用)を除けば、運転者が動力を与えるのにはクランクの先端に回転可能に支持されたペダルで行われる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "単純な平板状のものは踏み込む力だけを動力とするが、革紐などによって足を固定するトウクリップや、クリートと呼ばれる金具を備えた靴を固定するビンディングペダルによって、踏み込む力だけでなく足を引き上げる力も動力として利用できるペダルもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "クランクには運転者の体格や体力、車体各部の寸法などに応じて選択できるように、いくつかの異なる長さのバリエーションを持つ製品もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ドライブトレインは、クランク、軸受、チェーンホイール(後述)、チェーン(あるいはコグドベルトや少数ではあるがシャフト)、スプロケット(あるいはカセットスプロケット)、フリーホイールなどによって構成される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "運転者の足や腕によって回転されるクランクはボトムブラケット(BB)と呼ばれる軸受け構造で支持される。 クランクの回転はローラーチェーンとスプロケットの組合せにより駆動輪へと伝達されるものが一般的である。19世紀末の安全型自転車が登場するまでは前輪の軸がクランクと直結しているものが通常であった。また、初期の自転車用チェーンはブロックチェーン(block chain)と呼ばれるもので、現在用いられているローラーチェーンとは構造が異なっていた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "スプロケットのうちクランクと同軸にあるスプロケットは自転車においてはチェーンホイールと呼び、単に「スプロケット」と呼ぶ場合は駆動輪と同軸にある被駆動スプロケットを指す。駆動輪のスプロケット軸にはフリーホイールが内蔵されていて、クランキングを止めて惰性で走行することができる車種がほとんどである。フリーホイールは安全型自転車の後期になって普及した一方、トラック自転車競技や室内自転車競技に用いられる自転車には現代でもフリーホイールは組み込まれていない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "変速機をもつ車種もあり、チェーンホイールとスプロケットの組合せを複数持ち、チェーンを掛け替える方式の外装変速機と、ハブ内部に歯車を持ち、スプロケットの回転速度を増速あるいは減速してホイールに伝達する内装変速機がある。外装変速機には複数のスプロケットをまとめてハブから分離することができる構造のものがあり、カセットスプロケットと呼ばれる。前後のディレイラによってチェーンの位置を左右に移動させ、チェーンと組み合わさるチェーンホイールやスプロケットを変える。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "多くの場合はハンドルバーの端部に備えられたレバーで操作し、コントロールケーブルやリンク機構で操作が伝達される。クランクを逆転させることで作動するコースターブレーキと呼ばれるものも一部で採用されている。エラストマー製の摩擦材がリムを挟んで制動する構造や、ハブにと同軸に備えられた円筒を皮革など帯状の摩擦材を巻き付けて制動する構造のものが多く採用されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本では公道を走行する自転車にはブレーキ装置を前後両輪に備えることが義務づけられている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日本では道路交通法第52条により夜間の点灯義務がある。夜間は必ず前照灯を点灯させなければならない(前照灯を点灯しない自転車は、明るい間しか走行させられない)。前方を照射するための部品でもあるが、それよりも、周囲の歩行者や車両の運転者に、自転車の存在に気付いてもらうこと(被視認性)が主たる目的であり、双方の安全や人命にかかわる非常に重要な部品・装置である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "前照灯は、あらかじめ自転車に備わっているものでも良いし、購入時に前照灯がついていない場合は後付けでも良い。後付けの前照灯というのは、自転車販売店のほか、ホームセンターや百均などでも販売されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "前輪のリムに接触させたダイナモの回転子が前輪の動きに合わせて回転し発電して発光するリムダイナモ式が古くから用いられている。前輪のハブにダイナモを取り付け、夜間走行中に自動的に点灯するハブダイナモ式も増えている。他に、乾電池や太陽電池と二次電池で発光する前照灯も販売されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "後部に設置し自車の存在を知らせ、後部からの被視認性を向上させる。他の車両の前照灯の光を反射して赤く光る反射材と、赤い光を後方に照射する尾灯とがある。日本では道路交通法第52条および第63条の9により夜間に運転する場合は反射材か尾灯の少なくとも一方を装備する必要がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "自転車の車輪や車体を電源や反射塗料、無機ELなどで発光させ、側面からの被視認性を向上させるもの。 反射塗料を塗装した自転車としては、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコのMission Bicycle Companyによる「Lumen」がある。これは、車体に再帰反射粒子を含有する物質を粉体塗装したもので、フレーム全体が光を反射する。Kickstarterで15,000ドルを目標に出資を募ったところ、60,000ドル以上を集めている。自動車メーカーのボルボは、自転車向けの光反射スプレー「LifePaint」を、2015年にイギリスで試験発売している。また、マルキン自転車(ホダカ)も「レアルタシティ ハイブリッド」を発売している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "無機EL発光体を使用した自転車としては、カインズが2015年11月に発売した「光る自転車KiLaCle(キラクル)」がある。これは、前輪で発生させた電気を利用し、自ら発光することにより視認性を向上させたモデルである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "自車の接近を音で伝えるための部品。指でレバーを操作し、ベルを鳴らすものが多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "道路交通法第54条により、警音器を鳴らす義務がある場面がある。また、法令で規定されている場面以外では鳴らしてはならないとされている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "道路交通法に記述されているのは「鳴らす義務」であり、自転車に警音器を整備する義務は無い。ただし、多くの都道府県の道路交通法施行細則や条例で整備を義務化している。例えば、東京都では条例(東京都道路交通規則第8条第9項)により警音器が整備されていない自転車に乗車することを禁じている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "通勤や通学のために広く使われている。大人が幼稚園児・保育園児を送り迎えするのにも使われている。小・中・高生が習い事や塾に通うためにも使われている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "レンタサイクルは、最近では世界各国の都市部で、駅前やバスターミナルなどの交通拠点近くに配備されることが増えてきており、なかでも、都市部に同一規格の多数の「レンタル・ステーション」が用意されていて、都合のよいステーションで借り別のステーションで返却できるシステムはその利便性から、ヨーロッパなどで急速に普及しつつある。フランス・パリではこのタイプのシステムがすでに大規模に整備されている。",
"title": "自転車の利用"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "中国の都市部では、不特定多数の人々で膨大な数の自転車をシェアするシェア自転車のシステムが大人気となり急速に広まっている。システムの登録者は、スマホのアプリを使ってどこでも解錠と施錠ができ、利用したい時は空いている自転車の場所をスマホの画面で検索可能、というシステムである。",
"title": "自転車の利用"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2010年代からは、自転車を持ち主が使わない間に貸し出す「自転車シェアリング」もアメリカや中国、日本国内で普及しつつある。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ諸国では自転車の利用が非常に盛んな国が多い。欧州諸国では、1990年代以降自転車が環境や健康にもたらす効果を重視し、自転車を都市交通の重要な担い手と位置づけている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "オランダ、デンマーク、スウェーデン、ドイツなど多くの国で自転車交通教育の推進によって自転車交通が促進されている。通行規則は自動車やバスなど同じ道路を走る他の車両と一体として整備され、全ての車両の運転者に等しく、車道での安全走行が規則として徹底される。自転車または二輪車のための専用レーン整備が進められる一方で、専用レーンがない場合でも、自転車は車道を走行する車両とみなされ交通規則が適用されている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "オランダやデンマークでは通勤利用者に対する購入時の金銭的補助がある。スイスでは山岳地帯であるにもかかわらず、自転車観光ルートを充実させ、ルートガイドを徹底することにより、自転車による観光が推進されている。ドイツ、オランダ、サンフランシスコなど、鉄道車両などの公共交通機関に折りたたむことなく、そのままの状態で自転車を持ち込むことができる場所も多い。これにより自転車で最終目的地に到達できる可能性が増す。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "近年、共有自転車(コミュニティサイクル、バイシクルシェアリング)を都市内で大規模に導入する動きもみられ、ヴェリブ (フランス・パリの自転車貸出システム)はその中でも代表例で、街中。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "南アメリカのコロンビアの首都ボゴタは、市長提唱による自転車交通推進によって短期間に欧州的な自転車都市となった。長年毎週日曜日には中心の7番街でシクロ・ビア(自転車天国)と呼ばれる自転車中心に歩行者やローラースケーターたちへの道路の開放が行われてきたが、1990年代後半以降は地域を拡大し、さらに大規模に行われるようになった。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "インドでも自転車は多く利用されている。インドは自転車生産でも世界有数の国となっている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "北米(アメリカ合衆国・カナダ)は典型的な車社会で、4輪の自動車ばかりが前面に出がちだが、ニューヨーク市、サンフランシスコなどの都市では、渋滞の影響をさほど受けずにスムースに移動できる手段として重宝されている。都市内部のビルの上層階の住宅に住み都市内部の別のビルの職場へと通勤する者や、自転車便などによってさかんに利用されている。歩行者や自転車運転者を護るために、自転車レーンが設けられている道路が多い。また米国全土で、スポーツやレジャーなどのための自転車利用が行われている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本は国土の多くが自転車利用に不向きな山岳にもかかわらず、自転車普及率は世界的に見ても高い。保有台数は8655万台で、人口1.5人当たり1台にのぼる(2005年)。これは西欧で特に自転車利用が多いオランダ(人口0.9人当たり1台)、ドイツ(同1.2人)、に次いでベルギー(同1.9人)と同等の水準であり、アメリカ、中国、イギリス、フランス、イタリアといった国々を上回る。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "自転車は標識で通行を認められた歩道を除き、車道の左側を走ると定められており、車道の右側および認められていない歩道を走行すると「逆走」ということになり道路交通法違反である。2016年12月には自転車活用推進法が制定され、これに伴いさまざまな施策が立案されている。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "都市部では公共交通機関が発達している一方、自動車優先の交通政策が敷かれ、自転車が交通手段として明確に位置づけられていなかった。",
"title": "自転車の利用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "自転車による移動は生物と機械の両方の中で、その移動に要するエネルギーの量に関して突出して効率的であり、人間がある距離をある速度で移動するのに必要なエネルギーの量で比べると自転車は徒歩の5分の1に過ぎないという定説がある。1950年代の中期に、現在の「財団法人自転車産業振興協会自転車技術研究所」の前身にあたる「自転車生産技術開放研究室」がまとめた研究により、この数値はおおむね正しいことが確認された。この際には、被験者の呼気に含まれる二酸化炭素の量から消費カロリーを推算する手法が用いられた。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "こうした数値を基に、一般的な自転車で1kgの物体(車体を含む)を1km移動させるのに必要なカロリーは、おおよそ自動車の6分の1、ジャンボジェット機の4分の1程度しか必要ないとの試算もある。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "自転車で1時間でどれだけの距離が走れるかについて競い記録を残すHour recordというものがある。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "瞬間的な速度の記録に関しては、平地単独走行で全風圧を受けての最高速度の記録は、2013年12月6日、メキシコのアグアスカリエンテス・二百周年自転車競技場(Velódromo Bicentenario)でフランス人フランソワ・ペルヴィがUCIトラック自転車競技ワールドカップ・メキシコ大会のスプリント予選(200 mフライングタイムトライアル)で出した世界記録9秒347は速度換算では77.03 km/hとなる。これがユネスコ所管の唯一公式にしてサイクリストが全風圧を受ける通常形態の安全型自転車による最速記録といえる。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "機材の形態にとらわれない記録挑戦では、2015年9月19日、米国ネヴァダ州バトルマウンテン(Battle Mountain)郊外の一時的に閉鎖した公道でカナダ人トッド・ライカート(Todd Reichert)がタイヤ接地面のみわずかに開口したストリームラインボディのリカンベント Eta で達成した139.45 km/hがヒト一人のみの出力による最高速度記録であった。Etaは極めて低い位置に仰向いて座り前輪を両脚で挟むように前端のクランクを回すため、後輪駆動は構造上ほぼ不可能で前輪駆動を採用している。また前を見通す視界はなくカメラ映像に依存する。2016年9月19日、同地、同プロジェクトによって記録は144.17 km/hに更新された。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "世界各国に自転車メーカーが存在し、多くの自転車が製造されている。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2009年には全世界で一年に1億3000万台の自転車が販売され、そのうちの66%が中華人民共和国で製造された。ただし世界最大の自転車メーカーは台湾に本社があるジャイアント・マニュファクチャリング(GIANT)であり、2014年の統計によると この一社だけで世界の自転車製造の10%を占めており、およそ600万台を製造した(同社は台湾、オランダ、中華人民共和国、ハンガリーに製造所を所有している)。その他ジャイアントに次ぐ世界大手の名を挙げるとメリダ・インダストリー、ドレル en:Dorel Industries(カナダに本社があり、キャノンデールブランドを抱える)、アクセルグループ(en:Accell。オランダの自転車メーカー)を挙げることができる。自転車の部品にも焦点をあてると、シマノが最大手である。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2011年には、世界の自転車市場の規模は610億ドルにのぼった。",
"title": "自転車製造業"
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"tag": "p",
"text": "欧州諸国の中ではポルトガルが最大の製造国で、2020年の統計で およそ260万台を製造した。",
"title": "自転車製造業"
},
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "自転車メーカーの一覧は別記事「自転車メーカー一覧」が参照可能である。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本国内で販売される自転車についての統計資料は(日本の)自転車産業振興協会が集計しており、その資料によると、日本で販売された自転車は2021年の1年間でおよそ689万台で、そのほとんどは輸入されている。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "自転車の製造は、自転車のフレーム自体やボールベアリング、ワッシャー、スプロケットなどの特別な部品の両方に高度な技術を必要とするため、金属加工技術の進歩を促し、他の高度な産業にも影響を与えた。これらの製造を通じて熟練した金属加工技術を身に付けた労働者は、初期の自動車や飛行機の開発に大きな役割を果たした。また、自転車製造業は機械化や大量生産(のちにフォード・モーターやゼネラルモーターズも採用した)、垂直統合(のちにフォードも採用した)、積極的な広告(1898年の米国の雑誌のすべての広告のうち10%は自転車メーカーが占めていた)、道路改善のためのロビイング(などいくつもの産業モデルを開発し、他の産業に伝授する役割を果たした。また、自転車産業は年間のモデルチェンジを初めて採用、この方式はゼネラル・モーターズにも受け継がれ、大成功をおさめた。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "初期の自転車は、ファッショナブルなエリートによって財力を誇示するために消費されるもののひとつであった。そのため、例えばバービー人形などの着せ替え人形において人形本体より着せ替え用の服などのアクセサリがよく消費されるように、自転車それ自体よりもそれにつけるためのカスタムパーツのの消費が多くなることがあった。",
"title": "自転車製造業"
},
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "自転車の普及によって自転車メッセンジャー、自転車教室などの新たな職業が生まれ、また自転車レースも開催されるようになった。自転車レースの形態はのちにオートバイレースや自動車レースへとつながっていった。",
"title": "自転車製造業"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "初期の自動車や飛行機の開発者には自転車によって機械製造の基礎を身に付けたものが多く、飛行機を発明したライト兄弟もオハイオ州デイトンの自転車屋であった。いくつかの自動車メーカーは自転車メーカーから成長してきたものである。イギリスのローバーは1878年にStarley & Sutton Co. of Coventryとして創業したときは自転車メーカーであり、1901年に自動車の製造を開始した。同じくイギリスのモーリスも1910年の創業時は自転車メーカーであり、1913年に自動車メーカーとなった。チェコのシュコダもオーストリア=ハンガリー帝国時代の1895年にラウリン&クレメント社として創業したときは自転車メーカーで、自動車業進出は1901年のことであった。また、日本の本田技研工業は自転車メーカーではなかったが、自転車に搭載するモペッド用の補助エンジン制作からスタートして世界有数の自動車メーカーとなった企業である。",
"title": "自転車製造業"
}
]
| 自転車は、一般には、ふたつの車輪を前後に一直線に並べた構造をもち、乗り手の力によって駆動し、かつ乗り手の操縦(運転)によって地上を走行する二輪車のこと。広義には、「三輪車」や(ほろ付き)四輪車など二輪車でないもの、水上自転車や氷上自転車など地上以外を走行するものも含む。 | {{出典の明記|date=2021年1月}}
{{Otheruses||楽曲|自転車 (楽曲)}}
[[ファイル:Kusuma_bike_large.jpg|thumb|[[ロードバイク]]]]
[[ファイル:Mountainbike.jpg|thumb|[[マウンテンバイク]]]]
[[ファイル:Japanese CityCycle BasicType.jpg|thumb|日本の[[シティサイクル]]]]
[[ファイル:Yuubinjitensya.jpg|thumb|かつて日本で主流であった[[実用車]]]]
'''自転車'''(じてんしゃ、{{lang-en-short|bicycle、bike}})は、一般には、ふたつの[[車輪]]を前後に一直線に並べた構造をもち、乗り手の力によって駆動し、かつ乗り手の操縦([[運転]])によって地上を走行する二輪車のこと<ref name="sekaidaihyakka">『世界大百科事典』第二版「自転車」</ref>。広義には、「[[三輪車]]」や([[幌|ほろ]]付き)四輪車など二輪車でないもの、水上自転車や氷上自転車など地上以外を走行するものも含む<ref name="sekaidaihyakka" />。
== 定義 ==
冒頭で挙げた定義文以外に、自転車の[[定義]]には、たとえば次のようなものがある。
* [[乗員]]の[[運転]]操作により[[人力]]で駆動され走行する[[車両]]([[日本産業規格]]{{sfn|JISD9111|2016}}に基づいた定義<ref name="s-nipponica">スーパー[[日本大百科全書|ニッポニカ]]【自転車】[[内田謙]] 執筆</ref>)。
* 前輪と後輪の[[車輪]]を有し、[[ペダル (自転車)|ペダル]]上の乗員の力で推進(駆動)される車両<ref name="s-nipponica" />。
英語の 「[[:en:Bicycle|bicycle]]」や「bike」 は車輪の数に着目した命名法であり、「二輪」を意味する。英語では3輪のものは[[:en:tricycle|tricycle]](トライシクル)と呼ぶ。日本語の「自転車」には車輪の数に関する言葉が含まれておらず、三輪や四輪も含む。
== 種類・分類 ==
{{See|自転車の種類一覧}}
<!--[[File:Bridgestone Cycle Eurasia First Riding.jpg|thumb|スポーツサイクル]]-->
== 自転車の歴史 ==
[[ファイル:Alte Fahrräder 8773.jpg|サムネイル|歴史を彩った自転車達]]
自転車の歴史、特に黎明期の記録については現在も[[ヨーロッパ]]各国を中心に資料の発掘と検証が続けられており、長らく定説とされてきたものを覆す研究も提示されている<ref group="注釈">こうした活動が行われている場のひとつに、{{仮リンク|International Cycling History Conference|en|International Cycling History Conference|de|International Cycling History Conference|it|Conferenza internazionale sulla storia del ciclismo}}(外部リンク:[http://www.cycling-history.org/ International Cycling History Conference (ICHC)]) がある</ref>。自転車の起源に当たる乗り物、またその着想についてはこれまでも様々な説が浮上してきた。([[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の自転車スケッチ説<ref>{{Cite web|title=Leonardo da Vinci Bicycle Hoax|url=https://www.cyclepublishing.com/history/leonardo%20da%20vinci%20bicycle.html|website=www.cyclepublishing.com|accessdate=2021-03-09}}</ref>など)日本においては[[陸船車]]も参照のこと。
=== 自転車の起源 ===
[[ファイル:Draisine1817.jpg|サムネイル|1817年の発行物に記載されたドライジーネ]]
[[ファイル:ZweiRadMuseumNSU Draisine1.JPG|サムネイル|330x330ピクセル|ドイツ・ツヴァイラートとNSU博物館のドライジーネ]]
[[1813年|1817年]]、[[ドイツ人]]の'''[[カール・フォン・ドライス]]'''男爵が発明した'''[[ドライジーネ]]'''(''Draisine'')が二輪自転車の起源とされている。これは木製の乗り物で<!--{{sfn|浅井建爾|2015|p=72}}-->、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えていた。[[クランク (機械要素)|クランク]]や[[ペダル]]、[[ローラーチェーン|チェーン]]といった駆動装置はなく、足で直接地面を蹴って走るものであったが{{sfn|浅井建爾|2015|p=72}}、当時の書物には、ドライジーネが37kmを2時間30分で走ることができたという記録が示されている。これは時速15km/hに相当するかなりのスピードであった<ref>{{Cite web|和書|title=日本自転車文化協会ホームページ|url=http://www.jba-rw.org/topics/aboutbicycle_histry_1.html|website=www.jba-rw.org|accessdate=2020-12-17}}</ref>。
==== ドライジーネの誕生 ====
1815年、インドネシアの[[タンボラ山]]が[[1815年のタンボラ山噴火|大噴火]]した影響で翌年まで世界的な異常低温気候が続き、作物が十分に育たずに[[ウマ|馬]]の大量死が起きた。ドライス男爵は馬の代わりを探して<ref>{{Cite web|title=This Wooden Running Machine Was Your Fixie’s Great-Great Grandpa|url=https://www.smithsonianmag.com/smart-news/wooden-running-machine-was-your-fixies-great-great-grandpa-180962152/|website=Smithsonian Magazine|accessdate=2020-12-24|language=en|first=Kat|last=Eschner}}</ref>、車輪付きの乗り物「馬のいらない四輪馬車」を考案。[[ドイツ]]・[[バーデン=ヴュルテンベルク州|バーデン]]において、「馬のいらない四輪馬車」の[[特許]]を申請した。しかし、これは画期的なものとは考えられず却下されてしまった<ref>Hermann Ebeling: ''Der Freiherr von Drais.'' S. 53 ff.</ref>。1817年、ドライスは試行錯誤の末、二本足で地面を蹴って走る「ドライジーネ」を発明した。1817年6月12日、ドライジーネを一般に公開。[[マンハイム]]から[[シュヴェツィンゲン]]まで約15 kmの区間をわずか1時間で往復。そのスピードは[[駅馬車]]よりも速く、人々に大きな衝撃を与えた<ref>{{Cite web|title=DPMA {{!}} The ancestor of all bicycle|url=https://www.dpma.de/english/our_office/publications/news/milestones/200jahrepatentfuerdasur-fahrrad/index.html|website=Deutsches Patent- und Markenamt|accessdate=2020-12-24|language=de}}</ref>。更に1カ月後の1817年7月、ドライスはドライジーネにまたがり、駅馬車と[[競走|レース]]を行った。駅馬車の4分の1の所要時間となる4時間で約50 kmを走破。当時の書物には、駅馬車に完勝した記録が残っており、これが二輪車が初めて歴史に登場した記録であり、史上初の[[自転車競技|二輪車レース]]の記録とされている<ref>{{Cite web|title=Brimstone and bicycles|url=https://www.newscientist.com/article/mg18524841-900-brimstone-and-bicycles/|website=New Scientist|accessdate=2020-12-24|language=en-US|first=Mick|last=Hamer}}</ref>。1817年、バーデンと[[パリ]]の登記所にて「ドライジーネ」の特許は受理され、1818年1月22日、ドライス男爵はバーデンにて10年にわたる商業権を認められた<ref>{{Cite web|title=DPMA {{!}} The ancestor of all bicycle|url=https://www.dpma.de/english/our_office/publications/news/milestones/200jahrepatentfuerdasur-fahrrad/index.html|website=Deutsches Patent- und Markenamt|accessdate=2020-12-24|language=de}}</ref>。
==== ドライジーネが他の二輪車起源説と違う点 ====
; 特許申請証が現存している
: 1817年末、バーデンとパリの登記所にて「ドライジーネ」の特許を申請。1818年1月22日、ドライス男爵はドイツ・[[バーデン=ヴュルテンベルク州|バーデン]]にて10年にわたる商業権を認められた。また、1818年2月17日にフランス・パリでも特許を取得しており、この時の記録は現在も残っている<ref>Hans-Erhard Lessing: Wie Karl Drais das Fahrrad erfand, Lauinger Karlsruhe 2018, Anhang D</ref>。加えて、1817年7月に駅馬車とレースを行った記録も複数の書物で確認できることから、極めて信憑性が高い<ref>{{Cite web|title=DPMA {{!}} The ancestor of all bicycle|url=https://www.dpma.de/english/our_office/publications/news/milestones/200jahrepatentfuerdasur-fahrrad/index.html|website=Deutsches Patent- und Markenamt|accessdate=2020-12-24|language=de}}</ref>。
; 後の自転車の発展に影響を与え、歴史が連続している
: ドライス男爵は特許申請の翌年、1818年にドイツ国内だけでなく、[[パリ]]にも出向き、公園にて「ドライジーネ」の試乗会を開催した。試乗会は3000人もの大観衆を集め、新聞、戯画など人々の間で大きな話題となり、更にはドライス男爵の風刺劇まで公演される大成功を収めた。話題は[[ドーバー海峡]]をこえ英国人のジョンソンの耳に届くと、彼が鉄製フレームを使って模造することで、自転車はさらなる進化を遂げていくことになる<ref>Feldhaus, Anhang I, S. 11–13.</ref>。
==== 他国による起源の主張 ====
ドライジーネの登場と同時代にフランスやソ連(現・ロシア)で同様の二輪車が発明されていたという起源の主張があり、日本でも1970年頃まではフランスの「セレリフェール」という二輪車が自転車の始祖であるという説が有力であった。しかし、それらは後の研究で反証され、存在の立証ができずに自転車の正史としては認められることはなかった。特にイタリアで主張された[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の自転車のスケッチは大きな物議をかもすことになった。1500年代に[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が自転車のスケッチをしたという原稿が見つかった。しかし、これは1960年代にダ・ビンチの手書き原稿を修復したイタリア人のある修道士が、もともと描かれていた二つの円を自転車の車輪に見立て、ペダルやチェーンなどを加筆することで、自転車に仕立てたものだとされている。このスケッチが描かれた紙は、16世紀に保存上の必要から二つ折りに糊付けされていたが、修道士が加筆する直前、歴史学者のペドレッチが強い照明を使い透かした当初、描かれていたのは二つの円だけだった<ref>{{Cite web|和書|title=自転車の歴史探訪|url=http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi4.html|website=www.eva.hi-ho.ne.jp|accessdate=2020-12-17}}</ref>。
=== ペダル式自転車の誕生 ===
[[1839年]]に、イギリスのマックミランによってペダル式の自転車が最初に考案された{{sfn|浅井建爾|2001|p=251}}。[[ファイル:Michaux boneshaker.jpg|thumb|125px|ミショー型ベロシペード]][[1861年]]に[[フランス]]で'''ミショー型'''が発売された<ref group="注釈">この1861年説は、ミショー一族に伝わる家伝書を根拠とする。これは個人的な記録であり、後年ミショーがオリビエとの間に権利上の対立を抱えていたことなどから、その信憑性に疑問を呈する意見もある。</ref>。これは現在の小児用の[[三輪車]]と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものであった。[[ピエール・ミショー]]が[[オリビエ兄弟]]([[:en:Olivier brothers|en]])より出資を受けて製造販売を始めたもので、これは初めて工業製品として量産された自転車でもある。なお、ミショー型については、ミショーの元で雇用されていた[[ピエール・ラルマン]]が「自分こそがペダル付き二輪車の発明者であり、ミショーにそのアイデアを盗用された」と主張し、[[1866年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にて特許を取得している。
{{main|ベロシペード}}[[ファイル:Ordinary_bicycle01.jpg|thumb|125px|典型的なペニー・ファージング(オーディナリー)型自転車]][[1870年]]頃、[[イギリス|英国]]の[[ジェームズ・スターレー]]が、スピードを追求するために前輪を巨大化させた'''ペニー・ファージング'''型自転車を発売し好評を博したため、多くのメーカーが追随。前輪は拡大を続け、直径が1.5メートルを超えるものも出現した。当時盛んに行われたレースなどスポーツ用に特化したもので、長距離のクロスカントリーライドまで行われた。しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難であり、転倒すれば高所より頭から落ちるような危険な乗り物であった。日本では'''だるま車'''などと呼ばれた。
{{main|ペニー・ファージング}}
[[1879年]]に英国人{{日本語版にない記事リンク|ヘンリー・ジョン・ローソン|en|Harry John Lawson|Harry John Lawson}} により後輪をチェーンで駆動し、座席([[サドル (自転車)|サドル]])の高さが低いため重心が低く、乗員の足が容易に地面に届く物が製作され、'''ビシクレット'''([[:fr:Bicyclette|Bicyclette]]…二つの小輪)と名付けられた。これが英語の Bicycle の元となった<ref group="注釈">なおこの名称は英語の'''''bicycle'''''に[[縮小辞|指小辞]]'''''(t)te'''''が付いた形となっている。当時の自転車の車輪が二つの内一つは巨大なものであることに対応した命名である。bicycletteの正しい英語発音に基づく日本語表記「バイサイクレット」である。</ref>。
[[ファイル:McCammon Safety Bicycle.jpg|thumb|125px|マキャモンによる初期の安全型]]
[[1884年]][[スターレー・アンド・サットン]](Starley & Sutton)、[[ハンバー (自動車)|ハンバー]]、[[マキャモン (自転車)|マキャモン]](McCammon)([[:en:John McCammon|en]])、[[バーミンガム・スモール・アームズ|BSA]]などがビシクレットに改良を加えた自転車を発売する。
===安全型自転車の誕生===
[[ファイル:Ladies safety bicycles1889.gif|thumb|125px|安全型自転車の一例]][[1885年]]にジェームズ・スターレーの甥[[ジョン・ケンプ・スターレー]]が「'''ローバー安全型自転車('''Rover Safety Bicycle)」の販売を開始する。側面から見て菱形のシルエットを持つダイヤモンド型のフレームを持ち、前後輪が同じ大きさで、後輪チェーン駆動の現在の自転車に近い姿になった{{sfn|浅井建爾|2001|p=251}}。この[[安全型自転車]]の登場により、それまでのスピードは出るが危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、またそれまでスポーツ用が主な用途だった自転車は日常の手軽な交通手段としての側面を強くしていった。
しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製であり、乗り心地は非常に悪く「ボーン・シェーカー」(骨ゆすり)とも呼ばれるようなものであった{{sfn|浅井建爾|2001|p=251}}。これが大幅に改善されるのは、[[1888年]]に[[ジョン・ボイド・ダンロップ]]が空気入りタイヤを実用化してからのことである。この発明はすぐに自転車に使用され、乗り心地と速度の大幅な向上をもたらした{{sfn|浅井建爾|2001|p=251}}。その後[[フリーホイール]]機構が普及し、自転車の基本がほぼ完成された。
{{main|安全型自転車}}
<!--
;本節の参考文献
[[#歴史の節の参考文献]]
-->
== 自転車の位置づけ ==
=== 効用という観点での位置づけ ===
地上を移動する目的において、[[ヒト]]の[[筋肉|筋力]]が最も効率良く発揮される手段が自転車である<ref name="s-nipponica" />。自重を支えつつ歩いたり[[走る]]ことに比べて[[筋肉|筋力]]を効率的に進む目的に充てられ、より速く遠くに進むことができる。
自転車は、自動車に比べて安価に購入でき、燃料が不要なことから、道路整備が遅れ国民の所得水準が低い[[発展途上国]]では重要な移動手段である<ref>[https://www.sankei.com/article/20161210-O34ROYE4HZNNJMNNR32ATFG54Y/ 4区市にカンボジアから勲章 放置自転車寄贈で途上国支援][[産経新聞]]ニュース(2016年12月10日)2018年3月20日閲覧</ref>。また[[自動車]]などと比較して、移動距離当たりのエネルギーが少ない上、路上の専有面積が少なく、有害な[[排出ガス]]が発生しないので、[[ヨーロッパ]]諸国など都市化が十分に進んだ[[先進国]]でもここ数十年、再評価されるようになってきている。自動車に依存した生活が運動不足をもたらし[[健康]]をむしばむことが、近年理解されるようになり、健康を重視する欧州諸国や日本などでは[[健康づくり|健康増進]]効果への期待の面からも、また環境への負荷を小さくする面でも高く評価され、積極的に利用されるようになっている。
=== 自転車の道路法規での位置づけ、交通事故と交通安全 ===
<!--{{複数の問題|section=1|出典の明記=2019年8月|独自研究=2020年5月}}-->
日本の道路交通法では「[[軽車両]]」に分類される<ref name="警察庁_ルール">
{{Cite web|和書
|url=https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/bicycle/pdf/4_rule.pdf
|title=自転車に係る主な交通ルール
|publisher=[[警察庁]]
|format=PDF
|accessdate=2020-06-29}}
</ref><ref name="警視庁_ルール">
{{Cite web|和書
|date=2017-10-05
|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kotsu/jikoboshi/bicycle/menu/rule.html
|title=自転車の交通ルール |publisher=[[警視庁]]
|accessdate=2020-06-19 }}
</ref>。
[[運転免許]]を取得する必要は無いが、自転車でも[[交通事故]]は起き、[[運転]]者自身や、衝突した人が怪我をしたり死亡することもあり、自転車の運転者には(自動車や自動二輪を運転することと同様に)安全運転を心掛けることが求められる。[[道路交通法]]を遵守しつつ走行しなければならない。
主な自転車に関する道路交通法の規定を以下に記す<ref>[https://car-moby.jp/article/car-life/road-traffic-law-accident/road-traffic-law/ 【自転車編】みんな知らずに捕まる道路交通法15選]MOBY 2020年2月7日閲覧</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335AC0000000105#136 道路交通法]イーガブ 2020年2月7日閲覧</ref>。
; 道路交通法第54条第2項: 危険回避のため止むを得ない場合をのぞき、ベルを鳴らすことは禁止。
; 道路交通法第65条: 酒気帯び運転等の禁止。
; 道路交通法第71条: 運転する場合の電話での通話、画面の注視の禁止。(='''[[ながら運転]]の禁止''')
; 道路交通法第52条: 夜間にライトやそれに準ずるものを点灯せずに走行する'''夜間無灯火走行の禁止'''。
; 道路交通法第19条: 軽車両の'''並走の禁止'''。(2台〈以上〉の自転車が横一列に並んで走ってはならない)
; 道路交通法第17条: 自転車は'''車道の左側を通行'''。
これらの違反について警察官による取り締まりも強化されるようになった。同時に、自転車利用の促進のため、道路での走行ルールの明確化、走行場所の法的な明確化・確保もされた。なおそれと連動して自転車専用レーン整備のための行政的な推進も図られる。
平成後期より、自転車に乗る人に「自転車保険」(事故時の損害賠償などに対応するもの)への加入を義務化する地方自治体も現れた。[[2015年]]10月に[[兵庫県]]で義務化が開始され、以降全国に広まる<ref>[https://www.au-sonpo.co.jp/pc/bycle/obligation/ 自転車保険の加入義務化ってなに?] au損保 2020年2月7日閲覧</ref>。
== 構造 ==
{{画像改訂依頼|日本語翻訳を埋め込んだバージョンのSVG画像へ|date=2022年2月|cat=交通}}
[[File:Bicycle diagram-en.svg|frame|center|lang=ja
|{{columns-list|20 em|{{ul
|Frame '''フレーム'''
{{ul
|head tube '''ヘッドチューブ'''
|top tube '''トップチューブ'''
|down tube '''ダウンチューブ'''
|seat tube '''シートチューブ'''
|seat stay '''シートステイ'''
|chain stay '''チェーンステイ'''
}}
|Saddle area '''サドルエリア'''
{{ul
|saddle '''サドル'''
|seatpost '''シートポスト'''
|seatpost clamp '''シートクランプ'''
}}
|Front set '''フロントセット'''
{{ul
|handle bar & grips '''ハンドルバーとハンドルグリップ'''
|brake & shift lever '''ブレーキレバーとシフトレバー'''
|stem '''ステム'''
|front brakes '''フロントブレーキ'''
|fork '''フォーク'''
}}
|Wheel '''ホイール'''('''車輪''')
{{ul
|spokes '''スポーク'''
|hub '''ハブ'''
|rim '''リム'''
|tire '''タイヤ'''
|valve '''バルブ'''
}}
|Drivetrain '''ドライブトレイン'''
{{ul
|pedal '''ペダル'''
|crank arm '''クランクアーム'''
|chainrings '''チェーンリング'''('''チェーンホイール''')
|bottom bracket '''ボトムブラケット'''
|chain '''チェーン'''
|front derailleur '''フロントディレイラ'''
|rear derailleur '''リアディレイラ'''
|[[:en:cogset|cogset]] '''コグセット'''('''カセット・スプロケット''')
}}
|rear brakes '''リアブレーキ'''
}}}}]]
=== フレーム ===
{{main|フレーム (自転車)|フロントフォーク (自転車)}}
フレームは自転車を構成する各部品が組み付けられる車台である。自転車のフレームは伝統的に[[フロントフォーク (自転車)|フロントフォーク]]とセットで製造され、流通してきた歴史があり、公的な強度・耐久性試験もフレームとフロントフォークを組み付けた状態で行われる<ref>{{Cite jis|D|9401|name=自転車−フレーム}}</ref>。この場合、フロントフォークを含めた構造物は'''フレームセット'''と呼ばれる。
一方、スポーツ用の自転車においてはフロントフォークを含まないフレーム単体で製造、販売されることも多い。
フロントフォークとフレームはステアリングコラムと呼ばれる軸構造によって回転可能に接続され、[[ヘッドパーツ]]と呼ばれる[[転がり軸受け]]構造によって滑らかに操舵できるようになっている。
=== 車輪 ===
{{main|ホイール (自転車)|自転車用タイヤ}}
[[ホイール (自転車)|ホイール]]と[[自転車用タイヤ|タイヤ]]によって構成される。ホイールの[[ハブ (機械)|ハブ]]と[[リム (機械)|リム]]との間は金属製の[[スポーク#ワイヤー・スポーク|ワイヤースポーク]]によって支え、ハブには滑らかに回転するために転がり軸受け構造を採用し、タイヤは中空で、円形の断面形状を持つものが一般的である。
2輪の自転車では前輪が、後輪が[[駆動輪|駆動]]を受け持つ構成が多いが、ベロシペードおよびペニー・ファージングまでは駆動と操舵の両方を前輪で行っていた。[[リカンベント]]の一部には駆動と操舵の両方を前輪で受け持つ構成の車種があるほか、前輪で駆動し後輪で操舵するものもある。
=== ハンドル ===
[[ファイル:Fahrradlenker.jpg|thumb|ストレートハンドル(バーエンドバー付き)]]
{{main|ハンドルバー (自転車)}}
2輪の自転車では、操舵用のハンドルは棒状でフロントフォークの最上部に固定され、フロントフォークを直接回転させる構造のものが一般的である。操舵に必要な機能以外にも、強くこぐ際には運転者が上体を支えるよりどころとしての機能を持つため、用途によりさまざまな形態がある。3輪以上の自転車では、[[リンク機構]]によって操作を操舵輪に伝達する構造を持つものが多い。
=== サドル ===
{{main|サドル (自転車)}}
運転者が座る部分はまたがって座るサドル型が一般的で、前方が細く、後方が広くなっている形状のものがほとんどである。
運転者が体重をかける割合が少ない用途では、こぎやすさを重視して細長く、運転者の体重の多くをサドルに乗せる乗車姿勢の車種では幅が広く作られていて、スプリングを備えたものもある。[[リカンベント]]では運転者の背中までの広い範囲を支える椅子型(シート)のものが多い。
=== ペダル ===
{{main|ペダル (自転車)}}
手漕ぎ自転車([[ハンドサイクル]])及び特殊なもの(主に遊戯用)を除けば、運転者が動力を与えるのには[[クランク (機械要素)|クランク]]の先端に回転可能に支持されたペダルで行われる。
単純な平板状のものは踏み込む力だけを動力とするが、革紐などによって足を固定するトウクリップや、[[クリート]]と呼ばれる金具を備えた靴を固定する[[ビンディングペダル]]によって、踏み込む力だけでなく足を引き上げる力も動力として利用できるペダルもある。
クランクには運転者の体格や体力、車体各部の寸法などに応じて選択できるように、いくつかの異なる長さのバリエーションを持つ製品もある。
=== ドライブトレイン ===
[[File:Derailleur Bicycle Drivetrain.svg|thumb|「ドライブトレイン」の抽出図(図は前後に変速を含む)]]
[[駆動列|ドライブトレイン]]は、クランク、軸受、チェーンホイール(後述)、チェーン(あるいは[[コグドベルト]]や少数ではあるが[[シャフトドライブ|シャフト]])、スプロケット(あるいはカセットスプロケット)、[[フリーホイール]]などによって構成される。
運転者の足や腕によって回転されるクランクは[[ボトムブラケット]](BB)と呼ばれる軸受け構造で支持される。
クランクの回転は[[ローラーチェーン]]と[[スプロケット]]の組合せにより駆動輪へと伝達されるものが一般的である。19世紀末の安全型自転車が登場するまでは前輪の軸がクランクと直結しているものが通常であった。また、初期の自転車用チェーンは'''ブロックチェーン'''(block chain)と呼ばれるもので、現在用いられているローラーチェーンとは構造が異なっていた。
スプロケットのうちクランクと同軸にあるスプロケットは自転車においては'''チェーンホイール'''と呼び、単に「スプロケット」と呼ぶ場合は駆動輪と同軸にある被駆動スプロケットを指す。駆動輪のスプロケット軸には[[フリーホイール]]が内蔵されていて、クランキングを止めて惰性で走行することができる車種がほとんどである。フリーホイールは安全型自転車の後期になって普及した一方、[[トラックレース|トラック自転車競技]]や[[室内自転車競技]]に用いられる自転車には現代でもフリーホイールは組み込まれていない。
[[変速機 (自転車)|変速機]]をもつ車種もあり、チェーンホイールとスプロケットの組合せを複数持ち、チェーンを掛け替える方式の外装変速機と、ハブ内部に歯車を持ち、スプロケットの回転速度を増速あるいは減速してホイールに伝達する内装変速機がある。外装変速機には複数のスプロケットをまとめてハブから分離することができる構造のものがあり、'''カセットスプロケット'''と呼ばれる。前後のディレイラによってチェーンの位置を左右に移動させ、チェーンと組み合わさるチェーンホイールやスプロケットを変える。
{{main|変速機 (自転車)}}
=== ブレーキ ===
[[ファイル:Dual pivot caliper brake.jpg|thumb|サイドプル・キャリパーブレーキ(デュアルピボットタイプ)]]
{{main|ブレーキ (自転車)}}
多くの場合はハンドルバーの端部に備えられたレバーで操作し、コントロールケーブルやリンク機構で操作が伝達される。クランクを逆転させることで作動する'''コースターブレーキ'''と呼ばれるものも一部で採用されている。[[エラストマー]]製の摩擦材がリムを挟んで制動する構造や、ハブにと同軸に備えられた円筒を[[皮革]]など帯状の摩擦材を巻き付けて制動する構造のものが多く採用されている。
日本では[[公道]]を走行する自転車にはブレーキ装置を前後両輪に備えることが[[義務]]づけられている<ref>道路交通法施行規則 第九条の三 [[道路交通法|法]]第六十三条の九第一項の総理的令で定める基準は、次の各号に掲げるとおりとする。{{ol|前車輪及び後車輪を制動すること。|乾燥した平たんな舗装路面において、制動初速度が十[[キロメートル毎時]]のとき、制動装置の操作を開始した場所から三メートル以内の距離で円滑に自転車を停止させる性能を有すること。}}</ref>。
=== 前照灯 ===
{{main|前照灯#自転車}}
日本では道路交通法第52条により'''夜間の点灯義務'''がある。夜間は必ず[[前照灯]]を点灯させなければならない(前照灯を点灯しない自転車は、明るい間しか走行させられない)。前方を照射するための部品でもあるが、それよりも、周囲の[[歩行者]]や車両の[[運転手|運転者]]に、自転車の存在に気付いてもらうこと(被視認性)が主たる目的であり、双方の[[安全]]や[[人命]]にかかわる非常に重要な部品・装置である。
前照灯は、あらかじめ自転車に備わっているものでも良いし、購入時に前照灯がついていない場合は後付けでも良い。後付けの前照灯というのは、自転車販売店のほか、[[ホームセンター]]や[[百均]]などでも販売されている。
前輪の[[リム (機械)|リム]]に接触させた[[ダイナモ]]の回転子が前輪の動きに合わせて回転し発電して発光するリムダイナモ式が古くから用いられている。前輪の[[ハブ (機械)|ハブ]]にダイナモを取り付け、夜間走行中に自動的に点灯するハブダイナモ式も増えている。他に、[[乾電池]]や[[太陽電池]]と[[二次電池]]で発光する前照灯も販売されている。
=== 反射材・尾灯・その他灯火類 ===
[[File:Home built LED tail light.jpg|thumb|right|尾灯の例]]
{{main|尾灯#自転車}}
後部に設置し自車の存在を知らせ、後部からの被視認性を向上させる。他の車両の前照灯の光を反射して赤く光る反射材と、赤い光を後方に照射する尾灯とがある。日本では道路交通法第52条および第63条の9により夜間に運転する場合は反射材か尾灯の少なくとも一方を装備する必要がある。
=== 車体全体の発光 ===
自転車の車輪や車体を電源や反射塗料、[[無機エレクトロルミネッセンス|無機EL]]などで発光させ、側面からの被視認性を向上させるもの<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/529540.html センチュリー、自転車のホイールがフルカラーで光るLEDライト] - 正藤慶一、家電Watch、2012年4月26日</ref><ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/1032181/012600028/ 夜間、どこから見ても光る自転車が話題に] - 桑原恵美子、日経トレンディネット、2016年1月27日</ref>。
反射塗料を塗装した自転車としては、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]のMission Bicycle Companyによる「Lumen」がある。これは、車体に再帰反射粒子を含有する物質を[[静電塗装#粉体塗装|粉体塗装]]したもので、フレーム全体が光を反射する。Kickstarterで15,000ドルを目標に出資を募ったところ、60,000ドル以上を集めている<ref>[http://wired.jp/2014/07/21/top-bike-tech/ アプリ連動電子キー、光るフレーム…。自転車ガジェット5選【最新版】] WIRED.jp、2014年7月21日</ref><ref>[http://www.theverge.com/2014/3/20/5531026/lumen-retroreflective-bike-kickstarter Reflective bike will light up at night to keep riders safe] THE VERGE、2014年3月20日</ref>。自動車メーカーの[[ボルボ・カーズ|ボルボ]]は、自転車向けの光反射スプレー「LifePaint」を、2015年にイギリスで試験発売している<ref>[https://web.archive.org/web/20200709234111/http://japanese.engadget.com/2015/03/30/lifepaint/ ボルボ、光反射スプレーLifePaint 発売。自転車や衣服に使えて水で落ちる反射材] Engadget日本版、2015年3月31日</ref>。また、マルキン自転車([[ホダカ]])も「レアルタシティ ハイブリッド」を発売している<ref>[http://txbiz.tv-tokyo.co.jp/wbs/trend_tamago/post_65612/ 【トレたま】360°光る自転車] ワールドビジネスサテライト(テレビ東京)</ref><ref>[http://www.marukin-bicycles.com/140402_press_realta.pdf ~夜間走行が安全安心に ~『360°視認される電動アシスト自転車』] ホダカ株式会社、2014年4月2日</ref>。
無機EL発光体を使用した自転車としては、[[カインズ]]が[[2015年]]11月に発売した「光る自転車KiLaCle(キラクル)」がある。これは、前輪で発生させた電気を利用し、自ら発光することにより視認性を向上させたモデルである<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/1032181/012600028/?rt=nocnt 連載:ヒットの芽 夜間、どこから見ても光る自転車が話題に] 日経トレンディネット、2016年1月27日]</ref><ref>[http://www.cainz.com/jp/kilacle2016/ カインズの光る自転車 KiLaCle(キラクル)] カインズ</ref>。
=== 警音器 ===
自車の接近を音で伝えるための部品。指でレバーを操作し、[[ベル]]を鳴らすものが多い。
道路交通法第54条により、警音器を鳴らす義務がある場面がある。また、法令で規定されている場面以外では鳴らしてはならないとされている。
道路交通法に記述されているのは「鳴らす義務」であり、自転車に警音器を整備する義務は無い。ただし、多くの都道府県の[[道路交通法施行細則]]や条例で整備を義務化している。例えば、[[東京都]]では条例(東京都道路交通規則第8条第9項)により警音器が整備されていない自転車に乗車することを禁じている。
=== その他の付属物 ===
* [[盗難]]防止として[[U字ロック]]・[[鍵#チューブラーキー|チューブラーキー]]などの[[鍵]](自転車錠:[[:en:Bicycle lock]])
* [[スタンド (自転車)]]
=== 定期点検すべき部品 ===
* [[ブレーキパッド]]
{{main|ブレーキ (自転車)}}
* [[ワイヤー]]
{{main|変速機 (自転車)|ブレーキ (自転車)}}
* [[チェーン]]
{{main|変速機 (自転車)}}
* [[バーテープ]]
{{main|ハンドルバー (自転車)}}
* [[リムテープ ]]
{{main|自転車用タイヤ}}
* [[タイヤ]]
{{main|自転車用タイヤ}}
<gallery>
File:Bicycle crank.jpg|クランクとチェーンホイールの概念図
File:Maskinfabriks-aktiebolaget Scania bicycle crank.jpg|クランクとチェーンホイールの実物
File:FC5600.jpg|クランクとチェーンホイールだけをとりだしたところ
File:Dura Ace crank.jpg|クランク棒がシンプルなタイプの、棒だけをとりはずしたところ
File:Britannica Bicycle Crank-Axle Bearing.jpg|自転車のクランクの[[軸受]]の断面図。(『ブリタニカ百科事典』掲載の図)
File:Shimano_xt_rear_derailleur.jpg|外装型変速機の外観 横型パンタグラフ式
File:Speed1c.png|内装型14段変速機の内部構造
File:Gazelle Speciaal -5.jpg|前照灯(リムダイナモ式)
File:HeadlightHandlebar3.jpg|前照灯(電池式、LED式)
</gallery>
== 自転車の利用 ==
=== レクリエーション利用、旅利用、観光利用 ===
; レクリエーション利用
: [[File:MayorDarwinHindmanOnBicycle2009.jpg|thumb|right|150px|移動はたいてい自転車、という米国ミズーリ州コロンビア市長 Darwin Hindman]]
: [[ファイル:Familie2016_3_Matthias_Ledwinka.jpg|thumb|right|200px|家族での自転車への楽しい乗車]]
: 「[[ペニー・ファージング]]」という形であった時代から、今日にいたるまで自転車は楽しみやレクリエーションのために使われている。
; 「[[散歩]]」的な利用、旅利用、観光利用
: [[ファイル:027_Cycling_Torres_del_Paine.jpg|thumb|right|200px|[[自転車旅行|サイクル・ツーリング]]]]
: {{main|自転車旅行}}
: 自転車で、まるで「散歩」のように短い距離を気ままに移動する'''[[ポタリング]]'''は、日常的に、また特に[[週末]]などに広く行われ、観光地においてもポタリングは人気がある。
: 自転車で、数十キロメートル、数百キロメートルといった都市間、さらに国から国へと移動する長距離の旅をすること('''[[自転車旅行]]''')も行われている。自力での移動だけではなく、[[サイクルトレイン]]や[[輪行]]など、公共交通機関に自転車を持ち込んで長距離移動することも行われる。また、観光地には、'''[[レンタサイクル]]'''を用意している店もある。
: これらのレンタルやシェアリングは、収益を目的に営む事業者ばかりではない。観光客誘致や地元商業振興のために、自家用車や公共交通機関で来た観光客に無料で自転車を貸す自治体や観光協会も日本には多い<ref>一例として、[http://www.joso-kankou.com/page/page000171.html 無料貸し自転車「ちゃまチャリ」について](茨城県[[常総市]]観光物産協会、2018年3月20日閲覧)。</ref>。
=== 通勤・通学・送り迎えなど ===
[[通勤]]や[[通学]]のために広く使われている。大人が[[幼稚園]]児・[[保育園]]児を送り迎えするのにも使われている。小・中・高生が[[習い事]]や[[塾]]に通うためにも使われている。
<gallery>
File:Torvegade Bike Commuters (15730632647).jpg|通勤利用(デンマーク、[[コペンハーゲン]]、2014年)
File:Copenhagen_commute.jpg|通勤(コペンハーゲン)
File:NW Cycleway Kingsland Morning Commuters.jpg|朝の通勤([[ニュージーランド]]、[[:en:Northwestern Cycleway]])
File:Commuter with bike in the Great Barrier Island Car ferry, Auckland - 0339.jpg|通勤(の途中でフェリーも利用中。イギリス)
File:Students biking on tree lined road in dongchong town clip.jpg|通学(中国)
File:Kiuchi Kyou.png|自転車通学する女学生。明治時代
</gallery>
=== 街中にあふれる便利な移動手段としての利用 - レンタサイクル、シェア自転車 ===
レンタサイクルは、最近では世界各国の都市部で、駅前やバスターミナルなどの交通拠点近くに配備されることが増えてきており、なかでも、都市部に同一規格の多数の「レンタル・ステーション」が用意されていて、都合のよいステーションで借り別のステーションで返却できるシステムはその利便性から、ヨーロッパなどで急速に普及しつつある。フランス・[[パリ]]ではこのタイプのシステムがすでに大規模に整備されている。
中国の都市部では、不特定多数の人々で膨大な数の自転車をシェアする'''シェア自転車'''のシステムが大人気となり急速に広まっている。システムの登録者は、スマホのアプリを使ってどこでも解錠と施錠ができ、利用したい時は空いている自転車の場所をスマホの画面で検索可能、というシステムである<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXMZO13764040X00C17A3000000/ モノフラッシュ「シェア自転車」]</ref>。
{{要出典範囲|2010年代からは、自転車を持ち主が使わない間に貸し出す「自転車[[シェアリング]]」もアメリカや中国、日本国内で普及しつつある。|date=2021年5月}}
=== 職務での利用 ===
; 配達
: [[File:Cycle Delivery boy Mr Pasha from Russia..jpg|thumb|right|200px|配達での利用]]
: [[イギリス|英国]]では[[1880年]]に自転車による[[郵便配達]]が始められ、現在でも約3万7000人の配達員が自転車を利用している。[[自転車便]]など、都市部における輸送手段として利用されることもある。[[新聞配達]]や出前などといった職業上の利用もある。
; パトロール
: [[ファイル:Police_bicycle.jpg|thumb|right|200px|自転車でパトロールするイギリスの警察官]]
: 英国の[[警察]]は[[1896年]]から自転車によるパトロール([[w:Police bicycle|Police bicycle]])を始めた。日本の警察は[[パトロールカー]]と[[白バイ]]が主流であるが、交通渋滞の激しい都心部では自転車の機動性を考慮し、あえて自転車によるパトロールを行っている場合もある。国によっては交通渋滞の多い都市で自転車パトロールを復活させるところもある(アメリカではニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコの各市警に「バイシクルユニット」という専従のチームがあり、「POLICE」のマーキングを入れた警察専用の[[マウンテンバイク|MTB]]も製造されている。このフレームは当然、公用であり国内では市販されない)。
; 軍事利用
: [[ファイル:BicycleBersaglieri2.jpg|thumb|折り畳み自転車を背負った第一次大戦時のイタリア・[[ベルサリエリ|ベルサリエーリ]]兵]]
: {{main|自転車部隊}}
: 自転車に乗った兵は、純粋な[[歩兵]]に比べて移動速度に優れる。[[騎兵]]や[[自動車]]に比べれば遅いが、自転車自体のコストは車や馬よりも安くつき、さらに水や飼料、燃料を必要としない、静粛性に優れるという利点がある。さらに、兵への訓練もはるかに簡単である。このため、自転車は多くの軍で利用されることとなった。
: 自転車が戦争に利用されたのは[[ボーア戦争]]が始まりで、英軍・ボーア軍ともに[[斥候]]に自転車を使った。[[第一次世界大戦]]では[[ドイツ軍]]、[[フランス軍]]が兵の移動に自転車を利用した。[[第二次世界大戦]]では[[イギリス陸軍]][[空挺部隊]]が輸送機内でかさばらない[[折り畳み自転車]]を使用していた。[[大日本帝国陸軍]]は[[日中戦争]]で5万人の自転車歩兵を動員。続く[[太平洋戦争]]緒戦の[[マレー作戦|マレー半島攻略作戦]]など[[南方作戦]]での活躍から「[[銀輪部隊]]」と呼ばれるようになった。スイス陸軍では1891年から2001年にわたって[[自転車部隊]]を存続させた。
: しかし、自転車は徒歩に比べれば楽ではあるが、移動に兵士の体力を消耗することに代わりはない。また、自転車に乗った状態はバランスが不安定で、側面が完全に露出しているため、攻撃に非常に弱いという欠点があった。そのため、自動車の普及が進み、大量の燃料も供給できるようになった現在では、自転車を戦闘部隊に配備する軍は限られるようになっている。
: 現在では[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]当局が自転車部隊の存在を明らかにしており<ref>[http://news.nna.jp/free/mujin/focus/01/0321a.html NNA.ASIA 北朝鮮フォーカス]</ref>[[韓国陸軍]]も[[38度線]]の休戦ラインの監視部隊が徒歩より機動性があり、エンジン音がしないため接近に気づかれにくいMTBをパトロールに使用している。日本では[[航空自衛隊]][[航空救難団]]が救難活動現場で使用するために[[民生用]]折り畳み自転車を保有している。
<gallery>
File:Firefighter_bicycle.jpg|[[消防]]での利用例
File:Bicycle-ambulance-russian-empire.jpg|[[救急]]活動での利用(ロシア)
</gallery>
=== スポーツ利用および競技利用 ===
; スポーツ一般
: 一般人が公道を時間を競わず制限時間内に完走することを目指す[[ブルベ]]、センチュリーライドなどの[[サイクリング]]イベントも、数多く開催されている。
; 競技利用
: [[ファイル:Military_cyclists_in_pace_line.jpg|thumb|right|200px|自転車競技]]
: {{main|自転車競技}}
: 自転車を用いた競技は[[1896年]]の第一回[[アテネオリンピック (1896年)|アテネオリンピック]]から[[オリンピック]]競技として採用されており、第一回から全く中断なく行われている数少ないオリンピック競技のひとつである。
: 今や自転車を用いた競技は世界中で広く行われており、公道上で速力を競う[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]、[[自転車競技場]]や[[競輪場]]で速力を競う[[トラックレース]]([[競輪]]もここに含まれる)、[[オフロード]]で行われる[[シクロクロス]]など、さまざまな競技がある。ロードレースのなかには[[ツール・ド・フランス]]などのように非常に大規模に行われ、一大イベントとなっているものもある。
=== 世界各国の状況 ===
{{Seealso|持続可能な交通}}
[[File:Cyclists at red 2.jpg|thumb|right|200px|[[コペンハーゲン]]で自転車に乗る人々。赤信号で信号待ちをしているところ。]]
[[ヨーロッパ]]諸国では自転車の利用が非常に盛んな国が多い。欧州諸国では、[[1990年代]]以降自転車が環境や健康にもたらす効果を重視し、自転車を都市交通の重要な担い手と位置づけている。
オランダ、[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、ドイツなど多くの国で自転車交通教育の推進によって自転車交通が促進されている。通行規則は自動車やバスなど同じ道路を走る他の車両と一体として整備され、全ての車両の運転者に等しく、車道での安全走行が規則として徹底される。自転車または二輪車のための専用レーン整備が進められる一方で、専用レーンがない場合でも、自転車は車道を走行する車両とみなされ交通規則が適用されている。
オランダやデンマークでは通勤利用者に対する購入時の金銭的補助がある。[[スイス]]では山岳地帯であるにもかかわらず、自転車観光ルートを充実させ、ルートガイドを徹底することにより、自転車による観光が推進されている。ドイツ、オランダ、[[サンフランシスコ]]など、鉄道車両などの[[公共交通機関]]に折りたたむことなく、そのままの状態で自転車を持ち込むことができる場所も多い。これにより自転車で最終目的地に到達できる可能性が増す。
近年、共有自転車([[自転車シェアリング|コミュニティサイクル]]、バイシクルシェアリング)を都市内で大規模に導入する動きもみられ、[[ヴェリブ]] ([[フランス]]・[[パリ]]の自転車貸出システム)はその中でも代表例で、街中<ref>{{Cite web|和書|url=https://hillslife.jp/lifestyle/2017/12/19/new-phase-of-cycle-sharing-in-paris/ |title=新システム参入で活気づく、パリの「自転車シェアリング」 |accessdate=2022-06-16}}</ref>。
[[南アメリカ]]の[[コロンビア]]の首都[[ボゴタ]]は、市長提唱による自転車交通推進によって短期間に欧州的な自転車都市となった。長年毎週日曜日には中心の7番街でシクロ・ビア(自転車天国)と呼ばれる自転車中心に歩行者やローラースケーターたちへの道路の開放が行われてきたが、[[1990年代]]後半以降は地域を拡大し、さらに大規模に行われるようになった<ref>{{Cite book |和書 |author=幡谷則子 |chapter=首都ボゴタ |title=コロンビアを知るための60章 |page=348 |editor=二村久則 編著 |publisher=[[明石書店]] |date=2011-06-30 |edition=初版第1刷 |isbn=9784750333847}}</ref>。
[[インド]]でも自転車は多く利用されている。インドは自転車生産でも世界有数の国となっている。
北米([[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]])は典型的な[[モータリゼーション|車社会]]で、4輪の自動車ばかりが前面に出がちだが、[[ニューヨーク市]]、[[サンフランシスコ]]などの都市では、渋滞の影響をさほど受けずにスムースに移動できる手段として重宝されている。都市内部のビルの上層階の住宅に住み都市内部の別のビルの職場へと通勤する者や、自転車便などによってさかんに利用されている。歩行者や自転車運転者を護るために、自転車レーンが設けられている道路が多い。また米国全土で、スポーツやレジャーなどのための自転車利用が行われている。
=== 日本の状況 ===
{{Main|日本の自転車}}
日本は国土の多くが自転車利用に不向きな山岳にもかかわらず、自転車普及率は世界的に見ても高い。保有台数は8655万台で、人口1.5人当たり1台にのぼる(2005年)。これは西欧で特に自転車利用が多い[[オランダ]](人口0.9人当たり1台)、[[ドイツ]](同1.2人)、に次いで[[ベルギー]](同1.9人)と同等の水準であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]といった国々を上回る<ref>{{Cite book |和書 |editor=自転車産業振興協会・編 |publisher=自転車産業振興協会 |title=自転車統計要覧 |edition=46版 |date=2012-09 |id=TRCMARC番号:13106729 }}</ref>。
自転車は標識で通行を認められた歩道を除き、車道の左側を走ると定められており、車道の右側および認められていない歩道を走行すると「逆走」ということになり道路交通法違反である。2016年12月には[[自転車活用推進法]]が制定され、これに伴いさまざまな施策が立案されている。
都市部では[[公共交通機関]]が発達している一方、自動車優先の交通政策が敷かれ、自転車が交通手段として明確に位置づけられていなかった。
{{See Also|日本の自転車#自転車の利用|日本の自転車#自転車にかかわる問題}}
<gallery>
File:自転車に乗る兄弟8190133.jpg|日本の女子小学生が自転車に乗っている様子。
File:長岡市立 南中学校 学区外生徒用 自転車 駐輪場.jpg|中学校の学区外から自転車通学する生徒のための自転車置き場。
File:郵便自転車 2009 (4164065859).jpg|郵便配達での利用
</gallery>
== 性能 ==
=== エネルギー効率 ===
自転車による移動は生物と機械の両方の中で、その移動に要するエネルギーの量に関して突出して効率的であり、人間がある距離をある速度で移動するのに必要なエネルギーの量で比べると自転車は徒歩の5分の1に過ぎないという定説がある<ref>{{Cite book|和書|editor=自転車産業振興協会 |year=1993 |title=自転車実用便覧 |edition=第5版 |page=1080 |ncid=BN10009754}}</ref>。1950年代の中期に、現在の「財団法人自転車産業振興協会自転車技術研究所」の前身にあたる「自転車生産技術開放研究室」がまとめた研究により、この数値はおおむね正しいことが確認された。この際には、被験者の呼気に含まれる[[二酸化炭素]]の量から消費カロリーを推算する手法が用いられた。
こうした数値を基に、一般的な自転車で1kgの物体(車体を含む)を1km移動させるのに必要なカロリーは、おおよそ自動車の6分の1、ジャンボジェット機の4分の1程度しか必要ないとの試算もある<ref>{{Cite book|和書|author=瀬戸圭祐|year=2006|title=自転車生活スタートガイド : 街乗り・通勤・ツーリング|publisher=水曜社|isbn=978-4-88-065173-6}}</ref>。
=== Hour record - 1時間の走行距離の記録 ===
[[File:Bradley Wiggins Hour Record 3.jpg|thumb|right|125px|[[:en:Hour record|Hour record]]で2015~2019年の記録を持つ[[ブラッドリー・ウィギンス]]の自転車・ヘルメット・乗車姿勢]]
自転車で1時間でどれだけの距離が走れるかについて競い記録を残す[[:en:Hour record|Hour record]]というものがある。
<gallery caption="Hour recordの推移" mode="packed">
File:Mens hour records progression.svg|男子のHour recordの推移
File:Womens hour records progression.svg|女子のHour recordの推移
</gallery>
=== 瞬間速度の記録 ===
[[File:François Pervis - Six jours de Grenoble 2011.jpg|thumb|125px|フランソワ・ペルヴィ]]
瞬間的な速度の記録に関しては、平地単独走行で全風圧を受けての最高速度の記録は、2013年12月6日、メキシコの[[アグアスカリエンテス]]・[[二百周年自転車競技場]](Velódromo Bicentenario)<ref group="注釈">標高1800 m、屋内、周長250 m木製走路</ref>でフランス人[[フランソワ・ペルヴィス|'''フランソワ・ペルヴィ''']]が[[UCIトラックワールドカップクラシックス|UCIトラック自転車競技ワールドカップ]]・メキシコ大会の[[トラックレース#オリンピック及び世界選手権採用種目|スプリント]]予選(200 mフライングタイムトライアル)で出した世界記録9秒347は速度換算では'''77.03 km/h'''となる。これが[[ユネスコ]]所管の唯一公式にしてサイクリストが全風圧を受ける通常形態の[[安全型自転車]]による最速記録といえる。<ref>[http://www.uci.ch/track/about/ Union Cycliste Internationale - Track - About]</ref>
機材の形態にとらわれない記録挑戦では、2015年9月19日、米国ネヴァダ州[[バトルマウンテン]]([[:en:Battle Mountain, Nevada|Battle Mountain]])<ref group="注釈">標高1475 m、直線走路</ref>郊外の一時的に閉鎖した公道でカナダ人[[トッド・ライカート]](Todd Reichert)がタイヤ接地面のみわずかに開口した[[流線|ストリームライン]]ボディの[[リカンベント]] '''Eta''' で達成した139.45 km/hがヒト一人のみの出力による最高速度記録であった。Etaは極めて低い位置に仰向いて座り前輪を両脚で挟むように前端のクランクを回すため、後輪駆動は構造上ほぼ不可能で前輪駆動を採用している。また前を見通す視界はなくカメラ映像に依存する。2016年9月19日、同地、同プロジェクトによって記録は'''144.17 km/h'''に更新された。<ref>[http://www.aerovelo.com/eta-speedbike Aerovelo - Eta — Aerovelo]</ref>
<!--
特筆に値しない。ゴミ情報。
標高差による[[位置エネルギー]]を利用した斜面降坂では2015年3月28日、フランス・[[ヴァール(オート=アルプ県)|ヴァール]]([[:fr:Vars (Hautes-Alpes)|Vars]])の[[スピードスキー]]用滑降路シャブリエール(piste de Chabrières)<ref group="注釈">スタート標高2720 m、フィニッシュ標高2285 m、平均斜度52.5%、最大斜度98%、延長1400 m雪上直線走路</ref>でフランス人[[エリック・バローヌ]]([[:fr:Eric Barone|Éric Barone]])が223.30 km/hを記録している。これには肩と胸元まで覆うエアロシェルを備えた2重構造ヘルメットと、上腕および脛の後方をボートテール形状にしたコーティングスーツ、[[スン]]([[:fr:Sunn (vélo)|Sunn]])の専用特殊自転車F2.0が用いられた。2017年3月18日、エリック・バローヌは同地で再度挑戦し、227.72 km/hに更新した。<ref>[http://www.ericbarone.fr/les-vendeens-au-de-laction/ Site officiel du vététiste de l'extrême Eric Barone - Les vendéens au de l’action Handibat]
</ref>
-->
<!--
特筆に値しない。ゴミ情報。自転車の記録ではない。実質はドラッグスターの速度。
他の車の後方に発生する [[スリップストリーム|前方に向かって強烈に引きこむ気流(スリップストリーム)]]を利用して出した最高速度記録は1995年10月3日、米国ユタ州の[[ボンネビル・ソルトフラッツ#ボンネビル・スピードウェイ|ボンネビル・スピードウェイ]]<ref group="注釈">標高1282 m、塩平原走路</ref>でオランダ人[[フレート・ロンペルベルフ]]([[:nl:Fred Rompelberg|Fred Rompelberg]])が二段増速の極めてギア比が高い特殊な自転車によって記録した268.831 km/hである。これは前走する[[ドラッグスター]]の後端に取り付けた後続自転車用[[カウル]](整流覆い)に肉薄追走して達成された。<ref>[http://fred268km.nl/NL/fred-268km Fred Rompelberg Fietsvakanties Mallorca, Fietshuur - Informatie over Fred Rompelberg 268 km]
</ref>。
-->
== 自転車製造業 ==
世界各国に[[自転車メーカー一覧|自転車メーカー]]が存在し、多くの自転車が製造されている。
2009年には全世界で一年に1億3000万台の自転車が販売され、そのうちの66%が[[中華人民共和国]]で製造された<ref>{{cite web|url=http://www.dare.co.in/opportunities/manufacturing/the-business-of-bicycles.htm |title=The Business of Bicycles | Manufacturing | Opportunities | DARE - Because Entrepreneurs Do | |publisher=DARE |date=2009-06-01 |accessdate=2011-10-24}}</ref>。ただし世界最大の自転車メーカーは[[台湾]]に本社がある[[ジャイアント・マニュファクチャリング]](GIANT)であり、2014年の統計によると この一社だけで世界の自転車製造の10%を占めており、およそ600万台を製造した<ref>[https://www.zippia.com/answers/who-is-the-biggest-bicycle-manufacturer-in-the-world/ ZIPPA, "Who is the biggest bicycle manufacturer in the world?"]</ref>(同社は台湾、オランダ、中華人民共和国、[[ハンガリー]]に製造所を所有している)。その他ジャイアントに次ぐ世界大手の名を挙げると[[メリダ・インダストリー]]、ドレル [[:en:Dorel Industries]](カナダに本社があり、[[キャノンデール]]ブランドを抱える)、アクセルグループ([[:en:Accell]]。オランダの自転車メーカー)を挙げることができる。自転車の部品にも焦点をあてると、[[シマノ]]が最大手である。
[[2011年]]には、世界の自転車市場の規模は610億ドルにのぼった<ref>{{cite web|url=http://seekingalpha.com/article/133109-high-growth-and-big-margins-in-the-61-billion-bicycle-industry |title=High Growth and Big Margins in the $61 Billion Bicycle Industry |publisher=Seeking Alpha |date= |accessdate=2011-10-24}}</ref>。
[[欧州]]諸国の中では[[ポルトガル]]が最大の製造国で、2020年の統計で およそ260万台を製造した<ref>[https://cyclingindustry.news/portugal-bike-valley-europe-manufacturing/ Cycling Industry News, "How collaboration made Portugal Europe’s largest bike maker" ]</ref>。
自転車メーカーの一覧は別記事「[[自転車メーカー一覧]]」が参照可能である。
日本国内で販売される自転車についての統計資料は(日本の)自転車産業振興協会が集計しており、その資料によると、日本で販売された自転車は2021年の1年間でおよそ689万台で、そのほとんどは輸入されている<ref>[http://www.jbpi.or.jp/statistics_pdf/pdexim_202112.pdf 自転車産業振興協会「自転車生産動態・輸出入統計」の表の2021年「国内向け」の欄]</ref>。
;自転車製造と自転車製造業者の歴史
自転車の製造は、自転車のフレーム自体や[[ボールベアリング]]、[[ワッシャー]]、[[スプロケット]]などの特別な部品の両方に高度な技術を必要とするため、[[金属加工]]技術の進歩を促し、他の高度な産業にも影響を与えた。これらの製造を通じて熟練した金属加工技術を身に付けた労働者は、初期の[[自動車]]や[[飛行機]]の開発に大きな役割を果たした。また、自転車製造業は[[機械化]]や[[大量生産]]<ref>{{Harv|Norcliffe|2001|pp=23, 106, & 108}}. GM's practice of sharing chassis, bodies, and other parts is exactly what the early bicycle manufacturer Pope was doing.</ref>(のちに[[フォード・モーター]]や[[ゼネラルモーターズ]]も採用した)、[[垂直統合]]{{Sfn|Norcliffe|2001|p=106}}(のちにフォードも採用した)、積極的な[[広告]]{{Sfn|Norcliffe|2001|pp=142–47}}([[1898年]]の米国の雑誌のすべての広告のうち10%は自転車メーカーが占めていた){{Sfn|Norcliffe|2001|p=145}}、[[道路]]改善のための[[ロビイング]]{{Sfn|Norcliffe|2001|p=108}}(などいくつもの産業モデルを開発し、他の産業に伝授する役割を果たした。また、自転車産業は年間の[[モデルチェンジ]]を初めて採用{{Sfn|Norcliffe|2001|p=23}}{{Sfn|Babaian|1998|p=97}}、この方式はゼネラル・モーターズにも受け継がれ、大成功をおさめた{{Sfn|Babaian|1998|p=98}}。
初期の自転車は、ファッショナブルなエリートによって財力を誇示するために消費されるもののひとつであった{{Sfn|Norcliffe|2001|pp=8, 12, 14, 23, 147–8, 187–8, 208, & 243–5}}。そのため、例えば[[バービー人形]]などの[[着せ替え人形]]において人形本体より着せ替え用の服などのアクセサリがよく消費されるように、自転車それ自体よりもそれにつけるための[[カスタムパーツ]]のの消費が多くなることがあった{{Sfn|Norcliffe|2001|pp=23, 121, & 123}}。
自転車の普及によって自転車メッセンジャー{{Sfn|Norcliffe|2001|p=212}}、自転車教室などの新たな職業が生まれ、また自転車レースも開催されるようになった。自転車レースの形態はのちにオートバイレースや[[自動車レース]]へとつながっていった{{Sfn|Norcliffe|2001|p=125}}。
初期の自動車や飛行機の開発者には自転車によって機械製造の基礎を身に付けたものが多く、飛行機を発明した[[ライト兄弟]]も[[オハイオ州]][[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]の自転車屋であった<ref>
{{cite web
| title = The Wrights' bicycle shop
| year = 2007
| url = http://www.nasm.si.edu/Wrightbrothers/who/1893/shop.cfm
| accessdate = 2007-02-05
| archiveurl= https://web.archive.org/web/20070125080218/http://www.nasm.si.edu/wrightbrothers/who/1893/shop.cfm| archivedate= 25 January 2007 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。いくつかの自動車メーカーは自転車メーカーから成長してきたものである。[[イギリス]]の[[ローバー (自動車)|ローバー]]は1878年にStarley & Sutton Co. of Coventryとして創業したときは自転車メーカーであり、[[1901年]]に自動車の製造を開始した。同じくイギリスの[[モーリス (自動車)|モーリス]]も1910年の創業時は自転車メーカーであり、1913年に自動車メーカーとなった。[[チェコ]]の[[シュコダ]]も[[オーストリア=ハンガリー帝国]]時代の[[1895年]]にラウリン&クレメント社として創業したときは自転車メーカーで、自動車業進出は1901年のことであった。また、日本の[[本田技研工業]]は自転車メーカーではなかったが、自転車に搭載する[[モペッド]]用の補助エンジン制作からスタートして世界有数の自動車メーカーとなった企業である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
=== 歴史の節の参考文献 ===
{{参照方法|date=2014年11月|section=1}}
{{Refbegin}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=岸本孝 |title=自転車の事典 : 走るクスリ? |publisher=文園社 |year=2002 |isbn=4-89336-177-5|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐野裕二 |title=自転車の文化史 : 市民権のない5,500万台 |publisher=文一総合出版 |year=1985 |isbn=4-8299-1107-7 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=自転車産業振興協会編 |title=自転車の一世紀 : 日本自転車産業史 |year=1973 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=自転車産業振興協会編 |title=自転車実用便覧 |edition=改訂版 |publisher=自転車産業振興協会 |year=1971 |ncid=BN09030094 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=自転車産業振興協会編 |title=自転車実用便覧 |edition=第4版 |publisher=自転車産業振興協会 |year=1982 |ncid=BN04997827 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=ドラゴスラフ・アンドリッチ |author2=ブランコ・ガブリッチ |title=自転車の歴史 : 200年の歩み…誕生から未来車へ |translator=古市昭代 |publisher=ベースボール・マガジン社 |year=1981 |isbn=4-583-02929-2 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=鳥山新一 |title=すばらしい自転車 |series=NHKブックスジュニア, 7 |publisher=日本放送出版協会 |year=1973 |ncid=BN15722988 |ref=harv}}
{{Refend}}
=== 他 ===
{{Refbegin}}
*{{Cite book |last=Norcliffe |first=Glen |title=The Ride to Modernity: The Bicycle in Canada, 1869-1900 |location= Toronto |publisher=University of Toronto Press |year=2001 |oclc=5559557543|isbn=9780802082053 |ref=harv}}
*{{Cite book |last=Babaian |first=Sharon |title=The Most Benevolent Machine: A Historical Assessment of Cycles in Canada |location=Ottawa |publisher=National Museum of Science and Technology |year=1998|isbn=0660916703|oclc=49894179|ref=harv}}
* {{Cite jis|D|9111|2016|name=自転車-分類,用語及び諸元}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bicycles}}
{{Wikisourcelang|en|1911 Encyclopædia Britannica/Bicycle}}
{{Wikiquotelang|de|Fahrrad}}
{{Wikibookslang|en|Bicycles}}
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[シマノ自転車博物館]] - 日本で初の自転車博物館
* [[一輪車]] - [[三輪車]] - [[四輪自転車]]
* [[補助輪]] - [[空気入れ]] - [[ローラー台]] - [[サイクルウェア]]
* [[日本の自転車]] - [[普通自転車]] - [[軽車両]]
* [[自転車免許証]]
* [[自転車タクシー]] - [[ベロタクシー]]
* [[レンタサイクル]]
* [[サイクリング]] - [[自転車道]] - [[サイクリングターミナル]]
* [[サイクルトレイン]]
* [[駐輪場]] - [[放置自転車]] - [[自転車盗]]
* [[自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律|自転車法]]
* [[自転車月間]] - [[世界自転車デー]]
* [[バイコロジー]]
* [[モペッド]] - [[原動機付自転車]]
* [[競輪]] - [[競輪場]] - [[日本競輪選手養成所]]
* [[スノースクート]] - [[スノーモト]]
* [[陸船車]] - [[新製陸舟車]]
* [[乗り物をあらわす記号と絵文字]]
* [[竹製自転車]]
* [[バランスバイク]]
}}
== 外部リンク ==
* [http://bicyclenet.jp/ 自転車情報サイト「BICYCLE NET」] - 自転車関連団体が共同運営する、自転車関連情報ポータルサイト
* [http://cycle-info.bpaj.or.jp/ 自転車文化センター] - 自転車の歴史・科学などの情報、関連書籍(洋書・和書)の紹介ほか。日本自転車普及協会運営
* {{Kotobank|2=}}
* {{britannica|technology|bicycle|bicycle}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A |
1,527 | パソコン (曖昧さ回避) | パソコン | [
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| パソコン パーソナルコンピュータの略。
ちょびっツに登場する、上記の機能を有した人型の機械。
漫画・アニメ『うる星やつら』に登場する架空の道具。「パーソナルコントローラー」の略。バッジに似た形をしており、人の性格を自由に操ることができる。
パソ婚 - パソコン通信やインターネットで知り合った者同士が結婚すること。出会い婚。 | '''パソコン'''
* [[パーソナルコンピュータ]]の略。
* [[ちょびっツ]]に登場する、上記の機能を有した人型の機械。
* 漫画・アニメ『[[うる星やつら]]』に登場する架空の道具。「パーソナルコントローラー」の略。バッジに似た形をしており、人の性格を自由に操ることができる。
* [[パソ婚]] - [[パソコン通信]]や[[インターネット]]で知り合った者同士が結婚すること。出会い婚。
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:はそこん}} | null | 2021-01-26T05:26:07Z | true | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
1,528 | 自動車競技 | 自動車競技(じどうしゃきょうぎ)は、モータースポーツにおいて自動車を用いて行われる競技。ほとんどが競走競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」(英: auto racingやcar racingなど)とも呼ぶ。
一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部三輪)の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。
英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。
「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。
自動車競技の大半は「時間」を競う競技である。定められたコースを最も短いタイムで走りきった者か、あるいは一定時間(24時間など)の間に最も長距離を走りきった者か、レースによって定義に微妙な差異は存在するものの、本質的には時間を競うという点で同じである。ほとんどの場合は最も速く走れた者が勝利を認定されるが、昔のラリー(アベレージ・ラリーと呼ばれる形態)のように運営が設定した時間に最も近い者が勝利するという場合も稀にある。
少数派ではあるものの、自動車レースの中には速さではなく燃費を競うもの(燃費競争)もある。同じ量の燃料でどれだけ遠くまで走れるかを競うルールや、一定距離を走った後で消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者を勝利とするなど、これもまた勝利条件にわずかな差異はあれど、燃費を競うという本質は同じである。
あるいは審査員の採点で勝敗を決する競技もある。競技車を滑らせる技術の美しさを競う「ドリフト」、圧倒的パワーと巨躯で迫力を競うモンスタートラックのフリースタイル、自動車のデザインの美しさを競う競技会「コンクール・デレガンス」などがある。後者は現代ではクラシックカーイベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。
特殊な例だと、北米のデモリション・ダービーのように自動車同士をぶつけあって生き残った者が勝利という過激なものもある。
1887年にフランスのパリで約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。1894年には、パリからルーアンまでの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。1900年には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→#歴史
現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。自動車レースは様々な分類が可能であるが、多くは走る道(コース)と競技に参加する車両の2つに大別できる。→#コースによる分類、#競技車両による分類
F1やインディ500といった世界的に人気の高いレースはテレビで放送されるなど、人々の目に触れることが多く認知度も高い(そして有名な自動車レースのなかでも特に歴史が長く注目する人々の数が多いF1モナコグランプリ、ル・マン24時間レース、インディ500が「世界3大レース」などと言われている。ヨーロッパでは前者2者が人気で、アメリカではインディ500が大人気、と住む大陸で人気が別れている。)が、実際には放送もされない中規模のレースや、さらには少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)までさまざまな規模がある。
レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「ホモロゲーション」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)の承認を得ている。→#レギュレーション(規則)
現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→#レーシングチーム
レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。
国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。ヨーロッパの多くの国やアメリカ合衆国では、自動車自体の歴史が長く、自動車レースの伝統もとても長く、数多くのレースが開催されており、人気が非常に高く、ファン層も厚く、高齢者から小さな子供までが(男性も女性も。祖父・祖母や、孫の小学生や幼稚園児まで、世代を超えて一家で)レースコースの観客席に駆けつけ、家族全員で参加するお祭りのように楽しむ。(なおスイスは例外で、嘗てはタイムアタック系の競技を除き、国内で自動車レースを行うことを禁止していた。だが現在解禁した)。中南米(特にブラジルとアルゼンチン。en:Category:Motorsport in South Americaを参照)やオセアニア地域でもモータースポーツはかなり盛んである。東南アジアでもそこそこ人気はある。日本では昭和時代に自動車産業が盛んになって以降、自動車レースの人気は(欧米ほどではないが)そこそこ高くなり、世界選手権レベルの国際競技で使えるものを含む大小多くのサーキットが建設された(→日本のサーキット一覧)。(ただし日本では、今でも人数的に見るとファンの数(全人口に対する自動車レースファンの数の比の統計)はヨーロッパやアメリカに比べればかなり低く、「限られた人々の関心事」といった位置づけである。日本の自動車レースのファンは男性ばかりで、ほとんどの日本女性は自動車レースには全然興味が無いなど、日本ではいまひとつ広がりが無い。)
日本でのテレビ放送について言えば、ヨーロッパやアメリカの自動車レースは日本でも放送されることも多いが、中南米、東南アジアのレースは日本では放送されることはまずなく、日本人の盲点になってはいる。とはいえ2010年代からはYouTubeのおかげで日本にいながらにして中南米や東南アジアのレースが楽しめるようになってきた(たとえばgoogle翻訳したポルトガル語で「Corrida de carros」(「自動車レース」という意味)などとキーワード入力して動画検索すると、ブラジル国内で有名なレースも見て楽しめるし、さらにはブラジルの小さな草レースまでも楽しむことができる)。
自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社(英語版)の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートン(英語版)であった。彼はアルベール・ド・ディオン(英語版)伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。
記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアル(英語版)である。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル(英語版)」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。
ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョー、パナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートルと、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした。
1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。
6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。
1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州のシカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された。
自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレース、ヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。
国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスのネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドのキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツのメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した。
ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。
一方、フランスでは1901年にポーで開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (仏: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー (仏: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「英: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ (仏: Automobile Club de France, ACF) が主催して「ACFグランプリ(通称1906年フランスグランプリ)」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マンで開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年はディエップにて、1913年はアミアン、1914年はリヨンと第一次世界大戦が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在のサルト・サーキットの原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。
その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には北京〜パリ間レースが開催され、北京からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからはイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品はG.H.MUMMのシャンパン1本だけだった。
翌1908年にはニューヨーク〜パリ間レースが開催された。イタリアのツースト、ドイツのプロトス、アメリカのトーマス・フライヤー、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、モトブロック、シゼール=ノーダンの3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日にニューヨークをスタートしてアメリカ大陸を横断した後にシアトルから日本の横浜へ渡航し、敦賀まで480キロメートルを縦断した。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海を渡りウラジオストクに上陸してシベリアを横断する形でユーラシア大陸を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。 この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリー・ラリーレイドの原型となった。
フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが市街地レースや都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。
危惧された通り、1903年5月のパリ - マドリード間レースでは、ルノー社の共同創設者であるマルセル・ルノー (1872年 - 1903年5月25日)が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ。
上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においてのサーキット建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。
自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所はナラガンセット・トロット競馬場である。この競技場はトロット競馬場であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」として開催された。 ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。 現存する世界最古のサーキットはミルウォーキー・マイルであり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として1876年に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである。
自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスのサリーにあったブルックランズサーキットであった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100フィートにも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、三輪自動車などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する第二次世界大戦の影響によって航空機の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。
現在、国際自動車連盟 (Fédération Internationale de I'Automobile, FIA) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 (Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。 それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め1923年に「ヨーロッパグランプリ」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットであるアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァで初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスのリオン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、スペインのサン・セバスティアンなどで開催された。これらのグランプリは1931年に「Championship = 選手権」としてまとめられ、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権として年間を通して争われるようになった。
グランプリや選手権を通じて国際的な注目を得たい自動車会社の各マシンはナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に1930年代に入ってからナチス・ドイツのメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、アウディ(アウトウニオン)が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける自動車の速度記録は1928年にイギリスのマルコム・キャンベルが記録した281.44 km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年にメルセデス・ベンツ・W25を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460 km/hを記録。また、アウトウニオンはフェルディナント・ポルシェを起用してアウトウニオン・Pワーゲンを開発。1937年にはベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9 km/hを記録した。 しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。南米では1940年から1942年まで開催され、1940年にサンパウログランプリと冠してブラジルのインテルラゴス・サーキットで開催された。1941年にはブラジルでリオデジャネイログランプリとアルゼンチンでブエノスアイレスグランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加えサンタフェグランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。
第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ウィミーユ(英語版)であった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。
1946年には国際競技としてフランスのサン=クルー、スイスのジュネーヴ市街地、イタリアのトリノで3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 (Commission Sportive Internationale, CSI) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「Formula = フォーミュラ」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンの2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初めて「世界選手権」として開催されるフォーミュラ1(F1)の最初のルールとなった。
政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。
自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1はフォーミュラカーを使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在するスポーツカーを使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでにミッレミリア、ル・マン24時間、RACツーリストトロフィーレースといった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースごと主催団体が違っていた為に、それまで選手権としての統一が実現しなかった。
その為、こうした耐久レースを統一したものとして1953年にスポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された12時間耐久グランプリ、フランコルシャン24時間、国際ADAC1000キロメートルレース、カレラ・パナメリカーナを合わせて計7戦が開催された。
スポーツカーレースの勃興は欧州はもちろん、それまでオーバルサーキット一辺倒であったアメリカのレース文化を大きく刺激し、Can-amやIMSAなどを誕生させた。
前述の通り自動車競技の勃興は公道レースからであり、それゆえラリーを始めとするオフロード系レースも古くから存在したが、体系立った選手権・シリーズとしては長らく確立されていなかった。
そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC(世界ラリー選手権)が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。
またWRCと同じく1973年に欧州ラリークロス選手権、1979年にはパリ-ダカール・ラリーが誕生している。
世間で自動車の排ガスによる公害が騒がれ始めた頃の1970年に、アメリカでマスキー法が施行された。自動車メーカーたちはこの画期的なまでに厳しい基準をクリアするために、レースに注ぎ込んでいたリソースを新型のエンジンや触媒を開発するために回し、日本メーカーを中心にレース活動の規模縮小や撤退が相次いだ。1973年には第一次オイル・ショックが自動車業界を直撃し、欧州でもワークス勢の多くが撤退した。
これらの事件の影響は深刻で、各地でレースカテゴリが消滅と再編纂を余儀なくされた。特にメーカー対決を売りにするスポーツカーレースは直撃を受け、北米ではCan-Am(第一期)が、日本では日本グランプリが終焉を迎えた。スポーツカー世界選手権やル・マン24時間でも1975年にはワークス不在という事態に陥ったり、新たに施行したグループ5規定(シルエットフォーミュラ)がすぐポルシェワンメイク状態に収斂してしまったりと、芳しくない状態が続いた。
一方で自動車メーカーに依存しないプライベーターたちが誕生・成長を遂げた時代でもある。元々プライベーターが中心だったF1世界選手権や米国のチャンプカーなどのオープンホイールレースはほとんど影響を受けておらず、日本でもプライベーターたちによるフォーミュラカーレースや富士グランチャンピオンレースなどが誕生した。
1980年代に入ってからのモータースポーツ界はグループA・グループB・グループC規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。
自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。
従来のフォーミュラカーは市販車同様フロントエンジンが主流であったが、1950年代後半にミッドシップエンジン車が登場し始めると、1960年代F1では全車がミッドシップを採用するようになり、「レーシングカーはミッドシップが有利」という常識が一般化した。
エンジンパワーが増大化するとともに空力でマシンを下に押さえつける力、つまりダウンフォースを得るという設計も求められるようになった。1960年代はF1やCan-Amなどでリアウィングの装着によりダウンフォースを得るのが主流であったが、乱気流や安全の関係でただ装着すればいいというものではなかったため、かなりの試行錯誤がなされた。1970年代後半に鬼才・コーリン・チャップマンがマシン全体やマシン下部(グランドエフェクト)で空力効果を得る手法を確立し、従来より遥かに安定してダウンフォースを得ることが可能となった。グランドエフェクト自体は特有の安全上のデメリットからしばらく敬遠されたが、その考え方自体は現在まで生き続けている。
またチャップマンはスペースフレームシャシーに代わるものとしてモノコック構造を発明し、現代まで続くフォーミュラカーの構造の基礎を築いた。
従来ターボラグが大きく、レーシングカー向きでないとされていたターボチャージャーも1970年代にスポーツカーレースでポルシェ、F1でルノーが活躍し始めると一気に研究が進んだ。F1では1989年に禁止(2014年に解禁)されるまで全盛期を築き上げ、スポーツカーレースではそれ以降も長らく採用が続いた。
4WD(四輪駆動)もラリーレイドや1980年代のアウディ・クワトロの登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。
上述したように、各国で姿かたちやルールの異なる様々な自動車競技が勃興し、それぞれに熱心なファンがついたが、その中でも頭一つ飛び出たのはF1であった。稀代の天才であるバーニー・エクレストンの辣腕により、「F1サーカス」と形容されるような、文字通り世界各国を飛び回る国際的スポーツイベントに成長した。この背景にはTVの普及により、放映権がビジネスとして成立し始めたことも背景にある。
これにより1990年代までには、自動車に興味のない一般大衆にもアイルトン・セナやミハエル・シューマッハといったF1のスターたちの名前は知れ渡るようになった。同時期のスポーツカーレースやWRCも、各メーカーが競って過激かつ多様なマシンを開発してこちらも人気が高かったが、F1の一般大衆への浸透ぶりには及ばなかった。
2000年代になるとメーカーの撤退が相次いだスポーツカーとWRCは勢いを弱めてローカル化が進み、一般人向けとしてはよりF1一強の様相が濃くなっていった。また同じフォーミュラカーレースの中でも、F1とそれ以外(CART、フォーミュラ・ニッポンなど)で人気の2極化が進んだ。
この間ツーリングカーレースもグループAやスーパーツーリング、スーパー2000規定などでメジャーな存在として一時的に大きな勢力となったが、規則や運営、コストなどの問題により、いずれも数年程度で消滅と誕生を繰り返すような不安定な状態が続いている。
北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、ストックカーレースのNASCARがアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。
1990年代以降は電子制御技術が発達し、セミオートマチックトランスミッションやトラクションコントロールなどのハイテクな装備が普及した。
1990年代以降日本はおろか欧米でも若者の車離れが叫ばれたり、環境問題への意識が高まるようになると、自動車メーカーにとってのレース参戦の商業的意義・対費用効果にも疑問符がつけられるようになり、それまで自動車競技に熱心であったメーカーが一転してピタリと活動から手を引いてしまう事例が増えた。
また技術革新が進み、原初の頃に比べると相当にハイレベルな技術と高価なパーツを用いるのが当たり前になってしまったため、それに伴う参入障壁や参戦コストの高さに、メーカーやチームが疲弊して崩壊・消滅するカテゴリも多く見られるようになった。
こうした時代の変化に対応するべく運営側も、参加者の経済的・技術的な負荷を減らしたり、環境技術を宣伝できるような規則を導入して、自動車メーカーの招致に知恵を絞るようになった。
具体的には
など多数のアイディアが存在する。先述の通り自動車競技の覇者となったF1も、こうした時代の流れの前に次々とメーカーを失ったため、上のいくつかの手法を導入して覇権を維持している。
2020年代以降は内燃機関を捨てることを宣言するメーカーが続々と登場し始めたため、FIAは純粋なEV(電気自動車)のみで争われるカテゴリを多数誕生させている。
エコ意識の高まりに前後して、性能調整を施すことで多様なレーシングカーを参戦することが可能となる手法が確立された。これによりグループGT3/GT4やグループRally、TCRなどといった、自動車メーカーがプライベーターチーム向けに市販車をレーシングカーに改造して販売する規定が2010年代以降に流行した。メーカーにとっては販売・アフターサービスによる収益に加えて購入者が自社製マシンを走らせてくれることで宣伝効果も得られ、プライベーターにとっては戦闘力の高いマシンを低コストで購入・運用することが可能という、双方に利がある理想的なパッケージングである。
ただし一方で、多数のメーカーが参入したことで開発競争の激化によりマシンの価格と運用コストが高騰し、メーカー側からすればビジネスとして採算が取れず、プライベーターからは経済的に手が出せなくなってしまうという問題が散見され始めている。
またあまりに広まりすぎているゆえに、観戦者側からは世界各国のどのレースを見ても同じ規定のカスタマーマシンばかりで退屈という弊害も指摘されている。
自動車レース(競技)は、コースの種類で分類する場合、大きく分けて3つに分類できる。(なお例外はある)
レース専用のサーキット(レース場)や、公道の一部を閉鎖して臨時に仕立て上げたレースコースなどで行うもの。
舗装されたクローズドコースにて同時に複数台がスタートし順位を競う。日本では四輪競技は単に「レース」と呼ぶことが多い。(二輪競技はロードレースを呼ぶことが多い)。レースのスタート方式は1周のフォーメーションラップ後に一旦停車を行った状態からシグナルやレース旗によって一斉にスタートを行う「スタンディングスタート方式」と、フォーメーションラップからそのまま車両が加速した状態でスタートを行う「ローリングスタート方式」がある。
その他にも過去にはル・マン24時間レースで採用されていた「ル・マン方式」というスタート方法もある。ル・マン方式とは車両までドライバーが歩く(駆け寄り)そして速く車両を動かした順にレースをスタートする方式であるが、ジャッキー・イクスがその危険性について苦言を呈し続けた結果、現在のル・マンでは廃止されている。このル・マン方式のスタート方法を踏襲しているのが二輪ロードレースのスタート方式である。スタートの方法は現在ではクラッチスタート方式を採用し、車両まで向かったライダーがセルスターターおよび、キックによるスタートを行って発進する。以前は車両のエンジンがかかっていない状態から各ライダーが押しながらエンジンを起動させる押しがけスタート方式であったが、押しがけの危険性を憂慮して1987年からクラッチスタート方式に切り替わった。
ラリーとラリーレイドは似て非なる競技であり、「本来はタイムを競う競技ではない」ということが念頭に置かれるためにレースとも厳密には違う。スタート方式に関してはラリーもラリーレイドも同じであり、予め主催者側によって公示されたもの及び、大会ランキングなどによってスタート順が決められる。SSのスタート順は直前のタイムコントロール(TCと呼ぶ)を通過順に1分間隔で行われる。
ラリーレイドでは先述のSSとほぼ同じ役割を担う区間であるコンペティションセクション(CSと呼ぶ)が設けられている。
4輪競技におけるラリー・ラリーレイドにおける最大の特徴は車両運転手であるドライバーと、進路案内や走行速度指示などの補佐を行う「コ・ドライバー」という2名が車両に搭乗して行う点である。ラリードライバーに求められる運転技術はレーシングドライバーに求められる技術と異なる点が多く、競技の特性上、悪路に対する走破技術はもとよりレースにおける「フリー走行」のような練習走行が基本的に存在しないためにドライバー自身の運転感覚、視界からの情報、あるいはコ・ドライバーからのナビゲートによる聴覚からの情報、そして出走順によっては先行車両により非舗装路面が刻々と変化してゆく点もあり、これらの総合的な瞬時の判断から高い臨機応変力が求められる。ドライバーとコ・ドライバーの信頼関係も非常に重要といわれ、1つの車両で行うチームプレイとも言える。
二輪競技などで行われるラリーレイドは1人で砂漠を走破する技術や度胸、独自の感性や機械的トラブルや人的トラブルに巻き込まれない幸運も求められる。したがって、二輪ラリーレイドは最も危険な自動車競技の1つとして語られることも多く、その根底にはほぼ毎年のように死者を出していることが挙げられる。
決められた(短い)区間をいかに速く正確にゴールするかを競う。本来はトライアルとは「タイムトライアル」(英: Time Trial) つまりは時間への挑戦を意味し古来はダービー、ボート、自転車競技におけるレースを指したことから、これが派生して欧米では二輪自動車における競技もタイムトライアルと呼称した。その後、「トライアル = Trial」だけで試練・試みという意味を持つことから二輪自動車による複雑な地形(人工的に作られる場合もある)を、いかに足をつかずに走破するかを競う競技をトライアルと呼ぶ。日本では「トライアル競技」と呼ばれる。代表的な競技ではスラローム競技であるジムカーナや、加速競争であるドラッグレースなどがこれにあたる。ダートトライアルという呼称は和製英語であり、欧米ではダートトラックと呼ぶ。したがってその略称である「ダートラ」のほうが本来は呼称として正確である。
以上の分類に属しないものとして、ドリフト走行による車両姿勢の美しさを競うドリフト競技、一定の速さを保った上で燃費の優劣を競う燃費競争(エコラン)などがある。学生フォーミュラ(フォーミュラSAE、全日本学生フォーミュラ大会など)では、車の速さ以外に設計そのものやプレゼンテーションも評価対象とされ、それらの総合点で順位を決定する。またそもそも動力を持たないカートで争われるソープボックスレースでは、車の見た目の派手さが競技の重要な要素の一つとなっている。
自動車競技の競技が行われる場所を以下に示す。
アスファルト舗装されたコースで、閉路になっているために一般的に複数周回を走行し規定周回を走行することで完走となる。サンドトラップやグラベルエリア、ランオフエリアなどを設けられたサーキット(※:イタリアではアウトドローモ)、楕円形のコースを周回する「オーバル」もこれに含まれる。通常の公道よりも舗装が競技向けに作られているのも特徴。
F1からラリーまでさまざまな競技を行う。競技が可能な道路幅と路面状況であることが開催の条件となる。公道といっても様々で、アスファルト舗装された平坦な路面が通常であるが、古い街並では石畳などもある。通常は一般車両が走行するため、交通量が多い箇所になればなるほど路面に轍状の起伏ができやすくサーキットと比較すると滑りやすい。カテゴリによっては一部の公道を閉鎖してサーキット型の競技を執り行う場合や、スタート地点とフィニッシュ地点が別となる都市間競技など行うなどのケースがある。
シンガポール市街地コースやバレンシア市街地コースのようにレースを行うことを前提として公道が整備されることもある。
大勢の観衆が、コース全体を一望できるような常設のスタジアムで行われる場合もある。デモリション・ダービー、8の字レース、モンスタージャムなど、北米発祥の競技では多いパターンである。北米でオーバルレースが盛んなのも、コースを一望できるという点と無関係ではない。
また欧州発祥の競技でも、ラリーのスーパーSSやラリークロス、レーシングカートなどは時折スタジアムでの開催がされることがある。またレース・オブ・チャンピオンズは常にスタジアム内に設置したコースで開催されている。
一般的にオフロード、ダート、砂漠、草原、雪上(氷上も含む)などを指す。ラリーやオートバイのトライアル競技などに使用され、砂や泥でタイヤのグリップ力が弱まるために当然ながら滑りやすい。公道コースと同じように車両が周回できるようにコースを造って競技を執り行うものや、スタート地点からフィニッシュ地点までコースを制定するもの、あるいはスタートとフィニッシュ、チェックポイントは設けてあるものの、完走するまでの行程でどこを走行しても許可される競技も存在する。
自動車競技における車両は様々な形態があるが、大きく分けると1市販車をレース用に改造した車両(ツーリングカー/GTカーなど)2市販車の要素を少しだけ残した専用設計車両(プロトタイプレーシングカー、ストックカーなど)3市販車の要素を一切残さない専用設計車両(フォーミュラカー、レーシングカートなど)の3つに分類される。
また近年は環境問題への意識の高まりから、電気、水素、太陽光発電などといった化石燃料以外を用いるレーシングカーも多数誕生している。
1車両の全てのタイヤが剥き出しになっている2ドライバーの頭部が外部に露出している3シートは1名分のみという3つの形式を満たす車両。このことからオープンホイール、モノポスト(シングルシーター)とも呼ばれる。完全に競技専用車輌として設計されており、前照灯やブレーキランプなどの保安部品は装備していない。
車輌重量がとにかく軽いため、加速・コーナリング・ブレーキなどあらゆる運動性能がずば抜けて優れている。タイヤが露出している分空気抵抗は小さくないものの、最高速はF1で380km/h前後に達する。
座席は窮屈で乗り降りも手間がかかるため、基本的に一人一台のスプリントレース向けであり、競技場所も路面が平滑に舗装されたサーキットや公道に限定される。
近年は安全上の理由から、ほとんどのフォーミュラカーは強化ガラスのスクリーンやHALOと呼ばれる輪っかのような頭部保護デバイスを装着する。また黎明期にはFRや四輪駆動のものも存在したが、現代では駆動レイアウトはMRで完全に統一されている。
一般人が「レーシングカー」と言われて思いつく形状の代名詞であり、まさに四輪レースの華といえる存在である。
(※主なカテゴリー:F1〜F4、インディカー、スーパーフォーミュラなど)
プロトタイプスポーツカーは、フォーミュラカーとは形式が大きく異なる。根本的な違いはタイヤはフェンダーで覆われており、そして実際には使用しないが助手席が設けられた2座席車であり、UNECEが制定するECEレギュレーションに基づく保安基準(※:日本における道路運送車両法の保安基準もこれに準拠)であるヘッドライト・テールライト・ブレーキランプの装着が義務付けられている点である。
プロトタイプ系の車両は特徴的には市販車に近い点が多く見られるが、フォーミュラ系と同様に純粋なレース専用車両である。先述のECEレギュレーションには適合するように車両の保安基準は準拠しているものの、市販車とは全く別物の形状をしている。これを「プロトタイプレーシングカー」と呼ぶ。これらのプロトタイプレーシングカーはWEC(世界耐久選手権)やUSCC(ユナイテッド・スポーツカー選手権)など耐久レースのカテゴリに多く活躍する。プロトタイプとはその名の通り「試作機」の意味であり、本来は「市販車ではないが、将来の市販化を前提にした少量生産(ゆえに高性能)の試作スポーツカーであり、開発テストのためレースに出ている」というのが原義となる。したがって、同じスポーツカーであってもGTカーとは性質も意味合いも異なる。
基本的には24時間レベルの耐久レースを主眼に置いて設計されており、長時間の運転やドライバー交代を前提とするため、運転姿勢や乗り降りはフォーミュラカーと比べると楽である。前述の通りライトも完備しているため、夜間走行も問題ない。さらにクローズドボディの場合はエアコンも装備される。
近年市場参入するメーカーの多いハイパーカーは、プロトタイプレーシングカーに限りなく近いフォルムと性能をしており、2021年にはWECでプロトタイプレーシングカーに代わるカテゴリ(LMハイパーカー)として成立している。
なおカテゴリの出自によっては単座であったり、ライトが装着されなかったりと、タイヤが覆われただけのフォーミュラカーという実態を持つ場合もある(Can-Am第二期、富士グランチャンピオン第二期など)。
(※:主なカテゴリー FIA 世界耐久選手権、ル・マン24時間レース、ユナイテッドスポーツカー選手権、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズなど)
メカニズム的にはツーリングカーの一種だが、レースの形態や歴史的にはプロトタイプとツーリングカーの中間に位置する存在である。
一般的には市販のスーパーカーを改造した車両や、それに匹敵する戦闘力を持ったツーリングカーのことを指す。しかし歴史を遡ると、実態は明らかにプロトタイプスポーツカーなのに、一台のみの公道仕様を制作すれば参戦できる規定が『GT1』の名称で1990年代に施行されていたこともある。またプロトタイプスポーツカーが前項で述べた通り公道車の試作版という建前と戦闘力の近さから、プロトタイプスポーツカーが走る耐久レースのほとんどではGTカーも同時に走る。この混走レースやGTカーのみのレースを、ひとくくりに「スポーツカーレース」と呼ぶ。
GTカーの原義はグランド・ツアラー、グランツーリスモ (英: Grand Tourer , 伊: Gran Turismo)である。GTとは「大旅行」を意味しており、これが派生してアメリカSCCAにおけるトランザムシリーズの名称のように" Trans-AM = Trans-America = アメリカ横断 "という意味になぞられる。そのためスプリントに特化したフォーミュラ系の車両とは異なり、元々は耐久レース(長距離レース)を念頭に開発されたマシンであることが窺える(ただし実際はスプリントレースも多い)。
世界的には00年代に改造範囲によってグループGT1からGT4までが存在したが、現在はほぼグループGT3とグループGT4のみである。日本ではSUPER GTが日本で最も人気のあるレースとなっており、特にプリウスをGT化したマシンがフェラーリやマクラーレンのスーパーカー勢と互角以上に渡り合うのがここ10年の風物詩となっている。
(※:主なカテゴリー IGTC、GTワールドチャレンジ、SUPER GTなど)
ツーリングカーは街中でよく見るような市販車をレース用に改造した車両である。前出のGTカーとの境界線は極めて曖昧だが、ツーリングカーは大衆車~中級車クラスがベースとなっている事が多い。
ツーリングカー競技に参戦する車両は、参戦する車両(自動車会社)が標準として定めるボディを基礎とし、これをルールによってエンジン、サスペンション、ブレーキ、ホイールとタイヤなど変更が許される範囲の物が使用される。骨格以外は市販車とは全くの別物であるのが一般的である。
参加者としては参加車両を確保しやすく、レース観戦者側から見ても内容が判りやすく白熱しやすいことから、自動車競技の中で最も基本的でポピュラーなカテゴリーの1つとも言える。参戦費用が比較的廉価でありながらもレース自体の奥深さからF1を引退した後に自身の新境地としてツーリングカーに参戦するドライバーも多く、こうした事から観戦者の関心もメーカー側の宣伝に対する費用対効果も相して高いことからもさまざまなメーカーがスポンサーとして参入しやすいのも特徴である。
一方でプロフェッショナルレベルで長期間歴史を紡ぎ続けることのできるツーリングカーシリーズは世界的に見ても少ない。これはツーリングカーレースが市販車をベースにする以上、ベース車両の人気の偏りゆえに参戦車種も偏ったり、自動車ファンの興味を惹けないような車種ばかりになってしまったり、優秀なベース車両を量産するコストに自動車メーカーが耐えられなくなったり、逆に劣ったベース車両を改造するのに莫大なコストを費やさざるをえなかったりと、市販車の事情によってレースの事情も大きく左右されてしまうからである。現代ではそうした反省から現代のプロのツーリングカーレースは、外観は多様に見えても、中身は共通コンポーネントや共通エンジンを用いたり、空力開発を制限してコストを削減しつつ車種のバラエティを維持している場合が多い。加えてスプリント形式の場合はレースでポイントを加算するにつれて「鉛のトロフィー」と呼ばれるハンデキャップ用のウェイト(バラスト)を次戦から装着することで、参加者同士のスピードの開きを無くし、弱小エントラントの参加意欲を促すことも珍しくない。
レースの形態はスプリントから耐久まで幅広いが、国際シリーズの場合はタイヤ交換を必要としない程度の周回のスプリントレースを同じ週末に2~3ヒート開催する事が多い。
(※主なカテゴリー:WTCR、DTM、BTCC、スーパー耐久 など)
ラリーは基本的に市販車を改造したマシンで行われるため、外観はツーリングカーと非常によく似ている。しかしラリーでは舗装された公道(ターマック)から平坦な砂利道(スムースグラベル)、さらには人間の頭大の岩が転がる荒れた砂利道(ラフグラベル)などの悪路を市販車の設計段階では考えられない速度で走行するため、車体にはツーリングカーに使用される車両以上の頑強な補強が求められる。ラリーに使用される車両はまず一度完全に分解され、内装には頑強なスチール製のロールケージが組み込まれる。これによって事故発生時の乗員の安全性を確保している。レギュレーション次第ではスポット増しも行われ、ロールケージと合わせることで車体剛性が飛躍的に高まるためにドリフト走行がしやすい基本的な車両構造となる。
ボンネット内は熱対策が施される。カテゴリによってホモロゲーションの違いがあり改造可能は様々ではあるものの、ラリー競技は比較的低速な状態でエンジンを高回転に回す必要があるため、その対策も必須となる。先述のような悪路を常識では考えられない速度で走破するため、車の下回り(オイルパンやデフ)を保護するためのアンダーガードを装着しているのが特徴である。さらに上記の場所を走行するため、サスペンションもストローク量が大きい物を装着し、車高も走行する路面の状況に合わせて高くするときも低くするときもある。ラリーカーもツーリングカーと同じく2席のシートが設けられているが、ラリー・ラリーレイドではこのシートにコ・ドライバーが座る。彼らはドライバーに情報を送るためにペースノートや資料を読み上げる必要性があり、そのためにナビランプと呼ばれるコ・ドライバーの手元のみを照らす照明器具が装備されているのも特徴である。ギアボックスに関してはどのカテゴリの車両よりも低い速域で非常に高い値のギアレシオのギアが装着される傾向がある。リアウィングに関しては低速域から高いダウンフォースを発揮できる構造の物が求められるため、そうした要求を発揮するために「スプリッターリアウイング(※:通称、本棚ウィング)」などラリー用に作られた独自の形状をしたウィングが使用される。
(※主なカテゴリ:WRC、ERC、APRC、JRC など)
ラリーとラリーレイドは公道でレースを行うという性質上、最低限の公道規則に合致する必要があったり、ナビゲーター用の助手席やスペアタイヤや工具などを装備する必要があるなどの共通点はあるが、車両のシルエットには大きな違いが見られる。
ラリーカーは伝統的に小型の市販乗用車の形をしているのに対し、ラリーレイド用のクロスカントリーカーは市販のラダーフレーム構造のSUV、ピックアップトラック、SSVのようなバギーカー、さらにはトラック(後述)まで大きさも多様な種類のものが存在している。これらはいずれもFIAのグループT規定の下に、クロスカントリーカーとしてまとめられている。
ラリーに比べると俊敏さよりも砂漠や急斜面での確実な走破性が必要となり、従って求められるサスペンションストローク量やタイヤサイズは巨大なものになる。またクラスによっては、タイヤの内圧調整をコックピットからできるシステムを搭載している場合もある。
(※主なカテゴリ:W2RC、ダカール・ラリー、アブダビ・デザートチャレンジ、シルクウェイ・ラリーなど)
南北アメリカ大陸におけるレースで、最もポピュラーな自動車競技車両の1つである。ひとえにストックカーとは「見た目が乗用車と同じマシン」という曖昧な定義からなされるため、ほぼ無改造の車両から完全なレーシングマシンまで存在する。後者に関してはツーリングカーに似ているが、ツーリングカーの様な市販車改造車両ではなくストックカーは完全なレース専用設計車両である。ただしGTカーのように最高技術の結晶のような車両かといえば違い、エンジンはOHVであることからも一見して現在の自動車テクノロジーから後退した構造に見受けられる。 しかし、その単純な構造から高い回転数と馬力を生み出し、大排気量エンジンから圧倒的なトルクが生み出される事から非常に高い水準の技術から造られているのが分かる。ストックカーは他のレーシングマシンと比較して重い車両であり、ほぼ市販車と変わらないくらいの重量を誇る。そのボディ構造はアルミニウムと鉄からなるパイプフレームにグラスファイバー製のボディを被せて完成する。
現在のストックカーはライト類(前照灯、尾灯)が存在しているかのように見えるが、本来の市販車ならばライト類がある場所にその形状を模したシールや塗装を施しているだけであり、実際にはライト類は装備されていない。ドアの継ぎ目が見受けられないことから分かる通り、ドライバーの乗降は窓から行う。レースの性質上、ほかの車両と接触することが多いために比較的ボディ強度は高い。 代表的なストックカーレースはNASCARであるが、この他にIMCAなど開催されるストックカーレースもある。IMCA系のストックカーレースはダートトラックで行われることが多いが、根本的な構造はNASCARと変わりはない。
ストックカーの中でも旧車両を使用したレースなども開催され、こうしたものを「レイトカー」(英: late car)と呼ぶ。レイトカーは古いストックカー車両を使用しているため、現在のストックカーのようにグラスファイバー製のボディを被せたりしたものは少ない。レイトカーの多くが前者にあたる「市販車改造車両」が多く、ライト類が装備されているものや、ドアの開閉が可能なものもある。ストックカーの歴史からみてこれらレイトカーのように古来は適合するホモロゲーションをクリアする事を前提に軽量化のためにボディを1度分解してその各ボディを酸に浸すことによってわずかでもボディを薄くして軽量化を施したり、市販品ならば使用しても良いというホモロゲーションルールから市販品でも非常に高価なものを装備するなど、参戦費用が莫大になっても少しでも速いマシンを手に入れるために工夫がなされていた。こうしたことからストックカーは市販車改造車両をベースとしたものであったが、低コストと高い安全性を両立するという観点から手法を模索していった結果、完全独自設計車両に進化していったことがうかがえる。
(※主なカテゴリー:NASCAR、IMCA、ストックカー・ブラジルなど)
レース用の貨物自動車(トラック、カミオン)も存在する。競技に使用されるトラックは、多くの場合競技専用に開発された車両が使用される。そのため見た目はトラックのように見えても、貨物自動車本来の「貨物を運ぶ」という機能は持たないのが一般的である。ラリーレイドではスペアパーツなどの運搬のために別途「サポートカミオン」と呼ばれる通常のトラックが投入されるが、それらは一応競技参加車両ではあるものの順位争いには参加しない(そもそも競技専用車両とは性能が違いすぎるため競走が成り立たない)。
トラックのレースは日本ではあまりなじみがないが、日本国外ではフォーミュラ・トラック(大型トラクター)やNASCARキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ(ライトトラック/ピックアップトラック)など、カテゴリが多数存在する(キャンピング・ワールド・トラック・シリーズはストックカー系にも分類される)。またラリーレイドでは、通常のラリーカーによって争われるクラス以外に競技用カミオンによって争われるクラスが設けられることが多く、特にダカール・ラリーにおけるカミオンクラスは一つの名物となっている。
ヒルクライムレースとして長い歴史を持つアメリカのパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにも、「セムアイ」と呼ばれる大型トラクターのエキシビションがあり、その豪快な走りぶりから同イベントの名物として人気が高い。
1/4マイル(約402m = 約0.4km)という短い競技区間でのタイムを競う。競技はドラッグストリップと呼ばれる直線の専用レース場で行われる。スタート前にバーンアウト(バーンナウトとも)を行い、クリスマスツリーと呼ばれる電光スタートシステムに従ってスタートを切り、急激に加速、フィニッシュラインを越えると減速が行われる。上位クラスの車両ではブレーキが車両の加速力に見合わない設計になっているため、パラシュートを用いて空気抵抗による減速を行う。ボディ形状はオープンホイールやクローズドボディのスペースフレームからノーマル車両まで様々で、エンジンやその他の補機類に至るまで細かくクラス分けがされている。
最も速いクラスはトップ・フューエル、続いてファニーカーであり、これらのクラスはニトロメタンが90%を占める特殊な燃料を使用する。
北米ではストックカーに続く高い人気を誇る。
(※主な主催団体:NHRA、IHRA、ANDRAなど)
ソーラーカーや電気自動車に代表される、内燃機関以外の動力を用いる自動車もレースに使用される。ソーラーカーの場合はレースに参加するチームがそれぞれ独自に車両を開発することが多い。電気自動車については、市販車を改造するタイプからフォーミュラカーまで様々なタイプのものが開発されている。
歴史的にはソーラーカーレースが1985年より行われており、著名なレースとしてワールド・ソーラー・チャレンジなどがある。1990年代からは電気自動車によるレースも徐々に開催されるようになっており、1994年より2004年までフォーミュラ・ライトニングが開催され、2014年よりFIAがフォーミュラEの名称で電気フォーミュラカーによるメジャーカテゴリを誕生させている。2021年には電気自動車によるオフロードレース「エクストリームE」や電気自動車のツーリングカーによるE-TCRが登場し、さらに将来は世界ラリークロス選手権でも電気自動車が導入されるなど、将来の内燃機関の禁止に向けた対応が加速している。
また純然たる代替エネルギーではないが、近年ではル・マン24時間レースやF1、スーパーGT、WRC等のカテゴリーに於いて、ハイブリッドシステムを導入する競技も増加している。
市販車改造系で、比較的一般参加が容易なものとされる。特徴としては多くの競技参加者が自ら所有する車両を改造し、ドリフト走行に適した改造を施している点である。したがって、他の自動車競技よりも改造や競技参加のための資金が廉価で済む傾向がある。
ドリフト系競技の中で代表的な競技にとして、全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の様に純粋にドリフト走行の技術を審査する競技が挙げられる。この競技はドリフト走行を行う上で初歩的な改造から上級者向けの改造まで様々なものがあるが、初歩的な方法として車両の前後のバランスを変えることから始める事も可能であり、そのためドリフトを始めるハードルは低い。しかし、その反面にドリフトを行うには車両の動きをよく理解している必要もあり、自分が所持する車両を用いてかつ、その特性を見極めてセッティングを行っていかなくてはならない。また、前述のD1グランプリのような大きな自動車競技大会に参加する車両の中にはツーリングカー競技に参加するほどのレベルにまで改造を施している場合もある。D1グランプリを含むドリフト審査競技は、競技の在り方が「速さを競う」ではなく、ドリフトの豪快さや美しさを競う審査方式であるため、ツーリングカー系やラリーカー系などの市販車改造系と根本的な改造方法が異なり、特に観客を魅せるドリフトを追求した改造方法となる。一般的にはブーストアップや後付けターボチャージャーに比較的小型のタービンを装備するなど小改造に留めておいたほうが、低回転域のトルクが稼げるためにドリフト走行はしやすくなるが、大きな大会に出場する程の車両になると、タイヤからの白煙を出しやすくするためにタービンを大型化するなどさらなる改造が施される。これはタイヤスモークを出すことがドリフト審査における加点対象であり、これらのことからもドリフト競技車両は単にドライバーがドリフトをしやすいように改造されただけでなく、観客に対していかに豪快で華麗なドリフトを魅せることができるかを追求して改造された車両であることが窺える。
(※主な主催団体:全日本プロドリフト選手権、フォーミュラ・ドリフト、ドリフトマッスル)
スラローム競技の代表格としてジムカーナが挙げられる。ジムカーナはモータースポーツライセンスの国内B級ライセンスで行える競技であり、競技も小規模なサーキットや舗装された広い駐車場などでも行うことができる。英語圏では「オートクロス」と呼ばれている競技とも非常に良く似ているが、一般的にジムカーナのほうが高い技術を要するといわれている。ドリフト系競技と同様に競技人口も多い。その背景にはドリフト系と同じく他の自動車競技と比較してもハードルが低い競技であり、参加する車両も基本的には市販車を小改造したもので行われる。したがって参戦費用も廉価である。改造はサスペンションなどの足回りや車体剛性の強化、そしてブレーキの強化などがあげられる。サスペンションや剛性の強化はハンドリングの向上を主な目的とし、ブレーキの強化もサイドターンを行う場合に車両前方に荷重を移動しやすくさせるためである。
この他、ジムカーナはパイロンのスラローム競技である為、競技参加車両が痛む可能性が低く安全性も非常に高い。したがって、衝撃に対する補強などはあまり行われない反面、競技車両を徹底的に軽量化されることもある。これに対し、砂利や泥の上で行われるスラローム競技であるダートトライアルは、競技に使用される車両の特徴や改造方法はあまり変わらない、未舗装路面で競技が行われる為、ジムカーナ競技よりも保安装備を厳重にする必要がある。
なお、これらの競技クラスによっては一部ではフォーミュラカーでも参加する場合もある。
速さではなく燃費を競う燃費競争では、シェル エコマラソンへの参加車両のように動力については競技専用に開発される場合が多いが、Honda エコ マイレッジ チャレンジのようにホンダ・カブなど燃費の良さで知られる市販車エンジンを改造して使用するクラスが設けられるものもある。
以上の分類に属しない車による競技も多数存在する。いくつか例を挙げると、ミジェットカー(ダートオーバル専用マシン)や、富士グランチャンピオンレースの後期(フォーミュラカーのモノコックにスポーツカー風のフルカウルを被せたマシン)、上記の複数のカテゴリーのマシンが混在して参加するレース(ドラッグレース、ヒルクライムなど)がある。
自動車レース(競技)への参加者は、参加形態という観点からは、大まかに言うと、ワークス/プライベーター/セミワークスの3つに分類される。またスポンサーも、広い意味での自動車レース参加者である(後述)。
トヨタや日産などの、市販自動車メーカー(マニュファクチャラー)が自社の資金・人材・技術を使用して組織した直系チーム。タイヤなどの部品メーカーの場合も含まれることがある。「ファクトリー・チーム」ともいう。
長所としては豊富な資金力と自動車製造企業というあらゆる設備が整った母体を背景に自動車競技に参入できるため、一般的に強豪チームとして成果を上げやすい。その反面、景気や企業の業績、世界情勢などコース外での変化の影響を受けやすい。株主や社内の反対派の反発を受け、ワークスが撤退を余儀なくされるのは珍しい話ではない。
ワークスの参戦は多くの自動車ファン・一般人の耳目を集めやすいため、運営はワークスの参入を促すような規則を設定する傾向にある。
ワークスではないレーシングチームや、個人参戦者全般を指す。
長所としては、個人やチームの運営能力やノウハウだけで競技を行うことができること、純粋にレースへの情熱で参戦を継続できるなど、さまざまな制約から解き放たれている点である。一方で自動車製造のノウハウや資金が少ない場合も多く、トップカテゴリで勝利するまでにはワークス以上の投資が必要となる。レース運営側はプライベーター向けに低コストに参戦できる規定を導入する場合があるが、そちらの規則が戦闘力や販促の都合上有利と見たワークスチームが潤沢な資金力で利用してしまい、議論を呼ぶ場合もある。
特に大規模なカテゴリになればなるほどプライベーターはワークスよりも高いノウハウと資金力が必要とされ、潤沢な資金力を作り出すことができるなんらかの「母体」となる事業や企業が必要とされる。母体となる企業はチューニングショップや自動車販売店に始まり、工業製品メーカー、アミューズメント、飲料メーカー、衣服メーカー、雑誌出版社...など様々で、経営者が自らもレーサーとして参戦するほどの自動車好きの場合もあれば、全くレースに興味は無いが自社の宣伝のためだけに利用しようとする場合もある。
長年レースを経験している老舗のプライベーターは強大な力を持っているため、ワークスをもってしても打ち破るのは困難である。そうしたプライベーターは、自動車メーカーからの依頼でマシン開発・チーム運営の協力やOEM供給、さらにはワークスの看板を背負ってのレース活動を行う場合もある(後述)。
最初はプライベーターであったが、後に車両開発ノウハウを活かして市販車メーカーとなり、ワークスへ変貌を遂げたチームもある。フェラーリやマクラーレンなどがその代表的な例である。またフォードやホンダのように、創業者が個人参戦者としての経歴を持っている市販車ブランドも珍しくない。
市販車メーカーが支援するプライベーターのこと。市販車メーカーがマシンや所属ドライバー、技術スタッフ、資金などをプライベーターに送りこんで支援する。
市販車メーカー側は純粋なワークス体制と比べて初期投資・継続参戦コストが大幅に軽減でき、プライベーター側も自動車製造会社からのさまざまな恩恵によって運営資金を軽減しつつ高い戦闘力を得ることが可能となる。また運営が「ワークスチームの参戦禁止」を謳うカテゴリでも、「プライベーターを支援」という体裁を主張してかいくぐることが多くの場合可能である。
総じてコストパフォーマンスに優れているため、純粋なワークス体制よりも多く見られる参戦形態である。
短所としては、両者の運営方針の違いや温度差で制限が発生する点である。それぞれにノウハウや主義などの要素が交錯するために、効果も副作用もワークスとプライベーターの中間的な位置付けになってしまう傾向がある。市販車メーカーが本腰を入れる場合はそのデメリットを回避するため、多額の資金と引き換えに完全にプライベーター側を支配する形で「ワークス化」することもある。
スポンサーシップ (英: Sponsorship) とは「後援」を意味し、その名の通りチームや選手に対して技術や資金を提供することである。こうした資金と技術提供者をスポンサーと呼ぶ。自動車競技におけるスポンサーは、大きく分けて「テクニカルスポンサー」と「コマーシャルスポンサー」の2つが存在する。
自動車競技において選手・チームが優秀な成績をあげることは、その選手・チームに携わる自動車および自動車関連部品のイメージアップにも繋がる。そのため製造各社はさまざまなかたちで競技参加者を支援しており、個人の参加車にもサポートをする。先述のセミワークスもこれに該当し、車体だけでなく部品供給などの恩恵を与えることでこれらの当該企業の営利的な目的にもなる。こうしたことからもセミワークス体制は「テクニカルスポンサー」を受けたプライベーターという解釈も可能である。
また競技の参加は基本的に多額の資金やメカニック・エンジニアなどのスタッフが必要になるため、競技参加者は自動車製造会社だけではなく、広く経済社会全体からスポンサーを見つける努力を行う事が常となる。スポンサーによる資金の提供を受けた場合は、選手のレーシングスーツ(ユニフォーム広告)や車体にスポンサーのロゴの掲示やコーポレートカラーとする「コマーシャルスポンサー」が一般的である。
自動車競技におけるスポンサーは1960年代後半に入ってから行われるようになり、F1のチーム・ロータス以降に車体にスポンサー企業や団体を掲載し、さらにメインスポンサーが求めるカラーリングで車両を塗装する「スポンサーカラー」という手法が確立した。その収入によってより強力なチーム体制を身につけることに成功した背景から、自動車競技は「走る広告塔」と比喩されるまでになった。
自動車競技はチームとは別にドライバー個人に対しスポンサーが付く場合も少なくないのが特徴である。これを「パーソナルスポンサー」と呼ぶ。パーソナルスポンサーはコマーシャルスポンサーの一種であり、このスポンサーがチームにも持ち込む資金を見込んでプライベーターチーム側がドライバーに対する契約締結の条件にするケースも珍しくはない。これはチーム運営にかかるコストが莫大である自動車競技という競技の特性が大きな要因である。必然的にスポンサーになる企業もその広告費の高さから比較的大きな企業に限られる。
資金不足が顕わになったチームは、ドライバーの競技の実力よりも、多額のスポンサー資金を持ち込んでくれるドライバーを選ぶ傾向が強い。特に下位カテゴリから昇格を目指す新人ドライバーは、それまで戦ってきたカテゴリでの特筆される実績とプラス(あるいは実績とは関係なく)して、スポンサー資金を要求されることは往々にしてある。通常はドライバーもスポーツ選手と同じく一つの職業であり、彼らと同等に戦果や奮闘の対価としてチーム側から契約金や年俸などが支払われ利益を得るのが常ではあるが、ペイドライバーの場合は反対にチーム側からの支払いを一切受けることがない、あるいはごくわずかな年俸などを得てチームのレギュラーシートに座る。そしてシートの見返りとしてドライバーが持ち込んだスポンサー企業がチームに付き、スポンサー料をチーム側に支払う。このように競技の実力以上にスポンサー資金の額の多さによってシートを得たドライバーは、時には揶揄のニュアンスも含んで『ペイドライバー (英: Paying Driver)』 と呼ばれている。
時としてこうしたスポンサー目当ての新人ドライバー契約が問題視される場合もある反面、潤沢な資金力による長期的なレースへの参加により成長して実力も伴うようになり、結果的にドライバーが大成するケースも多々ある。また新人ドライバーが資金不足に苦しみながら活躍して才覚を披露した後に大規模スポンサーがつくというケースもあるため、一概にペイドライバーを悪とは決めつけづらい側面もある。 チーム側としてはチームの存続は運営上の重要事項であるため当然とする見方もある一方、ペイドライバーを雇うようなチームだと思われるのは好ましくないと考えるところもあり、ペイドライバーについては評価が分かれる。
スポンサー企業の傾向としては、サスペンション・エンジンオイル・タイヤなど勝敗に直結する部品から、ランプ、ワイパーなどのような細かい部品を含め、自動車関連部品を取り扱う企業が多い。しかしこの場合は大金を提供されるより、部品を割安あるいは無償供給されているという場合が多い。
潤沢な資金力を持つ産業として、以前はマールボロを代表とするタバコ企業が幅を利かせていた。しかし1980年代後半よりEU諸国から始まったたばこ広告規制強化によって、たばこ広告の縮小を始める。この規制はイギリスで最初に行われ、F1においてもイギリスGPではタバコ銘柄の名称を記載する行為を禁止した。この風習は後の喫煙問題によってEU諸国に広がり、現在ではヨーロッパ諸国全土においてたばこ広告の掲載は禁止されている。北米でもウィンストンを展開するR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーが、30年近くに渡り続けてきた冠スポンサ-を2003年で降板した。近年では車体に描かれる図柄がたばこ広告に似ている、あるいはサブリミナル効果としてタバコを連想させるというだけで問題視される傾向にあり、事実上たばこ広告は完全排除されている。この他にも、アルコール飲料のスポンサーも、飲酒運転やアルコール依存症などの問題で規制される傾向にある。
タバコ産業が撤退した後にはレッドブル、モンスターエナジー、ロックスターといったエナジードリンクメーカーが台頭している。またマイクロソフトやレノボ、ヒューレット・パッカード、ドコモ、KDDIなどの大手IT企業もスポンサーとして名乗りを上げることが増えている。IT企業は基本的にはコマーシャルスポンサーであるが、現物支給としてワークステーションやスーパーコンピュータなどの自社製品やIT技術者をチームに提供し、数値解析で車両開発を支援するなどテクニカルスポンサーとして活動する企業もある。
日本の自動車競技のスポンサーはパチンコ・スロットを主力とするアミューズメント系企業のスポンサーが多いことや、アニメ・漫画・ゲームなどの二次元産業とのタイアップにより痛車が参戦しているのが特徴である。
使う道具の優劣を競う面も持つ自動車競技の規則には、大別してスポーティングレギュレーション(競技規則)とテクニカル・レギュレーション(技術規則)の2種類が存在する。
規則はカテゴリによって様々であるが、資金力で優劣が決しやすく、参加者の出入りが激しい自動車競技の規則は、自由な競争と性能均衡という二律背反の事項を両立するために知恵が絞られているのが大きな特徴と言える。
車両の構造物・部品の多くは、運営からホモロゲーション(公認)を得た物でなければ使用できない。構造物・部品を新規に開発する場合は、そのたびに公認を取得する必要がある。ただし現代においては公認取得の回数は制限されている場合が多い。これは規模の大きいチームが資金力に物を言わせて開発を続々と進め、他の資金力で劣るチームたちがついていけなくなるような状況を避けるためであり、ひいては参戦コストを下げてチームの新規参入や継続的参戦を促すためである。この回数を制限されているホモロゲーションの取得の権利は、カテゴリによっては「ジョーカー」などと呼ばれている。一年間に複数回取得できるならまだいい方で、構造物や部位によっては、1回ホモロゲーションを取得したら数年に渡って使用しなければならない場合もある。トップカテゴリでは特にホモロゲーションの取得回数制限が厳しい傾向があり、基本設計のミス次第では以降数年間の優劣を決定してしまうこともある。
技術的に規則に合致していることはもちろんであるが、ツーリングカーやラリーのように市販車との関連性を重視する競技では、市場で最低数百ないし数千レベルで生産・販売されていることがホモロゲーション取得条件に設定されている。一見すると不利に見えるような市販車をベースにしているケースの多くは、この最低生産台数が理由である。
現代のレースでよく用いられる規則として、性能調整(Balance of Performance、BoPとも)が存在する。これは各メーカーが自由に開発しホモロゲーションを取得した競技車両たちに、運営側が共通のテストやアルゴリズムの下に計算した上で、ウェイト(重量物)やリストリクターの装着、燃料タンク容量の増減などを行い、戦闘力を均一にするものである。これにより参戦車種のバラエティを増やし、参加者もファンも楽しませることが可能となるが、一方で100%正確に戦闘力を均一にするのは不可能であるため、どうしても異なるサーキットやコンディションにおける有利・不利が出てしまう。そのため参加者やファンが勝敗の原因を実力ではなく性能調整のせいにし、喧嘩に近い議論を呼ぶこともある。また有利な性能調整を受けられるように、参加者が公式練習や予選でわざと本気を出さないで性能調整のやり直しを求めるという駆け引きもあり、これもよく議論の対象となっている。
同じような概念で、GTやツーリングカーレースでよく用いられるものにサクセスバラストやウェイトハンデがある。性能調整はレース本番前だが、これらはレース後の結果に対して課せられるウェイトやリストリクターのハンデで、性能調整に比べると事後的ではあるため効果が出るのは遅いが、その分公平性を期しやすいメリットがある。しかしこちらも「勝ったチームがペナルティを課せられているみたいだ」「強いチームほど勝てなくなるのはおかしい」などの批判が事あるごとに沸き起こっている。またポイントシステムや残りレース数などを計算した上で、わざとライバルを前に行かせて後のレースを有利にするような駆け引きが行われることがあり、複数の参加者が同じことを考えていると、速さを競うレースなのに前を譲り合うような、ともすると情けない光景が繰り広げられることもある。そのためSUPER GTでは、最終2戦でハンデを軽減あるいはゼロにすることで、そうした事態を避けている。
上記の手法はすべての自動車競技で用いられているわけではなく、例えばフォーミュラカーレースではあまり見られない。しかしそこでも異なるエンジン気筒数や排気量、駆動レイアウトなどが混在している場合、それらの勢力均衡させるために開発前に配られるレギュレーションの段階で異なる参加条件(エンジン回転数や最低重量など)が設定されたことはあり、そのバランスをめぐってやはり議論が何度も繰り返されてきた。そのため現在では、エンジンのバラエティを追求するよりも、公平さを重視して気筒数・排気量を完全に統一した上で開発競争を行うカテゴリが主流となっている。
突き詰めると全員が同じ車体・同じ部品を使う「ワンメイク」が最も平等で簡単な解決策に見えるが、それでは車種や技術のバラエティが無く、開発競争に興味を持つ企業やエンジニア、ファンを惹きつけられないという別方向の問題が浮上する。なるべく多くの参加者とファンが納得できるようなレギュレーション作りは、自動車競技運営の永遠の課題である。
下記の3つのレースは「世界三大レース」と呼ばれる。
これらのレースはそれぞれが「レースの象徴」といっても過言ではなく、同時に第二次世界大戦前から始まっているほどの長き伝統のあるレースでもある。
インディ500が開催されるインディアナポリス・モーター・スピードウェイでは、平均時速が約350km/hに達する超高速のレースが3時間にわたって繰り広げられる。
モナコグランプリはモナコ公国の中心地であるモンテカルロ市街地コースで行われるレースである。F1マシンという超高性能車両を駆使して繰り広げられるこのレースは平均時速160km/h程度とF1では超低速コースではあるものの、コース幅が非常に狭く、エスケープゾーンもほとんどないためにミスが許されない。このようなレースを78周にわたって1時間40分近く繰り広げられるため、ドライバーの力量が大きく問われる屈指の難コースとして知られる。
ル・マン24時間レースが開催されるサルト・サーキットは1周が13.605kmのロングコースであり、これに加えて1つの車両を24時間かけて走り続ける耐久レースである。ドライバーの交代はあるものの、速さはもとよりマシンの信頼性も問われ、さらにはそれぞれのドライバーの運転能力以外に集中力の限界までも挑戦させる。
この世界3大レースのそれぞれで多数の優勝記録を持つドライバーが存在するものの、世界3大レースを全てを制したドライバーは2021年現在でもグラハム・ヒルのみである。
自動車競技ではレース中の主催者からドライバーへの情報提供や指示に旗を用いる。その色の意味は以下の通りである。掲示方法には、掲げたままの「静止」と、振る「振動」とがあり、両者で指示内容が異なる場合がある。
時速数十kmから数百kmという高速で移動しながら0.1秒を削る競走をしつつ、時にはその速さでマシンが触れ合うようなバトルを行う自動車競技では、命に関わる重大事故はつきものである。これはアマチュアはもちろんのこと、どんなに卓越した腕を持ったプロのレーシングドライバーでも同じである。
近年では、車両規定の変更や新素材開発などによる競技車両の安全性の向上にとどまらず、レース場の設計上の安全性や医療体制の充実など、事故の発生防止と、事故の被害を最小限に抑える努力がなされている。その結果、大きな事故は減少し、事故による被害も縮小してきている。下記の死亡事故に代表されるような犠牲者たちの上に、そうした安全は成り立っているといえる。
最初の死亡事故は1896年5月1日(5月2日?)にペリグー近郊で開催された「ペリグー公道レース」にてマルキス(アンドレ)・ドゥ・モンティニャック侯爵が死亡したのが、記録に残る初のレース死亡事故とされる。前方を走る他の競技参加車両を追い越そうとモンティニャック侯爵が無謀な運転を行ったとされ、侯爵の車両は接触により横転し、この事故によってモンティニャック侯爵は死亡した。推定速度は40km/hだったと言われる。
観客を巻き込んだ死亡事故として初めて記録されるのは、自動車競技の歴史でも前述したマルセル・ルノーが起こした事故である。上記のモンティニャク侯爵の頃は平均時速25km/h程度で、40km/hでも危険な速度と言われていた時期であったが、1900年には既に平均時速は60km/hを超え、ルノーの事故の頃にはさらに自動車性能は著しい向上をみせ、レース参加者だけでなくその観戦者の人命について危惧された矢先の出来事であった。この事故によって国際的な世論にまで発展し、公道レースを認めない自治体が急増してサーキット建設の必要性が問われることとなった。
ル・マン24時間レースにおいては、1955年6月11日に発生したメルセデス・ベンツの死亡事故が自動車競技における最大の死亡事故であるといわれる。 ドライバーのピエール・ルヴェーが駆るメルセデス・ベンツ・300SLRが爆発炎上し、ルヴェーと観客・スタッフ含む81名が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。また、この前後にもF1のアルベルト・アスカリがテスト中に事故死し、インディ500で3連覇を目指したビル・ブコビッチが多重クラッシュにより死亡するなど自動車競技に悲劇的な事故が連続し、ル・マンでの事故を契機にメルセデス・ベンツがレースの舞台から撤退するなどレース界に激震を走らせたが、レースに対する安全対策とマシンの性能抑制という意識改革をもたらすきっかけとなった。
F1においてもドライバーやチーム関係者、そして観客を含めて多くの死亡事故が発生している。特に黎明期は鋭利化したバリアによって首を切断されたヘルムート・コイニクの事故や身体を真っ二つに切り裂かれたフランソワ・セベールの事故のような凄惨な事故が起きた。またコース・マーシャルの配置が現在より乏しかった事と、マーシャルがレース開催中のサーキットを安易に横断することが当たり前だったことなどからトム・プライスの事故の様な死亡事故も発生した。ジル・ヴィルヌーヴの事故のようにシートベルトの強度不足も相まって、マシンから宙に放り出されフェンスに叩きつけられて死亡、あるいはヨッヘン・リントの事故のようにシートベルトそのものを装着する事を嫌って死亡事故の遠因となったものもあった。こうした事故は現代の目線から見て技術的に安全装備が未発達であったことを差し引いても、安全に対する意識の低さが招いた部分も大きいが、これらに対してドライバーたちはただ指を咥えて見ていたわけではなく、F1開幕の翌年の1961年にGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を結成し、運営の安全意識の低さに抵抗した。GPDAは82年に一旦解散させられるが、1994年サンマリノグランプリで連続発生したローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故とアイルトン・セナの死亡事故をきっかけに再結成され、マシンやサーキットの設計思想、医療体制などから安全意識は根本から見直されるようになった。
1990年代末以降の新設グランプリサーキットの多くはヘルマン・ティルケが手掛けているが、いずれも広いコース幅に広い舗装のランオフエリアを持ち、安全に非常に気を配っているのが窺える。彼の手がけるサーキットには退屈という批判もあるが、2021年現在までグランプリでの死亡事故は起きていないのも事実である。
ラリー系の競技でも1980年代に過度な開発競争と高速化により死亡事故が頻発したことへの反省から、車両の安全基準を整備した規則を施行したり、吸気リストリクターの装着によって最高速を制限したりしてドライバーの命を守る取り組みが本格化した。
2000年代に入ると、2009年F2のヘンリー・サーティースの事故、2014年F1のジュール・ビアンキの事故、2015年インディカーのジャスティン・ウィルソンの事故などの死亡事故により、屋根のないオープンタイプの車両の安全に疑問を持つ声が相次ぐようになり、2020年までにほとんどのフォーミュラカーシリーズで頭部保護デバイスが導入されるようになった。また同様にプロトタイプレーシングカーでも、2017年以降のWECでオープンタイプが禁止されるようになっている。現在フルオープンタイプは、地域のジュニアフォーミュラやヒルクライムのようなごく一部のカテゴリに残るのみとなっている。
自動車競技における死亡事故の多くはクラッシュの際に壁・地面・車両の構造物などが人体を直撃し著しく損傷するものであるが、事故の拍子で火災が発生した際に車体が歪んで外に出られなくなってしまいそのまま焼死するものや、マシンに大きな損傷は無いのにドライバーは頭をステアリングなどに激しく叩きつけて死亡していたという場合もある。前者はスタッフと消化器類の十分な設置、後者はHANSというデバイスの登場により大きく数を減らしている。またアフリカの治安の悪化していた頃のパリ-ダカール・ラリーでは、参加者が地雷を踏んだり、銃撃されて命を落とした事例もあった。
一般にレーシングドライバーは命知らずとされているが、懇意にしていたドライバーの死亡事故を理由に引退してしまう者や、特定のレース(インディカーのオーバルコースなど)に限って安全を理由として参戦を拒む者も珍しくない。彼らが平然と時速300kmで接近戦を行うあまりに誤解する観戦者も跡を絶たないが、彼らが死にたがりのスピード狂のように考えるのは大きな間違いである。
競技における死亡事故は一般のメディアや、普段そのカテゴリを関知していないような自動車競技専門誌でも報道されることが多いが、競技のネガティブな部分だけ取り上げるようなメディアの姿勢を疑問視する声もある。
《wikipedia内》
《その他》 | [
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"text": "自動車競技(じどうしゃきょうぎ)は、モータースポーツにおいて自動車を用いて行われる競技。ほとんどが競走競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」(英: auto racingやcar racingなど)とも呼ぶ。",
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"text": "一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部三輪)の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。",
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"text": "英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。",
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"text": "「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。",
"title": "概要"
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"text": "自動車競技の大半は「時間」を競う競技である。定められたコースを最も短いタイムで走りきった者か、あるいは一定時間(24時間など)の間に最も長距離を走りきった者か、レースによって定義に微妙な差異は存在するものの、本質的には時間を競うという点で同じである。ほとんどの場合は最も速く走れた者が勝利を認定されるが、昔のラリー(アベレージ・ラリーと呼ばれる形態)のように運営が設定した時間に最も近い者が勝利するという場合も稀にある。",
"title": "概要"
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"text": "少数派ではあるものの、自動車レースの中には速さではなく燃費を競うもの(燃費競争)もある。同じ量の燃料でどれだけ遠くまで走れるかを競うルールや、一定距離を走った後で消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者を勝利とするなど、これもまた勝利条件にわずかな差異はあれど、燃費を競うという本質は同じである。",
"title": "概要"
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{
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"text": "あるいは審査員の採点で勝敗を決する競技もある。競技車を滑らせる技術の美しさを競う「ドリフト」、圧倒的パワーと巨躯で迫力を競うモンスタートラックのフリースタイル、自動車のデザインの美しさを競う競技会「コンクール・デレガンス」などがある。後者は現代ではクラシックカーイベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。",
"title": "概要"
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"text": "特殊な例だと、北米のデモリション・ダービーのように自動車同士をぶつけあって生き残った者が勝利という過激なものもある。",
"title": "概要"
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"text": "1887年にフランスのパリで約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。1894年には、パリからルーアンまでの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。1900年には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→#歴史",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。自動車レースは様々な分類が可能であるが、多くは走る道(コース)と競技に参加する車両の2つに大別できる。→#コースによる分類、#競技車両による分類",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "F1やインディ500といった世界的に人気の高いレースはテレビで放送されるなど、人々の目に触れることが多く認知度も高い(そして有名な自動車レースのなかでも特に歴史が長く注目する人々の数が多いF1モナコグランプリ、ル・マン24時間レース、インディ500が「世界3大レース」などと言われている。ヨーロッパでは前者2者が人気で、アメリカではインディ500が大人気、と住む大陸で人気が別れている。)が、実際には放送もされない中規模のレースや、さらには少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)までさまざまな規模がある。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「ホモロゲーション」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)の承認を得ている。→#レギュレーション(規則)",
"title": "概要"
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"text": "現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→#レーシングチーム",
"title": "概要"
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"text": "レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。ヨーロッパの多くの国やアメリカ合衆国では、自動車自体の歴史が長く、自動車レースの伝統もとても長く、数多くのレースが開催されており、人気が非常に高く、ファン層も厚く、高齢者から小さな子供までが(男性も女性も。祖父・祖母や、孫の小学生や幼稚園児まで、世代を超えて一家で)レースコースの観客席に駆けつけ、家族全員で参加するお祭りのように楽しむ。(なおスイスは例外で、嘗てはタイムアタック系の競技を除き、国内で自動車レースを行うことを禁止していた。だが現在解禁した)。中南米(特にブラジルとアルゼンチン。en:Category:Motorsport in South Americaを参照)やオセアニア地域でもモータースポーツはかなり盛んである。東南アジアでもそこそこ人気はある。日本では昭和時代に自動車産業が盛んになって以降、自動車レースの人気は(欧米ほどではないが)そこそこ高くなり、世界選手権レベルの国際競技で使えるものを含む大小多くのサーキットが建設された(→日本のサーキット一覧)。(ただし日本では、今でも人数的に見るとファンの数(全人口に対する自動車レースファンの数の比の統計)はヨーロッパやアメリカに比べればかなり低く、「限られた人々の関心事」といった位置づけである。日本の自動車レースのファンは男性ばかりで、ほとんどの日本女性は自動車レースには全然興味が無いなど、日本ではいまひとつ広がりが無い。)",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "日本でのテレビ放送について言えば、ヨーロッパやアメリカの自動車レースは日本でも放送されることも多いが、中南米、東南アジアのレースは日本では放送されることはまずなく、日本人の盲点になってはいる。とはいえ2010年代からはYouTubeのおかげで日本にいながらにして中南米や東南アジアのレースが楽しめるようになってきた(たとえばgoogle翻訳したポルトガル語で「Corrida de carros」(「自動車レース」という意味)などとキーワード入力して動画検索すると、ブラジル国内で有名なレースも見て楽しめるし、さらにはブラジルの小さな草レースまでも楽しむことができる)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社(英語版)の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートン(英語版)であった。彼はアルベール・ド・ディオン(英語版)伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアル(英語版)である。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル(英語版)」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 18,
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"text": "ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョー、パナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートルと、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州のシカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレース、ヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスのネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドのキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツのメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "一方、フランスでは1901年にポーで開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (仏: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー (仏: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「英: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ (仏: Automobile Club de France, ACF) が主催して「ACFグランプリ(通称1906年フランスグランプリ)」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マンで開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年はディエップにて、1913年はアミアン、1914年はリヨンと第一次世界大戦が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在のサルト・サーキットの原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には北京〜パリ間レースが開催され、北京からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからはイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品はG.H.MUMMのシャンパン1本だけだった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "翌1908年にはニューヨーク〜パリ間レースが開催された。イタリアのツースト、ドイツのプロトス、アメリカのトーマス・フライヤー、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、モトブロック、シゼール=ノーダンの3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日にニューヨークをスタートしてアメリカ大陸を横断した後にシアトルから日本の横浜へ渡航し、敦賀まで480キロメートルを縦断した。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海を渡りウラジオストクに上陸してシベリアを横断する形でユーラシア大陸を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。 この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリー・ラリーレイドの原型となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが市街地レースや都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "危惧された通り、1903年5月のパリ - マドリード間レースでは、ルノー社の共同創設者であるマルセル・ルノー (1872年 - 1903年5月25日)が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においてのサーキット建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所はナラガンセット・トロット競馬場である。この競技場はトロット競馬場であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」として開催された。 ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。 現存する世界最古のサーキットはミルウォーキー・マイルであり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として1876年に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスのサリーにあったブルックランズサーキットであった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100フィートにも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、三輪自動車などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する第二次世界大戦の影響によって航空機の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "現在、国際自動車連盟 (Fédération Internationale de I'Automobile, FIA) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 (Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。 それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め1923年に「ヨーロッパグランプリ」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットであるアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァで初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスのリオン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、スペインのサン・セバスティアンなどで開催された。これらのグランプリは1931年に「Championship = 選手権」としてまとめられ、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権として年間を通して争われるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "グランプリや選手権を通じて国際的な注目を得たい自動車会社の各マシンはナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に1930年代に入ってからナチス・ドイツのメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、アウディ(アウトウニオン)が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける自動車の速度記録は1928年にイギリスのマルコム・キャンベルが記録した281.44 km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年にメルセデス・ベンツ・W25を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460 km/hを記録。また、アウトウニオンはフェルディナント・ポルシェを起用してアウトウニオン・Pワーゲンを開発。1937年にはベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9 km/hを記録した。 しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。南米では1940年から1942年まで開催され、1940年にサンパウログランプリと冠してブラジルのインテルラゴス・サーキットで開催された。1941年にはブラジルでリオデジャネイログランプリとアルゼンチンでブエノスアイレスグランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加えサンタフェグランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ウィミーユ(英語版)であった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1946年には国際競技としてフランスのサン=クルー、スイスのジュネーヴ市街地、イタリアのトリノで3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 (Commission Sportive Internationale, CSI) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「Formula = フォーミュラ」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンの2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初めて「世界選手権」として開催されるフォーミュラ1(F1)の最初のルールとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1はフォーミュラカーを使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在するスポーツカーを使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでにミッレミリア、ル・マン24時間、RACツーリストトロフィーレースといった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースごと主催団体が違っていた為に、それまで選手権としての統一が実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その為、こうした耐久レースを統一したものとして1953年にスポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された12時間耐久グランプリ、フランコルシャン24時間、国際ADAC1000キロメートルレース、カレラ・パナメリカーナを合わせて計7戦が開催された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "スポーツカーレースの勃興は欧州はもちろん、それまでオーバルサーキット一辺倒であったアメリカのレース文化を大きく刺激し、Can-amやIMSAなどを誕生させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "前述の通り自動車競技の勃興は公道レースからであり、それゆえラリーを始めとするオフロード系レースも古くから存在したが、体系立った選手権・シリーズとしては長らく確立されていなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC(世界ラリー選手権)が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "またWRCと同じく1973年に欧州ラリークロス選手権、1979年にはパリ-ダカール・ラリーが誕生している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "世間で自動車の排ガスによる公害が騒がれ始めた頃の1970年に、アメリカでマスキー法が施行された。自動車メーカーたちはこの画期的なまでに厳しい基準をクリアするために、レースに注ぎ込んでいたリソースを新型のエンジンや触媒を開発するために回し、日本メーカーを中心にレース活動の規模縮小や撤退が相次いだ。1973年には第一次オイル・ショックが自動車業界を直撃し、欧州でもワークス勢の多くが撤退した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "これらの事件の影響は深刻で、各地でレースカテゴリが消滅と再編纂を余儀なくされた。特にメーカー対決を売りにするスポーツカーレースは直撃を受け、北米ではCan-Am(第一期)が、日本では日本グランプリが終焉を迎えた。スポーツカー世界選手権やル・マン24時間でも1975年にはワークス不在という事態に陥ったり、新たに施行したグループ5規定(シルエットフォーミュラ)がすぐポルシェワンメイク状態に収斂してしまったりと、芳しくない状態が続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一方で自動車メーカーに依存しないプライベーターたちが誕生・成長を遂げた時代でもある。元々プライベーターが中心だったF1世界選手権や米国のチャンプカーなどのオープンホイールレースはほとんど影響を受けておらず、日本でもプライベーターたちによるフォーミュラカーレースや富士グランチャンピオンレースなどが誕生した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1980年代に入ってからのモータースポーツ界はグループA・グループB・グループC規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "従来のフォーミュラカーは市販車同様フロントエンジンが主流であったが、1950年代後半にミッドシップエンジン車が登場し始めると、1960年代F1では全車がミッドシップを採用するようになり、「レーシングカーはミッドシップが有利」という常識が一般化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "エンジンパワーが増大化するとともに空力でマシンを下に押さえつける力、つまりダウンフォースを得るという設計も求められるようになった。1960年代はF1やCan-Amなどでリアウィングの装着によりダウンフォースを得るのが主流であったが、乱気流や安全の関係でただ装着すればいいというものではなかったため、かなりの試行錯誤がなされた。1970年代後半に鬼才・コーリン・チャップマンがマシン全体やマシン下部(グランドエフェクト)で空力効果を得る手法を確立し、従来より遥かに安定してダウンフォースを得ることが可能となった。グランドエフェクト自体は特有の安全上のデメリットからしばらく敬遠されたが、その考え方自体は現在まで生き続けている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "またチャップマンはスペースフレームシャシーに代わるものとしてモノコック構造を発明し、現代まで続くフォーミュラカーの構造の基礎を築いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "従来ターボラグが大きく、レーシングカー向きでないとされていたターボチャージャーも1970年代にスポーツカーレースでポルシェ、F1でルノーが活躍し始めると一気に研究が進んだ。F1では1989年に禁止(2014年に解禁)されるまで全盛期を築き上げ、スポーツカーレースではそれ以降も長らく採用が続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "4WD(四輪駆動)もラリーレイドや1980年代のアウディ・クワトロの登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "上述したように、各国で姿かたちやルールの異なる様々な自動車競技が勃興し、それぞれに熱心なファンがついたが、その中でも頭一つ飛び出たのはF1であった。稀代の天才であるバーニー・エクレストンの辣腕により、「F1サーカス」と形容されるような、文字通り世界各国を飛び回る国際的スポーツイベントに成長した。この背景にはTVの普及により、放映権がビジネスとして成立し始めたことも背景にある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "これにより1990年代までには、自動車に興味のない一般大衆にもアイルトン・セナやミハエル・シューマッハといったF1のスターたちの名前は知れ渡るようになった。同時期のスポーツカーレースやWRCも、各メーカーが競って過激かつ多様なマシンを開発してこちらも人気が高かったが、F1の一般大衆への浸透ぶりには及ばなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2000年代になるとメーカーの撤退が相次いだスポーツカーとWRCは勢いを弱めてローカル化が進み、一般人向けとしてはよりF1一強の様相が濃くなっていった。また同じフォーミュラカーレースの中でも、F1とそれ以外(CART、フォーミュラ・ニッポンなど)で人気の2極化が進んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "この間ツーリングカーレースもグループAやスーパーツーリング、スーパー2000規定などでメジャーな存在として一時的に大きな勢力となったが、規則や運営、コストなどの問題により、いずれも数年程度で消滅と誕生を繰り返すような不安定な状態が続いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、ストックカーレースのNASCARがアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降は電子制御技術が発達し、セミオートマチックトランスミッションやトラクションコントロールなどのハイテクな装備が普及した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降日本はおろか欧米でも若者の車離れが叫ばれたり、環境問題への意識が高まるようになると、自動車メーカーにとってのレース参戦の商業的意義・対費用効果にも疑問符がつけられるようになり、それまで自動車競技に熱心であったメーカーが一転してピタリと活動から手を引いてしまう事例が増えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また技術革新が進み、原初の頃に比べると相当にハイレベルな技術と高価なパーツを用いるのが当たり前になってしまったため、それに伴う参入障壁や参戦コストの高さに、メーカーやチームが疲弊して崩壊・消滅するカテゴリも多く見られるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "こうした時代の変化に対応するべく運営側も、参加者の経済的・技術的な負荷を減らしたり、環境技術を宣伝できるような規則を導入して、自動車メーカーの招致に知恵を絞るようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "具体的には",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "など多数のアイディアが存在する。先述の通り自動車競技の覇者となったF1も、こうした時代の流れの前に次々とメーカーを失ったため、上のいくつかの手法を導入して覇権を維持している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2020年代以降は内燃機関を捨てることを宣言するメーカーが続々と登場し始めたため、FIAは純粋なEV(電気自動車)のみで争われるカテゴリを多数誕生させている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "エコ意識の高まりに前後して、性能調整を施すことで多様なレーシングカーを参戦することが可能となる手法が確立された。これによりグループGT3/GT4やグループRally、TCRなどといった、自動車メーカーがプライベーターチーム向けに市販車をレーシングカーに改造して販売する規定が2010年代以降に流行した。メーカーにとっては販売・アフターサービスによる収益に加えて購入者が自社製マシンを走らせてくれることで宣伝効果も得られ、プライベーターにとっては戦闘力の高いマシンを低コストで購入・運用することが可能という、双方に利がある理想的なパッケージングである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ただし一方で、多数のメーカーが参入したことで開発競争の激化によりマシンの価格と運用コストが高騰し、メーカー側からすればビジネスとして採算が取れず、プライベーターからは経済的に手が出せなくなってしまうという問題が散見され始めている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "またあまりに広まりすぎているゆえに、観戦者側からは世界各国のどのレースを見ても同じ規定のカスタマーマシンばかりで退屈という弊害も指摘されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "自動車レース(競技)は、コースの種類で分類する場合、大きく分けて3つに分類できる。(なお例外はある)",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "レース専用のサーキット(レース場)や、公道の一部を閉鎖して臨時に仕立て上げたレースコースなどで行うもの。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "舗装されたクローズドコースにて同時に複数台がスタートし順位を競う。日本では四輪競技は単に「レース」と呼ぶことが多い。(二輪競技はロードレースを呼ぶことが多い)。レースのスタート方式は1周のフォーメーションラップ後に一旦停車を行った状態からシグナルやレース旗によって一斉にスタートを行う「スタンディングスタート方式」と、フォーメーションラップからそのまま車両が加速した状態でスタートを行う「ローリングスタート方式」がある。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "その他にも過去にはル・マン24時間レースで採用されていた「ル・マン方式」というスタート方法もある。ル・マン方式とは車両までドライバーが歩く(駆け寄り)そして速く車両を動かした順にレースをスタートする方式であるが、ジャッキー・イクスがその危険性について苦言を呈し続けた結果、現在のル・マンでは廃止されている。このル・マン方式のスタート方法を踏襲しているのが二輪ロードレースのスタート方式である。スタートの方法は現在ではクラッチスタート方式を採用し、車両まで向かったライダーがセルスターターおよび、キックによるスタートを行って発進する。以前は車両のエンジンがかかっていない状態から各ライダーが押しながらエンジンを起動させる押しがけスタート方式であったが、押しがけの危険性を憂慮して1987年からクラッチスタート方式に切り替わった。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ラリーとラリーレイドは似て非なる競技であり、「本来はタイムを競う競技ではない」ということが念頭に置かれるためにレースとも厳密には違う。スタート方式に関してはラリーもラリーレイドも同じであり、予め主催者側によって公示されたもの及び、大会ランキングなどによってスタート順が決められる。SSのスタート順は直前のタイムコントロール(TCと呼ぶ)を通過順に1分間隔で行われる。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ラリーレイドでは先述のSSとほぼ同じ役割を担う区間であるコンペティションセクション(CSと呼ぶ)が設けられている。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "4輪競技におけるラリー・ラリーレイドにおける最大の特徴は車両運転手であるドライバーと、進路案内や走行速度指示などの補佐を行う「コ・ドライバー」という2名が車両に搭乗して行う点である。ラリードライバーに求められる運転技術はレーシングドライバーに求められる技術と異なる点が多く、競技の特性上、悪路に対する走破技術はもとよりレースにおける「フリー走行」のような練習走行が基本的に存在しないためにドライバー自身の運転感覚、視界からの情報、あるいはコ・ドライバーからのナビゲートによる聴覚からの情報、そして出走順によっては先行車両により非舗装路面が刻々と変化してゆく点もあり、これらの総合的な瞬時の判断から高い臨機応変力が求められる。ドライバーとコ・ドライバーの信頼関係も非常に重要といわれ、1つの車両で行うチームプレイとも言える。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "二輪競技などで行われるラリーレイドは1人で砂漠を走破する技術や度胸、独自の感性や機械的トラブルや人的トラブルに巻き込まれない幸運も求められる。したがって、二輪ラリーレイドは最も危険な自動車競技の1つとして語られることも多く、その根底にはほぼ毎年のように死者を出していることが挙げられる。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "決められた(短い)区間をいかに速く正確にゴールするかを競う。本来はトライアルとは「タイムトライアル」(英: Time Trial) つまりは時間への挑戦を意味し古来はダービー、ボート、自転車競技におけるレースを指したことから、これが派生して欧米では二輪自動車における競技もタイムトライアルと呼称した。その後、「トライアル = Trial」だけで試練・試みという意味を持つことから二輪自動車による複雑な地形(人工的に作られる場合もある)を、いかに足をつかずに走破するかを競う競技をトライアルと呼ぶ。日本では「トライアル競技」と呼ばれる。代表的な競技ではスラローム競技であるジムカーナや、加速競争であるドラッグレースなどがこれにあたる。ダートトライアルという呼称は和製英語であり、欧米ではダートトラックと呼ぶ。したがってその略称である「ダートラ」のほうが本来は呼称として正確である。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "以上の分類に属しないものとして、ドリフト走行による車両姿勢の美しさを競うドリフト競技、一定の速さを保った上で燃費の優劣を競う燃費競争(エコラン)などがある。学生フォーミュラ(フォーミュラSAE、全日本学生フォーミュラ大会など)では、車の速さ以外に設計そのものやプレゼンテーションも評価対象とされ、それらの総合点で順位を決定する。またそもそも動力を持たないカートで争われるソープボックスレースでは、車の見た目の派手さが競技の重要な要素の一つとなっている。",
"title": "コースによる分類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "自動車競技の競技が行われる場所を以下に示す。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "アスファルト舗装されたコースで、閉路になっているために一般的に複数周回を走行し規定周回を走行することで完走となる。サンドトラップやグラベルエリア、ランオフエリアなどを設けられたサーキット(※:イタリアではアウトドローモ)、楕円形のコースを周回する「オーバル」もこれに含まれる。通常の公道よりも舗装が競技向けに作られているのも特徴。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "F1からラリーまでさまざまな競技を行う。競技が可能な道路幅と路面状況であることが開催の条件となる。公道といっても様々で、アスファルト舗装された平坦な路面が通常であるが、古い街並では石畳などもある。通常は一般車両が走行するため、交通量が多い箇所になればなるほど路面に轍状の起伏ができやすくサーキットと比較すると滑りやすい。カテゴリによっては一部の公道を閉鎖してサーキット型の競技を執り行う場合や、スタート地点とフィニッシュ地点が別となる都市間競技など行うなどのケースがある。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "シンガポール市街地コースやバレンシア市街地コースのようにレースを行うことを前提として公道が整備されることもある。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "大勢の観衆が、コース全体を一望できるような常設のスタジアムで行われる場合もある。デモリション・ダービー、8の字レース、モンスタージャムなど、北米発祥の競技では多いパターンである。北米でオーバルレースが盛んなのも、コースを一望できるという点と無関係ではない。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また欧州発祥の競技でも、ラリーのスーパーSSやラリークロス、レーシングカートなどは時折スタジアムでの開催がされることがある。またレース・オブ・チャンピオンズは常にスタジアム内に設置したコースで開催されている。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "一般的にオフロード、ダート、砂漠、草原、雪上(氷上も含む)などを指す。ラリーやオートバイのトライアル競技などに使用され、砂や泥でタイヤのグリップ力が弱まるために当然ながら滑りやすい。公道コースと同じように車両が周回できるようにコースを造って競技を執り行うものや、スタート地点からフィニッシュ地点までコースを制定するもの、あるいはスタートとフィニッシュ、チェックポイントは設けてあるものの、完走するまでの行程でどこを走行しても許可される競技も存在する。",
"title": "競技の場所"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "自動車競技における車両は様々な形態があるが、大きく分けると1市販車をレース用に改造した車両(ツーリングカー/GTカーなど)2市販車の要素を少しだけ残した専用設計車両(プロトタイプレーシングカー、ストックカーなど)3市販車の要素を一切残さない専用設計車両(フォーミュラカー、レーシングカートなど)の3つに分類される。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "また近年は環境問題への意識の高まりから、電気、水素、太陽光発電などといった化石燃料以外を用いるレーシングカーも多数誕生している。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1車両の全てのタイヤが剥き出しになっている2ドライバーの頭部が外部に露出している3シートは1名分のみという3つの形式を満たす車両。このことからオープンホイール、モノポスト(シングルシーター)とも呼ばれる。完全に競技専用車輌として設計されており、前照灯やブレーキランプなどの保安部品は装備していない。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "車輌重量がとにかく軽いため、加速・コーナリング・ブレーキなどあらゆる運動性能がずば抜けて優れている。タイヤが露出している分空気抵抗は小さくないものの、最高速はF1で380km/h前後に達する。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "座席は窮屈で乗り降りも手間がかかるため、基本的に一人一台のスプリントレース向けであり、競技場所も路面が平滑に舗装されたサーキットや公道に限定される。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "近年は安全上の理由から、ほとんどのフォーミュラカーは強化ガラスのスクリーンやHALOと呼ばれる輪っかのような頭部保護デバイスを装着する。また黎明期にはFRや四輪駆動のものも存在したが、現代では駆動レイアウトはMRで完全に統一されている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "一般人が「レーシングカー」と言われて思いつく形状の代名詞であり、まさに四輪レースの華といえる存在である。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "(※主なカテゴリー:F1〜F4、インディカー、スーパーフォーミュラなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "プロトタイプスポーツカーは、フォーミュラカーとは形式が大きく異なる。根本的な違いはタイヤはフェンダーで覆われており、そして実際には使用しないが助手席が設けられた2座席車であり、UNECEが制定するECEレギュレーションに基づく保安基準(※:日本における道路運送車両法の保安基準もこれに準拠)であるヘッドライト・テールライト・ブレーキランプの装着が義務付けられている点である。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "プロトタイプ系の車両は特徴的には市販車に近い点が多く見られるが、フォーミュラ系と同様に純粋なレース専用車両である。先述のECEレギュレーションには適合するように車両の保安基準は準拠しているものの、市販車とは全く別物の形状をしている。これを「プロトタイプレーシングカー」と呼ぶ。これらのプロトタイプレーシングカーはWEC(世界耐久選手権)やUSCC(ユナイテッド・スポーツカー選手権)など耐久レースのカテゴリに多く活躍する。プロトタイプとはその名の通り「試作機」の意味であり、本来は「市販車ではないが、将来の市販化を前提にした少量生産(ゆえに高性能)の試作スポーツカーであり、開発テストのためレースに出ている」というのが原義となる。したがって、同じスポーツカーであってもGTカーとは性質も意味合いも異なる。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "基本的には24時間レベルの耐久レースを主眼に置いて設計されており、長時間の運転やドライバー交代を前提とするため、運転姿勢や乗り降りはフォーミュラカーと比べると楽である。前述の通りライトも完備しているため、夜間走行も問題ない。さらにクローズドボディの場合はエアコンも装備される。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "近年市場参入するメーカーの多いハイパーカーは、プロトタイプレーシングカーに限りなく近いフォルムと性能をしており、2021年にはWECでプロトタイプレーシングカーに代わるカテゴリ(LMハイパーカー)として成立している。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "なおカテゴリの出自によっては単座であったり、ライトが装着されなかったりと、タイヤが覆われただけのフォーミュラカーという実態を持つ場合もある(Can-Am第二期、富士グランチャンピオン第二期など)。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "(※:主なカテゴリー FIA 世界耐久選手権、ル・マン24時間レース、ユナイテッドスポーツカー選手権、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "メカニズム的にはツーリングカーの一種だが、レースの形態や歴史的にはプロトタイプとツーリングカーの中間に位置する存在である。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "一般的には市販のスーパーカーを改造した車両や、それに匹敵する戦闘力を持ったツーリングカーのことを指す。しかし歴史を遡ると、実態は明らかにプロトタイプスポーツカーなのに、一台のみの公道仕様を制作すれば参戦できる規定が『GT1』の名称で1990年代に施行されていたこともある。またプロトタイプスポーツカーが前項で述べた通り公道車の試作版という建前と戦闘力の近さから、プロトタイプスポーツカーが走る耐久レースのほとんどではGTカーも同時に走る。この混走レースやGTカーのみのレースを、ひとくくりに「スポーツカーレース」と呼ぶ。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "GTカーの原義はグランド・ツアラー、グランツーリスモ (英: Grand Tourer , 伊: Gran Turismo)である。GTとは「大旅行」を意味しており、これが派生してアメリカSCCAにおけるトランザムシリーズの名称のように\" Trans-AM = Trans-America = アメリカ横断 \"という意味になぞられる。そのためスプリントに特化したフォーミュラ系の車両とは異なり、元々は耐久レース(長距離レース)を念頭に開発されたマシンであることが窺える(ただし実際はスプリントレースも多い)。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "世界的には00年代に改造範囲によってグループGT1からGT4までが存在したが、現在はほぼグループGT3とグループGT4のみである。日本ではSUPER GTが日本で最も人気のあるレースとなっており、特にプリウスをGT化したマシンがフェラーリやマクラーレンのスーパーカー勢と互角以上に渡り合うのがここ10年の風物詩となっている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "(※:主なカテゴリー IGTC、GTワールドチャレンジ、SUPER GTなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "ツーリングカーは街中でよく見るような市販車をレース用に改造した車両である。前出のGTカーとの境界線は極めて曖昧だが、ツーリングカーは大衆車~中級車クラスがベースとなっている事が多い。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "ツーリングカー競技に参戦する車両は、参戦する車両(自動車会社)が標準として定めるボディを基礎とし、これをルールによってエンジン、サスペンション、ブレーキ、ホイールとタイヤなど変更が許される範囲の物が使用される。骨格以外は市販車とは全くの別物であるのが一般的である。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "参加者としては参加車両を確保しやすく、レース観戦者側から見ても内容が判りやすく白熱しやすいことから、自動車競技の中で最も基本的でポピュラーなカテゴリーの1つとも言える。参戦費用が比較的廉価でありながらもレース自体の奥深さからF1を引退した後に自身の新境地としてツーリングカーに参戦するドライバーも多く、こうした事から観戦者の関心もメーカー側の宣伝に対する費用対効果も相して高いことからもさまざまなメーカーがスポンサーとして参入しやすいのも特徴である。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "一方でプロフェッショナルレベルで長期間歴史を紡ぎ続けることのできるツーリングカーシリーズは世界的に見ても少ない。これはツーリングカーレースが市販車をベースにする以上、ベース車両の人気の偏りゆえに参戦車種も偏ったり、自動車ファンの興味を惹けないような車種ばかりになってしまったり、優秀なベース車両を量産するコストに自動車メーカーが耐えられなくなったり、逆に劣ったベース車両を改造するのに莫大なコストを費やさざるをえなかったりと、市販車の事情によってレースの事情も大きく左右されてしまうからである。現代ではそうした反省から現代のプロのツーリングカーレースは、外観は多様に見えても、中身は共通コンポーネントや共通エンジンを用いたり、空力開発を制限してコストを削減しつつ車種のバラエティを維持している場合が多い。加えてスプリント形式の場合はレースでポイントを加算するにつれて「鉛のトロフィー」と呼ばれるハンデキャップ用のウェイト(バラスト)を次戦から装着することで、参加者同士のスピードの開きを無くし、弱小エントラントの参加意欲を促すことも珍しくない。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "レースの形態はスプリントから耐久まで幅広いが、国際シリーズの場合はタイヤ交換を必要としない程度の周回のスプリントレースを同じ週末に2~3ヒート開催する事が多い。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "(※主なカテゴリー:WTCR、DTM、BTCC、スーパー耐久 など)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ラリーは基本的に市販車を改造したマシンで行われるため、外観はツーリングカーと非常によく似ている。しかしラリーでは舗装された公道(ターマック)から平坦な砂利道(スムースグラベル)、さらには人間の頭大の岩が転がる荒れた砂利道(ラフグラベル)などの悪路を市販車の設計段階では考えられない速度で走行するため、車体にはツーリングカーに使用される車両以上の頑強な補強が求められる。ラリーに使用される車両はまず一度完全に分解され、内装には頑強なスチール製のロールケージが組み込まれる。これによって事故発生時の乗員の安全性を確保している。レギュレーション次第ではスポット増しも行われ、ロールケージと合わせることで車体剛性が飛躍的に高まるためにドリフト走行がしやすい基本的な車両構造となる。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "ボンネット内は熱対策が施される。カテゴリによってホモロゲーションの違いがあり改造可能は様々ではあるものの、ラリー競技は比較的低速な状態でエンジンを高回転に回す必要があるため、その対策も必須となる。先述のような悪路を常識では考えられない速度で走破するため、車の下回り(オイルパンやデフ)を保護するためのアンダーガードを装着しているのが特徴である。さらに上記の場所を走行するため、サスペンションもストローク量が大きい物を装着し、車高も走行する路面の状況に合わせて高くするときも低くするときもある。ラリーカーもツーリングカーと同じく2席のシートが設けられているが、ラリー・ラリーレイドではこのシートにコ・ドライバーが座る。彼らはドライバーに情報を送るためにペースノートや資料を読み上げる必要性があり、そのためにナビランプと呼ばれるコ・ドライバーの手元のみを照らす照明器具が装備されているのも特徴である。ギアボックスに関してはどのカテゴリの車両よりも低い速域で非常に高い値のギアレシオのギアが装着される傾向がある。リアウィングに関しては低速域から高いダウンフォースを発揮できる構造の物が求められるため、そうした要求を発揮するために「スプリッターリアウイング(※:通称、本棚ウィング)」などラリー用に作られた独自の形状をしたウィングが使用される。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "(※主なカテゴリ:WRC、ERC、APRC、JRC など)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "ラリーとラリーレイドは公道でレースを行うという性質上、最低限の公道規則に合致する必要があったり、ナビゲーター用の助手席やスペアタイヤや工具などを装備する必要があるなどの共通点はあるが、車両のシルエットには大きな違いが見られる。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "ラリーカーは伝統的に小型の市販乗用車の形をしているのに対し、ラリーレイド用のクロスカントリーカーは市販のラダーフレーム構造のSUV、ピックアップトラック、SSVのようなバギーカー、さらにはトラック(後述)まで大きさも多様な種類のものが存在している。これらはいずれもFIAのグループT規定の下に、クロスカントリーカーとしてまとめられている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "ラリーに比べると俊敏さよりも砂漠や急斜面での確実な走破性が必要となり、従って求められるサスペンションストローク量やタイヤサイズは巨大なものになる。またクラスによっては、タイヤの内圧調整をコックピットからできるシステムを搭載している場合もある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "(※主なカテゴリ:W2RC、ダカール・ラリー、アブダビ・デザートチャレンジ、シルクウェイ・ラリーなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "南北アメリカ大陸におけるレースで、最もポピュラーな自動車競技車両の1つである。ひとえにストックカーとは「見た目が乗用車と同じマシン」という曖昧な定義からなされるため、ほぼ無改造の車両から完全なレーシングマシンまで存在する。後者に関してはツーリングカーに似ているが、ツーリングカーの様な市販車改造車両ではなくストックカーは完全なレース専用設計車両である。ただしGTカーのように最高技術の結晶のような車両かといえば違い、エンジンはOHVであることからも一見して現在の自動車テクノロジーから後退した構造に見受けられる。 しかし、その単純な構造から高い回転数と馬力を生み出し、大排気量エンジンから圧倒的なトルクが生み出される事から非常に高い水準の技術から造られているのが分かる。ストックカーは他のレーシングマシンと比較して重い車両であり、ほぼ市販車と変わらないくらいの重量を誇る。そのボディ構造はアルミニウムと鉄からなるパイプフレームにグラスファイバー製のボディを被せて完成する。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "現在のストックカーはライト類(前照灯、尾灯)が存在しているかのように見えるが、本来の市販車ならばライト類がある場所にその形状を模したシールや塗装を施しているだけであり、実際にはライト類は装備されていない。ドアの継ぎ目が見受けられないことから分かる通り、ドライバーの乗降は窓から行う。レースの性質上、ほかの車両と接触することが多いために比較的ボディ強度は高い。 代表的なストックカーレースはNASCARであるが、この他にIMCAなど開催されるストックカーレースもある。IMCA系のストックカーレースはダートトラックで行われることが多いが、根本的な構造はNASCARと変わりはない。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ストックカーの中でも旧車両を使用したレースなども開催され、こうしたものを「レイトカー」(英: late car)と呼ぶ。レイトカーは古いストックカー車両を使用しているため、現在のストックカーのようにグラスファイバー製のボディを被せたりしたものは少ない。レイトカーの多くが前者にあたる「市販車改造車両」が多く、ライト類が装備されているものや、ドアの開閉が可能なものもある。ストックカーの歴史からみてこれらレイトカーのように古来は適合するホモロゲーションをクリアする事を前提に軽量化のためにボディを1度分解してその各ボディを酸に浸すことによってわずかでもボディを薄くして軽量化を施したり、市販品ならば使用しても良いというホモロゲーションルールから市販品でも非常に高価なものを装備するなど、参戦費用が莫大になっても少しでも速いマシンを手に入れるために工夫がなされていた。こうしたことからストックカーは市販車改造車両をベースとしたものであったが、低コストと高い安全性を両立するという観点から手法を模索していった結果、完全独自設計車両に進化していったことがうかがえる。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "(※主なカテゴリー:NASCAR、IMCA、ストックカー・ブラジルなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "レース用の貨物自動車(トラック、カミオン)も存在する。競技に使用されるトラックは、多くの場合競技専用に開発された車両が使用される。そのため見た目はトラックのように見えても、貨物自動車本来の「貨物を運ぶ」という機能は持たないのが一般的である。ラリーレイドではスペアパーツなどの運搬のために別途「サポートカミオン」と呼ばれる通常のトラックが投入されるが、それらは一応競技参加車両ではあるものの順位争いには参加しない(そもそも競技専用車両とは性能が違いすぎるため競走が成り立たない)。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "トラックのレースは日本ではあまりなじみがないが、日本国外ではフォーミュラ・トラック(大型トラクター)やNASCARキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ(ライトトラック/ピックアップトラック)など、カテゴリが多数存在する(キャンピング・ワールド・トラック・シリーズはストックカー系にも分類される)。またラリーレイドでは、通常のラリーカーによって争われるクラス以外に競技用カミオンによって争われるクラスが設けられることが多く、特にダカール・ラリーにおけるカミオンクラスは一つの名物となっている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ヒルクライムレースとして長い歴史を持つアメリカのパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにも、「セムアイ」と呼ばれる大型トラクターのエキシビションがあり、その豪快な走りぶりから同イベントの名物として人気が高い。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "1/4マイル(約402m = 約0.4km)という短い競技区間でのタイムを競う。競技はドラッグストリップと呼ばれる直線の専用レース場で行われる。スタート前にバーンアウト(バーンナウトとも)を行い、クリスマスツリーと呼ばれる電光スタートシステムに従ってスタートを切り、急激に加速、フィニッシュラインを越えると減速が行われる。上位クラスの車両ではブレーキが車両の加速力に見合わない設計になっているため、パラシュートを用いて空気抵抗による減速を行う。ボディ形状はオープンホイールやクローズドボディのスペースフレームからノーマル車両まで様々で、エンジンやその他の補機類に至るまで細かくクラス分けがされている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "最も速いクラスはトップ・フューエル、続いてファニーカーであり、これらのクラスはニトロメタンが90%を占める特殊な燃料を使用する。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "北米ではストックカーに続く高い人気を誇る。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "(※主な主催団体:NHRA、IHRA、ANDRAなど)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "ソーラーカーや電気自動車に代表される、内燃機関以外の動力を用いる自動車もレースに使用される。ソーラーカーの場合はレースに参加するチームがそれぞれ独自に車両を開発することが多い。電気自動車については、市販車を改造するタイプからフォーミュラカーまで様々なタイプのものが開発されている。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "歴史的にはソーラーカーレースが1985年より行われており、著名なレースとしてワールド・ソーラー・チャレンジなどがある。1990年代からは電気自動車によるレースも徐々に開催されるようになっており、1994年より2004年までフォーミュラ・ライトニングが開催され、2014年よりFIAがフォーミュラEの名称で電気フォーミュラカーによるメジャーカテゴリを誕生させている。2021年には電気自動車によるオフロードレース「エクストリームE」や電気自動車のツーリングカーによるE-TCRが登場し、さらに将来は世界ラリークロス選手権でも電気自動車が導入されるなど、将来の内燃機関の禁止に向けた対応が加速している。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "また純然たる代替エネルギーではないが、近年ではル・マン24時間レースやF1、スーパーGT、WRC等のカテゴリーに於いて、ハイブリッドシステムを導入する競技も増加している。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "市販車改造系で、比較的一般参加が容易なものとされる。特徴としては多くの競技参加者が自ら所有する車両を改造し、ドリフト走行に適した改造を施している点である。したがって、他の自動車競技よりも改造や競技参加のための資金が廉価で済む傾向がある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "ドリフト系競技の中で代表的な競技にとして、全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の様に純粋にドリフト走行の技術を審査する競技が挙げられる。この競技はドリフト走行を行う上で初歩的な改造から上級者向けの改造まで様々なものがあるが、初歩的な方法として車両の前後のバランスを変えることから始める事も可能であり、そのためドリフトを始めるハードルは低い。しかし、その反面にドリフトを行うには車両の動きをよく理解している必要もあり、自分が所持する車両を用いてかつ、その特性を見極めてセッティングを行っていかなくてはならない。また、前述のD1グランプリのような大きな自動車競技大会に参加する車両の中にはツーリングカー競技に参加するほどのレベルにまで改造を施している場合もある。D1グランプリを含むドリフト審査競技は、競技の在り方が「速さを競う」ではなく、ドリフトの豪快さや美しさを競う審査方式であるため、ツーリングカー系やラリーカー系などの市販車改造系と根本的な改造方法が異なり、特に観客を魅せるドリフトを追求した改造方法となる。一般的にはブーストアップや後付けターボチャージャーに比較的小型のタービンを装備するなど小改造に留めておいたほうが、低回転域のトルクが稼げるためにドリフト走行はしやすくなるが、大きな大会に出場する程の車両になると、タイヤからの白煙を出しやすくするためにタービンを大型化するなどさらなる改造が施される。これはタイヤスモークを出すことがドリフト審査における加点対象であり、これらのことからもドリフト競技車両は単にドライバーがドリフトをしやすいように改造されただけでなく、観客に対していかに豪快で華麗なドリフトを魅せることができるかを追求して改造された車両であることが窺える。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "(※主な主催団体:全日本プロドリフト選手権、フォーミュラ・ドリフト、ドリフトマッスル)",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "スラローム競技の代表格としてジムカーナが挙げられる。ジムカーナはモータースポーツライセンスの国内B級ライセンスで行える競技であり、競技も小規模なサーキットや舗装された広い駐車場などでも行うことができる。英語圏では「オートクロス」と呼ばれている競技とも非常に良く似ているが、一般的にジムカーナのほうが高い技術を要するといわれている。ドリフト系競技と同様に競技人口も多い。その背景にはドリフト系と同じく他の自動車競技と比較してもハードルが低い競技であり、参加する車両も基本的には市販車を小改造したもので行われる。したがって参戦費用も廉価である。改造はサスペンションなどの足回りや車体剛性の強化、そしてブレーキの強化などがあげられる。サスペンションや剛性の強化はハンドリングの向上を主な目的とし、ブレーキの強化もサイドターンを行う場合に車両前方に荷重を移動しやすくさせるためである。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "この他、ジムカーナはパイロンのスラローム競技である為、競技参加車両が痛む可能性が低く安全性も非常に高い。したがって、衝撃に対する補強などはあまり行われない反面、競技車両を徹底的に軽量化されることもある。これに対し、砂利や泥の上で行われるスラローム競技であるダートトライアルは、競技に使用される車両の特徴や改造方法はあまり変わらない、未舗装路面で競技が行われる為、ジムカーナ競技よりも保安装備を厳重にする必要がある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "なお、これらの競技クラスによっては一部ではフォーミュラカーでも参加する場合もある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "速さではなく燃費を競う燃費競争では、シェル エコマラソンへの参加車両のように動力については競技専用に開発される場合が多いが、Honda エコ マイレッジ チャレンジのようにホンダ・カブなど燃費の良さで知られる市販車エンジンを改造して使用するクラスが設けられるものもある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "以上の分類に属しない車による競技も多数存在する。いくつか例を挙げると、ミジェットカー(ダートオーバル専用マシン)や、富士グランチャンピオンレースの後期(フォーミュラカーのモノコックにスポーツカー風のフルカウルを被せたマシン)、上記の複数のカテゴリーのマシンが混在して参加するレース(ドラッグレース、ヒルクライムなど)がある。",
"title": "競技車両による分類"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "自動車レース(競技)への参加者は、参加形態という観点からは、大まかに言うと、ワークス/プライベーター/セミワークスの3つに分類される。またスポンサーも、広い意味での自動車レース参加者である(後述)。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "トヨタや日産などの、市販自動車メーカー(マニュファクチャラー)が自社の資金・人材・技術を使用して組織した直系チーム。タイヤなどの部品メーカーの場合も含まれることがある。「ファクトリー・チーム」ともいう。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "長所としては豊富な資金力と自動車製造企業というあらゆる設備が整った母体を背景に自動車競技に参入できるため、一般的に強豪チームとして成果を上げやすい。その反面、景気や企業の業績、世界情勢などコース外での変化の影響を受けやすい。株主や社内の反対派の反発を受け、ワークスが撤退を余儀なくされるのは珍しい話ではない。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "ワークスの参戦は多くの自動車ファン・一般人の耳目を集めやすいため、運営はワークスの参入を促すような規則を設定する傾向にある。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "ワークスではないレーシングチームや、個人参戦者全般を指す。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "長所としては、個人やチームの運営能力やノウハウだけで競技を行うことができること、純粋にレースへの情熱で参戦を継続できるなど、さまざまな制約から解き放たれている点である。一方で自動車製造のノウハウや資金が少ない場合も多く、トップカテゴリで勝利するまでにはワークス以上の投資が必要となる。レース運営側はプライベーター向けに低コストに参戦できる規定を導入する場合があるが、そちらの規則が戦闘力や販促の都合上有利と見たワークスチームが潤沢な資金力で利用してしまい、議論を呼ぶ場合もある。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "特に大規模なカテゴリになればなるほどプライベーターはワークスよりも高いノウハウと資金力が必要とされ、潤沢な資金力を作り出すことができるなんらかの「母体」となる事業や企業が必要とされる。母体となる企業はチューニングショップや自動車販売店に始まり、工業製品メーカー、アミューズメント、飲料メーカー、衣服メーカー、雑誌出版社...など様々で、経営者が自らもレーサーとして参戦するほどの自動車好きの場合もあれば、全くレースに興味は無いが自社の宣伝のためだけに利用しようとする場合もある。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "長年レースを経験している老舗のプライベーターは強大な力を持っているため、ワークスをもってしても打ち破るのは困難である。そうしたプライベーターは、自動車メーカーからの依頼でマシン開発・チーム運営の協力やOEM供給、さらにはワークスの看板を背負ってのレース活動を行う場合もある(後述)。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "最初はプライベーターであったが、後に車両開発ノウハウを活かして市販車メーカーとなり、ワークスへ変貌を遂げたチームもある。フェラーリやマクラーレンなどがその代表的な例である。またフォードやホンダのように、創業者が個人参戦者としての経歴を持っている市販車ブランドも珍しくない。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "市販車メーカーが支援するプライベーターのこと。市販車メーカーがマシンや所属ドライバー、技術スタッフ、資金などをプライベーターに送りこんで支援する。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "市販車メーカー側は純粋なワークス体制と比べて初期投資・継続参戦コストが大幅に軽減でき、プライベーター側も自動車製造会社からのさまざまな恩恵によって運営資金を軽減しつつ高い戦闘力を得ることが可能となる。また運営が「ワークスチームの参戦禁止」を謳うカテゴリでも、「プライベーターを支援」という体裁を主張してかいくぐることが多くの場合可能である。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "総じてコストパフォーマンスに優れているため、純粋なワークス体制よりも多く見られる参戦形態である。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "短所としては、両者の運営方針の違いや温度差で制限が発生する点である。それぞれにノウハウや主義などの要素が交錯するために、効果も副作用もワークスとプライベーターの中間的な位置付けになってしまう傾向がある。市販車メーカーが本腰を入れる場合はそのデメリットを回避するため、多額の資金と引き換えに完全にプライベーター側を支配する形で「ワークス化」することもある。",
"title": "レース参加者の大分類"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "スポンサーシップ (英: Sponsorship) とは「後援」を意味し、その名の通りチームや選手に対して技術や資金を提供することである。こうした資金と技術提供者をスポンサーと呼ぶ。自動車競技におけるスポンサーは、大きく分けて「テクニカルスポンサー」と「コマーシャルスポンサー」の2つが存在する。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "自動車競技において選手・チームが優秀な成績をあげることは、その選手・チームに携わる自動車および自動車関連部品のイメージアップにも繋がる。そのため製造各社はさまざまなかたちで競技参加者を支援しており、個人の参加車にもサポートをする。先述のセミワークスもこれに該当し、車体だけでなく部品供給などの恩恵を与えることでこれらの当該企業の営利的な目的にもなる。こうしたことからもセミワークス体制は「テクニカルスポンサー」を受けたプライベーターという解釈も可能である。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "また競技の参加は基本的に多額の資金やメカニック・エンジニアなどのスタッフが必要になるため、競技参加者は自動車製造会社だけではなく、広く経済社会全体からスポンサーを見つける努力を行う事が常となる。スポンサーによる資金の提供を受けた場合は、選手のレーシングスーツ(ユニフォーム広告)や車体にスポンサーのロゴの掲示やコーポレートカラーとする「コマーシャルスポンサー」が一般的である。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "自動車競技におけるスポンサーは1960年代後半に入ってから行われるようになり、F1のチーム・ロータス以降に車体にスポンサー企業や団体を掲載し、さらにメインスポンサーが求めるカラーリングで車両を塗装する「スポンサーカラー」という手法が確立した。その収入によってより強力なチーム体制を身につけることに成功した背景から、自動車競技は「走る広告塔」と比喩されるまでになった。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "自動車競技はチームとは別にドライバー個人に対しスポンサーが付く場合も少なくないのが特徴である。これを「パーソナルスポンサー」と呼ぶ。パーソナルスポンサーはコマーシャルスポンサーの一種であり、このスポンサーがチームにも持ち込む資金を見込んでプライベーターチーム側がドライバーに対する契約締結の条件にするケースも珍しくはない。これはチーム運営にかかるコストが莫大である自動車競技という競技の特性が大きな要因である。必然的にスポンサーになる企業もその広告費の高さから比較的大きな企業に限られる。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "資金不足が顕わになったチームは、ドライバーの競技の実力よりも、多額のスポンサー資金を持ち込んでくれるドライバーを選ぶ傾向が強い。特に下位カテゴリから昇格を目指す新人ドライバーは、それまで戦ってきたカテゴリでの特筆される実績とプラス(あるいは実績とは関係なく)して、スポンサー資金を要求されることは往々にしてある。通常はドライバーもスポーツ選手と同じく一つの職業であり、彼らと同等に戦果や奮闘の対価としてチーム側から契約金や年俸などが支払われ利益を得るのが常ではあるが、ペイドライバーの場合は反対にチーム側からの支払いを一切受けることがない、あるいはごくわずかな年俸などを得てチームのレギュラーシートに座る。そしてシートの見返りとしてドライバーが持ち込んだスポンサー企業がチームに付き、スポンサー料をチーム側に支払う。このように競技の実力以上にスポンサー資金の額の多さによってシートを得たドライバーは、時には揶揄のニュアンスも含んで『ペイドライバー (英: Paying Driver)』 と呼ばれている。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "時としてこうしたスポンサー目当ての新人ドライバー契約が問題視される場合もある反面、潤沢な資金力による長期的なレースへの参加により成長して実力も伴うようになり、結果的にドライバーが大成するケースも多々ある。また新人ドライバーが資金不足に苦しみながら活躍して才覚を披露した後に大規模スポンサーがつくというケースもあるため、一概にペイドライバーを悪とは決めつけづらい側面もある。 チーム側としてはチームの存続は運営上の重要事項であるため当然とする見方もある一方、ペイドライバーを雇うようなチームだと思われるのは好ましくないと考えるところもあり、ペイドライバーについては評価が分かれる。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "スポンサー企業の傾向としては、サスペンション・エンジンオイル・タイヤなど勝敗に直結する部品から、ランプ、ワイパーなどのような細かい部品を含め、自動車関連部品を取り扱う企業が多い。しかしこの場合は大金を提供されるより、部品を割安あるいは無償供給されているという場合が多い。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "潤沢な資金力を持つ産業として、以前はマールボロを代表とするタバコ企業が幅を利かせていた。しかし1980年代後半よりEU諸国から始まったたばこ広告規制強化によって、たばこ広告の縮小を始める。この規制はイギリスで最初に行われ、F1においてもイギリスGPではタバコ銘柄の名称を記載する行為を禁止した。この風習は後の喫煙問題によってEU諸国に広がり、現在ではヨーロッパ諸国全土においてたばこ広告の掲載は禁止されている。北米でもウィンストンを展開するR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーが、30年近くに渡り続けてきた冠スポンサ-を2003年で降板した。近年では車体に描かれる図柄がたばこ広告に似ている、あるいはサブリミナル効果としてタバコを連想させるというだけで問題視される傾向にあり、事実上たばこ広告は完全排除されている。この他にも、アルコール飲料のスポンサーも、飲酒運転やアルコール依存症などの問題で規制される傾向にある。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "タバコ産業が撤退した後にはレッドブル、モンスターエナジー、ロックスターといったエナジードリンクメーカーが台頭している。またマイクロソフトやレノボ、ヒューレット・パッカード、ドコモ、KDDIなどの大手IT企業もスポンサーとして名乗りを上げることが増えている。IT企業は基本的にはコマーシャルスポンサーであるが、現物支給としてワークステーションやスーパーコンピュータなどの自社製品やIT技術者をチームに提供し、数値解析で車両開発を支援するなどテクニカルスポンサーとして活動する企業もある。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "日本の自動車競技のスポンサーはパチンコ・スロットを主力とするアミューズメント系企業のスポンサーが多いことや、アニメ・漫画・ゲームなどの二次元産業とのタイアップにより痛車が参戦しているのが特徴である。",
"title": "スポンサーシップ"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "使う道具の優劣を競う面も持つ自動車競技の規則には、大別してスポーティングレギュレーション(競技規則)とテクニカル・レギュレーション(技術規則)の2種類が存在する。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "規則はカテゴリによって様々であるが、資金力で優劣が決しやすく、参加者の出入りが激しい自動車競技の規則は、自由な競争と性能均衡という二律背反の事項を両立するために知恵が絞られているのが大きな特徴と言える。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "車両の構造物・部品の多くは、運営からホモロゲーション(公認)を得た物でなければ使用できない。構造物・部品を新規に開発する場合は、そのたびに公認を取得する必要がある。ただし現代においては公認取得の回数は制限されている場合が多い。これは規模の大きいチームが資金力に物を言わせて開発を続々と進め、他の資金力で劣るチームたちがついていけなくなるような状況を避けるためであり、ひいては参戦コストを下げてチームの新規参入や継続的参戦を促すためである。この回数を制限されているホモロゲーションの取得の権利は、カテゴリによっては「ジョーカー」などと呼ばれている。一年間に複数回取得できるならまだいい方で、構造物や部位によっては、1回ホモロゲーションを取得したら数年に渡って使用しなければならない場合もある。トップカテゴリでは特にホモロゲーションの取得回数制限が厳しい傾向があり、基本設計のミス次第では以降数年間の優劣を決定してしまうこともある。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "技術的に規則に合致していることはもちろんであるが、ツーリングカーやラリーのように市販車との関連性を重視する競技では、市場で最低数百ないし数千レベルで生産・販売されていることがホモロゲーション取得条件に設定されている。一見すると不利に見えるような市販車をベースにしているケースの多くは、この最低生産台数が理由である。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "現代のレースでよく用いられる規則として、性能調整(Balance of Performance、BoPとも)が存在する。これは各メーカーが自由に開発しホモロゲーションを取得した競技車両たちに、運営側が共通のテストやアルゴリズムの下に計算した上で、ウェイト(重量物)やリストリクターの装着、燃料タンク容量の増減などを行い、戦闘力を均一にするものである。これにより参戦車種のバラエティを増やし、参加者もファンも楽しませることが可能となるが、一方で100%正確に戦闘力を均一にするのは不可能であるため、どうしても異なるサーキットやコンディションにおける有利・不利が出てしまう。そのため参加者やファンが勝敗の原因を実力ではなく性能調整のせいにし、喧嘩に近い議論を呼ぶこともある。また有利な性能調整を受けられるように、参加者が公式練習や予選でわざと本気を出さないで性能調整のやり直しを求めるという駆け引きもあり、これもよく議論の対象となっている。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "同じような概念で、GTやツーリングカーレースでよく用いられるものにサクセスバラストやウェイトハンデがある。性能調整はレース本番前だが、これらはレース後の結果に対して課せられるウェイトやリストリクターのハンデで、性能調整に比べると事後的ではあるため効果が出るのは遅いが、その分公平性を期しやすいメリットがある。しかしこちらも「勝ったチームがペナルティを課せられているみたいだ」「強いチームほど勝てなくなるのはおかしい」などの批判が事あるごとに沸き起こっている。またポイントシステムや残りレース数などを計算した上で、わざとライバルを前に行かせて後のレースを有利にするような駆け引きが行われることがあり、複数の参加者が同じことを考えていると、速さを競うレースなのに前を譲り合うような、ともすると情けない光景が繰り広げられることもある。そのためSUPER GTでは、最終2戦でハンデを軽減あるいはゼロにすることで、そうした事態を避けている。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "上記の手法はすべての自動車競技で用いられているわけではなく、例えばフォーミュラカーレースではあまり見られない。しかしそこでも異なるエンジン気筒数や排気量、駆動レイアウトなどが混在している場合、それらの勢力均衡させるために開発前に配られるレギュレーションの段階で異なる参加条件(エンジン回転数や最低重量など)が設定されたことはあり、そのバランスをめぐってやはり議論が何度も繰り返されてきた。そのため現在では、エンジンのバラエティを追求するよりも、公平さを重視して気筒数・排気量を完全に統一した上で開発競争を行うカテゴリが主流となっている。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "突き詰めると全員が同じ車体・同じ部品を使う「ワンメイク」が最も平等で簡単な解決策に見えるが、それでは車種や技術のバラエティが無く、開発競争に興味を持つ企業やエンジニア、ファンを惹きつけられないという別方向の問題が浮上する。なるべく多くの参加者とファンが納得できるようなレギュレーション作りは、自動車競技運営の永遠の課題である。",
"title": "レギュレーション(規則)"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "下記の3つのレースは「世界三大レース」と呼ばれる。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "これらのレースはそれぞれが「レースの象徴」といっても過言ではなく、同時に第二次世界大戦前から始まっているほどの長き伝統のあるレースでもある。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "インディ500が開催されるインディアナポリス・モーター・スピードウェイでは、平均時速が約350km/hに達する超高速のレースが3時間にわたって繰り広げられる。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "モナコグランプリはモナコ公国の中心地であるモンテカルロ市街地コースで行われるレースである。F1マシンという超高性能車両を駆使して繰り広げられるこのレースは平均時速160km/h程度とF1では超低速コースではあるものの、コース幅が非常に狭く、エスケープゾーンもほとんどないためにミスが許されない。このようなレースを78周にわたって1時間40分近く繰り広げられるため、ドライバーの力量が大きく問われる屈指の難コースとして知られる。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "ル・マン24時間レースが開催されるサルト・サーキットは1周が13.605kmのロングコースであり、これに加えて1つの車両を24時間かけて走り続ける耐久レースである。ドライバーの交代はあるものの、速さはもとよりマシンの信頼性も問われ、さらにはそれぞれのドライバーの運転能力以外に集中力の限界までも挑戦させる。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "この世界3大レースのそれぞれで多数の優勝記録を持つドライバーが存在するものの、世界3大レースを全てを制したドライバーは2021年現在でもグラハム・ヒルのみである。",
"title": "主な大会"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "自動車競技ではレース中の主催者からドライバーへの情報提供や指示に旗を用いる。その色の意味は以下の通りである。掲示方法には、掲げたままの「静止」と、振る「振動」とがあり、両者で指示内容が異なる場合がある。",
"title": "旗の色の意味"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "時速数十kmから数百kmという高速で移動しながら0.1秒を削る競走をしつつ、時にはその速さでマシンが触れ合うようなバトルを行う自動車競技では、命に関わる重大事故はつきものである。これはアマチュアはもちろんのこと、どんなに卓越した腕を持ったプロのレーシングドライバーでも同じである。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "近年では、車両規定の変更や新素材開発などによる競技車両の安全性の向上にとどまらず、レース場の設計上の安全性や医療体制の充実など、事故の発生防止と、事故の被害を最小限に抑える努力がなされている。その結果、大きな事故は減少し、事故による被害も縮小してきている。下記の死亡事故に代表されるような犠牲者たちの上に、そうした安全は成り立っているといえる。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "最初の死亡事故は1896年5月1日(5月2日?)にペリグー近郊で開催された「ペリグー公道レース」にてマルキス(アンドレ)・ドゥ・モンティニャック侯爵が死亡したのが、記録に残る初のレース死亡事故とされる。前方を走る他の競技参加車両を追い越そうとモンティニャック侯爵が無謀な運転を行ったとされ、侯爵の車両は接触により横転し、この事故によってモンティニャック侯爵は死亡した。推定速度は40km/hだったと言われる。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "観客を巻き込んだ死亡事故として初めて記録されるのは、自動車競技の歴史でも前述したマルセル・ルノーが起こした事故である。上記のモンティニャク侯爵の頃は平均時速25km/h程度で、40km/hでも危険な速度と言われていた時期であったが、1900年には既に平均時速は60km/hを超え、ルノーの事故の頃にはさらに自動車性能は著しい向上をみせ、レース参加者だけでなくその観戦者の人命について危惧された矢先の出来事であった。この事故によって国際的な世論にまで発展し、公道レースを認めない自治体が急増してサーキット建設の必要性が問われることとなった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "ル・マン24時間レースにおいては、1955年6月11日に発生したメルセデス・ベンツの死亡事故が自動車競技における最大の死亡事故であるといわれる。 ドライバーのピエール・ルヴェーが駆るメルセデス・ベンツ・300SLRが爆発炎上し、ルヴェーと観客・スタッフ含む81名が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。また、この前後にもF1のアルベルト・アスカリがテスト中に事故死し、インディ500で3連覇を目指したビル・ブコビッチが多重クラッシュにより死亡するなど自動車競技に悲劇的な事故が連続し、ル・マンでの事故を契機にメルセデス・ベンツがレースの舞台から撤退するなどレース界に激震を走らせたが、レースに対する安全対策とマシンの性能抑制という意識改革をもたらすきっかけとなった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "F1においてもドライバーやチーム関係者、そして観客を含めて多くの死亡事故が発生している。特に黎明期は鋭利化したバリアによって首を切断されたヘルムート・コイニクの事故や身体を真っ二つに切り裂かれたフランソワ・セベールの事故のような凄惨な事故が起きた。またコース・マーシャルの配置が現在より乏しかった事と、マーシャルがレース開催中のサーキットを安易に横断することが当たり前だったことなどからトム・プライスの事故の様な死亡事故も発生した。ジル・ヴィルヌーヴの事故のようにシートベルトの強度不足も相まって、マシンから宙に放り出されフェンスに叩きつけられて死亡、あるいはヨッヘン・リントの事故のようにシートベルトそのものを装着する事を嫌って死亡事故の遠因となったものもあった。こうした事故は現代の目線から見て技術的に安全装備が未発達であったことを差し引いても、安全に対する意識の低さが招いた部分も大きいが、これらに対してドライバーたちはただ指を咥えて見ていたわけではなく、F1開幕の翌年の1961年にGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を結成し、運営の安全意識の低さに抵抗した。GPDAは82年に一旦解散させられるが、1994年サンマリノグランプリで連続発生したローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故とアイルトン・セナの死亡事故をきっかけに再結成され、マシンやサーキットの設計思想、医療体制などから安全意識は根本から見直されるようになった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "1990年代末以降の新設グランプリサーキットの多くはヘルマン・ティルケが手掛けているが、いずれも広いコース幅に広い舗装のランオフエリアを持ち、安全に非常に気を配っているのが窺える。彼の手がけるサーキットには退屈という批判もあるが、2021年現在までグランプリでの死亡事故は起きていないのも事実である。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "ラリー系の競技でも1980年代に過度な開発競争と高速化により死亡事故が頻発したことへの反省から、車両の安全基準を整備した規則を施行したり、吸気リストリクターの装着によって最高速を制限したりしてドライバーの命を守る取り組みが本格化した。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "2000年代に入ると、2009年F2のヘンリー・サーティースの事故、2014年F1のジュール・ビアンキの事故、2015年インディカーのジャスティン・ウィルソンの事故などの死亡事故により、屋根のないオープンタイプの車両の安全に疑問を持つ声が相次ぐようになり、2020年までにほとんどのフォーミュラカーシリーズで頭部保護デバイスが導入されるようになった。また同様にプロトタイプレーシングカーでも、2017年以降のWECでオープンタイプが禁止されるようになっている。現在フルオープンタイプは、地域のジュニアフォーミュラやヒルクライムのようなごく一部のカテゴリに残るのみとなっている。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "自動車競技における死亡事故の多くはクラッシュの際に壁・地面・車両の構造物などが人体を直撃し著しく損傷するものであるが、事故の拍子で火災が発生した際に車体が歪んで外に出られなくなってしまいそのまま焼死するものや、マシンに大きな損傷は無いのにドライバーは頭をステアリングなどに激しく叩きつけて死亡していたという場合もある。前者はスタッフと消化器類の十分な設置、後者はHANSというデバイスの登場により大きく数を減らしている。またアフリカの治安の悪化していた頃のパリ-ダカール・ラリーでは、参加者が地雷を踏んだり、銃撃されて命を落とした事例もあった。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "一般にレーシングドライバーは命知らずとされているが、懇意にしていたドライバーの死亡事故を理由に引退してしまう者や、特定のレース(インディカーのオーバルコースなど)に限って安全を理由として参戦を拒む者も珍しくない。彼らが平然と時速300kmで接近戦を行うあまりに誤解する観戦者も跡を絶たないが、彼らが死にたがりのスピード狂のように考えるのは大きな間違いである。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "競技における死亡事故は一般のメディアや、普段そのカテゴリを関知していないような自動車競技専門誌でも報道されることが多いが、競技のネガティブな部分だけ取り上げるようなメディアの姿勢を疑問視する声もある。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "《wikipedia内》",
"title": "参考書籍"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "《その他》",
"title": "参考書籍"
}
]
| 自動車競技(じどうしゃきょうぎ)は、モータースポーツにおいて自動車を用いて行われる競技。ほとんどが競走競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」とも呼ぶ。 一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。 英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。 | {{Pathnav|自動車|frame=1}}
{{独自研究|date=2022年9月}}
{{右|
[[Image:2010 Canadian GP race start.jpg|none|280px|thumb|[[フォーミュラ1]](F1)。]]
[[Image:2007 500 caution.JPG|none|280px|thumb|[[インディ500]]。]]
[[Image:24 Hours of Le Mans 2008 warm up lap.jpg|none|280px|thumb|[[ル・マン24時間レース]]。]]
}}
'''自動車競技'''(じどうしゃきょうぎ)は、[[モータースポーツ]]において[[自動車]]を用いて行われる[[競技]]。ほとんどが[[競走]]競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」({{lang-en-short|auto racingやcar racingなど}})とも呼ぶ。
一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部[[三輪自動車|三輪]])の自動車のことであり、日本の交通行政用語([[道路交通法]]用語)の「自動車」ではない。
英語でも二輪車と[[サイドカー]]の競技は「[[:en:Motorcycle racing|Motorcycle racing]]」と呼び分けられている。
{{main2|[[オートバイ]]やそれに準ずる車両の競技については、「[[オートバイ競技]]」を}}
{{main2|[[日本]]の[[公営競技]]のひとつ、オートバイ(過去に自動車も行われていた)車両の競技については、「[[オートレース]]」を}}
== 概要 ==
「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。
自動車競技の大半は「[[時間]]」を競う競技である<ref name="sword">{{Cite news | url = http://e-words.jp/s/w/E383A2E383BCE382BFE383BCE382B9E3839DE383BCE38384.html| title = モータースポーツ| publisher = スポーツ辞典 S-word| date = 2009-11-05| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。定められたコースを最も短いタイムで走りきった者か、あるいは一定時間(24時間など)の間に最も長距離を走りきった者か、レースによって定義に微妙な差異は存在するものの、本質的には時間を競うという点で同じである。ほとんどの場合は最も速く走れた者が勝利を認定されるが、昔のラリー(アベレージ・ラリーと呼ばれる形態)のように運営が設定した時間に最も近い者が勝利するという場合も稀にある。
少数派ではあるものの、自動車レースの中には速さではなく[[燃費]]を競うもの(燃費競争)もある。同じ量の燃料でどれだけ遠くまで走れるかを競うルールや、一定距離を走った後で消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者を勝利とするなど、これもまた勝利条件にわずかな差異はあれど、燃費を競うという本質は同じである。
あるいは審査員の採点で勝敗を決する競技もある。競技車を滑らせる技術の美しさを競う「[[ドリフト走行|ドリフト]]」、圧倒的パワーと巨躯で迫力を競う[[モンスタートラック]]のフリースタイル、自動車のデザインの美しさを競う競技会「[[コンクール・デレガンス]]」などがある。後者は現代では[[クラシックカー]]イベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。
特殊な例だと、北米の[[デモリション・ダービー]]のように自動車同士をぶつけあって生き残った者が勝利という過激なものもある。
[[1887年]]に[[フランス]]の[[パリ]]で約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。[[1894年]]には、パリから[[ルーアン]]までの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。[[1900年]]には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→[[#歴史]]
現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。自動車レースは様々な分類が可能であるが、多くは走る道(コース)と競技に参加する車両の2つに大別できる。→[[#コースによる分類]]、[[#競技車両による分類]]
[[フォーミュラ1|F1]]や[[インディ500]]といった世界的に人気の高いレースはテレビで放送されるなど、人々の目に触れることが多く認知度も高い(そして有名な自動車レースのなかでも特に歴史が長く注目する人々の数が多いF1[[モナコグランプリ]]、[[ル・マン24時間レース]]、インディ500が「世界3大レース」などと言われている。ヨーロッパでは前者2者が人気で、アメリカではインディ500が大人気、と住む大陸で人気が別れている。)が、実際には放送もされない中規模のレースや、さらには少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)までさまざまな規模がある。
レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「[[ホモロゲーション]]」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)の承認を得ている。→[[#レギュレーション(規則)]]
現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→[[#レーシングチーム]]
{{Anchors|レーシング・ドライバー}}レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)[[国際自動車連盟]](FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行した[[モータースポーツライセンス]]が必要となる。
国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。[[ヨーロッパ]]の多くの国や[[アメリカ合衆国]]では、自動車自体の歴史が長く、自動車レースの伝統もとても長く、数多くのレースが開催されており、人気が非常に高く、ファン層も厚く、高齢者から小さな子供までが(男性も女性も。祖父・祖母や、孫の小学生や幼稚園児まで、世代を超えて一家で)レースコースの観客席に駆けつけ、家族全員で参加するお祭りのように楽しむ。(なお[[スイス]]は例外で、嘗てはタイムアタック系の競技を除き、国内で自動車レースを行うことを禁止していた。だが現在解禁した)。[[中南米]](特に[[ブラジル]]と[[アルゼンチン]]。[[:en:Category:Motorsport in South America]]を参照)や[[オセアニア]]地域でもモータースポーツはかなり盛んである。[[東南アジア]]でもそこそこ人気はある。[[日本]]では昭和時代に[[自動車産業]]が盛んになって以降、自動車レースの人気は(欧米ほどではないが)そこそこ高くなり、世界選手権レベルの国際競技で使えるものを含む大小多くのサーキットが建設された(→[[日本のサーキット一覧]])。(ただし日本では、今でも人数的に見るとファンの数(全人口に対する自動車レースファンの数の比の統計)はヨーロッパやアメリカに比べればかなり低く、「限られた人々の関心事」といった位置づけである。日本の自動車レースのファンは男性ばかりで、ほとんどの日本女性は自動車レースには全然興味が無いなど、日本ではいまひとつ広がりが無い。)
日本でのテレビ放送について言えば、ヨーロッパやアメリカの自動車レースは日本でも放送されることも多いが、中南米、東南アジアのレースは日本では放送されることはまずなく、日本人の盲点になってはいる。とはいえ2010年代からは[[YouTube]]のおかげで日本にいながらにして中南米や東南アジアのレースが楽しめるようになってきた(たとえば[[google翻訳]]した[[ポルトガル語]]で「Corrida de carros」(「自動車レース」という意味)などとキーワード入力して動画検索すると、ブラジル国内で有名なレースも見て楽しめるし、さらにはブラジルの小さな草レースまでも楽しむことができる)。
== 歴史 ==
[[ファイル:1894 paris-rouen - count albert de dion (de dion-bouton steam tractor) finished 1st, ruled ineligible for prize.jpg|thumb|left|200px|ド・ディオン・ブートン社の[[蒸気自動車]]に乗るアルベール・ド・ディオン伯爵。]]
=== 起源 ===
自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは[[1887年]]4月28日に[[フランス]]の[[パリ]]で行われたもので、その内容は[[ヌイイ=シュル=セーヌ|ヌイイ]]橋から[[ブローニュの森]]までの約2[[キロメートル]]を走行。優勝者は{{仮リンク|ド・ディオン・ブートン社|en|De Dion-Bouton}}の[[蒸気自動車]]をドライブした{{仮リンク|ジョルジュ・ブートン|en|Georges Bouton}}であった。彼は{{仮リンク|アルベール・ド・ディオン|en|Jules-Albert de Dion}}[[伯爵]]と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく<ref>折口 1970, p. 20.</ref>、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。
{{Double image stack|right|1894 paris-rouen - albert lemaître (peugeot 3hp) 1st.jpg|1894 paris-rouen - Gratien Michaux in mantes (-30 peugeot phaeton 3hp) 9th.jpg|200|正式な優勝者である、ジョルジュ・ルメートルと彼が所有する[[プジョー]][[:en:Peugeot Type 3|Type3]](写真:上)<br>[[パリ]] - [[ルーアン]]レースの様子。何も規制されていない[[公道]]の中でレースを行う(写真:下)}}
記録として残る自動車競技は[[1894年]]7月22日に開催された、127キロメートルの{{仮リンク|パリ - ルーアン・トライアル|en|Paris–Rouen (motor race)}}である。この企画は、フランスの大衆新聞「{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|en|Le Petit Journal (newspaper)}}」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、[[マント=ラ=ヴィル|マント]]では昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた<ref name="折口 1970, p. 22">折口 1970, p. 22.</ref>。参加費用に10[[フラン (通貨)|フラン]]を徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。
ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした<ref group="注">応募車両の動力には「圧縮空気」「重力」「家畜動力併用」など、本気で出場する気があったのか疑わしい内容も多数存在したという。現実のレースに出場したのは[[蒸気自動車]]とガソリン自動車・オートバイだけであった。</ref>。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であった[[プジョー]]、[[パナール]]、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した<ref>アメデー・ボレーと息子のアメデー2世およびレオンは、1873年以来長らく蒸気自動車を開発し続けていた。このレースでラ・ヌーヴェルは鈍足ながら十分な信頼性を示し、途中リタイアしたドライバーたちを拾ってルーアンまで完走している。</ref>。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車の[[:en:Peugeot Type 3|プジョー Type 3]]を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートル<ref>宇宙物理学者の[[ジョルジュ・ルメートル]]ではない。</ref>と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールした[[パナール|パナール・ルヴァッソール]]のルネ・パナールの2名とされた<ref name="折口 1970, p. 22"/>。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした<ref>{{Cite news | url = http://www.racing-database.com/Race.asp?GP=I%20Paris-Rouen%20Trial| title = I Paris-Rouen Trial| publisher = Racing-Database.com| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。
[[ファイル:Panhard-levassor.jpg|thumb|left|200px|[[パナール|パナール・ルヴァッソール Type A]]。左の人物がエミール・ルヴァッソールであり、ルネ・パナールらと共にこの車を設計した]]
=== 自動車競技黎明期 ===
1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上で[[フランス自動車クラブ]] (ACF) が誕生したとされる。これは今日の[[FIA]](国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた<ref name="折口 1970, p. 22"/>。パリを出発して[[ボルドー]]に向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。
6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし<ref>折口 1970, p. 23.</ref>、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗る[[エミール・ルヴァッソール]]([[1843年]][[1月21日]] - [[1897年]][[4月14日]])で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない<ref>{{Cite news | url = http://doyennes.pl.free.fr/historique_levassor.html|title = Biographie d'Emile Levassor| publisher = Les Doyennes de Panhard et Levassor|accessdate = 2010-09-24}}</ref>。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・[[ミシュラン]]創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。
[[ファイル:Providence Horseless Carriage Race 1896.jpg|thumb|left|200px|[[ロードアイランド州]][[クランストン (ロードアイランド州)|クランストン]]の[[ナラガンセットパーク競馬場|ナラガンセット・トロット競馬場]]で開催された「'''馬なし馬車レース''' ({{lang|en|Horseless Carriage Race}})」スタート直前の様子<br />(※:写真は1896年9月26日)]]
1895年11月28日に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国内で初開催となる自動車レースが行われた。[[イリノイ州]]の[[シカゴ]]から市街地南部、一部[[エバンストン (イリノイ州)|エバンストン]]を走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった<ref name="USA_firstrace">{{Cite news | url = http://www.history.com/this-day-in-history/frank-duryea-wins-first-us-horseless-carriage-race| publisher = History.com| accessdate = 2011-10-22}}</ref>。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「{{lang|en|Horseless Carriage Race}} = '''馬なし馬車レース'''」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された<ref name="USA_firstrace" />。
[[ファイル:DuryeaBrothers.jpg|thumb|right|200px|デュリエ兄弟。向かって左がチャールズ、右がフランク。(※:1908年頃の写真)]]
自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年の[[ニース]]で、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、[[ドラッグレース]]、[[ヒルクライム (自動車)|ヒルクライム]]などの多くの自動車競技がここで始まった。
[[ファイル:Gordon Bennett 1904.jpg|thumb|left|200px|ゴードン・ベネット・カップに出場するリシャール・ブラシエ(1904年)]]
=== 国際レースの登場 ===
国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催された[[ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)|ゴードン・ベネット・カップ]]である。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会で[[イギリス]]の[[ネイピア・アンド・サン|ネイピア & サン車]]が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式には[[アイルランド]]の[[キルデア県]]。この年のゴードンベネットカップを制したのは[[ドイツ]]の[[メルセデス・ベンツ|メルセデス]]であったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスの[[クレルモン=フェラン]]のオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後に[[シャレード・サーキット]]となった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した<ref>{{Cite news | url = http://www.teamdan.com/archive/gen/gordon.html| title = The Gordon Bennett Races| publisher = TEAM DAN Website|date = | accessdate = 2010-09-24}}</ref>。
ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統する[[ナショナルカラー]]となった。
: {{main|ナショナルカラー#モータースポーツのナショナルカラー}}
[[ファイル:1906 French Grand Prix Szisz.jpg|thumb|left|200px|1906年に初開催された[[フランスグランプリ]]の様子。先頭を走るのはルノーを駆るフェレンク・ジス。]]
一方、フランスでは[[1901年]]に[[ポー]]で開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール ({{lang-fr-short|Grand Prix du Palais d’Hiver}})」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー ({{lang-fr-short|Grand Prix de Pau}}」と賞の名前に初めて「'''[[グランプリ (モータースポーツ)|グランプリ]]'''」が使用された。グランプリは「{{lang-en-short|Grand Prize}} = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ ({{lang-fr-short|Automobile Club de France, ACF}}) が主催して「ACFグランプリ(通称[[1906年フランスグランプリ]])」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」として[[ル・マン]]で開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年は[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]にて、1913年は[[アミアン]]、1914年は[[リヨン]]と[[第一次世界大戦]]が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在の[[サルト・サーキット]]の原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「[[ポー・グランプリ]]」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。
[[ファイル:1908 New York to Paris Race, Roberts.jpg|thumb|right|200px|ニューヨーク~パリ間レースに出場するトーマス・フライヤーの車両と、ドライバーのジョージ・シャスター、クルー達。<br>(写真は1908年2月12日)]]
その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には[[:en:Peking to Paris|北京〜パリ間レース]]が開催され、[[北京]]からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからは[[:en:Itala|イターラ]]1台、[[オランダ]]からは[[スパイカー]]1台、フランスからは三輪自動車の[[:en:Mototri Contal|コンタル]]1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品は[[ペルノ・リカール|G.H.MUMM]]の[[シャンパン]]1本だけだった<ref>{{Cite news | url = http://www.team-acp.sakura.ne.jp/btop2007/about/index.html| title = 北京-パリとは| publisher = Beijing-Paris Silkroad International Cross Country Tour 2007| date = 2007| accessdate = 2012-11-13}}</ref>。
翌1908年には[[:en:1908 New York to Paris Race|ニューヨーク〜パリ間レース]]が開催された。イタリアの[[:en:Züst|ツースト]]、ドイツのプロトス、アメリカの[[:en:Thomas Motor Company|トーマス・フライヤー]]、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、[[:en:Motobloc|モトブロック]]、[[:en:Sizaire-Naudin|シゼール=ノーダン]]の3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日に[[ニューヨーク]]をスタートして[[アメリカ大陸]]を横断した後に[[シアトル]]から[[日本]]の[[横浜市|横浜]]へ渡航し、[[敦賀市|敦賀]]まで480キロメートルを縦断した<ref>{{Cite news | url = http://www.toyota.co.jp/Museum/kandayori/backnumber/magazine52/magazine52_11.pdf| title = 自動車黎明期の日本の道路事情(1)「日本を縦断した冒険野郎 東海道~北陸道」(上)| publisher = [[トヨタ博物館]] | works = 山本厚夫| date = 2002-06| accessdate = 2012-11-13}}</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.sportscardigest.com/the-greatest-race-1908-new-york-to-paris/3/| title = The Greatest Race – 1908 New York to Paris (Page #3)| publisher = sportscardigest.com| date = 2011-09-28| accessdate = 2012-11-13}}</ref>。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから[[日本海]]を渡り[[ウラジオストク]]に上陸して[[シベリア]]を横断する形で[[ユーラシア大陸]]を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので<ref>折口 1970, p. 49.</ref>、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカの[[:en:George Schuster (driver)|ジョージ・シャスター]]であった。
この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後の[[ラリー]]・[[ラリーレイド]]の原型となった。
[[ファイル:Marcel Renault 1903.jpg|thumb|left|200px|マルセル・ルノーの運転するルノー車が未舗装路を疾走(1903年パリ - マドリードレース)。当時のカメラの高速シャッター特性から、高速の自動車を撮影した画像は斜めに歪む。マルセルはこのレースで事故により死亡した]]
=== 公道レースからサーキットの誕生へ ===
フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが[[市街地レース]]や都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。
危惧された通り、1903年5月のパリ - [[マドリード]]間レースでは、[[ルノー]]社の共同創設者であるマルセル・ルノー ([[1872年]] - [[1903年]][[5月25日]])が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ<ref>{{Cite news | url = http://www.testdelayer.com.ar/Historia%20Renault%20Comienzos.htm | title =Renault De Louis Renault a la estatización| publisher = Test del ayer| accessdate = 2010-09-24}}</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=18272 | title = Marcel Renault| publisher = Find a Grave| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。
上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においての[[サーキット]]建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが<ref>たとえば[[電気回路]]の「回路」もサーキットであるが、電気の場合、電源から出て電源に戻るように接続されたものが「回路」である。</ref>、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。<!--となり、すなわち「閉ざされた道路」という[[競技場]]である。-->
自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所は[[ナラガンセットパーク競馬場|ナラガンセット・トロット競馬場]]である<ref>{{Cite news | url = http://www.machine-history.com/PROVIDENCE%20HORSELESS%20CARRIAGE%20RACE| title = PROVIDENCE HORSELESS CARRIAGE RACE| publisher = Machine-History.Com| date = | accessdate = 2013-03-02}}</ref>。この競技場は[[トロット]][[競馬場]]であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「{{lang|en|Horseless Carriage Race}} = '''馬なし馬車レース'''」として開催された。
ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。
現存する世界最古のサーキットは[[ミルウォーキー・マイル]]であり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として[[1876年]]に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである<ref>{{Cite news | url = http://www.milwaukeemile.com/History-2010.asp | title =History| publisher = Milwaukee Mile Official Site| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。
[[ファイル:Brooklands Members' Banking from bridge.jpg|thumb|right|200px|現在のブルックランズサーキット。当時のままの路面を残している。現在はブルックランズ美術館として営業している。]]
自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスの[[サリー (イングランド)|サリー]]にあった[[ブルックランズ|ブルックランズサーキット]]であった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100[[フィート]]にも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった<ref>{{Cite news | url = http://www.brooklandsmuseum.com/index.php?/history/motoring-history-1907-1914/ | title =Motoring History 1907-1914| publisher = Brooklands Museum| accessdate = 2010-09-24}}</ref>。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、[[三輪自動車]]などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する[[第二次世界大戦]]の影響によって[[航空機]]の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが<ref>{{Cite news | url = http://www.bankingonbrooklands.org.uk/history.html | title =History| publisher = Banking on Brooklands| accessdate = 2010-09-24}}</ref>、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。
: {{main|[[公道コース]]|[[サーキット]]}}
[[ファイル:Brooklands 1930.jpg|thumb|left|200px|ブルックランズサーキットでのレーススタートの様子。ル・マン式スタートで出走している。<br />(写真は1930年)]]
=== 自動車会社の成功と国家技術力競争 ===
現在、[[国際自動車連盟]] ({{lang|en|Fédération Internationale de I'Automobile, FIA}}) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 ({{lang|en|Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR}}) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。
それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め[[1923年]]に「[[ヨーロッパグランプリ]]」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットである[[アウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァ]]で初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスの[[リオン]]、ベルギーの[[スパ・フランコルシャン]]、スペインの[[サン・セバスティアン]]などで開催された。これらのグランプリは1931年に「{{lang|en|Championship}} = 選手権」としてまとめられ、[[ヨーロッパ・ドライバーズ選手権]]として年間を通して争われるようになった。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1989-015-36A, Nürburgring, Bernd Rosemeyer in Rennwagen.jpg|right|200px|thumb|アウトウニオン・Pワーゲンを駆る[[ベルント・ローゼマイヤー|ローゼマイヤー]]<br>(※:写真は[[1937年]][[ニュルブルクリンク]])]]
グランプリや選手権を通じて国際的な注目を得たい自動車会社の各マシンはナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に[[1930年代]]に入ってから[[ナチス・ドイツ]]のメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、[[アウディ]]([[アウトウニオン]])が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける[[自動車の速度記録]]は1928年にイギリスの[[マルコム・キャンベル]]が記録した281.44 km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年に[[メルセデス・ベンツ・W25]]を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460 km/hを記録。また、アウトウニオンは[[フェルディナント・ポルシェ]]を起用して[[アウトウニオン#アウトウニオン・レーシングカー|アウトウニオン・Pワーゲン]]を開発。1937年には[[ベルント・ローゼマイヤー]]がアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9 km/hを記録した。
しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め[[第二次世界大戦]]が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。[[南米]]では1940年から1942年まで開催され、1940年に[[サンパウロ]]グランプリと冠して[[ブラジル]]の[[インテルラゴス・サーキット]]で開催された。1941年にはブラジルで[[リオデジャネイロ]]グランプリと[[アルゼンチン]]で[[ブエノスアイレス]]グランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加え[[サンタフェ (アルゼンチン)|サンタフェ]]グランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。
[[ファイル:Ferrari500F2.jpg|thumb|right|200px|[[フェラーリ・500F2]]を駆る[[アルベルト・アスカリ]]とルイジ・ヴィロレージ。<br>(写真は[[1952年のF1世界選手権|1952年]][[イタリアグランプリ|イタリアGP]])]]
=== 終戦からFIAの発足。「フォーミュラ」の誕生 ===
第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日に[[ブローニュの森]]で開催されたパリ杯である。優勝者は[[ブガッティ]]を駆る{{ill2|ジャン=ピエール・ウィミーユ|en|Jean-Pierre Wimille}}であった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。
1946年には国際競技としてフランスの[[サン=クルー]]、スイスの[[ジュネーヴ|ジュネーヴ市街地]]、イタリアの[[トリノ]]で3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 ({{lang|en|Commission Sportive Internationale, CSI}}) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「'''{{lang|en|Formula}} = フォーミュラ'''」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッター[[スーパーチャージャー]]付きエンジンと、4.5リッター[[自然吸気エンジン]]の2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初めて「世界選手権」として開催される[[フォーミュラ1]](F1)の最初のルールとなった。
政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会({{lang|en|AIACR}})を前身とした'''国際自動車連盟''' ({{lang|en|FIA}}) が設立された。
=== スポーツカー世界選手権の誕生 ===
[[File:Lotus Cars and lorry for Le Mans 29.07.1956.tif|thumb|left|200px|ル・マン参戦用の車両。<br />(※:写真は1956年、[[チーム・ロータス|ロータス・エンジニアリング]]の車両「イレブン」)]]
自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1は[[フォーミュラカー]]を使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在する[[スポーツカー (モータースポーツ)|スポーツカー]]を使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでに[[ミッレミリア]]、[[ル・マン24時間レース|ル・マン24時間]]、[[RACツーリストトロフィーレース]]といった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースごと主催団体が違っていた為に、それまで選手権としての統一が実現しなかった。
その為、こうした[[耐久レース]]を統一したものとして1953年に[[スポーツカー世界選手権]] (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された[[セブリング12時間レース|12時間耐久グランプリ]]、[[フランコルシャン24時間]]、[[ADAC1000キロメートルレース|国際ADAC1000キロメートルレース]]、[[カレラ・パナメリカーナ]]を合わせて計7戦が開催された。
スポーツカーレースの勃興は欧州はもちろん、それまでオーバルサーキット一辺倒であったアメリカのレース文化を大きく刺激し、[[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|Can-am]]や[[国際モータースポーツ協会|IMSA]]などを誕生させた。
=== ラリー・オフロード系競技の確立 ===
[[File:Jean-Luc Thérier - Alpine-Renault A110 1800 (1973 Rallye Sanremo).jpg|thumb|200px|right|WRC初代王者の[[アルピーヌ・A110|アルピーヌ・ルノーA110]]。当時はまだワークスによる全戦出場は一般的ではなく、各地のプライベーターも含めての順位ポイントの合算により、メーカー(ブランド)のみが栄誉を授かることができた]]
前述の通り自動車競技の勃興は公道レースからであり、それゆえ[[ラリー]]を始めとするオフロード系レースも古くから存在したが、体系立った選手権・シリーズとしては長らく確立されていなかった。
そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC([[世界ラリー選手権]])が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。
またWRCと同じく1973年に欧州[[ラリークロス]]選手権、1979年には[[ダカール・ラリー|パリ-ダカール・ラリー]]が誕生している。
=== マスキー法とオイル・ショック ===
世間で自動車の排ガスによる公害が騒がれ始めた頃の1970年に、アメリカで[[マスキー法]]が施行された。自動車メーカーたちはこの画期的なまでに厳しい基準をクリアするために、レースに注ぎ込んでいたリソースを新型のエンジンや触媒を開発するために回し、日本メーカーを中心にレース活動の規模縮小や撤退が相次いだ。1973年には第一次[[オイル・ショック]]が自動車業界を直撃し、欧州でもワークス勢の多くが撤退した。
これらの事件の影響は深刻で、各地でレースカテゴリが消滅と再編纂を余儀なくされた。特にメーカー対決を売りにするスポーツカーレースは直撃を受け、北米ではCan-Am(第一期)が、日本では[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]が終焉を迎えた。スポーツカー世界選手権やル・マン24時間でも1975年にはワークス不在という事態に陥ったり、新たに施行したグループ5規定([[シルエットフォーミュラ]])がすぐポルシェワンメイク状態に収斂してしまったりと、芳しくない状態が続いた。
一方で自動車メーカーに依存しないプライベーターたちが誕生・成長を遂げた時代でもある。元々プライベーターが中心だった[[F1世界選手権]]や米国の[[インディカー|チャンプカー]]などのオープンホイールレースはほとんど影響を受けておらず、日本でもプライベーターたちによるフォーミュラカーレースや[[富士グランチャンピオンレース]]などが誕生した。
1980年代に入ってからのモータースポーツ界は[[グループA]]・[[グループB]]・[[グループC]]規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。
=== 現代的レーシングカーの設計思想の確立 ===
[[File:Peugeot Talbot Sport 205 T16 (28683776362).jpg|200px|thumb|right|[[プジョー・205ターボ16|プジョー・205 T16]]。ミッドシップエンジン+4WD+ターボチャージャーで武装し、WRC→パリダカ、ラリークロス、パイクスピークと転戦し全てを制覇した。]]
[[file:Sauber C9 at Goodwood 2014 002.jpg|200px|thumb|right|[[ザウバー・C9|ザウバー/メルセデス・C9]]。[[グループC]]規定ではグランドエフェクト、テレメトリー、ターボ、カーボンモノコックなどの技術などが駆使され、ストレートで時速400kmに達するマシンも複数現れた。]]
自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。
従来のフォーミュラカーは市販車同様フロントエンジンが主流であったが、1950年代後半に[[ミッドシップ]]エンジン車が登場し始めると、1960年代F1では全車がミッドシップを採用するようになり、「レーシングカーはミッドシップが有利」という常識が一般化した。
エンジンパワーが増大化するとともに空力でマシンを下に押さえつける力、つまり[[ダウンフォース]]を得るという設計も求められるようになった。1960年代はF1やCan-Amなどでリアウィングの装着によりダウンフォースを得るのが主流であったが、乱気流や安全の関係でただ装着すればいいというものではなかったため、かなりの試行錯誤がなされた。1970年代後半に鬼才・[[コーリン・チャップマン]]がマシン全体やマシン下部([[グランド・エフェクト・カー|グランドエフェクト]])で空力効果を得る手法を確立し、従来より遥かに安定してダウンフォースを得ることが可能となった。グランドエフェクト自体は特有の安全上のデメリットからしばらく敬遠されたが、その考え方自体は現在まで生き続けている。
またチャップマンはスペースフレームシャシーに代わるものとして[[モノコック]]構造を発明し、現代まで続くフォーミュラカーの構造の基礎を築いた。
従来[[ターボラグ]]が大きく、レーシングカー向きでないとされていた[[ターボチャージャー]]も1970年代にスポーツカーレースで[[ポルシェ]]、F1で[[ルノー]]が活躍し始めると一気に研究が進んだ。F1では1989年に禁止(2014年に解禁)されるまで全盛期を築き上げ、スポーツカーレースではそれ以降も長らく採用が続いた。
[[4WD]](四輪駆動)もラリーレイドや1980年代の[[アウディ・クワトロ]]の登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。
=== 「F1サーカス」の誕生 ===
[[file:Alonso + Schumacher 2006 USA.jpg|200px|thumb|right|[[ミハエル・シューマッハ]]と[[フェルナンド・アロンソ]]が激しく争った2006年のF1は、多数のメーカー参戦と相まって『セナ・プロ』時代以来の絶頂期を迎えた。]]
上述したように、各国で姿かたちやルールの異なる様々な自動車競技が勃興し、それぞれに熱心なファンがついたが、その中でも頭一つ飛び出たのはF1であった。稀代の天才である[[バーニー・エクレストン]]の辣腕により、「F1サーカス」と形容されるような、文字通り世界各国を飛び回る国際的スポーツイベントに成長した。この背景にはTVの普及により、放映権がビジネスとして成立し始めたことも背景にある。
これにより1990年代までには、自動車に興味のない一般大衆にも[[アイルトン・セナ]]や[[ミハエル・シューマッハ]]といったF1のスターたちの名前は知れ渡るようになった。同時期のスポーツカーレースやWRCも、各メーカーが競って過激かつ多様なマシンを開発してこちらも人気が高かったが、F1の一般大衆への浸透ぶりには及ばなかった。
2000年代になるとメーカーの撤退が相次いだスポーツカーとWRCは勢いを弱めてローカル化が進み、一般人向けとしてはよりF1一強の様相が濃くなっていった。また同じフォーミュラカーレースの中でも、F1とそれ以外(CART、フォーミュラ・ニッポンなど)で人気の2極化が進んだ。
この間[[ツーリングカーレース]]も[[グループA]]や[[スーパーツーリング]]、[[スーパー2000]]規定などでメジャーな存在として一時的に大きな勢力となったが、規則や運営、コストなどの問題により、いずれも数年程度で消滅と誕生を繰り返すような不安定な状態が続いている。
北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、[[ストックカー]]レースの[[NASCAR]]がアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。
1990年代以降は電子制御技術が発達し、[[セミオートマチックトランスミッション]]や[[トラクションコントロール]]などのハイテクな装備が普及した。
=== コストダウンとエコの時代へ ===
[[file:2014 Super GT Suzuka race start (GT500).jpg|200px|thumb|right|米国の[[NASCAR]]、日本の[[SUPER GT]]、ドイツの[[ドイツツーリングカー選手権|DTM]]、英国の[[BTCC]]、豪州の[[スーパーカーズ選手権|V8SC]]、アルゼンチンの[[TC2000アルゼンチン選手権|TC2000]]といった各国の著名なツーリングカーレースでは、骨格をも含めた大胆な部品の共通化が実施され、独自開発できる領域はほとんど無くなった。また上記のうち、NASCAR以外の全てで[[ダウンサイジングコンセプト|ダウンサイジングターボエンジン]]規格が導入された。]]
[[file:Porsche 919 Hybrid IAA 2015.jpg|200px|thumb|right|2010年代のF1とLMP1は、1000馬力のうち半分を回生による電動エネルギーで賄うというモンスターハイブリッドマシンが続々と登場した。]]
1990年代以降日本はおろか欧米でも[[若者の車離れ]]が叫ばれたり、環境問題への意識が高まるようになると、自動車メーカーにとってのレース参戦の商業的意義・対費用効果にも疑問符がつけられるようになり、それまで自動車競技に熱心であったメーカーが一転してピタリと活動から手を引いてしまう事例が増えた。
また技術革新が進み、原初の頃に比べると相当にハイレベルな技術と高価なパーツを用いるのが当たり前になってしまったため、それに伴う参入障壁や参戦コストの高さに、メーカーやチームが疲弊して崩壊・消滅するカテゴリも多く見られるようになった。
こうした時代の変化に対応するべく運営側も、参加者の経済的・技術的な負荷を減らしたり、環境技術を宣伝できるような規則を導入して、自動車メーカーの招致に知恵を絞るようになった。
具体的には
*マシンの一部または大部分を共通パーツにしたり、あるいはマシンそのものを[[ワンメイク]](一社独占)供給にしたりすることで、開発競争によるコストの増長を抑制しつつ、量産効果によるコストダウンも実現する
*複雑な電子制御を必要とするパーツや高価な素材を禁止してコストと参入障壁を下げる
*市販車に由来しない鋼管[[パイプフレーム]]の採用を認可することで、ベース車両の優劣に囚われない開発を可能にする
*一度ホモロゲーションを取得した部位の開発を制限あるいは凍結して、開発にかかるコストを削る
*エンジンやギアボックスなどについて、一年間に使用できる基数を制限することでコストを削減する
*予算額そのものをレギュレーションで規定し、コスト増大を阻止する(バジェットキャップ制)
*エンジンの気筒数と排気量を統一し、性能均衡を実現しやすくする
*ある特定のパーツについて、他チームが購入を希望したら一定の価格で販売しなければならない義務を負わせ、1チームの独走を防ぐ
*性能調整や[[ハンデキャップ]]制を導入し、資金力や技術力に劣る弱小チームでも勝つチャンスを掴みやすくする
*[[ダウンサイジングコンセプト|ダウンサイジングターボ]]や[[ディーゼルエンジン]]、[[ハイブリッドカー]]、[[電気自動車]]など、一般にCO2排出量が少ないとされるパワートレイン技術を導入したり、燃料も[[バイオ燃料]]など地球環境に配慮したものに替えたりする
など多数のアイディアが存在する。先述の通り自動車競技の覇者となったF1も、こうした時代の流れの前に次々とメーカーを失ったため、上のいくつかの手法を導入して覇権を維持している。
2020年代以降は内燃機関を捨てることを宣言するメーカーが続々と登場し始めたため、FIAは純粋なEV([[電気自動車]])のみで争われるカテゴリを多数誕生させている。
=== レーシングカービジネスの流行 ===
[[file:GT3 and GT4 race one (51374089055).jpg|200px|thumb|right|グループGT3とGT4は、瞬く間に世界のGTレースのスタンダードとなった。]]
エコ意識の高まりに前後して、性能調整を施すことで多様なレーシングカーを参戦することが可能となる手法が確立された。これにより[[グループGT3]]/[[グループGT4|GT4]]や[[グループRally]]、[[TCR (自動車競技)|TCR]]などといった、自動車メーカーがプライベーターチーム向けに市販車をレーシングカーに改造して販売する規定が2010年代以降に流行した。メーカーにとっては販売・アフターサービスによる収益に加えて購入者が自社製マシンを走らせてくれることで宣伝効果も得られ、プライベーターにとっては戦闘力の高いマシンを低コストで購入・運用することが可能という、双方に利がある理想的なパッケージングである。
ただし一方で、多数のメーカーが参入したことで開発競争の激化によりマシンの価格と運用コストが高騰し、メーカー側からすればビジネスとして採算が取れず、プライベーターからは経済的に手が出せなくなってしまうという問題が散見され始めている。
またあまりに広まりすぎているゆえに、観戦者側からは世界各国のどのレースを見ても同じ規定のカスタマーマシンばかりで退屈という弊害も指摘されている。
{{節スタブ}}
<!--- (とりあえず、その後の歴史などで使えそうだったらこの文章も使いますが、とりあえず保留しておきます。)
[[イタリア]]の[[アルファ・ロメオ]]や[[フェラーリ]]、[[イギリス]]の[[ベントレー]]や[[日本]]の[[本田技研工業|ホンダ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フォード・モーター|フォード]]など、自動車競技への参戦を通じてその技術力や知名度、ブランドイメージを向上させた会社も多い。現在も世界をリードする自動車会社の一つとして君臨している。--->
== コースによる分類 ==
自動車レース(競技)は、コースの種類で分類する場合、大きく分けて3つに分類できる。(なお例外はある)
===クローズド・コース===
レース専用の[[サーキット]](レース場)や、公道の一部を閉鎖して臨時に仕立て上げたレースコースなどで行うもの。
舗装されたクローズドコースにて同時に複数台がスタートし順位を競う。日本では四輪競技は単に「レース」と呼ぶことが多い。(二輪競技はロードレースを呼ぶことが多い)。<!--これらの競技で代表的なものは、二輪・四輪競技それぞれに存在する[[グランプリ (モータースポーツ)|グランプリ]]などがある。ロードレースには2種類の競技形式があり規定の周回数を早く終わらせた者が優勝のスプリントレースと規定時間内に多く周回重ねた者が優勝の[[耐久レース]]がある。ほとんどのカテゴリにおけるレース(ロードレース)は、決勝の開始前に「フリー走行」と呼ばれる練習走行的なレースイベントが存在する。各者・各車両はこのフリー走行にてコースを把握してミスをしない限界に限りなく近い走行法や、車両が持つポテンシャルの限界に限りなく近い性能を引き出すために「セッティング」と呼ばれる細やかな車両調整が行われる。よって、1周あたりのライバル差が僅差となり、周回辺りわずか0.1秒単位の速度差を埋めようと試みることを目的とする。それらをドライバー各自が適切な状態にした上で「公式予選」というレースイベントが開始され、その順位が後の「決勝」のスタート順に反映する。決勝のスタートは当然ながら予選で優秀な成績を収めた上位ほど有利である。-->レースのスタート方式は1周のフォーメーションラップ後に一旦停車を行った状態から[[レース旗#デジフラッグ|シグナル]]や[[レース旗]]によって一斉にスタートを行う「'''スタンディングスタート方式'''」と、フォーメーションラップからそのまま車両が加速した状態でスタートを行う「'''ローリングスタート方式'''」がある<ref>{{Cite news | url = http://www.f1-data.net/rookie/rookie_20.html| title = F1のスタート方式| publisher = F1-DATA.NET| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。
その他にも過去にはル・マン24時間レースで採用されていた「'''ル・マン方式'''」というスタート方法もある。ル・マン方式とは車両までドライバーが歩く(駆け寄り)そして速く車両を動かした順にレースをスタートする方式であるが、[[ジャッキー・イクス]]がその危険性について苦言を呈し続けた結果、現在のル・マンでは廃止されている。このル・マン方式のスタート方法を踏襲しているのが二輪ロードレースのスタート方式である。スタートの方法は現在では[[ロードレース世界選手権のレギュレーション#クラッチスタート|クラッチスタート方式]]を採用し、車両まで向かったライダーがセルスターターおよび、キックによるスタートを行って発進する。以前は車両のエンジンがかかっていない状態から各ライダーが押しながらエンジンを起動させる[[ロードレース世界選手権のレギュレーション#押しがけスタート|押しがけスタート方式]]であったが、[[押しがけ]]の危険性を憂慮して1987年からクラッチスタート方式に切り替わった<ref>{{Cite news| url = http://www.honda.co.jp/hmj-event/circuit/movie/| title = バイクイベントガイド - 全日本ロードレースって?| publisher = [[本田技研工業|HONDA]]| accessdate = 2010-10-12}}</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.mini-motogp.jp/pdf/2009minimotogp-regulation-20090206.pdf| title = 2009“ミニMOTO-GP”鈴鹿ツイン ミニバイク耐久レース .pdf拡張子ファイル(※:第16条 決勝レーススタート方式、第17条 レーススタートにおける注意点、第18条 決勝スタート)| publisher = [[MotoGP|miniMotoGP]]| date = 2009-02-06| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。
{{Main|#競技車両の種類}}
===ラリー / ラリーレイド===
<!--決められた区間を決められた時間で正確に走ることが要求されるロードセクションと、決められた区間の走行タイムを競う'''スペシャルステージ'''(SSと呼ぶ)からなるが、どちらか一方の要素のみで構成される場合もある。-->ラリーとラリーレイドは似て非なる競技であり、「本来はタイムを競う競技ではない」ということが念頭に置かれるためにレースとも厳密には違う。スタート方式に関してはラリーもラリーレイドも同じであり、予め主催者側によって公示されたもの及び、大会ランキングなどによってスタート順が決められる。SSのスタート順は直前の'''タイムコントロール'''(TCと呼ぶ)を通過順に1分間隔で行われる<ref>{{Cite news | url = http://www.wrc-japan.jp/whatswrc.html| title = WRCとは?| publisher = [[世界ラリー選手権|WRC]] 日本語公式サイト| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。
ラリーレイドでは先述のSSとほぼ同じ役割を担う区間である'''コンペティションセクション'''(CSと呼ぶ)が設けられている。
4輪競技におけるラリー・ラリーレイドにおける最大の特徴は車両運転手であるドライバーと、進路案内や走行速度指示などの補佐を行う「'''[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]'''」という2名が車両に搭乗して行う点である。ラリードライバーに求められる運転技術は[[レーシングドライバー]]に求められる技術と異なる点が多く、競技の特性上、悪路に対する走破技術はもとよりレースにおける「フリー走行」のような練習走行が基本的に存在しないためにドライバー自身の運転感覚、視界からの情報、あるいはコ・ドライバーからのナビゲートによる聴覚からの情報、そして出走順によっては先行車両により非舗装路面が刻々と変化してゆく点もあり、これらの総合的な瞬時の判断から高い臨機応変力が求められる。ドライバーとコ・ドライバーの信頼関係も非常に重要といわれ、1つの車両で行うチームプレイとも言える。
二輪競技などで行われるラリーレイドは1人で砂漠を走破する技術や度胸、独自の感性や機械的トラブルや人的トラブルに巻き込まれない幸運も求められる。したがって、二輪ラリーレイドは最も危険な自動車競技の1つとして語られることも多く、その根底にはほぼ毎年のように死者を出していることが挙げられる<ref>{{Cite news | url = http://www.hotta.jp/rally/dakar2005/dakar/howto_join_dakar.htm| title = パリダカに出るには? (バイク)| publisher = 堀田修 公式ホームページ| date = 2005| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。
{{Main|ラリー|ラリーレイド}}
===トライアル競技(タイムトライアル)===
決められた(短い)区間をいかに速く正確にゴールするかを競う。本来はトライアルとは「'''タイムトライアル'''」({{lang-en-short|Time Trial}}) つまりは時間への挑戦を意味し古来は[[ダービー (競馬)|ダービー]]、[[ボート]]、[[自転車競技]]におけるレースを指したことから、これが派生して欧米では二輪自動車における競技もタイムトライアルと呼称した。その後、「トライアル = {{lang|en|Trial}}」だけで試練・試みという意味を持つことから二輪自動車による複雑な地形(人工的に作られる場合もある)を、いかに足をつかずに走破するかを競う競技を[[トライアル (オートバイ)|トライアル]]と呼ぶ。日本では<!--二輪以外でもいくつかの4輪競技においても-->「トライアル競技」と呼ばれる。代表的な競技では[[スラローム (自動車)|スラローム競技]]である[[ジムカーナ]]や、加速競争である[[ドラッグレース]]などがこれにあたる。[[ダートトライアル]]という呼称は[[和製英語]]であり、欧米では[[:en:Dirt track racing|ダートトラック]]と呼ぶ。したがってその略称である「ダートラ」のほうが本来は呼称として正確である。
{{Main|トライアル (オートバイ)|ジムカーナ|ドラッグレース|ダートトライアル}}
===その他===
以上の分類に属しないものとして、ドリフト走行による車両姿勢の美しさを競うドリフト競技、一定の速さを保った上で燃費の優劣を競う燃費競争(エコラン)などがある。学生フォーミュラ([[フォーミュラSAE]]、[[全日本学生フォーミュラ大会]]など)では、車の速さ以外に設計そのものやプレゼンテーションも評価対象とされ、それらの総合点で順位を決定する。またそもそも動力を持たないカートで争われる[[ソープボックス]]レースでは、車の見た目の派手さが競技の重要な要素の一つとなっている。
{{main|ドリフト走行|全日本学生フォーミュラ大会|ソープボックス}}
== 競技の場所 ==
自動車競技の競技が行われる場所を以下に示す。
[[Image:2008 Indy 500 video.ogv|right|200px|thumb|インディ500の様子。]]
=== サーキット ===
[[アスファルト]]舗装されたコースで、閉路になっているために一般的に複数周回を走行し規定周回を走行することで完走となる。サンドトラップやグラベルエリア、ランオフエリアなどを設けられたサーキット(※:イタリアではアウトドローモ)、楕円形のコースを周回する「オーバル」もこれに含まれる。通常の公道よりも舗装が競技向けに作られているのも特徴。
=== 公道コース ===
F1からラリーまでさまざまな競技を行う。競技が可能な道路幅と路面状況であることが開催の条件となる。公道といっても様々で、アスファルト舗装された平坦な路面が通常であるが、古い街並では[[石畳]]などもある。通常は一般車両が走行するため、交通量が多い箇所になればなるほど路面に轍状の起伏ができやすくサーキットと比較すると滑りやすい。カテゴリによっては一部の公道を閉鎖してサーキット型の競技を執り行う場合や、スタート地点とフィニッシュ地点が別となる都市間競技など行うなどのケースがある。
[[シンガポール市街地コース]]や[[バレンシア市街地コース]]のようにレースを行うことを前提として公道が整備されることもある。
=== スタジアム ===
大勢の観衆が、コース全体を一望できるような常設の[[スタジアム]]で行われる場合もある。[[デモリション・ダービー]]、8の字レース、[[モンスタージャム]]など、北米発祥の競技では多いパターンである。北米でオーバルレースが盛んなのも、コースを一望できるという点と無関係ではない。
また欧州発祥の競技でも、ラリーのスーパーSSや[[ラリークロス]]、[[レーシングカート]]などは時折スタジアムでの開催がされることがある。また[[レース・オブ・チャンピオンズ]]は常にスタジアム内に設置したコースで開催されている。
=== 非舗装路面・自然環境など===
一般的に[[オフロード]]、[[ダート]]、[[砂漠]]、[[草原]]、[[雪|雪上]](氷上も含む)などを指す。ラリーやオートバイのトライアル競技などに使用され、砂や泥でタイヤのグリップ力が弱まるために当然ながら滑りやすい。公道コースと同じように車両が周回できるようにコースを造って競技を執り行うものや、スタート地点からフィニッシュ地点までコースを制定するもの、あるいはスタートとフィニッシュ、チェックポイントは設けてあるものの、完走するまでの行程でどこを走行しても許可される競技も存在する。
===ギャラリー===
<gallery>
ファイル:Slalom Race Sardinia.jpg|[[ロードコーン|パイロン]]の間を縫うように駆け抜ける、スラローム競技。
ファイル:Grand Prix Monaco96 131954710.jpg|公道レースの代表格「[[モナコグランプリ|モナコGP]]」。
ファイル:Desert Warrior Dakar 2008 EVJPhoto.jpg|[[ダート]]でのレース。
ファイル:Rzeszowski Rally 2007 - Bouffier.jpg|河川を走行するラリー車両。
ファイル:Car rally.jpg|一般的なラリーコース。
ファイル:Barneyboards17March1915.jpg|古くは木製の板の上を走るボードトラックというものもあった。
ファイル:Solar car race suzuka.jpg|環境配慮の観点から近年ではソーラーカーレースも盛況である。
ファイル:Kart Race Indoor 2002.jpg|レーシングカートは自動車競技の最初の登竜門。
ファイル:Castle Combe wet race.jpg|ドライバーは視界不良の悪条件下でも速さを競う。
ファイル:Bathurst 12 Hour Race, 2011.jpg|耐久レースでは日中、黄昏時、夜と刻々と変化する日照条件下をひたすら走る。
</gallery>
<!---
===概説===
自動車競技においては、閉ざされたコースを周回して走行タイムを計測、最速を競うことがレースの基本で、最高峰カテゴリ「[[フォーミュラ1]] (F1)」は日本でもよく知られている。
一方、[[世界ラリー選手権]]({{lang|en|World Rally Championship}} = {{lang|en|WRC}})に代表される[[ラリー]]や、[[ダカール・ラリー]]に代表される[[ラリーレイド]]は、サーキットではなく、公道およびオフロードなどにコースを設定し、規定時間内でより速く完走を競うもので、ロードイベントと呼ばれる。
競技の中にはル・マン24時間レースを開催する[[サルト・サーキット]]のように、サーキットと公道を併用して一つのコースとして行われるものもある。
近年、サーキットは安全に競技および観戦できるよう、セーフティエリアを確保した設計が義務付けられている。それに比べ、公道で行われる場合は、十分なセーフティエリアを設けることが難しい場合が多い。--->
== 競技車両による分類 ==
自動車競技における車両は様々な形態があるが、大きく分けると①市販車をレース用に改造した車両(ツーリングカー/GTカーなど)②市販車の要素を少しだけ残した専用設計車両(プロトタイプレーシングカー、ストックカーなど)③市販車の要素を一切残さない専用設計車両(フォーミュラカー、レーシングカートなど)の3つに分類される。
また近年は環境問題への意識の高まりから、電気、水素、太陽光発電などといった化石燃料以外を用いるレーシングカーも多数誕生している。
=== フォーミュラカー ===
{{main|フォーミュラカー}}
[[ファイル:Kimi Canada 2008.jpg|thumb|right|200px|[[フォーミュラカー]]の例。(※F1世界選手権の[[スクーデリア・フェラーリ]])]]
①車両の全てのタイヤが剥き出しになっている②ドライバーの頭部が外部に露出している③シートは1名分のみという3つの形式を満たす車両。このことからオープンホイール、モノポスト(シングルシーター)とも呼ばれる。完全に競技専用車輌として設計されており、[[前照灯]]やブレーキランプなどの[[保安部品]]は装備していない<ref>追突防止用の赤色リアランプ([[フォグランプ#リアフォグランプ|リアフォグランプ、バックフォグランプ]])は装備しており、ウェットレースでは点灯が義務付けられる。</ref>。
車輌重量がとにかく軽いため、加速・コーナリング・ブレーキなどあらゆる運動性能がずば抜けて優れている。タイヤが露出している分[[空気抵抗]]は小さくないものの、最高速はF1で380km/h前後に達する。<!---他のレーシングカーにも当てはまることなので… またタイヤ交換を非常に迅速に行える利点もある。[[空気力学]]を元に、トラックとの密着性と高める効果を目的とした「ウイング = {{lang-en-short|wing}}」と呼ばれる、車両前後に大きな翼状の[[エアロパーツ]]を装備している。カテゴリによっては、[[地面効果]]によって強力な[[ダウンフォース]]を獲得する[[グラウンド・エフェクト・カー]]の使用が認められている。低速サーキットでは大きなダウンフォースを発生させ、高速サーキットでは最高速を重視するなど、エアロパーツの設計や設定次第でマシンの特性を柔軟に変化させることが出来る。--->
座席は窮屈で乗り降りも手間がかかるため、基本的に一人一台のスプリントレース向けであり、競技場所も路面が平滑に舗装されたサーキットや公道に限定される。
近年は安全上の理由から、ほとんどのフォーミュラカーは強化ガラスのスクリーンや[[Halo (フォーミュラカー)|HALO]]と呼ばれる輪っかのような頭部保護デバイスを装着する。また黎明期には[[後輪駆動#フロントエンジン・リアドライブ方式|FR]]や[[四輪駆動]]のものも存在したが、現代では駆動レイアウトは[[後輪駆動#ミッドシップエンジン・リアドライブ方式|MR]]で完全に統一されている。
一般人が「レーシングカー」と言われて思いつく形状の代名詞であり、まさに四輪レースの華といえる存在である。
''(※主なカテゴリー:[[フォーミュラ1|F1]]〜[[フォーミュラ4|F4]]、[[インディカー・シリーズ|インディカー]]、[[スーパーフォーミュラ]]など)''
=== プロトタイプスポーツカー ===
{{main|スポーツカー (モータースポーツ)}}
[[ファイル:Alms-2007-mos-th1357.jpg|thumb|left|200px|[[プロトタイプレーシングカー]]の例(※[[ペンスキー・レーシング]]の[[ポルシェ・RSスパイダー]])]]
プロトタイプスポーツカーは、フォーミュラカーとは形式が大きく異なる。根本的な違いはタイヤはフェンダーで覆われており、そして実際には使用しないが助手席が設けられた2座席車であり、[[国際連合欧州経済委員会|UNECE]]が制定する[[:en:World Forum for Harmonization of Vehicle Regulations|ECEレギュレーション]]に基づく保安基準(※:日本における[[道路運送車両法]]の保安基準もこれに準拠)である[[前照灯|ヘッドライト]]・[[尾灯|テールライト]]・ブレーキランプの装着が義務付けられている点である。
[[Image:MAZDA787B.jpg|thumb|200px|right|[[レナウン (企業)|レナウン]]・チャージ・[[マツダ]][[マツダ・787|787B]]([[1991年]]ル・マン24時間レース優勝車)]]
プロトタイプ系の車両は特徴的には市販車に近い点が多く見られるが、フォーミュラ系と同様に純粋なレース専用車両である。先述のECEレギュレーションには適合するように車両の保安基準は準拠しているものの、市販車とは全く別物の形状をしている。これを「'''[[プロトタイプレーシングカー]]'''」と呼ぶ。これらのプロトタイプレーシングカーは[[FIA 世界耐久選手権|WEC]](世界耐久選手権)やUSCC([[ユナイテッド・スポーツカー選手権]])など耐久レースのカテゴリに多く活躍する。[[プロトタイプ#自動車|プロトタイプ]]とはその名の通り「試作機」の意味であり、本来は「市販車ではないが、将来の市販化を前提にした少量生産(ゆえに高性能)の試作スポーツカーであり、開発テストのためレースに出ている」というのが原義となる。したがって、同じスポーツカーであってもGTカーとは性質も意味合いも異なる。
基本的には24時間レベルの耐久レースを主眼に置いて設計されており、長時間の運転やドライバー交代を前提とするため、運転姿勢や乗り降りはフォーミュラカーと比べると楽である。前述の通りライトも完備しているため、夜間走行も問題ない。さらにクローズドボディの場合はエアコンも装備される。
近年市場参入するメーカーの多い[[ハイパーカー]]は、プロトタイプレーシングカーに限りなく近いフォルムと性能をしており、2021年にはWECでプロトタイプレーシングカーに代わるカテゴリ([[ル・マン・ハイパーカー|LMハイパーカー]])として成立している。
なおカテゴリの出自によっては単座であったり、ライトが装着されなかったりと、タイヤが覆われただけのフォーミュラカーという実態を持つ場合もある(Can-Am第二期、富士グランチャンピオン第二期など)。
''(※:主なカテゴリー [[FIA 世界耐久選手権]]、[[ル・マン24時間レース]]、ユナイテッドスポーツカー選手権、[[ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ]]、[[アジアン・ル・マン・シリーズ]]など)''
=== GTカー ===
{{see also|グランツーリスモ}}
[[file:Miguel Ramos, Barwell Motorsport Lamborghini Huracan GT3 Evo, 2019.jpg|200px|thumb|right|GTカーの例(※[[ランボルギーニ・ウラカン]]のグループGT3仕様)]]
メカニズム的にはツーリングカーの一種だが、レースの形態や歴史的にはプロトタイプとツーリングカーの中間に位置する存在である。
一般的には市販の[[スーパーカー]]を改造した車両や、それに匹敵する戦闘力を持ったツーリングカーのことを指す。しかし歴史を遡ると、実態は明らかにプロトタイプスポーツカーなのに、一台のみの公道仕様を制作すれば参戦できる規定が『GT1』の名称で1990年代に施行されていたこともある。またプロトタイプスポーツカーが前項で述べた通り公道車の試作版という建前と戦闘力の近さから、プロトタイプスポーツカーが走る耐久レースのほとんどではGTカーも同時に走る。この混走レースやGTカーのみのレースを、ひとくくりに'''「[[スポーツカーレース]]」'''と呼ぶ。
GTカーの原義はグランド・ツアラー、[[グラン・ツーリスモ|グランツーリスモ]] ({{lang-en-short|Grand Tourer}} , {{lang-it-short|Gran Turismo}})である。GTとは「大旅行」を意味しており、これが派生してアメリカ[[:en:Sports Car Club of America|SCCA]]における[[Trans-Am Series|トランザムシリーズ]]の名称のように" {{lang|en|Trans-AM}} = {{lang|en|Trans-America}} = アメリカ横断 "という意味になぞられる。そのためスプリントに特化したフォーミュラ系の車両とは異なり、元々は耐久レース(長距離レース)を念頭に開発されたマシンであることが窺える(ただし実際はスプリントレースも多い)。
世界的には00年代に改造範囲によってグループGT1からGT4までが存在したが、現在はほぼ[[グループGT3]]と[[グループGT4]]のみである。日本では[[SUPER GT]]が日本で最も人気のあるレースとなっており、特に[[プリウス]]をGT化したマシンがフェラーリや[[マクラーレン]]のスーパーカー勢と互角以上に渡り合うのがここ10年の風物詩となっている。
''(※:主なカテゴリー [[インターコンチネンタルGTチャレンジ|IGTC]]、[[GTワールドチャレンジ]]、[[SUPER GT]]など)''
=== ツーリングカー ===
{{see also|ツーリングカー}}
[[ファイル:DTM 2007 Oschersleben.jpg|thumb|right|200px|[[ドイツツーリングカー選手権]]の様子。(※[[2007年]][[オッシャースレーベン]]にて)]]
[[ツーリングカー]]は街中でよく見るような市販車をレース用に改造した車両である。前出のGTカーとの境界線は極めて曖昧だが、ツーリングカーは大衆車~中級車クラスがベースとなっている事が多い。
ツーリングカー競技に参戦する車両は、参戦する車両(自動車会社)が標準として定めるボディを基礎とし、これをルールによってエンジン、サスペンション、ブレーキ、ホイールとタイヤなど変更が許される範囲の物が使用される。骨格以外は市販車とは全くの別物であるのが一般的である。
参加者としては参加車両を確保しやすく、レース観戦者側から見ても内容が判りやすく白熱しやすいことから、自動車競技の中で最も基本的でポピュラーなカテゴリーの1つとも言える。参戦費用が比較的廉価でありながらもレース自体の奥深さからF1を引退した後に自身の新境地としてツーリングカーに参戦する[[F1ドライバー|ドライバー]]も多く、こうした事から観戦者の関心もメーカー側の宣伝に対する費用対効果も相して高いことからもさまざまなメーカーがスポンサーとして参入しやすいのも特徴である。
一方でプロフェッショナルレベルで長期間歴史を紡ぎ続けることのできるツーリングカーシリーズは世界的に見ても少ない。これはツーリングカーレースが市販車をベースにする以上、ベース車両の人気の偏りゆえに参戦車種も偏ったり、自動車ファンの興味を惹けないような車種ばかりになってしまったり、優秀なベース車両を量産するコストに自動車メーカーが耐えられなくなったり、逆に劣ったベース車両を改造するのに莫大なコストを費やさざるをえなかったりと、市販車の事情によってレースの事情も大きく左右されてしまうからである。現代ではそうした反省から現代のプロのツーリングカーレースは、外観は多様に見えても、中身は共通コンポーネントや共通エンジンを用いたり、空力開発を制限してコストを削減しつつ車種のバラエティを維持している場合が多い。加えてスプリント形式の場合はレースでポイントを加算するにつれて「鉛のトロフィー」と呼ばれるハンデキャップ用の[[重し|ウェイト(バラスト)]]を次戦から装着することで、参加者同士のスピードの開きを無くし、弱小エントラントの参加意欲を促すことも珍しくない。
レースの形態はスプリントから耐久まで幅広いが、国際シリーズの場合はタイヤ交換を必要としない程度の周回のスプリントレースを同じ週末に2~3ヒート開催する事が多い。
(※主なカテゴリー:[[世界ツーリングカー選手権|WTCR]]、[[ドイツツーリングカー選手権|DTM]]、[[イギリスツーリングカー選手権|BTCC]]、[[スーパー耐久]] など)
=== ラリーカー ===
{{see also|ラリー}}
[[ファイル:Petter Solberg - 2006 Cyprus Rally.jpg|left|200px|thumb|[[2006年の世界ラリー選手権|2006年]]のキプロス・ラリーの様子(※[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]を駆る[[ペター・ソルベルグ]]]]
ラリーは基本的に市販車を改造したマシンで行われるため、外観はツーリングカーと非常によく似ている。しかしラリーでは舗装された公道([[ターマック]])から平坦な砂利道(スムースグラベル)、さらには人間の頭大の岩が転がる荒れた砂利道(ラフグラベル)などの悪路を市販車の設計段階では考えられない速度で走行するため、車体にはツーリングカーに使用される車両以上の頑強な補強が求められる。ラリーに使用される車両はまず一度完全に分解され、内装には頑強なスチール製の[[ロールケージ]]が組み込まれる。これによって事故発生時の乗員の安全性を確保している。レギュレーション次第ではスポット増しも行われ、ロールケージと合わせることで車体剛性が飛躍的に高まるためにドリフト走行がしやすい基本的な車両構造となる。
ボンネット内は熱対策が施される。カテゴリによってホモロゲーションの違いがあり改造可能は様々ではあるものの、ラリー競技は比較的低速な状態でエンジンを高回転に回す必要があるため、その対策も必須となる。先述のような悪路を常識では考えられない速度で走破するため、車の下回り(オイルパンや[[デファレンシャルギア|デフ]])を保護するためのアンダーガードを装着しているのが特徴である。さらに上記の場所を走行するため、[[サスペンション]]もストローク量が大きい物を装着し、車高も走行する路面の状況に合わせて高くするときも低くするときもある。ラリーカーもツーリングカーと同じく2席のシートが設けられているが、ラリー・ラリーレイドではこのシートにコ・ドライバーが座る。彼らはドライバーに情報を送るためにペースノートや資料を読み上げる必要性があり、そのためにナビランプと呼ばれるコ・ドライバーの手元のみを照らす[[照明|照明器具]]が装備されているのも特徴である。ギアボックスに関してはどのカテゴリの車両よりも低い速域で非常に高い値のギアレシオのギアが装着される傾向がある<ref>{{Cite news| url = http://www.kit-service.com/gropenmake.htm| title = グループN車両製作日記| publisher = K・I・T Service| date = 2005-08-31| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。リアウィングに関しては低速域から高いダウンフォースを発揮できる構造の物が求められるため、そうした要求を発揮するために「スプリッターリアウイング(※:通称、本棚ウィング<ref>{{Cite news| url = http://subarist.squares.net/impreza/SplitterWing.html| title = SplitterWing| publisher = DeepBlueRoom| date = 2004 | accessdate = 2010-10-12}}</ref>)」などラリー用に作られた独自の形状をしたウィングが使用される<ref>{{Cite news | url = http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/3219/event/041031rallyfesta/rallyfesta.html| title = 鈴鹿ワールドラリーフェスタ| publisher = Offline Meeting EVENT| date = 2004-10-31| accessdate = 2010-10-12}}</ref>。
''(※主なカテゴリ:[[世界ラリー選手権|WRC]]、[[ヨーロッパラリー選手権|ERC]]、[[アジアパシフィックラリー選手権|APRC]]、[[全日本ラリー選手権|JRC]] など)''
=== クロスカントリーカー ===
[[File:RallyDakar2013 (8369993577).jpg|200px|thumb|right|2013年[[ダカール・ラリー]](※[[2WD]]のSMGバギーでリエゾンを通過するゲラン・シシェリ)]]
ラリーと[[ラリーレイド]]は公道でレースを行うという性質上、最低限の公道規則に合致する必要があったり、ナビゲーター用の助手席やスペアタイヤや工具などを装備する必要があるなどの共通点はあるが、車両のシルエットには大きな違いが見られる。
ラリーカーは伝統的に小型の市販乗用車の形をしているのに対し、ラリーレイド用のクロスカントリーカーは市販の[[ラダーフレーム]]構造の[[SUV]]、[[ピックアップトラック]]、[[サイド・バイ・サイド・ビークル|SSV]]のような[[バギーカー]]、さらには[[貨物自動車|トラック]](後述)まで大きさも多様な種類のものが存在している。これらはいずれもFIAのグループT規定の下に、クロスカントリーカーとしてまとめられている。
ラリーに比べると俊敏さよりも砂漠や急斜面での確実な走破性が必要となり、従って求められるサスペンションストローク量やタイヤサイズは巨大なものになる。またクラスによっては、タイヤの内圧調整をコックピットからできるシステムを搭載している場合もある。
''(※主なカテゴリ:[[世界ラリーレイド選手権|W2RC]]、[[ダカール・ラリー]]、アブダビ・デザートチャレンジ、シルクウェイ・ラリーなど)''
=== ストックカー ===
{{main|ストックカー}}
[[File:Juan Pable Montoya ATL.JPG|thumb|right|200px|[[ストックカー]]の例(※2009年[[NASCAR]]の[[チップ・ガナッシ・レーシング|アーンハート・ガナッシ・レーシング]]の[[ファン・パブロ・モントーヤ|モントーヤ]]車]]
南北アメリカ大陸におけるレースで、最もポピュラーな自動車競技車両の1つである。ひとえにストックカーとは「見た目が乗用車と同じマシン」という曖昧な定義からなされるため、ほぼ無改造の車両から完全なレーシングマシンまで存在する。後者に関してはツーリングカーに似ているが、ツーリングカーの様な市販車改造車両ではなくストックカーは完全なレース専用設計車両である。ただしGTカーのように最高技術の結晶のような車両かといえば違い、エンジンは[[OHV]]であることからも一見して現在の自動車テクノロジーから後退した構造に見受けられる。
しかし、その単純な構造から高い回転数と馬力を生み出し、大排気量エンジンから圧倒的な[[トルク]]が生み出される事から非常に高い水準の技術から造られているのが分かる。ストックカーは他のレーシングマシンと比較して重い車両であり、ほぼ市販車と変わらないくらいの重量を誇る。そのボディ構造は[[アルミニウム]]と[[鉄]]からなるパイプフレームに[[グラスファイバー]]製のボディを被せて完成する。
[[ファイル:NormNelsonRogerMcCluskeyPlymouth2009MilwaukeeMile.jpg|thumb|left|200px|1970年型[[プリムス (自動車)|プリムス]][[プリムス・ロードランナー|ロードランナースーパーバード]]をベースにしたストックカー。]]
現在のストックカーはライト類([[前照灯]]、[[尾灯]])が存在しているかのように見えるが、本来の市販車ならばライト類がある場所にその形状を模したシールや塗装を施しているだけであり、実際にはライト類は装備されていない。ドアの継ぎ目が見受けられないことから分かる通り、ドライバーの乗降は窓から行う。レースの性質上、ほかの車両と接触することが多いために比較的ボディ強度は高い。
代表的なストックカーレースはNASCARであるが、この他に[[:en:International Motor Contest Association|IMCA]]など開催されるストックカーレースもある。IMCA系のストックカーレースはダートトラックで行われることが多いが、根本的な構造はNASCARと変わりはない。
ストックカーの中でも旧車両を使用したレースなども開催され、こうしたものを「'''レイトカー'''」''(英: {{lang|en|late car}})''と呼ぶ。レイトカーは古いストックカー車両を使用しているため、現在のストックカーのようにグラスファイバー製のボディを被せたりしたものは少ない。レイトカーの多くが前者にあたる「市販車改造車両」が多く、ライト類が装備されているものや、ドアの開閉が可能なものもある。ストックカーの歴史からみてこれらレイトカーのように古来は適合するホモロゲーションをクリアする事を前提に軽量化のためにボディを1度分解してその各ボディを[[酸]]に浸すことによってわずかでもボディを薄くして軽量化を施したり、市販品ならば使用しても良いというホモロゲーションルールから市販品でも非常に高価なものを装備するなど、参戦費用が莫大になっても少しでも速いマシンを手に入れるために工夫がなされていた。こうしたことからストックカーは市販車改造車両をベースとしたものであったが、低コストと高い安全性を両立するという観点から手法を模索していった結果、完全独自設計車両に進化していったことがうかがえる。
''(※主なカテゴリー:[[NASCAR]]、[[IMCA]]、[[ストックカー・ブラジル]]など)''
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=== トラック系 ===
[[Image:Formula Truck 2006 Interlagos first lap.jpg|200px|right|thumb|フォーミュラ・トラックの車両]]
レース用の[[貨物自動車]](トラック、カミオン)も存在する。競技に使用されるトラックは、多くの場合競技専用に開発された車両が使用される。そのため見た目はトラックのように見えても、貨物自動車本来の「貨物を運ぶ」という機能は持たないのが一般的である<ref>[http://www.teamsugawara.jp/jp/pd05/ran.html HINO RANGER:パリダカマシンのすべて] - TEAM SUGAWARA</ref>。[[ラリーレイド]]ではスペアパーツなどの運搬のために別途「サポートカミオン」と呼ばれる通常のトラックが投入されるが、それらは一応競技参加車両ではあるものの順位争いには参加しない(そもそも競技専用車両とは性能が違いすぎるため競走が成り立たない)。
トラックのレースは日本ではあまりなじみがないが、日本国外では[[フォーミュラ・トラック]](大型[[トラクター#その他のトラクター|トラクター]])やNASCAR[[キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ]]([[ライトトラック]]/[[ピックアップトラック]])など、カテゴリが多数存在する(キャンピング・ワールド・トラック・シリーズはストックカー系にも分類される)。またラリーレイドでは、通常のラリーカーによって争われるクラス以外に競技用カミオンによって争われるクラスが設けられることが多く、特に[[ダカール・ラリー]]におけるカミオンクラスは一つの名物となっている。
[[ヒルクライム (自動車)|ヒルクライムレース]]として長い歴史を持つアメリカの[[パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム]]にも、「[[セミトレーラー|セムアイ]]」と呼ばれる大型トラクターの[[エキシビション]]があり、その豪快な走りぶりから同イベントの名物として人気が高い。
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=== ドラッグレース系 ===
[[ファイル:CruzPedregonMcDonaldsDragster.jpg|thumb|right|200px|ロングノーズ形状であるドラッグスターファニーカー。ベースは[[ポンティアック]][[ポンティアック・ファイヤーバード|ファイヤーバード]]。]]
[[ファイル:Janne Ahonen Dragster Hockenheimring 2010-08-14.jpg|thumb|right|200px|[[ドラッグレース]]の典型的な車両であるドラッグスターのバーンアウト]]
1/4マイル(約402m = [[ゼロヨン|約0.4km]])という短い競技区間でのタイムを競う。競技は[[ドラッグストリップ]]と呼ばれる直線の専用レース場で行われる。スタート前に[[ドラッグレース#バーンアウト|バーンアウト]](バーンナウトとも)を行い、'''クリスマスツリー'''と呼ばれる電光スタートシステムに従ってスタートを切り、急激に加速、フィニッシュラインを越えると減速が行われる。上位クラスの車両では[[ブレーキ]]が車両の加速力に見合わない設計になっているため、[[パラシュート]]を用いて[[空気抵抗]]による減速を行う。ボディ形状はオープンホイールやクローズドボディのスペースフレームからノーマル車両まで様々で、エンジンやその他の補機類に至るまで細かくクラス分けがされている。
最も速いクラスは[[トップ・フューエル]]、続いて[[ファニーカー]]であり、これらのクラスは[[ニトロメタン]]が90%を占める特殊な燃料を使用する。
北米ではストックカーに続く高い人気を誇る。
''(※主な主催団体:[[NHRA]]、IHRA、ANDRAなど)''
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===代替エネルギー===
[[File:Solar Car "2011 Tokai Challenger".jpg|thumb|200px|[[東海大学]]の[[東海チャレンジャー|Tokai Challenger]](2011年型)]]
[[ソーラーカー]]や[[電気自動車]]に代表される、内燃機関以外の動力を用いる自動車もレースに使用される。ソーラーカーの場合はレースに参加するチームがそれぞれ独自に車両を開発することが多い。電気自動車については、市販車を改造するタイプからフォーミュラカーまで様々なタイプのものが開発されている。
歴史的には[[ソーラーカーレース]]が1985年より行われており、著名なレースとして[[ワールド・ソーラー・チャレンジ]]などがある。1990年代からは電気自動車によるレースも徐々に開催されるようになっており、1994年より2004年まで[[フォーミュラ・ライトニング]]が開催され、2014年よりFIAが[[フォーミュラE]]の名称で電気フォーミュラカーによるメジャーカテゴリを誕生させている。2021年には電気自動車によるオフロードレース「[[エクストリームE]]」や電気自動車のツーリングカーによる[[TCR (自動車競技)|E-TCR]]が登場し、さらに将来は[[世界ラリークロス選手権]]でも電気自動車が導入されるなど、将来の内燃機関の禁止に向けた対応が加速している。
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また純然たる代替エネルギーではないが、近年では[[ル・マン24時間レース]]や[[フォーミュラ1|F1]]、[[スーパーGT]]、[[世界ラリー選手権|WRC]]等のカテゴリーに於いて、[[ハイブリッドシステム]]を導入する競技も増加している。
=== ドリフト系 ===
[[File:G1 rd2 drift comp 2009 2.JPG|thumb|right|200px|[[オーストラリア]]の[[:en:Mallala Motor Sport Park|マラッラ・モータースポーツパーク]]で開催されたドリフト競技「G1」<br />(写真は[[2009年]])]]
市販車改造系で、比較的一般参加が容易なものとされる。特徴としては多くの競技参加者が自ら所有する車両を改造し、ドリフト走行に適した改造を施している点である。{{要出典|date=2021年9月|したがって、他の自動車競技よりも改造や競技参加のための資金が廉価で済む傾向がある}}。
ドリフト系競技の中で代表的な競技にとして、[[全日本プロドリフト選手権]](D1グランプリ)の様に純粋にドリフト走行の技術を審査する競技が挙げられる。この競技はドリフト走行を行う上で初歩的な改造から上級者向けの改造まで様々なものがあるが、初歩的な方法として車両の前後のバランスを変えることから始める事も可能であり、そのためドリフトを始めるハードルは低い<ref>{{Cite news | url = http://bunkichi-3rd.sakura.ne.jp/dori3.html| title = ドリフトチューン| publisher = 走り屋への道| date = 2009| accessdate = 2011-10-25}}</ref>。しかし、その反面にドリフトを行うには車両の動きをよく理解している必要もあり、自分が所持する車両を用いてかつ、その特性を見極めてセッティングを行っていかなくてはならない<ref>{{Cite news | url = http://bunkichi-3rd.sakura.ne.jp/dori15.html| title = セッティング| publisher = 走り屋への道| date = 2009| accessdate = 2011-10-25}}</ref>。また、前述のD1グランプリのような大きな自動車競技大会に参加する車両の中にはツーリングカー競技に参加するほどのレベルにまで改造を施している場合もある。D1グランプリを含むドリフト審査競技は、競技の在り方が「速さを競う」ではなく、ドリフトの豪快さや美しさを競う[[審査方式]]であるため、ツーリングカー系やラリーカー系などの市販車改造系と根本的な改造方法が異なり、特に観客を魅せるドリフトを追求した改造方法となる。一般的には[[ブーストアップ]]や後付け[[ターボチャージャー]]に比較的小型のタービンを装備するなど小改造に留めておいたほうが、低回転域のトルクが稼げるためにドリフト走行はしやすくなるが、大きな大会に出場する程の車両になると、タイヤからの白煙を出しやすくするためにタービンを大型化するなどさらなる改造が施される。これはタイヤスモークを出すことがドリフト審査における加点対象であり、これらのことからもドリフト競技車両は単にドライバーがドリフトをしやすいように改造されただけでなく、観客に対していかに豪快で華麗なドリフトを魅せることができるかを追求して改造された車両であることが窺える。
''(※主な主催団体:[[全日本プロドリフト選手権]]、[[フォーミュラ・ドリフト]]、[[ドリフトマッスル]])''
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=== スラローム競技系 ===
[[ファイル:Mazda fc3s autocross.jpg|thumb|right|200px|[[ジムカーナ]]に挑む[[マツダ自動車|マツダ]][[RX-7]]。]]
スラローム競技の代表格として[[ジムカーナ (モータースポーツ)|ジムカーナ]]が挙げられる。ジムカーナは[[モータースポーツライセンス]]の国内B級ライセンスで行える競技であり、競技も小規模なサーキットや舗装された広い駐車場などでも行うことができる。英語圏では「[[:en:Autocross|オートクロス]]」と呼ばれている競技とも非常に良く似ているが、一般的にジムカーナのほうが高い技術を要するといわれている。ドリフト系競技と同様に競技人口も多い<ref>{{Cite news | url = http://www25.tok2.com/home2/tomotama/gym/dic/w_gym.htm| title = ジムカーナとは| publisher = ジムカーナ百科事典| date = 2004-12-03| accessdate = 2011-12-17}}</ref>。その背景にはドリフト系と同じく他の自動車競技と比較してもハードルが低い競技であり、参加する車両も基本的には市販車を小改造したもので行われる。したがって参戦費用も廉価である。改造はサスペンションなどの足回りや車体剛性の強化、そしてブレーキの強化などがあげられる。サスペンションや剛性の強化はハンドリングの向上を主な目的とし、ブレーキの強化も[[サイドターン]]を行う場合に車両前方に[[荷重]]を移動しやすくさせるためである<ref>{{Cite news | url = http://www.twinring.jp/tdm_m/about/qanda.html| title = ジムカーナのススメ| publisher = [[ツインリンクもてぎ]]| work = [[日部利晃]] | accessdate = 2011-12-28}}</ref>。
この他、ジムカーナは[[ロードコーン|パイロン]]のスラローム競技である為、競技参加車両が痛む可能性が低く安全性も非常に高い。したがって、衝撃に対する補強などはあまり行われない反面、競技車両を徹底的に軽量化されることもある<ref>{{Cite news | url = http://www.asahi.com/ad/clients/rikkyo/student02.html| title = 立教大学体育会自動車部 - モータースポーツの世界にようこそ!| publisher = [[朝日新聞|asahi.com]]| work = [[立教大学|立教大学自動車部]]| date = 2004-12-03| accessdate = 2011-12-17}}</ref>。これに対し、砂利や泥の上で行われるスラローム競技である[[ダートトライアル]]は、競技に使用される車両の特徴や改造方法はあまり変わらない、未舗装路面で競技が行われる為、ジムカーナ競技よりも保安装備を厳重にする必要がある<ref>{{Cite news | url = http://toyoac.zouri.jp/sports.html| title = 競技の紹介 - ダートトライアル| publisher = [[東洋大学|東洋大学自動車部]]| accessdate = 2011-12-28}}</ref>。
なお、これらの競技クラスによっては一部ではフォーミュラカーでも参加する場合もある。
<!-- ここから[[フィギュア]]について記述を予定 -->
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=== 燃費競争系 ===
{{main|低燃費競技}}
速さではなく[[燃費]]を競う燃費競争では、[[シェル エコマラソン]]への参加車両のように動力については競技専用に開発される場合が多いが、[[Honda エコ マイレッジ チャレンジ]]のように[[ホンダ・カブ]]など燃費の良さで知られる市販車エンジンを改造して使用するクラスが設けられるものもある。
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=== その他 ===
以上の分類に属しない車による競技も多数存在する。いくつか例を挙げると、ミジェットカー(ダートオーバル専用マシン)や、[[富士グランチャンピオンレース]]の後期(フォーミュラカーのモノコックにスポーツカー風のフルカウルを被せたマシン)、上記の複数のカテゴリーのマシンが混在して参加するレース([[ドラッグレース]]、[[ヒルクライム (自動車)|ヒルクライム]]など)がある。
== レース参加者の大分類 ==
自動車レース(競技)への参加者は、参加形態という観点からは、大まかに言うと、ワークス/プライベーター/セミワークスの3つに分類される。また[[スポンサー]]も、広い意味での自動車レース参加者である(後述)。
=== ワークス・チーム ===
{{see also|ワークス・チーム}}
トヨタや日産などの、市販自動車メーカー(マニュファクチャラー)が自社の資金・人材・技術を使用して組織した直系チーム。タイヤなどの部品メーカーの場合も含まれることがある。「ファクトリー・チーム」ともいう。
長所としては豊富な資金力と自動車製造企業というあらゆる設備が整った母体を背景に自動車競技に参入できるため、一般的に強豪チームとして成果を上げやすい。その反面、景気や企業の業績、世界情勢などコース外での変化の影響を受けやすい。株主や社内の反対派の反発を受け、ワークスが撤退を余儀なくされるのは珍しい話ではない。
ワークスの参戦は多くの自動車ファン・一般人の耳目を集めやすいため、運営はワークスの参入を促すような規則を設定する傾向にある。
=== プライベーター===
ワークスではないレーシングチームや、個人参戦者全般を指す。
長所としては、個人やチームの運営能力やノウハウだけで競技を行うことができること、純粋にレースへの情熱で参戦を継続できるなど、さまざまな制約から解き放たれている点である。一方で自動車製造のノウハウや資金が少ない場合も多く、トップカテゴリで勝利するまでにはワークス以上の投資が必要となる。レース運営側はプライベーター向けに低コストに参戦できる規定を導入する場合があるが、そちらの規則が戦闘力や販促の都合上有利と見たワークスチームが潤沢な資金力で利用してしまい、議論を呼ぶ場合もある<ref group="注釈">1990年代[[ル・マン24時間レース]]のオープントップや、[[ダカール・ラリー]]の[[2WD]]規定など。近年は[[グループGT3]]もこれに近い</ref>。
特に大規模なカテゴリになればなるほどプライベーターはワークスよりも高いノウハウと資金力が必要とされ、潤沢な資金力を作り出すことができるなんらかの「母体」となる事業や企業が必要とされる。母体となる企業はチューニングショップや自動車販売店に始まり、工業製品メーカー、アミューズメント、飲料メーカー、衣服メーカー、雑誌出版社…など様々で、経営者が自らもレーサーとして参戦するほどの自動車好きの場合もあれば、全くレースに興味は無いが自社の宣伝のためだけに利用しようとする場合もある。
長年レースを経験している老舗のプライベーターは強大な力を持っているため、ワークスをもってしても打ち破るのは困難である。そうしたプライベーターは、自動車メーカーからの依頼でマシン開発・チーム運営の協力や[[OEM供給]]、さらにはワークスの看板を背負ってのレース活動を行う場合もある(後述)。
最初はプライベーターであったが、後に車両開発ノウハウを活かして市販車メーカーとなり、ワークスへ変貌を遂げたチームもある。[[フェラーリ]]や[[マクラーレン]]などがその代表的な例である。また[[フォード]]や[[ホンダ]]のように、創業者が個人参戦者としての経歴を持っている市販車ブランドも珍しくない。
=== セミワークス ===
{{see also|セミワークス}}
市販車メーカーが支援するプライベーターのこと。市販車メーカーがマシンや所属ドライバー、技術スタッフ、資金などをプライベーターに送りこんで支援する。
市販車メーカー側は純粋なワークス体制と比べて初期投資・継続参戦コストが大幅に軽減でき、プライベーター側も自動車製造会社からのさまざまな恩恵によって運営資金を軽減しつつ高い戦闘力を得ることが可能となる。また運営が「ワークスチームの参戦禁止」を謳うカテゴリでも、「プライベーターを支援」という体裁を主張してかいくぐることが多くの場合可能である<ref>条文の中でワークスとプライベーターを明確に定義し、排除するのが困難なためである</ref>。
総じて[[コストパフォーマンス]]に優れているため、純粋なワークス体制よりも多く見られる参戦形態である。
短所としては、両者の運営方針の違いや温度差で制限が発生する点である。それぞれにノウハウや主義などの要素が交錯するために、効果も副作用もワークスとプライベーターの中間的な位置付けになってしまう傾向がある。市販車メーカーが本腰を入れる場合はそのデメリットを回避するため、多額の資金と引き換えに完全にプライベーター側を支配する形で「ワークス化」することもある。
== スポンサーシップ ==
[[ファイル:HillGraham19690801Lotus-Nordkehre.jpg|thumb|right|200px|[[グラハム・ヒル]]が駆る[[ロータス・49]]。自動車競技史初のスポンサーカラーである([[1969年]])]]
[[File:Hinchcliffe 20120519.jpg|thumb|200px|パーソナルスポンサーである[[GoDaddy]]のロゴ入りレーシングスーツを着た[[ジェームズ・ヒンチクリフ]]]]
'''スポンサーシップ''' ('''{{lang-en-short|Sponsorship}}''') とは「後援」を意味し、その名の通りチームや選手に対して技術や資金を提供することである。こうした資金と技術提供者を[[スポンサー]]と呼ぶ。自動車競技におけるスポンサーは、大きく分けて「'''テクニカルスポンサー'''」と「'''コマーシャルスポンサー'''」の2つが存在する。
自動車競技において選手・チームが優秀な成績をあげることは、その選手・チームに携わる自動車および自動車関連部品のイメージアップにも繋がる。そのため製造各社はさまざまなかたちで競技参加者を支援しており、個人の参加車にもサポートをする。先述の[[セミワークス]]もこれに該当し、車体だけでなく部品供給などの恩恵を与えることでこれらの当該企業の営利的な目的にもなる。こうしたことからもセミワークス体制は「テクニカルスポンサー」を受けたプライベーターという解釈も可能である。
また競技の参加は基本的に多額の資金やメカニック・エンジニアなどのスタッフが必要になるため、競技参加者は自動車製造会社だけではなく、広く経済社会全体からスポンサーを見つける努力を行う事が常となる。スポンサーによる資金の提供を受けた場合は、選手の[[レーシングスーツ]]([[ユニフォーム広告]])や車体にスポンサーのロゴの掲示やコーポレートカラーとする「コマーシャルスポンサー」が一般的である。
自動車競技におけるスポンサーは1960年代後半に入ってから行われるようになり、F1の[[チーム・ロータス]]以降に車体にスポンサー企業や団体を掲載し、さらにメインスポンサーが求めるカラーリングで車両を塗装する「スポンサーカラー」という手法が確立した<ref>それ以前は、マシンの横側に車番が書かれているだけのシンプルなものであった。</ref>。その収入によってより強力なチーム体制を身につけることに成功した背景から、自動車競技は「走る広告塔」と比喩されるまでになった。
自動車競技はチームとは別にドライバー個人に対しスポンサーが付く場合も少なくないのが特徴である。これを「'''パーソナルスポンサー'''」と呼ぶ。パーソナルスポンサーはコマーシャルスポンサーの一種であり、このスポンサーがチームにも持ち込む資金を見込んでプライベーターチーム側がドライバーに対する契約締結の条件にするケースも珍しくはない。これはチーム運営にかかるコストが莫大である自動車競技という競技の特性が大きな要因である。必然的にスポンサーになる企業もその広告費の高さから比較的大きな企業に限られる。
資金不足が顕わになったチームは、ドライバーの競技の実力よりも、多額のスポンサー資金を持ち込んでくれるドライバーを選ぶ傾向が強い。特に下位カテゴリから昇格を目指す新人ドライバーは、それまで戦ってきたカテゴリでの特筆される実績とプラス(あるいは実績とは関係なく)して、スポンサー資金を要求されることは往々にしてある。通常はドライバーも[[スポーツ選手]]と同じく一つの職業であり、彼らと同等に戦果や奮闘の対価としてチーム側から契約金や年俸などが支払われ利益を得るのが常ではあるが、ペイドライバーの場合は反対にチーム側からの支払いを一切受けることがない、あるいはごくわずかな年俸などを得てチームのレギュラーシートに座る<ref>中にはテストドライバーとしてチームに籍を置くだけなのにスポンサー資金を要求する場合もある。</ref>。そしてシートの見返りとしてドライバーが持ち込んだスポンサー企業がチームに付き、スポンサー料をチーム側に支払う。このように競技の実力以上にスポンサー資金の額の多さによってシートを得たドライバーは、時には揶揄のニュアンスも含んで『'''ペイドライバー''' ('''{{lang-en-short|Paying Driver}}''')』 と呼ばれている<ref name="paying_driver">{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/39109.html| title = 特集:ペイドライバーの復活| publisher = ESPN F1| date = 2011-01-28| accessdate = 2011-12-28}}</ref>。
時としてこうしたスポンサー目当ての新人ドライバー契約が問題視される場合もある反面<ref name="paying_driver2">{{Cite news | url = http://f1-gate.com/trulli/f1_13933.html| title = ヤルノ・トゥルーリ、ペイドライバーを非難| publisher = ESPN F1| date = 2011-12-28| accessdate = 2011-12-28}}</ref>、潤沢な資金力による長期的なレースへの参加により成長して実力も伴うようになり、結果的にドライバーが大成するケースも多々ある。また新人ドライバーが資金不足に苦しみながら活躍して才覚を披露した後に大規模スポンサーがつくというケースもあるため、一概にペイドライバーを悪とは決めつけづらい側面もある。
チーム側としてはチームの存続は運営上の重要事項であるため当然とする見方もある一方、ペイドライバーを雇うようなチームだと思われるのは好ましくないと考えるところもあり、ペイドライバーについては評価が分かれる<ref name="paying_driver" /><ref name="paying_driver2" /><ref>{{Cite news | url = http://f1-gate.com/barrichello/f1_14355.html| title = ルーベンス・バリチェロ 「金がすべてを支配している」| publisher = F1 Gate.com| date = 2012-02-18| accessdate = 2012-02-18}}</ref>。
[[Image:Renault garage.jpg|thumb|left|200px|スポンサーのロゴが多く張られている[[ルノーF1]]チームのピット(※:写真は[[2005年のF1世界選手権|2005年]][[アメリカグランプリ|アメリカGP]])]]
スポンサー企業の傾向としては、サスペンション・エンジンオイル・タイヤなど勝敗に直結する部品から、ランプ、ワイパーなどのような細かい部品を含め、自動車関連部品を取り扱う企業が多い。しかしこの場合は大金を提供されるより、部品を割安あるいは無償供給されているという場合が多い。
潤沢な資金力を持つ産業として、以前は[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]を代表とする[[タバコ|タバコ企業]]が幅を利かせていた。しかし1980年代後半より[[欧州連合|EU諸国]]から始まった[[たばこ広告]]規制強化によって、たばこ広告の縮小を始める。この規制はイギリスで最初に行われ、F1においても[[イギリスグランプリ|イギリスGP]]ではタバコ銘柄の名称を記載する行為を禁止した<ref>当時はスポンサーを行う事は合法であり、車体のロゴ、ヘルメット、レーシングスーツ、サーキット看板でロゴや銘柄を連想させるような図柄は随所に存在した。</ref>。この風習は後の[[喫煙|喫煙問題]]によってEU諸国に広がり、現在ではヨーロッパ諸国全土においてたばこ広告の掲載は禁止されている。北米でも[[ウィンストン (たばこ)|ウィンストン]]を展開する[[R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー]]が、30年近くに渡り続けてきた冠スポンサ-を2003年で降板した。近年では車体に描かれる図柄がたばこ広告に似ている、あるいは[[サブリミナル効果]]としてタバコを連想させるというだけで問題視される傾向にあり、事実上たばこ広告は完全排除されている<ref>{{Cite news | url = http://f1-gate.com/ferrari/f1_7300.html| title = フェラーリ、バーコードにサブリミナル広告の疑い| publisher = F1 Gate.com| date = 2010-04-29| accessdate = 2010-09-25}}</ref>。この他にも、[[酒|アルコール飲料]]のスポンサーも、[[飲酒運転]]や[[アルコール依存症]]などの問題で規制される傾向にある<ref>{{Cite news | url = https://www.afpbb.com/articles/-/2728440?pid=5784223| title = 安売り・飲み放題など、アルコール規制指針を採択 WHO| publisher = AFP| date = 2010-05-21| accessdate = 2010-09-25}}</ref>。
タバコ産業が撤退した後には[[レッドブル]]、[[モンスターエナジー]]、[[ロックスター]]といったエナジードリンクメーカーが台頭している。また[[マイクロソフト]]や[[レノボ]]、[[ヒューレット・パッカード]]、[[ドコモ]]、[[KDDI]]などの大手IT企業もスポンサーとして名乗りを上げることが増えている。IT企業は基本的にはコマーシャルスポンサーであるが、現物支給として[[ワークステーション]]や[[スーパーコンピュータ]]などの自社製品やIT技術者をチームに提供し、[[数値解析]]で車両開発を支援するなどテクニカルスポンサーとして活動する企業もある。
日本の自動車競技のスポンサーは[[パチンコ]]・[[スロットマシン|スロット]]を主力とする[[アミューズメント]]系企業のスポンサーが多いことや、[[アニメーション|アニメ]]・[[漫画]]・[[ゲーム]]などの二次元産業とのタイアップにより[[痛車]]が参戦しているのが特徴である。
== レギュレーション(規則) ==
使う道具の優劣を競う面も持つ自動車競技の規則には、大別して'''スポーティングレギュレーション(競技規則)'''と'''テクニカル・レギュレーション(技術規則)'''の2種類が存在する。
規則はカテゴリによって様々であるが、資金力で優劣が決しやすく、参加者の出入りが激しい自動車競技の規則は、自由な競争と性能均衡という二律背反の事項を両立するために知恵が絞られているのが大きな特徴と言える。
=== ホモロゲーション ===
[[file:Mitsubishi LancerEvolution WRC02.JPG|200px|thumb|right|2002年WRCの三菱はFIAとの見解の相違により、[[ランサーエボリューション]]の最低生産台数をクリアしたと認められず、ランサーセディアを「ランサーエボリューションWRC」として投入していた。]]
車両の構造物・部品の多くは、運営から'''[[ホモロゲーション]](公認)'''を得た物でなければ使用できない。構造物・部品を新規に開発する場合は、そのたびに公認を取得する必要がある。ただし現代においては公認取得の回数は制限されている場合が多い。これは規模の大きいチームが資金力に物を言わせて開発を続々と進め、他の資金力で劣るチームたちがついていけなくなるような状況を避けるためであり、ひいては参戦コストを下げてチームの新規参入や継続的参戦を促すためである。この回数を制限されているホモロゲーションの取得の権利は、カテゴリによっては「'''ジョーカー'''」<ref>ここでは「[[切り札]]」の意味</ref>などと呼ばれている。一年間に複数回取得できるならまだいい方で、構造物や部位によっては、1回ホモロゲーションを取得したら数年に渡って使用しなければならない場合もある。トップカテゴリでは特にホモロゲーションの取得回数制限が厳しい傾向があり、基本設計のミス次第では以降数年間の優劣を決定してしまうこともある。
技術的に規則に合致していることはもちろんであるが、ツーリングカーやラリーのように市販車との関連性を重視する競技では、市場で最低数百ないし数千レベルで生産・販売されていることがホモロゲーション取得条件に設定されている。一見すると不利に見えるような市販車をベースにしているケースの多くは、この最低生産台数が理由である。
=== 性能調整 ===
[[file:Group GT300 car 2012 Super GT Sugo.jpg|200px|thumb|right|SUPER GTのGT300クラスは事実上3つの車両規格が混在しているため、誰もが満足するような性能調整が難しくなっている]]
[[file:DennisRådströmRallySweden2020(3).jpg|200px|thumb|right|[[グループRally]]や[[グループR-GT]]などのラリーカー規定では、[[パワーウェイトレシオ]]を統一するという方法で性能均衡が行われている。]]
現代のレースでよく用いられる規則として、'''性能調整'''(Balance of Performance、BoPとも)が存在する。これは各メーカーが自由に開発しホモロゲーションを取得した競技車両たちに、運営側が共通のテストやアルゴリズムの下に計算した上で、ウェイト(重量物)や[[リストリクター]]の装着、燃料タンク容量の増減などを行い、戦闘力を均一にするものである。これにより参戦車種のバラエティを増やし、参加者もファンも楽しませることが可能となるが、一方で100%正確に戦闘力を均一にするのは不可能であるため、どうしても異なるサーキットやコンディションにおける有利・不利が出てしまう。そのため参加者やファンが勝敗の原因を実力ではなく性能調整のせいにし、喧嘩に近い議論を呼ぶこともある。また有利な性能調整を受けられるように、参加者が公式練習や予選でわざと本気を出さないで性能調整のやり直しを求めるという駆け引きもあり、これもよく議論の対象となっている<ref>ただし現代ではデータロガーの精度・情報量やデータ解析の技術が格段に向上しているため、簡単にはごまかせない</ref>。
同じような概念で、GTやツーリングカーレースでよく用いられるものに'''サクセスバラスト'''や'''ウェイトハンデ'''がある。性能調整はレース本番前だが、これらはレース後の結果に対して課せられるウェイトやリストリクターのハンデで、性能調整に比べると事後的ではあるため効果が出るのは遅いが、その分公平性を期しやすいメリットがある。しかしこちらも「勝ったチームがペナルティを課せられているみたいだ」「強いチームほど勝てなくなるのはおかしい」などの批判が事あるごとに沸き起こっている。またポイントシステムや残りレース数などを計算した上で、わざとライバルを前に行かせて後のレースを有利にするような駆け引きが行われることがあり、複数の参加者が同じことを考えていると、速さを競うレースなのに前を譲り合うような、ともすると情けない光景が繰り広げられることもある。そのためSUPER GTでは、最終2戦でハンデを軽減あるいはゼロにすることで、そうした事態を避けている。
上記の手法はすべての自動車競技で用いられているわけではなく、例えばフォーミュラカーレースではあまり見られない。しかしそこでも異なるエンジン気筒数や排気量、駆動レイアウトなどが混在している場合、それらの勢力均衡させるために開発前に配られるレギュレーションの段階で異なる参加条件(エンジン回転数や最低重量など)が設定されたことはあり、そのバランスをめぐってやはり議論が何度も繰り返されてきた。そのため現在では、エンジンのバラエティを追求するよりも、公平さを重視して気筒数・排気量を完全に統一した上で開発競争を行うカテゴリが主流となっている。
突き詰めると全員が同じ車体・同じ部品を使う「[[ワンメイク]]」が最も平等で簡単な解決策に見えるが、それでは車種や技術のバラエティが無く、開発競争に興味を持つ企業やエンジニア、ファンを惹きつけられないという別方向の問題が浮上する。なるべく多くの参加者とファンが納得できるようなレギュレーション作りは、自動車競技運営の永遠の課題である。
<!--以下は前項との明らかな重複部位。長文に渡るので囲うだけにします
== レーシングチーム ==
一般乗用車で参加できる[[ジムカーナ]]や[[ダートトライアル]]の下位クラス、低価格で[[サーキット]]を走行する催し([[走行会]]、フリー走行)、レンタルで乗れるカート ([[レーシングカート|{{lang|en|Kart}}]]) など、初心者や個人クラスでも比較的手軽に参加できる分野もある。また、世界各地に気軽な走行ができる[[サーキット|ミニサーキット]]が点在している。これらのような小規模な大会であれば、車両の操縦を行うドライバー単身での参加も可能である。
しかし大規模なレース競技になるとルールや競技の性質上で車両の設計や改造、整備などを行うために人員が必要となるため、「[[レーシングチーム]]」という組織を結成して競技に参加するのが一般的となっている。
レーシングチームには大まかに分けて2種類がある。1つは自動車メーカーによるレーシングチームである。自動車メーカーが自動車競技に参戦する代表的なメリットとして、自社およびその製品(車両)に対する大きな宣伝効果を得ることができる点が挙げられる。また極限状態でレースを行うことで得られるデータやノウハウをそのまま市販車にフィードバックすることで、より消費者に満足される製品を開発するための手助けとなる相乗効果も期待される。このように自動車メーカーそのものが自動車競技に参戦することを「'''ワークスチーム'''(ワークス体制とも)」と呼ぶ。しかし、その反面に[[景気]]やそのメーカーの[[株価]]の低迷によって株主の反対や、変更された車両規則が自社のブランド戦略と相違したなどの理由で撤退することが多い。大企業になればなるほど企業幹部や上層陣の意向だけではレースを続けることができないため、長期的な参戦を望むのは容易ではないという問題がある。
逆にもう1つは自動車メーカーではない企業や個人が資本投資を行い人員を集めてレースチーム組織を結成することである。これを「'''プライベートチーム'''(プライベーターとも)」と呼ぶ。プライベートチームのメリットとしては、景気や戦績を抜きに自らの精神力が不屈である限り参戦することが可能な点である。長期的にコミットして力をつけたり、自動車メーカーの支援を受けられれば([[セミワークス]])、ワークスチームに勝つことも可能である。一方で初期の資金力・技術力ではワークスや老舗プライベートチームに太刀打ちできない場合がほとんどのため、結果を残すにはかなりの時間と資金を費やす必要がある。
このようにワークスチームにせよプライベートチームにせよ多額の資金を必要とするのは同じであり、レースに参加する・参加し続ける障壁は非常に高い。その資金を捻出するためには、レーシングチームは[[スポンサー]]という出資者を募る必要がある。スポンサーには資本的なスポンサーと技術的なスポンサーがあり、彼らの応援によってレーシングチームは運営能力や車両性能の向上が図られる。これらの恩恵を受けた見返りとして車両やレーシングスーツなどにスポンサーの名前や[[ロゴ]]を掲載するため、一種の[[広告]]としての役割を担う。これは[[フォーミュラ1|F1]]において[[チーム・ロータス|ロータス]]が先駆けて行ったため、これが派生して「走る広告塔」という言葉も生まれた。
-->
== 主な大会 ==
=== 主な四輪競技 ===
: {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:75%"
|+ '''主な自動車競技'''
|-
! style=width:10.0em|競技車両の大別
! style=width:15.0em|シリーズ名
! style=width:6.0em|略称
! style=width:8.0em|開催年
! style=width:27.0em|特記事項
|-
! rowspan="14"|フォーミュラカー<br />(オープンホイール)
| [[フォーミュラ1|フォーミュラ1世界選手権]]
| F1
| 1950年~
| FIAで最も長い歴史を持つ世界選手権。[[モナコグランプリ]]を擁する。現行規定では[[ハイブリッドカー]]となっている。
|-
| [[フォーミュラE|フォーミュラE世界選手権]]
| FE
| 2014年~
|別名「[[電気自動車]]のF1」。秋開幕~夏閉幕というスケジュールで開催。2020年に世界選手権に格上げされた。
|-
| [[インディカー・シリーズ]]
| INDY<br/>ICS
| 1996年~
| 米大陸フォーミュラの最高峰。[[インディ500]]はじめ、[[オーバル]]コースを走るのが最大の特徴。
|-
| [[スーパーフォーミュラ]]
| SF
| 2013年~
| アジアンフォーミュラの最高峰。[[全日本F2選手権]]、[[全日本F3000選手権]]、[[フォーミュラ・ニッポン]]を前身に持つ。
|-
| [[フォーミュラ2|フォーミュラ2選手権]]
| F2
| 2017年~
| 欧州F2選手権、[[国際F3000選手権]]、[[GP2]]を前身に持つ。F1の直下カテゴリ。
|-
| [[フォーミュラ3|フォーミュラ3選手権]]
| F3
| <ref name="国や地域による">国や地域による</ref>
| 古くから世界各国に存在したプロレーサーの登竜門だが、現在はFIAの主催する、欧州のF3選手権のみを指す。
|-
| [[フォーミュラ3#リージョナルF3|リージョナルF3]]
| -
| 2020年~
| 各国独自のF3規定をFIAの管理の下にまとめたもので、F3とF4の中間に位置づけられている。
|-
| [[フォーミュラ4]]
| F4
| <ref name="国や地域による"/>
| リージョナルF3の下に位置する。日本にはJAF-F4という独自規格が存在する。
|-
| [[インディ・ライツ]]
| -
| 2002年~
| インディカ-の直下カテゴリ。
|-
| [[スーパーフォーミュラ・ライツ]]
| SFL
| 2020年~
| FIAのリージョナルF3構想に反発し、[[全日本F3選手権]]が発展して誕生したスーパーフォーミュラの直下カテゴリ。
|-
| [[CART]](終了)
| チャンプカー
| 1979~2007年
| かつての北米最高峰シリーズ。[[インディ・レーシング・リーグ|IRL]]に吸収され廃止。
|-
| [[ワールドシリーズ・バイ・ルノー]](終了)
| WSR
| 2005~2017年
| [[ワールドシリーズ・バイ・ニッサン]]の後継カテゴリである[[フォーミュラ・ルノー3.5]]の正式名称。
|-
| [[A1グランプリ]](終了)
| A1GP
| 2005~2010年
| 「モータースポーツのワールドカップ」を標榜していた、国別対抗戦。2005年から2010年までの開催。
|-
| [[グランプリマスターズ]](終了)
| -
| 2005~2006年
| 元F1ドライバーだけで行われるレース。
|-
! rowspan="11"|スポーツカー
| [[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]]
| WEC
| 2012年~
| [[国際自動車連盟|FIA]]と[[フランス西部自動車クラブ|ACO]]が管轄しているスポーツカー耐久選手権。SWC([[スポーツカー世界選手権]])はじめ、多数の前身を持つ。
|-
| [[ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ]]
| ELMS
| 2012年~
| ACOが主催。一定の成績を収めると、ル・マンへのシード権を獲得できる。
|-
| [[ユナイテッド・スポーツカー選手権]]
| USCC
| 2014年~
| [[国際モータースポーツ協会|IMSA]]が主催する北米スポーツカーの最高峰レース。ALMS([[アメリカン・ル・マン・シリーズ]])とグランダムシリーズの統合で誕生。
|-
| [[アジアン・ル・マン・シリーズ]]
| AsLMS
| 2009年~
| ACOが主催。一定の成績を収めると、ル・マンへのシード権を獲得できる。
|-
| [[インタープロト]]
| IPS
| 2013年~
| 富士スピードウェイでのみ開催。ドライバーの育成を目的としたワンメイクレース。
|-
| [[ル・マン24時間レース]]
| ル・マン
| 1923年~
| 世界3大耐久および世界3大レースの1つを兼ねる、自動車レース最高峰の1つ。WECの一戦。
|-
| [[デイトナ24時間レース]]
| デイトナ
| 1962年~
| [[デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ]]で開催される。世界3大耐久の中で、唯一公道を一切使わない専用のサーキットのみを用いている。USCCの一戦。
|-
| [[セブリング12時間レース]]
| セブリング
| 1950年~
| USCCの一戦。
|-
| [[プチ・ル・マン]]
| PLM
| 1998年~
| 10時間レース。USCCの一戦。
|-
| [[富士グランチャンピオンレース]](終了)
| GC
| 1971~1989年
| 単座のスポーツカーによるドライバーズレース
|-
| [[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]](終了)
| JSPC
| 1983~1992年
| [[グループC]]による国内選手権。
|-
! rowspan="7"|GTカー
| [[インターコンチネンタルGTチャレンジ]]
| IGTC
| 2016年
| [[ステファン・ラテル・オーガニゼーション|SRO]]が主催。ワークス参戦が可能な、[[グループGT3]]の最高峰レース。
|-
| [[GTワールドチャレンジ]]
| GTWC
| 2014年~
| SROが主催。[[FIA-GT選手権]]、[[GTワールドチャレンジ・ヨーロッパ|ブランパンGTシリーズ]]を前身に持つ、[[グループGT3]]/GT4規定による地域シリーズ。欧・米・亜・豪でシリーズが展開されている。
|-
| [[SUPER GT]]
| SGT
| 2005年~
| 現在最も人気のある日本のレース。JGTC([[全日本GT選手権]])が前身。JAF-GTという独自規格がある。
|-
| [[スパ・フランコルシャン24時間レース]]
| スパ24
| 1924年~
| RACB(ベルギー王立自動車クラブ)が主催。世界3大耐久レースの1つ。IGTCの一戦に含まれている。
|-
| [[鈴鹿10時間耐久レース]]
| -
| 2018年~
| 前身は[[鈴鹿1000km]]。現在はIGTCの一戦。
|-
| [[FIA GT選手権]](終了)
| GTC
| 1997~2009年
|
|-
| [[FIA GT1世界選手権]](終了)
| GT1
| 2010~2012年
|
|-
! rowspan="12"|ツーリングカー
| [[世界ツーリングカーカップ]]
| WTCR
| 2018年~
| カスタマー向けレーシングカー規定「[[TCR (自動車競技)|TCR]]」による、ツーリングカーレースの最高峰。
|-
| [[スーパー耐久|スーパー耐久シリーズ]]
| S耐
| 1995年~
| [[富士24時間レース]]を含む、日本の草レースの最高峰。[[水素エンジン]]車の参戦が一般メディアでも話題となった。
|-
| [[ドイツツーリングカー選手権]]
| DTM
| 1994~1996年(第一期)<br/>2000年~(第二期)
| 近年は『クラス1』という独自の共通シャシー規定を採用していたが、衰退に伴い[[グループGT3]]に変更されている。
|-
| [[英国ツーリングカー選手権]]
| BTCC
| 1958年~
| イギリスの最高峰レース。「NGTC」という独自規定を持つ。日本車が多数参戦する。
|-
| [[スーパーTC2000]]
| STC
| 1979年~
| アルゼンチンの最高峰レース。近年は有力ツーリングカーレーサーを輩出していることで注目を集めている。
|-
| [[ニュルブルクリンク24時間レース]]
| ニュル24
| 1970年~
| 難コースとして知られる「ノルドシュライフェ」で開催される。「偉大なる草レース」の異名の通り、下位クラスには多数のプライベーターが参戦する。
|-
| [[スーパーカーズ選手権]]
| RSC
| 1996年~
| [[オーストラリア]]の最高峰レース。前身はV8スーパーカー。
|-
| [[86/BRZレース]]
| -
| 2013年~
| [[TOYOTA GAZOO Racing]]が主催する、国内最大規模のワンメイクレース
|-
| [[世界ツーリングカー選手権]](終了)
| WTCC
| 2005~2017年
| [[スーパー2000]]規定による世界選手権。激しいぶつかり合いで「格闘技レース」の異名を取った。
|-
| rowspan="2"|全日本ツーリングカー選手権(終了)
| JTC
| 1985~1993年
| [[グループA]]規定の3クラス制。[[全日本ツーリングカー選手権 (1985年-1993年)]]を参照。
|-
| JTCC
| 1994~1998年
| クラス2規定。[[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)]]を参照。
|-
| [[インターTEC]](終了)
| -
| 1985~1998年
| [[富士スピードウェイ]]で開催。多数の海外勢が参戦した。
|-
! rowspan="3"|ストックカー
| [[NASCAR]]
| -
| 1948年~
| 競技名であり、団体名でもある。「カップシリーズ」を頂点にアメリカ全土で多数のNASCARレースが存在しており、オーバルレースをメインに戦う。近年は欧州シリーズも開催。
|-
| [[デイトナ500]]
| -
| 1949年~
| [[NASCARカップシリーズ]]の開幕戦であり、最大の視聴者数を誇るビッグイベント。
|-
| [[ストックカー・ブラジル]]
| SCB
| 1979年~
| ブラジルのストックカーレース。こちらはロードコースがメインである。
|-
! rowspan="9"|ラリー
| [[世界ラリー選手権]]
| WRC
| 1973年~
| FIAでF1に次いで長い歴史を持つ世界選手権。WRC~WRC3、JWRCなどが存在。かつてはPWRC、SWRCなども開催した。
|-
| [[ラリー・モンテカルロ]]
| -
| 1911年~
| rowspan="2"|[[世界ラリー選手権|WRC]]で開催されるイベントの1つ。
|-
| [[ラリージャパン]]
| -
| 2004~2010<ref>2009年を除く。また2020・2021年はカレンダー入りしているが、2020年9月時点で未開催</ref>
|-
| [[アジアパシフィックラリー選手権]]
| APRC<br />アジパシ
| 1988年
| FIA管轄の地域選手権。豪州ラリー選手権の独自規定「AP4」が普及している。日本では[[ラリー北海道]]が開催される。
|-
| [[ヨーロッパラリー選手権|欧州ラリー選手権]]
| ERC
| 1953年~
| WRCよりも歴史のある、FIA管轄の地域選手権。
|-
| [[サファリラリー]]
| -
| 1953年~
| WRC、IRCのイベントであった世界3大ラリーのひとつ。「世界一過酷なラリー」とも言われる。ARC(アフリカンラリー選手権)のイベントを経てWRCに復帰している。
|-
| [[全日本ラリー選手権]]
| JRC
| 1980年~
|
|-
| [[ラリーチャレンジ]]
| -
| 2012年~
| [[TOYOTA GAZOO Racing]]が主催する、1日開催の入門者向けラリー。日本各地で開催。
|-
| [[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ]](終了)
| IRC
| 2006~2012年
| 当時高コストだったWRCに反発する形で誕生した、欧州を中心とするラリーシリーズ。一時はWRCを上回る人気を獲得していた。
|-
! rowspan="5"|ラリーレイド
| [[ダカール・ラリー]]
| -<ref>現在はパリを使用しないルートであるが現在でも「パリダカ」と呼ばれることがある。</ref>
| 1978年~
| ラリーレイドの最高峰イベント。ルートは[[パリ]]~[[ダカール]]や、パリ~ルカップ、南米など年によって全く異なる。現在は[[サウジアラビア]]で開催。
|-
| [[クロスカントリーラリー・ワールドカップ]]
| -
| 1993年~
| FIAが主催する、ラリーレイドの国際シリーズ。
|-
| [[バハ1000]]
| -
| 1967年~
| 北米ラリーレイドの最高峰。
|-
| [[ラリー・モンゴリア]]
| -
| 1995年~
| 日本企業が主催。2002年まで「ラリーレイド・モンゴル」の名称で開催。
|-
| [[シルクウェイ・ラリー]]
| -
| 2009年~
| 年によるが、最長で[[モスクワ]]~[[北京]]を走る、ダカールに次ぐビッグイベント。
|-
! rowspan="3"|ラリークロス
| [[世界ラリークロス選手権]]
| World RX<br/>WRX
| 2014年~
|
|-
| 欧州ラリークロス選手権
| ERX
| 1976年~
| WRXの土台となった。
|-
| [[グローバル・ラリークロス]](終了)
| GRC
| 2011~2017年
| [[X Games]]の競技のシリーズ化。
|-
! rowspan="1"|[[ジムカーナ]]
| [[全日本ジムカーナ選手権]]
| -
|
|
|-
! rowspan="1"|[[ダートトライアル]]
| [[全日本ダートトライアル選手権]]
| -
|
|
|-
! rowspan="1"|[[ドラッグレース]]
| [[NHRAチャンピオンシップ・ドラッグ・レーシング・シリーズ]]
| NHRA
| 1951年~
|
|-
! rowspan="4"|オフロードレース
| [[日本ATV協会|全日本スーパーオフロードATV選手権レース]]
| -
| 1982年~
|
|-
| [[北海道ATV協会|北海道ATVチャンピオンシップレース]]
| -
|
|
|-
| [[道新オフロードレース全日本選手権]]
| -
| 1982年~
|
|-
| [[エクストリームE]]
| -
| 2021年~
| 電動バギーによるオフロードレース。
|-
! rowspan="2"|ヒルクライム
| [[パイクスピーク・ヒルクライム]]
| PPIHC
| 1916年~
| ヒルクライム競技の最高峰。先進技術を備えた試験車両が多数参戦する。
|-
| [[FIAヨーロッパヒルクライム選手権|欧州ヒルクライム選手権]]
| EHC
| 1930年~
|
|-
! rowspan="4"|ドリフト
| [[全日本プロドリフト選手権]]
| D1
| 2001年~
| ドリフトを世界で初めて競技化したシリーズ。
|-
| [[フォーミュラ・ドリフト]]
| FD
| 2004年~
| D1に感化され北米で誕生。日本にも逆輸入されている。
|-
| [[ドリフトマッスル|ドリフトキングダム]](終了)
| -
| 2011~2019年
| 旧称「ドリフトマッスル」。プロ化したD1との差別化で誕生。2020年以降はD1と統合された。
|-
| [[FIA インターコンチネンタル・ドリフティング・カップ|インターコンチネンタル・ドリフティングカップ]]
| IDC
| 2017年~
| FIA初のドリフト競技。現状は年一戦の単一イベント。
|-
! rowspan="15"|その他の四輪競技
| [[マカオグランプリ]]
| -
| 1954年~
| F3、GT、ツーリングカーなどの祭典。特にF3が有名。
|-
| [[レーシングカート]]
| カート
| 1950年代~
| 小型のシングルシーターであるレーシングカートを使用したレース。最も手軽にできるモータースポーツの一つで、多くのプロドライバーがこの競技の経験者である。
|-
| [[トラックレーシング]]
| -
|
| [[貨物自動車|トラック]]を使用して行う重量級自動車競技。
|-
| [[ロッククローリング]]
| -
|
| 岩場を[[バギーカー]]などの[[四輪駆動車]]をして目的地を目指す競技。
|-
| [[テラクロス]]
| -
|
| [[サイド・バイ・サイド・ビークル]]を使用したレース。[[モトクロス]]と同じように周回やジャンプを行う。
|-
| [[クラシックカーレース]]
| -
|
| [[旧車|クラシックカー]]を使用したレース。
|-
| [[レース・オブ・チャンピオンズ]]
| ROC
| 1988年~
| 自動車競技の各カテゴリーでチャンピオンを獲得した者たちのみが参加する、ツーリングカーやプロトタイプカーを使用した個人並びに国別対抗選手権。
|-
| スタジアム・スーパー・トラック
| SST
| 2013年~
| 車高の高いトラックによるレース。
|-
| [[ミジェットカー]]
| -
| 1930年代~
| 北米におけるオーバルレースの登竜門。類似カテゴリに[[スプリントカー]]がある。
|-
| [[マイレージマラソン]]
| エコマラソン
| -
| いかに少ない燃料で走行距離を走るかを競うレース。「エコマラソン」とも呼ばれる。
|-
| K4-GP
| -
| 2002年~
| 軽自動車を用いて行われるレース。レース未経験のアマチュアを対象としており、勝負にこだわらず楽しむことを目的として開催されている。
|-
| 8の字レース
| -
| 1940年代~
| 平面で8の字を描くようなコースで走る。衝突の危険が高いため、度胸が試される。
|-
| [[デモリション・ダービー]]
| -
| 1950年代~
| 自動車をぶつけあって破壊しあい、最後に生き残った者を勝者とする異色の競技。
|-
| [[:en:Monster Jam|モンスタージャム]]
| -
| 1992年~
| [[モンスタートラック]]を用いて行われる自動車競技。基本的にはジャンプや着地などの[[アクロバット]]や着地の際の[[廃車 (自動車)|廃車]]を如何に破壊できたか?という審査方式であるが、一応は目的地に制限時間内に到着することを目的としている部分もあるためこの競技に「レース」としての要素もわずかながら存在している。
|-
| ロボレース
| -
| 2019年~
| 自動運転車両で行うレース。2019・2020年は試験的な開催で、正式な開幕は2022年。
|-
|}
=== 世界三大レース ===
[[Image:Panorama Monaco 2007.jpg|thumb|200px|right|[[2007年モナコグランプリ|2007年モナコGP]]開催直前の様子]]
{{main|世界三大レース}}
下記の3つのレースは「'''世界三大レース'''」と呼ばれる。
* [[インディ500]]([[アメリカ合衆国]])
* [[モナコグランプリ]]([[モナコ]])
* [[ル・マン24時間レース]]([[フランス]])
これらのレースはそれぞれが「レースの象徴」といっても過言ではなく、同時に[[第二次世界大戦]]前から始まっているほどの長き伝統のあるレースでもある。
インディ500が開催される[[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]]では、平均時速が約350km/hに達する超高速のレースが3時間にわたって繰り広げられる。
モナコグランプリは[[モナコ|モナコ公国]]の中心地である[[モンテカルロ市街地コース]]で行われるレースである。F1マシンという超高性能車両を駆使して繰り広げられるこのレースは平均時速160km/h程度とF1では超低速コースではあるものの、コース幅が非常に狭く、エスケープゾーンもほとんどないためにミスが許されない。このようなレースを78周にわたって1時間40分近く繰り広げられるため、ドライバーの力量が大きく問われる屈指の難コースとして知られる。
ル・マン24時間レースが開催される[[サルト・サーキット]]は1周が13.605kmのロングコースであり、これに加えて1つの車両を24時間かけて走り続ける耐久レースである。ドライバーの交代はあるものの、速さはもとよりマシンの信頼性も問われ、さらにはそれぞれのドライバーの運転能力以外に集中力の限界までも挑戦させる。
この世界3大レースのそれぞれで多数の優勝記録を持つドライバーが存在するものの、世界3大レースを全てを制したドライバーは2021年現在でも[[グラハム・ヒル]]のみである。
== 旗の色の意味 ==
[[ファイル:Chequered Flag Formula 3 Latin-America 1.jpg|240px|thumb|チェッカーフラッグ]]
{{main|レース旗}}
自動車競技ではレース中の主催者からドライバーへの情報提供や指示に[[旗]]を用いる。その色の意味は以下の通りである。掲示方法には、掲げたままの「静止」と、振る「振動」とがあり、両者で指示内容が異なる場合がある。
* [[ファイル:Flag of Japan.svg|25px|border|スタートフラッグ]] [[国旗]]など - レースの開始を示す。国旗や主催クラブ旗を用いる。ただし国際格式のレースでは、信号機を点灯させて合図とする方法が大半である。
* [[ファイル:F1 red flag.svg|25px|border|レッドフラッグ]] [[赤]] - レースの中止・中断を示す。
* [[ファイル:F1 yellow flag.svg|25px|border|イエローフラッグ]] [[黄色|黄]] - 追い抜き禁止区間のはじまりを示す(コース外に事故車両がいる場合は一本振動、コース上に事故車両がいる場合は二本振動の場合もある)。
* [[ファイル:F1 green flag.svg|25px|border|グリーンフラッグ]] [[緑]] - 前ポストの指示を解除。追い抜き禁止、オイルもれ、障害物散乱区間などの終わりを示す。
* [[ファイル:F1 light blue flag.svg|25px|border|ブルーフラッグ]] [[青]] - 掲示のみの場合、背後から速い車両が来ていることを示す。周回遅れの車両に振動で指示される場合、背後から周回数の多い車両が来ていることを示し、追い抜かせることを促す。
* [[ファイル:Auto Racing Black.svg|25px|border|ブラックフラッグ]] [[黒]] - 番号と共に掲示され、該当車両へピットインを指示する。
* [[ファイル:F1 white flag.svg|25px|border|ホワイトフラッグ]] [[白]] - コース上に[[セーフティカー]]や[[救急車]]など、低速走行する車両がいることを示す。[[NASCAR]]や[[インディカー]]など一部のカテゴリー(主に北米)では、最終ラップに提示される。
* [[ファイル:F1 chequered flag.svg|25px|border|チェッカーフラッグ]] 黒と白の[[市松模様]](チェック模様) - レースの終了を示す。いわゆる「[[レース旗#チェッカーフラッグ|チェッカーフラッグ]]」。
* [[ファイル:F1 yellow flag with red stripes.svg|25px|border|オイルフラッグ]] 赤と[[オレンジ色|オレンジ]]の縦じま模様 - オイルフラッグ。路面が滑りやすい状況にあることを示す(状況が回復しなくても一定の時間で掲示を止める場合がある)。
* [[ファイル:F1 black flag with orange circle.svg|25px|border|オレンジボールフラッグ]] 黒地にオレンジ色の丸 - オレンジボールフラッグ。車番と共に掲示。当該車両にメカニカルトラブルが起こっていることを示す。
* [[ファイル:F1 black and white diagonal flag.svg|25px|border|ホワイト&ブラックフラッグ]] 対角線で分割されたそれぞれの面に黒と白 - 車番と共に掲示。当該車両への警告旗。スポーツマンシップに反する行為などに対して警告される。
<!-- レイアウト用 --><div style="clear: both;"></div>
== 事故 ==
時速数十kmから数百kmという高速で移動しながら0.1秒を削る競走をしつつ、時にはその速さでマシンが触れ合うようなバトルを行う自動車競技では、命に関わる重大事故はつきものである。これはアマチュアはもちろんのこと、どんなに卓越した腕を持ったプロのレーシングドライバーでも同じである。
近年では、車両規定の変更や新素材開発などによる競技車両の安全性の向上にとどまらず、レース場の設計上の安全性や医療体制の充実など、事故の発生防止と、事故の被害を最小限に抑える努力がなされている。その結果、大きな事故は減少し、事故による被害も縮小してきている。下記の[[#死亡事故|死亡事故]]に代表されるような犠牲者たちの上に、そうした安全は成り立っているといえる。
=== 死亡事故 ===
最初の死亡事故は[[1896年]][[5月1日]]([[5月2日]]?)に[[ペリグー]]近郊で開催された「[[ペリグー]]公道レース」にて[[マルキス(アンドレ)・ドゥ・モンティニャック]][[侯爵]]が死亡したのが、記録に残る初のレース死亡事故とされる<ref>{{cite book| title =自動車競技の楽しみ| works=[[高齋正]]|publisher =論創社| year =2002| month =2 | isbn =978-4846002213}}</ref>。前方を走る他の競技参加車両を追い越そうとモンティニャック侯爵が無謀な運転を行ったとされ、侯爵の車両は接触により横転し、この事故によってモンティニャック侯爵は死亡した。推定速度は40km/hだったと言われる<ref>{{Cite news | url = http://www.coulounieix-chamiers.fr/1-33585-Au-Sault-du-Chevalier...-en-1898.php| title = Chamiers Histoire et histoires| publisher = Mairie de Coulounieix-Chamiers| date = 1988| accessdate = 2011-02-07}}</ref>。
観客を巻き込んだ死亡事故として初めて記録されるのは、[[#公道レースからサーキットの誕生へ|自動車競技の歴史]]でも前述したマルセル・ルノーが起こした事故である。上記のモンティニャク侯爵の頃は平均時速25km/h程度で、40km/hでも危険な速度と言われていた時期であったが、[[1900年]]には既に平均時速は60km/hを超え、ルノーの事故の頃にはさらに自動車性能は著しい向上をみせ、レース参加者だけでなくその観戦者の人命について危惧された矢先の出来事であった。この事故によって国際的な世論にまで発展し、公道レースを認めない自治体が急増してサーキット建設の必要性が問われることとなった。
[[ファイル:Le Mans Memorial 1955 crash.jpg|thumb|right|200px|[[サルト・サーキット]]の事故現場に置かれるメモリアルプレート。]]
[[ル・マン24時間レース]]においては、[[1955年]][[6月11日]]に発生した[[メルセデス・ベンツ]]の死亡事故が自動車競技における最大の死亡事故であるといわれる。
ドライバーの[[ピエール・ルヴェー]]が駆る[[メルセデス・ベンツ・300SLR]]が爆発炎上し、ルヴェーと観客・スタッフ含む81名が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。また、この前後にもF1の[[アルベルト・アスカリ]]がテスト中に事故死し、インディ500で3連覇を目指した[[ビル・ブコビッチ]]が多重クラッシュにより死亡するなど自動車競技に悲劇的な事故が連続し、ル・マンでの事故を契機にメルセデス・ベンツがレースの舞台から撤退するなどレース界に激震を走らせたが、レースに対する安全対策とマシンの性能抑制という意識改革をもたらすきっかけとなった。
{{main|1955年のル・マン24時間レース}}
F1においてもドライバーやチーム関係者、そして観客を含めて多くの死亡事故が発生している。特に黎明期は鋭利化したバリアによって首を切断された[[ヘルムート・コイニク]]の事故や身体を真っ二つに切り裂かれた[[フランソワ・セベール]]の事故のような凄惨な事故が起きた。またコース・マーシャルの配置が現在より乏しかった事と、マーシャルがレース開催中のサーキットを安易に横断することが当たり前だったことなどから[[トム・プライス]]の事故の様な死亡事故も発生した。[[ジル・ヴィルヌーヴ]]の事故のようにシートベルトの強度不足も相まって、マシンから宙に放り出されフェンスに叩きつけられて死亡、あるいは[[ヨッヘン・リント]]の事故のようにシートベルトそのものを装着する事を嫌って死亡事故の遠因となったものもあった。こうした事故は現代の目線から見て技術的に安全装備が未発達であったことを差し引いても、安全に対する意識の低さが招いた部分も大きいが、これらに対してドライバーたちはただ指を咥えて見ていたわけではなく、F1開幕の翌年の1961年にGPDA([[グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション]])を結成し、運営の安全意識の低さに抵抗した。GPDAは82年に一旦解散させられるが、[[1994年サンマリノグランプリ]]で連続発生した[[ローランド・ラッツェンバーガー]]の死亡事故と[[アイルトン・セナ]]の死亡事故をきっかけに再結成され、マシンやサーキットの設計思想、医療体制などから安全意識は根本から見直されるようになった。
1990年代末以降の新設グランプリサーキットの多くは[[ヘルマン・ティルケ]]が手掛けているが、いずれも広いコース幅に広い舗装のランオフエリアを持ち、安全に非常に気を配っているのが窺える。彼の手がけるサーキットには退屈という批判もあるが、2021年現在までグランプリでの死亡事故は起きていないのも事実である。
{{main|F1死亡事故一覧}}
ラリー系の競技でも1980年代に過度な開発競争と高速化により死亡事故が頻発したことへの反省から、車両の安全基準を整備した規則を施行したり、吸気[[リストリクター]]の装着によって最高速を制限したりしてドライバーの命を守る取り組みが本格化した。
2000年代に入ると、2009年F2の[[ヘンリー・サーティース]]の事故、2014年F1の[[ジュール・ビアンキ]]の事故、2015年インディカーの[[ジャスティン・ウィルソン]]の事故などの死亡事故により、屋根のないオープンタイプの車両の安全に疑問を持つ声が相次ぐようになり、2020年までにほとんどのフォーミュラカーシリーズで[[Halo (フォーミュラカー)|頭部保護デバイス]]が導入されるようになった。また同様にプロトタイプレーシングカーでも、2017年以降の[[FIA 世界耐久選手権|WEC]]でオープンタイプが禁止されるようになっている。現在フルオープンタイプは、地域のジュニアフォーミュラやヒルクライムのようなごく一部のカテゴリに残るのみとなっている。
自動車競技における死亡事故の多くはクラッシュの際に壁・地面・車両の構造物などが人体を直撃し著しく損傷するものであるが、事故の拍子で火災が発生した際に車体が歪んで外に出られなくなってしまいそのまま焼死するものや、マシンに大きな損傷は無いのにドライバーは頭をステアリングなどに激しく叩きつけて死亡していたという場合もある。前者はスタッフと消化器類の十分な設置、後者は[[HANS]]というデバイスの登場により大きく数を減らしている。またアフリカの治安の悪化していた頃の[[ダカール・ラリー|パリ-ダカール・ラリー]]では、参加者が地雷を踏んだり、銃撃されて命を落とした事例もあった。
一般にレーシングドライバーは命知らずとされているが、懇意にしていたドライバーの死亡事故を理由に引退してしまう者や、特定のレース([[インディカー]]のオーバルコースなど)に限って安全を理由として参戦を拒む者も珍しくない。彼らが平然と時速300kmで接近戦を行うあまりに誤解する観戦者も跡を絶たないが、'''彼らが死にたがりのスピード狂のように考えるのは大きな間違いである'''。
競技における死亡事故は一般のメディアや、普段そのカテゴリを関知していないような自動車競技専門誌でも報道されることが多いが、競技のネガティブな部分だけ取り上げるようなメディアの姿勢を疑問視する声もある。
<!-- この部分は後に文章化する為に保留します。
|-
|[[1974年]][[6月2日]]
|[[富士スピードウェイ]]
|[[富士グランチャンピオンレース]]
|[[風戸裕]]、[[鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一]]
|多重事故発生、風戸のマシンと鈴木のマシンが炎上。風戸は自力でマシンから這い出たものの、その場で力尽き、倒れてしまい死亡。鈴木は燃え盛るマシンの中で焼死。この事故をきっかけに、30度バンクの使用が停止された。
|-
|-
|[[1985年]][[9月1日]]
|[[スパ・フランコルシャン]]
|[[スパ・フランコルシャン1000km耐久レース]]
|[[ステファン・ベロフ]]
|[[オー・ルージュ]]で[[ジャッキー・イクス]]を[[オーバーテイク]]しようとした際、クラッシュし死亡。
|-
|[[1986年]]
|[[ポルト]]
|[[世界ラリー選手権|WRC]] [[ラリー・ポルトガル]]
|[[フォード・モーター|フォード]]
|WRC史上初の観客を巻き込んだ死亡事故(ドライバーの[[ヨアキム・サントス]]は無事)。
|-
|1986年[[5月2日]]
|[[アジャクシオ]]
|WRC [[ツール・ド・コルス]]
|[[ヘンリ・トイヴォネン]]、[[セルジオ・クレスト]]
|この事故をきっかけに[[グループB]]ラリーカーが廃止になった。
|-
|[[2005年]]
|[[カーディフ]]
|WRC [[ウェールズ・ラリー・オブ・グレートブリテン]]
|[[マイケル・パーク]]
|ラリーカー車体側面の強化の難しさが浮き彫りになった。
|-
|[[2001年]][[2月18日]]
|[[デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ]]
|[[デイトナ500]]
|[[デイル・アーンハート]]
|この事故の解析で、クラッシュ時の衝撃による頚椎部損傷の因果関係が明らかになり、[[HANS]]の普及が進む。
|-
-->
<!-- この部分はオートバイ競技の為に残しておきます。
|[[2003年]][[4月6日]]
|[[鈴鹿サーキット]]
|[[ロードレース世界選手権|MotoGP]]
|[[加藤大治郎]]
|この事故により、翌年から鈴鹿サーキットでのMotoGP開催はなくなった。
|[[2010年]][[9月5日]]
|[[ミサノ・サーキット]]
|Moto2
|[[富沢祥也]]
|[[2010年のサンマリノグランプリ (ロードレース)|第12戦サンマリノGP]]だけでなく、前戦の[[2010年のインディアナポリスグランプリ|第11戦インディアナポリスGP]]でもサポートレースに出場していたピーター・レンツ選手が転倒後の他車との接触が原因で亡くなっている。若きライダーの2戦連続の死は二輪レース界に大きな衝撃を与えた。
-->
<!--ここに必要でしょうか?実際何を根拠に「大事故・特異事例・著名ドライバー」というのか、ここから意見が割れるでしょうし、
しかも、死亡事故を上げ出したらきりがありません。フォーミュラ・スポーツカー・ラリー・二輪・パワーボートなど、あらゆるジャンルで多くの方が亡くなられています。別でページを作るか、上でどなたかが言っているように、「F1死亡事故一覧」のように競技ごとにわけるほうがよいでしょう。-->
== 自動車競技を主題とした作品 ==
{{See|Category:モータースポーツを題材にした作品}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考書籍 ==
《wikipedia内》
* [[:en:Auto racing]] - 一部翻訳 24.Sep.2010 04:41 (UTC)
《その他》
* [http://www.jaf.or.jp/msports/ モータースポーツ] - [[日本自動車連盟|JAF]]
* [http://ms.bridgestone.co.jp/hp/bsms_contents?coid=495 フォーミュラ・レーシングカー理論] - [[ブリヂストン]](2002-06-17 [[森脇基恭]] 著)
* {{Cite book|和書
|author = 折口透
|year = 1970
|title = モーター・レーシング
|publisher = 学習研究社
|isbn =
}}
== 関連項目 ==
* [[レーシングカー]]
* [[レーシングカート]]
* レーシングドライバー
* [[ドライバー一覧]]
* [[サーキットの一覧]]
** [[日本のサーキット一覧]]
* [[レースシミュレーション]]
* [[スーパーライセンス]]
* [[日本のモータースポーツ]]
* [[キッズカート]]
* [[:en:Racing flags|Racing flags (英語版)]]
* [[スーパーカー]]
** [[スーパーカー一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.fia.com/ 国際自動車連盟 {{lang|en|(FIA)}}]
* [http://www.jaf.or.jp/msports/ 日本自動車連盟 {{lang|en|(JAF)}} 自動車競技]
* [http://www.buzz-international.com/ {{lang|en|Buzz International}}レーシングカートスクール]
* [http://www.rally-america.com/ {{lang|en|Rally America}}]
* {{Kotobank|自動車レース}}
===各国の自動車競技団体===
* [http://www.FIA.com/ {{lang|en|Fédération Internationale de l'Automobile (FIA)}}]
** [http://www.formula1.com/ {{lang|en|Formula One (F1)}}]
** [http://www.gp2series.com/ {{lang|en|GP2 Series (GP2)}}]
** [http://www.gp3series.com/ {{lang|en|GP3 Series (GP3)}}]
** [http://www.wrc.com/ {{lang|en|World Rally Championship (WRC)}}]
* [http://www.msauk.org/ {{lang|en|Motor Sports Association (MSA UK)}}]
* [http://www.americanlemans.com/ {{lang|en|American Le Mans Series (ALMS)}}]
* [http://www.indycar.com/ {{lang|en|Indy Racing League (IRL)}}]
* [http://www.grandamerican.com/ {{lang|en|Grand American Road Racing Association}}]
* [http://www.ihra.com/ {{lang|en|International Hot Rod Association (IHRA)}}]
* [http://www.imsaracing.net/ {{lang|en|International Motor Sports Association (IMSA)}}]
* [http://www.nasaproracing.com/ {{lang|en|National Auto Sport Association}}]
* [http://www.nascar.com/ {{lang|en|National Association for Stock Car Auto Racing (NASCAR)}}]
* [http://www.nhra.com/ {{lang|en|National Hot Rod Association (NHRA)}}]
* [http://www.score-international.com/ {{lang|en|SCORE International Off-Road Racing}}]
* [http://www.scca.org/ {{lang|en|Sports Car Club of America (SCCA)}}]
* [http://www.usacracing.com/ {{lang|en|United States Auto Club (USAC)}}]
* [http://www.cams.com.au/ {{lang|en|Confederation of Australian Motorsport (CAMS)}}]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80 |
1,529 | PCM音源 | PCM音源(ピーシーエムおんげん)は、コンパクトディスクなどで扱われるパルス符号変調 (pulse code modulation、PCM) 技術を用いたデジタルシンセサイザーの音源方式のひとつ。
あらかじめメモリに記録しておいたPCM波形(サンプル)を再生することで音を生成する装置を示す。電子楽器においてのPCM音源とは、例えば楽器の音などを録音・メモリへ蓄積しておき、鍵盤の押鍵やMIDIのノートオン信号などに応じて所望の音程のPCM波形をメモリから再生する音源方式を示す。1980年代初頭から大容量のサンプルでリアルな音色が出力できたフェアライトCMIやシンクラヴィアは、1台で家が買えるぐらいの購入コストが掛かり、一般層においては高嶺の花であった。普及価格帯においては、PCM音源の亜種として、メモリ容量を削減するため特徴的な波形のみをメモリに収録した波形メモリ音源や、ユーザーが録音したサンプルを追加するサンプラーが発売されていたが、ハードウェアの性能が極端に低く、リアルな音は期待できなかった。1987年には安価なPCM音源キーボードとしてCASIO FZ-1が発売されたが、未だ生音から大きく乖離した単調な出音であった。1988年にコルグから発売されたシンセサイザーであるM1でようやく安価に実用的な音色が利用できるようになり、PCM音源が広く実用的と評価された後に電子ピアノやシンセサイザーなどの電子楽器の音源方式のひとつとして広く普及した。
PCM音源はメモリの量が十分あれば任意の波形を発音できることが長所である。対してFM音源やアナログモデリング音源等の他の音源方式と比べ、メモリに収録した波形を変化させることは、単純にボリュームや音階を変化させることを除けば困難であり、シンセサイザーとしての音作りの自由度などでそれら他の音源方式に分を譲る点がある。
PCM音源は楽器メーカーによって独自の名称が用いられることがある。ヤマハのAWM2音源、ローランドのRS-PCM音源、LA音源、コルグのaiスクエアシンセシスやAccess、HI、カプコンのQサウンドなどと呼ぶ音源方式はいずれもPCM音源である。これらは各社が開発したチップセットや、サンプルの圧縮方法、ひいてはサンプルされた元の音の違い、フィルターの有無等を明示する為の商業用の商標であると考えてよい。
歴史的経緯として、PCM音源方式のシンセサイザーの誕生は、1960年代のコンピュータ制御式電子音楽スタジオ、1970年代のディジタルオルガン開発や、初期のディジタル音楽ワークステーション開発にさかのぼる事ができる。
1960年代初期、イギリス在住のロシア系作曲家 Peter Zinovievは、プライベート電子音楽スタジオ Putney のコンピュータ制御を計画し、技術者のDavid Cockwell(AKAI Sシリーズ設計者)、作曲家の Tristram Caryと共に開発を進め、1967年二台のミニコンDEC PDP-8を導入し、遅くとも1969年には、同年創業のUK法人エレクトロニック・ミュージック・スタジオ(ロンドン)のPutneyスタジオで、「Musys IIIシステム」が稼動した。このシステム上(もしくは後に追加された DOB (Digital Oscillator Bank) も併用)で、世界最初のサンプリングが実現されたと考えられている。EMSと同様なコンピュータ・サンプラーは、後にアメリカでも開発された。1972年創業のComputer Music Inc.の1976年発売の製品「Computer Music Melodian」は、ミニコンDEC PDP-8を中心に、12bit 22kHzのA/DおよびD/Aコンバータ、アンチエイリアス・フィルターを追加した一種のソフトウェア・サンプラーで、1979年スティービー・ワンダーのサウンドトラック「The Secret Life of Plants」で使用された。
このように黎明期のPCM音源は、高価なミニコンを駆使した実験装置的な構成だったので、次の段階として、当時民生利用の始まったLSI技術を使った安価なディジタル楽器の実現が開始された。しかし当時米国のLSIビジネスは、金に糸目をつけない宇宙開発・軍事開発を主な顧客としており、民生分野では電卓のような数百万台規模の市場でしか実績がなかったので、市場規模が何桁も小さな楽器分野では、たちまち行き詰るのが目に見えていた。
1969年、ロックウェルのラルフ・ドイチュは、電卓と同様に電子楽器でディジタル革命を起こす計画を立て、アーレン・オルガンと提携してディジタル・オルガンの開発を進めた。そして1971年アーレン コンピュータ・オルガンを発売、1974年子会社RMIからHarmonic Synthesizerを発売した。後者はディジタル倍音加算にアナログ・フィルターを組み合わせた製品で、リアルタイム演算の代わりに計算結果をウェーブテーブル(単周期のPCM音源)に格納して再生する方式が採用された。これら製品の実装技術全てを世界初とするのはかなり無理のある主張だったが、当時は アポロ計画の技術を使った世界初のコンピュータオルガン という荒唐無稽な宣伝がなされ、ロックウェルはディジタル楽器の基礎技術全般を囲い込む独占特許の取得に成功した。 提携先のアーレンは訴訟を起こし独占特許を奪取したが、特許買収には巨額な費用を要し、結局、同業他社に次々と巨額な特許使用料請求を行った。この結果、訴訟リスクの高い大手楽器メーカはディジタル楽器開発に消極的になり、代わりに訴訟リスクの小さな研究機関やベンチャー企業が活躍する場を得た。
1975年頃世界各地で、音楽製作をコンピュータ上でシームレスに処理する「ディジタル音楽ワークステーション」の開発が開始された。1979年登場のフェアライトCMIやシンクラビアIIは、サンプラー機能や再合成機能を提供し、1980年のLINN LM-1ディジタル・ドラムマシンや、1982年のイミュレータと共に、初期のサンプリング音楽の流行を形成した。なお登場当時のサンプラーは、音質やサンプリング時間、表現能力に大きな制限があったため、リアルな生楽器の再現は難しく、むしろ音質劣化を音楽的表現として生かす使い方が多かった(この当時は苦肉の策に過ぎなかったが、1990年代以降にローファイという表現技法として再評価された)。こういった初期の制限は、1980年代半ば頃までには大きく改善され、更に演奏トラック全体を取り込んで編集処理する初期のDAW機能がハイエンド環境で提供されはじめた。その後1980年代後半にディジタル楽器全般の低価格化が進み、かつてサンプリングドラム用ROMメーカとして出発したデジデザインやエンソニックがDAW製品の開発を開始すると、フェアライトは価格より実績や安定性が重視される業務用DAW機器分野に転進した。
1979年頃 PPGの Wavecomputer 340/380は、ウェーブテーブル・シンセシス (Wavetable synthesis) と呼ばれる64種の波形を切り替えて音色を変化させる音響合成方式を採用した。また1981年発売のPPG Wave 2.0では、アナログシンセサイザーと同様なフィルタやエンベロープを追加して、ディジタル/アナログ併用のハイブリッド・シンセサイザーを完成した。その後1982年PPG Wavetermではディジタル音楽ワークステーション機能を追加、1986年PPG HDU (Hard Disk Unit) でDAW機能を追加し、同年参考展示のPPG Realizerでは 上記DAW機能に加え、他のシンセ(minimoogやDX7)のソフトウェア・モデリング機能も統合した。しかし1987年PPGは倒産し realizerは商品化されなかった。ハードウェア楽器をソフトウェア的にシミュートするこのアイデアは、後継会社Waldorfと提携先DAWソフト会社 スタインバーグにより、1996年 VST (Virtual Studio Technology)、1998年VSTi (VST instruments) として実現され、現在では広く普及している。
普及価格帯の製品では、1985年Ensoniq Mirage、AKAI S612といった一連の低価格サンプラーが登場し、サードパーティによるサンプリング・ライブラリ提供と合わせ、音色入替え可能なPCM音源として普及した。Ensoniq Mirageはサンプラーながら最初からVCFやVCAを搭載しており、次の製品ESQ-1 は波形テーブル内蔵のハイブリッドシンセだった。Ensoniqはこれ以降もサンプリングに特化する事はなく、サンプルデータや波形テーブルを加工するPCM音源のシンセサイザーを次々と発売した。一方、初期のAKAIサンプラーは録音/編集/再生に特化した「サンプリング機材」だったが、その後シンセサイザー機能やエフェクター機能を取り込んで、複雑な音色作りや繊細な表現が可能な「楽器」へと進化した。1998年Nemsys Gigasamplerは大容量ソフトウェア・サンプラーを実用化し、その後ソフトウェア・サンプラーは数GBのサンプルを駆使して高価な生楽器の音を手軽に再現する「ツール」として現在普及している。
前述のように世界市場では70年代からディジタル楽器が製品化されていたが、国内は一部メーカを除き、ディジタル楽器の研究が決定的に立ち遅れていた。その原因としては、当時国内の電子楽器専業メーカは成長途上だったため、基礎研究投資を行う余力に欠けていた事、逆に体力に余裕のある大手総合メーカ(電器メーカ含む)は、70年代ディジタルオルガン特許訴訟の影響を受け、ディジタル楽器開発に消極的だった事、等が挙げられる。
そのような中、ヤマハは訴訟問題とディジタル音源開発に真正面から取り組み、1980年以降は次々とディジタル音源製品を発売した(ただしPCM音源は問題の特許と抵触する可能性が高かったからか、当初は発売していない)。他方、多くの国内メーカは、80年代半ばに海外メーカが安価な製品を発売するまで (Alesis, Ensoniq, Emu)、本格的なディジタル楽器を一切発売しなかった。
日本におけるPCM音源製品の草分けは、1982年日本ハモンド/Jugg BoxのPCMドラムマシン「DPM-48」と推定される。サンプルは別売りROMで入れ替え可能だったが、発売時期の関係上MIDIには対応していなかった。その後、ローランド/ヤマハ/コルグ/カシオ/テクニクスといった他の国内メーカもPCMドラムマシンを製品化している。
1985年にはAKAI professionalが国産初のサンプラー「S-612」を発売している。このS612は 最大サンプリング周波数32kHzの12bitサンプラーで、サンプリング時間は最長1秒(32kHz時)だったが、音作りに重要なVCFやVCAは内蔵しておらず、同年先行して登場していた Ensoniq Mirageと比較するととてもシンプルな製品だった。その後AKAI Sシリーズは、S900, S1000でスペックと機能を充実させ、80年代後半 - 90年代にはE-muと並ぶ代表的サンプラーに成長した。同シリーズの設計はDavid Cockerell(前期EMSの各製品やElectro-Harmonixディジタルディレイの設計者)、AKAI S1000のOS開発はChris Hugget(EDP WASP/OSC OSCar/Novation SuperNovaの設計者)が担当しており、イギリスを代表する2人のシンセ・デザイナーによる製品と言えるかもしれない。
1987年ローランドはD-50というサンプル・ウェーブをレイヤーできるLA音源方式シンセを発売した。翌年発売されたコルグ社のM1は、サンプルを幾重にも重ねて発音するレイヤー(コンビネーション)機能やVDF(Variable Digital Filter、フィルター)やVDA(Variable Digital Amplifier、エンベロープ)を備えリアルな音と幅広い音作りを特徴とした。このVDFやVDAによって、ただ鍵盤に楽器音を並べて再生するだけにとどまらず、VDFによって音の明るさを調整したり、VDAによって音の立ち上がりやその消え方といったパラメータを変化させたりすることができる。また、ローランドのJV-1080やJV-2080のように拡張カードを差し替えて膨大な音色を扱えるようにした機種もある。
VDFでは、録音された楽器音を削って暗くすることしかできず、VDAで調整可能な時間的変化も限られた範囲での調整となるため、前述の通り音作りの幅が狭い。この点を克服するため、80年代末から90年代の初頭にかけて、シンセサイザーのメーカー各社は工夫を重ねた。ヤマハではFM音源とハイブリッド型のRCM音源を開発し、PCM波形をFM変調できるSY77を発売する。またコルグの01/Wシリーズではウェーブシェーピングという波形を変調できる方法を採用した。また同社のWAVESTATIONシリーズでは、波形を繋ぎ合わせることで時間的に変化できるようにした。そしてローランド社ではアナログシンセイザーと同じように波形を変調できるリングモジュレータを搭載した。また、JD-800のようにアナログシンセサイザーのノウハウを生かした音作りが可能な機種もリリースされた。しかし、90年代後半以後、波形ROMの容量の増加による、PCM音源の音質の向上、そして、様々な奏法の演奏自体を波形として収録可能になったこと、ハイブリッド音源の音作りの難解さなどの理由からヤマハのEX5など一部の機種を除き、このような工夫を施したPCM音源のシンセサイザーは姿を消していった。
家庭用ゲーム機におけるPCM音源は、スーパーファミコンの64kバイトやメガCD及びプレイステーションの512kバイトなど、サウンド用のメモリ容量の少なさという厳しい制約がついてまわるため、波形の時間的な変化などは苦手としており、原始的なシンセサイザーと同様に、音量や音高の変化を(時に擬似的な)モジュレーションやエンベロープなどに依存する事で、楽音の表現力を補完している事が多かった。例外として、アーケードゲームの一部は膨大な容量をPCM波形に割いている場合もあるが、90年代のPCM音源黎明期においてはメモリ容量も小さく高価であった為、コストのかかる手法であった。なお、楽器としての使用ではなく、単純な音声の再生(セリフの発音など)に関しては、PCM音源のバッファを一時バッファとして使い、DMA転送で連続してデータを送り込みながら再生することで、バッファ容量以上の時間の音声の再生を実現することが多かった。一方でDVDメディアなどからストリーミング再生をするときには容量の制約はほぼなくなるが、ローディング時間増などのデメリットがある。家庭用ゲーム機の多くは、この2種類を用途により使い分けている。
携帯電話の着メロや着うたについても、PCM音源、またはADPCM音源が採用されているものの、着メロの場合、パケット課金が存在する為に、端末に搭載できるメモリが大きくなった現在でも、着メロとしてFM音源とあわせて原始的なシンセサイザーとして配信される場合がある。
減衰の早い音では「ワンショット」と呼ばれる通常のサンプリング、及び再生が行われるが、減衰の遅い、もしくは減衰の無い音を用いる場合、メモリーの使用量が膨大となる。この場合、アタック部分が過ぎた後、安定した波形をループさせることで、メモリー使用量を大幅に削減することが可能である。またこの場合、エンヴェロープなどを併用し、より自然な音を構成することが求められる。ある程度長い時間単位でループさせる場合もあれば、波形1周期を基準にループさせる場合もある。前者の場合はより自然に音を繋ぐため、波形を厳選した上で、クロス・フェードを行う場合もある。後者の場合はメモリーは大きく節約できるものの、一般に表情が乏しくなるため、各種パラメータを変更することで、音に表情を付けることが必要とされる。 | [
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"text": "PCM音源(ピーシーエムおんげん)は、コンパクトディスクなどで扱われるパルス符号変調 (pulse code modulation、PCM) 技術を用いたデジタルシンセサイザーの音源方式のひとつ。",
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"text": "あらかじめメモリに記録しておいたPCM波形(サンプル)を再生することで音を生成する装置を示す。電子楽器においてのPCM音源とは、例えば楽器の音などを録音・メモリへ蓄積しておき、鍵盤の押鍵やMIDIのノートオン信号などに応じて所望の音程のPCM波形をメモリから再生する音源方式を示す。1980年代初頭から大容量のサンプルでリアルな音色が出力できたフェアライトCMIやシンクラヴィアは、1台で家が買えるぐらいの購入コストが掛かり、一般層においては高嶺の花であった。普及価格帯においては、PCM音源の亜種として、メモリ容量を削減するため特徴的な波形のみをメモリに収録した波形メモリ音源や、ユーザーが録音したサンプルを追加するサンプラーが発売されていたが、ハードウェアの性能が極端に低く、リアルな音は期待できなかった。1987年には安価なPCM音源キーボードとしてCASIO FZ-1が発売されたが、未だ生音から大きく乖離した単調な出音であった。1988年にコルグから発売されたシンセサイザーであるM1でようやく安価に実用的な音色が利用できるようになり、PCM音源が広く実用的と評価された後に電子ピアノやシンセサイザーなどの電子楽器の音源方式のひとつとして広く普及した。",
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"text": "PCM音源はメモリの量が十分あれば任意の波形を発音できることが長所である。対してFM音源やアナログモデリング音源等の他の音源方式と比べ、メモリに収録した波形を変化させることは、単純にボリュームや音階を変化させることを除けば困難であり、シンセサイザーとしての音作りの自由度などでそれら他の音源方式に分を譲る点がある。",
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"text": "PCM音源は楽器メーカーによって独自の名称が用いられることがある。ヤマハのAWM2音源、ローランドのRS-PCM音源、LA音源、コルグのaiスクエアシンセシスやAccess、HI、カプコンのQサウンドなどと呼ぶ音源方式はいずれもPCM音源である。これらは各社が開発したチップセットや、サンプルの圧縮方法、ひいてはサンプルされた元の音の違い、フィルターの有無等を明示する為の商業用の商標であると考えてよい。",
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"text": "歴史的経緯として、PCM音源方式のシンセサイザーの誕生は、1960年代のコンピュータ制御式電子音楽スタジオ、1970年代のディジタルオルガン開発や、初期のディジタル音楽ワークステーション開発にさかのぼる事ができる。",
"title": "歴史"
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"text": "1960年代初期、イギリス在住のロシア系作曲家 Peter Zinovievは、プライベート電子音楽スタジオ Putney のコンピュータ制御を計画し、技術者のDavid Cockwell(AKAI Sシリーズ設計者)、作曲家の Tristram Caryと共に開発を進め、1967年二台のミニコンDEC PDP-8を導入し、遅くとも1969年には、同年創業のUK法人エレクトロニック・ミュージック・スタジオ(ロンドン)のPutneyスタジオで、「Musys IIIシステム」が稼動した。このシステム上(もしくは後に追加された DOB (Digital Oscillator Bank) も併用)で、世界最初のサンプリングが実現されたと考えられている。EMSと同様なコンピュータ・サンプラーは、後にアメリカでも開発された。1972年創業のComputer Music Inc.の1976年発売の製品「Computer Music Melodian」は、ミニコンDEC PDP-8を中心に、12bit 22kHzのA/DおよびD/Aコンバータ、アンチエイリアス・フィルターを追加した一種のソフトウェア・サンプラーで、1979年スティービー・ワンダーのサウンドトラック「The Secret Life of Plants」で使用された。",
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"text": "このように黎明期のPCM音源は、高価なミニコンを駆使した実験装置的な構成だったので、次の段階として、当時民生利用の始まったLSI技術を使った安価なディジタル楽器の実現が開始された。しかし当時米国のLSIビジネスは、金に糸目をつけない宇宙開発・軍事開発を主な顧客としており、民生分野では電卓のような数百万台規模の市場でしか実績がなかったので、市場規模が何桁も小さな楽器分野では、たちまち行き詰るのが目に見えていた。",
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"text": "1969年、ロックウェルのラルフ・ドイチュは、電卓と同様に電子楽器でディジタル革命を起こす計画を立て、アーレン・オルガンと提携してディジタル・オルガンの開発を進めた。そして1971年アーレン コンピュータ・オルガンを発売、1974年子会社RMIからHarmonic Synthesizerを発売した。後者はディジタル倍音加算にアナログ・フィルターを組み合わせた製品で、リアルタイム演算の代わりに計算結果をウェーブテーブル(単周期のPCM音源)に格納して再生する方式が採用された。これら製品の実装技術全てを世界初とするのはかなり無理のある主張だったが、当時は アポロ計画の技術を使った世界初のコンピュータオルガン という荒唐無稽な宣伝がなされ、ロックウェルはディジタル楽器の基礎技術全般を囲い込む独占特許の取得に成功した。 提携先のアーレンは訴訟を起こし独占特許を奪取したが、特許買収には巨額な費用を要し、結局、同業他社に次々と巨額な特許使用料請求を行った。この結果、訴訟リスクの高い大手楽器メーカはディジタル楽器開発に消極的になり、代わりに訴訟リスクの小さな研究機関やベンチャー企業が活躍する場を得た。",
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"text": "1975年頃世界各地で、音楽製作をコンピュータ上でシームレスに処理する「ディジタル音楽ワークステーション」の開発が開始された。1979年登場のフェアライトCMIやシンクラビアIIは、サンプラー機能や再合成機能を提供し、1980年のLINN LM-1ディジタル・ドラムマシンや、1982年のイミュレータと共に、初期のサンプリング音楽の流行を形成した。なお登場当時のサンプラーは、音質やサンプリング時間、表現能力に大きな制限があったため、リアルな生楽器の再現は難しく、むしろ音質劣化を音楽的表現として生かす使い方が多かった(この当時は苦肉の策に過ぎなかったが、1990年代以降にローファイという表現技法として再評価された)。こういった初期の制限は、1980年代半ば頃までには大きく改善され、更に演奏トラック全体を取り込んで編集処理する初期のDAW機能がハイエンド環境で提供されはじめた。その後1980年代後半にディジタル楽器全般の低価格化が進み、かつてサンプリングドラム用ROMメーカとして出発したデジデザインやエンソニックがDAW製品の開発を開始すると、フェアライトは価格より実績や安定性が重視される業務用DAW機器分野に転進した。",
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"text": "1979年頃 PPGの Wavecomputer 340/380は、ウェーブテーブル・シンセシス (Wavetable synthesis) と呼ばれる64種の波形を切り替えて音色を変化させる音響合成方式を採用した。また1981年発売のPPG Wave 2.0では、アナログシンセサイザーと同様なフィルタやエンベロープを追加して、ディジタル/アナログ併用のハイブリッド・シンセサイザーを完成した。その後1982年PPG Wavetermではディジタル音楽ワークステーション機能を追加、1986年PPG HDU (Hard Disk Unit) でDAW機能を追加し、同年参考展示のPPG Realizerでは 上記DAW機能に加え、他のシンセ(minimoogやDX7)のソフトウェア・モデリング機能も統合した。しかし1987年PPGは倒産し realizerは商品化されなかった。ハードウェア楽器をソフトウェア的にシミュートするこのアイデアは、後継会社Waldorfと提携先DAWソフト会社 スタインバーグにより、1996年 VST (Virtual Studio Technology)、1998年VSTi (VST instruments) として実現され、現在では広く普及している。",
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"text": "普及価格帯の製品では、1985年Ensoniq Mirage、AKAI S612といった一連の低価格サンプラーが登場し、サードパーティによるサンプリング・ライブラリ提供と合わせ、音色入替え可能なPCM音源として普及した。Ensoniq Mirageはサンプラーながら最初からVCFやVCAを搭載しており、次の製品ESQ-1 は波形テーブル内蔵のハイブリッドシンセだった。Ensoniqはこれ以降もサンプリングに特化する事はなく、サンプルデータや波形テーブルを加工するPCM音源のシンセサイザーを次々と発売した。一方、初期のAKAIサンプラーは録音/編集/再生に特化した「サンプリング機材」だったが、その後シンセサイザー機能やエフェクター機能を取り込んで、複雑な音色作りや繊細な表現が可能な「楽器」へと進化した。1998年Nemsys Gigasamplerは大容量ソフトウェア・サンプラーを実用化し、その後ソフトウェア・サンプラーは数GBのサンプルを駆使して高価な生楽器の音を手軽に再現する「ツール」として現在普及している。",
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"text": "前述のように世界市場では70年代からディジタル楽器が製品化されていたが、国内は一部メーカを除き、ディジタル楽器の研究が決定的に立ち遅れていた。その原因としては、当時国内の電子楽器専業メーカは成長途上だったため、基礎研究投資を行う余力に欠けていた事、逆に体力に余裕のある大手総合メーカ(電器メーカ含む)は、70年代ディジタルオルガン特許訴訟の影響を受け、ディジタル楽器開発に消極的だった事、等が挙げられる。",
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"text": "そのような中、ヤマハは訴訟問題とディジタル音源開発に真正面から取り組み、1980年以降は次々とディジタル音源製品を発売した(ただしPCM音源は問題の特許と抵触する可能性が高かったからか、当初は発売していない)。他方、多くの国内メーカは、80年代半ばに海外メーカが安価な製品を発売するまで (Alesis, Ensoniq, Emu)、本格的なディジタル楽器を一切発売しなかった。",
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"text": "日本におけるPCM音源製品の草分けは、1982年日本ハモンド/Jugg BoxのPCMドラムマシン「DPM-48」と推定される。サンプルは別売りROMで入れ替え可能だったが、発売時期の関係上MIDIには対応していなかった。その後、ローランド/ヤマハ/コルグ/カシオ/テクニクスといった他の国内メーカもPCMドラムマシンを製品化している。",
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"text": "1985年にはAKAI professionalが国産初のサンプラー「S-612」を発売している。このS612は 最大サンプリング周波数32kHzの12bitサンプラーで、サンプリング時間は最長1秒(32kHz時)だったが、音作りに重要なVCFやVCAは内蔵しておらず、同年先行して登場していた Ensoniq Mirageと比較するととてもシンプルな製品だった。その後AKAI Sシリーズは、S900, S1000でスペックと機能を充実させ、80年代後半 - 90年代にはE-muと並ぶ代表的サンプラーに成長した。同シリーズの設計はDavid Cockerell(前期EMSの各製品やElectro-Harmonixディジタルディレイの設計者)、AKAI S1000のOS開発はChris Hugget(EDP WASP/OSC OSCar/Novation SuperNovaの設計者)が担当しており、イギリスを代表する2人のシンセ・デザイナーによる製品と言えるかもしれない。",
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"text": "1987年ローランドはD-50というサンプル・ウェーブをレイヤーできるLA音源方式シンセを発売した。翌年発売されたコルグ社のM1は、サンプルを幾重にも重ねて発音するレイヤー(コンビネーション)機能やVDF(Variable Digital Filter、フィルター)やVDA(Variable Digital Amplifier、エンベロープ)を備えリアルな音と幅広い音作りを特徴とした。このVDFやVDAによって、ただ鍵盤に楽器音を並べて再生するだけにとどまらず、VDFによって音の明るさを調整したり、VDAによって音の立ち上がりやその消え方といったパラメータを変化させたりすることができる。また、ローランドのJV-1080やJV-2080のように拡張カードを差し替えて膨大な音色を扱えるようにした機種もある。",
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"text": "VDFでは、録音された楽器音を削って暗くすることしかできず、VDAで調整可能な時間的変化も限られた範囲での調整となるため、前述の通り音作りの幅が狭い。この点を克服するため、80年代末から90年代の初頭にかけて、シンセサイザーのメーカー各社は工夫を重ねた。ヤマハではFM音源とハイブリッド型のRCM音源を開発し、PCM波形をFM変調できるSY77を発売する。またコルグの01/Wシリーズではウェーブシェーピングという波形を変調できる方法を採用した。また同社のWAVESTATIONシリーズでは、波形を繋ぎ合わせることで時間的に変化できるようにした。そしてローランド社ではアナログシンセイザーと同じように波形を変調できるリングモジュレータを搭載した。また、JD-800のようにアナログシンセサイザーのノウハウを生かした音作りが可能な機種もリリースされた。しかし、90年代後半以後、波形ROMの容量の増加による、PCM音源の音質の向上、そして、様々な奏法の演奏自体を波形として収録可能になったこと、ハイブリッド音源の音作りの難解さなどの理由からヤマハのEX5など一部の機種を除き、このような工夫を施したPCM音源のシンセサイザーは姿を消していった。",
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"text": "家庭用ゲーム機におけるPCM音源は、スーパーファミコンの64kバイトやメガCD及びプレイステーションの512kバイトなど、サウンド用のメモリ容量の少なさという厳しい制約がついてまわるため、波形の時間的な変化などは苦手としており、原始的なシンセサイザーと同様に、音量や音高の変化を(時に擬似的な)モジュレーションやエンベロープなどに依存する事で、楽音の表現力を補完している事が多かった。例外として、アーケードゲームの一部は膨大な容量をPCM波形に割いている場合もあるが、90年代のPCM音源黎明期においてはメモリ容量も小さく高価であった為、コストのかかる手法であった。なお、楽器としての使用ではなく、単純な音声の再生(セリフの発音など)に関しては、PCM音源のバッファを一時バッファとして使い、DMA転送で連続してデータを送り込みながら再生することで、バッファ容量以上の時間の音声の再生を実現することが多かった。一方でDVDメディアなどからストリーミング再生をするときには容量の制約はほぼなくなるが、ローディング時間増などのデメリットがある。家庭用ゲーム機の多くは、この2種類を用途により使い分けている。",
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"text": "携帯電話の着メロや着うたについても、PCM音源、またはADPCM音源が採用されているものの、着メロの場合、パケット課金が存在する為に、端末に搭載できるメモリが大きくなった現在でも、着メロとしてFM音源とあわせて原始的なシンセサイザーとして配信される場合がある。",
"title": "歴史"
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"text": "減衰の早い音では「ワンショット」と呼ばれる通常のサンプリング、及び再生が行われるが、減衰の遅い、もしくは減衰の無い音を用いる場合、メモリーの使用量が膨大となる。この場合、アタック部分が過ぎた後、安定した波形をループさせることで、メモリー使用量を大幅に削減することが可能である。またこの場合、エンヴェロープなどを併用し、より自然な音を構成することが求められる。ある程度長い時間単位でループさせる場合もあれば、波形1周期を基準にループさせる場合もある。前者の場合はより自然に音を繋ぐため、波形を厳選した上で、クロス・フェードを行う場合もある。後者の場合はメモリーは大きく節約できるものの、一般に表情が乏しくなるため、各種パラメータを変更することで、音に表情を付けることが必要とされる。",
"title": "波形のループ"
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| PCM音源(ピーシーエムおんげん)は、コンパクトディスクなどで扱われるパルス符号変調 技術を用いたデジタルシンセサイザーの音源方式のひとつ。 | '''PCM音源'''(ピーシーエムおんげん)は、[[コンパクトディスク]]などで扱われる[[パルス符号変調]] (pulse code modulation、'''PCM''') 技術を用いた[[デジタルシンセサイザー]]の[[音源]]方式のひとつ。
== 概要 ==
あらかじめ[[記憶装置|メモリ]]に記録しておいたPCM波形(サンプル)を再生することで音を生成する装置を示す。電子楽器においてのPCM音源とは、例えば楽器の音などを録音・メモリへ蓄積しておき、鍵盤の押鍵や[[MIDI]]のノートオン信号などに応じて所望の音程のPCM波形をメモリから再生する音源方式を示す。[[1980年代]]初頭から大容量のサンプルでリアルな音色が出力できた[[フェアライトCMI]]や[[シンクラヴィア]]は、1台で家が買えるぐらいの購入コストが掛かり、一般層においては高嶺の花であった。普及価格帯においては、PCM音源の亜種として、メモリ容量を削減するため特徴的な波形のみをメモリに収録した波形メモリ音源や、ユーザーが録音したサンプルを追加するサンプラーが発売されていたが、ハードウェアの性能が極端に低く、リアルな音は期待できなかった。[[1987年]]には安価なPCM音源キーボードとしてCASIO FZ-1が発売されたが、未だ生音から大きく乖離した単調な出音であった。[[1988年]]に[[コルグ]]から発売されたシンセサイザーである[[コルグ・Mシリーズ|M1]]でようやく安価に実用的な音色が利用できるようになり、PCM音源が広く実用的と評価された後に[[電子ピアノ]]やシンセサイザーなどの[[電子楽器]]の音源方式のひとつとして広く普及した。
PCM音源はメモリの量が十分あれば任意の波形を発音できることが長所である。対して[[FM音源]]や[[バーチャルアナログ音源|アナログモデリング音源]]等の他の[[音源]]方式と比べ、[[メモリ]]に収録した波形を変化させることは、単純にボリュームや音階を変化させることを除けば困難であり、[[シンセサイザー]]としての音作りの自由度などでそれら他の音源方式に分を譲る点がある。
PCM音源は楽器メーカーによって独自の名称が用いられることがある。[[ヤマハ]]のAWM2音源、[[ローランド]]のRS-PCM音源、LA音源、[[コルグ]]のaiスクエアシンセシスやAccess、HI、[[カプコン]]のQサウンドなどと呼ぶ音源方式はいずれもPCM音源である。これらは各社が開発したチップセットや、サンプルの圧縮方法、ひいてはサンプルされた元の音の違い、フィルターの有無等を明示する為の商業用の商標であると考えてよい。
== 歴史 ==
歴史的経緯として、PCM音源方式の[[シンセサイザー]]の誕生は、1960年代のコンピュータ制御式電子音楽スタジオ、1970年代の[[電子オルガン|ディジタルオルガン]]開発や、初期のディジタル音楽ワークステーション開発にさかのぼる事ができる。
=== 世界の動向 ===
[[1960年代]]初期、イギリス在住のロシア系作曲家 Peter Zinovievは、プライベート電子音楽スタジオ Putney のコンピュータ制御を計画し、技術者のDavid Cockwell(AKAI Sシリーズ設計者)、作曲家の Tristram Caryと共に開発を進め、1967年二台のミニコンDEC PDP-8を導入し、遅くとも1969年には、同年創業のUK法人[[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ|エレクトロニック・ミュージック・スタジオ(ロンドン)]]のPutneyスタジオで、「Musys IIIシステム」が稼動した<ref name="le-terrier.net">{{cite web |author=LL.De Mars |url=http://www.le-terrier.net/electromusic/societe/alesis.htm#ems |title=EMS |work=Synthese et synchronisation de la musique electronique. |accessdate=2009-09-22}}</ref><ref name="120years Musys III">{{cite web |url=http://120years.net/machines/software/musys.html |title=EMS Synthesizers 1969-1979 |publisher=120 Years of Electronic Music |accessdate=2009-09-22}}</ref>。このシステム上(もしくは後に追加された DOB (Digital Oscillator Bank) も併用)で、世界最初のサンプリングが実現されたと考えられている<ref>{{cite web|author=Graham Hinton|date=December 27, 2002|url=http://www.ems-synthi.demon.co.uk/emsstory.html#nonproducts|title=EMS: The Inside Story -- The Non-Products|accessdate=2009-08-02}}<br />
DOBは、ディジタル技術による64個のオシレータ/振幅制御器の組で、各オシレータは1024サンプルのウェーブテーブルを持ち、16bit 46kHzのサンプル出力が可能だった(開発者 : David Cockwell(1965年 - 1975年在職), Peter Eastty(1972年 - 1977年在職))。この他、DOBと組み合わせる128系統[[デジタルフィルタ]] Analysing Filter Bank(開発 : Peter Eastty)も開発された。</ref>。EMSと同様なコンピュータ・サンプラーは、後にアメリカでも開発された。1972年創業のComputer Music Inc.の1976年発売の製品「Computer Music Melodian」は、ミニコンDEC PDP-8を中心に、12bit 22kHzのA/DおよびD/Aコンバータ、アンチエイリアス・フィルターを追加した一種のソフトウェア・サンプラーで、1979年[[スティービー・ワンダー]]のサウンドトラック「[[:en:The Secret Life of Plants|The Secret Life of Plants]]」で使用された。
このように黎明期のPCM音源は、高価なミニコンを駆使した実験装置的な構成だったので、次の段階として、当時民生利用の始まったLSI技術を使った安価なディジタル楽器の実現が開始された。しかし当時米国のLSIビジネスは、金に糸目をつけない宇宙開発・軍事開発を主な顧客としており、民生分野では電卓のような数百万台規模の市場でしか実績がなかったので、市場規模が何桁も小さな楽器分野では、たちまち行き詰るのが目に見えていた。
[[1969年]]、[[ロックウェル・インターナショナル|ロックウェル]]のラルフ・ドイチュは、<!-- 後にマイクロコンピュータを生み出した-->電卓と同様に電子楽器でディジタル革命を起こす計画を立て、[[アーレン・オルガン]]と提携してディジタル・オルガンの開発を進めた。そして[[1971年]]アーレン コンピュータ・オルガンを発売、[[1974年]]子会社[[w:en:Rocky Mout Instruments|RMI]]からHarmonic Synthesizer<ref name=RMI_HS>synthmuseum.com: [http://www.synthmuseum.com/rmi/rmihar01.html RMI Harmonic Synthesizer]</ref>を発売した。後者はディジタル倍音加算にアナログ・フィルターを組み合わせた製品で、リアルタイム演算の代わりに計算結果をウェーブテーブル(単周期のPCM音源)に格納して再生する方式が採用された。これら製品の実装技術全てを世界初とするのはかなり無理のある主張だったが、当時は ''アポロ計画の技術を使った世界初のコンピュータオルガン'' という荒唐無稽な宣伝がなされ、ロックウェルはディジタル楽器の基礎技術全般を囲い込む独占特許の取得に成功した<ref>{{cite journal |author=永井洋平(楽器創造館)|url=http://homepage3.nifty.com/mikms/page1019.html |title=ディジタル電子楽器の黎明期と特許係争 |journal=ミュージックトレード 2005年7月号}}<br />この特許は、ディジタル楽器の基本要素(波形テーブル/ビブラート付加/エンベロープ制御/キーボード・スキャン等)を全て網羅したもので、[[先発明主義]]の観点からはその有効性は疑わしかった。
国内最大手[[ヤマハ]]は当時は訴訟対象ではなかったものの、開発中のディジタル楽器製品が訴訟対象と成り得たので、積極的対応を取る決断をした。そして先行発明の調査に基づいて、アーレン特許を無効とする訴訟を起こした。訴訟は和解で終結したが、いくつかの項目でアーレン特許を否定しきれず、結局多額の特許使用料を支払う結末となった。
一方[[ローランド]]は、1970年代当時規模が小さく、ディジタル楽器開発も1980年代半ばまで本格化しなかったので、この特許問題への対応は公表されていない。しかし1980年代後半[[ロジャース・オルガン]]の買収後に、問題当事者の一人ラルフ・ドイッチェを自社ユーザとして宣伝している。1970年代に業界全体を揺るがした特許問題をあたかも揶揄するかのような挑戦的宣伝を行った真の理由は謎である。</ref>。 提携先のアーレンは訴訟を起こし独占特許を奪取したが、特許買収には巨額な費用を要し、結局、同業他社に次々と巨額な特許使用料請求を行った<ref>fundinguniverse.com: [https://www.fundinguniverse.com/company-histories/Allen-Organ-Company-Company-History.html Allen Organ Company History]</ref>。この結果、訴訟リスクの高い大手楽器メーカはディジタル楽器開発に消極的になり、代わりに訴訟リスクの小さな研究機関やベンチャー企業が活躍する場を得た。
[[1975年]]頃世界各地で、音楽製作をコンピュータ上でシームレスに処理する「ディジタル音楽ワークステーション」の開発が開始された。[[1979年]]登場の[[フェアライト|フェアライトCMI]]や[[シンクラビア|シンクラビアII]]は、[[サンプラー]]機能や再合成機能を提供し、1980年の[[w:en:Linn LM-1|LINN LM-1]]ディジタル・ドラムマシンや、1982年の[[w:en:E-mu Emulator|イミュレータ]]と共に、初期の[[サンプリング]]音楽の流行を形成した。なお登場当時のサンプラーは、音質やサンプリング時間、表現能力に大きな制限があったため、リアルな生楽器の再現は難しく、むしろ音質劣化を音楽的表現として生かす使い方が多かった(この当時は苦肉の策に過ぎなかったが、[[1990年代]]以降に[[Lo-Fi|ローファイ]]という表現技法として再評価された)。こういった初期の制限は、1980年代半ば頃までには大きく改善され、更に演奏トラック全体を取り込んで編集処理する初期の[[デジタルオーディオワークステーション|DAW]]機能がハイエンド環境で提供されはじめた<ref name=DirectToDisk>1985年[[シンクラビア|Synclavier]] "Direct to Disk" option</ref>。その後1980年代後半にディジタル楽器全般の低価格化が進み、かつてサンプリングドラム用ROMメーカとして出発した[[Digidesign|デジデザイン]]や[[:en:Ensoniq|エンソニック]]がDAW製品の開発を開始すると、フェアライトは価格より実績や安定性が重視される業務用DAW機器分野に転進した<ref name=FairlightJapan>フェアライトジャパン: [http://www.fairlight.co.jp/intro1.html Fairlight Japanについて]</ref>。
1979年頃 [[w:en:Palm Products GmbH|PPG]]の Wavecomputer 340/380は、ウェーブテーブル・シンセシス ([[:en:Wavetable synthesis|Wavetable synthesis]]) と呼ばれる64種の波形を切り替えて音色を変化させる音響合成方式を採用した<ref name=PPG_340>ppg.synth.net: [http://ppg.synth.net/340/ PPG WaveComputer 340/380]</ref>。また1981年発売のPPG Wave 2.0では、[[アナログシンセサイザー]]と同様なフィルタやエンベロープを追加して、ディジタル/アナログ併用の[[ハイブリッド・シンセサイザー]]を完成した<ref name=PPG_Wave2.0>ppg.synth.net: [http://ppg.synth.net/wave20/ Wave2.0]</ref>。その後1982年PPG Wavetermではディジタル音楽ワークステーション機能を追加、1986年PPG HDU (Hard Disk Unit) でDAW機能を追加し<ref>synthmuseum.com: [http://synthmuseum.com/ppg/ppghdu01.html PPG Hard Disk Unit]</ref>、同年参考展示のPPG Realizerでは 上記DAW機能に加え、他のシンセ([[モーグ・シンセサイザー#ミニモーグ|minimoog]]や[[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]])のソフトウェア・モデリング機能も統合した<ref name=PPG_Realizer>synthmuseum.com: [http://synthmuseum.com/ppg/ppgreal01.html PPG Realizer], proun.net: [http://www.proun.net/gallery/ppg_realizer.html PPG Realizer]</ref>。しかし1987年PPGは倒産し realizerは商品化されなかった。ハードウェア楽器をソフトウェア的にシミュートするこのアイデアは、後継会社Waldorfと提携先DAWソフト会社 [[スタインバーグ]]により、1996年 [[Virtual Studio Technology|VST]] (Virtual Studio Technology)、1998年VSTi (VST instruments) として実現され、現在では広く普及している。
普及価格帯の製品では、1985年[[w:en:Ensoniq|Ensoniq]] [[w:en:Ensoniq Mirage|Mirage]]、[[AKAI professional|AKAI]] S612といった一連の低価格[[サンプラー]]が登場し、サードパーティによるサンプリング・ライブラリ提供と合わせ、音色入替え可能なPCM音源として普及した。Ensoniq Mirageはサンプラーながら最初からVCFやVCAを搭載しており、次の製品ESQ-1 は波形テーブル内蔵のハイブリッドシンセだった。Ensoniqはこれ以降もサンプリングに特化する事はなく、サンプルデータや波形テーブルを加工するPCM音源のシンセサイザーを次々と発売した。一方、初期のAKAIサンプラーは録音/編集/再生に特化した「サンプリング機材」だったが、その後シンセサイザー機能やエフェクター機能を取り込んで、複雑な音色作りや繊細な表現が可能な「楽器」へと進化した。1998年Nemsys Gigasamplerは大容量ソフトウェア・サンプラーを実用化し、その後ソフトウェア・サンプラーは数GBのサンプルを駆使して高価な生楽器の音を手軽に再現する「ツール」として現在普及している。
=== 日本メーカの動向 ===
前述のように世界市場では70年代からディジタル楽器が製品化されていたが、国内は一部メーカを除き、ディジタル楽器の研究が決定的に立ち遅れていた。その原因としては、当時国内の電子楽器専業メーカは成長途上だったため、基礎研究投資を行う余力に欠けていた事、逆に体力に余裕のある大手総合メーカ(電器メーカ含む)は、70年代ディジタルオルガン特許訴訟の影響を受け、ディジタル楽器開発に消極的だった事、等が挙げられる。
そのような中、ヤマハは訴訟問題とディジタル音源開発に真正面から取り組み、1980年以降は次々とディジタル音源製品を発売した(ただしPCM音源は問題の特許と抵触する可能性が高かったからか、当初は発売していない)。他方、多くの国内メーカは、80年代半ばに海外メーカが安価な製品を発売するまで (Alesis, Ensoniq, Emu)、本格的なディジタル楽器を一切発売しなかった。
日本におけるPCM音源製品の草分けは、1982年日本ハモンド/Jugg BoxのPCMドラムマシン「DPM-48」と推定される。サンプルは別売りROMで入れ替え可能だったが、発売時期の関係上MIDIには対応していなかった。その後、ローランド/ヤマハ/コルグ/カシオ/テクニクスといった他の国内メーカもPCMドラムマシンを製品化している。
1985年には[[AKAI professional]]が国産初のサンプラー「S-612」を発売している。このS612は 最大サンプリング周波数32kHzの12bitサンプラーで、サンプリング時間は最長1秒(32kHz時)だったが、音作りに重要なVCFやVCAは内蔵しておらず、同年先行して登場していた [[w:en:Ensoniq Mirage|Ensoniq Mirage]]と比較するととてもシンプルな製品だった。その後AKAI Sシリーズは、S900, S1000でスペックと機能を充実させ、80年代後半 - 90年代にはE-muと並ぶ代表的サンプラーに成長した。同シリーズの設計はDavid Cockerell(前期EMSの各製品やElectro-Harmonixディジタルディレイの設計者)、AKAI S1000のOS開発はChris Hugget(EDP WASP/OSC OSCar/Novation SuperNovaの設計者)が担当しており、イギリスを代表する2人のシンセ・デザイナーによる製品と言えるかもしれない。
1987年[[ローランド]]はD-50というサンプル・ウェーブをレイヤーできる[[LA音源]]方式シンセを発売した。翌年発売されたコルグ社のM1は、サンプルを幾重にも重ねて発音するレイヤー(コンビネーション)機能やVDF(Variable Digital Filter、フィルター)やVDA(Variable Digital Amplifier、[[エンベロープ]])を備えリアルな音と幅広い音作りを特徴とした。このVDFやVDAによって、ただ鍵盤に楽器音を並べて再生するだけにとどまらず、VDFによって音の明るさを調整したり、VDAによって音の立ち上がりやその消え方といったパラメータを変化させたりすることができる。また、ローランドのJV-1080やJV-2080のように拡張カードを差し替えて膨大な[[音色]]を扱えるようにした機種もある。<!-- 録音された音を鍵盤に割り振る作業というのは難しく、コストがかかるため、80年代末になって商品化されたが、音階を伴わないリズムマシンに関しては、いち早く80年代初頭からPCM音源は採用されていた。ローランドの[[ローランド・TR-909|TR-909]]という1983年に発売されたリズムマシンはタムやスネアといった太鼓系の音はアナログ音源だが、ハイハットやシンバルといった金物系の音はPCM音源を採用していた。また、80年代半ばにFM音源の[[ヤマハ・DXシリーズ|DXシリーズ]]で一世風靡した[[ヤマハ]]でも、リズムマシンの[[ヤマハ・RXシリーズ|RXシリーズ]]にはFM音源ではなく、PCM音源を採用していた。-->
VDFでは、録音された楽器音を削って暗くすることしかできず、VDAで調整可能な時間的変化も限られた範囲での調整となるため、前述の通り音作りの幅が狭い。この点を克服するため、80年代末から90年代の初頭にかけて、シンセサイザーのメーカー各社は工夫を重ねた。ヤマハでは[[FM音源]]とハイブリッド型の[[RCM音源]]を開発し、PCM波形をFM変調できる[[ヤマハ・SYシリーズ|SY77]]を発売する。またコルグの[[コルグ・01/Wシリーズ|01/Wシリーズ]]ではウェーブシェーピングという波形を変調できる方法を採用した。また同社の[[コルグ・WAVESTATIONシリーズ|WAVESTATIONシリーズ]]では、波形を繋ぎ合わせることで時間的に変化できるようにした。そして[[ローランド]]社ではアナログシンセイザーと同じように波形を変調できるリングモジュレータを搭載した。また、[[ローランド・JDシリーズ|JD-800]]のようにアナログシンセサイザーのノウハウを生かした音作りが可能な機種もリリースされた。しかし、90年代後半以後、波形ROMの容量の増加による、PCM音源の音質の向上、そして、様々な奏法の演奏自体を波形として収録可能になったこと、ハイブリッド音源の音作りの難解さなどの理由からヤマハの[[ヤマハ・EXシリーズ|EX5]]など一部の機種を除き、このような工夫を施したPCM音源のシンセサイザーは姿を消していった。
=== エンターテインメント ===
[[家庭用ゲーム機]]におけるPCM音源は、[[スーパーファミコン]]の64kバイトや[[メガCD]]及び[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]の512kバイトなど、サウンド用のメモリ容量の少なさという厳しい制約がついてまわるため、波形の時間的な変化などは苦手としており、原始的なシンセサイザーと同様に、音量や音高の変化を(時に擬似的な)モジュレーションやエンベロープなどに依存する事で、楽音の表現力を補完している事が多かった。例外として、[[アーケードゲーム]]の一部は膨大な容量をPCM波形に割いている場合もあるが、90年代のPCM音源黎明期においてはメモリ容量も小さく高価であった為、コストのかかる手法であった。なお、楽器としての使用ではなく、単純な音声の再生(セリフの発音など)に関しては、PCM音源のバッファを一時バッファとして使い、DMA転送で連続してデータを送り込みながら再生することで、バッファ容量以上の時間の音声の再生を実現することが多かった。一方で[[DVD]]メディアなどから[[ストリーミング]]再生をするときには容量の制約はほぼなくなるが、ローディング時間増などのデメリットがある。家庭用ゲーム機の多くは、この2種類を用途により使い分けている。
=== 携帯電話 ===
携帯電話の[[着メロ]]や[[着うた]]についても、PCM音源、またはADPCM音源が採用されているものの、[[着メロ]]の場合、パケット課金が存在する為に、端末に搭載できるメモリが大きくなった現在でも、[[着メロ]]として[[FM音源]]とあわせて原始的なシンセサイザーとして配信される場合がある。
== 波形のループ ==
減衰の早い音では「ワンショット」と呼ばれる通常のサンプリング、及び再生が行われるが、減衰の遅い、もしくは減衰の無い音を用いる場合、メモリーの使用量が膨大となる<ref>代表的なものとして、[[金管楽器|ブラス]]や[[ストリングス]]など。</ref>。この場合、アタック部分<ref>発音直後、倍音の変化が著しい部分。</ref>が過ぎた後、安定した波形をループさせることで、メモリー使用量を大幅に削減することが可能である。またこの場合、[[エンヴェロープ]]などを併用し、より自然な音を構成することが求められる。ある程度長い時間単位でループさせる場合もあれば、波形1周期を基準にループさせる場合もある。前者の場合はより自然に音を繋ぐため、波形を厳選した上で、クロス・フェード<ref>この場合、ループの繋ぎの部分で現在の波形を[[フェードアウト]]させつつ、次の波形を[[フェードイン]]させる。</ref>を行う場合もある。後者の場合はメモリーは大きく節約できるものの、一般に表情が乏しくなるため、各種パラメータを変更することで、音に表情を付けることが必要とされる<ref>『シンセサイザーの全知識』 安斎直宗 リットー・ミュージック [[1996年]] ISBN 4-8456-0106-0 p110 - p124</ref>。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[波形メモリ音源]]
* [[物理モデル音源]]
* [[パルス符号変調]] (PCM)
* [[サンプラー]]
* [[シンセサイザー]]
* [[ミュージックワークステーション]]
* [[音源モジュール]]
* [[デスクトップミュージック|DTM(デスクトップミュージック)]]
* [[サウンドフォント]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/PCM%E9%9F%B3%E6%BA%90 |
1,530 | 相撲 | 相撲()は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭で、同時にそれを起源とする武芸や武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている。
相撲は古代以前(伝承としては神話の時代)に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた。
現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。
日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島の沖縄角力(シマ)、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、トルコのヤールギュレシ、セネガルのランブなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。
新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという。
「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。表記としては「角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。)
大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。
英語では「sumo()」または「sumo-wrestling()」と表記される。
なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲(wikidata)、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。
日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている。
さらに『古事記』の垂仁記には、
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる。
皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある。
天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭で大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある。
持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。 5月21日。隼人が相撲を取るのを西の槻の木の下で観た、とある。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる。
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。
相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた。
続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。
江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた。
江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎、雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた。天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした。
明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。
平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種を基本として加味された。
2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった。
相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる。さらに相撲が他の芸能とあわせて余興で行われる場合のほか、相撲の所作を演劇的に行うものやそれをモチーフにした舞の形式になっている場合もあり、一般的な格闘技としての相撲を要素としないものもある。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。
競技の形態としては、直径4.55メートル(15尺)の円形、または、四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は、大相撲では勝負審判(行司は一次的な勝敗の判定を行うが、最終判定は勝負審判が行う(物言い))、アマチュア相撲では主審が行う。
相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる(無差別の戦い方)。アマチュア相撲においては、大会によっては体重別で行うものもある(全日本相撲個人体重別選手権大会など)
相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。
普通は以下のような流れになる。
勝ちが決まるのは次の場合である。
日本の相撲以外にも膝など体のどこかが地面についた時点で負けとなる組技中心の寝技のない格闘技はブフ、シルム、セネガル相撲など多くある。しかし、試合場の外に出ることを反則とはしても即座に負けと認めるものは少ない。このために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。
相撲においてはまず押すことを良しとし、多くの相撲部屋や道場では初心者は押しの技法を身に付けることから始める。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。
力士同士のお互いの組み方として四つ身という組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ、または、外四つ(もろ差し)などがある。
これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。
四十八手とは相撲における決まり手のことある。四十八手の称は慶長年間には既に世にあったとされる。江戸時代より『相撲強弱理合書』、『角力秘要録』、『相撲之圖式』、『相撲鬼拳』、『相撲大全』などに記されているが書によって内容が異なる。
重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や初代霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。
一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。
事実、吉田家の19世吉田追風(吉田善左衛門)が寛政年間(1789年-1801年)に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、また、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。
相撲に似た格闘技は世界各地に存在している。
これ以外に、日系人が海外に伝えたり、大相撲の海外巡業や、外国人力士の活躍により触発されたりした日本式相撲文化も見られる。
相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節(天皇誕生日)を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が遠征がのちにも続いた。
ジョージアはもともとレスリングや柔道など格闘技が盛んであった。同国出身である栃ノ心剛史の大相撲での活躍が伝わり、相撲のファンクラブが設立されたり、相撲を学んだり、力士としての渡日を志したりする人が増えている。 | [
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"text": "相撲()は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭で、同時にそれを起源とする武芸や武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている。",
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"text": "相撲は古代以前(伝承としては神話の時代)に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた。",
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"text": "現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。",
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"text": "日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島の沖縄角力(シマ)、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、トルコのヤールギュレシ、セネガルのランブなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。",
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"text": "新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという。",
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"text": "「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。表記としては「角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。)",
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"text": "大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。",
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"text": "英語では「sumo()」または「sumo-wrestling()」と表記される。",
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"text": "なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲(wikidata)、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。",
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"text": "日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。",
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"text": "人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている。",
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"text": "さらに『古事記』の垂仁記には、",
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"text": "とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる。",
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"text": "皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある。",
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"text": "天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭で大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある。",
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"text": "持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。 5月21日。隼人が相撲を取るのを西の槻の木の下で観た、とある。",
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"text": "奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる。",
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"text": "一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている。",
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"text": "相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた。",
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"text": "続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。",
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"text": "江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた。",
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"text": "江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎、雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた。天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした。",
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"text": "明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。",
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"text": "平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種を基本として加味された。",
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"text": "2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった。",
"title": "歴史"
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"text": "相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる。さらに相撲が他の芸能とあわせて余興で行われる場合のほか、相撲の所作を演劇的に行うものやそれをモチーフにした舞の形式になっている場合もあり、一般的な格闘技としての相撲を要素としないものもある。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。",
"title": "神事としての相撲"
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"text": "競技の形態としては、直径4.55メートル(15尺)の円形、または、四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は、大相撲では勝負審判(行司は一次的な勝敗の判定を行うが、最終判定は勝負審判が行う(物言い))、アマチュア相撲では主審が行う。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる(無差別の戦い方)。アマチュア相撲においては、大会によっては体重別で行うものもある(全日本相撲個人体重別選手権大会など)",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "普通は以下のような流れになる。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "勝ちが決まるのは次の場合である。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "日本の相撲以外にも膝など体のどこかが地面についた時点で負けとなる組技中心の寝技のない格闘技はブフ、シルム、セネガル相撲など多くある。しかし、試合場の外に出ることを反則とはしても即座に負けと認めるものは少ない。このために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "相撲においてはまず押すことを良しとし、多くの相撲部屋や道場では初心者は押しの技法を身に付けることから始める。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "力士同士のお互いの組み方として四つ身という組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ、または、外四つ(もろ差し)などがある。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "四十八手とは相撲における決まり手のことある。四十八手の称は慶長年間には既に世にあったとされる。江戸時代より『相撲強弱理合書』、『角力秘要録』、『相撲之圖式』、『相撲鬼拳』、『相撲大全』などに記されているが書によって内容が異なる。",
"title": "相撲の戦い方"
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"text": "重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や初代霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。",
"title": "力士"
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"text": "一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。",
"title": "行司家"
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"text": "事実、吉田家の19世吉田追風(吉田善左衛門)が寛政年間(1789年-1801年)に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、また、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。",
"title": "行司家"
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"text": "相撲に似た格闘技は世界各地に存在している。",
"title": "日本国外における相撲"
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"text": "これ以外に、日系人が海外に伝えたり、大相撲の海外巡業や、外国人力士の活躍により触発されたりした日本式相撲文化も見られる。",
"title": "日本国外における相撲"
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{
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"text": "相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。",
"title": "日本国外における相撲"
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"text": "ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節(天皇誕生日)を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。",
"title": "日本国外における相撲"
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"text": "日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が遠征がのちにも続いた。",
"title": "日本国外における相撲"
},
{
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"text": "ジョージアはもともとレスリングや柔道など格闘技が盛んであった。同国出身である栃ノ心剛史の大相撲での活躍が伝わり、相撲のファンクラブが設立されたり、相撲を学んだり、力士としての渡日を志したりする人が増えている。",
"title": "日本国外における相撲"
}
]
| 相撲は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭で、同時にそれを起源とする武芸や武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている。 | {{Otheruses|武道・武術|雑誌|相撲 (雑誌)}}
{{Infobox_武道・武術
|読み= すもう
|画像名=Kunisada Sumo Triptychon c1860s.jpg
|画像サイズ=198
|画像説明=相撲絵([[歌川国貞]]、1860年代)
|別名=
|競技形式=[[神事]]・素手・打撃・組み合い・投げ合い
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}}
{{ウィキプロジェクトリンク|相撲}}
{{読み仮名|'''相撲'''|すもう}}は、[[土俵]]の上で[[力士]]が組合って戦う形を取る[[日本]]古来の[[神事]]や[[祭]]で、同時にそれを起源とする[[武芸 (日本)|武芸]]や[[武道]]の一つ。[[興行]]としては'''[[大相撲]]'''が行われている。日本由来の[[武道]]・[[格闘技]]・[[スポーツ]]として国際的にも認知されている。
== 概説 ==
[[ファイル:Somagahana Fuchiemon.jpg|thumb|right|[[杣ヶ花渕右エ門]](そまがはな ふちえもん)、1818年。大小の[[刀]]を佩刀し[[武士]]と同じ待遇であった力士<ref group="注釈">[[歌川国貞]]画:大判[[錦絵]]:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)</ref>]]
相撲は[[古代#日本史|古代]]以前(伝承としては[[神代 (日本神話)|神話の時代]])に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた<ref name=yokoyama>[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_4020969_po_kbk32-1.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 「江戸の遊び~けっこう楽しいエコレジャ~」を巡る話題から(3)みるきく楽しみ]横山美佳、東北大学附属図書館報、Vol. 32, No.1 2007</ref>。
現代の相撲について[[民俗学]]の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる[[大相撲]]、学生相撲や実業団相撲などの[[アマチュア相撲]]、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や[[池田雅雄]]らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する<ref name="inoue">{{Cite journal|和書 |author=井上宗一郎 |title=民俗学における競技の対象化に関する一考察 : 近世以降の素人相撲をめぐる競技体系の近代化から(第Ⅲ部 術語と概念の地平) |journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |issn=02867400 |publisher=国立歴史民俗博物館 |year=2011 |month=mar |volume=165 |pages=225-249 |naid=120005748888 |doi=10.15024/00001912 |url=https://doi.org/10.15024/00001912 |accessdate=2021-04-30}}</ref>。特に[[日本相撲協会]]が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。
日本国内外で同じような形態の格闘技としては、[[沖縄本島]]の[[沖縄角力]](シマ)、[[モンゴル系民族|モンゴル]]の[[ブフ]]、[[中国]]の[[シュアイジャオ]]、[[朝鮮半島]]の[[シルム]]、[[トルコ]]の[[ヤールギュレシ]]、[[セネガル]]の[[セネガル相撲|ランブ]]などがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。
== 語義 ==
新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという<ref name="inoue" />。
「'''すもう'''」の呼び方は、古代の「'''すまひ'''」が「'''すもう'''」に変化した。表記としては「'''角力'''」、「'''捔力'''」(『[[日本書紀]]』)、「'''角觝'''」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「'''すもう'''」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった<ref>『[[大相撲ジャーナル]]』2017年8月号、59頁</ref>。古代には'''手乞'''(てごい)とも呼ばれていたという説もある。('''手乞'''とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、'''素手'''で勝負をすることを意味する。)
大相撲を取る人は正式名称は「'''力士'''」(りきし)といい、また「'''相撲取り'''」、親しみを込めて「'''お相撲さん'''」とも呼ばれる。
英語では「{{読み仮名|{{lang|en|sumo}}|スモウ}}」または「{{読み仮名|{{lang|en|sumo-wrestling}}|スモウ・レスリング}}」と表記される。
なお、日本では組み合う[[格闘技]]的な[[競技]]を総じて相撲と呼ぶ。用例には[[腕相撲]]、[[足相撲]]、[[指相撲]]、{{仮リンク|拳相撲|wikidata|Q106313067}}、[[草相撲]]などがある。他に、相撲を模して行われるものに[[紙相撲]]がある。
== 歴史 ==
{{seealso|大相撲#歴史}}
=== 古代 ===
[[File:Oda_Nobunaga_sumo.jpg|right|thumb|250px|天正六年(1578年)、[[織田信長]]が安土城にて相撲を観戦。両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」]]
[[ファイル:Reproduce of Sumo by Hiroshige.png|thumb|right|[[隅田川]][[テラス]]にかかる[[歌川広重]]の「相撲の図」の[[模写]]]]
日本における相撲の記録の最古は、『[[古事記]]』の[[葦原中国平定]]の件で、[[タケミカヅチ|建御雷神]](タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の[[タケミナカタ|建御名方神]](タケミナカタ)が、「然欲爲'''力競'''」と言った後タケミカヅチの'''腕を掴んで投げよう'''とした[[描写]]がある。その際タケミカヅチが手を[[氷柱]]へ、また氷柱から[[剣]](つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
人間同士の相撲で最古のものとして、[[垂仁天皇]]7年([[紀元前23年]])[[7月7日 (旧暦)]]にある[[野見宿禰]]と「當麻蹶速」([[当麻蹴速]])の「'''捔力'''」(「'''すまいとらしむ'''・'''スマヰ'''」または「'''すまい'''・'''スマヰ'''」と訓す)での戦いがある(これは[[柔道]]の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に[[蹴り技]]の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、[[武芸 (日本)|武芸]]・[[古武道|武術]]であったことは明確である<ref>『[[日本書紀]]』</ref>。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている<ref>[http://www.izumooyashiro.or.jp/nominosukunesouken.html 野見宿禰神社創建]</ref>。
さらに『古事記』の垂仁記には、
{{quotation|ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。
}}とあり、初めて「'''力士'''」('''ちからひと・すまひひと''' と訓す)の文字が現れる。以降の[[記紀]]や[[六国史]]においても、相撲に関する記述が散見される。なお「'''相撲'''」という言葉そのものが初めて用いられたのは[[日本書紀]]の[[雄略天皇]]13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった[[猪名部真根]]が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が[[采女]]を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる<ref>『[[日本書紀]]』、巻第十四</ref>。
<gallery>
ファイル:舟塚古墳 (小美玉市) 出土 埴輪 力士.JPG|力士形[[埴輪]]<br/>{{small|茨城県[[舟塚古墳 (小美玉市)|舟塚古墳]]出土。}}
ファイル:瀬戸内市牛窓町槌ヶ谷出土 子持装飾付脚付壺 (J-6455)-2.JPG|力士・行司表現のある[[須恵器]]<br/>{{small|岡山県瀬戸内市出土。}}
</gallery>
[[斉明天皇|皇極天皇]]元年([[642年]])7月22日には、[[百済]]の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、[[健児]](ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 [[翹岐]](ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある<ref>『[[日本書紀]]』、巻第二十四</ref>。
[[天武天皇]]十一年([[682年]])7月、九州の[[隼人]]が大勢きて国の特産品を献上し、[[朝庭]]で[[大隅]]の[[隼人]]と[[阿多]]の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある<ref>『[[日本書紀]]』、巻第二十九</ref>。
[[持統天皇]]九年([[695年]])5月13日、大隅[[隼人]]を宴会をしてもてなした。
5月21日。隼人が相撲を取るのを西の[[槻]]の木の下で観た、とある<ref>『[[日本書紀]]』、巻第三十</ref>。
{{see|相撲節会}}
[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて、宮中行事の一つとして'''[[相撲節会]]'''が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が[[近衛府]]により選抜され、宮中で[[天覧相撲]]をとった。最初の記録は天平6年([[734年]])のものであるが<ref>『[[続日本紀]]』</ref>、節会を統括する[[相撲司]]の初見は養老3年([[719年]])であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は[[七夕]]の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に[[健児]]の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる{{Sfn|酒井|pp=5-6}}。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、[[健児]]の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると[[律令制]]の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる{{Sfn|酒井|p=61}}<ref name="akizawa">秋澤亙・[[川村裕子]]『王朝文化を学ぶ人のために』 [[世界思想社]]、2010年8月2日、ISBN 978-4790714880。</ref>。
{{see|神事相撲}}
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを'''[[神事相撲]]'''という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている{{Sfn|酒井|p=62}}。
=== 中世 ===
{{see|武家相撲}}
相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、[[武芸 (日本)#組討|組み打ち]]の鍛錬として、[[封建制]]を成立させた武士の下で広まった。これを'''[[武家相撲]]'''という。武士の棟梁となった[[源頼朝]]は特に相撲を好み、[[鎌倉]]を中心に相撲が盛んに行われた{{Sfn|酒井|p=69}}。
{{see|土地相撲}}
続く[[室町幕府]]は、相撲の奨励には消極的であったが、[[戦国大名]]は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、[[応仁の乱]]以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを'''[[土地相撲]]'''、または「草相撲」という{{Sfn|酒井|p=71}}。
=== 近世 ===
{{see|勧進相撲}}
[[ファイル:Grand-Kanjin-Sumo-Tournament-by-Utagawa-Kunisada-1843.png|thumb|300px|江戸時代の勧進大相撲興行の図(1843年頃)]]
[[江戸時代]]に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「[[勧進]]」にことよせて'''[[勧進相撲]]'''と称し、また武家相撲も力士を大名の[[抱え (相撲)|抱え]]とすることでその名残をとどめた{{Sfn|酒井|p=73}}。
江戸の爛熟期である[[明和]]・[[安永 (元号)|安永]]期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、[[明和]]6年(1769年)の[[浅草寺]]の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した<ref name=watanabe>渡辺達三, [https://doi.org/10.5632/jila1934.36.2_27 近世広場の成立・展開火除地広場の成立と展開 (2)]}」『造園雑誌』 36巻 2号 1972年 p.27-34, 日本造園学会, {{doi|10.5632/jila1934.36.2_27}}</ref>。11代将軍[[徳川家斉]]の時代になると、[[将軍]]が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも[[寛政]]3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった<ref name=yokoyama/>。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]や第5代横綱[[小野川喜三郎]]、[[雷電為右衛門]]といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた<ref name=yokoyama/>。[[天保]]4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった[[両国 (東京都)|両国]]を定場所とした<ref>牛垣雄矢、田中絵里子、畠山輝雄、佐野 充、「[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8217970_po_30-2-09.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 交差の界隈性 : 現代東京における江戸の見附地と辻の役割]」『国際交通安全学会誌』 Vol.30 No.2 p.118-128, 2005年8月, 国際交通安全学会, {{naid|10019342059}}。</ref>。
=== 近代 ===
[[ファイル:Michi-no-miya Hirohito 1913 Sumo.jpg|thumb|180px|[[侍従]]と相撲を取る[[皇太子]]時代の[[昭和天皇]](右)]]
{{see|大相撲}}
[[明治]]の[[文明開化]]で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、[[明治天皇]]の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2016/04/04/sumo-wrestlers-surprising-elegance_n_9614458.html 日本の相撲は驚くほど美しかった。貴重な19世紀の写真は伝える]</ref>。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される[[天皇杯|天皇賜杯]]が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより[[日本相撲協会]]が誕生、勧進相撲は'''[[大相撲]]'''に一本化された。
[[平成]]に入って、[[日本ビーチ相撲連盟]]というアマチュアの組織が結成された。また、[[義務教育]]に武道必修化の[[必修科目]]として、''相撲''・[[剣道]]・[[柔道]]の三種を基本として加味された。
2020年以降は[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった<ref>[https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1419397 エントリーは2人だけ…相撲競技が初の中止 福井県中学校秋季新人競技大会、連盟は危機感] 福井新聞 2021年10月18日 午後5時10分 (2021年10月19日閲覧)</ref>。
== 神事としての相撲 ==
=== 神事との関係性 ===
[[ファイル:Sumoclip-may242007-tokyo.ogv|left|thumb|thumbtime=9|220px|萬華城と剛天佑(2007年)]]
[[ファイル:Sasagawa-sumo,suwa-shrine,tonosho-town,chiba,japan.JPG|thumb|250px|奉納相撲([[東庄町]][[諏訪神社]])]]
相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる<ref name="inoue" />。さらに相撲が他の芸能とあわせて余興で行われる場合のほか、相撲の所作を演劇的に行うものやそれをモチーフにした舞の形式になっている場合もあり、一般的な格闘技としての相撲を要素としないものもある<ref name="inoue" />。和歌山県、[[愛媛県]][[大三島]]の[[大山祇神社#一人角力|一人角力]]の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。
* 神事相撲の例
** [[羽咋神社#主な祭事|唐戸山神事相撲]] - [[石川県]][[羽咋市]] [[羽咋神社]]
** 延方相撲 - [[茨城県]][[潮来市]]延方 鹿嶋吉田神社
** 琴平相撲 - 茨城県[[北相馬郡]][[利根町]]布川 琴平神社
=== 大相撲の神事 ===
* 江戸中期以降の[[大相撲]]は特に[[神道]]の影響が強く、[[力士]]の[[土俵入り]]の際に[[拍手 (神道)|拍手]]をうち、[[横綱]]が[[注連縄]]を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた[[吉田司家]]の許可に基づくものである。東京での[[本場所]]前々日には東京都墨田区の野見宿禰神社に[[日本相撲協会]]の幹部、審判部の幹部や[[相撲茶屋]]関係者が出席して、[[出雲大社教]]の[[神官]]によって神事が執り行われる。
* 土俵祭
** [[土俵祭]]とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。[[寛政]]3年(1791年)[[征夷大将軍]]・[[徳川家斉]]の上覧相撲の際に、19世[[吉田追風]](吉田善左衛門)が「方屋開」として始めたものである。
* 相撲場は明治中期まで[[女人禁制]]で、[[明治]]になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。<!-- 前記文章には対応する出典がない -->しかしながら、伝統的な慣習であるという点については異論が出ている。[[女相撲]]という言葉は古くは日本書紀に見られ<ref name="female_sumo_1">{{Cite journal|和書|url=http://id.nii.ac.jp/1807/00005765/ |title=相撲における「女人禁制の伝統」について |author=[[吉崎祥司]], 稲野一彦 |journal=北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編 |ISSN=13442562 |publisher=北海道教育大学 |date=2008-08 |volume=59 |issue=1 |naid=110006825941 |pages=71-86}}<</ref><ref name="female_sumo_2">{{Cite journal|和書|author=金田英子 |title=興行としての女相撲に関する研究 |url=http://id.nii.ac.jp/1444/00000490/ |journal=日本体育大学紀要 |publisher=日本体育大学 |year=1993 |month=mar |volume=22 |issue=2 |pages=p97-102 |naid=110000304553 |issn=02850613}}</ref><ref name="female_sumo_3">{{Cite journal|和書|author=金田英子 |title=1212505 北九州地方における女相撲について : 長崎県・佐賀県の場合 |url=https://doi.org/10.20693/jspeconf.43B.0_907 |journal=日本体育学会大会号 |publisher=日本体育学会 |year=1992 |volume=第43回(1992) |pages=907 |naid=110001909621 |doi=10.20693/jspeconf.43B.0_907}}</ref>、江戸時代以降は興行記録も残っており<ref name="female_sumo_1" /><ref name="female_sumo_2" />、戦前まで女相撲の興行が行われていた<ref name="female_sumo_2" />からである。また、俵を使った土俵の登場は江戸時代からである<ref name="female_sumo_1" />。研究者の金田英子は1992年に、神事としての相撲は、九州地方では現在を迎えても伝統行事として行われていることが知られている、としている<ref name="female_sumo_3" />ように、必ずしも女性を忌避するものではない。
*土俵
{{main|土俵}}
<!--ちなみに、行司が仕切るときの「はっけよい」とは「発勁よいか」という語のもじりです。すなわち、気合十分か?という意味です。」←この説は聞いたことがないわけではありませんが、どれも冗談としてのものでした。(FeZn)←八卦用意の意味、と聞いたことがありますが--[[利用者:っ|<font color=#008000>っ</font>]] 2004年12月23日 (木) 15:09 (UTC)-->
<!--「はっけよい」とは「発気用意」とする説もあるようです。-->
<!-- 「出典を示して」、はっけよいの語源は、何々の文献ではこの説、あの文献ではその説と言われている 等と記述すると良いですよ -->
== 相撲の戦い方 ==
[[ファイル:Sumo ceremony.jpg|thumb|250px|幕内[[土俵入り]](前頭から大関までの力士による土俵入り]]
競技の形態としては、直径4.55メートル(15[[尺]])の[[円 (数学)|円]]形、または、四角形をした[[土俵]]の中で[[廻し]]を締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は、大相撲では[[勝負審判]]([[行司]]は一次的な勝敗の判定を行うが、最終判定は勝負審判が行う([[物言い]]))、[[アマチュア相撲]]では[[主審]]が行う。
相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる(無差別の戦い方)。アマチュア相撲においては、大会によっては体重別で行うものもある(全日本相撲個人体重別選手権大会など)
相撲司家の[[吉田司家|吉田家]]の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「'''相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である'''」と伝えられている。
=== 相撲の流れ ===
普通は以下のような流れになる。
==== 塵手水 ====
{{main|塵手水}}
* 『私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します』の意。
==== 仕切り ====
{{main|仕切り}}
* 円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを'''仕切り'''といい、立合いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよく(制限時間がある場合はその範囲で)、繰り返さなくてもよい。
* [[1928年]](昭和3年)1月12日から[[日本放送協会]]の[[ラジオ]]放送による[[大相撲中継]]が始まった際、放送時間内にすべての取組を終わらせるため幕内10分、十両7分の制限時間設定と共に仕切り線が設けられた。のちに制限時間は幕内4分、十両3分となった。
==== 立合い ====
{{main|立合い}}
[[ファイル:Sumo-Japan.jpg|thumb|250px|[[立合い]]]]
* 拳をついた状態から互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がってぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この試合の始まりを[[立合い]]という。
* '''立合い'''は世界では見られない日本独自の方法で、その開始は両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形である。行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく両者の合意を確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
* 土俵に拳をつける立合いは江戸時代の[[元禄]]の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
* 仕切り線ができたことにより発達した。それ以前の時代の写真から立会いの距離制限が無く頭と頭をつけた状態から開始されることも多かったことがうかがえる。
* 行司のかけ声の「はっけよい」または「はっきよい」(=さあ、がんばれ)は、動きが止まった時に発気揚々(気を盛んに出す)と促す言葉で、「のこった」(=どちらが残るか)は、取組の中で両者の動きが止まった時に、勝負がついていないことを知らせたり、戦いを促すために二者に気合いを入れて掛ける言葉である。動きが止まると「はっきよい」、動いていると「のこった」というかけ声で、力士は気合をいれて相手にぶつかる。
==== 勝ちの確定 ====
勝ちが決まるのは次の場合である。
* 相手の体のうち足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合は相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
* 相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。
日本の相撲以外にも膝など体のどこかが地面についた時点で負けとなる組技中心の寝技のない格闘技は[[ブフ]]、[[シルム]]、[[セネガル相撲]]など多くある。しかし、試合場の外に出ることを反則とはしても即座に負けと認めるものは少ない。このために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。[[体重別階級|体重制]]を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。
=== 決まり手と禁じ手 ===
==== 決まり手 ====
* 勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが[[決まり手]]である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、'''投げ・掛け・反り・捻り'''を中心にしたものがある。かつては'''四十八手'''といわれたが、のちに[[日本相撲協会]]が82の技名と技でない決まり手5([[勇み足]]など)を定めており、そのどれかに分類される。
==== 禁じ手 ====
{{main|禁じ手#相撲の禁じ手|志賀清林|吉田司家}}
=== 相撲の構え ===
* 日本古来から伝わる「[[手合]]」と呼ばれる'''相撲の構え'''が江戸時代中期まであったが、その名残として「[[三段構え]]」が存在する。('''手合'''と'''三段構え'''は世界中では見られない'''日本独自の構え''')
* 力士が、「'''両手の手(拳)を土俵に付けてから立合う'''」事は、[[江戸時代]]中期の人物で[[紀伊国|紀伊]]出身の'''鏡山沖右衛門'''から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
* のちの世にも伝わっている相撲の「'''追っ付けの構え'''」は、相撲の攻防に適した'''構え'''である。
=== 相撲の攻め手と防ぎ手 ===
==== 攻め手 ====
* 離れた状態から'''ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い'''などの'''攻め手'''を用いる'''立合い'''により優位な状況をつくる。
* 触れ合った状態で押す。胸に手の平を当てたり、廻しを握って押し出す。
* 廻しを掴んで引き寄せ合う。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合に互いの手が交差するが、その際、外側にある手を[[上手と下手#「うわて」と「したて」|上手]]、内側にある手を[[上手と下手#「うわて」と「したて」|下手]]という。「上手は浅く、下手は深く」というのが廻しの取り方の基本である<ref>[[石浦外喜義]]『弱くても勝てる 強くても負ける』[[幻冬舎]]、2017年4月20日、8頁、ISBN 978-4344031036。</ref>。
*急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。
相撲においてはまず押すことを良しとし、多くの[[相撲部屋]]や道場では初心者は押しの技法を身に付けることから始める。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には[[引き落とし]]など引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。
==== 防ぎ手 ====
{{節スタブ}}
=== 相撲の組み方 ===
力士同士のお互いの組み方として'''[[四つ身]]'''という組み方があり、'''右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ'''、または、'''外四つ(もろ差し)'''などがある。
*互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を[[上手と下手#「うわて」と「したて」|上手]](うわて)、内側に入る腕を[[上手と下手#「うわて」と「したて」|下手]](したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
*片方が両腕ともに下手でまわしを取るのを[[もろ差し]]という。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
*両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多。
*互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。
これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。
=== 四十八手 ===
四十八手とは相撲における決まり手のことある。四十八手の称は慶長年間には既に世にあったとされる<ref name="相撲大鑑">常陸山谷右衛門 著『相撲大鑑』文運社、1909年</ref>。江戸時代より『相撲強弱理合書』、『角力秘要録』、『相撲之圖式』、『相撲鬼拳』、『相撲大全』などに記されているが書によって内容が異なる。
;相撲強弱理合書
:笈撕、繋なげ、波離間なげ、胸なげ、腹なげ、腕なげ、寄なげ、大腰、小腰、大渡し、三所詰、うたせの手、鳧の入れ首、痿の手、膝車、四肢の張身、曳廻、鬢廻、疎己圓、手繰蹴返、飛違、わく抜、相合頭捫、枕浪、両手の爪取、袖返し、曳捨、縊込、立居腰、上手捫、多怒気の腹なげ、取手の崩し、立眼相、居眼相、雀鷂の大意、鷲の掴揚り、不見離、四ッ手蹴返し、外足飛反、留反、傳反、掛反、裏繋、外繋、障泥掛、掛残、鋪小股、河津の掛の一本立
;相撲圖式
:大腰のひしぎ、磯之波、引廻之入身(相引廻不變)、逆繋、四手崩、はちなげ(繋投)、ひしぎ投、そり捻、むそう捻、ちやうの掛(内掛)、車返(車反り)、膝やぐら、袖返(ひつそう入身)、袂之下反、うけ返り、立居返(傳返り)、一寸返、頭捻、諸捻(つきおとしの入身)、兒之手栢(すかしひねり)、捻返し(逆捻)、得智後捻(腰捻)、蹴返之當(出しのもたれ)、腹やぐら、磯之波、胴捻、前付捻、登り掛、投残、あおり掛、きぬうり、腹投、抱投、無相出し、折返、かけの一本立、大逆手(逆手くじき)、くくりなげ、上手反、大渡、撞木反、四手捻、かいなひねり、片輪車、折倒、はねそり、つみの大心(打虚之入身)、喉附、寄投、立居腰(上手返し)、投之三所詰、中投、小腰之ひしぎ、大腰之ひしぎ、中反り、飛反り、かけぞり、居反、負投、すくひ投、そくひ、波枕、けひねり、くくり投、かひ投
;相撲大全
:かものいれくび、むかふづき、さかてなげ、すくひなげ、ぎゃくなげ、なげ、つまどり、さまた、ためだし、たぐり、みところづめ、けかへし、かひなひねり、うちがけ、かたすかし、だし、そくびおこし、ひきまはし、かはづがけ、しゅもくぞり、やがら、もちだし、ひさこまはし、とびちがひ、こしくぢき、大わたし、鴫のはがへし、まがひつき出し、つつきけかへし、そとがけ、きぬかつぎ、てふのがけ、つきやぐら、たすきぞり、うはてすかし、しきこまた、そとむさう、よつがひ、そくびなげ、はりまなげ、かけなげ、おひなげ、のぼりがけ、やぐら、したてやぐら、うちむさう、とあし、くぢきだふし
== 力士 ==
=== 力士の鍛練法 ===
* '''受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古'''など
=== 力士の段級 ===
* [[日本相撲連盟]]が、[[段級位制]]を取っている。黒いまわしの着用が許されるのは初段以上である。
=== あんことソップ ===
重量級の力士を[[あんこ (相撲)|あんこ]]、軽量の力士を[[そっぷ|ソップ]]と称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では[[筋力トレーニング]]を重視した[[千代の富士貢|千代の富士]]や[[霧島一博|初代霧島]]といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。
== 行司家 ==
* 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には'''行司家'''というものがあった。[[行司家]]は、[[五条家 (菅原氏)|五条家]]をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
* 2017年現在、'''木村家'''と'''式守家'''のみが残っている<ref name="4gumi">[[大空出版]]『[[相撲ファン (書籍)|相撲ファン]]』vol.06、103頁</ref>。
{{see also|行司}}
一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。
事実、吉田家の[[吉田追風 (19世)|19世吉田追風]](吉田善左衛門)が[[寛政]]年間(1789年-1801年)に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、また、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。
== 日本国外における相撲 ==
相撲に似た格闘技は世界各地に存在している。
{{main|世界の相撲一覧}}
これ以外に、[[日系人]]が海外に伝えたり、大相撲の[[大相撲#海外巡業|海外巡業]]や、[[力士#外国人力士|外国人力士]]の活躍により触発されたりした日本式相撲文化も見られる。
=== 相撲と日本人移民 ===
相撲は、日本移民とともに[[ブラジル]]に渡り、南アメリカにも持ち込まれた。
ブラジルでの最初の相撲大会は[[1914年]]8月31日、天長節([[天皇誕生日]])を祝して[[サンパウロ州]]グアダバラ耕地で開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。
* [[1962年]]、アマチュアの普及発展を目的に、[[ブラジル|伯国]]相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
* [[1983年]]、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
* [[1985年]]には[[パラグアイ]]、[[アルゼンチン]]の相撲連盟が同協議会に加盟する。
* [[1986年]]、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。
日本からの遠征は[[1951年]]、全伯青年連盟の招聘による[[笠置山勝一|秀の山]]一行の渡伯を皮切りに、大相撲から[[アマチュア相撲]]の選抜選手が遠征がのちにも続いた。
=== 大相撲の影響 ===
[[ジョージア (国)|ジョージア]]はもともと[[レスリング]]や[[柔道]]など格闘技が盛んであった。同国出身である[[栃ノ心剛史]]の大相撲での活躍が伝わり、相撲のファンクラブが設立されたり、相撲を学んだり、力士としての渡日を志したりする人が増えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27494820Y8A220C1EAC000/|title=格闘技大国ジョージアで高まる相撲熱|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2018年3月7日|accessdate=2020年6月10日}}</ref>。
== 相撲の用語 ==
{{main|相撲用語一覧}}
== 関連項目 ==
* 日本の文化としての系譜
** [[歴史書一覧]]
** [[神道]]
*** [[奉納相撲]]
*** 野見宿禰神社
**** [[野見宿禰神社 (墨田区)]]
**** [[野見宿禰神社 (たつの市)]]
*** [[白川伯王家]]
*** [[国技]]
** [[武芸一覧]]
*** [[志賀清林]] - 相撲の作法などを定めた太古の行司。
*** [[吉田司家]] - 相撲の宗家。
*** [[手合]] - 古くに定められた相撲の構え。
* 力士の違いによる相撲の種類
** [[独り相撲]] - 古くから奉納相撲やその儀式の一つとして行われ、[[猿楽]]などの旅芸人の芸としても知られる。
** [[童相撲]]
** [[大相撲]]
** [[アマチュア相撲]] - [[日本武道協議会]]加盟の[[現代武道]]。
** [[女相撲]]([[女子相撲]])
*相撲に関わる事柄
** [[相撲用語一覧]]
** [[相撲甚句]]
** [[好角家]]
** [[廻し]]
** [[弓取式]]
** [[懸賞 (相撲)|懸賞]]
* 世界にある日本の相撲と似た競技
** [[世界の相撲一覧]]
* 相撲からの派生
** [[腕相撲]]/[[足相撲]]/[[指相撲]]/[[紙相撲]]/[[昆虫相撲]]/[[ロボット相撲]]/[[泣き相撲]]
* 相撲に関する神話
** [[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]と[[ラファエル]]の闘い
** [[オピーオーン]]
* 相撲を題材とした作品
** [[:Category:相撲を題材とした作品]]を参照。
== 関連書籍 ==
* [[神宮司庁]]『古事類苑 武技部』[[吉川弘文館]]、1999年1月1日、ISBN 9784642002448。
* [[荒木精之]]『相撲道と吉田司家』相撲司会、1959年。
* 肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』。
* 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』熊本出版文化会館(発売:創流出版)、2010年10月1日、ISBN 978-4-915796-88-3。
* [[次田真幸]]『古事記』全訳注、[[講談社]]
** 上巻([[講談社学術文庫]] 207)、1977年12月8日、ISBN 978-4061582071。
** 中巻(講談社学術文庫 208)、1980年12月5日、ISBN 978-4061582088。
** 下巻(講談社学術文庫 209)、1984年7月6日、ISBN 978-4061582095。
* [[宇治谷孟]]『日本書紀』全現代語訳、講談社
** 上巻(講談社学術文庫)、1988年6月6日、ISBN 978-4061588332。
** 下巻(講談社学術文庫)、1988年8月4日、ISBN 978-4061588349。
* 宇治谷孟『続日本紀』全現代語訳、講談社
** 上巻(講談社学術文庫)、1992年6月5日、ISBN 978-4061590304。
** 中巻(講談社学術文庫)、1992年11月4日、ISBN 978-4061590311。
** 下巻(講談社学術文庫)、1995年11月6日、ISBN 978-4061590328。
* [[森田悌]]『日本後紀』 全現代語訳、講談社
** 上巻(講談社学術文庫)、2006年10月11日、ISBN 978-4061597877。
** 中巻(講談社学術文庫)、2006年11月10日、ISBN 978-4061597884。
** 下巻(講談社学術文庫)、2007年2月9日、ISBN 978-4061597891。
* 森田悌『続日本後紀』 全現代語訳、講談社
** 上巻(講談社学術文庫)、2010年9月13日、ISBN 978-4062920148。
** 下巻(講談社学術文庫)、2010年10月13日、ISBN 978-4062920155。
* ウーグ・クラフト著、後藤和雄編『ボンジュール ジャポン―フランス青年が活写した1882年』[[朝日新聞社]]、1998年5月、ISBN 978-4022572639。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=酒井忠正|authorlink=酒井忠正|title=日本相撲史 上巻 |date=1956年6月1日 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |ref={{SfnRef|酒井}} }}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Professional sumo|Sumo}}
{{Wikiquote|相撲}}
{{Wikibooks|相撲}}
{{Wikinewscat|相撲}}
* 公式
** [http://www.amateursumo.com/ 国際相撲連盟] {{en icon}}
** [http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会 (大相撲)] {{ja icon}}
** [http://www.nihonsumo-renmei.jp/ 日本相撲連盟] {{ja icon}}
** [https://yoshidatukasa-ke.net/index.html 吉田司家公認一味清風会] {{ja icon}}
** [https://www.jbeach.jp/beachsumo/ 日本ビーチ相撲連盟] {{ja icon}}
* その他
** {{Cite journal|和書|author=木梨雅子 |title=「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって |url=https://doi.org/10.5432/jjpehss.KJ00003392098 |journal=体育学研究 |publisher=日本体育学会 |year=1998 |volume=43 |issue=5 |pages=234-244 |naid=110001919260 |doi=10.5432/jjpehss.KJ00003392098 |issn=0484-6710}} {{ja icon}}
** {{Cite journal|和書|author=真柄浩 |title=相撲技術名称の変遷 |url=https://hdl.handle.net/10291/4978 |journal=明治大学教養論集 |publisher=明治大学教養論集刊行会 |year=1988 |month=mar |issue=210 |pages=p69-88 |naid=120001441075 |issn=03896005}} {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20200804045459/http://tsubotaa.la.coocan.jp/shis/ss00.html 日本相撲史概略] {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20190331091623/http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/1008/kosumou.htm 古流相撲(古代相撲)] {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20100206063305/http://beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―] {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20131101121429/http://park11.wakwak.com/~tsubota/door1.html 相撲評論家之頁] {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20120117134129/http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/000638/0000/registfile/0389_2247_18_10.pdf 新相撲の発足と今後の課題] {{ja icon}}
** [https://web.archive.org/web/20010617025931/http://www.wnn.or.jp/wnn-t/nyumon/nyumon.html 相撲の歴史と文化]
{{武道・武術}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2 |
1,531 | シャープ | シャープ株式会社(英: SHARP CORPORATION)は、大阪府堺市に本社を置く日本の電気機器メーカー。台湾の鴻海精密工業(フォックスコングループ)の子会社。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
1912年、早川徳次が東京市本所区松井町(現・東京都江東区新大橋)に金属加工業を設立する。関東大震災により工場を消失後、1924年に大阪府東成郡田辺町(現・大阪府大阪市阿倍野区)に早川金属工業研究所を設立する。1935年に改組し、株式会社早川金属工業研究所を設立し、1936年に早川金属工業株式会社、1942年に早川電機工業株式会社、1970年にブランドとして使われていたシャープ株式会社に社名変更する。2016年に大阪府堺市堺区匠町に本社移転。
以下はシャープ公式サイト掲載の「経営理念/経営信条」 を主に参照している。 シャープ(株)を始め関係会社の朝礼で経営信条の唱和が行われていた。
以下は主に「シャープ100年史」を参考に記述。
現在まで、シャープは「先進的な部品を開発しその部品を元に特徴的な商品を生み出す」流れと、「商品に使われることによって部品の目標が明確になり性能が向上する」という流れの循環で成長して来ており、シャープではこれを「スパイラル戦略」と呼んでいる。近年では、スパイラル戦略に加え、他社にない部品や商品を作り出す「オンリーワン戦略」を掲げている(両開き式の冷蔵庫やプラズマクラスター等が挙げられる)。
早川金属時代から製造された「シャープラジオ」は海外に輸出されるほどに爆発的な売り上げを記録したが、トランスなどの部品は自主生産ができても真空管だけは自主生産できる余裕はなかった。そこで東京電気(後の東京芝浦電機→東芝)から「マツダ真空管」や時計内蔵型シャープラジオの「時計装置」の供給を受けていた。 早川電機に社名変更後、テレビジョンの生産が軌道に乗り出したと同時に真空管の自主生産を開始したことから、東芝からの真空管類の供給を打ち切ると同時に総合エレクトロニクス会社としてお互いに競い合う関係になって行った。 それから半世紀以上経った2007年、東芝とシャープは「液晶および半導体分野における提携」に合意し、2010年度を目処にシャープは東芝から液晶テレビ用システムLSIを約50%、東芝はシャープから32型以上のテレビ用液晶モジュールを約40%購入することを目標に両社の提携を再び交わしている。
パソコン黎明期においてMZ-80KやX1などを生産し、日本のパソコン業界大手の一社であった他、それらの一部は海外でも商品展開された。日本での参入はしなかったものの、8ビット機時代の共通規格であるMSX機もブラジルの現地法人「シャープ・ド・ブラジル」で製造、販売していたこともあった。その後、Windowsが台頭する時代になるにつれ、NECなど黎明期からの大手PCメーカーの他、大手家電メーカーや台湾メーカーなどがシェアを伸ばし、それに伴い、徐々に苦戦を強いられ、シェアは小さくなっていった。液晶の技術を活かしてノートパソコンの生産なども行っていた。インターネットAQUOSなどの個性的な商品を出すも総じてスペックの割に高価格で人気が出ず、デスクトップやノートパソコン等一般的なパソコンは生産を終了、ウルトラモバイルのみにラインナップは縮小されていったが、2010年10月21日、それらを含む同社のパソコン生産が終了したことが判明した。
映像分野にも伝統的に強く、CCDなどの撮像素子を早くから自社生産していた。自社ブランドでもデジタルカメラには本格参入することはなかったものの、ビデオカメラについてはアナログ時代から家庭用製品を大々的に展開。特に、現在ほとんどの製品が使用している、液晶モニタ付カメラ(それまではの製品にはファインダしか無かった)を「液晶ビューカム」の名で先鞭をつけたのは同社である。ただ、特許独占ができなかったため他社に追随され、家庭用ビデオカメラ市場そのものもデジタルメラやスマートフォンの動画機能に押されて頭打ちとなったこともあり、現在4社程度にまで参入メーカーが減った家庭用ビデオカメラ市場からは、同社もすでに撤退している。
ファミコンの商標は家電製品部門で第1681105号で登録されている。(ゲーム機としては第1832596号で任天堂が保有)この縁でファミコン関連製品がシャープから発売された。
他の家電メーカーが相次いで石油ファンヒーター事業から撤退する中、唯一家電メーカーで石油ファンヒーター(除菌イオン付)の販売を継続していたが、2007年度春に撤退予定を発表した。同年3月に生産を完了し、撤退している。
テレビでは、音声毎に色分けを行い、モノラル放送・外部入力は緑、ステレオ放送は黄色、二重音声は赤でチャンネル表示がされている(従来からあるアナログ専用のテレビ、アクオスではアナログ放送受信時の場合)。三洋電機のZ1などの80年代に発売されたブラウン管カラーテレビも全く同様の色分けであった。
ビデオデッキでは、VHS初の前面でカセットを出し入れ出来るフロントローディングや3倍モード時の画質劣化を抑える19ミクロンヘッド(1989年に初搭載した頃には通常モードにも切り替え可能)をいち早く搭載し家電メーカーで唯一コンポーネント端子やD1端子を搭載したS-VHSデッキを販売していた。VHS-C方式のビデオレコーダーは、先頭を切った日本ビクターに続き1982年7月16日に発売した。
1990年前後は消費者より「松下さんのシャープ」と呼ばれ、シャープの新製品が売れず後から発売した松下電器(現パナソニック)の製品がヒット商品になることが常であったが、コードレスホン、ワードプロセッサ、電子手帳(後のZAURUS)など新製品で松下を凌ぐ製品を売り出すことに成功した。
組織の特徴としては、「緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)」という1977年に作られた制度がある。この制度では社長直轄で複数の部署から人材が集まり、技術や開発に当たるチームが結成される。この制度によって部門にとらわれない自由な発想の商品を生み出す事ができると言われた。緊プロでは「電子手帳(後にZAURUS)」が開発された。
企業スローガンは、「Be Original」(2016年11月 - ) である。それ以前は、コピーライターの前田知巳が書いた「目指してる、未来がちがう。」(2010年1月 - 2016年10月) を使用していた。1990年 - 2009年までは、同じくコピーライターの仲畑貴志が書いた「目の付けどころが、シャープでしょ。」を使用していた。1998年からの一時期は「シャープになろう!」や「液晶でトキメキのある生活」に変更していたが、「液晶のシャープ」の印象が定着し、キャッチコピーとしての役割を十分に果たした事から、2002年になって知名度・好感度共に高かった以前のキャッチコピー「目の付けどころが、シャープでしょ。」を復活させた。キャッチコピーは他にも「確かに、シャープだ」、「元気な携帯電話!」、「はじまりはいつも、シャープから」など多彩で製品により使い分けられているが、最近は省エネをアピールする製品が多いため「エコロジークラスでいきましょう。シャープ」がよく用いられる。また過去のスローガンには「New Life Now」(業務用製品では「New Business Now」。どちらも70年代後半〜80年代前半)「New Life SHARP」「New Life People」(どちらも80年代後半)が存在した。
三洋電機同様、博覧会への出展には消極的で、国際博覧会に出展したのは1990年の国際花と緑の博覧会(花の万博、本社所在地の大阪市で開催)が唯一である。地方博を含めても1987年に本社がある阿倍野区に隣接する天王寺区で開催された天王寺博覧会のケースがあるのみである。大阪府吹田市で1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)にも出展していない(シャープが属する三和グループは日本万国博覧会に出展したが、シャープはその共同出展企業に名を連ねていない)。これは奈良県天理市の総合開発センター立ち上げを優先させたもので、「千里より天理」というフレーズで語られている。また、地球環境問題が主なテーマとなった2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)への出展もなかった。太陽発電モジュールが設置された可能性はあるが発表されていない。
4代目社長の町田勝彦までは血縁者(会長、社長の娘婿)が歴代社長を務めていて「見えない血縁企業」と揶揄されていた。
名阪国道および伊勢自動車道沿いに天理研究所と多気工場があり、亀山工場と併せて、液晶関連の主要拠点をなしている。近年では液晶テレビ専門工場であるシャープ亀山工場の所在地三重県亀山市に因んで「亀山産」の表記をしたところ安心感が買われ、爆発的に販売数を伸ばすなど地域名を活かした販売戦略でも名を馳せている(AQUOSのテレビCMなどで「世界の亀山モデル」を表記していた)。同工場の誘致にあたり、三重県90億円・亀山市45億円を15年分割で補助することになり、地方自治体による工場誘致政策に大きな影響を与えた(参考:クリスタルバレー構想)。2008年に入り液晶需要が減少すると、液晶生産を行う天理工場と多気工場の閉鎖と、それに伴う非正規従業員380名の削減を表明。12月12日の記者会見で、副社長井淵良明は「現在の市況の環境は厳しく、工場の再編に着手するには絶好のチャンスだ」と説明した。
しかし、2009年10月には、堺市に世界最大規模で第10世代マザーガラスに対応する液晶パネル工場を含む「グリーンフロント堺」を稼動させ、世界的に回復拡大する液晶関連需要に対応している。「グリーンフロント堺」には、旭硝子(現・AGC)、大日本印刷やコーニングなど液晶パネル関連部品を供給する企業19社も進出し、業種、業態を超えた「21世紀型コンビナート」を形成。高効率と省エネ、太陽光発電などによる「世界最先端環境工場」を謳っている。また、2010年3月には、同じ敷地内に薄膜シリコン太陽電池工場も稼動させ、急拡大が見込まれる世界的な太陽電池の需要拡大への対応を図っている。
1970年代から佐々木正がシャープ在籍時に、NECの小林宏治とシャープの技術をサムスン電子へ、他の日本企業と違い長期的に技術提供させ続けた結果、サムスン電子が製造した半導体や液晶がシェア拡大していくことで、経営悪化の一因となったと言われている。但し、佐々木は「日本半導体産業の敗因は、外に技術を漏らしたことではなく、自らが足を止めたことにあると考えている」と述べている。。
2000年から2006年まで、太陽電池・太陽光発電のモジュール生産量は世界一であった。また、国内では唯一の宇宙開発事業団認定企業だった。後に環境先進企業を目指して太陽電池事業を強化している他、工場でも排水を100%再利用するなどの取り組みを行っている。
MM総研の発表では、2005年度(2005年4月 - 2006年3月)の国内携帯電話出荷台数シェアで、16.3%を確保して首位に立った。NTTドコモとソフトバンク(2005年度当時はボーダフォン)のみの供給であったにも関わらず、カメラ付き携帯電話のパイオニアとして首位に立った。
同社の日本一のテレビブランド「AQUOS」の技術を採用した「モバイルASV液晶」を携帯電話のディスプレイに採用し、これも1つの人気となった。勢いで2005年にはウィルコムにスマートフォンW-ZERO3で参入し、爆発的ヒットとなった。さらに翌2006年9月にはKDDI、および沖縄セルラー電話(各auブランド)にもW41SHで参入した。また、サイクロイドスタイルというスタイルで人気となったワンセグモデル「AQUOSケータイ」が人気で2008年現在でソフトバンクモバイル向けに5機種、NTTドコモ向けに2機種、KDDI/沖縄セルラー電話向けに2機種、計9機種を納入している。
2007年3月からは携帯電話市場に新規参入したイー・モバイル(現・ワイモバイル)向けにもEM・ONEというPDA機能付端末の納入を開始した。これで現存する携帯電話・PHSの5社すべてに端末を納入しているのは同社のみとなった。2009年夏からはCCDカメラ1000万画素を搭載した高画質カメラ「AQUOS SHOT」を発表。同社が開発した高機能処理エンジンProPixカメラ技術と同社の液晶技術を取り入れた。
2000年代後半にはシャープ亀山工場、シャープ堺工場と次々に大規模工場を建設し「世界の亀山」ブランドを展開した。
当時、シャープは日本のデジタル家電産業の勝ち組として知られていた。しかし液晶パネル製造でサムスンなどの韓国メーカー、台湾メーカーが台頭する中、液晶の急速なコモディティ化により一転シャープは苦境に陥る。地デジ特需も終わると、2011年からの4年間で総額1兆円以上の経営赤字を計上した。
2012年3月期決算でも大幅な赤字決算に陥る状況となり、台湾の鴻海(ホンハイ)グループとの業務提携に合意した。その結果、堺工場の液晶パネル、モジュールを同グループが最終的に50%まで引き取り、同工場を共同運営することとなった。鴻海側は、2012年7月に堺工場運営会社の代表取締役に就いただけではなく、亀山工場の分社化と経営参画を要求しているが、シャープ側は難色を示している。
また鴻海側はシャープの最先端独自技術であるIGZO技術を要求し、中国四川省成都に建設中の中小型液晶パネル工場での生産を予定している。これが提携の障害になっているとされている。9月25日、シャープはIGZOのスマートフォンとタブレット端末を発売するとともに、鴻海にIGZO技術を提供する方針だと報道された。それに伴い今年度中に亀山第2工場のIGZO生産比率を8割に上昇させる。
2012年9月現在長短併せて1.5兆円の資金調達が必要だとされた。好調時に市場から調達した資金の償還が2012年6月末で3600億円のCP残高を持ち、3ヶ月で償還を繰り返しているので、9月から償還が始まる。また2013年9月には、2000億円の転換社債の償還を迎える。格付けの多くが投機的等級になったため、市場から資金を調達できない。
2012年上半期の連結決算では、企業存続の疑念が表明され、通期で4500億円の赤字の見込みと報道された(最終的に2013年3月期の純損失は-5453億4700万円に及んだ)。また自己資本比率が9.9%となり、有利子負債も約1.2兆円という状態が続いている。そのため希望退職を2千人応募したところ、3千人の応募があった。 それまでは人員削減はせず、工場勤務や関連会社への転勤を命じることにより自己都合退職者が出るよう人事があったことから「首切りのシャープ」と呼ばれていた。
シャープと連結子会社13社は1次取引先2,031社の他にも6,500社の取引先を持ち、従業員数は420万人に及んでいる。すでに8月末に希望退職を募集しているところもある。
2015年にも、追加の希望退職が実施された。9月30日、45歳から59歳の国内社員3234人が希望退職した
2016年、鴻海買収直後の決算発表においても、業績不振を理由に追加の人員削減方針が発表された。
2016年2月4日、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープに対し7000億円超での支援の意向を示し、シャープは同日の取締役会で鴻海案を協議した。シャープは当初、官民官ファンドの産業革新機構からの出資を受け入れる方針だったが、支援額を上積みした鴻海案の採用に判断が傾いたと報じられて、翌2月5日には、シャープは鴻海との合意書を締結したと発表した。契約条件について協議を継続することや、鴻海が示した支援策の有効期限を同月末まで延長する内容であった。2月25日には、臨時取締役会で産業革新機構案よりも好条件の鴻海買収案を選択することを決定したが、偶発債務の発覚を理由に鴻海側から、買収契約の保留を受け渡される。最終的に、出資額の減額やリストラの受け入れなどの鴻海側に有利となる契約に改定され、1ヶ月超遅れて買収契約が4月2日に締結されることが、3月30日の鴻海の取締役会で決議された。
鴻海によるシャープ買収は、ここ数年鴻海の成長の鈍化があるともいわれる。2015年12月期の連結売上高(速報値)は前期比6%の4兆4830億台湾ドルであり、目標の10パーセントには届かなかった。
過去には2012年に鴻海がシャープに10%出資する案で合意したものの、その後の株価変動などの理由により中止、翌2013年には高橋興三が社長に就任し銀行からの支援を受けたものの立て直しができなかった。シャープが再建に鴻海案に傾いた理由としては、産業革新機構案が成長性の期待できない液晶事業を分社化し、社長を含む3首脳を退陣させる方針であるのに対し、鴻海案が現経営陣の継続と液晶事業、雇用の維持を約束するものである上に最大で3500億円の産業革新機構の支援に対し鴻海案が7000億円の支援であったことで、社外取締役の一部が革新機構案を選んだ場合に、株主に合理的な説明ができないことなどが指摘される。
シャープ社長に就任した戴は、信賞必罰の人事と事業のビジネスユニット単位での収益責任明確化(「分社化」と報じられたが、実際には後述の通りカンパニー制を廃止した)をおこなうと宣言した。
2015年10月より導入されたばかりの社内カンパニー制(5つのカンパニーを設置)を、買収直後の2016年に液晶ディスプレイのカンパニーを除いて廃止し、6事業部に再度組み直した。
最も重要とされた信賞必罰の人事制度では、ボーナスを社員の成果や営業成績ごとにかつての1.5倍差から1-8ヵ月に最大8倍差に分けることや新入社員でも優秀なら入社半年後から大幅な給与引上げなどを実施した。人事委員会の設置や等級・給与制度、管理職も能力主義で降格のように刷新し成果を上げた。
さらに、予算300万円以上の案件を社長決裁としたり、出張先も含めたテレビ会議の利用などの施策を導入し、東京証券取引所の2部降格から2017年12月7日に東証1部に1年4カ月の短期間復帰を果たした。
戴は、経営譲渡前の2015年に売却された旧本社および隣接する田辺ビルについて「シャープの歴史がある場所」と買い戻しに意欲を示し、田辺ビルは社長就任直後の2016年9月に139億円でエヌ・ティ・ティ都市開発から再取得した。しかし、旧本社ビルの買い戻しは実現せず、2017年に建物が解体された。田辺ビルには2019年2月にショールームがあべのハルカスから移転入居し、2021年度に再開発を実施する予定とされた。一方ニトリが取得した旧本社跡地には、ニトリの新店が建設されることになり、2023年4月に「西田辺店」として開業した。
2020年には、唯一残ったカンパニーであるディスプレイデバイスカンパニーを同年度中に分社化することを発表し、同年10月より「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化された。
シャープディスプレイテクノロジー(現在の堺ディスプレイプロダクト)は鴻海傘下となった後、サモア籍の投資ファンドWorld Praise Limitedの手に渡った。World Praise社は会長の戴正呉が過半を出資するファンドである。シャープは2022年2月に残りの20%の株式についても全て売却する方針を打ち出していたが直後に撤回し、一転して再子会社化を決定した。当初から市場ではレッドオーシャンと化したディスプレイ市場への参入は疑問視されており、株価は鴻海買収前の水準に低迷した。2023年3月期決算においてシャープは200億円の巨額赤字に転落した。2023年5月には55歳以上の管理職約700名を対象とする早期退職制度の導入を発表した。
下記に製品カテゴリー別に記述する
シャープでは、プラズマクラスターにはイオンの力による空気の浄化や消臭といった効果があると主張していた。しかし、2012年11月28日、消費者庁はシャープに対し、掃除機に搭載するプラズマクラスターがアレルギー原因物質を分解すると表示していたが、実際の効果はないとして、再発防止命令を出した。
シャープでは現在、機密保持などの理由から工場の見学は原則として受け付けておらず、工場そのものをブラックボックス化した。これに加えて公式サイト上でも国内拠点に関する詳しい情報を削除し、事業領域の説明にとどめている。(記載内容はマスコミ報道による)
RS Technologies、因幡電機産業 、明治電機工業 、菱洋エレクトロ 、スズデン 、鳥羽洋行等が上場している代理店である。
※上記以外にも、不定期・週替わりとして他の番組提供する事がある。
(1社提供・複数社提供含む)
など多数。
社名が早川電機だった昭和30年代に「シャープ坊や」がおり、シャープテレビの琺瑯看板やカタログに登場していたが間も無く姿を消した。1990年代より「リッキーくん」というキャラクターが登場し、2003年頃に方針の変更により表舞台から姿を消したが、その後もメビウスのマニュアルやEVAアニメータなどで姿を確認する事ができる。因みに父親や母親などの家族も設定されていた。
1958年頃に「シャープフレンドショップ」と呼ばれる自社製品のみを扱う系列電器店が発足するが、量販店や他社系列店に圧されたり後継者難・経営者の高齢化等で店舗数は伸び悩んでいた。そこでシャープは2007年11月15日、これまでとは異なる新しいシャープ系列店、シャープ・バリュー・パートナー・グループ(SVPG)という新しい計画を発表した。これは量販店の安値攻勢による製品価格大幅下落の防止と、認知度が他社製品より大幅に低いといわれているシャープ製の白物家電のイメージアップにつなげるべく、発足当初からある全国約2千店のシャープ フレンドショップの再編と、他社系列店の取り込みを図る計画である。
2012年には、海外子会社との取引などを巡り、2011年3月期までの5年間で約54億円の申告漏れ(うち15億円以上は意図的な所得隠しとされた)があったと、大阪国税局から指摘されていたことが判明している。また2015年にも、2014年3月までの3年間にわたり、約103億円の申告漏れ(うち12億円は所得隠しとされた)を同国税局から指摘されていたことが明らかになっている。
任天堂が「ミニスーパーファミコン」を発表し話題になると、シャープ製品の公式ツイッターが「ミニスーパーファミコン」に収録されているソフトに対して私(アカウント運営者)の思い出を価値に換算すると発言し値踏みした。中には価値0円と付けたソフトもあり、炎上し始めると誤解を招いたとして「価値0円は未購入である」と訂正をしたが、他社製品を公式アカウントで値踏みしていること、任天堂の公式アカウントにリプライしていることなどが問題だと批判が殺到しさらに炎上したため、問題のツイートは削除された。しかしそれでも批判はやまず、全国紙やネットメディアも報じ拡散されたため、シャープは不快な思いをさせたと謝罪文を投稿した。騒ぎが大きくなったことを受け、2017年7月11日に同社は、関係者に迷惑を掛けたとして、該当のアカウントを閉鎖することを決めた。
2021年3月12日、スマートフォン向けのカメラレンズの製造子会社「カンタツ」で、2018年4月~20年9月に架空計上などで売り上げを75億円水増しする不正会計があったと発表した | [
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"text": "シャープ株式会社(英: SHARP CORPORATION)は、大阪府堺市に本社を置く日本の電気機器メーカー。台湾の鴻海精密工業(フォックスコングループ)の子会社。日経平均株価の構成銘柄の一つ。",
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"text": "1912年、早川徳次が東京市本所区松井町(現・東京都江東区新大橋)に金属加工業を設立する。関東大震災により工場を消失後、1924年に大阪府東成郡田辺町(現・大阪府大阪市阿倍野区)に早川金属工業研究所を設立する。1935年に改組し、株式会社早川金属工業研究所を設立し、1936年に早川金属工業株式会社、1942年に早川電機工業株式会社、1970年にブランドとして使われていたシャープ株式会社に社名変更する。2016年に大阪府堺市堺区匠町に本社移転。",
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"text": "以下はシャープ公式サイト掲載の「経営理念/経営信条」 を主に参照している。 シャープ(株)を始め関係会社の朝礼で経営信条の唱和が行われていた。",
"title": "経営理念・経営信条"
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"text": "以下は主に「シャープ100年史」を参考に記述。",
"title": "沿革[疑問点 – ノート]"
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"text": "現在まで、シャープは「先進的な部品を開発しその部品を元に特徴的な商品を生み出す」流れと、「商品に使われることによって部品の目標が明確になり性能が向上する」という流れの循環で成長して来ており、シャープではこれを「スパイラル戦略」と呼んでいる。近年では、スパイラル戦略に加え、他社にない部品や商品を作り出す「オンリーワン戦略」を掲げている(両開き式の冷蔵庫やプラズマクラスター等が挙げられる)。",
"title": "特徴"
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"text": "早川金属時代から製造された「シャープラジオ」は海外に輸出されるほどに爆発的な売り上げを記録したが、トランスなどの部品は自主生産ができても真空管だけは自主生産できる余裕はなかった。そこで東京電気(後の東京芝浦電機→東芝)から「マツダ真空管」や時計内蔵型シャープラジオの「時計装置」の供給を受けていた。 早川電機に社名変更後、テレビジョンの生産が軌道に乗り出したと同時に真空管の自主生産を開始したことから、東芝からの真空管類の供給を打ち切ると同時に総合エレクトロニクス会社としてお互いに競い合う関係になって行った。 それから半世紀以上経った2007年、東芝とシャープは「液晶および半導体分野における提携」に合意し、2010年度を目処にシャープは東芝から液晶テレビ用システムLSIを約50%、東芝はシャープから32型以上のテレビ用液晶モジュールを約40%購入することを目標に両社の提携を再び交わしている。",
"title": "特徴"
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"text": "パソコン黎明期においてMZ-80KやX1などを生産し、日本のパソコン業界大手の一社であった他、それらの一部は海外でも商品展開された。日本での参入はしなかったものの、8ビット機時代の共通規格であるMSX機もブラジルの現地法人「シャープ・ド・ブラジル」で製造、販売していたこともあった。その後、Windowsが台頭する時代になるにつれ、NECなど黎明期からの大手PCメーカーの他、大手家電メーカーや台湾メーカーなどがシェアを伸ばし、それに伴い、徐々に苦戦を強いられ、シェアは小さくなっていった。液晶の技術を活かしてノートパソコンの生産なども行っていた。インターネットAQUOSなどの個性的な商品を出すも総じてスペックの割に高価格で人気が出ず、デスクトップやノートパソコン等一般的なパソコンは生産を終了、ウルトラモバイルのみにラインナップは縮小されていったが、2010年10月21日、それらを含む同社のパソコン生産が終了したことが判明した。",
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"text": "映像分野にも伝統的に強く、CCDなどの撮像素子を早くから自社生産していた。自社ブランドでもデジタルカメラには本格参入することはなかったものの、ビデオカメラについてはアナログ時代から家庭用製品を大々的に展開。特に、現在ほとんどの製品が使用している、液晶モニタ付カメラ(それまではの製品にはファインダしか無かった)を「液晶ビューカム」の名で先鞭をつけたのは同社である。ただ、特許独占ができなかったため他社に追随され、家庭用ビデオカメラ市場そのものもデジタルメラやスマートフォンの動画機能に押されて頭打ちとなったこともあり、現在4社程度にまで参入メーカーが減った家庭用ビデオカメラ市場からは、同社もすでに撤退している。",
"title": "特徴"
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"text": "ファミコンの商標は家電製品部門で第1681105号で登録されている。(ゲーム機としては第1832596号で任天堂が保有)この縁でファミコン関連製品がシャープから発売された。",
"title": "特徴"
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"text": "他の家電メーカーが相次いで石油ファンヒーター事業から撤退する中、唯一家電メーカーで石油ファンヒーター(除菌イオン付)の販売を継続していたが、2007年度春に撤退予定を発表した。同年3月に生産を完了し、撤退している。",
"title": "特徴"
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"text": "テレビでは、音声毎に色分けを行い、モノラル放送・外部入力は緑、ステレオ放送は黄色、二重音声は赤でチャンネル表示がされている(従来からあるアナログ専用のテレビ、アクオスではアナログ放送受信時の場合)。三洋電機のZ1などの80年代に発売されたブラウン管カラーテレビも全く同様の色分けであった。",
"title": "特徴"
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"text": "ビデオデッキでは、VHS初の前面でカセットを出し入れ出来るフロントローディングや3倍モード時の画質劣化を抑える19ミクロンヘッド(1989年に初搭載した頃には通常モードにも切り替え可能)をいち早く搭載し家電メーカーで唯一コンポーネント端子やD1端子を搭載したS-VHSデッキを販売していた。VHS-C方式のビデオレコーダーは、先頭を切った日本ビクターに続き1982年7月16日に発売した。",
"title": "特徴"
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"text": "1990年前後は消費者より「松下さんのシャープ」と呼ばれ、シャープの新製品が売れず後から発売した松下電器(現パナソニック)の製品がヒット商品になることが常であったが、コードレスホン、ワードプロセッサ、電子手帳(後のZAURUS)など新製品で松下を凌ぐ製品を売り出すことに成功した。",
"title": "特徴"
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"text": "組織の特徴としては、「緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)」という1977年に作られた制度がある。この制度では社長直轄で複数の部署から人材が集まり、技術や開発に当たるチームが結成される。この制度によって部門にとらわれない自由な発想の商品を生み出す事ができると言われた。緊プロでは「電子手帳(後にZAURUS)」が開発された。",
"title": "特徴"
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"text": "企業スローガンは、「Be Original」(2016年11月 - ) である。それ以前は、コピーライターの前田知巳が書いた「目指してる、未来がちがう。」(2010年1月 - 2016年10月) を使用していた。1990年 - 2009年までは、同じくコピーライターの仲畑貴志が書いた「目の付けどころが、シャープでしょ。」を使用していた。1998年からの一時期は「シャープになろう!」や「液晶でトキメキのある生活」に変更していたが、「液晶のシャープ」の印象が定着し、キャッチコピーとしての役割を十分に果たした事から、2002年になって知名度・好感度共に高かった以前のキャッチコピー「目の付けどころが、シャープでしょ。」を復活させた。キャッチコピーは他にも「確かに、シャープだ」、「元気な携帯電話!」、「はじまりはいつも、シャープから」など多彩で製品により使い分けられているが、最近は省エネをアピールする製品が多いため「エコロジークラスでいきましょう。シャープ」がよく用いられる。また過去のスローガンには「New Life Now」(業務用製品では「New Business Now」。どちらも70年代後半〜80年代前半)「New Life SHARP」「New Life People」(どちらも80年代後半)が存在した。",
"title": "特徴"
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"text": "三洋電機同様、博覧会への出展には消極的で、国際博覧会に出展したのは1990年の国際花と緑の博覧会(花の万博、本社所在地の大阪市で開催)が唯一である。地方博を含めても1987年に本社がある阿倍野区に隣接する天王寺区で開催された天王寺博覧会のケースがあるのみである。大阪府吹田市で1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)にも出展していない(シャープが属する三和グループは日本万国博覧会に出展したが、シャープはその共同出展企業に名を連ねていない)。これは奈良県天理市の総合開発センター立ち上げを優先させたもので、「千里より天理」というフレーズで語られている。また、地球環境問題が主なテーマとなった2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)への出展もなかった。太陽発電モジュールが設置された可能性はあるが発表されていない。",
"title": "特徴"
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"text": "4代目社長の町田勝彦までは血縁者(会長、社長の娘婿)が歴代社長を務めていて「見えない血縁企業」と揶揄されていた。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "名阪国道および伊勢自動車道沿いに天理研究所と多気工場があり、亀山工場と併せて、液晶関連の主要拠点をなしている。近年では液晶テレビ専門工場であるシャープ亀山工場の所在地三重県亀山市に因んで「亀山産」の表記をしたところ安心感が買われ、爆発的に販売数を伸ばすなど地域名を活かした販売戦略でも名を馳せている(AQUOSのテレビCMなどで「世界の亀山モデル」を表記していた)。同工場の誘致にあたり、三重県90億円・亀山市45億円を15年分割で補助することになり、地方自治体による工場誘致政策に大きな影響を与えた(参考:クリスタルバレー構想)。2008年に入り液晶需要が減少すると、液晶生産を行う天理工場と多気工場の閉鎖と、それに伴う非正規従業員380名の削減を表明。12月12日の記者会見で、副社長井淵良明は「現在の市況の環境は厳しく、工場の再編に着手するには絶好のチャンスだ」と説明した。",
"title": "特徴"
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"text": "しかし、2009年10月には、堺市に世界最大規模で第10世代マザーガラスに対応する液晶パネル工場を含む「グリーンフロント堺」を稼動させ、世界的に回復拡大する液晶関連需要に対応している。「グリーンフロント堺」には、旭硝子(現・AGC)、大日本印刷やコーニングなど液晶パネル関連部品を供給する企業19社も進出し、業種、業態を超えた「21世紀型コンビナート」を形成。高効率と省エネ、太陽光発電などによる「世界最先端環境工場」を謳っている。また、2010年3月には、同じ敷地内に薄膜シリコン太陽電池工場も稼動させ、急拡大が見込まれる世界的な太陽電池の需要拡大への対応を図っている。",
"title": "特徴"
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"text": "1970年代から佐々木正がシャープ在籍時に、NECの小林宏治とシャープの技術をサムスン電子へ、他の日本企業と違い長期的に技術提供させ続けた結果、サムスン電子が製造した半導体や液晶がシェア拡大していくことで、経営悪化の一因となったと言われている。但し、佐々木は「日本半導体産業の敗因は、外に技術を漏らしたことではなく、自らが足を止めたことにあると考えている」と述べている。。",
"title": "経営危機"
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"text": "2000年から2006年まで、太陽電池・太陽光発電のモジュール生産量は世界一であった。また、国内では唯一の宇宙開発事業団認定企業だった。後に環境先進企業を目指して太陽電池事業を強化している他、工場でも排水を100%再利用するなどの取り組みを行っている。",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "MM総研の発表では、2005年度(2005年4月 - 2006年3月)の国内携帯電話出荷台数シェアで、16.3%を確保して首位に立った。NTTドコモとソフトバンク(2005年度当時はボーダフォン)のみの供給であったにも関わらず、カメラ付き携帯電話のパイオニアとして首位に立った。",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "同社の日本一のテレビブランド「AQUOS」の技術を採用した「モバイルASV液晶」を携帯電話のディスプレイに採用し、これも1つの人気となった。勢いで2005年にはウィルコムにスマートフォンW-ZERO3で参入し、爆発的ヒットとなった。さらに翌2006年9月にはKDDI、および沖縄セルラー電話(各auブランド)にもW41SHで参入した。また、サイクロイドスタイルというスタイルで人気となったワンセグモデル「AQUOSケータイ」が人気で2008年現在でソフトバンクモバイル向けに5機種、NTTドコモ向けに2機種、KDDI/沖縄セルラー電話向けに2機種、計9機種を納入している。",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "2007年3月からは携帯電話市場に新規参入したイー・モバイル(現・ワイモバイル)向けにもEM・ONEというPDA機能付端末の納入を開始した。これで現存する携帯電話・PHSの5社すべてに端末を納入しているのは同社のみとなった。2009年夏からはCCDカメラ1000万画素を搭載した高画質カメラ「AQUOS SHOT」を発表。同社が開発した高機能処理エンジンProPixカメラ技術と同社の液晶技術を取り入れた。",
"title": "経営危機"
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"text": "2000年代後半にはシャープ亀山工場、シャープ堺工場と次々に大規模工場を建設し「世界の亀山」ブランドを展開した。",
"title": "経営危機"
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"text": "当時、シャープは日本のデジタル家電産業の勝ち組として知られていた。しかし液晶パネル製造でサムスンなどの韓国メーカー、台湾メーカーが台頭する中、液晶の急速なコモディティ化により一転シャープは苦境に陥る。地デジ特需も終わると、2011年からの4年間で総額1兆円以上の経営赤字を計上した。",
"title": "経営危機"
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"text": "2012年3月期決算でも大幅な赤字決算に陥る状況となり、台湾の鴻海(ホンハイ)グループとの業務提携に合意した。その結果、堺工場の液晶パネル、モジュールを同グループが最終的に50%まで引き取り、同工場を共同運営することとなった。鴻海側は、2012年7月に堺工場運営会社の代表取締役に就いただけではなく、亀山工場の分社化と経営参画を要求しているが、シャープ側は難色を示している。",
"title": "経営危機"
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"tag": "p",
"text": "また鴻海側はシャープの最先端独自技術であるIGZO技術を要求し、中国四川省成都に建設中の中小型液晶パネル工場での生産を予定している。これが提携の障害になっているとされている。9月25日、シャープはIGZOのスマートフォンとタブレット端末を発売するとともに、鴻海にIGZO技術を提供する方針だと報道された。それに伴い今年度中に亀山第2工場のIGZO生産比率を8割に上昇させる。",
"title": "経営危機"
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"text": "2012年9月現在長短併せて1.5兆円の資金調達が必要だとされた。好調時に市場から調達した資金の償還が2012年6月末で3600億円のCP残高を持ち、3ヶ月で償還を繰り返しているので、9月から償還が始まる。また2013年9月には、2000億円の転換社債の償還を迎える。格付けの多くが投機的等級になったため、市場から資金を調達できない。",
"title": "経営危機"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "2012年上半期の連結決算では、企業存続の疑念が表明され、通期で4500億円の赤字の見込みと報道された(最終的に2013年3月期の純損失は-5453億4700万円に及んだ)。また自己資本比率が9.9%となり、有利子負債も約1.2兆円という状態が続いている。そのため希望退職を2千人応募したところ、3千人の応募があった。 それまでは人員削減はせず、工場勤務や関連会社への転勤を命じることにより自己都合退職者が出るよう人事があったことから「首切りのシャープ」と呼ばれていた。",
"title": "経営危機"
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"text": "シャープと連結子会社13社は1次取引先2,031社の他にも6,500社の取引先を持ち、従業員数は420万人に及んでいる。すでに8月末に希望退職を募集しているところもある。",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "2015年にも、追加の希望退職が実施された。9月30日、45歳から59歳の国内社員3234人が希望退職した",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2016年、鴻海買収直後の決算発表においても、業績不振を理由に追加の人員削減方針が発表された。",
"title": "経営危機"
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"tag": "p",
"text": "2016年2月4日、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープに対し7000億円超での支援の意向を示し、シャープは同日の取締役会で鴻海案を協議した。シャープは当初、官民官ファンドの産業革新機構からの出資を受け入れる方針だったが、支援額を上積みした鴻海案の採用に判断が傾いたと報じられて、翌2月5日には、シャープは鴻海との合意書を締結したと発表した。契約条件について協議を継続することや、鴻海が示した支援策の有効期限を同月末まで延長する内容であった。2月25日には、臨時取締役会で産業革新機構案よりも好条件の鴻海買収案を選択することを決定したが、偶発債務の発覚を理由に鴻海側から、買収契約の保留を受け渡される。最終的に、出資額の減額やリストラの受け入れなどの鴻海側に有利となる契約に改定され、1ヶ月超遅れて買収契約が4月2日に締結されることが、3月30日の鴻海の取締役会で決議された。",
"title": "経営危機"
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"text": "鴻海によるシャープ買収は、ここ数年鴻海の成長の鈍化があるともいわれる。2015年12月期の連結売上高(速報値)は前期比6%の4兆4830億台湾ドルであり、目標の10パーセントには届かなかった。",
"title": "経営危機"
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"text": "過去には2012年に鴻海がシャープに10%出資する案で合意したものの、その後の株価変動などの理由により中止、翌2013年には高橋興三が社長に就任し銀行からの支援を受けたものの立て直しができなかった。シャープが再建に鴻海案に傾いた理由としては、産業革新機構案が成長性の期待できない液晶事業を分社化し、社長を含む3首脳を退陣させる方針であるのに対し、鴻海案が現経営陣の継続と液晶事業、雇用の維持を約束するものである上に最大で3500億円の産業革新機構の支援に対し鴻海案が7000億円の支援であったことで、社外取締役の一部が革新機構案を選んだ場合に、株主に合理的な説明ができないことなどが指摘される。",
"title": "経営危機"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "シャープ社長に就任した戴は、信賞必罰の人事と事業のビジネスユニット単位での収益責任明確化(「分社化」と報じられたが、実際には後述の通りカンパニー制を廃止した)をおこなうと宣言した。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
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"text": "2015年10月より導入されたばかりの社内カンパニー制(5つのカンパニーを設置)を、買収直後の2016年に液晶ディスプレイのカンパニーを除いて廃止し、6事業部に再度組み直した。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
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"text": "最も重要とされた信賞必罰の人事制度では、ボーナスを社員の成果や営業成績ごとにかつての1.5倍差から1-8ヵ月に最大8倍差に分けることや新入社員でも優秀なら入社半年後から大幅な給与引上げなどを実施した。人事委員会の設置や等級・給与制度、管理職も能力主義で降格のように刷新し成果を上げた。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "さらに、予算300万円以上の案件を社長決裁としたり、出張先も含めたテレビ会議の利用などの施策を導入し、東京証券取引所の2部降格から2017年12月7日に東証1部に1年4カ月の短期間復帰を果たした。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "戴は、経営譲渡前の2015年に売却された旧本社および隣接する田辺ビルについて「シャープの歴史がある場所」と買い戻しに意欲を示し、田辺ビルは社長就任直後の2016年9月に139億円でエヌ・ティ・ティ都市開発から再取得した。しかし、旧本社ビルの買い戻しは実現せず、2017年に建物が解体された。田辺ビルには2019年2月にショールームがあべのハルカスから移転入居し、2021年度に再開発を実施する予定とされた。一方ニトリが取得した旧本社跡地には、ニトリの新店が建設されることになり、2023年4月に「西田辺店」として開業した。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2020年には、唯一残ったカンパニーであるディスプレイデバイスカンパニーを同年度中に分社化することを発表し、同年10月より「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化された。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "シャープディスプレイテクノロジー(現在の堺ディスプレイプロダクト)は鴻海傘下となった後、サモア籍の投資ファンドWorld Praise Limitedの手に渡った。World Praise社は会長の戴正呉が過半を出資するファンドである。シャープは2022年2月に残りの20%の株式についても全て売却する方針を打ち出していたが直後に撤回し、一転して再子会社化を決定した。当初から市場ではレッドオーシャンと化したディスプレイ市場への参入は疑問視されており、株価は鴻海買収前の水準に低迷した。2023年3月期決算においてシャープは200億円の巨額赤字に転落した。2023年5月には55歳以上の管理職約700名を対象とする早期退職制度の導入を発表した。",
"title": "鴻海による改革と上場復帰"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "下記に製品カテゴリー別に記述する",
"title": "主要商品"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "シャープでは、プラズマクラスターにはイオンの力による空気の浄化や消臭といった効果があると主張していた。しかし、2012年11月28日、消費者庁はシャープに対し、掃除機に搭載するプラズマクラスターがアレルギー原因物質を分解すると表示していたが、実際の効果はないとして、再発防止命令を出した。",
"title": "主要商品"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "シャープでは現在、機密保持などの理由から工場の見学は原則として受け付けておらず、工場そのものをブラックボックス化した。これに加えて公式サイト上でも国内拠点に関する詳しい情報を削除し、事業領域の説明にとどめている。(記載内容はマスコミ報道による)",
"title": "国内主要工場・研究所所在地"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "RS Technologies、因幡電機産業 、明治電機工業 、菱洋エレクトロ 、スズデン 、鳥羽洋行等が上場している代理店である。",
"title": "代理店"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "※上記以外にも、不定期・週替わりとして他の番組提供する事がある。",
"title": "テレビ番組におけるCM放送"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "(1社提供・複数社提供含む)",
"title": "テレビ番組におけるCM放送"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "など多数。",
"title": "テレビ番組におけるCM放送"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "社名が早川電機だった昭和30年代に「シャープ坊や」がおり、シャープテレビの琺瑯看板やカタログに登場していたが間も無く姿を消した。1990年代より「リッキーくん」というキャラクターが登場し、2003年頃に方針の変更により表舞台から姿を消したが、その後もメビウスのマニュアルやEVAアニメータなどで姿を確認する事ができる。因みに父親や母親などの家族も設定されていた。",
"title": "企業キャラクター(マスコットキャラクター)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1958年頃に「シャープフレンドショップ」と呼ばれる自社製品のみを扱う系列電器店が発足するが、量販店や他社系列店に圧されたり後継者難・経営者の高齢化等で店舗数は伸び悩んでいた。そこでシャープは2007年11月15日、これまでとは異なる新しいシャープ系列店、シャープ・バリュー・パートナー・グループ(SVPG)という新しい計画を発表した。これは量販店の安値攻勢による製品価格大幅下落の防止と、認知度が他社製品より大幅に低いといわれているシャープ製の白物家電のイメージアップにつなげるべく、発足当初からある全国約2千店のシャープ フレンドショップの再編と、他社系列店の取り込みを図る計画である。",
"title": "系列店新戦略"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2012年には、海外子会社との取引などを巡り、2011年3月期までの5年間で約54億円の申告漏れ(うち15億円以上は意図的な所得隠しとされた)があったと、大阪国税局から指摘されていたことが判明している。また2015年にも、2014年3月までの3年間にわたり、約103億円の申告漏れ(うち12億円は所得隠しとされた)を同国税局から指摘されていたことが明らかになっている。",
"title": "トラブル・不祥事"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "任天堂が「ミニスーパーファミコン」を発表し話題になると、シャープ製品の公式ツイッターが「ミニスーパーファミコン」に収録されているソフトに対して私(アカウント運営者)の思い出を価値に換算すると発言し値踏みした。中には価値0円と付けたソフトもあり、炎上し始めると誤解を招いたとして「価値0円は未購入である」と訂正をしたが、他社製品を公式アカウントで値踏みしていること、任天堂の公式アカウントにリプライしていることなどが問題だと批判が殺到しさらに炎上したため、問題のツイートは削除された。しかしそれでも批判はやまず、全国紙やネットメディアも報じ拡散されたため、シャープは不快な思いをさせたと謝罪文を投稿した。騒ぎが大きくなったことを受け、2017年7月11日に同社は、関係者に迷惑を掛けたとして、該当のアカウントを閉鎖することを決めた。",
"title": "トラブル・不祥事"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2021年3月12日、スマートフォン向けのカメラレンズの製造子会社「カンタツ」で、2018年4月~20年9月に架空計上などで売り上げを75億円水増しする不正会計があったと発表した",
"title": "トラブル・不祥事"
}
]
| シャープ株式会社は、大阪府堺市に本社を置く日本の電気機器メーカー。台湾の鴻海精密工業(フォックスコングループ)の子会社。日経平均株価の構成銘柄の一つ。 1912年、早川徳次が東京市本所区松井町(現・東京都江東区新大橋)に金属加工業を設立する。関東大震災により工場を消失後、1924年に大阪府東成郡田辺町(現・大阪府大阪市阿倍野区)に早川金属工業研究所を設立する。1935年に改組し、株式会社早川金属工業研究所を設立し、1936年に早川金属工業株式会社、1942年に早川電機工業株式会社、1970年にブランドとして使われていたシャープ株式会社に社名変更する。2016年に大阪府堺市堺区匠町に本社移転。 | {{Otheruseslist|家電メーカー|音楽記号"♯"|シャープ (記号)|[[約物]][[記号]]"NUMBER SIGN"(#)|番号記号|その他の用法|シャープ (曖昧さ回避)}}
{{Pathnav|フォックスコン|鴻海精密工業|frame=1}}
{{複数の問題
|独自研究=2012年9月22日 (土) 11:04 (UTC)
|出典の明記=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)
|正確性=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = シャープ株式会社
| 英文社名 = SHARP CORPORATION
| ロゴ = [[ファイル:Sharp logo.svg|200px]]
| 画像 = [[File:Sharp Sakai.jpg|260px]]
| 画像説明 = 大阪府堺市の本社
| 種類 = [[株式会社]]
| 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://corporate.jp.sharp/info/outline/organization/ 組織図] - シャープ株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報 |東証プライム|6753 |1949年5月}}
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 590-8522
| 本社所在地 = [[大阪府]][[堺市]][[堺区]]匠町1番地
| 設立 = [[1935年]](昭和10年)[[5月1日]](株式会社早川金属工業研究所)
| 業種 = 3650
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = [[エレクトロニクス]]、[[電子部品]]
| 代表者 = [[呉柏勲]](代表取締役[[社長]]執行役員兼[[最高経営責任者|CEO]])<br />[[沖津雅浩]](代表取締役[[副社長]]執行役員)
| 資本金 = 50億円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="yuho">{{Cite web|和書|date= 2017-06-21|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/securities/pdf/123_4q.pdf|title= 第123期有価証券報告書|publisher= シャープ株式会社|accessdate=2017-10-02|format=PDF}}</ref>
| 発行済株式総数 = 49億8316万5584株<br />(2017年3月31日現在、普通株式)<ref name="yuho" />
| 売上高 = 連結:2兆4955億8,800万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" />
| 営業利益 = 連結:847億1600万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" />
| 純利益 = 連結:739億9100万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" />
| 純資産 =
| 総資産 = 連結:1兆9562億8800万円<br />(2022年3月末時点)<ref name="yuho" />
| 従業員数 = 連結:46,200人<br />(2023年3月末時点)
| 決算期 = [[3月31日|3月末日]]
| 会計監査人 = [[PwCあらた有限責任監査法人]]
| 主要株主 = HON HAI PRECISION INDUSTRY CO., LTD.(常任代理人 ㈱みずほ銀行) 22.32%<br/>SIO INTERNATIONAL HOLDINGS LIMITED(常任代理人 ㈱みずほ銀行) 13.23%<br/>FOXCONN (FAR EAST) LIMITED(常任代理人 ㈱みずほ銀行) 11.81%<br/>FOXCONN TECHNOLOGY PTE. LTD.(常任代理人 ㈱みずほ銀行) 9.96%<br/>CLEARSTREAM BANKING S.A.(常任代理人 香港上海銀行) 5.99%<br/>日本マスタートラスト信託銀行㈱(信託口) 4.14%<br/>CTBC BANK CO., LTD. -ES PLATFORM LP(常任代理人 シティバンク) 1.61% <br/>㈱日本カストディ銀行(信託口) 1.10%<br/>LGT BANK LTD (常任代理人 ㈱三菱UFJ銀行) 0.78%<br/>日本生命保険相互会社 0.73%<br/>(2022年9月30日現在)
| 関係する人物 = [[早川徳次 (シャープ)|早川徳次]](創業者)<br />[[佐伯旭]](二代目社長)<br />[[辻晴雄]](三代目社長)<br />[[町田勝彦]](四代目社長)<br />[[片山幹雄]](五代目社長)<br />[[奥田隆司]](六代目社長)<br />[[高橋興三]](七代目社長)<br />[[戴正呉]](八代目社長)<br />[[浅田篤]](元副社長)<br />[[佐々木正]](元副社長)
| 外部リンク = [https://jp.sharp/ シャープ株式会社]
| 特記事項 = <div id="特記_創業">創業時期は、早川徳次が東京本所松井町で金属加工業を立ち上げた、[[1912年]](大正元年)[[9月15日]]としている。
}}
'''シャープ株式会社'''({{Lang-en-short|SHARP CORPORATION}})は、[[大阪府]][[堺市]]に本社を置く日本の電気機器メーカー。[[台湾]]の[[鴻海精密工業]]([[フォックスコン]]グループ)の[[子会社]]。[[日経平均株価]]の構成銘柄の一つ<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 構成銘柄一覧:日経平均株価] Nikkei Inc. 2021年10月8日閲覧。</ref>。
1912年、[[早川徳次 (シャープ)|早川徳次]]が[[東京市]][[本所区]]松井町(現・[[東京都]][[江東区]][[新大橋 (江東区)|新大橋]])に'''金属加工業'''を設立する。関東大震災により工場を消失後、1924年に[[大阪府]][[東成郡]][[田辺町 (大阪府)|田辺町]](現・[[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]])に'''早川金属工業研究所'''を設立する。1935年に改組し、'''株式会社早川金属工業研究所'''を設立し、1936年に'''早川金属工業株式会社'''、1942年に'''早川電機工業株式会社'''、1970年にブランドとして使われていたシャープ株式会社に社名変更する。2016年に[[大阪府]][[堺市]][[堺区]]匠町に本社移転。
==歴史==
{{複数の問題|section=1
|出典の明記=2016-12
|精度=2016-12}}
{{see also|#沿革}}
* [[1912年]] - [[早川徳次 (シャープ)|早川徳次]]が[[東京]]で創業した。徳尾錠というベルトのバックルの発明が始まりである<ref name=":1">{{Cite web |title=シャープ株式会社 |url=http://www.sharp.co.jp/info/history/chronology/ |website=www.sharp.co.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja |first=SHARP |last=CORPORATION}}</ref>。
* [[1915年]] - 金属製繰出鉛筆([[シャープペンシル|早川式繰出鉛筆]])を発明。販売開始後、商品名をエバー・レディ・シャープ・ペンシルに変えた。アメリカで爆発的にヒット。現在の社名はこれに由来する<ref name=":1" />。
* [[1923年]] - [[関東大震災]]によりシャープペンシル工場を焼失。早川は家族もすべて失い、大阪へ移り再起を図った。明治時代、明治政府から[[藩債処分]]の影響で大打撃を与えられた大阪市であったが当時は経済的にも回復していた。
* [[1925年]] - [[鉱石ラジオ]]をシャープの名前で発売。戦前の主力商品となる。
* 戦後、総合家電では[[パナソニック|松下電器産業]]や[[ソニー]]が台頭し、営業・販売力においてこの2社に圧倒的な差を付けられていた上、シャープ製のテレビ([[ブラウン管]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]等海外製)が突然発火して大火事になった事件などもあり、低迷の時代が続く。
* [[1962年]] - 日本の[[家庭用電気機械器具|家電]]企業で初めて家庭向け量産型の[[電子レンジ]]を発売(当初は業務用)。[[1966年]]には世界初のターンテーブル方式の電子レンジを開発する。
* [[1963年]] - [[太陽電池]]の量産を開始。なお、一般の電池([[乾電池]]、[[二次電池]]など)は生産していない。
* [[1964年]] - オールトランジスタダイオードによる電子式卓上計算機(世界初)を開発。その後の[[カシオ計算機|カシオ]]などとの[[電卓#価格破壊の進行 - 1970年代前半|電卓戦争]]の中で、表示部品としての液晶技術の開発を始め、[[1973年]]、液晶を表示装置に使った[[CMOS]]電卓(世界初)を開発。この経験から「液晶のシャープ」と呼ばれる事につながっている。
* [[1970年]][[1月1日]] - 社名をシャープ株式会社に変更。シンボルマークをリニューアル。なお、早川電機時代のシンボルマーク(楕円形にSharp)は社名変更後も正式な社章として引き継がれた。
<!--* 1970年頃に[[サムスン電子|サムスン]]は商社から電器産業に進出したが[[半導体]]の開発で行き詰まっていた当時、日韓定期閣僚会議が始まって日韓提携の気運があった。[[日本電気|NEC]]の[[小林宏治]]が「韓国は技術を盗んでいく」と警戒感を持っていたのに困った[[李健熙]]はシャープの[[佐々木正]]に説得を頼み、[[駐日大韓民国大使]]と小林、佐々木とで食事する機会をセッティングしてもらった。その後に佐々木以外の3人でゴルフに行き、技術供与をするようになったり、技術者を勝手に韓国に連れていかれたりして技術を盗まれた。その事がサムスンに安い値段で売られることによってシェアを奪われたことが後のシャープの没落の要因になった<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/9665 東洋経済オンライン] - 2012年08月01日付</ref>。 -->
* [[2016年]]
** [[4月2日]] - [[台湾]]に本拠を置く[[鴻海精密工業]]が3分の2弱の株式を取得し、日本の大手電機メーカーとしては初の外資傘下の企業となる<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ3Z558FJ3ZPTIL01R.html シャープ外資傘下へ 社員・ゆかりの地、揺れる思い] {{要検証|date=2016-07-22}}</ref>。
** [[7月1日]] - 長年本社であった[[大阪市]][[阿倍野区]]から、工場がある堺市堺区へ本社を移転した<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/9d119c8b39680018ca2286c12464909c6d05103f シャープ本社 長年親しまれた大阪・阿倍野から堺へ移転] [[THE PAGE]] 2016年7月1日、2022年8月7日閲覧。</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/eebe0d5f44bba6b367a6cc83610d6db0e16b0172 旧シャープ本社跡地へ 近所の男性「更地でハルカス見えるもん」] THE PAGE、2017年11月4日、2022年8月7日閲覧。</ref>。[[File:FormerSharpCorpMainBldg.jpg|thumb|シャープ旧本社ビル(現在は解体)]]
<!-- <編注: 下は歴史に関係ないと思うけど直せないので残しておく> -->
* 他にシャープが得意とする製品としてはファクシミリ、パソコン並みにモデルチェンジをする電子辞書、電子レンジ、近年ではコピーなどの複合機、[[カシオ計算機|カシオ]]と競い合う電卓、更に液晶テレビAQUOS、そこから発展したAQUOS携帯電話などユニークな製品がラインナップされている。
* さらに、2009年からは[[LED電球]]の発売により家庭用照明事業にも参入している。
* なお、液晶事業への投資増もあり、[[半導体]]事業はCCDなどのイメージセンサーや画像処理LSI、液晶駆動用LSIなどに集約されている。
*[[2017年]]
**[[12月1日]] - 世界初の[[8K]]液晶テレビ、"[[アクオス|Aquos]] 8K"発売。
**[[12月7日]] - [[東京証券取引所]]1部に復帰。
* [[2020年]]
** [[3月]] - [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)]]等に伴うマスクの不足に対する対応として、月内に三重工場でマスクの生産を開始する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200305/CK2020030502000049.html|title=マスク生産、今月半ばにも開始 シャープ三重工場|work=[[中日新聞]] CHUNICHI WEB|date=2020-03-05|accessdate=2020-03-05}}</ref>。
==経営理念・経営信条==
以下はシャープ公式サイト掲載の「経営理念/経営信条」<ref>[http://www.sharp.co.jp/sms/company/idea/idea.html 経営理念/経営信条]</ref> を主に参照している。
シャープ(株)を始め関係会社の朝礼で経営信条の唱和が行われていた。
===経営理念===
*いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって広く世界の文化と福祉の向上に貢献する。
*会社に働く人々の能力開発と生活福祉の向上に努め、会社の発展と一人一人の幸せとの一致をはかる。
*株主、取引先をはじめ、全ての協力者との相互繁栄を期す。
===経営信条<ref>{{Cite web |title=シャープ株式会社 |url=https://corporate.jp.sharp/info/philosophy/ |website=corporate.jp.sharp |access-date=2023-12-28 |language=ja |first=SHARP |last=CORPORATION}}</ref>===
*二意専心 誠意と創意
**この二意に溢れる仕事こそ、人々に心からの満足と喜びをもたらし真に社会への貢献となる。
*誠意は人の道なり、すべての仕事にまごころを
*和は力なり、共に信じて結束を
*礼儀は美なり、互いに感謝と尊敬を
*創意は進歩なり、常に工夫と改善を
*勇気は生き甲斐の源なり、進んで取り組め困難に
== 歴代社長 ==
{{出典の明記|section=1|date=2022年5月11日 (水) 16:43 (UTC)}}
* 初代社長(1912-1970) [[早川徳次 (シャープ)|早川徳次]]
* 2代目社長(1970-1986)[[佐伯旭]]
* 3代目社長(1986-1998)[[辻晴雄]]
* 4代目社長(1998-2007)[[町田勝彦]]
* 5代目社長(2007-2012)[[片山幹雄]]
* 6代目社長(2012-2013)[[奥田隆司]]
* 7代目社長(2013-2016)[[高橋興三]]
* 8代目社長(2016-2020)[[戴正呉]]
* 9代目社長(2020-2022)[[野村勝明]]
* 10代目社長(2022-現職)[[呉柏勲]]
== 沿革{{疑問点|date=2023年3月|title=「歴史」と「沿革」が併存しているのは社の来歴を知るのに分かりにくくないか?}} ==
{{節スタブ}}
以下は主に「[http://www.sharp.co.jp/100th/ シャープ100年史]」を参考に記述。
*[[1912年]]([[大正]]元年)[[9月15日]] - [[東京府]][[東京市]][[本所区]]松井町(現・[[東京都]][[江東区]][[新大橋 (江東区)|新大橋]])において、創業者の早川徳次が[[金属加工]]業を創業。「徳尾錠」の製作販売を開始<ref name="sharp80th">{{Citation | 和書 | last = | first = | author = | author-link = | last2 = | first2 = | author2 = | author2-link = | year =1992 | date =1992年12月 | title =誠意と創意 80年の歩み (1912〜1992) シャープ株式会社80周年記念誌 | place = | publisher =シャープ | edition = | series= | volume = | id = | isbn = | url =}}</ref>。資本金50円、3人でスタート<ref name="sharp80th" />。
*[[1924年]](大正13年)9月 - [[1923年|前年]](大正12年)にあった[[関東大震災]]で家族を亡くして、工場が全焼した影響から、[[大阪府]][[東成郡]][[田辺町 (大阪府)|田辺町]][[大字]]猿山(現・[[大阪市]][[阿倍野区]][[長池町 (大阪市)|長池町]])に本社を移転、'''早川金属工業研究所'''を設立。
*[[1925年]](大正14年) - 国産第1号鉱石[[ラジオ]]受信機の組み立てに成功し、量産・販売を開始(価格3円50銭<ref name="sharp80th" />)。同時にラジオ部品も販売<ref name="sharp80th" />。
*[[1929年]]([[昭和]]4年) - [[交流]]式[[真空管]]ラジオを発売。
*[[1931年]](昭和6年) - [[電波]]研究室を設置、[[テレビ]]研究に着手<ref name="sharp80th" />。
*[[1934年]](昭和9年) - [[平野 (大阪市)|平野]]工場を建設。
*[[1935年]](昭和10年)[[5月1日]] - '''株式会社早川金属工業研究所'''を設立、[[法人]]組織となる。資本金30万円。
*[[1936年]](昭和11年) - '''早川金属工業株式会社'''に社名変更。
*[[1941年]](昭和16年) - [[陸軍航空本部]]監督工場となる<ref name="sharp80th" />。押しボタン選局式の5球スーパーラジオ SB-500 を発売<ref name="sharp80th" />。
*[[1942年]](昭和17年) - '''早川電機工業株式会社'''に社名変更。[[短波]]・[[超短波]]の研究のため新研究所を設立<ref name="sharp80th" />。[[航空無線機]]の生産開始<ref name="sharp80th" />。[[日本ライトハウス|ライトハウス]][[戦傷]][[失明]]者工場を分工場にする<ref name="sharp80th" />。
*[[1944年]](昭和19年) - 軍需会社に指定される<ref name="sharp80th" />。[[大日本帝国海軍|海軍]]監督工場に再指定される<ref name="sharp80th" />。
*[[1946年]](昭和21年) - 特別経理会社に指定される。
*[[1949年]](昭和24年) - 特別経理会社の指定を解除される。[[大阪証券取引所]]に株式を上場。
*[[1950年]](昭和25年) - 失明者工場を法人化、[[合資会社]]特選金属工場(現 シャープ特選工業株式会社)を設立。
*[[1951年]](昭和26年) - テレビの試作に成功。
*[[1952年]](昭和27年) - [[RCA]]とテレビで技術提携。
*[[1953年]](昭和28年) - 国産第1号のテレビ TV3-14T の量産・販売を開始(価格175,000円<ref name="sharp80th" />)。
*[[1954年]](昭和29年) - 共働きや身体障害者家庭の子供を預るために早川徳次社長が本社近くに育徳園[[保育所]]を開設。
*[[1956年]](昭和31年) - 本社社屋を竣工。
*[[1959年]](昭和34年) - [[八尾市|八尾]]工場を建設。
*[[1960年]](昭和35年) - [[大和郡山市|大和郡山]]工場(現 奈良工場)を建設。
*[[1962年]](昭和37年) - 国内初の家庭向け量産[[電子レンジ]] R-10 を発売(価格540,000円<ref name="sharp80th" />)。
*[[1964年]](昭和39年) - 世界初のオールトランジスタ[[電卓]]「コンペット」 CS-10A を発売(価格535,000円<ref name="sharp80th" />)。
*[[1966年]](昭和41年) - 国産初のターンテーブル式家庭用電子レンジ R-600 を発売(価格198,000円<ref name="sharp80th" />)。
*[[1967年]](昭和42年) - 広島工場を建設。
*[[1968年]](昭和43年) - 栃木工場を建設。
*[[1970年]](昭和45年) - '''シャープ株式会社'''に商号変更([[1月1日]])。[[奈良県]][[天理市]]に総合開発センター竣工。
*1970年代から韓国の[[サムスン電子]]へシャープの液晶や半導体の技術供与を始める<ref name=":0">[http://toyokeizai.net/articles/-/9665 東洋経済オンライン] - 2012年08月01日付</ref>。
*[[1979年]](昭和54年) - 日本語[[ワードプロセッサ]]「書院」 WD-3000 を発売(価格2,950,000円<ref name="sharp80th" />)。
*[[1981年]](昭和56年) - 新庄工場(現 [[葛城市|葛城]]工場)を建設。
*[[1983年]](昭和58年) - 480x128ドットの液晶ディスプレイユニットLM-48001G発売(外径寸法290x110x18ミリ、表示面237x70.5ミリ)、サンプル価格80,000円<ref>{{Cite |和書 |author= |title=ASCII 1983年6月号 |volume=7 |issue=6 |page=89 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-6-1 }}</ref>。
*[[1985年]](昭和60年) - [[福山市|福山]]工場を建設。
*[[1992年]](平成4年) -ハイビジョンテレビ36CSE-1(簡易MUSEデコーダー内蔵)を発売(当時100万円で販売)。
*[[1995年]]([[平成]]7年) - 三重工場が稼動し、液晶を量産。業界初のパーソナル液晶テレビ「ウインドウ」を発売。
*[[2001年]](平成13年) - 液晶テレビ「[[アクオス|AQUOS]]」第1号機(LC-20C1/15C1/13C1)を発売。
*[[2002年]](平成14年) - [[三原市|三原]]工場が稼動を開始。
*[[2004年]](平成16年) - [[亀山市|亀山]]工場が稼動を開始。[[ヘルシオ]]発売。後に万年シェア2位だったオーブンレンジではシェアトップとなる。
*[[2009年]](平成21年) - 堺工場が稼働を開始。
*[[2011年]](平成23年) - 公式Twitterを開設。
*[[2012年]](平成24年) - 酸化物半導体([[IGZO]])を採用した液晶パネルの量産を開始。
*[[2016年]](平成28年) - ロボット型携帯電話、[[RoBoHoN|ロボホン]]発売。
*[[2016年]](平成28年) - 台湾の[[鴻海精密工業|鴻海(ホンハイ)精密工業]]及び関連企業が3分の2弱の株式を取得し子会社化。本社を大阪市阿倍野区長池町から堺工場へ移転。債務超過により、東証1部より2部へ指定替え(事実上の降格)<ref name="指定替え">[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160623-1.pdf 東京証券取引所における市場第一部銘柄から市場第二部銘柄への指定替え、並びに上場廃止の猶予期間入りに関するお知らせ] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>(翌年12月、東証1部に復帰)。創業以来初の社外から社長(鴻海グループ副総裁の戴正呉)が就任。
*[[2016年]](平成28年) - コーポレートスローガンとして「Be Original.(ビー・オリジナル)」を制定<ref>{{Cite press release|和書|title=新コーポレート宣言 “Be Original.(ビー・オリジナル)”|publisher=シャープ株式会社|date=2016-11-01|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/news/161101-a.html|accessdate=2016-11-01}}</ref>。
*[[2017年]](平成29年) - 売却により旧本社ビルの解体工事が開始。
*2017年(平成29年)11月14日 - SIO International Holdings Limitedが保有株式の内540万を、大和証券グループの大和PIパートナーズ株式会社に譲渡すると発表
*[[2018年]](平成30年)10月1日 - [[東芝]]より東芝クライアントソリューションの株式の80.1%を取得し連結子会社化<ref>[http://www.toshiba-tcs.co.jp/press/181001.html 新生「東芝クライアントソリューション」が事業開始] - 東芝クライアントソリューション 2018年10月1日</ref>。2019年1月1日付で[[Dynabook (企業)|Dynabook]]に社名変更<ref>[http://www.toshiba-tcs.co.jp/press/181203.html 新社名に関するお知らせ〜コンピューティングとサービスを通じて世界を変える〜] - 東芝クライアントソリューション 2018年12月3日(2018年12月3日閲覧)</ref>。
*[[2019年]](令和元年)9月25日 - 日本国内唯一の白物家電の生産拠点だった八尾事業所の製造ライン停止(研究開発拠点に移行)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20190925-GAJYI6SXZZNTDHHC3OTAWBV3WU/|title=シャープ、白物家電の国内生産撤退 八尾事業所停止|publisher=産経デジタル |accessdate=2019-09-26}}</ref>。
*[[2020年]](令和2年)10月1日 - ディスプレイデバイスカンパニーを「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化<ref name="cnp"/>。
*2020年(令和2年)11月1日 - [[日本電気]]よりNECディスプレイソリューションズの株式の66%を取得し<ref>{{Cite press release|和書|title=株式取得によるNECディスプレイソリューションズ株式会社の子会社化(合弁会社化)に関するお知らせ|url=https://corporate.jp.sharp/ir/pdf/2020/200325-1.pdf|publisher=シャープ株式会社|date=2020-03-25|accessdate=2020-03-25}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=NEC、映像ソリューション事業を担う子会社をシャープと合弁会社化|url=https://jpn.nec.com/press/202003/20200325_02.html|publisher=日本電気株式会社、NECディスプレイソリューションズ株式会社|date=2020-03-25|accessdate=2020-03-25}}</ref>、「[[シャープNECディスプレイソリューションズ]]」として連結子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nec-display.com/press/2020/1102.html|title=新生「シャープNECディスプレイソリューションズ」が事業開始|website=シャープNECディスプレイソリューションズ|date=2020-11-01|accessdate=2021-03-20}}</ref>。
*[[2021年]](令和3年)4月1日 - カメラモジュール事業を「シャープセンシングテクノロジー」として分社化<ref>{{Cite press release|和書|title=(経過開示)会社分割によるカメラモジュール事業の分社化に関するお知らせ|url=https://corporate.jp.sharp/ir/pdf/2021/210205-2.pdf|publisher=シャープ株式会社|date=2021-02-05|accessdate=2021-06-26}}</ref>。
==特徴==
=== 製品 ===
現在まで、シャープは「先進的な部品を開発しその部品を元に特徴的な商品を生み出す」流れと、「商品に使われることによって部品の目標が明確になり性能が向上する」という流れの循環で成長して来ており、シャープではこれを「スパイラル戦略」と呼んでいる。近年では、スパイラル戦略に加え、他社にない部品や商品を作り出す「オンリーワン戦略」を掲げている(両開き式の冷蔵庫やプラズマクラスター等が挙げられる)。
早川金属時代から製造された「シャープラジオ」は海外に輸出されるほどに爆発的な売り上げを記録したが、トランスなどの部品は自主生産ができても真空管だけは自主生産できる余裕はなかった。そこで東京電気(後の東京芝浦電機→東芝)から「[[マツダ (電球)|マツダ]]真空管」<ref>当時のカタログには「マツダ真空管使用」と表記されたり、ラジオ本体の裏蓋には「マツダ真空管」のシールが貼られていた。</ref>や時計内蔵型シャープラジオの「時計装置」の供給を受けていた。
早川電機に社名変更後、テレビジョンの生産が軌道に乗り出したと同時に真空管の自主生産を開始したことから、東芝からの真空管類の供給を打ち切ると同時に総合エレクトロニクス会社としてお互いに競い合う関係になって行った。
それから半世紀以上経った2007年、東芝とシャープは「液晶および半導体分野における提携」に合意し、2010年度を目処にシャープは東芝から液晶テレビ用システムLSIを約50%、東芝はシャープから32型以上のテレビ用液晶モジュールを約40%購入することを目標に両社の提携を再び交わしている<ref>{{Cite press release|和書|title=液晶および半導体分野における提携について |publisher=株式会社東芝、シャープ株式会社 |date=2007-12-21 |url=http://www.toshiba.co.jp/about/press/2007_12/pr_j2101.htm |accessdate=2022-02-11}}</ref>。
[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]黎明期において[[MZ (コンピュータ)|MZ-80K]]や[[X1 (コンピュータ)|X1]]などを生産し、日本のパソコン業界大手の一社であった他、それらの一部は海外でも商品展開された。日本での参入はしなかったものの、8ビット機時代の共通規格である[[MSX]]機もブラジルの現地法人「シャープ・ド・ブラジル」で製造、販売していたこともあった。その後、Windowsが台頭する時代になるにつれ、NECなど黎明期からの大手PCメーカーの他、大手家電メーカーや台湾メーカーなどがシェアを伸ばし、それに伴い、徐々に苦戦を強いられ、シェアは小さくなっていった。液晶の技術を活かして[[ノートパソコン]]の生産なども行っていた。インターネットAQUOSなどの個性的な商品を出すも総じてスペックの割に高価格で人気が出ず、デスクトップやノートパソコン等一般的なパソコンは生産を終了、ウルトラモバイルのみにラインナップは縮小されていったが、2010年10月21日、それらを含む同社のパソコン生産が終了したことが判明した<ref>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-17771420101021 |title=シャープがパソコン生産から撤退 |publisher=Reuters |date=2010-10-21}}</ref>。
映像分野にも伝統的に強く、CCDなどの撮像素子を早くから自社生産していた。自社ブランドでもデジタルカメラには本格参入することはなかったものの、ビデオカメラについてはアナログ時代から家庭用製品を大々的に展開。特に、現在ほとんどの製品が使用している、液晶モニタ付カメラ(それまではの製品にはファインダしか無かった)を「液晶ビューカム」の名で先鞭をつけたのは同社である。ただ、特許独占ができなかったため他社に追随され、家庭用ビデオカメラ市場そのものもデジタルメラやスマートフォンの動画機能に押されて頭打ちとなったこともあり、現在4社程度にまで参入メーカーが減った家庭用ビデオカメラ市場からは、同社もすでに撤退している。
ファミコンの商標は家電製品部門で第1681105号で登録されている。(ゲーム機としては第1832596号で任天堂が保有)この縁でファミコン関連製品がシャープから発売された。
他の家電メーカーが相次いで[[石油ファンヒーター]]事業から撤退する中、唯一家電メーカーで石油ファンヒーター(除菌イオン付)の販売を継続していたが、2007年度春に撤退予定を発表した。同年3月に生産を完了し、撤退している。
テレビでは、音声毎に色分けを行い、モノラル放送・外部入力は緑、[[ステレオ放送]]は黄色、[[音声多重放送|二重音声]]は赤でチャンネル表示がされている(従来からあるアナログ専用のテレビ、アクオスではアナログ放送受信時の場合)。三洋電機のZ1などの80年代に発売されたブラウン管カラーテレビも全く同様の色分けであった。
ビデオデッキでは、VHS初の前面でカセットを出し入れ出来るフロントローディングや3倍モード時の画質劣化を抑える19ミクロンヘッド(1989年に初搭載した頃には通常モードにも切り替え可能)をいち早く搭載し家電メーカーで唯一[[コンポーネント端子]]や[[D端子|D1端子]]を搭載した[[S-VHS]]デッキを販売していた。[[VHS-C]]方式のビデオレコーダーは、先頭を切った[[日本ビクター]]に続き1982年7月16日に発売した<ref>{{Cite |和書 |author= |title=ASCII 1982年10月号 |volume=6 |issue=10 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-10-1 |pages=65 }}</ref>。
1990年前後は消費者より「松下さんのシャープ」と呼ばれ、'''シャープ'''の新製品が売れず後から発売した松下電器(現[[パナソニック]])の製品がヒット商品になることが常であったが、[[コードレスホン]]、[[ワードプロセッサ]]、[[電子手帳]](後の[[ザウルス|ZAURUS]])など新製品で松下を凌ぐ製品を売り出すことに成功した。
=== 組織 ===
組織の特徴としては、「緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)」という[[1977年]]に作られた制度がある。この制度では社長直轄で複数の部署から人材が集まり、技術や開発に当たるチームが結成される。この制度によって部門にとらわれない自由な発想の商品を生み出す事ができると言われた。緊プロでは「電子手帳(後に[[ザウルス|ZAURUS]])」が開発された。
企業スローガンは、「'''Be Original'''」(2016年11月 - ) <ref>[https://corporate.jp.sharp/news/161101-a.html 新コーポレート宣言 “Be Original.(ビー・オリジナル)”] シャープ株式会社 ニュースリリース</ref> である。それ以前は、[[コピーライター]]の[[前田知巳]]が書いた「目指してる、未来がちがう。」(2010年1月 - 2016年10月)<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/100105-a.html 新スローガン “目指してる、未来がちがう。”] シャープ株式会社 ニュースリリース</ref> を使用していた。1990年 - 2009年までは、同じくコピーライターの[[仲畑貴志]]が書いた「目の付けどころが、シャープでしょ。」を使用していた。[[1998年]]からの一時期は「シャープになろう!」や「液晶でトキメキのある生活」に変更していたが、「液晶のシャープ」の印象が定着し、キャッチコピーとしての役割を十分に果たした事から、[[2002年]]になって知名度・好感度共に高かった以前のキャッチコピー「目の付けどころが、シャープでしょ。」を復活させた。キャッチコピーは他にも「確かに、シャープだ」、「元気な携帯電話!」、「はじまりはいつも、シャープから」など多彩で製品により使い分けられているが、最近は省エネをアピールする製品が多いため「エコロジークラスでいきましょう。シャープ」がよく用いられる。また過去のスローガンには「New Life Now」(業務用製品では「New Business Now」。どちらも70年代後半〜80年代前半)「New Life SHARP」「New Life People」(どちらも80年代後半)が存在した。
[[三洋電機]]同様、[[博覧会]]への出展には消極的で、[[国際博覧会]]に出展したのは[[1990年]]の[[国際花と緑の博覧会]](花の万博、本社所在地の[[大阪市]]で開催)が唯一である。地方博を含めても[[1987年]]に本社がある阿倍野区に隣接する[[天王寺区]]で開催された[[天王寺博覧会]]のケースがあるのみである。大阪府[[吹田市]]で[[1970年]]に開催された[[日本万国博覧会]](大阪万博)にも出展していない(シャープが属する[[UFJグループ|三和グループ]]は日本万国博覧会に出展したが、シャープはその共同出展企業に名を連ねていない)。これは[[奈良県]][[天理市]]の総合開発センター立ち上げを優先させたもので、「千里より天理」というフレーズで語られている。また、地球環境問題が主なテーマとなった[[2005年日本国際博覧会]](愛知万博、愛・地球博)への出展もなかった。太陽発電モジュールが設置された可能性はあるが発表されていない。
4代目社長の[[町田勝彦]]までは血縁者(会長、社長の娘婿)が歴代社長を務めていて「見えない血縁企業」と揶揄されていた。
=== 工場 ===
[[名阪国道]]および[[伊勢自動車道]]沿いに天理研究所と多気工場があり、亀山工場と併せて、液晶関連の主要拠点をなしている。近年では液晶テレビ専門工場である[[シャープ亀山工場]]の所在地[[三重県]][[亀山市]]に因んで「亀山産」の表記をしたところ安心感が買われ、爆発的に販売数を伸ばすなど地域名を活かした販売戦略でも名を馳せている(AQUOSのテレビCMなどで「世界の亀山モデル」を表記していた)。同工場の誘致にあたり、三重県90億円・亀山市45億円を15年分割で補助することになり、地方自治体による工場誘致政策に大きな影響を与えた(参考:[[クリスタルバレー構想]])。2008年に入り液晶需要が減少すると、液晶生産を行う天理工場と多気工場の閉鎖と、それに伴う[[非正規雇用|非正規従業員]]380名の削減を表明。[[12月12日]]の記者会見で、副社長[[井淵良明]]は「現在の市況の環境は厳しく、工場の再編に着手するには絶好のチャンス{{refnest|group="*"|シャープの[[プレスリリース]]では「最適なタイミング」に表記を改めている<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/081212-a.html シャープ 液晶パネル工場の再編に着手] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。}}だ」と説明した。
しかし、2009年10月には、[[堺市]]に世界最大規模で第10世代マザーガラスに対応する[[液晶パネル]]工場を含む「グリーンフロント堺」を稼動させ、世界的に回復拡大する液晶関連需要に対応している。「グリーンフロント堺」には、旭硝子(現・[[AGC]])、[[大日本印刷]]や[[コーニング (企業)|コーニング]]など液晶パネル関連部品を供給する企業19社も進出し、業種、業態を超えた「21世紀型コンビナート」を形成。高効率と省エネ、太陽光発電などによる「世界最先端環境工場」を謳っている。また、2010年3月には、同じ敷地内に薄膜シリコン太陽電池工場も稼動させ、急拡大が見込まれる世界的な太陽電池の需要拡大への対応を図っている。
==経営危機==
{{複数の問題|section=1|wikify=2012年12月|参照方法=2012年12月|雑多な内容の箇条書き=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)|正確性=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)|独自研究=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
===競合他社への技術供与===
1970年代から{{疑問点範囲|佐々木正がシャープ在籍時に、NECの小林宏治とシャープの技術をサムスン電子へ、他の日本企業と違い長期的に技術提供させ続けた|date=2023年9月|title=意味が分かりづらい。「佐々木正がシャープ在籍時に、NECの小林宏治と共に、それぞれの社の技術をサムスン電子に対して(他の日本企業と違い)長期的に提供し続けた」という意味か?}}結果、サムスン電子が製造した半導体や液晶がシェア拡大していくことで、経営悪化の一因となったと言われている{{要出典|date=2023年9月}}。但し、佐々木は「日本半導体産業の敗因は、外に技術を漏らしたことではなく、自らが足を止めたことにあると考えている」と述べている。<ref name=":0" /><ref name="toyokeizai_119528">[http://toyokeizai.net/articles/-/119528 ジョブズが憧れたロケット・ササキ最強伝説 シャープの佐々木正氏は何がすごかったのか] [[成毛眞]]、東洋経済オンライン、2016年5月28日</ref><ref>[http://biz-journal.jp/2013/03/post_1654.html 柳谷智宣「気になるITトレンドの“裏”を読む」(第3回)シャープ、出資受けるサムスンへ過去に技術漏洩の疑い…元副社長が明かす] biz-journal 2013/3
</ref>。
=== 2000年代の盛衰 ===
2000年から2006年まで、[[太陽電池]]・[[太陽光発電]]のモジュール生産量は世界一であった。また、国内では唯一の[[宇宙開発事業団]]認定企業だった。後に[[環境]]先進企業を目指して太陽電池事業を強化している他、[[工場]]でも排水を100%再利用するなどの取り組みを行っている。
MM総研の発表では、[[2005年]]度(2005年4月 - 2006年3月)の国内携帯電話出荷台数シェアで、16.3%を確保して首位に立った。[[NTTドコモ]]と[[ソフトバンク|ソフトバンク(2005年度当時はボーダフォン)]]のみの供給であったにも関わらず、[[カメラ付き携帯電話]]のパイオニアとして首位に立った。
同社の日本一のテレビブランド「[[アクオス|AQUOS]]」の技術を採用した「[[ASV液晶|モバイルASV液晶]]」を携帯電話のディスプレイに採用し、これも1つの人気となった。勢いで2005年には[[ウィルコム]]に[[スマートフォン]][[W-ZERO3]]で参入し、爆発的ヒットとなった。さらに翌[[2006年]]9月には[[KDDI]]、および[[沖縄セルラー電話]](各[[au (通信)|au]]ブランド)にも[[W41SH]]で参入した。また、[[サイクロイド]]スタイルというスタイルで人気となったワンセグモデル「[[AQUOSケータイ]]」が人気で[[2008年]]現在でソフトバンクモバイル向けに5機種、NTTドコモ向けに2機種、KDDI/沖縄セルラー電話向けに2機種、計9機種を納入している。
2007年3月からは携帯電話市場に新規参入した[[イー・モバイル]](現・[[ワイモバイル]])向けにも[[EM・ONE]]という[[携帯情報端末|PDA]]機能付端末の納入を開始した。これで現存する携帯電話・PHSの5社すべてに端末を納入しているのは同社のみとなった<ref group="*">2008年にサービスを終了した[[ツーカー]]には最後まで供給されなかった。ただしデジタルホン(当時:現・ソフトバンク)とツーカーの合弁会社である[[デジタルツーカー]]には供給された。</ref>。2009年夏からはCCDカメラ1000万画素を搭載した高画質カメラ「[[AQUOS SHOT]]」を発表。同社が開発した高機能処理エンジン[[ProPix]]カメラ技術と同社の液晶技術を取り入れた。
2000年代後半には[[シャープ亀山工場]]、[[シャープ堺工場]]と次々に大規模工場を建設し「世界の亀山」ブランドを展開した。
当時、シャープは日本のデジタル家電産業の勝ち組として知られていた。しかし液晶パネル製造でサムスンなどの韓国メーカー、台湾メーカーが台頭する中、液晶の急速な[[コモディティ化]]により一転シャープは苦境に陥る。[[地デジ]]特需も終わると、2011年からの4年間で総額1兆円以上の経営赤字を計上した<ref>[https://newswitch.jp/p/411?page=1 シャープの変調はすでに2004年から始まっていた!「世界の亀山」稼働の裏で|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社]</ref><ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/462624/2/ 2/2 シャープを失敗に導いた戦略、「選択と集中」とは何か] All About</ref>。
===鴻海と業務提携 ===
2012年3月期決算でも大幅な赤字決算に陥る状況となり、[[台湾]]の[[鴻海精密工業|鴻海(ホンハイ)]]グループとの業務提携に合意した。その結果、堺工場の液晶パネル、モジュールを同グループが最終的に50%まで引き取り、同工場を共同運営することとなった。鴻海側は、2012年7月に堺工場運営会社の代表取締役に就いただけではなく、亀山工場の分社化と経営参画を要求しているが、シャープ側は難色を示している<ref>[https://web.archive.org/web/20130208130905/http://news24.jp/articles/2012/09/07/06213354.html ホンハイ、シャープ亀山工場分社化など要求] 日テレNEWS24 2012年9月7日 13:43 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
また鴻海側はシャープの最先端独自技術である[[IGZO]]技術を要求し、中国[[四川省]][[成都]]に建設中の中小型液晶パネル工場での生産を予定している。これが提携の障害になっているとされている<ref>[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1209/11/news041.html 鴻海、シャープにIGZO液晶の技術供与を要求 協議難航] ITmedia 2012年{{0}}9月11日 10時21分 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。9月25日、シャープはIGZOのスマートフォンとタブレット端末を発売するとともに、鴻海にIGZO技術を提供する方針だと報道された。それに伴い今年度中に亀山第2工場のIGZO生産比率を8割に上昇させる<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120925/k10015256651000.html シャープ 新技術のスマートホン投入へ ] NHL2012年9月25日 5時8分 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
2012年9月現在長短併せて1.5兆円の資金調達が必要だとされた<ref>[http://diamond.jp/articles/-/25356 「鴻海ありき」に陥ったシャープの危機的な未来]『率直に言って、シャープの将来性は厳しい』「財部誠一の現代日本私観」【第16回】ダイヤモンドオンライン 2012年9月26日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。{{要検証範囲|好調時に市場から調達した資金の償還が2012年6月末で3600億円の[[コマーシャルペーパー|CP]]残高を持ち、3ヶ月で償還を繰り返しているので、9月から償還が始まる。また2013年9月には、2000億円の[[転換社債]]の償還を迎える。格付けの多くが投機的等級になったため、市場から資金を調達できない。|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}{{要出典|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
=== 人員整理 ===
{{要検証範囲|2012年上半期の連結決算では、企業存続の疑念が表明され、通期で4500億円の赤字の見込みと報道された(最終的に2013年3月期の純損失は-5453億4700万円に及んだ)。また自己資本比率が9.9%となり、有利子負債も約1.2兆円という状態が続いている。そのため[[希望退職]]を2千人応募したところ、3千人の応募があった。
それまでは人員削減はせず、工場勤務や関連会社への転勤を命じることにより自己都合退職者が出るよう人事があったことから「首切りのシャープ」と呼ばれていた。|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}{{要出典|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
{{要検証範囲|シャープと連結子会社13社は1次取引先2,031社の他にも6,500社の取引先を持ち、従業員数は420万人に及んでいる。すでに8月末に希望退職を募集しているところもある|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120924-OYT1T00217.htm シャープ不振、取引先不安…全国に8500社] 2012年9月24日17時37分 読売新聞 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
{{要検証範囲|2015年にも、追加の希望退職が実施された。9月30日、45歳から59歳の国内社員3234人が希望退職した|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/81314?page=3 シャープの3200人削減は「的外れ」な再建策だ 人員削減の前にやるべきことがある] 東洋経済2015年8月22日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>
2016年、鴻海買収直後の決算発表においても、業績不振を理由に追加の人員削減方針が発表された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160510-OYT1T50094.html シャープ、3000人削減を検討…年度内にも] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/117796 シャープ、最大7000人リストラの真実味 債務超過で社長交代、波乱の再出発] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*格付(2015年7月1日現在)
**日本格付研究所 長期B+/ネガティブ、短期 -{{要検証|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}{{要出典|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
**格付投資情報センター B-/ネガティブ、b{{要検証|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}{{要出典|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
**スタンダード&プアーズ B-、B{{要検証|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}{{要出典|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
*格付(2016年1月12日現在<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/stock_bond/rating/ 格付の状況] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>)
**日本格付研究所 長期B+、短期 -
**格付投資情報センター CCC+/ポジティブ(2月25日)<ref>[https://www.r-i.co.jp/jpn/body/cfp/news_release_A/2016/02/news_release_2016-A-0184_01.pdf 【レーティング・モニター(格上げ方向)】] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>、C
**スタンダード&プアーズ CCC+、C
=== 鴻海による買収 ===
[[2016年]][[2月4日]]、[[台湾]]の[[鴻海精密工業|鴻海(ホンハイ)精密工業]]がシャープに対し7000億円超での支援の意向を示し、シャープは同日の取締役会で鴻海案を協議した<ref name="nikkei20160205" />。シャープは当初、官民官ファンドの[[産業革新機構]]からの出資を受け入れる方針だったが、支援額を上積みした鴻海案の採用に判断が傾いたと報じられて、翌2月5日には、シャープは鴻海との合意書を締結したと発表した<ref name="nikkei20160205">日本経済新聞 2016年2月5日朝刊「シャープ、鴻海が買収へ」 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref name="asahi20160206m1">朝日新聞 2016年2月6日朝刊「シャープ、鴻海と合意書 契約条件29日まで協議」 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。契約条件について協議を継続することや、鴻海が示した支援策の有効期限を同月末まで延長する内容であった<ref name="asahi20160206m1" />。2月25日には、臨時取締役会で産業革新機構案よりも好条件の鴻海買収案を選択することを決定したが、[[偶発債務]]の発覚を理由に鴻海側から、買収契約の保留を受け渡される。最終的に、出資額の減額やリストラの受け入れなどの鴻海側に有利となる契約に改定され<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201603/CK2016033102000133.html?ref=rank 延長1カ月 シャープ大幅譲歩 リストラ示唆の文言盛り込む] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>、1ヶ月超遅れて買収契約が4月2日に締結されることが、3月30日の鴻海の取締役会で決議された<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=233859&comment_sub_id=0&category_id=256 シャープ買収決議 鴻海、1000億円減額] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
鴻海によるシャープ買収は、ここ数年鴻海の成長の鈍化があるともいわれる。2015年12月期の連結売上高(速報値)は前期比6%の4兆4830億台湾ドルであり、目標の10パーセントには届かなかった<ref name="nikkei20160205" />。
過去には[[2012年]]に鴻海がシャープに10%出資する案で合意したものの、その後の株価変動などの理由により中止、翌[[2013年]]には高橋興三が社長に就任し銀行からの支援を受けたものの立て直しができなかった。シャープが再建に鴻海案に傾いた理由としては、産業革新機構案が成長性の期待できない[[液晶]]事業を分社化し、社長を含む3首脳を退陣させる方針であるのに対し、鴻海案が現経営陣の継続と液晶事業、雇用の維持を約束するものである上に最大で3500億円の産業革新機構の支援に対し鴻海案が7000億円の支援であったことで、[[社外取締役]]の一部が革新機構案を選んだ場合に、[[株主]]に合理的な説明ができないことなどが指摘される<ref name="nikkeibp">[http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/325410/021200175/?ST=business&P=1 鴻海7000億円支援に米アップルの影!?「シャープ買収」最終決戦の行方を探る 2016年2月15日] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
===債券の格付===
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)|正確性=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
====2012年====
*3月8日、[[格付投資情報センター]](R&I)は、シャープの発行体格付けを上から5番目のA+からA-に2段階引き下げ、さらにネガティブとした
*8月3日、[[ムーディーズ]]は、格付けを1段階引き下げる。
*8月中旬、[[日本格付研究所]](JCR)(A+からA-)と格付投資情報センター(A-からBBB)は2段階、S&Pは1段階格付けを引き下げた。
*8月20日、格付投資情報センターは長期格付を「A-」から「BBB」に2段階引き下げた上で、ネガティブとした(短期格付は「a-2」)。
*8月31日、[[S&P]]は長期債と会社格付を「BBB」から投機的等級の「BB+」に2段階引き下げ、引き続きネガティブとした。短期格付と国内CP格付はA-2からBに2段階(ノッチ)引き下げた。
*9月5日、ムーディーズは短期債格付けをPrime-3から投機的等級のNot-Primeに引き下げたと発表した。
*9月6日、[[フィッチ・レーティングス]]は、長期格付「BBB-」をネガティブウォッチとし、2段階以上の格下げの可能性も排除できないとした。
*10月1日、S&Pは11月1日までにネガティブウォッチを解除する予定である<ref>[http://www.standardandpoors.com/ratings/articles/jp/jp/?articleType=HTML&assetID=1245341341924 【S&P】シャープが協調融資契約を締結、クレジット・ウォッチ解除の検討要因に変化はなし] S&P 01-Oct-2012 13:32:00 JST {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*10月4日、[[日本格付研究所]]は、長期格付を「A-」から「BBB」に2段階引き下げ、さらにネガティブを継続する<ref>[http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPT9E8KJ02R20121004 シャープ<6753.T>の格付けをA─からBBBに2段階引き下げ、モニター継続=JCR]ロイター2012年 10月 4日 17:48 JST {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*10月15日、[[格付投資情報センター]]は15日、発行体格付けを「BBB」から2段階引き下げ、投機的水準の「BB+」にした<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2012101500863 シャープ格付け「投機的」に=2段階引き下げ-R&I] 時事ドットコム2012/10/15-20:30 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。国内格付機関が投機的格付にするのは初めてである。長期格付(MTN)はBBBからBBへ3段階、[[コマーシャルペーパー|CP]]はa-2からa-3へ1段階下げ、3つとも引き続きネガティブ・ウォッチとする<ref>[http://www.r-i.co.jp/jpn/body/cfp/news_release_A/2012/10/news_release_2012-A-1023_01.pdf シャープの格付をBB+/BB/a-3に変更、モニター継続 ] 格付投資情報センター・ニュースリリース 2012.10.15 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*11月2日
**[[フィッチ・レーティングス]]は長期格付を「BBB-」から6段階下げて「非常に投機的」な水準の「B-」とし、引き続きネガティブとした<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201211/2012110200707 シャープを6段階引き下げ=資金繰り懸念、異例の幅―格付け大手] 時事通信 2012年11月2日(金)17時1分配信 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*11月2日、[[格付投資情報センター]]は、発行体格付を「BB+」から1段階引き下げ「BB」とし、引き続きネガティブとした(長期格付は「BB」から「BB-」へ、CPは「a-3」から「b」へそれぞれ1段階下げた)<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20121102-OYT1T01235.htm?from=ylist シャープの格付け、6段階引き下げ…フィッチ] 2012年11月2日20時49分 読売新聞 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://www.r-i.co.jp/jpn/body/cfp/news_release_A/2012/11/news_release_2012-A-1113_01.pdf シャープの格付をBB/BB-/bに変更、モニター継続] 格付投資情報センター2012.11.02 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*11月2日、[[日本格付研究所]]は「BBB」から1段階下げ「BBB-」とし、引き続きネガティブとする<ref>[http://www.jcr.co.jp/release/pdf/12d0643SHP.pdf シャープ] 日本格付研究所2012年11月2日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*11月5日、[[S&P]]は、会社格付・長期格付を3段階下げ、「BB+」から「B+」にした。短期・CPは「B」に据え置くが、すべてネガティブ・ウォッチとする<ref>[http://www.standardandpoors.com/ratings/articles/jp/jp/?articleType=HTML&assetID=1245342919259 【S&P】シャープの長期格付けを「B+」に格下げ、長期・短期格付けとも格下げ方向の「クレジット・ウォッチ」を継続] S&P 05-Nov-2012 19:37:00 JST {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。(11月22日、[[フィッチ・レーティングス|フィッチ]]は、[[ソニー]]を3段階下げ「BB-」、[[パナソニック]]を2段階下げ「BB」とした。両方とも投機的で、ネガティブ・ウォッチとする<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20121122-OYT1T01305.htm?from=ylist ソニーとパナソニック格下げ「投機的」フィッチ] 2012年11月22日22時13分 読売新聞 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。)
===時系列===
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)|正確性=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}
====2012年====
*3月27日、[[台湾]]の[[鴻海精密工業|鴻海(ホンハイ)精密工業]]との資本業務提携(2013年3月までに一株550円で670億円の第三者割当増資を予定。別に会長個人が堺工場を運営するシャープディスプレイプロダクト株式会社株式の46.48%を660億円でシャープから譲受)を決定。
*4月1日、[[片山幹雄]]社長(54)が代表権のない会長に、次期社長に奥田隆司常務執行役員(58)が昇格する。[[町田勝彦]]会長(68)は相談役に退く。
*6月28日、鴻海の会長の投資会社であるSIO International Holdings Limitedに堺工場を運営するシャープディスプレイプロダクト株式会社の一部株式を170億円で売却<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2012/120628-1.pdf 子会社の株式譲渡の一部完了並びに株式譲渡相手先変更に関するお知らせ] 2012年6月28日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*7月12日、SIO International Holdings Limitedにシャープディスプレイプロダクト株式会社の一部株式を490億円で売却。6月28日分と合わせ、3月発表の計画通り売却完了。シャープディスプレイプロダクト株式会社は同月17日に堺ディスプレイプロダクト株式会社に商号変更<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2012/120712.pdf 子会社の株式譲渡の完了及び子会社の商号変更に関するお知らせ] 2012年7月12日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*8月2日、5千人の人員削減<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2893186 シャープ、5000人の人員削減を発表] 2012年08月3日 [[AFPBB]] News 2016年7月26日閲覧</ref>、3月期連結決算の下方修正(最終損益予想-300億円から-2500億円に)を発表<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/120802-a.html 平成25年3月期第2四半期連結累計期間及び通期連結業績予想の修正並びに配当予想の修正に関するお知らせ] 2012年8月2日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*8月11日、液晶カラーフィルター事業の統合に伴う堺ディスプレイプロダクトの増資により、[[凸版印刷]]及び[[大日本印刷]]が株主に加わり、堺ディスプレイプロダクトはシャープの連結子会社から持分法適用関連会社に変更<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/120524-b.html シャープの子会社に対する凸版印刷及び大日本印刷の堺工場液晶カラーフィルター事業の統合(簡易吸収分割)並びにシャープの子会社の異動に関するお知らせ] 2012年5月24日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2012/120811.pdf シャープの子会社に対する凸版印刷及び大日本印刷の堺工場液晶カラーフィルター事業の統合(簡易吸収分割)の効力発生並びにシャープの子会社の異動について] 2012年8月11日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*8月15日、東証株価終値164円を記録した(1974年以来の38年ぶりの新安値)。
*8月中、[[みずほコーポレート銀行]]と[[三菱UFJ銀行|三菱東京UFJ銀行]]の主力2行は660億円をつなぎ融資<ref>[https://web.archive.org/web/20120919062351/http://www.sankeibiz.jp/business/news/120908/bse1209080501000-n1.htm シャープに1000億円追加融資 主力2行、鴻海との交渉長期化懸念] sankeibiz 2012年9月8日 2016年7月26日閲覧</ref>。
*8月末、みずほコーポレート銀行と三菱東京UFJ銀行が計1500億円の[[根抵当権]]を設定した。売却予定の市ヶ谷ビルを除くほぼすべての事業所(工場や営業拠点など。堺工場も)におよぶ<ref>[http://jp.reuters.com/article/technologyNews/idJPTYE88504I20120906 シャープ、国内事業所と営業拠点に1,500億円の根抵当権] 2012年9月7日 [[ロイター通信]] 2016年7月26日閲覧</ref>。
*9月14日、創業100周年を迎える。
*9月24日、主要取引銀行に再建計画を提示した。内容は国内外での1.1万人の人員削減(500億円の削減)など2000億円のコストカット、シャープブランドの[[スマートフォン]]の鴻海の海外工場生産、[[携帯電話]]機事業の[[富士通]]との統合などである。この案で3600億円の融資を受ける見通しである<ref>[http://www.nnn.co.jp/knews/120926/20120926019.html シャープ、富士通と統合検討 携帯電話事業で] 日本海新聞2012年09月26日 02:00 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>{{refnest|group="*"|(11月20日、富士通常務が「交渉もしていない」と語る<ref>大谷信雄執行役員常務「あくまでもシャープ社内の検討事項である。」[https://web.archive.org/web/20121205030738/http://www.sankeibiz.jp/business/news/121121/bsb1211210504000-n1.htm 富士通常務「シャープ統合案実態ない」] SANKEIBIZ 2012.11.21 05:00 {{リンク切れ|date=2016年7月}}</ref>。)}}。
*9月27日、主力取引銀行(みずほコーポレート銀行と三菱東京UFJ銀行)は再建計画を承認し、2013年6月期限で3600億円融資した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGC27015_X20C12A9TJ0000/ シャープ融資3600億円を決定 みずほコーポと三菱UFJ銀] 2012/9/28 0:55 日本経済新聞 電子版 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/120928-a.html シンジケートローン契約締結に関するお知らせ] 2012年9月28日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*11月9日、2,000人のリストラ募集を5日前倒しで締め切る。退職は2,960人{{refnest|group="*"|対象は本社・国内連結子会社に勤務する40〜59歳の社員、退職日は12月15日、費用280億円<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121110mog00m020048000c.html シャープ:希望退職締め切る 5日前倒し、予定の2000人超え] 毎日新聞2012年11月10日 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。}}<ref>[http://www.asahi.com/business/update/1120/OSK201211200045.html シャープ希望退職2960人 目標の1.5倍] 朝日新聞デジタル 11月20日(火)16時28分配信 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>{{refnest|group="*"|奈良県内では葛城、天理、大和郡山3工場の4,500人の内、500人が応募する<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20121121-OYT1T00275.htm?from=ylist シャープ希望退職、3工場の1割強が応募] 2012年11月21日15時10分 読売新聞 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。福山、東広島、三原市の3工場4,300人中では519人<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211210201.html シャープの希望退職519人] 中国新聞11月21日(水) {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。}}<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/121120-a.html 「希望退職の募集」の結果及び特別損失の計上に関するお知らせ] 2012年11月20日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*11月13日、[[インテル]]が300-400億円、[[クアルコム]]が100億円程度出資すると共同通信が報じる<ref>[http://www.47news.jp/news/2012/11/post_20121113214000.html シャープに最大400億円出資へ 米インテル] 共同通信2012/11/13 21:38 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://www.reuters.com/article/2012/11/14/us-sharp-intel-investment-idUSBRE8AC1A820121114 Intel, Qualcomm may invest $378 million in Sharp:sources] 2012年11月13日([[東部標準時|米国東部標準時]])ロイター通信 2016年7月26日閲覧</ref>。
*11月22日、鴻海に対し法的権利が生じる10%以上の出資を可能とする譲歩をすることを明らかにした<ref>[http://jp.wsj.com/Japan/Companies/node_553018 シャープ、10%以上の出資受け入れの用意-鴻海との提携条件] ウォール・ストリート・ジャーナル日本版2012年11月23日 14:39 JST {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*11月30日、海外テレビ工場3カ所([[メキシコ]]、中国・[[南京市]]、[[マレーシア]])を鴻海に550億円で売却することに大筋合意したと報道<ref>[http://www.sankeibiz.jp/business/news/121201/bsc1212010501001-n1.htm シャープ 鴻海に海外3工場売却 550億円で最終調整] SankeiBiz2012.12.1 05:00 {{リンク切れ|date=2016年7月}} {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
*12月4日、[[クアルコム]]との提携と、12月27日に[[第三者割当増資]]で49億円を調達することを発表。クアルコム子会社のPixtronixの持つMEMSディスプレイ技術とIGZO技術との統合を目指す<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2012/121204-2.pdf クアルコム社との資本提携及び子会社ピクストロニクス社とのディスプレイ技術開発契約を締結] 2012年12月4日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2012/121204-1.pdf 次世代MEMSディスプレイに関する共同開発契約及び出資引受契約の締結並びに第三者割当による新株式の発行に関するお知らせ] 2012年12月4日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
====2013年====
*3月26日、2012年3月に合意していた台湾の鴻海精密工業グループへの第三者割当増資が行われないことを発表<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2013/130326.pdf 鴻海精密工業等に対する第三者割当の払込期間の終了に関するお知らせ]}} 2013年3月26日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*5月14日、2013年3月期決算発表。最終赤字は5453億円となり、自己資本比率は6.0%に低下<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/financial/pdf/2013/1/1303_4q_tanshin.pdf 平成24年度決算報告書]}} 2013年5月14日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*6月25日、奥田隆司社長が退任。後任に高橋興三副社長が就任<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2013/130514-4.pdf 代表取締役の異動、社長人事に関するお知らせ]}} 2013年5月14日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*6月28日、資本金を2123億円から500億円に減らす[[減資]]を実施<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2013/130514-2.pdf 資本金、資本準備金及び利益準備金の額の減少並びに剰余金の処分に関するお知らせ]}} 2013年5月14日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*10月15日、公募増資により、1090億円を調達<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2013/131007-4.pdf 発行価格及び売出価格等の決定に関するお知らせ] 2013年10月7日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
====2014年====
*5月12日、2014年3月期決算発表。連結純利益115億円を計上し、2011年3月期以来の黒字転換を果たした。ただし[[配当]]については無配となった。自己資本比率は8.9%<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/financial/pdf/2014/1/1403_4q_tanshin.pdf 平成25年度決算報告書]}} 2014年5月12日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*8月28日、[[パイオニア]]株式会社との資本提携を解消<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2014/140828.pdf パイオニア株式会社との資本提携の解消に関するお知らせ]}} 2014年8月28日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*9月26日、欧州の液晶テレビ事業をスロバキアのUniversal Media Corporation(UME)社製テレビへのブランド供与に切替、欧州の白物家電事業の販売をトルコのVestel社に移管することを発表<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2014/140926-2.pdf 欧州における家電事業の構造改革に伴う特別損失発生のお知らせ]}} 2014年9月26日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*12月19日、ポーランドの液晶テレビ生産子会社の出資持分をUME社へ譲渡することを発表。欧州のAV生産・販売事業から撤退<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2014/141219.pdf 欧州における家電事業の構造改革に伴う特別損失についてのお知らせ]}} 2014年12月19日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
====2015年====
*[[5月14日]]、2015年3月期決算発表。連結営業損失480億円、連結純損失2223億円を計上し、再び巨額赤字に転落。自己資本比率は1.5%にまで低下。2016年3月期通期営業利益見通しは800億円としたが、純利益見通しは発表せず<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/financial/pdf/2015/1/1503_4q_tanshin.pdf 平成26年度決算報告書]}} 2015年5月14日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[6月30日]]、みずほ銀行・三菱東京UFJ銀行・投資ファンドに優先株を発行し、2250億円を調達。資本金を1125億円増加し2343億円とした上で減資を行い、資本金を5億円とする<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2015/150630.pdf 第三者割当による種類株式の払込完了及び発行、資本金及び資本準備金の額の減少並びに剰余金の処分の効力発生に関するお知らせ]}} 2015年6月30日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[8月21日]]、8月4日まで募集していた希望退職に国内連結子会社含め3,234人が応じる<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2015/150821.pdf 「希望退職の募集」の結果及び特別損失の計上に関するお知らせ]}} 2015年8月21日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[9月28日]]、本社ビルと田辺ビルの土地建物を、それぞれ[[ニトリ]]と[[NTT都市開発|エヌ・ティ・ティ都市開発]]に譲渡することを発表。148億円を特別利益に計上する。2016年3月に引き渡すが、2018年3月頃までは賃借して使用を継続する方針とされた(実際の経過は後述)<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2015/150928.pdf 固定資産の譲渡及び特別利益の計上に関するお知らせ]}} 2015年9月28日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[10月1日]]、社内組織を5つのカンパニー(コンシューマーエレクトロニクス・エネルギーソリューション・ビジネスソリューション・電子デバイス・ディスプレイデバイス)に再編する[[社内カンパニー]]制を導入<ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/719509.html|title=シャープ、10月1日からカンパニー制を導入。自律経営で収益強化|newspaper=AV Watch(インプレス)|date=2015-09-03|accessdate=2020-06-06}}</ref>。
*[[10月30日]]、2015年度第二四半期累計決算が、ディスプレイデバイスの業績悪化などで連結営業損失251億円、連結純損失836億円となる<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/financial/pdf/2016/3/1603_2q_tanshin.pdf 平成28年3月期 第2四半期 決算短信]}} 2015年10月30日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[11月20日]]、{{要検証範囲|全社員(17,436人)を対象とした、自社製品購入を促す「シャープ製品愛用運動」を開始。また、専用サイト「特別社員販売セール」を開設し、役員20万円、管理職10万円、一般社員5万円を目標とした自社製品の購入の呼びかけが始まる。|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}<ref name="livedoor.com">[https://news.livedoor.com/article/detail/10854295/ ライブドアニュース - 全社員に購入ノルマ 自爆営業に踏み切ったシャープの行く末] 2015年11月20日 10時26分 日刊ゲンダイ</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASHCL5JB2HCLPLFA00L.html 一般職5万円…シャープが自社製品購入に目標、戸惑いも] 2015年11月20日 朝日新聞デジタル 2016年7月26日閲覧</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/151118/wst1511180051-n1.html 苦境のシャープ、全社員に「自社製品買って!」 給与カットの中「一般社員は5万円」] 2015年11月18日 産経WEST 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[12月25日]]、株価が10年来安値の108円となる。
====2016年====
*[[1月6日]]、メキシコの液晶テレビ生産会社を、中国の家電大手Hisense([[海信]])社に27億円で売却。これに合わせて米州の液晶テレビ事業をHisense社製テレビへのブランド供与に切替<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2015/150731-2.pdf 子会社の異動を含む米州液晶テレビ事業の構造改革の実施とこれに伴う特別損失の発生に関するお知らせ] 2015年7月31日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[2月4日]]、2015年度第三四半期累計決算が、連結営業損失290億円、四半期純損失1083億円となる<ref>{{PDFlink|[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/library/financial/pdf/2016/2/1603_3q_tanshin.pdf 平成28年3月期 第3四半期 決算短信]}} 2016年2月4日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[2月25日]]、経営支援の受け入れを協議する臨時取締役会において、[[産業革新機構]]によるシャープと東芝の家電部門の統合案を退け、鴻海による買収提案を選択。一方、鴻海は前日に渡されていた[[偶発債務]]のリストに懸念を示し、買収契約の調印を保留すると回答した<ref>[http://www.sankeibiz.jp/business/news/160322/bsb1603220500001-n1.htm 交渉難航…シャープ社内に疲弊感 鴻海と締結遅れ1カ月「商売が止まる恐れも」] 2016年3月22日 SankeiBiz 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[3月30日]]、鴻海の取締役会が買収を決議。鴻海グループで第三者割当増資を3888億円で引き受け、議決権の66%を握る筆頭株主となる。業績悪化や将来負債となる恐れのある偶発債務を踏まえ、出資を当初予定の4890億円から1000億円程度減らした<ref>[http://jp.reuters.com/article/sharp-idJPKCN0WW0OC 鴻海がシャープ買収を決定、増資1000億円減 有機ELに注力] 2016年3月30日 [[ロイター通信]] 2016年7月26日閲覧</ref>。シャープも臨時取締役会で出資の減額などを受け入れた。2016年3月期通期連結営業損益見通しを1700億円の赤字に下方修正<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160330-1.pdf 平成28年3月期通期連結業績予想の修正に関するお知らせ] 2016年3月30日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[3月31日]]、シャープ新潟電子工業株式会社の全株式を同社及び経営陣に5億9千万円で譲渡<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160229-2.pdf シャープ株式会社からの株式譲渡に関する契約締結のお知らせ] 2016年2月29日 シャープ新潟電子工業株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[4月2日]]、鴻海グループと株式引受契約を締結。
*[[5月12日]]、決算発表において債務超過が発表され、東証1部より2部へ指定替えされることとなる<ref name="指定替え" />。また、堺工場への本社移転と鴻海グループ副総裁の戴正呉が新社長となることが正式に発表された<ref>[https://www.sankei.com/article/20160512-T3RQJ3AHJFJCPLZUPDBQR6Z6HA/ シャープ決算会見詳報] 2016年5月12日 産経WEST 2016年7月26日閲覧</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160512-8.pdf 定款の一部変更に関するお知らせ] 2016年5月12日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160512-6.pdf 役員人事に関するお知らせ] 2016年5月12日 シャープ株式会社 2016年7月26日閲覧</ref>。
*[[7月1日]]、堺市堺区の堺工場へ本社を移転。
*[[8月1日]]、東証2部へ指定替え。
*[[8月12日]]、鴻海グループへの第三者割当増資が実行され、鴻海精密工業の子会社となる。資本金は50億円となる<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/ir/pdf/2016/160812-4.pdf 第三者割当による新株式の払込完了及び発行、親会社、主要株主である筆頭株主及び主要株主の異動並びに資本金及び資本準備金の額の減少に関するお知らせ]</ref>。
==鴻海による改革と上場復帰 ==
シャープ社長に就任した戴は、信賞必罰の人事と事業のビジネスユニット単位での収益責任明確化(「分社化」と報じられたが、実際には後述の通りカンパニー制を廃止した)をおこなうと宣言した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ22H2T_S6A820C1EAF000/ |title=シャープ戴社長、社員に「信賞必罰の人事徹底」|newspaper=日本経済新聞|date=2016-08-22|accessdate=2020-06-06}}</ref>。
2015年10月より導入されたばかりの[[社内カンパニー]]制(5つのカンパニーを設置)を、買収直後の2016年に液晶ディスプレイのカンパニーを除いて廃止し、6事業部に再度組み直した<ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/136495?page=2|title=シャープ、戴社長のリストラに高まる緊張"信賞必罰"の人事に幹部も社員も戦々恐々 (2ページ目)|newspaper=東洋経済オンライン|date=2016-09-07|accessdate=2020-06-06}}</ref>。
最も重要とされた信賞必罰の人事制度では、ボーナスを社員の成果や営業成績ごとにかつての1.5倍差から1-8ヵ月に最大8倍差に分けることや新入社員でも優秀なら入社半年後から大幅な給与引上げなどを実施した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20171207192404/http://www.sankeibiz.jp/business/news/170314/bsb1703140613002-n1.htm |title=シャープ社長、「信賞必罰」を徹底 一時金、成果で最大8倍差|newspaper=Sankei Biz|date=2017-03-14|accessdate=2020-06-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD13H1E_T10C17A3000000/ |title=シャープ社長、17年度賞与は「信賞必罰」 1~8カ月|newspaper=日本経済新聞|date=2017-03-13|accessdate=2020-06-06}}</ref>。人事委員会の設置や等級・給与制度、管理職も能力主義で降格のように刷新し成果を上げた{{要出典|date=2020-06}}。
さらに、予算300万円以上の案件を社長決裁としたり、出張先も含めたテレビ会議の利用などの施策を導入し、東京証券取引所の2部降格から2017年12月7日に東証1部に1年4カ月の短期間復帰を果たした<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20171207-O6HOHWTR7JNY3MRJLFKKBEEXYI/ |title=シャープ東証1部「スピード復帰」の推進力は戴社長の情熱|newspaper=産経新聞|date=2017-12-07|accessdate=2020-06-06}}</ref>。
戴は、経営譲渡前の2015年に売却された旧本社および隣接する田辺ビルについて「シャープの歴史がある場所」と買い戻しに意欲を示し、田辺ビルは社長就任直後の2016年9月に139億円でエヌ・ティ・ティ都市開発から再取得した<ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1022272.html |title=シャープ、売却した田辺ビルを139億円で買い戻し|newspaper=AV Watch|date=2016-09-28|accessdate=2020-06-06}}</ref><ref name="itm170810">{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1708/10/news055.html |title=解体工事が進む:更地になったシャープ旧本社に何を思う (1/3)|newspaper=IT media|date=2017-08-10|accessdate=2020-06-06}}</ref>。しかし、旧本社ビルの買い戻しは実現せず、2017年に建物が解体された<ref name="itm170810"/>。田辺ビルには2019年2月にショールームが[[あべのハルカス]]から移転入居し、2021年度に再開発を実施する予定とされた<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20190203155956/https://www.sankeibiz.jp/business/news/190130/bsj1901301143003-n1.htm |title=シャープ3年ぶりに「第二の創業の地」へ 旧本社跡地前にショールームを2月移転|newspaper=Sankei Bis|date=2019-01-30|accessdate=2020-06-06}}</ref>。一方[[ニトリ]]が取得した旧本社跡地には、ニトリの新店が建設されることになり<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20191119-XMRCCMVZYFM3PLJUL3B7ORJDVY/ |title=シャープ旧本社跡地、東京五輪後にニトリが開業|newspaper=産経新聞|date=2019-11-19|accessdate=2020-06-06}}</ref>、2023年4月に「西田辺店」として開業した<ref>{{Cite news|url=https://www.osaka2.jp/archives/21869713.html|title=【新規開店】シャープ本社跡地に「ニトリ西田辺店」が4月1日から新規開店!【阿倍野区長池町】|newspaper=大阪つーしん|date=2023-04-03|accessdate=2023-09-20}}</ref>。
2020年には、唯一残ったカンパニーであるディスプレイデバイスカンパニーを同年度中に分社化することを発表し<ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/31993|title=シャープ、液晶パネル事業分社化 20年度中に、投資資金呼び込み |newspaper=東京新聞(共同通信配信)|date=2020-05-29|accessdate=2020-06-06}}</ref>、同年10月より「シャープディスプレイテクノロジー」として分社化された<ref name="cnp">{{Cite news|url=https://www.chunichi.co.jp/article/129677|title=新社名「シャープディスプレイテクノロジー」液晶分社化始動 亀山工場に本社|newspaper=[[中日新聞]]|date=2020-10-01|accessdate=2021-03-20}}</ref>。
シャープディスプレイテクノロジー(現在の堺ディスプレイプロダクト)は鴻海傘下となった後、[[サモア]]籍の投資ファンドWorld Praise Limitedの手に渡った。World Praise社は会長の戴正呉が過半を出資するファンドである。シャープは2022年2月に残りの20%の株式についても全て売却する方針を打ち出していたが直後に撤回し、一転して再子会社化を決定した。当初から市場では[[ブルー・オーシャン戦略|レッドオーシャン]]と化したディスプレイ市場への参入は疑問視されており、株価は鴻海買収前の水準に低迷した。2023年3月期決算においてシャープは200億円の巨額赤字に転落した<ref>{{Cite news|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/74212|title=シャープ赤字転落の原因、ディスプレイ工場「子会社化」の決断は正しかったか|newspaper=JBPress|date=2023/3/8 |accessdate=2023/5/27 |author=中田行彦}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASR5V4FM7R5RPLFA002.html|title=シャープ再建人の見果てぬ夢 危機の元凶に託した「日の丸2.0」|newspaper=朝日新聞|date=2023/5/27 |accessdate=2023/5/27 |author=中村建太}}</ref>。2023年5月には55歳以上の管理職約700名を対象とする早期退職制度の導入を発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230527-OYT1T50241/|title=シャープ、55歳以上の管理職700人に早期退職制度…最大6か月分の給与加算|newspaper=読売新聞|date=2023/5/27 |accessdate=2023/5/27}}</ref>。
==主要商品==
''下記に製品カテゴリー別に記述する''
<!-- 詳細な製品名の列挙は避けましょう。ここはデータベースではありません。 -->
<!-- 主観的な評価の記述も避けましょう。 -->
[[ファイル:SHARP LC-104tv1.jpg|thumb|日本初の10.4インチTFT搭載<br>液晶テレビ「ウィンドウ」1995年]]
[[ファイル:Mz80k.jpg|thumb|セミキットのパーソナルコンピュータ。<br />[[MZ-80K]] ]]
[[ファイル:Sharp PC-MM2-5NE.jpg|thumb|モバイルノートパソコン<br>[[Mebius]] MURAMASA]]
[[ファイル:Vodafone 905SH by SHARP.jpg|thumb|初代[[AQUOSケータイ]]<br>Vodafone [[905SH]]]]
[[ファイル:IS01 open.JPG|thumb|国内初の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載[[スマートブック]]<br>au [[IS01]](SHI01)]]
[[ファイル:SHARP DVC001.jpg|thumb|シャープ製記録[[電子媒体|メディア]]の例]]
===映像音響機器===
*液晶テレビ「[[アクオス|AQUOS]]」
*[[Blu-ray Disc|BD]]レコーダー
*[[DVDレコーダー]] - 同社は[[DVD-RW]]陣営のため、競合規格のDVD-RAMは再生のみの対応。
*[[DVDプレーヤー]]
*[[ビデオテープレコーダー]]
*[[ホームシアター]]システム
*[[ブラウン管]]テレビ - [[ブラウン管]]部分は[[OEM]]供給を受けている。
*液晶カラーモニター
*家庭用[[カムコーダー]]「液晶ビューカム」([[DV (ビデオ規格)|DV]]カメラ2機種は [https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0603/06/news094.html 生産終了] {{要検証|date=2016年7月23日 (土) 00:58 (UTC)}}) - 初期モデルは[[ニコン]]にOEM供給され、「液晶トリム」として発売されていたことがあった。
*1ビットデジタル[[音響機器|オーディオ]]「[[Sharp Auvi|Auvi]]」
**ミニコンポ
**MDラジカセ
**1ビットデジタルアンプ(単品)
**スピーカーシステム 他
**ポータブル[[ミニディスク|MD]]機器「MD-J」「Auvi」
*ボイスレコーダーなどメモリオーディオ
*ヘッドホンやマイク、ケーブルなどの各種オーディオ・ビデオアクセサリー
*記録メディア
**[[Blu-ray Disc]] - AQUOSブルーレイ売り出し。原料産地の一つである中東{{UAE}}で製品化まで行っており、他社商品と異なり製造段階で録画に必要な初期フォーマットまで済ませている。
**[[DV (ビデオ規格)|DV]]テープ
*[[携帯電話]]・[[PHS]]
**いわゆる[[ガラケー]]および[[フィーチャーフォン]] - [[AQUOSケータイ]]参照
***[[ワンセグ]]対応携帯電話「AQUOSケータイ」
***高画質カメラ搭載携帯電話(CCD1000万画素以上)「AQUOS SHOT」
***[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載携帯電話「AQUOS K」
**[[スマートフォン]]
***「[[AQUOS PHONE]]」 - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載端末
***「[[アクオス|AQUOS ZETA,SERIE,Xx,R]]」 - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載端末
***[[シャープ製のスマートフォン|その他のブランド]] - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載端末
***「[[EM・ONE]]」 - [[Windows Mobile]]OS搭載端末
***「[[W-ZERO3]]」 - [[Windows Mobile]]OS搭載端末
***「[[LEITZ PHONE 1]]」
**「[[RoBoHoN]]」 - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載ロボット型端末
:携帯電話・PHS各機種については[[:Category:携帯電話端末 (シャープ)]]および各通信事業者のページを参照''
===情報機器===
*家庭用[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]
**[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズ(現在は生産終了)
**[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ(同上)
**[[X68000]]シリーズ(同上)
**[[Mebius|メビウス]]シリーズ(同上)
**インターネット[[アクオス|AQUOS]] デスクトップパソコンのブランドで、テレビ同様AQUOSブランドで発売。同社では「パソコンテレビ」と位置付けている。2007年以降販売は行ってはいるものの新製品は出ていない。
*パソコン用ソフトウェア
**[[ベクター形式]]のWebアニメーション(「[[EVAアニメータ]]」「E-アニメータ」)
*[[スマートブック]]
**[[NetWalker]] - [[Ubuntu]]搭載端末
*[[携帯情報端末|PDA]]
**[[ザウルス]]
**[[電子手帳]]
*[[タブレット端末]]
**「[[GALAPAGOS]]」
**「[[SH-07C]]」
**「[[WS016SH|WILLCOM D4]]」 - [[Microsoft Windows Vista]]搭載端末
**「[[AQUOS PAD]]」 - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載端末
**「[[AQUOS PAD|Mebius PAD]]」 - [[Microsoft Windows 8]]搭載端末
**「RW-16G1」 - [[Microsoft Windows 8]]搭載端末
*パソコン用[[プリンター]]や[[スキャナー]]など各種[[DTP]]関連機器
*[[ポケットコンピュータ]](ポケコン)
*[[ワードプロセッサ]](ワープロ)「[[書院 (ワープロ)|書院]]」(現在は生産終了)
*[[電子辞書]]「[[Brain (電子辞書)|Brain]](ブレーン)」・「[[Papyrus (電子辞書)|Papyrus]](パピルス)」
*[[電卓]]「[[エルシーメイト]]」(大型電卓の「[[コンペット]]」はプリンタ付を除き生産終了。新製品は2005年以降出ていない)
**[[関数電卓]]
*家庭用[[ファクシミリ]]
*[[留守番電話]]機、[[コードレス電話機]]
===生活家電===
[[ファイル:SHARP-reizouko-ryo-birakidoor.JPG|thumb|両開きドア採用の冷蔵庫]]
*エアコン
*[[加湿器|加湿機]]
*加湿空気清浄機
*[[空気清浄機]]
*[[除湿機|除湿乾燥機]]「[[コンビニクーラー]]」
*[[扇風機]]「スリムイオンファン」
*[[プラズマクラスター]]イオン発生器
*[[ヘアドライヤー]]
*[[掃除機]]
*[[洗濯機]] - '''穴無し槽'''はシャープの特許
*[[LED電球]]
*[[ウォーターオーブン]]「[[ヘルシオ]]」
*[[電子レンジ]] - 電子レンジの加熱終了音(いわゆる「'''チン'''」)を生み出したのはシャープである。([[電子レンジ#電子レンジによる調理の表現]]参照)
*[[冷蔵庫]] - 同社冷蔵庫の特徴である'''両開き扉'''についてはシャープが特許を保有している。
===太陽光発電システム===
*「[[SUNVISTA]]」
===家庭用テレビゲーム機===
*[[ファミコンテレビC1]](現在は生産終了)
*[[SF-1|スーパーファミコンテレビSF1]](同上)
*[[ツインファミコン]](同上)
*[[ファミリーコンピュータ#バリエーション|ファミコンステーション]](同上)
*[[編集ファミコン]](同上)
*[[X1 (コンピュータ)|X1 Twin]]([[HE-SYSTEM]]を同社X1シリーズの筐体に搭載したもの)
*[[ゲームボーイ]]シリーズ液晶画面
*[[ニンテンドーDS]]シリーズ液晶画面
*[[PlayStation Portable|PSP]]液晶画面
===プロフェッショナル機器===
*[[デジタルサイネージ]]システム
*[[電子黒板]]「BIG PAD」
*業務用液晶カラーモニター
*デジタル[[複合機]]
*業務用[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]
*業務用[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]
*ハンディターミナル
*電子レジスタ(2023年生産終了)
*[[販売時点情報管理|POS]]システム
*業務用[[複写機|コピー機]]:[[コンビニエンスストア]]「[[ファミリーマート]]」「[[ローソン]]」などで使用されている。
*[[ファクトリーオートメーション|FA]]システム
*業務用プラズマクラスターイオン発生器
*業務用調理機器
*業務用生ごみ処理機
*産業用太陽光発電システム
*コンピュータボウリングシステム 1987年に大阪府の桜橋ボウルにコンピュータボウリングシステム「CS-1」を導入
*業務用8K[[カムコーダー]]<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/171107-b.html 業務用8Kカムコーダー<8C-B60A>を発売]</ref>
===プラズマクラスター===
シャープでは、プラズマクラスターにはイオンの力による空気の浄化や消臭といった効果があると主張していた<ref>[http://www.sharp.co.jp/pcig/feature02/ プラズマクラスターの効果] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/sbeauty/contents/ 美容家電] {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。しかし、2012年11月28日、消費者庁はシャープに対し、掃除機に搭載するプラズマクラスターがアレルギー原因物質を分解すると表示していたが、実際の効果はないとして、再発防止命令を出した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121128/k10013801881000.html シャープ掃除機に“表示性能ない”] NHKNEWSWEB 2012年11月28日 5時27分 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/11/28/kiji/K20121128004660440.html 「プラズマクラスター」掃除機に表示性能なし シャープに再発防止命令] スポニチ 2012年11月28日 20:42 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>{{refnest|group="*"|{{要検証範囲|掃除機のプラズマクラスターはレベル7000であり、スタンダードクラスの加湿空気清浄機と同レベルであるが、シャープは「プラズマクラスターの性能は立証されており、問題は掃除機のみである」としている|date=2016-07-23}}<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/121128-b.html 弊社掃除機のカタログ表示等に関する措置命令についてのお詫びとお知らせ] シャープNewsRelease 2012年11月28日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。}}{{refnest|group="*"|4月の消費者庁からの指摘で、10月末までに表示を削除する<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121129ddm008040152000c.html シャープ:掃除機過大表示 再建に冷や水、独自技術に傷] 毎日新聞 2012年11月29日 東京朝刊 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。}}。
==国内主要工場・研究所所在地==
シャープでは現在、機密保持などの理由から工場の見学は原則として受け付けておらず、工場そのものをブラックボックス化した。これに加えて公式サイト上でも国内拠点に関する詳しい情報を削除し、事業領域の説明にとどめている。(記載内容はマスコミ報道による<ref>週刊ダイヤモンド2012/09/01 p39、41 {{full|date=2016-07-23}}{{要検証|date=2016-07-23}}</ref><ref>[http://jp.reuters.com/article/technologyNews/idJPTYE88504I20120906 シャープ、国内事業所と営業拠点に1500億円の根抵当権] ロイター2012年 {{0}}9月 7日 01:21 JST {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>)
[[ファイル:Sharp Sogo Kaihatsu Center 001.JPG|220px|thumb|総合開発センター]]
[[ファイル:Sharp Hiroshima Plant.jpg|220px|thumb|広島工場]]
[[ファイル:Sharp Makuhari Building.jpg|200px|thumb|シャープ幕張ビル]]
===千葉県===
*東京支社[[幕張新都心|幕張]]ビル([[千葉市]][[美浜区]]、[[1992年]]7月完成)
===栃木県===
*旧:栃木工場([[矢板市]])(2018年生産終了。現在は修理・物流センターのみ稼働)
===三重県===
*[[シャープ亀山工場|亀山第1工場]]([[亀山市]])iPhone液晶パネル専用(テレビ用ラインを売却後、アップルからの1000億円の出資で改造)
*亀山第2工場(亀山市)タブレット端末用液晶、ニンテンドー3DSLL用パネル、IGZOパネル(旧AQUOS液晶テレビ生産を転換)
*三重工場([[多気郡]][[多気町]])・中小型液晶(第2、第3とともにスマホ、タブレット端末、カーナビ用)
** [[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|コロナウイルス感染症の流行]]に伴う[[マスク]]不足に対応するため、2020年3月中旬から空きスペースを活用してマスクの生産を開始する<ref name="cn200305">上井啓太郎「マスク生産 今月半ば シャープ三重工場」中日新聞2020年3月5日付朝刊、三重総合15ページ</ref>。日産15万枚でスタートし、50万枚まで増産する予定である<ref name="cn200305"/>。
*三重第2工場(多気郡多気町、[[1998年]]生産開始)
*三重第3工場(多気郡多気町、[[2003年]]生産開始)
===奈良県===
*総合開発センター([[天理市]])
*葛城工場([[葛城市]]、[[1981年]]完成)
*天理工場(天理市)・中小型液晶
*奈良工場([[大和郡山市]])・AV機器組立、複写機
===大阪府===
*八尾工場([[八尾市]])・白物家電(エアコン、冷蔵庫など)
===広島県===
*広島工場([[東広島市]])・携帯電話
*福山工場([[福山市]])・電子デバイス(半導体・LEDチップ、LED電球)
==国内子会社==
*シャープマーケティングジャパン株式会社(八尾市)
*シャープサポートアンドサービス株式会社(千葉市[[美浜区]])
*ワンストップサービス株式会社(八尾市)
*シャープエネルギーソリューション株式会社(八尾市)
*シャープ米子株式会社(鳥取県[[米子市]])
*シャープディスプレイマニュファクチャリング株式会社(三重県[[津市]])
*シャープディスプレイテクノロジー株式会社(三重県[[亀山市]])
*堺ディスプレイプロダクト株式会社(大阪府[[堺市]])
*シャープNECディスプレイソリューションズ株式会社([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])
*シャープセンシングテクノロジー株式会社([[奈良県]][[天理市]])
*カンタツ株式会社(東京都[[品川区]])
*シャープ福山レーザー株式会社(広島県[[福山市]])
*シャープセミコンダクターイノベーション株式会社(奈良県天理市)
*株式会社SHARP COCORO LIFE(八尾市)
*株式会社AIoTクラウド(東京都[[江東区]])
*ScienBiziP Japan株式会社(大阪市[[阿倍野区]])
*[[Dynabook (企業)|Dynabook]]株式会社(東京都[[江東区]])
*Dynabook多摩情報機器株式会社(東京都[[立川市]])
== 代理店 ==
RS Technologies、因幡電機産業 、明治電機工業 、菱洋エレクトロ 、スズデン 、鳥羽洋行等が上場している代理店である。<ref>{{Cite web|和書|title=「シャープ」の代理店140社 {{!}} メトリー |url=https://metoree.com/companies/215/distributors/ |website=metoree.com |access-date=2022-08-12}}</ref>
==テレビ番組におけるCM放送==
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月}}
{{main2|DynabookのCM出演者|Dynabook (企業)#CMキャラクター}}
=== 通常版 ===
*[[2009年]]3月まで、地上波レギュラーで提供していたテレビ番組は「[[土曜プレミアム]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・筆頭スポンサー)と「[[報道ステーション]]」([[テレビ朝日]])の毎週月曜日のみであった(以前「[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]」を提供していたが、[[ウッドワン]]の提供枠拡大と交換に一時毎週水曜日にも提供していたが、2006年3月末で一時降板)。しかし、2009年3月期の決算で業績を大幅に落としたため、「土曜プレミアム」・「報道ステーション」ともスポンサーを降板。
*[[一社提供]]枠消滅後、数年間はお正月3が日を中心に[[吉永小百合]]をCMタレントで起用した長秒CMだけを流していた時期もあったり、「[[NNNきょうの出来事]]」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])のスポンサーとして提供していた時期もあった(2002年頃 - 2004年3月)。フジテレビ系では、「[[クイズ!ヘキサゴン 今夜はクイズパレード|クイズ!ヘキサゴンII]]」、「[[クイズ$ミリオネア]]」([[パーティシペーション|PT]]扱い)などの番組で提供される。フジ系で30秒枠の場合、提供クレジットが表示されない事が多い。
*2009年4月からは当面スポットCMやPT(パーティシベーション)でCM契約を続け、[[2010年]]10月頃からは1年半ぶりのレギュラーとして、[[テレビ東京]]が放送する『[[ワールドビジネスサテライト]]』のスポンサーとなった。
*スポットCMは2週間で集中的に放送されており、1週目は30秒で、2週目は15秒で放映されていることが多い(一部例外もあり)。
*2009年頃、[[佐藤隆太]]と[[水川あさみ]]が登場するプラズマクラスター[[エアコン]]のCMで、放映時間が5秒という非常に短いものが放映されていた。
**5秒CMは、「本編1 → 民放各局のイベント等の宣伝([[地上デジタルテレビ放送]]告知CMが中心) → 本編2」という、合計15秒構成で放送される。
===特別版===
*'''「納得コマーシャル 日本一短いクイズSHOW シャープに答えて!」(「納得コマーシャル シャープに答えて!」)'''
**『[[笑っていいとも!増刊号]]』(2003年4月〜2006年9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』(2006年11月から金曜日、同)、[[土曜プレミアム]](同)など一部の番組内において[[クイズ番組]]形式の60秒(2003年4月〜2006年9月は90秒)CM'''「日本一短いクイズSHOW シャープに答えて!」'''が放送されていた。司会は[[ラサール石井]](ピンク)で、解答者は[[磯野貴理子|磯野貴理]](赤)、[[伊集院光]](オレンジ)、[[山口もえ]](緑)、[[さまぁ〜ず]]の[[三村マサカズ]](青)の4名(山口もえが産休の時は緑の席にさまぁ〜ずの[[大竹一樹]]がピンチヒッターとして登場する)。因みに後ろに居る観客席は48名。クイズ形式で自社の家電製品をプレゼンテーションする。内容は1カ月ごとに更新される。また、このCMの完全版は[[USEN]]が展開するパソコンテレビ『[[GYAO!#GyaO|GyaO]]』のコンテンツの一つにもなっており、'''「日本一短いクイズSHOW シャープに答えて!オリジナル[[完パケ]]版」'''(放送時間5分)として随時更新されていた。ナレーターは[[真地勇志]](2003年4月〜2005年3月は[[大森章督]])。2008年10月からはハイビジョン製作。
*'''「日本一縦に長いクイズSHOW シャープに答えて!」'''(店頭限定)
**前述の応用編として、店頭向けにラサール石井と磯野貴理のみが登場するバージョンもある。タイトル通り、テレビを縦長にして映像を流している。こちらでは、最初にクイズが出されて(問題は紹介する商品に関連する物で4択)正解を発表した後、「日本一SHARPなタッチモニター」の磯野が司会のラサールに商品を説明する設定になっており、2007年3月現在は「愛情ホット庫搭載冷蔵庫編」「愛情Ag+ドラム洗濯機編」「愛情気流エアコン編」の3バージョンを一部家電店のシャープ商品設置コーナーで見ることができた。
*'''「シャープ なるほど劇場」'''
**2008年12月から出演は[[佐藤隆太]]、[[水川あさみ]]の2人
===提供番組===
====現在の提供番組====
*[[ZIP!]] - [[日本テレビ放送網|日テレ]]系列・水曜7時最終ネットセールス枠
※上記以外にも、不定期・週替わりとして他の番組提供する事がある。
====過去の提供番組====
(1社提供・複数社提供含む)
*[[金の歌銀の歌]] - 民放ラジオ局、テレビ局による企画ネット番組。
*シャープ劇場 あしたは日曜日 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列
*[[薩摩飛脚#テレビドラマ|薩摩飛脚]] - [[讀賣テレビ放送|ytv]]制作、日本テレビ系列
*[[シャープクライマックス 人生はドラマだ]] - 日本テレビ系列
*[[しゃっくり寛太|しゃっくり寛太→続しゃっくり寛太]] - ytv制作、日本テレビ系列
*[[うちの奥さん 隣のママさん]] - ytv制作、日本テレビ系列
*[[月曜スター劇場]] - 日本テレビ系列
*[[シャープコミカルス・ちゃりんぼ兄弟]] - [[関西テレビ放送|関西テレビ]]製作・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系全国ネット
*[[みんなで夢を!]] - フジテレビ系列全国ネット
*[[あなた出番です!]] - 日本テレビ系列全国ネット
*[[まわる!まわる!クッキング]] - [[毎日放送]]制作・TBS系列全国ネット
*[[TBS水曜10時枠の連続ドラマ|水曜10時ドラマ (第1期)]] - 毎日放送全国ネット
*[[月曜ロードショー]] - TBS系列全国ネット
*[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー]] - TBS系列全国ネット PT扱い後、提供クレジット表示
*[[世界ウルルン滞在記]] - 毎日放送全国ネット
*[[土曜ワイド劇場]] - テレビ朝日系列全国ネット
*[[シャープ・スターアクション]] - 日本テレビ系列全国ネット
*[[クイズでクイズ|SHARPクイズでクイズ]] - 日本テレビ系列全国ネット
*[[SHARPワールドドキュメント・世界のこれがNo'1]] - 日本テレビ系列全国ネット
*[[ワールドビジネスサテライト]] - [[テレビ東京]]系列ネット
*[[パソコンサンデー]] - [[テレビ大阪]]制作、テレビ東京系列ネット
*[[ist登場]] - テレビ大阪制作、テレビ東京系列ネット
*[[SHARPワールドクイズ・カンカンガク学]] - 日本テレビ系列全国ネット
*[[SMAP×SMAP]] - フジテレビ系列全国ネット
*[[シャープと共に]] - [[ラジオ沖縄]]で放送された番組。系列家電卸売会社「沖縄シャープ電機」の[[一社提供]]
*[[報道ステーション]] - テレビ朝日系列全国ネット(木曜、以前は月曜に提供時期あり)
*[[仮面ライダー|平成仮面ライダーシリーズ]] - テレビ朝日系列全国ネット
*[[バイキング (テレビ番組)|バイキング]]-フジテレビ系列
*[[JNNニュースの森]](土曜日、1990年頃、PT) - TBS系列
*[[FNNニュースレポート23:00]](土曜日のみ23:30) - フジテレビ系列、PT
など多数。
==企業キャラクター(マスコットキャラクター)==
社名が早川電機だった昭和30年代に「シャープ坊や」がおり、シャープテレビの琺瑯看板やカタログに登場していたが間も無く姿を消した<ref>この時に「シャープ坊やの歌」(作詞:[[高垣葵]]、作曲:[[宇野誠一郎]]、歌:[[楠トシエ]]、この曲が収録されたSP盤のB面には「シャープ音頭」が収録されている。)と言うCMソングが作られ、「[[シャープコミカルス・ちゃりんぼ兄弟]]」や「[[シャープクライマックス 人生はドラマだ]]」などの同社単独提供番組における生CMのバックミュージックとしてこのインストゥルメンタルが使われた。また「今日は(こんにちは)シャープ坊や」と言う同社単独提供のラジオ番組も一時期ではあるが放送されていた。</ref>。1990年代より「リッキーくん」というキャラクターが登場し、2003年頃に方針の変更により表舞台から姿を消したが、その後もメビウスのマニュアルやEVAアニメータなどで姿を確認する事ができる。因みに父親や母親などの家族も設定されていた。
==系列店新戦略==
1958年頃に「[[シャープフレンドショップ]]」と呼ばれる自社製品のみを扱う[[系列電器店]]が発足するが、[[量販店]]や他社系列店に圧されたり後継者難・経営者の高齢化等で店舗数は伸び悩んでいた。そこでシャープは[[2007年]][[11月15日]]、これまでとは異なる新しいシャープ系列店、シャープ・バリュー・パートナー・グループ(SVPG)という新しい計画を発表した。これは量販店の安値攻勢による製品価格大幅下落の防止と、認知度が他社製品より大幅に低いといわれているシャープ製の[[白物家電]]のイメージアップにつなげるべく、発足当初からある全国約2千店のシャープ フレンドショップの再編と、他社系列店の取り込みを図る計画である。
== トラブル・不祥事 ==
=== 申告漏れ ===
[[2012年]]には、海外子会社との取引などを巡り、2011年3月期までの5年間で約54億円の[[脱税#いわゆる「申告漏れ」「所得隠し」について|申告漏れ]](うち15億円以上は意図的な所得隠しとされた)があったと、[[大阪国税局]]から指摘されていたことが判明している<ref>[https://web.archive.org/web/20120728052720/www.asahi.com/national/update/0727/OSK201207260233.html シャープ、74億円申告漏れ指摘 15億円超は所得隠し] 朝日新聞 2012年7月26日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。また2015年にも、2014年3月までの3年間にわたり、約103億円の申告漏れ(うち12億円は所得隠しとされた)を同国税局から指摘されていたことが明らかになっている<ref>[http://mainichi.jp/shimen/news/20150729dde041020028000c.html シャープ:12億円所得隠し 国税指摘 海外子会社に値引き] 毎日新聞 2015年7月29日 {{要検証|date=2016-07-23}}</ref>。
=== 他社製品を値踏み ===
[[任天堂]]が「[[ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン|ミニスーパーファミコン]]」を発表し話題になると、シャープ製品の公式[[Twitter|ツイッター]]が「ミニ[[スーパーファミコン]]」に[[ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン#収録タイトル|収録されているソフト]]に対して私(アカウント運営者)の思い出を価値に換算すると発言し値踏みした。中には価値0円と付けたソフトもあり、[[炎上 (ネット用語)|炎上]]し始めると誤解を招いたとして「価値0円は未購入である」と訂正をしたが、他社製品を公式アカウントで値踏みしていること、任天堂の公式アカウントにリプライしていることなどが問題だと批判が殺到しさらに炎上したため、問題のツイートは削除された。しかしそれでも批判はやまず、[[全国紙]]や[[メディア (媒体)|ネットメディア]]も報じ拡散されたため、シャープは不快な思いをさせたと謝罪文を投稿した<ref>[https://www.j-cast.com/2017/06/28301830.html シャープ、「値踏みツイート」で謝罪 ミニスーファミ収録ソフトに「0円」評価] j-cast 2017/6/28 15:28 {{Accessdate|2017-06-28}}</ref>。騒ぎが大きくなったことを受け、[[2017年]][[7月11日]]に同社は、関係者に迷惑を掛けたとして、該当のアカウントを閉鎖することを決めた<ref>[http://www.sankei.com/west/news/170711/wst1707110092-n1.html シャープ公式ツイッター、不適切投稿で閉鎖 製品情報…残る二つは継] 産経新聞 2017年7月11日</ref>。
=== 子会社の不正会計 ===
[[2021年]]3月12日、スマートフォン向けのカメラレンズの製造子会社「カンタツ」で、2018年4月~20年9月に架空計上などで売り上げを75億円水増しする不正会計があったと発表した<ref>{{Cite web|和書|title=シャープの子会社、不正会計75億円 出身社長も黙認:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASP3D5K3HP3DPLFA009.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-03-12 |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2018年6月}}
*[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]
**[[三和銀行]]([[メインバンク制|メインバンク]]。現・[[三菱UFJ銀行]])
*[[みずほフィナンシャルグループ]]
**[[富士銀行]](サブメインバンク。現・[[みずほ銀行]])
**[[芙蓉グループ]](ただし、芙蓉懇談会に正式加盟していない。)
*[[りそなホールディングス]]
**[[大和銀行]](現・[[りそな銀行]])
*[[堺泉北臨海工業地帯]]
*[[セレッソ大阪]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]クラブ。2019年よりユニフォームスポンサー(袖)を務めている。
*[[マンチェスター・ユナイテッド]] - イギリスのプロサッカークラブ。かつてシャープがユニフォームスポンサーを務めた。
*[[ファミリーコンピュータ]]
*[[ツインファミコン]]
*[[ゲームボーイ]]
*[[ニューエラボウル|NEW ERA BOWL(ニューエラボウル)]] - かつて、シャープカップ「平成ボウル」として開催。
*[[パイオニア]] - かつての業務資本提携先。2007年9月、資本持合いと、次世代DVDなどの分野で共同研究を行っていくことに合意したが、その後のパイオニア側の業績不振を理由に2014年8月末を以って提携解消。
*[[マキタ]] - 業務資本提携先。2013年5月、資本持合いと、シャープの有する技術を融合した当社製品開発力の強化、製品群の拡充および両者の商品企画・製造・販売面におけるバリューチェーンを相互に活用することに合意した。
*[[タカヤ]] - タカヤが60%、シャープが40%出資で「シャープタカヤ電子工業」を設立している。
*[[カスタモ]] - 携帯電話の着せ替えで、シャープの登録商標である。携帯各社での名称は「きせかえツール」(NTTドコモ)、「EZケータイアレンジ」(au)、「カスタムスクリーン」(ソフトバンクモバイル)である。
*[[AQUOS美術館 かくて名画は生まれた。]] - 2008年4月から2009年3月まで[[BS-TBS|BS-i(現・BS-TBS)]]で放送されていた番組。
*[[アイシン]] - 1970年代から80年代前半にかけて、シャープ製のカラーテレビ、VTR、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機等を「TOYOTA」ブランドで販売していた(トヨタ家庭用品の販売店限定)。
*[[日本コロムビア]] - AV機器事業が「デノン」として分社化される前の1995年から1998年頃までカラーテレビ、CDラジカセ、ポータブルMDプレーヤーをOEM供給。「コロムビア」「DENON」ブランドでそれぞれ販売していた。また1982年頃にはコロムビアより「勤行用カセットテーププレーヤー」のOEM供給を受けて販売したことがある。
*[[AQUOSケータイ]]
*[[AQUOSファミリンク]]
*[[ProPix]]
*[[AQUOS SHOT]]
*[[AQUOS PHONE]]
*[[IGZO]]
*[[GALAPAGOS]]
*[[シャープ兄弟]] - [[プロレス]]の外国人兄弟タッグ。早川電機時代にスポンサーを務めた。
*[[ガーミン・シャープ]] - [[UCIプロチーム]]に加盟している自転車競技チーム。シャープが共同スポンサーを務めている。
*[[佐々木正]] - 元副社長。電子レンジや電卓、液晶、半導体など同社の礎を築いた。
*[[東京地下鉄]] - 創業者同士が同姓同名(読みは「[[早川徳次 (東京地下鉄道)|はやかわ のりつぐ]]」)。
*[[シャープフレンドショップ]] - シャープ製品を販売する[[系列電器店]]。
*[[maimai]] - [[セガ・インタラクティブ]]のアーケードゲーム。筐体の外観がドラム式洗濯機に似ていることからお互いの広報用[[Twitter]]を通じて正式にコラボレーションすることになった。
*[[鴻海精密工業]]
*[[Dynabook (企業)]]
*[[オンキヨーホームエンターテイメント]]
*[[オンキヨーテクノロジー]]
==外部リンク==
{{Commonscat|Sharp Corporation}}
*[https://corporate.jp.sharp/ シャープ株式会社 公式サイト]
**[https://jp.sharp/ 製品とサービス]
**{{Twitter|SHARP_JP|SHARP シャープ株式会社}}
**{{Twitter|SHARP_Press|シャープ株式会社 広報部}}
**{{Twitter|SHARP_ProductS|シャープ商品}}(諸事情により閉鎖)
**{{Facebook|SHARP.Japan|SHARP シャープ株式会社}}
**{{Instagram|sharp_japan|SHARP(シャープ)}}
**{{YouTube|user=SHARParchive|SHARP ARCHIVE}}
**{{YouTube|user=SHARPsupport|シャープ サポート}}
*[http://www4.kcn.ne.jp/~shayukai/shayukai/ シャープ社友会]
*[https://corporate.jp.sharp/100th/ シャープ100年史]
{{シャープ}}
{{グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員}}
{{みどり会}}
{{芙蓉グループ}}
{{大輪会}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しやあふ}}
[[Category:シャープ|*]]
[[Category:日本の電気機器メーカー]]
[[Category:台湾の電気機器メーカー]]
[[Category:日本の電子部品メーカー]]
[[Category:日本の映像機器メーカー]]
[[Category:太陽光発電メーカー]]
[[Category:映像機器メーカー]]
[[Category:日本の照明器具メーカー|しゃーぷ]]
[[Category:日本の携帯電話メーカー]]
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[[Category:かつての音響機器メーカー]]
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[[Category:三和グループ]]
[[Category:堺区の企業]]
[[Category:日本の多国籍企業]]
[[Category:東証プライム上場企業]]
[[Category:1949年上場の企業]]
[[Category:1935年設立の企業]]
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[[Category:阿倍野区の歴史]]
[[Category:日経平均株価]]
[[Category:2016年の合併と買収]] | 2003-02-14T07:56:08Z | 2023-12-28T09:51:02Z | false | false | false | [
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1,532 | 2002年 | 2002年(2002 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。平成14年。
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。
ソルトレイクシティオリンピック - 2月8日 - 24日
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* [[干支]]:[[壬午]](みずのえ うま)
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** [[平成]]14年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2662年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4335年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]91年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]91年
* [[仏滅紀元]]:2544年 - 2545年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1422年10月16日 - 1423年10月26日
* [[ユダヤ暦]]:5762年4月17日 - 5763年4月26日
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* [[リリウス日]](LD):153116 - 153480
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=2002}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* 1月1日 - {{EUR}} [[ユーロ紙幣]]と[[ユーロ硬貨]]の流通開始。
* 1月16日 - {{IDN}} [[ガルーダ・インドネシア航空]]国内線421便が[[ジャワ島]]の川に緊急不時着水、乗員乗客60名中、客室乗務員1名が死亡、負傷者13名。{{also|ガルーダ・インドネシア航空421便不時着事故}}
* 1月29日 - {{USA}} [[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領が[[悪の枢軸]]発言をした。
=== 2月 ===
* 2月8日〜24日 - {{USA}} [[ソルトレイクシティオリンピック]]
=== 3月 ===
* 3月16日 - {{FRA}} [[マルヌ・ラ・ヴァレ]]に[[ディズニーランド・パーク (パリ)|ディズニーランド・パーク]]に次ぐ2つ目のテーマパーク、[[ウォルト・ディズニー・スタジオ・パーク]]が開園した。
=== 4月 ===
* 4月15日 - {{CHN}} [[中国国際航空]]129便が[[金海国際空港]]への着陸進入中に墜落、乗員乗客128名が死亡。{{also|中国国際航空129便墜落事故}}
* 4月21日 - {{FRA}} [[2002年フランス大統領選挙|大統領選挙]]第1回投票で[[ジャン=マリー・ル・ペン]]が決選投票に進出した。{{also|2002年フランス大統領選挙}}
=== 5月 ===
* 5月2日 - {{RUS}} ロシア軍が[[ベトナム]]の[[カムラン湾]]から撤退完了。
* 5月5日 - {{FRA}} [[2002年フランス大統領選挙|大統領選挙]]決選投票で現職の[[ジャック・シラク]]が当選した。{{also|2002年フランス大統領選挙}}
* 5月7日 - {{CHN}} [[中国北方航空]]6136便が1人の乗客の保険金目的の自殺により大連空港東の海上に墜落、乗員乗客112名全員が死亡。{{also|中国北方航空6136便放火墜落事件}}
* 5月8日 - {{CHN}} [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[亡命|亡命者]]が[[中華人民共和国|中国]][[瀋陽]]にある[[在瀋陽日本国総領事館|日本の総領事館]]へ駆け込む事件が発生した。{{also|瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件}}
* 5月20日 - {{TMP}} 主権国家として独立した。21世紀初の独立国である。
* 5月25日 - {{TWN}} [[チャイナエアライン]]611便が[[澎湖諸島]]上空で空中分解し海上に墜落、乗員乗客225名全員が死亡。{{also|チャイナエアライン611便空中分解事故}}
* 5月31日〜6月30日 - {{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|KOR}} [[2002 FIFAワールドカップ]](日本・韓国の共同開催)
=== 6月 ===
* 6月5日 - [[Mozilla Application Suite|Mozilla]] 1.0リリース。
=== 7月 ===
* 7月9日 - AU([[アフリカ連合]])が発足した。
* 7月11日 - [[欧州人権裁判所]]大法廷の裁判官17名全員が[[イギリス]]の[[性転換]]者の出生証明書の性別訂正の訴えを認める判断をくだす。
* 7月11日 - {{CHA}} 約600 - 700万年前の人類の祖先としては最古となる[[猿人]][[化石]]が発見される。
* 7月30日 - {{LTU}} [[カウナス]]で第1回リトアニア・日本建築フォーラム「[[イースト・イースト|East-East]]」が開催される。
=== 8月 ===
* 8月6日 - {{USA}} [[ラファイエット]]に[[アメリカ名誉市民]]権が授与された。
* 8月6日 - {{IND}} [[AKS素数判定法]]が[[インド工科大学]]の教授と学生3名の連名の論文で発表された。
* 8月7日 - {{COL}} [[アルバロ・ウリベ]]がコロンビア大統領に就任した。
* 8月18日 - [[将軍澳線]]開業。
* 8月24日 - [[macOS|Mac OS X]] [[Mac OS X v10.2|v10.2 Jaguar]]発売。
* 8月26日 - {{RSA}} [[ヨハネスブルク]]で[[持続可能な開発に関する世界首脳会議]](地球サミット2002)が開幕。
=== 9月 ===
*9月10日 - {{SUI}} [[国際連合|国連]]に加盟した(190番目)。
* 9月17日 - {{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|PRK}} [[小泉純一郎]]が日本の首相として史上初めて[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問した。[[日朝首脳会談]]で[[金正日]]が[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]を公式に認めた。
*9月27日 - {{TMP}} 国連に加盟した。このことにより、[[国際連合加盟国|国連の加盟国]]数が191になった。
=== 10月 ===
* 10月4日 - {{PRK}} 「六ヵ国枠組み合意」を自ら一方的に破り、核兵器開発の再開を示唆した。
* 10月12日 - {{IDN}} [[バリ島]]で爆弾テロ事件が起こり、202人が死亡した。{{also|バリ島爆弾テロ事件 (2002年)}}
* 10月15日 - {{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|KOR}} 北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。
* 10月23日 - {{RUS}} [[モスクワ]]で劇場が占拠される事件が起こり、[[特殊部隊]]の強行突入で一般人129人が死亡。{{also|モスクワ劇場占拠事件}}
=== 11月 ===
* 11月14日 - {{ARG}} [[アルゼンチン]]政府が[[世界銀行]]向け債務の不履行(デフォルト)を発表した。
=== 12月 ===
* 12月19日 - {{KOR}} 第16代[[大統領 (大韓民国)|大統領]]に[[盧武鉉]]が当選した。
== 天候・天災・観測等 ==
* [[ヨーロッパ]]、[[アメリカ合衆国|米国]]東部で[[熱波]]。[[フランス]]と[[イギリス]]で高齢者を中心に3万人以上死者。
== 芸術・文化・ファッション ==
=== スポーツ ===
{{main|2002年のスポーツ}}
==== 冬季オリンピック ====
[[ソルトレイクシティオリンピック]] - 2月8日 - 24日
* [[フィギュアスケート]]の不正採点問題
==== モータースポーツ ====
* [[F1世界選手権]] - [[ミハエル・シューマッハ]]
* [[世界ラリー選手権]] - [[マーカス・グロンホルム]]
* [[ロードレース世界選手権]] - [[ヴァレンティーノ・ロッシ]]
=== 音楽 ===
{{main|2002年の音楽}}
* 1月1日 - [[小澤征爾]]が[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]のニューイヤーコンサートを振る。
* オムニバスアルバム『[[2002 FIFA ワールドカップ公式アルバム|2002 FIFA ワールドカップ公式アルバム〜SONGS OF KOREA/JAPAN〜]]』がヒット。
* [[ポルノグラフィティ]]の[[Mugen (曲)|Mugen]]がNHK[[2002 FIFAワールドカップ]]中継公式テーマソングとなり、[[カップリング曲]]の[[Mugen (曲)|Go Steady Go!]]はNHK2002 FIFAワールドカップ中継公式イメージソングとなる。
=== 映画 ===
{{main|2002年の映画}}
* [[アイス・エイジ (映画)|アイス・エイジ]]
* [[スピリット (2002年の映画)]]
* [[インファナル・アフェア]]
* [[過去のない男]]
* [[サイン (映画)|サイン]]
* [[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]]
* [[シティ・オブ・ゴッド]]
* [[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]](米)
* [[スパイダーマン (2002年の映画)|スパイダーマン]]
* [[戦場のピアニスト]]
* [[トーク・トゥ・ハー]]
* [[25時]]
* [[28日後...]]
* [[パンチドランク・ラブ (映画)|パンチドランク・ラブ]]
* [[ハリー・ポッターと秘密の部屋]]
* [[ボウリング・フォー・コロンバイン]]
* [[ボーン・アイデンティティー]]
* [[めぐりあう時間たち]]
* [[リベリオン]]
* [[ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔]]
* [[ロード・トゥ・パーディション]]
<!--* [[リロ・アンド・スティッチ]]-->
<!--* [[007 ダイ・アナザー・デイ]](英)-->
<!--* [[サラマンダー (映画)|サラマンダー]]-->
<!--* [[スピリット (2002年の映画)|スピリット]]-->
<!--* [[トレジャー・プラネット]]-->
=== 文学 ===
{{see|2002年の文学}}
=== ゲーム ===
* 3月28日 - [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]が[[PlayStation 2|PS2]]用ソフト『[[キングダム ハーツ]]』を発売。
* 5月16日 - スクウェアがPS2用ソフト『[[ファイナルファンタジーXI]]』([[ファイナルファンタジーシリーズ|シリーズ]]初の[[MMORPG]])を発売。
* 11月21日 - [[ポケモン (企業)|ポケモン]]が[[ゲームボーイアドバンス|GBA]]用ソフト『[[ポケットモンスター ルビー・サファイア]]』を発売(日本国内2バージョン合計約534万本)。
{{See also|Category:2002年のコンピュータゲーム}}
=== 自動車 ===
* 最多販売車種:1:[[ホンダ・フィット|フィット]]、2:[[トヨタ・カローラ|カローラ]]、3:[[日産・マーチ|マーチ]]
* [[いすゞ・アスカ]]が生産終了。これにより、同社は[[乗用車]]販売から完全撤退し、その後は[[貨物自動車|トラック]]・[[バス (交通機関)|バス]]専門[[メーカー]]となる。
=== 世相 ===
* 9月17日の[[日朝首脳会談]]がきっかけで、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]の関心が高まる。
== 誕生 ==
{{see also|2002年の日本#誕生|Category:2002年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「2002年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
=== 1月 ===
* 1月1日 - [[半田陸]]、サッカー選手
* 1月1日 - キム・フィジプ、プロ野球選手
* 1月2日 - [[池戸優音]]、女優
* 1月3日 - [[木内舞留]]、ファッションモデル、女優
* 1月4日 - 四ノ宮雨、アイドル(てぃあむ)
* 1月5日 - カリン、アイドル([[ELRIS]])
* 1月6日 - [[渡辺優奈]]、女優
* 1月6日 - [[梁川奈々美]]、元アイドル(元[[カントリー・ガールズ]]、元[[Juice=Juice]])
* 1月7日 - 山口結優、アイドル
* 1月8日 - [[山田大樹]]、サッカー選手
* 1月9日 - [[荒野姫楓]]、アイドル([[SKE48]])
* 1月10日 - 神城うい、アイドル
* 1月11日 - [[櫻井美羽]]、アイドル([[ME:I]])
* 1月11日 - 森田美紗希、サッカー選手
* 1月12日 - [[増本綺良]]、アイドル([[櫻坂46]])
* 1月12日 - [[平松來馬]]、俳優
* 1月13日 - 内野艶和、競輪選手
* 1月14日 - 飯塚璃人、俳優
* 1月15日 - 雜賀恵斗、バレーボール選手
* 1月16日 - [[那須雄登]]、アイドル、タレント、俳優([[ジャニーズJr.]]、[[美 少年]])
* 1月17日 - [[サムエル (歌手)|サムエル]]、歌手
* 1月18日 - [[キ=ヤナ・フーフェル]]、サッカー選手
* 1月19日 - 白夢りこ、アイドル
* 1月20日 - 畑大雅、サッカー選手
* 1月21日 - [[赤堀君江]]、アイドル(SKE48)
* 1月22日 - 一ノ瀬夢、アイドル
* 1月23日 - [[西本まりん]]、女優
* 1月23日 - アイサ、アイドル([[STAYC]])
* 1月24日 - [[田中雅功]]、歌手、俳優 ([[EBiDAN]]、[[さくらしめじ]])
* 1月25日 - [[リル・モジー]]、ラッパー、シンガーソングライター
* 1月27日 - [[谷端奏人]]、俳優
* 1月28日 - [[森敬斗]]、プロ野球選手
* 1月28日 - [[豊田賢太]]、俳優、ファッションモデル、元アーティスト(元[[Zero PLANET]])
* 1月28日 - [[ユ・ソンホ (俳優)|ユ・ソンホ]]、歌手、俳優
* 1月28日 - [[板垣李光人]]、俳優
* 1月29日 - 荒木良太郎、サッカー選手
* 1月30日 - [[清原果耶]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、ファッションモデル
* 1月30日 - ユキ、アイドル([[SATURDAY]])
* 1月30日 - [[風優]]、女優
* 1月31日 - ホン・イェジ、女優
=== 2月 ===
* 2月2日 - [[坂本真凛]]、アイドル([[SKE48]])
* 2月2日 - [[井東紗椰]]、女優
* 2月2日 - [[瀬田さくら]]、アイドル 、女優([[ばってん少女隊]])
* 2月2日 - ソニー・ニコル・ブリンガス、女優
* 2月3日 - [[山邊歩夢]]、アイドル([[AKB48]])
* 2月4日 - リオ、アイドル([[NiziU]])
* 2月4日 - [[トロイ・パロット]]、サッカー選手
* 2月5日 - [[デイヴィス・クリーヴランド]]、[[俳優]]
* 2月5日 - [[チソン (NCT)|チソン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]、[[NCT (音楽グループ)|NCT DREAM]])
* 2月5日 - [[カン・テヒョン|テヒョン]]、アイドル([[Tomorrow X Together]])
* 2月6日 - [[日下部愛菜]]、元アイドル([[NGT48]])
* 2月7日 - [[紅林弘太郎]]、プロ野球選手
* 2月7日 - 七瀬あかね、ファッションモデル
* 2月8日 - アンナ、アイドル
* 2月9日 - [[中村輪夢]]、プロBMXライダー
* 2月10日 - [[小関舞]]、女優、元アイドル(元[[カントリー・ガールズ]])
* 2月10日 - 国武大晃、スノーボード選手
* 2月11日 - [[森元流那]]、YouTuber([[ばんばんざい]])
* 2月11日 - [[三浦龍司]]、陸上競技選手
* 2月12日 - つーとん.、YouTuber
* 2月13日 - [[ソフィア・リリス]]、女優
* 2月13日 - [[播磨かな]]、タレント
* 2月14日 - [[森田凜]]、サッカー選手
* 2月14日 - [[吉居大和]]、陸上競技選手
* 2月15日 - [[一色嶺奈]]、元アイドル(SKE48)
* 2月15日 - [[荒井暖菜]]、グラビアアイドル
* 2月16日 - [[藤田譲瑠チマ]]、サッカー選手
* 2月18日 - キム・ドンユン、アイドル([[DRIPPIN]])
* 2月19日 - 村瀬大和、競輪選手
* 2月20日 - [[吉田莉桜]]、ファッションモデル、グラビアアイドル
* 2月20日 - 高澤凪、ファッションモデル
* 2月21日 - 岡佑吏、アイドル([[ジャニーズJr.]]、[[ジャニーズJr.#AmBitious|AmBitious]])
* 2月22日 - [[岡林勇希]]、プロ野球選手
* 2月22日 - ウォンヒョク、アイドル([[E'LAST]])
* 2月24日 - [[倉島颯良]]、女優、ファッションモデル
* 2月25日 - 鈴木あんず、VRアイドル([[えのぐ]])
* 2月26日 - [[末永桜花]]、アイドル(SKE48)
* 2月26日 - [[高橋らら]]、ファッションモデル
* 2月27日 - [[浮所飛貴]]、アイドル、タレント、俳優([[ジャニーズJr.]]、[[美 少年]])
* 2月28日 - [[白河みずな]]、声優
=== 3月 ===
* 3月1日 - 廣川かのん、アイドル
* 3月1日 - パク・ハンビン、アイドル([[EVNNE]])
* 3月2日 - ウォンビン、アイドル([[RIIZE]])
* 3月2日 - 知久奈菜穂、サッカー選手
* 3月3日 - 森川優羽、アイドル
* 3月5日 - [[杉山愛佳]]、元アイドル([[SKE48]])
* 3月6日 - [[生見愛瑠]]、モデル、女優
* 3月7日 - ウンジョ、アイドル([[DreamNote|Dream Note]])
* 3月7日 - [[羽賀朱音]]、アイドル([[モーニング娘。]])
* 3月8日 - ウォンジュン、アイドル([[E'LAST]])
* 3月9日 - 河端悠、柔道家
* 3月10日 - 池谷匠翔、ジョッキー
* 3月11日 - [[山本望叶]]、アイドル([[NMB48]])
* 3月12日 - 平野流佳、スノーボード選手
* 3月13日 - チェリン、アイドル([[Cherry Bullet]])
* 3月13日 - [[佐野晶哉]]、アイドル([[ジャニーズJr.]]、[[Aぇ! group]])
* 3月14日 - パン・ジュンソ、女優
* 3月15日 - [[四十住さくら]]、[[スケートボード]]選手
* 3月16日 - 栗原桜子、元VRアイドル([[えのぐ]])
* 3月17日 - [[石田千穂]]、アイドル([[STU48]])
* 3月17日 - [[川島鈴遥]]、女優
* 3月18日 - [[椎葉剛]]、プロ野球選手
* 3月19日 - 渥美彩羽、元アイドル(SKE48)
* 3月20日 - ルカ、アイドル([[BABYMONSTER]])
* 3月20日 - ナム・スンミン、トロット歌手
* 3月22日 - [[増田里紅]]、声優
* 3月23日 - [[武元唯衣]]、アイドル(櫻坂46)
* 3月25日 - [[佐々木りお]]、女優
* 3月26日 - [[彩木咲良]]、アイドル([[たこやきレインボー]])
* 3月27日 - 小野寺偉音、アイドル
* 3月27日 - [[下村海翔]]、プロ野球選手
* 3月28日 - 美希あすか、アイドル
* 3月29日 - 中廣弥生、元アイドル(STU48)
* 3月30日 - [[石上将馬]]、サッカー選手
=== 4月 ===
* 4月1日 - 太田龍之介、サッカー選手
* 4月2日 - [[小原唯和]]、俳優、ファッションモデル
* 4月3日 - [[阿部要門]]、サッカー選手
* 4月4日 - [[ダニエル・グラスル]]、フィギュアスケート選手
* 4月4日 - [[岡田愛]]、タレント、ファッションモデル
* 4月5日 - 古屋颯眞、サッカー選手
* 4月7日 - [[石橋蛍]]、タレント
* 4月8日 - [[マヤ]]、アイドル([[NiziU]])
* 4月9日 - 常盤亨太、サッカー選手
* 4月10日 - セミ、アイドル([[CIGNATURE]])
* 4月10日 - [[畑芽育]]、女優
* 4月10日 - [[熊谷仁志]]、俳優、ファッションモデル
* 4月12日 - [[中山礼都]]、プロ野球選手
* 4月13日 - キム・ジョンヒョン、アイドル(DONGKIZ)
* 4月14日 - 阪井暖、サッカー選手
* 4月15日 - [[坂本勇人 (捕手)|坂本勇人]]、プロ野球選手
* 4月16日 - [[セイディー・シンク]]、女優
* 4月16日 - [[辻七音]]、女優、タレント
* 4月17日 - レナ、アイドル([[公園少女]])
* 4月18日 - [[鈴木史哉]]、サッカー選手
* 4月19日 - [[ローレン・グレイ]]、シンガーソングライター
* 4月20日 - [[ENHYPEN|ジェイ]]、アイドル([[ENHYPEN]])
* 4月21日 - 吉川直輝、サッカー選手
* 4月22日 - 吉田有志、サッカー選手
* 4月23日 - [[チャ・ウンギ]]、元子役、アイドル([[TO1]])
* 4月24日 - [[内星龍]]、プロ野球選手
* 4月25日 - [[細川凌平]]、プロ野球選手
* 4月26日 - [[キム・チェヒョン]]、アイドル([[Kep1er]])
* 4月27日 - 稲葉楽、サッカー選手
* 4月28日 - 山下栞、[[アイスホッケー]]選手
* 4月29日 - ソン・スヒョン、女優
* 4月30日 - テデン・メンジ、サッカー選手
=== 5月 ===
* 5月1日 - [[後藤聖那]]、アーティスト、ファッションモデル([[ERROR (グループ)|ERROR]])
* 5月2日 - [[稲福卓]]、サッカー選手
* 5月3日 - [[須藤菜々子]]、声優
* 5月4日 - ジョー・ゲルハルト、サッカー選手
* 5月5日 - 田邊秀斗、サッカー選手
* 5月6日 - [[エミリー・アリン・リンド]]、女優
* 5月7日 - イェダム、アイドル([[TREASURE (音楽グループ)|TREASURE]])
* 5月7日 - ユチェ、アイドル([[NATURE (音楽グループ)|NATURE]])
* 5月7日 - いもと。、シンガーソングライター
* 5月8日 - 太田陽斗、サッカー選手
* 5月9日 - 南拓都、サッカー選手
* 5月10日 - [[船木結]]、元アイドル(元[[アンジュルム]]、元[[カントリー・ガールズ]])
* 5月10日 - マンデー、アイドル(Weeekly)
* 5月11日 - シオン、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 5月11日 - 足袋井愉環、バレーボール選手
* 5月12日 - [[渡辺あやの]]、[[YouTuber]]、モデル
* 5月12日 - [[池田瑛紗]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 5月12日 - ユク、アイドル([[DKB (音楽グループ)|DKB]])
* 5月13日 - キム・ミンソ、アイドル([[DRIPPIN]])
* 5月14日 - [[マーガリタ・アームストロング=ジョーンズ]]、イギリスの王族
* 5月14日 - [[白本彩奈]]、モデル、女優
* 5月15日 - [[林鼓子]]、声優
* 5月15日 - [[田口乙葉]]、ファッションモデル
* 5月16日 - 森下悠、サッカー選手
* 5月17日 - [[松本遼大]]、プロ野球選手
* 5月18日 - [[アリーナ・ザギトワ]]、フィギュアスケート選手
* 5月18日 - [[河野奈々帆]]、元アイドル([[NMB48]])
* 5月20日 - [[佐々木大光]]、アイドル([[ジャニーズJr.]]、[[7 MEN 侍]])
* 5月21日 - [[川原田純平]]、プロ野球選手
* 5月22日 - 菅原脩斗、サッカー選手
* 5月23日 - 加藤明星、サッカー選手
* 5月24日 - [[逢来りん]]、声優
* 5月24日 - [[前田俊]]、モデル
* 5月25日 - 山崎夏菜、アイドル
* 5月26日 - [[横川旦陽]]、サッカー選手
* 5月27日 - 上水口姫香、タレント
* 5月28日 - [[長見玲亜]]、女優
* 5月29日 - [[桑原秀侍]]、プロ野球選手
* 5月30日 - [[豆原一成]]、アイドル([[JO1]])
* 5月31日 - [[難波実夢]]、競泳選手
=== 6月 ===
* 6月1日 - エディ、アイドル(RoaD-B)
* 6月2日 - 蒼井智乃、アイドル
* 6月3日 - ヤン・クート、サッカー選手
* 6月4日 - 小高佐季子、将棋
* 6月5日 - 辻岡慶次、柔道家
* 6月6日 - [[入江大樹]]、プロ野球選手
* 6月7日 - 村山蒼也、俳優
* 6月8日 - 平野碧、サッカー選手
* 6月9日 - 勝木翔也、サッカー選手
* 6月10日 - [[辻垣高良]]、プロ野球選手
* 6月11日 - [[南沙良]]、女優、ファッションモデル
* 6月12日 - [[森山瑛]]、俳優
* 6月13日 - [[ナム・ダルム]]、俳優
* 6月15日 - [[長﨑美柚|長崎美柚]]、卓球選手
* 6月16日 - [[榎本ゆいな]]、モデル
* 6月17日 - [[新田あゆな]]、グラビアアイドル
* 6月18日 - [[下慎之介]]、プロ野球選手
* 6月19日 - 浅野ヒナ、アイドル
* 6月20日 - サンシャイン、アイドル([[NATURE (音楽グループ)|NATURE]])
* 6月20日 - [[畠山あやな]]、女優
* 6月21日 - 末次颯、サッカー選手
* 6月22日 - 中川瑚々、サッカー選手
* 6月23日 - [[前田こころ]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]・雨ノ森 川海)
* 6月24日 - 原田珠々華、シンガーソングライター
* 6月25日 - 大和蓮、サッカー選手
* 6月26日 - 一ノ瀬広乃、アイドル
* 6月27日 - [[ジャラッド・ブランスウェイト]]、サッカー選手
* 6月28日 - [[出澤杏佳]]、卓球選手
* 6月29日 - 伊藤太陽、サッカー選手
* 6月30日 - [[貞野遥香]]、アイドル([[NMB48]])
* 6月30日 - [[古田愛理]]、ファッションモデル、女優
* 6月30日 - [[髙村栞里]]、タレント
=== 7月 ===
* 7月1日 - 本川愛花、アイドル
* 7月2日 - [[尾澤るな]]、女優
* 7月2日 - [[北村燦來]]、タレント
* 7月3日 - 福本悠、サッカー選手
* 7月5日 - [[矢作萌夏]]、元アイドル、シンガーソングライター(元[[AKB48]])
* 7月6日 - [[近藤蔵波]]、サッカー選手
* 7月8日 - [[歌田初夏]]、元アイドル(AKB48)
* 7月9日 - [[下田翔大]]、俳優、タレント
* 7月9日 - [[チャ・ジュノ]]、アイドル([[DRIPPIN]]、元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* 7月10日 - [[池間夏海]]、女優、ファッションモデル
* 7月10日 - [[川床明日香]]、女優、ファッションモデル
* 7月13日 - [[牧原巧汰]]、プロ野球選手
* 7月14日 - キム・テレ、アイドル([[ZEROBASEONE]])
* 7月14日 - 城水晃太、サッカー選手
* 7月15日 - 上西峻平、サッカー選手
* 7月16日 - [[山下舜平大]]、プロ野球選手
* 7月17日 - [[豊田ルナ]]、グラビアアイドル、タレント
* 7月19日 - [[藤井聡太]]、プロ棋士
* 7月20日 - パク・ハヨン、女優
* 7月21日 - [[紀平梨花]]、フィギュアスケート選手
* 7月22日 - [[フェリックス (デンマーク王子)|フェリックス]]、デンマークの王族
* 7月25日 - [[道枝駿佑]]、アイドル、俳優([[なにわ男子]])
* 7月26日 - マイケル・キャンピオン、俳優
* 7月26日 - [[百瀬拓実]]、俳優、タレント
* 7月28日 - [[成岡輝瑠]]、サッカー選手
* 7月28日 - [[石浜芽衣]]、アイドル([[虹のコンキスタドール]])
* 7月29日 - [[秋山眞緒]]、アイドル([[つばきファクトリー]])
* 7月29日 - [[阿部夢梨]]、アイドル([[SUPER☆GiRLS]])
* 7月30日 - [[川﨑皇輝]]、アイドル(ジャニーズJr.、[[ジャニーズJr.#少年忍者|少年忍者]])
* 7月31日 - [[松本隆之介]]、プロ野球選手
=== 8月 ===
* 8月1日 - [[ウーナ・ローレンス]]、女優
* 8月1日 - 松本拓真、タレント
* 8月3日 - キム・ドヒョン、モデル、俳優
* 8月6日 - [[山本彩加]]、元アイドル([[NMB48]])
* 8月7日 - [[蒔田彩珠]]、女優
* 8月8日 - [[田畑百葉]]、カーリング選手
* 8月9日 - [[髙橋宏斗]]、プロ野球選手
* 8月12日 - 石田隼将、サッカー選手
* 8月12日 - [[鈴木彩艶]]、 サッカー選手
* 8月13日 - [[永瀬莉子]]、ファッションモデル、女優
* 8月13日 - [[宮原響]]、ファッションモデル
* 8月14日 - [[矢久保美緒]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* 8月14日 - [[ヒュニンカイ]]、アイドル([[Tomorrow X Together]])
* 8月15日 - [[長尾謙杜]]、アイドル、俳優([[なにわ男子]])
* 8月16日 - [[新保海鈴]]、サッカー選手
* 8月17日 - [[櫻井音乃]]、グラビアアイドル
* 8月18日 - 藤野快斗、サッカー選手
* 8月19日 - [[ブライトン・シャルビノ]]、女優
* 8月20日 - [[清田みくり]]、モデル、女優
* 8月21日 - 渡邉吏海、サッカー選手
* 8月22日 - 影山塁飛、サッカー選手
* 8月23日 - [[岩﨑大昇]]、アイドル、俳優、タレント(ジャニーズJr.、美 少年)
* 8月23日 - イェジュン、アイドル([[E'LAST]])
* 8月25日 - [[鈴木海音]]、サッカー選手
* 8月26日 - [[青山華依]]、陸上競技選手
* 8月27日 - 高野捺貴、サッカー選手
* 8月29日 - 藤井大翔、サッカー選手
* 8月31日 - [[崎山蒼志]]、シンガーソングライター
* 8月31日 - [[ルーシー]]、アイドル([[Weki Meki]])
=== 9月 ===
* 9月2日 - クク・スンジュン、元アイドル(元[[KINGDOM]])
* 9月3日 - [[園田あいか]]、女優、元アイドル(元[[カメトレ]])
* 9月4日 - サンア、アイドル([[LIGHTSUM]])
* 9月6日 - [[アッシャー・エンジェル]]、俳優、ミュージシャン
* 9月7日 - [[小坂菜緒]]、アイドル、女優、ファッションモデル(日向坂46)
* 9月8日 - [[ゲイテン・マタラッツォ]]、俳優、歌手
* 9月9日 - [[ソン・ドンピョ]]、アイドル(MIRAE、元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* 9月10日 - [[高尾奏音]]、声優
* 9月10日 - [[金村美玖]]、アイドル、ファッションモデル(日向坂46)
* 9月11日 - [[早真之介]]、プロ野球選手
* 9月11日 - イ・ジョンヒョン、アイドル([[EVNNE]])
* 9月12日 - [[岡本大翔]]、プロ野球選手
* 9月13日 - [[日向未来]]、声優
* 9月14日 - 今井颯人、サッカー選手
* 9月16日 - [[長谷川美月]]、ファッションモデル、タレント
* 9月16日 - チョウォン、アイドル([[LIGHTSUM]])
* 9月17日 - [[カン・ミニ]]、アイドル([[CRAVITY]]、元[[X1 (音楽グループ)|X1]])
* 9月17日 - [[弓木大和]]、俳優
* 9月18日 - [[森愁斗]]、アーティスト、[[TikToker]]、[[YouTuber]]([[BUDDiiS]])
* 9月18日 - [[髙田琢登]]、プロ野球選手
* 9月18日 - 小田奏、サッカー選手
* 9月18日 - キム・ミン、リズム体操選手
* 9月18日 - [[田川知樹]]、サッカー選手
* 9月20日 - [[猪狩蒼弥]]、アイドル、俳優、タレント(ジャニーズJr.、[[HiHi Jets]])
* 9月20日 - [[リリア]]、タレント
* 9月21日 - [[水野愛理]]、アイドル([[SKE48]])
* 9月21日 - [[福富つき|ツキ]]、元ファッションモデル、アイドル([[Billlie]])
* 9月22日 - [[三原羽衣]]、モデル、女優
* 9月24日 - ガウル、アイドル([[IVE (音楽グループ)|IVE]])
* 9月26日 - 大野榛里、サッカー選手
* 9月28日 - [[濱岸ひより]]、アイドル、ファッションモデル(日向坂46)
* 9月29日 - アヨン、アイドル([[SATURDAY]])
* 9月30日 - [[マディー・ジーグラー]]、ダンサー、俳優、モデル
* 9月30日 - [[作間龍斗]]、アイドル、俳優、タレント(ジャニーズJr.、[[HiHi Jets]])
* 9月30日 - [[伊達さゆり]]、声優
=== 10月 ===
* 10月4日 - 田中優也、サッカー選手
* 10月6日 - [[クレオパトラ・ストラタン]]、[[歌手]]
* 10月8日 - [[伊藤理々杏]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* 10月8日 - [[大橋あかり]]、ファッションモデル
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* 10月14日 - 平野海祝、[[スノーボード]]選手
* 10月16日 - あいなん、YouTuber
* 10月16日 - [[来田涼斗]] プロ野球選手
* 10月17日 - [[髙寺望夢]]、プロ野球選手
* 10月17日 - リリー、アイドル([[NMIXX]])
* 10月18日 - 深宮祐徳、サッカー選手
* 10月19日 - [[村星りじゅ]]、タレント、歌手
* 10月20日 - 西村伊織、サッカー選手
* 10月21日 - [[北園丈琉]]、体操選手
* 10月22日 - [[仲三河優太]]、プロ野球選手
* 10月23日 - ニンニン、アイドル([[aespa]])
* 10月24日 - [[Ado (歌手)|Ado]]、歌手
* 10月25日 - 菅野紘希、サッカー選手
* 10月26日 - [[リク]]、アイドル([[NiziU]])
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* 10月27日 - 松浦大武、サッカー選手
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* 10月31日 - [[アンス・ファティ]]、サッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])
* 10月31[[10月16日|日]] -長井絢音、声優
=== 11月 ===
* 11月2日 - [[福山絢水]]、ファッションモデル
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* 11月7日 - [[伊藤小春]]、アイドル([[ふわふわ]])
* 11月8日 - [[熊田胡々]]、女優
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* 11月11日 - [[清水ひまわり]]、アイドル([[マジカル・パンチライン]])
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* 11月16日 - [[中川美音]]、元アイドル([[NMB48]])
* 11月16日 - [[さなり]]、ラッパー
* 11月16日 - 西川樹里、ファッションモデル
* 11月16日 - [[カイル・キャトレット]]、俳優
* 11月17日 - [[石川優]]、陸上競技選手
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* 11月26日 - [[植村颯太]]、俳優、モデル
* 11月26日 - [[とうあ]]、YouTuber
* 11月30日 - [[ソン・ヒョンジュン]]、歌手、ダンサー、ラッパー([[CRAVITY]]、元[[x1 (音楽グループ)|X1]])
* 11月30日 - [[キム・ナヨン (2002年生のアイドル)|キム・ナヨン]]、アイドル([[LIGHTSUM]])
=== 12月 ===
* 12月1日 - [[山出愛子]]、シンガーソングライター
* 12月1日 - [[白井琴望]]、元アイドル([[SKE48]])
* 12月2日 - [[佐古真礼]]、サッカー選手
* 12月4日 - [[莉子 (モデル)|莉子]]、ファッションモデル、女優
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* 12月7日 - [[笠島尚樹]]、プロ野球選手
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* 12月14日 - [[加藤翼 (野球)|加藤翼]]、プロ野球選手
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* 12月17日 - [[佐藤龍我]]、アイドル、タレント、俳優、ファッションモデル(ジャニーズJr.、[[美 少年]])
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* 12月19日 - [[幸阪茉里乃]]、アイドル(櫻坂46)
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* 12月19日 - [[石井萌々果]]、女優、モデル、元アイドル(元[[Pocchimo]])
* 12月20日 - [[杉山優奈]]、元女優
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* 12月23日 - [[フィン・ウルフハード]]、俳優
* 12月25日 - [[野澤大志ブランドン]]、サッカー選手
* 12月26日 - [[嘉手苅浩太]]、プロ野球選手
* 12月30日 - [[居谷匠真]]プロ野球選手
* 12月30日 - [[土田龍空]]、プロ野球選手
* 12月31日 -
== 死去 ==
{{See|訃報 2002年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[小柴昌俊]]、[[レイモンド・デイビス]]、[[リカルド・ジャコーニ]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[田中耕一]]、[[ジョン・フェン]]、[[クルト・ヴュートリッヒ]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[シドニー・ブレナー]]、[[ロバート・ホロビッツ]]、[[ジョン・サルストン]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ケルテース・イムレ]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ジミー・カーター]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ダニエル・カーネマン]]、[[バーノン・スミス]]
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2002|date=2011年7月}}
* 1月11日 - エイドリアンが死去。(映画『[[ロッキー (映画)|ロッキー]]』シリーズ)
* 9月 - 太平洋を航行していた豪華客船「スペンサーレイン号」で、モーフィアス・デュバル率いるテロリストが[[T-ウィルス]]を散布し、バイオハザードが発生。(ゲーム『[[ガンサバイバーシリーズ|ガンサバイバー4]]』)
* 侵略者「バグア彗星人」の母星「バグア彗星」を攻撃すべく、3機の宇宙戦艦「宇宙の騎士(ユニバース・ナイト)」からなる宇宙艦隊がバグア彗星の存在する月の裏側へと向かい、[[アペニン山脈 (月)|アペニン山脈]]火口に築かれたバグア要塞を粉砕する。(絵物語『[[地球SOS|宇宙艦隊]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 小松崎茂|authorlink=小松崎茂 |title = 地球SOS 超特作科学冒険物語 |publisher = [[双葉社]] |year = 2002 |pages = 360-368,371 |isbn = 978-4-575-29484-2}}</ref>
* [[宇宙探査機]]「ノーマッドMk-15c」が[[地球外生命|宇宙生物]]探索のために打ち上げられるが、その後消息を絶つ。(特撮テレビ番組『[[宇宙大作戦]]』)<ref>[http://www.startrek.com/database_article/nomad Nomad] - StarTrek.com([[スタートレック]]シリーズ公式サイト、英語)。2018年4月6日閲覧。</ref><ref>[http://www.startrek.com/database_article/the-changeling Changeling, The] - StarTrek.com(スタートレックシリーズ公式サイト、英語)。2018年4月6日閲覧。</ref>
* 探検家ジャン・ウェンズィに率いられた宇宙船「ジョンソン」が、人類で初めて[[冥王星]]に到達。ウェンズィらはその探検行の中で冥王星人と友好的に接触する。(小説『[[キャプテン・フューチャー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author=エドモンド・ハミルトン|authorlink=エドモンド・ハミルトン |title = キャプテン・フューチャー全集1 恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! |publisher = [[東京創元社]] |year = 2004 |pages = 568,572-575 |isbn = 978-4-488-63711-8}}</ref>
* 2億円を強奪し、大量殺人を犯したギャング団の首領ユダ・ペーター、メイドロボット・井之頭の密告を受け[[火星]]へ逃亡。(漫画『[[鉄腕アトム]]』「火星からかえって来た男の巻」)
* シルバーエクスプレス指揮下のブラッチャー達による地球侵略計画が再開される。(アニメ『[[電光超特急ヒカリアン]]』)
* USロボット&機械人間株式会社のアルフレッド・ラニング博士によって、初の発声装置を有する自力走行ロボットが公開される。その後、このロボットは[[水星]]への第一次探検隊で採鉱のために使用される。(小説『[[われはロボット]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アイザック・アシモフ|authorlink=アイザック・アシモフ |title = われはロボット〔決定版〕 |publisher = [[早川書房]] |year = 2004 |pages = 9,10,53-58 |isbn = 978-4-15-011485-5}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|2002}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
* {{日本語版にない記事リンク|2002年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2002}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/2002%E5%B9%B4 |
1,533 | ハードウェア | ハードウェア(英語: hardware)とは、コンピュータなどのシステムにおいて、機械、装置、設備、部品といった物理的な構成要素をいう。ソフトウェアとの対比語であり、単に「ハード」とも呼ばれる。
転じて、コンピュータとは無関係な分野においても、物理的な設備・施設・車両などを「ハードウェア」、物理的な形を持たない規則・運用・教育・技術・ノウハウなどを「ソフトウェア」と呼ぶことがある。
英語でハードウェア (hardware) は、本来は「金物類、金属製品」の意味であり、かつては木材製品などとの対比語として用いられた。例えば英語で "hardware store" は、日本で言う「金物屋」を意味する。 | [
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| ハードウェアとは、コンピュータなどのシステムにおいて、機械、装置、設備、部品といった物理的な構成要素をいう。ソフトウェアとの対比語であり、単に「ハード」とも呼ばれる。 転じて、コンピュータとは無関係な分野においても、物理的な設備・施設・車両などを「ハードウェア」、物理的な形を持たない規則・運用・教育・技術・ノウハウなどを「ソフトウェア」と呼ぶことがある。 | {{otheruses||映画|ハードウェア (映画)}}
'''ハードウェア'''({{lang-en|hardware}})とは、[[コンピュータ]]などの[[システム]]において、[[機械]]、[[装置]]、[[設備]]、部品といった物理的な構成要素をいう<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ハードウェアとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2-7166|website=コトバンク|accessdate=2021-06-14|language=ja|first=流通用語辞典,DBM用語辞典,ASCII jpデジタル用語辞典,精選版 日本国語大辞典,日本大百科全書(ニッポニカ),IT用語がわかる辞典,百科事典マイペディア,カメラマン写真用語辞典,世界大百科事典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。[[ソフトウェア]]との対比語であり、単に「ハード」とも呼ばれる。
転じて、コンピュータとは無関係な分野においても、物理的な設備・施設・車両などを「ハードウェア」、物理的な形を持たない規則・運用・教育・技術・ノウハウなどを「ソフトウェア」と呼ぶことがある<ref name=":0" />。
== 語源 ==
英語でハードウェア (hardware) は、本来は「金物類、金属製品」の意味であり、かつては木材製品などとの対比語として用いられた。例えば英語で "hardware store" は、日本で言う「金物屋」を意味する。
==パーソナルコンピュータのハードウェア==
{{main|パーソナルコンピュータのハードウェア}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連項目==
{{wiktionary|hardware}}
*[[コンピュータ・アーキテクチャ]]
*[[オープンソースハードウェア]]
*[[金物]]
*[[仮想機械]]
{{コンピュータ科学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はあとうえあ}}
[[Category:ハードウェア|*はあとうえあ]]
[[Category:コンピュータの仕組み]] | 2003-02-14T08:00:56Z | 2023-10-23T07:50:00Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2 |
1,534 | 代数学 | 代数学(だいすうがく、algebra)は、数学の一分野で、数の代わりに文字を用いて方程式の解法などを研究する学問。現代の代数学はその研究範囲を大きく広げ、半群・群・環・多元環(代数)・体・束などの代数系を研究する学問(抽象代数学)となった。代数学の考え方は、解析学や幾何学等にも浸透しており、数学の諸分野に共通言語を提供する役割を果たしている。
以下に示す代数学の諸分野の名に現れる半群・群・環・多元環(代数)・体・束は、代表的な代数的構造である。
群・環・多元環・体の理論はガロアなどによる代数方程式の解法の研究などに起源を持ち、束論はブールによる論理の数学的研究などに起源を持つ。
現代の日本の大学では 1, 2 年次に微分積分学と並んで線型代数学を学ぶが、線型代数は線型空間という代数系を研究する代数学の一分野である。
プラトンの時代までに、古代ギリシアの数学は大きな変化を遂げた。ギリシア人は線で描いた幾何学図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する幾何代数の考え方を生み出した。ディオファントス(紀元3世紀)はアレクサンドリアの数学者で『算術』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は代数方程式の解法に関するものである。
algebra という語はアラビア語の al-jabr (アラビア文字表記:الجبر、"reunion of broken parts"(バラバラのものの再結合))に由来し、近代数学はアラビア数学から発展したもので、その起源を遡ると古代インドの数学にたどり着く。9世紀のバグダードの数学者アル=フワーリズミーが著作した 『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』(820年)を、チェスターのロバート(あるいはバースのアデラード) )が、"Liber algebrae et almucabala"としてラテン語に翻訳した。この書によってフワーリズミーは代数学を幾何学や算術から独立した一分野として確立した。これが後500年間にわたってヨーロッパの大学で教えられたという。al-jabr は、アラビア語では「al」(阿: ال)が定冠詞、「jabr」(阿: جبر)が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味であることから、インド数学のことである。それ以前にフワーリズミーはインドの数学から学んだことを『インドの数の計算法』として著し、イスラム世界に広めた。これは二次方程式、四則演算、十進法、0などの内容でラテン語に翻訳され、著者の名は「アルゴリズム」の語源であるといわれている。
代数学の起源は古代バビロニアとされており、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。古代バビロニア人は、今日一次方程式や二次方程式、不定一次方程式を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。一方同時代(紀元前1千年紀)のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば、「リンド数学パピルス」、ユークリッドの『原論』、『九章算術』などである。『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世アラビア数学がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。
ヘレニズム期の数学者アレクサンドリアのヘロンとディオファントスやインドの数学者ブラーマグプタらはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、ディオファントスの『算術』やブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』といった成果が生まれた。例えば、二次方程式の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのがブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』である。その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。
ギリシャ人数学者ディオファントスは昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある。ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する。一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(al-jabr の本来の意味とされている)、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し、代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する。フワーリズミーの代数学はもはや一連の問題と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した。
ペルシャの数学者ウマル・ハイヤームは代数幾何学の創始者とされており、三次方程式の一般解を見出したことで知られる。同じくペルシャの数学者シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ(ペルシア語版、英語版)は様々な三次方程式の代数解や数値解を求めた。彼は関数の概念も生み出した。インドの数学者マハーヴィーラとバースカラ2世、ペルシャの数学者アル=カラジ(ペルシア語版、英語版)、中国の数学者朱世傑は、三次、四次、五次などの高次多項式方程式を数値的手法で解いた。13世紀にはフィボナッチの三次方程式の解法に代表されるように、ヨーロッパにおける代数学の復興がなされた。一方でイスラム世界では数学が衰退し、それと入れ替わるようにヨーロッパで数学が盛んになっていった。その後、代数学はヨーロッパを中心として発展していった。
16世紀末のフランソワ・ビエトは、古典的学問分野としての代数学を創始した。1637年のルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は解析幾何学の先駆けであり、近代的な代数的記法を導入したものである。代数学の歴史上重要なもう1つの出来事は、16世紀中ごろに三次方程式および四次方程式の代数学的一般解が得られたことである。17世紀には日本の数学者である関孝和が行列式の考え方を考案し、それとは独立にゴットフリート・ライプニッツが10年ほど遅れて同じ考え方に到達した。行列式は連立一次方程式を行列を使って解くのに使われる。18世紀のガブリエル・クラメールも行列と行列式について貢献した。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは1770年の論文 Réflexions sur la résolution algébrique des équations で根の置換について研究し、ラグランジュの分解式(英語版) (Lagrange resolvent) を導入した。パオロ・ルフィニは置換群について研究し、同時に代数方程式の解法についても研究した。
19世紀には抽象代数学が生まれた。当初は後にガロア理論と呼ばれるようになった分野と構成可能性問題が中心だった。近代代数学は、リヒャルト・デーデキントやレオポルト・クロネッカーの業績に見られるように代数的整数論や代数幾何学といった境界領域を通して数学の他の領域とも密接に関連している。ジョージ・ピーコック(英語版)は算術と代数学における公理的思考法を創始した。オーガスタス・ド・モルガンは Syllabus of a Proposed System of Logic において関係代数を見出した。ウィラード・ギブズは3次元空間のベクトルの代数学を生み出し、アーサー・ケイリーは行列の代数学(非可換代数学の一種)を生み出した。
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"text": "代数学の起源は古代バビロニアとされており、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。古代バビロニア人は、今日一次方程式や二次方程式、不定一次方程式を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。一方同時代(紀元前1千年紀)のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば、「リンド数学パピルス」、ユークリッドの『原論』、『九章算術』などである。『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世アラビア数学がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。",
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"text": "ヘレニズム期の数学者アレクサンドリアのヘロンとディオファントスやインドの数学者ブラーマグプタらはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、ディオファントスの『算術』やブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』といった成果が生まれた。例えば、二次方程式の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのがブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』である。その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。",
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"text": "ギリシャ人数学者ディオファントスは昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある。ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する。一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(al-jabr の本来の意味とされている)、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し、代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する。フワーリズミーの代数学はもはや一連の問題と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した。",
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"text": "ペルシャの数学者ウマル・ハイヤームは代数幾何学の創始者とされており、三次方程式の一般解を見出したことで知られる。同じくペルシャの数学者シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ(ペルシア語版、英語版)は様々な三次方程式の代数解や数値解を求めた。彼は関数の概念も生み出した。インドの数学者マハーヴィーラとバースカラ2世、ペルシャの数学者アル=カラジ(ペルシア語版、英語版)、中国の数学者朱世傑は、三次、四次、五次などの高次多項式方程式を数値的手法で解いた。13世紀にはフィボナッチの三次方程式の解法に代表されるように、ヨーロッパにおける代数学の復興がなされた。一方でイスラム世界では数学が衰退し、それと入れ替わるようにヨーロッパで数学が盛んになっていった。その後、代数学はヨーロッパを中心として発展していった。",
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"text": "16世紀末のフランソワ・ビエトは、古典的学問分野としての代数学を創始した。1637年のルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は解析幾何学の先駆けであり、近代的な代数的記法を導入したものである。代数学の歴史上重要なもう1つの出来事は、16世紀中ごろに三次方程式および四次方程式の代数学的一般解が得られたことである。17世紀には日本の数学者である関孝和が行列式の考え方を考案し、それとは独立にゴットフリート・ライプニッツが10年ほど遅れて同じ考え方に到達した。行列式は連立一次方程式を行列を使って解くのに使われる。18世紀のガブリエル・クラメールも行列と行列式について貢献した。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは1770年の論文 Réflexions sur la résolution algébrique des équations で根の置換について研究し、ラグランジュの分解式(英語版) (Lagrange resolvent) を導入した。パオロ・ルフィニは置換群について研究し、同時に代数方程式の解法についても研究した。",
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"text": "19世紀には抽象代数学が生まれた。当初は後にガロア理論と呼ばれるようになった分野と構成可能性問題が中心だった。近代代数学は、リヒャルト・デーデキントやレオポルト・クロネッカーの業績に見られるように代数的整数論や代数幾何学といった境界領域を通して数学の他の領域とも密接に関連している。ジョージ・ピーコック(英語版)は算術と代数学における公理的思考法を創始した。オーガスタス・ド・モルガンは Syllabus of a Proposed System of Logic において関係代数を見出した。ウィラード・ギブズは3次元空間のベクトルの代数学を生み出し、アーサー・ケイリーは行列の代数学(非可換代数学の一種)を生み出した。",
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| 代数学は、数学の一分野で、数の代わりに文字を用いて方程式の解法などを研究する学問。現代の代数学はその研究範囲を大きく広げ、半群・群・環・多元環(代数)・体・束などの代数系を研究する学問(抽象代数学)となった。代数学の考え方は、解析学や幾何学等にも浸透しており、数学の諸分野に共通言語を提供する役割を果たしている。 以下に示す代数学の諸分野の名に現れる半群・群・環・多元環(代数)・体・束は、代表的な代数的構造である。 群・環・多元環・体の理論はガロアなどによる代数方程式の解法の研究などに起源を持ち、束論はブールによる論理の数学的研究などに起源を持つ。 現代の日本の大学では 1, 2 年次に微分積分学と並んで線型代数学を学ぶが、線型代数は線型空間という代数系を研究する代数学の一分野である。 | [[ファイル:Quadratic formula.svg|サムネイル|[[二次方程式の解の公式]]]]
'''[[クラスター代数|代]]数学'''(だいすうがく、<em lang="en">[[wikt:algebra|algebra]]</em>)は、[[数学]]の一分野で、数の代わりに文字を用いて[[方程式]]の解法などを研究する[[学問]]<ref>{{Cite web|和書|title=代数学とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E6%95%B0%E5%AD%A6-91428|website=コトバンク|accessdate=2021-08-12|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。現代の代数学はその研究範囲を大きく広げ、[[半群]]・[[群論|群]]・[[環論|環]]・[[多元環]](代数)・[[可換体|体]]・[[束 (束論)|束]]などの[[代数系]]を研究する学問([[抽象代数学]])となった。代数学の考え方は、[[解析学]]や[[幾何学]]等にも浸透しており、数学の諸分野に共通言語を提供する役割を果たしている。
以下に示す代数学の諸分野の名に現れる[[半群]]・[[群論|群]]・[[環論|環]]・[[多元環]](代数)・[[可換体|体]]・[[束 (束論)|束]]は、代表的な[[代数的構造]]である。
群・環・多元環・体の理論は[[エヴァリスト・ガロア|ガロア]]などによる[[代数方程式]]の解法の研究などに起源を持ち、束論は[[ジョージ・ブール|ブール]]による[[論理学|論理]]の数学的研究などに起源を持つ。
現代の日本の大学では 1, 2 年次に[[微分積分学]]と並んで[[線型代数学]]を学ぶが、線型代数は[[ベクトル空間|線型空間]]という代数系を研究する代数学の一分野である。
== 歴史 ==
[[ファイル:Image-Al-Kitāb al-muḫtaṣar fī ḥisāb al-ğabr wa-l-muqābala.jpg|thumb|[[フワーリズミー]]の著書『インドの数の計算法』のとあるページ]]
[[プラトン]]の時代までに、[[古代ギリシア]]の数学は大きな変化を遂げた。ギリシア人は線で描いた[[幾何学]]図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する[[幾何代数]]の考え方を生み出した<ref>{{Harv|Boyer|1991|loc="Europe in the Middle Ages" p. 258}} 「[[ユークリッド]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』7巻から9巻で、図形の線分に文字を添え、それで数を表している。アル=フワーリズミーの『約分と消約の計算の書』でも幾何学的証明に際しては文字を添えた図形を使っている。しかし、フワーリズミーの書で方程式に書かれている係数は全て具体的な数で、実際に数値が書かれるか、文章で説明されていた。アル=フワーリズミーは確かに代数による一般化の考え方を暗示したが、幾何学の問題を代数的に表現する体系を構築したわけではない」</ref>。[[アレクサンドリアのディオファントス|ディオファントス]](紀元3世紀)は[[アレクサンドリア]]の数学者で『[[算術 (書物)|算術]]』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は[[代数方程式]]の解法に関するものである。
''[[wikt:algebra|algebra]]'' という語は[[アラビア語]]の ''al-jabr'' (アラビア文字表記:{{Lang|ar|الجبر}}、"reunion of broken parts"(バラバラのものの再結合)<ref name=oed>{{cite web| title=algebra |url=http://www.oxforddictionaries.com/us/definition/english/algebra |work=Oxford English Dictionary |publisher=Oxford University Press |accessdate=2017-12-15}}</ref>)に由来し、近代数学は[[アラビア数学]]から発展したもので、その起源を遡ると古代[[インドの数学]]にたどり着く。9世紀の[[バグダード]]の数学者[[アル=フワーリズミー]]が著作した 『[[フワーリズミー#約分と消約の計算の書|イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ]]("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』([[820年]])を、[[チェスターのロバート]](あるいは[[バースのアデラード]]) )が、"Liber '''algebrae''' et almucabala"として[[ラテン語]]に翻訳した。この書によってフワーリズミーは代数学を[[幾何学]]や[[算術]]から独立した一分野として確立した<ref>{{citation|title=Al Khwarizmi: The Beginnings of Algebra|author=Roshdi Rashed|publisher=Saqi Books|date=November 2009|isbn=0863564305}}</ref>。これが後500年間にわたってヨーロッパの大学で教えられたという。''al-jabr'' は、[[アラビア語]]では「al」({{lang-ar-short|{{Lang|ar|[[wikt:en:ال|ال]]}}}})が[[アラビア語の冠詞|定冠詞]]、「jabr」({{lang-ar-short|{{Lang|ar|[[wikt:en:جبر|جبر]]}}}})が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味であることから、インド数学のことである。それ以前にフワーリズミーはインドの数学から学んだことを『[[フワーリズミー#インドの数の計算法|インドの数の計算法]]』として著し、イスラム世界に広めた<ref>[http://www.brusselsjournal.com/node/4107/print A Brief History of Zero and Indian Numerals]</ref><ref>''A History of Mathematics: An Introduction (2nd Edition) (Paperback) Victor J katz Addison Wesley; 2 edition (March 6, 1998)</ref>。これは[[二次方程式]]、[[四則演算]]、[[十進法]]、[[0]]などの内容でラテン語に翻訳され、著者の名は「[[アルゴリズム]]」の語源であるといわれている。
代数学の起源は古代[[バビロニア]]とされており<ref>Struik, Dirk J. (1987). ''A Concise History of Mathematics''. New York: Dover Publications.</ref>、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。古代バビロニア人は、今日[[線型方程式|一次方程式]]や[[二次方程式]]、[[不定方程式|不定一次方程式]]を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。一方同時代([[紀元前1千年紀]])のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば、「[[リンド数学パピルス]]」、[[ユークリッド]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』、『[[九章算術]]』などである。『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世[[アラビア数学]]がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。
[[ヘレニズム]]期の数学者[[アレクサンドリアのヘロン]]と[[アレクサンドリアのディオファントス|ディオファントス]]<ref>[http://library.thinkquest.org/25672/diiophan.htm Diophantus, Father of Algebra] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130727040815/http://library.thinkquest.org/25672/diiophan.htm |date=2013年7月27日 }}</ref>やインドの数学者[[ブラーマグプタ]]らはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、ディオファントスの『[[算術 (書物)|算術]]』やブラーマグプタの『[[ブラーマ・スプタ・シッダーンタ]]』といった成果が生まれた<ref>[http://www.algebra.com/algebra/about/history/ History of Algebra]</ref>。例えば、[[二次方程式]]の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのがブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』である。その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。
[[ファイル:Gerolamo Cardano.jpg|thumb|200px|1545年、イタリアの数学者[[ジェロラモ・カルダーノ]]は40章からなる『偉大なる術』を著し、世界で初めて[[四次方程式]]の解法を示した。]]
[[ギリシャ人]]数学者[[アレクサンドリアのディオファントス|ディオファントス]]は昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある<ref>{{Harvnb|Boyer|1991|pp=178-181}}</ref>。ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する<ref>{{Harvnb|Boyer|1991|p=228}}</ref>。一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(''al-jabr'' の本来の意味とされている)<ref name=Boyer-229>{{Harv|Boyer|1991|loc="The Arabic Hegemony" p. 229}} 「''al-jabr'' と ''muqabalah'' という語の正確な意味は定かではないが、一般的解釈は上述の通りである。''al-jabr'' は「復元」または「完成」などを意味し、項を両辺から引くことで一方からもう一方の辺に移すことを意味したと見られている。''muqabalah'' は「縮減」または「平衡」を意味し、項を打ち消しあうことで式を既約な形式にすることを意味したと見られる」</ref>、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し<ref>{{Harv|Boyer|1991|loc="The Arabic Hegemony" p. 230}} 「上に示した6つの方程式により、正の根を持つ一次方程式と二次方程式のあらゆる可能性が尽くされている。アル=フワーリズミーの解説は非常に体系的で徹底的であり、読者は解法を楽に習得できたに違いない」</ref>、代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する<ref>Gandz and Saloman (1936), ''The sources of al-Khwarizmi's algebra'', Osiris i, p. 263–277: 「ある意味では、フワーリズミーは代数学を初歩から教えようとしたがディオファントスの興味の中心は[[数論]]だったと見られ、フワーリズミーの方がディオファントスよりも「代数学の父」と呼ばれるのにふさわしい」</ref>。フワーリズミーの代数学はもはや一連の[[問題]]と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した<ref name=Rashed-Armstrong>{{Citation | last1=Rashed | first1=R. | last2=Armstrong | first2=Angela | year=1994 | title=The Development of Arabic Mathematics | publisher=Springer | isbn=0792325656 | oclc=29181926 | pages=11–2}}</ref>。
ペルシャの数学者[[ウマル・ハイヤーム]]は[[代数幾何学]]の創始者とされており、[[三次関数|三次方程式]]の一般解を見出したことで知られる。同じくペルシャの数学者{{仮リンク|シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ|fa|شرفالدین طوسی|en|Sharaf al-Dīn al-Tūsī}}は様々な三次方程式の代数解や数値解を求めた<ref>{{MacTutor|id=Al-Tusi_Sharaf|title=Sharaf al-Din al-Muzaffar al-Tusi}}</ref>。彼は[[関数 (数学)|関数]]の概念も生み出した<ref>{{Citation|last=Victor J. Katz|first=Bill Barton|title=Stages in the History of Algebra with Implications for Teaching|journal=Educational Studies in Mathematics|publisher=Springer Netherlands|volume=66|issue=2|date=October 2007|doi=10.1007/s10649-006-9023-7|pages=185–201 [192]}}</ref>。インドの数学者[[マハーヴィーラ (数学者)|マハーヴィーラ]]と[[バースカラ2世]]、ペルシャの数学者{{仮リンク|アル=カラジ|fa|ابوبکر کرجی|en|Al-Karaji}}<ref name="Boyer al-Karkhi ax2n">{{Harv|Boyer|1991|loc="The Arabic Hegemony" p. 239}} "Abu'l Wefa was a capable algebraist as well as a trigonometer. [...] His successor al-Karkhi evidently used this translation to become an Arabic disciple of Diophantus - but without Diophantine analysis! [...] In particular, to al-Karkhi is attributed the first numerical solution of equations of the form ax<sup>2n</sup> + bx<sup>n</sup> = c (only equations with positive roots were considered),"</ref>、中国の数学者[[朱世傑]]は、三次、[[四次方程式|四次]]、[[五次方程式|五次]]などの高次[[多項式]]方程式を数値的手法で解いた。13世紀には[[レオナルド・フィボナッチ|フィボナッチ]]の三次方程式の解法に代表されるように、ヨーロッパにおける代数学の復興がなされた。一方でイスラム世界では数学が衰退し、それと入れ替わるようにヨーロッパで数学が盛んになっていった。その後、代数学はヨーロッパを中心として発展していった。
16世紀末の[[フランソワ・ビエト]]は、古典的学問分野としての代数学を創始した。1637年の[[ルネ・デカルト]]の『幾何学 (''[[:en:La Géométrie|La Géométrie]]'')』は[[解析幾何学]]の先駆けであり、近代的な代数的記法を導入したものである。代数学の歴史上重要なもう1つの出来事は、16世紀中ごろに三次方程式および四次方程式の代数学的一般解が得られたことである。17世紀には[[和算|日本の数学者]]である[[関孝和]]が[[行列式]]の考え方を考案し、それとは独立に[[ゴットフリート・ライプニッツ]]が10年ほど遅れて同じ考え方に到達した。行列式は連立一次方程式を[[行列 (数学)|行列]]を使って解くのに使われる。18世紀の[[ガブリエル・クラメール]]も行列と行列式について貢献した。[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]は1770年の論文 ''Réflexions sur la résolution algébrique des équations'' で根の置換について研究し、{{仮リンク|ラグランジュの分解式|en|Resolvent (Galois theory)#Lagrange resolvent}} (Lagrange resolvent) を導入した。[[パオロ・ルフィニ]]は[[置換群]]について研究し、同時に代数方程式の解法についても研究した。
19世紀には[[抽象代数学]]が生まれた。当初は後に[[ガロア理論]]と呼ばれるようになった分野と[[構成可能性]]問題が中心だった<ref>"[http://www.math.hawaii.edu/~lee/algebra/history.html The Origins of Abstract Algebra]". University of Hawaii Mathematics Department.</ref>。近代代数学は、[[リヒャルト・デーデキント]]や[[レオポルト・クロネッカー]]の業績に見られるように[[代数的整数論]]や[[代数幾何学]]といった境界領域を通して数学の他の領域とも密接に関連している<ref>"[http://www.msri.org/calendar/workshops/WorkshopInfo/245/show_workshop The History of Algebra in the Nineteenth and Twentieth Centuries]". Mathematical Sciences Research Institute.</ref>。{{仮リンク|ジョージ・ピーコック|en|George Peacock}}は算術と代数学における公理的思考法を創始した。[[オーガスタス・ド・モルガン]]は ''Syllabus of a Proposed System of Logic'' において[[関係代数 (数学)|関係代数]]を見出した。[[ウィラード・ギブズ]]は3次元空間のベクトルの代数学を生み出し、[[アーサー・ケイリー]]は行列の代数学(非可換代数学の一種)を生み出した<ref>"[http://www.cambridge.org/catalogue/catalogue.asp?ISBN=9781108005043 The Collected Mathematical Papers]". Cambridge University Press.</ref>。
== 代数学の諸分野 ==
* [[半群]]論
* [[群論]]
* [[可換環論]] → [[代数幾何学]]
* [[環論]]
* [[体論]]
* [[線型代数学]]
* [[多元環]]論、[[リー環]]論
* [[表現論]]
* [[ホモロジー代数]]
* [[束 (束論)|束論]]
* [[圏論]]
* [[代数的整数論]](cf. [[解析的整数論]])
* {{ill2|不変式論|en|Invariant theory}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Citation | first=Carl B. | last=Boyer | authorlink= | title=A History of Mathematics | edition=2 | publisher=John Wiley & Sons, Inc | year=1991 | isbn=0471543977 }}
* Donald R. Hill, ''Islamic Science and Engineering'' (Edinburgh University Press, 1994).
* Ziauddin Sardar, Jerry Ravetz, and Borin Van Loon, ''Introducing Mathematics'' (Totem Books, 1999).
* George Gheverghese Joseph, ''The Crest of the Peacock: Non-European Roots of Mathematics'' (Penguin Books, 2000).
* John J O'Connor and Edmund F Robertson, ''MacTutor History of Mathematics archive'' ([[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|University of St Andrews]], 2005).
* I.N. Herstein: ''Topics in Algebra''. ISBN 0-471-02371-X
* R.B.J.T. Allenby: ''Rings, Fields and Groups''. ISBN 0-340-54440-6
* [[レオンハルト・オイラー|L. Euler]]: ''[https://web.archive.org/web/20110413234352/http://web.mat.bham.ac.uk/C.J.Sangwin/euler/ Elements of Algebra]'', ISBN 978-1-89961-873-6
* Isaac Asimov ''Realm of Algebra'' (Houghton Mifflin), 1961
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
* [[代数学の基本定理]]
== 外部リンク ==
{{Wikibooks}}
* [https://web.archive.org/web/20071004172100/http://www.gresham.ac.uk/event.asp?PageId=45&EventId=620 4000 Years of Algebra], lecture by Robin Wilson, at [[:en:Gresham College|Gresham College]], October 17, 2007
* {{SEP|algebra|Algebra}}
* {{Kotobank}}
*『代数学講義 改訂新版』高木貞治著、共立出版、2018年刊(改訂新版34刷)
{{algebra}}
{{数学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいすうかく}}
[[Category:代数学|*]]
[[Category:アレクサンドリアのディオファントス]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-02-14T08:03:10Z | 2023-12-26T14:36:23Z | false | false | false | [
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1,535 | 8月15日 | 8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。 | [
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| 8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。 | {{カレンダー 8月}}
'''8月15日'''(はちがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から227日目([[閏年]]では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。
== できごと ==
{{multiple image
| footer = [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム]]がスコットランド王[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]を討ち取る、[[ランファナンの戦い]](1057)
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| alt1 = マルカム
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| alt2 = マクベス
}}
{{multiple image
| footer = [[システィーナ礼拝堂]]開場(1483)。右画像は[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]『最後の審判』
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{{multiple image
| footer = [[イグナチオ・デ・ロヨラ]](左)、[[フランシスコ・ザビエル]](右)ら7名、[[イエズス会]]を結成(1534)
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| caption1 = [[チボリ公園]]開園(1843)。画像は1900年頃
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| caption2 = [[薩英戦争]](1863)
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| caption1 = 明治政府が北海道に[[開拓使]]を設置(1869)。画像は再現された1873年頃の本庁舎。
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| width1 = 100
| alt1 = 開拓使
| image2 = Akiko_Yosano_MIDAREGAMI.jpg
| caption2 = [[与謝野晶子]]、歌集『[[みだれ髪]]』発刊(1901)
| width2 =80
| alt2 = 与謝野晶子歌集「みだれ髪」
}}
{{multiple image
| caption1 = [[パナマ運河]]開通(1914)
| image1 = Panama_Canal_Gatun_Locks_opening.jpg
| width1 = 90
| alt1 = パナマ運河
| image2 = Hebron_1929.jpg
| caption2 = [[嘆きの壁事件]]、[[シオニスト]]と[[アラブ人]]が衝突(1929)
| width2 = 90
| alt2 = 嘆きの壁事件
}}
{{multiple image
| header = [[第二次世界大戦]]のできごと
| image1 = SS-Ohio_supported.jpg
| width1 = 60
| caption1 = [[ペデスタル作戦]]終結(1942)。画像は[[マルタ島]]へ入港するタンカー「[[オハイオ (タンカー)|オハイオ]]」
| image2 = Gyokuon-ban.jpg
| width2 = 60
| caption2 = 日本の降伏を阻止しようとした[[宮城事件]]鎮圧(1945)。画像は[[玉音放送|玉音盤]]
| image3 = Preparatory_Committee_for_National_Construction_in_Chemulpo.JPG
| width3 = 60
| caption3 = [[朝鮮建国準備委員会]]発足(1945)。画像は済物浦支部
}}
{{multiple image
| footer = [[大韓民国]]成立(1948)
| image1 = Syngman_Rhee%2C_1951-May-1.jpg
| width1 = 90
| alt1 = 韓国初代大統領李承晩
| image2 = Ceremony_inaugurating_the_government_of_the_Republic_of_Korea.JPG
| width2 = 90
| alt2 = 大韓民国成立のセレモニー
}}
{{multiple image
| caption1 = [[富士山頂レーダー]]完成(1964)。画像は移設保存されたもの
| image1 = Fujisan_radar_dome.jpg
| width1 = 90
| alt1 = 富士山頂レーダー
| caption2 = [[地球外知的生命体探査]]で、特徴的な信号「[[Wow! シグナル]]」受信(1977)
| image2 = Wow_signal.jpg
| width2 = 90
| alt2 = Wow! シグナル受信
}}
{{multiple image
| footer = [[ウッドストック・フェスティバル]]開幕(1969)
| image1 = Woodstock_redmond_havens.JPG
| width1 = 90
| alt1 = リッチー・ヘブンスのステージ
| image2 = Woodstock_redmond_stage.JPG
| width2 = 90
| alt2 = レドモンドのステージ
}}
{{multiple image
| caption1 = [[ペルー地震 (2007年)|ペルー地震]](2007)
| image1 = 40_-_Tremblement_de_terre_-_Ao%C3%BBt_2007.JPG
| width1 = 90
| alt1 = 2007年ペルー地震
| caption2 = [[カブール陥落 (2021年)|カブール陥落]](2021)
| image2 = Crowds_in_front_of_Kabul_International_Airport.jpg
| width2 = 90
| alt2 = 2021年カブール陥落
}}
* [[1057年]] - [[ランファナンの戦い]]。[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]がマルカム(後のスコットランド王[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]])に討たれる。
* [[1248年]] - 同年4月に火災で焼失した[[ケルン大聖堂]]について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工<ref>{{Cite web |url=https://www.cologne-tourism.com/see-experience/cologne-cathedral/history/ |title=History of Cologne Cathedral |access-date=3 Sep 2023 |publisher=KölnTourismus}}</ref>。[[1880年]]に完成。
* [[1261年]] - [[東ローマ帝国]]・[[パレオロゴス王朝]]の初代皇帝[[ミカエル8世パレオロゴス]]が戴冠。
* [[1483年]] - [[システィーナ礼拝堂]]が開場。
* [[1519年]] - {{仮リンク|ペドロ・アリアス・デ・アビラ|en|Pedro Arias de Avila}}によって[[パナマシティ]]建都。
* [[1534年]] - [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]他7名によって[[イエズス会]]が結成。
* [[1537年]] - [[アスンシオン]]建都。
* [[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]) - [[フランシスコ・ザビエル]]一行が[[鹿児島県|鹿児島]]に上陸。日本で[[キリスト教]]の布教が始まる。
* [[1573年]]([[天正]]元年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[槇島城の戦い]]: 宇治・[[槇島城]]に立て籠っていた将軍・[[足利義昭]]が[[織田信長]]に降伏。義昭は京を追放され、[[室町幕府]]が事実上滅亡。
* [[1760年]] - [[七年戦争]]: [[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]
* [[1843年]] - [[デンマーク]]・[[コペンハーゲン]]に[[チボリ公園]]が開園。
* [[1863年]]([[文久]]3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、[[薩英戦争]]が開戦。
* [[1868年]] - [[エクアドル地震 (1868年)|エクアドル地震]]。[[エクアドル]]・[[コロンビア]]国境付近で地震。翌日も地震。二度の地震で死傷者7万人。
* [[1869年]]([[明治]]2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[明治政府]]が[[太政官]]・[[神祇官]]、および太政官の管轄下に[[民部省]]以下6省を設置。同時に、[[日本の官制|百官]]・[[受領]]の廃止を布告。
* 1869年(明治2年7月8日) - 明治政府が[[蝦夷地]]に[[開拓使]]を設置。
* [[1886年]] - [[長崎事件]]。[[清国]](中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。
* [[1899年]] - [[森永太一郎]]によって森永西洋菓子製造所([[森永製菓]]の前身)が創業。
* [[1901年]] - [[与謝野晶子]]の第一歌集『[[みだれ髪]]』が発刊。
* [[1914年]] - [[パナマ運河]]開通。
* [[1915年]] - [[東海道本線]]の[[横浜駅]](2代目)が開業し、それまでの横浜駅(初代)を[[桜木町駅]]に改称。
* [[1916年]] - 大正兌換銀行券(アラビア数字1円)が発行。
* [[1929年]] - [[嘆きの壁事件]]。[[嘆きの壁]]において[[シオニズム|シオニスト]]と[[アラブ人]]が衝突、多数の死傷者を出す。
* [[1939年]] - [[ジュディー・ガーランド]]主演の[[ファンタジー]]・[[ミュージカル映画]]『[[オズの魔法使]]』が、[[ハリウッド]]で[[プレミア]]。
* [[1940年]] - [[立憲民政党]]が解党して[[大政翼賛会]]に合流し、日本の全政党が解散。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ペデスタル作戦]]が終結。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[ドラグーン作戦]]が始まる。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: 未明、[[宮城事件]]が鎮圧される。
* 1945年 - 第二次世界大戦: 正午、[[昭和天皇]]が「[[大東亜戦争]]終結の詔書」を朗読する[[玉音放送]]により、[[ポツダム宣言]](正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。[[7月26日]]に[[アメリカ合衆国]]大統領[[ハリー・S・トルーマン]]、[[イギリス]]首相[[ウィンストン・チャーチル]]、[[中華民国]]主席[[蔣介石]]の名において[[大日本帝国]]([[日本]])に対して発された、「[[日本軍|全日本軍]]の[[無条件降伏]]」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏|降伏]]が[[ラジオ]]と[[新聞]]で日本国民に伝えられる(日本の[[終戦の日]])。
* [[1945年]] - [[鈴木貫太郎内閣]]([[鈴木貫太郎]]首相)が[[内閣総辞職|総辞職]]。
* [[1945年]] - [[ソウル特別市|ソウル]]で[[朝鮮建国準備委員会]]が発足。
* [[1946年]] - [[第28回全国中等学校優勝野球大会]]が開幕。戦時中中断されていた[[全国高等学校野球選手権大会|中等学校野球大会]]が再開。
* [[1947年]] - 前日の[[パキスタン]]に続いて[[インド]]が[[イギリス]]から[[インド・パキスタン分離独立|独立]]。
* [[1948年]] - [[大韓民国]]が成立。
* [[1949年]] - 大韓民国の「府」を「市」に変更、人口が多い郡の[[邑 (朝鮮)|邑]]も市に昇格。
* 1949年 - [[ジュディス台風]]が九州に上陸。死者154人。
* [[1953年]] - 各地で[[豪雨災害]]が発生([[南山城豪雨]]・[[多羅尾豪雨]])。
* [[1954年]] - 滋賀県[[八日市市]]が市制施行。
* [[1960年]] - [[コンゴ共和国]]が[[フランス]]から独立。
* [[1961年]] - [[京葉道路]]が日本初の[[自動車専用道路]]に指定される([[名神高速道路]]の初開通より2年前)。
* [[1962年]] - [[オランダ]]と[[インドネシア]]がニューヨークで、西イリアン([[イリアンジャヤ]])の帰属に関する西イリアン協定に調印<ref>{{Cite web |url=https://treaties.un.org/doc/publication/unts/volume%20437/volume-437-i-6311-english.pdf |title=INDONESIA and NETHERLANDS Agreement (with annex) concerning West New Guinea (West Irian). Signed at the Headquarters of the United Nations, New York, on 15 August 1962 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=United Nations |format=[[PDF]]}}</ref>。
* [[1963年]] - [[日比谷公会堂]]で日本政府主催の[[全国戦没者追悼式]]が初めて行われる。
* [[1964年]] - [[富士山頂レーダー]]が設置される。気象用レーダーとしては、世界で最も高い場所に設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaigoshoku.mynavi.jp/contents/kaigonomirailab/news/today/20230815_00/ |title=【今日は何の日?】8月15日=世界一の富士山頂レーダーにドーム骨組みが固定設置(1964年)/ 雑学ネタ帳 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[マイナビ]] |date=15 Aug 2023}}</ref>。
<!-- 同日ですし、ここは開通だけで良いかと * [[1968年]] - [[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市]]で[[清渓高架道路]]の起工式。 -->
* [[1969年]] - [[アメリカ合衆国|米]]・[[ニューヨーク州]][[サリバン郡 (ニューヨーク州)|サリバン郡]]ベセルで大規模な野外[[ロック (音楽)|ロック]]コンサート・[[ウッドストック・フェスティバル]]が開幕。[[8月17日]]まで。
* [[1971年]] - [[ニクソン・ショック]]。[[リチャード・ニクソン|ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が金とドルの交換の一時停止を発表。
* 1971年 - [[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市]]の[[清渓高架道路]]が開通。
* [[1974年]] - [[文世光事件]]。[[在日韓国人]][[文世光]]による韓国の[[朴正煕]]大統領暗殺未遂事件。大統領夫人[[陸英修]]が死亡<ref>{{Cite web|和書|title=今日の歴史(8月15日) |url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220809001200882 |accessdate=3 Sep 2023 |publisher=[[聯合ニュース]]}}</ref>。
* 1974年 - [[津川雅彦長女誘拐事件]]。翌16日に誘拐犯が逮捕され、人質を保護。
* [[1975年]] - [[バングラデシュ]]で軍事クーデター。初代大統領[[ムジブル・ラフマン]]とその家族が陸軍部隊により暗殺。
* 1975年 - [[三木武夫]]が現職首相としては初めて[[終戦の日]]に[[靖国神社]]に参拝。
* [[1977年]] - [[オハイオ州立大学]]の[[地球外知的生命体探査]] (SETI) で、電波望遠鏡[[ビッグイヤー (電波望遠鏡)|ビッグイヤー]]が特徴的な信号[[Wow! シグナル]]を受信する。
* [[1977年]] - 『[[愛のコリーダ]]』の著者・[[大島渚]]らが[[わいせつ物頒布罪|わいせつ文書図画販売]]で起訴<ref>{{Cite web|和書|url=https://imagelink.kyodonews.jp/detail?id=4388863 |title=大島監督が記者会見 「愛のコリーダ」ポルノ認定 |access-date=3 Sep 2023 |date=15 Aug 1977 |website=KYODO NEWS IMAGELINK}}</ref>。[[1979年]]に無罪判決。
* [[1980年]] - [[司ちゃん誘拐殺人事件]]: [[山梨県]][[東八代郡]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]](現:[[笛吹市]])在住の男児(当時5歳:保育園児)を[[身代金]]目的で[[誘拐]]したとして、犯人の男を逮捕。男の自供通り、[[中巨摩郡]][[敷島町]](現:[[甲斐市]]/[[昇仙峡]]付近)の山林で男児の遺体が発見された<ref>『[[読売新聞]]』1980年8月16日東京朝刊第14版一面1頁「山梨 誘かい園児、遺体で発見 犯人、13日ぶり逮捕 身代金1000万円を要求 脅迫電話30回 昇仙峡近くに埋める」([[読売新聞東京本社]]) - 『読売新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1980年(昭和55年)8月号509頁</ref>。
* [[1985年]] - [[中曽根康弘]]首相が閣僚17人とともに靖国神社に公式参拝。
* [[1986年]] - [[新自由クラブ]]解散。多くの議員が[[自由民主党 (日本)|自民党]]に復党する。
* [[1993年]] - [[世界陸上選手権]]の女子マラソンで[[浅利純子]]が優勝する。世界陸上・五輪を含め女子陸上では日本初の金メダル。
* [[1995年]] - [[村山富市]]首相が、[[第二次世界大戦]]における日本の[[植民地]]支配と侵略を反省し謝罪する[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」|村山談話]]を発表。
* [[1998年]] - [[北アイルランド問題]]: {{仮リンク|オマー爆弾テロ事件|en|Omagh bombing}}。[[北アイルランド]]・[[ティロン県]]・[[オマー]]で、[[IRA暫定派]]の分派([[真のIRA]])により、[[ベルファスト合意]]を否定する自動車爆弾テロ。29人死亡、約220人負傷の惨事。
* [[1998年]] - 気象庁が東北地方での梅雨明けの発表を断念。梅雨明けなしは史上初。
* [[2006年]] - [[小泉純一郎]]首相が靖国神社に参拝。
* 2006年 - [[加藤紘一宅放火事件]]。
* [[2007年]] - [[ペルー地震 (2007年)|ペルー地震]]。
* [[2013年]] - [[2013年福知山花火大会露店爆発事故|ドッコイセ福知山花火大会屋台爆発事故]]が発生。
* [[2017年]] - [[台湾]]全土で翌16日にかけて、[[大潭発電所]]の停止により600万戸を超える大規模[[停電]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=15 Aug 2017 |url=http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201708150010.aspx |title=大規模停電、約668万戸に影響 経済相が引責辞任/台湾 |publisher=中央通訊社 |accessdate=3 Sep 2023 |website=フォーカス台湾}}</ref>。
* [[2019年]] - [[ウラル航空178便不時着事故]]。
* 2019年 - [[としまえんの水上設置遊具による溺水事故]]が発生。
* [[2020年]] - [[東京ヤクルトスワローズ]]の[[小川泰弘]]選手が[[横浜DeNAベイスターズ]]との試合で[[ノーヒットノーラン]]を達成。日本プロ野球史上82人目の快挙。
* [[2021年]] - [[ターリバーン]]が首都[[カブール陥落 (2021年)|カブールを陥落し]]、アフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN232BO0T21C21A1000000/ |title=タリバン復権、テロ脅威再び〈混迷2021〉 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Dec 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-anniversary-idJPKBN2ZR012 |title=タリバン復権2年、アフガニスタンで記念式典 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERES]] |date=16 Aug 2023}}</ref>。[[アシュラフ・ガニー]]政権が事実上崩壊した。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
[[Image:TumboA_Alfonso.jpg|thumb|180px|レオン王[[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]](1171-1230)誕生]]
{{multiple image
| footer = フランス皇帝、[[ナポレオン・ボナパルト]](1769-1821)誕生。右画像は[[ジャック・ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]画『アルプス越えのナポレオン』
| image1 = Gros_-_First_Consul_Bonaparte_%28Detail%29.png
| width1 = 90
| alt1 = ナポレオン
| image2 = Jacques-Louis_David_007.jpg
| width2 = 90
| alt2 = 『アルプス越えのナポレオン』
}}
{{multiple image
| image1 = Sir_Walter_Scott_-_Raeburn.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 詩人[[ウォルター・スコット]](1771-1832)誕生
| alt1 = 詩人ウォルター・スコット
| image2 = Thomas_de_Quincey_-_Project_Gutenberg_eText_16026.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 批評家[[トマス・ド・クインシー]](1785-1859)
| alt2 = 批評家トマス・ド・クインシー
}}
{{multiple image
| image1 = Sri_aurobindo.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 宗教家[[オーロビンド・ゴーシュ]](1872-1950)
| alt1 = 宗教家オーロビンド・ゴーシュ
| image2 = Broglie_Big.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 物理学者[[ルイ・ド・ブロイ]](1892-1987)。[[ド・ブロイ波]]を提唱
| alt2 = 物理学者ルイ・ド・ブロイ
}}
{{multiple image
| image1 = Gerty_Theresa_Cori.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 生化学者[[ゲルティー・コリ]](1896-1957)。女性初のノーベル生理学・医学賞受賞者。
| alt1 = 生化学者ゲルティー・コリ
| image2 = Leon_Theremin.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 物理学者[[レフ・テルミン]](1896-1993)。画像は「[[テルミン]]」を演奏するレフ
| alt2 = 物理学者レフ・テルミン
}}
{{multiple image
| image1 = Mural_Oscar_Romero_UES.jpg
| width1 = 90
| caption1 = カトリック司祭、[[オスカル・ロメロ]](1917-1980)。[[エルサルバドル]]で貧民を救済。
| alt1 = カトリック司祭オスカル・ロメロ
| image2 = Oscar_Peterson.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[ジャズピアノ|ジャズ・ピアニスト]]、[[オスカー・ピーターソン]](1925-2007)
| alt2 = ジャズ・ピアニスト、オスカー・ピーターソン
}}
[[Image:Khaleda_Zia.jpg|thumb|180px|[[バングラデシュ]]初の女性首相、[[カレダ・ジア]](1945-)]]
* [[1171年]] - [[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]]、[[レオン王国]]の王(+ [[1230年]])
* [[1729年]]([[享保]]14年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]])- [[井伊直幸]]、第12代[[彦根藩|彦根藩主]](+ [[1789年]])
* [[1740年]] - {{仮リンク|マティアス・クラウディウス|en|Matthias Claudius}}、詩人(+ [[1815年]])
* [[1769年]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[フランス皇帝]](+ [[1821年]])
* [[1771年]] - [[ウォルター・スコット]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1832年]])
* [[1785年]] - [[トマス・ド・クインシー]]、評論家(+ [[1859年]])
* [[1793年]]([[寛政]]5年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])- [[織田信美]]、初代[[天童藩|天童藩主]](+ [[1836年]])
* [[1794年]] - [[エリーアス・フリース]]、[[菌類]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1878年]])
* [[1813年]] - [[ジュール・グレヴィ]]、[[フランスの大統領|フランス共和国大統領]](+ [[1891年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]])- [[土方雄嘉]]、第11代[[菰野藩|菰野藩主]](+ [[1858年]])
* [[1851年]] - [[エミール・ヴァン・エルメンゲム]]、[[細菌学者]](+ [[1932年]])
* [[1858年]] - [[イーディス・ネズビット]]、[[児童文学作家]](+ [[1924年]])
* [[1859年]] - [[チャールズ・コミスキー]]、野球選手(+ [[1931年]])
* [[1865年]] - [[臼井甕男]]、[[レイキ|臼井靈氣療法]]創始者(+ [[1926年]])
* [[1867年]]([[慶応]]3年7月16日) - [[池田成彬]]、[[財政家]](+ [[1950年]])
* [[1872年]] - [[オーロビンド・ゴーシュ]]、[[インド]]の反英独立運動家、宗教家、哲学家(+ [[1950年]])
* [[1877年]] - [[太刀山峯右エ門]]、[[大相撲]]第22代[[横綱]](+ [[1941年]])
* [[1878年]] - [[ピョートル・ヴラーンゲリ]]、[[ロシア内戦]]時の[[白衛軍]]司令官(+ [[1928年]])
* [[1879年]] - [[エセル・バリモア]]、女優(+ [[1959年]])
* [[1883年]] - {{仮リンク|イヴァン・メシュトロヴィッチ|en|Ivan Meštrović}}、脚本家(+ [[1962年]])
* [[1884年]] - [[三木武吉]]、[[政治家]](+ [[1956年]])
* [[1887年]] - [[ポール・メリル]]、[[天文学者]](+ [[1961年]])
* [[1890年]] - [[ジャック・イベール]]、作曲家(+ [[1962年]])
* 1890年 - [[エリザベス・ボールデン]]、長寿世界一の女性(+ [[2006年]])
* [[1891年]] - [[トール・ベルシェロン]]、気象学者(+ [[1977年]])
* [[1892年]] - [[ルイ・ド・ブロイ]]、物理学者(+ [[1987年]])
* [[1896年]] - [[ゲルティー・コリ]]、生化学者(+ [[1957年]])
* [[1898年]] - [[吉田一穂]]、[[詩人]](+ [[1973年]])
* [[1901年]] - [[浅野晃]]、詩人、[[日本文学研究者|国文学者]](+ [[1990年]])
* 1901年 - [[木村庄之助 (24代)]]、[[大相撲]][[立行司]](+ [[1973年]])
* [[1903年]] - [[八雲恵美子]]、[[俳優|女優]](+ [[1979年]])
* [[1912年]] - [[田島直人]]、[[陸上競技選手]](+ 1990年)
* [[1917年]] - [[オスカル・ロメロ]]、[[カトリック教会]]司祭(+ [[1980年]])
* 1917年 - [[津田幸男]]、サッカー選手(+ [[1979年]])
* [[1918年]] - [[レイモン・ガロワ=モンブラン]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1994年]])
* [[1919年]] - [[ヴィクトル・メルジャーノフ]]、[[ピアニスト]]、音楽教師(+ [[2012年]])
* 1919年 - [[高松利夫]]、元[[プロ野球選手]]
* 1923年 - [[村松暎]]、[[中国文学者]]、[[作家]](+ [[2008年]])
* [[1924年]] - [[ロバート・ボルト]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](+ [[1995年]])
* [[1925年]] - [[杉浦喬也]]、第10代[[日本国有鉄道]]総裁(+ [[2008年]])
* 1925年 - [[オスカー・ピーターソン]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[2007年]])
* [[1926年]] - [[コンスタンディノス・ステファノプロス]]、元[[ギリシャ]]大統領(+ [[2016年]])
* 1926年 - [[ジュリアス・カッチェン]]、ピアニスト(+ [[1969年]])
* 1926年 - [[水野忠彦 (野球)|水野忠彦]]、元プロ野球選手(+ [[1998年]])
* [[1927年]] - [[菅原都々子]]、歌手
* [[1928年]] - [[出口裕弘]]、作家、[[フランス文学者]](+ [[2015年]])
* 1928年 - [[ニコラス・ローグ]]、映画監督(+ [[2018年]])
* [[1930年]] - [[沼澤康一郎]]、元プロ野球選手(+ [[1989年]])
* [[1934年]] - [[原田信吉]]、元プロ野球選手
* [[1937年]] - [[嵯峨健四郎]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1939年]] - [[木村勉 (政治家)|木村勉]]、政治家
* [[1943年]] - [[伊東秀子]]、弁護士
* [[1944年]] - [[尾崎真吾]]、[[アニメーター]]・[[イラストレーター]]
* 1944年 - [[シルヴィ・ヴァルタン]]、歌手
* 1944年 - [[鈴木れい子]]、[[声優]]
* [[1945年]] - [[アラン・ジュペ]]、政治家
* 1945年 - [[カレダ・ジア]]、政治家、元[[バングラデシュ]]首相
* [[1947年]] - [[目黒祐樹]]、[[俳優]]
* [[1948年]] - [[石田芳夫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]
* [[1949年]] - [[正岡真二]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[大島忠一]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[笠谷和比古]]、[[歴史学者]]
* [[1950年]] - [[アン (イギリス王女)|アン王女]]、[[イギリス王室|イギリス王族]]
* [[1952年]] - [[渥美二郎]]、[[演歌歌手]]
* [[1953年]] - [[風祭ゆき]]、女優
* [[1957年]] - [[高望山大造]]、元[[大相撲]][[力士]]
* [[1958年]] - [[河崎実]]、映画監督
* [[1959年]] - [[山下和美]]、[[漫画家]]
* [[1960年]] - [[サンプラザ中野くん]]、[[ミュージシャン]]([[爆風スランプ]])
* 1960年 - [[近藤康成]]、[[俳優]]
* 1960年 - [[大野久 (野球)|大野久]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[小宮暁]]、実業家
* 1960年 - [[菅野将晃]]、元サッカー選手
* [[1961年]] - [[大八木淳史]]、元[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手
* 1961年 - [[川崎聡|川﨑聡]]、[[アナウンサー]]
* 1961年 - [[浜田治貴]]、俳優、声優
* [[1962年]] - [[宇梶剛士]]、俳優
* 1962年 - [[愛甲猛]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]、[[プロレスラー]]
* [[1963年]] - [[麻生祐未]]、女優
* 1963年 - [[陳義信]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[本田多聞]]、元[[レスリング]]選手、[[プロレスラー]]
* 1963年 - [[ヴァレーリィ・レヴォネフスキー]]、政治家、社会活動家、起業家、元政治囚
* [[1964年]] - [[中村光一]]、[[ゲームクリエーター]]
* 1964年 - [[椿鮒子]]、女優
* 1964年 - [[メリンダ・ゲイツ]]、[[ビル&メリンダゲイツ財団]]共同会長
* [[1965年]] - [[石丸幹二]]、俳優、歌手
* [[1966年]] - [[シャーリー・クァン]]、歌手、俳優
* [[1967年]] - [[立花孝志]]、[[NHK党]]元党首
* 1967年 - [[保坂和拓]]、元アナウンサー
* [[1968年]] - [[内山智之]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[デブラ・メッシング]]、女優
* 1968年 - [[ヴォルフガング・ティルマンス]]、[[写真家]]
* 1968年 - [[宍戸マサル]]、俳優
* [[1969年]] - [[高塚正也]]、[[声優]]
* [[1970年]] - [[クリス・バード]]、ボクシング選手
* 1970年 - [[遠藤雅大]]、元サッカー選手
* 1970年 - [[李鍾範]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[ベン・アフレック]]、俳優
* 1972年 - [[ジェイソン・ブラック]]、総合格闘家
* 1972年 - [[山田真弘]]、オートレース選手
* [[1973年]] - [[背尾伊洋]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[橋本美純]]、元[[騎手]]
* 1973年 - [[ネボイシャ・クルプニコビッチ]]、元サッカー選手
* 1973年 - [[NAOTO (ヴァイオリニスト)|NAOTO]]、ヴァイオリニスト
* [[1974年]] - [[ラモン・モレル]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[エフゲニー・スヴィリドフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1974年 - [[アキラ100%]]、お笑いタレント
* [[1975年]] - [[川口能活]]、元[[サッカー選手]]
* 1975年 - [[いずみ包]]、[[お笑いタレント]]
* [[1976年]] - [[菅原智恵子]]、フェンシング選手
* 1976年 - [[飯島一彦]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[エンリケ・ラミレス]]、プロ野球選手
* 1976年 - [[ボウデヴィン・ゼンデン|ボウデヴァイン・ゼンデン]]、元サッカー選手
* [[1977年]] - [[日高剛]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[岩堀せり]]、[[ファッションモデル]]
* 1977年 - [[白仁裕介]]、俳優
* 1977年 - [[西村卓朗]]、元サッカー選手
* 1977年 - 金城綾乃、[[キーボーディスト]]([[Kiroro]])
* 1977年 - [[菅原リサ]]、元[[体操競技]]選手
* [[1978年]] - [[秋山竜次]]、お笑いタレント([[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]])
* 1978年 - [[大橋未歩]]、アナウンサー
* 1978年 - [[サンティアゴ・ラミレス]]、プロ野球選手
* 1978年 - [[松尾政寿]]、元俳優
* [[1979年]] - [[竹内洋輔]]、フィギュアスケート選手
* 1979年 - [[佟健]]、フィギュアスケート選手
* 1979年 - [[ナオト・インティライミ]]、ミュージシャン
* [[1980年]] - [[マイケル・カティディス]]、ボクシング選手
* 1980年 - [[イリヤ・クリムキン]]、フィギュアスケート選手
* [[1981年]] - [[ソン・ジヒョ|宋智孝]]、女優
* [[1982年]] - [[林剛史]]、俳優
* 1982年 - [[張伏佳]]、野球選手
* [[1983年]] - [[本多陽子]]、声優
* 1983年 - [[中村剛也]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[マリリンジョイ]]、お笑いタレント
* [[1984年]] - [[桂夏丸]]、落語家
* 1984年 - [[ジェニファー・カーク]]、フィギュアスケート選手
* [[1985年]] - [[川口盛外]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[永瀬はるか]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1986年 - [[穴井さやか]]、[[柔道家]]
* [[1987年]] - [[北谷ゆり]]、グラビアアイドル
* 1987年 - [[トランザム★ヒロシ]]、[[プロレスラー]]
* 1987年 - [[佐藤歩]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[西川拓喜]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[キタキュウマン]]、[[北九州市]]の[[ローカルヒーロー]]
* 1988年 - [[清水良太郎]]、元[[ものまねタレント]]
* 1988年 - [[萩原紀子]]、タレント
* [[1989年]] - [[岡田将生]]、俳優
* 1989年 - [[ジョー・ジョナス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1990年]] - [[花原あんり]]、女優
* 1990年 - [[田辺季正]]、元俳優
* 1990年 - [[ジェニファー・ローレンス]]、女優
* 1990年 - [[エロージャン・チンコ]]、[[バスケットボール]]選手
* [[1991年]] - [[アーミン・マーバヌーザデー]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[東條大樹]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[アレックス・オックスレイド=チェンバレン]]、サッカー選手
* 1993年 - [[仲田歩夢]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ardija.co.jp/ventus/team/2023/13/ |title=MF 13 仲田 歩夢 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[大宮アルディージャVENTUS]]}}</ref>、サッカー選手
* [[1994年]] - [[萩野公介]]、[[競泳|競泳選手]]
* 1994年 - [[森田絹子]]、アナウンサー
* [[1995年]] - [[伊藤祐奈]]、起業家、元アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]23号)
* 1995年 - [[小倉唯]]、声優、歌手
* [[1999年]] - [[安斉かれん]]、女優、歌手
* 1999年 ー [[阪口皓亮]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[今井月]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/west/news/150510/wst1505100005-n1.html |title=【我ら東京五輪世代】「26・5センチ」が生む強力キック 競泳女子平泳ぎ・今井月(14) |publisher=[[産経新聞]] |date=10 May 2015 |accessdate=3 Sep 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/10/03/kiji/K20131003006733750.html |title=最年少13歳・今井 20年東京五輪の期待の“月” |work=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=3 Oct 2013 |accessdate=3 Sep 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/1460333.html |title=東京五輪の星は今井月(るな)200平トップ通過 |date=12 Apr 2015 |accessdate=3 Sep 2023 |publisher=[[ニッカンスポーツ]]}}</ref>、競泳選手
* [[2002年]] - [[長尾謙杜]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.johnnys-net.jp/page?id=profile&artist=56 |title=Profile(なにわ男子) 長尾謙杜 |accessdate=3 Sep 2023 |publisher=Johnny & Associates |website=Jonney's net}}</ref>、アイドル([[なにわ男子]])
* 生年不明 - [[大垣理香]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-spring-voice.com/talent/female/OhgakiRika/OhgakiRika.htm |title=大垣理香 |publisher=E-sprinG |accessdate=3 Sep 2023}}</ref>、声優
{{-}}
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Honorius_steel_engraving.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[西ローマ帝国]]初代皇帝、[[ホノリウス]](384-423)没
| alt1 = 西ローマ帝国初代皇帝ホノリウス
| image2 = StefanIHongarije.jpeg
| width2 = 90
| caption2 = [[ハンガリー王国|ハンガリー]]国王[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]](969または975-1038)没
| alt2 = ハンガリー王国初代国王イシュトヴァーン1世
}}
{{multiple image
| image1 = Marin-marais.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 作曲家[[マラン・マレー]](1656-1728)没
| alt1 = 作曲家マラン・マレー
| image2 = Joseph_Joachim.jpg
| width2 = 80
| caption2 = 作曲家[[ヨーゼフ・ヨアヒム]](1831-1907)
| alt2 = 作曲家ヨーゼフ・ヨアヒム
}}
{{multiple image
| image1 =Wiley_Post.jpg
| width1 = 90
| caption1 = 飛行家[[ウィリー・ポスト]](1898-1935)墜落死
| alt1 = ウィリー・ポスト
| image2 = Nicola_Romeo.jpg
| width2 = 90
| caption2 = 実業家[[ニコラ・ロメオ]](1876-1938)
| alt2 = 実業家ニコラ・ロメオ
}}
{{multiple image
| image1 = Korechika_Anami.jpg
| width1 = 50
| caption1 = 陸軍軍人[[阿南惟幾]](1887-1945)自刃
| alt1 = 陸軍軍人阿南惟幾
| image2 = Admiral_Matome_Ugaki_with_Yokosuka_D4Y3_before_final_Kamikaze_attack_off_Okinawa_15_August_1945.jpg
| width2 = 70
| caption2 = 海軍軍人[[宇垣纏]](1890-1945)、[[玉音放送]]後に特攻を行い没
| alt2 = 海軍軍人宇垣纏
| image3 = Kanji_Ishiwara2.JPG
| width3 = 60
| caption3 = 陸軍軍人[[石原莞爾]](1889-1949)没
| alt3 = 陸軍軍人石原莞爾
}}
{{multiple image
| image1 = Johan_Gadolin.jpg
| width1 = 60
| caption1 = 化学者[[ヨハン・ガドリン]](1760-1852)没
| alt1 = 化学者ヨハン・ガドリン
| image2 = Prandtl_portrait.jpg
| width2 = 60
| caption2 = 物理学者[[ルートヴィヒ・プラントル]](1875-1953)没
| alt2 = 物理学者ルートヴィヒ・プラントル
| image3 = Sune_Bergstr%C3%B6m.jpg
| width3 = 60
| caption3 = 生化学者[[スネ・ベリストローム]](1916-2004)没
| alt3 = 生化学者スネ・ベリストローム
}}
{{multiple image
| image1 = Signac2.jpg
| width1 = 70
| caption1 = [[新印象派]]の画家、[[ポール・シニャック]](1863-1935)没。画像は『朝食』(1886-87)
| alt1 = 絵画朝食
| image2 = 陆英修参加红十字缝纫志愿者活动.jpg
| width2 = 55
| caption2 = [[朴正煕]]の妻、[[陸英修]](1925-1974)暗殺
| alt2 = 陸英修
| image3 = Sheikh mujibur rahman1950.jpg
| width3 = 55
| caption3 = [[バングラデシュ]]初代大統領[[ムジブル・ラフマン]](1920-1975)
| alt3 = ムジブル・ラフマン
}}
* [[423年]] - [[ホノリウス]]、[[西ローマ帝国]]初代皇帝(* [[384年]])
* [[1038年]] - [[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]、[[ハンガリー王国]]初代国王(* [[969年]]または[[975年]])
* [[1057年]] - [[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1005年]])
* [[1257年]]([[正嘉]]元年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[源在子]]、[[後鳥羽天皇]]の後宮(* [[1171年]])
* [[1342年]] - [[ピエトロ2世 (シチリア王)|ピエトロ2世]]、[[シチリア王国|シチリア]]王(* [[1305年]])
* [[1645年]]([[正保]]2年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[一柳直重]]、第2代[[西条藩|西条藩主]](* [[1598年]])
* [[1665年]]([[寛文]]5年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[松前高広]]、第4代[[松前藩|松前藩主]](* [[1643年]])
* [[1728年]] - [[マラン・マレー]]、[[作曲家]]、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]奏者(* [[1656年]])
* [[1744年]]([[延享]]元年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[一柳頼邦]]、第4代[[小松藩|小松藩主]](* [[1696年]])
* [[1802年]]([[享和]]2年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[唐衣橘洲]]、[[狂歌]]師(* [[1744年]])
* [[1832年]]([[天保]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[中田粲堂]]、[[儒学者]]、[[漢詩人]]、[[篆刻|篆刻家]](* [[1771年]])
* [[1841年]](天保12年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[松浦静山]]、[[大名]]、肥前[[平戸藩]]第9代藩主(* [[1760年]])
* [[1852年]] - [[ヨハン・ガドリン]]、[[化学者]](* [[1760年]])
* [[1883年]] - [[アントン・ヨハネス・ゲールツ]]、[[オランダ]]の[[薬学者]](* [[1843年]])
* [[1907年]] - [[ヨーゼフ・ヨアヒム]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1831年]])
* [[1910年]] - 初代[[桐竹紋十郎]]、[[文楽|人形浄瑠璃]]の人形遣い(* [[1845年]])
* [[1924年]] - [[郡司成忠]]、[[海軍軍人]]、[[探検家]](* [[1860年]])
* [[1929年]] - [[ジョージ・パーキンス・メリル]]、[[地質学者]](* [[1854年]])
* [[1930年]] - [[大井玄洞]]、[[生薬学]]という用語を創出した[[薬学者]](* [[1855年]])
* [[1935年]] - [[ウィリー・ポスト]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1898年]])
* 1935年 - [[ポール・シニャック]]、[[画家]](* [[1863年]])
* [[1938年]] - [[ニコラ・ロメオ]]、[[実業家]]、[[アルファロメオ]]創業者(* [[1876年]])
* [[1945年]] - [[阿南惟幾]]、[[陸軍大臣]](* [[1887年]])
* [[1945年]] - [[宇垣纏]]、[[大日本帝国海軍]][[中将]](* [[1890年]])
* [[1949年]] - [[石原莞爾]]、軍人(* [[1889年]])
* [[1951年]] - [[アルトゥル・シュナーベル]]、[[ピアニスト]](* [[1882年]])
* [[1953年]] - [[ルドウィッヒ・プラントル]]、[[物理学者]](* [[1875年]])
* [[1962年]] - [[雷鋒]]、[[中国人民解放軍]]の模範兵士として知られる人物(* [[1940年]])
* [[1967年]] - [[ルネ・マグリット]]、[[画家]](* [[1898年]])
* [[1974年]] - [[オットー・ブラウン (共産主義者)|オットー・ブラウン]]、[[中国共産党]]の[[軍事顧問]](* [[1900年]])
* 1974年 - [[陸英修]]、[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]][[朴正煕]]の妻(* [[1925年]])
* [[1975年]] - [[ムジブル・ラフマン]]、初代[[バングラデシュ]]首相(* [[1920年]])
* [[1981年]] - [[湯浅八郎]]、昆虫学者(* 1890年)
* [[1983年]] - [[加藤辨三郎]]、実業家、[[協和醗酵工業]]社長(* [[1899年]])
* [[1989年]] - [[源田実]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大佐]]、[[航空幕僚長]]、[[参議院議員]](* [[1904年]])
* [[1990年]] - [[ヴィクトル・ツォイ]]、[[ソビエト連邦|旧ソ連]]のロックバンド「[[キノー]]」のボーカル(* [[1962年]] )
* [[1991年]] - [[芳賀檀]]、[[ドイツ文学者]](* [[1903年]])
* 1991年 - [[阿部桂一]]、脚本家(* [[1923年]])
* [[1992年]] - [[稲葉修]]、[[政治家]](* [[1909年]])
* [[1995年]] - [[仲根正広]]、元[[プロ野球選手]](* [[1954年]])
* [[1996年]] - [[丸山眞男]]、[[政治学者]](* [[1914年]])
* [[1999年]] - [[渡辺茂夫]]、ヴァイオリニスト(* [[1941年]])
* [[2004年]] - [[スネ・ベリストローム]]、[[生化学|生化学者]](* [[1916年]])
* [[2006年]] - [[ファース・ヴィルケス]]、元[[サッカー]]選手(* [[1923年]])
* [[2007年]] - [[金丸三郎]]、[[鹿児島県知事一覧|鹿児島県知事]]、[[総務庁]]長官(* [[1914年]])
* 2007年 - [[酒井敏明]]、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[2011年]] - [[正力亨]]、実業家、元[[読売ジャイアンツ]]オーナー(* [[1918年]])
* [[2016年]] - [[紅音ほたる]]、タレント、元AV女優(* [[1983年]])
* [[2017年]] - [[ドン・中矢・ニールセン]]<ref>{{Cite web|和書|title=【訃報】前田日明と戦ったドン・中矢・ニールセンが死去|website=イーファイト|date=18 Aug 2017 |url=http://efight.jp/news-20170818_266031 |publisher= YOSHIKURA DESIGN,LTD.|accessdate=3 Sep 2023}}</ref>、[[キックボクサー]](* [[1960年]])
* [[2018年]] - [[さくらももこ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2118361/full/ |title=『ちびまる子ちゃん」作者さくらももこさん、乳がんで死去 享年53 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=27 Aug 2018 |accessdate=3 Sep 2023}}</ref>、漫画家(* [[1965年]])
* [[2022年]] - [[笹本恒子]]、写真家(* [[1914年]])
* [[2023年]] - [[飯守泰次郎]]、指揮者(* [[1940年]])
== 記念日・年中行事 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}}
{{multiple image
| footer = [[第二次世界大戦]]終結(1945)。左画像は大東亜戦争終結ノ詔書、右画像は日本の降伏を祝う[[パリ]]の米兵。{{audio|Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|玉音放送を聴く}}
| image1 = Imperial_Rescript_on_the_Termination_of_the_War1.jpg
| width1 = 70
| image2 = American_military_personnel_gather_in_Paris_to_celebrate_the_Japanese_surrender.jpg
| width2 = 110
}}
[[Image:Nehru_Gandhi_1937.jpg|thumb|180x180px|[[インド]]の独立記念日(1947年独立)。画像は1937年の[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]](右)と[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]。{{audio|Jana_Gana_Mana_instrumental.ogg|国歌『ジャナ・ガナ・マナ』を聴く}}]]
{{multiple image
| footer = [[コンゴ共和国]]の独立記念日(1960年独立)左画像は地図、右画像は国旗。
| image1 =LocationRCongo.svg
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| image2 = Flag_of_the_Republic_of_the_Congo.svg
| width2 = 85
}}
{{multiple image
| image1 = Syoryou-uma,obon,katori-city,japan.JPG
| width1 = 90
| caption1 = 月後れ[[お盆|盆]]。画像は精霊馬
| alt1 = 精霊馬:割箸を脚にして馬の形にした胡瓜と茄子
| image2 = Obon albuquerqe bridge.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[精霊流し]]
| alt2 = 精霊流し:夜の水面に照り返す幻想的な光、左に無数の灯籠
}}
[[Image:Baroque_Rubens_Assumption-of-Virgin-3.jpg|thumb|284x284px|[[聖母の被昇天]]。画像は[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]画]]
* [[第二次世界大戦]]終結の日なので、多くの関係国で記念日になっている。ただし、[[ポツダム宣言]]に基づき[[日本の降伏文書|日本が降伏文書]]に調印した[[9月2日]]前後としている[[国家]]も多い([[日本の降伏]])。
** [[終戦の日]]・戦没者を追悼し平和を祈念する日({{JPN}})
**: [[日本]]では、[[1945年]]([[昭和]]20年)8月15日の正午に、[[昭和天皇]]の朗読による終戦の詔書のラジオ放送([[玉音放送]])が行われ、国民に[[ポツダム宣言]]受諾が伝えられた。[[1963年]](昭和38年)以降、毎年この日に政府主催で「[[全国戦没者追悼式]]」が行われる。
** [[対日戦勝記念日]]({{GBR}})
** [[光復節 (韓国)|光復節]]({{KOR}})・[[解放記念日]]({{PRK}})
**: 日本がポツダム宣言を受諾したことにより、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮が日本の統治]]から解放されたことから。
* [[月遅れ]][[お盆|盆]]([[旧盆]])({{JPN}})
** [[国民の祝日]]では無いものの、この日を前後にして、製造業を中心に企業が「休業日」に設定している場合が多い。
** [[精霊流し]]([[長崎県]])
*きゃどっこまつり({{JPN}})
*: 毎年この日に[[秋田県]][[五城目町]]の雀館運動公園で開催されるお祭り。 「きゃどっこ」とは、道路という意味。
*[[能登キリコ祭り|明千寺キリコ祭]]({{JPN}})
*: 毎年8月15日〜8月16日、[[石川県]][[穴水町]]明千寺地区で開催されるお祭り。白雉神社の夏の祭礼に白木造りの高さ9mのキリコが奉納される。キリコは地区を練り歩いた後、神社へ神輿を迎えに行き、お旅所まで先導するが、神様に失礼にならないよう、神輿に正面を向け、後ろ向きで進む。
*[[諏訪湖祭湖上花火大会]]({{JPN}})
*: [[長野県]][[諏訪市]]の湖畔公園前、[[諏訪湖]]湖上で毎年この日に開催される花火大会。昭和24年([[1949年]])に第1回が開かれ、例年50万人を集める。諏訪湖湖上に設置された打上台から4万発余りの花火が打上がる全国屈指の花火大会<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230816/1010027833.html |title=「諏訪湖上花火大会」4年ぶりに通常開催 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] 信州 NEWS WEB |date=16 Aug 2023}}</ref>。
*[[南部の火祭り]]({{JPN}})
*: [[山梨県]][[南部町 (山梨県)|南部町]]の富士川河川敷南部橋上下流で毎年この日に開催される火祭り。お盆の送り火や川施餓鬼として、稲を病害虫から守るための虫送りの意味も込められている。
*米津の川まつり({{JPN}})
*: [[愛知県]][[西尾市]]の矢作川米津橋下流で毎年この日に開催される。水難者や戦没者の霊を慰めるために始まった行事で、読経が流れる中、約1,500個の揺れる万灯が川面に浮かび、夜空には約3,000発のスターマインや仕掛花火などが打ちあがる。
*小渡天王祭({{JPN}})
*: [[愛知県]][[豊田市]]で行なわれる御鍬神社(おくわじんじゃ)の境内社・津島社の祭礼。神輿の練り、松明行列、矢作川での灯籠流しが行われたあと、旭やまびこ花火大会で約1,000発の花火が打ち上げられる。
*小橋の精霊船({{JPN}})
*: [[京都府]][[舞鶴市]]小橋地区で毎年この日に実施される。海嶠寺にまつられた施餓鬼法要の旗やお供物、家々の門に設けられたお供物が、子どもたちの手で精霊船に積み込まれ、沖に流される。京都府の無形民俗文化財に登録されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8H6WMNN8HPLZB005.html?iref=pc_photo_gallery_bottom |title=京都)祖先の霊、海へ 舞鶴・小橋で精霊船行事 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[京都新聞]] |date=16 Aug 2020}}</ref>。
*[[椋浦の法楽おどり]]({{JPN}})
*: [[広島県]][[尾道市]]因島椋浦町で毎年この日に行われるお祭り。中世、村上水軍が出陣の際に勝利と兵士の安全を祈願し、帰陣の折には勝利を祝し戦没者を追悼したのが始まりで、江戸時代に五穀豊穣、無病息災を祈る行事に変化したと伝えられている。広島県の無形民俗文化財に登録されている。
*萩・万灯会 送り火({{JPN}})
*: [[山口県]][[萩市]]の[[東光寺 (萩市)|東光寺]]で毎年この日に行なわれる。萩の夏の風物詩『萩・万灯会』は、萩藩主[[毛利氏|毛利家]]菩提寺である[[大照院]]と東光寺が舞台で、[[8月13日]]の「迎え火」は大照院、8月15日の「送り火」が東光寺で行なわれる。「萩・万灯会」では、墓所にある500基を超える石灯籠に火が灯る。
*精霊流し花火大会(姪浜花火大会)({{JPN}})
*: [[福岡県]][[福岡市]]の愛宕浜マリナタウン海浜公園で開催される姪友会主催の花火大会。昭和63年([[1988年]])にお盆の精霊流しの行事として始まった。
*[[山鹿灯籠まつり]]({{JPN}})
*: 毎年8月15日~8月16日、[[熊本県]][[山鹿市]]で開催されるお祭り。濃霧に行く手を阻まれた第12代[[景行天皇]]の巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げてお迎えしたことに由来する。以来、里人たちは行在所跡(現在の[[大宮神社 (山鹿市)|大宮神社]])に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになった。[[室町時代]]になると紙製の金灯籠に姿を変え、その後、金灯籠を頭に掲げた女性が舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が誕生し、祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りが誕生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://yamaga-tanbou.jp/about/toromatsuri/ |title=山鹿灯籠まつり |access-date=3 Sep 2023 |publisher=山鹿市 観光課 |website=山鹿探訪なび}}</ref>。
*[[刺身]]の日({{JPN}})
*: [[室町時代]]後期の書記官だった中原康冨の日記に「[[鯛]]なら鯛と分かるように、その魚のひれを刺しておくので刺身、つまり“さしみなます”。」という記述があり、それが刺身と言う言葉が文献に最初に登場した時だった。それが、[[1448年]]の8月15日だったことから。
* [[独立記念日]]({{IND}})
*: [[1947年]]のこの日、前日の[[パキスタン]]に続いてインドが[[イギリス]]から独立した。
* 独立記念日({{COG}})
*: [[1960年]]のこの日、コンゴ共和国が[[フランス]]から独立。
* [[聖母の被昇天|聖母の被昇天の祭日]]([[カトリック教会]])
*: [[聖母マリア]]が死ぬことなく、生きたまま天にあげられたことを記念する日。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0815|date=Sep 2023}}
* 昭和20年(西暦換算[[1945年]]) - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]援英派遣艦隊「旭日艦隊」、[[横須賀市|横須賀]]、[[呉市|呉]]等の各軍港から出撃(架空戦記『[[旭日の艦隊]]』)
* 昭和21年(西暦換算[[1946年]]) - [[イギリス|英国南部沿岸]]にドイツ軍が上陸作戦「トド作戦」を開始、上陸に成功(架空戦記『旭日の艦隊』)
* 200X年 - 仮名ライダーとモドキング一味の最終決戦。日本初の有人ロケットが、抗カラーウィルスワクチンを搭載して[[種子島宇宙センター]]より打ち上げられる(漫画『[[空想科学大戦!]]』)
* [[2032年]] - 太陽系絶対防衛戦。雷王星(架空の太陽系第13惑星)など三惑星が、縮退炉を暴走させてブラックホール爆弾となった[[ヱクセリヲン]]により、[[宇宙怪獣#トップをねらえシリーズ|宇宙怪獣]]約30億体もろとも消滅。後のブラックホールエグゼリオが誕生する(アニメ『[[トップをねらえ!]]』)
* [[2038年]] - アンドロイドが意図的に人間に危害を加えた初めての事件が発生。(ゲーム『[[デトロイト ビカム ヒューマン]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0069年 - [[ジオン公国]]建国記念日(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
* U.C.0081年 - [[エギーユ・デラーズ|ギーユ・デラーズ]]率いる[[デラーズ・フリート]]が、[[デラーズ・フリート#デラーズ・フリートの施設や戦力|茨の園]]を中心として[[ゲリラ]]活動を開始する。(アニメ『[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]]』)
* 年不明 - [[じん]]による[[ボーカロイド]]楽曲、[[カゲロウデイズ]]の歌詞の冒頭に登場する日時。下記「カゲロウプロジェクト」と関連。
* 年不明(2200年?) - 上記と関連。作曲家[[じん]](自然の敵P)が制作した[[カゲロウプロジェクト]]と呼ばれる作品において、【終わらないセカイ】を作り出したが故に発生したループがあり、その日は8月15日である。
* 年不明 - 獄間沢幸之助首相就任パレードで暗殺。獄間沢が凶弾に倒れたこの日を後に「国民クイズの日」と制定される。 (漫画『[[国民クイズ]]』<ref>{{Cite book|和書|author=杉元伶一|author2=加藤伸吉|authorlink=杉元伶一|authorlink2=加藤伸吉|title=国民クイズ 3|publisher=講談社|year=1994|page=160-161|isbn=4-06-328396-8}}</ref>)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1909年]] - エリカ・フォンティーヌ、ゲーム『[[サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜|サクラ大戦3~巴里は燃えているか~]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakura-taisen.com/archives/game/3ps2/chara_elica.html |title=エリカ・フォンティーヌ |access-date=3 Sep 2023 |work=『サクラ大戦3~巴里は燃えているか~』 |publisher=[[セガ|SEGA]] [[レッド・エンタテインメント|RED]]}}</ref>
* [[1937年]] - 奥原なつ - テレビドラマ『[[なつぞら]]』の主人公
* [[1948年]] - [[本郷猛]]、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダー]]』の主人公の一人<ref>{{Cite web|和書|url=https://hobby.dengeki.com/news/245474/ |title=【8/15は仮面ライダー1号 本郷猛の誕生日!】関連記事をまとめて「とうっ!!」 |date=15 Aug 2016 |accessdate=3 Sep 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=電撃ホビーWEB}}</ref>
* [[1973年]] - 真田遼、アニメ『[[鎧伝サムライトルーパー]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |year = 1989 |editor=アニメック編集部|title = 鎧伝サムライトルーパー大事典 |page = 33 |publisher = [[ラポート]] |series = ラポートデラックス }}</ref>
* [[1980年]] - [[ショーン (ストリートファイター)|ショーン(ショーン・マツダ)]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=キャラ図鑑045:松田家 ショーン・マツダ |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/112609 |website=[[カプコン|CAPCOM]] シャドルー格闘家研究所 |access-date=3 Sep 2023}}</ref>
* [[2000年]] - ショーン・ディアス、ゲーム『[[ライフ イズ ストレンジ2]]』の主人公<ref>{{Twitter status|lifeisstrange|1294657600580136966}}</ref>
* 生年不明 - [[BASARAの登場人物#さらさ|更紗(さらさ)]]、漫画・アニメ・舞台『[[BASARA]]』の主人公
* 生年不明 - 熱気バサラ、アニメ『[[マクロス7]]』の主人公<ref>{{Twitter status|macrossd|1426740433397460998}}</ref>
* 生年不明 - 大牙謙吾、小説・漫画『[[GENEZ]]』の主人公<ref>『[[GENEZ|GENEZ-5]]』([[ドラゴンマガジン (富士見書房)|ドラゴンマガジン]]2010年7月号掲載)富士見書房、2010年。</ref>
* 生年不明 - 松島名月、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/matsushima_nazuki |title=宮城 松島名月 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 上諏訪雫音、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/kamisuwa_shizune |title=長野 上諏訪雫音 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 下諏訪綿音、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/shimosuwa_watane |title=長野 下諏訪綿音 |access-date=3 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - ジョディー・爆竜・カレン、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)72頁</ref>
* 生年不明 - [[鳳凰星座の一輝]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=5 |title=鳳凰星座(フェニックス)の一輝(いっき) |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=車田正美|authorlink=車田正美|title=聖闘士星矢大全|publisher=集英社|year=2001|page=53|isbn=4-8342-1690-X}}</ref>
* 生年不明 - ヘラクレス星座のアルゲティ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=24 |title=ヘラクレス星座のアルゲティ |access-date=3 Sep 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - 越知月光、ゲーム『[[テニスの王子様]]』RisingBeatに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|risingbeat_app|1294287926449197061}}</ref>
* 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#大筒木一族|大筒木カグヤ]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1294287682126798854}}</ref>
* 生年不明 - [[暁 (NARUTO)|角都]]、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>岸本斉史 『NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2008年、57頁、{{ISBN2|978-4-08-874247-2}}。</ref>
* 生年不明 - 桃地再不斬、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>[[岸本斉史]] 『NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』 [[集英社]]〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、2002年、125頁、{{ISBN2|4-08-873288-X}}。</ref>
* 生年不明 - 現見ケミィ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group09/09-02/ |title=現見ケミィ |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=3 Sep 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 蓮華、漫画・アニメ『[[貧乏神が!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 韓国、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWERSヘタリア |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=21 |isbn=978-4-344-81514-8 |author=日丸屋秀和 |volume=2}}</ref>
* 生年不明 - 烏旅人、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BLUELOCK_WM|1691363580946649088}}</ref>
* 生年不明 - 望月涼子、漫画・アニメ『[[ライフル・イズ・ビューティフル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[BASARAの登場人物#たたら|タタラ]]、漫画・アニメ・舞台『[[BASARA]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 半蔵、漫画・アニメ『[[すもももももも 地上最強のヨメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=すもももももも 〜地上最強のヨメ〜 GUIDE BOOK|publisher= [[スクウェア・エニックス]]|year=2006|page=102|isbn=4-7575-1771-8}}</ref>
* 生年不明 - 大八木朔、漫画・アニメ『[[宙のまにまに]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=柏原麻実 |authorlink=柏原麻実 |year=2009 |title=宙のまにまに |volume=第6巻 |page=169 |publisher=[[講談社]] |series=[[アフタヌーンKC]] |isbn=978-4-06-314560-1}}</ref>
* 生年不明 - 新橋カズマ 、漫画『[[うわさの翠くん!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 丹波橋志津、漫画・アニメ『[[いなり、こんこん、恋いろは。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 小橋蒼空、漫画・映画『[[ちょっとかわいいアイアンメイデン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ゾンビーナ、漫画・アニメ『[[モンスター娘のいる日常]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|monmusuofficial|1559034845351014410}}</ref>
* 生年不明 - 源陽太、漫画『[[キミは宙のすべて]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - サターニャ、漫画・アニメ『[[ガヴリールドロップアウト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://gabdro.com/chara3.html |title=サターニャ(CV:大空直美) |work=『ガヴリールドロップアウト』 |accessdate=3 Sep 2023 |publisher=[[うかみ]]/[[KADOKAWA]] [[アスキー・メディアワークス]]/ガヴリールドロップアウト製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - アザミ(薊)、小説・コミック『[[カゲロウデイズ]]』およびアニメ『[[メカクシティアクターズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 雛子、小説・アニメ 漫画『[[シスター・プリンセス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 熱血隼人、ゲーム『[[ジャスティス学園]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 狭井君、ゲーム『[[遙かなる時空の中で]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 弓塚さつき、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=月姫読本PlusPeriod|author=[[武内崇]]、[[奈須きのこ]]|year=2004|publisher=宙出版|page=88|isbn=4-7767-9037-8}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#ケイト|ケイト]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20060 |title=ケイト |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=3 Sep 2023 |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - かぐや、ゲーム『[[鬼斬]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jp_onigiri|897433295557771264}}</ref>
* 生年不明 - 藤原道長、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1294468856958693376}}</ref>
* 生年不明 - 夏目祈、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31f/natsume-inori/ |title=夏目祈 |website=『ヘブンバーンズレッド 』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=3 Sep 2023}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8815%E6%97%A5 |
1,536 | 人類学 | 人類学(じんるいがく、英: anthropology)とは、人類に関しての総合的な学問である。生物学的特性について研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習など文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶ。さらに言語学や考古学、民俗学や民族学、芸能も包括する。
人類学は人文科学、社会科学、自然科学の全てに根を持つ。人類学は対象を人類に定めている以外には、特に固有の方法論を持っているわけではない。そのため、その内容は、生物学的な手法を用いたゲノム研究や生理学的な研究から、社会科学や人文科学的な手法を用いてあるコミュニティの行動科学的な研究まで多岐に渡る。かつては自社会から遠く離れたコミュニティ、ないしは先史時代の人間を対象にすることが学問的な特徴とされていたが、現在ではそういった制約はない。つまり研究手法にとらわれない学際的な研究によって人類とは何かを全体として明らかにしようとする学問分野である。
そのため、制度上の位置づけは下記のように複雑である。自然人類学は一般に生物学に属する動物学の下位分野と分類される一方、文化人類学は社会科学に、言語学と考古学は人文科学に分類される。
人類学の範囲や制度上の位置づけは国によって異なっている。アメリカでは、文化人類学(民族学)、考古学、言語学の三分野をあわせて広義の文化人類学と呼び、これに自然人類学も含んだ総合的な人類学科が大学に設置されている。これに加えてこれら四分野はアメリカ人類学協会という統一学会を組織している。
これに対して、イギリスでは社会科学的手法を用いる社会人類学と生物学の一分野である自然人類学、および考古学、言語学は分離されている。このイギリスの制度は、欧州統合前後からヨーロッパの人類学の発展に大きな影響を与えており、1990年代には社会・文化人類学に関する欧州統一学会として、ヨーロッパ社会人類学会が設立された。
日本では一般に理学部や医学部に属する生物学系の自然人類学を伝統的に人類学とすることが多く、社会科学系学部に設置された民族学(文化人類学)は制度上完全に分離されており、学会も自然人類学の日本人類学会と文化人類学の日本文化人類学会(旧称・日本民族学会)などに分かれている。また人類共通の基盤研究としての下位分野として霊長類学が位置づけられることもある。
以下に日本の人類学関連学会協議会に参加する学会を記述する。
なお、文化人類学や自然人類学は方法論や具体的な現象名に応じて細分化する傾向にあるため、それぞれの下位分野についてはリンク先を参考にすること。
アメリカ合衆国では、人類学は以下の4分野からなる。4分野を合わせて、しばしば四分類人類学(Quadrant Anthropology)、総合人類学(general anthropology)と言われる。
もともと、集団ごとの差異を論じるのはエジプトの古代絵画にも見える。「アンスロポロジー」という言葉を最初に使ったのはアリストテレスであったが、その意味は「人の噂をする人、あるいは自慢話をする人」という意味であって、直接的な関係はない。古代ローマの医師ガレノスが動物と人類の解剖学的な比較を行った記録が、自然人類学的な最初の報告だろう。アンスロポロジーを現代的な用法で使ったのは、マグヌス・ハントだと言われている。E・タイソンはヒトを含む霊長類の比較解剖を行ったことで記録に残っている。
カール・フォン・リンネは『自然の体系』第10版においてヒト、有尾猿、キツネザル、コウモリを霊長目の4属とし、ヒト属の中にホモ・サピエンスと類人猿をおいた。一方でビュフォンは機能的な分析をし、人類の進化や人種に影響を持った。この頃まで、西欧における人類学の議論はキリスト教会の主張する単一起源論(アダムからすべての人類は生まれたとする教義)とその反論を大きな枠組みとしていたが、1856年、ホモ=ネアンデルタレンシスの化石が発見され、1859年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発行したことによって激変が起きる。
『種の起源』以降、それまで人類の単一起源説と複数起源説が議論の中心であった人類学は、ヒトの身体的特徴がいかに適応的意義を持つかの議論へと移っていく。この過程で伝統的な人種観に科学的根拠のないことが明らかにされていくことになる。レイシズムracismの言葉は、人種ごとの優劣は科学的に存在していてそれを踏まえて歩んでいこうとする、当時よく見られた今となっては非科学的な言説を、批判する態度の中で、人類学者のルース・ベネディクトによって世に広められた。 | [
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]
| 人類学とは、人類に関しての総合的な学問である。生物学的特性について研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習など文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶ。さらに言語学や考古学、民俗学や民族学、芸能も包括する。 | {{出典の明記|date=2008年12月}}
{{人類学}}
'''人類学'''(じんるいがく、{{lang-en-short|anthropology}})とは、[[人類]]に関しての総合的な[[学問]]である。[[生物学]]的特性について研究対象とする学問分野を[[形質人類学]]もしくは[[自然人類学]]と呼び、[[言語]]や社会的慣習など[[文化的]]側面について研究する学問分野を[[文化人類学]]もしくは[[社会人類学]]と呼ぶ。さらに[[言語学]]や[[考古学]]、[[民俗学]]や[[民族学]]、[[芸能]]も包括する。
== 概要 ==
人類学は[[人文科学]]、[[社会科学]]、[[自然科学]]の全てに根を持つ。人類学は対象を人類に定めている以外には、特に固有の[[方法論]]を持っているわけではない。そのため、その内容は、[[生物学]]的な手法を用いた[[ゲノム]]研究や[[生理学]]的な研究から、社会科学や人文科学的な手法を用いてあるコミュニティの[[行動科学]]的な研究まで多岐に渡る。かつては自社会から遠く離れたコミュニティ、ないしは[[先史時代]]の人間を対象にすることが学問的な特徴とされていたが、現在ではそういった制約はない。つまり研究手法にとらわれない[[学際]]的な研究によって人類とは何かを全体として明らかにしようとする学問分野である。
そのため、制度上の位置づけは下記のように複雑である。自然人類学は一般に生物学に属する[[動物学]]の下位分野と分類される一方、文化人類学は社会科学に、言語学と考古学は人文科学に分類される。
人類学の範囲や制度上の位置づけは国によって異なっている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、文化人類学(民族学)、考古学、言語学の三分野をあわせて広義の文化人類学と呼び、これに自然人類学も含んだ総合的な[[人類学科]]が[[大学]]に設置されている。これに加えてこれら四分野は[[アメリカ人類学協会]]という統一学会を組織している。
これに対して、[[イギリス]]では社会科学的手法を用いる社会人類学と生物学の一分野である自然人類学、および考古学、言語学は分離されている。このイギリスの制度は、[[欧州統合]]前後から[[ヨーロッパ]]の人類学の発展に大きな影響を与えており、[[1990年代]]には社会・文化人類学に関する欧州統一学会として、[[ヨーロッパ社会人類学会]]が設立された。
=== 日本における人類学の下位分野 ===
[[日本]]では一般に[[理学部]]や[[医学部]]に属する生物学系の自然人類学を伝統的に人類学とすることが多く、社会科学系学部に設置された民族学(文化人類学)は制度上完全に分離されており、[[学会]]も自然人類学の[[日本人類学会]]<ref>[http://anthropology.jp/about.html 日本人類学会について]</ref>と文化人類学の[[日本文化人類学会]](旧称・日本民族学会)<ref>[http://www.jasca.org/ 日本文化人類学会とは]</ref>などに分かれている。また人類共通の基盤研究としての下位分野として[[霊長類学]]が位置づけられることもある<ref group="注釈">分類群として逆転しているので、[[学者|研究者]]によっては霊長類学の下位分野としての人類学が主張される場合がある。</ref>。
以下に日本の人類学関連学会協議会に参加する学会を記述する。
*文化人類学
*生理人類学
*霊長類学
*人類学
*民俗学
なお、文化人類学や自然人類学は方法論や具体的な現象名に応じて細分化する傾向にあるため、それぞれの下位分野についてはリンク先を参考にすること。
=== アメリカにおける人類学の下位分野 ===
[[アメリカ合衆国]]では、人類学は以下の4分野からなる。4分野を合わせて、しばしば四分類人類学(Quadrant Anthropology)、総合人類学(general anthropology)と言われる。
#先史[[考古学]] Archaeology
#[[言語学]]([[言語人類学]])Ligustic Anthroplogy
#[[生物人類学]] Biological Anthropology
#[[民族学]]・[[民俗学]]・[[文化人類学]] Cultural Anthroplogy
== 歴史 ==
もともと、集団ごとの差異を論じるのは[[エジプト]]の古代絵画にも見える。「アンスロポロジー」という言葉を最初に使ったのは[[アリストテレス]]であったが、その意味は「人の噂をする人、あるいは自慢話をする人」という意味であって、直接的な関係はない。[[古代ローマ]]の医師[[ガレノス]]が動物と人類の解剖学的な比較を行った記録が、自然人類学的な最初の報告だろう{{要出典|date=2011-11}}。アンスロポロジーを現代的な用法で使ったのは、[[マグヌス・ハント]]だと言われている。E・タイソンはヒトを含む霊長類の比較解剖を行ったことで記録に残っている。
[[カール・フォン・リンネ]]は『自然の体系』第10版において[[ヒト]]、[[有尾猿]]、[[キツネザル]]、[[コウモリ]]を霊長目の4属とし、ヒト属の中に[[ホモ・サピエンス]]と[[類人猿]]をおいた。一方で[[ビュフォン]]は機能的な分析をし、[[人類の進化]]や[[人種]]に影響を持った。この頃まで、西欧における人類学の議論はキリスト教会の主張する単一起源論(アダムからすべての人類は生まれたとする教義)とその反論を大きな枠組みとしていたが、[[1856年]]、[[ホモ=ネアンデルタレンシス]]の[[化石]]が発見され、[[1859年]]に[[チャールズ・ダーウィン]]が『[[種の起源]]』を発行したことによって激変が起きる。
『種の起源』以降、それまで人類の単一起源説と複数起源説が議論の中心であった人類学は、ヒトの身体的特徴がいかに適応的意義を持つかの議論へと移っていく。この過程で伝統的な人種観に科学的根拠のないことが明らかにされていくことになる。[[レイシズム]][[:en:Racism|racism]]の言葉は、人種ごとの優劣は科学的に存在していてそれを踏まえて歩んでいこうとする、当時よく見られた今となっては非科学的な言説を、批判する態度の中で、人類学者の[[ルース・ベネディクト]]によって世に広められた。<ref>{{Cite book|title=Margaret Mead and Ruth Benedict : the kinship of women|url=https://www.worldcat.org/oclc/45843549|publisher=University of Massachusetts Press|date=1999|location=Amherst, Mass.|isbn=0585319073|oclc=45843549|last=Lapsley, Hilary.}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
*[[特別:検索/intitle:人類学|「人類学」を含む記事名の一覧]]
*[[日本の人類学者の一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20060618155854/http://www.movinganthropology.org/ The Moving Anthropology Student Network/Moving Anthropology Social Network(MASN)] is the largest international network of anthropology students and young academics, connecting people from all over the world
* [http://homepage.uibk.ac.at/~c720126/humanethologie/ws/medicus/block1/MappingISBN1-59454-212-0.pdf Mapping Transdisciplinarity in Human Sciences]
* [http://homepage.uibk.ac.at/~c720126/humanethologie/ws/medicus/block1/TheoryHumanSci.ppt Fundamental Theory of Anthropology]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6 |
1,537 | PC/AT互換機 | PC/AT互換機(ピーシーエーティーごかんき、英語: IBM PC/AT Compatibles)とは、IBM PC ATの互換機であるパーソナルコンピューター(PC)であり、広義にはその後の拡張を含めたアーキテクチャの総称。16ビット以降のPCのデファクトスタンダードとなった。世界的にはIBM PC互換機、単にPCとも呼ばれる。日本ではDOS/V機などとも呼ばれる。当記事では1981年の初代IBM PC以降の「IBM PC互換機」を含めて記載する。
世界的には「IBM PC互換機」と呼ばれる場合が多い。その「IBM PC」とは、1981年にIBMが発売したオリジナル(元祖)のIBM PCで、更には後継のIBM PC XT、IBM PC ATを含めたシリーズを指す。従って「IBM PC互換機」とは、そのシリーズのアーキテクチャを受け継ぐ互換機の事であり、広義にはIBM社自身の後の製品も含まれるが、IBM社製品でも独自仕様など異なるアーキテクチャのものは含まれない。また「IBM PCクローン」は初期の比較的単純な複製品を指す場合が多い。また主にMacintoshと対比させて、単に「PC」「PCs」と総称する場合も多い。
日本では以下の経緯もあり「PC/AT互換機」や「DOS/V機」などの表現が普及した。
なお大手メーカーの多くはブランド戦略やサポート範囲上、「互換機」の表現を使用しない傾向があり、コンパック(現HP)は日本でのDOS/V参入時に「業界標準機」(Industry Standard Machine)、日本電気はPC/AT互換機であるPC98-NXシリーズ発売時に「世界標準機」と呼んだ。
米国を始めとする世界的には1980年代以降(日本では特殊事情より1990年代半ば以降、後述参照)、パーソナルコンピュータ (PC)の大多数はMacintoshやタブレット端末を除くとPC/AT互換機であり、デファクトスタンダードとなっている。また各種のスーパーコンピュータや産業用機器、携帯情報端末などのベースとしても使用されている。
PC/AT互換機はオリジナルのIBM PC ATとハードウェアとソフトウェアの両面で互換性を持つところから出発したが、現在では拡張を重ね、ATバス(ISA)やHDDのインターフェース、キーボード・マウスのコネクタを含めてハードウェア面の互換性はほとんど失われている。しかし、ソフトウェア面から見れば、ほぼ後方互換性を持つCPU (x86) やディスプレイ仕様(VGAなど)などを引き継いでいる。このため現在ではPC/AT互換機とは「オリジナルのPC/ATと直接の互換性があるマシン」という意味ではなく、「PC/ATをベースにソフトウェア面の後方互換性を維持しながらも、各種の拡張や標準化を重ね、事実上の標準を確立したマシンや仕様の総称」といえる。
事実上、1980年代後半から日本を除く世界的なPCのシェアの過半はPC/AT互換機で占められ、ハードウェアやBIOSのインタフェースを共通にすることで、ソフトウェアや周辺機器がメーカーを問わずどのPCでも利用できる様になった。なお、日本では1980年代の半ば頃から1990年代の前半頃まで、日本語で使用できるシステムを実用化させた日本電気のPC-9800シリーズが市場をほぼ独占していたが、1990年代半ばよりPC/AT互換機が普及した。
PC/AT互換機がデファクトスタンダード化した後には、多くの互換機メーカーや、台湾などを中心とした部品メーカーが登場し、競争によるコストダウンが進み、事実上の標準PCの地位を築いた。これにより、低価格なホビーPCや独自規格(PC-9800シリーズ、X68000など)はMacintoshシリーズを除いて1990年代半ば以降ほぼ消滅し、PC市場はPC/AT互換機が寡占するようになった。また、AppleのMacintoshシリーズも2005年にIntel系CPUを採用しPC/AT互換機となった。ただし、2020年に自社開発のAppleシリコンへの移行を発表している。
PC/AT互換機の仕様は各社や各種標準化団体によるデファクトスタンダードの積み重ねであり、汎用の部品を組み合わることにより比較的容易にコンピュータを作成できる。このため大手メーカーの他、零細なガレージメーカー、ショップブランド、BTO、個人による自作パソコンなども広く存在している。ただし、組み合わせによっては、各ベンダーによるサポートの有無、サポートのレベルの違い、また、特定のパーツの組み合わせで問題が発生するいわゆる相性なども存在し、サポート外の部分には自己責任が求められる。
IBMによって発売された、1981年のオリジナルのIBM PC、1983年のマイナーチェンジであるIBM PC XT、1984年のIBM PC ATは大ヒットとなり、ビジネス用途を含め広く普及し、多数のアプリケーションソフトウェアや周辺機器が市場に普及したが、合法的な互換機や標準化の試みにより、段階的に互換機市場が形成されていった。
1981年に発売されたオリジナルのIBM PCは、短期間でパソコン市場に参入するためにCPU、メモリ、入出力デバイス、周辺ロジックに市場で入手可能な汎用の部品ならびに既存のソフトウェアのみを用いて構成され、拡張スロットにビデオカードを追加する事によってビデオ(テキスト、グラフィック)機能を拡張することが容易であった。更にIBMはアプリケーションソフトウェアや周辺機器の開発のためにマニュアル中に回路図やBIOSのソースコードを公開し、サードパーティー製品の普及に努めた。またIBM PC用の主要なオペレーティングシステムであるPC DOSの普及のため、開発元のマイクロソフトが他メーカーにOEM供給する事を許可した。IBM以外の各社へ提供したDOSは、当初はOEM先の各社の名称がつけられたが、総じてMS-DOSと呼ばれるようになった。IBMは後にこれらをオープンアーキテクチャと呼んでいる。但し、互換機の作成にはBIOSが必要であり、公開されているBIOSのソースコードをそのまま使用する事は著作権侵害となるため、当時IBMは互換機自体の作成は避けられると考えていた。
互換機のうち、初期に登場した各オリジナルのコピー(模倣)に近いものをクローンと呼ぶ。クローンは先行したApple IIなどでも存在したが、その中にはBIOSなどの著作権を侵害しているものも含まれる。1982年のコロンビア・データ・プロダクツ(英語版)によるMPC は、クリーンルーム設計による著作権侵害とならない互換BIOSを搭載し、初めての合法的なIBM PC互換機とされている。またCPU周辺の回路を構成する部品等については、当初は汎用のTTL等を用いていたが、市場性があるとみたLSIメーカが同等の回路を集積した安価な互換LSI等を供給し始め、後にはわずかな数のチップに集積されたチップセットが提供される様になった。これらにより合法的な互換機の作成が容易となった。
1982年には代表的な互換機メーカーであるコンパックが設立され、1983年出荷のCompaq Portableもクリーンルーム設計による互換BIOSを搭載した。さらに、1984年にはBIOSメーカーであるフェニックス・テクノロジーズ(英語版)がクリーンルーム設計による互換BIOSを各メーカーに供給開始し、後にはアメリカンメガトレンドなども参入し、合法的な互換機市場が広く形成された。
1986年 コンパックがIBMに先駆けて80386 CPUを採用した際に、従来のXTバスやATバスにバスブリッジを導入し、CPUのクロックと外部バスのクロックを分離した。これは後にEISA陣営によりISAバスと呼ばれ、さらにIEEEで標準化された。このことはIBMオリジナルの各モデル(CPU)のローカルなバス規格であったXTバスやATバスが標準化され、コピーから生まれた互換機が、以後は独自に高速CPUを搭載したり周辺機器を設計することが可能となり、PC/AT互換機市場が確立した。
ハードディスクの規格も当初のST-506やESDIから、1986年にコンパックとコナー・ペリフェラルが開発したIDE、さらには標準化されたATA、SATAが主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。
ディスプレイ(テキストおよびグラフィック)の規格も、上位互換が徹底され、各社による拡張とデファクトスタンダード形成が継続した。オリジナルのIBM PCで採用されたMDAとCGAでは、CGAはMGAの全ての画面モードを含んでいた(MDAの上位互換)。次にIBM PC ATで採用されたEGAには、CGAの全ての画面モードと追加された画面モードが含まれた(MDA/CGAの上位互換)。各社はEGAに独自の解像度や色数のモードを追加して速度や価格を競い、これらはスーパーEGA(SEGA)と総称された。更にIBM PS/2で採用されたVGAには、EGAの全ての画面モードが含まれた(MDA/CGA/EGAの上位互換)。従来のPC AT用にもATバス用のVGAアダプターが発売された。各社はVGAと上位互換性を持つビデオチップやビデオカードを発売し、これらはSVGAと総称された。後にSVGAでは一部の画面モードがVESAで標準化された。後のXGAもVGAの上位互換(広義にはSVGAの一種)であった。これらの画面モード切替は、ユーザーがハードウェア的な切替操作をすることなく、ソフトウェアが行えた。なおHercules Graphics Cardや8514/Aなどは、EGAやVGA等の画面モードを内蔵するのではなく、EGAやVGA等と共存することができた(HGAはユーザーが2画面使用できた、8514/Aは本体側のVGA信号をパススルーできた)。またBIOS画面やOSのインストール画面などではデファクトスタンダードとなった画面モード(MDA/EGA/VGA等)を使用する事で、互換性と拡張性を両立できた。
CPUやメモリの性能が上がるなかで、従来のATバス(ISA)は性能や機能の限界が表面化してきた。1987年、IBMが発売したPS/2は、次世代バスとして従来のATバス(ISA)とは互換性の無い新しいマイクロチャネル(MCA)を採用したが、その使用にはライセンス料の支払いが求められた。対抗する互換機メーカーはISAを拡張したEISA規格を掲げ、規格競争が行われた。しかし、いずれの規格も法人向け上位モデル以外には広く普及せず、従来のATバス(ISA)が使われ続けた。このため特にグラフィック専用の中継ぎ的な規格として1992年にVLバスが策定され一時普及したが、後に多種のデバイスを扱える幅広い標準化を掲げたPCIが登場すると、両陣営とも段階的に移行してデファクトスタンダードとなった。
なおIBM PS/2で採用されたMCAは普及しなかったが、ディスプレイ規格であるVGA、キーボード・マウス用のPS/2コネクタ、3.5インチフロッピーディスクなどは、その後の各社SVGAを含めて「PC/AT互換機」のデファクトスタンダードとなった。
上述のようにオリジナルのIBM PCは16ビットCPUである8088であったが、1985年には32ビットCPUのIntel 80386が登場し、1986年にはコンパックが搭載した。当初はMS-DOSなどで高速な16ビット環境として使用されていたが、OSの32ビット対応も段階的に進展した。
1990年代にはいわゆるWintelが規格主導権を持つようになり、CPUへのRISC技術導入を契機に1994年、IBM・Apple・モトローラはPowerPC搭載パーソナルコンピュータの規格(PReP)を発表し、対抗するインテル・HPはIA-64を発表したが、どちらも一般のPC/AT互換機には普及せず、以後もx86(IA-32)のソフトウェア互換性を維持しつつ性能向上が継続した。
2000年代にはCPUの64ビット化が進んだ。インテルのIA-64が広く普及しなかった事もあり、2003年にAMDが出荷開始したIA-32の64ビット拡張である「AMD64」(x86-64命令セット)が普及した。2006年にインテルも同規格を「Intel 64」としてリリースしたため、この64ビット拡張はx64 (x86-64)と総称され、PC/AT互換機でのデファクトスタンダードとなり、WindowsなどのOSはIA-32用(通称32ビット用)とx64用(通称64ビット用)が用意された。
Wintelの増収増益の一方で、PCのコモディティ化の波により伝統的なPCメーカーが衰退し、業界再編が進行した。2002年、互換機市場の創成期からのリーダーであったコンパックはヒューレット・パッカードに買収された。2004年、元祖IBM PCを生んだIBMはPC事業をレノボに売却した。2007年、家庭向け低価格PCの小売大手のパッカードベルはエイサーに買収された。他方、受注直販方式により在庫を最低限としたデルやゲートウェイがシェアを増加したが、2007年 ゲートウェイもエイサーに買収された。また日本では、2011年にNEC、2017年に富士通がPC事業でレノボと提携した。
レガシーフリーPC(英語版)、PCシステムデザインガイド(英語版)も参照
その他のハードウェア面では、いわゆるレガシーデバイスを代替するデバイスへ移行した。具体的には、キーボードの接続はATコネクタ(DIN5ピン)からPS/2コネクタ(ミニDIN)を経由してUSBに、マウスの接続はバスマウスからシリアルポート、PS/2コネクタを経由してUSBに、プリンターの接続はパラレルポート(セントロニクス)からUSBに、などである。なお、フロッピーディスクのインターフェースは削除されている。
しかし、ソフトウェア面ではアプリケーションプログラムの後方互換性はほぼ維持されている。また、パーソナルコンピュータ以外の用途を含め「x86サーバー」「x86システム」と総称される事も増えている。
以上のように、当初はIBM製品のクローンから始まったAT互換機だが、各種の規格争いと標準化を繰り返して発展しており、現在は、IBMはほぼ撤退し、有力メーカーやインテルでも市場(業界、ユーザー)の支持を得られない規格は普及しないデファクトスタンダードとなっている。
オリジナルのIBM PCを含め、歴史的にIBM PC互換機に大きな影響を与えたものには以下がある。
日本では日本語表示が必要なため、日本IBMはIBM PCシリーズ(IBM PC、IBM PC XT、IBM PC AT等)や、その後のATバスモデル(PS/2下位モデル、PS/1等)を一般販売せず、日本IBMを含めた主要各社は日本語表示のために日本独自仕様PCを開発し発売した。16ビット以降の主なものには以下がある。
日本独自仕様PCでも、内部的にはIBM PCベースのもの(IBM純正を含め、IBM PCとソフトウェア互換を持つ広義のIBM PC互換機)には以下があった。
各社は日本語表示の性能や品質を求めて、漢字ROM搭載や、同時期のIBM PC等と比較して高い解像度などを実装した。その際に後発のIBM JX、ダイナブック、PS/55(MCAモデル)、AX等は、IBM PC系が拡張カードなどで画面拡張が可能な基本設計である事を活用し、英語モードに独自の日本語モードを追加する形で日本語化を行った。しかし各社の日本語化は各社独自規格で、各日本語モード間では原則として互換性は無かった。ただしベースがIBM PC系は、英語モードで起動すればIBM PC用ソフトウェアが稼働するなど、ソフトウェアから見れば広義にはIBM PC互換機であった(英語モードを公式サポートしたかはモデルにもよる)。
このため、世界市場ではIBM PC XT、IBM PC ATをベースとした各社の互換機が発達して表示規格もVGAや更に各種のスーパーVGAが普及するなどハードウェアおよびソフトウェアの互換市場が形成されて低価格化が進展したが、日本では世界市場と日本国内では大多数のハードウェアやソフトウェアの互換性も低く、PC-9800がデファクト・スタンダードとなって「ガリバー」と呼ばれ、硬直的な価格設定が続き、大多数のアプリケーションソフトウェアの画面解像度は横640ビット・縦400ビット(テキストモードは16ドット日本語フォントで80文字・25行)であった。
日本でのIBM PC/AT互換機の本格的な普及は、1990年のDOS/V登場による。日本IBMはVGA搭載のPS/55ラップトップモデル(5535-S)用のオペレーティングシステムとして登場したが、このDOS/VがIBM PC/ATベースのノート型モデル(PS/55note 5523-S)にも搭載されると、PC/AT互換機でもソフトウェアのみで日本語化が実現できる事が当時のパソコン通信等のネットワーカー達により話題となり、多数の互換機での稼働報告や、価格性能比に優れた台湾製80486搭載パーソナルコンピュータの個人輸入などが拡大した。
日本IBMはDOS/V普及のためにOADGを組織し、日本語キーボードの標準化、開発者向けリファレンスガイド発行、ユーザー向けソフトウェアカタログ発行などの活動を行った。また1991年5月にPS/55ZエントリーモデルとしてATバス搭載のデスクトップ(5510-Z)を日本で初めて発売したが、当時このモデルは「IBMが発売したPC/AT互換機」として各社の稼働検証用にも使用された。更にIBM DOS/V(後のPC DOS/V)を他社に提供する他、当時のOS共同開発契約に基づきDOS/Vの日本語化部分をマイクロソフトに提供し、マイクロソフトからもマイクロソフト版のDOS/V(MS-DOS/V)を各社に提供した。富士通、東芝、AX参加各社もOADGに参加し、AX協議会は発展的に解消した。またコンパック等も日本市場に参入した。なお、当時日本では「PC」とはPC-9800シリーズを指すことがほとんどだったこと、日本IBMにはPS/55など別の日本語化規格のPCも併存していたこと、当時のPC/AT互換機は既に80386や80486、VGAやSVGAなどオリジナルのIBM PC/AT(80286、EGA)より拡張されていたことなどもあり、日本では「IBM PC互換機」「PC/AT互換機」よりも、「DOS/V機」「DOS/Vパソコン」などの呼称が普及した。
当時はWindows 3.0の時代で、アプリケーションも少なかったが、その間、ネットワーカーたちによって環境の整備やノウハウの蓄積が行なわれた。例えば、DOSの日本語拡張表示機能であるV-Textは、西川和久やLeptonらネットワーカーたちによって考案され、IBM公認の仕様となり、当時のDOS/Vブームを支えた。ブームに伴い、日本語変換入力ソフト、各著名アプリケーションがDOS/Vパソコンに移植されていった。
リリースが大幅に遅れた日本語版Windows 3.1は、1993年に発売されるとブームになり、パーソナルコンピューターを急速に普及させた。Windowsはパソコンのアーキテクチャの違いを埋め、異なるアーキテクチャのパソコン同士であっても、同一のパソコン操作環境を提供した。その過程で、安価で高性能、かつ内外多数のメーカーから機種を選択できるということで、PC/AT互換機は日本でも一般層に徐々に浸透していった。そして、日本での標準機であったPC-9801 シリーズを供給していたNECは、PC-9800シリーズアーキテクチャーの維持が価格競争上困難であると判断し、その供給を終了することになる。
世界標準のPC/AT互換機がそのまま日本語環境で使える事になったため、コモディティ化を招くことになった。海外、特にコスト面で競争力が強かった台湾製のPC/AT互換機が大量に流入するに至って、日本メーカーはNEC他、細々と独自のものを維持していたメーカーも、そのアーキテクチャーを放棄した。加えて、ほぼNECの寡占状態であったパーソナルコンピューター市場は、広く日本の他のメーカーにも開かれた形になり、それらのメーカーはPC/AT互換のプラットフォームの上で独自性を持たせる製品開発の方向へと進んだ。以後は、多くの日本メーカーも中国や台湾などのメーカーからOEM供給を受けてパーソナルコンピューターを販売するようになった。
いわゆる「PC/AT互換機」はオリジナルのIBM PCやIBM PC ATより、ハードウェア面では多くの機能が拡張されており、既にオリジナルと共通するハードウェア規格はほとんど無いが、しかしソフトウェアから見た基本的な後方互換性はほぼ保たれている。
IBM PC AT以降の詳細は下表も参照。 | [
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"text": "PC/AT互換機の仕様は各社や各種標準化団体によるデファクトスタンダードの積み重ねであり、汎用の部品を組み合わることにより比較的容易にコンピュータを作成できる。このため大手メーカーの他、零細なガレージメーカー、ショップブランド、BTO、個人による自作パソコンなども広く存在している。ただし、組み合わせによっては、各ベンダーによるサポートの有無、サポートのレベルの違い、また、特定のパーツの組み合わせで問題が発生するいわゆる相性なども存在し、サポート外の部分には自己責任が求められる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "IBMによって発売された、1981年のオリジナルのIBM PC、1983年のマイナーチェンジであるIBM PC XT、1984年のIBM PC ATは大ヒットとなり、ビジネス用途を含め広く普及し、多数のアプリケーションソフトウェアや周辺機器が市場に普及したが、合法的な互換機や標準化の試みにより、段階的に互換機市場が形成されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1981年に発売されたオリジナルのIBM PCは、短期間でパソコン市場に参入するためにCPU、メモリ、入出力デバイス、周辺ロジックに市場で入手可能な汎用の部品ならびに既存のソフトウェアのみを用いて構成され、拡張スロットにビデオカードを追加する事によってビデオ(テキスト、グラフィック)機能を拡張することが容易であった。更にIBMはアプリケーションソフトウェアや周辺機器の開発のためにマニュアル中に回路図やBIOSのソースコードを公開し、サードパーティー製品の普及に努めた。またIBM PC用の主要なオペレーティングシステムであるPC DOSの普及のため、開発元のマイクロソフトが他メーカーにOEM供給する事を許可した。IBM以外の各社へ提供したDOSは、当初はOEM先の各社の名称がつけられたが、総じてMS-DOSと呼ばれるようになった。IBMは後にこれらをオープンアーキテクチャと呼んでいる。但し、互換機の作成にはBIOSが必要であり、公開されているBIOSのソースコードをそのまま使用する事は著作権侵害となるため、当時IBMは互換機自体の作成は避けられると考えていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "互換機のうち、初期に登場した各オリジナルのコピー(模倣)に近いものをクローンと呼ぶ。クローンは先行したApple IIなどでも存在したが、その中にはBIOSなどの著作権を侵害しているものも含まれる。1982年のコロンビア・データ・プロダクツ(英語版)によるMPC は、クリーンルーム設計による著作権侵害とならない互換BIOSを搭載し、初めての合法的なIBM PC互換機とされている。またCPU周辺の回路を構成する部品等については、当初は汎用のTTL等を用いていたが、市場性があるとみたLSIメーカが同等の回路を集積した安価な互換LSI等を供給し始め、後にはわずかな数のチップに集積されたチップセットが提供される様になった。これらにより合法的な互換機の作成が容易となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1982年には代表的な互換機メーカーであるコンパックが設立され、1983年出荷のCompaq Portableもクリーンルーム設計による互換BIOSを搭載した。さらに、1984年にはBIOSメーカーであるフェニックス・テクノロジーズ(英語版)がクリーンルーム設計による互換BIOSを各メーカーに供給開始し、後にはアメリカンメガトレンドなども参入し、合法的な互換機市場が広く形成された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1986年 コンパックがIBMに先駆けて80386 CPUを採用した際に、従来のXTバスやATバスにバスブリッジを導入し、CPUのクロックと外部バスのクロックを分離した。これは後にEISA陣営によりISAバスと呼ばれ、さらにIEEEで標準化された。このことはIBMオリジナルの各モデル(CPU)のローカルなバス規格であったXTバスやATバスが標準化され、コピーから生まれた互換機が、以後は独自に高速CPUを搭載したり周辺機器を設計することが可能となり、PC/AT互換機市場が確立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ハードディスクの規格も当初のST-506やESDIから、1986年にコンパックとコナー・ペリフェラルが開発したIDE、さらには標準化されたATA、SATAが主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ディスプレイ(テキストおよびグラフィック)の規格も、上位互換が徹底され、各社による拡張とデファクトスタンダード形成が継続した。オリジナルのIBM PCで採用されたMDAとCGAでは、CGAはMGAの全ての画面モードを含んでいた(MDAの上位互換)。次にIBM PC ATで採用されたEGAには、CGAの全ての画面モードと追加された画面モードが含まれた(MDA/CGAの上位互換)。各社はEGAに独自の解像度や色数のモードを追加して速度や価格を競い、これらはスーパーEGA(SEGA)と総称された。更にIBM PS/2で採用されたVGAには、EGAの全ての画面モードが含まれた(MDA/CGA/EGAの上位互換)。従来のPC AT用にもATバス用のVGAアダプターが発売された。各社はVGAと上位互換性を持つビデオチップやビデオカードを発売し、これらはSVGAと総称された。後にSVGAでは一部の画面モードがVESAで標準化された。後のXGAもVGAの上位互換(広義にはSVGAの一種)であった。これらの画面モード切替は、ユーザーがハードウェア的な切替操作をすることなく、ソフトウェアが行えた。なおHercules Graphics Cardや8514/Aなどは、EGAやVGA等の画面モードを内蔵するのではなく、EGAやVGA等と共存することができた(HGAはユーザーが2画面使用できた、8514/Aは本体側のVGA信号をパススルーできた)。またBIOS画面やOSのインストール画面などではデファクトスタンダードとなった画面モード(MDA/EGA/VGA等)を使用する事で、互換性と拡張性を両立できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "CPUやメモリの性能が上がるなかで、従来のATバス(ISA)は性能や機能の限界が表面化してきた。1987年、IBMが発売したPS/2は、次世代バスとして従来のATバス(ISA)とは互換性の無い新しいマイクロチャネル(MCA)を採用したが、その使用にはライセンス料の支払いが求められた。対抗する互換機メーカーはISAを拡張したEISA規格を掲げ、規格競争が行われた。しかし、いずれの規格も法人向け上位モデル以外には広く普及せず、従来のATバス(ISA)が使われ続けた。このため特にグラフィック専用の中継ぎ的な規格として1992年にVLバスが策定され一時普及したが、後に多種のデバイスを扱える幅広い標準化を掲げたPCIが登場すると、両陣営とも段階的に移行してデファクトスタンダードとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "なおIBM PS/2で採用されたMCAは普及しなかったが、ディスプレイ規格であるVGA、キーボード・マウス用のPS/2コネクタ、3.5インチフロッピーディスクなどは、その後の各社SVGAを含めて「PC/AT互換機」のデファクトスタンダードとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "上述のようにオリジナルのIBM PCは16ビットCPUである8088であったが、1985年には32ビットCPUのIntel 80386が登場し、1986年にはコンパックが搭載した。当初はMS-DOSなどで高速な16ビット環境として使用されていたが、OSの32ビット対応も段階的に進展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1990年代にはいわゆるWintelが規格主導権を持つようになり、CPUへのRISC技術導入を契機に1994年、IBM・Apple・モトローラはPowerPC搭載パーソナルコンピュータの規格(PReP)を発表し、対抗するインテル・HPはIA-64を発表したが、どちらも一般のPC/AT互換機には普及せず、以後もx86(IA-32)のソフトウェア互換性を維持しつつ性能向上が継続した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2000年代にはCPUの64ビット化が進んだ。インテルのIA-64が広く普及しなかった事もあり、2003年にAMDが出荷開始したIA-32の64ビット拡張である「AMD64」(x86-64命令セット)が普及した。2006年にインテルも同規格を「Intel 64」としてリリースしたため、この64ビット拡張はx64 (x86-64)と総称され、PC/AT互換機でのデファクトスタンダードとなり、WindowsなどのOSはIA-32用(通称32ビット用)とx64用(通称64ビット用)が用意された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "Wintelの増収増益の一方で、PCのコモディティ化の波により伝統的なPCメーカーが衰退し、業界再編が進行した。2002年、互換機市場の創成期からのリーダーであったコンパックはヒューレット・パッカードに買収された。2004年、元祖IBM PCを生んだIBMはPC事業をレノボに売却した。2007年、家庭向け低価格PCの小売大手のパッカードベルはエイサーに買収された。他方、受注直販方式により在庫を最低限としたデルやゲートウェイがシェアを増加したが、2007年 ゲートウェイもエイサーに買収された。また日本では、2011年にNEC、2017年に富士通がPC事業でレノボと提携した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "レガシーフリーPC(英語版)、PCシステムデザインガイド(英語版)も参照",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "その他のハードウェア面では、いわゆるレガシーデバイスを代替するデバイスへ移行した。具体的には、キーボードの接続はATコネクタ(DIN5ピン)からPS/2コネクタ(ミニDIN)を経由してUSBに、マウスの接続はバスマウスからシリアルポート、PS/2コネクタを経由してUSBに、プリンターの接続はパラレルポート(セントロニクス)からUSBに、などである。なお、フロッピーディスクのインターフェースは削除されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しかし、ソフトウェア面ではアプリケーションプログラムの後方互換性はほぼ維持されている。また、パーソナルコンピュータ以外の用途を含め「x86サーバー」「x86システム」と総称される事も増えている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "以上のように、当初はIBM製品のクローンから始まったAT互換機だが、各種の規格争いと標準化を繰り返して発展しており、現在は、IBMはほぼ撤退し、有力メーカーやインテルでも市場(業界、ユーザー)の支持を得られない規格は普及しないデファクトスタンダードとなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "オリジナルのIBM PCを含め、歴史的にIBM PC互換機に大きな影響を与えたものには以下がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本では日本語表示が必要なため、日本IBMはIBM PCシリーズ(IBM PC、IBM PC XT、IBM PC AT等)や、その後のATバスモデル(PS/2下位モデル、PS/1等)を一般販売せず、日本IBMを含めた主要各社は日本語表示のために日本独自仕様PCを開発し発売した。16ビット以降の主なものには以下がある。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日本独自仕様PCでも、内部的にはIBM PCベースのもの(IBM純正を含め、IBM PCとソフトウェア互換を持つ広義のIBM PC互換機)には以下があった。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "各社は日本語表示の性能や品質を求めて、漢字ROM搭載や、同時期のIBM PC等と比較して高い解像度などを実装した。その際に後発のIBM JX、ダイナブック、PS/55(MCAモデル)、AX等は、IBM PC系が拡張カードなどで画面拡張が可能な基本設計である事を活用し、英語モードに独自の日本語モードを追加する形で日本語化を行った。しかし各社の日本語化は各社独自規格で、各日本語モード間では原則として互換性は無かった。ただしベースがIBM PC系は、英語モードで起動すればIBM PC用ソフトウェアが稼働するなど、ソフトウェアから見れば広義にはIBM PC互換機であった(英語モードを公式サポートしたかはモデルにもよる)。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "このため、世界市場ではIBM PC XT、IBM PC ATをベースとした各社の互換機が発達して表示規格もVGAや更に各種のスーパーVGAが普及するなどハードウェアおよびソフトウェアの互換市場が形成されて低価格化が進展したが、日本では世界市場と日本国内では大多数のハードウェアやソフトウェアの互換性も低く、PC-9800がデファクト・スタンダードとなって「ガリバー」と呼ばれ、硬直的な価格設定が続き、大多数のアプリケーションソフトウェアの画面解像度は横640ビット・縦400ビット(テキストモードは16ドット日本語フォントで80文字・25行)であった。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本でのIBM PC/AT互換機の本格的な普及は、1990年のDOS/V登場による。日本IBMはVGA搭載のPS/55ラップトップモデル(5535-S)用のオペレーティングシステムとして登場したが、このDOS/VがIBM PC/ATベースのノート型モデル(PS/55note 5523-S)にも搭載されると、PC/AT互換機でもソフトウェアのみで日本語化が実現できる事が当時のパソコン通信等のネットワーカー達により話題となり、多数の互換機での稼働報告や、価格性能比に優れた台湾製80486搭載パーソナルコンピュータの個人輸入などが拡大した。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本IBMはDOS/V普及のためにOADGを組織し、日本語キーボードの標準化、開発者向けリファレンスガイド発行、ユーザー向けソフトウェアカタログ発行などの活動を行った。また1991年5月にPS/55ZエントリーモデルとしてATバス搭載のデスクトップ(5510-Z)を日本で初めて発売したが、当時このモデルは「IBMが発売したPC/AT互換機」として各社の稼働検証用にも使用された。更にIBM DOS/V(後のPC DOS/V)を他社に提供する他、当時のOS共同開発契約に基づきDOS/Vの日本語化部分をマイクロソフトに提供し、マイクロソフトからもマイクロソフト版のDOS/V(MS-DOS/V)を各社に提供した。富士通、東芝、AX参加各社もOADGに参加し、AX協議会は発展的に解消した。またコンパック等も日本市場に参入した。なお、当時日本では「PC」とはPC-9800シリーズを指すことがほとんどだったこと、日本IBMにはPS/55など別の日本語化規格のPCも併存していたこと、当時のPC/AT互換機は既に80386や80486、VGAやSVGAなどオリジナルのIBM PC/AT(80286、EGA)より拡張されていたことなどもあり、日本では「IBM PC互換機」「PC/AT互換機」よりも、「DOS/V機」「DOS/Vパソコン」などの呼称が普及した。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "当時はWindows 3.0の時代で、アプリケーションも少なかったが、その間、ネットワーカーたちによって環境の整備やノウハウの蓄積が行なわれた。例えば、DOSの日本語拡張表示機能であるV-Textは、西川和久やLeptonらネットワーカーたちによって考案され、IBM公認の仕様となり、当時のDOS/Vブームを支えた。ブームに伴い、日本語変換入力ソフト、各著名アプリケーションがDOS/Vパソコンに移植されていった。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "リリースが大幅に遅れた日本語版Windows 3.1は、1993年に発売されるとブームになり、パーソナルコンピューターを急速に普及させた。Windowsはパソコンのアーキテクチャの違いを埋め、異なるアーキテクチャのパソコン同士であっても、同一のパソコン操作環境を提供した。その過程で、安価で高性能、かつ内外多数のメーカーから機種を選択できるということで、PC/AT互換機は日本でも一般層に徐々に浸透していった。そして、日本での標準機であったPC-9801 シリーズを供給していたNECは、PC-9800シリーズアーキテクチャーの維持が価格競争上困難であると判断し、その供給を終了することになる。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "世界標準のPC/AT互換機がそのまま日本語環境で使える事になったため、コモディティ化を招くことになった。海外、特にコスト面で競争力が強かった台湾製のPC/AT互換機が大量に流入するに至って、日本メーカーはNEC他、細々と独自のものを維持していたメーカーも、そのアーキテクチャーを放棄した。加えて、ほぼNECの寡占状態であったパーソナルコンピューター市場は、広く日本の他のメーカーにも開かれた形になり、それらのメーカーはPC/AT互換のプラットフォームの上で独自性を持たせる製品開発の方向へと進んだ。以後は、多くの日本メーカーも中国や台湾などのメーカーからOEM供給を受けてパーソナルコンピューターを販売するようになった。",
"title": "日本における普及"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "いわゆる「PC/AT互換機」はオリジナルのIBM PCやIBM PC ATより、ハードウェア面では多くの機能が拡張されており、既にオリジナルと共通するハードウェア規格はほとんど無いが、しかしソフトウェアから見た基本的な後方互換性はほぼ保たれている。",
"title": "拡張されている機能"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "IBM PC AT以降の詳細は下表も参照。",
"title": "拡張されている機能"
}
]
| PC/AT互換機とは、IBM PC ATの互換機であるパーソナルコンピューター(PC)であり、広義にはその後の拡張を含めたアーキテクチャの総称。16ビット以降のPCのデファクトスタンダードとなった。世界的にはIBM PC互換機、単にPCとも呼ばれる。日本ではDOS/V機などとも呼ばれる。当記事では1981年の初代IBM PC以降の「IBM PC互換機」を含めて記載する。 | {{複数の問題
|出典の明記=2010年5月
|独自研究=2018年1月20日 (土) 17:04 (UTC)}}
[[Image:IBM PC 5150.jpg|thumb|right|200px|オリジナルの[[IBM PC]]]]
[[Image:Compaq portable.jpg|thumb|right|200px|[[Compaq Portable|The Compaq Portable]](初めての100% IBM PC互換機)]]
'''PC/AT互換機'''(ピーシーエーティーごかんき、{{lang-en|IBM PC/AT Compatibles}})とは、[[PC/AT|IBM PC AT]]の[[互換機]]である[[パーソナルコンピューター]](PC)であり、広義にはその後の拡張を含めた[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]の総称。16ビット以降のPCの[[デファクトスタンダード]]となった。世界的には'''IBM PC互換機'''、単に'''PC'''とも呼ばれる。日本では'''DOS/V機'''などとも呼ばれる。当記事では1981年の初代[[IBM PC]]以降の「IBM PC互換機」を含めて記載する。
== 名称 ==
世界的には「'''IBM PC互換機'''」と呼ばれる場合が多い。その「IBM PC」とは、[[1981年]]に[[IBM]]が発売したオリジナル(元祖)の[[IBM PC]]で、更には後継の[[PC/XT|IBM PC XT]]、[[PC/AT|IBM PC AT]]を含めたシリーズを指す。従って「IBM PC互換機」とは、そのシリーズのアーキテクチャを受け継ぐ互換機の事であり、広義にはIBM社自身の後の製品も含まれるが、IBM社製品でも独自仕様など異なるアーキテクチャのものは含まれない。また「'''IBM PCクローン'''」は初期の比較的単純な複製品を指す場合が多い。また主に[[Macintosh]]と対比させて、単に「PC」「PCs」と総称する場合も多い。
日本では以下の経緯もあり「'''PC/AT互換機'''」や「'''DOS/V機'''」などの表現が普及した。
*日本では普及時期が1990年の[[DOS/V]]登場以降で、当時は「PC/AT互換機」が普及していた。
*日本では「IBM PC」の知名度が低く、[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]の独自仕様PCや、[[PC-9800シリーズ]]などと誤解されやすかった。
*後に[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]が導入メディアを「[[PC-9800シリーズ]]用」と対比して「PC/AT互換機用」と表記した。
なお大手メーカーの多くはブランド戦略やサポート範囲上、「互換機」の表現を使用しない傾向があり、[[コンパック]](現[[ヒューレット・パッカード|HP]])は日本での[[DOS/V]]参入時に「業界標準機」(Industry Standard Machine)、[[日本電気]]はPC/AT互換機である[[PC98-NXシリーズ]]発売時に「世界標準機」と呼んだ。
== 概説 ==
米国を始めとする世界的には1980年代以降(日本では特殊事情より1990年代半ば以降、後述参照)、[[パーソナルコンピュータ]] (PC)の大多数は[[Macintosh]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]を除くとPC/AT互換機であり、[[デファクトスタンダード]]となっている。また各種の[[スーパーコンピュータ]]や産業用機器、[[携帯情報端末]]などのベースとしても使用されている。
PC/AT互換機はオリジナルの[[PC/AT|IBM PC AT]]とハードウェアとソフトウェアの両面で互換性を持つところから出発したが、現在では拡張を重ね、ATバス([[Industry Standard Architecture|ISA]])やHDDのインターフェース、キーボード・マウスのコネクタを含めて[[ハードウェア]]面の互換性はほとんど失われている。しかし、[[ソフトウェア]]面から見れば、ほぼ[[後方互換性]]を持つCPU ([[x86]]) や[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]仕様([[Video Graphics Array|VGA]]など)などを引き継いでいる。このため現在ではPC/AT互換機とは「オリジナルのPC/ATと直接の互換性があるマシン」という意味ではなく、「PC/ATをベースにソフトウェア面の後方互換性を維持しながらも、各種の拡張や[[標準化]]を重ね、事実上の標準を確立したマシンや仕様の総称」といえる。
事実上、1980年代後半から[[日本]]を除く世界的なPCのシェアの過半はPC/AT互換機で占められ、[[ハードウェア]]や[[Basic Input/Output System|BIOS]]の[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を共通にすることで、[[ソフトウェア]]や[[周辺機器]]がメーカーを問わずどのPCでも利用できる様になった。なお、日本では[[1980年代]]の半ば頃から[[1990年代]]の前半頃まで、日本語で使用できるシステムを実用化させた[[日本電気]]の[[PC-9800シリーズ]]が市場をほぼ独占していたが、1990年代半ばよりPC/AT互換機が普及した。
PC/AT互換機が[[デファクトスタンダード]]化した後には、多くの互換機メーカーや、[[台湾]]などを中心とした部品メーカーが登場し、競争によるコストダウンが進み、事実上の標準PCの地位を築いた。これにより、低価格な[[ホビーパソコン|ホビーPC]]や独自規格([[PC-9800シリーズ]]、[[X68000]]など)は[[Macintosh]]シリーズを除いて1990年代半ば以降ほぼ消滅し、PC市場はPC/AT互換機が寡占するようになった。また、[[Apple]]のMacintoshシリーズも2005年にIntel系CPUを採用しPC/AT互換機となった。ただし、2020年に自社開発の[[Appleシリコン]]への移行を発表している。
PC/AT互換機の仕様は各社や各種標準化団体によるデファクトスタンダードの積み重ねであり、汎用の部品を組み合わることにより比較的容易に[[コンピュータ]]を作成できる。このため大手メーカーの他、零細なガレージメーカー、[[ホワイトボックス (パソコン)|ショップブランド]]、[[BTO]]、個人による[[自作パソコン]]なども広く存在している。ただし、組み合わせによっては、各ベンダーによるサポートの有無、サポートのレベルの違い、また、特定のパーツの組み合わせで問題が発生するいわゆる[[相性#パソコン|相性]]なども存在し、サポート外の部分には自己責任が求められる。
== 歴史 ==
=== IBM PC互換機の誕生 ===
[[IBM]]によって発売された、[[1981年]]のオリジナルの[[IBM PC]]、[[1983年]]のマイナーチェンジである[[PC/XT|IBM PC XT]]、[[1984年]]の[[PC/AT|IBM PC AT]]は大ヒットとなり、ビジネス用途を含め広く普及し、多数の[[アプリケーションソフトウェア]]や周辺機器が市場に普及したが、合法的な互換機や標準化の試みにより、段階的に互換機市場が形成されていった。
[[1981年]]に発売されたオリジナルのIBM PCは、短期間でパソコン市場に参入するためにCPU、メモリ、入出力デバイス、周辺ロジックに市場で入手可能な汎用の部品ならびに既存のソフトウェアのみを用いて構成され、[[拡張スロット]]に[[ビデオカード]]を追加する事によってビデオ(テキスト、グラフィック)機能を拡張することが容易であった。更にIBMはアプリケーションソフトウェアや周辺機器の開発のためにマニュアル中に回路図や[[Basic Input/Output System|BIOS]]のソースコードを公開し、サードパーティー製品の普及に努めた。またIBM PC用の主要な[[オペレーティングシステム]]である[[PC DOS]]の普及のため、開発元の[[マイクロソフト]]が他メーカーに[[OEM]]供給する事を許可した。IBM以外の各社へ提供したDOSは、当初はOEM先の各社の名称がつけられたが、総じて[[MS-DOS]]と呼ばれるようになった。IBMは後にこれらを'''[[オープンアーキテクチャ]]'''と呼んでいる<ref>[https://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/pc25/pc25_birth.html The birth of the IBM PC - IBM]</ref><ref>[http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/personalcomputer/ The PC - Personal Computing Comes of Age - IBM]</ref>。但し、互換機の作成にはBIOSが必要であり、公開されているBIOSのソースコードをそのまま使用する事は著作権侵害となるため、当時IBMは互換機自体の作成は避けられると考えていた。
互換機のうち、初期に登場した各オリジナルのコピー(模倣)に近いものを'''クローン'''と呼ぶ。クローンは先行した[[Apple II]]などでも存在したが、その中にはBIOSなどの著作権を侵害しているものも含まれる。[[1982年]]の{{仮リンク|コロンビア・データ・プロダクツ|en|Columbia Data Products}}による[[MPC]] [http://www.old-computers.com/museum/computer.asp?st=1&c=633] は、[[クリーンルーム設計]]による著作権侵害とならない互換BIOSを搭載し、初めての合法的なIBM PC互換機とされている。またCPU周辺の回路を構成する部品等については、当初は汎用のTTL等を用いていたが、市場性があるとみたLSIメーカが同等の回路を集積した安価な互換LSI等を供給し始め、後にはわずかな数のチップに集積された[[チップセット]]が提供される様になった。これらにより合法的な互換機の作成が容易となった。
[[1982年]]には代表的な互換機メーカーである[[コンパック]]が設立され、[[1983年]]出荷の[[Compaq Portable]]もクリーンルーム設計による互換BIOSを搭載した。さらに、[[1984年]]にはBIOSメーカーである{{仮リンク|フェニックス・テクノロジーズ|en|Phoenix Technologies}}がクリーンルーム設計による互換BIOSを各メーカーに供給開始し、後には[[American Megatrends|アメリカンメガトレンド]]なども参入し、合法的な互換機市場が広く形成された。
=== 上位互換による互換機市場の確立 ===
[[1986年]] [[コンパック]]がIBMに先駆けて[[Intel 80386|80386]] CPUを採用した際に、従来のXTバスやATバスにバスブリッジを導入し、CPUのクロックと外部バスのクロックを分離した。これは後に[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]陣営により'''[[Industry Standard Architecture|ISA]]バス'''と呼ばれ、さらに[[IEEE]]で標準化された。このことはIBMオリジナルの各モデル(CPU)のローカルなバス規格であったXTバスやATバスが標準化され、コピーから生まれた互換機が、以後は独自に高速CPUを搭載したり周辺機器を設計することが可能となり、PC/AT互換機市場が確立した。
ハードディスクの規格も当初の[[ST-506]]や[[ESDI]]から、[[1986年]]に[[コンパック]]と[[コナー・ペリフェラル]]が開発した[[Advanced Technology Attachment#IDE|IDE]]、さらには標準化された[[Advanced Technology Attachment|ATA]]、[[シリアルATA|SATA]]が主流となり、特定メーカーの影響力は低下した。
[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]](テキストおよびグラフィック)の規格も、上位互換が徹底され、各社による拡張とデファクトスタンダード形成が継続した。オリジナルのIBM PCで採用された[[Monochrome Display Adapter|MDA]]と[[Color Graphics Adapter|CGA]]では、CGAはMGAの全ての画面モードを含んでいた(MDAの上位互換)。次にIBM PC ATで採用された[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]には、CGAの全ての画面モードと追加された画面モードが含まれた(MDA/CGAの上位互換)。各社はEGAに独自の解像度や色数のモードを追加して速度や価格を競い、これらはスーパーEGA(SEGA)と総称された。更に[[IBM PS/2]]で採用された'''[[Video Graphics Array|VGA]]'''には、EGAの全ての画面モードが含まれた(MDA/CGA/EGAの上位互換)。従来のPC AT用にもATバス用のVGAアダプターが発売された。各社はVGAと上位互換性を持つビデオチップやビデオカードを発売し、これらは'''[[Super Video Graphics Array|SVGA]]'''と総称された。後にSVGAでは一部の画面モードが[[VESA]]で標準化された。後の[[Extended Graphics Array|XGA]]もVGAの上位互換(広義にはSVGAの一種)であった。これらの画面モード切替は、ユーザーがハードウェア的な切替操作をすることなく、ソフトウェアが行えた。なお[[Hercules Graphics Card]]や[[8514/A]]などは、EGAやVGA等の画面モードを内蔵するのではなく、EGAやVGA等と共存することができた(HGAはユーザーが2画面使用できた、8514/Aは本体側のVGA信号をパススルーできた)。またBIOS画面やOSのインストール画面などではデファクトスタンダードとなった画面モード(MDA/EGA/VGA等)を使用する事で、互換性と拡張性を両立できた。
{{main|ビデオカード#ビデオカードの歴史}}
=== 規格競争とIBMの影響力の低下 ===
CPUやメモリの性能が上がるなかで、従来のATバス(ISA)は性能や機能の限界が表面化してきた。1987年、IBMが発売した[[IBM PS/2|PS/2]]は、次世代バスとして従来のATバス(ISA)とは互換性の無い新しい[[Micro Channel Architecture|マイクロチャネル(MCA)]]を採用したが、その使用にはライセンス料の支払いが求められた。対抗する互換機メーカーはISAを拡張した[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]規格を掲げ、規格競争が行われた。しかし、いずれの規格も法人向け上位モデル以外には広く普及せず、従来のATバス(ISA)が使われ続けた。このため特にグラフィック専用の中継ぎ的な規格として1992年に[[VESA ローカルバス|VLバス]]が策定され一時普及したが、後に多種のデバイスを扱える幅広い標準化を掲げた'''[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]'''が登場すると、両陣営とも段階的に移行してデファクトスタンダードとなった。
なおIBM PS/2で採用されたMCAは普及しなかったが、ディスプレイ規格である'''[[Video Graphics Array|VGA]]'''、キーボード・マウス用の[[PS/2コネクタ]]、3.5インチフロッピーディスクなどは、その後の各社'''[[Super Video Graphics Array|SVGA]]'''を含めて「PC/AT互換機」のデファクトスタンダードとなった。
=== 性能向上と「Wintel」の影響力増大 ===
上述のようにオリジナルのIBM PCは16ビットCPUである8088であったが、1985年には32ビットCPUの[[Intel 80386]]が登場し、1986年にはコンパックが搭載した。当初はMS-DOSなどで高速な16ビット環境として使用されていたが、OSの32ビット対応も段階的に進展した。
1990年代にはいわゆる[[Wintel]]が規格主導権を持つようになり、CPUへの[[RISC]]技術導入を契機に1994年、IBM・[[Apple]]・[[モトローラ]]は[[PowerPC]]搭載パーソナルコンピュータの規格(PReP)を発表し、対抗する[[インテル]]・[[ヒューレット・パッカード|HP]]は[[IA-64]]を発表したが、どちらも一般のPC/AT互換機には普及せず、以後もx86(IA-32)のソフトウェア互換性を維持しつつ性能向上が継続した。
2000年代にはCPUの64ビット化が進んだ。インテルのIA-64が広く普及しなかった事もあり、2003年に[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]が出荷開始したIA-32の64ビット拡張である「AMD64」(x86-64命令セット)が普及した。2006年にインテルも同規格を「Intel 64」としてリリースしたため、この64ビット拡張は'''[[x64]]''' (x86-64)と総称され、PC/AT互換機でのデファクトスタンダードとなり、WindowsなどのOSはIA-32用(通称32ビット用)とx64用(通称64ビット用)が用意された。
Wintelの増収増益の一方で、PCのコモディティ化の波により伝統的なPCメーカーが衰退し、業界再編が進行した。2002年、互換機市場の創成期からのリーダーであった[[コンパック]]は[[ヒューレット・パッカード]]に買収された。2004年、元祖IBM PCを生んだ[[IBM]]はPC事業を[[レノボ]]に売却した。2007年、家庭向け低価格PCの小売大手の[[パッカードベル]]は[[エイサー (企業)|エイサー]]に買収された。他方、受注直販方式により在庫を最低限とした[[デル]]や[[ゲートウェイ (PCメーカー)|ゲートウェイ]]がシェアを増加したが、2007年 ゲートウェイもエイサーに買収された。また日本では、2011年にNEC、2017年に富士通がPC事業でレノボと提携した。
=== レガシーフリー ===
{{仮リンク|レガシーフリーPC|en|Legacy-free PC}}、{{仮リンク|PCシステムデザインガイド|en|PC System Design Guide}}も参照
その他のハードウェア面では、いわゆる[[レガシーデバイス]]を代替するデバイスへ移行した。具体的には、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の接続はATコネクタ([[DINコネクタ|DIN]]5ピン)から[[PS/2コネクタ]](ミニDIN)を経由して[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]に、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の接続は[[バスマウス]]から[[RS232C|シリアルポート]]、PS/2コネクタを経由してUSBに、[[プリンター]]の接続は[[パラレルポート]]([[セントロニクス]])からUSBに、などである。なお、フロッピーディスクのインターフェースは削除されている。
しかし、ソフトウェア面では[[アプリケーションプログラム]]の後方互換性はほぼ維持されている<ref group="注">ただし、[[オペレーティングシステム|OS]]のサポートに依存する。また、OS自体が、おおまかに言って特定の年代のハードウェアでしか動作せず(OSの動作要件で示される)、またOSのソフトウェアとしてのサポートも年限が限定されている。</ref>。また、[[パーソナルコンピュータ]]以外の用途を含め「'''x86サーバー'''」「'''x86システム'''」と総称される事も増えている。
以上のように、当初はIBM製品のクローンから始まったAT互換機だが、各種の規格争いと標準化を繰り返して発展しており、現在は、IBMはほぼ撤退し、有力メーカーやインテルでも市場(業界、ユーザー)の支持を得られない規格は普及しないデファクトスタンダードとなっている。
=== 年表 ===
オリジナルのIBM PCを含め、歴史的にIBM PC互換機に大きな影響を与えたものには以下がある。
:{| class="wikitable" style="font-size: 85%;" style="text-align:left"
|+ IBM PC互換機の年表
! 年 !! 世界 !! 日本
|-
!1981
||[[IBM]]が[[IBM PC]]発売([[8088]], [[Monochrome Display Adapter|MDA]]/[[Color Graphics Adapter|CGA]], [[PC DOS]]。汎用部品によるPC、[[ビデオカード]]による拡張性、[[Basic Input/Output System|BIOS]]等の情報公開、[[マイクロソフト]]による[[MS-DOS]]の各社への[[OEM]]供給)||
|-
!1982
|{{仮リンク|コロンビア・データ・プロダクツ|en|Columbia Data Products}}が[[MPC|MPC 1600]]発売([[クリーンルーム設計]]による互換BIOSを搭載した、初の合法的なIBM PC互換機。)<br />[[コンパック]]設立(代表的なIBM PC互換機メーカー)||
|-
!1983
|[[IBM]]が[[PC/XT|IBM PC XT]]発売([[XTバス]]は後に8ビット[[Industry Standard Architecture|ISA]]として標準化。PC DOS 2.0による階層化ファイルシステム対応。)||
|-
!1984
|{{仮リンク|フェニックス・テクノロジーズ|en|Phoenix Technologies}}が互換BIOSの供給開始 <br />[[PC/AT|IBM PC AT]]発売([[80286]], [[ATバス]], [[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]による上位互換)|| IBMが[[IBM JX|JX]]発売(IBM PCJrベースの日本語化)
|-
!1985
| ||[[東芝]]が[[ダイナブック|J3100/ダイナブック]]発売(IBM PC XTベースの日本語化)
|-
!1987
|[[コンパック]]がDeskpro 386発売(IBMに先駆けて[[80386]]採用。CPUクロックとATバスの分離は後に[[Industry Standard Architecture|ISA]]として標準化。)<br />IBMが[[IBM PS/2|PS/2]]発売([[Video Graphics Array|VGA]]による上位互換、後の各社[[Super Video Graphics Array|SVGA]]のベースに。上位モデルの[[Micro Channel architecture|MCA]]は、後に[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]陣営との規格競争へ。)||IBMが[[PS/55]]発売(PS/2ベースの日本語化)
|-
!1988
| ||AX協議会各社が[[AX]]発売(PC/AT互換機ベースの日本語化)
|-
!1990
|[[IBM]]が[[PS/1]]発売(IBMが個人向けPCでATバスを復活、広義のPC/AT互換機) ||IBMが[[DOS/V]]発売(ソフトウェアによるIBM PC互換機の日本語化)
|-
!1991
| [[Peripheral Component Interconnect|PCI]]バスの登場(MCAとEISAの規格競争は収束へ)||マイクロソフトがDOS/V発売(日本IBMからマイクロソフト日本法人への技術提供)<br />[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]発足(IBM PC互換機の標準化・普及活動)
|-
!1994
|[[VESA BIOS Extensions|VBE]] 2.0 ([[VESA]]によるSVGAの標準化)||
|-
!1996
|[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]の登場([[PS/2コネクタ]]等は移行へ) <br />[[インテル]]と[[マイクロソフト]]がPC97発表({{仮リンク|PCシステムデザインガイド|en|PC System Design Guide}})||
|-
!1997
| || [[日本電気|NEC]] [[PC98-NXシリーズ]]発売(最後まで残った日本独自仕様PCの最大手メーカーが、PC/AT互換機へ路線転換)
|-
!2000
|[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]発売([[Windows 9x系|9x系]]の稼働対象がPC/AT互換機のみとなる)||
|-
!2001
|[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]発売(NT系の稼働対象もPC/AT互換機のみとなる)<br /> [[Unified Extensible Firmware Interface|UEFI]]採用が本格化<ref>{{Citation|title=UEFI Today: Bootstrapping the Continuum|url=http://www.intel.com/technology/itj/2011/v15i1/index.htm|publisher=Intel Press}}</ref>||
|-
!2005
|[[Apple]]がMacintoshに搭載するCPUをIntel製へ移行(PC/AT互換機へ路線転換)
|
|}
== 日本における普及 ==
=== 各社独自仕様による日本語化 ===
日本では日本語表示が必要なため、日本IBMはIBM PCシリーズ(IBM PC、IBM PC XT、IBM PC AT等)や、その後のATバスモデル([[PS/2]]下位モデル、[[PS/1]]等)を一般販売せず、日本IBMを含めた主要各社は日本語表示のために'''日本独自仕様PC'''を開発し発売した。16ビット以降の主なものには以下がある。
:{| class="wikitable" style="font-size: 85%;" style="text-align:center"
|+ 日本の主なPC(1981年 IBM PC登場後 ~ 1990年 DOS/V登場迄、16ビット以降)
!登場年 !! メーカー !! シリーズ !! ベース !! [[拡張カード|拡張スロット]] !! 英語モード(主な解像度) || 日本語モード(主な解像度) !! 備考
|-
|1982 || [[日本電気|NEC]] || [[PC-9800シリーズ|PC-9800]]|| - ||独自(Cバス)|| - || 独自(640 x 400) ||互換機[[EPSON PCシリーズ]]あり。後の[[PC98-NXシリーズ|PC98-NX]]以降はPC/AT互換機。
|-
|1983||[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]] || [[マルチステーション5550|5550]]|| - ||独自|| - || 独自(1024 x 768) || 主に法人向け、後継は[[PS/55]]
|-
|rowspan="2"|1984||[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]] ||[[IBM JX|JX]]||style="background:LightCyan" |IBM PCjr ||独自||style="background:LightCyan" | [[Color Graphics Adapter|CGA]](640 x 200) ||独自(ECGA 640 x 200) || 後の[[ThinkPad|PS/55note]]・5510-Z・[[PS/V]]以降はPC/AT互換機
|-
|[[富士通]] || [[FM-16β]]/[[FMRシリーズ|FMR]]|| - ||独自|| - || 独自(640 x 400) ||後の[[FMV]]以降はPC/AT互換機。
|-
|1985||[[東芝]] ||[[J-3100シリーズ|J3100/ダイナブック]]|| style="background:LightCyan" |XT互換機 ||style="background:LightCyan" |([[XTバス]])||style="background:LightCyan" | CGA(640 x 200) || 独自(DCGA 640 x 400) ||後のダイナブックはPC/AT互換機
|-
|rowspan="2"|1987||[[シャープ]] || [[X68000]]|| - ||独自|| - || 独自(768 x 512) || 個人向け
|-
|[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]] ||[[PS/55]]||style="background:LightCyan" |[[PS/2]]||style="background:LightCyan" |[[Micro Channel architecture|MCA]]||style="background:LightCyan" | [[Video Graphics Array|VGA]](640 x 480) || 独自(5550互換 1024 x 768)||主に法人向け、後にDOS/Vや[[Extended Graphics Array|XGA]]もサポート
|-
|1988||[[AX]]協議会各社||[[AX]]||style="background:LightCyan" |AT互換機 ||style="background:LightCyan" |[[Industry Standard Architecture|ISA]]||style="background:LightCyan" | [[Enhanced Graphics Adapter|EGA]](640 x 350) || 独自(JEGA 640 x 400) ||主に法人向け
|-
|1989||[[富士通]] ||[[FM TOWNS]]|| - ||独自|| - || 独自(640 x 480) || 個人向け
|-
|1990||[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]] ||[[PS/55|5535-S]]||style="background:LightCyan" |AT互換機||style="background:LightCyan" |([[Micro Channel architecture|MCA]])||style="background:LightCyan" | [[Video Graphics Array|VGA]](640 x 480) ||style="background:LightCyan" | [[Video Graphics Array|VGA]](640 x 480) ||法人向けラップトップ。日本語表示をソフトウェア([[DOS/V]])のみで実現。
|-
|}
日本独自仕様PCでも、'''内部的にはIBM PCベース'''のもの(IBM純正を含め、IBM PCとソフトウェア互換を持つ広義のIBM PC互換機)には以下があった。
* JX - IBM PCjrをベースに独自の日本語化(日本語16ドットフォント)を行い、個人向けに発売された。拡張スロットは独自だが、標準の「日本語DOS」の他にオプションの英語版[[PC DOS]]を起動すればIBM PC用ソフトウェアも稼働した。日本で公式発売された最初のIBM PC互換機だが、普及しなった。
* ダイナブック - IBM PC XTの[[Color Graphics Adapter|CGA]]ベースのノート型PC。後にはIBM PC AT (VGA)ベースとなった。ノートPC市場で普及した。
* PS/55 - PS/2(MCAモデル)をベースに、5550互換の独自の日本語化(MCAアダプタの形で日本語ディスプレイアダプタ搭載、日本語24ドットフォント)を行った。英語版[[PC DOS]]を起動すればIBM PC用ソフトウェアも稼働した。後にXGA搭載モデルも登場した。後の個人用モデル(PS/55Z 5530-Z、5530-S)は広くは普及しなかった。
* AX - IBM PC AT([[Enhanced Graphics Adapter|EGA]])をベースに独自の日本語化([[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]])を行った。拡張スロットはISA。各社分業の影響で高価格となり広くは普及しなかった。
* 5535-S - PS/55シリーズの法人向けラップトップだが、VGAのグラフィックモードを使用して、ソフトウェア(DOS/V)のみで日本語表示(当時は日本語16ドットフォント)を実現した。このため日本語専用ハードウェアはキーボード程度となった。
各社は日本語表示の性能や品質を求めて、[[漢字ROM]]搭載や、同時期のIBM PC等と比較して高い解像度などを実装した。その際に後発のIBM JX、ダイナブック、PS/55(MCAモデル)、AX等は、IBM PC系が拡張カードなどで画面拡張が可能な基本設計である事を活用し、英語モードに独自の日本語モードを追加する形で日本語化を行った。しかし各社の日本語化は各社独自規格で、各日本語モード間では原則として互換性は無かった。ただしベースがIBM PC系は、英語モードで起動すればIBM PC用ソフトウェアが稼働するなど、ソフトウェアから見れば広義にはIBM PC互換機であった(英語モードを公式サポートしたかはモデルにもよる)。
このため、世界市場ではIBM PC XT、IBM PC ATをベースとした各社の互換機が発達して表示規格も[[Video Graphics Array|VGA]]や更に各種の[[Super Video Graphics Array|スーパーVGA]]が普及するなどハードウェアおよびソフトウェアの互換市場が形成されて低価格化が進展したが、日本では世界市場と日本国内では大多数のハードウェアやソフトウェアの互換性も低く、PC-9800が[[デファクト・スタンダード]]となって「ガリバー」と呼ばれ、硬直的な価格設定が続き、大多数のアプリケーションソフトウェアの画面解像度は横640ビット・縦400ビット(テキストモードは16ドット日本語フォントで80文字・25行)であった。
=== DOS/Vの登場による「開国」 ===
日本でのIBM PC/AT互換機の本格的な普及は、[[1990年]]の'''[[DOS/V]]'''登場による。[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]はVGA搭載の[[PS/55]]ラップトップモデル(5535-S)用の[[オペレーティングシステム]]として登場したが、このDOS/VがIBM PC/ATベースのノート型モデル(PS/55note 5523-S)にも搭載されると、PC/AT互換機でもソフトウェアのみで日本語化が実現できる事が当時の[[パソコン通信]]等のネットワーカー達により話題となり、多数の互換機での稼働報告や、価格性能比に優れた台湾製80486搭載パーソナルコンピュータの個人輸入などが拡大した。
日本IBMはDOS/V普及のために'''[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]'''を組織し、日本語キーボードの標準化、開発者向けリファレンスガイド発行、ユーザー向けソフトウェアカタログ発行などの活動を行った。また1991年5月にPS/55ZエントリーモデルとしてATバス搭載のデスクトップ(5510-Z)を日本で初めて発売した<ref>[http://www-06.ibm.com/jp/press/1991/05072.html 20万円を切った低価格DOS/V専用パソコン登場 - 日本IBM]</ref>が、当時このモデルは「IBMが発売したPC/AT互換機」として各社の稼働検証用にも使用された。更にIBM DOS/V(後のPC DOS/V)を他社に提供する他、当時のOS共同開発契約に基づきDOS/Vの日本語化部分を[[マイクロソフト]]に提供し、マイクロソフトからもマイクロソフト版のDOS/V(MS-DOS/V)を各社に提供した。富士通、東芝、AX参加各社もOADGに参加し、AX協議会は発展的に解消した。また[[コンパック]]等も日本市場に参入した。なお、当時日本では「PC」とはPC-9800シリーズを指すことがほとんどだったこと、日本IBMにはPS/55など別の日本語化規格のPCも併存していたこと、当時のPC/AT互換機は既に80386や80486、VGAやSVGAなどオリジナルのIBM PC/AT(80286、EGA)より拡張されていたことなどもあり、日本では「IBM PC互換機」「PC/AT互換機」よりも、「DOS/V機」「DOS/Vパソコン」などの呼称が普及した。
当時は[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]の時代で、アプリケーションも少なかったが、その間、ネットワーカーたちによって環境の整備やノウハウの蓄積が行なわれた。例えば、DOSの日本語拡張表示機能である[[V-Text]]は、[[西川和久]]やLeptonらネットワーカーたちによって考案され、IBM公認の仕様となり、当時のDOS/Vブームを支えた。ブームに伴い、日本語変換入力ソフト、各著名アプリケーションがDOS/Vパソコンに移植されていった。
=== 日本でも標準機の地位を確立へ ===
リリースが大幅に遅れた日本語版[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]は、[[1993年]]に発売されるとブームになり、パーソナルコンピューターを急速に普及させた。Windowsはパソコンのアーキテクチャの違いを埋め、異なるアーキテクチャのパソコン同士であっても、同一のパソコン操作環境を提供した。その過程で、安価で高性能、かつ内外多数のメーカーから機種を選択できるということで、PC/AT互換機は日本でも一般層に徐々に浸透していった。そして、日本での標準機であったPC-9801
シリーズを供給していたNECは、PC-9800シリーズアーキテクチャーの維持が価格競争上困難であると判断し、その供給を終了することになる。
世界標準のPC/AT互換機がそのまま日本語環境で使える事になったため、[[コモディティ化]]を招くことになった。海外、特にコスト面で競争力が強かった[[台湾]]製のPC/AT互換機が大量に流入するに至って、日本メーカーはNEC他、細々と独自のものを維持していたメーカーも、そのアーキテクチャーを放棄した。加えて、ほぼNECの寡占状態であったパーソナルコンピューター市場は、広く日本の他のメーカーにも開かれた形になり、それらのメーカーはPC/AT互換のプラットフォームの上で独自性を持たせる製品開発の方向へと進んだ。以後は、多くの日本メーカーも中国や台湾などのメーカーから[[OEM|OEM供給]]を受けてパーソナルコンピューターを販売するようになった。
== 拡張されている機能 ==
いわゆる「PC/AT互換機」はオリジナルのIBM PCやIBM PC ATより、ハードウェア面では多くの機能が拡張されており、既にオリジナルと共通するハードウェア規格はほとんど無いが、しかし[[ソフトウェア]]から見た基本的な後方互換性はほぼ保たれている。
:{| class="wikitable" style="font-size: 85%;" style="text-align:center"
|+ IBM PCシリーズと以後の「PC/AT互換機」の主要機能比較
! !! [[IBM PC]] !! [[PC/XT|IBM PC XT]] !! [[PC/AT|IBM PC AT]] !! 以後の「PC/AT互換機」
|-
!出荷
|1981年||1983年||1984年||-
|-
! CPU
|colspan="2"| 内部[[16ビット]]・外部[[8ビット]]([[Intel 8088|8088]]) || 16ビット([[Intel 80286|80286]]) || [[32ビット]]、[[64ビット]]([[x64]])
|-
!拡張バス
|(IBM PC)||[[XTバス]](8ビットISA)||[[ATバス]](16ビットISA)||[[VESA ローカルバス|VLバス]]、[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]等
|-
!表示規格
|colspan="2"|[[Monochrome Display Adapter|MDA]]、[[Color Graphics Adapter|CGA]]||[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]||[[Video Graphics Array|VGA]]、各種[[Super Video Graphics Array|SVGA]]
|-
!キーボード
|colspan="2"|[[キー配列#83キーボード|83キーボード]]||[[キー配列#84キーボード|84キーボード]]、[[キー配列#101キーボード|101キーボード]]||[[キー配列#104キーボード|104キーボード]]
|-
!主要OS
|[[IBM PC DOS|PC DOS 1.0]] ||[[IBM PC DOS|PC DOS 2.0]] ||[[IBM PC DOS|PC DOS 3.0]] ||[[MS-DOS]]、[[Microsoft Windows]]、[[Linux]]等
|}
IBM PC AT以降の詳細は下表も参照。
{| class="wikitable"
!
!IBM PC AT(1984年)
!過渡期<br />(1990年頃から2010年代前半まで)
!2021年現在
|-
!CPU[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]
|[[x86]](16ビット)
|[[IA-32]](32ビット)→[[X64|x86-64]] (64ビット)
|x86-64(64ビット)
|-
!CPU
|[[Intel 80286|80286]]
動作クロック6MHz
|[[Intel 80386|80386]], [[Intel486|i486]], [[Intel Pentium (1993年)|Pentium]], [[Pentium II]], [[Pentium III]], [[Pentium 4]]<br />
[[AMD K6|K6]], [[Athlon]], Athlon XP, [[Geode]], [[AMD FX|FX]], [[AMD Phenom|Phenom]], [[Turion X2 Ultra|Turion X2]], [[Opteron]], [[VIA Eden|Eden]], [[Cyrix 6x86|6x86]], [[MediaGX]]その他<br />
動作クロックは数十MHzから3.5GHz程度
|[[Intel Core]],[[Xeon]]<br />[[Ryzen|AMD Ryzen]], [[AMD Accelerated Processing Unit|APU]], [[EPYC]]<br />[[Intel Atom|Atom]]その他<br />
[[マルチコア]]・[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]に対応<br />
動作クロックは3GHzから4GHz前後
|-
![[Basic Input/Output System|BIOS]]
|BIOS
|BIOS→[[Unified Extensible Firmware Interface|UEFI]]
|UEFI
|-
!フォームファクタ・電源
|[[PC/AT|AT]]
|AT, [[ATX]], [[MicroATX]], [[Mini-ITX|ITX]]
|ATX, MicroATX, ITX
|-
![[主記憶装置|メモリ]]
|512KB
|FPM DRAM, EDO DRAM,
SDRAM, RDRAM, DDR SDRAM, DDR2 SDRAM, DDR3 SDRAM<br />
(→[[Random Access Memory]])<br />
数MBから16GB程度
|DDR4 SDRAM
4Gから32GB程度<ref group="注">IA-32、いわゆる32ビットOSでは[[容量の壁]]により4GB以上のメインメモリにプロセスはアクセスできない。実質的には3.25GB程度が利用可能メモリの上限となる。</ref>
|-
!内部バス([[拡張スロット]])
|ATバス(後の[[Industry Standard Architecture|ISAバス]])
|[[Industry Standard Architecture|ISAバス]]、[[Extended Industry Standard Architecture|EISAバス]]、[[VESA ローカルバス|VLバス]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]、[[Accelerated Graphics Port|AGP]]、[[PCI Express]]
|PCI Express
|-
!画面
|640×350, 64色中16色表示 ([[Enhanced Graphics Adapter|EGA]])
|640×480([[Video Graphics Array|VGA]]), 800×600([[Super Video Graphics Array|SVGA]]), 1024×768([[Extended Graphics Array|XGA]])から1920×1200([[Ultra Extended Graphics Array|WUXGA]])
8(256色表示)〜16(65536色表示)〜24ビット(1677万色表示)カラー
[[グラフィックアクセラレータ|ウインドウアクセラレータ]]→[[Graphics Processing Unit|GPU]]
|1024×768(XGA)から7680×4320([[4320p|8K解像度]])
24ビットまたは30ビットカラー、ハードウエアによる3D描画, マルチディスプレイ<br />横長のものが多い
タッチパネルなど
|-
![[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]
|[[ブラウン管]]
|ブラウン管→[[液晶ディスプレイ|LCD]]
|LCD、[[有機EL]]
|-
!モニタ(I/F)
|[[D-Sub]]15ピン
|D-Sub15ピン、[[コンポーネント端子]] (5[[BNC]])、[[Digital Visual Interface|DVI]]
|[[Digital Visual Interface|DVI]]→[[HDMI]]、[[DisplayPort]]
|-
!オーディオ
|[[ビープ音]]
|[[Sound Blaster|Sound Blaster16]]([[デファクトスタンダード|事実上の標準]])
[[Audio Codec 97]] (AC97)→[[High Definition Audio|Intel High Definition Audio(HD Audio)]]
[[S/PDIF]]接続音源
|Intel High Definition Audio(HD Audio)、S/PDIF、[[PCオーディオ|USB]]接続音源、Apple T2など
|-
![[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]
|[[キー配列#84キーボード|84キー]]→[[キー配列#101キーボード|101キー]]([[DINコネクタ|DIN 5ピン]])
|[[キー配列#101キーボード|101キー]]([[DINコネクタ|DIN 5ピン]]→[[PS/2コネクタ]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]])
|[[キー配列#104キーボード|104キー]](+α), USB、PS/2コネクタ, [[Bluetooth]]
|-
![[マウス (コンピュータ)|マウス]]
|オプション(バスマウス, シリアルマウス)
|シリアルマウス→PS/2コネクタ、USB
|USB、Bluetooth
|-
![[フロッピーディスク|FDD]]
|5.25" 1.2MB
|3.5" 1.44MB
|ほぼ非搭載<ref group="注">まれに、USB I/F接続により内蔵する場合あり</ref>
|-
![[ハードディスクドライブ|HDD]](単体容量)
|5から30MB
|数百MBから10TB<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gdm.or.jp/pressrelease/2014/0910/85165|title=HGST、世界初となる容量10TBの3.5インチHDD「10TB SMR HelioSeal HDD」発表 - エルミタージュ秋葉原|accessdate=2021-03}}</ref>
|500GBから18TB<br />(システムドライブにはより高速な[[ソリッドステートドライブ|SSD]]が採用される事が多い)
|-
!HDD(I/F)
|[[Enhanced Small Disk Interface|ESDI]]
|[[Advanced Technology Attachment|ATA]], [[Advanced Technology Attachment#IDE|IDE]], [[SASI]], [[Small Computer System Interface|SCSI]],[[シリアルATA|Serial ATA]], eSATA
|Serial ATA, USB
[[M.2]], [[NVM Express|NVMe]]
[[iSCSI]], [[Serial Attached SCSI|SAS]], [[ファイバーチャネル|FC]]
|-
![[光学ドライブ]]
|なし
|[[CD-ROM]], [[CD-R]] (RW), [[DVD|DVD-ROM]] (DVD-RW, +RW)
|[[スーパーマルチドライブ]]、[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]
非搭載化、外付け化も進む
|-
!その他[[補助記憶装置]]
|
|[[光磁気ディスク|MO]], [[ZIP (記憶媒体)|ZIP]], [[Phase-change Dual|PD]], [[DVD-RAM]]
[[メモリーカード]]、[[USBメモリ]]
|[[SDメモリーカード]]、USBメモリ
SSD
|-
!外部
拡張ポート
|[[RS-232|シリアル(RS-232C)]]、[[パラレルポート|パラレル]]
|シリアル、パラレル、PCカード・ [[PCカード#CardBus|CardBus]] ・[[ExpressCard]](主にノートブックタイプ)、USB1.x/2.0、[[IEEE 1394]]
|USB3.0以降
[[USB Type-C]], USB PD, [[Thunderbolt]]
|-
!ネットワーク
|オプション(非同期通信、[[トークンリング]]など)
|[[モデム]]、[[イーサネット]] (10M, 100M,1G)
[[Wi-Fi]] (IEEE 802.11b,g,n)、[[IrDA]]
|イーサネット (1G以上)
Wi-Fi (IEEE 802.11n, ac, ax), Bluetooth
|-
!電源管理
|なし
|なし→[[Advanced Power Management|APM]]→[[Advanced Configuration and Power Interface|ACPI]]
|ACPI
|-
![[オペレーティングシステム|OS]]
|[[MS-DOS|PC DOS]]([[OEM]]版はMS-DOS)
|[[Microsoft Windows]] 32bit<br />
[[PC-UNIX]]([[Linux]]、[[FreeBSD]]など)<br />
[[OS/2]]、[[BeOS]]、[[NetWare]]
|Microsoft Windows 64bit
PC-UNIX(Linux、FreeBSD、[[macOS]]<ref>[[Apple]]のみ</ref>、[[ChromeOS]]など)<br />
|-
!消費電力
|不明
|数十から500W程度(内部構成による)
|30Wから2000W(内部構成による)
|-
!用途
|ゲーム、汎用業務端末、端末
|パソコン、各種[[サーバ]]、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]、一部[[組み込みシステム]](産業用、工業用など)、[[アーケードゲーム基板]](タイトー『[[WOLFシステム]]』)
|パソコン、各種サーバ、[[オープンシステム (コンピュータ)|オープンシステム]]端末(クライアント)、[[スーパーコンピュータ]]([[コンピュータ・クラスター|クラスタ]]または[[ノード (ネットワーク)|ノード]]の一部)
組み込みシステム([[マルチメディアステーション|キオスク端末]]、[[現金自動預け払い機|ATM]]、[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]等の各種[[コンピュータ・アプライアンス|アプライアンス]]、AV機器)<br />アーケードゲーム基板(タイトー『[[Taito Type X|Type X]]』、セガ『[[LINDBERGH]]』、ナムコ『[[System N2]]』等)
|-
|}
*[[インテル]]製CPUを採用した[[Intel Mac]]と呼ばれる[[Macintosh]]のハード構成は、ほぼ現行のPC/AT互換機と共通である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
<references/>
==参考文献==
*[http://www.oadg.or.jp/tosho/index.htm#kyouchou 協調と競争 - OADG]
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}}
*[[Industry Standard Architecture|ISA]]
*[[VESA ローカルバス|VLバス]]
*[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]
*[[ATX]]
*[[自作パソコン]]
*[[コンパック]]
*[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|PCオープン・アーキテクチャー推進協議会(OADG)]]
== 外部リンク ==
*[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fsys/pcencyclopedia/004pc_history02/pc_hist03.html 本家IBM PCの歴史 - 互換機PCベンダの誕生(元麻布春男)]
{{Basic computer components}}
{{DEFAULTSORT:PCATこかんき}}
[[Category:パーソナルコンピュータ (製品)]]
[[Category:パソコンの歴史]] | 2003-02-14T08:08:16Z | 2023-09-29T06:16:06Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/PC/AT%E4%BA%92%E6%8F%9B%E6%A9%9F |
1,538 | 2月16日 | 2月16日(にがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から47日目にあたり、年末まであと318日(閏年では319日)ある。 | [
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| 2月16日(にがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から47日目にあたり、年末まであと318日(閏年では319日)ある。 | {{カレンダー 2月}}
'''2月16日'''(にがつじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から47日目にあたり、年末まであと318日([[閏年]]では319日)ある。
== できごと ==
* [[901年]]([[延喜]]元年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[菅原道真]]が[[大宰府]]へ向けて出発する。
* [[1665年]]([[寛文]]5年[[1月1日]]) - 落雷により[[大坂城]]の天守閣が炎上。
* [[1742年]] - [[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)|ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン]]が[[イギリスの首相]]に就任。
* [[1791年]] - [[フランス]]国民議会が独占排他的な商工業組合([[ギルド]])の廃止を宣言。
* [[1804年]] - [[第一次バーバリ戦争]]: [[アメリカ海軍]]の[[スティーブン・ディケーター]]がトリポリ軍を奇襲し、[[拿捕]]されたフィラデルフィアを破壊。
* [[1883年]] - [[東京気象台]]がドイツ人の気象学者[[エルヴィン・クニッピング|エリヴィン・クニッピング]]の指導の下、日本初の[[天気図]]を作成<ref>{{Cite web |url=https://weathernews.jp/s/topics/202002/150085/ |title=2月16日は「天気図記念日」 天気図から読み取れることは? |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[ウェザーニュース]] |date=16 Feb 2020}}</ref>。
* [[1900年]] - [[北海道拓殖銀行]]が[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]として設立。
* [[1918年]] - [[ロシア帝国]]領となっていた[[リトアニア]]で、{{仮リンク|リトアニア協議会|en|Council of Lithuania}}が独立を宣言。[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]が成立。
* [[1923年]] - [[ハワード・カーター]]が[[ツタンカーメン]]の墓を開ける<ref>{{Cite web |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/091500428/ |title=ツタンカーメンの墓発掘で知られる「ファラオの呪い」、真相は |access-date=12 Oct 2023 |publisher=National Geographic Society. National Geographic Partners, LLC. Nikkei National Geographic Inc. |website=ナショナル ジオグラフィック |date=12 Nov 2022}}</ref>。
* [[1936年]] - [[スペイン]]総選挙で、[[スペイン人民戦線|人民戦線]]派が圧勝し、社会主義連合政権が成立。
* [[1937年]] - [[ウォーレス・カロザース]]が[[ナイロン]]の特許を取得。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[アルトマルク号事件]]が発生。
* [[1942年]] - [[バンカ島事件]]。
* [[1944年]] - [[アルゼンチン]]で[[フアン・ペロン]]大佐が[[クーデター]]。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[太平洋戦争]]・[[日本本土空襲]]: [[アメリカ陸軍航空軍|アメリカ軍]]機1,200機が関東各地を攻撃。以降、[[空襲]]が激化する。
* [[1948年]] - 「[[当用漢字]]別表」([[教育漢字]])881字と「当用漢字音訓表」(当用漢字1850字の漢字の読み方を制限)を内閣[[告示]]。
* [[1949年]] - [[第3次吉田内閣|第3次吉田茂内閣]]が発足。
* 1949年 - [[日本野球連盟|日本社会人野球協会]]が発足。
* [[1953年]] - [[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相が連邦議会で、米ソ二大陣営のどちらにも属さない「[[第三世界]]」の結集を訴える。
* [[1958年]] - [[滄浪号ハイジャック事件]]発生。
* [[1959年]] - [[キューバ]]首相に革命軍の[[フィデル・カストロ|カストロ]]が就任。
* [[1961年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が大気密度測定衛星「[[エクスプローラー9号]]」を打ち上げ。
* 1961年 - [[長野県]][[栄村 (長野県)|栄村]]青倉にて雪崩が発生。家屋4戸が全壊して11人が死亡、3人軽傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=150|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1962年]] - [[南ベトナム解放民族戦線]]が第1回代表大会を開催。
* [[1971年]] - [[宇宙科学研究所|東大宇宙航空研]]が試験衛星「[[たんせい]]」を打上げ。
* [[1974年]] - 東大宇宙航空研が試験衛星「[[たんせい2号]]」を打上げ。
* [[1976年]] - [[衆議院]][[予算委員会]]で、[[ロッキード事件]]の[[証人喚問]]を開始。証人喚問の場に立った[[国際興業]]創業者で同社社主(当時)の[[小佐野賢治]]が発した「記憶にございません」が[[流行語]]に。
* [[1977年]] - 日米繊維協定の対米輸出規制枠の全廃に合意し、事実上完全自由化。
* [[1978年]] - 北京で日中長期貿易取り決めに調印。
* 1978年 - [[宇宙開発事業団]]が電離層観測衛星「[[うめ2号]]」を打上げ。
* 1978年 - [[シカゴ]]で世界初の[[電子掲示板]]システム「CBBS」が作られる。
* [[1983年]] - [[1983年オーストラリア森林火災]]。
* [[1989年]] - 貨物船ジャグ・ドゥート爆発事件が発生<ref>{{Cite web |url=https://www.mlit.go.jp/jmat/monoshiri/judai/h1s/h1s_jagduto.htm |title=日本の重大海難(貨物船ジャグ・ドゥート爆発事件) |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[国土交通省]] 海難審判所}}</ref>。
* [[1996年]] - [[薬害エイズ事件]]で[[菅直人]][[厚生大臣]]が謝罪会見。
* [[1998年]] - [[チャイナエアライン676便墜落事故]]。
* [[2005年]] - [[京都議定書]]が発効<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.pref.kyoto.jp/tikyu/giteisyo.html |title=「京都議定書」とは |publisher=京都府 |accessdate=12 Oct 2023}}</ref>。[[地球温暖化]]の主原因物質である[[二酸化炭素]]の排出量を削減することを[[先進国]]に義務付け。
* [[2006年]] - [[神戸空港]]開港<ref>{{Cite web |date=16 Feb 2021 |url=http://www.kansai-airports.co.jp/update/list/210216_kobe15th/ |title=神戸空港 開港15周年を迎えて |publisher=関西エアポート神戸株式会社 |accessdate=12 Oct 2023}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1519年]] - [[ガスパール・ド・コリニー]]、[[軍人]](+ [[1572年]])
* [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]12年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[狩野永徳]]、[[狩野派]]絵師(+ [[1590年]])
* [[1556年]]([[弘治 (日本)|弘治]]2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[藤堂高虎]]、[[武将|戦国武将]]、[[津藩|津藩主]](+ [[1630年]])
* [[1592年]]([[天正]]20年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[松平忠輝]]、[[高田藩|高田藩主]](+ [[1683年]])
* [[1620年]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]、[[ブランデンブルク選帝侯]](+ [[1688年]])
* [[1685年]]([[貞享]]2年1月13日) - [[水野勝政]]、[[結城藩|結城藩主]](+ [[1745年]])
* [[1698年]] - [[ピエール・ブーゲ]]、[[数学者]]、[[天文学者]](+ [[1758年]])
* [[1763年]]([[宝暦]]13年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[伊達村寿]]、[[宇和島藩|宇和島藩主]](+ [[1836年]])
* [[1774年]] - [[ピエール・ロード]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1830年]])
* [[1824年]]([[文政]]7年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[松平忠誠 (肥前国島原藩主)|松平忠誠]]、[[島原藩|島原藩主]](+ [[1847年]])
* [[1830年]](文政13年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[北条氏燕]]、[[狭山藩|平戸新田藩主]](+ [[1891年]])
* [[1831年]] - [[ニコライ・レスコフ]]、[[作家]](+ [[1895年]])
* [[1832年]]([[天保]]3年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[松浦脩]]、平戸新田藩主(+ [[1906年]])
* [[1834年]] - [[エルンスト・ヘッケル]]、[[生物学者]](+ [[1919年]])
* [[1841年]] - [[アルマン・ギヨマン]]、[[画家]]、[[版画家]](+ [[1927年]])
* [[1843年]] - [[ヘンリー・リーランド]]、[[自動車]]技術者、[[キャデラック]]・[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]創業者(+ [[1932年]])
* [[1848年]] - [[ユーゴー・ド・フリース]]、[[植物学|植物学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1935年]])
* 1848年 - [[オクターヴ・ミルボー]]、作家、[[劇作家]](+ [[1917年]])
* [[1852年]] - [[チャールズ・テイズ・ラッセル]]、[[宗教家]](+ [[1916年]])
* [[1866年]] - [[ヨハン・シュトラウス3世]]、[[音楽家]](+ [[1939年]])
* [[1878年]] - [[岡野貞一]]、作曲家(+ [[1941年]])
* 1878年 - [[セリム・パルムグレン]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1951年]])
* [[1880年]] - [[保井コノ]]、[[細胞学|細胞学者]](+ [[1971年]])
* [[1884年]] - [[ロバート・フラハティ]]、[[映画監督]](+ [[1951年]])
* 1884年 - [[安田靫彦]]、[[日本画家]](+ [[1978年]])
* [[1893年]] - [[フセボロド・プドフキン]]、[[映画監督]](+ [[1953年]])
* 1893年 - [[ミハイル・トゥハチェフスキー]]、[[ソ連邦元帥]](+ [[1937年]])
* [[1894年]] - [[菅原通済]]、[[実業家]](+ [[1981年]])
* [[1896年]] - [[有沢広巳]]、[[経済学者]](+ [[1988年]])
* 1896年 - [[アレクサンダー・ブライロフスキー]]、[[ピアニスト]](+ [[1976年]])
* [[1901年]] - [[島耕二]]、映画監督(+ [[1986年]])
* [[1902年]] - [[真船豊]]、劇作家、小説家(+ [[1977年]])
* [[1903年]] - エドガー・バーゲン {{enlink|Edgar Bergen}}、[[俳優]]、[[腹話術|腹話術師]](+ 1978年)
* [[1904年]] - [[ジョージ・ケナン]]、[[外交官]]、[[政治学者]](+ [[2005年]])
* 1904年 - ジェームズ・バスケット {{enlink|James Baskett}}、俳優(+ [[1948年]])
* [[1909年]] - [[富士川英郎]]、[[ドイツ文学者]](+ [[2003年]])
* [[1911年]] - [[千葉早智子]]、[[俳優|女優]](+ [[1993年]])
* [[1913年]] - [[中原淳一]]、[[挿絵]]画家、[[デザイナー]](+ [[1983年]])
* [[1914年]] - [[小林政夫]]、実業家、政治家(+ [[2000年]])
* [[1916年]] - [[三上隆彦]]、洋画家(+ [[1988年]])
* [[1921年]] - [[ヴェラ=エレン]]、女優(+ [[1981年]])
* 1921年 - [[華国鋒]]、政治家(+ [[2008年]])
* 1921年 - [[天津敏]]、俳優(+ [[1979年]])
* [[1924年]] - [[平泉洸]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1995年]])
* [[1925年]] - [[冨田弘一郎]]、[[天文学者]](+ [[2006年]])
* [[1926年]] - [[ジョン・シュレシンジャー]]、映画監督(+ [[2003年]])
* [[1927年]] - [[岸旗江]]、女優 (+ [[2008年]])
* [[1928年]] - [[中村正䡄]]、小説家(+ [[2020年]])
* [[1929年]] - [[ゲルハルト・ハナッピ]]、元[[サッカー選手]](+ [[1980年]])
* [[1930年]] - [[金原博]]、政治家(+ [[2020年]])
* [[1931年]] - [[大岡信]]、[[詩人]]、批評家、芸大名誉教授(+ [[2017年]])
* 1931年 - [[大谷羊太郎]]、[[推理作家]](+ [[2022年]])
* 1931年 - [[高倉健]]、俳優(+ [[2014年]]<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASR515RXYR4WULZU005.html |title=病室から見た満月「僕は、死ぬのかな」 高倉健さん最後の1年の記録 |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2 May 2023}}</ref>)
* [[1932年]] - [[岡部政明]]、[[声優]]
* 1932年 - [[水上靜哉]]、元[[プロ野球選手]]
* 1932年 - [[大林喬任]]、政治家(+ [[2006年]])
* 1932年 - [[アフマド・テジャン・カバー]]、[[シエラレオネの元首|シエラレオネ大統領]](+ [[2014年]])
* [[1933年]] - [[岡本健一郎]]、元プロ野球選手
* 1933年 - [[吉田喜重]]、[[映画監督]](+ 2022年)
* [[1936年]] - [[エリアフ・インバル]]、[[指揮者]]
* 1936年 - [[宮脇檀]]、[[建築家]](+ [[1998年]])
* 1936年 - [[カロル・ディビン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1938年]] - [[こまどり姉妹]]、[[歌手]]
* 1938年 - [[ジョン・コリリアーノ]]、[[作曲家]]
* 1938年 - [[杉本英世]]、[[プロゴルファー]]
* [[1940年]] - [[リオン・ウェア]]、[[ミュージシャン]](+ [[2017年]])
* [[1942年]] - [[金正日]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3211498 |title=動画:故金正日総書記の誕生日「光明星節」 国民が祝福 極寒の平壌 |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=17 Feb 2019}}</ref>、[[朝鮮労働党中央委員会総書記]](+ [[2011年]])
* [[1943年]] - [[舛方勝宏]]、実業家、元[[アナウンサー]]
* [[1944年]] - [[杉田敏]]、[[NHKラジオ第2放送]]にて英語講師を30年以上務める
* 1944年 - [[岡崎トミ子]]、政治家、元アナウンサー(+ [[2017年]])
* 1944年 - [[シギスヴァルト・クイケン]]、[[古楽器]]奏者、指揮者
* [[1945年]] - [[会田重雄]]、政治家
* 1945年 - [[三好正則]]、政治家
* 1945年 - [[逸見政孝]]、元フリーアナウンサー、タレント(+ [[1993年]])
* 1945年 - [[ジェレミー・ブロック]]、[[俳優]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web |title=英国の俳優ジェレミー・ブロック氏が死去 75歳 「スターウォーズ」でボバ・フェット役 |website=Sponichi Annex |date=18 Dec 2020 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/18/kiji/20201218s00041000191000c.html |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=12 Oct 2023}}</ref>)
* [[1947年]] - [[大友寿郎]]、実業家、元アナウンサー
* 1947年 - [[緒方憲吾]]、フリーアナウンサー
* [[1948年]] - [[前田正博 (陶芸家)|前田正博]]、[[陶芸家]]
* 1948年 - [[林民生]]、有機化学者
* 1948年 - [[魁傑將晃]]、[[大相撲]][[大関]]、年寄17代[[放駒]](+ [[2014年]])
* [[1949年]] - [[加藤敏幸]]、政治家
* 1949年 - [[清水誠一]]、政治家
* [[1950年]] - [[友川かずき]]、歌手
* [[1951年]] - [[多岐川裕美]]、女優
* [[1952年]] - [[小縣方樹]]、実業家
* [[1953年]] - [[高本裕迅]]、[[白百合女子大学]]教授
* [[1954年]] - [[山本おさむ]]、[[漫画家]]
* 1954年 - [[加藤育男]]、政治家
* 1954年 - [[田林憲治]]、映画プロデューサー
* 1954年 - [[イアン・バンクス|イアン・バンクス(イアン・M・バンクス)]]、[[作家]](+ [[2013年]])
* [[1955年]] - [[岡本美登]]、俳優、[[スーツアクター]]
* 1955年 - [[寺師茂樹]]、実業家
* [[1956年]] - [[中尾孝義]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[ジェームス・イングラム]]、[[歌手]]
* 1957年 - [[藤本祐司]]、政治家
* [[1958年]] - [[金田喜稔]]、元サッカー選手
* [[1959年]] - [[ジョン・マッケンロー]]、[[テニス]]選手
* [[1960年]] - [[遠山光]]、[[漫画家]]
* 1960年 - [[チェリー・チェン]]、女優
* [[1961年]] - [[小林朝夫]]、俳優
* 1961年 - [[斉藤修]]、元アナウンサー
* [[1962年]] - [[伊藤俊人]]、俳優(+ [[2002年]])
* [[1964年]] - [[稲田秀樹]]、プロデューサー
* 1964年 - [[ワレンティナ・エゴロワ]]、[[陸上競技]]選手
* 1964年 - [[ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリベイラ|ベベット]]、元サッカー選手
* 1964年 - [[ラウ・チンワン]]、俳優
* [[1966年]] - [[中村信仁]]、作家
* 1966年 - [[ニクラス・ゼンストローム]]、[[起業家]]
* 1966年 - [[順風秀一]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[宋津宇]]、元野球選手
* 1966年 - [[奥寺佐渡子]]、脚本家
* [[1967年]] - [[レッドシューズ海野]]、[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]([[新日本プロレス]]審判部長)
* 1967年 - [[内海和子]]、[[タレント]](元[[おニャン子クラブ]])
* [[1968年]] - [[信達谷圭]]、俳優
* [[1969年]] - [[東海林毅 (サッカー選手)|東海林毅]]、サッカー指導者
* [[1970年]] - [[立原麻衣]]、女優
* 1970年 - [[中込伸]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[中村由真]]、女優
* 1970年 - [[吉田勝利]]、[[実業家]]
* 1970年 - [[アンジェロ・ペルッツィ]]、元サッカー選手
* [[1972年]] - [[土佐ノ海敏生]]、元大相撲力士、年寄13代[[立川 (相撲)|立川]]
* 1972年 - [[西田尚美]]、女優
* 1972年 - [[サラ・クラーク]]、女優
* [[1973年]] - [[土谷智紀|土屋智紀]]、調教助手、元騎手
* 1973年 - [[青木久典]]、アマチュア野球指導者
* 1973年 - [[かわかみじゅんこ]]、漫画家
* 1973年 - [[キャシー・フリーマン]]、陸上競技選手
* [[1975年]] - [[相川七瀬]]、歌手
* 1975年 - [[中村俊介]]、俳優
* 1975年 - [[セバスチアン・コラシンスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1976年]] - [[オダギリジョー]]、俳優
* 1976年 - [[京 (ミュージシャン)|京]]、ミュージシャン([[DIR EN GREY|Dir en grey]])
* [[1977年]] - [[佐伯日菜子]]、女優
* [[1978年]] - [[上田悦子]]、[[毎日放送]]アナウンサー
* [[1979年]] - [[バレンティーノ・ロッシ]]、[[オートバイ]]レーサー
* 1979年 - [[山田泰子]]、元アナウンサー
* 1979年 - [[エリック (歌手)|エリック]]、アイドル、俳優([[神話 (音楽グループ)|神話]])
* [[1980年]] - [[城谷歩]]、[[怪談|怪談師]]、[[俳優]]
* [[1981年]] - [[寿里]]、俳優、[[ファッションモデル]]
* 1981年 - [[石亀協子]]、ヴァイオリニスト
* 1981年 - 久保いろは、お笑いタレント(元[[モエヤン]])
* 1981年 - 高倉陵、お笑いタレント([[三拍子 (お笑いコンビ)|三拍子]])
* 1981年 - [[小林優子 (バスケットボール)|小林優子]]、バスケットボール選手
* 1981年 - [[ロドリゴ宮本]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[勅使河原由佳子]]、元アナウンサー
* 1981年 - [[セルジオ・ミトレ]]、プロ野球選手
* 1982年 - [[イ・ミンジョン]]、俳優
* 1981年 - [[テリ・マリー・ハリソン]]、[[プレイメイト]]
* [[1983年]] - [[岡田亮輔]]、俳優
* 1983年 - [[アギネス・ディーン]]、ファッションモデル
* [[1984年]] - [[五十嵐雄祐]]、騎手
* 1984年 - [[yumi]]、フルート奏者
* [[1985年]] - [[菅崎あみ]]、タレント、[[モデル (職業)|モデル]]、女優(元[[C-ZONE]])
* 1985年 - [[森恵 (歌手)|森恵]]、[[シンガーソングライター]]
* 1985年 - [[中澤雅人]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[国分れな]]、[[グラビアアイドル]]
* 1986年 - [[ジョーダン・レナートン]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[山岡秀喜]]、長野朝日放送アナウンサー
* 1987年 - [[香椎由宇]]、女優
* 1987年 - [[佐伯美愛]]、グラビアアイドル
* 1987年 - [[三浦涼介]]、俳優
* 1987年 - [[谷岡慎一]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー
* 1987年 - [[トム・ミローン]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[陶宇佳]]<ref>{{Cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/pr-of-china/yujia-tao-14265201 |title=Yujia TAO |access-date=12 Oct 2023 |publisher=WORLD ATHLETICS}}</ref>、陸上競技選手
* [[1988年]] - [[徳原恵梨]]、タレント
* 1988年 - [[キム・スヒョン (1988年生の俳優)|キム・スヒョン]]、俳優
* 1988年 - [[デニウソン・ペレイラ・ネヴェス]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[金崎夢生]]、サッカー選手
* 1989年 - [[八坂沙織]]、女優、アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 1989年 - [[エリザベス・オルセン]]、女優
* [[1990年]] - [[入来茉里]]、タレント、女優
* 1990年 - [[ザ・ウィークエンド]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]シンガー
* 1990年 - [[照井健仁]]、俳優
* 1990年 - [[椿直]]、俳優
* 1990年 - [[秋元美由]]、[[AV女優]]
* [[1991年]] - [[アレクサンドラ・ド・リュクサンブール]]、[[ルクセンブルク]]大公女
* 1991年 - [[セルヒオ・カナレス]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[マルコ・ゴンザレス]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[源田壮亮]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[松原健]]、サッカー選手
* 1993年 - [[伊佐嘉矩]]、[[十種競技]]選手
* 1993年 - [[寺本來可]]、声優
* 1993年 - [[わたなべるんるん]]、元お笑いタレント
* [[1994年]] - [[吉田侑樹]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[王凱華]]<ref>{{cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/pr-of-china/kaihua-wang-14430369 |title=Kaihua WANG |publisher=World Athletics |accessdate=12 Oct 2023}}</ref>、陸上競技選手
* 1994年 - [[フェデリコ・ベルナルデスキ]]、サッカー選手
* 1994年 - [[エイバ・マックス]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1995年]] - [[松岡茉優]]、女優、タレント
* [[1996年]] - [[小松菜奈]]、女優、ファッションモデル
* [[1997年]] - [[目黒蓮]]、アイドル([[Snow Man]])
* 1997年 - [[中山雄太]]、サッカー選手
* 1997年 - [[茂木忍]]、アイドル([[AKB48]])
* [[1998年]] - [[本田夕歩]]、モデル、[[コスプレ|コスプレイヤー]]、[[YouTuber]]
* [[1999年]] - [[荻野由佳]]、アイドル(元[[NGT48]])
* 1999年 - [[小林ゆう (お笑い芸人)|小林ゆう]]、お笑い芸人
* 1999年 - [[奥澤レイナ]]、元アイドル(元[[3B junior]]、元[[KAGAJO☆4S]])
* [[2000年]] - [[深瀬なな]]、元グラビアアイドル
* 2000年 - [[よよよちゃん]]、[[ものまねタレント]]、[[YouTuber]]
* [[2003年]] - レンタ(西島蓮汰)、アイドル([[TO1]])
* [[2004年]] - [[仲村星虹]]、アイドル
* [[2008年]] - [[藤﨑ゆみあ]]、女優
* 生年不明 - [[成瀬瑛美]]<ref>{{Twitter status|eitaso|832136846771527681}}</ref>、アイドル(元[[でんぱ組.inc]])
* 生年不明 - [[咲坂芽亜]]、漫画家
* 生年不明 - [[深沢かすみ]]、漫画家
* 生年不明 - [[大山和栄]]、漫画家(+ [[2010年]])
* 生年不明 - [[河合紗希子]]<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20211209115955/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E6%B2%B3%E5%90%88%E7%B4%97%E5%B8%8C%E5%AD%90/ |title=河合 紗希子 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |accessdate=12 Oct 2023 |website=goo 人名辞典}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[高岡千紘]]、声優
* 生年不明 - [[吉岡麻耶]]、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| footer = 日本正教会の創建者、[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ]](1836-1912)没。右画像は[[ニコライ堂]]。
| image1 = Nicholas_of_Japan.jpg
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| alt1 = ニコライ
| image2 = Nikolai-do.jpg
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| alt2 = ニコライ堂
}}
[[ファイル:Dick_Bruna.jpg|thumb|180px|絵本作家、[[ディック・ブルーナ]](1927-2017)没]]
[[ファイル:BCC14Maon4_(14913820367).jpg|thumb|180px|歌手、[[黒崎真音]](1988-2023)没]]
* [[1247年]] - [[ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯)|ハインリヒ・ラスペ]]、[[神聖ローマ帝国]]の対立王(* [[1204年]])
* [[1279年]] - [[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Afonso-III |title=Afonso III|king of Portugal |access-date=12 Oct 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1210年]])
* [[1391年]] - [[ヨハネス5世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国]]皇帝(* [[1332年]])
* [[1636年]]([[寛永]]13年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳姫]]、[[織田信長]]の長女、[[松平信康]]の[[正室]](* [[1559年]])
* [[1637年]](寛永14年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[雲光院]](阿茶局)、[[徳川家康]]の[[側室]](* [[1555年]])
* [[1676年]]([[延宝]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[井伊直澄]]、[[彦根藩|彦根藩主]]、[[江戸幕府]][[大老]](* [[1625年]])
* [[1755年]]([[宝暦]]5年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[雨森芳洲]]、[[儒教|儒学者]](* [[1668年]])
* [[1799年]] - [[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール・テオドール]]、[[バイエルン選帝侯]](* [[1724年]])
* [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[若杉五十八]]、[[洋風画]]家(* [[1759年]])
* [[1823年]] - [[ピエール=ポール・プリュードン]]、[[画家]](* [[1758年]])
* [[1829年]] - [[フランソワ=ジョセフ・ゴセック]]、[[作曲家]](* [[1734年]])
* [[1865年]] - [[ルイ・ピエール・グラチオレ]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[動物学|動物学者]](* [[1815年]])
* [[1883年]] - [[本多忠紀]]、[[泉藩|泉藩主]]、江戸幕府[[若年寄]](* [[1820年]])
* [[1887年]] - [[ウィリアム・クラーク・イーストレイク]]、[[歯科医]](* [[1834年]])
* [[1892年]] - [[ヘンリー・ウォルター・ベイツ]]、[[博物学|博物学者]]、[[昆虫学|昆虫学者]]、[[探検家]](* [[1825年]])
* [[1894年]] - [[安井理民]]、[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]創業者(* [[1859年]])
* [[1907年]] - [[ジョズエ・カルドゥッチ]]、[[詩人]](* [[1835年]])
* [[1912年]] - [[イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン|聖ニコライ]]、修道司祭、宣教師(* [[1836年]])
* [[1914年]] - [[青木周蔵]]、外交官(* [[1844年]])
* [[1917年]] - [[オクターヴ・ミルボー]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[評論家]](* [[1848年]])
* [[1945年]] - [[尹東柱]]、詩人(* [[1917年]])
* [[1946年]] - [[エドガー・サイアーズ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1863年]])
* [[1951年]] - [[尾高尚忠]]、[[作曲家]](* [[1911年]])
* [[1953年]] - [[宮脇長吉]]、[[政治家]](* [[1880年]])
* [[1956年]] - [[メーグナード・サーハー]]、[[物理学者]](* [[1893年]])
* [[1957年]] - [[ジョン・タウンゼント (物理学者)|ジョン・タウンゼント]]、物理学者(* [[1868年]])
* 1957年 - [[ヨゼフ・ホフマン]]、[[ピアニスト]](* [[1876年]])
* [[1961年]] - [[齊藤知一郎]]、[[実業家]]、[[日本製紙|大昭和製紙]]創業者(* [[1889年]])
* 1961年 - [[ダジー・ヴァンス]]、元プロ野球選手(* [[1891年]])
* [[1970年]] - [[ペイトン・ラウス]]、[[医学者]](* [[1879年]])
* [[1971年]] - [[酒井忠正]]、[[政治家]]、[[日本中央競馬会]]理事長(* [[1893年]])
* [[1973年]] - [[シシリー・メアリー・バーカー]]、[[挿絵]][[画家]](* [[1895年]])
* [[1977年]] - [[末川博]]、[[法学者]](* [[1892年]])
* [[1980年]] - [[エーリヒ・ヒュッケル]]、[[化学者]](* [[1896年]])
* [[1987年]] - [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1901年]])
* [[1990年]] - [[岡本忠成]]、[[アニメーション]]作家(* [[1932年]])
* 1990年 - [[キース・ヘリング]]、[[画家]](* [[1958年]])
* [[1993年]] - [[岡潤一郎]]、[[騎手]](* [[1968年]])
* [[1994年]] - [[近藤元次]]、[[政治家]](* [[1930年]])
* [[1995年]] - [[植上健治]]、元[[プロ野球選手]](* [[1955年]])
* [[1996年]] - [[山本幸一]]、[[政治家]](* [[1910年]])
* [[1997年]] - [[呉健雄]]、物理学者(* [[1912年]])
* 1997年 - [[堀込基明]]、元プロ野球選手(* [[1939年]])
* [[1998年]] - [[江木武彦]]、話し方教室主宰(* [[1910年]])
* [[1999年]] - [[フリーツィ・ブルガー]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1910年]])
* [[2002年]] - [[ピーター・ヴォーコス]]、[[陶芸家]](* [[1924年]])
* [[2005年]] - [[河村英文]]、[[プロ野球選手]](* [[1933年]])
* 2005年 - [[マルチェッロ・ヴィオッティ]]、[[指揮者]](* [[1954年]])
* [[2006年]] - [[建畠覚造]]、[[彫刻家]](* [[1919年]])
* [[2007年]] - [[ラルフ・ペンザ]]、[[ジャーナリスト]](* [[1932年]])
* [[2010年]] - [[宮内婦貴子]]、[[脚本家]](* [[1933年]])
* [[2011年]] - [[サンティ・サンタマリア]]、[[シェフ]](* [[1957年]])
* [[2012年]] - [[淡島千景]]、[[俳優]](* [[1924年]])
* 2012年 - [[ゲイリー・カーター]]、元プロ野球選手(* [[1954年]])
* [[2016年]] - [[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]、第6代[[国際連合事務総長|国連事務総長]](* [[1922年]])
* 2016年 - [[はかま満緒]]、[[放送作家]](* [[1937年]])
* [[2017年]] - [[ディック・ブルーナ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.dickbruna.jp/news/201702/4661.html |title=訃報 ディック・ブルーナ逝去のお知らせ |accessdate=12 Oct 2023 |publisher=株式会社ディック・ブルーナ・ジャパン |date=18 Feb 2017}}</ref>、[[絵本作家]](* [[1927年]])
* 2017年 - [[船村徹]]<ref name="Mainichi">{{Cite web |title=訃報:船村徹さん84歳=作曲家、文化勲章受章 |url=https://mainichi.jp/articles/20170217/k00/00e/040/191000c |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=17 Feb 2017}}</ref>、[[作曲家]](* [[1932年]])
* 2017年 - [[鈴木伸夫]]、元アナウンサー(* [[1948年]])
* [[2018年]] - [[井上喜久子]]、[[馬場馬術]]選手(* [[1924年]])
* 2018年 - [[田宮榮一]]、元[[警察官]]、実業家(* [[1932年]])
* 2018年 - [[クリスタルズ (アメリカのグループ)|バーバラ・アルストン]]、[[歌手]](* [[1943年]])
* 2018年 - [[不破信彦]]、[[開発経済学者]](* [[1961年]])
* [[2019年]] - [[李鋭]]、歴史家、政治家(* [[1917年]])
* 2019年 - [[八代健三郎]]、実業家(* [[1920年]])
* 2019年 - [[西田秀穂]]、美術史家(* [[1922年]])
* 2019年 - [[リチャード・ガードナー (経済学者)|リチャード・ガードナー]]、経済学者、外交官(* [[1927年]])
* 2019年 - [[ドン・ブラッグ]]、陸上選手(* [[1935年]])
* 2019年 - [[ブルーノ・ガンツ]]、俳優(* [[1941年]])
* [[2020年]] - [[ハリー・グレッグ]]、元サッカー選手、指導者(* [[1932年]])
* 2020年 - [[ゾーイ・コールドウェル]]、女優(* [[1933年]])
* 2020年 - [[マリオ・カンドゥッチ]]、カトリック神父(* [[1934年]])
* [[2021年]] - [[渡邊五郎]]、実業家(* [[1934年]])
* 2021年 - [[尾高惇忠 (作曲家)|尾高惇忠]]、作曲家(* [[1944年]])
* 2021年 - [[ジョアン・マルガリット・イ・コンサルナウ]]、[[建築家]](* [[1938年]])
* 2021年 - [[クリスティーン・アン・ロルセス]]、歌手(* [[1952年]])
* [[2022年]] - [[石井公一郎]]、実業家(* [[1923年]])
* 2022年 - [[ルイージ・デ・マジストリス]]、カトリック教会聖職者(* [[1926年]])
* 2022年 - [[クリスティナ・カルデロン]]、[[チリ]]・[[ヤーガン族]]の女性、[[ヤーガン語]]を母語言語とする最後の人物(* [[1928年]])
* [[2023年]] - [[伊東忠昭]]、[[銀行家]](* [[1949年]])
* 2023年 - [[黒崎真音]]、歌手(* [[1988年]])
* 2023年 - [[ミシェル・ドヴィル]]、脚本家、映画監督(* [[1932年]])
* 2023年 - [[ティム・マッカーバー]]、元プロ野球選手(* [[1941年]])
* 2023年 - [[ランニング・ワイルド|マイク・モティ]]、ギタリスト(* [[1957年]])
== 記念日・年中行事 ==
* リトアニア国家再建記念日({{LTU}})
*: [[1918年]]のこの日、[[ポーランド分割|ポーランド・リトアニア分割]]でロシア帝国領となっていたリトアニアが独立を宣言した。
* [[光明星節]]({{PRK}})
*: 1942年のこの日、[[金正日]]総書記が誕生したことを記念したもので、[[朝鮮民主主義人民共和国の祝日]]。
* ニコライ祭([[日本ハリストス正教会]])
*:[[イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン|聖ニコライ]]が[[1912年]]2月16日に亡くなったことを記念したもの。
* [[寒天]]の日({{JPN}})
*: 長野県茅野商工会議所と長野県寒天加工業協同組合が制定。[[2005年]]のこの日、NHKテレビ『[[ためしてガッテン]]』で寒天が取り上げられたことを記念した<ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=30-31}}</ref><ref name="kato2010">{{cite book|和書|title=衣・食・住の記念日事典|author=加藤迪男|publisher=日本地域社会研究所|year=2010|page=85}}</ref>。
* 天気図記念日({{JPN}})
*: [[1883年]]2月16日に日本初の[[天気図]]が作成されたことに由来<ref name="kase2009"/><ref name="kondo1999">{{cite book|和書 |title=今日はどんな日? 雑学366日 |author=近藤道郎 |publisher=展望社 |year=1999 |page=34}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書 |title=記念日・祝日の事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=2006 |page=24}}</ref><ref name="saito1997">{{cite book|和書 |title=366日誕生石の本 |author=斉藤貴子 |publisher=日本ヴォーグ社 |year=1997 |page=85}}</ref>。
*日蓮大聖人御誕生会([[日蓮宗]]各派)
*:[[日蓮]]の[[貞応]]元年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]](旧暦。新暦では[[1222年]][[3月30日]])の誕生を記念したもの<ref name="kondo1999" /><ref>{{Cite web |url=https://www.nichiren.or.jp/activity/seijitsu/ |title=宗門聖日 2月 |access-date=12 Oct 2023 |publisher=日蓮宗}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書 |title=366日の話題事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=1998 |page=55}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0216|date=Oct 2023}}
* [[1833年]] - [[マルディグラ|マルディ・グラ]]([[謝肉祭]]最後の火曜日)。マリユス・ポンメルシー男爵とユーフラジー・フォーシュールヴァン(愛称:コゼット)が結婚する。(小説『[[レ・ミゼラブル]]』、小説『[[コゼット (小説)|コゼット]]』)
* [[1918年]] - [[ドイツ空軍#ドイツ帝国陸軍航空隊(Deutsches Luftstreitkräfte)|ドイツ陸軍航空隊]]の爆撃機[[:en:Zeppelin-Staaken Riesenflugzeuge#Variants|ツェッペリン・シュターケンR-IV]]が、ハンス整備兵長を同乗させてロンドンへの夜間爆撃に出撃する<ref>{{Cite book|和書 |author=宮崎駿 |authorlink=宮崎駿 |title=宮崎駿の雑想ノート 増補改訂版 |publisher=大日本絵画 |year=1997 |isbn=4-499-22677-5 |page=67}}</ref>。(イラストエッセイ『[[宮崎駿の雑想ノート]]』「ロンドン上空1918年」)
* [[2012年]] - 弁護士・綾里千尋と検事・御剣怜侍の初裁判が行われ、結果として御剣が勝訴する。(ゲーム『[[逆転裁判|逆転裁判3]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - ブルージャム、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Bluegem.html |title=ブルージャム |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - アポロン・ステファノプロス、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1228696727097610243}}</ref>
* 生年不明 - フォースカインド、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-08/ |title=フォースカインド |accessdate=12 Oct 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 吉川ともこ、漫画『[[ゆるゆり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=なもり|authorlink=なもり|year=2013|title=なもり画集 ゆるなもり|page=5|publisher=[[一迅社]]|isbn=978-4-7580-7260-1}}</ref>
* 生年不明 - リトアニア、漫画、アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWERS ヘタリア |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=17 |author=[[日丸屋秀和]] |isbn=978-4-344-81514-8 |volume=2}}</ref>
* 生年不明 - 駒野勉、漫画・アニメ『[[ちはやふる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yuyu2000_0908|1493833295876210689}}</ref>
* 生年不明 - 明日花緒、漫画、アニメ『[[明日ちゃんのセーラー服]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|AKEBI_chan|1625872578890944512}}</ref>
* 生年不明 - 月読調、アニメ・漫画『[[戦姫絶唱シンフォギア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.symphogear-xv.com/characters/shirabe.php |title=月読 調 |access-date=12 Oct 2023 |publisher=Project シンフォギアXV |work=『戦姫絶唱シンフォギア』}}</ref>
* 生年不明 - 真嶋智也、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/mashima.html |title=真嶋智也 |accessdate=12 Oct 2023 |publisher=[[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - 麟、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』シリーズに登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|snk_enter|964320535856365568}}</ref>
* 生年不明 - 李烈火、ゲーム『[[月華の剣士]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - カイン・R・ハインライン、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/kain.php |title=カイン・R・ハインライン |access-date=12 Oct 2023 |website=餓狼伝説総合公式サイト |publisher=[[SNKプレイモア|SNK PLAYMORE]]}}</ref>
* 生年不明 - ジーク、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=69&cate=name&cont=Sieg |title=ジーク |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ハイデマリー・W・シュナウファー、メディアミックス『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_witch_app|1493751984645492736}}</ref>
* 生年不明 - 東沢楓、メディアミックス『[[GETUP! GETLIVE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://getup-getlive.com/character/combi01 |title=東沢 楓 |access-date=12 Oct 2023 |publisher=[[毎日放送|MBS]]/ゲラゲラ製作委員会 |work=『GET UP! GET LIVE!』}}</ref>
* 生年不明 - [[from ARGONAVIS#フェリクス|フェリクス・ルイ=クロード・モンドール]]、メディアミックス『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|argonavis_info|1493600995699351555}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:16 February}}
{{新暦365日|2|15|2|17|[[1月16日]]|[[3月16日]]|[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]|0216|2|16}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8816%E6%97%A5 |
1,539 | OS/2 | OS/2(オーエス・ツー)は、1987年にIBMとマイクロソフトが発売したパーソナルコンピュータ(パソコン)用の16ビットおよび32ビットのオペレーティングシステム (OS) である。OS/2はMS-DOSおよびPC DOSの後継として両社によって共同開発された。
正式な製品名は提供元により「IBM Operating System/2」(IBM オペレーティングシステム/2)または「Microsoft Operating System/2」(マイクロソフト オペレーティングシステム/2)である。製品名の最後の「2」は、従来のDOS (PC DOS, MS-DOS)に対して「次世代OS」の意味を持つ。なおIBM同時発表の新しいパーソナルコンピュータの名称は「IBM PS/2」である。
略称は「IBM OS/2」または「Microsoft OS/2」(「MS-DOS」のように「MS-OS/2」と略される場合もあるが正式ではない)。
IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約により、PC DOSとMS-DOSと同様に、IBMからは「IBM OS/2」が、マイクロソフトからIBM以外のメーカーへのOEM供給版は「Microsoft OS/2」となった。ただしIBM版のみに拡張版 (EE) が存在した。
バージョン3.0以降はIBM版のみで、「OS/2 Warp」はバージョン3.0から付けられた名称である。
OS/2はIBM PS/2と同時に発表され、IBMとマイクロソフトにより供給され、当時はMS-DOSおよびPC DOSの後継とされた、16ビットおよび32ビットのパソコン向けOSである。
以下の特徴がある。
日本では日本電気、東芝、富士通、AX各社などにより採用され、DOS/Vに続きOADGの標準化にも採用された。
OS/2の主なバージョンは以下の通り。リリース年月はIBM OS/2英語版 。
日本語版の主なバージョンは以下の通り。
元来は、IBM PS/2のOSとして、IBMとマイクロソフトとの共同で開発されたものである。
最初のVer.1.0ではGUIは搭載されておらず、16ビットのOS/2コマンドプロンプトとDOS互換環境をキーボードでスイッチできた。OS/2コマンドプロンプト間は最初からプリエンプティブ・マルチタスクであった。
次のVer.1.1でGUIとして、OS/2プレゼンテーションマネージャー (PM) が搭載された。外見はWindows 3.0とほぼ同一である(OS/2 PMもWindows 3.0も、IBM Systems Application ArchitectureのCUA'87準拠のため)。
Ver.1.2のリリース後、マイクロソフトはWindowsの開発に注力することになり、以降はIBMのみの開発となった。拡張版において、REXXを装備した。両社が袂を分かつことになった経緯について、一点目は両社の開発スタイルなどの企業文化に大きな違いがあったこと、二点目は当時マイクロソフトにとってIBMが最大顧客であったもののWindows 3.0の爆発的ヒットに伴いしだいに関係に変化が生じたことを指摘する声もある。
1990年、IBM単独開発で更に軽量化したOS/2 1.3を発売。このバージョンにおいて、基本版にもREXXを装備する。これ以降の開発は、OS/2 2.0を主にIBMが、OS/2 3.0を主にMicrosoftがそれぞれ分担することとなる。Windows 3.0発売時、当時開発中のOS/2 3.0(後にWindows NTと改名)の主要な拡張Windows APIや拡張OS/2 APIを置き換えると決め、IBMとの緊張を生むことになる。マイクロソフトはその後、IBMとの一切の共同開発から手を引きWindows NTの開発に専念するようになった。
1992年3月31日、IBMは世界初のパソコン用32ビットOSである、OS/2 2.00を発売。Windows 3.0互換環境 (WIN-OS/2)、複数のDOS互換環境 (MVDM) を持ち、統合プラットフォームとして一つの完成形を見る。また、ユーザインタフェースをがらりと変更し、オブジェクト指向のGUIであるワークプレース・シェル (Workplace Shell, WPS) を標準環境とした。
ワークプレース・シェルは、CORBA準拠のオブジェクト間通信技術、SOM (System Object Model) / DSOM (Distributed SOM) の上で構築されていた。SOMはオブジェクト指向ではないOSで、言語にほぼ依存せずにオブジェクト指向の機能を実現するオブジェクト管理用の開発環境である。また、ワークプレース・シェルは、操作のオブジェクト指向という点では、デスクトップに余計なもの(メニューなど)を表示させず、ユーザ側がアクションを起こしたときにしか表示されない(Warp 4以降は軌道修正でメニューバーが表示されるようになった)。
これらの技術背景により、オブジェクトの動的追跡などが可能というメリットがあるが、長期間使用していくとデスクトップが壊れたりファイル操作に時間がかかるといった問題も抱えることになった。
Ver.2.1ではWindows 3.1用のアプリケーションが動くようになった(WIN-OS/2がWindows 3.1相当になった)。386エンハンスドモードを要求するWindows 3.1用のアプリケーションも動作するようになった。(Ver.2.0ではスタンダードモードのみ対応)
Ver.2.11からは、導入済みWindows 3.1環境に上書き導入することで、パッケージにWindows 3.1モジュール (WIN-OS/2) 及びそのライセンスを含まない低価格パッケージのJ2.11 for Windowsが追加され、以下の2パッケージとなった。
1993年9月、IBMとマイクロソフトのソースコードの相互公開契約が満了し、これ以降のOS/2とWindows NTは完全に分化し、それぞれ別の発展をすることとなる。
OS/2 2.11は、対抗商品となったWindows NT 3.1の完成度の低さと、Windows 3.x系との互換性の高さから、当時のパソコン用32ビットOSとしては比較的リソースを消費せず、Windows 3.1のソフトウェアがほぼ完全に動作することから「OSごと落ちない完全なマルチタスク可能なWindows 3.xマシン」として利用された。また、当時のパソコン雑誌『PC WAVE』1993年9月号と『DOS/Vマガジン』1993年10月号にOS/2 2.11のベータ版 (CD-ROM) が収録された(当時はCD-ROMは雑誌の付録として認可されておらず、引換券を出版元に送付することにより入手できた)。
1994年10月、IBMはモトローラとともにPowerPCを使ったプラットフォーム、PowerPC Reference Platform(PReP)を提唱。PReP向けにマイクロカーネル上で複数のOSを動作させる、Workplace OSの開発をIBMは表明したが、最終的には、OS/2 for PowerPCを作り上げるにとどまった。
またこのころから Apple Computerやノベルとともに、OpenDoc(マイクロソフトのOLEとほぼ同様の機能を、高機能・マルチプラットホーム化したもの)の開発にとりかかりWarp 4に搭載されたが、後年Javaの台頭により、普及には至らなかった。
1995年3月に発売されたVer.3.0(マイクロソフトが開発中で放棄したOS/2 3.0とは無関係)では32ビットCPU専用となり、開発コードWarp(ワープ)を製品名としてグループウェアのLotus Notesや日本語IMのWritingHeads/2等のアプリケーションを多数バンドルして発売された。ちなみに、開発コードのWarpは米国SF TVシリーズのスター・トレックに由来するもので、当時『新スタートレック』が放映中であったこともあり、バージョン4.0の開発コードがMerlinになるまで、スター・トレック関係の固有名詞が開発コードに使用されていた。
日本では、「DOSも走る、Windowsも走る。OS/2なら一緒に走る」(J2.11のテレビコマーシャル)「ワープを使え」という、山口智子のテレビコマーシャルが流された。IBMが家庭向けに販売していたパソコンであるAptivaシリーズにバンドルされるなど、個人ユーザー向けに最も積極的に普及のための活動が行われたのがこのころである。しかし、同年11月に発売を予定していたWindows 95の評価が固まるまで、双方の導入を見送ったユーザも多かった。
1996年9月、OS/2 Warp 4を発表。日本語版発売は同年12月であった。
OS/2 Warp 3に対して様々な改良・強化をしているが、対応デバイスが少ないという不満に対しては、「Device Driver Pak」が導入され、OS側ではOMNIプリンタードライバやGRADDなどの、ドライバを作りやすい工夫が盛り込まれた(これらの一部はWarp 3にもフィードバックされた)。また、ユーザのレベル別に内容を変えるオンラインヘルプのWarpGuideが導入されている。また、ワークプレース・シェルのUIを大幅に変更し、メニューバーの装備、WarpCenterなど、他のOSで採用されたメタファーを積極的に取り込んでいる。また、Java VMをカーネルレベルで取り込み、VoiceTypeをサポートしている。
1999年Warp Server for e-business (WSeB) を発表。
2001年OS/2 Warp 4.51を出荷(ベースはWSeB)
2002年OS/2 Warp 4.52を出荷
2005年7月にIBMは正式なサポート終了通告を発表し、2006年12月末をもって通常ルートのメンテナンスを完全に停止する事となった。
IBMは2002年リリースのWarp 4.52を最後にOS/2のバージョンアップを終了した。IBMは保守サポートにてAGP、USB、DVD±Rなどの技術や、新しいプリンターやCD-RW、DVDなどの周辺機器について対応した。2005年7月、IBMはOS/2 Warp4 および OS/2 Warp Server for e-business のサポート終了予定を発表、2006年12月31日にサポート終了した。以後はライセンスを受けたサードパーティーがサポートを続けている。
IBMからライセンス供給を受けた実質的なOS/2後継OSには以下がある。
OS/2は、IBMとマイクロソフトによるDOS(PC DOSおよびMS-DOS)後継の次世代OSとして共同開発され、DOSと同様に2社間でOS供給の役割分担が行われた。
Microsoft OS/2 は 2.1 で終了したが、IBM OS/2 2.1 よりIBM製品以外のPC/AT互換機もサポート対象に追加された。
日本では東芝はIBM OS/2 (Warp V3まで)、日本電気はIBM OS/2 (Warp 4まで)をサポート・販売した。この他、金融機関のATM、POS端末、森精機製作所(現・DMG森精機)のCNC旋盤、日立国際電気製の縦型拡散炉/減圧CVD装置VERTEXシリーズ、QuixAceシリーズ、ALDINNAシリーズで使用されている装置制御システムCX-3000シリーズなどの各種の産業機器や組み込み機器もOS/2を使用した。
主な商用のOS/2ネイティブ・アプリケーションには以下があった。
以下のDOS版・Windows版アプリケーションは、OS/2上のDOSやWindowsの互換環境で一時はサポートされていた。 | [
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"text": "OS/2(オーエス・ツー)は、1987年にIBMとマイクロソフトが発売したパーソナルコンピュータ(パソコン)用の16ビットおよび32ビットのオペレーティングシステム (OS) である。OS/2はMS-DOSおよびPC DOSの後継として両社によって共同開発された。",
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"text": "正式な製品名は提供元により「IBM Operating System/2」(IBM オペレーティングシステム/2)または「Microsoft Operating System/2」(マイクロソフト オペレーティングシステム/2)である。製品名の最後の「2」は、従来のDOS (PC DOS, MS-DOS)に対して「次世代OS」の意味を持つ。なおIBM同時発表の新しいパーソナルコンピュータの名称は「IBM PS/2」である。",
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"text": "略称は「IBM OS/2」または「Microsoft OS/2」(「MS-DOS」のように「MS-OS/2」と略される場合もあるが正式ではない)。",
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"text": "IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約により、PC DOSとMS-DOSと同様に、IBMからは「IBM OS/2」が、マイクロソフトからIBM以外のメーカーへのOEM供給版は「Microsoft OS/2」となった。ただしIBM版のみに拡張版 (EE) が存在した。",
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"text": "バージョン3.0以降はIBM版のみで、「OS/2 Warp」はバージョン3.0から付けられた名称である。",
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"text": "OS/2はIBM PS/2と同時に発表され、IBMとマイクロソフトにより供給され、当時はMS-DOSおよびPC DOSの後継とされた、16ビットおよび32ビットのパソコン向けOSである。",
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"text": "Ver.1.2のリリース後、マイクロソフトはWindowsの開発に注力することになり、以降はIBMのみの開発となった。拡張版において、REXXを装備した。両社が袂を分かつことになった経緯について、一点目は両社の開発スタイルなどの企業文化に大きな違いがあったこと、二点目は当時マイクロソフトにとってIBMが最大顧客であったもののWindows 3.0の爆発的ヒットに伴いしだいに関係に変化が生じたことを指摘する声もある。",
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"text": "1990年、IBM単独開発で更に軽量化したOS/2 1.3を発売。このバージョンにおいて、基本版にもREXXを装備する。これ以降の開発は、OS/2 2.0を主にIBMが、OS/2 3.0を主にMicrosoftがそれぞれ分担することとなる。Windows 3.0発売時、当時開発中のOS/2 3.0(後にWindows NTと改名)の主要な拡張Windows APIや拡張OS/2 APIを置き換えると決め、IBMとの緊張を生むことになる。マイクロソフトはその後、IBMとの一切の共同開発から手を引きWindows NTの開発に専念するようになった。",
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| OS/2(オーエス・ツー)は、1987年にIBMとマイクロソフトが発売したパーソナルコンピュータ(パソコン)用の16ビットおよび32ビットのオペレーティングシステム (OS) である。OS/2はMS-DOSおよびPC DOSの後継として両社によって共同開発された。 | {{Infobox OS
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|website = [http://www-01.ibm.com/software/os/warp-withdrawal/ IBM OS/2 Warp]
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'''OS/2'''('''オーエス・ツー''')は、1987年に[[IBM]]と[[マイクロソフト]]が発売した[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)用の[[16ビット]]および[[32ビット]]の[[オペレーティングシステム]] (OS) である。OS/2は[[MS-DOS]]および[[IBM PC DOS|PC DOS]]の後継として両社によって共同開発された。
== 名称 ==
正式な製品名は提供元により「IBM Operating System/2」(IBM オペレーティングシステム/2)または「Microsoft Operating System/2」(マイクロソフト オペレーティングシステム/2)である。製品名の最後の「2」は、従来のDOS (PC DOS, MS-DOS)に対して「次世代OS」の意味を持つ。なおIBM同時発表の新しいパーソナルコンピュータの名称は「IBM PS/2」である。
略称は「IBM OS/2」または「Microsoft OS/2」(「MS-DOS」のように「MS-OS/2」と略される場合もあるが正式ではない)。
IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約により、PC DOSとMS-DOSと同様に、IBMからは「IBM OS/2」が、マイクロソフトからIBM以外のメーカーへの[[OEM]]供給版は「Microsoft OS/2」となった。ただしIBM版のみに拡張版 (EE) が存在した。
バージョン3.0以降はIBM版のみで、「'''OS/2 Warp'''」はバージョン3.0から付けられた名称である。
== 概要 ==
OS/2は[[IBM PS/2]]と同時に発表され、IBMとマイクロソフトにより供給され、当時はMS-DOSおよびPC DOSの後継とされた、16ビットおよび32ビットのパソコン向けOSである。
以下の特徴がある。
*バージョン1は'''16ビット'''([[CPU]]は[[Intel 80286|80286]]以上)、バージョン2以降は'''32ビット'''(CPUは[[Intel 80386|80386]]以上。一時は[[PowerPC]]用も開発された)である
*[[ファイルシステム]]として、DOSの[[File Allocation Table|FAT]]に加えて、途中から'''[[HPFS]]'''が追加された
*MS-DOSコマンド類似のOS/2コマンドを持つ。
*最初から'''[[マルチタスク|プリエンプティブ・マルチタスク]]'''を実現していた
*GUI環境
**バージョン1は、{{仮リンク|プレゼンテーションマネージャ|en|Presentation Manager}}
**バージョン2以降は、[[ワークプレース・シェル]]
*DOS互換環境
**バージョン1は1つのみ。80286で使用するための制約を受けてCPUのリアルモードとプロテクトモードを強引に切り替えることと<ref name="kurihara_2007-01-10">{{Cite web|和書| author=栗原潔 | date=2007-01-10 | url=http://blogs.itmedia.co.jp/kurikiyo/2007/01/mozilla_aa05.html | title=さらばOS/2について | work=栗原潔のテクノロジー時評Ver2 | publisher=ITmedia | accessdate=2014-09-15}}</ref>コンベンショナルメモリを圧迫した設計により、特に日本で不評を博した。
**バージョン2以降は、複数(マルチ仮想DOSマシン、'''MVDM''')。仮想86モードを使用し、複数のDOS環境を[[マルチタスク|プリエンプティブ・マルチタスク]]環境下で稼動させる。[[Basic Input/Output System|BIOS]]や一部の[[デバイスドライバ|ドライバ]]の実処理コードを別アドレス空間、MVDM上にそれらの呼び出しコードを配置したことでDOSアプリケーションが使用できるコンベンショナルメモリを広く確保できたため、WindowsのDOSコマンドプロンプトや、更にはDOS自体と比較しても、アプリケーションの動作を安定させることのできる場合があることで注目された。
*[[Microsoft Windows|Windows]]互換環境 ('''WIN-OS/2''')。[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレート]]ではなく、マイクロソフトのライセンスを含むWindows本体のモジュールをOS/2のMVDM上で稼動させ、複数のWIN-OS/2同士を稼動することもできたため、互換性や、複数アプリケーションを稼動させた際の安定性は優れていた。
**バージョン2は、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]相当のコード(386エンハンスドモードを除く)
**バージョン2.1以降は、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]相当のコード(386エンハンスドモードも含む)
日本では[[日本電気]]、[[東芝]]、[[富士通]]、[[AX]]各社などにより採用され、[[DOS/V]]に続き[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]の標準化にも採用された。
== バージョン ==
OS/2の主なバージョンは以下の通り。リリース年月はIBM OS/2英語版<ref>{{cite web|url=http://www.os2museum.com/wp/os2-history/os2-timeline/
|title=OS/2 Timeline
|access-date=2016-12-19
|publisher=OS/2 Museum}}</ref>
<ref>{{cite magazine
|url=https://www.google.co.uk/search?q=pc+mag&source=lnms&tbm=bks&sa=X&ved=0ahUKEwjdj9SX-f_QAhVKlxoKHf3NAd0Q_AUICSgC&biw=1385&bih=1255
|format=PDF
|title=PC Magazine (archives scanned by Google)
|magazine=PC Magazine
|access-date=2016-12-19}}</ref>。
{|class="wikitable"
|-
! バージョン || リリース || IBM || マイクロソフト || 主な機能 || 備考
|-
|1.0 || 1987/12 || OS/2 1.0 基本版/拡張版 || OS/2 1.0 || [[16ビット]][[マルチタスク]]、DOS互換ボックス || 拡張版はIBM版のみ
|-
|1.1 || 1988/11 || OS/2 1.1 || OS/2 1.1 || プレゼンテーション・マネージャ ||
|-
|1.2 || 1989/10 || OS/2 1.2 || OS/2 1.2 || [[HPFS]]、デュアルブート ||
|-
|1.3 || 1990/12 || OS/2 1.3 || OS/2 1.3 || ATMフォント || IBM主導で開発、軽量化
|-
|2.0 || 1992/04 || OS/2 2.0 || OS/2 2.0 || [[32ビット]]マルチタスク、[[ワークプレース・シェル]]、複数DOS環境(MVDM)、WIN-OS/2(Windows 3.0環境) ||
|-
|rowspan="2"|2.1 || 1993/05 || OS/2 2.1 || OS/2 2.1 || マルチメディア(MMPM/2)、WIN-OS/2(Windows 3.1環境) ||
|-
|1993/11 || OS/2 2.1 for Windows || - || (WIN-OS/2なし) ||
|-
|2.11 || 1994/02 || OS/2 2.11 || OS/2 2.11 || || マイクロソフト最終版
|-
|rowspan="4"|3.0 || 1994/10 || OS/2 Warp 3.0 |||| (WIN-OS/2なし) インターネット接続(BonusPak)・[[IBM Works]]同梱 ||軽量化
|-
|1995/02 || OS/2 Warp 3.0 with WIN-OS/2 || - || WIN-OS/2(Windows 3.11環境) ||
|-
|1995/05 || OS/2 Warp Connect 3.0 with WIN-OS/2 || - || ネットワーク標準(WIN-OS/2あり) ||
|-
|1995/07 || OS/2 Warp Connect 3.0 || - || ネットワーク標準(WIN-OS/2なし) ||
|-
|4.0 || 1996/09 || OS/2 Warp 4 || - || Java1.0、[[OpenGL]]、[[OpenDoc]]、VoiceType ||
|-
|4.5 || 1999/04 || OS/2 Warp Server for e-Business || - || || 最終レベルは4.52 (2002/04)
|}
日本語版の主なバージョンは以下の通り。
*IBM版
**IBM OS/2 J1.0:1988年3月<ref name=":0" />:OS/2 Standard Edition 1.0(英語版)と同時出荷。[[PS/55]]モデル5540/5550/5560/5570に対応。
**IBM OS/2 J1.1:1989年5月<ref name=":0" />
**IBM OS/2 J1.2:1990年3月<ref name=":0" />:旧[[マルチステーション5550|5550]]系統はサポート対象外に。
**IBM OS/2 J1.3:1991年3月<ref name=":0" />:PS/55の256色表示をサポート。
**IBM OS/2 2.1:[[1993年]]:IBM純正のATバスマシンだけでなくPC/AT互換機もサポート対象に追加した。
*マイクロソフト版
**富士通 日本語OS/2 1.0:1988年7月:MS版OS/2 1.0の日本語版。[[FMRシリーズ|FMR]]-50/60/70に対応。<ref>「OS/2がやってきた」『ASCII』 1988年9月号、p.184。</ref>
== 歴史 ==
元来は、IBM PS/2のOSとして、IBMとマイクロソフトとの共同で開発されたものである。
=== OS/2 1.x ===
最初のVer.1.0ではGUIは搭載されておらず、16ビットのOS/2コマンドプロンプトとDOS互換環境をキーボードでスイッチできた。OS/2コマンドプロンプト間は最初から[[マルチタスク|プリエンプティブ・マルチタスク]]であった。
次のVer.1.1でGUIとして、OS/2プレゼンテーションマネージャー (PM) が搭載された。外見はWindows 3.0とほぼ同一である(OS/2 PMもWindows 3.0も、IBM [[Systems Application Architecture]]のCUA'87準拠のため)。
Ver.1.2のリリース後、マイクロソフトは[[Microsoft Windows|Windows]]の開発に注力することになり、以降はIBMのみの開発となった。拡張版において、REXXを装備した。両社が袂を分かつことになった経緯について、一点目は両社の開発スタイルなどの企業文化に大きな違いがあったこと、二点目は当時マイクロソフトにとってIBMが最大顧客であったもののWindows 3.0の爆発的ヒットに伴いしだいに関係に変化が生じたことを指摘する声もある<ref>{{Cite news|title=世界のOSたち - DOSの次世代を築けなかった「OS/2」 (2) IBMとMicrosoftの確執|url=https://news.mynavi.jp/article/20120803-os2/2|accessdate=2018-10-21|language=ja-JP|work=マイナビニュース}}</ref>。
1990年、IBM単独開発で更に軽量化したOS/2 1.3を発売。このバージョンにおいて、基本版にもREXXを装備する。これ以降の開発は、OS/2 2.0を主にIBMが、OS/2 3.0を主にMicrosoftがそれぞれ分担することとなる。Windows 3.0発売時、当時開発中のOS/2 3.0(後に[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]と改名)の主要な拡張Windows APIや拡張OS/2 APIを置き換えると決め、IBMとの緊張を生むことになる。マイクロソフトはその後、IBMとの一切の共同開発から手を引きWindows NTの開発に専念するようになった。
<!-- 拡張版への言及 -->
=== OS/2 2.x ===
1992年3月31日、IBMは世界初のパソコン用32ビットOSである、OS/2 2.00を発売。Windows 3.0互換環境 (WIN-OS/2)、複数のDOS互換環境 (MVDM) を持ち、統合[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]として一つの完成形を見る。また、[[ユーザインタフェース]]をがらりと変更し、[[オブジェクト指向]]のGUIである'''[[ワークプレース・シェル]] ''' (Workplace Shell, WPS) を標準環境とした。
<!--
、他に先駆けて[[マルチタスク|プリエンプティブ・マルチタスク]]を採用した。
V1.0のPMからマルチタスク処理はしている。
-->
ワークプレース・シェルは、'''[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]'''準拠のオブジェクト間通信技術、'''SOM''' ('''System Object Model''') / '''DSOM''' ('''Distributed SOM''') の上で構築されていた。'''SOM'''はオブジェクト指向ではないOSで、言語にほぼ依存せずにオブジェクト指向の機能を実現するオブジェクト管理用の開発環境である。また、ワークプレース・シェルは、操作のオブジェクト指向という点では、デスクトップに余計なもの(メニューなど)を表示させず、ユーザ側がアクションを起こしたときにしか表示されない(Warp 4以降は軌道修正でメニューバーが表示されるようになった)。
これらの技術背景により、オブジェクトの動的追跡などが可能というメリットがあるが、長期間使用していくとデスクトップが壊れたりファイル操作に時間がかかるといった問題も抱えることになった。
Ver.2.1ではWindows 3.1用の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が動くようになった(WIN-OS/2がWindows 3.1相当になった)。386エンハンスドモードを要求するWindows 3.1用のアプリケーションも動作するようになった。(Ver.2.0ではスタンダードモードのみ対応)
Ver.2.11からは、導入済みWindows 3.1環境に上書き導入することで、パッケージにWindows 3.1モジュール (WIN-OS/2) 及びそのライセンスを含まない低価格パッケージの'''J2.11 for Windows'''が追加され、以下の2パッケージとなった。
*OS/2 Ver.2.11:Windows互換環境 (WIN-OS/2) を含む
*OS/2 Ver.2.11 for Windows:Windows互換環境 (WIN-OS/2) を含まないが、導入済のWindows 3.1があれば、それをWIN-OS/2として使用できる
1993年9月、IBMとマイクロソフトのソースコードの相互公開契約が満了し、これ以降のOS/2とWindows NTは完全に分化し、それぞれ別の発展をすることとなる。
OS/2 2.11は、対抗商品となった[[Microsoft Windows NT 3.1|Windows NT 3.1]]の完成度の低さと、Windows 3.x系との互換性の高さから、当時のパソコン用32ビットOSとしては比較的リソースを消費せず、Windows 3.1のソフトウェアがほぼ完全に動作することから「OSごと落ちない完全なマルチタスク可能なWindows 3.xマシン」として利用された。また、当時のパソコン雑誌『[[PC-WAVE|PC WAVE]]』1993年9月号と『[[DOS/Vマガジン]]』1993年10月号にOS/2 2.11の[[ベータ版]] ([[CD-ROM]]) が収録された(当時はCD-ROMは雑誌の付録として認可されておらず、引換券を出版元に送付することにより入手できた)。
1994年10月、IBMは[[モトローラ]]とともに[[PowerPC]]を使ったプラットフォーム、'''PowerPC Reference Platform'''('''PReP''')を提唱。'''PReP'''向けに[[マイクロカーネル]]上で複数のOSを動作させる、'''Workplace OS'''の開発をIBMは表明したが、最終的には、'''OS/2 for PowerPC'''を作り上げるにとどまった。
またこのころから [[Apple|Apple Computer]]や[[ノベル (企業)|ノベル]]とともに、[[OpenDoc]](マイクロソフトの[[OLE]]とほぼ同様の機能を、高機能・マルチプラットホーム化したもの)の開発にとりかかりWarp 4に搭載されたが、後年[[Java]]の台頭により、普及には至らなかった。
=== OS/2 Warp 3.x "Warp" ===
1995年3月に発売されたVer.3.0(マイクロソフトが開発中で放棄したOS/2 3.0とは無関係)では32ビットCPU専用となり、開発コードWarp(ワープ)を製品名として[[グループウェア]]の[[Lotus Notes]]や日本語[[インプットメソッド|IM]]のWritingHeads/2等のアプリケーションを多数バンドルして発売された。ちなみに、開発コードのWarpは米国SF TVシリーズの[[スター・トレック]]に由来するもので、当時『[[新スタートレック]]』が放映中であったこともあり、バージョン4.0の開発コードがMerlinになるまで、スター・トレック関係の固有名詞が開発コードに使用されていた。
日本では、「'''DOS'''も走る、'''Windows'''も走る。'''OS/2'''なら一緒に走る」(J2.11の[[コマーシャルメッセージ|テレビコマーシャル]])「ワープを使え」という、[[山口智子]]のテレビコマーシャルが流された。IBMが家庭向けに販売していたパソコンであるAptivaシリーズにバンドルされるなど、個人ユーザー向けに最も積極的に普及のための活動が行われたのがこのころである。{{要出典範囲|しかし、同年11月に発売を予定していたWindows 95の評価が固まるまで、双方の導入を見送ったユーザも多かった。|date=2022年3月}}
=== OS/2 Warp 4.x ===
[[1996年]]9月、OS/2 Warp 4を発表<ref>{{Cite web|和書|title=米IBM、「OS/2 Warp 4」を発表 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960926/merlin.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |accessdate=2022-03-10 |quote='96/9/25(現地時間) 発表
米IBMは25日(現地時間)、開発コードMerlinと呼ばれていたパソコン用のオペレーティングシステム「OS/2 Warp 4」のリリースを発表した。}}</ref>。日本語版発売は同年12月であった<ref>{{Cite web|和書|title=日本IBM、ネットワーク対応を強化したOS/2 Warp4日本語版を発売 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961205/warp4.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |accessdate=2022-03-10 |quote= 日本アイ・ビー・エム株式会社は、ネットワーク対応を強化した32ビットOS「OS/2 Warp4日本語版」を12月12日に発売する。}}</ref>。
OS/2 Warp 3に対して様々な改良・強化をしているが、対応デバイスが少ないという不満に対しては、「Device Driver Pak」が導入され、OS側ではOMNI[[プリンター]][[デバイスドライバ|ドライバ]]やGRADDなどの、ドライバを作りやすい工夫が盛り込まれた(これらの一部はWarp 3にもフィードバックされた)。また、ユーザのレベル別に内容を変えるオンラインヘルプのWarpGuideが導入されている。また、ワークプレース・シェルのUIを大幅に変更し、メニューバーの装備、WarpCenterなど、他のOSで採用されたメタファーを積極的に取り込んでいる。また、Java VMを[[カーネル]]レベルで取り込み、VoiceTypeをサポートしている。
[[1999年]]Warp Server for e-business (WSeB) を発表。
[[2001年]]OS/2 Warp 4.51を出荷(ベースはWSeB)
[[2002年]]OS/2 Warp 4.52を出荷
<!-- 指摘について書くなら要出典 -->[[2005年]]7月にIBMは正式なサポート終了通告を発表し、2006年12月末をもって通常ルートのメンテナンスを完全に停止する事となった。
=== サポート終了と後継 ===
IBMは[[2002年]]リリースのWarp 4.52を最後にOS/2のバージョンアップを終了した。IBMは保守サポートにて[[Accelerated Graphics Port|AGP]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]、[[DVD|DVD±R]]などの技術や、新しいプリンターや[[CD-RW]]、DVDなどの[[周辺機器]]について対応した。2005年7月、IBMはOS/2 Warp4 および OS/2 Warp Server for e-business のサポート終了予定を発表<ref>[http://www-01.ibm.com/common/ssi/printableversion.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/8/760/SWA05138/index.html&request_locale=en OS/2 Warp4 および OS/2 Warp Server for e-business のプログラム・サポート終了の発表 - 日本IBM]</ref>、2006年12月31日にサポート終了した<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0109/ibm.htm 日本IBM、OS/2のすべての活動を終了 - PC Watch]</ref>。以後はライセンスを受けたサードパーティーがサポートを続けている<ref name="ZDNet2017">{{Cite web|和書|title=「OS/2」を2017年によみがえらせた「ArcaOS 5.0 Blue Lion」|url=https://japan.zdnet.com/article/35102648/|website=ZDNet Japan|date=2017-06-15|accessdate=2020-04-08|language=ja}}</ref>。
IBMからライセンス供給を受けた実質的なOS/2後継OSには以下がある。
*'''[[eComStation]]'''(略称:eCS) - 2001年に1.0をリリース。2011年リリースの2.1が最終。
*'''[[ArcaOS]]'''(開発コード名 Blue Lion<ref>[https://www.arcanoae.com/blue-lion/ Blue Lion]</ref>) - 2017年5月より販売され<ref name="ZDNet2017" />、2022年3月現在もメンテナンスが行われている<ref>{{Cite web |title=ArcaOS Desktop updated to 1.0.15 |url=https://www.arcanoae.com/arcaos-desktop-updated-to-1-0-15/ |website=Arca Noae |date=2022-02-25 |accessdate=2022-03-10 |language=en-US |first=Lewis |last=Rosenthal}}</ref>。
== サポート対象機器 ==
OS/2は、IBMとマイクロソフトによるDOS(PC DOSおよびMS-DOS)後継の次世代OSとして共同開発され、DOSと同様に2社間でOS供給の役割分担が行われた。
*'''IBM OS/2''' - IBM製品向け
**(世界)[[PC/AT]]、[[IBM PS/2|PS/2]]、[[PS/ValuePoint]]、[[IBM PC Series|PC Server Series/PC Series]]、[[ThinkPad]]、[[Aptiva]]、[[NetVista]]など
**(日本独自仕様)[[マルチステーション5550]]、[[PS/55]]など
*'''Microsoft OS/2''' - IBM以外へのOEM版
**(世界)[[ASTリサーチ]]、[[コンパック]]、[[デル]]、DTK、[[ヒューレット・パッカード]]、[[三菱電機]]、[[NCR (企業)|NCR]]、[[日本電気|NEC]]、[[ノキア]]、[[オリベッティ]]、[[タンデムコンピューターズ]]、[[タンディ・コーポレーション]]、[[東芝]]、[[ユニシス]]、[[:en:Zenith Electronics|ゼニス]]など<ref>[https://www.nytimes.com/1988/02/17/business/company-news-compaq-s-os-2.html COMPANY NEWS; Compaq's OS/2 (1988/2/17) - The New York Times]</ref><ref>[http://www.os2museum.com/wp/oem-ms-os2-1987-1990/ OEM MS OS/2: 1987-1990 - OS/2 Museum]</ref>
**(日本独自仕様)NEC [[PC-9800シリーズ]]、富士通 [[FMRシリーズ]]、東芝 [[J3100]]、三菱電機 [[Multi16]]など[[AX|AX協議会]]各社など
Microsoft OS/2 は 2.1 で終了したが、IBM OS/2 2.1 よりIBM製品以外の[[PC/AT互換機]]もサポート対象に追加された。
日本では[[東芝]]はIBM OS/2 (Warp V3まで)、[[日本電気]]はIBM OS/2 (Warp 4まで)をサポート・販売した。この他、金融機関のATM、POS端末、森精機製作所(現・[[DMG森精機]])の[[CNC]][[旋盤]]、[[日立国際電気]]製の縦型拡散炉/減圧CVD装置VERTEXシリーズ、QuixAceシリーズ、ALDINNAシリーズで使用されている装置制御システムCX-3000シリーズなどの各種の産業機器や組み込み機器もOS/2を使用した。
== アプリケーション ==
主な商用のOS/2ネイティブ・アプリケーションには以下があった。
=== 表計算ソフト ===
*[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]] (IBMによる買収以前)
**[[Lotus 1-2-3]] for OS/2
*Sundial Systems Corporation
**Mesa
*[[マイクロソフト]]
**[[Microsoft Excel]] for OS/2(早い時期から発売はしていたが、バージョンアップはWindows 3.1発売以降は行われなかった)
=== ワープロソフト ===
*[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]] (IBMによる買収以前)
**Lotus AmiPro for OS/2(英語版のみ)
*[[WordPerfect]]
**[[WordPerfect]] for OS/2(英語版のみ)
*[[ジャストシステム]]
**[[一太郎]] OS/2版
*[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]
**[[織姫Lite]]
=== オフィススイート ===
*IBM
**SMART(日本独自開発の統合オフィスツール。表計算、ワープロ、チャートなど。)
**[[TakeFive]](簡易オフィスツール。FootPrint Worksの日本語版であり、IBM Worksの前身。)
**[[IBM Works]](簡易オフィスツール。表計算、ワープロ、チャートなど。Footprint Worksがベースであり、OS/2 WarpのBonusPackに収録され、日本語化もされた。機能的には[[Microsoft Works]]に相当する)
*FootPrint
**[[FootPrint Works]](簡易オフィスツール。イギリスIBMが開発し、カナダFootPrintが販売した。英語版のみ。)
*[[サン・マイクロシステムズ]]
**[[StarOffice]] 4.0, 5.1(英語版のみ)
=== ウェブブラウザ ===
*IBM
**[[IBM WebExplorer]](OS/2 Warp 3より標準添付)
**[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]](OS/2 Warp 4 から標準添付)
**Netscape Communicator 4.0.4
**[[IBM Web Browser]]
*[[オペラ・ソフトウェア]]
**[[Opera]](Ver5.12まで)
*[[Mozilla]]
**[[Firefox]]
=== かな漢字変換ソフト ===
*IBM
**連文節変換プログラム
**Writing Heads/2 (v1.00b, v2.x, v3.x/IM32)
*[[ジャストシステム]]
**[[ATOK]](ATOK7東芝版OS/2標準添付及単体小売、ATOK8一太郎 OS/2版に付属)
*[[エー・アイ・ソフト]]
**[[WX シリーズ|WX3]] for OS/2 V3(OS/2ユーザの要望を元に販売された)
*[[VACS(バックス)]]
**[[VJE]]-γ Ver.2.30
=== ミドルウェア ===
*IBM
**Database Manager (DBM。OS/2 1.x 拡張版 (EE) に標準添付の[[データベース管理システム|DBMS]]。後の[[DB2]] for OS/2 (DB2/2)。)
**Communication Manager (CM。[[3270]]/[[5250]]エミュレーションなどの[[Systems Network Architecture|SNA]]接続。OS/2 1.x拡張版 (EE) には標準添付。後のPCOMM。)
**[[LAN Server]](ドメイン管理、ファイル・プリンターサーバ。マイクロソフト LAN ManagerのIBM拡張版。)
*[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]] (IBMによる買収以前)
**[[Lotus Notes]](グループウェア。サーバおよびクライアント)
*マイクロソフト
**[[LAN Manager]](ドメイン管理、ファイル・プリンターサーバ)
*[[オラクル (企業)|オラクル]]
**[[Oracle Database]](Oracle7 Workgroup Server for OS/2、Oracle7 Server for OS/2 )
=== プログラミングツール ===
*IBM
**C Set ++
**IBM VisualAge C++
**IBM VisualAge for COBOL
**IBM VisualAge for BASIC
*[[マイクロソフト]] 全てDOS & OS/2同梱版、但しOS/2用はVer 1.x向けであった。
**Microsoft Macro Assembler 5.1-6.0
**Microsoft C Optimizing Compiler 5.1-6.0
**Microsoft Fortran 4.1-5.1
**Microsoft PASCAL 4.0
**Microsoft BASIC Compiler 6.0-7.1
*[[ボーランド]]
**Borland C++ for OS/2
*[[サン・マイクロシステムズ]]
**Java Development Kit for OS2
*ACA
**CA-REALIZER(OS/2 MS-WINDOWS3.1両対応ビジュアルBASICコンパイラ)
=== CASEツール ===
*KnowledgeWare
**IEW、ADW
=== ゲーム ===
*[[マクシス]]
**[[シムシティ]] for OS/2(シミュレーションゲーム)
*[[Stardock]]
**[[Links OS/2]](Golfゲーム)
=== その他 ===
以下のDOS版・Windows版アプリケーションは、OS/2上のDOSやWindowsの互換環境で一時はサポートされていた。
*DOS版
**IBM
***[[文書プログラム|DOS文書プログラム]]
*Windows版
**[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]] (IBMによる買収以前)
***[[ロータス・スーパーオフィス]]
**[[ジャストシステム]]
***[[一太郎]]
== 脚注 ==
{{Reflist|refs=
<ref name=":0">『日経パソコン』 1991年10月28日号、pp.173-179。</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[HPFS]]
* [[ワークプレース・シェル]]
* [[IBM PS/2]]
* [[Windows NT系]]
* [[eComStation]]
== 外部リンク ==
* [http://www-01.ibm.com/software/os/warp-withdrawal/ OS/2 Withdrawal from Marketing and Change in Support]
* [http://www.ecomstation.com/ eComStation.com]
* [http://wiki.netlabs.org/index.php/Main_Page Wiki at netlabs.org]
* [http://os2news.warpstock.org/ OS/2Warp News and Rumors]
* [http://www.logos3.net/it/teamos2/index.html Team OS/2 Japan Home Page (Mostly English)]
'''クローンプロジェクト'''
* [http://www.osfree.org/index.php osFree]
* [http://www.os2.ru/ OS/4 PHOENIX PROJECT]
{{Windows}}
{{オペレーティングシステム}}
{{IBM operating systems}}
{{Normdaten}}
[[Category:OS/2|*]]
[[Category:IBMのオペレーティングシステム]]
[[Category:マイクロソフトのオペレーティングシステム]]
[[Category:1987年のソフトウェア]] | 2003-02-14T08:13:59Z | 2023-09-29T02:19:13Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/OS/2 |
1,540 | Intel 80286 | Intel 80286(インテル はちまるにいはちろく)はインテルの16ビットマイクロプロセッサ (CPU)。IBMのPC/AT(日本ではPC-9800シリーズ)およびその互換機によって広く普及した、DOS時代の代表的なパーソナルコンピュータ (PC) 用プロセッサであった。
1982年2月1日に発表、1984年から6MHz版と8MHz版が出荷された。134,000個のトランジスタを集積した1.5μmのNMOSプロセス(インテルの呼称だとHMOS-III)で製造され、性能を大幅に増加させるパイプラインを構成する4つの独立したユニット(アドレスユニット、バスユニット、命令ユニットと実行ユニット)を持っていた。クロック周波数は6、8、10、12MHz があった。パッケージには68ピンPLCC、LCC、PGAがあった。
8086とソフトウェアの上位互換性を持ち、より高速に命令実行可能(同クロック8086比で約2.5倍)。また、物理メモリ空間が16MBに拡張され、1GBの仮想記憶やマルチタスク処理に対応している。 また、インテルはこのモデルまではセカンドソース推進戦略を採用したため、AMD、富士通、シーメンス、ハリス・コーポレーション(英語版)(以降、ハリスと表記)からもセカンドソース品が供給された。特にAMDとハリスは、ライセンスが受けられない80386に対抗するため、16、20MHz、ハリスは25MHz、といった、より高クロックの80286を市場に投入した。後述するようにDOSで動作させる限り、同一クロックの80386よりも高い実行速度が得られたからである。
インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manualでは、CPUの80286と後述の周辺LSIの組み合わせがiAPX 286であるとしている。
8086や80186に対する上位互換性を持つリアルモードに加えて、プロセスやメモリを保護するプロテクトモードを追加し、これをサポートする命令が追加された。また、マルチタスクオペレーティングシステムを実装する際に必要な仕組みや命令群が拡張され、その後の32ビットCPUへ繋がる基礎ができあがった。4階層の特権レベル、仮想記憶機能、メモリ保護機能、TSS(Task state segment)を使用したタスクスイッチ機能などを持つ。
80286で、DOSやBIOSの資産を継承しつつ、更に仮想記憶機能を生かすためにはリアルモードとプロテクトモードの間を往復することが必要だが、80286にはプロテクトモードからリアルモードへの復帰命令が無く、復帰にはCPUのリセット信号線を有効にするしかなかった。そのため、80286搭載機では特定のI/Oポートを操作することによりCPUのリセットパルスを発生させるハードウェアを持っており、ソフトウェアからCPUのみのリセットを行うことができた。BIOSの初期化プログラムの中で通常のハードウェアリセット(電源ONまたはリセットスイッチ押下)と前述のソフトウェアリセットを区別し、初期化方法を切り替えるという処理が必要だった。これら一連の処理はオーバーヘッドが大きいため、結果的に80286を用いたリアル/プロテクトモード間のスイッチングは非効率的なものとなった。
なお後継の80386以降では、両モード間を任意に往復できる機能や仮想86モードなどを備えていた。
リアルモードへ戻るための方法はハードウェア独自のものとなっており、具体的な手順は以下のようにハードウェアによって異なる。
上記の通り80286はリアルモードとプロテクトモードを備えており、起動直後やMS-DOSでは基本的に8086や80186と互換性の高いリアルモードで動作する。
8086では1MiB(000000H - 0FFFFFH)のメモリ空間を持つが、本来16ビットのレジスタでは64KBまでのアドレス(00000H - 0FFFFH)しか表現できない。そこで16ビットレジスタを2つ用意し、まず1MB中のメモリ空間からアドレスの「原点」を10Hバイト単位で大雑把に指定し、もう1つのレジスタでそこから上位の64KBまでをアクセスできるようにしていた。したがって「原点」を示すセグメントレジスタを最大の0FFFFHに設定すれば、0FFFF0Hからさらに上位の64KBすなわち1MBを超える10FFEFHまでアドレスを表現できることになる。しかし8086ではアドレス線がA0 - A19の20本しか用意されていないため100000H - 10FFEFHのアドレスにはアクセスできず、桁あふれした部分は000000H - 0FFEFHにラップアラウンドしてアクセスすることになる。
80286ではこのようなラップアラウンドは起こらないため、インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manualでは「もしリアルモードのプログラムがアドレス空間のラップアラウンドに依存している場合(例えばFFF0:0400 = 0000:0300)、上位アドレス4ビットをゼロにするために外部ハードウェアを使用すべきである」としている。
アドレス線を24本持つ80286を採用したシステム(PC/ATなど)では、ラップアラウンドを前提で作られたソフトウェアとの互換性を維持しつつ100000H以上のメモリにもアクセスできるように、21本目のアドレス線 (A20) の無効/有効を切り替えるハードウェアを持っていた。特定のI/Oポート(PC/ATではキーボードコントローラ)からA20を有効にするとリアルモードのままでも64Kバイト程度の上位メモリを参照することが可能になり、HMAと呼ばれた。
HMAは64Kバイト程度であるが640Kバイトの約10%にも相当し、メモリ枯渇に苦しむDOSユーザーにわずかな救いとなった。80386以降のプロセッサでもHMAは使用できる。
キャッシュを内蔵した80486以降のCPUではA20を無効にする機能を内蔵し、CPUにA20M#というピンを追加した。これは外部ハードウェアでA20を無効にしても80486がキャッシュに保存されたHMAにアクセスしてしまうためである。このA20M#を制御するのは、PC/ATではキーボードコントローラで変化していない。
なお、80286は16Mバイトの後ろの約64Kバイトにアクセスした場合、先頭の000000H番地にラップアラウンドにするが80386ではこのラップアラウンドは起こらない。このことが問題になる場合は、80386のページング機能を使用して16Mバイトの後ろの64Kバイトの領域を先頭の000000Hにマッピングすることで回避できる。
80286にはCPUID命令は無く、インテルはフラグレジスタを使ったCPUの判別方法を紹介している。
PUSHF/POPF命令で読み書きできる16ビット分のフラグのうち、上位4ビットは8086世代(V30、80186などを含む)では使われていない予約ビットとなっていた。実際はその部分が1111bとして読み出せたものの、変更はできなかった。80286ではこの部分がプロテクトモードで使われるようになったため、リアルモードではゼロクリアされた状態になった。さらに仮想86モードを持つ80386からはリアルモードにおいてもこのビットが変更可能な仕様になっている。すなわちリアルモードの時点 (BIOSやMS-DOS) において、フラグレジスタのbit15-12が1111bから変更できなければ8086世代、0000bから変更できなければ80286、そのどちらでもない、つまり一部でも変更可能であれば80386以降と判断できる。
8086から使用できる基本命令セットに加え、以下の命令セットが追加された。
80286で新たに追加された命令のうち11個の拡張命令セットは、後に発表された80186にも採用され、共通で使用できた。このほか既存の命令ではIMULとPUSHに即値(イミディエイト)が指定できるようになり、シフト・ローテイト命令ではCLレジスタを介さずに 1 以外の値を直接指定できるようになった。これらは80186でも同様である。
80286で追加されたシステム制御/プロセッサ制御の命令はいずれもプロテクトモードないしは80287関連の命令である。このほか既存命令としてはI/O(入出力)命令の類もシステム制御に使われる命令であり、プロテクトモードでは特権命令の扱いになった。HLTも特権レベルに依存するシステム命令となった。
SGDT, SIDT, SLDT, STR, SMSWは特権命令ではなく、アプリケーションプログラムからも実行可能である。このことは30年以上続いている。インテルは、CPUIDでUMIP(User-Mode Instruction Prevention)ビットがセットされているCPUではこれらの命令を特権命令にする機能を持つとしている。
80286ではPOP CS命令(オペコード 0F)は廃止された。80186/V30も同様である。このオペコードは、80286以降、拡張命令のプリフィックスとして使用された。80286で使われている0Fプリフィックスは、上記のシステム命令のうち、ARPL以外の15命令が該当する。
80286の非公開命令であるLOADALLを使用するとリアルモードのままで、プロテクトメモリを含む16Mバイトのメモリにアクセス可能となる。
80286はリアルモードにおいて8086や80186と高い互換性を持つものの、完全に等価というわけではない。異なる点としては、80286以降ではPUSH SP命令の挙動が変更されている。また既存命令の組み合わせであっても、プロテクトモード上では挙動の異なる場合がある。
このほか変更点として、シフト・ローテイト命令で指定できるCLレジスタの値や即値が31以下に限定されるようになった。指定できる値は8ビットだが、実際には下位5ビット分しか使われない。この変更は80186も同様だが、V30では適用されておらず、8086相当の挙動となる。例えばシフト命令で31(16進数で0x1F)を超える値を指定した場合、8086やV30では演算結果が必ずゼロになるが、80186/286以降では32で割った余剰の分だけシフト演算される。
8086ではFPU命令の実行中はWAIT命令でCPUを止めておく必要があったが、80186以降ではその必要が無くなった。また、LOCK命令はもともとあらゆる命令においてバスをロックできる仕様だったが、80286以降ではロックできる命令とできない命令が決められている。
GDTR (Global Descriptor Table Regsister)
IDTR (Interrupt Descriptor Table Regsister)
LDTR (Local Descriptor Table Regsister)
TR (Task Register)
16bitあるフラグレジスタのうち、bit0からbit11までの12ビットは8086と同様のものが用意されている。前述の通り80186以前では上位4ビットが使われていなかったが、80286ではマルチタスクOSを想定した新たなフラグが追加されている。
なおbit15は予約ビットになっており、80286では不定(80386以降は0)とされている。
80286ではMSW (Machine status word) レジスタが追加された。MSWを読み書きするLMSW、SMSWという専用の命令が用意されている。MSWは16bit分あるが、80286で定義されているのは下位4ビット分だけである。80386以降では新たに設けられたコントロールレジスタに統合され、CR0レジスタの下位16ビットが該当するが、互換性のためMSWとしてもアクセスできる。
8086では割り込みは、割り込み4まで定義されており、80286では割り込み5以降が追加された。割り込み5から31まではインテル予約済みであったが、IBM PCでは割り込み8から15までを8259A経由の外部割込みに割り当てていた。プロテクトモードのOS/2などは8259Aの割り込み番号を別の値に変更する。
80286ではセグメントレジスタには可視部とディスクリプターキャッシュ部があり、プログラムから直接 ディスクリプターキャッシュ部の変更はできない。プロテクトモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、グローバルディスクリプターテーブル、またはローカルディスクリプターテーブルからディスクリプターキャッシュ部にアクセス権、ベースアドレス、セグメントリミットが読み込まれ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。
リアルモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、セグメントレジスタの内容が16倍されたものがディスクリプターキャッシュ部のベースアドレスにロードされ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。このためリアルモードからプロテクトモードに移行した直後、セグメントレジスタの値がプロテクトモードでは不正な値でもハングアップや例外は発生しない。
また、80286は電源ONまたはリセット後、コードセグメントのディスクリプタキャッシュ部は、ベースアドレスがFF0000Hに設定され、IPはFFF0に設定されるので、FFFFF0Hから実行が開始される特殊なリアルモードで始まる。この特殊な状態はCALL FAR, JMP FAR命令などでセグメントレジスタが更新されるまで続く。
80286システムはCPUアクセラレータ製品により、より上位のプロセッサが利用できる場合があった。その際、486相当の製品は起動後にソフトウエアでCPUキャッシュを有効にすることで高速化させる必要があった。80286システムは16ビットバスであるため、外部16ビットであるi386SXにピン互換のCyrix Cx486SLC登場後は、これを用いた80286用のCPUアクセラレータ製品が各社から登場した。特に日本で主流だったPC-9800シリーズおよびEPSON PC-286シリーズでは80286をソケット経由で実装した機種が多く、CPU交換が容易だった。結果的にV30や後のi386SXと比べてCPUのアップグレードパスに恵まれ、様々なバリエーションのCPUアクセラレータ製品を生んだ。 | [
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"text": "Intel 80286(インテル はちまるにいはちろく)はインテルの16ビットマイクロプロセッサ (CPU)。IBMのPC/AT(日本ではPC-9800シリーズ)およびその互換機によって広く普及した、DOS時代の代表的なパーソナルコンピュータ (PC) 用プロセッサであった。",
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"text": "1982年2月1日に発表、1984年から6MHz版と8MHz版が出荷された。134,000個のトランジスタを集積した1.5μmのNMOSプロセス(インテルの呼称だとHMOS-III)で製造され、性能を大幅に増加させるパイプラインを構成する4つの独立したユニット(アドレスユニット、バスユニット、命令ユニットと実行ユニット)を持っていた。クロック周波数は6、8、10、12MHz があった。パッケージには68ピンPLCC、LCC、PGAがあった。",
"title": "概要"
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"text": "8086とソフトウェアの上位互換性を持ち、より高速に命令実行可能(同クロック8086比で約2.5倍)。また、物理メモリ空間が16MBに拡張され、1GBの仮想記憶やマルチタスク処理に対応している。 また、インテルはこのモデルまではセカンドソース推進戦略を採用したため、AMD、富士通、シーメンス、ハリス・コーポレーション(英語版)(以降、ハリスと表記)からもセカンドソース品が供給された。特にAMDとハリスは、ライセンスが受けられない80386に対抗するため、16、20MHz、ハリスは25MHz、といった、より高クロックの80286を市場に投入した。後述するようにDOSで動作させる限り、同一クロックの80386よりも高い実行速度が得られたからである。",
"title": "概要"
},
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"text": "インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manualでは、CPUの80286と後述の周辺LSIの組み合わせがiAPX 286であるとしている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 4,
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"text": "8086や80186に対する上位互換性を持つリアルモードに加えて、プロセスやメモリを保護するプロテクトモードを追加し、これをサポートする命令が追加された。また、マルチタスクオペレーティングシステムを実装する際に必要な仕組みや命令群が拡張され、その後の32ビットCPUへ繋がる基礎ができあがった。4階層の特権レベル、仮想記憶機能、メモリ保護機能、TSS(Task state segment)を使用したタスクスイッチ機能などを持つ。",
"title": "対応ソフトウェア"
},
{
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"text": "80286で、DOSやBIOSの資産を継承しつつ、更に仮想記憶機能を生かすためにはリアルモードとプロテクトモードの間を往復することが必要だが、80286にはプロテクトモードからリアルモードへの復帰命令が無く、復帰にはCPUのリセット信号線を有効にするしかなかった。そのため、80286搭載機では特定のI/Oポートを操作することによりCPUのリセットパルスを発生させるハードウェアを持っており、ソフトウェアからCPUのみのリセットを行うことができた。BIOSの初期化プログラムの中で通常のハードウェアリセット(電源ONまたはリセットスイッチ押下)と前述のソフトウェアリセットを区別し、初期化方法を切り替えるという処理が必要だった。これら一連の処理はオーバーヘッドが大きいため、結果的に80286を用いたリアル/プロテクトモード間のスイッチングは非効率的なものとなった。",
"title": "リアルモードへの復帰"
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{
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"text": "なお後継の80386以降では、両モード間を任意に往復できる機能や仮想86モードなどを備えていた。",
"title": "リアルモードへの復帰"
},
{
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"text": "リアルモードへ戻るための方法はハードウェア独自のものとなっており、具体的な手順は以下のようにハードウェアによって異なる。",
"title": "リアルモードへの復帰"
},
{
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"text": "上記の通り80286はリアルモードとプロテクトモードを備えており、起動直後やMS-DOSでは基本的に8086や80186と互換性の高いリアルモードで動作する。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "8086では1MiB(000000H - 0FFFFFH)のメモリ空間を持つが、本来16ビットのレジスタでは64KBまでのアドレス(00000H - 0FFFFH)しか表現できない。そこで16ビットレジスタを2つ用意し、まず1MB中のメモリ空間からアドレスの「原点」を10Hバイト単位で大雑把に指定し、もう1つのレジスタでそこから上位の64KBまでをアクセスできるようにしていた。したがって「原点」を示すセグメントレジスタを最大の0FFFFHに設定すれば、0FFFF0Hからさらに上位の64KBすなわち1MBを超える10FFEFHまでアドレスを表現できることになる。しかし8086ではアドレス線がA0 - A19の20本しか用意されていないため100000H - 10FFEFHのアドレスにはアクセスできず、桁あふれした部分は000000H - 0FFEFHにラップアラウンドしてアクセスすることになる。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "80286ではこのようなラップアラウンドは起こらないため、インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manualでは「もしリアルモードのプログラムがアドレス空間のラップアラウンドに依存している場合(例えばFFF0:0400 = 0000:0300)、上位アドレス4ビットをゼロにするために外部ハードウェアを使用すべきである」としている。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "アドレス線を24本持つ80286を採用したシステム(PC/ATなど)では、ラップアラウンドを前提で作られたソフトウェアとの互換性を維持しつつ100000H以上のメモリにもアクセスできるように、21本目のアドレス線 (A20) の無効/有効を切り替えるハードウェアを持っていた。特定のI/Oポート(PC/ATではキーボードコントローラ)からA20を有効にするとリアルモードのままでも64Kバイト程度の上位メモリを参照することが可能になり、HMAと呼ばれた。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "HMAは64Kバイト程度であるが640Kバイトの約10%にも相当し、メモリ枯渇に苦しむDOSユーザーにわずかな救いとなった。80386以降のプロセッサでもHMAは使用できる。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "キャッシュを内蔵した80486以降のCPUではA20を無効にする機能を内蔵し、CPUにA20M#というピンを追加した。これは外部ハードウェアでA20を無効にしても80486がキャッシュに保存されたHMAにアクセスしてしまうためである。このA20M#を制御するのは、PC/ATではキーボードコントローラで変化していない。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "なお、80286は16Mバイトの後ろの約64Kバイトにアクセスした場合、先頭の000000H番地にラップアラウンドにするが80386ではこのラップアラウンドは起こらない。このことが問題になる場合は、80386のページング機能を使用して16Mバイトの後ろの64Kバイトの領域を先頭の000000Hにマッピングすることで回避できる。",
"title": "HMAの活用"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "80286にはCPUID命令は無く、インテルはフラグレジスタを使ったCPUの判別方法を紹介している。",
"title": "80286の判別"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "PUSHF/POPF命令で読み書きできる16ビット分のフラグのうち、上位4ビットは8086世代(V30、80186などを含む)では使われていない予約ビットとなっていた。実際はその部分が1111bとして読み出せたものの、変更はできなかった。80286ではこの部分がプロテクトモードで使われるようになったため、リアルモードではゼロクリアされた状態になった。さらに仮想86モードを持つ80386からはリアルモードにおいてもこのビットが変更可能な仕様になっている。すなわちリアルモードの時点 (BIOSやMS-DOS) において、フラグレジスタのbit15-12が1111bから変更できなければ8086世代、0000bから変更できなければ80286、そのどちらでもない、つまり一部でも変更可能であれば80386以降と判断できる。",
"title": "80286の判別"
},
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"paragraph_id": 17,
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"text": "8086から使用できる基本命令セットに加え、以下の命令セットが追加された。",
"title": "追加命令一覧"
},
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"paragraph_id": 18,
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"text": "80286で新たに追加された命令のうち11個の拡張命令セットは、後に発表された80186にも採用され、共通で使用できた。このほか既存の命令ではIMULとPUSHに即値(イミディエイト)が指定できるようになり、シフト・ローテイト命令ではCLレジスタを介さずに 1 以外の値を直接指定できるようになった。これらは80186でも同様である。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "80286で追加されたシステム制御/プロセッサ制御の命令はいずれもプロテクトモードないしは80287関連の命令である。このほか既存命令としてはI/O(入出力)命令の類もシステム制御に使われる命令であり、プロテクトモードでは特権命令の扱いになった。HLTも特権レベルに依存するシステム命令となった。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "SGDT, SIDT, SLDT, STR, SMSWは特権命令ではなく、アプリケーションプログラムからも実行可能である。このことは30年以上続いている。インテルは、CPUIDでUMIP(User-Mode Instruction Prevention)ビットがセットされているCPUではこれらの命令を特権命令にする機能を持つとしている。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "80286ではPOP CS命令(オペコード 0F)は廃止された。80186/V30も同様である。このオペコードは、80286以降、拡張命令のプリフィックスとして使用された。80286で使われている0Fプリフィックスは、上記のシステム命令のうち、ARPL以外の15命令が該当する。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "80286の非公開命令であるLOADALLを使用するとリアルモードのままで、プロテクトメモリを含む16Mバイトのメモリにアクセス可能となる。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "80286はリアルモードにおいて8086や80186と高い互換性を持つものの、完全に等価というわけではない。異なる点としては、80286以降ではPUSH SP命令の挙動が変更されている。また既存命令の組み合わせであっても、プロテクトモード上では挙動の異なる場合がある。",
"title": "追加命令一覧"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "このほか変更点として、シフト・ローテイト命令で指定できるCLレジスタの値や即値が31以下に限定されるようになった。指定できる値は8ビットだが、実際には下位5ビット分しか使われない。この変更は80186も同様だが、V30では適用されておらず、8086相当の挙動となる。例えばシフト命令で31(16進数で0x1F)を超える値を指定した場合、8086やV30では演算結果が必ずゼロになるが、80186/286以降では32で割った余剰の分だけシフト演算される。",
"title": "追加命令一覧"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "8086ではFPU命令の実行中はWAIT命令でCPUを止めておく必要があったが、80186以降ではその必要が無くなった。また、LOCK命令はもともとあらゆる命令においてバスをロックできる仕様だったが、80286以降ではロックできる命令とできない命令が決められている。",
"title": "追加命令一覧"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "GDTR (Global Descriptor Table Regsister)",
"title": "新しいレジスタ"
},
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"text": "IDTR (Interrupt Descriptor Table Regsister)",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "LDTR (Local Descriptor Table Regsister)",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
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"text": "TR (Task Register)",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "16bitあるフラグレジスタのうち、bit0からbit11までの12ビットは8086と同様のものが用意されている。前述の通り80186以前では上位4ビットが使われていなかったが、80286ではマルチタスクOSを想定した新たなフラグが追加されている。",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なおbit15は予約ビットになっており、80286では不定(80386以降は0)とされている。",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "80286ではMSW (Machine status word) レジスタが追加された。MSWを読み書きするLMSW、SMSWという専用の命令が用意されている。MSWは16bit分あるが、80286で定義されているのは下位4ビット分だけである。80386以降では新たに設けられたコントロールレジスタに統合され、CR0レジスタの下位16ビットが該当するが、互換性のためMSWとしてもアクセスできる。",
"title": "新しいレジスタ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "8086では割り込みは、割り込み4まで定義されており、80286では割り込み5以降が追加された。割り込み5から31まではインテル予約済みであったが、IBM PCでは割り込み8から15までを8259A経由の外部割込みに割り当てていた。プロテクトモードのOS/2などは8259Aの割り込み番号を別の値に変更する。",
"title": "割り込み"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "80286ではセグメントレジスタには可視部とディスクリプターキャッシュ部があり、プログラムから直接 ディスクリプターキャッシュ部の変更はできない。プロテクトモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、グローバルディスクリプターテーブル、またはローカルディスクリプターテーブルからディスクリプターキャッシュ部にアクセス権、ベースアドレス、セグメントリミットが読み込まれ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。",
"title": "ディスクリプターキャッシュ"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "リアルモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、セグメントレジスタの内容が16倍されたものがディスクリプターキャッシュ部のベースアドレスにロードされ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。このためリアルモードからプロテクトモードに移行した直後、セグメントレジスタの値がプロテクトモードでは不正な値でもハングアップや例外は発生しない。",
"title": "ディスクリプターキャッシュ"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "また、80286は電源ONまたはリセット後、コードセグメントのディスクリプタキャッシュ部は、ベースアドレスがFF0000Hに設定され、IPはFFF0に設定されるので、FFFFF0Hから実行が開始される特殊なリアルモードで始まる。この特殊な状態はCALL FAR, JMP FAR命令などでセグメントレジスタが更新されるまで続く。",
"title": "ディスクリプターキャッシュ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "80286システムはCPUアクセラレータ製品により、より上位のプロセッサが利用できる場合があった。その際、486相当の製品は起動後にソフトウエアでCPUキャッシュを有効にすることで高速化させる必要があった。80286システムは16ビットバスであるため、外部16ビットであるi386SXにピン互換のCyrix Cx486SLC登場後は、これを用いた80286用のCPUアクセラレータ製品が各社から登場した。特に日本で主流だったPC-9800シリーズおよびEPSON PC-286シリーズでは80286をソケット経由で実装した機種が多く、CPU交換が容易だった。結果的にV30や後のi386SXと比べてCPUのアップグレードパスに恵まれ、様々なバリエーションのCPUアクセラレータ製品を生んだ。",
"title": "CPUアクセラレータ"
}
]
| Intel 80286はインテルの16ビットマイクロプロセッサ (CPU)。IBMのPC/AT(日本ではPC-9800シリーズ)およびその互換機によって広く普及した、DOS時代の代表的なパーソナルコンピュータ (PC) 用プロセッサであった。 | {{Infobox CPU
| 名称 = 80286
| 画像 = KL Intel i286.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像の説明 = Intel 80286 (PGA)
| 生産開始 = 1982年
| 生産終了 =1991年
| 生産者 = [[Intel]], [[IBM]], [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]], [[:en:Harris Corporation|Harris]] ([[インターシル]]), [[シーメンス]], [[富士通]]
| 最低周波数 = 5
| 最高周波数 = 25
| 最低周波数単位 = MHz
| 最高周波数単位 = MHz
| 命令セット = [[x86]] (16ビット)
| パッケージ = 68ピン [[PLCC]]・LCC・[[パッケージ (電子部品)#PGA .28Pin Grid Array.29|PGA]]
|前世代プロセッサ=[[Intel 80188]]|FSB最低周波数=5|FSB最低単位=MHz|FSB最高周波数=25|FSB最高単位=MHz|最小プロセスルール=1.5 µm|トランジスタ=134000|コプロセッサ=[[Intel 80287]]|次世代プロセッサ=[[Intel 80386]]}}
[[ファイル:Intel 80286 68pin plastic 10mhz 2007 03 27.jpg|thumb|250px|right|Intel 80286 (PLCC)]]
'''Intel 80286'''(インテル はちまるにいはちろく)は[[インテル]]の[[16ビット]][[マイクロプロセッサ]] ([[CPU]])。[[IBM]]の[[PC/AT]](日本では[[PC-9800シリーズ]])およびその[[PC/AT互換機|互換機]]によって広く普及した、[[MS-DOS|DOS]]時代の代表的な[[パーソナルコンピュータ]] (PC) 用プロセッサであった。
== 概要 ==
[[1982年]][[2月1日]]に発表、[[1984年]]から6MHz版と8MHz版が出荷された。134,000個の[[トランジスタ]]を集積した1.5μmのNMOSプロセス(インテルの呼称だとHMOS-III)で製造され、性能を大幅に増加させるパイプラインを構成する4つの独立したユニット(アドレスユニット、バスユニット、命令ユニットと実行ユニット)を持っていた。クロック周波数は6、8、10、12MHz があった。[[パッケージ (電子部品)|パッケージ]]には68ピンPLCC、LCC、PGAがあった。
[[Intel 8086|8086]]と[[ソフトウェア]]の上位[[互換性]]を持ち、より高速に命令実行可能(同クロック8086比で約2.5倍)。また、物理[[記憶装置|メモリ]]空間が16MBに拡張され、1GBの[[仮想記憶]]や[[マルチタスク]]処理に対応している。
また、インテルはこのモデルまでは[[セカンドソース]]推進戦略を採用したため、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]、[[富士通]]、[[シーメンス]]、{{仮リンク|ハリス・コーポレーション|en|Harris Corporation}}(以降、ハリスと表記)からもセカンドソース品が供給された。特にAMDとハリスは、ライセンスが受けられない[[Intel 80386|80386]]に対抗するため、16、20MHz、ハリスは25MHz、といった、より高クロックの80286を市場に投入した。[[#その他|後述]]するようにDOSで動作させる限り、同一クロックの80386よりも高い実行速度が得られたからである。
インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manual<ref name="intel_doc_1">[https://archive.org/details/bitsavers_inteldataBrammersReferenceManual_32084049 iAPX 286 Programmer's Reference Manual including the iAPX 286 Numeric Supplement]</ref>では、CPUの80286と後述の[[#周辺LSI|周辺LSI]]の組み合わせがiAPX 286であるとしている<ref group="注">原文:iAPX 286 - 80286 CPU family <br>
Each processor family consists of the CPU(e.g., 80286), processor extensions(80287 for the iAPX 286), and bus support circuits, such as the 82284 Clock Generator and 82288 Bus Controller. </ref>。
== 対応ソフトウェア ==
[[Intel_8086|8086]]や[[Intel_80186|80186]]に対する上位互換性を持つ[[リアルモード]]に加えて、プロセスやメモリを保護する[[プロテクトモード]]を追加し、これをサポートする命令が追加された。また、[[マルチタスク]][[オペレーティングシステム]]を実装する際に必要な仕組みや命令群が拡張され、その後の32ビットCPUへ繋がる基礎ができあがった。4階層の特権レベル、仮想記憶機能、メモリ保護機能、TSS([[Task state segment]])を使用したタスクスイッチ機能などを持つ。
;[[IBM PC DOS|PC DOS]]および[[MS-DOS]]
:[[IBM]]が1984年にPC/XTの後継機種PC/ATを発表したとき、8086/8088とリアルモード互換性を持つ80286を採用した。しかし、プロテクトモードを活かして設計されたオペレーティングシステムは一般向けに普及しておらず、80286はもっぱら高速な8086としてPC-DOS (MS-DOS) 上で利用されることが多かった。
;[[DOS/V]]
:前述の通りPC/ATは80286機であるため、AT互換機用の日本語OSであるDOS/Vは80286以上のシステムが前提となっている。
;[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]
:Windows 3.0や英語版Windows 3.1において、いずれもスタンダードモードでは、80286のプロテクトモードが活用された。Windows 3.0の発売は、IBM PC/ATの発売から6年後の1990年であった。
:日本語版Windows 3.1以降<ref name="w31j_1">{{Cite book|和書|author=|title=Microsoft Windows Operating System Version 3.1 お使いになる前に|year=1993|publisher=Microsoft Corporation|page=2|id=KPN890076-9406}}</ref><ref name="w31j_2">{{Cite book|和書|title=日本語Microsoft WIndows バージョン 3.1 ライセンス情報|year=1993|publisher=[[日本アイ・ビー・エム]]|id=66G5342/D42865}}</ref><ref name="w31j_3">[http://121ware.com/support/product/data/spec/sft/sw122f-1.html NEC版Windows 3.1]</ref>、およびWindows for Workgroups 3.11以降<ref>[https://archive.li/5grVd Windows for Workgroups Version History]</ref>は80286には対応していない。
;[[OS/2|OS/2 1.x]]
:PC DOSおよびMS-DOS後継のプロテクトモード用オペレーティングシステムとして[[IBM]]と[[マイクロソフト]]が共同開発したが、パソコン用OSのひとつとしての地位を獲得するにとどまった。OS/2 1.0の発売は、IBM PC/ATの発売から3年後の1987年であった<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0111/hot464.htm OS/2の歩みを振り返る]</ref>。
:OS/2 2.0以降は80286には対応していない。
;[[XENIX]]
:マイクロソフトによって開発された[[UNIX]]である。
== リアルモードへの復帰 ==
80286で、DOSや[[Basic Input/Output System|BIOS]]の資産を継承しつつ、更に仮想記憶機能を生かすためにはリアルモードとプロテクトモードの間を往復することが必要だが、80286にはプロテクトモードからリアルモードへの復帰命令が無く、復帰にはCPUのリセット信号線を有効にするしかなかった。そのため、80286搭載機では特定のI/Oポートを操作することによりCPUのリセットパルスを発生させるハードウェアを持っており、ソフトウェアからCPUのみのリセットを行うことができた。BIOSの初期化プログラムの中で通常のハードウェアリセット(電源ONまたはリセットスイッチ押下)と前述のソフトウェアリセットを区別し、初期化方法を切り替えるという処理が必要だった。これら一連の処理はオーバーヘッドが大きいため、結果的に80286を用いたリアル/プロテクトモード間のスイッチングは非効率的なものとなった。
なお後継の80386以降では、両モード間を任意に往復できる機能や[[仮想86モード]]などを備えていた。
リアルモードへ戻るための方法はハードウェア独自のものとなっており、具体的な手順は以下のようにハードウェアによって異なる。
;IBM PC/AT<ref>[http://www.rcollins.org/articles/pmbasics/tspec_a1_doc.html Protected Mode Basics by Robert Collins]</ref><ref>トランジスタ技術 SPECIAL 特集 IBM PC & 80286のすべて ISBN 4-7898-3182-5</ref>
:80286を搭載したIBM [[PC/AT]]ではキーボードコントローラのI/Oにリセット機能が搭載されていた。これはI/Oポート64hにあり、通例はFEhを書き込みそのbit0を0にすることでリセット動作となる。これに先立ち当該プログラムはリセット後に処理を再開するアドレスCS:IPをBIOS Data Areaの0040:0067hに保存する。それ以外のスタックの位置(SS:SP)などプログラムの動作継続に必要な情報は当該プログラム自身のデータ領域などに保存する。次にリセット後の動作を決めるシャットダウンコードを[[リアルタイムクロック|RTC]]用 不揮発性CMOSメモリのオフセット0FhにI/Oポート70h, 71hを使用して書き込む。5を書き込めばリアルモードへの復帰、0を書き込めば通常の電源ON、またはリセットスイッチ押下である。プロテクトモードから戻るとBIOSはBIOS Data Areaに保存したアドレスから当該プログラムの実行を再開させる。当該プログラムはあらかじめ保存しておいたスタックの位置などの情報を戻す。
;NEC PC-9800シリーズ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webtech.co.jp/company/doc/undocumented_mem/io_syste.txt|title=システムポート|publisher=[[ウェブテクノロジ]]|format=プレーンテキスト|accessdate=2018-01-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webtech.co.jp/company/doc/undocumented_mem/memsys.txt|title=BIOSが使用するシステム共通域|publisher=[[ウェブテクノロジ]]|format=プレーンテキスト|accessdate=2018-01-06}}</ref><ref name="webtech_doc_1">{{Cite web|和書|url=http://www.webtech.co.jp/company/doc/undocumented_mem/io_cpu.txt|title=CPU,CPU周辺が使用するI/O|publisher=[[ウェブテクノロジ]]|format=プレーンテキスト|accessdate=2018-01-06}}</ref>
:[[PC-9800シリーズ]]では1986年に登場したPC-9801VX<ref>[http://121ware.com/support/product/data/spec/cpu/b186-1.html PC-9801VX]</ref>に80286とV30の両方が搭載され、このとき80286とV30を切り替えるためのリセット用I/Oポートが設けられている。該当機ではI/O 00F0hに0を出力することでCPUがV30に切り替わらずにリセットされるが、これに先立ちリセット後に処理を続行するか再起動するかを事前に設定しておく必要がある<!-- (未設定のままCPUリセットを行うとエラーとなりシステムが停止してしまう可能性がある。) -->。この設定はI/O 0035hのbit5,7にあり、再起動の場合は両方のbitを1に、処理続行の場合はbit7を0に設定する<ref group="注">通常この操作はI/O 0037hのコントロールポートを介して行う。I/O 0037hに0Ahを書き込めばI/O 0035hのbit5が0に、0Bhを書き込めば1になる。同様に0Eh・0Fhを書き込めばI/O 0035hのbit7がそれぞれ0・1に設定される。</ref>。処理を続行する場合は事前に戻りアドレスとなるCS:IPをスタックに保存(<code>PUSH</code>)したうえで、そのスタックの位置(SS:SP)をメモリアドレス0000:0404から0407までの4バイトに保存しておく必要がある。
== HMAの活用 ==
上記の通り80286はリアルモードとプロテクトモードを備えており、起動直後やMS-DOSでは基本的に8086や80186と互換性の高いリアルモードで動作する。
8086では1MiB(000000H - 0FFFFFH)のメモリ空間を持つが、本来16ビットのレジスタでは64KBまでのアドレス(00000H - 0FFFFH)しか表現できない。そこで16ビットレジスタを2つ用意し、まず1MB中のメモリ空間からアドレスの「原点」を10Hバイト単位で大雑把に指定し、もう1つのレジスタでそこから上位の64KBまでをアクセスできるようにしていた。したがって「原点」を示すセグメントレジスタを最大の0FFFFHに設定すれば、0FFFF0Hからさらに上位の64KBすなわち1MBを超える10FFEFHまでアドレスを表現できることになる。しかし8086ではアドレス線がA0 - A19の20本しか用意されていないため100000H - 10FFEFHのアドレスにはアクセスできず、桁あふれした部分は000000H - 0FFEFHにラップアラウンドしてアクセスすることになる。
80286ではこのようなラップアラウンドは起こらないため、インテル社のiAPX 286 Programmer's Reference Manual<ref name="intel_doc_1"/>では「もしリアルモードのプログラムがアドレス空間のラップアラウンドに依存している場合(例えばFFF0:0400 = 0000:0300)、上位アドレス4ビットをゼロにするために外部ハードウェアを使用すべきである」としている<ref group="注">原文:If any real-mode program relies on address space wrap-around (e.g. FFF0:0400 = 0000:0300), then external hardware should be used to force the upper 4 addresses to zero during real mode. </ref>。
アドレス線を24本持つ80286を採用したシステム(PC/ATなど)では、ラップアラウンドを前提で作られたソフトウェアとの互換性を維持しつつ100000H以上のメモリにもアクセスできるように、21本目のアドレス線 (A20) の無効/有効を切り替えるハードウェアを持っていた。特定のI/Oポート(PC/ATではキーボードコントローラ)からA20を有効にするとリアルモードのままでも64Kバイト程度の上位メモリを参照することが可能になり、[[XMS#HMA|HMA]]と呼ばれた。
HMAは64Kバイト程度であるが640Kバイトの約10%にも相当し、メモリ枯渇に苦しむDOSユーザーにわずかな救いとなった。80386以降のプロセッサでもHMAは使用できる。
キャッシュを内蔵した[[Intel486|80486]]以降のCPUではA20を無効にする機能を内蔵し、CPUにA20M#というピンを追加した<ref name="intel_doc_2">[https://software.intel.com/en-us/articles/intel-sdm Intel 64 and IA-32 Architectures Software Developer Manuals]</ref>。これは外部ハードウェアでA20を無効にしても80486がキャッシュに保存されたHMAにアクセスしてしまうためである。このA20M#を制御するのは、PC/ATではキーボードコントローラで変化していない。
なお、80286は16Mバイトの後ろの約64Kバイトにアクセスした場合、先頭の000000H番地にラップアラウンドにするが80386ではこのラップアラウンドは起こらない。このことが問題になる場合は、80386のページング機能を使用して16Mバイトの後ろの64Kバイトの領域を先頭の000000Hにマッピングすることで回避できる<ref>80386システムプログラム 吉田俊郎著 オーム社 p104 {{ISBN2|4-274-07544-3}}</ref>。
== 80286の判別 ==
80286には<code>[[CPUID]]</code>命令は無く、インテルは[[ステータスレジスタ|フラグレジスタ]]を使ったCPUの判別方法を紹介している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.intel.co.jp/content/dam/www/public/ijkk/jp/ja/documents/developer/Processor_Identification_071405_i.pdf|title=インテル(R) プロセッサの識別とCPUID命令|publisher=インテル|format=PDF|accessdate=2017-12-05|language=英語}}<!-- ←本文は日本語ですが、286の判断方法についてはサンプルソース中の英語コメントで記載されています。--></ref>。
<code>PUSHF</code>/<code>POPF</code>命令で読み書きできる16ビット分のフラグのうち、上位4ビットは8086世代(V30<ref group="注">厳密には、8086/80186のフラグレジスタで未使用だった予約ビットの一部がV30では8080エミュレーションで使われるが、x86として動作している限りは8086/80186互換の挙動となる。</ref>、80186などを含む)では使われていない予約ビットとなっていた。実際はその部分が1111bとして読み出せたものの、変更はできなかった。80286ではこの部分がプロテクトモードで使われるようになったため、リアルモードではゼロクリアされた状態になった。さらに仮想86モードを持つ80386からはリアルモードにおいてもこのビットが変更可能な仕様になっている。すなわちリアルモードの時点 (BIOSやMS-DOS) において、フラグレジスタのbit15-12が1111bから変更できなければ8086世代、0000bから変更できなければ80286、そのどちらでもない、つまり一部でも変更可能であれば80386以降と判断できる。
== 追加命令一覧 ==
8086から使用できる基本命令セットに加え、以下の命令セットが追加された。
=== 一般命令 ===
80286で新たに追加された命令のうち11個の拡張命令セットは、後に発表された80186にも採用され、共通で使用できた。このほか既存の命令では<code>IMUL</code>と<code>PUSH</code>に即値(イミディエイト)が指定できるようになり、シフト・ローテイト命令ではCLレジスタを介さずに 1 以外の値を直接指定できるようになった。これらは80186でも同様である。
{{Main|Intel 80186}}
=== システム命令 ===
80286で追加されたシステム制御/プロセッサ制御の命令はいずれもプロテクトモードないしは80287関連の命令である。このほか既存命令としてはI/O(入出力)命令の類もシステム制御に使われる命令であり、プロテクトモードでは特権命令の扱いになった。HLTも特権レベルに依存するシステム命令となった。
SGDT, SIDT, SLDT, STR, SMSWは特権命令ではなく、アプリケーションプログラムからも実行可能である。このことは30年以上続いている。インテルは、CPUIDでUMIP(User-Mode Instruction Prevention)ビットがセットされているCPUではこれらの命令を特権命令にする機能を持つとしている<ref name="intel_doc_2"/>。
LGDT … Load Global Descriptor Table Register
SGDT … Store Global Descriptor Table Register
LIDT … Load Interrupt Descriptor Table Register
SIDT … Store Interrupt Descriptor Table Register
LLDT … Load Local Descriptor Table Register
SLDT … Store Local Descriptor Table Register
LAR … Load Access Right
LSL … Load Segment Limit
ARPL … Adjust Requested Privilege Level
VERR … Verify Read Access
VERW … Verify Write Access
LTR … Load Task Register
STR … Store Task Register
CLTS … Clear Task Switched Flag
LMSW … Load Machine Status Word
SMSW … Store Machine Status Word
=== 廃止された命令 ===
80286ではPOP CS命令(オペコード 0F)は廃止された。80186/V30も同様である。このオペコードは、80286以降、拡張命令のプリフィックスとして使用された。80286で使われている0Fプリフィックスは、上記のシステム命令のうち、ARPL以外の15命令が該当する<ref group="注">特に80386以降では、条件ジャンプでnearジャンプ(-32768から+32767までの相対アドレス指定)を行うときのプリフィックスにも使われるようになった。80286およびそれ以前の条件ジャンプ命令はshortジャンプ(-128から+127までの相対アドレス指定)しか使えない。</ref>。
=== 非公開命令 ===
80286の非公開命令である[[LOADALL]]を使用するとリアルモードのままで、プロテクトメモリを含む16Mバイトのメモリにアクセス可能となる。
=== 既存命令の仕様変更 ===
80286はリアルモードにおいて8086や80186と高い互換性を持つものの、完全に等価というわけではない。異なる点としては、80286以降では<code>PUSH SP</code>命令の挙動が変更されている<ref group="注">8086のPUSH SP命令でスタックポインタSPを退避させる場合、SPから2が減算された後のSP値が記録される。例えば、PUSH SPのあとPOP AXを実行するとAXにはSP-2がロードされる。80286以降ではPUSH SPの際に減算される前の元のSP値を退避するようになった。この挙動の違いはプログラムが8086で実行されているのか、80286で実行されているのかを判別することに使用できる。</ref><ref>{{Cite journal|author=Jeff Prosise|year=1990|title=Tutor: Distinguishing among CPUs|url=https://books.google.co.jp/books?id=ofXGcGVTvoEC&lpg=PT433&pg=PT433|journal=PC Mag|volume=9|issue=13|page=426|accessdate=2016-11-20}}</ref>。また既存命令の組み合わせであっても、プロテクトモード上では挙動の異なる場合がある<ref group="注">80286ではフラグレジスタの使われていなかった予約ビットのいくつかに新たな意味を持たせており、その値によって一部の既存命令の挙動に影響が出る。例えば既存の<code>POPF</code>命令はプロテクトモードにおいてIO特権レベルを示すIOPLフラグが変更できるようになっており、これによって既存の命令のうち特権レベルに依存するようになった命令(I/Oや、割り込みフラグの制御命令)が影響を受ける。また他のタスクから呼び出されたプログラムではそのためのNTフラグが立っており、<code>IRET</code>の動作に影響する。</ref>。
このほか変更点として、シフト・ローテイト命令で指定できるCLレジスタの値や即値が31以下に限定されるようになった。指定できる値は8ビットだが、実際には下位5ビット分しか使われない。この変更は80186も同様だが、V30では適用されておらず、8086相当の挙動となる。例えばシフト命令で31(16進数で0x1F)を超える値を指定した場合、8086やV30では演算結果が必ずゼロになるが、80186/286以降では32で割った余剰の分だけシフト演算される。
8086ではFPU命令の実行中は<code>WAIT</code>命令でCPUを止めておく必要があったが、80186以降ではその必要が無くなった。また、<code>LOCK</code>命令はもともとあらゆる命令においてバスをロックできる仕様だったが、80286以降ではロックできる命令とできない命令が決められている。
== 新しいレジスタ ==
=== システムレジスタ ===
GDTR (Global Descriptor Table Regsister)
IDTR (Interrupt Descriptor Table Regsister)
LDTR (Local Descriptor Table Regsister)
TR (Task Register)
=== フラグレジスタ ===
16bitあるフラグレジスタのうち、bit0からbit11までの12ビットは8086と同様のものが用意されている。前述の通り80186以前では上位4ビットが使われていなかったが、80286ではマルチタスクOSを想定した新たなフラグが追加されている。
;IOPL (IO privilege level) フラグ
:bit12・13を用いる2ビット分のフラグで、0から3までのフラグ状態を持ち、いわゆる[[CPUモード|IO特権レベル]]を表す。通常は<code>POPF</code>命令でなければ変更できない。
;NT (Nested task) フラグ
:bit14。裏のタスクが有効であることを示すフラグ。割り込みなどで呼び出された場合に1となり、これにより<code>IRET</code>命令でのリターン処理の動作が変わる。
なおbit15は予約ビットになっており、80286では不定(80386以降は0)とされている<ref group="注">V30ではbit15が「エミュレーションモード・フラグ」に割り当てられており、8080エミュレーション機能に関係する。</ref>。
=== MSW ===
80286ではMSW (Machine status word) レジスタが追加された。MSWを読み書きする<code>LMSW</code>、<code>SMSW</code>という専用の命令が用意されている。MSWは16bit分あるが、80286で定義されているのは下位4ビット分だけである。80386以降では新たに設けられたコントロールレジスタに統合され、CR0レジスタの下位16ビットが該当するが、互換性のためMSWとしてもアクセスできる。
;PE (Protection enable)
:MSWのbit0。プロテクトモードであることを表す。このbitをセットすることでプロテクトモードになる。
;MP (Math present)
:MSWのbit1。[[FPU]]が存在する場合にセットされる。
;EM (Emulate math coprocessor)
:MSWのbit2。このビットがセットされているとFPUが無い扱いになる。
;TS (Task switched)
:MSWのbit3。タスク切り替え時にセットされる。
== 割り込み ==
8086では割り込みは、割り込み4まで定義されており、80286では割り込み5以降が追加された。割り込み5から31まではインテル予約済みであったが、IBM PCでは割り込み8から15までを8259A経由の外部割込みに割り当てていた{{Refnest|group="注"|PC-9801では初代機から2個目の8259Aをカスケード接続して入力を15本に拡張しており、割り込み8から23までの外部割り込みが定義されていた<ref>東工大電算機愛好会&小高輝真、「98ハードに強くなる本II」 (1988)、pp.25-30。</ref>。}}。プロテクトモードのOS/2などは8259Aの割り込み番号を別の値に変更する<ref>[http://www.ctyme.com/intr/int-50.htm Int 50 - IRQ0 relocated by OS/2 v1.x]</ref>。
*割り込み0:除算エラー
:除算命令(DIV, IDIV)で0で割ろうとした場合や商が大きすぎてレジスタに収まらない場合に発生する。
*割り込み1:シングルステップ割り込み
*割り込み2:NMI(マスク不可能割り込み)
*割り込み3:ブレークポイント割り込み
*割り込み4:INTOオーバーフロー
*割り込み5:バウンドチェック
:BOUND命令に指定されたオペランドが、配列の範囲外に出ていると発生する。
*割り込み6:無効オペコード
*割り込み7:コプロセッサ不在
:タスクスイッチ後、または、80287が装着されていないときに80287の命令を実行すると発生する。
*割り込み8:ダブルフォルト
:例外を処理しているときにさらに別の例外が発生し処理できなくなったときに発生する。
*割り込み9:コプロセッサ・セグメント・オーバーラン
*割り込み10:無効タスク・ステート・セグメント
*割り込み11:セグメント不在
:メモリ上に無いスワップアウトされたセグメントにアクセスした場合に発生する。この割り込みは80286のプロテクトモードで仮想記憶のために使用される。
*割り込み12:スタック・フォルト
*割り込み13:一般保護例外
:80286のリアルモードでは、オフセットFFFFにあるワードオペランドをアクセスしたり、オフセットFFFFから複数バイトの命令を実行しようとすると発生する。8086ではオフセット0にラップアラウンドし例外は発生しない。80286のプロテクトモードでは、データセグメント内の命令の実行、コードセグメント内のデータの書き替え、現在の特権レベルより高い特権レベルのセグメントへのアクセスなどでも一般保護例外が発生する。
*割り込み14 - 15:インテル予約済み
*割り込み16:コプロセッサ・エラー
:IBM PC/ATでは80287のERROR#ピンを80286に直結せず、割り込みコントローラ8259Aに接続する設計とした。コプロセッサ(FPU)を内蔵した80486以降のCPUではIBM PC/ATとの互換性を維持するためにCPUにFERR#, IGNNE#というピンを追加したが、CR0レジスタのNEビットを1にすると8259A経由ではなく本来の割り込み16でコプロセッサのエラーを通知する<ref name="intel_doc_2"/>。
*割り込み17 - 31:インテル予約済み
== ディスクリプターキャッシュ ==
80286ではセグメントレジスタには可視部とディスクリプターキャッシュ部があり、プログラムから直接 ディスクリプターキャッシュ部の変更はできない。プロテクトモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、グローバルディスクリプターテーブル、またはローカルディスクリプターテーブルからディスクリプターキャッシュ部にアクセス権、ベースアドレス、セグメントリミットが読み込まれ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。
リアルモードでは、セグメントレジスタの値の変更時に、セグメントレジスタの内容が16倍されたものがディスクリプターキャッシュ部のベースアドレスにロードされ、実際のメモリアクセスはディスクプターキャッシュ部が使われる。このためリアルモードからプロテクトモードに移行した直後、セグメントレジスタの値がプロテクトモードでは不正な値でもハングアップや例外は発生しない。
また、80286は電源ONまたはリセット後、コードセグメントのディスクリプタキャッシュ部は、ベースアドレスがFF0000Hに設定され、IPはFFF0に設定されるので、FFFFF0Hから実行が開始される特殊なリアルモードで始まる。この特殊な状態はCALL FAR, JMP FAR命令などでセグメントレジスタが更新されるまで続く。
{| class="wikitable"
|-
! colspan="1" |可視部
! colspan="3" |ディスクリプターキャッシュ部
|-
| colspan="1" | セグメントレジスタ
| colspan="1" | ベースアドレス(24ビット)
| colspan="1" | アクセス権(8ビット)
| colspan="1" | セグメントリミット(16ビット)
|}
== 周辺LSI ==
*[[Intel 80287|80287 NPX]]
:80286用の[[数値演算コプロセッサ]]。8086用のコプロセッサである8087と異なりI/Oポート (00F8H - 00FDH) を用いてデータや命令のやり取りを行う。パッケージは40ピン[[パッケージ (電子部品)#DIP (Dual Inline Package)|DIP]]である。
* 82284 クロック生成器
* 82288 バスコントローラ
* 82289 バス調停器
* 8259A 割り込みコントローラ
== CPUアクセラレータ ==
80286システムはCPUアクセラレータ製品により、より上位のプロセッサが利用できる場合があった。その際、486相当の製品は起動後にソフトウエアでCPUキャッシュを有効にすることで高速化させる必要があった<ref group="注">80286システムを486互換CPUに換えても起動時はCPUキャッシュが有効になっていない。一般にCPUはメモリに頻繁にアクセスしながら動作するため、CPUキャッシュが無効でメモリアクセスがまったく高速化していない状態ではCPU内部倍率に関係無くほとんど処理速度は向上しない。</ref>。80286システムは16ビットバスであるため、外部16ビットであるi386SXにピン互換の[[Cyrix Cx486SLC]]登場後は、これを用いた80286用のCPUアクセラレータ製品が各社から登場した。特に日本で主流だった[[PC-9800シリーズ]]および[[EPSON PCシリーズ|EPSON PC-286シリーズ]]{{Refnest|group="注"|EPSON PC-286シリーズの場合はロットによってCPUソケット形状が [[w:Chip carrier#Leadless|CLCC(セラミック・リードレス・チップ・キャリア)]]という特殊なものが混在しており、その場合は半田ごてを用いるか、業者に依頼してCPUソケットを交換する必要があった<ref name="softbank" />。}}では80286をソケット経由で実装した機種が多く、CPU交換が容易だった。結果的に[[NEC Vシリーズ|V30]]<ref group="注">[[Intel 8086|8086]]世代のx86CPUはNECのピン互換CPU V20やV30と交換することでCPU性能を向上できたことが知られるが、V30用としては主に拡張スロットに増設するタイプのCPUアクセラレータが製品が少数知られていた程度で、CPUを置き換えるタイプのCPUアクセラレータ製品が本格的に出回るようになったのは80286以降のプラットフォームからである。これは8086/V30はアドレスとデータを時分割で入出力していたり、8086/V30用の周辺チップとの接続性が良くなかったりなど、それ以降のCPUと単純に置き換えるには不向きだったこともある</ref>や後のi386SX<ref group="注">廉価版プロセッサであるi386SXではCPUソケットが省略されており、基本的に基板直付けとなっていた。CPUアクセラレータを動作させるには外部からCPUを無効にできる機能が必須であり、これに対応したi386SXはロットが限られていた。</ref>と比べてCPUのアップグレードパスに恵まれ、様々なバリエーションのCPUアクセラレータ製品を生んだ<ref name="softbank">「PC-98パワーアップ道場」 ソフトバンククリエイティブ ISBN 9784797305777</ref>。
* ABM 486GT-Xは前述のような486互換プロセッサを80286ピン互換のワンチップサイズに封入したもので、CPUアクセラレータと言うより80286ピン互換CPUに近いものだった。
* CPUアクセラレータ基板上で[[Cyrix Cx486DLC]]のような外部32ビットプロセッサを動かす製品も存在した。
* [[バッファロー (パソコン周辺機器)|メルコ]]はシステムバスのクロックに関係無く独立クロック動作する製品も出していた。<!-- また同社は当時の技術が後のクロックマルチプライヤ技術の元となったとしている<ref>例えば{{cite web|url=http://buffalo.jp/products/catalog/item/h/hk6-md550p-nv4/index.html|title=HK6-MD550P-NV4|publisher=buffalo|accessdate=2010-12-13}}</ref>。 -->
* 最終的にメルコや[[アイ・オー・データ機器]]から発売されていた[[Intel 80386#IBM 486SLC2|IBM 486SLC2]]を用いた80286向け製品では最大4倍速(約50MHz)で動作した<ref>[http://www.iodata.co.jp/products/cpu/pkx486s.htm PK-X486S50-L]</ref>。 <!-- 特に後者は1999年ごろまでカタログに載る、息の長い製品となった(少なくともIOデータ1999年3月号のカタログでは確認)-->
;数値演算プロセッサ
:多くの80286用CPUアクセラレータはその基板上に[[Intel 80387|80387]]のソケットもしくはその互換チップを直付けしており、386/486互換CPU換装時に80387相当の数値演算機能が利用できるようになっていた<ref>[https://web.archive.org/web/19970715063103/http://www.melcoinc.co.jp:80/product/cpu386.html 別売の数値演算コプロセッサ HSC-40 ※このページは一部ブラウザでは文字化けする]</ref>。
;HIMEM.SYSの問題
:[[PC-9800シリーズ]]においては、80286のシステム<ref group="注">i386DXを搭載するPC-98XL<sup>2</sup>を含む</ref>とi386以上のシステム<ref group="注">PC-98XL<sup>2</sup>を除く</ref>ではA20ラインを制御するI/Oポートが異なり、前者にi386以上のプロセッサを載せた場合、そのシステムには後者にあるI/Oポート00F6hが無く<ref name="webtech_doc_1"/><ref group="注">I/Oポート00F2hで制御する。このポートはi386以上のシステムにもある</ref>、MS-DOS付属のメモリマネージャ(HIMEM.SYS)がA20ラインを正常にコントロールできない旨の警告を出す問題が知られている。その対策として、いくつかのCPUアクセラレータではCPUキャッシュドライバとは別に独自のメモリマネージャを添付、もしくは専用メモリマネージャにCPUキャッシュドライバを統合していた。<!-- しかしMS-DOS 5.00xに収録されたHIMEM.SYSは警告を出すだけで動作自体は特に問題が無かったため、メーカーによってはCPUキャッシュドライバだけ用意し、HIMEM.SYSはそのまま使って良いことになっていた。ただし6.20以降に収録されたHIMEM.SYSでは80286に正式に対応せず、このエラーを検出すると常駐自体をキャンセルするように仕様が変わっている。-->
;日本語版Windows 3.1への対応
:上記の通り、英語版Windows 3.1は80286プロテクトモードをサポートしたが<ref name="w31">[https://support.microsoft.com/en-us/kb/83210 Windows 3.1 Hardware Compatibility List - Microsoft]</ref>、マイクロソフト版やNEC版の日本語版Windows 3.1では80286をサポートしなかった<ref name="w31j_1"/><ref name="w31j_2"/><ref name="w31j_3"/>。CPUをi386以上にアップグレードした場合でもマザーボードが80286用であることをWindows 3.1のインストーラが感知してセットアップを中断してしまう場合があり、これを防止するために80286用CPUアクセラレータ製品のいくつかはWindows 3.1をインストールできるようにするためのツールが用意されていた<ref>[http://buffalo.jp/qa/2306.html HRX-C12Qキャッシュコントロールユーティリティ]</ref>。
:ただし80286システムはCPUを386以上に変えてもメモリまわりに制約が残るケースが多く、快適にWindowsを利用できるケースは限られていた。もともと80286全盛時代の機種にはプロテクトモード用の1MBを超えるアドレスのメモリ(プロテクトメモリ)に専用の高速スロットが無いか、あっても増設できる容量が少ないケースがあった。そのうえ本来のDOS用途ではプロテクトメモリを[[Expanded Memory Specification|EMS]]に転用すると80286機では効率が悪く低速になる<ref group="注">EMSのページフレームとプロテクトメモリとをCPUがデータをコピーする方式のため。この方式は特別なハードウェアを必要とせず「[[Expanded Memory Specification#ソフトウェアEMS|ソフトウェアEMS]]」と呼ばれる</ref>ことが知られていた<ref group="注">なおi386以上に換装していればDOS用途であっても専用プロテクトメモリで「[[Expanded Memory Specification#仮想86EMS|仮想EMS]]」を使用したほうが高速になる。[[Expanded Memory Specification#ソフトウェアEMS|80286と同じ方式]]を使用すると遅くなる</ref>。結果的に80286機ではWindows用途に向いた専用プロテクトメモリが普及せず、[[バンク切り替え#PC-9801におけるバンクメモリ|DOS用途のメモリ]]として[[Cバス|汎用拡張スロット]]用メモリが主に使われていた。その中にはプロテクトメモリに転用できるものもあったが、プロテクトメモリ用途としては専用スロットに増設するよりも低速であるため、メモリに負担をかけるWindows用途ではそれによる速度低下が顕著に現れた。
:なお[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]や[[Microsoft Windows 98|98]]はOS自体が早い段階で80286以下のマザーを感知して起動を止めてしまう仕様<ref group="注">メモリチェック時に設定されるワークエリアの値で機種を判別する。</ref>のため、事前にDOSを起動するなどしてCPU情報を再設定<ref group="注">例えば前述のWindows 3.1をインストールできるようにするためのツールを利用するなど。</ref>したうえで高速再起動ツールなどでその「早い段階」をパスできるように工面するか、もしくはOSの起動プログラム<ref group="注">具体的には[[IO.SYS]]。</ref>を改造して機種判別ルーチンをつぶさない限り、たとえCPUを換えても80286マザー上でWindows 95を動かすことはできない。
== 脚注 ==
'''注釈'''
<references group="注" />
'''出典'''
<references />
== 参考文献 ==
* インテルジャパン、CQ出版社 1984 80286プログラマーズ・リファレンス・マニュアル ISBN 4-87185-605-4
* 大貫広幸、田中恵介、蓑原隆「80286ハンドブック」アスキー出版局(1985年)。ISBN 4871481832
* 成田佳應「80x86/x87 ハンドブック」ナツメ社(1995年)。ISBN 9784816318344
* Robert L.Hummel著 槌田浩一訳 80x86/80x87ファミリー・テクニカルハンドブック 技術評論社 ISBN 4-87408-588-1
== 関連項目 ==
*[[Intel 8086]]
*[[Intel 80186]]
*[[Intel 80386]]
*[[OS/2]]
*[[Am80286]]
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/Intel_80286 |
1,541 | 日本DNAデータバンク | 日本DNAデータバンク(英:DNA Data Bank of Japan、略称:DDBJ)は、日本の国立遺伝学研究所(静岡県三島市)が作成しているDNAの塩基配列の配列データベースである。
DDBJはInternational Nucleotide Sequence Database Collaboration (INSDC)のメンバである。アメリカ合衆国のNCBIが提供するGenBank、および、ヨーロッパのEBIが提供するEMBLとの密接な連携のもと、「DDBJ/EMBL/GenBank 国際塩基配列データベース」を構築している三大国際 DNAデータバンクのひとつである。
データはすべて無料で公開されており、データベースの検索は、テキスト全文検索や生物名や各項目に対象を分けてできる検索などのkey wordによる検索の他、BLASTによるDNA配列やアミノ酸配列に対する相同性検索が可能である。また、ClustalWによる系統樹の計算と作成ができるサービスも行っている。 近年は、同じ情報・システム整備のライフサイエンス統合データベースセンター(DBCLS)と連携してサービスを提供している。
DDBJを運営する生命情報・DDBJ 研究センターは、国立遺伝学研究所の教授、准教授、助教、アノテーターからなる。主要な構成員は以下の通り。 | [
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| 日本DNAデータバンク(英:DNA Data Bank of Japan、略称:DDBJ)は、日本の国立遺伝学研究所(静岡県三島市)が作成しているDNAの塩基配列の配列データベースである。 | '''日本DNAデータバンク'''(英:DNA Data Bank of Japan、略称:'''DDBJ''')は、[[日本]]の[[国立遺伝学研究所]]([[静岡県]][[三島市]])が作成している[[デオキシリボ核酸|DNA]]の[[塩基配列]]の[[配列データベース]]である。
== 概要 ==
DDBJは[http://www.insdc.org/ International Nucleotide Sequence Database Collaboration (INSDC)]のメンバである。アメリカ合衆国の[[NCBI]]が提供する[[GenBank]]、および、ヨーロッパの[[欧州バイオインフォマティクス研究所|EBI]]が提供する[[EMBL]]との密接な連携のもと、「DDBJ/EMBL/GenBank 国際塩基配列データベース」を構築している三大国際 [[デオキシリボ核酸|DNA]]データバンクのひとつである。
データはすべて無料で公開されており、データベースの検索は、テキスト全文検索や生物名や各項目に対象を分けてできる検索などのkey wordによる検索の他、[[BLAST]]による[[塩基配列|DNA配列]]や[[アミノ酸]]配列に対する[[相同|相同性]]検索が可能である。また、[[Clustal|ClustalW]]による[[系統樹]]の計算と作成ができるサービスも行っている。
近年は、同じ情報・システム整備のライフサイエンス統合データベースセンター(DBCLS)と連携してサービスを提供している。
== 構成員 ==
DDBJを運営する'''生命情報・DDBJ 研究センター'''は、国立遺伝学研究所の教授、准教授、助教、アノテーターからなる。主要な構成員は以下の通り。
* 生命情報・DDBJ 研究センター センター長
*:[[大久保公策]] 教授 (ライフサイエンス統合データベースセンター ([[DBCLS]]) 兼務)
* 日本DNAデータバンク
*:[[高木利久]] 教授
*:[[中村保一]] 教授
== 外部リンク ==
* [https://www.ddbj.nig.ac.jp/index.html DDBJ Homepage] - DDBJの公式サイト
* [https://www.rois.ac.jp/ 情報・システム研究機構] 国立遺伝学研究所の親組織
* [https://dbcls.rois.ac.jp/ ライフサイエンス統合データベースセンター(DBCLS)] ライフサイエンス分野におけるデータベース統合化の拠点
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[[Category:バイオインフォマティクス]]
[[Category:生物医学データベース]]
[[Category:分子生物学]] | null | 2020-09-22T11:38:05Z | false | false | false | []
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%ACDNA%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF |
1,542 | Mac (コンピュータ) | Mac(マック)またはMacintosh(マッキントッシュ)は、Appleが開発および販売を行っているパーソナルコンピュータである。
Macintoshは、Appleの創業者の一人、スティーブ・ジョブズの陣頭指揮のもとに開発された。ジョブズの思想や夢、感性が設計思想に盛り込まれ、直感的で視覚的な操作インタフェース、画面に表示される文字フォントの細やかさや美しさ、画面と印刷物に表示される図像の精度(特にWYSIWYGの実現)、筺体の美しさなどが重視されている(#歴史)。
このような特徴から、MacintoshはDTPの道を切り開き一般化させた。そのうえで、各時代のデザイン関連の先端のソフトウェアを動かせる(かつては唯一の)プラットフォームとなった。現在でもグラフィックデザイン、イラストレーション、Webデザイン、書籍・雑誌などの組版業務で主流のプラットフォームである。
当初から、コンテンツ制作に有用なプラットフォームとして評価されている。デザインや組版に限らず、広く「表現」にかかわるアーティストの多くがプラットフォームにMacintoshを使用し高く評価した。それにより、音楽(デジタルミュージック、DAW)、映像(ノンリニア編集、VFX)等でも使われ続けている。また、個人のクリエイターだけでなく、Web系のIT企業でもコンテンツを作成する作業が多いため、多く採用されている。
21世紀には技術的な分野でも有用なプラットフォームとなっている。2001年にリリースされたMac OS X以降、Macに搭載されているオペレーティングシステム (OS) は、公式なライセンスを受けた正統派のUNIXである。正統派UNIXであることにより、入手しやすい市販のコンピュータでありながら、UNIX・Linux系のソフトウェアが問題なく利用できるプラットフォームとして重宝されている。理学、工学などの科学・エンジニアリングの分野や、物理学、天体物理学などの研究室で世界的に採用されている。アメリカ合衆国では初等教育から高等教育などでも広く採用されている。
1970年代後半にMacintoshプロジェクトは始まった。1978年にAppleに入社したジェフ・ラスキンは、「使いやすく、安価で、一般の消費者が手に入れられるコンピュータを作りたい」というアイデアを持っていた。1979年3月、Apple Computerの3人の創業者の1人であるマイク・マークラにアイデアを提示した。1979年9月、後者から許可を得て、数人を雇用してApple社内に開発チームを立ち上げた。このプロジェクトは、ラスキンの好きなリンゴであるマッキントッシュ(McIntosh)にちなんで「Macintosh」と名付けられた。しかし、法律上の理由から、Hi-Fi機器のメーカーであるマッキントッシュ・ラボ(McIntosh Laboratory)に近すぎるため、名前の綴りを変更しなければならなかった。ラスキンは、このコンピュータのために考えたすべてのアイデアを『The Book of Macintosh』という本にまとめた。試作機を作る技術者を探していたラスキンは、Apple Lisaプロジェクトのビル・アトキンソンの推薦で、Apple IIのメンテナンス部門に属していたバレル・スミスを採用した。ラスキンは、Macintoshの成功の決め手となった2つの要素、Motorola 68000マイクロプロセッサとマウスの使用に反対した。ラスキンの「Macintosh」の設計案は、現在知られる「Macintosh」とは、基本的なコンセプトが大きく異なっており、テキストベースのインターフェースを持つマシン(ラスキンがApple退社後に開発したキヤノン・キャットに似たマシン)として構想されていた。ラスキンの思い描いていたコンピュータというのは低価格指向で、価格は1000ドル以下を想定し、それを実現するためにCPUは64キビオクテット以上のアドレスを指定できないMC6809(8ビットCPU)で済ませ、5インチディスプレイを備えたもので、インタフェースに関しても、テキストベースでありグラフィカルインターフェースを備えないもので、その後ジョブズが指揮をとり発売されることになったMacintoshとは別物である。Apple Lisaのプログラムの進化に興味を持ったMacintosh開発チームの責任者バド・トリブルは、バレル・スミスにLisaのMC68000をMacintoshに搭載しながら、できるだけコストを抑えてみる提案をした。スミスは1980年12月、MC68000の周波数を5メガヘルツ(MHz)から8メガヘルツ(MHz)に上げながら、MC68000を内蔵する回路基板を設計して、この挑戦に挑んだ。この回路では、RAMチップの数が少なくて済むため、価格も安くなった。1984年に発売された最終モデルは、64キロバイトの読み出し専用メモリと、64キロビットのチップを16個組み合わせた128キロバイトのRAMを搭載している。9インチの画面はモノクロで、512×342ピクセルを表示する仕様になっていた。
1980年末、当時Apple Computerの最高経営責任者(CEO)だったマイケル・スコットは、会社のリストラを進め、創業者の1人であるスティーブ・ジョブズはLisaプロジェクトからの離脱を余儀なくされる。1980年12月12日の株式公開に向けて、スコットから代表として派遣されたが、経営者としての説得力はなかった。そこで、ジェフ・ラスキンのMacintoshプロジェクトに目を向けた。ジョブズは、Lisaプロジェクトから除外されたことへの復讐だと考えていた。ジョブズとラスキンは何度か対立しており、ラスキンはマウスを欲しがらず、逆にジョブズはマウスのないMacintoshを見たくないということで、マウスは意見が分かれた。スティーブ・ジョブズはこの対決で勝利を収めた。というのも、MacintoshはLisaで使われていたマウスとともにAppleから発売されたのである。このような度重なる対立と2人のキャラクタの大きなエゴにより、1984年1月のMacintoshの正式発売の約2年前の1982年3月1日、ジェフ・ラスキンはMacintoshプロジェクトとApple Computerから正式に離脱した。アンディ・ハーツフェルドによると、現在世間で知られているMacintosh 128Kは、ジェフ・ラスキンが『The Book of Macintosh』の中で想像していたコンピュータとはほとんど関係がないという。また、スティーブ・キャップスとの共著『Revolution in The Valley: The Insanely Great Story of How the Mac Was Made』では、スティーブ・ジョブズがジャン=ミシェル・フォロンを雇って、ブランドを代表するキャラクター「Mr. Macintosh」を作りたいと考えていたと述べている。
1982年、レジス・マッケンナはMacintoshのマーケティングと発売のために招聘された。その後、レジス・マッケンナのチームには、ジェーン・アンダーソン、ケイティ・キャディガン、アンディ・カニンガムが加わり、最終的にはAppleを率いていた。カニンガムとアンダーソンは、Macintoshの主要な発売計画作者であった。Mactintoshの発売は、「マルチプルエクスクルーシブ」、イベントマーケティング(ペプシからコンセプトを持ち込んだジョン・スカリー氏による)、製品の神秘性の演出、製品の制作過程の紹介など、今日のテクノロジー製品の発売に用いられるさまざまな戦術の先駆けとなった。
Lisaの発表後、1983年2月にジョン・ドボルザークがAppleで謎の「MacIntosh」プロジェクトがあるという噂を取り上げた。1983年10月にはカリフォルニア州フリーモントにあるAppleの工場で製造された「Macintosh 128K」が発表され、12月には18ページのパンフレットが各種雑誌に同梱されていた。Macintoshは、150万米ドルのリドリー・スコットのテレビコマーシャル「1984」で紹介された。1984年1月22日に開催された第18回スーパーボウルの第3クォーターで放映されたこの広告は、現在では「分水嶺」「傑作」と評されている。マッケンナは、この広告を「Macそのものよりも成功している」と称した。「1984」では、コンピューター業界を支配しようとするIBM社の「適合性」から人類を救う手段として、無名のヒロインを使ってMacintosh(白いタンクトップにピカソ風のコンピューターの絵が描かれていることで示される)の登場を表現した。この広告は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を引用したもので、テレビで放映される「ビッグ・ブラザー」に支配されるディストピア的な未来を描いている。
「1984」の放映から2日後の1月24日に発売された初代Macintoshには、そのインターフェースを見せるための「MacWrite」と「MacPaint」の2つのアプリケーションが同梱されていた。スティーブ・ジョブズの基調講演で初めて披露されたMacは、瞬く間に熱狂的な支持を集めたが、単なる「おもちゃ」との評価もあった。GUIを中心に設計されたOSであるため、既存のテキストモードやコマンド駆動のアプリケーションは、デザインを変更したり、プログラミングコードを書き換えたりする必要があった。これは時間のかかる作業であり、多くのソフトウェア開発者が敬遠したため、当初、新システム用のソフトウェアが不足していたとも考えられている。また、回復不能なシステムエラーが発生した時には爆弾マーク(英語版)が表示されるが、これは初代Macintoshから存在していた。1984年4月にはマイクロソフト社の「Microsoft Multiplan」が、1985年1月には「Microsoft Word」がMS-DOSから移行してきた。1985年、ロータス・ソフトウェアは、IBM PC用のLotus 1-2-3の成功を受けて、Macintosh用のLotus Jazzを発表したが、ほとんど失敗に終わった。同年、Appleは「レミングス」という広告でMacintosh Officeスイートを発表した。この広告は、自社の潜在的な顧客を侮辱したことで有名だが、成功しなかった。
Appleは250万ドルを投じて、選挙後に発行されたニューズウィーク誌の39ページすべての広告を購入し、「Test Drive a Macintosh」というプロモーションを展開した。このプロモーションでは、クレジットカードを持った購入希望者が24時間Macintoshを持ち帰り、その後ディーラーに返却することができた。20万人が参加した一方で、販売店はこのプロモーションを嫌い、需要に対してコンピュータの供給が不足し、多くのコンピュータが販売できないほど悪い状態で返却された。このマーケティングキャンペーンにより、最高経営責任者(CEO)のジョン・スカリーは価格を1,995ドルから2,495ドル(2020年の6,000ドル相当)に引き上げた。それでも、この年の初めに出荷が開始されたIBM PCjrを上回る勢いで売れ、ある販売店では600台以上の注文が残ったという。1984年4月には5万台のMacintoshを販売し、5月初旬には7万台、年末には25万台近くを販売したいと考えていた。
Apple IIの販売先は企業が中心だったが、IBM PCの登場により、中小企業や学校、一部の家庭がAppleの主要顧客となった。ジョブズは、Macintoshの発表時に「MacintoshがApple II、IBM PCに次ぐ第3の業界標準になると期待している」と述べている。他のすべてのコンピュータを凌駕し、ある販売店が「最初の2,500ドルの衝動買い」と表現するほどの魅力を持っていたMacintoshだが、最初の1年間は、特にビジネスユーザの間で期待に応えられなかった。MacWriteやMacPaintなど10種類ほどのアプリケーションしか普及していなかったが、多くのApple以外のソフトウェア開発者が導入に参加し、ロータス、デジタルリサーチ、アシュトンテイトなど79社が新しいコンピュータのために製品を作っていることをAppleは約束した。それぞれのコンピュータが1年後には、ワープロ1つ、データベース2つ、表計算ソフト1つなど、Macintoshのソフトウェアの品揃えはPCの4分の1にも満たなかったが、Appleは28万台のMacintoshを販売したのに対し、IBMの初年度のPC販売台数は10万台にも満たなかった。MacWriteがMacintoshに搭載されたことで、開発者は他のワープロソフトを作る意欲を失った。
Macintoshは、ソフトウェア開発者を熱狂させたが、グラフィカルユーザインタフェースを使用するソフトウェアの書き方を習得する必要があり、また販売当初にはMacintoshのソフトウェアを書くためにLisa 2やUnixシステムが必要だった。Infocom社は、Macの発売に合わせて、バグの多い初期のOSを独自の最小限の起動可能なゲームプラットフォームに置き換え、唯一のサードパーティゲームを開発していた。ソフトウェア開発にPascalを採用しているにもかかわらず、AppleはネイティブコードのPascalコンパイラをリリースしなかった。サードパーティ製のPascalコンパイラが登場するまでは、開発者は他の言語でソフトウェアを書きながら、「Inside Macintosh」と呼ばれるMacintoshのAPIやマシンアーキテクチャを解説した開発者向けマニュアルを理解できる程度のPascalを習得しなければならなかった。
Apple Macintoshとして発売されたMacintosh 128Kは、Apple Macintoshパーソナルコンピュータの原型である。ベージュ色の筐体に9インチ(23cm)のブラウン管モニターを搭載し、キーボードとマウスが付属していた。筐体の上部はハンドル形状になっており、持ち運びが容易だった。これは、1984年にAppleが発表した象徴的なテレビ広告と同義であった。このモデルと同年9月に発売された512Kには、ハードプラスチックのカバーの内側にコアチームのサインが浮き彫りにされており、すぐにコレクターズアイテムとなった。
1985年、MacとAppleのLaserWriterプリンタ、そしてボストン・ソフトウェアのMacPublisherやAldusのPageMakerなどのMac専用ソフトウェアの組み合わせにより、テキストやグラフィックを含むページレイアウトをデザイン、プレビュー、印刷できるようになり、これがDTP(デスクトップパブリッシング)として知られるようになった。当初、デスクトップパブリッシングはMacintosh専用だったが、やがて他のプラットフォームでも利用できるようになった。その後、Aldus FreeHand、QuarkXPress、アドビのIllustratorやPhotoshopなどのアプリケーションが登場し、Macはグラフィックコンピュータとしての地位を確立し、デスクトップパブリッシング市場の拡大に貢献した。
1984年の初代MacintoshではOSの一部が64KBのROMに収容されていたため、メモリやストレージの負担が小さく128KBのメモリで多くの業務が可能であった。しかし一般的なアプリケーションではメモリが不足しており、フロッピーディスクをたびたび入れ替える必要があるなど実用性に問題があった。Macintoshが実用に耐えるマシンとなったのは、512KBのメモリと128KBのROMを搭載して1984年10月に3,195ドルで発売された「Fat Mac」と呼ばれた改良版のMacintosh 512Kである。2年後には、フロッピーディスクドライブは片面400KBから両面800KBのものになったMacintosh 512Keが発売された。
1986年1月10日、Appleは「Macintosh Plus」を2,600ドルで発売した。RAMの容量は1メガバイト(1,024キロバイト)で、ソケット式のRAMボードを使えば4MBまで拡張できた。SCSIポートを装備し、ハードディスクやスキャナーなどの周辺機器を最大7台まで接続することができた。また、フロッピーディスクの容量も800KBに拡張された。Macintosh Plusはすぐに成功を収め、1990年10月15日まで変わらず生産された。4年10か月強にわたって販売されたMac Plusは、2013年12月19日に発売された第2世代のMac Proが2018年9月18日にこの記録を上回るまで、Apple史上最も長寿のMacintoshであった。
1987年には20MBのハードディスクを内蔵し1個の拡張スロットPDSを装備したMacintosh SEが2,900ドルで発売された(ハードディスク付きは3900ドル)。ジェリー・マノックとテリー・オヤマのオリジナルデザインを継承しつつ、スノーホワイトデザイン言語を採用したほか、数か月前にApple IIGSに搭載されたApple Desktop Bus(ADB)マウスとキーボードを採用していた。また、同年にAppleはモトローラの新技術を活用し、16MHzのMC68020プロセッサを搭載した「Macintosh II」を5500ドルで発売した。主な改良点は、マシンの心臓部であるグラフィックス言語をカラー化し、あらゆるディスプレイサイズ、24ビットの色深度、マルチモニタに対応できるなど、さまざまに工夫されていた。NuBus拡張スロットを備えたオープンアーキテクチャ、カラーグラフィックスと外部モニタのサポートなど、Macintosh SE同様にスノーホワイトデザイン言語を採用したMacintosh IIは新しい方向性の始まりだった。ハードディスクを内蔵し、ファン付きの電源を搭載していたため、当初は大きな音がしていた。あるサードパーティの開発者が、熱センサーでファンの回転数を調整する装置を販売したが、保証が無効になった。その後のMacintoshでは、電源やハードディスクの静音化が図られた。
1987年、Appleはソフトウェア事業をクラリス社として独立させた。クラリスは、MacWrite、MacPaint、MacProjectなどのアプリケーションのコードと権利を与えられた。1980年代後半、クラリスはソフトウェアを刷新し、MacDraw Pro、MacWrite Pro、FileMaker Proなどの「Pro」シリーズを発表した。また、完全なオフィススイートを提供するために、Informixの表計算ソフト「Wingz」のMac版の権利を購入して「Claris Resolve」と改名し、新しいビジネス文書作成ソフト「クラリスインパクト(Claris Impact)」を追加した。1990年代初頭には、クラリスのアプリケーションは消費者レベルのMacintoshの大半に搭載され、非常に高い人気を得ていた。1991年、クラリスはClarisWorksをリリースし、すぐに同社の2番目のベストセラーアプリケーションとなった。1998年にクラリスがAppleに再統合された際、ClarisWorksはバージョン5.0からAppleWorksと改称された。
1988年、Appleはマイクロソフトとヒューレット・パッカードがAppleの著作権であるGUIを侵害しているとして、長方形で重なり合い、サイズ変更が可能なウィンドウを使用していることなどを理由に訴えた。4年後、この訴訟はAppleに不利な判決が下され、その後の控訴も同様だった。フリーソフトウェア財団は、AppleがGUIを独占しようとしていると感じ、7年間Macintosh用のGNUソフトウェアをボイコットした。
同年にはモトローラのMC68030プロセッサを搭載したMacintosh IIxが登場したが、これはオンボードメモリ管理ユニットなどの内部改良が施されていた。1989年にはスロット数を減らしてよりコンパクトになったMacintosh IIcxと、16MHzのMC68030を搭載したMacintosh SEのバージョンであるMacintosh SE/30が発売された。同年末、持ち運び可能なバッテリーで駆動するMacintosh Portableを発表した。また、25MHzで動作するMacintosh IIciを発表し、Macとしては初めて「32ビットクリーン」を実現した。これにより、「32ビットダーティ」のROMを搭載していた従来の製品とは異なり、8MB以上のRAMをネイティブにサポートすることができた。System 7は、32ビットアドレスをサポートする最初のMacintosh用OSだった。翌年には、9,900ドルからのMacintosh IIfxが発表された。40MHzの高速プロセッサMC68030を搭載しただけでなく、メモリの高速化や入出力処理専用のApple II CPU(6502)を2個搭載するなど、内部のアーキテクチャを大幅に改善していた。
1990年5月に発売されたMicrosoft Windowsの第3弾、Windows 3.0は、MS-DOSをベースにしたグラフィカルなOSではあったが、高価なMacintoshと同等の機能と性能を備えた初めてのWindowsであった。当時、MacintoshはまだWindowsよりも優れていると考えられていたが、この時点でWindowsは「平均的なユーザにとっては十分な性能を持っていた」とされていた。また、前年にジャン=ルイ・ガセーがMacの利益率を下げることを断固として拒否していたことも追い討ちをかけた。さらに、1989年には急激に拡大したパソコン業界を揺るがす部品不足が発生し、Apple USAの責任者であるアラン・ローレンは値下げを余儀なくされ、Appleの利益率は低下した。
これを受けて、Appleは1990年10月に比較的安価なMacを発売した。2001年初頭までは、Macintosh SEの廉価版であるMacintosh Classicが最も廉価なMacとして販売された。MC68020を搭載したMacintosh LCは、ピザ箱のような独特の筐体にカラーグラフィックを搭載し、512×384ピクセルの低価格カラーモニタを販売していた。また、Macintosh IIsiは、20MHzのMC68030で、拡張スロットを1つ付けただけのものであった。この3機種はいずれもよく売れたが、Appleの利益率はそれまでの機種に比べてかなり低かった。
1991年には、32ビットに書き換えられたMacintoshシステム「System 7」が発売され、カラーグラフィックスの性能向上(Truecolor対応)、仮想メモリの導入、ネットワーク、協調マルチタスクの標準化などが行われた。また、この時期、Macintoshは「スノーホワイト」デザインから少しづつ脱却し、Frogdesignに支払っていた高額なコンサルティング料も払わなくなっていた。Appleは、1989年にロバート・ブルーナーを雇ってデザインを内製化を進め、彼はApple Industrial Design Groupを設立し、すべてのApple製品の新しいデザインを担当することになった。同年10月にはMacintosh Classic II、Macintosh LC IIのほか、Appleの最上位機種であるMacintosh Quadra(700、900)と、Macintosh Portableに比べて現在のノートパソコンに近いPowerBook(100、140、170)の2つのコンピュータファミリーが発売された。ソニーがAppleのために開発・製造したPowerBook 100と、Apple社内で開発されたPowerBook 140, 170は、キーボードをスクリーンに近づけて配置し、手前にトラックボールとパームレストのためのスペースを確保するなど、後に標準となる斬新なデザインを採用している。
1993年、Appleはさらに広い市場を開拓するために、PerformaとQuadraの間に位置し、その名の通りAppleの製品群の中心となるMacintosh Centrisを発売した。1994年に、Appleは新たな入力デバイスとして、PowerBook 500シリーズからトラックパッドへ移行した。また、モトローラのMC680x0アーキテクチャの採用が中止され、1991年にApple、IBM、モトローラの3社で結成されたAIM連合が設計したRISCアーキテクチャであるPowerPCが採用された。この新しいプロセッサファミリーは、Macintoshの新しいファミリーであるPower Macintosh(後にPower Macと略される)を生み出した。1995年1月、生産開始から1年も経たないうちに、Appleは100万台の販売を発表し、相対的な成功を示した。
しかし、このような努力にもかかわらず、インテルのマイクロプロセッサとMicrosoft Windowsシステムを搭載したPC互換機に押され、Appleのシェアはますます低下していった。この傾向は、新しいIntel Pentium搭載のコンピュータやWindows 95の発売により、ますます強まっていった。後者は、PCのマルチメディア機能を向上させ、WindowsのインターフェースをMacのシステムにどんどん近づけていった。これを受け、AppleはOSのライセンスプログラムを開始し、他社がSystem 7.5を搭載したMacintosh互換機を販売できるようにした。これらのマシンは「クローン」と呼ばれている。しかし、これらのクローンのシェアは、主にAppleのMacintoshのシェアを侵食しただけで、その目的は達成されなかった。
スティーブ・ジョブズの復帰直前の1997年5月に、Appleの20周年を記念し、12,000台の「Twentieth Anniversary Macintosh」が発売された。しかし高価格に見合わない低性能で、販売はふるわず、大幅値下げで在庫処分された。この機種は、当時PowerBook 3400c搭載のものと同サイズの液晶デシスプレイを搭載しているのが特徴で、Appleのデスクトップパソコンとしては初の試みだった。
1997年7月、ジョブズがAppleで復権した後、廃止されたCoplandプロジェクトに代わって、System 7.7がMac OS 8と改称された。AppleはSystem 7.xのみをサードパーティメーカにライセンスしていたため、クローン製品の販売に終止符を打つことができた。
1998年、スティーブ・ジョブズが暫定最高経営責任者(iCEO)に復帰した後、Appleは新しいオールインワン・コンピュータ「iMac」を発売した。15インチのスクリーンとロジックボードは同じ半透明プラスチックケースに収められており、最初はボンダイブルーのみだったが、後に他のカラーバリエーションが追加された。他のMacintoshとは一線を画すデザインであることに加え、ADB端子とSCSI端子とシリアルポートが廃止され、2つのUSB端子が採用された。内蔵フロッピーディスクドライブもなくなり、リムーバブルメディアはCD-ROMドライブになった。1998年8月15日に発売されてから年末まで、Appleは80万台以上を販売した。この売上とPower Macintosh G3により、Appleは1995年以来の黒字を達成した。1999年には、ホワイトとブルーの半透明プラスチックケースのPower Macintosh G3 (Blue & White)と、新製品であるAppleのコンシューマ向けノートパソコン「iBook」が発売された。前年のiMacと同様、iBookも成功を収め、1999年の最終四半期にはアメリカで最も売れたノートパソコンとなった。同年秋、AppleはPowerPC G4プロセッサを搭載したPower Mac G4の最初のバージョンを発売した。
iMacやiBookで様々な色を採用してきたAppleは、コンシューマー向けマシンでは白いポリカーボネートを採用した。2001年に発売された新しいiBook、2002年に発売されたiMac G4とeMacは白いポリカーボネートを採用しているが、プロ向けのマシンには、PowerBook G4にはチタン合金、Xserveにはアルミニウム合金というように、金属製のケースを採用した。
その後、PowerPC G4は、2003年のPowerPC G5にその座を譲り、Power Mac G5、そして2004年のiMacに搭載された。PowerPC G5はエネルギー消費量と発熱量が多すぎ、Appleはノートパソコンに搭載できなかった。2005年1月、AppleはMac miniを発表した。これは、同社が販売するMacの中で最も安価なもので、発売時の価格は499ドルだった。Mac OS 8のリリース後、Mac OSは最終的に9.2.2までアップデートを続けた。バージョン8.1ではHFS+ファイルシステムのサポート、バージョン8.5ではPowerPCプロセッサのみへの対応、バージョン8.6ではナノカーネルの登場など、様々な改良が加えられた。Coplandプロジェクトが頓挫したAppleは、1996年12月にNeXTを買収し、NEXTSTEPオペレーティングシステムを新しいMacオペレーティングシステム「Mac OS X」のベースにすることにした。後者は、XNUカーネルに実装されたMachカーネルをベースにしており、どちらもNEXTSTEPで使用され、BSDからのコードで強化されてMac OS XのコアであるDarwinに含まれている。最初のパブリックベータ版は2000年9月に30ドルでリリースされ(日本語対応パブリックベータ版は同年10月に3,500円で販売)、新システムのプレビューや、バグの報告が可能となっていた。Mac OS Xの最初のバージョンである10.0(コードネーム:Cheetah)は、2001年3月24日に発売された。前のバージョンのMac OS用に設計されたアプリケーションを実行するための、Classic環境が含まれる。その後、10.1 Puma(2001年)、10.2 Jaguar(2002年)、10.3 Panther(2003年)、10.4 Tiger(2005年)と次々とMac OS Xのメジャーアップデートをリリースし機能の充実を計った。
2005年6月6日、WWDCの基調講演において、1年後以降の消費電力あたりの性能向上が著しいことを理由に、2006年半ばよりCPUをPowerPCからインテルX86系のものへと順次切り替えていくとAppleより発表された。これは、特に熱に弱いノートパソコン向けに、インテルの低消費電力チップ「Core Duo」と歩調を合わせ、同社のコンピュータをより現代的なものにするために行ったものである。
2006年8月7日のMac Pro発表で、すべてのMacにインテル製のX86プロセッサが採用され、それに伴って一部のMacの名称が変更された。Mac OS X 10.6以下(10.7以降はサポート終了)のインテルベースのMacでは、PowerPC用に開発された既存のソフトウェアをRosettaという動的コード変換プログラムを使って動かすことが可能だったが、ネイティブプログラムに比べて明らかに速度が遅かった。しかも、インテルのアーキテクチャでは、Classic環境を利用することができなかった。インテルMacの登場により、Virtual PCなどのエミュレーションソフトを使わずに、Appleのハードウェア上でMicrosoft Windowsをネイティブに動作させることが可能になった。2006年4月5日、Appleは、インテルベースのMacにWindows XPをインストールするためのソフトウェア「Boot Camp」のパブリックベータ版の提供を発表した。Mac OS X 10.5ではClassic環境が廃止され、Boot CampはインテルベースのMacの標準機能となった。
2006年以降、Appleのインダストリアルデザインはアルミニウムにシフトし、初代MacBook Proの筐体にもアルミニウムが使用された。2008年には、MacBook Proの高精細ユニボディ化に伴い、ガラスが採用された。これらの素材は環境にやさしいとされている。2022年現在、Mac Pro、iMac、MacBook Pro、MacBook Air、Mac miniの各シリーズは、すべてアルミニウム合金の塊から削り出したユニボディ筐体を採用している。当時のチーフデザイナージョナサン・アイブは、ノートパソコンのバッテリ交換を廃止するなど、製品をミニマルでシンプルなものにした。また、iPhoneで採用されているマルチタッチジェスチャーをMacでも採用し、ノートパソコンではマルチタッチトラックパッド、デスクトップパソコンではMagic MouseとMagic Trackpadを採用している。これにより、3本指や4本指などでの操作もできるよう改良され、スクロールのほか、画像の拡大・縮小や回転、Exposéの利用やアプリケーションの切り替えなどの機能が追加された。
2011年2月24日、Appleは、インテルと共同開発した新しいI/OインターフェースであるThunderbolt(コードネーム:Light Peak)を採用したコンピュータを初めて市場に投入した。Mini DisplayPortと同じ物理インターフェースを採用し、同規格との下位互換性を持つThunderboltは、双方向で10Gbit/sの転送速度を誇る。
2012年6月12日、初のRetinaディスプレイを搭載したMacBook Proを発表。
2015年、IBMが自社に最大20万台のMacを順次導入すると発表し、Mac@IBMプログラムで自社へ大規模導入した経験 を元にAppleとの提携の一環として、IBM Managed Mobility Services for Mac を開始した。日本でも2016年5月より開始している。
第4世代のMacBook Proは、2016年10月に開催されたApple Special Eventで発表されたもので、デザインの薄型化、ヘッドフォンジャックを除くすべてのポートがUSB Type-Cポートに変更され、MacBookに搭載されていたバタフライキーボード、P3広色域ディスプレイ、そしてMacBook Proの一部モデルでファンクションキーとEscキーに代わるタッチスクリーンの有機ELディスプレイ「Touch Bar」が搭載され、使用するアプリケーションに応じて変化・適応するUIが採用された。また、Touch Bar搭載モデルでは、電源ボタンをTouch IDセンサーに置き換えた。Apple T1チップも搭載しており、インテルのCPUを採用したまま、アーキテクチャは刷新され、Touch BarやTouch IDを含むハードウェアを制御しセキュリティを司るbridgeOSが採用されている。発売後の評価は賛否両論だった。また、USB-Cポートは、多くのユーザ、特にMacBook Proのプロフェッショナル層にとって不満の種となっており、USB Type-AやSDメモリーカードを接続するためのアダプタなどを購入する必要があった。
数か月後、MacBookおよびMacBook Proに搭載されているバタフライキーボードが動作しなくなるという報告が多くのユーザから寄せられた。この問題は、キーボードの下に砂や食べかすなどの小さな異物やほこりが入り込み、キーボードが詰まってしまったため、Apple Storeまたは正規サービスセンターに持ち込んで修理してもらうことになった。
2013年のMac Proがアップデートを受けることなく数年が経過した後、マーケティング担当上級副社長のフィリップ・シラーとソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長のクレイグ・フェデリギは2017年に現行のMac Proが期待に応えられていないことを認めた。iMac Proは、WWDC 2017でジョン・ターナスハードウェアエンジニアリング担当副社長によって、 最大18コアのIntel XeonプロセッサとRadeon Pro Vega GPUを搭載して発表された。次世代Mac Proが登場するまでのプロユーザ向けの応急処置という側面もあった。
2018年、Appleはより高速なプロセッサと第3世代のバタフライキーボードを搭載したMacBook Proを更新し、同年に発売されたRetinaディスプレイ搭載のMacBook Airのデザインを一新して、キーボードに埃や小さな物体の侵入を防ぐシリコンガスケットを追加し、影響を受けたキーボードを無償で修理するプログラムを開始したが、ユーザは引き続きキーボード問題に悩まされていた。
2019年のMacBook ProとMacBook Airの刷新では、いずれもバタフライキーボードが廃止され、Appleが「Magic Keyboard」と呼ぶ、2016年以前のMacBookで採用されていたシザースイッチ機構の改良版に変更された。また、Touch BarとTouch IDがすべてのMacBook Proに標準装備され、Touch ID・電源ボタンが分離されてより右側に移動し、Escキーも物理的になりTouch Barから切り離された。WWDC 2019で、ジョン・ターナスが発表した新しいMac Proは、従来の円筒形デザインよりも前のMac Proに近いように見えるが全く新しい設計の筐体デザインで、Apple独自のカスタムデザインのPCI Express拡張スロット「MPX Module」によるアップグレード性が格段に向上しており、AMDグラフィックスカードなどの標準的なPCI Expressも動作する仕様になった。ほとんどの部品がユーザによる交換が可能で、iFixitによる修理可能性の評価は9/10となっている。レビューでは、モジュール化やアップグレード性、静音性などが評価され、前世代のMac Proに不満を持っていたプロの要望にも応えていると評価された。」
2018年4月、ブルームバーグは、Appleがインテル製プロセッサの搭載を中止し、同社のiPhoneに使われているようなARMプロセッサに置き換えるつもりであるとする噂を掲載し、インテルの株価は6%下落した。この噂についてコメントしたザ・ヴァージは、インテルがラインナップの大幅な改善に失敗しており、ARMチップとバッテリ駆動時間で競争できないことから、このような決定は理にかなっていると述べた。
2020年6月22日のWWDCの基調講演において、AppleはMacに搭載するCPUを今まで採用してきたインテル製のものからARMアーキテクチャをベースにした自社設計のAppleシリコン(SoC)に今後2年間で切り替えると発表した。2005年に発表されたPowerPCからインテルへの移行時と同様に、Appleシリコンを搭載したMacは、Rosetta 2と呼ばれる動的コード変換プログラムを使用し、インテル用に設計されたソフトウェアを実行することが可能になっている。Appleは、開発者に対し、1年後に返却することを条件にDeveloper Transition Kit(DTK)を500ドルで提供した。DTKは、2020年モデルのiPad Proと同じA12Z Bionicチップを搭載したMac miniで、ARMアーキテクチャ搭載の次期Macにアプリケーションを最適化するためのものだった。
2020年11月10日、Appleシリコンを搭載して出荷する最初のMacとして、MacBook Air、Mac mini、13インチMacBook Proを発表した。いずれも、これまでAppleが製造してきたどのAシリーズプロセッサよりも高速で、4つの高性能コアと4つの低電力コアを備えたカスタムデザインのApple M1を搭載し、MacBook Airでは7コアのGPUオプション、上位モデルでは8コアのGPUを搭載し、Proとminiでは標準装備となっている。さらに、16コアのNeural Engineを搭載し、機械学習のパフォーマンスが最大11倍に向上していると発表された。これらのチップは電力消費量が大幅に少ないため、MacBook Pro 13インチのバッテリ駆動時間は最大20時間となっている。発売されてからの評価は非常に好評で、ほとんどのレビュアーが「前世代で使われていたインテルのチップよりも、バッテリ駆動時間が長く、発熱がずっと少なく、ずっと速い」と評価している。また、Rosetta 2は、ほとんどのインテル製アプリケーションで動作し、パフォーマンスの低下もさほどなく、WindowsやマイクロソフトのSurface Pro Xよりも高速なパフォーマンスと採用を実現したと評価されている。
2021年4月20日、7つの新色とApple M1チップを搭載した新しい24インチiMacが発表された。筐体全体が100%再生アルミニウム合金製となり、11.5mmの薄さになった。スクリーンは21.5インチ4Kから24インチ4.5K Retinaディスプレイにアップグレードされ、画面の縁がより薄くなった。
2021年10月19日、AppleのMedia Engineを備えたApple M1 ProとApple M1 Maxを搭載しデザインを刷新した14インチと16インチのMacBook Proが発表された。2020年発売のApple M1搭載13インチMacBook Proは据え置きになり、新たなラインナップとして14インチが追加された。プロセッサがアップデートされ、XDRディスプレイとしてミニLEDバックライトでHDR対応となりProMotionに対応するなど、刷新された。
2022年3月9日、Apple M1 Maxの隠されていた機能である「UltraFusion」を使った別のM1 Maxへの接続により新型SoCであるApple M1 UltraもしくはM1 Maxを搭載した新しいMac Studioが発表された。M1 UltraによりCPUの性能は16コアIntel Xeonを搭載しているMac Proよりも5.3倍の処理性能を持つ。さらに同イベント内で新しいMacディスプレイのStudio Displayも発表された。
2023年1月17日、Apple M2とM2 Proを搭載したMac mini発表。MacBook Pro 14、16インチモデルもM2 ProとM2 Maxを搭載した機種へ更新された。
2023年6月5日、Mac StudioとともにApple M2 Ultraを搭載したMac Proを発表し、全てのApple製品のAppleシリコンへの移行を完了させた。同時にMacBook Air初の15インチモデルを追加している。
PowerPC G3搭載機の発売以降、機種の絞り込みが続いており、デスクトップとノートブックにそれぞれ上位機種と下位機種を1機種ずつ(合計4機種)提供することが基本になっている。2023年1月時点ではデスクトップ4機種とノートブック4機種(合計8機種)に集約されている。
2023年1月時点で販売されている機種は、インテル製のマルチコアプロセッサ及びAppleの独自開発SoC(Appleシリコン)が搭載された機種となっている。macOSがインストールされており、インテル製プロセッサを搭載するMacに限り、別売りのWindows 10やLinux、ChromeOSなど他のOSをインストールすれば、切り替えて利用することが可能になっている。また、Appleシリコン搭載機種でもARM向けにビルドしたMicrosoft Windows 11を動作させることは技術的に可能であるが、現時点でマイクロソフトはARM向けWindows 11のライセンス供給はプリインストールPCのみとしており、ライセンス上は使用不可。Appleの関係者はマイクロソフト次第としている。
Appleは、フォックスコンやPegatronなどのアジアの相手先商標製品メーカにハードウェアの製造を委託し、最終製品に対する高度なコントロールを維持している。対照的に、マイクロソフトを含む他の多くの企業は、デル、HP Inc.、ヒューレット・パッカード、コンパック、レノボなど、さまざまなサードパーティが製造するハードウェア上で実行可能なソフトウェアを作成している。そのため、Macの購入者は、マイクロソフトの購入者と比較して、選択肢は比較的少ないものの、優れた統合性を有している。
2023年のMac製品群のほとんどは、Appleが設計したAppleシリコンが採用されている。Mac Proのみ、Intel X86-64プロセッサを採用したものが残されている。Appleは、10年前のMC68000アーキテクチャからの移行時と同様に、PowerPCチップからの移行時にもRosettaと呼ばれる動的コード変換プログラムを導入した。Macは、新しいCPU設計への移行を成功させた唯一のメインストリームコンピュータプラットフォームであり、その移行は2度にわたって行われた。現行のすべてのMacモデルには、最低8ギガバイトのRAMが標準で搭載されており、Appleが設計したGPUが内蔵されている。かつてのMacには、AppleがSuperDriveと呼ぶ、DVD/CDの2つの機能を持つ光学メディアドライブが搭載されていたが、現在SuperDriveを内蔵したMacを出荷していない。現在のMacには、USBとThunderboltの2つの標準的なデータ転送ポートが搭載されている。また、MacBook Pro、iMac、MacBook Air、Mac miniには、Appleによれば最大で毎秒40ギガビットの速度でデータを転送できるThunderbolt 4ポートが搭載されている。USBは1998年のiMac G3に搭載され、当時FireWireは主にハードディスクやビデオカメラなどの高性能な機器に限られていた。2005年10月に発売されたiMac G5を皮切りに、iSightカメラを内蔵したモデルや、Apple Remoteやキーボードで操作してコンピュータに保存されているメディアを閲覧できるFront Row機能を搭載したモデルなどがある。しかし、2011年現在、Front Rowは廃止され、Apple RemoteもMacには同梱されていない。
Appleは当初、複数のボタンやスクロールホイールを備えたマウスの採用には消極的であり、ワンボタンマウスは、Macintosh独特のインターフェースとして知られていた。1984年に初代Macintoshに搭載されたワンボタンマウスは、Macの「使いやすさ」を実現するための中心的存在だった。2001年にMac OS Xが登場するまで、Macはサードパーティ製であっても複数のボタンを持つポインティングデバイスをネイティブにサポートしていなかった。2005年8月にMighty Mouseを発売するまで、Appleはワンボタンマウスのみを販売していた。Mighty Mouseは機械的には従来のワンボタンマウスのように1つのボタンがマウス全体を覆ったような形をしているが、実際には「副クリック」を含む4つのボタンと、X軸とY軸を独立して動かすことができるスクロールボールを備えていた。2006年7月にはBluetooth対応の無線タイプも発売された。2009年10月、Appleは物理的なスクロールホイールやボールの代わりに、iPhoneと同様のマルチタッチジェスチャー認識を採用した無線タイプのみのMagic Mouseを発表した。有線タイプのMighty MouseはApple Mouseとして再ブランド化し、2017年に製造中止になるまで代替品として販売されていた。また、2010年以降、AppleはMacのデスクトップパソコンをノートパソコンと同様の方法で操作する手段としてMagic Trackpadを販売している。
初代Macintoshは、コマンドラインを使わないグラフィカルユーザインタフェースを採用した最初の成功したパーソナルコンピュータである。デスクトップメタファーと呼ばれる、書類やゴミ箱などの現実世界のオブジェクトをアイコンとして画面に表示する方式を採用している。1984年に初代Macintoshとともに登場したシステムソフトウェアは、1997年に「Mac OS」と改称され、バージョン9.2.2まで進化を続けてきたが、現在ではClassic Mac OSとして知られている。日本市場では「漢字Talk」と呼ばれていた。過去にAppleは、A/UX、MkLinuxなどのOSも開発していた。また、Apple製以外ではBeOS、BSDなどが実行できた。
インテル搭載のMacが発売された後、Parallels Desktop、VMware Fusion、VirtualBoxなどのサードパーティ製プラットフォーム仮想化ソフトウェアが登場した。これらのソフトウェアは、Microsoft Windowsや従来のWindows専用ソフトウェアを、ネイティブに近い速度でMac上で動作させることができる。また、Windows XP、Vista、7、8、10をインストールし、Mac OS XとWindowsをネイティブにデュアルブートするためのBoot CampやMac専用Windowsドライバーもリリースされた。Boot Campやその他の仮想化のワークアラウンドを使って、Linuxを実行することも可能である。
Mac OS Xはバージョン10.9で「OS X」と改称された。バージョン10.12以降、OS Xは「macOS」となり、AppleのOS(iOS、tvOS、watchOS)の名称を統一することにした。また、2001年から続いたバージョン10.xシリーズ(Mac OS X CheetahからmacOS Catalina)は2020年に終止符が打たれ、同年にバージョン11(macOS Big Sur)、翌年にはバージョン12(macOS Monterey)とバージョン数のパターンが変更された。
1970年代から1980年代前半にかけて、コンピュータ関連の広告は、ほとんどインサイダー(アーリーアダプタなど)、企業、政府、大学などの視聴者に向けたものだった。IBMのPCと同様に、Appleは「1984」のCMを、視聴者数が9,000万人を超える米国最大のテレビイベント「第18回スーパーボウル」にて放送するなど、大規模なキャンペーンを展開し、初代Macintoshを一般の人々に広めた。1984年に成功したAppleは、翌年にもMacintosh Officeの広告である「レミングス」を放送したが、これは潜在的な購入者を不満にしたため失敗に終わった。Macintoshの広告が再びスーパーボウルに現れたのは、1999年、HALがデイビットにMacintoshはY2K問題フリーだと発表してからだった。このような広告に加え、AppleはMacintosh Plus、Performa、Quadra、さらにはPowerBookなど、より一般的な広告を報道機関で行っている。後者については、新聞やテレビで「What's on your PowerBook」というスローガンを掲げたキャンペーンが行われている。Microsoft Windows 95が発売されると、Appleはこれに対抗し、マイクロソフトのシステムを否定するキャンペーンを行った。プレスリリースに掲載されたAppleの広告には、「想像してみてください、書類を捨てても戻せるゴミ箱付きのデスクトップを!」と書かれていた。この機能は、11年前に発売されたMacintoshに搭載されていたものである。テレビ広告でも同じような内容のものが放送された。ある講演者が、Windows 95でプレゼンテーションを開始するのは不可能だと突きつけられ、観客からは理解しにくいコードの行を指摘される。簡単に使えるパソコンを探しているなら、解決策は一つしかないというナレーションが流れ、会場から「Macintoshを買おう!(Buy a Macintosh!)」という声が聞こえるという内容だった。
スティーブ・ジョブズが最高経営責任者に復帰した直後の1997年、Appleは「Think different」キャンペーンを展開し、1990年代半ばの会社の衰退によって損なわれたイメージを回復させようとした。CM、都市部でのポスター、プレス広告などを加えたこのキャンペーンは成功し、1998年には広告部門で初のエミー賞を受賞した。「Think Different」は、2002年に「Switch」キャンペーンに引き継がれるまで、Appleのスローガンとなった。「Switch」キャンペーンでは、Macに「乗り換えた」一般ユーザーが、PCの問題点を語っていた。Appleは2006年から「Get a Mac」キャンペーンを実施し、Macの普及に努めてきた。この広告には、Mac OS X(現macOS)とWindowsを搭載したマシンを擬人化した「Mac」と「PC」というキャラクタが登場しており、主人公2人の短い議論を通して、Macの長所とライバル(Windows)の短所が強調されている。
従来の広告に加えて、Appleはカンファレンスを開催し、Macをはじめとする新製品の発表とプロモーションを行っている。これらの会議は、Macworld Conference & Expo、Apple Expo、Worldwide Developers Conferenceなどの展示会の枠組みの中で、あるいはApple Eventと呼ばれるシンプルな記者会見の中で開催されていた。基調講演は、スティーブ・ジョブズが復帰してから2011年10月5日に逝去した後も、聴衆の前で行われることが多く、その様子は全てではないがインターネットで中継されている。
Macintoshは、マット・グレイニングが制作した『フューチュラマ』や『ザ・シンプソンズ』などのアニメシリーズの制作者にも影響を与えており、いくつかのエピソードに登場するコンピュータは、Macintoshの特定のモデルに大きく影響を受けている。 | [
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"text": "Mac(マック)またはMacintosh(マッキントッシュ)は、Appleが開発および販売を行っているパーソナルコンピュータである。",
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"text": "Macintoshは、Appleの創業者の一人、スティーブ・ジョブズの陣頭指揮のもとに開発された。ジョブズの思想や夢、感性が設計思想に盛り込まれ、直感的で視覚的な操作インタフェース、画面に表示される文字フォントの細やかさや美しさ、画面と印刷物に表示される図像の精度(特にWYSIWYGの実現)、筺体の美しさなどが重視されている(#歴史)。",
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"text": "このような特徴から、MacintoshはDTPの道を切り開き一般化させた。そのうえで、各時代のデザイン関連の先端のソフトウェアを動かせる(かつては唯一の)プラットフォームとなった。現在でもグラフィックデザイン、イラストレーション、Webデザイン、書籍・雑誌などの組版業務で主流のプラットフォームである。",
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"text": "当初から、コンテンツ制作に有用なプラットフォームとして評価されている。デザインや組版に限らず、広く「表現」にかかわるアーティストの多くがプラットフォームにMacintoshを使用し高く評価した。それにより、音楽(デジタルミュージック、DAW)、映像(ノンリニア編集、VFX)等でも使われ続けている。また、個人のクリエイターだけでなく、Web系のIT企業でもコンテンツを作成する作業が多いため、多く採用されている。",
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"text": "21世紀には技術的な分野でも有用なプラットフォームとなっている。2001年にリリースされたMac OS X以降、Macに搭載されているオペレーティングシステム (OS) は、公式なライセンスを受けた正統派のUNIXである。正統派UNIXであることにより、入手しやすい市販のコンピュータでありながら、UNIX・Linux系のソフトウェアが問題なく利用できるプラットフォームとして重宝されている。理学、工学などの科学・エンジニアリングの分野や、物理学、天体物理学などの研究室で世界的に採用されている。アメリカ合衆国では初等教育から高等教育などでも広く採用されている。",
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"text": "1970年代後半にMacintoshプロジェクトは始まった。1978年にAppleに入社したジェフ・ラスキンは、「使いやすく、安価で、一般の消費者が手に入れられるコンピュータを作りたい」というアイデアを持っていた。1979年3月、Apple Computerの3人の創業者の1人であるマイク・マークラにアイデアを提示した。1979年9月、後者から許可を得て、数人を雇用してApple社内に開発チームを立ち上げた。このプロジェクトは、ラスキンの好きなリンゴであるマッキントッシュ(McIntosh)にちなんで「Macintosh」と名付けられた。しかし、法律上の理由から、Hi-Fi機器のメーカーであるマッキントッシュ・ラボ(McIntosh Laboratory)に近すぎるため、名前の綴りを変更しなければならなかった。ラスキンは、このコンピュータのために考えたすべてのアイデアを『The Book of Macintosh』という本にまとめた。試作機を作る技術者を探していたラスキンは、Apple Lisaプロジェクトのビル・アトキンソンの推薦で、Apple IIのメンテナンス部門に属していたバレル・スミスを採用した。ラスキンは、Macintoshの成功の決め手となった2つの要素、Motorola 68000マイクロプロセッサとマウスの使用に反対した。ラスキンの「Macintosh」の設計案は、現在知られる「Macintosh」とは、基本的なコンセプトが大きく異なっており、テキストベースのインターフェースを持つマシン(ラスキンがApple退社後に開発したキヤノン・キャットに似たマシン)として構想されていた。ラスキンの思い描いていたコンピュータというのは低価格指向で、価格は1000ドル以下を想定し、それを実現するためにCPUは64キビオクテット以上のアドレスを指定できないMC6809(8ビットCPU)で済ませ、5インチディスプレイを備えたもので、インタフェースに関しても、テキストベースでありグラフィカルインターフェースを備えないもので、その後ジョブズが指揮をとり発売されることになったMacintoshとは別物である。Apple Lisaのプログラムの進化に興味を持ったMacintosh開発チームの責任者バド・トリブルは、バレル・スミスにLisaのMC68000をMacintoshに搭載しながら、できるだけコストを抑えてみる提案をした。スミスは1980年12月、MC68000の周波数を5メガヘルツ(MHz)から8メガヘルツ(MHz)に上げながら、MC68000を内蔵する回路基板を設計して、この挑戦に挑んだ。この回路では、RAMチップの数が少なくて済むため、価格も安くなった。1984年に発売された最終モデルは、64キロバイトの読み出し専用メモリと、64キロビットのチップを16個組み合わせた128キロバイトのRAMを搭載している。9インチの画面はモノクロで、512×342ピクセルを表示する仕様になっていた。",
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"text": "1980年末、当時Apple Computerの最高経営責任者(CEO)だったマイケル・スコットは、会社のリストラを進め、創業者の1人であるスティーブ・ジョブズはLisaプロジェクトからの離脱を余儀なくされる。1980年12月12日の株式公開に向けて、スコットから代表として派遣されたが、経営者としての説得力はなかった。そこで、ジェフ・ラスキンのMacintoshプロジェクトに目を向けた。ジョブズは、Lisaプロジェクトから除外されたことへの復讐だと考えていた。ジョブズとラスキンは何度か対立しており、ラスキンはマウスを欲しがらず、逆にジョブズはマウスのないMacintoshを見たくないということで、マウスは意見が分かれた。スティーブ・ジョブズはこの対決で勝利を収めた。というのも、MacintoshはLisaで使われていたマウスとともにAppleから発売されたのである。このような度重なる対立と2人のキャラクタの大きなエゴにより、1984年1月のMacintoshの正式発売の約2年前の1982年3月1日、ジェフ・ラスキンはMacintoshプロジェクトとApple Computerから正式に離脱した。アンディ・ハーツフェルドによると、現在世間で知られているMacintosh 128Kは、ジェフ・ラスキンが『The Book of Macintosh』の中で想像していたコンピュータとはほとんど関係がないという。また、スティーブ・キャップスとの共著『Revolution in The Valley: The Insanely Great Story of How the Mac Was Made』では、スティーブ・ジョブズがジャン=ミシェル・フォロンを雇って、ブランドを代表するキャラクター「Mr. Macintosh」を作りたいと考えていたと述べている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "1982年、レジス・マッケンナはMacintoshのマーケティングと発売のために招聘された。その後、レジス・マッケンナのチームには、ジェーン・アンダーソン、ケイティ・キャディガン、アンディ・カニンガムが加わり、最終的にはAppleを率いていた。カニンガムとアンダーソンは、Macintoshの主要な発売計画作者であった。Mactintoshの発売は、「マルチプルエクスクルーシブ」、イベントマーケティング(ペプシからコンセプトを持ち込んだジョン・スカリー氏による)、製品の神秘性の演出、製品の制作過程の紹介など、今日のテクノロジー製品の発売に用いられるさまざまな戦術の先駆けとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "Lisaの発表後、1983年2月にジョン・ドボルザークがAppleで謎の「MacIntosh」プロジェクトがあるという噂を取り上げた。1983年10月にはカリフォルニア州フリーモントにあるAppleの工場で製造された「Macintosh 128K」が発表され、12月には18ページのパンフレットが各種雑誌に同梱されていた。Macintoshは、150万米ドルのリドリー・スコットのテレビコマーシャル「1984」で紹介された。1984年1月22日に開催された第18回スーパーボウルの第3クォーターで放映されたこの広告は、現在では「分水嶺」「傑作」と評されている。マッケンナは、この広告を「Macそのものよりも成功している」と称した。「1984」では、コンピューター業界を支配しようとするIBM社の「適合性」から人類を救う手段として、無名のヒロインを使ってMacintosh(白いタンクトップにピカソ風のコンピューターの絵が描かれていることで示される)の登場を表現した。この広告は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を引用したもので、テレビで放映される「ビッグ・ブラザー」に支配されるディストピア的な未来を描いている。",
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"text": "「1984」の放映から2日後の1月24日に発売された初代Macintoshには、そのインターフェースを見せるための「MacWrite」と「MacPaint」の2つのアプリケーションが同梱されていた。スティーブ・ジョブズの基調講演で初めて披露されたMacは、瞬く間に熱狂的な支持を集めたが、単なる「おもちゃ」との評価もあった。GUIを中心に設計されたOSであるため、既存のテキストモードやコマンド駆動のアプリケーションは、デザインを変更したり、プログラミングコードを書き換えたりする必要があった。これは時間のかかる作業であり、多くのソフトウェア開発者が敬遠したため、当初、新システム用のソフトウェアが不足していたとも考えられている。また、回復不能なシステムエラーが発生した時には爆弾マーク(英語版)が表示されるが、これは初代Macintoshから存在していた。1984年4月にはマイクロソフト社の「Microsoft Multiplan」が、1985年1月には「Microsoft Word」がMS-DOSから移行してきた。1985年、ロータス・ソフトウェアは、IBM PC用のLotus 1-2-3の成功を受けて、Macintosh用のLotus Jazzを発表したが、ほとんど失敗に終わった。同年、Appleは「レミングス」という広告でMacintosh Officeスイートを発表した。この広告は、自社の潜在的な顧客を侮辱したことで有名だが、成功しなかった。",
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"text": "Appleは250万ドルを投じて、選挙後に発行されたニューズウィーク誌の39ページすべての広告を購入し、「Test Drive a Macintosh」というプロモーションを展開した。このプロモーションでは、クレジットカードを持った購入希望者が24時間Macintoshを持ち帰り、その後ディーラーに返却することができた。20万人が参加した一方で、販売店はこのプロモーションを嫌い、需要に対してコンピュータの供給が不足し、多くのコンピュータが販売できないほど悪い状態で返却された。このマーケティングキャンペーンにより、最高経営責任者(CEO)のジョン・スカリーは価格を1,995ドルから2,495ドル(2020年の6,000ドル相当)に引き上げた。それでも、この年の初めに出荷が開始されたIBM PCjrを上回る勢いで売れ、ある販売店では600台以上の注文が残ったという。1984年4月には5万台のMacintoshを販売し、5月初旬には7万台、年末には25万台近くを販売したいと考えていた。",
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"text": "Apple IIの販売先は企業が中心だったが、IBM PCの登場により、中小企業や学校、一部の家庭がAppleの主要顧客となった。ジョブズは、Macintoshの発表時に「MacintoshがApple II、IBM PCに次ぐ第3の業界標準になると期待している」と述べている。他のすべてのコンピュータを凌駕し、ある販売店が「最初の2,500ドルの衝動買い」と表現するほどの魅力を持っていたMacintoshだが、最初の1年間は、特にビジネスユーザの間で期待に応えられなかった。MacWriteやMacPaintなど10種類ほどのアプリケーションしか普及していなかったが、多くのApple以外のソフトウェア開発者が導入に参加し、ロータス、デジタルリサーチ、アシュトンテイトなど79社が新しいコンピュータのために製品を作っていることをAppleは約束した。それぞれのコンピュータが1年後には、ワープロ1つ、データベース2つ、表計算ソフト1つなど、Macintoshのソフトウェアの品揃えはPCの4分の1にも満たなかったが、Appleは28万台のMacintoshを販売したのに対し、IBMの初年度のPC販売台数は10万台にも満たなかった。MacWriteがMacintoshに搭載されたことで、開発者は他のワープロソフトを作る意欲を失った。",
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"text": "Macintoshは、ソフトウェア開発者を熱狂させたが、グラフィカルユーザインタフェースを使用するソフトウェアの書き方を習得する必要があり、また販売当初にはMacintoshのソフトウェアを書くためにLisa 2やUnixシステムが必要だった。Infocom社は、Macの発売に合わせて、バグの多い初期のOSを独自の最小限の起動可能なゲームプラットフォームに置き換え、唯一のサードパーティゲームを開発していた。ソフトウェア開発にPascalを採用しているにもかかわらず、AppleはネイティブコードのPascalコンパイラをリリースしなかった。サードパーティ製のPascalコンパイラが登場するまでは、開発者は他の言語でソフトウェアを書きながら、「Inside Macintosh」と呼ばれるMacintoshのAPIやマシンアーキテクチャを解説した開発者向けマニュアルを理解できる程度のPascalを習得しなければならなかった。",
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"text": "Apple Macintoshとして発売されたMacintosh 128Kは、Apple Macintoshパーソナルコンピュータの原型である。ベージュ色の筐体に9インチ(23cm)のブラウン管モニターを搭載し、キーボードとマウスが付属していた。筐体の上部はハンドル形状になっており、持ち運びが容易だった。これは、1984年にAppleが発表した象徴的なテレビ広告と同義であった。このモデルと同年9月に発売された512Kには、ハードプラスチックのカバーの内側にコアチームのサインが浮き彫りにされており、すぐにコレクターズアイテムとなった。",
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"text": "1985年、MacとAppleのLaserWriterプリンタ、そしてボストン・ソフトウェアのMacPublisherやAldusのPageMakerなどのMac専用ソフトウェアの組み合わせにより、テキストやグラフィックを含むページレイアウトをデザイン、プレビュー、印刷できるようになり、これがDTP(デスクトップパブリッシング)として知られるようになった。当初、デスクトップパブリッシングはMacintosh専用だったが、やがて他のプラットフォームでも利用できるようになった。その後、Aldus FreeHand、QuarkXPress、アドビのIllustratorやPhotoshopなどのアプリケーションが登場し、Macはグラフィックコンピュータとしての地位を確立し、デスクトップパブリッシング市場の拡大に貢献した。",
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"text": "1984年の初代MacintoshではOSの一部が64KBのROMに収容されていたため、メモリやストレージの負担が小さく128KBのメモリで多くの業務が可能であった。しかし一般的なアプリケーションではメモリが不足しており、フロッピーディスクをたびたび入れ替える必要があるなど実用性に問題があった。Macintoshが実用に耐えるマシンとなったのは、512KBのメモリと128KBのROMを搭載して1984年10月に3,195ドルで発売された「Fat Mac」と呼ばれた改良版のMacintosh 512Kである。2年後には、フロッピーディスクドライブは片面400KBから両面800KBのものになったMacintosh 512Keが発売された。",
"title": "歴史"
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"text": "1986年1月10日、Appleは「Macintosh Plus」を2,600ドルで発売した。RAMの容量は1メガバイト(1,024キロバイト)で、ソケット式のRAMボードを使えば4MBまで拡張できた。SCSIポートを装備し、ハードディスクやスキャナーなどの周辺機器を最大7台まで接続することができた。また、フロッピーディスクの容量も800KBに拡張された。Macintosh Plusはすぐに成功を収め、1990年10月15日まで変わらず生産された。4年10か月強にわたって販売されたMac Plusは、2013年12月19日に発売された第2世代のMac Proが2018年9月18日にこの記録を上回るまで、Apple史上最も長寿のMacintoshであった。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1987年には20MBのハードディスクを内蔵し1個の拡張スロットPDSを装備したMacintosh SEが2,900ドルで発売された(ハードディスク付きは3900ドル)。ジェリー・マノックとテリー・オヤマのオリジナルデザインを継承しつつ、スノーホワイトデザイン言語を採用したほか、数か月前にApple IIGSに搭載されたApple Desktop Bus(ADB)マウスとキーボードを採用していた。また、同年にAppleはモトローラの新技術を活用し、16MHzのMC68020プロセッサを搭載した「Macintosh II」を5500ドルで発売した。主な改良点は、マシンの心臓部であるグラフィックス言語をカラー化し、あらゆるディスプレイサイズ、24ビットの色深度、マルチモニタに対応できるなど、さまざまに工夫されていた。NuBus拡張スロットを備えたオープンアーキテクチャ、カラーグラフィックスと外部モニタのサポートなど、Macintosh SE同様にスノーホワイトデザイン言語を採用したMacintosh IIは新しい方向性の始まりだった。ハードディスクを内蔵し、ファン付きの電源を搭載していたため、当初は大きな音がしていた。あるサードパーティの開発者が、熱センサーでファンの回転数を調整する装置を販売したが、保証が無効になった。その後のMacintoshでは、電源やハードディスクの静音化が図られた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "1987年、Appleはソフトウェア事業をクラリス社として独立させた。クラリスは、MacWrite、MacPaint、MacProjectなどのアプリケーションのコードと権利を与えられた。1980年代後半、クラリスはソフトウェアを刷新し、MacDraw Pro、MacWrite Pro、FileMaker Proなどの「Pro」シリーズを発表した。また、完全なオフィススイートを提供するために、Informixの表計算ソフト「Wingz」のMac版の権利を購入して「Claris Resolve」と改名し、新しいビジネス文書作成ソフト「クラリスインパクト(Claris Impact)」を追加した。1990年代初頭には、クラリスのアプリケーションは消費者レベルのMacintoshの大半に搭載され、非常に高い人気を得ていた。1991年、クラリスはClarisWorksをリリースし、すぐに同社の2番目のベストセラーアプリケーションとなった。1998年にクラリスがAppleに再統合された際、ClarisWorksはバージョン5.0からAppleWorksと改称された。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1988年、Appleはマイクロソフトとヒューレット・パッカードがAppleの著作権であるGUIを侵害しているとして、長方形で重なり合い、サイズ変更が可能なウィンドウを使用していることなどを理由に訴えた。4年後、この訴訟はAppleに不利な判決が下され、その後の控訴も同様だった。フリーソフトウェア財団は、AppleがGUIを独占しようとしていると感じ、7年間Macintosh用のGNUソフトウェアをボイコットした。",
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"text": "同年にはモトローラのMC68030プロセッサを搭載したMacintosh IIxが登場したが、これはオンボードメモリ管理ユニットなどの内部改良が施されていた。1989年にはスロット数を減らしてよりコンパクトになったMacintosh IIcxと、16MHzのMC68030を搭載したMacintosh SEのバージョンであるMacintosh SE/30が発売された。同年末、持ち運び可能なバッテリーで駆動するMacintosh Portableを発表した。また、25MHzで動作するMacintosh IIciを発表し、Macとしては初めて「32ビットクリーン」を実現した。これにより、「32ビットダーティ」のROMを搭載していた従来の製品とは異なり、8MB以上のRAMをネイティブにサポートすることができた。System 7は、32ビットアドレスをサポートする最初のMacintosh用OSだった。翌年には、9,900ドルからのMacintosh IIfxが発表された。40MHzの高速プロセッサMC68030を搭載しただけでなく、メモリの高速化や入出力処理専用のApple II CPU(6502)を2個搭載するなど、内部のアーキテクチャを大幅に改善していた。",
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1990年5月に発売されたMicrosoft Windowsの第3弾、Windows 3.0は、MS-DOSをベースにしたグラフィカルなOSではあったが、高価なMacintoshと同等の機能と性能を備えた初めてのWindowsであった。当時、MacintoshはまだWindowsよりも優れていると考えられていたが、この時点でWindowsは「平均的なユーザにとっては十分な性能を持っていた」とされていた。また、前年にジャン=ルイ・ガセーがMacの利益率を下げることを断固として拒否していたことも追い討ちをかけた。さらに、1989年には急激に拡大したパソコン業界を揺るがす部品不足が発生し、Apple USAの責任者であるアラン・ローレンは値下げを余儀なくされ、Appleの利益率は低下した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "これを受けて、Appleは1990年10月に比較的安価なMacを発売した。2001年初頭までは、Macintosh SEの廉価版であるMacintosh Classicが最も廉価なMacとして販売された。MC68020を搭載したMacintosh LCは、ピザ箱のような独特の筐体にカラーグラフィックを搭載し、512×384ピクセルの低価格カラーモニタを販売していた。また、Macintosh IIsiは、20MHzのMC68030で、拡張スロットを1つ付けただけのものであった。この3機種はいずれもよく売れたが、Appleの利益率はそれまでの機種に比べてかなり低かった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1991年には、32ビットに書き換えられたMacintoshシステム「System 7」が発売され、カラーグラフィックスの性能向上(Truecolor対応)、仮想メモリの導入、ネットワーク、協調マルチタスクの標準化などが行われた。また、この時期、Macintoshは「スノーホワイト」デザインから少しづつ脱却し、Frogdesignに支払っていた高額なコンサルティング料も払わなくなっていた。Appleは、1989年にロバート・ブルーナーを雇ってデザインを内製化を進め、彼はApple Industrial Design Groupを設立し、すべてのApple製品の新しいデザインを担当することになった。同年10月にはMacintosh Classic II、Macintosh LC IIのほか、Appleの最上位機種であるMacintosh Quadra(700、900)と、Macintosh Portableに比べて現在のノートパソコンに近いPowerBook(100、140、170)の2つのコンピュータファミリーが発売された。ソニーがAppleのために開発・製造したPowerBook 100と、Apple社内で開発されたPowerBook 140, 170は、キーボードをスクリーンに近づけて配置し、手前にトラックボールとパームレストのためのスペースを確保するなど、後に標準となる斬新なデザインを採用している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1993年、Appleはさらに広い市場を開拓するために、PerformaとQuadraの間に位置し、その名の通りAppleの製品群の中心となるMacintosh Centrisを発売した。1994年に、Appleは新たな入力デバイスとして、PowerBook 500シリーズからトラックパッドへ移行した。また、モトローラのMC680x0アーキテクチャの採用が中止され、1991年にApple、IBM、モトローラの3社で結成されたAIM連合が設計したRISCアーキテクチャであるPowerPCが採用された。この新しいプロセッサファミリーは、Macintoshの新しいファミリーであるPower Macintosh(後にPower Macと略される)を生み出した。1995年1月、生産開始から1年も経たないうちに、Appleは100万台の販売を発表し、相対的な成功を示した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "しかし、このような努力にもかかわらず、インテルのマイクロプロセッサとMicrosoft Windowsシステムを搭載したPC互換機に押され、Appleのシェアはますます低下していった。この傾向は、新しいIntel Pentium搭載のコンピュータやWindows 95の発売により、ますます強まっていった。後者は、PCのマルチメディア機能を向上させ、WindowsのインターフェースをMacのシステムにどんどん近づけていった。これを受け、AppleはOSのライセンスプログラムを開始し、他社がSystem 7.5を搭載したMacintosh互換機を販売できるようにした。これらのマシンは「クローン」と呼ばれている。しかし、これらのクローンのシェアは、主にAppleのMacintoshのシェアを侵食しただけで、その目的は達成されなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "スティーブ・ジョブズの復帰直前の1997年5月に、Appleの20周年を記念し、12,000台の「Twentieth Anniversary Macintosh」が発売された。しかし高価格に見合わない低性能で、販売はふるわず、大幅値下げで在庫処分された。この機種は、当時PowerBook 3400c搭載のものと同サイズの液晶デシスプレイを搭載しているのが特徴で、Appleのデスクトップパソコンとしては初の試みだった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1997年7月、ジョブズがAppleで復権した後、廃止されたCoplandプロジェクトに代わって、System 7.7がMac OS 8と改称された。AppleはSystem 7.xのみをサードパーティメーカにライセンスしていたため、クローン製品の販売に終止符を打つことができた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1998年、スティーブ・ジョブズが暫定最高経営責任者(iCEO)に復帰した後、Appleは新しいオールインワン・コンピュータ「iMac」を発売した。15インチのスクリーンとロジックボードは同じ半透明プラスチックケースに収められており、最初はボンダイブルーのみだったが、後に他のカラーバリエーションが追加された。他のMacintoshとは一線を画すデザインであることに加え、ADB端子とSCSI端子とシリアルポートが廃止され、2つのUSB端子が採用された。内蔵フロッピーディスクドライブもなくなり、リムーバブルメディアはCD-ROMドライブになった。1998年8月15日に発売されてから年末まで、Appleは80万台以上を販売した。この売上とPower Macintosh G3により、Appleは1995年以来の黒字を達成した。1999年には、ホワイトとブルーの半透明プラスチックケースのPower Macintosh G3 (Blue & White)と、新製品であるAppleのコンシューマ向けノートパソコン「iBook」が発売された。前年のiMacと同様、iBookも成功を収め、1999年の最終四半期にはアメリカで最も売れたノートパソコンとなった。同年秋、AppleはPowerPC G4プロセッサを搭載したPower Mac G4の最初のバージョンを発売した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "iMacやiBookで様々な色を採用してきたAppleは、コンシューマー向けマシンでは白いポリカーボネートを採用した。2001年に発売された新しいiBook、2002年に発売されたiMac G4とeMacは白いポリカーボネートを採用しているが、プロ向けのマシンには、PowerBook G4にはチタン合金、Xserveにはアルミニウム合金というように、金属製のケースを採用した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その後、PowerPC G4は、2003年のPowerPC G5にその座を譲り、Power Mac G5、そして2004年のiMacに搭載された。PowerPC G5はエネルギー消費量と発熱量が多すぎ、Appleはノートパソコンに搭載できなかった。2005年1月、AppleはMac miniを発表した。これは、同社が販売するMacの中で最も安価なもので、発売時の価格は499ドルだった。Mac OS 8のリリース後、Mac OSは最終的に9.2.2までアップデートを続けた。バージョン8.1ではHFS+ファイルシステムのサポート、バージョン8.5ではPowerPCプロセッサのみへの対応、バージョン8.6ではナノカーネルの登場など、様々な改良が加えられた。Coplandプロジェクトが頓挫したAppleは、1996年12月にNeXTを買収し、NEXTSTEPオペレーティングシステムを新しいMacオペレーティングシステム「Mac OS X」のベースにすることにした。後者は、XNUカーネルに実装されたMachカーネルをベースにしており、どちらもNEXTSTEPで使用され、BSDからのコードで強化されてMac OS XのコアであるDarwinに含まれている。最初のパブリックベータ版は2000年9月に30ドルでリリースされ(日本語対応パブリックベータ版は同年10月に3,500円で販売)、新システムのプレビューや、バグの報告が可能となっていた。Mac OS Xの最初のバージョンである10.0(コードネーム:Cheetah)は、2001年3月24日に発売された。前のバージョンのMac OS用に設計されたアプリケーションを実行するための、Classic環境が含まれる。その後、10.1 Puma(2001年)、10.2 Jaguar(2002年)、10.3 Panther(2003年)、10.4 Tiger(2005年)と次々とMac OS Xのメジャーアップデートをリリースし機能の充実を計った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2005年6月6日、WWDCの基調講演において、1年後以降の消費電力あたりの性能向上が著しいことを理由に、2006年半ばよりCPUをPowerPCからインテルX86系のものへと順次切り替えていくとAppleより発表された。これは、特に熱に弱いノートパソコン向けに、インテルの低消費電力チップ「Core Duo」と歩調を合わせ、同社のコンピュータをより現代的なものにするために行ったものである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2006年8月7日のMac Pro発表で、すべてのMacにインテル製のX86プロセッサが採用され、それに伴って一部のMacの名称が変更された。Mac OS X 10.6以下(10.7以降はサポート終了)のインテルベースのMacでは、PowerPC用に開発された既存のソフトウェアをRosettaという動的コード変換プログラムを使って動かすことが可能だったが、ネイティブプログラムに比べて明らかに速度が遅かった。しかも、インテルのアーキテクチャでは、Classic環境を利用することができなかった。インテルMacの登場により、Virtual PCなどのエミュレーションソフトを使わずに、Appleのハードウェア上でMicrosoft Windowsをネイティブに動作させることが可能になった。2006年4月5日、Appleは、インテルベースのMacにWindows XPをインストールするためのソフトウェア「Boot Camp」のパブリックベータ版の提供を発表した。Mac OS X 10.5ではClassic環境が廃止され、Boot CampはインテルベースのMacの標準機能となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2006年以降、Appleのインダストリアルデザインはアルミニウムにシフトし、初代MacBook Proの筐体にもアルミニウムが使用された。2008年には、MacBook Proの高精細ユニボディ化に伴い、ガラスが採用された。これらの素材は環境にやさしいとされている。2022年現在、Mac Pro、iMac、MacBook Pro、MacBook Air、Mac miniの各シリーズは、すべてアルミニウム合金の塊から削り出したユニボディ筐体を採用している。当時のチーフデザイナージョナサン・アイブは、ノートパソコンのバッテリ交換を廃止するなど、製品をミニマルでシンプルなものにした。また、iPhoneで採用されているマルチタッチジェスチャーをMacでも採用し、ノートパソコンではマルチタッチトラックパッド、デスクトップパソコンではMagic MouseとMagic Trackpadを採用している。これにより、3本指や4本指などでの操作もできるよう改良され、スクロールのほか、画像の拡大・縮小や回転、Exposéの利用やアプリケーションの切り替えなどの機能が追加された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2011年2月24日、Appleは、インテルと共同開発した新しいI/OインターフェースであるThunderbolt(コードネーム:Light Peak)を採用したコンピュータを初めて市場に投入した。Mini DisplayPortと同じ物理インターフェースを採用し、同規格との下位互換性を持つThunderboltは、双方向で10Gbit/sの転送速度を誇る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2012年6月12日、初のRetinaディスプレイを搭載したMacBook Proを発表。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2015年、IBMが自社に最大20万台のMacを順次導入すると発表し、Mac@IBMプログラムで自社へ大規模導入した経験 を元にAppleとの提携の一環として、IBM Managed Mobility Services for Mac を開始した。日本でも2016年5月より開始している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "第4世代のMacBook Proは、2016年10月に開催されたApple Special Eventで発表されたもので、デザインの薄型化、ヘッドフォンジャックを除くすべてのポートがUSB Type-Cポートに変更され、MacBookに搭載されていたバタフライキーボード、P3広色域ディスプレイ、そしてMacBook Proの一部モデルでファンクションキーとEscキーに代わるタッチスクリーンの有機ELディスプレイ「Touch Bar」が搭載され、使用するアプリケーションに応じて変化・適応するUIが採用された。また、Touch Bar搭載モデルでは、電源ボタンをTouch IDセンサーに置き換えた。Apple T1チップも搭載しており、インテルのCPUを採用したまま、アーキテクチャは刷新され、Touch BarやTouch IDを含むハードウェアを制御しセキュリティを司るbridgeOSが採用されている。発売後の評価は賛否両論だった。また、USB-Cポートは、多くのユーザ、特にMacBook Proのプロフェッショナル層にとって不満の種となっており、USB Type-AやSDメモリーカードを接続するためのアダプタなどを購入する必要があった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "数か月後、MacBookおよびMacBook Proに搭載されているバタフライキーボードが動作しなくなるという報告が多くのユーザから寄せられた。この問題は、キーボードの下に砂や食べかすなどの小さな異物やほこりが入り込み、キーボードが詰まってしまったため、Apple Storeまたは正規サービスセンターに持ち込んで修理してもらうことになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2013年のMac Proがアップデートを受けることなく数年が経過した後、マーケティング担当上級副社長のフィリップ・シラーとソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長のクレイグ・フェデリギは2017年に現行のMac Proが期待に応えられていないことを認めた。iMac Proは、WWDC 2017でジョン・ターナスハードウェアエンジニアリング担当副社長によって、 最大18コアのIntel XeonプロセッサとRadeon Pro Vega GPUを搭載して発表された。次世代Mac Proが登場するまでのプロユーザ向けの応急処置という側面もあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2018年、Appleはより高速なプロセッサと第3世代のバタフライキーボードを搭載したMacBook Proを更新し、同年に発売されたRetinaディスプレイ搭載のMacBook Airのデザインを一新して、キーボードに埃や小さな物体の侵入を防ぐシリコンガスケットを追加し、影響を受けたキーボードを無償で修理するプログラムを開始したが、ユーザは引き続きキーボード問題に悩まされていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2019年のMacBook ProとMacBook Airの刷新では、いずれもバタフライキーボードが廃止され、Appleが「Magic Keyboard」と呼ぶ、2016年以前のMacBookで採用されていたシザースイッチ機構の改良版に変更された。また、Touch BarとTouch IDがすべてのMacBook Proに標準装備され、Touch ID・電源ボタンが分離されてより右側に移動し、Escキーも物理的になりTouch Barから切り離された。WWDC 2019で、ジョン・ターナスが発表した新しいMac Proは、従来の円筒形デザインよりも前のMac Proに近いように見えるが全く新しい設計の筐体デザインで、Apple独自のカスタムデザインのPCI Express拡張スロット「MPX Module」によるアップグレード性が格段に向上しており、AMDグラフィックスカードなどの標準的なPCI Expressも動作する仕様になった。ほとんどの部品がユーザによる交換が可能で、iFixitによる修理可能性の評価は9/10となっている。レビューでは、モジュール化やアップグレード性、静音性などが評価され、前世代のMac Proに不満を持っていたプロの要望にも応えていると評価された。」",
"title": "歴史"
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"text": "2018年4月、ブルームバーグは、Appleがインテル製プロセッサの搭載を中止し、同社のiPhoneに使われているようなARMプロセッサに置き換えるつもりであるとする噂を掲載し、インテルの株価は6%下落した。この噂についてコメントしたザ・ヴァージは、インテルがラインナップの大幅な改善に失敗しており、ARMチップとバッテリ駆動時間で競争できないことから、このような決定は理にかなっていると述べた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "2020年6月22日のWWDCの基調講演において、AppleはMacに搭載するCPUを今まで採用してきたインテル製のものからARMアーキテクチャをベースにした自社設計のAppleシリコン(SoC)に今後2年間で切り替えると発表した。2005年に発表されたPowerPCからインテルへの移行時と同様に、Appleシリコンを搭載したMacは、Rosetta 2と呼ばれる動的コード変換プログラムを使用し、インテル用に設計されたソフトウェアを実行することが可能になっている。Appleは、開発者に対し、1年後に返却することを条件にDeveloper Transition Kit(DTK)を500ドルで提供した。DTKは、2020年モデルのiPad Proと同じA12Z Bionicチップを搭載したMac miniで、ARMアーキテクチャ搭載の次期Macにアプリケーションを最適化するためのものだった。",
"title": "歴史"
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"text": "2020年11月10日、Appleシリコンを搭載して出荷する最初のMacとして、MacBook Air、Mac mini、13インチMacBook Proを発表した。いずれも、これまでAppleが製造してきたどのAシリーズプロセッサよりも高速で、4つの高性能コアと4つの低電力コアを備えたカスタムデザインのApple M1を搭載し、MacBook Airでは7コアのGPUオプション、上位モデルでは8コアのGPUを搭載し、Proとminiでは標準装備となっている。さらに、16コアのNeural Engineを搭載し、機械学習のパフォーマンスが最大11倍に向上していると発表された。これらのチップは電力消費量が大幅に少ないため、MacBook Pro 13インチのバッテリ駆動時間は最大20時間となっている。発売されてからの評価は非常に好評で、ほとんどのレビュアーが「前世代で使われていたインテルのチップよりも、バッテリ駆動時間が長く、発熱がずっと少なく、ずっと速い」と評価している。また、Rosetta 2は、ほとんどのインテル製アプリケーションで動作し、パフォーマンスの低下もさほどなく、WindowsやマイクロソフトのSurface Pro Xよりも高速なパフォーマンスと採用を実現したと評価されている。",
"title": "歴史"
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"text": "2021年4月20日、7つの新色とApple M1チップを搭載した新しい24インチiMacが発表された。筐体全体が100%再生アルミニウム合金製となり、11.5mmの薄さになった。スクリーンは21.5インチ4Kから24インチ4.5K Retinaディスプレイにアップグレードされ、画面の縁がより薄くなった。",
"title": "歴史"
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"text": "2021年10月19日、AppleのMedia Engineを備えたApple M1 ProとApple M1 Maxを搭載しデザインを刷新した14インチと16インチのMacBook Proが発表された。2020年発売のApple M1搭載13インチMacBook Proは据え置きになり、新たなラインナップとして14インチが追加された。プロセッサがアップデートされ、XDRディスプレイとしてミニLEDバックライトでHDR対応となりProMotionに対応するなど、刷新された。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年3月9日、Apple M1 Maxの隠されていた機能である「UltraFusion」を使った別のM1 Maxへの接続により新型SoCであるApple M1 UltraもしくはM1 Maxを搭載した新しいMac Studioが発表された。M1 UltraによりCPUの性能は16コアIntel Xeonを搭載しているMac Proよりも5.3倍の処理性能を持つ。さらに同イベント内で新しいMacディスプレイのStudio Displayも発表された。",
"title": "歴史"
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"text": "2023年1月17日、Apple M2とM2 Proを搭載したMac mini発表。MacBook Pro 14、16インチモデルもM2 ProとM2 Maxを搭載した機種へ更新された。",
"title": "歴史"
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"text": "2023年6月5日、Mac StudioとともにApple M2 Ultraを搭載したMac Proを発表し、全てのApple製品のAppleシリコンへの移行を完了させた。同時にMacBook Air初の15インチモデルを追加している。",
"title": "歴史"
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"text": "PowerPC G3搭載機の発売以降、機種の絞り込みが続いており、デスクトップとノートブックにそれぞれ上位機種と下位機種を1機種ずつ(合計4機種)提供することが基本になっている。2023年1月時点ではデスクトップ4機種とノートブック4機種(合計8機種)に集約されている。",
"title": "機種"
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"text": "2023年1月時点で販売されている機種は、インテル製のマルチコアプロセッサ及びAppleの独自開発SoC(Appleシリコン)が搭載された機種となっている。macOSがインストールされており、インテル製プロセッサを搭載するMacに限り、別売りのWindows 10やLinux、ChromeOSなど他のOSをインストールすれば、切り替えて利用することが可能になっている。また、Appleシリコン搭載機種でもARM向けにビルドしたMicrosoft Windows 11を動作させることは技術的に可能であるが、現時点でマイクロソフトはARM向けWindows 11のライセンス供給はプリインストールPCのみとしており、ライセンス上は使用不可。Appleの関係者はマイクロソフト次第としている。",
"title": "機種"
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"text": "Appleは、フォックスコンやPegatronなどのアジアの相手先商標製品メーカにハードウェアの製造を委託し、最終製品に対する高度なコントロールを維持している。対照的に、マイクロソフトを含む他の多くの企業は、デル、HP Inc.、ヒューレット・パッカード、コンパック、レノボなど、さまざまなサードパーティが製造するハードウェア上で実行可能なソフトウェアを作成している。そのため、Macの購入者は、マイクロソフトの購入者と比較して、選択肢は比較的少ないものの、優れた統合性を有している。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "2023年のMac製品群のほとんどは、Appleが設計したAppleシリコンが採用されている。Mac Proのみ、Intel X86-64プロセッサを採用したものが残されている。Appleは、10年前のMC68000アーキテクチャからの移行時と同様に、PowerPCチップからの移行時にもRosettaと呼ばれる動的コード変換プログラムを導入した。Macは、新しいCPU設計への移行を成功させた唯一のメインストリームコンピュータプラットフォームであり、その移行は2度にわたって行われた。現行のすべてのMacモデルには、最低8ギガバイトのRAMが標準で搭載されており、Appleが設計したGPUが内蔵されている。かつてのMacには、AppleがSuperDriveと呼ぶ、DVD/CDの2つの機能を持つ光学メディアドライブが搭載されていたが、現在SuperDriveを内蔵したMacを出荷していない。現在のMacには、USBとThunderboltの2つの標準的なデータ転送ポートが搭載されている。また、MacBook Pro、iMac、MacBook Air、Mac miniには、Appleによれば最大で毎秒40ギガビットの速度でデータを転送できるThunderbolt 4ポートが搭載されている。USBは1998年のiMac G3に搭載され、当時FireWireは主にハードディスクやビデオカメラなどの高性能な機器に限られていた。2005年10月に発売されたiMac G5を皮切りに、iSightカメラを内蔵したモデルや、Apple Remoteやキーボードで操作してコンピュータに保存されているメディアを閲覧できるFront Row機能を搭載したモデルなどがある。しかし、2011年現在、Front Rowは廃止され、Apple RemoteもMacには同梱されていない。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "Appleは当初、複数のボタンやスクロールホイールを備えたマウスの採用には消極的であり、ワンボタンマウスは、Macintosh独特のインターフェースとして知られていた。1984年に初代Macintoshに搭載されたワンボタンマウスは、Macの「使いやすさ」を実現するための中心的存在だった。2001年にMac OS Xが登場するまで、Macはサードパーティ製であっても複数のボタンを持つポインティングデバイスをネイティブにサポートしていなかった。2005年8月にMighty Mouseを発売するまで、Appleはワンボタンマウスのみを販売していた。Mighty Mouseは機械的には従来のワンボタンマウスのように1つのボタンがマウス全体を覆ったような形をしているが、実際には「副クリック」を含む4つのボタンと、X軸とY軸を独立して動かすことができるスクロールボールを備えていた。2006年7月にはBluetooth対応の無線タイプも発売された。2009年10月、Appleは物理的なスクロールホイールやボールの代わりに、iPhoneと同様のマルチタッチジェスチャー認識を採用した無線タイプのみのMagic Mouseを発表した。有線タイプのMighty MouseはApple Mouseとして再ブランド化し、2017年に製造中止になるまで代替品として販売されていた。また、2010年以降、AppleはMacのデスクトップパソコンをノートパソコンと同様の方法で操作する手段としてMagic Trackpadを販売している。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "初代Macintoshは、コマンドラインを使わないグラフィカルユーザインタフェースを採用した最初の成功したパーソナルコンピュータである。デスクトップメタファーと呼ばれる、書類やゴミ箱などの現実世界のオブジェクトをアイコンとして画面に表示する方式を採用している。1984年に初代Macintoshとともに登場したシステムソフトウェアは、1997年に「Mac OS」と改称され、バージョン9.2.2まで進化を続けてきたが、現在ではClassic Mac OSとして知られている。日本市場では「漢字Talk」と呼ばれていた。過去にAppleは、A/UX、MkLinuxなどのOSも開発していた。また、Apple製以外ではBeOS、BSDなどが実行できた。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "インテル搭載のMacが発売された後、Parallels Desktop、VMware Fusion、VirtualBoxなどのサードパーティ製プラットフォーム仮想化ソフトウェアが登場した。これらのソフトウェアは、Microsoft Windowsや従来のWindows専用ソフトウェアを、ネイティブに近い速度でMac上で動作させることができる。また、Windows XP、Vista、7、8、10をインストールし、Mac OS XとWindowsをネイティブにデュアルブートするためのBoot CampやMac専用Windowsドライバーもリリースされた。Boot Campやその他の仮想化のワークアラウンドを使って、Linuxを実行することも可能である。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "Mac OS Xはバージョン10.9で「OS X」と改称された。バージョン10.12以降、OS Xは「macOS」となり、AppleのOS(iOS、tvOS、watchOS)の名称を統一することにした。また、2001年から続いたバージョン10.xシリーズ(Mac OS X CheetahからmacOS Catalina)は2020年に終止符が打たれ、同年にバージョン11(macOS Big Sur)、翌年にはバージョン12(macOS Monterey)とバージョン数のパターンが変更された。",
"title": "ソフトウェア"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "1970年代から1980年代前半にかけて、コンピュータ関連の広告は、ほとんどインサイダー(アーリーアダプタなど)、企業、政府、大学などの視聴者に向けたものだった。IBMのPCと同様に、Appleは「1984」のCMを、視聴者数が9,000万人を超える米国最大のテレビイベント「第18回スーパーボウル」にて放送するなど、大規模なキャンペーンを展開し、初代Macintoshを一般の人々に広めた。1984年に成功したAppleは、翌年にもMacintosh Officeの広告である「レミングス」を放送したが、これは潜在的な購入者を不満にしたため失敗に終わった。Macintoshの広告が再びスーパーボウルに現れたのは、1999年、HALがデイビットにMacintoshはY2K問題フリーだと発表してからだった。このような広告に加え、AppleはMacintosh Plus、Performa、Quadra、さらにはPowerBookなど、より一般的な広告を報道機関で行っている。後者については、新聞やテレビで「What's on your PowerBook」というスローガンを掲げたキャンペーンが行われている。Microsoft Windows 95が発売されると、Appleはこれに対抗し、マイクロソフトのシステムを否定するキャンペーンを行った。プレスリリースに掲載されたAppleの広告には、「想像してみてください、書類を捨てても戻せるゴミ箱付きのデスクトップを!」と書かれていた。この機能は、11年前に発売されたMacintoshに搭載されていたものである。テレビ広告でも同じような内容のものが放送された。ある講演者が、Windows 95でプレゼンテーションを開始するのは不可能だと突きつけられ、観客からは理解しにくいコードの行を指摘される。簡単に使えるパソコンを探しているなら、解決策は一つしかないというナレーションが流れ、会場から「Macintoshを買おう!(Buy a Macintosh!)」という声が聞こえるという内容だった。",
"title": "マーケティング"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "スティーブ・ジョブズが最高経営責任者に復帰した直後の1997年、Appleは「Think different」キャンペーンを展開し、1990年代半ばの会社の衰退によって損なわれたイメージを回復させようとした。CM、都市部でのポスター、プレス広告などを加えたこのキャンペーンは成功し、1998年には広告部門で初のエミー賞を受賞した。「Think Different」は、2002年に「Switch」キャンペーンに引き継がれるまで、Appleのスローガンとなった。「Switch」キャンペーンでは、Macに「乗り換えた」一般ユーザーが、PCの問題点を語っていた。Appleは2006年から「Get a Mac」キャンペーンを実施し、Macの普及に努めてきた。この広告には、Mac OS X(現macOS)とWindowsを搭載したマシンを擬人化した「Mac」と「PC」というキャラクタが登場しており、主人公2人の短い議論を通して、Macの長所とライバル(Windows)の短所が強調されている。",
"title": "マーケティング"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "従来の広告に加えて、Appleはカンファレンスを開催し、Macをはじめとする新製品の発表とプロモーションを行っている。これらの会議は、Macworld Conference & Expo、Apple Expo、Worldwide Developers Conferenceなどの展示会の枠組みの中で、あるいはApple Eventと呼ばれるシンプルな記者会見の中で開催されていた。基調講演は、スティーブ・ジョブズが復帰してから2011年10月5日に逝去した後も、聴衆の前で行われることが多く、その様子は全てではないがインターネットで中継されている。",
"title": "マーケティング"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "Macintoshは、マット・グレイニングが制作した『フューチュラマ』や『ザ・シンプソンズ』などのアニメシリーズの制作者にも影響を与えており、いくつかのエピソードに登場するコンピュータは、Macintoshの特定のモデルに大きく影響を受けている。",
"title": "影響"
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]
| Mac(マック)またはMacintosh(マッキントッシュ)は、Appleが開発および販売を行っているパーソナルコンピュータである。 | {{Redirect|Macintosh|その他|マッキントッシュ}}
[[File:Macbook Air M1 Silver PNG.png|thumb|[[MacBook Air]] (M1, 2020)]]
'''Mac'''(マック){{Efn2|「Mac」は元は愛称であったが、2000年頃から主要な公式名称として使われるようになった<ref>{{Cite journal|和書|url=https://jp.tidbits.com/TidBITS-jp-1496.html|title="Macintosh" と言う言葉がまだ使われている数少ない例|author=Adam Engst; 亀岡孝仁(訳)|journal=TidBITS日本語版|issue=1496|date=2020-1-10|accessdate=2022-8-1}}</ref>。}}または'''Macintosh'''(マッキントッシュ)は、[[Apple]]が開発および販売を行っている[[パーソナルコンピュータ]]である。
== 概要 ==
Macintoshは、Appleの創業者の一人、[[スティーブ・ジョブズ]]の陣頭指揮のもとに開発された。ジョブズの思想や夢、感性が設計思想に盛り込まれ、直感的で視覚的な操作[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]、画面に表示される文字[[フォント]]の細やかさや美しさ、画面と印刷物に表示される図像の精度(特に[[WYSIWYG]]の実現)、筺体の美しさなどが重視されている([[#歴史]])。
このような特徴から、Macintoshは[[DTP]]の道を切り開き一般化させた。そのうえで、各時代の[[デザイン]]関連の先端の[[ソフトウェア]]を動かせる(かつては唯一の)プラットフォームとなった。{{要出典範囲|現在でも[[グラフィックデザイン]]、[[イラストレーション]]、[[Webデザイン]]、書籍・雑誌などの[[組版]]業務で主流のプラットフォームである|date=2021年8月}}。
{{独自研究範囲|当初から、コンテンツ制作に有用なプラットフォームとして評価されている。デザインや組版に限らず、広く「表現」にかかわるアーティストの多くがプラットフォームにMacintoshを使用し高く評価した。|date=2021年8月}}それにより、音楽([[デスクトップミュージック|デジタルミュージック]]、[[デジタルオーディオワークステーション|DAW]])、映像([[ノンリニア編集]]、[[VFX]])等でも使われ続けている。また、[[個人]]の[[クリエイター]]だけでなく、Web系のIT企業でもコンテンツを作成する作業が多いため、多く採用されている{{Efn2|反面、[[日本]]の[[システムインテグレーター]]では[[Microsoft Windows|Windows]]が主流である。}}。
[[21世紀]]には技術的な分野でも有用なプラットフォームとなっている。[[2001年]]にリリースされた[[MacOS|Mac OS X]]以降、Macに搭載されている[[オペレーティングシステム]] (OS) は、公式なライセンスを受けた正統派の[[UNIX]]である。正統派UNIXであることにより、入手しやすい市販のコンピュータでありながら、UNIX・[[Linux]]系のソフトウェアが問題なく利用できるプラットフォームとして{{要出典範囲|重宝されている|date=2021年8月}}。[[理学]]、[[工学]]などの[[科学]]・[[エンジニアリング]]の分野や、[[物理学]]、[[天体物理学]]などの研究室で世界的に採用されている。[[アメリカ合衆国]]では初等教育から高等教育などでも広く採用されている。
== 歴史 ==
=== 1979年 - 1984年:開発 ===
[[ファイル:Early Macintosh Prototype Computer History Museum Mountain View California 2013-04-11 23-45.jpg|サムネイル|1981年当時のMacintoshの試作機([[コンピュータ歴史博物館]]にて)]]
[[1970年代]]後半にMacintoshプロジェクトは始まった。[[1978年]]に[[Apple]]に入社した[[ジェフ・ラスキン]]は、「使いやすく、安価で、一般の消費者が手に入れられるコンピュータを作りたい」というアイデアを持っていた。[[1979年]]3月、Apple Computerの3人の創業者の1人である[[マイク・マークラ]]にアイデアを提示した。1979年9月、後者から許可を得て、数人を雇用してApple社内に開発チームを立ち上げた。このプロジェクトは、ラスキンの好きなリンゴである[[マッキントッシュ (リンゴ)|マッキントッシュ]]({{Lang|en|McIntosh}})にちなんで「Macintosh」と名付けられた。しかし、法律上の理由から、[[Hi-Fi]]機器のメーカーである[[マッキントッシュ・ラボ]]({{Lang|en|McIntosh Laboratory}})に近すぎるため、名前の綴りを変更しなければならなかった<ref>[[#sj1|アイザックソン(2011)p.181]]</ref><ref>{{Cite web|url=http://mxmora.best.vwh.net/JefRaskin.html|title=Recollections of the Macintosh project|accessdate=2021-06-13|archiveurl=http://archive.wikiwix.com/cache/index2.php?url=http%3A%2F%2Fmxmora.best.vwh.net%2FJefRaskin.html|archivedate=2011-02-24}}</ref>。ラスキンは、このコンピュータのために考えたすべてのアイデアを『{{Lang|en|The Book of Macintosh}}』という本にまとめた<ref name=":0">{{Cite web|title=Folklore.org: The Father Of The Macintosh|url=https://www.folklore.org/StoryView.py?project=Macintosh&story=The_Father_of_The_Macintosh.txt|website=Folklore|accessdate=2021-06-13|publisher=[[アンディ・ハーツフェルド]]}}</ref>。試作機を作る[[技術者]]を探していたラスキンは、[[Apple Lisa]]プロジェクトの[[ビル・アトキンソン]]の推薦で、[[Apple II]]のメンテナンス部門に属していたバレル・スミスを採用した<ref>{{Cite book|和書|edition=[Rev. 2nd ed.]|title=Apple confidential 2.0 : the definitive history of the world's most colorful company|url=https://www.worldcat.org/oclc/52821221|publisher=No Starch Press|date=2004|location=San Francisco, Calif.|isbn=1-59327-010-0|oclc=52821221|others=Owen W. Linzmayer|first=Owen W.|last=Linzmayer|page=88}}</ref>。ラスキンは、Macintoshの成功の決め手となった2つの要素、[[Motorola 68000]][[マイクロプロセッサ]]と[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の使用に反対した。ラスキンの「Macintosh」の設計案は、現在知られる「Macintosh」とは、基本的なコンセプトが大きく異なっており、テキストベースのインターフェースを持つマシン(ラスキンがApple退社後に開発した[[キヤノン・キャット]]に似たマシン<ref>{{Cite web |title=Canon's Cat Computer: The Real Macintosh |url=http://www.landsnail.com/apple/local/cat/canon.html |website=www.landsnail.com |accessdate=2022-02-01}}</ref>)として構想されていた<ref name=":1" /><ref name=":0" />。ラスキンの思い描いていたコンピュータというのは低価格指向で、価格は1000ドル以下を想定し、それを実現するためにCPUは64[[オクテット (コンピュータ)|キビオクテット]]以上のアドレスを指定できない[[MC6809]](8ビットCPU)で済ませ、5インチディスプレイを備えたもので、インタフェースに関しても、テキストベースでありグラフィカルインターフェースを備えないもので、その後ジョブズが指揮をとり発売されることになったMacintoshとは別物である{{Efn2|ジェフ・ラスキンは、それ以前にAppleで[[Apple I]]および[[Apple II]]の[[マニュアル]]([[取扱説明書]])の作成を行っていた際、技術用語や命令口調の排除、カラー写真および画像の多用、背綴じでなくリングを使った綴じ方を採用しユーザが操作をしながら参照し易いようにする、などの配慮を怠らなかった。これらは当時のコンピュータ業界では新しい試みで、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙開発プロジェクトからヒントを得たとされている(注:リングで綴じたマニュアルは、NASAのアポロ計画で採用された宇宙飛行士向けのマニュアルに倣ったものである。)。彼は、これらマニュアルデザインの方向性、および「Macintosh」という親しみやすい名称を思いついた、という点においては、発売後のMacintoshにも「一種の足跡を残した」と 言える。(マニュアルも、リング綴じは廃止されてしまった。)プロジェクトチームを立ち上げたにもかかわらず、チームをジョブズに「のっとられて」しまった。}}。Apple Lisaのプログラムの進化に興味を持ったMacintosh開発チームの責任者[[バド・トリブル]]は、バレル・スミスにLisaのMC68000をMacintoshに搭載しながら、できるだけコストを抑えてみる提案をした。スミスは[[1980年]]12月、MC68000の周波数を5[[メガヘルツ]](MHz)から8メガヘルツ(MHz)に上げながら、MC68000を内蔵する回路基板を設計して、この挑戦に挑んだ。この回路では、[[Random Access Memory|RAM]]チップの数が少なくて済むため、価格も安くなった。[[1984年]]に発売された最終モデルは、64[[キロバイト]]の[[読み出し専用メモリ]]と、64キロビットのチップを16個組み合わせた128キロバイトのRAMを搭載している。9[[インチ]]の画面は[[モノクロ]]で、512×342[[ピクセル]]を表示する仕様になっていた<ref>{{Cite web|title=Folklore.org: Five Different Macintoshes|url=https://www.folklore.org/StoryView.py?story=Five_Different_Macs.txt|website=Folklore|accessdate=2021-06-13|publisher=[[アンディ・ハーツフェルド]]}}</ref>。
1980年末、当時Apple Computerの[[最高経営責任者]](CEO)だったマイケル・スコットは、会社の[[リストラ]]を進め、創業者の1人である[[スティーブ・ジョブズ]]はLisaプロジェクトからの離脱を余儀なくされる。[[1980年]][[12月12日]]の[[株式公開]]に向けて、スコットから代表として派遣されたが、経営者としての説得力はなかった。そこで、ジェフ・ラスキンのMacintoshプロジェクトに目を向けた。ジョブズは、Lisaプロジェクトから除外されたことへの復讐だと考えていた。ジョブズとラスキンは何度か対立しており、ラスキンはマウスを欲しがらず、逆にジョブズはマウスのないMacintoshを見たくないということで、マウスは意見が分かれた。スティーブ・ジョブズはこの対決で勝利を収めた。というのも、MacintoshはLisaで使われていたマウスとともにAppleから発売されたのである。このような度重なる対立と2人のキャラクタの大きなエゴにより、[[1984年]]1月のMacintoshの正式発売の約2年前の[[1982年]][[3月1日]]、ジェフ・ラスキンはMacintoshプロジェクトとApple Computerから正式に離脱した<ref>{{Cite book|和書|edition=[Rev. 2nd ed.]|title=Apple confidential 2.0 : the definitive history of the world's most colorful company|url=https://www.worldcat.org/oclc/52821221|publisher=No Starch Press|date=2004|location=San Francisco, Calif.|isbn=1-59327-010-0|oclc=52821221|others=Owen W. Linzmayer|first=Owen W.|last=Linzmayer|page=94}}</ref>。[[アンディ・ハーツフェルド]]によると、現在世間で知られている[[Macintosh 128K]]は、ジェフ・ラスキンが『{{Lang|en|The Book of Macintosh}}』の中で想像していたコンピュータとはほとんど関係がないという<ref name=":0" />。また、[[スティーブ・キャップス]]との共著『{{Lang|en|Revolution in The Valley: The Insanely Great Story of How the Mac Was Made}}』では、スティーブ・ジョブズがジャン=ミシェル・フォロンを雇って、ブランドを代表するキャラクター「{{Lang|en|Mr. Macintosh}}」を作りたいと考えていたと述べている<ref>{{Cite web|title=The Story of Mister Macintosh|url=https://www.applegazette.com/mac/the-story-of-mister-macintosh/|website=Apple Gazette|date=2012-08-29|accessdate=2021-06-13|language=en-us}}</ref>。
=== 1984年:発売 ===
[[ファイル:Macintosh 128k transparency.png|thumb|[[Macintosh 128K]]:マウスと[[グラフィカルユーザインタフェース]]を使ったパーソナルコンピュータとして初めて商業的に成功した]][[ファイル:Macintosh-motherboard.jpg|サムネイル|8 MHzの[[Motorola 68000]][[マイクロプロセッサ]]を搭載した[[Macintosh 128K]]の[[マザーボード|ロジックボード]]]]
[[1982年]]、[[レジス・マッケンナ]]はMacintoshのマーケティングと発売のために招聘された<ref>{{Cite book|和書|title=Relationship marketing : successful strategies for the age of the customer|url=https://www.worldcat.org/oclc/23973518|publisher=Addison-Wesley Pub. Co|date=1991|location=Reading, Mass.|isbn=0-201-56769-5|oclc=23973518|first=Regis|last=McKenna|pages=192-193}}</ref>。その後、レジス・マッケンナのチームには、ジェーン・アンダーソン、ケイティ・キャディガン、アンディ・カニンガムが加わり、最終的にはAppleを率いていた<ref>{{Cite web|title=Folklore.org: Can We Keep The Skies Safe?|url=https://www.folklore.org/StoryView.py?project=Macintosh&story=Can_We_Keep_The_Skies_Safe?.txt|website=Folklore|accessdate=2021-06-15}}</ref><ref>{{Cite web|title=Regis McKenna: The P.R. Guru of Silicon Valley : Clout With High-Tech Firms and Press Is Great, but Some Are Disenchanted|url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1985-08-04-fi-4511-story.html|website=Los Angeles Times|date=1985-08-04|accessdate=2021-06-15|language=en-US|last=Facebook}}</ref>。カニンガムとアンダーソンは、Macintoshの主要な発売計画作者であった<ref>{{cite web|last=Cunningham|first=Andy|title=Macintosh Product Introduction Plan|work=Technology and Culture in Silicon Valley|publisher=[[スタンフォード大学]]|url=http://web.stanford.edu/dept/SUL/library/mac/primary/docs/pip83.html|access-date=2015-04-19}}</ref><ref>{{cite web|last=Marinaccio|first=Wendy|title=Andy Cunningham on the Macintosh Introduction|work=Technology and Culture in Silicon Valley|publisher=[[スタンフォード大学]]|url=http://web.stanford.edu/dept/SUL/library/mac/primary/interviews/cunningham/macintro.html|access-date=2015-04-19}}</ref><ref>{{cite web|last=Ghosh|first=Shona|title=Steve Jobs' marketing maven on smashing the silicon ceiling|publisher=Marketing|date=June 24, 2015|url=http://www.marketingmagazine.co.uk/article/1352676/steve-jobs-marketing-maven-smashing-silicon-ceiling|access-date=June 24, 2015}}</ref>。Mactintoshの発売は、「マルチプルエクスクルーシブ」、イベントマーケティング(ペプシからコンセプトを持ち込んだジョン・スカリー氏による)、製品の神秘性の演出、製品の制作過程の紹介など、今日のテクノロジー製品の発売に用いられるさまざまな戦術の先駆けとなった<ref>{{cite web|last=Marinaccio|first=Wendy|title=Cunningham on the Influence of the Macintosh Launch|work=Technology and Culture in Silicon Valley|publisher=[[スタンフォード大学]]|url=http://web.stanford.edu/dept/SUL/library/mac/primary/interviews/cunningham/influence.html|access-date=2015-04-19}}</ref>。
[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]の発表後、[[1983年]]2月にジョン・ドボルザークがAppleで謎の「MacIntosh」プロジェクトがあるという噂を取り上げた。[[1983年]]10月には[[カリフォルニア州]][[フリーモント (カリフォルニア州)|フリーモント]]にあるAppleの工場で製造された「[[Macintosh 128K]]」が発表され、12月には18ページのパンフレットが各種雑誌に同梱されていた<ref>{{cite web|url=http://www.digibarn.com/collections/ads/apple-mac/|title=Apple Macintosh 18 Page Brochure|publisher=DigiBarn Computer Museum|access-date=2006-04-24}}</ref><ref name="argus">{{cite news|first=Rob|last=Dennis|title=Fremont mayor Bob Wasserman dead at 77|url=http://www.insidebayarea.com/news/ci_19641994|work=The Argus (Fremont)|date=2011-12-30|accessdate=2012-01-21}}</ref>。Macintoshは、150万米ドルの[[リドリー・スコット]]のテレビコマーシャル「[[1984 (広告)|1984]]」で紹介された。[[1984年]][[1月22日]]に開催された[[第18回スーパーボウル]]の第3クォーターで放映されたこの広告は、現在では「分水嶺」「傑作」と評されている。マッケンナは、この広告を「Macそのものよりも成功している」と称した。「1984」では、コンピューター業界を支配しようとする[[IBM]]社の「適合性」から人類を救う手段として、無名のヒロインを使ってMacintosh(白い[[タンクトップ]]に[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]風のコンピューターの絵が描かれていることで示される)の登場を表現した。この広告は、ジョージ・オーウェルの小説『[[1984年 (小説)|1984年]]』を引用したもので、テレビで放映される「[[ビッグ・ブラザー]]」に支配される[[ディストピア]]的な未来を描いている<ref name="cellini">{{cite news|url=http://findarticles.com/p/articles/mi_hb197/is_200401/ai_n5556112|title=The Story Behind Apple's '1984' TV commercial: Big Brother at 20|last=Cellini|first=Adelia|date=2004-01|work=[[Macworld]] 21.1、18頁|archiveurl=http://arquivo.pt/wayback/20090628133757/http://findarticles.com/p/articles/mi_hb197/is_200401/ai_n5556112|archivedate=2009-06-28|accessdate=2008-05-09}}</ref><ref>{{Cite news|title=Jan. 22, 1984: Dawn of the Mac|url=https://www.wired.com/2007/01/jan-22-1984-dawn-of-the-mac/|work=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|accessdate=2021-06-15|issn=1059-1028|language=en-US|date=2007-01-22}}</ref>。
「1984」の放映から2日後の[[1月24日]]に発売された[[Macintosh 128K|初代Macintosh]]には、そのインターフェースを見せるための「[[MacWrite]]」と「[[MacPaint]]」の2つのアプリケーションが同梱されていた。スティーブ・ジョブズの基調講演で初めて披露されたMacは、瞬く間に熱狂的な支持を集めたが、単なる「おもちゃ」との評価もあった<ref>{{Cite news|title=We're All Mac Users Now|url=https://www.wired.com/2004/01/were-all-mac-users-now/|work=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|accessdate=2021-06-15|issn=1059-1028|language=en-US|date=2004-01-06}}</ref>。[[GUI]]を中心に設計された[[オペレーティングシステム|OS]]であるため、既存のテキストモードやコマンド駆動のアプリケーションは、デザインを変更したり、プログラミングコードを書き換えたりする必要があった。これは時間のかかる作業であり、多くのソフトウェア開発者が敬遠したため、当初、新システム用のソフトウェアが不足していたとも考えられている。また、回復不能なシステムエラーが発生した時には{{仮リンク|爆弾マーク|en|Bomb_(icon)}}が表示されるが、これは初代Macintoshから存在していた<ref name="mac-raisan">{{Cite book|和書|author=中原晃司、梶浦正規|title=マッキントッシュ礼賛|year=1997|date=1997-6-1|page=110|publisher=株式会社カットシステム|isbn=4-906391-45-1}}</ref>。1984年4月には[[マイクロソフト]]社の「[[Microsoft Multiplan]]」が、1985年1月には「[[Microsoft Word]]」が[[MS-DOS]]から移行してきた<ref>{{cite web|url=http://www.islandnet.com/~kpolsson/applehis/appl1984.htm|title=Chronology of Apple Computer Personal Computers|author=Polsson, Ken|access-date=2007-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090821105822/http://www.islandnet.com/~kpolsson/applehis/appl1984.htm|archivedate=2009-08-21}}</ref>。[[1985年]]、[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス・ソフトウェア]]は、[[IBM PC]]用の[[Lotus 1-2-3]]の成功を受けて、Macintosh用の[[Lotus Jazz]]を発表したが、ほとんど失敗に終わった<ref>{{cite magazine|author=Beamer, Scott|date=January 13, 1992|title=For Lotus, third time's the charm|url=http://www.accessmylibrary.com/article-1G1-11721498/lotus-third-time-charm.html|access-date=June 23, 2010|magazine=MacWEEK}}</ref>。同年、Appleは「レミングス」という広告でMacintosh Officeスイートを発表した。この広告は、自社の潜在的な顧客を侮辱したことで有名だが、成功しなかった<ref name=":2">{{Cite web|title=Apple’s Worst Business Decisions – OSnews|url=https://www.osnews.com/story/16036/Apples-Worst-Business-Decisions/|website=OS News|accessdate=2021-06-15}}</ref>。
Appleは250万ドルを投じて、選挙後に発行された[[ニューズウィーク]]誌の39ページすべての広告を購入し、「Test Drive a Macintosh」というプロモーションを展開した<ref>{{Cite web|title=GUIdebook > ... > Mac OS > Macintosh advertisement|url=https://guidebookgallery.org/ads/magazines/macos/macos10-newsweek|website=GUIdebook, [[ニューズウィーク]]|accessdate=2021-06-15}}</ref>。このプロモーションでは、[[クレジットカード]]を持った購入希望者が24時間Macintoshを持ち帰り、その後ディーラーに返却することができた。20万人が参加した一方で、販売店はこのプロモーションを嫌い、需要に対してコンピュータの供給が不足し、多くのコンピュータが販売できないほど悪い状態で返却された。このマーケティングキャンペーンにより、[[最高経営責任者]](CEO)の[[ジョン・スカリー]]は価格を1,995ドルから2,495ドル(2020年の6,000ドル相当)に引き上げた<ref>{{Cite web|title=Apple unveils a Macintosh|url=https://news.google.com/newspapers?id=pVdWAAAAIBAJ&pg=5088,4154157|website=Spokesman-Review, [[AP通信]]|accessdate=2021-06-15}}</ref><ref name=":2" />。それでも、この年の初めに出荷が開始された[[IBM PCjr]]を上回る勢いで売れ、ある販売店では600台以上の注文が残ったという<ref name=":3">{{Cite news|title=Clipped From The Cincinnati Enquirer|url=https://www.newspapers.com/clip/31276226/the-cincinnati-enquirer/|work=The Cincinnati Enquirer|date=1984-03-28|accessdate=2021-06-15|pages=17}}</ref><ref name="time19840402">{{cite news|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,954205-2,00.html|title=The Peanut Meets the Mac|author1=McCarroll, Thomas|author2=Michael Moritz|author3=Philip Elmer-DeWitt|date=1984-04-02|work=Time|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080609012541/http://www.time.com/time/magazine/article/0%2C9171%2C954205%2C00.html|archivedate=2008-06-09|accessdate=2011-02-23}}</ref>。1984年4月には5万台のMacintoshを販売し、5月初旬には7万台、年末には25万台近くを販売したいと考えていた<ref>{{Cite news|title=APPLE IS BANKING ON NEW PORTABLE: THE IIC COMPUTER|url=https://www.nytimes.com/1984/04/24/business/apple-is-banking-on-new-portable-the-iic-computer.html|work=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1984-04-24|accessdate=2021-06-15|issn=0362-4331|language=en-US|first=Thomas C.|last=Hayes}}</ref>。
=== 1984年 - 1990年:デスクトップパブリッシング ===
[[ファイル:Macintosh SE b.jpg|サムネイル|アップグレードが可能な初のコンパクトMacintosh、[[Macintosh SE]]]]
[[Apple II]]の販売先は企業が中心だったが、[[IBM PC]]の登場により、中小企業や学校、一部の家庭がAppleの主要顧客となった<ref name="maceiie19840409">{{cite news|url=https://books.google.com/books?id=jC4EAAAAMBAJ&pg=PA54|title=Apple IIe Sales Surge as IIc is Readied|work=InfoWorld|date=1984-04-09|access-date=4 February 2015|author=Mace, Scott|pages=54–55}}</ref>。ジョブズは、Macintoshの発表時に「MacintoshがApple II、IBM PCに次ぐ第3の業界標準になると期待している」と述べている。他のすべてのコンピュータを凌駕し、ある販売店が「最初の2,500ドルの衝動買い」と表現するほどの魅力を持っていたMacintoshだが、最初の1年間は、特にビジネスユーザの間で期待に応えられなかった。[[MacWrite]]や[[MacPaint]]など10種類ほどのアプリケーションしか普及していなかったが<ref name="bartimo19850225">{{cite news|url=https://books.google.com/books?id=6C4EAAAAMBAJ&pg=PA30|title=Macintosh: Success And Disappointment|work=InfoWorld|date=1985-02-25|access-date=27 January 2015|author=Bartimo, Jim|pages=30}}</ref><ref name=":3" />、多くのApple以外のソフトウェア開発者が導入に参加し、ロータス、[[デジタルリサーチ]]、[[アシュトンテイト]]など79社が新しいコンピュータのために製品を作っていることをAppleは約束した。それぞれのコンピュータが1年後には、ワープロ1つ、データベース2つ、表計算ソフト1つなど、Macintoshのソフトウェアの品揃えはPCの4分の1にも満たなかったが、Appleは28万台のMacintoshを販売したのに対し、IBMの初年度のPC販売台数は10万台にも満たなかった<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=Macintosh Vs. IBM PC At One Year|url=https://books.google.com/books?id=-i4EAAAAMBAJ&pg=PA15|publisher=InfoWorld Media Group, Inc.|date=1985-01-07|language=en|first=InfoWorld Media Group|last=Inc|pages=16-17}}</ref>。MacWriteがMacintoshに搭載されたことで、開発者は他のワープロソフトを作る意欲を失った<ref name=":4" />。
Macintoshは、ソフトウェア開発者を熱狂させたが<ref name=":3" />、[[グラフィカルユーザインタフェース]]を使用するソフトウェアの書き方を習得する必要があり<ref name="infoworld19850114">{{cite news|url=https://books.google.com/books?id=-i4EAAAAMBAJ&pg=PA15|title=Macintosh Vs. IBM PC At One Year|work=InfoWorld|date=1985-01-14|access-date=28 December 2014|author1=Watt, Peggy|author2=McGeever, Christine|pages=16–17}}</ref>、また販売当初にはMacintoshのソフトウェアを書くためにLisa 2やUnixシステムが必要だった<ref name="dacruz19840611">{{cite mailing list|url=http://www.columbia.edu/kermit/ftp/e/mail.84b|title=Macintosh Kermit No-Progress Report|publisher=Kermit Project, Columbia University|mailing-list=Info-Kermit Digest|date=1984-06-11|access-date=24 February 2016|author=da Cruz, Frank}}</ref>。[[Infocom]]社は、Macの発売に合わせて、バグの多い初期のOSを独自の最小限の起動可能なゲームプラットフォームに置き換え、唯一のサードパーティゲームを開発していた<ref name="maher20130320">{{cite web|url=http://www.filfre.net/2013/03/the-top-of-its-game/|title=The Top of its Game|work=The Digital Antiquarian|date=March 20, 2013|access-date=July 10, 2014|author=Maher, Jimmy}}</ref>。ソフトウェア開発に[[Pascal]]を採用しているにもかかわらず、AppleはネイティブコードのPascal[[コンパイラ]]をリリースしなかった。サードパーティ製のPascalコンパイラが登場するまでは、開発者は他の言語でソフトウェアを書きながら、「Inside Macintosh」と呼ばれるMacintoshの[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]や[[アーキテクチャ記述言語|マシンアーキテクチャ]]を解説した開発者向けマニュアルを理解できる程度のPascalを習得しなければならなかった。
[[ファイル:Laserwriter.jpg|代替文=LaserWriter|サムネイル|300x300ピクセル|LaserWriter]]
Apple Macintoshとして発売された[[Macintosh 128K]]は、Apple Macintoshパーソナルコンピュータの原型である。ベージュ色の筐体に9インチ(23cm)のブラウン管モニターを搭載し、キーボードとマウスが付属していた。筐体の上部はハンドル形状になっており、持ち運びが容易だった。これは、1984年にAppleが発表した象徴的なテレビ広告と同義であった。このモデルと同年9月に発売された[[Macintosh 512K|512K]]には、ハードプラスチックのカバーの内側にコアチームのサインが浮き彫りにされており、すぐにコレクターズアイテムとなった。
[[1985年]]、MacとAppleの[[LaserWriter]]プリンタ、そしてボストン・ソフトウェアのMacPublisherや[[Aldus]]の[[Pagemaker|PageMaker]]などのMac専用ソフトウェアの組み合わせにより、テキストやグラフィックを含むページレイアウトをデザイン、プレビュー、印刷できるようになり、これが[[DTP]](デスクトップパブリッシング)として知られるようになった。当初、デスクトップパブリッシングはMacintosh専用だったが、やがて他のプラットフォームでも利用できるようになった<ref>{{Cite book|last=Spring|first=Michael B.|title=Electronic printing and publishing: the document processing revolution|publisher=CRC Press|year=1991|pages=125–126|url=https://books.google.com/books?id=_MV46vFUrI4C&pg=PA125|isbn=978-0-8247-8544-4}}</ref>。その後、[[Macromedia FreeHand|Aldus FreeHand]]、[[QuarkXPress]]、[[アドビ]]の[[Illustrator]]や[[Photoshop]]などのアプリケーションが登場し、Macはグラフィックコンピュータとしての地位を確立し、デスクトップパブリッシング市場の拡大に貢献した<ref>{{Cite web|title=How Adobe Became a Successful $95 Billion SaaS Company|url=https://producthabits.com/adobe-95-billion-saas-company/|website=Product Habits|date=2018-01-15|accessdate=2021-07-06|language=en}}</ref>。
1984年の初代MacintoshではOSの一部が64KBのROMに収容されていたため、メモリやストレージの負担が小さく128KBのメモリで多くの業務が可能であった。しかし一般的なアプリケーションではメモリが不足しており、[[フロッピーディスク]]をたびたび入れ替える必要があるなど実用性に問題があった<ref>{{Cite web|title=Apple Macintosh M0001 128K upgraded to 512K - Computer - Computing History|url=http://www.computinghistory.org.uk/det/15282/Apple-Macintosh-M0001-128K-upgraded-to-512K/|website=Centre for Computing History|accessdate=2021-07-02}}</ref>。Macintoshが実用に耐えるマシンとなったのは、512KBのメモリと128KBのROMを搭載して1984年10月に3,195ドルで発売された「Fat Mac」と呼ばれた改良版の[[Macintosh 512K]]である<ref>{{Cite web|title=Macintosh 512K: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP187?locale=en_IE|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh 512k Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_classic/specs/mac_512k.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref><ref>{{Cite web|title=Apple Macintosh 512k - Computer - Computing History|url=http://www.computinghistory.org.uk/det/6093/Apple-Macintosh-512k/|website=Centre for Computing History|accessdate=2021-07-02}}</ref>。2年後には、フロッピーディスクドライブは片面400KBから両面800KBのものになった[[Macintosh 512Ke]]が発売された<ref>{{Cite web|title=Macintosh 512Ke: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP188?locale=en_US|website=[[Apple]]|accessdate=2021-07-02}}</ref>。
[[ファイル:Macintosh822014.JPG|サムネイル|[[Macintosh Plus]]]]
[[1986年]][[1月10日]]、Appleは「[[Macintosh Plus]]」を2,600ドルで発売した。[[ランダム・アクセス・メモリーズ|RAM]]の容量は1[[メガバイト]](1,024キロバイト)で、ソケット式のRAMボードを使えば4MBまで拡張できた。[[Small Computer System Interface|SCSI]]ポートを装備し、ハードディスクやスキャナーなどの周辺機器を最大7台まで接続することができた。また、[[フロッピーディスク]]の容量も800KBに拡張された。Macintosh Plusはすぐに成功を収め、[[1990年]][[10月15日]]まで変わらず生産された。4年10か月強にわたって販売されたMac Plusは、[[2013年]][[12月19日]]に発売された第2世代の[[Mac Pro]]が[[2018年]][[9月18日]]にこの記録を上回るまで、Apple史上最も長寿のMacintoshであった<ref>{{Cite web|title=Macintosh Plus: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP190?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh Plus (ED) Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_classic/specs/mac_plus.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。
1987年には20MBのハードディスクを内蔵し1個の拡張スロット[[Processor Direct Slot|PDS]]を装備した[[Macintosh SE]]が2,900ドルで発売された(ハードディスク付きは3900ドル)<ref>{{Cite web|title=Macintosh SE: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP191?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh SE Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_classic/specs/mac_se.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref><ref>{{Cite web|title=Apple Macintosh SE - Computer - Computing History|url=http://www.computinghistory.org.uk/det/2051/Apple-Macintosh-SE/|website=Centre for Computing History|accessdate=2021-07-02}}</ref>。[[ジェリー・マノック]]とテリー・オヤマのオリジナルデザインを継承しつつ、[[スノーホワイトデザイン言語]]を採用したほか、数か月前にApple IIGSに搭載された[[Apple Desktop Bus]](ADB)マウスとキーボードを採用していた。また、同年にAppleはモトローラの新技術を活用し、16MHzの[[MC68020]]プロセッサを搭載した「[[Macintosh II]]」を5500ドルで発売した<ref>{{Cite web|title=Macintosh II: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP193?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh II (Original) Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_ii.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。主な改良点は、マシンの心臓部であるグラフィックス言語をカラー化し、あらゆるディスプレイサイズ、24ビットの色深度、マルチモニタに対応できるなど、さまざまに工夫されていた。[[NuBus]]拡張スロットを備えた[[オープンアーキテクチャ]]、カラーグラフィックスと外部モニタのサポートなど、Macintosh SE同様にスノーホワイトデザイン言語を採用したMacintosh IIは新しい方向性の始まりだった<ref>{{Cite web|和書|title=祝 Macintosh 30周年!! セパレート&カラーMacの元祖Macintosh II|Mac|url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/620/2620843/|website=週刊アスキー|accessdate=2021-07-02|language=ja|last=ASCII}}</ref>。ハードディスクを内蔵し、ファン付きの電源を搭載していたため、当初は大きな音がしていた。あるサードパーティの開発者が、熱センサーでファンの回転数を調整する装置を販売したが、保証が無効になった<ref>{{cite web|url=http://support.apple.com/kb/TA40560|title=Macintosh II Family: Fan Regulator Voids Warranty|access-date=December 23, 2007|publisher=Apple|date=July 2, 1992}}</ref>。その後のMacintoshでは、電源やハードディスクの静音化が図られた。
[[1987年]]、Appleはソフトウェア事業を[[クラリス (企業)|クラリス]]社として独立させた。クラリスは、MacWrite、MacPaint、MacProjectなどのアプリケーションのコードと権利を与えられた。[[1980年代]]後半、クラリスはソフトウェアを刷新し、MacDraw Pro、MacWrite Pro、FileMaker Proなどの「Pro」シリーズを発表した。また、完全なオフィススイートを提供するために、[[Informix]]の表計算ソフト「Wingz」のMac版の権利を購入して「Claris Resolve」と改名し、新しいビジネス文書作成ソフト「クラリスインパクト(Claris Impact)」<ref>{{Cite web|和書|title=クラリス|url=https://web.archive.org/web/19971210231445/http://www.claris.co.jp/data/dci3/dci3.html|website=web.archive.org|date=1997-12-10|accessdate=2021-10-03}}</ref>を追加した。[[1990年代]]初頭には、クラリスのアプリケーションは消費者レベルのMacintoshの大半に搭載され、非常に高い人気を得ていた。[[1991年]]、クラリスはClarisWorksをリリースし、すぐに同社の2番目のベストセラーアプリケーションとなった。[[1998年]]にクラリスがAppleに再統合された際、ClarisWorksはバージョン5.0から[[AppleWorks]]と改称された<ref>{{cite web|publisher=MIT Project on Mathematics and Computation|url=http://www-swiss.ai.mit.edu/~bob/clarisworks.php|title=A Brief History of ClarisWorks|access-date=December 24, 2007|year=2003|author=Hearm, Bob|archive-url=https://web.archive.org/web/20071224153145/http://www-swiss.ai.mit.edu/~bob/clarisworks.php|archive-date=December 24, 2007|url-status=dead|df=mdy-all}}</ref>。
[[1988年]]、Appleは[[マイクロソフト]]と[[ヒューレット・パッカード]]がAppleの著作権である[[GUI]]を侵害しているとして、長方形で重なり合い、サイズ変更が可能なウィンドウを使用していることなどを理由に訴えた。4年後、この訴訟はAppleに不利な判決が下され、その後の控訴も同様だった。[[フリーソフトウェア財団]]は、AppleがGUIを独占しようとしていると感じ、7年間Macintosh用の[[GNU]]ソフトウェアをボイコットした<ref>{{cite journal|author=[[Free Software Foundation]]|date=June 11, 1988|title=Special Report: Apple's New Look and Feel|url=https://www.gnu.org/bulletins/bull5.html#SEC9|journal=GNU's Bulletin|volume=1|issue=5|access-date=April 25, 2006}}</ref><ref>{{cite journal|author=[[Free Software Foundation]]|date=January 1995|title=End of Apple Boycott|url=https://www.gnu.org/bulletins/bull18.html#SEC13|journal=GNU's Bulletin|volume=1|issue=18|access-date=April 25, 2006}}</ref>。
[[ファイル:Macintosh Portable-IMG 7541.jpg|サムネイル|Apple初のバッテリ駆動のMacintosh、[[Macintosh Portable]]]]
同年にはモトローラの[[MC68030]]プロセッサを搭載した[[Macintosh IIx]]が登場したが、これはオンボード[[メモリ管理ユニット]]などの内部改良が施されていた<ref>{{Cite web|title=Macintosh IIx: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP194?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh IIx Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_iix.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。[[1989年]]にはスロット数を減らしてよりコンパクトになった[[Macintosh IIcx]]と<ref>{{Cite web|title=Macintosh IIcx Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_iicx.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>、16MHzのMC68030を搭載したMacintosh SEのバージョンである[[Macintosh SE/30]]が発売された<ref>{{Cite web|title=Macintosh SE/30: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP195?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh SE/30 Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_classic/specs/mac_se30.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。同年末、持ち運び可能なバッテリーで駆動する[[Macintosh Portable]]を発表した<ref>{{Cite web|title=The Misunderstood Macintosh Portable|url=https://lowendmac.com/musings/09mm/misunderstood-mac-portable.html|website=lowendmac.com|accessdate=2021-06-23}}</ref>。また、25MHzで動作する[[Macintosh IIci]]を発表し、Macとしては初めて「32ビットクリーン」を実現した。これにより、「32ビットダーティ」の[[Read only memory|ROM]]を搭載していた従来の製品とは異なり、8MB以上の[[ランダム・アクセス・メモリーズ|RAM]]をネイティブにサポートすることができた<ref>{{Cite web|title=Macintosh IIci: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP197?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh IIci Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_iici.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。System 7は、32ビットアドレスをサポートする最初のMacintosh用[[オペレーティングシステム|OS]]だった<ref>{{Cite web|title=32-bit Addressing on Older Macs|url=https://lowendmac.com/2015/32-bit-addressing-on-older-macs/|website=Low End Mac|date=2015-12-26|accessdate=2021-06-20|language=en-US}}</ref>。翌年には、9,900ドルからの[[Macintosh IIfx]]が発表された。40MHzの高速プロセッサMC68030を搭載しただけでなく、メモリの高速化や[[入出力]]処理専用のApple II CPU([[MOS 6502|6502]])を2個搭載するなど、内部のアーキテクチャを大幅に改善していた<ref>{{Cite web|title=Macintosh IIfx: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP203?locale=en_US|website=Appleサポート|accessdate=2021-06-20|publisher=[[Apple]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh IIfx Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_iifx.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-20}}</ref>。
=== 1990年 - 1998年:Appleの衰退 ===
[[1990年]]5月に発売された[[Microsoft Windows]]の第3弾、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]は、[[MS-DOS]]をベースにしたグラフィカルなOSではあったが、高価なMacintoshと同等の機能と性能を備えた初めてのWindowsであった。当時、MacintoshはまだWindowsよりも優れていると考えられていたが、この時点でWindowsは「平均的なユーザにとっては十分な性能を持っていた」とされていた<ref name=":5">{{Cite web|title=Michael Spindler: The Peter Principle at Apple|url=https://lowendmac.com/2013/michael-spindler-peter-principle-apple/|website=Low End Mac|date=2013-08-18|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>。また、前年に[[ジャン=ルイ・ガセー]]がMacの利益率を下げることを断固として拒否していたことも追い討ちをかけた。さらに、[[1989年]]には急激に拡大したパソコン業界を揺るがす部品不足が発生し、Apple USAの責任者であるアラン・ローレンは値下げを余儀なくされ、Appleの利益率は低下した<ref name=":5" />。
[[ファイル:Macintosh LC.jpg|代替文=Macintosh LC|サムネイル|Macintosh LC]]
これを受けて、Appleは[[1990年]]10月に比較的安価なMacを発売した。[[2001年]]初頭までは、[[Macintosh SE]]の廉価版である[[Macintosh Classic]]が最も廉価なMacとして販売された<ref name="lesscostlyMacClassic">{{cite news|title=Less-Costly Apple Line To Be Presented Today|first=Lawrence M.|last=Fisher|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0CEFD9163CF936A25753C1A966958260|newspaper=[[The New York Times]]|date=1990-10-15|accessdate=2008-01-16}}</ref>。[[MC68020]]を搭載した[[Macintosh LC]]は、ピザ箱のような独特の筐体にカラーグラフィックを搭載し、512×384[[ピクセル]]の低価格カラーモニタを販売していた<ref>{{Cite web|title=Macintosh LC: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP205?locale=en_US|website=support.apple.com|accessdate=2021-06-21}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh LC (Original) Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_lc/specs/mac_lc.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-21}}</ref>。また、[[Macintosh IIsi]]は、20MHzのMC68030で、拡張スロットを1つ付けただけのものであった<ref>{{Cite web|title=Macintosh IIsi: Technical Specifications|url=https://support.apple.com/kb/SP199?locale=en_US|website=support.apple.com|accessdate=2021-06-21}}</ref><ref>{{Cite web|title=Macintosh IIsi Specs: EveryMac.com|url=https://everymac.com/systems/apple/mac_ii/specs/mac_iisi.html|website=everymac.com|accessdate=2021-06-21}}</ref>。この3機種はいずれもよく売れたが<ref>{{cite news|title=I.B.M. Surprises Wall Street With Strong Quarterly Net; Apple Posts 20.6% Rise|first=Lawrence M.|last=Fisher|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE2DA163BF93BA25752C0A967958260|work=[[The New York Times]]|date=1991-01-18|accessdate=2008-01-16}}</ref>、Appleの利益率はそれまでの機種に比べてかなり低かった<ref name="lesscostlyMacClassic" />。
[[ファイル:Powerbook 100 pose.jpg|サムネイル|[[MC68000|MC68HC000]](16MHz)を搭載した[[PowerBook 100]]]]
[[1991年]]には、[[32ビット]]に書き換えられたMacintoshシステム「[[System/7|System 7]]」が発売され、カラーグラフィックスの性能向上(Truecolor対応)、[[仮想メモリー|仮想メモリ]]の導入、ネットワーク、協調マルチタスクの標準化などが行われた。また、この時期、Macintoshは「[[スノーホワイトデザイン言語|スノーホワイト]]」デザインから少しづつ脱却し、Frogdesignに支払っていた高額なコンサルティング料も払わなくなっていた。Appleは、1989年に[[ロバート・ブルーナー]]を雇ってデザインの内製化を進め、彼はApple Industrial Design Groupを設立し、すべてのApple製品の新しいデザインを担当することになった<ref>{{Cite book|和書|last=Kunkel|first=Paul|others=Rick English (photographs)|title=AppleDesign: The work of the Apple Industrial Design Group|url=https://archive.org/details/DTCA3DOC-230_industrial_design|date=1997-10-01|publisher=Graphis Inc.|location=New York City|isbn=1-888001-25-9}}</ref>。同年10月にはMacintosh Classic II、Macintosh LC IIのほか、Appleの最上位機種である[[Macintosh Quadra]]([[Macintosh Quadra 700|700]]、900)と、Macintosh Portableに比べて現在のノートパソコンに近い[[PowerBook]]([[PowerBook 100|100]]、[[PowerBook 140|140]]、[[PowerBook 170|170]])の2つのコンピュータファミリーが発売された<ref>{{Cite web|title=1991: Classic II, First Quadras, and First PowerBooks|url=https://lowendmac.com/1991/1991-classic-ii-first-quadras-and-first-powerbooks/|website=Low End Mac|date=1991-12-31|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>。[[ソニー]]がAppleのために開発・製造したPowerBook 100<ref>{{Cite web|title=PowerBook 100|url=https://lowendmac.com/1991/powerbook-100/|website=Low End Mac|date=1991-10-21|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>と、Apple社内で開発されたPowerBook 140, 170は、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を[[スクリーン]]に近づけて配置し、手前に[[トラックボール]]と[[パームレスト]]のためのスペースを確保するなど、後に標準となる斬新なデザインを採用している<ref>{{Cite web|title=pbzone.com - This website is for sale! - pbzone Resources and Information.|url=http://www.pbzone.com/tenyear.shtml|website=www.pbzone.com|accessdate=2021-06-21}}</ref>。
[[ファイル:Power-Macintosh-8100-80av.jpg|サムネイル|[[Power Macintosh 6100]]、7100とともに[[PowerPC]]を搭載した初のMacintoshである[[Power Macintosh 8100]]]]
[[1993年]]、Appleはさらに広い市場を開拓するために、[[Performa]]と[[Quadra]]の間に位置し、その名の通りAppleの製品群の中心となるMacintosh Centrisを発売した。[[1994年]]に、Appleは新たな入力デバイスとして、[[PowerBook 500シリーズ]]から[[トラックパッド]]へ移行した<ref>{{Cite web|和書|title=タッチパネル技術の最新動向を追う|url=https://ednjapan.com/edn/articles/1103/01/news112.html|website=EDN Japan|accessdate=2021-06-30|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ITジャーナリスト・林信行とAppleのノートパソコン史を振り返る。|url=https://www.pen-online.jp/article/007152.html|website=Pen Online|date=2020-06-01|accessdate=2021-06-30|language=ja}}</ref>。また、モトローラの[[MC68040|MC680x0]]アーキテクチャの採用が中止され、1991年にApple、[[IBM]]、[[モトローラ]]の3社で結成された[[AIM連合]]が設計した[[RISC]]アーキテクチャである[[PowerPC]]が採用された。この新しいプロセッサファミリーは、Macintoshの新しいファミリーである[[Power Macintosh]](後にPower Macと略される)を生み出した。[[1995年]]1月、生産開始から1年も経たないうちに、Appleは100万台の販売を発表し、相対的な成功を示した<ref>{{Cite web|title=1995: Clones, the Worst Macs, Pippin, PCI Slots, and CPU Daughter Cards|url=https://lowendmac.com/1995/1995-clones-the-worst-macs-pippin-pci-slots-and-cpu-daughter-cards/|website=Low End Mac|date=1995-12-31|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>。
しかし、このような努力にもかかわらず、[[インテル]]のマイクロプロセッサと[[Microsoft Windows]]システムを搭載したPC互換機に押され、Appleのシェアはますます低下していった。この傾向は、新しい[[Pentium|Intel Pentium]]搭載のコンピュータや[[Windows 95]]の発売により、ますます強まっていった。後者は、PCの[[マルチメディア]]機能を向上させ、WindowsのインターフェースをMacのシステムにどんどん近づけていった。これを受け、AppleはOSのライセンスプログラムを開始し、他社がSystem 7.5を搭載した[[Macintosh互換機]]を販売できるようにした。これらのマシンは「クローン」と呼ばれている<ref>{{Cite web|title=Apple : le retour des clones|url=https://www.mac4ever.com/dossiers/74303_apple-le-retour-des-clones|website=Mac4Ever|accessdate=2021-06-21|language=fr|first=Denis, Didier, Ergo et|last=Guillaume}}</ref>。しかし、これらのクローンのシェアは、主にAppleのMacintoshのシェアを侵食しただけで、その目的は達成されなかった<ref>{{Cite web|title=Clone sales ding Apple|url=https://www.cnet.com/news/clone-sales-ding-apple/|website=CNET|accessdate=2021-06-21|language=en|first=Michael|last=Kanellos}}</ref>。
スティーブ・ジョブズの復帰直前の1997年5月に、Appleの20周年を記念し、12,000台の「[[Twentieth Anniversary Macintosh]]」が発売された<ref>{{Cite web|title=The Mac Observer - This Week in Apple History - July 18-24: Last 68k Mac, OS 8, Be|url=https://www.macobserver.com/columns/thisweek/2004/20040724.shtml|website=www.macobserver.com|accessdate=2021-06-21}}</ref>。しかし高価格に見合わない低性能で、販売はふるわず、大幅値下げで在庫処分された<ref>{{Cite web|和書|title=ジョブズが葬ったアップル製品5選 |url=https://wired.jp/2011/08/29/ジョブズが葬ったアップル製品5選/ |website=WIRED.jp |date=2011-08-29 |accessdate=2022-02-01 |language=ja-JP |first=Condé |last=Nast}}</ref>。この機種は、当時PowerBook 3400c搭載のものと同サイズの液晶デシスプレイを搭載しているのが特徴で、Appleのデスクトップパソコンとしては初の試みだった<ref>{{Cite web|title=20th Anniversary Mac|url=https://lowendmac.com/1997/20th-anniversary-mac/|website=Low End Mac|date=1997-03-20|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>。
[[1997年]]7月、ジョブズがAppleで復権した後、廃止された[[Copland]]プロジェクトに代わって、System 7.7が[[Mac OS 8]]と改称された。AppleはSystem 7.xのみをサードパーティメーカにライセンスしていたため、クローン製品の販売に終止符を打つことができた。
=== 1998年 - 2005年:復活 ===
[[ファイル:IMac Bondi Blue.jpg|サムネイル|復活の看板を掲げた[[iMac]]]]
[[1998年]]、[[スティーブ・ジョブズ]]が暫定[[最高経営責任者]](iCEO)に復帰した後、Appleは新しいオールインワン・コンピュータ「[[iMac]]」を発売した。15インチのスクリーンと[[マザーボード|ロジックボード]]は同じ半透明プラスチックケースに収められており、最初は[[青緑|ボンダイブルー]]のみだったが、後に他のカラーバリエーションが追加された。他のMacintoshとは一線を画すデザインであることに加え、[[Apple Desktop Bus|ADB端子]]と[[Small Computer System Interface|SCSI端子]]と[[シリアルポート]]が廃止され、2つの[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB端子]]が採用された。内蔵[[フロッピーディスク]]ドライブもなくなり、[[リムーバブルメディア]]は[[光学ドライブ|CD-ROMドライブ]]になった。[[1998年]][[8月15日]]に発売されてから年末まで、Appleは80万台以上を販売した<ref>{{Cite web|title=800,000 iMacs Sold in First 139 Days|url=https://www.apple.com/ca/press/1999/01/iMac_Sales.html|website=[[Apple]]|accessdate=2021-06-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100329123825/https://www.apple.com/ca/press/1999/01/iMac_Sales.html|archivedate=2010-03-29}}</ref>。この売上とPower Macintosh G3により、Appleは1995年以来の[[黒字と赤字|黒字]]を達成した<ref>{{Cite news|title=COMPANY REPORTS; Apple's First Annual Profit Since 1995|url=https://www.nytimes.com/1998/10/15/business/company-reports-apple-s-first-annual-profit-since-1995.html|work=The New York Times|date=1998-10-15|accessdate=2021-06-21|issn=0362-4331|language=en-US|first=John|last=Markoff}}</ref>。[[1999年]]には、ホワイトとブルーの半透明プラスチックケースの[[Power Macintosh G3 (Blue & White)]]と、新製品であるAppleのコンシューマ向けノートパソコン「[[iBook]]」が発売された。前年のiMacと同様、iBookも成功を収め、1999年の最終四半期には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で最も売れたノートパソコンとなった<ref>{{Cite web|title=Apple - Media & Analyst Information - Press Releases|url=https://www.apple.com/pr/library/2000/jan/25ibook.html|website=[[Apple]]|accessdate=2021-06-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040405043429/https://www.apple.com/pr/library/2000/jan/25ibook.html|archivedate=2004-04-05}}</ref>。同年秋、Appleは[[PowerPC G4]]プロセッサを搭載した[[Power Mac|Power Mac G4]]の最初のバージョンを発売した<ref>{{Cite web|title=Yikes! Power Mac G4|url=https://lowendmac.com/1999/power-mac-g4-yikes/|website=Low End Mac|date=1999-08-31|accessdate=2021-06-21|language=en-US}}</ref>。
iMacやiBookで様々な色を採用してきたAppleは、[[コンシューマー]]向けマシンでは白い[[ポリカーボネート]]を採用した。[[2001年]]に発売された新しいiBook、[[2002年]]に発売された[[iMac G4]]と[[eMac]]は白いポリカーボネートを採用しているが、プロ向けのマシンには、[[PowerBook G4]]には[[チタン|チタン合金]]、[[Xserve]]には[[アルミニウム|アルミニウム合金]]というように、金属製のケースを採用した。
[[ファイル:Power Mac G5 hero left.jpg|サムネイル|2003年に発売された[[Power Mac G5]]は、Macとしては初めてアルミ合金筐体を採用した]]
その後、[[PowerPC G4]]は、[[2003年]]の[[PowerPC 970|PowerPC G5]]にその座を譲り<ref>{{Cite web|title=2003: First OS X Only Macs, iBook G4, Power Mac G5, iMac G5, and Mac OS X 10.3|url=https://lowendmac.com/history/2003.html|website=lowendmac.com|accessdate=2021-06-22}}</ref>、[[Power Mac G5]]、そして[[2004年]]のiMacに搭載された。PowerPC G5はエネルギー消費量と発熱量が多すぎ、Appleはノートパソコンに搭載できなかった<ref>{{Cite web|title=CPUs: PowerPC G5|url=https://lowendmac.com/2015/cpus-powerpc-g5/|website=Low End Mac|date=2015-11-10|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。[[2005年]]1月、Appleは[[Mac mini]]を発表した。これは、同社が販売するMacの中で最も安価なもので、発売時の価格は499ドルだった<ref>{{cite news|title=Apple Changes Course With Low-Priced Mac|first1=John|last1=Markoff|first2=Saul|last2=Hansell|url=https://www.nytimes.com/2005/01/12/technology/12apple.html|newspaper=[[The New York Times]]|date=January 12, 2005|accessdate=2006-01-16}}</ref><ref name="BBCunveil">{{cite news|title=Apple unveils low-cost 'Mac mini'|work=[[BBC News]]|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/technology/4162009.stm|date=2005-01-11|accessdate=2010-04-28}}</ref>。Mac OS 8のリリース後、Mac OSは最終的に9.2.2までアップデートを続けた。バージョン8.1では[[HFS+]][[ファイルシステム]]のサポート、バージョン8.5では[[PowerPC]]プロセッサのみへの対応、バージョン8.6では[[ナノカーネル]]の登場など、様々な改良が加えられた<ref>{{Cite web|title=1998: Good-bye Newton; Hello OS 8.1, WallStreet, and iMac|url=https://lowendmac.com/1998/1998-good-bye-newton-hello-os-8-1-wallstreet-and-imac/|website=Low End Mac|date=1998-12-31|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|title=Low End Mac Archive for May 10|url=https://lowendmac.com/arc/0510.html|website=Low End Mac|accessdate=2021-06-22}}</ref>。Coplandプロジェクトが頓挫したAppleは、[[1996年]]12月に[[NeXT]]を買収し、[[NEXTSTEP]]オペレーティングシステムを新しいMacオペレーティングシステム「[[Mac OS X]]」のベースにすることにした。後者は、[[XNU]]カーネルに実装された[[Mach]]カーネルをベースにしており、どちらもNEXTSTEPで使用され、[[Berkeley Software Distribution|BSD]]からのコードで強化されてMac OS Xのコアである[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]に含まれている。最初のパブリックベータ版は[[2000年]]9月に30ドルでリリースされ(日本語対応パブリックベータ版は同年10月に3,500円で販売<ref>{{Cite web|和書|title=Mac OS X Public Betaの販売がApple Storeでスタート |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001023/apple.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |accessdate=2022-02-01}}</ref>)、新システムのプレビューや、バグの報告が可能となっていた<ref>{{Cite web|title=2000: Pismo, the Cube, Dual Processor G4s, Slot-load iMacs, and New iBooks|url=https://lowendmac.com/history/2000.shtml|website=Low End Mac|accessdate=2021-06-22}}</ref>。Mac OS Xの最初のバージョンである10.0(コードネーム:Cheetah)は、[[2001年]][[3月24日]]に発売された。前のバージョンのMac OS用に設計されたアプリケーションを実行するための、Classic環境が含まれる。その後、[[Mac OS X v10.1|10.1 Puma]](2001年)、[[Mac OS X v10.2|10.2 Jaguar]](2002年)、[[Mac OS X v10.3|10.3 Panther]](2003年)、[[Mac OS X v10.4|10.4 Tiger]](2005年)と次々とMac OS Xのメジャーアップデートをリリースし機能の充実を計った。
=== 2005年 - 2016年:インテルへの移行 ===
[[ファイル:Steve Jobs Presentation 1.jpg|サムネイル|Macの搭載CPUを[[インテル]]へ移行することを発表している[[スティーブ・ジョブズ]]]]
[[2005年]][[6月6日]]、[[WWDC]]の基調講演において、1年後以降の消費電力あたりの性能向上が著しいことを理由に、2006年半ばよりCPUをPowerPCからインテルX86系のものへと順次切り替えていくとAppleより発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/348/348284/|title=【WWDC2005基調講演 Vol.3】ジョブズがアップルについて語ったこと──インテル移行計画|author=ASCII.jp|date=2005-06-07|accessdate=2010-11-03}}</ref><ref name="Intel transition">{{cite web|title=Apple to Use Intel Microprocessors Beginning in 2006|url=https://www.apple.com/pr/library/2005/jun/06intel.html|publisher=[[Apple]]|access-date=2010-05-14|date=2005-06-06|archivedate=2010-07-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100722102013/http://www.apple.com/pr/library/2005/jun/06intel.html}}</ref>。これは、特に熱に弱いノートパソコン向けに、インテルの低消費電力チップ「[[Intel Core|Core Duo]]」と歩調を合わせ、同社のコンピュータをより現代的なものにするために行ったものである<ref>{{Cite web|title=Analysis: Why Apple picked Intel over AMD|url=https://www.macworld.com/article/177033/intelvsamd.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。
2006年8月7日の[[Mac Pro]]発表<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、クアッド64ビット Xeonプロセッサ搭載の新しいMac Proを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2006/08/07Apple-Unveils-New-Mac-Pro-Featuring-Quad-64-bit-Xeon-Processors/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP |quote=Macファミリー全機種のIntelへの移行が完了}}</ref>で、すべてのMacにインテル製の[[X86]]プロセッサが採用され、それに伴って一部のMacの名称が変更された<ref>{{Cite web|title=Apple’s most significant products of the decade|url=https://www.macworld.com/article/201833/10significantapplemoves.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。[[Mac OS X v10.6|Mac OS X 10.6]]以下([[Mac OS X Lion|10.7]]以降はサポート終了)のインテルベースのMacでは、PowerPC用に開発された既存のソフトウェアを[[Rosetta]]という動的コード変換プログラムを使って動かすことが可能だったが<ref>{{Cite web|title=Apple launch event coverage — updated live|url=https://www.macworld.com/article/165993/liveupdate.html|website=Macworld|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>、ネイティブプログラムに比べて明らかに速度が遅かった。しかも、インテルの[[アーキテクチャ記述言語|アーキテクチャ]]では、Classic環境を利用することができなかった。インテルMacの登場により、[[Virtual PC]]などのエミュレーションソフトを使わずに、Appleのハードウェア上で[[Microsoft Windows]]をネイティブに動作させることが可能になった<ref>{{Cite web|title=Hackers get Windows XP to run on a Mac|url=https://www.nbcnews.com/id/wbna11885495|website=[[NBC News]]|accessdate=2021-06-22|language=en}}</ref>。[[2006年]][[4月5日]]、Appleは、インテルベースのMacに[[Windows XP]]をインストールするためのソフトウェア「[[Boot Camp]]」のパブリックベータ版の提供を発表した。[[Mac OS X v10.5|Mac OS X 10.5]]ではClassic環境が廃止され、Boot CampはインテルベースのMacの標準機能となった<ref>{{Cite web|title=Boot Camp - Official Apple Support|url=https://support.apple.com/boot-camp|website=support.apple.com|accessdate=2021-06-22}}</ref><ref>{{Cite web|title=Mac OS X Core Bootcamp coming Oct. 13-17|url=https://www.macworld.com/article/167844/bootcamp.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。
[[ファイル:MacBook Air Mid 2012.png|サムネイル|[[MacBook Air]](2012年)]]
[[2006年]]以降、Appleの[[インダストリアルデザイン]]は[[アルミニウム]]にシフトし、初代[[MacBook Pro]]の筐体にもアルミニウムが使用された。[[2008年]]には、MacBook Proの高精細ユニボディ化に伴い、[[ガラス]]が採用された。これらの素材は環境にやさしいとされている<ref>{{cite web|url=https://www.apple.com/environment/|title=The story behind Apple's environmental footprint.|publisher=[[Apple]]|access-date=2011-01-24}}</ref>。2022年現在、Mac Pro、[[iMac]]、MacBook Pro、[[MacBook Air]]、[[Mac mini]]の各シリーズは、すべてアルミニウム合金の塊から削り出したユニボディ筐体を採用している<ref>{{cite web|last=Camen|first=Kroc|title=Apple Updates Mac Mini. Aluminium, HDMI, SD card slot|url=http://www.osnews.com/story/23449/Apple_Updates_Mac_Mini_Aluminium_HDMI_SD_Card_Slot|publisher=OSNews|access-date=2012-05-13}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.apple.com/pr/library/2008/10/14macbook.html|title=New MacBook Family Redefines Notebook Design|date=2008-10-14|publisher=Apple|access-date=2009-12-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100316160727/http://www.apple.com/pr/library/2008/10/14macbook.html|archivedate=2010-03-16}}</ref><ref>{{cite web|url=https://gizmodo.com/5385841/apple-imac-hands-on|title=Apple iMac Hands On|author=Lam, Brian|work=[[Gizmodo]]|date=2009-10-20|access-date=2010-08-18}}</ref>。当時のチーフデザイナー[[ジョナサン・アイブ]]は、ノートパソコンのバッテリ交換を廃止するなど、製品をミニマルでシンプルなものにした<ref>{{Cite news|title=Design According to Ive|url=https://www.wired.com/2003/06/design-according-to-ive/|work=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|accessdate=2021-06-22|issn=1059-1028|language=en-US|date=2009-11-07}}</ref><ref>{{Cite web|title=Watch Jonathan Ive's Segment in Objectified|url=https://gizmodo.com/watch-jonathan-ives-segment-in-objectified-5399420|website=[[Gizmodo]]|accessdate=2021-06-22|language=en-us}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.apple.com/pr/library/2009/06/08mbp.html|title=Apple Updates MacBook Pro Family with New Models & Innovative Built-in Battery for Up to 40% Longer Battery Life|date=2009-06-08|publisher=[[Apple]]|access-date=2009-12-23|archivedate=2010-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100104175321/http://www.apple.com/pr/library/2009/06/08mbp.html}}</ref>。また、[[iPhone]]で採用されている[[マルチタッチ]]ジェスチャーをMacでも採用し、[[ノートパソコン]]では[[トラックパッド|マルチタッチトラックパッド]]、[[デスクトップパソコン]]では[[Magic Mouse]]と[[Magic Trackpad]]を採用している。これにより、3本指や4本指などでの操作もできるよう改良され、スクロールのほか、画像の拡大・縮小や回転、[[Mission Control|Exposé]]の利用やアプリケーションの切り替えなどの機能が追加された<ref>{{Cite web|title=Advanced Multitouch Trackpad 'Unique to MacBook Air'|url=https://www.macrumors.com/2008/02/15/advanced-multitouch-trackpad-unique-to-macbook-air/|website=MacRumors|accessdate=2021-06-30|language=en}}</ref>。
[[2011年]][[2月24日]]、Appleは、インテルと共同開発した新しい[[入出力|I/O]]インターフェースである[[Thunderbolt]](コードネーム:Light Peak)を採用したコンピュータを初めて市場に投入した。[[Mini DisplayPort]]と同じ物理インターフェースを採用し、同規格との下位互換性を持つThunderboltは、双方向で10Gbit/sの転送速度を誇る<ref>{{Cite web|title=Thunderbolt™ Technology: The Fastest Data Connection to Your PC Just Arrived|url=https://newsroom.intel.com/news-releases/thunderbolt-technology-the-fastest-data-connection-to-your-pc-just-arrived/|website=Intel Newsroom|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。
2012年6月12日、初の[[Retinaディスプレイ]]を搭載したMacBook Proを発表<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、まったく新しいMacBook Pro Retinaディスプレイモデルを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2012/06/11Apple-Introduces-All-New-MacBook-Pro-with-Retina-Display/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP}}</ref>。
[[2015年]]、IBMが自社に最大20万台のMacを順次導入すると発表し、Mac@IBMプログラムで自社へ大規模導入した経験<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=DIe-F_QjG6M Mac@IBM Keynote Highlights | JNUC 2015] - YouTube</ref><ref>{{Cite web|title=Mac@IBM, Zero to 30,000 in 6 Months {{!}} JAMF Software|url=https://www.jamf.com/blog/mac-ibm-zero-to-30000-in-6-months/|website=www.jamf.com|accessdate=2021-06-27|language=en}}</ref> を元にAppleとの提携の一環として、IBM Managed Mobility Services for Mac<ref>{{Cite web|title=IBM News Room|url=https://newsroom.ibm.com/home|website=IBM News Room|accessdate=2021-06-27|language=en-us}}</ref> を開始した。[[日本]]でも[[2016年]]5月より開始している<ref>[http://ascii.jp/elem/000/001/163/1163276/ IBM、5万台のMac自社導入/運用経験に基づく企業支援サービス]</ref><ref>[http://www-935.ibm.com/services/jp/ja/it-services/enterprise-mobility/mms4osx/ IBM Managed Mobility Services for Mac] - IBM グローバル・テクノロジー・サービス</ref>。
=== 2016年 - 2020年:キーボード問題の改善 ===
第4世代の[[MacBook Pro]]は、[[2016年]]10月に開催された[[Apple Special Event]]で発表されたもので、デザインの薄型化、[[ヘッドフォン]]ジャックを除くすべてのポートが[[USB Type-C]]ポートに変更され、MacBookに搭載されていた[[バタフライキーボード]]、[[DCI-P3|P3]]広色域ディスプレイ、そしてMacBook Proの一部モデルで[[ファンクションキー]]と[[Escキー]]に代わるタッチスクリーンの有機ELディスプレイ「[[Touch Bar]]」が搭載され、使用するアプリケーションに応じて変化・適応するUIが採用された。また、Touch Bar搭載モデルでは、電源ボタンを[[Touch ID]]センサーに置き換えた。[[Appleシリコン|Apple T1チップ]]も搭載しており、インテルのCPUを採用したまま、アーキテクチャは刷新され、Touch BarやTouch IDを含むハードウェアを制御しセキュリティを司る[[bridgeOS]]が採用されている<ref>{{Cite web|和書|title=iMac Proは電源オフでも「Hey Siri」で起動? A10チップ搭載がBridgeOS解析から発覚、セキュリティ用途の可能性も - Engadget 日本版|url=http://japanese.engadget.com/jp-2017-11-21-imac-pro-hey-siri-a10.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220160402/https://japanese.engadget.com/jp-2017-11-21-imac-pro-hey-siri-a10.html|archivedate=2022-02-20|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2021-04-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アップル新型「iMac」に期待すること (3/5)|url=https://ascii.jp/elem/000/004/016/4016371/|website=ASCII.jp|accessdate=2021-04-18|language=ja|last=ASCII}}</ref>。発売後の評価は賛否両論だった<ref>{{Cite web|title=MacBook Pro with Touch Bar review: a touch of the future|url=https://www.theverge.com/2016/11/14/13616404/apple-macbook-pro-touch-bar-review-2016-13-inch-15-inch-laptop|website=The Verge|date=2016-11-14|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Jacob|last=Kastrenakes}}</ref><ref>{{Cite web|title=MacBook Pro review (2016): A step forward and a step back|url=https://www.engadget.com/2016-11-14-macbook-pro-review-2016.html|website=Engadget|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。また、USB-Cポートは、多くのユーザ、特にMacBook Proのプロフェッショナル層にとって不満の種となっており、USB Type-Aや[[SDメモリーカード]]を接続するためのアダプタなどを購入する必要があった。
数か月後、[[MacBook]]およびMacBook Proに搭載されているバタフライキーボードが動作しなくなるという報告が多くのユーザから寄せられた。この問題は、キーボードの下に砂や食べかすなどの小さな異物やほこりが入り込み、キーボードが詰まってしまったため、[[Apple Store]]または正規サービスセンターに持ち込んで修理してもらうことになった<ref>{{Cite web|title=Appl Still Hasn’t Fixd Its MacBook Kyboad Problm|url=https://www.wsj.com/graphics/apple-still-hasnt-fixed-its-macbook-keyboard-problem/|website=WSJ|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Joanna Stern,Elliot|last=Bentley}}</ref>。
[[ファイル:Mac-pro-2013.jpg|サムネイル|[[Mac Pro]](2013年)]]
[[2013年]]の[[Mac Pro]]がアップデートを受けることなく数年が経過した後、マーケティング担当上級副社長の[[フィリップ・シラー]]とソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長の[[クレイグ・フェデリギ]]は[[2017年]]に現行のMac Proが期待に応えられていないことを認めた<ref>{{Cite web|title=Daring Fireball: The Mac Pro Lives|url=https://daringfireball.net/2017/04/the_mac_pro_lives|website=daringfireball.net|accessdate=2021-06-22}}</ref>。[[iMac Pro]]は、[[WWDC]] 2017でジョン・ターナスハードウェアエンジニアリング担当副社長によって、 最大18コアのIntel [[Xeon]]プロセッサとRadeon Pro Vega GPUを搭載して発表された<ref>{{Cite web|和書|title=これまでで最もパワフルなMacとなるiMac Proが12月に登場|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2017/06/imac-pro-most-powerful-mac-arrives-december/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-22|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref>。次世代Mac Proが登場するまでのプロユーザ向けの応急処置という側面もあった<ref>{{Cite web|title=Apple will stop selling the iMac Pro|url=https://www.engadget.com/apple-imac-pro-discontinued-155125483.html|website=[[Engadget]]|accessdate=2021-06-22|language=en-US}}</ref>。
[[2018年]]、Appleはより高速なプロセッサと第3世代のバタフライキーボードを搭載したMacBook Proを更新し、同年に発売された[[Retinaディスプレイ]]搭載の[[MacBook Air]]のデザインを一新して、キーボードに埃や小さな物体の侵入を防ぐシリコンガスケットを追加し、影響を受けたキーボードを無償で修理するプログラムを開始したが、ユーザは引き続きキーボード問題に悩まされていた<ref>{{Cite web|title=Appl Still Hasn’t Fixd Its MacBook Kyboad Problm|url=https://www.wsj.com/graphics/apple-still-hasnt-fixed-its-macbook-keyboard-problem/|website=WSJ|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Joanna Stern,Elliot|last=Bentley}}</ref>。
[[ファイル:Mac Pro 2019 on wheels.jpg|サムネイル|[[Mac Pro#Mac Pro(2019)|Mac Pro(2019年)]]]]
[[2019年]]のMacBook ProとMacBook Airの刷新では、いずれもバタフライキーボードが廃止され、Appleが「Magic Keyboard」と呼ぶ、2016年以前のMacBookで採用されていたシザースイッチ機構の改良版に変更された<ref>{{Cite web|和書|title=新型MacBook Pro 16インチが登場、クリエイターはMac回帰となるか--Appleニュース一気読み|url=https://japan.cnet.com/article/35145647/|website=[[CNET Japan]]|date=2019-11-23|accessdate=2021-06-22|language=ja}}</ref>。また、Touch BarとTouch IDがすべてのMacBook Proに標準装備され、Touch ID・電源ボタンが分離されてより右側に移動し、Escキーも物理的になりTouch Barから切り離された<ref>{{Cite web|和書|title=うわさの16インチ「MacBook Pro」、Touch IDがTouch Barから分離との情報|url=https://japan.cnet.com/article/35144694/|website=[[CNET Japan]]|date=2019-10-31|accessdate=2021-06-22|language=ja}}</ref>。WWDC 2019で、ジョン・ターナスが発表した新しいMac Proは、従来の円筒形デザインよりも前のMac Proに近いように見えるが全く新しい設計の筐体デザインで、Apple独自のカスタムデザインの[[PCI Express]]拡張スロット「MPX Module」によるアップグレード性が格段に向上しており、AMDグラフィックスカードなどの標準的なPCI Expressも動作する仕様になった<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、革新的な新しい Mac Pro と Pro Display XDR を発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2019/06/apple-unveils-powerful-all-new-mac-pro-and-groundbreaking-pro-display-xdr/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-22|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref><ref>{{Cite web|title=Mac Pro: All-New Design, Starting at $5,999|url=https://www.macrumors.com/roundup/mac-pro/|website=MacRumors|accessdate=2021-06-22|language=en}}</ref>。ほとんどの部品がユーザによる交換が可能で、[[アイフィックスイット|iFixit]]による修理可能性の評価は9/10となっている<ref>{{Cite web|title=Mac Pro 2019 Teardown|url=https://www.ifixit.com/Teardown/Mac+Pro+2019+Teardown/128922|website=iFixit|date=2019-12-17|accessdate=2021-06-22|language=en}}</ref>。レビューでは、モジュール化やアップグレード性、静音性などが評価され、前世代のMac Proに不満を持っていたプロの要望にも応えていると評価された<ref>{{Cite web|title=Has the Mac Pro Lived Up to Its Promise of Modularity?|url=https://www.digitaltrends.com/computing/apple-mac-pro-modularity-two-years-later/|website=Digital Trends|date=2021-04-09|accessdate=2021-06-22|language=en}}</ref>。」
=== 2020年 - 現在:Appleシリコンへの移行 ===
[[ファイル:Apple M1.jpg|サムネイル|[[Apple M1]]]]
[[ファイル:Mac Studio (2022) front.jpg|サムネイル|[[Mac Studio]]]]
[[2018年]]4月、[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]は、Appleがインテル製プロセッサの搭載を中止し、同社のiPhoneに使われているようなARMプロセッサに置き換えるつもりであるとする噂を掲載し、インテルの株価は6%下落した。この噂についてコメントした[[ザ・ヴァージ]]は、インテルがラインナップの大幅な改善に失敗しており、ARMチップとバッテリ駆動時間で競争できないことから、このような決定は理にかなっていると述べた<ref>{{Cite web|date=2018-04-03|title=Chips are down: Apple to stop using Intel processors in Macs, reports say|url=https://www.theguardian.com/technology/2018/apr/03/apple-stop-using-intel-chips-processors-mac-computers|access-date=2021-03-26|website=the Guardian|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.theverge.com/2018/4/3/17191986/apple-intel-cpu-processor-design-competition|title=Apple is moving on from Intel because Intel isn't moving anywhere|work=[[The Verge]]|access-date=2018-11-07}}</ref>。
[[2020年]][[6月22日]]の[[WWDC]]の基調講演において、AppleはMacに搭載するCPUを今まで採用してきたインテル製のものから[[AArch64|ARMアーキテクチャ]]をベースにした自社設計の[[Appleシリコン]]([[SoC]])に今後2年間で切り替えると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、MacにAppleシリコンを搭載することを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2020/06/apple-announces-mac-transition-to-apple-silicon/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-04-18|language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|title=Apple is switching Macs to its own processors starting later this year|url=https://www.theverge.com/2020/6/22/21295475/apple-mac-processors-arm-silicon-chips-wwdc-2020|website=The Verge|date=2020-06-22|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Tom|last=Warren}}</ref>。2005年に発表された[[PowerPC]]からインテルへの移行時と同様に、Appleシリコンを搭載したMacは、[[Rosetta|Rosetta 2]]と呼ばれる動的コード変換プログラムを使用し、インテル用に設計されたソフトウェアを実行することが可能になっている<ref>{{Cite web|title=Apple announces Mac architecture transition from Intel to its own ARM chips, offers emulation path|url=https://9to5mac.com/2020/06/22/arm-mac-apple/|website=9to5Mac|date=2020-06-22|accessdate=2021-06-22|language=en-US|first=Benjamin|last=Mayo}}</ref>。Appleは、開発者に対し、1年後に返却することを条件にDeveloper Transition Kit(DTK)を500ドルで提供した<ref>{{cite web|title=DTK agreements|url=https://developer.apple.com/terms/universal-app-quick-start-program/Developer-Universal-App-Quick-Start-Program.pdf|website=Apple Developer|publisher=[[Apple]]|accessdate=2021-06-16}}</ref>。DTKは、2020年モデルの[[iPad Pro]]と同じ[[Apple A12X|A12Z Bionic]]チップを搭載したMac miniで、ARMアーキテクチャ搭載の次期Macにアプリケーションを最適化するためのものだった<ref>{{Cite web|title=Universal App Quick Start Program - Apple Developer|url=https://developer.apple.com/programs/universal/|website=Apple Developer|accessdate=2021-06-22|publisher=[[Apple]]}}</ref>。
[[2020年]][[11月10日]]、Appleシリコンを搭載して出荷する最初のMacとして、MacBook Air、Mac mini、13インチMacBook Proを発表した<ref>{{Cite web|title=Apple details new MacBook Air, MacBook Pro and Mac Mini -- all powered by in-house silicon chips|url=https://www.cnn.com/2020/11/10/tech/apple-silicon-chips-mac/index.html|website=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|accessdate=2021-06-22|first=Rishi Iyengar, CNN|last=Business}}</ref>。いずれも、これまでAppleが製造してきたどのAシリーズプロセッサよりも高速で、4つの高性能コアと4つの低電力コアを備えたカスタムデザインの[[Apple M1]]を搭載し、MacBook Airでは7コアのGPUオプション、上位モデルでは8コアのGPUを搭載し、Proとminiでは標準装備となっている<ref>{{Cite web|和書|title=次世代のMacを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2020/11/introducing-the-next-generation-of-mac/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-22|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref>。さらに、16コアのNeural Engineを搭載し、[[機械学習]]のパフォーマンスが最大11倍に向上していると発表された。これらのチップは電力消費量が大幅に少ないため、MacBook Pro 13インチのバッテリ駆動時間は最大20時間となっている。発売されてからの評価は非常に好評で、ほとんどのレビュアーが「前世代で使われていたインテルのチップよりも、バッテリ駆動時間が長く、発熱がずっと少なく、ずっと速い」と評価している。また、Rosetta 2は、ほとんどのインテル製アプリケーションで動作し、パフォーマンスの低下もさほどなく、Windowsや[[マイクロソフト]]のSurface Pro Xよりも高速なパフォーマンスと採用を実現したと評価されている<ref>{{Cite web|title=Apple MacBook Pro with M1 review: flexing Arm|url=https://www.theverge.com/21570497/apple-macbook-pro-2020-m1-review|website=The Verge|date=2020-11-17|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Nilay|last=Patel}}</ref><ref>{{Cite web|title=MacBook Pro with M1 review|url=https://www.tomsguide.com/reviews/macbook-pro-m1|website=Tom's Guide|accessdate=2021-06-22|language=en|first=Mark Spoonauer 30|last=April 2021}}</ref><ref>{{Cite web|title=Apple M1 runs Windows on ARM faster than Surface Pro X|url=https://www.macworld.co.uk/news/apple-m1-runs-windows-faster-3798990/|website=[[Macworld |Macworld UK]]|accessdate=2021-06-22|first=Viktor|last=Eriksson}}</ref>。
[[2021年]][[4月20日]]、7つの新色とApple M1チップを搭載した新しい[[IMac (Appleシリコンベース)|24インチiMac]]が発表された。筐体全体が100%再生アルミニウム合金製となり、11.5mmの薄さになった。スクリーンは21.5インチ4Kから24インチ4.5K [[Retinaディスプレイ]]にアップグレードされ、画面の縁がより薄くなった<ref>{{Cite web|和書|title=あざやかなカラーでデザインを一新したiMacが、M1チップと4.5K Retinaディスプレイを搭載して登場|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/04/imac-features-all-new-design-in-vibrant-colors-m1-chip-and-45k-retina-display/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-22|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=M1搭載iMac最速レビュー:テレワーク向きZoom性能、M1の「速さ」を検証する|url=https://www.businessinsider.jp/post-234921|website=[[ビジネスインサイダー]]|date=2021-05-19|accessdate=2021-06-22|language=ja|first=伊藤|last=有|publisher=Mediagene}}</ref>。
2021年10月19日、AppleのMedia Engineを備えた[[Apple M1 Pro]]と[[Apple M1 Max]]を搭載しデザインを刷新した14インチと16インチのMacBook Proが発表された。2020年発売の[[Apple M1]]搭載13インチMacBook Proは据え置きになり、新たなラインナップとして14インチが追加された。プロセッサがアップデートされ、XDRディスプレイとしてミニLEDバックライトで[[ハイダイナミックレンジビデオ|HDR]]対応となりProMotionに対応するなど、刷新された。
2022年3月9日、Apple M1 Maxの隠されていた機能である「UltraFusion」を使った別のM1 Maxへの接続<ref>{{Cite web |title=Mac Studio |url=https://www.apple.com/jp/mac-studio/ |website=Apple(日本) |accessdate=2022-03-08 |language=ja-JP}}</ref>により新型SoCである[[Apple M1 Ultra]]もしくはM1 Maxを搭載した新しい[[Mac Studio]]が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、まったく新しいMac StudioとStudio Displayを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2022/03/apple-unveils-all-new-mac-studio-and-studio-display/ |website=Apple Newsroom (日本) |accessdate=2022-03-08 |language=ja-JP}}</ref>。M1 UltraによりCPUの性能は16コア[[Xeon|Intel Xeon]]を搭載している[[Mac Pro]]よりも5.3倍の処理性能を持つ<ref>{{Cite web |title=Mac Studio |url=https://www.apple.com/jp/mac-studio/ |website=Apple(日本) |accessdate=2022-03-08 |language=ja-JP}}</ref>。さらに同イベント内で新しいMacディスプレイの[[Apple Studio Display|Studio Display]]も発表された<ref>{{Cite web|和書|title=Appleのイベント - 2022年3月 |url=https://www.apple.com/jp/apple-events/march-2022/ |website=Apple(日本) |accessdate=2022-03-08 |language=ja-JP}}</ref>。
2023年1月17日、Apple M2と[[Apple M2 Pro|M2 Pro]]を搭載したMac mini発表<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、M2とM2 Proを搭載した新しいMac miniを発表 — これまで以上にパワフル、高性能、万能に |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2023/01/apple-introduces-new-mac-mini-with-m2-and-m2-pro-more-powerful-capable-and-versatile-than-ever/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP}}</ref>。MacBook Pro 14、16インチモデルもM2 Proと[[Apple M2 Max|M2 Max]]を搭載した機種へ更新された<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、M2 ProおよびM2 Maxを搭載したMacBook Proを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2023/01/apple-unveils-macbook-pro-featuring-m2-pro-and-m2-max/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP}}</ref>。
2023年6月5日、Mac Studioとともに[[Apple M2 Ultra]]を搭載したMac Proを発表し、全てのApple製品のAppleシリコンへの移行を完了させた<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、新しいMac Studioを発表、さらにMac ProにはAppleシリコンを搭載 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2023/06/apple-unveils-new-mac-studio-and-brings-apple-silicon-to-mac-pro/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP}}</ref>。同時にMacBook Air初の15インチモデルを追加している<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、15インチMacBook Airを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2023/06/apple-introduces-the-15-inch-macbook-air/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-06-19 |language=ja-JP}}</ref>。
== 機種 ==
=== 歴代機種 ===
{{Main|Macの機種一覧}}
{{Macの年表}}
=== 現行機種一覧 ===
[[PowerPC G3]]搭載機の発売以降、機種の絞り込みが続いており、デスクトップとノートブックにそれぞれ上位機種と下位機種を1機種ずつ(合計4機種)提供することが基本になっている。2023年1月時点ではデスクトップ4機種とノートブック4機種(合計8機種)に集約されている。
2023年1月時点で販売されている機種は、[[インテル]]製の[[マルチコア]]プロセッサ及びAppleの独自開発[[SoC]]([[Appleシリコン]])が搭載された機種となっている。[[macOS]]がインストールされており、インテル製プロセッサを搭載するMacに限り、別売りの[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]や[[Linux]]、[[ChromeOS Flex|ChromeOS]]など他のOSをインストールすれば、切り替えて利用することが可能になっている。また、Appleシリコン搭載機種でもARM向けにビルドした[[Microsoft Windows 11]]を動作させることは技術的に可能であるが、現時点でマイクロソフトはARM向けWindows 11のライセンス供給はプリインストールPCのみとしており、ライセンス上は使用不可<ref>{{Cite news|title=Arm版Mac、Boot Campはどうなる? MSが「Arm版Win 10は(現時点では)提供できない」と回答|newspaper=engadget|date=2020-06-25|author=engadget|url=https://japanese.engadget.com/armmac-bootcamp-080048762.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220314061106/https://japanese.engadget.com/armmac-bootcamp-080048762.html|archivedate=2022-03-14|deadlinkdate=2022-05-01|accessdate=2020-12-25}}</ref>。Appleの関係者はマイクロソフト次第としている<ref>{{Cite news|title=「M1搭載MacでArm版Windows 10は動作可能。すべてマイクロソフト次第」アップル幹部が語る|newspaper=engadget|date=2020-11-21|author=engadget|url=https://japanese.engadget.com/apple-m1mac-armwindows-042506778.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220160545/https://japanese.engadget.com/apple-m1mac-armwindows-042506778.html|archivedate=2022-02-20|deadlinkdate=2022-05-01|accessdate=2020-12-25}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! rowspan="3" style="white-space:nowrap" {{vert header|style=font-weight:bold|va=middle|[[ノートパソコン|ノートブック]]}}
|'''[[MacBook Air]]'''<br />M1搭載
|'''MacBook Air'''<br />M2搭載
|[[MacBook Pro|'''13インチMacBook Pro''']]
|[[MacBook Pro|'''14インチと16インチMacBook Pro''']]
|-
| width="50%" style="vertical-align:center;" |[[ファイル:Macbook Air 2020 (M1) - 1.jpg|中央|250x250ピクセル]]
|[[ファイル:M2 Macbook Air Starlight model.jpg|中央|240x240ピクセル]]
|[[ファイル:MacBook Pro 2022 M2.webp|中央|250x250ピクセル]]
|[[ファイル:MacBook Pro 16 (M1 Pro, 2021) - Wikipedia.jpg|代替文=MacBook Pro 16インチ (2021)|240x240px]]
|-
|13.3インチ<br />[[Apple M1]]チップ
|13.6インチ<br />[[Apple M2]]チップ
|13.3インチ<br />Apple M2チップ
|14.2インチ、16.2インチ<br />[[Apple M2 Pro]]または[[Apple M2 Max|M2 Max]]チップ
|-
! rowspan="3" style="white-space:nowrap" {{vert header|style=font-weight:bold|va=middle|[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]}}
|'''[[iMac (Appleシリコンベース)|24インチiMac]]'''
|'''[[Mac mini]]'''
|'''[[Mac Studio]]'''
|'''[[Mac Pro]]'''
|-
|[[ファイル:M1_iMac_vector.svg|代替文=M1 iMac|200x200px]]
|[[ファイル:Mac_Mini_2020_silver.png|代替文=Mac mini (2020)|240x240px]]
|[[ファイル:Mac Studio (2022) front.jpg|代替文=Mac Studio|240x240px]]
| width="25%" style="vertical-align:center;" |[[ファイル:Mac_Pro_Mockup.svg|代替文=Mac Pro|240x240px]]
|-
|オールインワン型<br />24インチ (4.5K)<br />Apple M1チップ
|小型デスクトップ<br />Apple M2またはM2 Proチップ
|小型デスクトップ<br />Apple M2 MaxまたはM2 Ultraチップ
|タワー型デスクトップ<br />[[Apple M2 Ultra|M2 Ultra]]
|}
== ハードウェア ==
{{Main|Macのハードウェア}}
Appleは、[[フォックスコン]]やPegatronなどの[[アジア]]の相手先商標製品メーカにハードウェアの製造を委託し、最終製品に対する高度なコントロールを維持している<ref>{{Cite web|title=Un troisième sous-traitant ?|url=https://www.macg.co/news/voir/121996/un-troisieme-sous-traitant|website=MacGeneration|accessdate=2021-06-23|language=fr}}</ref>。対照的に、[[マイクロソフト]]を含む他の多くの企業は、[[デル]]、[[HP Inc.]]、[[ヒューレット・パッカード]]、[[コンパック]]、[[レノボ]]など、さまざまなサードパーティが製造するハードウェア上で実行可能なソフトウェアを作成している。そのため、Macの購入者は、マイクロソフトの購入者と比較して、選択肢は比較的少ないものの、優れた統合性を有している。
2023年のMac製品群のほとんどは、Appleが設計した[[Appleシリコン]]が採用されている。Mac Proのみ、[[Intel]] [[X86]]-64[[プロセッサ]]を採用したものが残されている。Appleは、10年前の[[MC68000]]アーキテクチャからの移行時と同様に、[[PowerPC]]チップからの移行時にも[[Rosetta]]と呼ばれる動的コード変換プログラムを導入した。Macは、新しい[[CPU設計]]への移行を成功させた唯一のメインストリームコンピュータプラットフォームであり、その移行は2度にわたって行われた<ref>{{Cite web|title=Apple Switch|url=https://www.pcmag.com/archive/apple-switch-38681|website=PCMAG|accessdate=2021-06-23|language=en}}</ref>。現行のすべてのMacモデルには、最低8[[ギガバイト]]の[[Random Access Memory|RAM]]が標準で搭載されており、Appleが設計した[[Graphics Processing Unit|GPU]]が内蔵されている。かつてのMacには、Appleが[[SuperDrive]]と呼ぶ、[[DVD]]/[[コンパクトディスク|CD]]の2つの機能を持つ光学メディアドライブが搭載されていたが、現在SuperDriveを内蔵したMacを出荷していない。現在のMacには、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]と[[Thunderbolt]]の2つの標準的なデータ転送ポートが搭載されている。また、MacBook Pro、[[iMac]]、MacBook Air、Mac miniには、Appleによれば最大で毎秒40[[ギガビット]]の速度でデータを転送できるThunderbolt 4ポートが搭載されている<ref>{{Cite web|title=New Mac minis add Thunderbolt, lose optical drive|url=https://www.macworld.com/article/213434/mac_mini.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-23|language=en-US}}</ref>。USBは[[1998年]]のiMac G3に搭載され<ref>{{Cite web|title=8 ways the iMac changed computing|url=https://www.macworld.com/article/191974/imacanniversary.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-23|language=en-US}}</ref>、当時[[FireWire]]は主にハードディスクやビデオカメラなどの高性能な機器に限られていた。[[2005年]]10月に発売されたiMac G5を皮切りに、[[iSight]]カメラを内蔵したモデルや、[[Apple Remote]]やキーボードで操作してコンピュータに保存されているメディアを閲覧できる[[Front Row]]機能を搭載したモデルなどがある。しかし、2011年現在、Front Rowは廃止され、Apple RemoteもMacには同梱されていない<ref>{{cite web|publisher=Apple|date=2005-10-12|url=https://www.apple.com/pr/library/2005/oct/12imac.html|title=Apple Introduces the New iMac G5|access-date=2006-07-12|archivedate=2006-07-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060725233656/http://www.apple.com/pr/library/2005/oct/12imac.html}}</ref><ref>{{Cite web|title=Farewell Front Row|url=https://www.macworld.com/article/213466/farewell_frontrow.html|website=[[Macworld]]|accessdate=2021-06-23|language=en-US}}</ref>。[[ファイル:Apple_desktop_mouse.jpg|サムネイル|初期のADBワンボタンマウス]]
Appleは当初、複数のボタンや[[スクロールホイール]]を備えたマウスの採用には消極的であり、ワンボタンマウスは、Macintosh独特のインターフェースとして知られていた<ref>{{Cite web|title=The Macintosh Mouse|url=https://web.stanford.edu/dept/SUL/sites/mac/mouse.html|website=[[スタンフォード大学]]|accessdate=2021-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|title=Steve Jobs Hated The Idea Of A Multi-Button Mouse, Designer Claims|url=https://www.cultofmac.com/269222/steve-jobs-hated-idea-multi-button-mouse-designer-claims/|website=Cult of Mac|date=2014-03-09|accessdate=2021-06-27|language=en-us|first=Luke|last=Dormehl}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アップル初のマルチボタンマウス――Mighty Mouseをいじってみた|url=https://www.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0508/11/news018.html|website=ITmedia PC USER|accessdate=2021-06-27|language=ja}}</ref>。1984年に初代Macintoshに搭載されたワンボタンマウスは、Macの「使いやすさ」を実現するための中心的存在だった<ref>{{Cite news|title=Eek! A Two-Button Mac Mouse?|url=https://www.wired.com/2000/10/eek-a-two-button-mac-mouse/|work=Wired|accessdate=2021-06-27|issn=1059-1028|language=en-US}}</ref>。[[2001年]]に[[Mac OS X]]が登場するまで、Macはサードパーティ製であっても複数のボタンを持つ[[ポインティングデバイス]]をネイティブにサポートしていなかった<ref>{{Cite news|title=Eek! A Two-Button Mac Mouse?|url=https://www.wired.com/2000/10/eek-a-two-button-mac-mouse/|work=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|accessdate=2021-06-23|issn=1059-1028|language=en-US|date=2000-10-30}}</ref>。2005年8月に[[Mighty Mouse]]を発売するまで、Appleはワンボタンマウスのみを販売していた。Mighty Mouseは機械的には従来のワンボタンマウスのように1つのボタンがマウス全体を覆ったような形をしているが、実際には「副クリック」を含む4つのボタンと、X軸とY軸を独立して動かすことができるスクロールボールを備えていた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アップル、ワイヤレスのMighty Mouseを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2006/07/25Apple-Debuts-Wireless-Mighty-Mouse/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-23|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref>。[[2006年]]7月には[[Bluetooth]]対応の無線タイプも発売された<ref name=":1" />。[[2009年]]10月、Appleは物理的なスクロールホイールやボールの代わりに、[[iPhone]]と同様の[[マルチタッチ]]ジェスチャー認識を採用した無線タイプのみの[[Magic Mouse]]を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、世界初のマルチタッチマウス、Magic Mouseを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2009/10/20Apple-Introduces-Magic-Mouse-The-Worlds-First-Multi-Touch-Mouse/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-23|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref>。有線タイプのMighty MouseはApple Mouseとして再ブランド化し、2017年に製造中止になるまで代替品として販売されていた。また、[[2010年]]以降、AppleはMacのデスクトップパソコンをノートパソコンと同様の方法で操作する手段として[[Magic Trackpad]]を販売している<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、iMacラインをアップデートマルチタッチ方式のMagic Trackpadも新登場|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2010/07/27Apple-Updates-iMac-Line/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-06-23|language=ja-JP|publisher=[[Apple Japan]]}}</ref>。
== ソフトウェア ==
{{Main|Macのオペレーティングシステム}}
[[Macintosh 128K|初代Macintosh]]は、[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドライン]]を使わない[[グラフィカルユーザインタフェース]]を採用した最初の成功したパーソナルコンピュータである。デスクトップメタファーと呼ばれる、書類やゴミ箱などの現実世界のオブジェクトをアイコンとして画面に表示する方式を採用している。1984年に初代Macintoshとともに登場したシステムソフトウェアは、1997年に「[[Mac OS]]」と改称され、[[Mac OS 9|バージョン9.2.2]]まで進化を続けてきたが、現在では[[Classic Mac OS]]として知られている。日本市場では「[[漢字Talk]]」と呼ばれていた。過去にAppleは、[[A/UX]]、[[MkLinux]]などのOSも開発していた<ref>{{Cite book|和書|title=Apple finally gets Unix right with A/UX 3.0|url=https://books.google.com/books?id=ElEEAAAAMBAJ&pg=PA68|publisher=InfoWorld Media Group, Inc.|date=1992-08-10|language=en|first=InfoWorld Media Group|last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|title=MkLinux: Linux for the Power Macintosh|url=http://www.mklinux.apple.com/|accessdate=2021-06-25|publisher=[[Apple]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990423202143/http://www.mklinux.apple.com/|archivedate=1999-04-23}}</ref>。また、Apple製以外では[[BeOS]]、[[Berkeley Software Distribution|BSD]]などが実行できた<ref>{{Cite news|title=This OS Almost Made Apple an Entirely Different Company|url=https://www.wired.com/2015/05/os-almost-made-apple-entirely-different-company/|work=Wired|accessdate=2021-06-25|issn=1059-1028|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite book ja-jp|author=三浦 一則|title=MacBSD X Window System & 日本語環境活用ガイド|year=1998年7月1日|publisher=株式会社広文社|isbn=4-905999-80-4}}</ref>。
インテル搭載のMacが発売された後、[[Parallels Desktop]]、[[VMware Fusion]]、[[VirtualBox]]などのサードパーティ製プラットフォーム仮想化ソフトウェアが登場した。これらのソフトウェアは、[[Microsoft Windows]]や従来のWindows専用ソフトウェアを、ネイティブに近い速度でMac上で動作させることができる。また、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]、[[Microsoft Windows Vista|Vista]]、[[Microsoft Windows 7|7]]、[[Microsoft Windows 8|8]]、[[Microsoft Windows 10|10]]をインストールし、Mac OS XとWindowsをネイティブに[[デュアルブート]]するための[[Boot Camp]]やMac専用Windowsドライバーもリリースされた。Boot Campやその他の仮想化の[[ワークアラウンド]]を使って、[[Linux]]を実行することも可能である<ref>{{cite web|title=Paul J. Lucas's Mac Mini running Linux|last=Lucas|first=Paul|url=http://homepage.mac.com/pauljlucas/personal/macmini/|date=2005-06-04|access-date=December 23, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100104090000/http://homepage.mac.com/pauljlucas/personal/macmini/|archivedate=2010-01-04}}</ref><ref>{{cite web|title=Virtualization Makes Running Linux a Snap|first=Lisa|last=Hoover|url=http://ostatic.com/blog/virtualization-makes-running-linux-a-snap|date=2008-04-11|access-date=2009-12-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081209111949/http://ostatic.com/blog/virtualization-makes-running-linux-a-snap|archivedate=2008-12-09}}</ref>。
Mac OS Xはバージョン10.9で「OS X」と改称された。バージョン10.12以降、OS Xは「macOS」となり、AppleのOS([[iOS]]、[[tvOS]]、[[watchOS]])の名称を統一することにした。また、2001年から続いたバージョン10.xシリーズ([[Mac OS X v10.0|Mac OS X Cheetah]]から[[macOS Catalina]])は2020年に終止符が打たれ、同年にバージョン11([[macOS Big Sur]])、翌年にはバージョン12([[macOS Monterey]])とバージョン数のパターンが変更された<ref>{{Cite web|和書|title=「OS X」終わる Apple、次期macOS「macOS Big Sur」を発表|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2006/23/news058.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-06-25|language=ja}}</ref>。
== マーケティング ==
[[ファイル:SteveJobsMacbookAir.JPG|サムネイル|[[Macworld - iWorld|Macworld Expo]] 2008で[[MacBook Air]]を発表・宣伝する[[スティーブ・ジョブズ]]]]
[[1970年代]]から[[1980年代]]前半にかけて、コンピュータ関連の広告は、ほとんどインサイダー([[アーリーアダプター|アーリーアダプタ]]など)、企業、政府、大学などの視聴者に向けたものだった。[[IBM]]のPCと同様に、Appleは「[[1984 (広告)|1984]]」のCMを、視聴者数が9,000万人を超える米国最大のテレビイベント「[[第18回スーパーボウル]]」にて放送するなど、大規模なキャンペーンを展開し、初代Macintoshを一般の人々に広めた<ref>{{Cite book|和書|edition=[Rev. 2nd ed.]|title=Apple confidential 2.0 : the definitive history of the world's most colorful company|url=https://www.worldcat.org/oclc/52821221|publisher=No Starch Press|date=2004|location=San Francisco, Calif.|isbn=1-59327-010-0|oclc=52821221|others=Owen W. Linzmayer|first=Owen W.|last=Linzmayer|page=113}}</ref>。[[1984年]]に成功したAppleは、[[1985年|翌年]]にもMacintosh Officeの広告である「レミングス」を放送したが、これは潜在的な購入者を不満にしたため失敗に終わった<ref>{{Cite web|title=Think Different: The Ad Campaign that Restored Apple’s Reputation|url=https://lowendmac.com/2013/think-different-ad-campaign-restored-apples-reputation/|website=Low End Mac|date=2013-08-11|accessdate=2021-07-04|language=en-US}}</ref>。Macintoshの広告が再びスーパーボウルに現れたのは、[[1999年]]、[[HAL 9000|HAL]]がデイビットにMacintoshは[[2000年問題|Y2K問題]]フリーだと発表してからだった。このような広告に加え、Appleは[[Macintosh Plus]]、[[Performa]]、[[Quadra]]、さらには[[PowerBook]]など、より一般的な広告を報道機関で行っている<ref>{{Cite web|title=The Mothership Apple Advertising and Brochure Gallery Index|url=http://www.macmothership.com/gallery/gallerytextindex.html|website=www.macmothership.com|accessdate=2021-07-04}}</ref>。後者については、新聞やテレビで「What's on your PowerBook」というスローガンを掲げたキャンペーンが行われている。[[Microsoft Windows 95]]が発売されると、Appleはこれに対抗し、[[マイクロソフト]]のシステムを否定するキャンペーンを行った。プレスリリースに掲載されたAppleの広告には、「想像してみてください、書類を捨てても戻せるゴミ箱付きのデスクトップを!」と書かれていた{{Efn2|原文:{{Lang|en|Introducing Windows 95. It has a trash you can open and take things back out of again. Imagine that.}}}}<ref>{{Cite web|title=GUIdebook > ... > Windows > Windows 95 Apple ad|url=https://guidebookgallery.org/ads/magazines/windows/win95-apple|website=guidebookgallery.org|accessdate=2021-07-04}}</ref>。この機能は、11年前に発売されたMacintoshに搭載されていたものである。テレビ広告でも同じような内容のものが放送された。ある講演者が、Windows 95でプレゼンテーションを開始するのは不可能だと突きつけられ、観客からは理解しにくいコードの行を指摘される。簡単に使えるパソコンを探しているなら、解決策は一つしかないというナレーションが流れ、会場から「Macintoshを買おう!({{Lang|en|Buy a Macintosh!}})」という声が聞こえるという内容だった<ref>{{Cite web|title=Apple Makes a Pitch to Switch|url=http://www.pcworld.com/article/104769/apple_makes_a_pitch_to_switch.html|website=PCWorld|accessdate=2021-07-06|archiveurl=http://archive.wikiwix.com/cache/index2.php?url=http://www.pcworld.com/article/104769/apple_makes_a_pitch_to_switch.html|archivedate=2011-02-24}}</ref>。
[[スティーブ・ジョブズ]]が[[最高経営責任者]]に復帰した直後の1997年、Appleは「[[Think different]]」キャンペーンを展開し、1990年代半ばの会社の衰退によって損なわれたイメージを回復させようとした。CM、都市部でのポスター、プレス広告などを加えたこのキャンペーンは成功し、1998年には広告部門で初の[[エミー賞]]を受賞した。「Think Different」は、2002年に「Switch」キャンペーンに引き継がれるまで、Appleのスローガンとなった。「Switch」キャンペーンでは、Macに「乗り換えた」一般ユーザーが、PCの問題点を語っていた<ref>{{Cite web|title=Apple Makes a Pitch to Switch|url=http://www.pcworld.com/article/104769/apple_makes_a_pitch_to_switch.html|website=PCWorld|date=2002-09-06|accessdate=2021-07-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120313043535/http://www.pcworld.com/article/104769/apple_makes_a_pitch_to_switch.html|archivedate=2012-03-13}}</ref>。Appleは[[2006年]]から「[[Get a Mac]]」キャンペーンを実施し、Macの普及に努めてきた。この広告には、[[Mac OS X]](現macOS)と[[Windows]]を搭載したマシンを擬人化した「Mac」と「PC」というキャラクタが登場しており、主人公2人の短い議論を通して、Macの長所とライバル(Windows)の短所が強調されている<ref>{{Cite web|title=Apple's 'Get a Mac,' the Complete Campaign|url=https://www.adweek.com/creativity/apples-get-mac-complete-campaign-130552/|accessdate=2021-07-04|language=en-US|first=Tim|last=NuddApril 13}}</ref><ref>{{Cite news|title=Hey, PC, Who Taught You to Fight Back?|url=https://www.nytimes.com/2009/08/30/business/media/30ad.html|work=The New York Times|date=2009-08-29|accessdate=2021-07-04|issn=0362-4331|language=en-US|first=Devin|last=Leonard}}</ref>。
従来の広告に加えて、Appleはカンファレンスを開催し、Macをはじめとする新製品の発表とプロモーションを行っている。これらの会議は、[[Macworld Conference & Expo]]、Apple Expo、[[Worldwide Developers Conference]]などの展示会の枠組みの中で、あるいは[[Apple Special Event|Apple Event]]と呼ばれるシンプルな記者会見の中で開催されていた<ref>{{Cite web|title=Apple : un Special Event le 14|url=https://www.macg.co/news/voir/132100/apple-un-special-event-le-14|website=MacGeneration|accessdate=2021-07-04|language=fr}}</ref>。基調講演は、スティーブ・ジョブズが復帰してから[[2011年]][[10月5日]]に逝去した後も、聴衆の前で行われることが多く、その様子は全てではないがインターネットで中継されている。
== 影響 ==
Macintoshは、[[マット・グレイニング]]が制作した『[[フューチュラマ (アニメ)|フューチュラマ]]』や『[[ザ・シンプソンズ]]』などのアニメシリーズの制作者にも影響を与えており、いくつかのエピソードに登場するコンピュータは、Macintoshの特定のモデルに大きく影響を受けている<ref>{{Cite web|title=Personal Computer References in Pop Culture|url=http://pctimeline.info/pop/comp1996.htm|website=pctimeline.info|accessdate=2021-07-06|archiveurl=http://archive.wikiwix.com/cache/index2.php?url=http%3A%2F%2Fpctimeline.info%2Fpop%2Fcomp1996.htm|archivedate=2011-02-24}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references responsive="" />
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=ポール・クンケル
|coauthors=
|translator=大谷 和利
|year=1998
|title=アップルデザイン
|publisher=[[アクシス (企業)|アクシスパブリッシング]]
|isbn=978-4-900450-67-7
}}
*{{Cite book|和書
|author=柴田文彦
|coauthors=
|others=MacPower編集部 編
|year=2004
|title=Macintosh Museum
|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]
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*{{Cite book|和書
|author=アンディ・ハーツフェルド|authorlink=アンディ・ハーツフェルド
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|others=柴田文彦(訳)
|year=2005
|title=レボリューション・イン・ザ・バレー 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏
|publisher=[[オライリーメディア|オライリー・ジャパン]]
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*{{Cite book|和書
|author=川崎和男|authorlink=川崎和男
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|others=坂村健 菅野沖彦 藤田治彦
|year=2006
|title=artificial heart:川崎和男展
|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]
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*{{Cite book|和書
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|translator=[[井口耕二]]
|year=2011
|title=[[スティーブ・ジョブズ (書籍)|スティーブ・ジョブズ]] I
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== 関連項目 ==
* [[Apple]]
* [[Microsoft Windows|Windows]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Macintosh|Macintosh}}
* {{Official website|https://www.apple.com/jp/mac/|Mac - Apple(日本)}}
{{1997年以前のApple製ハードウェア}}
{{1998年以降のApple製ハードウェア}}
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1,543 | PowerPC | PowerPC(パワーピーシー、英: Performance optimization with enhanced RISC - Performance Computing)は1991年にApple Computer、IBM、モトローラの提携(AIM連合)によって開発された、RISCタイプのマイクロプロセッサである。
PowerPCはIBMのPOWERアーキテクチャをベースに開発され、AppleのMacintoshやIBMのRS/6000などで採用された。ゲーム機をはじめとした組み込みシステム、スーパーコンピュータで広く使われている。POWER3以降は、POWERファミリ自体がPowerPCアーキテクチャに準拠している。
アーキテクチャとして、動作のベースとなる命令セットや基本的なレジスタセット、メモリアドレッシング、キャッシュモデルなどを規定しているが、それらをどのように実装すべきかまでは規定していない。
そのため実際に製造されるモデルは高速化のためにアーキテクチャレベルでは規定されていない機構(L2、L3キャッシュや関連レジスタなど)を備えているのが普通である。
性能の割に低消費電力でダイサイズも小さいという特性から、ゲーム機やハイエンドのルーターなどのネットワーク機器、レーザープリンターなどの分野で広く使われており、高性能な組み込みシステム向けプロセッサとしてよく使われる。FPGA用のIPコアとして提供されているものもある。もともとはAIMプラットフォームのCPUという意味で開発されたものだが、CPU以外は開発されなかったため、今日まで残る同プロジェクト唯一の成果物でもある。
デスクトップコンピュータ用としては、AppleのPower MacintoshおよびPower Macに採用されていたほか、IBMの一部のワークステーション、サーバやBlueGene/Lをはじめとするスーパーコンピュータにも採用されている。その他、2005年 - 2006年に発売された主要据え置き型ゲーム機三機種(Wii、PLAYSTATION 3、Xbox 360)は、いずれもPowerPCアーキテクチャを採用している。
現在、PowerPCプロセッサはモトローラから半導体部門を分離して設立されたフリースケール・セミコンダクタ(現在はNXP)とIBMが開発・製造を行っており、PowerPC派生品種のCellプロセッサはIBMと東芝セミコンダクターが設計・製造している。また、4xxのシリーズ(組込み系CPUコア)はAMCCに売却されている。しかし実際は4xxシリーズでもハイエンドクラスの製造はIBMしか行えないため、開発の中心はIBMのままである。
PowerPCはRISCの思想で作られており、スーパースカラ方式で命令を実行する。
ベースにしたPOWERの特徴に、さらにいくつかの変更を加えた。
1998年のPOWER3以降は、POWERも64ビットPowerPC仕様に準拠したアーキテクチャを採用している。
PowerPC の歴史は70年代後半のジョン・コックのRISCアイデアを使用した米 IBMの801プロトタイプ・チップで始まった。801を基にしたコアは数々のIBM製組み込み用製品に採用され、最終的には16本のレジスタを持つROMPプロセッサ、IBM RTにまで発展した。しかし、RTプロセッサの性能は十分とは言えなかったため、IBMは「アメリカ・プロジェクト」と呼ばれる、市場で最も高速なプロセッサを開発する計画を始動させた。その結果開発されたのがPOWERアーキテクチャであり、1990年初頭にRISC System/6000と共に発表された。
本来のPOWERマイクロプロセッサは、スーパースケーラを実現した最初のプロセッサの一つであり、高性能でマルチプロセッサに対応していた。IBMがRS/6000の製品群をローエンド向けからハイエンド向け製品にまで拡大するにあたって、POWERプロセッサからいくつかの機構を取り除き、シングルチップ・プロセッサにする必要が生じたため、IBMはRISC Single Chip(RSC)の開発に着手した。RSCは開発の初期段階から、工業向けに幅広く使える可能性を秘めた高機能なプロセッサになるであろうと考えられていた。
1991年、IBMはAppleに接近し、共同でPOWERアーキテクチャをベースとしたシングルチップ・マイクロプロセッサの開発を行なう事で合意した。その直後、当時据え置き型コンピュータ用プロセッサに関してモトローラ社最大の顧客であったApple Computerは、長年の協力関係を考慮して、モトローラにマイクロプロセッサ開発に加わるよう打診した。モトローラには、マイクロプロセッサ開発における豊富な経験の活用と、セカンドソースとしての役割が期待された。こうしてIBM、Apple、モトローラはAIM連合と呼ばれる協力関係を組織するに至った。
1991年、PowerPCはAIM連合における最大要素の一つとなった。当時のパーソナルコンピュータ市場ではマイクロソフトがWindowsを開発中であり、インテル製プロセッサはその支配を強めつつあった。また、CISCアーキテクチャのインテル80386及び80486が大半のコンピュータに採用されており、後継のPentiumプロセッサの開発も順調に進んでいた。PowerPCプロセッサは冒険的な要素を含んでいたものの、拡大するマイクロソフトとインテルによる支配に対抗するため、開発が進められた。
モトローラにとって、POWER系プロセッサの開発に加わる事は、またとないチャンスであった。この時点でモトローラは既に自社製のRISCプロセッサMC88000を市場に投入していた。しかし、このプロセッサは貧弱な設計手法と製造上の問題により市場での評価は低く、販売は低迷していた。このためモトローラは、MIPSやSPARCといった競合製品に市場で並ぶ機会を失いつつあった。しかし、新型POWER系プロセッサの開発に参加すれば、キャッシュ部分を設計するだけで、広くテストされた高性能RISCプロセッサを販売する事が可能になるため、RISCプロセッサ市場での巻き返しが期待された。また、68000系以来の重要な顧客であるAppleとの関係の改善や、IBMに簡略化バージョンを供給できる可能性もあった。
その低評価の一方で、MC88000プロセッサは既に生産されており、Appleは既にこのプロセッサを利用したプロトタイプのコンピュータを動作させていた。このため、開発中のPOWERアーキテクチャ・シングルチップのバスにハードウェアの段階でMC88000のバスとの互換性を持たせれば、ロジックボードを再設計する事なく、より迅速に新型プロセッサを市場に投入する事が可能であった。最終的に、新型プロセッサPowerPCはこういった要求を含んだ設計となった。
PowerPCが市場に投入される直前、大きな動きがあった。Apple Computerに加えてIBMとモトローラの両社は、PowerPCプロセッサに対応したシステムを提案した。マイクロソフトはモトローラのPowerPCサーバ向けのWindows NT 3.51を発表、サン・マイクロシステムズもSolarisのPowerPC版を発表した。またIBMは、自社のAIXを移植し、OS/2の移植も計画していた。1994年には組込み用途向けに PowerPC 403 を発表、後継のPowerPC 401、440などは機器制御用途やネットワーク機器を中心に広く普及した。また同年にPowerPCの64ビット版であるPowerPC 620が完成、同チップは出荷されず普及はしなかったが、その設計はPOWER3以降のPOWERファミリの礎となった。
1994年にはPowerPCをベースとしたコンピュータの仕様であるPReP、1995年には後継のCHRPが発表された。また1994年にはPowerPC搭載のMacintosh (Power Macintosh) が登場した。
しかしこれらの動きはわずかな期間で終わり、結局PowerPCという新型アーキテクチャに期待されていた理想が実現する事はなかった。Windows、OS/2、そしてサンの顧客はPowerPC用ソフトウェアの不足を理由に、PowerPCプロセッサはほとんど顧みなかった。これらのOSの後継が市場に投入される事はなく、PowerPCから完全に離れていった。またBeOSも最初のバージョンはPowerPC向けに開発されたが、その後x86系プロセッサに移行していった。最終的にはPowerPC向けの商用のデスクトップOSは、AppleのClassic Mac OSとMac OS Xのほかは、AmigaOSなどのみが残った。
1990年代中頃、PowerPCプロセッサはベンチマークにおいて、最速のx86系プロセッサと同等または凌駕する性能を発揮した。90年代末に登場したG4ではAltiVecを搭載し、当時の他のCPUに比較して大幅に高速なSIMD処理を実現した。PowerPCは高性能でありながら低コスト・低消費電力といった特徴をもち、AppleはPowerPC603およびG3・G4を採用することによって、同時期のPC/AT互換ノートパソコンの性能を凌駕するPowerBookや、ファンレスのiMac、Power Mac G4 Cubeといった独創的な製品を作ることが可能になった。しかしPowerPCの性能あたりの消費電力の低さは、組み込み向けとしては高く評価されたものの、デスクトップで勢力を拡大するための決め手にはならなかった。
2002年にはPOWER4をベースとした64ビットのPowerPC 970 (G5)が登場、高性能化に伴いG4から大幅に消費電力が増大したものの、同時期のPentium 4と比較するとほぼ同等の性能でありながら低消費電力であり、IBM・Appleのサーバ製品のほか、Power Mac G5・iMac G5で採用された。
2004年はPowerPC系CPUにとって激動の年になった。まず、モトローラが、半導体部門をスピンオフし、『フリースケール・セミコンダクタ』を設立。次に、2005年度のE3において発表された各社の次世代(第7世代)ゲーム機であるレボリューション(コードネーム、現在のWii)、PLAYSTATION 3、Xbox 360のCPUがすべてPowerPC系アーキテクチャのものになった。一方で、これまでPowerPCを採用していたAppleのMacintoshが、2006年からインテルのCPUに全面的に切り替えていく事が発表された。2006年中にAppleのハードウェアは完全にインテルアーキテクチャへの切り替えが完了し、Apple社内でPowerPC向けチップセットの開発を行っていた設計チームはApple A4の開発に転じた。2009年にはセキュリティアップデートを除いてPowerPC向けソフトウェアの開発も終了した。
ゲーム機においてはWiiの後継機種である2012年発売のWii Uが引き続きPowerPC系のアーキテクチャを採用したものの、2013年発売のPlayStation 4、XBOX Oneの両陣営はx86系のプロセッサを採用し、Wii Uの実質的な後継機種である2017年発売のNintendo SwitchはArm系のプロセッサを採用したため2019年現在は使われていない。
現在ではサーバやスーパーコンピュータに採用されている。プリンター・ルータ・ネットワークスイッチ等の組み込み用途にも積極的に採用されていたが、より省電力かつ低コストなARM系プロセッサの台頭により2019年現在は新規採用されるケースは減っている。
PowerPCファミリを立ち上げる為に、IBMの既存のPOWERプロセッサをベースに設計された。その為、正式にはPowerPCのジェネレーション・ナンバーを持っていない。1994年代より流通。
アルミ配線の603、604がG2第1世代。第2世代については、IBMによる銅配線の603eと604e全てが該当するとする文献と、同シリーズで250MHz以上のものとする文献が散見され、はっきりしない。どちらも完全バス互換であったため、区別が重要でなかったこともその理由である。PowerPC 603は大変消費電力が少なく、デスクトップと同様の仕様のチップがノートパソコンに搭載されたほか、組み込み向けに広く使われた。PowerPC 604は4つの演算ユニットを並列動作させることができ、パーソナルコンピュータ向けとしては当時最高レベルの演算性能を持っていた。浮動小数点演算は特に強力であった。
Appleが出資していたExponential Technologyによるバイポーラトランジスタ型の論理回路を使う消費電力の大きなハイパフォーマンスなCPUとして発表された、1996年当時の他のCPUに比べ大幅な高速クロック動作を実現するとしていたPowerPCアーキテクチャの予定製品であった。試作品が搭載された次期Power Macintoshプロトタイプが展示会でAppleによって公開された。しかし、1997年5月のWWDC時、安価なPowerPC 750やPowerPC 604evとの性能差がないとして、Power Macintoshへの採用が中止された為にX704は量産化されずに終った。
G3(第3世代)以降は、PowerPC採用の代表的製品であるPower MacintoshシリーズでAppleがジェネレーション・ナンバーを前面に押し出したため、PowerPCの世代区分が一般に明確となった。性能比での消費電力が低いことが特徴で、現在では主に組み込み用途に用いられる。なお、パイプラインは浅く、603と変わらない4段にすぎない。
G3をベースに浮動小数点演算機能を強化、SIMDと対称型マルチプロセッサ機能を追加したもの。CPUバスは従来の60xバスに加え、より高度な制御機能をもったMPXバスにも対応している。MPC 7450 でマイクロアーキテクチャを刷新したため、MPC 745x・MPC 744x は、G4+とも呼ばれる。
64ビットPowerPCアーキテクチャに準拠し、設計を全面的に刷新している。
IBMがAppleと共同開発し、POWER4ベースに設計。G5と呼ばれる。
90nmプロセス、高速化。省電力機能「PowerTune」を搭載。
デュアルコア、各コアにL2キャッシュ1MB内蔵。最高2.5GHz。
PowerPC 970FXの後継モデルで、970MP同等の性能でシングルコア・省電力を実現した。最高2.5GHz。
P.A. Semi(2008年にAppleに買収された)が設計した、64ビット対応のG5互換製品。
PowerPC Processor Elementの略称、SCE・ソニー・IBM・東芝の4社連合によって開発。PowerPC互換ではあるが、どのベースにも属さないフロムスクラッチ。Cell/B.E.およびPowerXCell 8iに使用されている。
Xbox 360用にIBMがマイクロソフトと共同開発した64ビットのPowerPC互換プロセッサ。XCPUと呼ばれる。後にGPU「Xenos」を統合したXCGPU、更にeDRAMを統合したObanに発展した。
最初から組込み向けとしてIBMが開発。現在はAMCCが権利を持つ。単体のマイクロプロセッサとしてではなく、ASICのCPUコアとして組み込まれることが多い。2005年頃より流通。
2009年9月24日に発表された470シリーズは、それまでの400シリーズと比較して性能を2倍以上に引上げた。ソフトウェアは400シリーズと共通であるが、464FPと比較してパイプラインが7段から9段へ増えており、out-of-order、倍精度浮動小数点数演算対応SIMDと、PowerPC G3 (PowerPC750) シリーズの後継シリーズとしての位置づけとなっている。
2010年2月9日にISSCC2010で発表されたプロセッサ。1コアあたり4スレッドで16コア1チップで構成されている。L1キャッシュ16KB+16KB。L2キャッシュ2MB。1.6GHz時55W、204.8Gflops。最高2.3GHz、65Wで稼動する。スーパーコンピュータBlue Gene/Q(ブルージーンQ)のコアCPUに採用されている。 | [
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"text": "Appleが出資していたExponential Technologyによるバイポーラトランジスタ型の論理回路を使う消費電力の大きなハイパフォーマンスなCPUとして発表された、1996年当時の他のCPUに比べ大幅な高速クロック動作を実現するとしていたPowerPCアーキテクチャの予定製品であった。試作品が搭載された次期Power Macintoshプロトタイプが展示会でAppleによって公開された。しかし、1997年5月のWWDC時、安価なPowerPC 750やPowerPC 604evとの性能差がないとして、Power Macintoshへの採用が中止された為にX704は量産化されずに終った。",
"title": "PowerPCのプロセッサ"
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"text": "G3(第3世代)以降は、PowerPC採用の代表的製品であるPower MacintoshシリーズでAppleがジェネレーション・ナンバーを前面に押し出したため、PowerPCの世代区分が一般に明確となった。性能比での消費電力が低いことが特徴で、現在では主に組み込み用途に用いられる。なお、パイプラインは浅く、603と変わらない4段にすぎない。",
"title": "PowerPCのプロセッサ"
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"text": "G3をベースに浮動小数点演算機能を強化、SIMDと対称型マルチプロセッサ機能を追加したもの。CPUバスは従来の60xバスに加え、より高度な制御機能をもったMPXバスにも対応している。MPC 7450 でマイクロアーキテクチャを刷新したため、MPC 745x・MPC 744x は、G4+とも呼ばれる。",
"title": "PowerPCのプロセッサ"
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"text": "64ビットPowerPCアーキテクチャに準拠し、設計を全面的に刷新している。",
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"text": "IBMがAppleと共同開発し、POWER4ベースに設計。G5と呼ばれる。",
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"text": "90nmプロセス、高速化。省電力機能「PowerTune」を搭載。",
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"text": "デュアルコア、各コアにL2キャッシュ1MB内蔵。最高2.5GHz。",
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"text": "PowerPC 970FXの後継モデルで、970MP同等の性能でシングルコア・省電力を実現した。最高2.5GHz。",
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"text": "P.A. Semi(2008年にAppleに買収された)が設計した、64ビット対応のG5互換製品。",
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"text": "PowerPC Processor Elementの略称、SCE・ソニー・IBM・東芝の4社連合によって開発。PowerPC互換ではあるが、どのベースにも属さないフロムスクラッチ。Cell/B.E.およびPowerXCell 8iに使用されている。",
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"text": "Xbox 360用にIBMがマイクロソフトと共同開発した64ビットのPowerPC互換プロセッサ。XCPUと呼ばれる。後にGPU「Xenos」を統合したXCGPU、更にeDRAMを統合したObanに発展した。",
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"text": "最初から組込み向けとしてIBMが開発。現在はAMCCが権利を持つ。単体のマイクロプロセッサとしてではなく、ASICのCPUコアとして組み込まれることが多い。2005年頃より流通。",
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"text": "2009年9月24日に発表された470シリーズは、それまでの400シリーズと比較して性能を2倍以上に引上げた。ソフトウェアは400シリーズと共通であるが、464FPと比較してパイプラインが7段から9段へ増えており、out-of-order、倍精度浮動小数点数演算対応SIMDと、PowerPC G3 (PowerPC750) シリーズの後継シリーズとしての位置づけとなっている。",
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"text": "2010年2月9日にISSCC2010で発表されたプロセッサ。1コアあたり4スレッドで16コア1チップで構成されている。L1キャッシュ16KB+16KB。L2キャッシュ2MB。1.6GHz時55W、204.8Gflops。最高2.3GHz、65Wで稼動する。スーパーコンピュータBlue Gene/Q(ブルージーンQ)のコアCPUに採用されている。",
"title": "PowerPCのプロセッサ"
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]
| PowerPCは1991年にApple Computer、IBM、モトローラの提携(AIM連合)によって開発された、RISCタイプのマイクロプロセッサである。 PowerPCはIBMのPOWERアーキテクチャをベースに開発され、AppleのMacintoshやIBMのRS/6000などで採用された。ゲーム機をはじめとした組み込みシステム、スーパーコンピュータで広く使われている。POWER3以降は、POWERファミリ自体がPowerPCアーキテクチャに準拠している。 | {{出典の明記|date=2021年5月}}
{{Infobox CPU architecture
| name = PowerPC
| designer = [[AIM連合]]→[[フリースケール・セミコンダクタ]]・[[IBM]]
| bits = [[64ビット]] (32 → 64)
| introduced = 1992年
| version = 2.02
| design = RISC
| type = [[:en:Load-store architecture|Load-store]]
| encoding = Fixed/Variable (Book E)
| branching = Condition code
| endianness = [[:en:Endianness#Bi-endian_hardware|Big/Bi]] <!-- Except PowerPC 970 and a lot others -->
| extensions = [[AltiVec]], APU
| open = Yes
| registers = 32 GPR, 32 FPR
}}
[[ファイル:IBM PowerPC601 PPC601FD-080-2 top.jpg|thumb|IBM PowerPC 601 マイクロプロセッサ PPC601FD-080-2]]
[[ファイル:PPCA601v5FE1002_01.JPG|thumb|IBM PowerPC 601+ マイクロプロセッサ PPCA601v5FE1002]]
[[ファイル:PPC601FF-090a-2_01.JPG|thumb|IBM PowerPC 601 マイクロプロセッサ PPC601FF-090a-2]]
{{Power Architecture}}
'''PowerPC'''(パワーピーシー、{{lang-en-short|'''P'''erformance '''o'''ptimization '''w'''ith '''e'''nhanced '''R'''ISC - '''P'''erformance '''C'''omputing}})は[[1991年]]に[[Apple|Apple Computer]]、[[IBM]]、[[モトローラ]]の提携([[AIM連合]])によって開発された、[[RISC]]タイプの[[マイクロプロセッサ]]である。
PowerPCは[[IBM]]の[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]アーキテクチャをベースに開発され、[[Apple]]の[[Macintosh]]やIBMの[[RS/6000]]などで採用された。[[ゲーム機]]をはじめとした[[組み込みシステム]]、[[スーパーコンピュータ]]で広く使われている。[[POWER3]]以降は、POWERファミリ自体がPowerPCアーキテクチャに準拠している。
== 概要 ==
アーキテクチャとして、動作のベースとなる[[命令セット]]や基本的な[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]セット、[[アドレッシングモード|メモリアドレッシング]]、[[キャッシュメモリ|キャッシュ]]モデルなどを規定しているが、それらをどのように[[実装]]すべきかまでは規定していない。
そのため実際に製造されるモデルは高速化のためにアーキテクチャレベルでは規定されていない機構(L2、L3キャッシュや関連レジスタなど)を備えているのが普通である。
性能の割に低消費電力でダイサイズも小さいという特性から、[[ゲーム機]]やハイエンドの[[ルーター]]などのネットワーク機器、[[レーザープリンター]]などの分野で広く使われており、高性能な[[組み込みシステム]]向けプロセッサとしてよく使われる。[[FPGA]]用の[[IPコア]]として提供されているものもある。もともとはAIMプラットフォームの[[CPU]]という意味で開発されたものだが、CPU以外は開発されなかったため、今日まで残る同プロジェクト唯一の成果物でもある。
デスクトップコンピュータ用としては、[[Apple]]の[[Power Macintosh]]および[[Power Mac]]に採用されていたほか、[[IBM]]の一部の[[ワークステーション]]、[[サーバ]]や[[Blue Gene|BlueGene/L]]をはじめとする[[スーパーコンピュータ]]にも採用されている。その他、2005年 - 2006年に発売された主要据え置き型ゲーム機三機種([[Wii]]、[[PlayStation 3|PLAYSTATION 3]]、[[Xbox 360]])は、いずれもPowerPCアーキテクチャを採用している。
現在、PowerPCプロセッサはモトローラから半導体部門を分離して設立された[[フリースケール・セミコンダクタ]](現在は[[NXPセミコンダクターズ|NXP]])と[[IBM]]が開発・製造を行っており、PowerPC派生品種の[[Cell Broadband Engine|Cell]]プロセッサはIBMと[[東芝|東芝セミコンダクター]]が設計・製造している。また、4xxのシリーズ(組込み系CPUコア)は[[アプライド・マイクロ・サーキット|AMCC]]に売却されている。しかし実際は4xxシリーズでもハイエンドクラスの製造はIBMしか行えないため、開発の中心はIBMのままである。
== 設計特徴 ==
PowerPCは[[RISC]]の思想で作られており、[[スーパースカラ]]方式で命令を実行する。
ベースにした[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]の特徴に、さらにいくつかの変更を加えた。
*POWER[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]のうち、複雑なものを省いた命令セット。RISCプロセッサとしては、比較的複雑な命令も含む。
*バイエンディアン([[ビッグエンディアン]]および[[リトルエンディアン]]のサポート。G5を除く)
*[[単精度]][[浮動小数点数|浮動小数点演算]]に[[倍精度]]浮動小数点演算の追加
*32[[ビット]][[命令 (コンピュータ)|命令]]と完全[[下位互換]]の64ビット[[命令セット]]
*32個のGPR(汎用[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]])と32個のFPR([[浮動小数点数|浮動小数点]]レジスタ)
*[[サブルーチン]]の[[呼出規約]]は一般的なRISCチップとは異なり[[レジスタ (コンピュータ)#サブルーチン|スタック渡し]]である。実際は10個の引数まで[[呼出規約#Register (fastcall)|レジスタ渡し]]が行われるが、データのビット数によっては使用可能なレジスタ数が減少したり、非揮発性レジスタ(r13 - r31<ref>{{cite book
|title=Optimizing PowerPC Code
|last=Kacmarcik
|first=Cary
|isbn=0-201-40839-2
|page=252
|year=1995
|date=
|publisher=Addison-Wesley Publishing Company}}</ref>)の退避などを行う必要がある。
*1本のカウントレジスタ。専用の分岐命令などと組み合わせてループのカウントなどに利用する。
*複雑な命令など一部を除き、命令は基本的に[[ワイヤードロジック|ハードワイヤード (Hard-Wired) ロジック]]で実装(一部[[マイクロコード]]で実装)
*G4(第4世代)シリーズでは128ビット単位で[[ベクトル演算]]を行う『[[AltiVec]](IBMはVMX、AppleではVelocity Engineと表現している)』を採用。付随する専用のレジスタは32本。
*8本の4ビット条件レジスタ(いわゆる[[ステータスレジスタ]]やフラグレジスタと呼ばれるもの)。詳細はステータスレジスタの項を参照。
*原則として、現在のスタックのメモリアドレスを指す[[レジスタ (コンピュータ)|ベースポインタ]]を持たない。代りに汎用レジスタの一つを用いる。この規則は[[アプリケーションバイナリインタフェース|ABI]]に依存するが、大抵の場合そのレジスタは1番の汎用レジスタである。また、0番の汎用レジスタは、命令によってはゼロレジスタの代用として用いられることがある。
*静的な[[分岐予測]]を命令単位で設定できる。
*条件分岐命令は8×32×17=4352通り(分岐予測を含む)の条件を組み合わせることが可能である。
1998年のPOWER3以降は、POWERも64ビットPowerPC仕様に準拠したアーキテクチャを採用している。
== 歴史 ==
{{see also|Power Architecture#歴史}}
PowerPC の歴史は70年代後半の[[ジョン・コック]]の[[RISC]]アイデアを使用した米 [[IBM]]の[[IBM 801|801]][[プロトタイプ]]・チップで始まった。801を基にしたコアは数々のIBM製組み込み用製品に採用され、最終的には16本の[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]を持つ[[ROMP]]プロセッサ、[[IBM RT]]にまで発展した。しかし、RTプロセッサの性能は十分とは言えなかったため、IBMは「アメリカ・プロジェクト」と呼ばれる、市場で最も高速なプロセッサを開発する計画を始動させた。その結果開発されたのがPOWERアーキテクチャであり、[[1990年]]初頭に[[RS/6000|RISC System/6000]]と共に発表された。
本来のPOWERマイクロプロセッサは、スーパースケーラを実現した最初のプロセッサの一つであり、高性能で[[マルチプロセッサ]]に対応していた。IBMがRS/6000の製品群を[[ローエンド]]向けから[[ハイエンド]]向け製品にまで拡大するにあたって、POWERプロセッサからいくつかの機構を取り除き、シングルチップ・プロセッサにする必要が生じたため、IBMは[[RISC Single Chip]](RSC)の開発に着手した。RSCは開発の初期段階から、工業向けに幅広く使える可能性を秘めた高機能なプロセッサになるであろうと考えられていた。
[[1991年]]、IBMはAppleに接近し、共同でPOWERアーキテクチャをベースとしたシングルチップ・マイクロプロセッサの開発を行なう事で合意した。その直後、当時据え置き型コンピュータ用プロセッサに関してモトローラ社最大の顧客であったApple Computerは、長年の協力関係を考慮して、モトローラにマイクロプロセッサ開発に加わるよう打診した。モトローラには、マイクロプロセッサ開発における豊富な経験の活用と、[[セカンドソース]]としての役割が期待された。こうしてIBM、Apple、モトローラは'''AIM連合'''と呼ばれる協力関係を組織するに至った。
1991年、PowerPCはAIM連合における最大要素の一つとなった。当時の[[パーソナルコンピュータ]]市場では[[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows|Windows]]を開発中であり、[[インテル]]製プロセッサはその支配を強めつつあった。また、[[CISC]]アーキテクチャのインテル[[Intel 80386|80386]]及び[[Intel486|80486]]が大半のコンピュータに採用されており、後継の[[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]プロセッサの開発も順調に進んでいた。PowerPCプロセッサは冒険的な要素を含んでいたものの、拡大する[[Wintel|マイクロソフトとインテル]]による支配に対抗するため、開発が進められた。
モトローラにとって、POWER系プロセッサの開発に加わる事は、またとないチャンスであった。この時点でモトローラは既に自社製のRISCプロセッサ[[MC88000]]を市場に投入していた。しかし、このプロセッサは貧弱な設計手法と製造上の問題により市場での評価は低く、販売は低迷していた。このためモトローラは、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]や[[SPARC]]といった競合製品に市場で並ぶ機会を失いつつあった。しかし、新型POWER系プロセッサの開発に参加すれば、キャッシュ部分を設計するだけで、広くテストされた高性能RISCプロセッサを販売する事が可能になるため、RISCプロセッサ市場での巻き返しが期待された。また、[[MC68000|68000]]系以来の重要な顧客であるAppleとの関係の改善や、IBMに簡略化バージョンを供給できる可能性もあった。
その低評価の一方で、MC88000プロセッサは既に生産されており、Appleは既にこのプロセッサを利用したプロトタイプのコンピュータを動作させていた。このため、開発中のPOWERアーキテクチャ・シングルチップのバスにハードウェアの段階でMC88000のバスとの互換性を持たせれば、[[ロジックボード]]を再設計する事なく、より迅速に新型プロセッサを市場に投入する事が可能であった。最終的に、新型プロセッサPowerPCはこういった要求を含んだ設計となった。
PowerPCが市場に投入される直前、大きな動きがあった。Apple Computerに加えてIBMとモトローラの両社は、PowerPCプロセッサに対応したシステムを提案した。マイクロソフトはモトローラのPowerPCサーバ向けの[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] 3.51を発表、[[サン・マイクロシステムズ]]も[[Solaris]]のPowerPC版を発表した。またIBMは、自社の[[AIX]]を移植し、[[OS/2]]の移植も計画していた。1994年には組込み用途向けに PowerPC 403 を発表、後継のPowerPC 401、440などは機器制御用途やネットワーク機器を中心に広く普及した。また同年にPowerPCの[[64ビット]]版であるPowerPC 620が完成、同チップは出荷されず普及はしなかったが、その設計はPOWER3以降のPOWERファミリの礎となった。
1994年にはPowerPCをベースとしたコンピュータの仕様である'''[[PReP]]'''、1995年には後継の'''[[CHRP]]'''が発表された。また[[1994年]]にはPowerPC搭載のMacintosh ('''[[Power Macintosh]]''') が登場した。
しかしこれらの動きはわずかな期間で終わり、結局PowerPCという新型アーキテクチャに期待されていた理想が実現する事はなかった。Windows、OS/2、そしてサンの顧客はPowerPC用ソフトウェアの不足を理由に、PowerPCプロセッサはほとんど顧みなかった。これらのOSの後継が市場に投入される事はなく、PowerPCから完全に離れていった。また[[BeOS]]も最初のバージョンはPowerPC向けに開発されたが、その後x86系プロセッサに移行していった。最終的にはPowerPC向けの商用のデスクトップOSは、Appleの[[Classic Mac OS]]と[[macOS|Mac OS X]]のほかは、[[AmigaOS]]などのみが残った。
1990年代中頃、PowerPCプロセッサはベンチマークにおいて、最速の[[x86]]系プロセッサと同等または凌駕する性能を発揮した。90年代末に登場したG4では[[AltiVec]]を搭載し、当時の他のCPUに比較して大幅に高速な[[SIMD]]処理を実現した。PowerPCは高性能でありながら低コスト・低消費電力といった特徴をもち、AppleはPowerPC603およびG3・G4を採用することによって、同時期のPC/AT互換ノートパソコンの性能を凌駕する[[PowerBook]]や、[[CPUの冷却装置|ファンレス]]の[[iMac]]、[[Power Mac G4 Cube]]といった独創的な製品を作ることが可能になった。しかしPowerPCの性能あたりの消費電力の低さは、組み込み向けとしては高く評価されたものの、デスクトップで勢力を拡大するための決め手にはならなかった。
[[2002年]]にはPOWER4をベースとした[[64ビット]]の[[PowerPC 970]] (G5)が登場、高性能化に伴いG4から大幅に消費電力が増大したものの、同時期の[[Pentium 4]]と比較するとほぼ同等の性能でありながら低消費電力であり、IBM・Appleのサーバ製品のほか、[[Power Mac]] G5・iMac G5で採用された。
[[2004年]]はPowerPC系[[CPU]]にとって激動の年になった。まず、モトローラが、半導体部門をスピンオフし、『[[フリースケール・セミコンダクタ]]』を設立。次に、2005年度の[[Electronic Entertainment Expo|E3]]において発表された各社の次世代(第7世代)ゲーム機であるレボリューション(コードネーム、現在の[[Wii]])、[[PlayStation 3|PLAYSTATION 3]]、[[Xbox 360]]のCPUがすべてPowerPC系アーキテクチャのものになった。一方で、これまでPowerPCを採用していたAppleの[[Macintosh]]が、2006年から[[インテル]]のCPUに全面的に切り替えていく事が発表された。2006年中にAppleのハードウェアは完全にインテルアーキテクチャへの切り替えが完了し、Apple社内でPowerPC向け[[チップセット]]の開発を行っていた設計チームは[[Apple A4]]の開発に転じた。2009年にはセキュリティアップデートを除いてPowerPC向けソフトウェアの開発も終了した。
ゲーム機においてはWiiの後継機種である2012年発売の[[Wii U]]が引き続きPowerPC系のアーキテクチャを採用したものの、2013年発売の[[PlayStation 4]]、[[Xbox One|XBOX One]]の両陣営はx86系のプロセッサを採用し、Wii Uの実質的な後継機種である2017年発売の[[Nintendo Switch]]はArm系のプロセッサを採用したため2019年現在は使われていない。
現在ではサーバやスーパーコンピュータに採用されている。プリンター・ルータ・ネットワークスイッチ等の組み込み用途にも積極的に採用されていたが、より省電力かつ低コストな[[ARMアーキテクチャ|ARM系]]プロセッサの台頭により2019年現在は新規採用されるケースは減っている。
== PowerPCのプロセッサ ==
=== POWER改修系 (G1) ===
PowerPCファミリを立ち上げる為に、IBMの既存の[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]][[CPU|プロセッサ]]をベースに設計された。その為、正式にはPowerPCのジェネレーション・ナンバーを持っていない。1994年代より流通。
*[[PowerPC 601]] - 50,66,80,90MHz、POWER[[命令 (コンピュータ)|命令]]も実装
**PowerPC 601+ - 外部[[バス (コンピュータ)|バス]]の3倍[[クロック]]で動作、低電源電圧化 (+2.5V) 100, 110, 120MHz
*{{仮リンク|PowerPC 602|en|PowerPC_600#PowerPC_602}} - 低価格版 [[3DO]]の後継機『[[3DO M2|M2]]』に採用される予定だった。『M2』をベースとした[[コナミ]]の[[アーケードゲーム基板|業務用ゲーム基板]]に使用された。
=== G2 ===
[[ファイル:XPC603EFE100LF_01.jpg|thumb|XPC603EFE100LF]]
[[ファイル:XPC603PRX200LC 01.jpg|thumb|XPC603PRX200LC]]
アルミ配線の603、604がG2第1世代。第2世代については、IBMによる銅配線の603eと604e全てが該当するとする文献と、同シリーズで250MHz以上のものとする文献が散見され、はっきりしない。どちらも完全バス互換であったため、区別が重要でなかったこともその理由である。PowerPC 603は大変消費電力が少なく、デスクトップと同様の仕様のチップがノートパソコンに搭載されたほか、組み込み向けに広く使われた。PowerPC 604は4つの演算ユニットを並列動作させることができ、パーソナルコンピュータ向けとしては当時最高レベルの演算性能を持っていた。浮動小数点演算は特に強力であった。
*[[PowerPC 603]] - 低消費電力
**PowerPC 603e - 低消費電力、高速版
**PowerPC 603ev - PowerPC 603eの高速版
*[[PowerPC 604]] - [[対称型マルチプロセッシング|SMP]]対応、インラインL2キャッシュ、高速な浮動小数点演算
**PowerPC 604e - 604の低消費電力、小型高速版
**PowerPC 604ev - 604eの低消費電力、小型高速版
*{{仮リンク|PowerPC 615|en|PowerPC_600#PowerPC_615}} - [[x86]]とPowerPC命令の両立を目指したプロセッサ。[[Pentium]]互換ソケット<!--たぶんSocket5か7-->に装着可能。x86プロセッサとしては当時のPentiumなどに対抗できる性能を有すと見込まれたが、命令の切り替えの際の性能の低下が激しい、ダイサイズが330mm{{sup|2}}とPowerPC系にしては大きい、MinixとOS/2が移植されていたものの<ref name="MS-kills-615">{{Cite web
|title=Microsoft killed the PowerPC 615
|url=https://www.theregister.com/1998/10/01/microsoft_killed_the_powerpc/
|website=theregister.com
|accessdate=2021-6-26|language=en}}</ref>マイクロソフトなどが(WindowsのPowerPCモードを<ref name="MS-kills-615"/>)サポートしない公算が大きかったなどの理由により開発中止になった。
*PowerPC 620 - 64ビット版。その設計はPOWER3に引き継がれる
[[ファイル:PPC750CXEHP55-3_01.jpg|thumb|PPC750CXEHP55-3]]
[[ファイル:GEKKO.jpg|thumb|GEKKO 45L8926ESD<br>(PPCDBK-EFB486X3)]]
=== X704 ===
Appleが出資していた[[:en:Exponential Technology|Exponential Technology]]による[[バイポーラトランジスタ]]型の論理回路を使う消費電力の大きなハイパフォーマンスなCPUとして発表された、1996年当時の他のCPUに比べ大幅な高速クロック動作を実現するとしていたPowerPCアーキテクチャの予定製品であった。試作品が搭載された次期[[Power Macintosh]]プロトタイプ<ref>[http://www.computerhistory.org/collections/catalog/102662836 X704 with Exponential processor Power PC] - [[コンピュータ歴史博物館|Computer History Museum]]</ref>が展示会でAppleによって公開された<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961122/gotocom4.htm |title=後藤弘茂のCOMDEXリアルタイムレポート(その4) |date=1996/11/21|publisher=PC Watch}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970109/macworld.htm |title=山田久美夫の「MACWORLD Expo/San Francisco 1997」会場レポート|date=1997-01-09|publisher=PC Watch}}</ref>。しかし、1997年5月のWWDC時、安価なPowerPC 750やPowerPC 604evとの性能差がないとして、Power Macintoshへの採用が中止された為にX704は量産化されずに終った<ref>{{Cite news|url=http://www.zdnet.co.jp/macweek/9703/n0331_exponential.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990423191240/http://www.zdnet.co.jp/macweek/9703/n0331_exponential.html |date=1997-03-31|archivedate=1999-04-23 |title=ExponentialのX704チップ 500MHz超は第3四半期以降|publisher=MacWEEK}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.zdnet.co.jp/macweek/9705/n0516_x704.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19981201210217/http://www.zdnet.co.jp/macweek/9705/n0516_x704.html |date=1997-05-16|archivedate=1998-12-01 |title=Apple,X704チップ採用計画を中止 Arthur,Mach 5と「性能の差なし」|publisher=MacWEEK}}</ref>。
=== G3 ===
{{main|PowerPC G3}}
G3(第3世代)以降は、PowerPC採用の代表的製品である[[Power Macintosh]]シリーズでAppleがジェネレーション・ナンバーを前面に押し出したため、PowerPCの世代区分が一般に明確となった。性能比での消費電力が低いことが特徴で、現在では主に[[組み込みシステム|組み込み用途]]に用いられる。なお、パイプラインは浅く、603と変わらない4段にすぎない。
*PowerPC 75x,74x - [[PowerPC G3|PowerPC G3シリーズ]]と呼ばれる。603eの発展系。
*#PowerPC 75xにはバックサイド[[キャッシュメモリ|キャッシュ]]を採用
*#整数演算ユニットを2基に
**PowerPC 750L -750の銅配線版
**PowerPC 750CX/CXe -256KB L2キャッシュを内蔵
**PowerPC 750FX/FL -130nm [[SOI]]で製造、L2キャッシュ512KB
**PowerPC 750GX -90nm SOIで製造、〜1.1GHz、200MHz FSB対応、L2キャッシュ1MB
**PowerPC 750CL -L2キャッシュ256KB、400MHz〜1GHz、PowerPC 750GXの約半分まで省電力化されている
*[[Gekko]] - [[ニンテンドーゲームキューブ]]用に開発されたもの。PowerPC 750CXeをベースに、浮動小数点演算が強化され、[[SIMD]]命令が追加されている
*[[Broadway_(マイクロプロセッサ)|Broadway]] - 90nm SOIで製造、任天堂の[[Wii]]用に開発されたもの。Gekko互換であり、PowerPC 750CLがベースと思われるが詳細は非公開。
*[[Espresso]] - 45nm SOIで製造、任天堂の[[Wii U]]用に開発されたもの。専用GPUとのMCMに対応したマルチコアCPUで、Broadwayがベースと思われるが詳細は非公開。
[[ファイル:Motorola_XPC7400RX400TK_top.jpg|thumb|XPC7400]]
[[ファイル:XPC7455 01.jpg|thumb|XPC7455]]
=== G4 ===
{{main|PowerPC G4}}
G3をベースに浮動小数点演算機能を強化、SIMDと[[対称型マルチプロセッシング|対称型マルチプロセッサ]]機能を追加したもの。CPUバスは従来の60xバスに加え、より高度な制御機能をもったMPXバスにも対応している。MPC 7450 でマイクロアーキテクチャを刷新したため、MPC 745x・MPC 744x は、'''G4+'''とも呼ばれる。
*MPC 74xx - [[PowerPC G4|G4シリーズ]]と呼ばれる。[[モトローラ]]および[[フリースケール・セミコンダクタ]]が開発。
*#AltiVec (Velocity Engine) 搭載
*#[[CPUバス]]にMPXバス (MaxBus) 採用
*#SMP対応
*#浮動小数点演算を強化
**MPC 7400
***MPC 7410 - 省電力版。180nmプロセスで製造。
**MPC 7450 - L2キャッシュ256KB内蔵、L3キャッシュ対応、整数演算ユニットを4基に、[[命令パイプライン|パイプライン]]を7段に多段化し、高クロック化
***MPC 7451 - 省電力版
***MPC 7445 - 7455のL3キャッシュインターフェース省略タイプ。
***MPC 7455 - 180 nmプロセス、SOIを採用。クロックは1GHzに到達。
***MPC 7457 - 130nm プロセス、L2キャッシュを512KBに
***MPC 7447 - 7457のL3キャッシュインターフェース省略タイプ。省電力。
***MPC 7448 - 90nmプロセスで製造、1MBのL2キャッシュ、e600コアを採用。
***MPC 8641 - e600コアを採用。メモリコントローラ、[[PCI Express]]コントローラを内蔵。
***MPC 8641D - MPC 8641のデュアルコア版。
=== G5 ===
64ビットPowerPCアーキテクチャに準拠し、設計を全面的に刷新している。
==== [[PowerPC 970]] ====
IBMがAppleと共同開発し、POWER4ベースに設計。[[PowerPC 970|G5]]と呼ばれる。
*[[64ビット]]化
*パイプラインを大幅に多段化し高[[クロック]]動作(最高2GHz以上、パイプライン段数16〜25段)
*CPUバスを大幅に高速化(1GHz超)
*2基の[[FPU]](G4までは1基)を搭載し、高速な[[浮動小数点数|浮動小数点]]演算(スカラ4G[[FLOPS]]+単精度ベクタ8GFLOPS[1GHz動作時])
*AltiVec互換のVMXを搭載
*2基のロード/ストアユニット(G4までは1基)
*複雑な命令を[[マイクロコード]]として実装
*フル精度の平方根をハードウェア命令として実装(G4はソフトウェア関数)。
*[[リトルエンディアン]]非対応
<!-- http://www-01.ibm.com/chips/techlib/techlib.nsf/techdocs/1DE505664D202D2987256D9C006B90A5/$file/PPC970FX_DS_DD3.X_V2.5_26MAR2007_pub.pdf を参照 -->
===== PowerPC 970FX =====
90nmプロセス、高速化。省電力機能「PowerTune」を搭載。
===== PowerPC 970MP =====
[[マルチコア|デュアルコア]]、各コアにL2キャッシュ1MB内蔵。最高2.5GHz。
===== PowerPC 970GX =====
PowerPC 970FXの後継モデルで、970MP同等の性能でシングルコア・省電力を実現した。最高2.5GHz。
==== PWRficient PA6T ====
[[P.A. Semi]](2008年にAppleに買収された)が設計した、64ビット対応のG5互換製品。
*徹底的な[[クロックゲーティング]](チップ全体を2万5340の要素に分けて[[クロック]]の供給を行う)により、省電力(2GHz、2コアで平均消費電力13W)を実現
*[[マルチコア]]接続用のCONEXIUMバスを搭載
*AltiVec互換のVMXを搭載
*バイエンディアンに対応
=== Cell ===
==== [[Cell_Broadband_Engine#PowerPC_Processor_Element|PPE]] ====
PowerPC Processor Elementの略称、SCE・ソニー・IBM・東芝の4社連合によって開発。PowerPC互換ではあるが、どのベースにも属さないフロムスクラッチ。[[Cell Broadband Engine|Cell/B.E.]]および[[PowerXCell#PowerXCell_8i|PowerXCell 8i]]に使用されている。
*VMX拡張付き64ビットのPOWERアーキテクチャを継承した2命令同時発行のRISCプロセッサ
*深いパイプラインとインオーダー実行など回路を簡略化することにより高[[クロック]]動作(最高4GHz以上、パイプライン段数19段以上)
*PowerPC ISA v.2.02に準拠
*2スレッドの[[同時マルチスレッディング]]
*仮想化機構のサポート
*リアルタイム性を保障するL2キャッシュ
*[[リトルエンディアン]]にはハードウェア変換で対応
=== [[Xenon (マイクロプロセッサ)|Xenon]] ===
[[Xbox 360]]用にIBMがマイクロソフトと共同開発した64ビットのPowerPC互換プロセッサ。XCPUと呼ばれる。後にGPU「Xenos」を統合したXCGPU、更にeDRAMを統合したObanに発展した。
*3つの対称型マルチコアプロセッサ
*ゲームやグラフィックス用に拡張されたVMX128
*1MBの共有L2キャッシュ
*21.6GB/sのFSB
=== {{仮リンク|label=4xx|PowerPC 400|en|PowerPC 400}} ===
{{Anchors|4xx}}最初から組込み向けとしてIBMが開発。現在は[[アプライド・マイクロ・サーキット|AMCC]]が権利を持つ。単体のマイクロプロセッサとしてではなく、[[ASIC]]のCPUコアとして組み込まれることが多い。2005年頃より流通。
*405 シリーズ
**PowerPC NPe405H
**PowerPC 405EP
**PowerPC 405EX
**PowerPC 405EXr
**PowerPC 405GP
**PowerPC 405GPr
*440 シリーズ
**PowerPC 440EP
**PowerPC 440EPx
**PowerPC 440GR
**PowerPC 440GRx
**PowerPC 440GX
**PowerPC 440SP
**PowerPC 440SPe
*460 シリーズ
**PowerPC 460EX
**PowerPC 460GT
**PowerPC 460SX
**PowerPC 460GTx
=== 470シリーズ ===
2009年9月24日に発表された470シリーズは、それまでの400シリーズと比較して性能を2倍以上に引上げた。ソフトウェアは400シリーズと共通であるが、464FPと比較してパイプラインが7段から9段へ増えており、out-of-order、倍精度浮動小数点数演算対応SIMDと、[[PowerPC G3]] (PowerPC750) シリーズの後継シリーズとしての位置づけとなっている。
*PowerPC 476FP 12S -45nm SOIで製造。1.6GHz時に1.6Wで動作する。倍精度浮動小数点数演算対応SIMD命令、単精度2並列SIMD命令に対応。最高2GHz。
=== PowerPC A2 ===
2010年2月9日にISSCC2010で発表されたプロセッサ<ref>[https://www.power.org/wp-content/uploads/2010/11/ISSCC_WSP_Paper_5_05r2.pdf]</ref>。1コアあたり4スレッドで16コア1チップで構成されている。L1キャッシュ16KB+16KB。L2キャッシュ2MB。1.6GHz時55W、204.8Gflops。最高2.3GHz、65Wで稼動する。[[スーパーコンピュータ]][[Blue Gene]]/Q(ブルージーンQ)のコアCPUに採用されている。
== 使用製品 ==
*[[POWER (マイクロプロセッサ)|IBM POWER]] - [[IBM]]の主に[[UNIX]][[サーバ]]および[[ワークステーション]]用の[[CPU]]。
*組み込み向け派生品
**[[MPC5xx]]
**[[PowerQUICC]]
*[[Macintosh]] - Appleの[[パーソナルコンピュータ]]。[[Power Macintosh]]および[[Power Mac]]、[[iBook]]、1995年以降の[[PowerBook]]、2005年までの[[iMac]]。
*使用[[ゲーム機]]
**[[ピピンアットマーク]]([[バンダイ|バンダイ・デジタル・エンタテイメント]])。PowerPC 603 66MHzを使用。
**[[セガ]] [[MODEL3]] アーケードゲーム基板。基板リビジョンによって使用CPUは異なり、PowerPC 603 66MHz、100MHz、PowerPC 603ev 166 MHzを使用。
**[[PlayStation 3]]([[ソニー・コンピュータエンタテインメント]])。[[東芝]]と共同開発したPowerPC系プロセッサ「[[Cell_Broadband_Engine|Cell]]」を使用。
**[[Xbox 360]]([[マイクロソフト]])。PowerPC系トリプルコアプロセッサを使用。
**[[ニンテンドーゲームキューブ]]、[[Wii]]、[[Wii U]]([[任天堂]])。PowerPC系プロセッサ「[[Gekko]]」「[[Broadway (マイクロプロセッサ)|Broadway]]」「[[Espresso]]」を使用。
*[[玄箱]] - [[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]自作キット一部機種にPowerPCを使用。
*[[戦闘機]]
**[[スウェーデン]]の多目的戦闘機[[サーブ 39 グリペン|グリペン]]の中央情報処理装置。
**[[ステルス戦闘機]][[F-35 (戦闘機)|F-35]]のICP(Integrated Core Processor:統合型コアプロセッサー)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[RISC]]
*[[Power.org]]
*[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]
*[[PReP]]
*[[CHRP]]
*[[PAPR]]
*[[Power Architecture]]
== 外部リンク ==
*[http://www.ibm.com/chips/power/powerpc/ IBM::PowerPC features] {{リンク切れ|date=2021年3月}}
*[http://www.freescale.com/webapp/sps/site/homepage.jsp?nodeId=0162468rH3bTdG freescale::PowerPC Processors]
*[http://www.freescale.co.jp/doc/MPCFPE32BJ_R1a.pdf 32ビットPowerPCアーキテクチャプログラミング環境(PDF)]
*[http://www-06.ibm.com/technology/jp/power/powerpc.html Powerアーキテクチャーオファリング - 日本IBM]
{{マイクロコントローラ}}
{{Normdaten}}
[[Category:IBMのマイクロプロセッサ]]
[[Category:Appleのマイクロプロセッサ]]
[[Category:モトローラのマイクロプロセッサ]]
[[Category:命令セットアーキテクチャ]] | null | 2023-02-27T14:02:58Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/PowerPC |
1,544 | 2月17日 | 2月17日(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)ある。 | [
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| 2月17日(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)ある。 | {{カレンダー 2月}}
'''2月17日'''(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から48日目にあたり、年末まであと317日([[閏年]]では318日)ある。
== できごと ==
*[[1600年]] - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]が火刑に処せられる。
*[[1801年]] - [[1800年アメリカ合衆国大統領選挙]]: 下院の臨時選挙で[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]を第3代[[アメリカ合衆国大統領]]とすることが確定。
*[[1854年]] - [[イギリス]]が[[オレンジ自由国]]の独立を[[国家の承認|承認]]。
*[[1861年]] - [[インドネシア]]、[[スマトラ島]]沖で[[マグニチュード]]8.6の大地震。
*[[1869年]] - [[メンデレーエフ]]が周期律を発見。
*[[1872年]] - {{仮リンク|ゴンブルサ事件|en|Gomburza}}。[[フィリピン]]で、労働者による暴動の煽動者として3人のフィリピン人神父を処刑。
*[[1880年]]([[ユリウス暦]][[2月5日]]) - [[冬宮殿|冬宮]]食堂爆破事件。ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]が暗殺未遂。
*[[1904年]] - [[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の歌劇『[[蝶々夫人]]』が[[スカラ座|ミラノ・スカラ座]]で初演。
*[[1906年]] - [[島村抱月]]・[[坪内逍遙]]らが中心となり[[文芸協会|文藝協会]]を結成
*[[1913年]] - ニューヨークで美術展「[[アーモリーショー]]」が開催。
*[[1925年]] - [[ハワード・カーター]]がエジプトの[[王家の谷]]で[[ツタンカーメン]]王の王墓を発掘。
*[[1933年]] - アメリカで週刊誌『News-Week』が創刊。『[[Newsweek]]』の前身。
*[[1937年]] - [[日蓮宗]]の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。([[死のう団事件]])
*[[1943年]] - [[岐阜城]]跡地に建造されていた[[模擬天守]]が失火により焼失。展示されていた[[織田信長]]の遺髪などの資料も焼失<ref>金華山城焼く、明治時代建設の模擬城(昭和18年2月18日 毎日新聞(大阪)夕刊)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p125 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
*[[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]: [[エニウェトクの戦い]]。
*1944年 - 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: [[トラック島空襲]]。
*[[1946年]] - [[新円切替]]: 「[[金融緊急措置令]]」を公布施行。旧円紙幣の通用を停止、預金持出しを制限。
*[[1955年]] - [[横浜市]]の聖母の園養老院が[[漏電]]で全焼。98人焼死。([[聖母の園養老院火災]])
*[[1959年]] - アメリカの気象衛星「{{仮リンク|バンガード2号|en|Vanguard 2}}」打上げ。
*[[1961年]] - [[コンゴ]]の[[パトリス・ルムンバ]]前首相が反対派により暗殺される。
*[[1965年]] - アメリカの月探査機「[[レインジャー8号]]」打上げ。
*[[1967年]] - [[佐藤栄作]]が第62代[[内閣総理大臣]]に任命され、[[第2次佐藤内閣]]が成立。全閣僚が再任。
*[[1968年]] - [[マサチューセッツ州]][[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]に[[バスケットボール殿堂]]が開設。
*[[1971年]] - [[真岡銃砲店襲撃事件]]。
*[[1972年]] - [[フォルクスワーゲン・タイプ1]](ビートル)の累計生産台数が[[フォード・モデルT]]の世界記録を塗り替える。
*1972年 - 群馬県[[妙義山]]中で[[連合赤軍]]幹部の[[森恒夫]]と[[永田洋子]]を逮捕。
*[[1977年]] - [[沖縄県]]の[[久米島]]にある測候所で、[[霙|みぞれ]]を観測。沖縄における観測史上最初の降雪の記録。
*[[1978年]] - [[北海道]][[幌加内町]]母子里の[[北海道大学]]演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。[[天使の囁き記念日]])。
*[[1979年]] - [[中越戦争]]が勃発。カンボジアをめぐる対立から、中国人民解放軍がベトナム北東部に侵攻。
*[[1980年]] - [[宇宙科学研究所|東大宇宙航空研]]が試験衛星「[[たんせい4号]]」を打上げ。
*[[2002年]] - [[横浜ドリームランド]]が閉園。
*[[2003年]] - ロンドンで渋滞緩和を目的として[[コンジェスチョン・チャージ]]を導入。
*[[2004年]] - [[四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件]]発生。
*[[2005年]] - [[中部国際空港]](愛称:セントレア)が[[愛知県]][[常滑市]]沖に開港。
*[[2008年]] - [[セルビア共和国]]コソボ自治州が[[コソボ共和国]]として、セルビアより一方的に[[コソボ独立宣言|独立]]<ref>{{Cite web|和書|date=2018年1月24日 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kosovo/data.html |title=コソボ基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-02-16}}</ref>。
*[[2018年]] - [[2018年平昌オリンピック|平昌オリンピック]]: [[フィギュアスケート]]男子シングルで[[羽生結弦]]が冬季五輪、個人種目での日本人男子初の連覇を達成。銀メダルの[[宇野昌磨]]とともに、フィギュア界初のダブル表彰台を飾る。なお、第1回冬季五輪開催後、通算1000個目の金メダルとなった<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20180217-4LLOY7RYWFIXHAWXNZECZKLIFQ/ |title= 冬季五輪でジャスト1000個目、金メダル獲得の羽生結弦、もう一つの“金字塔” |newspaper= 産経ニュース |agency= 産業経済新聞社 |date= 2018-02-17 |accessdate= 2018-02-17 }}</ref><ref>。[https://www.nikkansports.com/olympic/pyeongchang2018/figureskate/news/201802170000471.html 羽生結弦の金が冬季五輪の1000個目の金メダルに]</ref>。
*2018年 - 第11回[[朝日杯将棋オープン戦]]で[[藤井聡太]]が優勝。[[棋戦 (将棋)|棋戦]]最年少優勝記録を更新するとともに、最年少の六段昇格となった<ref>{{Cite news|title=将棋 藤井聡太五段 棋戦初優勝 六段昇段|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180217/k10011333201000.html|newspaper=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会]]|date=2018-02-17|accessdate=2018-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180218003152/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180217/k10011333201000.html|archivedate=2018-02-18}}</ref>。
*[[2019年]] - [[東京競馬場]]で行われた第36回[[フェブラリーステークス]]で[[藤田菜七子]][[騎手]]が、[[日本中央競馬会|JRA]]女性騎手として初めて[[G1 (競馬)|G1]]レースに騎乗。単勝4番人気の[[コパノキッキング]]に騎乗し、5着に入線した。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1653年]] - [[アルカンジェロ・コレッリ]]、[[作曲家]](+ [[1713年]])
* [[1680年]]([[延宝]]8年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[徳川頼職]]、第4代[[和歌山藩|和歌山藩主]]、[[徳川吉宗]]の兄(+ [[1705年]])
* [[1718年]]([[文政]]7年[[1月18日 (旧暦) |1月18日]]) - [[森川俊令]]、第6代[[生実藩|生実藩主]](+ [[1787年]])
* [[1723年]] - [[トビアス・マイヤー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Johann-Tobias-Mayer Johann Tobias Mayer German astronomer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[天文学者]]、[[物理学者]]、[[数学者]](+ [[1762年]])
* [[1740年]] - [[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Horace-Benedict-de-Saussure Horace Bénédict de Saussure Swiss physicist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[科学者]](+ [[1799年]])
* [[1743年]]([[寛保]]3年[[1月23日 (旧暦) |1月23日]]) - [[松平頼真]]、第6代[[高松藩|高松藩主]](+ [[1780年]])
* [[1752年]] - [[フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー]]、[[作家]](+ [[1835年]])
* 1752年([[宝暦]]2年[[1月3日 (旧暦) |1月3日]]) - [[森忠興]]、第6代[[赤穂藩|赤穂藩主]](+ [[1784年]])
* [[1754年]] - [[ニコラ・ボーダン]]、[[探検家]](+ [[1803年]])
* [[1796年]] - [[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]、[[医師]](+ [[1866年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[1月13日 (旧暦) |1月13日]]) - [[堀田正愛]]、第4代[[佐倉藩|佐倉藩主]](+ [[1825年]])
* [[1801年]](寛政13年[[1月5日 (旧暦) |1月5日]]) - [[織田長恭]]、第10代[[芝村藩|芝村藩主]](+ [[1879年]])
* [[1820年]] - [[アンリ・ヴュータン]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1881年]])
* [[1824年]]([[文政]]7年1月18日) - [[牧野貞勝]]、第6代[[笠間藩|笠間藩主]](+ [[1841年]])
* [[1836年]] - [[グスタボ・アドルフォ・ベッケル]] [[詩人]]、[[作家]](+ [[1870年]])
* [[1837年]] - [[ピエール・オーギュスト・コット]]、[[画家]](+ [[1883年]])
* [[1838年]] - [[フリードリヒ・バイルシュタイン]]、[[化学者]](+ [[1906年]])
* [[1847年]] - [[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ]]、[[言語学者の一覧|言語学者]]、[[外交官]](+ [[1901年]])
* [[1861年]] - [[スタンプ・ウィードマン]]、元プロ野球選手(+ [[1905年]])
* [[1862年]]([[文久]]2年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[森鷗外]]、[[小説家]](+ [[1922年]])
* [[1863年]] - [[フョードル・ソログープ]]、[[詩人]]、小説家(+ [[1927年]])
* [[1865年]] - [[エルンスト・トレルチ]]、[[神学者]]、[[宗教哲学|宗教哲学者]](+ [[1923年]])
* [[1874年]] - [[トーマス・J・ワトソン]]、[[経営者]](+ [[1956年]])
* [[1877年]] - [[アンドレ・マジノ]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1932年]])
* [[1882年]] - [[前田米蔵]]、[[政治家]](+ [[1954年]])
* [[1888年]] - [[オットー・シュテルン]]、[[物理学者]](+ [[1969年]])
* 1888年 - [[ロナルド・ノックス]]、[[聖職者]]、[[推理作家]](+ [[1957年]])
* [[1890年]] - [[ロナルド・フィッシャー]]、[[遺伝学|遺伝学者]]、[[統計学|統計学者]](+ [[1962年]])
* [[1893年]] - [[ウォーリー・ピップ]]、元プロ野球選手(+ [[1965年]])
* [[1899年]] - [[小林中]]、[[実業家]](+ [[1980年]])
* [[1901年]] - [[梶井基次郎]]、[[小説家]](+ [[1932年]])
* [[1902年]] - [[白洲次郎]]、[[実業家]](+ [[1985年]])
* 1902年 - [[中村鴈治郎 (2代目)]]、[[歌舞伎]][[俳優]](+ [[1983年]])
* [[1903年]] - [[和田博雄]]、[[政治家]](+ [[1967年]])
* [[1904年]] - [[ハンス・モーゲンソウ]]、[[国際政治学者]](+ [[1980年]])
* 1904年 - [[伊丹安広]]、[[野球選手]](+ [[1977年]])
* [[1907年]] - [[志村立美]]、[[画家]](+ [[1980年]])
* 1907年 - [[小林宏治]]、[[実業家]](+ [[1996年]])
* [[1912年]] - [[アンドレ・ノートン]]、[[SF作家]](+ [[2005年]])
* [[1913年]] - [[ルネ・レイボヴィッツ]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](+ [[1972年]])
* [[1916年]] - [[杉兵助]]、[[コメディアン]] (+ [[1996年]])
* [[1918年]] - [[黒江保彦]]、[[大日本帝国]][[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少佐]]、[[航空自衛隊]][[少将|空将補]](+ [[1965年]])
* [[1919年]] - [[キャスリーン・フリーマン]]、[[俳優|女優]](+ [[2001年]])
* [[1923年]] - [[福田純]]、[[映画監督]](+ [[2000年]])
* 1923年 - [[黄長燁]]、[[思想家]]、[[政治家]](+ [[2010年]])
* [[1924年]] - [[岡本喜八]]、映画監督(+ [[2005年]])
* 1924年 - [[マーガレット・トルーマン]]、[[歌手]]、[[作家]](+ [[2008年]])
* [[1926年]] - [[青木光一]]、歌手
* [[1928年]] - [[高橋理明]]、医学者、ウイルス学者 (+ [[2013年]])
* [[1929年]] - [[アレハンドロ・ホドロフスキー]]、[[映画監督]]
* [[1930年]] - [[ルース・レンデル]]、推理作家(+ [[2015年]])
* 1930年 - [[平山智 (野球)|平山智]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2021年]])
* [[1933年]] - [[ラリー・ジェニングス]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[1997年]])
* [[1934年]] - [[ウィリー・カークランド]]、元プロ野球選手
* 1934年 - [[アラン・ベイツ]]、[[俳優]](+ [[2003年]])
* 1934年 - [[アンナー・ビルスマ]]、[[チェリスト]](+ [[2019年]])
* [[1936年]] - [[ジム・ブラウン]]、[[アメリカンフットボール選手一覧|アメリカンフットボール選手]]、俳優(+ [[2023年]])
* [[1937年]] - [[伊藤俊也]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]
* [[1938年]] - [[徳田虎雄]]、[[徳洲会]]理事長、[[政治家]]
* [[1939年]] - [[二階俊博]]、政治家
* 1939年 - [[長内美那子]]、[[俳優|女優]]
* [[1942年]] - [[坂口征二]]、[[プロレスラー]]
* [[1943年]] - [[伊藤幸男]]、元プロ野球選手
* [[1944年]] - [[竹脇無我]]、俳優(+ [[2011年]])
* 1944年 - [[カール・ジェンキンス]]、[[サクソフォーン]]奏者、作曲家
* 1944年 - [[斎藤勝博]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1945年]] - [[箱崎晋一朗]]、[[歌手]](+ [[1988年]])
* [[1946年]] - [[マルセル・ムルンバ・チディンバ]]、外交官
* [[1948年]] - [[藤原伊織]]、小説家(+ [[2007年]])
* [[1949年]] - [[加藤唯史]]、[[漫画家]](+ [[2017年]]<ref name="nihonbungeisha">{{Cite web|和書|url=https://www.nihonbungeisha.co.jp/news/n29973.html|title=訃報 加藤唯史先生、逝去のおしらせ|publisher=日本文芸社|date=2019-05-24|access-date=2020-11-08}}</ref>)
* 1949年 - [[田島令子]]、女優、[[声優]]
* [[1952年]] - [[りりィ]]、シンガーソングライター、女優(+ [[2016年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/11/11/0009656865.shtml|title=りりィさん死去 64歳 肺がん闘病中だった「私は泣いています」大ヒット|work=Daily Sports Online|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2016-11-11|accessdate=2020-10-28}}</ref>)
* [[1953年]] - [[宮本邦彦 (警察官)|宮本邦彦]]、警察官(+ 2007年)
* [[1954年]] - [[高田裕司 (レスリング選手)|高田裕司]]、[[アマチュアレスリング]]選手
* 1954年 - [[レネ・ルッソ]]、女優
* [[1955年]] - [[菅田俊]]、俳優
* 1955年 - [[吉澤一彦]]、アナウンサー
* 1955年 - [[羅本新二]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[莫言]]、作家
* [[1957年]] - [[ロリーナ・マッケニット]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1959年]] - [[有村かおり]]、アナウンサー、キャスター
* [[1961年]] - [[オリヴィエ・シャルリエ]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1961年 - [[服部真湖]]、タレント
* [[1962年]] - [[嶋田宗彦]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[長島昭久]]、[[政治家]]
* 1962年 - [[ルー・ダイアモンド・フィリップス]]、俳優
* 1962年 - [[ヘニー・マイヤー]]、[[サッカー選手]]
* [[1963年]] - [[マイケル・ジョーダン]]、[[バスケットボール]]選手
* [[1964年]] - 牧野隆志、 [[作曲家]]([[東京プリン]])(+ [[2014年]])
* 1964年 - [[マイク・キャンベル (投手)|マイク・キャンベル]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[吹越満]]、俳優
* 1965年 - [[マイケル・ベイ]]、[[映画監督]]
* [[1967年]] - [[岸谷香]]、[[歌手]](元[[PRINCESS PRINCESS]])
* [[1968年]] - [[舞の海秀平]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[相撲]]解説者、タレント
* 1968年 - [[ジュゼッペ・シニョーリ]]、元サッカー選手
* [[1969年]] - [[ダビド・ドゥイエ]]、[[柔道]]選手
* [[1970年]] - [[沙村広明]]、[[漫画家]]
* [[1971年]] - [[デニス・リチャーズ]]、女優
* [[1972年]] - [[ビリー・ジョー・アームストロング]]、ミュージシャン([[グリーン・デイ]])
* 1972年 - [[YUKI (歌手)|YUKI]]、歌手(元[[JUDY AND MARY]])
* 1972年 - [[フィリップ・キャンデロロ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1973年]] - [[堀口綾子]]、[[アイドル]](+ [[1995年]])
* [[1974年]] - [[綾峰欄人]]、[[漫画家]]
* 1974年 - [[薫 (ミュージシャン)|薫]]、ミュージシャン([[DIR EN GREY|Dir en grey]])
* 1974年 - [[エドウィン・マートン]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1974年 - [[山下康介]]、[[作曲家]]
* [[1975年]] - [[吉瀬美智子]]、女優、モデル
* [[1976年]] - [[大原がおり]]、タレント
* 1976年 - [[ロマン・スコルニアコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1976年 - [[コーディ・ランサム]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]]<ref name="オフィスモノリス">{{Cite web|和書|url=http://office-monolith.com/business/Suzuki_page.html|title=鈴木 千尋|publisher=オフィスモノリス|accessdate=2020-11-10}}</ref>、声優
* [[1978年]] - 佐藤満春、お笑い芸人([[どきどきキャンプ]])
* [[1979年]] - [[ジョシュ・ウィリンガム]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[カーラ・ブラック]]、[[テニス選手一覧|テニス選手]]
* 1979年 - [[加藤祐子]]、[[気象予報士]]
* [[1980年]] - [[遠藤綾]]、声優
* [[1981年]] - [[パリス・ヒルトン]]、[[ファッションモデル]]
* 1981年 - Nobu、プロ[[ダブルダッチ]]プレイヤー([[カプリオール|CAPLIORE]])
* [[1982年]] - [[川崎雄介]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[ユニエスキ・グリエル]]、野球選手
* 1982年 - [[アドリアーノ・レイテ・リベイロ]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[片岡保幸]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[松井雄飛]]、歌手
* 1983年 - {{仮リンク|ルイス・スコット=ヴァーガス|en|Luis Scott-Vargas}}、プロMTGプレイヤー
* [[1984年]] - [[鎌苅健太]]、声優、俳優
* 1984年 - [[内藤のび太]]、[[総合格闘家]]
* [[1985年]] - [[佐藤寛子 (タレント)|佐藤寛子]]、女優、タレント
* 1985年 - [[上原やよい]]、元[[レースクイーン]]、元グラビアアイドル
* [[1987年]] - [[高田ありさ]]、バレーボール選手
* 1987年 - [[神山まりあ]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[堀井拓馬]]、小説家
* 1987年 - [[マッテオ・ザンニ]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[ダニー・ファーカー]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[小野恵美]]、アナウンサー
* [[1989年]] - [[レベッカ・アドリントン]]、[[水泳選手一覧|水泳選手]]
* 1989年 - [[パオリノ・アンブロッシモ]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[ヤコブ・スラデック]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[吉田豊 (サッカー選手)|吉田豊]]、サッカー選手
* 1990年 - [[三井麻琴]]、グラビアアイドル
* 1990年 - [[塚本明里]]、モデル、ローカルタレント
* [[1991年]] - [[日向千歩]]、女優
* 1991年 - [[北薗新光]]、柔道家
* 1991年 - [[上村智宏]]、俳優
* 1991年 - [[エド・シーラン]]、シンガーソングライター
* 1991年 - [[ボニー・ライト]]、女優、映画監督
* [[1992年]] - [[ローレン・コウ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1993年]] - [[平埜生成]]、俳優
* 1993年 - [[マルク・マルケス]]、[[オートバイ]]レーサー
* 1993年 - [[ニコラ・レアーリ]]、サッカー選手
* 1993年 - [[西池和人]]、元陸上選手
* [[1994年]] - [[鈴木紫帆里]]、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1994年 - [[穂積絵莉]]、テニス選手
* [[1995年]] - [[小市眞琴]]、声優
* [[1997年]] - [[斎藤ちはる]]、アナウンサー、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1997年 - [[具昌模]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[あめみやたいよう]]、プロゲーマー
* [[1998年]] - [[山本武白志]]、元プロ野球選手
* [[2000年]] - [[梶田冬磨]]、俳優(+ [[2022年]])
* [[2003年]] - 中嶋優月、アイドル ([[櫻坂46]])
* [[2004年]] - [[安斉星来]]、ファッションモデル、女優
* [[2005年]] - 井上和、アイドル([[乃木坂46]])
* [[2006年]] - [[中島セナ]]、ファッションモデル
* [[2007年]] - [[堰沢結衣]]、女優
* 生年不明 - [[天川みるく]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://pr.fc2.com/amakawamilk/|title=天川 みるくのプロフ - FC2プロフ|publisher=FC2|accessdate=2021-01-06}}</ref>、声優
* 生年不明 - 中園勇樹、歌手([[Qyoto]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1975年]] - [[オウンオピニオン]]、[[競走馬]]
* [[1992年]] - [[カーリング (競走馬)|カーリング]]、競走馬
* [[1997年]] - [[エイシンダンカーク]]、競走馬
* 1997年 - [[オブザーヴァトリー]]、競走馬
* [[1998年]] - [[ヴァオリミクス]]、競走馬
* [[1999年]] - [[キーンランドスワン]]、競走馬
* [[2002年]] - [[エイシンボストン]]、競走馬
* 2002年 - [[キングストレイル]]、競走馬
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[364年]] - [[ヨウィアヌス]]、[[ローマ皇帝]](* [[331年]])
* [[440年]] - [[メスロプ・マシュトツ]]、[[アルメニア文字]]考案者、[[アルメニア使徒教会]]の[[聖人]](* [[360年]])
* [[1600年]] - [[ジョルダーノ・ブルーノ]]、[[哲学|哲学者]]、天文学者(* [[1548年]])
* [[1673年]] - [[モリエール]]、[[劇作家]](* [[1622年]])
* [[1732年]] - [[ルイ・マルシャン]]、[[作曲家]](* [[1669年]])
* [[1827年]] - [[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]、教育家(* [[1746年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]3年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[佐藤信淵]]、[[経世論|経世家]](* [[1769年]])
* [[1856年]] - [[ハインリヒ・ハイネ]]、[[詩人]](* [[1797年]])
* [[1874年]] - [[アドルフ・ケトレー]]、[[数学者]]、[[統計学|統計学者]](* [[1796年]])
* [[1875年]] - [[内田九一]]、[[写真家]](* [[1844年]])
* [[1890年]] - [[クリストファー・レイサム・ショールズ]]、[[新聞]][[編集者]]、[[QWERTY配列]]考案者(* [[1819年]])
* [[1909年]] - [[ジェロニモ]]、[[アパッチ族]]酋長(* [[1829年]])
<!-- 2月19日? *[[1927年]] - [[ロベルト・フックス]]、作曲家(*[[1847年]]) -->
* [[1928年]] - [[大槻文彦]]、[[日本語学者|国語学者]](* [[1847年]])
* [[1934年]] - [[ジークベルト・タラッシュ]]、[[チェス]]プレーヤー(* [[1862年]])
* 1934年 - [[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]、[[ベルギー|ベルギー王]](* [[1875年]])
* [[1939年]] - [[ヴィリー・ヘス (ヴァイオリニスト)|ヴィリー・ヘス]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1859年]])
* [[1943年]] - [[平賀譲]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将|技術中将]]、[[東京大学|東京帝国大学]]総長(* [[1878年]])
* [[1955年]] - [[坂口安吾]]、[[小説家]](* [[1906年]])
* [[1961年]] - [[ニタ・ナルディ]]、女優(* [[1897年]])
* [[1962年]] - [[ブルーノ・ワルター]]、[[指揮者]](* [[1876年]])
* [[1966年]] - [[アルフレッド・スローン]]、[[実業家]](* [[1875年]])
* 1966年 - [[ハンス・ホフマン]]、[[画家]]、教育者(* [[1880年]])
* [[1970年]] - [[シュムエル・アグノン]]、作家(* [[1888年]])
* 1970年 - [[アルフレッド・ニューマン]]、[[映画音楽]]作曲家(* [[1900年]])
* [[1972年]] - [[平林たい子]]、小説家(* [[1905年]])
* [[1974年]] - [[山本粂吉]]、[[政治家]](* [[1893年]])
* [[1978年]] - [[ガブリエル・ターヴィル=ピーター]]、文学・歴史研究者(* [[1908年]])
* [[1981年]] - [[デイヴィッド・ガーネット]]、小説家(* [[1892年]])
* [[1982年]] - [[リー・ストラスバーグ]]、[[俳優]](* [[1901年]])
* 1982年 - [[セロニアス・モンク]]、[[ジャズ]]ピアニスト(* [[1917年]])
* 1982年 - [[ネスター・チャイラク]]、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[審判員 (野球)|審判員]](* [[1922年]])
* [[1986年]] - [[ジッドゥ・クリシュナムルティ]]、宗教的哲人、教育者(* [[1895年]])
* 1986年 - [[レッド・ラフィング]]、元プロ野球選手(* [[1905年]])
* [[1989年]] - [[レフティ・ゴメス]]、元プロ野球選手(* [[1908年]])
* [[1993年]] - [[横田喜三郎]]、[[最高裁判所長官]]、[[法学者]](* [[1896年]])
* [[1997年]] - [[大森荘蔵]]、哲学者(* [[1921年]])
* 1997年 - [[市丸]]、[[昭和]]期の[[芸者]][[歌手]](* [[1906年]])
* [[1998年]] - [[エルンスト・ユンガー]]、作家、[[思想家]](* [[1895年]])
* [[2005年]] - [[オマール・シボリ]]、[[サッカー|サッカー選手]](* [[1935年]])
* [[2007年]] - [[モーリス・パポン]]、[[フランス]]の対独協力者(* [[1910年]])
* 2007年 - [[マイク・アルフォンソ]]、[[プロレスラー]](* [[1965年]])
* [[2008年]] - [[平井龍]]、[[政治家]](* [[1926年]])
* [[2009年]] - [[エディ・ハンドコ]]、[[チェス]]選手(* [[1960年]])
* [[2010年]] - [[藤田まこと]]、俳優、[[コメディアン]](* [[1933年]])
* [[2016年]] - [[アンジェイ・ズラウスキー]]、[[映画監督]](* [[1940年]])
* [[2019年]] - [[佐々木すみ江]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2M6FB8M2MUCLV00S.html|title=俳優・佐々木すみ江さんが死去 脇役として活躍 90歳 |publisher=朝日新聞デジタル|date=2019-02-19|accessdate=2020-11-19}}</ref>、女優(* [[1928年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2021年]] - [[エイシンサニー]]、[[競走馬]](* [[1987年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[独立記念日]]({{KOS}})
*: [[2008年]]のこの日、[[コソボ]]が[[セルビア]]からの独立を一方的に宣言した。
* 天使のささやきの日([[天使の囁き記念日]])({{JPN}})
*: [[1978年]]2月17日に[[北海道]][[幌加内町]]母子里の[[北海道大学]]演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録したことに由来し、同町の「天使の囁きを聴く会」が[[1994年]]に制定。天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできる[[細氷|ダイヤモンドダスト]]のことである<ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=35}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=25}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=31}}</ref>。
* [[祈年祭]] ({{JPN}}[[伊勢神宮]])
* [[えんぶり]]({{JPN}}[[青森県]][[八戸市]]) - [[2月20日]]<ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=56}}</ref>
*: 万年豊作を祈願する祭り。1979年に[[重要無形文化財]]の指定を受けた。
* ガチャの日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kinenbi.gr.jp |title=2月17日 |accessdate=2022-02-17 |publisher=一般社団法人日本記念日協会}}</ref>({{JPN}})
*: 日本で初めて[[カプセルトイ|カプセル玩具]]の「ガチャ」を導入した「[https://www.penny.co.jp 株式会社ペニイ]」の創立記念日(1965年2月17日)に合わせ制定された。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0217|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1964年]] - ホワイト・バッファロー、ゲーム『[[豪血寺一族]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=ホワイト バッファロー |url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_gkt/vc_gkt_06.html |access-date=2022-12-26 |publisher=[[任天堂]] |work=『VC 豪血寺一族』}}</ref>
* [[1980年]] - 両儀式、小説・アニメ『[[空の境界]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author1=奈須きのこ|authorlink1=奈須きのこ|author2=武内崇|authorlink2=武内崇|title = 劇場版「空の境界」俯瞰風景DVD【完全生産限定版】 オリジナル特製小冊子「きのことたかしの一問一答」|year = 2008 |publisher = [[アニプレックス]] |}}</ref>
* [[1981年]] - 千秋真一、漫画・アニメ・ドラマ『[[のだめカンタービレ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nodame_official|1494281876680622084}}</ref>
* 2104年 - 溝口恭介、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://fafner-beyond.jp/character/ |title=CHARACTER 溝口恭介 |access-date=2022-12-26 |work=『蒼穹のファフナー THE BEYOND』 |publisher=XEBEC KING RECORD CO., LTD}}</ref>
* 2150年 - 華原隆司、ゲーム『[[はーとふる彼氏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=はーとふる彼氏 公式ファンブック|publisher=[[一迅社]]|date=2012-10-05|isbn=978-4-7580-1280-5}}</ref>
* [[コズミック・イラ|C.E.]]55 - [[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#ミリアリア・ハウ|ミリアリア・ハウ]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』に出てくるキャラクター<ref>{{Cite |和書 | title = 機動戦士ガンダムSEEDキャラクター大事典 | date = 2003-09 | publisher = ラポートコミックス | isbn = 9784897994888 | ref = harv }}</ref>
* 生年不明 - 大耳練、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2018|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-881378-3|quote=|date=|volume=31巻|page=146}}</ref>
* 生年不明 - 両義式、小説・アニメ『[[空の境界]]』の主人公<ref>{{Twitter status|ufotable|1361842805069336578}}</ref>
* 生年不明 - 有馬楓花、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/arima_fuuka |title=兵庫 有馬楓花 |access-date=2022-12-26 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - 有馬輪花、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/arima_rinka |title=兵庫 有馬輪花 |access-date=2022-12-26 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - クラーケンのアイザック、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=66 |title=クラーケンのアイザック |work=『聖闘士星矢』 |accessdate=2023-02-08 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]]}}</ref>
* 生年不明 - 羽生一斗、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1361693076373327878}}</ref>
* 生年不明 - シィアン・スンスン、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/sungsun.html |title=シィアン・スンスン |access-date=2023-02-08 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |work=『BLEACH』}}</ref>
* 生年不明 - 李佳、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2008|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|page=104|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref>
* 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#ユミル|ユミル]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shingeki-sp.net/shindb/index/c_na_009 |title=進撃データベース |publisher=進撃の巨人for auスマートパス |accessdate=2020-07-16}}{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>
* 生年不明 - 新名匠、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#11 |title=新名匠 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2022-12-26 |work=アニメ『ナナマル サンバツ』}}</ref>
* 生年不明 - 桜濱雪乃、ゲーム『[[幼なじみは大統領 My girlfriend is the PRESIDENT.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.alcot.biz/product/osana/character_yu.html |title=桜濱 雪乃 |publisher=ALcot |accessdate=2022-12-26 |work=『幼なじみは大統領』}}</ref>
* 生年不明 - 北川真尋、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20047 |title=北川 真尋(きたがわ まひろ) |access-date=2022-12-26 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 羽鳥晶、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)|ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130730_197460/ |title=【ガールフレンド(仮)通信81】勝気で無敵なバスケットボールガール 羽鳥晶ちゃん(CV:後藤香織) |access-date=2022-12-26 |publisher=ファミ通App |date=2013-07-30}}</ref>
* 生年不明 - 束原薫乃、ゲーム『[[Berry's]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cuffs.co.jp/products/berrys/char/yukino/ |title=束原薫乃 |access-date=2022-12-25 |publisher=CUFFS |work=『Berry's』}}</ref>
* 生年不明 - 泡沫アイル、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.i-chu.jp/unit/mg9/airu/ |title=泡沫 アイル |access-date=2023-02-08 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『アイ★チュウ』}}</ref>
* 生年不明 - 鎌部千秋、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/kamabe |publisher=Akatsuki Inc. |title=鎌部 千秋 |accessdate=2022-12-26 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - KAITO、ゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_sekai|1493963380478156803}}</ref>
* 生年不明 - 星奈シオリ、特撮『[[魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!]]』の登場人物
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:17 February}}
{{新暦365日|2|16|2|18|[[1月17日]]|[[3月17日]]|[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]|0217|2|17}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-14T08:33:52Z | 2023-12-23T06:56:23Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8817%E6%97%A5 |
1,545 | MacOS | macOS(マックオーエス)は、Appleが開発・販売するMacのオペレーティングシステムである。当初の名称はMac OS X(マックオーエステン)で、のちにOS X(オーエステン)に改められていた(後述)。
技術的には直系ではないが、Classic Mac OS(Mac OS、System)の後継として、新たにBSD系UNIXをベースに開発された。
NeXTのOPENSTEPの技術をベースに開発されたMacintosh専用オペレーティングシステムである。オープンソースのオペレーティングシステム「Darwin」をベースとし、POSIXに準拠したUNIXである。
旧来のMac OSに比べて非常に安定しており、オープンな標準規格の採用を基本としている。macOS独自のユーザインタフェースで構築されたウインドウシステムを搭載し、macOSの特徴である直感的かつ柔軟な操作を実現している。開かれているオープンソースの強みと、Macintoshが初めから持っていた「閉じていること」の強みを併せ持ち、一貫したデザイン、操作方法が統一された「GUI」、UNIXの利便性、堅固さが共存している特徴がある。UNIXベースとなり、比較的容易な移植でBSDやLinuxなど他のUnix系オペレーティングシステムで開発されたソフトウェア資産を、macOSのインタフェース上で使うことができるようになった。統一感のある外観を持つX.orgベースのX Window System「X11」(XQuartz)を導入できる。X11がmacOS上で動作することにより、互換性のないアプリケーション間のコピーアンドペーストのような純粋なX11ではサポートされていない動作が可能である。
2001年に最初の製品版が発売された時の名称は「Mac OS X(マック オーエス テン)」であった。2012年にリリースされたOS X Mountain Lionで正式名称から「Mac」が外され、「OS X(オーエス テン)」と称した。さらに、2016年にリリースされたmacOS Sierraから、iOSやwatchOS、tvOSなどのAppleの他のOSの名前との親和性を図るため、「OS X」から「macOS」へと改称された。
10.8までのコードネームはネコ科の動物に由来している。10.9以降はカリフォルニア州の地名からコードネームがとられている。
1994年からMac向け次世代オペレーティングシステムとして計画・開発されていたCoplandプロジェクトが挫折に終わり、1996年8月、Appleは完全な自社開発をあきらめ、他社の技術を導入することに決定した。一時はBeOSやSolaris、Windows NTさえ検討対象にあがり交渉が行われた。外部ではBeOSが最有力と見られたが、最終的にはスティーブ・ジョブズが創業しCEOを務めていたNeXT社を買収してそのオペレーティングシステムOPENSTEPをもとにMac OSの使い勝手を導入したオペレーティングシステムを開発することとなった。開発を主導したのは共に元NeXTの、アビー・テバニアン(元ソフトウェア担当最高技術責任者、v10.2まで)とその後継者のバートランド・サーレイ(元ソフトウェア担当上級副社長、v10.4まで)、スコット・フォーストール(元ソフトウェア担当上級副社長、v10.5まで)であった。2011年3月からは、やはり元NeXTのクレイグ・フェデリギソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長が開発担当責任者である。
アプリケーションからRhapsodyの機能を生かすには、Cocoaの前身であるYellow Boxでアプリケーション プログラムを一から書き直さなければならなかったので、従来からの開発者の支持を得ることができなかった。そのため、従来のMacintoshのAPIであるToolboxをベースにCarbon (API)を開発し、これをNeXT由来の技術と統合した「Mac OS X」への移行が宣言される。Rhapsodyを元にサーバ向けのMac OS X Server 1.0としてリリースされた後、Mac OS Xがリリースされた。
2001年にリリースされたMac OS Xは、Mac OSともOPENSTEPとも異なる新たなインタフェース「Aqua」をまとって登場。従来のMac OSとは全く異なる、堅牢なマルチタスクのオペレーティングシステムで、Coplandプロジェクトが目指していたものを遥かに超えるものを実現した。初期の版では動作の遅さが指摘されたが、改版ごとにオペレーティングシステム内部の最適化が進み、Quartz Extreme、Core Image, Core Animationなどの新技術により解決された。
2010年10月21日、スペシャルイベントで「Back to the Mac」としてiLife'11とMac OS X Lionと新型MacBook Airと同時にMac App Storeを発表した。翌年、2011年1月6日から1000本ものアプリケーションを販売開始した。macOSのインストーラやアップデータもMac App Storeを通して配布されている。
付属アプリケーションが充実しており、日本語フォントとしてヒラギノが3種13書体が標準搭載され、游書体のうち游明朝体/游ゴシック体/游教科書体、フォントワークスの筑紫A丸ゴシック/筑紫B丸ゴシック/クレー、凸版印刷の凸版文久明朝/凸版文久ゴシック/凸版見出し明朝/凸版見出しゴシックが追加インストールされる。Mac OS X v10.5には、小学館の国語および英和・和英辞典が標準で付属している。OS X v10.8では Oxford Dictionary of Englishやウィズダム英和・和英、スーパー大辞林など12種類の辞書が装備されている。Mac OS X v10.1の時代から、FreeBSD由来のsmbfsを利用し、Windowsネットワーク環境でのファイル共有やドメイン参加など、Windows機との共存が可能である。SMBサーバの機能は、Snow LeopardまではSambaをベースにしていたが、Mac OS X Lion以降は独自実装となっている。
Mac OS X v10.4までは Classic環境と呼ばれるMac OS互換機能を持っていた。Mac OS 9.2.2を一種の仮想マシンとして動作させるもので、Mac OSアプリケーションは旧バージョンのプラチナアピアランスで動作した。68K・PowerPCの別を問わず、旧来のアプリケーションの多くをMac OS X上で動作させることができ互換性は高かったが、完全な互換性があるわけではなく、オーディオ関係のアプリケーションなど特にリアルタイム性が求められるものについてはメーカーがサポートしていない場合があった。Mac OS X v10.5およびインテル版のMac OS X v10.4からこの機能はなくなった。2005年のWorldwide Developers ConferenceでPowerPCに代わりインテル製プロセッサの採用が発表されたが、Mac OS Xは開発当初からCPUに依存しない抽象化を示すためにx86版との並行開発をしており、すべてのバージョンの Mac OS Xでインテル版が存在していたという。これはMac OS Xの前身である Rhapsodyが当初からPowerPC版とインテル製プロセッサ版が計画されており、BlueBoxはPowerPC版でしか採用しないと発表しており、8年かけて計画を完遂させたと言えなくもない。
macOS Big Sur以降において、Appleシリコン搭載Macでは、一部を除いてiOS, iPadOSアプリをネイティブ動作させられる。
2000年9月13日、AppleはMac OS X Public Betaをリリースした。日本では同年10月21日から、より新しいビルドを(税別3,500円で)販売した。Aquaインタフェースの美しい見た目がMacintoshの利用者に衝撃を与えたが、 使い勝手が大きく変化したことについては戸惑いの声があがった。
2001年3月24日、AppleはMac OS X v10.0(税別14,800円)を発売した。従来のMac OSと比較すると劇的に安定性が向上しており、パブリック・ベータからさらに改良されていたが、当初はDVD再生機能などがなく、対応機器も限られており速度も非常に遅く、まだ完成度は低かった。Mac OS 9と切り替えて使うなど、メインのオペレーティングシステムとして日常的に使う利用者は少なかった。
2001年9月25日、Mac OS X v10.1(税別14,800円)がリリースされ、10.0のユーザへの無償更新サービスが行われた。10.0に欠けていた多くの機能が追加され、システムの性能が向上し、実用的に使える初めての版といわれる。ユーザインタフェースにも手直しがなされ、日本語入力の変換精度が大幅に向上したことえり 3を搭載。マイクロソフトやアドビなどから対応ソフトがリリースされた。
2002年8月24日、Mac OS X v10.2(税別14,800円)が発売された。日本では商標の問題でJaguarは製品名には付けられなかった。スプリングローデッドフォルダ機能が復活するなど、Finderの使い勝手に改良が施される。動作速度が上がり対応機器が増えて、Mac OS Xを業務用途で使う利用者にも受け入れられるようになったほか、UNIX利用者の間でも Mac OS Xを愛用する人が増えた。ビデオチップの幾何演算ユニットを使ってCPUの負荷を軽減する「Quartz Extreme」、ネットワーク機能「Rendezvous」(現:Bonjour)、手書き文字認識「Inkwell」などの新機能を実装。10.2.3版からジャーナリングファイルシステムが実装された。2003年にはウェブブラウザとしてSafariが登場し、Mac OS 9が起動しないMac OS XのみをサポートするMacintoshが販売されるようになった。ファイアウォール機能が標準で付属し、IPsec・IPv6にデフォルトで対応したのもこの版である。
2003年10月24日にMac OS X v10.3 Panther(税別14,800円)が発売された。標準でUSBポートを備えたマシン以外のサポートを打ち切り、初代iMac以降の機種への対応となった。日本での発売イベントはApple Store銀座ができる前だったこともあり、アップルコンピュータ株式会社があった東京オペラシティ1階広場ガレリアで行われた。開発者向けにはコントローラレイヤ「Cocoa Binding」が導入された。システムの安定性がさらに向上したほか、処理速度も向上し、低クロックのG3マシンでも比較的快適に動作する。Finder はiTunesのインタフェースを取り入れた2ペイン形式での表示も可能になり、フォルダに色を付けるラベル機能も復活した。ウインドウ一覧表示機能「Exposé」、ホームフォルダの暗号化機能「FileVault」が追加され、ことえりがバージョン4になり予測変換などの機能が追加された。Mac OS Xでも大手印刷会社への入稿受け入れが整ったため、遅れていたデザイン、出版分野への導入が徐々に進み始める。ライセンス使用料の追加がないクライアント無制限の「Mac OS X Server」搭載の1Uサーバ「Xserve」とNetBootが評価され、東京大学、東京女子大学に大量導入された。
2005年4月29日、Mac OS X v10.4 Tiger(税込14,800円)が発売された。この版からメディアがDVD-ROMの1枚になった。動作環境をFireWire(IEEE 1394)ポートを標準搭載したMacintoshとされ、初期のiMacならびに初期のiBookは対応外となった。新規にリアルタイムイメージングインタフェース「Core Image」および「Core Video」、64ビットオーディオインタフェース「Core Audio」、モデルレイヤ「Core Data」が導入された。さらにlaunchdが従来のinitなどのUNIX デーモン群を置き換え、カーネル・プログラミング・インタフェース(KPI)やUTIが実装されるなどシステム内部が大きく刷新されたが、以前のバージョンとの互換性は概ね維持されている。システムに統合されたメタデータ検索機能「Spotlight」、WebKit ベースのアプリケーション実行環境「Dashboard」のほか、200 以上の新機能を搭載した。仮想メモリの暗号化まで含めたセキュリティ機能の充実により、あおぞら銀行が2006年にかけて2,500台という規模でTiger搭載iMac G5の導入を決めている。WWDC 2005においてOSはTigerのまま2006年からMacintoshのCPUをインテル製に移行することが発表され、2006年以降の新製品には、インテル対応版Mac OS Xが搭載された。
インテル対応版Mac OS X Tigerは単体で販売されておらず、インテル製プロセッサを載せたMacintoshではClassic環境を利用することができない。
Mac OS X v10.5 Leopard(レパード)は、発表当初は2007年春のリリースを目指して開発されていたが、2007年4月12日(現地時間)に、6月発売のiPhoneプロジェクトへ一時的に開発リソースを集中させる目的でリリース延期が表明され、2007年10月26日にシングルユーザライセンス14,800円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)22,800円(税込)で発売された。この版のみUniversal Binaryとなり、メディアが2層DVD-ROMの1枚になった。2006年8月7日のWorldwide Developers Conferenceで機能の一部が発表されている。64ビットに対応したCocoa、容易なプログラミングでアニメーションを実現する「Core Animation」、Core Data 2.0、解像度非依存のユーザインタフェース、仮想デスクトップ環境「Spaces」、バックアップツール「Time Machine」、Windows XPまたはWindows Vistaとのデュアルブート環境を実現する「Boot Camp」、改良強化された Spotlight、Dashboardウィジェットを容易に作成できるDashcodeなど多数の機能が搭載される。2007年6月11日 、WWDCの基調講演で新しいFinderとDock、Quick Lookが披露された。JIS X 0213:2004対応フォント搭載。Tigerまでは搭載されていたレガシーな機能が排除されたのも特徴であり、Classic環境が利用できなくなった。
UNIXの商標を管理する団体である「The Open Group」から「Single UNIX Specification」の認証を受け、正式なUNIXとなった。
2009年8月28日にシングルユーザライセンス3,300円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)5,600円(税込)と大幅な値下げが実施され発売された。この版からインテル製プロセッサを搭載したMacintosh専用となり、PowerPCプロセッサを搭載した Macintoshでは使用できなくなり、HFSフォーマットは読み込みのみ可能となった。2008年6月9日(現地時間午前)に開催されたWWDC 2008での基調講演で開発が発表され、2009年6月8日に開催されたWWDC 2009で詳細と発売予定時期があらためて発表された。主にパフォーマンスと安定性に注力し、オペレーティングシステム全体が大幅に小さくなった。DockとExposéの機能が拡張され、Microsoft Exchange 2007を標準でサポート。FinderとQuickTime(QuickTime X)がCocoaベースに作り直されたほか、ほとんどのシステム付属アプリケーションが64ビット化、Grand Central Dispatch(GCD)とOpenCLにより並行演算機能が大幅に強化された。
2010年10月21日に発表。正式名称はMac OS X Lionであったものの、マーケティング上、Macの名称を外してOS X Lionと呼称された。シングルユーザライセンス、ダウンロード版2,600円(税込)、USBメモリ版6,100円(税込)。
Exposé・Dashboard・Spacesの各機能に統合されたアクセスを提供する Mission Controlを搭載するほか、ソフトウェア販売サービスMac App Storeやフルスクリーンのウインドウ表示、アプリケーションランチャLaunchPadなどiPhone OSに由来する機能等を搭載。Mac OS X v10.5 Leopard以来の大幅な機能とインタフェースの刷新が施された。2011年2月24日には、公式サイトにさらなる新機能の説明が追加された。LaunchPadやAirDropなどを含む250を越える新機能を追加し、64ビット・マルチコアCPUのみをサポートする。7月20日にMac App Storeでダウンロード販売を開始した。8月17日にはUSBメモリ版も発売された。
2012年2月16日に発表され、デベロッパプレビューも同時に公開。正式名称もOS Xとなり、7月25日にMac App Storeでダウンロード販売(発売時は1,700円、2022年4月現在2,440円)を開始した。この版から64ビットカーネル起動のみとなり、インテル製32ビットプロセッサを搭載したMacおよび32ビットカーネルのMacでの直接インストールができなくなった。100以上の新たな機能が追加され、メッセージングサービスiMessage、リマインダー、通知センター、メモ、Game Centerなど、iOS 5で提供されたアプリケーションや新機能がMacintoshでも利用可能となった。Mac OS X Lionに引き続き、iOSに由来する機能が搭載された。Mountain LionとはPuma、Cougarの別名である。
2013年6月10日に開催されたWWDC 2013で発表され、デベロッパプレビューも同時に公開された。200以上の新機能が追加され、一般向けには2013年10月22日にリリースされた。また、このバージョンから無償となった。Finderにタブ機能が追加され、iOSで提供されているマップやiBooksが搭載される。このバージョンからコードネームがカリフォルニア州の地名になった。Mavericksとはカリフォルニア州の海岸の名前である。
2014年6月2日のWWDCで発表、同年10月17日にリリースされた。iOS 7で刷新されたデザインを採用しつつ、Finderやマルチタスクなど、デスクトップOSとしての機能がさらに洗練された。10.5以降に採用された3D Dockは廃止され、その結果としてGUIの雰囲気は10.4以前のGUIに似ていた。
2015年6月9日のWWDC 2015の基調講演で発表、同年9月30日にリリースされた。Macのエクスペリエンスの洗練とパフォーマンスの向上、システム整合性保護などセキュリティ対策強化、フルスクリーンでアプリケーションを同時に二つ表示できるスクリーンスプリット機能、システムフォントの追加など。Spotlightがより口語的な検索に対しても結果を示すようになる。ライブ変換機能の追加でよりスムーズな入力ができるようになる。
2016年6月13日のWWDC 2016の基調講演で発表、同年9月20日にリリースされた。この版からHFSフォーマットが廃止され、Late 2009モデルより前のMacでの直接インストールが不可となった。新たにSiriの導入や、iOSやwatchOSとのより多くの連携機能の導入が進む。本バージョンからiOSやwatchOS、tvOSなどのAppleのOSとの名前の親和性を図るために従来のOS XからmacOSへ名称が変更された。
2017年6月5日のWWDC 2017の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた。APFSやVRテクノロジーへの対応、日本語入力の改善などが発表された。純正のみサポートされたNVMeがサードパーティー製にも対応し、Apple T2チップ搭載Mac以外のRAIDディスクへのインストールおよび起動が不可となった。
2018年6月5日のWWDC 2018の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた。ダークモードの採用や、Mac App Storeの大幅リニューアルなどが実装された。
2019年6月3日のWWDC 2019の基調講演で発表、同年10月8日にリリースされた。iPadOSからのアプリの移植を容易に行えるProject Catalystが採用された。システムボリュームにはAPFSを必須とし、HFS Plusでの起動ができなくなった。32ビットバイナリが取り除かれ、32ビットアプリケーションなどが起動しなくなるので注意が必要である。
2020年6月22日のWWDC 2020の基調講演で発表、同年11月13日にリリースされた。同時に移行が発表されたAppleシリコンを搭載したMacにおいて、Rosetta 2で従来のIntel Mac向けソフトウェアの大半が動作する。また最新のXcodeでAppleシリコン、Intel CPU両方に対応するUniversal 2としてコンパイルが可能となっている。バージョンナンバーは最初にリリースされた開発版では10.16であったが、Mac OS 9からMac OS Xに移行して以来、約20年ぶりにメジャーバージョンを上げ11.0とすると発表した。
2021年6月7日のWWDC 2021の基調講演で発表、同年10月25日にリリースされた。
2022年6月7日のWWDC 2022の基調講演で発表、2022年10月25日にリリースされた。
2023年6月5日のWWDC 2023の基調講演で発表、2023年9月26日にリリースされた。
Mac OS X v10.0からMac OS X v10.6までは、最大プロセス数が532、そのうちユーザプロセス数は半分の266であった。Mac OS X v10.7からmacOS Mojave 10.14では、メモリを3GB以上積んだ場合は、1064へ拡大され、ユーザプロセス数は709である。macOS Catalinaからは1044の倍数(最大16、よって16704)となる。確認するコマンドなどについては、sysctl(3)のマニュアルで参照できる。
なお、Mac OS X Serverではv10.5以前から最大プロセス数が2500であり、64ビット化されたMac OS X Server v10.6からはメモリ量に応じて自動で増えるが、上限は30000である。macOS Serverでは、強制的にパフォーマンスモードを有効にすることで、最大プロセス数を増やすこともできる。
以前のMac OSにおいては、OSパッケージが各言語ごとにローカライズされたほか、ラテン文字以外の文字で表記する言語を扱うために必要なフォント・インプットメソッド・スクリプト書類などをセットにした「Language Kit」が用意された。System(漢字Talk)7.1から Mac OS 8.6までの時期には個別にパッケージ販売され、Mac OS 8.5から Mac OS 8.6ではインプットメソッドを除くMultilingual Internet Accessが添付された。Mac OS 9ではすべての版でLanguage Kitが標準添付となり、必要な場合カスタムインストールする形をとった。
これに対し、macOSはサポートする言語の入力・表示に必要なコンポーネントをすべて標準でインストールした上で、優先順位を切り替えて任意の言語環境で使うことができる多言語インタフェースのOSになっている。Mac OS X v10.5では18種の言語環境が内包されている。そのため提供されているインストーラの内容は全世界共通である。従って、日本国外で入手したmacOSやMacintosh本体でも、日本で流通しているものと全く同様の環境に仕立てることが可能である。
字体としては65,000以上ものグリフを扱うことができ、日本語についてはグリフセットAdobe-Japan1-5以降に対応したOpenTypeフォントを備えているため、森鷗外や草彅剛などの正確な表記もそのまま表示・入力できるようになった。ただしすべてのグリフを扱うにはアプリケーション側の対応が必要となる。入力メソッドはシステム言語の文字に加えてタイ文字、デーヴァナーガリー文字、アラビア文字、ヘブライ文字など多数用意されている。v10.3からはことえりがアイヌ語の表記に使う仮名文字に対応している。またファイルやフォルダ(ディレクトリ階層)にもシステムが対応している任意の言語で名前を付けることが可能で、複数言語の混在もできる。v10.7からは絵文字にも対応し、他の文字と同じように扱うことができるようになった。
Finderや付属のアプリケーションソフトで、メニュー・ダイアログなどが地域対応された下記の言語環境が歴代のバージョンで追加されている。
macOS に搭載されているJava 実行環境のバージョンおよびオラクルから直接提供されるバージョンの対応状況を記す。
初期のMac OS Xのアイコンは新規のものと、NeXT時代にKeith Ohlfsがデザインしたものが混在していたが、最後まで残されていたアイコンGrabがmacOS Mojaveで消えた。 | [
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"text": "macOS(マックオーエス)は、Appleが開発・販売するMacのオペレーティングシステムである。当初の名称はMac OS X(マックオーエステン)で、のちにOS X(オーエステン)に改められていた(後述)。",
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"text": "技術的には直系ではないが、Classic Mac OS(Mac OS、System)の後継として、新たにBSD系UNIXをベースに開発された。",
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"text": "NeXTのOPENSTEPの技術をベースに開発されたMacintosh専用オペレーティングシステムである。オープンソースのオペレーティングシステム「Darwin」をベースとし、POSIXに準拠したUNIXである。",
"title": "概要"
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"text": "旧来のMac OSに比べて非常に安定しており、オープンな標準規格の採用を基本としている。macOS独自のユーザインタフェースで構築されたウインドウシステムを搭載し、macOSの特徴である直感的かつ柔軟な操作を実現している。開かれているオープンソースの強みと、Macintoshが初めから持っていた「閉じていること」の強みを併せ持ち、一貫したデザイン、操作方法が統一された「GUI」、UNIXの利便性、堅固さが共存している特徴がある。UNIXベースとなり、比較的容易な移植でBSDやLinuxなど他のUnix系オペレーティングシステムで開発されたソフトウェア資産を、macOSのインタフェース上で使うことができるようになった。統一感のある外観を持つX.orgベースのX Window System「X11」(XQuartz)を導入できる。X11がmacOS上で動作することにより、互換性のないアプリケーション間のコピーアンドペーストのような純粋なX11ではサポートされていない動作が可能である。",
"title": "概要"
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"text": "2001年に最初の製品版が発売された時の名称は「Mac OS X(マック オーエス テン)」であった。2012年にリリースされたOS X Mountain Lionで正式名称から「Mac」が外され、「OS X(オーエス テン)」と称した。さらに、2016年にリリースされたmacOS Sierraから、iOSやwatchOS、tvOSなどのAppleの他のOSの名前との親和性を図るため、「OS X」から「macOS」へと改称された。",
"title": "概要"
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"text": "10.8までのコードネームはネコ科の動物に由来している。10.9以降はカリフォルニア州の地名からコードネームがとられている。",
"title": "バージョン一覧"
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"text": "1994年からMac向け次世代オペレーティングシステムとして計画・開発されていたCoplandプロジェクトが挫折に終わり、1996年8月、Appleは完全な自社開発をあきらめ、他社の技術を導入することに決定した。一時はBeOSやSolaris、Windows NTさえ検討対象にあがり交渉が行われた。外部ではBeOSが最有力と見られたが、最終的にはスティーブ・ジョブズが創業しCEOを務めていたNeXT社を買収してそのオペレーティングシステムOPENSTEPをもとにMac OSの使い勝手を導入したオペレーティングシステムを開発することとなった。開発を主導したのは共に元NeXTの、アビー・テバニアン(元ソフトウェア担当最高技術責任者、v10.2まで)とその後継者のバートランド・サーレイ(元ソフトウェア担当上級副社長、v10.4まで)、スコット・フォーストール(元ソフトウェア担当上級副社長、v10.5まで)であった。2011年3月からは、やはり元NeXTのクレイグ・フェデリギソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長が開発担当責任者である。",
"title": "沿革"
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"text": "アプリケーションからRhapsodyの機能を生かすには、Cocoaの前身であるYellow Boxでアプリケーション プログラムを一から書き直さなければならなかったので、従来からの開発者の支持を得ることができなかった。そのため、従来のMacintoshのAPIであるToolboxをベースにCarbon (API)を開発し、これをNeXT由来の技術と統合した「Mac OS X」への移行が宣言される。Rhapsodyを元にサーバ向けのMac OS X Server 1.0としてリリースされた後、Mac OS Xがリリースされた。",
"title": "沿革"
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"text": "2001年にリリースされたMac OS Xは、Mac OSともOPENSTEPとも異なる新たなインタフェース「Aqua」をまとって登場。従来のMac OSとは全く異なる、堅牢なマルチタスクのオペレーティングシステムで、Coplandプロジェクトが目指していたものを遥かに超えるものを実現した。初期の版では動作の遅さが指摘されたが、改版ごとにオペレーティングシステム内部の最適化が進み、Quartz Extreme、Core Image, Core Animationなどの新技術により解決された。",
"title": "沿革"
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"text": "2010年10月21日、スペシャルイベントで「Back to the Mac」としてiLife'11とMac OS X Lionと新型MacBook Airと同時にMac App Storeを発表した。翌年、2011年1月6日から1000本ものアプリケーションを販売開始した。macOSのインストーラやアップデータもMac App Storeを通して配布されている。",
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"text": "付属アプリケーションが充実しており、日本語フォントとしてヒラギノが3種13書体が標準搭載され、游書体のうち游明朝体/游ゴシック体/游教科書体、フォントワークスの筑紫A丸ゴシック/筑紫B丸ゴシック/クレー、凸版印刷の凸版文久明朝/凸版文久ゴシック/凸版見出し明朝/凸版見出しゴシックが追加インストールされる。Mac OS X v10.5には、小学館の国語および英和・和英辞典が標準で付属している。OS X v10.8では Oxford Dictionary of Englishやウィズダム英和・和英、スーパー大辞林など12種類の辞書が装備されている。Mac OS X v10.1の時代から、FreeBSD由来のsmbfsを利用し、Windowsネットワーク環境でのファイル共有やドメイン参加など、Windows機との共存が可能である。SMBサーバの機能は、Snow LeopardまではSambaをベースにしていたが、Mac OS X Lion以降は独自実装となっている。",
"title": "特徴"
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"text": "Mac OS X v10.4までは Classic環境と呼ばれるMac OS互換機能を持っていた。Mac OS 9.2.2を一種の仮想マシンとして動作させるもので、Mac OSアプリケーションは旧バージョンのプラチナアピアランスで動作した。68K・PowerPCの別を問わず、旧来のアプリケーションの多くをMac OS X上で動作させることができ互換性は高かったが、完全な互換性があるわけではなく、オーディオ関係のアプリケーションなど特にリアルタイム性が求められるものについてはメーカーがサポートしていない場合があった。Mac OS X v10.5およびインテル版のMac OS X v10.4からこの機能はなくなった。2005年のWorldwide Developers ConferenceでPowerPCに代わりインテル製プロセッサの採用が発表されたが、Mac OS Xは開発当初からCPUに依存しない抽象化を示すためにx86版との並行開発をしており、すべてのバージョンの Mac OS Xでインテル版が存在していたという。これはMac OS Xの前身である Rhapsodyが当初からPowerPC版とインテル製プロセッサ版が計画されており、BlueBoxはPowerPC版でしか採用しないと発表しており、8年かけて計画を完遂させたと言えなくもない。",
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"text": "macOS Big Sur以降において、Appleシリコン搭載Macでは、一部を除いてiOS, iPadOSアプリをネイティブ動作させられる。",
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"text": "2002年8月24日、Mac OS X v10.2(税別14,800円)が発売された。日本では商標の問題でJaguarは製品名には付けられなかった。スプリングローデッドフォルダ機能が復活するなど、Finderの使い勝手に改良が施される。動作速度が上がり対応機器が増えて、Mac OS Xを業務用途で使う利用者にも受け入れられるようになったほか、UNIX利用者の間でも Mac OS Xを愛用する人が増えた。ビデオチップの幾何演算ユニットを使ってCPUの負荷を軽減する「Quartz Extreme」、ネットワーク機能「Rendezvous」(現:Bonjour)、手書き文字認識「Inkwell」などの新機能を実装。10.2.3版からジャーナリングファイルシステムが実装された。2003年にはウェブブラウザとしてSafariが登場し、Mac OS 9が起動しないMac OS XのみをサポートするMacintoshが販売されるようになった。ファイアウォール機能が標準で付属し、IPsec・IPv6にデフォルトで対応したのもこの版である。",
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"text": "2003年10月24日にMac OS X v10.3 Panther(税別14,800円)が発売された。標準でUSBポートを備えたマシン以外のサポートを打ち切り、初代iMac以降の機種への対応となった。日本での発売イベントはApple Store銀座ができる前だったこともあり、アップルコンピュータ株式会社があった東京オペラシティ1階広場ガレリアで行われた。開発者向けにはコントローラレイヤ「Cocoa Binding」が導入された。システムの安定性がさらに向上したほか、処理速度も向上し、低クロックのG3マシンでも比較的快適に動作する。Finder はiTunesのインタフェースを取り入れた2ペイン形式での表示も可能になり、フォルダに色を付けるラベル機能も復活した。ウインドウ一覧表示機能「Exposé」、ホームフォルダの暗号化機能「FileVault」が追加され、ことえりがバージョン4になり予測変換などの機能が追加された。Mac OS Xでも大手印刷会社への入稿受け入れが整ったため、遅れていたデザイン、出版分野への導入が徐々に進み始める。ライセンス使用料の追加がないクライアント無制限の「Mac OS X Server」搭載の1Uサーバ「Xserve」とNetBootが評価され、東京大学、東京女子大学に大量導入された。",
"title": "特徴"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2005年4月29日、Mac OS X v10.4 Tiger(税込14,800円)が発売された。この版からメディアがDVD-ROMの1枚になった。動作環境をFireWire(IEEE 1394)ポートを標準搭載したMacintoshとされ、初期のiMacならびに初期のiBookは対応外となった。新規にリアルタイムイメージングインタフェース「Core Image」および「Core Video」、64ビットオーディオインタフェース「Core Audio」、モデルレイヤ「Core Data」が導入された。さらにlaunchdが従来のinitなどのUNIX デーモン群を置き換え、カーネル・プログラミング・インタフェース(KPI)やUTIが実装されるなどシステム内部が大きく刷新されたが、以前のバージョンとの互換性は概ね維持されている。システムに統合されたメタデータ検索機能「Spotlight」、WebKit ベースのアプリケーション実行環境「Dashboard」のほか、200 以上の新機能を搭載した。仮想メモリの暗号化まで含めたセキュリティ機能の充実により、あおぞら銀行が2006年にかけて2,500台という規模でTiger搭載iMac G5の導入を決めている。WWDC 2005においてOSはTigerのまま2006年からMacintoshのCPUをインテル製に移行することが発表され、2006年以降の新製品には、インテル対応版Mac OS Xが搭載された。",
"title": "特徴"
},
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"text": "インテル対応版Mac OS X Tigerは単体で販売されておらず、インテル製プロセッサを載せたMacintoshではClassic環境を利用することができない。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "Mac OS X v10.5 Leopard(レパード)は、発表当初は2007年春のリリースを目指して開発されていたが、2007年4月12日(現地時間)に、6月発売のiPhoneプロジェクトへ一時的に開発リソースを集中させる目的でリリース延期が表明され、2007年10月26日にシングルユーザライセンス14,800円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)22,800円(税込)で発売された。この版のみUniversal Binaryとなり、メディアが2層DVD-ROMの1枚になった。2006年8月7日のWorldwide Developers Conferenceで機能の一部が発表されている。64ビットに対応したCocoa、容易なプログラミングでアニメーションを実現する「Core Animation」、Core Data 2.0、解像度非依存のユーザインタフェース、仮想デスクトップ環境「Spaces」、バックアップツール「Time Machine」、Windows XPまたはWindows Vistaとのデュアルブート環境を実現する「Boot Camp」、改良強化された Spotlight、Dashboardウィジェットを容易に作成できるDashcodeなど多数の機能が搭載される。2007年6月11日 、WWDCの基調講演で新しいFinderとDock、Quick Lookが披露された。JIS X 0213:2004対応フォント搭載。Tigerまでは搭載されていたレガシーな機能が排除されたのも特徴であり、Classic環境が利用できなくなった。",
"title": "特徴"
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"text": "UNIXの商標を管理する団体である「The Open Group」から「Single UNIX Specification」の認証を受け、正式なUNIXとなった。",
"title": "特徴"
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"text": "2009年8月28日にシングルユーザライセンス3,300円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)5,600円(税込)と大幅な値下げが実施され発売された。この版からインテル製プロセッサを搭載したMacintosh専用となり、PowerPCプロセッサを搭載した Macintoshでは使用できなくなり、HFSフォーマットは読み込みのみ可能となった。2008年6月9日(現地時間午前)に開催されたWWDC 2008での基調講演で開発が発表され、2009年6月8日に開催されたWWDC 2009で詳細と発売予定時期があらためて発表された。主にパフォーマンスと安定性に注力し、オペレーティングシステム全体が大幅に小さくなった。DockとExposéの機能が拡張され、Microsoft Exchange 2007を標準でサポート。FinderとQuickTime(QuickTime X)がCocoaベースに作り直されたほか、ほとんどのシステム付属アプリケーションが64ビット化、Grand Central Dispatch(GCD)とOpenCLにより並行演算機能が大幅に強化された。",
"title": "特徴"
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"text": "2010年10月21日に発表。正式名称はMac OS X Lionであったものの、マーケティング上、Macの名称を外してOS X Lionと呼称された。シングルユーザライセンス、ダウンロード版2,600円(税込)、USBメモリ版6,100円(税込)。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "Exposé・Dashboard・Spacesの各機能に統合されたアクセスを提供する Mission Controlを搭載するほか、ソフトウェア販売サービスMac App Storeやフルスクリーンのウインドウ表示、アプリケーションランチャLaunchPadなどiPhone OSに由来する機能等を搭載。Mac OS X v10.5 Leopard以来の大幅な機能とインタフェースの刷新が施された。2011年2月24日には、公式サイトにさらなる新機能の説明が追加された。LaunchPadやAirDropなどを含む250を越える新機能を追加し、64ビット・マルチコアCPUのみをサポートする。7月20日にMac App Storeでダウンロード販売を開始した。8月17日にはUSBメモリ版も発売された。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "2012年2月16日に発表され、デベロッパプレビューも同時に公開。正式名称もOS Xとなり、7月25日にMac App Storeでダウンロード販売(発売時は1,700円、2022年4月現在2,440円)を開始した。この版から64ビットカーネル起動のみとなり、インテル製32ビットプロセッサを搭載したMacおよび32ビットカーネルのMacでの直接インストールができなくなった。100以上の新たな機能が追加され、メッセージングサービスiMessage、リマインダー、通知センター、メモ、Game Centerなど、iOS 5で提供されたアプリケーションや新機能がMacintoshでも利用可能となった。Mac OS X Lionに引き続き、iOSに由来する機能が搭載された。Mountain LionとはPuma、Cougarの別名である。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "2013年6月10日に開催されたWWDC 2013で発表され、デベロッパプレビューも同時に公開された。200以上の新機能が追加され、一般向けには2013年10月22日にリリースされた。また、このバージョンから無償となった。Finderにタブ機能が追加され、iOSで提供されているマップやiBooksが搭載される。このバージョンからコードネームがカリフォルニア州の地名になった。Mavericksとはカリフォルニア州の海岸の名前である。",
"title": "特徴"
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"text": "2014年6月2日のWWDCで発表、同年10月17日にリリースされた。iOS 7で刷新されたデザインを採用しつつ、Finderやマルチタスクなど、デスクトップOSとしての機能がさらに洗練された。10.5以降に採用された3D Dockは廃止され、その結果としてGUIの雰囲気は10.4以前のGUIに似ていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2015年6月9日のWWDC 2015の基調講演で発表、同年9月30日にリリースされた。Macのエクスペリエンスの洗練とパフォーマンスの向上、システム整合性保護などセキュリティ対策強化、フルスクリーンでアプリケーションを同時に二つ表示できるスクリーンスプリット機能、システムフォントの追加など。Spotlightがより口語的な検索に対しても結果を示すようになる。ライブ変換機能の追加でよりスムーズな入力ができるようになる。",
"title": "特徴"
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"text": "2016年6月13日のWWDC 2016の基調講演で発表、同年9月20日にリリースされた。この版からHFSフォーマットが廃止され、Late 2009モデルより前のMacでの直接インストールが不可となった。新たにSiriの導入や、iOSやwatchOSとのより多くの連携機能の導入が進む。本バージョンからiOSやwatchOS、tvOSなどのAppleのOSとの名前の親和性を図るために従来のOS XからmacOSへ名称が変更された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2017年6月5日のWWDC 2017の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた。APFSやVRテクノロジーへの対応、日本語入力の改善などが発表された。純正のみサポートされたNVMeがサードパーティー製にも対応し、Apple T2チップ搭載Mac以外のRAIDディスクへのインストールおよび起動が不可となった。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "2018年6月5日のWWDC 2018の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた。ダークモードの採用や、Mac App Storeの大幅リニューアルなどが実装された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "2019年6月3日のWWDC 2019の基調講演で発表、同年10月8日にリリースされた。iPadOSからのアプリの移植を容易に行えるProject Catalystが採用された。システムボリュームにはAPFSを必須とし、HFS Plusでの起動ができなくなった。32ビットバイナリが取り除かれ、32ビットアプリケーションなどが起動しなくなるので注意が必要である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2020年6月22日のWWDC 2020の基調講演で発表、同年11月13日にリリースされた。同時に移行が発表されたAppleシリコンを搭載したMacにおいて、Rosetta 2で従来のIntel Mac向けソフトウェアの大半が動作する。また最新のXcodeでAppleシリコン、Intel CPU両方に対応するUniversal 2としてコンパイルが可能となっている。バージョンナンバーは最初にリリースされた開発版では10.16であったが、Mac OS 9からMac OS Xに移行して以来、約20年ぶりにメジャーバージョンを上げ11.0とすると発表した。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "2021年6月7日のWWDC 2021の基調講演で発表、同年10月25日にリリースされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "2022年6月7日のWWDC 2022の基調講演で発表、2022年10月25日にリリースされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "2023年6月5日のWWDC 2023の基調講演で発表、2023年9月26日にリリースされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "Mac OS X v10.0からMac OS X v10.6までは、最大プロセス数が532、そのうちユーザプロセス数は半分の266であった。Mac OS X v10.7からmacOS Mojave 10.14では、メモリを3GB以上積んだ場合は、1064へ拡大され、ユーザプロセス数は709である。macOS Catalinaからは1044の倍数(最大16、よって16704)となる。確認するコマンドなどについては、sysctl(3)のマニュアルで参照できる。",
"title": "最大プロセス数"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、Mac OS X Serverではv10.5以前から最大プロセス数が2500であり、64ビット化されたMac OS X Server v10.6からはメモリ量に応じて自動で増えるが、上限は30000である。macOS Serverでは、強制的にパフォーマンスモードを有効にすることで、最大プロセス数を増やすこともできる。",
"title": "最大プロセス数"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "以前のMac OSにおいては、OSパッケージが各言語ごとにローカライズされたほか、ラテン文字以外の文字で表記する言語を扱うために必要なフォント・インプットメソッド・スクリプト書類などをセットにした「Language Kit」が用意された。System(漢字Talk)7.1から Mac OS 8.6までの時期には個別にパッケージ販売され、Mac OS 8.5から Mac OS 8.6ではインプットメソッドを除くMultilingual Internet Accessが添付された。Mac OS 9ではすべての版でLanguage Kitが標準添付となり、必要な場合カスタムインストールする形をとった。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これに対し、macOSはサポートする言語の入力・表示に必要なコンポーネントをすべて標準でインストールした上で、優先順位を切り替えて任意の言語環境で使うことができる多言語インタフェースのOSになっている。Mac OS X v10.5では18種の言語環境が内包されている。そのため提供されているインストーラの内容は全世界共通である。従って、日本国外で入手したmacOSやMacintosh本体でも、日本で流通しているものと全く同様の環境に仕立てることが可能である。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "字体としては65,000以上ものグリフを扱うことができ、日本語についてはグリフセットAdobe-Japan1-5以降に対応したOpenTypeフォントを備えているため、森鷗外や草彅剛などの正確な表記もそのまま表示・入力できるようになった。ただしすべてのグリフを扱うにはアプリケーション側の対応が必要となる。入力メソッドはシステム言語の文字に加えてタイ文字、デーヴァナーガリー文字、アラビア文字、ヘブライ文字など多数用意されている。v10.3からはことえりがアイヌ語の表記に使う仮名文字に対応している。またファイルやフォルダ(ディレクトリ階層)にもシステムが対応している任意の言語で名前を付けることが可能で、複数言語の混在もできる。v10.7からは絵文字にも対応し、他の文字と同じように扱うことができるようになった。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "Finderや付属のアプリケーションソフトで、メニュー・ダイアログなどが地域対応された下記の言語環境が歴代のバージョンで追加されている。",
"title": "言語"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "macOS に搭載されているJava 実行環境のバージョンおよびオラクルから直接提供されるバージョンの対応状況を記す。",
"title": "Java"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "初期のMac OS Xのアイコンは新規のものと、NeXT時代にKeith Ohlfsがデザインしたものが混在していたが、最後まで残されていたアイコンGrabがmacOS Mojaveで消えた。",
"title": "主なアプリケーション"
}
]
| macOS(マックオーエス)は、Appleが開発・販売するMacのオペレーティングシステムである。当初の名称はMac OS X(マックオーエステン)で、のちにOS X(オーエステン)に改められていた(後述)。 技術的には直系ではないが、Classic Mac OSの後継として、新たにBSD系UNIXをベースに開発された。 | {{Otheruses|2001年から[[Mac (コンピュータ)|Mac]]に搭載されているオペレーティングシステム|その他|Mac OS}}
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年2月
| 更新 = 2021年2月
}}
{{Infobox OS
|name = macOS<br>(旧称:“Mac OS X”および“OS X”)
|logo = MacOS wordmark (2017).svg
|logo_size = 200px
|screenshot =
|screenshot_size =
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|developer = [[Apple]]
|programmed_in = [[C言語]]、[[C++]]、[[Objective-C]]、[[Swift (プログラミング言語)|Swift]]、[[AppleScript]]<ref>{{Cite web|url=http://developer.apple.com/Cocoa/overview.html|title=Apple Developer:Cocoa Overview|publisher=Apple Inc|accessdate=2012-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://developer.apple.com/mac/library/documentation/MacOSX/Conceptual/OSX_Technology_Overview/OSX_Technology_Overview.pdf|title=Apple Developer:Mac OS X Technology Overview|publisher=Apple Inc|accessdate=2012-07-26}}</ref>
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|license = [https://www.apple.com/jp/legal/sla/ EULA], [https://opensource.apple.com/apsl/ ASPL]
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|website = [https://www.apple.com/jp/macos/ www.apple.com/jp/macos]
}}
'''macOS'''(マックオーエス)は、[[Apple]]が開発・販売する[[Mac (コンピュータ)|Mac]]の[[オペレーティングシステム]]である。当初の名称は'''Mac OS X'''(マックオーエステン)で、のちに'''OS X'''(オーエステン)に改められていた([[#名称|後述]])。
技術的には直系ではないが、[[Classic Mac OS]](Mac OS、System)の後継として、新たに[[Berkeley Software Distribution|BSD]]系[[UNIX]]をベースに開発された。
== 概要 ==
[[NeXT]]の[[OPENSTEP]]の技術をベースに開発されたMacintosh専用オペレーティングシステムである。[[オープンソース]]のオペレーティングシステム「[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]」をベースとし、[[POSIX]]に準拠したUNIXである<ref>[http://www.opengroup.org/openbrand/register/apple.htm The Open Brand - Register of Certified Products Apple Inc.]</ref>。
旧来のMac OSに比べて非常に安定しており、オープンな標準規格の採用を基本としている。macOS独自の[[ユーザインタフェース]]で構築された[[ウィンドウシステム|ウインドウシステム]]<ref group="注">初期には[[Aqua (コンピュータ)|Aqua]]と呼ばれた。</ref>を搭載<ref>{{Cite web|url=https://developer.apple.com/design/human-interface-guidelines/macos/overview/themes/|title=Themes - macOS - macOS - Human Interface Guidelines - Apple Developer|accessdate=2018-09-04|last=Inc.|first=Apple|website=developer.apple.com|language=en}}</ref>し、macOSの特徴である直感的かつ柔軟な操作を実現している。開かれているオープンソースの強みと、Macintoshが初めから持っていた「閉じていること」<ref group="注">ハードウェアとの密接な統合</ref>の強みを併せ持ち、一貫したデザイン、操作方法が統一された「[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]」、UNIXの利便性、堅固さが共存している特徴がある。UNIXベースとなり、比較的容易な移植でBSDや[[Linux]]など他の[[Unix系]]オペレーティングシステムで開発されたソフトウェア資産を、macOSのインタフェース上で使うことができるようになった。統一感のある外観を持つ[[X.Org Foundation|X.org]]ベースの[[X Window System]]「X11」([[XQuartz]]<ref>[http://xquartz.macosforge.org/trac/wiki XQuartz]</ref>)を導入できる。X11がmacOS上で動作することにより、互換性のないアプリケーション間のコピーアンドペーストのような純粋なX11ではサポートされていない動作が可能である。
<gallery>
File:MacOS Architecture.svg|macOSの構造(2017年時点)
File:Diagram of Mac OS X architecture.svg|Mac OS X 構造図表
</gallery>
=== 名称 ===
[[2001年]]に最初の製品版が発売された時の名称は「'''Mac OS X'''(マック オーエス テン)」であった<ref group="注">名称にローマ数字の「X(テン)」が付けられ、バージョンナンバーも「10」となったが、これはバージョン9まで続いたClassic Mac OSの後継として開発されたためである。</ref>。[[2012年]]にリリースされた[[OS X Mountain Lion]]で正式名称から「Mac」が外され、「'''OS X'''(オーエス テン)」と称した<ref>{{Cite web|和書|date=2012-02-16|title=Apple、100以上の新機能を搭載した OS X Mountain Lionのデベロッパプレビューをリリース|url=http://www.apple.com/jp/pr/library/2012/02/16Apple-Releases-OS-X-Mountain-Lion-Developer-Preview-with-Over-100-New-Features.html|accessdate=2012-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.theverge.com/2012/2/16/2802281/apple-officially-renames-mac-os-x-to-os-x-drops-the-mac|title=Apple officially renames Mac OS X to OS X, drops the 'Mac'|last=Patel|first=Nilay|authorlink=:en:Nilay Patel|date=February 16, 2012|work=[[ザ・ヴァージ|The Verge]]|accessdate=February 21, 2012}}</ref><ref group="注">マーケティング的には、2011年にリリースされた前バージョンの[[Mac OS X Lion]]から。</ref>。さらに、[[2016年]]にリリースされた[[macOS Sierra]]から、[[iOS]]や[[watchOS]]、[[tvOS]]などの[[Apple]]の他の[[オペレーティングシステム|OS]]の名前との親和性を図るため、「OS X」から「'''macOS'''」へと改称された<ref>[https://web.archive.org/web/20200530083534/https://japanese.engadget.com/2016/06/13/os-x-macos-sierra/ macOS Sierra発表、OS Xから改名。Siri対応、オートアンロックなど新機能多数] - Engadget Japan</ref>。
== バージョン一覧 ==
10.8までのコードネームはネコ科の動物に由来している。10.9以降は[[カリフォルニア州]]の地名からコードネームがとられている。
{| class="wikitable"
|+ macOSバージョン情報<ref group="注">日付は[[太平洋標準時]]</ref>
!バージョン!!名称!!対応プロセッサ!!対応アプリケーション!!発表日!!リリース日!!最新バージョン
|-
![[Rhapsody (オペレーティングシステム)|Rhapsody]] Developer Release
|<ref group="注">開発コード名は「Grail1Z4」および「Titan1U」</ref>||rowspan="6"|[[32ビット]]<br />[[PowerPC]]||rowspan="8"|32ビット<br />PowerPC||||1997年8月31日||DR2(1998年5月14日)
|-
![[Mac OS X Server 1.0]]
|<ref group="注">開発コード名は「Hera1O9」、1.0.1は「Loki1A2」、1.0.2は「Loki2G1」、1.2は「Pele1Q10」、1.2 v3は「Medusa1E3」</ref>||1999年1月14日<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990114/osxs.htm|title=アップル、Mac OS X Serverを第2四半期に国内発売|accessdate=2018-04-17|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>||1999年3月16日||1.2 v3(2000年10月27日)
|-
!style="white-space:nowrap"|Mac OS X Developer Preview
|||1998年5月11日<ref>{{Cite news |url=http://news.cnet.com/OS-X-is-the-future-for-Apple/2100-1001_3-211065.html |title=OS X is the future for Apple |author=Davis, Jim |date=May 11, 1998 |accessdate=July 17, 2013 |publisher=[[CNET]]}}</ref>||1999年3月16日||DP4(2000年4月5日)
|-
![[Mac OS X Public Beta]]
|<ref group="注">開発コード名は「Kodiak」「Siam」
[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2206/07/news069.html '''Mac OS XからmacOS Venturaまでの歴史を軽く振り返る''']</ref>||2000年9月13日<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000913/apple2.htm|title=Apple Computer、Mac OS X Public Betaを公開|accessdate=2018-04-17|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>||2000年9月13日||日本語対応版2000年10月21日<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001018/wpe05.htm|title=日本語対応のMac OS X Public Betaを披露したアップルコンピュータ|accessdate=2018-04-17|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>
|-
![[Mac OS X v10.0]]
|<ref group="注">開発コード名は「Cheetah」</ref>||2001年1月12日<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20010112/apple.htm|title=アップル、Mac OS Xを3月24日より14,800円で発売|accessdate=2018-04-17|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>||2001年3月24日||10.0.4(2001年6月22日)
|-
![[Mac OS X v10.1]]
|<ref group="注">開発コード名は「Puma」</ref>||2001年7月18日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2001/jul/18macosx.html | title=Apple Previews Next Version of Mac OS X | publisher=[[Apple]] | date=July 18, 2001 | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2001年9月25日||10.1.5(2002年6月6日)
|-
![[Mac OS X v10.2]]
|Jaguar||rowspan="2"|32/[[64ビット]]<br />PowerPC||2002年5月6日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2002/may/06jaguar.html | title=Apple Previews "Jaguar", the Next Major Release of Mac OS X | publisher=[[Apple]] | date=May 6, 2002 | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2002年8月24日||10.2.8(2003年10月3日)
|-
![[Mac OS X v10.3]]
|Panther<ref group="注">開発コード名は「Pinot」</ref>||2003年6月23日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2003/jun/23panther.html | title=Apple Previews Mac OS X "Panther"|publisher=[[Apple]] | date=June 23, 2003 | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2003年10月24日||10.3.9(2005年4月15日)
|-
![[Mac OS X v10.4]]
|Tiger<ref group="注">開発コード名は「Merlot」および「Chardonay」</ref>||rowspan="2"|32/64ビット<br />PowerPC/Intel|| rowspan="3" style="white-space:nowrap" |32/64ビット<br />PowerPC<ref group="注">Intel CPU搭載Mac上では[[Rosetta]]による動作。</ref>/Intel||2004年5月4日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2004/may/04wwdc.html | title=Steve Jobs to Kick Off Apple's Worldwide Developers Conference 2004 with Preview of Mac OS X "Tiger"|publisher=[[Apple]] | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2005年4月29日||10.4.11(2007年11月14日)
|-
![[Mac OS X v10.5]]
|Leopard<ref group="注">開発コード名は「Chablis」</ref>||2006年6月26日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2006/jun/26wwdc.html | title=Apple Executives to Preview Mac OS X "Leopard" at WWDC 2006 Keynote | publisher=[[Apple]] | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2007年10月26日||10.5.8(2009年8月5日)
|-
![[Mac OS X v10.6]]
|Snow Leopard||32/64ビット<br />[[X86|Intel]]||2008年6月9日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2008/06/09snowleopard.html | title=Apple Previews Mac OS X Snow Leopard to Developers | publisher=[[Apple]] | date=June 9, 2008 | accessdate=March 11, 2010}}</ref>||2009年8月28日||10.6.8 v1.1(2011年7月25日)
|-
![[Mac OS X Lion|Mac OS X v10.7]]
|Lion<ref group="注">開発コード名は「Barolo」</ref>||rowspan="9"|[[X64|64ビット<br />Intel]]|| rowspan="8" |32/64ビット<br />Intel||style="white-space:nowrap"|2010年10月20日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2010/10/20lion.html | title=Apple Gives Sneak Peek of Mac OS X Lion | publisher=[[Apple]] | date=October 20, 2010 | accessdate=October 20, 2010}}</ref>||2011年7月20日||10.7.5(2012年9月19日)
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![[OS X Mountain Lion|OS X 10.8]]
|style="white-space:nowrap"|Mountain Lion<ref group="注">開発コード名は「Zinfandel」</ref>||2012年2月16日<ref name="PR-16-02">{{Cite press release | 和書 | url=http://www.apple.com/pr/library/2012/02/16Apple-Releases-OS-X-Mountain-Lion-Developer-Preview-with-Over-100-New-Features.html | title=Apple Releases OS X Mountain Lion Developer Preview with Over 100 New Features | publisher=[[Apple]] | date=February 16, 2012 | accessdate=February 16, 2012}}</ref>||style="white-space:nowrap"|2012年7月25日<ref name="PR-25-07">{{Cite press release | 和書 | url=http://images.apple.com/pr/library/2012/07/25Mountain-Lion-Available-Today-From-the-Mac-App-Store.html | title=Mountain Lion Available Today From Mac App Store | publisher=[[Apple]] | date=July 25, 2012 | accessdate=July 25, 2012}}</ref>||10.8.5(12F45)(2013年10月3日)
|-
![[OS X Mavericks|OS X 10.9]]
|Mavericks<ref group="注">開発コード名は「Cabernet」</ref>||2013年6月10日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://techcrunch.com/2013/06/10/live-blog-wwdc-2013-keynote/#liveblog-entry-514917 | title=Live From Apple's WWDC 2013 Keynote | publisher=[[TechCrunch]] | date=June 10, 2013 | accessdate=June 10, 2013}}</ref>||2013年10月22日||10.9.5(2016年7月18日)<ref>{{Cite web|和書|title=OS X El Capitan v10.11.6 およびセキュリティアップデート 2016-004のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT206903|website=Apple Support|accessdate=2019-10-31|language=ja}}</ref>
|-
![[OS X Yosemite|OS X 10.10]]
|Yosemite<ref group="注">開発コード名は「Syrah」</ref>||2014年6月2日<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://techcrunch.com/2014/06/02/live-blog-wwdc-2014-keynote/#liveblog-entry-514917 | title=Live From Apple's WWDC 2014 Keynote | publisher=[[TechCrunch]] | date=June 02, 2014 | accessdate=June 02, 2014}}</ref>||2014年10月17日||10.10.5(2017年7月19日)<ref>{{Cite web|和書|title=macOS Sierra 10.12.6、セキュリティアップデート 2017-003 El Capitan、セキュリティアップデート 2017-003 Yosemiteのセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT207922|website=Apple Support|accessdate=2019-10-31|language=ja}}</ref>
|-
![[OS X El Capitan|OS X 10.11]]
|El Capitan<ref group="注">開発コード名は「Gala」</ref>||2015年6月9日||2015年9月30日||10.11.6(2018年7月9日)<ref>{{Cite web|和書|title=macOS High Sierra 10.13.6、セキュリティアップデート 2018-004 Sierra、セキュリティアップデート 2018-004 El Capitanのセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208937|website=Apple Support|accessdate=2019-10-31|language=ja}}</ref>
|-
![[MacOS Sierra|macOS 10.12]]
|Sierra||2016年6月13日||2016年9月20日||10.12.6(2019年9月26日)<ref>{{Cite web|和書|title=macOS Mojave 10.14.6 追加アップデート 2、セキュリティアップデート 2019-005 High Sierra、セキュリティアップデート 2019-005 Sierraのセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210589|website=Apple Support|accessdate=2019-10-31|language=ja}}</ref>
|-
![[macOS High Sierra|macOS 10.13]]
|High Sierra||2017年6月5日||2017年9月25日||10.13.6(17G14042)(2020年11月12日)<ref>{{Cite web|和書|title=セキュリティアップデート 2020-006 High Sierra、セキュリティアップデート 2020-006 Mojaveのセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211946|website=Apple Support|accessdate=2020-11-16|language=ja}}</ref>
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![[macOS Mojave|macOS 10.14]]
|Mojave||2018年6月5日||2018年9月25日||10.14.6(18G9323)(2021年7月21日)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=セキュリティアップデート 2021-005 Mojaveのセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212603|website=Apple Support|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>
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![[macOS Catalina|macOS 10.15]]
|Catalina||64ビット<br />Intel||2019年6月3日||2019年10月8日||10.15.7(19H2026)(2022年7月20日)<ref>{{Cite web|和書|title=セキュリティアップデート 2022-005 Catalina のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213343 |website=Apple Support |access-date=2023-02-03 |language=ja}}</ref>
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![[MacOS Big Sur|macOS 11]]
|Big Sur|| rowspan="4" |64ビット<br />Intel/[[AArch64|ARM]]|| rowspan="4" |64ビット<br />Intel<ref group="注">Appleシリコン搭載Mac上では[[Rosetta#Rosetta_2|Rosetta 2]]による動作。</ref>/ARM||2020年6月22日||2020年11月13日||11.7.9(20G1426)(2023年7月24日)<ref>{{Cite web|和書|title=macOS Big Sur 11.7.9 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213845 |website=Apple Support |date=2023-07-24 |access-date=2023-07-25 |language=ja}}</ref>
|-
![[MacOS Monterey|macOS 12]]
|Monterey||2021年6月7日||2021年10月22日||12.7(21G816)(2023年9月21日)<ref>{{Cite web |title=macOS Monterey 12.7 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213932 |website=Apple Support |date=2023-09-28 |access-date=2023-09-30 |language=ja}}</ref><!-- 先頭にあるInfobox OS latest_release_versionとlatest_release_dateの更新も忘れずに -->
|-
![[MacOS Ventura|macOS 13]]
|Ventura||2022年6月6日||2022年10月24日||13.6(22G120)(2023年9月21日)<ref>{{Cite web |title=About the security content of macOS Ventura 13.6 |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213931 |website=Apple Support |date=2023-09-26 |access-date=2023-09-30 |language=ja}}</ref><!-- 先頭にあるInfobox OS latest_release_versionとlatest_release_dateの更新も忘れずに -->
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![[MacOS Sonoma|macOS 14]]
|Sonoma
|2023年6月5日
|2023年9月26日
|14.1 (23A344) (2023年10月26日)<ref name="Sonoma">{{Cite web |title=What's new in the updates for macOS Sonoma |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213895 |website=Apple Support |date=2023-09-26 |access-date=2023-09-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=macOS 14 (23A344) - Releases - Apple Developer |url=https://developer.apple.com/news/releases/?id=09262023a |website=developer.apple.com |access-date=2023-09-30 |language=en}}</ref>
|}
== 沿革 ==
[[File:Unix timeline.en.svg|264x264px|thumb|[[Unix系]] OSの系統樹|alt=]]
1994年からMac向け次世代オペレーティングシステムとして計画・開発されていた[[Copland]]プロジェクトが挫折に終わり<ref>{{Cite web|和書|title=アップル15の大失態を振り返る--「AirPower」、折れ曲がり疑惑から「Newton」まで|url=https://japan.cnet.com/article/35135306/|website=CNET Japan|date=2019-04-30|accessdate=2020-09-29|language=ja}}</ref><ref group="注">1996年当時CTOの[[エレン・ハンコック]]が中止とした。</ref>、1996年8月、Appleは完全な自社開発をあきらめ、他社の技術を導入することに決定した。一時は[[BeOS]]や[[Solaris]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]さえ検討対象にあがり交渉が行われた。外部ではBeOSが最有力と見られたが、最終的には[[スティーブ・ジョブズ]]が創業しCEOを務めていたNeXT社を買収してそのオペレーティングシステムOPENSTEPをもとにMac OSの使い勝手を導入したオペレーティングシステム<ref group="注">コードネームRhapsody</ref>を開発することとなった<ref>{{Cite web|和書|title=ジョブズ復帰とMac OS X、映画にないドラマチックな秘話とは {{!}} mobileASCII|url=https://mobileascii.jp/elem/000/001/116/1116687/|website=mobileASCII - すべてのモバイルユーザーのための情報サイト|accessdate=2020-09-29|language=ja|last=ASCII}}</ref>。開発を主導したのは共に元NeXTの、[[アビー・テバニアン]](元ソフトウェア担当最高技術責任者、v10.2まで)とその後継者の[[バートランド・サーレイ]](元ソフトウェア担当上級副社長、v10.4まで)、[[スコット・フォーストール]](元ソフトウェア担当上級副社長、v10.5まで)であった。2011年3月からは、やはり元NeXTの[[クレイグ・フェデリギ]]ソフトウェアエンジニアリング担当上級副社長が開発担当責任者である<ref>{{Cite web|和書|title=「Mac OS X」担当の新幹部C・フェデリギ氏--その人物像に迫る|url=https://japan.cnet.com/article/35001035/|website=CNET Japan|date=2011-03-30|accessdate=2020-02-09|language=ja}}</ref>。
アプリケーションからRhapsodyの機能を生かすには、[[Cocoa (API)|Cocoa]]の前身であるYellow Box<ref group="注">OPENSTEPの[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]</ref>でアプリケーション プログラムを一から書き直さなければならなかったので、従来からの開発者の支持を得ることができなかった。そのため、従来のMacintoshのAPIである[[Toolbox]]をベースに[[Carbon (API)]]を開発し、これをNeXT由来の技術と統合した「Mac OS X」への移行が宣言される。Rhapsodyを元にサーバ向けの[[Mac OS X Server 1.0]]としてリリースされた後、Mac OS Xがリリースされた。
2001年にリリースされたMac OS Xは、Mac OSともOPENSTEPとも異なる新たなインタフェース「Aqua」をまとって登場。従来のMac OSとは全く異なる、堅牢な[[マルチタスク]]のオペレーティングシステムで、Coplandプロジェクトが目指していたものを遥かに超えるものを実現した<ref group="注">Copland以前にMacintoshの後継システムとして構想されていた[[Taligent|Pink]]が目指していた完全オブジェクト指向オペレーティングシステムの構想が形を変えて実現したとも言える。</ref>。初期の版では動作の遅さが指摘されたが、改版ごとにオペレーティングシステム内部の最適化が進み、[[Quartz Extreme]]、[[Core Image]], [[Core Animation]]などの新技術により解決された。
2010年10月21日、スペシャルイベントで「Back to the Mac」としてiLife'11とMac OS X Lionと新型MacBook Airと同時に[[Mac App Store]]を発表した。翌年、2011年1月6日から1000本ものアプリケーションを販売開始した。macOSのインストーラやアップデータもMac App Storeを通して配布されている。
== 特徴 ==
[[#主要なアプリケーション|付属アプリケーション]]が充実しており、日本語[[フォント]]として[[ヒラギノ]]が3種13書体が標準搭載され、[[游書体]]のうち游明朝体/游ゴシック体/游教科書体、[[フォントワークス]]の筑紫A丸ゴシック/筑紫B丸ゴシック/クレー、[[凸版印刷]]の凸版文久明朝/凸版文久ゴシック/凸版見出し明朝/凸版見出しゴシックが追加インストールされる。Mac OS X v10.5には、[[小学館]]の国語および英和・和英辞典が標準で付属している<ref>[http://www.apple.com/jp/macosx/features/japanese.html Leopard 新機能 日本語環境]</ref>。OS X v10.8では [[Oxford Dictionary of English]]や[[ウィズダム (辞典)|ウィズダム英和・和英]]、[[大辞林|スーパー大辞林]]など12種類の辞書が装備されている。Mac OS X v10.1の時代から、[[FreeBSD]]由来のsmbfsを利用し、[[Microsoft Windows|Windows]]ネットワーク環境でのファイル共有やドメイン参加など、Windows機との共存が可能である<ref>{{Cite web|title=Source Browser|url=https://opensource.apple.com/source/smb/|website=opensource.apple.com|accessdate=2020-04-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=macOSに追加された SMB 2および3の機能について|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210803|website=Apple Support|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref><ref group="注">以前は[[サードパーティー]]製ソフトが必要であった。</ref>。SMBサーバの機能は、Snow LeopardまではSambaをベースにしていたが、Mac OS X Lion以降は独自実装となっている<ref>{{Cite web|和書|title=SMBに乗り換えたMac――WindowsとMacのファイル共有のいま(前編)(1/3)|url=https://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1502/27/news051.html|website=@IT|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref>。
Mac OS X v10.4までは [[Classic (ソフトウェア)|Classic環境]]と呼ばれるMac OS互換機能を持っていた。Mac OS 9.2.2を一種の[[仮想機械|仮想マシン]]として動作させるもので、Mac OSアプリケーションは旧バージョンの[[プラチナアピアランス]]で動作した。[[MC68000|68K]]・PowerPCの別を問わず、旧来のアプリケーションの多くをMac OS X上で動作させることができ互換性は高かったが、完全な互換性があるわけではなく、オーディオ関係のアプリケーションなど特にリアルタイム性が求められるものについてはメーカーがサポートしていない場合があった。Mac OS X v10.5および[[インテル]]版のMac OS X v10.4からこの機能はなくなった。2005年の[[Worldwide Developers Conference]]でPowerPCに代わりインテル製プロセッサの採用が発表されたが、Mac OS Xは開発当初からCPUに依存しない抽象化を示すためにx86版との並行開発をしており、すべてのバージョンの Mac OS Xでインテル版が存在していたという<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/348/348284/ ASCII.jp:【WWDC2005基調講演 Vol.3】ジョブズがアップルについて語ったこと——インテル移行計画]</ref>。これはMac OS Xの前身である [[Rhapsody (オペレーティングシステム)|Rhapsody]]が当初からPowerPC版とインテル製プロセッサ版が計画されており、[[BlueBox]]<ref group="注">Classic環境の前身</ref>はPowerPC版でしか採用しないと発表しており、8年かけて計画を完遂させたと言えなくもない。
macOS Big Sur以降において、Appleシリコン搭載Macでは、一部を除いてiOS, iPadOSアプリをネイティブ動作させられる<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、MacにAppleシリコンを搭載することを発表 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2020/06/apple-announces-mac-transition-to-apple-silicon/ |website=Apple Newsroom (日本) |access-date=2023-07-06 |language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Appleシリコン搭載のMacでのiPhoneおよびiPad向けAppの提供 |url=https://developer.apple.com/jp/macos/iphone-and-ipad-apps/ |website=Apple Developer |access-date=2023-07-06 |language=ja-JP}}</ref>。
=== Mac OS X Public Beta(Siam) ===
{{Main|Mac OS X Public Beta}}
[[2000年]][[9月13日]]、AppleはMac OS X Public Betaをリリースした。日本では同年10月21日から、より新しいビルドを(税別3,500円で)販売した<ref>[https://www.apple.com/jp/newsroom/2000/10/17Apple-Mac-S-X-Public-Beta-distribution-Hazime-Hiraku/ アップル、Mac OS X Public Beta を特設オンラインストア「Apple Store」で販売] </ref>。[[Aqua (コンピュータ)|Aqua]]インタフェースの美しい見た目がMacintoshの利用者に衝撃を与えたが、 使い勝手が大きく変化したことについては戸惑いの声があがった。
=== Mac OS X 10.0(Cheetah) ===
{{Main|Mac OS X v10.0}}
2001年[[3月24日]]、AppleはMac OS X v10.0(税別14,800円)を発売した<ref>{{Cite web|和書|title=Mac OS X、今週末から販売開始|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2001/03/21Mac-OS-X-Hits-Stores-This-Weekend/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。従来のMac OSと比較すると劇的に安定性が向上しており、パブリック・ベータからさらに改良されていたが、当初はDVD再生機能などがなく、対応機器も限られており速度も非常に遅く、まだ完成度は低かった。Mac OS 9と切り替えて使うなど、メインのオペレーティングシステムとして日常的に使う利用者は少なかった。
=== Mac OS X 10.1(Puma) ===
{{Main|Mac OS X v10.1}}
[[2001年]][[9月25日]]、Mac OS X v10.1(税別14,800円)がリリースされ、10.0のユーザへの無償更新サービスが行われた<ref>{{Cite web|和書|title=Mac OS X、初のメジャーアップグレード今週末から発売|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2001/09/25First-Major-Upgrade-to-Mac-OS-X-Hits-Stores-This-Weekend/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。10.0に欠けていた多くの機能が追加され、システムの性能が向上し、実用的に使える初めての版といわれる。[[ユーザインタフェース]]にも手直しがなされ、日本語入力の変換精度が大幅に向上した[[ことえり]] 3を搭載。[[マイクロソフト]]や[[アドビ]]などから対応ソフトがリリースされた。
=== Mac OS X 10.2(Jaguar) ===
{{Main|Mac OS X v10.2}}
[[2002年]][[8月24日]]、Mac OS X v10.2(税別14,800円)が発売された<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、Mac OS Xの次期メジャーリリース、Mac OS X v10.2を発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2002/07/17Apple-Introduces-Jaguar-the-Next-Major-Release-of-Mac-OS-X/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。日本では商標の問題でJaguarは製品名には付けられなかった。スプリングローデッドフォルダ機能が復活するなど、[[Finder]]の使い勝手に改良が施される。動作速度が上がり対応機器が増えて、Mac OS Xを業務用途で使う利用者にも受け入れられるようになったほか、UNIX利用者の間でも Mac OS Xを愛用する人が増えた。ビデオチップの幾何演算ユニットを使ってCPUの負荷を軽減する「Quartz Extreme」、ネットワーク機能「{{Lang|fr|Rendezvous}}」(現:{{Lang|fr|[[Bonjour]]}})、手書き文字認識「[[Inkwell]]」などの新機能を実装。10.2.3版から[[ジャーナリングファイルシステム]]が実装された。2003年には[[ウェブブラウザ]]としてSafariが登場し、Mac OS 9が起動しないMac OS XのみをサポートするMacintoshが販売されるようになった。[[ファイアウォール]]機能が標準で付属し、[[IPsec]]・[[IPv6]]にデフォルトで対応したのもこの版である。
=== Mac OS X 10.3(Panther) ===
{{Main|Mac OS X v10.3}}
[[2003年]][[10月24日]]にMac OS X v10.3 Panther(税別14,800円)が発売された<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、Mac OS X "Panther"を発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2003/10/08Apple-Announces-Mac-OS-X-Panther/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。標準でUSBポートを備えたマシン以外のサポートを打ち切り、初代[[iMac]]以降の機種への対応となった。日本での発売イベントはApple Store銀座ができる前だったこともあり、[[Apple#Apple Japan合同会社|アップルコンピュータ株式会社]]があった[[東京オペラシティ]]1階広場ガレリアで行われた<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、Panther発売記念イベントに900人が参加|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/1025/apple2.htm|publisher=PC Watch|accessdate=2003-10-25}}</ref>。開発者向けにはコントローラレイヤ「Cocoa Binding」が導入された。システムの安定性がさらに向上したほか、処理速度も向上し、低クロックのG3マシンでも比較的快適に動作する。Finder は[[iTunes]]のインタフェースを取り入れた2ペイン形式での表示も可能になり、フォルダに色を付けるラベル機能も復活した<ref group="注">アイコンではなく名前の色付けになった。</ref>。ウインドウ一覧表示機能「{{Lang|fr|[[Mission Control|Exposé]]}}」、ホームフォルダの暗号化機能「FileVault」が追加され、ことえりがバージョン4になり[[入力予測|予測変換]]などの機能が追加された。Mac OS Xでも大手[[印刷会社]]への入稿受け入れが整ったため、遅れていた[[デザイン]]、[[出版]]分野への導入が徐々に進み始める。ライセンス使用料の追加がないクライアント無制限の「Mac OS X Server」搭載の1Uサーバ「[[Xserve]]」と[[NetBoot]]が評価され、[[東京大学]]、[[東京女子大学]]に大量導入された。
=== Mac OS X 10.4(Tiger) ===
{{Main|Mac OS X v10.4}}
[[2005年]][[4月29日]]、Mac OS X v10.4 Tiger(税込14,800円)が発売された<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、Mac OS X "Tiger"を4月29日に出荷|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2005/04/12Apple-to-Ship-Mac-OS-X-Tiger-on-April-29/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。この版からメディアがDVD-ROMの1枚になった。動作環境をFireWire([[IEEE 1394]])ポートを標準搭載したMacintoshとされ、初期のiMac<ref group="注">トレイローディングの機種</ref>ならびに初期の[[iBook]]<ref group="注">クラムシェル〈帆立貝に似た形〉の一部</ref>は対応外となった。新規にリアルタイムイメージングインタフェース「[[Core Image]]」および「Core Video」、64ビットオーディオインタフェース「[[Core Audio (Apple)|Core Audio]]」、モデルレイヤ「[[Core Data]]」が導入された。さらに[[launchd]]が従来の[[init]]などの[[デーモン (ソフトウェア)|UNIX デーモン]]群を置き換え、カーネル・プログラミング・インタフェース(KPI)や[[Uniform Type Identifier|UTI]]が実装されるなどシステム内部が大きく刷新されたが、以前のバージョンとの互換性は概ね維持されている。システムに統合されたメタデータ検索機能「[[Spotlight (Apple)|Spotlight]]」、WebKit ベースのアプリケーション実行環境「[[Dashboard]]」のほか、200 以上の新機能を搭載した。仮想メモリの暗号化まで含めたセキュリティ機能の充実により、[[あおぞら銀行]]が[[2006年]]にかけて2,500台という規模でTiger搭載iMac G5の導入を決めている。WWDC 2005においてOSはTigerのまま2006年からMacintoshのCPUをインテル製に移行することが発表され、2006年以降の新製品には、インテル対応版Mac OS Xが搭載された。
インテル対応版Mac OS X Tigerは単体で販売されておらず、インテル製プロセッサを載せたMacintoshではClassic環境を利用することができない。
=== Mac OS X 10.5(Leopard) ===
{{Main|Mac OS X v10.5}}
Mac OS X v10.5 Leopard(レパード<ref group="注">商標登録番号 第4876376号 称呼としてレオパードとレオパルドを登録しているがアップルはレパードを使用している</ref>)は、発表当初は2007年春のリリースを目指して開発されていたが、[[2007年]]4月12日(現地時間)に、6月発売のiPhoneプロジェクトへ一時的に開発リソースを集中させる目的でリリース延期が表明され、2007年[[10月26日]]にシングルユーザライセンス14,800円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)22,800円(税込)で発売された<ref>[http://www.apple.com/jp/news/2007/oct/16leopard.html アップル、Mac OS X Leopard を10月26日に出荷]</ref>。この版のみ[[Universal Binary]]となり、メディアが2層DVD-ROMの1枚になった。2006年8月7日のWorldwide Developers Conferenceで機能の一部が発表されている。[[64ビット]]に対応したCocoa、容易なプログラミングでアニメーションを実現する「[[Core Animation]]」、Core Data 2.0、解像度非依存のユーザインタフェース、仮想デスクトップ環境「[[Spaces]]」、バックアップツール「[[Time Machine (ソフトウェア)|Time Machine]]」、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]または[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]との[[マルチブート|デュアルブート]]環境を実現する「[[Boot Camp]]」、改良強化された Spotlight、Dashboardウィジェットを容易に作成できる[[Dashcode]]など多数の機能が搭載される。2007年6月11日 、WWDCの基調講演で新しいFinderと[[Dock]]、[[Quick Look]]が披露された。[[JIS X 0213|JIS X 0213:2004]]対応フォント搭載。Tigerまでは搭載されていたレガシーな機能が排除されたのも特徴であり、Classic環境が利用できなくなった。
UNIXの商標を管理する団体である「[[The Open Group]]」から「[[Single UNIX Specification]]」の認証を受け、正式なUNIXとなった。
=== Mac OS X 10.6(Snow Leopard) ===
{{Main|Mac OS X v10.6}}
[[2009年]][[8月28日]]にシングルユーザライセンス3,300円(税込)、ファミリーパック(家庭内5人分のユーザライセンス)5,600円(税込)と大幅な値下げが実施され発売された<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、Mac OS X Snow Leopardを8月28日に出荷|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2009/08/24Apple-to-Ship-Mac-OS-X-Snow-Leopard-on-August-28/ |website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-07|language=ja-JP}}</ref>。この版からインテル製プロセッサを搭載したMacintosh専用となり、PowerPCプロセッサを搭載した Macintoshでは使用できなくなり、HFSフォーマットは読み込みのみ可能となった。[[2008年]][[6月9日]](現地時間午前)に開催されたWWDC 2008での基調講演で開発が発表され<ref>[http://www.apple.com/jp/news/2008/jun/10leopard.html アップル、Mac OS X Snow Leopard をデベロッパにプレビュー]</ref>、2009年6月8日に開催されたWWDC 2009で詳細と発売予定時期があらためて発表された。主にパフォーマンスと安定性<ref>{{Cite web|和書|date=2008-06-16|url=http://ascii.jp/elem/000/000/142/142315/|title=新 Mac OS X「Snow Leopard」を徹底解剖|publisher=ASCII.jp|accessdate=2010-01-31}}</ref>に注力し、オペレーティングシステム全体が大幅に小さくなった。Dockと{{Lang|fr|Exposé}}の機能が拡張され、Microsoft Exchange 2007を標準でサポート。FinderとQuickTime(QuickTime X)がCocoaベースに作り直されたほか、ほとんどのシステム付属アプリケーションが64ビット化、Grand Central Dispatch(GCD)と[[OpenCL]]により並行演算機能が大幅に強化された<ref>[http://www.apple.com/jp/macosx/snowleopard/ Mac OS X Snow Leopard]</ref>。
=== Mac OS X 10.7(Lion) ===
{{Main|Mac OS X Lion}}
[[2010年]][[10月21日]]に発表。正式名称はMac OS X Lionであったものの、マーケティング上、Macの名称を外してOS X Lionと呼称された<ref>{{Cite press release|和書|date=2011-07-20|title=Mac OS X Lion、本日Mac App Storeで販売開始|url=http://www.apple.com/jp/pr/library/2011/07/20Mac-OS-X-Lion-Available-Today-From-the-Mac-App-Store.html|publisher=[[Apple]]|accessdate=2012-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アップル - OS X Lion - 世界で最も先進的なコンピュータのオペレーティングシステム。|url=http://www.apple.com/jp/macosx/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110719174246/http://www.apple.com/jp/macosx/|archivedate=2011-07-19|publisher=[[Apple]]|accessdate=2012-07-25}}</ref>。シングルユーザライセンス、ダウンロード版2,600円(税込)、USBメモリ版6,100円(税込)<ref>{{Cite web|和書|title=アップル、Mac OS X LionをApp Storeでダウンロード発売 〜アップグレード価格2,600円 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/462017.html |website=PC Watch |date=2011-07-21 |accessdate=2022-04-12 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。
{{Lang|fr|Exposé}}・Dashboard・Spacesの各機能に統合されたアクセスを提供する Mission Controlを搭載するほか、ソフトウェア販売サービスMac App Storeやフルスクリーンのウインドウ表示、アプリケーションランチャ[[Launchpad (macOS)|LaunchPad]]など[[IOS|iPhone OS]]に由来する機能<sub>等</sub>を搭載。Mac OS X v10.5 Leopard以来の大幅な機能とインタフェースの刷新が施された。2011年2月24日には、公式サイトにさらなる新機能の説明が追加された。LaunchPadや[[AirDrop]]などを含む250を越える新機能を追加し、64ビット・マルチコアCPU<ref group="注">Intel Core 2 Duo以降</ref>のみをサポートする。7月20日にMac App Storeでダウンロード販売を開始した。8月17日には[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]版も発売された。
=== OS X 10.8 Mountain Lion ===
{{Main|OS X Mountain Lion}}
2012年2月16日に発表され、デベロッパプレビューも同時に公開。正式名称もOS Xとなり、7月25日にMac App Storeでダウンロード販売(発売時は1,700円、2022年4月現在2,440円<ref>{{Cite web |title=OS X Mountain Lion |url=https://www.apple.com/jp/shop/product/D6377Z/A/os-x-mountain-lion |website=Apple(日本) |accessdate=2022-04-13 |language=ja-JP}}</ref>)を開始した<ref>「[http://ascii.jp/elem/000/000/711/711918/ アップル、Mac用新OS「OS X Mountain Lion」販売開始]」、ASCII.jp(2012年7月25日). 2012年7月26日閲覧。<!-- アップル ホットニュース は単独の HTML ページでリリースされていないため、あえてリンクを避けている --></ref>。この版から[[64ビット]]カーネル起動のみとなり、[[インテル]]製[[32ビット]]プロセッサを搭載した[[Mac (コンピュータ)|Mac]]および[[32ビット]]カーネルのMacでの直接[[インストール]]ができなくなった。100以上の新たな機能が追加され、メッセージングサービスiMessage、リマインダー、通知センター、メモ、Game Centerなど、[[iOS 5]]で提供されたアプリケーションや新機能がMacintoshでも利用可能となった。Mac OS X Lionに引き続き、[[iOS]]に由来する機能が搭載された。Mountain LionとはPuma、Cougarの別名である。
=== OS X 10.9 Mavericks ===
{{Main|OS X Mavericks}}
2013年6月10日に開催された[[Worldwide Developers Conference|WWDC]] 2013で発表され、デベロッパプレビューも同時に公開された<ref>[http://www.apple.com/jp/pr/library/2013/06/10Apple-Releases-Developer-Preview-of-OS-X-Mavericks-With-More-Than-200-New-Features.html Apple、200以上の新機能を搭載したOS X Mavericksのデベロッパプレビューをリリース]</ref>。200以上の新機能が追加され、一般向けには2013年10月22日にリリースされた。また、このバージョンから無償となった。[[Finder]]にタブ機能が追加され、[[iOS]]で提供されている[[マップ (Apple)|マップ]]や[[iBooks]]が搭載される。このバージョンからコードネームがカリフォルニア州の地名になった。Mavericksとはカリフォルニア州の海岸の名前である。
=== OS X 10.10 Yosemite ===
{{Main|OS X Yosemite}}
2014年6月2日のWWDCで発表、同年10月17日にリリースされた。[[iOS 7]]で刷新されたデザインを採用しつつ、Finderやマルチタスクなど、デスクトップOSとしての機能がさらに洗練された。10.5以降に採用された3D Dockは廃止され、その結果としてGUIの雰囲気は10.4以前のGUIに似ていた。
=== OS X 10.11 El Capitan ===
{{Main|OS X El Capitan}}
2015年6月9日のWWDC 2015の基調講演で発表、同年9月30日にリリースされた。Macのエクスペリエンスの洗練とパフォーマンスの向上、[[システム整合性保護]]などセキュリティ対策強化、フルスクリーンでアプリケーションを同時に二つ表示できるスクリーンスプリット機能、システムフォントの追加など。Spotlightがより口語的な検索に対しても結果を示すようになる。ライブ変換機能の追加でよりスムーズな入力ができるようになる。
=== macOS Sierra 10.12 ===
{{Main|macOS Sierra}}
2016年6月13日のWWDC 2016の基調講演で発表、同年9月20日にリリースされた。この版からHFSフォーマットが廃止され、Late 2009モデル<ref group="注">Mac miniを除く。</ref>より前の[[Mac (コンピュータ)|Mac]]での直接インストールが不可となった。新たに[[Siri]]の導入や、iOSやwatchOSとのより多くの連携機能の導入が進む。本バージョンからiOSやwatchOS、tvOSなどのAppleのOSとの名前の親和性を図るために従来のOS XからmacOSへ名称が変更された。
=== macOS High Sierra 10.13 ===
{{Main|macOS High Sierra}}
2017年6月5日のWWDC 2017の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた。[[APFS]]や[[バーチャルリアリティ|VR]]テクノロジーへの対応、日本語入力の改善などが発表された。純正のみサポートされたNVMeがサードパーティー製にも対応し、Apple T2チップ搭載Mac以外のRAIDディスクへのインストールおよび起動が不可となった<ref group="注">RAIDディスク自体の作成は従来通り可能。</ref>。
=== macOS Mojave 10.14 ===
{{Main|macOS Mojave}}
2018年6月5日のWWDC 2018の基調講演で発表、同年9月25日にリリースされた<ref>{{Cite press release|和書|title=Apple、macOS Mojaveを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2018/06/apple-introduces-macos-mojave/|accessdate=2018-06-10|language=ja-JP|work=Apple Newsroom}}</ref>。ダークモードの採用や、Mac App Storeの大幅リニューアルなどが実装された。
=== macOS Catalina 10.15 ===
{{Main|macOS Catalina}}
2019年6月3日のWWDC 2019の基調講演で発表、同年10月8日にリリースされた<ref>{{Cite press release|和書|title=Apple、macOS Catalinaを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2019/06/apple-previews-macos-catalina/|website=Apple Newsroom|accessdate=2019-06-06|language=ja-JP}}</ref>。[[iPadOS]]からのアプリの移植を容易に行えるProject Catalystが採用された<ref>{{Cite web|title=iOS apps will run on macOS with Project Catalyst|url=http://social.techcrunch.com/2019/06/03/ios-apps-will-run-on-macos-with-project-catalyst/|website=TechCrunch|accessdate=2019-06-06|language=en-US}}</ref>。システムボリュームにはAPFSを必須とし、[[HFS Plus]]での起動ができなくなった。32ビットバイナリが取り除かれ、[[32ビットアプリケーション]]などが起動しなくなるので注意が必要である。
=== macOS Big Sur 11 ===
{{Main|macOS Big Sur}}
2020年6月22日のWWDC 2020の基調講演で発表、同年11月13日にリリースされた<ref>{{Cite press release|和書|title=Apple、美しい新デザインのmacOS Big Surを発表|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2020/06/apple-introduces-macos-big-sur-with-a-beautiful-new-design/|website=Apple Newsroom|accessdate=2020-06-23|language=ja-JP}}</ref>。同時に移行が発表されたAppleシリコンを搭載したMac<ref>{{Cite web|和書|title=新Mac CPUは独自の「Apple Silicon」に。既存アプリもiPhoneアプリも動作|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1260709.html|website=PC Watch|date=2020-06-23|accessdate=2020-06-23|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>において、[[バイナリ変換|Rosetta 2]]で従来のIntel Mac向けソフトウェアの大半が動作する<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=【笠原一輝のユビキタス情報局】 IntelからArmへのシームレスな移行を実現する「macOS Big Sur」|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/ubiq/1260735.html|website=PC Watch|date=2020-06-23|accessdate=2020-06-23|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。また最新のXcodeでAppleシリコン、Intel CPU両方に対応する[[Universal Binary|Universal 2]]としてコンパイルが可能となっている<ref name=":2" />。バージョンナンバーは最初にリリースされた開発版では10.16であったが<ref>{{Cite web|title=How to install macOS Big Sur beta on your Mac|url=https://9to5mac.com/2020/06/25/mac-how-to-install-macos-big-sur-beta/|website=9to5Mac|date=2020-06-25|accessdate=2020-06-30|language=en-US|first=Michael|last=Potuck}}</ref>、Mac OS 9からMac OS Xに移行して以来、約20年ぶりにメジャーバージョンを上げ11.0とすると発表した<ref>{{Cite web|title=Big Sur is macOS 11 — RIP OS X, we hardly knew thee|url=https://thenextweb.com/plugged/2020/06/23/big-sur-officially-macos-11-os-x-hardly-knew-thee/|website=Plugged {{!}} The Next Web|date=2020-06-23|accessdate=2020-06-24|language=en-us|first=Callum|last=Booth}}</ref>。
=== macOS Monterey 12 ===
{{Main|macOS Monterey}}
[[2021年]][[6月7日]]のWWDC 2021の基調講演で発表<ref>{{Cite press release|和書|title=macOS Monterey、さらに多くのことをこなせるパワフルな機能を搭載|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/06/macos-monterey-introduces-powerful-features-to-get-more-done/|date=2021-06-07|accessdate=2021-10-29|language=ja-JP|work=Apple Newsroom}}</ref>、同年10月25日にリリースされた<ref>{{Cite press release|和書|title=macOS Monterey、提供開始|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/10/macos-monterey-is-now-available/|date=2021-10-25|accessdate=2021-10-29|language=ja-JP|work=Apple Newsroom}}</ref>。
=== macOS Ventura 13 ===
{{Main|macOS Ventura}}
[[2022年]][[6月7日]]のWWDC 2022の基調講演で発表<ref>{{Cite web|和書|title=[iPhone駆け込み寺] 7日のアップル「WWDC 2022」まとめ、iOS 16/iPadOS 16発表、注目の新機能32選!! |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/review/iphonetips/1415048.html |website=ケータイ Watch |date=2022-06-07 |access-date=2023-07-25 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>、2022年10月25日にリリースされた。
=== macOS Sonoma 14===
{{Main|macOS Sonoma}}2023年6月5日のWWDC 2023の基調講演で発表、2023年9月26日にリリースされた{{R|"Sonoma"}}。
== 最大プロセス数 ==
Mac OS X v10.0からMac OS X v10.6までは、最大プロセス数が532、そのうちユーザプロセス数は半分の266であった。Mac OS X v10.7からmacOS Mojave 10.14では、メモリを3GB以上積んだ場合は、1064へ拡大され、ユーザプロセス数は709である。macOS Catalinaからは1044の倍数(最大16、よって16704)となる<ref>{{Cite web |title=kernel - Why is macOS limited to 1064 or 2088 processes? |url=https://apple.stackexchange.com/questions/373063/why-is-macos-limited-to-1064-or-2088-processes |website=Ask Different |accessdate=2022-01-27}}</ref>。確認するコマンドなどについては、sysctl(3)のマニュアルで参照できる<ref>{{Cite web |title=Mac OS X Manual Page For sysctl(3) |url=https://developer.apple.com/library/archive/documentation/System/Conceptual/ManPages_iPhoneOS/man3/sysctl.3.html |website=developer.apple.com |accessdate=2022-01-27}}</ref>。
なお、[[MacOS Server|Mac OS X Server]]ではv10.5以前から最大プロセス数が2500であり、64ビット化されたMac OS X Server v10.6からはメモリ量に応じて自動で増えるが、上限は30000である<ref>{{Cite web |url=https://support.apple.com/en-us/HT3854 |title=Mac OS X Server v10.6: Understanding process limits |accessdate=2022-01-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141119043418/https://support.apple.com/en-us/HT3854 |archivedate=2014-11-19}}</ref>。macOS Serverでは、強制的にパフォーマンスモードを有効にすることで、最大プロセス数を増やすこともできる<ref>{{Cite web|和書|title=macOS Serverのパフォーマンスモードを有効にする |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT202528 |website=Apple Support |accessdate=2022-01-27 |language=ja}}</ref>。
== 言語 ==
以前のMac OSにおいては、OSパッケージが各言語ごとにローカライズされたほか、ラテン文字以外の文字で表記する言語を扱うために必要なフォント・インプットメソッド・スクリプト書類などをセットにした「Language Kit」が用意された。System(漢字Talk)7.1から Mac OS 8.6までの時期には個別にパッケージ販売され、Mac OS 8.5から Mac OS 8.6ではインプットメソッドを除くMultilingual Internet Accessが添付された。Mac OS 9ではすべての版でLanguage Kitが標準添付となり、必要な場合カスタムインストールする形をとった。
これに対し、macOSはサポートする言語の入力・表示に必要なコンポーネントをすべて標準でインストールした上で、優先順位を切り替えて任意の言語環境で使うことができる多言語インタフェースのOSになっている。Mac OS X v10.5では18種の言語環境<!-- 中国語・ポルトガル語の環境が2種類あるので、18言語とはしていません -->が内包されている。そのため提供されているインストーラの内容は全世界共通である。従って、日本国外で入手したmacOSやMacintosh本体でも、日本で流通しているものと全く同様の環境に仕立てることが可能である。
字体としては65,000以上もの[[グリフ]]を扱うことができ、日本語についてはグリフセット[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-5以降]]に対応した[[OpenType]]フォントを備えているため、{{JIS2004フォント|[[森鷗外|森'''鷗'''外]]や[[草彅剛|草'''彅'''剛]]}}などの正確な表記もそのまま表示・入力できるようになった。ただしすべてのグリフを扱うにはアプリケーション側の対応が必要となる。入力メソッドはシステム言語の文字に加えて[[タイ文字]]、[[デーヴァナーガリー]]文字、[[アラビア文字]]、[[ヘブライ文字]]など多数用意されている。v10.3からはことえりが[[アイヌ語]]の表記に使う仮名文字に対応している。またファイルやフォルダ(ディレクトリ階層)にもシステムが対応している任意の言語で名前を付けることが可能で、複数言語の混在もできる。v10.7からは絵文字にも対応し、他の文字と同じように扱うことができるようになった。
Finderや付属のアプリケーションソフトで、メニュー・ダイアログなどが地域対応された下記の言語環境が歴代のバージョンで追加されている。
; Mac OS X 10.0
: {{En|English}}([[アメリカ英語|英語〈米国〉]])
: [[日本語]]
: {{Lang|fr|Français}}([[フランス語]])
: {{Lang|de|Deutsch}}([[ドイツ語]])
: {{Lang|es|Español}}([[スペイン語]])
: {{Lang|it|Italiano}}([[イタリア語]])
: {{Lang|nl|Nederlands}}([[オランダ語]])
; Mac OS X 10.1.2
: {{Lang|sv|Svenska}}([[スウェーデン語]])
: {{Lang|da|Dansk}}([[デンマーク語]])
: {{Lang|no|Norsk}}([[ノルウェー語]])
: {{Lang|fi|Suomi}}([[フィンランド語]])
: {{Lang|zh-cn|简体中文}}([[簡体字]][[中国語]])
: {{Lang|zh-tw|繁體中文}}([[繁体字]]中国語)
: {{Lang|ko|한글}}([[朝鮮語|韓国語]]〈[[ハングル]]〉)
: {{Lang|pt-br|Português (Brasil)}}([[ブラジルポルトガル語|ポルトガル語〈ブラジル〉]])
; Mac OS X 10.5 Leopard
: {{Lang|pt-pt|Português (Portugal)}}([[ポルトガル語]])
: {{Lang|ru|Русский}}([[ロシア語]])
: {{Lang|pl|Polski}}([[ポーランド語]])
; Mac OS X 10.7 Lion
: {{rtl-lang|ar|العربية}}([[アラビア語]])
: {{Lang|tr|Türkçe}}([[トルコ語]])
: {{Lang|cz|Čeština}}([[チェコ語]])
: {{Lang|hu|Magyar}}([[ハンガリー語]])
: {{En|English (UK)}}([[イギリス英語|英語〈英国〉]])
: {{En|English (Australia)}}([[オーストラリア英語|英語〈オーストラリア〉]])
: {{Lang|fr|Français (Canada)}}([[ケベック・フランス語|フランス語〈カナダ〉]])
: {{Lang|es|Español (Latinoamérica)}}(スペイン語〈ラテンアメリカ〉)
; Mac OS X 10.7.3
: {{Lang|ca|Català}}([[カタルーニャ語|カタロニア語]])
: {{Lang|hr|Hrvatski}}([[クロアチア語]])
: {{Lang|el|Ελληνικά}}([[ギリシア語|ギリシャ語]])
: {{Rtl-lang|he|עברית}}([[ヘブライ語]])
: {{Lang|ro|Română}}([[ルーマニア語]])
: {{Lang|sk|Slovenčina}}([[スロバキア語]])
: {{Lang|th|ไทย}}([[タイ語]])
: {{Lang|uk|Українська}}([[ウクライナ語]])
; OS X 10.8 Mountain Lion
: {{Lang|id|Bahasa Indonesia}}([[インドネシア語]])
: {{Lang|vi|Tiếng Việt}}([[ベトナム語]])
: {{Lang|ms| Bahasa Melayu}}([[マレー語]])
; macOS High Sierra 10.13
: {{Lang|hi|हिन्दी}}([[ヒンディー語]])
; macOS Mojave 10.14
: {{Lang|zh-hk|繁體中文(香港)}}(繁体字中国語〈香港〉)
== Java ==
macOS に搭載されている[[Javaプラットフォーム|Java 実行環境]]のバージョンおよび[[オラクル (企業)|オラクル]]から直接提供されるバージョンの対応状況を記す。
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
!style="white-space:nowrap"|Mac OS X / OS X / macOSの版号!!Java 実行環境<ref group="注">OS同梱版</ref>の版号およびオラクル提供版の対応状況
|-
|10.0||Java 1.3
|-
|10.1||Java 1.3.1
|-
|10.2||Java 1.4.1
|-
|10.3||Java 1.4.2
|-
|10.4||Java 1.4.2、後にJava2 SE 5.0
|-
|10.5||Java2 SE 5.0、Java SE 6<ref group="注">Core 2 Duo以上を搭載したMacintoshが対象。</ref>
|-
|10.6||Java SE 6
|-
|10.7||Mac OS X LionではJavaは出荷時には搭載されない。ただし、Javaアプリケーション起動時に、Java SE 6が追加インストールされる<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1421?viewlocale=ja_JP Java(OS X Lion)]</ref>。
|-
|10.8 - 10.11||Java SE 6の環境はLionと同じ<ref group="注">対応はEl Capitanまで。</ref>。Java SE 7はUpdate 6から対応。こちらはオペレーティングシステムに同梱せず、オラクルから直接提供される<ref group="注">対応は10.7.3以降、10.10.2まで。10.10.3以降はオラクルの無償サポート打ち切り後の2015年4月以降リリース版のため非対応。</ref>。Java SE 8はMountain Lion以降の対応で、同様にオラクルからの提供となる。
|-
|10.12||Java SE 8以降のみの対応となり、オラクル直接提供に完全移行。
|}
== 主なアプリケーション ==
初期のMac OS Xのアイコンは新規のものと、NeXT時代にKeith Ohlfsがデザインしたもの<ref>{{Cite web |title=Keith Ohlfs Interview |url=https://simson.net/ref/NeXT/keith_ohlfs_article.htm |website=simson.net |access-date=2022-09-22}}</ref>が混在していたが、最後まで残されていたアイコンGrabがmacOS Mojaveで消えた<ref>{{Cite web|和書|title=NeXTSTEPのアイコンを描いた人 - Keith Ohlfs |url=https://hitorigoto.zumuya.com/180929_KeithOhlfs |website=zumuya » ひ to り go と |date=2018-09-29 |access-date=2022-09-22 |language=ja}}</ref>。
*[[スクリプトエディタ]]<ref group="注">10.7〜10.9のみ「AppleScriptエディタ」と名称変更。10.10で元の名称に戻された。</ref>
*[[Automator]]
*[[Dashboard]]<ref group="注">ウィジェットエンジン、Mac OS X v10.4 以降。</ref>
*[[Chess (ソフトウェア)|Chess]]- [[チェス]]ゲーム
*[[DVD プレーヤー (ソフトウェア)|DVDプレーヤー]]
*[[Finder]] - Finder.appのアイコンは[[スーザン・ケア]]によるピカソの顔の絵をモチーフにしたと言われるデザイン<ref>{{Cite web |title=What is the design story behind the OS X two-face/one-face Finder icon? |url=https://www.quora.com/What-is-the-design-story-behind-the-OS-X-two-face-one-face-Finder-icon/answer/Darren-Geraghty |website=Quora |access-date=2022-09-22 |language=en}}</ref>をmacOSの新しいUIガイドラインに合わせたものである。
*[[Font Book]]
*[[Front Row]]<ref group="注">Mac OS X Lion で廃止。</ref>
*[[Grapher]]<ref group="注">グラフ計算機、Mac OS X v10.4 以降に付属。</ref>
*[[iCal]]
*[[iChat]]<ref group="注">OS X Mountain Lionで[[メッセージ (Apple)|メッセージ]]に変更。</ref>
*[[iSync]]<ref group="注">Mac OS X Lionで廃止。</ref>
*[[iPhoto]] - かつて存在した、写真閲覧・編集ソフト
*写真 - 写真閲覧・編集ソフト
*[[iTunes]] - かつて存在した、音楽と映像の管理・リスニングソフト
*ミュージック - 音楽の管理・リスニングソフト
*[[メール (Apple)|メール]]
*[[QuickTime X|QuickTime Player]]
*[[Safari]]<ref group="注">[[ウェブブラウザ]]、Mac OS X v10.3 以降に付属。</ref>
*[[テキストエディット]]
*[[Xcode]]<ref group="注">現在、[[Mac App Store]]で無料で配信中</ref>・[[Interface Builder]]・[[Apple Developers Tools|その他の開発ツール]]<ref group="注">Apple Developer への登録が必要</ref>
*[[連絡先 (Apple)|連絡先]]
*[[スティッキーズ]]
*[[辞書 (ソフトウェア)|辞書]]
*[[グラブ (ソフトウェア)|グラブ]] - 画面撮影用ユーティリティ
*[[ターミナル (macOS)|ターミナル]] - [[キャラクタユーザインタフェース|CUI]][[シェル]]
*[[プレビュー (ソフトウェア)|プレビュー]]
== 主要なユーティリティ ==
*[[Boot Camp]] アシスタント<ref group="注">インテル版のみ</ref>
*[[ColorSync]]
*DigitalColor Meter
*[[FileVault]] - ホームディレクトリを暗号化
*[[FileVault|FileVault 2]] - パーティション全体を暗号化
*Inkwell - 手書き認識
*ディレクトリ
*[[ディレクトリ・サービス|ディレクトリユーティリティ]]<ref group="注">Mac OS X v10.4ではディレクトリアクセス。</ref>
*[[VoiceOver]] - 音声認識
*[[XQuartz]]
*アクティビティモニタ
*[[Keychain|キーチェーンアクセス]]
*コンソール
*[[ペアレンタルコントロール (ソフトウェア)|ペアレンタルコントロール]]
*[[ネットワークユーティリティ]]
*システムプロファイラ
*[[ディスクユーティリティ]] - HD・CD・DVDなどのフォーマット
*ファックス
*移行アシスタント
*[[Dock]]
*[[ことえり]]<ref group="注">[[OS X Mavericks]]まで。</ref> - かつて存在した日本語[[インプットメソッド|IM]]([[OS X Mavericks]]まで)
*[[日本語入力プログラム (macOS)|日本語入力プログラム]]
*[[Podcast]] キャプチャ
*[[RAID]] ユーティリティ
*[[Time Machine (ソフトウェア)|Time Machine]]<ref group="注">Mac OS X v10.5以降。</ref>
*起動セキュリティユーティリティ<ref>{{Cite web|和書|title=Apple T2 セキュリティチップを搭載したMacの起動セキュリティユーティリティについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208198 |website=Apple Support |accessdate=2022-01-28 |language=ja}}</ref>
=== アーキテクチャ ===
*[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]] - カーネル。「[[XNU]]」のほか、BSDサブシステムなどを含む。
*Kernel Programming Interface(KPI) - カーネル機能拡張のインタフェース
*UTI - データ型の識別システム。v10.4で導入された。
*[[Open Scripting Architecture]](OSA) - プロセス間通信を担う。
*[[launchd]] - v10.4以降のMac OS Xにおけるサービス管理。従来のinit、inetd、crondなどを置換する。
*NetInfo - システムおよびネットワークの管理情報データベースシステム。v10.5で廃止され、[[Apple Open Directory]]と[[DSlocal]]に置き換えられた。
== グラフィックエンジン ==
*[[Quartz]] - 描画エンジン。2D描画を担当するQuartz 2Dを含む。
*[[AVFoundation]] - QuickTimeを代替するマルチメディアAPI。
**QuickTime - かつて使われていたマルチメディアAPI。
*[[Metal (API)|Metal]] - 2015年からmacOSへ導入された、OpenGLとOpenCLを代替する、より効率的なローレベルグラフィックスAP。
**[[OpenGL]] - かつて使われていた3DグラフィックスAPI。macOS 10.14 Mojave以降非推奨<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=Apple、macOS/iOSで「OpenGL/CL」の利用を“非推奨”に |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1125772.html |website=PC Watch |date=2018-06-05 |accessdate=2022-01-28 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。
**[[OpenCL]] - Mac OS X v10.6 Snow Leopardから使われていた[[ヘテロジニアス・コンピューティング]]向けのフレームワーク。macOS 10.14 Mojave以降非推奨<ref name=":1" />。
== 主なAPI群 ==
* [[Cocoa (API)]] - OPENSTEP由来のmacOSネイティブな32/64ビット API。Objective-Cや[[Swift (プログラミング言語)|Swift]]による開発環境が用意されている。
* [[Carbon (API)]] - Mac OS 9以前のTool Box由来の32ビットAPIであるため、macOS Catalinaでは非対応。[[C言語]]や[[C++]]で開発ができ、Windowsと共通のコードベースで開発しやすい。
* [[Core Foundation]] - C言語ベースの低レベルAPI群。Darwinの一部<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0705/30/news011_3.html 第4回 plist(プロパティリスト)とFoundation【後編】] - [[ITmedia]] 2007年05月30日 03時32分 公開</ref>。
* [[Core Image]]・Core Video - グラフィック処理。
* [[Core Audio (Apple)|Core Audio]] - 音響。
* [[Core Data]] - データ管理。
* [[Core Text]] - テキスト処理。
== 仮想マシン環境 ==
*Classic環境 - Mac OS X v10.4まで搭載されたPowerPC搭載MacでのMac OS 9.2.2実行環境<ref group="注">Mac OS X v10.5で廃止された。</ref>。
*[[Rosetta]] - Mac OS X v10.6まで搭載されていた、PowerPC用アプリケーションソフトウェアをインテル製CPU版のMacintoshで使用するための[[動的コンパイル|DRE]](リアルタイムコード変換エンジン)<ref group="注">Mac OS X v10.7で廃止された。</ref>。Rosetta 2は、macOS Big Surから搭載された、インテル製CPU向けのアプリケーションソフトウェアをAppleシリコン搭載Macで実行するためのDREである。
*[[Java Platform, Standard Edition|Java2 Standard Edition]] -Mac OS X v10.6まで搭載されていた[[Java仮想マシン]]<ref>{{Cite web|和書|title=MacのJavaサポートは終了か?--Appleが“見切る”影響を考える |url=https://japan.zdnet.com/article/20421920/ |website=ZDNet Japan |date=2010-10-26 |accessdate=2022-01-28 |language=ja}}</ref><ref group="注">Mac OS X v10.7で標準パッケージからは削除された。</ref>。2022年1月現在ではオラクルからAppleシリコン搭載Mac向けを含めた、Java 17が提供されている<ref>{{Cite web|和書|title=Java 17がリリース |url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20210915-1973507/ |website=TECH+ |date=2021-09-15 |accessdate=2022-01-28 |language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|3}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}}
*[[HFS Plus]]
*[[NEXTSTEP]]
*[[macOS Server]]
*[[Apple Remote Desktop]]
*[[Mac OS Forge]]
*[[Apple認定資格プログラム]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|MacOS}}
*[https://www.apple.com/jp/macos/ macOS - Apple(日本)]
*[https://support.apple.com/ja-jp/HT211683 macOSをダウンロードしてインストールする方法] - High Sierra 10.13からVentura 13までのリンクが掲載されている。
{{Apple software}}
{{MacOS}}
{{Unix-like}}
{{オペレーティングシステム}}
{{Normdaten}}
[[Category:MacOS|*]]
[[Category:BSD]]
[[Category:UNIX]] | 2003-02-14T08:37:04Z | 2023-12-19T11:33:03Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/MacOS |
1,547 | 2000年 | 2000年(2000 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。平成12年。
400年ぶりの世紀末閏年(20世紀最後の年)である。ミレニアムとも呼ばれ、Y2Kと表記されることもある。
この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。
日付は本国公開日。 | [
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| 2000年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。平成12年。 400年ぶりの世紀末閏年(20世紀最後の年)である。ミレニアムとも呼ばれ、Y2Kと表記されることもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|2000年の日本}}
{{年代ナビ|2000}}
{{YearInTopic
| 年 = 2000
}}
{{Year-definition|2000}}
400年ぶりの[[世紀末閏年]]([[20世紀]]最後の年)である<ref group="注">100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、[[閏年]]のままとなる([[グレゴリオ暦]]の規定による)。</ref>。'''[[ミレニアム]]'''とも呼ばれ、'''[[Y2K]]'''と表記されることもある。
この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=2000}}
* [[干支]]:[[庚辰]](かのえ たつ)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2660年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4333年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]89年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]89年
* [[仏滅紀元]]:2542年 - 2543年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1420年9月24日 - 1421年10月4日
* [[ユダヤ暦]]:5760年4月23日 - 5761年4月5日
* [[UNIX時間|Unix Time]]:946684800 - 978307199
* [[ユリウス通日|修正ユリウス日]](MJD):51544 - 51909
* [[リリウス日]](LD):152385 - 152750
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=2000}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* 1月1日 - [[2000年代]]最初の日。[[2000年問題]]の発生が注目されたが大きな問題は起きずに無事[[年越し]]<ref>[https://wired.jp/2000/01/05/2000%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%E7%A9%BA%E9%A8%92%E3%81%8E%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B/ 2000年問題は空騒ぎだったのか](WIRED.jp, 2000年1月5日)</ref><ref>[https://nikkan-spa.jp/1269007 今さらだけど「コンピュータの2000年問題」って結局どうだったの? 飛行機の墜落まで噂されたミレニアム前夜の真相](日刊SPA! 2017年1月16日)</ref>。
* 1月1日 - [[イギリス]]・[[ロンドン]]の[[ミレニアム・ドーム]]で、「[[ロングプレイヤー]]」の演奏が開始される([[ミレニアム|千年後]]の[[2999年]]12月31日に演奏終了予定<ref>{{cite web | last=Eyres | first=Harry | title=Coming soon: the future | work=Financial Times | date=2009-09-10 | url=http://www.ft.com/cms/s/2/d78e52d4-9e62-11de-b0aa-00144feabdc0.html | accessdate=2021-05-12}}</ref>)。
* 1月1日 - [[中華人民共和国|中国]]の[[百度]](バイドゥ)設立。
* 1月10日 - [[AOL|アメリカ・オンライン]] (AOL) が米[[タイム・ワーナー]]買収を発表。
* 1月11日 - [[トヨタ・エスティマ]]の2000年代初のフルモデルチェンジが行われた。
* 1月中旬 - [[ボリビア]]で[[コチャバンバ水紛争]]勃発。
=== 2月 ===
* 2月2日 - [[888年]][[8月28日]]以来、1112年ぶりに年月日全ての数字が[[偶数]]になる。
* 2月17日 - [[Microsoft Windows 2000]]が日米欧同時発売。
* 2月29日 - 2000年問題のうち[[2000年問題#2000年2月29日|閏日問題]]が発生、コンピュータの不具合が複数発生する。
=== 3月 ===
* 3月4日 - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCEI)が[[日本]]で「[[PlayStation 2]]」を発売。[[欧米]]の各地や[[オーストラリア|豪州]]などでも同年中に発売した(後節「[[#ゲーム]]」も参照)。
* 3月18日 - [[中華民国|台湾]]の[[2000年中華民国総統選挙|総統選挙]]が行われ、[[民主進歩党]]の[[陳水扁]]が当選。
=== 4月 ===
* 4月15日 - [[ワシントンD.C.]]にて[[:en:Washington A16, 2000|反グローバリゼーションの大規模デモ]](4月16日まで)。
=== 5月 ===
* 5月3日 - [[西鉄バスジャック事件]]が発生。
* 5月7日 - [[ウラジーミル・プーチン]]がロシア大統領に就任。
=== 6月 ===
* 6月1日 - [[ハノーヴァー万国博覧会|ハノーバ万博]]がドイツで開幕(〜10月31日)。
* 6月13日 - [[朝鮮半島]]の分断後55年で初の[[南北首脳会談]]。
* 6月22日 - [[航空連合]]・[[スカイチーム]]が設立。
* 6月26日 - [[ヒトゲノム]]、ドラフト配列の終了を宣言。
=== 7月 ===
* 7月17日 - [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[アナハイム]]にある[[ディズニーランド]]が開園45周年。
* 7月21日 - [[九州]]・[[沖縄県|沖縄]]で[[第26回主要国首脳会議]](九州・沖縄サミット)が開催される(23日までの3日間)。
* 7月23日 - ゴルフの[[タイガー・ウッズ]]が[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]に優勝。史上最年少(24歳)での[[グランドスラム (ゴルフ)|グランドスラム]]達成。
* 7月25日 - [[コンコルド]][[コンコルド墜落事故|墜落事故]]。[[エールフランス]]4590便が[[パリ]]郊外のホテルに激突して113人死亡。
* 7月25日 - アメリカの仲介により7月11日から続いていた[[イスラエル]]と[[パレスチナ]]の中東和平交渉が決裂。聖地[[エルサレム]]の帰属権をめぐり対立。
=== 8月 ===
* 8月12日 - [[オスカー型原子力潜水艦#クルスク沈没事故と余波|ロシア原子力潜水艦事故]]発生。乗組員118人は全員死亡。
=== 9月 ===
* 9月1日 - 1994年夏からのアメリカ株式市場の高騰が、この日(S&P500指数で1530.09)大天井をつける。
* 9月6日〜8日 - [[国際連合|国連]]設立以来最大規模となる189の加盟国の[[首脳]]らが参加する{{仮リンク|国連ミレニアム・サミット|en|Millennium Summit}}が[[ニューヨーク]]で開催され、8日の本会議では[[国連ミレニアム宣言]]が採択された。この宣言をもとに[[2015年]]までの国際目標として、[[ミレニアム開発目標]](MDGs)が[[2001年]]に取りまとめられている<ref>[https://www.jica.go.jp/aboutoda/sdgs/achievement_MDGs.html ミレニアム開発目標(MDGs)の達成状況]/[https://www.jica.go.jp/aboutoda/sdgs/about_MDGs.html MDGsの概要と8つの目標] - 独立行政法人[[国際協力機構]] (JICA)</ref><ref>[https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_mill.html 活動指針:ミレニアム開発目標]/[https://www.unicef.or.jp/mdgs/ ミレニアム開発目標(MDGs)] - 公益財団法人[[日本ユニセフ協会]]</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html ODA(政府開発援助):ミレニアム開発目標(MDGs)] - [[外務省]] (2019年7月25日)</ref>。
* 9月15日 - [[シドニーオリンピック]]開幕(〜10月1日)。
* 9月23日 - 「[[Microsoft Windows Millennium Edition|Microsoft Windows Me]]」日本語版発売。
* 9月28日 - [[パレスチナ問題#2000 - 2005:第二次インティファーダ|パレスチナ問題]]: 野党時代の[[リクード]]党首[[アリエル・シャロン]]が[[神殿の丘]]に立ち入り、[[:en:Second Intifada|第二次インティファーダ]]の契機となる。
=== 10月 ===
* 10月6日 - [[ユーゴスラビア]]で[[ブルドーザー革命]]が発生し、[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]政権が崩壊。
* 10月8日 - [[リトアニア]]で[[2000年リトアニア議会選挙|議会選挙]]が実施される。社会民主連立政権が勝利。
* 10月12日 - [[米艦コール襲撃事件]]発生。[[イエメン]]の[[アデン]]港で[[アルカーイダ]]メンバーによる自爆[[テロリズム|テロ]]。米兵17名が死亡。
* 10月12日 - [[サッカー]][[AFCアジアカップ2000|アジアカップ]]が[[レバノン]]で開催される。(‐10月29日)
* 10月13日 - [[金大中]][[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]に[[ノーベル平和賞]]が贈られる。
* 10月23日 - ボードゲーム「[[モノポリー]]」の世界選手権(第11回)開催。
* 10月31日 - シンガポール機が[[台湾]]中正国際空港(現・[[台湾桃園国際空港]])で離陸に失敗して墜落炎上、83人死亡([[シンガポール航空006便離陸失敗事故]])。
=== 11月 ===
* 11月4日 - [[ギリシャ]]で日本人ツアー客の乗ったバスが乗っ取られる。
* 11月7日 - [[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選]]で[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]と[[アル・ゴア|ゴア]]の大接戦。
* 11月10日 - [[イチロー]]選手の独占交渉権を[[シアトル・マリナーズ]]が1300万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]余りで獲得。19日に3年契約で合意し、28日に渡米。30日に3年総額1400万ドルで正式契約を結び、日本人野手初のメジャーリーガーとなった<ref group="注">投手を含めると[[村上雅則]]、[[野茂英雄]]に次ぐ3人目。</ref><ref group="注" name="SHINJO">同じ2000年オフに[[新庄剛志]]も[[ニューヨーク・メッツ]]と契約しているが、イチローの方が先に正式契約している。翌2001年のシーズン開幕戦に両者共に出場しているが、イチローの公式戦初出場の方が1日早い。</ref>。
* 11月11日 - [[オーストリアケーブルカー火災事故]]。トンネル内の火災で日本人ツアー客10人含む155人が死亡。
* 11月19日 - [[ペルー]]の[[アルベルト・フジモリ|フジモリ]]政権が崩壊。
* 11月28日 - [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]第21回大会で[[ボカ・ジュニアーズ]]が優勝。
=== 12月 ===
* 12月1日 - [[ビセンテ・フォックス・ケサーダ]]が[[メキシコ]]の大統領就任。
* 12月10日 - [[セラム]]が[[エチオピア]]のディキカで発見される。
* 12月21日 - [[オランダ]]で世界初の[[同性結婚]]法が成立(施行は翌年4月1日)。
* 12月30日 - [[フィリピン]]の[[マニラ]]首都圏で連続爆弾テロ。22人死亡、100人以上負傷。
* 12月31日 - この日を以って[[2千年紀]]、[[20世紀]]が終わる。
== 天候・天災・観測等 ==
* [[太陽活動]]の[[黒点]][[太陽極大期|極大期]]を迎えた([[第23太陽周期]])。
== 芸術・文化・ファッション ==
=== スポーツ ===
* [[シドニーオリンピック]]
==== サッカー ====
* [[UEFA EURO 2000|UEFA欧州選手権]]優勝 - [[サッカーフランス代表|フランス]]
* [[AFCアジアカップ2000|AFCアジアカップ]]優勝 - [[サッカー日本代表|日本]]
=== 映画 ===
{{main|2000年の映画}}
日付は本国公開日。
; 本国公開・日本公開ともに当年
*1月1日 - [[ファンタジア2000]](製作総指揮:[[ロイ・エドワード・ディズニー]])
*5月5日 - [[グラディエーター]](監督:[[リドリー・スコット]])
*5月14日 - [[ヤンヤン 夏の想い出]](監督:[[エドワード・ヤン]])
*5月19日 - [[ダイナソー]](監督:[[エリック・レイトン]]、[[ラルフ・ゾンダグ]])
*5月24日 - [[ミッション:インポッシブル2]](監督:[[ジョン・ウー]])
*6月16日 - [[タイタンA.E.]](監督:[[ドン・ブルース]]、[[ゲイリー・ゴールドマン]])
*8月4日 - [[スペース カウボーイ]](監督:[[クリント・イーストウッド]])
*9月8日 - [[ダンサー・イン・ザ・ダーク]](監督:[[ラース・フォン・トリアー]])
*11月3日 - [[チャーリーズ・エンジェル (2000年の映画)|チャーリーズ・エンジェル]](監督:[[マックG]])
; 本国公開映画(日本公開は翌年以降)
*3月31日 - [[エル・ドラド 黄金の都]](監督:[[エリック・ビーボ・バージェロン]]、[[ドン・ポール]]、[[デヴィッド・シルヴァーマン]])
*5月12日 - [[鬼が来た!]](監督:[[姜文]])
*6月16日 - [[アモーレス・ペロス]](監督:[[アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ]])
*6月21日 - [[チキンラン]](監督:[[ニック・パーク]])
*9月1日 - [[スナッチ]](監督:[[ガイ・リッチー]])
*9月3日 - [[メメント (映画)|メメント]](監督:[[クリストファー・ノーラン]])
*9月9日 - [[JSA (映画)|JSA]](監督:[[パク・チャヌク]])
*9月13日 - [[あの頃ペニー・レインと]](監督:[[キャメロン・クロウ]])
*9月29日 - [[リトル・ダンサー]](監督:[[スティーブン・ダルドリー]])
*9月29日 - [[花様年華]](監督:[[ウォン・カーウァイ]])
*10月27日 - [[レクイエム・フォー・ドリーム]](監督:[[ダーレン・アロノフスキー]])
*12月15日 - [[ショコラ (2000年の映画)|ショコラ]](監督:[[ラッセ・ハルストレム]])
*12月15日 - [[ラマになった王様]](監督:[[マーク・ディンダル]])
*12月27日 - [[トラフィック (映画)|トラフィック]](監督:[[スティーヴン・ソダーバーグ]])
=== 音楽 ===
* 1月26日 - [[サザンオールスターズ]]「[[TSUNAMI]]」発売。累計293.6万枚(オリコン調べ)で当時のCDシングル売上歴代1位を記録。
* 3月21日 - [[イン・シンク]]のアルバム『No Strings Attached』発売。初動売上241.6万枚(サウンドスキャン調べ)で当時の全米最高記録。
* 6月1日 - '''[[TUBE]]'''がアジア人としては初となる「[[アロハ・スタジアム]]」でのライブを開催。2万以上を動員した。
=== ゲーム ===
[[ファイル:PS2-Fat-Console-Set.png|thumb|180px|PlayStation 2]]
* [[コンピュータゲーム]]
** [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCEI) が[[家庭用ゲーム機]]「'''[[PlayStation 2]]'''」を発売。
*** '''[[日本]]''' - 2000年3月4日発売
*** [[北アメリカ|北米]]('''[[アメリカ合衆国|アメリカ]]'''・'''[[カナダ]]''') - 2000年10月26日発売
*** '''[[ヨーロッパ]]''' - 2000年11月24日発売
*** [[オセアニア]]('''[[オーストラリア]]'''・'''[[ニュージーランド]]''') - 2000年11月30日発売
=== 文学 ===
* [[ベストセラー]]
** 『[[ハリー・ポッターと秘密の部屋]]』日本語版(著:[[J・K・ローリング]]、訳:[[松岡佑子]]、[[静山社]])
== 誕生 ==
{{see also|2000年の日本#誕生|Category:2000年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「2000年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
<!-- 顕著な活動がなく、すでに活動をしていない人物については削除しました。詳細はノートをご参照ください -->
=== 1月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「2000年の日本」項内に記入-->
* 1月1日 - [[エカテリーナ・アレクサンドロフスカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2020年]])
* 1月2日 - [[守屋麗奈]]、アイドル(櫻坂46)
* 1月6日 - シュファ、アイドル([[(G)I-DLE]])
* 1月6日 - クォン・ウンビン、アイドル(元[[CLC (音楽グループ)|CLC]])
* 1月8日 - [[ノア・サイラス]]、[[俳優|女優]]、[[声優]]
* 1月10日 - [[山本草太]]、フィギュアスケート選手
* 1月11日 - [[イ・チェヨン (IZ*ONE)|イ・チェヨン]]、アイドル(元[[IZ*ONE]])
* 1月15日 - [[スヒョン]]、アイドル、女優([[Billlie]])
* 1月19日 - [[チェ・ダビン]]、フィギュアスケート選手
* 1月20日 - [[タイラー・ヒーロー]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 1月21日 - [[佐々木舞香]]、アイドル、歌手([[=LOVE]])
* 1月26日 - [[アンジェリーク・アバチキナ]]、フィギュアスケート選手
* 1月26日 - [[ダリアス・ガーランド]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* 1月26日 ‐ [[横山友紀]]、将棋棋士
* 1月28日 - [[ドゥシャン・ヴラホヴィッチ]]、サッカー選手 (セルビア代表)
* 1月31日 -[[フリアン・アルバレス]]、サッカー選手(アルゼンチン代表)
=== 2月 ===
* 2月2日 - [[村上宗隆]]、プロ野球選手
* 2月5日 - [[ジョーダン・ナガイ]]、声優
* 2月10日 - [[ヤラ・シャヒディ]]、女優
* 2月16日 - [[コービー・ホワイト]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 2月19日 - [[森戸知沙希]]、元アイドル([[モーニング娘。]])
* 2月21日 - [[宮澤佑門]]、ギタリスト
* 2月28日 - [[モイーズ・キーン]]、サッカー選手
* 2月28日 - [[上白石萌歌]]、女優、歌手([[adieu]])
* 2月29日 - [[タイリース・ハリバートン]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
=== 3月 ===
* 3月14日 ‐ [[大西竜平]]、囲碁棋士
* 3月20日 - {{仮リンク|ファン・ヒョンジン|ko|현진 (2000년 3월)}}、アイドル([[Stray Kids]])
* 3月21日 - {{仮リンク|ユン・サナ|ko|윤산하}}、アイドル([[ASTRO (音楽グループ)|ASTRO]])
* 3月23日 - [[ロンジュン]]、アイドル ([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 3月25日 - [[ジェイドン・サンチョ]]、サッカー選手
* 3月25日 - [[カムデン・プルキネン]]、フィギュアスケート選手
* 3月27日 - [[ソフィー・ネリッセ]]、女優
* 3月28日 - [[アレーイナ・ティリティ]]、歌手
* 3月30日 - [[マリウス葉]]、元アイドル([[Sexy Zone]])
=== 4月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「2000年の日本」項内に記入-->
* 4月4日 - [[戸郷翔征]]、プロ野球選手
* 4月5日 - [[木全翔也]]、アイドル([[JO1]])
* 4月6日 - [[CJ・アダムス]]、子役
* 4月9日 - [[ジャッキー・エヴァンコ]]、歌手
* 4月9日 - [[坂本花織]]、フィギュアスケート選手
* 4月11日 - [[アレクセイ・クラスノジョン]]、フィギュアスケート選手
* 4月11日 - [[モーガン・リリー]] 、女優
* 4月13日 - [[大平祥生]]、アイドル(JO1)
* 4月14日 - [[平野美宇]]、卓球選手
* 4月18日 - [[大園玲]]、アイドル (櫻坂46)
* 4月19日- [[根尾昂]]、野球選手
* 4月23日 - [[クロエ・キム]]、スノーボード選手
* 4月23日 - [[ジェノ]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
=== 5月 ===
* 5月4日 - [[ケビン・ポーター・ジュニア]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 5月5日 - [[与田祐希]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* 5月6日 - [[金城碧海]]、アイドル([[JO1]])
* 5月7日 - [[原田葵]]、元アイドル([[櫻坂46]])、フジテレビアナウンサー
* 5月15日 - [[ときのそら]]、アイドル([[ホロライブプロダクション]])
* 5月11日 - [[角田裕毅]]、レーシングドライバー
* 5月14日 - [[ルチアーノ・ピシチーニ]]、[[ギタリスト]]
* 5月15日 - [[ダヤナ・ヤストレムスカ]]、テニス選手
* 5月15日 - [[コール・アンソニー]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* 5月18日 - [[ライアン・セセニョン]]、サッカー選手
* 5月21日 - [[たけのこ (小説家)|たけのこ]]、[[小説家]]
* 5月23日 - [[ジャクソン・ヘイズ]]、バスケットボール選手([[センター (バスケットボール)|C]])
* 5月28日 - [[フィル・フォーデン]]、サッカー選手
* 5月30日 - [[ジャレッド・S・ギルモア]]、子役
=== 6月 ===
* 6月1日 - [[ウィロウ・シールズ]]、女優
* 6月6日 - [[ヘチャン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 6月7日 - [[瀬古歩夢]]、サッカー選手
* 6月12日 - [[小林歌穂]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
* 6月12日 - [[辻華]]、囲碁棋士
* 6月13日 - [[ペニー・オレクシアク]]、競泳選手
* 6月14日 - [[R・J・バレット]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 6月16日 - [[ビアンカ・アンドレースク]]、テニス選手
=== 7月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「2000年の日本」項内に記入-->
* 7月4日 - [[池江璃花子]]、競泳選手
* 7月6日 - [[イェスペリ・コトカニエミ]]、アイスホッケー選手
* 7月6日 - [[ザイオン・ウィリアムソン]]、バスケットボール選手([[パワーフォワード|PF]])
* 7月7日 - [[早田ひな]]、卓球選手
* 7月8日 - [[ベンジャミン・ストックハム]]、俳優
* 7月9日 - [[素根輝]]、柔道家
* 7月12日 - [[ヴィニシウス・ジョゼ・パイション・デ・オリヴェイラ・ジュニオール]]、サッカー選手
* 7月14日 - [[阿部詩]]、柔道家
* 7月15日 - [[パウロ・エンヒキ・サンパイオ・フィーリョ]]、サッカー選手
* 7月16日 - [[ジョナサン・モーガン・ハイト]]、俳優
* 7月21日 - [[アーリング・ブラウト・ハーランド]]、サッカー選手
* 7月25日 - [[メイソン・クック]]、俳優
* 7月25日 - [[プレストン・ベイリー]]、俳優
* 7月25日 - [[ジャン・ハオ]]、ZEROBASEONEのメンバー、歌手
* 7月29日 - [[マーカス・アームストロング]]、レーシングドライバー
* 7月31日 - [[京典和玖]]、俳優
=== 8月 ===
* 8月1日[[キム・チェウォン]]アイドル(LE SSERAFIM)
* 8月12日 - [[アキレアス=アンドレアス]]、[[ギリシャ]]の王子
* 8月13日 - [[ジェミン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 8月18日 - [[山口航輝]]、プロ野球選手
* 8月24日 - [[早川聖来]]、元アイドル、元女優([[乃木坂46]])
* 8月29日 - [[浜辺美波]]、女優
=== 9月 ===
* 9月1日 - [[醍醐虎汰朗]]、俳優
* 9月8日 - [[まりあ (女優)|まりあ]]、女優
* 9月14日 - ハン、アイドル(Stray Kids)
* 9月15日 - フィリックス、アイドル(Stray Kids)
* 9月18日 - 藤井直樹、アイドル(美少年)
* 9月22日 - スンミン、アイドル(Stray Kids)
* 9月25日 - [[幾田りら]]、シンガーソングライター([[YOASOBI]]、[[ぷらそにか]])
=== 10月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「2000年の日本」項内に記入-->
* 10月10日 - [[エイディン・ミンクス]]、俳優
* 10月10日 - [[佐野雄大]]、アイドル([[INI]])
* 10月10日 - [[劉揚揚]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 10月14日 - [[ムン・ジンヒョク]]、プロアイスホッケー選手
* 10月21日 - [[伊藤美誠]]、卓球選手
* 10月25日 - [[ヴィンセント・ジョウ]]、フィギュアスケート選手
* 10月28日 - [[中山莉子]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
* 10月30日 - ジゼル、アイドル([[aespa]])
* 10月30日 - [[橋本涼]]、アイドル([[HiHi Jets]]/[[ジャニーズJr.]])
* 10月31日 - [[井上瑞稀]]、アイドル([[HiHi Jets]]/[[ジャニーズJr.]])
* 10月31日 - [[アドリアーナ・ディアス]]、卓球選手
* 10月31日 - [[ウィロー・スミス]]、歌手、俳優、ダンサー
=== 11月 ===
* 11月1日 - [[加藤心]](ココロ)、アイドル([[ME:I]]、元[[Cherry Bullet]])
* 11月2日 - [[アルフォンソ・デイヴィス]]、サッカー選手
* 11月2日 - [[小林愛理奈]]、キックボクサー
* 11月4日 - [[孫穎莎]]、卓球選手
* 11月7日 - [[カラム・ハドソン=オドイ]]、サッカー選手
* 11月8日 - [[アナスタシヤ・スコプツォワ]]、フィギュアスケート選手
* 11月8日 - [[王源 (歌手)|王源]]、歌手、俳優
* 11月10日 - [[マッケンジー・フォイ]]、女優、モデル
* 11月20日 - [[コニー・タルボット]]、歌手
* 11月22日 - [[アウリイ・クラヴァーリョ]]、女優
* 11月25日 - [[福本莉子]] 、女優、タレント、歌手
* 11月25日 - [[ショウタロウ (NCT)|ショウタロウ]]、アイドル([[RIIZE]]、元[[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 11月28日 - [[易烊千璽]]、俳優、歌手
* 11月30日 - [[樋口幸平]]、俳優、モデル
=== 12月 ===
* 12月1日 - [[福田茉耶]]、女優、プロレスラー
* 12月7日 - [[キム・ユンジェ (アイスホッケー)|キム・ユンジェ]]、プロアイスホッケー選手
* 12月11日 - [[鶴房汐恩]]、アイドル([[JO1]])
* 12月13日 - [[宮島優心]]、アイドル([[ORβIT]])
* 12月18日 - [[佳原萌枝]]、声優
* 12月28日 - [[宮川愛李]]<ref>{{Twitter status|imoko_____|946372842207174656}}</ref>、歌手
== 死去 ==
{{See|訃報 2000年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ジョレス・アルフョーロフ]]、[[ハーバート・クレーマー]]、[[ジャック・キルビー]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[アラン・ヒーガー]]、[[アラン・マクダイアミッド]]、[[白川英樹]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アルビド・カールソン]]、[[ポール・グリーンガード]]、[[エリック・カンデル]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[高行健]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[金大中]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ジェームズ・ヘックマン]]、[[ダニエル・マクファデン]]
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2000|date=2011年7月}}
* [[4月]] - 太陽系近傍に[[ガンマ線]]放射を伴う10億度以上の「炎」が観測され、その中から小惑星「ストーン」が出現する。(小説『{{仮リンク|永劫 (小説)|label=永劫|en|Eon (novel)}}』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=グレッグ・ベア|authorlink=グレッグ・ベア|title = 永劫〔上〕 |publisher = [[早川書房]] |year = 1987 |pages=13-20|isbn = 978-4-15-010726-0}}</ref>
* ジョン・ブラックを隊長とする第三探検隊が[[火星]]に着陸するが、火星人のテレパシー攻撃によって\の地球の幻想を見せられた後に、火星人の襲撃を受けて全滅する。(小説『[[火星年代記]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=レイ・ブラッドベリ|authorlink=レイ・ブラッドベリ|title = 火星年代記 |publisher = 早川書房 |year = 1976 |pages=77-107|isbn =978-4-15-040114-6}}</ref>
* 9月13日 - [[セカンドインパクト]]が起こり、[[南極]]の[[氷]]が融解、結果的に全世界の人口の約半分が失われる。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』)
* 12月31日 - 「血のおおみそか」と呼ばれる全世界同時多発バイオテロが発生する。(漫画・映画『[[20世紀少年]]』)
* 日付不明 - 英米同時バイオテロ事件(飛行船事件)発生。[[ホワイトハウス]]は炎上し、[[ロンドン]]はほぼ壊滅。犠牲者は2030年の第17次報告によると、[[アメリカ合衆国]]6万4300人(大統領と全閣僚を含む)、[[イギリス]]371万8917人。(漫画・アニメ『[[HELLSING]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=平野耕太|authorlink=平野耕太|title = HELLSING 10 |publisher = [[少年画報社]] |year = 2009 |pages=156-162|isbn = 978-4-7859-3131-5}}</ref>
* 日付不明 - [[ロサンゼルス]]にてマグニチュード9.6の大震災発生。高層ビル倒壊・交通事故・高速道路倒壊・津波襲来により多数の犠牲者を出す。(映画『[[エスケープ・フロム・L.A.]]』)
* 日付不明 - ゼビウス軍が地球に襲撃。ガンプが支配する。(ゲーム『[[ゼビウス]]』)
* 日付不明 - 南アフリカの[[物理学者]]・[[天文学者]]ダーク・ヴァンデルが、[[ヒルベルトの23の問題]]に倣って[[宇宙論]]と[[天文学]]に関する問題を21個出題する。(小説『{{仮リンク|マッカンドルー航宙記|en|Charles Sheffield#Arthur Morton McAndrew}}』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=チャールズ・シェフィールド|authorlink=チャールズ・シェフィールド|title = マッカンドルー航宙記 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1991 |pages=268・269|isbn = 978-4-488-69303-9}}</ref>
* 日付不明 - [[1998年|2年前]]に地球を旅立った日本・宇宙開発公団の有人[[木星探査]]船「ジュピロス・ファイヴ」が、[[木星]]圏に到達した後に小天体と衝突し通信を途絶。その後、ジュピロス・ファイヴおよび宇宙空間に放り出された乗員の1人である獅子王絆が、超エネルギー「ザ・パワー」と接触する。(アニメ『[[勇者王ガオガイガー]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=竹田裕一郎|authorlink=竹田裕一郎|title = [[勇者王ガオガイガーFINAL#覇界王〜ガオガイガー対ベターマン〜|覇界王 〜ガオガイガー対ベターマン〜]] 上巻 |publisher = [[新紀元社]] |year = 2017 |pages=205・220・221・330・335・339|isbn = 978-4-7753-1504-0}}</ref><ref>[http://www.gaogaigar.net/TV/sp/clm02.html#clm02a ベターマン年表] - 『勇者王ガオガイガー』公式サイト。2018年3月10日閲覧。</ref>
* 日付不明 - [[2000年シドニーオリンピック|シドニー・オリンピック]]にフェンシングのイギリス代表選手として出場したミランダ・フロストが決勝戦での対戦相手がドーピングで失格となったため、金メダルを獲得するが、実際は彼女を抱きこもうと思い付いた、彼女の出身校のハーバード大学に留学していた北朝鮮の最高指導者のムーン将軍の息子であるタン・サン・ムーンの陰謀によって、対戦相手が一服盛られたことによる不正な勝利であった。ちなみにこれについて、当人は後日「俺の自慢のカンは、人の弱点を探り当てる。彼女と俺は、勝利願望。だから彼女を抱き込んだ」と豪語している。(映画『[[007 ダイ・アナザー・デイ]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|2000}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
* [[ミレニアム]]
* {{日本語版にない記事リンク|2000年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2000}}
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
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| title = 2000年の各国([[各年の国の一覧|一覧]])
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}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:2000ねん}}
[[Category:2000年|*]] | 2003-02-14T08:45:48Z | 2023-12-19T19:20:56Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/2000%E5%B9%B4 |
1,548 | 1999年 | 1999年(1999 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。平成11年。
西暦1000年代、1900年代、1990年代最後の年である。この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。
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| 1999年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。平成11年。 西暦1000年代、1900年代、1990年代最後の年である。この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1999年の日本}}
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{{年代ナビ|1999}}
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| 千年紀 = 2
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{{year-definition|1999}}
西暦[[1000年代]]、[[1900年代]]、[[1990年代]]最後の年である。この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=1999}}
* [[干支]]:[[己卯]](つちのと う)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]11年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2659年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4332年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]88年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]88年
* [[仏滅紀元]]:2541年 - 2542年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1419年9月13日 - 1420年9月23日
* [[ユダヤ暦]]:5759年4月13日 - 5760年4月22日
* [[UNIX時間]]:915148800 - 946684799
* [[修正ユリウス日]](MJD):51179 - 51543
* [[リリウス日]](LD):152020 - 152384
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1999}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* 1月1日 - [[欧州連合]]に加盟する11か国で[[ユーロ]]が銀行間取り引きなどの[[通貨]]として導入される。
* 1月7日 - [[アメリカ合衆国上院|米上院]]、[[ビル・クリントン|クリントン大統領]]に対する弾劾裁判を開始。
* 1月25日 - [[コロンビア]]でM6.2の[[地震]]。死者1900人([[コロンビア・キンディオ地震]])。
=== 2月 ===
* 2月1日 - [[航空連合]]・[[ワンワールド]]が設立。
* 2月7日 - [[ヨルダン]]のフセイン国王死去。
=== 3月 ===
* 3月23日 - [[日本海]]で[[不審船]]発見、威嚇射撃をするも[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[清津市|清津]]港に逃走。([[能登半島沖不審船事件]])。
* 3月24日
** 1998年からの[[コソボ紛争]]への制裁のため、[[北大西洋条約機構|NATO]]軍が[[ユーゴスラビア]]を[[アライド・フォース作戦|空爆]](6月10日停止)。
** [[モンブラントンネル]]で大規模な火災事故が発生し、39名が死亡する。
* 3月27日 - [[日産自動車]]、フランスの[[ルノー]]と資本提携を結ぶ。
=== 4月 ===
* 4月6日 - [[朱鎔基]]中国首相、訪米。
* 4月20日 - アメリカ合衆国[[コロラド州]]の高校で、生徒二人が銃を乱射し、後に自殺([[コロンバイン高校銃乱射事件]])。
* 4月30日 - [[カンボジア]]、[[東南アジア諸国連合]]に加盟。
=== 5月 ===
* 5月1日 - [[アムステルダム条約]]発効。
* 5月10日 - [[リンカーン研究所]]によって[[はやぶさ2]]の目的地である小惑星1999 JU3(のちの[[リュウグウ]])が発見される。
* 5月19日 - 『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]』が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで公開(日本公開は[[7月10日]])。
=== 6月 ===
=== 7月 ===
* [[7月22日]] - [[中華人民共和国|中国]]、[[法輪功]]を非合法化。
* [[7月23日]] - [[モロッコ]]国王の[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]が崩御。同日、国王の長男[[ムハンマド6世 (モロッコ王)|ムハンマド6世]]が王位を継承し、[[モロッコ国王]]に即位。
=== 8月 ===
* 8月17日 - [[トルコ]]西部地震。([[イズミット地震 (1999年)|イズミット地震]])
* 8月30日 - [[東ティモール]]{{仮リンク|東ティモール独立住民投票|en|1999 East Timorese independence referendum|label=住民投票}}実施、独立支持78.5%。
=== 9月 ===
* 9月14日 - [[プローディ委員会]]が発足する。
* 9月21日 - [[921大地震|台湾大地震]]発生。
* 9月30日 - [[東海村JCO臨界事故]]発生。[[茨城県]][[東海村]]の核燃料施設[[ジェー・シー・オー|JCO]]で日本初の[[臨界事故]]。2人死亡。
=== 10月 ===
* 10月20日 - [[インドネシア]]新大統領に[[アブドゥルラフマン・ワヒド|ワヒド議長]]就任。
=== 11月 ===
* 11月6日 - [[オーストラリア]]で[[共和制]]移行の是非を問う[[国民投票]]が行われ、その結果移行反対が多数を占めた。([[1999年オーストラリア国民投票]])
* 11月12日 - アメリカで[[グラム・リーチ・ブライリー法]]が制定される。
* 11月25日 - [[ハッブル宇宙望遠鏡]]の6台ある姿勢制御用[[ジャイロスコープ]]のうち4台目が故障し、観測不能に陥る。
* 11月30日〜12月3日 - [[第3回世界貿易機関閣僚会議]]
=== 12月 ===
* 12月4日 - [[ホイアン]]、[[ミーソン聖域]]、[[世界遺産]]に登録。
* 12月10日〜11日 - [[フィンランド]]・[[ヘルシンキ]]にて[[欧州理事会]]が開催。[[東ヨーロッパ|東欧]]5カ国と[[マルタ]]との[[欧州連合|EU]]加盟交渉開始を決定。[[トルコ]]を加盟候補国として認める。
* 12月20日 - [[マカオ]]が[[ポルトガル]]から中国に[[マカオ返還|返還]]される。
* 12月31日
** [[ロシア]]の[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領が辞任。代行に[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]首相を指名。
** [[パナマ運河]]、アメリカ合衆国から[[パナマ]]に返還。
** [[ミレニアム]]の[[カウントダウン]]が世界各地で催される。また、[[2000年問題]]の動向が注目される中の[[年越し]]。
== 天候、天災、観測等 ==
=== 天候 ===
* 5月3日 - [[アメリカ合衆国]][[オクラホマ州]]([[オクラホマシティ]])を巨大な[[竜巻]]が襲う。
=== 地震 ===
* 1月25日 - [[コロンビア]]で大地震。1900人死亡。
* 8月17日 - [[トルコ]]西部で大規模な地震が発生。1万7127人死亡。
* 9月21日 - [[台湾]]中部で[[マグニチュード]]7.7の大きな地震が発生。2415人死亡。
=== 天体観測 ===
* 11月 - [[しし座流星群]]の大出現期。
== 芸術、文化、ファッション ==
=== 映画 ===
{{main|1999年の映画}}
*[[マトリックス (映画)|マトリックス]]
*[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]
*[[ターザン (1999年の映画)|ターザン]]
*[[アイズ ワイド シャット]]
*[[シックス・センス]]
*[[アメリカン・ビューティー]]
*[[ファイト・クラブ (映画)|ファイト・クラブ]]
*[[シュリ]]
*[[オール・アバウト・マイ・マザー]]
*[[サウスパーク/無修正映画版]]
*[[アイアン・ジャイアント]]
*[[マルコヴィッチの穴]]
*[[ストレイト・ストーリー]]
*[[初恋のきた道]]
*[[ザ・ミッション 非情の掟]]
*[[トイ・ストーリー2]]
*[[グリーンマイル#映画|グリーンマイル]]
*[[サイダーハウス・ルール]]
*[[マグノリア (映画)|マグノリア]]
*[[スチュアート・リトル]]
*[[ギャラクシー・クエスト]]
== 誕生 ==
{{see also|1999年の日本#誕生|Category:1999年生}},<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1999年の日本」項内に記入-->
=== 1月 ===
* 1月2日 - [[フェルナンド・タティス・ジュニア]]、野球選手([[遊撃手]])
* 1月4日 - [[ダニエル・アルザニ]]、サッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])
* 1月4日 - [[コリン・セクストン]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* 1月6日 - [[梅澤美波]]、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* 1月6日 - [[エレーナ・ラジオノワ]]、フィギュアスケート選手
* 1月7日 - [[堀米雄斗]]、[[スケートボード]]選手
* 1月8日 - [[井上翔太 (俳優)|井上翔太]]、俳優、モデル
* 1月9日 - [[マクシミリアーノ・ロメロ]]、サッカー選手
* 1月10日 - [[メイソン・マウント]]、サッカー選手
* 1月11日 - [[ユ・ヨンハ]]、アイドル([[WEi]]、元1THE9)
* 1月12日 - [[田村真佑]]、アイドル、女優(乃木坂46)
* 1月12日 - [[ニコラス・スキアッパカッセ]]、サッカー選手
* 1月13日 - [[梅野雄吾]]、プロ野球選手
* 1月14日 - [[助川真蔵]]、声優
* 1月15日 - 松井将、ハンドボール選手
* 1月16日 - [[加藤美南]]、YouTuber、元アイドル(元[[NGT48]])
* 1月17日 - [[橋爪愛]]、モデル
* 1月18日 - [[カラン・ブラル]]、俳優
* 1月18日 - [[ゲイリー・トレント・ジュニア]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 1月19日 - [[ジョナサン・テイラー (アメリカンフットボール)|ジョナサン・テイラー]]、アメリカンフットボール選手
* 1月20日 - 幸せはとね、シンガーソングライター
* 1月21日 - [[神尾楓珠]]、俳優
* 1月22日 - [[武田杏香]]、女優(元[[E-Girls]])
* [[1月23日]] - あむぎり、[[YouTuber]]、([[コムドット]])
* 1月23日 - [[永瀬廉]] 、アイドル、俳優([[King & Prince]])
* 1月23日 - [[アルバン・ラフォン]]、サッカー選手
* 1月23日 - [[マラング・サール]] 、サッカー選手
* 1月24日 - [[橋岡優輝]]、陸上競技選手
* 1月25日 - [[山下航平 (俳優)|山下航平]]、俳優
* 1月26日 - [[浜屋将太]]、プロ野球選手
* 1月27日 - 宮田日菜子、ハンドボール選手
* 1月28日 - [[近藤玲奈]]、声優
* 1月29日 - [[久代梨奈]]、元アイドル(元[[NMB48]])
* 1月30日 - 藤代梨々花、アイドル
* 1月31日 - [[廣田あいか]]、[[歌手]]、YouTuber(元[[私立恵比寿中学]])
=== 2月 ===
* 2月1日 - 吉井あずさ、アイドル
* 2月2日 - [[坂本遥奈]]、歌手([[TEAM SHACHI]])
* 2月3日 - [[橋本環奈]] 、女優
* 2月3日 - [[弓木奈於]]、アイドル、女優(乃木坂46)
* 2月4日 - [[中村光]]、ハンドボール選手
* 2月5日 - [[木下晴香]]、女優
* 2月6日 - [[古賀亜美]]、フィギュアスケート選手
* 2月7日 - [[オコエ桃仁花]]、バスケットボール選手
* 2月8日 - がーどまん、YouTuber、[[ラッパー]]
* 2月9日 - [[山田菜々美]]、元アイドル(元AKB48)
* 2月10日 - [[パーカー (YouTuber)|パーカー]]、YouTuber
* 2月11日 - {{仮リンク|ディノ (DINO)|ko|디노 (가수)}}、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* 2月11日 - [[キャンディス・ヒル]]、陸上競技選手
* 2月11日 - [[アンドリー・ルニン]]、サッカー選手
* 2月12日 - [[タナカガ]]、YouTuber([[パパラピーズ]])
* 2月13日 - [[木出雄斗]]、サッカー選手
* 2月13日 - [[葉月ひとみ]]、女優
* 2月14日 - [[タイラー・アダムス]]、サッカー選手
* 2月15日 - 田中亭、俳優
* 2月16日 - [[小林ゆう (お笑い芸人)|小林ゆう]]、お笑い芸人
* 2月17日 - 佐藤菜月、女優
* 2月18日 - 松本真広、ボートレーサー
* 2月19日 - そわんわん、YouTuber
* [[2月20日]] - ジュキヤ、YouTuber
* 2月20日 - [[ジャレット・カルバー]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 2月21日 - [[三森大貴]]、プロ野球選手
* 2月22日 - 松原由美、ゴルファー
* 2月23日 - 青山聖里佳、女優
* 2月24日 - 皆川莉乃、バレーボール選手
* 2月25日 - [[ラキ (歌手)|ラキ]]、アイドル、俳優([[ASTRO (音楽グループ)|ASTRO]])
* 2月25日 - [[ジャンルイジ・ドンナルンマ]]、サッカー選手
* 2月26日 - 秋宮はるか、女優
* 2月27日 - 東彩音、アイドル
* 2月28日 - [[ルカ・ドンチッチ]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]]、[[スモールフォワード|SF]])
* 2月28日 - [[萩原利久]]、俳優
=== 3月 ===
* 3月2日 - [[ニキータ・マゼピン]]、レーシングドライバー
* 3月3日 - [[早川友基]]、サッカー選手
* 3月4日 - [[藤井梨央]]、元アイドル(元[[こぶしファクトリー]])
* [[3月5日]] - [[ゆうた (コムドット)|ゆうた]]、YouTuber、([[コムドット]])
* 3月5日 - [[イェリ]]、アイドル、女優([[Red Velvet]])
* 3月5日 - [[鈴木絢音]]、元アイドル(乃木坂46)
* 3月6日 - [[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]、陸上競技選手
* 3月7日 - [[中村駿介]]、バレーボール選手
* 3月8日 - [[石原彪]]、プロ野球選手
* 3月9日 - チュ・ハンニョン、アイドル([[THE BOYS]])
* 3月10日 - 山本実奈、バレーボール選手
* 3月11日 - [[エンゾ・エボス]]、サッカー選手
* 3月11日 - 山下陽暉、クロスカントリー選手
* 3月12日 - [[小田さくら]]、アイドル([[モーニング娘。]])
* 3月13日 - 新谷千尋、女優
* 3月14日 - [[マービン・バグリー3世]]、バスケットボール選手([[パワーフォワード|PF]])
* 3月15日 - [[根本凪]]、アイドル
* 3月16日 - [[ブラディミール・ゲレーロ・ジュニア]]、野球選手([[三塁手]])
* 3月18日 - [[奥野春菜]]、レスリング選手
* 3月19日 - [[田城飛翔]]、プロ野球選手
* 3月20日 - [[宮崎雅也]]、声優
* 3月21日 - 夏井さら、アイドル
* 3月22日 - [[ミック・シューマッハ]]、レーシングドライバー
* 3月23日 - 小林綾華、お笑い芸人
* 3月24日 - [[山野太一]]、プロ野球選手
* 3月25日 - チン・ジヒ、女優
* 3月26日 - [[伊藤彩華]]、アイドル
* 3月28日 - [[加藤脩平]]、プロ野球選手
* 3月29日 - [[柏木ひなた]]、元アイドル(元私立恵比寿中学)
* 3月30日 - [[吉田美佳子]]、女優
* [[3月30日]] - みゆ、YouTuber、([[ばんばんざい]])
=== 4月 ===
* 4月1日 - [[宇野友恵]]、アイドル
* 4月2日 - [[佐々木健 (右投手)|佐々木健]]、プロ野球選手
* 4月3日 - [[髙橋海人]]、アイドル、俳優(King&Prince)
* 4月4日 - [[髙塚大夢]]、アイドル([[INI]])
* 4月5日 - [[優希美青]]、女優
* 4月6日 - [[桜木夕]]、声優
* 4月7日 - [[前川智敬]]、サッカー選手
* 4月8日 - [[酒井ほのか]]、女優
* 4月9日 - [[アイザック・ヘンプステッド=ライト]]、俳優
* 4月9日 - [[サディック・ベイ]]、バスケットボール選手([[スモールフォワード|SF]])
* 4月10日 - [[豊田裕大]]、俳優
* 4月11日 - [[美音咲月]]、アイドル
* 4月12日 - 羽澤慎治、テニス選手
* 4月13日 - 山手キセキ、アイドル
* 4月14日 - [[新井光]]、サッカー選手
* 4月15日 - [[安田尚憲]]、プロ野球選手
* 4月16日 - [[ウェンデル・カーター・ジュニア]]、バスケットボール選手([[センター (バスケットボール)|C]])
* 4月17日 - [[中嶋春陽]]、俳優
* 4月18日 - [[中島元彦]]、サッカー選手
* 4月19日 - [[松田元太]]、アイドル、ダンサー、俳優([[Travis Japan]])
* 4月19日 - [[ルゲンツ・ドート]]、バスケットボール選手([[シューティングガード|SG]])
* 4月20日 - 北野佑汰、競輪選手
* 4月20日 - [[星乃莉子]]、AV女優
* 4月21日 - [[トラウデン直美]]、モデル
* 4月22日 - [[森遼大朗]]、プロ野球選手
* 4月23日 - [[チェヨン (TWICE)|チェヨン]] 、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 4月23日 - [[諸星すみれ]]、声優
* 4月24日 - 野崎まい、アイドル
* 4月25日 - 野島咲良、サッカー選手
* 4月26日 - 高島芙佳、モデル
* 4月27日 - 南乃彩希、モデル
* 4月28日 - 山口翔、プロ野球選手
* 4月29日 - 黒木莉奈、アイドル
* 4月30日 - 三田みらの、女優
=== 5月 ===
* 5月1日 - 六浦雄太、将棋
* 5月2日 - 中道杏菜、女優
* 5月3日 - 松田陸、サッカー選手
* 5月4日 - 田中陸、サッカー選手
* 5月5日 - [[ネイサン・チェン]]、フィギュアスケート選手
* 5月6日 - 難波侑平、プロ野球選手
* 5月7日 - [[佐藤優樹 (歌手)]]、元アイドル(元[[モーニング娘。]])
* 5月7日 - 藤井菜々子、陸上競技選手
* 5月8日 - 山本廉、サッカー選手
* 5月9日 - 髙橋奈々、女優
* 5月10日 - 花岡芽佳、女優
* 5月11日 - [[サブリナ・カーペンター]]、女優、歌手
* 5月12日 - [[佐藤万璃音]]、レーシングドライバー
* 5月12日 - [[岡田健史]]、俳優、モデル
* 5月13日 - 楢崎明智、クライミング選手
* 5月14日 - しゅがー、YouTuber(元[[おこさまぷれ〜と。]]メンバー)
* 5月15日 - 前田鈴、アイドル
* 5月16日 - 上水口姫香、タレント
* 5月17日 - 宮本優、サッカー選手
* 5月18日 - 髙橋夏純、サッカー選手
* 5月19日 - 季葉、モデル
* 5月20日 - 山口千沙季、プロ野球選手
* 5月21日 - 冨田菜緒、アイドル
* 5月22日 - 相澤瑠香、アイドル
* 5月23日 - 柳下花恋、女優
* 5月24日 - 藤宮もな、アイドル
* 5月25日 - [[清宮幸太郎]]、プロ野球選手
* 5月26日 - 奥平湧、ラグビー選手
* 5月27日 - [[リリー=ローズ・デップ]]、女優、モデル
* 5月28日 - [[キャメロン・ボイス]]、俳優
* 5月29日 - [[パク・ジフン]]、アイドル、俳優(元[[Wanna One]])
* 5月30日 - [[周冠宇]]、レーシングドライバー
* 5月30日 - [[すしらーめん《りく》]]、YouTuber
* 5月30日 - [[駿河メイ]]、プロレスラー
* 5月31日 - 後藤ひなの、アイドル
=== 6月 ===
* 6月1日 - [[ドミトリー・アリエフ]]、フィギュアスケート選手
* 6月2日 - 伊原六花、女優
* 6月3日 - [[後藤威尊]]、アイドル(INI)
* 6月4日 - [[キム・ソヒョン (1999年生の女優)|キム・ソヒョン]]、女優
* 6月5日 - めがね、YouTuber
* 6月6日 - 中村奨成、プロ野球選手
* 6月7日 - 長岡真由、アイドル
* 6月8日 - [[ダニエル・ティクトゥム]]、レーシングドライバー
* 6月9日 - 清水尋也、モデル、俳優
* 6月10日 - 西川愛也、プロ野球選手
* 6月11日 - [[カイ・ハフェルツ]]、サッカー選手
* 6月12日 - 永戸真優、アイドル
* 6月13日 - 五十嵐理人、サッカー選手
* 6月14日 - [[ツウィ]] 、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 6月14日 - [[尾崎匠海]]、アイドル(INI)
* 6月17日 - [[イマニュエル・クイックリー]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* 6月23日 - [[川西拓実]]、アイドル([[JO1]])
* 6月27日 - [[チャンドラー・リッグス]]、俳優
* 6月30日 - [[須崎優衣]]、レスリング選手
* 6月30日 - [[小川千奈]]、[[ウェザーニューズ]]キャスター、[[ミス・ジャパン (株式会社HDR)|ミスジャパン]]2020チャンピオン([[岩手県]]代表)
=== 7月 ===
* 7月5日 - [[張壮|チャン・チュワン]]、俳優
* 7月17日 - [[湯浅京己]]、プロ野球選手
* 7月20日 - [[アレクサンドラ・フォン・ハノーファー (1999-)|アレクサンドラ・フォン・ハノーファー]]、[[ハノーファー王国]]の王族の子孫
* 7月26日 - [[山下美月]]、アイドル、女優(乃木坂46)
* 7月30日 - [[ジョーイ・キング]]、子役、歌手
=== 8月 ===
* 8月3日 - [[ブラヒム・ディアス]]、サッカー選手
* 8月10日 - [[ジャ・モラント]]、バスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])
* 8月10日 - [[藤牧京介]]、アイドル(INI)
* 8月11日 - [[ケビン・ノックス]]、バスケットボール選手([[スモールフォワード|SF]])
* 8月18日 - [[ジュイ (MOMOLAND)|ジュイ]]、アイドル([[MOMOLAND]])
* 8月21日 - [[田辺桃子]]、女優
* 8月22日 - [[ダコタ・ゴヨ]]、子役
* 8月22日 - [[三原舞依]]、フィギュアスケート選手
* 8月23日 - [[向井葉月]]、アイドル、女優(乃木坂46)
* 8月26日 - [[琴勝峰吉成]]、大相撲力士
* 8月28日 - [[ニコライ (デンマーク王子)|ニコライ]]、デンマークの王族
=== 9月 ===
* 9月1日 - [[キャメロン・レディッシュ]]、バスケットボール選手([[スモールフォワード|SF]])
* 9月7日 - [[キャメロン・オカシオ]]、俳優
* 9月9日 - [[会沢紗弥]]、声優
* 9月13日 - [[大園桃子]]、経営者、元アイドル(元乃木坂46)
* 9月15日 - [[ジャレン・ジャクソン・ジュニア]]、バスケットボール選手([[パワーフォワード|PF]]、[[センター (バスケットボール)|C]])
* 9月16日 - [[ロバート・シュワルツマン (レーシングドライバー)|ロバート・シュワルツマン]]、レーシングドライバー
* 9月20日 - [[ジュリアーノ・アレジ]]、レーシングドライバー
* 9月22日 - [[キム・ユジョン (女優)|キム・ユジョン]]、女優
* 9月22日 - [[キム・ヨハン]]、アイドル、俳優([[WEi]]、元[[X1]])
* 9月24日 - [[永野芽郁]]、女優、ファッションモデル
* 9月29日 - [[チェ・イェナ]]、元[[IZ*ONE]]
=== 10月 ===
* 10月2日 - [[井上咲楽]]、タレント
* 10月3日 - [[アラミス・ナイト]]、俳優
* 10月6日 - [[トレバー・ローレンス]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* 10月8日- [[大原優乃]]、女優
* 10月9日 - [[大友花恋]]、女優、ファッションモデル
* 10月11日 - [[ケルドン・ジョンソン]]、バスケットボール選手([[スモールフォワード|SF]])
* 10月13日 - [[松田里奈]]、アイドル([[櫻坂46]])
* 10月14日 - [[足立佳奈]]、シンガーソングライター
* 10月15日 - [[ベン・ウッドバーン]]、サッカー選手
* 10月15日 - [[ベイリー・マディソン]]、女優
* 10月17日 - [[冴木柚葉]]、女優、モデル
* 10月20日 - [[チュウ (歌手)|チュウ]]、歌手([[今月の少女]])
* 10月23日 - [[小林由依 (アイドル)|小林由依]]、アイドル(櫻坂46)
* 10月24日 - [[上國料萌衣]]、アイドル([[アンジュルム]])
* 10月28日 - [[吉川愛]]、女優、モデル
=== 11月 ===
* 11月2日 - [[パク・ウジン]]、アイドル(元[[Wanna One]])
* 11月10日 - [[キーナン・シプカ]]、女優
* 11月10日 - [[ジョアン・フェリックス]]、サッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]
* 11月12日 - [[フランシスコ・アキラ]]、プロレスラー
* 11月13日 - [[ランド・ノリス]]、レーシングドライバー
* 11月13日 - [[林琴奈]]、[[バレーボール]]選手
* 11月15日 - [[髙橋優斗]]、アイドル、俳優([[ジャニーズJr.]]、[[HiHi Jets]])
* 11月15日 - [[富田美憂]]、声優
* 11月19日 - [[エフゲニア・メドベージェワ]]、フィギュアスケート選手
* 11月21日 - [[夜道雪]]、声優
=== 12月 ===
* 12月4日 - [[カン・ミナ (歌手)|カン・ミナ]]、元アイドル、女優(元[[gugudan]]・[[I.O.I]])
* 12月16日 - [[ブライス・ロビンソン]] 、女優
* 12月17日 - [[佐々木美玲]] 、アイドル([[日向坂46]])
* 12月22日 - [[楠木ともり]]、声優、歌手
=== 人物以外 ===
* 1月21日 - [[シンボリクリスエス]]、競走馬
* 3月31日 - [[ヒシミラクル]]、競走馬
== 死去 ==
{{See|訃報 1999年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ヘーラルト・トホーフト]]、[[マルティヌス・フェルトマン]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[アハメッド・ズウェイル]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ギュンター・ブローベル]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ギュンター・グラス]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[国境なき医師団]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ロバート・マンデル]]
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1999|date=2011年7月}}
* 1月 - 2月 - 初の[[火星探査|火星探検]]隊を乗せたロケットが[[オハイオ州]]の発進基地から打ち上げられるが、[[火星人]]イルの攻撃を受けてロケットが破壊され、探検隊は全滅する。(小説『[[火星年代記]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= レイ・ブラッドベリ|authorlink=レイ・ブラッドベリ |title = 火星年代記 |publisher = [[早川書房]] |year = 1976 |pages = 13-39,45 |isbn = 978-4-15-040114-6}}</ref>
* 2月7日 - 日野図書館を政治結社が襲撃([[図書館戦争]])
* 2月21日 - 大魔女グランディーヌの復活を目論む災魔一族が地球に飛来。[[江戸時代]]以来の火消しの家系である巽一家の5兄弟によって結成されたゴーゴーファイブが立ち向かう。(特撮テレビ番組『[[救急戦隊ゴーゴーファイブ]]』)
* 2月? - タイムパトロール隊員のアターシャ・セコビッチ・ドワルスキーに、トンマノマントから初指令が下され、オタスケマンとオジャママンの戦いが始まる。(アニメ『[[タイムパトロール隊オタスケマン]]』)<!--『オタスケマン』48話で「10年後の2009年」という話があったので、この年と判明。-->
* 3月 - 地球へと接近する太陽系第10番惑星の存在が確認される。(アニメ『[[新竹取物語 1000年女王]]』)
* 4月 - [[ダイヤモンドは砕けない#登場人物|広瀬康一]]と[[東方仗助]]が高校に入学。[[空条承太郎]]、東方仗助に会うため杜王町を訪れる。同時期に脱獄犯アンジェロが杜王町で暗躍、仗助の祖父・東方良平が殺害される。(漫画・アニメ『[[ジョジョの奇妙な冒険]] [[ダイヤモンドは砕けない]]』)
* 5月 - [[バーナード星|バーナード]]星系から来訪した宇宙人が、コントロール線を用いて人々を奴隷にし、地球征服を完了。日本では地下にいてコントロール線の作用を免れた人々が、バーナード人に抵抗する地下運動を開始する。(小説『[[侵された都市]]』)<ref>[[眉村卓]] 『[[なぞの転校生]]』 [[角川書店]]、1975年、184・185・189 - 194頁。{{全国書誌番号|75081989}}。</ref>
* 5月 - 東方仗助、音石明や[[岸辺露伴]]などのスタンド使いと戦闘。また実の父である[[ジョセフ・ジョースター]]と対面する。(漫画・アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』)
* 前半 - 彗星と化して地球へ衝突する軌道を取った小惑星[[イカルス (小惑星)|イカルス]]を50メガトン[[水素爆弾|核融合装置]]「卵」で破壊すべく、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙船「ドラゴン号」の着陸船がイカルスに着陸し、イカルスがかつて遺棄された[[恒星船|恒星間宇宙船]]であることを発見。1週間ほどの調査の後にイカルスを爆破する。(小説『{{仮リンク|夜の大海の中で|en|In the Ocean of Night}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレゴリイ・ベンフォード|authorlink=グレゴリイ・ベンフォード |title = 夜の大海の中で |publisher = 早川書房 |year = 1986 |pages = 11-52,60-62,504 |isbn = 978-4-15-010658-4}}</ref>
* 6月 - [[吉良吉影]]、矢安宮重清を爆殺。東方仗助らに追われることとなるが、川尻浩作を殺害し彼になりすますことで逃げ切る。(漫画・アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』)
* 7月24日 - マハディ教団が全世界規模で[[放送局]]の[[送信所]]と[[報道機関]]各社を爆破する[[テロリズム]]を行い、必要な情報を得られない無報状態になった世界は大混乱に陥る。(小説『[[ケースD ―見えない洪水―]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=糸川英夫|authorlink1=糸川英夫|author2=未来捜査局|authorlink2=未来捜査局 |title = ケースD ―見えない洪水― |publisher = 角川書店 |year = 1981 |pages = 403-408 |isbn = 978-4-04-149101-0}}</ref>
* 7月 - ゴドム人により地球が占領される。(アニメ『[[宇宙空母ブルーノア]]』)
* 7月 - 小惑星「[[ユリシーズ (小惑星)|ユリシーズ]]」が地球に落下。ユージア大陸のみならずアネア大陸の[[エストバキア連邦]]に被害が出る。(ゲーム『[[エースコンバット04 シャッタードスカイ]]』、『[[エースコンバット6 解放への戦火]]』)
* 7月 - 小惑星「ユリシーズ」が地球に落下。世界各地に被害が生じる。(ゲーム『[[エースコンバット インフィニティ]]』)
* 7月 - 川尻早人の功績により、東方仗助が吉良吉影と遭遇。吉良、倒される。(漫画・アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』)
* 7月 - ASS-1(後の[[マクロス (架空の兵器)|SDF-1 マクロス]])、南アタリア島に墜落。(アニメ『[[超時空要塞マクロス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 井上敏樹|authorlink=井上敏樹 |title = 超時空要塞マクロス[TV版](上) |publisher = [[小学館]] |year = 1983 |pages = 15-18 |isbn = 978-4-09-440001-4}}</ref><ref name = "MacrossChronology">{{Cite book |和書 |author = |title = MACROSS PERFECT MEMORY |publisher = [[みのり書房]] |year = 1984 |page = 54 }}</ref>
* 7月 - 10月 - ウィリアム・J・ホイットローを最高長官として有人[[木星探査]]計画が始動し、[[ニューメキシコ州]]の賭博用[[宇宙ステーション|人工衛星]]「Gステーション」の建設作業場跡地が木星行きロケットの基地に選定される。(小説『[[天の光はすべて星]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = 天の光はすべて星 |publisher = 早川書房 |year = 2008 |pages = 133,225-262 |isbn = 978-4-15-011679-8}}</ref>
* 7月? - 第三次世界大戦が勃発し、地球は壊滅状態に陥る。(アニメ『[[百獣王ゴライオン]]』)
* 7の月(7月) - 空から恐怖の大王が降り、アンゴル‐モアの大王をよみがえらせる。そして全人類は死に絶える。その前後にマルスによって、幸福のうちに支配されるだろう。(映画『[[ノストラダムスの大予言 (映画)|ノストラダムスの大予言]]』)
* 夏 - [[極軌道]]上の母船から発進した[[ケンタウルス座アルファ星|アルファケンタウリ]]の惑星の異星人「トソク族」の着陸船が[[大西洋]]上に着水し、アメリカ海軍の空母「[[キティホーク (空母)|キティホーク]]」およびロシアの潜水艦「スヴォーロフ」と接触。その後、着陸船は一度母船に戻った後に[[国際連合本部ビル|国連本部]]前に着陸し、ケルカッド船長が総会議場で演説を行う。(小説『{{仮リンク|イリーガル・エイリアン|en|Illegal Alien (Sawyer novel)}})<ref>{{Cite book |和書 |author= ロバート・J・ソウヤー|authorlink=ロバート・J・ソウヤー |title = イリーガル・エイリアン |publisher = 早川書房 |year = 2002 |pages = 11-71,454-456 |isbn = 978-4-15-011418-3}}</ref><ref>[https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEdecade/SEdecade1991.html SOLAR ECLIPSES: 1991 - 2000] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] [[ゴダード宇宙飛行センター|GODDARD SPACE FLIGHT CENTER]] ECLIPSE WEB SITE(英語)。2019年3月4日閲覧。</ref>
* 8月1日〜4日 - 八神太一、石田ヤマトら「選ばれし子供たち」がそれぞれのパートナーデジモンとともにデジタルワールドと現実世界を股にかけた冒険と戦いの旅に出る。(アニメ『[[デジモンアドベンチャー]]』)<ref>https://hobby.dengeki.com/news/1313536/</ref>
* 9月13日 - [[月]]面で[[放射性廃棄物]]の大規模な爆発が発生。月は地球の周回軌道を外れ、外宇宙に向かって離脱。月基地アルファとの交信は途絶し、地球各地で大災害発生。(特撮テレビ番組『[[スペース1999]]』)
* 9月26日 - 全世界で異能力者発生現象「オルタレイション・バースト」が、同時多発的に発生。都市によっては大地震が起きて建物の倒壊などがあったが、数時間後に地震前の状態に戻る現象が起こる。(漫画『[[ヒーロークロスライン]]』シリーズ全作品)
* 10月10日 - [[ニューヨーク]]上空に1969年以来30年ぶりの規模のものと言われる[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が出現。それに伴い、刑事ジョン・サリバンが持つハム([[アマチュア無線|アマチュア]])の[[無線機]]が、30年前の同一無線機と交信できるようになる。(映画『[[オーロラの彼方へ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 石田享|authorlink=石田享 |title = オーロラの彼方へ |publisher = [[竹書房]] |year = 2000 |pages = 39,50-55,71-78,104 |isbn = 978-4-8124-0697-7}}</ref>
*10月19日 - 日本・シブヤに落下した巨大隕石により、その周辺地域が壊滅する。(特撮テレビ番組『[[仮面ライダーカブト]]』)
* 10月28日 - 2時16分頃、[[板門店]]の共同警備区域内で韓国軍と朝鮮人民軍のグループが銃撃戦を展開。朝鮮人民軍の兵士2人が死亡。(映画『[[JSA (映画)|JSA]]』)
* 秋 - 宇宙から飛来した[[ナノマシン]]に侵食された各国の兵器群が暴走し、無差別攻撃を開始。これに対抗すべく「ストライカーズ」が再結成される。(ゲーム『[[ストライカーズ1945#ストライカーズ1999|ストライカーズ1999]]』)<ref>[http://psikyobabble.com/psikyo03/product/1999/index.html ストライカーズ1999] - [[彩京]]コンテンツ。2015年12月26日閲覧。</ref>
* 12月 - [[ベガ|ヴェガ]]系から発信された設計図を基に北海道で建造された「マシーン」が、5名の乗員を乗せて始動する。(小説『{{仮リンク|コンタクト (小説)|label=コンタクト|en|Contact (novel)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= カール・セーガン|authorlink=カール・セーガン |title = コンタクト(下) |publisher = [[新潮社]] |year = 1989 |pages = 163-166,172,173,178-183 |isbn = 978-4-10-229402-4}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = カール・セーガン |title = コンタクト(上) |publisher = 新潮社 |year = 1989 |pages = 110-120,292,293 |isbn = 978-4-10-229401-7}}</ref>
* [[月]]面{{仮リンク|クラヴィウス (クレーター)|label=クラビウス|en|Clavius (crater)}}基地の調査隊が[[ティコ (クレーター)|ティコ・クレーター]]の地中から[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]](TMA・1)を発掘。その後、月面の夜明けに反応して、TMA・1が太陽系外に向けて電波エネルギーを放つ。(映画・小説『[[2001年宇宙の旅]]』)<ref>映画『[[2010年 (映画)|2010年]]』冒頭より。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 2001年宇宙の旅 ―決定版― |publisher = 早川書房 |year = 1993 |pages = 67-130,229-231 |isbn = 978-4-15-011000-0}}</ref>
* REAL RACING ROOTS'99開催。日本の自動車メーカー テラジ参入、日本のレーシングチーム PAC RACING CLUB(PRC)参戦。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)
* 火星解放戦線、地球連邦に対し独立許可を要求し、容れられない場合は[[月]]を地球に衝突させ破壊するテロ「99+0計画」の実行を予告。([[今日泊亜蘭]]の小説『[[アンドロボット'99]]』)
* [[地球連邦]]政府樹立。(アニメ『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 近藤和久|authorlink=近藤和久 |title = [[機動戦士Ζガンダム#コミカライズ|機動戦士Ζガンダム]] VOL.1 |publisher = [[メディアワークス]] |year = 1994 |page = 6 |isbn = 978-4-07-301026-5}}</ref>※旧来の設定で、2045年を宇宙世紀0001年とした場合。
* 東南アジア某国(小説版では[[カンボジア]])に[[国際連合平和維持活動|PKO]]部隊として派遣された柘植行人二等陸佐指揮下の陸上自衛隊レイバー小隊が、反政府軍に襲撃され壊滅する。(アニメ『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 押井守|authorlink=押井守 |title = 機動警察パトレイバー TOKYO WAR〈前編〉 |publisher = [[富士見書房]] |year = 1994 |pages = 5-13,28 |isbn = 978-4-8291-2552-6}}</ref>
* 1996年のモンスター達による大災厄を生き残った3体のモンスター「スーパージオン」「アトミックガイ」「サイバーウー」が地球を支配しそうな状態になっていたが、突如地球外よりエイリアン軍団「NEXT THING」が襲来。全人類とモンスター達に宣戦布告する。(ゲーム『[[キング・オブ・ザ・モンスターズ2]]』)<ref>[[ネオジオ]]版『キング・オブ・ザ・モンスターズ2』取扱説明書 [[SNK (1978年設立の企業)|エス・エヌ・ケイ]]、1992年、2 - 9頁。</ref>
* 「ラヴォスの日」。B.C.65,000,000から地球の地下深くに住み着いていた[[ラヴォス]]が地表に出現し、世界を滅ぼす。(ゲーム『[[クロノ・トリガー]]』)
* アジア諸国と[[欧州共同体|EC]][[アメリカ合衆国|米]]間で第4次非核大戦勃発。(漫画・アニメ『[[攻殻機動隊]]』)
* [[アメリカ合衆国|全米]]の子供たちに人気な[[カナダ]]の[[下ネタ]][[漫才コンビ]]「テレンス&フィリップ」の[[下品]]な芸を子供たちがマネをしたことが発端となり、'''加米戦争'''(アメリカ・カナダ戦争)が勃発。[[サウスパークの登場人物|サウスパークの子供たち]]により、戦犯として公開処刑される「テレンス&フィリップ」を救出するための[[レジスタンス運動|レジスタンス]]が結成される。(アニメ『[[サウスパーク/無修正映画版]]』)
* NASAの[[宇宙探査機]]「[[ボイジャー計画|ボイジャー]]6号」が打ち上げられる。(映画『[[スタートレック (映画)|スタートレック]]』)
* 鐘流星群の降る夜、2053年の未来から結晶化したゴートがエネルクス社の採掘場にたどり着く。彼はその後、その場に居合わせたトーマ時宗と手を組み、秘密結社ゼノンを結成する。(アニメ『[[超速変形ジャイロゼッター]]』)
* 世界協議機構の下部に属する補助機関として、地球上および全宇宙の交易活動の管理調整を任とする世界連邦交通貿易局(後のTTA)が設立される。(書籍『{{仮リンク|テラン連邦交通貿易局ハンドブック|en|Terran Trade Authority}}』シリーズ)<ref>[[スチュアート・カウリー]] [[チャールズ・ヘリッジ]] 『宇宙大戦争』 [[旺文社]]、1981年、6・64頁。{{NCID|BN06788952}}。</ref>
* バーム星人が地球に宣戦布告し、戦闘ロボやメカ戦士などを用いて地球への攻撃を開始する。(アニメ『[[闘将ダイモス]]』)
* イデリア星人のコロニー型宇宙船が太陽系に侵入。移住のために地球侵略を開始したイデリア星人に対し地球連邦軍は敗走するも、高城洋一大佐主導で開発された人型兵器「バリアブルマシーン」を装備する特装機兵部隊「ドルバック」が反撃する。(アニメ『[[特装機兵ドルバック]]』)<ref>[http://ashipro.jp/works/tv_series/w010.html 特装機兵ドルバック] - 株式会社[[プロダクション リード|PRODUCTION REED]]公式サイト。2016年9月20日閲覧。</ref>
* [[物理学者]]R・タンホイザーによって[[エーテル (物理)|エーテル]]理論が完成される。(アニメ『[[トップをねらえ!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = |title = トップをねらえ大全! |publisher = [[バンダイビジュアル]] |year = 2012 |page = 138 |isbn = 978-4-04-899247-3}}</ref>
* 独立武装勢力「ザンジバーランド」陥落。(ゲーム『[[メタルギア2 ソリッドスネーク]]』)
* 惑星[[ラーメタル]]が1000年ぶりに地球に接近し、[[ラーメタル人]]による地球移住計画が始まる。(漫画・アニメ『[[新竹取物語 1000年女王]]』)
* ニューヨークに突如として四体の怪ロボットが上陸。アメリカ軍の攻撃もロボットには全く通用せず、ロボットの破壊活動によりニューヨークは3日で廃墟と化す。(ゲーム『[[リモートコントロールダンディ]]』)
* [[7代目ドクター]]が8代目ドクターへ再生。4代目マスターが地球の分子構造を破壊する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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1,549 | セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん | 『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』(セクシーコマンドーがいでん すごいよ マサルさん)は、うすた京介による日本の漫画作品。
謎の格闘技「セクシーコマンドー」を操る高校生・花中島マサルと、奇妙で癖のあるセクシーコマンドー部の部員たちを中心に展開されるギャグ漫画。『週刊少年ジャンプ』(集英社)において、1995年から1997年まで連載された。全79話。
うすたの連載デビュー作であり、代表作でもある。本伝が無いにもかかわらず、「セクシーコマンドー外伝」というタイトルであるなど、独特の視点から支離滅裂なギャグを展開していくストーリーが人気を博した。
話数カウントは「コマンドー○○」。サブタイトルは、当初「マサルと○○」という形だったが、第33話の「マサルの放課後個人授業」、第40話の「フーミンとネコの達人」で崩れ始め、その直後の第41話以降は、ほとんど「マサルと○○」というフォーマットを無視したサブタイトルばかりになる。
作者のうすたが強い関心を持つセガやCMに関するパロディが散見される。特にセガが発売していたピッチングマシン型玩具『ロボピッチャ』の知名度は、この漫画で再び上がったほどである。また1980年代の芸能人やテレビ番組(『お笑いマンガ道場』など)、漫画(『キン肉マン』『北斗の拳』『聖闘士星矢』など)のパロディも多い。
当時、『週刊少年ジャンプ』誌上にてバトル要素のある漫画の主人公は、強豪たちが集う大会に出場することがほぼ定番化していた。本作においてもセクシーコマンドー部が大会に出場するが、最終的に決勝戦を棄権して終わる。また、最終回では唐突に「第2部・地獄校長編」が開始され、たった1話のみで完結する。これらの点は、漫画における定番的な流れを破壊することでギャグ性を生じさせた。
『マサル』の影響で同方向のナンセンスギャグを追い求める漫画家志望者が増加したため、「マネもほどほどに...」という見出しで『ジャンプ』本誌の新人賞募集ページに注意書きが掲載されたことがある。
グッズ展開はほぼ無かったが、主人公のマサルと並んで人気が高かった「メソ」はゲームセンターの景品として、ぬいぐるみやキーホルダーなどが作られている。
韓国では1997年より『멋지다!!마사루(すごいよ!!マサルさん)』のタイトルで『週刊少年チャンプ』(大元)に掲載され、単行本もチャンプコミックスより全巻刊行された。「セクシーコマンドー」が「チャーミングコマンドー(애교코만도)」に改変されるなど、当時の韓国の倫理観に合わせた若干のローカライズが行われた以外は意味不明なギャグがほとんどそのまま翻訳されたが、例えば額に「肉」を描くシーンでは「へのつっぱりはいらない人にそっくりだーっ」のセリフが「精肉屋の肉にそっくりだーっ」に改変されるなど、韓国人読者になじみのないパロディは『チャンプ』編集部によってセリフが改変され、完全に意味不明となったため、かえってカルト的人気を博す。日本と同様、韓国の漫画家志望者にも大きな影響を与え、『チャンプ』の投稿作品はしばらく『マサル』の亜流ギャグ漫画だらけとなった。また、2003年に映画『オールド・ボーイ』で第57回カンヌ国際映画祭のグランプリを獲得したパク・チャヌク監督は、「本当は『マサル』を映画化したかったが原作を超える自信がなかったので仕方なく『オールド・ボーイ』にした」とコメントしている。
2000年代前半に韓国のインターネットで流行した「ビョーキ(ko:병맛)」ムーブメントの始祖とされ、「ウォンチュウ(ko:원츄)」は2000年代前半の韓国のインターネットにおける流行語になった。
2009年2月13日に放送された『世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS』によれば、ニューヨークアポロ・シアターに出演し総合優勝した上野隆博はこの作品の「ダバダバ」をヒントにしたダンスを踊った。さらに、この動きは米歌手マドンナの目にとまり、2009年9月発表の曲「Celebration」プロモーションビデオ(With Fun Ver)中でも「ダバダバ」を披露している(PV中2分35秒頃)。また、実在する音楽ユニットちめいどはその名前を本作のギャグから取っている。
『週刊少年ジャンプ』購読層と、それ以外の世代にも絶大な人気を誇りアニメ化も決定したが、唐突な形で結末を迎える(アニメ放送は連載終了後)。
連載終了を決めた理由として、うすたは連載前まで半年に1回しかネームを描いていなかったために週刊連載のペースについていけなかったこと、および原稿の締め切りや読者からの評価・期待などのプレッシャーから連載に対する自信をなくしていったことを挙げている。実際、連載末期は絵柄が乱雑になっていき、原稿を落としたりなどした。このような経緯から、原稿を放り出して逃げ出そうと考えるまでになっていた。
周りから「やめたら後悔するよ」と諭されたが、「ここでやめないと二度と立ち直れなくなる」と感じたため、約1年8か月の連載を終了するに至った。連載終了後、うすたは「今でも後悔することもあるが、決断が間違っていたとは思っていない。『マサル』という作品は79話で終わる運命だった」と振り返っている。
「声 - 」の表記は、テレビアニメにおける担当声優。
劇中では校長の策略で、モエモエを除く全員が2回留年している。
マサルの家族。自宅は布で覆われており、マサルの自室には「ソドップ」「もっちゃん」などの怪しい言葉だけを録音したカセットテープがある。
謎の発明集団。マサルのチャームポイントで髪が伸びることを西友で目撃して知り、それを毛生え薬の原材料にすることを目論む。毛生え薬で増毛した後は4人でお笑いグループを結成し、自分の髪型と同じカツラを被って笑いのネタにする算段であった。
「男宿」は「おとこじゅく」と読む。セクシーコマンドー部が全国大会の優勝景品である温泉旅行のチケットを使い、冬休みに訪れた伊豆の温泉宿。モットーは「親切・丁寧・狂気」。宿に行く道中、紐を首に巻いて地面に付けないように男らしく3km走らなければならない。一方で女は女らしく補助輪付きの自転車に乗る。
本作に登場する架空の格闘技。一部では幻の格闘技と言われ、格闘技に精通した者にも「マニアックなもの」程度にしか思われていない。一般にはほとんど知られておらず、セクシーコマンドー協会(略称「セ協」)の会員は全国で200人程度らしい。
他の格闘技との決定的な違いは、相手の隙を無理矢理引き出し、その隙を利用して攻撃するというスタイルである。意外性を武器にするため、柔軟な発想が求められるほか、いわゆる「セクシーな人」はちょっとした仕草だけで十分に隙を作れるため、やる意味がないとされる。
セクシーコマンドーをやる者のことをセクシーメイトと言い、ほぼ毎年セクシーメイトによる競技会が開かれている。返事は「ラジャー」「ウォンチュウ」「クリンナップクリンミセス」「ラバーメン(ゴム人間)」、賞賛の掛け声は「ナイスセクシー」。
セクシーコマンドーの極意は、いかに相手の隙を誘うかにかかっている。そのため、最も重視されるのは対戦相手を呆然とさせる意外性である。前フリ技と呼ばれる型はあるものの、前フリ後の展開に関しては各々セクシーメイト次第であるため、使い手の技量が顕著に現れてくる。
なお、「隙を作るための動き」そのものがセクシーコマンドーであり、隙を作った後にどのような攻撃をするかは重要視されない。そのため、単純な攻撃力を求めるならば、マサルのように別の格闘技の心得を持っていた方が有利と言える。
セクシーコマンドー協会による全国セクシーコマンドーフェスティバルが開催され、優勝商品を賭けて団体戦や年齢別制(団体戦や年齢別が導入されたのは1980年代半ば)で競技会が行われる。
第13回(昭和28年)から第18回(昭和33年)まで、この競技会の優勝者はさかきばらのぶゆきという人物で、7回出場して負けは1回のみという驚異的な成績を残している。また、1996年開催の「全国セクシーコマンドーフェスティバル'96」の高校団体戦では、さかきばらが校長を務める県立わかめ高校が準優勝している。他にセクシーコマンドー競技には階級試験も存在し、グローバルパートナーなどのクラスがある。
試合は、制限時間ありのポイント制で行われる。審判の「スタート」の掛け声により試合開始。セクシーコマンドーでは先制攻撃は不利になるため、先に技を出した方がファーストセクシーとして3万ポイント与えられる。これによって、お互いに技を出さないで様子を見たまま膠着する状況が無くなる。
審判はセクシーコマンドーの技によって生じた隙から、連続して入れた一撃にポイントを与える。攻撃が浅いと1億ポイント程度だが、攻撃がしっかりしたものと認められるとセクシー一本となり、審判の判定によって12億から15億ほどのポイントが入り試合は決着する。
攻撃の際に与えるダメージの大きさやスピードなどはポイントには関係なく、いかに隙を作り出すかと、それに繋がる攻撃の流れに重点が置かれる。小道具や薬物の使用も認められるが、複数の選手が試合に参加するのは禁止であり、反則負けとなる。また、この「隙」には自然発生したものや本人の自業自得によるものは認められず、あくまで技によって作り出された隙のみが認められる。
セクシーコマンドーの発祥は日本である。室町時代、「将軍の義持だか何だかが死に、次期将軍をくじ引きで決めたの決めてないの言ってるぐらいの頃」に成立したといわれる。当時農民により田楽などと共にうさ晴らしの遊びとして自然発生したという説があるが、そのような史実は無く俗説のようである。
下記のセクシーヒストリーにはせくしー斎と名乗る人物が生み出したと記載されている。せくしー斎が考案した際の名称は「せくしー小窓」であり、それが時の流れによって変化したようである。
本作に登場するアイテム・秘密兵器類を解説する。
全7巻。表紙は高校卒業後、旅人になったマサルが世界中のどこかを旅している風景となっている。
全5巻。「ウ元ハ王」は「完全」の文字を解体して別の文字にしたもの。ロゴは「完全」とも読めるようデザインされ、「ウゲンハオウ」とルビが振られている。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」を1ページ書き下ろし。
以下に主な特徴を挙げる。
全5巻。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」と文庫版あとがきを収録。カバーイラストは全巻うすたが新規に書き下ろしている。
1998年1月5日から同年4月2日まで、TBS系(一部地域を除く)の深夜番組『ワンダフル』内で放送。監督は大地丙太郎。1話約8分、全48話+総集編2話。原作単行本5巻までの内容がアニメ化され、アニメ版の最終回は「最終回」という事象そのものも題材に使われていた。
基本的には原作に忠実(脚本も存在せず、アニメの1話=原作の1話分となっている)。ただ、漫画でそのまま使われていた会社名などの固有名詞や、放送上問題のある言葉などは、アニメ化の際に修正されている場合があった。その他、原作をそのままアニメ化してしまうと尺が足りなくなってしまうという判断から、短編が集合した原作21話(コマンドー21)の一部や、「ウクレレ講座」などのミニコーナーが挿入されるなどした。
原作者であるうすたはアニメに関しては「当初断る気だったが、連載中いくら待ってもアニメ化の話が来なかったため、あっさり承認した」と述べている。また監督を務めた大地は、「タイトルを聞いて成人向け漫画と思ったが、原作を読んでみて面白かったから引き受けた」と語っている。
オープニングの題字は、タイトルロゴが背後から現れる途中で破壊されて、西村知美による題字が正確なタイトルとして使われる体裁になっている。映像では大地が過去に手掛けた『ナースエンジェルりりかSOS』や同時期に監督していた『こどものおもちゃ』、『サザエさん』『サイボーグ009』『狼少年ケン』といった他アニメのオープニングのパロディが多く含まれ、終盤で唐突にPENICILLINの実写(主題歌『ロマンス』のプロモーションビデオ)が挿入される。大地が歌の尺に合わせてコンテを切っていたらカット数が足りなくなったらしく、PVを入れて急場をしのごうと考えた結果であることが、自身がパーソナリティを務める番組『アニメっていいよね』で語られた。結果タイアップ効果が高まり、『ロマンス』の大ヒットに繋がる一因にもなった。題字を担当した西村は本作の大ファンであることを公言しており、単行本を大量に買い込み、単行本にメモの内容を書き込んだ上に、ついでにこの漫画を読むよう書き残して、メモ用紙代わりにあちこちに置いていき、漫画の宣伝に努めたというエピソードがあった。
『ワンダフル』が一貫してネットされていなかった毎日放送(MBS)では、2001年2月3日から同年6月16日まで『アニメシャワー』枠内で30分に再編集されて放送された。その際、『ワンダフル』放送時に流れたマサルの最後の一言は省略され、その代わり最後にエンディングが追加された(ソフト版ではマサルの最後の一言とエンディングの両方が収録されている)。
『ワンダフル』を翌0:30飛び降りとしていたネット局・期間では本作品(というより、アニメコーナー自体)放送されていなかった。
韓国では2008年にウ元ハ王版(ko:오나전판)の刊行に合わせてCHAMP TVで放映され、コマンドー27のマサルが偽造サインボールを作るシーンで「ぶるうたす」の代わりにプロゲーマーのイム・ヨファンの名前を使うなど、原作同様当時の韓国に合わせた若干のローカライズが行われた以外はほとんどそのまま放送された。
ナレーションは当時(1998年2月まで)TBSアナウンサーだった鈴木史朗(43話では齋藤彩夏、総集編では上田祐司・小西寛子)が担当。
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イーストウエスト・ジャパンより1998年3月15日に発売。 | [
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "「男宿」は「おとこじゅく」と読む。セクシーコマンドー部が全国大会の優勝景品である温泉旅行のチケットを使い、冬休みに訪れた伊豆の温泉宿。モットーは「親切・丁寧・狂気」。宿に行く道中、紐を首に巻いて地面に付けないように男らしく3km走らなければならない。一方で女は女らしく補助輪付きの自転車に乗る。",
"title": "主な登場人物"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "本作に登場する架空の格闘技。一部では幻の格闘技と言われ、格闘技に精通した者にも「マニアックなもの」程度にしか思われていない。一般にはほとんど知られておらず、セクシーコマンドー協会(略称「セ協」)の会員は全国で200人程度らしい。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "他の格闘技との決定的な違いは、相手の隙を無理矢理引き出し、その隙を利用して攻撃するというスタイルである。意外性を武器にするため、柔軟な発想が求められるほか、いわゆる「セクシーな人」はちょっとした仕草だけで十分に隙を作れるため、やる意味がないとされる。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "セクシーコマンドーをやる者のことをセクシーメイトと言い、ほぼ毎年セクシーメイトによる競技会が開かれている。返事は「ラジャー」「ウォンチュウ」「クリンナップクリンミセス」「ラバーメン(ゴム人間)」、賞賛の掛け声は「ナイスセクシー」。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "セクシーコマンドーの極意は、いかに相手の隙を誘うかにかかっている。そのため、最も重視されるのは対戦相手を呆然とさせる意外性である。前フリ技と呼ばれる型はあるものの、前フリ後の展開に関しては各々セクシーメイト次第であるため、使い手の技量が顕著に現れてくる。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
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"text": "なお、「隙を作るための動き」そのものがセクシーコマンドーであり、隙を作った後にどのような攻撃をするかは重要視されない。そのため、単純な攻撃力を求めるならば、マサルのように別の格闘技の心得を持っていた方が有利と言える。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "セクシーコマンドー協会による全国セクシーコマンドーフェスティバルが開催され、優勝商品を賭けて団体戦や年齢別制(団体戦や年齢別が導入されたのは1980年代半ば)で競技会が行われる。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "第13回(昭和28年)から第18回(昭和33年)まで、この競技会の優勝者はさかきばらのぶゆきという人物で、7回出場して負けは1回のみという驚異的な成績を残している。また、1996年開催の「全国セクシーコマンドーフェスティバル'96」の高校団体戦では、さかきばらが校長を務める県立わかめ高校が準優勝している。他にセクシーコマンドー競技には階級試験も存在し、グローバルパートナーなどのクラスがある。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "試合は、制限時間ありのポイント制で行われる。審判の「スタート」の掛け声により試合開始。セクシーコマンドーでは先制攻撃は不利になるため、先に技を出した方がファーストセクシーとして3万ポイント与えられる。これによって、お互いに技を出さないで様子を見たまま膠着する状況が無くなる。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
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"tag": "p",
"text": "審判はセクシーコマンドーの技によって生じた隙から、連続して入れた一撃にポイントを与える。攻撃が浅いと1億ポイント程度だが、攻撃がしっかりしたものと認められるとセクシー一本となり、審判の判定によって12億から15億ほどのポイントが入り試合は決着する。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "攻撃の際に与えるダメージの大きさやスピードなどはポイントには関係なく、いかに隙を作り出すかと、それに繋がる攻撃の流れに重点が置かれる。小道具や薬物の使用も認められるが、複数の選手が試合に参加するのは禁止であり、反則負けとなる。また、この「隙」には自然発生したものや本人の自業自得によるものは認められず、あくまで技によって作り出された隙のみが認められる。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "セクシーコマンドーの発祥は日本である。室町時代、「将軍の義持だか何だかが死に、次期将軍をくじ引きで決めたの決めてないの言ってるぐらいの頃」に成立したといわれる。当時農民により田楽などと共にうさ晴らしの遊びとして自然発生したという説があるが、そのような史実は無く俗説のようである。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "下記のセクシーヒストリーにはせくしー斎と名乗る人物が生み出したと記載されている。せくしー斎が考案した際の名称は「せくしー小窓」であり、それが時の流れによって変化したようである。",
"title": "セクシーコマンドー"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "本作に登場するアイテム・秘密兵器類を解説する。",
"title": "作中に登場するアイテム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "全7巻。表紙は高校卒業後、旅人になったマサルが世界中のどこかを旅している風景となっている。",
"title": "単行本"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "全5巻。「ウ元ハ王」は「完全」の文字を解体して別の文字にしたもの。ロゴは「完全」とも読めるようデザインされ、「ウゲンハオウ」とルビが振られている。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」を1ページ書き下ろし。",
"title": "単行本"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "以下に主な特徴を挙げる。",
"title": "単行本"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "全5巻。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」と文庫版あとがきを収録。カバーイラストは全巻うすたが新規に書き下ろしている。",
"title": "単行本"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1998年1月5日から同年4月2日まで、TBS系(一部地域を除く)の深夜番組『ワンダフル』内で放送。監督は大地丙太郎。1話約8分、全48話+総集編2話。原作単行本5巻までの内容がアニメ化され、アニメ版の最終回は「最終回」という事象そのものも題材に使われていた。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "基本的には原作に忠実(脚本も存在せず、アニメの1話=原作の1話分となっている)。ただ、漫画でそのまま使われていた会社名などの固有名詞や、放送上問題のある言葉などは、アニメ化の際に修正されている場合があった。その他、原作をそのままアニメ化してしまうと尺が足りなくなってしまうという判断から、短編が集合した原作21話(コマンドー21)の一部や、「ウクレレ講座」などのミニコーナーが挿入されるなどした。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "原作者であるうすたはアニメに関しては「当初断る気だったが、連載中いくら待ってもアニメ化の話が来なかったため、あっさり承認した」と述べている。また監督を務めた大地は、「タイトルを聞いて成人向け漫画と思ったが、原作を読んでみて面白かったから引き受けた」と語っている。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オープニングの題字は、タイトルロゴが背後から現れる途中で破壊されて、西村知美による題字が正確なタイトルとして使われる体裁になっている。映像では大地が過去に手掛けた『ナースエンジェルりりかSOS』や同時期に監督していた『こどものおもちゃ』、『サザエさん』『サイボーグ009』『狼少年ケン』といった他アニメのオープニングのパロディが多く含まれ、終盤で唐突にPENICILLINの実写(主題歌『ロマンス』のプロモーションビデオ)が挿入される。大地が歌の尺に合わせてコンテを切っていたらカット数が足りなくなったらしく、PVを入れて急場をしのごうと考えた結果であることが、自身がパーソナリティを務める番組『アニメっていいよね』で語られた。結果タイアップ効果が高まり、『ロマンス』の大ヒットに繋がる一因にもなった。題字を担当した西村は本作の大ファンであることを公言しており、単行本を大量に買い込み、単行本にメモの内容を書き込んだ上に、ついでにこの漫画を読むよう書き残して、メモ用紙代わりにあちこちに置いていき、漫画の宣伝に努めたというエピソードがあった。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "『ワンダフル』が一貫してネットされていなかった毎日放送(MBS)では、2001年2月3日から同年6月16日まで『アニメシャワー』枠内で30分に再編集されて放送された。その際、『ワンダフル』放送時に流れたマサルの最後の一言は省略され、その代わり最後にエンディングが追加された(ソフト版ではマサルの最後の一言とエンディングの両方が収録されている)。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "『ワンダフル』を翌0:30飛び降りとしていたネット局・期間では本作品(というより、アニメコーナー自体)放送されていなかった。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "韓国では2008年にウ元ハ王版(ko:오나전판)の刊行に合わせてCHAMP TVで放映され、コマンドー27のマサルが偽造サインボールを作るシーンで「ぶるうたす」の代わりにプロゲーマーのイム・ヨファンの名前を使うなど、原作同様当時の韓国に合わせた若干のローカライズが行われた以外はほとんどそのまま放送された。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "ナレーションは当時(1998年2月まで)TBSアナウンサーだった鈴木史朗(43話では齋藤彩夏、総集編では上田祐司・小西寛子)が担当。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "いずれもバンダイビジュアルより発売。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "イーストウエスト・ジャパンより1998年3月15日に発売。",
"title": "テレビアニメ"
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]
| 『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』は、うすた京介による日本の漫画作品。 | {{Infobox animanga/Header
|タイトル=セクシーコマンドー外伝 すごいよ{{nowiki|!!}}マサルさん
|ジャンル=[[シュール]][[ギャグ漫画|ギャグ]]<br>[[ブラックジョーク]]<br/>[[学園漫画|学園]]・[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[格闘漫画|格闘]]<br>[[少年漫画]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[うすた京介]]
|出版社=[[集英社]]
|掲載誌=[[週刊少年ジャンプ]]
|レーベル=[[ジャンプ・コミックス]]
|開始日=[[1995年]]52号
|終了日=[[1997年]]40号
|話数=全79話
|巻数=単行本:全7巻<br>ウ元ハ王版:全5巻<br>文庫版:全5巻
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=うすた京介
|監督=[[大地丙太郎]]
|キャラクターデザイン=桝館俊秀
|音楽=[[山本はるきち]]
|アニメーション制作=[[マジックバス]]
|製作=[[TBSテレビ|TBS]]
|放送局=TBS
|放送開始=[[1998年]][[1月5日]]
|放送終了=[[4月2日]]
|話数=全50話(本編48話+総集編2話)
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
{{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|ウィキポータル 漫画]]}}
『'''セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん'''』(セクシーコマンドーがいでん すごいよ マサルさん)は、[[うすた京介]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。
== 概要 ==
謎の[[格闘技]]「セクシーコマンドー」を操る高校生・花中島マサルと、奇妙で癖のあるセクシーコマンドー部の部員たちを中心に展開される[[ギャグ漫画]]。『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])において、[[1995年]]から[[1997年]]まで連載された。全79話。
うすたの連載デビュー作であり、代表作でもある。本伝が無いにもかかわらず、「セクシーコマンドー'''[[外伝]]'''」というタイトルであるなど、独特の視点から支離滅裂なギャグを展開していくストーリーが人気を博した。
話数カウントは「コマンドー○○」。サブタイトルは、当初「マサルと○○」という形だったが、第33話の「マサル'''の'''放課後個人授業」、第40話の「フーミンとネコの達人」で崩れ始め、その直後の第41話以降は、ほとんど「マサルと○○」というフォーマットを無視したサブタイトルばかりになる。
== 作風と影響 ==
作者のうすたが強い関心を持つ[[セガ]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]に関する[[パロディ]]が散見される。特にセガが発売していた[[ピッチングマシン]]型[[玩具]]『ロボピッチャ』の知名度は、この漫画で再び上がったほどである。また[[1980年代]]の芸能人やテレビ番組(『[[お笑いマンガ道場]]』など)、漫画(『[[キン肉マン]]』『[[北斗の拳]]』『[[聖闘士星矢]]』など)のパロディも多い。
当時、『週刊少年ジャンプ』誌上にてバトル要素のある漫画の主人公は、強豪たちが集う大会に出場することがほぼ定番化していた。本作においてもセクシーコマンドー部が大会に出場するが、最終的に決勝戦を棄権して終わる。また、最終回では唐突に「第2部・地獄校長編」が開始され、たった1話のみで完結する。これらの点は、漫画における定番的な流れを破壊することでギャグ性を生じさせた。
『マサル』の影響で同方向のナンセンスギャグを追い求める漫画家志望者が増加したため、「マネもほどほどに...」という見出しで『ジャンプ』本誌の新人賞募集ページに注意書きが掲載されたことがある<ref name=":0">週刊少年ジャンプ 1998年15号 p178.</ref>。
グッズ展開はほぼ無かったが、主人公のマサルと並んで人気が高かった「メソ」はゲームセンターの景品として、ぬいぐるみやキーホルダーなどが作られている。
韓国では1997年より『멋지다!!마사루(すごいよ!!マサルさん)』のタイトルで『週刊少年チャンプ』([[大元 C.I.|大元]])に掲載され、単行本もチャンプコミックスより全巻刊行された。「セクシーコマンドー」が「チャーミングコマンドー(애교코만도)」に改変されるなど、当時の韓国の倫理観に合わせた若干のローカライズが行われた以外は意味不明なギャグがほとんどそのまま翻訳されたが、例えば額に「肉」を描くシーンでは「[[キン肉スグル|へのつっぱりはいらない人]]にそっくりだーっ」のセリフが「精肉屋の肉にそっくりだーっ」に改変される<ref group="注">他方、「フーミン」が「尻穴([[:ko:항문]])」とローカライズされるなど、かなり倫理観の欠如した改変も行われていた。</ref>など、韓国人読者になじみのないパロディは『チャンプ』編集部によってセリフが改変され、完全に意味不明となったため、かえってカルト的人気を博す。日本と同様、韓国の漫画家志望者にも大きな影響を与え、『チャンプ』の投稿作品はしばらく『マサル』の亜流ギャグ漫画だらけとなった。また、2003年に映画『[[オールド・ボーイ]]』で[[第57回カンヌ国際映画祭]]のグランプリを獲得した[[パク・チャヌク]]監督は、「本当は『マサル』を映画化したかったが原作を超える自信がなかったので仕方なく『オールド・ボーイ』にした」とコメントしている。
2000年代前半に韓国のインターネットで流行した「ビョーキ([[:ko:병맛]])」ムーブメントの始祖とされ、「ウォンチュウ([[:ko:원츄]])」は2000年代前半の韓国のインターネットにおける流行語になった<ref>[https://mottokorea.com/mottoKoreaW/Vocabulary_list.do?bbsBasketType=R&seq=18111 ウォンチュ:원츄 : 韓国もっと単語帳] - もっと! コリア (Motto! KOREA)</ref>。
[[2009年]][[2月13日]]に放送された『[[世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS]]』によれば、ニューヨーク[[アポロ・シアター]]に出演し総合優勝した[[上野隆博]]はこの作品の「ダバダバ<ref group="注">首から下の作画を簡略化した状態で走ったり、くねくね動いたりする表現。使われる時「だばだば」という擬音が入ることからこう呼ばれる。</ref>」をヒントにしたダンスを踊った。さらに、この動きは米歌手[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]の目にとまり、2009年9月発表の曲「[[セレブレイション 〜マドンナ・オールタイム・ベスト〜|Celebration]]」プロモーションビデオ(With Fun Ver)中でも「ダバダバ」を披露している(PV中2分35秒頃)。また、実在する音楽ユニット[[ちめいど]]はその名前を本作のギャグから取っている。
== 連載終了までの経緯 ==
『週刊少年ジャンプ』購読層と、それ以外の世代にも絶大な人気を誇りアニメ化も決定したが、唐突な形で結末を迎える(アニメ放送は連載終了後)。
連載終了を決めた理由として、うすたは連載前まで半年に1回しかネームを描いていなかったために週刊連載のペースについていけなかったこと、および原稿の締め切りや読者からの評価・期待などのプレッシャーから連載に対する自信をなくしていったことを挙げている。実際、連載末期は絵柄が乱雑になっていき、原稿を落としたりなどした。このような経緯から、原稿を放り出して逃げ出そうと考えるまでになっていた。
周りから「やめたら後悔するよ」と諭されたが、「ここでやめないと二度と立ち直れなくなる」と感じたため、約1年8か月の連載を終了するに至った。連載終了後、うすたは「今でも後悔することもあるが、決断が間違っていたとは思っていない。『マサル』という作品は79話で終わる運命だった」と振り返っている<ref>うすた京介「セクシーコマンドー外伝「すごいよ!!マサルさん」を描いたこと」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん ウ元ハ王版 5』2008年5月21日、ISBN 978-4-08-874234-2、242-243頁。</ref>。
== 主な登場人物 ==
「声 - 」の表記は、テレビアニメにおける担当[[声優]]。
=== 県立わかめ高校 ===
==== セクシーコマンドー部(ヒゲ部)部員 ====
劇中では校長の策略で、モエモエを除く全員が2回<ref group="注">佐藤吾次郎のみ1回。</ref>留年している。
; 花中島マサル(はななかじま マサル)
: 声 - 上田祐司(現:[[うえだゆうじ]])
: 本作の主人公。2年7組。セクシーコマンドー部(ヒゲ部)部長にして、廃部寸前の空手部をセクシーコマンドー部にした実質的な設立者。部のユニフォームや主題歌、シンボルマークなどもほとんど自分の独断で決めた。
:あらゆる格闘技を習得したが、ある日道端で見つけた雑誌をきっかけにセクシーコマンドーを知り、セクシーコマンドーこそ自らが求める格闘技だと確信。山籠もりの末、習得に至る。
:傍若無人な性格に加え、常人には理解不能な言動を繰り返すため、校内では変人と思われているばかりか、マサル以外の2年7組の生徒全員までもが「変態クラス」の誹りを受けている。常に上半身は紳士用肌着のみを身に着け、さらに両肩には謎の輪'''チャームポイント'''を装着している。また、彼の[[血液]]には謎の物質'''ノッホソ'''が含まれており、今朝食べた何らかの物質と混ざり合うことによって痺れ薬が効かなくなる。
:無類のヒゲマニアでもある他、倒して気絶している相手の額に[[キン肉スグル|「肉」の字]]を書くことが多い。また、変なあだ名を付けることが得意。しばしば奇妙な歌を自作しては歌っている。ヨロシク仮面の熱狂的ファンであり、最強の男と呼んで尊敬を捧げている。
: 子供時代は母の影響から夢見る乙女チックな美少年で、たくましく育ってほしいがゆえに厳しい態度を取っていた父をあまり好いていなかった。しかし、家族旅行で訪れたサバンナにて頭を思いきりライオンに噛まれ、そのライオンを倒した父を尊敬するようになる。
: 高校卒業後は旅人になると決めている<ref name="jC7">うすた京介「うすたの部屋 最終回」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 7』集英社〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、1997年12月9日、ISBN 4-08-872277-9、198-199頁。</ref>。
: 誕生前、「マサル」以外の名前候補として、「マサイ」「マサノリ」「マサノレ」「ヌサル」「マセル」などがあった<ref name="ugen5">うすた京介「副音声的コメンタリー 質問→回答編」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん ウ元ハ王版 5』4-241頁。</ref>。
; 藤山起目粒(ふじやま おこめつぶ)
: 声 - [[金丸淳一]]
: 通称'''フーミン'''。2年7組に転入してきたが、転入初日にマサルに目をつけられ、親友かつ[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]役となる。無類の猫好き。
:今まで転校を繰り返していたため、友達を100人作るという目標を持っていたが、マサルとつるんでいるせいで常識人であるにもかかわらずクラス内ではマサルの同類と見なされており、留年に巻き込まれて以降はさらに浮いた存在と化している。本作は彼の視点で描かれる事が多い。兄・妹・弟2人・海外に姉と、兄弟が多い<ref name="ugen5" />。
: 初期稿ではあだ名は「マチコ」になる予定だったらしい<ref>うすた京介「部屋をかたづけてたらいいモンがでてきたシリーズPart1(最終回)」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 7』170頁。</ref>。マサルが藤山のあだ名を決める際にも候補として登場した<ref name="jC1">うすた京介「コマンドー1 マサルとヒゲ」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 1』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、1996年6月9日、ISBN 4-08-872271-X、25頁。</ref>が、結局「フーミン」と「'''げろしゃぶ'''」の2択に絞られた。
; 近藤真茶彦(こんどう まちゃひこ)
: 声 - [[一条和矢]]
: 3年生。通称'''マチャ彦'''。スーザン(校長)からは「近藤(こんど)っち」とも呼ばれる。マサルが以前に所属していた空手部の部長だったが、マサルが入部して早々部員全員を倒してしまったせいで廃部寸前となり、部を再建しようとするうちにいつの間にかセクシーコマンドー部の部員にされた。
:比較的良識はあるが、「男」というフレーズに弱く、「卑怯」「男らしくない」と指摘されると露骨にショックを受け、くじけると主に[[近畿方言|関西弁]]が出る。フユミという美少女に恋心を抱いたこともあったが、奇行と自身の書いた意味不明な[[恋文|ラブレター]]によって玉砕した。
: アニメ版では、マチャ彦のテーマ曲として[[近藤真彦]]のヒット曲『[[ギンギラギンにさりげなく]]』をパロディ化したBGMが使用されていた<ref group="注">サウンドトラックでの曲名は「さわやかマチャ彦」。</ref>。アレンジもアップテンポなものとバラード風なものがあった。
; 磯辺強(いそべ つよし)
: 声 - 長島雄一(現:[[チョー (俳優)|チョー]])
: 2年生。通称'''キャシャリン'''。あだ名の通り華奢な体格の上、体を軽く叩かれるだけで脱臼するほど脆弱。それをネタに同級生から[[パシリ]]として扱われており、強い男になって見返すためにセクシーコマンドー部に入部した。普段は語尾に「~[[ッス]]」と付け、誰に対しても腰が低い。
:中学まではまともな体であったが、[[マッチョ]]に憧れて自ら調合した怪しげな薬<ref group="注">実質的に[[麻薬]]や[[覚醒剤]]と同質のものとして扱われており、アニメでは放送上の都合で「クスリ」をもじった「'''クヌソ'''」と呼ばれている。</ref>・'''つよしスペシャル'''を飲み続けた結果、体が衰えてしまった。つよしスペシャルを服用するとトランス状態に陥り、「[[Mr.オクレ|オクレ兄さん!]]」と叫んだり[[幻覚|変な夢]]を見たりする。たまにマッスルの神様(略称「マ神」)を召喚する。
:中学時代は野球で有名なダビデ二中に通っており、1年生の頃からエースであった。現在もわかめ高校野球部のエース・川島の球を1球で見切り打ち返すほどの実力を保持している。
:連載後半には宇宙人に捕まり、洗脳コントロール用の角を移植される。角は皮膚と繋がっており、頭の中から直接生えるような形になっているため取り外すことができなかったが、本人も気に入ったため以降そのままになった。
; 田中スーザンふ美子(たなか スーザン ふみこ)
: 声 - [[井上和彦 (声優)|井上和彦]]
: [[目出し帽|赤い覆面]]を被っている謎の生徒。通称'''スーザン'''。その正体はわかめ高校校長・'''さかきばらのぶゆき'''その人で、マサル以外の人間には正体が知られている。最初は3年生と言っていたが、後に2年生だと誤魔化している。アフロ君入部以降、部員が揃ったためかほとんど登場しなくなる。また、大会に参加しなかった件は「祖父の三回忌」と言って誤魔化していた。マスクはスイス製らしく、学校指定の制服屋で購入している<ref name="ugen5"/>。
; 佐藤吾次郎(さとう ごじろう)
: 声 - [[内藤玲]]
:1年生。通称'''アフロ君'''。天才的な頭脳を持つ優等生だが、女子生徒にプロポーズして冷淡に断られたことからモテないのは外見や言動にインパクトが無いからだと思い込み、変人のマサルに相談した結果、髪型を[[七三分け]]から[[アフロヘアー]]に変えられる。その後、部活を見学し入部を決めた。なお、アフロにされる前のあだ名は「'''めがね君'''」。
:当初は嫌がったアフロにも愛着を持つようになったが、全国大会中に綾茂高校の闇討ちでアフロをちぎられ、[[ナイトキャップ]]らしきものを被り隠したものの、マサルにあっさりと外され、「'''アフロ…?君'''」という新たなあだ名を付けられてしまった。
:温泉旅行では男宿名物「べっとり・ザ・アグネス」に負けて入口で脱落した上、帰り際にトレパンと一緒に放置された。
: 嫌いな食べ物は[[ピータン]]。理由は、かつて父親がピータンに夢中になっていた頃、毎朝毎晩ピータンの混ぜご飯を食べさせられていたから。実家は大金持ちらしい。
; 北原ともえ(きたはら ともえ)
: 声 - [[小西寛子]]
:2年生(後に進級)。通称'''モエモエ'''。マネージャーで、部のアイドル的存在。演劇部と掛け持ちしており、そこでの友達からは「もえ」と呼ばれている。
:見た目も性格も至って普通の女子高生だが、美容師兼ヒゲ師であった亡き父親の影響でヒゲに異常なこだわりを持つ。マサルとはヒゲを通じて意気投合し、セクシーコマンドー部を「ヒゲ部」に変えるきっかけを作った。
:おっちょこちょいなところがあり、よく物を紛失する。ヒゲッパという名前の犬を飼っている。好きな男性のタイプは、「断トツで」[[サルバドール・ダリ]]<ref name="ugen5" />。
:尚、「'''モエモエ'''」のイントネーションは「カーテン」や「ラーメン」と同じで上がって下がる。
; メソ…
: 声 - [[南央美]]
:謎の生物。「めそ」または「メソ」とも呼ばれる。本当は「メソ」の後に何か言葉が続くようだが、その部分を知っている人間はマサルのみ。モエモエの父が生前追い求めていた'''伝説の青いヒゲ'''とも関係があるかどうかは定かでない。
:マサルたちが山に遊びに行った際、洞窟の中にあった謎の空間で発見。見た目の可愛らしさからマサル以外の全員が連れ帰ってペットにしようとし、マサルも当初こそ「立派な青いヒゲを生やすだけ無駄なところ([[眉毛|眉]])に生やしているから」と難色を示したものの、結局は許可した。以降、セクシーコマンドー部、ひいては本作のマスコットキャラクターとなる。
:一見可愛らしい小動物だが、その外見は[[着ぐるみ]]であり、背中にはチャックがついている。舌が割れていたり、突然体が膨張したり、チャックを内側から閉めることもできるなど、とても怪しい。中に何がいるのかは分からないが、2匹の生命体であるらしい。基本的に鳴き声は「モキュ」だが、気を抜いた時や焦っている時に「チェストー!!!!」「はよせな」などといった言葉を発する。
:『[[武士沢レシーブ]]』では、国本ちはるの部屋の[[目覚まし時計]]として登場している<ref>うすた京介「ヒーローその2 武士の目覚め」『武士沢レシーブ 1』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、1999年8月9日、ISBN 4-08-872752-5、53頁。</ref>。
; ボナンザ
: 野球勝負でマサルが用意した助っ人。その正体は[[シンバル]]を持った[[サル]]の玩具。マサルによれば「君たち(セクシーコマンドー部)はただのオモチャか何かと思ってるんだろうが、こいつはそんなヤワなもんじゃない」「やる気まんまん」らしい。
:なめられていると感じた川島にボールをぶつけられて壊れ、8対8で試合が行われた。たった数コマの短い登場だったが、人気投票では10位になる<ref name="jC5">うすた京介「コマンドー50 マサルと謎の人物サトル」『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 5』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、1997年6月9日、ISBN 4-08-872275-2、102-103頁。</ref>。
:作者によると、名前の由来は『COMIC BOONANZA』([[リイド社]])という成年漫画雑誌からで、名前が面白いという理由で取られた(ウ元ハ王版2巻)。
==== 教師 ====
; さかきばら のぶゆき
: 声 - 井上和彦
: わかめ高校校長。「校長」の文字が無数にプリントされたネクタイを愛用。一見弱った老人にしか見えないが、実は「'''バイオレンスのぶちゃん'''」の異名で恐れられた伝説的なセクシーメイトであり、自身も'''田中スーザンふ美子'''としてセクシーコマンドー部に参加する。高校のチャイムも担当している。
:校内の花壇を'''わかめ王国'''と名づけ、[[ワカメ|わかめ]](外観は[[コンブ]])、味噌([[糠]])、花かつおなどを植えて世話をしている。マサル率いるセクシーコマンドー部には、ユニフォームを買いに行く時にポケットマネーを出したり、部費を50万円出したりと非常に優遇し、セクシーコマンドー部を存続させるため、校長権限でモエモエ以外の全部員を[[留年]]させたりした。マサルに賄賂として貰った[[まるごとバナナ|まるごとババナさん]]が好き。
: 元は熱血教師で、かつての教え子だった'''鬼風陣豪'''(きふうじん ごう)が[[内閣総理大臣]]に就任。また、[[1955年|昭和30年]]から[[1956年|昭和31年]]の間に鬼風陣とのあるやりとりが元で急激に老いてしまった。現在では何かと魂が抜け出て[[臨死]]状態になり、その度にマサル以外の部員たちを不安にさせる。
: セクシーコマンドーを知ったきっかけは、17歳ぐらいの時に雑誌を拾ったことだった<ref name="ugen5"/>。
; 松田達郎(まつだ たつろう)
: 声 - [[高橋ひろし|高橋広司]]
: 国語教師。2年7組の担任及びセクシーコマンドー部顧問でもある。通称'''トレパン'''。初登場時29歳。いつも[[トレーニングパンツ]]とサングラス、ホイッスルを身に着けている。
:部活の顧問をしたいがためにセクシーコマンドー部の顧問に名乗り出ただけで、セクシーコマンドーのことは何も知らない。以前はアマチュア無線部の顧問をしていたが、この時もアマチュア無線のことは何も知らなかった。堪え性がなく、何でもすぐに諦め、その度に自分自身に対して言い訳をする上に、校長など自分より立場が大きい者には潔く屈する。このような性格のため、部員たちには疎んじられており、[[ピューと吹く!ジャガー#ふえ科メンバー|ジャガー]]からも「コイツの笛は許しがたい」と言われている(ウ元ハ王版3巻)。
:マリコ先生に片思いしているが、相手からは同僚以上の感情は持たれていない。トレーニングパンツ以外ではケミカルウォッシュジーンズも愛着している。
: 一番楽そうという理由で国語教師を目指した<ref name="ugen5" />。本を読むのは嫌いで、活字を見ていると眠くなる<ref name="ugen5" />。どんなスタイルにも合わせ易いという理由から、小豆色のトレパンを気に入っている<ref name="ugen5" />。キャラクターモデルは、うすたが中学1年の時にいた社会の先生(ウ元ハ王版2巻)。
; マリコ先生
: 声 - [[天野由梨]]
: 保健医、新体操部顧問。初登場時22歳。苗字は不明。マサルが山籠もりで学校を休んでいる間に着任した。セクシーな外見と仕草で、わかめ高校の教師や生徒を悩殺しているが、本人は真面目で良識ある性格。
:セクシーコマンドー部が設立の承認を得るために部員集めをしていた頃、マチャ彦の提案でセクシーコマンドー部の部員にされかかるが、マサルの「最初からセクシーなら、セクシーコマンドーをする意味が無い」という指摘により頓挫。後に顧問としても勧誘されるが、その時は新体操部の顧問を既に行っていることを伝えて断った。校長には興味を持っているらしく、バレンタインデーにチョコを贈っている。
: うすたは「大人の女性なので、描きにくいキャラ」と語っている<ref name="ugen5" />。
; 教頭(きょうとう)
: 声 - 長島雄一
: わかめ高校の教頭。度々登場する。3日以内に部員を5人集める約束でセクシーコマンドー部の設立を許した。
; 武田(たけだ)
: 声 - [[沢木郁也]]
: 野球部顧問。年配の教師。セクシーコマンドー部が50万円もの部費を与えられたことをきっかけに、職員会議でトレパンと衝突。セクシーコマンドー部と野球勝負を行う。
:勝負の後には、部費にこだわりムキになっていた自身を反省し、セクシーコマンドー部と和解した。
; 無し元小銀(なしもと こぎん)
: 全国大会で準優勝して以来、全く部活動をしなくなってしまったセクシーコマンドー部を見かねた校長がセクシーコマンドー協会から呼んだ新顧問。自称「セ協のホープ」。
:彼の赴任と共にトレパンは顧問を解任され、それだけでなくマリコ先生にも色目を使ったためトレパンから敵視され、対決する。熱血ぶっているが本性はトレパンと同レベルの器の小さい人間で、自分の都合が悪くなるとトレパンに難癖をつけて逆ギレしていた。
:本当は臆病者で、子供の頃からいじめられていたため、体を鍛えるべくセクシーコマンドーを始めた。些細なことで驚いて大げさなポーズと共に倒れる癖があり、そのポーズを含めて「リアクションが古い」とマサルたちに突っ込まれている。
: 週刊少年ジャンプで連載されていた『[[アカテン教師梨本小鉄]]』の、同名の主人公が元ネタ。マリコ先生同様、うすたは描きにくいキャラとして挙げている<ref name="ugen5" />。
==== 生徒 ====
; タケダ
: マサルとフーミンのクラスメイト。調子に乗りやすい。1話で2コマのみの登場にもかかわらず人気投票で18位にランク入りする<ref name="jC5"/>。3年間無遅刻・無欠席の記録を持っている<ref name="ugen5"/>。アニメ版では登場シーンがカットされた。
; 沢村りえ(さわむら りえ)
: 声 - [[岩坪理江]]
: マサルとフーミンのクラスメイト。マサルとしか話さないフーミンを心配し、話しかけたが、フーミンも変態だと思っている友人に無理矢理話を遮られ連れて行かれる。
; 服部(はっとり)
: 声 - [[花田光]]
: 3年生。通称'''うまい棒'''。元空手部部員でそれなりの実力者だったが、空手部に入って間もないマサルに負けたことでやる気をなくし、不良となった。常に山下とつるんで行動し、マサルに仕返しする機会を窺う。[[学生服]]ではなく、トレーナーなどの私服を着ていることが多い。
:1度目の仕返しではマサルの名を騙って悪事を働き、マサルをおびき寄せ、目を閉じてマサルの動きを無視するという作戦でセクシーコマンドーを破ったが、攻撃が終わった後も目を閉じたままでいたためあっさりと倒される。2回目の仕返しではメソを誘拐しようとしたが、メソの可愛さに情が移って断念。その後、特にマサルたちと絡むことはなかったが、授業をサボっていたところ、突然現れたサトルから「オイニーって言うな……さかさまに言うなー!!」と理不尽な説教をされた。
:実は留年生だが、マサルたちと同様に2年目に突入したかは不明。[[うまい棒]]の種類に非常に詳しい<ref name="ugen5" />。
; 山下(やました)
: 声 - [[五代あつし|村井厚之]]
: 3年生。通称'''ティッシュ'''。服部と同じ経緯で不良となった。長い茶髪、ピアスが特徴。服部に比べると活躍する場面は少ない。
; 石黒(いしぐろ)
: 声 - [[陶山章央]]
: 2年8組の不良生徒。体育の授業のため仲間3人とグラウンドへ歩いていたところ、校舎から飛び降りてきたマサルに驚き、マサルに絡むが、謝罪としてのし袋を渡されたことで見逃す。のし袋の中身が猫の写真だったためマサルに対して授業中嫌がらせをした結果、マサルに倒されて額に「肉」と書かれ、[[キン肉スグル|へのつっぱりはいらない人]]に似た顔にされた。
:翌日、いつもマサルと一緒にいるフーミンに目をつけ、殴ろうとするが、仲裁に入ったマチャ彦を代わりに殴ってストレスを発散した。マサルがセクシーコマンドー部を作ろうとしていることを知ると、入部を志願すると装って近づき、教頭の目の前で暴れることで部の設立を頓挫させようと企むが、校長に阻止される。その後、利害の一致から服部・山下と組むも失敗に終わる。
; 松井(まつい)
: 声 - [[小西克幸]]
: 石黒と行動を共にする不良。一度マサルにやられた後、彼に関わらないよう石黒を諭すも聞く耳を持たれなかった。一度だけ服部・山下と組む石黒に付き合ったが、2度目はなかった。
; 伸子(のぶこ)
: 声 - 南央美
: 演劇部の裏方。モエモエの友人。あだ名は「ノブリ」。眼鏡をかけて、髪をお下げにしている。
; 川島(かわしま)
: 声 - [[谷山紀章]]
: 野球部のエースピッチャーでなぜか左投右打。部同士の野球勝負でもマウンドに立つが、セクシーコマンドー部のいい加減な態度に激怒。その怒りは凄まじく、彼をよく知る友人ですら「あれは川島ではなく'''西島'''だ」といささか錯乱気味に語るほどだった。最後まで勝負を捨てようとしなかったが、結局はマサルの無茶苦茶な[[魔球]]の前に戦意を喪失し、負けを認めた。
; 野球部のキャッチャー
: 声 - [[川津泰彦]]
: 本名は不明。手のしびれが取れないほどの川島の剛速球を受け止め、彼の焦りを察した。
; 猿渡守(さるわたり まもる)
: 声 - 内藤玲
: 野球部部員。目立たないため、部員にも名前を覚えられておらず「中島」「中山」「中なんとかー」と言われ、半泣き状態になっていた。マサルの魔球に手も足も出ず、他の部員たちと共に勝負を捨て、川島とマサルの一騎打ちを見守る。
; 轟車じ郎(とどろきぐるま じろう)
: 声 - [[立木文彦]]
: 新聞部部長。ニット帽にサングラスを着用し、高校生とは思えないほどの老け顔。法外な部費を貰っているセクシーコマンドー部に疑惑を持ち、裏を探る。
; たくみ
: 声 - [[山崎たくみ]]
: 新聞部部員。マサルの差し金で紙面をセクシーコマンドー部を担ぐような内容にしたために、轟車に鼻の穴のアップを撮られる。
; ちえ
: 声 - [[杉本ゆう]]
: マサルとフーミンの留年した後のクラスメイト。学校に来ないマサルのことをフーミンに尋ねた。フーミンのことは先輩と呼ぶが、内心ではフーミンのことも「まともっぽいが怪しかった」と思っている。
=== 花中島家 ===
マサルの家族。自宅は布で覆われており、マサルの自室には「ソドップ」「もっちゃん」などの怪しい言葉だけを録音した[[カセットテープ]]がある。
; 花中島サトル(はななかじま サトル)
: マサルの父。息子以上の変人。本人曰く「息子の教育」を仕事にしており<ref name="ugen5" />、マサルが困った際に度々現れる。
: 幼少の頃、男らしくたくましくなってほしいという思いとは裏腹に、母に似てロマンティストに育つマサルに歯がゆさを感じていた。行き先を決めず家族を引き連れて旅行し、行き着いたサバンナでマサルの頭をライオンに噛ませ、そのライオンを倒す。それ以来、マサルから尊敬される。
: アニメではオープニングに[[平等院]]と共に毎回登場している。本編はサトル初登場の寸前で終了したため、最終回の48話に半ば強引に登場したが、屋根の上でアコースティックギターを演奏したのみで喋るシーンは無かった。
; マサルの母
: 声 - [[麻生かほ里]]
: 名前は不明。顔はシルエットになっていて、よく見えない。幼少期の息子でさえ母の顔をよく把握していない。口調は上品で、声もとても綺麗らしい。
:幼少の頃から、息子をロマンティックな少年に育てようとしていた。怒ると額に第3の眼が現れかなり恐ろしいらしく、サトルも妻には一目置いている。失礼な発言をする中学生どもの髪の毛を、いましめとして1人6万本ずつ引き抜いたこともあるらしい。
=== 毛生え薬研究会 ===
謎の発明集団。マサルのチャームポイントで髪が伸びることを[[西友]]<ref name=":0" group="注">アニメでは「'''酉友'''(とりゆう)」。</ref>で目撃して知り、それを毛生え薬の原材料にすることを目論む。毛生え薬で増毛した後は4人でお笑いグループを結成し、自分の髪型と同じカツラを被って笑いのネタにする算段であった。
; ボス(BOSS)
: 声 - [[緒方賢一]]
: 毛生え薬研究会を束ねる男。マサルのチャームポイントが異星の物質であることを知っていた。かけている丸いサングラスは、左側のレンズは紫色で、反対側はただの透明レンズ。興奮すると「[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]」と叫ぶ。
:キースのメッセージを曲解し、秘密兵器「コペルニクス1号」を携えて徒歩で助けに向かう。到着後、会の名前についてセクシーコマンドー部から散々に批判され、さらに魂胆をマチャ彦に言い当てられる。その後コントローラーをマサルに壊され、頼みのコペルニクス1号が動かなくなったため仲間と一緒に退散した。
; ボビー
: 声 - [[鶴岡聡]]
: ボスの部下で、サングラスにスキンヘッドの大男。マサルのチャームポイントに近づき、サングラスを黄色く変色させたことで目当ての品であることを実証した。
:マサルを襲うが返り討ちに遭い、顔に「肉」や「[[テリーマン|米]]」「[[キン骨マン|骨]]」など大量の落書きをされるが、マサルによれば失敗。その後再度襲い掛かるも、スーザン(校長)の放課後キャンパスに沈む。
; エリック
: 声 - 高橋広司
: ボスの部下で、オールバックのビジネスマン然とした男。キース曰く大学出。ボビーがやられて逃走後、キースと共に再度マサルの前に現れたが、マチャ彦の卑怯な不意打ちで倒された。
; キース
: 声 - [[横田栄治]]
: ボスの部下で、短い金髪の男。エリックと共に増援に向かったが、エリックが倒されたのを見て恐れをなし、セガのロボピッチャを改造した通信機を使い「'''ボスケテ'''('''ボス'''タス'''ケテ''')」と信号を送る。
:その後はボスの持ってきたコペルニクス1号をリモコン操作し、セクシーコマンドー部を苦しめるが、フーミンの陽動作戦により隙を突いたマサルにぶっ飛ばされた。
; コペルニクス1号
: 毛生え薬研究会の秘密兵器、またの名を「今週のうっとりねっちょりメカ」。大きな[[こけし]]に両腕と掃除機の吸込口を付けた風貌。キースがラジコンの送信機で動かす。登場時にはキースが「こけしやないかい」とツッコミを入れ、笑いを取ろうとしたが、全くウケなかった。
:見た目の割に動きが素早く、セクシーコマンドー歴の長いスーザン(校長)ですら背後を取られて倒され、マチャ彦、キャシャリンも次々と倒される。しかし、キースが操っていることを知ったマサルの策により、フーミンが陽動作戦を行い、その隙にマサルがキースもろとも送信機を壊したため、機能を停止。人気投票では13位にランク入りしている<ref name="jC5" />。
=== 劇中劇『ヨロシク仮面』とその関連人物 ===
; ヨロシク仮面
: 声 - 井上和彦
: 特撮ヒーロー番組『あいさつ仮面シリーズ』の一作『ヨロシク仮面』の主人公。続編として『ヨロシク仮面 DATSU☆NO(ダッツ☆ノー)』も放送されている。本人の弁によれば、普段はけっこう気さくないい奴だと友達にも言われるらしい。[[ブリーフ]]<ref group="注">「親父のブリーフ」とされているが、実際に父親のものかは不明。</ref>がトレードマーク。決め台詞は「おやごさんにヨロシク」。必殺技は'''ブリーフの舞'''で、これをすると空気中のブリフィッシュエネルギーを吸収し、よりエレガントな男になれる。
:『DATSU☆NO』では'''新・ブリーフの舞'''にパワーアップ。空気中のブリフィッシュエネルギーを吸収し再び開放することにより、世界中のブリーフを集結させ、誰のモノともつかぬ世界のブリーフたちと共に自分で考えたダンスをひたすら踊り続ける。
:その素性はタケルという名の青年<ref group="注">タケルの時でもヨロシク仮面の格好だが、スカーフの色が僅かに違うらしい。</ref>で、事件が無い時は昼間から酒を飲んだり、レンタルビデオ屋で「マニアックなアニメ~ション」のビデオを借りたりしている。
: 9話でマサルが歌っていた歌は、『ヨロシク仮面』の第203話で一度だけ流れた挿入歌「ヨロシク仮面・布地のテーマ」(ウ元ハ王版1巻)。ほとんど同じ曲で「ヨロシク仮面・服のテーマ」も存在するらしい。
:; 大木(おおき)
:: 声 - 長島雄一
:: ヨロシク仮面の[[スーツアクター]]を務める中年男性。『あいさつ仮面シリーズ』に長年かかわってきたらしく、西友<ref name=":0" group="注" />の屋上でのショーを担当している。
::ショーの途中、ブリーフが破れたため、慌てて楽屋に戻るも、段差で将棋倒しになり負傷。怪我を押してショーを行おうとするも、替えのブリーフが無いことに気づき半ば諦めるが、わざわざ父親のブリーフを持参してヨロシク仮面ショーに来たマサルのこだわりとヨロシク仮面への想いを認め、代役を担当させる。
; さかな柔道着
: 声 - 陶山章央
: 西友の屋上でのショーでヨロシク仮面と対決した敵怪人。名前通り柔道着を着た魚の怪人で、語尾に「サカナ」を付けて喋る。笑い声は「フィーッフィッフィッフィッシュ」。誤ってヨロシク仮面のブリーフを破く。
; 小林(こばやし)
: 声 - [[松山鷹志]]
: 西友で行われたヨロシク仮面ショーのスタッフ。大木の意を汲みつつも、ヨロシク仮面の人気の低迷を実感しており、苦言を呈した。
; ケン坊
: 『ヨロシク仮面 DATSU☆NO』に登場するシルクハットを被った少年。タケルと仲が良いが、彼がヨロシク仮面と同一人物だとは思っていない。
; シケモク怪人スモーキン・ブギ
: 『ヨロシク仮面 DATSU☆NO』に登場する敵怪人。下半身がラクダになっているタバコの吸い殻の怪人で、語尾に「リベラ」を付けて喋る。笑い声は「スモークモクモク」。
:シケモクを巡ってヨロシク仮面と戦い、新・ブリーフの舞にも耐えたが、突然現れた謎のヒーローのヒーローパンチで倒される。
; 謎のヒーロー
: 『ヨロシク仮面 DATSU☆NO』に登場する謎のヒーロー。ヨロシク仮面がピンチに陥った際、助けに現れる。
=== 全国セクシーコマンドーフェスティバル参加高校及び大会関係者 ===
; エキス=パンダーX(仮名)
: 声 - [[飛田展男]]
: セクシーコマンドー協会会長。鳥の被り物をしている。自らが全責任を負うべき大会でトラブルが起きても、面倒だからという理由で容認する。全国大会では開会の辞を述べた。
; 審判
: 声 - [[大林隆介]]
: 全国大会での試合を取り仕切る。怪しげな呪文と動きの後、涙を流しつつ試合開始を宣言する。頭のハチマキには紅白2本の羽根を挿しており、判定において使う。マ神が憑依したキャシャリンへのドーピング疑惑に関してはあっさりと容認した。
;サンバ高校
:サンバ風の衣装を着た生徒。陽気だが、メンバー同士の仲は悪い。1回戦でわかめ高校と対戦するが、マサルに5人抜きされる。メンバー表の名前が映されなかったため、個人の名前は不明。
:; 先鋒
:: 声 - 飛田展男
:: それぞれ「キテ」「レツ」「ヒャッカ」と名付けた3本の腋毛を育てているが、マサルに抜かれた上、マサルが手の中で腋毛を増殖させたことに驚いたところを殴り飛ばされて敗北する。
:; 次鋒
:: 声 - [[石井康嗣]]
:: 先鋒が敗れ、「オイ~ッス」と凄んで前に出たため、フーミンらを恐れさせる。その後敗北した。
;カブキ高校
:前回の優勝校。決勝まで勝ち残るが、わかめ高校に棄権される。
:; 桜田門凱(さくらだ もんがい)
:: 声 - 南央美
:: 少女漫画に出てきそうな美貌の、カブキ高校セクシーコマンドー部部長。相当な使い手のようであり、マサルを「ああいうタイプは怖い」と分析。わかめ高校との対戦を楽しみにしていたが、棄権される。
::マサルと握手した際、マサルの手にガムを付けたが、自分は手に[[ウニ]]を刺された。パーマがかかった金髪が特徴だが、これは毎日巻貝でセットしており、本人曰く「自然素材を使った、ある意味天然パーマ」<ref name="ugen5" />。
:; 部員
:: 声 - 鶴岡聡、横田栄治、[[加勢田進]]、岩坪理江
:: 腕まくりをした長身、鉢巻きに眼鏡、痩せている男、帽子を被った小太りの4人。いずれも気弱だが、門凱同様に相当の使い手らしく、小太りの部員はガクラン高校を5人抜きする。
;ガクラン高校
:学帽と学ランの[[ヤンキー (不良少年)|番カラ]]風学生。部員同士を「1号」「2号」と呼び合う。1回戦終了後、門凱が捨てたウニの殻が2号に刺さったことで、彼ら及びマサルと一悶着を起こす。気性が荒く、マサルに対しても「おんどりゃあ」などの「男弁」<ref group="注">[[ヤクザ映画|仁侠映画]]や昔の熱血番長マンガによく使われる言語で、どこの方言とも微妙に違う、いわば男の方言である。そこはかとなく男らしい。</ref>で威嚇したが、マサルに「お前たちの学ランのボタンに『中』と書いて、いまだに中学校の学ランを着ているみたいにしてやる」と言い返された際には「やっていいことと悪いことがある」と返すなど、人並みにモラルを持ち合わせている。
:試合ではカブキ高校と対戦したが、先鋒に5人抜きされた。マサルによるとセクシーコマンドーの腕前は大したことがないチームらしい。
:; ガクラン高校・1号
:: 声 - 石井康嗣
:: リーダー格。
:; ガクラン高校・2号
:: 声 - 石井康嗣
:: 部員。ウニの殻が首に刺さったが、根性で痛みをこらえていた。
;綾茂高校
:自校の女子生徒を部に勧誘したところ、セクシーコマンドーをやっていることを恥ずかしがられたため、部員全員が黒装束で正体を隠している。素顔は全員ともかなりの美形らしい。一様に[[プリズマン (キン肉マン)|「キョーキョキョキョ」という無理のある笑い方]]をするので、時々咳き込むこともあり、笑う時には細心の注意を払わなければならない。また敗れた者には尻に缶や花を挟ませ、写真に収めるなどの罰を与える。
:全国大会準決勝でわかめ高校と対戦するが、最終的に「謎の理由」で試合放棄。帰り際にテニスウェアを買っていったらしい。
:; キャプテン
:: 声 - [[菊池正美]]
:: 部長。実は他の部員に黙ってテニス部に入部しており、しかも怪我をした上にマネージャーといい雰囲気になっていたことが発覚したため、部員全員に袋叩きに遭う。
:; コメッチ
:: 声 - [[森川智之]]
:: 先鋒。骨ネタを得意とする。マ神が乗り移ったキャシャリンに怯えていたが、マ神があっさりと退散したことで勝利。その後フーミンと対決するが、フーミンのネタのあまりの寒さに辛い気分になってしまい、その隙を突かれ敗北。敗れはしたものの、その表情はとても幸せそうだった。あまりコメッチと呼ばれたくない様子。
:; こぶいち
:: 声 - [[岡野浩介]]
:: 次鋒。「ネコの達人」などの異名を持つ。装束の中から猫のシルエットを浮かべ盾にする技でフーミンを倒すも、マチャ彦に敗れる。実際には猫は入っておらず、[[般若]]の仮面であった。
:; 中堅と副将
:: 声 - 鶴岡聡、加勢田進
:: 2人抜きされたことに焦り、奥の手として2人が肩車して戦う作戦を実行したが、反則負けになる。
=== 温泉宿「気絶温泉 男宿」 ===
「男宿」は「[[魁!!男塾|おとこじゅく]]」と読む。セクシーコマンドー部が全国大会の優勝景品である温泉旅行のチケット<ref group="注">当初からマサル以外の全部員がこの温泉旅行(モエモエとの混浴)を目当てに大会に参加していたが、メソがチケットを盗んできたため、戦う理由がなくなり、決勝戦を棄権した。</ref>を使い、冬休みに訪れた[[伊豆市|伊豆]]の温泉宿。モットーは「親切・丁寧・狂気」。宿に行く道中、紐を首に巻いて地面に付けないように男らしく3km走らなければならない。一方で女は女らしく補助輪付きの自転車に乗る。
; 鼻頭油とり三郎(はなあたま あぶらとりさぶろう)
: 男宿の宿長(じゅくちょう)。変な名前だが、その風貌には合っているためセクシーコマンドー部全員に納得された。夕食に[[食品サンプル]]を出した挙句それに痺れ薬を仕込み、毒を受け付けなかったマサルとの勝負にもつれ込む。戦い終わってマサルと男同士の友情が芽生えたようだが、マサルからは「男宿で一番男らしくない奴だった」と告げられた。
; 謎の中国人「K」(なぞのちゅうごくじん・ケー)
: 男宿の入口でセクシーコマンドー部を待ち構えた門番。ベタな中国人キャラ。一行に名前を「金(キン)」だと容易く看破された。日本のコメディアン・[[東京コミックショウ|東京コミックショー]]のギャグを知っていたことから、日本人である疑惑も持たれている。
; 謎のアメリカ人「J」(なぞのあめりかじん・ジェイ)
: 男宿の浴場でセクシーコマンドー部を待ち構えた風呂の番人。ベタな外人キャラだが、なぜかバイザーを目に着けている。温泉旅行に誘ってもらえなかったため、密かに尾行してきたトレパンを人質にし、一行に73℃の熱湯風呂に2分間浸かる試練を課す。
; 男宿の者
: 野球のユニフォームに[[虚無僧]]の天蓋を被っている男。質問には一切答えず、セクシーコマンドー部を男宿に案内した。その後は道端に倒れていた。
=== その他の人物 ===
; サラリーマン
: 声 - 松山鷹志、小西克幸ほか
: セクシーコマンドー部の花見に絡んできたサラリーマン。課長と平野と鈴木の3人。会社で左遷されており、その憂さ晴らしに泥酔。モエモエに絡み、注意した校長にビールをかけるなどの行為を行い、1人がマサルに倒される。その後、空手や柔道の有段者だと言って凄むも、部員全員に退治される。
; マッスルの神様(マ神)
: キャシャリンが祈りを捧げる筋肉質の体を持つ神。野球勝負ではキャシャリンに力を貸し、超剛速球「'''キン肉ボール'''」を放たせるも、たった1球、しかも投球練習でキャシャリンともども燃え尽きてしまう。全国大会ではキャシャリンに憑依しマッスルボディに変えたが、何の役にも立たなかった。マサルだけは彼を見ることができるらしい。
; ポチ&ペス
: マサルのチャームポイントの本来の持ち主。いずれも典型的な[[グレイ (宇宙人)|グレイ]]タイプの宇宙人で、背が低く、目が大きめで、体色は銀色。3年半ほど地球に滞在しており、普段は公園の地下にある『キン肉マン』に登場するキン肉ハウスのデザインをそのままパクった小屋に住んでいる。
:最初にマサルが山でチャームポイントを拾った際、取り返そうとして対峙するが、返り討ちに遭う。その後、キャシャリンを改造・洗脳して再びチャームポイントを取り返そうとしたが、突如青いヒゲを生やしたマサルの紳士的な説得を受け、納得しつつ「マリガトー」の[[ミステリー・サークル]]とキャシャリンの角を残して地中に帰った。
: 第3部で本名が明かされている。宇宙人スリーによると「ただの亀の餌やり係」らしい。
; 暗黒先生ジゴック
: 第2部「地獄校長編」に登場。自称「暗黒エスパー地獄むっちり校長ジゴック」。見た目は校長と酷似しており、頭にG字状のこぶのようなものを乗せている。
:エスパー<ref group="注">「エスニックパーマ」の略。</ref>らしく、メソに酷似した無数の怪生物を使って、わかめ高校を乗っ取る。その後、自分を倒しに来たマサルたちに対抗してメソのような生物を操ろうと力んでいたが、突然力尽きた。
: 名前は[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]『[[このまちだいすき]]』のキャラクター「シゴック先生」に由来。マサルにも「名前が似ている」と指摘されている。
: アニメでは最終回の48話の本編終了間際で止め絵として登場した。
; 宇宙人スリー
: ウ元ハ王版5巻収録の第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」に登場。自称「極悪宇宙三人衆」。
:ポチとペスに代わってマサルのチャームポイントを取り戻すべく地球に来た3人組の宇宙人で、3人の容姿はそれぞれ異なる。UFOで地球に接近する途中、[[スペースデブリ|宇宙ゴミ]]と衝突し、マサルたちに知られることなく星になった。
== セクシーコマンドー ==
本作に登場する[[架空]]の格闘技。一部では幻の格闘技と言われ、格闘技に精通した者にも「マニアックなもの」程度にしか思われていない。一般にはほとんど知られておらず、セクシーコマンドー協会(略称「セ協」)の会員は全国で200人程度らしい。
他の格闘技との決定的な違いは、相手の隙を無理矢理引き出し、その隙を利用して攻撃するというスタイルである。意外性を武器にするため、柔軟な発想が求められるほか、いわゆる「セクシーな人」はちょっとした仕草だけで十分に隙を作れるため、やる意味がないとされる。
セクシーコマンドーをやる者のことを'''セクシーメイト'''と言い、ほぼ毎年セクシーメイトによる競技会が開かれている。返事は「ラジャー」「ウォンチュウ」「クリンナップクリンミセス」「ラバーメン(ゴム人間)」、賞賛の掛け声は「ナイスセクシー」。
=== セクシーコマンドーの技 ===
セクシーコマンドーの極意は、いかに相手の隙を誘うかにかかっている。そのため、最も重視されるのは対戦相手を呆然とさせる意外性である。'''前フリ技'''と呼ばれる型はあるものの、前フリ後の展開に関しては各々セクシーメイト次第であるため、使い手の技量が顕著に現れてくる。
なお、「隙を作るための動き」そのものがセクシーコマンドーであり、隙を作った後にどのような攻撃をするかは重要視されない。そのため、単純な攻撃力を求めるならば、マサルのように別の格闘技の心得を持っていた方が有利と言える。
; エリーゼのゆううつ
: セクシーコマンドーの基本となる前フリ技の一つ。通称「エッちゃん」。
:「ハァァァァ……」という声と共に目を光らせ、ズボンのチャックを下ろし、そこから何かを取り出す。マサルが使うセクシーコマンドーはほとんどこの技からの派生。スーザン(校長)の言によると、素人ならまだしもセクシーメイトには通じない、初歩の技らしい。
; 変わり身の術
: セクシーコマンドー秘奥義。相手に殴られた際、人形に入れ替わったかのように見せかけるが、実際は着ぐるみを被って殴られているだけの技。着ぐるみの股間のチャックからハトを出して敵を驚かせる技「お笑いダンクシュート」に派生する。
:[[キン肉マン消しゴム|キンけし]]を身代わりに使う場合もある。
; 放課後キャンパス
: 両手を後頭部で組み、「うっふ〜ん」などと言いながら腰を振る。通称「放キャン」。
:普通は前フリ技として使うが、スーザン(校長)はこの技そのものを隙を作る技として使うという高等技術を見せた。
; はじらいのひととき
: 詳細は不明だが、目を光らせるのがポイントらしい。
; 夜明けのエスプレッソ / ノンストップ狂四郎
: 名前だけ登場。エリーゼのゆううつ同様、セクシーメイトには通じないとされる。
; あふれだす煮汁
: エリーゼのゆううつからの発展系。ズボンのチャックを下ろし、そこから何かを取り出すと見せかけて左足を垂直に上げる。
; 夏★しちゃってるBoy
: 48の前フリ技その23。光り輝きながら万歳、寝転がるなどの動作後、ブリッジ状態でズボンのチャックを下ろす。かなり難易度が高いらしく、マサルもチャームポイントを外した状態で披露した。
; あばれ恋女房
: 詳細は不明だが、ねじれヒジ天国の癖があると眉間に皺が寄りすぎるらしい。
=== 競技としてのセクシーコマンドー ===
セクシーコマンドー協会による'''全国セクシーコマンドーフェスティバル'''が開催され、優勝商品を賭けて団体戦や年齢別制(団体戦や年齢別が導入されたのは[[1980年代]]半ば)で競技会が行われる。
第13回([[1953年|昭和28年]])から第18回([[1958年|昭和33年]])まで、この競技会の優勝者は'''さかきばらのぶゆき'''という人物で、7回出場して負けは1回のみという驚異的な成績を残している。また、1996年開催の「全国セクシーコマンドーフェスティバル'96」の高校団体戦では、さかきばらが校長を務める県立わかめ高校が準優勝している。他にセクシーコマンドー競技には階級試験も存在し、グローバルパートナーなどのクラスがある。
試合は、制限時間ありのポイント制で行われる。審判の「スタート」の掛け声により試合開始。セクシーコマンドーでは先制攻撃は不利になるため、先に技を出した方が'''ファーストセクシー'''として3万ポイント与えられる。これによって、お互いに技を出さないで様子を見たまま膠着する状況が無くなる。
審判はセクシーコマンドーの技によって生じた隙から、連続して入れた一撃にポイントを与える。攻撃が浅いと1億ポイント程度だが、攻撃がしっかりしたものと認められると'''セクシー一本'''となり、審判の判定によって12億から15億ほどのポイントが入り試合は決着する。
攻撃の際に与えるダメージの大きさやスピードなどはポイントには関係なく、いかに隙を作り出すかと、それに繋がる攻撃の流れに重点が置かれる。小道具や薬物の使用も認められるが、複数の選手が試合に参加するのは禁止であり、反則負けとなる。また、この「隙」には自然発生したものや本人の自業自得によるものは認められず、あくまで技によって作り出された隙のみが認められる。
; 全国セクシーコマンドーフェスティバル'96に出場した高校
: 少なくとも8校は出場しているようだが、詳細不明。
:* 県立わかめ高校
:* カブキ高校
:* サンバ高校
:* ガクラン高校
:* 綾茂高校
:* 聖★またずれ高校
=== セクシーコマンドーのなりたち ===
セクシーコマンドーの発祥は[[日本]]である。[[室町時代]]、「将軍の[[足利義持|義持]]だか[[足利義量|何だか]]が死に、[[足利義教|次期将軍]]を[[1428年#できごと|くじ引きで決めたの決めてないの言ってるぐらいの頃]]」に成立したといわれる。当時[[農民]]により[[田楽]]などと共にうさ晴らしの遊びとして自然発生したという説があるが、そのような史実は無く俗説のようである。
下記のセクシーヒストリーには'''せくしー斎'''と名乗る人物が生み出したと記載されている。せくしー斎が考案した際の名称は「'''せくしー小窓'''」であり、それが時の流れによって変化したようである。
=== セクシーコマンドー関連書籍 ===
; セクシーコマンドー倶楽部
: 表紙はリンゴを持った少女の写真。セクシーコマンドーの基本情報が記されている。
; セクシーヒストリー
: セクシーメイトのバイブルとも言える本。通称「うっふん白書」。セクシーコマンドーの誕生秘話が記されている。
== 作中に登場するアイテム ==
本作に登場するアイテム・秘密兵器類を解説する。
; チャームポイント
: マサルが肩に装着している一対の輪。マサルはこう呼んでいるが、正式名称は不明。
:マサルが山で修行していた頃に拾ったもの。マサル以外の人間では片手で持つことすら不可能なほど重い上に、雨に濡れると煙が出る、レジや体重計を狂わせ奇妙な文字を出す、身に着けると髪が伸びる<ref group="注">手に持っただけでも有効。個人やいくつ持つかによって伸びる位置(前髪、もみあげなど)・伸び方などが変わる。</ref>、サングラスを近づけるとレンズが黄色く変色するなどの不可思議な現象を頻発させる。これを巡って毛生え薬研究会とセクシーコマンドー部の間に抗争が勃発したこともあった。
:実は宇宙人の持ち物であり、連載後半にはこれの返却を求めて本来の持ち主である宇宙人がマサルたちに近づいたが、最終的にマサルの青いヒゲと紳士ぶりに宇宙人の方が折れ、マサルの所有物ということで落ち着いた。
; ロボピッチャ型通信機
: 毛生え薬研究会のキースが使用する、ロボピッチャ<ref group="注">アニメでは「イガプの機械投手」と呼称。</ref>を改造して作られた[[通信機]]。通信機と言っても無線などではなく、信号弾のようなものを打ち上げ空中に雲を思わせる文字を表示する。表示できるのは4文字までなため、「ボスタスケテ」が「ボスケテ」になってしまった。
:; スーパーハンサムロボピッチャ
:: 上記の通信機をマサルが密かに回収し、ピッチングマシンに改造したもの。
::野球部との勝負内容が野球に決定したことに伴い、練習用に用意されたが、起動させるやいなやジェット噴射で大空高く飛んでいってしまった。アニメでは「スーパーハンサム機械投手」と呼称されている。
; 漢方マサルダイナミック
: セクシーコマンドー全国大会でマサルがキャシャリンに渡した[[漢方薬]]。マサル曰く「いろいろそれっぽいのが入ってる」「つよしスペシャルよりは役に立つ」。飲んだキャシャリンは一時的に興奮状態になったが、結局いつものつよしスペシャルを飲んだ時と変わらず、それどころか外人のようになるという意味不明な効果をもたらした。
; メホホ・ブルササンG
: 花中島家に代々伝わる秘伝のやせ薬。マサルがモエモエのために調合したが、マチャ彦たちはこれを[[睡眠薬]]だと勘違いしていた。怪しげな呪文を唱えながら肉じゃが、わかめ、ビール、甘納豆、名前が「もけ…」で始まる謎の草など様々な材料を大鍋で混ぜ合わせ煮込み、仕上げは[[野村義男]]<ref group="注">アニメでは[[鈴木史朗]]。</ref>のキラカードを挿して完成。
; ハイテクメカ「メカいらーず君」
: マサルが半年に一度、自分の髪型「'''ステキカット'''」をスタイリングするために使っているメカ。矛盾したネーミングが特徴的。頭に被るととても生温かい。試験勉強の役には全く立たない。
; デグチ=ホソナール
: 古代ギリシャで発明されたというウワサの狩猟具。入り口が大きく、出口が細くなっている土管のような外見、というか土管そのもの。[[遠近法]]による錯覚を利用し、すり抜けようとすると捕まって動けなくなる仕組み。「[[ラーメンマン#モンゴルマン|秘技ネコジャラシ]]」で脱出可能。
==単行本==
===ジャンプ・コミックス版===
全7巻。表紙は高校卒業後、旅人になったマサルが世界中のどこかを旅している風景となっている<ref name="jC7"/>。
# 「マサルとトレンディ・ボーイズ」(1996年6月9日発売、ISBN 4-08-872271-X)
# 「マサルと肉いアンチクショウ」(1996年9月9日発売、ISBN 4-08-872272-8)
# 「マサルとドッキリハウスメソ」(1996年12月7日発売、ISBN 4-08-872273-6)
# 「我が道を行く人々」(1997年3月9日、ISBN 4-08-872274-4)
# 「マサルーナイトフィーバー」(1997年6月9日発売、ISBN 4-08-872275-2)
# 「地獄温泉人質日記」(1997年9月9日発売、ISBN 4-08-872276-0)
# 「あの時君は赤かった」(1997年12月9日発売、ISBN 4-08-872277-9)
===ウ元ハ王版===
全5巻。「ウ元ハ王」は「完全」の文字を解体して別の文字にしたもの。[[ロゴ]]は「完全」とも読めるようデザインされ、「ウゲンハオウ」と[[ルビ]]が振られている。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」を1ページ書き下ろし。
# [[2008年]][[1月21日]]発売、ISBN 978-4-08-874230-4
# 2008年[[2月21日]]発売、ISBN 978-4-08-874231-1
# 2008年[[3月25日]]発売、ISBN 978-4-08-874232-8
# 2008年[[4月21日]]発売、ISBN 978-4-08-874233-5
# 2008年[[5月21日]]発売、ISBN 978-4-08-874234-2
以下に主な特徴を挙げる。
* うすた京介描き下ろしの「'''進化型表紙'''<ref group="注">「エボリューションカバー」と読む。</ref>」。
*: ネーム段階だった漫画が巻数を重ねるごとに完成していくというものであるが、途中で奇妙な落書きが付け加えられていく。元絵は第3話でマサルがマチャ彦に攻撃するシーンから。
* 全ページを[[蛍光色]]で着色。
*: 雑誌掲載時のカラー画が再現されていない反面、雑誌掲載時にカラーでなかった部分を蛍光色で着色。このことから本書は「完全版ではないが、それに近い何か」という意味で「'''ウ元ハ王版'''」となった。着色される部分は擬音の一部や集中線、効果線などに限られ、着色に使われる色は各巻1種類である。以下に各巻で使用される蛍光色を列挙する。
*:* 第1巻はピンクを基調とした蛍光色。
*:* 第2巻はグリーンを基調とした蛍光色。
*:* 第3巻はオレンジを基調とした蛍光色。
*:* 第4巻はブルーを基調とした蛍光色。
*:* 第5巻はオレンジとも赤とも取れない色を基調とした蛍光色。
* 副音声的コメンタリー
*: 各ページの脇にスペースがあり、そこに高校を卒業して数年(マサル曰く2、3年)経った登場人物が、漫画の内容を見ながら過去を振り返るコメントをする。各巻によって対談するメインキャラが代わる。
*:* 第1巻:花中島マサル×藤山起目粒(フーミン)
*:* 第2巻:うすた京介×平野正臣
*:* 第3巻:『[[ピューと吹く!ジャガー]]』よりジャガージュン市×酒留清彦(ピヨ彦)
*:*: 特別出演:浜渡浩満(ハマー)×神の声(うすた京介)
*:* 第4巻:『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』より沢田綱吉(ツナ)×リボーン
*:*: その他(獄寺隼人・山本武・ランボ・雲雀恭弥・六道骸・クローム髑髏・柿本千種・城島犬・イーピン・笹川京子・三浦ハル・スクアーロ)
*:* 同4巻:『[[ハチミツとクローバー]]』より花本はぐみ×竹本祐太
*:*: その他(山田あゆみ・真山巧・森田忍・花本修司)
*:* 同4巻:『[[BLEACH]]』より黒崎一護×井上織姫
*:*: その他(朽木ルキア・松本乱菊)
*:* 同4巻:『[[ぼくのわたしの勇者学]]』より鋼野剣×河野盾
*:*: その他(火野木望・宗村まさゆき)
*:* 第5巻:インターネットで募集した質問にキャラクターたちが答える。(マサル・フーミン・マチャ彦・キャシャリン・アフロ君・メソ・モエモエ・トレパン・マリコ先生・スーザン・マ神・ボナンザ・サトル・マサルの母・ヨロシク仮面・桜田門凱・うまい棒・タケダ・うすた京介)
===集英社文庫コミック版===
全5巻。第5巻に第3部「はじめまして宇宙人スリーです編」と文庫版あとがきを収録。カバーイラストは全巻うすたが新規に書き下ろしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210426205206/https://natalie.mu/comic/news/144459 |title=うすた京介連載デビュー20周年で「マサルさん」文庫化!カバーは描き下ろし |access-date=2023-05-26 |publisher=コミックナタリー}}</ref>。
# [[2015年]][[4月17日]]発売、ISBN 978-4-08-619549-2
# 2015年4月17日発売、ISBN 978-4-08-619550-8
# 2015年[[5月15日]]発売、ISBN 978-4-08-619551-5
# 2015年[[6月18日]]発売、ISBN 978-4-08-619552-2
# 2015年[[7月17日]]発売、ISBN 978-4-08-619553-9
== テレビアニメ ==
[[1998年]][[1月5日]]から同年[[4月2日]]まで、[[TBSテレビ|TBS]]系(一部地域を除く)の深夜番組『[[ワンダフル (テレビ番組)|ワンダフル]]』内で放送。監督は[[大地丙太郎]]。1話約8分、全48話+総集編2話。原作単行本5巻までの内容がアニメ化され、アニメ版の最終回は「[[最終回]]」という事象そのものも題材に使われていた。
基本的には原作に忠実(脚本も存在せず、アニメの1話=原作の1話分となっている)。ただ、漫画でそのまま使われていた会社名などの固有名詞や、放送上問題のある言葉などは、アニメ化の際に修正されている場合があった。その他、原作をそのままアニメ化してしまうと尺が足りなくなってしまうという判断から、短編が集合した原作21話(コマンドー21)の一部や、「ウクレレ講座」などのミニコーナーが挿入されるなどした<ref name="dai">[[佐野亨]]編「インタビュー 大地丙太郎 とにかくたくさん、死ぬまでつくり続けたい 原作ものとギャグ」『アニメのかたろぐ 1990-1999』[[河出書房新社]]、2014年5月30日、ISBN 978-4-309-27493-5、222頁。</ref>。
原作者であるうすたはアニメに関しては「当初断る気だったが、連載中いくら待ってもアニメ化の話が来なかったため、あっさり承認した」と述べている<ref name="jC7"/>。また監督を務めた大地は、「タイトルを聞いて成人向け漫画と思ったが、原作を読んでみて面白かったから引き受けた」と語っている<ref name="dai"/>。
オープニングの題字は、タイトルロゴが背後から現れる途中で破壊されて、[[西村知美]]による題字が正確なタイトルとして使われる体裁になっている。映像では大地が過去に手掛けた『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』や同時期に監督していた『[[こどものおもちゃ]]』、『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』『[[サイボーグ009 (アニメ)#1979年 - 1980年|サイボーグ009]]』『[[狼少年ケン]]』といった他アニメのオープニングのパロディが多く含まれ<ref>渡辺隆文編「観た?観た!倶楽部DX〜最終回特集2 「セクシーコマンドー外伝すごいよ!!マサルさん」」『[[アニメージュ]] 1998年6月号』[[徳間書店]]、平成10年(1998年)6月10日、雑誌01577-06、66頁。</ref>、終盤で唐突に[[PENICILLIN]]の実写(主題歌『[[ロマンス (PENICILLINの曲)|ロマンス]]』の[[ミュージック・ビデオ|プロモーションビデオ]])が挿入される。大地が歌の尺に合わせてコンテを切っていたらカット数が足りなくなったらしく、PVを入れて急場をしのごうと考えた結果であることが、自身がパーソナリティを務める番組『アニメっていいよね』で語られた。結果タイアップ効果が高まり、『ロマンス』の大ヒットに繋がる一因にもなった。題字を担当した西村は本作の大ファンであることを公言しており、単行本を大量に買い込み、単行本にメモの内容を書き込んだ上に、ついでにこの漫画を読むよう書き残して、メモ用紙代わりにあちこちに置いていき、漫画の宣伝に努めたというエピソードがあった<ref>「第16回 西村知美」現代洋子『おごってジャンケン隊①』小学館、1998年、101頁</ref>。
『ワンダフル』が一貫してネットされていなかった[[毎日放送]](MBS)では、[[2001年]][[2月3日]]から同年[[6月16日]]まで『[[アニメシャワー]]』枠内で30分に再編集されて放送された。その際、『ワンダフル』放送時に流れたマサルの最後の一言は省略され、その代わり最後にエンディングが追加された(ソフト版ではマサルの最後の一言とエンディングの両方が収録されている)。
『ワンダフル』を翌0:30飛び降りとしていたネット局・期間では本作品(というより、アニメコーナー自体)放送されていなかった。
韓国では2008年に[[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん#ウ元ハ王版|ウ元ハ王版]](ko:오나전판<ref group="注">「오나전」は「완전(完全)」のもじりで「ウ元ハ王」という意味だが、「오나(オナ)」にはそのまま「[[オナニー]]」という意味もある。当時の韓国のインターネットで流行していた言葉だった。</ref>)の刊行に合わせて[[CHAMP TV]]で放映され、コマンドー27のマサルが偽造サインボールを作るシーンで「[[ぶるうたす]]」の代わりにプロゲーマーの[[:en:Lim Yo-hwan|イム・ヨファン]]の名前を使うなど、原作同様当時の韓国に合わせた若干のローカライズが行われた以外はほとんどそのまま放送された。
=== スタッフ ===
* 原作 - うすた京介
* 監督 - [[大地丙太郎]]
* 助監督 - [[桜井弘明]]
* 企画 - 吉田啓良
* キャラクターデザイン - 桝館俊秀
* 色彩設計 - 西川裕子
* 美術監督 - 柴田千佳子
* 撮影監督 - 神山茂男
* 編集 - 松村正宏、伊藤裕
* 制作担当 - 東道泰
* 制作デスク - 三上鉄男
* 音響監督 - [[たなかかずや|田中一也]]
* 音楽 - [[山本はるきち]]
* 音響効果 - [[奥田維城]]
* プロデューサー - [[出崎哲]]
* アニメーションプロデューサー - 石川眞実
* 題字 - [[西村知美]]
* アニメーション制作 - [[マジックバス]]
* 製作・著作 - [[TBSテレビ|TBS]]
=== 主題歌 ===
; 「[[ロマンス (PENICILLINの曲)|ロマンス]]」
: 作詞 - [[HAKUEI]] / 作曲 - PENICILLIN / 編曲 - PENICILLIN、重盛美晴 / 歌 - [[PENICILLIN]]
:総集編2ではエンディングとして使用された。
; 挿入歌
:; 「不備の総合商社」
:: 作詞・作曲・編曲 - 福岡三四郎 / 歌 - GREEDY GREEN
:; 「チメイドの歌」(6話)
:: 作詞・作曲・編曲 - 山本はるきち / 歌 - 加勢田進、杉本ゆう
:; 「セクシーコマンドー部 主だい歌(ブルース)」(8・40話)
:: 作詞 - うすた京介 / 作曲・編曲 - 山本はるきち / 歌 - 上田祐司、井上和彦、一条和矢
:; 「よろしく仮面 テーマ」(18・38・42話)
:: 作詞 - うすた京介 / 作曲・編曲 - 山本はるきち / 歌 - 井上和彦 / コーラス - 加勢田進、杉本ゆう、岩坪理江、小西寛子 / セリフ - 井上和彦、高橋広司
:: 原作での曲名は「よろしくミドルキック」。ソフト版及びアニメシャワーではエンディングとして使用された。また、アニメシャワー版ではイントロとアウトロに鈴木史朗のナレーションが挿入されている。
:; 「体育すわり」(33・34・45話・総集編2)
:: 作詞 - うすた京介 / 作曲・編曲 - 山本はるきち / 歌 - 上田祐司(33・34話)、小西寛子(45話・総集編2)
=== 各話リスト ===
ナレーションは当時(1998年2月まで)TBSアナウンサーだった[[鈴木史朗]](43話では[[齋藤彩夏]]、総集編では上田祐司・小西寛子)が担当。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日<ref group="注">内包元である『ワンダフル』としての放送日のため、『ワンダフル』そのものを0時以降に放送開始した日を除き、本作品の実際の放送日はその翌日である。</ref>
|-
|1||コマンドー1 マサルとヒゲ||colspan="2" style="text-align:center"|[[大地丙太郎]]||rowspan="4"|昆進之介||'''[[1998年]]'''<br />[[1月5日]]
|-
|2||コマンドー2 マサルと赤白帽||大地丙太郎||rowspan="3"|鈴木芳成||[[1月6日]]
|-
|3||コマンドー3 マサルと男の証||[[桜井弘明]]||[[1月7日]]
|-
|4||コマンドー4 マサルと誓約書||大地丙太郎||[[1月8日]]
|-
|5||コマンドー5 マサルと美女||rowspan="4"|四分一節子||rowspan="4"|山内富夫||横山淳一||[[1月12日]]
|-
|6||コマンドー6 マサルと覆面男(パート1)||坂本次男||[[1月13日]]
|-
|7||コマンドー7 マサルと覆面男(パート2)||山崎勝彦||[[1月14日]]
|-
|8||コマンドー8 マサルとトレンディ・ボーイズ||林和男||[[1月15日]]
|-
|9||コマンドー9 マサルとウルトラプライスセール||大地丙太郎||rowspan="2"|花井信也||杉光登||[[1月19日]]
|-
|10||コマンドー10 マサルとイソベとあやしい奴ら||南康宏||山崎隆生||[[1月20日]]
|-
|11||コマンドー11 マサルと肉いアンチクショウ||四分一節子||[[高橋滋春]]||西尾彰子||[[1月21日]]
|-
|12||コマンドー12 マサルとスーザンとあと謎の発明集団||桜井弘明||花井信也||野館誠一||[[1月22日]]
|-
|13||コマンドー13 マサルとボス||rowspan="2"|前島健一||rowspan="4"|棚橋一徳||小田仁||[[1月26日]]
|-
|14||コマンドー14 マサルとヒゲ魂||野館誠一||[[1月27日]]
|-
|15||コマンドー15 マサルとガッツ合戦||rowspan="2"|小田原男||小田仁||[[1月28日]]
|-
|16||コマンドー16 マサルとナイスメガネ教師||野館誠一||[[1月29日]]
|-
|17||コマンドー17 マサルとあのお方たち||rowspan="3"|[[香川豊]]||rowspan="3"|高橋滋春||rowspan="4"|梶原賢二||[[2月2日]]
|-
|18||コマンドー18 マサルと真ヒーロー||[[2月3日]]
|-
|19||コマンドー19 マサルとお花見大作戦(前編)||[[2月4日]]
|-
|20||コマンドー20 マサルとお花見大作戦(後編)||colspan="2" style="text-align:center"|高橋滋春||[[2月5日]]
|-
|21||コマンドー52 スーザン先生<ref group="注">原作での「コマンドー21」は一部のみアニメ化。</ref>|| rowspan="2" |四分一節子||rowspan="2"|鈴木芳成||rowspan="4"|小林ゆかり||[[2月9日]]
|-
|22||コマンドー22 マサルと留年決定記念地獄の電車でおでかけめそ…||[[2月11日]]
|-
|23||コマンドー23 マサルと留年地獄決定おでかけ記念の電車めそ…?||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|四分一節子||[[2月12日]]
|-
|24||コマンドー24 マサルとドッキリハウスメソ||[[2月16日]]
|-
|25||コマンドー25 マサルとライク・ア・ローリング・ジャージ||rowspan="2"|[[和田高明]]||rowspan="4"|香川豊||rowspan="4"|坂本次男||[[2月17日]]
|-
|26||コマンドー26 マサルと細い秘密兵器||[[2月18日]]
|-
|27||コマンドー27 マサルとK.Dズ||rowspan="2"|[[音地正行]]||[[2月23日]]
|-
|28||コマンドー28 マサルとスラッガー軍団||[[2月24日]]
|-
|29||コマンドー29 マサルと必殺合戦||rowspan="2"|高橋滋春||rowspan="4"|棚橋一徳||rowspan="2"|小田仁||[[2月25日]]
|-
|30||コマンドー30 マサルとドキッ!! 男だらけの野球大会||[[2月26日]]
|-
|31||コマンドー31 マサルとあぶないめそ||南康宏||rowspan="2"|野館誠一||[[3月2日]]
|-
|32||コマンドー32 マサルと没個性新人||石崎すすむ||[[3月3日]]
|-
|33||コマンドー33 マサルの放課後個人授業||rowspan="2"|[[真野玲]]||rowspan="4"|花井信也||白井伸明||[[3月4日]]
|-
|34||コマンドー34 マサルとなるほど・ザ・セクシー夏の祭典スペシャル||前島和子||[[3月5日]]
|-
|35||コマンドー35 マサルと必勝男||香川豊||rowspan="2"|音地正行||[[3月10日]]
|-
|36||コマンドー36 マサルとあやしい友情||前島健一||[[3月11日]]
|-
|37||コマンドー37 マサルと行方不明||colspan="2" style="text-align:center"|高橋滋春||rowspan="2"|梶原賢二||[[3月12日]]
|-
|38||コマンドー38 マサルとアフロ魂||小田原男||rowspan="3"|高橋滋春||[[3月13日]]
|-
|39||コマンドー39 マサルとニセ肉マン||rowspan="2"|前島健一||小林ゆかり||[[3月16日]]
|-
|40||コマンドー40 フーミンとネコの達人||古川美樹||[[3月17日]]
|-
|41||コマンドー41 激マブ! あばれん坊中堅|| rowspan="2" |音地正行||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|和田高明||[[3月18日]]
|-
|42||コマンドー42 我が道を行く人々||[[3月19日]]
|-
|43||コマンドー43 ものたろう||colspan="3" rowspan="2" style="text-align:center"|和田高明||[[3月23日]]
|-
|44||コマンドー44 轟け! 新聞男!||[[3月24日]]
|-
|45||コマンドー45 ダイエット・インポッシブル||四分一節子||棚橋一徳||小林ゆかり||[[3月25日]]
|-
|46||コマンドー46 マサルとクスリ祭||colspan="3" style="text-align:center"|[[長濱博史]]||[[3月26日]]
|-
|47||コマンドー47 マサルと勉強パーティー||rowspan="2"|四分一節子||棚橋一徳||rowspan="2"|小林ゆかり||[[3月30日]]
|-
|48||コマンドー48 マサルーナイトフィーバー||大地丙太郎||[[3月31日]]
|-
|総集編1||2日でできるマサルさんマスターへの道 ~入門編~|| colspan="3" rowspan="2" style="text-align:center" |-||[[4月1日]]
|-
|総集編2||2日でできるマサルさんマスターへの道 ~青春激闘編~||[[4月2日]]
|}
=== 映像ソフト化 ===
いずれも[[バンダイビジュアル]]より発売。
*VHS(現在は廃盤)
# [[1998年]][[4月25日]]発売、コマンドー1 - 8収録
# 1998年4月25日発売、コマンドー9 - 16収録
# 1998年[[5月25日]]発売、コマンドー17 - 20、52、22 - 24収録
# 1998年5月25日発売、コマンドー25 - 32収録
# 1998年[[6月25日]]発売、コマンドー33 - 40収録
# 1998年6月25日発売、コマンドー41 - 48、総集編1・2収録
*LD(現在は廃盤)
# 1998年[[7月25日]]発売、コマンドー1 - 12収録
# 1998年7月25日発売、コマンドー13 - 20、52、22 - 24収録
# 1998年[[8月25日]]発売、コマンドー25 - 36収録
# 1998年8月25日発売、コマンドー37 - 48、総集編1・2収録
*DVD
:全3巻。[[2001年]][[1月25日]]に3巻同時発売。16話収録。3巻のみ18話収録。
*Blu-ray
:2021年現在、リリースされていない。
=== サウンドトラック ===
[[ワーナーミュージック・ジャパン|イーストウエスト・ジャパン]]より1998年[[3月15日]]に発売。
{{前後番組
|放送局=[[TBSテレビ|TBS]]系
|放送枠=[[ワンダフル (テレビ番組)|ワンダフル]]内アニメ枠
|番組名=セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん
|前番組=[[行け!稲中卓球部]]<br />(再放送)
|次番組=[[AIKa]]
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [http://masaru.j-jaguar.com/ すごいよ!!マサルさん ウ元ハ王版]{{リンク切れ|date=2017年11月}}
{{マジックバス}}
{{大地丙太郎監督作品}}
{{デフォルトソート:せくしいこまんとおかいてんすこいよまさるさん}}
[[Category:うすた京介の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 せ|くしいこまんとおかいてんすこいよまさるさん]]
[[Category:1995年の漫画]]
[[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]]
[[Category:ギャグ漫画]]
[[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]]
[[Category:ワンダフルアニメ]]
[[Category:アニメ作品 せ|くしいこまんとおかいてんすこいよまさるさん]]
[[Category:1998年のテレビアニメ]]
[[Category:マジックバス]]
[[Category:バンダイビジュアルのアニメ作品]]
[[Category:ジャンプ コミックスのアニメ作品]]
[[Category:ギャグアニメ]]
[[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]] | 2003-02-14T08:58:15Z | 2023-11-25T13:08:44Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E5%A4%96%E4%BC%9D_%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%84%E3%82%88!!%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%81%95%E3%82%93 |
1,553 | CLI | CLI | [
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| CLI コンピュータ
共通言語基盤 は、.NET Frameworkの動作環境についてマイクロソフトが定めた仕様。
コマンドラインインタフェース。キャラクタユーザインタフェース (CUI) と同義。
コマンドラインインタプリタ
Call Level Interface(コールレベルインタフェース) - SQLベースのデータベースアクセスAPI その他
ローマ数字で151。
CLi - フォルクスワーゲンの自動車、ゴルフ、ジェッタ、ヴェントのグレード。
CircusLand I 〜ドキ! ヒロインいっぱい初音島★コスプレミスコン祭り♪よりどりみどりで♪好きな子選んで着せ替え育成デートだょ 兄さん♪〜の略称。
重症下肢虚血の略称。 | '''CLI'''
* コンピュータ
** [[共通言語基盤]] (Common Language Infrastructure) は、[[.NET Framework]]の動作環境について[[マイクロソフト]]が定めた仕様。
** コマンドラインインタフェース (Command line interface)。[[キャラクタユーザインタフェース]] (CUI) と同義。
** [[コマンドラインインタプリタ]] (command line interpreter)
** [[Call Level Interface]](コールレベルインタフェース) - [[SQL]]ベースの[[データベース]]アクセス[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]
* その他
** [[ローマ数字]]で[[151]]。
** CLi - [[フォルクスワーゲン]]の自動車、[[フォルクスワーゲン・ゴルフ|ゴルフ]]、[[フォルクスワーゲン・ジェッタ|ジェッタ]]、[[フォルクスワーゲン・ヴェント|ヴェント]]のグレード。
** [[CircusLand I 〜ドキ! ヒロインいっぱい初音島★コスプレミスコン祭り♪よりどりみどりで♪好きな子選んで着せ替え育成デートだょ 兄さん♪〜]]の略称。
** 重症下肢虚血(critical limb ischemia)の略称。
{{aimai}} | null | 2016-10-22T15:19:14Z | true | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/CLI |
1,554 | 共通言語ランタイム | 共通言語ランタイム (英: Common Language Runtime, CLR) とは、.NET Frameworkアプリケーションを実行するための仮想機械で、共通言語基盤 (CLI) のマイクロソフト自身による実装。
.NET Framework 1.x - 4.x で使用されている CLR は Windows 上のみで動作する。.NET CoreはMITライセンスのオープンソースになり、CoreCLRはWindows、macOS、Linux、FreeBSD で動作する。.NET 5以降は.NET Runtimeと呼ばれるようになり、.NET 6では実行環境としてAndroidやiOSのサポートも加わった。
CLRは、共通中間言語 (CIL) と呼ばれる、プログラミング言語や環境に依存しない中間言語(中間表現)を解釈する。CILは実行時にJITコンパイラによって機械語に変換され、実行される。.NET Framework 4.6 では64ビット版は RyuJIT という名称のJITコンパイラが搭載された。ただし.NET 4.6時点のRyuJITには多数の不具合があり、.NET 4.6.2にアップグレードするか、RyuJITを無効化する回避策が紹介されていた。RyuJITは.NET Coreでも利用されている。
そのほかのCLRの役割・機能には、メモリ管理(ガベージコレクション)、型とアセンブリの管理、スレッド管理、例外処理、セキュリティがある。 | [
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| 共通言語ランタイム とは、.NET Frameworkアプリケーションを実行するための仮想機械で、共通言語基盤 (CLI) のマイクロソフト自身による実装。 .NET Framework 1.x - 4.x で使用されている CLR は Windows 上のみで動作する。.NET CoreはMITライセンスのオープンソースになり、CoreCLRはWindows、macOS、Linux、FreeBSD で動作する。.NET 5以降は.NET Runtimeと呼ばれるようになり、.NET 6では実行環境としてAndroidやiOSのサポートも加わった。 CLRは、共通中間言語 (CIL) と呼ばれる、プログラミング言語や環境に依存しない中間言語(中間表現)を解釈する。CILは実行時にJITコンパイラによって機械語に変換され、実行される。.NET Framework 4.6 では64ビット版は RyuJIT という名称のJITコンパイラが搭載された。ただし.NET 4.6時点のRyuJITには多数の不具合があり、.NET 4.6.2にアップグレードするか、RyuJITを無効化する回避策が紹介されていた。RyuJITは.NET Coreでも利用されている。 そのほかのCLRの役割・機能には、メモリ管理(ガベージコレクション)、型とアセンブリの管理、スレッド管理、例外処理、セキュリティがある。 | [[ファイル:CLR diag.svg|thumb|CLRの動作イメージ。[[バイトコード]]を[[機械語]]に変換、実行する。]]{{プログラムの実行}}
'''共通言語ランタイム''' ({{lang-en-short|Common Language Runtime, '''CLR'''}}) とは、[[.NET Framework]]アプリケーションを実行するための[[仮想機械]]で、[[共通言語基盤]] (CLI) の[[マイクロソフト]]自身による実装。
[[.NET Framework]] 1.x - 4.x で使用されている CLR は [[Microsoft Windows|Windows]] 上のみで動作する。[[.NET Core]]は[[MITライセンス]]の[[オープンソース]]になり、'''CoreCLR'''はWindows、[[macOS]]、[[Linux]]、[[FreeBSD]] で動作する<ref>[https://github.com/dotnet/coreclr dotnet/coreclr - GitHub]</ref>。[[.NET]] 5以降は'''.NET Runtime'''<ref>[https://github.com/dotnet/runtime GitHub - dotnet/runtime: .NET is a cross-platform runtime for cloud, mobile, desktop, and IoT apps.]</ref>と呼ばれるようになり、.NET 6では実行環境として[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]や[[iOS]]のサポートも加わった<ref>[https://github.com/dotnet/core/blob/main/os-lifecycle-policy.md core/os-lifecycle-policy.md at main · dotnet/core · GitHub]</ref>。
CLRは、[[共通中間言語]] (CIL) と呼ばれる、プログラミング言語や環境に依存しない[[中間言語]]([[中間表現]])を解釈する。CILは実行時に[[JITコンパイラ]]によって機械語に変換され、実行される。.NET Framework 4.6 では64ビット版は RyuJIT という名称のJITコンパイラが搭載された<ref>[http://blogs.msdn.com/b/clrcodegeneration/archive/2015/05/27/ryujit-and-net-4-6.aspx RyuJIT and .NET 4.6 - JIT, NGen, and other Managed Code Generation Stuff - Site Home - MSDN Blogs]{{リンク切れ|date=2023-08}}</ref>。ただし.NET 4.6時点のRyuJITには多数の不具合があり、.NET 4.6.2にアップグレードするか、RyuJITを無効化する回避策が紹介されていた<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/framework/migration-guide/retargeting/4.6.x#new-64-bit-jit-compiler-in-the-net-framework-46 Retargeting changes for migration to .NET Framework 4.6.x - .NET Framework | Microsoft Learn]</ref>。RyuJITは.NET Coreでも利用されている<ref>[https://devblogs.microsoft.com/dotnet/performance-improvements-in-ryujit-in-net-core-and-net-framework/ Performance Improvements in RyuJIT in .NET Core and .NET Framework - .NET Blog]</ref>。
そのほかのCLRの役割・機能には、メモリ管理([[ガベージコレクション]])、[[データ型|型]]と[[アセンブリ (共通言語基盤)|アセンブリ]]の管理、[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]管理、[[例外処理]]、[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]がある。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Java仮想マシン]]
{{.NET}}
{{仮想化}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きようつうけんこらんたいむ}}
[[Category:.NET Framework]]
[[Category:仮想機械]] | 2003-02-14T09:04:28Z | 2023-08-18T22:41:38Z | false | false | false | [
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".NET",
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"Template:Reflist"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E9%80%9A%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0 |
1,560 | 1994年 | 1994年(1994 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。平成6年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 | [
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| 1994年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。平成6年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1994年の日本}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{年代ナビ|1994}}
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| 年 = 1994
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{{year-definition|1994}}
この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=1994}}
* [[干支]]:[[甲戌]](きのえ いぬ)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2654年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀紀]]4327年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]83年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]83年
* [[仏滅紀元]]:2536年 - 2537年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1414年7月18日 - 1415年7月28日
* [[ユダヤ暦]]:5754年4月18日 - 5755年4月28日
* [[UNIX時間]]:757382400 - 788918399
* [[修正ユリウス日]] (MJD):49353 - 49717
* [[リリウス日]] (LD):150194 - 150558
<div style="font-size:smaller">
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1994}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[北米自由貿易協定]](NAFTA)発効<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000217491.pdf 北米自由貿易協定の概要「(外務省)]
</ref>。
* [[1月17日]] - [[ノースリッジ地震]](ロサンゼルス地震)発生。
=== 2月 ===
* [[2月3日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ベトナム]]への禁輸措置を解除。
* [[2月4日]] - [[H-IIロケット]]1号機、[[種子島宇宙センター]]から打ち上げ成功。
* [[2月12日]]〜[[2月27日|27日]] - ノルウェーで[[リレハンメルオリンピック]]開催。
* [[2月13日]]〜[[2月14日|14日]] - 吾妻連峰で登山をしていた7人中5人が死亡した。遺体は翌2月15日に発見された([[吾妻連峰雪山遭難事故]])。
=== 3月 ===
* [[3月1日]] - [[南アフリカ共和国]]、[[ナミビア]]中部の沿岸にあり、同国独立後も自国領としていた[[飛び地]]・[[ウォルビスベイ]]を同国に返還。
* [[3月15日]] - [[アメリカ合衆国軍]]、[[ソマリア]]から撤兵。
* [[3月26日]] - アメリカの[[ロサンゼルス]]で日本人留学生2人が銃撃され死亡。
* [[3月31日]] - 台湾で[[千島湖事件]]が発生。
=== 4月 ===
* [[4月2日]] - [[対共産圏輸出統制委員会]](COCOM)が解散。
* [[4月7日]] - [[ルワンダ]]で集団虐殺([[ジェノサイド]])が開始(約100日間でおよそ100万人)。
* 4月7日 - [[フェデックス705便ハイジャック未遂事件]]
* [[4月10日]] - [[北大西洋条約機構|NATO]]、[[ボスニア紛争]]でセルビア人勢力を空爆。
* [[4月11日]] - [[ルワンダ虐殺]]: [[国際連合平和維持活動]]にあたっていたベルギー軍が駐留先の公立技術学校から撤退後、学校が[[フツ族]][[民兵]]に襲撃され2000名の避難民の大半が虐殺([[公立技術学校の虐殺]])。
* [[4月15日]] - [[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定]]署名
* [[4月23日]] - [[井の頭恩賜公園]]で[[井の頭公園バラバラ殺人事件]]で発生。2009年に[[公訴時効]]が成立し、[[未解決事件]]となった。
* [[4月26日]] - [[チャイナエアライン|中華航空]]機が[[名古屋飛行場|名古屋空港]]で着陸失敗、264人死亡([[中華航空140便墜落事故]])。
* [[4月27日]] - [[南アフリカ共和国]]で、[[アパルトヘイト]]撤廃の最後の段階となる、人種規制のない初の[[普通選挙]]挙行、[[ネルソン・マンデラ]]率いる[[アフリカ民族会議]]が第1党となる。
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[フォーミュラ1|F1]]・[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]で、元ワールドチャンピオンの[[アイルトン・セナ]]が事故死。前日事故死した[[ローランド・ラッツェンバーガー]]に次いで2日連続の死亡事故。
* [[5月5日]] - [[アルメニア]]と[[アゼルバイジャン]]がビシュケク議定書に調印、[[ナゴルノ・カラバフ戦争]]停戦。
* [[5月6日]] - 英仏間の[[英仏海峡トンネル]]開通。
* [[5月10日]] - [[ネルソン・マンデラ]]が[[南アフリカ共和国]]初の黒人大統領となる。
* [[5月18日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[槙原寛己]]が平成初にして唯一の完全試合達成([[槙原寛己の完全試合]])。
=== 6月 ===
* [[6月1日]] - [[南アフリカ共和国]]が[[イギリス連邦]]に復帰。
* [[6月15日]] - [[イスラエル]]と[[バチカン市国]]が国交を樹立。
* [[6月16日]] - 元[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジミー・カーター]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[金日成]][[朝鮮民主主義人民共和国主席|主席]]と会談。
* [[6月16日]] - [[マイクロソフト]]、[[MS-DOS]]の販売およびサポート終了を発表。
* [[6月17日]] - [[1994 FIFAワールドカップ|サッカーワールドカップ・アメリカ大会]]開幕。
* [[6月24日]] - [[フェアチャイルド空軍基地]]で[[アメリカ空軍]]の[[B-52 (航空機)|B-52]]が墜落、4人全員死亡([[1994年のフェアチャイルド空軍基地でのB-52機の墜落事故]])。
* [[6月27日]] - [[オウム真理教]]による[[松本サリン事件]]発生。
=== 7月 ===
* [[7月5日]] - [[Amazon.com]]の前身Cadabra.comが設立される。
* [[7月8日]] - [[ナポリ]][[主要国首脳会議|サミット]]開幕、[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]・[[ロシア]]大統領10日に初参加。
* 7月8日 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金日成]]主席が死去。
* [[7月16日]]〜[[7月22日|22日]] - [[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]分裂核が相次いで[[木星]]に衝突。
* [[7月25日]] - [[イスラエル]]と[[ヨルダン]]が平和協定に調印、1948年以来続いていた戦闘状態に終止符。
* [[7月27日]] - [[Microsoft Windows NT 3.1]]の英語版発売
=== 8月 ===
* [[8月5日]] - [[キューバ]]の首都[[ハバナ]]で、1959年以来35年ぶりとなる[[フィデル・カストロ]]政権に対する抗議デモ発生。
* [[8月12日]] - [[メジャーリーグベースボール]]で以後、232日間に及ぶプロスポーツ史上最長の[[ストライキ]]決行(→[[1994年から1995年のMLBストライキ]])。
* [[8月29日]] - ロシア軍、旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]と[[バルト海|バルト]]諸国から撤退。
* [[8月31日]] - [[ロシア陸軍]]、[[エストニア]]から撤兵。
=== 9月 ===
* [[9月3日]] - [[ロシア]]と[[中華人民共和国]]、お互いを[[核兵器]]の照準から除外することに相互合意。
* [[9月11日]] - [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の[[イチロー]]選手が日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に[[藤村富美男]]が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。
* [[9月14日]] - [[オーストラリア]]で、後に[[ヘンドラウイルス感染症]]と確認される患者が初めて発生。
* [[9月28日]] - [[エストニア]][[船籍]]の[[遊覧船|クルーズ船]]「MSエストニア」が[[バルト海]]で沈没、852人死亡。
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[パラオ]]が[[アメリカ合衆国]]の信託統治から独立。
* [[10月7日]] - [[イギリス]]の[[アンドリュー・ワイルズ]]によって[[フェルマーの最終定理]]が証明され、360年に渡る歴史的議論に決着。
* [[10月21日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に[[軽水炉]]を提供することなどを条件として、同国が核開発を放棄することに合意([[米朝枠組み合意]])。
=== 11月 ===
* [[11月6日]] - [[ナリタブライアン]]が[[菊花賞]]を制し、史上5頭目の[[中央競馬クラシック三冠|牡馬クラシック三冠]]達成。
* [[11月5日]] - [[ロナルド・レーガン]]元[[アメリカ合衆国大統領]]が、自らの[[アルツハイマー病]]を告白した手紙が公表される。
* [[11月8日]] - [[アメリカ合衆国|米]]中間選挙で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]が40年ぶりに上下両院で過半数を獲得。
* [[11月13日]] - [[スウェーデン]]、[[国民投票]]で[[欧州連合|EU]]加盟を承認。
* [[11月28日]] - [[ノルウェー]]の[[欧州連合|EU]]加盟が国民投票の結果、[[1972年]]に続き否決。
=== 12月 ===
* [[12月3日]] - [[JR東日本E217系電車]]が営業運転を開始
* [[12月8日]] - [[カラマイ大火]]が起きる
* [[12月11日]] - [[第一次チェチェン紛争]]勃発。
== 天候・天災・観測等 ==
* [[1月17日]] - [[ノースリッジ地震]]。
* [[10月4日]] - [[北海道東方沖地震]]がおこる。
* [[7月17日]] - [[木星]]に[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]が衝突、天文家の間で注目される。
* [[1994年の猛暑 (日本)]]
* [[平成6年渇水]]
== 芸術・文化・ファッション ==
=== スポーツ ===
{{Main|1994年のスポーツ}}
* [[モータースポーツ]]
** [[F1世界選手権]] [[ミハエル・シューマッハ]]
* [[リレハンメルオリンピック|リレハンメル冬季オリンピック]]
=== 映画 ===
{{main|1994年の映画}}
* [[ショーシャンクの空に]]
* [[シンドラーのリスト]]
* [[スピード (映画)|スピード]]
* [[パルプ・フィクション]]
* [[フォレスト・ガンプ/一期一会]]
* [[レオン (映画)|レオン]]
* [[おやゆび姫 サンベリーナ]]
* [[ページマスター]]
* [[ライオン・キング]]
* [[ストリートファイターII MOVIE]]
=== 文学 ===
* [[ベストセラー]]
** ロバート・ジェームズ・ウォラー 『マディソン郡の橋』
=== ゲーム ===
* [[12月3日]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCEI) が「'''[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]'''」を日本で発売し、[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム]]業界に参入([[欧米]]や[[オーストラリア|豪州]]などでは翌年発売)。
== 誕生 ==
{{see also|1994年の日本#誕生|Category:1994年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「1994年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
=== 1月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[米盛有彩]]、女優
* [[1月3日]] - [[吹田祐実]]、ファッションモデル
* [[1月5日]] - [[光山雄一朗]]、アナウンサー
* [[1月6日]] - [[小笹大輔]]、ミュージシャン
* [[1月7日]] - [[浅野里香]]、アナウンサー
* [[1月9日]] - [[アデミウソン・ブラガ・ビスポ・ジュニオール]]、サッカー選手
* [[1月10日]] - [[モハメド・アマン]]、陸上競技選手
* [[1月12日]] - [[早川史哉]]、サッカー選手
* [[1月13日]] - [[アナス・アチャバール]]、サッカー選手
* [[1月14日]] - [[カイ (歌手)|カイ]]、アイドル、俳優([[EXO]]、[[SuperM]])
* [[1月15日]] - [[陳夢]]、卓球選手
* [[1月17日]] - [[上田麗奈]]、声優
* [[1月18日]] - [[矢島慎也]]、サッカー選手([[ミッドフィールダー|MF]])
* 1月18日 - [[知英|カン・ジヨン]]、アイドル、女優([[KARA]])
* [[1月19日]] - [[藤井玲奈 (アイドル)|藤井玲奈]]、タレント
* 1月19日 - [[澤本夏輝]]、ダンサー([[FANTASTICS from EXILE TRIBE]])
* [[1月20日]] - [[王哲林]]、バスケットボール選手
* [[1月21日]] - [[カン・スンユン]]、アイドル([[WINNER (音楽グループ)|WINNER]])
* [[1月22日]] - [[えなこ]]、タレント、グラビアアイドル
* [[1月23日]] - [[アディソン・ラッセル]]、野球選手
* [[1月23日]] - [[ゆめまる]]、YouTuber
* [[1月24日]] - [[樽味萌花]]、女優
* [[1月25日]] - 麻宮彩希、ファッションモデル
* [[1月29日]] - [[佐倉綾音]]、声優
=== 2月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[2月1日]] - [[吉沢亮]]、俳優
* 2月1日 - [[ハリー・スタイルズ]]、[[ワン・ダイレクション]]
* [[2月3日]] - [[ルーグネッド・オドーア]]、メジャーリーガー
* [[2月5日]] - [[小宮有紗]]、女優、声優
* [[2月10日]] - [[ソン・ナウン]]、女優、歌手([[Apink]])
* [[2月11日]] - [[ダンズビー・スワンソン]]、メジャーリーガー
* 2月11日 - [[鈴木武蔵]]、サッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])
* [[2月12日]] - [[アーマン・ホール]]、陸上競技選手
* [[2月14日]] - [[土屋巴瑞季]]、ファッションモデル
* [[2月16日]] - [[熊谷健太郎]]、声優
* [[2月18日]] - [[J-HOPE]]、アイドル([[BTS (音楽グループ)|BTS]])
* [[2月20日]] - [[ルイス・セベリーノ]]、メジャーリーガー
* [[2月22日]] - [[高野麻里佳]]、声優
* 2月22日 - [[ナム・ジュヒョク]]、モデル、俳優
* [[2月23日]] - [[ダコタ・ファニング]]、女優
* [[2月25日]] - [[ウージニー・ブシャール]]、テニス選手
* [[2月26日]] - [[アブドゥルファッターハ・アスィーリー]]、サッカー選手
* [[2月27日]] - [[高橋李依]]、声優
=== 3月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[3月1日]] - [[ジャスティン・ビーバー]]、歌手
* 3月1日 - [[朝乃山英樹]]、[[力士|大相撲力士]]
* 3月1日 - [[赤楚衛二]]、モデル、俳優
* [[3月3日]] - [[猶本光]]、サッカー選手([[ミッドフィールダー|MF]])
* [[3月5日]] - [[MJ (歌手)|MJ]]、アイドル([[ASTRO (音楽グループ)|ASTRO]])
* 3月5日 - [[エクトル・メンドーサ]]、[[プロ野球選手]]
* 3月5日 - [[大島祐哉]]、卓球選手
* [[3月6日]] - [[閻涵]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[3月8日]] - [[ディラン・トンビデス]]、サッカー選手(+ [[2014年]])
* 3月8日 - [[髙地優吾]]、アイドル、俳優([[SixTONES]])
* [[3月9日]] - [[イザベル・ドレッシャー]]、フィギュアスケート選手
* [[3月12日]] - [[クリスティーナ・グリミー]]、歌手(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/06/13/adam-levine_n_10449356.html|title=凶弾に倒れた歌姫クリスティーナ・グリミーさん、葬儀代の負担を申し出たロックスターは...|publisher=ハフポスト|date=2016-06-14|accessdate=2020-11-14}}</ref>)
* [[3月13日]] - [[中島健人]]、 アイドル、俳優([[Sexy Zone]])
* [[3月14日]] - [[アンセル・エルゴート]]、俳優、DJ
* [[3月15日]] - [[ナイジェル・アモス]]、陸上競技選手
* [[3月22日]] - [[エドウィン・ディアス]]、[[メジャーリーガー]]
* [[3月23日]] - [[ニック・パウエル]]、サッカー選手
* [[3月26日]] - [[渡辺麻友]]、元アイドル、元女優(元[[AKB48]])
* [[3月29日]] - [[マット・オルソン]]、メジャーリーガー
* [[3月30日]] - [[アレックス・ブレグマン]]、メジャーリーガー
=== 4月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[4月1日]] - [[デビッド・ダール]]、メジャーリーガー
* [[4月4日]] - [[菅谷梨沙子]]、アイドル([[Berryz工房]])
* [[4月5日]] - [[室屋成]]、サッカー選手([[ディフェンダー (サッカー)|DF]])
* [[4月7日]] - [[ジョシュ・ヘイダー]]、メジャーリーガー
* [[4月8日]] - [[ダリオ・サリッチ]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]
* [[4月10日]] - [[尾崎里紗 (テニス選手)|尾崎里紗]]、テニス選手
* [[4月11日]] - [[ダコタ・ブルー・リチャーズ]]、女優
* [[4月12日]] - [[藤浪晋太郎]]、プロ野球選手
* 4月12日 - [[シアーシャ・ローナン]]、女優
* 4月12日 - [[鈴木愛理 (歌手)|鈴木愛理]]、アイドル、女優(元[[℃-ute]])
* [[4月16日]] - [[アルバート・アルモーラ・ジュニア]]、メジャーリーガー
* 4月16日 - [[岡野祐一郎]]、プロ野球選手
* [[4月18日]] - [[モイセス・アリアス]]、俳優
* 4月18日 - [[武田健吾]]、プロ野球選手
* [[4月19日]] - [[カイオ・ルーカス・フェルナンデス|カイオ]]、サッカー選手
* [[4月20日]] - [[京田陽太]]、プロ野球選手
* 4月20日 - [[アリ・カヤ]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=http://www.sporting-heroes.net/athletics/turkiye-turkey/ali-kaya-13205/third-place-at-2014-european-championships-in-zurich_a33390/|title=Ali KAYA|publisher=Sporting Heroes|language=[[英語]]|accessdate=2014-10-10|archivedate=2014-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141010021849/http://www.sporting-heroes.net/athletics/turkiye-turkey/ali-kaya-13205/third-place-at-2014-european-championships-in-zurich_a33390/}}</ref>
* [[4月21日]] - [[朝日奈央]]、タレント、ファッションモデル、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]15号)
* [[4月23日]] - [[ソン・ガン]]、モデル、俳優
* [[4月25日]] - [[山崎紘菜]]、モデル、女優
* [[4月26日]] - [[内藤実穂]]、ソフトボール選手([[内野手]])
* [[4月27日]] - [[コーリー・シーガー]]、[[メジャーリーガー]]
* [[4月30日]] - [[カチャリナ・パハモヴィチ]]、フィギュアスケート選手
* 4月30日 - [[ホセ・ペラザ]]、メジャーリーガー
=== 5月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[5月2日]] ー [[森山恵佑]]、元プロ野球選手
* [[5月4日]] - [[伊藤沙莉]]、女優
* [[5月6日]] ー [[石井一成]]、プロ野球選手
* 5月6日 - [[マテオ・コヴァチッチ]]、サッカー選手
* [[5月7日]] - [[アレクサンドラ・アルドリッジ]]、フィギュアスケート選手
* [[5月10日]] - [[チアキ・レイシー]]、タレント、俳優
* 5月10日 - [[伊藤有希]]、スキージャンプ選手
* [[5月13日]] - [[田村龍弘]]、プロ野球選手
* [[5月14日]] - [[マルコス・アオアス・コレア]]、サッカー選手
* [[5月16日]] - [[伊沢拓司]]、クイズプレイヤー
* [[5月17日]] - [[溝脇隼人]]、野球選手
* [[5月19日]] - [[永島聖羅]]、元アイドル、タレント(元[[乃木坂46]])
* [[5月20日]] - [[ピオトル・ジエリンスキ]]、サッカー選手
* [[5月21日]] - [[トーマス・デーリー]]、飛込競技選手
* [[5月22日]] - [[髙木美帆]]、スピードスケート選手
* [[5月24日]] - [[瀬戸大也]]、競泳選手
* [[5月25日]] - [[Kylee]]、歌手
* 5月25日 - [[西野七瀬]]、女優、ファッションモデル、タレント(元[[乃木坂46]])
* [[5月27日]] - [[マクシミリアン・アルノルト]]、サッカー選手
* [[5月29日]] - [[林家たま平]]、落語家
=== 6月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[6月3日]] - [[フィッシャーズ (YouTuber)#メンバー|ザカオ]]、YouTuber
* [[6月4日]] - [[岸野里香]]、元アイドル(元[[NMB48]])
* [[6月8日]] - [[李厚賢]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[6月9日]] - [[ヘリ (Girl's Day)|イ・ヘリ]]、女優、アイドル([[Girl's Day|Girl’s Day]])
* [[6月14日]] - [[ムン・テイル|テイル]]、歌手、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 6月14日 - [[山田優 (フェンシング選手)|山田優]]、フェンシング選手
* [[6月15日]] - [[日高里菜]]、声優
* 6月15日 - [[木浪聖也]]、プロ野球選手
* [[6月17日]] - [[春瀬なつみ]]、声優
* 6月17日 - [[高山奈々]]、気象キャスター
* 6月17日 - [[アレックス・ラウター]]、プロアイスホッケー選手
* [[6月18日]] - [[岩波拓也]]、サッカー選手([[ディフェンダー (サッカー)|DF]])
* 6月18日 - [[山本杏]]、柔道選手
* [[6月21日]] - [[向井康二]]、アイドル、俳優(Snow Man)
* [[6月21日]] - [[岡井千聖]]、元アイドル、元タレント(元[[℃-ute]])
* [[6月25日]] - [[麻倉もも]]、声優
* [[6月27日]] - [[若月佑美]]、元アイドル、女優(元[[乃木坂46]])
* [[6月28日]] - [[斉藤真木子]]、アイドル([[SKE48]])
=== 7月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[7月5日]] - [[大谷翔平]]、[[プロ野球選手|メジャーリーガー]]
* [[7月6日]] - [[アンドリュー・ベニンテンディ]]、メジャーリーガー
* [[7月10日]] - [[ニクラス・アジョ]]、[[オートレース選手]]
* [[7月12日]] - [[百田夏菜子]]、アイドル、女優([[ももいろクローバーZ]])
* [[7月16日]] - [[マーク・インデリカート]]、俳優
* [[7月23日]] - [[アルバート・ミネオ]]、マイナーリーガー
* [[7月26日]] - [[坂口理子 (アイドル)|坂口理子]]、元アイドル(元[[HKT48]])
* [[7月27日]] - [[スペンサー・アクチミチュク]]、俳優
* 7月27日 - [[姫野和樹]]、ラグビー選手
* [[7月31日]] - [[リル・ウージー・ヴァート]]、ラッパー
=== 8月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[8月1日]] - [[廣田彩花]]、バドミントン選手
* [[8月4日]] - [[オーランド・アルシア]]、メジャーリーガー
* [[8月4日]] - [[ンダホ]]、YouTuber
* [[8月5日]] - [[古長拓]]、プロ野球選手
*[[8月6日]] - [[中田花奈]]、タレント・プロ雀士(元[[乃木坂46]])
* [[8月10日]] - [[アドリアン・オリヴェイラ・タヴァレス]]、サッカー選手
* 8月10日 - [[ベルナルド・シウバ]]、サッカー選手
* 8月10日 - [[キム・ソンイ]]、卓球選手
* [[8月11日]] - [[山上佳之介 ]]、マジシャン、声優、([[山上兄弟]])
* [[8月12日]] - [[イアン・ハップ]]、メジャーリーガー
* [[8月15日]] - [[萩野公介]]、競泳選手
* [[8月16日]] - [[畠山愛理]]、新体操選手
* [[8月17日]] - [[ティエムエ・バカヨコ]]、サッカー選手
* 8月17日 - [[タイッサ・ファーミガ]]、女優
* [[8月18日]] - [[モルガン・サンソン]]、サッカー選手
* 8月18日 - [[鈴木誠也]]、メジャーリーガー
* [[8月19日]] - [[フィッシャーズ (YouTuber)#メンバー|シルクロード]]、YouTuber
* [[8月23日]] - [[中島翔哉]]、サッカー選手([[ミッドフィールダー|MF]])
* [[8月29日]] - [[アレックス・レイエス]]、メジャーリーガー
=== 9月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[9月1日]] - [[ビアンカ・ライアン]]、歌手
* 9月1日 - [[リディアン・ロペス]]、陸上競技選手<ref>{{Cite web |url=http://www.iaaf.org/athletes/cabo-verde/lidiane-lopes-264903 |title=国際陸上競技連盟のプロフィール(英語) |publisher=[[国際陸上競技連盟]] |accessdate=2016-01-31}}</ref>
* 9月1日 - [[桃田賢斗]]、バドミントン選手
* 9月3日 - [[髙比良くるま]]、お笑い芸人([[令和ロマン]])
* [[9月7日]] - [[山﨑賢人]]、俳優、モデル
* [[9月8日]] - [[ブルーノ・フェルナンデス]]、サッカー選手
* 9月8日 - [[和氣あず未]]、声優
* [[9月9日]] - [[高橋花林]]、声優
* [[9月10日]] - [[メフディ・トラビ]]、サッカー選手
* [[9月12日]] - [[M・ブラック]]、政治家
* 9月12日 - [[RM (ラッパー)|アールエム]]、歌手、音楽プロデューサー([[BTS (音楽グループ)|BTS]])
* [[9月13日]] - [[大橋彩香]]、声優
* 9月13日 - [[アンナ・カロリナ・シュミエドロバ]]、女子プロテニス選手
* [[9月21日]] - [[二階堂ふみ]]、女優
* [[9月22日]] - [[カルロス・コレア]]、メジャーリーガー
* [[9月23日]] - [[ジェリー・ミナ]]、サッカー選手
* [[9月25日]] - [[ベイカー茉秋]]、柔道選手
* [[9月26日]] - [[藤田光里]]、プロゴルファー
* [[9月27日]] - [[サムエル・アダメス]]、[[プロ野球選手]]
* [[9月28日]] - [[マニュエル・マーゴット]]、メジャーリーガー
* [[9月29日]] - [[ホールジー]]、シンガーソングライター
* [[9月30日]] - [[アリーヤ・ムスタフィナ]]、体操選手
=== 10月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[10月1日]] - [[マフムード・ハッサン (サッカー選手)|マフムード・ハッサン]]、サッカー選手
* [[10月3日]] - [[曾仁和]]、メジャーリーガー
* [[10月4日]] - [[イルフン|チョン・イルフン]]、アイドル、ラッパー、俳優(元[[BTOB]])
* [[10月4日]] - [[岩立沙穂]]、アイドル([[AKB48]])
* [[10月9日]] - [[ジョデル・フェルランド]]、女優
* [[10月10日]] - [[ペ・スジ]]、歌手、女優、元アイドル(元[[miss A]])
* 10月10日 - [[丹羽孝希]]、卓球選手
* [[10月11日]] - [[T・J・ワット]]、アメリカンフットボール選手
* [[10月13日]] - [[渡邊雄太]]、[[NBA]]プレイヤー
* [[10月14日]] - [[高柳知葉]]、声優
* 10月14日 - [[ジャレッド・ゴフ]]、アメリカンフットボール選手
* [[10月16日]] - [[鬼頭明里]]、声優
* [[10月17日]] - [[土性沙羅]]、レスリング選手
* [[10月19日]] - [[須賀健太]]、俳優
* [[10月24日]] - [[クリスタル (韓国の歌手)|クリスタル]]、アイドル、女優([[f(x)]])
* 10月24日 - [[アルミンド・トゥエ・ナ・バンニャ]]、サッカー選手
* 10月24日 - [[植田直通]]、サッカー選手
* 10月24日 - [[タチヤナ・ノヴィク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 10月24日 - [[ジャレン・ラムジー]]、アメリカンフットボール選手
* [[10月25日]] - [[シモン・ゴーズィ]]、卓球選手
* [[10月26日]] - [[アリー・デベリー]]、女優
=== 11月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[11月2日]] - [[諏訪ななか]]、声優
* [[11月6日]] - [[アーダーム・マルティン]]、プロサッカー選手
* [[11月7日]] - [[村上佳菜子]]、フィギュアスケート選手
* [[11月8日]] - [[富永勇也]]、俳優
* [[11月9日]] - [[近本光司]]、プロ野球選手
* [[11月10日]] - [[ゾーイ・ドゥイッチ]]、女優
* 11月10日 - [[浅野拓磨]]、サッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])
* [[11月17日]] - [[ラクエル・カストロ]]、俳優
* [[11月21日]] - [[川井梨紗子]]、[[アマチュアレスリング]]選手
* 11月21日 - [[瀬名葉月]]、女優、タレント
* [[11月22日]] - [[川島如恵留]]、アイドル、俳優([[Travis Japan]])
* 11月22日 - [[田中刑事]]、フィギュアスケート選手
* [[11月24日]] - [[ナビル・ベンタレブ]]、サッカー選手
* [[11月25日]] - [[武藤十夢]]、女優、気象予報士、元アイドル(元[[AKB48]])
* [[11月26日]] - [[村上りいな]]、グラビアアイドル、女優
* [[11月30日]] - [[シャーロット・ウィングフィールド]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=https://www.iaaf.org/athletes/malta/charlotte-wingfield-302671|title=Charlotte Wingfield|publisher=IAAF|accessdate=2016-08-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160815143508/https://www.iaaf.org/athletes/malta/charlotte-wingfield-302671|archivedate=2016年08月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
=== 12月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1994年の日本」項内に記入-->
* [[12月3日]] - [[ジェイク・T・オースティン]]、俳優
* 12月3日 - [[京本大我]]、アイドル、俳優、ミュージカル俳優([[SixTONES]])
* 12月3日 - [[芹澤優]]、声優
* 12月5日 - [[パパラピーズ#メンバー|じんじん]]、YouTuber([[パパラピーズ]])
* [[12月5日]] - [[熊崎優美|ゆん]]、YouTuber、タレント([[ヴァンゆん]])
* [[12月6日]] - [[栗原類]]、モデル、俳優
* [[12月7日]] - [[羽生結弦]]、フィギュアスケート選手
* [[12月8日]] - [[山内鈴蘭]]、アイドル(元[[SKE48]]、元[[AKB48]])
* [[12月10日]] - [[西川龍馬]]、プロ野球選手
* [[12月11日]] - [[広瀬アリス]]、女優、モデル
* [[12月13日]] - [[家入レオ]]、シンガーソングライター
* [[12月16日]] - [[相川結]]、女優、タレント
* [[12月19日]] - [[大山悠輔]]、プロ野球選手
* [[12月28日]] - [[前田憂佳]]、元アイドル(元[[スマイレージ]])
* [[12月29日]] - [[佳子内親王|秋篠宮佳子内親王]]
=== 人物以外 ===
* [[3月23日]] - [[タイキシャトル]]、競走馬
* [[5月1日]] -[[サイレンススズカ]]、競走馬
== 死去 ==
{{See|訃報 1994年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[バートラム・ブロックハウス]]、[[クリフォード・シャル]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ジョージ・オラー]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アルフレッド・ギルマン]]、[[マーティン・ロッドベル]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[大江健三郎]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[イツハク・ラビン]]、[[シモン・ペレス]]、[[ヤーセル・アラファート]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ラインハルト・ゼルテン]]、[[ジョン・ナッシュ]]、[[ジョン・ハーサニ]]
== フィクションのできごと ==
* 初頭 - 宇宙全域を管理する「レイナー・オーガニゼーション」地球支部の情報検索センターである[[ロンドン]]近郊のヘックスウッド農場で、「シータスペース」によって従基準外延状態を作り出す機械「バナス」が情報係官ハリソン・スキューダモアの手により起動。バナスは入力された情報を元に周辺の現実を変えつつ、他の人間をその場に取り込み場を広げ始める。(小説『{{仮リンク|魔空の森 ヘックスウッド|en|Hexwood}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ダイアナ・ウィン・ジョーンズ|authorlink=ダイアナ・ウィン・ジョーンズ |title = 魔空の森 ヘックスウッド |publisher = [[小学館]] |year = 2004 |pages = 5-17,55,176-179,202-207,387,433 |isbn = 978-4-09-290401-9}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1994}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
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[[Category:1994年|*]] | 2003-02-14T09:12:53Z | 2023-12-28T13:51:41Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/1994%E5%B9%B4 |
1,561 | アーシア・アルジェント | アーシア・アルジェント(Asia Argento, 本名:Asia Aria Anna Maria Vittoria Rossa Argento、1975年9月20日 - )は、ローマ生まれのイタリア人女優、映画監督。
ホラー・シネマ界の巨匠、ダリオ・アルジェントと女優ダリア・ニコロディの間に生まれる。姉のフィオーレ・アルジェントも女優。日本贔屓の父ダリオが「何か日本にちなんだ名前を」と選んだため、人名としてはあまり使われない「アジア」になった(発音も「アジア」だとダリオや元彼らが証言している)。9歳にしてセルジョ・チッティ監督のテレビドラマ『Sogni e bisogni』で女優デビューを果たし、1986年にはダリオが製作・脚本を務めた『デモンズ2』で映画初出演。
1994年の『Perdiamoci di vista!』と1996年の『雨上がりの駅で』で、「イタリアのアカデミー賞」といわれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の最優秀女優賞を二度受賞している。
父・ダリオの監督作では『トラウマ/鮮血の叫び』『スタンダール・シンドローム』『オペラ座の怪人』『サスペリア・テルザ 最後の魔女』に出演。1998年には、マイケル・ラドフォード監督によるイギリス映画『Bモンキー』で主人公ベアトリスを演じた。2002年の『トリプルX』でハリウッドに初進出し、その後は活動の場をアメリカにまで広げている。
1994年には、オムニバス映画『DeGenerazione』で初監督をこなし、2000年の『スカーレット・ディーバ』では脚本と出演も兼ねて長編初監督を果たした。2004年には長編では2作目となる『サラ、いつわりの祈り』で監督・脚本・出演をこなした。
私生活では、2001年にロック・ミュージシャンのマルコ・カストルディとの間にアンナ・ルーをもうける。2008年に映像作家のミケーレ・チヴェッタと結婚。同年9月にミケーレとの間の子であるニコラ・ジョヴァンニを出産。
2013年、カリフォルニア州のホテルで当時17歳だった俳優でミュージシャンのジミー・ベネットを性的暴行し、秘密裏に38万ドル(約4,200万円)の口止め料を支払っていたと報じられた。カリフォルニア州では性交同意年齢が18歳のため、17歳の者との性交は犯罪となる。アルジェントは2017年10月ハリウッドの大物プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタイン被告によるレイプを告発し、セクハラ告発運動「#MeToo」の中心人物の1人であった。アルジェントがワインスタインを告発した1カ月後の2017年11月、ベネット代理人弁護団は、ホテルでの性行為は「性的暴行」であり、「精神的苦痛、逸失賃金、脅迫と暴行を意図的に与えた」損害賠償として350万ドル(約3億8,000万円)を請求する訴訟を起こすとアルジェント側に通告していた。
こうしたベネットの主張について、父親のダリオ・アルジェントはこれを否定している。また、この事件はアーシアから告発されたワインスタインの報復であるとも主張しており、ベネットはワインスタインから金銭を受け取り、アーシアを告発したのだと語っている。 | [
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| アーシア・アルジェントは、ローマ生まれのイタリア人女優、映画監督。 | {{存命人物の出典明記|date=2017-08-06}}
{{ActorActress
| 芸名 = Asia Argento
| ふりがな = アーシア・アルジェント
| 画像ファイル = Asia Argento Cannes 2013 2.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2013年
| 本名 = Asia Aria Anna Maria Vittoria Rossa Argento
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = {{ITA}} [[ローマ]]
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1975
| 生月 = 9
| 生日 = 20
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[俳優|女優]]、[[映画監督]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビ映画]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 -->[[ダリオ・アルジェント]](父)<br />[[ダリア・ニコロディ]](母)<br />[[フィオーレ・アルジェント]](姉)
| 所属劇団 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->『[[デモンズ2]]』<br />『[[王妃マルゴ (映画)|王妃マルゴ]]』<br />『[[トリプルX]]』<br />『[[ランド・オブ・ザ・デッド]]』<br />『[[マリー・アントワネット (映画)|マリー・アントワネット]]』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| サターン賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''アーシア・アルジェント'''('''Asia Argento''', 本名:Asia Aria Anna Maria Vittoria Rossa Argento、[[1975年]][[9月20日]] - )は、[[ローマ]]生まれの[[イタリア]]人[[俳優|女優]]、[[映画監督]]。
== 略歴 ==
ホラー・シネマ界の巨匠、[[ダリオ・アルジェント]]と女優[[ダリア・ニコロディ]]の間に生まれる<ref name=hmovies>[http://www.horror-movies.ca/celeb.php?name=Asia-Argento Horror-Movies.ca, Asia Argento, Horrific Filmography.] Retrieved on 16 February 2008.</ref>。姉の[[フィオーレ・アルジェント]]も女優。日本贔屓の父ダリオが「何か日本にちなんだ名前を」と選んだため、人名としてはあまり使われない「アジア」になった(発音も「アジア」だとダリオや元彼らが証言している{{要出典|date=2015-11-20}})。9歳にして[[セルジョ・チッティ]]監督のテレビドラマ『Sogni e bisogni』で女優デビューを果たし、1986年にはダリオが製作・脚本を務めた『デモンズ2』で映画初出演。
1994年の『Perdiamoci di vista!』と1996年の『[[雨上がりの駅で]]』で、「イタリアの[[アカデミー賞]]」といわれる[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]の最優秀女優賞を二度受賞している。
父・ダリオの監督作では『[[トラウマ/鮮血の叫び]]』『[[スタンダール・シンドローム (映画)|スタンダール・シンドローム]]』『[[オペラ座の怪人]]』『[[サスペリア・テルザ 最後の魔女]]』に出演。1998年には、[[マイケル・ラドフォード]]監督によるイギリス映画『[[Bモンキー]]』で主人公ベアトリスを演じた。2002年の『トリプルX』でハリウッドに初進出し、その後は活動の場をアメリカにまで広げている。
1994年には、オムニバス映画『DeGenerazione』で初監督をこなし、2000年の『スカーレット・ディーバ』では脚本と出演も兼ねて長編初監督を果たした。2004年には長編では2作目となる『[[サラ、いつわりの祈り]]』で監督・脚本・出演をこなした。
=== プライベート ===
==== 家族 ====
私生活では、2001年にロック・ミュージシャンのマルコ・カストルディとの間にアンナ・ルーをもうける<ref name=ode>Alan Jones. [http://odetoazia.com/info/bio.php "Biography".] OdetoAzia.com. September 2002.</ref>。2008年に映像作家のミケーレ・チヴェッタと結婚<ref>[http://www.simormora.com/matrimonio/asia-argento-sposa-ad-arezzo-michele-civetta/ Asia Argento Weds Film Director Asia Argento sposa ad Arezzo Michele Civetta | Si Mormora]</ref>。同年9月にミケーレとの間の子であるニコラ・ジョヴァンニを出産。
==== 性的暴行疑惑 ====
2013年、[[カリフォルニア州]]のホテルで当時17歳だった俳優でミュージシャンの[[ジミー・ベネット]]を性的暴行し、秘密裏に38万ドル(約4,200万円)の口止め料を支払っていたと報じられた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/15380948/ 性的暴行事件で確執! ローズ・マッゴーワン、アーシア・アルジェントに謝罪 - Peachy - ライブドアニュース]</ref>。カリフォルニア州では性交同意年齢が18歳のため、17歳の者との性交は犯罪となる。アルジェントは2017年10月ハリウッドの大物プロデューサーだった[[ハーヴェイ・ワインスタイン]]被告によるレイプを告発し、セクハラ告発運動「[[#MeToo|#MeToo]]」の中心人物の1人であった。アルジェントがワインスタインを告発した1カ月後の2017年11月、ベネット代理人弁護団は、ホテルでの性行為は「性的暴行」であり、「精神的苦痛、逸失賃金、脅迫と暴行を意図的に与えた」損害賠償として350万ドル(約3億8,000万円)を請求する訴訟を起こすとアルジェント側に通告していた<ref>{{cite news |title=ワインスタイン告発の女優、17歳少年との性行為で口止め料支払いか|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2018-8-20|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3186562|accessdate=2018-8-26 }}</ref>。
こうしたベネットの主張について、父親の[[ダリオ・アルジェント]]はこれを否定している。また、この事件はアーシアから告発されたワインスタインの[[報復]]であるとも主張しており、ベネットはワインスタインから金銭を受け取り、アーシアを告発したのだと語っている<ref>{{cite news |title=アーシア・アルジェントの父、「性的暴行事件はワインスタインの陰謀」|newspaper=[[ELLE (雑誌)|ELLE]] |date=2018-9-26 |url=https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a23459969/asia-argento-180926/ |accessdate=2018-9-30 |author=Yoko Nagasaka}}</ref>。
== 出演作品 ==
{| class="wikitable" border="1"
|-
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考
|-
|1986|| [[デモンズ2]]<br />''Demoni 2'' || イングリッド ||
|-
|rowspan="2"|1989|| [[デモンズ3]]<br />''La Chiesa'' || ロッテ ||
|-
| 赤いシュート<br />''Palombella rossa'' || ヴァレンティナ ||
|-
|1992|| [[トラウマ/鮮血の叫び]]<br />''Trauma'' || オーラ・ペトレスク ||
|-
|1994|| [[王妃マルゴ (映画)|王妃マルゴ]]<br />''La Reine Margot'' || [[シャルロット・ド・ソーヴ]] ||
|-
|rowspan="2"|1996|| [[スタンダール・シンドローム (映画)|スタンダール・シンドローム]]<br />''La Sindrome di Stendhal'' || アンナ・マンニ ||
|-
| [[雨上がりの駅で]]<br />''Compagna di viaggio'' || コーラ ||
|-
|rowspan="3"|1998|| [[Bモンキー]]<br />''B. Monkey'' || Bモンキー ||
|-
| [[オペラ座の怪人 (1998年の映画)|オペラ座の怪人]]<br />''Il Fantasma dell'opera'' || クリスティーヌ ||
|-
| [[ニューローズホテル (映画)|ニューローズ ホテル]]<br />''New Rose Hotel'' || サンディ ||
|-
|rowspan="2"|2000|| [[スカーレット・ディーバ]]<br />''Scarlet Diva'' || アンナ || 監督・脚本・出演
|-
| [[レ・ミゼラブル]]<br />''Les misérables'' || エポニーヌ || テレビ・ミニシリーズ
|-
|rowspan="2"|2001|| レッド・サイレン <br />''La Sirène rouge'' || アニータ ||
|-
| アーシア・アルジェント/禁断の罠<br />''Les morsures de l'aube'' || Violaine Charlier ||
|-
|2002|| [[トリプルX]]<br />''xXx'' || エレーナ ||
|-
|rowspan="2"|2004|| ザ・キーパー 監禁<br />''The Keeper'' || ジーナ ||
|-
| [[サラ、いつわりの祈り]]<br />''The Heart Is Deceitful Above All Things'' || サラ || 監督・脚本・出演
|-
|rowspan="2"|2005|| [[ラストデイズ]]<br />''Last Days'' || アジア ||
|-
| [[ランド・オブ・ザ・デッド]]<br />''Land of the Dead'' || スラック ||
|-
|rowspan="3"|2006|| [[リブ・フリーキー!ダイ・フリーキー!]]<br />''Live Freaky Die Freaky'' || アパゲイル || 声の出演
|-
| [[マリー・アントワネット (映画)|マリー・アントワネット]]<br />''Marie Antoinette'' || [[デュ・バリー夫人]] ||
|-
| トランシルヴァニア<br />''Transylvania'' || ジンガリナ ||
|-
|rowspan="3"|2007|| レディ アサシン<br />''Boarding Gate'' || サンドラ ||
|-
| [[最後の愛人]]<br />''Une vieille maîtresse'' || ヴェリーニ ||
|-
| [[サスペリア・テルザ 最後の魔女]]<br />''La Terza madre'' || サラ・マンディ ||
|-
|2008|| 戦争について<br />''De la guerre'' || ウマ ||
|-
|2009|| [[いずれ絶望という名の闇]]<br />''Diamant 13'' || カルーン ||
|-
|2011|| [[妹の誘惑]]<br />''Gli sfiorati'' || ベアトリーチェ ||
|-
|2012|| [[ダリオ・アルジェントのドラキュラ]]<br />''Dracula 3D'' || ルーシー・キスリンガー ||
|}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Asia Argento}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.asiargento.it/ |title=公式ウェブサイト |access-date=2002-11-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20021124221440/http://www.asiargento.it/ |archive-date=2002-11-24 |deadlinkdate=2022-05-22}}
* {{allcinema name|39146|アーシア・アルジェント}}
* {{Kinejun name|2=アーシア・アルジェント}}
* {{IMDb name|0000782|Asia Argento}}
* {{Instagram|asiaargento|Asia Argento}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あるしえんと ああしあ}}
[[Category:イタリアの女優]]
[[Category:イタリアの映画監督]]
[[Category:ローマ出身の人物]]
[[Category:ブラジル系イタリア人]]
[[Category:1975年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-14T09:14:48Z | 2023-10-07T11:12:02Z | false | false | false | [
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"Template:存命人物の出典明記",
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88 |
1,562 | 古典落語 | 古典落語(こてんらくご)とは、落語の演目のうち、一般に江戸時代から明治時代・大正時代にかけて作られたものを指すことが多い。それよりも新しい時代に作られた演目は、「新作落語」と呼んで区別される。なお、「創作落語」は上方(大阪・京都)の落語家たちによる造語である。
古典落語は江戸時代以降、主として江戸と上方の都市に住む庶民に親しまれてきた笑いの伝統芸能であり、笑いのなかで独自の世界を作り上げる話芸には高度の芸術的表現力が必要である。
落語は、江戸時代、軽めの講談、辻咄(辻芸)として京都の露の五郎兵衛らによって始められたといわれる。当初は短い小話中心であったが、寄席芸能として三都に定着するにつれ次第に長くなり、幕末から明治にかけてほぼ今のようなスタイルになったといわれている。土地柄を反映して、あっさりとした味わいの江戸落語、派手で賑やかな上方落語とそれぞれに際だった特徴を有する。このような古典落語は、明治になって三遊亭圓朝によって大成され、都市化、筆記化とともに大衆文化として花開いた。この時代の頃までに骨格の出来上がった演目が、通常は古典落語と呼ばれている。
要するに「古典落語」とは、「現代からみて古典的なネタ(演目)」のことであり、落語演目のうち「新作落語(あるいは創作落語)でないもの」を称する。これについて、第二次世界大戦後、新作落語を多く手がけた5代目古今亭今輔はしばしば「古典落語も、できたときは新作でした」と述べている。これに対し、古典落語の多くは落語が生まれる以前の中国や日本の説話や伝承などから生まれたものであることに着目し、「古典落語の多くは、生まれた時から古典だった」とする見解もある。
上述のとおり、基本的には江戸時代から明治・大正期につくられた作品を通常は「古典」と称するが、昭和初期の作品でも漫画『のらくろ』の作者田河水泡の手による『猫と金魚』や今村信雄『試し酒』などは既に古典と呼びうるほどに多くの演者によって演じられてきた演目であり、古典と新作(創作)を厳密に分けることは難しい。
古典落語は長い間、庶民にとって身近な娯楽であり、大戦後は、ラジオ寄席、TV放映などを通して人気を維持したが、大衆レベルでの古典文化の喪失、名人と呼ばれた師匠が相次いで物故したこと、後継者のレベル低下、娯楽の多様化などから、人気の衰えた一時期を迎えた。
そうしたなかにあって、1995年(平成7年)、五代目柳家小さん(本名:小林盛夫)が落語家として初の重要無形文化財保持者(いわゆる「人間国宝」)に認定され、翌年には上方の3代目桂米朝(本名:中川清)が、2014年(平成26年)には10代目柳家小三治(本名:郡山剛藏)がそれぞれ人間国宝に認定された。また、2005年の『タイガー&ドラゴン』や2007年の『ちりとてちん』という古典落語を題材とした連続ドラマ(NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』)の放送が、若い世代が落語を知る機会となり、新しいファンも増えてきている。
古典の演目の場合、噺そのものについて著作権が問題になることはほとんどない。しかしながら、プロの落語家にあっては、高座にかけるためには稽古をつけてくれた人からの許可が必要であり、独りで勝手に聞き覚えたものを高座にかけてはならないという不文律があり、そのような形で古典落語が継承されてきた。
弟子へ引き継がれず途絶えてしまった演目もあり、四代目桂文我は古書や高座の速記録、浮世絵に書き込まれた当時の小話などからの復元をライフワークとしており、師匠の二代目桂枝雀が転居時に捨てようとした資料をもらい受けたり、その師匠である三代目桂米朝に題名しかわからない演目を思い出して語ってもらったりして、『桂文我 上方落語全集』として刊行を進めている。
古典落語の演目は、その内容から、落とし噺と人情噺とに大別される。さらに落ちによって分類する方法もある。また、上方と江戸で別々に発展したため、以下のように東西によって落語の題名が違ったり、片方にしかない演目があったりする。 | [
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| 古典落語(こてんらくご)とは、落語の演目のうち、一般に江戸時代から明治時代・大正時代にかけて作られたものを指すことが多い。それよりも新しい時代に作られた演目は、「新作落語」と呼んで区別される。なお、「創作落語」は上方(大阪・京都)の落語家たちによる造語である。 | '''古典落語'''(こてんらくご)とは、[[落語]]の演目のうち、一般に[[江戸時代]]から[[明治時代]]・[[大正時代]]にかけて作られたものを指すことが多い{{sfn|渡邉|2008|p=74}}。それよりも新しい時代に作られた演目は、「[[新作落語]]」と呼んで区別される。なお、「[[創作落語]]」は[[上方]]([[大阪府|大阪]]・[[京都市|京都]])の[[落語家]]たちによる[[造語]]である。
== 概要 ==
=== 歴史 ===
{{Main|落語#歴史}}
古典落語は江戸時代以降、主として[[江戸]]と上方の都市に住む[[庶民]]に親しまれてきた笑いの[[伝統芸能]]であり、笑いのなかで独自の世界を作り上げる[[話芸]]には高度の芸術的表現力が必要である{{sfn|「古典落語」|loc=文化財選集}}。
落語は、江戸時代、軽めの[[講談]]、辻咄(辻芸)として京都の[[露の五郎兵衛]]らによって始められたといわれる。当初は短い小話中心であったが、[[寄席]]芸能として[[三都]]に定着するにつれ次第に長くなり、[[幕末]]から明治にかけてほぼ今のようなスタイルになったといわれている{{sfn|「古典落語」|loc=文化財選集}}。土地柄を反映して、あっさりとした味わいの[[江戸落語]]、派手で賑やかな[[上方落語]]とそれぞれに際だった特徴を有する{{sfn|「古典落語」|loc=文化財選集}}。このような古典落語は、明治になって[[三遊亭圓朝]]によって大成され、都市化、筆記化とともに[[大衆文化]]として花開いた。この時代の頃までに骨格の出来上がった演目が、通常は古典落語と呼ばれている。
要するに「古典落語」とは、「現代からみて古典的なネタ(演目)」のことであり、落語演目のうち「新作落語(あるいは創作落語)でないもの」を称する。これについて、[[第二次世界大戦]]後、新作落語を多く手がけた[[古今亭今輔 (5代目)|5代目古今亭今輔]]はしばしば「古典落語も、できたときは新作でした」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.geikyo.com/beginner/repertoire.html |title=演目紹介 - 落語はじめの一歩 |website=落語芸術協会 |publisher=公益社団法人 落語芸術協会 |accessdate=2023-06-25}}</ref>。これに対し、古典落語の多くは落語が生まれる以前の[[中国]]や[[日本]]の[[説話]]や[[伝承]]などから生まれたものであることに着目し、「古典落語の多くは、生まれた時から古典だった」とする見解もある<ref>{{Cite web|和書|author=広尾晃 |url=http://59s-hibikor.doorblog.jp/archives/18124440.html |title=「古典落語」と「新作落語」「落語入門」5|噺板 |website=59'S 日々是口実 |date=2012-09-24 |accessdate=2013-01-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130105125944/http://59s-hibikor.doorblog.jp/archives/18124440.html |archivedate=2013-01-05}}{{信頼性要検証|date=2023年6月}}</ref>。
上述のとおり、基本的には江戸時代から明治・大正期につくられた作品を通常は「古典」と称するが、[[昭和]]初期の作品でも[[漫画]]『[[のらくろ]]』の作者[[田河水泡]]の手による『[[猫と金魚]]』や[[今村信雄]]『[[試し酒]]』などは既に古典と呼びうるほどに多くの演者によって演じられてきた演目であり、古典と新作(創作)を厳密に分けることは難しい{{sfn|渡邉|2008|p=74}}。
古典落語は長い間、庶民にとって身近な[[娯楽]]であり、大戦後は、ラジオ寄席、TV放映などを通して人気を維持したが、大衆レベルでの古典文化の喪失、名人と呼ばれた師匠が相次いで物故したこと、後継者のレベル低下、娯楽の多様化などから、人気の衰えた一時期を迎えた。
そうしたなかにあって、[[1995年]]([[平成]]7年)、[[柳家小さん (5代目)|五代目柳家小さん]](本名:小林盛夫)が落語家として初の[[重要無形文化財]]保持者(いわゆる「人間国宝」)に認定され、翌年には上方の[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]](本名:中川清)が{{efn2|これは、「磨かれた話術で一人の噺家がさまざまな人物を描きわけ独自の笑いの世界を構築する」古典落語の第一人者が「高度な芸術的表現力」を有し、「わが国の代表的芸能の一つとして、芸能史上大きな価値を有する」ことを評価しての認定であった{{sfn|「古典落語」|loc=文化財データベース}}。}}、2014年(平成26年)には[[柳家小三治|10代目柳家小三治]](本名:郡山剛藏)がそれぞれ人間国宝に認定された。また、[[2005年]]の『[[タイガー&ドラゴン (テレビドラマ)|タイガー&ドラゴン]]』や[[2007年]]の『[[酢豆腐|ちりとてちん]]』という古典落語を題材とした連続ドラマ([[連続テレビ小説|NHK連続テレビ小説]]『[[ちりとてちん (テレビドラマ)|ちりとてちん]]』)の放送が、若い世代が落語を知る機会となり、新しいファンも増えてきている。
=== 古典落語の継承と分類 ===
古典の演目の場合、噺そのものについて[[著作権]]が問題になることはほとんどない{{sfn|渡邉|2008|p=74}}。しかしながら、プロの落語家にあっては、[[高座]]にかけるためには稽古をつけてくれた人からの許可が必要であり、独りで勝手に聞き覚えたものを高座にかけてはならないという[[不文律]]があり、そのような形で古典落語が継承されてきた{{sfn|渡邉|2008|p=74}}。
弟子へ引き継がれず途絶えてしまった演目もあり、[[桂文我 (4代目)|四代目桂文我]]は古書や高座の速記録、[[浮世絵]]に書き込まれた当時の小話などからの復元をライフワークとしており、師匠の[[桂枝雀 (2代目)|二代目桂枝雀]]が転居時に捨てようとした資料をもらい受けたり、その師匠である[[桂米朝 (3代目)|三代目桂米朝]]に題名しかわからない演目を思い出して語ってもらったりして、『桂文我 上方落語全集』として刊行を進めている<ref>{{Cite news2 |df=ja |author=桂文我 |authorlink=桂文我 (4代目) |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOIH258GS0V20C23A1000000/ |title=見つけて語る幻の古典落語◇古書など10万点博捜し「消えたネタ」発掘、米朝師匠の記憶力も頼りに |newspaper=日経新聞 |publisher=日本経済新聞社 |edition=朝刊 |page=文化面 |date=2023-02-09 |accessdate=2023-06-25 |url-access=registration}}</ref>。
古典落語の演目は、その内容から、落とし噺と[[人情噺]]とに大別される。さらに[[落ち]]によって分類する方法もある。また、上方と江戸で別々に発展したため、以下のように東西によって落語の題名が違ったり、片方にしかない演目があったりする。
== 演目 一覧==
{{Main2|下げ(オチ)の種類についての詳細は|落ち}}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! width=30%|[[上方落語]]
! width=30%|[[江戸落語]]
! width=30%|落ち
|-
|[[明烏]]
|(同)
|逆さ落ち、ぶっつけ落ち
|-
|[[阿弥陀池 (落語)|阿弥陀池]]
|[[阿弥陀池 (落語)|新聞記事]]
|にわか落ち
|-
|[[いいえ (落語)|いいえ]]
|
|とたん落ち
|-
|
|居酒屋
|逆さ落ち、ぶっつけ落ち
|-
|[[井戸の茶碗]]
|
|
|-
|
|[[居残り佐平次]]、[[おこわ]]
|逆さ落ち、見立て落ち
|-
|[[厩火事]]
|(同)
|とたん落ち
|-
|[[延陽伯]]
|[[たらちね (落語)|たらちね]]
|にわか落ち
|-
|
|[[御神酒徳利]]、[[占い八百屋]]
|ぶっつけ落ち
|-
|
|[[火焔太鼓]]
|にわか落ち
|-
|
|[[お釜さま]]
|にわか落ち
|-
|[[書割盗人]]
|[[だくだく]]、[[つもり泥]]
|間抜け落ち
|-
|[[掛け取り]]
|[[掛取万歳]]
|とたん落ち
|-
|[[笠碁]]
|(同)
|間抜け落ち
|-
|[[片棒]]
|(同)
|とたん落ち
|-
|[[蝦蟇の油 (落語)|蝦蟇の油]]
|(同)
|間抜け落ち
|-
|[[替り目]]
|(同)
|とたん落ち、ぶっつけ落ち
|-
|[[京の茶漬け]]
|
|とたん落ち
|-
|[[高津の富]]
|[[宿屋の富]]、[[千両富]]
|間抜け落ち
|-
|[[くしゃみ講釈|くっしゃみ講釈]]
|[[くしゃみ講釈]]
|にわか落ち
|-
|[[蔵丁稚]]
|[[四段目]]
|
|-
|[[鴻池の犬]]
|
|間抜け落ち
|-
|
|[[黄金餅]]
|
|-
|[[骨つり]]
|[[野ざらし]]
|間抜け落ち
|-
|[[頭山|さくらんぼ]]
|[[頭山]]
|見立て落ち
|-
|[[宿屋嬶]]
|
|見立て落ち
|-
|[[皿屋敷]]、[[お菊の皿]]
|(同)
|間抜け落ち
|-
|
|[[山号寺号]]、[[恵方参り]]
|にわか落ち
|-
|[[三十石]]
|
|
|-
|[[質屋蔵]]
|
|
|-
|
|[[品川心中]]、[[仕返し]]
|にわか落ち
|-
|
|[[死神 (落語)|死神]]
|しぐさ落ち
|-
|
|[[芝浜]]
|とたん落ち
|-
|[[寿限無]]
|(同)
|間抜け落ち
|-
|
|[[女給の文]](ラブレター)
|にわか落ち
|-
|[[世帯念仏]]
|[[小言念仏]]
|拍子落ち、間抜け落ち
|-
|
|[[粗忽長屋]]
|間抜け落ち
|-
|
|[[大工調べ]]
|にわか落ち
|-
|[[千早振る]]、[[百人一首]]、[[無学者]]
|
|ぶっつけ落ち
|-
|[[出来心]]、[[花色木綿]]
|
|間抜け落ち
|-
|
|[[てれすこ]]
|間抜け落ち
|-
|[[紙屑屋|天下一浮かれの屑より]]
|[[紙屑屋]]
|
|-
|[[天狗裁き]]
|(同)
|まわり落ち
|-
|[[天神山]]
|[[墓見]]
|
|-
|[[時うどん]]
|[[時そば]]
|間抜け落ち
|-
|[[貧乏花見]]
|[[長屋の花見]]
|
|-
|[[猫の皿|猫の茶碗]]
|[[猫の皿]]
|とたん落ち
|-
|
|[[八五郎出世]]、[[妾馬]]
|間抜け落ち
|-
|[[初天神]]
|
|拍子落ち、逆さ落ち
|-
|
|[[文七元結]]
|
|-
|[[まんじゅうこわい|饅頭こわい]]
|(同)
|とたん落ち
|-
|
|[[目黒のさんま]]
|ぶっつけ落ち
|-
|
|[[四谷怪談]]
|
|-
|[[らくだ (落語)|らくだ]]
|(同)
|にわか落ち
|-
|[[泳ぎの医者]]
|(同)
|とたん落ち
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|others=渡邉寧久 監修 |year=2008 |month=11 |title=CD付 落語入門 |publisher=[[成美堂出版]] |isbn=978-4-415-30493-9 |ref={{sfnref|渡邉|2008}} }}
* {{Cite web|和書|url=https://www.weblio.jp/content/古典落語 |title=「古典落語」の意味や使い方 |website=Weblio辞書 |accessdate=2023-06-25 |ref={{sfnref|「古典落語」}} }}
== 関連項目 ==
*[[落語家]]
[[Category:落語|こてんらくこ]]
[[Category:古典落語|*]] | 2003-02-14T09:16:33Z | 2023-11-15T16:24:33Z | false | false | false | [
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"Template:Notelist2",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news2",
"Template:Cite web",
"Template:信頼性要検証",
"Template:Cite book",
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"Template:Main",
"Template:Efn2",
"Template:脚注ヘルプ"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%90%BD%E8%AA%9E |
1,565 | 1993年 | 1993年(1993 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。平成5年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
※この月に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の制度(Jリーグ規約)が施行。 | [
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| 1993年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。平成5年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1993年の日本}}
{{年代ナビ|1993}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1990
| 年 = 1993
}}
{{year-definition|1993}}
この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=1993}}
* [[干支]]:[[癸酉]](みずのと とり)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]5年
** [[皇紀]]2653年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀紀]]4326年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]82年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]82年
* [[仏滅紀元]]:2535年 - 2536年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1413年7月7日 - 1414年7月17日
* [[ユダヤ暦]]:5753年4月8日 - 5754年4月17日
* [[UNIX時間]]:725846400 - 757382399
* [[修正ユリウス日]](MJD):48988 - 49352
* [[リリウス日]](LD):149829 - 150193
<div style="font-size:smaller">
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1993}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[欧州経済共同体]](EEC)に加盟する12か国による単一市場が設置される。
* 1月1日 - [[チェコスロバキア]]が[[ビロード離婚|連邦を解消]]。[[チェコ]]と[[スロバキア]]に分離。
* [[1月3日]] - [[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]と[[ボリス・エリツィン]][[ロシア連邦大統領|露大統領]]、[[第二次戦略兵器削減条約]](START II)に調印。
* [[1月8日]] - 永住外国人の指紋押なつ義務を廃止する改正外国人登録法施行<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202201070001148.html|title=元号が昭和から「平成」に/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-08|accessdate=2022-01-08}}</ref>。
* [[1月13日]] - 米英仏軍、[[イラク]]のミサイル基地爆撃。
* [[1月19日]] - [[中華民国|台湾]]第二南北[[高速道路]][[フォルモサ高速公路]]の北二高區間中和IC〜三鶯IC開通。
* [[1月20日]] - [[ビル・クリントン]]、アメリカ合衆国大統領に就任。
=== 2月 ===
* [[2月12日]] - [[ジェームス・バルガー事件]]
* [[2月26日]] - [[世界貿易センター爆破事件]]が発生。
=== 3月 ===
* [[3月6日]] - [[荻原健司]]、[[FISワールドカップ]]リベレツ大会で優勝し、[[日本人]]初の個人総合優勝。
* [[3月27日]] - [[江沢民]]が[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]]・[[中華人民共和国主席|国家主席]]に就任。
=== 4月 ===
* [[4月8日]] - [[カンボジア]]で選挙監視活動中に、[[国際連合|国連]]ボランティア(UNV)[[中田厚仁]]が射殺される。
* [[4月27日]] - [[ガボン航空惨事]]。
※この月に[[日本プロサッカーリーグ]]('''''Jリーグ''''')の制度(Jリーグ規約)が施行。
=== 5月 ===
* [[5月4日]] - カンボジアPKO襲撃事件。カンボジア北西部[[バンテイメンチェイ州]]アンピル村に駐在していた[[国連カンボジア暫定統治機構]] (UNTAC)の日本人文民[[警察官]]5人が、車両6台編成で国道691号を[[オランダ]]部隊の護衛を受けながら移動中に武装集団に襲われ、[[岡山県警察]]の[[警部補]]が[[殉職]]、4人が重軽傷を負った。
* [[5月5日]] - [[ウェスト・メンフィス3]]
* [[5月15日]] - 「サントリーシリーズ」の開幕により、初リーグ戦開始([[1993年Jリーグ開幕節]]を参照)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/202205180000076.html|title=【政界地獄耳】共催W杯20周年 日韓関係立て直しのキックオフあるか|publisher=日刊スポーツ|date=2022-05-18|accessdate=2022-05-18}}</ref>。
* [[5月24日]] - [[エリトリア]]の[[エチオピア]]からの独立が国連に承認される。
* [[5月29日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[ノドン]]1号を試射。
=== 6月 ===
* [[6月9日]] - [[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀]]が行われた。
* [[6月24日]] - [[ウォン・カークイ]]が『[[ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])の収録中に転落事故。6日後に死亡。
=== 7月 ===
* [[7月7日]] - [[第19回先進国首脳会議]](サミット)が[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[迎賓館赤坂離宮|赤坂迎賓館]]で開幕、[[7月9日]]まで。
*[[7月12日]] - [[北海道南西沖地震]]が発生し、[[奥尻島]]に巨大[[津波]]が到達。
*[[7月23日]] - [[カンデラリア教会虐殺事件]]:[[リオデジャネイロ]]のカンデラリア教会で、警察官を含むグループに8人の[[ストリートチルドレン]]が射殺される。
=== 8月 ===
*[[8月5日]] - [[阪和銀行]]副頭取が何者かに射殺される。(未解決)
*[[8月9日]] - 7月に行われた[[第40回衆議院議員総選挙]]の結果を受け、[[細川内閣|細川連立内閣]]が誕生し[[55年体制]]が崩壊。
*[[8月10日]] - [[オスロ]]で[[ユーロニモス]]が[[ヴァルグ・ヴィーケネス]]に刺殺される。
* [[8月13日]] - [[イスラエル]]・[[パレスチナ解放機構|PLO]]間で[[オスロ合意]]調印。
* [[8月26日]] - [[レインボーブリッジ]]が開通・開業。
=== 9月 ===
* [[9月13日]] - 1993年[[ストーティング|ノルウェー議会]]選挙:[[ノルウェー労働党|労働党]]が複数の議席を獲得し、[[グロハム・ブルントランド]][[ノルウェーの首相|首相]]が退任する。
* [[9月19日]] - [[1993年ポーランド議会選挙]]:[[ワルデマル・パウラク]]が率いる[[民主左翼連合]]と[[ポーランド人民党]]の連立が始まる。
* [[9月24日]] - [[北アメリカ|北米]]で [[コンピュータゲーム]]『[[MYST]]』発売。
* [[9月27日]] - [[アブハジア戦争(1992-93)|アブハジア戦争]] – [[スクムウの虐殺|スクムウの陥落]]:[[エドゥアルド・シェヴァルドナゼ]]が、[[ロシア]]の受動的な共謀を告発する。
=== 10月 ===
* [[10月3日]] - [[モスクワ]]で反エリツィン派が市街戦([[10月政変|モスクワ騒乱事件]])
* 10月3日 - [[ソマリア]]で[[モガディシュの戦闘]]が発生。
* [[10月11日]] - [[ボリス・エリツィン|エリツィン]]ロシア連邦大統領が日本を訪問。
* [[10月17日]] - [[ネルソン・マンデラ]]と[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]に[[ノーベル平和賞]]。
* [[10月25日]] - [[カナダ議会]]の[[1993年カナダ総選挙|総選挙]](下院)で[[野党]]・[[カナダ自由党]]が圧勝、[[与党]]・[[カナダ進歩保守党]]は169議席から2議席に転落する大敗北を喫した。
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[マーストリヒト条約]]の発効により[[欧州連合]]が発足する。
* [[11月4日]] - [[ジェームソン・ムビリニ・ドラミニ]]が[[スワジランド]]の首相に就任。
* [[11月23日]] - {{仮リンク|謝罪決議|en|Apology Resolution}}
=== 12月 ===
* [[12月2日]] - [[コロンビア]]で[[メデジン・カルテル]]最高幹部[[パブロ・エスコバル]]が[[準軍事組織|治安部隊]]により射殺。
* [[12月14日]] - [[日本国政府|日本政府]]は各国からの[[米]]輸入を決定([[1993年米騒動]])。
* [[12月10日]] - 北米で [[コンピュータゲーム]]『[[DOOM]]』発売。
== 芸術・文化・ファッション ==
=== スポーツ ===
; [[1993年の野球|野球]]
; [[モータースポーツ]]
* [[F1世界選手権]]
** ドライバーズチャンピオン [[アラン・プロスト]]([[ウィリアムズF1|ウィリアムズ・ルノー]])
** コンストラクターズチャンピオン [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ・ルノー]]
* [[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CARTワールドシリーズ]] [[ナイジェル・マンセル]]
* [[ロードレース世界選手権]]
** 500cc [[ケビン・シュワンツ]]
** 250cc [[原田哲也]]
* [[スーパーバイク世界選手権]] [[スコット・ラッセル]]
; 米国バスケットボール (NBA)
* [[マイケル・ジョーダン]]率いる[[シカゴ・ブルズ]]が、[[フェニックス・サンズ]]をたおし、このシーズンを制する。
=== 映画 ===
{{main|1993年の映画}}
* [[ジュラシック・パーク]] 監督[[スティーヴン・スピルバーグ]]
* [[ナイトメアー・ビフォア・クリスマス]] 監督[[ヘンリー・セリック]]
* [[バットマン/マスク・オブ・ファンタズム]] 監督 エリック・ラドムスキ/[[ブルース・W・ティム]]
* [[恐竜大行進]] 監督ディック・ゾンダグ/ラルフ・ゾンダグ/フィル・ニベリンク/サイモン・ウェルズ
* [[さらば、わが愛/覇王別姫]]
* [[ギルバート・グレイプ]]
=== 文学 ===
* [[ベストセラー]]
** [[ロバート・ジェームズ・ウォラー]]『[[マディソン郡の橋]]』
=== 音楽 ===
{{Main|1993年の音楽}}
== 誕生 ==
{{see also|1993年の日本#誕生|Category:1993年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「1993年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
=== 1月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[ジョン・フラナガン (サッカー選手)|ジョン・フラナガン]]、サッカー選手
* [[1月2日]] - [[マルセル・シュロッター]]、オートバイレーサー
* [[1月3日]] - [[陳斯亜]]、タレント
* [[1月4日]] - [[スコット・レディング]]、オートバイレーサー
* [[1月5日]] - [[フランツ・ドラメー]]、俳優
*[[1月7日]] - [[粗品 (お笑い芸人)|粗品]]([[霜降り明星]])お笑い芸人
*1月7日 - [[中務裕太]]、ダンサー([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* [[1月8日]] - [[オニール八菜]]、[[バレエダンサー]]
* [[1月9日]] - [[レオナルド・ウルヘエス]]、[[プロ野球選手]]
* [[1月11日]] - [[リュボーフィ・バキロワ]]、フィギュアスケート選手
* 1月11日 - [[朴廷桓]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]
* [[1月12日]] - [[ゼイン・マリク]]、[[ワン・ダイレクション]]
* 1月12日 - [[アイリス・ウー]]、[[シンガーソングライター]]
* 1月12日 - [[稲葉友]]、俳優
* 1月12日 - [[D.O.]]、アイドル、俳優([[EXO]])
* [[1月14日]] - [[マリヤ・クチナ]]、[[陸上競技選手]]
* 1月14日 - [[ドヴィダス・ネブラウスカス]] - プロ野球選手
* [[1月15日]] - [[吉岡里帆]]、女優、グラビアアイドル
* [[1月17日]] - [[張悦]]、フィギュアスケート選手
* [[1月19日]] - [[ガス・ルイス]]、俳優
* [[1月19日]] - [[久野美咲]]、声優
* [[1月22日]] - [[シーラ・ヴィルナー]]、フィギュアスケート選手
* 1月22日 - [[松浦匡希]]、ミュージシャン
* [[1月23日]] - [[アンドレイ・ロゴジン]]、フィギュアスケート選手
* [[1月26日]] - [[キャメロン・ブライト]]、俳優
* 1月26日 - [[ビルヂェ・アタベイ]]、フィギュアスケート選手
* [[1月28日]] - [[ベラ・バザロワ]]、フィギュアスケート選手
* 1月28日 - [[ウィル・ポールター]]、俳優
* [[1月29日]] - [[きゃりーぱみゅぱみゅ]]、歌手、ファッションモデル
* [[1月30日]] - [[千賀滉大]]、プロ野球選手
* [[1月31日]] - [[ジェシカ・ローズ・ペイシュ]]、フィギュアスケート選手
=== 2月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[2月2日]] - [[清原翔]]、俳優、ファッションモデル
* 2月2日 - [[P.O]]、アイドル、俳優([[Block B|BlockB]])
* [[2月4日]] - [[本泉莉奈]]、声優
* [[2月6日]] - [[ティナーシェ]]、歌手、ソングライター、女優
* [[2月7日]] - [[仲野太賀]]、俳優
* 2月7日 - [[デヴィッド・ドーフマン]]、俳優
* [[2月8日]] - [[水野絵梨奈]]、ダンサー、女優(元[[Flower (グループ)|Flower]]、元[[E-girls]])
* [[2月9日]] - [[遠藤航]]、サッカー選手
* [[2月10日]] - [[マックス・ケプラー]]、メジャーリーガー
* [[2月13日]] - [[有村架純]]、女優
* [[2月14日]] - [[はじめしゃちょー]]、[[YouTuber]]
* 2月14日 - [[ジャデベオン・クラウニー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[2月15日]] - ラビ、アイドル([[VIXX]])
* [[2月17日]] - [[マルク・マルケス]]、オートバイレーサー
* [[2月19日]] - [[ヴィクトリア・ジャスティス]]、女優、歌手
* 2月19日 - [[マウロ・イカルディ]]、サッカー選手
* [[2月21日]] - [[菅田将暉]]、俳優
* [[2月22日]] - [[李昱鴻]]、プロ野球選手
* [[2月23日]] - [[石川佳純]]、卓球選手
* [[2月24日]] - [[宋相勲]]、プロ野球選手
* [[2月27日]] - [[コン・スンヨン]]、女優
=== 3月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[3月1日]] - [[ジョシュ・マクイクラン]]、サッカー選手
* 3月1日 - ウォノ、アイドル([[MONSTA X]])
* [[3月2日]] - [[ホセ・アドリス・ガルシア]]、[[プロ野球選手]]
* [[3月9日]] - [[ザカリア・ラビアド]]、サッカー選手
* [[3月9日]] - [[SUGA|シュガ]]、アイドル、音楽プロデューサー([[BTS (音楽グループ)|BTS (防弾少年団)]])
* [[3月10日]] - [[アナイー・モラン]]、フィギュアスケート選手
* 3月10日 - [[プニエル]]、アイドル、ラッパー([[BTOB]])
* [[3月15日]] - [[ポール・ポグバ]]、 プロサッカー選手
* [[3月16日]] - [[大倉士門]]、ファッションモデル
* [[3月17日]] - [[クマ・エルハジ・ババカル]]、サッカー選手
* 3月17日- [[ジュリア・ウィンター]]、女優
* [[3月18日]] - [[ケリー・ホール]]、フィギュアスケート選手
* [[3月18日]] - [[岩渕真奈]]、サッカー選手
* [[3月21日]] - [[ヨニコ・エヴァ・ワシントン]]、フィギュアスケート選手
* [[3月23日]] - [[イ・ヒョヌ]]、俳優
* [[3月24日]] - [[竜星涼]]、ファッションモデル、俳優
* [[3月25日]] - [[宮舘涼太]]、アイドル、俳優(Snow Man)
* [[3月26日]] - [[シャーロット・リヒトマン]]、[[アイスダンス]]選手
* [[3月28日]] - [[森谷佳奈]]、[[山陰放送]]アナウンサー
* [[3月29日]] - [[ホルヘ・マルティネス (野球)|ホルヘ・マルティネス]]、プロ野球選手
* [[3月30日]] - [[ソン・ミンホ|ミノ]]、アイドル([[WINNER (音楽グループ)|WINNER]])
* [[3月31日]] - [[コナー・ウィッカム]]、サッカー選手
=== 4月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[4月1日]] - [[岡本圭人]]、元アイドル、俳優(元[[Hey! Say! JUMP]])
* [[4月2日]] - [[嘉大雅]]、[[琉球放送]]アナウンサー
* [[4月2日]] - [[ラファエル・ポロ]]、プロ野球選手
* [[4月3日]] - [[武田翔太]]、プロ野球選手([[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[4月4日]] - [[ダニエラ・ボバディーヤ]]、女優
* [[4月7日]] - [[イリーナ・シュトルク]]、アイスダンス選手
* [[4月10日]] - [[ソフィア・カーソン]]、女優
* 4月10日 - [[井上尚弥]]、ボクシング選手
* [[4月15日]] - [[安田レイ]]、歌手
* [[4月16日]] - [[キーオン・ケラ]]、メジャーリーガー
* [[4月19日]] - [[セバスチャン・デ・ソウザ]]、俳優
* 4月19日 - [[マッテオ・マナセロ]]、[[プロゴルファー]]
* [[4月21日]] - [[チェルシー・リー]]、フィギュアスケート選手
* [[4月26日]] - [[竹内涼真]]、俳優、ファッションモデル
* 4月22日 - [[リュ・ヒョヨン]]、歌手
* [[4月23日]] - [[にしくん]]、AV男優
* [[4月25日]] - [[ガブリェラ・チェルマノヴァー]]、フィギュアスケート選手
* 4月25日 - [[ラファエル・ヴァラーヌ]]、サッカー選手
=== 5月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[5月4日]] - [[ハッサン・タフティアン]]、陸上選手
* [[5月5日]] - [[ヴィクトリア・ヘクト]]、フィギュアスケート選手
* [[5月7日]] - [[ユン・ソヒ]]、女優
* [[5月9日]] - [[山田涼介]]、アイドル、俳優([[Hey! Say! JUMP]])
* [[5月10日]] - [[志田未来]]、女優
* 5月10日 - [[ハルストン・セイジ]]、女優
* [[5月11日]] - [[ミゲル・サノ]]、メジャーリーガー
* [[5月13日]] - [[デビー・ライアン]]、女優
* 5月13日 - [[ロメル・ルカク]]、サッカー選手
* [[5月14日]] - [[ミランダ・コスグローヴ]]、歌手
* [[5月16日]] - [[IU (歌手)|IU]]、歌手、女優
*[[5月17日]] - [[岩本照]]、アイドル、俳優([[Snow Man]])
* [[5月19日]] - 藤澤涼架、ミュージシャン
* [[5月19日]] - [[神木隆之介]]、俳優
* [[5月20日]] - [[キャロライン・ジャン]]、フィギュアスケート選手
* [[5月20日]] - [[草田草太]]、イラストレーター
* [[5月21日]] - アロン、アイドル([[NU'EST]])
* [[5月28日]] - [[ジョニー・ピーコック]]、短距離走者
* [[5月30日]] - [[髙藤直寿]]、[[柔道家]]
* 5月30日 - [[福士蒼汰]]、俳優、モデル
* [[5月31日]] - [[ケンブリッジ飛鳥]]、陸上競技選手
=== 6月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[6月4日]] - [[フアン・マヌエル・イトゥルベ]]、サッカー選手
* [[6月7日]] - [[ジョーダン・フライ]]、俳優・声優
* 6月7日 - [[呉念庭]]、[[プロ野球選手]]
* 6月7日 - [[ヨシ・ヘルゲソン]]、フィギュアスケート選手
* 6月7日 - ジヨン、アイドル([[T-ara]])
* [[6月11日]] - [[間宮祥太朗]]、俳優、モデル
* 6月11日 - [[ホルヘ・アルファーロ]]、プロ野球選手
* [[6月13日]] - [[デニス・テン]]、フィギュアスケート選手(+ [[2018年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33240870Q8A720C1CC1000/|title=フィギュア・テン選手刺殺、容疑の2人拘束 カザフ |publisher=日本経済新聞|date=2018-07-20|accessdate=2020-12-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フィギュア五輪銅のデニス・テン選手、強盗に襲われ死亡:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASL7M76KCL7MULZU01D.html|website=朝日新聞デジタル(2018年7月19日)|accessdate=2020-11-13|language=ja|publisher=}}</ref>)
* [[6月14日]] - [[スヴェトラーナ・イサコワ]]、フィギュアスケート選手
* [[6月16日]] - [[パク・ボゴム]]、俳優
* [[6月20日]] - [[ジャンナ・プガチャ]]、フィギュアスケート選手
* [[6月21日]] - [[高城れに]]、アイドル、女優([[ももいろクローバーZ]])
* [[6月22日]] - [[ロリス・カリウス]]、サッカー選手
* 6月22日 - [[ケイディー・デニー]]、フィギュアスケート選手
<!-- 出典が不明 * 6月22日 - [[ブラダ・ロマノヴァ]]、モデル -->
* [[6月26日]] - [[アリアナ・グランデ]]、歌手、女優
=== 7月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[7月1日]] - [[神山智洋]]、アイドル、俳優([[WEST.]])
* [[7月5日]] - [[ホルヘ・ポランコ]]、メジャーリーガー
* [[7月6日]] - [[ペテル・レイトマイェル]]、フィギュアスケート選手
* [[7月7日]] - [[吉田夕梨花]]、[[カーリング]]選手
* [[7月9日]] - [[デアンドレ・イェドリン]]、サッカー選手
* [[7月10日]] - [[カーロン・ジェフリー]]、俳優
* [[7月13日]] - [[のん (女優)|のん]]、女優、モデル
* [[7月14日]] - [[山本彩]]、元アイドル、歌手、女優(元[[NMB48]]、元[[AKB48]])
* [[7月15日]] - [[吉田正尚]]、プロ野球選手
* 7月15日 - [[橋本良亮]]、アイドル、俳優、歌手
* [[7月18日]] - [[テミン]]、アイドル、俳優([[SHINee]]、[[SuperM]])
* [[7月19日]] - [[歳内宏明]]、プロ野球選手
* [[7月20日]] - [[アリシア・デブナム=ケアリー]]、女優
* [[4月2日|7月22日]] - [[仲村美涼]]、[[琉球放送]]アナウンサー
* [[7月26日]] - [[テイラー・モンセン]]、女優、音楽家
* [[7月29日]] - [[菅沼千紗]]、声優
* [[7月31日]] - [[クリスチャン・ベイヤース]]、俳優
* 7月31日 - [[ウィルフレド・レオン]]、バレーボール選手
=== 8月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[8月3日]] - [[吉村真晴]]、卓球選手
* [[8月4日]] - [[白濱亜嵐]]、ダンサー、俳優([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]、[[EXILE]]、[[PKCZ]])
* 8月4日 - [[サイド・ベラヒーノ]]、サッカー選手
* [[8月6日]] - [[アリグザンドラ・ラウト]]、フィギュアスケート選手
* 8月6日 - [[韓聰]]、フィギュアスケート選手
* [[8月9日]] - [[近藤健介]]、プロ野球選手
* [[8月10日]] - [[中島裕翔]]、アイドル、俳優([[Hey! Say! JUMP]])
* 8月10日 - [[アマンダ・ドブス]]、フィギュアスケート選手
* 8月10日 - [[アンドレ・ドラモンド]]、バスケットボール選手
* 8月10日 - へジョン、アイドル([[AOA (音楽グループ)|AOA]])
* [[8月11日]] - [[アリソン・ストーナー]]、女優、歌手
* [[8月13日]] - [[アルトゥール・ガチンスキー]]、フィギュアスケート選手
* 8月13日 - [[ジョナス・フォルガー]]、オートバイレーサー
* 8月13日 - [[ユン・ボミ]]、アイドル、女優([[Apink]])
* [[8月15日]] - [[アレックス・オックスレイド=チェンバレン]]、サッカー選手
* [[8月15日]] - [[ドミニク・ハインツ]]、サッカー選手
* [[8月17日]] - [[サラ・ショーストレム]]、[[競泳]]選手
* 8月17日 - [[ユ・スンホ]]、俳優
* [[8月18日]] - [[チョン・ウンジ]]、アイドル、女優([[Apink]])
* 8月18日 - [[マイア・ミッチェル]]、女優、歌手
* 8月18日 - [[藤井流星]]、アイドル、俳優([[WEST.]])
* [[8月20日]] - [[秋元真夏]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nogizaka46.com/s/n46/artist/7639|title=秋元 真夏|メンバー紹介|乃木坂46公式サイト|accessdate=2022-04-22}}</ref>、アイドル、女優([[乃木坂46]])
* [[8月26日]] - [[キキ・パーマー]]、歌手、女優、声優
* [[8月27日]] - [[ザラ・ヘッケン]]、フィギュアスケート選手
* [[8月28日]] - [[シーラ・ナオル]]、女優、声優
* 8月28日 - フイ、アイドル、音楽プロデューサー([[PENTAGON (音楽グループ)|PENTAGON]])
* [[8月29日]] - [[リアム・ペイン]]、歌手(元[[ワン・ダイレクション]])
* [[8月30日]] - [[廖任磊]]、プロ野球選手
* 8月30日 - [[登坂絵莉]]、レスリング選手
=== 9月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[9月1日]] - [[イローナ・ミトルセー]]、歌手
* [[9月3日]] - [[ソンジュン]]、アイドル([[INFINITE]])
* [[9月4日]] - {{仮リンク|マークイエン・トゥアン|ko|마크 (1993년)}}、アイドル([[GOT7]])
* 9月4日 - [[ヤニック・フェレイラ・カラスコ]]、サッカー選手
* [[9月5日]] - [[エレオノラ・ビンニチェンコ]]、フィギュアスケート選手
* [[9月6日]] - [[サビーナ・パキエ]]、フィギュアスケート選手
* [[9月9日]] - [[チャーリー・スチュアート (俳優)|チャーリー・スチュアート]]、俳優
* 9月9日 - [[加藤凌平]]、体操選手
* [[9月13日]] - [[ナイル・ホーラン]]、ワン・ダイレクション
* [[9月15日]] - [[デニス・シュレーダー]]、バスケットボール選手
* 9月15日 - [[ナタリヤ・ポポワ]]、フィギュアスケート選手
* [[9月16日]] - [[イワン・ブキン]]、アイスダンス選手
* [[9月18日]] - [[パトリック・シュワルツェネッガー]]、俳優
* [[9月20日]] - [[ユリアン・ドラクスラー]]、サッカー選手
* [[9月21日]] - ミナ、元アイドル(元[[AOA (音楽グループ)|AOA]])
* [[9月26日]] - [[マイケル・キッド=ギルクリスト]]、バスケットボール選手
* [[9月29日]] - ホンビン、アイドル([[VIXX]])
=== 10月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[10月2日]] - [[劉兆芝]]、フィギュアスケート選手
* 10月2日 - [[ランス・マッカラーズ・ジュニア]]、[[メジャーリーガー]]
* [[10月3日]] - [[オリビア・ジョーンズ]]、フィギュアスケート選手
* [[10月6日]] - [[朝比奈彩]]、女優、モデル
* [[10月8日]] - [[ガルビネ・ムグルサ]]、テニス選手
* [[10月12日]] - [[ソ・ガンジュン]]、俳優
* [[10月13日]] - [[石川界人]]、声優
* [[10月13日]] - [[ティファニー・トランプ]]、歌手、モデル
* [[10月14日]] - [[永瀬貴規]]、[[柔道家]]
* 10月14日 - [[松田和]]、俳優、タレント
* [[10月30日]] - [[マーカス・マリオタ]]、アメリカンフットボール選手
=== 11月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[11月1日]] - [[新井千鶴]]、[[柔道家]]
* [[11月3日]] - ミニョク、アイドル([[MONSTA X]])
* [[11月8日]] - [[リビオ・ジャン=シャルル]]、バスケットボール選手
* [[11月9日]] - [[沈建宏]]、アイドル歌手、俳優
* [[11月10日]] - [[田所あずさ]]、声優
* [[11月10日]] - [[坂本誠志郎]]、プロ野球選手
* [[11月11日]] - [[ヴィッキー・ピリア]]、レーシングドライバー
*11月13日 - 服部勇馬、陸上選手
* [[11月14日]] - [[サミュエル・ユムティティ]]、サッカー選手
* 11月14日 - [[フランシスコ・リンドーア]]、野球選手
* 11月14日 - [[マネル・ケイプ]]、[[総合格闘家]]
* 11月14日 - [[野村周平]]、俳優
* [[11月15日]] - [[ニコライ・モロシュキン]]、アイスダンス選手
* 11月15日 - [[パウロ・ディバラ]]、サッカー選手
* [[11月16日]] - [[ネルソン・セメド]]、サッカー選手
* [[11月17日]] - [[テイラー・ゴールド]]、スノーボード選手
* [[11月19日]] - [[ジョーイ・ギャロ (野球)|ジョーイ・ギャロ]]、[[メジャーリーガー]]
* 11月19日 - [[ルルデス・グリエル・ジュニア]]、[[プロ野球選手]]
* 11月19日 - [[ヘスス・フェルナンデス・サエス|スソ]]、サッカー選手
* [[11月22日]] - [[ノービ・ハーリーナ]]、女優、歌手、グループメンバー (Cherrybelle)、アナウンサー
* 11月22日 - [[成田凌]]、俳優、モデル
* 11月22日 - キヒョン、アイドル([[MONSTA X]])
* [[11月25日]] - [[ダニー・ケント]]、オートバイレーサー
* [[11月26日]] - [[金眠泰|キム・ミンテ]]、サッカー選手
* [[11月27日]] - [[阿部亮平 (アイドル)|阿部亮平]]、アイドル、俳優(Snow Man)
* [[11月27日]] - [[エリー・カワムラ]]、フィギュアスケート選手
* 11月27日 - [[オーブリー・ピープルズ]]、女優
* [[11月30日]] - [[知念侑李]]、アイドル、俳優([[Hey! Say! JUMP]])
*[[11月30日]] - [[佐藤直輝]] 芸人([[豆鉄砲]])
=== 12月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1993年の日本」項内に記入-->
* [[12月8日]] - [[サファイア・ボイス]]、女優
* 12月8日 - [[アナソフィア・ロブ]]、女優
* [[12月8日]] - [[木村達成]]、俳優
* [[12月11日]] - [[青柳晃洋]]、プロ野球選手
* [[12月15日]] -[[新木優子]]、女優
* [[12月16日]] - [[ローラ・クレトン]]、女優
* [[12月18日]] - [[バイロン・バクストン]]、メジャーリーガー
* [[12月19日]] - [[立石俊樹]]、俳優
* [[12月23日]] - [[中村児太郎]](6代目)、歌舞伎役者
* 12月23日 - [[小島瑠璃子]]、タレント
* [[12月24日]] - [[西内まりや]]、女優、ファッションモデル、歌手
* [[12月25日]] - [[武井咲]]、女優、モデル
* [[12月27日]] - [[オリヴィア・クック]]、女優
* [[12月28日]] - [[新川優愛]]、女優、モデル
* [[12月31日]] - [[ソ・ジュヨン]]、女優
== 死去 ==
{{See|訃報 1993年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ラッセル・ハルス]]、[[ジョゼフ・テイラー]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[キャリー・マリス]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[リチャード・ロバーツ]]、[[フィリップ・シャープ]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[トニ・モリスン]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ネルソン・マンデラ]]、[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ロバート・フォーゲル]]、[[ダグラス・ノース]]
== フィクションのできごと ==
* 11月 - 入江直樹と相原琴子が結婚する。(漫画ほか『[[イタズラなKiss]]』)
* SCP-173が財団のサイト-19に収容される。(共同創作サイト『[[SCP財団]]』)<ref>[http://www.scp-wiki.net/scp-173 SCP-173] - SCP Foundation(英語)。2014年9月10日、2016年1月21日閲覧。</ref><ref>[http://ja.scp-wiki.net/scp-173 SCP-173] - SCP財団。2016年12月14日、2016年1月21日閲覧。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|1993}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
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[[Category:1993年|*]] | 2003-02-14T09:20:03Z | 2023-12-07T13:51:47Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/1993%E5%B9%B4 |
1,566 | ツインファミコン | ツインファミコン(twin famicom)は、1986年7月1日にシャープ株式会社が発売したファミリーコンピュータ互換機。
任天堂が発売したオリジナルのファミリーコンピュータ本体とディスクシステムの機能を兼ね備え、ロムカセットとディスクカードの両方のゲームをプレイすることができる互換機。
当時の価格は32,000円で、これはファミリーコンピュータ(14,800円)とディスクシステム(15,000円)の合計金額よりも高額だった。
ロムカセット差し込みスロットのそばに切替スイッチがあり、「カセット」にするとロムカセットのゲームを、「ディスク」にするとカセットスロットの蓋がロックされディスクカードのゲームをプレイできる。なお、切替スイッチはツインファミコン本体の電源を一旦切ってから行わないと、本体の故障やセーブデータ消失のおそれがある。
任天堂のファミリーコンピュータは映像出力がRF出力のみであるのに対して、ツインファミコンはRFコンバータ拡張端子に加え、AV出力端子も備えている。AV出力は一般の接続端子(RCAピンジャック)を搭載しているため、AV仕様ファミリーコンピュータ・スーパーファミコン・NINTENDO64等と異なり、専用ケーブルを必要とせず、市販品を使用できる。なお、ACアダプタはファミリーコンピュータともディスクシステムとも異なるDC7.6V 1.25Aの専用品 (UADP-0041CEZZ) を使用する。
ファミリーコンピュータの15ピン拡張コネクタにあたるエキスパンドコネクタはツインファミコンの拡張端子Aで、拡張端子BはRAMアダプタの通信用拡張ポートと同等の物である。底面にある拡張端子C・拡張端子Dは初めからケーブルで接続されており、使用しない。
製造時期などによって前期型と後期型に分けられ、本体のデザイン変更、電源スイッチ部に電源ランプが追加されたほか、後期型ではコントローラに連射機能が搭載された。(周辺機器を追加することなく、2コントローラにも連射機能が付与することになる為、前期型よりも割高感は払拭された。2人同時にプレイできるソフト(例:「ツインビー」など)においてはかなり有効な変更といえる)
本体色は前期型・後期型ともに赤と黒の2色が用意された。ディスク使用時の起動画面においては、最初期の製品ではオリジナルのディスクシステムと同じBIOS(「Nintendo」表示)が用いられ、それ以降の製品は、それをベースに「FAMICOM」表示に書き替えただけの本機オリジナルBIOSが用いられている。
1988年以降に出荷された後期型には、同年に追加されたファミリーコンピュータのマークである「FF」マークが刻印されており、ノイズフィルターなどが追加されている。
※特筆しない機能仕様は、ファミリーコンピュータ/ファミリーコンピュータ・ディスクシステムに準じる | [
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]
| ツインファミコンは、1986年7月1日にシャープ株式会社が発売したファミリーコンピュータ互換機。 | {{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = ツインファミコン
|ロゴ = [[File:Twin Famicom logo.svg|250px]]
|画像 = [[File:Sharp-Twin-Famicom-Console.png|280px]]
|画像コメント = ツインファミコン(後期型)
|メーカー = [[シャープ]]
|種別 = [[コンシューマゲーム|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機#第3世代|第3世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1986年]][[7月1日]]
|CPU =
|GPU =
|メディア = [[ロムカセット]]<br />[[クイックディスク]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]<br />[[磁気ディスク]]
|コントローラ = ケーブル接続
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|オンラインサービス = ファミリーコンピュータネットワークシステム
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 100万台
|互換ハード = [[ファミリーコンピュータ]]<br />[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]
}}
'''ツインファミコン'''(''twin famicom'')は、[[1986年]][[7月1日]]に[[シャープ]]株式会社が発売した[[ファミリーコンピュータ]]互換機。
[[任天堂]]が発売したオリジナルのファミリーコンピュータ本体と[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]の機能を兼ね備え、[[ロムカセット]]とディスクカードの両方のゲームをプレイすることができる。
当時の価格は32,000円で、これはファミリーコンピュータ(14,800円)とディスクシステム(15,000円)の合計金額よりも高額だった。
== ハードウェア ==
ロムカセット差し込みスロットのそばに切替スイッチがあり、「カセット」にするとロムカセットのゲームを、「ディスク」にするとカセットスロットの蓋がロックされディスクカードのゲームをプレイできる。なお、切替スイッチはツインファミコン本体の電源を一旦切ってから行わないと、本体の故障や[[バッテリーバックアップ|セーブデータ]]消失のおそれがある。
任天堂のファミリーコンピュータは[[映像信号|映像出力]]が[[RF接続|RF出力]]のみであるのに対して、ツインファミコンはRFコンバータ拡張端子に加え、[[AV端子|AV出力端子]]も備えている。AV出力は一般の接続端子([[RCA端子|RCAピンジャック]])を搭載しているため、[[ファミリーコンピュータ|AV仕様ファミリーコンピュータ]]・[[スーパーファミコン]]・[[NINTENDO64]]などと異なり、専用ケーブルを必要とせず、市販品を使用できる。
[[ACアダプタ]]はファミリーコンピュータともディスクシステムとも異なるDC7.6V 1.25Aの専用品 (UADP-0041CEZZ) を使用する。
ファミリーコンピュータの15ピン拡張コネクタにあたるエキスパンドコネクタはツインファミコンの拡張端子Aで、拡張端子BはRAMアダプタの通信用拡張ポートと同等の物である。底面にある拡張端子C・拡張端子Dは初めからケーブルで接続されており、使用しない<ref name=exp_cd>拡張端子CとDはメイン基板とドライブユニットの間(ディスクシステムに於けるドライブ側の基板とドライブユニットの間)にあり、フタの内部でケーブルにより接続されている。拡張をする際にこのケーブルを外し拡張端子C・D間に機器を接続できるようになっていたが、そのような機器は市販されなかった</ref><ref name=exp_cd_2>配線はメイン基板 ~ 拡張端子C ~ 拡張端子D ~ ドライブユニットとなっている</ref>。
=== 前期型と後期型の違い ===
製造時期などによって前期型と後期型に分けられ、本体のデザイン変更、電源スイッチ部に電源ランプが追加されたほか、後期型では[[ゲームコントローラ|コントローラ]]に連射機能が搭載された。
本体色は前期型・後期型ともに赤と黒が存在する。ディスク使用時の起動画面においては、最初期の製品ではオリジナルのディスクシステムと同じ[[Basic Input/Output System|BIOS]](「Nintendo」表示)が用いられ、それ以降の製品は、それをベースに「FAMICOM」表示に書き替えただけの本機オリジナルBIOSが用いられている。
1988年以降に出荷された後期型には、同年に追加されたファミリーコンピュータのマークである「FF」マークが刻印されており、[[ノイズフィルター]]などが追加されている。
== 仕様 ==
※特筆しない機能仕様は、ファミリーコンピュータ/ファミリーコンピュータ・ディスクシステムに準じる
*映像出力:AV出力
*音声出力:AVモノラル
*使用電源:専用ACアダプタ
*電源定格:7W
*本体重量:約1.5kg
*本体寸:275mm(W)×255mm(D)×94.5mm(D)
*拡張ポート
*A端子(ファミリーコンピュータ前面のエキスパンダ端子に相当)
*B端子(ディスクシステムのRAMアダプター端子に相当)
*C端子(ディスクシステムのRAMアダプター端子に相当するが18PINの別規格端子)
*D端子(ディスクシステムのRAMアダプター端子に相当するが12PINの別規格端子)
== バリエーション ==
{{Gallery
|File:SHARP AN500R.jpg|前期型赤
|File:TwinFamicon.jpg|前期型黒
}}
* AN-500B・R(前期型、定価3万2000円)
* AN-505B・R(後期型、価格変更なし)
* AN-58C(RFコンバータ、[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズでも使用可能<ref>[http://ematei.fc2web.com/kenkyu/x1/x1syasin.htm X1写真集 - RFコンバーターAN-58C]</ref>)
* VO-U42S([[ファミコン3Dシステム|ツインファミコン立体システム]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Sharp Twin Famicom}}
{{家庭用ゲーム機/任天堂}}
{{シャープ}}
{{任天堂}}
{{DEFAULTSORT:ついんふあみこん}}
[[Category:ファミリーコンピュータ]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:シャープの製品]]
[[Category:1986年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:1980年代の玩具]] | 2003-02-14T09:26:26Z | 2023-11-13T14:43:04Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%B3 |
1,567 | ダリオ・アルジェント | ダリオ・アルジェント(Dario Argento、1940年9月7日 - )は、イタリアの映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。数々のホラー映画を手掛けていることで知られる。
1940年9月7日、ローマに生まれる。映画プロデューサーの父親と写真家の母親を両親に持つ。新聞『パエーゼ・セーラ』で映画批評を担当した。1968年の映画『ウエスタン』では、セルジオ・レオーネとベルナルド・ベルトルッチとともに原案を執筆した。
1970年、『歓びの毒牙』で映画監督デビューを果たす。同作は1971年の『わたしは目撃者』と『4匹の蝿』とともに「動物3部作」を成している。1975年に『サスペリアPART2』、1977年に『サスペリア』を監督した。その後、『インフェルノ』(1980年)、『シャドー』(1982年)、『フェノミナ』(1985年)、『オペラ座/血の喝采』(1987年)などを監督している。 | [
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| ダリオ・アルジェントは、イタリアの映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。数々のホラー映画を手掛けていることで知られる。 | {{存命人物の出典明記|date=2018年10月}}
{{ActorActress
| 芸名 = Dario Argento
| ふりがな = ダリオ・アルジェント
| 画像ファイル = Dario Argento 2014.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2014年
| 本名 =
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = {{ITA}} [[ローマ]]
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1940
| 生月 = 9
| 生日 = 7
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビ映画]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[ダリア・ニコロディ]]{{要出典|date=2018年10月}}
| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 -->サルヴァトーレ・アルジェント(父)<ref>{{cite web|url=https://www.latimes.com/entertainment/la-et-toronto5sep05-story.html|title=Argento is man of the witching hour|work=Los Angeles Times|first=Mark|last=Olsen|date=2007-09-04|accessdate=2018-10-28}}</ref><br/>クラウディオ・アルジェント(弟)<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1990-04-14/entertainment/ca-1056_1_santa-sangre|title=Jodorowsky Looks at Himself and Uncovers 'Santa Sangre' : Movies: The candid director's 'weird' sensibilities infuse a tender portrayal of a mass murderer. (page 1 of 2)|work=Los Angeles Times|first=Michael|last=Wilmington|date=1990-04-14|accessdate=2018-10-28}}</ref><br/>[[フィオーレ・アルジェント]](娘)<ref>{{cite web|url=https://variety.com/2004/film/markets-festivals/the-card-player-1200537143/|title=The Card Player|work=Variety|first=Deborah|last=Young|date=2004-01-07|accessdate=2018-10-28}}</ref><br/>[[アーシア・アルジェント]](娘)<ref>{{cite web|url=https://www.reuters.com/article/us-toronto-argento/horror-film-debuts-as-family-affair-idUSN0719291320070910|title=Horror film debuts as family affair|work=Reuters|first=Ka Yan|last=Ng|date=2007-09-10|accessdate=2018-10-28}}</ref>
| 所属劇団 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->'''監督'''<br />『[[サスペリア]]』<br/>『[[インフェルノ (1980年の映画)|インフェルノ]]』<br/>『[[フェノミナ]]』<hr />'''脚本'''<br />『[[デモンズ]]』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 = '''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]'''<br>'''[[:en:Sitges Film Festival#Winners|最優秀監督賞]]'''<br>[[1976年]]『[[サスペリアPART2]]』
| 備考 =
}}
'''ダリオ・アルジェント'''(Dario Argento、[[1940年]][[9月7日]] - )は、[[イタリア]]の[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]である。数々の[[ホラー映画]]を手掛けていることで知られる<ref>{{cite web|url=https://www.rogerebert.com/interviews/dario-argento-on-dracula-and-horror|title=Dario Argento on "Dracula" and Horror|work=RogerEbert.com|first=Peter|last=Sobczynski|date=2013-10-24|accessdate=2018-10-28}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.hollywoodreporter.com/news/horror-master-dario-argento-fear-723085|title=Horror Master Dario Argento on Fear and Happiness (Q&A)|work=The Hollywood Reporter|first=Ariston|last=Anderson|date=2014-08-06|accessdate=2018-10-28}}</ref><ref>{{cite web|url=https://garage.vice.com/en_us/article/mbddd8/dario-argento-suspiria|title=Dario Argento Is the Most Influential Horror Director Outside of Hitchcock|work=Garage|first=Tom|last=Philip|date=2018-10-24|accessdate=2018-10-28}}</ref>。
== 経歴 ==
1940年9月7日、[[ローマ]]に生まれる<ref>{{cite web|url=https://www.allmovie.com/artist/dario-argento-p79899|title=Dario Argento - Overview|work=AllMovie|first=Jason|last=Buchanan|accessdate=2018-10-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170708211608/https://www.allmovie.com/artist/dario-argento-p79899|archivedate=2017-07-08}}</ref>。映画プロデューサーの父親と写真家の母親を両親に持つ<ref>{{cite web|url=https://www.smh.com.au/national/act/dario-argento-horror-maestros-works-screen-at-national-film-and-sound-archive-20170911-gyex86.html|title=Dario Argento: Horror maestro's works screen at National Film and Sound Archive|work=The Sydney Morning Herald|first=Cris|last=Kennedy|date=2017-09-13|accessdate=2018-10-28}}</ref>。新聞『パエーゼ・セーラ』で映画批評を担当した<ref>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2009/may/14/sergio-leone-dario-argento|title=How the West was written|work=The Guardian|first=Dario|last=Argento|date=2009-05-14|accessdate=2018-10-28}}</ref>。1968年の映画『[[ウエスタン (映画)|ウエスタン]]』では、[[セルジオ・レオーネ]]と[[ベルナルド・ベルトルッチ]]とともに原案を執筆した<ref>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2010/oct/19/one-upon-time-west-action|title=Once Upon a Time in the West: No 3 best action and war film of all time|work=The Guardian|first=John|last=Patterson|date=2010-10-19|accessdate=2018-10-28}}</ref>。
1970年、『[[歓びの毒牙]]』で映画監督デビューを果たす<ref>{{cite web|url=https://www.popmatters.com/70893-the-bird-with-the-crystal-plumage-1970-blu-ray-2496053478.html|title=The Bird with the Crystal Plumage (1970): Blu-ray|work=PopMatters|first=Bill|last=Gibron|date=2009-02-23|accessdate=2018-10-28}}</ref>。同作は1971年の『[[わたしは目撃者]]』と『[[4匹の蝿]]』とともに「動物3部作」を成している<ref>{{cite web|url=https://www.vulture.com/2018/09/a-beginners-guide-to-dario-argento.html|title=A Beginner's Guide to Dario Argento|work=Vulture|first=Charles|last=Bramesco|date=2018-09-12|accessdate=2018-10-28}}</ref>。1975年に『[[サスペリアPART2]]』<ref>{{cite web|url=https://www.slantmagazine.com/film/review/deep-red|title=Deep Red|work=Slant Magazine|first=Ed|last=Gonzalez|date=2001-05-02|accessdate=2018-10-28}}</ref>、1977年に『[[サスペリア]]』を監督した<ref>{{cite web|url=https://www.bfi.org.uk/news-opinion/sight-sound-magazine/video/suspiria-dario-argento-interview|title=Argento on Suspiria – a video inquiry|work=Sight & Sound|first=Leigh|last=Singer|date=2018-01-12|accessdate=2018-10-28}}</ref>。その後、『[[インフェルノ (1980年の映画)|インフェルノ]]』(1980年)、『[[シャドー (1982年の映画)|シャドー]]』(1982年)、『[[フェノミナ]]』(1985年)、『[[オペラ座/血の喝采]]』(1987年)などを監督している<ref>{{cite web|url=https://www.vice.com/en_uk/article/gqdgnx/dario-argento-131-v16n9|title=Dario Argento|work=Vice|first=Tim|last=Small|date=2009-09-01|accessdate=2018-10-28}}</ref>。
== フィルモグラフィー ==
=== 映画 ===
* ギャングスター ''Comandamenti per un gangster''(1968年) - 脚本
* 野獣暁に死す ''Oggi a me... domani a te''(1968年) - 脚本
* [[地獄の戦場コマンドス]] ''Commandos''(1968年) - 脚本
* [[ウエスタン (映画)|ウエスタン]] ''C'era una volta il West''(1968年) - 原案
* 激戦地 ''La legione dei dannati''(1969年) - 脚本
* ゼロ/奪還!最高軍事機密 ''Probabilità zero''(1969年) - 脚本・原作
* 傷だらけの用心棒 ''Une corde, un Colt...''(1969年) - 脚本
* [[五人の軍隊]] ''Un esercito di 5 uomini''(1969年) - 脚本
* [[歓びの毒牙]] ''L'uccello dalle piume di cristallo''(1970年) - 監督・脚本
* [[わたしは目撃者]] ''Il gatto a nove code''(1971年) - 監督・脚本・原案
* [[4匹の蝿]] ''4 mosche di velluto grigio''(1971年) - 監督・脚本
* ビッグ・ファイブ・デイ ''Le cinque giornate''(1973年) - 監督・脚本
* [[サスペリアPART2]] ''Profondo Rosso''(1975年) - 監督・脚本
* [[サスペリア]] ''Suspiria''(1977年) - 監督・脚本・音楽
* [[ゾンビ (映画)|ゾンビ]] ''Dawn of the Dead''(1978年) - 製作・音楽
* [[インフェルノ (1980年の映画)|インフェルノ]] ''Inferno''(1980年) - 監督・脚本
* [[シャドー (1982年の映画)|シャドー]] ''Tenebre''(1982年) - 監督・脚本
* アルジェント・ザ・ナイトメア/鮮血のイリュージョン ''Il mondo dell'orrore di Dario Argento''(1985年) - 出演
* [[フェノミナ]] ''Phenomena''(1985年) - 監督・脚本
* [[デモンズ]] ''Dèmoni''(1985年) - 脚本・製作
* [[デモンズ2]] ''Dèmoni 2: L'incubo ritorna''(1986年) - 脚本・製作
* [[オペラ座/血の喝采]] ''Opera''(1987年) - 監督・脚本・製作
* [[デモンズ3]] ''La chiesa''(1989年) - 脚本・製作
* [[デモンズ4]] ''La setta''(1990年) - 脚本・製作
* マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴 ''Due occhi diabolici''(1990年) - 「黒猫」監督・脚本・製作総指揮
* ダリオ・アルジェント ビザール・オペラ/新・鮮血のイリュージョン ''Dario Argento: Master of Horror''(1991年) - 出演
* イノセント・ブラッド ''Innocent Blood''(1992年) - 出演
* [[トラウマ/鮮血の叫び]] ''Trauma''(1993年) - 監督・脚本・原案・製作
* [[スタンダール・シンドローム (映画)|スタンダール・シンドローム]] ''La sindrome di Stendhal''(1996年) - 監督・脚本・原案・製作
* [[肉の鑞人形]] ''M.D.C. - Maschera di cera''(1997年) - 原案・製作
* ダリオ・アルジェント 鮮血のイリュージョンPART3 ''Il mondo di Dario Argento 3: Il museo degli orrori di Dario Argento''(1997年) - 出演
* [[オペラ座の怪人 (1998年の映画)|オペラ座の怪人]] ''Il fantasma dell'opera''(1998年) - 監督・脚本
* [[スカーレット・ディーバ]] ''Scarlet Diva''(2000年) - 製作
* [[スリープレス (映画)|スリープレス]] ''Non ho sonno''(2001年) - 監督・脚本
* [[デス・サイト]] ''Il cartaio''(2004年) - 監督・脚本
* [[サスペリア・テルザ 最後の魔女]] ''La terza madre''(2007年) - 監督・脚本
* [[ジャーロ (映画)|ジャーロ]] ''Giallo''(2009年) - 監督・脚本
* [[ダリオ・アルジェントのドラキュラ]] ''Dracula 3D''(2012年) - 監督・脚本
* フリードキン・アンカット ''Friedkin Uncut''(2018年) - 出演
* [[ダークグラス]] ''Occhiali neri''(2022年) - 監督・脚本・製作
=== テレビ映画 ===
* ダリオ・アルジェント 鮮血の魔術師 ''Dario Argento: An Eye for Horror''(2000年) - 出演
* DO YOU LIKE HITCHCOOK? ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック? ''Ti piace Hitchcock?''(2005年) - 監督
=== テレビドラマ ===
* [[マスターズ・オブ・ホラー]] ''Masters of Horror''(2005年 - 2006年) - 「愛しのジェニファー」「愛と欲望の毛皮」監督
== 受賞 ==
* 1999年 - [[シッチェス・カタロニア国際映画祭]] - 名誉賞<ref>{{cite web|url=https://sitgesfilmfestival.com/eng/arxiu/1999|title=1999|work=Sitges Film Festival|accessdate=2018-10-28}}</ref>
* 2019年 - [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] - ダヴィッド特別賞<ref>{{cite web|url=https://variety.com/2019/film/news/matteo-garrone-dogman-big-winner-italy-david-di-donatello-awards-1203174521/|title=Matteo Garrone's 'Dogman' Is Big Winner at Italy's David di Donatello Awards|work=Variety|first=Nick|last=Vivarelli|date=2019-03-27|accessdate=2020-03-11}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.hollywoodreporter.com/news/david-di-donatello-film-awards-2019-winners-1197683|title='Dogman' Wins Big at Italy's David di Donatello Film Awards|work=The Hollywood Reporter|first=Ariston|last=Anderson|date=2019-03-28|accessdate=2020-03-11}}</ref>
== 脚注 ==
{{Reflist|30em}}
== 関連文献 ==
* {{cite book|和書|author=矢澤利弘|title=ダリオ・アルジェント 恐怖の幾何学|publisher=ABC出版|year=2007|ISBN=978-4-900387-98-0}}
* {{cite web|url=https://www.popmatters.com/depth-of-field-dario-argentos-diabolical-duality-2495728870.html|title=Depth of Field: Dario Argento's Diabolical Duality|work=PopMatters|first=Bill|last=Gibron|date=2006-10-25|accessdate=2018-10-28}}
* {{cite book|last1=Allmer|first1=Patricia|last2=Huxley|first2=David|last3=Brick|first3=Emily|title=European Nightmares: Horror Cinema in Europe Since the 1945|year=2012|publisher=Columbia University Press|isbn=978-0-231-85008-7}}
* {{cite book|last=Bondanella|first=Peter|year=2009|title=A History of Italian Cinema|publisher=A&C Black|isbn=978-1-441-16069-0}}
* {{cite book|last=Cooper|first=L. Andrew|year=2012|title=Dario Argento|publisher=University of Illinois Press|isbn=978-0-252-09438-5}}
* {{cite book|last=Curti|first=Roberto|title=Italian Gothic Horror Films, 1970-1979|publisher=McFarland|chapter=1977: Suspiria|year=2017|isbn=978-1-476-66469-9}}
* {{cite book|last=McDonagh|first=Maitland|title=Broken Mirrors, Broken Minds: The Dark Dreams of Dario Argento|year=2010|publisher=University of Minnesota Press|isbn=978-1-452-91537-1}}
* {{cite book|last=Muir|first=John Kenneth|author-link=John Kenneth Muir|title=Horror Films of the 1970s|volume=II|publisher=McFarland|year=2007|isbn=978-0-786-43104-5}}
* {{cite book|last=Solomon|first=Aubrey|title=Twentieth Century Fox: A Corporate and Financial History (The Scarecrow Filmmakers Series)|location=Lanham, Maryland|publisher=Scarecrow Press|year=1989|page=233|isbn=978-0-8108-4244-1}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Dario Argento}}
* {{allcinema name|5593|ダリオ・アルジェント}}
* {{Kinejun name|2=ダリオ・アルジェント}}
* {{IMDb name|0000783|Dario Argento}}
* {{Instagram|darioargento_official|Dario Argento}}
{{ダリオ・アルジェント}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あるしえんと たりお}}
[[Category:イタリアの映画監督]]
[[Category:ホラー映画の監督]]
[[Category:イタリアの映画プロデューサー]]
[[Category:イタリアの脚本家]]
[[Category:ローマ出身の人物]]
[[Category:1940年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:カルト映画|人あるしえんと たりお]] | null | 2023-03-02T01:32:04Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88 |
1,569 | バーチャルボーイ | バーチャルボーイ(VIRTUAL BOY)は、任天堂が発売した3Dゲーム機。横井軍平が発案。略称「VB」。その外見から「赤い眼鏡」とも呼称された。1995年7月21日発売。希望小売価格15,000円。。
遊び方はスタンドに据え付けられたゴーグル型のディスプレイを覗き込むようにして行う。視差の概念を採り入れ、左右の画面に異なる映像を表示させることで立体画面を実現する。テレビに接続せず電池で駆動するが、視界を覆う専用ディスプレイが必要となるため、室内のデスクトップでのプレイが主となる。
1992年、任天堂にリフレクションテクノロジー社からLEDを使用したバーチャルディスプレイ技術の「プライベート・アイ」の売り込みがあり、当時、山内溥からバーチャル・リアリティをテーマにした商品開発を提案されていた横井軍平の下で、リフレクションテクノロジー社との共同開発が始まった。この技術は元々、航空機の整備士などが大きく扱いにくい整備マニュアルをヘッドアップディスプレイのように専用ゴーグルに投影して作業を効率化するために利用されていた。
十字キーを2つ搭載する。アナログスティックなどを除けば方向キーを2つ搭載した家庭用ゲーム機は他に無い。
バーチャルボーイ内部には、画像の縦解像度と同じ224個の赤色LEDを並べた1本のバーが配置され、対になった鏡が1枚装備されている。LEDバーは点滅を繰り返し、高速で振動する鏡がLEDバーの光と同期して光を反射することによって、鏡の上に画像を映し出す。この投影システムが、右目用と左目用に個別に用意され、左右の目の視差を利用した位置に配置されることによって、立体的な映像を作り出している。
CPUはPC-FXと同じNECのV810を採用している。カスタムチップのV810は20MHzで動作し、浮動小数点演算処理ユニットも搭載している。サウンドはゲームボーイのサウンドとほぼ同じ。波形メモリ音源で、波形を32バイトPCMで変更できる。これを利用して短い声をPCMで発音できた。画面の解像度は384×224でファミリーコンピュータと同程度である。色数は赤色LEDによる単色で、赤~黒の4階調と少ないが、画面の明るさを32段階で調整できる。
なお、バーチャルボーイの名称はコピーライターの糸井重里が名付けたという噂が広まっていたが、『ほぼ日刊イトイ新聞』のコラム「今日のダーリン」2007年7月10日付にて糸井自身が「『ゲームボーイ』と『バーチャルボーイ』のネーミングは、ぼくじゃありません」と否定している。
型番などに見られるVUEは、Virtual Utopia Experienceの略で、バーチャルボーイのコードネームでもある。
全19タイトル。
PlayStationやセガサターンなど同世代ゲーム機らが市場の話題をさらう中で発売されて国内では15万程度、全世界中累計でも77万程度と販売台数を伸ばせなかった。
しかし山内はバーチャルボーイに関して、「TVゲームとは異なる娯楽を求める傾向に応えるもの」と述べている。
また本機を発案した横井はCPUやリアルさなどの最先端を求めた競争から脱却して、ゲームの本質に戻ったものを求めたため、同時期に開発されていたPlayStationやセガサターンと比較してロースペックとなっている。
さらに、宮本茂はバーチャルボーイについて以下のように語っている。
このように、任天堂関係者は本機をそもそもPlayStationやセガサターンなどのゲーム機と同じ土俵で争うものと捉えてはいなかった。
また糸井重里は本機のゴーグルで覗き込んで遊ぶ様子が格好良くなく、同社の他機種と比べて非日常的で違和感があったと指摘した。
視力に対する悪影響が懸念されていたことを受け、アメリカの科学者と研究を行ったところ、懸念とは対照的に視力に好影響を与えるという結果が出たという。
本機で展開された横井のゲームの本質を追求する思想は、これを受け継いだ岩田聡や宮本によって後にニンテンドーDSやWiiが生み出された。
また商業的に成功しなかった3Dゲーム機だったが、その後も任天堂は3Dに関する研究を続け、据置型ゲーム機では2001年に発売されたニンテンドーゲームキューブに3Dディスプレイ対応の回路を組み込み、携帯型ゲーム機では2011年2月26日発売のニンテンドー3DSで裸眼での3D映像に対応した。さらにバーチャルボーイのようなゴーグル型VRゲームとして、2019年4月12日に「Nintendo Labo Toy-Con 04: VR Kit」を発売した。 | [
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"text": "バーチャルボーイ(VIRTUAL BOY)は、任天堂が発売した3Dゲーム機。横井軍平が発案。略称「VB」。その外見から「赤い眼鏡」とも呼称された。1995年7月21日発売。希望小売価格15,000円。。",
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"text": "バーチャルボーイ内部には、画像の縦解像度と同じ224個の赤色LEDを並べた1本のバーが配置され、対になった鏡が1枚装備されている。LEDバーは点滅を繰り返し、高速で振動する鏡がLEDバーの光と同期して光を反射することによって、鏡の上に画像を映し出す。この投影システムが、右目用と左目用に個別に用意され、左右の目の視差を利用した位置に配置されることによって、立体的な映像を作り出している。",
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"text": "また本機を発案した横井はCPUやリアルさなどの最先端を求めた競争から脱却して、ゲームの本質に戻ったものを求めたため、同時期に開発されていたPlayStationやセガサターンと比較してロースペックとなっている。",
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"text": "さらに、宮本茂はバーチャルボーイについて以下のように語っている。",
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"text": "このように、任天堂関係者は本機をそもそもPlayStationやセガサターンなどのゲーム機と同じ土俵で争うものと捉えてはいなかった。",
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"text": "また糸井重里は本機のゴーグルで覗き込んで遊ぶ様子が格好良くなく、同社の他機種と比べて非日常的で違和感があったと指摘した。",
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"text": "視力に対する悪影響が懸念されていたことを受け、アメリカの科学者と研究を行ったところ、懸念とは対照的に視力に好影響を与えるという結果が出たという。",
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"text": "本機で展開された横井のゲームの本質を追求する思想は、これを受け継いだ岩田聡や宮本によって後にニンテンドーDSやWiiが生み出された。",
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"text": "また商業的に成功しなかった3Dゲーム機だったが、その後も任天堂は3Dに関する研究を続け、据置型ゲーム機では2001年に発売されたニンテンドーゲームキューブに3Dディスプレイ対応の回路を組み込み、携帯型ゲーム機では2011年2月26日発売のニンテンドー3DSで裸眼での3D映像に対応した。さらにバーチャルボーイのようなゴーグル型VRゲームとして、2019年4月12日に「Nintendo Labo Toy-Con 04: VR Kit」を発売した。",
"title": "評価"
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| バーチャルボーイは、任天堂が発売した3Dゲーム機。横井軍平が発案。略称「VB」。その外見から「赤い眼鏡」とも呼称された。1995年7月21日発売。希望小売価格15,000円。。 遊び方はスタンドに据え付けられたゴーグル型のディスプレイを覗き込むようにして行う。視差の概念を採り入れ、左右の画面に異なる映像を表示させることで立体画面を実現する。テレビに接続せず電池で駆動するが、視界を覆う専用ディスプレイが必要となるため、室内のデスクトップでのプレイが主となる。 | {{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = バーチャルボーイ
|ロゴ = [[File:Virtualboy logo.svg|250px]]
|画像 = [[File:Virtual-Boy-Set.png|200px]]
|画像コメント = バーチャルボーイ
|メーカー = [[任天堂]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第5世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1995年]][[7月21日]]
|CPU = NEC V810 @ 20 MHz
|GPU =
|メディア =[[ロムカセット]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|コントローラ = ケーブル
|外部接続端子 = 通信ポート
|オンラインサービス =
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 15万台<br />{{Flagicon|USA}} 50万台<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 77万台
|最高売上ソフト =
|第一作ソフト =
|互換ハード =
|前世代ハード =
|次世代ハード =
}}
'''バーチャルボーイ'''(''VIRTUAL BOY'')は、[[任天堂]]が発売した[[3次元映像|3D]][[ゲーム機]]。[[横井軍平]]が発案。略称「'''VB'''」。その外見から「赤い眼鏡」とも呼称された。[[1995年]][[7月21日]]発売。希望小売価格15,000円<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1339267.html |title=発売26周年! はやすぎたVRゲーム機「バーチャルボーイ」をいま振り返る |date=2021-07-21 |accessdate=2022-8-6 |website=[[GAME Watch]] |publisher=OSA}}</ref>。
[[File:Virtual Boy logo in left eyepiece.jpg|thumb|230px|バーチャルボーイを覗き込んだ時に見えるロゴ]]
遊び方はスタンドに据え付けられたゴーグル型のディスプレイを覗き込むようにして行う。視差の概念を採り入れ、左右の画面に異なる映像を表示させることで立体画面を実現する。テレビに接続せず電池で駆動するが、視界を覆う専用ディスプレイが必要となるため、室内のデスクトップでのプレイが主となる。
== 沿革 ==
* [[1994年]]
** [[4月14日]] - [[任天堂]]が[[バーチャル・リアリティ]]をテーマにした新型ゲーム機を開発中であることを発表<ref>{{Cite news |和書|title=任天堂VRゲーム機 来春発売予定に 11月の初心会で披露予定 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19940615p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=474 |agency=[[アミューズメント通信社]] |date=1994-06-15 |page=7}}</ref>。
** [[11月14日]] - 1995年4月に発売することを発表、価格は19,800円、初年度300万台、ソフトは1,400万個出荷予定<ref>{{Cite news |和書|title=任天堂が新システム 赤色の立体画像 「バーチャルボーイ」来春発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19941215p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=486 |agency=アミューズメント通信社 |date=1994-12-15 |page=7}}</ref>。
* [[1995年]]
** [[3月24日]] -「ゲームエキスポ95」にて、同年7月21日に発売延期することおよび価格を15,000円に変更することを発表、ソフト開発の都合のため、出荷予定台数に変更なし<ref>{{Cite news |和書|title=「バーチャルボーイ」7月に発売延期 価格も1万5千円に値下げ |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19950515p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=495 |agency=アミューズメント通信社 |date=1995-05-15 |page=4}}</ref>。
** [[7月21日]] - 発売。
*[[1996年]]
**7月 - 北米では2次出荷に際して定価を99ドルにすることが発表されたが実現しなかった。キラーソフトにドラゴンホッパーとバウンド・ハイ!が予定されていた[https://www.virtual-boy.com/magazines/nintendo-power/nintendo-power-volume-86/pdf/]。
== ハードウェア ==
[[1992年]]、任天堂にリフレクションテクノロジー社からLEDを使用したバーチャルディスプレイ技術の「プライベート・アイ」の売り込みがあり、当時、[[山内溥]]から[[バーチャル・リアリティ]]をテーマにした商品開発を提案されていた横井軍平の下で、リフレクションテクノロジー社との共同開発が始まった。この技術は元々、航空機の整備士などが大きく扱いにくい整備マニュアルを[[ヘッドアップディスプレイ]]のように専用ゴーグルに投影して作業を効率化するために利用されていた。
[[十字キー]]を2つ搭載する。アナログスティックなどを除けば方向キーを2つ搭載した家庭用ゲーム機は他に無い。
バーチャルボーイ内部には、画像の縦解像度と同じ224個の赤色LEDを並べた1本のバーが配置され、対になった鏡が1枚装備されている。LEDバーは点滅を繰り返し、高速で振動する鏡がLEDバーの光と同期して光を反射することによって、鏡の上に画像を映し出す。この投影システムが、右目用と左目用に個別に用意され、左右の目の視差を利用した位置に配置されることによって、立体的な映像を作り出している。
[[CPU]]は[[PC-FX]]と同じ[[日本電気|NEC]]の[[NEC Vシリーズ#RISC CPU|V810]]を採用している。カスタムチップのV810は20MHzで動作し、浮動小数点演算処理ユニットも搭載している。サウンドは[[ゲームボーイ]]のサウンドとほぼ同じ。[[波形メモリ音源]]で、波形を32バイトPCMで変更できる。これを利用して短い声をPCMで発音できた。画面の解像度は384×224で[[ファミリーコンピュータ]]と同程度である。色数は赤色LEDによる単色で、赤~黒の4階調と少ないが、画面の明るさを32段階で調整できる。
なお、バーチャルボーイの名称は[[コピーライター]]の[[糸井重里]]が名付けたという噂が広まっていたが、『[[ほぼ日刊イトイ新聞]]』のコラム「今日のダーリン」2007年7月10日付にて糸井自身が「『ゲームボーイ』と『バーチャルボーイ』のネーミングは、ぼくじゃありません」と否定している。
=== 基本仕様 ===
* CPU:カスタムV810(20MHz)
* RAM:1MB
* SRAM:512KB
* 画面:4階調モノクロ、384×224ドット、画面の明るさを32段階で調整可能。
* サウンド:16ビットステレオ [[波形メモリ音源]]5ch(5チャンネル目はスイープおよび変調可能)+ノイズ1ch<ref>{{Cite web |url=https://www.planetvb.com/modules/newbb/viewtopic.php?post_id=11179 |title=virtual boy audio spectifications |accessdate=2019-12-29|website=Planet Virtual Boy |language=en}}</ref>
* [[ゲームコントローラー|コントローラー]]:ボタン6個(Aボタン、Bボタン、STARTボタン、SELECTボタン、Lボタン、Rボタン)、[[十字キー]]2個、電源スイッチ、電池ボックス付属
* 通信ポート:国内版では「PLAYLINK」、海外版では「EXT.」(拡張ポート)と書かれている。これを使用する周辺機器は公式では存在しないが、海外では非公式の通信ケーブルと対応ゲームが有志により後に制作された。[[ゲームボーイ]]のそれよりも一回り大きい。
* 電源:単3電池6本使用。別売りのアダプタを利用すれば[[ファミリーコンピュータ]]・[[スーパーファミコン]]共用のACアダプタ(HVC-002)が利用可能。
== 周辺機器 ==
<gallery>
Nintendo-Virtual-Boy-Stand-FL.jpg|スタンド(VUE-003)
Virtual-Boy-Controller.jpg|コントローラ(VUE-005)
Nintendo-Virtual-Boy-Battery-Pack.jpg|電池ボックス(VUE-007)
Nintendo-Virtual-Boy-AC-Adapter-Pack.jpg|ACアダプタタップ(VUE-011)
</gallery>
型番などに見られるVUEは、Virtual Utopia Experienceの略で、バーチャルボーイの[[コードネーム]]でもある。
{| class="wikitable"
! 型番 !! 名称 !! 備考
|-
| VUE-001 || '''バーチャルボーイ''' || 本体
|-
| VUE-003 || '''スタンド''' || 本体を設置するためのスタンド。経年劣化により飾りパーツが割れてしまう問題があり、海外では交換用パーツが作られている<ref>[https://retro-gamer.jp/?p=9850 『バーチャルボーイ』の割れやすいメダリオンをメタル製にリプレイスできるアイテムが登場 - レトロゲームで遊ぼう!]</ref>。
|-
| VUE-005 || '''コントローラ''' || 専用コントローラ
|-
| VUE-006 || '''カートリッジ''' || 専用ロムカセット
|-
| VUE-007 || '''電池ボックス''' || コントローラの背面に接続して電力供給するボックス
|-
| VUE-010 || '''アイシェード''' || 入射光をカットして視認性を向上させる
|-
| VUE-011 || '''ACアダプタタップ''' || [[ファミリーコンピュータ]]、[[スーパーファミコン]]、バーチャルボーイ共通ACアダプタ(HVC-002)をバーチャルボーイで使用することが可能で電池ボックスとの排他利用である
|-
| VUE-012 || '''アイシェードホルダー''' || '''アイシェード'''を固定するパーツ
|-
| VUE-014 || '''ステレオヘッドホン''' || 本体と同色の赤いステレオヘッドフォン
|-
| 不明 || '''アジャスタブルスタンド''' || VUE-003の改良版で未発売<ref>[http://alivenews.jugem.jp/?eid=47 レトロチラシ/ゲーム機・パーツ | アライブおもしろニュースブログ]</ref>
|-
| 不明 || '''通信ケーブル''' || 海外版本体のマニュアルに、Virtual Boy GameLink Cableの名称で別売品としてパーツリストに掲載されていたが、発売はされていない
|}
== ソフトウェア ==
全19タイトル。
* [[1995年]][[7月21日]] - [[マリオズテニス]]([[任天堂]]) / 4メガビット(512KB)
* 7月21日 - {{仮リンク|ギャラクティックピンボール|en|Galactic Pinball}}(任天堂) / 8メガビット(1MB)
* 7月21日 - [[テレロボクサー]](任天堂) / 8メガビット(1MB)
* 7月21日 - {{仮リンク|レッドアラーム|en|Red Alarm}}([[T&E SOFT]]) / 8メガビット(1MB)
* 7月21日 - [[とびだせ!ぱにボン]]([[ハドソン]]) / 4メガビット(512KB)
* [[8月11日]] - {{仮リンク|T&E ヴァーチャルゴルフ|en|Golf (1995 video game)}}(T&E SOFT) / 16メガビット(2MB)
* 8月11日 - [[バーチャルプロ野球'95]]([[コトブキシステム]]) / 8メガビット(1MB)
* [[8月12日]] - {{仮リンク|バーティカルフォース|en|Vertical Force}}(ハドソン) / 8メガビット(1MB)
* [[8月25日]] - {{仮リンク|V・テトリス|en|V-Tetris}}([[ビーピーエス|BPS]]) / 4メガビット(512KB)
* [[9月28日]] - [[マリオクラッシュ]](任天堂) / 8メガビット(1MB)
* 9月28日 - {{仮リンク|スペーススカッシュ|en|Space Squash}}([[ココナッツジャパンエンターテイメント]]) / 16メガビット(2MB)
* [[9月29日]] - [[ジャック・ブラザースの迷路でヒーホー!]]([[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]) / 8メガビット(1MB)
* [[10月6日]] - {{仮リンク|バーチャルフィッシング|en|Virtual Fishing}}([[パック・イン・ビデオ]]) / 8メガビット(1MB)
* [[10月13日]] - {{仮リンク|インスマウスの館|en|Innsmouth no Yakata}}([[I'MAX|アイマックス]]) / 8メガビット(1MB)
* [[12月1日]] - [[バーチャルボーイワリオランド アワゾンの秘宝]](任天堂) / 16メガビット(2MB)
* 12月1日 - {{仮リンク|スペースインベーダー バーチャルコレクション|en|Space Invaders Virtual Collection}}([[タイトー]]) / 4メガビット(512KB)
* [[12月8日]] - {{仮リンク|バーチャルLAB|en|Virtual Lab}}([[J・ウイング (ゲーム会社)|J・ウイング]]) / 8メガビット(1MB)
* [[12月22日]] - {{仮リンク|バーチャルボウリング|en|Virtual Bowling}}([[アテナ (ゲーム会社)|アテナ]]) / 8メガビット(1MB)
* 12月22日 - {{仮リンク|SDガンダム DIMENSION WAR|en|SD Gundam Dimension War}}([[バンダイ]]) / 8メガビット(1MB)
=== 発売されなかったソフト ===
*『湾岸戦線レッドシティ』(販売:アスミック 開発:エイム)
*『ドラえもん のび太のドキドキ!おばけランド』(エポック社)
*『バーチャルプロ野球'96』(ケムコ)
*『サンディズポイント(仮題)』(ココナッツジャパンエンターテインメント)
*『インターセプト』(ココナッツジャパンエンターテインメント)
*『スターシード』(ココナッツジャパンエンターテインメント)
*『プロテウスゾーン』(ココナッツジャパンエンターテインメント)
*『アウト・オブ・ザ・デスマウント』(J・ウイング)
*『Jリーグ 3Dスタジアム』(J・ウイング)
*『シグナル・ラット』(J・ウイング)
*『妖獣学園』(J・ウイング)
*『ポリゴブロック』(T&Eソフト) - 北米では『[[:en:3D Tetris|3D Tetris]]』の題で1996年に発売
*『バウンド・ハイ!』(日本システムサプライ) - 2010年に北米で任天堂非ライセンス品として若干数生産された([[:en:Bound High!|Bound High!]])
*『新日本プロレスリング 激闘伝説』(トミー)
*『ヴァーチャルドッジボール』(販売:ヘクト 開発:ジョルダン)
*『G-ZERO/ゼロレーサーズ』(任天堂)
*『ドラゴンホッパー』(任天堂・インテリジェントシステムズ)
*『ナイトランディング』(パウ)
*『バーチャルダブル役満』(バップ)
*『バーチャルボンバーマン』(ハドソン)
*『原人SHOW~とびだせ!VB原人~』(ハドソン)
*『無敵鉄鋼ガガガイン』(販売:ハドソン 開発:エイティング)
*『[[スーパーロボットシューティング|スーパーロボット]][[スーパーロボット大戦シリーズ|大空戦]]』([[バンプレスト]])
*『ニコちゃんバトル』(BPS)
*『バーチャルガンマン』(販売:ビクターエンタテインメント 開発:ロコモティブ)
*『空とぶヘンリー』(ヒューマン)
*『バーチャルブロック』(ボトムアップ)
*『バーチャルジョッキー』(ライトスタッフ)
*『ギャラクシアン3』(ナムコ・ロコモティブ)
== 評価 ==
[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]や[[セガサターン]]など同世代ゲーム機らが市場の話題をさらう中で発売されて国内では15万程度、全世界中累計でも77万{{Efn|もしくは120万台{{Sfn|井上|2009|p=213}}}}程度と販売台数を伸ばせなかった。
しかし山内はバーチャルボーイに関して、「TVゲームとは異なる娯楽を求める傾向に応えるもの」<ref>{{Cite news |和書|title=「バーチャルボーイ」を披露した 第6回初心会展 64ビット機は95年8月に紹介 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19950101p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=487 |agency=アミューズメント通信社 |date=1995-01-01 |page=13}}</ref>と述べている。
また本機を発案した横井はCPUやリアルさなどの最先端を求めた競争から脱却して、ゲームの本質に戻ったものを求めた{{Sfn|横井、牧野|2010|p=}}ため、同時期に開発されていたPlayStationやセガサターンと比較してロースペックとなっている。
さらに、[[宮本茂]]はバーチャルボーイについて以下のように語っている<ref name="nintendo3ds">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/hardware/vol1/index2.html |title=社長が訊く『ニンテンドー3DS』 |publisher=任天堂 |accessdate=2019-12-29}}</ref>。
* ゲーム機というより、「おもしろいおもちゃ」という位置づけで新しい娯楽にアンテナを張ってる人、ある程度は自由にお金を使って良い人等に売れたら良いとイメージをしていた。
* 「おもしろいおもちゃ」として考えたら5万台でも売れたら大成功だと思う。
* しかし世の中にはゲームボーイの後継機という扱いを受けて、更に[[任天堂]]はファミリーコンピュータ的なものとして売り出したため、世間や商業面ではゲームのプラットフォームと言う扱いをされた。
このように、任天堂関係者は本機をそもそもPlayStationやセガサターンなどのゲーム機と同じ土俵で争うものと捉えてはいなかった。
また[[糸井重里]]は本機のゴーグルで覗き込んで遊ぶ様子が格好良くなく、同社の他機種と比べて非日常的で違和感があったと指摘した{{R|nintendo3ds}}。
視力に対する悪影響が懸念されていたことを受け、アメリカの科学者と研究を行ったところ、懸念とは対照的に視力に好影響を与えるという結果が出たという{{Sfn|横井、牧野|2010|pp=169-170}}。
=== 販売終了後の動向 ===
本機で展開された横井のゲームの本質を追求する思想は、これを受け継いだ[[岩田聡]]や宮本によって後に[[ニンテンドーDS]]や[[Wii]]が生み出された{{Sfn|井上|2009|p=213}}。
また商業的に成功しなかった3Dゲーム機だったが、その後も任天堂は3Dに関する研究を続け、据置型ゲーム機では[[2001年]]に発売された[[ニンテンドーゲームキューブ]]に3Dディスプレイ対応の回路を組み込み<ref>[http://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/100129qa/03.html 任天堂 2010年1月29日(金)第3四半期決算説明会 質疑応答]</ref>{{Efn|対応したゲームが出ることは無かった}}、携帯型ゲーム機では2011年2月26日発売の[[ニンテンドー3DS]]で裸眼での3D映像に対応した。さらにバーチャルボーイのようなゴーグル型VRゲームとして、2019年4月12日に「[[Nintendo Labo#Nintendo Labo Toy-Con 04: VR Kit|Nintendo Labo Toy-Con 04: VR Kit]]」を発売した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author1=横井軍平|authorlink1=横井軍平 |author2=牧野武文 |title=横井軍平ゲーム館 RETURNS-ゲームボーイを生んだ発想力 |publisher=フィルムアート社 |date=2010-11-15 |isbn=978-4-8459-1050-2 |oclc=758607575 |ref={{SfnRef|横井、牧野|2010}}}}
* {{Cite book|和書|author=井上理 |title=任天堂 驚きを生む方程式 |publisher=[[日本経済新聞出版社]] |date=2009-05-12 |isbn=978-4532314637 |oclc=754554152 |ref={{SfnRef|井上|2009}}}}
== 関連項目 ==
* [[ファミコン3Dシステム]] - 本機発売以前に任天堂が発売した、[[ファミリーコンピュータ]]の周辺機器。
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/n09/vue/ バーチャルボーイ公式サイト]
{{任天堂}}
{{家庭用ゲーム機/任天堂}}
{{バーチャルリアリティ}}
{{DEFAULTSORT:はあちやるほおい}}
[[Category:任天堂のハードウェア]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:1995年のコンピュータゲーム|*はあちやるほおい]]
[[Category:ヘッドマウントディスプレイ]] | 2003-02-14T09:30:41Z | 2023-11-20T08:05:15Z | false | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:Efn",
"Template:R",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:任天堂",
"Template:Infobox コンシューマーゲーム機",
"Template:Reflist",
"Template:バーチャルリアリティ",
"Template:Notelist",
"Template:Cite news",
"Template:Sfn",
"Template:家庭用ゲーム機/任天堂",
"Template:Cite web"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4 |
1,570 | ファミコン (曖昧さ回避) | ファミコン | [
{
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"text": "ファミコン",
"title": null
}
]
| ファミコン 1979年にシャープから発売されたグリルオーブンレンジ。
ファミリーコンピュータ - 1983年に任天堂から発売された家庭用コンピュータゲーム機。
ツインファミコン - 上記の互換機。1986年にシャープから発売された。
AV仕様ファミリーコンピュータ - 1993年に任天堂から発売された、ファミリーコンピュータの廉価機。通称「ニューファミコン」。
転化して、テレビゲーム(ゲーム機)そのものを指す一般名詞。
スーパーファミコン
ファミリー・コンプレックス - つだみきよの漫画。
ファミリーコンサート - NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』にて定期的に行っているステージコンサート。
ファミコン言葉(=バイト敬語、コンビニ敬語) - ファミリーレストランやコンビニエンスストアなどで、主に若い世代のアルバイト店員によって使用される、誤ったとされる丁寧語のこと。 | {{混同|Favicon}}
'''ファミコン'''
* 1979年に[[シャープ]]から発売された[[電子レンジ|グリルオーブンレンジ]]。[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/videogames/fc/history/sub1.html]
* [[ファミリーコンピュータ]] - [[1983年]]に[[任天堂]]から発売された[[コンシューマゲーム|家庭用コンピュータゲーム機]]。
** [[ツインファミコン]] - 上記の互換機。[[1986年]]に[[シャープ]]から発売された。
** [[ファミリーコンピュータ#AV仕様ファミリーコンピュータ|AV仕様ファミリーコンピュータ]] - [[1993年]]に任天堂から発売された、ファミリーコンピュータの廉価機。通称「ニューファミコン」。
** [[商標の普通名称化|転化して]]、[[テレビゲーム]]([[ゲーム機]])そのものを指す一般名詞。
** [[スーパーファミコン]]
* [[ファミリー・コンプレックス (つだみきよの漫画)|ファミリー・コンプレックス]] - [[つだみきよ]]の漫画。
* [[おかあさんといっしょ#ファミリーコンサート|ファミリーコンサート]] - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『[[おかあさんといっしょ]]』にて定期的に行っているステージコンサート。
* [[バイト敬語|ファミコン言葉]](=バイト敬語、コンビニ敬語) - [[ファミリーレストラン]]や[[コンビニエンスストア]]などで、主に若い世代のアルバイト店員によって使用される、誤ったとされる[[丁寧語]]のこと。
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1,572 | スーパーマリオブラザーズ | 『スーパーマリオブラザーズ』(SUPER MARIO BROS.) は、任天堂が発売したファミリーコンピュータ用ゲームソフト。日本での発売は1985年(昭和60年)9月13日。略称は「スーパーマリオ」、「スーマリ」、「マリオ」、「マリオ1」。通称は「スーパーマリオブラザーズ1」、「初代(元祖)スーパーマリオブラザーズ」などがある。横スクロール型のアクションゲームで、プレイ人数は1 - 2名。
ゲーム&ウオッチでも同名のゲームが1988年に発売された。なお日本ではディスクシステムのゲーム大会の景品として作られた。
世界で最も売れたゲームソフトとしてギネスにも認定されているアクションゲームの金字塔で、日本から世界へ大ブームを巻き起こし、ファミコン人気を不動のものとした。シリーズ化され数多くの続編が出ており、シリーズ以外にも多くの追随するゲームを生んだ(マリオシリーズを参照)。また、2005年には米国IGNで「Top 100 games of all time」において1位に選出されている。
敵に触れるとダメージを受ける、という従来のアクションゲームのフォーマットを突き崩し、踏むことが敵に対する攻撃方法として確立された。敵から逃げるだけではなく防御と攻撃の両面がシンプルなゲームとして集約され世界ナンバーワンヒットへと押し上げた。地上、地下、空中、水中といったステージ構成に、走る、ジャンプする、泳ぐといった豊富なアクションで、その後のゲームや開発者にも多大な影響を与えた。
発売20周年を迎えた2005年以降、5年毎の9月13日前後にハード・ソフトを問わない大規模なアニバーサリーイベントが行われるのが恒例となっている。2005年にはゲームボーイミクロやファミコンミニ再販版(後述)の発売、2010年にはスーパーマリオ25周年仕様Wiiや『スーパーマリオコレクション スペシャルパック』の発売、2015年には「スーパーマリオ30周年記念ライブ」の開催、2020年にはゲーム&ウオッチスーパーマリオブラザーズの販売などが行われた。
キャッチコピーは「奇想天外。夢の大冒険ゲーム!」「地上に地下に海に空に謎のキャラクタ出現!」。
「キノコ王国」がクッパ率いるカメ一族に侵略され、キノコ王国のお姫様ピーチはクッパにさらわれてしまった。配管工(大工)の兄弟マリオとルイージはピーチを助け出すため、クッパが率いる敵たちを倒して陸海空を突き進み、いざクッパがいる城へ向かう。
プレイヤーの目的は、ステージの中で敵や障害物を避け、また穴に落ちないように注意しつつ、制限時間内にゴールの旗へたどりつく(各ワールドの4面はボスのクッパを倒す)ことである。
2人でプレイする場合は、マリオが1プレイヤーキャラクター、ルイージが2プレイヤーキャラクターとなり、操作中のプレイヤーがミスした場合は、操作者が交代となる。それぞれのステージの進行度は独立しており、2名が協力して操作することはなく、相手を妨げることもない。
『マリオブラザーズ』は固定画面だったのに対し、本作ではマリオシリーズで初めて「横スクロールアクション」を導入し、後発の数多くのゲームに影響を及ぼした。マリオ(ルイージ)を右方向に進めるとそれに応じて背景画面も右方向にスクロールしていき、それまで通ってきた場所は画面の左側に消えるようになっている。なお、本作ではすべての面が右方向のみの一方方向スクロールであり、一度進んでから画面左端に行っても左側にはスクロールしないので後戻りすることはできない。
ステージは8つのワールドで構成され、それぞれのワールドには4つのコース(エリアとも呼ばれる)がある。各コースは地上、地下、海中、空中、吊り橋、城など多彩な構成となっている。
ステージ1からステージ3は、ゴール地点にあるポール(旗)にしがみつく(触れる)ことでクリアとなる。このとき、ポールにしがみついた位置が高いほど高得点が入る。エリア4はステージ奥で待ちかまえるボスのクッパを倒すとクリアとなり、次のワールドに進める。このようにしてワールド8のステージ4に到達し、これをクリアするとエンディングを迎えることができる。なお、1-2、4-2のコースではゴールの他に「ワープゾーン」が設置されており、これを利用すると途中のコースを飛ばして先のワールドに進むことができ、プレイ時間を短縮することが可能である。具体的には1-2からは2-1、3-1、4-1に任意で好きなワールドに行くことが可能で、4-2はワープゾーンが2つあり、1つ目は5-1にワープすることができ、2つ目は6-1、7-1、8-1に任意で好きなワールドにワープすることができる。
一度エンディングを迎えた後は、タイトル画面でワールドの選択ができるようになるほか、再度ゲームを開始するとハードモードとなり、敵キャラクターの変更や移動速度の上昇、リフトの幅の短縮、障害物の追加など、全体に難易度が高くなる。これを通称「裏面」「2周目」などと呼ぶことがある。このモードは、電源を切るまで有効となっている。
各面にはTIME(時間制限)が設定されており、ステージが始まるとこの数値がカウントダウンし始める。設定TIMEは400または300で、カウントダウンのペースは秒よりもかなり速い(1カウントはおよそ0.4秒)。この数値が0になるまでに、エリアをクリアしなければならない。TIMEが100未満になるとそのことを示す警告音が流れ、BGMのテンポが速くなる。エリア1からエリア3をクリアしたときは、残りのTIMEの数値が得点に精算される。
ミスをした場合、ミスした地点からではなく、ステージの中間地点を過ぎていない場合はスタート地点から、過ぎている場合は中間地点から再スタートするようになっている。ただし、一部のコースでは中間地点が存在せず、ミスした地点に関係なくスタート地点からの再スタートとなる場合もある。
マリオが取るアクションは、通常は水平方向への移動とジャンプのみである。
十字キーの左右を押すことで左右に移動する。スーパーマリオやファイアマリオ(後述)のときに十字キーの下を押すとしゃがむことができる。また、Bボタンを押しながら移動すると十字キーを押した方向に走ることができる。この走る動作はBダッシュと呼ばれる。ダッシュ中は1マスの隙間なら落ちずに走り抜けることができる。一度ダッシュするとキーから指を離してもすぐには止まらず進むほか、スーパーマリオやファイアマリオのときにダッシュしたまましゃがむと、しゃがんだ状態で左右に滑る。これを利用してスーパーマリオやファイアマリオのときには通常では通ることができない高さ1マスの隙間に滑りこむことができる。
Aボタンを押すとジャンプできる。ボタンを押した長さによって高度が変わったり、ジャンプ中に左右に十字キーを押すことで飛ぶ軌道や着地点を操作できる、Bダッシュによって加速度をつけて遠くに跳べるなど、自由度の高い制御が可能である。空中に浮いているブロックなどに向かってジャンプすると、そのブロックを下から叩くことができる。また、ジャンプ中の左右への制御はマリオの後ろ側に利きやすいという特徴がある。このジャンプシステムは後の多くの作品にも模倣された。海中ステージではマリオは徐々に沈んでしまうため、Aボタンを押して水をかき、浮き上がるように調整しなくてはならない。
十字キーとAボタンを使い敵の真上に着地するとその敵を踏みつけることになる。本作ではこの方法で敵を踏みつけるのが最も基本的な攻撃方法となる。ただしこの方法で倒せない敵もある。また、ブロックの上にいる敵はそのブロックを下から叩くことで倒すことができる。
マリオはアイテムを取ることによりスーパーマリオ、ファイアマリオへとパワーアップすることができる。スーパーマリオは身長が普通のマリオの2倍になり、レンガブロックを下からパンチして破壊することができるようになる。また、ファイアマリオはBボタンでファイアボールを投げることができ、ファイアボールを敵にぶつけると、踏めない敵や水中の敵でも倒すことができる。ただし、ファイアボールが効かない敵も存在する。
スーパーマリオからの対比で、普通のマリオ(初期状態)をチビマリオと称すことが多い。本稿においてはこの普通のマリオを便宜上チビマリオと記述し、単にマリオと表記する場合は、マリオのパワーアップに関係なくキャラクター個人として表記することを原則とする。
ノコノコとメットを踏みつけると気絶し、気絶中のノコノコやメットに触れると甲羅を前方に蹴飛ばすことができる。その甲羅が他の敵に当たれば、その敵を倒すこともできる。甲羅で連続して敵を倒すか、あるいは連続で敵や甲羅を踏みつけると得られる得点が増加していく。そして8000点が出るとその次以降は1UP、すなわちマリオの残り人数が1増えることとなる。ただし甲羅は障害物に当たると跳ね返って反対方向に進む。このシステムを応用して、階段状の地形で甲羅を踏み続けて1UPを続ける技術が「無限1UP(無限増殖、100人マリオとも)」である。
敵キャラクターや自分の蹴った甲羅などに横または下からぶつかるとダメージを受ける。水中面の敵や「踏めない敵」、ファイアバー、敵が放つ武器はどの方向からぶつかってもダメージとなる。ダメージを受けた場合、スーパーマリオかファイアマリオの場合はチビマリオに戻り、チビマリオの場合は1ミスとなり残り人数が1人減る。また、穴に落ちた場合やタイムアップになった場合は、パワーアップ状態の有無に関係なく即ミスとなる。
ゲームスタート時の残り人数は3から始まり、残り人数が尽きる(1の状態でミスをする)とゲームオーバーになる。ゲームオーバーになるとワールド1からやり直しとなってしまうが、ゲームオーバー直後のタイトル画面でAボタンを押しながらスタートボタンを押すことで、ゲームオーバーとなったワールドの最初からやり直す事が出来るというコンティニューの裏技が存在する(得点は0に戻る)。
ファミコンのカラーパレットの都合上、一部の敵キャラの体色は出現するステージの床やブロックと同じ色になる。
コイン以外は画面内に1つまでしか出すことができず、2つ目を出すと前に出したアイテムは画面から消滅する。
空中に浮いており、足場に出来る。なお、ストーリー上はキノコ王国の住人がクッパの魔法によってレンガなどに姿を変えられてしまったとされており、マリオがアイテム入りのブロックを叩くことでパワーアップアイテムを得る事については、「レンガに変えられたり、消されたりしたキノコ」を見つけ出して助けることで彼らからパワーを貰うという設定になっている。
このゲームにおけるアンダーカバーとは、ソフトのバグ・イレギュラーな操作・改造により出現する、通常出現し得ないステージの事である。
1985年、『スーパーマリオブラザーズ』はワールド9まであるという噂が当時の小学生を中心に飛び交った。
ゲーム雑誌『ファミリーコンピュータMagazine』(以下『ファミマガ』)は、一般人からの「雷のショックでワールド9が出現した」と称する投稿写真を掲載。他の雑誌もワールド9の情報を相次いで掲載した。このワールド9は、「マリオが地上で泳ぐ、ブロックが珊瑚に変化している、土管の色が違う」など、他のステージではありえないことだらけであった。
その後も新たなワールドが発見されるなどした結果、最終的には正規の8ワールドを含む256種類のワールドが出現する可能性があることが判明。これらは「アンダーカバー」「256ワールド」「256面」「256w」などと呼ばれ、『USO!?ジャパン』では「スーパーマリオX」という造語で紹介した。また、カセット抜き差しなどのイレギュラーな操作(『テニス』やファミリーベーシックを用いたものが有名)によってこれらを出現させる方法が明らかにされ、これを行ったユーザーから「ファミコンが壊れた」という問い合わせが雑誌社に寄せられる事態となった。そのような中、ファミマガがプロデューサーである宮本茂にインタビューし、原因は「ノイズ」であると発表された。同時に、正常な動作ではなくファミコンを壊す危険もあるという警告がなされている。
なお、アンダーカバーの中にはイレギュラーな操作ではなく通常の裏技で行けるステージが存在し、代表的なものとして「-1(マイナスいち)」と呼ばれる「36-1」がある。意味としては本来「ワールド36-エリア1」であるが、ワールド数の「36」に充てられているコードが「 」(スペース)なので、エリア数しか表示されない「(空白)-1」という形になり、そこから「-1(マイナスいち)」、または「マイナス面」と呼ばれることがある。-1「マイナスいち」面は、一見、普通の水中ステージのようなコースだが、クリアは不可能であり、ステージの最後にある土管に入ってもスタート地点に逆戻りするという無限ループというものである。
これはワープゾーンのバグを利用してプレイできるものであり、アーケード版やディスクシステム版でも可能であり、それぞれで面の構造が異なる。なおディスクシステム版は「-3(36-3)」まで存在し、進めれば全てクリア可能となっている(理由は諸説ある)。
一方で『スーパーマリオコレクション』版にもアンダーカバーは存在するが、通常の手段では実行不可である。ファミコンミニ版やバーチャルコンソール版はファミコン版をそのまま移植しているためデータ上残っているが、これも通常の手段では実行できない(ただし「-1(36-1)」は可能)。また、GBC版『スーパーマリオブラザーズデラックス』にもアンダーカバーに類するものが存在するが、内容は大きく異なる。
1986年に発売された『スーパーマリオブラザーズ2』では、正式な仕様としてワールド1から8までワープゾーンを一切使用することなくクリアすると「ワールド9」が出現する(コンティニューの有無は出現条件に問わない)。このワールドは、地上風の水中面や旗の直前に出現するクッパなど、アンダーカバーを意識したような特殊な構成となっている(リメイク版も同様)。
第2作以降のシリーズ作品は『マリオシリーズ』を参照。
片面ソフト。ディスクシステム版の内容は基本的にロムカセット版をベースとしているが、ゲーム起動時にロゴが表示されるなどの相違点もある。4ワールド分のデータを一括で読み込んでいるらしく、ゲーム中のロードタイミングはワールド4-4以前から5-1以降に進んだ時とエンディングを終えた時のみ。前述の通りアンダーカバー面の内容がカセット版と異なる。
1986年にリリースされた任天堂VS.システム版の『VS. スーパーマリオブラザーズ』(VS.SUPER MARIO BROS.)は、ファミコン版と同じく1-1から8-4までの32面構成であるが、本作と『スーパーマリオブラザーズ2』のステージが組み合わさっており、難易度がファミコン版より上がっている。また、ステージ内やゲーム内容においても以下のような違いがある。
本作は任天堂のアーケード撤退後にリリースされたため日本未発売となっているが、近年になって並行輸入版が大量に出回っており、現在ではメーカー直営店などを含めた多くの店舗でプレイすることが可能である。地域によっては、新作ビデオゲームよりも多くの店で稼働している。また、店舗側でもファミコン用のコントローラーを改造して接続するなど、設置状況が優遇されていることも多い。
2017年12月22日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてNintendo Switchで配信開始。
『スーパーマリオブラザーズスペシャル』(SUPER MARIO BROS.SPECIAL、SUPER MARIO BROS.Special)のタイトルで1986年末にハドソンから発売された。NECのPC-8800シリーズ版とシャープのX1版が存在する。
当時の技術的制約からマリオの移動に伴い画面がスクロールせず、画面右端に移動すると次の画面へ切り替わる画面切り替え方式が採用されている。スプライト機能が無く水平型VRAMということもあり、キャラクターの移動単位やその軌跡の演算がオリジナルよりも大雑把なものとなっており、キーレスポンスの悪さとマップ構成の問題から難易度は非常に厳しいものになっている。オリジナルではスクロールに伴い進行方向の状態が確認できるが、本作では画面切り替え式のため、ジャンプした先に着地点が無いなど状況を把握した対処が難しい上にオリジナルよりも更にそういったトラップの多い独自のステージデザインとなっており、難易度の向上に更に拍車をかける形となっている。独自のフィーチャーとして新たな敵キャラクターやパワーアップアイテムの追加などが行われており、ハドソンのコーポレートキャラクターであるハチ助も隠れキャラとして登場する。また、ゲームクリアの後にスタッフロールが追加されている。BGMはPSGのみを使用し、原作準拠ではあるもののテンポにふらつきがあるなど、印象の違う部分も存在する。
『スペシャル』の追加アイテム
ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送20周年を記念して1986年に当ゲームと同番組がコラボレーションして発売した限定生産のソフト。基本的には『スーパーマリオブラザーズ』と変わりないが、一部グラフィックの差し替えや、続編『2』からの要素の追加など、いくつかの点で変更が加えられている。
日本国外ではゲーム&ウオッチ版も発売されているが、内容が異なる。基本は右に強制スクロールするステージで、マリオを操作して足場を乗り継ぎ、ステージ右端のピーチのいる所まで到達するとステージクリアとなる。敵も登場するが倒すことは出来ず、避けて進むことになる。ちなみに、一部の効果音はファミコン版のBGMのアレンジとなっている。また、画面が透明なクリスタルスクリーン版と、ニューワイド版(およびキーチェーンサイズのMini Classics版)ではキャラクターグラフィックが異なる。
ファミコン版発売35周年を記念し、2020年11月13日に発売された「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」(GAME&WATCH SUPER MARIO BROS.)はファミコン版が完全移植の形で収録されており、「無限マリオ」、「ワールド選択」、「HARDモード選択」等新要素もある。
『スーパーマリオコレクション』 にリメイクされて収録されている。こちらは『スーパーマリオブラザーズ2』・『スーパーマリオブラザーズ3』、『スーパーマリオUSA』のリメイクも一緒に収録されている。『スーパーマリオコレクション』は2010年10月21日にWii版が発売、2020年9月3日にNintendo Switch Onlineにて配信された。
リメイク版で、日本ではニンテンドウパワーによる書き換え販売のみの提供となった。また、2013年12月10日から2014年1月13日の間にニンテンドー3DSにニンテンドーネットワークIDを登録したユーザーを対象に無料配布された時期があった。
『どうぶつの森+』の「ファミコン」家具として登場。どうぶつの森内では非売品。
2004年2月14日にファミコンミニ第一弾ソフトの一つとして発売された。ファミコンでのオリジナル版を完全移植した初のバージョンである。
2005年9月13日にファミコン版発売20周年を記念して再販された。ゲーム内容に変更はないが、パッケージ(外箱)が20周年を記念した特別デザインとなっている。
ファミコンミニ版に先駆けて、2003年11月7日から2004年1月15日にかけて行われた「ホットマリオキャンペーン」の景品として、「復刻版スーパーマリオブラザーズ」が配布された。 ゲーム内容は、ファミコンミニとほぼ同じだが、復刻版はワイヤレス通信に対応していない。また、説明書に「ファミコンミニ」の文字は無い。
Wii・2010年11月11日(日本版のみ。日本国外版では『Donkey Kong Original Edition』を収録)
Wii(スーパーマリオ25周年仕様)に内蔵されている『25th Anniversary SUPER MARIO BROS.』(スーパーマリオブラザーズ25周年バージョン)。バーチャルコンソール版をベースに、ハテナブロックの「?」が「25」となるなど一部デザインが変更されているが、ゲーム内容は同じ。
Wii U『ファミコンリミックス2』に特別収録されているゲーム。ルイージが主役となり、ステージを左右反転させたバージョン。ルイージの性能は『スーパーマリオブラザーズ2』のものに準じている。
3DS『ファミコンリミックス ベストチョイス』に特別収録されているゲーム。動作・BGMが高速化されている。
なお、『マリオブラザーズ』はアクションや敵キャラ等の要素が似ており基礎となったゲームといえるが、基本システムやストーリーにおいての関連性・類似性は薄い。
当時任天堂の影響力が及ばず、ファミコン以外のゲーム機やパソコンが普及していた東アジアや中央ヨーロッパなどで、発売当時から海賊版および非公式なコピー版も多く出回った。各国の大手ゲームメーカーが製造したコピーゲームの例をいくつか挙げると、
現在、ネット上には違法にアップロードされたスーパーマリオブラザーズのゲームデータが多数存在し、改造できるソフトまで出回っている。
ゲームデザイナーの宮本茂は1984年の12月にテスト仕様書を書いた。当時、任天堂は既にファミリーコンピュータ ディスクシステムの開発に入っており、ROMカセットより大容量でセーブも可能なディスクメディアに移行する計画だった。このため、宮本は「ファミコンカセットの集大成」として本作を開発した。ドンキーコングに始まったジャンプアクションの決定版として大きなキャラクターが陸・海・空をかけまわるゲームとして企画された。当時のゲームの開発期間は3ヶ月程度のものが多かったが、本作はその倍の開発期間を取っている。
本作はエンディングまで8ワールドの構成だが、ステージ構成でも紹介したが、開発段階では全5ワールドの予定とされていた。だが、ワールド数を増やしたい宮本茂は、A3サイズの用紙を2つ折りにしてA4サイズの企画書と見せかけ、5ワールドまでの概略が書かれた片面を見せて許可が下りた直後に、折られた裏側に書かれていた8ワールドまでの構想を見せ、強引に納得させて企画を通したという逸話がある。なお、本作のワールド5以降に使い回しされ、難易度が上がったステージが登場するのは、スタッフにこの8ワールドの構成案を納得してもらうためであった。
水中ステージにおけるマリオの動きは、本作発売以前に発売されたファミコン版『バルーンファイト』で滑らかに動くキャラクターを見た中郷俊彦が、ファミコン版のプログラムを手掛けた岩田聡のもとへ相談に行き、そこで積んだノウハウを活用して実現した事を明かしている。
本作はポール越えは基本的にできないこととなっているが、越えることができた場合は裏技として認定された。ファミリーコンピュータMagazineでポール越えを果たした読者投稿による写真も掲載された。
本作のストーリーには、『マリオブラザーズ』にてマリオ兄弟が配管工の作業をしていた所、キノコ王国に繋がるワープ土管からキノコ王国に迷い込み、事情を知った際に立ち上がったという裏設定が存在する。
ゲーム内における音楽・効果音・プログラミングはすべて新人時代の近藤浩治が担当している。
最初に作られた曲は「水中のBGM」で、音楽がイメージしやすく作りやすかったという。
最も有名な「地上のBGM」は、初めに作ったバージョンが背景の鮮やかな色(青や緑)に合わせた「のほほんとした曲調」だったため、実際のプレイに合わずボツとなった。その後、試作品のマリオの動きに合わせて作り直したものが採用された。この曲は、織田信成が演技で使用したほか、リアレンジした形でポーラ化粧品のCMにも使用された。
効果音においてもファミコンのメモリ容量が限られていた為、「マリオが小さくなる音」と「土管に入るときの音」、「ノコノコを踏んだ時の音」と「泳ぐ音」で同じものを流用するなどして(SFCでは前者が同じ音で後者が異なる音)、メモリを節約するための工夫がなされている。
なお、ファミコンのメモリ容量が限られていたためかオリジナル版では「クッパと対決するときのBGM」は実装されず、「ボーナス面のBGM」は「無敵状態のBGM」が流用されていた。そのため2015年に発売された『スーパーマリオメーカー』では、『スーパーマリオブラザーズ』スキンのオトアソビでは「ボーナス」は『VS. スーパーマリオブラザーズ』の名前入力のBGMが、「ボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』の各種ブロス戦及びバトルモードのBGMが使用されている。また、2019年に発売された『スーパーマリオメーカー2』で追加された「ラスボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』のクッパ戦のBGMを流用している。
当時の流行により、後からBGMに歌詞をつけたものも作成された。AYA&なかよし応援団が歌唱する「マリオの大冒険」、谷山浩子(プリンセス・ピーチ名義)が歌唱する「GO GO マリオ!!」があり、ともに地上のBGMを中心としつつ、他のBGMを含んだメドレー調になっている(前者は地上のBGM以外の部分にも歌詞が振られている箇所があるが、後者は歌詞が振られているのは地上のBGM部分のみ)。1986年にそれぞれシングルとして発売された(前者はEP盤、後者はカセットテープ)ほか、両方共を収録したプロモーション用サンプル盤も存在する。後者は1985年にラジオ番組『小峯隆生のオールナイトニッポン』でのコーナーでリスナーから募集した歌詞から生まれた歌。2003年9月14日に日本青年館前で開催された『マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブ』で歌唱されたり、2014年11月14日にニンテンドー3DS『大合奏!バンドブラザーズP』で映像が配信されたり、2015年12月1日にカラオケのJOYSOUNDに映像付きで配信されたりなどの展開がなされている。
2023年4月12日(日本時間同月13日)、アメリカ議会図書館は本ゲームのテーマ曲(地上のBGM)について、「ゲーム史に残る伝説的な作品であり、世界中で演奏され、過去40年間で最も愛された楽曲の1つ」と評価し、ジョン・レノンの「イマジン」やマライア・キャリーの「恋人達のクリスマス」などと共にゲーム音楽として初めて、日本人が作曲した曲としても初めて全米録音資料登録簿に収蔵され、永久保存することが発表された。
本作は他社のゲーム作品での楽曲使用や音楽アーティストによる創作作品が存在する。以下は任天堂から正式にライセンス提供を受けている作品である。
日本国内で681万本、全世界では4,024万本を販売。日本国内の単体としてのゲームソフト売上では、2020年に『あつまれ どうぶつの森』が記録を塗り替えるまで30年以上に渡って歴代1位を保っており、シリーズ2番目の売り上げである『New スーパーマリオブラザーズ』とも約40万本差、世界売上では約900万本の差がある。また、Wiiのバーチャルコンソール版でも、2007年6月時点で最もダウンロードされたゲームとなっている。
NHKで放送された特集番組『新・電子立国』の書籍版で、開発者の宮本茂は、本作の売上げを150万本程度と予想しており世界で数千万本も売れたのは、北米発売のタイミング等を含め「完全に運だった」と回顧しており、「掛け値なしの実力は150万本」と評価している。
当時任天堂社長だった山内溥は、本作を見て「これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね」と宮本に語ったという。
4,024万本という数字は同梱販売を含めてのものだが、同梱販売を含まない場合でも本作は相当な本数を売り上げている。
数々のゲーム雑誌などでも高い評価を得ており、『ファミ通』1000号記念に行われた「読者が選ぶ未来に伝えたいゲーム」というアンケートでは大差で1位を獲得している。なお、『ファミ通』では800号記念に行われた同様の企画でこのゲームを「50年後に伝えるゲームのタイムカプセル」の1つに選定しており、編集部で保管されている。また、2007年9月22日に行われた東京ゲームショウ2007で、人気番組『ゲームセンターCX』と『日経エンタテインメント!』との共同イベントとして行われた「レトロゲーム・アワード2007」で大賞を受賞した。
徳間書店から発売された攻略本の人気も高く、発売以来2年連続で全書籍中での売り上げ1位を記録した。
1986年にクリスマスプレゼントの目的で購入し、約35年間に渡って机の引き出しの中にしまい込んだままとなっていた本ゲームの未開封品が2021年にアメリカで発見され、同年4月2日にオークションに出品したところ、ゲームソフトとしては史上最高額(当時)となる66万ドル(日本円で約7300万円)で落札されたことがオークション会社から発表された。オークション会社やゲーム専門家によると、出品された本ゲームは短期間だけ生産されたプラスチックによる透明パッケージのバージョンのもので状態が良いもので見つかるのは珍しいとコメントしている。
アンドリュー・シャルトマン 著『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』樋口武志 訳、DU BOOKS、2023年、ISBN 978-4-86647-204-1 | [
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"text": "プレイヤーの目的は、ステージの中で敵や障害物を避け、また穴に落ちないように注意しつつ、制限時間内にゴールの旗へたどりつく(各ワールドの4面はボスのクッパを倒す)ことである。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2人でプレイする場合は、マリオが1プレイヤーキャラクター、ルイージが2プレイヤーキャラクターとなり、操作中のプレイヤーがミスした場合は、操作者が交代となる。それぞれのステージの進行度は独立しており、2名が協力して操作することはなく、相手を妨げることもない。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "『マリオブラザーズ』は固定画面だったのに対し、本作ではマリオシリーズで初めて「横スクロールアクション」を導入し、後発の数多くのゲームに影響を及ぼした。マリオ(ルイージ)を右方向に進めるとそれに応じて背景画面も右方向にスクロールしていき、それまで通ってきた場所は画面の左側に消えるようになっている。なお、本作ではすべての面が右方向のみの一方方向スクロールであり、一度進んでから画面左端に行っても左側にはスクロールしないので後戻りすることはできない。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ステージは8つのワールドで構成され、それぞれのワールドには4つのコース(エリアとも呼ばれる)がある。各コースは地上、地下、海中、空中、吊り橋、城など多彩な構成となっている。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ステージ1からステージ3は、ゴール地点にあるポール(旗)にしがみつく(触れる)ことでクリアとなる。このとき、ポールにしがみついた位置が高いほど高得点が入る。エリア4はステージ奥で待ちかまえるボスのクッパを倒すとクリアとなり、次のワールドに進める。このようにしてワールド8のステージ4に到達し、これをクリアするとエンディングを迎えることができる。なお、1-2、4-2のコースではゴールの他に「ワープゾーン」が設置されており、これを利用すると途中のコースを飛ばして先のワールドに進むことができ、プレイ時間を短縮することが可能である。具体的には1-2からは2-1、3-1、4-1に任意で好きなワールドに行くことが可能で、4-2はワープゾーンが2つあり、1つ目は5-1にワープすることができ、2つ目は6-1、7-1、8-1に任意で好きなワールドにワープすることができる。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "一度エンディングを迎えた後は、タイトル画面でワールドの選択ができるようになるほか、再度ゲームを開始するとハードモードとなり、敵キャラクターの変更や移動速度の上昇、リフトの幅の短縮、障害物の追加など、全体に難易度が高くなる。これを通称「裏面」「2周目」などと呼ぶことがある。このモードは、電源を切るまで有効となっている。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "各面にはTIME(時間制限)が設定されており、ステージが始まるとこの数値がカウントダウンし始める。設定TIMEは400または300で、カウントダウンのペースは秒よりもかなり速い(1カウントはおよそ0.4秒)。この数値が0になるまでに、エリアをクリアしなければならない。TIMEが100未満になるとそのことを示す警告音が流れ、BGMのテンポが速くなる。エリア1からエリア3をクリアしたときは、残りのTIMEの数値が得点に精算される。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ミスをした場合、ミスした地点からではなく、ステージの中間地点を過ぎていない場合はスタート地点から、過ぎている場合は中間地点から再スタートするようになっている。ただし、一部のコースでは中間地点が存在せず、ミスした地点に関係なくスタート地点からの再スタートとなる場合もある。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "マリオが取るアクションは、通常は水平方向への移動とジャンプのみである。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "十字キーの左右を押すことで左右に移動する。スーパーマリオやファイアマリオ(後述)のときに十字キーの下を押すとしゃがむことができる。また、Bボタンを押しながら移動すると十字キーを押した方向に走ることができる。この走る動作はBダッシュと呼ばれる。ダッシュ中は1マスの隙間なら落ちずに走り抜けることができる。一度ダッシュするとキーから指を離してもすぐには止まらず進むほか、スーパーマリオやファイアマリオのときにダッシュしたまましゃがむと、しゃがんだ状態で左右に滑る。これを利用してスーパーマリオやファイアマリオのときには通常では通ることができない高さ1マスの隙間に滑りこむことができる。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Aボタンを押すとジャンプできる。ボタンを押した長さによって高度が変わったり、ジャンプ中に左右に十字キーを押すことで飛ぶ軌道や着地点を操作できる、Bダッシュによって加速度をつけて遠くに跳べるなど、自由度の高い制御が可能である。空中に浮いているブロックなどに向かってジャンプすると、そのブロックを下から叩くことができる。また、ジャンプ中の左右への制御はマリオの後ろ側に利きやすいという特徴がある。このジャンプシステムは後の多くの作品にも模倣された。海中ステージではマリオは徐々に沈んでしまうため、Aボタンを押して水をかき、浮き上がるように調整しなくてはならない。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "十字キーとAボタンを使い敵の真上に着地するとその敵を踏みつけることになる。本作ではこの方法で敵を踏みつけるのが最も基本的な攻撃方法となる。ただしこの方法で倒せない敵もある。また、ブロックの上にいる敵はそのブロックを下から叩くことで倒すことができる。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "マリオはアイテムを取ることによりスーパーマリオ、ファイアマリオへとパワーアップすることができる。スーパーマリオは身長が普通のマリオの2倍になり、レンガブロックを下からパンチして破壊することができるようになる。また、ファイアマリオはBボタンでファイアボールを投げることができ、ファイアボールを敵にぶつけると、踏めない敵や水中の敵でも倒すことができる。ただし、ファイアボールが効かない敵も存在する。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "スーパーマリオからの対比で、普通のマリオ(初期状態)をチビマリオと称すことが多い。本稿においてはこの普通のマリオを便宜上チビマリオと記述し、単にマリオと表記する場合は、マリオのパワーアップに関係なくキャラクター個人として表記することを原則とする。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ノコノコとメットを踏みつけると気絶し、気絶中のノコノコやメットに触れると甲羅を前方に蹴飛ばすことができる。その甲羅が他の敵に当たれば、その敵を倒すこともできる。甲羅で連続して敵を倒すか、あるいは連続で敵や甲羅を踏みつけると得られる得点が増加していく。そして8000点が出るとその次以降は1UP、すなわちマリオの残り人数が1増えることとなる。ただし甲羅は障害物に当たると跳ね返って反対方向に進む。このシステムを応用して、階段状の地形で甲羅を踏み続けて1UPを続ける技術が「無限1UP(無限増殖、100人マリオとも)」である。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "敵キャラクターや自分の蹴った甲羅などに横または下からぶつかるとダメージを受ける。水中面の敵や「踏めない敵」、ファイアバー、敵が放つ武器はどの方向からぶつかってもダメージとなる。ダメージを受けた場合、スーパーマリオかファイアマリオの場合はチビマリオに戻り、チビマリオの場合は1ミスとなり残り人数が1人減る。また、穴に落ちた場合やタイムアップになった場合は、パワーアップ状態の有無に関係なく即ミスとなる。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ゲームスタート時の残り人数は3から始まり、残り人数が尽きる(1の状態でミスをする)とゲームオーバーになる。ゲームオーバーになるとワールド1からやり直しとなってしまうが、ゲームオーバー直後のタイトル画面でAボタンを押しながらスタートボタンを押すことで、ゲームオーバーとなったワールドの最初からやり直す事が出来るというコンティニューの裏技が存在する(得点は0に戻る)。",
"title": "ゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ファミコンのカラーパレットの都合上、一部の敵キャラの体色は出現するステージの床やブロックと同じ色になる。",
"title": "登場キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "コイン以外は画面内に1つまでしか出すことができず、2つ目を出すと前に出したアイテムは画面から消滅する。",
"title": "アイテム"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "空中に浮いており、足場に出来る。なお、ストーリー上はキノコ王国の住人がクッパの魔法によってレンガなどに姿を変えられてしまったとされており、マリオがアイテム入りのブロックを叩くことでパワーアップアイテムを得る事については、「レンガに変えられたり、消されたりしたキノコ」を見つけ出して助けることで彼らからパワーを貰うという設定になっている。",
"title": "仕掛け"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "このゲームにおけるアンダーカバーとは、ソフトのバグ・イレギュラーな操作・改造により出現する、通常出現し得ないステージの事である。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1985年、『スーパーマリオブラザーズ』はワールド9まであるという噂が当時の小学生を中心に飛び交った。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ゲーム雑誌『ファミリーコンピュータMagazine』(以下『ファミマガ』)は、一般人からの「雷のショックでワールド9が出現した」と称する投稿写真を掲載。他の雑誌もワールド9の情報を相次いで掲載した。このワールド9は、「マリオが地上で泳ぐ、ブロックが珊瑚に変化している、土管の色が違う」など、他のステージではありえないことだらけであった。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その後も新たなワールドが発見されるなどした結果、最終的には正規の8ワールドを含む256種類のワールドが出現する可能性があることが判明。これらは「アンダーカバー」「256ワールド」「256面」「256w」などと呼ばれ、『USO!?ジャパン』では「スーパーマリオX」という造語で紹介した。また、カセット抜き差しなどのイレギュラーな操作(『テニス』やファミリーベーシックを用いたものが有名)によってこれらを出現させる方法が明らかにされ、これを行ったユーザーから「ファミコンが壊れた」という問い合わせが雑誌社に寄せられる事態となった。そのような中、ファミマガがプロデューサーである宮本茂にインタビューし、原因は「ノイズ」であると発表された。同時に、正常な動作ではなくファミコンを壊す危険もあるという警告がなされている。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、アンダーカバーの中にはイレギュラーな操作ではなく通常の裏技で行けるステージが存在し、代表的なものとして「-1(マイナスいち)」と呼ばれる「36-1」がある。意味としては本来「ワールド36-エリア1」であるが、ワールド数の「36」に充てられているコードが「 」(スペース)なので、エリア数しか表示されない「(空白)-1」という形になり、そこから「-1(マイナスいち)」、または「マイナス面」と呼ばれることがある。-1「マイナスいち」面は、一見、普通の水中ステージのようなコースだが、クリアは不可能であり、ステージの最後にある土管に入ってもスタート地点に逆戻りするという無限ループというものである。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "これはワープゾーンのバグを利用してプレイできるものであり、アーケード版やディスクシステム版でも可能であり、それぞれで面の構造が異なる。なおディスクシステム版は「-3(36-3)」まで存在し、進めれば全てクリア可能となっている(理由は諸説ある)。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "一方で『スーパーマリオコレクション』版にもアンダーカバーは存在するが、通常の手段では実行不可である。ファミコンミニ版やバーチャルコンソール版はファミコン版をそのまま移植しているためデータ上残っているが、これも通常の手段では実行できない(ただし「-1(36-1)」は可能)。また、GBC版『スーパーマリオブラザーズデラックス』にもアンダーカバーに類するものが存在するが、内容は大きく異なる。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1986年に発売された『スーパーマリオブラザーズ2』では、正式な仕様としてワールド1から8までワープゾーンを一切使用することなくクリアすると「ワールド9」が出現する(コンティニューの有無は出現条件に問わない)。このワールドは、地上風の水中面や旗の直前に出現するクッパなど、アンダーカバーを意識したような特殊な構成となっている(リメイク版も同様)。",
"title": "アンダーカバー"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第2作以降のシリーズ作品は『マリオシリーズ』を参照。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "片面ソフト。ディスクシステム版の内容は基本的にロムカセット版をベースとしているが、ゲーム起動時にロゴが表示されるなどの相違点もある。4ワールド分のデータを一括で読み込んでいるらしく、ゲーム中のロードタイミングはワールド4-4以前から5-1以降に進んだ時とエンディングを終えた時のみ。前述の通りアンダーカバー面の内容がカセット版と異なる。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1986年にリリースされた任天堂VS.システム版の『VS. スーパーマリオブラザーズ』(VS.SUPER MARIO BROS.)は、ファミコン版と同じく1-1から8-4までの32面構成であるが、本作と『スーパーマリオブラザーズ2』のステージが組み合わさっており、難易度がファミコン版より上がっている。また、ステージ内やゲーム内容においても以下のような違いがある。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "本作は任天堂のアーケード撤退後にリリースされたため日本未発売となっているが、近年になって並行輸入版が大量に出回っており、現在ではメーカー直営店などを含めた多くの店舗でプレイすることが可能である。地域によっては、新作ビデオゲームよりも多くの店で稼働している。また、店舗側でもファミコン用のコントローラーを改造して接続するなど、設置状況が優遇されていることも多い。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2017年12月22日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてNintendo Switchで配信開始。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "『スーパーマリオブラザーズスペシャル』(SUPER MARIO BROS.SPECIAL、SUPER MARIO BROS.Special)のタイトルで1986年末にハドソンから発売された。NECのPC-8800シリーズ版とシャープのX1版が存在する。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "当時の技術的制約からマリオの移動に伴い画面がスクロールせず、画面右端に移動すると次の画面へ切り替わる画面切り替え方式が採用されている。スプライト機能が無く水平型VRAMということもあり、キャラクターの移動単位やその軌跡の演算がオリジナルよりも大雑把なものとなっており、キーレスポンスの悪さとマップ構成の問題から難易度は非常に厳しいものになっている。オリジナルではスクロールに伴い進行方向の状態が確認できるが、本作では画面切り替え式のため、ジャンプした先に着地点が無いなど状況を把握した対処が難しい上にオリジナルよりも更にそういったトラップの多い独自のステージデザインとなっており、難易度の向上に更に拍車をかける形となっている。独自のフィーチャーとして新たな敵キャラクターやパワーアップアイテムの追加などが行われており、ハドソンのコーポレートキャラクターであるハチ助も隠れキャラとして登場する。また、ゲームクリアの後にスタッフロールが追加されている。BGMはPSGのみを使用し、原作準拠ではあるもののテンポにふらつきがあるなど、印象の違う部分も存在する。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "『スペシャル』の追加アイテム",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送20周年を記念して1986年に当ゲームと同番組がコラボレーションして発売した限定生産のソフト。基本的には『スーパーマリオブラザーズ』と変わりないが、一部グラフィックの差し替えや、続編『2』からの要素の追加など、いくつかの点で変更が加えられている。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本国外ではゲーム&ウオッチ版も発売されているが、内容が異なる。基本は右に強制スクロールするステージで、マリオを操作して足場を乗り継ぎ、ステージ右端のピーチのいる所まで到達するとステージクリアとなる。敵も登場するが倒すことは出来ず、避けて進むことになる。ちなみに、一部の効果音はファミコン版のBGMのアレンジとなっている。また、画面が透明なクリスタルスクリーン版と、ニューワイド版(およびキーチェーンサイズのMini Classics版)ではキャラクターグラフィックが異なる。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ファミコン版発売35周年を記念し、2020年11月13日に発売された「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」(GAME&WATCH SUPER MARIO BROS.)はファミコン版が完全移植の形で収録されており、「無限マリオ」、「ワールド選択」、「HARDモード選択」等新要素もある。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『スーパーマリオコレクション』 にリメイクされて収録されている。こちらは『スーパーマリオブラザーズ2』・『スーパーマリオブラザーズ3』、『スーパーマリオUSA』のリメイクも一緒に収録されている。『スーパーマリオコレクション』は2010年10月21日にWii版が発売、2020年9月3日にNintendo Switch Onlineにて配信された。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "リメイク版で、日本ではニンテンドウパワーによる書き換え販売のみの提供となった。また、2013年12月10日から2014年1月13日の間にニンテンドー3DSにニンテンドーネットワークIDを登録したユーザーを対象に無料配布された時期があった。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "『どうぶつの森+』の「ファミコン」家具として登場。どうぶつの森内では非売品。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2004年2月14日にファミコンミニ第一弾ソフトの一つとして発売された。ファミコンでのオリジナル版を完全移植した初のバージョンである。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2005年9月13日にファミコン版発売20周年を記念して再販された。ゲーム内容に変更はないが、パッケージ(外箱)が20周年を記念した特別デザインとなっている。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ファミコンミニ版に先駆けて、2003年11月7日から2004年1月15日にかけて行われた「ホットマリオキャンペーン」の景品として、「復刻版スーパーマリオブラザーズ」が配布された。 ゲーム内容は、ファミコンミニとほぼ同じだが、復刻版はワイヤレス通信に対応していない。また、説明書に「ファミコンミニ」の文字は無い。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "Wii・2010年11月11日(日本版のみ。日本国外版では『Donkey Kong Original Edition』を収録)",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "Wii(スーパーマリオ25周年仕様)に内蔵されている『25th Anniversary SUPER MARIO BROS.』(スーパーマリオブラザーズ25周年バージョン)。バーチャルコンソール版をベースに、ハテナブロックの「?」が「25」となるなど一部デザインが変更されているが、ゲーム内容は同じ。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "Wii U『ファミコンリミックス2』に特別収録されているゲーム。ルイージが主役となり、ステージを左右反転させたバージョン。ルイージの性能は『スーパーマリオブラザーズ2』のものに準じている。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "3DS『ファミコンリミックス ベストチョイス』に特別収録されているゲーム。動作・BGMが高速化されている。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお、『マリオブラザーズ』はアクションや敵キャラ等の要素が似ており基礎となったゲームといえるが、基本システムやストーリーにおいての関連性・類似性は薄い。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "当時任天堂の影響力が及ばず、ファミコン以外のゲーム機やパソコンが普及していた東アジアや中央ヨーロッパなどで、発売当時から海賊版および非公式なコピー版も多く出回った。各国の大手ゲームメーカーが製造したコピーゲームの例をいくつか挙げると、",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "現在、ネット上には違法にアップロードされたスーパーマリオブラザーズのゲームデータが多数存在し、改造できるソフトまで出回っている。",
"title": "他機種版"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ゲームデザイナーの宮本茂は1984年の12月にテスト仕様書を書いた。当時、任天堂は既にファミリーコンピュータ ディスクシステムの開発に入っており、ROMカセットより大容量でセーブも可能なディスクメディアに移行する計画だった。このため、宮本は「ファミコンカセットの集大成」として本作を開発した。ドンキーコングに始まったジャンプアクションの決定版として大きなキャラクターが陸・海・空をかけまわるゲームとして企画された。当時のゲームの開発期間は3ヶ月程度のものが多かったが、本作はその倍の開発期間を取っている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "本作はエンディングまで8ワールドの構成だが、ステージ構成でも紹介したが、開発段階では全5ワールドの予定とされていた。だが、ワールド数を増やしたい宮本茂は、A3サイズの用紙を2つ折りにしてA4サイズの企画書と見せかけ、5ワールドまでの概略が書かれた片面を見せて許可が下りた直後に、折られた裏側に書かれていた8ワールドまでの構想を見せ、強引に納得させて企画を通したという逸話がある。なお、本作のワールド5以降に使い回しされ、難易度が上がったステージが登場するのは、スタッフにこの8ワールドの構成案を納得してもらうためであった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "水中ステージにおけるマリオの動きは、本作発売以前に発売されたファミコン版『バルーンファイト』で滑らかに動くキャラクターを見た中郷俊彦が、ファミコン版のプログラムを手掛けた岩田聡のもとへ相談に行き、そこで積んだノウハウを活用して実現した事を明かしている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "本作はポール越えは基本的にできないこととなっているが、越えることができた場合は裏技として認定された。ファミリーコンピュータMagazineでポール越えを果たした読者投稿による写真も掲載された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "本作のストーリーには、『マリオブラザーズ』にてマリオ兄弟が配管工の作業をしていた所、キノコ王国に繋がるワープ土管からキノコ王国に迷い込み、事情を知った際に立ち上がったという裏設定が存在する。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ゲーム内における音楽・効果音・プログラミングはすべて新人時代の近藤浩治が担当している。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "最初に作られた曲は「水中のBGM」で、音楽がイメージしやすく作りやすかったという。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "最も有名な「地上のBGM」は、初めに作ったバージョンが背景の鮮やかな色(青や緑)に合わせた「のほほんとした曲調」だったため、実際のプレイに合わずボツとなった。その後、試作品のマリオの動きに合わせて作り直したものが採用された。この曲は、織田信成が演技で使用したほか、リアレンジした形でポーラ化粧品のCMにも使用された。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "効果音においてもファミコンのメモリ容量が限られていた為、「マリオが小さくなる音」と「土管に入るときの音」、「ノコノコを踏んだ時の音」と「泳ぐ音」で同じものを流用するなどして(SFCでは前者が同じ音で後者が異なる音)、メモリを節約するための工夫がなされている。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、ファミコンのメモリ容量が限られていたためかオリジナル版では「クッパと対決するときのBGM」は実装されず、「ボーナス面のBGM」は「無敵状態のBGM」が流用されていた。そのため2015年に発売された『スーパーマリオメーカー』では、『スーパーマリオブラザーズ』スキンのオトアソビでは「ボーナス」は『VS. スーパーマリオブラザーズ』の名前入力のBGMが、「ボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』の各種ブロス戦及びバトルモードのBGMが使用されている。また、2019年に発売された『スーパーマリオメーカー2』で追加された「ラスボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』のクッパ戦のBGMを流用している。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "当時の流行により、後からBGMに歌詞をつけたものも作成された。AYA&なかよし応援団が歌唱する「マリオの大冒険」、谷山浩子(プリンセス・ピーチ名義)が歌唱する「GO GO マリオ!!」があり、ともに地上のBGMを中心としつつ、他のBGMを含んだメドレー調になっている(前者は地上のBGM以外の部分にも歌詞が振られている箇所があるが、後者は歌詞が振られているのは地上のBGM部分のみ)。1986年にそれぞれシングルとして発売された(前者はEP盤、後者はカセットテープ)ほか、両方共を収録したプロモーション用サンプル盤も存在する。後者は1985年にラジオ番組『小峯隆生のオールナイトニッポン』でのコーナーでリスナーから募集した歌詞から生まれた歌。2003年9月14日に日本青年館前で開催された『マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブ』で歌唱されたり、2014年11月14日にニンテンドー3DS『大合奏!バンドブラザーズP』で映像が配信されたり、2015年12月1日にカラオケのJOYSOUNDに映像付きで配信されたりなどの展開がなされている。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2023年4月12日(日本時間同月13日)、アメリカ議会図書館は本ゲームのテーマ曲(地上のBGM)について、「ゲーム史に残る伝説的な作品であり、世界中で演奏され、過去40年間で最も愛された楽曲の1つ」と評価し、ジョン・レノンの「イマジン」やマライア・キャリーの「恋人達のクリスマス」などと共にゲーム音楽として初めて、日本人が作曲した曲としても初めて全米録音資料登録簿に収蔵され、永久保存することが発表された。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "本作は他社のゲーム作品での楽曲使用や音楽アーティストによる創作作品が存在する。以下は任天堂から正式にライセンス提供を受けている作品である。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "日本国内で681万本、全世界では4,024万本を販売。日本国内の単体としてのゲームソフト売上では、2020年に『あつまれ どうぶつの森』が記録を塗り替えるまで30年以上に渡って歴代1位を保っており、シリーズ2番目の売り上げである『New スーパーマリオブラザーズ』とも約40万本差、世界売上では約900万本の差がある。また、Wiiのバーチャルコンソール版でも、2007年6月時点で最もダウンロードされたゲームとなっている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "NHKで放送された特集番組『新・電子立国』の書籍版で、開発者の宮本茂は、本作の売上げを150万本程度と予想しており世界で数千万本も売れたのは、北米発売のタイミング等を含め「完全に運だった」と回顧しており、「掛け値なしの実力は150万本」と評価している。",
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"text": "当時任天堂社長だった山内溥は、本作を見て「これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね」と宮本に語ったという。",
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"text": "数々のゲーム雑誌などでも高い評価を得ており、『ファミ通』1000号記念に行われた「読者が選ぶ未来に伝えたいゲーム」というアンケートでは大差で1位を獲得している。なお、『ファミ通』では800号記念に行われた同様の企画でこのゲームを「50年後に伝えるゲームのタイムカプセル」の1つに選定しており、編集部で保管されている。また、2007年9月22日に行われた東京ゲームショウ2007で、人気番組『ゲームセンターCX』と『日経エンタテインメント!』との共同イベントとして行われた「レトロゲーム・アワード2007」で大賞を受賞した。",
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"text": "徳間書店から発売された攻略本の人気も高く、発売以来2年連続で全書籍中での売り上げ1位を記録した。",
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"text": "1986年にクリスマスプレゼントの目的で購入し、約35年間に渡って机の引き出しの中にしまい込んだままとなっていた本ゲームの未開封品が2021年にアメリカで発見され、同年4月2日にオークションに出品したところ、ゲームソフトとしては史上最高額(当時)となる66万ドル(日本円で約7300万円)で落札されたことがオークション会社から発表された。オークション会社やゲーム専門家によると、出品された本ゲームは短期間だけ生産されたプラスチックによる透明パッケージのバージョンのもので状態が良いもので見つかるのは珍しいとコメントしている。",
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"text": "アンドリュー・シャルトマン 著『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』樋口武志 訳、DU BOOKS、2023年、ISBN 978-4-86647-204-1",
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| 『スーパーマリオブラザーズ』(SUPER MARIO BROS.) は、任天堂が発売したファミリーコンピュータ用ゲームソフト。日本での発売は1985年(昭和60年)9月13日。略称は「スーパーマリオ」、「スーマリ」、「マリオ」、「マリオ1」。通称は「スーパーマリオブラザーズ1」、「初代(元祖)スーパーマリオブラザーズ」などがある。横スクロール型のアクションゲームで、プレイ人数は1 - 2名。 ゲーム&ウオッチでも同名のゲームが1988年に発売された。なお日本ではディスクシステムのゲーム大会の景品として作られた。 | {{混同|x1=この作品の前に発売された|マリオブラザーズ}}
{{Otheruses|ゲームソフト|キャラクター(マリオ兄弟)|マリオシリーズのキャラクター一覧#主要キャラクター}}
{{Pathnav|マリオシリーズ|スーパーマリオシリーズ|スーパーマリオブラザーズシリーズ|frame=1}}
{{コンピュータゲーム
| Title = スーパーマリオブラザーズ<br />Super Mario Bros.
| image = File:Super Mario Bros. Logo.svg
| Genre = [[アクションゲーム|横スクロールアクション]]<ref group="注釈">説明書では「ファンタスティックアドベンチャーゲーム」と銘記している。</ref>
| Plat = [[ファミリーコンピュータ]]
| Dev = [[任天堂]]クリエイティブ課<br />[[SRD (ゲーム会社)|SRD]]
| Pub = 任天堂
| distributor = 任天堂
| producer = [[山内溥]] (エグゼクティブプロデューサー)<br />[[池田宏 (映画監督)|池田宏]]<br />[[宮本茂]]
| director = 宮本茂
| designer = 宮本茂
| programmer = [[中郷俊彦]]<br />[[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]]<br />西田泰也
| writer =
| composer = [[近藤浩治]]
| artist = 宮本茂<br/>[[手塚卓志]]
| series = [[マリオシリーズ]]
| Play = 1 - 2人(交互プレイ)
| Media = 320[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga10">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ
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|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 7
|number = 9
|naid =
|pages = 10
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| Date = {{flagicon|JPN}}[[1985年]][[9月13日]](37年前)<br/>{{flagicon|USA}}1985年10月〜11月(36年前)<ref name="Sad But">{{Cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/167392/sad_but_true_we_cant_prove_when_.php|title=Sad But True: We Can't Prove When Super Mario Bros. Came Out|website=Gamasutra | first=Frank | last=Cifaldi | date=March 28, 2012 |access-date=July 9, 2019}}</ref><br/>{{flagicon|EU}}[[1987年]][[3月15日]](34年前)
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| Device =
| Sale = {{flagicon|JPN}} 約681万本<ref name="JP_sales">{{Cite web|和書
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|title = 『ファミコンミニ』シリーズの全10タイトルを公開!
|publisher = ファミ通
|accessdate=2007-10-25
|}}</ref><br />(FC・FCD版合計)<br />[[ファイル:Newworldmap.png|22px|世界]] 約4024万本<ref name="AB">[http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0710/30/news004.html ITmedia +D レトロゲーム・アワード受賞! 「スーパーマリオブラザーズ」]</ref>
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}}
『'''スーパーマリオブラザーズ'''』{{en|(SUPER MARIO BROS.)}} は、[[任天堂]]が発売した[[ファミリーコンピュータ]]用[[ゲームソフト]]。[[日本]]での発売は[[1985年]]([[昭和]]60年)[[9月13日]]。略称は「'''スーパーマリオ'''」、「'''スーマリ'''」、「'''マリオ'''」、「'''マリオ1'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/4m/ |title=スーパーマリオコレクション |author= |date= |publisher=任天堂 |accessdate=2023-06-03 |archivedate= |archiveurl= }}</ref>」。通称は「'''スーパーマリオブラザーズ1'''<ref name="gandwsmb">{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/5d6e9160-06ba-4341-b081-331de6756497 |title=『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』は本日発売。知っているとより楽しめる、”あそびのヒント”をご紹介。 |author=任天堂 |date=2020-11-13 |publisher=任天堂 |accessdate=2020-11-15 |archivedate= |archiveurl= }}</ref>」、「'''初代(元祖)スーパーマリオブラザーズ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/amp/20201113-gamewatch-super-mario-bros-game-play |title=初代マリオやゲーム&ウオッチの「ボール」が遊べる「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」を実際にプレイしてみた |author= |date=2020-11-13 |publisher= gigazine|accessdate=2020-11-15 |archivedate= |archiveurl= }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1276657.html |title=今日で生誕35周年! 「スーパーマリオブラザーズ」の歩みを振り返る |author= |date=2020-09-13 |publisher=Game Watch |accessdate=2020-11-15 |archivedate= |archiveurl= }}</ref>」などがある。横スクロール型の[[アクションゲーム]]で、プレイ人数は1 - 2名。
[[ゲーム&ウオッチ]]でも同名のゲームが[[1988年]]に発売された。なお日本ではディスクシステムのゲーム大会の景品として作られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/game/serial/1140129_1152.html |title=第15回 ゲーム&ウオッチ(後編):ゲーム人生回顧録 |author=乱舞吉田 |date=2002-04-14 |publisher=ファミ通.com(株式会社[[KADOKAWA]]) |accessdate=2015-09-19 |archivedate= |archiveurl= }}</ref>。
== 概要 ==
世界で最も売れたゲームソフトとしてギネスにも認定されているアクションゲームの金字塔で、日本から世界へ大ブームを巻き起こし、ファミコン人気を不動のものとした<ref name="家庭用ゲーム機">{{Cite book |和書 |author=山崎功 |title=家庭用ゲーム機コンプリートガイド|page=40|publisher=主婦の友社 |date=2014/4/23 |isbn=978-4072929711}}</ref>。シリーズ化され数多くの続編が出ており、シリーズ以外にも多くの追随するゲームを生んだ([[マリオシリーズ]]を参照)。また、[[2005年]]には米国[[IGN]]で「Top 100 games of all time」において1位に選出されている<ref>https://webcitation.org/6YQvH6xHh?url=http://top100.ign.com/2005/001-010.html</ref>。
敵に触れるとダメージを受ける、という従来のアクションゲームのフォーマットを突き崩し、踏むことが敵に対する攻撃方法として確立された。敵から逃げるだけではなく防御と攻撃の両面がシンプルなゲームとして集約され世界ナンバーワンヒットへと押し上げた<ref>{{Cite book|title=HIPPON SUPER! 第8巻|date=1993年8月3日|year=1993年|publisher=株式会社宝島社|page=12}}</ref>。地上、地下、空中、水中といったステージ構成に、走る、ジャンプする、泳ぐといった豊富なアクションで、その後のゲームや開発者にも多大な影響を与えた<ref name="家庭用ゲーム機"/>。
発売20周年を迎えた2005年以降、5年毎の9月13日前後にハード・ソフトを問わない大規模なアニバーサリーイベントが行われるのが恒例となっている。2005年には[[ゲームボーイミクロ]]や[[ファミコンミニ]]再販版(後述)の発売、2010年にはスーパーマリオ25周年仕様[[Wii]]や『[[スーパーマリオコレクション#スーパーマリオコレクション スペシャルパック|スーパーマリオコレクション スペシャルパック]]』の発売、2015年には「スーパーマリオ30周年記念ライブ」の開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/07/01/kiji/K20150701010644840.html|title=「スーパーマリオ」誕生30周年! 初の音楽祭開催|publisher=[[スポニチ]]|date=2015-07-02|accessdate=2015-07-03}}</ref>、2020年には[[ゲーム&ウオッチ]]スーパーマリオブラザーズの販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/mario/index.html |title=スーパーマリオブラザーズ |accessdate=2022-3-2 |publisher=任天堂}}</ref>などが行われた。<!--もう少しまとめて適切な節への移動が望ましい?-->
キャッチコピーは「'''奇想天外。夢の大冒険ゲーム!'''」「'''地上に地下に海に空に謎のキャラクタ出現!'''」。
== ストーリー ==
「[[キノコ王国]]」が[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]率いる[[カメ]]一族に侵略され、キノコ[[王国]]のお姫様[[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ]]はクッパにさらわれてしまった。[[配管工]]([[大工]])の兄弟[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]と[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]はピーチを助け出すため、クッパが率いる敵たちを倒して陸海空を突き進み、いざクッパがいる城へ向かう<ref>https://www.nintendo.co.jp/software/smb1/index.html</ref>。
== ゲーム内容 ==
=== システム ===
<!-- 攻略情報を避けつつ、仕様解説の為ネタバレを含みます。なお、記述はFC版を基本とします -->
プレイヤーの目的は、ステージの中で敵や障害物を避け、また穴に落ちないように注意しつつ、制限時間内にゴールの旗へたどりつく(各ワールドの4面はボスのクッパを倒す)ことである。
2人でプレイする場合は、マリオが1プレイヤーキャラクター、ルイージが2プレイヤーキャラクターとなり、操作中のプレイヤーがミスした場合は、操作者が交代となる<ref>{{Cite book |和書 |title=With LUIGI 30th Anniversary: ザ・イヤー・オブルイージ メモリアルムック |publisher=学研 |year=2013 |page=26|isbn=978-4056102512}}</ref>。それぞれのステージの進行度は独立しており、2名が協力して操作することはなく、相手を妨げることもない。
『[[マリオブラザーズ]]』は固定画面だったのに対し、本作ではマリオシリーズで初めて「'''横スクロールアクション'''」を導入し、後発の数多くのゲームに影響を及ぼした。マリオ(ルイージ)を右方向に進めるとそれに応じて背景画面も右方向にスクロールしていき、それまで通ってきた場所は画面の左側に消えるようになっている。なお、本作ではすべての面が右方向のみの一方方向スクロールであり、一度進んでから画面左端に行っても左側にはスクロールしないので後戻りすることはできない。
=== ステージ構成 ===
ステージは8つのワールドで構成され、それぞれのワールドには4つのコース(エリアとも呼ばれる)がある。各コースは地上、地下、海中、空中、吊り橋、城など多彩な構成となっている。
* 地上ステージは最も基本となるステージ構成であり、障害物はあまり多くなく、敵キャラクターをジャンプによる回避でうまくあしらいつつ先に進む。1-1、2-1、3-1、3-2、4-1、5-1、5-2、6-1、6-2、7-1、8-1、8-2、8-3のステージがある。
* 地下ステージは地上に比べて障害物が多く、狭い空間をくぐり抜けたり、またその中で敵キャラクターと対峙する必要がある。1-2、4-2のステージがある。
* アスレチックステージはジャンプアクションがメインとなり、他のステージに比べて敵キャラクターが少ないかわりに足場が少なく、穴に落ちないようにジャンプをコントロールして進む。1-3、3-3、4-3、5-3、6-3のステージがある。
* 吊り橋ステージは大半の部分が吊り橋となっており、空中を絶えず飛び交うプクプクを避けつつ進む。2-3、7-3のステージがある。
* 海中ステージは特殊であり、走りやジャンプではなく泳いで進むことになるほか、敵を踏みつけて倒すことが一切できない。そのため他のステージと全く異なった操作感覚となる。2-2、7-2のステージがある。
* 城ステージは各ワールドの最後にある。難易度が高く設定されており、ファイアバーなどに阻まれた狭く穴の多い通路をくぐり抜ける高度なアクションが要求される。子供だけではクリアできないときもあるかも知れない<ref name="clafami">ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine([[アンビット]]、2016年)10ページから11ページ</ref>。また4-4、7-4、8-4では[[無限ループ]]のエリアがあり、正しい通路や土管を進まないと、また同じ場所に戻ってしまう。
ステージ1からステージ3は、ゴール地点にあるポール(旗)にしがみつく(触れる)ことでクリアとなる。このとき、ポールにしがみついた位置が高いほど高得点が入る。エリア4はステージ奥で待ちかまえるボスのクッパを倒すとクリアとなり、次のワールドに進める。このようにしてワールド8のステージ4に到達し、これをクリアするとエンディングを迎えることができる。なお、1-2、4-2のコースではゴールの他に「ワープゾーン」が設置されており、これを利用すると途中のコースを飛ばして先のワールドに進むことができ、プレイ時間を短縮することが可能である。具体的には1-2からは2-1、3-1、4-1に任意で好きなワールドに行くことが可能で、4-2はワープゾーンが2つあり、1つ目は5-1にワープすることができ、2つ目は6-1、7-1、8-1に任意で好きなワールドにワープすることができる。
一度エンディングを迎えた後は、タイトル画面でワールドの選択ができるようになるほか、再度ゲームを開始するとハードモードとなり、敵キャラクターの変更や移動速度の上昇、リフトの幅の短縮、障害物の追加など、全体に難易度が高くなる。これを通称「裏面」「2周目」などと呼ぶことがある。このモードは、電源を切るまで有効となっている。
各面にはTIME(時間制限)が設定されており、ステージが始まるとこの数値がカウントダウンし始める。設定TIMEは400または300で、カウントダウンのペースは[[秒]]よりもかなり速い(1カウントはおよそ0.4秒)。この数値が0になるまでに、エリアをクリアしなければならない。TIMEが100未満になるとそのことを示す警告音が流れ、BGMのテンポが速くなる。エリア1からエリア3をクリアしたときは、残りのTIMEの数値が得点に精算される。
ミスをした場合、ミスした地点からではなく、ステージの中間地点を過ぎていない場合はスタート地点から、過ぎている場合は中間地点から再スタートするようになっている。ただし、一部のコースでは中間地点が存在せず、ミスした地点に関係なくスタート地点からの再スタートとなる場合もある。
=== アクション ===
マリオが取るアクションは、通常は水平方向への移動とジャンプのみである。
十字キーの左右を押すことで左右に移動する。スーパーマリオやファイアマリオ(後述)のときに十字キーの下を押すとしゃがむことができる。また、Bボタンを押しながら移動すると十字キーを押した方向に走ることができる。この走る動作は'''[[Bダッシュ]]'''と呼ばれる。ダッシュ中は1マスの隙間なら落ちずに走り抜けることができる。一度ダッシュするとキーから指を離してもすぐには止まらず進むほか、スーパーマリオやファイアマリオのときにダッシュしたまましゃがむと、しゃがんだ状態で左右に滑る。これを利用してスーパーマリオやファイアマリオのときには通常では通ることができない高さ1マスの隙間に滑りこむことができる。
Aボタンを押すとジャンプできる。ボタンを押した長さによって高度が変わったり、ジャンプ中に左右に十字キーを押すことで飛ぶ軌道や着地点を操作できる、Bダッシュによって加速度をつけて遠くに跳べるなど、自由度の高い制御が可能である。空中に浮いているブロックなどに向かってジャンプすると、そのブロックを下から叩くことができる。また、ジャンプ中の左右への制御はマリオの後ろ側に利きやすいという特徴がある。このジャンプシステムは後の多くの作品にも模倣された。海中ステージではマリオは徐々に沈んでしまうため、Aボタンを押して水をかき、浮き上がるように調整しなくてはならない。
十字キーとAボタンを使い敵の真上に着地するとその敵を踏みつけることになる。本作ではこの方法で敵を踏みつけるのが最も基本的な攻撃方法となる。ただしこの方法で倒せない敵もある。また、ブロックの上にいる敵はそのブロックを下から叩くことで倒すことができる。
マリオはアイテムを取ることによりスーパーマリオ、ファイアマリオへとパワーアップすることができる。'''スーパーマリオ'''は身長が普通のマリオの2倍になり、レンガブロックを下からパンチして破壊することができるようになる<ref name="clafami"/>。また、'''ファイアマリオ'''はBボタンでファイアボールを投げることができ、ファイアボールを敵にぶつけると、踏めない敵や水中の敵でも倒すことができる。ただし、ファイアボールが効かない敵も存在する。
スーパーマリオからの対比で、普通のマリオ(初期状態)を'''チビマリオ'''と称すことが多い。本稿においてはこの普通のマリオを便宜上'''チビマリオ'''と記述し、単に'''マリオ'''と表記する場合は、マリオのパワーアップに関係なくキャラクター個人として表記することを原則とする<ref group="注釈">チビマリオの呼称については「[[マリオ (ゲームキャラクター)#変身能力]]」も参照。</ref>。
ノコノコとメットを踏みつけると気絶し、気絶中のノコノコやメットに触れると甲羅を前方に蹴飛ばすことができる。その甲羅が他の敵に当たれば、その敵を倒すこともできる。甲羅で連続して敵を倒すか、あるいは連続で敵や甲羅を踏みつけると得られる得点が増加していく。そして8000点が出るとその次以降は[[1UP]]、すなわちマリオの残り人数が1増えることとなる<ref name="clafami"/>。ただし甲羅は障害物に当たると跳ね返って反対方向に進む。このシステムを応用して、階段状の地形で甲羅を踏み続けて1UPを続ける技術が「無限1UP([[無限増殖]]、100人マリオとも)」である<ref name="clafami3">ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine([[アンビット]]、2016年)63ページから71ページ</ref>。
敵キャラクターや自分の蹴った甲羅などに横または下からぶつかるとダメージを受ける。水中面の敵や「踏めない敵」、ファイアバー、敵が放つ武器はどの方向からぶつかってもダメージとなる。ダメージを受けた場合、スーパーマリオかファイアマリオの場合はチビマリオに戻り、チビマリオの場合は1ミスとなり残り人数が1人減る<ref name="clafami"/>。また、穴に落ちた場合やタイムアップになった場合は、パワーアップ状態の有無に関係なく即ミスとなる。
ゲームスタート時の残り人数は3から始まり、残り人数が尽きる(1の状態でミスをする)と[[ゲームオーバー]]になる。ゲームオーバーになるとワールド1からやり直しとなってしまうが、ゲームオーバー直後のタイトル画面でAボタンを押しながらスタートボタンを押すことで、ゲームオーバーとなったワールドの最初からやり直す事が出来るというコンティニューの裏技が存在する<ref name="clafami"/>(得点は0に戻る)。
== 登場キャラクター ==
=== 主要キャラクター ===
; [[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]
: 主人公。得意のジャンプとダッシュでピーチをさらったクッパを倒し、キノコ王国を救うために冒険に出る。
; [[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]
: マリオの双子の弟。2人交代プレイの場合は、コントローラIでマリオを、コントローラIIでルイージを操作することになる。説明書にはルイージに関する記述が全くない。
; [[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ]]
: キノコ王国の姫。クッパの魔法を解くことができる唯一の人物。クッパによってワールド8の城に囚われている。
; [[キノピオ]]
: ピーチに仕えるキノコ王国の住人。ワールド1から7までの城に囚われている。
; [[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]
: キノコ王国を乗っ取ろうとする「カメ一族」の親玉で大魔王。魔法によってキノコ王国の住人をブロックなどに変え、魔法を解く力を持つピーチ姫をさらった。
: 全8ステージの城に登場するが、キノピオが囚われているワールド1から7までの城に登場するのは部下が変身した偽者でありファイアボールで倒せばその正体を確認できる。偽者の正体はステージ1から順に[[クリボー]]、[[ノコノコ]](緑)、[[メット (ゲームキャラクター)|メット]]、[[トゲゾー]]、[[ジュゲム]]、[[ゲッソー]]、[[ハンマーブロス]]である。『2』でもこの順は同じである。
: 攻撃手段はワールド1〜5までは炎、ワールド6と7はハンマー投げ(画面に現れるまでは炎)、ワールド8の本物のクッパはハンマー投げと炎の両方を使う。
=== 敵キャラクター ===
{{see|スーパーマリオブラザーズシリーズのキャラクター一覧#スーパーマリオブラザーズ}}
ファミコンのカラーパレットの都合上、一部の敵キャラの体色は出現するステージの床やブロックと同じ色になる。
== アイテム ==
コイン以外は画面内に1つまでしか出すことができず、2つ目を出すと前に出したアイテムは画面から消滅する。
; [[コイン]]
: 100枚(アーケード版では店舗側の設定により100,150,200,300枚から選ばれた枚数)集めるごとにマリオの残り人数が増える。空中に浮かんでいるものの他、ハテナブロックや隠しブロックを叩いて出現するものもある。ボーナスステージではコインが大量に置かれている。また、コインを取ったときの「チャリーン(「コイーン」と表現されることもある)」という効果音は、『マリオブラザーズ』のコインの効果音と同じ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index6.html|title=社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 『スーパーマリオ』生みの親たち篇 6.“スーパーマリオ保存会” |publisher=任天堂|accessdate=2021-3-21}}</ref>で、任天堂のCMでサウンドロゴやゲームボーイの起動音、任天堂のスーパーファミコンソフトの一部の社名ロゴ表示時の効果音にも使われている。
; [[スーパーキノコ]]
: マリオが小さい時に出てくる、赤色と黄色の模様のキノコ。所定のブロックを叩くと出現し、地面を右側に移動していく。取るとスーパーマリオに変化する。
; [[ファイアフラワー]]
: スーパーマリオの状態でスーパーキノコの入ったブロックを叩くと出現。取ると前述のファイアマリオに変化する。なお、出してからダメージを受けてチビマリオに戻った後に取った場合は、スーパーマリオに変化する。
; [[マリオシリーズのアイテム一覧#キノコ|1UPキノコ]]
: 緑色と黄色の模様のキノコ。ブロックを叩くと出てきて地面を右側に移動していく。取ると残り人数が1人増える。また、何も無い空中の隠しブロックから出現することもあるが、確実に出てくる場所と、直前のステージの行動や同じステージでの失敗の有無などに因って出現しない場所とが混在する。なお、アーケード版では一度ミスをしたステージの1UPキノコはスーパーキノコ(またはファイアフラワー)に置き換えられる。
; スーパースター
: 光る星の形をしたアイテム。ブロックを叩くと高く跳ねながら移動する。取ると一定時間無敵になり専用のBGMが流れ、触れるだけで敵を倒せる。但し、この間も穴に落ちたりタイムアップになった場合はミスとなる。
== 仕掛け ==
=== ブロック ===
空中に浮いており{{Refnest|group="注釈"|実際は奥に繋がっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol1/index7.html|title=社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』 その1 7. 空中に浮くブロックの“不自然”|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。}}、足場に出来る。なお、ストーリー上はキノコ王国の住人がクッパの魔法によってレンガなどに姿を変えられてしまったとされており、マリオがアイテム入りのブロックを叩くことでパワーアップアイテムを得る事については、「レンガに変えられたり、消されたりしたキノコ」を見つけ出して助けることで彼らからパワーを貰うという設定になっている<ref>スーパーマリオブラザーズ 取扱説明書</ref>。
; ハテナブロック
: 「?」と書かれた黄色いブロック。叩くとコイン1枚、またはパワーアップアイテムが出現する。中の物が無くなると、カラブロックに変化する。
; レンガブロック
: 大きい状態(スーパーマリオ、ファイアマリオ)で叩くと壊れる。このブロックの上に敵が乗っていて、その時に下から叩くと、マリオの状態に関係なくその敵にダメージを与える事が出来る(上記のハテナブロックも同じ)。コインが乗っていれば、下から叩いて取る事ができる。
: 見た目はレンガブロックでも、ハテナブロックと同様に叩くとアイテムが出るものや、叩き始めから10カウント間、複数枚のコインを出現させるもの(10カウントコインブロック、10コインブロック、連続コインブロックなどと呼ばれる)もある。このタイプは壊すことができず、中身が無くなるとカラブロックに変化する。
; 硬いブロック
: ゴール前の階段などのブロック。大きい状態で叩いても壊れない。見た目以外の性質はカラブロックと同じ。
; 隠しブロック
: 場所によってはジャンプして下から当てることにより、何も無い空間に突然これが現れる事がある。出現する前なら、横や上からすり抜けることができる。コイン1枚か1UPキノコが出てくる。コイン1枚のブロックは必ず出現するが、1UPキノコのブロックはプレイ内容に応じて出現するかしないかが変わってくる。出現させるとカラブロックになる。
; カラブロック
: 既にコインまたはアイテムが出た後の四隅に小さな鋲がある茶色のブロック。足場にできるが、大きい状態で叩いても壊れない。
=== その他 ===
; [[土管]]
: 地面やブロックから地上に突き出ている土管。何も起こらず置いてあるだけのもの、パックンフラワーが出てくるもの、下ボタンで入って地下(水中)のボーナスステージに行けるもの、別ワールドにワープできるもの(ワープゾーン)がある。空中に浮いていても、入れる可能性がある。
: 地下・海中エリアでは横向きのものもあり、入ることで地上に戻れる。なお、地下・海中ステージの開始時には、マリオが自動で歩いて横向きの土管に入る演出がある。
; 豆の木
: 「つる」とも呼ばれる。特定のレンガブロックを叩くと伸びてくる。つかまった状態で十字キーの上を押すと、地下から地上まで、あるいは地上から雲の上まで上ることが出来る。ボーナスステージやワープゾーンに行ける。雲の上のボーナスステージでは落下してもミスにならず、地上に戻る。
; リフト
: 横に長く、宙に浮いている。一定の場所を上下または左右に往復しているもの、上から下にもしくは下から上に連なって流れていくもの、乗っている間は落下するものがある。また、2つのリフトが滑車で天秤のように吊るされている「天秤リフト」は、乗った方が重力で落ちていく(そのまま乗り続けていると綱が切れて両方落ち、スコアが1000増える)ものとがある。
; ジャンプ台
: バネ付きの台。乗ると自動でジャンプし、タイミング良くAボタンを押すと通常より高くジャンプすることが出来る。高所のレンガブロック、ハテナブロックを叩くのに有効。また、壁を越えクリアする為に使う面もある。
== アンダーカバー ==
このゲームにおけるアンダーカバーとは、ソフトのバグ・イレギュラーな操作・改造により出現する、通常出現し得ないステージの事である。
=== アンダーカバーにまつわる経緯 ===
{{出典の明記|date=2017年8月|section=1}}
1985年、『スーパーマリオブラザーズ』はワールド9まであるという噂が当時の小学生を中心に飛び交った。
ゲーム雑誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』(以下『ファミマガ』)は、一般人からの「[[雷]]のショックでワールド9が出現した」と称する投稿写真を掲載。他の雑誌もワールド9の情報を相次いで掲載した。このワールド9は、「マリオが地上で泳ぐ、ブロックが珊瑚に変化している、土管の色が違う」など、他のステージではありえないことだらけであった。
その後も新たなワールドが発見されるなどした結果、最終的には正規の8ワールドを含む256種類のワールドが出現する可能性があることが判明。これらは'''「アンダーカバー」「256ワールド」「256面」「256w」'''などと呼ばれ<ref>バグボーイスペシャル (宝島社)1986-09-01発行p1-p21及び同号特別付録スーパーマリオブラザーズアンダーカバー256wデータファイル </ref><ref>月刊ファミコン必勝本1986年5月号 (JICC出版局)1986-04-08発行p1-p3 </ref>、『[[USO!?ジャパン]]』では「スーパーマリオX」という造語で紹介した。また、カセット抜き差しなどのイレギュラーな操作(『[[テニス (任天堂)|テニス]]』や[[ファミリーベーシック]]を用いたものが有名)によってこれらを出現させる方法が明らかにされ<ref name="natsukashi">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『[http://diapress.jp/archives/6872.html 懐かしファミコン パーフェクトガイド]』 [http://www.magazinebox.co.jp/ マガジンボックス](M.B.ムック)、2016年。ISBN 9784906735891 p112</ref>、これを行ったユーザーから「ファミコンが壊れた」という問い合わせが雑誌社に寄せられる事態となった。そのような中、ファミマガがプロデューサーである宮本茂にインタビューし、原因は「[[ノイズ]]」であると発表された。同時に、正常な動作ではなくファミコンを壊す危険もあるという警告がなされている。
なお、アンダーカバーの中にはイレギュラーな操作ではなく通常の裏技で行けるステージが存在し、代表的なものとして「'''-1'''(マイナスいち)」と呼ばれる「'''36'''-1」がある。意味としては本来「'''ワールド36'''-エリア1」であるが、ワールド数の「'''36'''」に充てられているコードが「 」(スペース)なので、エリア数しか表示されない「(空白)'''-1'''」という形になり、そこから「-1(マイナスいち)」、または「マイナス面」と呼ばれることがある。-1「マイナスいち」面は、一見、普通の水中ステージのようなコースだが、クリアは不可能であり、ステージの最後にある土管に入ってもスタート地点に逆戻りするという無限ループというものである。
これはワープゾーンのバグを利用してプレイできるものであり<ref group="注釈">1-2のワープゾーンにて左から「4・3・2」と土管の上に表示されているが、この「4・3・2」の後が「24・5・24」であるということ。24は16進数コードで36にあたる(「36・5・36」)。</ref>、アーケード版やディスクシステム版でも可能であり、それぞれで面の構造が異なる。なおディスクシステム版は「-3(36-3)」まで存在し、進めれば全てクリア可能となっている(理由は諸説ある)。
一方で『スーパーマリオコレクション』版にもアンダーカバーは存在するが、通常の手段では実行不可である。ファミコンミニ版や[[バーチャルコンソール]]版はファミコン版をそのまま移植しているためデータ上残っているが、これも通常の手段では実行できない(ただし「-1(36-1)」は可能)。また、GBC版『スーパーマリオブラザーズデラックス』にもアンダーカバーに類するものが存在するが、内容は大きく異なる。
1986年に発売された『スーパーマリオブラザーズ2』では、正式な仕様としてワールド1から8まで'''ワープゾーンを一切使用することなく'''クリアすると「ワールド9」が出現する([[ゲームオーバー#コンティニュー|コンティニュー]]の有無は出現条件に問わない)。このワールドは、地上風の水中面や旗の直前に出現するクッパなど、アンダーカバーを意識したような特殊な構成となっている(リメイク版も同様)。
== 他機種版 ==
{|class="wikitable" style="font-size:85%"
|-
! No.
! 発売日
! 対応機種
! タイトル
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 価格
! 売上本数
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
| {{flagicon|JPN}}1986年2月21日
| [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]
! スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| [[ディスクカード]](片面)
| FMC-SMB
| 2,500円(税別)
| 販売:31万本<ref name="famimaga12">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = ディスクライター 書き換えゲーム全カタログ
|date = 1989-07-07
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 5
|number = 12
|naid =
|pages = 12
|url =
|ref = harv}}</ref><br/>書き換え:27万回<ref name="famimaga12"/>
|
|-
| style="text-align:right" | 2
|{{flagicon|USA}}1986年5月
| [[アーケードゲーム|アーケード]]
! VSスーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]
| -
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 3
| {{flagicon|JPN}}1986年
| [[PC-8800シリーズ|PC-8801/SR]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]] turbo
! スーパーマリオブラザーズスペシャル
| [[ハドソン]]
| ハドソン
| 5.25インチ2Dフロッピーディスク
|
| 6,800円(税別)
|
|
|-
| style="text-align:right" | 4
| {{flagicon|JPN}}1986年[[12月]]
| ファミリーコンピュータディスクシステム
! [[オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ]]
| 任天堂
| [[ニッポン放送]]
| ディスクカード(片面)
| ANN-NSM
| 2,600円(税別)
|
|
|-
| style="text-align:right" | 5
| {{flagicon|USA}}[[1988年]][[3月]]
| [[ゲーム&ウオッチ]]
! スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| 内蔵ゲーム
| YM-105
|
| -
| 日本国内未発売
|-
| style="text-align:right" | 6
| {{flagicon|JPN}}[[1993年]][[7月14日]]<br />{{flagicon|USA}}1993年[[8月2日]]<br />{{flagicon|EU}}1993年[[12月16日]]
| [[スーパーファミコン]]
! [[スーパーマリオコレクション]]
| 任天堂
| 任天堂
| 16[[メガビット]]ロムカセット
| SHVC-4M
| {{flagicon|JPN}}9,800円(税別)
| {{flagicon|JPN}}212万本
|
|-
| style="text-align:right" | 7
| {{flagicon|USA}}{{flagicon|CAN}}[[1999年]][[4月30日]]<br />{{flagicon|EU}}{{flagicon|AUS}}1999年[[7月1日]]<br />{{flagicon|JPN}}[[2000年]][[3月1日]]
| [[ゲームボーイカラー]]
! [[スーパーマリオブラザーズデラックス]]
| 任天堂開発第二部
| 任天堂
| フラッシュロムカセット
| -
| 1,000円(税別)
|
|
|-
| style="text-align:right" | 8
| {{flagicon|JPN}}[[2001年]][[12月14日]]
| [[ニンテンドーゲームキューブ]]
! [[どうぶつの森+]]
| 任天堂
| 任天堂
| [[光ディスク|8cm光ディスク]]
| DOL-P-GAFJ
| 6,800円
| {{Flagicon|JPN}} 約99万本 <br /> [[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|22px|世界]] 約298万本
| データ内のみ収録
|-
| style="text-align:right" | 9
| {{flagicon|JPN}}[[2003年]][[11月7日]]から[[2004年]][[1月15日]]
| [[ゲームボーイアドバンス]]
! 復刻版スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| ロムカセット
|
| 非売品
|
| 「ホットマリオキャンペーン」の景品<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/data/news/2003/10/27/2b6c8d6b74ee05cd0c8d2629d3abee42.html|title=ファミコン生誕20周年記念第2弾、「ホットマリオキャンペーン」が11月7日より開始!|publisher=電撃オンライン|date=2003-10-27|accessdate=2020-11-17}}</ref>。
|-
| style="text-align:right" | 10
| {{flagicon|JPN}}[[2004年]][[2月14日]]、<br />[[2005年]][[9月13日]](20周年再販)<br />{{flagicon|USA}}2004年[[6月7日]]
| [[ゲームボーイアドバンス]]
! [[ファミコンミニ]]01<br />スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| ロムカセット
| AGB-P-FSMJ-JPN
| 2,000円(税別)
| {{flagicon|JPN}}128万158本
| アドバンス専用通信ケーブル<br />[[ワイヤレスアダプタ]]対応
|-
| style="text-align:right" | 11
| {{flagicon|JPN}} [[2006年]][[12月2日]]<br/>{{flagicon|USA}} 2006年[[12月25日]]<br/>{{flagicon|EU}} [[2007年]][[1月5日]]<br/>{{flagicon|KOR}} [[2008年]][[4月26日]]
| [[Wii]]([[バーチャルコンソール]])
! スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]
|
| 500[[ニンテンドーポイント|Wiiポイント]]
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 12
| {{flagicon|JPN}} [[2010年]][[10月21日]]<br/>{{flagicon|EU}}2010年[[12月3日]]<br/>{{flagicon|USA}}2010年[[12月12日]]
| Wii
! スーパーマリオコレクション スペシャルパック
| 任天堂
| 任天堂
| [[光ディスク|Wii用12cm光ディスク]]
| RVL-P-SVMJ-JPN
| 2,500円(税別)
| {{flagicon|JPN}}92万本<br/>{{flagicon|World}}224万本
| スーパーファミコン版の再発売
|-
| style="text-align:right" | 13
| {{flagicon|JPN}} [[2010年]][[11月1日]]
| Wii
! スーパーマリオブラザーズ25周年バージョン
| 任天堂
| 任天堂
| 本体内蔵
|
|
|
| [[Wii#ハードウェア|Wii スーパーマリオ25周年仕様]]に内蔵されていて、ハテナブロックのイラストが変わっている。
|-
| style="text-align:right" | 14
| {{Flagicon|JPN}} [[2012年]][[1月5日]]
| [[ニンテンドー3DS]](バーチャルコンソール)
! スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
| CTR-N-TAAJ-JPN-1
| 500円(税別)
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 15
| {{Flagicon|JPN}} [[2013年]][[6月5日]]
| [[Wii U]](バーチャルコンソール)
! スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
|
| 514円(税込)
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 16
| {{Flagicon|JPN}} [[2017年]][[12月22日]]
| [[Nintendo Switch]]([[アーケードアーカイブス]])
! VS.スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]
| ダウンロード
|
| 838円(税込)
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 17
| {{vgrelease new|JP|2018-09-19|NA|2018-09-19}}
| Nintendo Switch
! [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]]
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
| -
| -
| -
| -
|-
| style="text-align:right" | 18
| {{flagicon|JPN}}[[2020年]][[9月3日]]
| Nintendo Switch
! [[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]<br />スーパーマリオコレクション
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
|
|
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 19
| {{flagicon|JPN}}[[2020年]][[11月13日]]
| ゲーム&ウオッチ
! ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ
| 任天堂
| 任天堂
| 内蔵ゲーム
|
|
| -
| ファミコン版『スーパーマリオブラザーズ』、ディスクシステム版『スーパーマリオブラザーズ2』の移植および、マリオで遊ぶゲーム&ウオッチの『ボール』が収録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/527/G052780/20200903136/|title=「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」が11月13日に発売決定。価格は税別4980円|publisher=4gamer.net|date=2020-09-03|accessdate=2020-09-06}}</ref>。
|-
|}
=== 各機種版の特徴 ===
第2作以降のシリーズ作品は『[[マリオシリーズ]]』を参照。
==== ディスクシステム版 ====
片面ソフト。ディスクシステム版の内容は基本的にロムカセット版をベースとしているが、ゲーム起動時にロゴが表示されるなどの相違点もある。4ワールド分のデータを一括で読み込んでいるらしく、ゲーム中のロードタイミングはワールド4-4以前から5-1以降に進んだ時とエンディングを終えた時のみ。前述の通りアンダーカバー面の内容がカセット版と異なる。
==== 任天堂VS.システム版(アーケードゲーム版) ====
[[1986年]]にリリースされた[[任天堂VS.システム]]版の『'''VS. スーパーマリオブラザーズ'''』(''VS.SUPER MARIO BROS.'')は、ファミコン版と同じく1-1から8-4までの32面構成であるが、本作と『スーパーマリオブラザーズ2』のステージが組み合わさっており、難易度がファミコン版より上がっている。また、ステージ内やゲーム内容においても以下のような違いがある。
* 地形やアイテム・敵キャラ・ワープ可能ステージの配置等が難易度を上げる方向性で変更されている(特に、段差部分の[[ノコノコ]]など、無限1UPの原因になるような配置が排除されている)
* ループゾーンは、ファミコン版と正解ルートが異なるステージも存在する。
* [[永久パターン]]を防ぐため、無限1UPができない(1回だけなら1UPできるため、実際には永久パターンが構築された)。また、1UPキノコの出現にも制限があり、一度ミスをすると、その面に設置された1UPキノコは通常のキノコ(またはファイアフラワー)に置き換えられる。
* 設定TIMEは300から400であるものの、TIMEのカウントダウンのペースがファミコン版よりかなり速く設定されているため(1カウントでおよそ0.3秒)、制限時間が厳しくなっている。
* 店舗側の設定により、1UPに必要なコインの枚数を100枚、150枚、200枚、250枚の中から設定できるため、コイン表示が3桁になっている(標準設定では100枚)。
* ランキング画面が存在し、ランクインすると名前入力(アルファベット3文字まで)ができる。その際にオリジナルの曲も流れる<ref group="注釈">このランキング画面用の曲は1986年公開のアニメ映画『[[スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!]]』の劇半に使われたり、1991年に発売された[[サウンドトラック|サントラ]]CD『スーパーマリオワールド』で「業務用マリオ 名前入れ」というタイトルでCD化された他、2015年に発売された『[[スーパーマリオメーカー]]』の『スーパーマリオブラザーズ』スキンのオトアソビで設定できるボーナスのBGMとしても再使用された。</ref>。
* 『2』のようにステージ4のお城ステージをクリアした際にもタイムボーナスが得られる。
* 初代のシステムに準拠しているため、『2』にあった強風などがない。そのうえで『2』のステージが混ざっているため、『2』のステージの難易度が増している。
* エンディングのBGMが『2』を踏襲したロング版となった。ただし、アーケード基板のためファミコン準拠の3和音構成となっており、終盤が若干短縮されている。
** エンディング自体も、仕様と演出が『スーパーマリオブラザーズ2』に準じており、残りタイム×50点と1機×100000点のボーナス加算され、助けたキノピオたちが現れる。
* ゲームオーバー時に追加クレジットでコンティニュー可能。
* ファミコン版のデモ画面は数パターン入っているが、アーケード版は1種類だけになった。
本作は任天堂のアーケード撤退後にリリースされたため日本未発売となっているが、近年になって並行輸入版が大量に出回っており、現在ではメーカー直営店などを含めた多くの店舗でプレイすることが可能である。地域によっては、新作ビデオゲームよりも多くの店で稼働している。また、店舗側でも[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]用のコントローラーを改造して接続するなど、設置状況が優遇されていることも多い。
2017年12月22日に[[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]が展開している『[[アーケードアーカイブス]]』のひとつとして[[Nintendo Switch]]で配信開始。
==== パソコン版 ====
『'''スーパーマリオブラザーズスペシャル'''』(''SUPER MARIO BROS.SPECIAL''、''SUPER MARIO BROS.Special'')のタイトルで[[1986年]]末に[[ハドソン]]から発売された。[[日本電気|NEC]]の[[PC-8800シリーズ]]版と[[シャープ]]の[[X1 (コンピュータ)|X1]]版が存在する{{R|APH20210706}}。
当時の技術的制約<ref group="注釈">素直なコーディングでの再現はハードウェア上の制約から困難であり、ソフトウェアの工夫により横スクロールゲームがフル画面に近い形で実現するのすら本作よりも後の話である。</ref>からマリオの移動に伴い画面がスクロールせず、画面右端に移動すると次の画面へ切り替わる[[画面切り替えスクロール|画面切り替え方式]]<ref group="注釈">X1では右端到達時にスクロールして切り替わる。</ref>が採用されている<ref name="APH20210706">{{Cite web|和書|title=マップ構成が新鮮だったハドソンソフトの『スーパーマリオブラザーズスペシャル』|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1333035.html|website=AKIBA PC Hotline!|date=2021-07-06|accessdate=2021-12-25|publisher=株式会社インプレス|author=佐々木潤}}</ref>。スプライト機能が無く水平型VRAMということもあり、キャラクターの移動単位やその軌跡の演算がオリジナルよりも大雑把なものとなっており、キーレスポンスの悪さとマップ構成の問題から難易度は非常に厳しいものになっている。オリジナルではスクロールに伴い進行方向の状態が確認できるが、本作では画面切り替え式のため、ジャンプした先に着地点が無いなど状況を把握した対処が難しい上にオリジナルよりも更にそういったトラップの多い独自のステージデザインとなっており、難易度の向上に更に拍車をかける形となっている。独自のフィーチャーとして新たな敵キャラクターやパワーアップアイテムの追加などが行われており、[[ハドソン]]のコーポレートキャラクターであるハチ助も隠れキャラとして登場する。また、ゲームクリアの後にスタッフロールが追加されている。BGMはPSGのみを使用し、原作準拠ではあるもののテンポにふらつきがあるなど、印象の違う部分も存在する。
{{Main2|『スペシャル』で追加された敵キャラクター|スーパーマリオブラザーズシリーズのキャラクター一覧#スーパーマリオブラザーズスペシャル}}
'''『スペシャル』の追加アイテム'''
; ハチスケ
: ハドソンのマスコットキャラクター。取ると8,000点を獲得。
; ウィング
: 取ると一定時間、水中に居るときのようにジャンプで空を浮遊できる。
; ハンマー
: 取ると、『ドンキーコング』のように一定時間前方の敵を倒せる。
; クロック
: 取ると残り時間が100増加する。
; ラッキースター
: 取ると画面内の敵を全滅させる。
==== オールナイトニッポンバージョン(ディスクシステム版) ====
{{Main|オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ}}
[[ラジオ番組]]『[[オールナイトニッポン]]』([[ニッポン放送]])が放送20周年を記念して[[1986年]]に当ゲームと同番組が[[コラボレーション]]して発売した限定生産のソフト。基本的には『スーパーマリオブラザーズ』と変わりないが、一部グラフィックの差し替えや、続編『2』からの要素の追加など、いくつかの点で変更が加えられている。
==== ゲーム&ウオッチ版 ====
日本国外では[[ゲーム&ウオッチ]]版も発売されているが<ref group="注釈">日本では[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]の大会の景品としてのみ存在している。</ref>、内容が異なる。基本は右に強制スクロールするステージで、マリオを操作して足場を乗り継ぎ、ステージ右端のピーチのいる所まで到達するとステージクリアとなる。敵も登場するが倒すことは出来ず、避けて進むことになる。ちなみに、一部の効果音はファミコン版のBGMのアレンジとなっている。また、画面が透明なクリスタルスクリーン版と、ニューワイド版(およびキーチェーンサイズのMini Classics版)ではキャラクターグラフィックが異なる。
ファミコン版発売35周年を記念し、2020年11月13日に発売された「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」(''GAME&WATCH SUPER MARIO BROS.'')はファミコン版が完全移植の形で収録されており、「無限マリオ」、「ワールド選択」、「HARDモード選択」等新要素もある<ref name="gandwsmb">{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/5d6e9160-06ba-4341-b081-331de6756497 |title=『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』は本日発売。知っているとより楽しめる、”あそびのヒント”をご紹介。 |author=任天堂 |date=2020-11-13 |publisher=任天堂 |accessdate=2020-11-15 |archivedate= |archiveurl= }}</ref>。
==== スーパーファミコン版 ====
{{Main|スーパーマリオコレクション}}
『スーパーマリオコレクション』 にリメイクされて収録されている。こちらは『スーパーマリオブラザーズ2』・『スーパーマリオブラザーズ3』、『[[スーパーマリオUSA]]』のリメイクも一緒に収録されている。『スーパーマリオコレクション』は2010年10月21日にWii版が発売、2020年9月3日に[[Nintendo Switch Online]]にて配信された。
==== ゲームボーイカラー版 ====
{{Main|スーパーマリオブラザーズデラックス}}
リメイク版で、日本では[[ニンテンドウパワー]]による書き換え販売のみの提供となった。また、2013年12月10日から2014年1月13日の間にニンテンドー3DSにニンテンドーネットワークIDを登録したユーザーを対象に無料配布された時期があった。
==== ニンテンドーゲームキューブ版 ====
『[[どうぶつの森+]]』の「[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]」家具として登場。どうぶつの森内では非売品。
==== ゲームボーイアドバンス版 ====
[[2004年]][[2月14日]]に[[ファミコンミニ]]第一弾ソフトの一つとして発売された。ファミコンでのオリジナル版を完全移植した初のバージョンである。
[[2005年]]9月13日にファミコン版発売20周年を記念して再販された。ゲーム内容に変更はないが、パッケージ(外箱)が20周年を記念した特別デザインとなっている。
ファミコンミニ版に先駆けて、2003年11月7日から2004年1月15日にかけて行われた「ホットマリオキャンペーン」の景品として、「復刻版スーパーマリオブラザーズ」が配布された。
ゲーム内容は、ファミコンミニとほぼ同じだが、復刻版はワイヤレス通信に対応していない。また、説明書に「ファミコンミニ」の文字は無い。
==== バーチャルコンソール版 ====
; Wii版
:バーチャルコンソールソフトとして[[Wiiショッピングチャンネル]]で配信。[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]には[[体験版]]が収録。
; ニンテンドー3DS版
: ニンテンドー3DSの早期購入者向けに実施された[[ニンテンドー3DS#アンバサダー・プログラム|アンバサダー・プログラム]]の一環として[[2011年]][[9月1日]]に先行配信された。対象者は無料でダウンロードすることが可能。
: 3DS本体と『[[スーパーマリオ 3Dランド]]』の同梱セットである「スーパーマリオ 3Dランド パック」(2012年[[3月24日]])の特典にもなっている(本体付属の[[SDメモリーカード]]にデータが入っている)。
; Wii U版
: バーチャルコンソールソフトとして[[ニンテンドーeショップ]]で配信。
==== Wii版(25周年バージョン) ====
Wii・2010年[[11月11日]](日本版のみ。日本国外版では『[[ドンキーコング|Donkey Kong Original Edition]]』を収録)
Wii(スーパーマリオ25周年仕様)に内蔵されている『25th Anniversary SUPER MARIO BROS.』(スーパーマリオブラザーズ25周年バージョン)。バーチャルコンソール版をベースに、ハテナブロックの「?」が「25」となるなど一部デザインが変更されているが、ゲーム内容は同じ。
==== ファミコンリミックス2 スーパールイージブラザーズ ====
Wii U『[[ファミコンリミックス|ファミコンリミックス2]]』に特別収録されているゲーム。ルイージが主役となり、ステージを左右反転させたバージョン。ルイージの性能は『[[スーパーマリオブラザーズ2]]』のものに準じている。
==== ファミコンリミックス ベストチョイス スピードマリオブラザーズ ====
3DS『[[ファミコンリミックス|ファミコンリミックス ベストチョイス]]』に特別収録されているゲーム。動作・BGMが高速化されている。
なお、『[[マリオブラザーズ]]』はアクションや敵キャラ等の要素が似ており基礎となったゲームといえるが、基本システムやストーリーにおいての関連性・類似性は薄い。
==== その他・海賊版など ====
当時任天堂の影響力が及ばず、ファミコン以外のゲーム機やパソコンが普及していた[[東アジア]]や[[中央ヨーロッパ]]などで、発売当時から海賊版および非公式なコピー版も多く出回った。各国の大手ゲームメーカーが製造したコピーゲームの例をいくつか挙げると、
*東アジアでは[[大韓民国|韓国]]の[[Zemmix]]用ゲーム・周辺機器メーカーである[[Zemina|ZEMINA]]から、1989年に『Super Boy』がリリースされた。BGMの音階がメチャクチャであったり、操作体系が劣悪な上ジャンプで倒せないはずの敵が簡単に倒せたりと、ドット絵がおおよそ同じである以外は完全な劣化品といえる。現在でも[[東南アジア]]や東アジアなどの一部では露店で普通に販売されていることがある。
*中央ヨーロッパでは[[ドイツ]]の大手ゲームメーカーである[[:en:Rainbow Arts|Rainbow Arts]]から、1987年に[[コモドール64]]用ゲーム『[[グレートギアナシスターズ]]』がリリースされた。こちらはイギリス版が発売された時点で任天堂法務部の怒りを買って販売停止となったが、欧米ではいまだにカルト的ファンがおり、2009年には[[ニンテンドーDS]]で公式に続編が発売された。
*Mario.exeと言うホラゲーも数多くある<ref>{{Cite web |title=mario.exe - Google 検索 |url=https://www.google.com/search?q=mario%EF%BC%8Eexe&rlz=1CANEHU_enJP951JP957&oq=&aqs=chrome.0.69i59i450l8.9757649j0j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8&safe=active&ssui=on |website=www.google.com |accessdate=2022-04-10}}</ref>
現在、ネット上には違法にアップロードされたスーパーマリオブラザーズのゲームデータが多数存在し、改造できるソフトまで出回っている。
== 開発 ==
ゲームデザイナーの宮本茂は1984年の12月にテスト仕様書を書いた。当時、任天堂は既に[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]の開発に入っており、[[ROMカセット]]より大容量で[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]も可能な[[ディスクメディア]]に移行する計画だった。このため、宮本は「ファミコンカセットの集大成」として本作を開発した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index3.html|title=社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 『スーパーマリオ』生みの親たち篇 3. “集大成”のソフトに|publisher=任天堂|accessdate=2021-3-21}}</ref>。ドンキーコングに始まったジャンプアクションの決定版として大きなキャラクターが陸・海・空をかけまわるゲームとして企画された。当時のゲームの開発期間は3ヶ月程度のものが多かったが、本作はその倍の開発期間を取っている。
本作はエンディングまで8ワールドの構成だが、ステージ構成でも紹介したが、開発段階では全5ワールドの予定とされていた。だが、ワールド数を増やしたい宮本茂は、A3サイズの用紙を2つ折りにしてA4サイズの企画書と見せかけ、5ワールドまでの概略が書かれた片面を見せて許可が下りた直後に、折られた裏側に書かれていた8ワールドまでの構想を見せ、強引に納得させて企画を通したという逸話がある。なお、本作のワールド5以降に使い回しされ、難易度が上がったステージが登場するのは、スタッフにこの8ワールドの構成案を納得してもらうためであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/bkij/vol2/index6.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 大地の汽笛』携帯機ゼルダの歴史 篇 [番外篇2]『裏ゼルダ』の裏話|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。
水中ステージにおけるマリオの動きは、本作発売以前に発売されたファミコン版『[[バルーンファイト]]』で滑らかに動くキャラクターを見た中郷俊彦が<ref group="注釈">当時、アーケード版『バルーンファイト』のプログラムを担当していた。</ref>、ファミコン版のプログラムを手掛けた[[岩田聡]]<ref group="注釈">当時、[[ハル研究所]]所属のプログラマー。</ref>のもとへ相談に行き、そこで積んだノウハウを活用して実現した事を明かしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol2/index.html|title=社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』その2 1.それは1984年からはじまった|publisher=任天堂|accessdate=2022-2-4}}</ref>。
本作はポール越えは基本的にできないこととなっているが、越えることができた場合は[[裏技]]として認定された。[[ファミリーコンピュータMagazine]]でポール越えを果たした読者投稿による写真も掲載された。
本作のストーリーには、『[[マリオブラザーズ]]』にてマリオ兄弟が配管工の作業をしていた所、キノコ王国に繋がるワープ土管からキノコ王国に迷い込み、事情を知った際に立ち上がったという裏設定が存在する<ref>{{Cite web|和書|title=マリオ映画公開記念!宮本茂さんインタビュー 制作の始まりから驚きの設定まで|url=https://www.ndw.jp/mario-interview-230425/2/|access-date=2023-05-04 |date=2023-04-26}}</ref>。
== 音楽 ==
ゲーム内における音楽・効果音・プログラミングはすべて新人時代の[[近藤浩治]]が担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index.html|title=社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 『スーパーマリオ』生みの親たち篇|publisher=任天堂|accessdate=2016-6-26}}</ref>。
最初に作られた曲は「水中のBGM」で、音楽がイメージしやすく作りやすかったという<ref name="mario25index5">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index5.html|title=社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 『スーパーマリオ』生みの親たち篇 5. “メモリ減らし”のために|publisher=任天堂|accessdate=2021-3-21}}</ref>。
最も有名な「地上のBGM」は、初めに作ったバージョンが背景の鮮やかな色(青や緑)に合わせた「のほほんとした曲調」だったため、実際のプレイに合わずボツとなった。その後、試作品のマリオの動きに合わせて作り直したものが採用された。この曲は、[[織田信成 (フィギュアスケート選手)|織田信成]]が演技で使用したほか、リアレンジした形で[[ポーラ化粧品]]のCMにも使用された。
効果音においてもファミコンのメモリ容量が限られていた為、「マリオが小さくなる音」と「土管に入るときの音」、「ノコノコを踏んだ時の音」と「泳ぐ音」で同じものを流用する<ref name="mario25index5" />などして(SFCでは前者が同じ音で後者が異なる音)、メモリを節約するための工夫がなされている。
なお、ファミコンのメモリ容量が限られていたためかオリジナル版では「クッパと対決するときのBGM」は実装されず、「ボーナス面のBGM」は「無敵状態のBGM」が流用されていた。そのため2015年に発売された『[[スーパーマリオメーカー]]』では、『スーパーマリオブラザーズ』スキンのオトアソビでは「ボーナス」は『VS. スーパーマリオブラザーズ』の名前入力のBGMが、「ボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』の各種ブロス戦及びバトルモードのBGMが使用されている。また、2019年に発売された『[[スーパーマリオメーカー2]]』で追加された「ラスボス」は『スーパーマリオブラザーズ3』のクッパ戦のBGMを流用している。
当時の流行により、後からBGMに歌詞をつけたものも作成された。AYA&なかよし応援団が歌唱する「マリオの大冒険」、[[谷山浩子]](プリンセス・ピーチ名義)が歌唱する「GO GO マリオ!!」があり、ともに地上のBGMを中心としつつ、他のBGMを含んだメドレー調になっている(前者は地上のBGM以外の部分にも歌詞が振られている箇所があるが、後者は歌詞が振られているのは地上のBGM部分のみ)。1986年にそれぞれシングルとして発売された(前者は[[レコード|EP盤]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.a-suma.com/goods/music/others/ep-mnd.htm|title=その他の音楽>マリオの大冒険|website=ALL SUPER MARIO|accessdate=2023-05-08}}</ref>、後者は[[カセットテープ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.a-suma.com/goods/music/others/ct-gogomario.htm|title=その他の音楽>GO GO マリオ!!|website=ALL SUPER MARIO|accessdate=2023-05-08}}</ref>)ほか、両方共を収録したプロモーション用サンプル盤も存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.discogs.com/release/5141485-Aya-なかよし応援団-プリンセスピーチ-マリオの大冒険-Go-Go-マリオ|title=Aya & なかよし応援団 / プリンセス・ピーチ – マリオの大冒険 / Go Go マリオ!! (1986, Vinyl)|website=Discogs|accessdate=2023-01-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.a-suma.com/goods/music/others/ep-mnd-nfs.htm|title=その他の音楽>マリオの大冒険 & GO GO マリオ!!|website=ALL SUPER MARIO|accessdate=2023-05-08}}</ref>。後者は1985年にラジオ番組『[[小峯隆生のオールナイトニッポン]]』でのコーナーでリスナーから募集した歌詞から生まれた歌<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/8836b06d-92a6-11e5-be65-0a6d14145cb1|title=「スーパーマリオ」の曲に歌詞があった!?|publisher=[[任天堂]]|date=2015-12-01|accessdate=2021-03-02}}</ref>。2003年9月14日に[[日本青年館]]前で開催された『マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブ』で歌唱されたり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hmv.co.jp/artist_ゲーム-ミュージック_000000000015330/item_マリオ-ゼルダ-ビッグバンドライブCD_1928956|title=マリオ&ゼルダ ビッグバンドライブCD|website=HMV&BOOKS online|accessdate=2023-01-21}}</ref>、2014年11月14日に[[ニンテンドー3DS]]『[[大合奏!バンドブラザーズP]]』で映像が配信されたり<ref>{{Cite press release|和書|title=『大合奏!バンドブラザーズP 』発売1周年記念!伝説の曲「GO GO マリオ!!」が遊べる動画無料お試し版として登場! |publisher=株式会社 ニッポン放送 |date=2014-11-17 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000011097.html |accessdate=2023-01-21}}</ref>、2015年12月1日に[[カラオケ]]の[[JOYSOUND]]に映像付きで配信されたり<ref>{{Cite press release|和書|title=「スーパーマリオブラザーズ」でお馴染みのBGMがまさかのカラオケ配信!歴代ゲーム映像を背景に歌える「GO GO マリオ!!」がJOYSOUNDに登場! |publisher=株式会社エクシング |date=2015-11-30 |url=https://xing.co.jp/archives/8184 |accessdate=2023-01-21}}</ref>などの展開がなされている。
2023年4月12日(日本時間同月13日)、[[アメリカ議会図書館]]は本ゲームのテーマ曲<ref>{{Cite web|和書|url=https://chakumero123.com/latest-ringtones/super-mario-bros/ |title=スーパーマリオのテーマ曲 |access-date=2020-04-15 |website=Chakushinon123}}</ref>(地上のBGM)について、「ゲーム史に残る伝説的な作品であり、世界中で演奏され、過去40年間で最も愛された楽曲の1つ」と評価し、[[ジョン・レノン]]の「[[イマジン (ジョン・レノンの曲)|イマジン]]」や[[マライア・キャリー]]の「[[恋人たちのクリスマス|恋人達のクリスマス]]」などと共に[[ゲームミュージック|ゲーム音楽]]として初めて、日本人が作曲した曲としても初めて[[全米録音資料登録簿]]に収蔵され、永久保存することが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=「スーパーマリオ」テーマ曲 米議会図書館が保存資料に ゲーム音楽で初めて |url=https://www.fnn.jp/articles/-/513371 |website=FNNプライムオンライン |access-date=2023-04-14 |author=フジテレビ |date=2023-04-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『スーパーマリオブラザーズ』のテーマ曲、ゲーム音楽として初めて米国議会図書館の保存資料に選ばれる |url=https://jp.ign.com/supermariobrothers/67208/news/ |website=IGN Japan |date=2023-04-13 |access-date=2023-04-14 |last=Andrea |first=Shearon}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スーパーマリオの曲 米国議会図書館に保存 日本初&ゲーム音楽初!「イマジン」など名曲とともに |url=https://www.sponichi.co.jp/society/news/2023/04/14/kiji/20230414s00042000017000c.html |website=スポーツニッポン |access-date=2023-04-14 |date=2023-04-14}}</ref>。
=== 音楽作品 ===
* 『[[ファミコン・ミュージック]]』([[1986年]][[5月25日]])
** [[G.M.O.レコード]]より発売されたアルバム内の一作品として収録されている。
* 『ファミコン 20TH アニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.1』([[2004年]][[1月7日]])
* 『ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」』(2004年[[7月22日]])
** [[サイトロン・デジタルコンテンツ]]より発売されたCD内の一作品として収録されている。
=== 楽曲提供 ===
本作は他社のゲーム作品での楽曲使用や音楽アーティストによる創作作品が存在する。以下は任天堂から正式にライセンス提供を受けている作品である。
* [[トンガリキッズ]] - 本作の曲を[[サンプリング]]した楽曲『[[トンガリキッズ I|B-DASH]]』をリリースし、ブレイクした。
* [[太鼓の達人]] - バンダイナムコゲームス(ナムコレーベル)の[[音楽ゲーム]]。業務用『太鼓の達人8』-『11』まで、『12』以降は曲構成を変えて収録されている。ニンテンドーDS用ソフト『太鼓の達人DS』、Wii用ソフト『太鼓の達人Wii』に、本作の曲が収録された。
* [[ポップンミュージック]] - [[コナミデジタルエンタテインメント]]の音楽ゲーム。業務用『ポップンミュージック14 FEVER!』『15 ADVENTURE』に、本作の曲が収録された<ref group="注釈">担当アーティストの村井聖夜が任天堂からの素材の提供を受けず、音源の段階から一から再現した。</ref>。
* [[ミュージックガンガン!]] - [[タイトー]]の音楽ゲーム。2011年春に稼働の『ミュージックガンガン!2』に収録される。
== スタッフ ==
* ディレクター:[[宮本茂]]
* プロデューサー:[[池田宏 (映画監督)|池田宏]]、宮本茂
* エグゼクティブ・プロデューサー:[[山内溥]]
* アシスタント・ディレクター:[[手塚卓志]]
* プログラマー:[[中郷俊彦]]、[[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]]、西田泰也
* グラフィック・デザイン:宮本茂、手塚卓志
* 音楽:[[近藤浩治]]
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|state =
| rev1 = [[Allgame]]
| rev1Score = NES: {{Rating|5|5}}<ref name="allgame">{{cite web |last=Smith |first=Geoffrey Douglas|title=Super Mario Bros – Review |publisher=Allgame |accessdate=2012-12-06 |url=http://allgame.com/game.php?id=1320&tab=review|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141114120755/http://www.allgame.com/game.php?id=1320&tab=review|archivedate=2015-11-14}}</ref>
| rev2 = [[The Video Game Critic]]
| rev2Score = A <ref>{{cite web|url=http://videogamecritic.net/nesss.htm#Super_Mario_Bros.|title=The Video Game Critic's NES Reviews |publisher=videogamecritic.net |date= |accessdate=2012-12-06}}</ref>
| rev3 = [[GameSpot]]
| rev3Score = Wii VC: 8.3/10<ref>{{cite web |last=Gerstmann |first=Jeff|title=Super Mario Bros Review|publisher=GameSpot |accessdate=2015-05-05 |url=http://uk.gamespot.com/classic-nes-series-super-mario-bros/reviews/super-mario-bros-review-6163683/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130326012214/http://uk.gamespot.com/classic-nes-series-super-mario-bros/reviews/super-mario-bros-review-6163683/|archivedate=2013-03-26}}</ref>
<!--|award1Pub = [[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]
|award1 = 世界一売れたゲーム-->
|award2Pub = [[ファミ通]]
|award2 = 読者が選ぶ未来に伝えたいゲーム 第1位
|award3Pub = [[ゲームセンターCX]]<br />[[日経エンタテインメント!]]
|award3 = レトロゲーム・アワード2007 大賞
|award4Pub = [[IGN]]
|award4 = Top 100 games of all time (2005) 第1位
}}
=== 売上 ===
日本国内で681万本<ref name="JP_sales"/>、全世界では4,024万本<ref name="AB"/>を販売。日本国内の単体としてのゲームソフト売上では、2020年に『[[あつまれ どうぶつの森]]』が記録を塗り替えるまで30年以上に渡って歴代1位を保っており<ref>{{Cite web|和書|title=『あつまれ どうぶつの森』の拡張可能性と、パンデミックで見落としていた問い|url=https://realsound.jp/tech/2020/08/post-605925.html|website=Real Sound|accessdate=2020-08-23|publisher=|date=2020-08-23|page=1}}</ref>、シリーズ2番目の売り上げである『[[New スーパーマリオブラザーズ]]』とも約40万本差、世界売上では約900万本の差がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/finance/software/ds.html|title=株主・投資家向け情報:業績・財務情報 - 主要タイトル販売実績 ニンテンドーDS用ソフト|publisher=任天堂|accessdate=2021-3-21}}</ref>。また、Wiiのバーチャルコンソール版でも、2007年[[6月]]時点で最もダウンロードされたゲームとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2007/06/02/20878.html|title=バーチャルコンソールのDL回数は470万回、毎時間1000タイトル | インサイド|publisher=インサイド|date=2007-6-2|accessdate=2021-3-21}}</ref>。
[[日本放送協会|NHK]]で放送された特集番組『[[新・電子立国]]』の書籍版で、開発者の[[宮本茂]]は、本作の売上げを150万本程度と予想しており世界で数千万本も売れたのは、北米発売のタイミング等を含め「完全に運だった」と回顧しており、「掛け値なしの実力は150万本」と評価している。
当時任天堂社長だった[[山内溥]]は、本作を見て「これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね」と宮本に語ったという<ref>[http://biz-journal.jp/2013/09/post_2976.html 任天堂、故・山内前社長の歴史から透ける、任天堂躍進の秘密と成長神話への陰り] ビジネスジャーナル 2013年9月25日</ref>。
=== その後の更新記録について ===
4,024万本という数字は同梱販売を含めてのものだが<ref group="注釈">『スーパーマリオブラザーズ』は欧米で[[Nintendo Entertainment System|NES]]との同梱販売が一部存在している。</ref>、同梱販売を含まない場合でも本作は相当な本数を売り上げている。
=== メディアでの評価 ===
数々のゲーム雑誌などでも高い評価を得ており、『ファミ通』1000号記念に行われた「読者が選ぶ未来に伝えたいゲーム」というアンケートでは大差で1位を獲得している。なお、『ファミ通』では800号記念に行われた同様の企画でこのゲームを「50年後に伝えるゲームのタイムカプセル」の1つに選定しており、編集部で保管されている。また、[[2007年]][[9月22日]]に行われた[[東京ゲームショウ]]2007で、人気番組『[[ゲームセンターCX]]』と『[[日経エンタテインメント!]]』との共同イベントとして行われた「レトロゲーム・アワード2007」<ref>[http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0709/22/news028.html ITmedia +D Games] - レトロゲーム大賞に『スーパーマリオブラザーズ』レトロゲーム・アワード2007。</ref>で大賞を受賞した<ref group="注釈">これはゲームを表彰する舞台が存在しなかった20年前に、もしこういったイベントがあればと想定して企画されたもの。選出対象に該当するのは、1985年から1987年に発売されたゲームとなっている。</ref>。
[[徳間書店]]から発売された攻略本の人気も高く、発売以来2年連続で全書籍中での売り上げ1位を記録した<ref>Nintendo DREAM 2013年10月号p.21</ref>。
<!--出典の参考文献としてしていないためコメントアウト。
== 関連文献 ==
{{Cite book|author=STUDIO HARD|title=スーパーマリオブラザーズ|series=ゲーム必勝法シリーズ|date=|year=|accessdate=|publisher=勁文社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}
-->
=== オークション ===
1986年に[[クリスマスプレゼント]]の目的で購入し、約35年間に渡って机の引き出しの中にしまい込んだままとなっていた本ゲームの未開封品が2021年にアメリカで発見され、同年4月2日にオークションに出品したところ、ゲームソフトとしては史上最高額(当時)となる66万ドル(日本円で約7300万円)で落札されたことがオークション会社から発表された。オークション会社やゲーム専門家によると、出品された本ゲームは短期間だけ生産されたプラスチックによる透明パッケージのバージョンのもので状態が良いもので見つかるのは珍しいとコメントしている<ref>{{Cite web|和書|title=未開封マリオに7000万円 ゲームで史上最高、米競売|url=https://www.sanspo.com/article/20210404-MPEGJCAN5JJCHJDRW2PQSHPGYI/|website=サンケイスポーツ|date=2021-04-04|accessdate=2021-07-12|author=共同通信}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=未開封の「スーパーマリオブラザーズ」のゲームソフト、7300万円で落札|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35168864.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-07-12|date=2021-04-05}}</ref>。
== 関連書籍 ==
アンドリュー・シャルトマン 著『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』樋口武志 訳、[[ディスクユニオン|DU BOOKS]]、2023年、ISBN 978-4-86647-204-1
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[宮本茂]] - 本作のディレクター。
* [[手塚卓志]] - 本作のアシスタントディレクター。
* [[近藤浩治]] - 音楽を担当。
* [[スーパーマリオシリーズ]]
** [[スーパーマリオブラザーズ2]] - 続編作品。本作のシステムをそのまま引き継ぎつつ、一部仕様の変更・追加を行った高難易度版。
** [[New スーパーマリオブラザーズ]] - 本作における多くのシステムが踏襲された作品で、その後続編も複数発売された。
* [[スーパーマリオメーカー]]、[[スーパーマリオメーカー for ニンテンドー3DS]]、[[スーパーマリオメーカー2]] - 本作のコースを自由にデザインして遊べるツールゲーム作品。
* [[メルセデス・ベンツ・GLAクラス]] - ワールド1-1をGLAで走破するという内容のCMが製作された。「[[メルセデス・ベンツ・GLAクラス#任天堂とのコラボレーション|任天堂とのコラボレーション]]」の項を参照。
* [[ファミコン冒険ゲームブック]] - 本作を原作とした[[ゲームブック]]が3冊出版されている。「[[冒険ゲームブックシリーズ#スーパーマリオブラザーズ|スーパーマリオブラザーズ]]」の項を参照。
* [[親子ゲーム]] - 本作の発売翌年に放送されたドラマ。主役の少年の名前が麻理男であったり、各回のサブタイトルに「スーパーマリオ」というフレーズが含まれるなど、本作の影響が見られる。
* [[創造 (曲)]] - [[星野源]]の楽曲。スーパーマリオブラザーズ35周年テーマソング。
* [[World 1-1]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/software/smb1/index.html スーパーマリオブラザーズ]
* {{PDFlink|[https://www.nintendo.co.jp/software/smb1/material/pdf/smb_manual.pdf スーパーマリオブラザーズ取扱説明書]}}
* [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk/supermario/ ファミコンミニ スーパーマリオブラザーズ]
* [https://www.nintendo.co.jp/n08/fsmj/index.html ファミコンミニ スーパーマリオブラザーズ スーパーマリオ生誕20周年記念版]
* {{Wiiバーチャルコンソール|smb}}
* {{3DSバーチャルコンソール|taaj}}
* {{Wii Uバーチャルコンソール|faaj}}
* [https://ec.nintendo.com/JP/ja/titles/70010000003433 アーケードアーカイブス VS.スーパーマリオブラザーズ] - 任天堂公式
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/vs_mario.htm アーケードアーカイブス VS.スーパーマリオブラザーズ] - ハムスター公式
* [https://www.nintendo.co.jp/nom/0510/ 任天堂マガジン表紙・2005年10月号 No.87] 宮本茂ロングインタビューが掲載
* [https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol1/index.html 社長の代わりに糸井重里さんが訊く「スーパーマリオ25周年」]
* [https://www.nintendo.co.jp/ngc/sms/history/sm1/index.html マリオヒストリー スーパーマリオブラザーズ]
* [https://www.nintendo.co.jp/mario30th/ スーパーマリオ30周年]
* {{Twitter|supermario35th|スーパーマリオブラザーズ35周年}}
* [https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/index.html ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ]
{{Mario}}
{{ゲーム&ウオッチ}}
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[[Category:1985年のコンピュータゲーム]]
[[Category:ディスクシステム用ソフト]]
[[Category:横スクロールアクションゲーム]]
[[Category:マリオブラザーズ|1]]
[[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online収録ソフト]]
[[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]]
[[Category:PC-8800用ゲームソフト]]
[[Category:X1用ゲームソフト]]
[[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]]
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1,573 | スーパーファミコン | スーパーファミコン(SUPER Famicom)は、任天堂より日本・中華民国(台湾)・香港などで発売された家庭用ゲーム機。略記・略称はSFC、スーファミなど。日本発売は1990年(平成2年)11月21日、生産終了は2003年(平成15年)9月30日。
ファミリーコンピュータの後継機として開発された。同世代機の中では後発であったが、ファミリーコンピュータに引き続き、最多出荷台数を記録した。
北米・欧州・オーストラリア・ブラジルなどでは“Super Nintendo Entertainment System”(スーパーニンテンドーエンターテインメントシステム、略称:Super NES、またはSNES)の名称で発売された。
開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持するため、接続コードで繋ぐことによって映像音声出力およびコントローラを共通化した外部入力装置「ファミコンアダプタ」の使用が提示されていた。最終的には互換性の維持を断念し、新規プラットフォームとして発売された。
ハードウェアのスペックとしては、16ビットCPU 、32,768色(15bpp)から選択可能な16色のカラーパレットと、それらのカラーを適用可能な16色スプライト、一画面あたり最大128個のスプライト同時表示、背景の多重スクロールと回転・拡大・縮小表示機能、ソニーのDSPによるPCM音源の採用など、カタログスペックとしては同時代の一線級のものを取り揃えている。これによりファミリーコンピュータと比べ、表示や音源の処理能力が格段に向上した。
CPUクロック周波数は、3.58MHzと低めに設定されたため、演算速度は競合機に比べ高速ではなかった。また、音の品質にメモリ容量が大きく関わるPCMを音源としながら、その音源用DSPに用意されたバッファは64KBであり、他のゲーム機で多く使われたFM音源や、波形メモリ音源、PSGなどと異なる活用ノウハウを求められた。これによって多彩な表現を可能にしたが、特定の音色のみの品質が高くなったり、不自然な鳴り方になるなど、高品質な再生までには時間を要した。
カセット差し込み口シャッターは、ファミリーコンピュータ時代の手動式からスプリングによる自動開閉式に変更された。カセットを差し込む動きでシャッター部分が本体内部側へと倒れ、抜き出すと元に戻る。また電源スイッチを入れるとカセット差込口内部にツメが出る機構が備えられており、カセット前面下部のくぼみを引っかけロックされる。これによって電源スイッチを入れたままカセットを抜き差しすることはできなくなった。イジェクトレバーはボタン式に変更された。通電時には電源ランプが点灯する。
カセット接続端子は中央部と両端部とに分かれており、ソフトによって使われ方が異なっている(カセットの項目を参照)。
スーパーファミコンの基板(SNS-CPU-RGB-01)に実装されているLSIの例。
コントローラは本体に2個同梱される附属品で、本体前面に2つ設けられているコネクタに接続する。コントローラの右側にあるボタンは、A・B・X・Yの4つで、上部の左右にはL・Rボタンがある。またコネクタは拡張端子の役割も兼ねており、ここに接続する様々な周辺機器も発売された。
ACアダプタ、RFスイッチ、75Ω/300Ω変換器はファミリーコンピュータと共通で、スーパーファミコン本体とは別売りであった。RCAピンジャックやS端子を備えたテレビの場合は別売り専用ケーブルにより接続可能であった。
開発環境としてはソニーの32ビットワークステーション・NEWS(ニューズ)が使われた。
前世代機ファミリーコンピュータではメーカーやソフトによって様々な色やデザインのカセットが存在していたが、スーパーファミコンではほぼ全てのソフトが共通デザインのカセットを使用し、例外的なデザインのカセットもソフトも少数である。
通常のカセットの場合、そのサイズはファミリーコンピュータ用カセットよりも一回り大きい。前面部は緩やかに湾曲しており、中央上部にはメインのラベル、下部には本体側ロック機構用のくぼみがある。背面部は平坦で注意書きラベルが張られており、前面部と後面部の固定には特殊形状のビスを2本使用している。色は本体と同色のライトグレー。
衛星放送専用(または対応)カセットの場合、そのサイズは縦方向にさらに大きく、前面上側にメモリーパック差込口を備えている。色は通常カセットよりも濃いグレー。周辺機器の一つであるスーパーゲームボーイもほぼ同様の特徴である。
書き換え用SFメモリカセットの場合、形状は通常カセットとほぼ同様だが色はホワイト。メインラベルには書き換えたソフトのミニラベルを張るための余白部分がある。
特殊形状のカセットと特殊チップ使用の一部通常カセットはエッジ・コネクタの差し込み端子数が両端部に8ピン分多い。
ファミリーコンピュータの場合と同様、カートリッジスロットは拡張バスでもあるため、そのCPU性能の低さを補うための、演算補助用プロセッサや、実時間を反映させるためのRTC等の本体機能を補助する特殊チップをカートリッジに搭載したソフトも多く発売された。『パイロットウイングス』や『スーパーマリオカート』等では、DSP-1と呼ばれる固定小数点プロセッサを搭載、回転、ベクトル演算を補佐。スターフォックス、ワイルドトラックスなどの3Dポリゴンでのゲームを実現したスーパーFXチップや、SA-1と呼ばれる、本体の5A22CPUと同じコアを10MHzで動作させ、本体CPUと協調させてパフォーマンスを得るプロセッサ、ROM内のデータの伸張サポートや、プロテクト目的など、さまざまなものがソフトウェアに応じてカートリッジ内に搭載された。
ソフトの箱や取扱説明書にも統一が行われており、通常カセットの場合はVHS用ビデオテープと同サイズの紙製外箱とプラトレイ、縦長の中綴じ説明書、衛星放送対応ソフトの場合はそれよりもやや横幅の広い外箱と紙製トレイ、同じくやや横に広い中綴じ説明書に揃えられている。
ロム容量は、ローンチタイトルの『スーパーマリオワールド』(1990年)で4メガビット(512キロバイト)、最大は『テイルズ オブ ファンタジア』(1995年)および『スターオーシャン』(1996年)の48メガビット(6メガバイト)。
ファミリーコンピュータではカセットや本体にごくわずかな振動があるだけでも動作停止していたが、スーパーファミコンはファミリーコンピュータに比べればいくぶん振動に対し強くなっている。
本機は1990年(平成2年)11月21日発売の初期型と1995年(平成7年)頃発売の後期型がある。型番は初期型はSHVC-001、後期型はSHVC-001 SHVC-JPN-1。本体カラーは両方ともグレー。
本体を小型化し21種類のスーパーファミコン用ソフトを内蔵した復刻版「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」が2017年10月5日に発売された。収録作品の中には、当時開発されながら発売に至らなかった『スターフォックス2』も含まれている。
型番のSHVCはSuper Home Video Computerの略。
※映像音声用のケーブルはその後に発売された任天堂家庭用ゲーム各機でも使用可能(ゲームキューブまで)ただし機種によっては使用不可のケーブルもある。
対応ソフトは1990年から2000年の間に1,447タイトル(非ライセンス品を含まず)発売された。
ローンチタイトルは『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』。『F-ZERO』や少し遅れて発売された『パイロットウイングス』は、当時の他のゲーム機にはなかった、画像の拡大縮小回転といったスーパーファミコンの性能をフルに生かした内容であった。
1991年7月には『ファイナルファンタジーIV』が発売され、本体の普及に貢献する。
1992年頃から、ゲームの大容量化によりソフト価格が高騰。定価を「1万円程度」とするソフトが多くなる。しかし『ストリートファイターII』、『スーパーマリオカート』、『真・女神転生』、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』、『ファイナルファンタジーV』などの人気ソフトが相次いで発売されたことでゲーム機市場の主導権を握ることとなった。この状態は次世代機への世代交代となった1996年(平成8年)頃まで続く。
1993年2月21日にはスーパーFXチップを初搭載した3Dポリゴンソフト『スターフォックス』が発売される。 同年春には味の素マヨネーズの懸賞に非売品スーパーファミコンソフト『もと子ちゃんのワンダーキッチン』が登場。以降、非売品ソフトを景品として採用する動きが盛んになる。
1994年にはソフトの価格がさらに高騰、『ファイナルファンタジーVI』を皮切りに1万円を超えるソフトが出始める。
1995年8月にはPlayStationとセガサターン間で繰り広げられていた次世代機の値下げ競争に合わせ『マリオのスーパーピクロス』に店頭価格より安く本体が購入できるクーポン券を同梱。以降発売の『スーパードンキーコング2』『スーパーマリオRPG』『星のカービィ スーパーデラックス』にも同様のクーポン券が同梱される。
1996年11月には任天堂より『スーパードンキーコング3』が発売される。世間では次世代機に移行している中で、人気シリーズの続編ということもあって国内販売180万本を記録し、晩年期を代表する作品となった。
1997年12月1日にはニンテンドウパワーで『平成 新・鬼ヶ島 前編』『平成 新・鬼ヶ島 後編』『同級生2』の3作が初の書き換え専用新作ソフトとして供給開始。
1998年4月24日には『ロックマン&フォルテ』が発売される。ニンテンドウパワーでの書き換えを除く通常販売での新作としては最後のスーパーファミコンソフトとなった。
2000年12月1日にはニンテンドウパワーにて『メタルスレイダーグローリー ディレクターズカット』の書き換えが開始された。ライセンス品では最後に販売されたスーパーファミコンソフトとなる。
非公認ソフトとしては2014年に『Nightmare Busters』、2017年に『Unholy Night: The Darkness Hunter 魔界狩人』が発売されている。
既に発売されていたPCエンジン、メガドライブを超える規模のシェアを獲得し、16ビットゲーム機(第四世代)でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持した。一方で最大市場の北米とフランス・ヨーロッパ・オーストラリア等の欧州市場では先行していたGENESIS(北米版メガドライブ)、メガドライブとほぼ互角状態で市場を分け合った。
2003年生産終了、2007年には任天堂による修理も打ち切られたが、2008年2月の調査「保有しているゲーム機ランキング」(オリコンランキング)でPlayStation 2(62.3%)、ニンテンドーDS(55.4%)に次ぐ第3位(42.5%)を記録するなど、サポート終了後も根強い人気を誇るハードである。 | [
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"text": "スーパーファミコン(SUPER Famicom)は、任天堂より日本・中華民国(台湾)・香港などで発売された家庭用ゲーム機。略記・略称はSFC、スーファミなど。日本発売は1990年(平成2年)11月21日、生産終了は2003年(平成15年)9月30日。",
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| スーパーファミコンは、任天堂より日本・中華民国(台湾)・香港などで発売された家庭用ゲーム機。略記・略称はSFC、スーファミなど。日本発売は1990年(平成2年)11月21日、生産終了は2003年(平成15年)9月30日。 ファミリーコンピュータの後継機として開発された。同世代機の中では後発であったが、ファミリーコンピュータに引き続き、最多出荷台数を記録した。 北米・欧州・オーストラリア・ブラジルなどでは“Super Nintendo Entertainment System”の名称で発売された。 | {{出典の明記|date = 2014年1月}}
{{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = スーパーファミコン
|ロゴ = [[File:Nintendo Super Famicom logo.svg|250px]]
|画像 = [[File:Nintendo-Super-Famicom-Set-FL.png|300px]]
|画像コメント = スーパーファミコン本体とコントローラー
|メーカー = [[任天堂]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第4世代]]
|発売日 ={{Flagicon|JPN}} [[1990年]][[11月21日]]<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon|CAN}} [[1991年]][[8月23日]]<br />{{Flagicon|UK}}{{Flagicon|MEX}} [[1992年]][[4月11日]]<br />{{Flagicon|EU}}{{Flagicon|CHL}} 1992年[[6月8日]]<br />{{Flagicon|AUS}} 1992年[[7月3日]]<br/>{{Flagicon|KOR}} 1992年[[11月25日]]<br />{{Flagicon|BRA}} 1993年[[8月30日]]<br />{{Flagicon|HKG1959}} [[1993年]]<br />{{Flagicon|ISR}} 1993年<br />{{Flagicon|RUS}}{{Flagicon|CIS}} [[1994年]][[11月]]
|CPU = 16-bit 65C816 [[65816 (コンピュータ)|Ricoh 5A22]] 3.58MHz
|GPU =
|メディア = [[ロムカセット]]<br />[[ニンテンドウパワー|SFメモリカセット]]<br />[[スーファミターボ]]用カセット
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]<br />[[フラッシュメモリ]]<br />(サテラビューのみ)
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|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 1,717万台<ref name="nintendosales">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/historical_data/pdf/consolidated_sales1406.pdf|title=任天堂株式会社 連結販売実績数量の推移|publisher=任天堂|accessdate=2021-05-01|format=PDF}}</ref><br />{{Flagicon|USA}} 2,335万台{{R|nintendosales}}<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 4,910万台{{R|nintendosales}}
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|第一作ソフト = {{Flagicon|JPN}} スーパーマリオワールド<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon|Canada}}
|互換ハード = [[SF1]]<br />[[スーパーファミコン#バリエーション|スーパーファミコンjr.]]<!--実メディアが使えない機器、非ライセンス品は載せない-->
|前世代ハード = [[ファミリーコンピュータ]]
|次世代ハード = [[NINTENDO64]]
|後方互換 = [[ゲームボーイ]]<br />([[スーパーゲームボーイ]]使用時)<!--非公式品は載せない-->
}}
'''スーパーファミコン'''(''SUPER Famicom'')は、[[任天堂]]より[[日本]]・[[中華民国]]([[台湾]])・[[香港]]などで発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。略記・略称は'''SFC'''、'''スーファミ'''など{{Efn2|雑誌や[[マリオカートシリーズ]]における『[[スーパーマリオカート]]』のリメイク作品のハード通称などで見られる}}。日本発売は[[1990年]](平成2年)[[11月21日]]、生産終了は[[2003年]](平成15年)[[9月30日]]。
[[ファミリーコンピュータ]]の後継機として開発された。[[ゲーム機#第4世代|同世代機]]の中では後発であったが、ファミリーコンピュータに引き続き、最多出荷台数を記録した。
[[北米]]・[[欧州]]・[[オーストラリア]]・[[ブラジル]]などでは“'''[[Super Nintendo Entertainment System]]'''”(スーパーニンテンドーエンターテインメントシステム、略称:'''Super NES'''、または'''SNES''')の名称で発売された。
== 沿革 ==
{{See also|コンピュータゲームの歴史}}
* [[1987年]][[9月9日]] - [[京都新聞]]にて、[[山内溥]]社長(当時)が初めてスーパーファミコンに言及。
* [[1988年]][[11月21日]] - 任天堂本社にて、試作機を披露し1989年7月発売を発表{{R|gamemachine19890115}}。同年に本体と同時発売のソフト『マリオブラザーズ4』、『ドラゴンクエストV』発売と発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://ch.nicovideo.jp/gamemusic/blomaga/ar304408|title=スーパーファミコン発売前夜|publisher=ニコニコチャンネル|date=2013-08-01|accessdate=2017-02-21}}</ref>。
* [[1989年]][[7月28日]] - 任天堂本社にて、仕様が確定しファミリーコンピュータとの互換性のための「ファミコンアダプタ」は作らないことになったことを発表。サードパーティは21社、発売延期の理由は[[Nintendo Entertainment System]]と[[ゲームボーイ]]の増産によって半導体が不足しているうえ、依然としてファミリーコンピュータ市場が活況しているため<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂の16ビット家庭用 スーパーFC仕様決定 発売は半導体事情のため一年後に先送り |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19890901p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=363 |agency=アミューズメント通信社 |date=1989-09-01 |page=3}}</ref>。
* [[1990年]]
** [[6月21日]] - 同年11月21日発売を発表。同時発売ソフトは3本、サードパーティは33社<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂「スーパーファミコン」11月21日に発売決まる 価格は25000円、ソフト3本同時発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19900801p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=385 |agency=アミューズメント通信社 |date=1990-08-01 |page=3}}</ref>。
** [[11月21日]] - 日本国内発売開始。本体価格25,000円。セット内容は本体とコントローラ2個、取扱説明書のみで、テレビとの接続ケーブルやACアダプタ(ファミリーコンピュータ専用品が使用可能)は含まれていない{{Efn2|これらはファミリーコンピュータと共用できるという理由で同梱されなかった。}}。
** 12月 - [[シャープ]]よりスーパーファミコン内蔵テレビ「[[SF1]]」発売<ref name="natsukashi">{{Cite book |和書 |title=懐かしスーパーファミコン パーフェクトガイド もう一度遊びたい!名作揃いの16ビットゲーム |publisher=マガジンボックス |Series=M.B.ムック |date=2016-09-21 |page=101 |isbn=9784866400082 |oclc=960434261 }}</ref>。画面サイズは14型、21型の2種類。
** 同月 - 出荷台数、約65万台<ref>{{Cite news|和書|title=ゲーム場市場順調に回復 家庭用安定、遊園地堅調 余暇開発センター調べ「レジャー白書発表」|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19910601p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=404|agency=アミューズメント通信社|date=1991-06-01|page=8}}</ref>。
* [[1991年]]
** 3月 - 出荷台数約149万台<ref>{{Cite news|和書|title=東京おもちゃショー91 家庭用ソフトに重点 AM業界からもCSG含め多数が出展|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19910715p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=407|agency=アミューズメント通信社|date=1991-07-15|page=4}}</ref>。
** 12月末 - 出荷台数約380万台<ref>{{Cite news|和書|title=ゲーム場市場大幅に拡大 家庭用安定、遊園地堅調 余暇開発センター調べ「レジャー白書92発表」|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19920601p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=427|agency=アミューズメント通信社|date=1992-06-01|page=9}}</ref>。
* [[1992年]]
** [[1月9日]] - 大容量化の周辺機器『スーパーファミコンCD-ROMアダプタ』をフィリップスのライセンスを得て、1993年1月発売を発表<ref>{{Cite news |和書 |title=SFC用「CD-ROMアダプター」 任天堂は来年1月発売 独自のシステムカセット内臓チップに特徴 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19920215p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=420 |agency=アミューズメント通信社 |date=1992-02-15 |page=1}}</ref>するが取りやめに
** 3月 - スーパーファミコンの音源性能をプレゼンテーションする目的で制作された音楽作品「任天堂スーパーファミコン・ゲームミュージック」発売。冒頭8曲は音楽制作機材を用いたリアレンジ版で、リアレンジは元[[ゴダイゴ]]の[[浅野孝已]]が担当。
* [[1993年]]
** [[3月18日]] - 経営悪化していた[[衛星デジタル音楽放送]]に7億8200万円を出資するとともに、スーパーファミコンと衛星放送を結びつけるサービスを1994年4月から開始と発表<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂、衛星放送利用に乗り出す セントギガに出資 TVゲームの新分野に |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19930501p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=448 |agency=アミューズメント通信社 |date=1993-05-01 |page=1}}</ref>。
** 12月 - 出荷台数、国内1136万台、米国1416万台<ref name="gamemachine19940415">{{Cite news |和書 |title=GBソフトが使える SFC周辺装置 任天堂が6月にも発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19940415p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=470 |agency=アミューズメント通信社 |date=1994-04-15 |page=4}}</ref>。
* [[1994年]]
** [[3月14日]] - スーパーファミコンを使用しテレビで[[ゲームボーイ]]ソフトが遊べるアダプタ『[[スーパーゲームボーイ]]』を同年6月中旬発売と発表{{R|gamemachine19940415}}。
** [[6月14日]] - 『スーパーゲームボーイ』発売。
** [[6月23日]] - [[衛星放送]]を利用したデジタル放送を1995年2月から開始と発表<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂とセントギガ 来春BSでデータ放送 SFC用新作ソフト紹介など無料で |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19940801p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=477 |agency=アミューズメント通信社 |date=1994-08-01 |page=3}}</ref>。
** 94年後期 - 95年初期 - 型番が「SHVC-○○」から「SHVC-○○○J-JPN」に変更。
** [[12月21日]] - 世界初のデジタルデータ放送「スーパーファミコン放送」を1995年4月1日から開始と発表<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂/セントギガによるSFC利用の 衛星データ放送開始 2月から申し込み受け付け、4月から実施 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19950201p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=488 |agency=アミューズメント通信社 |date=1995-02-01 |page=1}}</ref>。
* [[1995年]]
** [[2月23日]] - 「スーパーファミコン放送」開始日を同年4月23日に延期することを発表<ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂SFCアワー 本放送23日から セット価格1万8千円に変更 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19950401p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=492 |agency=アミューズメント通信社 |date=1995-04-01 |page=3}}</ref>。
** [[4月1日]] - BS音声放送局[[セント・ギガ]]と共同で、専用アダプタ「サテラビュー」を接続したスーパーファミコンを受信端末とした、[[衛星データ放送]]の試験放送を開始。
** [[4月23日]] - スーパーファミコン向け衛星データ放送の本放送を開始。
** [[12月14日]] - 1996年[[2月1日]]より任天堂は自社ソフトの価格上限を引き下げると共に、ソフト評価機関スーパーマリオクラブで一定の評価を得たサードパーティ製ソフトのロイヤリティを引き下げると発表。ソフト価格を最大9,800円に設定した次世代機[[NINTENDO64]]の発売を見据えた措置<ref>{{Cite news |和書 |title=2月出荷分から SFC用値下げ 任天堂、OEM価格引き下げ |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19960201p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=511 |agency=アミューズメント通信社 |date=1996-02-01 |page=7}}</ref>。
* [[1996年]]
** 4月中旬 - 電話回線による通信対戦可能な機器『XBAND』がカタパルト・エンタテインメントから発売<ref>{{Cite news |和書 |title=SFCと電話回線使った 通信対戦装置 カタパルト「Xバンド」を発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19960615p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=520 |agency=アミューズメント通信社 |date=1996-06-15 |page=6}}</ref>。
** [[8月14日]] - 本体の希望小売価格を9,800円に引き下げ。本体値引きクーポン券の期限切れによる代替措置。当時の実売価格は1万円台前半で推移していたが、日本国内において希望小売価格値下げが行われたのは初めて<ref>「スーパーファミコン9800円に テコ入れ狙い下げ ソフトは据え置き 任天堂、来月14日から」 『日本経済新聞』1996年7月19日付朝刊、第13版、第13面。</ref><ref name="natsukashi"/>。
** [[11月14日]] - フラッシュメモリを利用してゲームソフトを書き換えるシステムを[[ローソン]]で展開することで合意。1997年4月から試験運用、夏から本格稼働すると発表<ref>{{Wayback|url=http://www.nintendo.co.jp/n10/news961114.html|title=報道資料 任天堂株式会社 ゲ-ムソフト流通の新サ-ビスについて|date=19970128185543}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂の新システム ソフト書き換え SFC用、ローソン店頭で来夏 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19960615p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=532 |agency=アミューズメント通信社 |date=1996-12-15 |page=7}}</ref>。
* [[1997年]]
** [[9月26日]] - 東京都内のローソンにてゲーム書き換えサービス「[[ニンテンドウパワー]]」の試験運用を同年9月30日から、同年11月1日からサービス開始することを発表<ref>{{Cite press release|和書|title=日本最大規模のオンラインネットワーク 「マルチメディアステーション」の一つのサービスとして 「ニンテンドウパワー」スタート |url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/1997-99/970926.html |publisher=任天堂 |date=1997-09-26 |accessdate=2021-05-01}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=任天堂「SFC」の ソフト書き換え ローソン設置のMMCで |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19971101p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=552 |agency=アミューズメント通信社 |date=1997-11-01 |page=4}}</ref>。
** [[9月30日]] - 「ニンテンドウパワー」の試験運用開始。順次日本全国に拡大。
* [[1998年]]
** [[1月30日]] - [[ポケットモンスター]]の人気を受け、スーパーゲームボーイに通信コネクタを追加した上位機種『スーパーゲームボーイ2』発売。
** [[3月27日]] - 本体価格を2千円値下げした廉価機『[[#スーパーファミコンジュニア|スーパーファミコンジュニア]]』発売。価格7,800円<ref name="gamemachine19980401">{{Cite news |和書 |title=任天堂、家庭用で 新製品を次々と 4月に「GBライト」発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19980401p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=561 |agency=アミューズメント通信社 |date=1998-04-01 |page=14}}</ref>。
* [[1999年]][[3月31日]] - 任天堂が衛星データ放送事業から撤退。4月以降、サテラビュー向け放送サービスはセント・ギガ単独提供で継続。
* [[2000年]][[6月30日]] - セント・ギガがサテラビュー向け衛星データ放送終了。
* [[2002年]][[8月31日]] - ニンテンドウパワー、ローソン店頭でのサービスを終了。以降は任天堂本社、各営業所へ引き継がれる。
* [[2003年]]9月30日 - 部材調達の困難等を理由に本体の生産終了。
* [[2004年]] - 最終的な出荷台数は日本で1,717万台、アメリカで2,335万台、その他の国で858万台、全世界累計出荷台数4,910万台{{R|nintendosales}}。
* [[2007年]]
** [[2月28日]] - ニンテンドウパワーサービス終了。
** [[10月31日]] - スーパーファミコンの公式修理サポート受付終了。
** 11月 - 「[[クラブニンテンドー]]」の2007年度(平成19年度)プラチナ会員特典の内容が発表され、その一つとして「Wii スーパーファミコン クラシックコントローラ」が賞品として登場、翌年4月に希望した会員に発送された。このコントローラは、その名の通り、Wiiの[[Wiiリモコン#クラシックコントローラ|クラシックコントローラ]]として本機のコントローラをほぼ完全に復刻させたもので、パッケージもスーパーファミコンの箱の絵柄に似せてある。
* [[2012年]]6月 - スーパーファミコンJr.の公式修理サポート受付終了<ref>{{Wayback|url=http://www.nintendo.co.jp/n10/repair/syuryou.html|title=修理のご案内:修理の受付が終了した商品|date=20120627194310}}<br />{{Wayback|url=http://www.nintendo.co.jp/n10/repair/syuryou.html|title=修理のご案内:修理の受付が終了した商品|date=20120706231115}}</ref>。
== ハードウェア ==
開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持するため、接続コードで繋ぐことによって映像音声出力およびコントローラを共通化した外部入力装置「ファミコンアダプタ」の使用が提示されていた<ref name="gamemachine19890115">{{Cite news |和書 |title=任天堂の16ビットファミコン スーパーFCの発表 従来のFCとは「間接互換」で7月発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19890115p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=348 |agency=[[アミューズメント通信社]] |date=1989-01-15 |page=2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date=2018-5-30 |title=ワンダーライフスペシャル 学年誌が伝えた子ども文化史 昭和50〜64年編 |publisher=小学館 |page=39 |isbn=978-4-09-106615-2 }}(『[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]』1989年1月号記事の再録)</ref>。最終的には互換性の維持を断念し、新規プラットフォームとして発売された。
=== 本体部 ===
ハードウェアのスペックとしては、[[CPU#ビット幅|16ビットCPU]] 、32,768色(15[[色深度|bpp]])から選択可能な16色のカラーパレットと、それらのカラーを適用可能な16色[[スプライト (映像技術)|スプライト]]、一画面あたり最大128個のスプライト同時表示、背景の多重スクロールと回転・拡大・縮小表示機能、[[ソニー]]の[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]による[[PCM音源]]の採用など、カタログスペックとしては同時代の一線級のものを取り揃えている。これによりファミリーコンピュータと比べ、表示や音源の処理能力が格段に向上した。
CPUクロック周波数は、3.58MHzと低めに設定されたため、演算速度は競合機に比べ高速ではなかった。また、音の品質にメモリ容量が大きく関わるPCMを音源としながら、その音源用DSPに用意されたバッファは64KBであり、他のゲーム機で多く使われたFM音源や、波形メモリ音源、PSGなどと異なる活用ノウハウを求められた。これによって多彩な表現を可能にしたが、特定の音色のみの品質が高くなったり、不自然な鳴り方になるなど、高品質な再生までには時間を要した。
[[ロムカセット|カセット]]差し込み口シャッターは、ファミリーコンピュータ時代の手動式からスプリングによる自動開閉式に変更された。カセットを差し込む動きでシャッター部分が本体内部側へと倒れ、抜き出すと元に戻る。また[[電源]]スイッチを入れるとカセット差込口内部にツメが出る機構が備えられており、カセット前面下部のくぼみを引っかけロックされる。これによって電源スイッチを入れたままカセットを抜き差しすることはできなくなった。イジェクトレバーはボタン式に変更された。通電時には電源ランプが点灯する。
カセット接続端子は中央部と両端部とに分かれており、ソフトによって使われ方が異なっている(カセットの項目を参照)。
==== 仕様の詳細 ====
* CPU: 5A22 [[65816 (コンピュータ)|65C816]]互換, カスタム 16bit
** クロック周波数: 1.79MHz、2.68MHz、3.58MHzの三段階切替え(入力21.47727 MHz)
** RAM: 128KB DRAM
* グラフィック: S-PPU1およびS-PPU2(生産途中からPPUのワンチップ化や、S-CPUとのワンチップ化もあり)
** RAM: 64KB SRAM(VRAM、スプライトデータ、カラーパレットデータ)
** 解像度: ノンインターレース256×224, 512×224, 256×239, 512×239 / インターレース512×448, 512×478
** 画面: スプライトとバックグラウンド(BG)面最大4枚
** BGキャラクターサイズ: 32×32 - 128×128
** BG領域: 最大1,024×1,024(内部)
** 色: 32,768色中から選択
*** BG面の枚数と発色数の組み合わせをモード0 - 7から選択。モードにより各BG面は4色、16色、256色から8パレットまで設定可
** スプライト: 1画面中に最大128枚、横制限32枚。16色8パレットまで設定可。サイズ8×8、16×16、32×32、64×64からゲーム中に2つまでを設定可。縦反転・横反転表示可
** 特殊エフェクト: BG面拡大縮小回転(1軸)、半透明、モザイク、ウインドウ、ラスター
*** 半透明を使用時はカラーパレットの8パレット中の半分の4パレットを割り当てる
*** 2軸回転はラスターとの組み合わせによる
* 音源チップ: S-DSP(DSP)および 制御用S-SMP([[SPC700]]コア) クロック周波数1.024 MHz(入力24.576 MHz) ソニー製
** RAM: 64KB SRAM(S-DSPに接続)
** サンプリング周波数: 32kHz
** 同時発音数: 8チャンネル
** 16bit [[PCM音源]] ステレオ([[ADPCM]])
* AV出力: [[RGB21ピン]]/[[S端子]]/[[コンポジット映像信号|ビデオ]]/[[RF端子|RF]]
* 拡張コネクタ
* 外形寸法: 200mm(幅)×242mm(奥行き)×72mm(高さ)
* 重量: 約600g
スーパーファミコンの基板(SNS-CPU-RGB-01)に実装されているLSIの例<ref group="注">基板バージョンによっては搭載LSIが異なる。</ref>。
<gallery>
ファイル:5A22-02 01.jpg|S-CPU B(5A22-02)
ファイル:5C77-01 01.jpg|S-PPU1(5C77-01)
ファイル:5C78-03 01.jpg|S-PPU2 C(5C78-03)
ファイル:S-DSP A 01.jpg|S-DSP A
ファイル:S-SMP 01.jpg|S-SMP
</gallery>
=== 周辺部 ===
[[ゲームコントローラ|コントローラ]]は本体に2個同梱される附属品で、本体前面に2つ設けられているコネクタに接続する。コントローラの右側にあるボタンは、A・B・X・Yの4つで、上部の左右にはL・Rボタンがある。またコネクタは拡張端子の役割も兼ねており、ここに接続する様々な[[周辺機器]]も発売された。
[[ACアダプタ]]、[[高周波スイッチ|RFスイッチ]]、75Ω/300Ω変換器はファミリーコンピュータと共通で、スーパーファミコン本体とは別売りであった。[[RCA端子|RCAピンジャック]]やS端子を備えたテレビの場合は別売り専用ケーブルにより接続可能であった<ref group="注">本体側との接続に使われるコネクターの形状が独自規格であるため市販の映像ケーブルは使用不可。この規格は[[ニンテンドーゲームキューブ]]まで使われることになる。</ref>。
=== カセット ===
開発環境としてはソニーの32ビット[[ワークステーション]]・[[NEWS (ソニー)|NEWS(ニューズ)]]が使われた。
前世代機ファミリーコンピュータではメーカーやソフトによって様々な色やデザインのカセットが存在していたが、スーパーファミコンではほぼ全てのソフトが共通デザインのカセットを使用し、例外的なデザインのカセットもソフトも少数である。
通常のカセットの場合、そのサイズはファミリーコンピュータ用カセットよりも一回り大きい。前面部は緩やかに湾曲しており、中央上部にはメインのラベル、下部には本体側ロック機構用のくぼみがある。背面部は平坦で注意書きラベルが張られており、前面部と後面部の固定には特殊形状のビスを2本使用している。色は本体と同色のライトグレー。
衛星放送専用(または対応)カセットの場合、そのサイズは縦方向にさらに大きく、前面上側にメモリーパック差込口を備えている。色は通常カセットよりも濃いグレー。周辺機器の一つである[[スーパーゲームボーイ]]もほぼ同様の特徴である。
書き換え用SFメモリカセットの場合、形状は通常カセットとほぼ同様だが色はホワイト。メインラベルには書き換えたソフトのミニラベルを張るための余白部分がある。
特殊形状のカセットと[[スーパーファミコンの特殊チップ|特殊チップ]]使用の一部通常カセットは[[エッジ・コネクタ]]の差し込み端子数が両端部に8ピン分多い。
ファミリーコンピュータの場合と同様、カートリッジスロットは拡張[[バス (コンピュータ)|バス]]でもあるため、そのCPU性能の低さを補うための、演算補助用プロセッサや、実時間を反映させるための[[リアルタイムクロック|RTC]]等の本体機能を補助する[[スーパーファミコンの特殊チップ|特殊チップ]]をカートリッジに搭載したソフトも多く発売された。『[[パイロットウイングス]]』や『[[スーパーマリオカート]]』等では、DSP-1と呼ばれる固定小数点プロセッサを搭載、回転、ベクトル演算を補佐。[[スターフォックス]]、[[ワイルドトラックス]]などの3D[[ポリゴン]]でのゲームを実現した[[スーパーFXチップ]]や、SA-1と呼ばれる、本体の5A22CPUと同じコアを10MHzで動作させ、本体CPUと協調させてパフォーマンスを得るプロセッサ、ROM内のデータの伸張サポートや、プロテクト目的など、さまざまなものがソフトウェアに応じてカートリッジ内に搭載された。
ソフトの箱や取扱説明書にも統一が行われており、通常カセットの場合は[[VHS]]用ビデオテープと同サイズの紙製外箱とプラトレイ、縦長の中綴じ説明書<ref group="注">「[[スーパーマリオワールド]]」のような折り畳み式の説明書もあった。</ref>、衛星放送対応ソフトの場合はそれよりもやや横幅の広い外箱と紙製トレイ、同じくやや横に広い中綴じ説明書に揃えられている。
ロム容量は、ローンチタイトルの『スーパーマリオワールド』(1990年)で4[[メガビット]](512[[キロバイト]])<ref>{{Cite web|和書|title=「データ容量」で読み解くビデオゲーム史:40年間で530万倍にも増加したデータ容量、その時代ごとの特徴を整理する |url=https://jp.ign.com/videogame-history/65385/opinion/40530 |website=IGN Japan |date=2023-01-29 |access-date=2023-01-30 |author=Otomaru}}</ref>、最大は『[[テイルズ オブ ファンタジア]]』(1995年)および『[[スターオーシャン]]』(1996年)の48メガビット(6[[メガバイト]])<ref>{{Cite web|和書|title=初代『スターオーシャン』がSFCで発売された日。SFとファンタジーが融合した物語が魅力的で、仲間の素顔が垣間見える特殊イベント“PA”にも夢中になった【今日は何の日】 |url=https://www.famitsu.com/news/202007/19202489.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-01-30 |author=ウワーマン |date=2020.07.19}}</ref>。
ファミリーコンピュータではカセットや本体にごくわずかな振動があるだけでも動作停止していたが、{{要出典|範囲=スーパーファミコンはファミリーコンピュータに比べればいくぶん振動に対し強くなっている。|date=2022年7月}}
== 本体 ==
本機は1990年(平成2年)11月21日発売の初期型と1995年(平成7年)頃発売の後期型がある。型番は初期型はSHVC-001、後期型はSHVC-001 SHVC-JPN-1。本体カラーは両方ともグレー。
=== バリエーション ===
[[File:SuperFamicom_jr.jpg|thumb|200px|スーパーファミコンジュニア]]
; スーパーファミコンジュニア(SUPER Famicom Jr.)
: 1998年3月27日に発売された、スーパーファミコンの基本性能はそのままにデザインを一新・小型化し、[[RF接続|RF]]出力、[[RGB21ピン]]ケーブルおよび[[S端子]]ケーブルによる映像出力、RF端子、カセットイジェクト機構、 28ピン拡張コネクタ([[サテラビュー]]との接続端子)、電源ランプを廃した廉価機である。型番はSHVC-101。同時発売ソフトは『[[星のカービィ3]]』。
: セット内容は本体とコントローラ1個、取扱説明書のみだった。コントローラの型番はSNS-102と、従来のSHVC-005とは若干デザインが変わり、ケーブルの長さも2倍の約2mに延長されている。ローソンではSFメモリカセット同梱版も販売された。
: RF出力端子は搭載されておらず、RF接続するには別売のNINTENDO64用のRFモジュレータ(NUS-003)が必要となる。[[AV仕様ファミリーコンピュータ]]用のRFモジュレータ(HVC-103)は使用できない。
: サテラビューとの接続端子が省略されているので衛星データ放送の受信はできない{{R|gamemachine19980401}}。また、SHVC-001とはコントローラ1(1コン)端子とコントローラ2(2コン)端子の位置が異なるので、一部サードパーティ製のワイヤレスコントローラなど両方の端子へのコネクタが一体型となっている周辺機器は使用できない。
: カセット差込口はSHVC-001より浅く、カセットを奥まで差し込んでも着脱防止用溝が若干見えたままになる。
; スーパーファミコンボックス
: 業務用でホテルや旅館の客室に設置するために作られたスーパーファミコン。
: 1995年3月7日から10日にかけて、晴海の国際見本市会場で第23回国際ホテル・レストランショーが開催され、ホテルやレストランで使う機器を集めた展示会の中でベルウッドという会社のブースにスーパーファミコンボックスも展示されていたが任天堂製品である<ref name="famitsu328">{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.328|date=1995年3月31日|publisher=アスキー|page=11}}</ref>。
: コントローラーが2つ付いた本体の中に5種類のソフトが内蔵されている。ソフト交換も可能。無料サービスにするか有料にするか設定変更が可能{{R|famitsu328}}。
: 利用者はメニュー画面に従って操作をすることで、内蔵された中の好きなゲームを選べる。対戦プレーも可能。ゲームの操作方法も簡易な説明が表示される{{R|famitsu328}}。
=== 互換機 ===
{{Main|スーパーファミコン互換機}}
; SF1
: シャープが発売したスーパーファミコン内蔵テレビ。
; プレイステーション(未発売)
: {{see also|PlayStation (ゲーム機)#開発の経緯}}
: [[File:Superdisc logo recreation.png|thumb|200px|スーパーディスクのロゴ]]
: [[File:Sony-playstation prototype.jpg|thumb|200px|プレイステーション(試作機)]]
: スーパーファミコンとCD-ROMアダプタの一体型ゲーム機。競合他社への対抗策として[[ソニー]]と共同で専用[[CD-ROM]]システム「プレイステーション」<ref group="注">後に発売されるソニーのゲーム機の[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]とは名前は同じだが、[[商標]]とロゴを流用しただけの別物</ref>の開発が進められていた。
: [[1991年]]6月にソニーが米国のゲームショーでスーパーファミコンと互換性を持つCD-ROM機を発表して新聞でも報道された翌日、今度は任天堂が記者会見で[[フィリップス]]社と[[CD-i]]規格を用いたゲーム機共同開発を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20180524-nintendo-philips-cd-i/ |title=任天堂とフィリップスが共同開発しPlayStation誕生のきっかけとなった黒歴史ゲームハード「CD-i」とは? |website=[[GIGAZINE]] |publisher=OSA |date=2018-05-24 |accessdate=2021-02-21}}</ref>ため、ソニーに冷や水を浴びせるかたちとなった。
:; ソニー側
:: ソニーにとって任天堂はスーパーファミコン用の部品を卸していた顧客でもあったため、法的手段には訴えず交渉を続けた結果、販売元がソニーから任天堂に移行するなど契約の変更がなされたが、任天堂は当時の2倍速CD-ROMでもゲームの読出し速度が不十分であることや、ライセンス許諾権の取り扱い(ソニー独自にライセンスを発行でき、任天堂の影響外で市場を形成できてしまう)などCD-ROMの権利を巡っての意見の相違などの理由を挙げ、一方のソニーは任天堂側の変心を訴えていた。
:: [[1993年]]発売予定だったがお蔵入りとなる。ソニーの[[久夛良木健]]によると、フィリップス社との共同開発機には、[[CD-i]]が採用されることになっており、CD-iをフィリップスと共同開発したソニーとしてCD-iにできること・できないことを理解しており、「任天堂さんとは道が離れた。進化の先に見ていたものが違った」と判断し、「だったら我々は我々の方法で、進化を加速させよう!」とソニーの独立したゲーム機、プレイステーションを開発することになった<ref>[[ファミ通]]プレイステーション クラシック</ref>。
:: [[2015年]]7月、実際の所有者が写真および動画を公開し<ref>{{Cite web|和書|url=http://gigazine.net/news/20150706-snes-playstation/|title=ソニーがかつて任天堂と共同開発したスーパーファミコン互換「PlayStation」の実機が見つかる|website=GIGAZINE|publisher=OSA|date=2015-07-06|accessdate=2017-06-27}}</ref>、[[2016年]]7月に別の情報が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://gigazine.net/news/20160725-nintendo-playstation/|title=任天堂とソニーが共同開発した幻のゲーム機「Nintendo PlayStation」|website=GIGAZINE|publisher=OSA|date=2016-07-25|accessdate=2017-06-27}}</ref>。
:; 任天堂側
:: [[1992年]](平成4年)[[8月26日]]に行われた第4回初心会展にて、当時の任天堂社長の[[山内溥]]は1993年8月にはハードの量産ができ、CD-ROMを使用したゲームも開発中だがいいゲームソフトができない限り出荷はしない<ref>{{Cite news |和書|title=晴海で開かれた第4回初心会展 山内社長が講演 CD-ROMはソフト次第、強調 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19921015p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=436 |agency=アミューズメント通信社 |date=1992-10-15 |page=3}}</ref>と述べていたが、その後フィリップス社とのCD-ROM機も世に出ることはなかった。
{{Clear}}
=== 海外版 ===
[[ファイル:SNES-Mod1-Console-Set.png|thumb|200px|Super Nintendo Entertainment System]]
[[File:Hyundai Super Comboy - Main Body.jpg|thumb|200px|Hyundai Super Comboy]]
; Super Nintendo Entertainment System
: {{Main|Super Nintendo Entertainment System}}
: スーパーファミコンの[[北米]]版、・[[ヨーロッパ]]版。また、“[[Nintendo Entertainment System]]”(略称:NES、ファミリーコンピュータの北米・ヨーロッパ・[[アジア]]・[[オーストラリア]]版)の後継機にあたる。
: コンソールに“'''Super Nintendo'''”の部分が大きく表記されていたため、現地では「'''スーパーニンテンドー'''」の愛称で親しまれた。“'''SNES'''”もしくは“'''Super NES'''”と略されることが多い。メーカー型番はSNS(北米)、SNSP(ヨーロッパ)。
; スーパーコンボイ
: {{Main|Super Nintendo Entertainment System#韓国版(スーパーコンボイ)}}
: スーパーファミコン(SNES)の[[大韓民国|韓国]]版であり、本体やカセットにはスーパーコンボイのロゴと共に、「Super Nintendo Entertainment System KOREAN VERSION」のロゴが記されている。
: 発売元が任天堂ではなく現代電子産業(現・[[SKハイニックス]])となっているが、同時期の[[セガ]]と[[サムスン電子]]との提携とは異なり、韓国でのライセンス生産ではなく任天堂からOEM供給したものである<ref group="注">現代電子は1989年から1999年にかけて本機のみならず、NES(日本国外版ファミリーコンピュータの名称)、ゲームボーイ、NINTENDO64のライセンス販売も行っていた。</ref>。
: メーカー型番はHGM-3000(現代電子)、SNSN(任天堂)<ref group="注">香港・台湾にて任天堂の現地子会社が発売したスーパーファミコン用ソフトの品番もSNSN表記。</ref>。
=== 復刻版 ===
; ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン
{{Main|ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン}}
本体を小型化し21種類のスーパーファミコン用ソフトを内蔵した復刻版「'''ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン'''」が[[2017年]][[10月5日]]に発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/74fe7608-5638-11e7-8cda-063b7ac45a6d|title=ファミコンに続いて、スーパーファミコンが小さくなって再登場!|publisher=任天堂|date=2017-06-27|accessdate=2017-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201706/27136384.html|title=ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン、10月5日発売決定! 幻の『スターフォックス2』のほか、国内では『FE 紋章の謎』や『パネルでポン』などを収録|website=ファミ通.com|publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]]|date=2017-06-27|accessdate=2017-06-27}}</ref>。収録作品の中には、当時開発されながら発売に至らなかった『[[スターフォックス2]]』も含まれている。
; バーチャルコンソール
: {{Main|バーチャルコンソール}}
: 2006年発売の[[Wii]]、2013年発売の[[Wii U]]、2014年発売の[[Newニンテンドー3DS]]で、かつて発売された一部のゲームをダウンロード購入し、遊ぶことの出来るサービス。
; スーパーファミコン Nintendo Switch Online
: {{Main|スーパーファミコン Nintendo Switch Online}}
: [[Nintendo Switch]]ではオンラインサービス「Nintendo Switch Online」にて、[[2019年]][[9月6日]]より専用ソフト『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』がオンラインサービスの加入者向けにダウンロード可能となっている。スーパーファミコン用ゲームが収録(サービス開始時は20本)されており、オンラインで対戦や協力プレイが可能。また、同ソフト専用としてスーパーファミコンのコントローラを実物大に再現した「'''スーパーファミコン コントローラー'''」がオンラインサービス加入者限定で通信販売されている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-05 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1909/05/news060.html |title=Nintendo Switch Onlineに待望のスーパーファミコン参戦! 9月6日に第1弾20タイトルを一挙追加へ |website=ねとらぼ |publisher=ITmedia |accessdate=2023-03-17}}</ref>。
== 周辺機器 ==
=== 任天堂純正 ===
{{Gallery
|File:Super-Famicom-Controller.jpg|コントローラ(SHVC-005)
|File:SFC Super Mario World cassette 20090828.jpg|カセット(SHVC-006)の例{{Efn2|写真はスーパーマリオワールド。著作権保護のためにモザイク加工をしている。}}。
|File:Nintendo-SNES-N64-GameCube-AV-Composite-Cable.jpg|ステレオAVケーブル(SHVC-008)
}}
型番のSHVCは'''S'''uper '''H'''ome '''V'''ideo '''C'''omputerの略。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!style="width:5.5em" | 型番!!style="width:16.5%" | 名称!!備考
|-
|SHVC-005||'''コントローラ'''||スーパーファミコン専用のコントローラ。本体に2つ同梱。ファミリーコンピュータのコントローラに比べ、大幅にボタン数が増えた。初期のモデルはLRボタン表記が2色成型でなされているが、途中からエンボス加工に、またラバードームも強化版に変更された。
|-
|SHVC-006||'''カセット'''||スーパーファミコンのソフト媒体のROMカセット。本体に差し込み、電源を入れるとラベル下のくぼみにカセットをロックするツメが引っかかり、イジェクト防止となっている。
|-
|SHVC-007||'''モノラルAVケーブル'''||スーパーファミコンの映像と音声をテレビに出力するケーブル。音声はモノラルで出力される。[[ファミリーコンピュータ#AV仕様ファミリーコンピュータ|AV仕様ファミコン]]でAV出力するときにもこれが必要。
|-
|SHVC-008||'''ステレオAVケーブル'''||スーパーファミコンの映像と音声をテレビに出力するケーブル。音声はステレオで出力される。AV仕様ファミコンや、[[NINTENDO64]]・[[ニンテンドーゲームキューブ]]でAV出力するときにもこれが必要。
|-
|SHVC-009||'''S端子ケーブル'''||スーパーファミコンの映像と音声をテレビに出力するケーブル。音声はステレオで出力される。ステレオAVケーブルより高い画質で出力できる。初期型は、ケーブルの途中に小さなボックスが付いており、そこから3つのコードが分かれるようになっていた<ref>[http://maru-chang.com/hard/shvc/009/old.jpg old.jpg]([http://maru-chang.com/hard/shvc/index.htm SHVC: スーパーファミコン]、[http://maru-chang.com/ MiragePalace]){{出典無効|date=2017年6月27日|title=個人サイト}}</ref>。NINTENDO64・ニンテンドーゲームキューブでも使用可能。
|-
|SHVC-010||'''RGBケーブル'''||スーパーファミコンの映像と音声をテレビに出力するケーブル。音声はステレオで出力される。スーパーファミコンで最も高い画質が出力可能。
|-
|SHVC-013||'''[[スーパースコープ]]'''||ワイヤレス式の光線銃。肩に背負い使用する。電源は単三乾電池6本。
|-
|SHVC-014||'''レシーバーパック'''||スーパースコープの附属品。スーパースコープから発信される赤外線信号を受信する。コントローラコネクタ2に接続して使用する。
|-
|SHVC-027||'''[[スーパーゲームボーイ]]'''||スーパーファミコンでゲームボーイ/カラー共通のソフトを使用できる。
|-
|SHVC-028||'''衛星放送専用カセット'''||8MメモリーパックやROMパックを接続するのに使用するカセット。
|-
|SHVC-029||'''[[サテラビュー]]'''||スーパーファミコンの衛星放送サービスを利用するための機器。28PIN拡張コネクタに接続して使用する。
|-
|SHVC-030||'''専用AVセレクタ'''||サテラビュー、BS機器、テレビの接続に使用する。
|-
|SHVC-031||'''専用8Mメモリーパック'''||サテラビューで配信されるデータを保存するメモリー。8Mbit(1MB)。
|-
|SHVC-032||'''専用ACアダプタ'''||スーパーファミコン、サテラビュー、専用AVセレクタに電源を供給する機器。線の途中にAC-DCコンバータがある。サテラビューを使用するときはこれを使用する。
|-
|SHVC-033||'''専用電源中継ボックス'''||スーパーファミコンとサテラビューの電源を共同で使えるようにする機器。DCカプラ。スーパーファミコンのDC INに接続する。
|-
|SHVC-039||'''ROMパック'''||メモリーパックと異なりデータの書き換えは出来ず、読み出し専用。
|-
|SHVC-040||'''衛星放送専用カセット'''||8MメモリーパックやROMパックを接続するのに使用するカセット。SHVC-028の後期型で、機能は同じ。
|-
|SHVC-041||'''SFメモリカセット||[[ニンテンドウパワー]]の書き換えに使用するカセット。
|-
|SHVC-042||'''[[スーパーゲームボーイ|スーパーゲームボーイ2]]'''||スーパーゲームボーイに、通信機能を搭載したもの。
|-
|SNS-016||'''[[スーパーファミコンマウス|マウスコントローラ]]'''||スーパーファミコン用のマウス。SHVC-016は確認されていない。マリオペイントに附属。<br />単品販売もされた。コントローラコネクタに接続して使用。
|-
|SNS-017||'''マウスパッド'''||マウスコントローラ用のマウスパッド。マリオペイントに附属。SHVC-017は確認されていない。
|-
|SNS-102||'''コントローラ'''||スーパーファミコンJr.に附属。ケーブルが長くなっている。日本での単品販売はされていない。
|-
|HVC-002||'''ACアダプタ'''||ファミリーコンピュータと共用。スーパーファミコンJr.、AV仕様ファミコン、[[バーチャルボーイ]](別途ACアダプタタップが必要)にも流用可能。
|-
|HVC-003||'''RFスイッチ'''||アンテナ線を介してテレビに接続させるための混合器。<br />ビデオ入力に対応していないテレビで必要になる。NINTENDO64、ニンテンドーゲームキューブと共用。
|-
|HVC-004||'''75Ω / 300Ω変換器'''|| 75Ω同軸ケーブルを300Ωフィーダ線に変換する。ファミリーコンピュータと共用。
|-
|NUS-003||'''RFモジュレータ'''||スーパーファミコンJr.をテレビに[[RF接続]]させるための変換器。[[コンポジット映像信号|コンポジットビデオ]]入力に対応していないテレビで必要になる。[[NINTENDO64]]と共用。本来はNINTENDO64の周辺機器。
|-
|NUS-009||'''RFスイッチUV'''||RFスイッチの改良版。[[ファミリーコンピュータ]]、[[NINTENDO64]]と共用。本来はNINTENDO64の周辺機器。
|}
※映像音声用のケーブルはその後に発売された任天堂家庭用ゲーム各機でも使用可能(ゲームキューブまで)ただし機種によっては使用不可のケーブルもある。
=== その他(ライセンス商品) ===
{{Gallery
|File:Asciiware-AsciiPad-Super-Nintendo-Controller.jpg|アスキーパッド(AS-131-SP)
|File:Super-Advantage-Controller.jpg|スーパーアドバンテージコントローラー
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:4.5em" | 発売元 !! style="width:5.5em" | 型番!!style="width:16.5%" | 名称 !! 備考
|-
| [[バンダイ]]
| SFT-0100
| '''[[スーファミターボ]]'''
| スーファミターボ専用カセットを使用するためのアダプタ。
|-
| rowspan="5"|[[アスキー (企業)|アスキー]]
| A001AATFT
| '''[[ターボファイル|ターボファイルツイン]]'''
| 外部記録媒体。電源は乾電池。ターボファイルアダプターを接続することにより、ファミコン周辺機器のターボファイル、ターボファイルIIも使用可能。
|-
| AS-131-SP
| '''アスキーパッド'''
|
|-
| AS-8864-SF
| '''スーパーアスキースティック'''
|
|-
| AS-9982
| '''ファイタースティックスペシャル'''
|
|-
| ASC-0401J
| '''アスキーグリップ'''
| 片手コンローラー。
|-
| [[イマジニア]]
| IMP-2
| '''イマジニアパッドプラス'''
|
|-
| [[エポック社]]
|
| '''バーコードバトラーII インターフェース'''
| [[バーコードバトラー|バーコードバトラーII]]とスーパーファミコンを接続する機器。
|-
| rowspan="2"|オプテック
|
| '''マルチアダプターオート'''
| [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]]。ヨネザワ製マルチアダプターオートの後継。
|-
|
| '''ワイヤレスマルチショット2'''
| ヨネザワ製ワイヤレスマルチショットの後継。
|-
| rowspan="2"|[[カプコン]]
| CP-SO1CAN
| '''カプコンパッドソルジャー'''
|
|-
| CPS-A10CA
| '''カプコンパワースティックファイター'''
|
|-
| rowspan="2"|[[コナミグループ|コナミ]]
| JE510
| '''MODEL510'''
| [[リーサルエンフォーサーズ]]で使用する銃型コントローラ。
|-
| RU009
| '''必殺コマンドコントローラ'''
|
|-
| rowspan="2"|[[ハドソン]]
| HC-691
| '''スーパージョイカード'''
|
|-
| HC-696
| '''スーパーマルチタップ'''
| マルチタップ
|-
| rowspan="6"|[[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ電機]]
| HSD-07
| '''SGBコマンダー'''
|
|-
| HSJ-11
| '''スーパーホリコマンダー'''
|
|-
| HSJ-12
| '''ファイティングスティック'''
|
|-
| HSJ-14
| '''ファイティングコマンダー'''
|
|-
| HSM-07
| '''ホリマルチタップ'''
| マルチタップ
|-
| HST-07
| '''スーパーターボ'''
| 連射用ユニット
|-
| [[電波新聞社|マイコンソフト]]
| XE-1 SFC
| '''インテリジェントジョイスティック'''
|
|-
| rowspan="3"|ヨネザワ
|
| '''マルチアダプターオート'''
| マルチタップ
|-
|
| '''ワイヤレスマルチショット'''
|
|-
|
| '''早押しツインタップ'''
| [[史上最強のクイズ王決定戦|史上最強のクイズ王決定戦Super]]用コントローラ
|-
| [[サン電子|サンソフト]]
|
| '''必殺パチンココントローラー'''
|
|-
| [[サミー]]
| SC-C1
| '''実戦パチスロコントローラー'''
|
|-
| [[日商岩井]]
|
| '''[[XBAND]]モデム スターターキット'''
| カタパルト・エンタテインメント製。通信対戦サービス用の周辺機器。電話回線・対応ソフト・専用プリペイドカードを接続しマッチング対戦やメール通信サービスなどを利用することが可能。他にゲーム業界の情報を知るためのニュースやBANDWIDTHのサイトにもアスセスするなどのインターネットにも近いサービスでもある。ゲーム雑誌にはXGALSが広告として載せられていた<ref>{{Cite book|title=WEEKLYファミ通|date=1996年6月28日|publisher=株式会社アスキー}}</ref>。
|-
| [[NTTデータ]]
|
| '''通信セットNDSF'''
| 「通信モデムNDM24」と、[[テンキー]]つきの[[キーパッド]](コントローラ)などのセット。JRA PAT(競馬の[[電話投票]]システム)用。
|-
| リコー教育機器
| LB100S
| '''レーザバーディ'''
| 室内用ゴルフシミュレータ。専用ソフト「ゲットインザホール」とセンサーマット、レーザークラブなどのセット<ref>{{Cite web|和書|title=グッドハウス代表及びメンバー企画商品・受賞歴(一部紹介) |url=https://www.goodhouse.ne.jp/01-1.html |website=グッドハウス |access-date=2023-01-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=グッドハウス 企画・開発ヒット商品 アーカイブ |url=https://www.goodhouse.ne.jp/03.html |website=グッドハウス |access-date=2023-01-24}}</ref>。
|}
== ソフトウェア ==
対応ソフトは[[1990年]]から[[2000年]]の間に1,447タイトル(非ライセンス品を含まず)発売された。
{{Main|スーパーファミコンのゲームタイトル一覧}}
[[ローンチタイトル]]は『[[スーパーマリオワールド]]』と『[[F-ZERO]]{{refnest|group="注"|『F-ZERO シリーズ』の主人公である「[[キャプテン・ファルコン]]」は、元々スーパーファミコン自体のイメージキャラクターとして作られていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/0e9c42d3-7d8a-11e7-8cda-063b7ac45a6d|title=「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」発売記念インタビュー 第2回「F-ZERO篇」|publisher=任天堂|date=2017-09-07|accessdate=2018-7-10}}</ref>。}}』。『F-ZERO』や少し遅れて発売された『[[パイロットウイングス]]』は、当時の他のゲーム機にはなかった、画像の拡大縮小回転といったスーパーファミコンの性能をフルに生かした内容であった。
1991年7月には『[[ファイナルファンタジーIV]]』が発売され、本体の普及に貢献する。
1992年頃から、ゲームの大容量化によりソフト価格が高騰。定価を「1万円程度」とするソフトが多くなる<ref name="natsukashi"/>。しかし『[[ストリートファイターII]]』、『[[スーパーマリオカート]]』、『[[真・女神転生]]』、『[[ドラゴンクエストV 天空の花嫁]]』、『[[ファイナルファンタジーV]]』などの人気ソフトが相次いで発売されたことでゲーム機市場の主導権を握ることとなった。この状態は次世代機への世代交代となった[[1996年]](平成8年)頃まで続く。
1993年2月21日には[[スーパーFXチップ]]を初搭載した3D[[ポリゴン]]ソフト『[[スターフォックス]]』が発売される。
同年春には[[味の素]]マヨネーズの懸賞に非売品スーパーファミコンソフト『もと子ちゃんのワンダーキッチン』が登場。以降、非売品ソフトを景品として採用する動きが盛んになる。
1994年にはソフトの価格がさらに高騰、『[[ファイナルファンタジーVI]]』を皮切りに1万円を超えるソフトが出始める。
1995年8月には[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]と[[セガサターン]]間で繰り広げられていた次世代機の値下げ競争に合わせ『[[マリオのスーパーピクロス]]』に店頭価格より安く本体が購入できるクーポン券を同梱。以降発売の『[[スーパードンキーコング2]]』『[[スーパーマリオRPG]]』『[[星のカービィ スーパーデラックス]]』にも同様のクーポン券が同梱される<ref name="natsukashi"/>。
1996年11月には任天堂より『[[スーパードンキーコング3]]』が発売される。世間では次世代機に移行している中で、人気シリーズの続編ということもあって国内販売180万本を記録し、晩年期を代表する作品となった。
1997年12月1日には[[ニンテンドウパワー]]で『[[平成 新・鬼ヶ島]] 前編』『平成 新・鬼ヶ島 後編』『[[同級生2]]』の3作が初の書き換え専用新作ソフトとして供給開始。
[[1998年]][[4月24日]]には『[[ロックマン&フォルテ]]』が発売される。ニンテンドウパワーでの書き換えを除く通常販売での新作としては最後のスーパーファミコンソフトとなった。
[[2000年]][[12月1日]]にはニンテンドウパワーにて『[[メタルスレイダーグローリー]] ディレクターズカット』の書き換えが開始された。ライセンス品では最後に販売されたスーパーファミコンソフトとなる。
非公認ソフトとしては[[2014年]]に『Nightmare Busters』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2014/01/22/73711.html|title=20年の時を経て…スーパーファミコン新作『Nightmare Busters』が遂に出荷|publisher=インサイド|date=2014-01-22|accessdate=2014-01-24}}</ref>、[[2017年]]に『Unholy Night: The Darkness Hunter 魔界狩人』が発売されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.ign.com/unholy-night-the-darkness-hunter/12857/preview/sfcunholy-night|title=まさかのSFC用"新作"対戦格闘ゲーム「Unholy Night」プレビュー|publisher=IGN Japan|date=2017-04-16|accessdate=2017-06-27}}</ref>。
== 反響 ==
既に発売されていた[[PCエンジン]]、[[メガドライブ]]を超える規模のシェアを獲得し、16ビットゲーム機([[ゲーム機#第4世代|第四世代]])でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持した。一方で最大市場の北米と[[フランス]]・[[ヨーロッパ]]・[[オーストラリア]]等の欧州市場では先行していたGENESIS(北米版メガドライブ)、メガドライブとほぼ互角状態で市場を分け合った。
[[2003年]]生産終了、[[2007年]]には任天堂による修理も打ち切られたが、[[2008年]]2月の調査「保有しているゲーム機ランキング」([[オリコンチャート|オリコン]]ランキング)で[[PlayStation 2]](62.3%)、[[ニンテンドーDS]](55.4%)に次ぐ第3位(42.5%)を記録する<ref>{{Wayback|url=http://life-cdn.oricon.co.jp/news/080207.html|title=スーパーファミコン、現在でも所有率4割強 オンラインゲームのオリコンランキング 2008年2月7日|date=20080208170601}}</ref>など、サポート終了後も根強い人気を誇るハードである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|Nintendo Super System|en|Nintendo Super System}} - {{仮リンク|PlayChoice-10|en|PlayChoice-10}}に似た業務用機。日本国外において[[任天堂VS.システム]]のようにゲームセンターなどで設置されていた。[[ネオジオ]]のように中の基板にカセットを挿すシステムを採用している。コインを入れたら特定の時間以内にしか遊べない。
* [[上村雅之]] - 任天堂開発第二部部長として開発に携わる
* [[バブル景気]] - [[バブル時代]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/ スーパーファミコン公式サイト]
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/shvcjr/ スーパーファミコンジュニア公式サイト]
{{任天堂}}
{{家庭用ゲーム機/任天堂}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:すうはあふあみこん}}
[[Category:スーパーファミコン|*]]
[[Category:スーパーファミコン用ソフト]]
[[Category:1990年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:1990年代の玩具]]
[[Category:任天堂のハードウェア]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:アセンブリ言語]]
[[Category:バブル景気]]
[[Category:登録商標]] | 2003-02-14T09:38:58Z | 2023-12-10T14:24:38Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%B3 |
1,577 | クイックディスク | クイックディスク (Quick Disk, QD) は磁気ディスクの一種。1984年2月にミツミ電機が記憶装置「クイックディスクドライブ」を、日立マクセル(現・マクセル)が記録媒体「簡易型フロッピーディスク Quick Disk (QD2)」を開発および発売した。
同心円状に複数のトラックがあるフロッピーディスクと異なり、クイックディスクには、レコードの溝のように、渦巻状のトラックが1本だけ存在する。フロッピーディスクに比べ安価で、3.5インチおよび3インチのフロッピーディスクよりも小型な記憶装置として開発された。当時パーソナルユースでの補助記憶装置として主流だったデータレコーダーに対しては読み書きの高速さが、フロッピーディスクに対してはメディア、ドライブ共に安価であることがアドバンテージであった。
その後、フロッピーディスクのドライブ、メディアは共に価格が降下し、ディスクの価格は逆転するまでになり結果的にアドバンテージは消失することとなった。
ディスクサイズは2.8インチ。γ-酸化鉄磁性体が両面に塗布されており、裏返してセットする事で両面が使える。ジャケットは78×78×3mm、プラスチック製でシャッターはなく、紙製のスリーブに入れて保存する。ライトプロテクトはツメを折り取ることにより行う。3.5インチマイクロフロッピーディスクより小さく、3インチコンパクトフロッピーディスクより薄い。ドライブの記録ヘッドにはメタル磁性体用のものを使用しており、隣のトラックとは充分な間隔があるためフロッピーディスク用と異なり消去ギャップがない。
容量は片面64キロバイト、両面で128キロバイト。最大記録密度は4410BPI。トラック密度は59TPI。ディスク回転数は423rpm。記録方式はMFM。コントローラICは富士通製MB87013とi8251の組み合わせもしくはZ80-SIO単独の採用例が多く、CRCによるエラー確認をしている。
通常のフロッピーディスクドライブではディスクの回転とヘッド送りに別々のモーターを使用するが、クイックディスクドライブは1個のモーターにカムを組み合わせることでディスクの回転とヘッド送りを同時に行う。この機構は低価格化に繋がる一方、ヘッドの位置決め精度が十分でなく、トラック密度を上げることができない。また、トラックが1本となっているため、片面全部を順に一気に読み出しまたは書き込みするシーケンシャルアクセスのみが可能で、任意部分へのランダムアクセスは不可能である。片面すべてを読み出しまたは書き込みするのに8秒かかる。メディアと同容量の64キロバイトのDRAMをバッファとして、「DRAMに読み込み→DRAM上でのランダムアクセス→書き出し」という方法を取ることで擬似的にランダムアクセスを実現出来るが、ディスク上の1バイトを書き換えるだけでも16秒(読み込み8秒+書き出し8秒)かかる上、当時の価格では大容量の高価なDRAMを必要とするため前述のコスト的メリットは低減する実装と言える。
パソコンではシャープ MZ-1500に標準搭載されたほか、MZ-700、MZ-2000/2200用の外付けドライブがある。MSXではLogitec、CASIOより外付けドライブがリリースされた。
MIDI機材ではヤマハ、ローランド、コルグ、AKAI、河合楽器製作所の音源ユニット、シンセサイザー、サンプラー、シーケンサー、データファイラに内蔵および外部ドライブとして採用された。
日本語ワードプロセッサーではシャープ、カシオ計算機、キヤノンの初期の一部の機種で外付けドライブがある。
また、ジャケットの厚み、形状を変更したメディアが任天堂のファミリーコンピュータ ディスクシステムで採用されている。「ファミリーコンピュータ ディスクカード」の名称で呼ばれ、シャッターを付けたカードや、色の異なるカードも作られた。模倣品を防ぐためジャケット面に商標を用いたアンチローディング機構を施してある。
1986年5月に三協精機が開発した2.5インチフロッピーディスクドライブはクイックディスクドライブと同様の機構を持つが、メディアは普及型フロッピーディスクと同様にシャッターが付いており、また、同心円のトラックを持つことでランダムアクセスを可能にしている。記憶容量はクイックディスクと同じ片面64キロバイトで、裏返しにして両面で合計128キロバイトを記録することができる。記録方式はGCR。ポケットコンピュータ用の外部記憶装置として採用された。 | [
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"text": "クイックディスク (Quick Disk, QD) は磁気ディスクの一種。1984年2月にミツミ電機が記憶装置「クイックディスクドライブ」を、日立マクセル(現・マクセル)が記録媒体「簡易型フロッピーディスク Quick Disk (QD2)」を開発および発売した。",
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"text": "その後、フロッピーディスクのドライブ、メディアは共に価格が降下し、ディスクの価格は逆転するまでになり結果的にアドバンテージは消失することとなった。",
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"text": "ディスクサイズは2.8インチ。γ-酸化鉄磁性体が両面に塗布されており、裏返してセットする事で両面が使える。ジャケットは78×78×3mm、プラスチック製でシャッターはなく、紙製のスリーブに入れて保存する。ライトプロテクトはツメを折り取ることにより行う。3.5インチマイクロフロッピーディスクより小さく、3インチコンパクトフロッピーディスクより薄い。ドライブの記録ヘッドにはメタル磁性体用のものを使用しており、隣のトラックとは充分な間隔があるためフロッピーディスク用と異なり消去ギャップがない。",
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"text": "通常のフロッピーディスクドライブではディスクの回転とヘッド送りに別々のモーターを使用するが、クイックディスクドライブは1個のモーターにカムを組み合わせることでディスクの回転とヘッド送りを同時に行う。この機構は低価格化に繋がる一方、ヘッドの位置決め精度が十分でなく、トラック密度を上げることができない。また、トラックが1本となっているため、片面全部を順に一気に読み出しまたは書き込みするシーケンシャルアクセスのみが可能で、任意部分へのランダムアクセスは不可能である。片面すべてを読み出しまたは書き込みするのに8秒かかる。メディアと同容量の64キロバイトのDRAMをバッファとして、「DRAMに読み込み→DRAM上でのランダムアクセス→書き出し」という方法を取ることで擬似的にランダムアクセスを実現出来るが、ディスク上の1バイトを書き換えるだけでも16秒(読み込み8秒+書き出し8秒)かかる上、当時の価格では大容量の高価なDRAMを必要とするため前述のコスト的メリットは低減する実装と言える。",
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"text": "パソコンではシャープ MZ-1500に標準搭載されたほか、MZ-700、MZ-2000/2200用の外付けドライブがある。MSXではLogitec、CASIOより外付けドライブがリリースされた。",
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"text": "MIDI機材ではヤマハ、ローランド、コルグ、AKAI、河合楽器製作所の音源ユニット、シンセサイザー、サンプラー、シーケンサー、データファイラに内蔵および外部ドライブとして採用された。",
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"text": "日本語ワードプロセッサーではシャープ、カシオ計算機、キヤノンの初期の一部の機種で外付けドライブがある。",
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"text": "また、ジャケットの厚み、形状を変更したメディアが任天堂のファミリーコンピュータ ディスクシステムで採用されている。「ファミリーコンピュータ ディスクカード」の名称で呼ばれ、シャッターを付けたカードや、色の異なるカードも作られた。模倣品を防ぐためジャケット面に商標を用いたアンチローディング機構を施してある。",
"title": "採用システム"
},
{
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"text": "1986年5月に三協精機が開発した2.5インチフロッピーディスクドライブはクイックディスクドライブと同様の機構を持つが、メディアは普及型フロッピーディスクと同様にシャッターが付いており、また、同心円のトラックを持つことでランダムアクセスを可能にしている。記憶容量はクイックディスクと同じ片面64キロバイトで、裏返しにして両面で合計128キロバイトを記録することができる。記録方式はGCR。ポケットコンピュータ用の外部記憶装置として採用された。",
"title": "類似製品"
}
]
| クイックディスク は磁気ディスクの一種。1984年2月にミツミ電機が記憶装置「クイックディスクドライブ」を、日立マクセル(現・マクセル)が記録媒体「簡易型フロッピーディスク Quick Disk (QD2)」を開発および発売した。 | '''クイックディスク''' ('''Quick Disk''', '''QD''') は[[磁気ディスク]]の一種。1984年2月に[[ミツミ電機]]が記憶装置「クイックディスクドライブ」を、日立マクセル(現・[[マクセル]])が記録媒体「簡易型フロッピーディスク Quick Disk (QD2)」を開発および発売した<ref>{{Cite journal|和書|year=1984|title=ASCII EXPRESS : 2.8インチのディスクドライブとメディアを開発|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=8|issue=4|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISSN=0386-5428}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ファミコンのディスクシステムでも採用された「Quick Disk」:スイートメモリーズ File008 - Engadget 日本版|url=http://japanese.engadget.com/jp-2020-04-05-quick-disk-file008.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220428073838/https://japanese.engadget.com/jp-2020-04-05-quick-disk-file008.html|archivedate=2022-04-28|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2020-04-07}}</ref>。
== 特徴 ==
同心円状に複数の[[トラック (記録媒体)|トラック]]がある[[フロッピーディスク]]と異なり、クイックディスクには、[[レコード]]の溝のように、渦巻状のトラックが1本だけ存在する<ref name=":0" />。フロッピーディスクに比べ安価で、3.5インチおよび3インチのフロッピーディスクよりも小型な記憶装置として開発された。当時パーソナルユースでの[[補助記憶装置]]として主流だった[[データレコーダー]]に対しては読み書きの高速さが、フロッピーディスクに対してはメディア、ドライブ共に安価であることがアドバンテージであった<ref name=":0" />。
その後、フロッピーディスクのドライブ、メディアは共に価格が降下し、ディスクの価格は逆転するまでになり結果的にアドバンテージは消失することとなった<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ディスクシステムの生みの親 上村雅之氏インタビュー|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/0408/interv/index.html|website=www.nintendo.co.jp|accessdate=2020-04-07}}</ref>。
ディスクサイズは2.8インチ。γ-酸化鉄[[磁性体]]が両面に塗布されており、裏返してセットする事で両面が使える。ジャケットは78×78×3mm、[[合成樹脂|プラスチック]]製で[[シャッター]]はなく<ref name=":0" />、紙製のスリーブに入れて保存する。ライトプロテクトはツメを折り取ることにより行う<ref name=":0" />。3.5インチマイクロフロッピーディスクより小さく、3インチコンパクトフロッピーディスクより薄い<ref>当時の郵便料金で3.5インチフロッピーディスクの郵送には70円かかったが、60円の封書で郵送できる点をアピールしていた。{{要出典|date=2021年4月}}</ref>。ドライブの記録ヘッドにはメタル磁性体用のものを使用しており、隣のトラックとは充分な間隔があるためフロッピーディスク用と異なり消去ギャップがない。
記録容量は片面64キロバイト、両面で128キロバイト。最大[[記録密度]]は4410[[記録密度#ビット毎インチ|BPI]]。[[記録密度#トラック記録密度|トラック密度]]は59[[記録密度#トラック毎インチ|TPI]]。ディスク回転数は423[[rpm (単位)|rpm]]。記録方式は[[Modified Frequency Modulation|MFM]]<ref name="Takahashi_1989">{{Cite book|和書|title=フロッピ・ディスク装置のすべて|date=1989-11-15|publisher=[[CQ出版]]|pages=46-52|last=高橋|first=昇司|isbn=4-7898-3664-9|chapter=第1章 フロッピ・ディスク装置の開発動向 ― 1.6 超小型FDD}}</ref><ref>記録密度は同じMFM記録の5.25インチ両面倍密度 (2D) より低く、トラック密度は5.25インチ/8インチ2D (48TPI) と3.5インチ2D (67.5TPI) の中間。回転数はフロッピーディスク (300/360rpm) より速い。</ref>。[[コントローラ]][[集積回路|IC]]は[[富士通]]製MB87013とi8251の組み合わせもしくは[[Z80]][[UART#代表的なUART|-SIO]]単独の採用例が多く、[[巡回冗長検査|CRC]]によるエラー確認をしている。
通常のフロッピーディスクドライブではディスクの回転とヘッド送りに別々のモーターを使用するが、クイックディスクドライブは1個のモーターにカムを組み合わせることでディスクの回転とヘッド送りを同時に行う。この機構は低価格化に繋がる一方、ヘッドの位置決め精度が十分でなく、トラック密度を上げることができない<ref name="Takahashi_1989" />。また、トラックが1本となっているため、片面のみの[[シーケンシャルアクセス]]が可能で、任意部分への[[ランダムアクセス]]は不可能である<ref name=":0" />。メディアと同容量の64キロバイトの[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]へ読み込み、DRAM上でのランダムアクセスからそれらを書き出す、という方法を取ることで擬似的にランダムアクセスが実現出来たが、片面すべてを読み出しまたは書き込みするのに8秒<ref>書き込み時にベリファイを行う場合は計16秒かかる。エラーの際のリトライにもリトライ1回につき8秒かかる。</ref>かかった。そのため、ディスク上の1バイトを書き換えるだけでも16秒(読み込み8秒+書き出し8秒)を要した。当時の価格では大容量の高価なDRAMを必要とするため前述のコスト的メリットは低減する実装と言える{{要出典|date=2021年4月}}。
== 採用システム ==
[[ファイル:Nintendo-Famicom-Disk-System-Floppy.jpg|thumb|200px|ファミリーコンピュータ<br />ディスクカード]]
パソコンでは[[シャープ]] [[MZ-1500]]に標準搭載されたほか、[[MZ-700]]、[[MZ-2000]]/[[MZ-2000#2200|2200]]用の外付けドライブがある。[[MSX]]では[[ロジテック|Logitec]]、[[カシオ計算機|CASIO]]より外付けドライブがリリースされた。
[[MIDI]]機材では[[ヤマハ]]、[[ローランド]]、[[コルグ]]、[[AKAI professional|AKAI]]、[[河合楽器製作所]]の音源ユニット<ref name=":0" />、[[シンセサイザー]]、[[サンプラー]]、[[シーケンサー (音楽)|シーケンサー]]、データファイラに内蔵および外部ドライブとして採用された。
[[ワードプロセッサ|日本語ワードプロセッサー]]では[[シャープ]]、[[カシオ計算機]]、[[キヤノン]]の初期の一部の機種で外付けドライブがある。
また、ジャケットの厚み、形状を変更したメディアが[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]で採用されている<ref name=":0" /><ref name=":1" />。「ファミリーコンピュータ ディスクカード」の名称で呼ばれ、シャッターを付けたカードや、色の異なるカードも作られた。模倣品を防ぐためジャケット面に商標を用いたアンチローディング機構を施してある。
== 類似製品 ==
1986年5月に[[三協精機]]が開発した2.5インチフロッピーディスクドライブはクイックディスクドライブと同様の機構を持つが、メディアは普及型フロッピーディスクと同様にシャッターが付いており、また、同心円のトラックを持つことでランダムアクセスを可能にしている。記憶容量はクイックディスクと同じ片面64キロバイトで、裏返しにして両面で合計128キロバイトを記録することができる。記録方式は[[Group coded recording|GCR]]。[[ポケットコンピュータ]]用の外部記憶装置として採用された<ref name="Takahashi_1989" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[フロッピーディスクの歴史#ミツミのクイックディスク]]
{{DEFAULTSORT:くいつくていすく}}
[[Category:磁気ディスク]] | 2003-02-14T09:53:29Z | 2023-12-25T09:07:28Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF |
1,578 | 1989年 | 1989年(1989 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和64年/平成元年。
この年にベルリンの壁が崩壊したり冷戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 | [
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| 1989年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和64年/平成元年。 この年にベルリンの壁が崩壊したり冷戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1989年の日本}}
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この年に[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]したり[[冷戦]]が終結したため、[[世界の歴史|世界史]]の大きな転換点となった年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。
== 他の紀年法 ==
{{Year in other calendars|year=1989}}
* [[干支]]:[[己巳]](つちのと み)
* [[日本]](月日は一致)
** [[昭和]]64年([[1月1日]] - [[1月7日]])
** [[平成]]元年([[1月8日]] - [[12月31日]])
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2649年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4322年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]78年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体]]78年
* [[仏滅紀元]]:2531年 - 2532年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1409年5月23日 - 1410年6月2日
* [[ユダヤ暦]]:5749年4月24日 - 5750年4月3日
* [[Unix Time]]:599616000 - 631151999
* [[修正ユリウス日]](MJD):47527 - 47891
* [[リリウス日]](LD):148368 - 148732
<div style="font-size:smaller">
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1989}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月7日]] - 午前6時33分に[[昭和天皇]]が[[崩御]]、[[明仁|皇太子明仁親王]]が第125代天皇に[[践祚]]。日本の[[元号]]「[[昭和]]」の最後の日となった。
* [[1月8日]]
** [[皇位継承]]により、[[元号法]]に基づき、元号「[[平成]]」が始まる<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030227_00000 昭和から平成へ]</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202201070001148.html|title=元号が昭和から「平成」に/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-08|accessdate=2022-01-08}}</ref>。
** [[ブリティッシュミッドランド航空92便不時着事故]]で47人死亡。
* [[1月11日]] - [[国際連合]]決議第626号に基づき、[[キューバ]]軍が[[アンゴラ]]より撤退開始。
* [[1月18日]] - [[ポーランド統一労働者党]]、投票により、[[独立自主管理労働組合「連帯」]]の合法化を決定。
* [[1月20日]] - [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が、第41代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。
=== 2月 ===
* [[2月2日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]、[[アフガニスタン]]から撤退開始。
* [[2月3日]] - [[パラグアイ]]で発生した軍事[[クーデター]]により、[[1954年]]より35年間[[独裁]]政権の座にあった[[アルフレド・ストロエスネル]][[パラグアイの大統領|大統領]]が失脚。
* [[2月6日]] - [[ポーランド人民共和国|ポーランド]]で政府と反体制勢力による[[円卓会議 (ポーランド)|円卓会議]]はじまる。[[4月5日]]まで。
* [[2月14日]]
** [[1984年]]に[[インド]]で発生した[[ボパール化学工場事故]]について、[[ユニオンカーバイド]]社が責任を認め、インド政府に対し4億7000万[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]の損害賠償を支払うことに合意。
** [[イラン]]の[[イランの最高指導者|最高指導者]][[ルーホッラー・ホメイニー]]が『[[悪魔の詩]]』の著者である[[サルマン・ラシュディ]]および同書の出版社担当者らを殺すよう指示する[[ファトワー]]を発令。[[2月24日|同月24日]]、イラン政府がラシュディの首に300万USドルの[[懸賞金]]をかけることが発表される。
** [[グローバル・ポジショニング・システム]]に必要な[[GPS衛星]]24機が地球周回軌道に投入される。
* [[2月15日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]軍の[[アフガニスタン]]撤退が完了。
* [[2月17日]] - [[アラブ・マグレブ連合]]成立。
* [[2月24日]]
** 昭和天皇の[[大喪の礼]]挙行。
** [[ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故]]により乗客9人死亡。
=== 3月 ===
* [[3月1日]] - [[アメリカ合衆国]]が[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]に加盟。
* [[3月2日]] - [[欧州経済共同体]]加盟12カ国、20世紀末までに[[フロン類]]の生産を禁止することで合意。
* [[3月13日]] - 大規模な[[磁気嵐]]が発生。カナダの[[ケベック州]]で大停電が発生するなど地球各地で被害([[1989年3月の磁気嵐]])。
* [[3月16日]] - [[ソビエト連邦共産党中央委員会]]、農家が国有地を修正借地することを可能とする改革案を可決。
* [[3月24日]] - [[エクソンバルディーズ号原油流出事故]]発生。
* [[3月26日]] - 史上初の[[ソビエト連邦人民代議員大会]]議員選挙挙行、[[ソビエト共産党]]が敗北を喫する。
=== 4月 ===
[[File:Game-Boy-FL.png|thumb|130px|ゲームボーイ]]
<!-- 日本ローカル? * [[4月1日]] - [[消費税]]3%開始。 -->
* [[4月7日]] - [[コムソモレツ (原子力潜水艦)|コムソモレツ]]が沈没。
* [[4月15日]] - [[イングランド]]・[[ヒルズボロ]]でのサッカーの試合で発生したいわゆる[[ヒルズボロの悲劇]]で96人死亡。
* [[4月21日]] - [[任天堂]]の[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]「[[ゲームボーイ]]」(GAME BOY) が日本で発売開始([[北アメリカ|北米]]では7月、[[ヨーロッパ|欧州]]では翌年発売)。
* [[4月26日]] - [[リクルート事件]]渦中に日本国の[[内閣総理大臣]][[竹下登]]の秘書が自殺。
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[フロリダ州]][[オーランド]]にある[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]内に新しい[[テーマパーク]]、[[ディズニー・MGM・スタジオ]]がオープン。
* [[5月2日]] - [[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]政府が[[オーストリア]]との国境にある[[鉄条網]]の撤去に着手。[[鉄のカーテン]]が破られる。
* [[5月23日]] - [[ミッキーマウス]]の登場する第一作映画『[[蒸気船ウィリー]]』の日本国内における[[著作権の保護期間]]満了。
=== 6月 ===
[[File:Tiananmen Square, Beijing, China 1988 (1).jpg|thumb|天安門広場、1988年5月]]
* [[6月3日]] - [[宇野内閣]]発足。
* [[6月4日]]
** [[北京]]で[[六四天安門事件|天安門事件]]が起きる。中国では1989及び64はネット検閲対象の数字になっている<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2015/07/24/taylor-swifts-could-get-banned-in-china_n_7862082.html テイラー・スウィフトが中国で検閲対象に? その理由は] The Huffington Post, 2015年07月26日</ref>。
** [[1989年ポーランド議会選挙]]の1度目の投票が行われ、[[独立自主管理労働組合「連帯」|「連帯」]]が両院で獲得議席数99%超の圧勝をおさめる。
** [[アリー・ハーメネイー]]が[[イラン]]の[[イランの最高指導者|最高指導者]]に就任。
** [[ソビエト連邦|ソ連]]・[[ウラル連邦管区|ウラル地方]]で天然ガスの[[パイプライン輸送|パイプライン]]から漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 ([[:en:Ufa train disaster]])
* [[6月15日]] - 18日 - 欧州諸共同体加盟国において[[1989年欧州議会議員選挙|欧州議会議員選挙]]の投票が行われる。
* [[6月18日]] - [[ミャンマー]]の[[軍事政権]]が同国の英語国号を「Burma」から「Myanmar」に改称。
* 6月18日 - 1989年ポーランド議会選挙の2度目の投票の結果、[[独立自主管理労働組合「連帯」|「連帯」]]の地滑り的圧勝が確定。
* [[6月]] - [[ポーランド]]で、自由選挙実施。非労働党政党「[[独立自主管理労働組合「連帯」|連帯]]」が上院過半数を占める。[[東欧革命]]のさきがけ。
* 6月30日 - {{仮リンク|1989年スーダンクーデター|en|1989 Sudanese coup d'état}}
=== 7月 ===
* [[7月15日]] - [[世界デザイン博覧会]]開催。11月26日まで。
* [[7月19日]] - [[ユナイテッド航空232便不時着事故]]。
=== 8月 ===
* [[8月1日]] -川崎[[蟹ヶ谷]]土砂崩れ。6名死亡
* [[8月10日]] - [[海部内閣]]が発足
* [[8月14日]] - [[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス]]が“[[メガドライブ#北米市場|Sega Genesis]]”(前年に発売された日本の[[メガドライブ]]に相当)を[[北アメリカ|北米]]で発売。後に発売された[[任天堂]]の“[[スーパーファミコン#海外版|Super Nintendo Entertainment System]]”(略称:SNES、日本の[[スーパーファミコン]]に相当)と互角以上のシェア争いを展開し、セガのゲーム機の中で最大の成功を収めた。
* [[8月19日]] - [[ハンガリー]]で[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]が開催、約600人の東ドイツ市民が[[オーストリア]]経由で[[西ドイツ]]へ亡命。
* [[8月24日]] - [[ピート・ローズ]]が監督在任中の野球賭博の廉で、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]から永久追放される。
=== 9月 ===
* [[9月19日]] - [[UTA航空772便爆破事件]]。
* [[9月24日]] - [[フランス国鉄]] (SNCF) [[TGV]]の第二世代にあたるTGV Atlantique が、世界初の時速300km/hでの営業運転を開始。
=== 10月 ===
* [[10月7日]] - [[ハンガリー社会主義労働者党]]、[[ハンガリー社会党]]への改組を決定し、一党独裁政党としての歴史に終止符を打つ。
* [[10月14日]] - [[田中角栄]]元総理、衆議院議員引退を表明。
* [[10月17日]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で強権的な政治を行っていた[[エーリッヒ・ホーネッカー]]・[[ドイツ社会主義統一党]][[書記長]]の書記長解任が党政治局で決議され、ホーネッカーが失脚。[[エゴン・クレンツ]]が後任となる。
* [[10月17日]] - [[サンフランシスコ]]で[[ロマ・プリータ地震]]
* [[10月23日]] - [[ハンガリー人民共和国]]が[[社会主義]]体制を完全に放棄し、ハンガリー共和国に。
* [[10月31日]] - [[三菱地所]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロックフェラー・センター]]を買収。
=== 11月 ===
* [[11月6日]] ( - 7日) - 第1回[[アジア太平洋経済協力]](APEC)閣僚会議が[[キャンベラ]]で開催される。
* [[11月9日]]
** [[中国共産党中央委員会]]第5回全体会議、[[鄧小平]][[中国共産党中央軍事委員会]]主席の辞任、および後任として[[江沢民]][[中国共産党総書記]]の就任を発表。併せて、[[天安門事件]]で失脚した[[趙紫陽]]第一副主席の後任として[[楊尚昆]]の就任を発表。
** [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が、[[中央ヨーロッパ時間]]18時に行われた記者会見における[[ギュンター・シャボフスキー]]の勘違いによる発言に基づき、直ちに一般東ドイツ市民の[[ベルリンの壁]]を含む国境線の通行を自由化。
* [[11月10日]] - [[ベルリンの壁崩壊]]。[[ブルガリア人民共和国|ブルガリア]]で[[ブルガリア共産党|共産党]]書記長の[[トドル・ジフコフ]]が失脚。これを機にブルガリアでも民主化が始まる。
* [[11月24日]] - [[チェコスロバキア]]で[[ビロード革命]]。[[チェコスロバキア共産党|共産党]]政権が崩壊。
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で[[ドイツ民主共和国憲法|憲法]]が改正され、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)による[[党の指導性|国家の指導]]条項が削除される。SEDの[[一党独裁制]]が終焉。
* [[12月3日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦最高会議幹部会議長#最高会議議長|最高会議議長]]が[[マルタ島]]で会談し、[[冷戦]]の終結を宣言([[マルタ会談]])。
* [[12月17日]] - アメリカのテレビアニメ『[[ザ・シンプソンズ]]』が放送開始。
* [[12月20日]] - 米軍[[パナマ侵攻]]。
* [[12月22日]] - [[ルーマニア]]の[[ニコラエ・チャウシェスク]]政権崩壊([[ルーマニア革命 (1989年)]])。
* [[12月29日]] - [[日経平均株価]]が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録([[バブル景気]])。
== 芸術・文化・ファッション・テレビ ==
=== スポーツ ===
{{main|1989年のスポーツ}}
; [[1989年の野球|野球]]
; [[モータースポーツ]]
* [[フォーミュラ1|F1世界選手権]]
** ドライバーズチャンピオン [[アラン・プロスト]]
** コンストラクターズチャンピオン [[マクラーレン|マクラーレン・ホンダ]]
* [[ロードレース世界選手権]]
** 500cc [[エディ・ローソン]]
** 250cc [[アルフォンソ・ポンス]]
=== 音楽 ===
{{main|1989年の音楽}}
=== 映画 ===
{{main|1989年の映画}}
; 本国公開・日本公開ともに当年
* [[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]
* [[ゴジラvsビオランテ]]
* [[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]
* [[奇蹟/ミラクル]]
* [[007 消されたライセンス]]
* [[ブラック・レイン]]
* [[リーサル・ウェポン2/炎の約束]]
* [[バットマン (映画)|バットマン]]
* [[恋人たちの予感]]
* [[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2]]
* [[セックスと嘘とビデオテープ]]
; 本国公開映画(日本公開は翌年以降)
* [[7月4日に生まれて]]
* [[フィールド・オブ・ドリームス]]
* [[いまを生きる]]
* [[ドライビング Miss デイジー]]
* [[悲情城市]]
* [[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]]
* [[レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ]]
* [[ババール#アニメ|ぞうのババール・ザ・ムービー]]
* [[天国から来たわんちゃん]]
* [[リトル・マーメイド]]
=== テレビ ===
*[[10月4日]] - [[日本テレビ系列]]の[[バラエティ番組]]『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]』がレギュラ一放送開始。現在も放送が続いている[[長寿番組の一覧|長寿番組]]。
== 天候・天災・観測等 ==
* [[10月17日]] - [[サンフランシスコ]]で[[マグニチュード]]6.9の大地震([[ロマ・プリータ地震]])。[[1906年]]の[[サンフランシスコ地震]]以来の大地震で[[高速道路]]や建築物への被害が多発し、200人を超す死者を出した。また、[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]]の一部が崩壊し、補修工事が必要となった。
== 誕生 ==
{{see also|1989年の日本#誕生|Category:1989年生}}
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「1989年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)-->
=== 1月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[1月1日]] - [[アデル・エネル]]、女優
* [[1月2日]] - [[李庸燦]]、[[プロ野球選手]]
* 1月2日 - [[オキラニ・ティニラウ]]、陸上競技選手、サッカー選手
* [[1月3日]] - [[アレックス・D・リンツ]]、俳優
* 1月3日 - [[内村航平]]、体操選手
* [[1月4日]] - [[ジラ&トッテ]]、腹話術師 喜劇
* 1月4日 - [[ケビン・ピラー]]、[[メジャーリーガー]]
* [[1月5日]] - [[エドゥアルド・エスコバー]]、[[メジャーリーガー]]
* [[1月6日]] - [[三上枝織]]、声優
* 1月6日 - [[マックス・パーキス]]、俳優
* 1月6日 - [[亀田大毅]]、ボクシング選手
* 1月6日 - [[アンディ・キャロル]]、サッカー選手
* [[1月7日]] - [[デビッド・コルビン]]、[[野球選手]]
* 1月7日 - [[エミリアーノ・インスア]]、サッカー選手
* 1月7日 - [[イワン・トレチャコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1月9日]] - [[ミハエラ・クライチェク]]、[[テニス]]選手
* 1月9日 - [[マイケル・ビーズリー]]、バスケットボール選手
* 1月9日 - [[ヤナ・マクシマワ]]、陸上競技選手
* [[1月10日]] - ソルジ、アイドル([[EXID]])
* [[1月11日]] - [[ソンミ (モデル)|ソンミ]]、タレント
* 1月11日 - キム・ジョンミン、俳優
* [[1月12日]] - [[アクセル・ヴィツェル]]、サッカー選手
* 1月12日 - [[アラン・カルデック・デ・ソウザ・ペレイラ・ジュニオール]]、サッカー選手
* [[1月15日]] - [[キーファー・ハベル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1月17日]] - [[張莉]]、陸上競技選手
* 1月17日 - [[ケリー・マリー・トラン]]、女優
* [[1月18日]] - [[マイケル・ピネダ]]、メジャーリーガー
* [[1月19日]] - [[アラン・ショーエンバーガー]]、プロ野球選手
* 1月19日 - [[ジェイムズ・ベレスフォード]]、マイナーリーガー
* [[1月20日]] - [[ニック・フォールズ]]、アメリカンフットボール選手
* [[1月21日]] - [[ヘンリク・ムヒタリアン]]、サッカー選手
* [[1月22日]] - [[ルータ・ガヤウスカイテー]]、フィギュアスケート選手
* [[1月24日]] - [[寺門仁美]]、声優
* [[1月24日]] - [[エミリアーノ・アルビン]]、サッカー選手
* [[1月25日]] - [[ビクトリア・ムニス]]、フィギュアスケート選手
* 1月25日 - [[多部未華子]]、女優
* [[1月26日]] - [[エミリー・ヒューズ]]、フィギュアスケート選手
* 1月26日 - [[李玲蔚 (陸上選手)|李玲蔚]]、陸上競技選手
* 1月26日 - [[ブランデン・ピンダー]]、メジャーリーガー
* 1月26日 - [[ヨヘルミン・チャベス]]、プロ野球選手
* [[1月28日]] - [[アレッサンドロ・ヴァーリオ]]、プロ野球選手
* 1月28日 - [[シーム・デ・ヨング]]、サッカー選手
=== 2月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[2月1日]] - [[アルフレズ・フィンボガソン]]、サッカー選手
* [[2月2日]] - [[ローガン・ダーネル]]、メジャーリーガー
* 2月2日 - [[イヴァン・ペリシッチ]]、サッカー選手
* [[2月3日]] - [[モン・ジア]]、中国歌手
* [[2月4日]] - [[ヨン・イサギレ]]、自転車競技選手
* [[2月6日]] - [[イベス・サモラ]]、プロボクサー
* 2月6日 - [[マリオン・デ・ラ・アソンション]]、フィギアスケート選手
* 2月6日 - [[マット・ダフィー (1989年生の内野手)|マット・ダフィー]]、[[プロ野球選手]]
* [[2月7日]] - [[ウラジーミル・ウスペンスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 2月7日 - [[エリア・ヴィヴィアーニ]]、自転車競技選手
* [[2月9日]] - [[ジェイク・スモリンスキー]]、メジャーリーガー
* [[2月10日]] - [[リアム・ヘンドリックス]]、メジャーリーガー
* [[2月11日]] - [[クタイ・エルヨルダシュ]]、フィギュアスケート選手
* [[2月12日]] - [[ロン=ロベルト・ツィーラー]]、サッカー選手
* [[2月14日]] - [[李奎遠 (柔道)|李奎遠]]、柔道家
* [[2月15日]] - [[董慧博]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 2月15日 - [[西脇綾香|あ〜ちゃん]]、歌手([[Perfume]])
* [[2月16日]] - [[エリザベス・オルセン]]、女優
* [[2月17日]] - [[レベッカ・アドリントン]]、競泳選手
* 2月17日 - [[コード・オーバーストリート]]、歌手、俳優
* 2月17日 - [[パオリノ・アンブロッシモ]]、[[野球選手]]
* [[2月18日]] - [[アレクセイ・イオノフ]]、サッカー選手
* 2月18日 - [[クリスチーナ・ゴルシュコワ]]、フィギュアスケート選手
* [[2月19日]] - [[ソーン・アルコ]]、サッカー選手
* [[2月20日]] - [[黒田真由]]、体操競技選手
* 2月20日 - [[アラン・ドイス・サントス・ナチビダデ]]、サッカー選手
* [[2月21日]] - [[ジェレミー・テン]]、フィギュアスケート選手
* [[2月22日]] - [[クリス・バシット]]、メジャーリーガー
* [[2月23日]] - [[エヴァン・ベイツ]]、フィギュアスケート選手
* 2月23日 - [[ウィリン・ロサリオ]]、メジャーリーガー
* [[2月25日]] - [[李相花]]、スケート選手
* 2月25日 - [[カリム・アイ=ファナ]]、サッカー選手
* [[2月27日]] - [[宮原健斗]]、[[プロレスラー]]
* 2月27日 - [[清水翔太]]、シンガーソングライター
* 2月27日 - [[小塚崇彦]]、フィギュアスケート選手
* [[2月28日]] - [[アンジェラベイビー]]、ファッションモデル
=== 3月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[3月1日]] - [[カルロス・ベラ]]、サッカー選手
* [[3月2日]] - [[エドガー・ララ]]、[[プロ野球選手]]
* 3月2日 - [[トビー・アルデルヴァイレルト]]、サッカー選手
* [[3月3日]] - [[イ・スミ]]、歌手
* 3月3日 - [[フィリップ・バルグフレーデ]]、サッカー選手
* [[3月6日]] - [[アグニエシュカ・ラドワンスカ]]、[[テニス]]選手
* 3月6日 - [[李昇烈]]、サッカー選手
* [[3月7日]] - [[永山絢斗]]、俳優
* [[3月8日]] - [[アンデル・イトゥラスペ]]、サッカー選手
* [[3月9日]] - [[アルチョム・ボロドゥリン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 3月9日 - [[テヨン]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* 3月9日 - [[千葉雄大]]、俳優
* [[3月10日]] - [[ダヤン・ビシエド]]、[[野球選手]]
* 3月10日 - [[ダミアン・イスモデス]]、サッカー選手
* [[3月11日]] - [[アントン・イェルチン]]、俳優(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|work=シネマトゥデイ|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0083821|title=『スター・トレック』アントン・イェルチン死去、27歳…愛車に押し潰され|date=2016-06-20|accessdate=2020-10-29}}</ref>)
* [[3月12日]] - [[ネイサン・ハース]]、自転車競技
* [[3月13日]] - [[ハリー・メリング]]、俳優
* 3月13日 - [[ホルガー・バトシュトゥバー]]、サッカー選手
* [[3月15日]] - [[サンドロ・ラニエリ・ギマランイス・コルデイロ]]、サッカー選手
* [[3月16日]] - [[セオ・ウォルコット]]、サッカー選手
* 3月16日 - [[ブレイク・グリフィン]]、バスケットボール選手
* 3月16日 - [[チョン・ソミン (1989年生の女優)|チョン・ソミン]]、女優、モデル
* [[3月17日]] - [[香川真司]]、サッカー選手
* [[3月18日]] - [[リリー・コリンズ]]、女優
* 3月18日 - [[西野カナ]]、歌手
* 3月18日 - [[楢﨑誠]]、ミュージシャン
* [[3月21日]] - [[ジョルディ・アルバ]]、サッカー選手
* 3月21日 - [[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]、俳優
* [[3月23日]] - [[李大恩]]、[[プロ野球選手]]
* 3月23日 - [[エリック・マキシム・シュポ=モティング]]、サッカー選手
* [[3月24日]] - [[井岡一翔]]、ボクシング選手
* [[3月25日]] - [[ジェームズ・アンダーソン (バスケットボール)|ジェームズ・アンダーソン]]、バスケットボール選手
* [[3月26日]] - [[スコット・シンクレア]]、サッカー選手
* 3月26日 - [[シモン・ケアー]]、サッカー選手
* 3月26日 - [[ティグラン・ヴァーダニャン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[3月28日]] - [[ミラ・リャン]]、フィギュアスケート選手
* 3月28日 - [[カタリナ・ゲルボルト]]、フィギュアスケート選手
* [[3月29日]] - [[ライネル・ロサリオ]]、プロ野球選手
* 3月29日 - [[ジェームズ・トムキンス]]、サッカー選手
* [[3月30日]] - [[クリス・セール]]、メジャーリーガー
* 3月30日 - [[リチャード・シャーマン (アメリカンフットボール)|リチャード・シャーマン]]、アメリカンフットボール選手
* [[3月31日]] - [[ホスミル・ピント]]、メジャーリーガー
=== 4月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[4月1日]] - [[マティアス・アギーレガライ]]、サッカー選手
* [[4月4日]] - [[フルノン・アニータ]]、サッカー選手
* [[4月5日]] - [[祐真キキ]]、女優
* [[4月8日]] - [[ガブリエラ・ワイルド]]、モデル、女優
* [[4月9日]] - [[張含韵]]、歌手
* [[4月10日]] - [[チャーリー・カルバーソン]]、[[メジャーリーガー]]
* [[4月11日]] - [[エドアルド・パッツァーリ]]、サッカー選手
* 4月11日 - [[ケイトリン・ウィーバー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[4月12日]] - [[ソーニャ・ムゴシャ]]、フィギュアスケート選手
* [[4月13日]] - Zion.T、歌手
* [[4月15日]] - [[エミリー・ナフタル]]、フィギュアスケート選手
* 4月15日 - [[アデイニー・エチェバリア]]、メジャーリーガー
* [[4月17日]] - [[アレクサンドル・エンベルト]]、フィギュアスケート選手
* [[4月18日]] - [[ジェシカ (少女時代)|ジェシカ]]、アイドル、女優([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* 4月18日 - [[アリア・ショウカット]]、女優
* [[4月20日]] - [[クルズ・アヤラ]]、[[野球選手]]
* [[4月21日]] - [[HIKAKIN]]、YouTuber、UUUMファウンダー、最高顧問
* [[4月22日]] - [[ヤスパー・シレッセン]]、サッカー選手
* 4月22日 - [[中田翔]]、プロ野球選手
* [[4月23日]] - [[ニコル・バイディソバ]]、[[テニス]]選手
* [[4月24日]] - [[獣神サンダー・ライガー]]、覆面レスラー・格闘家
* [[4月25日]] - [[マイケル・ヴァン・ガーウェン]]、ダーツ選手
* 4月25日 - [[関金林]]、フィギュアスケート選手
* 4月25日 - [[エマニュエラ・デ・パウラ]]、ファッションモデル
* 4月25日 - [[セーレン・ボバック]]、[[オリエンテーリング]]選手
* [[4月26日]] - [[チャド・ベティス]]、メジャーリーガー
* 4月26日 - [[D-LITE]]、アイドル([[BIG BANG]])
*4月27日 株元英彰 声優,俳優
* [[4月28日]] - キム・ソンギュ、アイドル([[INFINITE]])
* [[4月29日]] - [[フレディ・アルバレス]]、野球選手
* [[4月30日]] - [[フィル・クレイン]]、メジャーリーガー
* 4月30日 - ウヨン、アイドル([[2PM]])
=== 5月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[5月4日]] - [[ジェイク・レマーマン]]、[[野球選手]]
* [[5月5日]] - [[アンナ・ハッセルボリ]]、[[カーリング]]選手
* 5月5日 - [[クリス・ブラウン (歌手)|クリス・ブラウン]]、歌手
* [[5月6日]] - [[ホセ・アルバレス]]、[[メジャーリーガー]]
* 5月6日 - [[ドミニカ・チブルコバ]]、テニス選手
* [[5月8日]] - [[ディネシュ・パテル]]、野球選手
* [[5月11日]] - [[デビッド・ブキャナン]]、メジャーリーガー
* 5月11日 - [[ガブリエル・ガルシア]]、[[プロ野球選手]]
* 5月11日 - [[ジョバニ・ドス・サントス]]、サッカー選手
* 5月11日 - [[キャム・ニュートン]]、アメリカンフットボール選手
* [[5月12日]] - [[ブレイディン・ヘーゲンズ]]、プロ野球選手
* [[5月14日]] - [[ロブ・グロンコウスキー]]、アメリカンフットボール選手
* [[5月15日]] - [[サニー (少女時代)|サニー]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* 5月15日 - [[南明奈]]、女優、タレント、モデル
* 5月15日 - [[ルイス・カスティーヨ (外野手)|ルイス・カスティーヨ]]、元マイナーリーガー
* [[5月17日]] - [[テッサ・ヴァーチュ]]、フィギュアスケート選手
* [[5月22日]] - [[コーリー・ディッカーソン]]、メジャーリーガー
* 5月22日 - [[金伏ウーゴ]]、プロ野球選手
* [[5月23日]] - [[エセキエル・スケロット]]、サッカー選手
* 5月23日 - [[ジェフリー・テイラー]]、バスケットボール選手
* 5月23日 - [[夏菜]]、女優
* [[5月24日]] - [[アデル・ターラブト]]、サッカー選手
* [[5月26日]] - [[パク・イェウン]]、アイドル([[Wonder Girls]])
* [[5月29日]] - [[アンヘル・クアン]]、マイナーリーガー
* [[5月31日]] - [[マルコ・ロイス]]、サッカー選手
* 5月31日 - [[曺永哲]]、サッカー選手
=== 6月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[6月2日]] - [[フレディー・アドゥー]]、サッカー選手
* [[6月3日]] - [[潘めぐみ]]、声優
* [[6月4日]] - [[畢贛]]、映画監督
* [[6月5日]] - [[中島愛]]、声優
* [[6月7日]] - [[小林誠司]]、プロ野球選手
* [[6月9日]] - [[水谷隼]]、[[卓球]]選手
* [[6月10日]] - [[若葉竜也]]、俳優
* [[6月12日]] - [[立石諒]]、競泳選手
* [[6月14日]] - [[ルーシー・ヘイル]]、女優、歌手
* 6月14日 - [[チェイス・ウィットリー]]、メジャーリーガー
* 6月14日 - [[ヘクター・ネリス]]、メジャーリーガー
* 6月14日 - [[溝端淳平]]、俳優
* [[6月15日]] - [[スティーブン・キャリエール]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[6月16日]] - [[エレーナ・グレボワ]]、フィギュアスケート選手
* [[6月18日]] - [[ピエール=エメリク・オーバメヤン]]、サッカー選手
* 6月18日 - キム・テホン、アイドル([[ZE:A]])
* [[6月20日]] - [[ハビエル・パストーレ]]、サッカー選手
* [[6月22日]] - [[ジョン・ヨンファ]]、俳優、歌手
* 6月22日 - [[ライアン・サール]]、[[野球選手]]
* [[6月23日]] - [[オーウェン・オーザニッチ]]、野球選手
* [[6月27日]] - [[ブルーナ・テノリオ]]、ファッションモデル
* 6月27日 - [[マシュー・ルイス (俳優)|マシュー・ルイス]]、俳優
* [[6月30日]] - [[アスベル・キプロプ]]、陸上競技選手
=== 7月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[7月1日]] - [[ダニエル・リチャルド]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* [[7月3日]] - [[賀来賢人]]、俳優
* [[7月4日]] - [[ユン・ドゥジュン]]、アイドル、俳優([[HIGHLIGHT]])
* [[7月5日]] - [[チャーリー・オースティン]]、サッカー選手
* [[7月6日]] - [[李玲 (棒高跳)|李玲]]、陸上競技選手
* [[7月7日]] - [[クリス・リード]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/m/sports/news/202003170000385_m.html |title=C・リード氏30歳突然死 アイスダンス元五輪代表 - フィギュア |publisher=日刊スポーツ |date=2020-03-17 |accessdate=2020-10-29}}</ref>)
* 7月7日 - [[キム・ボム]]、俳優
* [[7月8日]] - [[ヤーデン・ジェルビ]]、柔道家
* [[7月11日]] - [[デヴィッド・ヘンリー]]、男優
* [[7月13日]] - [[道重さゆみ]]、元アイドル、女優(元[[モーニング娘。]])
* [[7月14日]] - [[メーガン・オスター]]、フィギュアスケート選手
* [[7月16日]] - [[ガレス・ベイル]]、サッカー選手
* 7月16日 - [[キム・ウビン]]、俳優、モデル
* [[7月18日]] - [[ドミトリー・ソロビエフ]]、フィギュアスケート選手
* 7月18日 - [[デレク・ディートリック]]、プロ野球選手
* [[7月23日]] - [[ダニエル・ラドクリフ]]、俳優
* 7月23日 - [[スティーブン・プライヤー]]、メジャーリーガー
* [[7月24日]] - [[ハドフォルド・カテリネ]]、フィギュアスケート選手
* [[7月26日]] - [[楊超]]、フィギュアスケート選手
* [[7月28日]] - [[フェリペ・キタダイ]]、柔道家
* [[7月29日]] - [[ザック・ペトリック]]、[[プロ野球選手]]
* [[7月30日]] - [[アレイシ・エスパルガロ]]、オートバイレーサー
* 7月30日 - [[ジェシー・ハン]]、メジャーリーガー
* [[7月31日]] - [[ビクトリア・アザレンカ]]、[[テニス]]選手
* 7月31日 - [[ゼルダ・ウィリアムズ]]、女優
* 7月31日 - [[アレクシス・ナップ]]、女優、歌手
* 7月31日 - [[アリーナ・フョードロワ]]、陸上競技選手
=== 8月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[8月1日]] - [[マディソン・バンガーナー]]、[[メジャーリーガー]]
* 8月1日 - [[ティファニー (少女時代)|ティファニー]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* [[8月5日]] - [[ライアン・バートランド]]、サッカー選手
* [[8月7日]] - [[ハモン・ロペス・デ・フレイタス|ハモン・ロペス]]、サッカー選手
* 8月7日 - [[トミー・ケインリー]]、メジャーリーガー
* [[8月8日]] - [[伊藤俊介 (お笑い芸人)|伊藤俊介]]、お笑いタレント
* [[8月9日]] - [[クリスティン・ズコウスキー]]、フィギュアスケート選手
* 8月9日 - [[ジェイソン・ヘイワード]]、メジャーリーガー
* [[8月12日]] - [[トム・クレヴァリー]]、サッカー選手
* 8月12日 - ソネ、元アイドル(元[[Wonder Girls]])
* [[8月15日]] - [[ジョー・ジョナス]]、歌手
* 8月15日 - [[岡田将生]]、俳優
* 8月15日 - [[ティファニー (少女時代)|ティファニー]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* [[8月17日]] - [[詹詠然]]、[[テニス]]選手
* [[8月21日]] - [[ヘイデン・パネッティーア]]、女優、歌手
* [[8月26日]] - [[ジェームス・ハーデン]]、バスケットボール選手
* [[8月28日]] - [[セサル・アスピリクエタ・タンコ]]、サッカー選手
* 8月28日 - チョン・グォン、アイドル([[2AM]])
* [[8月30日]] - [[ビリー・バーンズ]]、メジャーリーガー
* 8月30日 - [[ビービー・レクサ]]、歌手、ソングライター
* [[8月31日]] - [[桐山照史]]、アイドル、俳優([[WEST.]])
=== 9月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[9月1日]] - [[ダニエル・スタリッジ]]、サッカー選手
* 9月1日 - [[ビル・カウリッツ]]、[[トキオ・ホテル]]
* [[9月2日]] - [[ゼッド (音楽家)|ゼッド]]、DJ、音楽プロデューサー
* 9月2日 - [[アレシャンドレ・ロドリゲス・ダ・シウヴァ]]、サッカー選手
* [[9月5日]] - [[カテリーナ・グレアム]]、女優
* [[9月7日]] - [[ヒュー・ミッチェル]]、俳優
* [[9月8日]] - [[アヴィーチー]]、DJ、音楽プロデューサー(+ [[2018年]])
* [[9月9日]] - [[アンソニー・ラナウド]]、メジャーリーガー
* [[9月11日]] - [[倉持明日香]]、女優、タレント
* [[9月12日]] - [[フレディ・フリーマン]]、メジャーリーガー
* 9月12日 - [[アンドリュー・ラック]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[9月13日]] - [[トーマス・ミュラー]]、サッカー選手
* [[9月14日]] - [[エレオノーラ・アンナ・ジョルジ]]、陸上競技選手
* 9月14日 - [[イ・ジョンソク (1989年生の俳優)|イ・ジョンソク]]、俳優、モデル
* [[9月15日]] - [[野尻智紀]]、レーシングドライバー
* [[9月16日]] - [[ヨアンナ・スレイ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[9月19日]] - [[タイリーク・エバンス]]、バスケットボール選手
* 9月19日 - [[IMALU]]、タレント
* [[9月21日]] - [[ジェイソン・デイルーロ]]、歌手
* 9月21日 - [[フォアキン・サンタマリア]]、[[プロ野球選手]]
* [[9月22日]] - [[ヒョヨン]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* [[9月23日]] - [[ブランドン・ジェニングス]]、バスケットボール選手
* 9月23日 - [[トレバー・メイ]]、メジャーリーガー
* [[9月27日]] - [[朴泰桓|パク・テファン]]、競泳選手
* [[9月28日]] - [[李雪主]]、歌手、[[金正恩]]の妻
=== 10月 ===
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* [[10月1日]] - [[ブリー・ラーソン]]、[[俳優|女優]]、[[シンガーソングライター]]
* [[10月2日]] - [[シャノン姉妹]]、[[アダルトモデル]]
* 10月2日 - [[チャド・スミス (1989年生の投手)|チャド・スミス]]、[[メジャーリーガー]]
* 10月2日 - [[アーロン・ヒックス]]、メジャーリーガー
* [[10月4日]] - [[ケイシー・ケリー]]、メジャーリーガー
* 10月4日 - [[ダコタ・ジョンソン]]、女優、ファッションモデル
* 10月4日 - [[キミー・マイズナー]]、フィギュアスケート選手
* 10月4日 - [[リル・ママ]]、ラッパー
* [[10月6日]] - [[金甫炅|キム・ボギョン]]、サッカー選手
* [[10月8日]] - [[テイラー・フェザーストン]]、メジャーリーガー
* [[10月10日]] - [[エイミー・ティーガーデン]]、女優
* [[10月11日]] - [[ミシェル・ウィー]]、[[ゴルファー]]
* 10月11日 - [[シャフィク・ベセギエ]]、フィギュアスケート選手
* 10月11日 - [[菅野智之]]、[[プロ野球選手]]
* [[10月12日]] - [[フランシスコ・ペーニャ]]、メジャーリーガー
* 10月12日 - [[パウロ・エンリケ・シャガス・ジ・リマ|ガンソ]]、サッカー選手
* [[10月13日]] - [[ブレノ・ロドリゲス・ボルジェス|ブレーノ]]、サッカー選手
* 10月13日 - [[チョン・ヒョソン]]、韓国歌手
* [[10月15日]] - [[ジアニソン・ボックハウト]]、[[野球選手]]
* [[10月17日]] - [[柄本時生]]、俳優
* [[10月18日]] - [[仲里依紗]]、女優
* [[10月22日]] - [[ケイティ・テイラー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[10月23日]] - [[アニシャ・キルディアプキナ]]、陸上競技選手
* [[10月24日]] - [[エリック・ホズマー]]、メジャーリーガー
* 10月24日 - [[アブナー・アブレイユ]]、[[プロ野球選手]]
* 10月24日 - [[カイル・ロツカー]]、野球選手
* [[10月25日]] - [[レジェンヌ・マレ]]、フィギュアスケート選手
* [[10月27日]] - [[ルーベン・テハダ]]、メジャーリーガー
* [[10月28日]] - [[カミーユ・ムファ]]、競泳選手(+ [[2015年]])
=== 11月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[11月2日]] - [[ステヴァン・ヨヴェティッチ]]、サッカー選手
* [[11月4日]] - [[宮本佳那子]]、声優
* [[11月5日]] - [[ラモン・カブレラ (野球)|ラモン・カブレラ]]、[[メジャーリーガー]]
* [[11月6日]] - [[マチェイ・ノヴァーク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[11月7日]] - [[ソニー・グレイ]]、メジャーリーガー
* [[11月8日]] - [[ジャンカルロ・スタントン]]、メジャーリーガー
* [[11月9日]] - [[上川大樹]]、柔道家
* [[11月10日]] - [[タロン・エジャトン]]、俳優
*[[11月11日]] - [[田中れいな]]、歌手、女優(元[[LoVendoЯ]]、元[[モーニング娘。]])
* [[11月11日]] - [[ステファニー・ガードナー]]、フィギュアスケート選手
* 11月11日 - [[小見川千明]]、声優
* 11月11日 - [[アダム・リッポン]]、フィギュアスケート選手
* [[11月14日]] - [[フレディ・ガルビス]]、メジャーリーガー
* 11月14日 - [[アンドレウ・フォンタス]]、サッカー選手
* [[11月18日]] - [[マーク・オルブライトン]]、サッカー選手
* [[11月19日]] - [[マイケル・トンキン]]、メジャーリーガー
* [[11月21日]] - [[ホセ・ピレラ]]、メジャーリーガー
* [[11月22日]] - [[エリオット・ヒルトン]]、フィギュアスケート選手
* [[11月26日]] - [[ピョ・ヨンミョン]]、フィギュアスケート選手
* [[11月27日]] - ナム・ボラ、女優
* [[11月28日]] - [[ダニー・ハルツェン]]、マイナーリーガー
=== 12月 ===
<!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1989年の日本」項内のみに記入-->
* [[12月2日]] - [[ルカ・パネラッティ]]、[[野球選手]]
* [[12月5日]] - [[ユリ]]、アイドル、女優([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]])
* [[12月8日]] - [[ルツィエ・ミズリヴェチュコヴァー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[12月9日]] - [[アニェニル・メンドーサ]]、[[プロ野球選手]]
* 12月9日 - チョン・ヒチョル、アイドル(元[[ZE:A]])
* [[12月10日]] - [[マリオン・マレシャル=ルペン]]、[[フランス]]の[[政治家]]
* [[12月13日]] - [[テイラー・スウィフト]]、歌手
* 12月13日 - [[タイラー・パストルニッキー]]、[[メジャーリーガー]]
* [[12月14日]] - [[ドン・ローチ]]、メジャーリーガー
* 12月14日 - [[オンユ]]、アイドル、俳優([[SHINee]])
* [[12月15日]] - [[村中知]]、声優
* [[12月16日]] - [[桐谷美玲]]、女優、モデル
* 12月16日 - [[タイラー・チャットウッド]]、メジャーリーガー
* [[12月17日]] - [[アレッシア・バルド]]、フィギュアスケート選手
* 12月17日 - [[アンドレ・アイェウ]]、サッカー選手
* [[12月18日]] - [[アシュレイ・ベンソン]]、女優
* 12月18日 - [[アリーナ・ウシャコワ]]、フィギュアスケート選手
* 12月18日 - [[知念広弥]]、プロ野球選手
* [[12月20日]] - [[黄大城]]、サッカー選手
* [[12月26日]] - [[ショーン・ノリン]]、メジャーリーガー
* 12月26日 - [[徳井青空]]、声優<ref name="CDジャーナル">{{Cite web|和書 |url=https://artist.cdjournal.com/a/tokui-sora/188018|title=徳井 青空 - CDJournal |work=CDジャーナル |publisher=[[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |accessdate=2023-08-31}}</ref><ref name="文化放送">{{Cite web|和書 |url=https://www.joqr.co.jp/qr/personality/tokuisora/|title=徳井 青空 |publisher=[[文化放送]] |accessdate=2023-08-31}}</ref>
* [[12月27日]] - [[内田真礼]]、声優
* [[12月29日]] - [[錦織圭]]、テニス選手
* [[12月30日]] - [[オクサナ・ゴゼワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[12月31日]] - [[ケルビン・ヘレーラ]]、メジャーリーガー
== 死去 ==
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== ノーベル賞 ==
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== フィクションのできごと ==
* [[アメリカ国防総省|国防省]]の依頼を受けた[[ハーバード大学]]心理学部が、極秘の内に社会学的統制実験「バルスーム計画」を実行。薬品や催眠術、視覚効果などによって「[[宇宙人|地球外生命]]が人類と接触」という錯覚がサンプル集団に植え付けられ、反応が調査される。一部の被験者に根深い異人種恐怖症の反応が見られたことを根拠に、実験結果は未公表に終わる。(小説『[[2001年宇宙の旅]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 2001年宇宙の旅 ―決定版― |publisher = [[早川書房]] |year = 1993 |page = 241 |isbn = 978-4-15-011000-0}}</ref>
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1,579 | ノートパソコン |
ノートパソコン(ノート型パーソナルコンピュータ、ノートPC、ラップトップ、英: laptop, laptop computer, notebook computer, notepad computer, etc)は、モニタなどの表示画面、キーボードやポインティングデバイスなどの入力機器、バッテリー(電池)などがコンピュータ本体と一体化され、ユーザーが任意の場所へ移動させて利用する(持ち運ぶ)ことを前提として設計された、二つ折りで軽量のパーソナルコンピュータの総称である。
ノートパソコンは、主にパーソナルコンピュータ(いわゆる「パソコン」)の機能をオールインワンとし、携帯性や運搬性を重視したものであるが、その当初は後述するようにそれなりのサイズや重量もあったため、持ち歩くにもある程度の腕力を必要とするものであった。後に様々な技術の進歩を取り入れる形で小型化・軽量化(ダウンサイジング)が進んでいる。
古くは小型高密度化でそれ相応の製造コストがかかることから、デスクトップパソコンと比して販売価格が割高となる傾向は避けられず、またオールインワンタイプの宿命として自作PCのような拡張性も乏しく、かつモジュールも専用部品を使うことから、デスクトップ機のように部品交換で機能を向上させたりすることにも、それらが高価であるとかそもそも部品交換に対応していないなど、困難が付きまとった。
しかし、2000年代には多くのユーザーにとってデスクトップパソコンが過剰性能気味となった一方、ノートパソコンの価格も下がり、内部拡張のニーズも減少していった。こうした経緯により、一般のユーザーにもノートパソコンがメインのパソコンとして受け入れられるようになっている。
ノートパソコンの製造には、電子部品の小型・低消費電力化や、機械的構造(剛性・衝撃や圧迫に対する強度・対水ぬれ性など)の高度な設計など総合的な技術が求められることから、長い間日本のお家芸であった。しかし、1998年頃から大型の機種の生産を地価や人件費の安い中国・台湾などに移管するメーカーや、現地企業に設計・生産を委託し独自の設計・製造からは撤退するメーカーなども相次いだ。現在日本国内で生産しているのは直販メーカーが中心で、国内市場向けに迅速な対応が求められるBTOによる組み立てが行われている。
近年では電子部品の高性能、高密度化や、部品実装技術の向上、素材の性能向上などの発展により小型化、軽量化が進み、演算性能も飛躍的に向上している。また、バッテリーの性能向上もノートパソコンの発展に大きく貢献している。様々な機能がモジュールの形で実装しやすくなっているなどの事情もあり、後述するように多機能化も依然進行中である。
日本では住宅事情などにより、2000年以降ノートパソコンがパソコン市場の主流となっており、自社パソコンのラインアップをノート型のみとするメーカーも存在する。また従来はコストパフォーマンス重視でデスクトップパソコンが主流であったアメリカ合衆国やヨーロッパでも、価格や利便性のみならず、省電力=地球環境への配慮という観点からもノートパソコンによるデスクトップパソコンの置き換えが進んでいる。
こういったノートパソコン普及の一端には、「メインとして使うのに必要十分な性能」がデスクトップ機と比してもそれほど割高ではない価格で実現できるようになってきているためである。ノートパソコンを選択することは、企業において省エネ・省スペースもさることながら、外出・出張先に普段使っている環境を持っていって作業できる利点もある。この安価な省スペースパソコンという需要では、いわゆる省スペースパソコン(デスクトップ機)という選択肢もあり、ノート型パソコンが小型化の一方で犠牲にせざるを得ない「大画面」(大解像度)や「入力しやすい(フル)キーボード」や「扱いやすいポインティングデバイス」などを使うために、あえてノートパソコンではなく、大解像度の液晶ディスプレイへ接続・映像出力が可能な省スペースパソコンを選ぶ視点も存在する。
なお、2009年には後述するネットブックに代表される低価格サブノートパソコンに牽引される形でノートパソコン全体の価格が下がり、全世界で販売されているパソコンの50%以上をノート形パソコンが占めるまでになっている。ただし、低価格なネットブックに関しては、2010年代にスマートフォンやタブレット端末の普及で人気にかげりも現れ、パソコン全体の市場拡大が見込まれる中で、成長率を低めにとる見通しである。
「ノートパソコン」との呼称は和製英語であり、世界的にはノートブック (Notebook, Notebook computer)と呼ばれている。ラップトップ (Laptop, Laptop computer)と呼ばれるカテゴリ(の一部)で、概ね3 kg未満でブリーフケースに収まるサイズのラップトップがノートブックと呼ばれている(さらに薄型軽量のものはウルトラブック (Ultrabook)と呼ばれる)。日本では「ラップトップパソコン」より小型軽量なパソコンを指して、あるいはラップトップに相当する製品を全てノートパソコンと呼ぶことが多い。略して「ノーパソ」や「ノートパソ」などと呼ばれることもある。2017年現在の日本ではラップトップという呼称はほぼ廃れ、大型のデスクノートも含め、2つ折り式のポータブルコンピュータを全てノートパソコンと呼んでいる。
なお、1989年に日本でこの分野のパソコンが登場した当時は呼称が統一されておらず、マスメディアやパソコン雑誌でも当初は「ブック型パソコン」、「ブックパソコン」などの呼称が多かったが、エプソン(現・セイコーエプソン)が286NOTE、NECが98NOTEをそれぞれ「ノート型パソコン」として売り出したことから、「ノートパソコン」の名が一般的になった。
パーソナルでポータブルなコンピュータという概念はアラン・ケイによる1972年に発表されたダイナブックという構想で詳しく描かれている。ノート型より先にデスクトップサイズのパソコンの開発が行われたが、これらは形状(大きさや重量)的に持ち運びができるもの(ポータブル)ではなかった。IBMは1973年にポータブルコンピュータのプロトタイプIBM Special Computer APL Machine Portable (SCAMP) を発表し、1975年には世界初の市販ポータブル・コンピュータIBM 5100を発売した。
1980年代のはじめ、最初期のポータブルパソコンは、トランクやスーツケース大の筐体にCRTや補助記憶装置を詰め込み、何とか持ち運びが可能な状態に組み上げた製品であった。Portal R2E CCMC、オズボーン・コンピュータのオズボーン1や、コンパックのCompaq Portableなどがそのルーツである。しかし、これらはバッテリー駆動ではなく外部電源を必要とし、どうにか移動できるというレベルであった。
後にA4サイズ程度の持ち運べるコンピュータが開発され、ハンドヘルドコンピュータと呼ばれた。フルキーボードと小さな液晶ディスプレイを備え、バッテリー駆動が可能であった。マイクロカセットやプリンタなどの入出力機器を搭載したものもあったが、基本的にはデスクトップタイプのパソコンとは互換性のない、別個の商品として扱われていた。エプソンのHC-20、TRS-80 Model 100、そしてNECのPC-8201などが初期の例である。これらはディスプレイサイズが極端に小さく(データやタイピングを一行から数行表示できる)、デスクトップタイプのパソコン互換ではないことから、現在のノートパソコンとは異なる系統と言える。他にもポケットコンピュータというジャンルも存在していた。
1982年には、ビル・モグリッジがデザインし、Grid Systems Corporationが開発したGrid Compass 1101という世界初のクラムシェル型、つまり二つ折りにすることで、フルキーボードと画面を両立させ、折り畳んだ状態で持ち運べる小型パソコンが発売された。これによってノートPCの原型が確立されたが、高価格だったこととOSがマイナーな独自OSだったため、利用者はNASAやアメリカ軍など特殊な層であり、一般には広く普及しなかった。1983年には同じくクラムシェル型のDulmont Magnumが、同じく1983年にはSharp PC-5000(英語版)、Ampere、そしてGavilan SC(英語版)、1985年にはBondwell-2が発売された。PC-5000は本体のみの場合、バッテリで8時間使用可能とされた。 1985年には、一般市場向けで商業的に成功した初のラップトップとして、東芝からIBM PC/XT互換ラップトップPC T1100が発売された。
これらの1980年代初頭より登場した製品は、椅子に座ったひざの上で操作できるという意味で、「ラップトップパソコン」(英語:Laptop Computer)と呼ばれたが、初期には高重量の製品が多く、中にはMacintosh Portableなど10kgを超える製品も有ったため、ラップクラッシャー(膝壊し)などと揶揄されることもあった。
また、1989年には初のパームトップPCであるAtari Portfolioが発売された。これは、掌サイズの横長のクラムシェル型筐体に、ディスプレイとキーボードが備わっていた。この分野では、Poqet PCやシャープ、HPが続いて商品を発売した。
そんな中、A4ノートサイズ、2.7kgと軽量で、最小限のインターフェースを装備しながら、大型の液晶ディスプレイを備え、デスクトップタイプのパソコンと互換性を保持した製品として、1989年6月27日発表、同年7月に東芝から発売されたDynaBook(現・dynabook) J-3100SSは、19万8,000円という価格で衝撃を与えた。発表こそ エプソンのPC-286NOTE executive が先んじていたものの(1989年6月7日発表、同年9月発売、重さ 2.2kg、45万8,000円)、価格的には競合にならなかった。これらは、1989年10月には NEC より発売された PC-9801n とともに、「ノートパソコン」、通称「ノートPC」という新たな市場を切り開いた。基本的なデザインはノートPCの原型となったGrid Compassと大きく変わらないものの、それ以前のより重量的なラップトップPCと区別するためにノートPCという用語が使われるようになった。(注:1990年代後半になると、ラップトップPCとノートPCはほぼ同じ意味で使われるようになった。)
1991年にはApple ComputerがPowerBookシリーズの発売を開始、キーボードの手前にパームレストとポインティングデバイス(当時はトラックボール)を配置するという現在のノートパソコンのデザインの原型となった。ThinkPad(IBM/Lenovo)は独自のトラックポイントを採用している。
2000年代には、タッチパッドやポインティング・スティックといったポインティングデバイス、イーサネットや無線LANといったネットワーク機能はどのノートパソコンにも必ず搭載される機能になった。ディスプレイは高画質化され、Bluetoothをはじめとしたワイヤレス接続機能は著しい発展をとげ、プロセッサの処理速度や搭載メモリ容量なども大幅に向上した。これによりデスクトップ型パソコンの補助ではなく、最初に購入するパソコン、さらにメインマシンとして使用されることが一般的となった。
またUSBはそれ以前のノートパソコンが苦手とした拡張性を補って余りある接続性を提供しており、外部記憶装置や各種入出力機器・ユーザーインターフェイスデバイス・拡張機能を提供する周辺機器は多く、前述のBluetoothによる外部機器接続の利便性とあわせて、様々にユーザーに利用されるようになった。
構造としては、基本的にパーソナルコンピュータの機能を備える以上は、このコンピュータ・アーキテクチャを踏襲したものになっているが、オールインワン機種として、表示機器や演算装置・外部記憶装置・入力機器(ユーザインタフェース)などを一通り内蔵している。また、携帯に際して電源を得られない場所でも使用するために電源(バッテリー)を内蔵しており、内蔵電源と外部電源を利用できるようになっている。
パーソナルコンピュータ自身が汎用の製品であるため、製品によっては特定のユーザー群の利便性を向上させるべく何らかの機能を付加したものがある一方で、基本機能だけでまとめられ、ユーザーが用途に応じて拡張機能をオプションで追加することを前提とする製品も少なくない。こと小型化・携帯性を求める機種では、光学ドライブなどかさ張る機能は外部接続で利用するよう設計されている。
軽量化およびバッテリー動作のため、表示機器には主に液晶ディスプレイが使われており、基本的に本体部分との二つ折り形状となっているが、画面部分を回転させ画面を表にして折りたたむことでタブレットPCのように利用できるタイプも存在する。画面の大きさはデスクトップパソコンと同様に対角で「○○インチ」(販売店などでは○○型と表記)で表される。以前はアスペクト比(長辺:短辺)は「4:3」が主流であったが、2000年代半ば頃から「16:10」、「16:9」のいわゆるワイドが主流となっている。初期の頃は小型化や技術的なものやコストの問題もあってモノクロ画面を採用した製品もあったほか、16色や256色表示(色深度4ビットや8ビット)など色彩表示が限定的なものもあったが、現在はほぼ例外なくデスクトップ機と比べても遜色がないカラー表示が可能となっている。
液晶ディスプレイに関しては、当初は白黒液晶に始まり、カラー化の途上で比較的安価なDSTN液晶を採用した製品も普及したが、現在はほぼ全数がTFT液晶となっている。バックライトについては近年に至るまで冷陰極管(極細の蛍光管)が用いられているが、2008年第4四半期からLEDバックライト(エッジライト式)が登場している。
筐体の大きさについてはノートパソコンを閉じたときの状態で紙の寸法のA列およびB列になぞらえてカテゴライズされている。また、紙の寸法より一回り大きい「ファイルサイズ」という表現も用いられる。ただ、前述の通り画面アスペクト比がワイドのものでは、横に細長い製品も登場している。
スリムノート(英文のレビューなどでは Slim より Thin が使われている)と呼称されるノートパソコンについては、特定の大きさのカテゴリーに属するノートパソコンよりも比較的厚みが薄いものを指す。
電源は基本的に内蔵電源としてのバッテリーと、外部電源(商用電源など)を直接利用したりバッテリーを充電するためのACアダプタを利用する。大型の機種や過去のものには外部電源を利用するための変圧器や整流器を内蔵した製品もあったが、現在では本体の小型軽量化を妨げる要素として、小型機種を中心に外部にACアダプターを接続する形態が主流である。バッテリーに関しては技術革新が著しいものの、コンピュータとしての他の箇所の高性能化は消費電力を増大させる傾向もあり、また実用的な稼働時間と携帯性の間で、メーカー側はバランスに苦慮している。
ノートパソコン以外にも言えることだが、二次電池は充放電サイクルを繰り返すにつれて有効容量が減少するという問題を抱えており、経年劣化したバッテリーは交換を必要とする場合もある。なお、頻繁に充放電を繰り返したり過放電するなど利用条件次第でバッテリは保証期間内であっても容量が低下する場合もあることから、メーカーでは消耗部品扱いで保証対象外とする場合がほとんどである。
ノートパソコンに付属するACアダプターは、外部電源による動作および内蔵バッテリーの充電のために使用するが、ノートパソコンが携帯される機器として、販売されている(購入した)地域を離れた海外旅行や海外出張にも持ち出される場合もあることから、世界各国の電源事情に対応、電圧や交流周波数の違い(100~240ボルト、50/60ヘルツ)を自動的にノートパソコンの機能に即した電圧で直流の電流に変換できるよう設計された製品も見られ、またコンセント形状も様々な規格が存在し国・地域によってまちまちであることから、プラグ変換で対応する製品も見出せる。このほか、乗用車のアクセサリーソケットを利用できるアダプターなど、様々な製品も見られる。
また、半導体製品の低電圧化が進む現在でも消費電力の高いCPUや液晶パネル(特にバックライト)、各種ドライブなどを使用していることもバッテリーの小型化を阻害している要因である。古くは乾電池で駆動するものやThinkPad 220のように必要に応じてバッテリーと電池ボックスを入れ替えて利用できるノートパソコンも存在したが、パソコンの性能が上がり、消費電力の増大した現在ではノートパソコンを実用的に駆動するのは難しいため、現行のノートパソコンでは(マニアの改造を別にすれば)乾電池駆動の製品は見られない。そのため、外部に持ち出して長時間駆動するにはACアダプターも持参し電源を確保する必要性が出る。一部のメーカーでは充電式電池に代わって、アルコール(メタノール)を補給して電力を発生させる燃料電池の開発を進めているが、まだまだ技術革新の必要性が高い製品といえる。
なお、公共の施設でACアダプターを使用すると電気窃盗(盗電)になるおそれがある。その一方で、ノートパソコンを含む様々な電子機器としての携帯機器が一般に普及した結果として、日本においては一部の新幹線(東海道・山陽・九州のN700系、東北のE5系、山形のE3系2000番台、秋田のE6系、北陸のE7・W7系)や特急列車(主に2009年以降に製造されたJRや私鉄の車両)、ファミリーレストランやファストフード店など、客席にノートパソコンや携帯電話の充電用のコンセントを備えた施設も増えるなどしている。
またバッテリーは携帯時の電源だけでなく、急な停電の際の無停電電源装置としても機能する。
内蔵するデバイスのスピンドル数(モーター軸、すなわちディスクドライブの数)で以下のように分類されることもある。
ローエンドからロワメインストリームのCPU(2015年時点ではAMDのEシリーズ、AシリーズやインテルのCeleron、Pentium、Core i3、i5、i7(ただしCore i7の場合は2コア/4スレッドの低電圧仕様版がほとんど)と、13~15インチクラスの液晶を搭載したモデル。価格優先の設計で寸法と重量が大きいが、CPUがボトルネックとなりにくい一般的な用途(ネットアクセス、低解像度の動画再生、文書作成や表計算などのオフィススイートなど)には必要十分な性能で、安価なこともあり各社の売れ筋商品となっている。チップセットにもモバイル向けローエンド製品が使われることが多く(一部例外あり)、GPUもチップセットに統合されている。中には無線LANをも省略したモデルもある。また、2012年頃からUSB 3.0インターフェースや、一部に限られるがBlu-ray Discドライブなどを搭載したモデル(特に東芝、NEC、富士通)も存在する。
16~18インチクラスの液晶に最高性能レベルのCPU(2019年時点では主に6コア/12スレッド版のインテルのCore i7)とハイエンドGPU(同・NVIDIAのGTX 1070、1080あたり)を搭載したモデル。動画編集、DTM、オンラインゲーム、CAD、解析用途など、充分なマシンパワーが必要な用途向け。「ゲーミングノートパソコン」や「モバイルワークステーション」などと銘打って売られているものもある。高速化を目的としたSSD、大容量のBlu-ray Discドライブや地上デジタルチューナーを搭載している機種もある。一般的に普及機よりも重量は重く、持ち運び移動にはあまり適さない。
2014年7月現在、日本で販売しているメーカーはLenovo(旧IBM)、東芝、富士通、NEC、デル、エプソンダイレクト、ヒューレット・パッカード、エイサー、Apple、ショップブランドなどで、それぞれ各社のカラーがはっきりと出ているのが特徴。
14インチクラス以下の液晶と高性能CPUを組み合わせたモデル。携帯性と高性能とを兼ねそなえている。GPUは消費電力を抑え携行性を確保するためチップセット内蔵のものを利用することもあれば、性能を重視してミドルレンジ程度のものを実装することもある。近年ではビジネスモバイルとの中間的モデルも増え、ビジネスモバイルとの区分がはっきりしなくなっている。
ビジネスで持ち歩くことを想定して作られたモデルで、携帯性と堅牢性、バッテリーの持続時間が重視されている。ビジネスバッグに簡単に収めることができ、(日本の)ラッシュ時の通勤電車にもまれても壊れないよう、マグネシウム合金やカーボンファイバー素材などの頑丈な筐体を持っている。CPUにも低電圧バージョンを採用し、細かな電力制御をするなど省エネに気を配って電池での稼働時間を延ばしている。その他にもハードディスクに対する負荷や衝撃を軽減する仕組みを採用したり、キーボードに水をこぼしても問題ない製品も存在する。
ただし、先述の素材を含め、小型軽量設計で高価格であることと、電池持続時間を優先するあまりCPUの性能が二の次になっているなど、扱うデータのサイズやアプリケーションの種類によっては不利な面もある。
この分野は従来、パナソニック、IBM(現・レノボ)、富士通が得意としていたが、最近ではNECやソニー(現・VAIO)も対抗するモデルを販売するなど、他社も追撃する気配を見せている。
ビジネスモバイルから派生し、屋外での使用を主な用途と想定して耐振動・耐衝撃・防塵・防滴性能などを大幅に向上させたモデル。主に軍・警察・消防などで使われるが、振動に強いという性格から車載端末として使われるケースも多い。この分野は従来、パナソニック、ジェネラル・ダイナミクス(Itronix)、Getac(英語版)が市場をほぼ独占していたが、現在はNEC、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラなども参入している (TOUGHBOOK、en:Rugged computerも参照)。
パソコンでテレビ放送を見るためのモデル。こういった方向性はアナログ放送・8ビットパソコン(デスクトップ機)の時代から存在するが、テレビチューナーを搭載しているのが条件で、地上デジタルテレビ放送開始後の2012年現在では、地デジチューナー搭載の大型ノートブックからワンセグチューナー搭載の1スピンドル機まで幅広くリリースされている。
パソコンとしての性能もさることながら、放送、あるいは映像ソフトを視聴するためのアプリケーションソフトウェアの使い勝手の良さも求められる。チューナーを内蔵するため、それなりの重量となる(東芝Qosmioは重さ4kg以上と、ノートパソコンとしては重い)が、チューナーを外付けにしてUSBケーブルでつなぐ形をとっているモデルは、テレパソでありながらテレビチューナーなしモデルとほぼ同じ重さとなる。テレビチューナーのない機種でもUSB接続の外付けワンセグチューナーを接続・テレビ局によるサイトでの同時配信(NHKプラス・日テレ系リアルタイム配信・TBS系リアルタイム配信・テレ東系リアルタイム配信・東京メトロポリタンテレビジョンのエムキャスなど)でテレビ番組を視聴することはできる。
Clevoなど日本国外のメーカーから発売されているベアボーンを、パソコンショップが組み立てて販売する形態のパソコンのこと。BTO(受注生産)が基本。CPUグレードやメモリ、HDD容量など内容の設定の幅が広いため、無駄を極限まで切り詰めることができるので、低コスト、かつ、不必要な機能やアプリケーションソフトを省いたパソコンを手に入れることができるが、サポートセンターが存在しないので(販売店の対応レベルによる)、トラブルが起きても自力で解決(切り分け)できるスキルがユーザーにも要求される。一部にはノート型でありながらバッテリーを搭載しない機種も存在する。
デルやヒューレット・パッカードなど、直販BTO(またはCTO=Custom to order)主体のメーカーの製品も、ショップブランドほどではないものの、実際に製品に触れ、質問ができる店舗が限られるなど、初心者にとってはハードルが高い傾向にある。引き換えに、時折行われるキャンペーンなどを上手く利用すると、ショップブランド同様に低コストで不要なアプリケーションソフトが入っていないパソコンを手に入れることができ、サポートの内容もユーザーの好みで段階的に選べるため、電子掲示板などで情報を得られる中級者以上のユーザが購入する場合が多い。
また、家電量販店などで販売されている主要なメーカの多く(NEC、東芝、富士通、ソニーなど)は、並行して自社のウェブサイトで直接販売も行っており、直販専用モデルとして同程度の内容の製品が安価に売られていることも多く、メーカによっては通常より長い3年保証の付与、CPUやメモリ容量など一部内容の変更が可能、大型量販店でもオプションサービスで行われている自宅へ納品後の設定サービスが選択できる場合もある。
BTO販売の場合、2015年10月時点において、一般流通ルートでは入手不能となったWindows 7が選択できる(その大部分が32ビット版の7 Professional)製品もある(特に大手PC製造メーカーの法人向けの製品、およびパソコンショップ、直販BTOメーカーの各製品)。
14インチクラスの液晶画面を内蔵し、普及機並〜ハイエンドモバイルクラスのCPUを薄型の筐体に詰め込んだノートパソコン。SSDを搭載しているため、Webサービスやビジネス向けアプリケーションの使用では快適なパフォーマンスを発揮する。光学ドライブを省略し拡張性を排除した簡素な構成で、比較的低価格。性能と携帯性、価格のバランスに優れており、普及型とビジネスモバイル、ハイエンドモバイルのニッチを置き換える次世代の主流型ノートパソコンとして期待されている。
7~10インチ程度の小型液晶ディスプレイ、比較的低性能かつ超低消費電力タイプのCPUを搭載し、光学ドライブを省略した小型ノートパソコン(タブレットPC)の規格 が2006年に制定され、各社から製品が発表された。CPUにおいては、当初Intel A100などのCeleron MベースのCPU、もしくはVIA C7やAMD Geodeなどが主流を占めていたが、最近はIntel Atomを搭載した製品が大部分を占めている。しかし、ウルトラモバイルPCの特長であるペン入力やポインティングスティックなど複数の操作機構、画面を表にできる折りたたみ機構といった高付加価値による高価格、CPUやメモリの能力に見合わないOS (Windows Vista) がプリインストールされていたため、売り上げは伸び悩んだ。ただし、OSについては後述のネットブックが普及しだしてからはマイクロソフトのOS供給方針変更もあり、負荷が少ないWindows XPが搭載されるようになった。しかし、ネットブックともども2010年頃から急激に普及したタブレットコンピュータに駆逐され、結果的に消滅した。
2007年に、ラップトップパソコンよりもシンプルで低付加価値なネットブックと呼ばれている、10インチ前後のミニラップトップが急速に普及しだした。人気の背景にはパソコンが大半の用途において過剰性能になっていること、大容量のストレージや高い処理能力をそれほど必要としないウェブアプリケーションの普及がある。あえて低性能に抑える形で廉価なモジュールを組み合わせた製品が出回っており、2008年に前後する爆発的な普及では集積回路メーカーからOSをリリースしているMicrosoftまでもをまきこんでの、一大市場を形成した。なおこの際に、Microsoft側は低価格化のネックとなるOSのライセンス料を見直す上でULCPCという基準を示し、これがネットブックのスペック上限にも影響を与えている。
しかし、前記のウルトラモバイルPCと同様、このポジションはタブレットコンピュータに移行し、2010年に生産を終了した。
ノートパソコンは、パソコン全般と共通するコンピュータ・アーキテクチャ(いわゆるPC/AT互換機)を採用、他のパソコンと互換性を備えているが、その互換性を持たない、ノートパソコンによく似た形態を持つ携帯機器として、スマートブックというジャンルも登場している。これらは、PC/AT互換アーキテクチャーを採用する上で小型化・低電力化を阻害する避け得ない様々な制約を回避する上で、ARMアーキテクチャなどスマートフォンのそれを採用した製品が見られ、これらはインターネット端末としてやクラウドコンピューティング端末など限られた機能しかもたない。
2010年より活性化したいわゆるタブレット端末にも通じるこれらでは、両ジャンルに食い込む製品も見られ、たとえばAsus Eee Pad Transformerのように、キーボードと本体であるタブレットPCが分離可能で、必要に応じて双方の利便性を使い分けられるようになっている。
ノートパソコンはその90%以上が台湾メーカーによりOEM・ODM生産されている。
ノートパソコンを長時間使用する場合人体に与える影響が指摘されている。ノートパソコンの場合、ディスプレイが目線より下に存在することになり、常に首を曲げた状態で作業をする必要が生じる。これによって肩凝りや頭痛、長期的な疾病に至る事が懸念されている。そのため、一定時間ごとに休息し、マッサージをするなど対症療法的な方法と、モバイル以外の環境では視線を落とすことなく視認可能な外部ディスプレイに接続するなどの方法が推奨されている。
また、高い発熱をするCPUを採用したり、冷却ファンの出力が低い場合、バッテリーの過熱・発火事故や、長時間の使用で発生する内部の発熱(40~50°Cを超える場合あり)による(低温)やけどの被害も起きている。これを防ぐには、市販のノートクーラーパッドやUSB扇風機などでノートパソコン本体の温度を下げる必要がある。 | [
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"text": "ノートパソコン(ノート型パーソナルコンピュータ、ノートPC、ラップトップ、英: laptop, laptop computer, notebook computer, notepad computer, etc)は、モニタなどの表示画面、キーボードやポインティングデバイスなどの入力機器、バッテリー(電池)などがコンピュータ本体と一体化され、ユーザーが任意の場所へ移動させて利用する(持ち運ぶ)ことを前提として設計された、二つ折りで軽量のパーソナルコンピュータの総称である。",
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},
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"paragraph_id": 2,
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"text": "ノートパソコンは、主にパーソナルコンピュータ(いわゆる「パソコン」)の機能をオールインワンとし、携帯性や運搬性を重視したものであるが、その当初は後述するようにそれなりのサイズや重量もあったため、持ち歩くにもある程度の腕力を必要とするものであった。後に様々な技術の進歩を取り入れる形で小型化・軽量化(ダウンサイジング)が進んでいる。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 3,
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"text": "古くは小型高密度化でそれ相応の製造コストがかかることから、デスクトップパソコンと比して販売価格が割高となる傾向は避けられず、またオールインワンタイプの宿命として自作PCのような拡張性も乏しく、かつモジュールも専用部品を使うことから、デスクトップ機のように部品交換で機能を向上させたりすることにも、それらが高価であるとかそもそも部品交換に対応していないなど、困難が付きまとった。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "しかし、2000年代には多くのユーザーにとってデスクトップパソコンが過剰性能気味となった一方、ノートパソコンの価格も下がり、内部拡張のニーズも減少していった。こうした経緯により、一般のユーザーにもノートパソコンがメインのパソコンとして受け入れられるようになっている。",
"title": "概要"
},
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"text": "ノートパソコンの製造には、電子部品の小型・低消費電力化や、機械的構造(剛性・衝撃や圧迫に対する強度・対水ぬれ性など)の高度な設計など総合的な技術が求められることから、長い間日本のお家芸であった。しかし、1998年頃から大型の機種の生産を地価や人件費の安い中国・台湾などに移管するメーカーや、現地企業に設計・生産を委託し独自の設計・製造からは撤退するメーカーなども相次いだ。現在日本国内で生産しているのは直販メーカーが中心で、国内市場向けに迅速な対応が求められるBTOによる組み立てが行われている。",
"title": "概要"
},
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"text": "近年では電子部品の高性能、高密度化や、部品実装技術の向上、素材の性能向上などの発展により小型化、軽量化が進み、演算性能も飛躍的に向上している。また、バッテリーの性能向上もノートパソコンの発展に大きく貢献している。様々な機能がモジュールの形で実装しやすくなっているなどの事情もあり、後述するように多機能化も依然進行中である。",
"title": "概要"
},
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"text": "日本では住宅事情などにより、2000年以降ノートパソコンがパソコン市場の主流となっており、自社パソコンのラインアップをノート型のみとするメーカーも存在する。また従来はコストパフォーマンス重視でデスクトップパソコンが主流であったアメリカ合衆国やヨーロッパでも、価格や利便性のみならず、省電力=地球環境への配慮という観点からもノートパソコンによるデスクトップパソコンの置き換えが進んでいる。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "こういったノートパソコン普及の一端には、「メインとして使うのに必要十分な性能」がデスクトップ機と比してもそれほど割高ではない価格で実現できるようになってきているためである。ノートパソコンを選択することは、企業において省エネ・省スペースもさることながら、外出・出張先に普段使っている環境を持っていって作業できる利点もある。この安価な省スペースパソコンという需要では、いわゆる省スペースパソコン(デスクトップ機)という選択肢もあり、ノート型パソコンが小型化の一方で犠牲にせざるを得ない「大画面」(大解像度)や「入力しやすい(フル)キーボード」や「扱いやすいポインティングデバイス」などを使うために、あえてノートパソコンではなく、大解像度の液晶ディスプレイへ接続・映像出力が可能な省スペースパソコンを選ぶ視点も存在する。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "なお、2009年には後述するネットブックに代表される低価格サブノートパソコンに牽引される形でノートパソコン全体の価格が下がり、全世界で販売されているパソコンの50%以上をノート形パソコンが占めるまでになっている。ただし、低価格なネットブックに関しては、2010年代にスマートフォンやタブレット端末の普及で人気にかげりも現れ、パソコン全体の市場拡大が見込まれる中で、成長率を低めにとる見通しである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "「ノートパソコン」との呼称は和製英語であり、世界的にはノートブック (Notebook, Notebook computer)と呼ばれている。ラップトップ (Laptop, Laptop computer)と呼ばれるカテゴリ(の一部)で、概ね3 kg未満でブリーフケースに収まるサイズのラップトップがノートブックと呼ばれている(さらに薄型軽量のものはウルトラブック (Ultrabook)と呼ばれる)。日本では「ラップトップパソコン」より小型軽量なパソコンを指して、あるいはラップトップに相当する製品を全てノートパソコンと呼ぶことが多い。略して「ノーパソ」や「ノートパソ」などと呼ばれることもある。2017年現在の日本ではラップトップという呼称はほぼ廃れ、大型のデスクノートも含め、2つ折り式のポータブルコンピュータを全てノートパソコンと呼んでいる。",
"title": "名称"
},
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"text": "なお、1989年に日本でこの分野のパソコンが登場した当時は呼称が統一されておらず、マスメディアやパソコン雑誌でも当初は「ブック型パソコン」、「ブックパソコン」などの呼称が多かったが、エプソン(現・セイコーエプソン)が286NOTE、NECが98NOTEをそれぞれ「ノート型パソコン」として売り出したことから、「ノートパソコン」の名が一般的になった。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "パーソナルでポータブルなコンピュータという概念はアラン・ケイによる1972年に発表されたダイナブックという構想で詳しく描かれている。ノート型より先にデスクトップサイズのパソコンの開発が行われたが、これらは形状(大きさや重量)的に持ち運びができるもの(ポータブル)ではなかった。IBMは1973年にポータブルコンピュータのプロトタイプIBM Special Computer APL Machine Portable (SCAMP) を発表し、1975年には世界初の市販ポータブル・コンピュータIBM 5100を発売した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1980年代のはじめ、最初期のポータブルパソコンは、トランクやスーツケース大の筐体にCRTや補助記憶装置を詰め込み、何とか持ち運びが可能な状態に組み上げた製品であった。Portal R2E CCMC、オズボーン・コンピュータのオズボーン1や、コンパックのCompaq Portableなどがそのルーツである。しかし、これらはバッテリー駆動ではなく外部電源を必要とし、どうにか移動できるというレベルであった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "後にA4サイズ程度の持ち運べるコンピュータが開発され、ハンドヘルドコンピュータと呼ばれた。フルキーボードと小さな液晶ディスプレイを備え、バッテリー駆動が可能であった。マイクロカセットやプリンタなどの入出力機器を搭載したものもあったが、基本的にはデスクトップタイプのパソコンとは互換性のない、別個の商品として扱われていた。エプソンのHC-20、TRS-80 Model 100、そしてNECのPC-8201などが初期の例である。これらはディスプレイサイズが極端に小さく(データやタイピングを一行から数行表示できる)、デスクトップタイプのパソコン互換ではないことから、現在のノートパソコンとは異なる系統と言える。他にもポケットコンピュータというジャンルも存在していた。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1982年には、ビル・モグリッジがデザインし、Grid Systems Corporationが開発したGrid Compass 1101という世界初のクラムシェル型、つまり二つ折りにすることで、フルキーボードと画面を両立させ、折り畳んだ状態で持ち運べる小型パソコンが発売された。これによってノートPCの原型が確立されたが、高価格だったこととOSがマイナーな独自OSだったため、利用者はNASAやアメリカ軍など特殊な層であり、一般には広く普及しなかった。1983年には同じくクラムシェル型のDulmont Magnumが、同じく1983年にはSharp PC-5000(英語版)、Ampere、そしてGavilan SC(英語版)、1985年にはBondwell-2が発売された。PC-5000は本体のみの場合、バッテリで8時間使用可能とされた。 1985年には、一般市場向けで商業的に成功した初のラップトップとして、東芝からIBM PC/XT互換ラップトップPC T1100が発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "これらの1980年代初頭より登場した製品は、椅子に座ったひざの上で操作できるという意味で、「ラップトップパソコン」(英語:Laptop Computer)と呼ばれたが、初期には高重量の製品が多く、中にはMacintosh Portableなど10kgを超える製品も有ったため、ラップクラッシャー(膝壊し)などと揶揄されることもあった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、1989年には初のパームトップPCであるAtari Portfolioが発売された。これは、掌サイズの横長のクラムシェル型筐体に、ディスプレイとキーボードが備わっていた。この分野では、Poqet PCやシャープ、HPが続いて商品を発売した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "そんな中、A4ノートサイズ、2.7kgと軽量で、最小限のインターフェースを装備しながら、大型の液晶ディスプレイを備え、デスクトップタイプのパソコンと互換性を保持した製品として、1989年6月27日発表、同年7月に東芝から発売されたDynaBook(現・dynabook) J-3100SSは、19万8,000円という価格で衝撃を与えた。発表こそ エプソンのPC-286NOTE executive が先んじていたものの(1989年6月7日発表、同年9月発売、重さ 2.2kg、45万8,000円)、価格的には競合にならなかった。これらは、1989年10月には NEC より発売された PC-9801n とともに、「ノートパソコン」、通称「ノートPC」という新たな市場を切り開いた。基本的なデザインはノートPCの原型となったGrid Compassと大きく変わらないものの、それ以前のより重量的なラップトップPCと区別するためにノートPCという用語が使われるようになった。(注:1990年代後半になると、ラップトップPCとノートPCはほぼ同じ意味で使われるようになった。)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "1991年にはApple ComputerがPowerBookシリーズの発売を開始、キーボードの手前にパームレストとポインティングデバイス(当時はトラックボール)を配置するという現在のノートパソコンのデザインの原型となった。ThinkPad(IBM/Lenovo)は独自のトラックポイントを採用している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "2000年代には、タッチパッドやポインティング・スティックといったポインティングデバイス、イーサネットや無線LANといったネットワーク機能はどのノートパソコンにも必ず搭載される機能になった。ディスプレイは高画質化され、Bluetoothをはじめとしたワイヤレス接続機能は著しい発展をとげ、プロセッサの処理速度や搭載メモリ容量なども大幅に向上した。これによりデスクトップ型パソコンの補助ではなく、最初に購入するパソコン、さらにメインマシンとして使用されることが一般的となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "またUSBはそれ以前のノートパソコンが苦手とした拡張性を補って余りある接続性を提供しており、外部記憶装置や各種入出力機器・ユーザーインターフェイスデバイス・拡張機能を提供する周辺機器は多く、前述のBluetoothによる外部機器接続の利便性とあわせて、様々にユーザーに利用されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "構造としては、基本的にパーソナルコンピュータの機能を備える以上は、このコンピュータ・アーキテクチャを踏襲したものになっているが、オールインワン機種として、表示機器や演算装置・外部記憶装置・入力機器(ユーザインタフェース)などを一通り内蔵している。また、携帯に際して電源を得られない場所でも使用するために電源(バッテリー)を内蔵しており、内蔵電源と外部電源を利用できるようになっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "パーソナルコンピュータ自身が汎用の製品であるため、製品によっては特定のユーザー群の利便性を向上させるべく何らかの機能を付加したものがある一方で、基本機能だけでまとめられ、ユーザーが用途に応じて拡張機能をオプションで追加することを前提とする製品も少なくない。こと小型化・携帯性を求める機種では、光学ドライブなどかさ張る機能は外部接続で利用するよう設計されている。",
"title": "構造"
},
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "軽量化およびバッテリー動作のため、表示機器には主に液晶ディスプレイが使われており、基本的に本体部分との二つ折り形状となっているが、画面部分を回転させ画面を表にして折りたたむことでタブレットPCのように利用できるタイプも存在する。画面の大きさはデスクトップパソコンと同様に対角で「○○インチ」(販売店などでは○○型と表記)で表される。以前はアスペクト比(長辺:短辺)は「4:3」が主流であったが、2000年代半ば頃から「16:10」、「16:9」のいわゆるワイドが主流となっている。初期の頃は小型化や技術的なものやコストの問題もあってモノクロ画面を採用した製品もあったほか、16色や256色表示(色深度4ビットや8ビット)など色彩表示が限定的なものもあったが、現在はほぼ例外なくデスクトップ機と比べても遜色がないカラー表示が可能となっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "液晶ディスプレイに関しては、当初は白黒液晶に始まり、カラー化の途上で比較的安価なDSTN液晶を採用した製品も普及したが、現在はほぼ全数がTFT液晶となっている。バックライトについては近年に至るまで冷陰極管(極細の蛍光管)が用いられているが、2008年第4四半期からLEDバックライト(エッジライト式)が登場している。",
"title": "構造"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "筐体の大きさについてはノートパソコンを閉じたときの状態で紙の寸法のA列およびB列になぞらえてカテゴライズされている。また、紙の寸法より一回り大きい「ファイルサイズ」という表現も用いられる。ただ、前述の通り画面アスペクト比がワイドのものでは、横に細長い製品も登場している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "スリムノート(英文のレビューなどでは Slim より Thin が使われている)と呼称されるノートパソコンについては、特定の大きさのカテゴリーに属するノートパソコンよりも比較的厚みが薄いものを指す。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "電源は基本的に内蔵電源としてのバッテリーと、外部電源(商用電源など)を直接利用したりバッテリーを充電するためのACアダプタを利用する。大型の機種や過去のものには外部電源を利用するための変圧器や整流器を内蔵した製品もあったが、現在では本体の小型軽量化を妨げる要素として、小型機種を中心に外部にACアダプターを接続する形態が主流である。バッテリーに関しては技術革新が著しいものの、コンピュータとしての他の箇所の高性能化は消費電力を増大させる傾向もあり、また実用的な稼働時間と携帯性の間で、メーカー側はバランスに苦慮している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコン以外にも言えることだが、二次電池は充放電サイクルを繰り返すにつれて有効容量が減少するという問題を抱えており、経年劣化したバッテリーは交換を必要とする場合もある。なお、頻繁に充放電を繰り返したり過放電するなど利用条件次第でバッテリは保証期間内であっても容量が低下する場合もあることから、メーカーでは消耗部品扱いで保証対象外とする場合がほとんどである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンに付属するACアダプターは、外部電源による動作および内蔵バッテリーの充電のために使用するが、ノートパソコンが携帯される機器として、販売されている(購入した)地域を離れた海外旅行や海外出張にも持ち出される場合もあることから、世界各国の電源事情に対応、電圧や交流周波数の違い(100~240ボルト、50/60ヘルツ)を自動的にノートパソコンの機能に即した電圧で直流の電流に変換できるよう設計された製品も見られ、またコンセント形状も様々な規格が存在し国・地域によってまちまちであることから、プラグ変換で対応する製品も見出せる。このほか、乗用車のアクセサリーソケットを利用できるアダプターなど、様々な製品も見られる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、半導体製品の低電圧化が進む現在でも消費電力の高いCPUや液晶パネル(特にバックライト)、各種ドライブなどを使用していることもバッテリーの小型化を阻害している要因である。古くは乾電池で駆動するものやThinkPad 220のように必要に応じてバッテリーと電池ボックスを入れ替えて利用できるノートパソコンも存在したが、パソコンの性能が上がり、消費電力の増大した現在ではノートパソコンを実用的に駆動するのは難しいため、現行のノートパソコンでは(マニアの改造を別にすれば)乾電池駆動の製品は見られない。そのため、外部に持ち出して長時間駆動するにはACアダプターも持参し電源を確保する必要性が出る。一部のメーカーでは充電式電池に代わって、アルコール(メタノール)を補給して電力を発生させる燃料電池の開発を進めているが、まだまだ技術革新の必要性が高い製品といえる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、公共の施設でACアダプターを使用すると電気窃盗(盗電)になるおそれがある。その一方で、ノートパソコンを含む様々な電子機器としての携帯機器が一般に普及した結果として、日本においては一部の新幹線(東海道・山陽・九州のN700系、東北のE5系、山形のE3系2000番台、秋田のE6系、北陸のE7・W7系)や特急列車(主に2009年以降に製造されたJRや私鉄の車両)、ファミリーレストランやファストフード店など、客席にノートパソコンや携帯電話の充電用のコンセントを備えた施設も増えるなどしている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "またバッテリーは携帯時の電源だけでなく、急な停電の際の無停電電源装置としても機能する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "内蔵するデバイスのスピンドル数(モーター軸、すなわちディスクドライブの数)で以下のように分類されることもある。",
"title": "他の分類方法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ローエンドからロワメインストリームのCPU(2015年時点ではAMDのEシリーズ、AシリーズやインテルのCeleron、Pentium、Core i3、i5、i7(ただしCore i7の場合は2コア/4スレッドの低電圧仕様版がほとんど)と、13~15インチクラスの液晶を搭載したモデル。価格優先の設計で寸法と重量が大きいが、CPUがボトルネックとなりにくい一般的な用途(ネットアクセス、低解像度の動画再生、文書作成や表計算などのオフィススイートなど)には必要十分な性能で、安価なこともあり各社の売れ筋商品となっている。チップセットにもモバイル向けローエンド製品が使われることが多く(一部例外あり)、GPUもチップセットに統合されている。中には無線LANをも省略したモデルもある。また、2012年頃からUSB 3.0インターフェースや、一部に限られるがBlu-ray Discドライブなどを搭載したモデル(特に東芝、NEC、富士通)も存在する。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "16~18インチクラスの液晶に最高性能レベルのCPU(2019年時点では主に6コア/12スレッド版のインテルのCore i7)とハイエンドGPU(同・NVIDIAのGTX 1070、1080あたり)を搭載したモデル。動画編集、DTM、オンラインゲーム、CAD、解析用途など、充分なマシンパワーが必要な用途向け。「ゲーミングノートパソコン」や「モバイルワークステーション」などと銘打って売られているものもある。高速化を目的としたSSD、大容量のBlu-ray Discドライブや地上デジタルチューナーを搭載している機種もある。一般的に普及機よりも重量は重く、持ち運び移動にはあまり適さない。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2014年7月現在、日本で販売しているメーカーはLenovo(旧IBM)、東芝、富士通、NEC、デル、エプソンダイレクト、ヒューレット・パッカード、エイサー、Apple、ショップブランドなどで、それぞれ各社のカラーがはっきりと出ているのが特徴。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "14インチクラス以下の液晶と高性能CPUを組み合わせたモデル。携帯性と高性能とを兼ねそなえている。GPUは消費電力を抑え携行性を確保するためチップセット内蔵のものを利用することもあれば、性能を重視してミドルレンジ程度のものを実装することもある。近年ではビジネスモバイルとの中間的モデルも増え、ビジネスモバイルとの区分がはっきりしなくなっている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ビジネスで持ち歩くことを想定して作られたモデルで、携帯性と堅牢性、バッテリーの持続時間が重視されている。ビジネスバッグに簡単に収めることができ、(日本の)ラッシュ時の通勤電車にもまれても壊れないよう、マグネシウム合金やカーボンファイバー素材などの頑丈な筐体を持っている。CPUにも低電圧バージョンを採用し、細かな電力制御をするなど省エネに気を配って電池での稼働時間を延ばしている。その他にもハードディスクに対する負荷や衝撃を軽減する仕組みを採用したり、キーボードに水をこぼしても問題ない製品も存在する。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ただし、先述の素材を含め、小型軽量設計で高価格であることと、電池持続時間を優先するあまりCPUの性能が二の次になっているなど、扱うデータのサイズやアプリケーションの種類によっては不利な面もある。",
"title": "性能・用途別の分類"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "この分野は従来、パナソニック、IBM(現・レノボ)、富士通が得意としていたが、最近ではNECやソニー(現・VAIO)も対抗するモデルを販売するなど、他社も追撃する気配を見せている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ビジネスモバイルから派生し、屋外での使用を主な用途と想定して耐振動・耐衝撃・防塵・防滴性能などを大幅に向上させたモデル。主に軍・警察・消防などで使われるが、振動に強いという性格から車載端末として使われるケースも多い。この分野は従来、パナソニック、ジェネラル・ダイナミクス(Itronix)、Getac(英語版)が市場をほぼ独占していたが、現在はNEC、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラなども参入している (TOUGHBOOK、en:Rugged computerも参照)。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "パソコンでテレビ放送を見るためのモデル。こういった方向性はアナログ放送・8ビットパソコン(デスクトップ機)の時代から存在するが、テレビチューナーを搭載しているのが条件で、地上デジタルテレビ放送開始後の2012年現在では、地デジチューナー搭載の大型ノートブックからワンセグチューナー搭載の1スピンドル機まで幅広くリリースされている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "パソコンとしての性能もさることながら、放送、あるいは映像ソフトを視聴するためのアプリケーションソフトウェアの使い勝手の良さも求められる。チューナーを内蔵するため、それなりの重量となる(東芝Qosmioは重さ4kg以上と、ノートパソコンとしては重い)が、チューナーを外付けにしてUSBケーブルでつなぐ形をとっているモデルは、テレパソでありながらテレビチューナーなしモデルとほぼ同じ重さとなる。テレビチューナーのない機種でもUSB接続の外付けワンセグチューナーを接続・テレビ局によるサイトでの同時配信(NHKプラス・日テレ系リアルタイム配信・TBS系リアルタイム配信・テレ東系リアルタイム配信・東京メトロポリタンテレビジョンのエムキャスなど)でテレビ番組を視聴することはできる。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "Clevoなど日本国外のメーカーから発売されているベアボーンを、パソコンショップが組み立てて販売する形態のパソコンのこと。BTO(受注生産)が基本。CPUグレードやメモリ、HDD容量など内容の設定の幅が広いため、無駄を極限まで切り詰めることができるので、低コスト、かつ、不必要な機能やアプリケーションソフトを省いたパソコンを手に入れることができるが、サポートセンターが存在しないので(販売店の対応レベルによる)、トラブルが起きても自力で解決(切り分け)できるスキルがユーザーにも要求される。一部にはノート型でありながらバッテリーを搭載しない機種も存在する。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "デルやヒューレット・パッカードなど、直販BTO(またはCTO=Custom to order)主体のメーカーの製品も、ショップブランドほどではないものの、実際に製品に触れ、質問ができる店舗が限られるなど、初心者にとってはハードルが高い傾向にある。引き換えに、時折行われるキャンペーンなどを上手く利用すると、ショップブランド同様に低コストで不要なアプリケーションソフトが入っていないパソコンを手に入れることができ、サポートの内容もユーザーの好みで段階的に選べるため、電子掲示板などで情報を得られる中級者以上のユーザが購入する場合が多い。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、家電量販店などで販売されている主要なメーカの多く(NEC、東芝、富士通、ソニーなど)は、並行して自社のウェブサイトで直接販売も行っており、直販専用モデルとして同程度の内容の製品が安価に売られていることも多く、メーカによっては通常より長い3年保証の付与、CPUやメモリ容量など一部内容の変更が可能、大型量販店でもオプションサービスで行われている自宅へ納品後の設定サービスが選択できる場合もある。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "BTO販売の場合、2015年10月時点において、一般流通ルートでは入手不能となったWindows 7が選択できる(その大部分が32ビット版の7 Professional)製品もある(特に大手PC製造メーカーの法人向けの製品、およびパソコンショップ、直販BTOメーカーの各製品)。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "14インチクラスの液晶画面を内蔵し、普及機並〜ハイエンドモバイルクラスのCPUを薄型の筐体に詰め込んだノートパソコン。SSDを搭載しているため、Webサービスやビジネス向けアプリケーションの使用では快適なパフォーマンスを発揮する。光学ドライブを省略し拡張性を排除した簡素な構成で、比較的低価格。性能と携帯性、価格のバランスに優れており、普及型とビジネスモバイル、ハイエンドモバイルのニッチを置き換える次世代の主流型ノートパソコンとして期待されている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "7~10インチ程度の小型液晶ディスプレイ、比較的低性能かつ超低消費電力タイプのCPUを搭載し、光学ドライブを省略した小型ノートパソコン(タブレットPC)の規格 が2006年に制定され、各社から製品が発表された。CPUにおいては、当初Intel A100などのCeleron MベースのCPU、もしくはVIA C7やAMD Geodeなどが主流を占めていたが、最近はIntel Atomを搭載した製品が大部分を占めている。しかし、ウルトラモバイルPCの特長であるペン入力やポインティングスティックなど複数の操作機構、画面を表にできる折りたたみ機構といった高付加価値による高価格、CPUやメモリの能力に見合わないOS (Windows Vista) がプリインストールされていたため、売り上げは伸び悩んだ。ただし、OSについては後述のネットブックが普及しだしてからはマイクロソフトのOS供給方針変更もあり、負荷が少ないWindows XPが搭載されるようになった。しかし、ネットブックともども2010年頃から急激に普及したタブレットコンピュータに駆逐され、結果的に消滅した。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2007年に、ラップトップパソコンよりもシンプルで低付加価値なネットブックと呼ばれている、10インチ前後のミニラップトップが急速に普及しだした。人気の背景にはパソコンが大半の用途において過剰性能になっていること、大容量のストレージや高い処理能力をそれほど必要としないウェブアプリケーションの普及がある。あえて低性能に抑える形で廉価なモジュールを組み合わせた製品が出回っており、2008年に前後する爆発的な普及では集積回路メーカーからOSをリリースしているMicrosoftまでもをまきこんでの、一大市場を形成した。なおこの際に、Microsoft側は低価格化のネックとなるOSのライセンス料を見直す上でULCPCという基準を示し、これがネットブックのスペック上限にも影響を与えている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "しかし、前記のウルトラモバイルPCと同様、このポジションはタブレットコンピュータに移行し、2010年に生産を終了した。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンは、パソコン全般と共通するコンピュータ・アーキテクチャ(いわゆるPC/AT互換機)を採用、他のパソコンと互換性を備えているが、その互換性を持たない、ノートパソコンによく似た形態を持つ携帯機器として、スマートブックというジャンルも登場している。これらは、PC/AT互換アーキテクチャーを採用する上で小型化・低電力化を阻害する避け得ない様々な制約を回避する上で、ARMアーキテクチャなどスマートフォンのそれを採用した製品が見られ、これらはインターネット端末としてやクラウドコンピューティング端末など限られた機能しかもたない。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2010年より活性化したいわゆるタブレット端末にも通じるこれらでは、両ジャンルに食い込む製品も見られ、たとえばAsus Eee Pad Transformerのように、キーボードと本体であるタブレットPCが分離可能で、必要に応じて双方の利便性を使い分けられるようになっている。",
"title": "性能・用途別の分類"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンはその90%以上が台湾メーカーによりOEM・ODM生産されている。",
"title": "代表的なノートパソコン"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ノートパソコンを長時間使用する場合人体に与える影響が指摘されている。ノートパソコンの場合、ディスプレイが目線より下に存在することになり、常に首を曲げた状態で作業をする必要が生じる。これによって肩凝りや頭痛、長期的な疾病に至る事が懸念されている。そのため、一定時間ごとに休息し、マッサージをするなど対症療法的な方法と、モバイル以外の環境では視線を落とすことなく視認可能な外部ディスプレイに接続するなどの方法が推奨されている。",
"title": "健康上の問題"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、高い発熱をするCPUを採用したり、冷却ファンの出力が低い場合、バッテリーの過熱・発火事故や、長時間の使用で発生する内部の発熱(40~50°Cを超える場合あり)による(低温)やけどの被害も起きている。これを防ぐには、市販のノートクーラーパッドやUSB扇風機などでノートパソコン本体の温度を下げる必要がある。",
"title": "健康上の問題"
}
]
| ノートパソコンは、モニタなどの表示画面、キーボードやポインティングデバイスなどの入力機器、バッテリー(電池)などがコンピュータ本体と一体化され、ユーザーが任意の場所へ移動させて利用する(持ち運ぶ)ことを前提として設計された、二つ折りで軽量のパーソナルコンピュータの総称である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{出典の明記|date=2021年5月}}
'''ノートパソコン'''(ノート型パーソナルコンピュータ、'''ノートPC、ラップトップ'''、{{lang-en-short|[[:en:Laptop|laptop]], laptop computer, notebook computer, notepad computer, etc}})は、[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]などの表示画面、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]や[[ポインティングデバイス]]などの[[入力機器]]、[[二次電池|バッテリー]]([[電池]])などが[[コンピュータ]]本体と一体化され、[[ユーザー (コンピュータ)|ユーザー]]が任意の場所へ移動させて利用する(持ち運ぶ)ことを前提として設計された、二つ折りで軽量の[[パーソナルコンピュータ]]の総称である。
[[画像:IBM_Thinkpad_R51.jpg|thumb|200px|ノートパソコンの一例<br />[[ThinkPad]] R51<br />(2004年・15型・B4サイズ)]]
== 概要 ==
ノートパソコンは、主にパーソナルコンピュータ(いわゆる「パソコン」)の機能を[[オールインワン]]とし、携帯性や運搬性を重視したものであるが、その当初は後述するようにそれなりのサイズや重量もあったため、持ち歩くにもある程度の腕力を必要とするものであった。後に様々な技術の進歩を取り入れる形で小型化・軽量化([[ダウンサイジング]])が進んでいる。
古くは小型高密度化でそれ相応の製造コストがかかることから、[[デスクトップパソコン]]と比して販売価格が割高となる傾向は避けられず、またオールインワンタイプの宿命として[[自作パソコン|自作PC]]のような拡張性も乏しく、かつモジュールも専用部品を使うことから、デスクトップ機のように部品交換で機能を向上させたりすることにも、それらが高価であるとかそもそも部品交換に対応していないなど、困難が付きまとった。
しかし、[[2000年代]]には多くのユーザーにとってデスクトップパソコンが[[過剰性能]]気味となった一方、ノートパソコンの価格も下がり、内部拡張のニーズも減少していった。こうした経緯により、一般のユーザーにもノートパソコンがメインのパソコンとして受け入れられるようになっている。
ノートパソコンの製造には、[[電子部品]]の小型・低[[消費電力]]化や、[[機械]]的[[構造]]([[剛性]]・[[重力加速度|衝撃]]や圧迫に対する[[強度]]・対[[水]]ぬれ性など)の高度な[[設計]]など総合的な[[技術]]が求められることから、長い間[[日本]]の[[お家芸]]であった。しかし、[[1998年]]頃から大型の機種の生産を地価や人件費の安い[[中華人民共和国|中国]]・[[台湾]]などに移管する[[メーカー]]や、現地企業に設計・生産を委託し独自の設計・製造からは撤退するメーカーなども相次いだ。現在日本国内で生産しているのは直販メーカーが中心で、国内市場向けに迅速な対応が求められる[[BTO]]による組み立てが行われている。
近年では[[電子部品]]の高性能、高密度化や、[[部品]][[実装]]技術の向上、[[素材]]の[[性能]]向上などの発展により小型化、軽量化が進み、[[演算]][[性能]]も飛躍的に向上している。また、バッテリーの性能向上もノートパソコンの発展に大きく貢献している。様々な機能が[[モジュール]]の形で実装しやすくなっているなどの事情もあり、後述するように[[多機能化]]も依然進行中である。
===市場の動向===
日本では[[住宅]]事情などにより、[[2000年]]以降ノートパソコンがパソコン市場の主流となっており、自社パソコンのラインアップをノート型のみとするメーカーも存在する。また従来は[[コストパフォーマンス]]重視で[[デスクトップパソコン]]が主流であった[[アメリカ合衆国]]や[[ヨーロッパ]]でも、価格や[[利便性]]のみならず、省電力<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/1524/ 最近のパソコントレンド](AllAbout2009年4月)</ref>=[[地球]][[環境問題|環境への配慮]]という観点からもノートパソコンによるデスクトップパソコンの置き換えが進んでいる。
こういったノートパソコン普及の一端には、「メインとして使うのに必要十分な性能」がデスクトップ機と比してもそれほど割高ではない価格で実現できるようになってきているためである。ノートパソコンを選択することは、企業において省エネ・省スペースもさることながら、外出・出張先に普段使っている環境を持っていって作業できる利点もある。この安価な省スペースパソコンという需要では、いわゆる[[省スペースパソコン]](デスクトップ機)という選択肢もあり、ノート型パソコンが小型化の一方で犠牲にせざるを得ない「大画面」(大解像度)や「入力しやすい(フル)キーボード」や「扱いやすいポインティングデバイス」などを使うために、あえてノートパソコンではなく、大解像度の液晶ディスプレイへ接続・映像出力が可能な省スペースパソコンを選ぶ視点も存在する<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/533/533477/ 2010年、ノートではなくデスクトップを選ぶ意味] ASCII.jp2010年6月</ref>。
なお、[[2009年]]には後述する[[ネットブック]]に代表される低価格サブノートパソコンに牽引される形でノートパソコン全体の価格が下がり、全世界で販売されているパソコンの50%以上をノート形パソコンが占めるまでになっている<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20090316/167278/ 世界のノート・パソコン生産台数,2009年に初めてデスクトップ型を上回る] Tech-On!2009年3月</ref>。ただし、低価格なネットブックに関しては、2010年代に[[スマートフォン]]や[[タブレット端末]]の普及で人気にかげりも現れ、パソコン全体の市場拡大が見込まれる中で、成長率を低めにとる見通しである<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100531/228842/ 世界PC生産台数、2010年は対前年比16.8%増で急回復] 日経BPネット2010年6月</ref>。
== 名称 ==
「ノートパソコン」との呼称は[[和製英語]]であり、世界的にはノートブック (Notebook, Notebook computer)と呼ばれている。ラップトップ ([[:en:Laptop|Laptop]], [[:en:Laptop computer|Laptop computer]])と呼ばれる[[カテゴリ]](の一部)で、概ね3 kg未満でブリーフケースに収まるサイズのラップトップがノートブックと呼ばれている(さらに薄型軽量のものは[[ウルトラブック]] (Ultrabook)と呼ばれる)。日本では「[[ラップトップパソコン]]」より小型軽量なパソコンを指して、あるいはラップトップに相当する製品を全てノートパソコンと呼ぶことが多い。略して「ノーパソ」や「ノートパソ」などと呼ばれることもある。2017年現在の日本ではラップトップという呼称はほぼ廃れ、大型のデスクノートも含め、2つ折り式のポータブルコンピュータを全てノートパソコンと呼んでいる。
なお、[[1989年]]に日本でこの分野のパソコンが登場した当時は呼称が統一されておらず、[[マスメディア]]やパソコン[[雑誌]]でも当初は「ブック型パソコン」、「ブックパソコン」などの呼称が多かったが、エプソン(現・[[セイコーエプソン]])が286NOTE、[[日本電気|NEC]]が[[98NOTE]]をそれぞれ「ノート型パソコン」として売り出したことから、「ノートパソコン」の名が一般的になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001253|title=日本初の世界標準「ノートPC」24年史 |accessdate=2013年8月 }}</ref>。
== 歴史 ==
=== ラップトップパソコン以前 ===
[[File:Alan Kay and the prototype of Dynabook, pt. 5 (3010032738).jpg|thumb|right|ダイナブック(プロトタイプ)の模型を持つアラン・ケイ(2008年)]]
[[画像:Img1 grid.jpg|thumb|200px|Grid Compass 1101]]
パーソナルでポータブルなコンピュータという概念は[[アラン・ケイ]]による[[1972年]]に発表された[[ダイナブック]]という構想で詳しく描かれている。ノート型より先に[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]サイズの[[パソコン]]の開発が行われたが、これらは形状(大きさや重量)的に持ち運びができるもの(ポータブル)ではなかった。[[IBM]]は1973年に[[ポータブルコンピュータ]]のプロトタイプIBM Special Computer APL Machine Portable (SCAMP) を発表し、1975年には世界初の市販ポータブル・コンピュータ[[IBM 5100]]を発売した<ref>{{cite web|url=http://oldcomputers.net/ibm5100.html|title=IBM 5100 computer|publisher=oldcomputers.net|accessdate=6 July 2009}}</ref>。
[[1980年代]]のはじめ、最初期のポータブルパソコンは、[[トロリーバッグ|トランク]]や[[スーツケース]]大の筐体に[[ブラウン管|CRT]]や[[補助記憶装置]]を詰め込み、何とか持ち運びが可能な状態に組み上げた製品であった。[[:en:History of laptops#Portal R2E CCMC|Portal R2E CCMC]]、[[オズボーン・コンピュータ]]の[[Osborne 1|オズボーン1]]や、[[コンパック]]の[[Compaq Portable]]などがそのルーツである。しかし、これらはバッテリー駆動ではなく外部電源を必要とし、どうにか移動できるというレベルであった。
後にA4サイズ程度の持ち運べるコンピュータが開発され、[[ハンドヘルドコンピュータ]]と呼ばれた。フル[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]と小さな[[液晶ディスプレイ]]を備え、バッテリー駆動が可能であった。[[マイクロカセット]]や[[プリンター|プリンタ]]などの入出力機器を搭載したものもあったが、基本的にはデスクトップタイプのパソコンとは互換性のない、別個の商品として扱われていた。[[エプソン]]の[[HC-20]]、[[TRS-80 Model 100]]、そして[[日本電気|NEC]]の[[PC-8201]]などが初期の例である。これらはディスプレイサイズが極端に小さく(データやタイピングを一行から数行表示できる)、デスクトップタイプのパソコン互換ではないことから、現在のノートパソコンとは異なる系統と言える。他にも[[ポケットコンピュータ]]というジャンルも存在していた。
=== ラップトップパソコンの誕生 ===
1982年には、[[ビル・モグリッジ]]がデザインし、[[:en:Grid Systems Corporation|Grid Systems Corporation]]が開発した'''[[Grid Compass|Grid Compass 1101]]'''という世界初のクラムシェル型、つまり二つ折りにすることで、フルキーボードと画面を両立させ、折り畳んだ状態で持ち運べる小型パソコンが発売された<ref>[http://www.oldcomputers.net/grid1101.html GRiD Compass 1101]</ref>。これによってノートPCの原型が確立された<ref>[https://www.gizmodo.jp/2012/09/post_10865.html ノート型コンピューターの父、ビル・モグリッジ氏が亡くなる]</ref>が、高価格だったこととOSがマイナーな独自OSだったため、利用者は[[NASA]]や[[アメリカ軍]]など特殊な層であり、一般には広く普及しなかった。1983年には同じくクラムシェル型の[[:en:Dulmont Magnum|Dulmont Magnum]]が、同じく1983年には{{仮リンク|Sharp PC-5000|en|Sharp PC-5000}}{{Sfn |ASCII 1983年9月号 |p=119}}、Ampere<ref name="ampere">Bob Armstrong, http://cosy.com/language/cosyhard/cosyhard.htm</ref>、そして{{仮リンク|Gavilan SC|en|Gavilan SC}}{{Sfn |ASCII 1983年8月号 |p=96}}、1985年には[[:en:Bondwell-2|Bondwell-2]]が発売された。PC-5000は本体のみの場合、バッテリで8時間使用可能とされた{{Sfn |ASCII 1983年7月号|p=97}}。
1985年には、一般市場向けで商業的に成功した初のラップトップとして、東芝からIBM PC/XT互換ラップトップ[[T1100|PC T1100]]が発売された<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/600/600383/ 格安Fusionベアで懐かしのラップトップPCを作ってみた ASCII.JP 自作PC]</ref>。
これらの1980年代初頭より登場した製品は、[[椅子]]に座った[[膝|ひざ]]の上で操作できるという意味で、「'''[[ラップトップパソコン]]'''」(英語:Laptop Computer)と呼ばれたが、初期には高重量の製品が多く、中には[[Macintosh Portable]]など10kgを超える製品も有ったため、ラップ[[クラッシャー]](膝壊し)などと揶揄されることもあった<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/106/106933/index-3.html Macintoshを通じて視る未来 ASCII.JP MacPeople]</ref>。
また、1989年には初の[[パームトップPC]]である[[Atari Portfolio]]が発売された。これは、掌サイズの横長のクラムシェル型筐体に、ディスプレイとキーボードが備わっていた。この分野では、Poqet PCやシャープ、HPが続いて商品を発売した。
=== ノートパソコンへ進化 ===
そんな中、A4ノートサイズ、2.7kgと軽量で、最小限のインターフェースを装備しながら、大型の液晶ディスプレイを備え、デスクトップタイプのパソコンと互換性を保持した製品として、[[1989年]]6月27日発表、同年7月に[[東芝]]から発売された'''[[ダイナブック (東芝)|DynaBook]]'''('''現・dynabook''') '''J-3100SS'''は、19万8,000円という価格で衝撃を与えた。発表こそ [[エプソン]]の[[PC-286]]NOTE executive が先んじていたものの(1989年6月7日発表、同年9月発売、重さ 2.2kg、45万8,000円)、価格的には競合にならなかった。これらは、1989年10月には NEC より発売された [[98NOTE|PC-9801n]] とともに、「ノートパソコン」、通称「ノートPC」という新たな市場を切り開いた。基本的なデザインはノートPCの原型となった[[Grid Compass]]と大きく変わらないものの、それ以前のより重量的なラップトップPCと区別するためにノートPCという用語が使われるようになった。(注:1990年代後半になると、ラップトップPCとノートPCはほぼ同じ意味で使われるようになった。)
1991年には[[Apple|Apple Computer]]が[[PowerBook]]シリーズの発売を開始、キーボードの手前に[[パームレスト]]と[[ポインティングデバイス]](当時は[[トラックボール]])を配置するという現在のノートパソコンの[[インダストリアルデザイン|デザイン]]の原型となった。[[ThinkPad]]([[IBM]]/[[レノボ|Lenovo]])は独自の[[ポインティング・スティック|トラックポイント]]を採用している。
=== ノートパソコンの多機能化 ===
2000年代には、[[タッチパッド]]や[[ポインティング・スティック]]といったポインティングデバイス、[[イーサネット]]や[[無線LAN]]といったネットワーク機能はどのノートパソコンにも必ず搭載される機能になった。ディスプレイは高画質化され、[[Bluetooth]]をはじめとした[[無線通信|ワイヤレス]]接続機能は著しい発展をとげ、プロセッサの処理速度や搭載メモリ容量なども大幅に向上した。これによりデスクトップ型パソコンの補助ではなく、最初に購入するパソコン、さらにメインマシンとして使用されることが一般的となった。
また[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]はそれ以前のノートパソコンが苦手とした拡張性を補って余りある接続性を提供しており、外部記憶装置や各種入出力機器・ユーザーインターフェイスデバイス・拡張機能を提供する[[周辺機器]]は多く、前述のBluetoothによる外部機器接続の利便性とあわせて、様々にユーザーに利用されるようになった。
== 構造 ==
構造としては、基本的に[[パーソナルコンピュータ]]の機能を備える以上は、この[[コンピュータ・アーキテクチャ]]を踏襲したものになっているが、[[オールインワン]]機種として、表示機器や演算装置・外部記憶装置・[[入力機器]]([[ユーザインタフェース]])などを一通り内蔵している。また、携帯に際して[[電源]]を得られない場所でも使用するために電源([[蓄電池|バッテリー]])を内蔵しており、内蔵電源と外部電源を利用できるようになっている。
パーソナルコンピュータ自身が汎用の製品であるため、製品によっては特定のユーザー群の利便性を向上させるべく何らかの機能を付加したものがある一方で、基本機能だけでまとめられ、ユーザーが用途に応じて拡張機能を[[オプション]]で追加することを前提とする製品も少なくない。こと小型化・携帯性を求める機種では、[[光学ドライブ]]などかさ張る機能は外部接続で利用するよう設計されている。
=== 表示機器 ===
軽量化およびバッテリー動作のため、[[ディスプレイ (コンピュータ)|表示機器]]には主に[[液晶ディスプレイ]]が使われており、基本的に本体部分との二つ折り形状となっているが、画面部分を回転させ画面を表にして折りたたむことで[[タブレットPC]]のように利用できるタイプも存在する。画面の大きさはデスクトップパソコンと同様に対角で「○○[[インチ]]」(販売店などでは○○'''型'''と表記<ref group="注釈">[[計量法]]の規定により、商取引で「インチ」の使用は禁止されている。</ref>)で表される。以前は[[アスペクト比]](長辺:短辺)は「4:3」が主流であったが、[[2000年代]]半ば頃から「16:10」、「16:9」のいわゆるワイドが主流となっている。初期の頃は小型化や技術的なものやコストの問題もあって[[モノクローム#モノクロディスプレイ|モノクロ]]画面を採用した製品もあったほか、16色や256色表示([[色深度]]4ビットや8ビット)など色彩表示が限定的なものもあったが、現在はほぼ例外なくデスクトップ機と比べても遜色がないカラー表示が可能となっている。
液晶ディスプレイに関しては、当初は白黒液晶に始まり、カラー化の途上で比較的安価な[[STN液晶|DSTN液晶]]を採用した製品も普及したが、現在はほぼ全数が[[薄膜トランジスタ|TFT液晶]]となっている。[[バックライト]]については近年に至るまで[[冷陰極管]](極細の[[蛍光灯|蛍光管]])が用いられているが、2008年第4四半期から[[発光ダイオード|LED]]バックライト(エッジライト式)が登場している。
=== 筐体 ===
筐体の大きさについてはノートパソコンを閉じたときの状態で[[紙の寸法]]のA列およびB列になぞらえてカテゴライズされている。また、紙の寸法より一回り大きい「ファイルサイズ」という表現も用いられる。ただ、前述の通り画面アスペクト比がワイドのものでは、横に細長い製品も登場している。
'''スリムノート'''(英文の[[レビュー]]などでは Slim より Thin が使われている)と呼称されるノートパソコンについては、特定の大きさのカテゴリーに属するノートパソコンよりも比較的厚みが薄いものを指す<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sophia-it.com/content/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88|title=IT用語辞典バイナリ: スリムノートとは? |accessdate=2008年12月9日 }}</ref>。
=== 電源 ===
電源は基本的に内蔵電源としてのバッテリーと、外部電源([[商用電源]]など)を直接利用したりバッテリーを充電するための[[ACアダプタ]]を利用する。大型の機種や過去のものには外部電源を利用するための[[変圧器]]や[[整流器]]を内蔵した製品もあったが、現在では本体の小型軽量化を妨げる要素として、小型機種を中心に外部にACアダプターを接続する形態が主流である。バッテリーに関しては技術革新が著しいものの、コンピュータとしての他の箇所の高性能化は消費電力を増大させる傾向もあり、また実用的な稼働時間と携帯性の間で、メーカー側はバランスに苦慮している。
ノートパソコン以外にも言えることだが、[[二次電池]]は[[充電|充]][[放電]][[サイクル]]を繰り返すにつれて有効容量が減少するという問題を抱えており、経年劣化したバッテリーは交換を必要とする場合もある。なお、頻繁に充放電を繰り返したり過放電するなど利用条件次第でバッテリは[[保証期間]]内であっても容量が低下する場合もあることから、メーカーでは[[消耗部品]]扱いで保証対象外とする場合がほとんどである。
ノートパソコンに付属するACアダプターは、外部電源による動作および内蔵バッテリーの充電のために使用するが、ノートパソコンが携帯される機器として、販売されている(購入した)地域を離れた[[海外旅行]]や海外出張にも持ち出される場合もあることから、世界各国の電源事情に対応、電圧や[[商用電源周波数|交流周波数]]の違い(100~240ボルト、50/60ヘルツ)を自動的にノートパソコンの機能に即した電圧で直流の電流に変換できるよう設計された製品も見られ、また[[配線用差込接続器|コンセント]]形状も様々な規格が存在し国・地域によってまちまちであることから、プラグ変換で対応する製品も見出せる。このほか、[[乗用車]]の[[アクセサリーソケット]]を利用できるアダプターなど、様々な製品も見られる。
また、半導体製品の低電圧化が進む現在でも消費電力の高いCPUや液晶パネル(特にバックライト)、各種ドライブなどを使用していることもバッテリーの小型化を阻害している要因である。古くは[[乾電池]]で駆動するものや[[ThinkPad 220]]のように必要に応じてバッテリーと電池ボックスを入れ替えて利用できるノートパソコンも存在したが、パソコンの性能が上がり、消費電力の増大した現在ではノートパソコンを実用的に駆動するのは難しいため、現行のノートパソコンでは(マニアの改造を別にすれば)乾電池駆動の製品は見られない。そのため、外部に持ち出して長時間駆動するにはACアダプターも持参し電源を確保する必要性が出る。一部のメーカーでは充電式電池に代わって、[[アルコール]]([[メタノール]])を補給して電力を発生させる[[燃料電池]]の開発を進めているが、まだまだ技術革新の必要性が高い製品といえる。
なお、公共の施設でACアダプターを使用すると[[電気窃盗]](盗電)になるおそれがある。その一方で、ノートパソコンを含む様々な[[電子機器]]としての携帯機器が一般に普及した結果として、日本においては一部の[[新幹線]]([[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線|山陽]]・[[九州新幹線|九州]]の[[新幹線N700系電車|N700系]]、[[東北新幹線|東北]]の[[新幹線E5系電車|E5系]]、[[山形新幹線|山形]]の[[新幹線E3系電車|E3系2000番台]]、[[秋田新幹線|秋田]]の[[新幹線E6系電車|E6系]]、[[北陸新幹線|北陸]]の[[新幹線E7系・W7系電車|E7・W7系]])や[[特別急行列車|特急列車]](主に2009年以降に製造された[[JR]]や[[私鉄]]の[[特急型車両|車両]])、[[ファミリーレストラン]]や[[ファストフード]]店など、客席にノートパソコンや携帯電話の充電用のコンセントを備えた施設も増えるなどしている。
またバッテリーは携帯時の電源だけでなく、急な停電の際の[[無停電電源装置]]としても機能する。
=== 大きさと区分け ===
{| class="wikitable" style="background:#ffffff;"
! width="10%" |形状
! width="15%" |画像
! width="75%" |特徴
|-
|B4以上
|液晶画素数1920x1200<br />(17型WUXGA)<br />[[Image:Dell Studio 17.jpg|150px|Dell Studio 17]]<!-- [[ファイル:Gthumb.svg|120px|画像募集中]]-->
|
ノートパソコンとしては大型の[[筐体]]であり、'''デスクノート'''もしくは'''オールインワン型ノートパソコン'''とも呼ばれる。液晶は16インチから最大で20インチ程度の、[[アスペクト比]]が「16:10」ないし「16:9」といった横長のワイド液晶(主にB4サイズ)を持ち、[[画面解像度]]は1680x1050 WSXGA+ ~ 1920x1200 WUXGAが主流である。多くの場合、CPUにはノートパソコンとしては高速なものが使われ、重量も3~5キログラム程度あり、中にはバッテリーを搭載しないモデルも存在し、重量とサイズが大きいため、[[ビジネス]]などで持ち運んで使用する用途には適しておらず、[[デスクトップパソコン]]代わりの据え置きとしての利用が想定されている。
筐体の大きさから小型機にはない特徴が見られ、キーボードには独立した[[キー配列#テンキー|テンキー]]が配置され、[[メモリーカードリーダライタ|メモリーカードリーダー]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]起動ボタンが多数配置されているものが多い。また、発熱の多い高[[クロック]]の[[CPU]]と[[ビデオカード]]の実装や、[[ハードディスクドライブ|HDD]]を2台内蔵して[[RAID]]に対応するなど、モバイル[[ワークステーション]]としたモデルも存在する。
2000年代前半から普及しだした大きさ・カテゴリーであり、[[Blu-ray Disc]]ドライブを搭載し、3Dシューティングゲーム・[[CAD]]など高[[性能]]、[[マルチメディア]]用途向けとしているものが多い。
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|A4・A4ファイル・B4
|液晶画素数1600x1200<br />(15型UXGA)<br />[[Image:EPSON Endeavor NT-5000 a.jpg|150px|EPSON Endeavor NT-5000]]
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ノートパソコンの主流のサイズである。液晶または[[Retinaディスプレイ]]に13インチ(A4)から15インチ(B4)程度(30cm~35cm)のものが使われる。
以前は、アスペクト比4:3の1024x768 XGA~1400x1050 SXGA+が主流であったが、現在ではワイド液晶のもの(ワイド液晶移行当初はアスペクト比16:10の1280x800 WXGA~1680x1050 WSXGA+を経て、16:9の1366x768 HD~1600×900 HD+)が主流になりつつある。[[Retinaディスプレイ]]の普及で解像度も2560x1600ピクセル標準解像度になり年々高画質になりつつある。
重量が2~3キログラム程度あり、一般に徒歩で持ち運んでの([[モバイル]])利用には不向きであるが、据え置きでの利用では[[デスクトップパソコン]]よりも少ないスペースで済む利点がある。オフィス用途、ホームユースともに古くから最も普及しているサイズであり、高性能モデルから、いわゆる「[[ネットブック]]」より多少高い程度の廉価版モデルに至るまで、幅広いラインナップがある。モバイルフォンなど携帯電話のバッテリーの小型化に伴いラップトップの重量も軽くなり重量が1.4~2キログラム程度になり、一般に徒歩で持ち運んでの([[モバイル]])利用されている。
かつては[[フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブ]](FDD)、[[ハードディスクドライブ]](HDD)と[[コンパクトディスク]](CD)などを内蔵した3[[スピンドル]]([[#他の分類方法|詳細は後述]])構成が一般的であり、インターフェイスとして[[シリアルポート]]、[[パラレルポート]]等の[[レガシーデバイス]]を搭載していたが、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]の普及の過渡期にあたる[[2002年]]の後半以降からはHDDと[[光学ドライブ]]の2スピンドルになり、[[レガシーデバイス]]がUSB[[入出力ポート|ポート]]に代替される形で、ほぼ排除された。HDDと[[光学ドライブ]]はラップトップの進化と共に[[SSD]]に置き換えられ、軽量化にもつながった。
'''トランスポータブルパソコン'''(ポータブルパソコン)または'''可搬型パソコン'''(キャリアブルパソコン)と呼ばれることがある。
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|A4・A4ファイル
|液晶画素数1024x768<br />(12.1型XGA)<br />[[Image:Dynabook SS 2000-DS80P e.jpg|150px|Dynabook SS 2000-DS80P]]
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'''コンパクトノート'''と呼ばれ、液晶または[[Retinaディスプレイ]]は12~14インチ程度 (A4~B4サイズ)(30cm~35cm)。かつては2[[スピンドル]]、1スピンドルが入り交じっていた。1990年代は13.3インチ程度のモデルが比較的多かった。画面解像度はかつてはアスペクト比4:3の1024x768がほとんどであったが、現在ではワイド液晶1280x800 WXGAを経て1366x768 HDが主体である。
CDドライブが内蔵された2スピンドルのノートについては、大抵の場合FDDは専用ケーブルもしくはUSBケーブルによる外部別付けとして1990年代後半頃までは付属されていた。また、1スピンドルタイプの薄型ノートについては別途CD・FDDがついた機器を装着させるドッキングベースを付属または別売させたものなどが[[2000年代]]前期まで発売された(多くはビジネスノートとして法人向けに流通)。
[[2001年]]以降は、技術の進歩により、大画面の液晶ディスプレイを搭載しながらも重量を1キログラム台に抑えた1スピンドルの薄型ノートが、その後は2スピンドルながら1キログラム前半代の薄型軽量ノートも各社から登場した。気軽に持ち運べてキー入力環境も良好な個人用パソコンとして、若年層を中心にコンパクトノート需要は伸びた。
[[2011年]]になると[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を採用する製品が出始め、[[2012年]]には13インチ級の画面サイズにして1キログラムを切るものも登場する。
12inch (A4)サイズはディスプレイ、SSD、メモリの性能の差や重量の差は普通のA4サイズのラップトップとの差が無くなりつつあり、廉価版の位置づけでCPUのみのスペックをあえて低くしてモデルが主流になってきている。
|-
|B5・B5ファイル・A4・A4ファイル 程度
|液晶画素数1024x768<br />(10.4型XGA)<br />[[File:ThinkPad s30 Model2639.jpg|150px|IBM ThinkPad s30]]
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'''サブノートパソコン'''とも呼ばれ、液晶または[[Retinaディスプレイ]]は10~12インチ程度 (B5~A4)(25cm~30cm)。重量1キログラム~2キログラム未満程度で、持ち運んでの利用を想定していることが多い。そのため多くはハードディスクドライブのみ内蔵する1スピンドルであるが、HDDとCDなど光学ドライブを内蔵する2スピンドルの機種も登場している。
筐体の大きさの制約から[[レガシーデバイス]]ポートをフル装備していたモデルは少なく、別付けポートリプリケータを介するモデルも多かったが、現在はUSBポートに取って代わっている。
2008年以降には後述するB5サイズ以下のカテゴリーのミニノートパソコン同様、ごく一部の機種においてはHDDの代わりに[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を搭載したゼロ・スピンドルも存在する。
主に[[タブレットPC]]型が主流になり重さも650g以下ととても軽い。
|-
|B5以下
|液晶画素数1024x600<br />(7型WSVGA)<br />[[Image:KOHJINSHA SH6KX04A 01.jpg|150px|工人舎 SH6KX04A]]
|
'''ミニノート'''とも呼ばれ、さらに大きさを切り詰めたもの。液晶は10インチ以下で、解像度が低いため[[ワープロソフト|ワープロ]]・[[表計算ソフト|表計算]]などのアプリケーションを使用するにはやや難がある。重量は1キログラム強まで。キーボードの大きさも縮めているため、入力が行いにくくタッチタイピングの困難な機種が多い。
HDDのみの1スピンドルモデルが中心であるが、2008年にはHDDの代替としてSSDを採用し、ゼロ・スピンドルの機種が発売された。
日本のメーカーのものはモバイルカメラやタブレット機能など何らかの付加価値を付けた[[Ultra-Mobile PC|UMPC]]と呼ばれるタイプが多かったが、[[2007年]]より[[Eee PC]]など付加価値の少ない安価に徹した'''[[ネットブック]]'''と呼ばれるタイプが普及し、その後、日本のメーカーの多くも参入していた(なお[[2012年]]をもってネットブックは新規開発・販売を終了した)。UMPCやネットブックが登場した当初は7インチや8.9インチなど小振りな液晶ディスプレイのモデルが多かったが、2009年以降は10インチを超えるやや大きめのものが主力となっている。
主に[[タブレットPC]]もこれに相当する。
|}
== 他の分類方法 ==
内蔵するデバイスの[[スピンドル]]数([[電動機|モーター]][[軸 (機械要素)|軸]]、すなわち[[ディスクドライブ]]の数)で以下のように分類されることもある。
;ゼロ・スピンドル(スピンドルレス、ノンスピンドル)
:機械的な記録ドライブを使用しない。[[ハードディスクドライブ|HDD]]も使用せず、代わりに[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を搭載する。ノートパソコンでも2005年頃からミニノート・パソコンで出現しはじめた。機械部品を全く用いないことから信頼性が高く、低消費電力。SSDが容量の割に高価なため、2007年以前ではごく少数にとどまっていたが、容量を割り切れば低価格化も可能であり、[[Eee PC]]など低価格なミニノート(ネットブック)でも採用され、徐々に普及している。業務用パソコンやモバイルパソコンでの普及が見込まれる。
;1スピンドル(シングルスピンドル)
:[[ハードディスクドライブ|HDD]]のみを内蔵する。持ち運びを意識して軽量・小型化を重視したサブノートのほとんど、ミニノートのほぼすべてがこの形態(サブノートクラスでも光学ドライブを内蔵する機種は存在する)。外部とのデータのやり取りはネットワーク、または外付けドライブを利用する。
:また、大型機でデスクトップパソコン用のCPUを搭載した機種の場合、発熱量が多いために冷却風を多く取り込む必要があり、光学ドライブが装着される場所を冷却風の風道に充当しているために光学ドライブが装着できず、結果として1スピンドルとなったものも存在する。
:光学ドライブを搭載したものであっても、HDDを搭載せずSSDのみ搭載した機種は事実上1スピンドルとなる。
;2スピンドル
:HDDと[[光学ドライブ]]を内蔵する。かつては光学ドライブを搭載せずフロッピーディスクドライブを搭載したものがあったが、現在では1.5kg以上のノートパソコンではHDDと光学ドライブを内蔵したものがほとんどである。1キログラム強のサブノートクラスでもHDDと光学ドライブを内蔵したものがある。現在のノートパソコンの主流となっている。
;3スピンドル
:HDD、FDDとCD-ROMなどの光学ドライブを内蔵する。2002年頃までのA4サイズの大型機はほとんどHDD、FDDとCD-ROMが内蔵されていたが、2002年頃からはFDDは内蔵しなくなる(外付けのUSB接続のFDDを利用)傾向にあるため、3スピンドル型のノートパソコン新製品はほとんど見受けられなくなった。
:このほか、一部の大型機にはHDDを2基内蔵したものや<ref group="注釈">一般的なノートパソコンでは、内部のスペースの制約によりHDDは1基のみ内蔵されることが多く、2基内蔵されるものは数少ない。</ref>、HDDとSSDを併用した「デュアルストレージ」という形をとっているものも存在する。
== 性能・用途別の分類 ==
===普及機(ローエンド~スタンダード)===
[[ローエンド]]からロワ[[メインストリーム]]の[[CPU]](2015年時点では[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]の[[AMD Fusion|Eシリーズ、Aシリーズ]]や[[インテル]]の[[Celeron]]、[[Pentium]]、[[Intel Core|Core i3、i5]]、[[Intel Core i7|i7]](ただしCore i7の場合は2コア/4スレッドの低電圧仕様版がほとんど)と、13~15インチクラスの液晶を搭載したモデル。価格優先の設計で寸法と重量が大きいが、CPUが[[ボトルネック]]となりにくい一般的な用途(ネットアクセス、低解像度の動画再生、文書作成や表計算などの[[オフィススイート]]など)には必要十分な性能で、安価なこともあり各社の売れ筋商品となっている。[[チップセット]]にもモバイル向けローエンド製品が使われることが多く(一部例外あり)、[[Graphics Processing Unit|GPU]]もチップセットに統合されている。中には[[無線LAN]]をも省略したモデルもある<ref group="注釈">[[広告]]などで価格帯を低いほうへ広げ、見かけの価格を低く抑えるため、最量販機種とは別にすべての[[スペック]]が低いモデルが用意されている。</ref>。また、2012年頃からUSB 3.0インターフェースや、一部に限られるが[[Blu-ray Disc]]ドライブなどを搭載したモデル(特に[[東芝]]、[[日本電気|NEC]]、[[富士通]])も存在する。
===ハイエンド===
16~18インチクラスの液晶に最高性能レベルのCPU(2019年時点では主に6コア/12スレッド版のインテルのCore i7)とハイエンドGPU(同・[[NVIDIA]]の[[NVIDIA GeForce|GTX 1070、1080]]あたり)を搭載したモデル。動画編集、[[デスクトップミュージック|DTM]]、[[オンラインゲーム]]、[[CAD]]、解析用途など、充分なマシンパワーが必要な用途向け。「[[ゲームパソコン|ゲーミングノートパソコン]]」や「モバイルワークステーション」などと銘打って売られているものもある。高速化を目的としたSSD、大容量のBlu-ray Discドライブや[[日本の地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル]]チューナーを搭載している機種もある。一般的に普及機よりも重量は重く、持ち運び移動にはあまり適さない。
2014年7月現在、日本で販売しているメーカーは[[レノボ|Lenovo]](旧IBM)、東芝、富士通、NEC、[[デル]]、[[エプソンダイレクト]]、[[ヒューレット・パッカード]]、[[エイサー (企業)|エイサー]]、[[Apple]]、ショップブランドなどで、それぞれ各社のカラーがはっきりと出ているのが特徴。
===ハイエンドモバイル===
14インチクラス以下の液晶と高性能CPUを組み合わせたモデル。携帯性と高性能とを兼ねそなえている。GPUは消費電力を抑え携行性を確保するためチップセット内蔵のものを利用することもあれば、性能を重視してミドルレンジ程度のものを実装することもある。近年ではビジネスモバイルとの中間的モデルも増え、ビジネスモバイルとの区分がはっきりしなくなっている。
===ビジネスモバイル===
ビジネスで持ち歩くことを想定して作られたモデルで、携帯性と堅牢性、バッテリーの持続時間が重視されている。ビジネスバッグに簡単に収めることができ、(日本の)[[ラッシュ時]]の[[通勤電車]]にもまれても壊れないよう、[[マグネシウム合金]]や[[繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]][[素材]]などの頑丈な筐体を持っている。CPUにも低電圧バージョンを採用し、細かな電力制御をするなど[[省エネ]]に気を配って電池での稼働時間を延ばしている。その他にもハードディスクに対する負荷や衝撃を軽減する仕組みを採用したり、キーボードに水をこぼしても問題ない製品も存在する。
ただし、先述の素材を含め、小型軽量設計で高価格であることと、電池持続時間を優先するあまりCPUの性能が二の次になっているなど<ref group="注釈">2004年~2007年頃は1.8インチHDDを搭載するモデルが多く、処理速度の低下に輪をかけていた。</ref>、扱うデータのサイズやアプリケーションの種類によっては不利な面もある。
この分野は従来、[[パナソニック]]<ref group="注釈">Let's note</ref>、[[IBM]](現・[[レノボ]])<ref group="注釈">Xs・Xシリーズ</ref>、富士通<ref group="注釈">LOOX Tシリーズ</ref>が得意としていたが、最近ではNECや[[ソニー]](現・[[VAIO (企業)|VAIO]])も対抗するモデルを販売するなど、他社も追撃する気配を見せている。
===ラグドPC===
ビジネスモバイルから派生し、屋外での使用を主な用途と想定して耐[[振動]]・耐[[重力加速度|衝撃]]・防塵・[[防滴]]性能などを大幅に向上させたモデル。主に[[軍隊|軍]]・[[警察]]・[[消防]]などで使われるが、振動に強いという性格から車載端末として使われるケースも多い。この分野は従来、パナソニック、[[ジェネラル・ダイナミクス]]([http://www.gd-itronix.com/index.cfm?page=Itronix:Home Itronix])、[[:en:Getac|Getac(英語版)]]が市場をほぼ独占していたが、現在はNEC、デル、ヒューレット・パッカード、[[モトローラ]]なども参入している
([[TOUGHBOOK]]、[[:en:Rugged computer]]も参照)。
===テレビパソコン===
パソコンで[[テレビ放送]]を見るためのモデル。こういった方向性は[[アナログ放送]]・[[8ビットパソコン]](デスクトップ機)の時代から存在するが、[[テレビチューナー]]を搭載しているのが条件で、[[地上デジタルテレビ放送]]開始後の2012年現在では、地デジチューナー搭載の大型ノートブックから[[ワンセグ]]チューナー搭載の1スピンドル機まで幅広くリリースされている。
パソコンとしての性能もさることながら、放送、あるいは映像ソフトを視聴するためのアプリケーションソフトウェアの使い勝手の良さも求められる。チューナーを内蔵するため、それなりの重量となる(東芝Qosmioは重さ4kg以上と、ノートパソコンとしては重い)が、チューナーを外付けにしてUSBケーブルでつなぐ形をとっているモデルは、テレパソでありながらテレビチューナーなしモデルとほぼ同じ重さとなる。テレビチューナーのない機種でもUSB接続の外付けワンセグチューナーを接続・テレビ局によるサイトでの同時配信([[NHKプラス]]・[[日テレ系リアルタイム配信]]・[[TBS系リアルタイム配信]]・[[テレ東系リアルタイム配信]]・[[東京メトロポリタンテレビジョン]]の[[エムキャス]]など)でテレビ番組を視聴することはできる。
===ショッププランドPC===
[[Clevo]]など日本国外のメーカーから発売されている[[ベアボーン]]を、[[パソコンショップ]]が組み立てて販売する形態のパソコンのこと。[[BTO]](受注生産)が基本。CPUグレードやメモリ、HDD容量など内容の設定の幅が広いため、無駄を極限まで切り詰めることができるので、低コスト、かつ、不必要な機能やアプリケーションソフトを省いたパソコンを手に入れることができるが、サポートセンターが存在しないので(販売店の対応レベルによる)、トラブルが起きても自力で解決(切り分け)できる[[スキル]]がユーザーにも要求される。一部にはノート型でありながらバッテリーを搭載しない機種も存在する。
[[デル]]や[[ヒューレット・パッカード]]など、直販[[BTO]](またはCTO=Custom to order)主体のメーカーの製品も、ショップブランドほどではないものの、実際に製品に触れ、質問ができる店舗が限られるなど、初心者にとってはハードルが高い傾向にある。引き換えに、時折行われるキャンペーンなどを上手く利用すると、ショップブランド同様に低コストで不要なアプリケーションソフトが入っていないパソコンを手に入れることができ、サポートの内容もユーザーの好みで段階的に選べるため、電子掲示板などで情報を得られる中級者以上のユーザが購入する場合が多い。
また、家電量販店などで販売されている主要なメーカの多く(NEC、東芝、富士通、ソニーなど)は、並行して自社のウェブサイトで直接販売も行っており、直販専用モデルとして同程度の内容の製品が安価に売られていることも多く、メーカによっては通常より長い3年保証の付与、CPUやメモリ容量など一部内容の変更が可能、大型量販店でもオプションサービスで行われている自宅へ納品後の設定サービスが選択できる場合もある。
BTO販売の場合、2015年10月時点において、一般流通ルートでは入手不能となった[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]が選択できる(その大部分が32ビット版の7 Professional)製品もある(特に大手PC製造メーカーの法人向けの製品、およびパソコンショップ、直販BTOメーカーの各製品)。
===ウルトラブック===
14インチクラスの液晶画面を内蔵し、普及機並〜ハイエンドモバイルクラスのCPUを薄型の筐体に詰め込んだノートパソコン。[[ソリッドステートドライブ|SSD]]を搭載しているため、Webサービスやビジネス向けアプリケーションの使用では快適なパフォーマンスを発揮する。光学ドライブを省略し拡張性を排除した簡素な構成で、比較的低価格。性能と携帯性、価格のバランスに優れており、普及型とビジネスモバイル、ハイエンドモバイルのニッチを置き換える次世代の主流型ノートパソコンとして期待されている。
===ウルトラモバイルPC===
{{main|Ultra-Mobile PC}}
7~10インチ程度の小型液晶ディスプレイ、比較的低性能かつ超低消費電力タイプのCPUを搭載し、光学ドライブを省略した小型ノートパソコン([[タブレットPC]])の規格 が[[2006年]]に制定され、各社から製品が発表された。CPUにおいては、当初[[Intel A100]]などのCeleron MベースのCPU、もしくは[[VIA C7]]や[[Geode|AMD Geode]]などが主流を占めていたが、最近は[[Intel Atom]]を搭載した製品が大部分を占めている。しかし、ウルトラモバイルPCの特長であるペン入力やポインティングスティックなど複数の操作機構、画面を表にできる折りたたみ機構といった高付加価値による高価格、CPUや[[記憶装置|メモリ]]の能力に見合わない[[オペレーティングシステム|OS]] ([[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]) が[[プリインストール]]されていたため、売り上げは伸び悩んだ。ただし、OSについては後述のネットブックが普及しだしてからはマイクロソフトのOS供給方針変更もあり、[[負荷]]が少ないWindows XPが搭載されるようになった。しかし、ネットブックともども2010年頃から急激に普及した[[タブレット (コンピュータ)|タブレットコンピュータ]]に駆逐され、結果的に消滅した。
===ネットブック===
{{main|ネットブック}}
[[ファイル:Cr-48 Chromebook cropped.jpg|thumb|200px|ネットブック(2010年現在)]]
[[2007年]]に、ラップトップパソコンよりもシンプルで低付加価値なネットブックと呼ばれている、10インチ前後のミニラップトップが急速に普及しだした。人気の背景にはパソコンが大半の用途において[[過剰性能]]になっていること、大容量の[[ストレージ]]や高い処理能力をそれほど必要としない[[ウェブアプリケーション]]の普及がある。あえて低性能に抑える形で廉価なモジュールを組み合わせた製品が出回っており、2008年に前後する爆発的な普及では集積回路メーカーからOSをリリースしているMicrosoftまでもをまきこんでの、一大市場を形成した。なおこの際に、Microsoft側は低価格化のネックとなるOSのライセンス料を見直す上で[[ULCPC]]という基準を示し、これがネットブックの[[スペック]]上限にも影響を与えている。
しかし、前記のウルトラモバイルPCと同様、このポジションはタブレットコンピュータに移行し、2010年に生産を終了した。
===その他===
ノートパソコンは、パソコン全般と共通する[[コンピュータ・アーキテクチャ]](いわゆる[[PC/AT互換機]])を採用、他のパソコンと互換性を備えているが、その互換性を持たない、ノートパソコンによく似た形態を持つ[[携帯機器]]として、[[スマートブック]]というジャンルも登場している。これらは、PC/AT互換アーキテクチャーを採用する上で小型化・低電力化を阻害する避け得ない様々な制約を回避する上で、[[ARMアーキテクチャ]]など[[スマートフォン]]のそれを採用した製品が見られ、これらは[[インターネット]][[端末]]としてや[[クラウドコンピューティング]]端末など限られた機能しかもたない。
2010年より活性化したいわゆる[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]にも通じるこれらでは、両ジャンルに食い込む製品も見られ、たとえば[[Asus Eee Pad Transformer]]のように、キーボードと本体であるタブレットPCが分離可能で、必要に応じて双方の利便性を使い分けられるようになっている。
== 拡張機能 ==
{| class="wikitable" style="background:#ffffff;"
! width="15%" |拡張機能
! width="15%" |参考画像
! width="70%" |特徴
|-
|[[PCカード]]スロット
|PCカードスロット<br/>[[Image:PC Card Slot..jpg|150px|PCカードスロット]]
|古くからのノートパソコンの主な拡張機構で、2005年頃までのほとんどの機種に備えられていた。デスクトップPCにおける[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]スロットに相当する汎用拡張スロットとして、通信など各種入出力系のインターフェースカードや、メモリカードなどを装着できる。一部のモバイルノートパソコンには、PCカードスロットとともに、[[コンパクトフラッシュ]]スロットを搭載する機種もある。2005年頃から、互換性のない新しい規格として、[[ExpressCard]]スロットを搭載した機種も登場した。2010年代にはこうしたスロットが存在するノートPCは珍しくなった。
<!--2007年初頭時点ではPCカードスロットを持った機種とExpressCardスロットを持った機種、あるいはExpressCardのみを搭載した機種が販売されていたが、2009年時点ではほとんどの製品がExpressCardスロットだけになった。ただし、法人向けのパソコンには従来どおりCardbusのPCカードを採用する場合が多い。一方、家庭用ではExpressCardスロットが搭載されず、拡張カードスロット自体が省略されることが多くなっている。-->
|-
|[[入出力ポート]]
|[[Image:VGA-RS-232C-Parallelbus--ja-.jpg|150px|接続端子]]<br/>USB<br/>[[画像:USB Connector.jpg|150px]]
|1990年代までは大型のものでは本体に、小型のものではポートリプリケータやドッキングユニットに[[レガシーデバイス]]を一通り備えており、多くの入出力ポートを利用することができたが、[[2000年]]以降はこれら入出力ポートが省略され、汎用入出力端子はUSB端子のみか、USBと[[HDMI]]を搭載した機種が中心となっている。ただし法人向けの機種は、[[2006年]]まではパラレル端子などは標準搭載されていた場合が多い。
<!--起動中でなくても、[[Basic Input/Output System|BIOS]]設定でUSBの電源出力をオン、オフ可能なパソコンも多い。このほか、[[プロジェクタ]]や外部ディスプレイを接続するための出力端子として、一般的に[[VGA端子]]か[[Digital Visual Interface|DVI]]、もしくは[[DisplayPort]]が搭載される。一部機種では[[HDMI]]や[[S端子]]も搭載されている場合がある。音声入出力端子として[[ヘッドフォン]]出力端子や[[ライン (音響機器)|ライン]]入力端子、[[マイクロフォン|マイク]]入力端子などが搭載される。それらは光デジタル入出力端子と兼用になっている場合がある。-->
|-
|光学ドライブ
|着脱式CD-ROMドライブ<br/>[[Image:CD-ROM Drive (Dell).jpg|150px|着脱可能なCD-ROM Drive]]
|初期はCDドライブ、2000年代にはDVDスーパーマルチドライブ、ハイエンドモデルでは[[Blu-ray Disc]]ドライブが搭載されたが、2010年代以降はドライブの無いものが増えている。
<!--一方で[[コストパフォーマンス]]や情報漏洩対策として、法人向けに[[CD-ROM]]ドライブ仕様でのノートPC販売も継続している。
通常は本体に内蔵されたままであるが、光学ドライブユニットの着脱が可能な機種もあり、光学ドライブの代わりにセカンドHDDや予備バッテリを装着することもできる。軽量化目的で取り外して使用する場合、ベイの目隠し可能なアダプターも付属している場合がある。
サブノートやネットブック(ミニノートパソコンや[[タブレットPC]]もこれにあたる)ではほとんどの場合、光学ドライブは搭載されていない。何らかの事情でCDやDVDを使用する場合には、LANに接続して他PCの光学ドライブを一時的に設定するか、システムの初期化作業を行う場合はUSB接続の汎用外付けドライブを利用する。-->
|-
|[[イーサネット]]・[[モデム]]||PCカード型無線LANカード<br/>[[Image:PCMCIA-card-750px.jpg|150px|PCカード型無線LANカード]]
|[[イーサネット]]は従来はPCカードを利用して接続していたが、1998年頃にオフィス向けを中心として標準で内蔵した機種が登場し、[[ADSL]]などの[[ブロードバンドインターネット接続]]が普及し始めた2002年頃からは標準で搭載されるようになり、さらには[[無線LAN]]モジュールのみで有線LANケーブル端子が無い機種も増えている。
[[ダイヤルアップ接続]](あるいは[[ファクシミリ|FAX]]送信)を行うためのモデム(端子としては[[公衆交換電話網]]に接続する2芯の[[Registered jack|モジュラー端子]])については、持ち運んで使うノートパソコンの性格上、ほとんどの機種が内蔵していたが、2000年代中盤以降、[[公衆無線LAN]]接続や、[[モバイルデータ通信定額制]]サービスの利用が多くなったことから、大型の機種を中心にモデムは外されるようになった。現地の状況でダイヤルアップ接続しかできない場合、USB接続のモデムを使うことになる。
|-
|フロッピーディスクドライブ
|外付けフロッピーディスクドライブ<br/>[[Image:Floppy disk Drive (Laptop).jpg|150px|外付けフロッピーディスクドライブ]]
|フロッピーディスクドライブはデータのやり取りやバックアップ、[[Basic Input/Output System|BIOS]]のアップデートに使用する起動ディスクなどのために搭載されていた。大型のものは内蔵され、コンパクトノートやサプノート向けには、専用端子(2000年あたりからはUSB端子)に接続する外付けの機器が使用されていた。
2000年代中盤以降ではCD-Rや[[USBメモリ]]の普及、BIOSのアップデートの簡易化などによりフロッピードライブは標準搭載からは外され、オプション扱いがほとんどである。フロッピーディスクを使用する場合には、USB接続の汎用外付けドライブを利用する。
|-
|その他
|Webカメラ(画面上部中央の黒い点状の物)<br/>[[Image:MacBook white.png|150px|Webカメラ ([[iSight]]) を画面上部に内蔵したノートパソコン ([[MacBook]])]]<br/>指紋認証<br/>[[Image:Reading Fingerprint.jpg|150px|指紋を用いたノートパソコンのユーザ認証]]
|機種によっては、[[メモリーカードリーダライタ]]、[[Webカメラ]]、[[指紋認証]]などが内蔵されている場合がある。Webカメラは主として個人向けの機種に、指紋認証は主として法人向けの機種に搭載される場合がある。
|}
== 代表的なノートパソコン ==
=== 販売中のブランド ===
* [[Apple]]
** [[MacBook Pro]]・[[MacBook Air]]
* [[ヒューレット・パッカード]]
** (個人向け)Spectre・ENVY・Pavilion・HP・OMEN by HP
** (法人向け)EliteBook・ProBook・HP
* [[デル]]
** (個人向け)XPS・[[Dell Inspiron|Inspiron]]・ALIENWARE・Vostro
** (法人向け)Precision・XPS・Vostro・Latitude・Inspiron
* [[Microsoft]]
** [[Surface Book]]
** [[Surface Laptop]]
* [[Google]]
** [[Pixel Book]]
* [[Dynabook (企業)|Dynabook]](旧・[[東芝]]。現在は[[シャープ]]の完全子会社)
** [[ダイナブック (東芝)|ダイナブック]]・[[リブレット (パーソナルコンピュータ)|libretto]]
* [[VAIO (企業)|VAIO]](旧・[[ソニー]]。日本での販売総代理店は[[ソニーマーケティング]])
** [[VAIO]]
* [[ASUS]]
** (個人向け)ZenBook・ZenBook Pro・VivoBook・ROGシリーズ・[[Eee PC]]
** (法人向け)ASUS PROシリーズ
* [[エイサー (企業)|エイサー]]
** Swift・Spin・Aspire・Predator
* [[レノボ|Lenovo]]
** [[ThinkPad]]・{{仮リンク|ThinkBook|en|ThinkBook}}・[[IdeaPad]]・Lenovo Gシリーズ
* [[NECパーソナルコンピュータ]]([[日本電気|NEC]]/[[レノボ|Lenovo]])
** (個人向け)[[LAVIE]]
** (法人向け)[[VersaPro]]・[[FC-NOTE]]
* [[富士通クライアントコンピューティング]](旧・[[富士通]]。[[レノボ|Lenovo]]に株式の51%を譲渡)
** (個人向け)[[FMV]] BIBLO/BIBLO LOOX・FMV LIFEBOOK
** (法人向け)LIFEBOOK
* [[エプソンダイレクト]]
** Endeavor
* [[パナソニック]]
** [[Let'snote]]・[[TOUGHBOOK]]
* [[サムスン電子|サムスン]]
** Notebook 5/7/9シリーズ・Odyssey
* [[LG電子|LG]]
** LG gram・LG Ultra PC(旧・Xnote)
* [[Micro-Star International|MSI]]
** Gシリーズ・Sシリーズ
{{columns-list|column-width=30em|
* [[Apple]]
** [[MacBook Pro]]・[[MacBook Air]]
* [[ヒューレット・パッカード]]
** (個人向け)Spectre・ENVY・Pavilion・HP・OMEN by HP
** (法人向け)EliteBook・ProBook・HP
* [[デル]]
** (個人向け)XPS・[[Dell Inspiron|Inspiron]]・ALIENWARE・Vostro
** (法人向け)Precision・XPS・Vostro・Latitude・Inspiron
* [[Microsoft]]
** [[Surface Book]]
** [[Surface Laptop]]
* [[Google]]
** [[Pixel Book]]
* [[Dynabook (企業)|Dynabook]](旧・[[東芝]]。[[シャープ]]の完全子会社)
** [[ダイナブック (東芝)|ダイナブック]]・[[リブレット (パーソナルコンピュータ)|libretto]]
* [[VAIO (企業)|VAIO]](旧・[[ソニー]]。日本での販売総代理店は[[ソニーマーケティング]])
** [[VAIO]]
* [[ASUS]]
** (個人向け)ZenBook・ZenBook Pro・VivoBook・ROGシリーズ・[[Eee PC]]
** (法人向け)ASUS PROシリーズ
* [[エイサー (企業)|エイサー]]
** Swift・Spin・Aspire・Predator
* [[レノボ|Lenovo]]
** [[ThinkPad]]・{{仮リンク|ThinkBook|en|ThinkBook}}・[[IdeaPad]]・Lenovo Gシリーズ
* [[NECパーソナルコンピュータ]]([[日本電気|NEC]]/[[レノボ|Lenovo]])
** (個人向け)[[LAVIE]]
** (法人向け)[[VersaPro]]・[[FC-NOTE]]
* [[富士通クライアントコンピューティング]](旧・[[富士通]]。[[レノボ|Lenovo]]に株式の51%を譲渡)
** (個人向け)[[FMV]] BIBLO/BIBLO LOOX・FMV LIFEBOOK
** (法人向け)LIFEBOOK
* [[エプソンダイレクト]]
** [[Endeavor (コンピュータ)]]
* [[パナソニック]]
** [[Let's note]]・[[TOUGHBOOK]]
* [[サムスン電子|サムスン]]
** Notebook 5/7/9シリーズ・Odyssey
* [[LG電子|LG]]
** LG gram・LG Ultra PC(旧・Xnote)
* [[Micro-Star International|MSI]]
** Gシリーズ・Sシリーズ
|}}
=== 過去のブランド ===
* [[ライオス・システム]]
** [[チャンドラ (ノートパソコン)|チャンドラ]]・チャンドラII([[OEM]]として複数のメーカーから販売された。)
* [[日立製作所]]
** [[日立フローラ|Flora]]・[[Prius (日立製作所)|Prius]](2007年にPC製造事業から撤退、以降Floraはセキュリティ用となり、法人向けには[[ヒューレット・パッカード|HP]]製品を販売。)
* [[シャープ]]
** [[Mebius]](2010年10月21日にパソコンの生産を打ち切っていることを発表)
* [[三菱電機]]
** apricot
* [[キヤノン]]
** INNOVA
* [[三洋]]
** Winkey
* [[日本ビクター]]
** [[Inter Link]]
* [[インベンテック]]
** [[工人舎]]・[[KOHJINSHA SA|SA]]・[[KOHJINSHA SH|SH]]
* [[ノキア|Nokia]]
** [[:en:Nokia Booklet 3G|Booklet]]
* [[キングジム]]
** ポータブック
* [[オンキヨー]]
** [[ソーテック]]・Winbook・AFiNA
*[[Apple]]
**[[MacBook|MacBook(無印)]]
=== 製造大手メーカー ===
ノートパソコンはその90%以上が台湾メーカーによりOEM・ODM生産されている。
* [[クアンタ・コンピュータ]](台湾)
*: 世界最大のノートパソコンメーカー。自社のブランドはもたないが、世界・国内の大手ブランドのパソコン製造を手がける。
* [[コンパル・エレクトロニクス]](台湾)
*: クアンタ・コンピュータと世界首位の座を争っている<ref>[http://japan.internet.com/finanews/20100222/3.html Quanta と Compal、ノート PC 生産頂上決戦]</ref>
* [[英業達|インベンテック]](台湾)
* [[ウィストロン]](台湾)
*: [[エイサー (企業)|エイサー]]からOEM製造部門を分離して設立
* [[FOXCONN]](台湾)
* [[ASUS]](台湾):自社ブランドを立ち上げ、以前よりOEM受託比率は下がっている。
* [[藍天電脳|CLEVO]](台湾):日本の直販系メーカー用ベースユニットに採用されている
== 健康上の問題 ==
[[Image:Woman-typing-on-laptop.jpg|thumb|ノートパソコンの画面を凝視する女性]]
{{see also|VDT症候群}}
ノートパソコンを長時間使用する場合人体に与える影響が指摘されている。ノートパソコンの場合、ディスプレイが目線より下に存在することになり、常に首を曲げた状態で作業をする必要が生じる。これによって[[肩凝り]]や[[頭痛]]、長期的な[[疾病]]に至る事が懸念されている。そのため、一定時間ごとに休息し、マッサージをするなど対症療法的な方法と、モバイル以外の環境では視線を落とすことなく視認可能な外部ディスプレイに接続するなどの方法が推奨されている。
[[File:Laptop cooler.JPG|thumb|ノートパソコン用冷却台<br />ノートパソコンの下に敷いて使う。USBなどから電源をとり、内部のファンを回転させてパソコンに風を当てる<ref>{{Cite news |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/column/todays_goods/1207608.html |title=冷却台で夏場のノートPCの発熱対策 |newspaper=ケータイWatch |publisher=インプレス |date=2019-09-17 |accessdate=2020-05-05 }}</ref>。]]
また、高い発熱をする[[CPU]]を採用したり、冷却ファンの出力が低い場合、バッテリーの過熱・発火事故や、長時間の使用で発生する内部の発熱(40~50℃を超える場合あり)による(低温)[[やけど]]<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/091204/sty0912042202002-n2.htm 低温やけどにご用心 ノートパソコンでも] 産経ニュース、2009年12月4日</ref>の被害も起きている。これを防ぐには、市販のノートクーラーパッドや[[USB扇風機]]などでノートパソコン本体の温度を下げる必要がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年9月号 |volume=7 |issue=9 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-9-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年9月号}} }}
*{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年7月号 |volume=7 |issue=7 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-7-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年7月号}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Laptops}}
{{columns-list|2|
*[[ボードPC]]
*[[タブレットPC]]
** [[Ultra-Mobile PC]] (UMPC)
*[[携帯情報端末]] (PDA)
*[[ハンドヘルドコンピュータ]](かつて存在した、携帯型コンピュータの区分)
*[[ポケットコンピュータ]]([[関数電卓]]を拡張してプログラミング機能をもたせた、小型の携帯型コンピュータ)
*[[情報機器]]
*[[モバイルブロードバンド]]
* [[パーソナルコンピュータ]]
* [[デスクトップパソコン]]
* [[ネットブック]]
* [[ULCPC]]
* [[携帯機器]]
* [[日本における携帯電話]]
* [[スマートフォン]]
* [[USBモデム]]
* [[SIMカード]]
}}
{{Computer sizes}}
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{{DEFAULTSORT:のおとはそこん}}
[[Category:パーソナルコンピュータ]]
[[Category:コンピュータの形態]]
[[Category:携帯機器]]
[[Category:和製英語]] | 2003-02-14T09:56:50Z | 2023-10-22T22:39:51Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3 |
1,580 | IPアドレス枯渇問題 | IPアドレス枯渇問題(アイピーアドレスこかつもんだい)とはインターネットの発展に伴い浮上してきた問題で、2019年現在広く使用されているIPv4という通信プロトコルにおいて、新規に配布するIPv4アドレスがほぼ枯渇している事態を指す。インターネット上のノードはIPアドレスによって一意に区別される。
IANA (Internet Assigned Numbers Authority) の管理するIPv4アドレスは2011年2月3日に枯渇した。現在は、RIR(地域インターネットレジストリ)が管理する在庫を割り振っている状態である。各RIRの最後の1ブロックは、IPv6への接続性の確保や既存のインターネット接続を維持する目的で、限定された条件で割り振られるので、自由には取得できない。2011年4月15日には、他のRIRに先駆けて、APNICのIPv4アドレスの在庫が/8ブロック換算で、1ブロック未満となり、アジア太平洋地域では、IPv4アドレスの在庫は事実上枯渇した。また2012年9月14日にはRIPE NCCでも最後の1ブロックからの割り当てが始まり、以降も/22や返却された予備のIPv4アドレスを割り振っていったが、2019年11月25日に全て枯渇した。ARINでは2015年9月24日に在庫が/10(/8の4分の1)を切り、枯渇した。
IPv4のプロトコルで通信を行うには、通信を行う送信元と受信先が、一意のIPv4のIPアドレスを割り当てられていることが前提となる。そのため、IPv4のIPアドレスが枯渇し、新規に割り当てることができなくなれば、新規にサーバーや端末などをネットワークに追加することができなくなる。これは、新規のユーザがインターネットに接続できなくなったり、インターネットでビジネスを行うために新しいサーバを設置できなかったりすることを意味する。
限定された通信だけを行うのであれば、ローカルなIPアドレスと、グローバルなIPアドレスを使い分けるNAPT(IPマスカレード)等の技術によって回避することが可能であるが、NAPTはインターネット上のサービスを指定するポート番号を他の目的に流用するやり方であり、ネットワーク上を流れるパケットを書き換える行為なのでセキュリティ上の問題がある。また、ネットワーク上でIPアドレスによって通信相手である相手のノードを一意に指定できないという問題は依然として残っている。
IPアドレス枯渇問題はインターネットが誕生した時から潜在的に存在していた。「32ビットのIPアドレスでは2の32乗=約43億のIPアドレスしか管理できない」という考えは将来に起こり得る問題として提起されはしたが、実際に深刻な問題としては取り組まれなかった。つまり、当時からIPアドレス枯渇問題を回避するための技術を用いることはできたが、もともとがアメリカ軍の軍用技術であったため、軍の使用に耐えるだけの数が確保されればよく、1980年代以前の考えでは、そこまでの民間での使用を想定していなかったのである。
プロバイダから契約者へのルーターに配付されるIPアドレスの種別がグローバルアドレスから、ISP Shared Address (RFC 6598 100.64/10) または、プライベートアドレス (RFC 1918 10/8,172.16/12,192.168/16) になる場合がある。プロバイダによっては、グローバルアドレスを使用し続けるには、追加料金が発生する場合がある。IPアドレスの種別を変更するのは、限られた資源であるIPアドレス (IPv4) の個別ユーザへの配付をやめることにより、新規のサーバーにIPv4のIPアドレスを割り振ったり、将来の接続ユーザ数の増加に対応したりするためである。例えば、既にUQ WiMAXでは約款を修正し、IPv4のグローバルアドレスではなく、プライベートアドレスを配付することがあることを明示している。
場合によっては(ISP Shared Addressやプライベートアドレスを使いたくない場合)、IPv6を使わざるを得なくなる場合も生じうる。
これによって、次のような影響が生じる。
日本においては1990年代後半に起こった爆発的なインターネット接続の普及などもあり、プロバイダは接続者ごとに固定IPアドレスを振る本来的な方法ではなく、接続中だけいずれかのIPアドレスが振られる動的IPアドレス割当方式を採用した。そのため、一般ユーザーはサーバを公開することが難しくなり、固定IPアドレスサービスは多くのプロバイダで追加料金が課されるようになった。更にブロードバンドインターネット接続の先駆けとして登場したケーブルテレビインターネット接続では、ローカルIPアドレスしか割り当てない方式が一時主流となった。このような環境下ではウェブ閲覧、メール、FTPなどの特定の通信以外での使用は多くの場合厳しい。またJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)などが、アドレス空間の割り当てを審査するなど割り当て方法を厳格にし、無用な割り当てを行わないようにした。
2010年6月現在、国内のプロバイダはIPv4アドレス枯渇対応タスクフォースのアクションプランに添う形で、2011年4月にNTTが予定しているNGNのIPv6でのサービス開始をマイルストーンとして、IPv6によるインターネット接続サービスの提供を本格化しようとしている。ただし、既存のIPv4によるインターネット接続サービスを今後どのようにするかについては、プロバイダ毎に対応が異なり、不明な点が多い。総務省は、2010年4月に『ISPのIPv4アドレス在庫枯渇対応に関する情報開示ガイドライン』を公開した。このガイドラインに従って、日本国内におけるプロバイダ各社の対応については、インターネットプロバイダー協会(JAIPA)「ISPのIPv6対応について」でまとめられている。
2005年2月、JANOGのメーリングリストで126.0.0.0/8(126.0.0.0 - 126.255.255.255の範囲のIPアドレスのことで、理論値で最大16,581,375個割り当て可能)という大量のIPアドレスがソフトバンク傘下のBBテクノロジーに分配されたことについて疑問を呈するメールが投稿された。そのときは「ソフトバンクは大量にIPアドレスを使っている、APNICは太っ腹だ」程度の認識であったが(このIPアドレスを割り当てたのはAPNIC)、翌3月にJPNICのIPアドレス担当理事である前村昌紀が日経BP上で 「IPアドレス枯渇問題は依然として存在するが以前の観測よりは増加ペースが落ちており、APNICが処理したことではあるが、126.0.0.0/8割り当ては妥当であった」という旨の発言をしたため事態は一変、JANOG-ML上で今までIPアドレスを出し渋っていたJPNICに対して一斉に批判がなされた。これらの批判は、一方でIPアドレス枯渇問題によるIPアドレスの回収を行っていながら、もう一方で、JPNICが管理するIPアドレス(2005年2月段階で29,067,520個)の過半数のIPアドレスを割り振ったことに対する矛盾を問う批判である。それまで、比較的自由に取得できていたIPアドレスが、プロバイダ経由かつ限定的にしか取得できなくなったことに対する不満が、騒ぎをより大きくした。
当時JPNICは、組織改組に伴い管理を一元化するとともに、IPアドレス枯渇問題に対応するために、/24などの単位で必要以上に分配されていたIPアドレスを回収するとともに、新規割り当て条件の厳格化をしていた。このIPアドレスの回収に伴って、分配されるIPアドレスの数の減少と回収されるIPアドレスの数の増加による相乗効果で、全体としての分配済みのIPアドレスの増加ペースが落ちているように見えていた。
APNICおよびJPNICは、以下の見解を公表している。
注 : JPNICは、独自にはIPv4アドレスを持たず、APNICからの割り振りを仲介している。そのため、JPNICの管理下におけるIPアドレスの移転を除けば、APNICと同様に、「1会員(新規および既存)につき、/22を1ブロック」という非常に限定された割り振りしかできなくなる。
現在、アドレス空間の桁数を増大させたIPv6が普及しつつある。詳細はIPv6の項を参照。
しかしながら、移行する方式によって、問題点がいくつかある。なお、IPv6の導入方式は、プロバイダおよびネットワークの接続経路に依存するため、エンドユーザが自由に選択することはできない(一部の例外を除く)。
休眠中のIPv4アドレスの有効活用を目的として、事業者間のIPv4アドレスの使用権の譲渡に関するポリシーの見直しが行われ、2011年8月1日からIPv4アドレス移転制度を施行した。
JPNICで、実施されている内容は、以下のとおりである。
しかしながら、これまでの経緯からすると、日本国内における該当するIPv4アドレスの使用権の保持者は、未使用のIPv4アドレス空間を提供する意思がほとんどない。IPv4アドレスが枯渇し、必要になった時に追加取得することが困難になった現在では、この傾向はより強くなっている。JPNICが、2004年から2006年にかけてInterNICやJNICから割り振られた歴史的PI (Provider Independent) アドレスの割り振り先組織の明確化を行った際に、既に休眠中のIPv4アドレスの回収を行っている。(105組織319,488個のIPv4アドレスを回収)。その後、日本国内でIPv4アドレスの使用権の保持するためには、JPNICが認定した指定事業者(プロバイダ)から有償で借り受けるのが一般的であり、IPv4アドレスを保持し続けるとコストがかかるようになった。そのため、使用計画のない休眠中のIPv4アドレスは、ほとんどない状態になっている。
JPNICの管轄外からのIPv4アドレスの供給元として、歴史的背景から休眠中のIPv4アドレス空間を多く抱えているARIN(北米地域担当の地域インターネットレジストリ)が期待されるが、ARINは、地域インターネットレジストリ間でのIPv4アドレス空間の移転に否定的であった。しかし、2013年6月3日以降は、JPNICだけでなくAPNICやARINの管理下にあるIPv4アドレスも移転可能となり、2014年4月30日には世界初のRIR間のIPv4アドレス移転がARIN内の利用者からAPNIC配下のJPNIC管理下の利用者に行われた。
実績としては、IPv4アドレス移転制度が開始された2011年8月1日 - 2012年6月末までの11か月で、移転されたIPアドレスはたった30件しかない。傾向としては資本関係があるグループ企業間の移転か、エンドユーザからそこが利用しているISPやホスティング業者への移転が多い。 | [
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}
]
| IPアドレス枯渇問題(アイピーアドレスこかつもんだい)とはインターネットの発展に伴い浮上してきた問題で、2019年現在広く使用されているIPv4という通信プロトコルにおいて、新規に配布するIPv4アドレスがほぼ枯渇している事態を指す。インターネット上のノードはIPアドレスによって一意に区別される。 IANA の管理するIPv4アドレスは2011年2月3日に枯渇した。現在は、RIR(地域インターネットレジストリ)が管理する在庫を割り振っている状態である。各RIRの最後の1ブロックは、IPv6への接続性の確保や既存のインターネット接続を維持する目的で、限定された条件で割り振られるので、自由には取得できない。2011年4月15日には、他のRIRに先駆けて、APNICのIPv4アドレスの在庫が/8ブロック換算で、1ブロック未満となり、アジア太平洋地域では、IPv4アドレスの在庫は事実上枯渇した。また2012年9月14日にはRIPE NCCでも最後の1ブロックからの割り当てが始まり、以降も/22や返却された予備のIPv4アドレスを割り振っていったが、2019年11月25日に全て枯渇した。ARINでは2015年9月24日に在庫が/10(/8の4分の1)を切り、枯渇した。 | [[ファイル:IANA IPv4 Address Space Registry.png|thumb|250px|IPv4アドレスの割り当て状況(2012年4月23日現在)<ref>[https://www.iana.org/assignments/ipv4-address-space/ipv4-address-space.xml IANA IPv4 Address Space Registry]</ref><br />{{legend|#ff7f50|[[ARIN]]: 一部北米、カリブ海、大西洋、南極大陸周辺}}{{legend|#87cefa|[[Asia-Pacific Network Information Centre|APNIC]]: 東部および南部アジア、太平洋エリア}}{{legend|#adff2f|[[RIPE NCC]]: ヨーロッパ、中東、中央アジア}}{{legend|#ffd700|[[Latin American and Caribbean Internet Address Registry|LACNIC]]: ラテンアメリカ、カリブ海沿岸地域}}{{legend|#8b0000|[[AfriNIC]]: アフリカ地域}}{{legend|#9370db|その他: [[地域インターネットレジストリ|RIR]]が保有しているが下位に誰も割り振りされていない、あるいはIANAから企業へ直接付与されるなどRIR外のアドレス}}{{legend|#808080|予約アドレス: ローカルアドレス、マルチキャスト、将来のために予約され未使用のアドレス}}{{border| }} 未割当]]
'''IPアドレス枯渇問題'''(アイピーアドレスこかつもんだい)とは[[インターネット]]の発展に伴い浮上してきた問題で、2019年現在広く使用されている[[IPv4]]という[[通信プロトコル]]において、新規に配布する[[IPアドレス|IPv4アドレス]]がほぼ枯渇している事態を指す。インターネット上の[[ノード (ネットワーク)|ノード]]はIPアドレスによって一意に区別される。<!-- インターネットの急速な普及により1993年までにクラスBアドレス空間が枯渇してしまうと予測された問題である。-->
IANA ([[Internet Assigned Numbers Authority]]) の管理するIPv4アドレスは2011年2月3日に枯渇した<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1102/04/news024.html
| title = IPv4アドレスの中央在庫が完全に枯渇
| publisher = [[ITmedia]]
| date = 2011年2月4日
| accessdate = 2011年2月7日
}}</ref>。現在は、RIR([[地域インターネットレジストリ]])が管理する在庫を割り振っている状態である。各RIRの最後の1ブロックは、IPv6への接続性の確保や既存のインターネット接続を維持する目的で、限定された条件で割り振られるので、自由には取得できない。2011年4月15日には、他のRIRに先駆けて、APNICのIPv4アドレスの在庫が/8ブロック換算で、1ブロック未満となり、アジア太平洋地域では、IPv4アドレスの在庫は事実上枯渇した<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110415-01.html APNICにおけるIPv4アドレス在庫枯渇のお知らせ、および枯渇後のJPNICにおけるアドレス管理ポリシーのご案内]</ref>。また2012年9月14日にはRIPE NCCでも最後の1ブロックからの割り当てが始まり<ref>[http://www.ripe.net/internet-coordination/news/ripe-ncc-begins-to-allocate-ipv4-address-space-from-the-last-8 RIPE NCC Begins to Allocate IPv4 Address Space From the Last /8]</ref>、以降も/22や返却された予備のIPv4アドレスを割り振っていったが、2019年11月25日に全て枯渇した<ref name=nikkeitech20191125>{{Cite news|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/news/18/06548/|title=欧州のIPv4アドレスがついに完全枯渇、6億個弱を使い切った|agency=日経テクノロジーオンライン|date=2019-11-25|accessdate=2019-11-25}}</ref>。ARINでは2015年9月24日に在庫が/10(/8の4分の1)を切り<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2015/20150925-01.html 北米地域レジストリにおけるIPv4アドレス在庫枯渇のお知らせ] [[日本ネットワークインフォメーションセンター]]、2015年9月25日(2015年9月29日閲覧)。</ref>、枯渇した<ref>[https://www.arin.net/announcements/2015/20150924.html ARIN IPV4 FREE POOL REACHES ZERO] [[ARIN]]、2015年9月24日(2015年9月29日閲覧)。</ref>。
== 問題の発生 ==
IPv4のプロトコルで通信を行うには、通信を行う送信元と受信先が、一意のIPv4のIPアドレスを割り当てられていることが前提となる。そのため、IPv4のIPアドレスが枯渇し、新規に割り当てることができなくなれば、新規にサーバーや端末などをネットワークに追加することができなくなる。これは、新規のユーザがインターネットに接続できなくなったり、インターネットでビジネスを行うために新しいサーバを設置できなかったりすることを意味する。
限定された通信だけを行うのであれば、ローカルなIPアドレスと、グローバルなIPアドレスを使い分ける[[ネットワークアドレス変換|NAPT]]([[IPマスカレード]])等の技術によって回避することが可能であるが、NAPTはインターネット上のサービスを指定するポート番号を他の目的に流用するやり方であり、ネットワーク上を流れるパケットを書き換える行為なのでセキュリティ上の問題がある。また、ネットワーク上でIPアドレスによって通信相手である相手のノードを一意に指定できないという問題は依然として残っている。
IPアドレス枯渇問題はインターネットが誕生した時から潜在的に存在していた。「32ビットのIPアドレスでは''2の32乗=約43億のIPアドレスしか''管理できない」という考えは将来に起こり得る問題として提起されはしたが、実際に深刻な問題としては取り組まれなかった。つまり、当時からIPアドレス枯渇問題を回避するための技術を用いることはできたが、もともとがアメリカ軍の軍用技術であったため、軍の使用に耐えるだけの数が確保されればよく、1980年代以前の考えでは、そこまでの民間での使用を想定していなかったのである。
== 問題の影響 ==
=== IPv4のIPアドレスの新規取得が困難 ===
* 新規に[[インターネットサービスプロバイダ]](プロバイダ、ISP)と契約してインターネットの接続回線を開いても、IPv4のグローバルアドレスを取得することが困難になり、[[サーバ|サーバー]]を公開することができなくなる。
* IPv6のグローバルユニキャストアドレスを取得できれば、サーバーの公開自体はできるが、IPv4でのみアクセス可能なユーザからの参照が(後述の対応策を取らない限り)困難になる。
=== ルーターに配付されるIPアドレスの種別変更 ===
プロバイダから契約者への[[ルーター]]に配付されるIPアドレスの種別がグローバルアドレスから、ISP Shared Address ({{IETF RFC|6598}} 100.64/10) または、プライベートアドレス ({{IETF RFC|1918}} 10/8,172.16/12,192.168/16) になる場合がある。プロバイダによっては、グローバルアドレスを使用し続けるには、追加料金が発生する場合がある。IPアドレスの種別を変更するのは、限られた資源であるIPアドレス (IPv4) の個別ユーザへの配付をやめることにより、新規のサーバーにIPv4のIPアドレスを割り振ったり、将来の接続ユーザ数の増加に対応したりするためである。例えば、既にUQ WiMAXでは約款を修正し、[http://www.uqwimax.jp/service/support/faq/detail0017.html IPv4のグローバルアドレスではなく、プライベートアドレスを配付することがあることを明示している]。
場合によっては(ISP Shared Addressやプライベートアドレスを使いたくない場合)、IPv6を使わざるを得なくなる場合も生じうる。
これによって、次のような影響が生じる。
* ルーターの変更
** ルーターに割り当てられるIPアドレスの種別が変更されることにより、ルーターの設定変更が必要になる。プロバイダによっては、IPv6対応のために、[[カスタマ構内設備|CPE (Customer Premises Equipment)]] を構成するルーターなどへの買い替え、または、接続用アプリケーションの新規追加が必要になる場合がある。
* アプリケーションの変更
** 使用しているアプリケーションが使用できなくなる可能性がある。ルーターに割り当てられるIPアドレスの種別がグローバルアドレスであることを期待しているアプリケーションでは、ルーターのアドレス種別が変更されることにより、通信ができなくなって使用できなくなるアプリケーションがでてくる。[[Universal Plug and Play|UPnP]]などによりNATによる影響を回避しているアプリケーションでは、IPアドレスの種別が変更され多段NAT構成([[ラージスケールNAT]])になった場合に、対応できない。特に[[Peer to Peer|P2P]]により、端末間で直接通信を行うタイプのアプリケーションについては、影響が大きい。
* WebサイトやWebアプリケーションの変更
** IPv4でアクセスされることを前提にしている[[ウェブサイト]]や[[ウェブアプリケーション|Webアプリケーション]]では、サーバーがIPv6でアクセス可能になった場合に、IPv6への対応が必要になる。具体的には、IPv4のIPアドレスで[[セッション]]の管理をしている場合に、単一のIPv4のIPアドレスで複数のユーザが同時にアクセスしている場合の対応や、IPv6でアクセスしている場合の対応が必要となる。
* 既存ユーザの既得権益の侵害
** 現在、大きな制限もなくIPv4のIPアドレスを使用している既存ユーザにとって、IPアドレスの共有を強制されることは、既得権益の侵害としてうつる。現在は、実際にIPアドレスの共有を強制されるような計画が公開されていないため、問題視されていない。しかし、このような計画が発表されれば、既存ユーザの反発が予想され、賠償請求訴訟や計画の停止を求める訴訟問題に発展する可能性がある。
== 日本での対応 ==
日本においては1990年代後半に起こった爆発的なインターネット接続の普及などもあり、プロバイダは接続者ごとに固定IPアドレスを振る本来的な方法ではなく、接続中だけいずれかのIPアドレスが振られる動的IPアドレス割当方式を採用した。そのため、一般ユーザーはサーバを公開することが難しくなり、固定IPアドレスサービスは多くのプロバイダで追加料金が課されるようになった。更に[[ブロードバンドインターネット接続]]の先駆けとして登場した[[Data Over Cable Service Interface Specifications|ケーブルテレビインターネット接続]]では、ローカルIPアドレスしか割り当てない方式が一時主流となった。このような環境下ではウェブ閲覧、メール、FTPなどの特定の通信以外での使用は多くの場合厳しい。また[[JPNIC|JPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)]]などが、アドレス空間の割り当てを審査するなど割り当て方法を厳格にし、無用な割り当てを行わないようにした。
2010年6月現在、国内のプロバイダは[https://kokatsu.jp/ IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース]のアクションプランに添う形で、2011年4月にNTTが予定しているNGNのIPv6でのサービス開始をマイルストーンとして、IPv6によるインターネット接続サービスの提供を本格化しようとしている<ref>{{PDFlink|[http://kokatsu.jp/blog/ipv4/news/ActionPlan_20100607.pdf IPv4アドレス枯渇対応アクションプラン2010.06版]}}</ref>。ただし、既存のIPv4によるインターネット接続サービスを今後どのようにするかについては、プロバイダ毎に対応が異なり、不明な点が多い。総務省は、2010年4月に[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban04_000022.html 『ISPのIPv4アドレス在庫枯渇対応に関する情報開示ガイドライン』]を公開した。このガイドラインに従って、日本国内におけるプロバイダ各社の対応については、[https://www.jaipa.or.jp/ipv6/ インターネットプロバイダー協会(JAIPA)「ISPのIPv6対応について」]でまとめられている。
=== IPアドレスの枯渇期限の予測とこれまでの経緯 ===
* 黎明期
** 1981年9月に{{IETF RFC|791}}として、現在のIPv4のもととなる仕様が公開される。基本的に、アメリカ合衆国国内の政府機関、軍関連施設、研究機関を中心にネットワークでつなぐことを前提としていたことと、当時のコンピュータの処理能力から、32bitのIPアドレスが採用される。この頃、IPアドレスの割り振りは、各組織にClass A (/8)、Class B (/16)、Class C (/24) などの単位で行っていた。
** 1991年7月に「IPアドレスが不足する」という研究を受けてIETFが調査を開始した<ref>[http://tools.ietf.org/html/draft-chiappa-ipaddressing-00 Chiappa, N., "The IP Addressing Issue", ]</ref>。一部には、1990年代前半でClass B (/16) のIPアドレスが枯渇するとの予測もあった。
** 1992年11月に{{IETF RFC|1380}}という形で調査結果をまとめ、次世代ネットワークの議論が始まる。この議論によるIPアドレスを拡張する長期的な対策がIPv6である。
** 1993年5月に、{{IETF RFC|1466}}として、最後の「/8ブロック」(全IPv4アドレスの1/256)の5ブロックについては、世界に5つある地域インターネットレジストリ (AfriNIC、APNIC、ARIN、LACNIC、RIPE NCC) に各1ブロックを割り振るよう予約した。
** 1994年3月 {{IETF RFC|1597}} としてプライベートアドレスを導入した。 これによりIPアドレスの枯渇を気にせずにLANでTCP/IPが使えるようになり、LANにおけるIPv4の利用が加速することになる。これと前後して、プライベートアドレスを使用するLANとグローバルアドレスを使用するWANとを使い分けるとともに、両者を接続して運用するための技術開発が進む。その議論の過程で生まれてきたのが、[[Classless Inter-Domain Routing|CIDR]] ({{IETF RFC|4632}})、NAT ({{IETF RFC|2663}}) 、Proxy([[プロキシ]])などである。
* 揺籃期
** 1990年代後半に入り、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の発売をきっかけとしたパソコンによるインターネットの利用や、携帯電話などの通信機器によるインターネット利用が増えるにしたがって、IPv4アドレス枯渇が単なる技術問題ではなく[[社会問題]]として認知されるようになった。
** 2001年には、[[インターネットバブル]]といわれる急速なインターネット利用増加現象のため、2007年頃にIPアドレスが枯渇するとの予想が出された。しかし、2003年になると、インターネットバブルの崩壊とともにIPアドレスの需要が減少し、枯渇の見通しは2020年頃に修正された。この時期は[[日本の経済史#バブル期|経済状況]]によって、IPアドレスの枯渇時期予想が大きく変化していた。
** エコノミストを中心に、一部でテスト運用が始まったIPv6の必要性や、IPアドレスの枯渇そのものを疑問視する声が盛んに出された時期でもある。
* 対策期
** 2000年代後半になると、IANAの在庫が減少してきたことと、[[東アジア]]地域を中心とした安定した大規模な需要があることから、IPアドレスの枯渇時期の予想が行いやすくなってきた。
** JPNICは、2004年から2008年にかけて、歴史的PI (Provider Independent) アドレスの割り振り先組織の明確化と、CIDRによる適切な規模でのIPアドレスの割り振りを目的に、割り当て済みのIPアドレスの整理と未使用IPアドレスの回収を実施した<ref name="名前なし-1">[https://www.nic.ad.jp/ja/ip/hr/ 歴史的経緯を持つプロバイダ非依存アドレス(歴史的PIアドレス)について]</ref>。
** 2006年4月に、JPNICはIPv4アドレス枯渇に向けた提言を公開した<ref name="nic-20060403-01">[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2006/20060403-01.html 報告書「IPv4アドレス枯渇に向けた提言」公開のお知らせ] - 社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター (JPNIC) 2006.4</ref>。ここに取り上げられている4つのレポートによれば、2009年 - 2022年でIPv4アドレスが枯渇することになる。また、2006年12月に開催されたInternet Week 2006における[http://venus.gr.jp/opf-jp/opm11/opm11-program.html 第11回JPNICオープンポリシーミーティングプログラム]のパネル討論会「IPv4アドレス枯渇への対応」では、近藤邦昭により「2006年12月時点で1670万個のIPアドレスを含むブロックが、残り52個」「2006年は9ブロックが消費された」「このペースなら2012〜2013年に枯渇する」との資料<ref name="venus-jpopm11-8-1">{{PDFlink|[http://venus.gr.jp/opf-jp/opm11/jpopm11-8-1.pdf IPv4割り振り状況と 予測との比較〜2006冬〜]}} - JPNIC番号資源利用状況調査研究家チーム 近藤邦昭</ref>が提示されている。
** 2007年6月に、JPNICは[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2007/20070619-01.html IPv4アドレスの在庫枯渇状況とJPNICの取り組みについて]を公開した。
** この中で、地域インターネットレジストリの未分配IPv4アドレスの在庫が2010年には無くなると予測している。これを受けて、インターネットで利用するIPv4アドレスの枯渇期を乗り越えるために、対応策の検討を開始したと発表した。具体的には情報提供、利用ポリシーの見直しを行う。また、IPv6への移行を含む技術的方法論の検討、ビジネスへの影響を調査する検討会を開始する<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2007/20070619-01.html JPNIC「IPv4アドレスの在庫枯渇状況とJPNICの取り組みについて」、2007年6月19日。]</ref>。
** なお、日本国内では、IPアドレス枯渇対策のため、2008年9月5日に[https://kokatsu.jp/blog/ipv4/ IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース]を設立している。
** 2009年8月時点で、未使用のIPv4アドレスが約5億、年間約2億減っているので、2011年頃に枯渇すると報道された<ref name="asahi-20090828">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/science/update/0828/TKY200908280001.html|title=広がらぬ次世代アドレス 現行v4、2年後にも在庫切れ|publisher=朝日新聞|date=2009-08-28|accessdate=2012-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100204112536/http://www.asahi.com/science/update/0828/TKY200908280001.html|archivedate=2010-02-04}}</ref>。2010年1月時点IPv4アドレスIANA在庫が10%を切り<ref>[http://www.nic.ad.jp/ja/pressrelease/2010/20100120-01.html JPNIC「IPv4アドレスIANA在庫が10%を切るも、JPNICのIPv4分配に変化なし」、2010年1月20日]</ref>、同年11月末時点IANAの未割り振りの/8のIPv4アドレスは残り7ブロック、総アドレス数に占める割合は約2.7%となった<ref>[http://www.kokatsu.jp/blog/ipv4/news/2010/12/arinripe-ncc.html ARINとRIPE NCCへ、「/8ブロック」が割り振られました | IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース 2010年12月1日]</ref><ref>[http://www.nic.ad.jp/ja/topics/2010/20101201-02.html IPv4アドレスのIANA在庫、あと/8を2ブロック残すのみ | JPNIC 2010年12月1日]</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20101201/354739/ IPv4アドレスの枯渇がいよいよ目前、在庫が実質2ブロックに | ITPro 2010年12月1日]</ref>。
* 枯渇期
** 2011年1月31日、APNICに「/8ブロック」が2つ割り当てられた<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110201-01.html IANAからAPNICへ、二つの/8ブロックが割り振られました | JPNIC 2011年2月1日]</ref><ref>[http://www.kokatsu.jp/blog/ipv4/news/2011/02/ianaapnic.html IANAからAPNICに申請で分配可能な最後のアドレスが割り振られました | IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース 2011年2月1日]</ref><ref>[http://www.apnic.net/publications/news/2011/delegation Two /8s allocated to APNIC from IANA | APNIC 2011年2月1日]</ref>。2011年2月3日、未割り振りの「/8ブロック」である最後の5ブロックが、世界に5つある地域インターネットレジストリにそれぞれ割り振られ、IANAが持つ在庫が枯渇した<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110204-01.html IANAにおけるIPv4アドレス在庫枯渇、およびJPNICの今後のアドレス分配について | JPNIC 2011年2月4日]</ref><ref>[http://www.kokatsu.jp/blog/ipv4/news/2011/02/ianaipv4.html IANAのIPv4アドレス在庫、ついに枯渇 | IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース 2011年2月4日]</ref><ref>[http://www.nro.net/news/ipv4-free-pool-depleted Free Pool of IPv4 Address Space Depleted | NRO February 3, 2011]</ref>。
** 2011年3月1日、旧クラスB, RIR分配以前の旧クラスCアドレス領域で、RIR体制以降、分配を凍結していたVarious Registries領域といわれるIPアドレスの領域を各RIRに分配した。分配した量は、1つのRIRにつき、/8ブロック換算で約1.5ブロックである。
** 地域インターネットレジストリが持つ在庫の枯渇については、地域ごとに需要が異なるため、それぞれ在庫の枯渇時期が異なる。最も早く地域インターネットレジストリが持つ在庫の枯渇するのは、IPアドレスの消費動向から、APNICと予測されていた。
** 2011年4月15日、APNICのIPv4のIPアドレスの在庫は/8ブロック換算で、1.0ブロックになった<ref>[http://www.apnic.net/community/ipv4-exhaustion/graphical-information APNIC's IPv4 pool usage]</ref>。
** RIRでは、在庫が1ブロック未満になると枯渇したとみなし、IPアドレスの割り振りを制限することになっている。APNICでは、他のRIRに先駆けて、この最後の1ブロックに達してしまった。今後、APNICにおいては、1会員あたり最大/22ブロック換算で1つのみ、IPv6への接続性の確保や既存のインターネット接続を維持する目的でIPv4のIPアドレスを割り振るのみになる。
** 日本を担当するJPNICは、独自にIPアドレスの在庫を持たず、必要に応じてAPNICの在庫から割り当てを行っているため、APNICが持つIPアドレスの在庫が枯渇すれば、IPアドレスの割り振りができなくなる<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110325-01.html APNIC地域におけるIPv4アドレスの通常割り振り終了(在庫枯渇)の時期について | JPNIC 2011年3月25日]</ref>。
** 地域インターネットレジストリが持つ在庫の枯渇と前後して発生するのが、[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]や[[データセンター]]におけるIPアドレスの枯渇である。実際には、IPアドレスの取得申請時に18か月先までの需要予測を根拠に申請しているため、すぐに問題になることはない。これまでは、ユーザ数の増加やサーバの増加に伴って、ISPやデータセンターは計画的にIPアドレスを地域インターネットレジストリから取得してきた。これからは、IPv4アドレスの供給元の在庫が枯渇するため、新規にIPv4のIPアドレスをユーザに提供できなくなる。
** 2012年4月、{{IETF RFC|6598}}としてISP Shared AddressにARINから100.64.0.0/10が割り当てられる。今後、Carrier-Grade NAT (CGN) の導入が加速すると推測される。
** 2012年7月末頃、RIPE-NCC([[ヨーロッパ]]、[[中東]]、[[中央アジア]]地域)のIPv4アドレス在庫が枯渇すると予想されていた。他の地域については、ARIN([[北アメリカ|北米]]、及び[[カリブ海地域]]と北大西洋地域)が2013年前半、LACNIC([[ラテンアメリカ]]及びカリブ海地域)が2014年前半、AfriNIC(アフリカ地域)が2014年後半に、それぞれ在庫が枯渇すると予想される。
** 2012年9月14日、[[RIPE NCC|RIPE-NCC]]において/8のIPアドレスが枯渇し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2012/20120918-01.html|title=【速報】ヨーロッパ地域レジストリにおけるIPv4アドレス在庫枯渇のお知らせ|date=2012-09-14|accessdate=2013-01-04|publisher=JPNIC}}</ref>、以降は/22や返却された予備のIPv4アドレスを割り振り<ref name=nikkeitech20191125 />。
** 2014年4月23日、ARINのIPv4アドレス在庫が/8ブロック換算で、1.0ブロックになった<ref>{{cite web|url=https://www.arin.net/announcements/2014/20140423.html|title=ARIN Enters Phase Four of the IPv4 Countdown Plan|date=2014-04-23|accessdate=2014-04-29|publisher=ARIN}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2014/20140424-02.html|title=北米地域レジストリにおけるIPv4アドレスの在庫状況について|date=2014-04-24|accessdate=2014-04-29|publisher=JPNIC}}</ref>。
** 2014年5月20日、LACNICのIPv4アドレス在庫が/9ブロック換算で、1.0ブロックになったことを受け、 IANAに既に返却済みのIPv4アドレスを各RIRに再度割り振る見通しになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2014/20140521-01.html|title=IANAに返却済みIPv4アドレスの再割り振りについて|date=2014-05-21|accessdate=2014-06-11|publisher=JPNIC}}</ref>。
** 2017年2月15日 LACNICのIPv4アドレス在庫が/11ブロック以下となり、AFRINICを除く4つのRIRでIPv4アドレス在庫枯渇の最終段階になった<ref>{{cite web|url=http://www.lacnic.net/web/anuncios/2017-fase-final-de-agotamiento-de-ipv4|title=LACNIC Announces the Start of the Final Phase of IPv4 Exhaustion|date=2017-02-15|accessdate=2017-02-22|publisher=LACNIC}}</ref>。
** 2019年11月25日、[[RIPE NCC|RIPE-NCC]]において全てのIPアドレスが枯渇<ref name=nikkeitech20191125 />。
=== 126.0.0.0/8分配事件 ===
2005年2月、[[JANOG]]の[[メーリングリスト]]で126.0.0.0/8(126.0.0.0 - 126.255.255.255の範囲のIPアドレスのことで、理論値で最大16,581,375個割り当て可能)という大量のIPアドレスが[[ソフトバンク]]傘下の[[BBテクノロジー]]に分配されたことについて疑問を呈するメールが投稿された<ref name="janog-ml-6055">[https://www.janog.gr.jp/mailman/private/janog/2005-February/006051.html JANOGメーリングリストのログ。] (2005.2) ※閲覧にはパスワードが必要。詳細は[http://www.janog.gr.jp/mailinglist.html JANOGメーリングリスト]のサイトを参照。</ref>。そのときは「ソフトバンクは大量にIPアドレスを使っている、[[Asia-Pacific Network Information Centre|APNIC]]は太っ腹だ」程度の認識であったが(このIPアドレスを割り当てたのはAPNIC)、翌3月に[[日本ネットワークインフォメーションセンター|JPNIC]]のIPアドレス担当理事である前村昌紀が[[日経BP]]上で 「IPアドレス枯渇問題は依然として存在するが以前の観測よりは増加ペースが落ちており、APNICが処理したことではあるが、126.0.0.0/8割り当ては妥当であった」<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/free/NNW/NEWS/20050309/157234/ 山田剛良「ソフトバンクBBへの「/8」の割り振りは妥当:JPNIC前村昌紀IPアドレス担当理事に聞く」日経BP、2005年3月9日。]</ref>という旨の発言をしたため事態は一変、JANOG-ML上で今までIPアドレスを出し渋っていたJPNICに対して一斉に批判がなされた。これらの批判は、一方でIPアドレス枯渇問題によるIPアドレスの回収を行っていながら、もう一方で、JPNICが管理するIPアドレス(2005年2月段階で29,067,520個<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/stat/ip/2005.html JPNICが管理するIPアドレスに関する統計(2005年1〜12月)]</ref>)の過半数のIPアドレスを割り振ったことに対する矛盾を問う批判である。それまで、比較的自由に取得できていたIPアドレスが、プロバイダ経由かつ限定的にしか取得できなくなったことに対する不満が、騒ぎをより大きくした。
当時JPNICは、組織改組に伴い管理を一元化するとともに、IPアドレス枯渇問題に対応するために、/24などの単位で必要以上に分配されていたIPアドレスを回収するとともに、新規割り当て条件の厳格化をしていた。このIPアドレスの回収に伴って、分配されるIPアドレスの数の減少と回収されるIPアドレスの数の増加による相乗効果で、全体としての分配済みのIPアドレスの増加ペースが落ちているように見えていた。
== APNICとJPNICの見解 ==
APNICおよびJPNICは、以下の見解を公表している<ref>[http://www.apnic.net/publications/news/2011/final-8 APNIC IPv4 Address Pool Reaches Final /8 APNIC]</ref><ref>[http://www.kokatsu.jp/blog/ipv4/news/2011/04/ipv4-1.html 日本におけるIPv4アドレス在庫、枯渇 2011年4月15日 IPアドレス枯渇対応タスクフォース]</ref><ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110415-01.html APNICにおけるIPv4アドレス在庫枯渇のお知らせおよび枯渇後のJPNICにおけるアドレス管理ポリシーのご案内 2011年4月15日 社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター (JPNIC)]</ref>。
* IPv4のIPアドレスの枯渇
** APNICが持つIPv4アドレス在庫が2011年4月15日に/8ブロック換算で1ブロック未満になったため、従来のポリシーによるIPv4アドレスの割り振りは終了した。最後の1ブロックは、新規参入者によるIPv4の利用と、既存ネットワークの安定運用、IPv6への移行のために割り振りを行う。今後の割り振りは、最大「1会員(新規および既存)につき、/22を1ブロック」という非常に限定された割り振りを行う。
* インターネットサービスの継続性
** 新規のIPv4アドレス分配は原則としてできないことを前提に、IPv6の利用を拡大することが唯一の長期的な対策である。
注 : JPNICは、独自にはIPv4アドレスを持たず、APNICからの割り振りを仲介している。そのため、JPNICの管理下におけるIPアドレスの移転を除けば、APNICと同様に、「1会員(新規および既存)につき、/22を1ブロック」という非常に限定された割り振りしかできなくなる。
== IPv6の採用 ==
現在、アドレス空間の桁数を増大させたIPv6が普及しつつある。詳細は[[IPv6]]の項を参照。
しかしながら、移行する方式によって、問題点がいくつかある。なお、IPv6の導入方式は、プロバイダおよびネットワークの接続経路に依存するため、エンドユーザが自由に選択することはできない(一部の例外を除く)。
<!-- [[IPv6]]へ移しました。
=== 設備の追加/変更が必要 ===
:IPv6の導入方法に対応した設備の追加または変更が必要となる。
:エンドユーザ向けのルーターなどのCPEについては、既存のルーターが持っていることが多いIPv6ブリッジ機能だけでは対応できない方式が多く、ルーターの変更が必要になる可能性が高い。
:サーバー側についても、対応した設備の追加または変更が必要となる。[[オペレーティングシステム|OS]]や[[ミドルウェア]](サーバソフト)については、IPv6対応のものが増えてきているので対応が容易である。しかし、サービスを提供するアプリケーションや、コンテンツについては、IPv6対応を考慮していないものが多く、対応が困難である場合がある。
:なお、IPv6とIPv4を共存させる方式として、以下のようなものがある。
==== 6rd方式、および、その派生方式 ====
:[[:en:6rd|6rd]](IPv6 rapid deployment)は、{{IETF RFC|3056}}で標準化されているIPv6/IPv4[[トンネリング]]技術である6to4を土台として設計された方式である。基本的には途中のIPv4空間にIPv6の信号を流すためのトンネルを設定する形である。
:流れとしては'''エンドユーザ(v6)→6rd対応ルータ(v4トンネル入口)→v4網→リレールータ(v4トンネル出口)→v6網''' となる
:導入は比較的容易であり、エンドユーザ側については、設定変更やIPv6の接続用アプリケーションの追加のみで対応できる。しかし、IPv4網内にIPv6信号をトンネリングさせる関係上、各端末にIPv4のグローバルアドレスを割り当てるため、使用するIPv4のIPアドレスの数は減らず、IPv4のIPアドレス枯渇問題を解決することにはならない。ISPが用意しているIPv4のIPアドレスの在庫が枯渇した時点で、新規にユーザを増やすことができなくなる。
:類似の方式としては、{{IETF RFC|4380}}で標準化されているTeredoがある。Teredoについては、Microsoftが、Windowsのユーザ向けに無償提供しているIPv6接続サービスをデフォルトで使用できるようにしていることから、潜在的普及率は高い。ただし、[[Windows Vista]]以降による接続では、ホスト名のアドレス解決においてホストにリンク ローカル アドレスまたは Teredo アドレスしか割り当てられていない場合、DNSクライアントサービスはIPv4用のAレコードに関するクエリだけを送信するためIPv6アドレスが取得できず、URLで直接IPv6アドレスを指定したりしない限り、指定した相手にIPv6で通信することはない<ref>[http://technet.microsoft.com/ja-jp/library/bb727035.aspx Windows Vistaでのドメインネームシステムクライアントの動作]</ref>。
==== IPv6とIPv4のデュアルスタック(DS)+NAT444方式、および、その派生方式 ====
:IPv6については、そのまま接続し、IPv4については複数階層の[[ネットワークアドレス変換|NAPT]](NAT444:([http://tools.ietf.org/html/draft-shirasaki-nat444-isp-shared-addr-04 NAT444 with ISP Shared Address]))を経由する方式である。イメージとしては、現在のルータなどを使った複数端末のIPv4接続で使用しているNAPTを複数回行って、接続に使用するIPv4のIPアドレスを節約しようとするものである。
:IPv4についての流れは'''エンドユーザ(v4プライベート)→ユーザNAPT(v4グローバル共有)→ISPNAPT(v4グローバル単独)→v4網''' となる
:'''複数の端末で、IPv4のグローバルアドレスを共有'''する関係上、端末当たりのセッション数が制限され、アプリケーションが正常に利用できない場合がある。また、プロバイダ側で管理する通信ログの扱いが煩雑であり、負担が大きい。IPv4による通信では、多段NATとなるため、エンドユーザー間でのP2Pによる直接通信は不可能となる。
:導入に関しては、比較的容易である。特に、IPv6ブリッジ機能があるルーターを使用している場合には、エンドユーザ側については、設定変更やIPv6の接続用アプリケーションの追加のみで対応できる場合がある。
==== DS-lite(Dual-stack lite)方式や、SAM([http://tools.ietf.org/html/draft-despres-softwire-sam-01 Stateless Address Mapping])方式、および、それらの派生方式 ====
:IPv4/IPv6トンネリング技術であるIPv4 over IPv6トンネルを土台として設計された方式である。イメージは6rd方式とは逆に、途中のIPv6空間にIPv4の信号を流すためのトンネルを設定しする形である。大雑把には、ユーザ側で行うIPv4のプライベート⇔グローバルアドレス変換をISP側に移し、さらにIPv6も共存させる形になる。
:DS-liteの場合、IPv4についての流れは'''エンドユーザ(v4プライベート)→ユーザ接続装置(v6トンネル入口)→v6網→ISPNAPT(v6トンネル出口・v4グローバル共有変換)→v4網''' となる。
:SAMの場合、IPv4についての流れは'''エンドユーザ(v4プライベート)→ユーザ接続装置(v6トンネル入口・v4グローバル共有変換)→v6網→ISPNAPT(v6トンネル出口)→v4網''' となる。
:v4グローバル共有変換部分で、ユーザ単位で使用可能なポートの範囲の制限することで、IPv4アドレスの共有を行う。NAPTの階層を複数にする代わりに、単段のNAPTを分割使用するイメージになる。そのため、エンドユーザ向けのルーターなどのCPEは既存のものが使用できず、該当する方式に対応したものに変更する必要がある。前記DS+NAT444方式同様、'''複数の端末で、IPv4のグローバルアドレスを共有'''するため、端末当たりのセッション数が制限され、アプリケーションが正常に利用できない場合がある。プロバイダ側で管理する通信ログの扱いが煩雑であり、負担が大きい。しかしながら、IPv4による通信では、NAPTが単段であるため、通信相手に制限があるが、UPnPなどを利用したP2Pによる直接通信は可能になる。
-->
== IPv4アドレス移転制度 ==
休眠中のIPv4アドレスの有効活用を目的として、事業者間のIPv4アドレスの使用権の譲渡に関するポリシーの見直しが行われ、2011年8月1日からIPv4アドレス移転制度を施行した<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/mailmagazine/backnumber/2011/vol869.html JPNIC News & Views vol.869【臨時号、2010年8月1日。]</ref><ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/ip/ipv4transfer-log.html IPv4アドレス移転履歴]</ref>。
JPNICで、実施されている内容は、以下のとおりである。
* 移転できるアドレスの種類
** JPNICが管理するIPv4アドレス
*** IPアドレス管理指定事業者(以下、指定事業者)へ割り振られているPAアドレス(プロバイダ集成可能アドレス)
*** 特殊用途用プロバイダ非依存アドレス(以下、特殊用途用PIアドレス)
*** 歴史的経緯を持つプロバイダ非依存アドレス(以下、歴史的PIアドレス)
* 移転元の資格
** JPNICと契約締結している組織(指定事業者、特殊用途用PIアドレス割り当て先組織、歴史的PIアドレス割り当て先組織)
* 移転先の資格
** JPNICと契約締結している組織、または新たにJPNICと契約予定の組織(JPNICと契約締結していない組織でも、移転手続きと併せて、新たにJPNICと契約締結することにより、移転を受けることができる)
* 移転できるアドレスの最小単位
** /24(/24より小さいサイズのブロックを移転することはできない)
しかしながら、これまでの経緯からすると、日本国内における該当するIPv4アドレスの使用権の保持者は、未使用のIPv4アドレス空間を提供する意思がほとんどない<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No44/1000.html 分配済みIPv4アドレスの再分配の可能性と、それらの使い回しが在庫枯渇時期に与える影響]</ref>。IPv4アドレスが枯渇し、必要になった時に追加取得することが困難になった現在では、この傾向はより強くなっている。JPNICが、2004年から2006年にかけて[[InterNIC]]やJNICから割り振られた歴史的PI (Provider Independent) アドレスの割り振り先組織の明確化を行った際に、既に休眠中のIPv4アドレスの回収を行っている<ref name="名前なし-1"/>。(105組織319,488個のIPv4アドレスを回収)<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2009/20090311-01.html 歴史的PIアドレス割り当て先組織明確化完了のお知らせ]</ref>。その後、日本国内でIPv4アドレスの使用権の保持するためには、JPNICが認定した指定事業者(プロバイダ)から有償で借り受けるのが一般的であり、IPv4アドレスを保持し続けるとコストがかかるようになった。そのため、使用計画のない休眠中のIPv4アドレスは、ほとんどない状態になっている。
JPNICの管轄外からのIPv4アドレスの供給元として、歴史的背景から休眠中のIPv4アドレス空間を多く抱えているARIN(北米地域担当の地域インターネットレジストリ)が期待されるが、ARINは、地域インターネットレジストリ間でのIPv4アドレス空間の移転に否定的であった<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20100108/342994/ ITPro、2010年1月12日。]</ref>。しかし、[[2013年]][[6月3日]]以降は、JPNICだけでなくAPNICやARINの管理下にあるIPv4アドレスも移転可能となり<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2013/20130401-06.html | title=JPNICにおけるIPv4アドレス移転の対象範囲拡張のお知らせ | publisher=JPNIC | date=2013-04-01 | accessdate=2013-04-29}}</ref>、2014年4月30日には世界初のRIR間のIPv4アドレス移転がARIN内の利用者からAPNIC配下のJPNIC管理下の利用者に行われた。
実績としては、IPv4アドレス移転制度が開始された2011年8月1日 - 2012年6月末までの11か月で、移転されたIPアドレスはたった30件しかない。傾向としては資本関係があるグループ企業間の移転か、エンドユーザからそこが利用しているISPやホスティング業者への移転が多い<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/mailmagazine/backnumber/2012/vol986.html | JPNIC News & Views vol.986【臨時号】2012.7.12 ]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[IPアドレス]]
* [[IPv4]]
* [[IPv6]]
* [[ドメイン名]]
* [[キャリアグレードNAT]]
* [[プライベートネットワーク]]
== 関連書籍 ==
* {{Cite book|和書|author=大元隆志|authorlink=大元隆志|year=2009|title=IPv4アドレス枯渇対策とIPv6導入|publisher=リックテレコム社|isbn=978-4-89797-830-7}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nic.ad.jp/timeline/20th/ 日本におけるインターネット資源管理の歴史 | JPNIC]
* [https://www.nic.ad.jp/ja/ip/ipv4pool/ IPv4アドレスの在庫枯渇に関して] - JPNIC
* [https://www.potaroo.net/tools/ipv4/ IPv4 Address Report] {{en icon}}
* [https://www.iana.org/assignments/ipv4-address-space/ipv4-address-space.xhtml IANAによるIPv4アドレス割り当て状況] {{en icon}}
* [http://kokatsu.jp/ IPv4アドレス枯渇対応タスクフォース]
* [https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban04_000022.html ISPのIPv4アドレス在庫枯渇対応に関する情報開示ガイドライン] - 総務省
* [https://www.oecd.org/china/governmentsandbusinessmusttackleinternetaddressshortagetogethersaysoecd.htm IPアドレス枯渇問題への対応,政府と企業の連携が必要] - 経済協力開発機構 (OECD) 2008年5月15日
* [https://www.nic.ad.jp/ja/stat/ip/ IPアドレスに関する統計・各種リスト] - JPNIC
* [https://www.jaipa.or.jp/ipv6/ 「ISPのIPv6対応について」] - インターネットプロバイダー協会(JAIPA)
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[[Category:IPアドレス]]
[[de:IPv6#Gründe für ein neues Internet-Protokoll]] | 2003-02-14T10:06:29Z | 2023-11-21T04:34:40Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/IP%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E6%9E%AF%E6%B8%87%E5%95%8F%E9%A1%8C |
1,581 | ネットスケープコミュニケーションズ | ネットスケープコミュニケーションズ (Netscape Communications Corporation) はジム・クラークとマーク・アンドリーセンらによって設立された、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。1994年4月4日にモザイク・コミュニケーションズ (Mosaic Communications Corporation) として設立され、同年11月14日にネットスケープコミュニケーションズに社名変更した。1998年、AOLによって買収された。 ネットスケープコミュニケーションズは以下に挙げている製品だけでなくJavaScript、RDF/RSS、 SSLといった根幹技術を生み出した企業でもある。
当初、機能に制限を設けたウェブブラウザであるNetscape Navigatorを無料配布し、機能制限のない製品版の購入を促す戦略をとった。事業は成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。この後、World Wide Webの利用が爆発的に拡大した。
このことに触発されたビル・ゲイツはブラウザ開発に本腰を入れ、マイクロソフトはWindows 95の発売と同時にInternet Explorerをリリース。当初は有償のWindows機能拡張セットであるMicrosoft Plus!の一部であったが、後に無償での配布に変更。Windows 95の後継バージョンWindows 98からは標準でInternet Explorerを搭載した。無償であることとWindowsの市場占有率の高さから、自然とInternet Explorerの利用者は増えていった。
ネットスケープコミュニケーションズとマイクロソフトのシェア争いは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。しかしネットスケープはなおも有料販売モデルに固執しユーザーの流出を招くこととなったが、ネットスケープはマイクロソフトに対し不公正な競争であるとの訴訟を起こす。後にこの訴訟は、ネットスケープを買収したAOLとマイクロソフトの訴訟の和解の際、子会社であるネットスケープの訴えも併せて取り下げられた。
1998年1月、ついにNavigator無料化への変更を余儀なくされるが、既にこの時点で多くの利用者をInternet Explorerに奪われていたため、ウェブページもInternet Explorerでの閲覧を優先したものが多くなっていた。その後に新バージョンを出すも欠陥が多く、Windowsとの相性の悪さ、初心者を戸惑わせる複雑な設定項目なども敬遠され、Webブラウザとしての競争力を失った。2011年時点でのNetscapeの利用率は0.1%未満である
1995年に設立された日本法人は2001年をもって解散している。
2002年にNetscape 7を、2005年にNetscape 8をリリースしたが、バージョン8以降英語版以外の公式版はリリースされていない。
Netscape製品は親会社AOLが設立したMozilla Foundationに移行し、開発が続けられている。
Netscape Directory Serverは、世界初の商用LDAPディレクトリサーバである。この製品はミシガン大学のLDAPv1サーバslapdから派生した物であり、設定ファイルの書式など多くの部分でslapdの末孫OpenLDAPとの共通点を見いだす事ができる。LDAPv2への対応はNetscape社独自の実装によって対応している。この製品は現在、サン・マイクロシステムズがNetscape社から権利を買い、現在はSun Java System Directory ServerとしてLDAPv3対応サーバとして提供されている。日本ではソフトバンク、NTTドコモ等が採用するなど大規模ディレクトリシステムにおける業界標準となっている。またNetscape社が留保した権利を含む事業はレッドハットが買収し、389 Directory ServerおよびRed Hat Directory Serverとして提供されている。
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| ネットスケープコミュニケーションズ はジム・クラークとマーク・アンドリーセンらによって設立された、かつて存在したアメリカ合衆国の企業である。1994年4月4日にモザイク・コミュニケーションズ として設立され、同年11月14日にネットスケープコミュニケーションズに社名変更した。1998年、AOLによって買収された。 ネットスケープコミュニケーションズは以下に挙げている製品だけでなくJavaScript、RDF/RSS、 SSLといった根幹技術を生み出した企業でもある。 | {{Infobox company
| name = Netscape
| logo = Netscape logo.svg
| type = [[子会社]]
| foundation = {{Start date and age|1994|04|04}}<br>[[カリフォルニア州]] [[マウンテンビュー]]
| founders = [[マーク・アンドリーセン]]<br>[[ジェームズ・クラーク (事業家)|ジェームズ・クラーク]]
| hq_location_city = {{USA}}<br>[[バージニア州]] ダレス
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| key_people = ジム・バークスデール ([[最高経営責任者|CEO]])
| products = [[インターネットスイート]]<br>[[ウェブブラウザ]]<br>[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]<br>[[ポータルサイト]]
| num_employees = 2,500 (2002年)<ref>[https://www.cnet.com/tech/services-and-software/aol-meeting-to-address-netscape-integration/ "AOL meeting to address Netscape integration"]. Cnet News. 1999年3月23日。2021年12月29日閲覧。</ref>
| parent = [[AOL]]
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}}
'''ネットスケープコミュニケーションズ''' (Netscape Communications Corporation) は[[ジェームズ・クラーク (事業家)|ジム・クラーク]]と[[マーク・アンドリーセン]]らによって設立された、かつて存在した[[アメリカ合衆国]]の企業である。[[1994年]][[4月4日]]に'''モザイク・コミュニケーションズ''' (Mosaic Communications Corporation) として設立され、同年[[11月14日]]にネットスケープコミュニケーションズに社名変更した<ref>[http://www.holgermetzger.de/netscape/NetscapeCommunicationsNewsRelease.htm Mosaic Communications changes name to "Netscape Communications Corporation"]</ref>。[[1998年]]、[[AOL]]によって買収された<ref>{{Cite web|和書|date=1998-11-25 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/981125/aol.htm |title=AOL、Netscapeを42億ドルで買収。Sunと業務提携 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-31}}</ref>。ネットスケープコミュニケーションズは以下に挙げている製品だけでなく[[JavaScript]]、[[Resource Description Framework|RDF]]/[[RSS]]、[[Transport Layer Security|SSL]]といった根幹技術を生み出した企業でもある。
==製品==
===Netscape Navigator===
当初、機能に制限を設けた[[ウェブブラウザ]]である[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]を無料配布し、機能制限のない製品版の購入を促す戦略をとった。事業は成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。この後、[[World Wide Web]]の利用が爆発的に拡大した。
このことに触発された[[ビル・ゲイツ]]はブラウザ開発に本腰を入れ、[[マイクロソフト]]は[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の発売と同時に[[Internet Explorer]]をリリース。当初は有償のWindows機能拡張セットである[[Microsoft Plus!]]の一部であったが、後に無償での配布に変更。Windows 95の後継バージョン[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]からは標準でInternet Explorerを搭載した。無償であることとWindowsの市場占有率の高さから、自然とInternet Explorerの利用者は増えていった。
ネットスケープコミュニケーションズとマイクロソフトのシェア争いは[[ブラウザ戦争|第一次ブラウザ戦争]]と呼ばれた。しかしネットスケープはなおも有料販売モデルに固執しユーザーの<!-- 離反 -->流出を招くこととなったが、ネットスケープはマイクロソフトに対し不公正な競争であるとの訴訟を起こす。後にこの訴訟は、ネットスケープを買収した[[AOL]]とマイクロソフトの訴訟の和解の際、子会社であるネットスケープの訴えも併せて取り下げられた。
1998年1月、ついにNavigator無料化への変更<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980123/freenn.htm ネットスケープ社が「Netscape Navigator」の無償配布開始]</ref>を余儀なくされるが、既にこの時点で多くの利用者をInternet Explorerに奪われていたため、ウェブページもInternet Explorerでの閲覧を優先したものが多くなっていた。その後に新バージョンを出すも欠陥が多く、Windowsとの相性の悪さ、初心者を戸惑わせる複雑な設定項目なども敬遠され、Webブラウザとしての競争力を失った。[[2011年]]時点でのNetscapeの利用率は0.1%未満である<ref>[[:en:Usage share of web browsers#Net Applications (2004 Q4 to present)]]<!-- 内の Global usage share data from: Net Applications で 0.03% --></ref>
1995年に設立された日本法人は2001年をもって解散している。
2002年にNetscape 7を、2005年にNetscape 8をリリースしたが、バージョン8以降英語版以外の公式版はリリースされていない。
Netscape製品は親会社AOLが設立した[[Mozilla Foundation]]に移行し、開発が続けられている。
===Netscape Communicator===
{{節スタブ}}
===Directory Server===
Netscape Directory Serverは、世界初の[[Lightweight Directory Access Protocol|商用LDAPディレクトリサーバ]]である。この製品は[[ミシガン大学]]のLDAPv1サーバslapdから派生した物であり、設定ファイルの書式など多くの部分でslapdの末孫[[OpenLDAP]]との共通点を見いだす事ができる。LDAPv2への対応はNetscape社独自の実装によって対応している。この製品は現在、[[サン・マイクロシステムズ]]がNetscape社から権利を買い、現在は[[Sun Java System Directory Server]]としてLDAPv3対応サーバとして提供されている。日本では[[ソフトバンク]]、[[NTTドコモ]]等が採用するなど大規模ディレクトリシステムにおける業界標準となっている。またNetscape社が留保した権利を含む事業は[[レッドハット]]が買収し、[[389 Directory Server]]および[[Red Hat Directory Server]]として提供されている。
===SuiteSpot===
{{節スタブ}}
===Information Management===
{{節スタブ}}
===Messaging & Collaboration===
{{節スタブ}}
===Administration & Security Infrastructure===
{{節スタブ}}
===SuiteSpot Hosting Edition===
{{節スタブ}}
===Netscape Application Server===
企業向けに発売されたWebアプリケーションサーバである。
===Netscape Enterprise Server===
{{節スタブ}}
===Netscape Communications Server===
{{節スタブ}}
===Netscape Commerce Server===
{{節スタブ}}
===Netscape FastTrack Server===
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)]]
* [[Netscapeシリーズ]]
* [[Mozilla]]
* [[Mozilla Application Suite]]
* [[Mozilla Firefox]]
* [[Open Directory Project]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20040203205347/http://wp.netscape.com/demos/japanese/newsref/pr/newsrelease18.html Netscape Communications 日本支社設立]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ねつとすけえふこみゆにけえしよんす}}
{{Netscape プロジェクト}}
[[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のソフトウェア会社]]
[[Category:インターネットの歴史]]
[[Category:Netscape]]
[[Category:1999年の合併と買収]] | 2003-02-14T10:08:48Z | 2023-12-05T16:16:53Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten",
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"Template:脚注ヘルプ"
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1,582 | FMR | []
| 強磁性共鳴 - FMR : Ferromagnetic Resonance
FMRシリーズ - 富士通が販売していた独自仕様のビジネス向けパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ名 | {{aimai}}
* [[強磁性共鳴]] - FMR : Ferromagnetic Resonance
* [[FMRシリーズ]] - 富士通が販売していた独自仕様のビジネス向けパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ名
[[Category:アクロニム]] | null | 2016-10-01T08:29:38Z | true | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/FMR |
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1,584 | FMRシリーズ | FMRシリーズ(エフエムアールシリーズ) は、富士通が販売していた独自仕様のビジネス向けパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ名である。
1987年2月に発売開始。同社が販売していたFM-16βの後継機にあたり、富士通のビジネス向けパソコンの主力を担った。複数のパーテーションへ異なるOSをインストールでき、マルチブートも可能であり、又、SCSI接続したHDD間の任意のパーテーションの複製を簡単に行う事ができた。
1993年にDOS/Vを採用したPC/AT互換機、FMVシリーズが登場してラインナップの縮小が始まり、1995年にWindows 95が出るまで(最終機種は1998年4月発売のFMR-280A4/L4・FMR-250L4)販売された。
アーキテクチャはFM-16βから引き続きx86系CPUを採用し、オペレーティングシステム(OS)はMS-DOS系を標準採用。MS-DOSのメモリ空間は他機種の640KBより若干多い768KBを連続して確保できた(前機種FM-16βは当初CP/M-86を標準OSとしたため、ソフトウェアの品揃えに恵まれなかった。その後MS-DOSも発売されている)。
他にOS/2、Microsoft Windows 3.xなどが動作した(FMR-280にはWindows 95も移植された)。
同社のワープロ専用機、OASYSシリーズで実績のあるかな漢字変換機能「OAK」を全シリーズで採用。ソフトウェア開発支援を行うなどラインナップの充実を図り、ビジネス向けの国産16ビットパソコンとしては健闘した。最終的に日本電気 (NEC) のPC-9800シリーズの地位を揺るがすほどではなかったものの、「イコールNEC」のイメージが強い日本の官公庁、特に国公立の教育機関に一定のシェアを確保していた(教育市場向けのモデルも発売されていた)。また同社大型汎用機やスーパーコンピュータの端末(F6680互換エミュレータ端末)としてかなりの数が納品された。また、今は無きチケットセゾンでは店頭設置端末として使われていた。その他の使用例として、全銀協プロトコル対応のファームバンキング端末やファミリーコンピュータの開発機としても使用されていた。
松下電器のPanacom Mシリーズは本機のOEM。
1992年から1994年にかけて、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なるEISAバス対応のPC/AT互換アーキテチャが採用されたPCサーバ機種が販売され、FMRの冠が付けられた。
各シリーズ間の互換性はハードウェアではなくOSのシステムコール(FBIOS)によって吸収できるようになっていた。一部機種については松下電器(現パナソニック)へOEMされた。
液晶ディスプレイ一体型の省スペースデスクトップの系列。
640×400ドット モノクロ2階調の表示性能を基本とする。
FMR-30BX以降はキーボードの一体化収納が可能な構造となり、キャリングハンドル(移動用の取っ手)が付いていたが、デスクからデスクへの移動といった目的のためのものでありバッテリー駆動が可能な機種は存在しない。
640×400ドットのグラフィック表示機能を持つ、FMRシリーズの中核となる系列。
当初のデスクトップから、ラップトップ機やノート機、派生形である超軽量ノートFMR-CARD系が発売されたほか、コンシューマー市場向けのマルチメディアパソコンFM TOWNSシリーズもテキストVRAM等をソフトウェアでエミュレーションするという形で本系列との互換性を持っていた。
ノートブック型の台頭により比較的短命であったが、デスクトップ型FMRシリーズより小型化された拡張カード規格は、ノートブック機のI/O拡張ユニットや、汎用拡張スロットを持つFM TOWNSシリーズにも継承された(FM TOWNSでは純正オプションの「LTカード接続アダプタ」経由)。
液晶ディスプレイ一体型の省スペース・可搬型デスクトップ機で、液晶ディスプレイ前面にキーボードの収納が可能な箱形筐体を持つ。拡張カード類はラップトップ機と共通。
同時期の他社のノートブックパソコンではフロッピーディスクドライブ(FDD)1機とFDD互換のRAMディスクによる2ドライブ運用が一般的であったが、本系列ではそれに加えてICカードスロットも装備しており、ROMカードによって供給されるアプリケーションソフトを使用すれば、フロッピーディスク2台で運用しにくい大規模なアプリケーションソフトでも実用的に使用することができた。JISと親指シフトキーボードの2タイプあり、本体内蔵で後から取り替えは出来ない。
1120×750ドットのグラフィック解像度を持つハイレゾリューション機の系列。
文字キャラクターが24×24ドットで構成されるため、当時は24ドット機とも呼ばれた。
そのままではFMR-50系との互換性を持たないが、オプションの16ドット表示カードを搭載する事によりFMR-50系列との互換性を持つことができるようになっていた。
FMR-50系列がCPUが変更されてもシリーズ名を踏襲していたのと対照的に、本系列では基本アーキテクチャは同一ながらもCPUが80386,80486と変更される度にFMR-60→70→80とシリーズ名が変更された。
質量990g、厚さ26.5mm、単3乾電池2本での長時間駆動を実現したA4ジャストサイズのノートPCで、80C286を搭載するMS-DOS機として当時としては画期的であった。基本的にFMR-50系と互換がある。
磁気記録メディアは内蔵されていないが、MS-DOSや漢字変換辞書といった基本動作に必要なソフトウェアは本体のROMに搭載されていた。加えて、小容量ながら不揮発性RAMディスク領域があり、本体のみで漢字変換の学習内容なども保持することが可能。
外部記憶媒体としてはJEIDA Ver.4準拠のICカードスロットを2機搭載しており、FM-OASYS、MS-Works(統合オフィスソフト)、MS Quick BASIC・MS Quick C(統合開発環境)、ジャストシステム シンフォニー(統合オフィスソフト)、Lotus 1-2-3+4word(表計算)などの主要アプリケーションソフトが同規格のROMカードで提供された。書き換え可能な媒体としては同規格のSRAMカードに対応。フラッシュメモリーには対応していない。
グラフィックス表示機能に関しては、FMR-50シリーズが4096色中16色表示が可能であるのに対し本系列はVRAMを1プレーン分しか持たず、性能上はモノクロ2階調表示だが、BIOS等でハードウェアの差異を吸収することによってFMR-50シリーズとのソフトウェア互換性を実現していた。内蔵ディスプレイは反射型STN液晶で、FMR-50シリーズと同じく解像度は640×400ドット。
インターフェース類はICカードスロット2機とRS-232C 1ポート、拡張I/O 1ポート、DC入力のみだが、拡張装置として、FMR-50LT系のオプションカードを使用できる拡張ボックス(据え置き型)、DSLINK(イーサネット)アダプター、2MB増設メモリー、モデム、増設電池ボックス(以上外付け一体型)等が用意され、可搬性は損なうものの、通常のパソコンとしての利用にも充分な機能の拡張が可能であった。
FMR-50系列に、Windows対応強化としてグラフィックアクセラレーターを搭載した系列。
FMR-250系同様、FMR-60/70/80系列にグラフィックアクセラレーターを搭載した系列。
FMRシリーズの中では異質だが、1992年から1994年にかけて、PC/AT互換機のPCサーバがFMRシリーズとして販売された。ただし、最後にリリースされたFM-360SVには"R"がついていない。このことから、サーバのシリーズ全体をFMサーバシリーズと呼ぶこともある。 このシリーズは1996年にGRANPOWER 5000シリーズに統合された。
1992年7月に、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なる32ビットEISAバス対応のPC/AT互換アーキテチャが採用されたPCサーバとしてFMR-340SVが発表された。 業界標準を意識し、OS/2 LAN Manager、Novell NetWareといったネットワークOSを使えるようにした。CPUは486SX/486DX。富士通のMシリーズ/Kシリーズと通信するための通信カードもEISAバスに装着可能。1993年11月には後続のFMR-360SVシリーズも発表された。
1994年6月にFMR-340SV、FMR-360SVの後継として発表。CPUには486DX2、Pentiumを採用、メモリ容量増大(最大384MB)、ECCメモリとRAIDの採用、無停止電源装置の提供が特徴。OSはWindows NT。 | [
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| FMRシリーズ(エフエムアールシリーズ) は、富士通が販売していた独自仕様のビジネス向けパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ名である。 | {{出典の明記|date=2009年10月}}
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'''FMRシリーズ'''(エフエムアールシリーズ) は、[[富士通]]が販売していた独自仕様のビジネス向け[[パーソナルコンピューター]](パソコン)のシリーズ名である。
== 概要 ==
[[1987年]]2月に発売開始<ref name="start:">{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0020.html|title=【富士通】 FM Rシリーズ|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2021-04-02}}</ref>。同社が販売していた[[FM-16β]]の後継機にあたり、富士通のビジネス向けパソコンの主力を担った。複数のパーテーションへ異なるOSをインストールでき、マルチブートも可能であり、又、SCSI接続したHDD間の任意のパーテーションの複製を簡単に行う事ができた。
[[1993年]]に[[DOS/V]]を採用した[[PC/AT互換機]]、[[FMV]]シリーズが登場してラインナップの縮小が始まり、[[1995年]]に[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]が出るまで(最終機種は1998年4月発売の[https://web.archive.org/web/20080220021551/http://www.fmworld.net/biz/fmv/product/former/rdt9804/index.html FMR-280A4/L4・FMR-250L4])販売された<ref name="final:">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180107172503/https://www.fmworld.net/biz/fmv/product/former/fmr.html|url=https://www.fmworld.net/biz/fmv/product/former/fmr.html|title=今までに発表した製品 FMRシリーズ|publisher=FMVWorld|archivedate=2018-01-07|accessdate=2021-04-02}}</ref>。
[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]はFM-16βから引き続き[[x86]]系[[CPU]]を採用し、[[オペレーティングシステム]](OS)は[[MS-DOS]]系を標準採用。MS-DOSのメモリ空間は他機種の640KBより若干多い768KBを連続して確保できた(前機種FM-16βは当初[[CP/M-86]]を標準OSとしたため、ソフトウェアの品揃えに恵まれなかった。その後[[MS-DOS]]も発売されている)。
他に[[OS/2]]、[[Microsoft Windows 3.x]]などが動作した(FMR-280には[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]も移植された)。
同社の[[ワープロ専用機]]、[[OASYS]]シリーズで実績のあるかな漢字変換機能「[[Japanist|OAK]]」を全シリーズで採用。ソフトウェア開発支援を行うなどラインナップの充実を図り、ビジネス向けの国産[[16ビット]]パソコンとしては健闘した。最終的に[[日本電気]] (NEC) の[[PC-9800シリーズ]]の地位を揺るがすほどではなかったものの、「イコールNEC」のイメージが強い日本の官公庁、特に国公立の教育機関に一定のシェアを確保していた(教育市場向けのモデルも発売されていた)。また同社大型[[メインフレーム|汎用機]]や[[スーパーコンピュータ]]の端末(F6680互換エミュレータ端末)としてかなりの数が納品された。また、今は無き[[チケットセゾン]]では店頭設置端末として使われていた。その他の使用例として、全銀協プロトコル対応のファームバンキング端末や[[ファミリーコンピュータ]]の開発機としても使用されていた。
[[パナソニック|松下電器]]の[[Panacom]] Mシリーズは本機の[[OEM]]。
[[1992年]]から[[1994年]]にかけて、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なる[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]バス対応のPC/AT互換アーキテチャが採用された[[PCサーバ]]機種が販売され、FMRの冠が付けられた<ref name="PCSV340:">{{Cite web|和書|url=https://museum.ipsj.or.jp/computer/pc/0001.html|title=【富士通】 FUJITSU FMR-340SV|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2021-04-02}}</ref><ref name="PCSV360:">{{Cite web|和書|url=https://museum.ipsj.or.jp/computer/pc/0002.html|title=【富士通】 FUJITSU FM-360SVシリーズ|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2021-04-02}}</ref><ref>[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902181975812886 新FMRシリーズのラインアップ 「FMR-280シリーズ」「FMR-360SVシリーズ」「FMR-50NL/T」]資料名: 富士通ジャーナル (Fujitsu Journal)号: 211 ページ: 30-31 発行年: 1993年12月JST資料番号: L0535A ISSN: 0911-8969</ref>。
== シリーズ ==
各シリーズ間の互換性はハードウェアではなくOSの[[システムコール]](FBIOS)によって吸収できるようになっていた。一部機種については松下電器(現パナソニック)へOEMされた。
=== FMR-30系 ===
液晶ディスプレイ一体型の省スペースデスクトップの系列。
640×400ドット モノクロ2階調の表示性能を基本とする。
FMR-30BX以降はキーボードの一体化収納が可能な構造となり、キャリングハンドル(移動用の取っ手)が付いていたが、デスクからデスクへの移動といった目的のためのものでありバッテリー駆動が可能な機種は存在しない。
==== 機種 ====
* FMR-30FD/HD
* FMR-50FD/HD、FMR-60FD/HDと同時に発表されたFMR-30系の最初の機種グループ。
** 逆T字型の液晶一体型の筐体にワイヤレスキーボードという独特なスタイルで登場した。
** 本体にタッチパネル機能を持ったサブディスプレイを内蔵可能(オプション)。
** CPUは8086のCMOS版である80C86。
* 逆T字型の筐体は斬新ではあったが、キーボードを含めると設置面積の点であまり省スペースとは言えず、次モデル以降は箱形の筐体となった。
* FMR-30BX
** 筐体は、液晶前面部にキーボードを収納可能な「トランスポータブル」と呼ばれる箱形。
** FMR-30FD/HDで逆T字形の土台部にあったサブディスプレイ搭載機能は廃止された。
** FDDモデルのみで、ハードディスクの内蔵は不可能。
** CPUはFMR-30FD/HD同様、80C86。
* FMR-30HX
** FMR-30BXと同様のキーボード収納可能な箱形の筐体で、本体上部にカラー熱転写プリンタ(FMPR-204W)を一体化して搭載することが可能。
** ハードディスクの内蔵が不可能であったFMR-30BXに対して、本モデルはハードディスク内蔵モデルのみのラインナップとなった。
** このモデルより、CPUが80286相当の80C286となった。
** 液晶画面がバックライト内蔵の白色液晶となり、視認性が大幅に向上した。
=== FMR-50系 ===
640×400ドットのグラフィック表示機能を持つ、FMRシリーズの中核となる系列。
当初のデスクトップから、ラップトップ機やノート機、派生形である超軽量ノートFMR-CARD系が発売されたほか、コンシューマー市場向けのマルチメディアパソコン[[FM TOWNS]]シリーズもテキストVRAM等をソフトウェアでエミュレーションするという形で本系列との互換性を持っていた。
==== デスクトップ機 ====
* FMR-50FD/HD
*: FMR-30FD/HD、FMR-60FD/HDと共に発表された、FMR-50/250系列の初代機種。
*:* FDはフロッピーディスクのみ搭載、HDはハードディスクを搭載したモデル。
*:* CPUは80286 8MHz。
* FMR-50FX/HX
*: CPUが80286 12MHzに高速化されたモデル。
* FMR-50SFX/SHX/SIIFX/SIIHX
*: SのCPUは80286 8MHz、SIIはi386SX 16MHz。
* FMR-50HE
*: CPUにi386SX 16MHzを搭載。
* FMR-50HE2/3
*: CPUにi386SX 20MHzを搭載。
==== ラップトップ機 ====
ノートブック型の台頭により比較的短命であったが、デスクトップ型FMRシリーズより小型化された拡張カード規格は、ノートブック機のI/O拡張ユニットや、汎用拡張スロットを持つ[[FM TOWNS]]シリーズにも継承された(FM TOWNSでは純正オプションの「LTカード接続アダプタ」経由)。
* FMR-50LT
*: 単色16階調表示プラズマディスプレイ採用したラップトップ機。CPUは[[Intel_80286|80286]](8MHz)。標準で1MB(MAX 3MB)のRAM搭載。本体内に拡張スロットを2つ持つ。3.5インチFDD(1MB)x2のLT2とFDDx1+20MBHDDのLT5、各々JISと親指シフトのキーボードA,Bタイプあり。
==== トランスポータブル機 ====
液晶ディスプレイ一体型の省スペース・可搬型デスクトップ機で、液晶ディスプレイ前面にキーボードの収納が可能な箱形筐体を持つ。拡張カード類はラップトップ機と共通。
* FMR-50TX
==== ノートブック機 ====
同時期の他社のノートブックパソコンではフロッピーディスクドライブ(FDD)1機とFDD互換のRAMディスクによる2ドライブ運用が一般的であったが、本系列ではそれに加えてICカードスロットも装備しており、ROMカードによって供給されるアプリケーションソフトを使用すれば、フロッピーディスク2台で運用しにくい大規模なアプリケーションソフトでも実用的に使用することができた。JISと親指シフトキーボードの2タイプあり、本体内蔵で後から取り替えは出来ない。
* FMR-50NB1
*: FMRシリーズ初のノートパソコン。CPUは[[Intel_80286|80C286]](8MHz)。A4ファイルサイズで2.5kg。標準で2MB(MAX 4MB)搭載(RAMディスク分1.25MBを含)。16階調FLバックライト付液晶。
* FMR-50NBX
*: CPUは[[Intel_80386#80386SX|i386SX(16MHz)]]。メモリーは標準2MB搭載。ハードディスクドライブ(20MB)を搭載。拡張メモリースロット、ICメモリーカードスロット装備。
* FMR-50NB2/NBX2
*: CPUは80C286(12MHz)/i386SX(20MHz)。標準で2MB(MAX 10MB)搭載(RAMディスク分1.25MBを含)。特徴として専用拡張スロットが2つあり(1つは増設バッテリ専用)、最大で標準x1+増設x2のバッテリ搭載可能。NB2はFDDx1のみ、NBX2はFDDx1,FDDx1+40MHDD,FDDx1+60MBHDDの3タイプで、HDDは専用パック形式で脱着可能で共通。
* FMR-50NL
* FMR-50NE
* FMR-50NE/T
* FMR-50CARD
*: FDDとHDDを搭載しながらも他のノートブックシリーズより大幅に薄い28mmの薄さを実現した。主に開発を担当したのは松下電器であったと言われており、同社のPanacom Mシリーズとしても同等機種が発売された。
*: CPUはi386SX(16MHz)。標準で2MB(MAX 10MB)搭載(RAMディスク分1.25MBを含)。ICカードがJEIDA Ver.4準拠になる。FDDx1とFDDx1+40MBHDDの2タイプ。HDDは専用パック形式で脱着可能。
=== FMR-60/70/80系 ===
1120×750ドットのグラフィック解像度を持つハイレゾリューション機の系列。
文字キャラクターが24×24ドットで構成されるため、当時は24ドット機とも呼ばれた。
そのままではFMR-50系との互換性を持たないが、オプションの16ドット表示カードを搭載する事によりFMR-50系列との互換性を持つことができるようになっていた。
FMR-50系列がCPUが変更されてもシリーズ名を踏襲していたのと対照的に、本系列では基本アーキテクチャは同一ながらもCPUが80386,80486と変更される度にFMR-60→70→80とシリーズ名が変更された。
==== 機種 ====
* FMR-60FD/HD
*: FMR-50FD/HD、FMR-30FD/HDと共に発表された、FMR-60/70/80/280系列の初代機種。
*:* CPUは80286 8MHz。
* FMR-60FX/HX
*:* CPUが80286-12MHzに高速化された。
* FMR-60HE
*:* CPUに80386SX-16MHzを搭載。
*:* この世代より、この系列にはFDDのみ搭載のモデルは用意されなくなった。
* FMR-60HE2/3
*:* CPUに80386SX-20MHzを搭載。
*:* HE2とHE3の違いは内蔵HDDの容量による(HE2 40MB、HE3 120MB)。
* FMR-70HD
*: FMRシリーズとして初めてCPUに32bitの80386を搭載した。
*:* CPUは80386DX-16MHz。
*:* ハードディスク搭載モデルのみでFDモデルは用意されなかった。また、FMR-50系列との互換性確保のための16ドット表示カードには非対応となった。
* FMR-70HX
** 特にFMR-70HX3においては、当時のマルチウィンドウ、かつ[[プリエンプティブ・マルチタスク]]OSである富士通 日本語MS [[OS/2]] (1989年7月時点でVer.1.0)の動作を想定したスペックであることが商品カタログでは強調されており、OS/2専用キー配列に対応したキーボードも選択可能とされていた。
** FMR-70HX2S(FDD3.5インチモデル)のみ70HXシリーズでの最新機種として追加されていた。
{| class="wikitable mw-collapsible"
|+FMR-70HXシリーズ ハードウェア仕様一覧(富士通 商品カタログより一部抜粋 1989年11月)
! colspan="2" |機種
!FMR-70HX1
model 20
!FMR-70HX1
model 40
!FMR-70HX2S
model 40
!FMR-70HX2S
model 75
!FMR-70HX2
model 40
!FMR-70HX2
model 75
!FMR-70HX3
model 85
!FMR-70HX3
model 170
|-
| colspan="2" |型名
|FMR70HX1M2
|FMR70HX1M4
|FMR70HX2S4
|FMR70HX2S7
|FMR70HX2M4
|FMR70HX2M7
|FMR70HX3M8
|FMR70HX3A7
|-
| colspan="2" |CPU
| colspan="2" |386 (16MHz)
| colspan="4" |386 (20MHz)
| colspan="2" |386 (25MHz 0 Wait※)
※但し、リード時はキャッシュヒット時
|-
| colspan="2" |数値演算プロセッサ
| colspan="8" |387(オプション)
|-
| colspan="2" |ROM
| colspan="8" |16KB
|-
| colspan="2" |キャッシュメモリ
| colspan="6" |ー
| colspan="2" |32KB
|-
| rowspan="4" |R
A
M
|メインRAM
| colspan="6" |標準2MB 最大16MB
| colspan="2" |標準4MB 最大16MB
|-
|グラフィックVRAM
| colspan="8" |512KB
|-
|漢字VRAM
| colspan="8" |4KB
|-
|テキストVRAM
| colspan="8" |4KB
|-
| colspan="2" |キャラクタ表示
| colspan="8" |表示文字数:2000文字
|-
| colspan="2" |グラフィックス表示
| colspan="8" |1120×750ドット、色指定は4096色中16色
|-
| colspan="2" |日本語表示
| colspan="8" |40桁×25行(24ドット×24ドット)、(FM-OASYSでは46桁表示)
|-
| colspan="2" |漢字ROM
| colspan="8" |JIS第一水準 / JIS第二水準 、JIS非漢字 、ユーザ登録188種
|-
| rowspan="2" |補助記憶
装置
|フロッピィ
| colspan="2" |5インチ2ドライブ(1MB/640KB兼用型)
| colspan="2" |3.5インチ2ドライブ(1MB/640KB兼用型)
| colspan="4" |5インチ2ドライブ(1MB/640KB兼用型)
|-
|ハードディスク
|20MB
|40MB
|40MB
|75MB
|40MB
|75MB
|85MB
|170MB
|-
| colspan="2" |キーボード
| colspan="8" |①JISキーボード ②JISキーボード(エミュレータ対応)③親指シフトキーボード ④親指シフトキーボード(エミュレータ対応)
以上より選択。
|-
| rowspan="5" |標準
I/M
|CRT
| colspan="8" |カラー内臓(アナログRGBセパレート)、白黒内臓(アナログセパレート)
|-
|RS-232C
| colspan="8" |1ポート
|-
|プリンタ
| colspan="8" |1ポート(セントロニクス準拠)
|-
|SCSI
| colspan="8" |1ポート
|-
|FDD
| colspan="2" |1ポート(8/5/3.5 各インチ増設可能)
| colspan="2" |1ポート(5/3.5 各インチ増設可能)
| colspan="4" |1ポート(8/5/3.5 各インチ増設可能)
|-
| colspan="2" |拡張スロット
| colspan="5" |I/O用:3スロット、メモリ専用:2スロット
| colspan="3" |I/O用:4スロット、メモリ専用:2スロット
|-
| colspan="2" |マウスインターフェイス
| colspan="8" |キーボードに内臓
|-
| colspan="2" |サービスコンセント
| colspan="8" |2個(プラグは3P) 主電源と連動
|-
| colspan="2" |外形寸法(mm)
| colspan="8" |470(W)×385(D)×125(H)(背面カバー装着時は本体奥行=470mm)
|-
| colspan="2" |重量
| colspan="6" |約14kg
| colspan="2" |約18kg
|-
| colspan="2" |消費電力
| colspan="6" |約70W(最大100W)
| colspan="2" |約180W
|}
* FMR-70HL
*:* CPUに80386DX-20MHzを搭載。
* FMR-70HL2/3
* FMR-80
*: FMRシリーズとして初めてCPUに80486を搭載した。基本アーキテクチャはFMR-70と変わらない。
* FMR-80HL
*:* CPUにi486SX-25MHzを搭載。
* FMR80HL2/3
*:* CPUにi486DX2-50MHzを搭載。
*:* HL2/3の違いは内蔵HDDの容量。
<gallery>
FMR-80HL3 (front) 2013-02-08.JPG|FMR-80HL3の正面
FMR-80HL3 (rear) 2013-02-08.JPG|FMR-80HL3の背面
FMR-80HL3 keyboard 2013-02-08.JPG|FMR-80HL3のキーボード
</gallery>
=== FMR-CARD系 ===
質量990g、厚さ26.5mm、単3乾電池2本での長時間駆動を実現したA4ジャストサイズのノートPCで、[[Intel 80286|80C286]]を搭載するMS-DOS機として当時としては画期的であった。基本的にFMR-50系と互換がある。
磁気記録メディアは内蔵されていないが、MS-DOSや漢字変換辞書といった基本動作に必要なソフトウェアは本体のROMに搭載されていた。加えて、小容量ながら不揮発性RAMディスク領域があり、本体のみで漢字変換の学習内容なども保持することが可能。
外部記憶媒体としてはJEIDA Ver.4準拠のICカードスロットを2機搭載しており、FM-OASYS、MS-Works(統合オフィスソフト)、MS Quick BASIC・MS Quick C(統合開発環境)、ジャストシステム シンフォニー(統合オフィスソフト)、Lotus 1-2-3+4word(表計算)などの主要アプリケーションソフトが同規格のROMカードで提供された。書き換え可能な媒体としては同規格のSRAMカードに対応。フラッシュメモリーには対応していない。
グラフィックス表示機能に関しては、FMR-50シリーズが4096色中16色表示が可能であるのに対し本系列はVRAMを1プレーン分しか持たず、性能上はモノクロ2階調表示だが、BIOS等でハードウェアの差異を吸収することによってFMR-50シリーズとのソフトウェア互換性を実現していた。内蔵ディスプレイは反射型STN液晶で、FMR-50シリーズと同じく解像度は640×400ドット。
インターフェース類はICカードスロット2機と[[RS-232C]] 1ポート、拡張I/O 1ポート、DC入力のみだが、拡張装置として、FMR-50LT系のオプションカードを使用できる拡張ボックス(据え置き型)、DSLINK([[イーサネット]])アダプター、2MB増設メモリー、モデム、増設電池ボックス(以上外付け一体型)等が用意され、可搬性は損なうものの、通常のパソコンとしての利用にも充分な機能の拡張が可能であった。
==== 機種 ====
* FMR-CARD
*: 上述の通りCPUは[[Intel 80286|80C286]]で、動作クロックは8MHzと4MHzで切り替え可能。内蔵RAMディスクは640KB。
*: 本系列は単3形乾電池2本で約8時間の稼働が可能であるが、RS-232Cポート使用時は電源電圧(乾電池駆動時3.0V)からRS-232Cレベルに昇圧する必要があるため、駆動時間が約4時間と半減するという制約がある。
*: 内部で本体基板と液晶ディスプレイを接続しているフレキシブルケーブルが断線するという故障が頻発し、対策部品への無償での回収修理が実施された。
*: 本体ROMに不具合があり、対策品への交換修理が実施された。ROMは本体底面から着脱可能なモジュールとなっているため、希望すれば、対策版のROMモジュールを郵送で受け取りユーザー自身で交換するという方法での対策も可能であった。
* FMR-CARD/E
*: FMR-CARDの改良機。FMR-CARDと外寸や形状、質量はほぼ同一であるが、主に下記の点が改良・強化された。
*:* 本体RAMの増加(標準1MB、最大3MB)
*:* RS-232C使用時のバッテリー駆動時間の延長
*:* フラッシュメモリーカードのサポート(ただし、書き込みには外付FDDのサポートユーティリティが必要)
=== FMR-250系 ===
FMR-50系列に、Windows対応強化としてグラフィックアクセラレーターを搭載した系列<ref name="199605:"/>。
==== 機種 ====
* FMR-250L
* FMR-250L2
* FMR-250L3
* FMR-250L4
=== FMR-280系 ===
FMR-250系同様、FMR-60/70/80系列にグラフィックアクセラレーターを搭載した系列<ref name="199605:">{{Cite web|和書|url=https://pr.fujitsu.com/jp/news/1996/May/23-2.html|title=『FMR-280/250 シリーズ』4機種14モデルを新発売|publisher=富士通|date=1996-05-23|accessdate=2021-04-02}}</ref>。
==== 機種 ====
* FMR-280H
* FMR-280H2
* FMR-280M
* FMR-280E
* FMR-280L
* FMR-280L2
* FMR-280L3
* FMR-280L4
* FMR-280P
* FMR-280P2
* FMR-280P3
* FMR-280P4
* FMR-280A
* FMR-280A2
* FMR-280A3
* FMR-280A4
== FMサーバ ==
FMRシリーズの中では異質だが、1992年から1994年にかけて、PC/AT互換機の[[PCサーバ]]がFMRシリーズとして販売された。ただし、最後にリリースされたFM-360SVには"R"がついていない。このことから、サーバのシリーズ全体を'''FMサーバ'''シリーズと呼ぶこともある<ref name="fmserver_gp5000eos"/>。
このシリーズは[[1996年]]に[[GRANPOWER]] 5000シリーズに統合された。
===FMR-340SV/FMR-360SV===
{{Infobox information appliance
| name = FMR-340SV
| logo =
| image =
| caption = <!-- include if image is not a logo -->
| developer = [[富士通]]
| manufacturer =
| carrier =
| family =
| type = [[PCサーバ]]
| generation =
| releasedate = {{Start date and age|1992|07}}
| lifespan =
| price = <!-- this is price at initial release, not the current price. -->
| discontinued = {{Start date and age|1993|10}}<ref name="fmserver_gp5000eos">{{Cite web|和書|url=https://jp.fujitsu.com/platform/server/primergy/support/terminate/pdf/fmserver_gp5000.pdf|title= FMサーバ/GRANPOWER5000製品の販売終息と保守サポート終了情報|publisher=富士通|accessdate=2021-04-02}}</ref>
| unitssold =
| unitsshipped =
| media =
| os = OS/2 Lan Manager、Novell NetWare<!-- operating system -->
| power =
| cpu = 486SX/486DX
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| input =
| location = <!-- GPS or Wi-Fi based -->
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| dimensions =
| weight =
| topgame =
| compatibility =
| predecessor =
| successor = FMR-360SV
| related =
| website =
}}
[[1992年]]7月に、それまでの富士通のFMRシリーズとは異なる32ビット[[Extended Industry Standard Architecture|EISAバス]]対応のPC/AT互換アーキテチャが採用されたPCサーバとしてFMR-340SVが発表された<ref name="PCSV340:"/>。
業界標準を意識し、[[OS/2]] [[LAN Manager]]、[[Novell NetWare]]といったネットワークOSを使えるようにした。CPUは486SX/486DX。富士通の[[FACOM Mシリーズ|Mシリーズ]]/[[FACOM Kシリーズ|Kシリーズ]]と通信するための通信カードもEISAバスに装着可能。[[1993年]]11月には後続のFMR-360SVシリーズも発表された<ref name="PCSV360:"/>。
====機種====
* FMR-340SV モデル20
* FMR-340SV モデル30
===FM-360SV===
{{Infobox information appliance
| name = FM-360SV
| logo =
| image =
| caption = <!-- include if image is not a logo -->
| developer = [[富士通]]
| manufacturer =
| carrier =
| family =
| type = [[PCサーバ]]
| generation =
| releasedate = {{Start date and age|1994|06}}
| lifespan =
| price = <!-- this is price at initial release, not the current price. -->
| discontinued = {{Start date and age|1995|06}}<ref name="fmserver_gp5000eos"/>
| unitssold =
| unitsshipped =
| media =
| os = [[Windows NT]]<!-- operating system -->
| power =
| cpu = 486DX2, Pentium
| storage =
| memory =
| display =
| graphics =
| sound =
| input =
| location = <!-- GPS or Wi-Fi based -->
| controllers =
| output =
| camera =
| touchpad =
| connectivity =
| service = <!-- online service/s offered -->
| dimensions =
| weight =
| topgame =
| compatibility =
| predecessor =
| successor = [[GRANPOWER]] 5000
| related =
| website =
}}
[[1994年]]6月にFMR-340SV、FMR-360SVの後継として発表。CPUには486DX2、Pentiumを採用、メモリ容量増大(最大384MB)、[[ECCメモリ]]と[[RAID]]の採用、無停止電源装置の提供が特徴。OSは[[Windows NT]]<ref name="PCSV360:"/>。
====機種====
* FM-360SVII モデル566E
* FM-360SV モデル466E
* FM-360SV モデル566E
* FM-360SV モデル599E
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[FM TOWNS]]
== 外部リンク ==
* [http://takeda-toshiya.my.coocan.jp/fmr50/index.html eFMR-50 FMR-50 emulator]
{{Computer-stub}}
{{富士通のパーソナルコンピュータ}}
{{富士通}}
[[Category:富士通のパーソナルコンピュータ]]
[[Category:富士通の歴史]] | 2003-02-14T10:16:54Z | 2023-09-26T07:37:12Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記",
"Template:Infobox information appliance",
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"Template:富士通のパーソナルコンピュータ"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/FMR%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA |
1,588 | 1979年 | 1979年(1979 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和54年。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 | [
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| 1979年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和54年。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1979年の日本}}
{{年代ナビ|1979}}
{{YearInTopic
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1978
| 年 = 1979
}}
{{year-definition|1979}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[己未]](つちのと ひつじ)
* 日本(月日は一致)
** [[昭和]]54年
** [[皇紀]]2639年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]68年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]68年
* [[仏滅紀元]]:2521年 - 2522年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1399年2月1日 - 1400年2月11日
* [[ユダヤ暦]]:5739年4月2日 - 5740年4月11日
* Unix Time:283996800 - 315532799
* [[修正ユリウス日]](MJD):43874 - 44238
* [[リリウス日]](LD):144715 - 145079
<div style="font-size:smaller;">
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1979}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[国際児童年]]
* [[1月1日]]
** [[アメリカ合衆国]] と[[中華民国]]国交断絶
** [[アメリカ合衆国]]と[[中華人民共和国]]が国交樹立。
* [[1月16日]]
** [[イラン]]の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]][[国王]]がエジプトなどへ[[亡命]]。
** [[クイーン (バンド)|クイーン]]が[[ドント・ストップ・ミー・ナウ]]を発売。
* [[1月28日]] -[[鄧小平]]が、米中国交樹立をうけ、同28日から2月5日にかけて{{仮リンク|鄧小平のアメリカ合衆国訪問|label=訪米|en|Visit by Deng Xiaoping to the United States}}。首都ワシントンで大統領[[ジミー・カーター]]との会談後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどを訪問。最先端の航空・宇宙産業、自動車産業、通信技術産業を視察した。
* [[1月30日]] - [[ヴァリグ・ブラジル航空967便遭難事故]]。
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - [[イラン革命]]。
* [[2月17日]] - [[カンボジア]]をめぐる対立から[[中越戦争]]が勃発。
=== 3月 ===
* [[3月16日]] - 中国軍がベトナムの領土から撤退し、[[中越戦争]]が終了。
* [[3月26日]] - [[エジプト]]と[[イスラエル]]が[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で[[エジプト・イスラエル平和条約]]に調印。
* [[3月28日]] - アメリカの[[スリーマイル島原子力発電所事故|スリーマイル島原子力発電所で放射能漏れ事故]]。
=== 4月 ===
* [[4月10日]] - [[台湾関係法]]が制定される。
* [[4月25日]] - [[アメリカ台湾協防司令部]]廃止と[[在台米軍]]撤退。
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[デンマーク]]領[[グリーンランド]]に自治政府が発足。
* [[5月4日]] - [[イギリス]]、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の党首[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]が首相に就任([[先進国]]初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]])。
* [[5月19日]] - [[フォード・モーター|フォード]]が[[マツダ|東洋工業]]へ資本参加を決定。
*[[5月25日]] - [[アメリカン航空191便墜落事故]]
=== 6月 ===
* [[6月7日]]-[[6月10日|10日]] - [[1979年欧州議会議員選挙|欧州議会議員選挙]]の投票が実施され、[[欧州議会]]初の直接選挙が行われる。
* [[6月18日]] - [[ウィーン]]での米ソ[[首脳会談]]で、SALTII([[第二次戦略兵器制限交渉|第二次戦略兵器制限条約]])が調印される。
* [[6月28日]] - [[第5回先進国首脳会議]](東京サミット)開催。
* [[6月30日]] - [[梅雨前線]]による豪雨で西日本から東北地方にかけて被害。死者・行方不明者27人、負傷者27人<ref>豪雨、新幹線止める 行橋では一万戸浸水『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月1日朝刊 3版 23面</ref>。
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[ソニー]]がヘッドホンステレオ「[[ウォークマン]]」を発売。
* [[7月12日]]
** [[キリバス]]が独立。
** [[ディスコ・デモリッション・ナイト]]
* [[7月16日]] - [[イラク]]、[[バアス党]]の[[サッダーム・フセイン]]がイラク大統領に就任。
* [[7月20日]] - [[ジュネーヴ]]で「インドシナ難民問題国際会議」開催。
=== 8月 ===
=== 9月 ===
* [[9月7日]] - アメリカのスポーツ[[専門チャンネル]]・[[ESPN]]が開局。
* [[9月20日]] - [[中央アフリカ帝国]]にて[[フランス]]軍による無血[[クーデター]]により帝政が崩壊。
* [[9月22日]] - アメリカの[[人工衛星]]「[[ヴェラ (人工衛星)|ヴェラ・ホテル6911]]」が[[プリンス・エドワード諸島]]付近で「二重の閃光」を探知([[ヴェラ事件]])。
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[アメリカ合衆国の海外領土]]であった[[パナマ運河地帯]]が廃止され、[[パナマ]]に施政権を返還。
* [[10月7日]] - 元[[大韓民国中央情報部|韓国中央情報部]](KCIA)部長の[[金炯旭]]、フランス・パリで失踪。
* [[10月26日]]
** [[天然痘]]が根絶と[[世界保健機関|WHO]]が宣言。
** [[大韓民国|韓国]]の[[朴正煕]]大統領暗殺。
=== 11月 ===
* [[11月4日]] - [[イランアメリカ大使館人質事件]]。
* [[11月18日]] - 第1回[[東京国際女子マラソン]]が開催される([[国際陸上競技連盟]]初公認の女子マラソン)。
* [[11月20日]] - [[アル=ハラム・モスク占拠事件]]。
=== 12月 ===
* [[12月12日]]
** 韓国で[[粛軍クーデター]]、[[全斗煥]]少将が軍の実権を掌握。
** [[日本国有鉄道|国鉄]]の[[リニアモーターカー]]が[[リニア実験線#宮崎実験線|宮崎実験線]]において時速504キロを達成(世界初の時速500キロ超え)。
* [[12月24日]] - [[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻]]。
* [[映画のレイティングシステム|一般映画制限付(現・R-15)]]が導入される。
* [[ビャーネ・ストロヴストルップ]]が汎用プログラミング言語の[[C++]]を開発。
== 芸術・文化 ==
=== 音楽 ===
{{Main|1979年の音楽}}
* [[シック]] 「グッド・タイムズ」「愛してほしい」「おしゃれフリーク」
* [[スモーキー・ロビンソン]] 「[[クルージン (スモーキー・ロビンソン)|クルージン]]」
* [[イアン・デューリー]] 「リーズン・トゥ・ビー・チアフル」
* ドクター・フック 「すてきな娘に出会ったら」「めぐり合う夜」
* [[ハーブ・アルパート]] 「ライズ」
* [[ブームタウン・ラッツ]] 「哀愁のマンデイ」
=== 映画 ===
{{Main|1979年の映画}}
* 『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』
* 『[[地獄の黙示録]]』
* 『[[007 ムーンレイカー]]』 [英]
* 『[[マッドマックス]]』
=== 文学 ===
* [[ベストセラー]]
** エズラ・F. ヴォーゲル『[[ジャパン・アズ・ナンバーワン]]』
== スポーツ ==
{{Main|1979年のスポーツ}}
* [[モータースポーツ]]
** [[フォーミュラ1|F1世界選手権]]
** ドライバーズチャンピオン [[ジョディ・シェクター]]
** コンストラクターズチャンピオン [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]
* [[ロードレース世界選手権]]
** 500cc [[ケニー・ロバーツ]]
* [[世界最強タッグ決定リーグ戦]]優勝[[ドリー・ファンク・ジュニア]]&[[テリー・ファンク]](ザ・ファンクス)組(1回目)
== 誕生 ==
{{see also|Category:1979年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* 1月1日 - [[堂本光一]]、KinKi Kids
* 1月2日 - [[ミチェル・アブレイユ]]、[[プロ野球選手]]
* [[1月3日]] - [[田中理恵 (声優)|田中理恵]]、声優
* [[1月3日]] - [[ベリッシモ・フランチェスコ]]、[[料理研究家]]、[[タレント]]
* [[1月7日]] - [[本名陽子]]、声優
* 1月3日 - [[マイケル・レストビッチ]]、プロ野球選手
* 1月8日 - [[アドリアン・ムトゥ]]、[[サッカー選手]]
* [[1月13日]] - [[ヴィタリー・ノビコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1月14日]] - [[アンジェラ・リンドヴァル]]、[[ファッションモデル]]
* 1月14日 - [[ヴィレ・ヴァンニ]]、音楽家、外科医
* [[1月15日]] - [[趙全勝]]、野球選手
* 1月15日 - [[アレクセイ・ソコロフ]]、フィギュアスケート選手
* 1月15日 - [[ドリュー・ブリーズ]]、アメリカンフットボール選手
* [[1月16日]] - [[アリーヤ]]、歌手(+ [[2001年]])
* 1月16日 - [[セシリー・V・Z]]、[[小説家]]
* 1月16日 - [[ジャック・カスト]]、元メジャーリーガー
* 1月18日 - [[アナスタシア・グレベンキナ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1月18日 - [[ジェイ・チョウ]]、歌手
* 1月18日 - [[ワンディ・ロドリゲス]]、メジャーリーガー
* [[1月19日]] - [[孫英傑]]、[[陸上競技]]選手
* 1月19日 - [[金炳賢]]、[[メジャーリーガー]]
* 1月19日 - [[パウロ・フェレイラ]]、サッカー選手
* 1月20日 - [[オクサナ・ポトディコワ]]、フィギュアスケート選手
* 1月21日 - [[イヌル・ダラティスタ]]、歌手
* [[1月22日]] - [[林威助]]、プロ野球選手
* 1月22日 - [[カルロス・ルイーズ (野球)|カルロス・ルイーズ]]、メジャーリーガー
* [[1月26日]] - [[樹元オリエ]]、声優
* 1月26日 - [[山田和樹]]、指揮者
* [[1月29日]] - [[ランス・ニークロ]]、[[メジャーリーガー]]
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - [[スタニスラフ・モロゾフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 2月6日 - [[デビッド・ロランディーニ]]、[[野球選手]]
* [[2月7日]] - [[石毛佐和]]、声優
* [[2月7日]] - [[ジョン・レスター (右投手)|ジョン・レスター]]、[[プロ野球選手]]
* 2月9日 - [[イリーナ・スルツカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 2月9日 - [[章子怡|チャン・ツィイー]]、中国の[[俳優|女優]]
* [[2月11日]] - [[ミチェル・エンリケス]]、野球選手
* 2月11日 - [[ブランディ]]、歌手
* [[2月13日]] - [[ミーナ・スヴァーリ]]、女優
<!--* 2月13日 - [[アンネシュ・ベーリング・ブレイビク]]、[[ノルウェー連続テロ事件]]の犯人-->
* [[2月16日]] - [[バレンティーノ・ロッシ]]、[[ロードレース世界選手権|MotoGP]]ライダー
* [[2月17日]] - [[ジョシュ・ウィリンガム]]、メジャーリーガー
* [[2月19日]] - [[呂建剛]]、プロ野球選手
* 2月20日 - [[黄龍義]]、野球選手
* [[2月21日]] - [[ジェニファー・ラブ・ヒューイット]]、女優
* 2月23日 - [[クリス・アギーラ]]、プロ野球選手
* [[2月26日]] - [[ゴー・タイン・ヴァン]]、歌手、モデル、女優
* [[2月27日]] - [[myco]]、歌手
=== 3月 ===
* [[3月2日]] - [[ダミアン・ダフ]]、サッカー選手
* 3月2日 - [[セルゲイ・ダヴィドフ (フィギュアスケート選手)|セルゲイ・ダヴィドフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 3月3日 - [[ホルヘ・フリオ]]、元メジャーリーガー
* 3月3日 - [[流石矢一]]、俳優
* [[3月4日]] - [[ヴィアチェスラフ・マラフェエフ]]、サッカー選手
* 3月6日 - [[ティム・ハワード]]、サッカー選手
* [[3月11日]] - [[エルトン・ブランド]]、バスケットボール選手
* 3月12日 - [[デーブ・ウィリアムス]]、プロ野球選手
* 3月12日 - [[李惠踐]]、野球選手
* 3月13日 - [[ヨハン・サンタナ]]、メジャーリーガー
* 3月14日 - [[ニコラ・アネルカ]]、サッカー選手
* 3月14日 - [[サンティーノ・マレラ]]、プロレスラー
* [[3月15日]] - [[ケビン・ユーキリス]]、元メジャーリーガー
* 3月16日 - [[崔煕渉]]、プロ野球選手
* 3月16日 - [[Taku Goto]]、ミュージシャン([[FREEASY BEATS]])
* [[3月18日]] - [[アダム・レヴィーン]]、ミュージシャン([[マルーン5]])
* [[3月19日]] - [[ヒド・ターコルー]]、バスケットボール選手
* [[3月23日]] - [[マーク・バーリー]]、メジャーリーガー
* 3月23日 - [[姜暢雄]]、俳優
* 3月26日 - [[ジェイ・ショーン]]、歌手
* [[3月30日]] - [[ノラ・ジョーンズ]]、[[ジャズ]]歌手・[[ピアニスト]]
* 3月30日 - [[ティエリー・ジョルジュ]]、[[オリエンテーリング選手]]
=== 4月 ===
* [[4月1日]] - [[ジア・ルイス=スモールウッド]]、陸上競技選手
* [[4月2日]] - [[エジナウド・バチスタ・リバノ|グラフィッチ]]、サッカー選手
* 4月4日 - [[ヒース・レジャー]]、俳優(+ [[2008年]])
* 4月4日 - [[チャールズ・バトラー (フィギュアスケート選手)|チャールズ・バトラー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 4月5日 - [[ティモ・ヒルデブラント]]、サッカー選手
* 4月5日 - [[ベン・フェレイラ]]、フィギュアスケート選手
* 4月6日 - [[中村エミ]]、元女優
* 4月7日 - [[エイドリアン・ベルトレ]]、[[メジャーリーガー]]
* [[4月8日]] - [[ジェレミー・ガスリー]]、メジャーリーガー
* 4月8日 - [[アレキシ・ライホ]]、ミュージシャン
* 4月10日 - [[堂本剛]]、KinKi Kids
* [[4月12日]] - [[マテヤ・ケジュマン]]、元サッカー選手
* 4月12日 - [[クレア・デインズ]]、女優
* [[4月13日]] - [[バロン・デイビス]]、バスケットボール選手
* [[4月18日]] - [[アンソニー・デビッドソン]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* 4月18日 - [[コートニー・カーダシアン]]、[[ソーシャライト]]、[[タレント]]
* [[4月19日]] - [[ケイト・ハドソン]]、女優
* 4月19日 - [[ホルヘ・ピエドラ]]、メジャーリーガー
* [[4月21日]] - [[朴龍澤]]、野球選手
* [[4月23日]] - [[カルロス・シルバ]]、元メジャーリーガー
* [[4月26日]] - [[ヤンネ・ウィルマン]]、ミュージシャン
* [[4月27日]] - [[クリスチャン・ベロア]]、元プロ野球選手
* [[4月28日]] - [[ショーン・ダグラス]]、元プロ野球選手
* 4月28日 - [[李成江]]、[[フィギュアスケート]]選手
=== 5月 ===
* [[5月4日]] - [[ランス・バス]]、俳優・歌手
* [[5月9日]] - [[ブランドン・ウェブ]]、元メジャーリーガー
* [[5月9日]] - [[ロザリオ・ドーソン]]、アメリカの女優
* 5月10日 - [[トニー・アルバレス]]、元メジャーリーガー
* [[5月16日]] - [[ラスマス・フェイバー]]、ミュージシャン
* 5月19日 - [[アンドレア・ピルロ]]、サッカー選手
* 5月19日 - [[ディエゴ・フォルラン]]、サッカー選手
* [[5月20日]] - [[クリストフ・ルメール]]、騎手
* 5月20日 - [[ジェイソン・ワース]]、メジャーリーガー
* 5月23日 - [[ヤニ・ステファノヴィック]]、ヘヴィメタル・ミュージシャン
* 5月24日 - [[トレイシー・マグレディ]]、バスケットボール選手
* 5月25日 - [[ジョニー・ウィルキンソン]]、ラグビー選手
* 5月26日 - [[メメット・オカー]]、バスケットボール選手
* [[5月30日]] - [[釘宮理恵]]、声優
=== 6月 ===
* 6月5日 - [[ピート・ウェンツ]]、ミュージシャン([[フォール・アウト・ボーイ]])
* 6月7日 - [[チェイス・ランビン]]、プロ野球選手
* 6月8日 - [[ピート・オーア]]、メジャーリーガー
* [[6月10日]] - [[ビクトル・モレノ]]、メキシカンリーガー
* [[6月11日]] - [[李運飛]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 6月12日 - [[キム・ヨンスク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 6月12日 - [[ディエゴ・ミリート]]、サッカー選手
* [[6月13日]] - [[ジャスティン・キング]]、ギタリスト
* [[6月18日]] - [[小林由美子]]、声優
* 6月20日 - [[シドニー・ボーゲル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 6月21日 - [[クリス・プラット]]、俳優
* 6月22日 - [[ブラッド・ホープ]]、メジャーリーガー
* 6月23日 - [[ラダニアン・トムリンソン]]、アメリカンフットボール選手
* [[6月25日]] - [[シルヴァナ・ティリンツォーニ]]、[[カーリング]]選手
* 6月26日 - [[ルイス・ゴンザレス (内野手)|ルイス・ゴンザレス]]、プロ野球選手
* 6月26日 - [[アウデス・デ・レオン]]、元マイナーリーガー
* [[6月30日]] - [[吉村民]]、タレント
=== 7月 ===
* 7月5日 - [[ダビッド・ビスバル]]、歌手
* [[7月10日]] - [[韓盛治]]、ミュージカル俳優
* 7月11日 - [[ソ・ミンジョン|徐敏貞]]、韓国 の 女優
* 7月13日 - [[ルシンダ・ルー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 7月14日 - [[セルゲイ・イグナシェヴィッチ]]、サッカー選手
* 7月14日 - [[ロビン・ゾルコーヴィ]]、フィギュアスケート選手
* 7月15日 - [[アレクサンダー・フライ]]、サッカー選手
* [[7月18日]] - [[ヤスカ・ラーチカイネン]]、ミュージシャン
* [[7月21日]] - [[デビッド・カー (アメリカンフットボール)|デビッド・カー]]、元[[アメリカンフットボール]]選手
* [[7月22日]] - [[ヤデル・マルティ]]、プロ野球選手
* 7月23日 - [[池添謙一]]、[[騎手]]
* [[7月24日]] - [[ホセ・バルベルデ]]、メジャーリーガー
* 7月24日 - [[ライアン・スパイアー]]、プロ野球選手
* 7月26日 - [[デレク・パラヴィチーニ]]、[[ピアニスト]]
* 7月31日 - [[J.J.ファーマニアック]]、プロ野球選手
* 7月31日 - [[アンディ・バンヘッケン]]、プロ野球選手
=== 8月 ===
* 8月1日 - [[郭政新]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 8月2日 - [[コルビー・ルイス]]、[[メジャーリーガー]]
* 8月8日 - [[ラシャード・ルイス]]、バスケットボール選手
* 8月10日 - [[ダン・ジョンソン]]、プロ野球選手
* 8月10日 - [[ブランドン・ライオン]]、メジャーリーガー
* 8月10日 - [[堀向彦輝]]、ミュージシャン
* [[8月12日]] - [[D.J.ホールトン]]、プロ野球選手
* [[8月15日]] - [[佟健]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[8月16日]] - [[グリゴリー・ペトロフスキー]]、フィギュアスケート選手
* [[8月17日]] - [[青木崇]]、声優
* 8月19日 - [[ニーロ・セヴァネン]]、音楽家
* [[8月20日]] - [[フランクリン・グラセスキー]]、元プロ野球選手
* [[8月21日]] - [[キンバリー・スチュワート]]、ファッションモデル
* [[8月24日]] - [[:zh:蕭亞軒|蕭亞軒]](エルヴァ・シャオ)、[[台湾]]の歌手
* 8月24日 - [[マイケル・レッド]]、バスケットボール選手
* 8月24日 - [[トート・ゾルターン]]、フィギュアスケート選手
* [[8月29日]] - [[エド・ロジャース]]、元メジャーリーガー
=== 9月 ===
* [[9月3日]] - [[ジュリオ・セザル・ソアレス・エスピンドラ|ジュリオ・セーザル]]、サッカー選手
* [[9月5日]] - [[ライアン・スピルボーグス]]、プロ野球選手
* [[9月8日]] - [[椿理沙]]、声優
* 9月8日 - [[ピンク (歌手)|ピンク]]、ミュージシャン
* 9月8日 - [[ヒオルビス・ドゥベルヘル]]、[[野球選手]]
* 9月11日 - [[アリアナ・リチャーズ]]、アメリカの女優
* 9月11日 - [[フランク・フランシスコ]]、[[メジャーリーガー]]
* 9月11日 - [[エリック・アビダル]]、サッカー選手
* 9月11日 - [[ダビド・ピサーロ]]、サッカー選手
* [[9月12日]] - [[増田裕司]]、声優
* 9月14日 - [[イヴィツァ・オリッチ]]、サッカー選手
* 9月15日 - [[エドナ・キプラガト]]、マラソン選手
* 9月16日 - [[フロー・ライダー]]、ラッパー
* [[9月20日]] - [[さかいゆう]]、 [[シンガーソングライター]]
* [[9月21日]] - [[リチャード・ダン]]、サッカー選手
* 9月24日 - [[ファビオ・アウレリオ・ロドリゲス]]、サッカー選手
* 9月24日 - [[ケイシー・ジョンソン]]、[[ソーシャライト]]
* 9月25日 - [[ミケーレ・スカルポーニ]]、[[ロードレース (自転車競技)]]選手(+ [[2017年]]<ref>[http://www.cyclowired.jp/news/node/229879 ミケーレ・スカルポーニ事故死 トレーニング中にトラックと正面衝突] - cyclowired 2017/04/22 - 17:38</ref>)
* 9月26日 - [[ユレンデル・デキャスター]]、メジャーリーガー
* 9月26日 - [[リカルド・パルマ]]、元マイナーリーガー
* 9月29日 - [[シェリー・ダンカン]]、メジャーリーガー
* 9月30日 - [[アンディ・ファン・デル・メイデ]]、元サッカー選手
=== 10月 ===
* 10月4日 - [[レイチェル・リー・クック]]、女優
* 10月10日 - [[ノルベルト・ゴンサレス]]、野球選手
* 10月14日 - [[デュアネル・サンチェス]]、元メジャーリーガー
* 10月15日 - [[ポール・ロビンソン (1979年生のサッカー選手)|ポール・ロビンソン]]、サッカー選手
* 10月16日 - [[カルロス・ムニョス]]、マイナーリーガー
* [[10月17日]] - [[キミ・ライコネン]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* 10月18日 - [[ニーヨ]]、R&Bシンガーソングライター、音楽プロデューサー
* 10月18日 - [[ヤロスラフ・ドロブニー (サッカー選手)|ヤロスラフ・ドロブニー]]、サッカー選手
* [[10月20日]] - [[ポール・アンソニー・テレック]]、アメリカの陸上競技選手
* 10月22日 - [[イヴ・シャロム]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[10月25日]] - [[片山智彦]]、NHKアナウンサー
* [[10月28日]] - [[ボビー・クレイマー]]、プロ野球選手
* [[10月31日]] - [[ショーン・ウィルツ]]、フィギュアスケート選手
* 10月31日 - [[シモーネ・パストゥシャク]]、フィギュアスケート選手
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[榎本温子]]、声優
* 11月1日 - [[ココ・クリスプ]]、[[メジャーリーガー]]
* 11月3日 - [[パブロ・アイマール]]、サッカー選手
* [[11月5日]] - [[ルディ・レジェス]]、野球選手
* 11月6日 - [[ラマー・オドム]]、バスケットボール選手
* 11月6日 - [[アダム・ラローシュ]]、メジャーリーガー
* [[11月7日]] - [[フアン・ブリトー]]、元メジャーリーガー
* [[11月8日]] - [[ブランドン・フォーサイス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 11月8日 - [[エレーナ・イワノワ]]、フィギュアスケート選手
* 11月8日 - [[アーロン・ヒューズ]]、サッカー選手([[北アイルランド]])
* 11月9日 - [[アダム・ダン]]、メジャーリーガー
* [[11月11日]] - [[バーバロ・カニザレス]]、プロ野球選手
* 11月13日 - [[ジェラルド・レアード]]、メジャーリーガー
* 11月13日 - [[ロン・アーテスト]]、バスケットボール選手
* [[11月19日]] - [[ライアン・ハワード]]、メジャーリーガー
* 11月19日 - [[ダブルネーム]]・ジョー、ものまね芸人
* [[11月21日]] - [[ヴィンチェンツォ・イアクインタ]]、サッカー選手
* [[11月26日]] - [[遠藤大輔]]、声優
* 11月27日 - [[曾豪駒]]、野球選手
* 11月27日 - [[ヒラリー・ハーン]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 11月28日 - [[マイク・シュルツ]]、プロ野球選手
=== 12月 ===
* [[12月6日]] - [[ティム・ケーヒル]]、サッカー選手
* [[12月7日]] - [[ライアン・テリオ]]、メジャーリーガー
* [[12月10日]] - [[サラ・モーテンセン]]、女優
* [[12月11日]] - [[マッシモ・スカリ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[12月12日]] - [[ジョン・サーモンズ]]、バスケットボール選手
* [[12月13日]] - [[タナカ・アイコ]]、[[アダルトモデル]]
* [[12月14日]] - [[マイケル・オーウェン]]、サッカー選手
* [[12月16日]] - [[トレバー・イメルマン]]、ゴルファー
* 12月16日 - [[ジョン・フーバー]]、[[プロレスラー]] (+ [[2020年]])
* [[12月17日]] - [[ドミトリー・パラマルチュク]]、フィギュアスケート選手
* [[12月18日]] - [[蔡相秉]]、前 [[KBOリーグ|韓国プロ野球]]選手
* [[12月20日]] - [[デビッド・デヘスース]]、メジャーリーガー
* [[12月21日]] - [[UVERworld|TAKUYA∞]]、歌手
* [[12月24日]] - [[ジョー・バレンタイン]]、元プロ野球選手
* 12月24日 - [[龐清]]、フィギュアスケート選手
* [[12月26日]] - [[J.C.ボスカン]]、メジャーリーガー
* [[12月28日]] - [[ジェームズ・ブレーク (テニス選手)|ジェームズ・ブレーク]]、テニス選手
* 12月28日 - [[ビル・ホール]]、元メジャーリーガー
== 死去 ==
{{See|訃報 1979年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[シェルドン・グラショウ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[スティーヴン・ワインバーグ]](アメリカ)、[[アブドゥッサラーム]]([[パキスタン]])
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ハーバート・ブラウン]](アメリカ)、[[ゲオルク・ヴィッティヒ]]([[ドイツ]])
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アラン・コーマック]](アメリカ)、[[ゴッドフリー・ハウンズフィールド]]([[イギリス]])
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[オデッセアス・エリティス]]([[ギリシア]])
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[マザー・テレサ]]([[インド]])
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[アーサー・ルイス]](イギリス)、[[セオドア・シュルツ]](アメリカ)
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1979|date=2011年7月}}
* [[3月]] - [[野比のび太]]、大学入試に失敗。(漫画『[[ドラえもん]]』第1話)
* [[6月]] - ジェームズ・ハーウッド・ガーナー博士率いる15名の探検隊が乗るアメリカの宇宙船が、[[6月10日|10日]]に[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|インヨカーン|en|Inyokern, California}}から打ち上げられ、[[6月15日|15日]]に[[月の裏|月の裏側]]に着陸。アメリカによる月の裏側の領有を宣言し、1年11か月に渡る[[月探査|月世界探検]]を開始する。(小説『[[月は地獄だ!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョン・W・キャンベル|authorlink=ジョン・W・キャンベル |title = 月は地獄だ! |publisher = [[早川書房]] |year = 1977 |pages = 8,9 |isbn = 978-4-15-010226-5}}</ref>
* [[8月]] - 先行した米ソの探検隊が相次いで遭難する中、末田博士以下11名の月世界探検隊・日本隊の探検船「オーロラ号」が北海道のロケット基地から打ち上げられ、月面[[晴れの海|晴の海]]東部に着陸。その後、晴の海東方の大[[クレバス|裂溝]]に棲息する[[嫌気性生物|嫌気性]]の[[鉄バクテリア]]と接触する。(小説『[[宇宙年代記|晴の海一九七九年]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 光瀬龍|authorlink=光瀬龍 |title = 宇宙年代記1 宇宙救助隊二一八〇年 |publisher = 早川書房 |year = 1975 |pages = 73-95 |isbn = 978-4-15-030058-6}}</ref>
* 宇宙探検家ゴーハム・ジョンソンを隊長とする探検隊が初めて[[金星]]と[[水星]]を探検し、その過程で[[金星人]]および水星人と友好的に接触する。(小説『[[キャプテン・フューチャー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author=エドモンド・ハミルトン|authorlink=エドモンド・ハミルトン |title = キャプテン・フューチャー全集1 恐怖の宇宙帝王/暗黒星大接近! |publisher = [[東京創元社]] |year = 2004 |pages = 561,571 |isbn = 978-4-488-63711-8}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = エドモンド・ハミルトン |title = キャプテン・フューチャー全集3 太陽系七つの秘宝/謎の宇宙船強奪団 |publisher = 東京創元社 |year = 2004 |page = 480 |isbn = 978-4-488-63713-2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = エドモンド・ハミルトン |title = キャプテン・フューチャー全集4 透明惑星危機一髪!/時のロスト・ワールド |publisher = 東京創元社 |year = 2004 |pages = 485,486 |isbn = 978-4-488-63714-9}}</ref>
* スカロスが過去に戻って自身の宇宙船の爆発を防ごうと動く。そのため時間の流れに異常が生じる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1979}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
{{デフォルトソート:1979ねん}}
[[Category:1979年|*]] | 2003-02-14T10:48:44Z | 2023-10-30T00:33:27Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/1979%E5%B9%B4 |
1,590 | クーロンズゲート | 『KOWLOON'S GATE クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-』は、1997年2月28日にソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) (SME)が発売したアドベンチャーゲーム。
九龍城砦をモデルとした「九龍城(クーロンじょう)」が舞台のアドベンチャーゲーム。この世と対なす別世界「陰界」から突如出現した九龍城の風水を正し、世界の崩壊を防ぐことを命じられた「超級風水師」を主人公とする。キャッチコピーは「常識は、今のうちに捨てておいてください。」。
PlayStation初期タイトルとして、PS発売以前からプロモーションムービー等が公開されていたものの、開発の遅れによって発表から発売までに4年以上の歳月を費やした。
2010年4月14日から2013年4月10日の間、PSP/PS3用ゲームアーカイブスとしてPlayStation Storeで配信。2015年9月16日よりPlayStation Vitaに対応したほか、初回版のブックレット(デジタル版)が付属して再配信されている。
2017年10月26日には、ジェットマンから本作の前日譚にあたるPlayStation VR専用ソフト『クーロンズゲートVR Suzaku』が発売され、2018年10月2日にはOculus Go版『クーロンズゲートVR Suzaku』が発売された。
2019年11月10日には次世代版続編『クーロンズリゾーム』の製作が発表された。
本作の主要メンバーは後に有限会社「是空」を立ち上げ独立した(現在は解散)。
まだ中国に返還される前の1997年5月の香港。主人公は香港最高風水会議の超級風水師である。物語は、既に存在しない九龍城が姿を現したことを発端とする。
現世である「陽界」とは表裏一体の世界「陰界」が存在する。この九龍城は陰界のものであり、それが突如として陽界に出現したのだ。どうやら原因は、陰界において四神獣の見立てが行われていないことにあるという。そのため気脈の流れが乱れ、最も邪気に歪んだ九龍城が陽界に姿を現してしまった。陰と陽が不用意に交わるようなことがあると、世界の存在自体が意味を失って消滅しかねない。5月22日、主人公は陰界に風水を起こすべく、九龍城の入り口となる龍城路へと送り込まれた。
ただでさえ陽界とは価値観や法則の異なる陰界で、しかも最も歪んでいる九龍城では常識などまるで役に立たない。主人公は九龍城にて奇妙にして奇怪な人々、出来事の数々に見舞われる。龍城路の奥の胡同で鏡屋を救出した主人公は、「九龍フロントに行ってはどうか」という提案を受ける。九龍フロントにて気功塾の経営者であるウェイと出会い、陰界の龍脈についての情報を得る。九龍城は四つの龍脈すべてが集まる場所であり、龍脈が乱れた現在、この九龍城のみが陽界に現出したのもそれが関係しているという。そして龍脈の一つ「青龍」は木彫りの仏像に姿を変えているという。九龍フロントで様々な路人に振り回されるうち、主人公は季弘という質屋から引替札を差し出される。季弘は小黒という人物から古い暦の本についての依頼を受けていたらしいが、主人公は小黒という人物を知らない。小黒が居るとされる龍城飯店というホテルを訪れ、主人公を迎えたバーテンダーのリッチは主人公が手にしていた引替札の存在に気づき、小黒の居場所を教えた。すると「私なら、ここよ」という声と共に、2階から1人の若い女性が降りて来た。彼女が小黒だった。小黒は2年ほど前から九龍城に現れ、龍城飯店で手伝いをしたりしながら暮らしていたが、最近見るようになった予知夢をきっかけに、生き別れの姉捜しを始めたという。一方、九龍城では「蛇老講」またの名を「オールド・スネーク」という秘密結社が双子を集め、「鳴力」という能力を覚醒させて何かを企んでいるらしい。もし小黒が双子だったら彼らに目をつけられるのではないかとリッチは心配していた。
主人公はさらに調査を進めるうちに、スネークと敵対する組織「是空」の使者である紅頭達と出会い、協力を求められる。やがてスネークの目的が、双子を利用して「眠れる龍」を目覚めさせ、不老不死を得る事だと判明する。調査を続ける主人公は、小黒を気に掛ける女性コニー楊、小黒が相談していたという夏先生、龍津路一のべっぴんと評判の男性アニタ・ドールなど様々な人々と関わりつつもミスター・チェンや媽妃と言ったスネークのメンバーに目を付けられ、そして小黒も持ち前の行動力で姉を探すうちに九龍を渦巻く陰謀と混乱に巻き込まれていく。また、陰界では四神獣の見立ては地形では無く、宿命を受けた人間で行う必要があった。その一人が10年前に白虎の龍脈を探していた風水師であり、アニタ・ドールの兄であるスイジェンだった。彼はスネークの策略で封印されており、解放するには封印石を全て破壊するしかないが、その封印石がどこにあるのかは分からなかった。
小黒が会いに行くと言っていた怪しげな陰陽師を訪ねた主人公は、凄まじい勢いで畳み掛けられて彼の開発したタイムマシン「渾天儀」で清朝の時代に着く。乾清宮では四神獣を見立てる天道式が予定されていたが未だ執り行われず、城には物の怪が徘徊していた。また、前回の天道式では見立てを行うはずの風水師が邪心を抱き、自らを青龍に見立てようとして処刑された。その際に青龍の宿命を受けていた僧侶は自身を木彫りの仏像に変えて邪気から逃れたという。主人公は玄武の宿命を受けた医者の玄太と皇帝を見立てて龍脈を繋ぎ、現代に戻る。
主人公が九龍城に戻ると龍城路の半分が消え、西城路と繋がる異常自体が起きていた。マグネ気や邪気が九龍城を蝕みつつある中、主人公は是空の指導者であったウェイにより、スネークが目覚めさせようとしている「眠れる龍」の正体が清朝で木彫りの仏像に変わった僧侶、およびその青龍の力である事。そして仏像の中にはかつて処刑された邪悪な風水師・妖帝の怨霊が潜んでおり、それこそがスネークを操る黒幕であると明かされる。眠れる龍が目覚めるとき、全ての邪気が不滅となる。スネークの言う不老不死とはこの事だった。やがて小黒の鳴力の覚醒により、彼女はスネークに狙われる。主人公はスネークの幹部・双子師四天王と攻防を繰り広げつつ、小黒を探して九龍城を奔走する。
多くの出来事を経て小黒を保護した主人公は、九龍城が元の世界に戻ろうと崩壊を始める中、リッチの店に戻った。安堵も束の間、爆発音が響き渡り、主人公は小黒をリッチと紅頭に任せて飛び出す。スネークと組んでいた剥製屋を倒した主人公は最後の封印石を崩し、解放されたスイジェンを白虎へと見立てた。しかし九龍フロントに龍穴が開き、街には妄想の嵐が吹き荒れる。その最中、前に大井路で出会った妄人にして、玄太の息子である玄機と再会し、行動を共にする。陰陽師が龍穴の先が1920年の上海だと解明するも、直後に小黒が龍穴に吸い込まれてしまう。主人公は小黒を追って再び時を超え、1920年の上海にある「妄想の島」へと辿り着く。
妄想の島でも天道式の準備が進められていた。蘭暁梅という少女に天道式に使う絵画を運ぶ手伝いを頼まれるが、その絵画は二人の玄機を映し出す。やがて玄機も消えた。主人公は写真の中に小黒を受け止め、彼女の姉の思念と対面する。小黒はこの時代の人間だったが何らかの力で未来に飛ばされた。そして彼女ら姉妹は朱雀の宿命を受けていた。主人公は暁梅の見立てに失敗するが、その力は小黒と姉に受け継がれる。同時に占い師のマダム馮から妖帝の封印に必要な「五岳の図」を授かったものの、現代には戻れなくなってしまった。そこで実はタイムトラベラーだった季弘により朱雀の鏡を譲り受け、現代に戻る。そして小黒との思い出を振り返りつつ、彼女と姉を朱雀へと見立てた。
残る神獣を見立てるべく、響く声に導かれて妄人路へと向かう。妄人中心には人生を歩み直し、宿命を受け入れた玄機がいた。彼を玄武に見立て、いよいよ妖帝に囚われた青龍を残すのみとなった。しかし遂に妖帝自身が動き出し、巨大な異形が姿を現す。「皮肉なことに、私をこの場に導いたのは君自身だ。君は私の生まれ変わりのようだ」。蘇った双子師四天王の口を介して主人公に語りかける妖帝。最後の戦いが始まった。四天王を下し、妖帝の本体を五岳の図で封じる。そして石化が解けた木彫りの僧侶を青龍に見立て、とうとう見立てが完了した。九龍城は香港から消えていき、陰陽二つの世界は元の場所に戻った。しかし決して離れた訳ではない。互いに交わる事なく響き合い、ひとつの秩序を生み出す。主人公は摂理を歪める邪悪を払い、二つの世界を救ったのだ。
しかし主人公は陰界に居た。崩れ去った九龍城の瓦礫の間を歩いていると、何故かそこに暁梅が現れた。主人公に気付いて駆け寄る暁梅だったが、突如として現れた異形の腕に掴まれて消えていく。後には異形から落ちた腕の一本が不気味に残るだけだった。
「陰界」とは、「陽界」である現世とは表裏の関係にある世界。同一時間軸上に存在するが決して互いに交わることも、離れることもない世界の事で、一種のパラレルワールドにあたる。陰と陽が不用意に交わる状態が続けば世界はやがて意味を失い、消滅してしまうとされる。陰界では香港を超えた文化の混合が起きており、作中の名詞は広東語、北京語、英語など多様な言語が混ざり合った表記となっている。
気脈の流れが乱れて邪気に満ちた九龍城では、妄想に邪気が取り付くことによる異常事態が頻発しており、その最も極端な形が「妄人(ワンニン)」と「鬼律(グイリー)」である。
本作において、双子の不思議な共鳴は鳴力と呼ばれており、奇跡を起こす不思議な力として人工的に双子を作るプロジェクトも存在している。
陰界より現れた建造物にして巨大スラム街。陽界においては既に取り壊されているが、陰界においては四神獣の龍脈が全て通じていながら最も邪気に歪んだ場所として未だ存在し続けており、突如として陽界の香港に出現した。ゲーム中では全体像は殆ど見えないが、陽界の九龍城砦に加えて下部にも無造作に増築されて絡み合い、陽界に出現した状態ではアンバランスな塔の様相となっている。本作のキャッチコピーの通り、この街ではあらゆる概念が常軌を逸しており、陽界である現世の常識は悉く通用しない。本作はこの陰界の九龍城を舞台として展開される。
尚、現実には「九龍城」とは九龍城砦が存在した地域で、九龍城区の一部を指す。
主人公が最初に足を踏み入れる町。現実の九龍城砦のイメージを色濃く反映した、暗く狭く薄汚れた道が続く。九龍フロントに比べると狭いが物語が進むと地下道へ入る事が可能となったり、また最も多くの胡同があるところである(ただし各胡同は全体的に繋がっているために胡同内部のマップは同一)。主人公に協力をしてくれる鏡屋や錠前屋、エビ剥き屋の子供がおり、体験版ではここと重慶花園の探索がプレイできた。モデルは九龍城砦の代表的な通路の龍城路(ロン・セン通り)。
九龍城の中心地のような風情がある比較的巨大な町。九龍城では最も賑やかな繁華街だが、同時に裏社会に繋がる部分も多い。中央には巨大なネオン塔があり、良く見ると各店の看板内容まで読み取ることができる。双子屋、龍城飯店、陰陽師のラボなど物語でも重要なポイントがいくつかあったり、小黒やウェイらとの出会いの場でもあったりと実質的な九龍城及び物語の中心部となる。この九龍フロントと繋がる胡同は妄人路のみだが、他の街への入口がいくつか存在する。実際の九龍城砦には存在しないが、表通りに面した一帯には同様に店舗が立ち並び、賑やかな雰囲気の通りがあった。
劇場を中心として繁栄しているため、人々の心は他の地域の住民と比べると活気があり、街の雰囲気も華やかである。その一方で、既に閉鎖した劇場や過去の栄光を懐かしむ者達など、過ぎ去りし時代への哀愁も漂い、華やかさと退廃さが同居する街でもある。故に九龍城でも邪気の影響が強く、「ディープ」とも呼ばれる。二つの劇場が存在するがどちらも胡同と化してしまい、龍津路の人々は「オガクズ」を集めて胡同内部にある封印石を崩してしまえば鬼律は消え去るというこの町の風水師であるスイジェンの言葉を信じて協力し合っている。モデルは九龍城砦最古の街道・龍津路(ロンチュウ通り)。
中央に巨大な麗虹(ライフン)という川が流れている町。川と共に生きている人々が住んでいる。閑散とした雰囲気だが以前は売薬で栄えており、現在でも寂れているとは言え漢方薬の原料を売る店が軒を連ねる。昔は大井路と繋がっていたらしいが現在は塞がっている。住民がブリッジと呼んでいる鵲橋(ジャクキョウ)という橋が架かった先は海明大廈(カーメルマンション)という大きなマンションがある。今は行く事ができないが、麗虹のほとりにはモルグへの入口があり、その更に奥には馬山童が住む神龍廟がある。モデルは西城路(サイ・シン通り)だが実物は敷地の西端にあり、東端の龍城路と対になる街路だった。
町は大井路と小姐路(シウジェロード)とに分かれており、二つは「妖精さんの転送小屋」にてワープして行き来することができる。大井路は様々な医者がそれぞれの医院を開いており、小姐路は小姐窟(シウジェクツ)という夜總会(ヤソウカイ。ナイトクラブの意)などがある歓楽街となっている。この二つの町それぞれに入口がある巨大胡同も存在する。モデルとなった大井路(タイ・チェン通り)は医療の町ではなく大きな井戸がある街だった。また、小姐路という地名は実在しない。
陰界の九龍城の一街区だが、今回の事件では陰界に取り残されており、作中には登場しない。事件後は陰界より漂流を開始している。公園や商業地区が集まるメインストリート・太子道(プリンスロード)。廃墟や宗教施設が集まる旧市街。街はずれには光明劇場。街を見下ろせる高台・老街など、様々なブロックを持つ。次回作『クーロンズリゾーム』はこの街が舞台となる。実際の九龍城砦にも光明街(クン・ミン通り)という通路があった。
物語が進む中で登場する、陰界の1850年代の中国。乾清宮(ケンセイキュウ)には道光帝(ドウコウテイ)と呼ばれる人物がおり、城下を治めている。実在の乾清宮の外は紫禁城の敷地が広がっているのだが、本作(陰界)では城下町となっている。
物語が進む中で登場する1920年代の中国で、「妄想の島」と呼ばれる島が舞台。実はこの妄想の島は陰界から突き出た出島のようなものであり、陽界に存在している。胡同は存在しないが、この島の住人達が暮らすバンドー大廈(マンション)は階段が複雑に絡まり合うエッシャー的空間を特徴とする、繊細で狂気的なJPEGダンジョンとなっている。
島の持ち主はフランス人の実業家で、かねてより島中に不思議な仕掛けを張り巡らせていると評判だった。当時はその実業家の名前を取って「ランベール島」とも呼ばれていた。
九龍内で展開している電子ネットワークサービス。電子メールの受信、データベースの閲覧、ナビの雇用などが行えるが、利用にはアクセスカードが必要。アクセスは随所にある端末から行う。端末は郵便ポストに似た「街頭端末」の他に「家庭用端末」が存在する。端末ではゲームのセーブが可能で、これはアクセスカードが無くても行える。
九龍城では住民を「路人」と呼ぶ。「ねじ屋」「びん屋」「えび剥き屋」など、一軒一軒が商売として成立するかも怪しいほどの非常に細かい分業社会となっているが、これは取材時に訪れた香港の様子から極端なイメージを取り入れたものである。
正式名称は「蛇老講(ジャロウコウ)」だが専らオールド・スネーク、或いはスネークの通称で呼ばれる秘密結社。「双子屋」「双子中心」と言った施設の運営を行っている。双子の力「鳴力(ミンリー)」を集めて眠れる龍を目覚めさせる事を目論んでいる。
胡同の案内人で、リッチの部下達。複雑極まりなく入り組んだ胡同において、道順の案内の他、偵察や仕掛けの調査、胡同からの脱出などで主人公を全面的にバックアップする。しかし一度に大量の情報を話し、聞き返す事もできないためメモは必須。
鬼律を操る事を生業とする者たち。特定の思想や目的を持たず、他者とも関わらず、ただ生きるためにその能力を使っている。清朝の頃は王室に仕える物の怪使いもいたが、絶対的な権力が失われた現在では流されるまま孤独に存在している。各胡同にて邪気を充満させる元凶であり最深部で主人公を待ち受けるが、いずれも主人公と対面したあとは自ら消えてき、ゲーム的な対決イベントは存在しない。
本作は大きく分けて「JPEGダンジョン」、「リアルタイムダンジョン」と呼ばれるふたつの探索パートと、「戦闘(バトル)」パートから構成されている。JPEGダンジョンでストーリーを進め、情報が集まる(フラグが立つ)とリアルタイムダンジョンに潜り探索、というのがおおよその流れで、その過程で任意もしくは強制的な戦闘が挟み込まれる。
基本的にゲーム全編を通じ主人公の主観視点で描かれる。 プレイヤーはゲーム序盤に、「冷蔵庫」、「扇風機」、「電子レンジ」の3つの中から好きなものを選択する。これは、主人公の所持する邪気が五属性全て揃ってゲームオーバーになった場合、選択した物の妄人になることを意味している。 イベントシーンでは三人称的なカメラアングルも存在するが、その場合も主人公の外見は一切描かれない。また物語は全50のクエスト(エピソード)に分かれており、それぞれにタイトルが付けてある。しかしクエスト名は演出的に明示されるということはなく、セーブする際に進行状況の目安として確認できる程度の扱いである。
戦闘パートは更に2種に分類される。鬼律退治を目的とする通常戦闘的な「風水バトル」と、ボス戦的な性格を持つ「アイテムバトル」である。戦闘パートでは状況に関わらず風水師が一定確率で「行動に失敗」することがあり、極稀に失敗が重なって何も出来ないままゲームオーバーとなってしまうことがある(バグというより仕様の問題)。気力は邪気の無い場所を歩くか、回復アイテムの「男油」を使用すると回復する。
シリコングラフィックスのCGワークステーションを用いたPlayStation用ゲームの開発計画がたてられ、次世代機らしい音楽とポリゴンとムービーを主軸に据えることが決まった。 当初は『ブレードランナー』のような世界観を冒険するという構想がたてられていたが、木村央志は仲間たちとともに訪れた香港の九龍城砦およびその跡地に衝撃を受け、世界観を変更した。 開発スタッフの一人である井上幸喜は、『マンホール』のようなアドベンチャーゲームをやりたいと考えていた一方、PC版『MYST』で最適化された操作性をPlayStationで表現したらどうなるのかとも考えており、操作性が大きく変わるダンジョンやイベントの間にムービーを挟んで違和感を取り除くという試みを行った。 また、当初はサイバーパンクな世界観ということで大友克洋にキャラクターデザインを依頼しようとしたが、自分で下絵を描いたところプロデューサーの須藤朗がそれを気に入り、自身がキャラクターデザインを務めることとなった。
声優の野中希は小黒より小柄な印象を持っていた。彼女のルックスにあわせて小黒のグラフィック変更もあったと言われている。
井上はテレビドラマ『NIGHT HEAD』を見て、曲の雰囲気が本作にふさわしいと感じ、当時フジテレビでCGを作っていた経験を活かし、『世にも奇妙な物語』のスタッフを通じ、『NIGHT HEAD』の楽曲を担当していた蓜島邦明を本作の音楽担当者として起用した。
当初はPlayStationのローンチタイトルとして発売される予定であり、PlayStation発売前からプロモーションムービー等が公開されていたが、開発の遅れによる度重なる発売延期により1997年2月28日にまでずれ込んだ。
本作の開発は何かに引っ張られるように各スタッフが競争して生み出された相乗効果を積み重ねるようにすすめられたものであり、井上は「開発当時誰かに指示された記憶がなく、開発後半にいたっては『クーロンズ・ゲートさん』という架空の人物(概念)に指示された」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。
キャラクター群のうち、鍵穴男といった「〇〇男」という名称のキャラクター群の多くは木村の考案が考案した。 デザインを担当した井上は「木村さんの中でビジュアルイメージがあるものは、キャラクター設定に挿絵があったので問題なくイメージをつかめた。一方、キーワードだけ指定されたものはそこからイメージを膨らませる必要があり、『面倒なデザインのCGを作らない』という自分の中のルールに従い、キーワードからシンプルなデザインを導き出した」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。 また、井上は陰界の住人について「彼らは元々その場所に住んでいただけであり、プレイヤーとは敵対関係にない」と考えていたことから、デザイン上のルールの一つとして、「住民には牙などの武器を持たせない」ということを定めたほか、住民が武器を持って主人公を襲う場面を描かないことにした。
当初の構想では戦闘システムは存在しなかったが、木村が五行思想の属性の相克関係を使いたいと考えていたことと、アイテムを得る喜びをプレイヤーに味わってほしいという思いから、戦闘システムが導入される運びとなった。
2000年に本作の発売権が開発元のSMEからアートディンクへ移行し、同年アートディンクの自社製廉価版である「ARTDINK BEST CHOICE」シリーズ中の一作として、新価格で再発売された(詳細はテンプレートを参照のこと)。パッケージデザイン等の細かい部分以外に大きな変更はない。 ゲームアーカイブスではアートディンク版が配信されたのち、2015年からはシティコネクションより再配信となった。
2016年11月、『クーロンズゲートVR suzaku』のクラウドファンディングが開始され、すぐに支援金が目標額に達した。本編の前日談にあたり、プレイヤーが生体通信を介して陰界にシンクしているという設定で龍城路と九龍フロントを散策する。本作の登場人物に加え、新キャラクターも登場する。 当初はPlayStation VR専用タイトルだったが、2017年12月21日のアップデートにより、VRモードから独立したnonVRモードが追加された。
本作の28年後を描く次世代版続編。監督・脚本の木村央志によって『クーロンズゲート』の企画決定から25年目となる2020年に制作プロジェクトが立ち上げられた。制作自体は2019年12月に発表されたが、「シナリオが完成してから事業化する」という方針により、シナリオ第一稿が完成した2020年7月に正式にプロジェクトが発表。こちらも資金の一部をクラウドファンディングで募集し、仮に目標額に達しなくとも計画は実行すると発表されていたが、実際はストレッチゴールにもすぐに達した。ストーリーは『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』に掲載された続編企画「クーロンズ・ゲートif」を底本として大幅に加筆・アレンジしたもので、本作に登場しなかった九龍城の一街区「光明路」を舞台とする。開発はUnityベースでアセットをメインに新たな九龍城を構築する。
音楽は『ゲート』に続き、蓜島邦明が担当。原画も同じく井上幸喜が、キャラクターイラストには新たにおぐちが起用されるとされていたが、最終的にキャラクターデザインは木村が手掛けた『デモンズゲート 帝都審神大戦』同様に山本章史が担当した。
当初はジャンル「路地裏オープンワールド」として全編リアルタイムダンジョンで構成された光明路を自由に探索できる予定だったが、完成した評価版「3Dクーロン」が期待したような面白さにならず、『クーロンズゲート』の続編としての伏線の回収、設定の強化や更新を重視してゲームシステムの見直しを行い、移動をムービー、会話を静止画で行う「ムービーノベル方式」に変更された。また、2021年秋にNintendo Switch、PlayStation 4、PC(Steam)での発売予定だったが実現には至らず、結局、アセットがコンシューマー機に非対応だったという「アセット利用による効率化」が裏目に出た点や開発規模の問題からコンシューマー機移植は断念され、2022年度内にSteamとBOOTHにて早期アクセス版の配信を目指す方向とされた。その後、全8巻の分冊方式での販売が決定し、2023年2月22日に第1巻にクラウドファンディング支援者クレジットなどを加えたパイロット版がBOOTHでのみ発売された。
当初の売り上げは開発期間の割に芳しくなかった。その一方で、独特な世界観に惹かれる者も多く、その世界観と奇妙なキャラクターたちが織りなす不可思議なゲーム体験から賛否両論の評価を受けつつも「怪作」として熱狂的なファンを獲得し、2005年以降はYouTubeやニコニコ動画といった動画共有サイトの普及に伴い本作の人気も少しずつ上がり、最終的にはPlayStationを代表する作品の一つとしてカルト的な人気を博した。「ハマらない人にはハマらないが、ハマった人の心には永久に残り続ける作品」とも評され、Game*SparkのFURUKAWAは本作について、ゲームとしての完成度は低いとした一方で独特の世界観について評価している。開発者である木村自身は「KOWLOON'S 25th ANNIV. 超級路人祭~クーロンズ・ゲート プロジェクト25周年記念イベント~」の資料のために再び本作をプレイした際、「なんて不親切なゲームだろう。これを作ったのは誰だ」と憤慨したという。
IGNの馬淵寛昭は2017年11月9日の『クーロンズゲートVR suzaku』のレビュー記事の中で独特な世界観を評価した一方、ゲーム的な要素が皆無であると述べ、世界観に魅力を感じない者はプレイし続けるだけでもつらいかもしれないと述べた。 また、馬淵は『クーロンズゲートVR suzaku』の唯一のゲーム要素である「剥きエビ」が終盤にかけて大量に集める必要がある点を指摘し、「ただでさえ単調なゲーム性に拍車をかけており、このゲームバランスはゲームの性質上、ゲーム性というよりもはや拷問である」と述べている。 さらに馬淵は、画面中央に緑の点があるものの、鼻の頭など視線の基準となる物体がなく、現実で歩く時の感覚との違いが強調されてしまい、ひどいVR酔いに悩まされたとも振り返っている。
『クーロンズ・ゲート』の発売10周年を記念して当時のクリエイターが再結集し、本作の世界観を再現した kowloon というエリアが Second Life 上で2007年7月23日に公開された。(2019年11月時点でまだ継続中。) | [
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"text": "PlayStation初期タイトルとして、PS発売以前からプロモーションムービー等が公開されていたものの、開発の遅れによって発表から発売までに4年以上の歳月を費やした。",
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"text": "2010年4月14日から2013年4月10日の間、PSP/PS3用ゲームアーカイブスとしてPlayStation Storeで配信。2015年9月16日よりPlayStation Vitaに対応したほか、初回版のブックレット(デジタル版)が付属して再配信されている。",
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"text": "主人公が九龍城に戻ると龍城路の半分が消え、西城路と繋がる異常自体が起きていた。マグネ気や邪気が九龍城を蝕みつつある中、主人公は是空の指導者であったウェイにより、スネークが目覚めさせようとしている「眠れる龍」の正体が清朝で木彫りの仏像に変わった僧侶、およびその青龍の力である事。そして仏像の中にはかつて処刑された邪悪な風水師・妖帝の怨霊が潜んでおり、それこそがスネークを操る黒幕であると明かされる。眠れる龍が目覚めるとき、全ての邪気が不滅となる。スネークの言う不老不死とはこの事だった。やがて小黒の鳴力の覚醒により、彼女はスネークに狙われる。主人公はスネークの幹部・双子師四天王と攻防を繰り広げつつ、小黒を探して九龍城を奔走する。",
"title": "ストーリー"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "多くの出来事を経て小黒を保護した主人公は、九龍城が元の世界に戻ろうと崩壊を始める中、リッチの店に戻った。安堵も束の間、爆発音が響き渡り、主人公は小黒をリッチと紅頭に任せて飛び出す。スネークと組んでいた剥製屋を倒した主人公は最後の封印石を崩し、解放されたスイジェンを白虎へと見立てた。しかし九龍フロントに龍穴が開き、街には妄想の嵐が吹き荒れる。その最中、前に大井路で出会った妄人にして、玄太の息子である玄機と再会し、行動を共にする。陰陽師が龍穴の先が1920年の上海だと解明するも、直後に小黒が龍穴に吸い込まれてしまう。主人公は小黒を追って再び時を超え、1920年の上海にある「妄想の島」へと辿り着く。",
"title": "ストーリー"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "妄想の島でも天道式の準備が進められていた。蘭暁梅という少女に天道式に使う絵画を運ぶ手伝いを頼まれるが、その絵画は二人の玄機を映し出す。やがて玄機も消えた。主人公は写真の中に小黒を受け止め、彼女の姉の思念と対面する。小黒はこの時代の人間だったが何らかの力で未来に飛ばされた。そして彼女ら姉妹は朱雀の宿命を受けていた。主人公は暁梅の見立てに失敗するが、その力は小黒と姉に受け継がれる。同時に占い師のマダム馮から妖帝の封印に必要な「五岳の図」を授かったものの、現代には戻れなくなってしまった。そこで実はタイムトラベラーだった季弘により朱雀の鏡を譲り受け、現代に戻る。そして小黒との思い出を振り返りつつ、彼女と姉を朱雀へと見立てた。",
"title": "ストーリー"
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"tag": "p",
"text": "残る神獣を見立てるべく、響く声に導かれて妄人路へと向かう。妄人中心には人生を歩み直し、宿命を受け入れた玄機がいた。彼を玄武に見立て、いよいよ妖帝に囚われた青龍を残すのみとなった。しかし遂に妖帝自身が動き出し、巨大な異形が姿を現す。「皮肉なことに、私をこの場に導いたのは君自身だ。君は私の生まれ変わりのようだ」。蘇った双子師四天王の口を介して主人公に語りかける妖帝。最後の戦いが始まった。四天王を下し、妖帝の本体を五岳の図で封じる。そして石化が解けた木彫りの僧侶を青龍に見立て、とうとう見立てが完了した。九龍城は香港から消えていき、陰陽二つの世界は元の場所に戻った。しかし決して離れた訳ではない。互いに交わる事なく響き合い、ひとつの秩序を生み出す。主人公は摂理を歪める邪悪を払い、二つの世界を救ったのだ。",
"title": "ストーリー"
},
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"tag": "p",
"text": "しかし主人公は陰界に居た。崩れ去った九龍城の瓦礫の間を歩いていると、何故かそこに暁梅が現れた。主人公に気付いて駆け寄る暁梅だったが、突如として現れた異形の腕に掴まれて消えていく。後には異形から落ちた腕の一本が不気味に残るだけだった。",
"title": "ストーリー"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "「陰界」とは、「陽界」である現世とは表裏の関係にある世界。同一時間軸上に存在するが決して互いに交わることも、離れることもない世界の事で、一種のパラレルワールドにあたる。陰と陽が不用意に交わる状態が続けば世界はやがて意味を失い、消滅してしまうとされる。陰界では香港を超えた文化の混合が起きており、作中の名詞は広東語、北京語、英語など多様な言語が混ざり合った表記となっている。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "気脈の流れが乱れて邪気に満ちた九龍城では、妄想に邪気が取り付くことによる異常事態が頻発しており、その最も極端な形が「妄人(ワンニン)」と「鬼律(グイリー)」である。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "本作において、双子の不思議な共鳴は鳴力と呼ばれており、奇跡を起こす不思議な力として人工的に双子を作るプロジェクトも存在している。",
"title": "世界観"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "陰界より現れた建造物にして巨大スラム街。陽界においては既に取り壊されているが、陰界においては四神獣の龍脈が全て通じていながら最も邪気に歪んだ場所として未だ存在し続けており、突如として陽界の香港に出現した。ゲーム中では全体像は殆ど見えないが、陽界の九龍城砦に加えて下部にも無造作に増築されて絡み合い、陽界に出現した状態ではアンバランスな塔の様相となっている。本作のキャッチコピーの通り、この街ではあらゆる概念が常軌を逸しており、陽界である現世の常識は悉く通用しない。本作はこの陰界の九龍城を舞台として展開される。",
"title": "世界観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "尚、現実には「九龍城」とは九龍城砦が存在した地域で、九龍城区の一部を指す。",
"title": "世界観"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "主人公が最初に足を踏み入れる町。現実の九龍城砦のイメージを色濃く反映した、暗く狭く薄汚れた道が続く。九龍フロントに比べると狭いが物語が進むと地下道へ入る事が可能となったり、また最も多くの胡同があるところである(ただし各胡同は全体的に繋がっているために胡同内部のマップは同一)。主人公に協力をしてくれる鏡屋や錠前屋、エビ剥き屋の子供がおり、体験版ではここと重慶花園の探索がプレイできた。モデルは九龍城砦の代表的な通路の龍城路(ロン・セン通り)。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "九龍城の中心地のような風情がある比較的巨大な町。九龍城では最も賑やかな繁華街だが、同時に裏社会に繋がる部分も多い。中央には巨大なネオン塔があり、良く見ると各店の看板内容まで読み取ることができる。双子屋、龍城飯店、陰陽師のラボなど物語でも重要なポイントがいくつかあったり、小黒やウェイらとの出会いの場でもあったりと実質的な九龍城及び物語の中心部となる。この九龍フロントと繋がる胡同は妄人路のみだが、他の街への入口がいくつか存在する。実際の九龍城砦には存在しないが、表通りに面した一帯には同様に店舗が立ち並び、賑やかな雰囲気の通りがあった。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "劇場を中心として繁栄しているため、人々の心は他の地域の住民と比べると活気があり、街の雰囲気も華やかである。その一方で、既に閉鎖した劇場や過去の栄光を懐かしむ者達など、過ぎ去りし時代への哀愁も漂い、華やかさと退廃さが同居する街でもある。故に九龍城でも邪気の影響が強く、「ディープ」とも呼ばれる。二つの劇場が存在するがどちらも胡同と化してしまい、龍津路の人々は「オガクズ」を集めて胡同内部にある封印石を崩してしまえば鬼律は消え去るというこの町の風水師であるスイジェンの言葉を信じて協力し合っている。モデルは九龍城砦最古の街道・龍津路(ロンチュウ通り)。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "中央に巨大な麗虹(ライフン)という川が流れている町。川と共に生きている人々が住んでいる。閑散とした雰囲気だが以前は売薬で栄えており、現在でも寂れているとは言え漢方薬の原料を売る店が軒を連ねる。昔は大井路と繋がっていたらしいが現在は塞がっている。住民がブリッジと呼んでいる鵲橋(ジャクキョウ)という橋が架かった先は海明大廈(カーメルマンション)という大きなマンションがある。今は行く事ができないが、麗虹のほとりにはモルグへの入口があり、その更に奥には馬山童が住む神龍廟がある。モデルは西城路(サイ・シン通り)だが実物は敷地の西端にあり、東端の龍城路と対になる街路だった。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "町は大井路と小姐路(シウジェロード)とに分かれており、二つは「妖精さんの転送小屋」にてワープして行き来することができる。大井路は様々な医者がそれぞれの医院を開いており、小姐路は小姐窟(シウジェクツ)という夜總会(ヤソウカイ。ナイトクラブの意)などがある歓楽街となっている。この二つの町それぞれに入口がある巨大胡同も存在する。モデルとなった大井路(タイ・チェン通り)は医療の町ではなく大きな井戸がある街だった。また、小姐路という地名は実在しない。",
"title": "世界観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "陰界の九龍城の一街区だが、今回の事件では陰界に取り残されており、作中には登場しない。事件後は陰界より漂流を開始している。公園や商業地区が集まるメインストリート・太子道(プリンスロード)。廃墟や宗教施設が集まる旧市街。街はずれには光明劇場。街を見下ろせる高台・老街など、様々なブロックを持つ。次回作『クーロンズリゾーム』はこの街が舞台となる。実際の九龍城砦にも光明街(クン・ミン通り)という通路があった。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "物語が進む中で登場する、陰界の1850年代の中国。乾清宮(ケンセイキュウ)には道光帝(ドウコウテイ)と呼ばれる人物がおり、城下を治めている。実在の乾清宮の外は紫禁城の敷地が広がっているのだが、本作(陰界)では城下町となっている。",
"title": "世界観"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "物語が進む中で登場する1920年代の中国で、「妄想の島」と呼ばれる島が舞台。実はこの妄想の島は陰界から突き出た出島のようなものであり、陽界に存在している。胡同は存在しないが、この島の住人達が暮らすバンドー大廈(マンション)は階段が複雑に絡まり合うエッシャー的空間を特徴とする、繊細で狂気的なJPEGダンジョンとなっている。",
"title": "世界観"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "島の持ち主はフランス人の実業家で、かねてより島中に不思議な仕掛けを張り巡らせていると評判だった。当時はその実業家の名前を取って「ランベール島」とも呼ばれていた。",
"title": "世界観"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "九龍内で展開している電子ネットワークサービス。電子メールの受信、データベースの閲覧、ナビの雇用などが行えるが、利用にはアクセスカードが必要。アクセスは随所にある端末から行う。端末は郵便ポストに似た「街頭端末」の他に「家庭用端末」が存在する。端末ではゲームのセーブが可能で、これはアクセスカードが無くても行える。",
"title": "クーロネット"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "九龍城では住民を「路人」と呼ぶ。「ねじ屋」「びん屋」「えび剥き屋」など、一軒一軒が商売として成立するかも怪しいほどの非常に細かい分業社会となっているが、これは取材時に訪れた香港の様子から極端なイメージを取り入れたものである。",
"title": "登場人物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "正式名称は「蛇老講(ジャロウコウ)」だが専らオールド・スネーク、或いはスネークの通称で呼ばれる秘密結社。「双子屋」「双子中心」と言った施設の運営を行っている。双子の力「鳴力(ミンリー)」を集めて眠れる龍を目覚めさせる事を目論んでいる。",
"title": "登場人物"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "胡同の案内人で、リッチの部下達。複雑極まりなく入り組んだ胡同において、道順の案内の他、偵察や仕掛けの調査、胡同からの脱出などで主人公を全面的にバックアップする。しかし一度に大量の情報を話し、聞き返す事もできないためメモは必須。",
"title": "登場人物"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "鬼律を操る事を生業とする者たち。特定の思想や目的を持たず、他者とも関わらず、ただ生きるためにその能力を使っている。清朝の頃は王室に仕える物の怪使いもいたが、絶対的な権力が失われた現在では流されるまま孤独に存在している。各胡同にて邪気を充満させる元凶であり最深部で主人公を待ち受けるが、いずれも主人公と対面したあとは自ら消えてき、ゲーム的な対決イベントは存在しない。",
"title": "登場人物"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "本作は大きく分けて「JPEGダンジョン」、「リアルタイムダンジョン」と呼ばれるふたつの探索パートと、「戦闘(バトル)」パートから構成されている。JPEGダンジョンでストーリーを進め、情報が集まる(フラグが立つ)とリアルタイムダンジョンに潜り探索、というのがおおよその流れで、その過程で任意もしくは強制的な戦闘が挟み込まれる。",
"title": "システム"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "基本的にゲーム全編を通じ主人公の主観視点で描かれる。 プレイヤーはゲーム序盤に、「冷蔵庫」、「扇風機」、「電子レンジ」の3つの中から好きなものを選択する。これは、主人公の所持する邪気が五属性全て揃ってゲームオーバーになった場合、選択した物の妄人になることを意味している。 イベントシーンでは三人称的なカメラアングルも存在するが、その場合も主人公の外見は一切描かれない。また物語は全50のクエスト(エピソード)に分かれており、それぞれにタイトルが付けてある。しかしクエスト名は演出的に明示されるということはなく、セーブする際に進行状況の目安として確認できる程度の扱いである。",
"title": "システム"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "戦闘パートは更に2種に分類される。鬼律退治を目的とする通常戦闘的な「風水バトル」と、ボス戦的な性格を持つ「アイテムバトル」である。戦闘パートでは状況に関わらず風水師が一定確率で「行動に失敗」することがあり、極稀に失敗が重なって何も出来ないままゲームオーバーとなってしまうことがある(バグというより仕様の問題)。気力は邪気の無い場所を歩くか、回復アイテムの「男油」を使用すると回復する。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "シリコングラフィックスのCGワークステーションを用いたPlayStation用ゲームの開発計画がたてられ、次世代機らしい音楽とポリゴンとムービーを主軸に据えることが決まった。 当初は『ブレードランナー』のような世界観を冒険するという構想がたてられていたが、木村央志は仲間たちとともに訪れた香港の九龍城砦およびその跡地に衝撃を受け、世界観を変更した。 開発スタッフの一人である井上幸喜は、『マンホール』のようなアドベンチャーゲームをやりたいと考えていた一方、PC版『MYST』で最適化された操作性をPlayStationで表現したらどうなるのかとも考えており、操作性が大きく変わるダンジョンやイベントの間にムービーを挟んで違和感を取り除くという試みを行った。 また、当初はサイバーパンクな世界観ということで大友克洋にキャラクターデザインを依頼しようとしたが、自分で下絵を描いたところプロデューサーの須藤朗がそれを気に入り、自身がキャラクターデザインを務めることとなった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "声優の野中希は小黒より小柄な印象を持っていた。彼女のルックスにあわせて小黒のグラフィック変更もあったと言われている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "井上はテレビドラマ『NIGHT HEAD』を見て、曲の雰囲気が本作にふさわしいと感じ、当時フジテレビでCGを作っていた経験を活かし、『世にも奇妙な物語』のスタッフを通じ、『NIGHT HEAD』の楽曲を担当していた蓜島邦明を本作の音楽担当者として起用した。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "当初はPlayStationのローンチタイトルとして発売される予定であり、PlayStation発売前からプロモーションムービー等が公開されていたが、開発の遅れによる度重なる発売延期により1997年2月28日にまでずれ込んだ。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "本作の開発は何かに引っ張られるように各スタッフが競争して生み出された相乗効果を積み重ねるようにすすめられたものであり、井上は「開発当時誰かに指示された記憶がなく、開発後半にいたっては『クーロンズ・ゲートさん』という架空の人物(概念)に指示された」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "キャラクター群のうち、鍵穴男といった「〇〇男」という名称のキャラクター群の多くは木村の考案が考案した。 デザインを担当した井上は「木村さんの中でビジュアルイメージがあるものは、キャラクター設定に挿絵があったので問題なくイメージをつかめた。一方、キーワードだけ指定されたものはそこからイメージを膨らませる必要があり、『面倒なデザインのCGを作らない』という自分の中のルールに従い、キーワードからシンプルなデザインを導き出した」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている。 また、井上は陰界の住人について「彼らは元々その場所に住んでいただけであり、プレイヤーとは敵対関係にない」と考えていたことから、デザイン上のルールの一つとして、「住民には牙などの武器を持たせない」ということを定めたほか、住民が武器を持って主人公を襲う場面を描かないことにした。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "当初の構想では戦闘システムは存在しなかったが、木村が五行思想の属性の相克関係を使いたいと考えていたことと、アイテムを得る喜びをプレイヤーに味わってほしいという思いから、戦闘システムが導入される運びとなった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2000年に本作の発売権が開発元のSMEからアートディンクへ移行し、同年アートディンクの自社製廉価版である「ARTDINK BEST CHOICE」シリーズ中の一作として、新価格で再発売された(詳細はテンプレートを参照のこと)。パッケージデザイン等の細かい部分以外に大きな変更はない。 ゲームアーカイブスではアートディンク版が配信されたのち、2015年からはシティコネクションより再配信となった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2016年11月、『クーロンズゲートVR suzaku』のクラウドファンディングが開始され、すぐに支援金が目標額に達した。本編の前日談にあたり、プレイヤーが生体通信を介して陰界にシンクしているという設定で龍城路と九龍フロントを散策する。本作の登場人物に加え、新キャラクターも登場する。 当初はPlayStation VR専用タイトルだったが、2017年12月21日のアップデートにより、VRモードから独立したnonVRモードが追加された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "本作の28年後を描く次世代版続編。監督・脚本の木村央志によって『クーロンズゲート』の企画決定から25年目となる2020年に制作プロジェクトが立ち上げられた。制作自体は2019年12月に発表されたが、「シナリオが完成してから事業化する」という方針により、シナリオ第一稿が完成した2020年7月に正式にプロジェクトが発表。こちらも資金の一部をクラウドファンディングで募集し、仮に目標額に達しなくとも計画は実行すると発表されていたが、実際はストレッチゴールにもすぐに達した。ストーリーは『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』に掲載された続編企画「クーロンズ・ゲートif」を底本として大幅に加筆・アレンジしたもので、本作に登場しなかった九龍城の一街区「光明路」を舞台とする。開発はUnityベースでアセットをメインに新たな九龍城を構築する。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "音楽は『ゲート』に続き、蓜島邦明が担当。原画も同じく井上幸喜が、キャラクターイラストには新たにおぐちが起用されるとされていたが、最終的にキャラクターデザインは木村が手掛けた『デモンズゲート 帝都審神大戦』同様に山本章史が担当した。",
"title": "開発"
},
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "当初はジャンル「路地裏オープンワールド」として全編リアルタイムダンジョンで構成された光明路を自由に探索できる予定だったが、完成した評価版「3Dクーロン」が期待したような面白さにならず、『クーロンズゲート』の続編としての伏線の回収、設定の強化や更新を重視してゲームシステムの見直しを行い、移動をムービー、会話を静止画で行う「ムービーノベル方式」に変更された。また、2021年秋にNintendo Switch、PlayStation 4、PC(Steam)での発売予定だったが実現には至らず、結局、アセットがコンシューマー機に非対応だったという「アセット利用による効率化」が裏目に出た点や開発規模の問題からコンシューマー機移植は断念され、2022年度内にSteamとBOOTHにて早期アクセス版の配信を目指す方向とされた。その後、全8巻の分冊方式での販売が決定し、2023年2月22日に第1巻にクラウドファンディング支援者クレジットなどを加えたパイロット版がBOOTHでのみ発売された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "当初の売り上げは開発期間の割に芳しくなかった。その一方で、独特な世界観に惹かれる者も多く、その世界観と奇妙なキャラクターたちが織りなす不可思議なゲーム体験から賛否両論の評価を受けつつも「怪作」として熱狂的なファンを獲得し、2005年以降はYouTubeやニコニコ動画といった動画共有サイトの普及に伴い本作の人気も少しずつ上がり、最終的にはPlayStationを代表する作品の一つとしてカルト的な人気を博した。「ハマらない人にはハマらないが、ハマった人の心には永久に残り続ける作品」とも評され、Game*SparkのFURUKAWAは本作について、ゲームとしての完成度は低いとした一方で独特の世界観について評価している。開発者である木村自身は「KOWLOON'S 25th ANNIV. 超級路人祭~クーロンズ・ゲート プロジェクト25周年記念イベント~」の資料のために再び本作をプレイした際、「なんて不親切なゲームだろう。これを作ったのは誰だ」と憤慨したという。",
"title": "反響・評価"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "IGNの馬淵寛昭は2017年11月9日の『クーロンズゲートVR suzaku』のレビュー記事の中で独特な世界観を評価した一方、ゲーム的な要素が皆無であると述べ、世界観に魅力を感じない者はプレイし続けるだけでもつらいかもしれないと述べた。 また、馬淵は『クーロンズゲートVR suzaku』の唯一のゲーム要素である「剥きエビ」が終盤にかけて大量に集める必要がある点を指摘し、「ただでさえ単調なゲーム性に拍車をかけており、このゲームバランスはゲームの性質上、ゲーム性というよりもはや拷問である」と述べている。 さらに馬淵は、画面中央に緑の点があるものの、鼻の頭など視線の基準となる物体がなく、現実で歩く時の感覚との違いが強調されてしまい、ひどいVR酔いに悩まされたとも振り返っている。",
"title": "反響・評価"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "『クーロンズ・ゲート』の発売10周年を記念して当時のクリエイターが再結集し、本作の世界観を再現した kowloon というエリアが Second Life 上で2007年7月23日に公開された。(2019年11月時点でまだ継続中。)",
"title": "派生サービス"
}
]
| 『KOWLOON'S GATE クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-』は、1997年2月28日にソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) (SME)が発売したアドベンチャーゲーム。 | {{コンピュータゲーム
| Title = ''KOWLOON'S GATE<br/>クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-''
| Genre = [[アドベンチャーゲーム]]
| Plat = [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] (PS)<br />[[ゲームアーカイブス]] (GA)
| Dev = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)]] (SME)
| Pub = '''初回版・通常版:'''[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)]] (SME)<br/>'''ARTDINK BEST CHOICE:'''[[アートディンク]]
| artist = 井上幸喜
| Play = 1人
| Date = '''初回版・通常版:'''1997年2月28日<br />'''ARTDINK BEST CHOICE:'''2000年10月5日<br />'''GA版:'''2010年4月14日
| Media = [[CD-ROM]]4枚組
| etc = '''企画・脚本・監督:'''[[木村央志]]<br />'''キャラクターデザイン:'''井上幸喜<br />'''音楽監督:'''[[蓜島邦明]]
| Rating = {{CERO-C}}
}}
『'''KOWLOON'S GATE クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-'''』は、1997年2月28日に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)]] (SME)が発売した[[アドベンチャーゲーム]]。
== 概要 ==
[[九龍城砦]]をモデルとした「九龍城(クーロンじょう)」が舞台のアドベンチャーゲーム。この世と対なす別世界「陰界」から突如出現した九龍城の風水を正し、世界の崩壊を防ぐことを命じられた「超級風水師」を主人公とする。キャッチコピーは「'''常識は、今のうちに捨てておいてください。'''」<ref group="注">他にも「ガイドブックに載せられない香港が、ある。」「入口はどこにでもある。」などが広告に使われていた。</ref>。
PlayStation初期タイトルとして、PS発売以前からプロモーションムービー等が公開されていたものの、開発の遅れによって発表から発売までに4年以上の歳月を費やした。
2010年4月14日から2013年4月10日の間、[[PlayStation Portable|PSP]]/[[PlayStation 3|PS3]]用[[ゲームアーカイブス]]として[[PlayStation Store]]で配信。2015年9月16日より[[PlayStation Vita]]に対応したほか、初回版のブックレット(デジタル版)が付属して再配信されている。
2017年10月26日には、ジェットマンから本作の前日譚にあたる[[PlayStation VR]]専用ソフト『'''クーロンズゲートVR Suzaku'''』が発売され<ref>{{cite web|url=https://www.4gamer.net/games/363/G036300/20171026070/|title=「クーロンズゲートVR suzaku」が本日配信を開始。PlayStationの奇作「クーロンズ・ゲート」の世界観をVRで再現|work=4gamer.net|date=2017-10-26 |accessdate=2023-10-10}}</ref>、2018年10月2日にはOculus Go版『クーロンズゲートVR Suzaku』が発売された<ref>{{cite web|url=https://www.moguravr.com/kowloons-gate-vr-go/|title=【Oculus Go】「クーロンズゲートVR」の世界を体験できるGo向けアプリが配信|date=2018-10-02|accessdate=2018-10-06}}</ref>。
2019年11月10日には次世代版続編『'''クーロンズリゾーム'''』の製作が発表された<ref>{{cite web|url=https://dengekionline.com/articles/17551/|title=『クーロンズゲート』の次世代版続編『クーロンズリゾーム』始動|work=電撃オンライン|date=2019-11-12|accessdate=2019-12-21}}</ref>。
本作の主要メンバーは後に有限会社「是空」を立ち上げ独立した(現在は解散)。
== ストーリー ==
まだ中国に[[香港返還|返還]]される前の1997年5月の[[香港]]。主人公は香港最高[[風水]]会議の超級風水師である。物語は、既に存在しない[[九龍城砦|九龍城]]が姿を現したことを発端とする。
現世である「陽界」とは表裏一体の世界「陰界」が存在する。この九龍城は陰界のものであり、それが突如として陽界に出現したのだ。どうやら原因は、陰界において[[四神|四神獣]]の見立てが行われていないことにあるという。そのため気脈の流れが乱れ、最も邪気に歪んだ九龍城が陽界に姿を現してしまった。陰と陽が不用意に交わるようなことがあると、世界の存在自体が意味を失って消滅しかねない。5月22日、主人公は陰界に風水を起こすべく、九龍城の入り口となる龍城路へと送り込まれた。
ただでさえ陽界とは価値観や法則の異なる陰界で、しかも最も歪んでいる九龍城では常識などまるで役に立たない。主人公は九龍城にて奇妙にして奇怪な人々、出来事の数々に見舞われる。龍城路の奥の胡同で鏡屋を救出した主人公は、「九龍フロントに行ってはどうか」という提案を受ける。九龍フロントにて気功塾の経営者であるウェイと出会い、陰界の龍脈についての情報を得る。九龍城は四つの龍脈すべてが集まる場所であり、龍脈が乱れた現在、この九龍城のみが陽界に現出したのもそれが関係しているという。そして龍脈の一つ「青龍」は木彫りの仏像に姿を変えているという。九龍フロントで様々な路人に振り回されるうち、主人公は季弘という質屋から引替札を差し出される。季弘は小黒という人物から古い暦の本についての依頼を受けていたらしいが、主人公は小黒という人物を知らない。小黒が居るとされる龍城飯店というホテルを訪れ、主人公を迎えたバーテンダーのリッチは主人公が手にしていた引替札の存在に気づき、小黒の居場所を教えた。すると「私なら、ここよ」という声と共に、2階から1人の若い女性が降りて来た。彼女が小黒だった。小黒は2年ほど前から九龍城に現れ、龍城飯店で手伝いをしたりしながら暮らしていたが、最近見るようになった予知夢をきっかけに、生き別れの姉捜しを始めたという。一方、九龍城では「蛇老講」またの名を「オールド・スネーク」という秘密結社が双子を集め、「鳴力」という能力を覚醒させて何かを企んでいるらしい。もし小黒が双子だったら彼らに目をつけられるのではないかとリッチは心配していた。
主人公はさらに調査を進めるうちに、スネークと敵対する組織「是空」の使者である紅頭達と出会い、協力を求められる。やがてスネークの目的が、双子を利用して「眠れる龍」を目覚めさせ、不老不死を得る事だと判明する。調査を続ける主人公は、小黒を気に掛ける女性コニー楊、小黒が相談していたという夏先生、龍津路一のべっぴんと評判の男性アニタ・ドールなど様々な人々と関わりつつもミスター・チェンや媽妃と言ったスネークのメンバーに目を付けられ、そして小黒も持ち前の行動力で姉を探すうちに九龍を渦巻く陰謀と混乱に巻き込まれていく。また、陰界では四神獣の見立ては地形では無く、宿命を受けた人間で行う必要があった。その一人が10年前に白虎の龍脈を探していた風水師であり、アニタ・ドールの兄であるスイジェンだった。彼はスネークの策略で封印されており、解放するには封印石を全て破壊するしかないが、その封印石がどこにあるのかは分からなかった。
小黒が会いに行くと言っていた怪しげな陰陽師を訪ねた主人公は、凄まじい勢いで畳み掛けられて彼の開発したタイムマシン「渾天儀」で清朝の時代に着く。乾清宮では四神獣を見立てる天道式が予定されていたが未だ執り行われず、城には物の怪が徘徊していた。また、前回の天道式では見立てを行うはずの風水師が邪心を抱き、自らを青龍に見立てようとして処刑された。その際に青龍の宿命を受けていた僧侶は自身を木彫りの仏像に変えて邪気から逃れたという。主人公は玄武の宿命を受けた医者の玄太と皇帝を見立てて龍脈を繋ぎ、現代に戻る。
主人公が九龍城に戻ると龍城路の半分が消え、西城路と繋がる異常自体が起きていた。マグネ気や邪気が九龍城を蝕みつつある中、主人公は是空の指導者であったウェイにより、スネークが目覚めさせようとしている「眠れる龍」の正体が清朝で木彫りの仏像に変わった僧侶、およびその青龍の力である事。そして仏像の中にはかつて処刑された邪悪な風水師・妖帝の怨霊が潜んでおり、それこそがスネークを操る黒幕であると明かされる。眠れる龍が目覚めるとき、全ての邪気が不滅となる。スネークの言う不老不死とはこの事だった。やがて小黒の鳴力の覚醒により、彼女はスネークに狙われる。主人公はスネークの幹部・双子師四天王と攻防を繰り広げつつ、小黒を探して九龍城を奔走する。
多くの出来事を経て小黒を保護した主人公は、九龍城が元の世界に戻ろうと崩壊を始める中、リッチの店に戻った。安堵も束の間、爆発音が響き渡り、主人公は小黒をリッチと紅頭に任せて飛び出す。スネークと組んでいた剥製屋を倒した主人公は最後の封印石を崩し、解放されたスイジェンを白虎へと見立てた。しかし九龍フロントに龍穴が開き、街には妄想の嵐が吹き荒れる。その最中、前に大井路で出会った妄人にして、玄太の息子である玄機と再会し、行動を共にする。陰陽師が龍穴の先が1920年の上海だと解明するも、直後に小黒が龍穴に吸い込まれてしまう。主人公は小黒を追って再び時を超え、1920年の上海にある「妄想の島」へと辿り着く。
妄想の島でも天道式の準備が進められていた。蘭暁梅という少女に天道式に使う絵画を運ぶ手伝いを頼まれるが、その絵画は二人の玄機を映し出す。やがて玄機も消えた。主人公は写真の中に小黒を受け止め、彼女の姉の思念と対面する。小黒はこの時代の人間だったが何らかの力で未来に飛ばされた。そして彼女ら姉妹は朱雀の宿命を受けていた。主人公は暁梅の見立てに失敗するが、その力は小黒と姉に受け継がれる。同時に占い師のマダム馮から妖帝の封印に必要な「五岳の図」を授かったものの、現代には戻れなくなってしまった。そこで実はタイムトラベラーだった季弘により朱雀の鏡を譲り受け、現代に戻る。そして小黒との思い出を振り返りつつ、彼女と姉を朱雀へと見立てた。
残る神獣を見立てるべく、響く声に導かれて妄人路へと向かう。妄人中心には人生を歩み直し、宿命を受け入れた玄機がいた。彼を玄武に見立て、いよいよ妖帝に囚われた青龍を残すのみとなった。しかし遂に妖帝自身が動き出し、巨大な異形が姿を現す。「皮肉なことに、私をこの場に導いたのは君自身だ。君は私の生まれ変わりのようだ」。蘇った双子師四天王の口を介して主人公に語りかける妖帝。最後の戦いが始まった。四天王を下し、妖帝の本体を五岳の図で封じる。そして石化が解けた木彫りの僧侶を青龍に見立て、とうとう見立てが完了した。九龍城は香港から消えていき、陰陽二つの世界は元の場所に戻った。しかし決して離れた訳ではない。互いに交わる事なく響き合い、ひとつの秩序を生み出す。主人公は摂理を歪める邪悪を払い、二つの世界を救ったのだ。
しかし主人公は陰界に居た。崩れ去った九龍城の瓦礫の間を歩いていると、何故かそこに暁梅が現れた。主人公に気付いて駆け寄る暁梅だったが、突如として現れた異形の腕に掴まれて消えていく。後には異形から落ちた腕の一本が不気味に残るだけだった。
== 世界観 ==
=== 陽界と陰界 ===
「陰界」とは、「陽界」である現世とは表裏の関係にある世界。同一時間軸上に存在するが決して互いに交わることも、離れることもない世界の事で、一種の[[パラレルワールド]]にあたる。陰と陽が不用意に交わる状態が続けば世界はやがて意味を失い、消滅してしまうとされる。陰界では香港を超えた文化の混合が起きており、作中の名詞は[[広東語]]、[[北京語]]、[[英語]]など多様な言語が混ざり合った表記となっている。
=== 妄人と鬼律 ===
気脈の流れが乱れて邪気に満ちた九龍城では、[[妄想]]に邪気が取り付くことによる異常事態が頻発しており、その最も極端な形が「妄人(ワンニン)」と「鬼律(グイリー)」である。
;妄人(ワンニン)
:「物」に執着しすぎた人間の妄想に邪気が取り付いた結果、存在の半分が執着する「物」自体になってしまった人間。
:鍵穴からのぞくことに喜びを感じていた男が妄人となった「鍵穴男」や、ボイラーが好きだった男が妄人となった「ボイラー男」などがいる。
:半分「物」となってしまった彼らにとって唯一人間らしさを保ち続けることができる行為が「妄想すること」であり、妄想することをやめたとき、彼らは完全に「物」となってしまう。彼らはそれを自覚しており、完全に「物」となってしまわないようにするために、妄想することをやめることができない。
:元々妄想好きな(妄想がユニークな)人間ほど邪気の影響で妄人化し易いが、作中の時期には妄想を全くしない人間ですら妄人化する事態が発生しており、主人公も戦闘に敗北する事で即座に妄人化してしまう。
;鬼律(グイリー)
:鬼律は妄人とは逆に、物に邪気が入り込み意思を持ったものであり、日本で言うところの「[[付喪神]](九十九神)」というものに近い。鬼律は邪気を放ち、それに当たることで「気力」を完全に失った人間は妄人になってしまう。一般的なRPGにおける雑魚モンスターと中ボスに相当する。
:鬼律は、鬼律になる以前の物であったころの姿の面影を残している。彼らを物に還す方法は、宿った邪気に相克する邪気をぶつけるか、邪気そのものを吸い取ることである。
;胡同(フートン)
:リアルタイムダンジョンの舞台。元々は「路地」を意味する言葉だが、九龍では複数の建物が歪みながら繋がり、気脈の乱れによって邪気が充満してしまった空間をこう呼ぶ。あちこちに鬼律が蔓延り、彼らの放つ邪気に満ちているため、生身の人間が立ち入ることは非常に危険である。
=== 双子と鳴力===
本作において、双子の不思議な共鳴は鳴力と呼ばれており、奇跡を起こす不思議な力として人工的に双子を作るプロジェクトも存在している。
;鳴力(ミンリー)
:離れたところに居る双子同士がお互いに呼び合う特殊力のこと。
;老力(ロウリー)
:双子たちの鳴力を高め続けた結果、より大きな力となったもの。但し、九龍では未だ老力が現れる兆候は無い。
;假鳴(ガーミン)
:仮初の鳴力。スネークが無理矢理覚醒させて管理している鳴力は実際はこの假鳴である。いくら高いレベルに引き上げても双子同士が感応することは無く、一方的に力を吸い取られるのみ。スネークに利用されている双子は假鳴によって片割れではなく「眠れる龍」と感応させられており、無自覚に力を吸い取られている。
;プロジェクト扶起(プロジェクト・フーキ)
:双子を安全に正しく鳴力の覚醒に導くプロジェクト。命名は紅頭5号。鳴力に覚醒し始めた双子は不安定な状態が続くため、その間に邪気に憑りつかれるなどの問題を回避すべく指導するというもの。だが実際はオールド・スネークのような鳴力を悪用する者達の横取りを防ぐ目的が大きい。
;双子政策
:オールド・スネークが進めている政策。鳴力を集めて「眠れる龍」を目覚めさせ、不老不死の奇跡を起こす事を目的とする。双子の数を増やす事が重点に置かれており、双子中心内部では何らかの方法で人工的な双子を作っているとされる。当初は作られた双子のことを「新童(サントン)」と呼んでいたが、現在では双子は皆新童であるため、この呼び名は使われていない。
;おはじめ式
:双子を作ることを決心した者が参加する儀式。双子政策の意義と鳴力訓練に向けた心構えをビデオで上映し、次に鳴力上達者達との共振によって鳴力を疑似体験する。ここで見込まれた参加者は後にセミナーにも参加できる。開催日は不定で、ネット上にて会員に突然アナウンスされる。但し、これによって発生させられるのは本当は鳴力ではなく假鳴である。
;眠れる龍
:目覚させめれば不老不死の力が得られるとされている存在。オールド・スネークは双子政策によってこの龍に力を与え続け、覚醒を試みている。その正体は清朝の天道式で見立てられるはずだった僧侶の持つ青龍の力であり、「眠れる龍の目覚め」とは妖帝の復活を意味する。
=== 風水 ===
;地理風水
:大地に眠る力を呼び覚まし、都市の案寧を図る風水術。自然の地形を神獣とみなし、その守りを得ることで永遠の平安をもたらす万古不易の方術。北方の大山に[[玄武]]を、それより連なる東方の山並みを[[青龍]]とみなし、南方の湖沼や海、あるいは弧峰を[[朱雀]]、西方の大道を[[白虎]]とみなす。地形を神獣とみなす「神獣の見立て」はしかるべき経験を積んだ風水師の手によってのみ行われる。見立てに成功すると神獣からは[[龍穴|龍脈]]が生じ、その都市に永遠の泰平が訪れる。龍脈はある種のエネルギー(或いは電流)ようなものとして考えられ、龍脈を遠方に導く目的で、中継・増幅のための寺院が建立されることもある。
:但し、このように地形を神獣に見立てるのはあくまで陽界のルールであり、陰界では各神獣の宿命を背負い、力を受け継いだ人間を「[[風水羅盤|超級羅盤]]」によって神獣へと見立てなければならない事が明らかになる。見立てを受け、神獣として超級羅盤に宿るという事はその人物の生の終わりを意味するため、当人が見立てを拒む・躊躇うケースも当然有る。
;龍脈・気脈
:体の中を血液が循環しているように空間にも存在する[[気]]の流れ。本作では建物内の気の流れを「気脈」、神獣から生まれる大地の気の流れを「龍脈」と呼ぶ解釈を採択している。気脈の著しい乱れはその場所に「邪気」を生み、生命を脅かすこととなる。建物の形状でも気脈は歪むため、正しい形状で気脈の流れを確保すれば良いが、それは建物を建てる前に計画されていなければならない。対処療法的な方法として八卦鏡という鏡を使って悪い気脈を跳ね返し、良い気脈を呼び込む方法があるが、鏡の角度のずれで逆に気脈を悪化させてしまう恐れもある。或いは鬼律など邪気を放つ原因を除去する事でも解決できるが、再び邪気の源が現れれば同じことである。最も確実な方法は地理風水によって龍脈を呼ぶことで、不正合な建物の中で多少の気脈の乱れで、すぐに邪気が生まれることもなくなる。
;邪気
:気脈の乱れで生じる悪しき気。人や物に憑りついて様々な害悪を齎す。「木火土金水」の五属性を持ち、相克する属性の邪気をぶつけると相殺される。
;七宝刀
:風水師の武器。刀として直接使う事は出来ないが邪気を蓄える事と放つ事が可能で、核物質のように人間を蝕む邪気を持ち運ぶ容器として用いる。5属性のどれでも蓄える事が出来るが、ため込める邪気は1属性に付き1つのみ。但し、邪気を多く蓄えるほど所持者への負担が大きく、5属性全てが揃うと邪気は完全な状態となり、それを持つ者の生命を即座に脅かす。代用品の「八宝刀」も存在するが、こちらは鬼律から邪気の吸収する事はできず、予め蓄えていた邪気を放つのみ。
;ファイアの日
:小黒が夢の中で「姉と出会える日」と聞いた日であり、陰陽五行の暦日。陰陽の暦では日付を木火土金水の五つに割り振られるため、ファイア=火の属性の日である夏だと思われていたが、だとしても細かく分類されるため結局は不明であった。後に小黒の母の形見のブレスレットに刻まれた「戌」と「子」の二文字をヒントに1997年5月22日、即ち劇中の日である事が判明する。また、1850年と1920年の同日も同じくファイアの日である。
:「ファイア」の意味は、雷のように激しい炎を指す「霹靂火(へきれきか)」であるとのこと。
=== [[九龍城砦|九龍城]](クーロンじょう) ===
陰界より現れた建造物にして巨大[[スラム]]街。陽界においては既に取り壊されているが、陰界においては四神獣の龍脈が全て通じていながら最も邪気に歪んだ場所として未だ存在し続けており、突如として陽界の香港に出現した。ゲーム中では全体像は殆ど見えないが、陽界の九龍城砦に加えて下部にも無造作に増築されて絡み合い、陽界に出現した状態ではアンバランスな塔の様相となっている<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p79</ref>。本作のキャッチコピーの通り、この街ではあらゆる概念が常軌を逸しており、陽界である現世の常識は悉く通用しない。本作はこの陰界の九龍城を舞台として展開される。
尚、現実には「[[九龍城]]」とは九龍城砦が存在した地域で、[[九龍城区]]の一部を指す。
==== 龍城路(リュウジョウロ)====
主人公が最初に足を踏み入れる町。現実の九龍城砦のイメージを色濃く反映した、暗く狭く薄汚れた道が続く。九龍フロントに比べると狭いが物語が進むと地下道へ入る事が可能となったり、また最も多くの胡同があるところである(ただし各胡同は全体的に繋がっているために胡同内部のマップは同一)。主人公に協力をしてくれる鏡屋や錠前屋、エビ剥き屋の子供がおり、[[体験版]]ではここと重慶花園の探索がプレイできた。モデルは九龍城砦の代表的な通路の龍城路(ロン・セン通り)<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p85</ref>。
; 重慶花園(チョンキンガーデン)
: 龍城路のエビ剥き屋奥から入ることのできる胡同。順列的に最初に主人公が入り込む胡同となる。
; 富善苑(フーシンコート)
: 龍城路地下の奥から入ることのできる胡同。
; 庇利路(バイレイロード)
: 龍城路の水銀屋奥から入ることのできる胡同。
; 沙角(シャーコック)
: 龍城路の鏡屋とビン屋の間にある胡同。なんでも金で解決する場所。
==== 九龍フロント ====
九龍城の中心地のような風情がある比較的巨大な町。九龍城では最も賑やかな繁華街だが、同時に裏社会に繋がる部分も多い。中央には巨大な[[ネオンサイン|ネオン]]塔があり、良く見ると各店の看板内容まで読み取ることができる。双子屋、龍城飯店、[[陰陽師]]の[[研究所|ラボ]]など物語でも重要なポイントがいくつかあったり、小黒やウェイらとの出会いの場でもあったりと実質的な九龍城及び物語の中心部となる。この九龍フロントと繋がる胡同は妄人路のみだが、他の街への入口がいくつか存在する。実際の九龍城砦には存在しないが、表通りに面した一帯には同様に店舗が立ち並び、賑やかな雰囲気の通りがあった<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p87</ref>。
; 妄人路(ワンニンロ)
: 九龍フロントの龍城飯店の先のT字路を左に、階段を降りたところに存在するエリアで、妄人が多数集うことから妄人路と呼ばれている。入口には番人がおり通常は入ることができない。正確には故同ではないが、ゲーム上は他の故同と同じくリアルタイムダンジョンとなっており、鬼律も出現する。
: 馬山童(マーシャンタン)という老人の頭の中にある世界であるがゆえに、妄想が尽きることが無い場所とされており、妄娘(ワンニャン)という妄想の権化によって妄想を供給されている。深部には妄人中心がある。
: 中盤で一度訪れるが、本格的な探索は最終盤になってからであり、本作のラストダンジョンにあたる。ナビの管轄外であるため一人で進まなければならないが、規模は他の胡同よりも圧倒的に小さく、道もほぼ一本道で迷う心配は無い。しかし鬼律は複数属性を持つものばかりである。
==== 龍津路(リュウシンロ)====
[[劇場]]を中心として繁栄しているため、人々の心は他の地域の住民と比べると活気があり、街の雰囲気も華やかである。その一方で、既に閉鎖した劇場や過去の栄光を懐かしむ者達など、過ぎ去りし時代への哀愁も漂い、華やかさと退廃さが同居する街でもある。故に九龍城でも邪気の影響が強く、「ディープ」とも呼ばれる。二つの劇場が存在するがどちらも胡同と化してしまい、龍津路の人々は「[[おがくず|オガクズ]]」を集めて胡同内部にある封印石を崩してしまえば鬼律は消え去るというこの町の[[風水師]]であるスイジェンの言葉を信じて協力し合っている。モデルは九龍城砦最古の街道・龍津路(ロンチュウ通り)<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p91</ref>。
; 天堂劇場(ティントンシアター)
: 龍津路の地下にある劇場。元々は人々を封印石に近づかせないようにするため、スネークが得利会館(ダクレイホール)という古い劇場の上に強引に建造した。かつては街のランドマークとして賑わったが、現在は鬼律が徘徊する胡同になってしまっている。
==== 西城路(サイジョウロ)====
中央に巨大な麗虹(ライフン)という川が流れている町。川と共に生きている人々が住んでいる。閑散とした雰囲気だが以前は売薬で栄えており、現在でも寂れているとは言え[[漢方薬]]の原料を売る店が軒を連ねる。昔は大井路と繋がっていたらしいが現在は塞がっている。住民がブリッジと呼んでいる鵲橋(ジャクキョウ)という橋が架かった先は海明大廈(カーメルマンション)という大きなマンションがある。今は行く事ができないが、麗虹のほとりには[[死体安置所|モルグ]]への入口があり、その更に奥には馬山童が住む神龍廟がある。モデルは西城路(サイ・シン通り)だが実物は敷地の西端にあり、東端の龍城路と対になる街路だった<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p95</ref>。
; 気海・黄堂・泥丸
: 総じて一つの西城路の胡同。元々は水路で、それぞれの胡同は複雑に絡まっている。これらの胡同は[[丹田]]の名称がつけられており、人の身体の部分を意味したものになっている。水門の操作室は元々はチャンピオン号(声 - [[中田譲治]])という小さな貨物船の操縦室だったものを改造している。
==== 大井路(オオイロ)====
町は大井路と小姐路(シウジェロード)とに分かれており、二つは「妖精さんの転送小屋」にてワープして行き来することができる。大井路は様々な医者がそれぞれの医院を開いており、小姐路は小姐窟(シウジェクツ)という夜總会(ヤソウカイ。[[ナイトクラブ]]の意)などがある歓楽街となっている。この二つの町それぞれに入口がある巨大胡同も存在する。モデルとなった大井路(タイ・チェン通り)は医療の町ではなく大きな井戸がある街だった<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p99</ref>。また、小姐路という地名は実在しない<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p101</ref>。
; 維多利亜大廈(ビクトリアマンション)
: 大井路からは二つの入口から入れる胡同。規模だけではなくその階層も地下地上共に複雑で入り乱れ、ナビの助けがなければ全て踏破する事はほとんど不可能。この維多利亜大廈はさらに奥にある美羅花園(メトロガーデン)という建物と繋がっている。
==== 光明路(コウミョウロ) ====
陰界の九龍城の一街区だが、今回の事件では陰界に取り残されており、作中には登場しない。事件後は陰界より漂流を開始している。公園や商業地区が集まるメインストリート・太子道(プリンスロード)。廃墟や宗教施設が集まる旧市街。街はずれには光明劇場。街を見下ろせる高台・老街など、様々なブロックを持つ<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p189</ref>。次回作『クーロンズリゾーム』はこの街が舞台となる。実際の九龍城砦にも光明街(クン・ミン通り)という通路があった。
=== 別の時代 ===
==== [[清|清朝]](シンチョウ)====
物語が進む中で登場する、陰界の[[1850年]]代の中国。[[紫禁城#内廷|乾清宮]](ケンセイキュウ)には[[道光帝]](ドウコウテイ)と呼ばれる人物がおり、城下を治めている。実在の乾清宮の外は紫禁城の敷地が広がっているのだが、本作(陰界)では城下町となっている。
==== [[上海市|上海]](シャンハイ) ====
物語が進む中で登場する[[1920年]]代の中国で、「妄想の島」と呼ばれる島が舞台。実はこの妄想の島は陰界から突き出た[[出島]]のようなものであり、陽界に存在している<ref name="archive169">『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p169</ref>。胡同は存在しないが、この島の住人達が暮らすバンドー大廈(マンション)は階段が複雑に絡まり合う[[マウリッツ・エッシャー|エッシャー]]的空間を特徴とする、繊細で狂気的なJPEGダンジョンとなっている。
島の持ち主はフランス人の実業家で、かねてより島中に不思議な仕掛けを張り巡らせていると評判だった。当時はその実業家の名前を取って「ランベール島」とも呼ばれていた。
==クーロネット==
九龍内で展開している電子ネットワークサービス。電子メールの受信、データベースの閲覧、ナビの雇用などが行えるが、利用にはアクセスカードが必要。アクセスは随所にある端末から行う。端末は郵便ポストに似た「街頭端末」の他に「家庭用端末」が存在する。端末ではゲームのセーブが可能で、これはアクセスカードが無くても行える。
;[[リゾーム]]
:会員制のリアルタイム[[チャット]]。ネット会員達がお喋りに興じる。参加している会員はいずれも鳴力覚醒に励む双子だと言う。「リゾーム」とは脈絡なく広がる地下茎のこと。次回作『クーロンズリゾーム』ではタイトルになっている通り中心的な役割を果たす<ref name="foodblog">{{Cite web|url=https://knoffice.wixsite.com/rhizome|title=クーロン続編新作を制作~クーロン2プロジェクト~|accessdate=2021-06-4}}</ref>。
;ハッピーアワー
:広告専門チャンネル。陽気なBGMや宣伝文句で妙な商品を紹介している。
;生体通信
:無意識化に作用する呪術的な通信手段。使用者の覚醒度に応じて意識下に直接語り掛ける。使用者は[[トランス (意識)|トランス状態]]となり、脳内交信を行う。チャット相手の覚醒度が高いと「進入」状態となり、未知のイメージが増殖する。一種の[[薬物|ドラッグ]]的な効果があり快感を感じる者もいるが、リッチ曰く「頭が壊れてしまう奴が多い」らしく、中にはどこかに消えてしまったり、現実に帰れなくなる者もいる。終盤には転送装置のような役割を果たす。
== 登場人物 ==
=== 香港最高風水会議 ===
; 主人公(超級風水師 - ちょうきゅうふうすいし)
: 本作の[[主人公]]。香港最高風水会議に召喚され、陰界の風水を正すことを命じられた超級風水師。説明書には「若く優秀な風水師」とあり、作中の台詞・テキストからは少なくとも男性であることが読み取れるが、実際のイメージはプレイヤー各人の手に委ねられる。プレイヤーの分身であり、物語は終始彼の目を通して語られる。
: 最終的に妖帝を再び封印し、風水の見立てを終えた事で陰陽の世界を救うが彼自身は陽界に戻る事は無く、エピローグで歩く場所も陰界の崩壊した九龍城である<ref name="archive169"/>。
: 第一稿では「ワイルドスワン」という仮名が付けられていた。由来は[[ワイルド・スワン|同名の書籍]]から<ref name="twitter_list">[https://twitter.com/kgproject4/status/1493842583587409924?cxt=HHwWiMCikcj6mLspAAAA] - Twitter クーロンズリゾーム公式アカウント</ref>。
; 愛萍(アイピン)
: [[声優|声]] - [[山下亜美]]
: 香港最高風水会議より、超級風水師をサポートするよう依頼された女性。主人公に気脈の歪みを見る事ができるアイテム「風水スコープ」を授ける。
=== 陰界の住人達 ===
; 小黒(シャオヘイ)
: 声 - [[野中希]]
: 本作の[[ヒロイン]]<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p17</ref>。九龍フロントにある「龍城飯店」<ref group="注">香港ではホテルを「酒店」と表記するが、文化の混合が起きている陰界の九龍では「飯店」となっている。</ref>という小さなホテルの2階に暮らしている美女。24歳。2年前にひょっこり九龍フロントへやってきて、リッチのバーの手伝いをしたりウェイの気功塾に通いながら暮らしているが、その出自は誰も知らない。最近、これまで逢ったこともない「姉」が自分の夢に出てくることについて何かを感じている。人並外れた行動力の持ち主で、主人公との出会いを皮切りとして「姉」を探し求めるあまり危険を顧みない行動に出るようになり、陰界の風水を巡る物語に巻き込まれていく。短く切り詰めた黒いショートヘアで、胸元を締め上げたビスチェにボンデージとショートパンツという露出度の高い恰好に、ワークブーツを履いた活動的な軽装。「小黒」とは男児に付けられるべき名前である。
: 物語の途中で真の鳴力に覚醒した事でスネークに目を付けられ、しかしそんな中でも持ち前の行動力でどんどん九龍の深部へと足を踏み入れていき、幾度となくその身を危険に晒しては主人公はその探索に駆り出される。終盤、実は1920年の人間である事と、姉と共に神獣・朱雀の宿命を受け継いでいる事が明らかになる。しかし妖帝の邪悪な力で1990年代に飛ばされ、記憶を失っていた所を九龍フロントに辿り着いた。龍城飯店に開いた龍穴に吸い込まれた後、1920年に先回りした主人公に写真の中へと受け止められ、そこで姉と再会する。最期は暁梅の力を受け継いだ事で姉と共に主人公によって朱雀へと見立てられ、その生涯を終えた。
: 2022年の「クーロン25th Anniv.超級路人祭」にて書き下ろしシナリオ「小黒秘話」が小黒役の野中希によって朗読され、設定の強化が行われた。それによると、1919年6月8日、姉と共に父の誕生日祝いとしてランベール島(妄想の島)への旅行をプレゼントしたのだが、島に向かう途中に船が霧に呑まれて行方不明になり、姉と父は発見されたものの助からず、たまたま漁船に助けられた小黒だけが生き残った。その後は父方の叔母の家に引き取られたが、やがて未来の陰界に飛ばされる。着いた先は1995年の5月であり、気が付いたら海鮮中心の粥屋の丸椅子に座っていた。その後、あてもなく町を彷徨ううちに龍城飯店に辿り着き、そのまま成り行きでバーの手伝いをすることになった。父が死ぬ前に「黒(ヘイ)」という名字を名乗って{{efn2|中国では「黒」「難」「毒」「老」「死」は縁起の悪い名字とされ、父が彼女に安易に人を近づけないようにしたのではないかと推測される。}}からは「黒」として生きていたが、九龍に来てからは同世代や目下に用いられる愛称の「小(シャオ)」を付けて呼ばれるようになり、いつしか「小黒」と名乗るようになった。本当の名前は本人も覚えていない。しかし彼女が何故、如何にして1995年の陰界に飛んだのかその詳細は未だ謎に包まれている。
; リッチ
: 声 - [[鈴木英一郎]]
: 「龍城飯店」1階にあるバーのマスターをしている男性で、左目に眼帯をしている。スキンヘッドの頭には[[入れ墨|タトゥー]]がある。小黒を妹のように思っており、「姉の夢」について調べまわる彼女を心配している。現実的で冷静な態度を取る。実は案内屋を仕切っており、クーロン・ナビは彼の部下であることから、陰ながら主人公を支援していた事がうかがえる。[[シェイカー (調理器具)|シェーカー]]フェチという一面があり、それを自覚しているが故に邪気に憑りつかれる事を危惧し、胡同の浄化を求めている。徐々に主人公にも信頼を寄せていくが、最後は九龍フロントに吹き荒れた妄想の嵐によってシェーカーの妄人と化してしまい、それまでとはまるで別人のような振る舞いをしながら去って行った。
:「小黒秘話」によると龍城飯店は支配人が行方不明になって以来、ホテルとしては休業状態であり、部屋が使い放題ということもあって小黒が居候していた。バーもテーブルや椅子は積まれ、ほぼカウンターだけで営業しているような状態であり、客も近くの商店主がほとんどであった。
; ウェイ
: 声 - [[小杉十郎太]]
: 九龍フロントで[[気功]]塾を営む人物。実はオールド・スネークに対抗するレジスタンス「是空」のリーダー。35~36歳。「紅頭(ホントウ)」と呼ばれる特殊な能力を持った少年達を率いており、主人公に協力する。冷静に状況を分析し、組織を運用する一方、必要とあらば自ら率先して行動する事も辞さない。リッチとは連絡を取り合う仲。終盤には妖帝を倒す手掛かりを求め、ゲームキッズと共に清朝の時代へとタイムスリップして以降の動向は不明。
; ゲームキッズ
: 声 - [[佐々木るん]]
: 九龍フロントの[[ゲームセンター]]「遊戯中心」のゲーマー少年。神出鬼没で機械やネットに詳しい。実は姿を見せずデータベースを介してしか接触してこなかった紅頭5号の正体である。最後はウェイと共に清朝へとタイムスリップする。主人公には暴走した妄娘を倒す手段として、自身がゲームで倒したモンスターデータを収録した[[Read only memory|ROM]]を残していった。
; 紅頭(ホントウ)
: 声 - [[佐久間なつみ]](1号) / [[甲斐田ゆき]](2号) / [[愛河里花子]](3号) / [[向殿あさみ]](4号)
: 是空の使者である[[サイキッカー]]の少年達。1号から5号まで居る。各地で諜報活動を行い、主人公をサポートする。最終局面では小黒の護衛をしていたものの、龍城飯店に開いた龍穴に飲み込まれてしまい、5号であるゲームキッズを除いて消息不明になる。
; 季弘(リー・ホン)
: 声 - [[松尾銀三]]
: 龍城飯店の前で主人公が出会った質屋。骨董品を集めてくる事が専門で、この街の物やこの時代の物には全く興味はなく、持ち込まれても金には換えない。実は1920年代と1990年代を行き来する[[タイムトラベル|タイムトラベラー]]である。小黒が過去の人間である事も見抜いていたが、彼女が1990年代で生きようとしているように思えて敢えて告げなかった。最後は主人公を現代に戻すべく「朱雀の鏡」を渡し、自身は1920年に留まる。
; 陰陽師
: 声 - [[青野武]]
: 呼び名こそ[[陰陽師]]だが、外国から来た呪術師にして科学者であり、[[タイムマシン|時空を超える道具]]「渾天儀(こんてんぎ)」を所持する。腕は確かだが、そそっかしい人物。
: なお、過去の世界にも彼と容姿がそっくりな先祖が存在する。
; 張魯(チャン・ルー)
: 声 - [[目黒裕一]]
: 鳴力に覚醒した双子の片割れで、スネークの幹部・望師(ワンシー)。是空のスパイであり、スネークの極秘情報を流していたのだが、急に連絡が途絶える。その後、弟の張陵が双子中心に監禁されている事を知ると救出のために現れ、婆童と戦っていた主人公に加勢するが、双子師四天王によって弟共々、医療鋏の妄人にされてしまう。終盤、妄人路で主人公と再会する。
; 張陵(チャン・リン)
: 声 - [[田窪一世]]
: 張魯の弟。夢で兄の存在を感じ始め、電脳中心の「戦闘宇宙海賊」というゲームに兄の姿を見出す。後に張魯を誘き出す人質としてスネークに監禁され、最後は兄と共に医療鋏男と化して妄人路に送り込まれる。離れ離れだった兄とようやく再会したのも束の間、医療鋏となった事で兄と向かい合う事ができず、近付いたり離れたりを繰り返すだけという皮肉な姿になってしまう。
; スイジェン
: 声 - [[速水奨]]
: アニタ・ドールことツイジェンの双子の兄である風水師。10年前に四神・白虎を見立てるべく龍脈を探していたが、現在は行方不明。実は自身が白虎の宿命を背負う人間であり、見立ての阻止を目論んだスネーク(妖帝)によって石に封じ込められていた。自身の宿命を受け入れた上で行動していた勇気のある人物であり、主人公の前に度々現れては自分を見立てるように懇願する。最後は主人公によって白虎への見立てを受ける。
; コニー楊(コニー・ヤン)
: 声 - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
: 小黒の意識に語りかける女性。幾度となく主人公に助言を送ってくるが、媽妃によってバッグの妄人にされている。やがて大量の妄想によって醜く変形しながらも小黒の身を案じ、媽妃を倒すための助言を主人公に送り続けるが、最期は助けに来た小黒の目の前で絶命してしまう。
; 玄機(シャン・ジー)
: 声 - [[千葉繁]]
: 大井路で問診屋をしている液状の妄人。大人と子供が混在したような独特の喋り方が特徴。妄想をいくらでも吸収できる体質のため、妄人路にいなくても平気との事。実は玄太の息子であり、父と同じく玄武の見立てを受ける宿命にある。しかしそれを拒絶し、妄人化していた。終盤は主人公と行動を共にし、1920年に飛ぶが、そこで[[年画]]の姿となり、本来の運命を歩むはずだった自分と対峙する。その後、小黒の姉の説得を受けて妄人となった過去へと飛び、それ以降の自身の人生を歩み直した後に見立てを受ける決意をする。最後は妄人中心にて主人公の前に現れ、静かに玄武への見立てを受け入れた。
; 夏先生(シャせんせい)
: 声 - [[寺島幹夫]]
: 自らの内に陰と陽を宿してしまった賢者で、姉を探す小黒の相談に乗っていた。しかしそれを切っ掛けに胸中に生まれた邪念を妖帝に付け込まれ、マグネ気によって対抗していたもののやがて邪気に取り込まれ、小黒に化けて主人公と敵対してしまう。それでも僅かに残った正気を振り絞り、主人公にメッセージを送っていた。最期は「光明の眼」による真実の光によって焼き尽くされた。
; 山高帽男
: 声 - [[櫻庭裕士]]
: 英語交じりの独特な口調で話す[[山高帽]]と[[モノクル]]を身に着けた紳士。映写機を内蔵した杖を持ち、主人公を未知のエリアへと導く。その正体は愛萍であることがエンディングで明かされるが、ゲーム序盤でもとある事をするとその伏線となる会話を聞くことができる。愛萍とは体格が大きく異なるが、実は山高帽男の姿の時は愛萍本人は体育座りをしている。
;馬山童(マーシャンタン)
:声 - [[山内雅人]]
:神龍廟にある[[山水画]]の中に住んでいる妄人の賢者。妄人路は彼の頭の中の世界であり、妄想が枯れる事が無い。神龍廟を訪れた主人公に妖帝の野望について語る。
:第一稿では陰界の中核のような存在だったが、実際はネームドモブの扱いに留まっている<ref name="twitter_list"/>。
;妄娘(ワンニャン)
:声 - [[小桜エツ子]]
:妄人路に妄想を供給し続けている妄想の権化。その姿は一見、可愛らしい双子の少女の人形だが、実態はグロテスクな怪物である。妄人路に龍脈が繋がった事で吹き荒れた妄想の嵐と、妄人路内での騒動に怒り、暴走してしまう。最後は大量のデータが入ったモンスターROMを喰らい、妄想に飲み込まれた妄人たちを吐き出して消滅した。
; ダミアヌス
: 本編の攻略上、特に行く必要のない場所で待ち構えている謎の人物で、いわゆる「隠しキャラ」と言うべき存在。哲学的とも、此方をからかっている様子とも受け取れる質問を次々投げかけたり、主人公を同じ胡同内の何処かへ強制ワープさせる[[トリックスター]]。時にはマップの外側を歩かせたり、突然ゲームオーバー時の映像を見せると言ったメタ的な演出でプレイヤーを脅かす。終盤には兄のコスマスが登場する。
: 開発陣の次回作『[[プラネットライカ]]』でもコスマスと共に登場している。
; ガタリ
: [[フェリックス・ガタリ]]の名をハンドルネームに用いる謎の人物で、ストーリーを通して主人公に一方的にメールを送ってくる。その含みを持たせた文面は警告とも嫌がらせとも謎掛けとも受け取れ、読み手を混乱させる。その正体は妖帝である。
: 『クーロンズリゾーム』の[[クラウドファンディング]]のリターンの一つはガタリからの[[メールマガジン]]となっていた<ref>[https://twitter.com/kgproject4/status/1321708394554839040] - Twitter クーロンズリゾーム公式アカウント</ref>。
=== 路人 ===
九龍城では住民を「路人」と呼ぶ。「ねじ屋」「びん屋」「えび剥き屋」など、一軒一軒が商売として成立するかも怪しいほどの非常に細かい分業社会となっているが、これは取材時に訪れた香港の様子から極端なイメージを取り入れたものである<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p167</ref>。
; 宗じいさん(ソンじいさん)
: 海鮮中心にある血燕の巣の路地の近くで占いをしている老人。拾ったものを占いに託けて売りつける事でも知られ、アクセスカードを主人公に売りつけ、後にそれを問いただされても要領を得ない態度をとる。店の前には不気味な露天人形(声 - [[牟森]])がある。大事にしている「ばあさん」と、コンピュータ中毒の弟と暮らしているとされる。また、「ばあさん」に美顔薬や海草パックを塗っているらしい。
: 実は「ばあさん」は既に故人であり、美顔薬などを塗るのも腐敗を遅らせる為で、更に蘇生を夢見てブルー・クロウを投与し続けている。しかし結果として最後は「ばあさん」は肉塊の怪物として蘇り、宗じいさん自身も喰われてしまう。
; 宗じいさんの弟
: 声 - [[渕崎ゆり子]]
: パソコン中毒とされる宗じいさんの弟。精神が生体通信に取り込まれており、主人公に何度か交信してくる。画面に映る姿は兄と同じ老人だが口調と声は少年のものである。終盤、宗じいさんの「ばあさん」に意識が囚われた端末ごと飲み込まれる。その後、「ばあさん」と融合した霊師との戦いにて主人公にアクセスされた事で、生体通信を介して霊師を道連れに消滅した。
; チャーリー
: 声 - [[八嶋智人]]<ref name="GameSpark"/>
: 怪しい茸売り。実は手品師であり、鍵開けの名手でもある。奇妙な体の作りだが、それは頭部と胴以外が全て義体だからである。
; 鏡屋
: 声 - [[峯のぼる]]
: 物語の序盤で、事態解決のために胡同へ送り込まれた人物。終始能天気な態度を見せるが、その口調と奇抜な外見とは裏腹に言動は理性的。主人公に救われ、九龍城に来たばかりで右も左も分からない彼に協力する。
: 初登場時には「助けてくれたのか……助かった」という台詞を発するがこれは上がってきた鏡屋のキャラクターのイメージや声優の演技に合わせて書き直したものであり、本来は説明調の整った台詞だった。木村は作中で一番好きなセリフとしており、とあるメディアの記者は「このセリフを聞いた瞬間に『クーロンズ・ゲート』の全てを理解した」と絶賛したという<ref name="25aniv">{{Cite web|url=https://www.4gamer.net/games/534/G053443/20221102032/|title=「クーロンズ・ゲート」の制作秘話が語られたプロジェクト25周年記念イベントをレポート。期待の続編「クーロンズリゾーム」の情報も|work=4gamer.net|accessdate=2023-10-10|date=2022-11-07}}</ref>。
; えび剥き屋の子ども
: 声 - 渕崎ゆり子
: 龍城路の近くのエビ剥き屋にいる少年。早く大人になりたいと考えており、年の割に大人びた性格をしている。剥きエビには退魔の力があるとされ、後に龍城路の半分の消失で店を失った際、主人公に剥きエビを渡しに来た。
; 水銀屋
: 龍城路の住民である全身にケーブルを巻き付けた男。ベロニカという妹が妄人になるのを防ぐため、彼女の全身に[[水銀]]を塗って[[水銀中毒|死なせてしまった]]過去がある<ref group="注">現実でも古代には水銀に永遠の命や美容などで効果があると盲信されていた時代がある。</ref>。
; 爆竹屋
: 九龍フロントに店を構える。爆竹ばかりではなく爆薬作りのプロフェッショナルでもある。以前はよく当たると評判の「爆竹占い」を双子の弟と行っていたが、それ故にスネークに目を付けられ、弟は実験材料にされた挙句にブルークロウで廃人化してしまった。そんな経緯からスネークを、とりわけブルークロウを統括するチェンを恨んでおり、製剤所の破壊に向かう主人公に超級爆竹を託した。
; [[ハッカー]]
: 声 - [[山田隆夫]]
: 主人公が手に入れたアクセスカードの本来の持ち主。アクセスカード無しでも生体通信ができるらしいが、それを実践した結果、精神崩壊してしまう。
; 剥製屋
: 声 - [[谷口節]]
: 九龍フロントの[[剥製]]屋。主人公に三尸(サンシー)という虫の捕獲を依頼する。死肉を組み合わせて人体を作ることができ、ミスター・チェンの体も作った。実は三尸の捕獲は封印石を崩そうとしていたアニタから横取りするためであり、また、玄機と組んで妄人を拷問する事で邪気を集めるなど、裏で悪事を行っている。最後は鬼律の「ユン」と融合し、これまで集めた邪気によって男性器を思わせる異形と化す。永遠の命を得たと思い込んでいたが、生気の塊である踊り子の[[かつら (装身具)|かつら]]を受けて消滅した。
; アニタ・ドール
: 声 - 速水奨
: スイジェンの弟で、龍津路にある天堂劇場の踊り子をしている。男性だが口調や物腰は女性以上に女性的。本名はツイジェン。兄が残した超級羅盤を主人公に託す。
; ブロマイド屋
: 声 - [[北浜晴子]]
: 自らの幸せな思い出に浸る女性。アニタを特に気に入っている。自分を踊り子達の相談役と思っているが、劇場の栄華は過去の話であり、古き良き時代に浸るあまりそこから抜け出せなくなっている。
; グエン・グエン
: 声 - [[林田尚親]](日本語) / グエン・ディン・カム(ベトナム語)
: 出世石を扱う[[ベトナム]]人の写真家。「繁栄と陰」という写真集を出すために取材をしているうちに西城路に迷い込んでしまった。実は1968年の人間だが、何らかの要因で1997年に来てしまった。取材を続けるうちに陰の部分のみに目が行くようになってしまい、出世石も陰を求める力を帯びてしまっている。[[ベトナム語]]しか話せないため、翻訳機を口に装着している。
=== オールド・スネーク ===
正式名称は「蛇老講(ジャロウコウ)」だが専らオールド・スネーク、或いはスネークの通称で呼ばれる秘密結社。「双子屋」「双子中心」と言った施設の運営を行っている。双子の力「鳴力(ミンリー)」を集めて眠れる龍を目覚めさせる事を目論んでいる。
; 双子師(ふたごし)
: オールド・スネークの下層構成員。青白い顔の不気味な仮面をつけ、鳴力を集めるべく暗躍する。「双子屋」での双子登録受付など事務的な作業のほか、街なかの不穏因子を脅して回るなどチンピラじみた仕事もこなす。
; ミスター・チェン
: 声 - [[ケン・サンダース]]
: スネークの手下で、九龍フロントの裏を仕切る男。鳴力を強制的に覚醒させるための強力な麻薬、「ブルー・クロウ」を製造している。その体は剥製屋に作られた生ける屍であり、ブルー・クロウが齎す邪気によって生きながらえている。不老不死を求めてスネークの手下となったが、スネークを出し抜いて不老不死の力を独り占めする事を画策している。亀の首を生きたまま引き千切るなど、その行動や言動は狂気に満ちている。一方、愛人である[[トルソ]]の妄人「美安(メイアン)(声 - [[青木菜な]])」に体を作る事を約束すると言った一面を持つ。老人中心の製剤所で主人公と対決するも、「邪気の鏡」によって邪気を祓われてただの屍へと戻り、破裂した。表向きは街の人々に敬意を持たれているようだが、内心では蔑まれている。
; 媽妃(マーフェイ)
: 声 - 佐久間なつみ
: 双子中心の「おはじめ式」を取り仕切る老女。コニー楊をバッグの妄人にした張本人。元々は双子政策で生まれた新童の双子だったが、姉を取り込む事で妖力を得た。自分の醜い強欲を照らし出される事を何よりも恐れている。甲羅状の胸を開くと、顔に不釣り合いなほど小さく痩せ衰えた本体が姿を現す。小黒の力を奪うべくスネークを離れて独自に行動し、主人公と対峙。自身が始末したコニー楊の手鏡によって醜い欲望を照らし出され、消滅する。
; 婆童(バードン)
: 声 - [[蘭妖子]]
: 媽妃と同じく双子を感応させる媒介者。妖帝の邪気を潜ませた双子の亡骸「童面(タンミン)」と「童頭(タンタウ)」を背負っており、計り知れない力を持つ。セミナーにて張陵の鳴力を強制的に引き出そうとしていた所を主人公に妨害され、「邪気の鏡」で一度は倒されるが、居合わせた双子師の命と引き換えに回復する。しかし駆け付けた張魯の力に抑え込まれ、張魯が四天王に倒されると童面と童頭を出現させた異形の怪物と化して再び主人公に襲い掛かり、最期は主人公に「退魔の札」或いは「剥きえび」で祓われた。
; 老師(ラオシ)
: 声 - [[国井修]]
: 双子師四天王のひとり。高齢らしく、顔には深い皺が刻まれている。西城路にてグエンを拉致し、主人公の持つ命名札と引き換えに取り引きする。その為、老師とのアイテムバトルは命名札を引き渡す形となり、戦闘として勝利する訳ではない。最終局面では復活した他の三人と共に妖帝の傀儡となって現れるが、「命玉」によって生命を宿された[[兵馬俑]]の猛攻によって全員倒された。
; 霊師(リンシ)
: 声 - [[東地宏樹]]
: 双子師四天王のひとりである美男子。顔の右半分を前髪で隠している。終盤、妄人路にて宗じいさんの「ばあさん」を取り込んだ悍ましい姿となって主人公と対峙するが、「ばあさん」が取り込んでいた端末に主人公がアクセスした事で、端末内に囚われていた宗じいさんの弟に道連れにされる形で消滅した。
; 仙師(シャンシー)
: 声 - [[朱花伽寧|天祭揚子]]
: 双子師四天王の紅一点。虚ろな表情の仮面を被っている。玄機を狙って小姐路に現れ、ダンスホールに匿われていた主人公に襲い掛かるが、小黒の助言を受けた主人公にチェンの「バニティーミラー」を投げつけられ、倒された。復活後も生命を得た兵馬俑に倒され、その際に素顔が顕になる。
; 巫師(ウーシ)
: 声 - [[くじら (声優)|くじら]]
: 双子師四天王のひとり。派手なメイクと装飾を施している。女性のようにも見えるが男性。主人公を追って1920年に現れ、小黒の写真を奪い、主人公にも襲い掛かる。しかし、ゲームキッズの助言通り時のお守りである「海原の貝殻」によって時の歪みが正された事で撃退される。
; 妖帝(ヤオディ)
: オールド・スネークの黒幕だが、その正体は清朝の時代に自らを四神・青龍に見立てようとした風水師。悪霊と化し、木彫りの僧侶の中に潜んで現代まで存在し続けており、双子師四天王を操って復活を目論む。肉体を失いながらも、その強大な邪気は現世に干渉し、人間を操る事ができる。一連の異変の元凶であり、本作の[[ボスキャラクター#ラストボス|ラストボス]]。
: 劇中では双子師の身体を乗っ取って主人公に話し掛けたり、ガタリを名乗って何度もメールを送るなどで主人公と接触する。最終決戦では双子師四天王を介して主人公に語り掛け、四天王が倒されると思念体である本体が姿を見せる。最後は「五岳の図」と「退魔の札」によって封じられ、同時に四神獣の見立てが完了した事でその野望は打ち砕かれた。妖帝との最終決戦に敗北するとバッドエンドムービーが流れる。
=== 案内屋(クーロン・ナビ)===
胡同の案内人で、リッチの部下達。複雑極まりなく入り組んだ胡同において、道順の案内の他、偵察や仕掛けの調査、胡同からの脱出などで主人公を全面的にバックアップする。しかし一度に大量の情報を話し、聞き返す事もできないためメモは必須。
; リトル・フライ
: 声 - [[福士恵二]]
: 龍城路のナビ。小型のフライビーグルを自在に乗りこなす小男。自分の身長にコンプレックスを抱いているのか、背の高い帽子を被っている。アヒルのクチバシを思わせるマスクをしており、かったるそうに喋るが協力的。
; ハニー・レディ
: 声 - [[五十嵐麗]]
: 龍津路のナビを務める隻眼の女性。昆虫をモチーフにしたセクシーなコスチュームに身を包み、アクロバティックな動きを見せる。大人の女性を感じさせる冷静で的確な助言を与えてくれる。隠れている顔の右半分は[[ケロイド]]状に爛れており、[[ローヤルゼリー]]を飲んで肌の手入れをしている。
; ミスター・ドープマン
: 声 - [[龍田直樹]]
: 西城路のナビ。[[ドーピング|筋肉増強剤]]で作り上げた強靭な体で、豪快に壁を割り、床を破って現れる。そのマッシブな巨体に反して声は甲高く、性格も陽気。本体は頭部の中に存在し<ref group="注">ゲーム中のムービーでは軟体状の生物だが、設定画では小さな人形が描かれている。</ref>、肉体に見える部分は彼が操縦する乗り物のようなものであるらしい。
; バンブージー
: 声 - [[町田義人]]
: 大井路のナビ。緑色の覆面を被り、左手に装備した鉤爪と竹の棒を駆使して身軽に飛び回る。香港の建設現場で高所鳶をしていたが、怪我のためにナビに転職した過去を持つ。攻撃的な外見だが性格は穏やか。自分のことを無口だと言いながらよく喋る。
=== 物の怪使い ===
鬼律を操る事を生業とする者たち。特定の思想や目的を持たず、他者とも関わらず、ただ生きるためにその能力を使っている。清朝の頃は王室に仕える物の怪使いもいたが、絶対的な権力が失われた現在では流されるまま孤独に存在している。各胡同にて邪気を充満させる元凶であり最深部で主人公を待ち受けるが、いずれも主人公と対面したあとは自ら消えてき、ゲーム的な対決イベントは存在しない。
;テレビゴミ
:声 - [[伊藤英敏]]
:大量の[[ブラウン管]][[テレビ]]が集まって形を成した物の怪使い。元々は沙角の製麺工場跡に存在する妄人だったが、大量に捨てられたテレビが邪気を生み出し、物の怪使いになった。水銀屋の怯えが生み出した邪気を利用し、無数のブラウン管で悪い気を反射させることで龍城路の胡同に邪気を蔓延らせていた。
;シンバル女
:声 - 青木菜な
:その名の通り巨大な[[シンバル]]を携えた女。スネークに雇われ、天堂劇場に迷い込んだ小黒を監禁していた。狂的的に高いテンションと甲高い笑い声が特徴で、主人公を挑発しながら「またしばらくこの世界とおさらば」という意味深な言葉を残して消えていく。
;棺桶老人
:声 - [[千葉耕市]]
:西城路の胡同に待ち構える物の怪使い。その名の通り[[棺桶]]に腰を掛け、頭部はその上に置かれた水晶玉の中に出ている。グエンの出世石を利用して胡同内の鬼律に力を与えていた。主人公に邪気を祓われると敗北を認め、人が最後に行き着く「邪気も妄想も欲望も何もかもが燃え尽きた真っ白な世界」の存在を語りながら消滅した。
;人形使いの少年
:声 - 小桜エツ子
:芸をして生きてきた少年。外見年齢は10歳程度だが性格は大人びており、ニヒルで陰険。あらゆる事に興味が無く、スネークに逆らえないまま維多利亜大廈に邪気をまき散らしていたが、彼らの企みにも関心は無い。常にぜんまい仕掛けの鬼律を抱えている。
=== 清朝 ===
; [[道光帝]](ドウコウテイ)
: 声 - [[川合伸旺]]
: 1850年の清朝を治める皇帝。[[アヘン戦争|阿片戦争]]に敗れて以来、自信を喪失した事で乾清宮に閉じこもっている。四神・玄武としての見立てを受ける定めがあるものの、人としての生を終える事を恐れ、それも拒み続けている。しかし最終的には梁艾丹の尽力と玄太の説得により、国の未来の為に神獣となる事を決意し、主人公によって玄太と共に見立てられる。
; 玄太(シャン・タイ)
: 声 - [[女鹿伸樹]]
: 囚われの身となっている町医者で、道光帝の甥。聡明な人物で、町の人々からの信頼も篤い。玄武の見立てを受けない道光帝に心を痛めている。見立てを拒む道光帝によって地下牢に囚われている。見立ての宿命は受け入れているが、内心ではやはり恐れがあり、幽閉された際にも心のどこかで安堵していた。しかし主人公が現れた事で迷いを振り切り、やがて生まれてくる息子の命名札を主人公に託して見立てを受ける。
; 玄太の妻
: 声 - [[城間章子]]
: もうすぐ臨月を迎える女性。夫の宿命を受け入れ、息子も同じ宿命にあることを理解する。夫を失った後は生まれてくる息子を、その日のために一人で育てることを決意する。
; 木彫りの僧侶
: 声 - 松尾銀三
: 旺気楼に祀られている像。元は人間であったが、青龍の見立てを受けている最中に邪気を受け、木彫りの像に変わってしまった。妖帝との最終決戦では仙人像によって覚醒し、主人公に自分を見立てるように訴える。彼が青龍へと見立てられた事で四神獣の見立ては完了した。
; 梁艾丹(リャン・アイダイン)
: 声 - [[幸田奈穂子]]
: 道光帝にに仕える女官。物の怪の桃児(モモジ / 声 - 櫻庭裕士)に食われてしまい、体内から主人公に助けを求める。
=== 上海 ===
;蘭暁梅(ラン・シャオメイ)
:声 - [[百瀬圭]]
:1920年にて四神・朱雀の見立てを受けるはずの少女。純真な性格。マダム馮の占いの通り見立ては失敗し、その力は小黒と姉へと受け継がれ、本人は覚める事なく龍脈を繋ぐ礎として永遠の眠りに就いた。しかしエンディングにて、崩壊した九龍城に何故か突如現れる。主人公に声を掛けた途端、謎の怪物によって捕らえられ、光の彼方へと消えていくという謎めいた結末を迎える。これは突出した陰が退けられたとしても陰そのものは無くならないという事を示すと同時に、次回作への伏線として作られた演出である<ref>{{Cite web|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/655667.html|title=「クーロンズ・ゲート」の完全版サントラ発売記念イベント開催|publisher=GAME Watch|accessdate=2021-06-25|date=2014-07-01}}</ref>。
:彼女を引き戻した腕の怪物の正体は、陽界側の普通の人間であり、何らかの理由で陰界に行ってしまった暁梅を陽界に引き戻しただけだったと木村自身によって明かされている。それが陰界側から見ると怪物に見えてしまったというのが真相である<ref name="archive169"/>。しかし、暁梅が何故目覚め、時を越えて陰界の九龍城跡に現れたのかは依然として謎のままである。
;マダム馮(マダム・フェイ)
:声 - 向殿あさみ
:1920年代の「妄想の島」の占い師。占いによって、暁梅が神獣になれないという結果を出してしまう。
;王兆銘(ワン・チャオミン)
:声 - [[小林修 (声優)|小林修]]
:1920年の妄想の島の実力者で置物の妄人。マダム馮とは内縁関係にある。暁梅の母との誓いにより、暁梅の見立てを見届けるべくその日まで真実を伏せていた。馮の占いがどうであろうと暁梅の見立ては成功すると確信していたが、実際は失敗に終わった事で気が触れてしまう。
;大黒
:声 - 伊藤美紀
:小黒の双子の姉。「大黒」は小黒の姉という理由から付けられた名前で読み方は決められていない<ref>『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』p18。</ref>。活発で行動的な妹とは対照的に冷静で病弱な雰囲気を持つ。妹と同じく朱雀の見立てを受ける定めにあったが、妖帝によって肉体を滅ぼされ、思念だけの存在となる。そんな状態でありながら妹の身を案じ、鳴力を送り続けていた。また、小黒以外とも交信できるらしく、玄機を説得するなどもしている。終盤、1920年に飛ばされた小黒と再会、および思念の合一を果たす。小黒自身の人生を案じてはいたものの、一刻の猶予も無くなってしまったため、小黒自身が全てを理解する事は無いまま自身と共に見立てを受けるように仕向け、最後は小黒と共に朱雀へ見立てられた。
:「小黒秘話」によると人として死亡したのは1919年の事であり、享年22歳。双子の妹である小黒は九龍で2年の歳月を重ねて24歳になっており、この年齢差が朱雀の龍脈に脆弱性をもらしてしまっている。
== システム ==
本作は大きく分けて「'''JPEGダンジョン'''」、「'''リアルタイムダンジョン'''」と呼ばれるふたつの探索パートと、「'''戦闘(バトル)'''」パートから構成されている。JPEGダンジョンでストーリーを進め、情報が集まる([[フラグ (コンピュータ)|フラグ]]が立つ)とリアルタイムダンジョンに潜り探索、というのがおおよその流れで、その過程で任意もしくは強制的な戦闘が挟み込まれる。
基本的にゲーム全編を通じ主人公の主観視点で描かれる。
プレイヤーはゲーム序盤に、「冷蔵庫」、「扇風機」、「電子レンジ」の3つの中から好きなものを選択する。これは、主人公の所持する邪気が五属性全て揃ってゲームオーバーになった場合、選択した物の妄人になることを意味している<ref name="GameSpark"/>。
イベントシーンでは三人称的なカメラアングルも存在するが、その場合も主人公の外見は一切描かれない。また物語は全50のクエスト(エピソード)に分かれており、それぞれにタイトルが付けてある。しかしクエスト名は演出的に明示されるということはなく、セーブする際に進行状況の目安として確認できる程度の扱いである。
=== 探索パート ===
; JPEGダンジョン
: 定点から定点を移動していく、いわゆるウォークスルー方式のオーソドックスなアドベンチャーパート。街中を彷徨い、人々の話を聞いたりアイテムを使用しながら話を進めていく。移動の際はプリレンダリングの移動ムービーが流れるが、視点が上下左右に蛇行し浮遊感のある特徴的なカメラワークであるため、プレイヤーによっては非常に[[3D酔い]]しやすい<ref group="注">移動の際STARTボタンを押下しながら進行方向を決定すると、移動ムービーをスキップできる。</ref>。一部例外を除き戦闘は発生せず、まずゲームオーバーにはならない。
; リアルタイムダンジョン
: リアルタイムポリゴンで描かれた「胡同(フートン)」という3Dダンジョンを探索するパート。「JPEGダンジョン」とは異なり自由に移動できる。胡同の中に潜む敵(鬼律)の居場所を特定、撃退することで扉の鍵を開けたり、仕掛けを動かしたりしつつ進んでいく。プレイヤーに大きな段差を乗り越えたり、ジャンプして別の足場へ移るなどといった能力はないが、柵の無いマップの一部分から一方通行的に“飛び降りる”ことは可能となっている。
: ほとんどの胡同は非常に複雑な構造をしており、多くの扉には鍵が掛かっているため、最初からマップを閲覧できるにも拘わらず道に迷うのは必至。そのため、要所要所でクーロン・ナビが現れ主人公(プレイヤー)に助言を与えてくれる。そのクエストでの目的を遂げると、多くの場合その場からナビに連れられる形で街(JPEGダンジョン)に帰還できる。敵との戦いで気力がゼロになる、もしくは主人公の所持する邪気が五属性全て揃ってしまうとゲームオーバーとなる。その場合は胡同に入った時点かセーブした場所からリトライする事になる。
: プレイヤーは胡同内の鬼律を視認できない。鬼律と戦うには、それに接近することで生じる画面上の「揺らぎ」(鬼律の発する邪気)を頼りにして居場所を特定する必要がある。但し、邪気の濃い場所では気力が徐々に減少してしまう上、所持していない属性の邪気が勝手に追加される事がある。鬼律は一度倒せば二度と復活しないタイプと無限に湧くタイプが存在する。前者は紫の邪気を放ち、撃破する事で扉が解錠される場合もある。鬼律の種類は場所毎で固定だが、運が悪いと姿が定まらず判別が出来ない状態になる事もある。後者は緑の邪気を放ち、倒しても邪気は晴れず、同じ場所を通ると何度も戦う羽目になる。こちらは出現する鬼律はランダム。
=== 戦闘パート ===
戦闘パートは更に2種に分類される。鬼律退治を目的とする通常戦闘的な「'''風水バトル'''」と、ボス戦的な性格を持つ「'''アイテムバトル'''」である。戦闘パートでは状況に関わらず風水師が一定確率で「行動に失敗」することがあり、極稀に失敗が重なって何も出来ないままゲームオーバーとなってしまうことがある([[バグ]]というより[[仕様]]の問題)。気力は邪気の無い場所を歩くか、回復アイテムの「男油」を使用すると回復する。
; 風水バトル
: 鬼律と遭遇した場合、その鬼律の持つ属性と[[五行思想#相剋(そうこく)|相克]]する属性の邪気をぶつけるか、鬼律の持つ邪気を全て吸収することで鬼律を退治することができるという、一般的なRPGに見られる戦闘システムとは大分異なったものになっている。基本は一体の鬼律につき一属性だが、中ボス的な鬼律は2属性以上を有しており、更に終盤では雑魚も複数属性を持っている事がある。鬼律の攻撃で気力がゼロになるか、邪気吸収によって五属性全ての邪気が揃ってしまうとゲームオーバー。「[[冷蔵庫]]」「[[扇風機]]」「[[電子レンジ]]」などの家電製品にされてしまう。コマンドは邪気を放つ「射」、邪気を吸収する「吸」、敵の属性を調べる「査」、アイテムを使う「品」、戦闘から逃げる「避」の五種類。
: 属性は木火土金水(もっかどごんすい)の相克関係にあり、水→火→金→木→土→水で打ち消す事ができる<ref group="注">水は火を消し、火は金を溶かし、金は斧となって木を切り倒し、木は土の養分を吸い上げ、土は水を堰き止める。</ref>。一度所持した邪気は、相克する鬼律に放つ以外に手放す手段は無い。更に1属性につき1つしか邪気を所持できないため、敵と同じ属性は所持しているが相克する属性は持っていない場合、吸収も攻撃も出来なくなってしまう。この場合、敵の属性を変える「貝粉」、属性に関係なく鬼律を倒す「鬼律玉」と言ったアイテムを使うか、逃げるしかない。
; アイテムバトル
: ボスクラスの敵と戦う場合、邪気の代わりに弱点となるアイテムを使用する特殊な戦闘方式になる。通常は[[ターン (ゲーム)|ターン]]方式だが、この場合アイテム欄を開かない限り一定時間毎に攻撃を受け続けるセミリアルタイム方式に戦闘システムが変わる。ボスは正しいアイテムさえ使用すれば容易に倒すことが可能で、且つ戦闘時には必ず有効なアイテムを所持しているため、“正解”となるアイテムのヒントは探索パートなどで得られる様になっている。
== 開発 ==
[[シリコングラフィックス]]のCGワークステーションを用いたPlayStation用ゲームの開発計画がたてられ、次世代機らしい音楽とポリゴンとムービーを主軸に据えることが決まった<ref name="Sisilala1">{{Cite web|url=http://sisilala.tv/myarticles/285|title=制作の黒幕はクーロンズ・ゲートさん!? 『クーロンズ・ゲート』の開発を手掛けた木村央志×井上幸喜×蓜島邦明ロングインタビュー【前編】 |publisher=シシララTV|author=長雨|accessdate=2018-05-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512113052/http://sisilala.tv/myarticles/285|archivedate=2018-05-12}}</ref>。
当初は『[[ブレードランナー]]』のような世界観を冒険するという構想がたてられていたが、木村央志は仲間たちとともに訪れた[[香港]]の[[九龍城砦]]およびその跡地に衝撃を受け、世界観を変更した<ref name="Sisilala1"/>。
開発スタッフの一人である井上幸喜は、『マンホール』のようなアドベンチャーゲームをやりたいと考えていた一方、PC版『MYST』で最適化された操作性をPlayStationで表現したらどうなるのかとも考えており、操作性が大きく変わるダンジョンやイベントの間にムービーを挟んで違和感を取り除くという試みを行った<ref name="Sisilala1"/>。
また、当初はサイバーパンクな世界観ということで[[大友克洋]]にキャラクターデザインを依頼しようとしたが、自分で下絵を描いたところプロデューサーの須藤朗がそれを気に入り、自身がキャラクターデザインを務めることとなった<ref name="Sisilala1"/>。
声優の野中希は小黒より小柄な印象を持っていた。彼女のルックスにあわせて小黒のグラフィック変更もあったと言われている<ref>{{Cite book|title=電撃PlayStationG2 Vol.21|date=1996年5月10日|publisher=主婦の友社}}</ref>。
井上はテレビドラマ『[[NIGHT HEAD]]』を見て、曲の雰囲気が本作にふさわしいと感じ、当時フジテレビでCGを作っていた経験を活かし、『[[世にも奇妙な物語]]』のスタッフを通じ、『NIGHT HEAD』の楽曲を担当していた[[蓜島邦明]]を本作の音楽担当者として起用した<ref name="Sisilala1"/>。
当初はPlayStationのローンチタイトルとして発売される予定であり、PlayStation発売前からプロモーションムービー等が公開されていたが、開発の遅れによる度重なる発売延期により1997年2月28日にまでずれ込んだ<ref name="GameSpark"/>。
本作の開発は何かに引っ張られるように各スタッフが競争して生み出された相乗効果を積み重ねるようにすすめられたものであり、井上は「開発当時誰かに指示された記憶がなく、開発後半にいたっては『クーロンズ・ゲートさん』という架空の人物(概念)に指示された」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている<ref name="Sisilala1"/>。
=== 世界観構築・キャラクター設定 ===
キャラクター群のうち、鍵穴男といった「〇〇男」という名称のキャラクター群の多くは木村の考案が考案した<ref name="Sisilala1"/>。
デザインを担当した井上は「木村さんの中でビジュアルイメージがあるものは、キャラクター設定に挿絵があったので問題なくイメージをつかめた。一方、キーワードだけ指定されたものはそこからイメージを膨らませる必要があり、『面倒なデザインのCGを作らない』という自分の中のルールに従い、キーワードからシンプルなデザインを導き出した」とシシララTVとのインタビューの中で振り返っている<ref name="Sisilala1"/>。
また、井上は陰界の住人について「彼らは元々その場所に住んでいただけであり、プレイヤーとは敵対関係にない」と考えていたことから、デザイン上のルールの一つとして、「住民には牙などの武器を持たせない」ということを定めたほか、住民が武器を持って主人公を襲う場面を描かないことにした<ref name="Sisilala1"/>。
当初の構想では戦闘システムは存在しなかったが、木村が五行思想の属性の相克関係を使いたいと考えていたことと、アイテムを得る喜びをプレイヤーに味わってほしいという思いから、戦闘システムが導入される運びとなった<ref name="Sisilala1"/>。
=== 販売 ===
: 本作には「'''初回限定版'''」として、紙製の特製ボックスに108ページのハードカバーブックレットが付属したものが存在する。ブックレットの内容は主にゲームの世界観、メイキングについて紹介したファンブック的なものであるが、一部にストーリー上のネタバレも含まれていた。なお、「'''通常版'''」との違いはこの「箱」及び「ブックレット」の有無と、背オビデザインのみ。
=== 発売権の移行 ===
2000年に本作の発売権が開発元のSMEからアートディンクへ移行し、同年アートディンクの自社製廉価版である「'''ARTDINK BEST CHOICE'''」シリーズ中の一作として、新価格で再発売された(詳細はテンプレートを参照のこと)。パッケージデザイン等の細かい部分以外に大きな変更はない。
ゲームアーカイブスではアートディンク版が配信されたのち、2015年からは[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]より再配信となった<ref group="注">シティコネクションからは同日に[[キリーク・ザ・ブラッド]]等の木村央志作品が配信されている。</ref>。
=== クーロンズゲートVR suzaku ===
2016年11月、『クーロンズゲートVR suzaku』の[[クラウドファンディング]]が開始され、すぐに支援金が目標額に達した。本編の前日談にあたり、プレイヤーが生体通信を介して陰界にシンクしているという設定で龍城路と九龍フロントを散策する。本作の登場人物に加え、新キャラクターも登場する<ref name="IGN20171211">{{Cite web|url=http://jp.ign.com/kowloons-gate-vr-suzaku/20577/news/vr-suzakunonvr|title=「クーロンズゲートVR suzaku」に、ヘッドセット不要のNonVRモードが追加!|accessdate=2018-05-12|date=2017年12月21日}}</ref>。
当初は[[PlayStation VR]]専用タイトルだったが、2017年12月21日のアップデートにより、VRモードから独立したnonVRモードが追加された<ref name="IGN20171211"/>。
=== クーロンズリゾーム ===
本作の28年後を描く次世代版続編。監督・脚本の木村央志によって『クーロンズゲート』の企画決定から25年目となる[[2020年]]に制作プロジェクトが立ち上げられた。制作自体は[[2019年]]12月に発表されたが、「シナリオが完成してから事業化する」という方針により、シナリオ第一稿が完成した2020年7月に正式にプロジェクトが発表。こちらも資金の一部をクラウドファンディングで募集し、仮に目標額に達しなくとも計画は実行すると発表されていたが、実際はストレッチゴールにもすぐに達した<ref name="rhizome">[https://camp-fire.jp/projects/view/208733 CAMPFIRE クーロンズゲートの続編新作『クーロンズリゾーム』制作プロジェクト]</ref>。ストーリーは『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』に掲載された続編企画「クーロンズ・ゲートif」を底本として大幅に加筆・アレンジしたもので、本作に登場しなかった九龍城の一街区「光明路」を舞台とする<ref name="foodblog"/>。開発は[[Unity (ゲームエンジン)|Unity]]ベースでアセットをメインに新たな九龍城を構築する。
音楽は『ゲート』に続き、蓜島邦明が担当。原画も同じく井上幸喜が、キャラクターイラストには新たに[[おぐち]]が起用されるとされていた<ref name="rhizome"/>が、最終的にキャラクターデザインは木村が手掛けた『デモンズゲート 帝都審神大戦』同様に[[山本章史]]が担当した<ref name="akiba">{{Cite web|url=https://akiba-souken.com/article/60644/|title=【「クーロンズリゾーム」PILOT版リリース記念インタビュー】 木村央志監督が語る、伝説的ゲーム「クーロンズ・ゲート」を継承するプロジェクトの狙いと今後の展開|work=アキバ総研|accessdate=2023-03-05|date=2023-02-22}}</ref>。
当初はジャンル「路地裏[[オープンワールド]]」として全編リアルタイムダンジョンで構成された光明路を自由に探索できる予定だったが、完成した評価版「3Dクーロン」が期待したような面白さにならず<ref name="aramasi">[https://note.com/kimura_nakaji/n/ne5242a9e9f1d KG/Projectのあらまし]</ref>、『クーロンズゲート』の続編としての伏線の回収、設定の強化や更新を重視してゲームシステムの見直しを行い、移動をムービー、会話を静止画で行う「ムービーノベル方式」に変更された<ref name="rhizome_gs">{{Cite web|url=https://www.gamespark.jp/article/2022/05/30/118926.html|title=ADVからムービーノベルへ…『クーロンズ・ゲート』続編新作の『クーロンズリゾーム』が大幅な仕様変更|publisher=Game*Spark|accessdate=2022-06-02|date=2022-05-30}}</ref>。また、2021年秋に[[Nintendo Switch]]、[[PlayStation 4]]、PC([[Steam]])での発売予定だった<ref name="rhizome"/>が実現には至らず、結局、アセットがコンシューマー機に非対応だったという「アセット利用による効率化」が裏目に出た点<ref name="aramasi"/>や開発規模の問題からコンシューマー機移植は断念され、2022年度内にSteamと[[Pixiv#BOOTH|BOOTH]]にて早期アクセス版の配信を目指す方向とされた<ref name="rhizome_gs"/>。その後、全8巻の分冊方式での販売が決定し、2023年2月22日に第1巻にクラウドファンディング支援者クレジットなどを加えた[[パイロット版]]がBOOTHでのみ発売された<ref name="akiba"/>。
== 関連商品 ==
=== 攻略本 ===
; 『コンプリート クーロンズ・ゲート(COMPLETE KOWLOON'S GATE)』
: 1997年4月 - ソニーマガジンズ
: 分かり易いマップとフロチャート攻略。製作スタッフへのインタビュー記事、コラム等。
: 基本を押さえつつも充実した作り。
; 『KOWLOON'S GATE PARANOIA クーロンズゲート公式ガイドブック』
: 1997年6月 - アスペクト
: 詳細なゲームシナリオのノベライズ。袋綴じのマップ付き。テキスト重視。
: 攻略本としてはやや扱い辛いが、マニアックな執筆陣によるコラムが充実し読みごたえがある。
=== 音楽 ===
; 『クーロンズ・ゲート サウンドトラック』
: [[蓜島邦明]]:1997年4月21日 - SONY RECORDS (SRCL-3784) ¥2,718円(税抜)
:# クーロンズ・ゲート
:# 香港最高風水会議
:# 歓楽の街
:# リ・トライ
:# 妄人路
:# 海鮮中心
:# アイテムバトル
:# Happy Hour
:# 水郷の街
:# 山高帽男
:# 陰陽師のテーマ
:# 九龍フロント
:# 香港的大廈(龍城路)
:# 占い部屋
:# 清朝
:# エンディング・テーマ
:
;『element』
:蓜島邦明:1999年12月9日 - COLUMBIA RECORDS (COCP-30725) ¥2,800円(税抜)
:M12に「クーロンズ・ゲート」(メインテーマのリアレンジ版)を収録
;『九龍風水傳原聲音樂專輯~クーロンズ・ゲート オリジナルサウンドコレクション』(初回限定生産)
:蓜島邦明:2014年6月29日 - [[シティコネクション (企業)|クラリスディスク]] (CDGM-10020) ¥5,400円(税込)
:オリジナル音源の他、未収録曲、書き下ろし楽曲を収録。
;『KOWLOON'S GATE SOUNDTRACK』(完全生産限定盤)
:蓜島邦明:2019年12月25日 - [[ソニー・ミュージックダイレクト|Sony Music Direct]] (MHJL-129) ¥3,700円(税抜)
:初の[[レコード|アナログ盤]]。
=== 漫画・小説 ===
; 『陰界伝』
: 作:[[神崎京介]]/原作:木村央志 1997年9月 - 講談社 マガジン・ゲームノベルズ
; 『クーロンズ・ゲート外伝 九龍幻境風水傳』(上下巻)
: 原作:[[高田むつみ]]/協力:木村央志 1998年6月 - 角川書店
=== 設定資料集 ===
;『Kowloon's Gate Archives~クーロンズ・ゲート アーカイブス~』
:2015年07月24日 - [[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]
:当時の設定資料の他、スタッフインタビューや容量の都合で収録できなかったストーリー、ムービーの紹介を収録。
:続編企画「クーロンズ・ゲートif」の設定資料・プロットとイメージサントラも同梱。これは後の『クーロンズリゾーム』の原型となった<ref name="foodblog"/>。
== 反響・評価 ==
当初の売り上げは開発期間の割に芳しくなかった<ref name="GameSpark">{{cite web|url=https://www.gamespark.jp/article/2016/01/03/62806.html|title=【今から遊ぶ不朽のRPG】第11回『クーロンズゲート』(1997)|date=2016-01-03|accessdate=2018-05-12|author=FURUKAWA|publisher=[[イード (企業)|イード]]|work=Game*Spark}}</ref>。その一方で、独特な世界観に惹かれる者も多く、その世界観と奇妙なキャラクターたちが織りなす不可思議なゲーム体験から賛否両論の評価を受けつつも「怪作」として熱狂的なファンを獲得し<ref>{{Cite web|url=https://www.famitsu.com/news/202302/28293868.html |title=『クーロンズ・ゲート』が発売された日。サイバーパンクな伝説の怪作アドベンチャー。25年ぶりの伏線回収がされる新作ムービーノベルも発売【今日は何の日?】 |accessdate=2023-09-26|date=2023-02-28|author=ウワーマン|publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]] |work=ファミ通.com}}</ref>、2005年以降は[[YouTube]]や[[ニコニコ動画]]といった[[動画共有サイト]]の普及に伴い本作の人気も少しずつ上がり、最終的にはPlayStationを代表する作品の一つとしてカルト的な人気を博した<ref name="GameSpark"/>。「ハマらない人にはハマらないが、ハマった人の心には永久に残り続ける作品」とも評され<ref>{{Cite web|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2012/15/news099.html |title=【好きなゲームが世間のクソゲーな人インタビュー】不条理で猥雑な「クーロンズ・ゲート」の世界に心を奪われて、もう23年たってしまいました |accessdate=2023-09-26|date=2020-12-30|publisher=[[ITmedia]] |work=ねとらぼ}}</ref>、Game*SparkのFURUKAWAは本作について、ゲームとしての完成度は低いとした一方で独特の世界観について評価している<ref name="GameSpark"/>。開発者である木村自身は「KOWLOON'S 25th ANNIV. 超級路人祭~クーロンズ・ゲート プロジェクト25周年記念イベント~」の資料のために再び本作をプレイした際、「なんて不親切なゲームだろう。これを作ったのは誰だ」と憤慨したという<ref name="25aniv"/>。
=== クーロンズゲートVR suzakuに対する評価 ===
IGNの馬淵寛昭は2017年11月9日の『クーロンズゲートVR suzaku』のレビュー記事の中で独特な世界観を評価した一方、ゲーム的な要素が皆無であると述べ、世界観に魅力を感じない者はプレイし続けるだけでもつらいかもしれないと述べた<ref name="IGN20171109">{{Cite web|url=http://jp.ign.com/kowloons-gate-vr-suzaku/19212/review/20vr-suzaku|title=その中身は、VRという名のファンディスク。|accessdate=2018-05-12|date=2017年11月9日}}</ref>。
また、馬淵は『クーロンズゲートVR suzaku』の唯一のゲーム要素である「剥きエビ」が終盤にかけて大量に集める必要がある点を指摘し、「ただでさえ単調なゲーム性に拍車をかけており、このゲームバランスはゲームの性質上、ゲーム性というよりもはや拷問である」と述べている<ref name="IGN20171109"/>。
さらに馬淵は、画面中央に緑の点があるものの、鼻の頭など視線の基準となる物体がなく、現実で歩く時の感覚との違いが強調されてしまい、ひどいVR酔いに悩まされたとも振り返っている<ref name="IGN20171109"/>。
== 派生サービス ==
=== Second Life ===
『クーロンズ・ゲート』の発売10周年を記念して当時のクリエイターが再結集し、本作の世界観を再現した kowloon というエリアが [[Second Life]] 上で[[2007年]][[7月23日]]に公開された<ref>{{Cite web|url=http://www.jet-graphics.com/kowloonindex_K.html|title=NeoKowloon|publisher=(有)ジェットグラフィクス|language=日本語|accessdate=2010-03-21}}</ref>。(2019年11月時点でまだ継続中。)
== 関連項目 ==
*[[九龍城砦]]
*[[風水]]
*[[GTO (漫画)]] - 主人公が熱中しているゲームとして本作が登場。操盆腿家姐との戦闘画面が作中で描かれている<ref name="GameSpark"/>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20181013042024/https://www.sonymusic.co.jp/Amusement/kowloonet/ Kowloonet]:オリジナル版の開発元・販売元であるSMEの公式サイト([[インターネットアーカイブ]])
* [https://knoffice.wixsite.com/portfolio キムラナカジオフィス]:本作の企画・脚本・監督を務めた木村央志の事務所
* [https://www.jet-graphics.com/ ジェットグラフィックス]:本作の企画・製作を行った。キャラクターデザイン担当の井上幸喜が代表を務める。
* {{Wayback|url=https://www.jp.playstation.com/software/title/jp1091npjj00737_000000000000000001.html |title=PlayStation公式サイト クーロンズ・ゲート-九龍風水傳-(ゲームアーカイブス版) |date=20150918201134}}
* [http://jetman.co.jp/kowloons-gate-vr-suzaku/ クーロンズゲートVR Suzaku公式サイト]
* [https://knoffice.wixsite.com/rhizome2022 クーロンズ・ゲート継承プロジェクト~クーロンズリゾーム~]
* [https://kowloonmart.booth.pm/ クーロンズリゾーム販売ページ(BOOTH)]
{{DEFAULTSORT:くうろんすけえと}}
[[Category:PlayStation用ソフト]]
[[Category:SMEJのゲームソフト]]
[[Category:1997年のコンピュータゲーム]]
[[Category:アドベンチャーゲーム]]
[[Category:ゲームアーカイブス対応ソフト]]
[[Category:香港を舞台としたコンピュータゲーム]]
[[Category:風水を題材とした作品]]
[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] | 2003-02-14T11:22:27Z | 2023-12-08T05:59:57Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88 |
1,592 | 8月29日 | 8月29日(はちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。 | [
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| 8月29日(はちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。 | {{カレンダー 8月}}
'''8月29日'''(はちがつにじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から241日目([[閏年]]では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。
== できごと ==
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| footer = [[和同開珎]]発行(708)。右画像はモデルとなった[[唐]]の[[開元通宝]]。([[和銅]]元年)八月己巳。始行銅銭。ー『[[続日本紀]]』
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| footer = {{仮リンク|オスマン=ハンガリー戦争|en|Ottoman-Hungarian Wars}}、[[モハーチの戦い]](1526)。ハンガリー国王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]が戦死。
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[[File:Battle_of_Mohacs_1526.png|thumb|[[モハーチの戦い]](1526)]]
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[[File:The Signing of the Treaty of Nanking.jpg|thumb|200x200px|[[南京条約]](1842)締結。]] [[Image:Japanese General Government Building.jpg|thumb|[[朝鮮総督府]]設置(1910)|200x200ピクセル]]
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| footer = [[ヤヒ]]族インディアン最後の1人、[[イシ]](左画像右)が人里に現れる(1911)。右画像は1914年のイシ
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[[File:Ikoma_cablecar_1918.jpg|thumb|日本初の[[ケーブルカー]]、[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索鉄道]]開業(1918)]]
[[File:Stamp_US_1930_65c.jpg|thumb|飛行船[[LZ 127 (飛行船)|LZ127]]、世界一周に成功(1929)]]
[[File:Harald_of_Norway.jpg|thumb|(後のノルウェー王)[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル]](画像左)と[[ソニア・ハーラルセン]](左から2番目)が成婚(1969)]]
* [[708年]]([[和銅]]元年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - 日本初の銅銭「[[和同開珎]]」を発行。
* [[759年]]([[天平宝字]]3年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[鑑真]]が唐律招提(後の[[唐招提寺]])を建立。
* [[1009年]] - 975年に着工した[[マインツ大聖堂]]<small>([[:en:Mainz_Cathedral|英語版]])</small>で火災が起こる。
* [[1350年]] - [[百年戦争]]: [[ウィンチェルシーの海戦]]。
* [[1359年]]([[延文]]4年/[[正平 (日本)|正平]]14年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[筑後川の戦い]]。
* [[1475年]] - 英仏間で[[ピキニー条約]]<small>([[:en:Treaty_of_Picquigny|英語版]])</small>が締結。7年間の停戦や自由貿易などを定める。
* [[1498年]] - [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が3か月の[[インド]]・[[コーリコード|カリカット]]滞在の後に[[ポルトガル]]へ向けて出発。
* [[1521年]] - [[ベオグラード包囲戦 (1521年)|ベオグラード包囲戦]]が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。
* [[1526年]] - オスマン=ハンガリー戦争: [[モハーチの戦い]]。
* [[1588年]]([[天正]]16年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[豊臣秀吉]]が[[刀狩|刀狩令]]を発布。
* [[1741年]]([[寛保]]元年[[7月19日 (旧暦) |7月19日]]) - [[渡島大島]]・寛保岳噴火に伴っての津波が発生([[寛保津波]])。対岸を中心に1,467人の死者を出す。
* [[1756年]] - [[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]がザクセンに侵攻し、[[七年戦争]]が勃発。
* [[1825年]] - [[ポルトガル]]が[[ブラジル]]の独立を承認。
* [[1831年]] - [[マイケル・ファラデー]]が[[電磁誘導]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/56965 |title=8月29日 ファラデーが電磁誘導の実験に成功(1831年) |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[講談社]] |work=サイエンス365days}}</ref>。
* [[1842年]] - [[清国]]と[[イギリス]]の間で[[南京条約]]が締結され、[[アヘン戦争]]が終結。
* [[1852年]] - 露船メンチコフ号、下田来航。
* [[1871年]]([[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[廃藩置県]]の詔書を発布。
* [[1885年]] - [[ゴットリープ・ダイムラー]]が[[オートバイ|二輪車]]の史上初の[[特許]]を取得<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2010/08/31/ダイムラーが作った「史上初のバイク」、ギャラ/ |title=ダイムラーが作った「史上初のバイク」、ギャラリー |access-date=22 Mar 2023 |publisher=WIRED |date=31 Aug 2018}}</ref>。
* [[1898年]] - [[グッドイヤー]]創設。
* [[1907年]] - 建設中の[[ケベック橋]]で1回目の崩壊事故が発生し、75名が犠牲になる。同橋梁は[[1916年]][[9月11日]]に2回目の崩落事故を起こす。
* [[1910年]] - [[韓国併合]]: [[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]発効。[[朝鮮総督府]]を設置し、名称を朝鮮に改称。
* [[1911年]] - [[ヤヒ]]族[[インディアン]]の最後の一人・[[イシ]]が先祖伝来の土地を離れ人里に現れる。
* 1911年 - [[東京朝日新聞]]が「[[野球害毒論|野球と其害毒]]」連載を開始、[[9月22日]]まで22回に渡って[[野球]]に対する[[ネガティブ・キャンペーン]]を展開する。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: {{仮リンク|サン・カンタンの戦い|en|Battle of St. Quentin (1914)}}が翌[[8月30日]]にかけて行われ、[[ドイツ]]軍が[[フランス]]軍に勝利する。
*1914年 - 静岡県に台風被害。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』303頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1918年]] - [[奈良県]]の[[生駒山]]に生駒鋼索鉄道(現在の[[近鉄生駒鋼索線]]の一部)が開業。日本初のケーブルカー。
* [[1929年]] - ドイツの飛行船[[LZ 127 (飛行船)|LZ 127]](ツェッペリン伯号)が22日間で[[世界一周飛行]]に成功。
* [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[独立スロバキア|スロバキア]]でナチス支配に反対する[[スロバキア民衆蜂起]]が始まる。
* [[1949年]] - [[カザフスタン]]のセミパラチンスクで[[ソビエト連邦|ソ連]]初の[[原子爆弾|原爆]][[核実験|実験]]([[RDS-1]])が行われる。
* [[1950年]] - [[文化財保護法]]施行。
* [[1952年]] - [[ジョン・ケージ]]作曲の「[[4分33秒]]」が[[ニューヨーク州]]ウッドストックで初演。
* [[1958年]] - [[中国共産党中央政治局]]が北戴河で「農村に[[人民公社]]を設立することについての決議」を採択<ref>{{Cite web|和書|url=https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9280/HNkeizai0003200030.pdf |title=中国における農業集団化政策の展開(その2) |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[一橋大学]] |page=14 |format=[[PDF]]}}</ref>。
* 1958年 - [[空軍士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ空軍士官学校]]が開校。
* [[1960年]] - 前日、[[高知県]]に上陸した昭和35年台風第16号により京阪神地方が集中豪雨。[[西宮市]]の[[芦有ドライブウェイ]]建設現場では、土砂崩れが発生して作業員24人死亡するなどの被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=145-146|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1964年]] - [[帝都高速度交通営団]](現在の[[東京地下鉄]])[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]](北千住 - 中目黒)が全通。
* [[1966年]] - [[ビートルズ]]が[[サンフランシスコ]]の[[キャンドルスティック・パーク]]で最後のコンサートを行う。
* [[1969年]] - [[ノルウェー]]王太子・[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル]](後の国王ハーラル5世)と[[ソニア (ノルウェー王妃)|ソニア・ハーラルセン]]が成婚。
* [[1970年]] - [[マクドネル・ダグラス DC-10]]が初飛行。
* [[1974年]] - [[宝塚大劇場]]で『[[ベルサイユのばら (宝塚歌劇)|ベルサイユのばら]]』初演<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20120913dog00m200063000c.html |title=池田理代子:「ベルサイユのばら」は「この世に生まれた証し」40周年記念展覧会開催 |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[MANTANWEB]] |date=13 Sep 2012}}</ref>。空前の宝塚ブームの火付け役となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.1242.com/article/153836 |title=社会現象になった宝塚『ベルばら』ブーム |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[ニッポン放送]] |date=29 Aug 2018}}</ref>。
* [[1982年]] - [[三越事件]]: [[三越日本橋本店|日本橋三越]]で開かれていた「古代ペルシア秘宝展」の出展物の大半が贋作であると[[朝日新聞]]が報道。これが契機になり、三越で独裁をしていた[[岡田茂 (三越)|岡田茂]]の解任に発展する。
* [[1996年]] - [[薬害エイズ事件]]: [[東京地方検察庁|東京地検]]刑事部が[[帝京大学]]副学長の[[安部英]]を逮捕<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34665930Y8A820C1EAC000/ |title=8月29日 薬害エイズ事件、安部元帝京大副学長を逮捕 |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Aug 2018}}</ref>。
* [[1997年]] - [[家永教科書裁判]]終結。
* 1997年 - [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線]] [[大正駅 (大阪府)|大正駅]] - [[心斎橋駅]]間・[[鶴見緑地駅]] - [[門真南駅]]間が開業し、全通。
* [[1999年]] - [[横浜市営地下鉄ブルーライン]](1号線) [[戸塚駅]] - [[湘南台駅]]間が開業。当時の日本の地下鉄としては、営業距離最長。
* [[2001年]] - [[H-IIAロケット]]試験機1号機が打ち上げられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/projects/rockets/h2a/f1/ |title=試作機1号機 |access-date=15 Mar 2023 |publisher=JAXA}}</ref>。
* [[2003年]] - [[イラク・イスラム革命最高評議会]] (SCIRI) 指導者[[ムハンマド・バーキル・ハキーム]]が爆弾テロにより死亡。
* 2003年 - [[イラク]]でナジャフ・モスク爆破事件。死者125名、負傷者500名<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokio-dr.jp/publication/report/trc-eye/pdf/pdf-trc-eye-237.pdf |title=最近の国際テロ動向と今後の展開 ~2008 年テロ動向分析を基にした今後の国際テロ動向予測~ |access-date=22 Mar 2023 |publisher=東京海上日動リスクコンサルティング(株) |page=15 |format=[[PDF]]}}</ref>。
* [[2005年]] - [[ハリケーン・カトリーナ]]が[[ルイジアナ州]]に再上陸。
== 誕生日 ==
{{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 -->
[[Image:Hideyori_Toyotomi.jpg|thumb|[[豊臣秀吉]]の後継者、[[豊臣秀頼]]誕生(1593-1615)]]
{{multiple image
| image1 = Colbert-5.jpg
| width1 = 100
| caption1 = フランスの財務総監、[[ジャン=バティスト・コルベール]](1619-1683)。{{仮リンク|コルベルティスム|fr|Colbertisme}}と呼ばれる[[重商主義]]政策を行った
| image2 = John_Locke_by_Herman_Verelst.png
| width2 = 100
| caption2 = <!--「[[自由主義]]の父」、-->哲学者[[ジョン・ロック]](1632-1704)誕生。{{Squote|[[法 (法学)|法]]の目的は[[自由]]を撤廃・制限することではなく、保全し拡大することである。――『[[統治二論]]』(1689)}}
| image3 = Maurice_Maeterlinck_2.jpg
| width3 = 100
| caption3 = [[象徴主義]]の作家[[モーリス・メーテルリンク]](1862-1949)誕生。{{Squote|僕らが探していた青い鳥だ!あんな遠くまで探しに行ったのに、こんなところにいた!――『[[青い鳥]]』(1909)}}
}}
{{multiple image
| footer = 画家[[ドミニク・アングル]](1780-1867)誕生。左画像は自画像(1804)、右は『[[グランド・オダリスク]]』(1814)
| image1 = Ingres%2C_Self-portrait.jpg
| width1 = 80
| alt1 = 自画像
| image2 = Jean_Auguste_Dominique_Ingres%2C_La_Grande_Odalisque%2C_1814.jpg
| width2 = 240
| alt2 = 『グランド・オダリスク』、裸婦画
}}
* [[1321年]] - [[ジャン・ダルトワ]]、貴族(+ [[1387年]])
* [[1347年]] - [[ジョン・ヘイスティングス]] {{仮リンク|ジョン・ヘイスティングス (ペンブローク伯爵)|en|John Hastings, 2nd Earl of Pembroke}}、第2代ペンブローク伯爵(+ [[1375年]])
* [[1593年]]([[文禄]]2年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[豊臣秀頼]]、[[武将]](+ [[1615年]])
* [[1619年]] - [[ジャン=バティスト・コルベール]]、[[重商主義]]者(+ [[1683年]])
* [[1632年]] - [[ジョン・ロック]]、[[思想家]](+ [[1704年]])
* [[1705年]]([[宝永]]2年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[徳川宗堯]]、[[常陸国]][[水戸藩]]の第4代藩主(+ [[1730年]])
* [[1755年]] - [[ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ]]、[[ポーランド]]の軍人(+ [[1818年]])
* [[1780年]] - [[ドミニク・アングル]]、[[画家]](+ [[1867年]])
* [[1834年]]([[天保]]5年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[水野忠誠]]、[[駿河国]][[沼津藩]]の第7代藩主(+ [[1866年]])
* 1834年(天保5年7月25日) - [[小笠原長守]]、[[越前国]][[越前勝山藩|勝山藩]]の第7代藩主(+ [[1891年]])
* [[1835年]] - [[ジョージ・ワシントン・マクラリー]]、第33代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1890年]])
* [[1862年]] - [[モーリス・メーテルリンク]]、[[小説家]](+ [[1949年]])
* [[1864年]] - [[ルイ・アイエ]]、[[画家]](+[[1940年]])
* [[1872年]] - [[ウラディミール・アルセーニエフ]]、[[探検家]](+ [[1930年]])
* [[1876年]] - [[金九]]、[[朝鮮]]の独立運動家(+ 1949年)
* [[1884年]] - [[フランクリン・S・ハリス]]、[[農学者]]、[[宣教師]](+ [[1960年]])
* [[1888年]] - [[大内兵衛]]、[[経済学者]](+ [[1980年]])
* [[1900年]] - [[牛島憲之]]、[[洋画家]](+ [[1997年]])
* [[1901年]] - [[シャーウィン・バジャー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1972年]])
* [[1905年]] - ジャック・ティーガーデン、[[ジャズ]][[トロンボーン]]奏者(+ [[1964年]])
* 1905年 - [[村社講平]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1998年]])
* [[1907年]] - [[ルリーン・タトル]]、[[俳優|女優]](+ [[1986年]])
* [[1912年]] - [[孫基禎]]、[[マラソン]]選手(+ [[2002年]])
* [[1913年]] - [[ペーター・リバール]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2002年]])
* [[1914年]] - [[バーナード・ヴォネガット]]、[[気象学者]](+ [[1997年]])
* [[1915年]] - [[イングリッド・バーグマン]]、[[俳優|女優]](+ [[1982年]])
* [[1920年]] - [[チャーリー・パーカー]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[1955年]])
* [[1922年]] - [[小沢茂弘]]、[[映画監督]](+ [[2004年]])
* 1922年 - [[リチャード・ブラックウェル]]、[[ファッション]]評論家(+ [[2008年]])
* [[1923年]] - [[リチャード・アッテンボロー]]、映画監督、[[俳優]](+ [[2014年]])
* 1923年 - [[中原宏]]、[[プロ野球選手]](+ [[1986年]])
* [[1924年]] - [[コンスエロ・ベラスケス]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[2005年]])
* [[1925年]] - [[武智修]]、プロ野球選手(+ [[1985年]])
* [[1928年]] - [[中園康夫]]、[[四国学院大学]]学長(+ [[2003年]])
* [[1929年]] - [[佐藤泰正 (教育学者)|佐藤泰正]]、[[教育学者]] (+ [[2021年]])
* [[1931年]] - [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]、[[映画俳優]](+ [[1969年]])
* [[1932年]] - [[篠竹幹夫]]、元[[アメリカンフットボール]]選手、[[日本大学フェニックス|日本大学アメリカンフットボール部]]元監督(+ [[2006年]])
* [[1933年]] - [[松沢俊夫]]、[[競馬評論家]]
* [[1936年]] - [[金澤利翼]]、[[ボディビルダー]]、[[トレーナー]]
* [[1939年]] - [[ウィリアム・フリードキン]]、[[映画監督]](+ [[2023年]])
* 1939年 - [[須崎正明]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[ウィレム・ルスカ]]、[[柔道家]](+ [[2015年]])
* 1940年 - [[山口敏夫]]、[[政治家]]
* [[1942年]] - [[谷岡ヤスジ]]、[[漫画家]](+ [[1999年]])
* [[1946年]] - [[ジョン・シピン]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[ベニー・モウピン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン|テナー・サックス]]、[[バスクラリネット]]・[[フルート]]奏者
* 1946年 - [[中村正義]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[ビル・マクナルティ]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[テンプル・グランディン]]、[[動物学者]]
* [[1947年]] - [[ジェームス・ハント]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(+ [[1993年]])
* [[1948年]] - [[ロバート・ランガー]]、[[工学者]]
* [[1949年]] - [[スタン・ハンセン]]、[[プロレスラー]]
* 1949年 - [[小出裕章]]、[[工学者]]
* 1949年 - [[ジョン・アグニュー]]、[[地理学者]]
* [[1950年]] - [[八代亜紀]]、[[歌手]]
* 1950年 - [[ダグ・デシンセイ]]、元プロ野球選手
* 1950年 - [[高橋明 (外野手)|高橋明]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[マーキー (ディスクジョッキー)|マーキー]]、[[ディスクジョッキー]]
* [[1953年]] - [[伊東孝紳]]、[[実業家]]、第7代[[本田技術研究所]][[取締役]][[社長]]
* [[1954年]] - [[鳥原公二]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[谷山浩子]]、歌手、[[シンガーソングライター]]
* 1957年 - [[真梨邑ケイ]]、[[ジャズ]]歌手、女優
* [[1958年]] - [[マイケル・ジャクソン]]、歌手(+ [[2009年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38754205 |title=マイケル・ジャクソンさんの娘、「父は殺された」 |access-date=22 Mar 2023 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=26 Jan 2017}}</ref>)
* 1958年 - [[垂水藤太]]、ファッションモデル、俳優
* 1958年 - [[川田恵子]]、[[ラジオパーソナリティ]](+ [[2013年]])
* [[1959年]] - [[五十嵐信一]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[EARTHSHAKER|甲斐貴之]]、[[ベーシスト]]([[EARTHSHAKER]])
* [[1959年]] - [[渋井敬一]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[渡辺多恵子]]、漫画家
* [[1962年]] - [[伊東勤]]、元プロ野球選手、監督
* 1962年 - [[原武史]]、[[政治学者]]、[[放送大学]]教授
* [[1963年]] - [[宮坂ひろし]]、俳優
* 1963年 - [[片山杜秀]]、[[政治学者]]、[[音楽評論家]]
* [[1964年]] - [[YOU (タレント)|YOU]]、タレント
* [[1965年]] - [[白崎義彦]]、アナウンサー
* [[1966年]] - [[笹川博義]]、政治家
* [[1967年]] - [[岡崎武士]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]
* 1967年 - [[イルジ・ルージェク]]、[[写真家]]
* [[1968年]] - [[小川輝晃]]、俳優、[[声優]]
* [[1969年]] - [[椎名あゆみ]]、漫画家
* [[1970年]] - [[濱田典子]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1971年]] - [[ヘンリー・ブランコ]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[ペ・ヨンジュン]]、俳優
* 1972年 - [[林健太郎 (サッカー選手)|林健太郎]]、元[[サッカー選手]]
* 1972年 - [[親富祖弘也]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[鈴木つかさ]]、お笑いタレント
* [[1973年]] - [[広池浩司]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[川北桃子]]、元アナウンサー
* 1974年 - [[辛酸なめ子]]、漫画家
* [[1975年]] - [[高橋かおり]]、女優
* [[1976年]] - [[ヨン・ダール・トマソン]]、元サッカー選手
* 1976年 - [[山下敦弘]]、映画監督
* 1976年 - [[川上未映子]]、小説家、元歌手
* 1976年 - [[大柴隼人]]、元俳優
* [[1977年]] - [[ロイ・オズワルト]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[本田大輔]]、俳優
* 1978年 - [[久保田誓]]、アニメーター、キャラクターデザイナー
* 1978年 - [[岩瀬敬吾]]、歌手
* 1978年 - [[黒田大地]]、歌手、モデル、俳優
* [[1979年]] - [[エド・ロジャース]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[ニコラス・ツェー]]、俳優
<!-- 生年の出典が不明 * 1980年 - [[小泉まな]]、[[ストリッパー一覧|ストリッパー]] -->
* [[1981年]] - [[武藤乃子]]、[[アナウンサー]]
* [[1982年]] - [[斉藤崇史]]、[[調教師]]
* [[1983年]] - [[宮尾綾香]]、[[プロボクサー]]
* 1983年 - [[石田裕子]]、タレント
* 1983年 - [[小松塁]]、元[[サッカー選手]]
* 1983年 - [[ハビエル・カスティーヨ]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - ひろゆき、お笑いタレント([[GAG (お笑いトリオ)|GAG]])
* [[1985年]] - [[濱口華菜里]]、元バレーボール選手
* 1985年 - [[マーク・ゼプチンスキー]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[諫山創]]、漫画家
* 1986年 - [[青山英樹]]、[[ドラマー]]
* [[1987年]] - [[島本里沙]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1987年 - [[重友梨佐]]、[[陸上競技選手]]
* [[1988年]] - [[小柳友]]、俳優
* [[1989年]] - [[蘇炳添]]、陸上選手
* 1989年 - [[平田真吾]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[芦田崇宏]]、総合格闘家
* [[1990年]] - [[ジュリア・ウラソフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1992年]] - [[篠原冴美]]、グラビアアイドル、タレント
* 1992年 - [[竹上萌奈]]、アナウンサー
* [[1993年]] - [[リアム・ペイン]]、歌手([[ワン・ダイレクション]])
* 1993年 - [[Mika Pikazo]]、イラストレーター
* [[1994年]] - [[片寄涼太]]、[[ボーカル]]、[[パフォーマー]]([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* 1994年 - ハユン、アイドル、ミュージシャン([[Brave Girls]])
* 1994年 - [[栗本唯梨]]、[[ダンサー]]、[[振付師]]、女優
* [[1995年]] - [[曽我部英理]]、声優([[アース・スター ドリーム]])
* 1995年 - [[千葉翔也]]、声優
* 1995年 - [[北村拓己]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[奥浪鏡]]、元プロ野球選手
* 1995年 - [[ハシダヒロヤ]]、シンガーソングライター
* [[1996年]] - [[鎌田菜月]]、[[アイドル]]([[SKE48]])
* 1996年 - [[ダリル・ネイタ]]<ref>{{cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/great-britain-ni/daryll-neita-14476603 |title=Daryll NEITA |publisher=World Athletics |accessdate=22 Mar 2023}}</ref>、陸上競技選手
* 1996年 - [[山本千尋]]、女優
* 1996年 - [[古川駿]]、プロアイスホッケー選手
* [[1997年]] - [[今西駿介]]、陸上選手
* [[1998年]] - [[河本結]]、[[プロゴルファー]]
* [[1999年]] - [[中嶋南美]]、元プロ野球選手
* [[2000年]] - [[浜辺美波]]、女優
* 2000年 - [[金村尚真]]、プロ野球選手
* 2000年 - 髙塚夏生、アイドル(元SKE48)
* [[2001年]] - [[藤吉夏鈴]]、アイドル([[櫻坂46]])
* [[2002年]] - [[麗沙]]、歌手
* [[2003年]] - [[宮野陽名]]、モデル
* 生年不明 - [[深町寿成]]、声優
== 忌日 ==
{{multiple image
| image1 = Fujiwara_no_Muchimaro.jpg
| width1 = 100
| caption1 = [[藤原南家]]の祖、貴族[[藤原武智麻呂]](680-737)没
| image2 = Minamoto_Yorimitsu.jpg
| width2 = 100
| caption2 = [[摂津源氏]]の祖、武将[[源頼光]](948-1021)
}}
{{multiple image
| image1 = Solidus-Basil_I_with_Constantine_and_Eudoxia-sb1703.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 東ローマ帝国皇帝[[バシレイオス1世]](?-886)
| image2 = Hans_Krell_001.jpg
| width2 = 100
| caption2 = ハンガリー王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]](1506-1526)没。嗣子がなく、王位は[[ハプスブルク家]]の世襲となる
| image3 = Popepiusvi.jpg
| width3 = 100
| caption3 = ローマ教皇[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]](1717-1799)
}}
{{multiple image
| image1 = Kuroda_Nagamasa.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 武将・大名、[[黒田長政]](1568-1623)
| image2 = Toku14-2.jpg
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| caption2 = 江戸幕府第14代将軍、[[徳川家茂]](1846-1866)
}}
{{multiple image
| image1 = Sch%C3%B6nbein.jpg
| width1 = 100
| caption1 = 化学者[[クリスチアン・シェーンバイン]](1799-1868)
| image2 = Georges_Sorel.jpg
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| caption2 = 哲学者[[ジョルジュ・ソレル]](1847-1922)
}}
[[Image:Jules_Perrot_-circa_1850.JPG|thumb|100px|バレエダンサー・振付家、[[ジュール・ペロー]](1810-1892)]]
{{multiple image
| image1 = Eamon_de_Valera_c_1922-30.jpg
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| caption1 = アイルランド第3代大統領、[[エイモン・デ・ヴァレラ]](1882-1975)
| image2 = Muhammad_Naguib.jpg
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| caption2 = 初代エジプト大統領[[ムハンマド・ナギーブ]](1901-1984)
}}
* [[737年]]([[天平]]9年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]])- [[藤原武智麻呂]]、[[奈良時代]]の[[公卿]](* [[680年]])
* [[886年]] - [[バシレイオス1世]]、[[東ローマ帝国]][[皇帝]](* [[827年]]頃)
* [[1021年]]([[治安 (元号)|治安]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]])- [[源頼光]]、武将(* [[948年]])
* [[1093年]] - [[ユーグ1世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1057年]])
* [[1359年]]([[正平 (日本)|正平]]14年/[[延文]]4年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[少弐直資]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* 生年未詳)
* [[1523年]] - [[ウルリヒ・フォン・フッテン]]、[[思想家]]、[[人文主義者]](* [[1488年]])
* [[1526年]] - [[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]・[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]](* [[1506年]])
* [[1570年]]([[元亀]]元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[三条の方]]、[[武田信玄]]の[[正室]](* [[1521年]]?)
* [[1585年]]([[天正]]13年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])- [[伊東義祐]]、武将(* [[1512年]])
* [[1592年]]([[文禄]]元年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]])- [[大政所]]、[[豊臣秀吉]]の母(* [[1513年]])
* [[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[黒田長政]]、[[福岡藩]]初代藩主(* [[1568年]])
* [[1799年]] - [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]、第250代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1717年]])
* [[1842年]]([[天保]]13年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]])- [[矢部定謙]]、[[町奉行|江戸南町奉行]](* [[1789年]])
* [[1865年]] - [[ロベルト・レーマク]]、[[生理学者]](* [[1815年]])
* [[1866年]]([[慶応]]2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]])- [[徳川家茂]]、[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1846年]])
* [[1868年]] - [[クリスチアン・シェーンバイン]]、[[化学者]](* [[1799年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]])- [[浅野長訓]]、第11代[[広島藩|広島藩主]](* [[1812年]])
* [[1873年]] - [[ヘルマン・ハンケル]]、[[数学者]](* [[1839年]])
* [[1891年]] - [[ピエール・ラルマン]]、[[自転車]]開発者(* [[1843年]]もしくは[[1844年]])
* [[1892年]] - [[ジュール・ペロー]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付家]](* [[1810年]])
* [[1904年]] - [[ムラト5世]]、第33代[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国皇帝]](* [[1840年]])
* [[1913年]] - [[フリードリッヒ・ポッケルス]]、[[物理学者]](* [[1865年]])
* [[1922年]] - [[ジョルジュ・ソレル]]、[[哲学|哲学者]](* [[1847年]])
* [[1935年]] - [[アストリッド・ド・スエード]]、[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]の妃(* [[1905年]])
* [[1938年]] - [[カリンティ・フリジェシュ]]、[[作家]]、[[翻訳家]]、[[ジャーナリスト]](* [[1887年]])
* [[1949年]] - [[小日山直登]]、[[運輸大臣]](* [[1886年]])
* [[1952年]] - [[大河内正敏]]、物理学者(* [[1876年]])
* [[1960年]] - [[ヴィッキイ・バウム]]、[[作家]](* [[1888年]])
* [[1965年]] - [[ポール・ウェイナー]]、プロ野球選手(* [[1903年]])
* [[1972年]] - [[ララ・アンデルセン]]、[[歌手]]、[[俳優|女優]](* [[1905年]])
* 1972年 - [[ルネ・レイボヴィッツ]]、[[指揮者]]、[[作曲家]](* [[1913年]])
* 1972年 - [[ケネス・トッド・ヤング]]、[[外交官]](* [[1916年]])
* [[1975年]] - [[エイモン・デ・ヴァレラ]]、初代[[アイルランドの首相|アイルランド首相]]、第3代[[アイルランドの大統領|大統領]](* [[1882年]])
* [[1976年]] - [[ジミー・リード]]、[[歌手]](* [[1925年]])
* [[1979年]] - [[竹鶴政孝]]、[[ニッカウヰスキー]]創業者、[[実業家]](* [[1894年]])
* [[1980年]] - [[フランコ・バザリア]]、[[精神科医]](* [[1924年]])
* [[1982年]] - [[イングリッド・バーグマン]]、女優(* [[1915年]])
* [[1984年]] - [[ムハンマド・ナギーブ]]、[[エジプト]]大統領(* [[1901年]])
* 1984年 - [[水谷則一]]、元[[プロ野球選手]](* [[1910年]])
* [[1987年]] - [[リー・マーヴィン]]、俳優(* [[1924年]])
* [[1990年]] - [[ルイージ・ベッカリ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1907年]])
* [[1997年]] - [[大久保房松]]、[[騎手]](* [[1897年]])
* 1997年 - [[藤田敏八]]、[[映画監督]](* [[1932年]])
* [[2003年]] - [[ムハンマド・バーキル・ハキーム]]、[[イラク]]の[[シーア派]]指導者(* [[1939年]])
* [[2004年]] - [[種村季弘]]、[[ドイツ文学者]]、[[評論家]](* [[1933年]])
* 2004年 - [[ハンス・フォンク (指揮者)|ハンス・フォンク]]、指揮者(* [[1942年]])
* [[2006年]] - [[西尾武喜]]、[[名古屋市|名古屋市長]](* [[1925年]])
* [[2007年]] - [[三谷栄一]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1911年]])
* 2007年 - [[ピエール・メスメル]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1916年]])
* [[2008年]] - [[五ツ海義男]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1922年]])
* [[2011年]] - [[滝口順平]]、[[声優]]、[[ナレーター]](* [[1931年]])
* 2011年 - [[大悟法久志]]、高校野球指導者(* [[1947年]])
* [[2012年]] - [[春日野八千代]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2902B_Z20C12A8000000/ |title=宝塚男役スター、春日野八千代さん死去 |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=29 Aug 2012}}</ref>、宝塚歌劇団男役俳優、ミュージカル俳優(* [[1915年]])
* [[2014年]] - [[龍虎勢朋]]、元大相撲力士、タレント、俳優、コメンテーター(* [[1941年]])
* [[2017年]] - [[梶原拓]]、政治家、元[[岐阜県知事一覧|岐阜県知事]](* [[1933年]])
* [[2019年]] - [[依田英助]]、俳優、声優 (* [[1927年]])
* [[2020年]] - [[安宅敬祐]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ohk.co.jp/data/4454/pages/ |title=【訃報】元岡山市長 安宅敬祐氏(78)死去【岡山・岡山市】 |publisher=OHK 岡山放送 |date=30 Aug 2020 |accessdate=22 Mar 2023}}</ref>、政治家、元[[岡山県]][[岡山市]][[市長|長]](* [[1942年]])
* [[2021年]] - [[佐伯かよの]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2207586/full/ |title=漫画家・佐伯かよのさん、肺がんのため死去 69歳 『スマッシュ!メグ』『緋の稜線』など |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=20 Sep 2021}}</ref>、[[漫画家]](* [[1952年]])
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== 記念日・年中行事 ==
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| footer = [[第二次世界大戦]]、[[スロバキア民衆蜂起]]はじまる(1944)。右画像は記念モニュメント
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| alt1 = スロバキアの車列
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}}
[[Image:CaravaggioSalomeLondon.jpg|thumb|240px|[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]画『[[洗礼者ヨハネ|ヨハネ]]の首を持つ[[サロメ (ヘロディアの娘)|サロメ]]』]]
[[Image:DiosThot.jpg|thumb|100px|古代エジプトの知恵の神[[トート]]]]
[[Image:Horyu-ji11s3200.jpg|thumb|200x200px|[[法隆寺]]金堂]]
* [[トート]]1日([[古代エジプト]])
*: [[エジプト暦]]の最初の日。[[ユリウス暦]]に換算すると8月29日となる。知恵の神[[トート]]は時間の管理者とされていた。
* スロバキア国民蜂起記念日({{SVK}})
*: [[1944年]]のこの日に始まった、[[ナチス・ドイツ]]に対する[[スロバキア民衆蜂起]]を記念する祝日。
* [[洗礼者ヨハネ]]の斬首の祭日([[キリスト教]])
*: [[洗礼者ヨハネ|ヨハネ]]が斬首された日とされている。
* [[ケーブルカー]]の日({{JPN}})
*: [[1918年]]のこの日、[[大阪電気軌道]](現在の[[近畿日本鉄道]])の子会社[[生駒鋼索鉄道]]が、奈良県[[生駒山]]に日本初のケーブルカーを開業させたことに由来する。今の[[生駒鋼索線]]。
* [[文化財保護法]]施行記念日({{JPN}})
*: [[1950年]]8月29日に国宝や重要文化財の保護や文化の向上を目的とした法律「文化財保護法」が施行されたことに由来し、[[1951年]]に制定。この法律は[[1949年]][[1月26日]]の[[法隆寺]]金堂の火災をきっかけに制定されたもの。
* [[秋田県]]の記念日({{JPN}} 秋田県)
*: [[明治]]4年7月14日(新暦で[[1871年]]8月29日)の[[廃藩置県]]の際に、初めて秋田県という名称が使われたことに由来。秋田県が[[1965年]]に制定。
* [[焼き肉]]の日({{JPN}})
*: 8月29日の「829」が「ヤキニク」と読めることから。事業協同組合全国焼肉協会が[[1993年]]に「ヤキニクの日」として制定。夏バテ気味の人に焼肉を食べてスタミナをつけてもらおうという日。
* ベルばらの日
*: [[1974年]](昭和49年)のこの日、宝塚歌劇で『ベルサイユのばら』(通称:ベルばら)が初演された。
{{Clear}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0829|date=2023年3月}}
* [[1997年]] - 午前2時14分(米[[東部標準時]])、[[スカイネット]]が自我に目覚める。無人ステルス爆撃機がソ連を攻撃し、米ソ間の[[核戦争]]に発展。通称「審判の日」。(映画『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』『[[ターミネーター2]]』)
* [[宇宙世紀]]0088年 - [[ネオ・ジオン]]が[[地球連邦|地球連邦政府]]本部[[宇宙世紀の施設と地名#ダカール|ダカール]]を占拠。(TVアニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』)
* 年号不明 - キキが[[魔女]]として初めての[[衣装]]改造を開始する。(『[[魔女の宅急便]]その3』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1994年]] - 鷲尾辰生、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite book|和書 |author=古舘春一 |authorlink=古舘春一 |year=2014 |title=ハイキュー!! |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉 |location= |isbn=978-4-08-880071-4 |quote= |date= |volume=11巻 |page=148}}</ref>
* 生年不明 - 鳴海貴志、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|whistle_24|770157782381109249}}</ref>
* 生年不明 - 太刀川慶、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|769912629267685376}}</ref>
* 生年不明 - ジェントル・クリミナル、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group07/07-01/ |title=ジェントル・クリミナル |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 原村恵、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=原村 恵(はらむら けい) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 夏目残夏、漫画『[[妖狐×僕SS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|title=妖狐×僕SS|volume=4巻|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|year=2011|page=212|isbn=978-4-7575-3146-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=妖狐×僕SS オフィシャルガイド 0|publisher=スクウェア・エニックス|series=ガンガンコミックスJOKER|year=2012|page=88|isbn=978-4-7575-3500-8}}</ref>
* 生年不明 - 野々原あゆむ、[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]『[[おひめさまナビゲーション]]』に登場するキャラクター<ref>『[[電撃G's magazine]]』2009年2月号、[[アスキーメディアワークス]]、51頁。</ref>
*生年不明 - 葛城康平、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/katsuragi.html |title=葛城康平 |accessdate=22 Mar 2023 |publisher=[[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#菊地 真(きくち まこと)|菊地真]]、ゲーム『[[THE IDOLM@STER]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10004 |title=菊池 真(きくち まこと) |access-date=22 Mar 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref><ref>『[[電撃G's magazine]]』2010年11月号、[[アスキーメディアワークス]]、110頁。</ref>
* 生年不明 - 乙狩アドニス、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/otogari_adonis/ |title=乙狩 アドニス |accessdate=22 Mar 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
*生年不明 - 高峯翠、ゲーム『あんさんぶるスターズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/takamine_midori/ |title=高峯 翠 |accessdate=22 Mar 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
*生年不明 - 伊集院カイ、ゲーム・漫画・アニメ『[[Shadowverse]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shadowverse_anm|1564108102894759939}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8829%E6%97%A5 |
1,593 | ノルム保存型擬ポテンシャル | ノルム保存型擬ポテンシャル(ノルムほぞんがたぎポテンシャル、英: norm-conserving pseudopotential)は、1979年Hamann等によって考案された第一原理擬ポテンシャル(経験に依らないで作られた擬ポテンシャル)[1]。1982年にBachelet等によって、水素からプルトニウムまでの擬ポテンシャル作成のためのパラメーターの表を掲載した論文が出現してから、一般的に使用されるようになった[2]。ノルム保存擬ポテンシャル(ノルムほぞんぎポテンシャル)とも言う。
ノルム保存型擬ポテンシャル+平面波基底による電子状態計算手法が、原子間に働く力を求める上で都合が良かった(力の表式が比較的簡単なことや、Pulay補正の問題を回避し易いことなど)ため、1985年にカー・パリネロ法が出現した当初は、同手法を用いる上でほぼ例外なくこのノルム保存型擬ポテンシャルが利用され、更に多くの研究場面で使用されることとなった。
1990年にRappe等により最適化されたノルム保存型擬ポテンシャル[3]が考案された。この最適化されたノルム保存型擬ポテンシャルを用いると、より少ない平面波基底の数で、精度の良い電子状態の計算が可能となる。
ノルム保存型擬ポテンシャルの特徴は、切断半径内の電子の擬波動関数のノルムが、真の波動関数のノルムと一致するという条件の下に作られる(名前の由来)。これにより、切断半径内にある価電子が作る静電的ポテンシャルを正しく与えることができ、また原子の擬波動関数の対数微分と真の波動関数の対数微分の値及びそのエネルギー依存性がエネルギーの一次まで一致する。その結果、孤立した原子について作られた擬ポテンシャルを分子や固体に精度良く適用することが可能となる(高いトランスフェラビリティー)。
(*)更に、より少ない平面波基底で計算可能な第一原理擬ポテンシャルとして、ウルトラソフト擬ポテンシャル(これはノルム保存型ではない)がある。 | [
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| ノルム保存型擬ポテンシャルは、1979年Hamann等によって考案された第一原理擬ポテンシャル(経験に依らないで作られた擬ポテンシャル)[1]。1982年にBachelet等によって、水素からプルトニウムまでの擬ポテンシャル作成のためのパラメーターの表を掲載した論文が出現してから、一般的に使用されるようになった[2]。ノルム保存擬ポテンシャル(ノルムほぞんぎポテンシャル)とも言う。 ノルム保存型擬ポテンシャル+平面波基底による電子状態計算手法が、原子間に働く力を求める上で都合が良かった(力の表式が比較的簡単なことや、Pulay補正の問題を回避し易いことなど)ため、1985年にカー・パリネロ法が出現した当初は、同手法を用いる上でほぼ例外なくこのノルム保存型擬ポテンシャルが利用され、更に多くの研究場面で使用されることとなった。 1990年にRappe等により最適化されたノルム保存型擬ポテンシャル[3]が考案された。この最適化されたノルム保存型擬ポテンシャルを用いると、より少ない平面波基底の数で、精度の良い電子状態の計算が可能となる。 ノルム保存型擬ポテンシャルの特徴は、切断半径内の電子の擬波動関数のノルムが、真の波動関数のノルムと一致するという条件の下に作られる(名前の由来)。これにより、切断半径内にある価電子が作る静電的ポテンシャルを正しく与えることができ、また原子の擬波動関数の対数微分と真の波動関数の対数微分の値及びそのエネルギー依存性がエネルギーの一次まで一致する。その結果、孤立した原子について作られた擬ポテンシャルを分子や固体に精度良く適用することが可能となる(高いトランスフェラビリティー)。 | '''ノルム保存型擬ポテンシャル'''(ノルムほぞんがたぎポテンシャル、{{lang-en-short|norm-conserving pseudopotential}})は、[[1979年]]Hamann等によって考案された[[第一原理]]擬ポテンシャル(経験に依らないで作られた擬ポテンシャル)[1]。[[1982年]]にBachelet等によって、[[水素]]から[[プルトニウム]]までの擬ポテンシャル作成のためのパラメーターの表を掲載した論文が出現してから、一般的に使用されるようになった[2]。'''ノルム保存擬ポテンシャル'''(ノルムほぞんぎポテンシャル)とも言う。
ノルム保存型擬ポテンシャル+[[平面波基底]]による電子状態計算手法が、原子間に働く力を求める上で都合が良かった(力の表式が比較的簡単なことや、[[Pulay補正]]の問題を回避し易いことなど)ため、[[1985年]]に[[カー・パリネロ法]]が出現した当初は、同手法を用いる上でほぼ例外なくこのノルム保存型擬ポテンシャルが利用され、更に多くの研究場面で使用されることとなった。
[[1990年]]にRappe等により最適化されたノルム保存型擬ポテンシャル[3]が考案された。この最適化されたノルム保存型擬ポテンシャルを用いると、より少ない平面波基底の数で、精度の良い電子状態の計算が可能となる。
ノルム保存型擬ポテンシャルの特徴は、切断半径内の[[電子]]の[[擬波動関数]]の[[ノルム]]が、真の[[波動関数]]のノルムと一致するという条件の下に作られる(名前の由来)。これにより、切断半径内にある価電子が作る静電的ポテンシャルを正しく与えることができ、また原子の[[擬波動関数]]の対数微分と真の波動関数の対数微分の値及びそのエネルギー依存性がエネルギーの一次まで一致する。その結果、孤立した原子について作られた擬ポテンシャルを分子や固体に精度良く適用することが可能となる(高い[[トランスフェラビリティー]])。
== ノルム保存擬ポテンシャル作成の条件 ==
*切断半径より外側で、擬ポテンシャルとその擬波動関数が、[[原子]](以下、孤立原子を想定)のポテンシャルと波動関数(真の波動関数)と一致
*切断半径で、上記が滑らかに一致(切断半径上での擬波動関数、原子の波動関数の対数微分の一致、[[トランスフェラビリティー]]に関わる)
*切断半径内で、擬波動関数、原子の波動関数のノルムが一致
*擬波動関数は、節(ノード)を持たない
*擬ポテンシャルによるエネルギー固有値が、原子のエネルギー固有値と一致
(*)更に、より少ない平面波基底で計算可能な第一原理擬ポテンシャルとして、[[ウルトラソフト擬ポテンシャル]]('''これはノルム保存型ではない''')がある。
== 参考文献 ==
*[1] D. R. Hamann, M. Schlüter and C. Chiang, Phys. Rev. Lett., '''43''' (1979) 1494.
*[2] G. B. Bachelet, D. R. Hamann and M. Schlüter, Phys. Rev. B'''26''' (1982) 4199.
*[3] A. M. Rappe, K. M. Rabe, E. Kaxiras and J. D. Joannopoulos, Phys. Rev. B'''41''' (1990) 1227.
最適化擬ポテンシャルとしては、“N. Troullier and J. L. Martins, Solid State Commun., 74, (1990) 613; and Phys. Rev. B'''43''' (1991) 1993.”のものが良く使われる。
== 関連項目 ==
*[[部分内殻補正]]
*[[Kleinman-Bylander近似]]
*[[トランスフェラビリティー]]
*[[擬ポテンシャル]]
*[[第一原理バンド計算]]
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[[Category:バンド計算]] | null | 2017-05-05T21:51:59Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%A0%E4%BF%9D%E5%AD%98%E5%9E%8B%E6%93%AC%E3%83%9D%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB |
1,597 | 3月17日 | 3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。 | [
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| 3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。 | {{カレンダー 3月}}
'''3月17日'''(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から76日目([[閏年]]では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。
== できごと ==
[[Image:YushimaSeidoL8644.jpg|thumb|240px|[[湯島聖堂]]完成(1690)]]
[[Image:Tranquillo_Cremona_-_Vittorio_Emanuele_II.jpg|thumb|130px|[[イタリア王国]]成立(1861)。画像は初代国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]]]
[[Image:Kobe_after_the_1945_air_raid.JPG|thumb|200px|[[神戸大空襲]](1945)]]
* [[紀元前45年]] - [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]: [[ムンダの戦い]]。[[ユリウス・カエサル]]が[[オプティマテス|元老院派]]の軍を破る{{要出典|date=2021-03}}。
* [[624年]] - [[バドルの戦い]]{{要出典|date=2021-03}}
* [[1040年]] - [[クヌート大王]]の息子[[ハーデクヌーズ]]が[[イングランド君主一覧|イングランド人の王]]に就任した。
* [[1336年]] - イングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]が長男[[エドワード黒太子]]のために[[コーンウォール公]]を創設。イングランド初の公爵位。
* [[1690年]]([[延宝]]9年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[湯島聖堂]]が完成する。
* [[1766年]] - [[イギリス議会]]が[[13植民地|アメリカ植民地]]の[[1765年印紙法|印紙法]]を廃止。
* [[1801年]] - [[ヘンリー・アディントン]]がイギリスの第17代首相に就任。
* [[1805年]] - フランスの帝政移行に伴い、[[イタリア共和国 (1802年-1805年)|イタリア共和国]]で大統領[[ナポレオン・ボナパルト]]がイタリア王として即位し、[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]に移行。
* [[1830年]] - [[フレデリック・ショパン]]が独奏会を開き、ピアニストとしてデビュー。
* [[1861年]] - [[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]][[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]が[[イタリア王国]]成立を宣言。
* [[1865年]]([[元治]]2年2月12日) - 長崎の[[隠れキリシタン#潜伏キリシタン|潜伏キリシタン]]が[[大浦天主堂]]を訪れ、信者であると告げる。
* [[1869年]]([[明治]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[大阪市|大阪]]に[[造幣局 (日本)|造幣局]]が設置される。
* [[1876年]] - 太政官指令により、「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち[[夫婦別姓]]が原則とされた<ref name=minji3602>[https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html 「我が国における氏の制度の変遷」]、法務省。</ref>。(日本の制度が夫婦同姓に転換するのは[[1898年]]の民法制定による。)
* [[1880年]] - [[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]第四大会で、愛国社を改称して[[国会期成同盟]]が成立。
* [[1893年]] - [[川越大火]]が発生。
* [[1901年]] - [[パリ]]で[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ]]の絵画の展覧会。死後11年目にあたるが、大きな反響を呼ぶ。
* [[1931年]] - [[ネバダ州]]で賭博が合法化。
* [[1937年]] - [[南海高野線]]で電車が暴走し、[[紀伊神谷駅]]で脱線転覆乗客2人が死亡、12人が重軽傷。事故の拡大を防ぐために駅員が故意に脱線させたもの<ref>南海電鉄高野線で電車が脱線転覆『大阪毎日新聞』(昭和12年3月18日夕刊).『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p799 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1939年]] - [[日中戦争]]: [[南昌作戦]]が開始される。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[日本本土空襲]]: [[神戸大空襲]]。
* 1945年 - 第二次世界大戦: [[硫黄島の戦い]]で、米軍が[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]最北端まで到達し、全島を占領。
* 1945年 - 第二次世界大戦: アメリカ軍が占領し補強工事中だった[[ライン川]]の[[ルーデンドルフ橋]]が自然崩落。工兵28人が死亡。
* [[1948年]] - [[ベネルクス3国]]と[[イギリス]]・[[フランス]]の間に[[北大西洋条約機構|NATO]]の前身となる[[ブリュッセル条約 (1948年)|ブリュッセル条約]]が調印される。
* [[1950年]] - インドの[[ジャワハルラール・ネルー]]首相が、米ソどちらの陣営に属さない非同盟外交を声明。
* 1950年 - [[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[グレン・シーボーグ]]らが、98番元素([[カリホルニウム]])の合成に成功したと発表。
* [[1953年]] - 麻薬取締法(現 [[麻薬及び向精神薬取締法]])公布。
* [[1957年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で『[[ミユキ野球教室]]』放送開始。
* [[1958年]] - アメリカで2つ目、かつ史上初の[[太陽電池]]を搭載した[[人工衛星]]「[[ヴァンガード1号]]」が打ち上げられる。
* [[1959年]] - [[1959年のチベット蜂起|チベット蜂起]]: [[ダライ・ラマ14世|ダライラマ14世テンジン・ギャツォ]]が[[チベット]]から[[インド]]へ逃れる。
* 1959年 - 『[[週刊少年サンデー]]』『[[週刊少年マガジン]]』が創刊。
* [[1960年]] - [[インディアナ州]]上空で{{仮リンク|ノースウエスト航空710便空中分解事故|en|Northwest Orient Airlines Flight 710}}発生。
* [[1969年]] - [[ゴルダ・メイア]]が[[イスラエル首相]]に就任。イスラエルで初、世界で3人目の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]。
* [[1970年]] - 発達した低気圧の影響で北海道の海が大荒れ。[[択捉島]]の[[単冠湾]]では緊急入域した日本の漁船が遭難して死者18人以上<ref>流氷、漁船閉じ込める 緊急入域中野9隻『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月13日朝刊、12版、15面</ref>。
* [[1977年]] - 同じ日に[[仙台空港]]に向かう飛行機を対象としたハイジャック事件が2件発生する([[全日空724便ハイジャック事件]]・[[全日空817便ハイジャック事件]])。
* [[1984年]] - 鹿児島県の[[鹿児島交通枕崎線]]がこの日限りで廃止。
* [[1985年]] - [[筑波研究学園都市]]で[[国際科学技術博覧会]](つくば科学技術博)が開幕。[[9月16日]]まで。
* [[1987年]] - [[アサヒビール]]が世界初の辛口[[ビール]]「[[アサヒスーパードライ]]」を地域限定で発売開始。
* [[1988年]] - [[東京都]][[文京区]]の[[東京ドーム]]で落成式。
* [[1991年]] - [[フィンランド]]総選挙。[[エスコ・アホ]]率いる[[フィンランド中央党|中央党]]が議席を増やし第一党に。
* [[1992年]] - [[ブエノスアイレス]]の[[イスラエル]][[大使館]]で[[自爆テロ]]。29人死亡。
* [[1999年]] - [[安室奈美恵実母殺害事件]]。
* [[2003年]] - [[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]による[[イラク]]大統領[[サッダーム・フセイン]]への[[最後通牒]]演説。
* [[2004年]] - [[コソボ暴動 (2004年)|コソボ暴動]]。
* [[2008年]] - [[ニューヨーク州知事]][[エリオット・スピッツァー]]が売買春スキャンダルのため辞職<ref>{{Cite web|和書|date=2008年3月18日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2366387 |title=米国史上初の盲目の州知事誕生 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-09-30}}</ref>。
* [[2011年]] - リビア情勢に関して[[国際連合安全保障理事会決議1973]]が採択される<ref>{{Cite web|和書|date=2011年3月18日 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPnTK886615620110317 |title=国連安保理がリビアの飛行禁止区域設定承認、市民保護へ「必要なあらゆる措置」 |publisher=ロイター |accessdate=2018-09-30}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Toyotomi_Hideyoshi_c1598_Kodai-ji_Temple.png|thumb|180px|[[豊臣秀吉]](1537-1598)誕生]]
[[Image:Gottliebdaimler1.jpg|thumb|140px|[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]社を設立した技術者[[ゴットリーブ・ダイムラー]](1834-1900)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mikipress.com/m-base/2017/01/50daimalrd.html |title=第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ) |work=M-BASE エムベース |date=2017-01-27 |accessdate=2020-06-23}}</ref>]]
[[Image:Kate Greenaway - May day.jpg|thumb|240px|[[イラストレーター]]、[[ケイト・グリーナウェイ]](1846-1901)。彼女を記念した絵本の賞[[ケイト・グリーナウェイ賞]]がある。画像は『メーデー』]]
[[Image:Takeo-Miki1935.jpg|thumb|140px|第66代内閣総理大臣、[[三木武夫]](1907-1988)。画像は大学時代]]
[[Image:Scylla-_a_book_of_the_dead.jpg|thumb|140px|[[サイエンス・フィクション|SF]]作家、[[ウィリアム・ギブスン]](1948-)。代表作『[[ニューロマンサー]]』(1984)は[[サイバーパンク]]の代名詞]]
* [[1231年]]([[寛喜]]3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[四条天皇]]、第87代[[天皇]](+ [[1242年]])
* [[1473年]] - [[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1513年]])
* [[1537年]] - [[豊臣秀吉]]、[[戦国武将]](+ [[1598年]])
* [[1665年]] - [[エリザベト・ジャケ=ド=ラ=ゲール]]、[[作曲家]]、[[クラブサン]]奏者(+ [[1729年]])
* [[1685年]] - [[ジャン=マルク・ナティエ]]、[[画家]] (+ [[1766年]])
* [[1739年]]([[元文]]4年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[鷹司輔平]]、[[江戸時代]]中期の[[公卿]](+ [[1813年]])
* [[1741年]] - [[ウィリアム・ウィザリング]]、[[科学者]](+ [[1799年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[徳川重好]]、[[御三卿]][[清水徳川家|清水家]]初代当主(+ [[1795年]])
* [[1754年]] - [[ロラン夫人]]、[[フランス革命]]期の[[ジロンド派]]の中心人物(+ [[1793年]])
* [[1773年]]([[安永]]2年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[伴信友]]、[[国学|国学者]](+ [[1846年]])
* [[1787年]] - [[エドマンド・キーン]]、[[俳優]](+ [[1833年]])
* [[1834年]] - [[ゴットリーブ・ダイムラー]]、機械技術者(+ [[1900年]])
* [[1835年]]([[天保]]6年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[有栖川宮熾仁親王]]、[[皇族]]、[[軍人]](+ [[1895年]])
* [[1839年]] - [[ヨーゼフ・ラインベルガー]]、[[作曲家]]、[[オルガニスト]](+ [[1901年]])
* [[1846年]] - [[ケイト・グリーナウェイ]]、[[挿絵]][[画家]]、[[絵本作家]](+ [[1901年]])
* [[1855年]]([[安政]]2年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[菊池大麓]]、[[数学者]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[文部大臣]](+ [[1917年]])
* [[1856年]] - [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](ナポレオン4世)、フランスの[[皇太子]](+ [[1879年]])
* 1856年 - [[ミハイル・ヴルーベリ]]、[[画家]](+ [[1910年]])
* [[1862年]] - [[シルビオ・ゲゼル]]、[[実業家]]、[[経済学者]](+ [[1930年]])
* [[1866年]]([[慶応]]2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[野口幽香]]、幼児教育者、[[社会事業|社会事業家]](+ [[1950年]])
* [[1871年]]([[明治]]4年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[御木徳一]]、ひとのみち教団(現・[[PL教団]])開祖(+ [[1938年]])
* [[1881年]] - [[ウォルター・ルドルフ・ヘス]]、[[生理学者]](+ [[1973年]])
* [[1886年]] - [[金森徳次郎]]、[[政治家]]、[[憲法|憲法学者]](+ [[1959年]])
* [[1888年]] - [[ポール・ラマディエ]]、政治家(+ [[1961年]])
* [[1895年]] - [[石川欣一 (ジャーナリスト)|石川欣一]]、[[ジャーナリスト]]、[[随筆家]](+ [[1959年]])
* [[1896年]] - [[ヨゼフ・スデック]]、[[写真家]](+ [[1976年]])
* [[1897年]] - [[里見岸雄]]、[[思想家]](+ [[1974年]])
* [[1898年]] - [[横光利一]]、[[小説家]](+ [[1947年]])
* [[1900年]] - [[アルフレッド・ニューマン]]、[[映画音楽]]作曲家(+ [[1970年]])
* [[1902年]] - [[ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)|ボビー・ジョーンズ]]、[[ゴルファー]]、[[弁護士]](+ [[1971年]])
* [[1904年]] - [[ハイム・グロース]]、[[彫刻家]](+ [[1991年]])
* 1904年 - [[桜田武]]、実業家(+ [[1985年]])
* [[1906年]] - [[ブリギッテ・ヘルム]]、[[俳優|女優]](+ [[1996年]])
* [[1907年]] - [[三木武夫]]、政治家、第66代[[内閣総理大臣]](+ [[1988年]])
* [[1908年]] - [[服部正]]、作曲家(+ [[2008年]])
* [[1913年]] - [[宮入行平]]、[[刀工|刀匠]](+ [[1977年]])
* [[1917年]] - [[ハンス・フィリップ]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+[[1943年]])
* [[1919年]] - [[ナット・キング・コール]]、[[歌手]](+ [[1965年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.udiscovermusic.jp/stories/best-nat-king-cole-songs |title=ナット・キング・コールのベスト・ソング20曲:世界屈指の歌手であり人種差別を超えた先駆者 |work=udiscovermusic.jp |date=2020-03-17 |accessdate=2020-06-23}}</ref>
* [[1920年]] - [[土居健郎]]、[[精神医学|精神医学者]](+ [[2009年]])
* 1920年 - [[ムジブル・ラフマン]]、政治家、初代[[バングラデシュの大統領|バングラデシュ大統領]](+ [[1975年]])
* [[1923年]] - [[船越英二]]、[[俳優]](+ [[2007年]])
* 1923年 - [[永野健]]、実業家(+ [[2008年]])
* [[1924年]] - [[三重野康]]、第26代[[日本銀行総裁]](+ [[2012年]])
* [[1925年]] - [[小尾信彌]]、[[天文学者]](+ [[2014年]])
* [[1929年]] - [[ピーター・L・バーガー]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[2017年]])
* [[1932年]] - [[森川公也]]、俳優(+ [[1989年]])
* [[1933年]] - [[木幡陽]]、[[生化学|生化学者]]
* 1933年 - [[伊藤鑛二]]、[[アナウンサー]](+ [[2001年]])
* [[1935年]] - [[鴨下信一]]、[[演出家]](+ [[2021年]])
* [[1937年]] - [[伊藤牧子]]、声優
* [[1938年]] - [[ルドルフ・ヌレエフ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1993年]])
* 1938年 - [[三浦宏文]]、[[ロボット工学者]](+ [[2020年]])
* 1938年 - [[柄崎英樹]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1939年]] - [[ジョバンニ・トラパットーニ]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* [[1940年]] - [[郷田勇三]]、[[空手道|空手家]]
* [[1942年]] - [[山本陽子]]、[[俳優|女優]]
* [[1943年]] - [[松尾嘉代]]、女優
* [[1944年]] - [[袴田茂樹]]、[[政治学者]]
* [[1945年]] - [[エリス・レジーナ]]、歌手(+ [[1982年]])
* [[1946年]] - [[マギー司郎]]、マジック漫談師
* [[1947年]] - [[四宮正貴]]、[[著作家|著述家]]、「四宮政治文化研究所」代表(+ [[2021年]])
* [[1948年]] - [[ウィリアム・ギブスン]]、[[SF作家]]
* [[1949年]] - [[大木勝年]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[カート・ラッセル]]、俳優
* 1951年 - [[春日一平]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[渡辺喜美]]、政治家、[[衆議院議員]]
* 1952年 - [[村松邦男]]、ミュージシャン
* [[1954年]] - [[寿ひずる]]、女優
* [[1955年]] - [[ゲイリー・シニーズ]]、[[映画俳優]]
* 1955年 - [[春田純一]]、俳優
* 1955年 - [[伊藤洋三郎]]、声優
* [[1959年]] - [[遠藤響子]]、[[シンガーソングライター]]
* 1959年 - [[ダニー・エインジ]]、元[[バスケットボール選手]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[青柳誠]]、音楽プロデューサー
* [[1962年]] - [[小松江里子]]、[[脚本家]]
* 1962年 - [[アハメド・カリール]]、外交官
* [[1963年]] - [[甲本ヒロト]]、ミュージシャン([[THE BLUE HEARTS]]、[[THE HIGH-LOWS]]、[[ザ・クロマニヨンズ]])
* 1963年 - [[平松禎史]]、[[アニメーター]]
* [[1964年]] - [[ロブ・ロウ]]、俳優
* [[1965年]] - [[広瀬真二]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[夏野剛]]、実業家
* 1965年 - [[中條健一]]、[[コメディアン|喜劇俳優]]
* [[1967年]] - [[中村武志]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[渡辺航]]、俳優
* 1967年 - [[ビリー・コーガン]]、ミュージシャン
* [[1968年]] - [[新田恵利]]、[[タレント]](元[[おニャン子クラブ]])
* [[1970年]] - [[島田直也]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[鈴木国博]]、空手家
* 1970年 - [[前田ちあき]]、声優
* 1970年 - [[フロリン・ラドチョウ]]、サッカー選手
* [[1971年]] - [[郷田真隆]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* 1971年 - [[ビル・ミラー]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[ミア・ハム]]、元サッカー選手
* 1972年 - [[パーシャ・グリシュク]]、[[フィギュアスケート]]選手
*1972年 - [[多井隆晴]]、プロ雀士
* [[1973年]] - [[菊地晶子]]、声優
* 1973年 - [[キャロライン・コアー]]、ミュージシャン([[ザ・コアーズ]])
* [[1974年]] - [[秋野こぎく]]、[[演歌歌手]]
* 1974年 - [[小澤英明]]、元サッカー選手
* [[1975年]] - [[石井康雄]]、野球選手
* 1975年 - [[ジャスティン・ホーキンス]]、ミュージシャン([[ザ・ダークネス]])
* 1975年 - [[柳川荒士]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1975年 - [[WARNER]]、振付師、演出家
* [[1976年]] - [[アルバロ・レコバ]]、サッカー選手
* [[1977年]] - [[都竹悦子]]、[[ディスクジョッキー]]
* 1977年 - [[伊崎充則]]、俳優
* 1977年 - [[CUTT|前田一史]]、ミュージシャン
* [[1978年]] - [[ハタタケル]]、作家、デザイナー、ラジオパーソナリティー
* [[1979年]] - [[hàl]]、[[歌手]]
* 1979年 - [[能町みね子]]、[[エッセイスト]]
* 1979年 - [[ストーミー・ダニエルズ]]、ポルノ女優
* [[1980年]] - [[堀田勝]]、声優
* 1980年 - [[ツォーマス・プランマン]]、ミュージシャン、実業家
* [[1981年]] - [[館山昌平]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[髙木俊]]、声優
* 1981年 - [[お侍ちゃん]]、お笑いタレント
* 1981年 - [[カイル・コーバー]]、[[バスケットボール選手]]
* [[1982年]] - [[スティーヴン・ピーナール]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[藤森慎吾]]、お笑いタレント([[オリエンタルラジオ]])、歌手([[RADIO FISH]])
* 1983年 - [[ラウル・メイレレス]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[ディエゴ (ファッションモデル)|ディエゴ]]、ファッションモデル
* 1985年 - [[トゥーバ・カラデミル]]、フィギュアスケート選手
* [[1986年]] - [[藤岡佑介]]、騎手
* 1986年 - [[内村賢介]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[廣瀬騎優]]、ハンドボール選手
* 1986年 - [[高崎寛之]]、 サッカー選手
* 1986年 - [[エディン・ジェコ]]、サッカー選手
* 1986年 - [[クリス・デービス (内野手)|クリス・デービス]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[ブライアン・デッカート]]、俳優
* 1987年 - [[中山恵里奈]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://lain.gr.jp/voicedb/profile/1613|title=中山恵里奈のプロフィール|work=.lain|accessdate=2020-06-23}}</ref> 、声優
* 1987年 - [[畑山綾乃]]、元アナウンサー
* [[1988年]] - [[長渕文音]]、女優
* 1988年 - [[阿部桃子 (1988年生)|阿部桃子]]、女優、モデル、タレント
* 1988年 - [[フレイザー・フォースター]]、サッカー選手
* 1988年 - [[永作あいり]]、歌手、元グラビアアイドル
* [[1989年]] - [[香川真司]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[玉森裕太]]、アイドル([[Kis-My-Ft2]])
* 1990年 - [[池田健 (野球)|池田健]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[ジーン・セグラ]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[アンドリュー・キットレッジ]]、プロ野球選手
* [[1991年]] - [[松井飛雄馬]]、元プロ野球選手
* [[1992年]] - [[ジョン・ボイエガ]]、俳優
* [[1993年]] - [[江渡万里彩]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]4号)
* 1993年 - [[川村那月]]、モデル、元[[レースクイーン]]
* [[1994年]] - [[冨手麻妙]]、女優
* 1994年 - [[ぱんちゃん璃奈]]、[[キックボクサー]]
* 1994年 - [[山中秀仁]]、陸上選手
* [[1995年]] - [[早見あかり]]、女優
* 1995年 - [[アナスタシヤ・マルチュシェワ]]、フィギュアスケート選手
* 1995年 - [[笠原祥太郎|{{JIS2004フォント|笠原祥太郎}}]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[中川絵美里]]、[[ニュースキャスター|キャスター]]、[[フリーアナウンサー]]、元[[チアリーダー]]
* 1995年 - [[山下実優]]、プロレスラー
* 1995年 - [[知念慶]]、サッカー選手
* [[1997年]] - [[ケイティ・レデッキー]]、競泳選手
* 1997年 - [[笠谷俊介]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[村上虹郎]]、俳優
* 1997年 - [[木下遥]]、ファッションモデル
* [[1998年]] - [[渡邉幸愛]]、アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 1998年 - [[真島なおみ]]、タレント、グラビアアイドル
* 1998年 - [[小野寺暖]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[三品瑠香]]、アイドル([[わーすた]])
* [[2002年]] - [[石田千穂]]、アイドル([[STU48]])
* 2002年 - [[川島鈴遥]]、女優
* [[2003年]] - 中西アルノ、アイドル([[乃木坂46]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1874年]] - [[キンチェム]]、競走馬(+[[1887年]])
* [[1929年]] - [[ワカタカ]]、競走馬(+[[1945年]])
* [[1993年]] - [[ファイトガリバー]]、競走馬(+[[2019年]])
* [[1995年]] - [[エルコンドルパサー]]、競走馬、[[種牡馬]](+ [[2002年]])
* [[1999年]] - [[サーガノヴェル]]、競走馬
== 忌日 ==
[[Image:Marcus_Aurelius_Glyptothek_Munich.jpg|thumb|140px|『[[自省録]]』を著した「哲人皇帝」[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]](121-180)没。]]
[[Image:Tenn%C5%8D_Kazan_detail.jpg|thumb|140px|[[花山天皇]](968-1008)<ref>{{Cite web|和書|url=https://geocity1.com/okugesan_com/kazan.htm |title=第65代 花山天皇(かざんてんのう) |work=公卿類別譜〜公家の歴史〜 |accessdate=2020-06-23}}</ref>]]
[[Image:Kuniyoshi_Imperial_Bodyguard_Fighting_with_a_Demon.jpg|thumb|160px|平安時代の武将、[[渡辺綱]](953-1025)。鬼の腕を切り落としたという]]
[[Image:Fran%C3%A7ois_de_La_Rochefoucauld.jpg|thumb|140px|文学者[[フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー|ラ・ロシュフコー]](1613-1680)<ref>{{Cite web|和書|url=https://rennai-meigen.com/larochefoucauld/|title=ラ・ロシュフコーの名言|work=e恋愛名言集|accessdate=2020-06-23}}</ref>。しばしば引用される『箴言集』で知られる]]
[[Image:Danielbernoulli.jpg|thumb|140px|数学者[[ダニエル・ベルヌーイ]](1700-1782)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ariga-kagakushi.info/portrait/BernoulliDaniel.html|title=ダニエル・ベルヌーイ Daniel Bernoulli|work=ARIGA Nobumichi|date=2013-02-09|accessdate=2020-06-23}}</ref> 。[[ベルヌーイの定理]]に名を残す]]
[[Image:Friedrich_Wilhelm_Bessel.jpeg|thumb|140px|数学者・天文学者、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]](1784-1864)<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuhou-shinbun.com/goner.html?id=12685|title=フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルFriedrich Wilhelm Bessel|work=訃報新聞|accessdate=2020-06-23}}</ref>。[[年周視差]]を発見した他、数多くの業績がある]]
[[Image:Doppler_Christian_Andreas_portrait.jpg|thumb|140px|[[ドップラー効果]]の関係式を見出した物理学者、[[クリスチャン・ドップラー]](1803-1853)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.greelane.com/ja/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E6%95%B0%E5%AD%A6/%E7%A7%91%E5%AD%A6/christian-doppler-biography-4174714/ |title=クリスチャン・ドップラー、数学者や物理学者の伝記 |work=WWW.GREELANE.COM |date=2018-09-20 |accessdate=2020-06-23}}</ref>]]
[[Image:Joliot-curie.jpg|thumb|120px|原子[[物理学者]][[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]](1897-1956)、[[白血病]]で死去]]
[[Image:Salk_Institute1.jpg|thumb|200px|公共建築に多くの仕事を遺した建築家[[ルイス・I・カーン]](1901-1974)没。画像はソーク研究所(1959-1965)]]
* [[紀元前45年]] - [[ティトゥス・ラビエヌス]]、軍人
* [[180年]] - [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Marcus-Aurelius-Roman-emperor Marcus Aurelius emperor of Rome] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ローマ皇帝]](* [[121年]])
* [[461年]] - [[パトリキウス]]、[[アイルランド]]の[[守護聖人]](* [[387年]]?)
* [[1008年]]([[寛弘]]5年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[花山天皇]]、第65代[[天皇]](* [[968年]])
* [[1025年]]([[万寿]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[渡辺綱]]、[[頼光四天王]]の筆頭(* [[953年]])
* [[1058年]] - [[ルーラッハ (スコットランド王)|ルーラッハ]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1032年]])
* [[1272年]]([[文永]]9年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[後嵯峨天皇]]、第88代天皇(* [[1220年]])
* [[1425年]]([[応永]]32年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[足利義量]]、[[室町幕府]]5代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1407年]])
* [[1595年]]([[文禄]]4年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[蒲生氏郷]]、[[武将]](* [[1556年]])
* [[1657年]] - [[ヨハン・シサット]]、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[1587年]]頃)
* [[1680年]] - [[フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー|ラ・ロシュフコー]]、[[フランス]]の[[貴族]]、[[文学者]](* [[1613年]])
* [[1709年]]([[宝永]]6年2月7日) - [[鷹司信子]]、[[江戸幕府]]第5代将軍[[徳川綱吉]]の[[正室]](* [[1651年]])
* [[1782年]] - [[ダニエル・ベルヌーイ]]、数学者、[[物理学者]](* [[1700年]])
* [[1827年]]([[文政]]10年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]) - [[徳川治済]]、[[一橋徳川家|一橋家]]第2代当主(* [[1751年]])
* [[1830年]] - [[ローラン・グーヴィオン=サン=シール]]、フランスの[[元帥]](* [[1764年]])
* [[1846年]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]、天文学者(* [[1784年]])
* [[1847年]] - [[J・J・グランヴィル]]、[[風刺画]]家(* [[1803年]])
* [[1849年]] - [[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]、[[オランダ]]王(* [[1792年]])
* [[1853年]] - [[クリスチャン・ドップラー]]、物理学者(* [[1803年]])
* [[1862年]] - [[ジャック・アレヴィ]]、[[作曲家]](* [[1799年]])
* [[1875年]] - [[フェルディナント・ラウプ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1832年]])
* [[1893年]] - [[ジュール・フェリー]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1832年]])
* [[1895年]] - [[井上毅]]、元[[文部大臣]]、[[内閣法制局]]長官(* [[1844年]])
* [[1914年]] - [[平出修]]、[[小説家]]、[[歌人]]、[[弁護士]](* [[1878年]])
* [[1917年]] - [[フランツ・ブレンターノ]]、[[思想家]](* [[1838年]])
* [[1921年]] - [[ニコライ・ジューコフスキー]]、物理学者、[[TsAGI]]創設者 (* [[1847年]])
* [[1941年]] - [[ニコラエ・ティトゥレスク]]、元[[ルーマニア]]蔵相(* [[1882年]])
* 1941年 - [[ワシリー・サペルニコフ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1867年]])
* [[1942年]] - [[谷豊]]、[[日本陸軍]]の[[スパイ|諜報員]]「ハリマオ」(* [[1911年]])
* [[1956年]] - [[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]、物理学者(* [[1897年]])
* [[1957年]] - [[ラモン・マグサイサイ]]、第7代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](* [[1907年]])
* [[1970年]] - [[市河三喜]]、[[英語学|英語学者]](* [[1886年]])
* [[1971年]] - [[ピエロ・コッポラ]]、[[指揮者]](* [[1888年]])
* [[1973年]] - [[石井鶴三]]、[[彫刻家]]、[[洋画家]](* [[1887年]])
* [[1974年]] - [[ルイス・I・カーン]]、[[建築家]](* [[1901年]])
* [[1976年]] - [[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[映画監督]](* [[1906年]])
* [[1977年]] - [[ヴォルフガング・フォン・グロナウ]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1893年]])
* [[1981年]] - [[赤尾兜子]]、[[俳人]]、俳句誌『渦』創刊・主宰(* [[1925年]])
* [[1990年]] - [[キャプシーヌ]]、[[俳優|女優]](* [[1931年]])
* 1990年 - [[安藤美紀夫]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1930年]])
* 1990年 - [[八十川胖]]、[[野球選手]]、アマチュア野球指導者(* [[1909年]])
* [[1993年]] - [[辻井弘]]、元[[プロ野球選手]](* [[1917年]])
* [[1994年]] - [[安井かずみ]]、[[作詞家]](* [[1939年]])
* 1994年 - [[青木一三]]、[[日本プロ野球|プロ野球]][[スカウト (勧誘)|スカウト]](* [[1926年]])
* [[1996年]] - [[ルネ・クレマン]]、映画監督(* [[1913年]])
* [[2001年]] - [[新珠三千代]]、女優(* [[1930年]])
* [[2005年]] - [[ジョージ・ケナン]]、[[外交官]]、[[プリンストン高等研究所]][[名誉教授]](* [[1904年]])
* 2005年 - [[アンドレ・ノートン]]、小説家(* [[1912年]])
* 2005年 - [[ガリー・ベルティーニ]]、[[指揮者]](* [[1927年]])
* [[2007年]] - [[船越英二]]、[[俳優]](* [[1923年]])
* 2007年 - [[エルンスト・ヘフリガー]]、[[テノール#著名なテノール|テノール歌手]](* [[1919年]])
* 2007年 - [[ジョン・バッカス]]、[[情報工学|情報工学者]](* [[1924年]])
* 2007年 - [[佐藤秀明 (野球)|佐藤秀明]]、元プロ野球選手(* [[1960年]])
* [[2009年]] - [[須知徳平]]、作家(* [[1921年]])
* 2009年 - [[ホワイティ・ロックマン]]、元プロ野球選手(* [[1926年]])
* [[2010年]] - [[三村勲]]、元プロ野球選手(* [[1924年]])
* [[2012年]] - [[藤岡太郎]]、俳優、お笑い芸人(* [[1964年]])
* [[2019年]] - [[内田裕也]]<ref name="スポニチ">{{cite news|和書|date=2019-03-18|title=内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール" - スポニチ Sponichi Annex 芸能|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/18/kiji/20190318s00041000047000c.html|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=[[スポーツニッポン新聞社]]|accessdate=2020-11-18}}</ref>、ミュージシャン、俳優(* [[1939年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Ireland-St Patrick.jpg|thumb|220px|[[アイルランド]]の[[聖パトリックの祝日]]]]
*[[聖パトリックの祝日]]({{IRL}}・{{USA}})
*[[彼岸]]の入り({{JPN}} 2008年・2009年・2012年・2013年)
*: [[春分]]を中心とする7日間が春の彼岸である。
*漫画週刊誌の日({{JPN}})
*: [[1959年]](昭和34年)のこの日、日本初の少年向け週刊誌『[[週刊少年サンデー]]』『[[週刊少年マガジン]]』が創刊した。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0317|date=2011年6月}}
* [[1997年]] - 18時59分、[[東京テレポート駅]]で拳銃発砲殺人未遂事件発生。[[真下正義]]警部(当時)が至近距離で腹部を狙撃され、重体。(ドラマ『[[踊る大捜査線]]』)
* 年不明 - 午前10時、バッキンガム宮殿で領主不在のため一時的に王家に返上していた領地と爵位がシエル・ファントムハイヴに返還された。(漫画『[[黒執事]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1861年]] - イタリア=ヴェネチアーノ、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERS ヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=14|author=日丸屋秀和}}</ref>
* [[1861年]] - イタリア=ロマーノ、漫画・アニメ『Axis powers ヘタリア』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERS ヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=16|author=日丸屋秀和}}</ref>
* [[1907年]] - 万里小路旭、漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=紡ぐ乙女と大正の月 1|date=2020-06-26|publisher=[[芳文社]]|page=4|isbn=978-4832271999|author=ちうね}}</ref>
* [[1975年]] - 星ハルカ、アニメ『[[逆転イッパツマン]]』に登場するキャラクター
* [[1989年]] - ザジ・レイニーデイ、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』に登場するキャラクター
* [[2001年]] - 葵唯翔、アニメ『[[色づく世界の明日から]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|PAWORKS_info|1222066974009823232}}</ref>
* 生年不明 - 嘉味田正一、アニメ・漫画『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/kamita_shouichi.html |title=嘉味田正一 |publisher=[[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television]] |work=高山箕犀/セイレン製作委員会 |accessdate=2022-09-11}}</ref>
* 生年不明 - 軍艦、漫画・アニメ『[[ボボボーボ・ボーボボ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アイデアマン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Ideaman.html |title=アイデアマン |work=ONE PIECE.com |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ボールディン警部、漫画『[[BLACK CAT]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鳳橋楼十郎、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Bleach_BS|1372028106685382656}}</ref>
* 生年不明 - 摩堂蓮、漫画『[[バリハケン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - サリー、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|blackclover_off|1504110248352649226}}</ref>
* 生年不明 - 海老沢妙子、漫画・ドラマCD『[[090えこといっしょ。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 瀬戸拓馬、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|diaace_anime|1498877173318692870}}</ref>
* 生年不明 - 氷室涼、漫画・アニメ『[[ケンガンアシュラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kengankai|974951054092550144}}</ref>
* 生年不明 - 河野春男、漫画・アニメ『ケンガンアシュラ』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kengankai|974952097127923712}}</ref>
* 生年不明 - [[一騎当千の登場人物#頭主|孫策伯符]]、漫画・アニメ『[[一騎当千 (漫画)|一騎当千]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/ikki_eb/character/sonsaku/ |title=孫策伯符 |work=『一騎当千エキストラバースト』公式サイト |accessdate=2022-09-11}}</ref>
* 生年不明 - 雲平・帷・デュランダル、漫画・アニメ『[[隠の王]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 宇狩ころ美、漫画・アニメ『[[ツインエンジェルシリーズ|快盗天使ツインエンジェル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://twin-angel.com/character/break |title=キャラクター紹介 宇狩ころ美 |access-date=2022-09-11 |publisher=Sammy |work=ツインエンジェルBREAK}}</ref>
* 生年不明 - 小花鈴、漫画・アニメ『[[それが声優!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|soresei_anime|1504316516313239553}}</ref>
* 生年不明 - ゼル・ディン、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVIII]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 成田瑠宇、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://photokano.jp/subcharacter03.html |title=成田瑠宇 |access-date=2022-09-11 |work=フォトカノ}}</ref>
* 生年不明 - カーライル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=34&cate=name&cont=Carlyle |title=カーライル |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 豊臣秀吉、ゲーム『[[イケメン戦国◆時をかける恋]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cyikemen|1239567099107909634}}</ref>
* 生年不明 - 横光利一、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|974661646449692672}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#市川雛菜|市川雛菜]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/noctchill/hinana.html |title=市川 雛菜(いちかわ ひなな) |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|BANDAI NAMCO Entertainment Inc.]] |work=『アイドルマスター シャイニーカラーズ』 |accessdate=2023-01-28}}</ref>
* 生年不明 - セベク・ジグボルト、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド|DISNEY TWISTED WONDERLAND]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/sebek |title=セベク・ジグボルト |access-date=2022-09-11 |publisher=DISNEY TWISTED WONDERLAND}}</ref>
* 生年不明 - エルコンドルパサー、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=elcondorpasa |title=エルコンドルパサー |publisher=[[Cygames]] |date= |accessdate=2022-09-11 |work=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - 桜月キラ、メディアミックス『[[双恋]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桜月ユラ、メディアミックス『双恋』に登場するキャラクター
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8817%E6%97%A5 |
1,599 | 小谷美紗子 | 小谷 美紗子(おだに みさこ、1976年11月4日 - )は、日本のシンガーソングライター。京都府宮津市出身。暁星女子高等学校(現:京都暁星高等学校)卒業。血液型はA型。
1996年にデビュー。ピアノの弾き語りを中心とした楽曲を多く発表している。2005年からはドラマーの玉田豊夢とベーシストの山口寛雄と共に、「小谷美紗子Trio」としてトリオ編成のバンドで音楽活動を行っている。
作詞作曲を自ら手掛けるほか、ピアノ弾き語りの楽曲においては自らセルフプロデュースもこなす。デビュー時には「若き日のキャロル・キング」と形容されたこともあった。
eastern youth、LOST IN TIME、ASIAN KUNG-FU GENERATION、bloodthirsty butchersの田渕ひさ子、凛として時雨、皆川真人、GOING UNDER GROUNDの松本素生、SAKEROCKの星野源、中村一義、奥華子など、彼女のファンであることを公言している著名人も多い。中には、田渕ひさ子やeastern youthの二宮友和、元SUPER BUTTER DOGで100sの池田貴史など、楽曲に参加したアーティストも多数いる。ガガガSPはアルバム『うたき』収録曲「明日からではなく」を自身のアルバム『ガガガSP登場』でカバーしている。
幼少の頃に姉と兄の影響でクラシックピアノを始め、音楽に触れる。13歳の頃から音楽大学の教授へピアノの個人レッスンを受けるかたわら、本格的に作詞作曲を始める。
1994年、高校3年生の時にオーストラリアへ留学し、学業のかたわらで音楽制作を続ける。1995年、オーストラリアの高校課程を卒業し、帰国。姉の知人を介して現在の事務所のスタッフにデモテープが渡ったことでデビューのきっかけをつかむ。
1996年3月、暁星女子高等学校を卒業し、デビューに向けて上京。10月、19歳の時にシングル「嘆きの雪」でMCAビクターよりデビュー。「嘆きの雪」は、FM NORTH WAVEの同年11月度のメガプレイに選ばれた。
1997年2月には2枚目のシングル「自分」と初のアルバム『PROFILE -too early to tell-』を発売。3月にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』へ初出演した。
1998年1月、初の全国ツアーを全国6ヶ所で行う。10月、自身初となる弾き語りツアー『migaru』を全国15ヶ所で行う。
2003年3月、東芝EMI移籍後初となるシングル「Off you go」を発売。10月にはodani misako・ta-taを結成し、初のカバーミニアルバム『feather』を発売。
2005年より、アルバム『night』の制作の際にサポートメンバーを務めた玉田豊夢と、彼の紹介した山口寛雄と共に小谷美紗子Trioを結成。4月、アルバム『adore』を、所属事務所が運営するインディーズレーベルであるHIP LAND MUSICより発売。本作より楽曲のセルフプロデュースを始める。以降は作品発表の他、2007年のROCK IN JAPAN FESTIVALへの参加などライブ活動も積極的にこなすようになる。
2008年、古巣であるUNIVERSAL MUSICに回帰。8月、2006年の限定シングルを再録したシングル「Who -08-」と、Trioとしての活動の集大成となるベストアルバム『Odani Misako Trio』を発売。
2010年5月、バウンディより2年ぶりのアルバム『ことのは』を発売。
2011年、新曲「3月のこと」を発表。特設サイトが設けられる。
2013年12月、HILLSTONE Recordsより6年ぶりのフルアルバム『us』を公式通販限定で発売。2014年1月には一般販売も開始。
2014年10月22日、東京・渋谷duo MUSIC EXCHANGEで開催されたライブイベント「女とピアノ」にシンガーソングライターの奥華子と共に参加、ツーマンライブを行った。
2015年11月、Mr.Childrenの全国ツーマンツアーにて北海道Zepp Sapporoで参加。
2016年4月、Music for Lifeより弾き語りベスト「MONSTER」を発売。6月より7都市8公演の弾き語りツアーを行う。
2017年10月、東京・LIQUIDROOMにて「小谷美紗子20th Anniversary Special LIVE 『両手にウヘヘ祭り』」を開催。ゲストミュージシャンに小倉博和(Gt)、梶木良子(Pf)、佐藤準(Pf)、田渕ひさ子(Gt)、玉田豊夢(Dr)、二宮友和(Ba)、山口寛雄(Ba)、池田貴史(Key)が参加した。
2021年9月17日、映画「君は永遠にそいつらより若い」の主題歌「眠れない」を配信リリース。これを記念して、過去曲が一挙サブスク解禁された。 | [
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]
| 小谷 美紗子は、日本のシンガーソングライター。京都府宮津市出身。暁星女子高等学校卒業。血液型はA型。 | {{別人|岩名美紗子|x1=一時'''小谷みさこ'''の芸名で活動した元・女優}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = 小谷 美紗子
| Background = singer
| Birth_name =
| Alias =
| Blood = [[ABO式血液型|A型]]
| School_background = [[京都暁星高等学校|暁星女子高等学校]][[卒業]]
| Born = {{生年月日と年齢|1976|11|4}}
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| Origin = {{JPN}}・[[京都府]][[宮津市]]
| Instrument =
| Genre = [[J-POP]]
| Occupation = [[シンガーソングライター]]
| Years_active = [[1996年]] -
| Label = [[MCAレコード|MCAビクター]]([[1996年]] - [[1997年]])<br />[[MCAレコード|ユニバーサルビクター]](1997年 - [[1999年]])<br/>[[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL J]]([[2000年]] - [[2002年]])<br />[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]([[2003年]])<br />[[ヒップランドミュージック|HIP LAND MUSIC]]([[2005年]] - [[2007年]]、[[2009年]] - [[2010年]])<br />[[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL SIGMA]]・[[A&Mレコード|A&M RECORDS]]([[2008年]])<br />HILLSTONE Records([[2013年]] - [[2014年]])<br />Music For Life([[2016年]])
| Production = HIP LAND MUSIC
| Associated_acts = [[玉田豊夢]]([[ドラムセット|ドラム]])<br />[[山口寛雄]]([[ベース (弦楽器)|ベース]])
| Influences = [[桑田佳祐]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ビートルズ]]等
| URL = [http://www.odanimisako.com/ http://www.odanimisako.com/]
}}
'''小谷 美紗子'''(おだに みさこ、[[1976年]][[11月4日]] - )は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]。[[京都府]][[宮津市]]出身。暁星女子高等学校(現:[[京都暁星高等学校]])卒業<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hotexpress.co.jp/interview/odanimisako/|title=『小谷美紗子』SPECIAL INTERVIEW|work=hotexpress music magazine|author=平賀哲雄 |accessdate=2009年4月18日 }}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。
==概要==
[[1996年]]にデビュー。[[ピアノ]]の[[弾き語り]]を中心とした楽曲を多く発表している。2005年からは[[ドラマー]]の[[玉田豊夢]]と[[ベーシスト]]の[[山口寛雄]]<ref group="注">2人ともバンド「[[100s]]」のメンバー。</ref>と共に、「'''小谷美紗子Trio'''」としてトリオ編成の[[バンド (音楽)|バンド]]で音楽活動を行っている。
===音楽性===
作詞作曲を自ら手掛けるほか、ピアノ弾き語りの楽曲においては自らセルフプロデュースもこなす。デビュー時には「若き日の[[キャロル・キング]]」と形容されたこともあった<ref>「好きだという思いを、石に閉じ込め-」『オリコン・ウィーク The Ichiban』、[[オリコン・エンタテインメント]]、1997年11月10日。</ref>。
[[eastern youth]]<ref name=e-days>{{Cite web|和書|url=http://e-days.cc/features/rockfes08/pickup/misako/|title=大人のロックフェスティバル2008 注目のアーティスト 小谷美紗子|work=e-days|author= |accessdate=2009年4月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110512171340/http://e-days.cc/features/rockfes08/pickup/misako/ |archivedate=2011-05-12 }}</ref>、[[LOST IN TIME]]、[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]、[[bloodthirsty butchers]]の[[田渕ひさ子]]<ref name=adore>{{Cite web|和書|url=http://www.odanimisako.com/adore/minachin.htm|title=小谷美紗子二年ぶりのアルバム『adore』特別サイト 参加ミュージシャン紹介ページ|work=HIP LAND MUSIC|author= |accessdate=2009年4月18日 }}</ref>、[[凛として時雨]]、[[皆川真人]]<ref name=adore/>、[[GOING UNDER GROUND]]の[[松本素生]]<ref name=out>{{Cite web|和書|url=http://www.odanimisako.com/out/comments.html|title=小谷美紗子 New Album「OUT」特設ページ|work=HIP LAND MUSIC|author= |accessdate=2009年4月18日 }}</ref>、[[SAKEROCK]]の[[星野源]]<ref name=out/>、[[中村一義]]、[[奥華子]]<ref name="natalie20140905">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/125365|title= 小谷美紗子×奥華子“ピアノ女子”ツーマン|date=2014-9-5|accessdate=2015-10-21|publisher= [[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]}}</ref>など、彼女の[[ファン]]であることを公言している著名人も多い。中には、田渕ひさ子やeastern youthの二宮友和、元[[SUPER BUTTER DOG]]で100sの池田貴史など、楽曲に参加したアーティストも多数いる。[[ガガガSP]]はアルバム『うたき』収録曲「明日からではなく」を自身の[[アルバム]]『ガガガSP登場』でカバーしている。
==来歴==
幼少の頃に姉と兄の影響で[[クラシック音楽|クラシック]]ピアノを始め、音楽に触れる。13歳の頃から[[音楽大学]]の教授へピアノの個人レッスンを受けるかたわら、本格的に作詞作曲を始める。
[[1994年]]、高校3年生の時に[[オーストラリア]]へ留学し、学業のかたわらで音楽制作を続ける。[[1995年]]、オーストラリアの高校課程を卒業し、帰国。姉の知人を介して現在の事務所のスタッフにデモテープが渡ったことでデビューのきっかけをつかむ。
1996年[[3月]]、暁星女子高等学校を卒業し、デビューに向けて上京。[[10月]]、19歳の時にシングル「嘆きの雪」で[[MCAレコード|MCAビクター]]よりデビュー。「嘆きの雪」は、[[FM NORTH WAVE]]の同年11月度のメガプレイに選ばれた。
[[1997年]][[2月]]には2枚目のシングル「自分」と初のアルバム『PROFILE -too early to tell-』を発売。3月には[[テレビ朝日]]系音楽番組『[[ミュージックステーション]]』へ初出演した。
[[1998年]][[1月]]、初の全国ツアーを全国6ヶ所で行う。10月、自身初となる弾き語りツアー『migaru』を全国15ヶ所で行う。
[[2003年]]3月、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]移籍後初となるシングル「Off you go」を発売。10月には'''odani misako・ta-ta'''<ref group="注">小谷美紗子を中心として、ギターに[[田渕ひさ子]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]]に二宮友和(元[[eastern youth]])、[[キーボード (楽器)|キーボード]]に[[池田貴史]]([[レキシ]])、[[ドラムセット|ドラムス]]に[[玉田豊夢]]が集ったスペシャル・バンド。</ref>を結成し、初の[[カバー]]ミニアルバム『feather』を発売。
[[2005年]]より、アルバム『night』の制作の際にサポートメンバーを務めた玉田豊夢と、彼の紹介した山口寛雄と共に'''小谷美紗子Trio'''を結成。[[4月]]、アルバム『adore』を、所属事務所が運営するインディーズレーベルであるHIP LAND MUSICより発売。本作より楽曲のセルフプロデュースを始める。以降は作品発表の他、[[2007年]]の[[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]]への参加などライブ活動も積極的にこなすようになる。
[[2008年]]、古巣である[[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]]に回帰。[[8月]]、2006年の限定シングルを再録したシングル「Who -08-」と、Trioとしての活動の集大成となるベストアルバム『Odani Misako Trio』を発売。
[[2010年]]5月、[[BounDEE by SSNW|バウンディ]]より2年ぶりのアルバム『ことのは』を発売。
[[2011年]]、新曲「3月のこと」を発表。特設サイトが設けられる<ref>小谷美紗子 3月のこと http://www.odanimisako.com/sangatsunokoto/ 2014年2月15日閲覧</ref>。
[[2013年]]12月、HILLSTONE Recordsより6年ぶりのフルアルバム『us』を公式通販限定で発売。2014年1月には一般販売も開始。
2014年10月22日、東京・渋谷duo MUSIC EXCHANGEで開催されたライブイベント「女とピアノ」にシンガーソングライターの奥華子と共に参加、ツーマンライブを行った<ref name="natalie20140905"/>。
2015年11月、Mr.Childrenの全国ツーマンツアーにて北海道Zepp Sapporoで参加。
2016年4月、Music for Lifeより弾き語りベスト「MONSTER」を発売。6月より7都市8公演の弾き語りツアーを行う。
2017年10月、東京・LIQUIDROOMにて「小谷美紗子20th Anniversary Special LIVE 『両手にウヘヘ祭り』」を開催。ゲストミュージシャンに[[小倉博和]](Gt)、[[梶木良子]](Pf)、[[佐藤準]](Pf)、[[田渕ひさ子]](Gt)、玉田豊夢(Dr)、[[二宮友和]](Ba)、[[山口寛雄]](Ba)、[[池田貴史]](Key)が参加した。
2021年9月17日、映画「君は永遠にそいつらより若い」の主題歌「眠れない」を配信リリース。これを記念して、過去曲が一挙サブスク解禁された。
==ディスコグラフィー==
===シングル===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
!備考
|-
|1st
|1996年[[10月23日]]
| '''嘆きの雪'''
|MVCD-1001
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#嘆きの雪
#STAY
</div></div>
|MCAビクター
|-
|2nd
|1997年[[2月21日]]
| '''自分'''
|MVDD-49
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#自分
#Mother
</div></div>
|MCAビクター
|-
|3rd
|1997年[[4月23日]]
| '''永遠にねむる'''
|MVDH-1
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#永遠にねむる
#Quarternote
</div></div>
|MCAビクター
|-
|4th
|1997年[[10月22日]]
| '''The Stone'''
|MVDH-6
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#The Stone
#The Stone- English Version
</div></div>
|MCAビクター<br>[[NHK総合テレビ|NHK総合]]『[[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマの花束]]』枠内放送ドラマ『[[結婚前夜]]』主題歌
|-
|5th
|1997年[[11月21日]]
| '''あなたはやって来る 〜Dear Santa〜'''
|MVDH-9
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#あなたはやって来る〜Dear Santa〜
#嘆きの雪 -弾き語り-
</div></div>
|MCAビクター
|-
|6th
|1998年[[10月21日]]
| '''こんな風にして終わるもの'''
|MVDH-18
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#こんな風にして終わるもの
#真(君の真未来に捧げるうた)
</div></div>
|MCAビクター
|-
|7th
|[[1999年]][[2月24日]]
| '''火の川'''
|MVDH-21
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#火の川
#わたしを返して
</div></div>
|MCAビクター
|-
|8th
|[[2000年]][[9月20日]]
| '''眠りのうた'''
|UUCH-5002
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#眠りのうた
#四季
#what's going on
</div></div>
|ユニバーサルJ<br>[[NHK-FM放送|NHK-FM]]『[[ミュージックスクエア (NHK-FM)|ミュージック・スクエア]]』エンディングテーマ
|-
|9th
|2000年[[11月1日]]
| '''edelweiss'''
|UUCH-5005
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#エーデルワイス
#帰ろう
</div></div>
|ユニバーサルJ<br>[[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ『[[永遠の1/2 (テレビドラマ)|永遠の1/2]]』主題歌
|-
|10th
|[[2002年]][[2月6日]]
| '''街灯の下で'''
|UUCH-5051
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#街灯の下で
#Un Deux Trois
</div></div>
|ユニバーサルJ
|-
|11th
|2002年[[3月21日]]
| '''ハル'''
|UUCH-5053
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#ハル
#月食
</div></div>
|ユニバーサルJ
|-
|12th
|2003年[[3月26日]]
| '''Off you go'''
|TOCT-4464
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Off you go
#暁の星
#60 seconds(apf. Version)
</div></div>
|EMIミュージック・ジャパン
|-
|13th
|2003年[[11月27日]]
| '''虹色の吹雪'''
|TOCT-4637
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#虹色の吹雪
#呼吸
#彫刻
</div></div>
|EMIミュージック・ジャパン
|-
|14th
|[[2006年]][[3月22日]]
| '''Who'''
|HLMCD-0002
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Who
#雪でもいい
#まだ赤い(DEMO Ver.)
</div></div>
|HIP LAND MUSIC<br>[[タワーレコード]]限定発売<br>オリコン最高127位
|-
|15th
|[[2007年]][[5月16日]]
| '''YOU'''
|HLMCD-0004
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#YOU
#オオカミ(trio.ver)
</div></div>
|HIP LAND MUSIC<br>初回限定生産<br>オリコン最高104位
|-
|16th
|2008年[[8月13日]]
| '''Who -08-'''
|UMCK5216
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Who-08-
#How
#Who(Piano Duo)
</div></div>
|UNIVERSAL SIGMA<br>[[テレビ朝日]]系ドラマ『[[ゴンゾウ 伝説の刑事]]』主題歌<br>オリコン最高81位
|-
|}
===アルバム===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
!備考
|-
!colspan="6"|オリジナルアルバム
|-
|1st
|1997年2月21日
| '''PROFILE -too early to tell-'''
|MVCD-43
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Care me more, Care me
#見せかけ社会
#幸せなふり
#嘆きの雪
#匂い探して
#自分
#永遠にねむる
#あの夏の日々
#とりあえず今は泣いてしまおう -かつとりゅうの歌-
#crotchet
</div></div>
|MCAビクター
|-
|2nd
|1997年[[12月3日]]
| '''i'''
|MVCH-29009
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#The Stone
#エリート通り
#あなたはやって来る〜Dear Santa〜
#rain
#I
#Gnu
#別れの支度
#しみるわ
#ハイ、まずわたしから
</div></div>
|MCAビクター
|-
|3rd
|1999年[[3月25日]]
| '''うた き'''
|MVCH-29030
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#真(君の真未来に捧げるうた)
#こんな風にして終わるもの
#わたしを返して
#火の川
#オオカミ
#明日からではなく
#母の日
#左手
#雲のように
#生けどりの花
</div></div>
|MCAビクター
|-
|4th
|2000年[[11月11日]]
| '''宇宙のママ'''
|UUCH-1006
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#眠りのうた-Single edit-
#39.5℃
#雨は涙
#光の穴
#他人
#魚
#四季
#カラカラのブルース
#edelweiss
#鼓動
#紫式部
#眠りのうた
</div></div>
|ユニバーサルJ
|-
|5th
|2002年[[3月21日]]
| '''Then'''
|UUCH-1049
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#街灯の下で
#音
#June
#ハル
#Nowadays
#I learned
#すべてを忘れて
#空が藍色になるまで
#惜しみなく愛を
#僕の絵
#子供のような笑い声
</div></div>
|ユニバーサルJ
|-
|6th
|2003年[[5月14日]]
| '''night'''
|TOCT-25027
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Off you go
#Blink of stars
#Faint odor
#慰めうた
#Tellus Mater
#still have us
#60 seconds
#暁の星
#Over come
#今
#悪い赤
</div></div>
|EMIミュージック・ジャパン
|-
|7th
|2005年[[4月13日]]
| '''adore'''
|HLMCD-0001
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#まだ赤い
#照れるような光
#雨音呟く
#割れる笑顔
#アイシテイルノニ
#春遅し
#儚い紫陽花
[[100s]]の玉田豊夢(Dr)、山口寛雄(Bass)、田渕ひさ子([[bloodthirsty butchers]])参加
</div></div>
|HIP LAND MUSIC
|-
|8th
|2006年[[5月17日]]
| '''CATCH'''
|HLMCD-0003
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Rum & Ginger
#Who
#楽
#名も無き人
#奇跡
#雪でもいい
#CATCH
</div></div>
|HIP LAND MUSIC<br>オリコン最高107位、登場回数3回
|-
|9th
|2007年[[6月13日]]
| '''OUT'''
|HLMCD-0005
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#消えろ
#YOU
#Out
#笑う明かり
#fangs
#mad
#東京
</div></div>
|HIP LAND MUSIC<br>オリコン最高52位、登場回数3回
|-
|10th
|[[2010年]][[5月12日]]
| '''ことの は'''
|RDCA-1014
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#日めくり
#青さ
#線路
#空の待ち人
#手紙
</div></div>
|バウンディ<br>オリコン最高62位、登場回数3回
|-
|11th
|[[2014年]][[1月22日]]
| '''us'''
|HSR-0003
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#enter
#正体
#誰か
#手の中
#runrunrun
#果てに
#universe
#東へ
#すだちの花
#recognize
</div></div>
|HILLSTONE Records<br>オリコン最高176位
|-
|12th
|[[2019年]][[9月25日]]
| '''yeh'''
|MFLR-1005
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#償い税
#ファイトバック即興曲
#忘れ日和
#パラダイムシフト
#恋に落ちると馬鹿になる
#終戦の船出
#夜明け前
#裸
#青天の霹靂
#孤独の音が聞こえる
</div></div>
|Music for Life
|-
!colspan="6"|カバーミニアルバム
|-
|1st
|2003年[[10月29日]]
| '''feather'''
|TOCT-22229
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#[[w:en:Chelsea Girl (album)|Somewhere There's A Feather]]([[ニコ]])
#Kissing My Love([[ビル・ウィザース]])
#[[w:en:I Go to Sleep|I Go To Sleep]]([[プリテンダーズ]])
#[[ひこうき雲 (荒井由実の曲)|ひこうき雲]]([[荒井由実]])
</div></div>
|EMIミュージック・ジャパン
odani misako・ta-ta名義
|-
!colspan="6"|ベストアルバム
|-
|1st
|2002年[[2月6日]]
| '''Quarternote -THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2000'''
|UUCH-1043
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#嘆きの雪
#自分
#STAY
#永遠にねむる
#見せかけ社会
#Care me more, Care me
#Quarternote
#The Stone
#rain
#I
#Gnu
#火の川
#雲のように
#帰ろう
#四季
#眠りのうた
</div></div>
|ユニバーサルJ
|-
|2nd
|2007年[[3月7日]]
| '''Quarternote 2nd -THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2003-'''
|UPCH-1536
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#音
#still have us
#Blink of stars
#街灯の下で
#カラカラのブルース
#off you go
#オオカミ
#眠りのうた - single edit -
#Nowadays
#呼吸
#真 (君の真未来に捧げるうた) - 弾き語り -
#明日からではなく
#エリート通り
#嘆きの雪 - 弾き語り -
#慰めうた
#-ボーナストラック- さよなら (オフコース)
</div></div>
|ユニバーサルJ<br>オリコン最高200位
|-
|3rd
|2008年[[8月27日]]
| '''Odani Misako Trio'''
|UMCK-9236:初回限定盤<br>UMCK-1271:通常盤
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Out
#How
#Who -08-
#雪でもいい
#照れるような光
#春遅し
#楽
#mad
#YOU
#Rum&Ginger
#消えろ
#雨音呟く
初回限定盤DVD
#Who -08- (Music Video)
</div></div>
|UNIVERSAL SIGMA<br>オリコン最高82位、登場回数3回
|-
|4th
|2016年5月20日
| '''MONSTER'''
|MFLR-1002
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#手紙
#Who
#Off you go
#自分
#嘆きの雪
#子供のような笑い声
#The Stone
#手の中
#こんな風にして終わるもの
#3月のこと
</div></div>
|Music For Life<br>弾き語りオールタイムベスト
|-
|}
===映像作品===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!収録曲
|-
|1st
|VHS:1999年[[4月21日]]<br>DVD:2002年[[12月18日]]
| '''弾き語る'''
|MVVH-10:VHS<br>UPBH-1073:DVD
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;"> 詳細 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#rain
#crotchet
#rain
#嘆きの雪 -VIDEO CLIP
#STAY
#あの夏の日々
#自分 -VIDEO CLIP
#rain
#しみるわ
#I -LIVE
#THE STONE -VIDEO CLIP
#あなたはやって来る~Dear Santa~ -VIDEO CLIP
#こんな風にして終わるもの -LIVE & VIDEO CLIP
#わたしを返して -LIVE
#母の日 -LIVE
#真(君の真未来に捧げるうた) -LIVE
#火の川 -VIDEO CLIP
#雲のように
</div></div>
|-
|}
=== 参加作品 ===
*[[亜波根綾乃]]「星の声」(1999年、楽曲提供)
*[[SING LIKE TALKING]]「星降らない夜 featuring 小谷美紗子」(2003年、ボーカル参加)
*[[eastern youth]]「矯正視力〇・六」(2004年、コーラス参加)
*[[斎藤誠 (ミュージシャン)|斎藤誠]]「Delicate」(2008年、ボーカル参加)
*miscorner/c+llooqtortion「KENKASHINAIDE」(2009年、作詞・ボーカル参加)
*さかいゆう「パズル」(2012年、作詞)
*[[安藤裕子 (歌手)|安藤裕子]]「Silk Road」(2016年、楽曲提供)
*[[有安杏果]]「裸」(2016年、作詞・楽曲提供)
*[[さくらももこ]] × [[来生たかお]]「[[One Week]]」(2017年、1曲目「月曜日の朝」のボーカル)
*[[Mr.Children]]「[[miss you (Mr.Childrenのアルバム)|deja-vu]]」(2023年、ピアノ参加)
*Mr.Children「[[miss you (Mr.Childrenのアルバム)|おはよう]]」(2023年、ピアノ・コーラス参加)
===収録作品===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
!備考
|-
|1999年[[11月10日]]
| 『21世紀への贈りもの 〜オフコース・メロディーズ』
|WPCV-10044
|「[[さよなら (オフコースの曲)|さよなら]]」カバー収録
|-
|2003年10月01日
| 『DISCOVER THE SONGS~J-STANDARD。~』
|TOCT-25227
|「さよなら」カバー収録
|-
|2003年11月26日
| 『LOVE51~アイニコイ』
|UICZ-4087
|「惜しみなく愛を」収録
|-
|2004年[[2月25日]]
| 『DISCOVER THE SONGS 1+1』
|TOCT-25324
|「さよなら」カバー収録
|-
|2005年[[4月6日]]
| 『authentica 〜mellow』
|SRCL-5896
|「Off you go」収録
|-
|2006年[[6月14日]]
| 『[[元気ですか (カバーアルバム)|元気ですか]]』
|YCCW-10027
|「[[親愛なる者へ (中島みゆきのアルバム)|狼になりたい]]」(小谷美紗子Trio + 100s名義)カバー収録
|-
|2008年[[7月23日]]
| 『[[極東最前線2]]』
|VPCC-84440
|「東京 〜イースタン小谷.Ver.〜」収録<br>アルバム『Out』に収録された「東京」を[[eastern youth]]と共に再録音
|-
|2008年[[8月27日]]
| 『「ゴンゾウ 伝説の刑事」オリジナルサウンドトラック』
|UMCK-1270
|「Who (Piano Duo)」収録
|-
|2008年[[9月10日]]
| 『SMILE!-ごっつ!ひっつ!-』
|ZZCD-80028
|「Out」収録
|-
|2009年04月08日
| 『Shout at YUMING ROCKS』
|TOCT-26809
|「ひこうき雲」(odani misako・ta-ta名義)カバー収録
|-
|2012年03月07日
| 『[[東京こんぴ]]』
|VICL-63845
|「東京」収録
|-
|2013年11月06日
| 『クリスマス ラブ ソングス ~冬の涙の処方箋~』
|UICZ-8132
|「嘆きの雪」収録
|-
|}
===書籍===
* Profile 小谷美紗子 スコアブック Vol.1([[1998年]][[12月10日]])
== ミュージックビデオ ==
{|class=wikitable border="1" cellpadding="3" style="font-size:smaller;"
|-
!style="text-align:left"|監督
!style="text-align:left"|曲名
|-
|[[遠藤雄二]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=HqPbHGZLSTg Off you go]」
|-
|[[坂牧良太]]
|「照れるような光」
|-
|[[島田大介]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=_duy-9808Xo Who -08-]」
|-
|[[Higuchinsky]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=jcPjPAWmG9s 自分]」
|-
|[[丸山太郎]]
|「線路」
|-
|[[三好大輔]]
|「YOU」
|-
|[[森田空海]]
|「永遠にねむる」
|-
|不明
|「[https://www.youtube.com/watch?v=_Aqcjn6UVjI The Stone]」「Who」「[https://www.youtube.com/watch?v=RL9Jf-_Yv5I あなたはやって来る〜Dear Santa〜]」「[https://www.youtube.com/watch?v=RCLi5_C-PX0 こんな風にして終わるもの]」「[https://www.youtube.com/watch?v=tq49cyX-Ob8 火の川]」「手の中」「[https://www.youtube.com/watch?v=WVUd7qvsIHo 嘆きの雪]」「[https://www.youtube.com/watch?v=srABWzWLxyA 眠りのうた]」「[https://www.youtube.com/watch?v=CQGuSXYOETo 眠れない]」「正体」
|-
|}
== 主なライブ ==
=== ワンマンライブ・主催イベント ===
*2006年 - Trio Tour
*2009年 - Odani misako Trio TOUR2009冬
*2009年 - 小谷美紗子 弾き語りライブ
*2010年 - 小谷美紗子 Trio Tour 2010 ことの は
*2016年06月08日〜06月30日 - 小谷美紗子 弾き語りTOUR「MONSTER」
=== 出演イベント ===
{{Colbegin|2}}
*2004年02月21日 - [[SING LIKE TALKING]] Amusement Pocket 2003-2004 "RENASCENCE TOUR"
*2006年08月18日 - [[RISING SUN ROCK FESTIVAL]] 2006 in EZO(「小谷美紗子Trio」として出演)
*2007年02月03日 - DIENOJI ROCK FESTIVAL VOLUME 2
*2007年04月29日 - [[ARABAKI ROCK FEST.]]07(「小谷美紗子Trio」として出演)x
*2007年07月27日 - [[FUJI ROCK FESTIVAL]] '07
*2007年08月03日 - [[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]] 2007(「小谷美紗子Trio」として出演)
*2007年12月30日 - [[COUNTDOWN JAPAN]] 07/08
*2008年05月04日 - 祝春一番2008
*2008年07月27日 - [[SETSTOCK]]'08
*2008年08月15日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZO
*2008年08月30日 - [[RUSH BALL]] 2008
*2009年06月25日 - 空から降ってくる
*2009年06月30日 - 小谷美紗子Trio/SPANK PAGE "NAGOYA CLUB QUATTRO 20th ANNIVERSARY SPECIAL"
*2010年05月01日 - ARABAKI ROCK FEST.10
*2011年05月25日 - QUATTRO MIRAGE VOL.2 ~MORE ACTION, MORE HOPE.~
*2011年09月17日 - 残響祭 7th Anniversary
*2012年04月26日 - ウォッチングザスカイ present MUSIC FOR LIFE IN DUO
*2012年05月05日 - 祝春一番2012
*2012年11月29日 - [[初恋の嵐]] ワンマンライヴ "Storm of Last love"
*2013年05月05日 - 祝春一番2013
*2013年05月30日 - MUSIC FOR LIFE VOL.3
*2013年09月25日 - 宮川企画「マイセルフ、ユアセルフ」
*2013年12月22日 - December's Calling
*2014年05月04日 - 祝春一番2014
*2014年08月24日 - [[WILD BUNCH FEST.]] 2014
*2014年09月20日 - GAMA ROCK FES 2014
*2014年10月12日 - ザンジバルナイト 2014
*2014年10月22日 - MUSIC for LIFE presents 女とピアノ
*2014年12月03日 - Good Bye 2014 ~A Happy New Year 2015~ 「Wordplay vol.17」
*2015年05月05日 - 祝春一番2015
*2015年11月19日 - [[Mr.Children]] 2マンLIVE
*2016年02月24日 - ウタウタイタチノウタゲ ~如月編~
*2016年05月05日 - 祝春一番2016
*2016年10月17日 - ピテカントロプスになる日 vol.2~Woman Sings"やな"Song~
{{Colend|2}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.odanimisako.com/ HIP LAND MUSICによる公式サイト]
* [https://www.cinra.net/article/interview-2010-05-07-000000-php 小谷美紗子 インタビュー]
* [https://web.archive.org/web/20020211012309fw_/http://music.nifty.com/interview/jp/020130/index.htm music@nifty]
* {{MySpace|odanimisako}}
* {{Twitter|odanimisako|小谷美紗子}}
* {{Twitter|odani_staff|new_odani}}(スタッフ公式アカウント)
* {{YouTube|channel=UC8CeaMyKQxYrsrcaxR0xzvQ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おたに みさこ}}
[[Category:日本の女性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の女性ポップ歌手]]
[[Category:ユニバーサルミュージックジャパンのアーティスト]]
[[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]]
[[Category:京都府出身の人物]]
[[Category:1976年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:ROCK IN JAPAN FESTIVAL出場者]] | 2003-02-14T12:39:08Z | 2023-11-19T18:11:55Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten",
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"Template:Colend",
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"Template:Twitter",
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E7%BE%8E%E7%B4%97%E5%AD%90 |
1,601 | 2月12日 | 2月12日(にがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。 | [
{
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| 2月12日(にがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。 | {{カレンダー 2月}}
'''2月12日'''(にがつじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から43日目にあたり、年末まであと322日([[閏年]]では323日)ある。
== できごと ==
* [[881年]] - イタリア王[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]が[[西ローマ帝国|西ローマ皇帝]]として戴冠。
* [[1502年]] - [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[インド]]へ向けての第2回航海に出航。
* [[1541年]] - [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]市([[チリ]])が建設される。
* [[1554年]] - [[ロンドン塔]]に幽閉されていた元[[イングランド王国|イングランド]]女王[[ジェーン・グレイ]]が斬首される。
* [[1733年]] - [[ジェームス・オグルソープ]]が[[ジョージア植民地]]を建設。
* [[1736年]] - [[マリア・テレジア]]と[[ロレーヌ公国|ロートリンゲン]]公子[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]](後の神聖ローマ皇帝)が婚礼を挙げる。
* [[1771年]] - [[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]がスウェーデン王に即位。
* [[1797年]] - [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]のオーストリア皇帝讃歌『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』がウィーンで初演。
* [[1816年]] - ナポリの[[サン・カルロ劇場]]が火事により焼失。
* [[1818年]] - [[ベルナルド・オイギンス]]が[[チリ]]の[[スペイン]]からの{{仮リンク|チリ独立宣言|en|Chilean Declaration of Independence|label=独立を宣言}}。
* [[1832年]] - [[エクアドル]]が[[ガラパゴス諸島]]を領有。
* [[1889年]] - 日本の[[黒田清隆]]首相が[[超然主義]]演説を行う。
* [[1909年]] - [[全米黒人地位向上協会]] (NAACP) 設立。
* [[1912年]]([[宣統]]3年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[清]]の皇帝[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]が[[宣統帝退位詔書|退位]]。清が滅亡。
* [[1913年]] - {{仮リンク|メアリー・フェルプス・ジェイコブ|en|Mary Phelps Jacob}}が[[ブラジャー]]の原形となる物の特許を取得。
* [[1921年]] - 第一次[[大本事件]]。[[出口王仁三郎]]ら[[大本]]の幹部が[[不敬罪]]で一斉検挙。
* [[1924年]] - [[ジョージ・ガーシュウィン]]の『[[ラプソディ・イン・ブルー]]』が初演。
* [[1934年]] - [[オーストリア]]で[[2月内乱]]が始まる。
* [[1938年]] - 北海道[[札幌市]]で国内初の[[ボブスレー]]競技会が開催された<ref>わが国で初の競技会、転倒者が続出『大阪毎日新聞』(昭和13年2月13日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p687 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1945年]] - [[鎌倉空襲]]。
* [[1958年]] - 新宿・[[伊勢丹]]で[[メリーチョコレートカムパニー|メリーチョコレート]]が最初のバレンタイン板チョコを販売。ハート型は翌年から販売。[[バレンタインデー|バレンタイン]]チョコレートのはしり。
* [[1961年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]が世界初の金星探査機「[[ベネラ1号]]」を打ち上げ。
* [[1968年]] - [[ベトナム戦争]]: [[フォンニィ・フォンニャットの虐殺]]。
* [[1974年]] - ソ連の[[ノーベル文学賞]]受賞者[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]が国家反逆罪で逮捕され、翌日、国外追放処分となる。
* [[1979年]] - [[広島競輪場]]で誤った着順発表を契機に約1万人の群衆により騒然となる。一部が暴徒化が建物や車両に放火<ref>本命なのに大穴と発表ミス 群衆一千万円強奪 広島競輪放火・暴行し騒ぐ『朝日新聞』1979年(昭和54年)2月13日朝刊 13版 23面</ref>。
* [[1984年]] - [[植村直己]]が北米・[[デナリ|マッキンリー山]]の冬季単独登頂に成功(翌13日、下山中に消息を絶つ)。
* [[1994年]] - 第17回[[冬季オリンピック]]、[[リレハンメルオリンピック|リレハンメル大会]]開催。[[2月27日]]まで。
* 1994年 - 南岸低気圧の影響で、[[平成6年の大雪|日本各地で記録的な大雪]]。
* [[1997年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[黄長燁]]朝鮮労働党書記が北京の韓国大使館を訪れ[[大韓民国|韓国]]への亡命を申請。
* 1997年 - [[M-Vロケット]]初号機によって世界初の電波天文衛星の[[はるか (人工衛星)|はるか]]が打ち上げられた<ref>{{Cite web|和書|author=廣澤春任 |url=https://www.isas.jaxa.jp/docs/ISASnews/No.200/halca.html |title=「はるか」 ISASニュース 1997.11 No.200 |publisher=宇宙科学研究所ISASニュース |date= 1997-2-11|accessdate=2021-08-03}}</ref>。
* [[2001年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の小惑星探査機「[[NEARシューメーカー]]」が[[小惑星]]「[[エロス (小惑星)|エロス]]」に軟着陸。小惑星への着陸は史上初。
* [[2005年]] - [[自衛隊イラク派遣|自衛隊第五次イラク派遣]]。
* [[2009年]] - [[コンチネンタル航空3407便墜落事故]]<ref>{{Cite web|和書|date=2009年2月13日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2571374 |title=米コンチネンタル航空機、ニューヨーク州の住宅地に墜落・炎上 49人死亡 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-06-04}}</ref>。
* [[2010年]] - 第21回冬季オリンピック[[バンクーバーオリンピック|バンクーバー大会]]開催<ref>{{Cite web|和書|date=2010-02-13 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/sports/2010/02/13/0700000000AJP20100213000100882.HTML |title=雪と氷の祭典、バンクーバー冬季五輪華やかに開幕 |publisher=聯合ニュース |accessdate=2018-06-04}}</ref>。[[2月28日]]まで。
* 2010年 - バンクーバーオリンピック開会式前の[[リュージュ]]の公式練習中に、[[グルジア]]の[[ノダル・クマリタシビリ]]が事故により死亡<ref>{{Cite web|和書|date=2010年2月13日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2694257 |title=リュージュのグルジア代表選手が練習中の事故で死亡 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-06-04}}</ref>。
* [[2012年]] - [[東京ゲートブリッジ]]が開通。
* [[2013年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が3回目の核実験を実施する<ref>{{Cite web|和書|date=2013年2月12日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2927530 |title=北朝鮮核実験、米中露など各国が非難 国連安保理は緊急会合へ |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-06-04}}</ref>。
* 2013年 - グアム通り魔殺人事件。日本人3人が死亡<ref>{{Cite web|和書|date=2014年8月4日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3022239 |title=日本人3人死亡のグアム無差別殺傷事件、被告に有罪評決 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-06-04}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[41年]] - [[ブリタンニクス]]{{要出典|date=2021-02}}、[[ローマ帝国]]の帝位後継者(+ [[55年]])
* [[1218年]]([[建保]]6年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[藤原頼経]]、[[鎌倉幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]]、[[摂家将軍]](+ [[1256年]])
* [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[堀田正亮]]、[[佐倉藩|佐倉藩主]](+ [[1761年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[伊達村賢]]、[[伊予吉田藩|吉田藩主]](+ [[1790年]])
* [[1750年]]([[寛延]]3年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[山内豊雍]]、[[土佐藩|土佐藩主]](+ [[1789年]])
* [[1760年]] - [[ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク|ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(デュセック)]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jan-Ladislav-Dussek Jan Ladislav Dussek Bohemian pianist and composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[作曲家]](+ [[1812年]])
* [[1768年]] - [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francis-II-Holy-Roman-emperor Francis II Holy Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1835年]])
* [[1775年]] - [[ルイーザ・アダムズ]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](+ [[1852年]])
* [[1777年]] - [[フリードリヒ・フーケ]]、[[作家]](+ [[1843年]])
* [[1785年]] - [[ピエール・ルイ・デュロン]]、[[化学者]]、[[物理学者]](+ [[1838年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[溝口直諒]]、[[新発田藩|新発田藩主]](+ [[1858年]])
* [[1800年]] - [[ジョン・エドワード・グレイ]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1875年]])
* [[1804年]] - [[ハインリヒ・レンツ]]、物理学者(+ [[1865年]])
* [[1809年]] - [[エイブラハム・リンカーン]]、第16代[[アメリカ合衆国大統領]](+ 1865年)
* 1809年 - [[チャールズ・ダーウィン]]、[[科学者]](+ [[1882年]])
* [[1813年]] - [[ジェームズ・デーナ]]、[[地質学|地質学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[1895年]])
* [[1828年]] - [[ジョージ・メレディス]]、[[小説家]](+ [[1909年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[鍋島直亮]]、[[小城藩|小城藩主]](+ [[1864年]])
* [[1836年]]([[天保]]6年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[五代友厚]]、[[実業家]](+ [[1885年]])
* [[1843年]]([[天保]]14年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[新島襄]]、[[同志社大学]]創立者(+ [[1890年]])
* [[1850年]] - [[ウィリアム・モーリス・ディヴィス]]、[[地理学者]](+ [[1934年]])
* [[1851年]] - [[オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク]]、[[経済学者]](+ [[1914年]])
* [[1854年]]([[嘉永]]7年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[酒井忠邦]]、[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1879年]])
* [[1857年]] - [[ウジェーヌ・アジェ]]、[[写真家]](+ [[1927年]])
* [[1858年]] - [[ウィリアム・ベリマン・スコット]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[1947年]])
* [[1861年]] - [[ルー・アンドレアス・ザロメ]]、作家(+ [[1937年]])
* [[1865年]]([[元治]]2年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[内田定槌]]、[[外交官]](+ [[1942年]])
* [[1866年]]([[ユリウス暦]]1月31日) - [[レフ・シェストフ]]、[[哲学者]](+ [[1938年]])
* [[1881年]] - [[アンナ・パヴロワ]]、[[バレリーナ]](+ [[1931年]])
* [[1884年]] - [[マックス・ベックマン]]、画家(+ [[1950年]])
* [[1886年]] - [[中野正剛]]、[[政治家]](+ [[1943年]])
* 1886年 - [[風見章]]、政治家(+ [[1961年]])
* [[1891年]] - [[直木三十五]]、[[小説家]](+ [[1934年]])
* [[1893年]] - [[オマール・ブラッドレー]]、[[軍人]](+ [[1981年]])
* [[1900年]] - [[ワシーリー・チュイコフ]]、軍人(+ [[1982年]])
* [[1901年]] - [[清水雅]]、[[実業家]](+ [[1994年]])
* [[1902年]] - [[三遊亭圓遊#4代目|三遊亭圓遊(4代目)]]、[[落語家]](+ [[1984年]])
* [[1903年]] - [[チック・ヘイフィー]]、元プロ野球選手(+ [[1973年]])
* [[1905年]] - [[田辺茂一]]、[[紀伊國屋書店]]創業(+ [[1981年]])
* 1905年 - [[巽聖歌]]、[[児童文学作家]]、[[歌人]]、[[詩人]](+ [[1973年]])
* [[1906年]] - [[薮内清]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]]、[[科学史|科学史家]](+ [[2000年]])
* [[1907年]] - [[豊田三郎 (小説家)|豊田三郎]]、小説家(+ [[1959年]])
* [[1908年]] - [[ジャック・エルブラン]]、[[数学者]](+ [[1931年]])
* 1908年 - [[塩まさる]]、歌手(+ [[2003年]])
* [[1909年]] - [[佐分利信]]、[[俳優]](+ [[1982年]])
* [[1912年]] - [[武田泰淳]]、[[小説家]](+ [[1976年]])
* [[1913年]] - [[金子一平 (政治家)|金子一平]]、政治家(+ [[1989年]])
* [[1917年]] - [[松野頼三]]、政治家(+ [[2006年]])
* [[1918年]] - [[ジュリアン・シュウィンガー]]、[[物理学者]](+ [[1994年]])
* [[1919年]] - [[原田憲]]、政治家(+ [[1997年]])
* [[1920年]] - [[山口淑子]]、[[俳優|女優]]、政治家(+ [[2014年]])
* [[1921年]] - [[大松博文]]、[[バレーボール]]指導者、[[参議院議員]](+ [[1978年]])
* [[1923年]] - [[フランコ・ゼフィレッリ]]、[[映画監督]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM6H7613M6HUHBI027.html|title=フランコ・ゼフィレッリさん死去 映画監督やオペラ演出|publisher=朝日新聞デジタル|date=2019-06-16|accessdate=2020-11-14}}</ref>)
* [[1924年]] - [[村田敬次郎]]、政治家(+ [[2003年]])
* 1924年 - [[竹村元雄]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1925年]] - [[レフ・ナウモフ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]]、音楽教師(+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[久喜勲]]、元プロ野球選手(+ [[1993年]])
* [[1927年]] - [[森政弘]]、[[工学者]]
* [[1931年]] - [[牛尾治朗]]、[[実業家]]、[[ウシオ電機]]会長(+ [[2023年]])
* [[1933年]] - [[蓮実進]]、政治家
* [[1934年]] - [[ビル・ラッセル]]、[[バスケットボール選手]](+ [[2022年]])
* [[1935年]] - [[豊田泰光]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]])
* 1935年 - [[チャールズ・"ハングリー"・ウィリアムズ]]、R&Bドラマー、シンガー(+ [[1986年]])
* [[1936年]] - [[西岡武夫]]、政治家(+ [[2011年]])
* [[1937年]] - [[砂川啓介]]、俳優、[[タレント]](+ [[2017年]])
* [[1938年]] - [[木村太郎 (ジャーナリスト)|木村太郎]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1939年]] - [[レイ・マンザレク]]、[[ミュージシャン]]([[ザ・ドアーズ]])(+ [[2013年]])
* [[1941年]] - [[石丸博也]]<ref name="prof">{{Cite web|和書|url=http://www.pro-baobab.jp/men/ishimaru_h/index.html|title=石丸 博也|ぷろだくしょんバオバブ|accessdate=2020-11-23}}</ref>、[[声優]]
* 1941年 - [[植村直己]]、[[冒険家]](+ [[1984年]])
* 1941年 - [[南里宏]]、空手家
* 1941年 - [[マーク・ブラウンスタイン]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[エフード・バラック]]、政治家
* 1942年 - [[パット・ドブソン]]、元プロ野球選手(+ [[2006年]])
* [[1943年]] - [[夏川かほる]]、女優(+ [[1998年]])
* [[1945年]] - [[モード・アダムス]]、女優
* [[1947年]] - [[おばあちゃん]]、お笑いタレント
* [[1948年]] - [[井出智香恵]]、[[漫画家]]
* 1948年 - [[レイ・カーツワイル]]、[[発明家]]、企業家
* 1948年 - [[相川進]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]])
* [[1949年]] - [[やまざきかずお]]、[[アニメーター]]
* [[1950年]] - [[スティーヴ・ハケット]]、[[ギタリスト]]
* 1950年 - [[マイケル・アイアンサイド]]、俳優
* [[1952年]] - [[マイケル・マクドナルド (ミュージシャン)|マイケル・マクドナルド]]、[[ミュージシャン]]
* 1952年 - [[ヘンリー・ロノ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]]
* 1952年 - [[登記欣也]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[伊丹幸雄]]、[[歌手]]
* 1955年 - [[さとうあい]]、声優
* 1955年 - [[グレッグ・ジョンストン]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[ビル・ラズウェル]]、[[ベーシスト]]、[[音楽プロデューサー]]
* [[1957年]] - [[武部聡志]]、[[作曲家]]、音楽プロデューサー
* [[1958年]] - [[太田純]]、[[三井住友フィナンシャルグループ]][[代表執行役]][[社長]](+ [[2023年]])
* [[1959年]] - [[岡田奈々]]、女優
* [[1961年]] - [[花山佳子]]、女優
* [[1965年]] - [[後藤明美]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[ルーベン・アマロ・ジュニア]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[梶原真弓]]、タレント(元[[シェイプUPガールズ]])
* 1967年 - [[岩田徹]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[祭小春]]、演歌歌手
* 1968年 - [[ジョシュ・ブローリン]]、俳優
* [[1969年]] - [[洪明甫]]、元[[サッカー選手]]
* 1969年 - [[メイヤ]]、[[歌手]]
* 1969年 - [[ダーレン・アロノフスキー]]、[[映画監督]]
* [[1971年]] - [[トニア・クワイトコウスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1972年]] - [[五條真由美]]、歌手
* 1972年 - [[許文會]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[下平さやか]]、[[アナウンサー]]
* 1973年 - [[川崎恵理子]]、声優
* 1973年 - [[水樹洵]]、声優
* [[1974年]] - [[高木虎之介]]、[[レーシングドライバー]]
* 1974年 - [[ナジーム・ハメド]]、元[[プロボクサー]]
* [[1975年]] - [[スコット・ポラード]]、[[バスケットボール]]選手
* [[1976年]] - ひぐち君、[[お笑いタレント]]([[髭男爵]])
* 1976年 - [[ですよ。]]、お笑いタレント
* 1976年 - [[パディ・ヤング]]、[[騎手]]
* [[1977年]] - [[斉藤貴美子]]、声優
* 1977年 - [[劉東勳]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[H ZETT M]]、[[ミュージシャン]](元[[PE'Z]])
* 1978年 - [[熊谷茶]]、お笑いタレント([[ガリットチュウ]])
* [[1979年]] - 荒井健一、[[歌手]]([[RAG FAIR]])
* 1979年 - [[金剛弘樹]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ジェシー・スペンサー]]、俳優
* 1979年 - [[李知姫]]、ゴルファー
<!-- 特筆性は? * [[1980年]] - [[大谷大 (音楽家)|大谷大]]、ミュージシャン(アマオト、ex.[[World chord]]) -->
* [[1980年]] - [[塩田亜飛美]]、ゴルファー
* 1980年 - [[フアン・カルロス・フェレーロ]]、[[テニス]]選手
* 1980年 - [[クリスティーナ・リッチ]]、女優
* [[1981年]] - [[和田貴範]]、元野球選手
* 1981年 - [[近平省悟]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[鈴来直人]]、元騎手
* 1982年 - [[齊藤信介]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[イコ・ウワイス]]、俳優
* [[1983年]] - [[南井大志]]、元騎手、調教助手
* [[1984年]] - [[田辺裕信]]、騎手
* 1984年 - [[カテリーン・イバルグエン]]、陸上選手
* [[1985年]] - [[我謝よしか]]、女優、タレント、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1985年 - [[原田まりる]]、作家、タレント、元[[アイドル]]
* 1985年 - [[中村龍介]]、俳優
* [[1986年]] - [[ブランドン・アレン]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[トッド・フレイジャー]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[長崎真友子]]、実業家、アナウンサー
* [[1987年]] - [[みうな]]、アイドル(元[[カントリー娘。]])
* 1987年 - [[森田みいこ]]、元タレント
* 1987年 - [[田野アサミ]]、タレント、女優、声優(元[[BOYSTYLE]])
* 1987年 - [[紺野ゆり]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[アルヘニス・ディアス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[榮倉奈々]]、女優、ファッションモデル
* 1988年 - [[桜咲千依]]、声優
* 1988年 - [[ジョシュ・フェグリー]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[関山藍果]]、歌手
* 1989年 - [[内田莉紗]]、女優、声優
* 1989年 - [[朝弁慶大吉]]、大相撲力士
* 1989年 - [[ロン=ロベルト・ツィーラー]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[小林美穂]]、ファッションモデル
* [[1991年]] - [[黒瀧まりあ]]、ファッションモデル
* 1991年 - [[弘中綾香]]、アナウンサー
* 1991年 - [[福田典子]]、アナウンサー
* 1991年 - [[長沢美月]]、タレント、モデル
* 1991年 - [[厚ヶ瀬美姫]]、元野球選手
* 1991年 - [[倉口桃]]、声優
* 1991年 - [[川上早春]]、声優
* [[1992年]] - [[市川春樹]]、元タレント、元女優
* [[1993年]] - [[近藤弘基]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[水川潤]]、[[AV女優]]、タレント、元[[グラビアアイドル]]
* 1993年 - [[キコ・ウィルソン]]、タレント
* [[1994年]] - [[市川美織]]、タレント(元[[NMB48]])
* 1994年 - [[薄井千織]]、女優
* 1994年 - [[アーマン・ホール]]、陸上競技選手
* 1994年 - [[中野花菜]]、ソフトボール選手
* [[1995年]] - [[川栄李奈]]、女優(元[[AKB48]])
* 1995年 - [[日野龍樹]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1995年 - [[水無瀬ゆき]]、アイドル (元[[夢みるアドレセンス]])
* [[1996年]] - [[藤谷洸介]]、元プロ野球選手
* 1996年 - [[杉本太郎]]、サッカー選手
* 1996年 - [[千葉一磨]]、俳優
* [[1997年]] - [[木野日菜]]、声優
* [[1999年]] - [[三浦桃香]]、プロゴルファー
* [[2000年]] - [[川津明日香]]、ファッションモデル、タレント、女優
* [[2001年]] - [[荻野拓海]]、歌手
* 2001年 - [[青戸しの]]、インスタグラマー
* 生年不明 - [[長南翔太]]、声優
* 生年不明 - [[中山大吾]]、声優
* 生年不明 - [[滑川洋平]]、声優
* 生年不明 - [[蓮池龍三]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pro-baobab.jp/men/hasuike_r/index.html|title=蓮池龍三|株式会社 ぷろだくしょんバオバブ|accessdate=2021-01-06}}</ref>、声優
== 忌日 ==
* [[890年]]([[寛平]]2年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[遍昭]]、[[歌人]]、[[六歌仙]]、[[三十六歌仙]]の1人(* [[816年]])
* [[1185年]]([[元暦]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[藤原隆季]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1127年]])
* [[1518年]] - [[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]、[[ナバラ王国|ナバラ女王]](* [[1468年]])
* [[1538年]] - [[アルブレヒト・アルトドルファー]]、[[画家]](* [[1480年]]頃)
* [[1554年]] - [[ジェーン・グレイ]]、[[イングランド王国|イングランド]][[女王]](* [[1537年]])
* [[1559年]] - [[オットー・ハインリヒ (プファルツ選帝侯)|オットー・ハインリヒ]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1502年]])
* [[1578年]] - [[カタリナ・デ・アウストリア]]、[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ジョアン3世]]の妃(* [[1507年]])
* [[1612年]] - [[クリストファー・クラヴィウス]]、[[天文学者]](* [[1538年]])
* [[1619年]] - [[ピエール・ド・ラリヴェ]]、[[劇作家]](* [[1541年]])
* [[1627年]] - [[カール1世 (リヒテンシュタイン公)|カール1世]]、[[リヒテンシュタインの統治者一覧|リヒテンシュタイン公]](* [[1569年]])
* [[1689年]] - [[マリー・ルイーズ・ドルレアン]]、[[カルロス2世 (スペイン王)|スペイン王カルロス2世]]の妃(* [[1662年]])
* [[1692年]] - [[ヘンドリック・ハメル]]、『朝鮮幽囚記』を著した[[オランダ東インド会社]]書記(* [[1630年]])
* [[1696年]]([[元禄]]9年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[月舟宗胡]]、[[曹洞宗]]の[[僧]](* [[1618年]])
* [[1712年]] - [[マリー・アデライード・ド・サヴォワ]]、[[ルイ (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公ルイ]]の妃(* [[1685年]])
* [[1728年]] - [[アゴスティーノ・ステッファーニ]]、[[作曲家]](* [[1653年]])
* [[1763年]] - [[ゴットフリート・ハインリヒ・バッハ]]、作曲家(* [[1724年]])
* [[1770年]] - [[クリストファー・ミドルトン]]、航海者、[[探検家]](* [[17世紀]]末)
* [[1771年]] - [[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](* [[1710年]])
* [[1789年]] - [[イーサン・アレン]]、[[アメリカ独立戦争]]の活動家(* [[1738年]])
* [[1798年]] - [[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1732年]])
* [[1799年]] - [[ラザロ・スパランツァーニ]]、[[博物学|博物学者]](* [[1729年]])
* 1799年 - [[フランティシェク・クサヴェル・デュシェック]]、作曲家(* [[1731年]])
* [[1804年]] - [[イマヌエル・カント]]、[[哲学者]](* [[1724年]])
* [[1834年]] - [[フリードリヒ・シュライアマハー]]、[[神学者]]、[[哲学|哲学者]](* [[1768年]])
* [[1837年]] - [[ルートヴィヒ・ベルネ]]、[[評論家]](* [[1786年]])
* [[1866年]] - [[イニャーツィオ・カランドレッリ]]、天文学者(* [[1792年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[島津久治]]、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1841年]])
* [[1886年]] - [[ランドルフ・コールデコット]]、[[イラストレーター]]、[[美術家]](* [[1846年]])
* [[1889年]] - [[森有礼]]、[[文部大臣]](* [[1847年]])
* [[1894年]] - [[ハンス・フォン・ビューロー]]、[[指揮者]](* [[1830年]])
* [[1896年]] - [[アンブロワーズ・トマ]]、作曲家(* [[1811年]])
* [[1904年]] - アントニオ・ラブリオーラ ([[:en:Antonio Labriola|Antonio Labriola]])、哲学者、[[社会主義|社会主義者]](* [[1843年]])
* [[1907年]] - [[ミュリエル・ロブ]]、[[テニス]]選手(* [[1878年]])
* [[1912年]] - [[アルマウェル・ハンセン]]、[[医学|医学者]](* [[1841年]])
* 1912年 - [[下山順一郎]]、[[薬学|薬学者]](* [[1853年]])
* 1912年 - [[守山恒太郎]]、[[野球選手]](* [[1880年]])
* [[1915年]] - [[エミール・ワルトトイフェル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Emil-Waldteufel Emil Waldteufel French composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、作曲家(* [[1837年]])
* [[1916年]] - [[リヒャルト・デーデキント]]、[[数学者]](* [[1831年]])
* [[1920年]] - [[エミール・ソーレ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1852年]])
* [[1925年]] - [[中原鄧州]]、[[禅僧]](* [[1839年]])
* [[1931年]] - [[飯沼貞吉]]、[[白虎隊|白虎隊士]](* [[1854年]])
* [[1933年]] - [[アンリ・デュパルク]]、作曲家(* [[1848年]])
* [[1935年]] - [[オーギュスト・エスコフィエ]]、[[フランス料理]]の[[シェフ]](* [[1846年]])
* [[1939年]] - [[セーレン・セーレンセン]]、[[化学者]](* [[1868年]])
* [[1942年]] - [[アヴラハム・シュテルン]]、[[シオニズム]]機関の指導者(* [[1907年]])
* 1942年 - [[グラント・ウッド]]、[[画家]](* [[1891年]])
* [[1943年]] - [[倉田百三]]、劇作家、評論家(* [[1891年]])
* [[1947年]] - [[クルト・レヴィン]]、[[心理学者]](* [[1890年]])
* [[1954年]] - [[本多光太郎]]、[[物理学者]](* [[1870年]])
* 1954年 - [[ジガ・ヴェルトフ]]、[[映画監督]](* [[1896年]])
* [[1967年]] - [[渋沢信雄]]、実業家、(* [[1898年]])
* [[1969年]] - [[木村惇]]、政治家、[[京都府知事]](* [[1891年]])
* 1969年 - [[福澤幸雄]]、レーサー(* [[1943年]])
* [[1976年]] - [[サル・ミネオ]]、[[俳優]](* [[1939年]])
* [[1979年]] - [[ジャン・ルノワール]]、映画監督(* [[1894年]])
* 1979年 - [[十勝岩豊]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1919年]])
* [[1982年]] - [[森曉]]、[[実業家]]、[[民主自由党 (日本)|民主自由党]][[国会議員|衆議院議員]](* [[1907年]])
* [[1983年]] - [[手塚富雄]]、[[ドイツ文学|ドイツ文学者]](* [[1903年]])
* 1983年 - [[桶谷繁雄]]、[[冶金学|冶金学者]]、評論家(* [[1910年]])
* [[1984年]] - [[アンナ・アンダーソン]]、[[アナスタシア・ニコラエヴナ|ロシア皇女アナスタシア]]を自称した人物(* [[1900年]]?)
* 1984年 - [[フリオ・コルタサル]]、[[小説家]](* [[1914年]])
* [[1985年]] - [[ジョルジュ・ゴーチ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1904年]])
* 1985年 - [[瀧花久子]]、女優(* [[1906年]])
* [[1986年]] - [[パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ]]、映画監督(* [[1927年]])
* [[1987年]] - [[野溝七生子]]、小説家(* [[1897年]])
* 1987年 - [[牧野正蔵]]、[[競泳]]選手(* [[1915年]])
* [[1989年]] - [[トーマス・ベルンハルト]]、小説家(* [[1931年]])
* [[1993年]] - [[今城誼子]]、[[香淳皇后]]の女官(* [[1908年]])
* [[1994年]] - [[レイ・ダンドリッジ]]、元[[プロ野球選手]](* [[1913年]])
* 1994年 - [[ドナルド・ジャッド]]、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[美術評論家]](* [[1928年]])
* [[1996年]] - [[司馬遼太郎]]、小説家(* [[1923年]])
* [[1998年]] - [[長谷川善三]]、元プロ野球選手(* [[1923年]])
* [[2000年]] - [[ジャクリーン・オリオール]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1917年]])
* 2000年 - [[チャールズ・モンロー・シュルツ]]、[[漫画家]](* [[1922年]])
* [[2003年]] - [[富士川英郎]]、[[ドイツ文学者]](* [[1909年]])
* [[2004年]] - [[マーティン・ブース]]、作家(* [[1944年]])
* [[2005年]] - [[ニコライ・ルイシコフ]]、[[政治家]](* 1925年)
* [[2006年]] - [[日下圭介]]、[[小説家]](* [[1940年]])
* [[2007年]] - [[大久保怜]]、[[司会|司会者]](* [[1920年]])
* [[2008年]] - [[前田正男]]、[[科学技術庁長官]](* [[1913年]])
* 2008年 - [[渡邊二郎]]、哲学者(* [[1931年]])
* 2008年 - [[横田昭夫]]、政治家、[[行田市|行田市長]](* [[1942年]])
* 2008年 - [[竹花光範]]、[[法学者]](* [[1943年]])
* [[2010年]] - [[ノダル・クマリタシビリ]]、[[リュージュ]]選手(* [[1988年]])
* [[2011年]] - [[片山雅博]]、[[アニメーション]]作家(* [[1955年]])
* [[2015年]] - [[スティーヴ・ストレンジ]]、[[歌手]](* [[1959年]])
* [[2017年]] - [[アル・ジャロウ]]、ジャズ・ボーカリスト(* [[1940年]])
* [[2018年]] - [[高倉照幸]]<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201802130000029.html 高倉照幸氏が死去 西鉄黄金期1番打者で日本一貢献] - 日刊スポーツ 2018年2月13日</ref>、元プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[2019年]] - [[山田スミ子]]<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201903050000923.html 山田スミ子さんが死去、吉本新喜劇往年のマドンナ] 日刊スポーツ 2019年(平成31年)3月5日23時31分配信・2020年10月30日閲覧</ref>、女優(* [[1945年]])
== 記念日・年中行事 ==
* {{仮リンク|リンカーン誕生日|en|Lincoln's Birthday}}({{USA}})<ref>{{Cite web |url=https://bioguide.congress.gov/search/bio/L000313 |title=LINCOLN, Abraham |access-date=2023-02-10 |publisher=Biographical Directory of the United States Congress |language=en}}</ref>
*: 第16代[[アメリカ合衆国大統領]][[エイブラハム・リンカーン]]の誕生日<ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=23}}</ref>。2月第1月曜日としている州もある。奴隷解放に反対していた南部の諸州では、今でも祝日になっていない。
* [[ダーウィンの日]]
*: [[チャールズ・ダーウィン]]の誕生日。
* ユニオンデー({{MMR}})
*: [[1947年]]2月12日の各民族間の{{仮リンク|パンロン合意|en|Panglong Agreement}}を記念。
* [[ブラジャー]]の日({{JPN}})
*: [[1913年]]のこの日にアメリカ人女性マリー・フェルブ・ジャコブが、ブラジャーの原型となるものの特許を取得したことを記念<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=81}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=28}}</ref>。[[ワコール]]が制定し<ref name="kase2009"/>、現在は日本ボディファッション協会が実施。
* [[ニラ|黄ニラ]]記念日({{JPN}})
*: JA全農おかやまが岡山県の特産の黄ニラのPRのために制定。「に(2)っこりいい(1)ニ(2)ラ」の語呂合せ<ref name="kase2009"/>。
* ペニシリン記念日/ペニシリンの日
*: [[1941年]]2月12日に、イギリスの[[オックスフォード大学]]附属病院が、世界で初めて[[ペニシリン]]の臨床実験に成功したことに由来<ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=32}}</ref><ref name="kase2009"/>。
* [[ボンカレー]]の日<ref name="kase2009"/>/[[レトルトカレー]]の日<ref name="kase2009"/>({{JPN}})
*: [[1968年]]のこの日に[[大塚食品]]が、日本初のレトルト食品「ボンカレー」を発売したのを記念して、[[2007年]]に同社が日本記念日協会に登録して制定<ref>{{Cite web|和書|url=http://boncurry.jp/history/ |title=ボンカレーヒストリー|work=ボンカレー公式サイト|publisher=大塚食品|accessdate=2018-09-16}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=松山容子さんの初代『ボンカレー』を100万食限定で発売|url=http://www.otsukafoods.co.jp/news/pdf/20080212-boncurry40th.pdf|publisher=大塚食品|format=PDF|date=2008-02-12|accessdate=2018-09-16}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0212|date=2011年6月}}
* [[2011年]] - 滝沢朗と森美咲が[[アメリカ合衆国]]・[[ワシントンD.C.]]の[[ホワイトハウス]]前で初めて出逢う<ref>『[[東のエデン]]』第一話「王子様を拾ったよ」</ref>。(アニメ『[[東のエデン]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1966年]] - [[ブランカ (ストリートファイター)|ブランカ]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/122263 |title=キャラ図鑑058:ブランカ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]] |work=シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* 生年不明 - 草鹿やちる、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=久保帯人 |authorlink=久保帯人 |year=2006 |title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page=144 |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |isbn=4-08-874079-3}}</ref>
* 生年不明 - 蛙吹梅雨、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-06/ |title=蛙吹梅雨 |access-date=2023–01-28 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - ルミエル・シルヴァミリオン・クローバー、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|blackclover_off|1492151452495712266}}</ref>
* 生年不明 - ヘンリー・レゴラント、漫画・アニメ『ブラッククローバー』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/ |title=CHARACTER 黒の暴牛 ヘンリー・レゴラント |access-date=2023-01-28 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - スペイン 、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWESヘタリア2 |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=16 |author=日丸屋秀和}}</ref>
* 生年不明 - 瓜江久生、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2014|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890081-0|date=|volume=1巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - 三宮紫穂、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|zetchil_kousiki|1492151482107719682}}</ref>
* 生年不明 - 寺崎遊月、漫画・アニメ『[[咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=寺崎 遊月(てらさき ゆづき) |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 棺野秋人、小説・アニメ 『[[2.43 清陰高校男子バレー部]]』 に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|noitamina_shop|1359879876254269441}}</ref>
* 生年不明 - タツオ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m02.html |title=住民名簿 2月 タツオ |access-date=2023-02-10 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 吉岡チエ、ゲーム・アニメ『[[ToHeart2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aquaplus_jp|830431213416361985}}</ref>
* 生年不明 - 実原氷里、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://photokano.jp/maincharacter04.html |title=実原氷里 |access-date=2023-01-28 |publisher=[[エンターブレイン]] [[KADOKAWA]] DINGO Inc. |work=『フォトカノ』}}</ref>
* 生年不明 - ユーリヤ・ヴャルコワ、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130411_151528/ |title=【ガールフレンド(仮)通信16】ロシアの踊る妖精 ユーリヤ・ヴャルコワちゃん(CV:上坂すみれ) |access-date=2023-01-28 |publisher=ファミ通App |date=2013-04-11}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#横山奈緒|横山奈緒]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30038 |title=横山 奈緒(よこやま なお) |access-date=2023-01-28 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 戸塚月人、ゲーム・アニメ『[[神々の悪戯]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kamiaso.com/game/origin/chara_tsukito.php |title=戸塚月人 |access-date=2023-02-10 |publisher=BROCCOLI/Illust.カズキヨネ |work=『神々の悪戯』}}</ref>
* 生年不明 - 日沖羽美、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/hioki-umi/ |title=三重県 日沖羽美 |access-date=2023-01-28 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - 直木三十五、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1094974405149511681}}</ref>
* 生年不明 - 有栖川誉、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔冬組〕有栖川誉 |accessdate=2023-01-28 |publisher=LIBER |website=『A3!』}}</ref>
<!--* 生年不明 - 忍者トットリ、漫画・アニメ『[[南国少年パプワくん]]』に登場するキャラクター-->
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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{{1年の月と日}} | 2003-02-14T12:43:14Z | 2023-11-27T01:50:12Z | false | false | false | [
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1,604 | 山下達郎 |
山下 達郎(やました たつろう、1953年2月4日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン。日本における旧来の愛称はヤマタツ。英語のクレジットではTatsuroをTatsuもしくはTatsと綴ることがある。東京都豊島区池袋生まれ。妻は同じくシンガーソングライターの竹内まりや。血液型はB型。
所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。所属事務所はスマイルカンパニー、および、妻と共同経営する個人事務所(著作権管理用)のテンダベリー&ハーヴェスト(山下側の企業は株式会社テンダベリーミュージック)。
「ビーチ・ボーイズマニア」とまで言われるほどビーチボーイズに詳しく、山下自身が影響を受けたのは、多くがブライアン・ウィルソンとビーチ・ボーイズのようなアメリカン・ポップス・ロックのミュージシャンからであり、自身のアルバムにもビーチ・ボーイズのカバーをしている。また、日本におけるドゥーワップの熱心なファンの一人で、造詣が深い。自分自身のヴォーカルを多重録音する「1人ア・カペラ」という手法を用いることでも知られている。山下は他にソフト・ロック、ブルーアイド・ソウル、コーラス・グループ、スウィート・ソウルなどのファンでもある。ジェームス・ブラウンやガレージ・ロックも好むなど、音楽の趣味は幅広い。なお、萩原健太とならび、日本におけるビーチ・ボーイズ・ファンの代表格である。
音楽作りに対する拘りと独自の制作姿勢から「音の職人」とも称される。レコーディングではボーカル・バックコーラスのほか、編曲からギター、コンピューターの打ち込み、シンセサイザー、パーカッションまで1人で手掛けている。全ての演奏を1人で行っている楽曲もある。特にギターのリズムカッティングを得意としている。アコースティック感の強い作風を持ち味とするが、最新技術を活用する方針のため、アナログからデジタルまでカバーする幅広いノウハウを持つ。
大貫妙子らと共にシュガー・ベイブを結成し、アルバム『SONGS』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた大瀧詠一のナイアガラ・レーベルでは、日本コロムビア時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR』(1977年)に深く関わっている。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他のシンガー、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。小杉理宇造を通じてジャニーズ事務所との繋がりもあり、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」(1982年)、KinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。
大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオマニアであり、特にロック・R&B・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える。
海外では作品リリースを行っていなかったが、2010年代のヴェイパーウェイヴのブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した竹内まりや作の「プラスティック・ラブ」は、非公式動画ながら海外のリスナーを中心にYouTubeで合計1億回以上再生されている(詳細は「「ジャパニーズ・シティ・ポップ」」参照)。
「テレビやDVD・ブルーレイソフトなどの顔出し出演はしない」「日本武道館などのような大規模なアリーナ級の会場でのコンサートはしない」「著書を書かない」の3つのこだわりをもっているという。ただ、妻の竹内まりやのライブ映像がテレビで流されており、ギターを弾く山下を見る事が出来る。
山下は、顔で売るよりもあくまでも歌を聴衆に聞いてもらうこと、ステージ上で聴衆のすべてに高いクオリティーで音楽を届けることを最優先として考えており、コンサートホール以外の大規模な体育館やアリーナクラスのものではそれが難しいとしてアリーナクラスの会場での開催は基本的に行わないようにしている。その中でも中野サンプラザ大ホール(収容人員2222人)は、「一番後ろの聴衆にも、演奏がきちんと聞こえる」として、長年にわたり公演に使用し続けている。ただし妻である竹内まりやのコンサートツアーについては日本武道館や大阪城ホールなどアリーナクラスでのライブを行なっている他、2010年以降は「ライジング・サン・ロックフェスティバル」や「氣志團万博」などの野外フェスへの出演も増えてきている。
またミュージシャンとしてのポリシーを大切にしたいという理由でソロ活動以降はテレビ出演も原則として顔を出してのリアルインタビューには応えないことにしているが(シュガー・ベイブ時代には若干テレビ出演していた)、例外として声のみの出演やインタビュー風景の静止画の放映は認めており、NHK『SONGS』や、フジテレビ系『めざましテレビ』、日本テレビ系『ZIP!』、日本映画専門チャンネル『日曜邦画劇場』、テレビ朝日系『関ジャム 完全燃SHOW』などに出演歴がある。『第73回NHK紅白歌合戦』ではKinKi Kidsのステージにサプライズでメッセージ音声を贈り、音声のみで紅白歌合戦に初出演を果たした。
自身の著書(自叙伝、エッセーなど)も一切執筆していない。ただし、『ON THE STREET CORNER』以降、自身のアルバムや、ビーチ・ボーイズなど自身と関わりの深いアルバムや、山下が社外取締役を務めるワーナーミュージックジャパン発行の一連の「ワーナーナゲッツシリーズ(ポップロックナゲッツ、ガールズポップナゲッツ、ドゥーアップナゲッツなど)」では、それらについての作品の解説・ライナーノーツを手掛けている。他に、雑誌『レコード・コレクターズ』の「私の収穫」にもコレクターの一人として登場している。
1953年
1957年
1959年
1964年
1965年
1966年
1968年
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2017年
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ここでは、自著とそれに準ずる文献を記載する。パンフレット等は出典に使用するものに限って記載する。 | [
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| 山下 達郎は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン。日本における旧来の愛称はヤマタツ。英語のクレジットではTatsuroをTatsuもしくはTatsと綴ることがある。東京都豊島区池袋生まれ。妻は同じくシンガーソングライターの竹内まりや。血液型はB型。 所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。所属事務所はスマイルカンパニー、および、妻と共同経営する個人事務所(著作権管理用)のテンダベリー&ハーヴェスト(山下側の企業は株式会社テンダベリーミュージック)。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
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{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
| 名前 = {{ruby|山下|やました}} {{ruby|達郎|たつろう}}
| 背景色 = singer
| 出生名 = 山下 達郎
| 出生 = {{生年月日と年齢|1953|2|4}}{{Sfn|biog}}
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[豊島区]][[池袋]]
| 学歴 = [[東京都立竹早高等学校]]卒業<br />[[明治大学大学院法学研究科・法学部|明治大学法学部]]中退{{r|kb}}
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |title=Tatsuro Yamashita {{!}} Biography & History |class=artist |id=tatsuro-yamashita-mn0000497961 |accessdate=2020-10-16 }}</ref>|[[ポップ・ロック]]<ref name="allmusic" />|[[ニューミュージック]]<ref>{{Cite news |title=山下達郎&竹内まりや結婚「コンサートよりあがった」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/01/08/0011963784.shtml |newspaper=[[デイリースポーツ|デイリースポーツ online]] |publisher=デイリースポーツ |date=1982-04-07<!-- Webサイトでの公開は2019年1月8日 --> |accessdate=2020-11-26 }}</ref>|[[ドゥーワップ]]<ref name="okm">{{Cite web|和書|title=山下達郎(ヤマシタタツロウ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2020-10-16 }}</ref>|[[ブルー・アイド・ソウル]]<ref name="okm" />|[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<ref name="okm" />|[[AOR]]<ref name="okm" />|[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]<ref name="okm" />|[[シティ・ポップ]]<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎からサチモス。いま聴くべきシティポップ10枚 |url=https://www.leon.jp/lifestyle/8486 |website=[[LEON (雑誌)|LEON]] オフィシャルWebサイト |publisher=[[主婦と生活社]] |date=2018-06-07 |accessdate=2020-10-16 }}</ref>}}
| 職業 = {{Hlist-comma|[[音楽家|ミュージシャン]]|[[シンガーソングライター]]|[[音楽プロデューサー]]|[[作詞家]]|[[編曲家]]|[[編曲家]]}}
| 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]|[[ベース (弦楽器)|ベース]]|[[ドラムセット|ドラムス]]|[[シンセサイザー]]|[[キーボード (楽器)|キーボード]]|[[パーカッション]]|[[カスタネット]]}}
| 活動期間 = [[1973年]] -
| レーベル = {{Plainlist|
* RCA ⁄ [[BMG JAPAN#RVC|RVC]] {{small|({{Start date|1976}} - {{End date|1979}})}}
* AIR ⁄ RVC {{small|({{Start date|1979}} - {{End date|1982}})}}
* MOON ⁄ [[MOON RECORDS|ALFA MOON]] {{small|({{Start date|1982}} - {{End date|1990}})}}
* MOON ⁄ [[MOON RECORDS|MMG]] {{small|({{Start date|1990}} - {{End date|1993}})}}
* MOON ⁄ [[MOON RECORDS|east west japan]] {{small|({{Start date|1993}} - {{End date|2002}})}}
* MOON ⁄ [[ワーナーミュージック・ジャパン|WARNER MUSIC JAPAN]] {{small|({{Start date|2003}} - )}}
}}
| 配偶者 = {{Plainlist|[[竹内まりや]](1982年 - )}}
| 事務所 = {{Plainlist|
* [[スマイルカンパニー]]{{small|(歌手)}}{{Sfn|official}}
* テンダベリー&ハーヴェスト{{small|(音楽家・録音原盤管理者)}}{{Sfn|Discogs_Tenderberry}}
}}
| 共同作業者 = {{Plainlist|
* [[シュガー・ベイブ]]
* [[大瀧詠一]]
* [[アラン・オデイ]]
* [[小杉理宇造]]
* 黒岩利之
*[[周水|小杉周水]]
}}
| 公式サイト = [https://tatsuro.co.jp/ 山下達郎 OFFICIAL SITE]
| 著名使用楽器 = [[フェンダー・テレキャスター]]
}}
'''山下 達郎'''(やました たつろう、[[1953年]][[2月4日]] - )は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[音楽家|ミュージシャン]]。日本における旧来の[[愛称]]は'''ヤマタツ'''{{r|Warner_20120926|TowerRecords_20120613|BARKS_20120613|oricon_20120919}}。英語の[[wikt:クレジット|クレジット]]ではTatsuroを'''Tatsu'''{{r|Discogs_RideOnTime}}もしくは'''Tats'''{{r|Discogs_BigWave}}と綴ることがある。[[東京都]][[豊島区]][[池袋]]生まれ。[[配偶者|妻]]は同じくシンガーソングライターの[[竹内まりや]]。[[ABO式血液型|血液型はB型]]。
所属[[レコード会社]]は[[ワーナーミュージック・ジャパン]]{{Sfn|Warner}}。所属[[芸能事務所|事務所]]は[[スマイルカンパニー]]{{Sfn|official}}、および、妻と共同経営する個人事務所(著作権管理用)のテンダベリー&ハーヴェスト(山下側の企業{{Refnest|group="注釈"|グループ化しただけであり、山下側の企業も竹内側の企業も現存する。テンダベリー社は東京に{{Sfnp|宮里陽太「LIVE PLEASURE」CD+DVD|2016}}、ハーヴェスト社は竹内の実家([[島根県]][[出雲市]]大社町杵築南)に所在する。}}は株式会社テンダベリーミュージック{{Sfn|Discogs_Tenderberry}})。
== 人物、音楽性 ==
{{未検証|date=2020-03|section=1}}「[[ザ・ビーチ・ボーイズ|ビーチ・ボーイズ]]マニア」とまで言われるほどビーチボーイズに詳しく、山下自身が影響を受けたのは、多くが[[ブライアン・ウィルソン]]とビーチ・ボーイズのようなアメリカン・[[ポピュラー音楽|ポップス]]・[[ロック (音楽)|ロック]]のミュージシャンからであり、自身のアルバムにもビーチ・ボーイズのカバーをしている。また、日本における[[ドゥーワップ]]の熱心なファンの一人で、造詣が深い。自分自身のヴォーカルを[[オーバー・ダビング|多重録音]]する「1人[[ア・カペラ]]」という手法を用いることでも知られている。山下は他にソフト・ロック、[[ブルーアイド・ソウル]]、コーラス・グループ、スウィート・ソウルなどのファンでもある。[[ジェームス・ブラウン]]や[[ガレージ・ロック]]も好むなど、音楽の趣味は幅広い。なお、[[萩原健太]]とならび、日本におけるビーチ・ボーイズ・ファンの代表格である。
音楽作りに対する拘りと独自の制作姿勢から「'''音の職人'''」とも称される<ref>{{Cite web|和書|title=フロントランナーセレクション 第92回 ミュージシャン 山下達郎さん ライブに賭ける音の職人(1/3) |url=http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121016.html |publisher=[[朝日新聞社]] |work=どらく |date=2012-10-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130928002125/http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121016.html |archivedate=2013-09-28 |accessdate=2014-09-28}}</ref><ref>{{Cite news |title=「職人でいる覚悟」山下達郎が語る仕事-2 - 朝日求人ウェブ |url=https://www.asakyu.com/column/?id=1031 |publisher=朝日新聞社 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2011-08-07 |archiveurl=https://archive.is/20140211222900/http://www.asakyu.com/column/?id=1031 |archivedate=2014-02-11 |accessdate=2014-02-12 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。レコーディングではボーカル・[[コーラス (ポピュラー音楽)|バックコーラス]]のほか、編曲から[[ギター]]、コンピューターの[[打ち込み]]、[[シンセサイザー]]、[[パーカッション]]まで[[マルチプレイヤー (音楽)|1人で手掛けている]]。全ての演奏を1人で行っている楽曲もある。特にギターの[[ミュート (ギター)#カッティング|リズムカッティング]]を得意としている{{Refnest|group="注釈"|好きなギタリストとして[[:en:Buzz Feiten|バジー・フェイトン]]や[[スティーヴ・クロッパー]]を挙げ、一番のお気に入りは[[:en:Reggie Young|レジー・ヤング]]だという。}}。アコースティック感の強い作風を持ち味とするが、最新技術を活用する方針のため、アナログからデジタルまでカバーする幅広いノウハウを持つ。
[[大貫妙子]]らと共に[[シュガー・ベイブ]]を結成し、アルバム『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた[[大瀧詠一]]の[[ナイアガラ・レーベル]]では、[[日本コロムビア]]時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『[[NIAGARA MOON]]』(1975年)や『[[NIAGARA CALENDAR]]』(1977年)に深く関わっている{{Refnest|group="注釈"|デビュー前の1973年、学生時代に作った自主制作盤『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』を通じて知り合い、同年9月21日の『はっぴいえんどラスト・コンサート』で大瀧のステージのコーラスをシュガー・ベイブが任されて以来、公私にわたって親交を深めた。竹内まりやがデビュー30周年を記念して1年間限定で公開した2008年には家族ぐるみで親交があったことが、竹内のブログ記事に記されている<ref name="竹内-blog_20081230">{{Cite web|和書|author=竹内まりや |date=2008-12-30 |title=産みたて卵 |url=https://mariya30th.exblog.jp/9156759/ |website=公式ブログ |work=Mariya's Blog「Pholog」|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130516224716/http://mariya30th.exblog.jp/9156759/ |archivedate=2013-05-16 |accessdate=2014-01-17 }}</ref>。}}。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他の[[歌手|シンガー]]、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。[[小杉理宇造]]を通じて[[ジャニーズ事務所]]との繋がりもあり、[[近藤真彦]]の「[[ハイティーン・ブギ (曲)|ハイティーン・ブギ]]」(1982年)、[[KinKi Kids]]のデビュー・シングル「[[硝子の少年]]」(1997年)や「[[ジェットコースター・ロマンス]]」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。
大瀧同様、レコード・CDコレクター、[[音響機器|オーディオ]]マニアであり、特にロック・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pia.co.jp/100q/198/page4.php |title=山下達郎 100Qインタビュー Q76-Q100 |publisher=[[ぴあ]]株式会社 |work=[[チケットぴあ]] |accessdate=2014-01-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120915063424/http://www.pia.co.jp/100q/198/page4.php|archivedate=2012-09-15}}</ref>。
海外では作品リリースを行っていなかったが、[[2010年代]]の[[ヴェイパーウェイヴ]]のブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した[[竹内まりや]]作の「[[プラスティック・ラブ]]」は、非公式動画ながら海外のリスナーを中心に[[YouTube]]で合計1億回以上再生されている(詳細は「[[プラスティック・ラヴ#海外でのブーム|「ジャパニーズ・シティ・ポップ」]]」参照)。
=== こだわり ===
「テレビやDVD・ブルーレイソフトなどの顔出し出演はしない」「[[日本武道館]]などのような大規模な[[アリーナ]]級の会場でのコンサートはしない」「著書を書かない」の3つのこだわりをもっているという。ただ、妻の[[竹内まりや]]のライブ映像がテレビで流されており<ref>[[2019年]][[9月7日]]放送『竹内まりや Music&Life 〜40年をめぐる旅』</ref>、ギターを弾く山下を見る事が出来る。
山下は、顔で売るよりもあくまでも歌を聴衆に聞いてもらうこと、ステージ上で聴衆のすべてに高いクオリティーで音楽を届けることを最優先として考えており、コンサートホール以外の大規模な体育館やアリーナクラスのものではそれが難しいとしてアリーナクラスの会場での開催は基本的に行わないようにしている。その中でも[[中野サンプラザ]]大ホール(収容人員2222人)は、「一番後ろの聴衆にも、演奏がきちんと聞こえる」として、長年にわたり公演に使用し続けている。ただし妻である竹内まりやのコンサートツアー{{Refnest|group="注釈"|山下のツアーバンドと同じメンバーが参加しており、自身もバンドマスターを務める。}}については日本武道館や大阪城ホールなどアリーナクラスでのライブを行なっている他、2010年以降は「[[ライジング・サン・ロックフェスティバル]]」や「[[氣志團万博]]」などの野外フェスへの出演も増えてきている。
またミュージシャンとしてのポリシーを大切にしたいという理由でソロ活動以降はテレビ出演も原則として顔を出してのリアルインタビューには応えないことにしているが([[シュガー・ベイブ]]時代には若干テレビ出演していた)、例外として声のみの出演やインタビュー風景の静止画の放映は認めており、NHK『[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]』や、フジテレビ系『[[めざましテレビ]]』、日本テレビ系『[[ZIP!]]』、[[日本映画専門チャンネル]]『[[日曜邦画劇場]]』<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202105250000457.html 山下達郎「日曜邦画劇場」1000回で「人情紙風船」語る「筆舌尽くしがたい」 2021年5月25日16時0分](日刊スポーツ)。山下は1937年公開映画「人情紙風船」([[山中貞雄]]監督)を「自らの人生の1本」として感銘しており、左記番組の第1000作目記念放送を行うにあたり、その解説箇所の部分を先述の声の出演のみという条件付きで快諾したという</ref>、[[テレビ朝日]]系『[[関ジャム 完全燃SHOW]]』<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/482177|title= 今夜「関ジャム」で山下達郎ロングインタビューをOA|newspaper= 音楽ナタリー|date= 2022-06-19|accessdate= 2022-06-27}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://mdpr.jp/news/detail/3224726|title= 山下達郎、KinKi Kids「硝子の少年」制作秘話明かす ジャニー喜多川さんからの"大変"なオーダーとは?|newspaper= モデルプレス|date= 2022-06-27|accessdate= 2022-06-27}}</ref>などに出演歴がある。『[[第73回NHK紅白歌合戦]]』では[[KinKi Kids]]のステージにサプライズでメッセージ音声を贈り、音声のみで紅白歌合戦に初出演を果たした。
自身の著書(自叙伝、エッセーなど)も一切執筆していない。<ref>[https://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOLM04BLO004012022000000?page=2 山下達郎・アメックス・ゴアテックス 共通するニッチ戦略](日経biz gate=日本経済新聞社)</ref>ただし、『[[ON THE STREET CORNER]]』以降、自身のアルバムや、ビーチ・ボーイズなど自身と関わりの深いアルバムや、山下が社外取締役を務めるワーナーミュージックジャパン発行の一連の「ワーナーナゲッツシリーズ(ポップロックナゲッツ、ガールズポップナゲッツ、ドゥーアップナゲッツなど)」では、それらについての作品の解説・[[ライナーノーツ]]を手掛けている。他に、雑誌『[[レコード・コレクターズ]]』の「私の収穫」にもコレクターの一人として登場している。
=== 使用機材 ===
* [[エレクトリック・ギター]]
** [[フェンダー・テレキャスター]](USA・1970年代)(ブラウン) - メインギター。『[[FOR YOU (山下達郎のアルバム)|FOR YOU]]』(1982年)以降、ライブ、レコーディング、カッティング、ギターソロもほぼこのギターを使用。友人から5万円で購入し、当初はサブギターであったが、知り合いのリペアマンに調整してもらううちにメインに昇格。ボディ、ネックの木部以外は都度交換しているが、現在に至るまでメインギターとして使われている。
** フェンダー・テレキャスター([[フェンダー・カスタム・ショップ]]製)(サンバースト) - サブ。上記のテレキャスターを、フェンダー・カスタム・ショップのマスタービルダーが忠実に再現したモデル。同じカラーにするとどちらがメインか分からなくなるので、フィニッシュをサンバーストにしている。
** [[フェンダー・ストラトキャスター]](ホワイト)
** [[ギブソン・ES-335]](セミアコ)
* [[アコースティック・ギター]]
** [[マーティン (楽器メーカー)|マーチン・D-28]]
** [[ギルド・ギター・カンパニー|ギルド・D-50]] - 元は[[岡林信康]]が所有していたものを[[椎名和夫]]経由で譲り受けたもの
** [[グレッチ・カントリー・ジェントルマン|ギブソン・チェット・アトキンス・モデル]](エレアコ、エレガット) - ともにライブで使用
* [[エフェクター]]
** [[:en:MXR Distortion +|MXR・Distortion +]]([[ディストーション (音響機器)|ディストーション]])
** [[:en:MXR Dyna Comp|MXR・ダイナ・コンプ]](コンプレッサー)
** [[ボス (企業)|ボス・CE-3]](アナログコーラス)
* [[シンセサイザー]]
** [[ヤマハ・DXシリーズ|ヤマハ・DX7]]
** [[ヤマハ・SYシリーズ|ヤマハ・SY99]]
* [[ピアノ]]
** [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]・[[ローズ・ピアノ]]
** [[ヤマハ・CPシリーズ]]
== 経歴 ==
{{年譜のみの経歴|date=2020年10月}}
=== 1950年代 ===
{{Anchors|1953年}}'''1953年'''
* 2月4日、[[居酒屋]]を経営していた両親の間に生まれ、[[一人っ子]]として育った。[[飲食店|飲食業]]を嫌がる母親の希望もあって、長男の誕生を機に父親は転業を決意し、もともと電気[[職工]]であった祖父が経営していて倒産した工場を引き継ぐ形で再興を図った。
{{Anchors|1957年}}'''1957年'''
* 父親の転業は1954年から続いていた[[神武景気]]を当て込んでのことであったが、この年の7月、景気は急速に冷え込み、[[なべ底不況]](57年不況)が到来すると、山下家の工場はその煽りを受けて倒産してしまった{{Sfnp|『TATSURO MANIA 2003春 No.45』|2003}}。それからというもの、達郎は池袋の[[アパート#日本のアパート|アパート]]で暮らす共働き夫婦の下で[[カギっ子]]として生活することになった{{Sfnp|『TATSURO MANIA 2003春 No.45』|2003}}。
{{Anchors|1959年}}'''1959年'''
* 4月1日、豊島区立池袋第五小学校(現・豊島区立池袋小学校<ref group=gm>豊島区立池袋小学校({{googlemap|豊島区立池袋小学校}})※該当施設は青色でスポット表示される。</ref>)へ入学。
* 小学生時代は、宇宙と読書が大好きな、まじめに塾通いする典型的優等生タイプで、児童会役員にも選出された。
=== 1960年代 ===
{{Anchors|1964年}}'''1964年'''
* 小学6年生の時、当時の音楽担当教師に勧められクラブと[[マーチングバンド]]に所属し、[[スネアドラム|太鼓]]を担当する。これをきっかけに楽器への興味が芽生えたものの、音楽そのものに関しては、映画好きであった両親の影響で耳にする映画音楽や、テレビ・ラジオの歌番組から流れてくる歌謡曲を楽しむ程度に留まっていた。当時のお気に入りは[[三波春夫]]の[[歌謡浪曲]]<ref name=performance91-92_pamphlet>{{Harvnb|『PERFORMANCE '91-'92』パンフレット|1991|loc=収載、[[とり・みき]]「いかにして私は心配するのをやめて山下達郎の音楽を愛するようになったか」}}</ref>。
{{Anchors|1965年}}'''1965年'''
* 4月1日、豊島区立高田中学校(現・[[豊島区立千登世橋中学校]]<ref group=gm>豊島区立千登世橋中学校({{googlemap|豊島区立千登世橋中学校}})※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>)へ進学する。ここでは[[吹奏楽|ブラスバンド]]部に入部し、やはり小太鼓を担当する。以来、中学・高校の6年間をブラスバンド部員として過ごし、[[打楽器]]を担当し続けた。また、同じ時期、[[ウクレレ]]を買ってもらったことをきっかけに[[ギター]]にも興味を持ち、[[独学]]で練習し始めている。友人の影響を受けて[[ザ・ベンチャーズ|ベンチャーズ]]をきっかけに洋楽を聴くようになったのもこの頃で、熱心なトップ40リスナーになった。ベンチャーズのコンサート・プログラムに載っていた曲目リストを見て、自分の好きな曲が特定の作家の作品であったことを知り、それからはポップスを系統立てて聴くようになったという。
{{Anchors|1966年}}'''1966年'''
* 1月末、一家は[[練馬区]][[平和台 (練馬区)|平和台]]<ref group=gm>練馬区平和台({{googlemap|練馬区平和台}})※該当地域は赤色で囲い表示される。</ref> へ転居し、どうしても商売がしたいという父親の意向で菓子屋を開いた。転校せず、[[越境通学]]することになった。
* 中学2年生のこの年、友人らとアマチュア・バンド「ディー・バウエルン」を結成する。ドラムス、ベース、ギター2本という編成で、のちにキーボードも加わるが、達郎は[[ドラムセット|ドラムス]]を担当した。当時としては珍しかった、全員がボーカルというコーラス・グループ。
{{Anchors|1968年}}'''1968年'''
* 4月1日、[[東京都立竹早高等学校]]<ref group=gm>東京都立竹早高等学校({{googlemap|東京都立竹早高等学校}})※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref> へ進学する。前年から始まった都立高校入試への[[学校群制度]]採用により、竹早高校へ進学することになったという経緯から、別の高校に入っていたら自分の人生は大きく変わっていただろうと振り返っている。
* 都立の進学校に入学できた褒美として、以前から欲しかったドラムセットを親に買ってもらう。その後は子供の頃から興味のあった[[天体物理学|宇宙物理学者]]・[[天文学者]]を目指すも、音楽に傾倒してゆく。加えて、進学校特有の管理体制への違和感と、[[国立旧一期校・二期校|国立一期校]](当時)で受験一辺倒のクラスメートの中にあって孤立感に悩み、教員からは長髪を理由に恫喝を受ける学校生活が続いたという。
{{Anchors|1969年}}'''1969年'''
* 成績が下降して留年も危ぶまれたが、なんとか進級を果たすも、この時点で目指していた学問の道から挫折した。
* 5月、学内で教員らによる学校ぐるみの[[賄賂|収賄]]が発覚<ref group="注釈">学内で学年主任の3名の教員を中心に、補習費や修学旅行費で[[リベート]]を慣例的に受領していたというもの。「竹早高校リベート事件」としてマスコミや[[国会 (日本)|国会]]の[[文部科学委員会|文教委員会]](当時)にも取り上げられ、主犯格の3名の教員はじめ(1名は[[免職|懲戒免職]]処分)、殆どの[[教育関係職員|教職員]]が処分を受ける事態となった。</ref> すると、[[安保闘争#70年安保|70年安保]]という社会情勢を背景に全校集会が連日続き、学校の機能は一時完全に停止する。混乱の中、2学期に入ると、校舎改築工事のため、[[東京都立新宿高等学校]]旧校舎が、1年間、仮校舎とされた<ref group="注釈">新宿高校の1学年上には[[坂本龍一]]が在籍していた。のちに山下は「坂本くんとは本当に高校で隣に座っているような感じだった」と語っている。</ref>。当時、学生集会が盛んであった[[新宿]]で自らも[[日本の学生運動|学生運動]]や学生サークルに関わるようになり、高校生活から完全に[[ドロップアウト]]した。「音楽、バイト、学生サークル、[[ジャズ喫茶]]に[[名画座]]」という毎日を過ごす<ref group="注釈">同年4月から制服自由化が始まり、早速[[ジーンズ]]で登校したところ、教師から「山下、なぜ労働者の服装で学校に来るのか?」と詰問されたという。こうした出来事が、次第に学校から遠ざかせることとなった。</ref>。
* 高校の時にドロップアウトした<!--※元の文は「しかけた」。しかし「完全に」と上述しているので矛盾。-->[[トラウマ]]は、のちに、「学校という社会の中から逸脱していく絶望感は、この年になっても高校を出られない夢を見る」{{Sfnp|『ミュージックマガジン 1998年9月号』|1998|pp=32-39}}と語るほど大きく影響を与えている。
* この時期、[[松井道夫]](のちの[[松井証券]]社長)や金子辰也(のちの、[[モデラー (模型)|プロモデラー]]で、[[ジオラマ]][[作家]])らと交友を持った<ref group="注釈">金子は、『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』や[[シュガー・ベイブ]]のアルバム『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』のほか、山下のシングル「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イブ]]」や[[村松邦男]]のアルバム『アニマル』のアートワークを手掛けることになる。</ref>。<!--※(理由が分からない)コメントアウトを解除。-->
{{Anchors|1970年代}}
=== 1970年代前半 ===
{{Anchors|1971年}}'''1971年'''
* 3月、学内の混乱の収束が進む中、出席日数が足りず卒業が危ぶまれたが、追い出されるように高校を卒業した。その後は、音楽にのめり込む日々が始まる。そうは言っても、「[[スタッフ|裏方]]ぐらいにしかなれないだろうし、ならば、せめて音楽[[著作権]]でも学んで[[音楽出版|音楽出版社]]にでも入ろうか」と考え、[[法学部]]受験を目指して[[予備校]]に入学、1年間の[[過年度生|浪人]]生活を送る事になった。しかし実際にはほとんど通っていなかった。<ref name=TatsuroMania_xx_p.xx>生い立ちはファンクラブ広報誌「TATSURO MANIA」連載“HISTORY OF 山下達郎”より引用。{{出典無効|date=2020年7月9日|title=出典の箇所と範囲を明示して下さい。書籍を特定できる情報をください。複数冊の場合は個々に表記して下さい。それと、ページ番号も記して下さい。「参考文献」節で書籍情報を整えていただければ最良です。同じ『TATSURO MANIA』のもう一件は既に整えてありますので、参考になれば。}}</ref>
{{Anchors|1972年}}'''1972年'''
* 4月、[[明治大学大学院法学研究科・法学部|明治大学法学部]]へ入学。しかし講義にもほとんど出席しないまま、3か月で中退した。
* 8月、アマチュアバンドの友人達と[[スタジオ・アルバム|アルバム]]『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』を自主制作する。この中には、後に[[シュガー・ベイブ]]のメンバーとなる[[村松邦男]]と鰐川己久雄がいた。
{{Anchors|1973年}}'''1973年'''
* 春、『ADD SOME〜』がきっかけで知り合った仲間([[大貫妙子]]、[[野口明彦]])に、村松、鰐川を加え、シュガー・ベイブを結成。
* 9月21日、[[文京公会堂]]での[[はっぴいえんど]]ラスト・コンサート“CITY -Last Time Around-”に[[大瀧詠一|大滝詠一]] &ココナツ・バンクのステージに、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がバック・コーラスで参加。
* 12月17日、シュガー・ベイブのデビューコンサート“Hello! We are SUGAR BABE”を青山タワーホールにて開催。
{{Anchors|1974年}}'''1974年'''
* 1月、音楽事務所と契約するも、給料をもらえず、経済的に困窮する<ref group="注釈">1974年の1月に、[[はっぴいえんど]]の所属事務所「風都市」に入社。しかし正式な契約はなく、2月、3月とも給料は支払われず風都市は解散。同年4月から、マネージャーの長門芳郎が柏原卓、友人で音楽評論家の前田祥丈の3人で設立した「テイク・ワン」へ移籍。テイク・ワンには柏原がマネージメントを担当していた[[山下洋輔]]トリオも在籍。テイク・ワンにシュガー・ベイブ解散まで在籍し、その後は大貫妙子と共に[[牧村憲一]]が設立した「アワ・ハウス」へ移籍。牧村は、達郎のCM音楽制作のきっかけを作った他、竹内まりやのデビューにも関わっている。</ref>。しかし、この頃から始めたCM音楽の仕事や、スタジオでのコーラス・ワークの活動を通じて、達郎の声は少しずつ認知されていく。シュガーベイブも学園祭やライブハウス等の場で、次第に知名度を増していく<ref name=performance2013_pamphlet>{{Harvnb|『Performance 2013』パンフレット|2013|loc=収載「Biography of Tatsuro Yamashita」}}</ref>。
* 10月、シュガー・ベイブの所属レコード会社が大瀧の[[ナイアガラ・レーベル]]に決定し、レコーディングを開始する。
* 10月5日、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がコーラスで参加した[[松任谷由実#デビュー|荒井由実]]のアルバム『[[MISSLIM]]』をリリースする。達郎はコーラスの他、一部の曲ではギタリストとして参加。荒井(松任谷)の作品にはソロになって以降も、『[[OLIVE (松任谷由実のアルバム)|OLIVE]]』(1979年)まで関わっている。
=== 1970年代後半 ===
{{Anchors|1975年}}'''1975年'''
* 4月25日、シュガー・ベイブ、アルバム『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』とシングル「[[DOWN TOWN]]」を、ナイアガラ・レーベルから同時リリース。
* アルバム・リリースと前後してメンバーに変動があり、野口・鰐川に替わって[[上原裕]]・[[伊藤銀次]]・[[寺尾次郎]]が加入することで、6人組となった。
* 6月、伊藤が抜け、再び5人組となる。
* 11月、[[黒木真由美]]がアルバム『[[黒木真由美 パーフェクト・ベスト#収録曲|12のらくがき]]』をリリースする。この作品には、山下が初めて他のシンガーに書き下ろした「恋人と呼ばれて」と「北極回り」の2曲を収録。
{{Anchors|1976年}}'''1976年'''
* 1月8日、[[ニッポン放送]]『[[オールナイトニッポン]]』水曜2部(木曜深夜3時〜5時)レギュラー開始(3月25日まで)。3月27日は臨時で金曜1部のパーソナリティーを務めた。
* 3月25日、ナイアガラ・トライアングル(山下・伊藤銀次・[[大瀧詠一|大滝詠一]])によるオムニバス・アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』リリース。同日、吉田美奈子、アルバム『[[FLAPPER (吉田美奈子のアルバム)|FLAPPER]]』リリース。後に『[[CIRCUS TOWN]]』で[[セルフ・カバー]]する「永遠に」、「LAST STEP」の2曲を収録。
* 3月31日・4月1日、[[ロフト (ライブハウス)|荻窪ロフト]]にてシュガー・ベイブ解散コンサートを行う。
* 4月1日、ナイアガラ・トライアングル、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』からの[[リカット|リカット・シングル]]「[[幸せにさよなら]]」リリース。
* 4月6日、ニッポン放送『オールナイトニッポン』月曜2部(火曜深夜3時〜5時)へ移動。レギュラー開始(9月28日まで)。
* 8月16日、アルバム『CIRCUS TOWN』レコーディングのために渡米(8月17-26日:[[ニューヨーク]]、30日-9月3日:[[ロサンゼルス]]、5日帰国)。ソロ・シンガーとしてのデビュー・アルバムは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でレコーディングを行うという破格の待遇であったが、実現にはディレクター[[小杉理宇造]]の2年間のアメリカ留学経験と、その後[[日音]]でミュージシャンの招聘や洋楽の版権管理に携わる中で培った人脈が背景にあった{{Refnest |group="注釈" |このニューヨーク・レコーディングの際、アレンジャーの[[チャーリー・カレロ]]からスコアを譲り受け、独自に検証。実践的なアレンジの手法を身につける。後年「そういう意味では、チャーリー・カレロは僕の先生といえる。彼は[[ポール・アンカ]]のアレンジなんかで有名な[[:en:Don Costa|ドン・コスタ]]の弟子だから、僕はドン・コスタの孫弟子ということになるのかな」<ref name=Pia-sp2012_pp.13-23>{{Harvnb|『山下達郎“超”大特集!』|2012|pp=13-23|loc=森朋之「山下達郎“超”ロング・インタビュー」}}</ref> と語っている。}}。
* 12月25日、全曲アメリカ・レコーディングによるアルバム『[[CIRCUS TOWN]]』でRCA ⁄ [[BMG JAPAN#RVC|RVC]]よりソロ・デビュー。
{{Anchors|1977年}}'''1977年'''
* 3月25日、吉田美奈子のアルバム『[[TWILIGHT ZONE]]』を、吉田との共同プロデュースでリリース。同日、アルバムからのリカット・シングル「[[恋は流星|恋は流星Part I・II]]」をリリース。
* 5月25日、アルバム『[[SPACY]]』リリース。前作『CIRCUS TOWN』での海外レコーディング経験に大きな音楽的刺激を受け、以後、自分が書いたスコアでスタジオ・ミュージシャンと共にレコードを制作する数年間が始まる。その結果、『SPACY』は実験的かつ内省的なアルバムとなり、売り上げは芳しくなかったが、後のセールス・ポイントとなる一人多重録音によるコーラスが登場。古くからのファンには本作がベストと評する人も少なくない<ref>{{Cite album-notes |和書|title=SPACY |others=山下達郎 |year=2002 |type=booklet |publisher=RCA ⁄ [[BMG JAPAN#BMG JAPAN(BMGファンハウス)|BMG FUNHOUSE]] |id=BVCR-17014}}</ref>。
* 11月20日、山下編曲・プロデュースによる[[マザー・グース (日本の音楽グループ)|マザー・グース]]のシングル「[[貿易風にさらされて/マリン・ブルー]]」リリース。他のシンガーを手掛けた初プロデュース作品。
{{Anchors|1978年}}'''1978年'''
* 5月25日、[[六本木]]PIT INNでのライブを収録した[[ライブ・アルバム]]『[[IT'S A POPPIN' TIME]]』リリース。
* 12月、コンサート・イベンター、ソーゴー東京の資金援助を受け、自身の所属事務所「ワイルド・ハニー」を[[渋谷区]]神宮前の和合ハイツ2階302号室に設立。社名は[[ザ・ビーチ・ボーイズ|ビーチ・ボーイズ]]の[[ワイルド・ハニー|同名アルバム]](1967年)から。ソロ・デビュー時の所属事務所であったアワ・ハウスは山下・大貫のソロ・デビュー後、資金難に陥り倒産。その後山下は、自身の事務所設立まで音楽出版社の[[フジパシフィックミュージック|パシフィック音楽出版]] (PMP) に在籍。
* 12月20日、アルバム『[[GO AHEAD! (アルバム)|GO AHEAD!]]』リリース。ソロ・アルバムを作れるのもこれで最後かもしれないとの思いから、好きなことをやって終わりにしようと、様々な曲調の作品をあれこれ詰め込んだごった煮サウンドの一枚となった<ref>{{Cite album-notes |和書|title=GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA |others=山下達郎 |year=1997 |type=Booklet |publisher=AIR ⁄ [[BMG JAPAN]] |id=BVCR-1541}}</ref>。
{{Anchors|1979年}}'''1979年'''
* 1月25日、ファースト・ソロ・シングル「[[LET'S DANCE BABY]]」リリース。アルバム4枚目にして初のシングル・カット。
* 春、1月リリースのシングル「LET'S DANCE BABY」のB面「[[BOMBER (山下達郎の曲)|BOMBER]]」が大阪のディスコを中心にスマッシュ・ヒット。それを受けて、大阪ではシングル盤のAB面を逆にして臨時発売された。ここまでのライブを含む3枚のアルバムの売り上げがレコード会社の期待に及ばず、この先作曲家で生きて行こうと考えていたところであったが、次第に状況が好転し始める<ref>{{Cite album-notes |和書|title=GO AHEAD! |others=山下達郎 |year=2002 |type=booklet |publisher=RCA ⁄ BMG FUNHOUSE |id=BVCR-17015}}</ref>。
* 3月25日、山下編曲・プロデュースによる[[クールス|COOLS ROCKABILLY CLUB]]のアルバム『NEW YORK CITY, N.Y.』リリース。メンバーたっての希望でニューヨーク録音を敢行したが、コーディネーターの不手際から事前に何も準備されておらず、山下は録音1週間前に単身渡米。スタジオやミュージシャンの手配などすべてを一人で行い、その後現地で急遽行われたライブでは[[ローディー]]までこなした。最初で最後のオール・プロデュース作品。アルバムには“SOUND CREATIVE PRODUCER”としてクレジットされている。
* 4月5日、初のタイアップとなるセカンド・シングル「[[愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-]]」([[日本航空|JAL]]「沖縄キャンペーン“Let's Kiss The Sun”」イメージソング)リリース。
* 6月2日、コンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#– 1980年|FLYING TOUR '79 PART-1]]』スタート。全4公演。自身初の全国ツアー。
* 6月27日、「BOMBER」のスマッシュ・ヒット以後初の大阪公演を、大阪サンケイホールにて開催。客席が今までの客層とは明らかに異なる人々で埋め尽くされ、大阪での直接的な反応が新鮮でうれしいものであったことから、もっと時代の空気に近い作品を作ってみようという意欲が湧くことになった<ref>{{Cite album-notes |和書|title=MOONGLOW |others=山下達郎 |year=2002 |type=booklet |publisher=RCA ⁄ BMG FUNHOUSE |id=BVCR-17016}}</ref>。
* 8月5日、山下プロデュースによる[[アン・ルイス]]のアルバム『PINK PUSSYCAT』リリース。後にアルバム『[[POCKET MUSIC]]』でセルフ・カバーする「シャンプー」を収録。
* 9月1日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-2』スタート。全6公演。
* 10月21日、担当ディレクター小杉理宇造がRVC内に設立した独立[[レコードレーベル|レーベル]]“AIR”にプロデューサー兼ミュージシャンとして参加<ref group="注釈">[[RCAレコード]]への[[レコードレーベル|レーベル]]使用権料を支払う必要が無くなれば、その分を制作費へ回せるのではないかとの発想から設立された。</ref>、その第一弾としてアルバム『[[MOONGLOW (山下達郎のアルバム)|MOONGLOW]]』とシングル「[[永遠のFULL MOON]]」を同日リリース。アルバム・セールスの現場を知るため、地方のラジオ局や有線放送回り、大手販売店との販促会議や[[ディーラー]]コンベンションへの参加など、積極的なプロモート活動を行った。
* 12月20日、山下作・編曲、プロデュースによるアン・ルイスのシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」リリース。
* 12月26日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-3』スタート。全4公演。
{{Anchors|1980年代}}
=== 1980年代前半 ===
{{Anchors|1980年}}'''1980年'''
* 1月14日、コンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#1981年 - 1990年|CONCERT '80]]』スタート。全5公演。
* 3月19日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80』スタート。全15公演。
* 3月21日、79年夏にプロモート用で制作されたLPが評判となり、『[[COME ALONG]]』のタイトルでリリース([[カセットテープ|カセット]]のみ)。[[ディスクジョッキー|DJ]]入り[[コンピレーション・アルバム]]の先駆けとなる作品。
* 4月、[[日立マクセル|maxell]]カセットテープのCMに出演、約1年間放映された。「海編」「山編」の2パターンは、それぞれ[[サイパン]]、[[十勝岳]]で撮影された。
* 5月1日、シングル「[[RIDE ON TIME (山下達郎の曲)|RIDE ON TIME]]」リリース。自らも出演した[[日立マクセル|maxell]]カセットテープのCMソングとして初のトップ10ヒットを記録。
* 5月21日、山下プロデュースによる、[[水口晴幸]]『BLACK or WHITE』リリース。COOLS ROCKABILLY CLUBから独立後、初のソロ・アルバム。
* 7月27日、『80's JAM OVER JAPAN』([[西武ドーム|西武球場]])に出演。
* 8月2日、[[神奈川県]]の葉山マリーナ・エメラルドプールで『RIDE ON TIME CONCERT in HAYAMA』開催。この年の冷夏の影響を受け、寒さと豪雨という最悪のコンディションの中、約4時間決行されたため、山下にとって最も印象深いコンサートの一つになっている<ref>{{Cite album-notes |和書|title=THE RCA/AIR YEARS LP BOX 1976-1982 SPECIAL BONUS DISC |others=山下達郎 |year=2002 |type=booklet |publisher=RCA / AIR ⁄ BMG FUNHOUSE |id=BVJR-17009}}</ref>。
* 9月17日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80-'81』スタート。全38公演。
* 9月19日、アルバム『[[RIDE ON TIME (山下達郎のアルバム)|RIDE ON TIME]]』リリース。アルバム・チャート1位を記録、ソロ・デビュー4年目にしてブレイクを果たす。
* 10月21日、アルバム『RIDE ON TIME』の収録曲「[[MY SUGAR BABE]]」が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系ドラマ『[[警視-K]]』主題歌に使用され、リカット・シングルとしてリリース。楽曲を気に入った番組プロデューサー兼主演の[[勝新太郎]]が山下に電話で直接交渉し、ほぼ強引に使用を決めた。後に行われた番組の制作発表会見では他の出演者と共に同席させられ、後日の芸能紙やスポーツ新聞には、会見で憮然とした表情の山下の写真が掲載された{{Refnest|group="注釈"|この時の勝と山下の邂逅がきっかけで、山下のアルバム・プロデュースを受けたばかりの水口と勝の出会いも生まれ、水口は『警視-K』に出演したほか、勝を唯一「オヤジ」と呼べるほどの親密な関係を築くに至った{{Sfnp|山本|佐藤|2015|pp=366-372}}。}}。
* 12月5日、一人[[ア・カペラ]]・アルバム『[[ON THE STREET CORNER]]』を10万枚限定でリリース。一人多重録音のア・カペラによる[[ドゥーワップ]]作品。これ以降、山下の一人ア・カペラはその認知度を増していく{{r|performance2013_pamphlet}}。
* 12月31日、前年10月リリースのアルバム『[[MOONGLOW (山下達郎のアルバム)|MOONGLOW]]』が[[第22回日本レコード大賞]]のベストアルバム賞を受賞。担当スタッフの強い希望もあり授賞式に出席。壇上で表彰楯を受け取った(NHK-FM「今日は一日 山下達郎三昧」(2011年9月19日放送)より。
{{Anchors|1981年}}'''1981年'''
* 3月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81』スタート。全27公演。
* 3月17日、初の自社スタジオ「スマイルガレージ」がオープン。[[港区 (東京都)|港区]][[芝浦]]にある倉庫([[横浜倉庫]]株式会社芝浦事業所)を一部改装したもので、ガレージ・スタジオの草分け的存在。ただし、改修に時間がかかり、自身の作品では1986年のアルバム『[[POCKET MUSIC]]』レコーディングから使用開始。
* 9月7日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81-'82』スタート。全17公演。
{{Anchors|1982年}}'''1982年'''
* 1月21日、アルバム『[[FOR YOU (山下達郎のアルバム)|FOR YOU]]』リリース。[[オリコンチャート]]で1位、年間アルバムチャートでも2位となり、評価を確立{{r|performance2013_pamphlet}}。
* 4月5日、シングル「[[あまく危険な香り]]」([[TBSテレビ|TBS]]系[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]]『[[あまく危険な香り (テレビドラマ)|あまく危険な香り]]』主題歌)リリース。
* 4月6日、[[竹内まりや]]と結婚。竹内には楽曲提供だけでなく、同じRVC所属シンガーのレコーディングにコーラスとして揃って駆り出されるなど、関わる機会が多くなる中で懇意となり、既に結婚のおよそ2年前から山下のマンションで同棲生活を送っていた<ref>{{Harvnb|『インプレッションズ』|1994|p=}} {{要ページ番号|date=2020年7月10日}}</ref>。
* 4月10日、[[TBSラジオ]]『サウンズウィズコーク』レギュラー開始(1983年4月2日まで)。
* 6月21日、山下作詞、作・編曲、プロデュースによる[[フランク永井]]のシングル「WOMAN」リリース。
* 6月30日、[[松本隆]]作詞、山下作・編曲による[[近藤真彦]]の7枚目のシングル「[[ハイティーン・ブギ (曲)|ハイティーン・ブギ]]」リリース。カップリングの「Momoko」も松本作詞、山下作・編曲作品。近藤主演の[[ハイティーン・ブギ (映画)|同名映画]]の主題歌。近藤もディレクター小杉の担当するシンガーの一人であった。
* 7月21日、初のベスト・アルバム『[[GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA]]』リリース。RVC最後の作品。
* 秋、RVCとの契約を解消。小杉がRVCから独立、[[アルファレコード]]の[[村井邦彦]]と[[ヤナセ]]の[[梁瀬次郎]]の資金援助の下に設立したレコード会社、[[MOON RECORDS|アルファ・ムーン]]に役員兼ミュージシャンとして移籍。
* 11月2日、コンサート・ツアー『Sparkling '82-'83』スタート。全18公演。
{{Anchors|1983年}}'''1983年'''
* 4月7日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]『[[サウンド・ストリート]]』木曜日のレギュラー開始(1986年3月20日まで)。
* 4月23日、ムーン・レコード移籍第一弾シングル「[[高気圧ガール]]」([[全日本空輸|全日空]]沖縄イメージソング)リリース。
* 5月21日、山下プロデュースによる[[村田和人]]のアルバム『ひとかけらの夏』リリース。
* 6月8日、移籍後初のオリジナル・アルバム『[[MELODIES (山下達郎のアルバム)|MELODIES]]』リリース。作詞も自ら手掛けるようになる。
* 9月28日、シングル「[[スプリンクラー (山下達郎の曲)|スプリンクラー]]」リリース。同日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '83-'84』スタート。全38公演。
* 12月14日、シングル「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イブ]]」を[[レコード#12インチシングル盤|12インチ]]の限定ピクチャー・ディスクでリリース。
{{Anchors|1984年}}'''1984年'''
* 4月、小杉が所属事務所社長に就任。これを受けて社名を「ワイルド・ハニー」から、それまで系列出版社名として使用していた「[[スマイルカンパニー]]」に変更。同時に出版社名を「スマイル音楽出版」とし、企業グループ名を「スマイルグループ」に統一する。社名の「スマイル」はビーチ・ボーイズ1967年の未発表アルバム『[[スマイル (ブライアン・ウィルソンのアルバム)|スマイル]]』から。これ以降ワイルド・ハニーの名称はオフィシャルファンクラブ設立後、通信販売CDのプライベート・レーベル名として使用されている。
* 5月、小杉が「スマイル音楽出版」の社長も兼務となり、スマイルグループ代表に就任。同時期、小杉の勧めでスマイル音楽出版とは別に、山下は自身の楽曲の著作権管理等を目的とした個人事務所「テンダベリーミュージック(Tenderberry Music)」を設立。竹内まりやも「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」を設立、後に夫婦共同の事務所として「テンダベリー & ハーヴェスト」に改称。ただし「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」は竹内の実家である[[島根県]][[出雲市]]の旅館「竹野屋」内に事務所が置かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://meiwakucheck.com/search?tel_no=0853532523#jigyo |title=0853-53-2523 0853532523 < 検索結果 |publisher=meiwakucheck.com |date= |accessdate=2014-07-06}}</ref>。名前は[[ローラ・ニーロ]]のアルバム『[[:en:New York Tendaberry|NEW YORK TENDABERRY]]』と[[ニール・ヤング]]のアルバム『[[ハーヴェスト (アルバム)|Harvest]]』から。
* 4月25日、竹内まりやのムーン・レコード移籍第一弾アルバム『[[VARIETY]]』リリース。81年の活動休止から2年半、竹内が結婚前から書き溜めていた曲を聴いた山下がアルバム化を提案、全曲竹内のオリジナル曲による初のアルバム。この復帰作で、アルバム・チャート1位を記録。以後、竹内の楽曲アレンジとプロデュースを手がける。
* 5月25日、シングル「[[THE THEME FROM BIG WAVE]]」([[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]配給映画「ビッグウェイブ」テーマソング)リリース。
* 6月20日、アルバム『[[BIG WAVE (サウンドトラック)|BIG WAVE]]』リリース。ビーチ・ボーイズのカバーを含む全曲英語詞による、同名映画の[[サウンドトラック]]。
* 12月10日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '84-'85』スタート。全30公演。
* この年、娘が誕生。
=== 1980年代後半 ===
{{Anchors|1985年}}'''1985年'''
* 3月25日、シングル「[[風の回廊|風の回廊(コリドー)]]」([[ホンダ・インテグラ|ホンダ・クイント インテグラ]]CFイメージソング)リリース。
* 9月16日、17日、[[渋谷ジァン・ジァン]]で行われた『[[矢野顕子]]ソロコンサート』にゲスト出演。
* 11月18日、シングル「[[土曜日の恋人]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[オレたちひょうきん族]]』エンディング・テーマ曲)リリース。
{{Anchors|1986年}}'''1986年'''
* 4月23日、初の[[打ち込み]]による楽曲制作とデジタル・レコーディング導入によるオリジナル・アルバム『[[POCKET MUSIC]]』リリース。
* 5月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '86』スタート。全36公演。
* 10月25日、1980年リリースのアルバム『[[ON THE STREET CORNER]]』を全曲リミックス、『[[ON THE STREET CORNER 1 ('86 VERSION)]]』としてリリース。
* 11月28日、1983年に12インチ・シングルとして限定リリースされた「クリスマス・イブ」を[[レコード#7インチシングル盤|7インチEP]]として再リリース。
* 12月10日、前作から6年ぶりの一人ア・カペラ・アルバム『[[ON THE STREET CORNER 2]]』リリース。
{{Anchors|1987年}}'''1987年'''
* 5月10日、シングル「[[踊ろよ、フィッシュ]]」([[全日本空輸|全日空]]沖縄キャンペーン・イメージソング)リリース。
* 8月12日、竹内まりやのアルバム『[[REQUEST (竹内まりやのアルバム)|REQUEST]]』リリース。アルバム・チャート1位のほか、3年連続チャート・インを記録。
* 10月10日、六本木PIT INNで開業10周年を記念して行われた[[村上秀一]]と日替わりメンバーによるライブ『ROPPONGI PIT INN 10th Anniversary PONTA WEEK SUPER SHOCK '87 PONTA SPECIAL SESSION』の第7日目にゲスト出演<ref>{{Cite web |url=https://sound.jp/pontaweb/ponta-web/biography/biography.html |title=biography of ponta |publisher=ponta web |date= |accessdate=2014-07-24}}</ref>。
{{Anchors|1988年}}'''1988年'''
* 4月21日、山下プロデュース作3曲を収録した[[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]のセカンド・アルバム『[[Radio Days]]』リリース。
* 4月25日、シングル「[[GET BACK IN LOVE]]」(TBS系ドラマ『[[海岸物語 昔みたいに…]]』主題歌)リリース。
* 5月21日、作曲・プロデュースを手掛けた[[ア・カペラ]]・グループ「14カラット・ソウル」のシングル「THE GIRL IN WHITE」リリース。後にアルバム『僕の中の少年』にてセルフ・カバー。
* 7月21日、鈴木雅之『Radio Days』からのリカット・シングル「[[Guilty (鈴木雅之の曲)|Guilty]]」リリース。
* 10月19日、アルバム『[[僕の中の少年]]』リリース。
* 12月、[[東海旅客鉄道|JR東海]]のクリスマス・キャンペーンCMソングに「クリスマス・イブ」が使われヒット。以後、日本のクリスマス・ソングのスタンダード・ナンバーの一曲となる。
* 12月9日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '88-'89』スタート。全39公演。
{{Anchors|1989年}}'''1989年'''
* 3月10日、『僕の中の少年』からのリカット・シングル「[[新・東京ラプソディー]]」リリース。
* 9月25日、シングル「[[おやすみロージー -Angel Babyへのオマージュ-]]」リリース。
* 11月1日、80年代のホールツアーの記録を集大成したライブ・アルバム『[[JOY (山下達郎のアルバム)|JOY –TATSURO YAMASHITA LIVE–]]』リリース。
* 12月、「クリスマス・イブ」が、JR東海のクリスマスCMに再度使用される。
* 12月25日、「クリスマス・イブ」が、[[オリコンチャート|オリコン・シングルチャート]]でランクインから30週かけて1位を獲得。以後4週連続で1位を記録。
{{Anchors|1990年代}}
=== 1990年代前半 ===
{{Anchors|1990年}}'''1990年'''
* 4月1日、[[全国FM放送協議会|JFN]]系『[[プレミア3 (ラジオ番組)|プレミア3]]』毎月第1・3週目レギュラー開始(1992年1月26日まで)。
* 4月25日、シングル「[[Endless Game (山下達郎の曲)|Endless Game]]」(TBS系金曜ドラマ『[[誘惑 (1990年のテレビドラマ)|誘惑]]』主題歌)リリース。
* 10月1日、TBS系テレビ『[[ビッグモーニング]]』のテーマ曲として「[[モーニング・シャイン]]」オンエア開始。曲は翌年のシングル「さよなら夏の日」のカップリング曲としてリリース。
{{Anchors|1991年}}'''1991年'''
* 5月10日、シングル「[[さよなら夏の日]]」([[第一生命保険|第一生命]]企業CMソング)リリース。
* 6月18日、アルバム『[[ARTISAN]]』リリース。
* 8月25日、『ARTISAN』からのリカット・シングル「[[ターナーの汽罐車 -Turner's Steamroller-]]」([[日産自動車|NISSAN]] [[日産・スカイライン|NEW SKYLINE]]CMソング)リリース。
* 12月7日、コンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#1991年 - 2000年|PERFORMANCE '91-'92]]』スタート。全38公演。
* 12月31日、『ARTISAN』が[[第33回日本レコード大賞]]のアルバム大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。受賞の際、本人の電話コメントとともに、ソロ・デビュー以降唯一、本人出演による「さよなら夏の日」のミュージック・ビデオが放映された。
{{Anchors|1992年}}'''1992年'''
* 2月25日、シングル「[[アトムの子/BLOW#AMDM-6050|アトムの子]]」([[麒麟麦酒|キリン]]ゴールデンビターCMソング)リリース。カップリングには「BLOW」(TBS系TV『アメリカズ カップ'92』テーマソング)を収録。
* 10月3日、JFN系『サタデー・ソングブック』(毎週土曜15:00-15:54)開始(1994年3月26日まで)。
* 10月22日、竹内まりやのアルバム『[[Quiet Life]]』リリース。オリコン・アルバムチャートで1位を記録。
{{Anchors|1993年}}'''1993年'''
* 6月8日、シングル「[[MAGIC TOUCH (山下達郎の曲)|MAGIC TOUCH]]」(maxell CD-XL CMソング)リリース。なお、そのCMでは山下自身、歌っている顔をCG処理した形で出演。
* 6月14日、TBS系テレビ『ビッグモーニング』のテーマ曲として「鳴かないでHERON」オンエア開始。
* 10月25日、シングル「[[ジャングル・スウィング]]」([[日産自動車|日産]][[日産・スカイライン#9代目 R33型(1993年-1998年)|SKYLINE]]イメージ・ソング)リリース。
* 11月18日、一人ア・カペラとフル・オーケストラで構成されたクリスマス・シーズン向けの企画アルバム『[[SEASON'S GREETINGS]]』リリース。
* 12月、「クリスマス・イブ」が、[[TBCグループ|TBC]]クリスマス編CMに使用される。
* 12月11日、TBSラジオの番組『赤坂ライブ』「150回記念スペシャル」として[[赤坂メディアビル#TBSホール|TBSホール]]で開催された『山下達郎 〜クリスマスイブ・スペシャルミニライブ〜』に出演<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi-net.or.jp/~yj4a-yhr/tatsuro/concert/concert931211.html |title=クリスマスイブ・スペシャルミニライブ |publisher=TATSURO YAMASHITA ON THE "WEB" CORNER |date= |accessdate=2014-07-23}}</ref>。
{{Anchors|1994年}}'''1994年'''
* 1月25日、シングル「[[パレード (山下達郎の曲)|パレード]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[ポンキッキーズ]]』エンディングテーマ)リリース。
* 4月3日、『サタデー・ソングブック』が『[[山下達郎のサンデー・ソングブック|サンデー・ソングブック]]』として毎週日曜14:00〜に移行。
* 4月10日、シュガー・ベイブ『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)#収録曲|SONGS]]』をオリジナル・マスターで初CD化。オリコン・アルバムチャートで3位を記録。
* 4月26、27日・5月1、2日、ソロ・デビュー以前のレパートリーのみで構成されたコンサート『[[山下達郎のコンサート一覧#1991年 - 2000年|山下達郎 sings SUGAR BABE]]』を開催([[中野サンプラザ]])。
* 湾岸地区の再開発による倉庫ビルの取り壊しが決まり、スマイルガレージが閉鎖。その後新たな自社スタジオがオープンするまで、デジタル・レコーディングに関して納得のいくスタジオ環境が確保できなかったことも活動が一時停滞した一因となった。この期間のことを自ら「空白の三年間」と語っている。
* 11月14日、[[NHK総合テレビジョン|NHK]][[ドラマ新銀河]]『[[赤ちゃんが来た]]』主題歌として「LAI-LA -邂逅-」オンエア開始。
* 12月、「クリスマス・イブ」が、TBCクリスマス編CMに再度使用される。
=== 1990年代後半 ===
{{Anchors|1995年}}'''1995年'''
* 1月、「SOUTHBOUND #9」が、日産スカイラインのCMに使用される。
* 11月1日、シングル「[[世界の果てまで (山下達郎の曲)|世界の果てまで]]」([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系連続ドラマ『[[ベストフレンド (1995年のテレビドラマ)|ベストフレンド]]』主題歌)リリース。以後、このシングルから本格的にミュージック・ビデオが製作されるようになる。
* 11月13日、ムーン・レーベル移籍後初の[[ベスト・アルバム]]『[[TREASURES]]』リリース。ミリオン・セラーとなる。
* 11月26日、『サンデー・ソングブック』3周年を記念したアコースティック・ミニライブを開催(東京・半蔵門 TOKYO FM ホール)。
{{Anchors|1996年}}'''1996年'''
* [[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]に新たな自社系列のスタジオ「プラネット・キングダム」がオープン。
* 2月10日、[[メリサ・マンチェスター]]とのデュエット・シングル「[[愛の灯〜STAND IN THE LIGHT]]」(フジテレビ系ミュージック・キャンペーン・ソング)リリース。
* 5月1日、シングル「[[DREAMING GIRL]]」(NHK[[連続テレビ小説]]『[[ひまわり (1996年のテレビドラマ)|ひまわり]]』主題歌)リリース。
* 6月、「DONUTS SONG」が、[[ミスタードーナツ]]のCMに使用される。
* 8月、「さよなら夏の日」が、[[日本電信電話|NTT]]「Greeting Call」のCMに使用される。
* 10月、「蒼氓」が[[ジャックス (信販)|JACCSカード]]のCMに使用される。
* 11月17日、[[新宿]][[日清パワーステーション]]で行われた『[[メル・テイラー]]追悼“[[ザ・ベンチャーズ|ベンチャーズ・ナイト]]”』に、ドラマーとしてゲスト出演<ref>{{Cite web |url=http://www.ne.jp/asahi/45rpm/kenta/whatsnew/wn9611.html |title=What's New (Nov, 1996) |publisher=[[萩原健太|Kenta's NOTHING BUT POP!]] |date=1996-11-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991003182417/http://www.ne.jp/asahi/45rpm/kenta/whatsnew/wn9611.html |archivedate=1999-10-03 |accessdate=2014-07-23}}</ref>。
{{Anchors|1997年}}'''1997年'''
* 6月4日、1982年リリースのベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』を[[ボーナス・トラック]]付き、[[デジタルリマスター]]盤にて再リリース。1990年のCD化に際して内容が大幅に変更されたことを巡り、前所属先の[[BMG JAPAN|BMGビクター]]との訴訟問題にまで発展したが1995年に和解が成立。これを機に、山下自身の監修によるRCA ⁄ AIR時代のカタログのリマスター作業が始まる。
* 7月21日、松本隆作詞、山下作・編曲、プロデュースによる[[KinKi Kids]]のデビュー・シングル「[[硝子の少年]]」リリース。初登場1位、シングルチャート100位以内に31週間ランクインされるロングヒットとなる。
* 12月、「ひととき」がJACCSカードのCMに採用される。
{{Anchors|1998年}}'''1998年'''
* 1月28日、シングル「[[ヘロン (山下達郎の曲)|ヘロン]]」(キリン ラガービールCFソング)リリース。
* 2月26日、[[九州朝日放送]]の元ディレクター[[岸川均]]の定年退職を記念して、2月26日〜3月1日の4日間にわたり[[福岡サンパレス]]で行われた『伝説ライブ』の初日“MIRACLE NIGHT”に出演(共演:[[スターダスト・レビュー]]、[[浜田省吾]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://ontheroad.ap.teacup.com/shogo/136.html |title=「伝説ライブ」 |publisher=[[浜田省吾|SHOGO HAMADA]]ツアーオフィシャルブログ |date=2006-11-20 |accessdate=2014-07-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714124336/https://ontheroad.ap.teacup.com/shogo/136.html|archivedate=2014-07-14}}</ref>。『sings SUGAR BABE』から3年10か月ぶりにライブを行う。
* 4月22日、松本隆作詞、山下作曲によるKinKi Kids、3作目のシングル「[[ジェットコースター・ロマンス]]」リリース。アルバム・レコーディングで多忙のため、編曲は[[船山基紀]]が担当。山下は、自身のデモ・テープと全く違うアレンジにとても驚いたという。
* 4月29日、シングル「[[いつか晴れた日に (山下達郎の曲)|いつか晴れた日に]]」(TBS系ドラマ『[[先生知らないの?]]』主題歌)リリース。
* 8月26日、前作から7年ぶりとなるオリジナル・アルバム『[[COZY]]』リリース。オリジナル・アルバムとしては初のミリオンセラーとなる。
* 10月8日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '98-'99』スタート。全48公演。
* 10月25日、アルバム『COZY』2枚組アナログLP盤リリース。
* 12月28日、松本隆作詞、山下作・編曲、プロデュースによるKinKi Kids、5作目のシングル「[[Happy Happy Greeting/シンデレラ・クリスマス|Happy Happy Greeting]]」リリース。
{{Anchors|1999年}}'''1999年'''
* 7月14日、「[[アトムの子/BLOW#WPDV-10020|アトムの子]]」がフジテレビ系『[[サタ☆スマシリーズ#サタ☆スマ|サタ☆スマ]]』テーマソングに使用されたのを受け、品番改定の上リニューアル・シングル・カット。[[シングル|8センチCD]]としては最後のリリース。
* 11月10日、シングル「[[LOVE CAN GO THE DISTANCE]]」([[NTTコミュニケーションズ]] TV-CMソング)リリース。『ON THE STREET CORNER 3』からの先行シングルとなる、オン・スト・シリーズ初のオリジナル曲。
* 11月25日、前作から13年ぶりとなる、一人ア・カペラ・アルバム『[[ON THE STREET CORNER 3]]』リリース。[[タワーレコード|タワーレコード渋谷店]]にてインストア・ストリート・ライヴを行う。
* 11月27日、[[山野楽器|銀座山野楽器]]イベントスペース“JamSpot”にてインストア・ストリート・ライヴを行う。
* 12月、「クリスマス・イブ」が、[[日本ケンタッキー・フライド・チキン|ケンタッキー・フライド・チキン]]・クリスマス・キャンペーンのCMに使用される。
{{Anchors|2000年代}}
=== 2000年代前半 ===
{{Anchors|2000年}}'''2000年'''
* 1月26日、1980年リリースの『[[ON THE STREET CORNER|ON THE STREET CORNER 1]]』と、1986年リリースの『[[ON THE STREET CORNER 2]]』に、ボーナス・トラックをそれぞれ2曲追加、[[デジタルリマスター]]盤にて再リリース。
* 1月30日、[[新星堂]]主催によるインストア・ストリート・ライブを高田馬場ESPホールで行う。
* 7月12日、シングル「[[JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW〜]]」(映画『[[ジュブナイル (映画)|ジュブナイル]]』主題歌)リリース。
* 7月11、12、31日、[[日本武道館]]と[[大阪城ホール]]で開催された『[[エフエム東京|TOKYO FM]] & [[エフエム大阪|FM OSAKA]]開局30周年記念イベント』(共演:[[canna (音楽グループ)|canna]]、[[SING LIKE TALKING]])に出演した竹内まりやのバンド・マスター(ギター、コーラス、パーカッション、キーボード)として参加、アンコールでは夫婦でのデュエットも披露した。
* 11月22日、竹内まりや18年7か月ぶりのライヴを収録した初のライブ・アルバム『[[Souvenir〜Mariya Takeuchi Live|SOUVENIR]]』リリース。
* 同日、「クリスマス・イブ」をマキシ・シングルでリリース。英語版と、初CD化となるオリジナル・[[カラオケ]]を収録。8年ぶりに復活したJR東海「クリスマス・エクスプレス2000」のキャンペーンCMソングとして使用される。
{{Anchors|2001年}}'''2001年'''
* 4月、「SO MUCH IN LOVE」が[[アサヒビール|アサヒ]] スーパーモルトのCMに使用される。
* 6月27日、シングル「[[君の声に恋してる]]」(NTTコミュニケーションズ CMソング)リリース。
*11月21日、渋谷[[Shibuya O-EAST|ON AIR EAST]]で行われた『[[難波弘之]]プロ・デビュー25周年記念ライブ "Thanks to Singers"』にゲスト出演<ref>{{Cite web |url=http://www.global-artist.net/ap5/namba_live.htm |title=Live Report: "Thanks to Singers" 21st November 2001 at ON AIR EAST |publisher=global artist.net |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020205121733/http://www.global-artist.net/ap5/namba_live.htm |archivedate=2002-02-05 |accessdate=2014-07-23}}</ref>。
* この年、[[小田和正]]がホストを務める[[TBS]]の特別番組「[[クリスマスの約束]]」への出演依頼が来るも、テレビ出演の少なさなどの理由から出演辞退をする。小田には手紙でその旨を伝えた。番組内で小田は「こういう手紙はもうとっても、主役に近いものだと思う。時を超えて、達郎がこの歌を歌ってくれるのは感無量だった、っていう。(中略)だからこの手紙は、番組に出てくれたのと同じくらいの価値がある」とコメントし、「クリスマス・イブ」をカバー、演奏した。
{{Anchors|2002年}}'''2002年'''
* 1月23日、「[[LOVELAND, ISLAND]]」が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ドラマ『[[ロング・ラブレター〜漂流教室〜]]』の主題歌に採用、RCA ⁄ AIR時代の旧譜カタログ再発のプロモートも兼ねてシングル・カット。カップリングには同じく『FOR YOU』から「YOUR EYES」を収録。
* 2月14日、[[BMG JAPAN]]よりRCA ⁄ AIR時代のアルバム7タイトルが初の本人監修によるデジタルリマスター、ボーナス・トラック付きで再発。同月25日付の[[オリコンチャート|オリコンアルバムチャート]]では7タイトルすべてがトップ30以内にランクイン、発売から2年を経過したアルバムが対象のカタログチャートでは2位から8位を独占した。
* 3月2日、RCA ⁄ AIR時代のアルバム・リイシューにあわせ、この時代の曲のみで構成されたコンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#2001年 - 2010年|PERFORMANCE 2002 RCA ⁄ AIR YEARS SPECIAL]]』スタート。全33公演。追加公演の5月25、26日には初の沖縄公演を実施。
* 10月30日、アルバム未収録のシングルや未発表音源をまとめたベスト・アルバム『[[RARITIES (山下達郎のアルバム)|RARITIES]]』リリース。
* [[カルピスウォーター]]、[[スズキ・エスクード]]のCMソングを手がける。<ref group="注釈">両曲は2022年現在、シングル化•アルバム収録共にされていない。</ref>
{{Anchors|2003年}}'''2003年'''
* 2月19日、「[[RIDE ON TIME (山下達郎の曲)|RIDE ON TIME]]」が、TBS系[[日曜劇場]]『[[GOOD LUCK!!]]』主題歌に使用され、デジタルリマスター盤として再度シングル・カット。カップリングには「[[あまく危険な香り]]」を収録。
* 6月11日、シングル「[[2000トンの雨/フェニックス|2000トンの雨 ⁄ フェニックス]]」リリース。「2000トンの雨」は松竹映画『[[恋愛寫眞|恋愛寫眞 Collage of Our life]]』主題歌で、1978年のアルバム『GO AHEAD!』収録曲の“2003 NEW VOCAL MIX”。カップリングの「フェニックス」は、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]「[[地球だい好き 環境新時代]]」のテーマソング。
{{Anchors|2004年}}'''2004年'''
* 8月4日、シングル「[[忘れないで (山下達郎の曲)|忘れないで]]」(NHKアニメ劇場『[[アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル]]』エンディングテーマ曲)リリース。カップリングには同番組のオープニングテーマ曲「ラッキー・ガールに花束を」を収録。
=== 2000年代後半 ===
{{Anchors|2005年}}'''2005年'''
* 1月19日、シングル「[[FOREVER MINE/MIDAS TOUCH|FOREVER MINE]]」(東宝映画『[[東京タワー (小説)#映画|東京タワー]]』主題歌)リリース。カップリングには「MIDAS TOUCH」(フジテレビ系『[[金曜エンタテイメント]]』オープニングテーマ)を収録。
* 4月27日、シングル「[[太陽のえくぼ]]」(フジテレビ系『[[めざましテレビ]]』テーマソング)リリース。
* 9月14日、レコーディングに[[Pro Tools]]を導入した7年ぶりのオリジナル・アルバム『[[SONORITE]]』リリース。
* 10月11日、竹内まりや作詞、山下作曲によるタイトル曲収録の[[森光子]]「月夜のタンゴ」(舞台『ツキコの月 そして、タンゴ』主題歌)リリース。森にとって10年ぶりの新曲となったが、10月17日付のオリコンチャートで初登場45位でチャートイン。歌手デビュー64年で初のチャートインは史上最長期間記録。85歳5か月での初登場トップ50入りも最年長記録で、ダブルの快挙となった<ref group="注釈">山下と竹内は小杉や[[ジャニー喜多川]]を通じて森と懇意になり、以来、家族ぐるみの親交があった。ファンクラブ会報「TATSURO MANIA」では、森を含めたグループに山下一家も参加した[[中華人民共和国|中国]]旅行のスナップ写真が掲載された。また、森が山下のライブを、山下夫妻が森の舞台をそれぞれ互いに訪れるようになり、森への楽曲提供が実現した。ちなみに、山下が好きな森の舞台作品は『[[おもろい女 (テレビドラマ)#舞台|おもろい女]]』だという。</ref>。
* 10月26日、アルバム『[[SONORITE]]』からの[[リカット|リカット・シングル]]「[[白いアンブレラ/ラッキー・ガールに花束を|白いアンブレラ ⁄ ラッキー・ガールに花束を]]」([[ホンダ・ライフ#4代目 JB5/6/7/8型(2003年 - 2008年)|HONDA LIFE]] CMソング / HONDA LIFE DIVA CMソング)リリース。
* 12月7日、シュガー・ベイブ『[[SONGS (シュガー・ベイブのアルバム)|SONGS]]』が大瀧詠一自らのリマスタリングの下、新たなボーナス・トラックを加えた30周年記念盤『[[SONGS -30th Anniversary Edition-]]』としてリリース。
* [[日本民間放送連盟]] 「[[CMのCMキャンペーン]]」のCMソングを手がける。<ref group="注釈">2022年現在、シングル化•アルバム収録共にされていない。</ref>
{{Anchors|2006年}}'''2006年'''
* 3月21日、山下・伊藤銀次・大滝詠一によるオムニバス・アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』の30周年記念盤が大瀧自身のリマスタリングで『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1#30th Anniversary Edition|NIAGARA TRIANGLE Vol.1 -30th Anniversary Edition-]]』としてリリース。
{{Anchors|2007年}}'''2007年'''
* 4月6日、[[銀婚式]]を[[桑田佳祐]]・[[原由子]]夫妻と合同で行う<ref>{{Cite news |title=山下達郎・竹内まりやと桑田佳祐・原由子夫妻 35年交流続く |url=https://www.news-postseven.com/archives/20140106_235047.html?DETAIL |newspaper=[[NEWSポストセブン]] |publisher=[[小学館]] |date=2014-01-06 |accessdate=2020-12-07 }}</ref>。
* 5月23日、山下との共同プロデュースによる竹内まりやのアルバム『[[Denim]]』リリース。
{{Anchors|2008年}}'''2008年'''
* 3月12日、シングル「[[ずっと一緒さ]]」(フジテレビ系ドラマ『[[薔薇のない花屋]]』主題歌)リリース。カップリングには「バラ色の人生〜ラヴィアンローズ」(TBS系『[[ブロードキャスター]]』テーマソング)と「ANGEL OF THE LIGHT」([[ニコン|Nikon]] 企業CMソング)を収録。
* 5月5、6日に東京・[[浜離宮朝日ホール]]、10日に[[オリックス劇場#大阪厚生年金会館|大阪厚生年金会館]]芸術ホールで、「ずっと一緒さ」封入ハガキ当選者と「サンデー・ソングブック」リスナー当選者を対象に、同曲の発売記念と「サンデー・ソングブック」800回記念を兼ねた『TATSURO YAMASHITA ACOUSTIC MINI LIVE』を開催{{r|Natalie_20110713}}。
* 10月1日、山下のプロデュースによる竹内まりやのオールタイム・ベスト・アルバム『[[Expressions]]』リリース。
* 10月30日、[[CLUB QUATTRO#渋谷CLUB QUATTRO|渋谷CLUB QUATTRO]]で行われた『[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]35周年記念LIVE』で、シークレット・ゲストである竹内まりやのサポート・ギタリストとして出演。竹内が歌う「人生の扉」のバックを務めた。
* 12月5日、6年ぶり(通常のツアーとしては10年ぶり)のコンサート・ツアー『PERFORMANCE 2008-2009』スタート。全50公演。活動のスタンスをライブ活動中心に戻すべくバンド・メンバーを再編。このツアーでは、同年末で建て替えのために閉鎖される[[フェスティバルホール|大阪フェスティバルホール]]にて、ポップス歌手では最後のライブを行った<ref group="注釈">ホール最終公演は12月29日、30日に開催された[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]による「第9シンフォニーの夕べ in 2008」</ref>。
{{Anchors|2009年}}'''2009年'''
* 3月21日、1980年にリリースされたアルバム『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』がタイトルを『[[TATSURO FROM NIAGARA]]』と改め、ナイアガラ公認盤としてリリース。
* 8月19日、シングル「[[僕らの夏の夢/ミューズ|僕らの夏の夢]]」(劇場版アニメーション『[[サマーウォーズ]]』主題歌)リリース。カップリングには「ミューズ」(TBS系テレビ全国ネット『[[総力報道!THE NEWS]]』テーマ曲)を収録。
* 11月27日、[[文京シビックホール]]で行われた[[服部克久]]デビュー50周年記念アルバム『服部克久』『服部克久の世界 〜works』発売記念コンサート、『服部克久 THE CONCERT 〜50th Anniversary〜』にシークレット・ゲストとして出演。オーケストラをバックに「[[煙が目にしみる (曲)|煙が目にしみる]]」、「[[FOREVER MINE/MIDAS TOUCH|FOREVER MINE]]」、「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イブ]]」の3曲を披露。
* 12月、「クリスマス・イブ」がオリコンシングルチャートに24年連続ランクインを達成<ref>{{Cite news |title=山下達郎「クリスマス・イブ」、24年連続100位ランクイン |url=https://www.oricon.co.jp/news/71828/full/ |newspaper=ORICON NEWS |publisher=オリコン |date=2009-12-22 |accessdate=2020-12-07 }}</ref>。
*12月25日、銀座王子ホールで行われた、“ギンザめざましクラシックス Vol.50 〜銀座4丁目の奇跡 '09 50回目の夜に何かが起こる〜”にシークレット・ゲストとして出演。「煙が目にしみる」、「ベラ・ノッテ」、「ハヴ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」、「クリスマス・イブ」の4曲を披露、アンコールでは司会の軽部真一、高嶋ちさ子、当日の出演者とともに「[[ホワイト・クリスマス (曲)|ホワイト・クリスマス]]」を歌唱。
{{Anchors|2010年代}}
=== 2010年代前半 ===
{{Anchors|2010年}}'''2010年'''
* 4月14日、シングル「[[希望という名の光]]」(映画『[[てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜]]』主題歌)リリース。カップリングには「Happy Gathering Day」(ケンタッキー40周年記念テーマソング)を収録。
* 4月25日、シュガー・ベイブとしてアルバム『SONGS』リリースでの公式デビューから35周年を迎える。
* 6月2日、シングル「[[街物語|街物語(まちものがたり)]]」(TBS系ドラマ 日曜劇場『[[新参者 (小説)#テレビドラマ|新参者]]』主題歌)リリース。
* 8月6日、コンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#2011年 -|PERFORMANCE 2010]]』スタート。全39公演。
* 8月14日、『[[ライジング・サン・ロックフェスティバル#2010年|RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO]]』([[石狩湾新港]]樽川埠頭横野外特設ステージ)に出演。野外ライブへの参加としては29年ぶり。
* 10月30、31日、日本武道館で行われた、[[ワーナーミュージック・ジャパン]]創立40周年イベント『WARNER MUSIC JAPAN 40th. Anniversary 〜100年 MUSIC FESTIVAL〜』に出演。1日目はシークレット・ゲストとして竹内まりやと登場し、夫婦でデュエットを披露。2日目には自身の曲(「SPARKLE」、「[[希望という名の光]]」)を武道館のステージで初めて歌う<ref>{{Cite news |title=100年MUSIC FESTIVAL『豪華すぎる! ワーナーミュージック・ジャパン創立40周年記念ライブ』 |url=https://www.oricon.co.jp/music/livereport/2187/2/#photo |publisher=[[オリコン]]株式会社 |newspaper=ORICON STYLE |date=2010-11-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140822052409/http://www.oricon.co.jp/music/livereport/2187/2/#photo |archivedate=2014-08-22 |accessdate=2014-08-22}}</ref>。
* 12月3、4、21、22日、[[日本武道館]]と[[大阪城ホール]]で行われた、竹内まりやの10年ぶりのライブ「[[エフエム東京|TOKYO FM]]・[[エフエム大阪|FM OSAKA]]開局40周年記念スペシャル『Souvenir again』竹内まりや LIVE 2010<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mariyat.co.jp/pg/live2010.html |title=竹内まりや - Souvenir Again mariya takeuchi live 2010 |publisher=竹内まりや Official Web Site |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100904034055/http://www.mariyat.co.jp/pg/live2010.html |archivedate=2010-09-04 |accessdate=2014-08-23}}</ref>」にバンド・マスターとして再び参加。
{{Anchors|2011年}}'''2011年'''
* 3月9日、シングル「[[愛してるって言えなくたって]]」(TBS系ドラマ 日曜劇場『[[冬のサクラ]]』主題歌)リリース。
* 8月10日、6年ぶりのオリジナル・アルバム『[[Ray Of Hope]]』リリース。8月22日付のオリコン・アルバムチャートで8年9か月ぶりに初登場1位を獲得。[[松任谷由実]]、[[徳永英明]]、[[桑田佳祐]]に次いで史上4人目となる、80、90、00、10年代と4年代連続での同ランキング首位を獲得<ref>{{Cite news |title=山下達郎4人目の4年代連続トップ! - 日刊スポーツ芸能ニュース |url=http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108160041.html |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2011-08-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140113112449/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108160041.html |archivedate=2014-01-13 |accessdate=2014-01-13}}</ref>。
* 8月23、25、29、31日と9月4、6日の6日間の日程で、デビュー36周年にして初の試みとして、『Ray Of Hope』購入者のうち、シリアルナンバー当選者を対象にしたシアターイベントを全国6か所の[[シネマコンプレックス|シネコン]]で開催。同アルバム初回限定版に同梱されているボーナスディスク『[[Ray Of Hope#Joy 1.5 (CD:WPCL-10965)|JOY1.5]]』収録のライブ音源の映像ソースを編集した作品『JOY1.5 - THE MOVIE』が上映された<ref>{{Cite news |title=貴重映像放出 ! 山下達郎フィルムコンサートを6都市で開催 |url=https://natalie.mu/music/news/52855 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |date=2011-07-11 |archiveurl=https://archive.is/20140820025604/https://natalie.mu/music/news/52855 |archivedate=2014-08-20 |accessdate=2014-08-20 |deadlinkdate=2017-10}}</ref><ref group="注釈">エンディングの後、おまけ映像として前年8月「RISING SUN」出演時に収録された「さよなら夏の日」のライブ映像が上映された。</ref>。
* 11月2日、アルバム『Ray Of Hope』2枚組アナログLP盤リリース。
* 11月6日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2011-2012』スタート。全64公演。
* 12月、「クリスマス・イブ」が、[[ディー・エヌ・エー|モバゲー]]のクリスマスCMに使用される。オリコンチャートトップ100入りを記録、連続記録を26年に更新。
* 12月11日、『サンデー・ソングブック』が放送1000回を迎える{{r|Natalie_20111210}}。
{{Anchors|2012年}}'''2012年'''
* 4月6日、結婚30周年([[真珠婚]])を迎える。
* 6月22日、3月11日放送の『サンデー・ソングブック』“[[東日本大震災]]1周年 追悼と復興祈念のプログラム”が、『[http://www.hbf.or.jp/awards/38.html 第38回 放送文化基金賞]』(主催:[[放送文化基金|公益財団法人 放送文化基金]])にて、「ラジオ番組 優秀賞」(番組部門)と「出演者賞」(番組部門 個別分野)の2部門を受賞<ref>{{Cite web|和書|date=2012-05-28 |url=https://www.tfm.co.jp/company/pdf/news000685.pdf |title=TOKYO FMの番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』が第38回放送文化基金賞「ラジオ番組 優秀賞」受賞 同番組パーソナリティー・山下達郎氏が個別部門「出演者賞」受賞 |format=PDF |publisher=エフエム東京 |accessdate=2013-07-27}}</ref>。贈呈式には山下の代理としてスマイルカンパニー社長小杉理宇造が出席し、本人のメッセージを代読。この中で出演者賞の賞金(10万円)を震災復興支援のため全額、[[日本赤十字社]]へ寄付することが併せて発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hbf.or.jp/awards/kotoba/38_kobetsu.html |title=「表彰」第38回 放送文化基金賞 受賞のことば |publisher=公益財団法人 放送文化基金 |date= |accessdate=2013-07-08}}</ref>。
* 8月25日、全国13か所の[[ティ・ジョイ]]系シネコンで、ライブ映像による初のシアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』(制作:ワーナーミュージック・ジャパン / スマイルカンパニー、配給:[[東映]])を9月1日までの1週間限定で開催。ミニシアターランキング(興行通信社発表)で興行成績1位を獲得するなど予想を越える大ヒットとなり、9月2日まで開催が延長されたほか、9月15日からは渋谷TOEIで1週間の追加上映が行われた<ref>{{Cite news |title=山下達郎シアター・ライヴ大ヒット、急遽上映延長&追加上映決定 |url=https://www.musicman.co.jp/artist/19718.html |publisher=エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社 |newspaper=Musicman-NET(現・Musicman)|date=2012-08-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120904231638/http://www.musicman-net.com/artist/19718.html |archivedate=2012-09-04 |accessdate=2014-08-22}}</ref>。
* 9月2日、2年ぶりの野外フェス参加となる『[[SWEET LOVE SHOWER|SWEET LOVE SHOWER 2012]]』(山梨県・[http://www.kirarayamanakako.jp/ 山中湖交流プラザきらら])に出演。ステージ中盤には竹内まりやがサプライズ・ゲストとして登場、2曲を披露した<ref>{{Cite news |title=山下達郎、スペシャ野外ライブに竹内まりやサプライズ登場 |url=https://natalie.mu/music/news/75784 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |date=2012-09-02 |archiveurl=https://archive.is/20130502013605/https://natalie.mu/music/news/75784 |archivedate=2013-05-02 |accessdate=2014-07-30 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。
* 9月26日、シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」から新作「愛を教えて」([[テレビ朝日]]系[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]『[[遺留捜査#第2シリーズ(2012年)|遺留捜査]]』主題歌)まで、レーベルを超えて選曲された初の[[オールタイム・ベスト]]『[[OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜]]』リリース。
* 10月6日、シアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』の好評を受けて、[[TOHOシネマズ]]系、[[109シネマズ]]系を含む全国19か所のシネコンで再映(10月12日まで)。
* 10月7日、『サンデー・ソングブック』が放送20周年を迎える。
* 11月20日、『OPUS』通常盤にクリスマス・デザインの三方背ボックスで包装した、クリスマス期間限定パッケージが販売開始(12月25日まで)。
* 12月11日、2003年リマスター盤シングルをクリスマス特別ボックス包装した、シングル「クリスマス・イブ」のクリスマス期間限定パッケージが販売開始(12月25日まで)。
{{Anchors|2013年}}'''2013年'''
* 5月3、4日、大阪・フェスティバルホール主催の新装オープン記念ライヴ『[[山下達郎のコンサート一覧#2013年|山下達郎 LIVE at Festival Hall]]』開催。
* 8月27日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2013』スタート。全49公演。
* 8月28日、『[[MELODIES 30th Anniversary Edition]]』と『[[SEASON'S GREETINGS#20th Anniversary Edition|SEASON'S GREETINGS 20th Anniversary Edition]]』リリース。2013年リマスター、ボーナス・トラック収録。
* 10月9日、シングル「[[光と君へのレクイエム]]」(映画『[[陽だまりの彼女#映画|陽だまりの彼女]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://hidamari-movie.com/ |title=映画「陽だまりの彼女」|publisher=「陽だまりの彼女」製作委員会 |date=2013-07-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140106102742/http://hidamari-movie.com/ |archivedate=2014-01-06 |accessdate=2014-01-06}}</ref> 主題歌)リリース<ref>{{Cite news |title=山下達郎、約3年振り映画主題歌「光と君へのレクイエム」10月発売 |url=https://www.musicman.co.jp/artist/27374.html |publisher=エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社 |newspaper=Musicman-NET(現・Musicman)|date=2013-07-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131015080433/http://www.musicman-net.com/artist/27374.html |archivedate=2013-10-15 |accessdate=2013-10-15}}</ref>。カップリングには「コンポジション」(NHK[[ドラマ10]]『[[第二楽章 (テレビドラマ)|第二楽章]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/drama10/dainigakushou/html_daini_midokoro.html |title=ドラマ10「第二楽章」 / ドラマのみどころ |publisher=NHK ONLINE |date=2013-04-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130417064130/http://www.nhk.or.jp/drama10/dainigakushou/html_daini_midokoro.html |archivedate=2013-04-17 |accessdate=2014-03-15 |deadlinkdate=2017-10}}</ref> 主題歌)を収録。
* 11月20日、『[[MELODIES 30th Anniversary Edition]]』と『SEASON'S GREETINGS 20th Anniversary Edition』のアナログ盤、「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)#30th Anniversary Edition (CD+DVD:WPZL-30763/4, CD:WPCL-11665)|クリスマス・イブ 30th Anniversary Edition]]」リリース<ref group="注釈">10月20日には、「クリスマス・イブ 30th Anniversary Edition」特製スリーブケースの表紙部分に、希望する写真やメッセージを入れたジャケットでオリジナルのCDを作成できるスペシャル企画“「クリスマス・イブ」30周年記念オーダーメイド・ジャケット期間限定CDパッケージ”の発売が決定。11月1日から24日までの期間限定で受注生産された。</ref>。
* 12月2日、同日付のオリコン週間シングルランキングで「クリスマス・イブ 30th Anniversary Edition」が初登場10位を獲得。同曲のトップ10入りは、2001年1月以来12年11か月ぶり。1980年代から2010年代までの4年代でのトップ10入りは史上初<ref>{{Cite news |title=【オリコン】山下達郎「クリスマス・イブ」、史上初の4年代TOP10 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2031261/full |publisher=オリコン株式会社 |newspaper=ORICON STYLE |date=2013-11-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131129152200/http://www.oricon.co.jp/news/2031261/full |archivedate=2013-11-29 |accessdate=2014-08-23}}</ref>。
* 12月31日、前日急死した大瀧詠一への追悼コメントを自身のオフィシャルサイトで発表<ref>{{Cite web |title=NEWS/TOP |url=https://www.tatsuro.co.jp/news/ |publisher=山下達郎 OFFCIAL WEB SITE |date=2013-12-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101220017/http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-01}}</ref>。
{{Anchors|2014年}}'''2014年'''
* 7月23日、『[[BIG WAVE 30th Anniversary Edition]]』リリース。2014年リマスター、ボーナス・トラック収録。
* 7月25日、コンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#2011年 -|Maniac Tour 〜PERFORMANCE 2014〜]]』スタート。全29公演。
* 8月16日、『[[ライジング・サン・ロックフェスティバル|RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO]]』(石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ)に4年ぶり2度目の出演<ref>{{Cite news |title=山下達郎|LINE-UP |url=http://rsr-arch.wess.co.jp/2014/artists/lineup/profile/082yt.html/artists/lineup/profile/082yt.php |publisher=RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO (wess) |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140817130458/http://rsr.wess.co.jp/2014/artists/lineup/profile/082yt.html |archivedate=2014-08-17 |accessdate=2014-08-17}}</ref>。
* 8月20日、『BIG WAVE 30th Anniversary Edition』アナログ盤リリース。
* 8月30日、『[[SWEET LOVE SHOWER|SWEET LOVE SHOWER 2014]]』(山梨県・山中湖交流プラザきらら)に出演<ref>{{Cite web|和書|title=ARTIST > LINE UP 山下達郎 |url=https://www.sweetloveshower.com/artist/005193.html |publisher=SPACE SHOWER TV 25TH ANNIVERSARY SPACE LOVE SHOWER 2014 ([[スペースシャワーTV]]) |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140818160820/http://www.sweetloveshower.com/artist/005193.html |archivedate=2014-08-18 |accessdate=2014-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/sweetloveshower/posts/780403935339887?fref=nf |title=<山下達郎> 2年前、昼間のLAKESIDE… |publisher=SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 公式Facebook |date=2014-08-30 |archiveurl=https://archive.is/20140902115310/https://www.facebook.com/sweetloveshower/posts/780403935339887?fref=nf |archivedate=2014-09-02 |accessdate=2014-09-02 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。
* 9月10日、山下との共同プロデュースによる竹内まりやのアルバム『[[TRAD]]』リリース。
* 10月10日、名古屋市のライブハウス、ボトムラインにて『山下達郎 LIVE at THE BOTTOM LINE』開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://wmg.jp/tatsuro/news/59661/ |title=山下達郎「LIVE at THE BOTTOM LINE」開催決定! |publisher=ワーナーミュージック・ジャパン |date=2014-09-28 |accessdate=2014-09-28}}</ref>。
* 11月19日、「クリスマス・イブ」が主題歌として使用される映画『MIRACLEデビクロくんの恋と魔法』劇中歌、竹内まりや「ザ・クリスマス・ソング」と、「ハヴ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」のメドレーを追加収録したシングル「クリスマス・イブ」2014年限定バージョンを発売。同日、竹内まりやの『TRAD』アナログ盤と、『[[VARIETY -30th Anniversary Edition-]]』リリース。
* 11月22日、音楽監修を務めた映画『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法』<ref>{{Cite web|和書|url=http://miracle-movie.com/ |title=映画『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法』 |publisher=MIRACLE デビクロくんの恋と魔法 製作委員会 |date= |accessdate=2014-09-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131229014042/http://miracle-movie.com/|archivedate=2013-12-29}}</ref><ref group="注釈">監督:[[犬童一心]]、原作:[[中村航]]、主演:[[相葉雅紀]]、[[榮倉奈々]]、ほか。</ref> 公開{{r|Natalie_20140917}}。同日、竹内まりや33年ぶりの全国ツアー『SOUVENIR 2014』スタート(全6会場9公演)。バンド・マスターとして参加。
* 11月、「踊ろよ、フィッシュ」が[[スバル・インプレッサ|SUBARU インプレッサSPORT]]のCMに使用される<ref>{{Cite web|和書|title=「踊ろよ、フィッシュ」SUBARU インプレッサSPORT CMソング決定! |url=https://wmg.jp/tatsuro/news/60655/ |publisher=Warner Music Japan |date=2014-11-25 |accessdate=2020-12-07 }}</ref>。
* 12月10日、竹内まりや『VARIETY -30th Anniversary Edition-』のアナログ盤リリース。
=== 2010年代後半 ===
{{Anchors|2015年}}'''2015年'''
* 3月12日、平成26年度(第65回)[[芸術選奨]][[文部科学大臣賞]](大衆芸能部門)受賞。2014年のコンサート・ツアー『[[山下達郎のコンサート一覧#2011年 -|Maniac Tour 〜PERFORMANCE 2014〜]]』にてこれまであまり演奏してこなかった楽曲を中心に披露し、個性的な歌唱力や音楽性をさらに高めていることなどが評価された{{r|Natalie_20150312}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150312/k10010013131000.html |title=「芸術選奨文部科学大臣賞」に山下達郎さんら18人 |work=NHK NEWSWEB |publisher=[[NHKオンライン]] |date=2015-03-12 |accessdate=2015-03-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150312103823/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150312/k10010013131000.html |archivedate=2015-03-12 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>。
* 4月25日、音楽活動40周年を迎える。同日、テレビ朝日系ドラマ・[[木曜ミステリー]]『[[京都人情捜査ファイル]]』主題歌「マイ・ガーディアン・エンジェル(ドラマサイズ ver.)」<ref group="注釈">2022年現在、シングル化•アルバム収録共にされていない。</ref>の[[着うた]]フル配信スタート。
* 8月5日、シュガー・ベイブ『[[SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-]]』発売。オリジナル・トラックの2015年リマスター音源+ボーナス・トラックのディスク1と、オリジナル・トラックの2015年リミックス音源+ボーナス・トラックのディスク2による2枚組仕様。ディスク1相当の2枚組アナログ盤も同時リリース。
* 10月9日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2015-2016』スタート。全国35都市64公演。
* 10月10日、デビュー40周年を記念したオフィシャル・バンドスコア『山下達郎/40th Anniversary Score Book Vol.1/Vol.2』([[ドレミ楽譜出版社]])発売。
* 11月、「高気圧ガール」がSUBARU インプレッサSPORTのCMに使用される。
* 12月14日、「クリスマス・イブ 30th Anniversary Edition」に、金子辰也イラストによる三方背ボックスをかぶせた“2015 クリスマス・スペシャル・パッケージ”を期間限定で販売開始(12月25日まで)。
{{Anchors|2016年}}'''2016年'''
* 2月24日、竹内作詞、山下作・編曲による、[[嵐 (グループ)|嵐]]48作目のシングル「[[復活LOVE]]」リリース{{r|Natalie_20160114}}。同日、シュガー・ベイブ『SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-』のDisc2「2015 Remix」収録のオリジナル『SONGS』楽曲を、「ハイレゾリューション・オーディオ音源」にて配信開始{{r|Natalie_20160214}}。
* 3月24日、『PERFORMANCE 2015-2016』NHKホール公演にて「クリスマス・イブ」が、1986年から30年連続で日本の週間シングルランキング(TOP100)に入ったとして、同日付で[[ギネス世界記録]]に認定されたことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20160325-CC7BQACYBJIEFBGDQNDASQQEMI/ |title=山下達郎さんの「クリスマス・イブ」がギネス世界記録認定 30年連続チャートイン |publisher=株式会社[[産業経済新聞社#産経デジタル|産経デジタル]] |work=iza |date=2016-03-24 |accessdate=2016-03-24}}</ref>。
* 4月17日、神奈川県横浜市[[関内ホール]]にて、『PERFORMANCE 2015-2016』[[神奈川県民ホール]]公演分チケット販売事故対象者公演を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1509/27/news027.html |title=ローソンチケット、山下達郎さんのコンサートチケットを売りすぎて謝罪 設定ミスで |work=[[ITmedia|ねとらぼ]] |publisher=アイティメディア株式会社 |date=2015-09-27 |accessdate=2015-09-27}}</ref>。
* 4月20日、『PERFORMANCE 2015-2016』岩手県民会館大ホール公演、12月25日分の振替公演を同会場にて実施{{r|Natalie_20151226}}。同日、山下と竹内によるデュエット・ナンバー「[[レット・イット・ビー・ミー|Let It Be Me]]」(フジテレビ系木曜22時ドラマ『[[早子先生、結婚するって本当ですか?]]』劇中歌)の配信スタート{{r|Natalie_20160405}}。
* 8月18日、シングル「[[CHEER UP! THE SUMMER]]」の先行配信スタート。
* 9月14日、シングル「CHEER UP! THE SUMMER」(フジテレビ系木曜22時ドラマ『[[営業部長 吉良奈津子]]』主題歌)リリース{{r|Natalie_20160712}}。
* 9月10日、東京・[[EX THEATER ROPPONGI]]で開催された難波弘之デビュー40周年記念ライブ・イベント『難波弘之 鍵盤生活40周年記念ライブ 〜一生鍵命〜』にサプライズ・ゲストとして登場。洋楽カバー8曲を歌った{{r|Natalie_20160912}}。
* 10月3、4日、東京・新宿LOFTのオープン40周年記念ライブイベント『SHINJUKU LOFT 40TH ANNIVERSARY「40YEARSx40LIVES」』にてアコースティック・ライブを開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/200204 |title=山下達郎、新宿ロフト40周年企画で2DAYSアコースティックライブ |work=音楽ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2016-09-01 |accessdate=2016-09-01}}</ref>。
* 12月8日、この日発売された[[PlayStation 4]]用ゲームソフト「[[龍が如く6 命の詩。]]」に楽曲を提供{{r|Natalie_20160915}}。
{{Anchors|2017年}}'''2017年'''
* 3月18日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2017』スタート。全国25都市49公演{{r|Natalie_20161220}}。
* 6月、小杉理宇造がスマイルカンパニーおよびスマイル音楽出版代表取締役社長を退任。後任のスマイルカンパニー代表取締役社長にはワーナーミュージック・ジャパン元・宣伝部長を務めた黒岩利之、スマイル音楽出版代表取締役社長には小杉理宇造の実子で、「Shusui」として作・編曲家、音楽プロデューサーとしても活動実績のある小杉周水がそれぞれ就任。
* 8月2日、『[[COME ALONG 3]]』リリース。33年ぶりの続編となる「COME ALONG」シリーズの第3弾{{r|Natalie_20170609}}。『[[COME ALONG]]』『[[COME ALONG 2]]』も2017年最新リマスタリング音源で同時発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/tatsuro/info/484642 |title=33年ぶりの新作「COME ALONG 3」の発売に合わせあの隠れた名盤が2017年最新リマスタリング音源で復活!「COME ALONG」「COME ALONG 2」8/2(水)同時発売! |publisher=株式会社[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|Sony Music Entertainment (Japan) Inc.]] |work=SonyMusic |date=2017-08-02 |accessdate=2017-08-02}}</ref>。
* 9月13日、シングル「[[REBORN (山下達郎の曲)|REBORN]]」(映画『[[ナミヤ雑貨店の奇蹟 (映画)|ナミヤ雑貨店の奇蹟]]』主題歌)リリース{{r|Natalie_20170707}}。
* 9月17日、『[[氣志團万博]]2017 〜房総与太郎爆音マシマシ、ロックンロールチョモランマ〜』(千葉・[[袖ケ浦海浜公園]])に出演{{r|Natalie_20170629}}。
* 11月28日、『山下達郎のサンデー・ソングブック』放送開始25周年を記念したスペシャルライブ「山下達郎のサンデー・ソングブック25th Anniversaryアコースティック・ライブ&トークショー」開催(東京・半蔵門 TOKYO FM ホール){{r|Natalie_20171022}}。
{{Anchors|2018年}}'''2018年'''
* 6月23日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2018』スタート。全国24都市49公演。
* 7月11日、シングル「[[ミライのテーマ/うたのきしゃ]]」([[アニメーション]]映画『[[未来のミライ]]』主題歌&オープニングテーマ)リリース。
{{Anchors|2019年}}'''2019年'''
* 11月27日、シングル「[[RECIPE (レシピ)]]」(TBS系ドラマ 日曜劇場『[[グランメゾン東京|グランメゾン★東京]]』主題歌)リリース。
* 12月、オリコン週間シングルランキングで「クリスマス・イブ」が17位にランクインし、34年連続ランクインを達成<ref>{{Cite news |title=山下達郎「クリスマス・イブ」が34年連続TOP100入り 歴代1位記録を今年も更新【オリコンランキング】 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2151180/full/ |newspaper=ORICON NEWS |publisher=オリコン |date=2019-12-17 |accessdate=2020-12-07 }}</ref>。
{{Anchors|2020年代}}<!-- ←※これは「2020年代」節が前半と後半に分割された後(「2020年代」が「2020年代前半」に改名された後)に有効化します。-->
=== 2020年代前半 ===
{{Anchors|2020年}}'''2020年'''
* [[11月25日]]、アルバム『[[POCKET MUSIC]]』『[[僕の中の少年]]』のリマスター盤を『[[POCKET MUSIC (2020 Remaster)]]』『[[僕の中の少年 (2020 Remaster)]]』として同時発売(2枚組アナログ盤も同時発売)。
{{Anchors|2021年}}'''2021年'''
* [[8月18日]]、アルバム『[[ARTISAN]]』発売から30周年を迎えた2021年、リマスター盤を『[[ARTISAN -30th Anniversary Edition-]]』として発売(アナログ盤も初めて同時発売)。
* [[12月15日]]、「クリスマス・イブ」の2021年バージョンが、期間限定商品として発売される<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎「クリスマス・イブ」2021年バージョン発売|url=https://natalie.mu/music/news/450674|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-11-10|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。
{{Anchors|2022年}}'''2022年'''
*[[1月]]、2021年末をもって黒岩利之がスマイルカンパニー代表取締役社長を退任。後任には小杉周水が就き、スマイル音楽出版社長と兼任、スマイルグループ代表となる。
* [[1月19日]]、山下の書き下ろし3曲を含む[[木村拓哉]]のセカンド・アルバム『[[Next Destination (木村拓哉のアルバム)|Next Destination]]』リリース<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/450397 |title=木村拓哉の2ndアルバムにCreepy Nuts、マンウィズ、Kj、平井大、鈴木京香、糸井重里が参加 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2021-10-22 |accessdate=2022-03-28}}</ref>。
* [[4月6日]]、結婚40周年([[ルビー婚]])を迎える。
* [[6月11日]]、ホール・ツアーとしては3年ぶりとなるコンサート・ツアー『PERFORMANCE 2022』スタート。全国24都市47公演(予定)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/471415 |title=山下達郎の3年ぶりホールツアー決定、24都市で47公演 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2022-03-27 |accessdate=2022-03-28}}</ref>。
* [[6月22日]]、{{Start date|2011|8}}にリリースされた『[[Ray Of Hope]]』以来実に11年ぶりとなる[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]『[[SOFTLY]]』リリース。{{Start date|2021|12}}にレギュラーラジオ番組『サンデー・ソングブック』の1500回記念として行われたアコースティックライブから7曲の音源を収めた“プレミアムCD”付きの初回盤、および通常盤の2仕様でリリースされるほか、2枚組アナログ盤、カセット・テープも同時リリース<ref name=Natalie_20220401 />。
* [[7月21日]]、[[新型コロナウイルス]]に感染したことを自身の[[ウェブサイト|公式サイト]]で発表。『PERFORMANCE 2022』のうち[[7月23日]]、[[7月24日|24日]]に開催予定だった札幌公演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tatsuro.co.jp/news/#news-000199 |title= 「山下達郎 PERFORMANCE 2022」札幌公演 開催見送りのお知らせ|accessdate=2022-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202207210000466_m.html|date=2022-07-21 |title= 山下達郎が新型コロナ感染、体調はおおむね安定 23、24日の札幌公演は開催見送り|accessdate=2022-07-26}}</ref>と、[[7月29日]]の盛岡公演、[[7月31日]]のいわき公演を開催見送りとした<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎 PERFORMANCE 2022 盛岡・いわき公演 開催見送りのお知らせ {{!}} 山下達郎 {{!}} Warner Music Japan |url=https://wmg.jp/tatsuro/news/87902/ |website=ワーナーミュージック・ジャパン {{!}} Warner Music Japan |access-date=2022-07-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎、療養のため岩手公演と福島公演も開催見送り |url=https://natalie.mu/music/news/486974 |website=音楽ナタリー |access-date=2022-07-28 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。ただし、レギュラーの『サンデー・ソングブック』についてはライブツアー開催期間中に伴う事前収録分をそのまま放送し、代役を立てずに済んでいる。
{{Anchors|2023年}}'''2023年'''
*1月6日、1976年から1982年のRCA/AIR YEARSに発売されたアナログ盤とカセット、全8アイテムに最新リマスターを施した「TATSURO YAMASHITA RCA/AIR YEARS Vinyl Collection」が5月から5カ月連続でのリリースが決定。アナログ盤とカセットの同時発売で、アナログ盤はすべて180g重量盤。5月3日に6thアルバム『FOR YOU』、6月7日に5thアルバム『RIDE ON TIME』、7月5日に4thアルバム『MOONGLOW』と3rdアルバム『GO AHEAD!』、8月2日に2ndアルバム『SPACY』とソロデビュー・アルバム『CIRCUS TOWN』、9月6日にライブ・アルバム『IT'S A POPPIN' TIME』とベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』が発売される<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/507902 |title=山下達郎、1976年~82年のアナログ盤&カセットを最新リマスターで発売 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2023-01-06 |accessdate=2023-02-03}}</ref>。
== ディスコグラフィ ==
{{作品一覧|山下達郎の作品一覧}}
; スタジオ・アルバム
{{col-begin}}
{{col-2}}
* [[CIRCUS TOWN]]({{Start date|1976}})
* [[SPACY]]({{Start date|1977}})
* [[GO AHEAD! (アルバム)|GO AHEAD!]]({{Start date|1978}})
* [[MOONGLOW (山下達郎のアルバム)|MOONGLOW]]({{Start date|1979}})
* [[RIDE ON TIME (山下達郎のアルバム)|RIDE ON TIME]]({{Start date|1980}})
* [[ON THE STREET CORNER]]({{Start date|1980}})※[[アカペラ]]・アルバム
* [[FOR YOU (山下達郎のアルバム)|FOR YOU]]({{Start date|1982}})
* [[MELODIES (山下達郎のアルバム)|MELODIES]]({{Start date|1983}})
* [[BIG WAVE (サウンドトラック)|BIG WAVE]]({{Start date|1984}})※[[サウンドトラック]]
* [[POCKET MUSIC]]({{Start date|1986}})
{{col-2}}
* [[ON THE STREET CORNER 2]]({{Start date|1986}})※アカペラ・アルバム
* [[僕の中の少年]]({{Start date|1988}})
* [[ARTISAN]]({{Start date|1991}})
* [[SEASON'S GREETINGS]]({{Start date|1993}})※アカペラ+フル・オーケストラ・アルバム
* [[COZY]]({{Start date|1998}})
* [[ON THE STREET CORNER 3]]({{Start date|1999}})※アカペラ・アルバム
* [[SONORITE]]({{Start date|2005}})
* [[Ray Of Hope]]({{Start date|2011}})
* [[SOFTLY]]({{Start date|2022}})
{{col-end}}
== ミュージック・ビデオ ==
; 一部の作品には山下本人も出演しているが、顔は出していない。
* 世界の果てまで
* DREAMING GIRL
** [[さとう珠緒]]が出演。山下は冒頭の声、映像に重なるシルエット、および、ギターを演奏する姿(首から下)がオーバーラップする形で登場。
* ヘロン
** 砂浜で全身青いペイントを施したダンサーが踊る映像の途中、長髪でギターを抱えた男性の後ろ姿のカットがインサートされる(山下本人ではなく、別人によるイメージカット)。
* いつか晴れた日に
* JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW
* 君の声に恋してる
* LOVELAND, ISLAND
** [[東山紀之]]と宮内佳奈子が出演。
* RIDE ON TIME
* FOREVER MINE
** [[嶋田久作]]とモデルの高津飛鳥の出演によるドラマ仕立ての作品。監督は[[丹下紘希]]。「[[SPACE SHOWER Music Video Awards|MVA06]]」で「BEST STORY VIDEO」部門にノミネート。
* 太陽のえくぼ
** 『[[めざましテレビ]]』でオンエアされたイメージ映像を山下が気に入り、趣向を少し変えイメージ映像と同じ監督によりアニメ調で制作。
* LOVE GOES ON <その瞳は女神 (Goddess)>
** ベスト・アルバム『RARITIES』のリード楽曲として制作。ジャケット画像や、モチーフとなった玩具の[[オブジェ]]が次々と映し出される。
* 僕らの夏の夢
** 主題歌となったアニメーション映画『[[サマーウォーズ]]』のイメージに沿った、アニメ調のプロモーション・ビデオ。
* 希望という名の光
** 主題歌となった映画『[[てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜]]』主演の[[岡村隆史]]が出演。
* 街物語(まちものがたり)
** [[初音映莉子]]が出演。主題歌となった[[テレビドラマ]]『日曜劇場 新参者』([[TBSテレビ|TBS]])の舞台となった[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]界隈の街並みが映し出される。
* 光と君へのレクイエム
** 主題歌となった映画『[[陽だまりの彼女#映画|陽だまりの彼女]]』の[[スピンオフ]]作品として、主人公の奥田浩介([[松本潤]])と渡来真緒([[上野樹里]])の中学生時代の“ある夏の日の想い出”をコンセプトに、同映画を手掛けた[[三木孝浩]]が監督を務めた。キャストは同映画で主人公の中学生時代を演じた[[北村匠海]]、[[葵わかな]]の2人で撮影された。MVには新たに撮ったシーンと映画のシーンをクロスオーバーさせた3パターンがある<ref name="mfound">{{Cite web|和書|url=http://mfound.jp/news/2013/09/020824.html |title=山下達郎、ニューシングル「光と君へのレクイエム」のミュージックビデオを本邦初公開! |publisher=m_Found |date=2013-09-20 |accessdate=2013-10-01}}</ref>。
* シンクロニシティ(素敵な偶然)⁄ 竹内まりや
** センチメンタル・シティ・ロマンス(告井延隆、細井豊、中野督夫)、野口明彦(ds)、伊藤広規(B)と共に[[アコースティック・ギター]]を弾く演奏者の一人として出演。
* CHEER UP! THE SUMMER
** 試合に負けた野球部の主将と、彼を応援し続けたチアリーディング部リーダーの物語を描いた作品。[[阿部純子]]がチアリーダー役で出演<ref name=Natalie_20160902>{{Cite news |和書 |date=2016-09-02 |title=山下達郎の新曲MVにとと姉ちゃんの阿部純子、野球部員を「CHEER UP!」|url=https://natalie.mu/music/news/200423 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2016-09-02 }}</ref>。
* REBORN <ref>{{Cite video |people= |date=2014-11-04 |title=山下達郎 - REBORN(short ver.) |url=https://www.youtube.com/watch?v=q5TMoiqf_W8 |publisher=[[ワーナーミュージック・ジャパン|Warner Music Japan]] |accessdate=2017-08-27 |isbn=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170828031049/https://www.youtube.com/watch?v=q5TMoiqf_W8|archivedate=2017-08-28}}</ref><ref name="松竹_20170827">{{Cite video |people=[[松竹]]チャンネル |date=2017-08-27 |title=「REBORN」(Short ver.)|url=https://www.youtube.com/watch?v=HX5St4TS0cA&list=PLCDsNordIkKhtcqmii4fPA7Y8poZWzQX7&index=45&t=0s |format= |medium=[[動画共有サービス]] |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>
** 映画『[[ナミヤ雑貨店の奇蹟]]』を監督した廣木隆一が撮影。亡くなった父親との思い出を噛みしめながら、父親への感謝を胸に前向きに生きようとする女性役に[[門脇麦]]が出演{{r|Natalie_20170828}}。
* ミライのテーマ
** 山下をモチーフに漫画家[[とり・みき]]が製作したキャラクター「タツローくん」をメインにした3Dアニメーション作品。この作品のみ、2018年7月11日より[[iTunes Store]]、およびApple Musicにて限定先行配信がスタート。その後、iTunes Storeにて販売されており、山下のMVで唯一購入可能な作品となっている<ref>{{Cite news |和書 |date=2018-07-10 |title=山下達郎「ミライのテーマ」MV、タツローくんを3Dで初映像化 |url=https://natalie.mu/music/news/290471 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2023-04-06 }}</ref>。
* RECIPE (レシピ)<ref>{{Cite video |people= |date=2019-11-27 |title=山下達郎「RECIPE (レシピ )」 Edit Version |url=https://www.youtube.com/watch?v=f-3ManAlBS0 |publisher=[[ワーナーミュージック・ジャパン|Warner Music Japan]] |accessdate=2020-10-03 |isbn=}}</ref>
** CG化された「タツローくん」がジャケットから飛び出し、[[ムーンウォーク]]や[[ポップ (ダンス)|ロボットダンス]]を彷彿とさせるコミカルなダンスを披露し、さらに山下が実際にレコーディングを行ったスタジオやコンサートを開催した[[渋谷公会堂|LINE CUBE SHIBUYA]]などを駆け巡る。これら実写の映像は、すべて「[[IPhone 11 Pro/11 Pro Max|iPhone 11 Pro]]」で撮影された<ref>{{Cite news |和書 |date=2019-11-27 |title=山下達郎「RECIPE」MV公開、CG化されたタツローくんが実写世界を駆け巡る |url=https://natalie.mu/music/news/357111 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2019-12-07}}</ref>。
* 蒼氓〜踊ろよ、フィッシュ
** 『[[僕の中の少年 (2020 Remaster)]]』リリースを記念して制作、発売日の2020年11月25日 20:00に[[YouTube]]でプレミア公開された。モリカツが監督を担当し、緊急事態宣言中の4月から5月にかけて無人の東京各地を撮影し、この映像が「蒼氓」のMVに使用された。一方、1987年に[[全日本空輸|全日空]]沖縄のキャンペーン・ソングとして制作された「踊ろよ、フィッシュ」のMVでは、このキャンペーンのCMに出演した[[石田ゆり子]]とのコラボレーションが33年ぶりに実現。新たに制作されたMVは東京の新木場にある商業施設・CASICAが舞台となっており、撮影には石田の愛犬である雪も参加した<ref name=Natalie_406055>{{Cite news |和書 |date=2020-11-25 |title=山下達郎「踊ろよ、フィッシュ」「蒼氓」を使用したMVで石田ゆり子と33年ぶりにコラボ|url=https://natalie.mu/music/news/406055 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2020-12-07 }}</ref>。
*さよなら夏の日
*LOVE’S ON FIRE
*SPARKLE
* Sync Of Summer
** 今作のMVは[[北野篤]]が企画、[[今原電気]]が監督を務めた。MVのテーマは「海辺で思い返す、あの夏」。撮影は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の[[七里ガ浜]]で行われた<ref>{{Cite news|title=山下達郎、4年ぶりシングル「Sync Of Summer」発売 鎌倉で撮影のMV公開|url=https://www.oricon.co.jp/news/2288508/full/|date=2023-07-26|accessdate=2023-07-28}}</ref>。
== コンサート ==
{{See|山下達郎のコンサート一覧}}
== ラジオ ==
=== レギュラー ===
* [[山下達郎のサンデー・ソングブック]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]、毎週日曜14:00-14:55)
** 『サタデー・ソングブック』(1992年10月3日-1994年3月26日、毎週土曜15:00-15:55)として放送開始。1994年4月3日放送分より現在の放送枠へ移動し、『サンデー・ソングブック』として再スタート。山下が自身の個人コレクション音源を使って放送している[[オールディーズ]]専門番組。「カルトな番組」「オタクな番組」と自ら公言するものの、2021年7月に放送1,500回、2022年10月には放送30周年を迎え、TOKYO FMの中でも長寿番組となっている。オールディーズ中心ではあるが、自身や竹内まりやの曲、日本の[[ポピュラー音楽|ポップス]]、[[歌謡曲]]なども放送される。通常のリクエストに加え、シンガーやミュージシャン、ソングライターの特集([[:en:Barry Mann|バリー・マン]] & [[シンシア・ワイル]]、[[:en:Jerry Leiber and Mike Stoller|リーバー & ストーラー]]、[[キャロル・キング]] & [[:en:Gerry Goffin|ジェリー・ゴフィン]]など)が不定期に組まれる。
** 8月と12月の第3、4週(例外あり)に竹内まりやを迎えての「納涼夫婦放談」「年忘れ夫婦放談」、1月の第1、2週の「[[山下達郎のサンデー・ソングブック#新春放談|新春放談]]」以外はゲストを呼ばず、山下1人で番組進行を行っている。
*** ただし、2019年7月14日の放送は山下が気管支炎を患い番組に出演できなくなったため、音楽評論家の[[宮治淳一]]が代演を務めた。その流れで翌7月21日・28日にもゲストとして出演している。
** 「新春放談」は2011年まで大瀧詠一をゲストに迎えて放送していたが、2012年放送分は休止となり、同年12月23日、自身のオフィシャル・サイトで正式に終了が発表された。その後、2020年からは先述の宮治淳一をゲストに迎えて「新春放談」を再開させた。
** オープニング曲の「ONLY WITH YOU」は、アルバム『[[BIG WAVE (サウンドトラック)|BIG WAVE]]』収録曲のインスト・ヴァージョン。元々は『サウンドストリート』のテーマ曲として使われ、その後『サタデー・ソングブック』時代を含めて継続使用されている。
==== 過去 ====
* [[山下達郎のオールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]]、1976年1月8日 - 3月25日、毎週水曜27:00 - 29:00、4月6日 - 9月28日、毎週月曜27:00 - 29:00)
** 1〜3月は水曜2部、4〜9月は月曜2部をそれぞれ担当。ビーチ・ボーイズのアルバムを全曲オンエアするなど、自身のレコード・マニア的趣味を押し出した選曲で一部のリスナーから支持されたものの[[聴取率]]獲得にはつながらず、「10曲中8曲は誰でも知っている曲をかけなければダメ」というプロデューサーからの要求にも抵抗したが、9か月で終了となった。3月27日のみ金曜1部に出張出演している。
* [[サウンズ・ウィズ・コーク]]([[TBSラジオ]]、1982年4月10日 - 1983年4月2日、毎週土曜23:00 - 23:30、提供:[[コカコーラ]])
** 1977年から1990年代初頭にかけ、東京放送(TBSラジオ)と日本コカ・コーラの主催で開かれていたアマチュアのバンド・歌手のコンテスト「[[フレッシュサウンズコンテスト]]」(フレコン)と連動した番組で<ref group="注釈">当時[[ヤマハ音楽振興会]]が主催し、TBSラジオのライバル局である[[ニッポン放送]]が運営に関わっていた「[[ヤマハポピュラーソングコンテスト]]」(ポプコン)とその連動番組『[[コッキーポップ]]』に対抗して設けられ、番組自体も1976年の放送開始からパーソナリティーや放送時間、放送エリアを変更しながら1990年初頭まで継続された。</ref>、レギュラー番組で唯一、女性(第2回優勝者のシンガーソングライター石橋和子)と2人で1年間[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティー]]を務めた。「[[山下達郎のコンサート一覧#1981年 - 1990年|第6回全国大会]]」(1982年8月25日 中野サンプラザ)ではゲストとして出演している。この番組のために制作されたインストゥルメンタルのオリジナル・テーマ曲が、後に本人による詞で「悲しみのJODY(She Was Crying)」としてアルバム『[[MELODIES (山下達郎のアルバム)|MELODIES]]』(1983年)に、また[[アラン・オデイ]]による英語詞で「JODY」としてアルバム『[[BIG WAVE (サウンドトラック)|BIG WAVE]]』(1984年)にそれぞれ収録された。
* サウンドストリート(NHK-FM、1983年4月7日 - 1986年3月20日、毎週木曜22:00 - 22:45)
** 木曜日のレギュラー。オープニング・テーマにはビーチ・ボーイズ「[[:en:Pet Sounds (instrumental)|Pet Sounds]]」、「ノスタルジア・オブ・アイランド〜パート1 : バード・ウィンド」、「高気圧ガール」(イントロのパーカッションなし)、「夜翔 (Night-Fly)」等が使用されたが、後に前述の「ONLY WITH YOU (Instrumental)」に変更された。[[オールディーズ]]中心の番組構成であったが、自身の新作アルバムの特集やライブ特集、[[ブラックミュージック]]の新譜特集も行っていた。
* [[プレミア3 (ラジオ番組)|プレミア 3]](TOKYO FM、1990年4月1日 - 1992年3月、毎週日曜12:00 - 12:55、提供:[[東芝]])
** [[坂本龍一]]、[[氷室京介]]と週替わりでパーソナリティーを務め、山下は第1、3週を担当した。オープニングおよびエンディング・テーマは、後にアルバム『[[ARTISAN]]』に収録された「GROOVIN'」。オープニング・コーナーはロックン・ロール版“今日は何の日”の「DAY BY DAY」(コーナーテーマは[[:en:The Four Freshmen|フォー・フレッシュメン]]「[[:en:Day by Day (song)|Day by Day]]」)で、このコーナーはそのまま『サタデー・ソングブック』まで続けられた。
=== 特別番組 ===
* 特集 サウンド・オブ・ポップス「日本のポップスは今:山下達郎の世界」([[NHK-FM放送|NHK-FM]]、1981年8月10日 - 14日)
** 5夜連続で放送された特別番組。最終日の8月14日は[[大瀧詠一|大滝詠一]]とのスタジオ・ライブがオンエアされた<ref group="注釈">曲目:1. [[キャシーズ・クラウン]]、2. [[クライング・イン・ザ・レイン]]、3. [[キッスをするまで]]、4. [[ラヴ・ハーツ]]、5. [[ホエン・ウィル・アイ・ビー・ラヴド]]、6. [[カム・ソフトリー・トゥ・ミー]]、7. [[ミスター・ブルー]]、8. [[:en:All I Have to Do Is Dream|夢を見るだけ]]、9. [[:en:Devoted to You (song)|愛をささげて]](1–5、8、9:[[エヴァリー・ブラザーズ]]、6、7:[[:en:The Fleetwoods|フリートウッズ]])</ref>。
* 山下達郎、シュガー・ベイブを語る(NHK-FM、2015年8月9日)
* [[山下達郎 40th Anniversary Special]](NHK-FM、2015年10月4日(Part 1:ライブ40年の軌跡)・12月20日(Part 2:音楽制作40年の軌跡))※聞き手:[[クリス松村]]
* [[WE LOVE RADIO!|WE LOVE RADIO! 〜山下達郎・星野源のラジオ放談]](2017年3月20日)※ナビゲーター:[[マンボウやしろ]]
** 民放ラジオ101局特別番組。「ラジオを長く愛してくれている親世代のリスナー層と、まだラジオに馴染みのないノンリスナー層や若者層のニ世代をつなぐ」という目的のもと制作された、山下と[[星野源]]の対談による特別番組{{r|Natalie_20170303}}
* [[オールナイトニッポンGOLD#スペシャルパーソナリティ|山下達郎のオールナイトニッポンGOLD]](2022年6月21日)※46年ぶりに"オールナイトニッポン"のパーソナリティとして出演<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎、46年ぶりの『オールナイトニッポン』で感謝と応援のメッセージ |url=https://news.1242.com/article/369080|website=ニッポン放送 NEWS ONLINE |access-date=2022-06-22}}</ref>
* [[今日は一日○○三昧#第274回「今日は一日“山下達郎”三昧」|今日は一日“山下達郎”三昧]](NHK-FM、2011年9月19日)
* 今日は一日“山下達郎”三昧 2022(NHK-FM、2022年6月25日)
== エピソード ==
* [[バーゲンセール]]の時にはゴムの滑り止めのついた軍手をはめて、髪をふりみだしながらもの凄い速さでレコードを選別している。但し、これは本人が否定しており、同じようにかつてテレビ番組『[[週刊オリラジ経済白書]]』で、ニューヨークのあるレコードショップでメジャー(ものさし・測り)を使って集中的に購買していたという話が放送されたが、「そのような下品なことはしないし、そのアーティストに大変失礼な行為だ。(視聴者の皆さんは)惑わされないで欲しい。」と、否定している。
* 子どもの頃から[[漫画]]も大好きで、[[手塚治虫]]ファンであることを公言しており、『[[鉄腕アトム]]』はコマ割りからセリフまで覚えているという。ちょうど小学校に上がる年(1959年)の3月17日に『[[週刊少年マガジン]]』が創刊。創刊号(1959年3月25日号)から『[[ハリスの旋風]]』([[ちばてつや]])連載の途中まで定期購読していた。『マガジン』で印象に残っているのは『13号発進せよ』([[高野よしてる]])や『チャンピオン太』(原作:[[梶原一騎]]、作画:[[吉田竜夫]])、『風の石丸』([[白土三平]])などで、最初に感動した作品は『[[ちかいの魔球]]』(原作:[[福本和也]]、作画:ちばてつや)だという{{r|performance91-92_pamphlet}}。
* 洋画作品で若いころ好んで観ていたのは、[[ジョン・フォード]]の『[[コレヒドール戦記]]』や、[[スタンリー・キューブリック]]の『[[2001年宇宙の旅]]』{{r|performance91-92_pamphlet}}。
* 芸事好きであった叔父の影響もあり、子どもの頃からの[[落語]]好き。特に[[古今亭志ん生 (5代目)|古今亭志ん生]]が当時からのお気に入りで、演目のさわりを物まねできるほどに聴きこんでいる{{Refnest|group="注釈"|まだ竹内と同棲していた頃、[[疲労|過労]]から[[風邪]]をこじらせ寝込んでいた竹内に[[粥]]を作り、「面白いものでも見せてやるか」と枕元で『[[湯屋番]]』を一席披露した、というエピソードがある{{Sfnp|『山下達郎“超”大特集!』|2012|loc=竹内まりやインタビュー}}。}}。お気に入りは[[春風亭昇太]]<ref>[[スタジオジブリ]]『熱風』2007年4月号 「特集・落語の愉しみ」。好きな落語家の傾向について「『明るい狂気』をお持ちの方々ばかり」と説明している。</ref>、[[柳家喬太郎]]を挙げ「(最近の落語家では)新作落語の人だね。古典は好きだけど、若手の古典は面白くないし、この歳になったらもう、録音で残っている(名人上手の)ものだけで十分です」とも答えている{{r|Pia-sp2012_pp.13-23}}。[[オーディオプレーヤー]]で聞くのは専ら落語である。ミュージシャンとして音質に拘りを持ち、「音質が良くない」と、オーディオプレーヤーで音楽を聞かない姿勢を取る。
* [[1971年]]に18歳で[[運転免許]]を取得し、以後複数の車を乗り継いでいた。一番長く乗っていたのは、[[1990年]]頃から四半世紀に渡って所有していた[[BMW・3シリーズ|BMW320i]]で、それに関連したエピソードも少なくない。[[2011年]]のインタビューでは[[ETC]]も取り付け、今後も乗り続けたいと語っていたが<ref name=Pia-100Q_p.1>{{Cite web|和書|url=http://www.pia.co.jp/100q/198/index.php |title=山下達郎 100Qインタビュー Q1-Q25 |publisher=チケットぴあ |date=2011-08-01 |accessdate=2013-04-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120906105443/http://www.pia.co.jp/100q/198/index.php|archivedate=2012-09-06}}</ref>、[[2022年]][[7月]]のインタビューで[[廃車 (自動車)|廃車]]になったことを明かしている。現在は、娘の名義で所有している[[軽自動車]](車種は不明)に乗っているという。
* シュガーベイブのプロデューサーで、亡くなる2013年まで交友のあった[[大瀧詠一]]との出会いは、[[伊藤銀次]]が山下の自主製作アルバム『'''[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]'''』を当時の大瀧の自宅に持って行き、聞かせたことがきっかけである。
* 妻のまりや共々、[[サザンオールスターズ]]の[[桑田佳祐]]・[[原由子]]夫妻とは家族ぐるみでの親交がある<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140106_235047.html 山下達郎・竹内まりやと桑田佳祐・原由子夫妻 35年交流続く] NEWSポストセブン 2014年1月6日</ref>。山下は好きなサザンの曲として「[[C調言葉に御用心]]」「[[みんなのうた (サザンオールスターズの曲)|みんなのうた]]」など<ref name = "月光" /><ref name="先公が" />、桑田のソロ曲では「[[悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)]]」「[[孤独の太陽 (アルバム)|僕のお父さん]]」「[[MUSICMAN (桑田佳祐のアルバム)#収録曲|{{ruby|月光の聖者達|ミスター・ムーンライト}}]]」などを挙げている<ref name="先公が">[https://www.110107.com/s/oto/page/ek_live88_witness01?ima=0000&oto=ROBO004 エレファントカシマシ 伝説の1988年渋谷公会堂ライヴが、最新技術によるレストア・リマスターで完全に蘇る! 証言①]otonato 2020年12月5日閲覧</ref><ref name="僕のお父さん">[https://magazineworld.jp/brutus/special-contents-863/ Special Contents from サンソン 棚からひとつかみー父の日編]マガジンハウス 2018年1月30日配信 2020年12月6日閲覧</ref><ref name = "月光">[https://web.archive.org/web/20200513132709/https://tfm-plus.gsj.mobi/news/uve7s1YiHF.html?showContents=detail 桑田佳祐、コロナ禍への思いを歌に! ラジオで急遽制作した「Stay Home Blues」を披露! 山下達郎へのアンサーも]TOKYO FM+ 2020年5月4日配信 2022年1月7日閲覧</ref>。特に「僕のお父さん」は2000年6月18日に放送された「サンデー・ソングブック」の『棚からひとつかみー父の日編』で<ref name="僕のお父さん" />、「{{ruby|月光の聖者達|ミスター・ムーンライト}}」は2020年4月29日に放送されたTOKYO FM 開局50周年特別番組「LIFE TIME MUSIC 80~こんな時こそ音楽のチカラ~」にコメント出演した際にいずれも山下本人の選曲によりオンエアされている<ref name = "月光" />。
* 1992年に放映された[[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[テレビコマーシャル]]「[[クリスマス・エクスプレス]]」に、[[吉本多香美]]とぶつかってしまう男性役として[[カメオ出演]]している。後に本人が語ったことによれば、関係者から同CMへの出演のオファーがあったものの固辞していたが、どうしてもという先方の依頼によって「それじゃ顔がわからないように」ということで、顔が分からないように一瞬だけ姿が映るだけのカメオ出演となったと明かしている。
* テレビのお笑い番組も好きで、お笑いコンビの[[とんねるず]]のレギュラー番組『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』が終了する際、[[石橋貴明]]に「あの”細かすぎて”だけは続けてくれよ。」と『[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜|細かすぎて伝わらないモノマネ選手権]]』だけは続けてほしいと要望した<ref name=TheTV_20200204>{{Cite news |和書 |date=2020-02-04 |title=石橋貴明、“細かすぎて伝わらない―”復活の理由を明かす「達郎さんに言われたから」|url=https://thetv.jp/news/detail/221990/ |publisher=[[KADOKAWA]] |newspaper=[[ザテレビジョン]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>。
* 2020年6月14日「サンデー・ソングブック」にて、同年11日に末期[[腎不全]]のため83歳で亡くなった作編曲家の[[服部克久]]を追悼した<ref name="報知_20200614">{{Cite news |和書 |date=2020-06-14 |title=山下達郎、服部克久さんを追悼「作曲家であられると同時に日本の最高峰の編曲技術を持った方」|url=https://hochi.news/articles/20200614-OHT1T50133.html |publisher=[[報知新聞社]] |newspaper=[[スポーツ報知]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>。服部は、山下の「希望という名の光」、竹内まりやの「駅」など数々の名曲アレンジを手がけた{{r|"報知_20200614"}}。
* 自身の楽曲の[[サブスクリプション]]による[[音楽配信]]には消極的で、後述の作品を除き現在も解禁していない。2022年6月のインタビュー記事では「表現に携わっていない人間が自由に曲をばらまいて、そのもうけを取ってるんだもの。それはマーケットとしての勝利で、音楽的な勝利と関係ない。本来、音楽はそういうことを考えないで作らなきゃいけないのに」とその理由を語り、「恐らく死ぬまでやらない」と発言している<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/be612cd888a261a17c38007d9f51406f35ddaade 時代の試練に耐える音楽を――「落ちこぼれ」から歩んできた山下達郎の半世紀],Yahoo!ニュース オリジナル 特集,2022年6月11日</ref>。一方でサブスクリプション・サービスそのものは否定しておらず、あくまで自分がアーティストとして契約する場合においては、だとしている<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎“サブスク否定”発言の真意説明「いいとか悪いとかじゃない。契約的な問題が非常に不合理」|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/02/18/kiji/20230218s00041000471000c.html|publisher=[[スポニチ]]|date=2023-02-18|accessdate=2023-02-20|language=ja}}</ref>。
**例外として、以下の作品のみ解禁されている。
***『[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)#30th Anniversary Edition|クリスマス・イブ<small>(30th Anniversary Edition)</small>]]』([[Amazon Music]]、[[Apple Music]])<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎「クリスマス・イブ」(30th Anniversary Edition)がAmazon Music Unlimitedでストリーミング配信決定|url= https://spice.eplus.jp/articles/220045|publisher=[[イープラス|SPICE]]|date=2018-12-07|accessdate=2021-08-22|language=ja}}</ref><ref name="am74493141">{{Cite web|和書|title=山下達郎|url=https://music.apple.com/jp/artist/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E/74493141|website=Apple Music|accessdate=2023-04-12}}</ref>
***『[[REBORN (山下達郎の曲)|REBORN]]』『[[ミライのテーマ/うたのきしゃ]]』(Apple Music)<ref name="am74493141"/>
***「ミライのテーマ」「[[さよなら夏の日]]」のミュージックビデオ(Apple Music)<ref name="natalie_290471">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/290471 |title=山下達郎「ミライのテーマ」MV、タツローくんを3Dで初映像化 |work=音楽ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2018-07-10 |accessdate=2023-04-12}}</ref><ref name="am74493141"/>
***竹内まりやとのデュエット曲「[[レット・イット・ビー・ミー#山下達郎 & 竹内まりやのカバー|Let It Be Me]]」([[ジルベール・ベコー]]のカバー、竹内のベストアルバム『[[Expressions]]』に収録)
***山下が参加している『[[PACIFIC (オムニバス・アルバム)|PACIFIC]]』
**夫人である[[竹内まりや]]の楽曲については、山下の活動との方向性の違いや竹内自身の考えも尊重して、山下が制作に関与したムーン・レコード移籍後の作品を含めてサブスクリプション配信を順次開始した。特にApple Musicでの配信にあたっては、山下も[[Apple]]本社でのリスニング・セッションに参加して音質について意見を述べた他、今後の展開についても期待するコメントを寄せるなど協力的な姿勢を取っている<ref>{{Cite web|和書|title=竹内まりや、サブスクで楽曲配信スタート!まずは15曲 山下達郎も「大いに期待」|url= https://hochi.news/articles/20200320-OHT1T50069.html?page=1|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2020-03-20|accessdate=2022-09-01|language=ja}}</ref>。
** 聴取する側としては、「今は世界中のサブスクのTOP50を毎日聴いている」「時代の音がするし、リバーブ(残響音)は、ものすごく変わるので時代で」と積極的に利用していることを『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日・2022年6月26日放送分)のインタビューで明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=山下達郎“サブスク毎日聴いてる”発言にツッコミ「やらんのに聴くんかーい!|url= https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12156-1716398/|publisher=[[@nifty|@niftyニュースう]]|date=2022-07-01|accessdate=2022-09-21|language=ja}}</ref>。
* 2004年に[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]]で山下の[[トリビュート・アルバム]]『Songbook -Tatsuro Yamashita Covers』が企画され、発売予定となっていたが<ref>{{Cite web|和書|title=ついに山下達郎の名曲が華々しく甦る!|url= https://www.hmv.co.jp/news/article/404150055/|work=HMV & BOOKS -online- |publisher=[[ローソンエンタテインメント]]|date=2004-04-06|accessdate=2023-01-17|language=ja}}</ref>、山下側へのオファーがない企画だった上、大瀧詠一との「新春放談」などの場で、自ら生存時点でトリビュートを行うことに否定的な見解を示していたことから、アルバムとしての発売は延期を経て最終的に中止となった。ただし、完成していた楽曲([[キンモクセイ (バンド)|キンモクセイ]]の『踊ろよ、フィッシュ』、[[Original Love]]の『あまく危険な香り』など)はカバーした歌手のアルバムやシングルなどで発表することが許可された。
* 2023年7月1日、[[松尾潔]]は自身の[[ツイッター]]で「15年間在籍したスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になりました。私がメディアでジャニーズ事務所と藤島ジュリー景子社長に言及したのが理由です。私をスマイルに誘ってくださった山下達郎さんも会社方針に賛成とのこと、残念です。今までのサポートに感謝します。バイバイ!」と投稿<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=山下達郎、冠ラジオ『サンソン』で事務所騒動に言及 ジャニーズへの忖度報道は「根拠のない憶測」 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2286175/full/ |website=ORICON NEWS |date=2023-07-09 |access-date=2023-07-10}}</ref>。松尾は同月6日発売の[[夕刊紙]]「[[日刊ゲンダイ]]」のコラムで、[[ジャニー喜多川による性加害問題|性加害問題]]で揺れる[[ジャニーズ事務所]]への苦言を[[ラジオ]]で呈したことなどを理由に、マネジメントの年間契約の中途での解除を申し入れられ、山下および山下の妻で同社所属の[[竹内まりや]]も同社の方針に賛意を示したと述べた<ref name="asahi202307062">{{Cite news |title=ジャニーズ問題で発言 松尾潔さん、達郎さん所属の事務所と契約解除 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2023-07-06 |url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASR766FFCR76UCVL044.html |access-date=2023-07-08 |publisher=株式会社[[朝日新聞社]]}}</ref>。山下は同月9日のラジオ番組で、「[[インターネット|ネット]]や[[週刊誌]]の最大の関心事はですね、私がジャニーズ事務所への[[忖度]]があって、今回の一件もそれがあって関与したのではという、根拠のない憶測です。今の世の中は、なまじ黙っていると言ったもの勝ちで、どんどんどんどん[[偽情報|ウソの情報]]が拡散しますので、こちらからも思うところを、正直に率直に、お話しておく必要性を感じた次第であります」、「まずもって、私の事務所と松尾氏とはですね、彼から顧問料をいただく形での業務提携でありましたので、雇用関係にあったわけではない。また、彼が所属アーティストであったわけではなく、[[解雇]]にはあたりません。弁護士同士の合意文章も存在しております。松尾氏との契約終了についてはですね、事務所の社長の判断に委ねる形で行われました。松尾氏と私は直接話をしておりませんし、私が社長に対して契約終了を促したこともありません。」、その上で「今回、松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題に対して、[[憶測]]に基づく一方的な批判をしたことが契約終了の一因となった」、「性加害が本当にあったとすれば、それはもちろん許し難いことであり、被害者の方々の苦しみを思えば、[[第三者委員会]]等での事実関係の調査というのは必須であると考えます。」、「数々の才能あるタレントさんを輩出したジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていません。」と松尾の発信した内容を否定した<ref name=":0" /><ref>[https://web.archive.org/web/20230710003804/https://news.yahoo.co.jp/articles/9b1cebd42e7ff7ee0186b0d5ef250bc0aa0300e3 【山下達郎全コメント】「私の姿勢を忖度と解釈するなら構わない。そういう方々に私の音楽は不要でしょう」]</ref>。
== 自著等 ==
ここでは、自著とそれに準ずる文献を記載する。パンフレット等は出典に使用するものに限って記載する。
; 単著
* {{Cite book |和書 |author=山下達郎(作曲)|date=1982-05-01 |title=山下達郎 for you |format=楽譜 |publisher={{space}}中央アート出版社 |series=バンド・スコア・シリーズ 4 |ref={{SfnRef|山下達郎|1982}} }}{{ISBN2|4-88639-276-8}}、{{ISBN2|978-4886392763}}。
; 共著
<!--「その他の著者」の一人という扱いでなく、重要な共著者としてその名が挙がっている文献のみ記載しています。-->
* <!--すずき-->{{Cite book |和書 |author1=鈴木英人(イラストレーション、ショートストーリー)|authorlink1=鈴木英人|author2=山下達郎(メロディーイメージ)ほか |author3=ワーズ |date=1983-12 |title=鈴木英人&山下達郎 EIZIN &TATSURO Southward Bound |publisher=シンコー・ミュージック(現・[[シンコーミュージック・エンタテイメント]])|oclc=673438107 |ref={{SfnRef|鈴木英人|山下達郎|1983}} }}{{ISBN2|4-401-62056-9}}、{{ISBN2|978-4-401-62056-2}}。{{国立国会図書館書誌ID|000001655928}}。
; パンフレット等
* {{Cite book |和書 |author=山下達郎 |date=1991 |title=Tatsuro Yamashita PERFORMANCE '91-'92 |format=パンフレット |publisher= |ref={{SfnRef|『PERFORMANCE '91-'92』パンフレット|1991}} }}
* {{Cite book |和書 |author=山下達郎 |date=2013 |title=Tatsuro Yamashita Performance 2013 |format=パンフレット |publisher= |ref={{SfnRef|『Performance 2013』パンフレット|2013}} }}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
; Googleマップ
{{Reflist|group=gm}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name=kb>{{Cite web|和書|title=山下達郎 |url=https://kotobank.jp/word/山下達郎-1117619 |author=[[講談社]]『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>
<!--英名-->
<ref name=Discogs_RideOnTime>{{Cite web |title=Tatsu Yamashita – Ride On Time |url=https://www.discogs.com/ja/Tatsu-Yamashita-Ride-On-Time/release/3282392 |publisher=Zink Media, Inc. |work=[[Discogs]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>
<ref name=Discogs_BigWave>{{Cite web |title=Tats Yamashita – Big Wave |url=https://www.discogs.com/ja/Tats-Yamashita-Big-Wave/release/3559911 |publisher=Zink Media, Inc. |work=[[Discogs]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>
<!--ヤマタツ-->
<ref name=Warner_20120926>{{Cite web|和書|date=2012-09-26 |title=ヤマタツヒストリーを詰め込んだ究極のベストアルバム収録の新曲!ドラマ「遺留捜査」主題歌の着うたフル(R)が遂に配信! - NEWS |url=https://wmg.jp/tatsuro/news/43117/ |publisher=[[ワーナーミュージック・ジャパン]] |accessdate=2020-07-10 }}</ref>
<ref name=TowerRecords_20120613>{{Cite web |和書 |date=2012-06-13 |title=山下達郎、オールタイム・ベスト発売!ドラマ「遺留捜査」主題歌の新曲も |url=https://tower.jp/article/news/2012/06/13/n01 |publisher=[[タワーレコード|TOWER RECORDS]] |accessdate=2020-07-09 }}</ref>
<ref name=BARKS_20120613>{{Cite web |和書 |date=2012-06-13 |title=山下達郎、キャリア35年にして初となるオールタイム・コンプリート・ベスト発売決定 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000080500 |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |website=[[BARKS]] |quote=(...略...)今日まで時代を彩ってきたヤマタツ・クラシックスが3枚組に凝縮された作品となる。|accessdate=2020-07-09 }}</ref>
<ref name=oricon_20120919>{{Cite news |和書 |date=2012-09-19 |title=山下達郎ベスト盤CMに鶴瓶出演 アドリブ連発でヤマタツに直電! |url=https://www.oricon.co.jp/news/2016941/full/ |publisher=[[オリコン]]株式会社 |newspaper=ORICON NEWS |accessdate=2020-07-09 }}</ref>
<!--ナタリー-->
<ref name=Natalie_20110713>{{Cite news |和書 |author=久保田泰平 |date=2011-07-13 |title=Super Power Push : 山下達郎 6年ぶりオリジナルアルバム「Ray Of Hope」堂々完成 (2/10) |url=https://natalie.mu/music/pp/tatsuro/page/2 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |accessdate=2014-08-24 }}</ref>
<ref name=Natalie_20140917>{{Cite news |和書 |date=2014-09-17 |title=山下達郎、相葉主演Xmasイブ映画の音楽監修 |url=https://natalie.mu/music/news/126262 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2014-09-17 }}</ref>
<ref name=Natalie_20111210>{{Cite news |和書 |date=2011-12-10 |title=山下達郎「サンデー・ソングブック」明日いよいよ1000回達成 |url=https://natalie.mu/music/news/61048 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2011-12-10 }}</ref>
<ref name=Natalie_20150312>{{Cite news |和書 |date=2015-03-12 |title=山下達郎、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞 |url=https://natalie.mu/music/news/140775 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2015-03-12 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160114>{{Cite news |和書 |date=2016-01-14 |title=嵐、新作は竹内まりや×山下達郎タッグの「復活LOVE」|url=https://natalie.mu/music/news/172416 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-01-14 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160214>{{Cite news |和書 |date=2016-02-14 |title=シュガー・ベイブ「SONGS」2015 Remixのハイレゾ音源配信 |url=https://natalie.mu/music/news/176118 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-02-14 }}</ref>
<ref name=Natalie_20151226>{{Cite news |和書 |date=2015-12-26 |title=山下達郎、のどの不調によりライブ中断 |url=https://natalie.mu/music/news/170678 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2015-12-26 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160405>{{Cite news |和書 |date=2016-04-05 |title=山下達郎&竹内まりやデュエットソング、松下奈緒主演ドラマの劇中歌に決定 |url=https://natalie.mu/music/news/182336 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-04-05 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160712>{{Cite news |和書 |date=2016-07-12 |title=山下達郎、松嶋菜々子ドラマに主題歌書き下ろし |url=https://natalie.mu/music/news/194207 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-07-12 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160912>{{Cite news |和書 |date=2016-09-12 |title=難波弘之40周年ライブに山下達郎サプライズ出演!洋楽カバーのみ8曲熱唱 |url=https://natalie.mu/music/news/201599 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-09-12 }}</ref>
<ref name=Natalie_20160915>{{Cite news |和書 |date=2016-09-15 |title=山下達郎「龍が如く」最新作に楽曲提供「私の歌で本当によろしいのでしょうか」|url=https://natalie.mu/music/news/201962 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-09-15 }}</ref>
<ref name=Natalie_20161220>{{Cite news |和書 |date=2016-12-20 |title=山下達郎、全国49公演のホールツアー開催決定 |url=https://natalie.mu/music/news/213996 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2016-12-20 }}</ref>
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<ref name=Natalie_20170629>{{Cite news |和書 |date=2017-06-29 |title=「氣志團万博」出演者、ラスト1組は山下達郎 |url=https://natalie.mu/music/news/238729 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2017-06-29 }}</ref>
<ref name=Natalie_20171022>{{Cite news |和書 |date=2017-10-22 |title=山下達郎「サンソン」25周年ライブ開催決定、応募はハガキで |url=https://natalie.mu/music/news/253715 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2017-10-22 }}</ref>
<ref name=Natalie_20170828>{{Cite news |和書 |date=2017-08-28 |title=山下達郎「REBORN」MVに「ナミヤ雑貨店」の門脇麦 |url=https://natalie.mu/music/news/246337 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2017-08-28 }}</ref>
<ref name=Natalie_20170303>{{Cite news |和書 |date=2017-03-03 |title=山下達郎と星野源がラジオで初対談、スペシャルライブも |url=https://natalie.mu/music/news/223214 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=音楽ナタリー |accessdate=2017-03-03 }}</ref>
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}}
== 参考文献 ==
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<!--※以下は編著者が法人等。-->
* <!--ぴあ-->{{Cite book |和書 |date=2012-09-01 |title=ぴあ Special Issue:山下達郎“超”大特集!:特別編集版 |publisher=[[ぴあ]] |series=ぴあMOOK |page=119 |ncid=BB13087115 |oclc=840053273 |ref={{SfnRef|『山下達郎“超”大特集!』|2012}} }}{{ISBN2|4-8356-2144-1}}、{{ISBN2|978-4-8356-2144-9}}。{{国立国会図書館書誌ID|023956640}}。
* <!--ファンクラブ-->{{Cite journal |和書 |date=2003-05 |title=山下達郎ファンクラブ会報 TATSURO MANIA 2003春 No.45 |publisher=山下達郎ファンクラブ |journal=TATSURO MANIA |volume=2003春 |issue=No.45 |ref={{SfnRef|『TATSURO MANIA 2003春 No.45』|2003}} }}
* <!--ミュージックマガジン-->{{Cite journal |和書 |date=1998-08-15 |title=ミュージックマガジン 1998年9月号 ─特集:山下達郎 |url=http://musicmagazine.jp/mm/bn_index.html |publisher=株式会社ミュージック・マガジン |journal=[[ミュージック・マガジン]] |volume=9月号 |issue=(通巻第30巻第11号)|asin=B00CDZRH7E |pages=32-39 |quote=山下達郎(話し手)、渡辺亨(聞き手)「若い人達と同列に張り合える、僕らの世代の音楽を -達郎、新作を語る-」|ref={{SfnRef|『ミュージックマガジン 1998年9月号』|1998}} }}
== 外部リンク ==
*{{Official website|https://tatsuro.co.jp/|山下達郎 OFFICIAL WEB SITE}}
=== Warner Music Japan ===
*{{URL|https://wmg.jp/tatsuro/|山下達郎}}
=== SonyMusic ===
*{{URL|https://www.sonymusic.co.jp/artist/tatsurofromniagara/|山下達郎 / SUGAR BABE}} - ナイアガラ・レーベルの作品紹介
*{{URL|https://www.sonymusic.co.jp/artist/tatsuro/|山下達郎}} - RCA/AIR時代の作品紹介
{{山下達郎}}
{{CDショップ大賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:やました たつろう}}
[[Category:山下達郎|*]]
[[Category:シュガー・ベイブのメンバー]]
[[Category:日本の男性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の男性ポップ歌手]]
[[Category:日本の男性ロック歌手]]
[[Category:日本の音楽プロデューサー]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:ワーナーミュージック・ジャパンのアーティスト]]
[[Category:アリオラジャパンのアーティスト]]
[[Category:CDショップ大賞受賞者]]
[[Category:ZIP!関係者]]
[[Category:日本のコレクター]]
[[Category:日本のギネス世界記録保持者]]
[[Category:竹内まりや]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1953年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-02-14T12:57:11Z | 2023-12-28T12:39:24Z | false | false | false | [
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{{カレンダー 12月}}
'''12月8日'''(じゅうにがつようか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から342日目([[閏年]]では343日目)にあたり、年末まであと23日ある。
== できごと ==
[[File:USS West Virginia;014824.jpg|thumb|240px|[[真珠湾攻撃]]によって炎上する[[アメリカ海軍]][[戦艦]]「[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]」]]
<!-- * [[1592年]] - [[元号]]を[[天正]]から[[文禄]]に改元。''旧暦の日付につきコメントアウト、1月10日に移動済み'' -->
* [[1854年]] - ローマ教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]の回勅{{仮リンク|Ineffabilis Deus|en|Ineffabilis Deus}}によって「[[無原罪の御宿り]]」が[[カトリック教会|カトリック]]の教義として公認{{要出典|date=2021-02}}。
* [[1869年]] - [[第1バチカン公会議]]開幕。
* [[1886年]] - [[サミュエル・ゴンパーズ]]を会長として[[アメリカ労働総同盟]]結成。
* [[1907年]] - [[スウェーデン]]王[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]が即位。
* [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[フォークランド沖海戦]]。
* [[1922年]] - [[新婦人協会]]解散。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[マレー作戦]]・[[真珠湾攻撃]](日本時間)。日本が[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]に宣戦布告。
* 1941年 - 第二次世界大戦: 前日の真珠湾攻撃を受け、[[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領が[[フランクリン・ルーズベルトの演説 (1941年12月8日)|屈辱の日]]の演説。[[アメリカ合衆国の対日宣戦布告]]、[[イギリスの対日宣戦布告]]。
* [[1942年]] - 政府紙幣50銭(靖国50銭)が発行。
* [[1943年]] - [[朝比奈隆]]が[[上海]]の[[上海交響楽団]](かつての工部局交響楽団)で指揮をとる。
* [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]、全国の新聞へ[[太平洋戰爭史]]を掲載させる。
* [[1946年]] - [[シベリア抑留]]: [[シベリア]]からの[[引揚者|引揚げ]]船第1号が[[舞鶴港]]に入港。約5千人が帰還。
* [[1948年]] - 大正少額紙幣50銭が廃止。
* [[1953年]] - 米大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]が国連総会で[[平和のための原子力|原子力の平和利用]]を提言。
* [[1958年]] - 第1回{{仮リンク|アフリカ人民会議|en|All-African Peoples' Conference}}開催。
* [[1962年]] - 第42臨時国会召集(12月23日閉会)。
* [[1963年]] - [[パンアメリカン航空214便墜落事故]]。
* 1963年 - [[プロレスラー]]の[[力道山]]が[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[ナイトクラブ]]で暴力団員に刺される。[[12月15日]]に死去。
* [[1972年]] - [[エチオピア航空708便ハイジャック事件]](死者7人)、[[ユナイテッド航空]]553便墜落事故(死者45人)、[[大分空港]]で[[東亜国内航空]]機が[[滑走路]]を逸脱する事故(負傷者無し)<ref>『朝日新聞』昭和47年(1972年)12月9日朝刊、13版、3面</ref>。
* [[1980年]] - 元・[[ビートルズ]]の[[ジョン・レノン]]が、[[ニューヨーク]]の自宅([[ダコタ・ハウス]])前でファンに射殺される([[ジョン・レノンの殺害]])。
* [[1981年]] - [[芸大事件]]: 東京地検が東京芸大の[[海野義雄]]教授を収賄容疑で[[逮捕]]。
* [[1987年]] - [[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]と[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]書記長、[[中距離核戦力全廃条約]](INF全廃条約)に調印。
* [[1989年]] - [[NECホームエレクトロニクス]]が[[PCエンジンコアグラフィックス]]・[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]発売。
* [[1991年]] - [[ロシア]]・[[ベラルーシ]]・[[ウクライナ]]の代表が[[ソビエト連邦]]の消滅と[[独立国家共同体]]の創立を宣言。
* [[1992年]] - アメリカ・[[カナダ]]・[[メキシコ]]が[[北米自由貿易協定]]に署名。
* [[1994年]] - ドイツでウンウンウニウム([[レントゲニウム]])発見。
* 1994年 - [[原爆切手発行問題]]: [[アメリカ合衆国郵便公社]]が原爆切手発行の中止を決定。
* [[1995年]] - 福井県の高速増殖炉「[[もんじゅ]]」で[[もんじゅ#ナトリウム漏洩火災事故|ナトリウム漏洩事故]]発生。事故隠しが問題に。
* 1999年 - [[倉木麻衣]]がシングル「[[Love, Day After Tomorrow]]」で日本デビュー。
* [[2005年]] - [[東京都|東京]]・[[秋葉原]]に「秋葉原48劇場」(現:[[AKB48劇場]])がオープン。[[AKB48]]の第1回公演が行われる。
* [[2009年]] - [[森繁久彌]]に[[国民栄誉賞]]授与が決定する<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20091208-573783.html|title=森繁久弥さんに国民栄誉賞、22日表彰式|newspaper=[[日刊スポーツ]]|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2009-12-08|accessdate=2020-10-15}}</ref>。
* [[2012年]] - [[任天堂]]から『[[Wii U]]』が発売される。
* [[2018年]] - [[第197回国会]]で[[出入国管理及び難民認定法|入国管理法]]改正案が可決・成立<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASLD774W1LD7UTFK033.html|title=改正入管法が可決、成立 外国人労働者の受け入れ拡大|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2018-12-08|accessdate=2018-12-26}}</ref>。
* 2018年 - [[2018/2019 ISUグランプリファイナル]]女子シングルで[[紀平梨花]]が初出場で制覇<ref>{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/contents/2722|title=2018-19 GPファイナル 女子フリー 試合速報|work=[[Yahoo! JAPAN|スポーツナビ]]|publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー]]|date=2018-12-09|accessdate=2018-12-26}}</ref>。
* [[2021年]] - [[ドイツ社会民主党|社会民主党]][[党首]]である[[オラフ・ショルツ]]が率いるドイツの新内閣([[ショルツ内閣]])が成立。
*[[2022年]] - [[柄谷行人]]が[[哲学者]]として[[バーグルエン賞]]受賞。
== 誕生日 ==
* [[紀元前65年]] - [[ホラティウス]]、[[古代ローマ]]の[[詩人]](+ [[紀元前8年]])
* [[1542年]] - [[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Mary-queen-of-Scotland Mary queen of Scotland] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、スコットランド女王(+ [[1587年]])
* [[1627年]]([[寛永]]4年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[戸田氏西]]、[[美濃国]][[大垣藩]]主(+ [[1684年]])
* [[1692年]]([[元禄]]5年11月1日) - [[池田仲央]]、[[因幡国]][[鹿奴藩]]主(+ [[1753年]])
* [[1730年]] - [[ヤン・インゲンホウス]]、植物生理学者(+ [[1799年]])
* [[1749年]]([[寛延]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[松平資承]]、[[丹後国]][[宮津藩]]主(+ [[1800年]])
* [[1765年]] - [[イーライ・ホイットニー]]、発明家(+ [[1825年]])
* [[1832年]] - [[ビョルンスティエルネ・ビョルンソン]]、[[作家]](+ [[1910年]])
* [[1847年]]([[弘化]]4年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[中江兆民]]、[[思想家]](+ [[1901年]])
* [[1851年]] - [[エミール・シェフネッケル]]、[[画家]](+ [[1934年]])
* [[1855年]] - [[ウラジーミル・ギリャロフスキー]] 作家、ジャーナリスト (+ [[1935年]])
* [[1861年]] - [[アリスティード・マイヨール]]、[[彫刻家]](+ [[1944年]])
* 1861年 - [[ジョルジュ・メリエス]]、[[映画監督]](+ [[1938年]])
* 1861年 - [[ウィリアム・C・デュラント]]、[[ゼネラルモーターズ]]創業者(+ [[1947年]])
* [[1864年]] - [[カミーユ・クローデル]]、彫刻家(+ [[1943年]])
* [[1865年]] - [[ジャン・シベリウス]]、[[作曲家]](+ [[1957年]])
* [[1868年]]([[明治]]元年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[徳富蘆花]]、小説家(+ [[1927年]])
* [[1875年]] - [[野口米次郎]]、英[[詩人]](+ 1947年)
* [[1881年]] - [[エルネスト・ボー]]、調香師(+ [[1961年]])
* [[1886年]] - [[ディエゴ・リベラ]]、画家(+ [[1957年]])
* [[1890年]] - [[ボフスラフ・マルティヌー]]、作曲家(+ [[1959年]])
* [[1903年]] - [[嵐寛寿郎]]、[[映画俳優]](+ [[1980年]])
* 1903年 - [[セーケイ・ゾルターン]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(+ [[2001年]])
* [[1906年]] - [[音丸]]、[[歌手]](+ [[1976年]])
* [[1916年]] - [[岡野八郎]]、[[プロ野球選手]]
* [[1921年]] - [[坂本一亀]]、[[編集者]](+ [[2002年]])
* [[1922年]] - [[ルシアン・フロイド]]、画家(+ [[2011年]])
* [[1925年]] - [[ジミー・スミス]]、[[ジャズ]][[オルガニスト]](+ [[2005年]])
* 1925年 - [[大石真]]、[[児童文学作家]](+ [[1990年]])
* 1925年 - [[ハンク・トンプソン]]、プロ野球選手(+ [[1969年]])
* 1925年 - [[サミー・デイヴィスJr.]]、[[歌手]]、[[俳優]]、エンターテイナー(+ [[1990年]])
* [[1927年]] - [[ニクラス・ルーマン]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1998年]])
* [[1929年]] - [[ゴッフレード・パリーゼ]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1986年]])
* [[1930年]] - [[名古屋章]]、俳優(+ [[2003年]])
* 1930年 - [[井上武吉]]、彫刻家(+ [[1997年]])
* 1930年 - [[マクシミリアン・シェル]]、俳優(+ [[2014年]])
* [[1931年]] - [[杉浦直樹]]、俳優(+ [[2011年]])
* [[1933年]] - [[ロバート・F・マークス]]、[[海洋考古学|海洋考古学者]]、[[歴史家]](+ [[2019年]])
* [[1934年]] - [[藤村俊二]]、[[タレント]]、俳優(+ [[2017年]]<ref name="sponichi20170201">{{Cite news|title=藤村俊二さん死去 82歳、心不全「おヒョイさん」の愛称|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2017-02-01|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/02/01/kiji/20170201s00041000191000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2020-10-28}}</ref>)
* 1934年 - [[高倉照幸]]、元プロ野球選手(+[[2018年]]<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201802130000029.html 高倉照幸氏が死去 西鉄黄金期1番打者で日本一貢献] - 日刊スポーツ 2018年2月13日</ref>)
* [[1936年]] - [[デビッド・キャラダイン]]、俳優(+ [[2009年]])
* [[1937年]] - [[石川恵也]]、元プロ野球選手
* [[1938年]] - [[ジョン・アジェクム・クフォー]]、政治家、元[[ガーナの大統領|ガーナ大統領]]
* [[1939年]] - [[ジェームズ・ゴールウェイ]]、[[フルート奏者]]、[[指揮者]]
* [[1941年]] - [[石井いさみ]]、[[漫画家]](+ [[2022年]])
* [[1942年]] - [[徳久利明]]、元プロ野球選手(+ [[1998年]])
* 1942年 - [[巴菁子]]、声優
* 1942年 - [[鈴木宣之]]、実業家
* [[1943年]] - [[ジム・モリソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ドアーズ]])(+ [[1971年]])
* 1943年 - [[土井正博]]、元プロ野球選手
* 1943年 - [[相羽欣厚]]、元プロ野球選手(+ [[1988年]])
* [[1944年]] - [[橋本武徳]]、高校野球指導者(+ [[2020年]])
* [[1946年]] - [[聖日出夫]]、漫画家(+ [[2016年]])
* [[1947年]] - [[グレッグ・オールマン]]、ミュージシャン([[オールマン・ブラザーズ・バンド]])(+ [[2017年]])
* 1947年 - [[別所キミヱ]]、[[パラ卓球]]選手
* [[1950年]] - [[リック・ベイカー]]、[[特殊メイク]]アーティスト
* 1950年 - [[古谷松雄]]、政治家
* [[1951年]] - [[桂南光 (3代目)|三代目桂南光]]、[[落語家]]
* [[1953年]] - [[キム・ベイシンガー]]、[[俳優|女優]]
* 1953年 - [[名取和彦]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[田中一郎 (ミュージシャン)|田中一郎]]、ギタリスト(元[[ARB (バンド)|ARB]]、[[甲斐バンド]])
* 1954年 - [[島本須美]]、[[声優]]
* [[1957年]] - [[ミハイル・カシヤノフ]]、[[政治家]]
* 1957年 - [[フィル・コリン]]、ミュージシャン([[デフ・レパード]])
* 1957年 - [[沢田幸二]]、[[アナウンサー]]
* [[1958年]] - [[出渕裕]]、漫画家、[[イラストレーター]]、[[アニメーター]]、[[アニメーション監督]]
* 1958年 - [[トンチャイ・メーキンタイ]]、[[歌手]]
* 1958年 - [[宮川知久]]、俳優
* [[1960年]] - [[吉田聡]]、漫画家
* [[1961年]] - [[アン・コールター]]、[[評論家]]
* [[1962年]] - [[広瀬新太郎]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[増崎孝司]]、[[ギタリスト]]
* 1962年 - [[マーティ・フリードマン]]、ギタリスト(元[[メガデス (バンド)|メガデス]])
* 1962年 - [[小池可奈]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1963年]] - [[川田利明]]、[[プロレスラー]]
* 1963年 - [[グレッグ・ハウ]]、ギタリスト
* [[1964年]] - [[長与千種]]、プロレスラー
* 1964年 - [[テリー・ハッチャー]]、女優
* [[1965年]] - [[カリーナ・ラウ]]、女優
* 1965年 - [[神宮司弥生]]、声優(+ [[2017年]])
* [[1966年]] - [[シネイド・オコナー]]、ミュージシャン(+ [[2023年]])
* [[1967年]] - [[大竹一樹]]、お笑い芸人([[さまぁ〜ず]])
* 1967年 - [[三石琴乃]]<ref name="kotochawanprof">{{Cite web|和書 |url=http://kotochawan.com/main/profile.php |title=プロフィール |work=琴ちゃわんdeもう一杯!! |accessdate=2020-10-30}}</ref>、声優
* 1967年 - [[吉田宣弘]]、政治家
* 1967年 - [[中村幸代]]、作曲家、音楽プロデューサー、キーボーディスト
* [[1968年]] - [[マイク・ムッシーナ]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[小林千代美]]、政治家
* [[1969年]] - [[内菜]]、リングアナウンサー
* [[1970年]] - [[和久井映見]]、女優
* 1970年 - [[ROCK-Tee]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]([[EAST END]])
* [[1972年]] - [[田中信一郎]]、[[競艇]]選手
* 1972年 - [[ホルベルト・カブレラ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[小林敦司]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[稲垣吾郎]]、俳優、歌手(元[[SMAP]])
* 1973年 - [[コリィ・テイラー]]、歌手([[スリップノット]]、[[ストーン・サワー]])
* 1973年 - [[佐藤秀峰]]、漫画家
* 1973年 - [[安田顕]]、俳優、タレント([[TEAM NACS]])
* [[1974年]] - [[瀧本誠]]、元[[柔道]]家、[[総合格闘家]]
* 1974年 - [[ジュリアン・ラクリン]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[ヴィオリスト]]
* 1974年 - [[MINMI]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[坪田塁]]、[[作家]]、[[演出家]]
* [[1975年]] - [[たかはC]]、[[放送作家]]
* 1975年 - [[桂宏美]]、[[シンガーソングライター]]
* 1975年 - [[玉峰伸典]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[井手麻理子]]、歌手
* [[1976年]] - [[リード・ジョンソン]]、プロ野球選手
* [[1977年]] - [[中岡創一]]、お笑い芸人([[ロッチ]])
* 1977年 - [[セニョリータ健蔵]]、元お笑い芸人
* [[1978年]] - [[バーノン・ウェルズ (野球)|バーノン・ウェルズ]]、プロ野球選手
* 1978年 - [[浦賀和宏]]、[[小説家]](+ [[2020年]])
* 1978年 - [[四宮洋平]]、元[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手
* 1978年 - [[フレデリック・ピキオンヌ]]、サッカー選手
* 1978年 - コ・ジュン、俳優
* [[1980年]] - [[村上健志]]、お笑い芸人([[フルーツポンチ (お笑いコンビ)|フルーツポンチ]])
* 1980年 - [[川松真一朗]]、フリーアナウンサー、政治家
* [[1981年]] - [[馬原孝浩]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[三枝玄樹]]、[[放送作家]]
* 1981年 - [[サトウヒロコ]]、[[シンガーソングライター]]
* 1981年 - [[おちあやか]]、声優
* [[1982年]] - [[橋本亮馬]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[ニッキー・ミナージュ]] 、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* 1982年 - [[マイケル・エッシェン]]、プロサッカー選手
* 1982年 - [[フレン・アギナガルデ]]、ハンドボール選手
* 1982年 - [[後藤輝樹]]、[[政治活動家]]、[[音楽家]]、[[YouTuber]]
* [[1983年]] - [[エレーナ・ハリアヴィナ]]、フィギュアスケート選手
* 1983年 - [[合田倫子]]、元フリーアナウンサー、防災士
* [[1984年]] - [[TAKAHIRO (歌手)|TAKAHIRO]]、ミュージシャン([[EXILE]])
* 1984年 - [[バダ・ハリ]]、キックボクサー
* 1984年 - [[南田雅昭]]、[[騎手]]
* 1984年 - [[エマ・グリアン]]、陸上競技選手
* [[1985年]] - [[ドワイト・ハワード]]、バスケットボール選手
* 1985年 - [[小杉陽太]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[メーガン・デュハメル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1985年 - [[ジョシュ・ドナルドソン]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[大出千尋]]、[[ファッションモデル]]
* 1986年 - [[アミール・カーン]]、ボクサー
* 1986年 - [[ジョーダン・ノルベルト]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[カイル・ドレイベック]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[キム・ウナ]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[オリガ・ナイヂョノワ]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[アレックス・トーレス]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[別府真衣]]、調教師、元騎手
* [[1988年]] - [[乾真大]]、元プロ野球選手
* [[1989年]] - [[ルツィエ・ミズリヴェチュコヴァー]]、フィギュアスケート選手
* 1989年 - [[麻倉みな]]、タレント、元グラビアアイドル
* 1989年 - [[イ・ユヨン]]、女優
* [[1990年]] - [[戸田めぐみ]]、声優
* 1990年 - [[川添佳穂]]、フリーアナウンサー
* 1990年 - [[浅賀優美]]、元タレント、元キャスター
* 1990年 - [[栗山直樹]]、サッカー選手
* 1990年 - カン・ヘヨン、元アイドル、トロット歌手(元[[BESTie]]、元[[EXID]])
* 1990年 - [[後藤田健介]]、元陸上選手
* 1990年 - [[新井貴子]]、モデル、女優
* [[1991年]] - [[秋田きよ美]]、元タレント
* 1991年 - [[和田奈々]]、タレント
* 1991年 - [[多田毬奈]]、ミュージカル俳優
* 1991年 - [[馬場ももこ]]、フリーアナウンサー
* [[1992年]] - [[横山由依]]、タレント、アイドル(元[[AKB48]])
* 1992年 - [[ワタナベマホト]]、元YouTuber、元ラッパー(元[[カイワレハンマー]])
* 1992年 - [[宮﨑敦次]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[梅津瑞樹]]、俳優
* [[1993年]] - [[アナソフィア・ロブ]]、女優
* 1993年 - [[木村達成]]、俳優
* 1993年 - [[軽辺るか]]、女優
* [[1994年]] - [[多田愛佳]]、女優(元[[HKT48]])
* 1994年 - [[廣田耀規]]、ラグビー選手
* 1994年 - [[山内鈴蘭]]<ref>[https://web.archive.org/web/20140426234753/https://www.ske48.co.jp/profile/?id=yamauchi_suzuran SKE48 プロフィール] </ref>、タレント、アイドル(元[[SKE48]])
* 1994年 - [[岩出玲亜]]、陸上競技選手<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/p-sp-tp0-20141117-1397249.html|title=
眼相がいい 岩出玲亜が10代日本最高記録|publisher=[[ニッカンスポーツ]]|date=2014-11-17|author=渡辺佳彦|accessdate=2014-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141118151044/http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/p-sp-tp0-20141117-1397249.html|archivedate=2014-11-18}}</ref>
* 1994年 - [[谷尻まりあ]]、声優(元[[アース・スター ドリーム]])
* 1994年 - [[深澤大河]]、俳優
* 1994年 - ジュニー、アイドル([[Ladies' Code|レディースコード]])
* 1994年 - [[長尾朱夏]]、野球選手
* [[1995年]] - [[ジョーダン・アイブ]]、サッカー選手
* 1995年 - [[リバン・モイネロ]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[内田侑希]]、気象キャスター
* [[1996年]] ‐ [[岸潤一郎]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[江村海里]]、モデル
* [[1999年]] - [[チョ・イヒョン]]、女優
* [[2002年]] - [[パク・ソンフン (歌手)|パク・ソンフン]]、アイドル、元フィギュアスケート選手([[ENHYPEN]])
* 2002年 - [[愛来]]、アイドル([[AMEFURASSHI]])
* [[2003年]] - [[宮田くるみ]]、アイドル([[iSPY]]、元[[おはガール]])
* 2003年 - [[AKARI (キックボクサー)|AKARI]]、[[キックボクサー]]
* 生年不明 - [[相沢二葉]]、声優
* 生年不明 - [[片霧烈火]]、シンガーソングライター
* 生年不明 - [[摩味]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/mami.html|title=摩味|株式会社青二プロダクション|accessdate=2023-03-14}}</ref>、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[899年]] - [[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]、[[東フランク王国]][[国王]](* [[850年]]頃)
* [[1214年]]([[建保]]2年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[佐々木高綱]]、[[平安時代]]・[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1160年]])
* [[1508年]]([[永正]]5年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - [[斯波義敏]]、[[管領]](* [[1435年]])
* [[1632年]] - [[フィリッペ・ファン・ランスベルゲ]]、[[天文学者の一覧|天文学者]]、[[数学者]](* [[1561年]])
* [[1681年]] - [[ヘラルト・テル・ボルフ]]、[[画家]](* [[1617年]])
* [[1710年]]([[宝永]]7年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[津軽信政]]、第4代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1646年]])
* [[1714年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[柳沢吉保]]、[[側用人]]、[[譜代大名]](* [[1658年]])
* [[1818年]] - [[カール (バーデン大公)|カール]]、バーデン大公国第2代[[大公]](* [[1786年]])
* [[1830年]] - [[バンジャマン・コンスタン]]、 [[小説家]]、思想家(* [[1767年]])
* [[1859年]] - [[トマス・ド・クインシー]]、[[評論家]](* [[1785年]])
* [[1864年]] - [[ジョージ・ブール]]、数学者、[[哲学|哲学者]](* [[1815年]])
* [[1894年]] - [[小泉信吉]]、[[慶應義塾]]塾長、[[横浜正金銀行]]支配人(* [[1853年]])
* [[1903年]] - [[ハーバート・スペンサー]]、社会学者、哲学者(* [[1820年]])
* [[1907年]] - [[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]、[[スウェーデン]]王(* [[1829年]])
* [[1909年]] - [[賀陽宮邦憲王]]、[[皇族]](* [[1867年]])
* [[1910年]] - [[原田一道]]、兵学者、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少将]]、[[陸軍省]]砲兵局長(* [[1830年]])
* [[1917年]] - [[メンデレ・スフォリム]]、[[イディッシュ語]]・[[ヘブライ語]]作家(* [[1836年]])
* [[1924年]] - [[フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカ]]、[[作曲家]](* [[1850年]])
* 1924年 - [[山村暮鳥]]、[[詩人]]、[[児童文学者]](* [[1884年]])
* [[1933年]] - [[山本権兵衛]]、政治家、第16・22代[[内閣総理大臣]](* [[1852年]])
* 1933年 - [[麻生太吉]]、[[実業家]]、[[国会議員|衆議院議員]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1857年]])
* [[1937年]] - [[石光真臣]]、陸軍[[中将]](* [[1870年]])
* 1937年 - [[ハンス・モーリッシュ]]、[[植物学者]](* [[1856年]])
* [[1939年]] - [[アーネスト・シェリング]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]](* [[1876年]])
* [[1941年]] - [[中村新太郎]]、[[地質学|地質学者]](* [[1881年]])
* 1941年 - [[稲垣清 (海軍軍人)|稲垣清]]、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の「[[軍神]]」(* [[1915年]])
* 1941年 - [[岩佐直治]]、大東亜戦争の「軍神」(* 1915年)
* 1941年 - [[横山正治]]、大東亜戦争の「軍神」(* [[1919年]])
* [[1942年]] - [[アイテル・フリードリヒ・フォン・プロイセン|アイテル・フリードリヒ]]、[[プロイセン王国]]の王族(* [[1883年]])
* [[1945年]] - [[アレクサンドル・ジロティ]]、ピアニスト、指揮者(* [[1863年]])
* [[1956年]] - [[ジミー・エンジェル]]、[[飛行家]](* [[1899年]])
* 1956年 - [[菅野経三郎]]、[[政治家]](* [[1877年]])
* [[1958年]] - [[トリス・スピーカー]]、[[プロ野球選手]](* [[1888年]])
* [[1960年]] - [[繁里栄]]、プロ野球選手(* [[1916年]])
* [[1963年]] - [[サリット・タナラット]]、第14代[[タイの総理大臣一覧|タイ首相]](* [[1908年]])
* [[1970年]] - [[沢田廉三]]、[[外交官]](* [[1888年]])
* 1970年 - [[クリストファー・ケルク・インゴルド]]、[[化学者]](* [[1893年]])
* 1970年 - [[安藤忍]]、プロ野球監督(* [[1895年]])
* [[1978年]] - [[ゴルダ・メイア]]、第4代[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](* [[1898年]])
* 1978年 - [[江口夜詩]]、[[作曲家]](* [[1903年]])
* [[1980年]] - [[ジョン・レノン]]、[[音楽家]](* [[1940年]])
* [[1982年]] - [[諸橋轍次]]、漢字研究家、『[[大漢和辞典]]』編者(* 1883年)
* 1982年 - [[綾櫻由太郎]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[関脇]](* 1898年)
* 1982年 - [[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、[[コメディアン]](元[[てんぷくトリオ]])(* [[1930年]])
* [[1984年]] - ラズル{{enlink|Razzle (musician)}}、音楽家(* [[1960年]])
* [[1985年]] - [[ビル・ワムズガンス]]、元プロ野球選手(* [[1894年]])
* [[1990年]] - [[土屋文明]]、[[歌人]](* [[1890年]])
* [[1994年]] - [[アントニオ・カルロス・ジョビン]]、音楽家(* [[1927年]])
* [[1995年]] - [[丁善徳]]、作曲家(* [[1911年]])
* [[1996年]] - [[柏戸剛]]、元大相撲力士、第47代[[横綱]](* [[1938年]])
* 1996年 - [[小成たか紀]]、[[漫画家]](* [[1960年]])
* [[1998年]] - [[ヒデ夕樹]]、歌手(* [[1940年]])
* [[2004年]] - [[ダイムバッグ・ダレル]]、音楽家([[パンテラ]]、[[ダメージプラン]])(* [[1966年]])
* [[2017年]] - [[野村沙知代]]、[[タレント]](* [[1932年]])
* 2017年 - [[市川雄一]]、政治家(* [[1935年]])
* 2017年 - [[西田厚聰]]、実業家、[[東芝]]社長・会長(* [[1943年]])
* [[2020年]] - [[ハロルド・バッド]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1936年]])
* 2020年 - [[目片信]]、政治家(* [[1941年]])
* 2020年 - [[エフゲニー・シャポシニコフ]]、[[軍人]]、政治家(* [[1942年]])
* 2020年 - [[アレハンドロ・サベーラ]]、[[サッカー選手]]、指導者(* [[1954年]])
* [[2022年]] - [[吉田喜重]]、[[映画監督]](* [[1933年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2020年]] - [[シンボリクリスエス]]、競走馬(* [[1999年]])
* [[2021年]] - [[アグネスデジタル]]、競走馬(* [[1997年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成道会]]([[仏教]])
*: [[釈迦]]が悟りを開いた日。多くの国の仏教寺院で「成道会」法要が開かれる。
* 聖母の[[無原罪の御宿り]]の祭日([[カトリック教会]])
*: [[1854年]]のこの日、ローマ教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]により無原罪の御宿りがカトリックの教義として認められたことを記念。
* [[事納め]]({{JPN}})
*: その年の農事など雑事をしまう日。農事を始める「御事始め」は[[2月8日]]である。
* [[針供養]]({{JPN}})
*: 針仕事の上達を祈願するため、折れた[[針]]や曲がった針を[[豆腐]]等に刺し、[[神社]]に奉納する(2月8日に行う地方もある)。
* [[憲法記念日]]({{ROU}})
*: [[1991年]]のこの日に現行の[[ルーマニアの憲法]]が[[国民投票]]により採択されたことを記念。
* [[ジャン・シベリウス|フィンランド音楽の日]] ({{FIN}})
* 憲法記念日({{UZB}})
* レノンズデー
*: [[1980年]]のこの日、ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンが[[ニューヨーク市|ニューヨーク]]の自宅[[アパート]]前で熱狂的なファンに射殺されたことに由来する。
* 太平洋戦争開戦記念日
*: [[1941年]](昭和16年)の午前3時19分(現地時間 7日午前7時49分)に、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6ヵ月に及ぶ大東亜戦争・対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。他にも、「太平洋戦争開戦日」や「対米英開戦記念日」などとされる。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1208|date=2011年7月}}
* [[1941年]](照和16年) - 日本海軍、[[ハワイ州|ハワイ]]を攻撃、アメリカ太平洋艦隊のうち[[戦艦]]6隻、石油燃料を鹵獲しハワイ占領作戦を開始。([[荒巻義雄]]原作『[[紺碧の艦隊]]』)
* 1941年 - 町田大蔵、[[警視庁]][[警察官]]を拝命。(特撮『[[怪奇大作戦]]』)
* 1941年 - ワシントンで、[[近衛文麿|近衛]]・ルーズベルト・ヒトラーの手による日米独平和友好同盟調印式が行われる。ハワイ真珠湾では、日米合同の飛行パレードが開催。(テレビドラマ『[[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (1991年)|世にも奇妙な物語 91'秋の特別編]]』「戦争はなかった」)
* 1999年 - 渋谷<ref group="注釈">小説では「渋谷キャトル」という架空の会場。映画では[[国立代々木競技場|国立代々木競技場第一体育館]]。</ref>で行われた[[Lily Chou-Chou|リリイ・シュシュ]]のコンサート後、退場した観客が将棋倒しになる事故が発生。(小説・映画『[[リリイ・シュシュのすべて]]』)<ref>{{Cite web|author=|title = lilyholic media|work=|publisher = |url = http://www.lily-chou-chou.jp/holic/media/htm/teito1209.htm|date=|accessdate=2018-01-17}}</ref>
* [[2199年]] - [[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|宇宙戦艦ヤマト]]が[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル]]より地球に帰還<ref group="注釈">オリジナルに当たる『[[宇宙戦艦ヤマト]]』(テレビシリーズ)では[[2200年]][[9月6日]]。</ref>。(アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1969年]] - 猪熊柔、漫画『[[YAWARA!]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author=浦沢直樹|authorlink=浦沢直樹|title=YAWARA!|volume=13巻|publisher=小学館|series=ビッグコミックス|year=1990|page=204|isbn=4-09-182113-8}}</ref>
* [[1970年]] - [[半沢直樹]]、[[テレビドラマ]]『[[半沢直樹]]』の主人公<ref>2013年に放送されたテレビドラマ第8話に登場した人事調書。</ref>
* [[1980年]] - [[Lily Chou-Chou|リリイ・シュシュ]]、小説・映画『[[リリイ・シュシュのすべて]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=岩井俊二|authorlink=岩井俊二|year=2004 |title=リリイ・シュシュのすべて |page=12 |publisher=[[角川文庫]] |location= |isbn=978-4-04-344105-1 |quote= }}</ref>
* [[1986年]] - [[葛城ミサト]]、漫画・アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=特務機関調査プロジェクトチーム |year=1997 |title=新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説|page=199|publisher=[[青春出版社]] |isbn= 978-4-413-03073-1}}</ref>
* 星暦34年 - 園智恵理、アニメ『[[AKB0048]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://akb0048.jp/character/ |title=キャラ紹介 園智恵理 CHIERI SONO |access-date=2022-12-06 |publisher=[[サテライト (アニメ制作会社)|サテライト]]/AKB0048製作委員会 |work=『AKB0048』}}</ref>
* 生年不明 - 爆竜鬼虎、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)72頁</ref>
* 生年不明 - 天城雪子、ゲーム・アニメ『[[ペルソナ4]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1472401298947411968}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#十時愛梨|十時愛梨]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20110 |title=十時 愛梨(ととき あいり) |access-date=2022-12-06 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - チェイス、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kings-raid.com/characters/#character-179 |title=チェイス |publisher=【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-12-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=179 |archivedate=2022-07-24}}</ref>
* 生年不明 - 徳冨蘆花、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1468233889302855685}}</ref>
* 生年不明 - 有馬ひづめ、漫画・アニメ『[[アニマエール!]]』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|12|7|12|9|[[11月8日]]|[[1月8日]]|[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]|1208|12|08}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-14T13:21:48Z | 2023-12-07T21:02:18Z | false | false | false | [
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]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%888%E6%97%A5 |
1,609 | ポツダム宣言 | ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。
ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。
1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
詔書
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ノ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑〱帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖公宗ノ遣範二シテ朕ノ拳々措カサル所□ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ働精血朕カ一億衆庶ノ奉公各〱最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無幸ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ
測ルへカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ更生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ嘗テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後サラム͡コトヲ期スヘシ爾臣民祖其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
国 務 大 臣 副 署」
*旧字は、適宜新字に変更している。
原文である。
ウィキソース「s:en:Potsdam Declaration」または下部#外部リンク
日本文
「(千九百四十五年七月二十六日)
一 我等米国合衆国大統領、中華民国主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対ノ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ興フルコトニ意見一致セリ
二 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリノ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ補強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終結スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国民ニ対スル先例ヲ極メテ明示ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル勢力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力二比シ測リ知レザル程ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ
四 無分別ナル攻撃ニ依リ日本帝国ノ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続き統御セラレルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決意スル時期ハ到来セリ
五 吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトヲナカルベシ右ニ依ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
六 吾等ノ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民を欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯セシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎セラレタルコトヲ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国内領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
九 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本国民ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権の尊重ハ確立セラルベシ
十一 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能なラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許スベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別シ)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府二対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」
*旧字は、適宜新字に変更している。
(「けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ」『東京朝日新聞』朝刊1頁、昭和20(1945)年8月15日に同時代のポツダム宣言が記載されている)
1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った。政府内のグループには「天皇制維持などの条件を提示したほうが、早期に対日戦が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した。
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった。
1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であったハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった。
5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦争情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、アメリカ海軍情報局から戦争情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。
アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発・使用、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦。コロネット作戦やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。
一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった。
1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。
6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キング、チェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した。
この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。また、スティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした。委員会では、この勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意高揚の効果があり、無害で済むと判定され、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。
三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタイン以外のメンバーは全員が陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。
翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。
スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。
7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた。
ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる。
7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない)チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また、宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。この時点では、ソ連はまだ日本と開戦しておらず、署名には名を連ねていない。
ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文 OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.の国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。全ての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
ポツダム宣言の発表をうけた日本政府(鈴木貫太郎内閣)では、この宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に携わったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。しかし、陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。結局は東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、讀賣報知(読売新聞)で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺(Mokusatsu)」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore(無視)」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。
トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は昭和天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。
10日未明の御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした。
大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。
この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。
回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している。
8月14日に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「聖断」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。
宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
日本の降伏が「無条件降伏」にあたるかに関して、軍事的意味においてはポツダム宣言の「無条件降伏」にあたることについての異論は見受けられないが、第12条等による条件の記述も明確に該当するかについては異論がある。
国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第13条および降伏文書第2項にも使用されているが、これはいずれも日本の「軍隊」に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではない。
ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国による保証であった。
青山武憲は、降伏文書に規定されたポツダム宣言(特に第12条に言及)は日本と連合国が共に拘束されるものであり、日本は無条件降伏ではなく条件付降伏であったと主張する。
有馬哲夫は、日本の利益代表国であったスイスに残されている外交文書を分析して、「日本は、『バーンズ条件』の拒否と読める回答についてアメリカ側からなんのコメントもないまま一方的に『終戦』を宣言してしまった」とし、「互いにいいっぱなしで、条件についてはうやむやなまま終わった」と報告している。
そもそもルーズベルトの「無条件降伏」による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある。
連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。
これを受けて、1945年9月3日に連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。これに対して重光外相は、ダグラス・マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが(フレンスブルク政府)日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本)。
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。
ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で停滞しており、2023年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。
北マリアナ諸島については1899年にドイツ帝国領となり、第一次世界大戦の後、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカ合衆国の信託統治に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。
日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている。 | [
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"text": "ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。",
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"text": "ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。",
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"text": "ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。",
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"text": "1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。",
"title": "概要"
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"text": "詔書",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ノ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑〱帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖公宗ノ遣範二シテ朕ノ拳々措カサル所□ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ働精血朕カ一億衆庶ノ奉公各〱最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無幸ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "測ルへカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レリ",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ更生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ嘗テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後サラム͡コトヲ期スヘシ爾臣民祖其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "御 名 御 璽",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "昭和二十年八月十四日",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "国 務 大 臣 副 署」",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "*旧字は、適宜新字に変更している。",
"title": "ポツダム宣言受諾詔書の内容"
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"text": "原文である。",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"text": "ウィキソース「s:en:Potsdam Declaration」または下部#外部リンク",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"text": "日本文",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"text": "「(千九百四十五年七月二十六日)",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"text": "一 我等米国合衆国大統領、中華民国主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対ノ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ興フルコトニ意見一致セリ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
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"text": "二 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリノ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ補強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終結スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国民ニ対スル先例ヲ極メテ明示ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル勢力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力二比シ測リ知レザル程ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"text": "四 無分別ナル攻撃ニ依リ日本帝国ノ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続き統御セラレルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決意スル時期ハ到来セリ",
"title": "ポツダム宣言内容"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "五 吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトヲナカルベシ右ニ依ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "六 吾等ノ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民を欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯セシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎セラレタルコトヲ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国内領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "九 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "十 吾等ハ日本国民ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権の尊重ハ確立セラルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "十一 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能なラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許スベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別シ)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ",
"title": "ポツダム宣言内容"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府二対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」",
"title": "ポツダム宣言内容"
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{
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"text": "*旧字は、適宜新字に変更している。",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "(「けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ」『東京朝日新聞』朝刊1頁、昭和20(1945)年8月15日に同時代のポツダム宣言が記載されている)",
"title": "ポツダム宣言内容"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国に対し、無条件降伏を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った。政府内のグループには「天皇制維持などの条件を提示したほうが、早期に対日戦が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった。",
"title": "宣言の策定と発表"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、南樺太、千島列島、満州における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であったハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった。",
"title": "宣言の策定と発表"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦争情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、アメリカ海軍情報局から戦争情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。",
"title": "宣言の策定と発表"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発・使用、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦。コロネット作戦やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。",
"title": "宣言の策定と発表"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった。",
"title": "宣言の策定と発表"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"text": "6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キング、チェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した。",
"title": "宣言の策定と発表"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。また、スティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした。委員会では、この勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意高揚の効果があり、無害で済むと判定され、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタイン以外のメンバーは全員が陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。",
"title": "宣言の策定と発表"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。",
"title": "宣言の策定と発表"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない)チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また、宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。この時点では、ソ連はまだ日本と開戦しておらず、署名には名を連ねていない。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"text": "ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文 OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.の国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。全ての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。",
"title": "宣言の策定と発表"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ポツダム宣言の発表をうけた日本政府(鈴木貫太郎内閣)では、この宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に携わったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。しかし、陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。結局は東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。",
"title": "発表後の反応"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、讀賣報知(読売新聞)で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺(Mokusatsu)」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore(無視)」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。",
"title": "発表後の反応"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は昭和天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。",
"title": "発表後の反応"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "10日未明の御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした。",
"title": "発表後の反応"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。",
"title": "発表後の反応"
},
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。",
"title": "発表後の反応"
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"text": "回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。\"subject to\"の訳について「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している。",
"title": "発表後の反応"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "8月14日に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「聖断」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。",
"title": "発表後の反応"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。",
"title": "発表後の反応"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「\"subject to\"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。",
"title": "発表後の反応"
},
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本の降伏が「無条件降伏」にあたるかに関して、軍事的意味においてはポツダム宣言の「無条件降伏」にあたることについての異論は見受けられないが、第12条等による条件の記述も明確に該当するかについては異論がある。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第13条および降伏文書第2項にも使用されているが、これはいずれも日本の「軍隊」に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではない。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国による保証であった。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "青山武憲は、降伏文書に規定されたポツダム宣言(特に第12条に言及)は日本と連合国が共に拘束されるものであり、日本は無条件降伏ではなく条件付降伏であったと主張する。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "有馬哲夫は、日本の利益代表国であったスイスに残されている外交文書を分析して、「日本は、『バーンズ条件』の拒否と読める回答についてアメリカ側からなんのコメントもないまま一方的に『終戦』を宣言してしまった」とし、「互いにいいっぱなしで、条件についてはうやむやなまま終わった」と報告している。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "そもそもルーズベルトの「無条件降伏」による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "これを受けて、1945年9月3日に連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。これに対して重光外相は、ダグラス・マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが(フレンスブルク政府)日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本)。",
"title": "「無条件降伏」の当否"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。",
"title": "ポツダム宣言と領土問題"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で停滞しており、2023年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。",
"title": "ポツダム宣言と領土問題"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。",
"title": "ポツダム宣言と領土問題"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "北マリアナ諸島については1899年にドイツ帝国領となり、第一次世界大戦の後、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカ合衆国の信託統治に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。",
"title": "ポツダム宣言と領土問題"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている。",
"title": "ポツダム宣言の効力等"
}
]
| ポツダム宣言は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。 | [[ファイル:President Truman announces Japan's surrender.jpg|thumb|250px|1945年[[8月14日]]、[[ホワイトハウス]]にて日本のポツダム宣言受諾を発表する[[ハリー・S・トルーマン]]米国大統領]]'''ポツダム宣言'''(ポツダムせんげん、{{lang-en-short|Potsdam Declaration}})は、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月26日]]に[[イギリス帝国|イギリス]]、 [[アメリカ合衆国]]、[[中華民国の歴史|中華民国]]の政府首脳の連名において[[日本]]に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、'''日本への降伏要求の最終宣言'''(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、{{lang|en|Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender}})。宣言を発した各国の名をとって「'''米英支三国宣言'''(べいえいしさんごくせんげん)」<ref>下記邦訳、および下記外部リンク「ポツダム宣言 - 国立国会図書館」参照</ref>ともいう<ref group="注釈">大東亜戦争終結ノ詔書([[玉音放送]]の原文)では「米英中蘇」となっている。複数国による宣言や協定や条約の場合、その宣言や協定や条約に参加したからといって宣言中で定められる権利等の全てが宣言、協定、条約国全てに等しく与えられるとは限らない。権利や義務は宣言中で具体的に明示された事項について具体的に明示された参加者にのみ与えられたり負わされる。宣言参加者には宣言内で定められる事項について遵守義務が発生する</ref>。[[ソビエト連邦]]は、後から加わり追認した。そして、日本政府は[[1945年]][[8月14日]]にこの宣言を受諾し、[[9月2日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[日本の降伏文書|降伏文書]]調印・即時発効に至って[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])は終結した([[日本の降伏]])。
== 概要 ==
[[ナチス・ドイツ]]降伏後の[[1945年]](昭和20年)[[7月17日]]から[[8月2日]]にかけ、[[ベルリン]]郊外[[ポツダム]]において、英国、米国、ソ連の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]主要3カ国の首脳([[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]および[[クレメント・アトリー]]<ref group="注釈">[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]での[[政権交代]]に伴う首相交代による。[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首チャーチルは[[7月26日]]まで。[[労働党 (イギリス)|労働党]]党首アトリーは[[7月27日|27日]]以降(ただ、前半も次席として参加)。</ref>、[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]、[[ソビエト連邦共産党]][[書記長]][[ヨシフ・スターリン]])が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された([[ポツダム会談]])。
ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の[[蔣介石]]国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。
[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]、日本政府は本宣言の受諾を駐[[スイス]]および[[スウェーデン]]の日本公使館経由で連合国側に通告<ref>{{Cite news|和書 |title=戦争終結の大詔渙発さる/新爆弾の惨害に大御心 帝国、4国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く |newspaper=東京朝日新聞 |date=昭和20年(1945)8月15日 |edition=朝刊1頁}}</ref>、この事は翌[[8月15日]]に国民に[[ラジオ]]放送を通じて発表された([[玉音放送]])<ref>{{Cite news|和書 |title=けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ |newspaper=東京朝日新聞 |date=昭和20(1945)年8月15日 |edition=号外}}</ref>。[[9月2日]]、東京湾内に停泊する戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]甲板で日本政府全権の[[重光葵]]と[[大本営]](日本軍)全権の[[梅津美治郎]]および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた[[日本の降伏文書|降伏文書]](休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。
==ポツダム宣言受諾詔書の内容==
詔書<ref>{{Cite news|和書 |title=戦争終結の大詔渙発さる/新爆弾の惨害に大御心 帝国、4国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く |newspaper=東京朝日新聞 |date=昭和20(1945)年8月15日 |edition=朝刊1頁}}</ref>
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ノ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑〱帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖公宗ノ遣範二シテ朕ノ拳々措カサル所□ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ働精血朕カ一億衆庶ノ奉公各〱最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無幸ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ
測ルへカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ更生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ嘗テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後サラム͡コトヲ期スヘシ爾臣民祖其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
国 務 大 臣 副 署」
*旧字は、適宜新字に変更している。
== ポツダム宣言内容 ==
===英文===
原文である。
ウィキソース「[[:s:en:Potsdam Declaration]]」または下部[[#外部リンク]]
'''日本文'''<ref>{{Cite book|和書 |title=ポツダム宣言の条項受諾に至る経緯及び日本管理の機構と政策 (憲資・総 ; 第14号) |year=1958 |publisher=憲法調査会事務局}}</ref>
「(千九百四十五年七月二十六日)
一 我等米国合衆国大統領、中華民国主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対ノ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ興フルコトニ意見一致セリ
二 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリノ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ補強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終結スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国民ニ対スル先例ヲ極メテ明示ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル勢力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力二比シ測リ知レザル程ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ
四 無分別ナル攻撃ニ依リ日本帝国ノ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続き統御セラレルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決意スル時期ハ到来セリ
五 吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトヲナカルベシ右ニ依ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
六 吾等ノ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民を欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯セシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破碎セラレタルコトヲ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国内領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
九 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本国民ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権の尊重ハ確立セラルベシ
十一 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能なラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許スベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別シ)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府二対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」
*旧字は、適宜新字に変更している。
(「けふ正午に重大放送 國民必ず嚴肅に聽取せよ」『東京朝日新聞』朝刊1頁、昭和20(1945)年8月15日に同時代のポツダム宣言が記載されている)
== 宣言の策定と発表 ==
{{単一の出典|section=1|date=2014-08}}
=== 背景 ===
1943年1月の[[カサブランカ会談]]において、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[枢軸国]]の[[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]、[[大日本帝国]]に対し、[[無条件降伏]]を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の意向が強く働いたものであり{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}、11月17日の[[カイロ宣言]]においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]やイギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った{{sfn|山下祐志|1995|pp=11}}。政府内のグループには「[[天皇制]]維持などの条件を提示したほうが、早期に[[太平洋戦争|対日戦]]が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[コーデル・ハル]]も反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.87-88, pp.99-100</ref>。
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。[[1943年]]9月にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、[[休戦協定]]によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.101-104</ref>。
1945年2月の[[ヤルタ会談]]においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、[[樺太|南樺太]]、[[千島列島]]、[[満州]]における権益などの代償を提示してソ連に対して[[ソ連対日参戦|対日戦への参加]]を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であった[[ハリー・S・トルーマン]]が急遽大統領となった。トルーマンは[[外交]]分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、[[アメリカ合衆国の外交政策|アメリカの外交政策]]は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった{{sfn|山下祐志|1995|pp=13}}。トルーマン大統領は就任後、4月16日の[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、p.104</ref>。
5月7日に[[ナチス・ドイツ]]が無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、[[戦争情報局]]が用意し、大統領[[軍事顧問]][[ウィリアム・リーヒ]]が賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、[[日本]]に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、[[アメリカ海軍情報局]]から戦争情報局に出向していた[[エリス・M・ザカライアス]]海軍大佐の「[[ザカライアス放送]]」が8月4日までに14回行われている{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}<ref>有馬哲夫『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.104-105</ref>。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした<ref>[[有馬哲夫]]『歴史問題の正解』新潮新書2016年、pp.105-106</ref>。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった{{sfn|山下祐志|1995|pp=14}}。
=== 降伏勧告路線の本格化 ===
[[ファイル:Henry stimson.jpg|thumb|150px|ヘンリー・スティムソン(1945年)]]
[[ファイル:Dignitaries review the 2nd Armored Division during the Potsdam Conference.jpg|thumb|ポツダム会談の最中に、占領アメリカ軍を訪問するマックロイ。左側のヘルメットをかぶった人物は[[ジョージ・パットン]]]]
アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、[[原子爆弾]]の開発・使用、[[日本本土侵攻作戦]]([[ダウンフォール作戦]]。[[コロネット作戦]]やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、[[ソ連対日参戦|ソ連の対日参戦]]の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で[[アメリカ陸軍|陸軍]]参謀総長[[ジョージ・マーシャル]]を中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=305-306}}。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=305-306}}。
一方で国務次官[[ジョセフ・グルー]]をはじめとする[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=306}}。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=337}}。一方陸軍長官[[ヘンリー・スティムソン]]は無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーや{{仮リンク|ジョン・マックロイ|en|John J. McCloy}}陸軍次官補、[[ハーバート・フーヴァー]]元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=307}}。
1945年[[6月18日]]の[[ホワイトハウス]]における会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=308-309}}。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=311}}。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド([[天皇]])の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=311-312}}。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=312}}。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=314}}。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=315}}。
=== 三人委員会 ===
[[ファイル:James Forrestal.jpg|thumb|150px|ジェームズ・フォレスタル]]
[[ファイル:JosephGrew.jpg|thumb|150px|ジョセフ・グルー]]
6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、[[ジェームズ・フォレスタル]]海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]元帥や[[アーネスト・キング]]、[[チェスター・ニミッツ]]といった海軍首脳も賛成していると述べられた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=316}}。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=316}}。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=316}}。
;6月26日の対日計画案
*我々が[[日本]]に対して行使しようとしている力は多様かつ圧倒的である。この力を行使した場合、[[日本]]の破壊は不可避であり徹底的となる。
*[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は世界征服の挙に出て国を欺いた者達の権力と勢力を除去する。
*日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。
*我々は日本の国を滅亡させ、[[日本人|日本民族]]を絶滅させる意志を持たない。
*日本から[[軍国主義]]の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な[[産業]]を保持することを認める。やがては日本と互恵的な[[貿易]]関係を構築することを認める。
*前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合軍]]は日本から撤退する。
この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。また、スティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=319}}。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=319}}。委員会では、この勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意高揚の効果があり、無害で済むと判定され{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=319}}、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。
=== 勧告文の検討 ===
三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官の[[ユジーン・ドゥーマン]]、国務省極東課長[[ジョセフ・ウィリアム・バランタイン]]らによって構成されていた{{sfn|長谷川毅|2006|pp=128}}。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタイン以外のメンバーは全員が陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった{{sfn|長谷川毅|2006|pp=128}}。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、[[天皇制]]の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった{{sfn|長谷川毅|2006|pp=182-184}}。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に[[蔣介石]]を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。
翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=322}}。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=322}}。1945年6月の[[ギャラップ (企業)|ギャラップ]]調査によると33%が[[昭和天皇]]の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=339}}。
スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDの[[チャールズ・H・ボーンスティール3世]]が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=323}}。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=323}}。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=325}}。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=326-329}}。
=== 発表直前の修正 ===
[[ファイル:Secretary of War Henry Stimson talks with Secretary of State James Byrnes upon their arrival at Gatow Airport in... - NARA - 198850.jpg|thumb|スティムソンとバーンズ。1945年7月15日、ベルリン]]
7月3日、[[ジェームズ・F・バーンズ]]が新たな[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=331}}。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補[[アーチボルト・マクリーシュ]]をはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。省内の混乱を見たバーンズは[[コーデル・ハル]]元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。
ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。
7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない)チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.269 2012年</ref>。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また、宣言文は[[ポツダム協定]]の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。この時点では、ソ連はまだ日本と開戦しておらず、署名には名を連ねていない。
=== 日本への伝達 ===
ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は[[戦争情報局|戦時情報局]] (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文 OWI[[サンフランシスコ]]支部が作成し、[[ワシントンD.C.]]の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時([[日本標準時|東京時間]]午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]の11の短波送信機、[[ホノルル]]の短波送信機、[[サイパン]]の中波送信機が繰り返した。全ての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、[[同盟通信社]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]の各受信施設が第一報を受信した<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 pp.348 - 349 2012年</ref>。
== 発表後の反応 ==
{{Wikisource|en:Japan's Surrender Communiqués|「バーンズ回答」など関連文書|英語原文}}
{{Wikisource|大東亞戰爭終結ノ詔書}}
[[ファイル:Kantaro_Suzuki_cabinet_-_April_7,_1945.jpg|thumb|[[鈴木貫太郎内閣]]]]
{{main|太平洋戦争#戦争末期|日本の降伏}}
ポツダム宣言の発表をうけた日本政府([[鈴木貫太郎内閣]])では、この宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に携わったのは条約局第一課長[[下田武三]]であった。[[外務省]]定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞には'''ノー・コメント'''で掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}。これをうけた外務大臣[[東郷茂徳]]は[[最高戦争指導会議]]と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した{{sfn|藤田宏郎|2011|pp=333}}。しかし、陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}。結局は東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について'''公式な言及をしない'''ということが閣議決定された{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}。
[[7月27日]]、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、[[讀賣報知]]([[読売新聞]])で「笑止、対日降伏条件」、[[毎日新聞]]で「笑止! 米英蔣<ref group="注釈">[[蔣介石]]のこと。当時日本は南京の[[汪兆銘政権]]を承認していたため</ref>共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}、同日、[[鈴木貫太郎]]首相は記者会見で「共同声明は[[カイロ会談]]の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「'''黙殺'''」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、[[1945年]](昭和20年)[[7月29日]])と述べ(記事見出しは全て[[現代仮名遣い]]に修正)、翌日[[朝日新聞]]で「政府は黙殺」などと報道された。この「'''黙殺'''([[w:Mokusatsu|Mokusatsu]])」は日本の国家代表通信社である[[同盟通信社]]では「ignore(無視)」と[[英語]]に[[翻訳]]され、また[[ロイター]]と[[AP通信]]では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している{{sfn|山下祐志|1998|pp=2}}。なお、[[ラジオ・トウキョウ]]がどのように応えたかは確認されていない。
トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が[[原子爆弾]]による[[核攻撃]]を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた{{sfn|山下祐志|1995|pp=16}}。[[8月6日]]には[[広島市への原子爆弾投下]]が行われ、[[広島市]]における甚大な被害が伝えられた。また[[8月9日]](日本時間)の未明にはソ連が[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄し、[[満州国]]、[[朝鮮半島]]北部、[[樺太|南樺太]]への侵攻を開始([[ソ連対日参戦]])、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に[[長崎市への原子爆弾投下]]が伝えられたこともあり、「[[国体]]の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣[[阿南惟幾]]はなおも戦争継続を主張し、議論は[[御前会議|昭和天皇臨席]]の最高戦争指導会議に持ち越された。
===受諾===
10日未明の<ref>通説では[[8月9日]]深夜に始まったとされていたが、『[[昭和天皇実録]]』において[[8月10日]]0時3分開始と確認された([https://web.archive.org/web/20180814202415/https://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000304/20140909-OYT1T50007.html 「昭和天皇、苦悩の日々…実録1万2千ページ公表」] 読売新聞 2014年9月9日)。</ref>[[御前会議]]でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、[[昭和天皇]]に[[聖断]]を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上[[三国干渉]]時の[[明治天皇]]の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の[[平沼騏一郎]]元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、[[スウェーデン]]と[[スイス]]に向けて送信された{{sfn|山下祐志|1998|pp=5}}。これとは別に[[同盟通信社]]からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 4 玉音放送まで』中公文庫 p.117 2012年</ref>。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした{{sfn|山下祐志|1998|pp=5}}。
[[大西洋標準時]](以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された{{sfn|山下祐志|1998|pp=6}}。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。[[W・アヴェレル・ハリマン]]駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答[https://en.wikisource.org/wiki/Japan%27s_Surrender_Communiqu%C3%A9s#Reply_to_Japan.27s_First_Surrender_Offer]として決定された。
この「[[ジェームズ・F・バーンズ|バーンズ]]回答{{anchors|バーンズ回答}}」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」<ref>"… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be '''subject to''' the Supreme Commander …"</ref>としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」<ref>The ultimate form of government of Japan... government は無冠詞である(プログレッシブ英和中辞典(第4版) [https://kotobank.jp/ejword/government government])。</ref>というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」<ref>“The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson</ref>であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」<ref>August 10, 1945 Truman Diary</ref>と記している。
回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した{{sfn|山下祐志|1998|pp=6}}。"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」だと解釈する[[外務省]]と「隷属する」だと解釈する[[軍部]]の間の対立があり<ref group="注釈">翻訳を行った下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態」の部分を「最終的の日本国の政府の形態」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上 [[1984年]](昭和59年)8月、行政問題研究所)</ref>、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した{{sfn|山下祐志|1998|pp=6}}。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった{{sfn|山下祐志|1998|pp=6}}。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使[[岡本季正]]から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた{{sfn|山下祐志|1998|pp=6}}。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった{{sfn|山下祐志|1998|pp=7}}。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している{{sfn|山下祐志|1998|pp=7}}。
[[8月14日]]に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「[[聖断]]」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の[[詔勅]]が発せられた。同日、[[加瀬俊一 (1920年入省)|加瀬俊一]]スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
[[8月15日]]正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表([[玉音放送]])。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは[[8月16日]]、更に正式に[[日本の降伏|終戦協定及び降伏が調印された]]のは[[9月2日]]である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、[[クーデター]]によって玉音放送を中止させて「[[本土決戦]]内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が[[皇居]]の一部や[[社団法人]][[日本放送協会]]などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった([[宮城事件]])。なお、クーデターか起きる中、[[阿南惟幾]]陸相は15日早朝に自決している。
宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。[[9月2日]]、日本政府は[[ミズーリ (戦艦)|米戦艦ミズーリ]]の艦上で[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
== 「無条件降伏」の当否 ==
{{main|無条件降伏}}
日本の降伏が「無条件降伏」にあたるかに関して、軍事的意味においてはポツダム宣言の「無条件降伏」にあたることについての異論は見受けられないが、第12条等による条件の記述も明確に該当するかについては異論がある。
国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「'''吾等の条件は左の如し'''。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第13条および降伏文書第2項にも使用されているが、これはいずれも日本の「軍隊」に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではない。
ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国による保証であった<ref>国体護持と「八月革命」: 戦後日本の「平和主義」の生成 波多野澄雄</ref><ref>原爆投下と敗戦の真実 : 米国の「アメとムチ」作戦の全貌 藤岡惇</ref>。
[[青山武憲]]は、降伏文書に規定されたポツダム宣言(特に第12条に言及)は日本と連合国が共に拘束されるものであり、日本は無条件降伏ではなく条件付降伏であったと主張する<ref name="青山">第147回衆議院憲法調査会 参考人青山武憲(日本大学法学部教授)平成12年2月24日</ref>。
[[有馬哲夫]]は、日本の[[利益代表国]]であったスイスに残されている外交文書を分析して、「日本は、『バーンズ条件』の拒否と読める回答についてアメリカ側からなんのコメントもないまま一方的に『終戦』を宣言してしまった」とし、「互いにいいっぱなしで、条件についてはうやむやなまま終わった」と報告している<ref>{{cite book|author=[[有馬哲夫]] |title=一次資料で正す現代史のフェイク |publisher=[[扶桑社]] |series=扶桑社新書 |year=2021 }}</ref>。
そもそもルーズベルトの「無条件降伏」による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある<ref> [[藤田宏郎]]「フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論」(甲南大学法学部 甲南法学48(1)pp.1-36 20070900)[https://ci.nii.ac.jp/naid/110006572542]</ref>。
連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において<ref group="注釈">TOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせることを条件に大統領も同意した{{要出典|date=2011年5月}}。なお対日占領政策の最高意思決定機関は[[極東委員会]]であり、その諮問機関である[[対日理事会]]の第一回会合は1946年4月5日。</ref>、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある<ref>大日本帝国議会第90回衆議院本会議7号昭和21年6月27日[[吉田茂]](発言番号8)[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210627-h07.htm] </ref><ref>焦点になる「契約的基礎」については第7回衆議院外務委員会昭和25年3号(2月8日[[並木芳雄]]・発言者番号117)6号(3月9日[[横田喜三郎]]・発言者番号3)、第10回参議院外務委員会昭和26年2号(1月31日[[黒田寿男]]・発言者番号83)などで論じられあるいは反論されている。第24回衆議院内閣委員会公聴会昭和31年1号(3月16日[[神川彦松]])でも言及あり。</ref>。
これを受けて、1945年9月3日に[[連合国軍最高司令官総司令部]]はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「[[行政]]・[[司法]]・[[立法]]の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「[[公用語]]も[[英語]]にする」とした。これに対して重光外相は、[[ダグラス・マッカーサー]]最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが([[フレンスブルク政府]])日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった<ref>[https://web.archive.org/web/20061010150828/http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印] 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授</ref>([[連合国軍占領下の日本]])。
== ポツダム宣言と領土問題 ==
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の[[領土問題]]あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。{{See also|北方領土問題}}
[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]](現在の[[ロシア|ロシア連邦]])については[[ソ連対日宣戦布告|対日宣戦布告]]の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは[[日ソ中立条約]]の廃止通告後の処理に違反している<ref group="注釈">[[日ソ中立条約]]のソ連邦による廃棄通告は1945年4月5日であり、同条約は1946年4月25日に失効することになっていた。なおこの条約では日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重しあう義務を負っていた(第一条)。</ref><ref>{{PDF|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf 「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」]}} 外務省</ref>。ソビエトはポツダム宣言や[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加したものの[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに[[北方地域|北方四島]]については1855年の[[日露和親条約]]以来一貫した日本領土であり平和的に確定した[[国境|国境線]]であったため、[[台湾]]や[[満州]]・[[朝鮮]]などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反しているとしている<ref>外務省「北方領土」HP[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html][https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html]</ref><ref group="注釈">なお、平和的に確定したと言う点では[[樺太・千島交換条約]]においても同様であり、これを根拠として[[日本共産党]]は"南樺太を除く"千島列島全島の返還を要求している。</ref>。一方でソビエトは[[ヤルタ会談]]における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが[[日ソ共同宣言]]の段階<ref group="注釈">日ソ共同宣言は外交文書(条約)であり同条約の締結と批准により戦争状態は終了し両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされている{{要出典|date=2011年4月}}</ref>で停滞しており、2023年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
{{See also|尖閣諸島問題}}
[[中華人民共和国]]についてはポツダム宣言、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は[[1949年]](昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]および[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し<ref>「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」</ref>、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は[[日華平和条約]](1952年8月5日発効)による。ただし[[1972年]](昭和47年)[[9月29日]]に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。[[南沙諸島]]は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。{{See also|台湾問題|第一列島線}}
[[北マリアナ諸島]]については1899年に[[ドイツ帝国]]領となり、第一次世界大戦の後、日本の[[委任統治]]下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄にしたがい、1947年にアメリカ合衆国の[[信託統治]]に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。
== ポツダム宣言の効力等 ==
日本政府は「(世界征服の記述がされた)ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/189/syuh/s189146.htm ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問主意書]提出者は[[和田政宗]]</ref><ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/189/touh/t189146.htm 参議院議員和田政宗君提出ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約についての政府の認識に関する質問に対する答弁書]</ref>。
==ポツダム宣言の受諾に伴い施行された主な法令==
{{see also|ポツダム命令}}
===1945年===
* {{lang|en|'''S'''upreme '''C'''ommand for '''A'''llied '''P'''owers '''I'''nstruction '''N'''ote}}(昭和20年9月2日):通称「[[SCAPIN#一覧|SCAPIN]]」
* 「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年9月20日勅令第542号):通称「ポツダム緊急勅令」
* 「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭二〇勅五四二)施行ニ関スル件(昭和20年9月20日勅令第543号)
* 昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク[[国防保安法]]廃止等ニ関スル件(昭和20年10月13日勅令第568号)
* 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク航海ノ制限等ニ関スル件(昭和20年11月25日運輸省令第40号)
* 昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件(昭和20年12月29日勅令第730号)
===1946年===
* 昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴ひ発する命令に関する件に基く東亜海運株式会社の解散に関する勅令(昭和21年11月22日勅令第563号)
===1947年===
* [[公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令]](昭和22年1月4日勅令第1号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く[[陸軍刑法]]を廃止する等の政令(昭和22年5月17日政令第52号)
===1952年===
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く警察関係命令の措置に関する法律(昭和27年3月28日法律第13号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年3月31日法律第43号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く農林関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月7日法律第73号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律(昭和27年4月11日法律第81号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く文部省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月12日法律第86号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く経済安定本部関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月12日法律第88号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く連合国財産及びドイツ財産関係関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月23日法律第95号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く建設省関係命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第98号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く厚生省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第120号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年4月28日法律第126号)
* ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く法務府関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年5月7日法律第137号)
===1959年===
* 連合国財産の返還等に伴う損失の処理等に関する法律(昭和34年5月15日法律第165号)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|3}}
== 原典訳書 ==
*『「ポツダム宣言」を読んだことがありますか?』[[山田侑平]]訳・監修、[[共同通信社]]出版センター編・刊、2015
== 参考文献 ==
* [[江藤淳]]監修/[[栗原健]]・[[波多野澄雄]]編「終戦工作の記録」 講談社文庫(上下)、1986
* 江藤淳編「占領史録」 講談社学術文庫(上下)、1995
* 外務省編「終戦史録」 北洋社(全6巻)、1977-78
* [[外務省]]編「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録」山手書房新社(上中下)、1990
* 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規(全6巻)、1981
* [[鈴木九萬]]一監修「日本外交史 26 終戦から講和まで」鹿島出版会、1973
* 中尾裕次編「[[昭和天皇]]発言記録集成」(2冊組)芙蓉書房出版、2003
* [[重光葵]]「重光葵手記 正・続」 中央公論社、1986-88
* 重光葵「昭和の動乱」 中公文庫(上下)、2001
* [[岡崎勝男]]「戦後二十年の遍歴」中公文庫、1999
* 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房、1976
* 有末精三「ザ・進駐軍 有末機関長の手記」芙蓉書房、1984
* [[有馬哲夫]]「アレン・ダレス 原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘」 講談社、2009
* 有馬哲夫「『スイス諜報網』の日米終戦工作」新潮選書、2015
* [[河辺虎四郎]]「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社、1979
* [[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]「加瀬俊一回想録」山手書房(上下)、1986
* 加瀬俊一「ミズーリ号への道程」文藝春秋新社、1951
**新版「加瀬俊一選集2 日本がはじめて敗れた日」山手書房、1983
* [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]参謀第2部編「マッカーサーレポート 第1巻」現代史料出版、1998
* [[毎日新聞]]図書編集部訳編 「太平洋戦争秘史 米戦指導者の回想」毎日新聞社、1965
* 荒敬編「日本占領・外交関係資料集 第1巻」柏書房、1991
* [[佐藤元英]]・[[黒沢文貴]]編「GHQ歴史課陳述録—終戦史資料」原書房(上下)、2002
* 住本利男 「占領秘録」[[毎日新聞]]社、1965/中公文庫、1988 新版2014
* [[藤田信勝]] 「敗戦以後」 プレスプラン、2003/リーダーズノート新書、2011
* [[ダグラス・マッカーサー]]「マッカーサー回想録」[[朝日新聞社]]/中公文庫(上下) 2003、新版(全1冊)2014
* [[ハリー・S・トルーマン]] 「トルーマン回顧録」恒文社、新版1992
* イーブン・A.エアーズ 「ホワイトハウス日記 1945-1950」平凡社、1993
* [[五百旗頭真]]「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」中央公論新社 2001、中公文庫 2013
* 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社、1997、中公文庫 2002
* [[増田弘]]「マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ」 中公新書 2009
* 河原匡喜「マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間」新人物往来社、1995
* 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」NHKブックス(上下)、2000
* [[長谷川毅]]「暗闘 [[スターリン]]、トルーマンと日本降伏」中央公論新社、2006/中公文庫(上下)、2011
* [[保阪正康]]「新版 敗戦前後の日本人」朝日文庫、2007
* 鳥居英晴「国策通信社『同盟』の興亡―通信記者と戦争」花伝社、2014
*{{Cite journal |和書|author = 藤田宏郎 |title = ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言 (甲南大学法学部開設50周年記念号上巻)|date = 2011|publisher =甲南大学|journal = 甲南法学 |volume = 51(3)|naid = 110008436640|pages = 1-37 |ref = harv}}
*{{Cite journal |和書|author = 山下祐志 |title = アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11) : ポツダム宣言の発出|date = 1995|publisher =宇部工業高等専門学校|journal = 宇部工業高等専門学校研究報告 |volume =41|naid = 110000980158|pages =A9-A18 |ref = harv}}
*{{Cite journal |和書|author = 山下祐志 |title =アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾|date = 1998|publisher =宇部工業高等専門学校|journal = 宇部工業高等専門学校研究報告 |volume =44|naid = 110000980223|pages =A9-A18 |ref = harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の降伏]]
* [[カイロ宣言]]
* [[中国山西省日本軍残留問題]]
* [[極東国際軍事裁判]]
* [[日本のいちばん長い日]]
* [[プレスコード]]
* [[日本における検閲]]
* [[日本国憲法第1章]]
* [[神道指令]] - [[靖国神社問題]]
* [[戦後レジーム]]
== 外部リンク ==
{{Wikisource|en:Potsdam_Declaration|ポツダム宣言|英語原文}}
{{Wikisource|ポツダム宣言|ポツダム宣言|日本語訳文}}
* [https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19450726.D1J.html ポツダム宣言 (日本語訳文)]、[https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19450726.D1E.html (英語)] - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
* [https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19450902.O1J.html 降伏文書 (日本語訳文)] 、[https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19450902.O1E.html (英語)] - 同上
* [https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html ポツダム宣言] - [[国立国会図書館]]「日本国憲法の誕生」
** [https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010shoshi.html 1-6 ポツダム宣言受諾に関する交渉記録] - [[国立国会図書館]]「日本国憲法の誕生」
* [https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/021/021tx.html 降伏文書調印に関する詔書]- 同上
* [{{NDLDC|3947482}} 米軍投下ビラ] (ポツダム宣言に関連するもの含む)- [[国立国会図書館]][[憲政資料室]]
* {{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/sennsou.sinbun-6.html |title=戦争の頃の新聞から-6 |date=20120112151341}}
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1,610 | 椎名誠 | 椎名 誠(しいな まこと、1944年6月14日 -)は、日本の小説家、エッセイスト、写真家、映画監督。日本SF作家クラブ会員。
代表作は、自身で『昭和軽薄体』と称した文体で書かれた『さらば国分寺書店のオババ』、『あやしい探検隊』シリーズなどの随筆、自身の家族をモデルにした私小説『岳物語』、そして戦争により文明が破壊され、荒廃・汚染された環境というディストピア的な未来世界での冒険を描いたSF小説『アド・バード』『武装島田倉庫』など。
また日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表しており、紀行作家、旅行家としての面も大きい。
1944年、東京都世田谷区三軒茶屋に5人兄弟の三男として生まれる。父親は公認会計士。1950年より千葉県印旛郡酒々井町と千葉市幕張に転居。千葉市立幕張小学校を卒業。
1956年、父が死去。翌年に千葉市立幕張中学校入学。「父親が死ぬとグレなければならないという奇妙な使命感」から不良を目指し始める。中学時代は喧嘩に明け暮れる。1960年、中学校を卒業し千葉市立千葉高等学校に入学。
1963年、千葉市立千葉高等学校卒業。同人誌『幕張じゃーなる』創刊。
1964年、東京写真大学(現・東京工芸大学)に入学。同人誌『斜めの世界』創刊。
1965年、友人の車に同乗中の事故により重傷を負う。東京写真大学を中途退学。代々木の演劇学校に脚本の勉強に通う。同人誌『フモリスト』創刊。同年秋より江戸川区小岩のアパート克美荘で、高校時代の同級生である沢野ひとし、沢野の中学時代の同級生である木村晋介らと約2年間の共同生活を行う。
1966年、流通業界の専門誌『ストアーズレポート』を刊行しているデパートニューズ社(現・ストアーズ社)に入社。デパート業界を対象とした業界誌『調査月報』の編集を任せられる。
1968年、渡辺一枝と結婚、東京都小平市に転居。ガリ版誌『月刊おれの足』創刊。
1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊。編集長に就任。
1974年、8ミリにてドキュメンタリー作品『神島でいかにしてめしを喰ったか...』を製作。小金井市の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む。
1976年、『本の雑誌』創刊号発行。
1977年、『本の雑誌』5号の巻頭エッセイとして「さらば国分寺書店のオババ」を執筆。7月、同誌の編集権が目黒考二から椎名に移る。
1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを目黒と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、月4、5本は書いていたという。
1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でエッセイストとしてデビューする。
1980年、7月に株式会社本の雑誌社を設立。12月、ストアーズ社を退職しフリーになる。その後は私小説、SF小説、エッセイ、ルポルタージュ、写真集などを多数発表。
1987年、株式会社椎名誠事務所設立。
1989年、『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞受賞。
1990年、『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞。映画『ガクの冒険』公開。
1991年、映画製作会社ホネ・フィルム設立。
1992年、長良川河口堰反対カヌーデモに参加。
1993年、映画『あひるのうたがきこえてくるよ。』で第10回山路ふみ子映画文化賞受賞。
1993年から2007年まで、「週刊金曜日」編集委員を務めた。
1996年、映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞、95年度JRA賞馬事文化賞を受賞。
1997年、映画「白い馬」でフランス・ボーヴェ映画祭グランプリ受賞、ポーランド子ども映画祭特別賞受賞。
2005年3月、「マガジン9条」発起人となった。
2011年8月、ネット・ミュージアム「椎名誠 旅する文学館」が開館。2014年、「椎名誠 旅する文学館」シリーズとして、10作の著書が電子書籍化。同年、『ぼくは眠れない』 (新潮新書)で35年間の不眠症体験について記す。
2013年~2016年、椎名主宰の雑誌『とつげき!シーナワールド!!』が出版社を変えながら5巻刊行。 2017年から『ずんがずんが―椎名誠自走式マガジン』と改名して「椎名誠 旅する文学館」から刊行開始。
妻の渡辺一枝(1945年ハルビン生まれ)は作家・エッセイストで、チベットについての本など、多数の著書がある。娘の渡辺葉は翻訳家でエッセイスト、米国の弁護士。息子の渡辺岳はプロボクサーとして活動後、米国で写真学を学び写真関係の仕事に就いた。
椎名の著作の挿絵を担当することが多く、著作にも頻繁に登場するイラストレーターの沢野ひとしは高校時代の同級生。弁護士の木村晋介は沢野の中学時代の同級生で、沢野の紹介で親友となった。なお渡辺一枝は木村の高校時代の友人である。
中学生のとき、1枚の写真に出会った。兄が購読していた写真雑誌「アサヒカメラ」の1ページだった。陽のあたる農家の縁側で竹のような籠「いづめ」に入れられてゆったり眠っている赤ちゃんの写真に心が奪われた。このいづめに赤ちゃんを入れてあげた親の心の温かさがその1枚の写真から伝わってきた。ふいに今いる、がさつに閉塞した空間にそうそういつまでも付き合っていなくていいのだと気付き、気持ちを切り換えて、じわじわとその狭い世界から脱出していくように努力した。思いがけない「写真の力」を初めて感じ、写真との関係が密接になっていき、「いつしか将来は写真を仕事としたいと思うようになった」という。
写真大学はケガなどもあって中退してしまったが、作家になってから写真と文章とを収録した著書は多数あり、写真雑誌『アサヒカメラ』の連載などを受け持っている。
デビュー前から8ミリ、16ミリでの自主制作映画を撮っていた。「ガクの冒険」で映画監督としてデビューした後に映画製作会社「ホネ・フィルム」を設立した。
無類のビール好きである。中学生の頃に初めてビールを飲み、大人になってからはほぼ毎日飲んでいる。 好きな酒肴には、ウニ・ホヤ・ナマコを挙げる。しかし、これらの上を行くものとしてコノワタ、さらに上の究極の肴としてばくらいも挙げている。 酒をビールに限定した場合は、串カツ・ばくらい・鮭の皮である、と言う。
「」内が椎名誠の作品。
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| 椎名 誠は、日本の小説家、エッセイスト、写真家、映画監督。日本SF作家クラブ会員。 代表作は、自身で『昭和軽薄体』と称した文体で書かれた『さらば国分寺書店のオババ』、『あやしい探検隊』シリーズなどの随筆、自身の家族をモデルにした私小説『岳物語』、そして戦争により文明が破壊され、荒廃・汚染された環境というディストピア的な未来世界での冒険を描いたSF小説『アド・バード』『武装島田倉庫』など。 また日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表しており、紀行作家、旅行家としての面も大きい。 | {{Infobox 作家
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| website =[http://www.shiina-tabi-bungakukan.com 椎名誠 旅する文学館]
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''椎名 誠'''|しいな まこと|[[1944年]][[6月14日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[随筆家|エッセイスト]]、[[写真家]]、[[映画監督]]。[[日本SF作家クラブ]]会員。
代表作は、自身で『[[昭和軽薄体]]』と称した文体で書かれた『[[さらば国分寺書店のオババ]]』、『あやしい探検隊』シリーズなどの[[随筆]]<ref>椎名本人などからは「スーパーエッセイ」などとも呼ばれた。</ref>、自身の家族をモデルにした[[私小説]]『[[岳物語]]』、そして戦争により文明が破壊され、荒廃・汚染された環境という[[ディストピア]]的な未来世界での冒険を描いたSF小説『[[アド・バード]]』『[[武装島田倉庫]]』など。
また日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表しており、紀行作家、旅行家としての面も大きい。
==経歴==
1944年、[[東京都]][[世田谷区]][[三軒茶屋]]に5人兄弟の三男として生まれる{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。父親は[[公認会計士]]{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。1950年より[[千葉県]][[印旛郡]][[酒々井町]]と[[千葉市]][[幕張]]に転居{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。[[千葉市立幕張小学校]]を卒業<ref name="h67">{{Cite book|和書|author1=椎名誠 |author2=目黒孝二 |title=本人に訊く〈壱〉 よろしく懐旧篇 |publisher=椎名誠旅する文学館 |year=2016 |month=10 |page=67 |isbn=978-4908920059}}</ref>。
1956年、父が死去{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。翌年に[[千葉市立幕張中学校]]入学<ref name="h67" />。「父親が死ぬとグレなければならないという奇妙な使命感」から[[不良行為少年|不良]]を目指し始める{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。中学時代は[[喧嘩]]に明け暮れる{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。1960年、中学校を卒業し[[千葉市立千葉高等学校]]に入学{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1963年、千葉市立千葉高等学校卒業{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。[[同人誌]]『幕張じゃーなる』創刊{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1964年、東京写真大学(現・[[東京工芸大学]])に入学{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。同人誌『斜めの世界』創刊{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1965年、友人の車に同乗中の事故により重傷を負う{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。東京写真大学を[[中途退学]]{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。代々木の演劇学校に脚本の勉強に通う{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。同人誌『フモリスト』創刊{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。同年秋より[[江戸川区]]小岩のアパート克美荘で、高校時代の同級生である[[沢野ひとし]]{{sfn|椎名|1996|pp=317-319}}、沢野の中学時代の同級生である[[木村晋介]]らと約2年間の共同生活を行う<ref>椎名の『哀愁の町に霧が降るのだ』に詳しい。</ref>{{sfn|椎名|1996|pp=326-327}}。
1966年、流通業界の専門誌『[[ストアーズレポート]]』を刊行しているデパートニューズ社(現・[[ストアーズ社]]){{Efn2|[https://www.stores.co.jp/stores-report/ 月刊ストアーズレポート]}}に入社。デパート業界を対象とした業界誌『調査月報』の編集を任せられる{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1968年、[[渡辺一枝]]と結婚、東京都[[小平市]]に転居{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。[[謄写版|ガリ版]]誌『月刊おれの足』創刊{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。編集長に就任{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1974年、[[8ミリ映画|8ミリ]]にてドキュメンタリー作品『[[神島 (三重県)|神島]]でいかにしてめしを喰ったか…』を製作{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。[[小金井市]]の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}{{sfn|椎名|1996|p=231}}。
1976年、目黒考二らと『[[本の雑誌]]』創刊号発行{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1977年、『本の雑誌』5号の巻頭エッセイとして「さらば国分寺書店のオババ」を執筆{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。7月、同誌の編集権が[[目黒考二]]から椎名に移る{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを目黒と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、月4、5本は書いていたという<ref>[[南伸坊]]『さる業界の人々』(ちくま文庫)の[[関川夏央]]の解説より。なお、関川も同時期にエロ漫画雑誌の編集長及び、原作執筆を手がけていたという。</ref>。
1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でエッセイストとしてデビューする{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1980年、7月に目黒考二、[[沢野ひとし]]、[[木村晋介]]と株式会社[[本の雑誌社]]を設立。12月、ストアーズ社を退職しフリーになる{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。その後は[[私小説]]、[[サイエンス・フィクション|SF小説]]、[[随筆|エッセイ]]、[[ルポルタージュ]]、写真集などを多数発表。
1987年、株式会社椎名誠事務所設立{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1989年、『犬の系譜』で第10回[[吉川英治文学新人賞]]受賞{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1990年、『[[アド・バード]]』で第11回[[日本SF大賞]]受賞{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。映画『ガクの冒険』公開{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1991年、映画製作会社ホネ・フィルム設立{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1992年、[[長良川河口堰]]反対[[カヌー]]デモに参加{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1993年、映画『あひるのうたがきこえてくるよ。』で第10回[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子映画文化賞]]受賞{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1993年から2007年まで、「[[週刊金曜日]]」編集委員を務めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinyobi.co.jp/editor.php|title=編集委員|週刊金曜日公式サイト|publisher=株式会社金曜日|accessdate=2016-8-4}}</ref>。
1996年、映画『白い馬』で[[日本映画批評家大賞]]最優秀監督賞、95年度[[JRA賞馬事文化賞]]を受賞{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
1997年、映画「白い馬」でフランス・ボーヴェ映画祭グランプリ受賞、ポーランド子ども映画祭特別賞受賞<ref name="history">{{Cite web|和書|url=http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/history|title=椎名誠 旅する文学館 こんなふうに生きてきた|accessdate=2015-11-25}}</ref>。
2005年3月、「[[マガジン9]]条」発起人となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.magazine9.jp/about/ |title=マガジン9とは? |website= マガジン9 |accessdate=2019-05-18}}</ref>。
2011年8月、ネット・ミュージアム「椎名誠 旅する文学館」が開館<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/message |webiste=椎名誠 旅する文学館 |title=ごあいさつ |accessdate=2019-05-18}}</ref>。2014年、「椎名誠 旅する文学館」シリーズとして、10作の著書が[[電子書籍]]化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cri.co.jp/news/press_release/2014/20140625000815.html|title=人気の電子書籍シリーズ刊行!「椎名誠 旅する文学館」 椎名誠氏デビュー作『さらば国分寺書店のオババ』電子で登場 | プレスリリース|ニュースリリース | クリーク・アンド・リバー社|publisher=株式会社クリークアンドリバー|accessdate=2017-3-12}}</ref>。同年、『ぼくは眠れない』 (新潮新書)で35年間の不眠症体験について記す<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2014/12031630/?all=1|title=椎名誠さんが告白した「35年間の不眠症歴」|website=デイリー新潮|publisher=新潮社|accessdate=2017-3-12}}</ref>。
2013年~2016年、椎名主宰の雑誌『とつげき!シーナワールド!!』が出版社を変えながら5巻刊行。 2017年から『ずんがずんが―椎名誠自走式マガジン』と改名して「椎名誠 旅する文学館」から刊行開始。
==人物==
===家族・交友関係===
妻の[[渡辺一枝]]([[1945年]][[ハルビン]]生まれ)は作家・エッセイストで、[[チベット]]についての本など、多数の著書がある{{Efn2|1=[https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E6%9E%9D&count=100&sortorder=3 CiNii 渡辺一枝]}}<ref>[https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E6%9E%9D_000000000260089/biography/ 渡辺一枝 プロフィール]HMV&BOOKS</ref>。娘の[[渡辺葉]]は[[翻訳家]]で[[エッセイスト]]、[[アメリカ合衆国|米国]]の弁護士<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/YoWatShiinaEsq|title=渡邉葉 (@YoWatShiinaEsq)さん - Twitter|publisher=渡邉葉|accessdate=2018-08-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinchosha.co.jp/writer/5177/|title=渡辺葉|新潮社|accessdate=2017-2-2}}</ref>。息子の渡辺岳<ref>{{Cite book |和書 |author=椎名誠|title=定本岳物語 |chapter=「岳物語」と僕 |publisher=集英社 |date=1998 |isbn=4087743470}}</ref>はプロボクサー<ref>{{Cite book |和書 |author=椎名誠|title=モンパの木の下で |chapter=胃によくない一日 |publisher=文藝春秋 |date= |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=椎名誠|title=時にはうどんのように |chapter=クルマごときに |publisher=文藝春秋 |date= |isbn=}}</ref>として活動後、米国で写真学を学び写真関係の仕事に就いた。
椎名の著作の挿絵を担当することが多く、著作にも頻繁に登場するイラストレーターの沢野ひとしは高校時代の同級生{{sfn|椎名|1996|pp=317-319}}。弁護士の[[木村晋介]]は沢野の中学時代の同級生で、沢野の紹介で親友となった{{sfn|椎名|1996|p=323}}。なお渡辺一枝は木村の高校時代の友人である{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
===写真===
中学生のとき、1枚の写真に出会った。兄が購読していた写真雑誌「[[アサヒカメラ]]」の1ページだった。陽のあたる農家の縁側で竹のような籠「いづめ」に入れられてゆったり眠っている赤ちゃんの写真に心が奪われた。このいづめに赤ちゃんを入れてあげた親の心の温かさがその1枚の写真から伝わってきた。ふいに今いる、がさつに閉塞した空間にそうそういつまでも付き合っていなくていいのだと気付き、気持ちを切り換えて、じわじわとその狭い世界から脱出していくように努力した。思いがけない「写真の力」を初めて感じ、写真との関係が密接になっていき、「いつしか将来は写真を仕事としたいと思うようになった」という<ref>{{Cite book |和書 |author=椎名誠|title=五つの旅の物語 |publisher=講談社 |date=2010 |isbn=9784062160582 |page=}}{{要ページ番号|date=2017年10月11日 (水) 01:14 (UTC)}}</ref>。
写真大学はケガなどもあって中退してしまったが、作家になってから写真と文章とを収録した著書は多数あり、写真雑誌『[[アサヒカメラ]]』の連載などを受け持っている。
===映画制作===
デビュー前から[[8ミリ映画|8ミリ]]、[[16mmフィルム|16ミリ]]での[[自主映画|自主制作映画]]を撮っていた{{sfn|椎名|1996|pp=254-260}}。「ガクの冒険」で映画監督としてデビューした後に映画製作会社「[[ホネ・フィルム]]」を設立した{{sfn|椎名|1996|pp=344-368}}。
===好物===
無類の[[ビール]]好きである。中学生の頃に初めてビールを飲み、大人になってからはほぼ毎日飲んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/8416
|title=『酔うために地球はぐるぐるまわってる』|website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2019-05-18}}</ref>。
好きな酒肴には、[[ウニ]]・[[ホヤ]]・[[ナマコ]]を挙げる。しかし、これらの上を行くものとして[[このわた|コノワタ]]、さらに上の究極の肴として[[ばくらい]]も挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/10331|title=『ナマコ』 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2019-05-18}}</ref>。
酒を[[ビール]]に限定した場合は、[[串カツ]]・ばくらい・[[鮭]]の皮である、と言う<ref>{{Cite book |和書 |author=椎名誠|title=どーしてこんなにうまいんだあ! |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |date=2016 |pages=103-107}}</ref>。
==受賞歴==
* 『犬の系譜』
** 第10回[[吉川英治文学新人賞]]([[1988年]]度)
* 『[[アド・バード]]』
** 第11回[[日本SF大賞]]([[1990年]])
* 『あひるのうたが聞こえてくるよ。』
** 第10回[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子映画文化賞]]([[1993年]])
* 『白い馬』
** [[JRA賞馬事文化賞]]([[1995年]])
** [[EARTH VISION 地球環境映像祭]] 環境教育映像賞([[1996年]])
** 第5回[[日本映画批評家大賞]] 最優秀監督賞(1996年)
** [[ボーヴェ映画祭]] グランプリ([[1997年]])
** [[ポーランド子ども映画祭]] 特別賞(1997年)
*第9回[[日本旅行作家協会#日本旅行作家協会賞|日本旅行作家協会賞]]([[2013年]])
==著書==
=== 小説 ===
==== SF三部作 ====
* [[アド・バード]](1990年3月 集英社 / 1997年3月 集英社文庫)
* [[水域 (小説)|水域]](1990年9月 講談社 / 1994年3月 講談社文庫)
* [[武装島田倉庫]](1990年12月 新潮社 / 1993年11月 新潮文庫 / 2013年11月 小学館文庫【新装版】)
==== 哀愁の町シリーズ ====
* 哀愁の町に霧が降るのだ(1981年10月 情報センター出版局【上・中・下】 / 1991年10月 新潮文庫【上・下】 / 1994年1月 三五館 / 2014年8月 小学館文庫【上・下】){{Efn2|name="series"|出版元やNDCの分類ではエッセイとなっているが、シリーズ物の中の一つとしてこの項目に記載。}}
* 新橋烏森口青春篇(1987年12月 新潮社 / 1991年5月 新潮文庫 / 2015年3月 小学館文庫)
* 銀座のカラス(1991年10月 朝日新聞社 / 1994年12月 新潮文庫【上・下】 / 1995年8月 朝日文芸文庫【上・下】 / 2016年6月 小学館文庫【上・下】)
* 本の雑誌血風録(1997年6月 朝日新聞社 / 2000年8月 朝日文庫 / 2002年2月 新潮文庫)
* 新宿熱風どかどか団(1998年10月 朝日新聞社 / 2001年8月 朝日文庫 / 2005年10月 新潮文庫)
* 新宿遊牧民(2009年10月 講談社 / 2012年11月 講談社文庫)
==== 岳物語シリーズ ====
* [[岳物語]](1985年5月 集英社 / 1989年9月 集英社文庫)
** 【改題】定本 岳物語(1998年8月 集英社)※加筆、再編成。あとがき、“岳”本人のエッセイ等収録の完全版。
* 続 岳物語(1986年7月 集英社 / 1989年11月 集英社文庫)
* かえっていく場所(2003年4月 集英社 / 2006年4月 集英社文庫)
* 大きな約束(2009年2月 集英社 / 2012年2月 集英社文庫)
* 続 大きな約束(2009年5月 集英社 2012年3月 集英社文庫)
* 三匹のかいじゅう(2013年1月 集英社 / 2016年1月 集英社文庫)
* 孫物語(2015年4月 新潮社 / 2018年10月 集英社文庫){{Efn2|name="series"}}
* 家族のあしあと(2017年7月 集英社)
==== 長編 ====
* 犬の系譜(1988年1月 講談社 / 1991年1月 講談社文庫)
* 長く素晴らしく憂鬱な一日(1988年2月 [[マガジンハウス]] / 1990年5月 角川文庫)
* [[白い手]](1989年4月 集英社 / 1992年6月 集英社文庫)
* 麦の道(1996年1月 集英社 / 1999年6月 集英社文庫)
* 黄金時代(1998年5月 文藝春秋 / 2000年12月 文春文庫)
* ずんが島漂流記(1999年1月 文藝春秋 / 2001年12月 文春文庫)
* 海ちゃん、おはよう(2001年5月 朝日新聞社 / 2004年5月 朝日文庫 / 2007年10月 新潮文庫)
* ニューヨークからきた猫たち(2002年11月 朝日新聞社 / 2006年9月 朝日文庫)
* 風のまつり(2003年11月 講談社 / 2007年6月 講談社文庫)
* 走る男(2004年1月 朝日新聞社 / 2007年1月 朝日文庫)
* [[ぱいかじ南海作戦]](2004年4月 新潮社 / 2006年12月 新潮文庫)
* 波切り草(2006年5月 文藝春秋 / 2009年4月 文春文庫)
* 砲艦銀鼠号(2006年6月 集英社 / 2009年5月 集英社文庫)
* 草の記憶(2007年3月 金曜日 / 2009年11月 集英社文庫)
* ひとつ目女(2008年11月 文藝春秋 / 2011年11月 文春文庫)
* チベットのラッパ犬(2010年8月 文藝春秋 / 2013年2月 文春文庫)
* ナマコ(2011年4月 講談社 / 2016年7月 講談社文庫)
* そらをみてますないてます(2011年10月 文藝春秋 / 2014年5月 文春文庫)
* アイスプラネット(2014年2月 講談社)
* 埠頭三角暗闇市場(2014年7月 講談社 / 2017年11月 講談社文庫)
* EVENA(2015年1月 文藝春秋/ 2020年11月 集英社文庫)
* ケレスの龍(2016年7月 角川書店)
==== 短編連作・短編集 ====
* ジョン万作の逃亡(1982年8月 角川書店 / 1984年3月 角川文庫 / 1996年2月 角川文庫【新装版】)
** 収録作品:悶絶のエビフライライス / 米屋のつくったビアガーデン / ラジャダムナン・キック / ブンガク的工事現場 / ジョン万作の逃亡
* シークがきた(1983年6月 [[徳間書店]])
** 【改題】雨がやんだら(1987年11月 新潮文庫)
*** 収録作品:いそしぎ / うふ。うふうふ。 / 巣走屋本店 / 雨がやんだら / 生還 / 歩く人 / シークがきた / 急行のりと3号 / 栽培講座
* 蚊(1984年7月 新潮社 / 1987年6月 新潮文庫)
** 収録作品:真実の焼うどん / さすらいのデビルクック / 戸間袋急行 / 山田の犬 / 蚊 / 海をみにいく / よろこびの渦巻 / 波涛のむこう側 / 日本読書公社
* 菜の花物語(1987年9月 集英社 / 1990年10月 集英社文庫)
** 収録作品:菜の花 / 蝉 / ねずみ坂小画廊 / 人工海岸 / なつかしい眼をした女 / 犬と奥さん / 足首の問題 / ヘッドランプ / この3月は… / 午後のインタビュー / 雨
* さよなら、海の女たち(1988年9月 集英社 / 1991年11月 集英社文庫)
** 収録作品:グンジョー色の女 / 伊勢海老騒動 / 珊瑚礁の女 / 七面鳥ホテル / 座間味にて / 貝の踊り / 秀さんの女房 / あつい冬 / 秘密宅急便 / 3分間のサヨウナラ
* ねじのかいてん(1989年2月 講談社 / 1992年2月 講談社文庫)
** 収録作品:ねじのかいてん / 水域 / パンツをはいたウルトラマン / ニワトリ / 二年C組 / ゴミ / 月の夜 / 選考経過 / 背護霊だかんな。
* 土星を見るひと(1989年3月 新潮社 / 1992年6月 新潮文庫)
** 収録作品:うねり / 壁の蛇 / クックタウンの一日 / 桟橋のむこう / コッポラコートの私小説 / ボールド山に風が吹く / 土星を見るひと
* 胃袋を買いに。(1991年5月 文藝春秋 / 1994年4月 文春文庫)
** 収録作品:家族陥没 / アルヒ…。 / デルメルゲゾン / 箱の中 / 足 / にぎやかな夜 / 胃袋を買いに / 猫舐祭 / 八灘海岸 / 引綱軽便鉄道 / ループ橋の人々
* ハマボウフウの花や風(1991年10月 文藝春秋 / 1994年9月 文春文庫)
** 収録作品:倉庫作業員 / 皿を洗う / 三羽のアヒル / ハマボウフウの花や風 / 温泉問題 / 脱出
* 地下生活者(1993年2月 集英社)
** 【改題】地下生活者・遠灘鮫腹海岸(1996年12月 集英社文庫)
*** 収録作品:遠灘鮫腹海岸 / 地下生活者
* 中国の鳥人(1993年7月 新潮社 / 1997年1月 新潮文庫)
** 収録作品:中国の鳥人 / 月下の騎馬清掃団 / 思うがままの人生 / ちくわ / 蚊無し川 / たどん / 鯨女 / スキヤキ
* はるさきのへび(1994年5月 集英社 / 1997年6月 集英社文庫)
** 収録作品:階段の上の海 / 海ちゃん、おはよう / 娘と私
* 猫殺し その他の短篇(1994年10月 文藝春秋)
** 【改題】トロッコ海岸(1997年9月 文春文庫)
*** 収録作品:猫殺し / トロッコ海岸 / デカメロン / ほこりまみれ / ポウの首 / 蛇の夢 / 椿の花が咲いていた。 / 殺人との接近 / 謎の解明 / 道の記憶 / 映写会
* 鉄塔のひと その他の短篇(1994年11月 新潮社 / 1997年12月 新潮文庫)
** 収録作品:ねずみ / 妻 / とかげ / おいでよ / やもり / 抱貝 / 風雲欅台住宅 / 風呂とユーレイ / 鉄塔のひと / たんねん洞
* みるなの木(1996年12月 早川書房 / 2000年4月 ハヤカワ文庫)
** 収録作品:みるなの木 / 赤腹のむし / 南天爆裂サーカス団 / 管水母 / 針女 / 幽霊 / 突進 / 巣 / 聞き書き巷の達人 / 漂着者 / 出歯出羽虫 / 対岸の繁栄 / 海月狩り / 餛飩商売
* 問題温泉(1999年11月 文藝春秋 / 2002年12月 文春文庫)
** 収録作品:ブリキの領袖 / 考える巨人 / 狸 / 机上の戦闘 / 料理女 / 鳥人口伝 / 飛ぶ男 / 熱風 / 問題温泉 / Mの超能力 / 三角洲 / じやまんの螺旋装置 / アルキメデスのスクリュウ
* もう少しむこうの空の下へ(2000年7月 講談社 / 2003年8月 講談社文庫)
** 収録作品:島の映画会 / 海彦山彦 / 島の女 / 花火のまつり / 窓のむこうの夜の海 / 新しい町のふるい海 / 海ぞいの町 / 寺泊にて / 木の踊り / 遠い不安 / 風に舞う島 / 海の贈りうた / そこにいけば…
* 春画(2001年2月 集英社 / 2004年2月 集英社文庫)
** 収録作品:春画 / 家族 / 青空 / 秘密 / 海流 / 風琴 / 暗闘
* 飛ぶ男、噛む女(2001年10月 新潮社 / 2004年11月 新潮文庫)
** 収録作品:飛ぶ男、噛む女 / すだま / 洞喰沢 / 樹の泪 / ぐじ / オングの第二島
* モヤシ(2003年4月 講談社 / 2006年4月 [[講談社文庫]])
** 収録作品:モヤシ / モズク
* 銀天公社の偽月(2006年9月 新潮社 / 2009年11月 新潮文庫)
** 収録作品:滑騙の夜 / 銀天公社の偽月 / 爪と咆哮 / ウポの武器店 / 塔のある島 / 水上歩行機 / 高い木の男
* 屋上の黄色いテント(2010年2月 柏艪舎)※画:ロール・デュファイ
** 収録作品:飛んでいった赤テント / 炎名寺の夜 / ある日 / サーカスのラッパ犬 / パリの裸の王様 / 銀座の貧乏の物語 / 屋上の黄色いテント
==== 作品集・自選集 ====
* 屋根の上の三角テント 日常小説ベスト・セレクション(1997年4月 新潮社)
** 収録作品:米屋のつくったビアガーデン / 土星を見るひと / きんもくせい / ガク物語 / ハーケンと夏みかん / 蝉 / 三分間のサヨウナラ / カイチューじるこ / ハマボウフウの花や風 / 皿を洗う
* 机の中の渦巻星雲 超常小説ベスト・セレクション(1997年4月 新潮社)
** 収録作品:いそしぎ / ジョン万作の逃亡 / 雨がやんだら / 蚊 / 水域 / 胃袋を買いに。 / アルヒ…。 / 武装島田倉庫 / 猫舐祭 / スキヤキ / みるなの木 / ねずみ / 妻 / 餛飩商売
* 超常小説ベストセレクションI 月の夜のわらい猫(2012年5月 柏艪舎)
** 収録作品:雨がやんだら / 蚊 / 生還 / 管水母 / 餛飩商売 / 水域 / 胃袋を買いに。 / 考える巨人 / 問題食堂
* 超常小説ベストセレクションII 水の上で火が踊る(2012年5月 柏艪舎)
** 収録作品:いそしぎ / ぐじ / みるなの木 / 突進 / 猫舐祭 / ねじのかいてん / 三角州 / 青野浩の優雅でもなければ退屈でもないありふれた午後
* 椎名誠 超常小説ベストセレクション(2016年11月 角川文庫)
** 収録作品:いそしぎ / 雨がやんだら / 蚊 / 胃袋を買いに。 / ニワトリ / ねじのかいてん / 猫舐祭 / スキヤキ / 中国の鳥人 / みるなの木 / ねずみ / 赤腹のむし / 海月狩り / 抱貝 / 餛飩商売 / 漂着者 / 飛ぶ男 / ぐじ / 問題食堂
* 椎名誠[北政府]コレクション(2019年7月 集英社文庫)
** 収録作品:猫舐祭 / みるなの木 / 赤腹のむし / 滑騙の夜 / 海月狩り / 餛飩商売 / 水上歩行機 / ウポの武器店 / 遠灘鮫腹海岸 / 爪と咆哮 / スキヤキ
=== エッセイ・紀行文 ===
==== 1970・1980年代 ====
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align:left">1970・1980年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
;1979年
:* 『[[さらば国分寺書店のオババ]]』 情報センター出版局、1979年11月、のち角川文庫、新潮文庫
:
;1980年
:* 『わしらは怪しい探険隊』 角川文庫、1980年3月
:* 『気分はだぼだぼソース』 情報センター出版局、1980年8月、のち新潮文庫
:
;1981年
:* 『かつをぶしの時代なのだ』 情報センター出版局、1981年4月、のち集英社文庫
:* 『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』 本の雑誌社、1981年4月、のち集英社文庫
:
;1982年
:* 『場外乱闘はこれからだ』 文藝春秋 1982年6月、のち文庫
:* 『地球どこでも不思議旅』 小学館、1982年11月、のち集英社文庫
:
;1983年
:* 『風にころがる映画もあった』 情報センター出版局、1983年4月、のち角川文庫
:
;1984年
:* 『インドでわしも考えた』 小学館、1984年2月、のち集英社文庫
:* 『赤眼評論』 文藝春秋、1984年2月、のち文庫
:* 『日本細末端真実紀行』 JTB出版局、1984年3月、のち角川文庫
:* 『風景進化論』 情報センター出版局、1984年3月、のち新潮文庫
:* 『あやしい探検隊 北へ』 情報センター出版局、1984年5月、のち角川文庫
:* 『むははは日記』 本の雑誌社、1984年9月、のち角川文庫
:* 『イスタンブールでなまず釣り。』 情報センター出版局、1984年10月、のち文春文庫
:
;1985年
:* 『全日本食えばわかる図鑑』 小学館、1985年3月
:* 『あやしい探検隊 不思議島へ行く』 光文社、1985年9月、のち角川文庫
:* 『シベリア夢幻 零下59度のツンドラを行く』 情報センター出版局、1985年12月、のち『零下59度の旅』と改題、集英社、集英社文庫、1991年
:
;1986年
:* 『むはの断面図』 本の雑誌社、1986年4月
:* 『フグと低気圧』 講談社、1986年9月、のち文庫
:* 『海を見にいく』 本の雑誌社、1986年12月
:
;1987年
:* 『パタゴニア-あるいは風とタンポポの物語り』 情報センター出版局、1987年5月、のち集英社文庫
:* 『ロシアにおけるニタリノフの便座について』 新潮社、1987年7月、のち文庫
:* 『少年の夏』 徳間書店、1987年7月、のち新潮文庫
:* 『活字のサーカス -面白本大追跡-』 [[岩波書店]]、[[岩波新書]]、1987年10月
:* 『シベリア追跡』 小学館、1987年11月、のち集英社文庫
:
;1988年
:* 『ハーケンと夏みかん』 [[山と渓谷社]]、1988年5月、のち集英社文庫
:* 『熱風大陸 ダーウィンの海をめざして』 講談社、1988年4月、のち文庫
:
;1989年
:* 『風の国へ』 朝日新聞社、1989年9月、のち『風の国へ・駱駝狩り』と改題、新潮社、新潮文庫、1994年
:* 『駱駝狩り』 朝日新聞社、1989年9月
:* 『酔眼装置のあるところ』 本の雑誌社、1989年12月、のち『ばかおとっつあんにはなりたくない』と改題、角川書店、角川文庫、2003年
:
</div>
</div>
==== 1990年代 ====
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align:left">1990年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
;1990年
:* 『小さなやわらかい午後』 本の雑誌社、1990年5月
:* 『街角で笑う犬』 朝日新聞社、1990年6月
:
;1991年
:* 『あやしい探検隊 アフリカ乱入』 山と渓谷社、1991年2月、のち角川文庫
:* 『ナマコもいつか月を見る』 1991年4月
:
;1992年
:* 『草の海 モンゴル奥地への旅』 集英社、1992年1月、のち文庫
:* 『むはの迷走』 本の雑誌社、1992年4月、のち『やっとこなあのぞんぞろり』と改題、角川書店、角川文庫、2003年
:* 『南島だより』 マガジンハウス、1992年5月、のち『南島ぶちくん騒動』と改題、[[幻冬舎]]、幻冬舎文庫、2001年
:* 『ひるめしのもんだい』 文藝春秋、1992年7月、のち文庫
:* 『草の国の少年たち』 朝日新聞社、1992年12月、のち『ナラン 草の国の少年たち』と改題、新潮社、新潮文庫、1996年
:* 『ねむたいライオン』 朝日新聞社、1992年12月
:
;1993年
:* 『おろかな日々』 文藝春秋、1993年3月、のち文庫
:* 『フィルム旅芸人の記録』 1993年6月、のち集英社文庫
:* 『モンパの木の下で』 文藝春秋、1993年12月、 のち文庫
:
;1994年
:* 『ガリコン式映写装置』 本の雑誌社、1994年4月
:* 『南国かつおまぐろ旅』 文藝春秋、1994年7月
:* 『蚊學ノ書』 [[夏目書房]]、1994年10月
:
;1995年
:* 『ネコの亡命』 文藝春秋、1995年3月、のち文庫、1998年3月
:* 『むはの哭く夜はおそろしい』 本の雑誌社、1995年4月、のち『本などいらない草原ぐらし』と改題、角川書店、角川文庫、2006年11月
:* 『馬追い旅日記』 集英社、1995年6月、のち文庫、1999年3月
:* 『あやしい探検隊 焚火酔虎伝』 山と渓谷社、1995年9月、のち角川文庫、1998年10月
:* 『時にはうどんのように』 文藝春秋、1995年11月、のち文庫、1998年8月
:* 『でか足国探検記』 新潮社、1995年12月、のち文庫、1998年11月
:* 『椎名誠写真館』 朝日文芸文庫、1995年12月
:
;1996年
:* 『カープ島サカナ作戦』 文藝春秋、1996年7月、のち文庫、1999年7月
:* 『麦酒主義の構造とその応用力学』 集英社、1996年7月、のち『麦酒主義の構造とその応用胃学』と改題、集英社、集英社文庫、2000年10月
:* 『自走式漂流記 1944-1996』 新潮文庫、1996年9月
:* 『風の道 雲の旅』 [[晶文社]]、1996年10月、のち集英社文庫、2004年10月
:
;1997年
:* 『むはのむは固め』 本の雑誌社、1997年4月、のち『くねくね文字の行方』と改題、角川書店、角川文庫、2004年6月
:* 『ギョーザのような月がでた』 文藝春秋、1997年7月、のち文春文庫、2000年7月
:* 『あるく魚とわらう風』 集英社、1997年12月、のち文庫、2001年2月
:
;1998年
:* 『旅の紙芝居』 朝日新聞社、1998年3月、のち文庫、2002年10月
:* 『砂の海 楼蘭・タクラマカン砂漠探検記』 新潮社、1998年3月、のち文庫、2000年11月
:* 『突撃 三角ベース団』 文藝春秋、1998年7月 のち文庫、2001年6月
:* 『怒涛の編集後記』 本の雑誌社、1998年10月
:* 『活字博物誌』 岩波書店、岩波新書、1998年10月
:* 『あやしい探検隊 バリ島横恋慕』 山と渓谷社、1998年11月、のち角川文庫、2002年1月
:* 『風がはこんでくるもの』 本の雑誌社、1998年12月
:
;1999年
:* 『むは力』 本の雑誌社、1999年4月、のち『麦酒泡之介的人生』と改題、角川書店、角川文庫、2010年4月
:* 『とんがらしの誘惑』 文藝春秋、1999年5月、のち文庫、2002年5月
:* 『南洋犬座 100絵100話』 集英社、1999年6月、のち文庫、2002年8月
:* 『春夏秋冬いやはや隊が行く』 講談社、1999年9月
:
</div>
</div>
==== 2000年代 ====
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align:left">2000年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
;2000年
:* 『くじらの朝がえり』 文藝春秋、2000年3月
:* 『にっぽん・海風魚旅 怪し火さすらい編』 講談社、2000年6月
:* 『ここだけの話』 本の雑誌社、2000年8月
:* 『すっぽんの首』 文藝春秋、2000年10月
:
;2001年
:* 『焚火オペラの夜だった』 文藝春秋、2001年1月
:* 『日焼け読書の旅かばん』 本の雑誌社、2001年4月 のち『旅に出る ゴトゴト揺られて本と酒』として、ちくま文庫、2014年
:* 『波のむこうのかくれ島』 新潮社、2001年5月
:* 『海浜棒球始末記 ウ・リーグ熱風録』 文藝春秋、2001年6月
:* 『からいはうまい アジア突撃激辛紀行』 小学館、2001年7月
:
;2002年
:* 『ハリセンボンの逆襲』 文藝春秋、2002年1月
:* 『風まかせ写真館』 朝日新聞社、2002年3月 のち朝日文庫、2005年8月
:* 『風のかなたのひみつ島』 新潮社、2002年7月
:* 『ぶっかけめしの午後』 文藝春秋、2002年10月
:* 『絵本たんけん隊:小さなまぶしいタカラモノをさがしに…』、クレヨンハウス、2002年12月 のち『絵本たんけん隊』として角川書店から再刊、角川文庫、2012年
:
;2003年
:* 『いっぽん海ヘビトンボ漂読記』 本の雑誌社、2003年4月
:* 『活字の海に寝ころんで』 岩波書店、2003年7月
:* 『地球の裏のマヨネーズ』 文藝春秋、2003年8月
:* 『秘密のミャンマー』 小学館、2003年10月 のち小学館文庫、2006年10月
:* 『にっぽん・海風魚旅2 くじら雲追跡編』 講談社、2003年10月 のち講談社文庫、2007年2月
:* 『まわれ映写機』 幻冬舎、2003年11月 のち幻冬舎文庫、2007年2月
:* 『笑う風ねむい雲』、晶文社、2003年12月 のち集英社より再刊、集英社文庫、2015年
:
;2004年
:* 『ただのナマズと思うなよ』 文藝春秋、2004年9月
:* 『にっぽん・海風魚旅3 小魚びゅんびゅん荒波編』 講談社、2004年11月 のち講談社文庫、2008年1月
:* 『メコン・黄金水道をゆく』 集英社、2004年12月
:
;2005年
:* 『にっぽん・海風魚旅4 大漁旗ぶるぶる乱風編』 講談社、2005年4月
:* 『全日本食えば食える図鑑』 新潮社、2005年7月
:* 『海浜棒球始末記 その弐 世界おしかけ武者修行』 文藝春秋、2005年7月
:* 『読書歯車のねじまき仕事』 本の雑誌社、2005年7月
:* 『ひとりガサゴソ飲む夜は…』 角川書店、2005年9月 のち角川文庫、2010年1月
:* 『にっぽん・海風魚旅5 南シナ海ドラゴン編』 講談社、2005年10月
:* 『真昼の星 熱中大陸紀行』 小学館、2005年12月
:
;2006年
:* 『極北の狩人 アラスカ、カナダ、ロシアの北極圏をいく』 講談社、2006年6月
:* 『どうせ今夜も波の上』 文藝春秋、2006年8月
:* 『ONCE UPON A TIME』 本の雑誌社、2006年11月
:
;2007年
:* 『ワニのあくびだなめんなよ』 文藝春秋、2007年5月
:* 『ごんごんと風にころがる雲をみた。』 柏艪社、2007年6月 のち角川文庫、2010年11月
:* 『らくだの話 そのほか』 本の雑誌社、2007年6月
:* 『たき火をかこんだがらがらどん』 小学館、2007年6月 のち小学館文庫、2010年8月
:* 『玉ねぎフライパン作戦』 角川書店、2007年11月 のち角川文庫、2011年7月
:* 『トンカチからの伝言』 文藝春秋、2007年12月
:
;2008年
:* 『わしらは怪しい雑魚釣り隊』 [[マガジン・マガジン]]、2008年2月
:* 『ニッポンありゃまあお祭り紀行』 カラット、2008年3月 のち講談社文庫『ニッポンありゃまあお祭り紀行 春夏編』 、2011年4月
:* 『ニッポンありゃまあお祭り紀行 秋冬編』、講談社、講談社文庫、2011年9月
:* 『すすれ! 麺の甲子園』 新潮社、2008年4月
:* 『長さ一キロのアナコンダ』 早川書房、2008年5月(【改題】『長さ一キロのアナコンダがシッポを噛まれたら』角川文庫、2017年9月)
:* 『「十五少年漂流記」への旅』 [[新潮選書]]、2008年5月
:* 『ナマコのからえばり』 [[毎日新聞社]]、2008年7月 のち集英社文庫、2010年8月
:
;2009年
:* 『ももんがあ からっ風作戦』 文藝春秋、2009年1月
:* 『続 怪しい雑魚釣り隊 サバダバサバダバ篇』 マガジン・マガジン、2009年6月
:* 『本日7時居酒屋集合! ナマコのからえばり2』 毎日新聞社、2009年6月
:
</div>
</div>
==== 2010年代 ====
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align:left">2010年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
;2010年
:* 『活字たんけん隊 -めざせ、面白本の大海』 岩波新書、2010年1月
:* 『いいかげんな青い空』 朝日新聞出版、2010年1月
:* 『世界どこでもずんがずんが旅』 角川書店、2010年1月
:* 『波照間の怪しい夜』 [[雷鳥社]]、2010年2月
:* 『五つの旅の物語』 講談社、2010年2月
:* 『コガネムシはどれほど金持ちか ナマコのからえばり3』 毎日新聞社、2010年3月
:* 『アザラシのひげじまん』 文藝春秋、2010年4月
:* 『北への旅 なつかしい風にむかって』 講談社、2010年2月
:* 『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり4』 毎日新聞社、2010年12月
:
;2011年
:* 『ごっくん青空』 文藝春秋、2011年5月
:* 『水惑星の旅』 新潮選書、2011年5月
:* 『風を見にいく』 光文社、2011年8月
:* 『下駄でカラコロ朝がえり ナマコのからえばり5』 毎日新聞社、2011年9月
:* 『あやしい探検隊 北海道物乞い旅』 角川書店、2011年9月
:* 『わしらは怪しい雑魚釣り隊 エピソード3 マグロなんかが釣れちゃった篇』 マガジン・マガジン、2011年10月
:* 『足のカカトをかじるイヌ』 本の雑誌社、2011年11月
:
;2012年
:* 『国境越え』 新潮社、2012年3月 文庫 2015
:* 『うれしくて今夜は眠れない ナマコのからえばり6』 毎日新聞社、2012年5月
:* 『どーしてこんなにうまいんだあ!』 [[マキノ出版]]、2012年7月
:* 『ガス燈酒場によろしく』 文藝春秋、2012年8月
:
;2013年
:* 『にっぽん全国百年食堂』 講談社、2013年1月
:* 『流木焚火の黄金時間 ナマコのからえばり7』 毎日新聞社、2013年3月
:* 『ぼくがいま、死について思うこと』 新潮社、2013年4月(新潮文庫、2015年12月)
:* 『おれたちを笑うな! -わしらは怪しい雑魚釣り隊』 小学館、2013年7月
:* 『風景は記憶の順にできていく』 [[集英社新書]]、2013年7月
:* 『あやしい探検隊 済州島乱入』 角川書店、2013年8月
:* 『さらば[[新宿赤マント]]』 文藝春秋、2013年10月(文春文庫、2015年9月)
:* 『殺したい蕎麦屋』 新潮社、2013年12月(新潮文庫、2016年5月)
:
;2014年
:* 『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい。』 早川書房、2014年9月 ISBN 978-4152094834(角川文庫、2018年9月)
:* 『ぼくは眠れない』 新潮社、2014年11月 ISBN 9784106105937
:
;2015年
:* 『アイスランド 絶景と幸福の国へ』 日経[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]社、2015年1月
:* 『単細胞にも意地がある』 毎日新聞社、2015年3月(集英社文庫、2018年1月)
:* 『奇食珍食 糞便録』 集英社新書、2015年8月
:* 『おれたちを笑え! -わしらは怪しい雑魚釣り隊』 小学館、2015年10月 ISBN 9784093798754
:* 『雨の匂いのする夜に』 朝日新聞出版、2015年11月 ISBN 9784023314504
:* 『おなかがすいたハラペコだ。』 [[新日本出版社]]、2015年12月 ISBN 9784406059510(集英社文庫、2019年3月)
:
;2016年
:* 『あやしい探検隊 台湾ニワトリ島乱入』 角川書店、2016年3月 ISBN 9784041033807
:* 『すばらしい黄金の暗闇世界』 日経ナショナルジオグラフィック社、2016年6月
:* 『かぐや姫はいやな女』 新潮社、2016年12月(新潮文庫、2019年8月)
:
;2017年
:* 『おれたちを跨ぐな! -わしらは怪しい雑魚釣り隊』 小学館、2017年8月 ISBN 9784093798952
:* 『北の空と雲と』 PHP研究所、2017年11月
:* 『犬から聞いた話をしよう』 新潮社、2017年12月 ISBN 978-4103456254
:
;2018年
:* 『あるいて行くとぶつかるんだ』 KADOKAWA、2018年3月 ISBN 978-4041064450
:* 『おなかがすいたハラペコだ。2 おかわりもういっぱい』 新日本出版社、2018年5月 ISBN 978-4406062503
:* 『旅先のオバケ』 集英社、2018年6月 ISBN 978-4087711318
:* 『本の夢 本のちから』 新日本出版社、2018年9月 ISBN 978-4406062817
:* 『われは歌えどもやぶれかぶれ』 集英社、2018年12月 ISBN 978-4087711721
:
;2019年
:* 『世界の家族 家族の世界』 新日本出版社、2019年1月 ISBN 978-4406063326
:* 『わが天幕焚き火人生』 産業編集センター、2019年3月 ISBN 978-4863112162
:* 『旅の窓からでっかい空をながめる』 新日本出版社、2019年6月 ISBN 978-4406063579
:* 『この道をどこまでも行くんだ』 新日本出版社、2019年9月
:
</div>
</div>
==== 2020年代 ====
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align:left">2020年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
;2022年
:* 『失踪願望。コロナふらふら格闘編』 集英社、2022年11月
</div>
</div>
=== 絵本・童話・児童書 ===
* 椎名誠・沢野ひとし 『なつのしっぽ』 講談社、1990.4
* 椎名誠・[[たむらしげる]] 『ドス・アギラス号の冒険』 [[リブロポート]]、1991.11 のち[[偕成社]]より増訂版が刊行
* 椎名誠・[[垂見健吾]] 『3わのアヒル』 講談社、1994.10
* 椎名誠・[[松岡達英]] 『アメンボ号の冒険』 講談社 1999.7 のち講談社文庫、2006.7
* 椎名誠・[[村上康成]] 『めだかさんたろう』 講談社、2000.8
* 椎名誠 『冒険にでよう』 岩波書店、[[岩波ジュニア新書]]、2005.6
* 本田亮・椎名誠 『エコノザウルスカウントダウン』 小学館、2008.6
* [[及川賢治]]・椎名誠 『めしもり山のまねっこ木』 [[国書刊行会]]、2009.1
* 椎名誠・[[和田誠]] 『みんな元氣だ : わたしが見てきた野生動物』 [[文化出版局]]、2010.2
* 椎名誠・[[塚本やすし]] 『おっちゃん山』 [[新日本出版社]]、2018.5
=== 専門書 ===
* 『クレジットとキャッシュレス社会』 教育社、1979年2月
* 『クレジットカードの実務知識』 日本実業出版社、1979年6月
* 『大規模小売店と流通戦争』 教育社、1979年7月
=== 共編著 ===
* 日本ペンクラブ編 椎名誠選 『素敵な活字中毒者』 集英社、集英社文庫、1983.1
* 『男たちの真剣おもしろ話』 [[実業之日本社]]、1983.2 のち角川文庫
** 対談:[[山下洋輔]]、[[東海林さだお]]、[[三遊亭円丈]]、[[山藤章二]]、[[村松友視]]、[[黒田征太郎]]、[[倉本聰]]、[[沢野ひとし]]、[[赤瀬川原平|尾辻克彦]]、[[小林信彦]]、[[野田秀樹]]、[[砂川しげひさ]]、[[石川次郎]]、[[鶴見俊輔]]
* 『いまこの人が好きだ!』 新潮社、1983.3 のち文庫
** 撰者。鼎談解説:[[鏡明]]、[[目黒考二]]、椎名誠
* 椎名誠・中村征夫 『ネックレス・アイランド』 駸々堂出版、1984.7
* 『ホネのような話 : 対談集』 [[東京書籍]]、1989.8 のち角川文庫
** 対談:東海林さだお、[[井上ひさし]]、沢野ひとし、[[木村晋介]]、[[島森路子]]、[[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]]、中村征夫、[[C・W・ニコル]]、[[野田知佑]]、[[藤門弘]]、[[湯川れい子]]、[[中沢正夫]]、[[竹下景子]]、[[干刈あがた]]
* 椎名誠・中村征夫 『あやしい探検隊 海で笑う』 情報センター出版局、1988.9 のち角川文庫
** 写真:中村征夫 巻末に両者による対談を収録
*椎名誠他 『発作的座談会』 本の雑誌社、1990.11 のち角川文庫
** 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 沢野ひとし・椎名誠 『私広告』 本の雑誌社、1993
* 『日本の名随筆 別巻 40 青春』 [[作品社]]、1994
* 渡辺一枝・椎名誠 『眺めのいい部屋』 集英社、1995.2
* 椎名誠他 『いろはかるたの真実「発作的座談会」』 本の雑誌社、1996.4 のち角川文庫
** 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 椎名誠編著 『鍋釜天幕団フライパン戦記:あやしい探検隊青春篇』本の雑誌社、1996.7 のち角川文庫
** 対談:沢野ひとし
* 椎名誠・林政明 『あやしい探検隊焚火発見伝』 小学館、1996.10 のち小学館文庫
* 東海林さだお・椎名誠 『人生途中対談』 文藝春秋、1996.10 のち 『シーナとショージの発奮忘食対談』と改題 のち『大日本オサカナ株式会社』と再改題
* 沢野ひとし他 『沢野絵の謎』 本の雑誌社、1997.12
** 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 椎名誠他 『これもおとこのじんせいだ!』 本の雑誌社、1998.3
** リレーエッセイ集:椎名誠、沢野ひとし、木村晋介、目黒考二、中村征夫、[[太田和彦]]
* ビールうぐうぐ対談 文藝春秋、1999年3月、のち文庫、2002年7月
** 対談:東海林さだお
* 椎名誠編著 『鍋釜天幕団ジープ焚き火旅 : あやしい探検隊さすらい篇』 本の雑誌社、1999.8
** 対談:目黒考二
* 椎名誠他 『超能力株式会社の未来 : 新発作的座談会』 本の雑誌社 2000.6
** 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 東海林さだお・椎名誠 『やぶさか対談』 講談社、2000.12 のち講談社文庫
* 東海林さだお・椎名誠 『太っ腹対談』 講談社、2002.5
* 椎名誠他 『新・これもおとこのじんせいだ!』 本の雑誌社、2003.2
** リレーエッセイ集:椎名誠、沢野ひとし、木村晋介、中村征夫、[[かなざわいっせい]]、[[太田篤哉]]、目黒考二
* 椎名誠・[[和田誠]] 『誠の話』 角川書店、2004.5
* 椎名誠他 『帰ってきちゃった発作的座談会 : 「超常的空論」ファイナル』 本の雑誌社、2009.10
** 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 沢野ひとし他『沢野字の謎』本の雑誌社 2000.10
** 沢野ひとし 木村晋介 椎名誠 目黒考二
*椎名誠・目黒考二『本人に訊く〈壱〉よろしく懐旧篇』 椎名誠旅する文学館、2016年10月 のち集英社文庫
*椎名誠・目黒考二『本人に訊く〈弐〉おまたせ激突篇』 椎名誠旅する文学館、2017年4月 のち集英社文庫
=== アンソロジー ===
「」内が椎名誠の作品。
* 中吊り小説(1991年 新潮社 / 1994年12月 新潮文庫)「ある日。」
* 家族の絆(1997年6月 光文社文庫)「きんもくせい」※選も椎名誠
* 東京小説(2000年4月 紀伊國屋書店 / 2003年4月 角川文庫 / 2013年12月 日経文芸文庫)「屋上の黄色いテント」
* 海の物語(2001年7月 角川書店)「パワン島にて」
* 銀座24の物語(2001年8月 文藝春秋 / 2004年12月 文春文庫)「銀座の貧乏の物語」
* 短編復活(2002年11月 集英社文庫)「猫舐祭」
* パリよ、こんにちは(2005年12月 角川書店)「パリの裸の王様」
* きみに贈るつばさ物語(2009年3月 角川グループパブリッシング)「働く子どもたち」
* とっさの方言(2012年8月 ポプラ文庫)「かごむ」
* アンソロジー お弁当。(2013年8月 パルコ)「早弁の発作的追憶」
* アンソロジー ビール(2014年7月 パルコ)「生のモンダイ」
* 作家の履歴書(2014年2月 KADOKAWA / 2016年4月 角川文庫)
* ずるずる、ラーメン(2014年6月 河出書房新社)「駅裏路地裏裏ラーメンの謎」
* 麺と日本人(2015年4月 角川文庫)「うどんのお詫び」
* ぱっちり、朝ごはん(2015年4月 河出書房新社)「二日酔いの朝めしくらべ(国際篇)」
* 本なんて!作家と本をめぐる52話(2015年7月 キノブックス)「捜しものはなんですか」
* 冒険の森へ 傑作小説大全 15 波浪の咆哮(2016年4月 集英社)「水域」
* アンソロジー 餃子(2016年4月 パルコ)「ギョーザライス関脇陥落?」
* 〆切本2(2017年10月 左右社)「嫌になった、そのときに」
* ほろ酔い天国(2018年5月 河出書房新社)「嬉しい酒と悲しい酒」
* 短編アンソロジー 味覚の冒険(2018年10月 集英社文庫)「スキヤキ」
* 短編アンソロジー 患者の事情(2018年12月 集英社文庫)「パンツをはいたウルトラマン」
===翻訳書===
* [[アレン・セイ]] 『はるかな湖』 椎名誠訳、徳間書店、1999.2
* [[ジュール・ヴェルヌ]] 『十五少年漂流記』 椎名誠訳・渡辺葉訳、新潮社、2015年8月 ISBN 978-4-10-591004-4
=== 映像化された作品 ===
==== 映画化 ====
椎名自身による映画化作品は[[#映画]]を参照。
* [[白い手]](1990) 監督:[[神山征二郎]]
* [[息子 (映画)|息子]](1991) 監督:[[山田洋次]](原作「倉庫作業員」)
* [[怖がる人々]](1994) 監督:[[和田誠]](全5話のオムニバス。第1話「箱の中」)
* [[中国の鳥人 (映画)|中国の鳥人]](1998)監督:[[三池崇史]]
* [[BLUES HARP]](1998)監督:三池崇史
* [[たどんとちくわ]](1998) 監督:[[市川準]](原作「たどん」「ちくわ」)
* [[ぱいかじ南海作戦]](2012) 監督:[[細川徹]]
==== テレビドラマ化 ====
*新橋烏森口青春篇 1988 NHK
*悶え苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵 1990 関西テレビ(監督:[[黒沢清]])
*犬たちとボクの日々 1990 NHK
*よろこびの渦巻 1992 関西テレビ(監督:黒沢清)
*胃袋を買いに 1992 関西テレビ(監督:[[池添博]])
==出演==
===テレビ===
*椎名誠と怪しい探検隊 日本テレビ
*楼蘭 シルクロードに消えた幻の王国 テレビ朝日 1989
*椎名誠の感動2万マイル!「十五少年漂流記」の謎の島を行く 2005
*椎名誠が見た!シベリアの東北 ~極北の狩人を追う~ 東日本放送 2006
* 椎名誠のでっかい旅!(フジテレビ)
** 『椎名誠のでっかい旅! アマゾン謎の森を行く』(2002年11月22日)
** 『椎名誠のでっかい旅! 謎の大河メコンを行く』(2003年9月19日)
** 『椎名誠のでっかい旅! 生命の大河ラプラタと謎の湿原パンタナール』(2005年1月22日)
** 『椎名誠のでっかい旅! 北極海の巨大角クジラ 幻のイッカクを追う!!』(2005年12月23日)
** 『椎名誠のでっかい旅!FINAL 地球最大の火山島アイスランドの謎に迫る』(2014年6月27日)
他多数
=== ラジオ ===
* [[パノラマワイド#コーナー・内包番組|椎名誠の拍手パチパチ人生]] ([[TBSラジオ]])
* 椎名誠的 ラジオ地球の歩き方(ニッポン放送)
* ソニー・デジタルサウンド([[エフエム東京]])
* 椎名誠・株式会社のじゅねーラジオ(FM沖縄)
=== テレビCM ===
* [[EDWIN]]
* [[サントリー]][[ビール|生ビール]]
== 映画 ==
=== 監督作品 ===
すべて「ホネ・フィルム」作品。
* [[ガクの冒険]](1990) 出演:ガク、[[野田知佑]]。音楽:[[高橋幸宏]]。
* [[うみ・そら・さんごのいいつたえ]](1991) 出演:[[余貴美子]]、[[本名陽子]]、[[仲本昌司]]、[[平良進]]、[[平良とみ]]、[[紺野美沙子]]。音楽:高橋幸宏。
* あひるのうたがきこえてくるよ。(1993) 出演:[[柄本明]]、[[小沢昭一]]、[[黒田福美]]、[[萩野純一]]。音楽:高橋幸宏。
* [[白い馬 (1995年の映画)|白い馬]](1995)
* [[しずかなあやしい午後に#遠灘鮫腹海岸|しずかなあやしい午後に 遠野灘鮫原海岸]](1997) 音楽:高橋幸宏。出演:[[林政明]]、[[猪熊寅次郎]]、[[鈴木一功]]、[[河原田ヤスケ]]。
=== 企画・脚色・原作作品 ===
すべて「ホネ・フィルム」作品。
*『[[しずかなあやしい午後に#スイカを買った|しずかなあやしい午後に スイカを買った 沢野ひとし]]』(1997) 監督:[[太田和彦]] 椎名は「企画」担当
*『[[ツェツェルレグ モンゴル草原の花]]』(1997) 椎名は「脚色」担当
*『[[しずかなあやしい午後に#ガクの絵本|しずかなあやしい午後に ガクの絵本]]』(1997) 監督:[[和田誠]] 椎名は「原作」
*『[[中国の鳥人]]』(1998) 監督:[[三池崇史]] 椎名は「原作」
== ビデオ・DVD ==
*ビデオ『椎名誠と怪しい探検隊映画を撮る メイキング・オブ「うみ・そら・さんごのいいつたえ」』 1992
*ビデオ『椎名誠とあやしい探検隊 おれ流outdoor術』1~8 1998
*DVD『椎名誠 焚き火を楽しもう』日本コロムビア、2007年4月
== 関連作品 ==
* 『椎名誠を探せ』 北宋社、1983年4月
* 『椎名誠 熱闘映画術 ドキュメント「うみ・そら・さんごのいいつたえ」』 マガジンハウス、1992年4月 編集:太田和彦 写真:垂見健吾
* [[カミムラ晋作]]『黒と誠 本の雑誌を創った男たち』(双葉社)- 若き時代の椎名と目黒を主人公にした実話漫画
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=椎名誠 |date=1996-09-01 |title=自走式漂流記 1944-1996 |publisher=新潮社 |series=新潮文庫 |isbn=4-10-144818-3 |ref={{SfnRef|椎名|1996}} }}
==関連項目==
{{Div col|cols=2}}
* [[群ようこ]]
* [[中村征夫]]
* [[沢田康彦]]
* [[上原ゼンジ]]
* [[東ケト会]]
* [[昭和軽薄体]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
* [http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/ 椎名誠 旅する文学館]
* [https://blog.excite.co.jp/koushien/ 椎名誠の「麺の甲子園」ブログ]
* [http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi19.html 作家の読書道:第19回 椎名 誠さん]
* [http://www.suntory.co.jp/whisky/museum/know/shiina/vol1/ シングルモルトウイスキーの旅](連載)
* [https://web.archive.org/web/20000520073143/http://www.yomiko.co.jp/hone-film/index.html ホネ・フィルム]
{{吉川英治文学新人賞|第10回}}
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[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-02-14T13:40:35Z | 2023-12-22T13:30:23Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E8%AA%A0 |
1,611 | セガサターン | セガサターン(SEGA SATURN)は、日本においては1994年11月22日にセガ・エンタープライゼスから発売された家庭用ゲーム機である。一般にはサターンもしくはSSの略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。
本体開発に関わった日本ビクター(後のJVCケンウッド)からはVサターン(ブイサターン、V・SATURN)、日立製作所からはHiサターン(ハイサターン、HI SATURN)がそれぞれ互換機として発売された。日本ビクター製、日立製などサターン互換モデル全体としてはシリーズ累計で700万台を突破している。
世界展開したセガ歴代コンソールとしては、「SG-1000」や「セガ・マークIII」を含む「セガ・マスターシステム」シリーズ、「メガドライブ」シリーズや「ゲームギア」、後継機「ドリームキャスト」と比較すると唯一、全世界累計販売台数1,000万台を下回ったハードではあるが、日本市場では長年の競合相手だった任天堂の同世代機を初めて国内販売台数で上回り、セガとして日本市場で最も売れた家庭用ハードである。
2007年9月28日、佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分をもって、セガによる『セガサターン』及び『Dreamcast』本体有償修理が終了した。。
セガサターンの名称は、セガの第六番目のコンシューマゲーム機ということから太陽系第六惑星である土星から付けられた。
2D描画機能は当時のアーケードゲームや競合機と比較しても高水準であり、そのため変形スプライトによる3D描画も出来る。一方で3D表示はCPUによる演算と変形スプライトに頼っているため、3D全体の表現能力では専用ハードウェアを搭載する同時代の競合機であるPlayStationやNINTENDO64に比べ劣っている。
その多彩な機能を支えるべく、多くのLSIに分散された構成となっている。初代機(HST-3200)相当に実装されているLSIはおおよそ以下の通り。他の本体形番ではLSIが異なる。
サターン開発企画当時は、まだMODEL1基板の『バーチャレーシング』が投入された頃で、本格的な3DCGゲームへの移行を実現可能にしたMODEL2基板は存在せず、リサーチ結果でも全てのゲームが3Dになる可能性はせいぜい20から30%という予測だったため、従来型の2Dゲームを開発する際には「メガドライブより桁違いに性能の良いシステム」という側面を伸ばしつつ、MODEL1基板のポリゴンカウントと同程度の相対性能にテクスチャ機能を持たせるなど、2Dと3Dの両機能を重んじた性能にした。
メインCPU(Central Processing Unit)に日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)の32ビットマイコン、SH-2を2基搭載している。SH-2は1992年に登場した制御用マイコンSH-1の後継で、セガサターンに搭載するに当たり、オリジナルのSH-2からいくつかの機能強化が行われている。
SH-2は制御用マイコンであり、16ビット命令語長を基本とするなど小メモリ構成のシステムに向いた特長を持っている。概してこの当時のゲーム機器は限定された環境であり、セガサターンはメインメモリは2Mバイト、キャッシュも4kバイトと小容量だった。
開発はセガ・システム32の開発スタッフを中心に2D描画機能優先で進められた。当初は1CPUのアーキテクチャとして開発が進められたが、競合機であったSCEのPlayStationがより高い演算性能を持つことが判明したこと、また任天堂の次世代機が64ビットCPUを採用するという噂などがあり急遽演算能力の向上を迫られることとなった。当時残された開発期間の短さなどにより、2基のCPUを搭載する方向へとそのアーキテクチャを変更した。
さらにSCU(System Control Unit)内蔵のDMAコントローラやDSPとの連携も可能である。またサブCPUとして、サウンド処理にMC68EC000、CD-ROMドライブの制御にSH-1が搭載されており、各種の処理を並列化する非常に贅沢なアーキテクチャを持つ。
VDP(Video Display Processor)はCPUなどがVDPにデータや命令を送ることで画像の描画や表示を行うデバイスで、セガサターンを特徴付ける描画の多彩さを担っている。セガサターンでは2基のVDPを搭載し、変形スプライト機能(VDP1)と、BG(バックグラウンド画面)機能(VDP2)に処理を分散している。
セガサターンのアーキテクチャにおいて特筆すべき点のひとつとして、同時代の家庭用ゲーム機としては豪華なメモリシステムがある。メインメモリに2Mバイト、ビデオメモリに1.5Mバイト、サウンド、CD-ROMバッファメモリにそれぞれ0.5Mバイトの計4.5Mバイトもの容量を搭載し、なおかつそれぞれの機能ブロックがサブシステムとして独立しているため、各システムが並列的にアクセスすることができた。
特に、プログラムとデータの大部分を格納するメインメモリのうち前半の1Mバイト、およびビデオメモリの全てに高速なSDRAMを用いており、ボトルネックを引き起こしにくい構造としている。メインメモリの後半1Mバイトは通常のDRAMだが、後述するスロットによってROMまたはRAMを拡張することができ、競合機と比較すると潤沢かつ強力なメモリ環境を実現していた。
またCD-ROMサブシステムのバッファメモリによりCD-ROMメディアのアクセス時間が軽減され、特に格闘ゲーム等の頻繁にローディングを要するゲームなどに活用されるなど、競合機でも発売されたゲームソフトと比較するとロード時間が他機種版よりも短い場合が多い。
ソフト媒体として、倍速のCD-ROMドライブを内蔵した。セガサターンのソフトはエラー訂正機能が強く、ムービーのコマ落ちや音飛びなども少ない。ROMカートリッジはスーパーファミコンで1万円以上のソフトも登場するなどメガCD末期からコスト高となっており、コストが安くなっていたCD-ROMにすることが開発早期の段階で決定された。
セガサターン用のCD-ROMは外周に海賊版対策のため「サターンリング」と呼ばれる特殊なデータ領域を持っており、特殊なデータ領域とCD外周部に印刷された文字列を読み込むことでプロテクトチェックを行う。そのため通常のCD-ROMと比べると容量は少ない。
初期のソフトのレーベル面にはカラーの美しいピクチャーレーベルを採用していたが中期以降のソフトは1色か2色の簡易印刷のレーベルに変わっている。
時計機能と本体に保存されたセーブデータはバッテリーバックアップで本体に取り付けられたコイン形リチウム電池によって保たれる。このため、本体にデータを残し続けるためには定期的に電池を交換する必要がある。交換には背面にある蓋を外し、中の設置位置にある電池の切れたものを新品のものと交換するだけでよい。本体のメモリ容量は少なく、電池が切れるとデータもすべて失われるため効率が非常に悪い。そのため、ゲームデータの保存にはパワーメモリーの使用が強く推奨される。また、本体にのみデータが保存されるソフトについては、ゲームを遊び終わった後に本体のオープンボタンを押してメインメニューを開き、そこからデータ管理画面に移動し、本体メモリからパワーメモリーにデータを移し、再開するときは逆順に行うことで続きからプレイできる。
本体上部に、カートリッジを差し込むためのスロットが存在する。
当初はゲームのデータセーブエリアを増やすフラッシュメモリのカートリッジ型メモリーカード「パワーメモリー」のために使われるのが一般的だったが、データの読み込み時間を軽減するためにCD-ROMとロムカートリッジとを併用する「ツインアドバンスドROMシステム」構想が発表され、『ザ・キング・オブ・ファイターズ95』と『ウルトラマン 光の巨人伝説』の2本に採用された。また、特定のゲーム専用のROMではなく、汎用的に扱えるようにサターンのRAMを拡張することで同様の効果を得られる増設メモリ「拡張RAMカートリッジ」が発表され、『メタルスラッグ』等のアクションやCPS-2システムのカプコンの格闘ゲーム等が競合機を上回るアニメーションクオリティで移植されたほか、後にRAM容量を増やした「拡張RAMカートリッジ 4MB」も発売され、『X-MEN VS. STREET FIGHTER』や『マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイター』などに使われた。拡張RAMカートリッジ4MB対応ソフトのほとんどは「専用」であるため、拡張RAM4MB無しではプレイ出来ない。
またこのスロットは、それ以前のゲーム機と同様にロムカセットでソフトを供給することも考慮されており、バス信号のほとんどが出ていたため、メガドライブに接続して性能を向上させる周辺機器メガCDやスーパー32XのようなCPUアクセラレータ、グラフィック機能の拡張なども仕様上は可能だったが、実現には至らなかった。他にカートリッジスロットに周辺機器を接続するものとしてはセガサターンモデムなどがある。
なお、このスロットは従来のROMカートリッジスロットを採用していたゲーム機と比較するとピンの幅が狭く、端子の接触面積が少ないことから接触不良を起こし易いため、拡張RAMカートリッジが必要なソフトをプレイする際などパワーメモリーの抜き差しを繰り返すうちに、パワーメモリー内のセーブデータが全て消去されてしまう可能性があるので、取り扱いには注意が必要である。
国内版としてはセガが発売したセガサターン、日本ビクターが発売したVサターン、日立製作所が発売したHiサターンがある。当初はヤマハからも発売されるとアナウンスされていた。
開発メーカー向けで市販はされていない。通常のサターン相当の機能に加えてCD-R上のプログラムの実行やバグのチェックができる。
セガサターン専用CD-ROMディスクを音楽用CDプレーヤーで再生した時、女性による以下の短めの警告メッセージが2トラック目に流れる。
声優などの音声演出があるゲームを中心に、通常とは異なる警告メッセージに変更されていることもあり、特に『機動戦士ガンダム ギレンの野望』のように警告メッセージだけで1分20秒に及ぶドラマCD並みの長大なものとなっているものもある。タイトルによっては、3トラック目以降にまで音楽データ(主にそのゲームに関連した楽曲)が入っているものまである。
ローンチタイトルは『バーチャファイター』『ワンチャイコネクション』『MYST』『TAMA』『麻雀悟空 天竺』の5タイトル。
セガは当時アーケードの3Dヒット作を多数持っていたため、『デイトナUSA』『バーチャコップ』『ファイティングバイパーズ』『セガラリーチャンピオンシップ』『電脳戦機バーチャロン』など、MODEL2基板タイトルを中心に移植された。
特に代表的なゲームタイトルは『バーチャファイター2』で日本国内ではセガ初のミリオンセラーを記録した。
最後のタイトルは2000年12月7日発売の『悠久幻想曲 保存版 Perpetual Collection』である。
セガサターン用ゲームソフトのジャケットには、以下4種類のうちいずれかのアイコンが記載されており、これによってレイティングを示していた。以下、規制の厳しい順に列挙する。
セガサターンの初期段階では、一部のジャンルのソフトに残虐な暴力や性描写などを理由に18禁(通称:X指定)などの年齢制限(CERO:Z(18才以上のみ対象)ないしCERO:D(17才以上対象)に相当)を設けて販売を許可していた。
消費者の一部には後々性表現を前提としたアダルトゲーム(エロゲー)の移植を期待するユーザーもいたが、1996年頃から「X指定」に区分されるゲームの発売が認められなくなった。
それ以降、暴力・性表現を抑える形で「年齢制限(推奨年齢18才以上)」に限って発売が認められるようになった。
セガは日本国内において、任天堂寄りの玩具問屋団体「初心会」を経由して自社の家庭用ゲーム機とゲームソフトを販売しなければならないことに不満を持っていた。そこでセガは、セガサターンの発売に先立つ1994年9月、セガサターンのハードとソフトを専門に扱う卸売子会社「セガユナイテッド」を設立した。この会社は一次問屋の役割を持つとともに大手ゲーム販売専門店との直接取引を行うもので、いくつかの二次問屋からも出資が行われた。さらにセガはハピネットやムーミンといった非初心会系の玩具問屋を流通システムに取り込むとともに、日立メディアフォースとの提携により家電の販売ルートを、東芝EMIとの提携によりレコードの販売ルートを活用した。これによりセガは日本国内でセガサターンを取り扱う小売店の数を急拡大させた。しかし親会社のソニー・ミュージックエンタテインメントのCD-ROM生産設備を使用できたソニー・コンピュータエンタテインメント(以下、SCE)と異なりセガはCD-ROMの生産設備を所有しなかったため、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできず、見込み生産による投機的ソフト流通という点で任天堂と同じ問題を抱えたままであった。
1997年にセガはセガユナイテッドとムーミンを合併させ、「セガ・ミューズ」へと再編した。セガ・ミューズはSCEの流通システムを模倣し小売店への直販化・直送化を推し進め、リピート発注にかかる期間の短縮を図るとともに、サターンを取り扱う小売店の絞込みを行った。
その一方で、プラットフォームホルダーによるゲームソフト流通のコントロールを嫌った有力ソフトメーカー各社は、コナミが1996年4月からPlayStation用ソフトにおいて自主流通を開始したのを皮切りに、セガ(の卸売子会社)を介さず量販店・大手小売チェーン店に直接ソフトを卸売販売する自主流通を日本国内で開始した。
広告展開の面においては、「コーンヘッド」と呼ばれる頭部の大きい土星人や、「セガール」、「アンソニー」の二匹のチンパンジーによる比較広告などで評判を集めた。メインCPUに32ビットプロセッサSH-2を2基搭載していたことから、セガは「64ビット級」と呼称して宣伝した。
白サターン登場以降は仮面ライダーで有名な藤岡弘、を起用し、さまざまな若者や子供に技をかけ、「セガサターン、シロ!」と叫ぶものや、スケートリンクを裸足で走ったり、瓦を頭で割るといった強烈なインパクトのCMを流した。その後、ゲーム化もされ、せがた三四郎シリーズを展開する。これらはゲームファン層以外にも話題になった。
ほぼ同時期に発売されたPlayStationや後発のNINTENDO64など、当時の「次世代ゲーム機」と呼ばれた機種と共に一時代を築いた。これら3機種の中では最も早く発売し、日本市場においてサターンは発売日に20万台、発売1か月で50万台、6か月でPlayStationよりも先に100万台セールスを達成するなど、セガの歴代コンソールとしては最も好調な売り上げを記録。1996年までは後にトップシェアハードとなるPlayStationよりも普及していた。
ソフトも『バーチャファイター2』の130万本をはじめ『バーチャファイター』『デイトナUSA』『ファイターズメガミックス』『セガラリーチャンピオンシップ』『サクラ大戦2』『スーパーロボット大戦F 完結編』といった50万本を超えるヒット作を排出した。
しかしハード・ソフトの両面からライバル機に対して劣勢になっていった。
こうして、十分な対策と成果を上げられないまま、新たな市場の形成を迫られたセガはサターンの拡販を打ち切り、低コストかつ競合機より強力な後継機「ドリームキャスト」の投入を決断。ドリームキャストが新聞広告で1998年5月22日に発表されてからはサターン市場は多大な影響を受け、1998年6月以降はソフトの出荷本数も大幅に減少したこともあり、1998年には215タイトルがサターンでリリースされたものの、1999年には17本と激減。翌2000年に本体の生産やソフトの開発が終了した。
一方で3Dに特化した競合機のPlayStationやNINTENDO64と違って、旧来のゲーム機を正統進化させたオーソドックスなBG画面とスプライト/ポリゴン機能の両面を活かせるアーキテクチャであり、その性能は既存の2D対戦格闘ゲームやシューティングゲーム等にも適していたこともあって業務用ゲームから数多くのタイトルが移植され、同時代の他機種に移植された同名タイトルと比べても出来が良いと評価されている作品も多かった。同時期に稼働したセガサターン互換のST-V基板からの移植や、『バーチャファイターリミックス』などST-Vとサターンでほぼ同時発売されたソフトもあった。
またコントローラの操作性の評価は高く、純正品はのちに登場したアナログスティックや振動機能はないが、利用者からは「サターンパッド」の愛称で呼ばれている。1997年にはアイ・オー・データ機器より、セガサターン用コントローラをPC用のゲームパッドとして使える拡張ボード「IF-SEGAシリーズ」が発売された。2018年には有志によってこの拡張ボード互換の同人ハードウェアが頒布されている。2004年6月24日に発売された『ぷよぷよフィーバー』にはMac OS X版の同梱用コントローラとして、セガ・ロジスティクスサービスより、セガサターンの純正コントロールパッドと同デザインのゲームパッドがUSB1.1接続仕様で復刻。翌月よりMacintoshとWindows用として単品発売されている。2005年3月24日にPS2用も発売された。
元々セガの歴代家庭用コンソールは海外市場への依存度が非常に高いが、中でもかつてセガが強さを発揮していた北米市場においては、次世代機の発売ではなくこれまで好調だったジェネシス(北米版メガドライブ)市場を保持する判断を下したセガ・オブ・アメリカが主導で開発したスーパー32Xを投入。
セガ・オブ・アメリカはサターンの1996年発売を主張したものの、その意向に反して1995年5月に急遽サターンを発売することになった経緯があり、そのため、主に北米市場で絶大な人気を誇っている「ソニックシリーズ」作品がスーパー32Xで発売され、サターンへの投入が遅れるといったソフトウェア戦略や当初のサターンの販売店の少なさが北米ユーザーの混乱を招いた。日本で人気を博したバーチャファイターが米国で受け入れられなかったこともセガ人気凋落の一因である。
さらにはソニーが1995年のE3においてPlayStationをサターンより100ドル安い299ドルで発売することを発表したことも、うまく世代を移行させられなかった要因となった。
エミュレータの開発が極めて難しかったが、シティコネクションが2021年に商用エミュレータ「ゼブラエンジン」の開発に成功し、セガサターンのゲームを現行機に移植する「サターントリビュート」シリーズがNintendo SwitchやPS4などで展開されている。 | [
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"text": "セガサターン(SEGA SATURN)は、日本においては1994年11月22日にセガ・エンタープライゼスから発売された家庭用ゲーム機である。一般にはサターンもしくはSSの略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。",
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"text": "本体開発に関わった日本ビクター(後のJVCケンウッド)からはVサターン(ブイサターン、V・SATURN)、日立製作所からはHiサターン(ハイサターン、HI SATURN)がそれぞれ互換機として発売された。日本ビクター製、日立製などサターン互換モデル全体としてはシリーズ累計で700万台を突破している。",
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"text": "世界展開したセガ歴代コンソールとしては、「SG-1000」や「セガ・マークIII」を含む「セガ・マスターシステム」シリーズ、「メガドライブ」シリーズや「ゲームギア」、後継機「ドリームキャスト」と比較すると唯一、全世界累計販売台数1,000万台を下回ったハードではあるが、日本市場では長年の競合相手だった任天堂の同世代機を初めて国内販売台数で上回り、セガとして日本市場で最も売れた家庭用ハードである。",
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"text": "2007年9月28日、佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分をもって、セガによる『セガサターン』及び『Dreamcast』本体有償修理が終了した。。",
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"text": "セガサターンの名称は、セガの第六番目のコンシューマゲーム機ということから太陽系第六惑星である土星から付けられた。",
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"text": "2D描画機能は当時のアーケードゲームや競合機と比較しても高水準であり、そのため変形スプライトによる3D描画も出来る。一方で3D表示はCPUによる演算と変形スプライトに頼っているため、3D全体の表現能力では専用ハードウェアを搭載する同時代の競合機であるPlayStationやNINTENDO64に比べ劣っている。",
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"text": "その多彩な機能を支えるべく、多くのLSIに分散された構成となっている。初代機(HST-3200)相当に実装されているLSIはおおよそ以下の通り。他の本体形番ではLSIが異なる。",
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"text": "サターン開発企画当時は、まだMODEL1基板の『バーチャレーシング』が投入された頃で、本格的な3DCGゲームへの移行を実現可能にしたMODEL2基板は存在せず、リサーチ結果でも全てのゲームが3Dになる可能性はせいぜい20から30%という予測だったため、従来型の2Dゲームを開発する際には「メガドライブより桁違いに性能の良いシステム」という側面を伸ばしつつ、MODEL1基板のポリゴンカウントと同程度の相対性能にテクスチャ機能を持たせるなど、2Dと3Dの両機能を重んじた性能にした。",
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"text": "メインCPU(Central Processing Unit)に日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)の32ビットマイコン、SH-2を2基搭載している。SH-2は1992年に登場した制御用マイコンSH-1の後継で、セガサターンに搭載するに当たり、オリジナルのSH-2からいくつかの機能強化が行われている。",
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"text": "SH-2は制御用マイコンであり、16ビット命令語長を基本とするなど小メモリ構成のシステムに向いた特長を持っている。概してこの当時のゲーム機器は限定された環境であり、セガサターンはメインメモリは2Mバイト、キャッシュも4kバイトと小容量だった。",
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"text": "開発はセガ・システム32の開発スタッフを中心に2D描画機能優先で進められた。当初は1CPUのアーキテクチャとして開発が進められたが、競合機であったSCEのPlayStationがより高い演算性能を持つことが判明したこと、また任天堂の次世代機が64ビットCPUを採用するという噂などがあり急遽演算能力の向上を迫られることとなった。当時残された開発期間の短さなどにより、2基のCPUを搭載する方向へとそのアーキテクチャを変更した。",
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"text": "さらにSCU(System Control Unit)内蔵のDMAコントローラやDSPとの連携も可能である。またサブCPUとして、サウンド処理にMC68EC000、CD-ROMドライブの制御にSH-1が搭載されており、各種の処理を並列化する非常に贅沢なアーキテクチャを持つ。",
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"text": "VDP(Video Display Processor)はCPUなどがVDPにデータや命令を送ることで画像の描画や表示を行うデバイスで、セガサターンを特徴付ける描画の多彩さを担っている。セガサターンでは2基のVDPを搭載し、変形スプライト機能(VDP1)と、BG(バックグラウンド画面)機能(VDP2)に処理を分散している。",
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"text": "セガサターンのアーキテクチャにおいて特筆すべき点のひとつとして、同時代の家庭用ゲーム機としては豪華なメモリシステムがある。メインメモリに2Mバイト、ビデオメモリに1.5Mバイト、サウンド、CD-ROMバッファメモリにそれぞれ0.5Mバイトの計4.5Mバイトもの容量を搭載し、なおかつそれぞれの機能ブロックがサブシステムとして独立しているため、各システムが並列的にアクセスすることができた。",
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"text": "特に、プログラムとデータの大部分を格納するメインメモリのうち前半の1Mバイト、およびビデオメモリの全てに高速なSDRAMを用いており、ボトルネックを引き起こしにくい構造としている。メインメモリの後半1Mバイトは通常のDRAMだが、後述するスロットによってROMまたはRAMを拡張することができ、競合機と比較すると潤沢かつ強力なメモリ環境を実現していた。",
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"text": "またCD-ROMサブシステムのバッファメモリによりCD-ROMメディアのアクセス時間が軽減され、特に格闘ゲーム等の頻繁にローディングを要するゲームなどに活用されるなど、競合機でも発売されたゲームソフトと比較するとロード時間が他機種版よりも短い場合が多い。",
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"text": "ソフト媒体として、倍速のCD-ROMドライブを内蔵した。セガサターンのソフトはエラー訂正機能が強く、ムービーのコマ落ちや音飛びなども少ない。ROMカートリッジはスーパーファミコンで1万円以上のソフトも登場するなどメガCD末期からコスト高となっており、コストが安くなっていたCD-ROMにすることが開発早期の段階で決定された。",
"title": "ハードウェア"
},
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"text": "セガサターン用のCD-ROMは外周に海賊版対策のため「サターンリング」と呼ばれる特殊なデータ領域を持っており、特殊なデータ領域とCD外周部に印刷された文字列を読み込むことでプロテクトチェックを行う。そのため通常のCD-ROMと比べると容量は少ない。",
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"text": "初期のソフトのレーベル面にはカラーの美しいピクチャーレーベルを採用していたが中期以降のソフトは1色か2色の簡易印刷のレーベルに変わっている。",
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"text": "時計機能と本体に保存されたセーブデータはバッテリーバックアップで本体に取り付けられたコイン形リチウム電池によって保たれる。このため、本体にデータを残し続けるためには定期的に電池を交換する必要がある。交換には背面にある蓋を外し、中の設置位置にある電池の切れたものを新品のものと交換するだけでよい。本体のメモリ容量は少なく、電池が切れるとデータもすべて失われるため効率が非常に悪い。そのため、ゲームデータの保存にはパワーメモリーの使用が強く推奨される。また、本体にのみデータが保存されるソフトについては、ゲームを遊び終わった後に本体のオープンボタンを押してメインメニューを開き、そこからデータ管理画面に移動し、本体メモリからパワーメモリーにデータを移し、再開するときは逆順に行うことで続きからプレイできる。",
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"text": "本体上部に、カートリッジを差し込むためのスロットが存在する。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "当初はゲームのデータセーブエリアを増やすフラッシュメモリのカートリッジ型メモリーカード「パワーメモリー」のために使われるのが一般的だったが、データの読み込み時間を軽減するためにCD-ROMとロムカートリッジとを併用する「ツインアドバンスドROMシステム」構想が発表され、『ザ・キング・オブ・ファイターズ95』と『ウルトラマン 光の巨人伝説』の2本に採用された。また、特定のゲーム専用のROMではなく、汎用的に扱えるようにサターンのRAMを拡張することで同様の効果を得られる増設メモリ「拡張RAMカートリッジ」が発表され、『メタルスラッグ』等のアクションやCPS-2システムのカプコンの格闘ゲーム等が競合機を上回るアニメーションクオリティで移植されたほか、後にRAM容量を増やした「拡張RAMカートリッジ 4MB」も発売され、『X-MEN VS. STREET FIGHTER』や『マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイター』などに使われた。拡張RAMカートリッジ4MB対応ソフトのほとんどは「専用」であるため、拡張RAM4MB無しではプレイ出来ない。",
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"text": "またこのスロットは、それ以前のゲーム機と同様にロムカセットでソフトを供給することも考慮されており、バス信号のほとんどが出ていたため、メガドライブに接続して性能を向上させる周辺機器メガCDやスーパー32XのようなCPUアクセラレータ、グラフィック機能の拡張なども仕様上は可能だったが、実現には至らなかった。他にカートリッジスロットに周辺機器を接続するものとしてはセガサターンモデムなどがある。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "なお、このスロットは従来のROMカートリッジスロットを採用していたゲーム機と比較するとピンの幅が狭く、端子の接触面積が少ないことから接触不良を起こし易いため、拡張RAMカートリッジが必要なソフトをプレイする際などパワーメモリーの抜き差しを繰り返すうちに、パワーメモリー内のセーブデータが全て消去されてしまう可能性があるので、取り扱いには注意が必要である。",
"title": "ハードウェア"
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"text": "国内版としてはセガが発売したセガサターン、日本ビクターが発売したVサターン、日立製作所が発売したHiサターンがある。当初はヤマハからも発売されるとアナウンスされていた。",
"title": "バリエーション"
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"text": "開発メーカー向けで市販はされていない。通常のサターン相当の機能に加えてCD-R上のプログラムの実行やバグのチェックができる。",
"title": "バリエーション"
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"text": "セガサターン専用CD-ROMディスクを音楽用CDプレーヤーで再生した時、女性による以下の短めの警告メッセージが2トラック目に流れる。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "声優などの音声演出があるゲームを中心に、通常とは異なる警告メッセージに変更されていることもあり、特に『機動戦士ガンダム ギレンの野望』のように警告メッセージだけで1分20秒に及ぶドラマCD並みの長大なものとなっているものもある。タイトルによっては、3トラック目以降にまで音楽データ(主にそのゲームに関連した楽曲)が入っているものまである。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "ローンチタイトルは『バーチャファイター』『ワンチャイコネクション』『MYST』『TAMA』『麻雀悟空 天竺』の5タイトル。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "セガは当時アーケードの3Dヒット作を多数持っていたため、『デイトナUSA』『バーチャコップ』『ファイティングバイパーズ』『セガラリーチャンピオンシップ』『電脳戦機バーチャロン』など、MODEL2基板タイトルを中心に移植された。",
"title": "ソフトウェア"
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{
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"text": "特に代表的なゲームタイトルは『バーチャファイター2』で日本国内ではセガ初のミリオンセラーを記録した。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "最後のタイトルは2000年12月7日発売の『悠久幻想曲 保存版 Perpetual Collection』である。",
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"text": "セガサターン用ゲームソフトのジャケットには、以下4種類のうちいずれかのアイコンが記載されており、これによってレイティングを示していた。以下、規制の厳しい順に列挙する。",
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"text": "セガサターンの初期段階では、一部のジャンルのソフトに残虐な暴力や性描写などを理由に18禁(通称:X指定)などの年齢制限(CERO:Z(18才以上のみ対象)ないしCERO:D(17才以上対象)に相当)を設けて販売を許可していた。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "消費者の一部には後々性表現を前提としたアダルトゲーム(エロゲー)の移植を期待するユーザーもいたが、1996年頃から「X指定」に区分されるゲームの発売が認められなくなった。",
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"text": "それ以降、暴力・性表現を抑える形で「年齢制限(推奨年齢18才以上)」に限って発売が認められるようになった。",
"title": "ソフトウェア"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "セガは日本国内において、任天堂寄りの玩具問屋団体「初心会」を経由して自社の家庭用ゲーム機とゲームソフトを販売しなければならないことに不満を持っていた。そこでセガは、セガサターンの発売に先立つ1994年9月、セガサターンのハードとソフトを専門に扱う卸売子会社「セガユナイテッド」を設立した。この会社は一次問屋の役割を持つとともに大手ゲーム販売専門店との直接取引を行うもので、いくつかの二次問屋からも出資が行われた。さらにセガはハピネットやムーミンといった非初心会系の玩具問屋を流通システムに取り込むとともに、日立メディアフォースとの提携により家電の販売ルートを、東芝EMIとの提携によりレコードの販売ルートを活用した。これによりセガは日本国内でセガサターンを取り扱う小売店の数を急拡大させた。しかし親会社のソニー・ミュージックエンタテインメントのCD-ROM生産設備を使用できたソニー・コンピュータエンタテインメント(以下、SCE)と異なりセガはCD-ROMの生産設備を所有しなかったため、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできず、見込み生産による投機的ソフト流通という点で任天堂と同じ問題を抱えたままであった。",
"title": "ソフトウェア"
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"text": "1997年にセガはセガユナイテッドとムーミンを合併させ、「セガ・ミューズ」へと再編した。セガ・ミューズはSCEの流通システムを模倣し小売店への直販化・直送化を推し進め、リピート発注にかかる期間の短縮を図るとともに、サターンを取り扱う小売店の絞込みを行った。",
"title": "ソフトウェア"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "その一方で、プラットフォームホルダーによるゲームソフト流通のコントロールを嫌った有力ソフトメーカー各社は、コナミが1996年4月からPlayStation用ソフトにおいて自主流通を開始したのを皮切りに、セガ(の卸売子会社)を介さず量販店・大手小売チェーン店に直接ソフトを卸売販売する自主流通を日本国内で開始した。",
"title": "ソフトウェア"
},
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"paragraph_id": 39,
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"text": "広告展開の面においては、「コーンヘッド」と呼ばれる頭部の大きい土星人や、「セガール」、「アンソニー」の二匹のチンパンジーによる比較広告などで評判を集めた。メインCPUに32ビットプロセッサSH-2を2基搭載していたことから、セガは「64ビット級」と呼称して宣伝した。",
"title": "広告"
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{
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"text": "白サターン登場以降は仮面ライダーで有名な藤岡弘、を起用し、さまざまな若者や子供に技をかけ、「セガサターン、シロ!」と叫ぶものや、スケートリンクを裸足で走ったり、瓦を頭で割るといった強烈なインパクトのCMを流した。その後、ゲーム化もされ、せがた三四郎シリーズを展開する。これらはゲームファン層以外にも話題になった。",
"title": "広告"
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"tag": "p",
"text": "ほぼ同時期に発売されたPlayStationや後発のNINTENDO64など、当時の「次世代ゲーム機」と呼ばれた機種と共に一時代を築いた。これら3機種の中では最も早く発売し、日本市場においてサターンは発売日に20万台、発売1か月で50万台、6か月でPlayStationよりも先に100万台セールスを達成するなど、セガの歴代コンソールとしては最も好調な売り上げを記録。1996年までは後にトップシェアハードとなるPlayStationよりも普及していた。",
"title": "反響"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ソフトも『バーチャファイター2』の130万本をはじめ『バーチャファイター』『デイトナUSA』『ファイターズメガミックス』『セガラリーチャンピオンシップ』『サクラ大戦2』『スーパーロボット大戦F 完結編』といった50万本を超えるヒット作を排出した。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "しかしハード・ソフトの両面からライバル機に対して劣勢になっていった。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "こうして、十分な対策と成果を上げられないまま、新たな市場の形成を迫られたセガはサターンの拡販を打ち切り、低コストかつ競合機より強力な後継機「ドリームキャスト」の投入を決断。ドリームキャストが新聞広告で1998年5月22日に発表されてからはサターン市場は多大な影響を受け、1998年6月以降はソフトの出荷本数も大幅に減少したこともあり、1998年には215タイトルがサターンでリリースされたものの、1999年には17本と激減。翌2000年に本体の生産やソフトの開発が終了した。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一方で3Dに特化した競合機のPlayStationやNINTENDO64と違って、旧来のゲーム機を正統進化させたオーソドックスなBG画面とスプライト/ポリゴン機能の両面を活かせるアーキテクチャであり、その性能は既存の2D対戦格闘ゲームやシューティングゲーム等にも適していたこともあって業務用ゲームから数多くのタイトルが移植され、同時代の他機種に移植された同名タイトルと比べても出来が良いと評価されている作品も多かった。同時期に稼働したセガサターン互換のST-V基板からの移植や、『バーチャファイターリミックス』などST-Vとサターンでほぼ同時発売されたソフトもあった。",
"title": "反響"
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"text": "またコントローラの操作性の評価は高く、純正品はのちに登場したアナログスティックや振動機能はないが、利用者からは「サターンパッド」の愛称で呼ばれている。1997年にはアイ・オー・データ機器より、セガサターン用コントローラをPC用のゲームパッドとして使える拡張ボード「IF-SEGAシリーズ」が発売された。2018年には有志によってこの拡張ボード互換の同人ハードウェアが頒布されている。2004年6月24日に発売された『ぷよぷよフィーバー』にはMac OS X版の同梱用コントローラとして、セガ・ロジスティクスサービスより、セガサターンの純正コントロールパッドと同デザインのゲームパッドがUSB1.1接続仕様で復刻。翌月よりMacintoshとWindows用として単品発売されている。2005年3月24日にPS2用も発売された。",
"title": "反響"
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"text": "元々セガの歴代家庭用コンソールは海外市場への依存度が非常に高いが、中でもかつてセガが強さを発揮していた北米市場においては、次世代機の発売ではなくこれまで好調だったジェネシス(北米版メガドライブ)市場を保持する判断を下したセガ・オブ・アメリカが主導で開発したスーパー32Xを投入。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "セガ・オブ・アメリカはサターンの1996年発売を主張したものの、その意向に反して1995年5月に急遽サターンを発売することになった経緯があり、そのため、主に北米市場で絶大な人気を誇っている「ソニックシリーズ」作品がスーパー32Xで発売され、サターンへの投入が遅れるといったソフトウェア戦略や当初のサターンの販売店の少なさが北米ユーザーの混乱を招いた。日本で人気を博したバーチャファイターが米国で受け入れられなかったこともセガ人気凋落の一因である。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "さらにはソニーが1995年のE3においてPlayStationをサターンより100ドル安い299ドルで発売することを発表したことも、うまく世代を移行させられなかった要因となった。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "エミュレータの開発が極めて難しかったが、シティコネクションが2021年に商用エミュレータ「ゼブラエンジン」の開発に成功し、セガサターンのゲームを現行機に移植する「サターントリビュート」シリーズがNintendo SwitchやPS4などで展開されている。",
"title": "エミュレータ"
}
]
| セガサターンは、日本においては1994年11月22日にセガ・エンタープライゼスから発売された家庭用ゲーム機である。一般にはサターンもしくはSSの略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。 本体開発に関わった日本ビクター(後のJVCケンウッド)からはVサターン(ブイサターン、V・SATURN)、日立製作所からはHiサターンがそれぞれ互換機として発売された。日本ビクター製、日立製などサターン互換モデル全体としてはシリーズ累計で700万台を突破している。 世界展開したセガ歴代コンソールとしては、「SG-1000」や「セガ・マークIII」を含む「セガ・マスターシステム」シリーズ、「メガドライブ」シリーズや「ゲームギア」、後継機「ドリームキャスト」と比較すると唯一、全世界累計販売台数1,000万台を下回ったハードではあるが、日本市場では長年の競合相手だった任天堂の同世代機を初めて国内販売台数で上回り、セガとして日本市場で最も売れた家庭用ハードである。 2007年9月28日、佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分をもって、セガによる『セガサターン』及び『Dreamcast』本体有償修理が終了した。。 | {{独自研究|date=2010年1月}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = セガサターン
|ロゴ = [[File:Sega Saturn Japanese logo with blue planet.svg|250px]]
|画像 = [[File:Sega-Saturn-JP-Mk1-Console-Set.png|250px]]
|画像コメント = セガサターン本体とコントロールパッド
|メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第5世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1994年]][[11月22日]]<br />{{flagicon|KOR}} [[1995年]][[2月]]<br />{{Flagicon|USA}} 1995年[[5月11日]]<br />{{Flagicon|EU}} 1995年[[7月8日]]
|メディア = [[CD-ROM]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ|内蔵メモリー]]<br />パワーメモリー<ref name="option">[https://sega.jp/history/hard/segasaturn/devices.html 関連・周辺機器 | セガサターン | セガハード大百科 | セガ]</ref>
|コントローラ = ケーブル<br />赤外線{{efn2|別売のコードレスパッド使用}}
|オンラインサービス = サターンモデム
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 590万台<ref name=koubou>オークラ出版「家庭用ゲーム機興亡史」167頁。</ref><br/>※シリーズ累計700万台以上<ref name=FAN>徳間書店SATURN FAN 1998No.21 11月20日号</ref><br/>{{Flagicon|USA}} 128万台<br/>[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 950万台<ref name=koubou />
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[バーチャファイター2]] /130万本<br /> [[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] [[バーチャファイター2]] /193万本<ref>http://www.vgchartz.com/platform/22/sega-saturn/</ref>
|互換ハード = Vサターン<br/>Hiサターン
|前世代ハード = [[メガドライブ]]
|後方互換 =
|次世代ハード = [[ドリームキャスト]]
}}
'''セガサターン'''(''SEGA SATURN'')は、日本においては[[1994年]][[11月22日]]に[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]から発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]である。一般には'''サターン'''もしくは'''SS'''の略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。
本体開発に関わった[[日本ビクター]](後の[[JVCケンウッド]])からは'''Vサターン'''(ブイサターン、''V・SATURN'')、[[日立製作所]]からは'''Hiサターン'''(ハイサターン、''HI SATURN'')がそれぞれ[[互換性|互換機]]として発売された。日本ビクター製、日立製などサターン互換モデル全体としてはシリーズ累計で700万台を突破している<ref name=FAN />。
世界展開したセガ歴代コンソールとしては、「[[SG-1000]]」や「[[セガ・マークIII]]」を含む「[[セガ・マスターシステム]]」シリーズ、「[[メガドライブ]]」シリーズや「[[ゲームギア]]」、後継機「[[ドリームキャスト]]」と比較すると唯一、全世界累計販売台数1,000万台を下回ったハードではあるが、日本市場では長年の競合相手だった[[任天堂]]の[[NINTENDO64|同世代機]]を初めて国内販売台数で上回り、セガとして日本市場で最も売れた家庭用ハードである。
[[2007年]][[9月28日]]、佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分をもって、セガによる『セガサターン』及び『Dreamcast』本体有償修理が終了した。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sega.co.jp/topics/070330_1/ |title=『セガサターン』『Dreamcast』有償修理終了のお知らせ トピックス SEGA |accessdate=2007年4月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130508121258/http://www.sega.co.jp/topics/070330_1/ |archivedate=2013年5月8日 }}</ref>。
== ハードウェア ==
セガサターンの名称は、セガの第六番目のコンシューマゲーム機ということから[[太陽系]]第六[[惑星]]である[[土星]]から付けられた{{R|hardvol5}}。
[[2次元コンピュータグラフィックス|2D描画]]機能は当時の[[アーケードゲーム]]や競合機と比較しても高水準であり、そのため変形[[スプライト (映像技術)|スプライト]]による[[3次元コンピュータグラフィックス|3D描画]]も出来る。一方で3D表示はCPUによる演算と変形スプライトに頼っているため、3D全体の表現能力では専用ハードウェアを搭載する同時代の競合機である[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]や[[NINTENDO64]]に比べ劣っている。
その多彩な機能を支えるべく、多くの[[LSI]]に分散された構成となっている。初代機(HST-3200)相当に実装されているLSIはおおよそ以下の通り。他の本体形番ではLSIが異なる。
<gallery>
画像:HD6417095 01.jpg|SH-2 HD6417095<br />(1 CORE版)
画像:Ss chip 315-5688 01.jpg|SCU 315-5688<br />(FH3007)
画像:315-5689 01.jpg|VDP1 315-5689<br />(HD64440F)
画像:315-5690 VDP2 01.jpg|VDP2 315-5690<br />(FH3006)
画像:315-5687 01.jpg|SCSP 315-5687<br />(YMF292-F)
画像:315-5744 01.jpg|SMPC 315-5744<br />(HD404920FS)
</gallery>
サターン開発企画当時は、まだ[[MODEL1]]基板の『[[バーチャレーシング]]』が投入された頃で、本格的な3DCGゲームへの移行を実現可能にしたMODEL2基板は存在せず、リサーチ結果でも全てのゲームが3Dになる可能性はせいぜい20から30%という予測だったため、従来型の2Dゲームを開発する際には「メガドライブより桁違いに性能の良いシステム」という側面を伸ばしつつ、MODEL1基板のポリゴンカウントと同程度の相対性能にテクスチャ機能を持たせるなど、2Dと3Dの両機能を重んじた性能にした<ref>[[ASCII]]『月刊アスキー』1995年1月号 p.432 セガ・エンタープライゼスCSハードウェア研究開発部ゼネラル・マネージャー浜田和彦氏インタビュー 参照</ref>。
=== CPU ===
メイン[[CPU]](Central Processing Unit)に日立製作所(後の[[ルネサス エレクトロニクス]])の32ビット[[マイクロコントローラ|マイコン]]、[[SH-2 (プロセッサ)|SH-2]]を2基搭載している<ref name="hardvol5" />。SH-2は[[1992年]]に登場した制御用マイコンSH-1の後継で、セガサターンに搭載するに当たり、オリジナルのSH-2からいくつかの機能強化が行われている{{要出典|date=2021年4月}}。
; 動作周波数の向上
: 20MHzから28.6MHzへ上昇させた。なお、28.6MHzはビデオ出力の同期タイミングと一致する。
; 除算器の搭載、[[乗算器]]の高精度化
: SH-1から新規に除算器を搭載した。また乗算器を16bit×16bit=32bitから32bit×32bit=64bitへ高精度化し、これらにより投影変換などジオメトリ演算を実用的な精度や速度で実行することが可能となった。
; [[マルチプロセッサ]]機能
: 元々は日立製作所における研究開発のためにSH-2に用意されていた機能であるが、2基のCPUは内部にあるバスアービトレーション機能により通信することができる。セガサターンは共有メモリ構成であるため、命令やデータがCPU内のキャッシュにヒットしている時や内部2kバイトのメモリへのアクセス時などは同時に演算させることが可能となる。またユーザブレーク機能で外部バスサイクルによるブレークを行えばキャッシュコンシステンシを保つことも可能であり、マルチコアシステムを構築することもできる。ただし大方の3Dゲームタイトルではセガから提供されたライブラリを活用し、サブCPUを[[ジオメトリエンジン|ジオメトリ演算専用のプロセッサ]] としてのみ使用していた。この仕様は、競合機であるPlayStationの高い3D描画性能を受けて急遽追加された仕様で、片方の汎用CPUを丸々グラフィック処理に割り当てただけであるため、コストパフォーマンスに劣っていた。なお1993年秋時点で発表されていたスペックでは、CPUはシンブルプロセッサで3D描画は毎秒3万ポリゴンであった。
; [[CDプレーヤー]]と[[サウンドエフェクト]]機能
: セガサターン用のCD-ROMの他、オーディオCD、[[フォトCD]]、[[CD+G|CD-G]]、CD-EGのディスクはコントロール画面で操作が可能。<ref name=":0" />
; [[SDRAM]][[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の搭載
: 当時策定されたばかりのSDRAMインタフェースを搭載し、データ転送能力を従来よりアップさせた。
SH-2は制御用マイコンであり、16ビット命令語長を基本とするなど小メモリ構成のシステムに向いた特長を持っている。概してこの当時のゲーム機器は限定された環境であり、セガサターンはメインメモリは2Mバイト、キャッシュも4kバイトと小容量だった。
開発は[[セガ・システム32]]の開発スタッフを中心に2D描画機能優先で進められた<ref>[http://www.famitsu.com/news/201606/03107324.html?page=2 セガのハードに込められた熱意が語られた GAME ONトークイベント“セガハードの歴史を語り尽くす”詳細リポート] ファミ通.com 2016年6月3日 </ref>。当初は1CPUの[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]として開発が進められたが、競合機であったSCEのPlayStationがより高い演算性能を持つことが判明したこと、また任天堂の次世代機が64ビットCPUを採用するという噂などがあり急遽演算能力の向上を迫られることとなった。当時残された開発期間の短さなどにより、2基のCPUを搭載する方向へとそのアーキテクチャを変更した<ref>[http://news.denfaminicogamer.jp/megadrivecx/kibe2 中 裕司がアツく語った『ソニック』『大魔界村』そしてメガドラ愛。幻のメガドラタイトルのお披露目も!?【ゲームセンターCX放送作家の「いまさらメガドラ計画」】第2回]電ファミニコゲーマー 2016年7月7日</ref>。
さらにSCU(System Control Unit)内蔵のDMAコントローラやDSPとの連携も可能である。またサブCPUとして、サウンド処理に[[MC68000#M68000.E3.83.95.E3.82.A1.E3.83.9F.E3.83.AA|MC68EC000]]、CD-ROMドライブの制御にSH-1が搭載されており、各種の処理を並列化する非常に贅沢なアーキテクチャを持つ。
=== VDP ===
[[VDP]](Video Display Processor)はCPUなどがVDPにデータや命令を送ることで画像の描画や表示を行うデバイスで、セガサターンを特徴付ける描画の多彩さを担っている。セガサターンでは2基のVDPを搭載し、変形[[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能(VDP1)と、BG(バックグラウンド画面)機能(VDP2)に処理を分散している。
; VDP1
: VDP1は変形スプライトや[[ポリライン]]、ラインなどを描画するデバイスで、スプライトゲームのデカキャラから3Dゲームのポリゴンオブジェクトまで様々な表現が可能である。4MビットのVRAMと2Mビット×2個のフレームバッファを接続しており、320×224から704×480までの解像度に対応している。旧来のゲーム機において標準的だったラインバッファによる横方向の表示制限はなく、フレームバッファ上に描画して出力する構造である。
: スプライトおよびBGに関しては、セガが当時主力としていた業務用ゲーム基板の[[セガ・システム32|システム32]]以上の機能や性能を有しており、同時代のゲーム用VDPとしては最高水準の一つだった。その一方で、例えば半透明処理に機能的な制約がありメッシュ機能で代用される場合も多いなど、ポリゴン描画機能にはいくつかの制限があり、3D表現の自由度は競合機、特にPlayStationのGPUと比較し低かった。
: VDP1単体の描画性能は最大90万ポリゴン/秒、テクスチャ付きでも30万ポリゴン/秒だが、セガサターンのシステムとしてみた場合、ピクセル描画性能やCPUが担当するジオメトリ演算性能などに制限され、最大描画性能が出ることはない。
; VDP2
: VDP2が担当するBG機能は、拡大縮小・回転等が可能な独立したBGを5面もつなど、当時の水準ではきわめて強力なものを搭載しており、特に業務用ゲームなどの移植においてはその威力を遺憾なく発揮した。VDP2から見たVDP1はBG面の1つという位置付けであり、他のBG面と同様な合成処理が可能である。
=== メモリ構成 ===
セガサターンのアーキテクチャにおいて特筆すべき点のひとつとして、同時代の家庭用ゲーム機としては豪華なメモリシステムがある。メインメモリに2Mバイト、ビデオメモリに1.5Mバイト、サウンド、CD-ROMバッファメモリにそれぞれ0.5Mバイトの計4.5Mバイトもの容量を搭載し、なおかつそれぞれの機能ブロックがサブシステムとして独立しているため、各システムが並列的にアクセスすることができた。
特に、プログラムとデータの大部分を格納するメインメモリのうち前半の1Mバイト、およびビデオメモリの全てに高速な[[Dynamic Random Access Memory|SDRAM]]を用いており、ボトルネックを引き起こしにくい構造としている。メインメモリの後半1Mバイトは通常の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]だが、後述するスロットによってROMまたはRAMを拡張することができ、競合機と比較すると潤沢かつ強力なメモリ環境を実現していた。
またCD-ROMサブシステムのバッファメモリによりCD-ROMメディアの[[アクセス時間]]が軽減され、特に格闘ゲーム等の頻繁にローディングを要するゲームなどに活用されるなど、競合機でも発売されたゲームソフトと比較するとロード時間が他機種版よりも短い場合が多い。
=== CD-ROM ===
ソフト媒体として、倍速の[[CD-ROM]]ドライブを内蔵した。セガサターンのソフトはエラー訂正機能が強く、ムービーのコマ落ちや音飛びなども少ない。<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=三才ムック Vol.65 CD-Rマニア|date=2001年5月1日|year=2001|publisher=三才ブックス|pages=62,63,}}</ref>[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]は[[スーパーファミコン]]で1万円以上のソフトも登場するなど[[メガCD]]末期からコスト高となっており、コストが安くなっていたCD-ROMにすることが開発早期の段階で決定された<ref name="hardvol5">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/column/column_05.html |title=【連載】セガハードストーリー第5回 家庭用ゲーム機新時代の幕開け『セガサターン』|work=セガハード大百科 |date=2018-03-01 |accessdate=2021-08-24}}</ref>。
セガサターン用のCD-ROMは外周に[[海賊版]]対策のため「サターンリング」と呼ばれる特殊なデータ領域を持っており、特殊なデータ領域とCD外周部に印刷された文字列を読み込むことでプロテクトチェックを行う。<ref name=":1" />そのため通常のCD-ROMと比べると容量は少ない。
初期のソフトのレーベル面にはカラーの美しいピクチャーレーベルを採用していたが中期以降のソフトは1色か2色の簡易印刷のレーベルに変わっている。
=== 本体セーブデータ管理・時計機能 ===
時計機能と本体に保存されたセーブデータは[[バッテリーバックアップ]]で本体に取り付けられた[[コイン形リチウム電池]]によって保たれる。このため、本体にデータを残し続けるためには定期的に電池を交換する必要がある。交換には背面にある蓋を外し、中の設置位置にある電池の切れたものを新品のものと交換するだけでよい。本体のメモリ容量は少なく、電池が切れるとデータもすべて失われるため効率が非常に悪い。そのため、ゲームデータの保存にはパワーメモリーの使用が強く推奨される。また、本体にのみデータが保存されるソフトについては、ゲームを遊び終わった後に本体のオープンボタンを押してメインメニューを開き、そこからデータ管理画面に移動し、本体メモリからパワーメモリーにデータを移し、再開するときは逆順に行うことで続きからプレイできる。
=== カートリッジスロット ===
[[画像:171-7328A 01.jpg|thumb|セガサターン拡張ラムカートリッジ(1MB)の中身(基板) 171-7328A]]
本体上部に、カートリッジを差し込むためのスロットが存在する。
当初はゲームのデータセーブエリアを増やす[[フラッシュメモリ]]のカートリッジ型[[メモリーカード]]「パワーメモリー」のために使われるのが一般的だったが、データの読み込み時間を軽減するためにCD-ROMとロムカートリッジとを併用する「ツインアドバンスドROMシステム」構想が発表され、『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|ザ・キング・オブ・ファイターズ95]]』と『[[ウルトラマン|ウルトラマン 光の巨人伝説]]』の2本に採用された。また、特定のゲーム専用のROMではなく、汎用的に扱えるようにサターンのRAMを拡張することで同様の効果を得られる増設[[主記憶装置|メモリ]]「拡張RAMカートリッジ」が発表され、『[[メタルスラッグ]]』等のアクションや[[CPS-2]]システムのカプコンの格闘ゲーム等が競合機を上回るアニメーションクオリティで移植されたほか、後にRAM容量を増やした「拡張RAMカートリッジ 4MB」も発売され、『[[X-MEN VS. STREET FIGHTER]]』や『[[マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイター]]』などに使われた。拡張RAMカートリッジ4MB対応ソフトのほとんどは「専用」であるため、拡張RAM4MB無しではプレイ出来ない。
またこのスロットは、それ以前のゲーム機と同様に[[ロムカセット]]でソフトを供給することも考慮されており、[[バス (コンピュータ)|バス]]信号のほとんどが出ていたため、メガドライブに接続して性能を向上させる周辺機器[[メガCD]]や[[スーパー32X]]のようなCPUアクセラレータ、グラフィック機能の拡張なども仕様上は可能だったが、実現には至らなかった。他にカートリッジスロットに周辺機器を接続するものとしてはセガサターンモデムなどがある。
なお、このスロットは従来の[[エッジ・コネクタ|ROMカートリッジスロット]]を採用していたゲーム機と比較するとピンの幅が狭く、端子の接触面積が少ないことから接触不良を起こし易いため、拡張RAMカートリッジが必要なソフトをプレイする際などパワーメモリーの抜き差しを繰り返すうちに、パワーメモリー内のセーブデータが全て消去されてしまう可能性があるので、取り扱いには注意が必要である。
=== 仕様 ===
* CPU
** メイン:[[SH-2 (プロセッサ)|SH-2]](HD6417095)(動作クロック28.64MHz/キャッシュ4KB/1 CORE版)×2個
** サウンド用:[[68000|MC68EC000]](11.3MHz)
* RAM 2MB
* VRAM 1.5MB
* バックアップRAM 256Kビット(CR2032[[リチウム電池]]一個による)
* 画面表示(VDP2)
** 解像度 : 320×224([[走査|ノンインターレース]])から704×480([[インターレース]])、独立スクロール付き最大5面合成表示
** 1面は拡大縮小回転(2軸)と他の面との半透明表示
** ラスタ分割表示可能([[ラスタースクロール]])
** 同時発色数:1677万色
*** 拡大縮小回転機能を生かして「ポリゴン[[対戦型格闘ゲーム|格闘ゲーム]]のリング」などの描画にも使われた。
*** 動画再生はソフトウェアによる展開([[Cinepak]]、[[TrueMotion]]など)
** VRAM 512KB
* [[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能(VDP1)
** 拡大縮小、回転、変形サポート
** [[ポリゴン]]機能:フラット90万ポリゴン/秒、テクスチャ30万ポリゴン/秒(最大)
** スプライト同士やBG面との半透明合成表示
** フレームバッファ 256KB×2
** テクスチャーRAM 512KB
* [[デジタル信号処理|DSP]]/[[Direct Memory Access|DMA]]機能(SCU:System Control Unit)
* 音源
** [[FM音源|SCSP]]:Saturn Custom Sound Processor
** [[PCM音源]] 32ch (量子化数16ビット)
** [[FM音源]] 8ch (サンプリング周波数最大44.1KHz)
** オーディオDPC搭載<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=セガサターンマガジン Vol.1|date=1994年12月20日|year=1994|publisher=ソフトバンク株式会社出版事業部|pages=10,11,12,13,14,15,16,}}</ref>
** [[CD-DA]]再生可能
** サウンドRAM 512KB
* [[CD-ROM]]ドライブ
** インテリジェント倍速CDドライブ/1基(2倍速)<ref name=":0" />
** バッファRAM:512KB
** 制御チップ:[[SuperH|SH-1]](SH7034、20MHz)
* スロット:カートリッジ1、拡張用1
* コントロール端子2個、XYZABCの6ボタン+スタート1ボタン+LRのコントロールパッド1個付属(ABC+スタートでソフトリセット可能)
* 内蔵ソフト:セーブデータ(内蔵メモリ・パワーメモリー)管理、時計管理、CDプレイヤー(CD-G表示機能、各種エフェクト・特殊再生機能付き) *本体セーブデータ保存・時計機能の維持については別売りのボタン電池に依存する。
*通信拡張端子(COMMUNICATION CONNECTOR):[[シリアルポート]]と[[MIDI]]インターフェイス。
* 寸法:260mm(幅)×230mm(奥行き)×83mm(高さ)
== バリエーション ==
=== 家庭用(国内版) ===
国内版としてはセガが発売したセガサターン、日本ビクターが発売したVサターン、日立製作所が発売したHiサターンがある。当初はヤマハからも発売されるとアナウンスされていた。
; セガサターン(前期型)
: 1994年11月22日発売、価格44,800円・灰色の本体初期型。型番はHST-0001、本体はHST-3200。本体ケース上側に実装されている部品が多く、基板も2段構成となっている。本体正面から見て左側に丸型の通風孔があるのが特徴(冷却ファンの搭載やシルバー塗装など贅沢な仕様になる予定であったがったがコスト対策のため省略された)。電源ランプおよびアクセスランプはそれぞれLEDが2つ並んでいる。
:SH2は低消費電力型で発熱は少ないが、多くのプロセッサや電源トランスが内蔵しているため、本体内の温度が高まると故障や誤動作の原因となる。しかし放熱対策としてあるのは横一列に並んだ通気孔のみとなるため、通気孔を塞がないようにするなど置き場所に注意を配ることが必要とされている。<ref name=":0" />極初期のモデルのみ、ラベル表記が「SEGA SATURN」となっているが、その後は「SEGASATURN」に改められた。
: 正式な価格は49,800円で「新発売から6か月限定の5,000円引き」としていたが、「半年後に値上げする」ことに意義は無いと判断され、49,800円に戻すことは見送られた。市場での実売価格はさらに5,000程度値引きされ、実売価格では、ほぼ定価販売しか見られなかった競合機[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](39,800円)と同じになった。
; セガサターン(中期型)
: 1995年前半より出回り始めた小型パッケージで灰色の本体。型番はHST-0004、本体はHST-3210。部品や基板などの配置が変更になり全体的な構造も最適化されている。CDサブシステム(SH-1とゲートアレイ、DRAM)をメイン基板に集約した。外観では本体側面や底面の通風孔削減、電源ランプとアクセスランプはそれぞれLEDが1個になった。
: 1995年6月、100万台キャンペーンBOXとして『[[バーチャファイター#バーチャファイターリミックス|バーチャファイターリミックス]]』が同梱されたモデル(専用パッケージHST-0005に加え0001や0004にステッカー貼り付けたタイプもあり)を34,800円で発売。
: 同年7月から通常版(HST-0004)の販売が再開され、ソフト無しで定価34,800円となった。
: 同年11月より年末年始商戦に向けて2か月限定の5,000円キャッシュバックを実施、店舗での値引きも含めると24,800円程度で購入できるようになった(キャンペーンBOXの在庫分にも同様にキャッシュバックが適用された)。
; セガサターン(後期型)<ref name="hardvol5" />
: [[ファイル:Sega-Saturn-JP-Mk2-Console-Set.png|thumb|250px|セガサターン(後期型)]]
: [[1996年]][[3月22日]]発売、価格20,000円。
: 本体の低価格化と共にデザインを一新したモデル。型番はHST-0014、本体はHST-3220。1996年1月にキャッシュバックが終了したが、PlayStationに先んじて値下げを行うため、同年3月9日にセガにより”セガサターンパワーアップミーティング’96スプリング”と銘打った戦略発表会が行われた。セガ副社長の[[入交昭一郎]]は「大量生産によるコストダウンや内部回路の簡略化などさまざまな工夫を凝らして、20000円という価格を実現した」と述べている<ref>{{Cite book|title=週刊ファミ通 No.380 スクープ新型サターン発表|date=1996年3月26日|publisher=株式会社アスキー|page=8}}</ref>。
: 保証期間が6ヶ月から12ヶ月に延ばされた。それまで濃い灰色だったカラーを白(メーカー呼称はミストグレー)に変更したことから「白サターン」とも呼ばれる。
: 初期のHST-3220は内部構造がHST-3210とほぼ同じであることが分かっており、製造コストの削減は後追いで何度も行われている。内部チップ変更の影響で後期に生産された個体は一部のソフトとの互換性が失われた。
; スケルトンセガサターン<ref name="option"></ref>
: [[1998年]][[4月4日]]発売、価格20,000円。
: 白サターンの外装を半透明にしたもの。「This is Cool.」のプリントがある。このモデルは後期型の最も後に生産された個体と同様一部ソフトとの互換性が失われている。
; [[ダービースタリオン]]発売記念特別限定版
: [[1999年]][[3月25日]]発売、価格20,000円。
: セガサターン版ダービースタリオンの発売を記念して発売。パワーメモリー用ダビスタシール付き。
: 本体成型色はやや青みがかった半透明になった。
; Vサターン【ブイサターン、V-Saturn】RG-JX1、RG-JX1(X)、RG-JX1(Y)
: 1994年11月22日発売、オープン価格。
:ワンダーメガの後継で、セガサターンと同仕様の互換機。サターン本体の配色や起動時のロゴなどが異なる。セガサターンと本体の発売日は同日で、販売店によってはセガサターンと若干の価格差がつけられていたが、多くの店では実売価格がセガサターンと同じだった。広告のイメージキャラは[[菅野美穂]]。[[流通]]ルートは、玩具店やゲーム専門店を主としていたセガサターンと異なり、こちらは[[家電量販店]]が主だった。セガサターンと同様、途中でモデルチェンジを行い実質価格を値下げしている。発売前の仮称は「ビクターサターン」。
; Vサターン RG-JX2(X)、RG-JX2(Y)、RG-JX2(Z)
: [[1996年]][[6月7日]]発売、オープン価格。
: 薄紫色のHST-3220と同仕様の後期型。
; Hiサターン【ハイサターン、Hi-Saturn】日立マルチメディアプレーヤー MMP-1、MMP-1-1、MMP-1-2
: [[1995年]][[4月1日]]発売、価格64,800円。
: 実売価格は50,000円を少し超える程度であり、主に家電販売店により販売されていたことから店舗により価格差が見られた。
: セガサターンの拡張スロットに独自の拡張カードを搭載し、セガサターンやVサターンにはない[[ビデオCD]]・[[フォトCD]]再生機能を標準で備えたマルチメディアプレイヤーとして発売された{{Efn2|セガサターンやVサターンは別売りの拡張パックで対応。}}黒のサターン本体に金のロゴなど配色と起動画面が異なっている。他のサターン同様にモデルチェンジを行っている。
; Hiサターン MMP-11
: [[1996年]]10月発売
: HST-3220と同仕様の後期型。
; ゲーム&カーナビ ハイサターン(型番:MMP-1000NV)
: 1995年12月6日発売、価格150,000円。
: 車内利用向けとして従来のサターン本体よりも一回り小さいサイズになり、[[カーナビゲーション]]機能を装備したモデル。ビデオCDやフォトCDの再生機能が標準搭載されている。また、実際の道路情報上に仮想都市空間を描画して3次元仮想空間をナビゲーション出来るなど、ゲーム感覚で目的地までのドライブシミュレーションを楽しめる「バーチャナビ」を搭載している<ref name="HISATURN">{{Cite web|和書|url=http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/9512/1201.html |title=ポータブルマルチメディアプレーヤー 「ゲーム&カーナビ ハイサターン」を発売 |accessdate=2014/6/8}}</ref>。専用モニター(型番:NX-4YD)も発売している。
: 対応ディスク - 音楽CD、CD-G、サターンCD-ROM、ナビゲーションシステム研究会規格CD-ROM
: 寸法 - 幅25.2cm、高さ5.7cm、奥行き21.4cm、重さ1.9kg
: 消費電力 - 22W
=== 家庭用(海外版) ===
; 北米版
: [[File:Sega-Saturn-Console-Set-Mk1.png|thumb|250px|セガサターン(北米版)]]
: SEGA SATURN MK-80000(HST-3200/3210相当品)
: SEGA SATURN MK-80000A(HST-3220相当品)
: AC120V 60Hz NTSC
: 日本に遅れて1995年に発売開始、初期のモデルはHST-3200相当でコントローラはUS独自仕様のものが付属する。筐体はスイッチ等を含め全て黒で、マスターシステムやジェネシスからのイメージを踏襲している。途中でHST-3220相当品にモデルチェンジをしている。日本と異なりゲーム機として「SATURN」の商標が得られたので「SEGASATURN」と続き文字にはなっていない。また現地の文字認識感覚を考慮し「[[A]]」を「[[Λ]]」と表記することは避けられた。
; 欧州版
: SEGA SATURN MK-80200-50(HST-3200/3210相当品)
: SEGA SATURN MK-80200A-50(HST-3220相当品)
: AC220-240V 50/60Hz PAL
: US版より少し遅れて発売開始。基本デザインはUS仕様と同じである。
; 香港版
: SEGASATURN MK-80219-07(HST-3220相当品)等
: AC220-240V 50/60Hz PAL
: 外観は日本国内版に準じるが、内部はEU版に近い模様。最終モデルではVCDの再生がサポートされる。
; ブラジル版
: SEGASATURN 型番不明(HST-3220相当品)
: AC110V PAL-M
: [[ブラジル]]における他のセガハードと同じく、[[Tectoy]]が販売を担当。外観は日本国内版に準じるが、パッケージはUS/EU版と同じSEGA SATURNのロゴ。
; 韓国版
; サムスンサターン【SAMSUNG SATURN】SPC-SATURN、SPC-ST、SPC-ST2
: AC110-220V 60Hz NTSC
: 1995年2月発売
: セガサターンの韓国版(前期)。ハード、ソフト共に[[サムスン電子]]が正式に韓国でライセンス生産・販売していた。本体の配色は黒であるが、サムスン独自のロゴやハングル文字が入っている。BIOSはUS/EU版と同じで、日本語のメニューが選択できないものもある(韓国語は元から設定が無い)。リージョン設定は日本と同一で、日本版のセガサターン用ソフトがそのまま利用でき、逆にサムスンサターン用ソフトは日本版サターンでも利用する事が可能。販売は不振で、サムスンは[[セガ・マスターシステム]]時代より続くセガのゲーム機のライセンス生産と販売をこの世代で打ち切った(サムスンはドリームキャストにGDドライブの供給を行ったが、サムスン自体はドリームキャストの韓国での販売は行っていない)。そのため後期はKama Digital Entertainment社(PCゲームのデベロッパーで、後に韓国版PC版『ファンタシースターオンライン』などもリリース)がセガと提携して販売した(KAMA Sega Saturn)が、これはライセンス生産ではなく日本からの輸入品で、外観が黒くなり220V用になった白サターンである。このため、ソフトもサムスンが完全ローカライズを行ったサムスンサターン用ソフト{{efn2|ソフトのサイズは他の海外版と同じ縦長サイズ。北米版のソフト内容を素に、サムスンサターンで起動出来るようにリージョンを書き換えただけのものが主。}}と、日本から輸入したソフトに[[ハングル]]でサムスンサターンで利用出来る旨を書かれたシールを張っただけのセガサターン用ソフト{{efn2|ソフトのサイズは日本版と同じ[[正方形]]サイズ。『[[ドラえもん のび太と復活の星]]』など、韓国で放送されている[[テレビアニメ]]の[[キャラクターゲーム]]が主。}}の2種類が存在する。
=== 業務用 ===
; [[ST-V]]
: セガ・タイタン・ビデオゲーム・システムの略称。セガサターンの[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]を流用して拡張した、上位互換の業務用のゲーム基板。1995年発売。
; サンセイブ SGX (HSG-0007)
: [[サンセイブ]]製。ホテルや旅館などに設置され、コインを入れるとサターンのゲームが遊べる(または[[ビデオCD]]が見られる)業務用サターン。CD-ROMが6連装。付属のコントローラーが通常のサターンの3倍長い(ケーブル長5m)。ムービーカードが標準搭載されており、有線リモコン(ケーブル長5m)も付属しているなど、[[ラブホテル]]での運用も想定されていたらしい。なおサンセイブは静岡県でゲームセンターなどを経営していた会社で、西部リースの社名時に東海ガスと共同で[[ビック東海]]を設立したことで知られる。
; Prologue 21 および Super Prologue 21([[通信カラオケ]]・通称[[セガカラ]])
: セガ・ミュージック・ネットワークス(SMN)・[[タイカン]]・[[クラリオン]]が共同開発しSMNが発売した業務用の通信カラオケ。セガサターン向けCD-ROMがそのまま使える。本体前面に[[六角棒スパナ|六角穴付ボルト]]2本と蝶番で塞がれたパネルがあり、それを開くとコントローラー接続部、カラオケモードからサターンモードに切り替えるボタン、手動で開閉するフロントローディングのCDトレイ等が操作できるようになっている。付属のコントローラパッドはセガサターンと同じものが一つ付属するがカラオケ室内で使用するためコードが5メートルほどある。付属のCD-ROMはPrologue21専用パーティゲームが収録されており、サターンモードで動作するが、セガサターンなどでは動作しない。
: 楽曲データ(MIDI形式)は電話回線を通して配信、内蔵のHDDに格納してカラオケ機として機能した点は当時の他のカラオケ機と大差ないが、採点機能やビンゴマシン機能などのソフトウェアもHDDに格納、のちに1000点満点の全国採点機能が配信され、採点結果が楽曲ごとに全国順位が表示される機能が自動アップデートで追加された。
: マイクから入力された声をボーカルラインどおりに矯正するカラオケ練習機能・ボーカルサポートを搭載。
: なお、本機種のカラオケ機能は2007年から2008年にかけてサービス終了となっており利用できなくなっているほか、本機種の権利も共同開発の3社から[[BMB]]に移管され、BMBも[[エクシング]]に吸収合併されたためエクシングが所有している。
=== 開発用 ===
開発メーカー向けで市販はされていない。通常のサターン相当の機能に加えてCD-R上のプログラムの実行やバグのチェックができる。
; Saturn Development System
: 最初に登場した開発キット。「Programming target box」「Graphics target box」「Sound target box」で構成される「Saturn Programming Box」([[Sohwa & Sophia Technologies|ソフィアシステムズ]]製)と、ICE([[インサーキット・エミュレータ]])のHITACHI E7000(日立製)で構成される。1システムあたり30,575ドル(約300万円)。型番はST-1000-01。SH-2x2のデュアルCPUをICEで完全にエミュレートするには、1つでさえ高価なICEが2つ必要だった。
; セガサターン アドレスチェッカー
: [[エスアイエレクトロニクス]]製。サターンの開発キットの一部で、実行アドレスの不正をチェックする。Ver1.00は通常のサターンの3倍ほどの大きさで、[[フロッピーディスクドライブ]]がついている。Ver1.01は通常のサターンを改造したもので、フロッピーディスクドライブが付いていない。
; DEV-SATURN
: 1995年に登場した開発キット。[[亜土電子工業]](当時セガと同じCSKグループ)製。通常のセガサターンを改造しただけの物で、「CARTDEV」というサターン本体より少し小さい機械と接続し、これを[[PC/AT互換機]]に接続して開発キットとする。CARTDEVはCross Products(イギリスの開発装置の開発メーカー。セガ・オブ・アメリカの子会社)製で、Rev.AとRev.Bがある。DEV-SATURNとCARTDEVに、当時亜土電子工業が代理店となっていた、[[統合開発環境]]の「CodeScape」([[イマジネーションテクノロジーズ]]製)がセットで付属されてメーカーに販売されていた。この登場とほぼ同時期に『[[バーチャファイター2]]』(1995年12月発売)で使われたライブラリ「SGL」(SEGA Game Library)がサードパーティに提供され、資金と開発力の乏しい中小メーカーでも開発が容易になったが、1996年頃よりサターンは競合機に対して徐々に劣勢となっていったため、中小サードパーティを呼び集めるには至らなかった。
; PSY-Q Saturn
: 1996年に登場した、開発用サターンの最終形態。[[Psygnosis]]( 『[[ワイプアウト (レースゲーム)|ワイプアウト]]』や『[[レミングス]]』で知られるデベロッパー)製。通常のセガサターンを改造しただけの物で、「Psy-Qカートリッジ」をセガサターンのカートリッジスロットに挿し、これをPCに接続して開発キットとする。
=== その他 ===
; セガプルート(発売中止)
: NetLink(北米版セガサターンモデム)を内蔵した、インターネット対応セガサターン。プロトタイプ機が2台制作された{{Efn2|1台は2013年にインターネットオークションで競り落とした個人が所有し、もう1台は開発に関わった元セガ社員が所有する。}}。
== 周辺機器 ==
=== セガ純正 ===
<gallery>
File:Sega-Saturn-JP-Mk1-Controller.jpg|コントロールパッド<br/>HSS-0101
File:Sega-Saturn-JP-Mk2-Controller.jpg|コントロールパッド(後期型)
File:Saturn PowerMemory.jpg|パワーメモリー<br/>HSS-0111
File:Sega-Saturn-NetLink-Modem-1.jpg|セガサターンモデム
File:Sega-Saturn-Net-Link-US-Keyboard.jpg|セガサターンキーボード
File:Sega-Saturn-Net-Link-Keyboard-Adapter.jpg|キーボードアダプター
File:Sega-Saturn-Mouse-US.jpg|マウス
File:Sega-Saturn-JP-3D-Pad.jpg|セガマルチコントローラー<br/>HSS-0137
File:HSS-0150 01.jpg|拡張RAMカートリッジ<br/>HSS-0150 (1MB)
File:Sega-Saturn-4MB.jpg|拡張RAMカートリッジ<br/>HSS-0167(4MB)
</gallery>
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:5.5em" | 型番 !! width=25%|名称 !! 備考
|-
| HSS-0101
|'''セガサターンコントロールパッド'''<ref name="option"></ref>
|外見のデザインは[[メガドライブ]]の6ボタンパッドより大きく、L、Rボタンが追加された。<ref name=":0" />本体に1つ同梱。本体色に合わせ、初期は灰色、後期は白となった。<br/>当時のスケルトンブームに合わせ、期間限定でクールパッドが発売された。
|-
|HSS-0102<br/>HSS-0139
|'''シャトルマウス'''<ref name="option"></ref>
|セガサターン専用ボール式4ボタン(左、中央、右、スタートボタン)[[マウス (コンピュータ)|マウス]]。灰と白がある。対応ソフトの多さが特徴。
|-
|HSS-0103
|'''マルチターミナル6'''<ref name="option"></ref>
|コントローラーを6個まで繋げられる拡張コネクター。本体に2つを装着すると12個まで増設が可能。サターンボンバーマンなど多人数プレイのための[[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]]。
|-
|HSS-0104<br/>HSS-0136
|'''バーチャスティック'''<ref name="option"></ref>
|セガサターン本体のデザインに似せた前期型、<br/>アーケード筐体のデザインに似せた後期型が存在する。
|-
|HSS-0105
|'''S端子ケーブル'''
|サターン本体をテレビに接続する、[[S端子]]のAVケーブル。<br/>同梱のAVケーブルより高画質でプレイできる。
|-
|HSS-0106
|'''ステレオAVケーブル'''
|サターン本体をテレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に一つ同梱。
|-
|HSS-0107
|'''対戦ケーブル'''<ref name="option"></ref>
|ライバル機[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]にも同様の製品が存在する(SCPH-1040)<br />後に有志により当コネクタの[[3Dプリンター]]用データが公開された<ref>[https://segaxtreme.net/threads/diy-taisen-cable-3d-print.24883/ DIY Taisen Cable(3D print)]</ref>。
|-
|HSS-0109
|'''RGBケーブル'''
|テレビ、モニタのRGB21ピン端子を使用するAVケーブル。<br/>詳しくは[[RGB21ピン]]を参照<br />ノイズには比較的弱い{{Efn2|GNDはコネクタのフレームのみで、他のGNDにはコネクタピンが無い。}}。
|-
|HSS-0110
|'''RFユニット'''
|テレビと[[RF接続]]するためのRF変調器付きケーブル。
|-
|HSS-0111<br/>HSS-0138<br/>HSS-0153
|'''パワーメモリー'''<ref name="option"></ref>
|ゲームのセーブデータを保存しておくための補助記憶装置。灰と白がある。記憶容量は4Mbit(512KB)。
|-
|HSS-0112
|'''モノラルAVケーブル'''
|HSS-0106のモノラル版。
|-
|HSS-0114
|'''ミッションスティック'''<ref name="option"></ref>
|スペースハリアーとの同梱版も発売された。
|-
|HSS-0115<br/>HSS-0141
|'''レーシングコントローラ'''<ref name="option"></ref>
|前期型、後期型の違いはセガサターン本体色の変更にあわせてレーシングコントローラー自体の色が変化しているのみ。後年のレーシングコントローラーとは違い、まだフィードバック機能がない懐かしいものとなっている。
|-
|HSS-0116
|'''セガサターンコードレスパッドセット'''
|HSS-0125、HSS-0126のセット。
|-
|HSS-0119
|'''ムービーカード'''<ref name="option"></ref>
|MPEGデコーダーを搭載しており、[[ビデオCD]]の再生が可能になる。また、MPEGの動画を収録したゲームソフトも、動画の再生がなめらかになる。
|-
|HSS-0120
|'''電子ブックオペレーター'''<ref name="option"></ref>
|セガサターンで[[電子ブック (規格)|電子ブック]]の再生を可能にする。EBXAまでの規格に対応<ref>[https://sega.jp/fb/segahard/ss/movie.html セガハード大百科 セガサターン ムービーカード・フォトCDオペレーター・電子ブックオペレーター]</ref>。
|-
|HSS-0121
|'''フォトCDオペレーター'''<ref name="option"></ref>
|Kodak[[フォトCD]]の再生が可能になる。
|-
|HSS-0122<br/>HSS-0152
|'''バーチャガン'''<ref name="option"></ref>
|前期型はボタンも含めて黒だが、後期型はボタンが黄色に変更され、側面にセガサターンのロゴが追加された</td>
|-
|HSS-0125
|'''赤外線レシーバー'''
|コードレスパッドの受光部。
|-
|HSS-0126
|'''セガサターンコードレスパッド'''<ref name="option"></ref>
|[[赤外線]]を用いたワイヤレスコントローラ。<br/>スイッチ切替でテレビリモコンとしても使用可能。単三乾電池2本必要。
|-
|HSS-0127<br/>HSS-0148<br/>HSS-0157<br/>HSS-0160
|'''セガサターンモデム'''<ref name="option"></ref>
|「[[セガサターンネットワークス]]」サービスにより、[[XBAND]]の通信対戦や、インターネット接続などのサービス等を行う際に必要なモデム。本体生産はTDKへ委託
|-
|HSS-0128
|'''セガサターンフロッピーディスクドライブ<ref name="option"></ref>
|対応ゲームソフトであればセーブデータの保存も可能。ACアダプタはSA-200
|-
|HSS-0129<br/>HSS-0159
|'''セガサターンキーボード'''<ref name="option"></ref>
|後期型は価格が下げられた。
|-
|HSS-0130
|'''バーチャスティックプロ'''<ref name="option"></ref>
|セガのアーケード筐体『アストロシティ』のコントロールパネルをそのまま取り外したような形状。厳密にはプラスチックの材質や鉄板厚さが異なり、パーツも一部省略されているが、当時としては業務用に近づけた仕様で、各種コンパネがそのまま取り付けられる。
|-
|HSS-0137
|'''セガマルチコントローラー'''<ref name="option"></ref>
|通称「マルコン」。コントローラーとケーブルが取り外し可能となっており、その間に周辺機器を挟み込む計画<ref>[http://nights.sega.jp/nights1/ana/anamore.html SEGA Multi Controller]</ref>もあったが頓挫した。この計画や形状は[[ドリームキャスト]]のコントローラーに引き継がれた。傾き検知センサーに対応した「エアロ[[ナイツ (ゲーム)|ナイツ]]」も企画されたという。
|-
|HSS-0150<br/>HSS-0167
|'''拡張ラムカートリッジ'''<ref name="option"></ref>
|前期版は1MB、後期版は4MBワークRAMを拡張する。4MB版は1MB版の上位互換性があるが、不具合を起こすソフトもある。『ストリートファイターZERO3』など4MBで拡張しなければ動かないゲームソフトもある。<br/>後期版はスケルトン仕様。
|-
|HSS-0151<br/>HSS-0154
|'''ツインスティック'''<ref name="option"></ref>
|文字通りレバーが2本付いたデジタル入力のアーケード仕様スティック。主に『[[電脳戦機バーチャロン]]』用であるが、『[[機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY]]』など他のゲームでも採用された。ツインスティック本体の型番はHSS-0151で電脳戦機バーチャロンパッケージの型番はHSS-0154。
|-
|HSS-0155
|'''AVセレクター'''
|最大3台までの切り替えが可能なAVセレクター。
|-
|}
=== Vサターン・HIサターン周辺機器 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:5.5em" | 型番 !! width=20%|名称 !! 備考
|-
| RG-CP5
|'''コントロールパッド'''
| 前期型Vサターン同梱。
|-
| RG-CP6
|'''コントロールパッド'''
| 後期型Vサターン同梱。
|-
|RG-VC1
|'''ビデオCDオペレーター'''
|サターン本体で[[ビデオCD]]を再生可能にする本体内蔵型周辺機器。<br />専用ソフト『[[LUNAR ザ・シルバースター|ルナ シルバースターストーリー]] MPEG版』を遊ぶ際に必須で、他にも『Moon Cradle』『[[ウルトラマン]]図鑑』『[[ガングリフォン]]』『[[サクラ大戦]] 花組通信』『[[サクラ大戦]] 蒸気ラジヲショウ』『セガンドウィンドウ(「[[センチメンタルグラフティ]]」同梱品)』『バトルバ』『ファルコムクラシックス』『[[森高千里]]「渡良瀬橋/ララサンシャイン」』『悠久の小箱』『湾岸デッドヒート+リアルアレンジ』などが対応している。
|-
|RG-VC2
|'''ツインオペレーター'''
|『RG-VC1』を本体に装着することで[[ビデオCD]]と[[フォトCD]]に対応するようになる。MPEG対応ゲームソフトの動画シーンが、よりクリアな映像となる。<ref>{{Cite book|title=テックサターン Vol.1|date=1996年10月1日|year=1996|publisher=株式会社アスキー|page=17}}</ref><br />ビデオCD Ver.2.0にも対応したためプレイバックコントロール機能などが装備された。
|-
|RG-VC3
|'''ツインオペレーター'''
|『RG-VC2』のビデオCD機能が強化され、<br />海外版PAL方式にも対応している。
|-
|RN-M141
|'''セガサターンモデム'''
|セガ製と異なり、カード挿入スロットの無いモデム
|-
|HSS-0118
|'''コントロールパッド'''
|ハイサターン同梱。
|-
|TP-AVS10
|'''サターン用ケーブル'''
|ハイサターン用に発売された専用接続ケーブル。<br />24型ワイドテレビ「C24-WX50」のサターン端子に接続してこのケーブル一本で映像と音声を送る。言わば日立版[[AVマルチ]]ケーブル。
|-
|MKU-1
|'''カラオケユニット'''
|ハイサターン用に発売されたカラオケユニット。<br />セットはユニット本体とサターンと接続するケーブルのみでマイクは付属していない。マイクロフォン端子×2、マイク音量ボリュームスイッチ×2、それに多重音声切替スイッチとエコーボリュームスイッチを一つずつ装備している。
|-
|NX-4YD
|'''4インチカラー液晶モニター'''
|TFTアクティブマトリックス方式を採用した、ポータブルマルチメディアプレーヤー『ゲーム&カーナビ ハイサターン(MMP-1000NV)』本体用の液晶モニター<ref name="HISATURN"></ref>。
|-
|
|'''ハイサターンカード'''
|ハイサターンに内蔵されているカード。<br />別売りはされておらず、フォトCDを見ることが可能。
|-
|}
=== 他社製品(ライセンス商品) ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:8em" | 型番 !! width=20%|名称 !! width=9%|発売元 !! 備考
|-
|ASC-0601T
|'''アスキーパッドX'''
|rowspan="3"|[[アスキー (企業)|アスキー]]
|連射機能付コントローラ。
|-
|ASC-0602C
|'''ファイタースティックX'''
|全体的な配色を黒で統一した、海外版セガサターンに合わせたようなジョイスティック。<br />『[[バーチャファイター]]』向けにA・Y・ZボタンにそれぞれG・P・Kとプリントされている。
|-
|ASC-0603G
|'''アスキーグリップX'''
|片手コントローラ。
|-
|IMS-02
|'''SGトルネードパッド'''
|rowspan="2"|[[イマジニア]]
|
|-
|IMS-03
|'''SGトルネードスティック'''
|初期型セガサターンに合わせ、<br />グレーを基調としたジョイスティック。
|-
|
|'''電車でGO!コントローラ'''
|[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]
|
|-
|SSP-0010
|'''サンサターンパッド'''
|[[サン電子]]
|
|-
|HC-735
|'''S<sub>BOM</sub>ジョイカード'''
|[[ハドソン]]
|A・B・C・X・Y・Z・L・Rボタンそれぞれに秒間26連射を設定可能。<br />また、各ボタンを押しっぱなしにするホールド機能とSTARTボタンをオート連射する2段階のスロー機能を装備している。さらにこのスロースイッチの''Hu-''ポジションを使用してゲームの操作性を変化させる機能が[[ハドソン]]製品に付加されている。『[[サターンボンバーマン]]』対応を売りに同ソフトと一緒にS<sub>BOM</sub>マルチタップ等と同時発売されたタイアップ商品でもあるために、デザインは[[ボンバーマン (ゲームキャラクター)|ボンバーマン]]がモチーフとなっている。2個パック+マルチタップの「対戦パック」等のセット販売品もある。
|-
|SS-231
|'''SS Joypad DX'''
|[[TOKAIコミュニケーションズ|ビック東海]]
|
|-
|HSS-07
|'''ファイティングスティックSS'''
|rowspan="3"|[[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ電機]]
|PlayStation用『ファイティングスティックPS』の姉妹品。
|-
|HSS-12
|'''リアルアーケードVF'(ダッシュ)'''
|『バーチャファイター』シリーズ用に特化したジョイスティック。
|-
|HSS-14
|'''ステアリングコントローラ ゼロテックSS'''
|ラジコン型コントローラ
|-
|
|'''SANKYO FF'''
|TEN研究所
|パチンコハンドル型コントローラー
|-
|
|'''[[MIDI]]アダプタ'''
|[[ワカ製作所]]
|『[[サターンミュージックスクール]]』に同梱
|-
|
|'''PC接続ケーブル'''
|[[アスキー (企業)|アスキー]]
|『[[GAME BASIC for SEGASATURN]]』に同梱
|-
|T-7626G
|'''サターン用ワープロセット'''
|[[コーエー]]
|[[キヤノン]]製プリンターBJC-210、専用ワープロソフト、プリンター・インターフェースのセット<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koei.co.jp/products/system/Satwp01.htm |title=新作案内:サターン用ワープロセット |accessdate=2016年6月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19971014000809/http://www.koei.co.jp/products/system/Satwp01.htm |archivedate=1997年10月14日 }}</ref>。
|-
|T-7642G
|'''ワープロ・アップグレードキット(デジタルカメラ対応版)」'''
|コーエー
|『サターン用ワープロセット』付属ソフト「イージーワード EGWORD」の改良版とデジタルカメラに対応したプリンター・インターフェースのセット
|-
|不明
|'''SEGA SATURN用ワープロセット DC対応版'''
|コーエー
|T-7626GとT-7642Gを統合した商品。
|-
|}
== ソフトウェア ==
{{Main|セガサターンのゲームタイトル一覧}}
セガサターン専用CD-ROMディスクを音楽用[[CDプレーヤー]]で再生した時、女性による以下の短めの警告メッセージが2トラック目に流れる。
{{Quotation|これはセガサターン用のゲームディスクです。1トラック目にゲームのデーターが入っていますので再生しないでください。}}
声優などの音声演出があるゲームを中心に、通常とは異なる警告メッセージに変更されていることもあり、特に『[[機動戦士ガンダム ギレンの野望]]』のように警告メッセージだけで1分20秒に及ぶドラマCD並みの長大なものとなっているものもある。タイトルによっては、3トラック目以降にまで音楽データ(主にそのゲームに関連した楽曲)が入っているものまである。
[[ローンチタイトル]]は『[[バーチャファイター]]』『[[ワンチャイコネクション]]』『[[MYST]]』『[[TAMA (ゲーム)|TAMA]]』『麻雀悟空 天竺』の5タイトル。
セガは当時アーケードの3Dヒット作を多数持っていた{{Efn2|アーケードゲーム事業は[[2015年]]4月に[[セガ・インタラクティブ]]が承継}}ため、『[[デイトナUSA]]』『[[バーチャコップ]]』『[[ファイティングバイパーズ]]』『[[セガラリーチャンピオンシップ]]』『[[電脳戦機バーチャロン]]』など、[[MODEL2]]基板タイトルを中心に移植された。
特に代表的なゲームタイトルは『バーチャファイター2』で日本国内ではセガ初の[[ミリオンセラー]]を記録した。
最後のタイトルは2000年12月7日発売の『悠久幻想曲 保存版 Perpetual Collection』である。
=== 年齢制限 ===
セガサターン用ゲームソフトのジャケットには、以下4種類のうちいずれかのアイコンが記載されており、これによって[[レイティング]]を示していた。以下、規制の厳しい順に列挙する。
; {{colorbox|green}} 推奨年齢 全年齢
: アイコンは緑。[[全年齢対象]]。
; {{colorbox|yellow}} 推奨年齢 18才以上
: アイコンは黄色。アイコンの真ん中に黄色地に黒い文字で「'''年齢制限'''」と書かれていた。18歳以上推奨。「18推」と略される。
; {{colorbox|Lightblue}} 推奨年齢 MA-18
: アイコンは水色。「Mature Age 18」の略。海外で展開されたセガハードのレイティングを日本で適用したもので、日本語に訳せば「18歳以上推奨」となる{{Efn2|海外では「MA-○○」(○○には年齢が入る)で表記され、18以外の数字のタイトルも多数存在した。}}ので、上記の推奨年齢18歳以上と同等のレイティングである。日本で適用されたのは『[[アイドル雀士スーチーパイ#アイドル雀士スーチーパイSpecial|アイドル雀士スーチーパイSpecial]]』のみ。
; {{colorbox|red}} X指定 18才以上
: アイコンは赤。「18禁」とも呼ばれる。他の3つのアイコンは黒地に白い文字で「推奨年齢」と書かれていたがこれには「推奨年齢」はなく「X指定 18才以上」とのみ書かれていた
セガサターンの初期段階では、一部のジャンルのソフトに残虐な暴力や性描写などを理由に18禁(通称:'''X指定''')などの年齢制限({{CERO-Z}}ないし{{CERO-D}}に相当)を設けて販売を許可していた。
消費者の一部には後々性表現を前提とした[[アダルトゲーム]](エロゲー)の移植を期待するユーザーもいたが、<!-- [[ポケモンショック]]([[光過敏性癲癇]])問題などを発端にゲーム業界全体が[[PTA]]や消費者団体等から批判を浴びた煽りを受け、 ←ポケモン事件は1997年12月の話なのでコメントアウト。 -->[[1996年]]頃から「X指定」に区分されるゲームの発売が認められなくなった。
それ以降、暴力・性表現を抑える形で「'''年齢制限(推奨年齢18才以上)'''」に限って発売が認められるようになった。
=== 流通 ===
セガは日本国内において、任天堂寄りの玩具問屋団体「初心会」を経由して自社の家庭用ゲーム機とゲームソフトを販売しなければならないことに不満を持っていた。そこでセガは、セガサターンの発売に先立つ1994年9月、セガサターンのハードとソフトを専門に扱う卸売子会社「セガユナイテッド」を設立した。この会社は一次問屋の役割を持つとともに大手ゲーム販売専門店との直接取引を行うもので、いくつかの二次問屋からも出資が行われた。さらにセガは[[ハピネット]]やムーミンといった非初心会系の玩具問屋を流通システムに取り込むとともに、日立メディアフォースとの提携により家電の販売ルートを、東芝EMIとの提携によりレコードの販売ルートを活用した。これによりセガは日本国内でセガサターンを取り扱う小売店の数を急拡大させた。しかし親会社の[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]のCD-ROM生産設備を使用できた[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]](以下、SCE)と異なりセガはCD-ROMの生産設備を所有しなかったため、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできず、見込み生産による投機的ソフト流通という点で任天堂と同じ問題を抱えたままであった<ref name="wada2003">{{cite journal|url=http://www.gbrc.jp/journal/amr/AMR2-11.html|author=和田剛明|title=家庭用テレビゲームソフトの流通―リスクとリターンの構造と市場への影響―|journal=赤門マネジメント・レビュー|volume=2|number=11|pages=563-580|publisher=特定非営利活動法人グローバルビジネスリサーチセンター(GBRC)|date=2003-11-25}}</ref>。
1997年にセガはセガユナイテッドとムーミンを合併させ、「セガ・ミューズ」へと再編した。セガ・ミューズはSCEの流通システムを模倣し小売店への直販化・直送化を推し進め、リピート発注にかかる期間の短縮を図るとともに、サターンを取り扱う小売店の絞込みを行った<ref name="wada2003"></ref><ref>[http://www.arts.or.jp/judge/judge_tokyo/t_008.html テレビゲームソフトウェア流通協会「平成一〇年(ワ)第二二五六八号 著作権に基づく差止請求権不存在確認請求事件」原告側第二準備書面]</ref>。
その一方で、プラットフォームホルダーによるゲームソフト流通のコントロールを嫌った有力ソフトメーカー各社は、コナミが1996年4月からPlayStation用ソフトにおいて自主流通を開始したのを皮切りに、セガ(の卸売子会社)を介さず量販店・大手小売チェーン店に直接ソフトを卸売販売する自主流通を日本国内で開始した<ref name="wada2003"></ref>。
== 広告 ==
{{節スタブ}}
広告展開の面においては、「コーンヘッド」と呼ばれる頭部の大きい土星人や、「セガール」、「アンソニー」の二匹の[[チンパンジー]]による[[比較広告]]などで評判を集めた。メインCPUに32ビットプロセッサSH-2を2基搭載していたことから、セガは「'''64ビット級'''」と呼称して宣伝した<ref>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/fb/segahard/ss/05.html |title=セガサターンギャラリー チラシコレクション|work=セガハード大百科|publisher=SEGA CORPORATION|accessdate=2014-06-04}}</ref>。
白サターン登場以降は[[仮面ライダー]]で有名な[[藤岡弘、]]を起用し、さまざまな若者や子供に技をかけ、「セガサターン、シロ!」と叫ぶものや、スケートリンクを裸足で走ったり、瓦を頭で割るといった強烈なインパクトのCMを流した。その後、ゲーム化もされ、[[せがた三四郎]]シリーズを展開する。これらはゲームファン層以外にも話題になった。
== 反響 ==
=== 日本 ===
{{see also|日本におけるゲーム機戦争#1990年代中期}}
ほぼ同時期に発売されたPlayStationや後発のNINTENDO64など、当時の「次世代ゲーム機」と呼ばれた機種と共に一時代を築いた。これら3機種の中では最も早く発売し、日本市場においてサターンは発売日に20万台、発売1か月で50万台、6か月でPlayStationよりも先に100万台セールスを達成するなど、セガの歴代コンソールとしては最も好調な売り上げを記録。1996年までは後にトップシェアハードとなるPlayStationよりも普及していた<ref>{{Cite book|title=家庭用ゲーム機完全図鑑 平成編|date=2011年2月号特別付録|year=2011|publisher=オトナファミ}}</ref>。
ソフトも『[[バーチャファイター2]]』の130万本をはじめ『[[バーチャファイター]]』『[[デイトナUSA]]』『[[ファイターズメガミックス]]』『[[セガラリーチャンピオンシップ]]』『[[サクラ大戦2]]』『[[スーパーロボット大戦F|スーパーロボット大戦F 完結編]]』といった50万本を超えるヒット作を排出した。
しかしハード・ソフトの両面からライバル機に対して劣勢になっていった。
; ハード面
: 開発者としてはハードの使いこなしに時間がかかったり、3Dソフト開発においてもある癖を理解しないとパフォーマンスが発揮できないなど、開発現場からは不評であった<ref>[https://sega.jp/history/hard/column/column_06.html セガハードストーリー最終回 ゲームの未来を変えた先進的ハード 『ドリームキャスト』]セガ製品情報サイト 2018年11月5日</ref>。
: 初期の開発キットの価格はPlayStationよりも高価かつ開発が難しく、安価で開発が容易な開発キットとライブラリの登場が1995年から1996年頃と遅れたために、中小サードパーティがPlayStationに流れたことが、PlayStationに次世代機戦争で敗北する遠因の一つとなった。
: ライバル機の低価格攻勢に対して、後期型では内部的なコストダウンが逐次行われ、末期には2基のCPUやVDPをワンチップ化するなど、ライバル機と同様にコストダウンをしていくが、CPUなどを始めとした部品点数の多さや複数社からの多数の半導体を採用した関係による複雑なハード構成であったことに加え、外注による生産であったため、大幅なコストダウンが効かず、その状態で価格競争に対抗して値下げを続けた結果、多額の赤字を計上することとなり、セガは体力を消耗させていった<ref>西田宗千佳『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』講談社、2008年、pp.114-115</ref>。このコストダウンにおけるワンチップ化などの影響で一部のソフトとの互換性が失われた<ref name="hardvol5" />{{Efn2|互換性が失われた点はPlayStationも同様である。}}。
: セガは日立と手を組んでおり、店頭デモ機や雑誌に掲載の画面では従来の4:3での表示が標準であったが、ソニーは自社製トリニトロンのワイドテレビ(16:9)を使用しており、見た目の洗練さでも差をつけられていた(日本国内版の起動画面は16:9に合わせてバランスが取れるよう調整されている)。
; ソフト面
: PlayStation陣営が、当時[[ドラゴンクエストシリーズ]]の[[エニックス]]と双璧を成していた、[[ファイナルファンタジーシリーズ]]を擁する[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]のPlayStationの参入と、当時最新作であった『[[ファイナルファンタジーVII]]』の開発がスタートしたことを1996年1月に発表。発売の前年から大量のTVCMや広告を投入するといった入念な販売戦略が功を奏したこともあり優位に立たれた。
: ライバル機よりも優位な2Dグラフィック、実写取り込みに有利な、動画の圧縮効率を重視した[[Cinepak]]規格を採用したものの、PlayStationでは[[JPEG]]画像を連続して表示させるアニメーション方式([[Motion JPEG]]{{Efn2|これは同時期の32ビット機戦争の競合機でアニメーション再生性能を売りとした[[PC-FX]]にも採用された動画形式でもある。}})を採用したため静止画そのものはCinepakよりも良好(雑誌掲載時に優位)で<ref>[[講談社]]『スーパーゲームマガジン 覇王』1994年4月号 p.26 特集・セガ スペシャル ヴァーチャシネマの世界 参照</ref>、更に[[3DO]]やPlayStationやNINTENDO64といったライバル機が3Dグラフィックの面で優れており、前述の2つを活用したソフトに恵まれず売り上げが伸び悩んだ。
こうして、十分な対策と成果を上げられないまま、新たな市場の形成を迫られたセガはサターンの拡販を打ち切り、低コストかつ競合機より強力な後継機「[[ドリームキャスト]]」の投入を決断。ドリームキャストが新聞広告で1998年5月22日に発表されてからはサターン市場は多大な影響を受け、1998年6月以降はソフトの出荷本数も大幅に減少したこともあり、[[1998年]]には215タイトルがサターンでリリースされたものの、[[1999年]]には17本と激減。翌[[2000年]]に本体の生産やソフトの開発が終了した。
一方で3Dに特化した競合機のPlayStationやNINTENDO64と違って、旧来のゲーム機を正統進化させたオーソドックスなBG画面とスプライト/ポリゴン機能の両面を活かせるアーキテクチャであり、その性能は既存の2D対戦格闘ゲームやシューティングゲーム等にも適していたこともあって[[アーケードゲーム|業務用ゲーム]]から数多くのタイトルが移植され、同時代の他機種に移植された同名タイトルと比べても出来が良いと評価されている作品も多かった。同時期に稼働したセガサターン互換の[[ST-V]]基板からの移植や、『バーチャファイターリミックス』などST-Vとサターンでほぼ同時発売されたソフトもあった。
またコントローラの操作性の評価は高く、純正品はのちに登場したアナログスティックや振動機能はないが、利用者からは「サターンパッド」の愛称で呼ばれている。[[1997年]]には[[アイ・オー・データ機器]]より、セガサターン用コントローラをPC用のゲームパッドとして使える拡張ボード「IF-SEGAシリーズ」が発売された<ref>[http://www.iodata.jp/products/game/ifsg2pci.htm IF-SEGA2-PCI, IF-SEGA2-ISA]</ref>。[[2018年]]には有志によってこの拡張ボード互換の同人ハードウェアが頒布されている<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1803/09/news132.html セガファン歓喜 サターン用パッドをPCで使える拡張ボードが登場→即完売] - [[ねとらぼ]]</ref>。[[2004年]][[6月24日]]に発売された『[[ぷよぷよフィーバー]]』には[[macOS|Mac OS X]]版の同梱用コントローラとして、[[セガ・ロジスティクスサービス]]より、セガサターンの純正[[ゲームコントローラ|コントロールパッド]]と同デザインの[[ゲームパッド]]が[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]1.1接続仕様で復刻。翌月より[[Macintosh]]と[[Microsoft Windows|Windows]]用として単品発売されている。[[2005年]][[3月24日]]に[[PlayStation 2|PS2]]用も発売された。
=== 北米 ===
{{see also|スーパー32X}}
元々セガの歴代家庭用コンソールは海外市場への依存度が非常に高いが、中でもかつてセガが強さを発揮していた北米市場においては、次世代機の発売ではなくこれまで好調だったジェネシス(北米版メガドライブ)市場を保持する判断を下したセガ・オブ・アメリカが主導で開発した[[スーパー32X]]を投入。
セガ・オブ・アメリカはサターンの1996年発売を主張したものの、その意向に反して1995年5月に急遽サターンを発売することになった経緯があり、そのため、主に北米市場で絶大な人気を誇っている「[[ソニックシリーズ]]」作品がスーパー32Xで発売され、サターンへの投入が遅れるといったソフトウェア戦略や当初のサターンの販売店の少なさが北米ユーザーの混乱を招いた。日本で人気を博したバーチャファイターが米国で受け入れられなかったこともセガ人気凋落の一因である。
さらにはソニーが1995年の[[Electronic Entertainment Expo|E3]]においてPlayStationをサターンより100ドル安い299ドルで発売することを発表したことも、うまく世代を移行させられなかった要因となった<ref name="hardvol5" /><ref>[https://gigazine.net/news/20170705-sega-saturn-failure/ 「セガサターン」はなぜ失敗したのか?当時のCEOが語る]Gigazine 2017年7月5日</ref>。
== エミュレータ ==
エミュレータの開発が極めて難しかったが、[[シティコネクション_(企業)|シティコネクション]]が2021年に商用エミュレータ「ゼブラエンジン」の開発に成功し<ref>[https://www.4gamer.net/games/582/G058212/20220210163/ 「コットン2」「コットンブーメラン」「ガーディアンフォース」セガサターン版移植作がSteamに本日登場] 4gamer</ref><ref>[https://www.famitsu.com/news/202210/31280826.html 『アイドル雀士スーチーパイ サターントリビュート』かないみかさん&開発陣インタビュー。移植が実現した経緯や表現の規制はどうなるのかなど、気になるアレコレを直撃] ファミ通.com</ref>、セガサターンのゲームを現行機に移植する「サターントリビュート」シリーズが[[Nintendo Switch]]やPS4などで展開されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ゲーマガ]] - 1994年11月から1998年10月まで、セガサターン専門誌として『SEGA SATURN MAGAZINE』という誌名だった。
* [[夕陽のドラゴン]] - [[スペースシャワーTV]]で放送されていた音楽バラエティ番組。番組後期にセガサターンがスポンサーに付き、出演者がセガサターンのゲームを体験するコーナーが設けられていた。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sega Saturn}}
'''本体と周辺機器情報'''
* [https://sega.jp/history/hard/segasaturn/ セガハード大百科 - セガサターン]
'''参考文献'''
* [http://japan.renesas.com/products/mpumcu/superh/related_sh/theme/story/06.jsp ルネサステクノロジ「SuperH™ 開発ストーリ(第六話)」]{{リンク切れ|date=2019年10月}}([https://web.archive.org/web/20130320024804/http://japan.renesas.com/products/mpumcu/superh/related_sh/theme/story/06.jsp アーカイブ]) - 元出典:[[日本経済新聞社|日経]]エレクトロニクス[[1997年]][[9月22日]]号
* [https://www.hitachi.co.jp/New/cnews/9512/1201.html ポータブルマルチメディアプレーヤー「ゲーム&カーナビ ハイサターン」を発売] - 日立製作所公式サイト
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
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1,612 | メガドライブ | メガドライブ(MEGA DRIVE)は、セガ・エンタープライゼスが1988年10月29日に日本で発売した16ビットの家庭用ゲーム機である。発売時のキャッチコピーは「時代が求めた16ビット」「VISUAL SHOCK! SPEED SHOCK! SOUND SHOCK!」。
セガ・マークIIIおよびセガ・マスターシステムの後継機として開発された。日本では任天堂のスーパーファミコンやNEC HEのPCエンジンと競合した。
米国・カナダ・メキシコではGENESIS(ジェネシス)という名称で1989年に、その他のヨーロッパ地域(イギリス・フランス・スペイン等)、オセアニア地域(オーストラリア・ニュージーランド)、南アメリカ地域(ブラジル等)、アジア地域といった大部分では日本と同じ名称で1990年に発売された。
世界市場や北米市場では任天堂のSNESとシェア争いで拮抗し、更にAtari Jaguarや3DOとも競合した。欧州市場ではAmiga CD32などとシェア競争を繰り広げた。
日本市場では1988年にメガドライブの名称で、世界で最も早く発売された。任天堂のファミリーコンピュータ、NEC HEのPCエンジンと競合し、後に任天堂のスーパーファミコンとも競合した。
TVCMには発売当初はいとうせいこう、中期には高橋由美子が起用された。「ビジュアルショック、スピードショック、サウンドショック」を謳い文句とし、「時代が求めた16BIT」と、16ビット機であることを大きくアピールしていた。
1990年にメガドライブの出荷数はピークを迎え、年間70万台を出荷したが、この年のハード出荷数はファミコンが136万台、PCエンジンが127万台、スーパーファミコンが66万台と、熾烈な競争状態であった。
1991年に北米市場においてメガドライブが普及するきっかけになった『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』は、日本市場において大きなヒットを記録するに至らず、ハードの出荷台数は前年と同じ70万台に留まった。数字を累計するとスーパーファミコンが1,717万台、PCエンジンが392万台、メガドライブが358万台となる。
『週刊ファミ通』による1992年時点の市場調査では、各ハードのシェアはスーパーファミコンが55.9%、PCエンジンが24.7%、メガドライブ19.4%となっていた。同誌ではRPGタイトルの不足を苦戦の理由として挙げている。
ライバル機種の牙城を崩すには至らなかったが、日本国内において初めて100万台以上を出荷したセガハードとなり、セガの家庭用ゲーム機では「セガサターン」に次ぐ出荷台数を記録した。
アメリカ・カナダを含む北米市場では、1989年に『SEGA GENESIS』として発売された。北米では「MEGA DRIVE」の商標が既にアイオメガによって登録されており、同社からの名称使用許可も得られなかったため、「GENESIS」に改名されている。
発売当初は、任天堂のNESが8割という圧倒的なシェアを背景に、1社独占のシステムを販売店や流通など業界内外の隅々まで行き渡らせており、サードパーティーの参入や小売店への納品すら困難だった。
セガ・オブ・アメリカ副社長だった豊田信夫は、アメリカのスタッフが作るアメリカ的なゲームこそがアメリカ市場で受け入れられると考え、セガがマーベルコミックスからライセンスを受けて『スパイダーマン』をゲーム化する際、セガ・オブ・アメリカ主導での開発許可を貰った。また、北米スポーツゲームの市場が約4割と非常にシェアが大きいアメリカでの販売促進を狙って、大物スポーツ選手の起用によるビッグタイトルを発売すべく、全米スポーツ界No1のスター選手であるNFLサンフランシスコ49ersのジョー・モンタナが要求したロイヤリティー契約では、国際電話で中山隼雄社長から承諾を得て任天堂よりも好条件を提示して交渉を成立させ、『ジョー・モンタナフットボール』シリーズを発売。100万本の売り上げを記録した。他にもF1レーサーのアイルトン・セナや大物ミュージシャンのマイケル・ジャクソンなど、世界的に人気にある著名人ともライセンス契約を締結してゲームを発売した。
これらを機に、セガの意欲と市場の存在が、エレクトロニック・アーツやアクレイムなど海外のソフトメーカーにも伝わり、参入を決めるサードパーティーが次々と増えたという。
また、当時北米で放送されたCMでは、Genesis does what Nintendon't(ジェネシスには出来る。任天堂に出来ないことが。)と、任天堂を挑発するキャッチコピーも人気となった。
任天堂のSNESが北米市場で発売された1991年の年末商戦では、キラータイトルである『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を全面的に押し出した。当時SNESは『スーパーマリオワールド』同梱で199ドル、GENESISは『ソニック1』同梱で149ドルであり、GENESISとSNESの2台を並べて、マリオに対してソニックのスピード感と販売価格の優位性をアピールするTVCMなど徹底した比較広告戦略を展開。これが功を奏して、同年のクリスマスシーズンでは米国内の需要に対して生産台数が追い付かず日本からも空輸で輸入しニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の貨物コンテナはほぼジェネシスとソニックだけになるなど、アメリカ最大手の新聞紙USA TODAYでは「ゲームマーケットで遂にセガが優位に立った」という記事が掲載されたりと、マスコミ各社が米ゲーム市場でのセガの成功を報じた。
1994年末にSNESでリリースされた『スーパードンキーコング』などの大ヒットにより、Newsweek紙の報道では1995年度での販売台数がSNESの270万台に対し、GENESISの販売台数は210万台に留まるなど、単年度では逆転された。しかし、1995年1月の時点でコンシューマ市場で55%のシェアおよび2,000万台の売り上げを記録した。
しかし、当時の北米市場では、セガ・オブ・アメリカ主導で作られた周辺機器であるスーパー32Xの失敗および、ジェネシスのデッドストックが問題となっており、次世代ゲーム機であるセガサターンに移行する上での大きな障害となっていた。当時のセガ社長の入交昭一郎は「サターンを出しても上手くいかず、現地の人達が意欲を失っていた時、16ビット時代からの在庫のツケなどが非常に重く、よい話は何もなかった」「1996年の7月に、『終戦処理を私がしましょう』ということでアメリカまで行った」「アメリカでは1,500万台程度の販売台数」と語っている。セガは1996年末にアメリカの連結子会社「セガ・オブ・アメリカ」の累積損失処理と、旧型の16ビット機(ジェネシス)の廃棄損合わせて270億円を1997年3月期の決算において特別損失として計上することを発表した。
NPD(英語版)調査でも1994年以降の本体売り上げやゲームソフトのラインナップなどでSNESを上回り、次世代ゲーム機であるPlayStationやセガサターンが発売がされてからも、MLBやNBA、NFL、NHLなど人気スポーツゲームは1998年頃まで発売され続けた。結果GENESISは、16ビット機市場トップの座を守り通した。 結果として『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』『2』『3』『ナックルズ』『スピンボール』といったソニックシリーズ作品だけではなく、『モータルコンバット』『NBA Jam』シリーズ、『獣王記』『ストリートファイターIIダッシュプラス』『Street of Rage』、ディズニー作品など映画を題材にした『アラジン』『ライオンキング』『ジュラシック・パーク』、北米で人気のタイトルをゲーム化した『X-MEN』『パワーレンジャー』などは100万本以上のミリオンセラーを記録した。
南米各国では、1990年にセガの正規代理店であるブラジルのTectoyによって発売された。
特にブラジルでは、ゲーム機を含むなどの精密機器への「輸入税」が高額であったが、ブラジル国内での製造はTectoyが請け負っており、マスターシステムやメガドライブは輸入税の影響を受けなかったため、消費者が購入しやすい価格帯に止めることができた。さらに、セガが2001年にゲームハード事業から撤退後もTectoyは両ハードの製造・販売・移植を継続していた。そのため、2015年の時点で、ブラジルの家庭用ゲーム機市場では健在であった。ソニーもセガと同様にゲーム機の現地生産を行うことで価格を抑える戦略をとっている。
『ファンタシースターII』『III』や『シャイニング&ザ・ダクネス』『幽☆遊☆白書 魔強統一戦』などが移植されたほか、ブローダーバンドが発売した教育ソフトウェア『カルメン・サンディエゴを追え! 世界編』のコンセプトを使ったテレビの教育バラエティ番組『カルメン・サンディエゴを探せ!(原題:Where in the World is Carmen Sandiego?)』など、現地メーカーが開発したオリジナル作品も存在する。
2012年度でも、マスターシステムとメガドライブがあわせて年間15万台は売れているなど、販売台数を伸ばしている。
南米市場では約300万台の販売台数を記録している。また、2009年以降はTectoyによって、音楽ゲームとギター型コントローラーが付属したメガドライブ互換機「Mega Drive 4 Guitar Idol」が発売されたほか、2013年までの時点においても携帯型メガドライブ互換機「MD Play」などのメガドライブ互換機が販売されている。これらのメガドライブ互換機は本体にゲームソフトが内蔵されており、カートリッジの利用はできない。2016年11月にも新型が発売された。
フランス・ヨーロッパ・オーストラリアを含む欧州市場では1990年に日本と同様、メガドライブの名称で発売された。
元々セガは、NESの投入が遅れていた欧州市場に先行して、マスターシステムを発売して市場を形成するなど、早くからブランドイメージが確立されていた。さらに、欧州で人気を博していたAmigaは、ゲームの違法コピーが蔓延していたことから、多くのソフトメーカーがメガドライブへ参入した。
北米市場と同様に、SNESに対しても互角の市場を構築。日本ではPlayStationやセガサターン、NINTENDO64で発売された『FIFA ロード・トゥ・ワールドカップ98 ワールドカップへの道』が発売されるなど、次世代ゲーム機が登場してからもソフトは供給され続けた。欧州市場での販売台数は839万台で、SNESの815万台をわずかながら上回った。
名称の由来は、当時使っていた容量1Mビットのカートリッジをドライブするというものであった。
用途別にグラフィックを担当するMC68000とサウンドおよびセガ・マスターシステムの互換性を担当するZ80の2つのCPUが搭載されている。
セガは1986年から「マークV」のコードネームでメガドライブの開発を開始した。最大の争点は、CPUを実績があり、かつ安価な8ビットを採用するか、アーケードゲームでは実績があるが、高価である16ビットを選択するかであった。これに関してセガは以下の2点から最終的に16ビットCPUのMC68000を採用した。
以上のことから、メガドライブは68000CPUを搭載する機械としては安価なものとして普及することとなった。
当初CD-ROM採用の予定は無かったが、将来ゲームのデータ容量の増加の可能性があったため、あらかじめメガドライブ設計時に必要な配線を拡張用スロットに引き出した設計にしていた。設計はメガドライブの設計・開発に関わった石川雅美が全て一人が行っており、実際に使用した図面はヤマハが書き直して使っている。
開発の途中までは販売価格を抑えるため搭載メモリを2Mビットにして設計されていたが、ゲームアーツの強い要望により6Mビットに増強された。この変更によって、コストが本体1台当たり1万円増加したという。この事からゲームアーツの宮路社長は「たかがソフトメーカーの要望を早急に採用し、発売時期も決まっているにもかかわらず原価コストの上昇や販売プロモーションにも影響を及ぼすであろうとしながらも全てを調整してくれたセガさんには敬服しかなかった。」とセガの決断と恩義に報いる形でゲームアーツはメガCDに開発資源を注入する事になる。
メガCD自体に68000CPUを搭載しており、これを利用することで動画の展開と表示を並列的に実行できるため、1時間以上の動画再生が可能であった。このような動画再生とゲームの進行を同時に扱える特性を生かした作品に、『ナイトトラップ』のようなインタラクティブムービーや『シルフィード』などがあり、32ビット機以前のゲーム機では唯一『スターブレード』(ナムコ)の移植も可能にしている。
また任天堂のスーパーファミコンを意識して回転拡大縮小機能を有している。反面、互換性を維持する必要性から発色数やスプライトの増強は見送られた。
メガCDの仕様に強く関与したゲームアーツなど、一部のメーカーは積極的にソフトをリリースしたものの、基本的にサードパーティーはCD-ROMの規模に合わせて開発期間が長くなることを危惧しており、また8 - 16MビットのROMカートリッジでやることがあると考えていた。そのROM容量の増加でさえ「容量だけを増やしても発想が貧弱になる」「2Mだろうと1Mだろうと大した問題ではない」という考えさえあった。
また、セガの初CDタイトルとなる『惑星ウッドストック ファンキーホラーバンド』は、専門誌の読者レースで最下位付近を争う低い評価を得るなど、初期ソフトの拡充が停滞していた。
このため、メガドライブの市場はROMカートリッジが主流のままで進み、日本国内ではメガCDは普及しなかったが、メガCDの普及当初(20万台程度の時点)にゲームアーツが発売した『ルナ』および『シルフィード』はそれぞれ10万本以上の売り上げがあった。一方、海外では当時CD-ROM採用機種のNEC「TurboDuo」やPhilips社「CD-i」がほとんど普及しなかった事もあって、全世界累計で600万台を販売するなど海外ではメガCD(北米での名称はSEGA CD)が事実上、CD-ROMドライブユニットとしての一番手の役割を担った。
動画の使用を前提に設計されたメガCDには、上記のソフト以外に『ヘブンリーシンフォニー』、『スターウォーズ レベルアサルト』や『ジュラシックパーク』、『マイクロコズム』、『トムキャットアレイ』のような実写・特撮・ポリゴンを素材にしたソフトが多く発売されており、それがメガCDの特色となっていた。
メガドライブ・ジェネシス本体はほとんどの部分を世界共通にしており、カートリッジのピン配列も共通で、リージョンコードのみ基板上のジャンパーで設定していた。リージョンチェックがあるため、通常はリージョンの違うソフトを使用できないが、ジャンパー部分に改造を施して日本国外製のソフトをプレイするユーザーもいた。その後、リージョンコードを変換する海外製の中間アダプタが輸入されるようになり、本体を改造する必要はなくなった。なお、リージョンフリーの海外製ソフトもあり、そのようなソフトはカートリッジロック用のアームを除去すればそのまま挿して使用できる。
(→メガCDも参照のこと)
開発されたが、発売されなかった周辺機器。
セガのCSチームにはMC68000の開発経験がなく、このことは初期のソフト不足に影響した。ソフト売上は全世界累計で1億7,500万本である。
また非公認ソフトもメガドライブ展開中から発売されていたが、2010年に『ピアソーラーと偉大なる建築家』が発売されて以降、日本国内外で数10タイトル発売されている。
またゲーム以外のソフトウェアとして以下のものが存在する。
以下の二誌はPCエンジン専門誌の増刊号として隔月刊行された。
以下の6冊は海外で発売されたメガドライブの専門誌。
任天堂やNECホームエレクトロニクスなどのライバルメーカーに先駆けて16ビット機であることをアピールして発売した本機は発売後すぐに売り切れるほど好調であり、国内外において当時遊んだプレイヤーたちに影響を与えた。
レッドブル・ミュージックアカデミーが配信した日本のゲーム音楽に焦点を当てたドキュメンタリー『ディギン イン ザ カーツ』 (DIGGIN' IN THE CARTS) のエピソード4「クール・キッズ」で『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』をはじめとしたメガドライブやセガのゲームミュージックを特集しており、古代祐三などにインタビューが行われている。
2012年3月16日にアメリカのスミソニアン美術館で開催された「The Art of Video Games」展では『Sonic CD』『Phantasy Star 千年紀の終わりに』などが展示された。アメリカのザ・ストロング国立遊び博物館がゲーム業界や大衆文化・社会に影響を与えたゲームの認知向上を目的にした世界ビデオゲームの殿堂の第2回目では日本から『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』他2作品(『ゼルダの伝説』、『スペースインベーダー』)が選出された。
21世紀に入ってもセガ非公認でメガドライブ(大抵は「MD」という表記)用ソフトが動くゲーム機(互換機)や、「MD用ソフト」がリリースされた。なお、セガ自身はメガドライブ ミニのような過去作の復刻を定期的に行っているが、少なくとも2016年現在でメガドライブの完全新作をサードパーティーに正式許諾(ライセンス)する意思は無いとの姿勢を示している。
2018年6月5日には30周年記念ポータルサイトが開設された。
メガドライブと異業種とのコラボ商品が発売されている。 | [
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"text": "セガ・オブ・アメリカ副社長だった豊田信夫は、アメリカのスタッフが作るアメリカ的なゲームこそがアメリカ市場で受け入れられると考え、セガがマーベルコミックスからライセンスを受けて『スパイダーマン』をゲーム化する際、セガ・オブ・アメリカ主導での開発許可を貰った。また、北米スポーツゲームの市場が約4割と非常にシェアが大きいアメリカでの販売促進を狙って、大物スポーツ選手の起用によるビッグタイトルを発売すべく、全米スポーツ界No1のスター選手であるNFLサンフランシスコ49ersのジョー・モンタナが要求したロイヤリティー契約では、国際電話で中山隼雄社長から承諾を得て任天堂よりも好条件を提示して交渉を成立させ、『ジョー・モンタナフットボール』シリーズを発売。100万本の売り上げを記録した。他にもF1レーサーのアイルトン・セナや大物ミュージシャンのマイケル・ジャクソンなど、世界的に人気にある著名人ともライセンス契約を締結してゲームを発売した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "これらを機に、セガの意欲と市場の存在が、エレクトロニック・アーツやアクレイムなど海外のソフトメーカーにも伝わり、参入を決めるサードパーティーが次々と増えたという。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "また、当時北米で放送されたCMでは、Genesis does what Nintendon't(ジェネシスには出来る。任天堂に出来ないことが。)と、任天堂を挑発するキャッチコピーも人気となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "任天堂のSNESが北米市場で発売された1991年の年末商戦では、キラータイトルである『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を全面的に押し出した。当時SNESは『スーパーマリオワールド』同梱で199ドル、GENESISは『ソニック1』同梱で149ドルであり、GENESISとSNESの2台を並べて、マリオに対してソニックのスピード感と販売価格の優位性をアピールするTVCMなど徹底した比較広告戦略を展開。これが功を奏して、同年のクリスマスシーズンでは米国内の需要に対して生産台数が追い付かず日本からも空輸で輸入しニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の貨物コンテナはほぼジェネシスとソニックだけになるなど、アメリカ最大手の新聞紙USA TODAYでは「ゲームマーケットで遂にセガが優位に立った」という記事が掲載されたりと、マスコミ各社が米ゲーム市場でのセガの成功を報じた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "1994年末にSNESでリリースされた『スーパードンキーコング』などの大ヒットにより、Newsweek紙の報道では1995年度での販売台数がSNESの270万台に対し、GENESISの販売台数は210万台に留まるなど、単年度では逆転された。しかし、1995年1月の時点でコンシューマ市場で55%のシェアおよび2,000万台の売り上げを記録した。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、当時の北米市場では、セガ・オブ・アメリカ主導で作られた周辺機器であるスーパー32Xの失敗および、ジェネシスのデッドストックが問題となっており、次世代ゲーム機であるセガサターンに移行する上での大きな障害となっていた。当時のセガ社長の入交昭一郎は「サターンを出しても上手くいかず、現地の人達が意欲を失っていた時、16ビット時代からの在庫のツケなどが非常に重く、よい話は何もなかった」「1996年の7月に、『終戦処理を私がしましょう』ということでアメリカまで行った」「アメリカでは1,500万台程度の販売台数」と語っている。セガは1996年末にアメリカの連結子会社「セガ・オブ・アメリカ」の累積損失処理と、旧型の16ビット機(ジェネシス)の廃棄損合わせて270億円を1997年3月期の決算において特別損失として計上することを発表した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "NPD(英語版)調査でも1994年以降の本体売り上げやゲームソフトのラインナップなどでSNESを上回り、次世代ゲーム機であるPlayStationやセガサターンが発売がされてからも、MLBやNBA、NFL、NHLなど人気スポーツゲームは1998年頃まで発売され続けた。結果GENESISは、16ビット機市場トップの座を守り通した。 結果として『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』『2』『3』『ナックルズ』『スピンボール』といったソニックシリーズ作品だけではなく、『モータルコンバット』『NBA Jam』シリーズ、『獣王記』『ストリートファイターIIダッシュプラス』『Street of Rage』、ディズニー作品など映画を題材にした『アラジン』『ライオンキング』『ジュラシック・パーク』、北米で人気のタイトルをゲーム化した『X-MEN』『パワーレンジャー』などは100万本以上のミリオンセラーを記録した。",
"title": "歴史"
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"text": "南米各国では、1990年にセガの正規代理店であるブラジルのTectoyによって発売された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "特にブラジルでは、ゲーム機を含むなどの精密機器への「輸入税」が高額であったが、ブラジル国内での製造はTectoyが請け負っており、マスターシステムやメガドライブは輸入税の影響を受けなかったため、消費者が購入しやすい価格帯に止めることができた。さらに、セガが2001年にゲームハード事業から撤退後もTectoyは両ハードの製造・販売・移植を継続していた。そのため、2015年の時点で、ブラジルの家庭用ゲーム機市場では健在であった。ソニーもセガと同様にゲーム機の現地生産を行うことで価格を抑える戦略をとっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "『ファンタシースターII』『III』や『シャイニング&ザ・ダクネス』『幽☆遊☆白書 魔強統一戦』などが移植されたほか、ブローダーバンドが発売した教育ソフトウェア『カルメン・サンディエゴを追え! 世界編』のコンセプトを使ったテレビの教育バラエティ番組『カルメン・サンディエゴを探せ!(原題:Where in the World is Carmen Sandiego?)』など、現地メーカーが開発したオリジナル作品も存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "2012年度でも、マスターシステムとメガドライブがあわせて年間15万台は売れているなど、販売台数を伸ばしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "南米市場では約300万台の販売台数を記録している。また、2009年以降はTectoyによって、音楽ゲームとギター型コントローラーが付属したメガドライブ互換機「Mega Drive 4 Guitar Idol」が発売されたほか、2013年までの時点においても携帯型メガドライブ互換機「MD Play」などのメガドライブ互換機が販売されている。これらのメガドライブ互換機は本体にゲームソフトが内蔵されており、カートリッジの利用はできない。2016年11月にも新型が発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "フランス・ヨーロッパ・オーストラリアを含む欧州市場では1990年に日本と同様、メガドライブの名称で発売された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "元々セガは、NESの投入が遅れていた欧州市場に先行して、マスターシステムを発売して市場を形成するなど、早くからブランドイメージが確立されていた。さらに、欧州で人気を博していたAmigaは、ゲームの違法コピーが蔓延していたことから、多くのソフトメーカーがメガドライブへ参入した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "北米市場と同様に、SNESに対しても互角の市場を構築。日本ではPlayStationやセガサターン、NINTENDO64で発売された『FIFA ロード・トゥ・ワールドカップ98 ワールドカップへの道』が発売されるなど、次世代ゲーム機が登場してからもソフトは供給され続けた。欧州市場での販売台数は839万台で、SNESの815万台をわずかながら上回った。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "名称の由来は、当時使っていた容量1Mビットのカートリッジをドライブするというものであった。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "用途別にグラフィックを担当するMC68000とサウンドおよびセガ・マスターシステムの互換性を担当するZ80の2つのCPUが搭載されている。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "セガは1986年から「マークV」のコードネームでメガドライブの開発を開始した。最大の争点は、CPUを実績があり、かつ安価な8ビットを採用するか、アーケードゲームでは実績があるが、高価である16ビットを選択するかであった。これに関してセガは以下の2点から最終的に16ビットCPUのMC68000を採用した。",
"title": "ハードウェア"
},
{
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"text": "以上のことから、メガドライブは68000CPUを搭載する機械としては安価なものとして普及することとなった。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "当初CD-ROM採用の予定は無かったが、将来ゲームのデータ容量の増加の可能性があったため、あらかじめメガドライブ設計時に必要な配線を拡張用スロットに引き出した設計にしていた。設計はメガドライブの設計・開発に関わった石川雅美が全て一人が行っており、実際に使用した図面はヤマハが書き直して使っている。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "開発の途中までは販売価格を抑えるため搭載メモリを2Mビットにして設計されていたが、ゲームアーツの強い要望により6Mビットに増強された。この変更によって、コストが本体1台当たり1万円増加したという。この事からゲームアーツの宮路社長は「たかがソフトメーカーの要望を早急に採用し、発売時期も決まっているにもかかわらず原価コストの上昇や販売プロモーションにも影響を及ぼすであろうとしながらも全てを調整してくれたセガさんには敬服しかなかった。」とセガの決断と恩義に報いる形でゲームアーツはメガCDに開発資源を注入する事になる。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "メガCD自体に68000CPUを搭載しており、これを利用することで動画の展開と表示を並列的に実行できるため、1時間以上の動画再生が可能であった。このような動画再生とゲームの進行を同時に扱える特性を生かした作品に、『ナイトトラップ』のようなインタラクティブムービーや『シルフィード』などがあり、32ビット機以前のゲーム機では唯一『スターブレード』(ナムコ)の移植も可能にしている。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また任天堂のスーパーファミコンを意識して回転拡大縮小機能を有している。反面、互換性を維持する必要性から発色数やスプライトの増強は見送られた。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "メガCDの仕様に強く関与したゲームアーツなど、一部のメーカーは積極的にソフトをリリースしたものの、基本的にサードパーティーはCD-ROMの規模に合わせて開発期間が長くなることを危惧しており、また8 - 16MビットのROMカートリッジでやることがあると考えていた。そのROM容量の増加でさえ「容量だけを増やしても発想が貧弱になる」「2Mだろうと1Mだろうと大した問題ではない」という考えさえあった。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、セガの初CDタイトルとなる『惑星ウッドストック ファンキーホラーバンド』は、専門誌の読者レースで最下位付近を争う低い評価を得るなど、初期ソフトの拡充が停滞していた。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このため、メガドライブの市場はROMカートリッジが主流のままで進み、日本国内ではメガCDは普及しなかったが、メガCDの普及当初(20万台程度の時点)にゲームアーツが発売した『ルナ』および『シルフィード』はそれぞれ10万本以上の売り上げがあった。一方、海外では当時CD-ROM採用機種のNEC「TurboDuo」やPhilips社「CD-i」がほとんど普及しなかった事もあって、全世界累計で600万台を販売するなど海外ではメガCD(北米での名称はSEGA CD)が事実上、CD-ROMドライブユニットとしての一番手の役割を担った。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "動画の使用を前提に設計されたメガCDには、上記のソフト以外に『ヘブンリーシンフォニー』、『スターウォーズ レベルアサルト』や『ジュラシックパーク』、『マイクロコズム』、『トムキャットアレイ』のような実写・特撮・ポリゴンを素材にしたソフトが多く発売されており、それがメガCDの特色となっていた。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "メガドライブ・ジェネシス本体はほとんどの部分を世界共通にしており、カートリッジのピン配列も共通で、リージョンコードのみ基板上のジャンパーで設定していた。リージョンチェックがあるため、通常はリージョンの違うソフトを使用できないが、ジャンパー部分に改造を施して日本国外製のソフトをプレイするユーザーもいた。その後、リージョンコードを変換する海外製の中間アダプタが輸入されるようになり、本体を改造する必要はなくなった。なお、リージョンフリーの海外製ソフトもあり、そのようなソフトはカートリッジロック用のアームを除去すればそのまま挿して使用できる。",
"title": "ハードウェア"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "(→メガCDも参照のこと)",
"title": "バリエーション"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "開発されたが、発売されなかった周辺機器。",
"title": "周辺機器"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "セガのCSチームにはMC68000の開発経験がなく、このことは初期のソフト不足に影響した。ソフト売上は全世界累計で1億7,500万本である。",
"title": "ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また非公認ソフトもメガドライブ展開中から発売されていたが、2010年に『ピアソーラーと偉大なる建築家』が発売されて以降、日本国内外で数10タイトル発売されている。",
"title": "ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "またゲーム以外のソフトウェアとして以下のものが存在する。",
"title": "ソフトウェア"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "以下の二誌はPCエンジン専門誌の増刊号として隔月刊行された。",
"title": "専門誌"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "以下の6冊は海外で発売されたメガドライブの専門誌。",
"title": "専門誌"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "任天堂やNECホームエレクトロニクスなどのライバルメーカーに先駆けて16ビット機であることをアピールして発売した本機は発売後すぐに売り切れるほど好調であり、国内外において当時遊んだプレイヤーたちに影響を与えた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "レッドブル・ミュージックアカデミーが配信した日本のゲーム音楽に焦点を当てたドキュメンタリー『ディギン イン ザ カーツ』 (DIGGIN' IN THE CARTS) のエピソード4「クール・キッズ」で『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』をはじめとしたメガドライブやセガのゲームミュージックを特集しており、古代祐三などにインタビューが行われている。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2012年3月16日にアメリカのスミソニアン美術館で開催された「The Art of Video Games」展では『Sonic CD』『Phantasy Star 千年紀の終わりに』などが展示された。アメリカのザ・ストロング国立遊び博物館がゲーム業界や大衆文化・社会に影響を与えたゲームの認知向上を目的にした世界ビデオゲームの殿堂の第2回目では日本から『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』他2作品(『ゼルダの伝説』、『スペースインベーダー』)が選出された。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "21世紀に入ってもセガ非公認でメガドライブ(大抵は「MD」という表記)用ソフトが動くゲーム機(互換機)や、「MD用ソフト」がリリースされた。なお、セガ自身はメガドライブ ミニのような過去作の復刻を定期的に行っているが、少なくとも2016年現在でメガドライブの完全新作をサードパーティーに正式許諾(ライセンス)する意思は無いとの姿勢を示している。",
"title": "販売終了後の展開"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2018年6月5日には30周年記念ポータルサイトが開設された。",
"title": "販売終了後の展開"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "メガドライブと異業種とのコラボ商品が発売されている。",
"title": "販売終了後の展開"
}
]
| メガドライブは、セガ・エンタープライゼスが1988年10月29日に日本で発売した16ビットの家庭用ゲーム機である。発売時のキャッチコピーは「時代が求めた16ビット」「VISUAL SHOCK! SPEED SHOCK! SOUND SHOCK!」。 セガ・マークIIIおよびセガ・マスターシステムの後継機として開発された。日本では任天堂のスーパーファミコンやNEC HEのPCエンジンと競合した。 米国・カナダ・メキシコではGENESIS(ジェネシス)という名称で1989年に、その他のヨーロッパ地域(イギリス・フランス・スペイン等)、オセアニア地域(オーストラリア・ニュージーランド)、南アメリカ地域(ブラジル等)、アジア地域といった大部分では日本と同じ名称で1990年に発売された。 世界市場や北米市場では任天堂のSNESとシェア争いで拮抗し、更にAtari Jaguarや3DOとも競合した。欧州市場ではAmiga CD32などとシェア競争を繰り広げた。 | {{画像提供依頼|ファイティングパッド6Bをつけたメガドライブ2|date=2022年8月|cat=製品}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = メガドライブ
|ロゴ = [[File:JP MegaDrive Logo.gif|150px]]
|画像 = [[File: Sega-Mega-Drive-JP-Mk1-Console-Set.png|300px]]
|画像コメント = メガドライブ本体とコントロールパッド
|メーカー = [[セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機#第4世代|第4世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1988年]][[10月29日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1989年]][[8月14日]]<br />{{flagicon|KOR}} [[1990年]][[8月]]<br />{{Flagicon|EU}} 1990年[[11月30日]]<br />{{Flagicon|BRA}} 1990年[[12月]]<br />{{Flagicon|RUS}}{{Flagicon|CIS}} [[1994年]][[4月]]
|CPU = [[モトローラ]] [[MC68000]]<br />[[ザイログ]] [[Z80]]
|GPU =
|メディア = [[ロムカセット]]<br />[[CD-ROM]]('''[[メガCD]]''')
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|コントローラ = ケーブル<br />赤外線{{efn2|別売のコードレスパッドを使用}}
|外部接続端子 = コンポジット<br />イヤホンジャック
|オンラインサービス = [[メガモデム]]<br />メガターミナル<ref name="terminal">[https://web.archive.org/web/20150725164624/https://blogs.yahoo.co.jp/tatunama/16708269.html MEGAターミナル -MEGA TERMINAL- ( ゲーム ) - MEGA鋼鉄帝国brog - Yahoo!ブログ]</ref><br />[[セガチャンネル]]
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 358万台<br />{{Flagicon|USA}} 2,000万台<ref>[http://www.nytimes.com/1998/03/14/business/international-business-sega-enterprises-pulls-its-saturn-video-console-us-market.html?pagewanted=1 NY Times、1998年3月14日の記事]</ref><br />{{Flagicon|EU}} 839万台<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 3,432万台<ref name="30years">{{Cite book|和書 |title=家庭用ゲーム機興亡史 ゲーム機シェア争奪30年の歴史 |date=2014年 |year=5月24日 第1刷発行 |publisher=オークラ出版 |page=101 |author=前田尋之}}</ref>
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[ぷよぷよ]] /52万本<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] [[ソニック・ザ・ヘッジホッグ2]] /603万本<br />※『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ (1991年のゲーム)|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』は本体同梱含め出荷1,500万本以上
|互換ハード = メガドライブ2<br />ワンダーメガ<br />([[メガドライブのバリエーション]]も参照)
|後方互換 = [[セガ・マークIII]]<br />([[メガアダプタ]]使用時)
|前世代ハード = [[セガ・マークIII]]
|次世代ハード = [[セガサターン]]
}}
'''メガドライブ'''(''MEGA DRIVE'')は、[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]が[[1988年]][[10月29日]]に[[日本]]で発売した[[16ビット]]の[[家庭用ゲーム機]]である。発売時のキャッチコピーは「'''時代が求めた16ビット'''」「'''VISUAL SHOCK! SPEED SHOCK! SOUND SHOCK!'''{{efn2|name="aliensoldier"|トレジャーの『[[エイリアンソルジャー]]』ではゲームタイトル画面にはこのキャッチコピーと共に「FOR MEGADRIVERS CUSTOM」と表示される。}}」。
[[セガ・マークIII]]および[[セガ・マスターシステム]]の後継機として開発された。日本では[[任天堂]]の[[スーパーファミコン]]や[[日本電気ホームエレクトロニクス|NEC HE]]の[[PCエンジン]]と競合した。
[[アメリカ合衆国|米国]]・[[カナダ]]・[[メキシコ]]では'''GENESIS'''(ジェネシス)という名称で[[1989年]]に、その他の[[ヨーロッパ]]地域([[イギリス]]・[[フランス]]・[[スペイン]]等)、[[オセアニア]]地域([[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]])、[[南アメリカ]]地域([[ブラジル]]等)、[[アジア]]地域<!--韓国版は別名称-->といった大部分では日本と同じ名称で[[1990年]]に発売された。
{{See also|メガドライブのバリエーション}}
世界市場や北米市場では任天堂の[[Super Nintendo Entertainment System]]とシェア争いで拮抗し、更に[[Atari Jaguar]]や[[3DO]]とも競合した。欧州市場では[[Amiga CD32]]などとシェア競争を繰り広げた。
== 歴史 ==
=== 日本市場 ===
[[日本]]市場では1988年にメガドライブの名称で、世界で最も早く発売された。[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]、[[日本電気ホームエレクトロニクス|NEC-HE]]の[[PCエンジン]]と競合し、後に任天堂のスーパーファミコンとも競合した。
[[TVCM]]には発売当初は[[いとうせいこう]]<ref group="注">後年メガドライブ ミニのプロモーション映像ではこの先例を踏まえ、[[いとうせいこう]]が再びナレーションを担当した。</ref>、中期には[[高橋由美子]]が起用された。「ビジュアルショック、スピードショック、サウンドショック」を謳い文句とし、「時代が求めた16BIT」と、16ビット機であることを大きくアピールしていた。
[[1990年]]にメガドライブの出荷数はピークを迎え、年間70万台を出荷したが、この年のハード出荷数はファミコンが136万台、PCエンジンが127万台、スーパーファミコンが66万台と、熾烈な競争状態であった<ref name="keieiron">{{Cite journal |和書 |author=小川純生 |title=テレビゲーム機の変遷--ファミコン、スーパーファミコン、プレステ、プレステ2、Wiiまで |journal=経営論集 |volume=77 |issue= |publisher=東洋大学経営学部 |date=2011-03 |page=2 |issn=0286-6439 |naid= |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00000012/ }}</ref>。
[[1991年]]に[[北米]]市場においてメガドライブが普及するきっかけになった『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ (1991年のゲーム)|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』は{{Refnest|group="注"|[[メディアクリエイト]]の集計では販売本数は10万本としている<ref>『ゲーム批評Vol.58』2004.9.p19</ref>。}}、日本市場において大きなヒットを記録するに至らず、ハードの出荷台数は前年と同じ70万台に留まった<ref name="keieiron" />。数字を累計すると[[スーパーファミコン]]が1,717万台、[[PCエンジンコアグラフィックス|PCエンジン]]が392万台{{Refnest|group="注"|これを190万台と証言している場合もある<ref>[[日経BP社]]『新世代ゲームビジネス』の117頁「''[[PC-FX]]は新世代のゲーム機であるが、従来の[[PCエンジン]]を190万台普及させてきた延長線上で地道に売っていく''」</ref>。}}、メガドライブが358万台<ref name="30years" />となる。
『[[週刊ファミ通]]』による1992年時点の市場調査では、各ハードのシェアはスーパーファミコンが55.9%、PCエンジンが24.7%、メガドライブ19.4%となっていた。同誌ではRPGタイトルの不足を苦戦の理由として挙げている<ref>[[エンターブレイン]]『週刊ファミ通700号』p.127 総力特集・ゲームの歴史</ref>{{Refnest|group="注"|単年度のシェアでは国内二位に付けることもあった。日経産業新聞「主要100品目シェア 各年度版」によると1993年には任天堂が91.3%、セガが4.1%、NECが3.0%であった<ref>大月書店「日本のビッグ・ビジネス(21)任天堂・セガ」逸見啓・大西勝明 著 p16</ref>。}}。
ライバル機種の牙城を崩すには至らなかったが、日本国内において初めて100万台以上を出荷したセガハードとなり、セガの家庭用ゲーム機では「[[セガサターン]]」に次ぐ出荷台数を記録した。
=== 北米市場 ===
[[ファイル:Sega-Genesis-Mod1-Set.png|thumb|300px|SEGA GENESIS]]
アメリカ・カナダを含む北米市場では、1989年に『SEGA GENESIS』として発売された。北米では「MEGA DRIVE」の商標が既に[[アイオメガ]]によって登録されており、同社からの名称使用許可も得られなかったため、「GENESIS」に改名されている。
発売当初は、任天堂の[[Nintendo Entertainment System|NES]]が8割という圧倒的なシェアを背景に、1社独占のシステムを販売店や流通など業界内外の隅々まで行き渡らせており、サードパーティーの参入や小売店への納品すら困難だった。
セガ・オブ・アメリカ副社長だった豊田信夫は、アメリカのスタッフが作るアメリカ的なゲームこそがアメリカ市場で受け入れられると考え、セガが[[マーベルコミックス]]からライセンスを受けて『[[スパイダーマン]]』をゲーム化する際、セガ・オブ・アメリカ主導での開発許可を貰った。また、北米スポーツゲームの市場が約4割と非常にシェアが大きいアメリカでの販売促進を狙って、大物スポーツ選手の起用によるビッグタイトルを発売すべく、全米スポーツ界No1のスター選手である[[NFL]][[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ|サンフランシスコ49ers]]の[[ジョー・モンタナ]]が要求したロイヤリティー契約では、国際電話で中山隼雄社長から承諾を得て任天堂よりも好条件を提示して交渉を成立させ、『ジョー・モンタナフットボール』シリーズを発売。100万本の売り上げを記録した。他にも[[フォーミュラ1|F1]]レーサーの[[アイルトン・セナ]]や大物[[ミュージシャン]]の[[マイケル・ジャクソン]]など、世界的に人気にある著名人ともライセンス契約を締結してゲームを発売した。
これらを機に、セガの意欲と市場の存在が、[[エレクトロニック・アーツ]]や[[アクレイム・エンタテインメント|アクレイム]]など海外のソフトメーカーにも伝わり、参入を決めるサードパーティーが次々と増えたという<ref name="HAOU">[[講談社]]『スーパーゲームマガジン 覇王』1994年4月号 p.34 - 37 特集・セガ スペシャル セガ・オブ・アメリカ躍進の秘密 参照</ref>。
また、当時北米で放送されたCMでは、'''Genesis does what Nintendon't(ジェネシスには出来る。任天堂に出来ないことが。)'''と、任天堂を挑発するキャッチコピーも人気となった。
任天堂のSNESが北米市場で発売された1991年の年末商戦では、[[キラータイトル]]である『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を全面的に押し出した。当時SNESは『[[スーパーマリオワールド]]』同梱で199ドル、GENESISは『ソニック1』同梱で149ドルであり、GENESISとSNESの2台を並べて、マリオに対してソニックのスピード感と販売価格の優位性をアピールするTVCMなど徹底した比較広告戦略を展開{{R|segahistory_vol3}}。これが功を奏して、同年のクリスマスシーズンでは米国内の需要に対して生産台数が追い付かず日本からも空輸で輸入し[[ニューヨーク]]の[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]の貨物コンテナはほぼジェネシスとソニックだけになるなど、アメリカ最大手の新聞紙[[USAトゥデイ|USA TODAY]]では「ゲームマーケットで遂にセガが優位に立った」という記事が掲載されたりと、マスコミ各社が米ゲーム市場でのセガの成功を報じた<ref name="HAOU" />。
1994年末にSNESでリリースされた『[[スーパードンキーコング]]』などの大ヒットにより、[[Newsweek]]紙の報道では1995年度での販売台数がSNESの270万台に対し、GENESISの販売台数は210万台に留まるなど、単年度では逆転された<ref>{{cite web |url=http://www.thedailybeast.com/newsweek/1996/01/14/game-system-sales.html |title=Game-System Sales |publisher=[[Newsweek]] |accessdate=2012-01-21 |date=1996-01-14}}</ref>。しかし、1995年1月の時点でコンシューマ市場で55%のシェア<ref>Video Business誌の1995年1月号の記事「Game makers dispute who is market leader.」より</ref>および2,000万台の売り上げを記録した。
しかし、当時の北米市場では、セガ・オブ・アメリカ主導で作られた周辺機器である[[スーパー32X]]の失敗および、ジェネシスの[[デッドストック]]が問題<ref>セガマーケティングマネージャー[[竹崎忠]](当時)は、週刊ファミ通2001年2月号において当時の状況を語っている</ref>となっており、次世代ゲーム機であるセガサターンに移行する上での大きな障害となっていた。当時のセガ社長の入交昭一郎は「サターンを出しても上手くいかず、現地の人達が意欲を失っていた時、16ビット時代からの在庫のツケなどが非常に重く、よい話は何もなかった」「1996年の7月に、『終戦処理を私がしましょう』ということでアメリカまで行った」「アメリカでは1,500万台程度の販売台数」と語っている<ref name="toyo">セガ社長の[[入交昭一郎]] (当時)からメガドライブの販売台数を200万台とする証言もある。週刊東洋経済、1998年2.28号</ref>。セガは1996年末にアメリカの連結子会社「セガ・オブ・アメリカ」の累積損失処理と、旧型の16ビット機(ジェネシス)の廃棄損合わせて270億円を1997年3月期の決算において特別損失として計上することを発表した<ref>「破綻した戦略なき合併 セガ・バンダイ破談の真相」(週刊ダイヤモンド 1997 年 6 月 7日)</ref>。
{{仮リンク|NPDグループ|en|NPD Group|label=NPD}}調査でも1994年以降の本体売り上げやゲームソフトのラインナップなどでSNESを上回り、次世代ゲーム機である[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]やセガサターンが発売がされてからも、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]や[[NBA]]、NFL、[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]など人気スポーツゲームは1998年頃まで発売され続けた。結果GENESISは、16ビット機市場トップの座を守り通した<ref>{{Cite web|url=http://www.netinst.org/Clements_Ohashi.pdf |title=Indirect Network Effects and the Product Cycle:Video Games in the U.S., 1994-2002 |accessdate=2014/11/4}}</ref>。
結果として『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』『2』『3』『ナックルズ』『スピンボール』といった[[ソニックシリーズ]]作品だけではなく、『[[モータルコンバット]]』『NBA Jam』シリーズ、『[[獣王記]]』『[[ストリートファイターII#メガドライブ|ストリートファイターIIダッシュプラス]]』『[[ベアナックル|Street of Rage]]』、[[ディズニー]]作品など映画を題材にした『[[アラジン (1992年の映画)|アラジン]]』『[[ライオンキング]]』『[[ジュラシック・パーク]]』、北米で人気のタイトルをゲーム化した『[[X-MEN]]』『[[パワーレンジャー]]』などは100万本以上の[[ミリオンセラー]]を記録した。
=== 南米市場 ===
南米各国では、1990年にセガの正規代理店である[[ブラジル]]の[[Tectoy]]によって発売された<ref name="4Gamer.net20181110">{{Cite web|和書|title=レトロンバーガー Order 1:ミニなメガドライブ,実はもうある。ミニじゃない最新型もある。PnPゲーム機を大特集編|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20181017086/|website=4Gamer.net|accessdate=2019-10-14|publisher=Aetas|author=早苗月 ハンバーグ食べ男|date=2018-11-10 }}</ref>。
特にブラジルでは、ゲーム機を含むなどの精密機器への「輸入税」が高額であったが、ブラジル国内での製造はTectoyが請け負っており、マスターシステムやメガドライブは輸入税の影響を受けなかったため、消費者が購入しやすい価格帯に止めることができた。さらに、セガが2001年にゲームハード事業から撤退後もTectoyは両ハードの製造・販売・移植を継続していた。そのため、2015年の時点で、ブラジルの家庭用ゲーム機市場では健在であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gamespark.jp/article/2013/10/18/44120.html |title=ブラジルではPlayStation 4がPlayStation 3ローンチ価格のほぼ2倍となる約18万円で発売へ |accessdate=2014/11/4}}</ref><ref>[http://www.tectoy.com.br/historico.aspx Historico] Tectoy公式サイトによるTectoyの歴史</ref>。ソニーもセガと同様にゲーム機の現地生産を行うことで価格を抑える戦略をとっている。
『[[ファンタシースターII]]』『III』や『[[シャイニング&ザ・ダクネス]]』『[[幽☆遊☆白書 魔強統一戦]]』などが移植されたほか、[[ブローダーバンド]]が発売した[[教育ソフトウェア]]『[[カルメン・サンディエゴを追え! 世界編]]』のコンセプトを使ったテレビの教育バラエティ番組『カルメン・サンディエゴを探せ!(原題:Where in the World is Carmen Sandiego?)』など、現地メーカーが開発したオリジナル作品も存在する。
2012年度でも、マスターシステムとメガドライブがあわせて年間15万台は売れているなど、販売台数を伸ばしている<ref>[http://jogos.uol.com.br/ultimas-noticias/2012/07/30/vinte-anos-depois-master-system-e-mega-drive-vendem-150-mil-unidades-por-ano-no-brasil.htm Vinte anos depois, Master System e Mega Drive vendem 150 mil unidades por ano no Brasil]</ref>。
南米市場では約300万台の販売台数を記録している。また、2009年以降はTectoyによって、音楽ゲームとギター型コントローラーが付属したメガドライブ互換機「Mega Drive 4 Guitar Idol」が発売された<ref name="4Gamer.net20181110"/>ほか、2013年までの時点においても携帯型メガドライブ互換機「MD Play」などのメガドライブ互換機が販売されている<ref>[http://www.tectoy.com.br/categoria.aspx?id=7 Videogame] Tectoy公式サイトによるゲーム機のラインナップ</ref>。これらのメガドライブ互換機は本体にゲームソフトが内蔵されており、カートリッジの利用はできない。2016年11月にも新型が発売された<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1611/01/news133.html お前生きていたのか……!? セガの「メガドライブ」新型が発表される]</ref>。
=== 欧州市場 ===
フランス・ヨーロッパ・オーストラリアを含む欧州市場では1990年に日本と同様、メガドライブの名称で発売された。
元々セガは、NESの投入が遅れていた欧州市場に先行して、マスターシステムを発売して市場を形成するなど、早くからブランドイメージが確立されていた。さらに、欧州で人気を博していたAmigaは、ゲームの違法コピーが蔓延していたことから、多くのソフトメーカーがメガドライブへ参入した。
北米市場と同様に、SNESに対しても互角の市場を構築。日本ではPlayStationやセガサターン、[[NINTENDO64]]で発売された『[[FIFAシリーズ|FIFA ロード・トゥ・ワールドカップ98 ワールドカップへの道]]』が発売されるなど、次世代ゲーム機が登場してからもソフトは供給され続けた。欧州市場での販売台数は839万台で、SNESの815万台をわずかながら上回った。
== ハードウェア ==
名称の由来は、当時使っていた容量1[[メガビット|Mビット]]のカートリッジをドライブするというものであった<ref>講談社「セガ ゲームの王国」大下英治 著 p244</ref>。
用途別にグラフィックを担当する[[MC68000]]とサウンドおよびセガ・マスターシステムの互換性を担当する[[Z80]]の2つのCPUが搭載されている<ref name="Famitsu20130808">{{Cite interview|和書|subject=石川雅美 ||url=http://www.famitsu.com/news/201308/12038274.html |title=週刊ファミ通 2013年8月8日発売号別冊付録 “SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK”メガドライブ編/開発を手掛けた石川氏が当時を振り返る! |website=ファミ通.com |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]] |date=2013-08-12 |accessdate=2014-11-04}}</ref>。
=== 開発 ===
セガは1986年から「マークV」のコードネームでメガドライブの開発を開始した<ref name="segahistory_vol3">{{Cite web|和書||url=https://sega.jp/history/hard/column/column_03.html |title=【連載】セガハードストーリー 第3回“時代が求めた16ビット” |website=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2021-12-08}}</ref>。最大の争点は、CPUを実績があり、かつ安価な8ビットを採用するか、アーケードゲームでは実績があるが、高価である16ビットを選択するかであった。これに関してセガは以下の2点から最終的に16ビットCPUのMC68000を採用した{{R|segahistory_vol3}}。
# アーケードゲームの移植を念頭に置いていた{{R|Famitsu20130808}}。
# 本体コストを抑えるためにモトローラや日立をはじめ様々な会社と交渉を行ない、シグネティクスが68000CPUのビジネスを模索しているという情報を得て、30万個単位という大量の一括発注や、セガのアメリカにおける「マスターシステム」の販売実績{{efn2|当時アメリカでは100万台以上売れた。}}を元に交渉し、当時68000CPUの市場価格の十分の一の値段である一個400円以下の価格で確保することができた<ref>[[講談社]] [[大下英治]]著『セガ ゲームの王国』1993年2月1日発行 239-240ページ参照。「''われわれが使えば百万本はいきます。そのうちの三十万本を、とりあえず発注したい''」</ref>。
以上のことから、メガドライブは68000CPUを搭載する機械としては安価なものとして普及することとなった<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/758667.html 「GAME ON」トークイベント「セガハードの歴史を語り尽くす」レポート]</ref>{{Efn2|この結果を受け、セガはモトローラから大手顧客として表彰された<ref name="mdtaizen" />。授賞式に出席したのは価格交渉も行ったセガの佐藤秀樹だが、後に「モトローラもちだからファーストクラスに乗った。」「空港で荷物が出てこなかった。」というエピソードを語っている<ref>エンターブレイン「セガ・コンシューマー・ヒストリー」 P24</ref>。}}。
==== CD-ROM採用について ====
当初CD-ROM採用の予定は無かった{{R|Famitsu20130808}}が、将来ゲームのデータ容量の増加の可能性があったため、あらかじめメガドライブ設計時に必要な配線を拡張用スロットに引き出した設計にしていた<ref name="mdtaizen" />。設計はメガドライブの設計・開発に関わった石川雅美が全て一人が行っており、実際に使用した図面はヤマハが書き直して使っている<ref name="mdtaizen" />。
開発の途中までは販売価格を抑えるため搭載メモリを2Mビットにして設計されていたが、[[ゲームアーツ]]の強い要望により6Mビットに増強された。この変更によって、コストが本体1台当たり1万円増加したという<ref>太田出版「メガドライブ大全 増補改訂版」 p151。ゲームアーツ代表取締役社長の宮路洋一へのインタビューより。</ref>。この事からゲームアーツの宮路社長は「たかがソフトメーカーの要望を早急に採用し、発売時期も決まっているにもかかわらず原価コストの上昇や販売プロモーションにも影響を及ぼすであろうとしながらも全てを調整してくれたセガさんには敬服しかなかった。」とセガの決断と恩義に報いる形でゲームアーツはメガCDに開発資源を注入する事になる。
メガCD自体に68000CPUを搭載しており、これを利用することで動画の展開と表示を並列的に実行できるため、1時間以上の動画再生が可能であった<ref name="MCD01">BEEPメガドライブ 1991年10月号 p96-100</ref>。このような動画再生とゲームの進行を同時に扱える特性を生かした作品に、『ナイトトラップ』のようなインタラクティブ[[ムービー]]や『シルフィード』などがあり、[[32ビット]]機以前のゲーム機では唯一『[[スターブレード]]』(ナムコ)の移植も可能にしている。
また任天堂のスーパーファミコンを意識して回転拡大縮小機能を有している。反面、互換性を維持<ref name="MCD01" />する必要性から発色数やスプライトの増強は見送られた。
メガCDの仕様に強く関与したゲームアーツなど、一部のメーカーは積極的にソフトをリリースしたものの、基本的にサードパーティーはCD-ROMの規模に合わせて開発期間が長くなることを危惧しており、また8 - 16MビットのROMカートリッジでやることがあると考えていた。そのROM容量の増加でさえ「容量だけを増やしても発想が貧弱になる」「2Mだろうと1Mだろうと大した問題ではない」という考えさえあった<ref name="zadankai01" />。
また、セガの初CDタイトルとなる『[[惑星ウッドストック ファンキーホラーバンド]]』は、専門誌の読者レースで最下位付近を争う低い評価を得るなど、初期ソフトの拡充が停滞していた。
このため、メガドライブの市場はROMカートリッジが主流のまま<ref>BEEPメガドライブ 1990年9月号 p42より「''セガでは周辺機器の販売の目安として本体普及台数の10%として見積もるという基準が作られていた。''」</ref>で進み、日本国内ではメガCDは普及しなかったが、メガCDの普及当初(20万台程度の時点)にゲームアーツが発売した『ルナ』および『シルフィード』はそれぞれ10万本以上の売り上げがあった<ref>[[エンターブレイン]]『セガ・コンシューマー・ヒストリー』p.157 ゲームアーツ宮路洋一のインタビューより</ref>。一方、海外では当時CD-ROM採用機種のNEC「[[PCエンジンDuo|TurboDuo]]」や[[Philips]]社「[[CD-i]]」がほとんど普及しなかった事もあって、全世界累計で600万台を販売するなど海外ではメガCD(北米での名称はSEGA CD)が事実上、CD-ROMドライブユニットとしての一番手の役割を担った。
動画の使用を前提に設計されたメガCDには、上記のソフト以外に『[[ヘブンリーシンフォニー]]』、『スターウォーズ レベルアサルト』や『ジュラシックパーク』、『マイクロコズム』、『トムキャットアレイ』のような実写・特撮・ポリゴンを素材にしたソフトが多く発売されており、それがメガCDの特色となっていた。
=== 仕様 ===
[[画像:Yamaha YM2612 chip.jpg|thumb|メガドライブに採用されているFM音源 YM2612]]
メガドライブ・ジェネシス本体はほとんどの部分を世界共通にしており、カートリッジのピン配列も共通で、[[リージョンコード]]のみ基板上のジャンパーで設定していた。リージョンチェックがあるため、通常はリージョンの違うソフトを使用できないが、ジャンパー部分に改造を施して日本国外製のソフトをプレイするユーザーもいた。その後、リージョンコードを変換する海外製の中間アダプタが輸入されるようになり、本体を改造する必要はなくなった。なお、リージョンフリーの海外製ソフトもあり、そのようなソフトはカートリッジロック用のアームを除去すればそのまま挿して使用できる。
; CPU (MPU)
: メインCPU:[[MC68000]] (7.67[[メガヘルツ|MHz]]/[[NTSC]]、7.60[[メガヘルツ|MHz]]/[[PAL]])
: メイン側からサウンド処理をすることも可能。[[テラドライブ]]では[[東芝]]製のものが搭載されており、10MHz動作も可能である。
: サブCPU(サウンド処理・外部通信の制御):[[Z80]]A (3.58MHz/NTSC、3.54MHz/PAL)
: 別売りオプションの[[メガアダプタ]]を使用した際には、サブのZ80がメインCPUとして互換動作する。
: 本家のザイログ製よりもセカンドソースのシャープ製の方が多く使用されておりロットによりNEC製などの同等品も使用されていた。
; RAM
: メインメモリ(68000用):64[[キロバイト|KB]]
: サブメモリ(Z80用):8KB
: VRAM:デュアルポートDRAM 64KB(32KB×2)
: テラドライブのVDP用VRAMは倍の128KBが搭載されている。
; VDP (315 - 5313)
: ヤマハ製のメガドライブ専用カスタムチップである{{efn2|システムチップもヤマハ製の専用品である。}}。
: 画面表示:NTSCには横320または256ドット×縦224ライン([[インターレース]]表示で縦448ラインも可能)
: PALには横320または256ドット×縦240ライン([[インターレース]]表示で縦480ラインも可能)
: 同時発色数:512色{{efn2|同時発色数自体はセガ・マークIIIと同数である。}}中64色(16色×4パレット{{efn2|この問題を補うため、およびスーパーファミコンの半透明処理的な手法の代替として「タイリング」と「メッシュ」という手法も使用された(スタークルーザー、ソニック・ザ・ヘッジホッグ、ファイナルファイトCDなど)。}})
: この通常性能を2倍の128色に高めることも可能であった<ref>エンターブレイン「セガ・コンシューマー・ヒストリー」 P126より</ref>。発色数の増加には後述のシャドウ・ハイライト機能を利用するソフトもある。
: 表示のみではなく、旧機種互換の音源の機能も内包している。
; スプライト
: 1画面:最大80個
: 画面表示が横320ドット時に1ラインあたり20個まで表示できる。
: 画面表示が横256ドット時は1ラインあたり16個まで表示できる。
: スプライトのサイズは最小8×8ドットから最大32×32ドットまで8ドット単位で16種類のサイズをスプライト毎に指定できる。また、画面上方で表示したスプライトを画面下方で再利用することにより1画面上のスプライト表示数を増やす「スプライトダブラー」という技法が使われていた。
; スクロール
: 2画面(独立球面スクロールが可能)- 2つのスクロール面を合成して表示できる。各スクロール面のサイズは256×256ドットの画面を最大4画面連結したサイズ(512×512ドット、1024×256ドット、256×1024ドット)まで指定できる。
: 水平スクロール - 画面全体のスクロール以外に8ライン単位もしくは1ライン単位に独立して表示位置を指定できる。1ライン単位のスクロールは[[ラスタースクロール]]機能と呼ばれ、擬似的な遠近表現、空間の歪みなどの演出に多用された。
: 垂直スクロール - 画面全体のスクロール以外に横16ドット単位に独立して表示位置を指定できる。水平スクロールの機能と組み合わせてある程度の角度までは画像の回転処理も可能であった。国内では『ダイナマイトヘッディー』『ガンスターヒーローズ』『ヴァンパイアキラー』『ジノーグ』などに使われている。
; 特殊機能
: シャドウ・ハイライト機能 - スプライトもしくはBGをマスクにして画面の一部の輝度を変更することで、限定的な半透明処理が行える。
: 主に影や光の表現に使われており、国内の使用例では『スペースハリアーII』『エクスランザー』『ヴァンパイアキラー』などがある。
: ウィンドウ機能 - 1つのBG画面はスクロールとは無関係に一部の表示位置を固定したままにすることが可能で、主にゲームのスコア表示部分などに使われる。
: インターレースモード - データ量を増やさないで描写回数を増やすモード。
; 内蔵音源
: [[ヤマハ]]製[[YM2612]] (OPN2 7.67MHz){{efn2|[[富士通]]の[[32ビット]]パソコン[[FM TOWNS]]にも搭載されている。}}:[[ステレオ]][[FM音源]] 6ch
: 内1chを8ビットリニア[[PCM]]として使用が可能で、再生レートはCPUに依存する。音質はメーカーおよびドライバに依存する。
: [[テキサス・インスツルメンツ]]製[[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]]相当の 3ch+ノイズ 1ch
: メガアダプタ使用時の下位互換性が考慮され、セガ・マークIIIと同じ音源をVDP内に搭載している。一般的には機能と波形の類似からProgrammable Sound Generatorと同一扱いされているが、ハードウェア的な互換性は無く、本来このチップはDCSGと呼称される。本来のPSGと呼ばれているAY-3-8910とその互換品では、ノイズの出力が3チャンネルの矩形波出力ポートのどれかに依存する形で制御が行われる。DCSGでは、ノイズのキーオンや、音量制御などが独立したレジスタを持っているため、ノイズチャンネルの自由度が高くなっている。反面、PSG互換のチップでは存在するハードウェアエンベロープがなく、音程レジスタの分解能の違いから、出力できる音域や、精度はPSGよりも低くなっている。
; スロット
: カートリッジ用:1スロット(スロット保護用の自動開閉式シャッターつき)
: メガドライブ用ソフトの[[ロムカセット]]および、周辺機器[[メガアダプタ]]、[[スーパー32X]]の接続が可能。
: 本スロットには、電源投入中のカセット抜去を防止するためのロックアームが付いている。メガドライブ本体を振った時にカラカラと鳴るのはこれが原因である。電源スイッチをスライドさせることで、カートリッジ左側の切れ込みにアームが入る機構であるが、右側はロックされていないため、知らずに引き抜くと左側だけ引っかかり歪な抜け方をする。
: 拡張用:本体側面に1スロット。周辺機器[[メガCD]]/メガCD2の接続に使われる。
: 本体の開発当時は、2インチの[[フロッピーディスク]]ドライブの接続も予定されたが<ref name="beep">Beep 1988年11月号『セガ、メガドライブ登場!!』</ref>、発売されなかった。
: 出荷時はスロットカバーが取り付けられている。
; 接続端子
: コントロール端子:2ポート
: [[SC-3000]]から継続して[[Atari 2600#コントローラ|ATARI規格]]に準拠した[[D-sub]]9ピンコネクタ(オス)が採用された。
: 拡張コントロール端子(初期モデルのみ):1ポート
: 初期モデルは[[D-sub]]9ピンコネクタ(メス)の[[シリアルポート]] (300 - 4800bps) が採用され、[[メガモデム]]、メガターミナル<ref name="terminal" />等の取り付けが可能である。後期モデルのメガドライブ2では削除された。
: A/V出力端子:1ポート
: 初期モデルは 8ピン[[DINコネクタ]](メス)が採用され、コンポジット映像信号・RGB信号(コンポジットシンク)・[[モノラル]]音声信号が出力されている。後期モデルのメガドライブ2は9ピンミニ [[DINコネクタ]](メス)が採用され、コンポジット映像信号・RGB信号(コンポジットシンク)・モノラル音声信号・ステレオ音声信号が出力されている。
: ビデオエンコーダー(RGB信号から[[NTSC]]方式のコンポジット映像信号に変換)はソニー製のCXA1145が搭載されている。
: 付属品のAVケーブルの映像は[[コンポジット映像信号]]([[映像信号|ビデオ]]端子)、音声は当時の一般家庭に普及していたテレビの仕様に合わせてモノラルである。
: なお、[[S端子]]や[[RGB]]接続ユニットが[[電波新聞社]]など[[サードパーティー]]から発売された。セガ純正では[[フランス]]向けのみにRGB接続ケーブルが付属された。
: ACアダプタ端子:1ポート
: 初期モデルは専用ACアダプタ ([[直流|DC]]9[[ボルト (単位)|V]]) が1個付属された。消費電力は約13[[ワット (単位)|W]]である。後期モデルのメガドライブ2ではEIAJ規格の専用ACアダプタ (DC10V) が1個付属された。消費電力は約7Wに下がった。
: ヘッドホン端子(初期モデルのみ):1ポート
: 3.5[[ミリメートル|mm]]径[[フォーンプラグ|ミニプラグ]]が採用されており、上記A/V出力端子の理由から音量調節用のヘッドフォンボリュームも装備している。
: 本体開発スタッフの「ユーザーにステレオサウンドを聴いてもらいたい」との意向で本体前面にヘッドホン端子が装備されることになった<ref name="beep" />。初期の本体では[[ノイズ]]が混入している場合があるなど、基板リビジョンにより出力は大きく異なっている。
: 後期モデルのメガドライブ2ではステレオ出力が可能になったためヘッドホン端子とヘッドホンボリュームは削除された。
; コントロールパッド
: デザインは手にフィットすることを念頭に曲線主体で手にすっぽり収まる形とした<ref>講談社「セガ ゲームの王国」大下英治 著 p243</ref>エルゴノミクスデザインを意識したパッドである。トリガーボタンもこれに合わせて斜めに配置された。
: 初期標準パッドでは方向ボタン・スタートボタン・トリガーボタン(A・B・Cの3ボタン)で構成された。ただし方向ボタンは斜め方向へ入りやすく、操作には多少の慣れが必要だった。[[クライマックス (ゲーム会社)|クライマックス]]の[[内藤寛]]はこの操作性を逆手に取って、ゲーム画面を斜め見下ろし型にした『ランドストーカー 皇帝の財宝』を開発したという<ref>[[太田出版]] CONTINUE 『メガドライブ大全』 Special Interview Vol.2 クライマックス社長 内藤寛氏、p151参照</ref>。
: 後期標準パッド(ファイティングパッド6B)はメガドライブ2から標準装備された。初期標準パッドで指摘されていた方向ボタンの問題点を解消し内部的にはジョイスティックに近い構造になっている。ボタンは当時流行していた格闘ゲームに対応させるために新たにX・Y・Zの3つが増設され合計で6つのボタンになった。modeボタンを押しながら本体を起動することでX・Y・Zボタンを無効にすることができ、6ボタンパッドでは誤動作を起こすごく一部のタイトルについても使用可能となる。良好な操作性はユーザーから高く評価され方向ボタンの構造はセガサターンの標準パッドに受け継がれていった。
=== 事業展開 ===
; ライセンス事業
: セガは日本国外での販売にディストリビューターを活用しており、また国によってはライセンスによる製造も認めていた。[[Tectoy]]、[[サムスン電子]]、[[マジェスコ・エンターテインメント]]などがそれで、互換機市場が作られていった。
: {{Main|メガドライブのバリエーション}}
: 既に特許は切れており、ノンライセンスで製造された互換機{{Efn2|レトロフリーク、RETRON(シリーズ)、FCツイン+MD、GAME JOYなど。}}も発売されている。
; 広報
: セガ関連の情報は当初『ファミ通』のような雑誌で取り上げられることは少なかった。これは、セガ社内の各部署が独自に情報を公開し、広報の一元管理がされていなかったことが原因であった。当時のユーザーは雑誌広告や雑誌の記事に加えテレビCMを見て、その評価をもとにしてソフトを購入するのが一般的であった。そのためこの状況はメガドライブの事業展開に不利に働いた<ref name="zadankai01">BEEPメガドライブ 1990年9月号 p47-50。サードパーティーの座談会の記事より。</ref>。
: この問題は次世代機の発売を翌年に控えた1993年、セガに竹崎忠が入社して一元管理体制が整うことでようやく解消されることとなった。『ファミ通』に記事が掲載されるようになったのはその半年後になる<ref>週刊ファミ通2011年5月12・19日合併号 P152,153</ref>。
; サードパーティー
: メガドライブの発売を機に、セガは[[サードパーティー]]制に本腰を入れるようになった{{R|segahistory_vol3}}{{efn2|制度を始めたのはマークIIIから。それ以前のSC-3000などのセガ家庭用ハードでは[[コンパイル (企業)|コンパイル]]や[[ウエストン ビット エンタテインメント|エスケープ]]などがセガ発売のソフトの開発を担当していた。}}。
:; [[テクノソフト (ゲーム会社)|テクノソフト]]
:: メガドライブのサードパーティーで一番に名乗りを上げたメーカーで、『サンダーフォースII』の移植では見た目の美しさという視点をセガに認識させた<ref>講談社 大下英治 著『セガ ゲームの王国』 p267。「''それまでのセガは見た目の美しさよりもゲーム性(ゲームとしての楽しさ)を重視していた''」</ref>。
:; [[ゲームアーツ]]
:: [[代表取締役]][[社長]]の[[宮路洋一]]は会社設立当初からCD-ROMの重要性を認識しており、パソコンメーカー各社にCD-ROMドライブ搭載パソコンを作るように依頼していた。[[CSK (企業)|CSK]]を介した情報ルートによってメガドライブ用CD-ROMドライブの開発を知るとメガドライブに参入し、それと同時に本業を[[パソコンゲーム]]からメガドライブ・メガCD用タイトルのリリースに切り替えた。これは、当時のセガ[[親会社]]であるCSKがパソコンゲームをリリースしていた時に流通[[委託]]を行っていたことがきっかけでゲームアーツとCSKとの関わりが深かった。
:: メガCDのメモリが計画当初2Mビットだった時期に、メモリの増強を強く要望し、セガに対してメガCDのメモリを6Mビットに拡充させるきっかけとなった<ref>エンターブレイン「セガ・コンシューマー・ヒストリー」 P156-157</ref>。
:; [[テンゲン]]
:: セガにマルチタップの企画を持ち込んだ会社。元々は同社移植作品『[[ガントレット (ゲーム)|ガントレット]]』の4人同時プレイの実現のため、開発会社のM2が設計したものだった<ref>[https://web.archive.org/web/20050308115548/http://www.gpara.com/contents/creator/bn_179.htm M2 堀井 直樹へインタビュー]</ref>。
; ネットワーク事業
: メガドライブでは外部ネットワークを利用した通信対戦やゲーム配信事業を行っていた。
:; ゲーム図書館
:: 電話回線を利用した配信事業。ゲームだけでなくセガ・ネット・ニュースという情報サービスもあった。サービスの利用料金は月額制。家庭用ゲーム機で本格的な通信を導入した先駆的なサービスだった<ref>エンターブレイン「セガ・コンシューマー・ヒストリー」 P134</ref>。
:; [[セガチャンネル]]
:: ケーブルテレビ回線を利用した配信事業。ゲーム図書館とは違いサードパーティーを含めROMですでに販売されていたゲームを配信していた。ゲームソフトだけでなく『プラネットメッセージクイズ』や『入試直前チェック難問奇門危機解快』のような学習ソフトの配信も行われた。
== バリエーション ==
{{Main|メガドライブのバリエーション}}
''(→[[メガCD]]も参照のこと)''
[[画像:Sega-Nomad-Front.png|thumb|NOMAD]]
[[画像:Console-wondermega.jpg|thumb|Victor ワンダーメガ]]
=== セガ製 ===
; メガドライブ(HAA-2510)
: 初期型。1988年10月29日発売。価格21,000円。
; メガドライブ2<ref name="option">[https://sega.jp/history/hard/megadrive/devices.html 関連・周辺機器 | メガドライブ | セガハード大百科 | セガ]</ref>(HAA-2502)
: メガドライブの廉価版。本体が小型化され、AV端子の形状が変更されてステレオ出力になった。6ボタンパッド1個付属。メガCD/メガCD2も接続可能。ヘッドホン端子は削除された。1993年4月23日発売。価格12,800円。
; ワンダーメガ<ref name="CD">[https://sega.jp/history/hard/mega-cd/devices.html 関連・周辺機器 | メガCD | セガハード大百科 | セガ]</ref>(HWM-5010)
: メガCD一体型のメガドライブ。[[MIDI]]出力、[[S端子]]などを備える。CDドライブはトップローディングだが、開閉は電動式。1992年4月24日発売。価格:79,800円。
; マルチメガ
: メガCD一体型のメガドライブ。国内では未発売。海外では1994年発売。
; メガジェット<ref name="option" />
: 本体・6ボタンコントローラ一体型のメガドライブ。駆動は[[商用電源]]のみ、画面は通常のテレビに出力して使用する。元々は旅客機内の貸し出しサービス用として[[日本航空]]と共同開発したもののため周辺機器による機能の拡張は元から考慮されていない。1994年3月10日一般発売。価格15,000円。
; [[ノーマッド (ゲーム機)|ノーマッド]]
: 海外のみで発売。液晶画面を搭載し単3電池6本で駆動する携帯ゲーム機。コントローラー端子も装備され一つの画面で2人プレイも可能。別途ケーブルでテレビ画面への出力も可能。周辺機器による機能の拡張は元から考慮されていない。
=== 他社製 ===
; ワンダーメガ (RG-M1) ([[日本ビクター]](後の[[JVCケンウッド]]))
: 1992年4月発売。
: 1992年度のグッドデザイン賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/19004 |title=テレビゲーム機 [VICTOR・WONDERMEGA(ワンダーメガ) RG-M1 |publisher=日本デザイン振興会 |accessdate=2021-12-08}}</ref>。
; ワンダーメガM2 (RG-M2)(日本ビクター)
: 1993年7月発売。
; その他
: LDゲーム機・[[レーザーアクティブ]]([[パイオニア]])に装着して使用するコントローラーパック、[[アイワ]]製のCDラジカセ型のものなどのバリエーションが存在していた。
== 周辺機器 ==
=== セガ純正 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:5.5em | 型番 !! width=25% | 名称 !! 備考
|-
|
| メガドライブカートリッジ
| カートリッジのみの販売はない。
|-
|HAA-2600
| [[メガアダプタ]]
| [[セガ・マークIII]]/[[マスターシステム]]のソフトを使うためのアダプタ。<br />[[SG-1000]]用のカートリッジやマイカードは使用不可で、FM音源にも非対応。
|-
|HAA-2650
| アーケードパワースティック<ref name="option" />
|
|-
|HAA-2651
| セガマウス<ref name="option" />
| 正式名称は、メガドライブ用[[マウス (コンピュータ)|マウス]]/マイクロトラックボール。<br />SEGAロゴが入ったマウスパッドが同梱されており、裏返すと[[トラックボール]]としても使用が可能な自動切換機能が内蔵されている。
|-
|HAA-2652
| [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|セガタップ]]<ref name="option" />
| 『ガントレット』制作時に4人同時プレイを実現させるために、M2社内で作られた。「生産まではまだ確約出来ないけど、生産出来なくてもマニュアルに回路図載せるってのでどう?」という意見があり、セガに持ち込んだ結果、純正品として発売された。<br />セガから発売されたものは4つの端子の1つのみを有効にする機能を持つセレクターの役目も兼ねており、これを経由していれば用途に応じてコントローラーの切り替えができた<ref>[[エンターブレイン]]『セガ・コンシューマー・ヒストリー』p.105、p115</ref>。『ガントレット』の開発では「メガモデムの端子を使ってメガドライブを2台繋げてみたい」という案{{efn2|過去にマークIIIで「F16ファイティングファルコン」の通信対戦の事例がある}}もあった。
|-
|HAA-2653
| 赤外線レシーバー
| SJ-6500の赤外線レシーバー。
|-
|HAA-2654
| コードレスパッドセット
| SJ-6500と赤外線レシーバーのセット。
|-
|HAA-2801
| RFユニット
| メガドライブ2、スーパー32X用
|-
|HAA-2810
| モノラルディンプラグコード
| メガドライブ2、スーパー32Xに付属。
|-
|HAA-2811
| ステレオディンプラグコード
| メガドライブ2およびスーパー32Xのみ使用できる赤・黄・白のステレオディンプラグコード。
|-
|HAA-2910
| [[メガCD]]
| メガドライブ専用[[CD-ROM]]ドライブ。
|-
|HAA-2912
| メガCD2
|
|-
|HAA-2931
| メガCDカラオケ
|
|-
|HAA-2932
| カラオケマイク
|
|-
|HAA-2951
| [[メガモデム]]
| [[モデム]]。セガ・ゲーム図書館などに使用。<br />ゲーム図書館専用ゲームソフトのダウンロード配信や、一部ソフトによる通信対戦にも対応している。
|-
|
| メガアンサー テンキーパッド
|
|-
|
| サーマルプリンタ
| メガアンサーで使用できる。
|-
|
| 特殊カートリッジ
| カートリッジ内にセガバーチャプロセッサと呼ばれる頂点計算用の乗算器を搭載したカートリッジ。対応ソフトは『[[バーチャレーシング|V.R. バーチャレーシングMD]]』のみ。
|-
|
| ロックオンカートリッジ
| カートリッジ上部の端子に他メガドライブ用カートリッジを装着することができるカートリッジ。対応ソフトは『[[ソニック&ナックルズ]]』のみ。
|-
|HMA-0001
| [[スーパー32X]]
| メガドライブを32ビット機にするアダプタ。
|-
|
| スーパー32X専用カートリッジ
| カートリッジのみの販売はない。
|-
|HSC-0101
| [[セガチャンネル]]専用レシーバーカートリッジ
| ケーブルテレビ回線を使用してメガドライブ用ゲームソフトの配信を行うサービス『セガチャンネル』専用のカートリッジ。
|-
|G-2920
| バックアップ RAMカートリッジ<ref name="CD" />
| メガCDの各種セーブデータを保存・管理する補助記憶装置。<br />記憶容量はメガCD内蔵バックアップRAMの約16倍に相当する2045ブロック1Mビット (128KB)。
|-
|SA-160
| ACアダプタ
| メガドライブ1、メガCD1、メガCD2、メガCDカラオケ用
|-
|SA-170
| ACアダプタ
| ワンダーメガ用
|-
|SA-190
| ACアダプタ
| メガドライブ2、スーパー32X、セガチャンネル専用レシーバーカートリッジ用。
|-
|SD-80
| モノラルディンプラグコード
| メガドライブ1に付属。マークIIIでも使用可能。
|-
|SJ-3500
| コントロールパッド<ref name="option" />
| 本体に一つ同梱。
|-
|SJ-6000
| ファイティングパッド6B<ref name="option" />
| 6ボタンジョイパッド。メガドライブ2には標準で付属。<br />旧型の3ボタンコントロールパッド(SJ-3500)に比べて操作性が向上している。
|-
|SJ-6500
| コードレスパッド6B<ref name="option" />
| [[赤外線]]を用いたワイヤレスコントローラ。単四乾電池2本必要。
|-
|SJ-6600
| アーケードパワースティック6B<ref name="option" />
| アーケード用のレバーとボタンを採用しており、A・B・C・X・Y・Zの6ボタンに個別対応した1秒間に6 - 24発までの無段階スライド式連射調節機能と、通電中でも変更が可能な3-6ボタン切り替えスイッチを装備している。
|-
|SS-70
| RFオートスイッチ
| メガドライブ1用
|-
|}
==== 未発売 ====
開発されたが、発売されなかった周辺機器。
* 2インチ[[フロッピーディスク]]ドライブ
* [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]
* [[ペンタブレット|タブレット]](全機種用『テレビおえかき』のタブレット部分のようなもの)
* メガスパイダー([[ライトガン|光線銃]])
=== サードパーティー(ライセンス商品) ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:6em | 型番 !! style="width:10em | 名称 !! style="width:5em | 発売元 !! 備考
|-
| MEGA S-01
| S端子ユニット
| rowspan="2"|サンタ
| 初期型メガドライブ専用S端子+ステレオ音声出力アダプタ。黄色い[[RCA端子]]にはモノラル音声が割り当てられているため、[[コンポジット映像信号|コンポジットビデオ]]ではない<ref>[http://www5.plala.or.jp/star-route13/sub21.html MEGA DRIVE & MEGA-CD(メガドライブ&メガCD)]</ref>。
|-
| MEGA S-02
| S端子ユニット
| MEGA S-01のメガドライブ2以降用。
|-
| XMD-2 RGB/S
| アナログRGB/S端子ユニット
| rowspan="2"|[[電波新聞社|マイコンソフト]]
| 初期型メガドライブ専用アナログRGB/S端子+ステレオ音声出力アダプタ。
|-
| XMD-3 RGB/S
| アナログRGB/S端子ユニット
| XMD-2 RGB/Sのメガドライブ2以降用。
|-
| AA-S95
| ACアダプタ
| rowspan="4"|ビクター
| ワンダーメガ用ACアダプタ
|-
| RG-CP1
| コントロールパッド
| ビクター製ワンダーメガ同梱。3ボタンコントロールパッド。
|-
| RG-CP2
| コードレスパッド
| ワンダーメガM2同梱。コードレスパッド。
|-
| RG-CP3
| コントロールパッド
| 6ボタンコントロールパッド。
|-
| GM-1P
| コントロールパッド
| アイワ
| メガCDラジカセ同梱。3ボタンコントロールパッド。
|-
| AS-0518
| アスキーパッドMD-6
| rowspan="2"|[[アスキー (企業)|アスキー]]
|
|-
| AS-9981-MD
| ファイタースティックMD
|
|-
| IMD-01
| イマジニアデジタルパッドMD
| [[イマジニア]]
|
|-
| CP-SO1CAM
| カプコンパッドソルジャーMD
| rowspan="2"|[[カプコン]]
|
|-
| CPS-A13CA
| カプコンパワースティックファイターMD
| メガドライブ用のカプコン純正スティック。
|-
| JE510
| ジャスティファイアー
| [[コナミ]]
| [[リーサルエンフォーサーズ]]で使用できる銃型コントローラ。
|-
| XE-1AP
| アナログジョイパッド
| rowspan="2"|マイコンソフト
|
|-
| XE-1ST2
| ジョイスティック
|
|-
| M-10001
| コントロールパッド 達人
| ムーミン
|
|-
|}
== ソフトウェア ==
{{Main|メガドライブのゲームタイトル一覧}}
セガのCSチームにはMC68000の開発経験がなく、このことは初期のソフト不足に影響した<ref name="mdtaizen">太田出版「メガドライブ大全 増補改訂版」 p314-316。</ref>。ソフト売上は全世界累計で1億7,500万本である。
また非公認ソフトもメガドライブ展開中から発売されていたが、2010年に『[[ピアソーラーと偉大なる建築家]]』が発売されて以降、日本国内外で数10タイトル発売されている。
{{Main|メガドライブのゲームタイトル一覧#非ライセンスのメガドライブのタイトル}}
またゲーム以外のソフトウェアとして以下のものが存在する。
{|class="wikitable sortable" style="font-size:smaller"
! style="width:7.5em" | 発売日 !! タイトル !! 発売元 !! 備考
|-
|1990年11月3日||[[ゲーム図書館]]||セガ||メガモデム必須。電話回線を利用してゲームやSega Net Newsなどを配信していた<ref name="Modem">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/fb/segahard/md/modem.html |title=[セガハード大百科] メガモデム |publisher=セガ |accessdate=2022-05-05}}</ref>。<br />サービス終了済み。
|-
|1990年||[[メガアンサー]]||セガ||ホームバンキングシステムで、プリンタなどの周辺機器と併用<ref>{{Cite web|和書|title=[セガハード大百科] メガアンサー |url=https://sega.jp/fb/segahard/md/answer.html |website=sega.jp |access-date=2022-05-10}}</ref>
|-
|1991年4月6日{{要出典|date=2022年5月}}||日刊スポーツプロ野球VAN||セガ||テンキーパッド専用、メガモデム必須{{R|Modem}}。サービス終了済み。
|-
|1991年6月{{Sfn|BEEP! メガドライブ|1991g|p=128|loc=セガ・ゲーム図書館BOOK REVIEW}}||セガ・ミュージックコレクション||セガ||『ゲーム図書館』で『ファンタシースターIII』、『ボナンザブラザーズ』、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のBGMを配信。
|-
|1991年||スミセイホーム端末||セガ||メガアンサー専用。非売品
|-
| ||大阪銀行のホームバンキングサービス マイライン|| ||メガアンサー専用
|-
| ||ナイスくんミニ||名古屋銀行||メガアンサー専用
|-
|1992年12月25日||ワンダーMIDI||ビクター||[[ワンダーメガ]]専用の[[MIDI]]デコーダーカートリッジ{{Sfn|BEEP! メガドライブ|1993a|p=119|loc=WONDERMEGA PRESS}}。
|-
|1993年10月8日||ワンダーライブラリ||ビクター||[[電子ブック (規格)|電子ブック規格]]の[[8センチCD]]を再生可能にするデコーダーカートリッジ{{Sfn|BEEP! メガドライブ|1993g|p=35|loc=特報 マルチアミューズメントプレイヤー WONDERMEGA RG-M2}}。
|-
| ||CD-ROM マルチセミナー 音声解析・波形表示カートリッジ|| ||[[メガドライブのバリエーション#セガ・マルチメガ/CDX|Linguaphone Education Gear]]の語学学習カートリッジソフト
|-
|1992年{{R|MDnGEncyclopedia122}}||The Miracle Piano Teaching System||The Software Toolworks{{R|MDnGEncyclopedia122}}||ピアノ練習用ソフト{{R|MDnGEncyclopedia122}}。<br />88鍵の専用キーボードが同梱{{R|MDnGEncyclopedia122}}。
|-
|1995年||Flux||ヴァージン・インタラクティブ・エンタテインメント{{R|MDnGEncyclopedia78}}||オーディオ・ビジュアライザ{{R|MDnGEncyclopedia78}}。<br />ビジュアルエフェクト機材として、1995年開催の[[グラストンベリー・フェスティバル]]と{{仮リンク|フェニックスフェスティバル|en|Phoenix Festival}}で使用{{R|MDnGEncyclopedia78}}。
|}
== 専門誌 ==
* [[BEEP!メガドライブ]]([[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンク]])
** →SEGA SATURN MAGAZINE→Dreamcast Magazine→ドリマガ→ゲーマガ(2012年3月休刊)
* [[メガドライブFAN]]([[徳間書店インターメディア]])
** →SATURN FAN→ドリームキャストFAN(休刊)
以下の二誌はPCエンジン専門誌の増刊号として隔月刊行された。
* [[電撃メガドライブ]]([[メディアワークス]])
** (休刊)→電撃SEGA・EX→電撃SEGA SATURN→[[電撃Dreamcast]]
* [[マル勝メガドライブ]]([[角川書店]])
以下の6冊は海外で発売されたメガドライブの専門誌。
* [[:en:Mega (magazine)|Mega]]([[:en:Future plc|Future Publising]])
* [[:en:Mega Drive Advanced Gaming|Mega Drive Advanced Gaming]]([[:en:Maverick Magazines|Maverick Magazines]])
* [[:en:Sega Pro|Sega Pro]]([[:en:Paragon Publishing|Paragon Publishing]])
* [[:en:Mean Machines|Mean Machines Sega]]([[:en:Emap International Limited|EMAP]])
* [[:en:Mega Zone|Sega MegaZone]](Elwood, Vic. Megazone Publications)
* [[:en:Sega Power|Sega Power]](Future plc)
== 反響 ==
任天堂やNECホームエレクトロニクスなどのライバルメーカーに先駆けて16ビット機であることをアピールして発売した本機は発売後すぐに売り切れるほど好調であり{{R|segahistory_vol3}}、国内外において当時遊んだプレイヤーたちに影響を与えた。
=== 海外での評価 ===
レッドブル・ミュージックアカデミーが配信した日本のゲーム音楽に焦点を当てたドキュメンタリー『ディギン イン ザ カーツ』 (DIGGIN' IN THE CARTS) のエピソード4「クール・キッズ」で『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』をはじめとしたメガドライブやセガのゲームミュージックを特集しており、古代祐三などにインタビューが行われている<ref>[http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/?section=magazine/diggin-in-the-carts-trailer-release Diggin' in the Carts: 予告編・各エピソード概要紹介] を参照。</ref>。
2012年3月16日にアメリカのスミソニアン美術館で開催された「[[:en:The Art of Video Games|The Art of Video Games]]」展では『Sonic CD』『Phantasy Star 千年紀の終わりに』などが展示された。アメリカのザ・ストロング国立遊び博物館がゲーム業界や大衆文化・社会に影響を与えたゲームの認知向上を目的にした[[世界ビデオゲームの殿堂]]の第2回目では日本から『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』他2作品(『ゼルダの伝説』、『スペースインベーダー』)が選出された<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1605/06/news110.html 日本から「ゼルダの伝説」「インベーダー」など3作品が選出 米博物館が「ビデオゲームの殿堂」を発表]</ref>。
== 販売終了後の展開 ==
21世紀に入ってもセガ非公認でメガドライブ(大抵は「MD」という表記)用ソフトが動くゲーム機(互換機)や、「MD用ソフト」がリリースされた。なお、セガ自身はメガドライブ ミニのような過去作の復刻を定期的に行っているが、少なくとも2016年現在でメガドライブの完全新作をサードパーティーに正式許諾(ライセンス)する意思は無いとの姿勢を示している<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-27 |url =https://news.denfaminicogamer.jp/megadrivecx/kibe3 |title =実際問題、いまさらメガドラ新作ソフトを作れるのか? セガにぶっちゃけ聞いてみた |work=電ファミニコゲーマー |accessdate=2019-03-27}}</ref>。
2018年6月5日には30周年記念ポータルサイトが開設された。
=== 復刻版 ===
; [[メガドライブ プレイTV]]
: 2004年9月9日発売
; メガドライブ プレイTV2、3
: 2005年4月2日発売
; [[メガドライブ ミニ]]
: 2019年9月19日発売
; [[メガドライブ ミニ2]]
: 2022年10月27日発売予定
=== 他機種でのプレイ ===
* [[Steam]]で一部のジェネシス版ソフトがダウンロード販売されている。
* [[ニンテンドー3DS]]ダウンロード専売ソフトとして、2012年から開始した「[[セガ3D復刻プロジェクト]]」によって、メガドライブ用ソフトのいくつかが3D立体視対応版として配信されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://archives.sega.jp/3d/|title=セガ3D復刻プロジェクト|publisher=セガ|accessdate=2021-09-24}}</ref>。
** このプロジェクトから生まれたパッケージソフトとして『[[セガ3D復刻アーカイブス]]』、『[[セガ3D復刻アーカイブス2]]』『[[セガ3D復刻アーカイブス3 FINAL STAGE]]』全3作品がリリースされた。
* [[ナムコアンソロジー]]の1作目『ナムコアンソロジー1』には『レッスルボール』が収録されている。
* 『[[ソニック ジャム]]』([[セガサターン]])や『[[ソニック メガコレクション]]』([[ニンテンドーゲームキューブ]]や[[PlayStation 2]]、[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]])には、『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ (1991年のゲーム)|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』など一部のメガドライブ用ソフトが収録されている。PlayStation 2用[[セガエイジス2500シリーズ]]の後期には、メガドライブ用ソフトが収録されたものもある。
* [[バーチャルコンソール]]([[Wii]])、[[Xbox Live Arcade]]([[Xbox 360]])、[[PlayStation 3]]向けダウンロードソフトの[[セガビンテージコレクション]]では、メガドライブ用ソフトや過去のアーケードゲームが配信されており、ダウンロードしてプレイ出来る(Wii版バーチャルコンソールについては2019年1月をもって配信自体が終了した)。
* 2018年から[[Nintendo Switch]]版『[[SEGA AGES]]』にて、一部作品の配信が開始されている。詳細はリンク先の項目を参照。
* 2021年10月26日からはオンラインサービス「[[Nintendo Switch Online]] + 追加パック」にて、一部作品がダウンロードしてプレイ出来るようになった<ref>{{Cite web|和書|title=SwitchでNINTENDO 64とメガドライブのゲームが遊べる。Nintendo Switch Onlineの新料金プランが2021年10月後半に追加|url=https://www.4gamer.net/games/440/G044018/20210924003/|website=4Gamer.net|date=2021-09-24|accessdate=2021-09-24}}</ref>。
=== コラボレーション ===
メガドライブと異業種とのコラボ商品が発売されている。
*2014年末に[[トランスフォーマー]]とのコラボでタカラトミーから『メガドライブメガトロン』が発売された<ref>[http://www.takaratomy-arts.co.jp/specials/hobby/tf/md/ タカラトミー公式サイトのNEXTA『MEGA DRIVE MEGATRON』] を参照。</ref>。
*アパレルでは「しまむらxセガハードコラボシリーズ」が展開されている。2016年のコラボ商品はスウェットであった<ref>[https://www.inside-games.jp/article/2016/07/13/100308.html 「しまむら」セガTシャツ新作登場!ドリキャスパーカーやメガドラスウェットも]。</ref>。同様のコラボはコスパ・タブリエグループの「コスパ」ブランドでも行われてきており、2015年は「メガドライブ ワッペンベースワークシャツ」や「メガドライブカートリッジ フルグラフィックTシャツ」<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20150909042/ メガドライブをイメージしたキャップやワークシャツ,ゲームギアを模したポーチなどがTGS 2015のコスパブースで先行販売]。</ref>、2016年は「16-BIT」のデザインを使ったシルバーリングであった<ref>[http://www.famitsu.com/news/201609/13115518.html 『ソニック』、『NiGHTS』、メガドライブの新グッズがコスパより発売決定]。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em|refs=
<ref name="MDnGEncyclopedia78">[[#Games|「GAMES」, 『The Sega Mega Drive & Genesis Encyclopedia』, p. 78.]]</ref>
<ref name="MDnGEncyclopedia122">[[#Games|「GAMES」, 『The Sega Mega Drive & Genesis Encyclopedia』, p. 122.]]</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{cite book | title=The Sega Mega Drive & Genesis Encyclopedia | first=Chris | last=Scullion | date=2021 | isbn=978-1-52674-6597 | publisher=Pen & Sword Books Limited | location=[[England]] | | ref=MDnGEncyclopedia}}
** {{Wikicite|ref=Games|reference=「Games」、15-221頁。}}
*{{Cite magazine |和書 |magazine=BEEP! メガドライブ |publisher=ソフトバンク |volume=7 |issue=7 |date=1991-07-01 |ref={{SfnRef|BEEP! メガドライブ|1991g}}}}
*{{Cite magazine |和書 |magazine=BEEP! メガドライブ |publisher=ソフトバンク |volume=9 |issue=1 |date=1993-01-01 |ref={{SfnRef|BEEP! メガドライブ|1993a}}}}
*{{Cite magazine |和書 |magazine=BEEP! メガドライブ |publisher=ソフトバンク |volume=9 |issue=7 |date=1993-07-01 |ref={{SfnRef|BEEP! メガドライブ|1993g}}}}
== 関連項目 ==
=== メガドライブの亜種など ===
* [[テラドライブ]] - 1991年、[[日本アイ・ビー・エム]]と共同開発した、パソコンとメガドライブとの複合機
* [[レーザーアクティブ]] - 1993年、[[パイオニア]]の出したゲームもできる[[レーザーディスク|LD]]プレイヤー
* [[メガドライブ プレイTV]]
* [[セガ・システムC]] - メガドライブのアーキテクチャを流用したアーケード基板。[[ぷよぷよ]]などで使用された。
* [[キッズコンピュータ・ピコ]] - タブレット式入力デバイスを持つ幼児用の知育玩具。
=== その他 ===
* [[バーチャルコンソール]]
* [[ドリームライブラリ]]
* [[ファミリードライバー]] - セガからメガドライブと同じ1988年10月に発売された体感型ゲーム機、玩具
=== テレビ番組 ===
* [[しくじり先生 俺みたいになるな!!]] - 2019年12月17日(16日深夜)の放送で特集が組まれ、SEGA公式Twitterでもアナウンスされた<ref>https://www.famitsu.com/news/201912/15189005.html ファミ通.comより</ref>。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Sega Mega Drive}}
* [https://sega.jp/history/hard/megadrive/index.html セガハード大百科 - メガドライブ]
* [https://sega.jp/mdmini/ セガ公式webサイト > メガドライブ ミニ 商品情報ページ]
* [https://sega.jp/special/hard_anniversary2018/ メガドラ30周年・ドリキャス20周年ポータルサイト]
* [http://vc.sega.jp/ SEGA バーチャルコンソール公式Webサイト]
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:めかとらいふ}}
[[Category:メガドライブ|*]]
[[Category:1988年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:セガのハードウェア]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:1980年代の玩具]]
[[Category:アセンブリ言語]] | 2003-02-14T13:47:25Z | 2023-12-26T00:04:57Z | false | false | false | [
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"Template:Sfn",
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"Template:Cite book",
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"Template:Notelist2",
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"Template:Wikicite",
"Template:Infobox コンシューマーゲーム機",
"Template:Efn2",
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"Template:Main",
"Template:要出典",
"Template:家庭用ゲーム機/セガ",
"Template:Normdaten",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Commonscat",
"Template:R",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite web"
]
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96 |
1,613 | 日本のいちばん長い日 | 『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』(にほんのいちばんながいひ うんめいのはちがつじゅうごにち)は、半藤一利による日本のノンフィクション書籍。1965年(昭和40年)の初版刊行時は文藝春秋新社から大宅壮一編のクレジットで発売され、1995年(平成7年)6月に文藝春秋から半藤名義で『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』として再版された。
昭和天皇や鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議において日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。
これまで製作公開された劇場用映画が、岡本喜八監督による1967年版(製作・配給東宝)と原田眞人監督による2015年版(製作・配給松竹)の2つがある。
著者の半藤一利は、1965年(昭和40年)当時は文藝春秋新社の社員であり、営業上の理由から「大宅壮一 編」として出版された。序文のみを大宅が書いている。半藤によると、大宅は本文を一行も読んでおらず、序文も半藤の口述筆記によるものだという。角川文庫からも再刊され、講談社インターナショナルから英訳版も出版された。タイトルはノルマンディー上陸作戦を描いた映画『史上最大の作戦』の原題The Longest Day から採用されている。
発行部数は単行本が約20万部、角川文庫版が約25万部。半藤は「映画化された際に映画化権(原作使用料)を受け取る」という条件で本作の印税を受け取っておらず、大宅にも5万円が支払われただけだという。
半藤が宮城事件立案者側の事情を知る上で大きな役割を果たしたのが、首謀者の一人で阿南惟幾の自決にも立ち会った竹下正彦が執筆した1945年8月9日から15日までの『大本営機密日誌』である。半藤は竹下からこの手記の閲覧を許され、それをベースに事件を起こした青年将校の動きを執筆した。竹下は1967年版映画のパンフレットに寄稿した「阿南陸相と三船」という文章の中で、過去の終戦秘話を描いた映画における青年将校の描写に不満を抱いていたことを記している。
半藤を著者とする「決定版」と付した改訂版は、戦後50年にあたる1995年(平成7年)6月に文藝春秋から刊行された。
1967年(昭和42年)に公開された日本映画。製作・配給は東宝。白黒、シネマスコープ。
東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化された。東宝内部では、ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったという。本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として1972年(昭和47年)の『海軍特別年少兵』まで6本の映画が製作された。
監督には小林正樹が内定していたが、彼はプロデューサーの藤本真澄と折り合いが悪く、脚本の橋本忍の推薦もあり、『肉弾』の脚本に取り組んでいた岡本が監督に起用された。岡本は本作の企画が停滞していた時期に藤本と会った際、『殺人狂時代』がお蔵入りにされたことへの不満と、本作の製作を進めることを述べていた。
この映画化に伴い、半藤には映画化権として80万円、後にヒット記念として東宝から追加で40万円が支払われた。
岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという。公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという。
脚本の橋本忍は、「(スタッフ)全員がはずれると思っていたのに大当たりを取った」唯一の映画が本作であると証言している。その理由について橋本は、戦後すぐでは受けなかったが、「前が見えない」時期に振り返ろうとしたからではないかと述べている。村井淳志はこれに加えて、(本作以前の終戦映画である『黎明八月十五日』や『日本敗れず』と比較して)前記の竹下正彦による『大本営機密日誌』をベースに、青年将校を「論理一貫性を持った真摯な存在として描写した」ことに大きな理由をみている。
昭和天皇はこの映画を公開年の12月29日に家族とともに鑑賞した。
エンディングの配役クレジットタイトルは、昭和天皇役の八代目松本幸四郎以外は登場順で表示されている。昭和天皇(演:松本幸四郎)については、重要な登場人物かつ存命で在位中の時代ということもあってか、クレジットもパンフレットにも紹介されていないなど、扱われ方に特別な配慮がされている。
※はクレジットなし。
2015年(平成27年)、原田眞人監督により48年ぶりに再び映画化された。製作・配給は松竹。「THE EMPEROR IN AUGUST」の英語タイトルが原田によって付けられている。第二次世界大戦後70年に当たる2015年(平成27年)8月8日に全国公開された。
半藤一利の『日本のいちばん長い日 決定版』を原作とし、さらに同作品の公開年に宮内庁から公表出版され始めた『昭和天皇実録』や鈴木貫太郎首相を描いた『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』の要素も加えられている。原田は1967年版について、「(陸軍大臣の)阿南さんの魂の相剋(そうこく)の描写も物足りなかったし、軍人は坊主でもなく不満を感じた。完全な映画化とは言えなかった」と不満を口にしている。
原田は「半藤先生の幾多の終戦にまつわる著作を何回も読み、天皇の勇気を支えたのが終戦内閣の鈴木貫太郎首相と阿南惟幾陸相のふたりであるとも確信しました」とコメントし、阿南と鈴木を軸に本作を製作したことを述べている。また、主要な人物である鈴木、阿南、昭和天皇をそれぞれ「父、長男、次男」と捉え、三人を中心にした「家族」をテーマに描いている。
また、大東亜戦争(太平洋戦争)を扱った映画の中で、昭和天皇の姿を明確に描いた最初の日本映画とされる。1967年(昭和42年)公開の前作では本人の存命・在位中ということもあり特別な扱いがされていたが、本作では1人の人物として描かれている。昭和天皇役の本木雅弘は当初本作の出演オファーを受けるのを躊躇したが、義母である樹木希林の後押しでオファーを引き受けた。また、前作の映画では登場しなかった香淳皇后が、本作では夫の昭和天皇との食事シーンにおいて池坊由紀が演じる形で登場した。
役名・役職は公式サイトの作品紹介の文章における記載などを基とした。
『文春オンライン』(文藝春秋)において、2021年10月29日より2022年6月25日まで星野之宣がコミカライズした作品を連載。全16話。半藤の小説を原作としており、「幕末の尊皇攘夷思想の広がり、二・二六事件、大陸侵攻、日米開戦へ続く天皇と軍部との緊張関係」を中心に描かれている。 | [
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"text": "著者の半藤一利は、1965年(昭和40年)当時は文藝春秋新社の社員であり、営業上の理由から「大宅壮一 編」として出版された。序文のみを大宅が書いている。半藤によると、大宅は本文を一行も読んでおらず、序文も半藤の口述筆記によるものだという。角川文庫からも再刊され、講談社インターナショナルから英訳版も出版された。タイトルはノルマンディー上陸作戦を描いた映画『史上最大の作戦』の原題The Longest Day から採用されている。",
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"text": "発行部数は単行本が約20万部、角川文庫版が約25万部。半藤は「映画化された際に映画化権(原作使用料)を受け取る」という条件で本作の印税を受け取っておらず、大宅にも5万円が支払われただけだという。",
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"text": "岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという。公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという。",
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"text": "また、大東亜戦争(太平洋戦争)を扱った映画の中で、昭和天皇の姿を明確に描いた最初の日本映画とされる。1967年(昭和42年)公開の前作では本人の存命・在位中ということもあり特別な扱いがされていたが、本作では1人の人物として描かれている。昭和天皇役の本木雅弘は当初本作の出演オファーを受けるのを躊躇したが、義母である樹木希林の後押しでオファーを引き受けた。また、前作の映画では登場しなかった香淳皇后が、本作では夫の昭和天皇との食事シーンにおいて池坊由紀が演じる形で登場した。",
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| 『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』は、半藤一利による日本のノンフィクション書籍。1965年(昭和40年)の初版刊行時は文藝春秋新社から大宅壮一編のクレジットで発売され、1995年(平成7年)6月に文藝春秋から半藤名義で『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』として再版された。 昭和天皇や鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議において日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。 これまで製作公開された劇場用映画が、岡本喜八監督による1967年版(製作・配給東宝)と原田眞人監督による2015年版(製作・配給松竹)の2つがある。 | {{基礎情報 書籍
| title = 日本のいちばん長い日<br />運命の八月十五日
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『'''日本のいちばん長い日 運命の八月十五日'''』(にほんのいちばんながいひ うんめいのはちがつじゅうごにち)は、[[半藤一利]]による[[日本]]の[[ノンフィクション]]書籍。[[1965年]]([[昭和]]40年)の初版刊行時は[[文藝春秋|文藝春秋新社]]から[[大宅壮一]]編のクレジットで発売され、[[1995年]]([[平成]]7年)6月に[[文藝春秋]]から半藤名義で『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』として再版された。
[[昭和天皇]]や[[鈴木貫太郎内閣]]の閣僚たちが[[御前会議]]において[[日本の降伏]]を決定した[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]の[[正午]]から[[宮城事件]]、そして国民に対して[[ラジオ]]([[日本放送協会]])の[[玉音放送]]を通じて[[ポツダム宣言]]受諾を知らせる[[8月15日]]正午までの24時間を描いている。
これまで製作公開された劇場用映画が、[[岡本喜八]]監督による[[#1967年版の映画|1967年版]](製作・配給[[東宝]])と[[原田眞人]]監督による[[#2015年版の映画|2015年版]](製作・配給[[松竹]])の2つがある。
== 刊行の背景 ==
著者の半藤一利は、[[1965年]](昭和40年)当時は文藝春秋新社の社員であり、営業上の理由から「[[大宅壮一]] 編」として出版された。序文のみを大宅が書いている。半藤によると、大宅は本文を一行も読んでおらず、序文も半藤の口述筆記によるものだという<ref name="bunshun_208">[[阿川佐和子]]『阿川佐和子のこの人に会いたい 8』2011年、[[文藝春秋]]([[文春文庫]])、208-209頁。ISBN 978-4-16-743521-9。(底本:『[[週刊文春]]』2010年8月5日号)</ref>。[[角川文庫]]からも再刊され、[[講談社インターナショナル]]から英訳版も出版された。タイトルは[[ノルマンディー上陸作戦]]を描いた映画『[[史上最大の作戦]]』の原題''The Longest Day'' から採用されている。
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半藤が宮城事件立案者側の事情を知る上で大きな役割を果たしたのが、首謀者の一人で[[阿南惟幾]]の自決にも立ち会った[[竹下正彦]]が執筆した1945年8月9日から15日までの『大本営機密日誌』である<ref name="muraip140">[[#村井2005|村井、2005年]]、pp.140 - 143</ref>。半藤は竹下からこの手記の閲覧を許され、それをベースに事件を起こした青年将校の動きを執筆した<ref name="muraip140"/>{{Refnest|group="注釈"|村井淳志によると、『大本営機密日誌』の竹下執筆分の原本は、2005年時点では所在不明である<ref name="muraip140"/>。しかし、その後2008年発行の『機密戦争日誌《全二巻》〔新装版〕 ―大本営陸軍部戦争指導班―』に収録された。半藤利一のコメント<ref>{{Cite web2 |url=http://kinseisha.jp/book/0323-2/ |title=機密戦争日誌《全二巻》〔新装版〕―大本営陸軍部戦争指導班― |date=2008-05-01 |publisher=錦正社 |archiveurl=https://archive.md/EQI0K |df=ja |url-status=live |archivedate=2017-05-19 |accessdate=2023-02-04}}</ref>と https://www.sankei.com/article/20180505-5IGKIQ7ETBN3VJMJM7SCGHKTPY/ を参照のこと。}}。竹下は1967年版映画のパンフレットに寄稿した「阿南陸相と三船」という文章の中で、過去の終戦秘話を描いた映画における青年将校の描写に不満を抱いていたことを記している<ref name="muraip140"/>。
半藤を著者とする「決定版」と付した改訂版は、[[戦後]]50年にあたる[[1995年]](平成7年)6月に[[文藝春秋]]から刊行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163503608|title= 運命の八月十五日 日本のいちばん長い日〈決定版〉|work=単行本|publisher=文藝春秋|accessdate=2015-05-25}}</ref>。
== 書誌情報 ==
* 大宅壮一 編『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』([[文藝春秋|文藝春秋新社]]、1965年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001068854-00|title=日本のいちばん長い日 : 運命の八月十五日(文芸春秋新社): 1965|publisher=[[国立国会図書館]]サーチ|accessdate=2015-05-22}}</ref>
** (英訳版)『''Japan's longest day. Compiled by the Pacific War Research Society'' 』([[講談社インターナショナル]]、1968年<ref>{{cite web|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000006345707-00|title=Japan's longest day. Compiled by the Pacific War Research Society (Kodansha International): 1968|publisher=[[国立国会図書館]]サーチ|accessdate=2015-05-22}}</ref> 新装版2007年 ISBN 4770028873)<ref group="注釈">日本語原本にはない写真を収録。登場人物大多数の肖像、阿南陸相の日常、戦争末期の国民、戦後に[[パール判事]]と面会する佐々木元大尉と[[岸信介]]、など。</ref>
** (文庫版)『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』([[角川文庫]]、1973年5月) ISBN 4041350018
* 半藤一利『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』([[文藝春秋]]、1995年6月) ISBN 4163503609
** (文庫版)『日本のいちばん長い日 決定版』([[文春文庫]]、2006年7月) ISBN 9784167483159
== 1967年版の映画 ==
{{Infobox Film
|作品名=日本のいちばん長い日
|原題=
|画像=Kinema-Junpo-1967-July-late-1.jpg
|画像サイズ=240px
|画像解説=
|監督=[[岡本喜八]]
|原作=[[大宅壮一]]<br />『日本のいちばん長い日』
|製作=[[藤本真澄]]<br />[[田中友幸]]
|脚本=[[橋本忍]]
|出演者=[[山村聰|山村聡]]<br />[[志村喬]]<br />[[笠智衆]]
|音楽=[[佐藤勝]]
|主題歌=
|撮影=[[村井博]]
|編集=[[黒岩義民]]
|製作会社=[[東宝]]
|配給=[[東宝]]
|公開={{Flagicon|JPN}} [[1967年]][[8月3日]]
|上映時間=157分
|製作国={{JPN}}
|言語=[[日本語]]
|製作費=
|配給収入=4億4195万円<ref>『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)240頁</ref>
|前作=
|次作=[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]
}}
[[1967年]](昭和42年)に公開された[[日本映画]]。製作・配給は[[東宝]]。[[モノクローム|白黒]]、[[シネマスコープ]]。
東宝創立35周年記念作品のひとつとして映画化された。東宝内部では、ヒットさせることよりも製作する意義を重視する声が多かったという<ref name="cinema16107"/>。本作をきっかけとして「東宝8.15シリーズ」として1972年(昭和47年)の『[[海軍特別年少兵]]』まで6本の映画が製作された。
*「日本のいちばん長い日」(1967年)
*「[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]」(1968年)
*「[[日本海大海戦]]」(1969年)
*「[[激動の昭和史 軍閥]]」(1970年)
*「[[激動の昭和史 沖縄決戦]]」(1971年)
*「海軍特別年少兵」(1972年)
監督には[[小林正樹]]が内定していたが、彼はプロデューサーの[[藤本真澄]]と折り合いが悪く、脚本の[[橋本忍]]の推薦もあり、『[[肉弾 (映画)|肉弾]]』の脚本に取り組んでいた岡本が監督に起用された<ref name="cinema16107">{{Cite web|和書| url = https://www.cinematoday.jp/news/N0086514| title = 『シン・ゴジラ』に岡本喜八監督が登場するワケ『日本のいちばん長い日』(1967年) | publisher = シネマトゥデイ| date = 2016-10-07| accessdate = 2017-09-09}}</ref><ref>[[#村井2005|村井、2005年]]、pp.135 - 136</ref>。岡本は本作の企画が停滞していた時期に藤本と会った際、『[[殺人狂時代 (1967年の映画)|殺人狂時代]]』がお蔵入りにされたことへの不満と、本作の製作を進めることを述べていた<ref name="cinema16107"/>。
この映画化に伴い、半藤には映画化権として80万円、後にヒット記念として東宝から追加で40万円が支払われた<ref>『阿川佐和子のこの人に会いたい 8』210頁。(底本:『週刊文春』2010年8月5日号)</ref>。
岡本は撮影に際しては可能な限り事実に基づいた描写を行い、特に本作の最後に「この戦争で300万人が死んだ」という文言を加えることに固執したという<ref name="cinema16107"/>。公開後は賛否両論となり、批判的な意見としては「戦争指導者を英雄視しているのでは?」というものが多かったという<ref name="cinema16107"/>。
脚本の[[橋本忍]]は、「(スタッフ)全員がはずれると思っていたのに大当たりを取った」唯一の映画が本作であると証言している<ref name="muraip137">[[#村井2005|村井、2005年]] pp.137 -139</ref>。その理由について橋本は、戦後すぐでは受けなかったが、「前が見えない」時期に振り返ろうとしたからではないかと述べている<ref name="muraip137"/>。[[村井淳志]]はこれに加えて、(本作以前の終戦映画である『[[黎明八月十五日]]』や『[[日本敗れず]]』と比較して)前記の竹下正彦による『大本営機密日誌』をベースに、青年将校を「論理一貫性を持った真摯な存在として描写した」ことに大きな理由をみている<ref name="muraip137"/>。
昭和天皇はこの映画を公開年の12月29日に家族とともに鑑賞した<ref>毎日新聞2014年9月9日、17頁</ref>。
=== 出演者 ===
エンディングの配役[[クレジットタイトル]]は、[[昭和天皇]]役の[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]]以外は登場順で表示されている。[[昭和天皇]](演:松本幸四郎)については、重要な登場人物かつ存命で在位中の時代ということもあってか、クレジットもパンフレットにも紹介されていないなど、扱われ方に特別な配慮がされている。
※はクレジットなし。
==== 政府関係者 ====
;内閣
:* [[鈴木貫太郎]]男爵(内閣総理大臣) - [[笠智衆]]
:* [[東郷茂徳]](外務大臣) - [[宮口精二]]
:* [[米内光政]]([[海軍大臣]]) - [[山村聰|山村聡]]([[特別出演]])<ref group="注釈">特別出演のクレジット表記はなし。</ref>
:* [[阿南惟幾]]([[陸軍大臣]]) - [[三船敏郎]]
:* [[岡田忠彦]](厚生大臣) - [[小杉義男]]
:* [[下村宏]]([[情報局]]総裁) - [[志村喬]]
:* [[石黒忠篤]](農商務大臣) - [[香川良介]]
:* [[広瀬豊作]](大蔵大臣) - [[北沢彪]]
:* [[松阪広政]](司法大臣) - [[村上冬樹]]
:* [[豊田貞次郎]](軍需大臣) - [[飯田覚三]]
:* 大臣 - [[山田圭介 (俳優)|山田圭介]]
:* 大臣 - [[田中志幸]]
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;官邸
:* [[迫水久常]]([[内閣書記官長]]) - [[加藤武]]
:* [[木原通雄]](内閣嘱託) - [[川辺久造]]
:* 佐藤信次郎(内閣官房総務課長) - [[北村和夫]]
:* 佐野小門太(内閣理事官) - [[上田忠好]]
:* [[鈴木一 (農林官僚)|鈴木一]](総理秘書官) - 笠徹※<ref group="注釈">笠智衆の実子で東宝社員。なお、扮した鈴木一も鈴木貫太郎の実子である。</ref>
:* 小林海軍軍医 - [[武内亨]]
:* 首相官邸警護の巡査 - [[小川安三]]
:
;外務省
:* [[松本俊一]](外務次官) - [[戸浦六宏]]
:* 大江晃(電信課長) - [[堤康久]]
:
;情報局
:* [[川本信正]](情報局総裁秘書官) - [[江原達怡]]
==== 宮内省関係者 ====
:* [[石渡荘太郎]](宮内大臣) - [[龍岡晋|竜岡晋]]
:* [[加藤進 (会計検査院長)|加藤進]](総務局長) - [[神山繁]]
:* [[筧素彦]](庶務課長) - [[浜村純]]
:* [[佐野恵作]](総務課員) - [[佐田豊]]
==== 陸軍関係者 ====
;陸軍省
:* [[若松只一]]中将(陸軍次官) - [[小瀬格]]
:* [[吉積正雄]]中将(軍務局長) - [[大友伸]]※<ref group="注釈">一部の映画資料{{要出典|date=2014年8月}}には記載</ref>
:* [[荒尾興功]]大佐(軍事課長) - [[玉川伊佐男]]
:* [[井田正孝]]中佐(軍務課員) - [[高橋悦史]]
:* [[椎崎二郎]]中佐(軍事課員) - [[中丸忠雄]]
:* [[竹下正彦]]中佐(軍事課員) - [[井上孝雄]]
:* [[畑中健二]]少佐(軍事課員) - [[黒沢年雄|黒沢年男]]
:* 小林四男治中佐(陸軍大臣副官) - [[田中浩 (俳優)|田中浩]]
:
;参謀本部
:* [[梅津美治郎]]大将(参謀総長) - [[吉頂寺晃]]
:
;第一総軍
:* [[杉山元]]元帥(司令官) - 岩谷壮※<ref group="注釈" name="pamphlet">パンフレットには記載。</ref>
:
;第二総軍
:* [[畑俊六]]元帥(司令官) - [[今福将雄|今福正雄]]
:* [[白石通教]]中佐(参謀兼司令官副官) - [[勝部演之]]
:
;東部軍
:* [[田中静壱]]大将(司令官) - [[石山健二郎]]
:* [[高嶋辰彦]]少将(参謀長) - [[森幹太]]
:* [[不破博]]大佐(高級参謀) - [[土屋嘉男]]
:* [[稲留勝彦]]大佐(参謀) - [[宮部昭夫]]
:* [[板垣徹]]中佐(参謀) - [[伊吹徹]]
:* [[神野敏夫]]少佐(参謀) - [[関田裕]]
:* [[塚本清]]少佐(司令官副官) - [[滝恵一]]
:
;近衛師団
:* [[森赳]]中将(第一師団長) - [[島田正吾]]
:* [[水谷一生]]大佐(参謀長) - [[若宮忠三郎]]
:* [[渡辺多粮]]大佐(歩兵第一連隊長) - [[田島義文]]
:* [[芳賀豊次郎]]大佐(歩兵第二連隊長) - [[藤田進]]
:* [[古賀秀正]]少佐(参謀) - [[佐藤允]]
:* [[石原貞吉]]少佐(参謀) - [[久保明]]
:* 大隊長 - [[久野征四郎]]
:* 宮城衛兵司令所の伍長 - [[山本廉]]
:* 徳川侍従を殴る師団兵 - [[荒木保夫]]
:* 師団兵 - [[桐野洋雄]]
:* 師団兵 - [[中山豊]]
:
;児玉基地(陸海混成第27飛行集団)
:* [[野中俊雄]]大佐(飛行団長) - [[伊藤雄之助]]
:* 児玉基地副長 - [[長谷川弘]]
:* 少年飛行兵 - 大沢健三郎※
:
;横浜警備隊
:* [[佐々木武雄]]大尉(隊長) - [[天本英世]]
:
;航空士官学校
:* 黒田大尉{{Refnest|group="注釈"|この人物はフィクションである<ref name="muraip143">[[#村井2005|村井、2005年]] pp.143 - 144</ref>。史実で森師団長と白石中佐を斬殺したのは航空士官学校の上原重太郎大尉と、通信学校の窪田兼三少佐であった<ref name="muraip143"/>。戦後も存命だった窪田が「長女が結婚直前だから」という理由で半藤に対して実名の使用を控えるよう要望し、その結果、窪田の名前と上原の所属をベースにこの人物が創作された<ref name="muraip143"/>。}} - [[中谷一郎]]
:
;憲兵隊
:* [[NHK東京放送会館|東京放送会館]]警備の憲兵中尉 - [[井川比佐志]]
==== 海軍関係者 ====
;軍令部
:* [[豊田副武]]大将(軍令部総長) - 山田晴生
:* [[大西瀧治郎]]中将(軍令部次長) - [[二本柳寛]]
:
;海軍省
:* [[保科善四郎]]中将(軍務局長) - [[高田稔]]
:
; [[厚木基地]]([[第三〇二海軍航空隊]])
:* [[小園安名]]大佐(司令) - [[田崎潤]]
:* 菅原英雄中佐(副長) - [[平田昭彦]]
:* 飛行整備科長 - [[堺左千夫]]
==== 宮城関係者 ====
;重臣
:* [[木戸幸一]](内大臣) - [[中村伸郎]]
:* [[平沼騏一郎]](枢密院議長) - [[明石潮]]
:
;侍従
:* [[蓮沼蕃]]大将(侍従武官長) - [[北竜二]]
:* [[中村俊久]]中将(侍従武官) - [[野村浩三|野村明司]]
:* [[清家武夫]]中佐(侍従武官) - [[藤木悠]]
:* [[藤田尚徳]]([[侍従長]]) - [[青野平義]]
:* [[徳川義寛]](侍従) - [[小林桂樹]]
:* [[三井安弥]](侍従) - [[浜田寅彦]]
:* [[入江相政]](侍従) - [[袋正]]
:* [[戸田康英]](侍従) - [[児玉清]]
:* [[岡部長章]](侍従) - 関口銀三
==== 日本放送協会関係者 ====
* [[大橋八郎]]([[日本放送協会]]会長) - [[森野五郎]]
* 矢部謙次郎(国内局長) - [[加東大介]]
* [[荒川大太郎]](技術局長) - [[石田茂樹]]
* 高橋武治(報道部長) - [[須田準之助]]
* 館野守男([[アナウンサー|放送員]])<ref group="注釈">畑中少佐が放送会館内のスタジオで館野に正面から拳銃を突きつける場面があるが、館野自身は、後年、畑中少佐ではなく、一緒に入ってきた少尉が「ピストルを私の背中に突き付け」た、と述べている。(「昭和」平成8年8月15日号:昭和天皇崇敬会発行)</ref> - [[加山雄三]]
* [[和田信賢]](放送員) - [[小泉博]]
* 長友俊一(技師) - [[草川直也]]
* 技師 - [[今井和雄]]
* 技師 - [[加藤茂雄]]
==== その他 ====
* [[原百合子]](鈴木首相私邸女中) - [[新珠三千代]]
* 政治部記者 - [[三井弘次]]
* 佐々木大尉の後輩・横浜工高生(横浜必勝学生連盟) - [[阿知波信介]]※
* ビラを拾う街の男 - [[夏木順平]]
* ビラを拾う街の浮浪児・兄 - [[頭師佳孝]]※
* ビラを拾う街の浮浪児・弟 - [[雷門ケン坊]]※
* 枢密院会議の重臣 - [[秋月正夫]]
* 枢密院会議の重臣 - 野村清一郎
* [[起田志郎]]
* [[ナレーター]] - [[仲代達矢]]
==== 特別出演 ====
* [[昭和天皇]] - [[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎(八代目)]]<ref group="注釈">遠景と手や後姿、および声などで出演しており、その表情が画面上に映し出されることはない。</ref>
==== スタッフ ====
* 製作:[[藤本真澄]]、[[田中友幸]]
* 原作:[[大宅壮一]]
* 脚本:[[橋本忍]]
* 音楽:[[佐藤勝]]
* 撮影:[[村井博]]
* 美術:[[阿久根巌]]
* 録音:[[渡会伸]]
* 照明:[[西川鶴三]]
* 編集:[[黒岩義民]]
* 監督助手:[[渡辺邦彦]]
* 製作担当者:鈴木政雄
* 整音:[[下永尚]]
* 製作・配給:[[東宝]]
* 監督:[[岡本喜八]]
{{東宝8.15シリーズ}}
{{岡本喜八監督作品}}
{{加山雄三}}
== 2015年版の映画 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = 日本のいちばん長い日
| 原題 = THE EMPEROR IN AUGUST<!--英題はオフィシャルサイトのタイトルロゴに記載されています-->
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[原田眞人]]
| 原作= [[半藤一利]]<br />『日本のいちばん長い日 決定版』
| 製作総指揮 = [[迫本淳一]]
| 製作 =
| 脚本 = 原田眞人
| 出演者 = [[役所広司]]<br />[[本木雅弘]]<br />[[松坂桃李]]<br />[[堤真一]]<br/ >[[山﨑努]]
| 音楽 = [[富貴晴美]]
| 主題歌 =
| 撮影 = [[柴主高秀]]
| 編集 = [[原田遊人]]
| 制作会社 = [[松竹撮影所]]
| 製作会社 = 「日本のいちばん長い日」製作委員会
| 配給 = [[アスミック・エース]]<br />松竹
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[2015年]][[8月8日]]
| 上映時間 =136分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 = 13.2億円<ref>{{映連興行収入|2015}}</ref>
| 前作 =
| 次作 =
}}
[[2015年]](平成27年)、[[原田眞人]]監督により48年ぶりに再び映画化された。製作・配給は[[松竹]]。「'''THE EMPEROR IN AUGUST'''」の[[英語]]タイトルが原田によって付けられている<ref name="eiga141209"/>。[[第二次世界大戦]]後70年に当たる[[2015年]]([[平成]]27年)[[8月8日]]に全国公開された。
[[半藤一利]]の『日本のいちばん長い日 決定版』を原作とし、さらに同作品の公開年に[[宮内庁]]から公表出版され始めた『昭和天皇実録』や[[鈴木貫太郎]]首相を描いた『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』の要素も加えられている<ref name="eiga141209">{{Cite web|和書| url = http://eiga.com/news/20141209/1/| title = 「日本のいちばん長い日」映画化で役所広司主演!本木×松坂×堤×山崎らオールスター俳優結集| publisher = 映画.com| date = 2014-12-09| accessdate = 2017-09-07}}</ref><ref name="eiga15410">{{Cite web|和書| url = http://eiga.com/news/20150410/12/| title = 「日本のいちばん長い日」特報が伝える日本の未来を信じ戦った男たちのドラマ |publisher = 映画.com| date = 2015-04-10| accessdate = 2017-09-07}}</ref>。原田は1967年版について、「(陸軍大臣の)阿南さんの魂の相剋(そうこく)の描写も物足りなかったし、軍人は坊主でもなく不満を感じた。完全な映画化とは言えなかった」と不満を口にしている<ref name="eiga1587">{{Cite web|和書| url = http://eiga.com/news/20150807/4/| title = 「日本のいちばん長い日」原田眞人監督、こだわり抜いた「人間・昭和天皇」の人物描写 |publisher = 映画.com| date = 2015-08-07| accessdate = 2017-09-07}}</ref>。<!--(但し、海軍将校や陸軍軍人にも長髪の者が多数おり、軍人のすべてが丸刈りの坊主頭であるというのは誤りである。また、監督である岡本喜八は甲種幹部候補生として陸軍に所属していたこともあり、スタッフや俳優の多くも軍隊・戦争経験者であるなど、前述の理由がリアリティを否定出来るものではない。)-->
原田は「半藤先生の幾多の終戦にまつわる著作を何回も読み、天皇の勇気を支えたのが[[鈴木貫太郎内閣|終戦内閣]]の[[鈴木貫太郎]]首相と[[阿南惟幾]]陸相のふたりであるとも確信しました」とコメントし、阿南と鈴木を軸に本作を製作したことを述べている<ref name="eiga141209"/>。また、主要な人物である鈴木、阿南、昭和天皇をそれぞれ「父、長男、次男」と捉え、三人を中心にした「家族」をテーマに描いている<ref name="eiga1587"/>。
また、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])を扱った映画の中で、[[昭和天皇]]の姿を明確に描いた最初の[[日本映画]]とされる<ref name="eiga15410"/>{{Refnest|group="注釈"|日本映画以外では[[2006年]]公開のロシア、イタリア、フランス、スイス合作映画『[[太陽 (映画)|太陽]]』(演:[[イッセー尾形]])、[[2012年]]公開のアメリカ映画『[[終戦のエンペラー]]』(演:[[片岡孝太郎]])などで日本人が昭和天皇を演じている。}}。[[1967年]]([[昭和]]42年)公開の前作では本人の存命・在位中ということもあり特別な扱いがされていたが、本作では1人の人物として描かれている。昭和天皇役の[[本木雅弘]]は当初本作の出演オファーを受けるのを躊躇したが、義母である[[樹木希林]]の後押しでオファーを引き受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0073341 |title=本木雅弘、昭和天皇役に樹木希林の後押し |publisher=シネマトゥデイ |date=2015-05-20 |accessdate=2017-09-07}}</ref>。また、前作の映画では登場しなかった[[香淳皇后]]が、本作では夫の昭和天皇との食事シーンにおいて[[池坊由紀]]が演じる形で登場した。
=== 主なキャスト ===
役名・役職は公式サイトの作品紹介の文章における記載などを基とした<ref>{{Cite web|和書|url=https://nihon-ichi.jp/|title=作品紹介|accessdate=2015-05-25}}</ref>。
;主要人物
:* [[阿南惟幾]](陸軍大臣) - [[役所広司]]
:* [[昭和天皇]] - [[本木雅弘]]
:* [[鈴木貫太郎]](内閣総理大臣) - [[山﨑努]]
:* [[迫水久常]](内閣書記官長) - [[堤真一]]
:* [[畑中健二]](陸軍少佐、軍務課員) - [[松坂桃李]]
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;宮中
:* [[香淳皇后]] - [[池坊由紀]]
:* [[木戸幸一]](内大臣) - [[矢島健一]]
:* [[平沼騏一郎]](枢密院議長、元首相) - [[金内喜久夫]]
:* [[藤田尚徳]](侍従長) - [[麿赤児|麿赤兒]]
:* [[三井安彌]](侍従) - [[植本潤]]
:* [[入江相政]](侍従) - [[茂山千五郎家|茂山茂]]
:* [[徳川義寛]](侍従) - [[大藏基誠]]
:* [[戸田康英]](侍従) - [[松嶋亮太]]
:* [[永積寅彦]](侍従) - [[岩寺真志]]
:* [[岡部長章]](侍従) - [[中村靖日]]
:* 侍従 - [[山田啓二]]
:* [[蓮沼蕃]](侍従武官長) - [[姉川新之輔]]
:* [[保科武子]](女官長) - [[宮本裕子 (女優)|宮本裕子]]
:
;内閣
:* [[米内光政]](海軍大臣、元首相) - [[中村育二]]
:* [[東郷茂徳]](外務大臣) - [[近童弐吉]]
:* [[安井藤治]](国務大臣) - [[山路和弘]]
:* [[左近司政三]](国務大臣) - 鴨川てんし
:* [[下村宏]](情報局総裁) - [[久保酎吉]]
:
;外務省
:* 松本俊一(事務次官) - 長澤壮太郎
:
;陸軍
:* [[梅津美治郎]](陸軍大将、参謀総長) - [[井之上隆志]]
:* [[田中静壱|田中静壹]](陸軍大将、東部軍管区司令官) - [[木場勝己]]
:* [[高島辰彦]](陸軍少将、東部軍管区参謀長) - [[奥田達士]]
:* [[森赳]](陸軍中将、近衛師団長) - [[高橋耕次郎|髙橋耕次郎]]
:* 芳賀豊次郎(陸軍大佐、近衛師団第二連隊長) - [[安藤彰則]]
:* [[東條英機|東条英機]](陸軍大将、元首相) - [[中嶋しゅう]]
:* [[杉山元]](元帥、前陸軍大臣) - 川中健次郎
:* [[土肥原賢二]](陸軍大将、教育総監) - [[清水一彰]]
:* [[吉積正雄]](陸軍中将、軍務局長) - [[桂憲一]]
:* [[荒尾興功]](陸軍大佐、軍務課長) - [[田中美央]]
:* [[水谷一生]](陸軍大佐、近衛師団参謀長) - 香山栄志
:* 林三郎(陸軍大佐) - 柏村栄行
:* [[井田正孝]](陸軍中佐、軍務課員) - [[大場泰正]]
:* [[竹下正彦]](陸軍中佐、軍務課員、阿南陸軍大臣の義弟) - [[関口晴雄]]
:* [[椎崎二郎]](陸軍中佐、軍務課員) - [[田島俊弥]]
:* [[稲葉正夫]](陸軍中佐、軍務課員) - [[小林且弥]]
:*[[白石通教]] (陸軍中佐) - [[本郷壮二郎]]
:* [[古賀秀正]](陸軍少佐、近衛師団参謀) - 谷部央年
:* 窪田兼三(陸軍少佐、通信学校教官) - [[青山草太]]
:* [[佐々木武雄]](陸軍大尉、横浜警備隊長) - [[松山ケンイチ]](特別出演)<ref name="mantan20150520"/>
:* [[上原重太郎]](陸軍大尉、航空士官学校教官) - 松浦海之介
:*[[藤井政美]](陸軍士官学校附属大尉) - [[戸塚祥太]]([[A.B.C-Z]])
:
;海軍
:* [[豊田副武]](海軍大将、軍令部総長) - [[井上肇]]
:* [[大西瀧治郎]](海軍中将、軍令部次長) - [[嵐芳三郎 (7代目)|嵐芳三郎]]
:* [[岡田啓介]](海軍大将、元首相) - [[吉澤健]]
:*古川(海軍少佐、米内海相副官) - [[原田遊人]]
:
;阿南家
:* 阿南綾子(阿南陸軍大臣の妻) - [[神野三鈴]]
:* 阿南喜美子(阿南陸軍大臣の長女)- [[蓮佛美沙子]]
:* [[阿南惟晟]](阿南陸軍大臣の次男) - [[三船力也]]<ref group="注釈">1967年版で阿南を演じた[[三船敏郎]]の孫</ref>
:* [[阿南惟道]](阿南陸軍大臣の五男) - 稲田都亜
:* 秋富(阿南喜美子の婚約者) - [[渡辺大]]
:
;鈴木家
:* 鈴木たか(鈴木首相夫人) - [[西山知佐]]
:* 鈴木一(首相秘書官、鈴木首相の長男) - [[小松和重]]
:* 鈴木布美(一の妻) - 小野愛寿香
:* [[鈴木孝雄]](鈴木首相の弟) - [[福本清三]]
:
; [[日本放送協会|NHK]]
:* 館野守男(NHK放送員) - [[野間口徹]]
:* 保木玲子(NHK放送局員) - [[戸田恵梨香]](特別出演)<ref name="mantan20150520">{{Cite web|和書|date=2015-05-20|url=https://mantan-web.jp/article/20150520dog00m200008000c.html |title= 本木雅弘:昭和天皇役決断に義母・樹木希林の助言|publisher= [[毎日新聞社|MANTANWEB]]|accessdate=2015-05-25}}</ref>
:
;その他
:* 絹子(陸軍大臣官邸の女中) - [[キムラ緑子]]
=== 主なスタッフ ===
* 監督・脚本:[[原田眞人]]
* 製作総指揮:[[迫本淳一]]
* エグゼクティブプロデューサー:関根真吾、豊島雅郎
* プロデューサー:榎望、新垣弘隆
* 撮影:[[柴主高秀]]
* 美術:[[原田哲男]]
* 音楽:[[富貴晴美]]
* 編集:[[原田遊人]]
* VFXスーパーバイザー:[[小田一生|オダイッセイ]]
** VFX・CG:ナイス・デー、あとりえTETO、[[東京現像所]]、[[日本映像クリエイティブ]]、アンダーグラフ、KI Studio、コロビト、[[キュー・テック]]、Marza Animation Planet
* 音響効果:[[柴崎憲治]]
* 特殊メイク:中田彰輝
* 殺陣・アクション:[[森聖二]]
* ガンエフェクト:[[ビッグショット (特殊効果)|BIGSHOT]]
* 操演:スプリーム・エフェクト
* 陸軍軍事指導:大東信祐
* 海軍軍事指導:山内敏秀
* 企画協力:[[TOHOスタジオ|東宝映画]]、[[文藝春秋]]
* 協力:[[防衛省]]・[[海上自衛隊]]
* 特別協力:[[京都府]]
* 制作プロダクション:[[松竹撮影所]]
* 配給:[[アスミック・エース]]、松竹
* 製作:「日本のいちばん長い日」製作委員会(松竹、アスミック・エース、[[テレビ朝日]]、[[木下グループ]]、[[WOWOW]]、巖本金属、[[読売新聞社]]、[[中日新聞社]])
=== ロケ地 ===
{{節stub}}
* [[神戸大学]]六甲台キャンパス - 宮内省内観<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobefilm.jp/maps/nada/001128.html|title=ロケ地マップ:灘区:神戸大学(六甲台キャンパス)|publisher=[[神戸フィルムオフィス]]|accessdate=2022-08-14}}</ref>
* [[兵庫県公館]] - 宮内省外観<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobefilm.jp/maps/chuou/001121.html|title=ロケ地マップ:中央区:兵庫県公館|publisher=神戸フィルムオフィス|accessdate=2022-08-14}}</ref>
* [[大覚寺]] - 鈴木が昭和天皇から大命降下を受ける
* [[橿原神宮]] - 鈴木、阿南が昭和天皇の侍従時代の回想
* 旧東郷平八郎邸宅 - 鈴木私邸
* [[京都府庁旧本館]] - 陸軍省外観
* 旧[[京都市立清水小学校]] - 陸軍省軍務課・軍事課
* [[神戸税関]] - 東部軍管区司令部<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobefilm.jp/maps/chuou/001161.html|title=ロケ地マップ:中央区:神戸税関|publisher=神戸フィルムオフィス|accessdate=2022-08-14}}</ref>
* 藤井彦四郎邸宅 - 阿南私邸
* [[旧乾邸]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobefilm.jp/works/data/001772.html|title=これまでの支援作品:映画:日本のいちばん長い日|publisher=神戸フィルムオフィス|accessdate=2022-08-14}}</ref> - 総理官邸
=== 受賞歴 ===
* 第40回[[報知映画賞]](2015年)
** 助演男優賞([[本木雅弘]]) ※ 『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』と合わせて受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/feature/hochi_eigashou/20151125-OHT1T50216.html|title=【報知映画賞】本木雅弘「40代最後のご褒美」樹木は人生の助言者|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2015-11-26|accessdate=2015-11-26}}</ref>。
* 第28回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]](2015年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1576522.html|title=日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞決定|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2015-12-08|accessdate=2015-12-08}}</ref>
** 石原裕次郎賞
** 監督賞([[原田眞人]]) ※『[[駆込み女と駆出し男]]』と合わせて受賞。
** 助演男優賞(本木雅弘) ※『天空の蜂』と合わせて受賞。
* 第89回[[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・テン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/171750|title=キネマ旬報ベスト・テン発表、「恋人たち」「マッドマックス」が1位に輝く|publisher=映画ナタリー|date=2016-01-08|accessdate=2016-01-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/main/kinejun_best10/kojin.aspx|title=第89回キネマ旬報ベストテン 個人賞|publisher=KINENOTE|date=|accessdate=2016-01-08}}</ref>
** 助演男優賞(本木雅弘) ※『天空の蜂』と合わせて受賞。
*[[第39回日本アカデミー賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/39.html|title=第39回日本アカデミー賞優秀賞決定! |publisher=日本アカデミー賞公式サイト|accessdate=2016-03-05}}</ref>
**最優秀助演男優賞(本木雅弘)
**優秀作品賞
**優秀監督賞(原田眞人)
**優秀脚本賞(原田眞人)
**優秀主演男優賞(役所広司)
**優秀音楽賞(富貴晴美)
**優秀撮影賞(芝主高秀)
**優秀照明賞(宮西孝明)
**優秀美術賞(原田哲男)
**優秀録音賞(照井康政〈録音〉・矢野正人〈整音〉)
**優秀編集賞(原田遊人)
* [[毎日映画コンクール#第70回(2015年)|第70回毎日映画コンクール]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160121/k00/00m/040/131000c|title=毎日映画コンクール 大賞に橋口監督の「恋人たち」|publisher=[[毎日新聞]]|date=2016-01-21|accessdate=2016-01-21}}</ref>
**美術賞(原田哲男)
*第58回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160126-OHT1T50117.html|title=【ブルーリボン賞】作品賞・原田監督、吐露「救われた」|publisher=スポーツ報知|date=2016-01-27|accessdate=2016-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160130224306/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160126-OHT1T50117.html|archivedate=2016-01-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160126-OHT1T50111.html|title=【ブルーリボン賞】助演男優賞・本木雅弘、スカイプで登場|publisher=スポーツ報知|date=2016-01-27|accessdate=2016-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160130012557/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160126-OHT1T50111.html|archivedate=2016-01-30}}</ref>
**作品賞
**助演男優賞(本木雅弘) ※『天空の蜂』と合わせて受賞。
{{原田眞人監督作品}}
{{石原裕次郎賞}}
{{ブルーリボン賞作品賞}}
== 漫画 ==
『[[文春オンライン]]』([[文藝春秋]])において、2021年10月29日より2022年6月25日まで[[星野之宣]]がコミカライズした作品を連載<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/282299|title=和平か、徹底抗戦か、8・15をめぐる攻防が始まる!! 半藤一利の名作を巨匠・星野之宣が鮮烈コミカライズ。 『日本のいちばん長い日』が文春オンラインで連載開始|date=2021-10-29|accessdate=2022-05-13}}</ref>。全16話。半藤の小説を原作としており、「幕末の尊皇攘夷思想の広がり、二・二六事件、大陸侵攻、日米開戦へ続く天皇と軍部との緊張関係」を中心に描かれている<ref name="natalie20220721">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/486185|title=終戦の日を題材とした「日本のいちばん長い日」星野之宣がコミカライズ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-21|accessdate=2022-07-21}}</ref>。
* 半藤一利(原作)・星野之宣(漫画)『日本のいちばん長い日』文藝春秋〈単行本〉、上下巻
*# 上巻 2022年7月21日発売{{R|natalie20220721}}、{{ISBN2|978-4-16-090126-1}}
*# 下巻 2022年7月21日発売{{R|natalie20220721}}、{{ISBN2|978-4-16-090127-8}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[村井淳志]]|year = 2005
|title =脚本家・橋本忍の世界
|publisher = [[集英社]]|series= [[集英社新書]]
|isbn = 4-08-720305-0|ref = 村井2005
}}
== 関連項目 ==
* [[終戦の日]] - [[聖断]]
* [[予科練の歌]]([[若鷲の歌]]) - 1967年版の劇中で用いられている。
* [[日本の降伏]](日本全権代表による文書調印:[[1945年]]([[昭和]]20年)[[9月2日]])
* [[日本のいちばん長い夏]] - 元になった座談会をメインにしたドキュメント小説、映画。
* [[歴史の涙]] - 同じ原作によるTBSテレビドラマ。
== 外部リンク ==
* 文春文庫
** [https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483159 文春文庫『日本のいちばん長い日 決定版』]
* 映画(1967年版)
** {{jmdb title|1967|cq002300|日本のいちばん長い日}}
** {{Allcinema title|142154|日本のいちばん長い日}}
** {{Kinejun title|22197|日本のいちばん長い日}}
** {{IMDb title|0062041|日本のいちばん長い日}}
* 映画(2015年版)
** {{twitter|nihon_ichi_}}
** {{Facebook|nihon.ichi.movie}}
** {{Allcinema title|350989|日本のいちばん長い日}}
** {{Kinejun title|82602|日本のいちばん長い日}}
** [https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04842/ 日本のいちばん長い日] - [[松竹]]
** {{IMDb title|4289340|日本のいちばん長い日}}
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[[Category:日本のノンフィクション書籍]]
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[[Category:1967年の映画]]
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<!-- 以下、漫画版 -->
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[[Category:2021年の漫画]]
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1,614 | 東ケト会 | 東ケト会(とうけとかい)は、「東日本何でもケトばす会」の略。作家、椎名誠が主催した野外キャンプ会。第一次あやしい探検隊とも呼ばれる。本記事では第二次あやしい探検隊であるいやはや隊、第三次あやしい探検隊であるあやしい雑魚釣り隊についても記述する。
日本の離島やキャンプ地にテントで宿泊し焚き火宴会を行うことを主たる活動とする、椎名誠を中心とした私的なサークルの名称である。発足は1963年から1965年頃で、1968年に第一回遠征・琵琶湖合宿を行った。『月刊おれの足』を中央理論誌としている。
椎名誠の著作『わしらは怪しい探検隊』シリーズにその求道的でないユニークな活動内容が紹介され、全国に模倣、類似サークルが発足した。
主要なメンバーに、椎名誠、イラストレーターの沢野ひとし、当時本の雑誌社社長であった目黒考二、弁護士の木村晋介がいる。
メンバーは同時に、椎名誠の映画『神島でいかにして飯を喰ったか...』(1974年)、『三人で夕やけを見にいった』(1976年)、『ガクの冒険』(1990年)等の撮影を行う際のスタッフ、登場人物でもあった。
必要な物品や食料は必ず出発地から運送、参加者は男性のみ、「ドレイ」と呼ばれる下働き員の存在を特徴とする。初期は、沢田康彦(のち編集者)、上原ゼンジ(のち、本の雑誌社社員)米藤俊明(のち、サラリーマン)らがドレイメンバーであった。ドレイには集合場所までどこに行くか知らされず、何を持っていったら良いかすら判らない状態で準備をしなければならなかった。
八丈島に「第一東ケト丸」という船を共同保有していたが、台風の影響で流されてしまった。
後年、参加者の高齢化や社会人としての制約から自由な活動ができなくなったことを原因として、「第二次あやしい探検隊」として椎名誠、写真家の中村征夫、カヌーイストの野田知佑、辺境写真家の佐藤秀明、山岳写真家の岡田昇、冒険家の風間深志、ローリー・イネステーラー、越谷英雄といったキャンプの専門家を中心とした「いやはや隊」に発展的解消。
いやはや隊の食事の多くを林政明が調理した。林政明は「リンさん」と呼ばれ、ごはん・卵・ネギのみのシンプルな「リンさんチャーハン」や、沢野ひとしが気に入っていた「フキの豆板醤炒め」、唐辛子入りの醤油にキュウリなどを漬ける「リンさん漬け」などの料理を作った。その後、1990年代には椎名が映画制作に熱中して、活動はほぼ行われなくなっていた。
2000年代に入った現在、釣りジャーナリストの齋藤海仁らをメンバーとした「第三次あやしい探検隊」として「怪しい雑魚釣り隊」として活動している。2015年10月18日に怪しい雑魚釣り隊10周年イベントが新宿三丁目で行われた。
『怪しい探検隊 北へ』「登場人物紹介」、『わしらは怪しい雑魚釣り隊』「あとがき」、『春夏秋冬いやはや隊が行く』による。
あやしい探険隊のメンバーによる座談会など。
椎名誠の映画製作には、あやしい探険隊のメンバーが多数関わっており、その活動も記されている。
椎名誠が新宿ガブリ団という「浮き球▲(三角)ベースボール」のチームを作り、そこにあやしい探険隊のメンバーが加わったり、他の人々もチームを作って対戦したりした顛末。 | [
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"title": "東ケト会に関する主な作品"
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]
| 東ケト会(とうけとかい)は、「東日本何でもケトばす会」の略。作家、椎名誠が主催した野外キャンプ会。第一次あやしい探検隊とも呼ばれる。本記事では第二次あやしい探検隊であるいやはや隊、第三次あやしい探検隊であるあやしい雑魚釣り隊についても記述する。 | {{独自研究|date=2016年5月6日 (金) 12:44 (UTC)}}
'''東ケト会'''(とうけとかい)は、「'''東日本何でもケトばす会'''」の略。[[作家]]、[[椎名誠]]が主催した野外[[キャンプ]]会。'''第一次あやしい探検隊'''とも呼ばれる。本記事では'''第二次あやしい探検隊'''である'''いやはや隊'''、'''第三次あやしい探検隊'''である'''あやしい雑魚釣り隊'''についても記述する。
==会の概要==
日本の[[離島]]やキャンプ地に[[テント]]で宿泊し焚き火宴会を行うことを主たる活動とする、椎名誠を中心とした私的なサークルの名称である。発足は1963年から1965年頃で、1968年に第一回遠征・[[琵琶湖]]合宿を行った。『月刊おれの足』を中央理論誌としている<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠|title=自走式漂流記|publisher=|series=新潮文庫|year=1996|pages=218-219|isbn=}}</ref>。
椎名誠の著作『わしらは怪しい探検隊』シリーズにその求道的でないユニークな活動内容が紹介され、全国に模倣、類似サークルが発足した<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠|title=あやしい探検隊不思議島へ行く|publisher=|series=角川文庫|year=1993|pages=297-299|isbn=}}</ref>。
主要なメンバーに、椎名誠、[[イラストレーター]]の[[沢野ひとし]]、当時[[本の雑誌社]]社長であった[[目黒考二]]、[[弁護士]]の[[木村晋介]]がいる。
メンバーは同時に、椎名誠の映画『神島でいかにして飯を喰ったか…』(1974年)、『三人で夕やけを見にいった』(1976年)、『ガクの冒険』(1990年)等の撮影を行う際のスタッフ、登場人物でもあった<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠|title=自走式漂流記|publisher=|series=新潮文庫|year=1996|pages=484-501|isbn=}}</ref>。
必要な物品や食料は必ず出発地から運送、参加者は男性のみ、「ドレイ」と呼ばれる下働き員の存在を特徴とする。初期は、[[沢田康彦]](のち編集者)、[[上原ゼンジ]](のち、本の雑誌社社員)米藤俊明(のち、サラリーマン)らがドレイメンバーであった。ドレイには集合場所までどこに行くか知らされず、何を持っていったら良いかすら判らない状態で準備をしなければならなかった<ref>沢田康彦によると、行き先を尋ねたところで「椎名隊長は大雑把な方角しか言わず、沢野は嘘をつき、目黒は読書と競馬にうつつを抜かし要領を得ず、依田は『それ知ってどうするんだ、遠かったら荷物を置いて行くって言うのか』と絡んでくる」といった具合だという。</ref>。
[[八丈島]]に「第一東ケト丸」という船を共同保有していたが、台風の影響で流されてしまった。
後年、参加者の高齢化や社会人としての制約から自由な活動ができなくなったことを原因として<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠|title=自走式漂流記|publisher=|series=新潮文庫|year=1996|page=226|isbn=}}</ref>、「第二次あやしい探検隊」として椎名誠、[[写真家]]の[[中村征夫]]、カヌーイストの[[野田知佑]]、辺境写真家の[[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]]、山岳写真家の[[岡田昇 (写真家)|岡田昇]]、冒険家の[[風間深志]]、ローリー・イネステーラー、越谷英雄といったキャンプの専門家を中心とした「'''いやはや隊'''」に発展的解消。
いやはや隊の食事の多くを林政明が調理した。林政明は「リンさん」と呼ばれ、ごはん・卵・ネギのみのシンプルな「リンさんチャーハン」や、沢野ひとしが気に入っていた「フキの豆板醤炒め」、唐辛子入りの醤油にキュウリなどを漬ける「リンさん漬け」などの料理を作った<ref>{{Cite book|和書|author=林政明|title=林さんチャーハンの秘密|publisher=|series=角川文庫|year=1992|pages=232-235|isbn=}}</ref>。その後、1990年代には椎名が映画制作に熱中して、活動はほぼ行われなくなっていた。
2000年代に入った現在、釣りジャーナリストの[[齋藤海仁]]らをメンバーとした「第三次あやしい探検隊」として「'''怪しい雑魚釣り隊'''」として活動している。2015年10月18日に怪しい雑魚釣り隊10周年イベントが新宿三丁目で行われた。
== 主要メンバー ==
『怪しい探検隊 北へ』「登場人物紹介」、『わしらは怪しい雑魚釣り隊』「あとがき」、『春夏秋冬いやはや隊が行く』による。
=== 東ケト会 ===
* [[椎名誠]](隊長)
* [[沢野ひとし]](初代料理長)
* [[目黒考二]](釜炊き担当料理人。「焚き火節」「サザエ甚句」「ウラオモテサルシマネコ甚句」など即興の歌を歌う)
* 長谷川智(二代目料理長。ガソリンを焚き火に吹き付け口から火を吐く「火吹きの長谷川」)
* [[木村晋介]]
* 高橋勲(通称・にごり目のイサオ)
* 依田正晴
* 山森俊彦(長老。椎名の出版社時代の4つ年上の先輩)
* 小安稔一(通称・陰気な小安)
* 米藤俊明(ドレイ第一号、のち名誉ドレイ)
* [[上原ゼンジ]](ドレイ)
* [[沢田康彦]](ドレイ)
=== いやはや隊 ===
* [[椎名誠]](隊長)
* [[林政明]](料理長)
* 三島悟(料理人)
* [[野田知佑]]
* [[中村征夫]]
* 川上裕
* ローリー・イネステーラー
* [[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]]
* 大蔵喜福(タワシ髭の登山隊長)
* 越谷英雄
* [[岡田昇 (写真家)|岡田昇]]
* 谷浩二
* [[風間深志]]
* [[野田知佑#経歴・人物|ガク]](カヌー犬)
=== 雑魚釣り隊 ===
* [[椎名誠]](隊長)
* 高橋攻(長老。通称・P・タカハシ)
* 小迫剛(料理長。通称・ザコ)
* 大八木亨(料理人)
* 西川良
* [[齋藤海仁]](エース)
* 近藤加津哉(雑魚釣り隊釣り部長。通称・コンちゃん)
* 宍戸健司(通称・アブラ人)
* [[名嘉本三治]]
* 西澤亨
* 齋藤ヒロシ
* 樋口正博
* 山下和秀
* 天野哲也(通称・マンガ盛りくん)
* 田中慎也
* 竹田聡一郎(ドレイ頭。通称・おかしらタケダ)
* 橋口太陽(ドレイ)
* 橋口童夢(ドレイ)
* 小海途良幹(ドレイ)
* 加藤寛康(ドレイ)
* 加藤潤也(ドレイ)
* 榊原大祐(ドレイ)
==年表==
===東ケト会===
* 1963年 - 結成
* 1968年5月 - 「月刊おれの足」創刊
* 1968年 - 第一回遠征・[[琵琶湖]]キャンプ
* 1969年 - 第二回遠征・琵琶湖キャンプ(椎名誠、カレーライス2度大食い発熱事件)
* 1970年 - 第三回遠征・[[三宅島]]キャンプ(雨により増水した川にテントが水没)
* 1971年 - 第四回遠征・[[房総半島]]合宿(民宿に泊まる)
* 1972年 - 第五回遠征・[[式根島]]キャンプ(水事情が劣悪だったため飲み水不足に苦しむ<ref>当時式根島には上水道設備が無く、椎名曰く「生のイカをしぼった」ような味のまずい脱塩水を飲むか地元民が貯めた雨水を購入する必要があった</ref>。大浦海岸でヤマダ騒動)
* 1973年 - [[江島 (宮城県)]]キャンプ
* 1974年 - 第六回遠征・[[神島 (三重県)]]キャンプ(「わしらは怪しい探検隊」の中心的な遠征。椎名、映画を撮る。蚊柱の襲撃を受け、島一周の遠泳に挑戦するが離岸流により沢野と沖に流される等事件が続出)
* 1974年冬 - [[八ヶ岳]]冬山登山キャンプ(椎名、映画を撮る)
* 1975年 - 第七回遠征・[[粟島 (新潟県)]]キャンプ(最終日は民宿へ泊まる)
* 1975年冬 - 粟島合宿(椎名、映画を撮る。荒天で島に閉じ込められた上に[[スト権スト|交通ストライキ]]により帰宅困難に)
** 「本の雑誌」創刊
* 1976年 - 粟島合宿(乱闘事件を起こす)
* 1976年冬 - 八ヶ岳冬山登山キャンプ(隊長・沢野ひとし。椎名、映画を撮る)
* 1977年 - [[八丈島]]合宿
* 1978年 - 八丈島合宿
* 1979年 - 八丈島合宿
** 椎名誠、作家デビュー
* 1980年 - 八丈島合宿
** 『わしらは怪しい探険隊』刊行
* 1981年 - 房総半島[[館山市|館山]]キャンプ(ドレイ制度導入。[[BE-PAL]]創刊号のための、やらせキャンプ。編集部のデカフライパンを盗む)
* 1981年 - 粟島キャンプ(台風15号の直撃を受ける。ドレイの長谷川が2代目炊事班長に、沢野が副隊長になる。)
* 1981年 - 八丈島合宿(椎名が溺れる<ref>地元漁師の勧めで潜水漁に挑戦したが、レギュレーターのマウスピースとシュノーケルを咥え間違えたまま沈降してしまった。</ref>)
* 1982年 - [[猪苗代湖]]キャンプ(椎名がフィリピンやパラオなど南の島への傾倒を深めていたが隊員が反発)
* 1983年 - 粟島キャンプ(蚊柱の襲撃を受ける)
* 1984年 - 亀山湖キャンプ(野田知佑、初参加)
** [[週刊宝石]]にて「椎名誠の不思議島物語」連載開始。同企画で[[飛島 (山形県)|飛島]]のサメ穴に潜水(椎名、沢野、中村)
* 1984年 - [[瓢箪島]]、[[由利島]]キャンプ(ドレイの米藤が[[ハオコゼ]]に刺される)
* 1984年 - [[猿島]]キャンプ
* 1984年 - イソモシリ島キャンプ
* 1984年 - [[竹生島]]、琵琶湖キャンプ(ガク、初めてカヌーに乗る。BE-PAL編集部へデカフライパンを返す)
===いやはや隊===
* 1985年 - [[四万十川]]キャンプ
* 1986年 - [[タヒチ島]]、[[ニュージーランド]](いやはや隊誕生)
* 1986年 - [[奥只見湖|銀山湖]]キャンプ(林政明、初参加。食事が豪華になる)
* 1986年 - 四万十川キャンプ
* 1987年 - [[気田川]]キャンプ
* 1988年 - [[那珂川]]キャンプ
** テレビ番組「椎名誠と怪しい探検隊」放送開始
* 1988年 - 無人島([[沖縄県]])キャンプ
* 1988年 - 緒川(茨城県)キャンプ
* 1988年 - [[西表島]]キャンプ
* 1988年 - 無人島([[広島県]])キャンプ
* 1989年 - [[長良川]]キャンプ([[長良川河口堰]]建設反対デモに参加)
* 1989年 - [[ナイロビ]]([[ケニア]])[[キリマンジャロ]]登山(椎名と三島が高山病に罹る。2度めのナイロビの街でひったくりの被害に遭う)
* 1990年 - 四万十川(映画『ガクの冒険』[[ロケーション撮影]])
* 1991年 - [[江の川]]
* 1991年 - [[八ヶ岳]]
* 1995年頃 - 椎名、[[奄美大島]]の海岸で漁師から「浮き球▲(三角)ベースボール」を教わり周囲に広める
===雑魚釣り隊===
* 2005年 - 雑誌「つり丸」にて雑魚釣り隊の連載が始まる
* 2008年 - 『わしらは怪しい雑魚釣り隊』刊行
{{節スタブ}}
== 東ケト会に関する主な作品 ==
===あやしい探検隊===
* わしらは怪しい探険隊([[北宋社]]・1980年3月)著者・[[椎名誠]]
* あやしい探検隊 北へ([[情報センター出版局]]・1984年5月)著者・椎名誠
* イスタンブールでなまず釣り。([[文藝春秋]]・1984年10月)著者・椎名誠
* あやしい探検隊 不思議島へ行く([[光文社]]・1985年9月)著者・椎名誠
* ハーケンと夏みかん([[山と渓谷社]]・1988年5月)著者・椎名誠
* あやしい探検隊 海で笑う(情報センター出版局・1988年9月)共著・椎名誠、中村征夫
* 林(リン)さんチャーハンの秘密 -野外料理の真髄は「現場」と「焚火」と「心」(情報センター出版局・1989年11月)著者・林政明
* あやしい探検隊 アフリカ乱入(山と溪谷社・1991年2月)著者・椎名誠
* あやしい探検隊 焚火酔虎伝(山と渓谷社・1995年8月)著者・椎名誠
* でか足国探検記([[新潮社]]・1995年12月)著者・椎名誠
* 鍋釜天幕団フライパン戦記 -あやしい探検隊青春篇([[本の雑誌社]]・1996年7月)共著・椎名誠、沢野ひとし
* あやしい探検隊 焚火発見伝([[小学館]]・1996年9月)共著・椎名誠、林政明
* あやしい探検隊 バリ島横恋慕(山と渓谷社・1998年10月)著者・椎名誠
* 鍋釜天幕団ジープ焚き火旅 -あやしい探検隊さすらい篇(本の雑誌社・1999年8月)共著・椎名誠、目黒考二
* 春夏秋冬いやはや隊が行く([[講談社]]・1999年9月)著者・椎名誠
* わしらは怪しい雑魚釣り隊([[マガジン・マガジン]]・2008年2月)著者・椎名誠
* 続 怪しい雑魚釣り隊 -サバダバサバダバ篇(マガジン・マガジン・2009年5月)著者・椎名誠
* あやしい探検隊 北海道物乞い旅([[角川書店]]・2011年9月)著者・椎名誠
* わしらは怪しい雑魚釣り隊 エピソード3 マグロなんかが釣れちゃった篇(マガジン・マガジン・2011年10月)著者・椎名誠
* おれたちを笑うな! -わしらは怪しい雑魚釣り隊(小学館・2013年7月)著者・椎名誠
* おれたちを笑え! -わしらは怪しい雑魚釣り隊(小学館・2015年10月)著者・椎名誠
* おれたちを跨ぐな! -わしらは怪しい雑魚釣り隊(小学館・2017年8月)著者・椎名誠
===座談会など===
あやしい探険隊のメンバーによる座談会など。
* 発作的座談会([[地方・小出版流通センター]]・1990年11月)
** 共著・椎名誠、[[木村晋介]]、[[沢野ひとし]]、[[目黒考二]]
* いろはかるたの真実 -発作的座談会(本の雑誌社・1996年4月)
** 共著・椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* これもおとこのじんせいだ!(本の雑誌社・1998年3月)リレー・エッセイ
** 共著・椎名誠、[[太田和彦]]、木村晋介、沢野ひとし、中村征夫、目黒考二
* 超能力株式会社の未来 -新発作的座談会(本の雑誌社・2000年6月)
** 共著・椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 沢野字の謎(本の雑誌社・2000年10月)
** 共著・椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
* 新これもおとこのじんせいだ!(本の雑誌社・2003年2月)リレー・エッセイ
** 共著・椎名誠、[[太田篤哉]]、[[かなざわいっせい]]、木村晋介、沢野ひとし、中村征夫、目黒考二
* 帰ってきちゃった発作的座談会(本の雑誌社・2009年10月22日)
** 共著・椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
===映画製作===
椎名誠の[[椎名誠#映画|映画製作]]には、あやしい探険隊のメンバーが多数関わっており、その活動も記されている。
* '''『ガクの冒険』1990年'''
** ガクの冒険(本の雑誌社・1989年11月)著者・[[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]]
** 四万十川よれよれ映画旅 -もう一つの「ガクの冒険」(本の雑誌社・1993年6月)著者・[[沢田康彦]]
* '''『うみ・そら・さんごのいいつたえ』1991年'''
** 白保 SHIRAHO(情報センター出版局・1990年12月)著者・[[中村征夫]]
** 椎名誠 熱闘映画術 -ドキュメント「うみ・そら・さんごのいいつたえ」([[マガジンハウス]]・1992年4月)著者・[[垂見健吾]]
** フィルム旅芸人の記録(マガジンハウス・1993年6月)著者・椎名誠
* '''『あひるのうたがきこえてくるよ』1993年'''
** 3わのアヒル(講談社・1994年10月)文・椎名誠、写真:垂見健吾
** アヒルの尻を追いかけた男たち(マガジンハウス・1994年11月)共著・垂見健吾、[[佐藤朗]]、太田和彦、椎名誠
* '''『白い馬』1994年'''
** 馬追い旅日記([[集英社]]・1995年6月)著者・椎名誠
** ナラン -草の国の少年たち(新潮社・1995年12月)文庫オリジナル編集 著者・椎名誠
* '''[[しずかなあやしい午後に]] 短編3作 1997年'''
**'''『スイカを買った』'''
** '''『ガクの絵本』'''
*** 続 ガクの冒険(本の雑誌社・1994年9月)著者・[[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]]
*** ガクの絵本([[ほるぷ出版]]・1999年5月)著者・[[和田誠]]
** '''『遠灘鮫腹海岸』'''
*** 林(リン)さんチャーハンの秘密(情報センター出版局・1989年11月)著者・[[林政明]]
*** 地下生活者(集英社・1993年2月)著者・椎名誠
===イベント===
* 八丈島500人焚火どか酔いセミナー 1986年
* 山形林間学校 1992年~1998年(毎年開催で、7回開催)
===ウ・リーグ===
椎名誠が新宿ガブリ団という「浮き球▲(三角)ベースボール」のチームを作り、そこにあやしい探険隊のメンバーが加わったり、他の人々もチームを作って対戦したりした顛末。
* 海浜棒球始末記 -ウ・リーグ熱風録([[文藝春秋]]・2001年6月)
* 世界おしかけ武者修行 海浜棒球始末記 その弐(文藝春秋・2005年7月23日)
== 参考文献 ==
椎名誠・著『自走式漂流記 -1944-1996』あやしい探検隊=全記録{{要追加記述範囲|、他|date=2015年11月26日 (木) 07:49 (UTC)|title=「他」という表記では、正確な文献名が分からない。}}
== 外部リンク ==
* [http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/category/books/ayatan 椎名誠 旅する文学館 “怪しい探検隊”シリーズ]
== 脚注 ==
<references />
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[[Category:野外活動]]
[[Category:東ケト会|*]]
[[Category:椎名誠|他]] | null | 2023-05-01T10:07:51Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%B1%E3%83%88%E4%BC%9A |
1,615 | 19世紀 | 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。
西欧ではフランス革命の影響により自由主義とナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、「諸国民の春」や数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツ、イタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。 またナポレオン戦争による混乱に乗じて1810年代から1820年代にはスペイン・ポルトガルの支配からラテンアメリカ諸国が各地で独立した。しかし大土地所有者の優遇やモノカルチャー栽培などで独立してからも近代化は進まず、欧米列強への従属がこの後も長く続いた(非公式帝国)。
19世紀のイギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家である清やロシアと海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。
アジア・アフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコ、タイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約、北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーのエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争、シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。
日本でも1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航、江戸幕府に開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。
19世紀中頃に、フランス、プロイセン王国を中心としたドイツ諸邦、アメリカ合衆国はイギリスに続いて工業化を推し進めた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより1870年代の露土戦争前後から19世紀末にかけて列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。
2013年6月12日、日本の木村次郎右衛門(男性での史上最高齢者)が116歳と54日で死去し、19世紀生まれの男性は全員がこの世を去った。一方、2017年4月15日にはエンマ・モラーノが117歳と137日で死去し、1800年代生まれの人物は全員がこの世を去った。なお、日本最後の1800年代生まれの人物は2015年4月1日に117歳と27日で死去した大川ミサヲである。これで19世紀生まれは残り2人(ヴァイオレット・ブラウン、田島ナビの2人、いずれも女性)となった。さらに同年9月15日にブラウンが117歳と189日で死去したため、田島が19世紀生まれの最後の生き残りとなった。そして2018年4月21日午後7時58分、田島が117歳と260日で死去したことにより、生年月日に確実な証拠のある19世紀生まれの人物は全員この世を去ったこととなった。田島は死亡時点で日本歴代最長寿者であり、世界全体でも史上3番目の長寿記録を保持していた。 | [
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| 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。 | {{出典の明記|date=2012年3月}}
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{| class="infobox" style="font-size:80%;width:25em"
| style="width:6em" | '''日本の[[元号]]:'''
| [[寛政]] - [[享和]] - [[文化 (元号)|文化]] - [[文政]] - [[天保]] - [[弘化]] - [[嘉永]] - [[安政]] - [[万延]] - [[文久]] - [[元治]] - [[慶応]] - [[明治]]
|}
[[ファイル:British_Empire_1897.jpg|right|thumb|270px|19世紀に君臨した[[大英帝国]]。]]
[[ファイル:Parliament at Sunset.JPG|thumb|right|270px|大英帝国の首都[[ロンドン]]。1837年から始まる[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の治世にこの国は絶頂期を迎え、首都ロンドンの装いも新たにされた。画像は[[テムズ川]]の畔に建つ[[ウェストミンスター宮殿]](国会議事堂)と大時計塔([[ビッグ・ベン]])。]]
[[ファイル:Frith A Private View.jpg|thumb|right|300px|[[ヴィクトリア朝|ヴィクトリア時代]]の中産階級。ヴィクトリア女王のモラル重視とお上品ぶりは新興市民層の趣味に合致し、芸術面では保守的なアカデミズムが美の規範となった。画像はこの時代に風俗画で一世を風靡した[[ウィリアム・フリス]]の「ロイヤル・アカデミーの招待日1881年」。]]
[[File:Bpt6k10470488 f289.jpg|thumb|right|200px|ロンドンの[[スラム]]街。産業革命により都市人口が急速に増えたロンドンでは、貧困層の住民の劣悪な生活環境が大きな問題となった。画像は[[ジャーナリスト]]の{{仮リンク|ウィリアム・ブランチャード・ジェロルド|en|William Blanchard Jerrold}}『ロンドン巡礼』から[[ホワイトチャペル]]のウェントワース通りを描いた[[ギュスターヴ・ドレ]]の挿絵。]]
'''19世紀'''(じゅうきゅうせいき)は、[[西暦]][[1801年]]から西暦[[1900年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 19世紀の歴史 ==
=== 国民国家の成立 ===
[[ファイル:Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg|right|thumb|250px|[[フランス7月革命]]。ヨーロッパでは革命により近代的な国家が生まれた。]]
[[西ヨーロッパ|西欧]]では[[フランス革命]]の影響により[[自由主義]]と[[ナショナリズム]]が広がった。19世紀初頭の[[ナポレオン]]の興亡や反動的な[[ウィーン体制]]、「[[諸国民の春]]」や数々の[[市民革命]]の勃発の後、ナショナリズムの高揚により[[ドイツ]]、[[イタリア]]などの新たな統一された強力な[[国民国家|国家]]が登場した。
また[[ナポレオン戦争]]による混乱に乗じて1810年代から1820年代には[[スペイン]]・[[ポルトガル]]の支配から[[ラテンアメリカ]]諸国が各地で[[独立]]した。しかし大土地所有者の優遇や[[モノカルチャー]]栽培などで独立してからも近代化は進まず、欧米列強への従属がこの後も長く続いた([[非公式帝国]])。
=== 帝国主義の興隆 ===
[[ファイル:SepoyMutiny.jpg|right|thumb|270px|インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。]]
19世紀の[[イギリス]]は[[工業化]]による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に[[自由貿易]]を認めさせ、イギリスを中心とした[[国際経済]]体制に世界を組み込んでいった([[パクス・ブリタニカ]])。この過程で、[[大陸国家]]である[[清]]や[[ロシア帝国|ロシア]]と[[海洋国家]]のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における[[世界大戦]]の遠因が形成された。
[[アジア]]・[[アフリカ]]にとっては苦渋の時代であり、[[トルコ]]、[[タイ王国]]などの国では西欧文化を取り入れ[[近代化]]が試みられた。清の[[非公式帝国|半植民地]]化が実質的に始まったのは、[[アロー戦争]]敗北後に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]、[[北京条約]]を締結してからである。[[オスマン帝国]]もヨーロッパ諸国による介入で[[ギリシャ独立戦争]]において敗北し、[[ムハンマド・アリー]]の[[エジプト]]での台頭を止めることが出来なかった。[[インド]]ではイギリスが19世紀に[[マラーター戦争]]、[[シク戦争]]を行い、インドを[[植民地]]化した。[[1857年]]には[[インド大反乱]]が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、[[ムガル帝国]]は終焉を迎えた。
[[日本]]でも[[1853年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]が[[浦賀]]に来航、[[江戸幕府]]に[[開国]]を認めさせ、[[日本]]も欧米を中心とした[[世界経済]]に組み込まれた。[[1868年]]には長らく続いた[[幕藩体制]]は崩壊し([[明治維新]])、新たに発足した明治政府は[[欧米]]文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した[[日本]]やタイ王国などの一部の国以外は、西欧[[列強]]の植民地にされるか、強い影響下におかれた。
=== 列強の植民地争奪戦 ===
19世紀中頃に、[[7月王政|フランス]]、[[プロイセン王国]]を中心とした[[ドイツ関税同盟|ドイツ諸邦]]、[[アメリカ合衆国]]はイギリスに続いて工業化を推し進めた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や[[重化学工業]]分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた([[第二次産業革命]]参照)。これにより1870年代の[[露土戦争]]前後から19世紀末にかけて列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も[[日清戦争]]などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。
== できごと ==
[[ファイル:Stephenson's Rocket.jpg|thumb|right|250px|[[蒸気機関車]]「[[ロバート・スチーブンソン]]の[[ロケット号]]」。]]
* [[日本]]では[[江戸時代]]の後期及び末期([[幕末]])から[[明治|明治時代]]にあたる。
* 中国では[[清]]の時代の後期から末期にあたる。
* [[イギリス]]では[[ジェームズ・ワット]]の圧縮[[蒸気機関]]が開発され、その10年後にはワットの複動式蒸気機関が完成し、[[炭鉱]]において地下300メートルの深さまで掘ることが可能になった。毎年さまざまなタイプの[[石炭]]を何百万トンも産出するようになり、世の中が一変した<ref>[[サイモン・ウィンチェスター|ウィンチェスター, サイモン]]著、[[野中邦子]]訳『{{仮リンク|世界を変えた地図|en|The Map that Changed the World|label=世界を変えた地図 - ウィリアム・スミスと地質学の誕生 -}}』[[早川書房]]、2004年7月、{{ISBN2|978-4-15-208579-5}}、65-66頁。</ref>。
----
=== 1800年代 ===
{{main|1800年代}}
* [[1801年]]
** [[伊能忠敬]]が幕命により[[伊豆国|伊豆]]から[[陸奥国|陸奥]]の沿岸の測量に向かう。
*** 中村小一郎ら[[樺太]]を巡視する。富山元十郎ら[[ウルップ島]]に至り、「天長地久大日本属国」の標識を立てる。
** [[志筑忠雄]]が『鎖国論([[ケンペル]]の『日本誌』の一部)』を訳出する。
** [[本居宣長]]が死去。
** [[グレートブリテン王国]](イギリス)と[[アイルランド王国]]が合併する。
** [[フランス]]と教皇庁との[[コンコルダート]](政教協約)が結ばれる。
** ロシア皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]が宮廷クーデタで暗殺され、皇子が即位して[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]となる。
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|thumb|right|250px|江戸時代の旅行ブーム。1802年には[[十返舎一九]]の『[[東海道中膝栗毛]]』の刊行が始まり、[[文化文政時代]]のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は[[歌川広重]]の「[[東海道五十三次]]」の「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」。]]
[[ファイル:Nội thất cung Diên Thọ.jpg|thumb|right|250px|[[阮朝]][[越南]]の成立。[[黎朝]]衰退後に台頭した[[西山朝|西山三兄弟]]を倒し、[[阮福暎]]は嘉隆帝と名乗ってベトナム全土を統一した。画像は首都の[[順化]](ユエ)に今も残る順化皇城の{{仮リンク|延寿宮|zh|延寿宫}}。]]
* [[1802年]]
** [[蝦夷奉行]]を置き、更に蝦夷奉行を[[箱館奉行]]と改称する。
*** 伊能忠敬が幕命により[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]]・[[越後国|越後]]の沿岸の測量に向かう。
*** この冬、[[近藤重蔵|近藤守重(重蔵)]]ら、幕命により[[択捉島]]を視察する。
** [[タイ王国|タイ]]の援助で[[阮福暎]](嘉隆帝)が[[ベトナム]]全土を統一し越南[[阮朝]]が成立。
** [[第一次サウード王国]]が[[メッカ]]と[[メディナ]]を占領する。
** 英仏間で[[アミアン講和条約]]。
* [[1803年]]
** 伊能忠敬が幕命により、[[東海道]]・[[北陸道]]・[[佐渡島]]の沿岸の測量に向かう。伊能忠敬が[[令制国|国]]・[[郡]]・[[村]]の呼称を調査する。
** ウィリアム・ロバート・スチュアートの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]船籍ナガサキ号が[[長崎港|長崎]]に来航し[[貿易]]を要求する。
** [[前野良沢]]死去(81)。
** アミアン講和条約が破棄され、[[ナポレオン戦争]]が再開される( - 1815年)。
** [[帝国代表者会議主要決議]]による神聖ローマ帝国の[[陪臣化]]と[[世俗化]]が決定される。
** アメリカ大統領[[トーマス・ジェファーソン]]がフランスからミシシッピ以西の[[ルイジアナ買収|ルイジアナを買収]]。
** [[第一次サウード王国]]が[[ヒジャーズ]]を征服し、メッカ・メディナの両聖地を支配下に置く。
** イギリスと[[マラーター同盟]]の間で[[第二次マラーター戦争]]が勃発する( - 1805年)。同年に[[ムガル帝国]]はイギリス保護下に入った。
** イギリス人[[マシュー・フリンダース]]が[[オーストラリア大陸]]周航を達成する。
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|thumb|right|250px|[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]]。]]
* [[1804年]]
** [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ|アンギャン公]]処刑事件。
** [[ナポレオン・ボナパルト]]が[[フランス皇帝]]に即位([[フランス第一帝政]])。
** 神聖ローマ皇帝フランツ2世が、ハプスブルク家領を再編しオーストリア皇帝フランツ1世として即位([[オーストリア帝国]])。
** [[ロシア帝国|ロシア]]使節[[ニコライ・レザノフ|レザノフ]]が[[長崎港|長崎]]に漂流民[[津太夫]]らを護送、貿易を求める。
** [[ハイチ]]が[[フランス]]から独立(世界初の黒人による共和国)。
** [[象潟地震]]により[[象潟]]の海岸が隆起して陸地となる。
[[ファイル:Turner, The Battle of Trafalgar (1822).jpg|thumb|right|250px|[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ウィリアム・ターナー]]の「[[トラファルガーの海戦]]({{仮リンク|イギリス国立海洋博物館|en|National Maritime Museum}}蔵)」。]]
* [[1805年]]
** [[トラファルガーの海戦]]。
** [[アウステルリッツの三帝会戦]]。
** オスマン帝国により[[ムハンマド・アリー]]が[[エジプト]]総督に任命される([[ムハンマド・アリー朝]]の成立)。
** 伊能忠敬が幕命により[[伊勢国|伊勢]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[山陽地方|山陽]]・[[山陰地方]]の測量に向かう。
** 紀伊の[[医師]][[華岡青洲]]が初めて麻酔剤を用い[[乳癌]]を手術する。
* [[1806年]]
** [[ライン同盟]]の成立による[[神聖ローマ帝国]]の滅亡。
** [[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]、ナポレオンのベルリン入城、[[大陸封鎖令]](ベルリン勅令)の発令。
** [[文化露寇]](フヴォストフ事件)。江戸で[[文化の大火]]([[丙寅]]の大火)。
* [[1807年]]
** [[ティルジットの和約]]。[[ヴェストファーレン王国]]と[[ワルシャワ公国]]が成立。
** [[プロイセン王国|プロイセン]]で[[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン|シュタイン]]・[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]の改革が始まる。
** [[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の講演「ドイツ国民に告ぐ」( - [[1808年]])。[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]『[[精神現象学]]』刊行。
** オスマン皇帝[[セリム3世]]が[[イェニチェリ]]軍団に廃位され、[[ムスタファ4世]]が即位。
** ロンドン伝道協会の牧師[[ロバート・モリソン (宣教師)|ロバート・モリソン]]が[[マカオ]]に上陸(プロテスタントの中国伝来)。
** 幕府が[[松前藩]]を転封、西[[蝦夷]]地を上知して天領とする。
** [[永代橋]]落橋事故。
[[ファイル:El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg|thumb|right|250px|[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]の「[[マドリード、1808年5月3日]](プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」。]]
* [[1808年]]
** スペインの政変で[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]が退位し、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が即位。
*** この混乱でフランス軍がスペインを占領。ナポレオンの兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]がスペイン王(ホセ1世)となる。
*** スペイン人がフランス支配に抵抗し[[スペイン独立戦争]]が起こる。宮廷画家[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]は「マドリード、1808年5月3日」を描く。
** [[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[ブラガンサ家|ブラガンサ王家]]が亡命し、[[ブラジル]]の[[リオデジャネイロ]]に到着。
** 日本の長崎で[[フェートン号事件]]。
** [[間宮林蔵]]が[[樺太]]を探検し、「大日本国国境」の標柱を建てる。
* [[1809年]]
** [[ヴァグラムの戦い]]。
** ナポレオンが[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]と離婚。
** {{仮リンク|フランス科学芸術委員会|en|Commission des Sciences et des Arts}}編纂の『{{仮リンク|エジプト誌|en|Description de l'Égypte}}』初版第一巻が刊行される( - [[1822年]])。
** [[ミハイル・スペランスキー]]が「国家改造案」をロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]に提出。
** {{仮リンク|チェガルの戦い|en|Battle of Čegar}}でオスマン帝国がセルビア人反乱を鎮圧。
*** 反乱軍は斬首され、[[ニシュ]]の「{{仮リンク|頭蓋骨の塔|en|Skull Tower}}(チェレ・クラ)」で見せしめにされる。
** {{仮リンク|ペルシア湾の戦い|en|Persian Gulf campaign of 1809}}でイギリスが{{仮リンク|アル・カシミ一族|en|Al-Qasimi}}に勝利し制海権を掌握。
** 海賊[[蔡牽]]による艇盗の乱が鎮圧される。
** [[松前奉行]]による[[山丹交易]]改革。
=== 1810年代 ===
{{main|1810年代}}
[[File:Hidalgo de José Clemente Orozco.JPG|thumb|right|175px|「[[ドローレスの叫び]]」。メキシコでは植民地支配を覆すべく独立運動が[[ミゲル・イダルゴ]]神父らによって始められた。画像は[[グアダラハラ]]のハリスコ市庁舎壁画に[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]によって描かれたイダルゴ神父。]]
* [[1810年]]
** ナポレオンが[[ハプスブルク家|ハプスブルク]]皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]と結婚。
** [[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]が創設される。
** [[メキシコ]]独立運動の先駆者[[ミゲル・イダルゴ]]の「[[ドローレスの叫び]]」。
** [[カメハメハ1世]]が[[ハワイ|ハワイ諸島]]を統一し、[[ハワイ王国]]を建国。
** スウェーデン王太子[[カール・アウグスト (スウェーデン王太子)|カール・アウグスト]]が事故死、[[ストックホルム]]の暴動で[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン|フェルセン]]が惨殺される。
** ロシアで[[ミハイル・スペランスキー]]により[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]が設置される。
[[File:Masakra mameluków.jpg|thumb|right|250px|シタデルの虐殺。エジプト総督ムハンマド・アリーはアラビア半島遠征への壮行会に乗じてこの国の支配者層である[[マムルーク]]を虐殺し、権力基盤を固めた。]]
* [[1811年]]
** イギリス国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が精神疾患のため、[[ジョージ4世 (イギリス王)|王太子ジョージ]]が[[摂政]]となる([[摂政時代]] - 1820年)。
** イギリスで機械打ち壊し運動である[[ラッダイト運動]]発生。
** [[ムハンマド・アリー]]による「シタデルの虐殺(惨劇)」。
** [[ゴローニン事件]]。最後の[[朝鮮通信使]]が[[対馬]]に到着(易地聘礼)。
[[ファイル:Napoleons retreat from moscow.jpg|thumb|right|250px|ナポレオンのロシア遠征。画像はアドルフ・ノーザンの「ナポレオンのモスクワからの退却」。]]
* [[1812年]]
** [[1812年ロシア戦役|ナポレオンのロシア遠征]]。
** [[米英戦争]]( - [[1814年]])。
* [[1813年]]
** [[清]]の[[北京市|北京]][[紫禁城]]に[[林清]]率いる[[白蓮教]]系[[天理教 (中国)|天理教]]徒が乱入。
** [[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ諸国民戦争]]でナポレオン敗北。
[[ファイル:Congresso di Vienna.png|right|250px|thumb|革命への反動。画像は[[ウィーン会議]]の様子を描いたJ.B.Isabenの絵画。]]
* [[1814年]]
** [[キール条約]]で[[デンマーク]]が[[ノルウェー]]を[[スウェーデン]]に割譲。
** [[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]によりナポレオンが[[エルバ島]]に流される。
** [[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が帰還しフランス国王となる(ブルボン復古王政)。「[[1814年憲章]]」が公布される。
** [[ウィーン会議]]の開催。
** [[グルカ戦争]]( - [[1816年]])。
** イギリス人[[ラッフルズ]]が[[ジャワ島]]の[[ボロブドゥール]]遺跡を発見する。
** 教皇[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]の回勅「{{仮リンク|ソリチトゥード・オムニウム・エクレジアールム|en|Sollicitudo omnium ecclesiarum}}」によるイエズス会の復興。
[[ファイル:Andrieux_-_La_bataille_de_Waterloo.jpg|right|thumb|250px|ナポレオン戦争の終結。画像は[[ワーテルローの戦い]]。]]
* [[1815年]]
** [[インドネシア]]の[[タンボラ山]]が[[1815年のタンボラ山噴火|大噴火]]。
** [[ワーテルローの戦い]]でナポレオン敗北、[[百日天下]]が終わり、[[セントヘレナ島]]に流される。
** [[ウィーン議定書]]の締結、[[ウィーン体制]]( - [[1848年]])の成立。
** イギリスで[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール]]内閣が[[穀物法]]を制定。
[[File:Théodore Géricault, Le Radeau de la Méduse.jpg|thumb|right|250px|「[[メデューズ号の筏]]」。[[モーリタニア]]沖での難破で船員147名のうち15名しか生存しなかった。画像はこの事件を描いたフランス人画家[[テオドール・ジェリコー]]のもの([[ルーブル美術館]]蔵)。]]
* [[1816年]]
** 前年のタンボラ山噴火の影響で各地が寒冷化し「[[夏のない年]]」と呼ばれる。
** 世界で最初にイギリスが[[金本位制]]を導入する。
** イギリス全権として[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)|アマースト]]が清に貿易拡大を要求するが拒絶される。
** [[アルゼンチン]]([[ラプラタ連合]])が[[スペイン]]から独立。
*** 以後、中南米諸国の独立が相次ぐ(→ [[アメリカ大陸諸国の独立年表]])。
** [[モーリタニア]]沖で[[メデューズ号の筏|メデューズ号の座礁事件]]。
* [[1817年]]
** エルギン卿の[[パルテノン神殿]]彫刻([[エルギン・マーブル]])を[[大英博物館]]で公開。
** [[アメリカ合衆国]]大統領に[[ジェームズ・モンロー|モンロー]]が就任。党派対立がほとんどない「[[好感情の時代]]」を迎える。
** [[光格天皇]]が譲位し、第120代[[仁孝天皇]]が即位。
** 「[[寛政の遺老]]」で老中首座の[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]の死去、[[水野忠成]]が老中首座となる
** [[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]が[[オスマン帝国]]から独立。
** インドの[[カルカッタ]]から世界初の[[コレラ]]大流行が起こる( - [[1823年]])。
* [[1818年]]
** [[スウェーデン]]で[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世]]が即位し、新[[王朝]][[ベルナドッテ朝]]開始。
** [[アーヘン会議 (1818年)|アーヘン会議]]で、[[四国同盟]]にフランスが加わり[[五国同盟]]となることが決定。
** エジプトが[[第一次サウード王国]]を攻略し滅亡させる。
** [[チリ]]が[[スペイン]]から独立。
[[ファイル:Darbar of Maharaja Ranjit Singh.jpg|thumb|right|250px|[[パンジャーブ]]の[[シク王国]]。イギリスのインド進出に最後まで抵抗したのがシク王国である。画像は国王ランジート・シングの宮廷(ダルバール)を描いた細密画。]]
* [[1819年]]
** イギリスで[[ピータールーの虐殺]]事件。
** イギリス人[[トーマス・ラッフルズ|ラッフルズ]]により[[シンガポール]]開港。
** ドイツ学生運動[[ブルシェンシャフト]]を取り締まる[[カールスバート決議]]が成立。
** [[アダムズ=オニス条約]]でアメリカ合衆国がスペインから[[フロリダ]]を購入。
** [[シク王国]]の[[ランジート・シング]]が[[カシミール]]地方を占領。
** [[文政小判|文政の改鋳]]。
=== 1820年代 ===
{{main|1820年代}}
* [[1820年]]
** [[ラファエル・デル・リエゴ|リエゴ]]らによる[[スペイン立憲革命]]で[[カディス憲法]]が復活( - [[1823年]])。
** 秘密結社[[カルボナリ]]によるナポリ革命。
** フランス王位継承予定者[[ベリー公]][[シャルル・フェルディナン・ダルトワ|シャルル・フェルディナン]]が暗殺される。
** [[ミロのヴィーナス]]が発見される。
** [[アメリカ合衆国]]で[[ミズーリ協定]]。
** [[清]]の[[道光帝]]が第8代皇帝に即位。
* [[1821年]]
** [[セント・ヘレナ島]]にて[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]死去。
** [[ギリシャ独立戦争]]( - 1829年)が始まる。
** [[メキシコ]]、[[ペルー]]及び[[グアテマラ]]総督府がスペインから独立する。
** 世界最初の鉄製汽船アーロン・マンピー号がイギリスで完成する。
** 幕府が蝦夷地の上知を止め、松前藩を蝦夷地に戻す。
** 長崎に[[駱駝]]が輸入され、翌年から大坂・江戸で見世物として評判となる。
[[ファイル:Eugène Delacroix - Le Massacre de Scio.jpg|right|200px|thumb|ギリシア独立戦争。画像は[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の「キオス島の虐殺」。]]
* [[1822年]]
** 文政5年の[[コレラ]]流行。
** ギリシャ独立宣言([[ギリシャ第一共和国]]成立)。[[キオス島]]の虐殺事件。
** [[ホセ・デ・サン・マルティン]]と[[シモン・ボリーバル]]が[[グアヤキル]]で会談。
** [[ブラジル帝国]]が[[ポルトガル王国|ポルトガル]]から独立する。
[[ファイル:Entrevista de Guayaquil.jpg|right|200px|thumb|グアヤキルの会談。スペイン支配からラテンアメリカを別個に独立させてきた二人の指導者ホセ・デ・サン・マルティンとシモン・ボリーバルがこの地で会見した。]]
* [[1823年]]
** [[アメリカ合衆国]]が[[モンロー宣言]]を発する。
** [[インド]]の[[アッサム]]地方でイギリス人・ロバート・ブルースが野生[[茶]]樹を発見。
** 旧[[グアテマラ]]総督府支配地から[[中米連邦]]が結成される。
* [[1824年]]
** ギリシア独立義勇軍に参加した詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]が[[メソロンギ|ミソロンギ]]で病死。
** エジプトの[[ムハンマド・アリー]]が[[オスマン帝国]]側について[[ギリシア独立戦争]]に参戦。
** トゥルキー・ビン・アブドゥッラーが[[リヤド]]を都とし、[[第二次サウード王国]]を建国。
* [[1825年]]
** [[ジョージ・スチーブンソン|スチーブンソン]]の{{仮リンク|ロコモーション1号|en|Locomotion No 1}}が世界初の公共貨物鉄道として[[ストックトン=オン=ティーズ|ストックトン]]ー[[ダーリントン]]間に開通。
** フランスで亡命貴族の補償金のための{{仮リンク|10億フラン法|fr|Loi du milliard aux émigrés}}が成立する。
** ロシアで[[デカブリストの乱]]が発生。
*** ロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]没後、皇帝となった[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]が反乱を鎮圧。
** [[ボリビア]]がスペインから独立する。
** 文政の[[異国船打払令]]。[[鶴屋南北 (4代目)|鶴屋南北]]「[[東海道四谷怪談]]」初演。
* [[1826年]]
** アメリカ先住民[[チェロキー族]]が[[オクラホマ州|オクラホマ]]へ強制移住(涙の旅路)。
** [[ドースト・ムハンマド]]により[[バーラクザイ朝]][[アフガニスタン]]が成立する。
** オスマン帝国で[[マフムト2世]]が[[イェニチェリ]]軍団を廃止。
** ロシア皇帝ニコライ1世の命で[[皇帝官房第三課]]が創設される。
** [[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]]が成立する。
[[File:Two poor Chinese opium smokers. Gouache painting on rice-pap Wellcome V0019165.jpg|thumb|right|250px|清におけるアヘンの輸入超過。1820年代後半にはアヘン密輸により清の財政悪化が懸念され始めた。画像はアヘン吸引をする清の庶民。]]
* [[1827年]]
** [[ナヴァリノの海戦]]。
** イギリスから清へのアヘン貿易額が、清からイギリスへの茶貿易額を初めて上回る。
** アルジェ太守フサイン・イブン・パシャの[[扇の一打事件]]。
** [[文政の改革]]。大坂[[切支丹]]一件。[[頼山陽]]『[[日本外史]]』刊行。
* [[1828年]]
** ロシアとイランで[[トルコマーンチャーイ条約]]を締結。
** [[ポルトガル内戦]]( - 1834年)。
** [[シーボルト事件]]。
** [[ウルグアイ]]の独立が承認される。
** [[ロバアト・オウエン]]らによる[[インディアナ州]]{{仮リンク|ニューハーモニー共同体|en|New Harmony, Indiana}}の建設。
** [[ラーム・モーハン・ローイ]]らによる[[ブラフモ・サマージ]]の設立。
* [[1829年]]
** イギリスで[[カトリック教徒解放令]]。
** [[アドリアノープル条約]]。ギリシャの独立が承認される。
=== 1830年代 ===
{{main|1830年代}}
[[ファイル:Russian attack on Warsaw 1831.PNG|thumb|right|250px|ポーランドの[[十一月蜂起]]。ポーランド人はロシアの支配からの独立を求めたが鎮圧される。この知らせを受けた[[フレデリック・ショパン|ショパン]]は[[練習曲作品10-12 (ショパン)|革命のエチュード]]を作曲した。]]
* [[1830年]]
** フランスの[[アルジェリア侵略|アルジェリア出兵]]。
** [[七月革命|フランス七月革命]]。
*** 国王[[シャルル10世]]が亡命し[[ブルボン朝|ブルボン復古王政]]崩壊。
*** [[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]がフランス国王となり[[七月王政]]成立。
** [[オランダ]]から[[ベルギー]]が独立([[ベルギー独立革命]])。
** [[オランダ領東インド総督]][[ヨハネス・ファン・デン・ボッシュ]]が就任し[[強制栽培制度]]を導入。
** [[ロシア]]支配下のポーランドで独立運動([[十一月蜂起]])が起きるが鎮圧される。
** スチーブンソンの[[ロケット号]]が世界初の旅客鉄道として[[マンチェスター]]ー[[リヴァプール]]間に開通。
** [[アメリカ合衆国]]で[[インディアン移住法]]。
** [[大コロンビア]]が解体され、[[ベネズエラ]]・[[エクアドル]]が独立。
[[ファイル:The Great Wave off Kanagawa.jpg|right|thumb|250px|画狂人[[葛飾北斎|北斎]]。数ある[[浮世絵]]師の中でも市井の中で90歳近くまで絵筆をとり続けていた北斎は構図や構想では群を抜いており海外での評価も高い。画像は1831年頃に出版された葛飾北斎の「[[富嶽三十六景]]」の「[[神奈川沖浪裏]]」。]]
* [[1831年]]
** ジョン・レニー設計の[[ロンドン橋]]が完成。
** [[チャールズ・ダーウィン]]の[[ビーグル号]]での航海始まる( - [[1836年]])
** [[モデナ]]や[[パルマ]]での[[中部イタリア革命]]が鎮圧される。
** 第一次[[エジプト・トルコ戦争]]( - 1833年)。
* [[1832年]]
** イギリスの[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣による[[第1回選挙法改正]]。[[腐敗選挙区]]の廃止による政党の再編成。
** フランスで「1832年の[[六月暴動]]」。
** [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]『[[戦争論]]』が刊行される。
* [[1833年]]
** [[天保の大飢饉]]( - [[1839年]])。
** スペインで[[カルリスタ戦争]]始まる( - 1876年)。
** [[バイエルン王国|バイエルン]]王子の[[オソン1世|オットー(オソン1世)]]が[[ギリシア]]国王として即位。
** [[英国国教会]]で[[ジョン・ヘンリー・ニューマン]]らにより[[オックスフォード運動]]が起こる。
[[ファイル:WomenofAlgiers.JPG|250px|thumb|right|ウジェーヌ・ドラクロワ「アルジェの女たち」。1834年に描かれたこの作品はロマン主義の異国趣味を示すとともに、東方世界を退廃的で官能的なものと見なす「[[オリエンタリズム]]」を示す作品でもある([[ルーヴル美術館]]蔵)。]]
* [[1834年]]
** [[ドイツ関税同盟]]発足。
** [[フランス]]が[[アルジェリア]]を併合。
** パリで{{仮リンク|トランスノナン街の虐殺|fr|Massacre de la rue Transnonain}}。
** 清とイギリス全権大使{{仮リンク|チャールズ・ネイピア(軍人)|en|William Napier, 9th Lord Napier}}が貿易交渉を行うが決裂、イギリスの軍艦は虎門塞砲台を砲撃。
** [[ボーア人]]による[[グラハムズタウン]]会議においてイギリス支配からの独立と内陸部への移住が決定される([[グレート・トレック]]の始まり)。
* [[1835年]]
** [[ハレー彗星]]接近。
** 世界初の近代的通信社であるフランスの[[アヴァス通信社]]が開業する。
** [[アルゼンチン]]でブエノスアイレス州知事[[フアン・マヌエル・デ・ロサス|ロサス]]の独裁政治始まる( - 1852年)。
* [[1836年]]
** [[パリ]]の[[エトワール凱旋門]]完成(1806年 - )。
** [[アラモの戦い]]と[[テキサス独立宣言]]。
* [[1837年]]
** [[徳川家慶]]が[[江戸幕府]]第12代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
** [[大塩平八郎の乱]]、[[生田万の乱]]。
** [[モリソン号事件]]。
** [[イギリス]]で[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]即位( - 1901年)。[[ヴィクトリア朝|ヴィクトリア時代]]始まる。
[[ファイル:Turner, J. M. W. - The Fighting Téméraire tugged to her last Berth to be broken.jpg|right|250px|thumb|[[帆船]]から[[蒸気船]]へ。交通革命により蒸気機関が搭載された船が海の主役になった。画像は[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ウィリアム・ターナー]]の「[[戦艦テメレール号]]([[ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)」で[[トラファルガー海戦]]で戦った名だたる戦艦が蒸気船に引かれて解体されに向かうところである。]]
[[ファイル:ChartistRiot.jpg|right|250px|thumb|チャーティスト運動。1838年には「人民憲章」がまとめられ更なる選挙権の拡大が唱えられた。]]
* [[1838年]]
** [[イギリス]]で人民憲章がまとめられ、選挙権の更なる拡大を訴える[[チャーティスト運動]]起こる。
** メキシコの[[菓子戦争]]( - 1839年)。
** 第一次[[アフガン戦争]]( - 1842年)。
** [[緒方洪庵]]が瓦町に[[適塾]]を開く( - 1868年)。[[高野長英]]『[[戊戌夢物語]]』を執筆。
* [[1839年]]
** 世界初の実用的[[写真]]術「[[ダゲレオタイプ]]」が公表される。
** [[中米連邦]]が解体。
** [[アミスタッド号事件]]。
** [[蛮社の獄]]。
** 第二次[[エジプト・トルコ戦争]]( - 1840年)。
** オスマン皇帝[[アブデュルメジト1世]]が[[ギュルハネ勅令]]を発布([[タンジマート]])。
=== 1840年代 ===
[[ファイル:Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpg|right|250px|thumb|[[アヘン戦争]]。イギリスの砲撃により大破する清の軍艦。]]
{{main|1840年代}}
* [[1840年]]
** [[アヘン戦争]]( - 1842年)。
** 「天保11年の[[三方領知替え]]」から[[天保義民事件]]が起こる。
** [[ナポレオン]]の亡骸がパリに帰還しアンヴァリド(廃兵院)に安置される。
** [[ニュージーランド]]先住民族[[マオリ]]とイギリスの間で[[ワイタンギ条約]]が結ばれる。
[[ファイル:Carl Spitzweg 036.jpg|thumb|right|250px|[[ビーダーマイヤー]]時代。ウィーン体制の相対的安定は政治や国際情勢ではなく小市民としての平穏な生活を優先する人々の嗜好に合致していた。画像はビーダーマイヤー時代を代表するドイツ人画家[[カール・シュピッツヴェーク]]の「日曜日の散歩」。]]
* [[1841年]]
** [[デイヴィッド・リヴィングストン|リヴィングストン]]がアフリカ大陸での宣教を開始。
** 大御所[[徳川家斉]]死去。老中[[水野忠邦]]による[[天保の改革]]( - 1843年)。
*** 大御所家斉の側近を処罰、智泉院・感応寺事件。
*** [[奢侈禁止令]]、[[株仲間解散令]]、[[江戸三座]]の[[猿若町]]移転。
* [[1842年]]
** [[清]]と[[イギリス]]の間で[[南京条約]]締結。
** 天保の[[薪水給与令]]。
** [[曲亭馬琴]]の『[[南総里見八犬伝]]』が完結する。
* [[1843年]]
** 人返し令。[[上知令]]の発布、しかし反対派が多く上知令撤回とともに[[水野忠邦]]は老中を罷免される。
** フランスが[[タヒチ]]の領有を宣言する。
[[File:Minamoto no Yorimitsu-ko no yakata ni tsuchigumo yokai o nasu zu 源頼光公館土蜘作妖怪圖 (The Earth Spider Conjures up Demons at the Mansion of Minamoto no Raiko) (BM 2008,3037.20906).jpg|thumb|right|300px|[[天保の改革]]。老中[[水野忠邦]]によるこの改革は性急で厳格なものであったため、江戸では庶民の怨嗟の声が満ち溢れた。画像は[[浮世絵師]][[歌川国芳]]の「源頼光公館土蜘作妖怪圖 」で江戸庶民の不満を妖怪に見立て、[[頼光四天王]]を当時の幕閣に見立て批判している。]]
* [[1844年]]
** アメリカ合衆国と清で[[望厦条約]]締結。フランスと清で[[黄埔条約]]締結。
** オランダ国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]が徳川幕府に[[開国]]を勧告。
** [[ドミニカ共和国]]が独立。
[[ファイル:Ireland_population_change_1841_1851.png|right|thumb|200px|[[ジャガイモ飢饉]]。連合王国に併合されたアイルランドでは、その弊害としてイギリスに住む不在地主の搾取により大飢饉が発生し人口が激減した(1841年 - 1851年)。]]
* [[1845年]]
** ヨーロッパで[[ジャガイモ飢饉]]。特にアイルランドで深刻な被害( - [[1849年]])。
** アメリカ合衆国が[[テキサス共和国]]を併合。[[ジョン・オサリヴァン]]が「[[マニフェスト・デスティニー]]」の語でこの併合を鼓舞する。
* [[1846年]]
** [[ロバート・ピール|ピール]]内閣が[[穀物法]]を廃止し、イギリスの[[自由主義]]貿易が確立する([[1815年]] - )。
** [[テキサス州|テキサス]]の帰属をめぐり[[米墨戦争]]が起こる( - 1848年)。
** [[アゼルバイジャン]]の[[バクー]][[油田]]が初めて開削される。
** 仁孝天皇が没し、第121代[[孝明天皇]]が即位。
** [[クラクフ蜂起]]。
* [[1847年]]
** [[スイス]]で[[分離同盟戦争]]起こる。
** [[モルモン開拓者]]が[[ソルトレイクシティ]]の建設を始める。
** [[アメリカ植民地協会]]の支援による[[リベリア]]が西アフリカ[[胡椒海岸]]地帯で独立。
** ボリビアがスペインから正式に独立。
** [[京都御所]]に[[学習院 (幕末維新期)|学習所]]が開講される(後の[[学習院大学]])。
[[ファイル:Maerz1848 berlin.jpg|right|250px|thumb|[[諸国民の春]]。1848年のベルリンにおける三月革命。同時期にウィーンでも革命が起こり宰相メッテルニヒはイギリスに亡命しウィーン体制は崩壊した。]]
* [[1848年]]
** 「[[1848年革命|諸国民の春]]」。
*** [[フランス二月革命]]。
**** 国王[[ルイ・フィリップ]]が亡命し[[七月王政]]崩壊。[[フランス第二共和政|第二共和政]]成立。
**** 第二共和政政府の内紛から[[六月蜂起|六月暴動]]発生。国民投票で[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]]が大統領になる。
*** ドイツ・オーストリア[[三月革命]]。
**** ウィーンから[[メッテルニヒ]]がイギリスに亡命し、[[ウィーン体制]]が崩壊する。
**** プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]のもと[[欽定憲法]]が成立する。
**** [[フランクフルト国民議会]]が招集される( - 1849年)。
**** [[フランティシェク・パラツキー|パラツキー]]のチェコ独立運動、[[コシュート・ラヨシュ|コシュート]]のハンガリー独立運動など起こる。
**** [[オーストリア帝国]]皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が退位。[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]が即位。
*** [[サルデーニャ]]王[[カルロ・アルベルト]]のイタリア統一運動が起こる。
*** [[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]。
*** [[カール・マルクス|マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]がロンドンで「[[共産党宣言]]」を発表。
** 米墨戦争終結に伴う[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]。
*** [[メキシコ]]はアメリカ合衆国に[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]・[[ネバダ州|ネバダ]]・[[ユタ州|ユタ]]・[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]その他の[[メキシコ割譲地|領土]]を割譲。
*** アメリカ合衆国領となった[[カリフォルニア]]で金鉱発見([[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]])。
** イランで[[バーブ教徒の乱]]( - [[1850年]])。
*** 同年イランの大宰相に就任した[[アミール・キャビール]]の近代化政策でバーブ教徒は弾圧される。
* [[1849年]]
** 「諸国民の春」の退潮。
*** プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝の帝冠を拒否する。
*** [[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ]]らにより[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]が樹立されるが、フランス軍により倒される。
*** ノヴァーラの戦いでカルロ・アルベルトのイタリア統一運動がオーストリア軍に鎮圧される。
*** [[ブダ]]と[[ペシュト]]が陥落し、コシュートらのハンガリー独立運動がロシア軍に鎮圧される(ヨーロッパの憲兵)。
** ロシアで[[ミハイル・ペトラシェフスキー|ペトラシェフスキー事件]]。
** 第2次シク戦争(1848年 - )でイギリスが勝利し、インド最後の反英勢力[[シク王国]]が滅亡。
=== 1850年代 ===
[[ファイル:Crystal Palace interior.jpg|right|thumb|250px|第一回[[万国博覧会]]。ロンドンで行われガラスと鋼鉄でできた[[水晶宮]]が話題となった。]]
[[ファイル:Nightingale receiving the Wounded at Scutari by Jerry Barrett.jpg|right|250px|thumb|白衣の天使。イスタンブール近郊のスクタリにて[[クリミア戦争]]での負傷兵を見舞う[[フローレンス・ナイチンゲール]]。]]
[[ファイル:Ceremonial hall Dolmabahce March 2008 pano2b.jpg|thumb|right|200px|オスマン帝国の改革。クリミア戦争を乗り切ったオスマン帝国は[[アブデュルメジト1世]]のもと大胆な近代化に取り組んだ。かつてのトプカプ宮殿から西欧化された[[ドルマバフチェ宮殿]]への移動もその流れの一つである。画像はこの宮殿の「儀式の間」。]]
[[ファイル:Gustave Caillebotte - Jour de pluie à Paris.jpg|right|thumb|250px|パリ大改造。ナポレオン3世により生まれ変わったパリは近代都市計画の模範となった。画像は[[ギュスターヴ・カイユボット|カイユボット]]の「パリの通り、雨の日」。]]
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|right|250px|[[黒船来航]]。[[マシュー・ペリー|ペリー]]司令長官率いるアメリカ[[東インド艦隊]]の出現は200年以上続いた日本の「泰平の世」を揺るがした。画像は1854年に再び日本を訪れて[[横浜港|横浜]]に上陸したペリー一行を描いたもの。]]
{{main|1850年代}}
* [[1850年]]
** [[オルミュッツ協定]](オルミュッツの屈辱)。
** [[バーブ教]]開祖[[セイイェド・アリー・モハンマド]](バーブ)がイラン政府に銃殺される。
** [[清]]で[[太平天国の乱]](- 1864年)。
** 清の[[咸豊帝]]が第9代皇帝に即位。
* [[1851年]]
** 世界初の[[国際博覧会|万国博覧会]]がロンドンで開催され、[[水晶宮]]が建設される。
** [[大戦争|ウルグアイ内戦]]が終結(1839年 - )。
** 漂流民だった[[ジョン万次郎]]が日本に帰国する。[[国定忠治]]が処刑される。
** [[お由羅騒動]](高崎崩れ)を経て、[[島津斉彬]]が薩摩藩主となる。
* [[1852年]]
** ルイ・ナポレオン([[ナポレオン3世]])がフランス皇帝に就任([[フランス第二帝政]])。
** 世界初の[[百貨店]]としてパリの[[ボン・マルシェ百貨店]]が開業。
** [[カミッロ・カヴール|カヴール]]が[[サルデーニャ王国]]の首相となる。
** [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]『[[アンクル・トムの小屋]]』を発表。
** モンテネグロがオスマン帝国から事実上独立し、[[モンテネグロ公国]]が成立。
** 河北潟干拓の疑獄事件で金沢藩御用商人[[銭屋五兵衛]]が獄死。
* [[1853年]]
** [[クリミア戦争]](- 1856年)。
** セーヌ県知事[[ジョルジュ・オスマン|オスマン]]による[[パリ改造|パリ大改造]]始まる。
** [[黒船来航]]。
*** [[徳川家定]]が江戸幕府第13代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
*** [[琉球]]を経て、[[マシュー・ペリー|ペリー]]が[[浦賀]]に来航。
*** [[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]が[[出島|長崎]]に入港。
** 太平天国軍が南京を占領、[[天京]]と改称して都として建国。
*** [[張楽行]]らが率いる華北各地の[[捻軍]]も太平天国に呼応。
* [[1854年]]
** ペリーの再来航による[[日米和親条約]]締結(日本の[[開国]])。
*** 老中[[阿部正弘]]らによる[[安政の改革]]( - 1857年)。
*** 日本で[[安政東海地震]]、[[安政南海地震]]。大坂で[[市川團十郎 (8代目)|8代目市川團十郎]]が自殺する。
** [[広東省]]の[[珠江]]デルタ西岸の四邑地域で「[[土客械闘|土客大械闘]]」が起こる。
** アメリカ合衆国で[[カンザス・ネブラスカ法]]の制定。
* [[1855年]]
** [[国際博覧会|万国博覧会]]がパリで開催され、産業宮が建設される。
** [[タイ王国|タイ]]と[[イギリス]]でボーリング条約(英泰友好通商条約)締結。
** 日本で[[安政江戸地震]]。[[京都御所]]が再建がされる(安政の造営)。
* [[1856年]]
** [[クリミア戦争]]講和のための[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]締結。
** 日本のアメリカ合衆国総領事として[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]が着任。
** オスマン帝国で[[改革勅令]](ハッティ・フマユーン)が公布される。
*** オスマン宮廷が[[トプカプ宮殿]]から[[ドルマバフチェ宮殿]]に移される。
** [[雲南省]]で[[杜文秀]]による回民反乱([[パンゼーの乱]])が起こる( - [[1873年]])。
** [[天京事変]]により太平天国が内部分裂。
* [[1857年]]
** [[アロー戦争]](-1860年)。
** [[インド大反乱]](セポイの乱)。ムガル皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]が擁立される。
** [[1857年恐慌]]。
* [[1858年]]
** [[バハードゥル・シャー2世]]が廃位され[[ミャンマー]]に流刑。ムガル帝国滅亡。
** フランスとサルデーニャの[[プロンビエールの密約]]。
** [[フェリーチェ・オルシーニ]]によるナポレオン3世暗殺未遂事件。
** [[清]]と[[イギリス]]・[[フランス]]が[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結。清とロシアが[[アイグン条約]]を締結。
** [[井伊直弼]]が[[大老]]となり、 老中[[堀田正睦]]らが失脚。
*** [[日米修好通商条約]]を含む[[安政五ヶ国条約]]が締結される。
*** [[徳川家茂]]が江戸幕府第14代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
*** [[安政の大獄]]始まる。安政5年の[[コレラ]]大流行。
*** [[福沢諭吉]]が[[慶応義塾大学]]のもととなる蘭学塾を創設。
* [[1859年]]
** [[スエズ運河]]の建設はじまる( - 1869年)。
** [[イタリア統一戦争]]開始、[[ソルフェリーノの戦い]]、[[ヴィッラフランカの休戦|ヴィッラフランカの和約]]。
** [[ウェストミンスター宮殿]](イギリス国会議事堂)の大時計台[[ビッグ・ベン]]が完成。
** [[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]『[[種の起源]]』で[[進化論]]を発表。
** ハーパース・フェリーでの[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]の反乱。
** オスマン帝国の属国だった[[ワラキア]]と[[モルダヴィア]]が統合し、[[ルーマニア公国]]が成立。
=== 1860年代 ===
[[ファイル:Japanese-Mission-Samurai-Sphinx-Egypt-1864.png|right|thumb|250px|エジプトのサムライたち。徳川幕府がフランスに派遣した[[横浜鎖港談判使節団]]の一行が[[スフィンクス]]像前で撮った写真。]]
[[File:Regaining Jinling.jpg|thumb|right|250px|[[太平天国の乱]]の顛末。[[拝上帝会]]の[[洪秀全]]を天王とする宗教運動はやがて清朝を揺るがす大反乱へと発展した。画像は1864年の[[天京攻防戦]]で、この戦いで太平天国は清朝に殲滅されたのである。]]
[[ファイル:Nanjing Jinling Arsenal 1865 built by Li Hongzhang.jpg|thumb|right|250px|同治中興。[[アロー戦争]]後に即位した[[同治帝]]の時代から清朝では[[洋務運動]]と呼ばれる近代化が進められた。画像は漢人官僚の[[李鴻章]]が1865年に[[南京市|南京]]に作らせた金陵機器製造局の写真。]]
[[ファイル:Edouard Manet 022.jpg|right|thumb|250px|メキシコ出兵。この失敗により大西洋を越えたナポレオン3世の遠大な野望は潰え、彼自身の求心力の低下にもつながった。画像は[[エドゥアール・マネ]]の描いた「[[皇帝マキシミリアンの処刑|メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑]]([[マンハイム市立美術館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Taisehokan.jpg|thumb|right|220px|[[大政奉還]]。江戸幕府15代将軍[[徳川慶喜]]は倒幕運動の高まりの中で朝廷に政権を返上する決断を下した。画像は[[邨田丹陵]] の歴史画「大政奉還図([[聖徳記念絵画館]]蔵)」で[[京都]][[二条城]]に集まった慶喜と諸藩重臣たちが描かれている。]]
[[ファイル:SuezCanalKantara.jpg|right|thumb|250px|[[スエズ運河]]開通。この運河によりヨーロッパからアジアへの航路は大幅に短縮された。]]
[[ファイル:GoldenSpikev3.jpg|right|thumb|250px|[[最初の大陸横断鉄道]]。大西洋側と太平洋側から伸びた鉄路がプロモントリーサミットで結ばれた。写真はこの地での1869年5月10日の開通記念式典の模様。]]
{{main|1860年代}}
* [[1860年]]
** [[円明園]]が破壊略奪され、[[清]]と[[イギリス]]・[[フランス]]が[[北京条約]]を締結。
** [[ロシア]]も清と北京条約を結び[[沿海州]]を獲得、ここに[[ウラジオストク]]を建設。
** [[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]率いる[[千人隊]]が[[シチリア島]]に上陸し占領。
*** 国王[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]]が逃亡し[[両シチリア王国]]滅亡。
*** ガリバルディは占領した南イタリアをサルデーニャ王に献上する(テアーノの会見)。
** 英仏通商条約({{仮リンク|コブデン=シュヴァリエ条約|en|Cobden–Chevalier Treaty}})。
** [[テトゥアン]]の会戦でスペインがモロッコのアラウィー朝に勝利。
** [[桜田門外の変]]で[[大老]][[井伊直弼]]が水戸浪士に暗殺される。
*** [[安藤信正]]・[[久世広周]]政権成立。 [[万延元年遣米使節]]。
* [[1861年]]
** アメリカ合衆国で[[南北戦争]](- 1865年)。
** フランス・スペイン・イギリスの[[メキシコ出兵]]。
*** [[メキシコ]]の[[ベニート・フアレス|ファレス]]政権の対外債務支払い停止宣言に対抗。
** [[イタリア王国]]成立。
*** [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]が初代イタリア国王となる。初代首相カヴールはこの年に急逝。
** [[清]]の[[咸豊帝]]が死去。
*** [[辛酉政変]](祺祥政変)で[[西太后]]が実権を握り[[粛順]]らが処刑される。
*** 西太后の[[垂簾聴政]]のもと[[同治帝]]が第10代皇帝に即位。同治中興の始まり。
** [[ロシア]]皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]による農奴解放令。
** [[ロンドン]]で世界最初の[[地下鉄]]が開通する。
* [[1862年]]
** アメリカ合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]の[[奴隷解放宣言]]、[[ホームステッド法]]の制定。
** [[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が[[プロイセン王国]]宰相に就任し「[[鉄血演説]]」を行う。
** 将軍徳川家茂と皇女[[和宮親子内親王|和宮]]の結婚、[[坂下門外の変]]。
*** 薩摩藩主の父[[島津久光]]の上京、[[寺田屋事件]]。
*** 島津久光の幕政参画による[[文久の改革]]、[[生麦事件]]、[[文久遣欧使節]]。
* [[1863年]]
** [[ポーランド]][[一月蜂起]]。
** [[赤十字国際委員会]]が創設される。
** 将軍家茂の上洛、[[新撰組]]の設置、[[八月十八日の政変]]、[[薩英戦争]]。
** バーブ教の流れを引く[[バハー・ウッラー]]が[[バハイ教]]を開く。
* [[1864年]]
** 教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]の回勅「クワンタ・クラ」と「[[誤謬表]]」。
** [[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]。
** [[ロンドン]]にて[[第一インターナショナル]]が結成される( - 1876年)。
** ロシアで地方自治制度の[[ゼムストヴォ]]が導入される。
** [[三国同盟戦争]]( - [[1870年]])。
** [[参預会議]]の崩壊、[[下関戦争]]、[[池田屋事件]]、[[禁門の変]]、[[一会桑政権]]成立、[[天狗党の乱]]、[[第一次長州征伐]]、[[横浜鎖港談判使節団]]。
* [[1865年]]
** [[南北戦争]]の終結。
*** [[アメリカ連合国|南部連合]]首都[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]が陥落。
*** [[アポマトックス・コートハウスの戦い]]で南軍の[[ロバート・リー|リー]]将軍が降伏。
*** 戦争終結から5日後に[[リンカーン大統領暗殺事件]]が発生。
** [[長崎市|長崎]][[大浦天主堂]]で「[[隠れキリシタン]]の発見(カトリック信徒発見)」。
** [[柴田剛中]]遣仏英使節
* [[1866年]]
** [[普墺戦争]]で、オーストリアが敗北し、[[ドイツ連邦]]崩壊。
** ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件({{仮リンク|ドミトリー・カラコーゾフ|en|Dmitry Karakozov|label=カラコーゾフ事件}})。
** [[第二次長州征伐]]、その途上で将軍家茂が大坂城で死去し攻撃は中止。
*** [[徳川慶喜]]が江戸幕府第15代[[征夷大将軍|将軍]]となり、慶喜主導による[[慶応の改革]]を行う。
*** フランス公使[[レオン・ロッシュ|ロッシュ]]による対日借款の契約締結。 [[薩長同盟]]の結成。
** [[小出秀実]]樺太国境画定交渉遺露使節
* [[1867年]]
** [[パリ万国博覧会_(1867年)]]開催。日本初参加し、使節団派遣。
** [[小野友五郎]]遣米使節
** [[メキシコ]]皇帝[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]処刑。
*** マクシミリアンはハプスブルク家の皇帝[[フランツ=ヨーゼフ1世]]の弟。
** [[オーストリア=ハンガリー帝国]]成立([[アウスグライヒ]])。
** ロンドン条約により[[ルクセンブルク]]が[[永世中立国]]とされる。
** [[カール・マルクス]]『[[資本論]]』第1巻刊行。
** [[ロシア]]が[[アラスカ]]をアメリカ合衆国に[[アラスカ購入|売却する]]。
** [[英領北アメリカ法]]。[[カナダ]]が植民地からイギリス最初の自治領に。
** [[南北戦争]]で敗北した[[アメリカ連合国|南部]]諸州が再建法により軍政におかれる( - 1877年)。
** 孝明天皇が死去し、第122代[[明治天皇]]が践祚。
*** [[四侯会議]]の崩壊、[[討幕の密勅]]、[[徳川慶喜]]が朝廷に[[大政奉還]]。
*** [[坂本龍馬]]・[[中岡慎太郎]]暗殺される([[近江屋事件]])。
***「[[ええじゃないか]]」の大流行。
** [[キューバ]]がスペインからの独立を宣言([[第一次キューバ独立戦争|キューバ独立戦争]]開始)。
* [[1868年]]
** [[明治維新]]。
*** [[王政復古 (日本)|王政復古]]の大号令。
**** 幕府・摂政・関白を廃止、総裁・議定・参与の設置。
**** 王政復古を各国公使に通告。[[小御所会議]]。
*** [[五箇条の御誓文]]。[[五榜の掲示]]。[[神仏分離|神仏分離令]]([[廃仏毀釈]])。
*** 明治天皇即位式を上げる。改元し一世一代の制を定める。
*** 江戸を[[東京]]と改称し、[[江戸城]]を[[皇居]]とし東京城と改称([[東京奠都]])。
** [[戊辰戦争]]。
*** [[鳥羽・伏見の戦い]]。[[徳川慶喜]]の蟄居。 [[西郷隆盛]]と[[勝海舟]]の会談。
*** [[江戸開城|江戸城開城]]。[[上野戦争]]。[[東叡山寛永寺]]炎上。徳川氏を[[駿府]]に移封。
*** [[奥羽越列藩同盟]]と新政府軍の戦い。[[会津藩]]・[[庄内藩]]降伏。
*** [[榎本武揚]]ら[[蝦夷地]]を占領、[[五稜郭]]を本営とする。
** [[ハワイ王国]]に最初の[[ハワイにおける日本人移民|日本人移民]](元年者)が到着する。
** [[タイ王国|タイ]]で国王[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)が即位し[[チャクリー改革]]が始まる。
** マグダラの戦いでエチオピアがイギリスに敗北し、エチオピア皇帝[[テオドロス2世 (エチオピア皇帝)|テオドロス2世]]が自殺。
** {{仮リンク|スペイン名誉革命|en|Glorious Revolution (Spain)}}
*** スペイン女王[[イサベル2世 (スペイン女王)|イザベル2世]]が[[フアン・プリム]]将軍ら軍部の政変でフランスに亡命する。
* [[1869年]]
** [[箱館戦争|箱舘戦争(五稜郭の戦い)]]で旧幕府軍が降伏。[[版籍奉還]]。[[華族]]制度の創設。
** [[ピウス9世 (ローマ教皇)|教皇ピウス9世]]の召集で[[第1バチカン公会議|第1ヴァティカン公会議]]開催。
** [[セルゲイ・ネチャーエフ|ネチャーエフ]]事件。
** [[スエズ運河]]が開通する。
** アメリカ合衆国で[[最初の大陸横断鉄道]]が開通する。
=== 1870年代 ===
[[ファイル:Wernerprokla.jpg|thumb|right|250px|[[ドイツ帝国]]の成立。ドイツ皇帝の戴冠式は普仏戦争に敗れたフランスの[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間で行われた。画像は[[アントン・フォン・ヴェルナー]]によるもの({{仮リンク|ビスマルク博物館|de|Bismarck-Museum in Friedrichsruh}}蔵)。]]
[[ファイル:Adolph Menzel - Eisenwalzwerk - Google Art Project.jpg|thumb|right|250px|[[第二次産業革命]]。科学技術の発展とその組織化により動力に石油・電気が用いられるようになり、工業は大規模なものとなった。特に統一後のドイツの革新が世界を席巻した。画像はドイツ人画家[[アドルフ・フォン・メンツェル]]の「鉄圧延機工場」。]]
[[ファイル:Berliner kongress.jpg|right|thumb|250px|[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]。[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]後のこの会議によって列強諸国による地域分割の原則が確定した。]]
[[ファイル:Victoria Disraeli cartoon.jpg|thumb|right|180px|[[アラジンと魔法のランプ|アラジン]]に扮した[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]が、ヴィクトリア女王にイギリスの王冠とインドの皇帝冠を交換するよう迫る様子を描いた風刺画(1876年)。]]
{{main|1870年代}}
* [[1870年]]
** [[普仏戦争]]。
*** [[セダンの戦い]]でナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政崩壊。
*** 国防政府が戦争を継続する、[[フランス第三共和政]]の成立。
** イタリア王国による[[教皇領]]接収、[[ローマ]]遷都。「[[未回収のイタリア]]」を除く統一の完成。
** [[ニューヨーク市]][[マンハッタン]]に[[メトロポリタン美術館]]が開館。
* [[1871年]]
** [[ドイツ帝国]]成立。
*** 皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の戴冠式が[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間で行われる。
*** フランスの敗北により[[アルザス=ロレーヌ]]の委譲を含む[[フランクフルト講和条約]]が結ばれる。
** [[パリ・コミューン]]事件。
** [[シカゴ大火]]。
** アフリカで行方不明になっていた[[デイヴィッド・リヴィングストン|リヴィングストン]]博士を[[ヘンリー・モートン・スタンリー|スタンリー]]が発見。
** 日本で[[廃藩置県]]実施。[[岩倉使節団]]派遣( - 1873年)。
* [[1872年]]
** ドイツで[[イエズス会]]の活動が禁止され、[[ヴァティカン]]と断交する([[文化闘争]])。
** 日本で[[学制]]・[[徴兵令]]・[[グレゴリオ暦]]導入。[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-[[桜木町駅|横浜]]を[[鉄道]]が開通。
** 明治5年の[[銀座大火]]に伴う[[銀座煉瓦街]]の建設。[[福沢諭吉]]『[[学問のすゝめ]]』初版刊行。
** [[イエローストーン国立公園]]が世界初の[[国立公園]]に指定される。
* [[1873年]]
** [[大不況 (1873年-1896年)|1873年の恐慌「大不況」]]。
*** ウィーン証券取引所で株価が暴落、恐慌が発生し全世界に広がる(-[[1896年]])。
** ブダとペシュトが公式に合併しハンガリーの首都[[ブダペシュト]](ブダペスト)が誕生する。
** [[ドイツ]]・[[オーストリア]]・[[ロシア]]の[[三帝同盟]]締結。
** 国王[[アマデオ1世]]退位により[[スペイン第一共和政]]成立。
** トルコの小アジア・ヒッサリクの丘にて[[ハインリヒ・シュリーマン]]が「[[プリアモス]]の財宝」を発見し古代都市[[トロイ]]と断定。
** [[西郷隆盛]]・[[江藤新平]]・[[副島種臣]]ら[[征韓論]]に破れ下野([[明治六年政変]])。
** [[渋沢栄一]]らによる株式会社[[第一国立銀行]]開業。
** 日本で「[[キリシタン禁令]]」が廃止される。[[森有礼]]らによる「[[明六社]]」の結成。
* [[1874年]]
** [[万国郵便連合]]の設置。
** [[イギリス東インド会社]]解散。
** 日本で[[板垣退助]]らにより[[民選議院設立建白書]]提出される。[[佐賀の乱]]。
* [[1875年]]
** イギリス首相[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]が[[スエズ運河]]を買収。
** パリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]が完成する。
** {{仮リンク|ゴータ綱領|en|Gotha Program}}に基づき[[ドイツ社会主義労働者党]](後の[[ドイツ社会民主党]])が結成される。
** [[清]]の[[光緒帝]]が第11代皇帝に即位。
** [[マーガリー事件]]。
** [[樺太・千島交換条約]]。[[江華島事件]]。
* [[1876年]]
** 大宰相[[ミドハト・パシャ]]らの起草による[[オスマン帝国憲法]](ミドハト憲法)を発布。
** [[コーカンド・ハン国]]がロシアに滅ぼされ領土に編入される。
*** 中央アジアでは同じ頃[[ブハラ・ハン国]](1868年)と[[ヒヴァ・ハン国]](1873年)がロシアの保護国にされている。
** インド大飢饉( - 1878年)。[[バルーチスターン]]のカラート藩王国がイギリスの保護国となる。
** [[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]、[[萩の乱]]。
** 純血[[タスマニア]]・[[アボリジニ]]の最後の女性トルガニニが死亡し、この種族は絶滅。
** [[バイロイト祝祭劇場]]が完成する( - [[1872年]])。
* [[1877年]]
** [[西南戦争]]。
** [[東京大学]]が創設される。
** [[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]。
** [[イギリス領インド帝国]]が成立し、ヴィクトリア女王が[[インド皇帝|インド女帝]]兼任。
*** [[インド副王]](総督)[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|リットン]]により{{仮リンク|デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar}}が開催される。
* [[1878年]]
** [[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]。
*** ロシア優位の[[サン・ステファノ条約]]に代わりドイツ宰相ビスマルクが中心となり[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]を締結。
*** [[セルビア]]・[[モンテネグロ]]・[[ルーマニア]]三国が正式に独立。[[ブルガリア公国]]は当初の案より領土を縮小されたが自治を認められる。
*** この会議以後、ヨーロッパ列強が弱小国を分割・植民地化する傾向が強まる([[帝国主義]]の時代)。
** ドイツで[[社会主義者鎮圧法]]を制定。
** [[紀尾井坂の変]]。[[竹橋事件]]。
* [[1879年]]
** [[ズールー戦争]]の勝利でイギリスが[[ズールー王国]]を保護国化。
** [[チリ]]対[[ペルー]]・[[ボリビア]]で[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]が起こる。
** ローマ教皇レオ13世の回勅「エテルニ・パトリス」により[[新トマス主義]]の動きが高まる。
** スウェーデン人[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]が[[北東航路]]通行に成功し[[横浜港|横浜]]に来航。
** アメリカ元大統領[[ユリシーズ・グラント]]の日本訪問。
** 日本の琉球併合([[琉球処分]])。
=== 1880年代 ===
[[File:Attentat auf Zar Alexander II 1881 19Jh.jpg|thumb|right|250px|皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の暗殺。[[農奴解放令]]を始めとする大改革に取り組んだアレクサンドル2世ではあったが、現状に不満を持つ急進派の標的とされあえなく絶命した。画像は[[サンクトペテルブルク]]での爆発による皇帝暗殺の様子を描いたもの。]]
[[ファイル:Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG|right|thumb|200px|世界に広がる浮世絵。[[浮世絵]]はヨーロッパ諸国の[[ジャポニズム]](日本趣味)に影響を与えた。画像は1887年に描かれた[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の「[[タンギー爺さん]]」。]]
[[ファイル:Neuschwanstein Castle LOC print.jpg|thumb|250px|ノイシュヴァンシュタイン城。プロイセンによるドイツ統一に屈服した[[バイエルン王国|バイエルン]]国王[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]による城。中世の君侯に憧れ次第に精神を病んでいった王の夢の城とされている。画像は1890年代の城の写真。]]
[[ファイル:Statue of Liberty 7.jpg|right|thumb|180px|ニューヨークの自由の女神。アメリカ独立100周年を祝ってフランスからアメリカ合衆国に贈られた女神像。19世紀末までにはアメリカ合衆国は世界最大の工業国となり、新天地を求めた多くの移民がこの女神像を眺めつつ入国していった。]]
[[ファイル:Kenpohapu-chikanobu.jpg|right|300px|thumb|大日本帝国憲法の発布。「憲法発布略図」[[楊洲周延]]画。]]
{{main|1880年代}}
* [[1880年]]
** ドイツの[[ケルン大聖堂]]が完成(1248年 - )。
** 日本で[[国会期成同盟]]結成。
** 第二次[[アフガン戦争]]。
* [[1881年]]
** [[明治十四年の政変]]。
*** [[開拓使官有物払下げ事件]]、[[大隈重信]]の追放。
*** [[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結成。
*** [[松方正義]]の[[大蔵卿 (太政官) |大蔵卿]]就任([[松方デフレ]])。
** [[ロンドン自然史博物館]]が開館する。
** ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]が暗殺される。ユダヤ人に対する{{仮リンク|ロシア各地でのポグロム|en|Pogroms in the Russian Empire}}が発生する。
** ムハレム勅令により、[[オスマン債務管理局]]が設置される。
* [[1882年]]
** [[日本銀行]]創立。[[立憲改進党]]の結成。[[岐阜事件]]。
** [[ドイツ]]・[[オーストリア]]・[[イタリア]]の[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]締結。
** [[ジョン・ロックフェラー|ロックフェラー]]の[[スタンダード・オイル|スタンダード石油]]が[[トラスト (企業形態)|トラスト]]を形成しアメリカ石油業界を独占する。
** [[ウラービー革命]]にイギリスが介入。[[アレクサンドリア砲撃|アレクサンドリアが砲撃され]]、エジプトはイギリスの保護国となる。
* [[1883年]]
** [[鹿鳴館]]が設置される。
** [[オリエント急行]]([[パリ]]-[[イスタンブール]])開通。
** インドネシアの[[クラカタウ]]が[[1883年のクラカタウの噴火|大噴火]]。
** [[ニューヨーク]]の[[ブルックリン橋]]が完成する。
** [[フリードリヒ・ニーチェ]]『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』第一部刊行。
* [[1884年]]
** [[清仏戦争]](-1885年)。
** [[群馬事件]]、[[加波山事件]]、[[秩父事件]]、自由党の解党。
** [[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン・コンゴ会議(ベルリン・西アフリカ会議)]](-1885年)により[[アフリカ分割]]の原則が定まる。
** イギリスとドイツでの[[ニューギニア島]]の分割が完了する
* [[1885年]]
** 日本で[[内閣]]制度発足、[[伊藤博文]]初代[[総理大臣]]就任(12月)。
** イギリス領インド帝国の[[ボンベイ]]で第1回[[インド国民会議]]が開催される。
** ブルガリア公国が[[東ルメリ自治州]]を併合。
** [[マフディー戦争|マフディーの反乱]]で[[ハルツーム]]の[[チャールズ・ゴードン|ゴードン]]らが虐殺される。
** ベルギー王の私領である[[コンゴ自由国]]が成立する。
* [[1886年]]
** [[バイエルン王国|バイエルン]]国王[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]が廃位され怪死を遂げる。
** フランスで[[ジョルジュ・ブーランジェ|ブーランジェ]]が陸相となる([[ブーランジェ将軍事件|ブーランジェ事件]] - 1889年)。
** イギリスで[[ジョゼフ・チェンバレン]]が[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]を結成。
** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク]]の[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]の除幕式。
** [[ジョージア州]][[アトランタ]]で[[コカコーラ]]発売。
** [[ノルマントン号事件]]。
* [[1887年]]
** [[フランス領インドシナ]]の成立( - 1954年)。
** [[独露再保障条約]]締結。{{仮リンク|地中海協定|en|Mediterranean Agreements (1887)}}締結。
** ハワイ国王[[カラカウア]]が「{{仮リンク|銃剣憲法|en|1887 Constitution of the Kingdom of Hawaii}}(ベイオネット憲法)」に署名する。
* [[1888年]]
** 日本で[[枢密院 (日本)|枢密院]]設置、[[市町村制]]公布、[[明治宮殿]]の竣工。[[1888年の磐梯山噴火|磐梯山噴火]]。
** [[ロンドン]]で[[切り裂きジャック]]事件起こる。
** 雑誌『[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]』の刊行。
* [[1889年]]
** [[大日本帝国憲法]]発布(2月11日)、[[市町村制]]施行。[[外国人司法官任用問題#大隈遭難事件|大隈重信遭難事件]]。
** [[パリ万国博覧会 (1889年)|第4回パリ万国博覧会]]開催。[[エッフェル塔]]の完成。
** [[パリ]]にて[[第二インターナショナル]]が結成される( - 1914年)。
** オーストリア皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]謎の情死(マイヤーリンク事件)。
** ブラジル皇帝[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]廃位、ブラジルは共和政となる。
=== 1890年代 ===
[[ファイル:Paul Gauguin 134.jpg|right|260px|thumb|ゴーギャンとタヒチ。フランスの[[ポスト印象主義]]の画家[[ゴーギャン]]は新天地を求めタヒチへ旅立った。タヒチは必ずしも楽園とばかりは言えずゴーギャンは無理解と貧困に苦しめられたがその画業は深められた。画像は「三人のタヒチ人」(スコットランド国立博物館蔵)。]]
[[ファイル:Battle of the Yellow Sea by Korechika.jpg|right|300px|thumb|日清戦争。日本の勝利と清の敗北により東アジアの冊封体制は崩壊することになる。画像は[[小林清親]]の「於黄海我軍大捷 第一図」。]]
[[ファイル:China imperialism cartoon.jpg|right|thumb|200px|中国分割に乗り出した列強諸国の諷刺画。]]
[[ファイル:Poster Cinematographe Lumiere.jpg|right|thumb|250px|映画の誕生。フランス人の[[リュミエール兄弟]]によるこの発明はメディアの可能性を一挙に広げるものとなった。]]
[[ファイル:Tassel House stairway.JPG|thumb|right|250px|[[アール・ヌーヴォー]]様式。[[世紀末]]には曲線を利用したフランス語で「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーが各地に拡がった。画像は[[ヴィクトール・オルタ]]の設計による[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]の[[タッセル邸]]の内部。]]
{{main|1890年代}}
* [[1890年]]
** 日本で第1回[[総選挙]]、第1回[[帝国議会]]、[[足尾鉱毒事件]]、[[凌雲閣]](浅草十二階)の竣工。
** [[エルトゥールル号遭難事件]]。
** 劇作家[[アントン・チェーホフ]]がロシア帝国領[[サハリン島]](樺太)を来訪。
** ドイツ首相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の引退、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の親政始まる。
** [[ウンデット・ニーの虐殺]]。アメリカ合衆国の国勢調査局が「[[フロンティア]]の消滅」を宣言。
** [[セシル・ローズ]]が[[ケープ植民地|ケープ植民]]相となり、[[ローデシア]](現[[ザンビア]]・[[ジンバブエ]])を併合。
** [[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]。
* [[1891年]]
** 教皇[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]の回勅「[[レールム・ノヴァールム]]」。
** ロシアで[[シベリア鉄道]]起工。
** イランでタバコ・ボイコット運動。
** [[大津事件]]でロシアの[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ皇太子]]負傷。神田[[駿河台]]の東京[[復活大聖堂]]([[ニコライ堂]])の竣工。
* [[1892年]]
** アメリカ合衆国西部で[[ジョンソン郡戦争]]。
** [[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン男爵]]が[[近代オリンピック|オリンピック]]の復活を提唱。
* [[1893年]]
** 女王[[リリウオカラニ]]が廃位され[[ハワイ王国]]滅亡([[ハワイ併合|ハワイ革命]])。
** [[パナマ運河疑獄]]で[[フェルディナン・ド・レセップス|レセップス]]らが有罪判決を受ける。
** 初の[[婦人参政権]]が[[ニュージーランド]]で成立。
* [[1894年]]
** [[日英通商航海条約]]の調印([[条約改正]]による[[治外法権]]の撤廃)。
** [[日清戦争]]( - 1895年)。
** [[露仏同盟]]締結。
** フランスで[[ドレフュス事件]]。
** フランス大統領[[マリー・フランソワ・サディ・カルノー|カルノー]]が暗殺される。
** ロンドンの[[テムズ川]]にかかる[[タワーブリッジ]]が完成する。
* [[1895年]]
** 日本と清が[[下関条約]]締結。
*** [[台湾]]・[[澎湖諸島]]が日本領となり、[[朝鮮]]が独立国となる。
*** 日本の[[遼東半島]]領有に反対する[[三国干渉]]を招く。
** 西太后の隠居所である[[頤和園]]が完成する([[1884年]] - )。
** フランス人[[リュミエール兄弟]]により[[映画]]が始まる。
** [[キール運河]]([[北海]][[バルト海]][[運河]])が開通する。
* [[1896年]]
** [[明治三陸地震#明治三陸大津波|明治三陸大津波]](6月15日・M6.8)。
** ロシアで{{仮リンク|ホドゥインカの惨劇|en|Khodynka Tragedy}}。
** [[アテネオリンピック (1896年)|アテネ五輪]]開催(第1回[[夏季オリンピック]]大会)。
** [[アドワの戦い]]にて[[イタリア]]軍が[[エチオピア]]軍に大敗北。エチオピアは独立を死守する。
** フランスが[[マダガスカル島]]の[[メリナ王国]]を滅ぼし、翌年には植民地化を宣言。
** イランの君主[[ナーセロッディーン・シャー]]が暗殺される。
* [[1897年]]
** [[スイス]]の[[バーゼル]]にて第一回[[シオニスト会議]]が開かれる。
** [[朝鮮]]が国号を[[大韓帝国]]と改称する。
** 宮城沖[[地震]](2月20日・M7.9)。[[京都大学]]が創設される。
** 外交官虐殺事件を契機にイギリスの侵攻を受け、[[ベニン王国]]が滅ぼされる。
* [[1898年]]
** フランスの作家[[エミール・ゾラ|ゾラ]]が「[[私は弾劾する|我弾劾す]]」の公開状を発表する。
** オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]が暗殺される。
** [[米西戦争]]。[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]でアメリカ合衆国は[[フィリピン]]・[[グァム島]]・[[プエルトリコ]]を獲得。
** [[ファショダ事件]]。
** [[清]]で[[変法派]]である[[康有為]]・[[梁啓超]]らの[[戊戌の変法]]が行われる。
*** 西太后ら保守派の[[戊戌の政変]]で倒される(百日維新)。
** 明治民法施行。
* [[1899年]]
** 第1回[[万国平和会議]]がロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の提唱でオランダの[[ハーグ]]で開催される。
** [[ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]。
** ドイツとアメリカ合衆国での[[サモア]]分割が完了する。
** [[フィリピン第一共和政]]が成立し、[[米比戦争]]が勃発する。
** [[ラオス]]編入による[[フランス領インドシナ]]連邦の成立。
** ドイツ人{{仮リンク|ロベルト・コルデヴァイ|en|Robert Koldewey}}らによる[[バビロン]]遺跡の発掘が始まる。
=== 1900年代 ===
{{main|1900年代}}
* [[1900年]]
** 清で[[義和団の乱]]。
*** 清の西太后政府が義和団に与し、列強八カ国に宣戦布告。
*** 北京は八カ国連合軍に占領され、西太后らは[[西安]]に蒙塵する。
** [[敦煌]][[莫高窟]]にて道士王円籙が古写本・画巻を含む大量の[[敦煌文献]]を発見する。
** スウェーデン人[[スヴェン・ヘディン]]が[[楼蘭]]遺跡を発見する。
** イタリア国王[[ウンベルト1世]]が暗殺される。
** [[パリ万国博覧会 (1900年)|1900年のパリ万国博覧会]]。
*** [[グラン・パレ]]と[[プティ・パレ]]が建設され、[[アレクサンドル3世橋]]が架けられる。[[オルセー駅]](現[[オルセー美術館]])の設置。
** [[カール・ラントシュタイナー]]が[[ABO式血液型]]を発見(翌年論文発表<ref group="注">ただし、この時点ではA型、B型、C型の3つであるとされた。</ref>)。
** [[マックス・プランク]]が[[エネルギー量子仮説]]を提唱、[[量子論]]の創始。
** [[ジークムント・フロイト|フロイト]]『[[夢判断]]』刊行。
** [[新渡戸稲造]]『[[武士道 (新渡戸稲造)|武士道]]』刊行。
== 伝説・架空のできごと ==
* [[1803年]] - [[享和]]3年[[常陸国]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]のとある旗本の知行地の浜に[[虚舟]](うつろぶね)が現れた。虚舟は鉄でできていて、その壁面には文字が書かれており、窓があって、球状であった。中には異国風の女性が乗っており、箱を持っていたという([[曲亭馬琴]]の随筆『兎園小説』に「虚舟の蛮女」との題で図版とともに収録されている。その他に[[屋代弘賢]]『弘賢随筆』にも記録と図版あり)。
* [[1820年]] - 七歳の時に[[天狗攫い|神隠し]]に遭い行方不明だった江戸[[下谷]]七軒町の寅吉がこの年([[文政]]3年)帰宅する。寅吉が語るところでは空を飛ぶ[[杉山僧正]]に連れられ[[常陸国]]岩間山で[[天狗]]の修行をしていたという([[平田篤胤]]『[[仙境異聞]]』)。
* [[1846年]] - [[弘化]]3年4月[[肥後国]]の海中に光る物体が出現。役人が見聞する記録では、それは半人半魚の風体で「[[アマビエ]]」と名乗り、豊作と疫病の流行を予言。疫病を防ぐため自らの姿を描いた絵を人々に見せよと告げた、と言う([[京都大学]]附属図書館所蔵の瓦版)。
== 文化 ==
=== 文学 ===
* [[ロマン主義]]文学
* [[自然主義文学]]・写実主義文学
* [[サイエンス・フィクション]]の成立
* [[推理小説]]の成立
=== 音楽 ===
[[File:Waltz1816 72.jpg|thumb|right|250px|ワルツを踊る人々]]
*前世紀に引き続いて[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]が活躍し、さらには[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]や[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が登場するなど、[[ロマン派音楽]]が花開いた時代であった。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]派と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]派の激しい対立が起こったが、いずれもロマン派音楽に属する。
* 「会議は踊る、されど進まず」の[[ウィーン会議]]を経て、ヨーロッパ中に[[ウィンナ・ワルツ]](これもロマン派音楽に属する)が広まったことから、19世紀は「ワルツの世紀」とも呼ばれる。ウィーンでは[[ヨーゼフ・ランナー]]と[[ヨハン・シュトラウス1世]]が「ワルツ合戦」と呼ばれる熾烈な競争を繰り広げた。やがて「ワルツ王」[[ヨハン・シュトラウス2世]]がウィーンに、[[エミール・ワルトトイフェル|ワルトトイフェル]]がフランスに現れる。世紀末の1899年にシュトラウス2世が没し、同年にワルトトイフェルも引退して「ワルツの世紀」は事実上の終焉を迎えた。
=== 思想 ===
* [[ロマン主義]]
* [[社会主義]]運動
* [[進化論]]
* [[功利主義]]
* [[実存主義]]
* [[分析哲学]]
* [[精神分析]]
* [[プラグマティズム]]
* [[世紀末]]思想
=== 科学 ===
* 19世紀は制度としての科学が確立し、「科学の世紀」とも呼ばれる。科学が[[自然哲学]]から分離し、技術への応用が進展した。
* [[物理学]] - [[古典物理学]]の体系化が進展し、電気、磁気、光、熱、重力など様々な現象を統一的に説明する理論へ発展した。
** [[熱力学]]
** [[電磁気学]]
** 近代[[原子論]]、[[原子物理学]]の確立
* [[化学]] - 物理学により[[化学反応]]の中心原理となる[[原子]]と[[電子]]の相互作用が解明され、[[化学合成]]がはじまる。
** [[化学量論]]
** [[有機化学]]の確立
* [[生物学]] - このころまでの生物学は[[博物学]]的側面が強かったが、[[生化学]]、[[進化論]]の確立により、大きなパラダイムシフトが発生した。
** [[進化論]]の確立、[[生態学]]の誕生
** [[細胞説]]の確立
** [[生化学]]
** [[微生物学]] - [[自然発生説]]の否定
* [[天文学]]
** [[天体物理学]]
** [[分光法]]
* [[数学]]
** [[非ユークリッド幾何学]]
** [[集合論]]
=== 技術 ===
* [[写真]]、[[映画]]
* [[蓄音機]]
* [[蒸気機関]]の発達。[[トラクションエンジン]]、乗合[[バス (交通機関)|バス]]の登場と普及。
* [[蒸気船]]、[[戦艦|装甲艦]]の発達
* [[飛行船]]
* 木材[[パルプ]]からの[[紙]]の大量生産。[[輪転機]]、[[ライノタイプ|鋳植機]]の登場により、大量の印刷物の発行が可能になり、[[マスメディア]]時代が幕を開けた。
* [[歯車式計算機]]、[[タビュレーティングマシン]]
* [[万国博覧会]]
* [[鉄道の歴史|鉄道]]の敷設がはじまる。19世紀後半には敷設ラッシュに。
* [[電気]]技術の発達。[[電信|電信機]]、[[電話機]]、[[電動機|モーター]]、[[発電機]]、配電設備、[[白熱電球]]の発明。[[電車]]の登場。
* [[内燃機関]]の発明。ガソリンエンジン駆動の[[自動車]]が発明される。
* 化学合成のはじまり。[[染料|合成染料]]、[[合成繊維]]の発明。[[アスピリン]]の合成。
== 人物 ==
=== ヨーロッパ ===
==== 政治家・王族 ====
[[ファイル:David napoleon.jpg|thumb|200px|right|ナポレオン・ボナパルト。画像は[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]「アルプス越えのナポレオン」。]]
[[ファイル:Metternich by Lawrence.jpeg|right|thumb|200px|ウイーン体制の立役者であるオーストリア宰相[[メッテルニヒ]]。]]
[[ファイル:Camillo Benso Cavour di Ciseri.jpg|right|thumb|200px|サルデーニャを中心としたイタリア統一を果たした宰相[[カヴール]]。]]
[[ファイル:Gustave-Le-Gray Giuseppe-Garibaldi Palermo-1860 1-1000x1500.jpg|thumb|right|200px|イタリア独立戦争で両シチリア王国を屈服させた[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]。]]
[[ファイル:BismarckundNapoleonIII.jpg|right|thumb|250px|ナポレオン3世(左)とビスマルク(右)。]]
[[File:Wilhelm Gause Hofball in Wien.jpg|thumb|right|250px|1900年の[[ホーフブルク宮殿]]における宮廷舞踏会にて参加者に取り巻かれた[[オーストリア]]皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]。]]
[[ファイル:Charles Darwin 1880.jpg|right|thumb|200px|『[[種の起源]]』で[[進化論]]を唱えた[[チャールズ・ダーウィン]]。]]
[[ファイル:Emancipation proclamation.jpg|right|thumb|250px|閣僚に[[奴隷解放宣言]]の初稿を提示するアメリカ大統領[[エイブラハム・リンカーン]]。]]
[[ファイル:Général Toussaint Louverture.jpg|thumb|right|200px|[[ハイチ]]の独立指導者[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]。]]
[[ファイル:Frontispiece photograph from Hawaii's Story by Hawaii's Queen, Liliuokalani (1898).jpg|right|thumb|200px|ハワイ王国最後の女王[[リリウオカラニ]]。]]
[[File:David Livingstone -1.jpg|thumb|right|200px|暗黒大陸と呼ばれていたアフリカで宣教活動を行い現地の探検を行った[[デイヴィッド・リヴィングストン]]。]]
[[ファイル:Punch Rhodes Colossus.png|right|thumb|200px|アフリカを南北にまたぐ[[セシル・ローズ]]。]]
[[ファイル:General Gordon's Last Stand.jpg|right|thumb|200px|[[ハルツーム]]の戦いで[[マフディー戦争|マフディー軍]]に包囲される[[チャールズ・ジョージ・ゴードン|ゴードン将軍]]。]]
[[ファイル:Menelik II.gif|right|thumb|200px|エチオピア皇帝の正装をした[[メネリク2世]]。]]
[[File:Abd-EL-Kader-And-Napoleon-III.jpg|thumb|right|250px|ナポレオン3世と会見する「[[アルジェリア]]民族運動の父」[[アブド・アルカーディル]]。]]
[[ファイル:ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg|right|thumb|200px|エジプトの近代化を推進した[[ムハンマド・アリー]]。]]
[[ファイル:Sultan Abdülmecid - Google Art Project.jpg|right|thumb|200px|[[ギュルハネ勅令]]を出して[[恩恵改革]](タンジマート)を行い[[ドルマバフチェ宮殿]]を建設させたオスマン帝国の[[アブデュルメジト1世]]。]]
[[ファイル:Portrait of Bahadur Shah II as calligrapher. Delhi, ca. 1850, Royal Ontario Museum, Toronto. - копия.jpg|right|thumb|200px|[[インド大反乱]]で担ぎ上げられたものの廃位されミャンマーに流された最後のムガル皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]。]]
[[ファイル:Chulalongkorn LoC.jpg|right|thumb|200px|[[チャクリー改革]]を行いタイ王国の独立を維持した[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)。]]
[[ファイル:George Francis Joseph - Sir Thomas Stamford Bingley Raffles.jpg|right|thumb|200px|マレー半島南端に[[シンガポール]]を開港したイギリス人の[[トーマス・ラッフルズ]]。]]
[[File:Jose Rizal full.jpg|thumb|right|200px|フィリピンの独立のためにスペイン植民地政府に銃殺された[[ホセ・リサール]]。]]
[[ファイル:The Ci-Xi Imperial Dowager Empress (5).JPG|right|thumb|200px|清朝末期の政局を左右した[[西太后]](慈禧太后)。]]
===== フランス =====
* [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]](在位[[1804年]] - [[1814年]]、[[1815年]]) - [[フランス]]皇帝
* [[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]](在位[[1814年]] - [[1824年]]) - フランス国王
* [[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]](在位[[1824年]] - [[1830年]]) - フランス国王
* [[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ1世]](在位[[1830年]] - [[1848年]]) - フランス国王
* [[ナポレオン3世]](在位[[1852年]] - [[1870年]]) - フランス皇帝
* [[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール]]([[1754年]] - [[1838年]]) - フランス外相
* [[ジョゼフ・フーシェ]]([[1759年]] - [[1820年]]) - フランス内相
* [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]([[1787年]] - [[1874年]]) - フランス首相
* [[アドルフ・ティエール]]([[1797年]] - [[1877年]]) - フランス首相・大統領
* [[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック]]([[1802年]] - [[1857年]]) - フランス陸相・行政長官
* [[ジョルジュ・ブーランジェ]]([[1837年]] - [[1891年]]) - フランス国防相
* [[レオン・ガンベタ|レオン・ガンベッタ]]([[1838年]] - [[1882年]]) - フランス内相
===== オーストリア=ハンガリー =====
* [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]](在位[[1804年]] - [[1835年]]) - オーストリア皇帝
* [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]](在位[[1848年]] - [[1916年]]) - オーストリア=ハンガリー皇帝
* [[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]([[1837年]] - [[1898年]]) - オーストリア=ハンガリー皇后
* [[クレメンス・メッテルニヒ]]([[1773年]] - [[1859年]]) - オーストリア宰相
* [[アンドラーシ・ジュラ]]([[1823年]] - [[1890年]]) - 二重帝国(ハンガリー王国)の初代首相
* [[フランティシェク・パラツキー]]([[1798年]] - [[1876年]]) - チェコの政治家・歴史家
* [[コシュート・ラヨシュ]]([[1802年]] - [[1894年]]) - ハンガリーの革命家
===== ロシア =====
* [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](在位[[1801年]] - [[1825年]]) - ロシア皇帝
* [[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]](在位[[1825年]] - [[1855年]]) - ロシア皇帝
* [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]](在位[[1855年]] - [[1881年]]) - ロシア皇帝
* [[ニコライ・レザノフ]]([[1764年]] - [[1807年]]) - ロシア外交官
* [[カール・ロベルト・ネッセルローデ]]([[1780年]] - [[1862年]]) - ロシア外相
* [[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]([[1798年]] - [[1883年]]) - ロシア外相
===== イギリス =====
* [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]](在位[[1837年]] - [[1901年]]) - [[イギリス]]女王
* [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]([[1819年]] - [[1861年]]) - 女王ヴィクトリアの夫君
* [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵チャールズ・グレイ]]([[1764年]] - [[1845年]]) - イギリス首相
* [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー]]([[1769年]] - [[1852年]]) - イギリス首相・元帥
* [[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵ロバート・ステュアート]]([[1769年]] - [[1822年]]) - イギリス外相
* [[ジョージ・カニング]]([[1770年]] - [[1827年]]) - イギリス外相
* [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル]]([[1784年]] - [[1865年]]) - イギリス首相・外相
* [[ベンジャミン・ディズレーリ]]([[1804年]] - [[1881年]]) - イギリス首相
* [[ウィリアム・グラッドストン]]([[1809年]] - [[1898年]]) - イギリス首相
* [[ウィリアム・ウィルバーフォース]]([[1759年]] - [[1833年]]) - イギリスの政治家・奴隷廃止主義者
===== ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む) =====
* [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]](在位[[1871年]] - [[1888年]]) - 初代ドイツ皇帝
* [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](在位[[1888年]] - [[1918年]]) - 3代ドイツ皇帝
* [[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]](在位[[1864年]] - [[1886年]]) - バイエルン国王
* [[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク]]([[1750年]] – [[1822年]]) - プロイセン王国宰相
* [[ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン]]([[1757年]] - [[1831年]]) - プロイセン王国宰相
* ゴットフリート・ルドルフ・カンプハウゼン([[1803年]] - [[1890年]]) - プロイセン王国宰相
* [[オットー・フォン・ビスマルク]]([[1815年]] - [[1898年]]) - 初代ドイツ帝国宰相
* [[カール・カウツキー]]([[1854年]] - [[1938年]]) - ドイツ社会民主党の理論家([[教条主義]])
* [[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]([[1850年]] - [[1932年]]) - ドイツ社会民主党の理論家([[修正主義]])
===== 北欧 =====
* [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]](在位[[1818年]] - [[1844年]]) - [[スウェーデン]]王
===== イタリア =====
* [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]](在位[[1846年]] - [[1878年]]) - ローマ教皇
* [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]](在位[[1878年]] - [[1903年]]) - ローマ教皇
* [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]](在位[[1861年]] - [[1878年]]) - 初代イタリア国王
* [[ジュゼッペ・マッツィーニ]]([[1805年]] - [[1872年]]) - イタリア統一運動家
* [[ジュゼッペ・ガリバルディ]]([[1807年]] - [[1882年]]) - イタリア統一運動家
* [[カミッロ・カヴール]]([[1810年]] - [[1861年]]) - イタリア首相
===== スペイン =====
* [[ラファエル・デル・リエゴ]]([[1784年]] - [[1823年]]) - スペインの将軍・政治家
===== ベルギー =====
* [[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]](在位[[1831年]] - [[1865年]]) - 初代ベルギー国王
* [[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]](在位[[1865年]] - [[1909年]]) - 第2代ベルギー国王
===== ギリシア =====
* [[オソン1世]](在位[[1833年]] - [[1862年]]) - 初代ギリシア国王
* [[イオアニス・カポディストリアス]]([[1776年]] - [[1831年]]) - 初代ギリシア大統領・ロシアの外相でもあった
==== 軍人 ====
* [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]([[1742年]] - [[1819年]])
* [[ミハイル・クトゥーゾフ]]([[1745年]] - [[1813年]])
* [[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]([[1758年]] - [[1805年]])
* [[ヨーゼフ・ラデツキー]]([[1766年]] - [[1858年]])
* [[ミシェル・ネイ]]([[1769年]] - [[1815年]])
* [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]([[1780年]] - [[1831年]])
* [[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ]]([[1787年]] - [[1862年]])
* [[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]([[1800年]] - [[1891年]])
==== 実業家 ====
* [[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]([[1777年]] - [[1836年]])
* [[ジョージ・ハドソン]]([[1800年]] - [[1871年]])
* [[トーマス・クック]]([[1808年]] - [[1892年]])
* {{仮リンク|アリスティッド・ブシコー|en|Aristide_Boucicaut}}([[1810年]] - [[1877年]])
* [[アルフレート・クルップ]]([[1812年]] - [[1887年]])
* [[ポール・ジュリアス・ロイター]]([[1816年]] - [[1899年]])
* [[アンドリュー・カーネギー]]([[1835年]] - [[1919年]])
* [[ジョン・モルガン]]([[1837年]] - [[1913年]])
* [[ジョン・ロックフェラー]]([[1839年]] - [[1937年]])
* [[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]([[1848年]] - [[1909年]])
* [[バジル・ザハロフ]]([[1849年]] - [[1936年]])
==== 科学と技術 ====
* [[ジャン=バティスト・ラマルク|ジャン・バティスト・ラマルク]]([[1744年]] - [[1829年]])
* [[ジョン・ドルトン]]([[1766年]] - [[1844年]])
* [[ジョルジュ・キュヴィエ]]([[1769年]] - [[1832年]])
* [[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]([[1769年]] - [[1859年]])
* [[リチャード・トレビシック]]([[1771年]] - [[1833年]])
* [[ロバート・ブラウン]]([[1773年]] - [[1858年]])
* [[トマス・ヤング]]([[1773年]] - [[1829年]])
* [[アンドレ=マリ・アンペール|アンドレ・マリ・アンペール]]([[1775年]] - [[1836年]])
* [[アメデオ・アヴォガドロ]]([[1776年]] - [[1856年]])
* [[ヨハン・ヴィルヘルム・リッター]]([[1776年]] - [[1810年]])
* [[カール・フリードリヒ・ガウス]]([[1777年]] - [[1855年]])
* [[ゲオルク・オーム]]([[1789年]] - [[1854年]])
* [[マイケル・ファラデー]]([[1791年]] - [[1867年]])
* [[チャールズ・バベッジ]]([[1791年]] - [[1871年]])
* [[ニコライ・ロバチェフスキー]]([[1792年]] - [[1856年]])
* [[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]]([[1796年]] - [[1832年]])
* [[チャールズ・ライエル]]([[1797年]] - [[1875年]])
* [[メアリー・アニング]]([[1799年]] - [[1847年]])
* [[ニールス・アーベル]]([[1802年]] - [[1829年]])
* [[クリスチャン・ドップラー]]([[1803年]] - [[1853年]])
* [[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]([[1803年]] - [[1873年]])
* [[イザムバード・キングダム・ブルネル]]([[1806年]] - [[1859年]])
* [[チャールズ・ダーウィン]]([[1809年]] - [[1882年]])
* [[エヴァリスト・ガロア]]([[1811年]] - [[1832年]])
* [[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]([[1812年]] - [[1910年]])
* [[クロード・ベルナール]]([[1813年]] - [[1878年]])
* [[ジョン・スノウ (医師)|ジョン・スノウ]]([[1813年]] - [[1858年]])
* [[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]]([[1814年]] - [[1878年]])
* [[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]([[1818年]] - [[1889年]])
* [[レオン・フーコー]]([[1819年]] - [[1868年]])
* [[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]]([[1820年]] - [[1891年]])
* [[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー|ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョウ]]([[1821年]] - [[1902年]])
* [[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]([[1821年]] - [[1894年]])
* [[ルイ・パスツール|ルイ・パストゥール]]([[1822年]] - [[1895年]])
* [[グレゴール・ヨハン・メンデル]]([[1822年]] - [[1884年]])
* [[ルドルフ・クラウジウス]]([[1822年]] - [[1888年]])
* [[アルフレッド・ラッセル・ウォレス]]([[1823年]] - [[1913年]])
* [[ジャン・アンリ・ファーブル]]([[1823年]] - [[1915年]])
* ケルヴィン男爵[[ウィリアム・トムソン]]([[1824年]] - [[1907年]])
* [[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]([[1825年]] - [[1895年]])
* [[ベルンハルト・リーマン]]([[1826年]] - [[1866年]])
* [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]([[1831年]] - [[1879年]])
* [[リヒャルト・デーデキント]]([[1831年]] - [[1916年]])
* [[ギュスターヴ・エッフェル]]([[1832年]] - [[1923年]])
* [[アルフレッド・ノーベル]]([[1833年]] - [[1896年]])
* [[ゴットリープ・ダイムラー]]([[1834年]] - [[1900年]])
* [[エルンスト・ヘッケル]]([[1834年]] - [[1919年]])
* [[ドミトリ・メンデレーエフ]]([[1834年]] - [[1907年]])
* [[ロベルト・コッホ]]([[1843年]] - [[1910年]])
* [[カール・ベンツ]]([[1844年]] - [[1929年]])
* [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]([[1844年]] - [[1906年]])
* [[ヴィルヘルム・レントゲン]]([[1845年]] – [[1923年]])
* [[ゲオルク・カントール]]([[1845年]] - [[1918年]])
* [[エミール・クレペリン]]([[1856年]] - [[1926年]])
* [[ハヴロック・エリス]]([[1859年]] - [[1939年]])
==== 思想と哲学・人文諸学 ====
* ヴィヴァン・ドミニク・ドゥノン([[1747年]] - [[1825年]])
* [[ジェレミ・ベンサム]]([[1748年]] - [[1832年]])
* [[ジョゼフ・ド・メーストル]]([[1753年]] - [[1821年]])
* [[ルイ・ガブリエル・ド・ボナール]]([[1754年]] - [[1840年]])
* [[アンリ・ド・サン=シモン|アンリ・ド・サン・シモン]]([[1760年]] - [[1825年]])
* [[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]([[1762年]] - [[1814年]])
* [[トマス・ロバート・マルサス]]([[1766年]] - [[1834年]])
* メーヌ・ド・ビラン([[1766年]] - [[1824年]])
* [[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]([[1767年]] - [[1835年]])
* [[フリードリヒ・シュライアマハー]]([[1768年]] - [[1834年]])
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]([[1770年]] - [[1831年]])
* [[ロバート・オウエン]]([[1771年]] - [[1858年]])
* [[シャルル・フーリエ]]([[1772年]] - [[1837年]])
* [[デヴィッド・リカード]]([[1772年]] - [[1823年]])
* [[フリードリヒ・シェリング]]([[1775年]] - [[1854年]])
* [[ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェント]]([[1775年]] - [[1853年]])
* [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]([[1779年]] - [[1861年]])
* [[フェリシテ・ド・ラムネー]]([[1782年]] - [[1854年]])
* [[フリードリヒ・フレーベル]]([[1782年]] - [[1852年]])
* エティエンヌ・カベ([[1788年]] - [[1856年]])
* [[アルトゥル・ショーペンハウアー]]([[1788年]] - [[1860年]])
* [[クリスチャン・ユルゲンセン・トムセン]]([[1788年]] - [[1865年]])
* [[フリードリヒ・リスト]]([[1789年]] - [[1846年]])
* [[ジャン=フランソワ・シャンポリオン|ジャン・フランソワ・シャンポリオン]]([[1790年]] - [[1832年]])
* [[レオポルト・フォン・ランケ]]([[1795年]] - [[1886年]])
* [[トーマス・カーライル]]([[1795年]] - [[1881年]])
* [[オーギュスト・コント]] ([[1798年]] - [[1857年]])
* [[ジュール・ミシュレ]]([[1798年]] - [[1874年]])
* [[トーマス・マコーリー]]([[1800年]] - [[1859年]])
* ジャン・ポール・ミーニュ([[1800年]] - [[1875年]])
* [[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー]]([[1801年]] - [[1877年]])
* ハリエット・マーティノー([[1802年]] - [[1876年]])
* [[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]([[1804年]] - [[1872年]])
* [[アレクシ・ド・トクヴィル]]([[1805年]] - [[1859年]])
* [[ジョン・スチュアート・ミル]]([[1806年]] - [[1873年]])
* [[マックス・シュティルナー]]([[1806年]] - [[1856年]])
* [[ヨハン・グスタフ・ドロイゼン]]([[1808年]] - [[1884年]])
* [[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]([[1809年]] - [[1865年]])
* [[ヴィッサリオン・ベリンスキー]]([[1811年]] - [[1848年]])
* [[アレクサンドル・ゲルツェン]]([[1812年]] - [[1870年]])
* [[サミュエル・スマイルズ]]([[1812年]] - [[1904年]])
* [[セーレン・オービエ・キェルケゴール]]([[1813年]] - [[1855年]])
* [[ミハイル・バクーニン]]([[1814年]] - [[1876年]])
* [[J・J・バッハオーフェン|ヨハン・ヤコブ・バッハオーフェン]]([[1815年]] - [[1887年]])
* [[テオドール・モムゼン]]([[1817年]] - [[1903年]])
* [[カール・マルクス]]([[1818年]] - [[1883年]])
* [[ヤーコプ・ブルクハルト]]([[1818年]] - [[1897年]])
* [[ジョン・ラスキン]]([[1819年]] - [[1900年]])
* [[ハーバート・スペンサー]]([[1820年]] - [[1903年]])
* [[フリードリヒ・エンゲルス]]([[1820年]] - [[1895年]])
* [[ハインリヒ・シュリーマン]]([[1822年]] - [[1890年]])
* [[エルネスト・ルナン]]([[1823年]] - [[1892年]])
* [[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]([[1823年]] - [[1900年]])
* [[フェルディナント・ラッサール]]([[1825年]] - [[1864年]])
* [[ジャン=マルタン・シャルコー|ジャン・マルタン・シャルコー]]([[1825年]] - [[1893年]])
* [[ウォルター・バジョット]]([[1826年]] - [[1877年]])
* [[ニコライ・チェルヌイシェフスキー]]([[1828年]] - [[1889年]])
* [[イポリート・テーヌ]]([[1828年]] - [[1893年]])
* [[エドワード・バーネット・タイラー]]([[1832年]] - [[1917年]])
* [[ヴィルヘルム・ディルタイ]]([[1833年]] - [[1911年]])
* [[ジョン・アクトン]]([[1834年]] - [[1902年]])
* [[レオン・ワルラス]]([[1834年]] - [[1910年]])
* [[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]]([[1835年]] - [[1882年]])
* [[チェーザレ・ロンブローゾ]]([[1835年]] - [[1909年]])
* フランツ・オーヴァーベック([[1837年]] - [[1905年]])
* [[フランツ・ブレンターノ]]([[1838年]] - [[1917年]])
* [[エルンスト・マッハ]]([[1838年]] - [[1916年]])
* [[カール・メンガー]]([[1840年]] - [[1921年]])
* [[ギュスターヴ・ル・ボン]]([[1841年]] - [[1931年]])
* [[アルフレッド・マーシャル]]([[1842年]] - [[1924年]])
* [[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]([[1842年]] - [[1906年]])
* [[ポール・ラファルグ]]([[1842年]] - [[1911年]])
* [[ピョートル・クロポトキン]]([[1842年]] - [[1921年]])
* [[ガブリエル・タルド]]([[1843年]] - [[1904年]])
* [[リヒャルト・アヴェナリウス]]([[1843年]] - [[1896年]])
* [[フリードリヒ・ニーチェ]]([[1844年]] - [[1900年]])
* [[セルゲイ・ネチャーエフ]]([[1847年]] - [[1882年]])
* [[ゴットロープ・フレーゲ]]([[1848年]] - [[1925年]])
* [[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]([[1848年]] - [[1915年]])
* [[マックス・ノルダウ]]([[1849年]] - [[1923年]])
* [[アーサー・エヴァンズ]]([[1851年]] - [[1941年]])
* [[ゲオルグ・イェリネック]]([[1851年]] - [[1911年]])
* [[ジェームズ・フレイザー]]([[1854年]] - [[1941年]])
* [[カール・カウツキー]]([[1854年]] - [[1938年]])
* [[フェルディナント・テンニース]]([[1855年]] - [[1936年]])
* [[ゲオルク・ジンメル]]([[1858年]] - [[1918年]])
* [[エミール・デュルケーム]]([[1858年]] - [[1917年]])
* [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]([[1859年]] - [[1917年]])
* [[ピエール・ジャネ]]([[1859年]] - [[1947年]])
* [[テオドール・ヘルツル]]([[1860年]] - [[1904年]])
* [[ルー・アンドレアス・ザロメ]]([[1861年]] - [[1937年]])
* [[ハインリヒ・リッケルト]]([[1863年]] - [[1936年]])
==== 宗教 ====
* [[サロフのセラフィム]]([[1759年]] - [[1833年]])
* ヤン・ローターン([[1785年]] - [[1853年]])
* [[ジョン・ヘンリー・ニューマン]]([[1801年]] - [[1890年]])
* [[ヨハネ・ボスコ]]([[1815年]] - [[1888年]])
* [[ウィリアム・ブース]]([[1829年]] - [[1912年]])
* [[ベルナデット・スビルー]]([[1844年]] - [[1879年]])
* [[リジューのテレーズ]]([[1873年]] - [[1897年]])
==== 文学 ====
* ヤン・ポトツキ([[1761年]] - [[1815年]]) - ポーランドの作家
* [[ジャン・パウル]]([[1763年]] - [[1825年]]) - ドイツの作家
* [[アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール]]([[1766年]] - [[1817年]]) - フランスの作家
* シュレーゲル兄弟
** [[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル]]([[1767年]] - [[1845年]]) - ドイツの文学者
** [[フリードリヒ・シュレーゲル]]([[1772年]] - [[1829年]]) - ドイツの文学者
* [[バンジャマン・コンスタン]]([[1767年]] - [[1830年]]) - スイス生まれの作家
* [[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン]]([[1768年]] - [[1848年]]) - フランスの作家
* [[イヴァン・クルィロフ]]([[1769年]] - [[1844年]]) - ロシアの文学者・劇作家
* [[ウィリアム・ワーズワース]]([[1770年]] - [[1850年]]) - イギリスの詩人
* [[ウォルター・スコット]]([[1771年]] - [[1832年]]) - イギリスの詩人
* [[サミュエル・テイラー・コールリッジ]]([[1772年]] - [[1834年]]) - イギリスの詩人
* [[チャールズ・ラム]]([[1775年]] - [[1834年]]) - イギリスの作家
* [[ジェーン・オースティン]]([[1775年]] - [[1817年]]) - イギリスの作家
* [[E.T.A.ホフマン|エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン]]([[1776年]] - [[1822年]]) - ドイツの作家
* [[チャールズ・ロバート・マチューリン]]([[1782年]] - [[1824年]]) - アイルランドの作家
* [[スタンダール]]([[1783年]] - [[1842年]]) - フランスの作家
* [[グリム|グリム兄弟]]
** [[ヤーコプ・グリム]]([[1785年]] - [[1863年]]) - ドイツの文学者
** [[ヴィルヘルム・グリム]]([[1786年]] - [[1859年]]) - ドイツの文学者
* [[トマス・ド・クインシー]]([[1785年]] - [[1859年]]) - イギリスの評論家
* [[アレッサンドロ・マンゾーニ]]([[1785年]] - [[1873年]]) - イタリアの詩人・作家
* [[ジョージ・ゴードン・バイロン]]([[1788年]] - [[1824年]]) - イギリスの詩人
* [[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]([[1790年]] - [[1869年]]) - フランスの詩人
* [[フランツ・グリルパルツァー]]([[1791年]] - [[1872年]]) - オーストリアの劇詩人
* [[ジョン・キーツ]]([[1795年]] - [[1821年]]) - イギリスの詩人
* [[ハインリヒ・ハイネ]]([[1797年]] - [[1856年]]) - ドイツの詩人
* [[メアリー・シェリー]]([[1797年]] - [[1851年]]) - イギリスの小説家
* [[ジャコモ・レオパルディ]]([[1798年]] - [[1837年]]) - イタリアの詩人
* [[アダム・ミツキェヴィチ]]([[1798年]] - [[1855年]]) - ポーランドの詩人
* [[オノレ・ド・バルザック]]([[1799年]] - [[1850年]]) - フランスの作家
* [[アレクサンドル・プーシキン]]([[1799年]] - [[1837年]]) - ロシアの詩人・作家
* [[ヴィクトル・ユーゴー]]([[1802年]] - [[1885年]]) - フランスの作家
* [[アレクサンドル・デュマ・ペール|アレクサンドル・デュマ]]([[1802年]] - [[1870年]]) - フランスの作家
* [[エリアス・リョンロート]]([[1802年]] - [[1884年]]) - フィンランドの著作家
* [[プロスペル・メリメ]]([[1803年]] - [[1870年]]) - フランスの作家
* [[ジョルジュ・サンド]]([[1804年]] - [[1876年]]) - フランスの作家
* [[ウージェーヌ・シュー]]([[1804年]] - [[1857年]]) - フランスの作家
* [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]([[1805年]] - [[1875年]]) - デンマークの作家
* {{仮リンク|アロイジウス・ベルトラン|en|Aloysius Bertrand}}([[1807年]] - [[1841年]]) - フランスの詩人
* [[ジェラール・ド・ネルヴァル]]([[1808年]] - [[1855年]]) - フランスの詩人
* [[ニコライ・ゴーゴリ]]([[1809年]] - [[1952年]]) - ロシアの作家
* [[アルフレッド・テニスン]]([[1809年]] - [[1892年]]) - イギリスの詩人
* [[テオフィル・ゴーティエ]] ([[1811年]] - [[1872年]]) - フランスの作家
* [[ウィリアム・メイクピース・サッカレー]]([[1811年]] - [[1863年]]) - イギリスの作家
* [[チャールズ・ディケンズ]]([[1812年]] - [[1870年]]) - イギリスの作家
* [[ロバート・ブラウニング]]([[1812年]] - [[1889年]]) - イギリスの詩人
* [[イワン・ゴンチャロフ]]([[1812年]] - [[1891年]]) - ロシアの作家
* [[ブロンテ姉妹]]
** [[シャーロット・ブロンテ]]([[1816年]] - [[1855年]]) - イギリスの作家
** [[エミリー・ブロンテ]]([[1818年]] - [[1848年]]) - イギリスの作家
** [[アン・ブロンテ]]([[1820年]] - [[1849年]]) - イギリスの作家
* [[アルテュール・ド・ゴビノー]]([[1816年]] - [[1882年]]) - フランスの作家
* [[イワン・ツルゲーネフ]]([[1818年]] - [[1883年]]) - ロシアの作家
* [[ジョージ・エリオット]]([[1819年]] - [[1880年]]) - イギリスの作家
* [[ギュスターヴ・フローベール]]([[1821年]] - [[1880年]]) - フランスの作家
* [[シャルル・ボードレール]]([[1821年]] - [[1867年]]) - フランスの詩人
* [[フョードル・ドストエフスキー]]([[1821年]] - [[1881年]]) - ロシアの作家
* [[ゴンクール兄弟]]
** [[エドモン・ド・ゴンクール]]([[1822年]] - [[1896年]]) - フランスの作家・評論家
** [[ジュール・ド・ゴンクール]]([[1830年]] - [[1870年]]) - フランスの作家・評論家
* [[アレクサンドル・デュマ・フィス]]([[1824年]] - [[1895年]]) - フランスの作家
* [[ウィルキー・コリンズ]]([[1824年]] - [[1889年]]) - イギリスの作家
* [[カルロ・コッローディ]]([[1826年]] - [[1890年]]) - イタリアの作家
* [[ジュール・ヴェルヌ]]([[1828年]] - [[1905年]]) - フランスの作家
* [[レフ・トルストイ]]([[1828年]] - [[1910年]]) - ロシアの作家
* [[ヘンリック・イプセン]]([[1828年]] - [[1906年]]) - ノルウェーの作家
* [[ルイス・キャロル]]([[1832年]] - [[1898年]]) - イギリスの作家
* [[サミュエル・バトラー]]([[1835年]] - [[1902年]]) - イギリスの作家
* [[レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ|レオポルト・フォン・ザッヘル・マゾッホ]]([[1836年]] - [[1895年]]) - オーストリアの作家
* [[オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン]]([[1838年]] - [[1889年]]) - フランスの作家
* [[ウォルター・ペイター]]([[1839年]] - [[1894年]]) - イギリスの作家
* [[エミール・ゾラ]]([[1840年]] - [[1902年]]) - フランスの作家
* [[トーマス・ハーディ]]([[1840年]] - [[1928年]]) - イギリスの作家
* [[アルフォンス・ドーデ]]([[1840年]] – [[1897年]]) - フランスの作家
* [[ステファヌ・マラルメ]]([[1842年]] - [[1898年]]) - フランスの詩人
* [[ポール・ヴェルレーヌ]]([[1844年]] - [[1896年]]) - フランスの詩人
* [[エドモンド・デ・アミーチス]]([[1846年]] - [[1908年]]) - イタリアの作家
* [[ロートレアモン伯爵]]([[1846年]] - [[1870年]]) - フランスの詩人
* [[ブラム・ストーカー]]([[1847年]] - [[1912年]]) - イギリスの作家
* [[ジョリス=カルル・ユイスマンス|ジョリス・カルル・ユイスマンス]]([[1848年]] - [[1907年]]) - フランスの作家
* [[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]]([[1849年]] - [[1912年]]) - スウェーデンの作家
* [[ギ・ド・モーパッサン]]([[1850年]] - [[1893年]]) - フランスの作家
* [[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]([[1850年]] - [[1894年]]) - イギリスの作家
* [[ピエール・ロティ]]([[1850年]] - [[1923年]]) - フランスの作家
* [[アルチュール・ランボー]]([[1854年]] - [[1891年]]) - フランスの詩人
* [[オスカー・ワイルド]]([[1854年]] - [[1900年]]) - イギリスの作家
* [[アーサー・コナン・ドイル]]([[1859年]] - [[1930年]]) - イギリスの作家
* [[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]]([[1866年]] - [[1946年]]) - イギリスの作家
* [[エドモン・ロスタン]]([[1868年]] - [[1918年]]) - フランスの劇作家
* [[ピエール・ルイス]]([[1870年]] - [[1925年]]) - フランスの詩人
==== 美術 ====
* [[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ジャック・ルイ・ダヴィッド]]([[1748年]] - [[1825年]]) - フランスの[[新古典主義]]の画家
* [[ウィリアム・ブレイク]]([[1757年]] - [[1827年]]) - イギリスの[[ロマン主義]]の画家・詩人
* ベルテル・トルヴァルセン([[1770年]] - [[1844年]]) - デンマークの新古典主義の彫刻家
* [[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]([[1774年]] - [[1840年]]) - ドイツのロマン主義の画家
* [[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]([[1775年]] - [[1851年]]) - イギリスの[[ロマン主義]]の画家
* [[ジョン・コンスタブル]]([[1776年]] - [[1837年]]) - イギリスのロマン主義の画家
* [[ドミニク・アングル]]([[1780年]] - [[1867年]]) - フランスの新古典主義の画
* [[カルル・フリードリッヒ・シンケル]]([[1781年]] - [[1841年]]) - ドイツの新古典主義の建築家・画家
* [[ジョン・ジェームズ・オーデュボン]]([[1785年]] - [[1851年]]) - アメリカの画家・鳥類研究家
* [[テオドール・ジェリコー]]([[1791年]] - [[1824年]]) - フランスのロマン主義の画家
* [[カミーユ・コロー]]([[1796年]] - [[1875年]]) - フランスの[[写実主義]]の画家
* [[ウジェーヌ・ドラクロワ]]([[1798年]] - [[1863年]]) - フランスのロマン主義の画家
* [[オノレ・ドーミエ]]([[1808年]] - [[1879年]]) - フランスの写実主義の画家
* [[ジャン=フランソワ・ミレー|ジャン・フランソワ・ミレー]]([[1814年]] - [[1875年]]) - フランスの写実主義の画家
* [[ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク]]([[1814年]] - [[1879年]]) - フランスの[[ゴシック・リヴァイヴァル]]の建築家
* アドルフ・フォン・メンツェル([[1815年]] - [[1905年]]) - ドイツの写実主義の画家
* [[ギュスターヴ・クールベ]]([[1819年]] - [[1877年]]) - フランスの写実主義の画家
* [[ウィリアム・フリス]]([[1819年]] - [[1909年]]) - イギリスの[[ヴィクトリア朝]]絵画の画家
* {{仮リンク|ホレス・ジョーンズ|en|Horace Jones (architect)}}([[1819年]] - [[1887年]]) - イギリスのゴシック・リヴァイヴァルの建築家
* [[ナダール]]([[1820年]] - [[1910年]]) - フランスの写真家
* [[ジャン=レオン・ジェローム|ジャン・レオン・ジェローム]]([[1824年]] - [[1904年]]) - フランスの[[アカデミズム]]の画家
* [[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]([[1824年]] - [[1898年]]) - フランスの[[象徴主義]]の画家
* [[シャルル・ガルニエ]]([[1825年]] - [[1898年]]) - フランスの第二帝政様式の建築家
* [[ギュスターヴ・モロー]]([[1826年]] - [[1898年]]) - フランスの象徴主義の画家
* [[ウィリアム・ホルマン・ハント]]([[1827年]] - [[1910年]]) - イギリスの[[ラファエル前派]]の画家
* [[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]([[1828年]] - [[1882年]]) - イギリスのラファエル前派の画家
* [[ジョン・エヴァレット・ミレー]]([[1829年]] - [[1896年]]) - イギリスのラファエル前派の画家
* [[フレデリック・レイトン]]([[1830年]] - [[1896年]]) - イギリスのヴィクトリア朝絵画の画家
* [[カミーユ・ピサロ]]([[1830年]] - [[1903年]]) - フランスの[[印象主義]]の画家
* [[エドゥアール・マネ]]([[1832年]] - [[1883年]]) - フランスの印象主義の画家
* [[ギュスターヴ・ドレ]]([[1832年]]– [[1888年]]) - フランスの挿絵画家
* [[エドワード・バーン=ジョーンズ|エドワード・バーン・ジョーンズ]]([[1833年]] - [[1898年]]) - イギリスのラファエル前派の画家
* [[エドガー・ドガ]]([[1834年]] - [[1917年]]) - フランスの印象主義の画家
* [[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー]]([[1834年]] - [[1903年]]) - アメリカ生まれの[[唯美主義]]の画家
* [[ウィリアム・モリス]]([[1834年]] - [[1896年]]) - イギリスの装飾芸術家
* [[フレデリク・バルトルディ]]([[1834年]] - [[1904年]]) - フランスの彫刻家
* [[イワン・クラムスコイ]]([[1837年]] - [[1887年]]) - ロシアの写実主義([[移動派]])の画家
* [[ポール・セザンヌ]]([[1839年]] - [[1906年]]) - フランスの[[ポスト印象主義]]の画家
* [[クロード・モネ]]([[1840年]] - [[1926年]]) - フランスの印象主義の画家
* [[オディロン・ルドン]]([[1840年]] - [[1916年]]) - フランスの象徴主義の画家
* [[オーギュスト・ロダン]]([[1840年]] - [[1917年]]) - フランスの彫刻家
* [[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ピエール・オーギュスト・ルノワール]]([[1841年]] - [[1919年]]) - フランスの印象主義の画家
* [[イリヤ・レーピン]]([[1844年]] - [[1930年]]) - ロシアの写実主義(移動派)の画家
* [[ポール・ゴーギャン]]([[1848年]] - [[1903年]]) - フランスのポスト印象主義の画家
* [[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]([[1848年]] - [[1926年]]) - ロシアの写実主義(移動派)・象徴主義の画家
* [[フィンセント・ファン・ゴッホ]]([[1853年]] - [[1890年]]) - オランダの[[ポスト印象主義]]の画家
* [[ジョン・シンガー・サージェント]]([[1856年]] - [[1925年]]) - アメリカ出身でイギリスで活躍した肖像画家
* [[ジョルジュ・スーラ]]([[1859年]] - [[1891年]]) - フランスの[[新印象派|新印象主義]]の画家
* [[グスタフ・クリムト]]([[1862年]] - [[1918年]]) - オーストリアの象徴主義の画家
* [[エドヴァルド・ムンク]]([[1863年]] - [[1944年]]) - ノルウェーの[[表現主義]]の画家
* [[ポール・シニャック]]([[1863年]] - [[1935年]]) - フランスの新印象派の画家
* [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック]]([[1864年]] - [[1901年]]) - フランスの[[世紀末芸術]]の画家
* [[カミーユ・クローデル]]([[1864年]] - [[1943年]]) - フランスの彫刻家
* [[オーブリー・ビアズリー]]([[1872年]] - [[1898年]]) - イギリスの[[世紀末芸術]]の画家
==== 音楽 ====
* [[ルイージ・ケルビーニ]]([[1760年]] - [[1842年]]) - イタリア出身の作曲家
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]([[1770年]] - [[1827年]]) - ドイツの作曲家
* [[ニコロ・パガニーニ]]([[1782年]] - [[1840年]]) - イタリアのヴァイオリニスト
* [[ジャコモ・マイアベーア]]([[1791年]] - [[1864年]]) - ドイツの作曲家
* [[ジョアキーノ・ロッシーニ]]([[1792年]] - [[1868年]]) - イタリアの作曲家
* [[フランツ・シューベルト]]([[1797年]] - [[1828年]]) - オーストリアの作曲家
* [[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]([[1801年]] - [[1835年]]) - イタリアの作曲家
* [[ヨーゼフ・ランナー]]([[1801年]] - [[1843年]]) - オーストリアの作曲家
* [[ヨハン・シュトラウス1世]]([[1804年]] - [[1849年]]) - オーストリアの作曲家
* [[フェリックス・メンデルスゾーン]]([[1809年]] - [[1847年]]) - ドイツの作曲家
* [[フランツ・リスト]]([[1811年]] - [[1886年]]) - ハンガリーの作曲家
* [[ロベルト・シューマン]]([[1810年]] - [[1856年]]) - ドイツの作曲家
* [[フレデリック・ショパン]]([[1810年]]? - [[1849年]]) - ポーランドの作曲家
* [[リヒャルト・ワーグナー]]([[1813年]] - [[1883年]]) - ドイツの作曲家
* [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]([[1813年]] - [[1901年]]) - イタリアの作曲家
* [[ジャック・オッフェンバック]]([[1819年]] - [[1880年]]) - ドイツ出身の作曲家
* [[アントン・ブルックナー]]([[1824年]] - [[1896年]]) - オーストリアの作曲家
* [[ベドルジハ・スメタナ]]([[1824年]] - [[1884年]]) - チェコの作曲家
* [[ヨハン・シュトラウス2世]]([[1825年]] - [[1899年]]) - オーストリアの作曲家
* [[ヨーゼフ・シュトラウス]]([[1827年]] - [[1870年]]) - オーストリアの作曲家
* [[ヨハネス・ブラームス]]([[1833年]] - [[1897年]]) - ドイツの作曲家
* [[エドゥアルト・シュトラウス1世]]([[1835年]] - [[1916年]]) - オーストリアの作曲家
* [[カミーユ・サン=サーンス|カミーユ・サン・サーンス]]([[1835年]] - [[1921年]]) - フランスの作曲家
* [[エミール・ワルトトイフェル]]([[1837年]] - [[1915年]]) - フランスの作曲家
* [[ジョルジュ・ビゼー]]([[1838年]] - [[1875年]]) - フランスの作曲家
* [[モデスト・ムソルグスキー]]([[1839年]] - [[1881年]]) - ロシアの作曲家
* [[ピョートル・チャイコフスキー]]([[1840年]] - [[1893年]]) - ロシアの作曲家
* [[アントニン・ドヴォルザーク]]([[1841年]] - [[1904年]]) - チェコの作曲家
* [[エドヴァルド・グリーグ]]([[1843年]] - [[1907年]]) - ノルウェーの作曲家
* [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]([[1844年]] - [[1908年]]) - ロシアの作曲家
* [[パブロ・デ・サラサーテ]]([[1844年]] - [[1908年]]) - スペイン出身の作曲家
* [[ガブリエル・フォーレ]]([[1845年]] - [[1924年]]) - フランスの作曲家
* [[クロード・ドビュッシー]]([[1862年]] - [[1918年]]) - フランスの作曲家
* [[ピエトロ・マスカーニ]]([[1863年]] - [[1945年]]) - イタリアの作曲家
* [[ジャン・シベリウス]]([[1865年]] - [[1957年]]) - フィンランドの作曲家
==== 社会事業家 ====
* [[フローレンス・ナイチンゲール]]([[1820年]] - [[1910年]]) - イギリスの看護師・社会事業家
* [[アンリ・デュナン]]([[1828年]] - [[1910年]]) - スイスの社会事業家
* [[ピエール・ド・クーベルタン]]([[1863年]] - [[1937年]]) - フランスの教育者・近代オリンピックの父
==== 探検家・旅行家 ====
* [[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]([[1770年]] - [[1846年]]) - エストニア出身のロシアの探検家
* [[リチャード・フランシス・バートン]]([[1821年]] - [[1890年]]) - イギリスの探検家・軍人・外交官・翻訳家
* [[イザベラ・バード]]([[1831年]] - [[1904年]]) - イギリスの旅行家
* [[フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン]]([[1833年]] - [[1905年]]) - ドイツの地理学者・探検家
* ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェヴァルスキー([[1839年]] - [[1888年]]) - ロシアの探検家
==== 料理 ====
* [[ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン|ジャン・アンテルム・ブリア・サヴァラン]]([[1755年]] - [[1826年]]) - フランスの美食家
* {{仮リンク|グリモ・ドゥ・ラ・レニエール|en|Alexandre_Balthazar_Laurent_Grimod_de_La_Reynière}}([[1758年]] - [[1837年]]) - フランスの美食家
* [[アントナン・カレーム]]([[1784年]] - [[1833年]]) - フランスの料理人
==== その他 ====
* バルバラ・フォン・クリューデナー(クリュデネル夫人)([[1764年]] - [[1824年]]) - ロシアの予言者・神秘主義者
* [[エマ・ハミルトン]]([[1765年]] - [[1815年]]) - イギリスのネルソン提督の愛人
* [[ジョージ・ブライアン・ブランメル]]([[1778年]] - [[1840年]]) - イギリスのファッションの権威・摂政皇太子[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ]]の友人
* [[ピエール・フランソワ・ラスネール]]([[1800年]] - [[1836年]]) - フランスの犯罪者・詩人・その『自伝』でも有名
* [[カスパー・ハウザー]]([[1812年]]? - [[1833年]]) - ドイツの身元不明の孤児・王族の落胤か
* [[ローラ・モンテス]]([[1821年]] - [[1861年]]) - バイエルン国王ルートヴィヒ1世の愛人
* [[ヘレナ・P・ブラヴァツキー|ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー]]([[1831年]] – [[1891年]]) - ロシア生まれの[[神智学協会]]の設立者
* [[アルフレド・ドレフュス]]([[1859年]] - [[1935年]]) - フランスのユダヤ系の軍人・[[ドレフュス事件]]で冤罪となる
=== アングロアメリカ ===
* [[トーマス・ジェファーソン]](任期[[1801年]] - [[1809年]]) - 第3代アメリカ大統領
* [[ジェームズ・モンロー]](任期[[1817年]] - [[1825年]]) - 第5代アメリカ大統領
* [[アンドリュー・ジャクソン]](任期[[1829年]] - [[1837年]]) - 第7代アメリカ大統領
* [[ジェームズ・ポーク]](任期[[1845年]] - [[1849年]]) - 第11代アメリカ大統領
* [[エイブラハム・リンカーン]](任期[[1861年]] - [[1865年]]) - 第16代アメリカ大統領
* [[ユリシーズ・グラント]](任期[[1869年]] - [[1877年]]) - 第18代アメリカ大統領・北軍の軍司令官
* [[ジェファーソン・デイヴィス]]([[1808年]] - [[1889年]]) - アメリカ連合国(分離した南部諸州)唯一の大統領
* [[ロバート・E・リー|ロバート・エドワード・リー]]([[1807年]] - [[1870年]]) - アメリカの軍人・南軍の軍司令官
* [[デイヴィッド・クロケット]]([[1786年]] - [[1836年]]) - アメリカの軍人・[[テキサス州|テキサス]]独立を支持し[[アラモの戦い]]で玉砕
* [[アルフレッド・セイヤー・マハン]]([[1840年]] - [[1914年]]) - アメリカの軍人・歴史家・戦略研究者
* [[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]([[1800年]] - [[1859年]]) - アメリカの奴隷制度廃止運動家
* [[フレデリック・ダグラス]]([[1818年]] - [[1895年]]) - アメリカの奴隷制度廃止運動家
* [[ハリエット・タブマン]]([[1820年]]/[[1821年]] - [[1913年]]) - アメリカの奴隷制度廃止運動家
* [[サカガウィア]]([[1788年]]? - [[1812年]]/[[1884年]]?) - 先住民[[ショーショーニー族]]の女性・探検家の案内人
* [[マイアー・グッゲンハイム]]([[1828年]] - [[1905年]]) - アメリカの事業家
* [[アンドリュー・カーネギー]]([[1835年]] - [[1919年]]) - アメリカの事業家
* [[ジョン・モルガン]]([[1837年]] - [[1913年]]) - アメリカの事業家
* [[ジョン・ロックフェラー]]([[1839年]] - [[1937年]]) - アメリカの事業家
* [[サミュエル・ゴンパーズ]]([[1850年]] - [[1924年]]) - アメリカの労働運動指導者
* [[アレクサンダー・グラハム・ベル]]([[1847年]] - [[1922年]]) - アメリカの技術者
* [[トーマス・エジソン]]([[1847年]] - [[1931年]]) - アメリカの技術者
* [[チャールズ・サンダース・パース]]([[1839年]] - [[1914年]]) - アメリカの哲学者
* [[ウィリアム・ジェームズ]]([[1842年]] - [[1910年]]) - アメリカの哲学者
* [[ラルフ・ワルド・エマーソン]]([[1803年]] - [[1882年]]) - アメリカの思想家・作家
* [[ナサニエル・ホーソーン]]([[1804年]] - [[1864年]]) - アメリカの作家
* [[エドガー・アラン・ポー]]([[1809年]] - [[1849年]]) - アメリカの詩人・作家
* [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]([[1811年]] - [[1896年]]) - アメリカの作家
* [[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]([[1817年]] - [[1862年]]) - アメリカの思想家・作家
* [[ウォルト・ホイットマン]]([[1819年]] - [[1892年]]) - アメリカの詩人
* [[ハーマン・メルヴィル]]([[1819年]] - [[1891年]]) - アメリカの作家
* [[エミリー・ディキンソン]]([[1830年]] - [[1886年]]) - アメリカの詩人
* [[マーク・トウェイン]]([[1835年]] - [[1910年]]) - アメリカの作家
* [[ライマン・フランク・ボーム]]([[1856年]] - [[1919年]]) - アメリカの作家
* [[エドワード・マイブリッジ]]([[1830年]] - [[1904年]]) - アメリカの写真家
* [[ルイス・カムフォート・ティファニー]]([[1848年]] - [[1933年]]) -アメリカの宝飾デザイナー
* [[ルイス・サリヴァン]]([[1856年]] - [[1924年]]) - アメリカの建築家
* [[スティーブン・コリンズ・フォスター]]([[1826年]] - [[1864年]]) - アメリカの作曲家・「アメリカ音楽の父」
* [[ヘンリー・クレイ・ワーク]]([[1832年]] - [[1884年]]) - アメリカの作曲家
* [[ジョセフ・スミス・ジュニア]]([[1805年]] - [[1844年]]) - アメリカの宗教家・[[末日聖徒イエス・キリスト教会|モルモン教]]の創始者
* [[ブリガム・ヤング]]([[1801年]] - [[1877年]]) - アメリカの宗教家・モルモン教の指導者・[[ソルトレイクシティ]]を設立
* [[チャールズ・テイズ・ラッセル]]([[1852年]] - [[1916年]]) - アメリカの宗教家・[[エホバの証人]]の創始者
* [[カラミティ・ジェーン]]([[1856年]] - [[1903年]]) - アメリカの西部開拓者・女性
=== ラテンアメリカ ===
* [[トゥーサン・ルヴェルチュール]](? - [[1803年]]) - ハイチ独立運動指導者・黒人解放運動の先駆者・フランス政府に逮捕され獄死する
* [[ミゲル・イダルゴ]]([[1753年]] - [[1811年]]) - メキシコ独立運動での初期の指導者・神父・独立闘争の途上処刑される・「メキシコ独立の父」
* [[ホセ・デ・サン・マルティン]]([[1778年]] - [[1850年]]) - アルゼンチンの軍人・政治家・スペインからラテンアメリカ各国を独立させる
* [[シモン・ボリバル]]([[1783年]] - [[1830年]]) - ベネズエラの軍人・政治家・スペインからのコロンビア共和国の独立を目指す
* [[アグスティン・デ・イトゥルビデ|アグスティン1世]]([[1783年]] - [[1824年]]) - メキシコ独立運動指導者・政変でメキシコ皇帝(在位[[1822年]] - [[1823年]])となるが一年足らずで失脚
* [[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]([[1793年]] - [[1877年]]) - アルゼンチンの政治家・連邦派から[[ブエノスアイレス州]]知事として独裁を行う
* [[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ]]([[1794年]] - [[1876年]]) - メキシコの政治家・軍人・「西半球のナポレオン」と呼ばれたが[[米墨戦争]]で敗北
* [[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]([[1798年]] - [[1834年]]) - ポルトガル王位継承者・ブラジル帝国初代皇帝(在位[[1822年]] - [[1831年]])として独立
* [[ベニート・フアレス]]([[1806年]] - [[1872年]]) - 先住民で最初のメキシコ大統領(在任[[1861年]] - [[1863年]]/[[1867年]] - [[1872年]])・「建国の父」
* [[フランシスコ・ソラーノ・ロペス]]([[1826年]] - [[1870年]]) - [[パラグアイ]]の大統領・[[三国同盟戦争]]を指揮するが激戦で国土を消尽し戦死する
* [[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン1世]]([[1832年]] - [[1867年]]) - ハプスブルク家出身のメキシコ皇帝(在位[[1864年]] - [[1867年]])・[[メキシコ出兵]]で処刑される
=== サハラ以南のアフリカ ===
* {{仮リンク|エルハジ・ウマル・タール|en|El_Hadj_Umar_Tall}}([[1797年]]頃 - [[1864年]]頃) - 西アジアのトゥクロール帝国の創始者・フランスの支配に抵抗したが屈服
* [[デイヴィッド・リヴィングストン]]([[1813年]] - [[1873年]]) - イギリスの探検家・宣教師・医師・「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカを調査
* [[テオドロス2世 (エチオピア皇帝)|テオドロス2世]]([[1818年]] - [[1868年]]) - エチオピア皇帝(在位[[1855年]] - [[1868年]])・「ラス達の時代」を終わらせソロモン朝を中興
* [[ポール・クリューガー]]([[1825年]] - [[1904年]]) - [[トランスヴァール共和国]]の大統領(在任[[1883年]] - [[1900年]])・[[第二次ボーア戦争]]で敗北
* [[サモリ・トゥーレ]]([[1830年]]頃 - [[1900年]]) - 西アフリカのサモリ帝国の創始者・フランスの支配に抵抗したが屈服
* [[チャールズ・ゴードン]]([[1833年]] - [[1885年]]) - イギリスの軍人・太平天国の乱では常勝軍を率いる・スーダンのマフディー軍に殺害される
* [[ヘンリー・スタンリー]]([[1841年]] - [[1904年]]) - イギリスのジャーナリスト・探検家・リヴィングストンの捜索で知られる
* [[ムハンマド・アフマド・アル=マフディー|ムハンマド・アフマド]]([[1844年]] - [[1885年]]) - スーダンの宗教指導者・マフディー(救世主)を名乗って反乱を起こす
* [[メネリク2世]]([[1844年]] - [[1913年]]) - エチオピア皇帝(在位[[1889年]] - [[1913年]])・[[アドワの戦い]]でイタリアに勝利し独立を死守
* [[セシル・ローズ]]([[1853年]] - [[1902年]]) - イギリスの政治家・ケープ植民地首相・縦断政策を進め「アフリカのナポレオン」と呼ばれる
* {{仮リンク|ジャン・バティスト・マルシャン|en|Jean-Baptiste Marchand}}([[1863年]] - [[1934年]]) - フランスの軍人・横断政策でスーダンを探索しイギリス軍と対峙([[ファショダ事件]])
=== 西アジアと北アフリカ ===
* [[アル・ジャバルティー]]([[1754年]] - [[1825年]]) - エジプトの歴史家・ナポレオンやムハンマド・アリーを記録した『アジャーイブ』で知られる
* [[セリム3世]]([[1761年]] - [[1808年]]) - オスマン朝第28代皇帝(在位[[1789年]] - [[1807年]])・西洋式軍制の導入を図るが[[イェニチェリ]]軍団に廃位される
* [[ムハンマド・アリー]]([[1769年]]? - [[1849年]]) - オスマン朝のエジプト総督・ムハンマド・アリー朝の創始者(在位[[1805年]] - [[1848年]])
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン]]([[1779年]] - [[1851年]]) - オスマン朝の[[アルメニア人|アルメニア系]]外交官・歴史家として『モンゴル帝国史』を執筆
* [[マフムト2世]]([[1785年]] - [[1839年]]) - オスマン朝第30代皇帝(在位[[1808年]] - [[1839年]])・[[アーヤーン]]を押さえイェニチェリ軍団の廃止に成功
* [[ムスタファ・レシト・パシャ]]([[1800年]] - [[1858年]]) - オスマン朝の大宰相・[[ギュルハネ勅令]]を起草し[[タンジマート]]を推進・[[クリミア戦争]]にも対処
* [[フェルディナン・レセップス]]([[1805年]] - [[1894年]]) - フランスの外交官・事業家・[[スエズ運河会社]]を設立し[[スエズ運河]]開削を成し遂げる
* アフマド・ベイ([[1806年]] - [[1855年]]) - フサイン朝[[チュニジア]]の君主(在位[[1837年]] - [[1855年]])・フランスの援助で急速な近代化を進める
* [[アブド・アルカーディル]]([[1807年]] - [[1883年]]) - フランスの[[アルジェリア侵略|アルジェリア遠征]]に抵抗した人物・アルジェリア民族運動の父とも評価される
* [[アミール・キャビール]]([[1807年]] - [[1852年]]) - イランの大宰相・アターバク・軍制改革や官制改革に着手するも反発する保守派により暗殺される
* ミールザー・ハサン・シーラージー([[1815年]] - [[1895年]]) - イランのシーア派の最高権威・[[タバコ・ボイコット運動]]を[[ウラマー]]として指揮
* [[セイイェド・アリー・モハンマド]]([[1819年]] - [[1850年]]) - イランのシーア派の宗教改革者・後にバーブ教の開祖・預言者となる
* [[バハーウッラー]]([[1817年]] - [[1892年]]) - セイイェド・アリー・モハンマドの弟子・バーブ教壊滅後に再建されたバハイ教の教祖
* [[ミドハト・パシャ]]([[1822年]] - [[1884年]]) - オスマン朝の大宰相(在任[[1876年]] - [[1878年]])・欧米以外で最初の[[ミドハト憲法]]を起草
* [[アブデュルメジト1世]]([[1823年]] - [[1861年]]) - オスマン朝第31代皇帝(在位[[1839年]] - [[1861年]])・ギュルハネ勅令からタンジマートを推進
* [[イスマーイール・パシャ]]([[1830年]] - [[1895年]]) - ムハンマド・アリー朝エジプトのヘディーヴ(在位[[1867年]] - [[1879年]])・[[スエズ運河]]を放出
* [[ナーセロッディーン・シャー]]([[1831年]] - [[1896年]]) - ガージャール朝第4代シャー(在位[[1848年]] - [[1896年]])・列強に権益を譲渡し国内は混乱
* [[ジャマールッディーン・アフガーニー]]([[1839年]] - [[1897年]]) - パン・イスラム主義を唱えた思想家・イラクやトルコ・エジプトを遍歴
* アフメド・ウラービー([[1841年]] - [[1911年]]) - エジプトの陸軍大佐・列強の植民地支配とヘディーヴの支配に対し[[ウラービー革命]]を起こす
* [[アブデュルハミト2世]]([[1842年]] - [[1918年]]) - オスマン朝第34代皇帝(在位[[1876年]] - [[1909年]])・露土戦争で憲法を停止し専制を行う
* [[ムハンマド・アブドゥフ]]([[1849年]] - [[1905年]]) - エジプト出身の思想家・イスラム法学者・アフガーニーに共鳴し『固き絆』を刊行
* [[ラシード・リダー]]([[1865年]] - [[1935年]]) - シリア出身の思想家・イスラム法学者・ムハンマド・アブドゥフの影響で『マナール(灯台)』を刊行
=== 南アジア ===
* [[ラーム・モーハン・ローイ]]([[1772年]] - [[1833年]]) - インドの社会運動家・[[ブラフモ・サマージ]]を創設・[[寡婦殉死]]に反対する
* [[バハードゥル・シャー2世]]([[1775年]] - [[1862年]]) - ムガル帝国最後の皇帝(在位:[[1837年]] - [[1858年]])・インド大反乱で敗北し廃位される
* [[クンワル・シング]]([[1777年]] - [[1858年]]) - インド東部[[ビハール]]の領主・インド大反乱では80歳を超えて反乱軍を指揮したが戦死する
* [[ランジート・シング]]([[1780年]] - [[1839年]]) - インド西北部の[[シク王国]]の君主(在位:[[1801年]] - [[1839年]])・王国に最盛期をもたらす
* アイヤ・ヴァイクンダル([[1810年]]頃 - [[1851年]]頃) - インドの宗教家・新宗教[[アイヤーヴァリ]]の始祖となり南部タミル社会に影響を与えた
* [[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ]]([[1812年]] - [[1860年]]) - イギリス政府の第13代[[インド総督]]・「[[失権の原理]]」で藩王国の併合を推進
* [[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・カニング]]([[1812年]] - [[1862年]]) - イギリス政府の第14代インド総督・[[副王]]・インド大反乱後の処理を行い各地の藩王の地位を保障
* [[サイイド・アフマド・ハーン]]([[1817年]] - [[1898年]]) - インド人ムスリムの文人・近代[[ウルドゥー語]]散文の父・[[アリーガル・ムスリム大学]]を設立
* [[ナーナー・サーヒブ]]([[1824年]] - [[1857年]]以降) - マラーター王国宰相[[バージー・ラーオ2世]]の養子・インド大反乱ではイギリス軍と戦う
* {{仮リンク|ダヤーナンダ・サラスヴァティー|en| Dayanand Saraswati}}([[1824年]] - [[1883年]]) - インドの宗教家・「[[ヴェーダ]]に帰れ」と唱え改革団体[[アーリヤ・サマージ]]を組織
* {{仮リンク|ダーダーバーイー・ナオロージー|en|Dadabhai Naoroji}}([[1825年]] - [[1917年]]) - インド人初のイギリス下院議員・[[パールシー]]出身・インド国民会議を設立
* [[ロバート・ブルワー・リットン]]([[1831年]] - [[1891年]]) - イギリス政府の第19代インド総督・副王・帝国会議を開催し[[イギリス領インド帝国|インド帝国]]を成立させる
* [[ラクシュミー・バーイー]] ([[1835年]]? - [[1858年]]) - インド中部[[ジャーンシー]]の王妃・インド大反乱で「インドのジャンヌ・ダルク」と称される
* [[ラーマクリシュナ]]([[1836年]] - [[1886年]]) - インドの思想家(ヴェーダーンタ哲学)・神秘主義者として伝統文化復興に尽くす
* [[ラヴィ・ヴァルマ]]([[1848年]] - [[1906年]]) - インドの画家・西洋絵画の技法でヒンドゥーの神像を描く・多色石版でインド各地に広がる
* [[ヴィヴェーカーナンダ]]([[1863年]] - [[1902年]]) - インドの思想家(ヴェーダーンタ哲学)・[[ラーマクリシュナ僧院]]を組織する
=== 東南アジア ===
* ファン・デン・ボス([[1780年]] - [[1844年]]) - オランダ領東インド総督・コーヒーやサトウキビや藍などの強制栽培制度を実施
* [[トーマス・ラッフルズ]]([[1781年]] - [[1826年]]) - イギリスの東インド会社準知事・マレー半島南端にシンガポール港を開く
* [[ラーマ4世]]([[1805年]] - [[1868年]]) - チャクリー朝タイ国王(在位[[1851年]] - [[1868年]])・タイの近代化に着手・「[[王様と私]]」のモデルでもある
* アンリ・ムオ([[1826年]] - [[1861年]]) - フランスの探検家・西欧人として最初にアンコール・ワットを発見・『インドシナ王国遍歴記』がある
* [[チュ・ニャ・ディン]]([[1848年]] - [[1908年]]) - [[アチェ戦争]]での反乱指導者の一人・夫[[トゥク・ウマール]]の死後も対オランダ闘争を指揮
* [[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)([[1853年]] - [[1910年]]) - チャクリー朝タイ国王(在位[[1868年]] - [[1910年]])・チャクリー改革を推進
* [[ポール・ドゥメール]]([[1857年]] - [[1932年]]) - フランス領[[インドシナ連邦]]総督・行財政基盤を整備・後に[[フランス共和国大統領]]となる
* [[ティーボー]]([[1859年]] - [[1916年]]) - コンバウン朝ビルマの最後の国王(在位[[1878年]] - [[1885年]])・第三次英緬戦争で敗北
* [[ホセ・リサール]]([[1861年]] - [[1896年]]) - フィリピンの独立運動家・医師・著述家・スペイン軍の手で銃殺されたが現在は国民的英雄
* [[エミリオ・アギナルド]]([[1869年]] - [[1964年]]) - フィリピン共和国(第一次共和国)初代大統領(在任[[1899年]] - [[1901年]])・[[米比戦争]]で敗北
=== オセアニア ===
* [[カメハメハ1世]]([[1758年]]? - [[1819年]]) - ハワイ王国初代国王(在位[[1795年]] - [[1819年]])・ハワイ諸島を初めて統一した
* [[リリウオカラニ]]([[1838年]] - [[1917年]]) - ハワイ王国最後の女王(在位[[1891年]] - [[1893年]])・ハワイ革命で共和派に地位を追われる
* [[サンフォード・ドール]]([[1844年]] - [[1926年]]) - ハワイ共和国の最初で最後の大統領・ハワイ王国を転覆させ後にはハワイ準州知事となる
=== 東アジア ===
==== 清 ====
* [[嘉慶帝]]([[1760年]] - [[1820年]]) - 清の第7代皇帝(在位[[1796年]] - [[1820年]])・先帝の寵臣[[ヘシェン]]を処罰し綱紀粛正に努める
* [[林清]](? - [[1813年]]) - 清の反乱指導者・[[天理教 (中国)|天理教]](八卦教)の指導者として北京[[紫禁城]]を攻撃するが鎮圧される(癸酉の変)
* 沈復([[1763年]] - [[1825年]]) - 清の文人・随筆『浮生六記』の著者・使節団随行員として琉球王国を訪問する記載がある
* 阮元([[1764年]] - [[1849年]]) - 清の文人・書家・「[[南北書派論]]」「[[北碑南帖論]]」を提唱し帖学派に対抗して碑学派を起こす
* [[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)]]([[1773年]] - [[1857年]]) - イギリスの政治家・外交官・[[嘉慶帝]]との会見を拒否され貿易制限改善の交渉は失敗
* [[関天培]]([[1781年]] - [[1841年]]) - 清の軍人・広東水師提督・アヘン戦争では清軍の指揮官となり果敢に戦うも虎門の戦いで玉砕する
* [[道光帝]]([[1782年]] - [[1850年]]) - 清の第8代皇帝(在位[[1820年]] - [[1850年]])・[[アヘン]]の密輸増大と銀の流出に苦しむ
* [[林則徐]]([[1785年]] - [[1850年]]) - 清の政治家・[[欽差大臣]]としてイギリスから密輸されたアヘンを処分・アヘン戦争の発端となる
* [[龔自珍]]([[1792年]] - [[1841年]]) - 清の思想家・文人・公羊学の立場から外国勢力の危機を指摘・『春秋決事比』他の著作がある
* [[魏源]]([[1794年]] - [[1856年]]) - 清の思想家・林則徐と協力し海外事情を紹介した『海国図志』をまとめる
* [[チャールズ・エリオット (海軍士官)|チャールズ・エリオット]]([[1801年]]? - [[1875年]]) - イギリスの海軍士官・対清全権商務総監・アヘン戦争の戦端を開き香港を占領
* [[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ニコライ・ムラヴィヨフ・アムールスキー]]([[1809年]] - [[1881年]]) - ロシアの東シベリア総督・[[アイグン条約]]で清からアムール川流域を獲得
* [[センゲリンチン|僧格林沁]]([[1811年]] - [[1865年]]) - 清の軍人(モンゴル[[八旗|旗人]])・欽差大臣・太平天国の乱やアロー戦争で活躍・捻軍に包囲され戦死
* [[曽国藩]]([[1811年]] - [[1872年]]) - 清の政治家・[[洋務運動]]の一人・弱体化した清軍に代わり[[郷勇]]([[湘軍]])を組織し太平天国の乱を鎮圧
* [[左宗棠]]([[1812年]] - [[1885年]]) - 清の政治家・洋務運動の一人・太平天国の鎮圧に活躍・イリ事件や清仏戦争の処理も担当
* [[洪秀全]]([[1814年]] - [[1864年]]) - 清の宗教家・キリスト教系の上帝会の教祖・太平天国の乱を起こし天王と名乗るが敗北して自殺したか
* [[粛順]]([[1816年]] - [[1861年]]) - 清の政治家・辛酉政変で恭親王奕訢や西太后との権力闘争に敗れ処刑される
* [[ヤクブ・ベク]]([[1820年]] - [[1877年]]) - ウズベク人軍人・清の支配下の東トルキスタンに入りタリム盆地一帯を制圧・左宗棠に討伐される
* [[李鴻章]]([[1823年]] - [[1901年]]) - 清の政治家・洋務運動の一人・太平天国の鎮圧に活躍・日清戦争や北清事変の処理も担当
* [[李秀成]]([[1823年]] - [[1864年]]) - 清の太平天国の指導者・上海攻撃や[[天京攻防戦]]で活躍・処刑される前に残した『李秀成自述』は資料として貴重
* [[趙之謙]]([[1829年]] - [[1884年]]) - 清の書家・画家・篆刻家・金石学から北魏の書をもとに新境地を開く・『六朝別字記』の著作がある
* [[劉坤一]]([[1830年]] - [[1902年]])- 清の政治家・洋務運動の一人・義和団事件に際し[[張之洞]]らとともに[[東南互保]]を結ぶ
* [[咸豊帝]]([[1831年]] - [[1861年]]) - 清の第9代皇帝(在位[[1850年]] - [[1861年]])・アロー戦争の混乱で北京を脱出し熱河で死去
* [[フレデリック・タウンゼント・ウォード]]([[1831年]] - [[1862年]]) - アメリカの軍人・[[太平天国の乱]]に際して常勝軍を組織する・[[慈渓の戦い]]で戦死
* [[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]([[1832年]] - [[1904年]]) - ドイツの軍人(陸軍元帥)・[[八カ国同盟|8ヶ国連合軍]]総司令官として義和団を鎮圧
* [[愛新覚羅奕訢|恭親王奕訢]]([[1833年]] - [[1898年]]) - 清の咸豊帝の弟・辛酉政変に勝利しアロー戦争後の同治中興の政局を指導・[[総理各国事務衙門|総理衙門]]を設置
* [[西太后]]([[1835年]] - [[1908年]]) - 清の咸豊帝の妃で同治帝の母・同治帝から光緒帝まで断続的に「[[垂簾聴政]]」を行い権力を掌握
* [[丁汝昌]]([[1836年]] - [[1895年]]) - 清の軍人・[[北洋艦隊]]の提督・日清戦争の[[威海衛の戦い]]での艦隊戦敗北の責任をとって自決する
* [[張之洞]]([[1837年]] - [[1909年]]) - 清の政治家・洋務運動の一人・義和団事件に際し[[劉坤一]]らとともに[[東南互保]]を結ぶ
* [[劉永福]]([[1837年]] - [[1917年]]) - 清の軍人・[[黒旗軍]]を率いて越南(ベトナム)に進入したフランス軍を駆逐・日清戦争でも活躍
* [[楊守敬]]([[1839年]] - [[1915年]]) - 清末の文人・書家・地理学や訓詁学にも精通・明治期の日本を訪問し『日本訪書志』を残す
* [[呉昌碩]]([[1844年]] - [[1927年]]) - [[清末民初]]の文人・詩・書・画・篆刻ともに精通し「四絶」とも「清代最後の文人」とも呼ばれる
* [[王懿栄]]([[1845年]] - [[1900年]]) - 清末の官僚・[[国子監]]祭酒・金石学者として[[劉鶚]]と[[甲骨文字]]を研究し殷王朝の存在を立証
* [[黄遵憲]]([[1848年]] - [[1905年]]) - 清末の詩人・官僚として戊戌の変法にも参加・外交官としては日本を訪れ『日本国志』を執筆
* [[厳復]]([[1854年]] - [[1921年]]) - [[清末民初]]の思想家・翻訳家・ハックスリーの社会進化論を『天演論』で紹介し思想界に影響を与える
* [[同治帝]]([[1856年]] - [[1875年]]) - 清の第10代皇帝(在位[[1861年]] - [[1875年]])・東太后と西太后の「[[垂簾聴政]]」で同治中興を迎える
* [[愛新覚羅載漪|端郡王載漪]]([[1856年]] - [[1922年]]) - 清の皇族・[[義和団事件]]の主戦派の中心だったが鎮圧後は戦犯として新疆に追放される
* [[韓邦慶]]([[1856年]] - [[1894年]]) - 清末の小説家・ジャーナリスト・当時の世相や社会風俗を[[呉語]]で描いた『[[海上花列伝]]』で有名
* [[康有為]]([[1858年]] - [[1927年]]) - 清末の思想家([[公羊学]])・光緒帝の信任を得て戊戌の変法を行うが西太后派の政変で挫折
* [[ジョージ・アーネスト・モリソン]]([[1862年]] - [[1920年]]) - オーストラリア出身の『[[タイムズ]]』紙の特派員・義和団の乱や日露戦争を報道
* [[譚嗣同]]([[1865年]] - [[1898年]]) - 清末の官僚・思想家・戊戌の変法に参加・西太后派の政変で処刑された「戊戌六君子」の一人
* [[光緒帝]]([[1871年]] - [[1908年]]) - 清朝の第11代皇帝(在位[[1875年]] - [[1908年]])・戊戌の変法を支持するも政変で瀛台に幽閉される
* [[梁啓超]]([[1873年]] - [[1929年]]) - [[清末民初]]の政治家・思想家・変法派として戊戌の政変で日本に亡命・後年は保皇派の中心となる
==== 越南 ====
* [[嘉隆帝]](阮福暎)([[1762年]] - [[1820年]]) - 阮朝越南の初代皇帝(在位[[1802年]] - [[1820年]])・[[西山朝]]を倒し国家を統一
* [[グエン・ズー|阮攸]]([[1765年]] - [[1820年]]) - 阮朝越南の文人・中国の小説『[[金雲翹]]伝』を[[チュノム]]に翻案し『[[トゥイ・キォウの物語]]』を書く
=== 日本 ===
* [[伊能忠敬]]([[1745年]] - [[1818年]]) - 江戸時代後期の商人・測量家として日本全国を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させる
* [[菅江真澄]]([[1754年]] - [[1829年]]) - 江戸時代後期の旅行家・博物学者・東北地方を中心に各地を遍歴し膨大な「菅江真澄遊覧記」を残す
* [[鶴屋南北 (4代目)|鶴屋南北]]([[1755年]] - [[1829年]]) - 江戸時代後期の歌舞伎の作者・代表作に「[[東海道四谷怪談]]」がある
* [[良寛]]([[1758年]] - [[1831年]]) - 江戸時代後期の曹洞宗の僧侶・歌人・書家・貞信尼により『蓮の露』にその作がまとめられる
* [[華岡青洲]]([[1760年]] - [[1835年]]) - 江戸時代後期の外科医・世界初の全身麻酔を用いての乳癌の手術を成功させる
* [[葛飾北斎]]([[1760年]] - [[1849年]]) - 江戸時代後期の[[浮世絵]]師・代表作に「[[富嶽三十六景]]」や「[[北斎漫画]]」がある
* [[松浦清|松浦静山]]([[1760年]] - [[1849年]]) - 江戸時代後期の大名([[平戸藩]])・藩政改革を行う・隠居後の随筆『[[甲子夜話]]』も有名
* [[酒井抱一]]([[1761年]] - [[1829年]]) - 江戸時代後期の僧侶(権大僧都)・絵師として[[江戸]][[琳派]]の祖となる・代表作に「[[夏秋草図屏風]]」がある
* [[水野忠成]]([[1763年]] - [[1834年]]) - 江戸時代の老中・大名([[沼津藩]])・奢侈の横行する大御所時代にあって[[貨幣改鋳|文政の改鋳]]を行う
* [[小林一茶]]([[1763年]] - [[1828年]]) - 江戸時代後期の俳諧師・平明で素朴な句風で知られる・代表作に『[[おらが春]]』
* [[十返舎一九]]([[1765年]] - [[1831年]]) - 江戸時代後期の作家・代表作に[[滑稽本]]『[[東海道中膝栗毛]]』がある
* [[曲亭馬琴]]([[1767年]] - [[1848年]]) - 江戸時代後期の作家・代表作に読本『[[椿説弓張月]]』『[[南総里見八犬伝]]』がある
* [[雷電爲右エ門]]([[1767年]] - [[1825年]]) - 江戸時代後期の[[大相撲]][[力士]]・現役21年で通算黒星10回のみという史上未曾有の業績を残す
* [[高田屋嘉兵衛]]([[1769年]] - [[1827年]]) - 江戸時代後期の廻船業者・海商・[[国後]]や[[択捉]]の航路を開発・[[ゴローニン事件]]の解決にも活躍
* [[佐藤信淵]]([[1769年]] - [[1850年]]) - 江戸時代後期の経世家・農学者・主著『[[宇内混同秘策]]』では強固な中央集権国家設立を提唱
* [[鈴木牧之]]([[1770年]] - [[1842年]]) -江戸時代後期の商人・随筆家として雪国の民俗資料としても重要な『[[北越雪譜]]』を執筆
* [[佐藤一斎]]([[1772年]] - [[1859年]]) - 江戸時代後期の儒学者・昌平坂学問所の儒官・渡辺崋山や佐久間象山ら幅広い人材を育成
* [[徳川家斉]]([[1773年]] - [[1841年]]) - 第11代将軍(在任[[1787年]] - [[1837年]])・治世は[[寛政の改革]]から[[大御所時代]]に及ぶ
* [[平田篤胤]]([[1776年]] - [[1843年]]) - 江戸時代後期の国学者・[[復古神道]]の大成者・国学四大人の一人・『霊能真柱』『古道大意』がある
* [[式亭三馬]]([[1776年]] - [[1822年]]) - 江戸時代後期の戯作者・浮世絵師・薬屋・[[滑稽本]]『[[浮世風呂]]』『[[浮世床]]』などで知られる
* [[間宮林蔵]]([[1780年]] - [[1844年]]) - 江戸時代後期の探検家・隠密・[[樺太]]の探検により[[間宮海峡]]を発見・[[シーボルト事件]]にも関与
* [[頼山陽]]([[1781年]] - [[1832年]]) - 江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・主著に『[[日本外史]]』があり幕末の思想界に影響を与えた
* [[柳亭種彦]]([[1783年]] - [[1842年]]) - 江戸時代後期の戯作者・長編[[合巻]]『[[偐紫田舎源氏]]』を執筆するが天保の改革で譴責され急逝する
* [[二宮尊徳]]([[1787年]] - [[1856年]]) - 江戸時代後期の農政家・思想家・「報徳思想」を唱え農村復興政策を指導した
* [[土井利位]]([[1789年]] - [[1848年]]) - 江戸時代後期の[[老中]]・大名([[古河藩]])・[[雪の結晶]]の研究を行い『[[雪華図説]]』を執筆・天保の改革にも参加
* [[為永春水]]([[1790年]] - [[1848年]]) - 江戸時代後期の戯作者・[[人情本]]『[[春色梅児誉美]]』で人気を得るが天保の改革で処罰される
* [[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]([[1791年]] - [[1859年]]) - 江戸時代後期の歌舞伎役者・「[[勧進帳]]」など[[歌舞伎十八番]]をまとめる・天保の改革で追放
* [[徳川家慶]]([[1793年]] - [[1853年]]) - 第12代将軍(在任[[1837年]] - [[1853年]])・[[大御所時代]]の弊を改めるべく[[天保の改革]]を支持
* [[大塩平八郎]]([[1793年]] - [[1837年]]) - 江戸時代後期の儒学者・[[大坂]][[町奉行所]]の[[与力]]・[[大塩平八郎の乱]]を起こした
* [[渡辺崋山]]([[1793年]] - [[1841年]]) - 江戸時代後期の武士(三河国田原藩家老)・画家・蛮社の獄に巻き込まれ蟄居し自刃する
* [[遠山景元]]([[1793年]] - [[1855年]]) - 江戸時代の旗本・江戸北町奉行・天保の改革に抵抗した姿勢から「遠山の金さん」のドラマが生まれた
* [[水野忠邦]]([[1794年]] - [[1851年]]) - 江戸時代後期の[[老中]]・大名([[浜松藩]])・[[天保の改革]]を主導するが失敗
* [[マシュー・ペリー]]([[1794年]] - [[1858年]]) - アメリカの東インド艦隊司令長官・幕府に開国を要求し[[日米和親条約]]を結ぶ
* [[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]([[1796年]] - [[1866年]]) - ドイツの医師・博物学者・長崎に赴任し[[鳴滝塾]]を構える
* [[歌川広重]]([[1797年]] - [[1858年]]) - 江戸時代末期の[[浮世絵師]]・代表作に「[[東海道五十三次]]絵」がある
* [[歌川国芳]]([[1798年]] - [[1861年]]) - 江戸時代末期の浮世絵師・代表作に[[天保の改革]]を批判した「源頼光公館土蜘作妖怪図」がある
* [[宇田川榕菴]]([[1798年]] - [[1846年]]) - 江戸時代後期の医師・西洋の植物学(『菩多尼訶経』)や化学(『[[舎密開宗]]』)を紹介するため和製漢字を開発
* [[田中久重]]([[1799年]] - [[1881年]]) - 江戸時代後期から明治の発明家・「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」・芝浦製作所(後の[[東芝]])の創業者
* [[徳川斉昭]]([[1800年]] - [[1860年]]) - 江戸時代末期の大名([[水戸藩]])・[[水戸学]]による尊攘論を唱え[[井伊直弼]]と対立・[[徳川慶喜]]の実父
* [[エフィム・プチャーチン]]([[1803年]] - [[1883年]]) - ロシアの遣日全権使節・幕府に開国を要求し[[日露和親条約]]を結ぶ
* [[タウンゼント・ハリス]]([[1804年]] - [[1878年]]) - アメリカの初代駐日公使・[[日米修好通商条約]]を結ぶ
* [[高野長英]]([[1804年]] - [[1850年]]) - 江戸時代後期の医者・蘭学者・『[[戊戌夢物語]]』で幕府を批判し蛮社の獄で弾圧される
* [[レオン・ロッシュ]]([[1809年]] - [[1900年]]) - フランスの外交官・駐日公使・幕末の情勢の中で徳川幕府を支援し[[慶応の改革]]に踏み切らせる
* [[ラザフォード・オールコック]]([[1809年]] - [[1897年]]) - イギリスの外交官・清国駐在領事・駐日公使・幕末日本を紹介した『大君の都』がある
* [[堀田正睦]]([[1810年]] - [[1864年]]) - 江戸時代末期の大名([[佐倉藩]])・老中・日米修好通商条約締結に尽力するが締結直後に罷免される
* [[緒方洪庵]]([[1810年]] - [[1863年]]) - 江戸時代末期の医師・蘭学者・大坂に[[適塾]]を開き福沢諭吉らの人材を育てた・日本初の[[種痘]]を行う
* [[佐久間象山]]([[1811年]] - [[1864年]]) - 江戸時代末期の思想家・兵学者・江戸に[[象山書院]]を開く・上洛して開国論を唱えるも反対派に暗殺される
* [[井伊直弼]] ([[1815年]] - [[1860年]]) - 江戸時代末期の[[大老]]・大名([[彦根藩]])・[[日米修好通商条約]]に調印し[[安政の大獄]]を実施
* [[河竹黙阿弥]]([[1816年]] - [[1893年]]) - 幕末維新の歌舞伎作者・代表作に「[[三人吉三廓初買]]」「[[青砥稿花紅彩画]](白浪五人男)」がある
* [[松浦武四郎]]([[1818年]] - [[1888年]]) - 幕末維新の探検家・著述家・[[蝦夷地]]を探検し[[北海道]]と命名・開拓判官となるが致仕する
* [[阿部正弘]]([[1819年]] - [[1857年]]) - 江戸時代末期の老中・大名([[備後福山藩]])・黒船来航に伴う[[日米和親条約]]に調印・[[安政の改革]]を実施
* [[安藤信正]]([[1820年]] - [[1871年]]) - 江戸時代末期の大名(磐城平藩)・老中・[[久世広周]]とともに和宮降嫁を推進・[[坂下門外の変]]で失脚
* [[勝海舟]]([[1823年]] - [[1899年]]) - 幕末維新の幕臣・崩壊する幕府を支え[[江戸開城|江戸無血開城]]などに尽力・明治政府にも出仕
* [[徳川家定]]([[1824年]] - [[1858年]]) - 第13代将軍(在任[[1853年]] - [[1858年]])・黒船来航後の混乱の時代の将軍・後嗣なく死去
* [[大村益次郎]]([[1824年]] - [[1869年]]) - 幕末維新の兵学者・長州征伐や戊辰戦争での長州藩の勝利に貢献・維新後は兵部省大輔となるが暗殺される
* [[岩倉具視]]([[1825年]] - [[1883年]]) - 幕末維新の[[公家]]([[右大臣]])・[[王政復古の大号令]]により倒幕を実現し明治政府の首脳となる
* [[ジョン万次郎]]([[1827年]] - [[1898年]]) - 幕末維新の通訳・教育者・もとは土佐の漁師・漂流をしてアメリカで教育を受け幕末の外交でも活躍
* [[山内容堂]]([[1827年]] - [[1872年]]) - 江戸時代末期の大名([[土佐藩]])・[[幕末の四賢侯]]の一人・大政奉還を促すが[[小御所会議]]では劣位に置かれる
* [[小栗忠順]]([[1827年]] - [[1868年]]) - 江戸時代末期の幕臣・[[勘定奉行]]・[[外国奉行]]・幕府の軍備増強を推進・主戦論を唱え維新後は斬首される
* [[松平春嶽]]([[1828年]] - [[1890年]]) - 江戸時代末期の大名([[越前福井藩]])・幕末の四賢侯の一人・[[横井小楠]]を起用し[[文久の改革]]や[[四侯会議]]で活躍
* [[高橋由一]]([[1828年]] - [[1894年]]) - 幕末維新の洋画家・イギリス人[[チャールズ・ワーグマン|ワーグマン]]に師事し「鮭」「花魁」などの作品を残す
* [[西郷隆盛]]([[1828年]] - [[1877年]]) - 幕末維新の藩士([[薩摩藩]])・軍人(陸軍大将)・「[[維新の三傑]]」・[[征韓論]]で下野し[[西南戦争]]を起こす
* [[ハリー・パークス]]([[1828年]] - [[1885年]]) - イギリスの外交官・駐日公使・幕末の情勢の中で中立を標榜しつつ薩摩藩や長州藩を支援する
* [[仮名垣魯文]]([[1829年]] - [[1894年]]) - 幕末維新の戯作者・新聞記者・この時代の世相を取り入れた『[[西洋道中膝栗毛]]』や『安愚楽鍋』で知られる
* [[西周 (啓蒙家)|西周]]([[1829年]] - [[1897年]]) - 幕末維新の啓蒙思想家・幕臣・官僚・[[明六社]]に参加・翻訳語を数多く選定・著書に『[[百学連環]]』がある
* [[吉田松陰]]([[1830年]] - [[1859年]]) - 幕末の藩士([[長州藩]])・教育者として[[松下村塾]]で多くの弟子を育成・安政の大獄で処刑される
* [[大久保利通]]([[1830年]] - [[1878年]]) - 幕末維新の藩士([[薩摩藩]])・政治家(内務卿)・「[[維新の三傑]]」・[[西南戦争]]を鎮圧し官僚機構を整備
* [[河鍋暁斎]]([[1831年]] - [[1889年]]) - 幕末維新の浮世絵師・戯画や諷刺画で有名・浮世絵の伝統を近代日本画につなげる・代表作に「地獄極楽図」
* [[木戸孝允]]([[1833年]] - [[1877年]]) - 幕末維新の藩士([[長州藩]])・政治家(内務卿)・「[[維新の三傑]]」・[[版籍奉還]]や[[廃藩置県]]を断行
* [[近藤勇]]([[1834年]] - [[1868年]]) - 幕末の幕臣・[[新選組]]局長・池田屋事件や禁門の変で活躍・幕府崩壊後も転戦するが捕縛され処刑される
* [[福澤諭吉]]([[1835年]] - [[1901年]]) - 幕末維新の藩士([[中津藩]])・啓蒙思想家・教育者として[[慶應義塾]]を創設・『[[学問のすゝめ]]』などがある
* [[岩崎弥太郎]]([[1835年]] - [[1885年]]) - 幕末維新の実業家・[[三菱財閥|三菱]]財閥の創業者で初代総帥・政商として明治政府に協力
* [[松方正義]]([[1835年]] - [[1924年]]) - 明治時代の政治家・内閣総理大臣(在任[[1891年]] - [[1892年]](第一次)・2度組閣)・[[松方デフレ]]を起こす
* [[坂本龍馬]]([[1836年]] - [[1867年]]) - 幕末の藩士([[土佐藩]])・[[薩長同盟]]の締結や[[大政奉還]]に尽力・[[近江屋事件]]で暗殺される
* [[松平容保]]([[1836年]] - [[1893年]]) - 幕末維新の大名([[会津藩]])・[[京都守護職]]・[[戊辰戦争]]では会津で奮戦するも敗北し蟄居する
* [[榎本武揚]]([[1836年]] - [[1908年]]) - 幕末維新の幕臣・政治家・戊辰戦争では函館五稜郭にて敗北・以後は明治政府に出仕する
* [[井上馨]]([[1836年]] - [[1915年]]) - 明治時代の政治家・外務卿から外務大臣となり[[条約改正]]のため[[欧化政策]]を推進([[鹿鳴館]]時代)
* [[徳川家茂]]([[1846年]] - [[1866年]]) - 第14代将軍(在任[[1858年]] - [[1866年]])・南紀派から擁立され[[公武合体]]政策のため[[和宮親子内親王|和宮]]と結婚
* [[徳川慶喜]]([[1837年]] - [[1913年]]) - 第15代将軍(在任[[1867年]] - [[1868年]])・[[大政奉還]]の後に[[鳥羽・伏見の戦い]]で敗北・蟄居後は[[公爵]]となる
* [[三条実美]]([[1837年]] - [[1891年]]) - 幕末維新の公卿・政治家(太政大臣)・尊攘派として[[七卿落ち]]の一人となるが維新政府で復権し活躍
* [[板垣退助]]([[1837年]] - [[1919年]]) - 明治時代の政治家・[[征韓論]]で下野し[[自由民権運動]]の指導者となり[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を結成
* [[富岡鉄斎]]([[1837年]] - [[1924年]]) - 明治から大正時代の文人画家・神官・幕末は勤王の志士と交わる・代表作に「不尽山頂全図」他がある
* [[山縣有朋]]([[1838年]] - [[1922年]]) - 明治時代の政治家・内閣総理大臣(在任[[1889年]] - [[1891年]](第一次)・2度組閣)・[[陸軍大将]]・[[元老]]
* [[大隈重信]]([[1838年]] - [[1922年]]) - 明治時代の政治家・内閣総理大臣(在任[[1898年]](第一次)・2度組閣)・教育者として[[早稲田大学]]を創設
* [[高杉晋作]]([[1839年]] - [[1867年]]) - 幕末の藩士([[長州藩]])・[[奇兵隊]]を組織し[[下関戦争]]の和議交渉や[[長州征伐]]で活躍するが早世する
* [[三遊亭圓朝]]([[1839年]] - [[1900年]]) - 明治時代の[[落語家]]・落語中興の祖・作品に『[[牡丹燈籠]]』『[[真景累ヶ淵]]』があり[[言文一致運動]]にも影響
* [[久米邦武]]([[1839年]] - [[1931年]]) - 明治時代の歴史家・佐賀藩士・[[岩倉使節団]]に随行し『特命全権大使 [[米欧回覧実記]]』を編集し帝国大学教授となる
* [[黒田清隆]]([[1840年]] - [[1900年]]) - 明治時代の政治家・内閣総理大臣(在任[[1888年]] - [[1889年]])・[[大日本帝国憲法]]を発布
* [[渋沢栄一]]([[1840年]] - [[1931年]]) - 明治時代の実業家・[[第一国立銀行]]や[[東京証券取引所]]を設立し「日本資本主義の父」と呼ばれる
* [[伊藤博文]]([[1841年]] - [[1909年]]) - 明治時代の政治家・日本の初代[[内閣総理大臣]](在任[[1885年]] - [[1888年]](第一次)・4度組閣)
* [[陸奥宗光]]([[1844年]] - [[1897年]]) - 明治時代の政治家・外務大臣として条約改正や下関条約締結で活躍・著作に『[[蹇々録]]』がある
* [[中江兆民]]([[1847年]] - [[1901年]]) - 明治時代の思想家・自由民権運動の理論家で「東洋のルソー」と呼ばれる・著作に『民約訳解』がある
* [[川上操六]]([[1848年]] - [[1899年]]) - 明治時代の軍人・陸軍大将・[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]・日清戦争の開戦を主張し日本軍を勝利に導く
* [[小泉八雲]]([[1850年]] - [[1904年]]) - 明治時代の文学者・帰化した外国人で『[[怪談]]』『知られざる日本の面影』などで日本を紹介
* [[明治天皇]]([[1852年]] - [[1912年]]) - 第122代[[天皇]](在位[[1867年]] - [[1912年]])・日本が近代化を果たしたことで「明治大帝」と呼ばれる
* [[北里柴三郎]]([[1853年]] - [[1931年]]) - 明治時代の医学者・細菌学者・[[破傷風菌]]の純粋培養や[[血清療法]]を確立・私立[[伝染病研究所]]を創設
* [[林忠正]]([[1853年]] - [[1906年]]) - 明治時代の美術商・[[パリ]]を拠点に浮世絵の販売や[[印象派]]絵画の購入を行う・[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]でも活躍
* [[高峰譲吉]]([[1854年]] - [[1922年]]) - 日本の科学者・実業家・[[デンプン]]分解[[酵素]]「[[タカジアスターゼ]]」を発明し[[アドレナリン]]の抽出に成功
* [[坪内逍遥]]([[1859年]] - [[1935年]]) - 明治時代の小説家・評論家・劇作家・『[[小説神髄]]』『[[当世書生気質]]』で近代文学の先駆けとなる
* [[岡倉天心]]([[1863年]] - [[1913年]]) - 明治時代の教育者で[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]設立に貢献・[[フェノロサ]]らと日本美術の再評価を行う
* [[二葉亭四迷]]([[1864年]] - [[1909年]]) - 明治時代の小説家・評論家・翻訳家・『[[浮雲 (二葉亭四迷の小説)|浮雲]]』や『あひゞき』などの作品で写実主義を唱える
* [[尾崎紅葉]]([[1868年]] - [[1903年]]) - 明治時代の小説家・[[山田美妙]]らと[[硯友社]]を設立し「我楽多文庫」を刊行・代表作に『[[金色夜叉]]』がある
* [[志賀潔]]([[1871年]] - [[1957年]]) - 明治時代の医学者・細菌学者・北里柴三郎に師事・[[赤痢菌]]を発見・[[京城帝国大学]]総長などを歴任
* [[樋口一葉]]([[1872年]] - [[1896年]]) - 明治時代の女流小説家・赤貧に苦しみながら『[[たけくらべ]]』『[[にごりえ]]』などを執筆
== 19世紀生まれの最後の生き残り ==
2013年6月12日、日本の[[木村次郎右衛門]](男性での史上最高齢者)が116歳と54日で死去し、19世紀<!--1900年まで-->生まれの男性は全員がこの世を去った。一方、2017年4月15日には[[エンマ・モラーノ]]が117歳と137日で死去し、1800年代<!--1899年まで-->生まれの人物は全員がこの世を去った。なお、日本最後の1800年代生まれの人物は2015年4月1日に117歳と27日で死去した[[大川ミサヲ]]である。これで19世紀生まれは残り2人([[ヴァイオレット・ブラウン]]、[[田島ナビ]]の2人、いずれも女性)となった。さらに同年9月15日にブラウンが117歳と189日で死去したため、田島が19世紀生まれの最後の生き残りとなった。そして2018年4月21日午後7時58分、田島が117歳と260日で死去したことにより、生年月日に確実な証拠のある19世紀生まれの人物は全員この世を去ったこととなった<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://supercentenarian-research-foundation.org/TableE.aspx|title=Validated Living Supercentenarians|work=Gerontology Research Group|accessdate=2018年4月22日}}</ref>。田島は死亡時点で日本歴代最[[長寿]]者であり、世界全体でも<!--人類-->史上3番目の長寿記録を保持していた。
== 脚注 ==
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; 注釈
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; 出典
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== 関連項目 ==
* [[長い19世紀]]
* [[年表]]
* [[江戸時代]]
* [[幕末]]
* [[明治]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/19%E4%B8%96%E7%B4%80 |
1,616 | 沢野ひとし | 沢野 ひとし(さわの ひとし、本名:沢野 公。1944年12月18日 - )はイラストレーター、エッセイスト、絵本作家。愛知県名古屋市出身。さわのひとし名義でも活動している。椎名誠の著書ほか数多くの本の挿絵を担当。
千葉県千葉市立千葉高等学校では椎名誠と同級生であった。法政大学に進学するが中退。
20代で椎名誠、木村晋介らと克美荘での共同生活に参加する。こぐま社に15年間の勤務の後、独立。
椎名、目黒考二らが雑誌「本の雑誌」を創刊後は、その表紙・本文イラストを一手に引き受けている。
その細長い手足や目付きなどから、椎名誠や目黒考二などの友人からは、ワニ目画伯と呼ばれている。
第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。
登山を愛好し、ヨーロッパアルプスにも遠征経験がある。しかし、彼は山を下りるときになるとイキイキとし始めるという。この事から、登山家ではなく下山家ではないか、という人がいる。スイスのアイガーで凍った斜面を150メートルも滑落し大怪我を負ったことがあるが、九死に一生を得た。 | [
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| 沢野 ひとしはイラストレーター、エッセイスト、絵本作家。愛知県名古屋市出身。さわのひとし名義でも活動している。椎名誠の著書ほか数多くの本の挿絵を担当。 | '''沢野 ひとし'''(さわの ひとし、本名:沢野 公<ref name=gendai/>。[[1944年]][[12月18日]]<ref name=gendai>『現代日本人名録2002』1巻p1433</ref> - )は[[イラストレーター]]、[[エッセイスト]]、絵本作家。[[愛知県]][[名古屋市]]出身<ref name=gendai/>。'''さわのひとし'''名義でも活動している。[[椎名誠]]の著書ほか数多くの本の[[挿絵]]を担当<ref name=webdoku/>。
== 経歴・人物 ==
[[千葉県]][[千葉市立千葉高等学校]]では[[椎名誠]]と同級生であった<ref>椎名誠『自走式漂流記 1944-1996』[[新潮社]]、新潮文庫、1996年 p.345</ref>。[[法政大学]]に進学するが[[中退]]<ref name=gendai/>。
20代で椎名誠、[[木村晋介]]らと克美荘での共同生活に参加する。[[こぐま社]]に15年間の勤務の後、独立<ref name=webdoku>[http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi02.html 作家の読書道:第2回 沢野 ひとしさん] ([[本の雑誌社|WEB本の雑誌]])</ref>。
椎名、[[目黒考二]]らが雑誌「[[本の雑誌]]」を創刊後は、その表紙・本文イラストを一手に引き受けている<ref>椎名誠『本の雑誌血風録』 朝日新聞社、2000年。</ref>。
その細長い手足や目付きなどから、[[椎名誠]]や[[目黒考二]]などの友人からは、ワニ目画伯と呼ばれている<ref>椎名誠『あやしい探検隊アフリカ乱入』 [[山と溪谷社]]、1991年、p9</ref>。
第22回[[講談社出版文化賞]]さしえ賞受賞<ref>[http://www.kodansha.co.jp/about/nextgeneration/archive/22559.html さし絵賞] [[講談社]]</ref>。
[[登山]]を愛好し、[[ヨーロッパアルプス]]にも遠征経験がある<ref name=webdoku/><ref name=gendai/>。しかし、彼は山を下りるときになるとイキイキとし始めるという。この事から、登山家ではなく下山家ではないか、という人がいる<ref>椎名誠『あやしい探検隊アフリカ乱入』 山と溪谷社、1991年、p158</ref>。[[スイス]]の[[アイガー]]で凍った斜面を150[[メートル]]も滑落し大怪我を負ったことがあるが、九死に一生を得た<ref>椎名誠『あやしい探検隊海で笑う』 新潮文庫、1994年、p135</ref>。
== 著書 ==
=== エッセイ・画集 ===
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ワニ眼物語|publisher=[[本の雑誌社]]|date=1983-04-01|isbn=978-4938463014}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ワニ眼物語|publisher=[[ちくま文庫]]|date=2002-06-01|isbn=978-4480037282}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=太田トクヤ伝|publisher=本の雑誌社|date=1985-04-01|isbn=978-4938463052}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=転校生|publisher=[[角川文庫]]|date=1996-06-01|isbn=978-4041813065}}(上記の改題)
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=沢野ひとしの少年少女絵物語|publisher=本の雑誌社|date=1986-09-01|isbn=978-4938463106}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=少年少女絵物語|publisher=角川文庫|date=1996-01-01|isbn=978-4041813058}}(上記の改題)
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=21世紀まで|publisher=[[情報センター出版局]]|date=1986-12-01|isbn=978-4795801233}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=新サラリーマン物語|publisher=[[若林出版企画]]|date=1988-03-01|isbn=978-4948718111}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=トコロテンの夏|publisher=角川文庫|date=1994-04-01|isbn=978-4041813034}}(上記の改題)
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ワニ眼の朝ばしり|publisher=[[マガジンハウス]]|date=1988-10-01|isbn=978-4838700400}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ワニ眼の朝ばしり|publisher=角川文庫|date=1993-07-01|isbn=978-4041813027}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ワニ眼の朝ばしり|publisher=ちくま文庫|date=2002-06-01|isbn=978-4480037282}}
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** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=沢野ひとしの片手間仕事|publisher=本の雑誌社|date=1989-04-01|isbn=}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=てっぺんで月を見る―沢野ひとし・山の劇場|publisher=[[山と溪谷社]]|date=1989-10-01|isbn=978-4635170406}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=てっぺんで月を見る|publisher=角川文庫|date=1992-07-01|isbn=978-4041813010}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=黄色い信号機|publisher=本の雑誌社|date=1990-04-01|isbn=978-4938463175}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=黄色い信号機|publisher=角川文庫|date=2000-04-25|isbn=978-4041813119}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=放埒の人|publisher=本の雑誌社|date=1991-07-01|isbn=978-4938463229}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=花嫁の指輪|publisher=角川文庫|date=1998-10-01|isbn=978-4041813096}}(上記の改題)
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=カントリー極楽帳|publisher=[[東京書籍]]|date=1991-10-01|isbn=978-4487753505}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=休息の山|publisher=山と溪谷社|date=1994-08-01|isbn=978-4635170772}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=休息の山|publisher=角川文庫|date=1997-09-01|isbn=978-4041813072}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=センチメンタル|publisher=本の雑誌社|date=1994-02-01|isbn=978-4938463366}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=東京ラブシック・ブルース|publisher=マガジンハウス|date=1994-12-01|isbn=978-4838704194}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=東京ラブシック・ブルース|publisher=角川文庫|date=1998-07-01|isbn=978-4041813089}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=沢野ひとしのふらふら日記|publisher=本の雑誌社|date=1995-03-01|isbn=978-4938463458}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=画集・銀座のカラス|publisher=本の雑誌社|date=1995-09-01|isbn=978-4938463496}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=一枚の絵葉書|publisher=角川書店|date=1995-06-01|isbn=978-4048834087}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=一枚の絵葉書|publisher=角川文庫|date=1999-07-01|isbn=978-4041813102}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=哀しい人|publisher=本の雑誌社|date=1996-10-01|isbn=978-4938463571}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=やまの劇場|publisher=山と溪谷社|date=1999-09-01|isbn=978-4635171496}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=帰らぬ日々|publisher=角川書店|date=1999-07-01|isbn=978-4048731706}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=わがままな食卓|publisher=本の雑誌社|date=1999-02-01|isbn=978-4938463755}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=昼寝主義|publisher=本の雑誌社|date=2000-07-01|isbn=978-4938463922}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=鳥のいる空|publisher=集英社|date=2001-11-26|isbn=978-4087745627}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=みんななにがすき?(日本傑作絵本シリーズ)|publisher=[[福音館書店]]|date=2001-02-20|isbn=978-4834017373}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=紫陽花の頃|publisher=東京書籍|date=2001-02-01|isbn=978-4487796519}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=さわの文具店|publisher=[[小学館]]|date=2002-11-01|isbn=978-4093874014}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=少年画廊|publisher=本の雑誌社|date=2003-05-01|isbn=978-4860110222}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=花の雲|publisher=文藝春秋|date=2003-11-12|isbn=978-4163223803}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=北京の自転車おじさん|publisher=本の雑誌社|date=2005-11-09|isbn=978-4860110543}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=お寺散歩―もう一度あのお寺に行こう|publisher=[[新日本出版社]]|date=2005-01-01|isbn=978-4406031301}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ありふれた思い出なんてないさ|publisher=[[新風舎]]|date=2007-05-01|isbn=978-4289023288}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=スケッチブック 沢野ひとし画集|publisher=本の雑誌社|date=2007-11-22|isbn=978-4860110765}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=へんな人間図鑑|publisher=[[ベストセラーズ]]|date=2008-06-14|isbn=978-4584130803}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=食べたり、書いたり、恋したり。|publisher=世界文化社|date=2019-09-06|isbn=}}
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=ジジイの片づけ|publisher=[[集英社クリエイティブ]]|date=2020-10-05|isbn=978-4420310895}}
=== 共著・座談会 ===
* {{Cite book|和書|author=沢野ひとし編集|title=僕はやっぱり山と人が好き 沢野ひとし対談集|publisher=[[山と溪谷社]]|date=1987-09-01|isbn=978-4635170246}}
** {{Cite book|和書|author=沢野ひとし|title=対談集 僕はやっぱり山と人が好き|publisher=[[角川文庫]]|date=1995-07-01|isbn=978-4041813041}}
* {{Cite book|和書|author1=沢野ひとし|author2=椎名誠|title=私広告|publisher=[[本の雑誌社]]|date=1993-04-01|isbn=978-4938463298}}
* {{Cite book|和書|author1=沢野ひとし|author2=椎名誠|author3=木村晋介|authorlink3=木村晋介|author4=目黒考二|authorlink4=目黒考二|title=沢野絵の謎|publisher=本の雑誌社|date=1997-12-01|isbn=978-4938463663}}
* {{Cite book|和書|author1=沢野ひとし|author2=椎名誠|author3=木村晋介|author4=目黒考二|title=沢野字の謎|publisher=本の雑誌社|date=2000-10-01|isbn=978-4938463960}}
* {{Cite book|和書|author1=椎名誠|author2=木村晋介|author3=目黒考二|author4=沢野ひとし|title=発作的座談会|publisher=本の雑誌社|date=1990-11-01|isbn=978-4938463199}}
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* {{Cite book|和書|author1=椎名誠|author2=木村晋介|author3=目黒考二|author4=沢野ひとし|title=いろはかるたの真実 発作的座談会|publisher=本の雑誌社|date=1996-04-01|isbn=978-4938463533}}
** {{Cite book|和書|author1=椎名誠|author2=沢野ひとし|author3=木村晋介|author4=目黒考二|title=発作的座談会2 いろはかるたの真実|publisher=角川文庫|date=2000-08-01|isbn=978-4041510155}}
* {{Cite book|和書|author1=椎名誠|author2=木村晋介|author3=目黒考二|author4=沢野ひとし|title=超能力株式会社の未来 新発作的座談会|publisher=本の雑誌社|date=2000-06-01|isbn=978-4938463915}}
* {{Cite book|和書|author1=椎名誠|author2=沢野ひとし|author3=木村晋介|author4=目黒考二|title=帰ってきちゃった発作的座談会|publisher=角川文庫|date=2013-08-24|isbn=978-4041009635}}
=== 挿し絵 ===
* {{Cite book|和書|title=なつのしっぽ|author1=椎名誠|authorlink1=椎名誠|author2=沢野ひとし絵|publisher=[[講談社]]|date=1990-04-17|isbn=978-4061978027}}
* {{Cite book|和書|title=きんいろの木|author1=大谷美和子|authorlink1=大谷美和子|author2=沢野ひとし絵|publisher=講談社|date=1991-03-27|isbn=978-4061956490}}
* {{Cite book|和書|title=みちこのダラダラ日記|author1=佐野洋子|authorlink1=佐野洋子|author2=沢野ひとしイラスト|publisher=[[理論社]]|date=1994-03-01|isbn=978-4652004852}}
* {{Cite book|和書|title=十八歳|author1=谷川俊太郎|authorlink1=谷川俊太郎|author2=沢野ひとし絵|publisher=[[集英社]]|date=1997-03-11|isbn=978-4087485943}}
* {{Cite book|和書|title=ことばのたしざん こやま峰子詩集|author1=こやま峰子詩|authorlink1=こやま峰子|author2=沢野ひとしイラスト|publisher=[[朔北社]]|date=2003-10-01|isbn=978-4860850012}}
* {{Cite book|和書|title=カワウソがいる|author1=阿部夏丸|authorlink1=阿部夏丸|author2=沢野ひとしイラスト|publisher=[[ポプラ社]]|date=2004-07-01|isbn=978-4591082317}}
== 注釈・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.webdoku.jp/sawano/ あとりえ沢野] - WEB本の雑誌
* {{Twitter|sawanohitoshi}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さわの ひとし}}
[[Category:日本の男性イラストレーター]]
[[Category:20世紀日本の随筆家]]
[[Category:21世紀日本の随筆家]]
[[Category:東ケト会]]
[[Category:椎名誠|人]]
[[Category:名古屋市出身の人物]]
[[Category:千葉県出身の人物]]
[[Category:1944年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-02-14T13:57:49Z | 2023-10-01T13:55:25Z | false | false | false | [
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1,617 | 木村晋介 | 木村 晋介(きむら しんすけ、男性、1945年1月24日 - )は、日本の弁護士(東京弁護士会所属)、エッセイストである。木村晋介法律事務所所長。
長崎市生まれ。東京都立杉並高等学校、中央大学法学部卒業。
大学在学中は親友の椎名誠(作家)や沢野ひとし(イラストレーター)らと克美荘で共同生活を送る。
大学卒業の1967年に22歳で司法試験合格し、司法修習22期(同期に弘中惇一郎や筒井信隆)を経て1970年に弁護士登録。独立して木村晋介法律事務所を開設。
などを務めた。
消費者問題、犯罪被害者問題、環境問題、プライバシー問題に造詣が深く、オウム事件では坂本弁護士一家救出運動に尽力した。柳美里『石に泳ぐ魚』裁判では梓澤和幸とともに原告側弁護士を務めた。
趣味は江戸、江戸のゲーム将棋、江戸の話芸落語、江戸の詩歌俳句 江戸の歌 小唄端唄 江戸の踊り かっぽれ。
落語集団「わ會」に所属し、深川江戸資料館、池袋演芸場、お江戸日本橋亭、木馬亭、お江戸両国亭などで実演の経験がある。『野ざらし』、『愛宕山』、『寝床』、『錦の袈裟』、『代り目』、『片棒』『宿屋の富』『酢豆腐』『鰻の幇間』『棒鱈』『紙入れ』『代書家』『小言念仏』などの古典の他、自身の新作『椎名の手』などがある。また、都都逸作家としても、中道風迅洞師の弟子として、NHKラジオにもたびたび登場した。
小唄端唄では、国立劇場小劇場2023 紀伊国屋ホール 2020年~などに出演
将棋を愛好し将棋ライター・将棋観戦記者などの親睦団体「将棋ペンクラブ」会員であり、2009年から「将棋ペンクラブ大賞」選考委員を務めた。六段の免状を持つ。2010年から「将棋ペンクラブ」会長。 | [
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| 木村 晋介は、日本の弁護士(東京弁護士会所属)、エッセイストである。木村晋介法律事務所所長。 | '''木村 晋介'''(きむら しんすけ、男性、[[1945年]][[1月24日]] - )は、日本の[[弁護士]]([[東京弁護士会]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=https://kimura-lo.jimdo.com/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB/|title=プロフィール - 木村晋介法律事務所|publisher=木村晋介法律事務所|accessdate=2017-10-11}}</ref>所属)、エッセイストである。木村晋介法律事務所所長<ref name="profile" />。
== 来歴 ==
[[長崎市]]生まれ<ref name="ano1">{{Cite web|和書|url=http://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/new_07/new_01.html |title=新・あの人に聞きたい 私の選んだ道 第7回 木村晋介さん P.1 |publisher=実業之日本社 |accessdate=2017-10-11 |last=木村}}</ref>。[[東京都立杉並高等学校]]、[[中央大学法学部]]卒業<ref name="ano1" />{{efn|[[読売広告社]]社長となった[[岩切靖治]]は高校の同級生で、のちに椎名らに引き合わせて交際させることとなった。}}。
大学在学中は親友の[[椎名誠]]([[作家]])や[[沢野ひとし]]([[イラストレーター]])らと[[克美荘]]で共同生活を送る<ref name="j347">椎名誠『自走式漂流記 1944-1996』新潮社、新潮文庫、1996年 pp.347-348</ref><ref name="profile" />。
大学卒業の[[1967年]]に22歳で[[旧司法試験|司法試験]]合格し<ref name="j347" /><ref name="ano1" />、[[司法修習]]22期(同期に[[弘中惇一郎]]や[[筒井信隆]])を経て[[1970年]]に弁護士登録{{要出典|date=2017年10月11日 (水) 00:46 (UTC)|title=}}。独立して木村晋介法律事務所を開設<ref name="ano1" />。
=== 主な経歴 ===
* 日本カンボジア法律家の会共同代表
* リカバリー・サポート・センター理事長
* 公益財団法人かめのり財団理事長
* 将棋ペンクラブ会長
* 季刊俳句雑誌 牧 編集長
* を務めるほか
* 坂本弁護士一家懸賞金実行委員会委員長
* 日本将棋連盟顧問
* 日本消費生活アドバイザー・コンサルタント協会理事
* 日本尊厳死協会理事
* サリン事件等被害者支援基金理事
* 王立プノンペン法律・経済大学講師
* ソフトエアガン安全会議代表委員
などを務めた。
== 活動 ==
消費者問題、犯罪被害者問題<ref name="ano1" />、[[環境問題]]、[[プライバシー]]問題に造詣が深く{{要出典|date=2017年10月11日 (水) 00:46 (UTC)|title=}}、[[オウム真理教|オウム]]事件では[[坂本堤|坂本弁護士]]一家救出運動に尽力した<ref name="ano3">{{Cite web|和書|url=http://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/new_07/new_01_3.html|title=新・あの人に聞きたい 私の選んだ道 第7回 木村晋介さん P.3|publisher=実業之日本社|accessdate=2017-10-11}}</ref>。[[柳美里]]『[[石に泳ぐ魚]]』裁判では[[梓澤和幸]]とともに原告側弁護士を務めた。
趣味は江戸、江戸のゲーム将棋、江戸の話芸落語、江戸の詩歌俳句 江戸の歌 小唄端唄 江戸の踊り かっぽれ。
<ref name="ano1" />[[池袋演芸場|落語集団「わ會」に所属し、深川江戸資料館、池袋演芸場]]、[[お江戸日本橋亭]]、[[木馬亭]]、お江戸両国亭などで実演の経験がある。『野ざらし』、『愛宕山』、『寝床』、『錦の袈裟』、『代り目』、『片棒』『宿屋の富』『酢豆腐』『鰻の幇間』『棒鱈』『紙入れ』『代書家』『小言念仏』などの古典の他、自身の新作『椎名の手』などがある。また、[[都都逸]]作家としても、中道風迅洞師の弟子として、[[NHKラジオ]]にもたびたび登場した。
小唄端唄では、国立劇場小劇場2023 紀伊国屋ホール 2020年~などに出演
[[将棋]]を愛好し将棋ライター・将棋[[観戦記者]]などの親睦団体「[[将棋ペンクラブ]]」会員であり、2009年から「[[将棋ペンクラブ大賞]]」選考委員を務めた。六段の免状を持つ。2010年から「将棋ペンクラブ」会長。
== 著書 ==
* 『サラ金トラブルうまい解決法 悲劇から救った実例と具体策』 主婦と生活社 1983
* 『うまい話にご用心 内職・投資・訪問販売… NHKおはよう広場班』 日本放送出版協会 1984
* 『キムラ弁護士が駈けてゆく 赤裸々な私生活と司法試験の傾向と対策』情報センター出版局 1985 のち角川文庫
* 『笑いながらわかるザ・相続』 [[レオナルド熊]]共編著 労働旬報社 1986
* 『ご用心!巷にあふれるいい話 「悪徳商法」撃退法』 岩波ブックレット 1986
* 『キムラ弁護士がウサギ跳び 国家秘密法よりもオツリを、医者を、酒を!』 情報センター出版局 1986 のち角川文庫
* 『八丈島のロックンロール キムラ弁護士事件帖』 筑摩書房 1988 のち文庫
* 『キムラ弁護士のドタンバ逆転うっちゃり術 いざというときの法律相談』 主婦の友社 1988
* 『竹林からかぐや姫 キムラ弁護士事件帖part2』 筑摩書房 1992
* 『人権ガイドブック』 鈴木利広共編 花伝社 1993
* 『消費者取引判例ガイド』[[本田純一]]・千葉肇共著 有斐閣 1994
* 『見果てぬ夢にサイド・アタック 木村弁護士と10人の仲間』 筑摩書房 1995
* 『キムラ弁護士大熱血青春記』 本の雑誌社 1995 「長崎ルパン物語」角川文庫
* 『僕の考えた死の準備 自分らしい遺言、死に方、お葬式』 法研 1996
* 『熱血!キムラ弁護士のこんな法律いらないっ! 日本の大ボケ法律をメッタ斬りする激白エッセイ』 ダイヤモンド社 1997
* 『キムラ式遺言の書き方 誰にでも簡単に書ける記入式遺言』 法研 1997
* 『キムラ弁護士の夜の法律相談』 廣済堂出版 1997
* 『友縁家族 キムラ弁護士の大熱血交遊録』 旬報社 1998 【改題】『キムラ弁護士の友情原論』角川文庫
* 『緊急問題』 [[嵐山光三郎]]共著 本の雑誌社 1999
* 『ネコのために遺言を書くとすれば』 本の雑誌社 1999
* 『遺言状を書いてみる』 ちくま新書 2001
* 『定年後の法律相談』 [[村千鶴子]]共著 徳間文庫 2002
* 『ありふれない一日 キムラ弁護士大熱血通信』 本の雑誌社 2003
* 『キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る』 筑摩書房 2007
* 『キムラ弁護士小説と闘う』 本の雑誌社
* 『発作的座談会』([[椎名誠]]、[[沢野ひとし]]、[[目黒考二]]、木村晋介を中心とした座談会で、ときたまゲストとしてカヌーイストの[[野田知佑]]などが参加)
* 『いろはカルタの真実(発作的座談会2)』
* 『超能力株式会社の未来(発作的座談会3)』
== 出演 ==
* ザ・ウイーク(1989~ フジテレビ)
* 『正義は勝つ』([[1995年]]、[[フジテレ]]ビ) - 木村弁護士役
* 『木村弁護士正義の友達』 - [[TBSラジオ]]7時間半 パーソナリティー
* 『[[関口宏の東京フレンドパークII]]』 - [[1998年]][[10月26日]]。[[麻木久仁子]]と共演。獲得金貨は2枚。
* 『[[熱血!平成教育学院]]』 - [[2006年]][[11月5日]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[目黒考二]]
*[[野田知佑]]
*[[東ケト会]]
*[[坂本堤]]
*[[地下鉄サリン事件]]
*[[サラリーマン金融]]
== 外部リンク ==
* [http://kimura-lo.jimdo.com/ 木村晋介法律事務所]
{{先代次代|青年法律家協会事務局長|1985年 - 1986年|[[高山俊吉]]|[[服部大三]]}}
{{オウム真理教}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きむら しんすけ}}
[[Category:日本の弁護士]]
[[Category:20世紀日本の随筆家]]
[[Category:21世紀日本の随筆家]]
[[Category:中央大学出身の人物]]
[[Category:中央大学杉並高等学校出身の人物]]
[[Category:東ケト会]]
[[Category:椎名誠|人]]
[[Category:長崎県出身の人物]]
[[Category:1945年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-02-14T14:02:00Z | 2023-11-24T02:29:13Z | false | false | false | [
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%99%8B%E4%BB%8B |
1,618 | 円谷英二 | 円谷 英二(、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。
昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。
1957年の東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる。
1901年(明治34年)7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で生まれた。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。
1904年(明治37年)、母セイが次男出産後に病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた。ナツの家系には、江戸中期に日本へ銅版画や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた。
1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。
1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。
1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した。
1912年(大正元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。
1914年(大正3年)、尋常小学校高等科に入学。
1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。
同年10月に上京。京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社。
1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎と相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学。費用は当時の金で600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。
この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。
1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止に陥り、円谷は夢は破れて退学した。
同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり、「自動スケート(スケーター)」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」なども含まれる。
1919年(大正8年)、18歳。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った。
同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影。
1920年(大正9年)、19歳。神田電機学校を卒業。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社。
国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した。
1921年(大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班に配属された。
1923年(大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。しかし、この作品は国活の凋落により未公開に終わった。
1924年(大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに移籍した。
1926年(大正15年)、25歳。衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。
1927年(昭和2年)、26歳。林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でキャメラマンを担当。林を多重オーバーラップさせる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れた効果が大いに評価され、大成功を果たした。
1928年(昭和3年)、27歳。正式に松竹京都下加茂撮影所にキャメラマンとして入社。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受け、あまり待遇のいい立場ではなかった。
1930年(昭和5年)、29歳。自費を投入して、移動撮影車や木製の撮影用クレーンを自作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚し、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構えた。
1931年(昭和6年)、30歳。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平と共同で撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。4月23日、長男・一が誕生。
このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景へのマット画の合成、ミニチュア合成場面の活用、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行っている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。
「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内や俳優から反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をベタ光でくっきり映すものであり、こうした進歩的かつリアリティ重視の撮影手法はタブーだった。
円谷はこの冷遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)の開発や精度の向上したミニチュアワークを投入したりした。本来は、このような冷遇状況から生まれた工夫だった。
またこのころ、研究資金と生活費の足しに、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置された写真ボックスは大評判になった。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。
1932年(昭和7年)、31歳。「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だったため、遠慮して「英二」と名乗ったという。
同年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人たちと日本カメラマン協会を結成。11月、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。
1933年(昭和8年)、32歳。日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。
同年、映画『キング・コング』が日本で公開された。試写で同作を鑑賞した円谷は、衝撃を受け、フィルムを独自に全巻取り寄せ、一コマ一コマを分析し入念に研究した。
この年の末に日活幹部立会いの下、日活撮影所に設置したスクリーン・プロセスの設備のテストを行うが、不調に終わった。
1934年(昭和9年)、33歳。『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の上層部と対立し、同社を退社した。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。
同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。
10月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用した。
1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『赤道を越えて』を演出。これが監督第1作となった。5月10日、次男・皐が誕生。政岡憲三と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『かぐや姫』を撮影。
1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督のアーノルド・ファンクらドイツ側スタッフを唸らせた。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。
また、同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のまま公開されなかった。
同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督としてデビュー。撮影、編集すべてを手掛けた。
1937年(昭和12年)、36歳。9月10日を以て、株式會社冩眞化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「東宝映画株式会社」が設立された。
これに伴い、米国の映画産業の中心地ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に東京の砧にあったピー・シー・エル撮影所を使用し、「東宝東京撮影所」に移転。ところが、撮影技術を理解できない東京撮影所の撮影技師たちから「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽なボイコットを受け、撮影できなかった。そこで、特殊技術を痛感していた森は、円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることにした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、後に円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで、円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの研究を開始した。
同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した東京・祖師谷の一戸建て住居に移住。
1939年(昭和14年)、38歳。特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄が採用された。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、個人的に円谷のオプチカル・プリンターの実験の助手を務めた。
この年、陸軍航空本部の依頼を受け、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露し、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。
夏ごろから、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図った。
1940年(昭和15年)、39歳。5月に、『皇道日本』で撮影を担当。同じく、『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊技術撮影」のクレジットが冠された。
この『海軍爆撃隊』は、文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時には大評判となった。
同年9月、『燃ゆる大空』で奥野とともに特撮を担当、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。
1941年(昭和16年)、40歳。12月8日、太平洋戦争が勃発したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することになった。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。
同年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。
1942年(昭和17年)、41歳。阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であるとの評判を受けた。
同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒットとなった。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールのハワイ・真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作品で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任した。この作品で美術スタッフに渡辺明、利光貞三が加入した。
同年、国産初のオプチカル・プリンターを完成させた。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成ができたという。
1943年(昭和18年)、42歳。『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹に移籍、円谷率いる特技課は大打撃を被る。
1944年(昭和19年)、43歳。『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』『あの旗を撃て コレヒドールの最後』の特撮を担当。また、大映に出向し、『かくて神風は吹く』を担当。2月12日、三男・粲が誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。
同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰した。
同年、東宝が日本初の特撮専門スタジオである航空教育資料製作第二工場を設立し、工場長に就任。軍の依頼により新兵教育用の教材映画を手掛けた。敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された。
1945年(昭和20年)、44歳。『勝利の日まで』『間諜海の薔薇』『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当。
同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも15日に終戦。除隊後、風刺喜劇『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)の特殊技術を担当。
1946年(昭和21年)、45歳。東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。
1947年(昭和22年)、46歳。撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労働組合はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画制作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮担当のみだった。
1月に東宝は「部課制」を廃止し、「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分割された。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命された。しかし、政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気がさした円谷は、この役職を捨て、東宝を退社し、独立した。
また、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を退社した有川貞昌は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合し、その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし、乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、後に円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督になった。
1948年(昭和23年)、47歳。3月に連合国軍最高司令官総司令部の公職追放の指定により「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、公的な立場での仕事が続けられなくなり、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散した。
6月、福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し、出荷するも、折しも福井を襲った福井地震によって、駅に到着した全機を失うという憂き目に遭った。鷺巣富雄は、この時の円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。
フリーとなった円谷は、東京・祖師谷の自宅の庭にプレハブを建て、円谷特殊技術研究所を設立、外部スタッフとして『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮技術パートを担当。同研究所は他に大映京都、新東宝、松竹大船などの映画の特殊技術パートを担当したが、ノンクレジットも多く、全容は不明である。
映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後、飲み友達になった。円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。2人は『ゴジラ』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。
1949年(昭和24年)、48歳。京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。大映は『透明人間現わる』を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意し、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出した。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念した。
1950年(昭和25年)、49歳。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの円谷特殊技術研究所を移設。東宝の本編のタイトルや予告編を制作するようになり、主に合成処理を請け負った。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。富岡、有川を合わせて4~5人の陣容だった。
円谷は昭和25年から29年までの東宝全ての本編・予告編のタイトル部分を撮影しており、東宝映画の東宝マークを制作したのもこの時期である。
この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第1作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いだった。
1952年(昭和27年)、51歳。2月に、日本独立後の公職追放解除を受けた。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。
5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込んだ。
7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。
1953年(昭和28年)、52歳。東映で『ひめゆりの塔』、松竹で『君の名は(第一部)』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。既に東宝に復帰していた状況で担当したこれらの他社作品は、復帰前に受注したものとみられる。
この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させた。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に同年に再開された東宝特殊技術課に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。
こうした中、満を持して戦記映画『太平洋の鷲』が公開された。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。
この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。
また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込んだ。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つになったとしている。
1954年(昭和29年)、53歳。田中友幸によって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。
11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒットとなった。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で「日本映画技術賞」を受賞。
1955年(昭和30年)、54歳。『ゴジラの逆襲』で、特技監督の肩書を与えられた。
その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。
1956年(昭和31年)、55歳。日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣 ラドン』を担当。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降、これが定番フィルムとなった。
また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝で賄いきれない合成処理や、人形アニメ撮影などを行った。研究員の収入は、円谷の個人負担だった。
1957年(昭和32年)、56歳。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。
1958年(昭和33年)、57歳。日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式に参加した。
1959年(昭和34年)、58歳。6,200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰された。
この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫、中野稔が研究所生として参加。二人はこの後、東宝特技課に入社して『日本誕生』の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。
1960年(昭和35年)、59歳。当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかけた。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー(Oxberry)社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展したが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。
同年、公開予定の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千坪の特撮用大プールが完成。また、妻・マサノの熱心な勧めでカトリック教徒になった。
1961年(昭和36年)、60歳。前年に続き、アニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画を複数検討。長編実写・動画映画『双子の一寸法師』を企画。
同年、世界同時公開を目指して制作された『モスラ』が公開。マスコミから「世界のツブラヤ」と称された。
1962年(昭和37年)、61歳。アメリカに外遊し、ハリウッドの映画会社各社を歴訪した。また、東宝撮影所内に円谷念願の特撮専用ステージである第11ステージが完成。中野昭慶、川北紘一が円谷組に加わった。
この年、大韓民国との合作映画『大沈清伝』の特撮を担当。また、『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』に映画キャンペーンのため、ゲスト出演した。
1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約を解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立、社長に就任。フジテレビの映画部にいた次男・皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招いた。同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。
この年、フジテレビは、皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込んだ。最終的に局の事情で、企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だったため、TBSの映画部にいた長男・一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうことにした。
また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ900」が設置された。
1964年(昭和39年)、63歳。日米合作映画『勇者のみ』の撮影現場の視察に、渡辺明、有川貞昌、本多猪四郎とともにハワイを訪れた。また、よみうりランドの水中バレエ劇場「竜宮城」開場に併せ、特殊美術を担当。高山良策の造形物を目に留め、この縁で高山は円谷特技プロと関わるようになった。
一方、TBSでは、長男・一の下、前年に円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一、川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制で、9月27日より制作が開始された。
1965年(昭和40年)、64歳。『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『怪獣大戦争』で「日本映画技術賞」を受賞。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写なのか?特撮なのか?」と議論が起こった。
1966年(昭和41年)、65歳。1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組制作もあり、同番組は大ヒットとなった。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすことになった。
同年、TBSのドキュメント番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』や、『ウルトラマン前夜祭』に出演。
続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターは、さらに怪獣ブームを巻き起こした。これらのヒットにより、「円谷英二」の名はお茶の間にまで知れ渡り、特撮の神様と呼ばれるようになった。
また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決定し、カナダへ外遊し、モントリオール万国博覧会を視察。この外遊中に招かれて、アメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー&シルヴィア・アンダーソン夫妻らのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。翌年に、円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せた。
1967年(昭和42年)、66歳。『キングコングの逆襲』が公開。円谷は戦前に研究した『キング・コング』の1シーン(恐竜との格闘)を、完全にリメイクしている。
また、この年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「特技監修」になり、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。
1968年(昭和43年)、67歳。ハリウッドの特撮監督リンウッド・ダン(英語版)が来日、東宝撮影所の円谷を表敬訪問した。
同年、株式会社円谷特技プロダクションを、株式会社円谷プロダクションに社名変更した。
1969年(昭和44年)、68歳。自身最後の特撮劇場作品となる『日本海大海戦』が公開。円谷は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影で、鳴門の渦潮を訪れていた最中に倒れ、入院。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、直接関与していない。12月に静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。
同年、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を最後に、東宝は特殊技術課の廃止を決定。
1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻・マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。68歳没。最期まで映画『ニッポン・ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。本多は、入院中は絶対安静のため見舞いを遠慮していたが、入院前に3月になったら次の仕事として従来の作品とは趣向を変えた新しい怪獣映画の打ち合わせをする約束をしており、別荘へ移った後も円谷がそれについて言及していたことを伝え聞いていたという。
1月30日、日本政府より勲四等瑞宝章を授与。
2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。
3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。
東宝は、彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。機能の一部は子会社の東宝映画などに移管されるものの、本体は勝プロなどを含めた外部作品配給会社に転換した。
2019年1月11日、「円谷英二ミュージアム」が故郷の須賀川市に開館した。
2021年、出身地の須賀川市は同郷の円谷幸吉とともに円谷英二に「名誉市民」号の贈与を決定し、同年7月7日に授与式が実施された。
別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『ゴジラ』によって一気に報われることとなる。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを任され、スタッフも正当な報酬を得られる身分になったのである。一方で、何かというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。
そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄は本多猪四郎の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している。特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという。撮影助手であった森喜弘も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている。
この『怪獣大戦争』での「ゴジラのシェー」にしても、このアイディアを柴山撮影所長(当時)が提案した際には円谷は早速これを採り入れていて、「お客さんが喜ぶ面白いアイディアを入れることが出来て、本当に良かった」とコメントしている。有川によると『南海の大決闘』でのゴジラとエビラの岩石バレーボールや、加山雄三の物真似であるとかいったものも、そういった流れの一つである。円谷にしてみれば、こうした観客サービスはファンの思惑とは別次元の、娯楽映画の一環として自然なものだったと考えられる。そして、この『南海の大決闘』から、円谷はゴジラシリーズの特撮演出を後進の有川に任せ、自身は他作品にウェイトを移しているのである。
東宝は戦時中、軍人教育用の教材映画、国威発揚のための戦意高揚映画の制作を行う。この背景には、当時のメディアが全て軍に支配されており、映画用の生フィルムも統制品であったことがある。「線画(アニメ)」を用いた教材映画は、コマ撮りであるためNG率が低かったため、フィルムをうかせてこれをNGとして計上し、別途特別配給を受け、戦意高揚映画ではない一般映画、娯楽映画にこれを回していたのである。『飛行理論』(1939年)や『水平爆撃理論編・実践編』(1940年)といった「教材映画」があってこそ、『エノケンの孫悟空』(1940年)や『川中島合戦』(1941年)などの娯楽映画も制作できたのである。
こうした事情から、東宝も万全の体制で軍協力映画の制作にあたり、円谷は必要不可欠な特撮技術者としてその陣頭指揮を執った。しかし、軍が協力するといっても「戦意高揚映画」制作は一筋縄ではいかなかった。
『ハワイ・マレー沖海戦』は、海軍省の至上命令で制作された映画であるが、円谷が航空母艦(空母)や戦闘機の資料写真を要求しても、「カツドウ屋など信用できるか」のひと言のもと、一切が機密扱いで提供を拒まれ、セットの資料にも事欠き、本編監督の山本嘉次郎も円谷も頭を抱えるような有様であった。しかもこの映画では、海軍を相手の完成試写の際に、甲板のセット(資料提供が受けられないため、アメリカの空母を参考に作った)に対して宮家の人間が激怒し、あわや公開差し止めとなりかけるという始末であった。円谷も山本もこのことを「はらわたが煮えくり返った」と述懐しており、山本は「誰がどうやってあの事態を収めて公開にこぎつけられたか、今でも分からない」と後に語っている。
そのような軍主導の映画制作であっても、円谷はあくまで特撮の技術向上に努め、ミニチュアワークを使用し娯楽要素を盛り込んだスペクタクル映画制作に徹している。
円谷はこうした「教材映画」「戦意高揚映画」への加担を理由に、戦後GHQによって公職追放処分を受けるが、戦後このことについて一切の言い訳をしていない。円谷にしてみれば、題材がどうあれ、ベストを尽くした仕事であり、そして、どのフィルムも、円谷が憧れた飛行機が活躍するのである。円谷の下で数々の教材映画に関わった鷺巣富雄は、「同じことをしたウォルト・ディズニーは戦後見返りに土地を提供され、ディズニーランドを建てた。ようするに、“勝てば官軍”なのだ」と語っている。
有川によれば、『ゴジラ』以前の円谷は『ハワイ・マレー沖海戦』で評価されていたが、円谷自身は「特殊技術=戦争映画」と思われていたことを嘆いていたという。
円谷英二は本来、専門は戦前・戦中から一貫してカメラマンであり、乏しい予算や条件を補うために特殊撮影を始めたのである。来歴にあるとおり、外国の映画に負けない斬新な画面を作ろうと、ホリゾント撮影を日本で初めて行ったり、林長二郎(長谷川一夫)デビュー作の『稚児の剣法』(1927年)では多重露出を試みたりしている。この幻想的な多重合成を用いた立ち回りは大評判となった。長谷川は『稚児の剣法』で円谷から様々な動きを指示され、それを丹念に巻き戻しては撮り重ねていたことを、忘れ得ない思い出として後に語っており、「自分もテヘラ亭(円谷)の終焉の地である伊東に別荘を建てて住みたい」と書き残している。
今では当たり前のように使われている撮影手法である、「なめ(画面の手前に物を置く撮影手法)」の技法や、「クレーン撮影」、「キーライト」を、戦前の、白塗りの歌舞伎役者が俳優を務めていた時代に初めて用いたのも円谷である。ビール瓶のかけらをフィルター代わりに用いて「擬似夜景」も撮影しており、有川貞昌はキャメラマンの三浦光雄による、「日本で色フィルターを使って撮影したのは円谷さんが初めてだ」との証言を伝えている。
後年、円谷が富岡に語ったところによると、手回し時代のカメラで撮影する際は、どの程度のクランクの回転速度で何コマ撮れるかを体で覚えており、感覚で回すことができたという。
日活気鋭の林長二郎を売り出そうと、円谷はクレーンによる俯瞰撮影や様々な撮影手法を衣笠監督と検討し、採り入れた。そして、その「キーライト」で林を撮り、円谷は日活を追われてしまう。かてて加えて、「アイリス・イン/アウト」画面を作るために、瓶の底を抜いたものをレンズの前で動かしたり、生合成のためにレンズフィルターに貼る黒画用紙とはさみを持ち歩き、仕掛けを用意する間、スタッフをその場で待機させるといった円谷の姿は、当時のカメラマンたちには全く理解不可能なものであった。こうした姿を「怠けて遊んでいる」と捉えられ、「ズボラヤ」などと揶揄されて、現場から排斥される要因となった。東宝に入社して一年ほどはスクリーン・プロセスばかりやらされ、「俺はスクリーン・プロセスをやるために東宝へきたんじゃない」と嘆く日々であった。
当時、円谷の仕事といえば、このスクリーン・プロセスしかなく、あとは「オプチカル・プリンター」の設計・製作とその実験・研究のみであった。円谷が熱望した「オックスベリー社」の「オプチカル・プリンター」は、現在価格で数億円もするもので、到底購入など不可能であり、円谷を東宝へ招いた森岩雄の力をもってしても、「研究費は出すが人までは出せぬ」との処遇で一杯一杯であった。部下のいない孤立無援の状況で、円谷は自前の機械で合成実験をするしかなかったのである。当時の日本に、光学合成機の資料などなく、円谷はアメリカから専門本を取り寄せ、和訳してもらって独学でその知識を学んでいた。
円谷が課長を務める特技課内の線画室にいた鷺巣富雄によると、線画室長の大石郁雄と円谷とは仲が悪く、人のやり取りもはばかれるほどだったという。直属部下のいなかった円谷は、新人の鷺巣にこの「オプチカル・プリンター」の助手を頼んでいたが、これも大石が出征中で一時不在だったため出来たことであって、鷺巣も退社後や休日に、隠れるようにしてこれを務めるというような状況であった。こうした状況を一変させたのが、東宝の「戦意高揚映画」への参加である。これを機に円谷の特技課に続々と人材の充実が図られ、突如大所帯となっていく、まさに掌を返したかのような打って変わった処遇振りであった。
こうした「戦争映画」の特撮で、円谷は観客の心理を逆手にとって、飛行機のミニチュアを逆さに吊って操演したものを、天地逆さまにしたキャメラで撮影したり、また、飛行機とキャメラを同一固定し、バックの空を回転させて急旋回の画を撮ったり、飛行機は固定して背景の山並みを回転させて山間部を掠め飛ぶシーンを撮ったり、また、洋上の艦隊を雲間から見下ろすカットのために寒天で大海を表現してみたりと、まさに尽きせぬアイディアで、いかにリアルに飛行機を飛ばすかの撮影トリックに心血を注いでいる。こういった、「ミニチュアを天地逆さまにする」といった撮影手法は、戦後のSF特撮映画でも、これに火を放ってはうような火災を表現するなど、発展させ応用されている。そんな中でも、軍の意向に振り回されるだけでなく、松竹映画に「一番弟子」の川上景司ら特技スタッフを引き抜かれるなど、戦争末期まで不本意な事態に煩わされ続けている。
こうして積み重ねたキャリアにもこだわらず、日本の敗戦という状況の中、公職追放という形で、円谷はまたも現場を追われることとなってしまう。この公職追放の時期、円谷と飲み友達となっていた伊福部昭によると、円谷は現場に対する不満をよくこぼしていたという。
線画室時代に円谷に師事した鷺巣富雄は、円谷から「特撮映画の三大要素」として、「キャメラワーク・ミニチュアワーク・合成ワーク」を徹底指導され、「映画技術はまだ50%しか完成されていない。後の未開拓の50%は君がやらないといけない」と何度も言われたという。実相寺昭雄はTBS時代、テレビドラマのラストシーンで、冬でもないのに紙吹雪の雪を降らせたことで局から散々に怒られたが、円谷には逆に「あの吹雪はもっと多いほうが良かったね」と褒められたという。
『加藤隼戦闘隊』で山本嘉次郎の助監督として円谷の特撮現場を目の当たりにした本多猪四郎は、「まるで物理の実験で、新しい発見をしようとしている作業と違いがない」と感じたと語っている。
特技監督となり、東宝の看板ネームとなってからも、こうした撮影技術者としての視点から立脚した取り組み姿勢は、『ゴジラ』第1作の企画段階で人形アニメによる撮影を主張したり、『ウルトラQ』制作時に、わざわざ新規にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンターを購入するなど、撮影者としての立場からの数多くのアプローチにも表れている。
照明技師の斉藤薫は、特撮監督としての円谷のカメラワークはメインポジションを決めたら横移動かクレーンでの上下移動のみでカメラ自体が前へ迫っていくことはなく、被写体がカメラへ迫ってくることを要求したと証言している。また、セットをカメラの反対側から撮るようなこともなかったという。
俯瞰撮影に用いるイントレを折りたたみ式にし、ロケーション撮影でも手軽に持ち運べるようにした。
円谷はフィルム編集でも敏腕を振るい、映画関係者からは「編集の神様」と呼ばれた。有川貞昌によれば、編集は必ず円谷自身が行っていたという。円谷の助監督を務めた浅井正勝によれば、円谷は撮影したカットの撮影時の状況や保管場所まで記憶していたという。スクリプターの鈴木桂子は、編集プランは円谷の頭の中にしかなく、台本にない描写を撮影することも多かったため、一般的な「カット○○、シーン☓☓」という記録はできず、「空中戦の1」「空中戦の2」といった記録の仕方になったという。
『空の大怪獣 ラドン』では、西海橋のミニチュアがラドンの着水とともにへし折れるタイミングが、本番で少し狂ってしまった。特撮スタッフは西海橋の作り直しを覚悟したが、円谷は意に介せず、編集によって屈指の名シーンにまとめてしまった。同作では、ラストでラドンが阿蘇山に墜落するシーンでも、アクシデントでラドンのミニチュアが途中で落下してしまったが、円谷は後で何とでもできるとこれも動じず、フィルムの巻末までこれを撮り切らせた。気を揉むスタッフを前に、思わぬいい動きが撮れたと、編集室で上機嫌だったそうである。
この一件について「ラドンを吊り上げるピアノ線が切れたのを『苦しんでもがいているように見える』として、撮影を続行した」というエピソードがまことしやかに語られているが、これは厳密には間違いである。正確には円谷は、ピアノ線が熱(マグマを溶鉄で表現していた)で切れたのを操演スタッフのアドリブと勘違いしただけであった。
『ゴジラ』ではCキャメラ担当の真野田陽一がうっかり通常スピードでフィルムを回したものを怒りもせず、「ああいう動きでもいいかなあ」と、以後これ(1.5倍速)を採り入れている。また『ゴジラの逆襲』では、高野宏一が間違えてコマ落としにしてキャメラを回してしまった。若い高野は失敗に気づいて思わず号泣したそうであるが、円谷は現像で上がってきたゴジラのギクシャクした素早い動きが面白いとして、当作では怪獣のカットにこのコマ落としを採り入れてしまった。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、ドゴラが天空から石炭を吸い上げる特撮があるが、当時のミッチェル・キャメラには高速度での逆回転撮影の機能がなかった。そこで円谷はキャメラを天地逆さまにして石炭が降るカットを撮り、現像の上がったフィルムを裏表逆にして、さらに、フィルムの進行方向を逆にし、落ちていく石炭を逆に空へ舞い上がらせるという映像に仕立て上げて、これを解決した。有川貞昌がこの手法を初めて教授されたのは『白夫人の妖恋』でのことであったが、口で説明されても全く理解できなかったという。完成画面でやっと飲み込めた有川は、改めて円谷の発想に驚嘆したという。
常々「特撮にはNGはない」と円谷は口癖にしていて、限られた予算や日数を前に、少々のアクシデントをものともしない編集術が数々の特撮カットを支えていた。ただ、画面の隅にスタッフが写ってしまったり、余りにもひどいカットが続いたりした時には、さすがの円谷も「いくらなんでも編集でごまかすにも限度があるぞ!」とキャメラマンたちを怒鳴りつけたそうである。円谷組が1本の映画で会社から託されるフィルムは3万フィートほどであり、高速度撮影が欠かせない特撮では、フィルムの無駄遣いは絶対に許されないことだった。
長時間の準備を必要とする特撮現場では、スタジオの隅に特設の編集室をしつらえ、また、ロケ先では、旅館に編集機材を取り寄せて、寸暇を惜しんで現像の上がった特撮フィルムを編集していた。編集室に吊るしたフィルムの、どんなカットがどこにあるか全てを空で把握していたという。撮影作業が早く終わった後は、特設の編集室にこもり、ひたすら編集作業を行っていた。仕事は終わったので有川らは帰ってもよかったのだが、円谷の手前そうもいかず、夜半まで付き合うことしばしばだったそうである。
特撮カットで尺がわずかに足りない、というような場合でも、円谷はこの吊るしたストックフィルムから抜き出したカットで巧みにつじつまを合わせていた。後年、有川貞昌は、「オヤジ(円谷)がうまいこと昔のフィルムで埋めちゃうもんだから、田中さん(田中友幸)がそんなもんで出来るのかって思っちゃって、どんどん予算を削られちゃってね」と語っている。
円谷は、他人が使わないだろうと思うフィルムも細部まで記憶しており、編集の石井清子や記録の久松桂子らはカット屑を捨てることができなかったという。一度、円谷が爆発カットのつなぎにと考えていた数秒の白抜けのフィルムが、どうしてもラッシュフィルム(現像の上がってきたばかりの未編集フィルム)に見当たらず、大騒ぎになったことがある。円谷は青くなって現像所まで押しかけ、そこで不要と判断して捨てられているのを発見、事なきを得たという。あとで現像所のスタッフは全員で、円谷の元へ謝りに来たそうである。
合成でフィルムの裏焼きも多用するため、戦記映画の飛行機などに描かれる数字には「0」「1」「8」など反転しても問題のないものが使われるようになった。
円谷組のメインキャメラマンは、有川貞昌(主に引きの画面担当)と富岡素敬(主に寄りの画面担当)が務め(後期はこれに真野田陽一が加わる)、円谷は「絵コンテ」で画面のイメージを伝えた後は、アングルなどすべて彼らに任せていた。その代わり、舞台で言う「上手と下手」の使い分けを、演出の際の心がけとして常に指示し、画面の構図として、常に「二等辺三角形」のパースを口酸っぱく言い続けていた。編集の際にも、この位置関係を常に念頭に置いて、ことに本多猪四郎とは綿密な打ち合わせの元、スムーズにカットをつないでいる。特撮班との連携をあまり重視しない稲垣浩と組んだ『士魂魔道 大龍巻』での竜巻シーンの特撮では、この原則が崩れているのがよくわかる。
ただ、円谷は特撮のラッシュ・フィルムは、特撮班以外に、決して他人に見せなかった。伊福部昭によると、ラッシュ時にも特撮部分だけ白抜けのフィルムをつないでおくということを平気で行っていたほどだった。1作目の『ゴジラ』でも、「あそこからぐわーっとゴジラが出てくるんだよ」といった具合で、伊福部もこれには音楽プランが立たず、閉口したという。コンビの長い本多猪四郎であってもそれは同じで、スタッフは試写で初めて円谷の完成した特撮を目にするのが恒例だった。有川は、本多からラッシュを見せるよう要望され、円谷との板挟みになることがしばしばあったという。この理由のひとつには、編集前のNGカットを見られ、悪い風評が立つことを怖れたからではないかと、円谷組でキャメラマンを務めた富岡素敬は語っている。有川も、特撮研究所時代に未完成のフィルムを見た関係者に円谷が完成予定を説明しても理解されなかったことがあり、円谷は「仕上がりもわからずに良否を判断されるのは嫌だ」と述べていたことを証言している。
一方で、徹夜続きで考えがまとまらない状態で編集を行い、無意識にフィルムを切りすぎてしまい後で貼り直すこともあったという。
特撮監督として知られる円谷だが、アニメ演出家としての側面も持っている。円谷が初めて制作した映画は、巻紙をフィルム代わりに、マッチ棒を一こま一こま描き込んだ、小学生の折の自作のアニメ映画である。東宝では特技課内の線画室の動画技術を指導する立場でもあった。
線画室にいた鷺巣富雄(うしおそうじ)は、円谷と組んで制作した教材映画で、「スチール・アニメーション」という動画手法を創案している。撮影した映画フィルムをひとコマずつスチール写真に焼いて、これを引き伸ばし、あるものは背景に、あるものは切り抜いて、セル画のように重ねてこれをコマ撮りする、白黒フィルム作品で絶大なリアルさを発揮する、簡便な「合成」手法だった。ピープロ時代ののちのちまで多用されるこの手法も、鷺巣は円谷の撮影技法がヒントになって出来得たものであると語っている。
また、『キング・コング』に触発され、後年に至るまで幾度となく人形アニメの手法を作品に取り入れている。東宝特撮お得意の光線作画では、仕上がってきた動画に、「この光線には力がこもっていない!」と怒鳴り、セル画を廊下へ投げ捨てたというエピソードも残っている。光線の動きは、ラッシュ段階でポジフィルムに円谷自身が鉄筆で描き込み、指示していた。光線作画を担当していた川北紘一は、円谷のこのカリグラフによる指示が、光線のタメやタイミングを学ぶうえで大いに役立ったと述べている。大映映画『釈迦』で数十カットに上るアニメ合成を担当した鷺巣は、試写で円谷に「よく実写とアニメの融合を果たしてくれた」と激励され褒められたといい、また、欧州視察した先では『サンダーバード』の撮影現場を見学し、帰国してからミニチュア撮影と人形アニメの独自新案について聞かされたと語っている。
来歴にあるアニメ会社設立の話も、アニメ映画製作に理解がない東宝が、カーク・ダグラスからの誘いを断ってしまったことによる。アニメ制作の現場は独立一貫した制作体制となるため、東宝争議を経験した東宝としては、直接管理の目が行き届かないアニメの現場を嫌ったのである。ダグラスはなおも、セントラル映画社(英語: CMPE, 戦後の占領時期に、GHQの肝煎りで設立されたハリウッド映画の統括配給会社)出身の伊勢寿雄が興した会社を通して、円谷に個人的に話を持ち込んできたのだが、アニメ撮影用のマルチプレーン撮影台、専用キャメラ、オプチカル・プリンターまで貸与するという好条件だった。その熱意からもかなりの大作を構想していたことがうかがえる。この話が流れた後も、円谷もうしおも伊勢もアニメ映画制作が諦めきれず、「TSプロ」設立を含め、なお企画を練っている。円谷は実写とアニメを融合させた、かなりファンタジックな作品を構想していたようである。これがもし実現していれば、その称号に、さらに、アニメ監督の肩書きが加わっていただろう。
円谷は1963年に東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立する。これに先立つ1947年に、円谷は一度東宝を辞め独立しているが、これを聞いて円谷を訪ねた有川貞昌は円谷からその理由として、「俺がいくら努力したところで、映画における俺の存在価値はわずかなものだ。この映画は円谷英二の映画じゃなく、○○監督の映画を手伝っているにすぎないんだ。俺はそれが満足できない、いつの日か俺が本編を演出する形で映画を撮りたい。会社組織の中では自由な企画は望めない、そのために俺は独立したんだ」との胸の内を聞かされたという。
円谷の中でのこうした思いは、若手育成のための「円谷特殊技術研究所」設立となり、やがて1960年に円谷がアニメ技術の導入を東宝に拒まれたことや、これに対するその後の「TSプロダクション構想」、専属契約の解除へと繋がっていく形で、ついにこの「円谷特技プロダクション」設立となったのである。円谷皐はこのプロダクション設立について、「経営面はさておき、良い仕事がしやすいようにとの考えからのものではないか」としている。
こうしてプロダクション経営者となってからも、その姿勢はあくまで撮影技術者であった。『ウルトラQ』ではオプチカル・プリンターを新規発注し、『マイティジャック』では万能戦艦MJ号の発進場面を撮るために当時世界最高速度撮影が出来る35mmミッチェル・キャメラを購入してこれに当たらせるなど、機材面での万全を期している。テレビ番組であるこれらの作品だが、高速度撮影が主体の特撮シーン(『ウルトラQ』では本編も)は、画面が不安定な16mmフィルムではなく、映画用の35mmフィルムで撮影し、合成画面ではブルーバック手法を採るためカラー撮影し、わざわざ16mmに白黒で再プリントする破格ぶりであった。
円谷は『ウルトラQ』や『ウルトラマン』では、「監修」名義で若いスタッフにこれらの制作を任せ、最終的にフィルム編集を行う形で、納期に関係なく特撮カットに厳しいチェックをしていた。これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、次第に現場を逼迫させることとなっていった。『ウルトラQ』においては半年の放映期間分を2年かけて事前に製作する劇場作品並みの体制を採ったが、『ウルトラマン』では最終的に制作が放映に間に合わなくなり、中盤からの製作スケジュールは、フィルム納入が放映数日前が常態化。自身も現場に足繁く通い、若いスタッフへの配慮から『ウルトラQ』では第12話の怪鳥ラルゲユウスの巨大化シーン、『ウルトラマン』では第19話の怪獣アボラスとバニラの戦いなどを、多忙な中、直接演出している。しかし、スタッフは徹夜の連続で疲労困憊は限界に達し、ついには放映打ち切りの原因となった。
これら破格の製作体制は当然、経営を圧迫したが、円谷はあくまで特撮の品質にこだわった。円谷特技プロでは副収入の手段として、怪獣のぬいぐるみのイベント貸し出しを提案したが、円谷は「映画の大切な小道具を見世物にできない」として、これを許さなかったという。TBSなどの説得もあって、結果的にこれは円谷特技プロの経営を助けることとなり、のちのちのビジネススタイルの基となるのだが、これは円谷の本意ではなかったということである。テレビ番組を制作していても、スタンスは一貫して映画人だった。
しかし、プロダクション社長としての経営面での心理的負担は重く、加えてこの時期に糖尿病が悪化。円谷皐はこの自社作品の視聴率の動向にやきもきする毎日に心臓を痛め、グリセリンを服用するようになった円谷の姿を伝え、会社経営がその健康に悪影響を及ぼしたことは否めないとしている。
プロダクション社長となった円谷が、最晩年まで構想していた企画は、映画『かぐや姫(竹取物語)』と、『ニッポン・ヒコーキ野郎』だった。結局両者とも実現することはなかったが、円谷プロの作品には、後年まで『かぐや姫』のイメージが受け継がれ続けている。
円谷家の子孫の1人(英二の叔父の孫)で、英二とも面識のあった円谷 誠は、英二本人は自身の誕生日を、1901年7月7日と信じていたが、円谷家に残る家系図や戸籍上の記載は同年7月10日であったことを明らかにしている。それもあってか文献によって「5日」、「7日」、「10日」と様々であるが、円谷プロダクション公式サイトの「創業者・円谷英二」の項では、現在の関係者間では「英二の誕生日は7月7日」が共通の見解となっており、その見解を尊重、踏襲すると記されている。
なお円谷誠は、明治時代の戸籍であることから、出生届を出し遅れて記録上は10日付で登録されてしまった可能性を示唆している。
前記の通り、苗字の同じ円谷幸吉も同じ須賀川市(当時は町)の出身である。戸籍上の姓の読み方が「つむらや」であった点も同じであった。鷺巣富雄によると、「初対面の人には大抵、“エンヤ”とか“エンタニ”とか呼ばれるんだよ」とよくぼやいていたという。
子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。『モスラ』で幼稚園児からファンレターが来た際には、仕事の合間にモスラを作り、プレゼントしている。東北地方で怪獣ファンの児童が交通事故死した際には涙を流し、小さな怪獣を作って仏壇に添えてあげた。
短気な面もあり、広瀬正一は1966年、「また、怪獣役を頼むよ」と言われた際に「ちょっと別のシャシンが入っているんで」と答えたところ、「ああ、じゃあもういい!」と言われ、それきり怪獣役は回ってこなかったという。また、特殊美術の青木利郎によれば、ある作品で制作担当が「スポンサーでない看板を目立つ位置に置くな」とミニチュアセットの看板を変えさせたところ、円谷は「美術は一生懸命やっているんだ、何で変えるんだ」と珍しく激怒したという。スクリプターの鈴木桂子によれば、このとき円谷は相手の制作担当の胸ぐらを掴んでいたという。
中島春雄によれば、スタッフには毎回凄く怒っていたが、俳優には絶対怒らなかったという。また、怒るのも計算ずくであったといい、怒ってもすぐに笑顔になっており、さっぱりとした性格であったと述べている。特撮班カメラマンの富岡素敬は、要領が良かった有川貞昌に対し、自身が円谷から怒られる立場にあったと述べている。一方で、撮影助手であった鶴見孝夫や鳥海満らは、鶴見ら当時の若手が失敗しても円谷は直接怒らず、有川らを叱っていたと証言している。
何につけても判断が早く、即決で物事を進める性質だった。『ウルトラQ』制作時にも、企画段階にもかかわらず、当時で4千万円するオプチカル・プリンターを払える当てもなしにアメリカに発注してしまったというエピソードが残っている。
特撮の打ち合わせで、テクニック上不可能と思われる方法を問われても必ず「出来るよ」と答えていたという。助監督を務めていた中野昭慶は、「プロなら絶対にできる」というのが円谷の姿勢であり、あえて自身を過酷な状況下に置くことで、最高のアイデアや技術を生み出していたと証言している。
ロケ先で雨天待機になった時など、旅館にあった三味線や、旅館中の壊れた時計全部を持ってこさせ、暇潰しにそれら全てを一晩で直してしまったことがある。驚く女中たちに、「こういうものは雨が降っていると、湿気の関係でうまく直るんだよ」などととぼけていた。また「なぜか時計が壊れやすい」という女将に対し、置き場所が悪いとして「南を背にして10時の方向に置くのがいちばん良い」と、時計を置く位置まで指示した。あとで助監督であった中野昭慶がその真偽を問うと「そんなことあるわけないじゃないの」と答え、旅館の女将が驚く顔を見たかったのだという。
「空中を飛ぶ飛行機は、どうやって爆発させているんですか?」と取材で聞かれた際には、「あれは火薬をピアノ線で吊っておいて、そこに飛行機をぶつけて爆発させているんだよ」などととぼけた返事をしている。
円谷の補佐を務めていた有川は、「モノを考えると熱中する」ことを円谷の強みに挙げており、中途半端に妥協するようなこともなく、作品完成への執念は凄まじいものであったと語っている。東宝プロデューサーの田中友幸は、円谷は職人肌の凝り性であり、いい画を撮るためなら徹夜作業も平気で行っていたといい、一度OKになったシーンも納得いかなければ独自に撮り直していたこともあったという。
中野昭慶は、円谷から「モノを考えるとどこが痛くなるか」と問われ「頭」と答えたところ、円谷から「胃袋で考えろ」と窘められたという。中野は当時は理解できなかったが、自身が特技監督になって物事を突き詰めると頭が痛くなるだけでなく胃がキリキリするようになり、是が非でも答えを出すようになったと述べている。
『ゴジラ』などに出演した宝田明は、実際の円谷は巨匠というよりも木工所の親父さんという印象であったといい、ネクタイ姿を見たことがないと述懐している。また、宝田は円谷は普段は寡黙であったと述べており、『マタンゴ』などに出演した水野久美も円谷はシャイであったと証言している。
編集の石井清子によれば、円谷は服装が洒落ていたが、シャイなため新しい服を着てきても暑くもないのに「暑い」といって上着を手に持って部屋に入ってくるなどしていたという。
初の本格的な特撮怪獣映画である第1作の『ゴジラ』の制作に当たっては、まず現場のスタッフ集めから始めなければならなかった。そして、急遽集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の20歳そこそこの若者たちだった。円谷はひとりひとりの名前も覚えておらず、「あいつ誰なんだ」と聞きながら指示しなければならなかった。カメラマンを務めた有川貞昌は、玄人が円谷1人であったからこそ、全員が指示された内容を疑うことなくがむしゃらにやった結果、筋の通った1つの仕事になったと述懐している。
仕事に関しては非常に厳しかったが、大抵はにこやかで、若いスタッフたちが一所懸命セッティングをしている後ろで、面白そうににやにやして眺めているような姿がよく見られたという。ただ、機材の扱いや、予算と直結しているタイアップ会社のミニチュアのネオンサインの作りが悪かった時や、また、「カット」がかかった後もカメラが回っている時などには怒鳴ることがよくあった。美術の井上泰幸は、『サラリーマン出世太閤記 課長一番槍』のミニチュア撮影で1/20スケールで統一して設計されていたミニチュアを模型制作がバラバラのサイズで作ってしまい、円谷が烈火のごとく怒っていたと証言している。
特撮の現場は未知の分野であり、撮り直しがきかず、また、若いスタッフが多く、人命に関わるような危険を伴っていたこともあって、現場の重圧感、緊張感は並大抵ではなかった。中島春雄によればそうした中、円谷はスタッフが準備している横で、「よく口を開けて居眠りをしていた」という。が、それはあくまで狸寝入りであり、そうした格好をしていても、常に現場の隅々まで目を凝らしていて、スタッフは気が抜けなかった。富岡は、円谷に質問をしようと思っても起こして怒られるのを恐れて聞けなかったと証言している。特撮でピアノ線が写ってしまったようなときには、高野宏一や有川らキャメラマンに「後で俺に釜飯おごれ」と言うのが恒例で、これらのカットは弟子たちに「釜飯カット」と呼ばれたという。また、常に仕事の姿勢として前を向いており、若いスタッフに対して、過去の仕事の話をすることは一切なかった。
有川によれば、円谷が語っていた「プロとアマチュアの違い」は、アマチュアは何枚も撮った写真の中から良いものを選ぶが、プロは何を撮ってもそれ一枚が商品にならなければならないというものであり、有川がやり直しを申し出ても認められず「君の腕がそこまでだってことはわかっている」とたしなめられたという。
反面、「仕事を離れると本当にジェントルマン」(中島春雄談)であった。仕事が終われば、スタッフを引き連れ、酒を飲みに行くことも多かった。もちろん、円谷のおごりである。前述の「釜飯」のエピソードにしても、実際に釜飯をおごらせるということはなく、こういう酒宴の口実だったそうである。身なりにも無頓着で、後段のエピソードにあるように茶目っ気たっぷりな好々爺であった。実相寺昭雄は仕事でスタッフと円谷の自宅を訪問する度に鰻を御馳走され、「僕はカレーライスで充分なんだ」とニコニコしていた姿を印象深いものとして述懐している。こうした親分肌の人柄から、有川ら門下生は円谷を「オヤジ」と呼んで慕っている。円谷が亡くなると、有川や中島など、やりがいをなくして現場から離れたスタッフは多い。
円谷は現場ではあまり口出ししなかった。怪獣の立ち回りは中島春雄が一任されていた。反面、造形的な要求はかなり細かく、『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの顔の作りには数度にわたり指示を出している。キングギドラのデザイン検討では、神社の狛犬を3時間にわたって熱心に観察し、東宝初の本格的宇宙怪獣の顔に、東洋の龍の意匠を盛り込んだ。美術スタッフの井上泰幸は、『地球防衛軍』で「人工衛星の上部を本体と逆回転させて欲しい」という円谷のイメージ面での要求に苦労し、かなり反発したと述懐している。
一方、現場でいきなりアイディアを出すことも多く、「口を開けて居眠り」していたかと思えば、がばっと起き上がって指示を出すこともしばしばで、現場スタッフもこれに臨機応変に対応していた。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で、作画合成の光線が当たった森の樹木が、火薬の発火によって水平に切断されていくシーンなども、本番前に円谷が思いついたものである。
特撮の現場は、徹夜が続いたり現場で仮眠をとることも多く、円谷も椅子の上で居眠りをしていることが多かったというが、誰も円谷に対して文句を言うことはなかった。中野によれば、「春ちゃん(中島春雄)と親父(円谷)は寝たら起こすな」というのが助監督の共通認識であったという。一方で、居眠りをしながらもスタッフの会話には聞き耳を立てていたといい、皆が気を遣って離れた場所で喋っていても円谷は徐々に椅子を寄せて、会話の中に出た冗談をアイデアとして採用するなどしていた。また、直前まで寝ていても本番になったらパッと起きて仕事をこなしていたという。
1943年に袂を分かって松竹へ移籍した川上景司を、20年を経て後の円谷特技プロ設立の際に何の遺恨もなく迎え入れた度量の広さは、業界でも語り草だったという。『ウルトラマン』制作時、円谷特技プロ内で『ウルトラマン』よりも、旧知の仲でもあるうしおそうじが設立したピープロ制作の『マグマ大使』の心配ばかりしていたそうで、実際に撮影現場を訪れたこともよくあったという。また、他社作品である『大怪獣ガメラ』(大映、1965年)や『大巨獣ガッパ』(日活、1967年)などの作品には、請われる形で円谷組のスタッフが多数参加しているが、全て黙認していた。中島春雄は「ふつうは怒るよね。ほんとオヤジさんは懐が深いよ」とコメントしている。築地米三郎によると、大映の戦記映画『あゝ零戦』(1965年)では、東宝特美課の零戦のミニチュアを円谷から個人的に貸し出してもらったという。
数々の特撮作品で組んだ本多猪四郎との息の合いは伝説的であり、ほとんど「あれ」「それ」といった言葉で演出意図を通じ合わせていたという。
特殊美術の入江義夫によれば、ミニチュアの縮尺は円谷が決めていたが、尺貫法で指示するためメートル法に直さなければならなかったという。
合成を担当した飯塚定雄によれば、円谷からの発注は「感じを作れ」という一言のみで、飯塚は自身の経験の引き出しから何を使うか考える必要があったと語っている。また、円谷は仕上がったものに注文をつけることが多く、飯塚は円谷から直接褒められることは一度もなかったという。
編集の石井清子は、編集助手を務めた映画『宇宙大戦争』で石井のミスで1カットダビングできず、円谷英二に怒鳴られ、周囲からも冷ややかな目で見られたことが合った。しかし、実際には石井の担当した箇所ではなかったが石井は言い訳をせず、後に円谷から詫びとして芝居の券をもらったという。中野は、シャイな円谷の唯一の謝り方だったのだろうと評している。
円谷の死去する直前に、中野は仕事の帰りにスタッフを引き連れて伊豆で療養中の円谷のもとを訪れ、スタッフの多くはこれが最後の対面となり、中野はなんとなく予感していたというが、一方で円谷の仕事を引き継いだ自身が訪れたことは円谷に対して良いことであったのか酷なことであったのか省みる部分もあったという。
下記の作品は動画、線画が主体である。「教材映画」のほとんどは、敗戦直後にGHQを怖れて焼却され、現存するものはわずかである。
1954年公開のシリーズ第1作『ゴジラ』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。『ゴジラの逆襲』で初めて「特技監督 円谷英二」としてクレジットされた。
ゴジラ映画では、第7作の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)まで特技担当するが、この作品では、実質的に弟子の有川貞昌が特技監督を任じている。次回作である第8作の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)からは監修に回り、特技監督を正式に有川にバトンタッチした。
有川によると、この「特技監修」とは、「絵コンテ作成とフィルム編集以外を任される」ということである。「円谷特技プロ」においても、フィルム編集は円谷自身が立ち会っている。
『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』の2作に円谷は一切関わっておらず、スタッフの円谷に対する敬意として名義を使用したものである。
※全て東宝配給作品。 | [
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"text": "円谷 英二(、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。",
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"text": "昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。",
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"text": "一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。",
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"text": "1957年の東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる。",
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"text": "1901年(明治34年)7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で生まれた。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。",
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"text": "1904年(明治37年)、母セイが次男出産後に病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた。ナツの家系には、江戸中期に日本へ銅版画や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた。",
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"text": "1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。",
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"text": "1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。",
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"text": "1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した。",
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"text": "1912年(大正元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。",
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"text": "1914年(大正3年)、尋常小学校高等科に入学。",
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"text": "1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。",
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"text": "同年10月に上京。京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社。",
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"text": "1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎と相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学。費用は当時の金で600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。",
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"text": "この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。",
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"text": "1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止に陥り、円谷は夢は破れて退学した。",
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"text": "同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり、「自動スケート(スケーター)」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」なども含まれる。",
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"text": "1919年(大正8年)、18歳。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った。",
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"text": "同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影。",
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"text": "1920年(大正9年)、19歳。神田電機学校を卒業。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社。",
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"text": "国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した。",
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"text": "1921年(大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班に配属された。",
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"text": "1923年(大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。しかし、この作品は国活の凋落により未公開に終わった。",
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"text": "1924年(大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに移籍した。",
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"text": "1926年(大正15年)、25歳。衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。",
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"text": "1927年(昭和2年)、26歳。林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でキャメラマンを担当。林を多重オーバーラップさせる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れた効果が大いに評価され、大成功を果たした。",
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"text": "1928年(昭和3年)、27歳。正式に松竹京都下加茂撮影所にキャメラマンとして入社。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受け、あまり待遇のいい立場ではなかった。",
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"text": "1930年(昭和5年)、29歳。自費を投入して、移動撮影車や木製の撮影用クレーンを自作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚し、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構えた。",
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"text": "1931年(昭和6年)、30歳。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平と共同で撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。4月23日、長男・一が誕生。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景へのマット画の合成、ミニチュア合成場面の活用、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行っている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。",
"title": "生涯"
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"text": "「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内や俳優から反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をベタ光でくっきり映すものであり、こうした進歩的かつリアリティ重視の撮影手法はタブーだった。",
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"paragraph_id": 31,
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"text": "円谷はこの冷遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)の開発や精度の向上したミニチュアワークを投入したりした。本来は、このような冷遇状況から生まれた工夫だった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "またこのころ、研究資金と生活費の足しに、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置された写真ボックスは大評判になった。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。",
"title": "生涯"
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"text": "1932年(昭和7年)、31歳。「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だったため、遠慮して「英二」と名乗ったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "同年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人たちと日本カメラマン協会を結成。11月、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1933年(昭和8年)、32歳。日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。",
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"text": "同年、映画『キング・コング』が日本で公開された。試写で同作を鑑賞した円谷は、衝撃を受け、フィルムを独自に全巻取り寄せ、一コマ一コマを分析し入念に研究した。",
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"text": "この年の末に日活幹部立会いの下、日活撮影所に設置したスクリーン・プロセスの設備のテストを行うが、不調に終わった。",
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"text": "1934年(昭和9年)、33歳。『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の上層部と対立し、同社を退社した。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "10月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用した。",
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"text": "1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『赤道を越えて』を演出。これが監督第1作となった。5月10日、次男・皐が誕生。政岡憲三と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『かぐや姫』を撮影。",
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"text": "1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督のアーノルド・ファンクらドイツ側スタッフを唸らせた。",
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{
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"text": "このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。",
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"text": "また、同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のまま公開されなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督としてデビュー。撮影、編集すべてを手掛けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "1937年(昭和12年)、36歳。9月10日を以て、株式會社冩眞化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「東宝映画株式会社」が設立された。",
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},
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "これに伴い、米国の映画産業の中心地ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に東京の砧にあったピー・シー・エル撮影所を使用し、「東宝東京撮影所」に移転。ところが、撮影技術を理解できない東京撮影所の撮影技師たちから「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽なボイコットを受け、撮影できなかった。そこで、特殊技術を痛感していた森は、円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることにした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、後に円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで、円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの研究を開始した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した東京・祖師谷の一戸建て住居に移住。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "1939年(昭和14年)、38歳。特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄が採用された。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、個人的に円谷のオプチカル・プリンターの実験の助手を務めた。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "この年、陸軍航空本部の依頼を受け、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露し、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。",
"title": "生涯"
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"text": "夏ごろから、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図った。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "1940年(昭和15年)、39歳。5月に、『皇道日本』で撮影を担当。同じく、『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊技術撮影」のクレジットが冠された。",
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{
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"text": "この『海軍爆撃隊』は、文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時には大評判となった。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "同年9月、『燃ゆる大空』で奥野とともに特撮を担当、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。",
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"text": "1941年(昭和16年)、40歳。12月8日、太平洋戦争が勃発したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することになった。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "同年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1942年(昭和17年)、41歳。阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であるとの評判を受けた。",
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"text": "同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒットとなった。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールのハワイ・真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作品で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任した。この作品で美術スタッフに渡辺明、利光貞三が加入した。",
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"text": "同年、国産初のオプチカル・プリンターを完成させた。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成ができたという。",
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年)、42歳。『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹に移籍、円谷率いる特技課は大打撃を被る。",
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{
"paragraph_id": 61,
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"text": "1944年(昭和19年)、43歳。『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』『あの旗を撃て コレヒドールの最後』の特撮を担当。また、大映に出向し、『かくて神風は吹く』を担当。2月12日、三男・粲が誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。",
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"text": "同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰した。",
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"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同年、東宝が日本初の特撮専門スタジオである航空教育資料製作第二工場を設立し、工場長に就任。軍の依頼により新兵教育用の教材映画を手掛けた。敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された。",
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{
"paragraph_id": 64,
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"text": "1945年(昭和20年)、44歳。『勝利の日まで』『間諜海の薔薇』『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当。",
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも15日に終戦。除隊後、風刺喜劇『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)の特殊技術を担当。",
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"paragraph_id": 66,
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"text": "1946年(昭和21年)、45歳。東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。",
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{
"paragraph_id": 67,
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"text": "1947年(昭和22年)、46歳。撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労働組合はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画制作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮担当のみだった。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "1月に東宝は「部課制」を廃止し、「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分割された。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命された。しかし、政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気がさした円谷は、この役職を捨て、東宝を退社し、独立した。",
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "また、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を退社した有川貞昌は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合し、その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし、乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、後に円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督になった。",
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "1948年(昭和23年)、47歳。3月に連合国軍最高司令官総司令部の公職追放の指定により「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、公的な立場での仕事が続けられなくなり、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散した。",
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},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "6月、福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し、出荷するも、折しも福井を襲った福井地震によって、駅に到着した全機を失うという憂き目に遭った。鷺巣富雄は、この時の円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "フリーとなった円谷は、東京・祖師谷の自宅の庭にプレハブを建て、円谷特殊技術研究所を設立、外部スタッフとして『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮技術パートを担当。同研究所は他に大映京都、新東宝、松竹大船などの映画の特殊技術パートを担当したが、ノンクレジットも多く、全容は不明である。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後、飲み友達になった。円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。2人は『ゴジラ』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1949年(昭和24年)、48歳。京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。大映は『透明人間現わる』を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意し、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出した。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)、49歳。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの円谷特殊技術研究所を移設。東宝の本編のタイトルや予告編を制作するようになり、主に合成処理を請け負った。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。富岡、有川を合わせて4~5人の陣容だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "円谷は昭和25年から29年までの東宝全ての本編・予告編のタイトル部分を撮影しており、東宝映画の東宝マークを制作したのもこの時期である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第1作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いだった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1952年(昭和27年)、51歳。2月に、日本独立後の公職追放解除を受けた。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1953年(昭和28年)、52歳。東映で『ひめゆりの塔』、松竹で『君の名は(第一部)』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。既に東宝に復帰していた状況で担当したこれらの他社作品は、復帰前に受注したものとみられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させた。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に同年に再開された東宝特殊技術課に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "こうした中、満を持して戦記映画『太平洋の鷲』が公開された。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 84,
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"text": "この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込んだ。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つになったとしている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1954年(昭和29年)、53歳。田中友幸によって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒットとなった。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で「日本映画技術賞」を受賞。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1955年(昭和30年)、54歳。『ゴジラの逆襲』で、特技監督の肩書を与えられた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1956年(昭和31年)、55歳。日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣 ラドン』を担当。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降、これが定番フィルムとなった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝で賄いきれない合成処理や、人形アニメ撮影などを行った。研究員の収入は、円谷の個人負担だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1957年(昭和32年)、56歳。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1958年(昭和33年)、57歳。日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式に参加した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1959年(昭和34年)、58歳。6,200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫、中野稔が研究所生として参加。二人はこの後、東宝特技課に入社して『日本誕生』の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1960年(昭和35年)、59歳。当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかけた。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー(Oxberry)社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展したが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "同年、公開予定の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千坪の特撮用大プールが完成。また、妻・マサノの熱心な勧めでカトリック教徒になった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)、60歳。前年に続き、アニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画を複数検討。長編実写・動画映画『双子の一寸法師』を企画。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "同年、世界同時公開を目指して制作された『モスラ』が公開。マスコミから「世界のツブラヤ」と称された。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)、61歳。アメリカに外遊し、ハリウッドの映画会社各社を歴訪した。また、東宝撮影所内に円谷念願の特撮専用ステージである第11ステージが完成。中野昭慶、川北紘一が円谷組に加わった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "この年、大韓民国との合作映画『大沈清伝』の特撮を担当。また、『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』に映画キャンペーンのため、ゲスト出演した。",
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"tag": "p",
"text": "1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約を解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立、社長に就任。フジテレビの映画部にいた次男・皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招いた。同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "この年、フジテレビは、皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込んだ。最終的に局の事情で、企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だったため、TBSの映画部にいた長男・一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうことにした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ900」が設置された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "1964年(昭和39年)、63歳。日米合作映画『勇者のみ』の撮影現場の視察に、渡辺明、有川貞昌、本多猪四郎とともにハワイを訪れた。また、よみうりランドの水中バレエ劇場「竜宮城」開場に併せ、特殊美術を担当。高山良策の造形物を目に留め、この縁で高山は円谷特技プロと関わるようになった。",
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"paragraph_id": 106,
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"text": "一方、TBSでは、長男・一の下、前年に円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一、川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制で、9月27日より制作が開始された。",
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"paragraph_id": 107,
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"text": "1965年(昭和40年)、64歳。『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『怪獣大戦争』で「日本映画技術賞」を受賞。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写なのか?特撮なのか?」と議論が起こった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "1966年(昭和41年)、65歳。1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組制作もあり、同番組は大ヒットとなった。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすことになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "同年、TBSのドキュメント番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』や、『ウルトラマン前夜祭』に出演。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターは、さらに怪獣ブームを巻き起こした。これらのヒットにより、「円谷英二」の名はお茶の間にまで知れ渡り、特撮の神様と呼ばれるようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決定し、カナダへ外遊し、モントリオール万国博覧会を視察。この外遊中に招かれて、アメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー&シルヴィア・アンダーソン夫妻らのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。翌年に、円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "1967年(昭和42年)、66歳。『キングコングの逆襲』が公開。円谷は戦前に研究した『キング・コング』の1シーン(恐竜との格闘)を、完全にリメイクしている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "また、この年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「特技監修」になり、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 114,
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"text": "1968年(昭和43年)、67歳。ハリウッドの特撮監督リンウッド・ダン(英語版)が来日、東宝撮影所の円谷を表敬訪問した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "同年、株式会社円谷特技プロダクションを、株式会社円谷プロダクションに社名変更した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "1969年(昭和44年)、68歳。自身最後の特撮劇場作品となる『日本海大海戦』が公開。円谷は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影で、鳴門の渦潮を訪れていた最中に倒れ、入院。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、直接関与していない。12月に静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "同年、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を最後に、東宝は特殊技術課の廃止を決定。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻・マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。68歳没。最期まで映画『ニッポン・ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。本多は、入院中は絶対安静のため見舞いを遠慮していたが、入院前に3月になったら次の仕事として従来の作品とは趣向を変えた新しい怪獣映画の打ち合わせをする約束をしており、別荘へ移った後も円谷がそれについて言及していたことを伝え聞いていたという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "1月30日、日本政府より勲四等瑞宝章を授与。",
"title": "生涯"
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"text": "2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "東宝は、彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。機能の一部は子会社の東宝映画などに移管されるものの、本体は勝プロなどを含めた外部作品配給会社に転換した。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "2019年1月11日、「円谷英二ミュージアム」が故郷の須賀川市に開館した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2021年、出身地の須賀川市は同郷の円谷幸吉とともに円谷英二に「名誉市民」号の贈与を決定し、同年7月7日に授与式が実施された。",
"title": "生涯"
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"text": "別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『ゴジラ』によって一気に報われることとなる。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを任され、スタッフも正当な報酬を得られる身分になったのである。一方で、何かというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。",
"title": "円谷とゴジラ映画"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄は本多猪四郎の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している。特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという。撮影助手であった森喜弘も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている。",
"title": "円谷とゴジラ映画"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "この『怪獣大戦争』での「ゴジラのシェー」にしても、このアイディアを柴山撮影所長(当時)が提案した際には円谷は早速これを採り入れていて、「お客さんが喜ぶ面白いアイディアを入れることが出来て、本当に良かった」とコメントしている。有川によると『南海の大決闘』でのゴジラとエビラの岩石バレーボールや、加山雄三の物真似であるとかいったものも、そういった流れの一つである。円谷にしてみれば、こうした観客サービスはファンの思惑とは別次元の、娯楽映画の一環として自然なものだったと考えられる。そして、この『南海の大決闘』から、円谷はゴジラシリーズの特撮演出を後進の有川に任せ、自身は他作品にウェイトを移しているのである。",
"title": "円谷とゴジラ映画"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "東宝は戦時中、軍人教育用の教材映画、国威発揚のための戦意高揚映画の制作を行う。この背景には、当時のメディアが全て軍に支配されており、映画用の生フィルムも統制品であったことがある。「線画(アニメ)」を用いた教材映画は、コマ撮りであるためNG率が低かったため、フィルムをうかせてこれをNGとして計上し、別途特別配給を受け、戦意高揚映画ではない一般映画、娯楽映画にこれを回していたのである。『飛行理論』(1939年)や『水平爆撃理論編・実践編』(1940年)といった「教材映画」があってこそ、『エノケンの孫悟空』(1940年)や『川中島合戦』(1941年)などの娯楽映画も制作できたのである。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "こうした事情から、東宝も万全の体制で軍協力映画の制作にあたり、円谷は必要不可欠な特撮技術者としてその陣頭指揮を執った。しかし、軍が協力するといっても「戦意高揚映画」制作は一筋縄ではいかなかった。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "『ハワイ・マレー沖海戦』は、海軍省の至上命令で制作された映画であるが、円谷が航空母艦(空母)や戦闘機の資料写真を要求しても、「カツドウ屋など信用できるか」のひと言のもと、一切が機密扱いで提供を拒まれ、セットの資料にも事欠き、本編監督の山本嘉次郎も円谷も頭を抱えるような有様であった。しかもこの映画では、海軍を相手の完成試写の際に、甲板のセット(資料提供が受けられないため、アメリカの空母を参考に作った)に対して宮家の人間が激怒し、あわや公開差し止めとなりかけるという始末であった。円谷も山本もこのことを「はらわたが煮えくり返った」と述懐しており、山本は「誰がどうやってあの事態を収めて公開にこぎつけられたか、今でも分からない」と後に語っている。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
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"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "そのような軍主導の映画制作であっても、円谷はあくまで特撮の技術向上に努め、ミニチュアワークを使用し娯楽要素を盛り込んだスペクタクル映画制作に徹している。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "円谷はこうした「教材映画」「戦意高揚映画」への加担を理由に、戦後GHQによって公職追放処分を受けるが、戦後このことについて一切の言い訳をしていない。円谷にしてみれば、題材がどうあれ、ベストを尽くした仕事であり、そして、どのフィルムも、円谷が憧れた飛行機が活躍するのである。円谷の下で数々の教材映画に関わった鷺巣富雄は、「同じことをしたウォルト・ディズニーは戦後見返りに土地を提供され、ディズニーランドを建てた。ようするに、“勝てば官軍”なのだ」と語っている。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "有川によれば、『ゴジラ』以前の円谷は『ハワイ・マレー沖海戦』で評価されていたが、円谷自身は「特殊技術=戦争映画」と思われていたことを嘆いていたという。",
"title": "円谷と戦意高揚映画"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "円谷英二は本来、専門は戦前・戦中から一貫してカメラマンであり、乏しい予算や条件を補うために特殊撮影を始めたのである。来歴にあるとおり、外国の映画に負けない斬新な画面を作ろうと、ホリゾント撮影を日本で初めて行ったり、林長二郎(長谷川一夫)デビュー作の『稚児の剣法』(1927年)では多重露出を試みたりしている。この幻想的な多重合成を用いた立ち回りは大評判となった。長谷川は『稚児の剣法』で円谷から様々な動きを指示され、それを丹念に巻き戻しては撮り重ねていたことを、忘れ得ない思い出として後に語っており、「自分もテヘラ亭(円谷)の終焉の地である伊東に別荘を建てて住みたい」と書き残している。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "今では当たり前のように使われている撮影手法である、「なめ(画面の手前に物を置く撮影手法)」の技法や、「クレーン撮影」、「キーライト」を、戦前の、白塗りの歌舞伎役者が俳優を務めていた時代に初めて用いたのも円谷である。ビール瓶のかけらをフィルター代わりに用いて「擬似夜景」も撮影しており、有川貞昌はキャメラマンの三浦光雄による、「日本で色フィルターを使って撮影したのは円谷さんが初めてだ」との証言を伝えている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "後年、円谷が富岡に語ったところによると、手回し時代のカメラで撮影する際は、どの程度のクランクの回転速度で何コマ撮れるかを体で覚えており、感覚で回すことができたという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "日活気鋭の林長二郎を売り出そうと、円谷はクレーンによる俯瞰撮影や様々な撮影手法を衣笠監督と検討し、採り入れた。そして、その「キーライト」で林を撮り、円谷は日活を追われてしまう。かてて加えて、「アイリス・イン/アウト」画面を作るために、瓶の底を抜いたものをレンズの前で動かしたり、生合成のためにレンズフィルターに貼る黒画用紙とはさみを持ち歩き、仕掛けを用意する間、スタッフをその場で待機させるといった円谷の姿は、当時のカメラマンたちには全く理解不可能なものであった。こうした姿を「怠けて遊んでいる」と捉えられ、「ズボラヤ」などと揶揄されて、現場から排斥される要因となった。東宝に入社して一年ほどはスクリーン・プロセスばかりやらされ、「俺はスクリーン・プロセスをやるために東宝へきたんじゃない」と嘆く日々であった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "当時、円谷の仕事といえば、このスクリーン・プロセスしかなく、あとは「オプチカル・プリンター」の設計・製作とその実験・研究のみであった。円谷が熱望した「オックスベリー社」の「オプチカル・プリンター」は、現在価格で数億円もするもので、到底購入など不可能であり、円谷を東宝へ招いた森岩雄の力をもってしても、「研究費は出すが人までは出せぬ」との処遇で一杯一杯であった。部下のいない孤立無援の状況で、円谷は自前の機械で合成実験をするしかなかったのである。当時の日本に、光学合成機の資料などなく、円谷はアメリカから専門本を取り寄せ、和訳してもらって独学でその知識を学んでいた。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "円谷が課長を務める特技課内の線画室にいた鷺巣富雄によると、線画室長の大石郁雄と円谷とは仲が悪く、人のやり取りもはばかれるほどだったという。直属部下のいなかった円谷は、新人の鷺巣にこの「オプチカル・プリンター」の助手を頼んでいたが、これも大石が出征中で一時不在だったため出来たことであって、鷺巣も退社後や休日に、隠れるようにしてこれを務めるというような状況であった。こうした状況を一変させたのが、東宝の「戦意高揚映画」への参加である。これを機に円谷の特技課に続々と人材の充実が図られ、突如大所帯となっていく、まさに掌を返したかのような打って変わった処遇振りであった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "こうした「戦争映画」の特撮で、円谷は観客の心理を逆手にとって、飛行機のミニチュアを逆さに吊って操演したものを、天地逆さまにしたキャメラで撮影したり、また、飛行機とキャメラを同一固定し、バックの空を回転させて急旋回の画を撮ったり、飛行機は固定して背景の山並みを回転させて山間部を掠め飛ぶシーンを撮ったり、また、洋上の艦隊を雲間から見下ろすカットのために寒天で大海を表現してみたりと、まさに尽きせぬアイディアで、いかにリアルに飛行機を飛ばすかの撮影トリックに心血を注いでいる。こういった、「ミニチュアを天地逆さまにする」といった撮影手法は、戦後のSF特撮映画でも、これに火を放ってはうような火災を表現するなど、発展させ応用されている。そんな中でも、軍の意向に振り回されるだけでなく、松竹映画に「一番弟子」の川上景司ら特技スタッフを引き抜かれるなど、戦争末期まで不本意な事態に煩わされ続けている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "こうして積み重ねたキャリアにもこだわらず、日本の敗戦という状況の中、公職追放という形で、円谷はまたも現場を追われることとなってしまう。この公職追放の時期、円谷と飲み友達となっていた伊福部昭によると、円谷は現場に対する不満をよくこぼしていたという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "線画室時代に円谷に師事した鷺巣富雄は、円谷から「特撮映画の三大要素」として、「キャメラワーク・ミニチュアワーク・合成ワーク」を徹底指導され、「映画技術はまだ50%しか完成されていない。後の未開拓の50%は君がやらないといけない」と何度も言われたという。実相寺昭雄はTBS時代、テレビドラマのラストシーンで、冬でもないのに紙吹雪の雪を降らせたことで局から散々に怒られたが、円谷には逆に「あの吹雪はもっと多いほうが良かったね」と褒められたという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "『加藤隼戦闘隊』で山本嘉次郎の助監督として円谷の特撮現場を目の当たりにした本多猪四郎は、「まるで物理の実験で、新しい発見をしようとしている作業と違いがない」と感じたと語っている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "特技監督となり、東宝の看板ネームとなってからも、こうした撮影技術者としての視点から立脚した取り組み姿勢は、『ゴジラ』第1作の企画段階で人形アニメによる撮影を主張したり、『ウルトラQ』制作時に、わざわざ新規にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンターを購入するなど、撮影者としての立場からの数多くのアプローチにも表れている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "照明技師の斉藤薫は、特撮監督としての円谷のカメラワークはメインポジションを決めたら横移動かクレーンでの上下移動のみでカメラ自体が前へ迫っていくことはなく、被写体がカメラへ迫ってくることを要求したと証言している。また、セットをカメラの反対側から撮るようなこともなかったという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "俯瞰撮影に用いるイントレを折りたたみ式にし、ロケーション撮影でも手軽に持ち運べるようにした。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "円谷はフィルム編集でも敏腕を振るい、映画関係者からは「編集の神様」と呼ばれた。有川貞昌によれば、編集は必ず円谷自身が行っていたという。円谷の助監督を務めた浅井正勝によれば、円谷は撮影したカットの撮影時の状況や保管場所まで記憶していたという。スクリプターの鈴木桂子は、編集プランは円谷の頭の中にしかなく、台本にない描写を撮影することも多かったため、一般的な「カット○○、シーン☓☓」という記録はできず、「空中戦の1」「空中戦の2」といった記録の仕方になったという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "『空の大怪獣 ラドン』では、西海橋のミニチュアがラドンの着水とともにへし折れるタイミングが、本番で少し狂ってしまった。特撮スタッフは西海橋の作り直しを覚悟したが、円谷は意に介せず、編集によって屈指の名シーンにまとめてしまった。同作では、ラストでラドンが阿蘇山に墜落するシーンでも、アクシデントでラドンのミニチュアが途中で落下してしまったが、円谷は後で何とでもできるとこれも動じず、フィルムの巻末までこれを撮り切らせた。気を揉むスタッフを前に、思わぬいい動きが撮れたと、編集室で上機嫌だったそうである。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "この一件について「ラドンを吊り上げるピアノ線が切れたのを『苦しんでもがいているように見える』として、撮影を続行した」というエピソードがまことしやかに語られているが、これは厳密には間違いである。正確には円谷は、ピアノ線が熱(マグマを溶鉄で表現していた)で切れたのを操演スタッフのアドリブと勘違いしただけであった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "『ゴジラ』ではCキャメラ担当の真野田陽一がうっかり通常スピードでフィルムを回したものを怒りもせず、「ああいう動きでもいいかなあ」と、以後これ(1.5倍速)を採り入れている。また『ゴジラの逆襲』では、高野宏一が間違えてコマ落としにしてキャメラを回してしまった。若い高野は失敗に気づいて思わず号泣したそうであるが、円谷は現像で上がってきたゴジラのギクシャクした素早い動きが面白いとして、当作では怪獣のカットにこのコマ落としを採り入れてしまった。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、ドゴラが天空から石炭を吸い上げる特撮があるが、当時のミッチェル・キャメラには高速度での逆回転撮影の機能がなかった。そこで円谷はキャメラを天地逆さまにして石炭が降るカットを撮り、現像の上がったフィルムを裏表逆にして、さらに、フィルムの進行方向を逆にし、落ちていく石炭を逆に空へ舞い上がらせるという映像に仕立て上げて、これを解決した。有川貞昌がこの手法を初めて教授されたのは『白夫人の妖恋』でのことであったが、口で説明されても全く理解できなかったという。完成画面でやっと飲み込めた有川は、改めて円谷の発想に驚嘆したという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "常々「特撮にはNGはない」と円谷は口癖にしていて、限られた予算や日数を前に、少々のアクシデントをものともしない編集術が数々の特撮カットを支えていた。ただ、画面の隅にスタッフが写ってしまったり、余りにもひどいカットが続いたりした時には、さすがの円谷も「いくらなんでも編集でごまかすにも限度があるぞ!」とキャメラマンたちを怒鳴りつけたそうである。円谷組が1本の映画で会社から託されるフィルムは3万フィートほどであり、高速度撮影が欠かせない特撮では、フィルムの無駄遣いは絶対に許されないことだった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "長時間の準備を必要とする特撮現場では、スタジオの隅に特設の編集室をしつらえ、また、ロケ先では、旅館に編集機材を取り寄せて、寸暇を惜しんで現像の上がった特撮フィルムを編集していた。編集室に吊るしたフィルムの、どんなカットがどこにあるか全てを空で把握していたという。撮影作業が早く終わった後は、特設の編集室にこもり、ひたすら編集作業を行っていた。仕事は終わったので有川らは帰ってもよかったのだが、円谷の手前そうもいかず、夜半まで付き合うことしばしばだったそうである。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "特撮カットで尺がわずかに足りない、というような場合でも、円谷はこの吊るしたストックフィルムから抜き出したカットで巧みにつじつまを合わせていた。後年、有川貞昌は、「オヤジ(円谷)がうまいこと昔のフィルムで埋めちゃうもんだから、田中さん(田中友幸)がそんなもんで出来るのかって思っちゃって、どんどん予算を削られちゃってね」と語っている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "円谷は、他人が使わないだろうと思うフィルムも細部まで記憶しており、編集の石井清子や記録の久松桂子らはカット屑を捨てることができなかったという。一度、円谷が爆発カットのつなぎにと考えていた数秒の白抜けのフィルムが、どうしてもラッシュフィルム(現像の上がってきたばかりの未編集フィルム)に見当たらず、大騒ぎになったことがある。円谷は青くなって現像所まで押しかけ、そこで不要と判断して捨てられているのを発見、事なきを得たという。あとで現像所のスタッフは全員で、円谷の元へ謝りに来たそうである。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "合成でフィルムの裏焼きも多用するため、戦記映画の飛行機などに描かれる数字には「0」「1」「8」など反転しても問題のないものが使われるようになった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "円谷組のメインキャメラマンは、有川貞昌(主に引きの画面担当)と富岡素敬(主に寄りの画面担当)が務め(後期はこれに真野田陽一が加わる)、円谷は「絵コンテ」で画面のイメージを伝えた後は、アングルなどすべて彼らに任せていた。その代わり、舞台で言う「上手と下手」の使い分けを、演出の際の心がけとして常に指示し、画面の構図として、常に「二等辺三角形」のパースを口酸っぱく言い続けていた。編集の際にも、この位置関係を常に念頭に置いて、ことに本多猪四郎とは綿密な打ち合わせの元、スムーズにカットをつないでいる。特撮班との連携をあまり重視しない稲垣浩と組んだ『士魂魔道 大龍巻』での竜巻シーンの特撮では、この原則が崩れているのがよくわかる。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "ただ、円谷は特撮のラッシュ・フィルムは、特撮班以外に、決して他人に見せなかった。伊福部昭によると、ラッシュ時にも特撮部分だけ白抜けのフィルムをつないでおくということを平気で行っていたほどだった。1作目の『ゴジラ』でも、「あそこからぐわーっとゴジラが出てくるんだよ」といった具合で、伊福部もこれには音楽プランが立たず、閉口したという。コンビの長い本多猪四郎であってもそれは同じで、スタッフは試写で初めて円谷の完成した特撮を目にするのが恒例だった。有川は、本多からラッシュを見せるよう要望され、円谷との板挟みになることがしばしばあったという。この理由のひとつには、編集前のNGカットを見られ、悪い風評が立つことを怖れたからではないかと、円谷組でキャメラマンを務めた富岡素敬は語っている。有川も、特撮研究所時代に未完成のフィルムを見た関係者に円谷が完成予定を説明しても理解されなかったことがあり、円谷は「仕上がりもわからずに良否を判断されるのは嫌だ」と述べていたことを証言している。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "一方で、徹夜続きで考えがまとまらない状態で編集を行い、無意識にフィルムを切りすぎてしまい後で貼り直すこともあったという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "特撮監督として知られる円谷だが、アニメ演出家としての側面も持っている。円谷が初めて制作した映画は、巻紙をフィルム代わりに、マッチ棒を一こま一こま描き込んだ、小学生の折の自作のアニメ映画である。東宝では特技課内の線画室の動画技術を指導する立場でもあった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "線画室にいた鷺巣富雄(うしおそうじ)は、円谷と組んで制作した教材映画で、「スチール・アニメーション」という動画手法を創案している。撮影した映画フィルムをひとコマずつスチール写真に焼いて、これを引き伸ばし、あるものは背景に、あるものは切り抜いて、セル画のように重ねてこれをコマ撮りする、白黒フィルム作品で絶大なリアルさを発揮する、簡便な「合成」手法だった。ピープロ時代ののちのちまで多用されるこの手法も、鷺巣は円谷の撮影技法がヒントになって出来得たものであると語っている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "また、『キング・コング』に触発され、後年に至るまで幾度となく人形アニメの手法を作品に取り入れている。東宝特撮お得意の光線作画では、仕上がってきた動画に、「この光線には力がこもっていない!」と怒鳴り、セル画を廊下へ投げ捨てたというエピソードも残っている。光線の動きは、ラッシュ段階でポジフィルムに円谷自身が鉄筆で描き込み、指示していた。光線作画を担当していた川北紘一は、円谷のこのカリグラフによる指示が、光線のタメやタイミングを学ぶうえで大いに役立ったと述べている。大映映画『釈迦』で数十カットに上るアニメ合成を担当した鷺巣は、試写で円谷に「よく実写とアニメの融合を果たしてくれた」と激励され褒められたといい、また、欧州視察した先では『サンダーバード』の撮影現場を見学し、帰国してからミニチュア撮影と人形アニメの独自新案について聞かされたと語っている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "来歴にあるアニメ会社設立の話も、アニメ映画製作に理解がない東宝が、カーク・ダグラスからの誘いを断ってしまったことによる。アニメ制作の現場は独立一貫した制作体制となるため、東宝争議を経験した東宝としては、直接管理の目が行き届かないアニメの現場を嫌ったのである。ダグラスはなおも、セントラル映画社(英語: CMPE, 戦後の占領時期に、GHQの肝煎りで設立されたハリウッド映画の統括配給会社)出身の伊勢寿雄が興した会社を通して、円谷に個人的に話を持ち込んできたのだが、アニメ撮影用のマルチプレーン撮影台、専用キャメラ、オプチカル・プリンターまで貸与するという好条件だった。その熱意からもかなりの大作を構想していたことがうかがえる。この話が流れた後も、円谷もうしおも伊勢もアニメ映画制作が諦めきれず、「TSプロ」設立を含め、なお企画を練っている。円谷は実写とアニメを融合させた、かなりファンタジックな作品を構想していたようである。これがもし実現していれば、その称号に、さらに、アニメ監督の肩書きが加わっていただろう。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "円谷は1963年に東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立する。これに先立つ1947年に、円谷は一度東宝を辞め独立しているが、これを聞いて円谷を訪ねた有川貞昌は円谷からその理由として、「俺がいくら努力したところで、映画における俺の存在価値はわずかなものだ。この映画は円谷英二の映画じゃなく、○○監督の映画を手伝っているにすぎないんだ。俺はそれが満足できない、いつの日か俺が本編を演出する形で映画を撮りたい。会社組織の中では自由な企画は望めない、そのために俺は独立したんだ」との胸の内を聞かされたという。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "円谷の中でのこうした思いは、若手育成のための「円谷特殊技術研究所」設立となり、やがて1960年に円谷がアニメ技術の導入を東宝に拒まれたことや、これに対するその後の「TSプロダクション構想」、専属契約の解除へと繋がっていく形で、ついにこの「円谷特技プロダクション」設立となったのである。円谷皐はこのプロダクション設立について、「経営面はさておき、良い仕事がしやすいようにとの考えからのものではないか」としている。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "こうしてプロダクション経営者となってからも、その姿勢はあくまで撮影技術者であった。『ウルトラQ』ではオプチカル・プリンターを新規発注し、『マイティジャック』では万能戦艦MJ号の発進場面を撮るために当時世界最高速度撮影が出来る35mmミッチェル・キャメラを購入してこれに当たらせるなど、機材面での万全を期している。テレビ番組であるこれらの作品だが、高速度撮影が主体の特撮シーン(『ウルトラQ』では本編も)は、画面が不安定な16mmフィルムではなく、映画用の35mmフィルムで撮影し、合成画面ではブルーバック手法を採るためカラー撮影し、わざわざ16mmに白黒で再プリントする破格ぶりであった。",
"title": "活動"
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{
"paragraph_id": 166,
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"text": "円谷は『ウルトラQ』や『ウルトラマン』では、「監修」名義で若いスタッフにこれらの制作を任せ、最終的にフィルム編集を行う形で、納期に関係なく特撮カットに厳しいチェックをしていた。これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、次第に現場を逼迫させることとなっていった。『ウルトラQ』においては半年の放映期間分を2年かけて事前に製作する劇場作品並みの体制を採ったが、『ウルトラマン』では最終的に制作が放映に間に合わなくなり、中盤からの製作スケジュールは、フィルム納入が放映数日前が常態化。自身も現場に足繁く通い、若いスタッフへの配慮から『ウルトラQ』では第12話の怪鳥ラルゲユウスの巨大化シーン、『ウルトラマン』では第19話の怪獣アボラスとバニラの戦いなどを、多忙な中、直接演出している。しかし、スタッフは徹夜の連続で疲労困憊は限界に達し、ついには放映打ち切りの原因となった。",
"title": "活動"
},
{
"paragraph_id": 167,
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"text": "これら破格の製作体制は当然、経営を圧迫したが、円谷はあくまで特撮の品質にこだわった。円谷特技プロでは副収入の手段として、怪獣のぬいぐるみのイベント貸し出しを提案したが、円谷は「映画の大切な小道具を見世物にできない」として、これを許さなかったという。TBSなどの説得もあって、結果的にこれは円谷特技プロの経営を助けることとなり、のちのちのビジネススタイルの基となるのだが、これは円谷の本意ではなかったということである。テレビ番組を制作していても、スタンスは一貫して映画人だった。",
"title": "活動"
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"text": "しかし、プロダクション社長としての経営面での心理的負担は重く、加えてこの時期に糖尿病が悪化。円谷皐はこの自社作品の視聴率の動向にやきもきする毎日に心臓を痛め、グリセリンを服用するようになった円谷の姿を伝え、会社経営がその健康に悪影響を及ぼしたことは否めないとしている。",
"title": "活動"
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"paragraph_id": 169,
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"text": "プロダクション社長となった円谷が、最晩年まで構想していた企画は、映画『かぐや姫(竹取物語)』と、『ニッポン・ヒコーキ野郎』だった。結局両者とも実現することはなかったが、円谷プロの作品には、後年まで『かぐや姫』のイメージが受け継がれ続けている。",
"title": "活動"
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"paragraph_id": 170,
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"text": "円谷家の子孫の1人(英二の叔父の孫)で、英二とも面識のあった円谷 誠は、英二本人は自身の誕生日を、1901年7月7日と信じていたが、円谷家に残る家系図や戸籍上の記載は同年7月10日であったことを明らかにしている。それもあってか文献によって「5日」、「7日」、「10日」と様々であるが、円谷プロダクション公式サイトの「創業者・円谷英二」の項では、現在の関係者間では「英二の誕生日は7月7日」が共通の見解となっており、その見解を尊重、踏襲すると記されている。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 171,
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"text": "なお円谷誠は、明治時代の戸籍であることから、出生届を出し遅れて記録上は10日付で登録されてしまった可能性を示唆している。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "前記の通り、苗字の同じ円谷幸吉も同じ須賀川市(当時は町)の出身である。戸籍上の姓の読み方が「つむらや」であった点も同じであった。鷺巣富雄によると、「初対面の人には大抵、“エンヤ”とか“エンタニ”とか呼ばれるんだよ」とよくぼやいていたという。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 173,
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"text": "子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。『モスラ』で幼稚園児からファンレターが来た際には、仕事の合間にモスラを作り、プレゼントしている。東北地方で怪獣ファンの児童が交通事故死した際には涙を流し、小さな怪獣を作って仏壇に添えてあげた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 174,
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"text": "短気な面もあり、広瀬正一は1966年、「また、怪獣役を頼むよ」と言われた際に「ちょっと別のシャシンが入っているんで」と答えたところ、「ああ、じゃあもういい!」と言われ、それきり怪獣役は回ってこなかったという。また、特殊美術の青木利郎によれば、ある作品で制作担当が「スポンサーでない看板を目立つ位置に置くな」とミニチュアセットの看板を変えさせたところ、円谷は「美術は一生懸命やっているんだ、何で変えるんだ」と珍しく激怒したという。スクリプターの鈴木桂子によれば、このとき円谷は相手の制作担当の胸ぐらを掴んでいたという。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "中島春雄によれば、スタッフには毎回凄く怒っていたが、俳優には絶対怒らなかったという。また、怒るのも計算ずくであったといい、怒ってもすぐに笑顔になっており、さっぱりとした性格であったと述べている。特撮班カメラマンの富岡素敬は、要領が良かった有川貞昌に対し、自身が円谷から怒られる立場にあったと述べている。一方で、撮影助手であった鶴見孝夫や鳥海満らは、鶴見ら当時の若手が失敗しても円谷は直接怒らず、有川らを叱っていたと証言している。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 176,
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"text": "何につけても判断が早く、即決で物事を進める性質だった。『ウルトラQ』制作時にも、企画段階にもかかわらず、当時で4千万円するオプチカル・プリンターを払える当てもなしにアメリカに発注してしまったというエピソードが残っている。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 177,
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"text": "特撮の打ち合わせで、テクニック上不可能と思われる方法を問われても必ず「出来るよ」と答えていたという。助監督を務めていた中野昭慶は、「プロなら絶対にできる」というのが円谷の姿勢であり、あえて自身を過酷な状況下に置くことで、最高のアイデアや技術を生み出していたと証言している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 178,
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"text": "ロケ先で雨天待機になった時など、旅館にあった三味線や、旅館中の壊れた時計全部を持ってこさせ、暇潰しにそれら全てを一晩で直してしまったことがある。驚く女中たちに、「こういうものは雨が降っていると、湿気の関係でうまく直るんだよ」などととぼけていた。また「なぜか時計が壊れやすい」という女将に対し、置き場所が悪いとして「南を背にして10時の方向に置くのがいちばん良い」と、時計を置く位置まで指示した。あとで助監督であった中野昭慶がその真偽を問うと「そんなことあるわけないじゃないの」と答え、旅館の女将が驚く顔を見たかったのだという。",
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"paragraph_id": 179,
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"text": "「空中を飛ぶ飛行機は、どうやって爆発させているんですか?」と取材で聞かれた際には、「あれは火薬をピアノ線で吊っておいて、そこに飛行機をぶつけて爆発させているんだよ」などととぼけた返事をしている。",
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"paragraph_id": 180,
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"text": "円谷の補佐を務めていた有川は、「モノを考えると熱中する」ことを円谷の強みに挙げており、中途半端に妥協するようなこともなく、作品完成への執念は凄まじいものであったと語っている。東宝プロデューサーの田中友幸は、円谷は職人肌の凝り性であり、いい画を撮るためなら徹夜作業も平気で行っていたといい、一度OKになったシーンも納得いかなければ独自に撮り直していたこともあったという。",
"title": "人物"
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"text": "中野昭慶は、円谷から「モノを考えるとどこが痛くなるか」と問われ「頭」と答えたところ、円谷から「胃袋で考えろ」と窘められたという。中野は当時は理解できなかったが、自身が特技監督になって物事を突き詰めると頭が痛くなるだけでなく胃がキリキリするようになり、是が非でも答えを出すようになったと述べている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 182,
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"text": "『ゴジラ』などに出演した宝田明は、実際の円谷は巨匠というよりも木工所の親父さんという印象であったといい、ネクタイ姿を見たことがないと述懐している。また、宝田は円谷は普段は寡黙であったと述べており、『マタンゴ』などに出演した水野久美も円谷はシャイであったと証言している。",
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"text": "編集の石井清子によれば、円谷は服装が洒落ていたが、シャイなため新しい服を着てきても暑くもないのに「暑い」といって上着を手に持って部屋に入ってくるなどしていたという。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 184,
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"text": "初の本格的な特撮怪獣映画である第1作の『ゴジラ』の制作に当たっては、まず現場のスタッフ集めから始めなければならなかった。そして、急遽集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の20歳そこそこの若者たちだった。円谷はひとりひとりの名前も覚えておらず、「あいつ誰なんだ」と聞きながら指示しなければならなかった。カメラマンを務めた有川貞昌は、玄人が円谷1人であったからこそ、全員が指示された内容を疑うことなくがむしゃらにやった結果、筋の通った1つの仕事になったと述懐している。",
"title": "人物"
},
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"text": "仕事に関しては非常に厳しかったが、大抵はにこやかで、若いスタッフたちが一所懸命セッティングをしている後ろで、面白そうににやにやして眺めているような姿がよく見られたという。ただ、機材の扱いや、予算と直結しているタイアップ会社のミニチュアのネオンサインの作りが悪かった時や、また、「カット」がかかった後もカメラが回っている時などには怒鳴ることがよくあった。美術の井上泰幸は、『サラリーマン出世太閤記 課長一番槍』のミニチュア撮影で1/20スケールで統一して設計されていたミニチュアを模型制作がバラバラのサイズで作ってしまい、円谷が烈火のごとく怒っていたと証言している。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 186,
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"text": "特撮の現場は未知の分野であり、撮り直しがきかず、また、若いスタッフが多く、人命に関わるような危険を伴っていたこともあって、現場の重圧感、緊張感は並大抵ではなかった。中島春雄によればそうした中、円谷はスタッフが準備している横で、「よく口を開けて居眠りをしていた」という。が、それはあくまで狸寝入りであり、そうした格好をしていても、常に現場の隅々まで目を凝らしていて、スタッフは気が抜けなかった。富岡は、円谷に質問をしようと思っても起こして怒られるのを恐れて聞けなかったと証言している。特撮でピアノ線が写ってしまったようなときには、高野宏一や有川らキャメラマンに「後で俺に釜飯おごれ」と言うのが恒例で、これらのカットは弟子たちに「釜飯カット」と呼ばれたという。また、常に仕事の姿勢として前を向いており、若いスタッフに対して、過去の仕事の話をすることは一切なかった。",
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"paragraph_id": 187,
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"text": "有川によれば、円谷が語っていた「プロとアマチュアの違い」は、アマチュアは何枚も撮った写真の中から良いものを選ぶが、プロは何を撮ってもそれ一枚が商品にならなければならないというものであり、有川がやり直しを申し出ても認められず「君の腕がそこまでだってことはわかっている」とたしなめられたという。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 188,
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"text": "反面、「仕事を離れると本当にジェントルマン」(中島春雄談)であった。仕事が終われば、スタッフを引き連れ、酒を飲みに行くことも多かった。もちろん、円谷のおごりである。前述の「釜飯」のエピソードにしても、実際に釜飯をおごらせるということはなく、こういう酒宴の口実だったそうである。身なりにも無頓着で、後段のエピソードにあるように茶目っ気たっぷりな好々爺であった。実相寺昭雄は仕事でスタッフと円谷の自宅を訪問する度に鰻を御馳走され、「僕はカレーライスで充分なんだ」とニコニコしていた姿を印象深いものとして述懐している。こうした親分肌の人柄から、有川ら門下生は円谷を「オヤジ」と呼んで慕っている。円谷が亡くなると、有川や中島など、やりがいをなくして現場から離れたスタッフは多い。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 189,
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"text": "円谷は現場ではあまり口出ししなかった。怪獣の立ち回りは中島春雄が一任されていた。反面、造形的な要求はかなり細かく、『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの顔の作りには数度にわたり指示を出している。キングギドラのデザイン検討では、神社の狛犬を3時間にわたって熱心に観察し、東宝初の本格的宇宙怪獣の顔に、東洋の龍の意匠を盛り込んだ。美術スタッフの井上泰幸は、『地球防衛軍』で「人工衛星の上部を本体と逆回転させて欲しい」という円谷のイメージ面での要求に苦労し、かなり反発したと述懐している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 190,
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"text": "一方、現場でいきなりアイディアを出すことも多く、「口を開けて居眠り」していたかと思えば、がばっと起き上がって指示を出すこともしばしばで、現場スタッフもこれに臨機応変に対応していた。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で、作画合成の光線が当たった森の樹木が、火薬の発火によって水平に切断されていくシーンなども、本番前に円谷が思いついたものである。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "特撮の現場は、徹夜が続いたり現場で仮眠をとることも多く、円谷も椅子の上で居眠りをしていることが多かったというが、誰も円谷に対して文句を言うことはなかった。中野によれば、「春ちゃん(中島春雄)と親父(円谷)は寝たら起こすな」というのが助監督の共通認識であったという。一方で、居眠りをしながらもスタッフの会話には聞き耳を立てていたといい、皆が気を遣って離れた場所で喋っていても円谷は徐々に椅子を寄せて、会話の中に出た冗談をアイデアとして採用するなどしていた。また、直前まで寝ていても本番になったらパッと起きて仕事をこなしていたという。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 192,
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"text": "1943年に袂を分かって松竹へ移籍した川上景司を、20年を経て後の円谷特技プロ設立の際に何の遺恨もなく迎え入れた度量の広さは、業界でも語り草だったという。『ウルトラマン』制作時、円谷特技プロ内で『ウルトラマン』よりも、旧知の仲でもあるうしおそうじが設立したピープロ制作の『マグマ大使』の心配ばかりしていたそうで、実際に撮影現場を訪れたこともよくあったという。また、他社作品である『大怪獣ガメラ』(大映、1965年)や『大巨獣ガッパ』(日活、1967年)などの作品には、請われる形で円谷組のスタッフが多数参加しているが、全て黙認していた。中島春雄は「ふつうは怒るよね。ほんとオヤジさんは懐が深いよ」とコメントしている。築地米三郎によると、大映の戦記映画『あゝ零戦』(1965年)では、東宝特美課の零戦のミニチュアを円谷から個人的に貸し出してもらったという。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "数々の特撮作品で組んだ本多猪四郎との息の合いは伝説的であり、ほとんど「あれ」「それ」といった言葉で演出意図を通じ合わせていたという。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 194,
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"text": "特殊美術の入江義夫によれば、ミニチュアの縮尺は円谷が決めていたが、尺貫法で指示するためメートル法に直さなければならなかったという。",
"title": "人物"
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"text": "合成を担当した飯塚定雄によれば、円谷からの発注は「感じを作れ」という一言のみで、飯塚は自身の経験の引き出しから何を使うか考える必要があったと語っている。また、円谷は仕上がったものに注文をつけることが多く、飯塚は円谷から直接褒められることは一度もなかったという。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "編集の石井清子は、編集助手を務めた映画『宇宙大戦争』で石井のミスで1カットダビングできず、円谷英二に怒鳴られ、周囲からも冷ややかな目で見られたことが合った。しかし、実際には石井の担当した箇所ではなかったが石井は言い訳をせず、後に円谷から詫びとして芝居の券をもらったという。中野は、シャイな円谷の唯一の謝り方だったのだろうと評している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "円谷の死去する直前に、中野は仕事の帰りにスタッフを引き連れて伊豆で療養中の円谷のもとを訪れ、スタッフの多くはこれが最後の対面となり、中野はなんとなく予感していたというが、一方で円谷の仕事を引き継いだ自身が訪れたことは円谷に対して良いことであったのか酷なことであったのか省みる部分もあったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "下記の作品は動画、線画が主体である。「教材映画」のほとんどは、敗戦直後にGHQを怖れて焼却され、現存するものはわずかである。",
"title": "作品歴"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "1954年公開のシリーズ第1作『ゴジラ』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。『ゴジラの逆襲』で初めて「特技監督 円谷英二」としてクレジットされた。",
"title": "作品歴"
},
{
"paragraph_id": 200,
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"text": "ゴジラ映画では、第7作の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)まで特技担当するが、この作品では、実質的に弟子の有川貞昌が特技監督を任じている。次回作である第8作の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)からは監修に回り、特技監督を正式に有川にバトンタッチした。",
"title": "作品歴"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "有川によると、この「特技監修」とは、「絵コンテ作成とフィルム編集以外を任される」ということである。「円谷特技プロ」においても、フィルム編集は円谷自身が立ち会っている。",
"title": "作品歴"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』の2作に円谷は一切関わっておらず、スタッフの円谷に対する敬意として名義を使用したものである。",
"title": "作品歴"
},
{
"paragraph_id": 203,
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"text": "※全て東宝配給作品。",
"title": "作品歴"
}
]
| 円谷 英二(つぶらや えいじ、は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクションの初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町出身。本名は圓谷 英一。 | {{参照方法|date=2014年4月}}
{{Expand English|date=2023年5月}}{{ActorActress
| 芸名 = 円谷 英二
| ふりがな = つぶらや えいじ
| 画像ファイル = File:Eiji Tsuburaya 1966.jpg
| 画像コメント = 1966年の円谷
| 本名 = 圓谷 英一(つむらや えいいち)
| 別名義 =
| 出生地 = [[福島県]][[岩瀬郡]][[須賀川町]](現:[[須賀川市]])
| 死没地 = [[静岡県]][[伊東市]]
| 国籍 = [[日本]]
| 民族 =
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1901
| 生月 = 7
| 生日 = 7
| 没年 = 1970
| 没月 = 1
| 没日 = 25
| 職業 = [[特撮監督]]、[[映画監督]]、[[撮影技師]]、[[発明家]]
| ジャンル = [[特撮映画]]
| 活動期間 = [[1919年]] - [[1969年]]
| 活動内容 = 特撮映画の特撮演出、特撮[[テレビ映画]]の製作・監修
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| 著名な家族 = [[円谷一]]、[[円谷皐]]ほか
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = {{Plainlist|
* [[ハワイ・マレー沖海戦]]
* [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]](特殊技術)
* [[ウルトラマン]](監修)
}}
}}
{{読み仮名|'''円谷 英二'''|つぶらや えいじ|[[1901年]]〈[[明治]]34年〉{{R|大百科M120}}[[7月7日]]{{efn|name="誕生日"|[[戸籍]]上は、7月10日生まれとなっている。[[#誕生日]]を参照。}} - [[1970年]]〈[[昭和]]45年〉[[1月25日]]{{R|大百科}}}}は、[[日本]]の[[特撮監督]]{{R|全史541}}、[[映画監督]]、[[撮影技師]]、[[発明家]]、[[円谷プロダクション|株式会社円谷特技プロダクション]](現在の円谷プロダクション)の初代社長。[[福島県]]{{R|大百科M120}}[[岩瀬郡]][[須賀川町]](現:[[須賀川市]])出身{{R|全史541}}。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち){{efn|円谷英一とも表記される{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科M120|ゴジラ大全集138|特撮世界154}}}}。}}。
[[ファイル:Eiji Tsuburaya Signature.svg|サムネイル|サイン]]
== 概要 ==
[[昭和]]における[[特殊撮影]]技術の第一人者であり{{R|入門160}}、独自に作り出した技術で[[特撮映画]]界に多大な功績を残したことから、'''特撮の神様'''とも呼ばれる{{R|:0|大百科M135}}。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた[[明治時代]]の黎明期から、映画斜陽期を迎えた[[東宝]]解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
{{要出典範囲|一家は全員[[カトリック教会|カトリック]]教徒で、英二の[[洗礼名]]は[[ペトロ]]。墓所は[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]のカトリック府中墓地にある。|date=2023年2月}}
[[1957年]]の[[東宝特撮]]映画『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』などでは、'''圓谷英二'''の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた{{R|ゴジラ大全集50|特撮世界14}}。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる{{R|特撮世界14}}。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1901年]]([[明治]]34年)7月7日、福島県[[岩瀬郡]][[須賀川町]](現:[[須賀川市]])で生まれた{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630}}}}{{efn|name="誕生日"}}。生家は大束屋(おおつかや)という[[糀]]業を営む商家だった{{R|特撮世界10}}。
[[1904年]](明治37年)、母セイが次男出産後に病死([[享年]]19){{R|全怪獣|特撮世界10}}。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた{{R|全怪獣|特撮世界10}}。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた{{R|特撮世界10}}。ナツの家系には、江戸中期に日本へ[[銅版画]]や[[絵画|洋画]]を持ち込んだ[[亜欧堂田善]]がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた{{R|特撮世界10}}。
[[1908年]](明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。
[[1910年]](明治43年)、東京の代々木錬兵場で[[徳川好敏]]、[[日野熊蔵]]両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は[[パイロット (航空)|操縦士]]に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|特撮世界10|マガジン20202|シリーズ大解剖70}}}}。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。
[[1911年]](明治44年)、巡業の[[活動写真|活動大写真]]で『[[桜島]]爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した{{R|特撮世界10}}。
[[1912年]]([[大正]]元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『[[福島民友]]』の取材を受ける{{R|特撮世界10}}。
[[1914年]](大正3年)、尋常小学校高等科に入学。
[[1916年]](大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した{{R|特撮世界10}}。米国人飛行士[[アート・スミス]]が東京で[[曲技飛行|曲芸飛行]]を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。
同年10月に上京{{R|特撮世界10}}。[[京橋区]]の[[月島機械|月島機械製作所]]に見習い入社するが、一月余りで退社{{R|全怪獣|UPM0630}}{{efn|書籍『円谷英二特撮世界』では「半年ほど」と記述している{{R|特撮世界10}}。}}。
=== 操縦士を夢見て日本飛行学校へ ===
[[1916年]](大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て[[玉井兄弟#兄・玉井清太郎|玉井清太郎]]と[[相羽有]]が8月に創設したばかりの[[日本飛行学校]]に第一期生として入学{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。費用は当時の金で600円{{efn|新築の家が2軒建てられた値段。}}したが、叔父の一郎が工面してくれた。
この第一期生応募者には[[稲垣足穂]]もいた。稲垣は自書『[[ヒコーキ野郎たち]]』でその際の円谷に言及しており{{Full|date=2023年11月}}、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。
[[1917年]](大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した[[大正6年の高潮災害|台風による高潮]]で格納庫もろとも流失。同校は活動停止<ref>{{Cite book |和書 | title=京急グループ110年史 最近の10年 | publisher=[[京浜急行電鉄]] | year=2008 | page=21}}</ref>に陥り、円谷は夢は破れて退学した{{Refnest|group="出典"|name="1917年"|{{R|全怪獣|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。
=== 進学と考案 ===
同年、東京・神田の電機学校(現在の[[東京電機大学]])の夜間部に入学{{R|group="出典"|1917年}}。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する[[内海玩具製作所]]という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり{{R|group="出典"|1917年}}、「自動スケート(スケーター{{R|本多全仕事106}})」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した{{R|特撮世界10}}。後の[[公職追放]]中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」{{efn|現在の[[証明写真]]ボックス。}}なども含まれる{{R|本多全仕事106}}。
=== 映画界へ ===
[[ファイル:Eiji Tsuburaya 1934.jpg|サムネイル|262x262ピクセル|撮影用クレーンに乗る円谷英二(1934年) 国立映画アーカイブ所蔵 (2/9枚)]]
[[1919年]](大正8年)、18歳{{R|特撮世界154|UPM0630}}。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の[[特許]]料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて[[飛鳥山]]に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|本多全仕事106|特撮世界10|UPM0630}}}}。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の[[天然色活動写真]]株式会社(天活)の[[枝正義郎]]に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|大百科|大百科M120|ゴジラ大全集50|本多全仕事106|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。
同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影{{R|特撮世界10}}。
[[1920年]](大正9年)、19歳{{R|特撮世界154}}。神田電機学校を卒業{{R|特撮世界10}}。天活が[[国際活映]](国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|特撮世界10|UPM0630}}}}。
国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による[[空中撮影]]を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した{{R|マガジン20202|UPM0630}}。
[[1921年]](大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、[[会津若松歩兵連隊]]で通信班に配属された{{R|特撮世界10|UPM0630}}。
[[1923年]](大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京{{R|特撮世界10}}。東京の撮影所は直前の[[関東大震災]]で壊滅状態であったが、国活に復帰{{R|UPM0630}}して『延命院の傴僂男』を撮影{{efn|書籍『東宝特撮映画全史』では、この時点で小笠原プロに所属していたと記述している{{R|全史541}}。}}。しかし、この作品は国活の凋落により未公開に終わった{{R|全史541|ゴジラ大全集50}}。
[[1924年]](大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、[[小笠原明峰]]の[[小笠原プロダクション]]に移籍した{{Refnest|group="出典"|name="生涯1"|{{R|ゴジラ大全集50|特撮世界10|UPM0630}}}}。
[[1926年]](大正15年)、25歳{{R|特撮世界154}}。[[衣笠貞之助]]、[[杉山公平]]らの[[衣笠映画聯盟]]設立([[松竹]]傘下)とともに、連盟に所属{{R|特撮世界10|UPM0630}}。『[[狂った一頁]]』の撮影助手を担当した{{R|全史541|特撮世界10}}。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「'''テヘラ亭'''」とあだ名を付けた。
[[1927年]](昭和2年)、26歳{{R|特撮世界154}}。林長二郎([[長谷川一夫]])初主演作である『[[稚児の剣法]]』(監督:[[犬塚稔]])でキャメラマンを担当{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|ゴジラ大全集50|特撮世界10|UPM0630}}}}。林を多重[[フェード|オーバーラップ]]させる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れた効果が大いに評価され、大成功を果たした{{R|マガジン20202|UPM0630}}。
[[1928年]](昭和3年)、27歳{{R|特撮世界154}}。正式に[[松竹京都撮影所|松竹京都下加茂撮影所]]にキャメラマンとして入社{{Refnest|group="出典"|{{R|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630}}}}。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる{{R|特撮世界10}}。『十字路』([[衣笠貞之助]]監督)を、[[杉山公平]]とともに撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受け、あまり待遇のいい立場ではなかった{{R|マガジン20202}}。
[[1930年]](昭和5年)、29歳{{R|特撮世界154}}。自費を投入して、移動撮影車や木製の撮影用[[クレーン]]を自作する{{R|UPM0630}}。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|特撮世界154|円谷組218}}}}し、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構えた。
[[1931年]](昭和6年)、30歳{{R|特撮世界154}}。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平と共同で撮影{{R|特撮世界10|UPM0630}}。[[ホリゾント]]を考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う{{R|UPM0630}}。4月23日、長男・[[円谷一|一]]が誕生{{R|特撮世界10}}。
このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「[[フェイド・イン]]」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景へのマット画の合成、[[ミニチュア]]合成場面の活用{{R|UPM0630}}、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行っている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「'''スモーク円谷'''」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。
「一番のスタアである[[長谷川一夫|林長二郎]]の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内や俳優から反発を受け、撮影待遇を、セットも[[ロケーション撮影|ロケ]]も格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は[[歌舞伎]]の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目[[歌舞伎]]役者たちの白塗りの顔をベタ光でくっきり映すものであり、こうした進歩的かつリアリティ重視の撮影手法はタブーだった{{R|UPM0630}}。
円谷はこの冷遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)の開発や精度の向上したミニチュアワークを投入したりした{{R|全史541|UPM0630}}。本来は、このような冷遇状況から生まれた工夫だった。
またこのころ、研究資金と生活費の足しに、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を[[四条通]]の[[大丸|大丸百貨店]]に売り込み、大丸二階に設置された写真ボックスは大評判になった。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。
[[1932年]](昭和7年)、31歳{{R|特撮世界154}}。「円谷英二」と名乗るようになる{{R|特撮世界154|UPM0630}}。兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だったため、遠慮して「英二」と名乗ったという{{R|特撮世界10|UPM0630}}。
同年、[[杉山公平]]の音頭取りの下、[[酒井宏]]、[[碧川道夫]]、[[横田達之]]、[[玉井正夫]]ら京都の映画人たちと[[日本カメラマン協会]]を結成。11月、[[犬塚稔]]とともに[[日活]][[太秦]]撮影所に引き抜かれて移籍{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|ゴジラ大全集50|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630}}}}。
[[1933年]](昭和8年)、32歳{{R|特撮世界154}}。日活入社初作品として、[[大河内傳次郎]]の『[[長脇差風景]]』を撮影{{R|特撮世界154}}。
同年、映画『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』が日本で公開された。試写で同作を鑑賞した円谷は、衝撃を受け、[[フィルム]]を独自に全巻取り寄せ、一[[齣|コマ]]一コマを分析し入念に研究した{{Refnest|group="出典"|name="1933年"|{{R|全怪獣|特撮世界10|UPM0630}}}}。
この年の末に日活幹部立会いの下、日活撮影所に設置した[[スクリーン・プロセス]]の設備のテストを行うが、不調に終わった{{R|group="出典"|1933年}}。
[[1934年]](昭和9年)、33歳{{R|特撮世界154}}。『[[浅太郎赤城颪]]』でスタアだった[[市川百々之助]]の顔に「[[ローキー照明]](キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の上層部と対立し、同社を退社した{{R|group="出典"|生涯1}}。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活では[[バスター・キートン]]に引っ掛けて「'''ロー・キートン'''」と呼ばれていた{{efn|前年に[[ピー・シー・エル映画製作所|P.C.L]]へ入社していた[[本多猪四郎]]は、当時「円谷のローキー撮影」は有名になっていたと証言している{{R|全史60|本多全仕事106}}。}}。
同年、円谷の特殊技術に注目した[[大沢善夫]]の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身である[[J.O.スタヂオ|JOトーキー]]に移る{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|ゴジラ大全集50|特撮世界10|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}{{efn|書籍『ゴジラ大百科 新モスラ編』では、「昭和10年」と記述している{{R|大百科M120}}。}}。
10月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用した{{R|全怪獣|特撮世界10}}。
[[1935年]](昭和10年)、34歳{{R|特撮世界154}}。2月から8月にかけ[[連合艦隊]]の[[練習艦]]「[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]」に乗艦、[[ハワイ]]から[[フィリピン]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]を回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『[[赤道]]を越えて』を演出{{R|特撮世界10|UPM0630}}。これが監督第1作となった{{R|特撮世界10|UPM0630}}。5月10日、次男・[[円谷皐|皐]]が誕生{{R|特撮世界154}}。[[政岡憲三]]と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『[[かぐや姫 (1935年の映画)|かぐや姫]]』を撮影{{Refnest|group="出典"|{{R|:0|全史541|特撮世界10|UPM0630}}}}。
[[1936年]](昭和11年)、35歳{{R|特撮世界154}}。[[ナチス・ドイツ]]の宣伝相・[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の指示で製作された日独合作映画『[[新しき土]]』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|入門160|特撮世界155|UPM0630}}}}。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督の[[アーノルド・ファンク]]らドイツ側スタッフを唸らせた{{R|特撮世界14}}。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。
また、同時に、『日本スキー発達史』([[澤蘭子]]主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のまま公開されなかった。
同年、人気芸者・[[市丸]]の主演2作目([[薄田研二]]共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督としてデビュー{{R|全史541}}。撮影、編集すべてを手掛けた。
=== 東宝入社と大東亜戦争 ===
[[1937年]](昭和12年)、36歳{{R|特撮世界155}}。9月10日を以て、[[写真化学研究所|株式會社冩眞化学研究所]]、[[ピー・シー・エル映画製作所|P.C.L.映画製作所]]、[[東宝映画配給]]の3社と、円谷の所属する[[J.O.スタヂオ|JO]]が合併し、「[[東宝|東宝映画株式会社]]」が設立された{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集50|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。
これに伴い、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[映画産業]]の中心地[[ハリウッド]]視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の[[森岩雄]]に招かれ、同年11月に東京の砧にあったピー・シー・エル撮影所を使用し、「東宝東京撮影所」に移転{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|来襲174|特撮世界14|マガジン20202|UPM0630}}}}。ところが、撮影技術を理解できない東京撮影所の撮影技師たちから「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽なボイコットを受け{{R|UPM0630}}、撮影できなかった。そこで、特殊技術を痛感していた森は、円谷のために一計を案じ、11月27日付で'''特殊技術課'''を設立して、課長待遇で迎えることにした{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科|円谷組300|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり{{R|特撮世界16|UPM0630}}、後に円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している{{要出典|date=2021年12月}}。ここで、円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初の[[オプチカル・プリンター]]の研究を開始した{{R|UPM0630}}。
同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した東京・[[祖師谷]]の一戸建て住居に移住。
[[1939年]](昭和14年)、38歳{{R|特撮世界155}}。特殊技術課に隣接する線画室に、[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]が採用{{R|特秘3年表|UPM0630}}された。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、個人的に円谷のオプチカル・プリンターの実験の助手を務めた{{R|特秘3年表|UPM0630}}。
この年、[[陸軍航空本部]]の依頼を受け、嘱託として[[埼玉県]]の[[熊谷陸軍飛行学校]]で飛行機操縦の'''教材映画'''(「'''文化映画'''」)を演出兼任で撮影{{R|特撮世界155|UPM0630}}。『[[飛行理論]]』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、[[アクロバット]]飛行も披露し、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『[[飛行機は何故飛ぶか]]』『グライダー』にも活用された。また、『[[嗚呼南郷少佐]]』を監督(撮影兼任)した。
夏ごろから、円谷は特技課に[[川上景司]]{{R|特撮世界16|UPM0630}}、[[奥野文四郎]]{{R|特撮世界20|UPM0630}}、[[向山宏]]{{R|特撮世界20|UPM0630}}、[[天羽四郎]]、[[西浦貢]]{{R|UPM0630}}、[[渡辺善夫]]{{R|UPM0630}}、[[上村貞夫]]{{R|UPM0630}}らを招き、人材の充実を図った。
[[1940年]](昭和15年)、39歳{{R|特撮世界155}}。5月に、『[[皇道日本]]』で撮影を担当。同じく、『[[海軍爆撃隊]]』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊技術撮影」のクレジットが冠された{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集50|ゴジラ大全集138|特撮世界14|円谷組300|UPM0630}}}}。
この『海軍爆撃隊』は、文化映画部部長[[松崎啓次]]が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである{{R|UPM0630}}。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時には大評判となった。
同年9月、『[[燃ゆる大空]]』で奥野とともに特撮を担当{{R|UPM0630}}、'''日本カメラマン協会特殊技術賞'''を受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|ゴジラ大全集138|特撮世界155|円谷組300}}}}。
[[1941年]](昭和16年)、40歳。12月8日、[[大東亜戦争|太平洋戦争]]が勃発したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による[[戦争映画]]を中心とした[[戦意高揚映画]]を制作することになった。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく{{R|ゴジラ大全集50}}。
同年、『[[上海の月]]』([[成瀬巳喜男]]監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。
[[1942年]](昭和17年)、41歳{{R|特撮世界155}}。[[阿部豊]]監督作品『[[南海の花束]]』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら[[絵コンテ]]を構成しており、特に[[落雷]]を受けた海面が爆発する描写が圧巻であるとの評判を受けた。
同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』が公開され、大ヒットとなった{{R|特撮世界14}}。撮影中から[[皇族]]や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールの[[真珠湾攻撃|ハワイ・真珠湾]]の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作品で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|特撮世界155|円谷組300}}}}。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任した{{efn|資料によっては、就任は「昭和16年12月1日付」と記載されている{{R|全怪獣|ゴジラ大全集138}}。}}。この作品で美術スタッフに[[渡辺明 (美術監督)|渡辺明]]{{R|特撮世界20}}、[[利光貞三]]が加入した。
同年、国産初の[[オプチカル・プリンター]]を完成させた{{R|全怪獣}}。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成ができたという。
[[1943年]](昭和18年)、42歳。『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、[[松竹映画]]が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹に移籍、円谷率いる特技課は大打撃を被る。
[[1944年]](昭和19年)、43歳{{R|特撮世界155}}。『[[加藤隼戦闘隊 (映画)|加藤隼戦闘隊]]』『[[雷撃隊出動]]』『[[あの旗を撃て コレヒドールの最後]]』の特撮を担当。また、大映に出向し、『[[かくて神風は吹く]]』を担当{{R|特撮世界20}}。2月12日、三男・粲が誕生{{R|特撮世界155}}。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に[[防空壕]]を作った。
同年、東宝は創立記念日に、[[山本嘉次郎]]とともに円谷を功労者表彰した。
同年、東宝が日本初の特撮専門スタジオである航空教育資料製作第二工場を設立し、工場長に就任{{R|特撮世界14}}。軍の依頼により新兵教育用の教材映画を手掛けた{{R|特撮世界14}}。敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された{{R|ゴジラ大全集50}}。
[[1945年]](昭和20年)、44歳{{R|特撮世界155}}。『[[勝利の日まで]]』『[[間諜海の薔薇]]』『[[北の三人]]』の特撮を担当、また、[[大映京都撮影所|大映京都]]で『[[生ける椅子]]』を担当。
同年8月1日、[[召集令状]]を受け、仙台連隊に入隊するも15日に終戦{{R|全怪獣|特撮世界155}}。除隊後、風刺喜劇『[[東京五人男]]』([[斎藤寅次郎]]監督)の特殊技術を担当{{R|特撮世界14|UPM0630}}。
[[1946年]](昭和21年)、45歳。東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当{{R|UPM0630}}。
[[1947年]](昭和22年)、46歳。撮影所は前年3月からこの年10月まで[[東宝争議]]に突入。[[労働組合]]は[[バリケード]]を組み、円谷が戦時中に使用した、[[零式艦上戦闘機|零戦]]のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画制作どころではなくなり、円谷も『[[東宝千一夜]]』と『[[九十九人目の花嫁]]』の二本の特撮担当のみだった{{R|特撮世界22}}。
1月に東宝は「部課制」を廃止し、「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分割された。円谷はこの「職区長」として「[[南旺映画|南旺撮影所]]」の所長に任命された。しかし、政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気がさした円谷は、この役職を捨て、東宝を退社し、独立した{{R|UPM0630}}。
また、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を退社した[[有川貞昌]]は、戦時中に観て感激した『[[雷撃隊出動]]』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、[[海軍航空隊]]の[[対潜哨戒機]]パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合し、その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし、乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、後に円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督になった。
=== 公職追放と東宝復帰 ===
[[1948年]](昭和23年)、47歳{{R|特撮世界155}}。3月に[[連合国軍最高司令官総司令部]]の[[公職追放]]の指定により「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、公的な立場での仕事が続けられなくなり、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|ゴジラ大全集52|特撮世界14|円谷組300|超常識152|マガジン20202|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散した。
6月、[[福井駅 (福井県)|福井駅]]前の[[大和 (百貨店)|大和百貨店]]から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し、出荷するも、折しも福井を襲った[[福井地震]]によって、駅に到着した全機を失うという憂き目に遭った<ref>{{Cite book|和書 |author=鈴木和幸 |title=大空への夢 : 特撮の神様円谷英二伝 |publisher=大月書店 |date=2019-1-15 |page=140-141 |isbn=9784272612376}}</ref>。鷺巣富雄は、この時の円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。
フリーとなった円谷は、東京・祖師谷の自宅の庭に[[プレハブ]]を建て、'''円谷特殊技術研究所'''を設立{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|ゴジラ大全集52|特撮世界14|円谷組300|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}{{efn|正式な[[法人]]ではない{{R|特撮世界22}}。}}、外部スタッフとして『富士山頂』([[新東宝]])、『[[肉体の門 (1948年の映画)|肉体の門]]』([[吉本興業|吉本プロ]])、『[[颱風圏の女]]』([[松竹大船]])の特撮技術パートを担当{{R|特撮世界22|マガジン20202|シリーズ大解剖70}}。同研究所は他に[[大映京都撮影所|大映京都]]、新東宝、松竹大船などの映画の特殊技術パートを担当したが{{R|UPM0630}}、ノンクレジットも多く、全容は不明である。
映画音楽の[[伊福部昭]]によれば、この年に[[月形龍之介]]との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後、飲み友達になった。円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。2人は『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。
[[1949年]](昭和24年)、48歳{{R|特撮世界155}}。京都に赴き、[[大映京都撮影所]]で『[[透明人間現わる]]』『[[幽霊列車 (映画)|幽霊列車]]』の特撮シーンを担当{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集52|来襲174|特撮世界155|円谷組300}}}}。大映は『透明人間現わる』を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意し、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出した。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念した{{R|特撮世界14}}。
[[1950年]](昭和25年)、49歳{{R|特撮世界155}}。『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』の特撮を担当{{R|特撮世界26}}。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの'''円谷特殊技術研究所'''を移設{{R|特撮世界26|円谷組300}}。東宝の本編のタイトルや予告編を制作するようになり{{R|特撮世界155|マガジン20202}}、主に合成処理を請け負った。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、[[東横映画]]にいた[[富岡素敬]]が、撮影助手として研究所員となった。富岡、有川を合わせて4~5人の陣容だった。
円谷は昭和25年から29年までの東宝全ての本編・予告編のタイトル部分を撮影しており{{R|UPM0630}}、東宝映画の'''東宝マーク'''を制作したのもこの時期である{{R|特撮世界26}}。
この年の『[[佐々木小次郎]]』([[稲垣浩]]監督)での特撮が東宝作品の復帰第1作となるが{{efn|書籍『特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春』では、『[[暁の脱走]]』を復帰第1作としている{{R|円谷組300}}。}}、この時点ではまだ嘱託扱いだった{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|ゴジラ大全集52|特撮世界26|マガジン20202|UPM0630}}}}。
[[1952年]](昭和27年)、51歳{{R|特撮世界155}}。2月に、日本独立後の公職追放解除を受けた{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|特撮世界155|マガジン20202|シリーズ大解剖70}}}}。同じく公職追放を受けていた[[森岩雄]]が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『[[港へ来た男]]』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集138|特撮世界155|マガジン20202|UPM0630}}}}。
5月、企画部に「[[クジラ]]の怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込んだ。
7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任{{R|特撮世界34}}。新しいシステムの導入として、[[田中友幸]]を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。
[[1953年]](昭和28年)、52歳{{R|特撮世界155}}。[[東映]]で『[[ひめゆりの塔#ひめゆりの塔をテーマとした作品|ひめゆりの塔]]』、松竹で『[[君の名は#君の名は(第一部)|君の名は(第一部)]]』、[[重宗プロ]]他で『[[雲ながるる果てに]]』を担当{{R|特撮世界26}}。既に東宝に復帰していた状況で担当したこれらの他社作品は、復帰前に受注したものとみられる{{R|特撮世界26}}。
この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備{{R|特撮世界34}}。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させた。また、「円谷特技研究所」の[[有川貞昌]]、[[富岡素敬]]、[[真野田陽一]]、[[樺島幸男]]らを正式に撮影所に同年に再開された東宝特殊技術課に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集52|特撮世界34|マガジン20202}}}}。
こうした中、満を持して戦記映画『[[太平洋の鷲]]』が公開された{{Refnest|group="出典"|{{R|特撮世界34|UPM0630|シリーズ大解剖70}}}}。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な[[絵コンテ]])が導入された、初の特撮映画である{{R|ゴジラ大全集52|特撮世界34}}。この映画に特技監督として招かれた円谷は、{{要出典範囲|松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり|date=2021年12月}}、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の[[本多猪四郎]]とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|来襲174|特撮世界34}}}}。
この年、日本初の[[立体映画]](トービジョン)作品、『[[飛び出した日曜日]]』([[村田武雄]]監督)、『[[私は狙われている]]』([[田尻繁]]監督)で立体撮影を担当。
また、企画部に「[[インド洋]]で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込んだ。[[田中友幸]]はこれが『ゴジラ』の草案の一つになったとしている。
[[1954年]](昭和29年)、53歳{{R|特撮世界155}}。田中友幸によって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、日本初の本格的特撮[[怪獣映画]]『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』となった{{R|ゴジラ大全集52|円谷組300}}。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。この『ゴジラ』から、[[飯塚定雄]]、[[井上泰幸]]、[[入江義夫]]、[[開米栄三]]らが特技課に加入。
[[11月3日]]、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒットとなった{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|特撮世界155|超常識152}}}}。[[日劇]]ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は[[邦画]]初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた{{R|超常識152}}。当作で「日本映画技術賞」を受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|大百科|特撮世界34}}}}。
[[1955年]](昭和30年)、54歳{{R|特撮世界155}}。『[[ゴジラの逆襲]]』で、'''特技監督'''の肩書を与えられた{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科M135|特撮世界34|円谷組300|超常識152|UPM0630}}}}。
その後、『[[獣人雪男]]』『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』『[[大怪獣バラン]]』『[[宇宙大戦争]]』『[[モスラ]]』『[[世界大戦争]]』『[[キングコング対ゴジラ]]』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。
[[1956年]](昭和31年)、55歳{{R|特撮世界156}}。日本初の総天然色特撮作品『[[白夫人の妖恋]]』を担当{{R|特撮世界34|円谷組300}}。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『[[空の大怪獣 ラドン]]』を担当{{R|特撮世界34|円谷組300}}。円谷はチーフキャメラマン[[有川貞昌]]の意見もあり、これらの作品に[[イーストマン・カラー]]のフィルムを使用。以降、これが定番フィルムとなった。
また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝で賄いきれない合成処理や、人形アニメ撮影などを行った。研究員の収入は、円谷の個人負担だった。
[[1957年]](昭和32年)、56歳{{R|特撮世界156}}。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の'''特殊技術課'''を組み入れて再編成{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|特撮世界156|円谷組300}}}}。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞{{R|全史541|特撮世界156}}。
[[1958年]](昭和33年)、57歳{{R|特撮世界156}}。日米合作企画『大怪獣バラン』を担当{{R|特撮世界156}}。『バラン』から、特殊美術課スタッフとして[[村瀬継蔵]]が円谷組に正式に参加した。
[[1959年]](昭和34年)、58歳{{R|特撮世界156}}。6,200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・[[シネマスコープ|シネスコ]]用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『[[日本誕生]]』で日本初使用{{R|特撮世界34|円谷組300}}。「日本映画技術賞」を受賞し、[[映画の日]]に特別功労表彰された{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|ゴジラ大全集58|特撮世界34}}}}。
この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に[[佐川和夫]]、[[中野稔]]が研究所生として参加。二人はこの後、東宝特技課に入社して『日本誕生』の現場に加わっている。佐川によれば、この時期[[金城哲夫]]も研究所にいたという。
[[1960年]](昭和35年)、59歳{{R|特撮世界156}}。当時プロデュース業に乗り出していた[[カーク・ダグラス]]が、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー社]]を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかけた。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していた[[オックスベリー]](Oxberry)社の合成機器[[オプチカル・プリンター]]の提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、{{要出典範囲|先んじて|date=2016年5月}}アニメ会社[[ピー・プロダクション|ピープロ]]を設立していた鷺巣富雄に協力を依頼{{R|特秘3年表}}。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展したが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫{{R|特撮世界152|特秘3年表}}。
同年、公開予定の『[[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]]』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千[[坪]]の特撮用大プールが完成{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|特撮世界72|円谷組300}}}}。また、妻・マサノの熱心な勧めでカトリック教徒になった{{R|特撮世界72}}。
[[1961年]](昭和36年)、60歳{{R|特撮世界156}}。前年に続き、アニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画を複数検討。長編実写・動画映画『双子の一寸法師』を企画{{R|特秘3年表}}。
同年、世界同時公開を目指して制作された『モスラ』が公開{{R|特撮世界72}}。マスコミから「世界のツブラヤ」と称された{{R|特撮世界72}}。
[[1962年]](昭和37年)、61歳{{R|特撮世界156}}。アメリカに外遊し、ハリウッドの映画会社各社を歴訪した。また、東宝撮影所内に円谷念願の特撮専用ステージである第11ステージが完成{{R|特撮世界156|円谷組300}}。[[中野昭慶]]、[[川北紘一]]が円谷組に加わった。
この年、[[大韓民国]]との合作映画『[[大沈清伝]]』の特撮を担当。また、『[[オリンピックショウ 地上最大のクイズ]]』に映画キャンペーンのため、ゲスト出演した。
=== テレビ界へ ===
[[ファイル:Tsuburaya Eiji02.jpg|thumb|left|『モスラ』撮影時の円谷英二]]
[[1963年]](昭和38年)、62歳{{R|特撮世界156}}。東宝との専属契約を解除。同年、東宝の出資と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の後押しを受け、'''[[円谷プロダクション|株式会社円谷特技プロダクション]]'''を設立、社長に就任{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|大百科|特撮世界134|円谷組300}}}}。フジテレビの映画部にいた次男・皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である[[高野宏一]]、[[中野稔]]、[[佐川和夫]]、[[金城哲夫]]らをスタッフに招いた。同プロの初仕事として、[[日活]]・[[石原プロモーション|石原プロ]]提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した{{R|特撮世界152}}。
この年、フジテレビは、皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込んだ。最終的に局の事情で、企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だったため、[[TBSテレビ|TBS]]の映画部にいた長男・一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうことにした{{R|特撮世界134}}。
また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ900」が設置された{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集62|特撮世界156|円谷組300}}}}。
[[1964年]](昭和39年)、63歳{{R|特撮世界157}}。日米合作映画『[[勇者のみ (1965年の映画)|勇者のみ]]』の撮影現場の視察に、[[渡辺明 (美術監督)|渡辺明]]、[[有川貞昌]]、[[本多猪四郎]]とともにハワイを訪れた。また、[[よみうりランド]]の水中バレエ劇場「竜宮城」開場に併せ、特殊美術を担当。[[高山良策]]の造形物を目に留め、この縁で高山は円谷特技プロと関わるようになった。
一方、TBSでは、長男・一の下、前年に円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『[[ウルトラQ]]』となり{{R|特撮世界134}}、有川貞昌や[[小泉一]]、[[川北紘一]]ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制で、9月27日より制作が開始された。
[[1965年]](昭和40年)、64歳{{R|特撮世界157}}。『[[太平洋奇跡の作戦 キスカ]]』『[[怪獣大戦争]]』で「日本映画技術賞」を受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|ゴジラ大全集64|特撮世界157|円谷組300}}}}。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写なのか?特撮なのか?」と議論が起こった。
[[1966年]](昭和41年)、65歳{{R|特撮世界157}}。1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始{{R|特撮世界157}}。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組制作もあり、同番組は大ヒットとなった{{R|特撮世界134}}。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「[[第一次怪獣ブーム|怪獣ブーム]]」を巻き起こすことになった{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|大百科|特撮世界134}}}}。
同年、TBSのドキュメント番組『[[#円谷英二を題材とした作品|現代の主役 ウルトラQのおやじ]]』や、『ウルトラマン前夜祭』に出演。
[[ファイル:Eiji Tsuburaya and Ultraman.jpg|サムネイル|150px|ウルトラマン (左) で怪獣ブームを演出した円谷英二(1966年)]]
続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『[[ウルトラマン]]』を放映開始{{R|特撮世界134}}。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターは、さらに怪獣ブームを巻き起こした。これらのヒットにより、「円谷英二」の名はお茶の間にまで知れ渡り、'''特撮の神様'''と呼ばれるようになった。
また、[[日本万国博覧会|大阪万博]]の三菱未来館の映像担当が決定し、[[カナダ]]へ外遊し、[[モントリオール万国博覧会]]を視察{{R|特撮世界72}}。この外遊中に招かれて、アメリカで『[[エド・サリヴァン・ショー]]』に出演、また、[[イギリス]]にも歴訪し、[[ジェリー・アンダーソン|ジェリー]]&[[シルヴィア・アンダーソン]]夫妻らのAPフィルムズを訪れ、『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』の特撮現場を見学。翌年に、円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『[[マイティジャック]]』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せた。
[[1967年]](昭和42年)、66歳{{R|特撮世界157}}。『[[キングコングの逆襲]]』が公開{{R|特撮世界157}}。円谷は戦前に研究した『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』の1シーン(恐竜との格闘)を、完全にリメイクしている。
また、この年の『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』で「特技監修」になり、弟子の有川に特撮監督の座を譲った{{R|特撮世界72}}。
[[1968年]](昭和43年)、67歳{{R|特撮世界157}}。ハリウッドの特撮監督{{仮リンク|リンウッド・ダン|en|Linwood G. Dunn}}が来日、東宝撮影所の円谷を表敬訪問した。
同年、株式会社円谷特技プロダクションを、'''株式会社円谷プロダクション'''に社名変更した{{R|特撮世界134}}。
[[1969年]](昭和44年)、68歳{{R|特撮世界157}}。自身最後の特撮劇場作品となる『[[日本海大海戦]]』が公開{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|大百科|特撮世界72}}}}。円谷は、翌年の[[日本万国博覧会|大阪万博]]の[[三菱未来館]]のサークロマ撮影で、[[鳴門の渦潮]]を訪れていた最中に倒れ、入院{{R|TCMP96}}。監修としてクレジットされている『[[ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃]]』は、直接関与していない{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集68|東宝特撮映画大全集135|TCMP96}}}}。12月に[[静岡県]][[伊東市]]浮山の[[別荘]]へ居を移す。
同年、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を最後に、東宝は特殊技術課の廃止を決定。
[[ファイル:Eiji Tsuburaya's Gravepost.jpg|thumb|130px|円谷家墓標<br />(カトリック府中墓地)]]
=== 死去と没後 ===
1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻・マサノと静養中、[[気管支]][[喘息]]の発作に伴う[[狭心症]]により死去{{Refnest|group="出典"|{{R|ゴジラ大全集68|特撮世界157|シリーズ大解剖70}}}}。68歳没。最期まで映画『ニッポン・ヒコーキ野郎』{{R|来襲174|特撮世界152}}と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。本多は、入院中は絶対安静のため見舞いを遠慮していたが、入院前に3月になったら次の仕事として従来の作品とは趣向を変えた新しい怪獣映画の打ち合わせをする約束をしており、別荘へ移った後も円谷がそれについて言及していたことを伝え聞いていたという{{R|本多全仕事106}}。
{{要出典範囲|1月30日|date=2022年1月}}、日本政府より[[勲四等瑞宝章]]を授与{{R|全史541}}。
2月2日、[[藤本真澄]]を葬儀委員長として、[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]で友人葬が行われた{{R|ゴジラ大全集68}}。
3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止{{efn|[[中野昭慶]]や[[鳥海満]]は、円谷が亡くなったため、特殊技術課を解体するという動きだったと証言している{{R|円谷組173|TCMP96}}。}}。
東宝は、彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。機能の一部は子会社の東宝映画などに移管されるものの、本体は勝プロなどを含めた外部作品配給会社に転換した。
2019年1月11日、「円谷英二ミュージアム」が故郷の須賀川市に開館した<ref>[https://s-tette.jp/museum/index.html 円谷英二ミュージアム](2019年1月18日閲覧)。</ref>。
2021年、出身地の須賀川市は同郷の[[円谷幸吉]]とともに円谷英二に「名誉市民」号の贈与を決定し<ref>{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20210407khn000023.html|title=「二人の円谷」須賀川の名誉市民に 幸吉選手と英二監督|newspaper=[[河北新報]]|date=2021-04-07|accessdate=2021-05-01}}</ref>、同年7月7日に授与式が実施された<ref>{{Cite news|url=https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021070888234|title=「2人の円谷」に名誉市民賞 「特撮の神様」円谷英二監督と五輪銅メダル円谷幸吉選手 福島県須賀市|newspaper=福島民報|date=2021-07-08|accessdate=2021-07-08}}</ref>。
=== 親族 ===
* 妻:[[円谷マサノ]]
* 長男:[[円谷一]](円谷プロ2代目社長)
** 孫:[[円谷昌弘]](円谷プロ5代目社長)
** 孫:[[円谷英明]](円谷コミュニケーションズ社長>円谷プロ6代目社長>円谷ドリームファクトリー社長)
*** 曽孫:[[円谷洋平]]([[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM株式会社]] 執行役員)
** 孫:[[円谷浩]](俳優)
** 孫:[[又紀仁美|円谷一美]](シンガーソングライター 又紀仁美)
* 次男:[[円谷皐]](円谷プロ3代目社長>2代目会長・円谷音楽出版(現:円谷ミュージック)初代代表取締役・円谷エンタープライズ初代社長)
** 孫:[[円谷一夫]](円谷プロ4代目社長>3代目会長>8代目社長>名誉会長)
* 三男:[[円谷粲]](円谷映像(円谷エンターティメント)社長>円谷プロ副社長)
** 孫:[[円谷優子]](歌手)
* 義弟:[[荒木秀三郎]](東宝キャメラマン)
== 円谷とゴジラ映画 ==
[[File:SF-Magazine-1964-January-1.jpg|thumb|240px|円谷とゴジラ]]
別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった[[有川貞昌]]は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』によって一気に報われることとなる{{R|デイズ227}}。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを任され、スタッフも正当な報酬を得られる身分になったのである。一方で、何かというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。
そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで{{要出典|date=2022年5月}}、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、[[実相寺昭雄]]は[[本多猪四郎]]の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している{{要出典|date=2022年9月}}。特殊美術の[[入江義夫]]は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという{{R|モスラ映画大全24}}。撮影助手であった[[森喜弘]]も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている{{R|円谷組218}}。
この『怪獣大戦争』での「ゴジラの[[シェー]]」にしても、このアイディアを柴山撮影所長(当時)が提案した{{efn|[[中島春雄]]が提案したという説もあるが、この作品で円谷に就いていた[[中野昭慶]]の回想では柴山の依頼とされている<ref>{{Cite book |和書 |author= 中野昭慶|authorlink=中野昭慶 |author2 = 染谷勝樹 |title = 特技監督 中野昭慶 |year = 2014 |publisher = [[ワイズ出版]] |series = ワイズ出版映画文庫 |pages = 126-127 |isbn = 978-4-89830-280-4 }}</ref>。}}際には円谷は早速これを採り入れていて、「お客さんが喜ぶ面白いアイディアを入れることが出来て、本当に良かった」とコメントしている{{要出典|date=2023年11月}}。有川によると『南海の大決闘』でのゴジラとエビラの岩石バレーボールや、[[加山雄三]]の物真似であるとかいったものも、そういった流れの一つである{{要出典|date=2023年11月}}。{{独自研究範囲|円谷にしてみれば、こうした観客サービスはファンの思惑とは別次元の、娯楽映画の一環として自然なものだったと考えられる。そして、この『南海の大決闘』から、円谷はゴジラシリーズの特撮演出を後進の有川に任せ、自身は他作品にウェイトを移しているのである。|date=2023年11月}}
== 円谷と戦意高揚映画 ==
東宝は戦時中、軍人教育用の'''教材映画'''、国威発揚のための'''戦意高揚映画'''の制作を行う。この背景には、当時のメディアが全て軍に支配されており、映画用の生フィルム{{efn|火薬の材料でもある[[セルロイド]](ニトロセルロース)が利用されていたため。}}も統制品であったことがある。「線画(アニメ)」を用いた教材映画は、コマ撮りであるためNG率が低かったため、フィルムをうかせてこれをNGとして計上し、別途特別配給を受け、戦意高揚映画ではない一般映画、娯楽映画にこれを回していたのである。『飛行理論』(1939年)や『[[水平爆撃]]理論編・実践編』(1940年)といった「教材映画」があってこそ、『[[エノケンの孫悟空]]』(1940年)や『[[川中島合戦 (映画)|川中島合戦]]』(1941年)などの娯楽映画も制作できたのである{{efn|俳優の[[長谷川一夫]]は、特技課の鷺巣富雄が召集された際に、撮影ができるのは円谷ら特技課のおかげであるとして、演技部からの寄せ書きを贈っている{{R|特秘3}}。}}。
こうした事情から、東宝も万全の体制で軍協力映画の制作にあたり、円谷は必要不可欠な特撮技術者としてその陣頭指揮を執った。しかし、軍が協力するといっても「戦意高揚映画」制作は一筋縄ではいかなかった。
『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』は、[[海軍省]]の至上命令で制作された映画であるが、円谷が[[航空母艦]](空母)や戦闘機の資料写真を要求しても、「カツドウ屋など信用できるか」のひと言のもと、一切が機密扱いで提供を拒まれ、セットの資料にも事欠き、本編監督の[[山本嘉次郎]]も円谷も頭を抱えるような有様であった。しかもこの映画では、海軍を相手の完成試写の際に、甲板のセット(資料提供が受けられないため、アメリカの空母を参考に作った)に対して[[宮家]]の人間が激怒し、あわや公開差し止めとなりかけるという始末であった。円谷も山本もこのことを「はらわたが煮えくり返った」と述懐しており、山本は「誰がどうやってあの事態を収めて公開にこぎつけられたか、今でも分からない」と後に語っている。
そのような軍主導の映画制作であっても、円谷はあくまで特撮の技術向上に努め、ミニチュアワークを使用し娯楽要素を盛り込んだスペクタクル映画制作に徹している。
円谷はこうした「教材映画」「戦意高揚映画」への加担を理由に、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]によって[[公職追放]]処分を受けるが、戦後このことについて一切の言い訳をしていない。円谷にしてみれば、題材がどうあれ、ベストを尽くした仕事であり、そして、どのフィルムも、円谷が憧れた飛行機が活躍するのである。円谷の下で数々の教材映画に関わった[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]は、「同じことをした[[ウォルト・ディズニー]]は戦後見返りに土地を提供され、ディズニーランドを建てた。ようするに、“勝てば官軍”なのだ」と語っている{{要出典|date=2022年9月}}。
有川によれば、『ゴジラ』以前の円谷は『ハワイ・マレー沖海戦』で評価されていたが、円谷自身は「特殊技術=戦争映画」と思われていたことを嘆いていたという{{R|デイズ205}}。
== 活動 ==
=== 撮影 ===
円谷英二は本来、専門は戦前・戦中から一貫してカメラマンであり、乏しい予算や条件を補うために特殊撮影を始めたのである。来歴にあるとおり、外国の映画に負けない斬新な画面を作ろうと、[[ホリゾント]]撮影を日本で初めて行ったり、[[林長二郎]](長谷川一夫)デビュー作の『[[稚児の剣法]]』(1927年)では[[フェード#映像編集|多重露出]]を試みたりしている。この幻想的な多重合成を用いた立ち回りは大評判となった。長谷川は『稚児の剣法』で円谷から様々な動きを指示され、それを丹念に巻き戻しては撮り重ねていたことを、忘れ得ない思い出として後に語っており、「自分もテヘラ亭(円谷)の終焉の地である伊東に別荘を建てて住みたい」と書き残している{{要出典|date=2022年12月}}。
今では当たり前のように使われている撮影手法である、「なめ(画面の手前に物を置く撮影手法)」の技法や、「クレーン撮影」{{R|入門160|円谷組218}}、「[[ローキー照明|キーライト]]」を、戦前の、白塗りの歌舞伎役者が俳優を務めていた時代に初めて用いたのも円谷である。ビール瓶のかけらをフィルター代わりに用いて「擬似夜景」も撮影しており、[[有川貞昌]]はキャメラマンの[[三浦光雄]]による、「日本で色フィルターを使って撮影したのは円谷さんが初めてだ」との証言を伝えている{{R|全史72|東宝SF8155}}。
後年、円谷が富岡に語ったところによると、手回し時代のカメラで撮影する際は、どの程度のクランクの回転速度で何コマ撮れるかを体で覚えており、感覚で回すことができたという{{R|円谷組35}}。
日活気鋭の林長二郎を売り出そうと、円谷はクレーンによる俯瞰撮影や様々な撮影手法を衣笠監督と検討し、採り入れた。そして、その「キーライト」で林を撮り、円谷は[[日活]]を追われてしまう。かてて加えて、「アイリス・イン/アウト」画面を作るために、瓶の底を抜いたものをレンズの前で動かしたり、生合成のためにレンズフィルターに貼る黒画用紙とはさみを持ち歩き、仕掛けを用意する間、スタッフをその場で待機させるといった円谷の姿は、当時のカメラマンたちには全く理解不可能なものであった。こうした姿を「怠けて遊んでいる」と捉えられ、「'''ズボラヤ'''」などと揶揄されて、現場から排斥される要因となった。東宝に入社して一年ほどは[[スクリーン・プロセス]]ばかりやらされ、「俺はスクリーン・プロセスをやるために東宝へきたんじゃない」と嘆く日々であった。
当時、円谷の仕事といえば、このスクリーン・プロセスしかなく、あとは「オプチカル・プリンター」の設計・製作とその実験・研究のみであった。円谷が熱望した「オックスベリー社」の「オプチカル・プリンター」は、現在価格で数億円もするもので、到底購入など不可能であり、円谷を東宝へ招いた森岩雄の力をもってしても、「研究費は出すが人までは出せぬ」との処遇で一杯一杯であった。部下のいない孤立無援の状況で、円谷は自前の機械で合成実験をするしかなかったのである。当時の日本に、光学合成機の資料などなく、円谷はアメリカから専門本を取り寄せ、和訳してもらって独学でその知識を学んでいた。
円谷が課長を務める特技課内の線画室にいた[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]によると、線画室長の[[大石郁雄]]と円谷とは仲が悪く、人のやり取りもはばかれるほどだったという。直属部下のいなかった円谷は、新人の鷺巣にこの「オプチカル・プリンター」の助手を頼んでいたが、これも大石が出征中で一時不在だったため出来たことであって、鷺巣も退社後や休日に、隠れるようにしてこれを務めるというような状況であった。こうした状況を一変させたのが、東宝の「戦意高揚映画」への参加である。これを機に円谷の特技課に続々と人材の充実が図られ、突如大所帯となっていく、まさに掌を返したかのような打って変わった処遇振りであった。
こうした「戦争映画」の特撮で、円谷は観客の心理を逆手にとって、飛行機のミニチュアを逆さに吊って操演したものを、天地逆さまにしたキャメラで撮影したり、また、飛行機とキャメラを同一固定し、バックの空を回転させて急旋回の画を撮ったり、飛行機は固定して背景の山並みを回転させて山間部を掠め飛ぶシーンを撮ったり、また、洋上の艦隊を雲間から見下ろすカットのために[[寒天]]で大海を表現してみたりと、まさに尽きせぬアイディアで、いかにリアルに飛行機を飛ばすかの撮影トリックに心血を注いでいる。こういった、「ミニチュアを天地逆さまにする」といった撮影手法は、戦後のSF特撮映画でも、これに火を放ってはうような火災を表現するなど、発展させ応用されている。そんな中でも、軍の意向に振り回されるだけでなく、[[松竹映画]]に「一番弟子」の[[川上景司]]ら特技スタッフを引き抜かれるなど、戦争末期まで不本意な事態に煩わされ続けている。
こうして積み重ねたキャリアにもこだわらず、日本の敗戦という状況の中、[[公職追放]]という形で、円谷はまたも現場を追われることとなってしまう。この公職追放の時期、円谷と飲み友達となっていた伊福部昭によると、円谷は現場に対する不満をよくこぼしていたという。
線画室時代に円谷に師事した鷺巣富雄は、円谷から「特撮映画の三大要素」として、「キャメラワーク・ミニチュアワーク・合成ワーク」を徹底指導され、「映画技術はまだ50%しか完成されていない。後の未開拓の50%は君がやらないといけない」と何度も言われたという。[[実相寺昭雄]]はTBS時代、テレビドラマのラストシーンで、冬でもないのに紙吹雪の雪を降らせたことで局から散々に怒られたが、円谷には逆に「あの吹雪はもっと多いほうが良かったね」と褒められたという。
『加藤隼戦闘隊』で山本嘉次郎の助監督として円谷の特撮現場を目の当たりにした本多猪四郎は、「まるで物理の実験で、新しい発見をしようとしている作業と違いがない」と感じたと語っている{{R|全史60}}。
特技監督となり、東宝の看板ネームとなってからも、こうした撮影技術者としての視点から立脚した取り組み姿勢は、『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』第1作の企画段階で[[人形アニメ]]による撮影を主張したり、『[[ウルトラQ]]』制作時に、わざわざ新規にオックスベリー社の最新式[[オプチカル・プリンター]]を購入するなど、撮影者としての立場からの数多くのアプローチにも表れている。
照明技師の[[斉藤薫 (撮影技師)|斉藤薫]]は、特撮監督としての円谷のカメラワークはメインポジションを決めたら横移動かクレーンでの上下移動のみでカメラ自体が前へ迫っていくことはなく、被写体がカメラへ迫ってくることを要求したと証言している{{R|東宝SF7}}。また、セットをカメラの反対側から撮るようなこともなかったという{{R|東宝SF7}}。
俯瞰撮影に用いる[[イントレ]]を折りたたみ式にし、ロケーション撮影でも手軽に持ち運べるようにした{{R|東宝SF8155}}。
=== 編集 ===
円谷は[[映像編集|フィルム編集]]でも敏腕を振るい、映画関係者からは「'''編集の神様'''」と呼ばれた{{要出典|date=2023年8月}}。[[有川貞昌]]によれば、編集は必ず円谷自身が行っていたという{{R|ゴジラ大全集142}}。円谷の助監督を務めた浅井正勝によれば、円谷は撮影したカットの撮影時の状況や保管場所まで記憶していたという{{R|全史345}}。スクリプターの鈴木桂子は、編集プランは円谷の頭の中にしかなく、台本にない描写を撮影することも多かったため、一般的な「カット○○、シーン☓☓」という記録はできず、「空中戦の1」「空中戦の2」といった記録の仕方になったという{{R|VIP216}}。
『[[空の大怪獣 ラドン]]』では、[[西海橋]]のミニチュアが[[ラドン (架空の怪獣)|ラドン]]の着水とともにへし折れるタイミングが、本番で少し狂ってしまった。特撮スタッフは西海橋の作り直しを覚悟したが、円谷は意に介せず、編集によって屈指の名シーンにまとめてしまった。同作では、ラストでラドンが阿蘇山に墜落するシーンでも、アクシデントでラドンのミニチュアが途中で落下してしまったが、円谷は後で何とでもできるとこれも動じず、フィルムの巻末までこれを撮り切らせた。気を揉むスタッフを前に、思わぬいい動きが撮れたと、編集室で上機嫌だったそうである。
この一件について「ラドンを吊り上げるピアノ線が切れたのを『苦しんでもがいているように見える』として、撮影を続行した」というエピソードがまことしやかに語られているが、これは厳密には間違いである。正確には円谷は、ピアノ線が熱([[マグマ]]を溶鉄で表現していた)で切れたのを操演スタッフの[[即興|アドリブ]]と勘違いしただけであった。
『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』ではCキャメラ担当の[[真野田陽一]]がうっかり通常スピードでフィルムを回したものを怒りもせず、「ああいう動きでもいいかなあ」と、以後これ(1.5倍速)を採り入れている。また『[[ゴジラの逆襲]]』では、[[高野宏一]]が間違えて[[コマ落とし]]にしてキャメラを回してしまった。若い高野は失敗に気づいて思わず号泣したそうであるが、円谷は現像で上がってきたゴジラのギクシャクした素早い動きが面白いとして、当作では怪獣のカットにこのコマ落としを採り入れてしまった。『[[宇宙大怪獣ドゴラ]]』では、ドゴラが天空から[[石炭]]を吸い上げる特撮があるが、当時のミッチェル・キャメラには高速度での逆回転撮影の機能がなかった。そこで円谷はキャメラを天地逆さまにして石炭が降るカットを撮り、現像の上がったフィルムを裏表逆にして、さらに、フィルムの進行方向を逆にし、落ちていく石炭を逆に空へ舞い上がらせるという映像に仕立て上げて、これを解決した。有川貞昌がこの手法を初めて教授されたのは『[[白夫人の妖恋]]』でのことであったが、口で説明されても全く理解できなかったという。完成画面でやっと飲み込めた有川は、改めて円谷の発想に驚嘆したという。
常々「特撮にはNGはない」と円谷は口癖にしていて{{R|全史327}}、限られた予算や日数を前に、少々のアクシデントをものともしない編集術が数々の特撮カットを支えていた。ただ、画面の隅にスタッフが写ってしまったり、余りにもひどいカットが続いたりした時には、さすがの円谷も「いくらなんでも編集でごまかすにも限度があるぞ!」とキャメラマンたちを怒鳴りつけたそうである。円谷組が1本の映画で会社から託されるフィルムは3万[[フィート]]ほどであり、高速度撮影が欠かせない特撮では、フィルムの無駄遣いは絶対に許されないことだった。
長時間の準備を必要とする特撮現場では、スタジオの隅に特設の編集室をしつらえ、また、ロケ先では、旅館に編集機材を取り寄せて、寸暇を惜しんで現像の上がった特撮フィルムを編集していた。編集室に吊るしたフィルムの、どんなカットがどこにあるか全てを空で把握していたという。撮影作業が早く終わった後は、特設の編集室にこもり、ひたすら編集作業を行っていた。仕事は終わったので有川らは帰ってもよかったのだが、円谷の手前そうもいかず、夜半まで付き合うことしばしばだったそうである。
特撮カットで尺がわずかに足りない、というような場合でも、円谷はこの吊るしたストックフィルムから抜き出したカットで巧みにつじつまを合わせていた。後年、有川貞昌は、「オヤジ(円谷)がうまいこと昔のフィルムで埋めちゃうもんだから、田中さん(田中友幸)がそんなもんで出来るのかって思っちゃって、どんどん予算を削られちゃってね」と語っている{{要出典|date=2022年12月}}。
円谷は、他人が使わないだろうと思うフィルムも細部まで記憶しており、編集の石井清子や記録の久松桂子らはカット屑を捨てることができなかったという{{R|東宝SF8155}}。一度、円谷が爆発カットのつなぎにと考えていた数秒の白抜けのフィルムが、どうしてもラッシュフィルム(現像の上がってきたばかりの未編集フィルム)に見当たらず、大騒ぎになったことがある。円谷は青くなって現像所まで押しかけ、そこで不要と判断して捨てられているのを発見、事なきを得たという。あとで現像所のスタッフは全員で、円谷の元へ謝りに来たそうである{{R|東宝SF8155}}。
合成でフィルムの裏焼きも多用するため、戦記映画の飛行機などに描かれる数字には「0」「1」「8」など反転しても問題のないものが使われるようになった{{R|円谷組218}}。
円谷組のメインキャメラマンは、有川貞昌(主に引きの画面担当)と富岡素敬(主に寄りの画面担当)が務め(後期はこれに[[真野田陽一]]が加わる)、円谷は「絵コンテ」で画面のイメージを伝えた後は、アングルなどすべて彼らに任せていた。その代わり、舞台で言う「上手と下手」の使い分けを、演出の際の心がけとして常に指示し、画面の構図として、常に「二等辺三角形」のパースを口酸っぱく言い続けていた。編集の際にも、この位置関係を常に念頭に置いて、ことに[[本多猪四郎]]とは綿密な打ち合わせの元、スムーズに[[カット]]をつないでいる。特撮班との連携をあまり重視しない[[稲垣浩]]と組んだ『[[士魂魔道 大龍巻]]』での[[竜巻]]シーンの特撮では、この原則が崩れているのがよくわかる。
ただ、円谷は特撮のラッシュ・フィルムは、特撮班以外に、決して他人に見せなかった{{R|デイズ215}}。[[伊福部昭]]によると、ラッシュ時にも特撮部分だけ白抜けのフィルムをつないでおくということを平気で行っていたほどだった{{R|全史64}}。1作目の『ゴジラ』でも、「あそこからぐわーっとゴジラが出てくるんだよ」といった具合で、伊福部もこれには音楽プランが立たず、閉口したという{{R|全史64}}。コンビの長い[[本多猪四郎]]であってもそれは同じで、スタッフは試写で初めて円谷の完成した特撮を目にするのが恒例だった。有川は、本多からラッシュを見せるよう要望され、円谷との板挟みになることがしばしばあったという{{R|デイズ221}}。この理由のひとつには、編集前のNGカットを見られ、悪い風評が立つことを怖れたからではないかと、円谷組でキャメラマンを務めた[[富岡素敬]]は語っている{{要出典|date=2022年9月}}。有川も、特撮研究所時代に未完成のフィルムを見た関係者に円谷が完成予定を説明しても理解されなかったことがあり、円谷は「仕上がりもわからずに良否を判断されるのは嫌だ」と述べていたことを証言している{{R|デイズ221}}。
一方で、徹夜続きで考えがまとまらない状態で編集を行い、無意識にフィルムを切りすぎてしまい後で貼り直すこともあったという{{R|全史345}}。
=== アニメ演出 ===
{{独自研究|section=1|date=2023年11月}}
特撮監督として知られる円谷だが、アニメ演出家としての側面も持っている。円谷が初めて制作した映画は、巻紙をフィルム代わりに、マッチ棒を一こま一こま描き込んだ、小学生の折の自作のアニメ映画である。東宝では特技課内の線画室の動画技術を指導する立場でもあった。
線画室にいた鷺巣富雄([[うしおそうじ]])は、円谷と組んで制作した教材映画で、「スチール・アニメーション」という動画手法を創案している。撮影した映画フィルムをひとコマずつスチール写真に焼いて、これを引き伸ばし、あるものは背景に、あるものは切り抜いて、セル画のように重ねてこれをコマ撮りする、白黒フィルム作品で絶大なリアルさを発揮する、簡便な「合成」手法だった。ピープロ時代ののちのちまで多用されるこの手法も、鷺巣は円谷の撮影技法がヒントになって出来得たものであると語っている。
また、『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』に触発され、後年に至るまで幾度となく人形アニメの手法を作品に取り入れている。東宝特撮お得意の光線作画では、仕上がってきた動画に、「この光線には力がこもっていない!」と怒鳴り、セル画を廊下へ投げ捨てたというエピソードも残っている。光線の動きは、ラッシュ段階でポジフィルムに円谷自身が鉄筆で描き込み、指示していた。光線作画を担当していた[[川北紘一]]は、円谷のこのカリグラフによる指示が、光線のタメやタイミングを学ぶうえで大いに役立ったと述べている。大映映画『[[釈迦 (映画)|釈迦]]』で数十カットに上るアニメ合成を担当した鷺巣は、試写で円谷に「よく実写とアニメの融合を果たしてくれた」と激励され褒められたといい、また、欧州視察した先では『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』の撮影現場を見学し、帰国してからミニチュア撮影と人形アニメの独自新案について聞かされたと語っている。
来歴にあるアニメ会社設立の話も、アニメ映画製作に理解がない東宝が、[[カーク・ダグラス]]からの誘いを断ってしまったことによる。アニメ制作の現場は独立一貫した制作体制となるため、[[東宝争議]]を経験した東宝としては、直接管理の目が行き届かないアニメの現場を嫌ったのである。ダグラスはなおも、[[セントラル映画社]]({{lang-en|CMPE}}, 戦後の占領時期に、GHQの肝煎りで設立されたハリウッド映画の統括配給会社)出身の[[伊勢寿雄]]が興した会社を通して、円谷に個人的に話を持ち込んできたのだが、アニメ撮影用のマルチプレーン撮影台、専用キャメラ、オプチカル・プリンターまで貸与するという好条件だった。その熱意からもかなりの大作を構想していたことがうかがえる。この話が流れた後も、円谷もうしおも伊勢もアニメ映画制作が諦めきれず、「TSプロ」設立を含め、なお企画を練っている。円谷は実写とアニメを融合させた、かなりファンタジックな作品を構想していたようである。これがもし実現していれば、その称号に、さらに、アニメ監督の肩書きが加わっていただろう。
=== 円谷特技プロ社長 ===
円谷は[[1963年]]に東宝の出資を受け、[[円谷プロダクション|株式会社円谷特技プロダクション]]を設立する。これに先立つ[[1947年]]に、円谷は一度東宝を辞め独立しているが、これを聞いて円谷を訪ねた有川貞昌は円谷からその理由として、「俺がいくら努力したところで、映画における俺の存在価値はわずかなものだ。この映画は円谷英二の映画じゃなく、○○監督の映画を手伝っているにすぎないんだ。俺はそれが満足できない、いつの日か俺が本編を演出する形で映画を撮りたい。会社組織の中では自由な企画は望めない、そのために俺は独立したんだ」との胸の内を聞かされたという。
円谷の中でのこうした思いは、若手育成のための「円谷特殊技術研究所」設立となり、やがて[[1960年]]に円谷がアニメ技術の導入を東宝に拒まれたことや、これに対するその後の「TSプロダクション構想」、専属契約の解除へと繋がっていく形で、ついにこの「円谷特技プロダクション」設立となったのである。円谷皐はこのプロダクション設立について、「経営面はさておき、良い仕事がしやすいようにとの考えからのものではないか」としている。
こうしてプロダクション経営者となってからも、その姿勢はあくまで撮影技術者であった。『ウルトラQ』ではオプチカル・プリンターを新規発注し、『[[マイティジャック]]』では万能戦艦MJ号の発進場面を撮るために当時世界最高速度撮影が出来る35mmミッチェル・キャメラを購入してこれに当たらせるなど、機材面での万全を期している。テレビ番組であるこれらの作品だが、高速度撮影が主体の特撮シーン(『ウルトラQ』では本編も)は、画面が不安定な16mmフィルムではなく、映画用の35mmフィルムで撮影し、合成画面ではブルーバック手法を採るためカラー撮影し、わざわざ16mmに白黒で再プリントする破格ぶりであった。
円谷は『ウルトラQ』や『ウルトラマン』では、「監修」名義で若いスタッフにこれらの制作を任せ、最終的にフィルム編集を行う形で、納期に関係なく特撮カットに厳しいチェックをしていた。これが両作の高い完成度に貢献すると同時に、次第に現場を逼迫させることとなっていった。『ウルトラQ』においては半年の放映期間分を2年かけて事前に製作する劇場作品並みの体制を採ったが、『ウルトラマン』では最終的に制作が放映に間に合わなくなり、中盤からの製作スケジュールは、フィルム納入が放映数日前が常態化。自身も現場に足繁く通い、若いスタッフへの配慮から『ウルトラQ』では第12話の怪鳥ラルゲユウスの巨大化シーン、『ウルトラマン』では第19話の怪獣アボラスとバニラの戦いなどを、多忙な中、直接演出している。しかし、スタッフは徹夜の連続で疲労困憊は限界に達し、ついには放映打ち切りの原因となった。
これら破格の製作体制は当然、経営を圧迫したが、円谷はあくまで特撮の品質にこだわった。円谷特技プロでは副収入の手段として、怪獣のぬいぐるみのイベント貸し出しを提案したが、円谷は「映画の大切な小道具を見世物にできない」として、これを許さなかったという。TBSなどの説得もあって、結果的にこれは円谷特技プロの経営を助けることとなり、のちのちのビジネススタイルの基となるのだが、これは円谷の本意ではなかったということである。テレビ番組を制作していても、スタンスは一貫して映画人だった。
しかし、プロダクション社長としての経営面での心理的負担は重く、加えてこの時期に[[糖尿病]]が悪化。円谷皐はこの自社作品の視聴率の動向にやきもきする毎日に心臓を痛め、グリセリンを服用するようになった円谷の姿を伝え、会社経営がその健康に悪影響を及ぼしたことは否めないとしている。
プロダクション社長となった円谷が、最晩年まで構想していた企画は、映画『かぐや姫([[竹取物語]])』と、<!--テレビシリーズ?-->『ニッポン・ヒコーキ野郎』だった。結局両者とも実現することはなかったが、円谷プロの作品には、後年まで『かぐや姫』のイメージが受け継がれ続けている。
== エピソード ==
; 用語
: 「特撮」という言葉を創ったのは円谷である。それまでは「トリック撮影」などと呼ばれていた。有川貞昌は、二代目の特撮監督になった際、「オヤジを前にして“特撮監督”を名乗るのはおこがましい」として、またもう一つには同じ称号に対する憧れもあって同じ「特技監督」を名乗った。円谷プロでも、[[高野宏一]]ら後進はこれに倣っている。
: 映画における画面合成技法である'''[[ブルーバック]]・システム'''という用語は、円谷が名付けたものである。日本初のカラー特撮である[[1956年]]の『[[白夫人の妖恋]]』の製作を前に、円谷はまず撮影班とともに[[東洋現像所]]に日参し、[[イーストマン・カラー]]のフィルムを1か月にわたって実践研究した。さらに、前年に日伊合作映画『[[蝶々夫人]]』で渡欧主演した[[八千草薫]]との談話から「青い[[ホリゾント]]の前で芝居をした」との証言を得て、「これはカラーフィルムによる[[ダンニング・プロセス]]([[:en:Bipack#The Dunning Process|Dunning Process]])であろう」と推測し、これを「ブルーバック・システム」と名付けた。白黒作品での「ダンニング・システム(トラベリング・マット)は『ハワイ・マレー沖海戦』で実現していたが、初使用であるイーストマン社のカラーフィルムで、しかも独自研究の末に、円谷は見事にこれを成功させたのである。ブルーバックに必要な合成用のカラー現像は、ちょうどこの時期に[[渡辺善夫]]と[[築地米三郎]]が[[大映]]で発色現像実験に成功しており、渡辺の報告を受けた円谷は[[向山宏]]とともに大映へ赴き、築地に教えを乞い、築地も成功なったばかりの合成用カラー現像の技術を全て円谷に伝授している。
:<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
; 技術の先駆性
: 「円谷特殊技術研究所」の研究員だった[[佐川和夫]]によれば、『[[太平洋の翼]]』当時、この研究所で[[零式艦上戦闘機|零戦]]のミニチュアと、アームに付けたキャメラをそれぞれコマ撮りで動かすという撮影手法を行っており、この手法はコンピューター制御の「[[モーション・コントロール・カメラ]]」に先駆けた、言わば「手動式モーション・コントロール・カメラ」だったと語っている。また、「チェーン駆動でキャメラをレール移動させる」という形でのモーション・コントロールは、『[[妖星ゴラス]]』などで既に採り入れていた。
: 東宝プロデューサーの田中友幸は、当時は機材も発展途上であり、理論的にはわかっていてもやりようがなかったが、自分たちの持っている力でどこまでできるか妥協せず、粘り強くいいものを作ろうという姿勢を貫いたのが円谷であったと語っている{{R|大百科M65}}。
:
; 照明
: 準備に時間がかかり、さらに、特撮セットの莫大な照明量を支える電源確保のため、円谷組の撮影は、決まって定時を過ぎた18時から準備に入り、夜半から朝にかけて本番に挑む流れとなっていた。一度に照明を全部点けると配電盤の[[電子ヒューズ|ヒューズ]]が飛ぶほどで、この使用電力の莫大さに、撮影所内のほぼ全ての電源を回さねばならなかったのである。やっと撮影が終わるのが朝の5時ごろということも多く、「やっぱりゴジラは5時だ」という駄洒落がスタッフの間で交わされた、という逸話まで残っている。昼間にミニチュア設営など行う場合には、こうした事情で照明をひとつだけ点け、薄暗い中で行うことも多かった。一方、昼間の撮影所で大電力を独占していたのは、[[黒澤明]]監督の黒澤組だった。当時の東宝撮影所内では、この二大巨匠による電力配分の取り合いが恒例となっていた。
:
; 『キング・コング』からの影響
: 円谷は1933年に映画『キング・コング』を観てその特撮技術に衝撃を受け、以後これを全ての手本としている。この映画のフィルムを特別に借りて、特撮シーンのみ焼き増したものを1コマ1コマ研究したことは来歴にあるとおりであるが、戦後、有川や富岡ら若いキャメラマンに対しても、「まず『キング・コング』を見ろ」と、ことあるごとにこれを見せた。自身も、毎日のようにこのフィルムを見ていたそうである。[[中島春雄]]は1作目のゴジラ役を頼まれた際、円谷に「このゴジラを人形アニメでやれば7年かかる。しかし、お前が演ってくれれば3月で出来るんだ」と口説かれたという。そして、中島もまず「『キング・コング』を見ろ」と言われたのは同じだった。現実的な問題で、『ゴジラ』は当初望んだ人形アニメ方式は採用されなかったが、それでも円谷はあくまで『キング・コング』に模範を求めたのである。まさに『キング・コング』が円谷組の教科書であった。そして、円谷自身が最後に演出した怪獣映画は、奇しくもコングの活躍する『[[キングコングの逆襲]]』であった。
:
; 撮影指示
: ミニチュア撮影時には、本番前に円谷がまず、「次は○べえ!(『べえ』は倍のこと。福島なまりである)」と、高速度撮影(スローモーション)のためのフィルム速度を口頭でキャメラマンに伝え、撮影に入った。ゴジラなどの巨大怪獣の撮影は基本的に「4倍」、ミニチュア崩壊や車両の移動などでは「2倍」などと、円谷が長年の経験で培った適切な速度を、その都度指示して本番に入っていた。高速度撮影の多用は、キャメラ的には無理が多かったのであるが、スタッフはこれを全面的に信じてキャメラを回していたのである。
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; ジオラマ嗜好
: ミニチュアワークに対して「絶対的なこだわり」(井上泰幸談)をもっていた。『[[フランケンシュタイン対地底怪獣]]』で[[バラゴン]]が家畜を襲うシーンでも、「本物の家畜を使ったらどうか」とのスタッフの問いに、「こういうものはミニチュアでやるほうが画として面白いんだよ」と答えている。自身が飛行機や機関車などのミニチュアを製作するほどの凝り性であり、予算云々をいう次元を超えた[[ジオラマ]]嗜好があったようである。このミニチュアと実景をいかに画面で融合させるか、円谷はそれをかなえる合成技術を求め、絶えず新技術を導入していた。
:
; 描写へのこだわり
: 特撮の表現に関しては、残酷すぎるものや、グロテスクな描写は極力避け、過度な流血といったものを嫌った。「明るく楽しい東宝映画」という、当時の東宝の方針にも沿って、円谷の美意識の一つとして徹底されていた。日米合作の『サンダ対ガイラ』では、作品の性格柄か、ガイラが人間を食うショッキングなシーンがあるが、円谷は直接的な描写は避けている。また、『キングコングの逆襲』でも、アメリカ側は脚本段階でコングによってアゴを引き裂かれた恐竜が、その口から鮮血を流すことを望んだが、円谷はここでも血は流させず、アゴを裂かれた[[ゴロザウルス]]に血ではなく泡を噴かせている{{R|東宝SF8155|TCMP100}}。『[[宇宙大怪獣ドゴラ]]』では、空が分裂した宇宙細胞で色とりどりに染まる特撮カットの色彩が毒々しすぎるとして、「こんなフィルムが使えるか!」と怒鳴ってスタッフ一同の眼前でフィルムを引き裂いたという。
: 有川によれば、『ゴジラ』でミニチュアセットに電線を張る作業で要領を覚えたスタッフがカメラに映る範囲にのみ作り込みを行うようになったところ、円谷は「欲しいのは画面の外だ」と怒っていたという{{R|デイズ227}}。
: 円谷作品での青空は現実的ではない鮮やかなブルーであるが、これは遠近感を出すためにフォグを流すことでちょうどいい色合いになることを計算したものであった{{R|東宝SF8155}}。背景の[[島倉二千六]]によれば、この青空の塗料は自身が入る前から決まっていたものであるという{{R|東宝SF8155}}。
: 俳優の[[佐藤充]]によれば、円谷は戦記映画で本編の演出もやりたがっていたといい、時には俳優に対し演技指導を行うこともあったという{{R|VIP76}}。佐藤は、本編監督ではない円谷が口を出してくることに疑問を感じつつも、円谷の飛行機への愛着を感じていたと述べている{{R|VIP76}}。
: 後年、東宝の特技監督を務めた[[川北紘一]]は、円谷について特殊技術の担当というよりも1人の演出家として凄かったと語っている{{R|大百科M65}}。
:
; 新しい特撮への渇望
: 新しい特撮のアイディアを常に頭の中で練っており、味噌汁をかき混ぜていて[[キノコ雲]]のトリックを思いついたり、生活の中でそれを見出すこともしばしばだった{{R|円谷組218}}。特撮監督の名が世界的になるにつれ、予算の限られた中で、常に新規のアイディアを盛り込んだ特撮を公開日までに間に合わせるという重圧はすさまじいものだったようで、また、昭和30年代はせっかくのフィクションが、映画の公開前に現実になってしまうような時代であり、これらのプレッシャーについて、「考えて考えて、それはもう胃に穴が開くくらいまで考え抜かないと仕事にならないんだよ」と語っている([[中野昭慶]]談){{要出典|date=2023年11月}}。[[うしおそうじ]]によると、『[[マイティジャック]]』のころ、よく円谷が[[ピー・プロダクション|ピープロ]]にふらりと現れて、『マイティジャック』の低視聴率をぼやきながら、1時間ばかり、社長室のソファーで休息していたそうである{{要出典|date=2023年11月}}。
: 特撮を彩る造形素材については、[[ガラス繊維]]、[[繊維強化プラスチック|FRP]]、[[発泡スチロール]]、発泡[[ウレタン]]などといった当時最先端の材料を積極的に採り入れている。怪獣の爪や牙については、常々「もっと鋭さが欲しい」と漏らしていて、美術スタッフの[[村瀬継蔵]]が『妖星ゴラス』の怪獣マグマの牙にポリ樹脂を使ったときには、「どこでそんな象牙見つけたんだ?」と大喜びしていた。『宇宙大怪獣ドゴラ』では、村瀬がまだ市場に出ていなかった[[ソフトビニール]]素材を見せ、一から造形するとなると非常に予算がかかることを説明すると、「君がそんな心配しなくていい、会社にお金を出させるのは僕なんだから!」と即断で採用を決めている。スタッフは、円谷のイメージを汲み取って映像化することにひたすら努める、という製作体制だった。
: [[1959年]]の雑誌取材の中では「映画製作は、もっと合理的になるべきですよ。画かきが絵筆で画をかくように、映画も自由な絵が書けなければウソですよ。もっと技術も進歩し、信用されなければ」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://megalodon.jp/2013-1207-2359-21/hon.bunshun.jp/articles/-/554|title=(cache)文春写真館 あのときこの一枚 “特撮の神様”と呼ばれた円谷英二|publisher=本の話WEB([[文藝春秋]])([[ウェブ魚拓]]によるキャッシュ)|accessdate=2013-12-08}}</ref>。
: 本多は、円谷による数々の新案の中で「[[寒天]]の海」を最も驚いた特撮技術に挙げている{{R|本多全仕事106}}。
: 美術の[[井上泰幸]]は、円谷は1作ごとに映像的な新しい挑戦を行っていたと評しており、井上自身も初めての手法に苦労することもあったがやりがいを感じていたと述懐している{{R|円谷組85}}。
: 有川は、円谷がアイデアマンであるという評価に対して否定的な見解を示しており、円谷はいろいろなものを記憶していてそれらを組み合わせる合理的な思考をしていたが、結論だけを先に言うため周囲からは感覚が鋭いのだと思われていたと述べている{{R|デイズ221}}。
:
; 子供に対する姿勢
: 照明技師の[[原文良]]によれば、円谷は子供の側に立ってものを考えていたといい、子供に不安な気持ちを持たせないことを心がけていたという{{R|東宝SF8155}}。流血描写を避けていたのも子供に血を見せないためであった{{R|東宝SF8155}}。
: 撮影助手であった[[森喜弘]]によれば、『日本誕生』の特撮現場を取材した新聞記事で、八岐大蛇の写真に写っていなかったピアノ線を描き足したため、円谷は「子供の夢を壊した」として取材拒否をしたという{{R|円谷組218}}。
: また、子供の世代交代により作品が観られ続けていくことで人気が保たれることを予見していた{{R|東宝SF8155}}。
:
; その他
: 有川によれば、円谷は特撮が「映画のマジック」と称されることを嫌っていたといい、ミニチュアは現実に即していかに大きく見せるかが重要であるということを語っていたと証言している{{R|デイズ221}}。
: [[佐原健二]]によれば、円谷が円谷特技プロ設立構想を掲げた際は、この映画界の巨人の動向に業界が大騒ぎになり、円谷はもう東宝と仕事をしないのではないか、または、映画制作を独自で行うらしいなど、スタッフのみならず俳優たちまで様々な噂で持ちきりだったという<ref>{{Cite book |和書 |author= 佐原健二|authorlink=佐原健二 |title = 素晴らしき特撮人生 |year = 2005 |publisher = [[小学館]] |page = 14 |isbn = 4-09-387597-9 }}</ref>。
: 一度、本番で「用意、スタート!」と叫ぶところ、「用意、ス'''カ'''ート!」と叫んでしまい、スタジオ内は驚いて静まり、円谷自身も苦笑していた{{R|円谷組173}}。後々まで円谷は「何であんなことを言ってしまったんだろう」と振り返っている。
: ビル街で特撮の[[ロケハン]]をしていて、「次(の映画で)はあのビル(のミニチュアを特撮で)を壊そうか」「あっちのビルを燃やそうか」などとスタッフと話していて、通りかかった警察官に不審尋問を受けたことがある。
== 人物 ==
=== 誕生日 ===
円谷家の子孫の1人(英二の叔父の孫)で、英二とも面識のあった'''円谷 誠'''は、英二本人は自身の誕生日を、1901年7月7日と信じていたが、円谷家に残る家系図や戸籍上の記載は同年7月10日<ref>[http://m78-sukagawa.jp/person/ すかがわ市M78光の町応援隊] - すかがわ市M78光の町</ref>であったことを明らかにしている。それもあってか文献によって「5日{{R|特撮世界10}}」、「7日{{Refnest|group="出典"|{{R|全史541|全怪獣|大百科|来襲174|超常識152}}}}」、「10日{{R|特撮世界10|UPM0630}}」と様々であるが、円谷プロダクション公式サイトの「創業者・円谷英二」の項<ref>[http://www.tsuburaya-prod.co.jp/eiji/ 創業者・円谷 英二] - 株式会社 円谷プロダクション</ref>では、現在の関係者間では「英二の誕生日は7月7日」が共通の見解となっており{{efn|円谷プロダクション公式サイトには根拠の一つとして、英二自らが「7月7日生まれ」と記した[[履歴書]](円谷誠が提供)が掲載されている{{Full|date=2021年6月}}。}}、その見解を尊重、踏襲すると記されている。
なお円谷誠は、明治時代の戸籍であることから、出生届を出し遅れて記録上は10日付で登録されてしまった可能性を示唆している。
=== 苗字 ===
前記の通り、苗字の同じ[[円谷幸吉]]も同じ須賀川市(当時は町)の出身である。戸籍上の姓の読み方が「つむらや」であった点も同じであった。[[鷺巣富雄]]によると、「初対面の人には大抵、“エンヤ”とか“エンタニ”とか呼ばれるんだよ」とよくぼやいていたという。
=== 性格 ===
子供に[[サイン (有名人の署名)|サイン]]を求められると、自分の名前を図案化した「[http://www.iga0125.info/img/person/ski_boy.gif スキーボーヤ]」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。『モスラ』で幼稚園児からファンレターが来た際には、仕事の合間にモスラを作り、プレゼントしている。[[東北地方]]で怪獣ファンの児童が交通事故死した際には涙を流し、小さな怪獣を作って仏壇に添えてあげた。
短気な面もあり、[[広瀬正一]]は1966年、「また、怪獣役を頼むよ」と言われた際に「ちょっと別のシャシンが入っているんで」と答えたところ、「ああ、じゃあもういい!」と言われ、それきり怪獣役は回ってこなかったという。また、特殊美術の[[青木利郎]]によれば、ある作品で制作担当が「スポンサーでない看板を目立つ位置に置くな」とミニチュアセットの看板を変えさせたところ、円谷は「美術は一生懸命やっているんだ、何で変えるんだ」と珍しく激怒したという{{R|円谷組154|モスラ映画大全66}}。スクリプターの鈴木桂子によれば、このとき円谷は相手の制作担当の胸ぐらを掴んでいたという{{R|モスラ映画大全96}}。
[[中島春雄]]によれば、スタッフには毎回凄く怒っていたが、俳優には絶対怒らなかったという{{R|全史338}}。また、怒るのも計算ずくであったといい、怒ってもすぐに笑顔になっており、さっぱりとした性格であったと述べている{{R|全史338}}。特撮班カメラマンの[[富岡素敬]]は、要領が良かった[[有川貞昌]]に対し、自身が円谷から怒られる立場にあったと述べている{{R|円谷組35}}。一方で、撮影助手であった[[鶴見孝夫]]や[[鳥海満]]らは、鶴見ら当時の若手が失敗しても円谷は直接怒らず、有川らを叱っていたと証言している{{R|円谷組173}}。
何につけても判断が早く、即決で物事を進める性質だった。『[[ウルトラQ]]』制作時にも、企画段階にもかかわらず、当時で4千万円する[[オプチカル・プリンター]]を払える当てもなしにアメリカに発注してしまったというエピソードが残っている。
特撮の打ち合わせで、テクニック上不可能と思われる方法を問われても必ず「出来るよ」と答えていたという{{R|全史79}}。助監督を務めていた[[中野昭慶]]は、「プロなら絶対にできる」というのが円谷の姿勢であり、あえて自身を過酷な状況下に置くことで、最高のアイデアや技術を生み出していたと証言している{{R|全史79}}。
ロケ先で雨天待機になった時など、旅館にあった[[三味線]]や、旅館中の壊れた時計全部を持ってこさせ、暇潰しにそれら全てを一晩で直してしまったことがある{{R|円谷組218}}{{efn|中野によれば、編集作業を行おうとする円谷に対し、スタッフを休ませるため中野が仕向けたことであったという{{R|円谷組218}}。}}。驚く女中たちに、「こういうものは雨が降っていると、湿気の関係でうまく直るんだよ」などととぼけていた。また「なぜか時計が壊れやすい」という女将に対し、置き場所が悪いとして「南を背にして10時の方向に置くのがいちばん良い」と、時計を置く位置まで指示した{{R|円谷組218}}。あとで助監督であった[[中野昭慶]]がその真偽を問うと「そんなことあるわけないじゃないの」と答え、旅館の女将が驚く顔を見たかったのだという{{R|円谷組218}}。
「空中を飛ぶ飛行機は、どうやって爆発させているんですか?」と取材で聞かれた際には、「あれは火薬をピアノ線で吊っておいて、そこに飛行機をぶつけて爆発させているんだよ」などととぼけた返事をしている{{要出典|date=2022年12月}}。
円谷の補佐を務めていた有川は、「モノを考えると熱中する」ことを円谷の強みに挙げており、中途半端に妥協するようなこともなく、作品完成への執念は凄まじいものであったと語っている{{R|ゴジラ大全集138}}。東宝プロデューサーの[[田中友幸]]は、円谷は職人肌の凝り性であり、いい画を撮るためなら徹夜作業も平気で行っていたといい、一度OKになったシーンも納得いかなければ独自に撮り直していたこともあったという{{R|全史53}}。
中野昭慶は、円谷から「モノを考えるとどこが痛くなるか」と問われ「頭」と答えたところ、円谷から「胃袋で考えろ」と窘められたという{{R|ゴジラ大全集138}}。中野は当時は理解できなかったが、自身が特技監督になって物事を突き詰めると頭が痛くなるだけでなく胃がキリキリするようになり、是が非でも答えを出すようになったと述べている{{R|全史79}}。
『ゴジラ』などに出演した[[宝田明]]は、実際の円谷は巨匠というよりも木工所の親父さんという印象であったといい、ネクタイ姿を見たことがないと述懐している{{R|特撮世界29}}。また、宝田は円谷は普段は寡黙であったと述べており{{R|特撮世界29}}、『[[マタンゴ]]』などに出演した[[水野久美]]も円谷はシャイであったと証言している{{R|特撮世界67}}。
編集の石井清子によれば、円谷は服装が洒落ていたが、シャイなため新しい服を着てきても暑くもないのに「暑い」といって上着を手に持って部屋に入ってくるなどしていたという{{R|東宝SF8155}}。
=== 趣味・趣向 ===
; 酒
: 大変な酒豪で知られた。身体は非常に丈夫だったそうで、風邪でもなんでも「[[玉子酒]]」で治してしまったという。定時を超え、深夜まで編集作業を1人行っていても、翌日は必ず9時に現場入りする毎日で、若いスタッフは円谷より先に帰るわけにも行かず、遅れて出社するわけにも行かず、大変だったそうである。
: 本多が円谷から聞いた昔話によれば、円谷は『ハワイ・マレー沖海戦』の試写が成功して嬉しくなり酔い潰れ、本人は記憶をなくしていたがタクシーと喧嘩になり、朝起きると渋谷の警察署の留置所に入れられていたこともあったという{{R|本多全仕事106}}。
: [[中野昭慶]]によれば、カメラマンと2人で飲んでビールの空き瓶を4畳半の部屋に並べて1周させ、その後口直しとして日本酒を2升開けたという{{R|円谷組218}}。
: 作曲家の[[伊福部昭]]は、[[月形龍之介]]と小料理屋で呑んでいたときに円谷が酒席に加わってきたのが円谷との最初の出会いであったと述懐している{{R|全史64}}{{efn|この時点では映画関係者であるということ以外、名前も素性も知らなかったという{{R|全史64}}。}}。
: 晩年は[[糖尿病]]のため医師に制限され、乾杯の際は焼酎をスポイトで一滴落とした水を飲んでいた{{R|円谷組218}}。
: スクリプターの鈴木桂子は、円谷が毎晩酔っ払って帰ってくる姿を見た長男の一が泣いたため酒をやめたと円谷から聞かされていたが、円谷の通夜でこの話を妻のマサノにしたところ「それは嘘だ」と告げられた{{R|円谷組218}}。
:
; 食生活
: 円谷は[[豚カツ]]や[[ゆで卵]]が好物で、「2年間[[カツ丼]]を食べた」と豪語したこともあった{{R|円谷組218}}。ゆで卵も、塩をつけず水も飲まずに26個食したのが最高記録であった{{R|東宝SF8155}}。ロケでは売店を見つけるとゆで卵を買い、待合室で5、6個を食べていたという{{R|東宝SF8155}}。
: しかし、晩年は糖尿病によりコレステロール値が上がるこれらを禁じられていた{{R|円谷組218}}。妻に隠れてトンカツ屋に行くこともあったが{{R|東宝SF8155|円谷組218}}、円谷は少し食べて残りを助監督の中野に譲っていたという{{R|円谷組218}}。
: 昼食は妻の指示で[[蕎麦#ざる蕎麦/盛り蕎麦|ざるそば]]を食べており、スタッフには「家では毎日[[コンニャク]]を食べさせられる」とこぼしていた{{R|円谷組218}}。
: [[飯|白飯]]に冷めた味噌汁やすき焼きの残り汁をかけることも好んでおり、夜中に台所に忍び込んでこれを食すことを「盗み汁」と称していた{{R|東宝SF8155}}。ロケの昼食で入ったレストランでも、従業員のまかないであるすき焼きの残り物を頼もうとしたこともあった{{R|東宝SF8155}}。
: 夏には[[ところてん]]を好んでいたといい、中野は何度も買いに行かされたという{{R|東宝SF8155}}。
:
; タバコ
: 円谷はヘビースモーカーであったことも知られる{{R|東宝SF8155|円谷組173}}。
: 有川によれば、円谷はイライラしているときはタバコの本数が増えていたといい、その際は円谷に近づかなかったと述べている{{R|デイズ221}}。
: 撮影助手であった[[鶴見孝夫]]は、毎日タバコを買ってくるよう指示され、仕事よりも優先して買いに走ったという{{R|円谷組173}}。
:
; 特技
: ギター、三味線が得意だった{{Refnest|group="出典"|{{R|全史79|東宝SF8155|円谷組35}}}}。東宝内に設置した円谷特殊技術研究所には、愛用のギターを置いてあって、合成待ちの間など暇があると大衆歌を爪弾いていた{{R|円谷組35}}。富岡によれば、京都で遊んでいたときに覚えたものであるという{{R|円谷組35}}。
: NHKの邦楽番組を好んで観ており、乾燥したステージの中で良い演奏をしているプロの技量に感嘆する場面もあったという{{R|全史79}}。同番組に出演していた[[三浦布美子]]のファンでもあったといい、中野は番組のある日は絶対に残業にならなかったと証言している{{R|東宝SF8155}}。
:
; 新し物好き
: 新し物好きでも知られ、カメラは8ミリから16ミリ・[[インスタントカメラ|ポラロイド]]{{R|東宝SF8155}}。また、ステレオ、洗濯機など新製品が出るとすぐに買い揃えた{{efn|中野によれば、円谷は新しいポラロイドカメラを買ってはロケハンで使って自慢していたという{{R|円谷組218}}。また、マサノの要望により特美課で古い洗濯機を3台引き取ったこともあった{{R|円谷組218}}。}}。テレビに至っては新商品が出る度に買い、自宅に常に6台ほど揃えていた。また、これらを分解・再組み立てするのが趣味だった。基本的に機械いじりが大好きだった。
: 飛行機や機関車のミニチュアなどは、自らも制作に加わるほどであり、機関車マニアでもある脚本家の[[関沢新一]]とは、新作映画が企画されるごとに、今度はどんな列車のミニチュアを出すかの話題で互いに盛り上がっていた。孫の[[円谷一夫]]は子供のころ、怒られたことがなかったが、[[零式艦上戦闘機|零戦]]の模型の組み立てを途中で放り出した時だけは大声で怒鳴られたという。
:ミニチュアの動力用に電動モーターを買い集めており、伊福部昭は『ゴジラ』の際に自宅を訪ねた際に、部屋に数十個のモーターがあるのを見て驚いたと語っている{{R|全史64}}。円谷は伊福部に「モーターで一番動力の強いのは[[ジューサー|ジューサーミキサー]]のモーターだ」と説明したという{{R|全史64}}。
:
; 標準語コンプレックス
: 福島県出身の円谷は[[ズーズー弁]]であったといい、スクリプターの鈴木桂子は入ったばかりのころは円谷が何を言っているかわからなかったという{{R|円谷組218}}。円谷自身も訛りを気にしていたといい、自身の声を吹き込んだテープを聞いて「なるほど、わかりにくいな」と述べたこともあった{{R|円谷組218}}。
: このせいか、標準語を話す人物に対して嫌悪感を示すこともあり、地方出身者には安堵感を得ていたという{{R|円谷組218}}。
=== スタッフとの関わり ===
初の本格的な特撮怪獣映画である第1作の『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』の制作に当たっては、まず現場のスタッフ集めから始めなければならなかった。そして、急遽集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の20歳そこそこの若者たちだった{{R|デイズ205}}。円谷はひとりひとりの名前も覚えておらず、「あいつ誰なんだ」と聞きながら指示しなければならなかった{{R|デイズ205}}。カメラマンを務めた[[有川貞昌]]は、玄人が円谷1人であったからこそ、全員が指示された内容を疑うことなくがむしゃらにやった結果、筋の通った1つの仕事になったと述懐している{{R|東宝SF8155}}。
仕事に関しては非常に厳しかったが、大抵はにこやかで、若いスタッフたちが一所懸命セッティングをしている後ろで、面白そうににやにやして眺めているような姿がよく見られたという。ただ、機材の扱いや、予算と直結しているタイアップ会社のミニチュアのネオンサインの作りが悪かった時や、また、「カット」がかかった後もカメラが回っている時などには怒鳴ることがよくあった。美術の[[井上泰幸]]は、『[[サラリーマン出世太閤記 課長一番槍]]』のミニチュア撮影で1/20スケールで統一して設計されていたミニチュアを模型制作がバラバラのサイズで作ってしまい、円谷が烈火のごとく怒っていたと証言している{{R|VIP184}}。
特撮の現場は未知の分野であり、撮り直しがきかず、また、若いスタッフが多く、人命に関わるような危険を伴っていたこともあって、現場の重圧感、緊張感は並大抵ではなかった。[[中島春雄]]によればそうした中、円谷はスタッフが準備している横で、「よく口を開けて居眠りをしていた」という。が、それはあくまで狸寝入りであり、そうした格好をしていても、常に現場の隅々まで目を凝らしていて、スタッフは気が抜けなかった。富岡は、円谷に質問をしようと思っても起こして怒られるのを恐れて聞けなかったと証言している{{R|円谷組35}}。特撮でピアノ線が写ってしまったようなときには、[[高野宏一]]や有川らキャメラマンに「後で俺に釜飯おごれ」と言うのが恒例で、これらのカットは弟子たちに「釜飯カット」と呼ばれたという。また、常に仕事の姿勢として前を向いており、若いスタッフに対して、過去の仕事の話をすることは一切なかった。
有川によれば、円谷が語っていた「プロとアマチュアの違い」は、アマチュアは何枚も撮った写真の中から良いものを選ぶが、プロは何を撮ってもそれ一枚が商品にならなければならないというものであり、有川がやり直しを申し出ても認められず「君の腕がそこまでだってことはわかっている」とたしなめられたという{{R|全史345}}。
反面、「仕事を離れると本当にジェントルマン」(中島春雄談)であった。仕事が終われば、スタッフを引き連れ、酒を飲みに行くことも多かった。もちろん、円谷のおごりである。前述の「釜飯」のエピソードにしても、実際に釜飯をおごらせるということはなく、こういう酒宴の口実だったそうである。身なりにも無頓着で、後段のエピソードにあるように茶目っ気たっぷりな好々爺であった。実相寺昭雄は仕事でスタッフと円谷の自宅を訪問する度に鰻を御馳走され、「僕はカレーライスで充分なんだ」とニコニコしていた姿を印象深いものとして述懐している。こうした親分肌の人柄から、有川ら門下生は円谷を「'''オヤジ'''」と呼んで慕っている。円谷が亡くなると、有川や中島など、やりがいをなくして現場から離れたスタッフは多い。
円谷は現場ではあまり口出ししなかった。怪獣の立ち回りは[[中島春雄]]が一任されていた。反面、造形的な要求はかなり細かく、『[[キングコング対ゴジラ]]』での[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]の顔の作りには数度にわたり指示を出している。[[キングギドラ]]のデザイン検討では、神社の[[狛犬]]を3時間にわたって熱心に観察し、東宝初の本格的宇宙怪獣の顔に、東洋の龍の意匠を盛り込んだ。美術スタッフの[[井上泰幸]]は、『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』で「[[人工衛星]]の上部を本体と逆回転させて欲しい」という円谷のイメージ面での要求に苦労し、かなり反発したと述懐している<ref>{{Cite book |和書 |title = 特撮映画美術監督 井上泰幸 |year = 2012 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 82 |isbn = 978-4-87376-368-2 }}</ref>。
一方、現場でいきなりアイディアを出すことも多く、「口を開けて居眠り」していたかと思えば、がばっと起き上がって指示を出すこともしばしばで、現場スタッフもこれに臨機応変に対応していた。『[[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]』で、作画合成の光線が当たった森の樹木が、火薬の発火によって水平に切断されていくシーンなども、本番前に円谷が思いついたものである{{R|全史308}}。
特撮の現場は、徹夜が続いたり現場で仮眠をとることも多く、円谷も椅子の上で居眠りをしていることが多かったというが、誰も円谷に対して文句を言うことはなかった{{R|東宝SF7}}。中野によれば、「春ちゃん(中島春雄)と親父(円谷)は寝たら起こすな」というのが助監督の共通認識であったという{{R|東宝SF8155}}。一方で、居眠りをしながらもスタッフの会話には聞き耳を立てていたといい、皆が気を遣って離れた場所で喋っていても円谷は徐々に椅子を寄せて、会話の中に出た冗談をアイデアとして採用するなどしていた{{R|東宝SF8155}}。また、直前まで寝ていても本番になったらパッと起きて仕事をこなしていたという{{R|東宝SF8155}}。
1943年に袂を分かって松竹へ移籍した[[川上景司]]を、20年を経て後の円谷特技プロ設立の際に何の遺恨もなく迎え入れた度量の広さは、業界でも語り草だったという。『[[ウルトラマン]]』制作時、円谷特技プロ内で『ウルトラマン』よりも、旧知の仲でもあるうしおそうじが設立したピープロ制作の『[[マグマ大使 (テレビドラマ)|マグマ大使]]』の心配ばかりしていたそうで、実際に撮影現場を訪れたこともよくあったという{{R|特秘3}}。また、他社作品である『[[大怪獣ガメラ]]』([[大映]]、1965年)や『[[大巨獣ガッパ]]』([[日活]]、1967年)などの作品には、請われる形で円谷組のスタッフが多数参加しているが、全て黙認していた。[[中島春雄]]は「ふつうは怒るよね。ほんとオヤジさんは懐が深いよ」とコメントしている。[[築地米三郎]]によると、[[大映]]の戦記映画『[[あゝ零戦]]』(1965年)では、東宝特美課の零戦のミニチュアを円谷から個人的に貸し出してもらったという。
数々の特撮作品で組んだ[[本多猪四郎]]との息の合いは伝説的であり、ほとんど「あれ」「それ」といった言葉で演出意図を通じ合わせていたという。
特殊美術の[[入江義夫]]によれば、ミニチュアの縮尺は円谷が決めていたが、[[尺貫法]]で指示するため[[メートル法]]に直さなければならなかったという{{R|モスラ映画大全24}}。
合成を担当した[[飯塚定雄]]によれば、円谷からの発注は「感じを作れ」という一言のみで、飯塚は自身の経験の引き出しから何を使うか考える必要があったと語っている{{R|モスラ映画大全82}}。また、円谷は仕上がったものに注文をつけることが多く、飯塚は円谷から直接褒められることは一度もなかったという{{R|モスラ映画大全82}}。
編集の[[石井清子]]は、編集助手を務めた映画『[[宇宙大戦争]]』で石井のミスで1カットダビングできず、円谷英二に怒鳴られ、周囲からも冷ややかな目で見られたことが合った{{R|東宝SF8155}}。しかし、実際には石井の担当した箇所ではなかったが石井は言い訳をせず、後に円谷から詫びとして芝居の券をもらったという{{R|東宝SF8155}}。中野は、シャイな円谷の唯一の謝り方だったのだろうと評している{{R|東宝SF8155}}。
円谷の死去する直前に、中野は仕事の帰りにスタッフを引き連れて伊豆で療養中の円谷のもとを訪れ、スタッフの多くはこれが最後の対面となり、中野はなんとなく予感していたというが、一方で円谷の仕事を引き継いだ自身が訪れたことは円谷に対して良いことであったのか酷なことであったのか省みる部分もあったという{{R|東宝SF8155}}。
=== 他監督との関わり ===
; 黒澤明との関係
: 円谷粲によれば、当時の日本映画界を代表する二大巨匠として、[[黒澤明]]とは少なからず意識し合う仲であり、互いの作品の試写は両人とも必ず観ていたという{{要出典|date=2022年9月}}。両者の作品に出演している中島春雄も、黒澤は特撮が好きでダビングやアフレコを度々覗いていたと証言している{{R|東宝SF8155}}。1作目の『ゴジラ』で、黒澤から「今度のあれはなかなか良かったよ」と声をかけられた際は、上機嫌でこのことを家人に話していたといい、黒澤が『[[椿三十郎]]』を撮ったころには、「あいつはいいよなあ。あんなにフィルムを使えるのはあいつくらいのもんだもんな」と羨ましがっていたという。黒澤は『[[空の大怪獣 ラドン]]』では「特撮映画にも季節感が必要だ」などと進言、田中友幸は得るところ大きかったと語っている{{要出典|date=2022年9月}}。
: 有川によれば、円谷は『[[七人の侍]]』の公開当時に妥協せずに作品を制作できる黒澤を羨ましがっていたという{{R|デイズ215}}。
: 一方で、両組のスタッフ間では照明の取り合いや俳優の引き抜きなどのいざこざもあり、「天皇」と称される黒澤に対し「こっちは(特撮の)神様だ」と返すスタッフもいた{{R|東宝SF8155}}。
; 松林宗恵との関係
: [[松林宗恵]]とは、互いに「円谷の爺っちゃん」「和尚」と愛称で呼びあう仲であった。
== 作品歴 ==
=== 教材映画 ===
下記の作品は動画、線画が主体である。「教材映画」のほとんどは、敗戦直後にGHQを怖れて焼却され、現存するものはわずかである。
* 国防と防火([[1939年]]、[[東宝]])
* 農民と生活(1939年、東宝)
* 鉄道と信号(1939年、東宝){{efn|「着色フィルム動画(染料で、フィルムに直接色をつけたもの)」である。円谷の指導のもと、[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]が着色を行う。}}
* [[飛行理論]](1939年 - 1940年、東宝) - 演出・脚本を担当。{{efn|航空兵への教材映画。空中撮影も担当。}}
* [[飛行機は何故飛ぶか]](1939年、東宝) - 脚本・演出を担当{{efn|公開は1940年2月21日。}}
* グライダー(1939年、東宝) - 演出・脚本
* 九九式軽機関銃(1939年、東宝){{efn|陸軍兵への教材映画。}}
* 水平爆撃理論編([[1940年]]、東宝){{efn|鈴鹿海軍航空隊の教材映画。[[真珠湾攻撃]]のマニュアルとなる。鷺巣富雄の考案した「スチールアニメーション」を初使用。「実践編」と二部編成。}}
* 皇道日本(1940年、東京国策映画) - 撮影・編集を担当。
* 水平爆撃実践編(1940年、東宝) - 「水平爆撃理論編」の第二部。
* 浜松重爆撃機([[1941年]]、東宝)
=== 戦争映画 ===
* [[海軍爆撃隊]]([[1940年]]、東宝)
* [[燃ゆる大空]](1940年、東宝)
* [[南海の花束]]([[1942年]]、東宝)
* [[翼の凱歌]](1942年、東宝)
* [[ハワイ・マレー沖海戦]](1942年、東宝){{efn|円谷英二が特撮の手腕を大きく振るった作品の一つ。大東亜戦争緒戦の[[真珠湾攻撃]]と[[マレー沖海戦]]を描く。海軍省の指示で、海戦の記録映像などを使うことはいっさい禁じられていたが、円谷の演出能力はそれをものともせず、手渡された小さな資料写真の波から実物の軍艦の大きさを正確に割り出し、独自製作したミニチュアによる特撮のみで見事に真珠湾攻撃シーンを再現した。そのあまりの完成度の高さに、戦後のGHQ(連合国軍総司令部)がカメラを実際に戦場に持ち込んで撮影した「実録」だと思い込んだという伝説的作品。しかし、これが円谷の公職追放の原因ともなってしまう。「トラベリング・マット合成」を日本初使用。なお、ハワイの戦争記念館で上映している記録映画の中に、この作品からの数カットが「当時の記録映像」として使用されている。}}
* [[加藤隼戦闘隊 (映画)|加藤隼戦闘隊]]([[1944年]]、東宝)
* [[雷撃隊出動]](1944年、東宝)
* [[太平洋の鷲]]([[1953年]]、東宝)
* [[さらばラバウル]]([[1954年]]、東宝)
* [[潜水艦イ-57降伏せず]]([[1959年]]、東宝)
* [[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]]([[1960年]]、東宝){{efn|本作品の特撮のために東宝撮影所内に「特撮大プール」が作られた。}}
* [[紅の海]]([[1961年]]、東宝)
* [[紅の空]]([[1962年]]、東宝)
* [[太平洋の翼]]([[1963年]]、東宝)
* [[青島要塞爆撃命令]](1963年、東宝)
* [[太平洋奇跡の作戦 キスカ]]([[1965年]]、東宝)
* [[勇者のみ (1965年の映画)|勇者のみ]](1965年、東京映画・シナトラエンタープライズ)
* [[ゼロ・ファイター 大空戦]]([[1966年]]、東宝)
* [[連合艦隊司令長官 山本五十六]]([[1968年]]、東宝)
* [[日本海大海戦]]([[1969年]]、東宝){{efn|特技監督として実質的に関わった最後の作品。資料によっては、同作品を遺作としている{{R|大百科}}。}}
=== SF映画 ===
* [[透明人間現わる]]([[1949年]]、[[大映京都撮影所|大映京都]])
* [[虹男]](1949年、[[大映 (映画)|大映]])
* [[透明人間 (1954年の映画)|透明人間]]([[1954年]]、東宝)
* [[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]([[1957年]]、東宝)
* [[変身人間シリーズ]](東宝)
** [[美女と液体人間]]([[1958年]])
** [[電送人間]]([[1960年]])
** [[ガス人間第一号]](1960年)
** [[マタンゴ]]([[1963年]]){{efn|新鋭のオプチカル・プリンター「シリーズ1900」が導入された初作品。}}
* [[宇宙大戦争]]([[1959年]]、東宝)
* [[世界大戦争]](1961年、東宝)
* [[妖星ゴラス]]([[1962年]]、東宝){{efn|日本初のフィルム6重合成を行う。}}
* [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]](1963年、東宝)
* [[緯度0大作戦]]([[1969年]]、東宝・ドン=シャーププロ)
=== 怪獣映画 ===
[[1954年]]公開のシリーズ第1作『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。『ゴジラの逆襲』で初めて「'''特技監督''' 円谷英二」としてクレジットされた{{R|東宝特撮映画大全集13}}。
ゴジラ映画では、第7作の『[[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘]]』([[1966年]])まで特技担当するが、この作品では、実質的に弟子の[[有川貞昌]]が特技監督を任じている。次回作である第8作の『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』([[1967年]])からは監修に回り、特技監督を正式に有川にバトンタッチした{{R|東宝特撮映画大全集119}}。
有川によると、この「特技監修」とは、「絵コンテ作成とフィルム編集以外を任される」ということである。「円谷特技プロ」においても、フィルム編集は円谷自身が立ち会っている。
『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』の2作に円谷は一切関わっておらず、スタッフの円谷に対する敬意として名義を使用したものである{{R|東宝特撮映画大全集133|東宝特撮映画大全集143}}。
※全て東宝配給作品。
* [[ゴジラ|ゴジラシリーズ]]
** [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]([[1954年]])
** [[ゴジラの逆襲]]([[1955年]])
** [[キングコング対ゴジラ]]([[1962年]])
** [[モスラ対ゴジラ]]([[1964年]])
** [[三大怪獣 地球最大の決戦]]([[1964年]])
** [[怪獣大戦争]]([[1965年]])
** [[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘]]([[1966年]])
** [[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]([[1967年]]) - 特技監修
** [[怪獣総進撃]]([[1968年]]) - 特技監修
** [[ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃]]([[1969年]]) - 監修(名義のみ)
* [[獣人雪男]]([[1955年]])
* [[空の大怪獣 ラドン]]([[1956年]])
* [[大怪獣バラン]]([[1958年]])
* [[モスラ]]([[1961年]]){{efn|日本初の全世界同時封切り映画。}}
* [[宇宙大怪獣ドゴラ]]([[1964年]])
* [[フランケンシュタイン対地底怪獣]]([[1965年]])
* [[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]([[1966年]])
* [[キングコングの逆襲]]([[1967年]])
* [[ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣]]([[1970年]]) - 監修(名義のみ、ノンクレジット)
=== その他の映画 ===
* [[狂つた一頁]]([[1926年]]、新感覚派映画連盟、ナショナルフィルムアート、[[衣笠映画連盟]]) - 撮影補助、円谷英一名義。
* かぐや姫([[1935年]]、[[J.O.スタヂオ|JO]]){{efn|[[人形アニメ]]の演出、撮影。アニメートは[[政岡憲三]]。}}
* [[新しき土]]([[1937年]]、[[J.O.スタヂオ|JO]]・[[東宝東和|東和商事]]){{efn|日本初の海外([[ナチス・ドイツ]])との合作映画。[[スクリーン・プロセス]]の技術を[[アーノルド・ファンク]]監督から絶賛される。}}
* [[エノケンの孫悟空]]前・後篇([[1940年]]、東宝){{efn|[[マット画]]合成法を日本初使用。作画は鷺巣富雄。}}
* [[愛の世界 山猫とみの話]]([[1943年]]、東宝)
* [[兵六夢物語]](1943年、東宝)
* [[音楽大進軍]](1943年、東宝)
* [[勝利の日まで#映画|勝利の日まで]]([[1945年]]、東宝)
* [[民衆の敵 (1946年の映画)|民衆の敵]]([[1946年]]、東宝)
* [[花くらべ狸御殿]](1949年、大映京都)
* [[紅蓮菩薩]]([[1949年]]、大映京都)
* [[港へ来た男]]([[1952年]]、東宝){{efn|公職追放後の、正式な東宝復帰作品。[[本多猪四郎]]との初のコンビ作品。本多監督はこの作品で、円谷監督からスクリーン・プロセスの指導を受けている。}}
* [[飛び出した日曜日]]([[1953年]]、東宝){{efn|日本初の「トービジョン映画([[立体映画]])」。2台のキャメラを回し、立体映像を撮った。}}
* [[私は狙われている]](1953年、東宝){{efn|「トービジョン映画」第二弾。立体映写の特別な設備が必要なため、『飛び出した日曜日』と併せて全国4劇場(日劇、浅草宝塚劇場、大阪劇場、名古屋名宝会館)のみの上映となった。本社の方針で2本限りとなり、円谷は残念がったという。}}
* [[アナタハン]](1953年、東宝)
* [[君の名は]](1953年、松竹)
* [[白夫人の妖恋]]([[1956年]]、東宝){{efn|日本初の総天然色特撮映画。[[ブルーバック]]合成を日本初使用。}}
* [[日本誕生]]([[1959年]]、東宝){{efn|「東宝映画1,000本製作記念作品」。[[バーサタイル・プロセス]]合成法を日本初使用。「オックスベリー社」の新型オプチカル・プリンターによって、日本初のフィルム4重合成を実現。}}
* [[孫悟空 (1959年の映画)|孫悟空]](1959年、東宝)
* [[ゲンと不動明王]](1961年、東宝)
* [[大坂城物語]](1961年、東宝)
* [[大沈清伝]]([[1962年]]) - 日韓合作映画。
* [[大盗賊]]([[1963年]]、東宝)
* [[士魂魔道 大龍巻]]([[1964年]]、東宝・[[宝塚映画]])
* [[大冒険]]([[1965年]]、東宝・[[渡辺プロ]])
* [[奇巌城の冒険]]([[1966年]]、東宝)
=== その他 ===
* アイヌ恋歌([[日本劇場]]、昭和33年2月15日 - 3月3日){{efn|背景映像の特撮を担当。}}
* 春・夏・秋のおどり(日本劇場、昭和33年 - 昭和39年){{efn|昭和33年7月11日からの『夏のおどり』興行から、背景映像の特撮を担当。昭和39年3月1日からの『春のおどり』では、「円谷特技プロダクション」名義で担当。}}
* 水中バレエ 竜宮城([[よみうりランド]]、[[1964年]]開場){{efn|[[近藤玲子 (舞踊家)|近藤玲子]]主宰の「水中バレエ劇場」(母体が東宝傘下の[[宝塚歌劇]])の常設会場のための舞台装置、小道具、特殊美術などの監修を担当。}}
* [[風と共に去りぬ#日本の舞台|風と共に去りぬ]]([[帝国劇場]]、[[1966年]]){{efn|東宝製作の舞台演劇の背景映像を担当。アトランタ市街の炎上、爆発シーンの特撮を演出。}}
* [[ウルトラマン・ウルトラセブン モーレツ大怪獣戦]]([[後楽園ゆうえんち]]、[[1969年]]){{efn|後楽園ゆうえんちのサークロラマ劇場用に製作された映画。円谷が関わったウルトラシリーズ最後の作品。}}
* 日本の自然と日本人の夢([[日本万国博覧会]]、[[1970年]]){{efn|[[三菱未来館]]のサークロラマ劇場用に製作された特撮映像。完成を待たず円谷が逝去したため、[[中野昭慶]]や[[川北紘一]]らによって仕上げられた。アナウンスを含めた映像の断片が、DVD『ハワイ・マレー沖海戦』の特典映像に収録されている。}}
=== テレビ作品 ===
* [[ウルトラシリーズ]]([[TBSテレビ|TBS]]・[[円谷プロダクション|円谷特技プロ]]) - 監修
** [[ウルトラQ]]([[1966年]])
** [[ウルトラマン]](1966年)
** [[ウルトラセブン]]([[1967年]])
* [[快獣ブースカ]](1966年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・円谷特技プロ・東宝) - 監修
* [[マイティジャック]]([[1968年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・円谷特技プロ) - 指導・監修
* [[マイティジャック#戦え! マイティジャック|戦え! マイティジャック]](1968年、フジテレビ・円谷プロ) - 指導・監修
* [[怪奇大作戦]](1968年、TBS・円谷プロ) - 監修
* [[恐怖劇場アンバランス]]([[1973年]]、フジテレビ・円谷プロ) - 監修{{efn|製作は生前の1969年。}}
* [[チビラくん]]([[1970年]]、日本テレビ・円谷プロ) - 監修
* [[独身のスキャット]](1970年、TBS・円谷プロ) - 監修
== 著作 ==
*『定本 円谷英二随筆評論集成』竹内博編、[[ワイズ出版]]、[[2010年]]
== 円谷英二を題材とした作品 ==
; 『現代の主役 ウルトラQのおやじ』(TBS、1966年)
: [[実相寺昭雄]]が演出したドキュメンタリー番組。[[ウルトラQの登場怪獣#人工生命 M1号|M1号]]と[[ラゴン (ウルトラ怪獣)|ラゴン]]が円谷の元を訪問し、インタビューするという内容である。『[[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]』の特撮を演出中の円谷など、貴重な映像が見られる。
; 『ジュニア文化シリーズ ゴジラ誕生 人間の記録 円谷英二』([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]、1980年)
: 没後10年を迎え、[[円谷皐]]、[[高野宏一]]、[[中野昭慶]]らが往時を振り返る。
; 鈴木聡司『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ』上・下(新風舎、2003年)
: 上 ISBN 4797420707、下 ISBN 4797420715
; 『夢宙人(むちゅうじん)ゴジラを造った男 -円谷英二-』(漫画)
: 原作:[[市川森一]] / 作画:[[幸野武史]]
: 『[[週刊漫画サンデー]]』2006年35号から2007年5号まで連載。
; 『[[先人たちの底力 知恵泉]] 制約を最大効果に変えろ! 〜円谷英二 前編・後篇〜』([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]、2014年4月15日・22日)
* 『ゴジラ生誕60年 日本の特撮驚異の技』(2014年8月10日、[[NHK BSプレミアム]])
* 『熱中スタジアム』"ウルトラ怪獣" 特集! (2011年10月10日・17日、[[NHKBS]])
== 円谷英二を演じた俳優 ==
;テレビドラマ
* [[西村晃]] - [[ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟]]
* [[鈴木清順]] - [[私が愛したウルトラセブン]]
* [[滝田裕介]] - [[ウルトラマンティガ]]
* [[綾田俊樹]] - [[ふたりのウルトラマン]]
;テレビ番組
* [[佐野史郎]] - [[ニッポン人が好きな100人の偉人]]
* [[毒蝮三太夫]] - [[おしゃべり人物伝]]
* [[徳光和夫]] - [[円谷英二〜大空を愛したウルトラマン〜]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist
|refs=
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<ref name="デイズ227">{{Harvnb|ゴジラ・デイズ|1998|pp=227-233|loc=有川貞昌「1954-68 GODZILLA ゴジラは新しさへ挑戦する精神 試写を観て、スタッフは大喜び」}}</ref>
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<ref name="TCMP100">{{Harvnb|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014|pp=100-101|loc=「東宝チャンピオンまつりスペシャルインタビュー 中野昭慶」}}</ref>
<ref name="超常識152">{{Harvnb|超常識|2016|pp=152-153|loc=「Column ゴジラ映画 監督・特技監督人名録」}}</ref>
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<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=“特撮の神様” 円谷英二監督が撮影 「かぐや姫」フィルム発見|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210707/k10013124901000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-07-08|last=日本放送協会}}</ref>
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=== 出典(リンク) ===
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* {{Cite book|和書|editor=別冊映画秘宝編集部|title=ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集|publisher=洋泉社|date=2016-09-21|series=映画秘宝COLLECTION|isbn=978-4-8003-1050-7|ref={{SfnRef|ゴジラとともに|2016}}}}
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== 外部リンク ==
{{commonscat|Eiji Tsuburaya}}
* {{allcinema name|113581}}
* {{kinejun name|103317}}
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* {{tvdrama-db name|円谷英二 テレビドラマ人名録}}
* [http://m-78.jp/ 円谷プロダクション公式サイト]
* [https://s-tette.jp/museum/index.html 円谷英二ミュージアム]
* {{imdb name|id=0875212|name=Eiji Tsuburaya}}
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E8%8B%B1%E4%BA%8C |
1,619 | ハイパーオリンピック | 『ハイパーオリンピック』 (Hyper Olympic) は、1983年10月27日に日本のコナミ工業から稼働されたアーケード用スポーツゲーム。北米ではCenturiから『Track & Field』のタイトルで稼働された。
陸上競技を題材とした作品であり、100メートル競走、走幅跳、やり投、110メートルハードル、ハンマー投、走高跳の6種目で記録を競う。アーケード版は翌年(1984年)開催のロサンゼルスオリンピックがテーマとなっており、店頭ポスターやポップなどに公式キャラクターである「イーグルサム」が描かれていた。開発はコナミ開発1課が行い、音楽は後にゲームボーイ用ソフト『ドラキュラ伝説』(1989年)を手掛けた福武茂が担当している。
後にLSIゲームやMSX、ファミリーコンピュータなどに移植された他、日本国外においてもパソコン各機種に移植された。2002年には「コナミスポーツシリーズ」として、一部種目のみ携帯電話ゲームとして配信された。また、ファミリーコンピュータ版はTBS系バラエティ番組『8時だョ!全員集合』(1969年 - 1985年)で放送されたコント「志村の殿様」にてキャラクターを殿様に変更したバージョンが使用され、番組放送後の反響の大きさから一般発売される事となった。後に続編となるアーケードゲーム『ハイパーオリンピック'84』(1984年)が稼働され以後シリーズ化された。後のシリーズ作品では『ハイパースポーツ』」や『コナミックスポーツ』などのタイトルで発売されたものもある(後述)。
本稿では、アーケード版の1作目を中心に記述する。
操作パネルは、RUNボタン2つとJUMPボタン1つの3ボタン制となっている。中央がJUMPボタンで左右にRUNボタンが配置されており、RUNボタンを連打すればするほど、キャラクターの走る速度が上がるシステムとなっている。助走の必要な競技ではRUNボタンによって加速させ、JUMPボタンによって跳躍や投擲の動作を行う。ボタンを押す長さによって角度が変化し、45度程度で停止すると好成績を残す可能性が高くなる。結果が規定値を超えると次の種目に進める仕様となっており、全ての競技をクリアする事で表彰され、規定値が厳しくなる2周目が始まる事となる。
収録競技は100メートル競走、走幅跳、やり投、110メートルハードル、ハンマー投、走高跳の全6種類。その全6種類全ての競技でボタンを連打する必要性があった。本作以前にもシューティングゲームなどにおいて連打の必要性がある作品は存在したが、連打と同時にレバー操作を伴うため連打に専念する事が困難であったが、本作では連打の重要性が高い作りとなっていた。そのため、指の爪でボタンをこすりつけたり、爪が割れるのを防ぐためピンポン玉やコインでこすったり、手でボタンを叩くのではなく鉄製またはプラスチック製の定規をボタンに押し付けはじいて振動させる等の、連打速度を上げるための方法が多々生み出されることとなった。また、日本全国のゲームセンターにおいて、このゲームのゲーム台のRUNボタンの破損やその周囲がすり減っていることが多かった。
本作において確立された「連打&タイミング」による操作方法は続編や他社発売の類似ゲームでも継承されており、「スポーツ大会ゲーム」というジャンルの雛形となった。ただし、連打については、本作のボタンの消耗が異常に激しかった教訓を元に「複数のボタンを交互に押す」「一定のテンポで押す」といった具合に、一つのボタンだけが高速連打されないよう配慮されたゲームが多い。
ファミリーコンピュータ版では外部デバイスは『ハイパーショット』以外使用不可とされており、実際に連射機能付きコントローラとして知名度の高いハドソンの『ジョイカードマーク2』などは認識しないため使用は不可能だが、一部連射機能付き周辺機器が非公式ながら使用可能であり、連射速度に依存する競技に限られるが、連射ボタンを押すだけで100m走が8秒台で走れるなど簡単に高記録が出せた。
ホリ電機製の周辺機器であり、トラックボールが内蔵された「ホリトラック」が使用可能である。本作はホリトラック対応ソフトとして作られた訳ではないが、本来のホリトラック対応ソフトは未所有ながらハイパーオリンピックで使うためだけに購入したというユーザーも存在した。その他、HAL研究所から発売された「ジョイボール」では、連射モードと通常モードの中間の位置にスイッチを設定することによって連射機能の使用が可能であった。
当初は全5種目で開発されていたが、開発スタッフの1人が女子やり投のティーナ・リラクに惹かれて強引にやり投を加えたため、全6種目となった。
ゲーム中のボイスは当初日本語で開発していたが、雰囲気が出ないということで英語に変更された。
各種目の構成は開発当初は予選→本戦を想定していたが最終的に本戦のみとなった。標準記録のQualifyはその名残り。
表彰式に登場する女性キャラはパターンが進むにつれて服を脱いでいくというアイデアがあったが、オリンピック精神に反するという理由でボツになった。
ランキング表示時に流れる映画『炎のランナー』のテーマ曲の音作りのために専用のDACチップが搭載され、その完成までに3か月かかった。
批評家からは本作に関して肯定的な意見が挙げられている。ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、同書にてライターのがっちんはボタンを速く連打するゲーム性に関しては「単純なコンセプト」と指摘したが、各競技の標準記録を超えるというゲーム性に関しては「競争心をあおる作品」と肯定的に評価した。また各競技はスピードだけでなくタイミングが重要である事や、定規などを使用したプレイヤーが続出した事に触れた他、「RUNボタン」が左右に付いていたため両手を使用して左右のボタンを交互に連打する事で「プレイヤーを熱くさせた」と主張した。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作がナムコの『ゼビウス』(1983年)に次いで同年に大ヒットとなった事を指摘した上で、「従来のスポーツゲームとは一線を画すゲーム性で多くのプレイヤーを虜にした」と述べた他、本作のヒットにより複数の競技を収録したスポーツゲームが他のゲームメーカーからも発売される事に繋がったと述べている。また、3位以内に入る高記録を出す事でプレイヤー名が残せる事からプレイヤー同士の記録更新が白熱した事を述べている。
2018年6月には久しぶりの新作としてNintendo Switch用ソフト『ハイパースポーツ R』の開発が発表され、同年9月の東京ゲームショウでも試遊ができる状態だったが、2020年6月10日、開発中止が発表された。
1984年以降、「オリンピック」という名称およびマークを使用した商品は国際オリンピック委員会(IOC)に多額のスポンサー料を支払い、許諾を得ないと発売できなくなったため、2000年の『がんばれ!ニッポン!オリンピック2000』を最後に「オリンピック」の名前が入ったKONAMIのゲームは発売されていない。続編作品の中には『ハイパースポーツ』あるいは『コナミックスポーツ』と題された続編も発売されているほか、2000年以降の『ハイパーオリンピック』の移植版は全て日本国外版に差し替えられている。
2007年以降は任天堂とセガグループによる『マリオ&ソニック』シリーズが、オリンピックの公式ライセンスを得た上で展開されるようになっている。
2020年以降、コナミデジタルエンタテインメントが「オリンピック・バーチャルシリーズ」(IOC設立)とパートナーシップを結んだり、『eBASEBALLパワフルプロ野球2020』や『eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム』には東京オリンピックモードが搭載されるなど、オリンピックに関わる動きを再び見せるようになった。 | [
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"text": "批評家からは本作に関して肯定的な意見が挙げられている。ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、同書にてライターのがっちんはボタンを速く連打するゲーム性に関しては「単純なコンセプト」と指摘したが、各競技の標準記録を超えるというゲーム性に関しては「競争心をあおる作品」と肯定的に評価した。また各競技はスピードだけでなくタイミングが重要である事や、定規などを使用したプレイヤーが続出した事に触れた他、「RUNボタン」が左右に付いていたため両手を使用して左右のボタンを交互に連打する事で「プレイヤーを熱くさせた」と主張した。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作がナムコの『ゼビウス』(1983年)に次いで同年に大ヒットとなった事を指摘した上で、「従来のスポーツゲームとは一線を画すゲーム性で多くのプレイヤーを虜にした」と述べた他、本作のヒットにより複数の競技を収録したスポーツゲームが他のゲームメーカーからも発売される事に繋がったと述べている。また、3位以内に入る高記録を出す事でプレイヤー名が残せる事からプレイヤー同士の記録更新が白熱した事を述べている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2018年6月には久しぶりの新作としてNintendo Switch用ソフト『ハイパースポーツ R』の開発が発表され、同年9月の東京ゲームショウでも試遊ができる状態だったが、2020年6月10日、開発中止が発表された。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1984年以降、「オリンピック」という名称およびマークを使用した商品は国際オリンピック委員会(IOC)に多額のスポンサー料を支払い、許諾を得ないと発売できなくなったため、2000年の『がんばれ!ニッポン!オリンピック2000』を最後に「オリンピック」の名前が入ったKONAMIのゲームは発売されていない。続編作品の中には『ハイパースポーツ』あるいは『コナミックスポーツ』と題された続編も発売されているほか、2000年以降の『ハイパーオリンピック』の移植版は全て日本国外版に差し替えられている。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2007年以降は任天堂とセガグループによる『マリオ&ソニック』シリーズが、オリンピックの公式ライセンスを得た上で展開されるようになっている。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2020年以降、コナミデジタルエンタテインメントが「オリンピック・バーチャルシリーズ」(IOC設立)とパートナーシップを結んだり、『eBASEBALLパワフルプロ野球2020』や『eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム』には東京オリンピックモードが搭載されるなど、オリンピックに関わる動きを再び見せるようになった。",
"title": "関連作品"
}
]
| 『ハイパーオリンピック』 は、1983年10月27日に日本のコナミ工業から稼働されたアーケード用スポーツゲーム。北米ではCenturiから『Track & Field』のタイトルで稼働された。 陸上競技を題材とした作品であり、100メートル競走、走幅跳、やり投、110メートルハードル、ハンマー投、走高跳の6種目で記録を競う。アーケード版は翌年(1984年)開催のロサンゼルスオリンピックがテーマとなっており、店頭ポスターやポップなどに公式キャラクターである「イーグルサム」が描かれていた。開発はコナミ開発1課が行い、音楽は後にゲームボーイ用ソフト『ドラキュラ伝説』(1989年)を手掛けた福武茂が担当している。 後にLSIゲームやMSX、ファミリーコンピュータなどに移植された他、日本国外においてもパソコン各機種に移植された。2002年には「コナミスポーツシリーズ」として、一部種目のみ携帯電話ゲームとして配信された。また、ファミリーコンピュータ版はTBS系バラエティ番組『8時だョ!全員集合』で放送されたコント「志村の殿様」にてキャラクターを殿様に変更したバージョンが使用され、番組放送後の反響の大きさから一般発売される事となった。後に続編となるアーケードゲーム『ハイパーオリンピック'84』(1984年)が稼働され以後シリーズ化された。後のシリーズ作品では『ハイパースポーツ』」や『コナミックスポーツ』などのタイトルで発売されたものもある(後述)。 本稿では、アーケード版の1作目を中心に記述する。 | {{コンピュータゲーム
| Title = ハイパーオリンピック
| image =
| Genre = [[スポーツゲーム]]
| Plat = [[アーケードゲーム]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[電子ゲーム|LSIゲーム]] (LSI)<br />[[MSX]]<br />[[Apple II]] (APII)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />[[Atari 2600]] (A26)<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ|Atari 8ビット]] (A8)<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[ZX Spectrum]] (ZX)<br />[[iアプリ]]<br />[[S!アプリ|Javaアプリ]]<br />[[EZアプリ]]<br />[[Microsoft Windows|Windows]] (Win)<br />[[Xbox 360]] (X36)<br />[[Nintendo Switch]] (NSW)<br />[[PlayStation 4]] (PS4)}}
| Dev = コナミ開発1課
| Pub = {{vgrelease new|JP|[[コナミアミューズメント|コナミ]]|NA|[[:en:Centuri|Centuri]]}}
| distributor =
| producer = 石原祥吉
| director =
| designer =
| writer =
| programmer = 森下繁
| composer = 福武茂
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| license =
| series = コナミハイパーシリーズ
| Ver =
| Play = 1 - 4人(対戦プレイ)
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(112.53[[キロバイト]])
| Date = {{vgrelease new|JP|1983-10-27|NA|October 1983}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''LSI'''<br />{{vgrelease new|JP|1984年}}'''LSI(チャレンジ5)'''<br />{{vgrelease new|JP|1984年}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|April 1984|EU|1984年}}'''APII,C64'''<br />{{vgrelease new|JP|July 1984}}'''A26, A8'''<br />{{vgrelease new|JP|August 1984}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-06-21|NA|April 1987|EU|1992-02-20}}'''ZX'''<br />{{vgrelease new|EU|1988年}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2002-02-04}}'''Javaアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2002-04-17}}'''EZアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2002-07-22}}'''Win'''<br />{{vgrelease new|JP|2006年}}'''X36'''<br />{{vgrelease new|INT|2007-08-08}}'''NSW, PS4'''<br />{{vgrelease new|INT|2019-09-12}}}}
| Rating= {{vgrelease new|JP|{{CERO-A}}|NA|{{ESRB-E}}|EU|{{PEGI-3}}}}
| ContentsIcon =
| Download content =
| Device = 3ボタン
| Spec =
| Engine =
| aspect ratio =
| resolution =
| cabinet =
| Arcade system =
| cpu = [[MC6809]] (@ 2.048 MHz)
| sound = [[Z80]] (@ 3.580 MHz)<br />[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]] (@ 1.790 MHz)<br />SN76496 (@ 3.580 MHz)<br />VLM5030
| display = [[ラスタースキャン]]<br />横モニター<br />256 x 224[[ピクセル]]<br />60.00[[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />パレット32色
| Sale =
| ArcOnly = 1
| OnlineGame =
| etc =
}}
『'''ハイパーオリンピック'''』 (''Hyper Olympic'') は、[[1983年]][[10月27日]]に日本の[[コナミアミューズメント|コナミ工業]]から稼働された[[アーケードゲーム|アーケード]]用[[スポーツゲーム]]。北米では[[:en:Centuri|Centuri]]から『''Track & Field''』のタイトルで稼働された。
[[陸上競技]]を題材とした作品であり、[[100メートル競走]]、[[走幅跳]]、[[やり投]]、[[110メートルハードル]]、[[ハンマー投]]、[[走高跳]]の6種目で記録を競う。アーケード版は[[1984年ロサンゼルスオリンピック|翌年(1984年)開催のロサンゼルスオリンピック]]がテーマとなっており、店頭ポスターやポップなどに公式キャラクターである「[[イーグルサム]]」が描かれていた。開発はコナミ開発1課が行い、音楽は後に[[ゲームボーイ]]用ソフト『[[ドラキュラ伝説]]』([[1989年]])を手掛けた福武茂が担当している。
後に[[電子ゲーム|LSIゲーム]]や[[MSX]]、[[ファミリーコンピュータ]]などに移植された他、日本国外においてもパソコン各機種に移植された。[[2002年]]には「コナミスポーツシリーズ」として、一部種目のみ[[携帯電話ゲーム]]として配信された。また、ファミリーコンピュータ版は[[TBS系列|TBS系]]バラエティ番組『[[8時だョ!全員集合]]』([[1969年]] - [[1985年]])で放送されたコント「志村の殿様」にてキャラクターを殿様に変更したバージョンが使用され、番組放送後の反響の大きさから一般発売される事となった。後に続編となるアーケードゲーム『'''[[ハイパーオリンピック'84]]'''』([[1984年]])が稼働され以後シリーズ化された。後のシリーズ作品では『'''ハイパースポーツ'''』」や『'''コナミックスポーツ'''』などのタイトルで発売されたものもある([[#タイトルについて|後述]])。
本稿では、アーケード版の1作目を中心に記述する。
== ゲーム内容 ==
操作パネルは、RUNボタン2つとJUMPボタン1つの3ボタン制<ref group="注釈">RUNボタンが二つあるのは利き手がどちらでも対応できるようにするため。</ref>となっている。中央がJUMPボタンで左右にRUNボタンが配置されており、RUNボタンを連打すればするほど、キャラクターの走る速度が上がるシステムとなっている。助走の必要な競技ではRUNボタンによって加速させ、JUMPボタンによって跳躍や投擲の動作を行う{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。ボタンを押す長さによって角度が変化し、45度程度で停止すると好成績を残す可能性が高くなる{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。結果が規定値を超えると次の種目に進める仕様となっており、全ての競技をクリアする事で表彰され、規定値が厳しくなる2周目が始まる事となる{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。
収録競技は[[100メートル競走]]、[[走幅跳]]、[[やり投]]、[[110メートルハードル]]、[[ハンマー投]]、[[走高跳]]の全6種類{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=131|ps= - 「これぞ、ザ・ベストゲーム! スポーツゲームの進化と解説」より}}。その全6種類全ての競技でボタンを連打する必要性があった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。本作以前にも[[シューティングゲーム]]などにおいて連打の必要性がある作品は存在したが、連打と同時にレバー操作を伴うため連打に専念する事が困難であったが、本作では連打の重要性が高い作りとなっていた{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。そのため、指の爪でボタンをこすりつけたり、爪が割れるのを防ぐためピンポン玉やコインでこすったり、手でボタンを叩くのではなく鉄製または[[プラスチック]]製の定規<ref group="注釈">もしくは、より[[剛性]]が高く[[振動数]]が多い[[割り箸]]など。</ref>をボタンに押し付けはじいて振動させる等の、連打速度を上げるための方法が多々生み出されることとなった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。また、日本全国のゲームセンターにおいて、このゲームのゲーム台のRUNボタンの破損やその周囲がすり減っていることが多かった。
本作において確立された「連打&タイミング」による操作方法は続編や他社発売の類似ゲームでも継承されており、「スポーツ大会ゲーム」というジャンルの雛形となった。ただし、連打については、本作のボタンの消耗が異常に激しかった教訓を元に「複数のボタンを交互に押す」「一定のテンポで押す」といった具合に、一つのボタンだけが高速連打されないよう配慮されたゲームが多い<ref group="注釈">ないしは、あえて高速連打されることを前提とした特製のボタンを備えた専用筐体とするなどの考慮がされる。</ref>。
== 移植版 ==
=== 一覧 ===
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
! ハイパーオリンピック
| {{vgrelease new|JP|1984年}}
| [[電子ゲーム|LSIゲーム]]
| [[バンダイ]]
| バンダイ
| [[プリインストール|内蔵ゲーム]]
| -
| 全3種
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! ハイパーオリンピック チャレンジ5
| {{vgrelease new|JP|1984年}}
| LSIゲーム
| バンダイ
| バンダイ
| 内蔵ゲーム
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! {{vgrelease new|JP|ハイパーオリンピックI|EU|Track & Field}}
| {{vgrelease new|JP|April 1984|EU|1984年}}
| [[MSX]]
| コナミ
| コナミ
| ロムカセット
| RC710
|
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! {{vgrelease new|JP|ハイパーオリンピックII|EU|Track & Field 2}}
| {{vgrelease new|JP|April 1984|EU|1984年}}
| MSX
| コナミ開発3課
| コナミ
| ロムカセット
| RC711
|
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! Track & Field
| {{vgrelease new|JP|July 1984}}
| [[Apple II]]<br />[[コモドール64]]
| [[アタリ (企業)|アタリ]]
| アタリ
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! Track & Field
| {{vgrelease new|JP|August 1984}}
| [[Atari 2600]]
| [[:en:General Computer Corporation|General Computer]]
| アタリ
| ロムカセット
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 7
! Track & Field
| {{vgrelease new|JP|August 1984}}
| [[Atari 8ビット・コンピュータ]]
| アタリ
| アタリ
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 8
! {{vgrelease new|JP|ハイパーオリンピック|NA|Track & Field|EU|Track & Field}}
| {{vgrelease new|JP|1985-06-21|NA|April 1987|EU|1992-02-20}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| コナミ開発2課
| コナミ
| ロムカセット
| RC800
| ハイパーショット対応
|
|-
| style="text-align:right" | 9
! Track & Field
| {{vgrelease new|EU|1988年}}
| [[ZX Spectrum]]
| [[:en:Ocean Software|Ocean Software]]
| Ocean Software
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 10
! 気軽に! 幅跳び<br />気軽に! やり投げ
| {{vgrelease new|JP|2002-02-04}}
| [[FOMA]]各種<br />([[iアプリ]])
| コナミ
| コナミ
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(コナミスポーツシリーズ)
| -
|
| <ref name="itmedia20020204">{{Cite web|和書|author= |date=2002-02-04 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0202/04/news03.html |title=コナミネットにiアプリ「キャプテン翼」が登場! |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2021-03-20}}</ref><ref name="keitaiwatch20020204">{{Cite web|和書|author=横田真俊 |date=2002-02-04 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/8067.html |title=コナミ、「キャプテン翼」のiアプリ対応のゲームサイト |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-03-20}}</ref><ref name="gamewatch20020205">{{Cite web|和書|author=田名網陽平 |date=2002-02-05 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020205/konami.htm |title=コナミ、「キャプテン翼」や「スキージャンプ」など新作iアプリを配信開始 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-03-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 11
! 気軽に! 幅跳び<br />気軽に! やり投げ
| {{vgrelease new|JP|2002-04-17}}
| [[Yahoo!ケータイ|J-SKY]]<br />([[S!アプリ|Javaアプリ]])
| コナミ
| コナミ
| ダウンロード<br />(コナミスポーツシリーズ)
| -
|
| <ref name="itmedia20020417">{{Cite web|和書|author= |date=2002-04-17 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0204/17/news02.html |title=J-SKYでも“コナミスポーツ”を楽しむ! |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2021-03-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 12
! 気軽に! 幅跳び<br />気軽に! やり投げ
| {{vgrelease new|JP|2002-07-22}}
| [[EZアプリ (Java)|ezplus]]対応機種<br />([[EZアプリ]])
| コナミ
| コナミ
| ダウンロード<br />(コナミスポーツシリーズ)
| -
|
| <ref name="itmedia20020722">{{Cite web|和書|author= |date=2002-07-22 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0207/22/n_konami.html |title=コナミ、EZweb対応「コナミスポーツシリーズ」をオープン |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2021-03-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 13
! ハイパートラック&フィールド
| {{vgrelease new|JP|2006年}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| コナミ開発3課
| アイレボ
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[i-revo]])
| -
| MSX版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author=村松健至 |date=2006-06-20 |url=https://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/14339.html |title=i-revo、オンライン同時プレイが可能な「沙羅曼蛇」のオープンベータ |website=[[Impress Watch|BB Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-03-14}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 14
! [[コナミ アーケード コレクション]]
| {{vgrelease new|JP|2007-03-15|NA|2007-03-27|EU|2007-10-26|AU|2007-10-29}}
| [[ニンテンドーDS]]
| [[M2 (ゲーム会社)|M2]]
| KDE
| DSカード
| {{vgrelease new|JP|NTR-P-A5KJ|NA|NTR-ACXE-USA}}
| 日本国外アーケード版の移植
|
|-
| style="text-align:right" | 15
! Track & Field
| {{vgrelease new|INT|2007-08-08}}
| [[Xbox 360]]
| [[:en:Digital Eclipse|Digital Eclipse]]
| KDE
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[Xbox Live|Xbox Live Arcade]])
| -
| 日本国外アーケード版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author=Taka |date=2007-08-07 |url=https://www.gamespark.jp/article/2007/08/07/13286.html |title=Xbox Live アーケード『ハイパーオリンピック』明日配信予定&今夏の配信タイトル |website=Game*Spark |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2021-03-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2007-08-08 |url=https://www.famitsu.com/game/news/2007/08/08/103,1186566394,76486,0,0.html |title=世界を相手に連打勝負! Xbox LIVE アーケードで『Track and Field』が配信スタート |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-03-14}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 16
! Track & Field
| {{vgrelease new|INT|2019-09-12}}
| [[Nintendo Switch]]<br />[[PlayStation 4]]
| [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]
| ハムスター
| ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]])
| -
| 日本国外アーケード版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author=長岡頼(クラフル) |date=2019-09-12 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1205948.html |title=PS4/Switch用「アーケードアーカイブス TRACK & FIELD」本日配信 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-03-14}}</ref>
|}
;LSIゲーム版
*ハイパーオリンピック
*:[[バンダイ]]より発売。[[液晶画面]]を使用。走る、跳ぶ、投げるを題材にした、それぞれ陸上競技2種目ずつが収録され、全部で3種類が発売された。
**ランニングタイプ : 100メートル競走、110メートルハードル
**ジャンピングタイプ : 走り幅跳び、走り高跳び
**スローイングタイプ : やり投げ、ハンマー投げ
*ハイパーオリンピック チャレンジ5(LSIゲーム)
*:[[バンダイ]]より発売。FL蛍光管を使用。100メートル競走・走幅跳・やり投げ・110メートルハードル・走り高跳びの5種目を収録。コンソールが2人分あり2Pプレイが可能。
;MSX版
*IとIIに分かれており、Iには100m、走幅跳、ハンマー投に加えて[[400メートル競走|400m]]が、IIには110mハードル、やり投、走高跳に加えて[[1500メートル競走|1500m]]が入った。専用コントローラ「ハイパーショット」も同時発売。ハイパーショットの対応機種には、コネクタに互換性がある[[アタリ (企業)|ATARI]]や[[SG-1000]]、[[PC-6001]]なども記載されていたが、[[PC-6001]]版は発売されていない。
*当時MSXの販促に力を入れていた[[ソニー]]から「[[HiTBiT]]」ブランドでも発売され、パッケージイラストがコナミ版と違っていただけでゲーム内容は全く同一だったが、家庭用ソフトとしては最も早く移植された事もあって、パソコンゲームとしては驚異的とも言える30万本もの大ヒットを記録した。
;ファミリーコンピュータ版
*ハンマー投と走高跳を除く4種目に減少(走高跳は続編「ハイパースポーツ」でプレイ可能)。操作はRUNボタン1つとJUMPボタン1つの2ボタン制となっており、専用コントローラ「ハイパーショット」を同梱(コネクタ形状が異なるため、MSX版のハイパーショットは使用不可)。
*また、当時の人気番組だった[[TBS系列|TBS系]]バラエティ番組『[[8時だョ!全員集合]]』([[1969年]] - [[1985年]])で放送された頭コント「志村の殿様」(後の『[[志村けんのバカ殿様]]』の原型となったコント、当時コナミは同番組末期の番組スポンサーだった)のために選手キャラクターをバカ殿に変更してラウンドセレクト機能のついたバカ殿様バージョンが制作された。1Pキャラクターのグラフィックがバカ殿に変更されたほか、競技の選択が可能となっている。当初はコント用の小道具として開発されたが、放送後に視聴者からの反響が大きかったため、[[1985年]][[11月16日]]から数量限定として一般市販もされ、番組の懸賞用の景品にもなった。
;アーケード版の移植
*[[2007年]][[3月15日]]に発売された[[ニンテンドーDS]]用ソフト『[[コナミ アーケード コレクション]]』に収録されている。携帯機という点を考慮してか、連射機能を設定することも出来る。また、同年8月8日より[[Xbox 360]]の[[Xbox Live Arcade]]にて配信が始まった。[[2019年]][[9月12日]]には[[アーケードアーカイブス]]の1作品として、[[PlayStation 4]]と[[Nintendo Switch]]で配信された。これらのタイトルは日本国外版で使用されていた『Track and Field』になっている(詳細は[[ハイパーオリンピック#タイトルについて|#タイトルについて]]を参照)。
=== 周辺機器 ===
ファミリーコンピュータ版では外部デバイスは『ハイパーショット』以外使用不可とされており、実際に連射機能付きコントローラとして知名度の高い[[ハドソン]]の『ジョイカードマーク2』などは認識しないため使用は不可能だが、一部連射機能付き[[周辺機器]]が非公式ながら使用可能であり、連射速度に依存する競技に限られるが、連射ボタンを押すだけで100m走が8秒台で走れるなど簡単に高記録が出せた。
[[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ電機]]製の周辺機器であり、[[トラックボール]]が内蔵された「[[ホリトラック]]」が使用可能である。本作はホリトラック対応ソフトとして作られた訳ではないが、本来のホリトラック対応ソフトは未所有ながらハイパーオリンピックで使うためだけに購入したというユーザーも存在した。その他、[[ハル研究所|HAL研究所]]から発売された「[[ジョイボール]]」では、連射モードと通常モードの中間の位置にスイッチを設定することによって連射機能の使用が可能であった。
== 開発 ==
当初は全5種目で開発されていたが、開発スタッフの1人が女子[[やり投]]の[[ティーナ・リラク]]に惹かれて強引に[[やり投]]を加えたため、全6種目となった{{Sfn|月刊Beep|1985}}。
ゲーム中のボイスは当初[[日本語]]で開発していたが、雰囲気が出ないということで[[英語]]に変更された。
各種目の構成は開発当初は予選→本戦を想定していたが最終的に本戦のみとなった。標準記録のQualifyはその名残り<ref name="amlife">Amusement Life 第13号 P.42</ref>。
表彰式に登場する女性キャラはパターンが進むにつれて服を脱いでいくというアイデアがあったが、オリンピック精神に反するという理由でボツになった<ref name="amlife" />。
ランキング表示時に流れる映画『[[炎のランナー]]』の[[炎のランナー (曲)|テーマ曲]]の音作りのために専用のDACチップが搭載され、その完成までに3か月かかった<ref name="amlife" />。
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Allgame = {{Rating|3|5}} (AC)<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/arcade/track-field |title=Track & Field for Arcade (1983) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2021-03-14}}</ref>
|EuroG = 10/10点 (AC)<ref name="mobygames_AC"/>
|rev1 = [[:en:Aktueller Software Markt|Aktueller Software Markt]]
|rev1Score = 8.6/12点 (C64)<ref name="mobygames_C64">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/c64/track-field |title=Track & Field for Commodore 64 (1984) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2021-03-14}}</ref>
|rev2 = [[:en:Zzap!64|Zzap!64]]
|rev2Score = 61% (C64)<ref name="mobygames_C64"/>
}}
;アーケード版
批評家からは本作に関して肯定的な意見が挙げられている。[[ゲーメスト]]ムック『ザ・ベストゲーム2』([[1998年]])では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、同書にてライターのがっちんはボタンを速く連打するゲーム性に関しては「単純なコンセプト」と指摘したが、各競技の標準記録を超えるというゲーム性に関しては「競争心をあおる作品」と肯定的に評価した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=131|ps= - 「これぞ、ザ・ベストゲーム! スポーツゲームの進化と解説」より}}。また各競技はスピードだけでなくタイミングが重要である事や、定規などを使用したプレイヤーが続出した事に触れた他、「RUNボタン」が左右に付いていたため両手を使用して左右のボタンを交互に連打する事で「プレイヤーを熱くさせた」と主張した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=131|ps= - 「これぞ、ザ・ベストゲーム! スポーツゲームの進化と解説」より}}。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作が[[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]]の『[[ゼビウス]]』(1983年)に次いで同年に大ヒットとなった事を指摘した上で、「従来のスポーツゲームとは一線を画すゲーム性で多くのプレイヤーを虜にした」と述べた他、本作のヒットにより複数の競技を収録したスポーツゲームが他のゲームメーカーからも発売される事に繋がったと述べている{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。また、3位以内に入る高記録を出す事でプレイヤー名が残せる事からプレイヤー同士の記録更新が白熱した事を述べている{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=105|ps= - 「1983年 ハイパーオリンピック」より}}。
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== 関連作品 ==
; ハイパーオリンピック'84 (AC)
* 1984年開催の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]に合わせてアーケードゲームとして発表された。後に[[MSX]]や[[ファミリーコンピュータ]]に『'''ハイパースポーツ'''』のタイトルで移植された。詳細は'''[[ハイパーオリンピック'84]]'''参照。
; ハイパースポーツスペシャル (AC)
* 1988年開催の[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]]に合わせてアーケードゲームとして発表された。
* 日本国内でアーケードで発表されたシリーズ中、唯一オリンピックの冠が付かなかった作品。
; コナミックスポーツ イン ソウル (FC)
* [[1988年]][[9月16日]]に当時のコナミのファミコンのスポーツシリーズの「コナミック」ブランドとして発売された。14種目。
; バルセロナ92 (AC)
* 日本国外のみで発売されたアーケード作品。
* 日本国内では対戦格闘ゲームブームの煽りを受けたのか未発売に終わった。
; コナミックスポーツ イン バルセロナ ([[ゲームボーイ|GB]])
* [[1992年]][[7月17日]]に[[バルセロナオリンピック]]にあわせて発売。11種目{{Sfn|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017|p=45}}。
* 後に、[[1998年]][[3月19日]]に『[[コナミGBコレクション|コナミGBコレクション Vol.4]]』で「コナミックスポーツ」として再収録されたが、わずか5種目しかなく、通信対戦機能が削除されている。
; ハイパーアスリート (AC)/ ハイパーオリンピック イン アトランタ ([[PlayStation (ゲーム機)|PS]])
* [[1996年]][[6月28日]]に[[アトランタオリンピック]]にあわせて発売。正式に[[日本オリンピック委員会|JOC]]の許諾を得て、PS版では「ハイパーオリンピック」の名称が12年ぶりに復活。グラフィックはポリゴンで描かれている。
; ハイパーオリンピック イン ナガノ (AC, PS, N64)<ref>[http://www.arcade-history.com/?n=nagano-winter-olympics-98-model-gx720&page=detail&id=3962 GAMING HISTORY - Nagano Winter Olympics '98]</ref>
* [[1997年]][[2月]]にAC版が[[長野オリンピック]]にあわせて発売。[[1997年]][[12月18日]]にPS版・[[NINTENDO64|N64]]版が発売した。
; ハイパーオリンピックシリーズ トラック&フィールドGB ([[ゲームボーイカラー|GBC]])
* [[1999年]][[7月1日]]に発売。[[十種競技|デカスロン]]を題材としている。
; ハイパーオリンピック ウィンター2000 (GBC)
* [[2000年]][[1月27日]]に発売。
; がんばれ!ニッポン!オリンピック2000 (PS, [[ドリームキャスト|DC]], [[PlayStation 2|PS2]], N64, GBC)
* [[シドニーオリンピック]]にあわせて発売(PS・N64・GBC版は2000年[[7月13日]]、DC・PS2版は[[8月31日]])。シリーズ最多のマルチプラットフォームでの発売だが、売り上げは芳しくなく、値崩れを起こした。
; ハイパースポーツ2002ウィンター (PS2, [[ニンテンドーゲームキューブ|GC]], [[ゲームボーイアドバンス|GBA]], [[Xbox (ゲーム機)|XB]])
* [[ソルトレイクシティオリンピック]]にあわせてPS2・GC・GBA版は[[2002年]][[1月31日]]、XB版は[[2月22日]]に発売。
; ハイパースポーツチャレンジ(TV接続型ゲーム機)
* [[2007年]][[9月27日]]に発売。体感スポーツ玩具として、テレビに直接繋げてプレイする。
; New International ハイパースポーツDS ([[ニンテンドーDS|DS]])
* [[2008年]][[7月24日]]に発売。ミニゲームで様々なコナミキャラクターが隠しキャラクターとして登場する。
; Touch KONAMI ハイパースポーツ ウインター ([[iPhone]]/[[iPod touch]])
* [[2010年]][[2月12日]]に配信開始。
2018年6月には久しぶりの新作として[[Nintendo Switch]]用ソフト『ハイパースポーツ R』の開発が発表され、同年9月の[[東京ゲームショウ]]でも試遊ができる状態だったが<ref>{{Cite web|和書|author=稲元徹也 |date=2018-09-23 |url=https://www.4gamer.net/games/423/G042331/20180923072/ |title=[TGS 2018]「ハイパースポーツ R」プレイレポート。名作スポーツゲームがJoy-Conを使った体感ゲームとして復活 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2020-06-11}}</ref>、2020年6月10日、開発中止が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.konami.com/games/hypersports/r/jp/|title=ハイパースポーツ R 公式サイト|publisher=KONAMI|accessdate=2020-06-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200611082859/https://www.konami.com/games/hypersports/r/jp/|archivedate=2020-06-11}}</ref>。
=== タイトルについて ===
1984年以降、「[[近代オリンピック|オリンピック]]」という名称およびマークを使用した商品は[[国際オリンピック委員会]](IOC)に多額のスポンサー料を支払い、許諾を得ないと発売できなくなったため、2000年の『がんばれ!ニッポン!オリンピック2000』を最後に「オリンピック」の名前が入ったKONAMIのゲームは発売されていない。続編作品の中には『ハイパースポーツ』あるいは『コナミックスポーツ』と題された続編も発売されているほか、2000年以降の『ハイパーオリンピック』の移植版は全て日本国外版に差し替えられている。
2007年以降は任天堂とセガグループによる『[[マリオ&ソニック]]』シリーズが、オリンピックの公式ライセンスを得た上で展開されるようになっている。
2020年以降、[[コナミデジタルエンタテインメント]]が「[[オリンピック・バーチャルシリーズ]]」(IOC設立)とパートナーシップを結んだり<ref>[https://www.konami.com/games/corporate/ja/news/release/20210426/ KDEによるニュースリリース]</ref>、『[[eBASEBALLパワフルプロ野球2020]]』や『[[eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム]]』には東京オリンピックモードが搭載されるなど、オリンピックに関わる動きを再び見せるようになった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |title = |journal = [[ゲーマガ|月刊Beep]] |volume = |number = 1985年4月号 |date = 1985-04-01 |publisher = [[ソフトバンクグループ|日本ソフトバンク]] |page = |ref = {{SfnRef|月刊Beep|1985}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |journal = [[ゲーメスト]] |volume = 5 |number = 4 |date = 1998-01-17 |publisher = 新声社 |isbn = 9784881994290 |page = 131 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム2|1998}}}}
* {{Cite book|和書 |title = M.B.MOOK 懐かしゲームボーイパーフェクトガイド |date = 2017-02-25 |publisher = マガジンボックス |page = 45 |isbn = 9784866400259 |ref = {{SfnRef|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |title = 甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編 |date = 2019-09-30 |publisher = メディアパル |page = 105 |isbn = 9784802110372 |ref = {{SfnRef|アーケードゲーム大全|2019}}}}
== 関連項目 ==
* [[近代オリンピック]]
* [[陸上競技]]
* [[8時だョ!全員集合]]
* [[炎のランナー (曲)]]
* [[マリオ&ソニック]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.konami.jp/products/ks_series/ |title=コナミスポーツシリーズ(携帯電話アプリ) |date=20110829064616}}
* {{Wayback |url=http://www.xbox.com/ja-JP/games/t/trackandfieldxboxlivearcade/ |title=Xbox Live Arcade「Track And Field」 |date=20081202155830}}
* {{Wayback |url=http://www.konami.jp/products/hypersports_ds/ |title=New International ハイパースポーツDS |date=20080801073021}}
* {{Wayback |url=http://www.konami.jp/products/touch_hypersports-winter/ |title=Touch KONAMI ハイパースポーツ ウインター |date=20100218102222}}
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/TrackAndField.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト TRACK & FIELD(PS4版)]
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/TrackAndField.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト TRACK & FIELD(Nintendo Switch版)]
* {{MobyGames|id=/19505/track-field/|name=Track & Field}}
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[[Category:1983年のアーケードゲーム]]
[[Category:1984年ロサンゼルスオリンピック]]
[[Category:Apple II用ゲームソフト]]
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[[Category:コナミのアーケードゲーム]]
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[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
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1,620 | 目黒考二 | 目黒 考二(めぐろ こうじ、1946年10月9日 - 2023年1月19日)は、日本のエッセイスト・文芸評論家・編集者。
ペンネームに北上 次郎(きたがみ じろう)、藤代 三郎(ふじしろ さぶろう)などがある。
日本推理作家協会会員。
著書を数多くものしており、初めはジャンルごとに異なるペンネームを使っていた。
など。他に、榊吾郎、館六郎、車堂郎のペンネームを使用した。私小説の目黒考二とミステリー文学評論家の北上次郎、競馬評論家の藤代三郎が主に使われ、自分でも収拾がつかなくなったため他ペンネームはほぼ使われていない。のち群一郎の「群」は、群ようこの作家デビューに際して贈られた。
東京都生まれ、明治大学文学部卒業。2000年まで『本の雑誌』の発行人を務めていた。2001年より同誌顧問だったが、2010年に顧問からも退いた。2011年「椎名誠 旅する文学館」の初代名誉館長になった。東ケト会では釜焚きの達人でもあった。
中学生までは野球少年で、本はほとんど読んだことがなかったが、高校入学後、読書に目覚め、SFを中心に大量の読書をするようになる。
明治大学で映画研究会に入り、先輩の菊池仁と読書仲間となる。卒業後、就職した会社を「毎日、通勤していたら、本が読めなくなる」と3日で退社。大学の聴講生となる。
1年後に菊池が勤める「ストアーズ社」に入社。やはりその会社に勤務していた椎名誠と知り合う。入社3日目にやはり「本が読めない」と退社しようとするが、椎名に引き止められ、半年間勤務する。その間に、「ストアーズ社」に始終出入りしていた沢野ひとしとも知り合う。
その後、同様に8社に入社するが、やはり同様の理由ですべて3日目で退社。実話雑誌を刊行している出版社 明文社に入社し、『本の雑誌』の刊行まで6年間つとめた。このとき、明文社に半月だけ勤めた亀和田武とも知り合う。
職場はかわっても椎名らとは付き合いが続き、目黒は読書をするだけでは飽き足らなくなり、自分が読んだ本の中で面白かった本を紹介する、個人ペーパーを毎月定期的に椎名へと渡し、それを椎名が読書仲間にコピーして回覧したところ、評判となる。
その発展形として、椎名らと1976年、雑誌『本の雑誌』を創刊。従来の書評誌とは一線を画す、エンターテインメント中心の書評や、独自の企画で好評を呼ぶ。
なお、1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを椎名と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、1か月に4本から5本は書いていたという。
『本の雑誌』は、名義としては目黒は「発行人」で、椎名誠が編集長であったが、のち椎名がメジャーな文化人となり多忙となったため、実質の編集長は目黒となる。目黒は独自の眼力で、様々な連載陣を発掘し(メジャー化する前の大塚英志に連載依頼したり、まだ無名に近かった坪内祐三に長文のインタビューをするなどしている)、また社員であった(後の)群ようこをデビューさせるなど、編集者としての力量も評価されている。2001年に発行人を退任し、二代目発行人に浜本茂が就任した。
目黒自身も、創刊当時から『本の雑誌』誌上に、連載書評を書き続けていたが、当初、好きだったSFは、ニュー・ウェーブ以降の作品に興味がなくなり、冒険小説を主に書評するようになる。その書評は、日本における冒険小説の定着に大きな影響を与えた。後年は、中高年の男女を主人公とした「人生シミジミ系」小説を主に書評した。
趣味は競馬であり、平日は本の雑誌社に泊まって読書及び執筆活動、週末は競馬場通いという生活を続けていた。
また藤代三郎 名義で1993年の『週刊Gallop』創刊号から2022年12月25日号まで「馬券の真実」と題した随筆を連載するなど競馬関連の著作も数多く、またグリーンチャンネルにて『全日本はずれ馬券委員会』『全日本はずれ馬券委員会2』という番組の司会を務めた。
椎名誠著『ぼくがいま、死について思うこと』(新潮社刊)には「七十五歳ぐらいで決着(死)をつけたい」という目黒の言葉が紹介されている。
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| 目黒 考二は、日本のエッセイスト・文芸評論家・編集者。 ペンネームに北上 次郎、藤代 三郎などがある。 日本推理作家協会会員。 | {{文化人
| ふりがな = めぐろ こうじ
| 名前 = 目黒 考二
| 画像ファイル =
| 画像コメント = <!-- 画像の説明文 -->
| 本名 = <!-- 必ず出典を付ける -->
| 愛称 =
| 別名 =
| 生年 = 1946
| 生月 = 10
| 生日 = 9
| 没年 = 2023
| 没月 = 1
| 没日 = 19
| 出身地 =
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京都]]
| 国籍 = {{JPN}}
| 学歴 = [[明治大学]]文学部
| 職業 = 編集者、出版者、随筆家、文芸評論家
| ジャンル =
| スタイル =
| 所属 =
| 活動時期 =
| 活動内容 = 文芸評論
| 他の活動 =
| 配偶者 = 有り
| 父 =
| 母 =
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| 公式サイト =
| 主な作品 =
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| 備考 =
}}
'''目黒 考二'''(めぐろ こうじ、[[1946年]][[10月9日]]<ref name="mystery">{{Cite web|和書|url=http://www.mystery.or.jp/member/detail/0983|title=会員名簿 北上次郎|publisher=[[日本推理作家協会]]|accessdate=2023-01-25}}</ref> - [[2023年]][[1月19日]]<ref name="zasshi20230125">{{Cite web|和書|url=https://www.webdoku.jp/newshz/zasshi/2023/01/25/110000.html|title=【訃報】目黒考二 逝去のお知らせ|website=WEB本の雑誌|publisher=[[本の雑誌社]]|date=2023-01-25|accessdate=2023-01-25}}</ref>)は、[[日本]]の[[エッセイスト]]・[[文芸評論家]]・[[編集者]]。
[[ペンネーム]]に'''北上 次郎'''(きたがみ じろう)、'''藤代 三郎'''(ふじしろ さぶろう)などがある<ref name="zasshi20230125" />。
[[日本推理作家協会]]会員。
== 別名 ==
著書を数多くものしており、初めはジャンルごとに異なる[[ペンネーム]]を使っていた。
* '''群 一郎'''(むれ いちろう)<ref>{{Cite web|和書|url=https://race.sanspo.com/keiba/news/20190925/etc19092512000001-n1.html|title=【藤代三郎・馬券の休息(最終回)】馬券コレクターはいま?|website=サンスポZBAT!競馬|publisher=[[産経デジタル]]|date=2019-09-25|accessdate=2023-01-25}}</ref>
* '''北上 次郎'''(きたがみ じろう)
* '''藤代 三郎'''(ふじしろ さぶろう)
など。他に、榊吾郎<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/09/09/153704.html|title=9月9日(金)昭和四十八年の北上次郎 - 目黒考ニの何もない日々|website=WEB本の雑誌|publisher=[[本の雑誌社]]|date=2016-09-09|accessdate=2023-01-25}}</ref>、館六郎、車堂郎<ref>『本の雑誌』第238号p.81</ref>のペンネームを使用した。私小説の目黒考二と[[ミステリー]]文学評論家の北上次郎、[[競馬]]評論家の藤代三郎が主に使われ、自分でも収拾がつかなくなったため他ペンネームはほぼ使われていない。のち群一郎の「群」は、[[群ようこ]]の作家デビューに際して贈られた。
== 経歴・人物 ==
[[東京都]]生まれ<ref name="shinchosha">{{Cite web|和書|url=https://www.shinchosha.co.jp/writer/3431/ |title=北上次郎 - 著者プロフィール |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2023-01-25}}</ref>、[[明治大学]][[文学部]]卒業<ref name="mystery" />。[[2000年]]まで『[[本の雑誌]]』の発行人を務めていた<ref name="shinchosha" />。[[2001年]]より同誌顧問だったが<ref name="mystery" />、[[2010年]]に顧問からも退いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2010/12/14/170335.html |title=12月14日(火) 師走に思うこと - 目黒考ニの何もない日々 |website=WEB本の雑誌 |publisher=[[本の雑誌社]] |date=2010-12-14 |accessdate=2023-01-25}}</ref>。[[2011年]]「[[椎名誠]] 旅する文学館」の初代名誉館長になった<ref>{{Cite web|和書|author=大西郁子 |url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/message |title=開館のごあいさつ |publisher=椎名誠 旅する文学館 |date=2011-08-05 |accessdate=2023-01-25}}</ref>。[[東ケト会]]では釜焚きの達人でもあった。
中学生までは野球少年で、本はほとんど読んだことがなかったが、高校入学後、読書に目覚め、[[サイエンス・フィクション|SF]]を中心に大量の読書をするようになる。
明治大学で映画研究会に入り、先輩の[[菊池仁]]と読書仲間となる。卒業後、就職した会社を「毎日、通勤していたら、本が読めなくなる」と3日で退社。大学の[[聴講生]]となる。
1年後に菊池が勤める「ストアーズ社」に入社。やはりその会社に勤務していた[[椎名誠]]と知り合う。入社3日目にやはり「本が読めない」と退社しようとするが、椎名に引き止められ、半年間勤務する。その間に、「ストアーズ社」に始終出入りしていた[[沢野ひとし]]とも知り合う。
その後、同様に8社に入社するが、やはり同様の理由ですべて3日目で退社。実話雑誌を刊行している出版社 明文社に入社し<ref name="亀和 2018">{{Cite book|和書|author=亀和田武 |authorlink=亀和田武 |title=雑誌に育てられた少年 |date=2018-11-30 |publisher=左右社 |isbn=978-4-86528-213-9 |page=198}}</ref>、『本の雑誌』の刊行まで6年間つとめた。このとき、明文社に半月だけ勤めた[[亀和田武]]とも知り合う<ref name="亀和 2018" />。
職場はかわっても椎名らとは付き合いが続き、目黒は読書をするだけでは飽き足らなくなり、自分が読んだ本の中で面白かった本を紹介する、個人ペーパーを毎月定期的に椎名へと渡し、それを椎名が読書仲間にコピーして回覧したところ、評判となる。
その発展形として、椎名らと[[1976年]]、雑誌『[[本の雑誌]]』を創刊。従来の書評誌とは一線を画す、エンターテインメント中心の書評や、独自の企画で好評を呼ぶ。
なお、1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを椎名と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、1か月に4本から5本は書いていたという<ref name="南 1994">{{Cite book|和書|author=南伸坊 |authorlink=南伸坊 |title=さる業界の人々 |year=1994 |month=3 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 |isbn=978-4-4800-2849-5 |chapter=解説([[関川夏央]])}}</ref>{{efn2|関川も同時期にエロ漫画雑誌の編集長及び、原作執筆を手がけていたという<ref name="南 1994" />。}}。
『本の雑誌』は、名義としては目黒は「発行人」で、椎名誠が編集長であったが、のち椎名がメジャーな文化人となり多忙となったため、実質の編集長は目黒となる。目黒は独自の眼力で、様々な連載陣を発掘し(メジャー化する前の[[大塚英志]]に連載依頼したり、まだ無名に近かった[[坪内祐三]]に長文のインタビューをするなどしている)、また社員であった(後の)[[群ようこ]]をデビューさせるなど、編集者としての力量も評価されている。2001年に発行人を退任し、二代目発行人に[[浜本茂]]が就任した。
目黒自身も、創刊当時から『本の雑誌』誌上に、連載書評を書き続けていたが、当初、好きだったSFは、[[ニュー・ウェーブ (SF)|ニュー・ウェーブ]]以降の作品に興味がなくなり、[[冒険小説]]を主に書評するようになる。その書評は、日本における[[冒険小説]]の定着に大きな影響を与えた。後年は、中高年の男女を主人公とした「人生シミジミ系」小説を主に書評した。
趣味は[[競馬]]であり、平日は[[本の雑誌社]]に泊まって読書及び執筆活動、週末は競馬場通いという生活を続けていた。
また藤代三郎 名義で1993年の『[[週刊Gallop]]』創刊号から2022年12月25日号まで「馬券の真実」と題した随筆を連載するなど競馬関連の著作も数多く<ref name="sanspo20230105">{{Cite news2|df=ja|title=目黒考二さんが肺がんで死去、76歳 競馬エッセイスト・藤代三郎の名で幅広く執筆 |newspaper=サンケイスポーツ|date=2023-01-25|url=https://www.sanspo.com/article/20230125-W5B5EGG7J5HDPFTRE3G6QUNUQI/|agency=産経デジタル|accessdate=2023-01-25}}</ref>、また[[グリーンチャンネル]]にて『全日本はずれ馬券委員会』『全日本はずれ馬券委員会2』という番組の司会を務めた<ref>[https://www.greenchannel.jp/program/alljpn_outofbettingticketcommittee.html 全日本はずれ馬券委員会2] グリーンチャンネル</ref>。
椎名誠著『ぼくがいま、死について思うこと』(新潮社刊)には「七十五歳ぐらいで決着(死)をつけたい」という目黒の言葉が紹介されている。
[[2023年]][[1月19日]] 午前10時、[[肺がん]]のため死去<ref name="zasshi20230125" /><ref name="sanspo20230105"/>。{{没年齢|1946|10|9|2023|1|19}}。
== 受賞・候補歴 ==
* 1984年 - 『冒険小説の時代』で[[日本冒険小説協会|日本冒険小説協会大賞]]最優秀評論大賞受賞<ref name="hayakawa20230125">{{Cite web|和書|url=https://www.hayakawa-online.co.jp/new/2023-01-25-121543.html|title=文芸評論家の北上次郎氏逝去|website=ハヤカワ・オンライン|publisher=[[早川書房]]|date=2023-01-25|accessdate=2023-01-25}}</ref>。
* 1985年 - 『本の雑誌風雲録』で[[日本ノンフィクション賞]]候補。
* 1994年 - 『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』で[[日本推理作家協会賞]]評論その他の部門、日本冒険小説協会大賞最優秀評論大賞受賞<ref name="hayakawa20230125" />。『余計者の系譜』で日本推理作家協会賞評論その他の部門候補<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mystery.or.jp/prize/detail/10473|title=1994年 第47回 日本推理作家協会賞|publisher=[[日本推理作家協会]]|accessdate=2023-01-25}}</ref>。
* 2015年 - 『昭和残影 父のこと』で[[城山三郎賞]]候補<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kadokawa-zaidan.or.jp:80/kensyou/shiroyama/|title=城山三郎賞|publisher=[[角川文化振興財団]]|accessdate=2023-01-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160321040026/http://www.kadokawa-zaidan.or.jp:80/kensyou/shiroyama/|archivedate=2016-03-21}}</ref>。
== 著作 ==
=== 目黒考二名義 ===
* 『本の雑誌風雲録』([[本の雑誌社]] 1985年5月 / [[角川文庫]] 1998年10月 / 本の雑誌社【新装改訂版】 2008年10月)
* 『活字三昧』([[角川書店]] 1992年10月 / 角川文庫 1996年1月)
* 『中年授業』(角川書店 1994年9月)
* 『活字浪漫』(角川書店 1997年8月)
**【改題】『酒と家庭は読書の敵だ。』(角川文庫 2003年1月)
* 『活字学級』(角川文庫 1997年8月)
* 『笹塚日記』(本の雑誌社 2000年7月)
* 『一人が三人 吾輩は目黒考二・藤代三郎・北上次郎である。』([[晶文社]] 2000年8月 / 角川文庫【電子書籍】 2015年2月)
* 『だからどうしたというわけではないが。』(本の雑誌社 2002年10月)
* 『笹塚日記 親子丼篇』(本の雑誌社 2003年9月)
* 『笹塚日記 うたた寝篇』(本の雑誌社 2005年1月)
* 『連篇累食』([[ぺんぎん書房]] 2005年7月)
* 『新・中年授業』(本の雑誌社 2006年3月)
* 『笹塚日記 ご隠居篇』(本の雑誌社 2007年3月)
* 『昭和残影 父のこと』(角川書店 2015年5月)
* 『目黒考二の何もない日々』(百年書房 2016年)
=== 北上次郎名義 ===
* 『冒険小説の時代』([[集英社]] 1983年9月 / [[集英社文庫]] 1990年7月)
* 『気分は活劇』([[徳間書店]] 1984年8月 / 角川文庫 1993年7月)
* 『余計者の系譜』([[太田出版]] 1993年4月)
**【改題】『余計者文学の系譜』(角川文庫 1999年5月)
* 『ベストミステリー10年』(晶文社 1993年10月)
* 『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』([[早川書房]] 1993年12月 / [[双葉文庫]] 2008年6月)
* 『冒険小説ベスト100』(本の雑誌社 1994/12)
* 『新刊めったくたガイド大全』(本の雑誌社 1995年5月 / 角川文庫 2000年4月)
* 『情痴小説の研究』([[マガジンハウス]] 1997年4月 / [[ちくま文庫]] 2001年10月)
* 『面白本ベスト100』(本の雑誌社 1997年11月)
* 『感情の法則』(早川書房 1999年3月 / [[幻冬舎文庫]] 2006年10月)
* 『別れのあとさき』([[毎日新聞社]] 2001年11月)
* 『ベストミステリー大全』(晶文社 2002年4月)
* 『記憶の放物線 感傷派のための翻訳小説案内』(本の雑誌社 2003年6月 / 幻冬舎文庫 2006年12月)
* 『うろたえる父、溺愛する母 19世紀小説に家族を読む』([[筑摩書房]] 2003年11月)
* 『エンターテインメント作家ファイル108 国内編』(本の雑誌社 2006年8月)
* 『活字競馬 馬に関する本 究極のブックガイド』([[白夜書房]] 2013年3月)
* 『極私的ミステリー年代記(クロニクル) 1993〜2002』([[論創社]]【上・下】 2013年8月)
* 『勝手に!文庫解説』 (集英社文庫 2015年9月)
* 『書評稼業四十年』(本の雑誌社 2019年7月)
* 『息子たちよ』(早川書房 2020年1月)
* 『阿佐田哲也はこう読め!』(田畑書店 2021年3月)
=== 藤代三郎名義 ===
* 『戒厳令下のチンチロリン』([[情報センター出版局]] 1982年8月 / 角川文庫 1992年7月)
* 雑誌連載「馬券の真実」(『[[週刊Gallop]]』) - 藤代の外れ馬券の日常を描いた自伝的エッセー{{efn2|遺稿となった『週刊Gallop』2022年12月24・25・28日 [[有馬記念]]特集号の当該ページ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20230130-DDLTMHDW75E67OJE3IKTRH7IY4/ |title=藤代三郎さん死去 ギャロップ連載「馬券の真実」最後のコラムを再録 |website=サンスポZBAT! |publisher=産経デジタル |date=2023-01-30 |accessdate=2023-01-31}}<br />{{Cite journal|和書|author=藤代三郎 |title=「馬券の真実」連載1504 |date=2022-12-20 |publisher=サンケイスポーツ |journal=週刊Gallop(ギャロップ) |issue=2022年12月25日号 |url=https://race.sanspo.com/event/gallop2023/pdf/Gallop_fujishiro1504.pdf |format=PDF |accessdate=2023-01-31}}</ref>。ただし、雑誌刊行時点では「最終回」との記述はなく、2023年度も連載を継続する前提で執筆されているが、藤代(注:目黒考二)は「しかも私、本誌(注:『週刊Gallop』)が創刊した1993年から1号も休まずこの連載コラムを書いてきたのだ。ここでその記録が途絶えてしまうのも寂しい」と綴っている。}}。以下は連載をまとめた単行本。
** 『外れ馬券に雨が降る』(ミデアム出版社 1995年4月)
** 『外れ馬券に風が吹く』(ミデアム出版社 1996年5月)
** 『外れ馬券に雪が巻う』(ミデアム出版社 1997年5月)
** 『外れ馬券に日が沈む』(ミデアム出版社 1998年4月)
** 『外れ馬券に月が泣く』(ミデアム出版社 1999年4月)
** 『外れ馬券に星が飛ぶ』(ミデアム出版社 2000年4月)
** 『外れ馬券に雲がゆく』(ミデアム出版社 2001年6月)
** 『外れ馬券は空高く』(ミデアム出版社 2002年4月)
** 『馬券党宣言』(ミデアム出版社 2003年5月)
** 『外れ馬券は永遠に』(ミデアム出版社 2004年4月)
** 『外れ馬券に喝采を』(ミデアム出版社 2005年7月)
** 『外れ馬券に春よ来い』(ミデアム出版社 2006年7月)
** 『外れ馬券に口笛を』(ミデアム出版社 2007年7月)
** 『外れ馬券に微笑みを』(ミデアム出版社 2008年7月)
** 『外れ馬券は夕映えに』(ミデアム出版社 2009年7月)
** 『外れ馬券に祝福を』(ミデアム出版社 2010年7月)
** 『外れ馬券は人生である』(ミデアム出版社 2011年8月)
** 『外れ馬券に友つどう』(ミデアム出版社 2012年8月)
** 『外れ馬券で20年』(ミデアム出版社 2013年8月)
** 『外れ馬券が多すぎる』(ミデアム出版社 2014年8月)
** 『外れ馬券は終わらない』(ミデアム出版社 2015年7月)
** 『外れ馬券に乾杯!』(ミデアム出版社 2016年8月)
** 『外れ馬券を撃ち破れ』(ミデアム出版社 2017年8月)
** 『外れ馬券に挨拶を』(ミデアム出版社 2018年8月)
** 『外れ馬券に約束を』(ミデアム出版社 2019年8月)
** 『外れ馬券にさよならを』(ミデアム出版社 2020年8月)
** 『外れ馬券に帆を上げて』(ミデアム出版社 2021年8月)
* 『鉄火場の競馬作法 「そのまま」「差せ」の叫び方』([[光文社]] 1998年10月)
* 『ターフの周辺』(百年書房 2021年6月)
=== 共著、座談会 ===
* 『発作的座談会』[[椎名誠]] / [[木村晋介]] / [[沢野ひとし]] / 目黒考二 (本の雑誌社 1991年4月 / 角川文庫 1996年10月)
* 『いろはかるたの真実 発作的座談会』椎名誠 / 木村晋介 / 沢野ひとし / 目黒考二 (本の雑誌社 1996年4月)
**【改題】『発作的座談会2 いろはかるたの真実』(角川文庫 2000年8月)
* 『沢野絵の謎』沢野ひとし/ 木村晋介/ 椎名誠 / 目黒考二 (本の雑誌社 1997/12)
* 『これもおとこのじんせいだ!』椎名誠 / 木村晋介 / [[太田和彦]] / [[中村征夫]] / 沢野ひとし / 目黒考二 (本の雑誌社 1998年3月)
* 『鍋釜天幕団ジープ焚き火旅 [[あやしい探検隊]]さすらい篇』椎名誠 / 目黒考二 (本の雑誌社 1999年8月)
* 『超能力株式会社の未来 新発作的座談会』椎名誠 / 木村晋介 / 沢野ひとし / 目黒考二 (本の雑誌社 2000年6月)
* 『沢野字の謎』沢野ひとし / 木村晋介 / 椎名誠 / 目黒考二 (本の雑誌社 2000年10月)
* 『新・これもおとこのじんせいだ!』椎名誠 / 木村晋介 / 太田和彦 / 中村征夫 / 沢野ひとし / [[かなざわいっせい]] / [[太田篤哉]] / 目黒考二 (本の雑誌社 2003年1月)
* 『読むのが怖い! 2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド』北上次郎 / [[大森望]] ([[ロッキング・オン]] 2005年3月)
* 『読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才〜激闘編』北上次郎 / 大森望 (ロッキング・オン 2008年4月)
* 『帰ってきちゃった発作的座談会 「超常的空論」ファイナル』椎名誠 / 木村晋介 / 沢野ひとし / 目黒考二 (本の雑誌社 2009年10月)
* 『馬券データ竜宮城』藤代三郎 / [[亀谷敬正]] [[ベストセラーズ]](2010年9月)
* 『読むのが怖い!Z 日本一わがままなブックガイド』北上次郎 / 大森望 (ロッキング・オン 2012年6月)
* 『馬券特効薬』(競馬王馬券攻略本シリーズ) 亀谷敬正 / 藤代三郎 (ガイドワークス 2015年10月)
* 『本人に訊く〈壱〉 よろしく懐旧篇』椎名誠 / 目黒考二 (椎名誠 旅する文学館 2016年10月 / 集英社文庫 2019年8月)
* 『本人に訊く〈弐〉 おまたせ激突篇』椎名誠 / 目黒考二 (椎名誠 旅する文学館 2017年4月 / 集英社文庫 2020年1月)
* 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』川出正樹 / 北上次郎 / 酒井貞道 / 霜月蒼 / [[杉江松恋]] / [[千街晶之]] / 吉野仁 ([[書肆侃侃房]] 2021年5月)
*『本の雑誌の目黒考二・北上次郎・藤代三郎』編:本の雑誌編集部(本の雑誌社 2023年9月) - 追悼号となった『本の雑誌』2023年5月号の内容に加えて過去に発表された目黒の原稿などを追加収録した書籍
=== 編纂・選(北上次郎名義) ===
* 『海を渡った日本人』編:[[日本ペンクラブ]] ([[福武文庫]]、1993年1月)
*『青春小説傑作選 14歳の本棚』([[新潮文庫]])
** 『青春小説傑作選 14歳の本棚 ―部活学園編―』(2007年3月)
** 『青春小説傑作選 14歳の本棚 ―初恋友情編―』(2007年4月)
** 『青春小説傑作選 14歳の本棚 ―家族兄弟編―』(2007年5月)
* 『さしむかいラブソング――彼女と別な彼の短篇 片岡義男コレクション2』著:[[片岡義男]] ([[ハヤカワ文庫JA]] 2009年5月)
* 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書』([[小学館文庫]])
** 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書1 ごろつき船』著:[[大佛次郎]] (【上・下】 2010年3月)
** 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書2 [[大番 (小説)|大番]]』著:[[獅子文六]] (【上・下】 2010年4月)
** 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書3 半九郎闇日記』著:[[角田喜久雄]] (【上・下】 2010年5月)
** 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書4 [[昭和水滸伝]]』著:[[藤原審爾]] (【上・下】 2010年6月)
** 『北上次郎選 昭和エンターテインメント叢書5 捜神鬼』著:[[西村寿行]] (2010年7月)
* 『セブンティーン・ガールズ』(角川文庫 2014年5月)
* 『椎名誠[北政府]コレクション』著:椎名誠 (集英社文庫 2019年7月)
* 『不屈 山岳小説傑作選』([[山と溪谷社]] ヤマケイ文庫 2020年2月)
* 『日本ハードボイルド全集』共編:[[日下三蔵]]、杉江松恋 ([[創元推理文庫]])
** 『日本ハードボイルド全集1 死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』著:[[生島治郎]] (2021年4月) - 責任編集を担当<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webmysteries.jp/archives/26105713.html|title=〈日本ハードボイルド全集〉刊行開始! 第1巻は直木賞作家・生島治郎『死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』|website=[[Web東京創元社マガジン]]|publisher=[[東京創元社]]|date=2021-04-20|accessdate=2023-01-25}}</ref>
** 『日本ハードボイルド全集6 酔いどれ探偵/二日酔い広場』著:[[都筑道夫]] (2021年7月)
** 『日本ハードボイルド全集2 野獣死すべし/無法街の死』著:[[大藪春彦]] (2021年10月)
** 『日本ハードボイルド全集3 他人の城/憎悪のかたち』著:[[河野典生]] (2022年1月) - 責任編集を担当<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webmysteries.jp/archives/28446730.html|title=〈日本ハードボイルド全集〉第4回配本! 第3巻は直木賞候補作を含む初期代表作を集成 河野典生『他人の城/憎悪のかたち』|website=[[Web東京創元社マガジン]]|publisher=[[東京創元社]]|date=2022-01-20|accessdate=2023-01-25}}</ref>
** 『日本ハードボイルド全集4 冷えきった街/緋の記憶』著:[[仁木悦子]] (2022年4月)
** 『日本ハードボイルド全集5 幻の殺意/夜が暗いように』著:[[結城昌治]] (2022年7月)
** 『日本ハードボイルド全集7 傑作集』(2023年9月)
==関連作品==
* [[カミムラ晋作]]『黒と誠 本の雑誌を創った男たち』(双葉社 2022年11月 - 2023年11月 全3巻)- 若き時代の椎名と目黒を主人公にした実話漫画
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 外部リンク ==
* [https://www.webdoku.jp/column/meguro_n/ 目黒考ニの何もない日々 | WEB本の雑誌]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:めくろ こうし}}
[[Category:日本の文芸評論家]]
[[Category:20世紀日本の随筆家]]
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[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] | 2003-02-14T14:14:25Z | 2023-11-28T22:20:19Z | false | false | false | [
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Subsets and Splits
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