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高校英語の文法/前置詞 未分類 前置詞は原則、名詞および代名詞をその語の前から修飾するものである。 対象が名詞か代名詞でありさえすれば、その名詞が主語であっても目的語であっても、どちらでも良い。 たとえば、下記の例文における名詞は、主語か目的語かの違いがあるが、どちらでも前置詞を使うことができる。 The book on the desk in mine. 「机の上の本は私のです。」(主語を前置詞で修飾) There is a book on the desk. 「机の上に本があります。」(目的語を前置詞で修飾) There is 構文の主語や目的語が何かという論争があるが、ここでは置いとく。説明の都合上、ほかの一般の文章と同様に、文頭にある There を主語、 文末に近い a book 以下を目的語だと仮定しておく。 前置詞で、for long や from abroad など例外的に名詞ではなく形容詞や副詞を修飾する言い回しもあるが、慣用句的にごく一部の言い回しに限られる。 形容詞を修飾する例 for long (長いあいだ)、 副詞を修飾する例 from abroad (外国から) - 原因 死亡などの際、その原因が病気など内因的な原因の場合、ofを使う。 be died of cancer 「がんが原因で亡くなる」 一方、負傷などが原因の場合は from を使う(ジーニアス)。 しかしジーニアスいわく、最近die については区別せずにどの場合も die of で言う事例も多いとのこと(ジーニアス)。 ここら辺の使い分けはあまり規則的ではなく、参考書によって説明が違う。たとえば桐原フォレストでは、直接的な原因なら of 、間接的な原因なら from としている。 なお、一般に原因を表す前置詞には、上記の of と from のほかにも、 by なども原因を表す。 - 材料について ひと目で材料が分かるなら of を使う。加工されるなどして外見だけでは分からないなら from を使う。なお、加工されているかいないかなど分からない場合、原則的に from を使う(ジーニアス)。 典型的な例文で、 Wine is made from grapes. 「ワインはブドウから作られる。」 前置詞については、あまり論理的・規則的に説明できず、参考書でも羅列的に色々な前置詞の色々な用法をたくさん紹介している。覚えるしかない。 群前置詞 参考書では、in front of なども説明の都合上、前置詞として分類される(ジーニアス、フォレスト)。 なお、このように2語以上の単語があつまって前置詞としての働きをする語句のことを群前置詞という。 according to や instead of や because of などが群前置詞である。 どの語句を群前置詞とするかは参考書ごとに多少の差異があり、たとえばas far as をフォrストは群前置詞として採用しているが、ジーニアスは不採用である。 どの参考書でも群前置詞とされる語句は、 2語のものについては according to ~ (~によれば) as for ~(~ について言えば) because of ~(~が原因で、~だから) instead of ~(~の代わりに) thanks to ~(~のおかげで) up to ~(~まで) なお、according to ~ については、信頼できる他者の客観的な情報を根拠として紹介するときに使う。なので自分の意見には使えない。自分の意見を言う場合は、「 In my opinion, 」(私の意見では~)という表現を使う(ジーニアス)。 3語以上のものは、 at the cost of ~(~の危険をおかして) by means of ~(~によって(手段・方法)) by way of ~(~経由で) for the sake of ~(~のために) in case of ~(~の場合には) in spite of ~(~にもかかわらず) on account of ~ (~のために(理由)) with regard to ~ (~に関して) ※ 未分類 before 「前に」「前の」という意味の前置詞 before および in front of について、通常は、時間的な前後における「前」は before を使い、物理的な位置の「前」は in front of を使う、というのがふつうである。 しかし、実は文法的には、物理的な「前」に before を使っても、マチガイではない(ジーニアス、青チャート、桐原ファクト)。 もっとも、物理的な「前」に before を使う場合には、おどろきや強い期待などの感情のたかぶりが込められている場合に使うのが普通(桐原ファクト)。 なので通常は、一般的な参考書の説明のように in front of で物理的な「前」をあらわすのが良い。 そのほか、列のなかでの「前」をbefore で表すこともできる(エバーグリーン)。 under under の基本的な意味は「下に」だが、ほかにも「最中の(未完成で)」という意味もある。 参考書によくあるのは under construction 「工事中」である(エバー、桐原、ジーニアス)。 だが、他にも under discussion 「議論中」というのもある(青チャート)。 参考書によっては「最中の」の under を重視せずに紹介していない参考書もある(インスパイア、ブレイクスルーでは非紹介)。 out of 前置詞としてのout of には「内側から外側へ」の意味がある。 into の対義語である。 もっとも、out of order 「故障中」という表現があるが、ここでの out は(前置詞というよりかは)名詞であろう。 これとは別に、out of で「離れている」という意味もある。 He is now out of work. 「彼はいま失業中だ」 という典型的な例文がある(ジーニアス参考書、ジーニアス辞書)。 beyond beyond は「~を超えて」の意味の前置詞。 The house is beyond the river. 「その家は川の向こう側にある。」(インスパイアに似た例文) The house is beyond the hill. 「その家は丘の向こう側にある。」(青チャート、ブレイクスルーに似た例文) 比喩的に使われて、限界を超えてのような意味を表すことも多く(ジーニアス)、慣用的には beyond description (言葉では言い表せないくらいに)→「筆舌に尽くしがたい」(エバーグリーン)、 beyond belief (信じられないくらいに)、 beyond doubt (疑いようのない) beyond one's understanding (ジーニアス)または beyond comprehension (桐原ファクト)で「理解を超えて」→「理解不能な」 のような使われ方をすることも多い(ジーニアス、エバーグリーン、桐原ファクト)。 そのほか、能力を超えて不可能なことをあらわすのにも使われる。 たとえば beyond repair 「修理不可能な」(桐原ファクト) beyond my reach 「私の手の届く範囲を超えている」→「私の手に負えない」(エバー)、 beyond は必ずしも否定的な意味とは限らない。たとえば beyond description は、和訳こそ「言葉では言い表せない」だが、実際には程度が大きい・高いことを比喩的に強調するための表現である。 また、beyond exception 「期待以上に」は(エバー)、べつに期待はずれではない。 このように beyond は必ずしも否定的な意味とは限らないので、早合点しないように。 あくまで「超えて」が beyond の意味である。否定うんぬんは、beyond の派生的な意味のひとつにすぎない。 for 乗り物の行き先には普通 for を使う(青チャート)。 Is this the train for Shinjuku? 「これは新宿行きの電車ですか?」 The train already left for Osaka. 「その電車はすでに大阪に向けて出発した。」 (エバーグリーン、桐原ファクトに似た例文) なお、もし for ではなく to を使った場合(つまり 「The train went to Osaka.」 とした場合)、目的地の大阪に到着したと言うニュアンスを含む(桐原ファクト)。 for には、期間をあらわす用法があり、 for three weeks 「三週間のあいだ」のようにその期間の長さをあらわすのに使、年・月・日などの期間をあらわすのに使う(青チャート)。このfor はしばしば省略される(青チャート)。 一方、during は期間を表すのに使うが、duringの焦点はその期間がいつかということに焦点があり、たとえば during the summer 「夏の間」のように使う。 during には、2つの用法がある。「期間中のある時」を表す用法と、「期間中ずっと」の用法である。 They come during my absence. 「彼らは私の留守中に来た。」(期間中のある時) ※インスパ Please take my place during my absence. 「留守中、私の代わりをしてください。」(期間中ずっと) ※青チャ 上記のように、同じ during my absence でも意味が微妙に違うので、文脈から用法がどちらなにかを判断することになる。 なお、「この仕事は一日でできますか?」のように何かに要する期間をたずねる場合は in a day のように前置詞 in を使う(エバー)。「彼はコンピュータの使い方を三週間で覚えた」も in three weeks である(エバー)。 for ages で「長い(年月の)間」の意味(エバーグリ-ン)。 これとは別に for には、for one's age 「年(年齢)の割には」という慣用的な表現がある(ジーニアス、インスパイア)。 He looks old for his age. 「彼は年の割にはふけてみえる」(ジーニアスに同じ例文。) 距離にもfor を使うことがある(インスパイア、桐原ファクト)。参考書から文章の一部を抜粋すると、 run for ten miles 「10マイル走る」(インスパイア) go straight for about 200 meters 「200メートルほどまっすぐ進む」(桐原ファクト) 全文は買って読もう(著作権の理由)。 for には代理・代用の意味がある(エバーグリーン、インスパイア)。 take 人A for 人B 「人Aを人Bと見間違える」 である(エバーグリーン、インスパイア)。 They take Tom for his brother. 「彼らはトムを彼のお兄さんと見間違えた」 for には「代表」の意味もある。 ジーニアスいわく、「私はクラスの全員を代表して発言します。」で、 speak for everyone in our class (抜粋)。 for の交換・代価の意味も、代理・代用から派生した意味だと考えることもできる(ジーニアス)。 I bought this shoes for 2,000 yen. 「その靴を2000円で買った」(ジーニに似た例) I paid 2000 yen for his shoes. 「その靴を買うのに2000円を払った」(インスパに似た例文) 上記のように、買い物をする場合でもfor のあとが価格とは限らない。 buy だけでなく sell でも同様 「sell A for 価格」の語順が普通(ブレイクスル-、青チャート)。 また、for ではなく at で価格を表す場合もある(青チャート)。詳しくは青チャートを参照せよ。 exchange A for B で「AをBと交換する」である(エバー、青チャ)。 なお、桐原ファクトには、for の代理・代用の用法の説明が見当たらない。 for には「賛成」の意味もある。典型的な例文で Are you for or against this pan? 「あなたはこの計画に賛成ですか、反対ですか」(ジーニ、桐原) なお、 against は「反対して」の意味の前置詞。 Are you for her proposal? 「あなたは彼女の提案に賛成ですか?」() I'm for the plan. 「私はその計画に賛成だ。」(インスパ) for ではなく in favor of で「賛成」を表す場合もある。 I'm in favor of the plan. 「その計画に賛成です」(ブレイクスルー) 中学で習ったように for には「目的」の意味がある。 We work for our living. 「我々は生計を得るために働く」(ジーニアス、青チャート) for の基本的な意味は「目的」「用途」の意味であり、ここから電車やバスなどの目的地の用法も派生的に導ける。やや飛躍気味だが、「交換」などの用法も、入手という目的のための手段という解釈も可能ではあるが(インスパイア)、最終的には覚えるしかない。 for には、「理由」の意味もある。慣用的には be famous for ~ 「~で有名」 for this reason 「この理由で」 などがある(エバー、ジーニアス)。 慣用句以外にも、 cannot see anything for the fog 「霧のせいで何も見えない」(インスパイアから抜粋) などのように使われる。 of たいていの参考書では of は「所属」・「所有」や「部分」の意味であると第一に紹介しており、中学の英語教科書もそのような立場である。 だがジーニアスおよびインスパイアおよび桐原ファクトでは、ofの基本イメージは「分離」であると述べている。そもそもofの語源の意味は「分離」の意味である(桐原ファクト)。 He rubbed me of my money. 「彼は私からお金を奪った。」(ジーニアス、インスパイアに似た例文) deprive A of B 「AからBを奪う」、 be independent of 「~から独立している」 cure A of B 「AのB(病気など)を治す」(ジーニアス、青チャート) などの熟語の of は、分離の of である。 そしてジーニアスいわく、「部分」も、取り出しなどの分離によって生じるとして、また、部分はもともともは分離元に「所属」していたとして、さまざまな意味も生じるとしている。 所属の of とは、たとえば He is a member of the baseball club. 「彼は野球部の一員です。」 のようなもの(インスパ、エバー、桐原)。なお桐原ではバレーボール部 派生的にか、of には分量の意味もあり、 米(こめ)3キロ three kilos of rice (インスパイア)のように使う。 a cup of tea 「いっぱいの茶」のofも、「分量」のofでしょう(桐原ファクト)。 病死について、 He died of cancer. 「彼はがんで死んだ」(エバー、) He died of heart disease. 「彼は心臓病で死んだ」(ジーニ) のように「 die of 病名」で、「~(病気)で死ぬ」の意味。 所属などを説明することは性質の説明にもつながることからか、ofには「性質」の意味もあります。 a man of ability 「有能な人」(エバー) a man of courage 「勇敢な人」(ファクト) のような用法も、性質の of でしょう。 「of 抽象名詞」で、形容詞的な意味になります(ブレイクスルー)。ただし前置詞なので後置ですが。 The matter is of no importance. 「その問題は重要ではない。」(ブレイクスルー、ジーニアスに似た例文) これも性質の of の派生でしょうか(ジーニアス)。 ほか 「~について」は中学では about で習う。だが青チャートいわく、of, about, on, with など色々とあると言っている。on は専門的な話題について使われることが多い。 remind A of B 「AにBを思い出させる」も、関連の of の用法(桐原)。 except 「~を除いて」も前置詞であるのだが、青チャートおよび辞書ジーニアス英和や辞書センチュリー英和などには確かに except に前置詞の用法があることも書いてあるのだが、しかし多くの参考書にはなぜか前置詞としての except の説明が無い。 桐原ファクトには、「前置詞以外にも前置詞の働きをする語句が多くあります」として群前置詞といっしょに except を紹介しているが、しかし辞書ジーニアスなどには前置詞としてexceptを紹介している。 なお、except には接続詞としての用法もあり、青チャート以外の他社の本には接続詞の章で except が紹介されているものもある(参考書ジーニアス総合英語、ブレイクスルー)。 従属接続詞として、 except that~ で「~ということを除いては」の意味。 インスパイアでは「否定」のnothing but (~だけ)の項目に except がある。 but にも「~を除いて」という前置詞的な意味がある(青チャート)。なお、nothing but (~だけ)は only の意味。 前置詞としての but と except は、ほぼ同じ意味(青チャート)。 To my disappoint, 「私が失望したことには」 To my surprise, 「私が驚いたことには」 など、「to one's +感情の名詞」で、「私が~したことには」の意味になり、副詞的な働きをする。 べつに my だけでなく、たとえば To her surprise, 「彼女が驚いたことには」※ 青チャ To his parent's joy, 「彼女の両親が喜んだことには」※インスパ など my 以外も可能。これらの表現を使う場合はふつう、文頭で「To one's 感情の名詞」を使う。
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高校英語の文法/助動詞 May I と Can I May には「許可」を意味する用法もある。 「May I ~?」(~してもいいですか?) は、目上の人に対して許可を求めるために用いられる。 「Can I ~?」は口語でよく使われ、とくに目上という関係は無い。 なお、 「You may ~. 」(あなたは~してもよい)は、目下の人間に対して使うので(桐原ファクト)、使用の際には注意が必要。 たとえば You may use your dictionary for this test. 「このテスト中は辞書を使ってもよろしい」(ジーニアス、桐原ファクト に似た例文) のように使う。このように、権威・権力にもとづく可能性を表す表現でもある(ジーニアス)。だから、けっして「may = 丁寧」と機械的に覚えないほうが良いだろう。 なお、Could を使えば、丁寧な表現になる。とりあえず、Could を使うのが無難であろう。 must 勧誘 must must には、強い勧誘を意味する用法もある(インスパイア、桐原ファクトブック、ジーニアス)。 You must ~. 「ぜひ~してください」「ぜひ~したほうがいい」 のような意味。 青チャートには書いていない。(あまり重要視してないのだろう。) 欧米人は、この手の、外国人には分かりづらい、やや飛躍気味の表現をすることもよくある。 - ※ 飛躍気味とは、たとえば最近の俗語の例では、英米人の近年の若者などの用法で、すばらしい絵や文芸を見たときに、「その絵を消してくれ」なんていう表現も最近の英語では良く使われるという。どうやら「素晴らしすぎて、魅了されて、頭がおかしくなってしまいそうだ」→「だから消してくれ」という意味らしいのだが、しかし事情が知らない外国人が聞くと、単にその絵や文芸に不満があるかと誤解されかねない。しかし、英語は世界の覇権言語なので、外国人からの誤解を気にする必要も無い。日本人からすれば、まったく、英米人はうらやましい限りである。 この 勧誘の must を紹介しているインスパイア、ジーニアスも、コラム的に紹介しているだけである。(桐原ファクトのみ、本文で紹介。) - ※ 昔から教育評論でよく言われる、英語教育の隠れた目的のひとつとして、誤解の恐れの少ない論理的な文章の書き方の教育を教える、という目的がある。文科省や国立大学などは、中立性などの理由で、「論理的な日本語の書き方はこうあるべきし」とは宣言できないので、仕方なく英文法など外国語を使って論理的な文章の書き方を教えようとしている、などとは昔はよく評論されたものである(もっとも、最近の英語教育では会話重視などで、そういう論理性の教育目的は雲散霧消してしまったが)。そういう論理的な文章の書き方の教育としては、勧誘 must やら上記例の「消してくれ」のような飛躍気味の用法は、嫌われるだろうから、大学入試などに勧誘の must などが出る可能性は低いかもしれない。 確信「ちがいない」 must の否定 「~にちがいない」という強い確認の意味での must の否定は、 cannot 「~はずがない」である(ジーニアス、インスパイア、青チャート)。 なぜそうかといわれても、そうだと決まってる。英米人がそういう使い方をしているので、合わせるしかない。 - ※ これまた、あまり論理的でないので、おそらく入試では問われづらいだろう。たとえば桐原ファクトでは、must の項目では、確信の否定 cannot を無視しており、非紹介である。なお、桐原でも can の側で cannot「~はずがない」を説明しており、可能性 can の否定として cannot「~はずがない」 という用法を説明するというのが桐原ファクトの理論構成である。 cannot や can't と言った場合、単に「~できない」という可能性を否定するだけの用法もあるが(インスパイア can側)、それとは別に「~のはずがない」という強めの感情的色彩をおびた「否定の確信」な意味の用法の場合もある(桐原ファクト、ジーニアス)。 Can you ? 英語では、相手に能力を直接聞くのは、失礼に当たると見なされている場合もある。 たとえば、 Can you speak Japanese? は、背景として、「あなたは日本語を話せないといけない」と思われることもある(インスパイア、ジーニアス)。このため、canを使わずに Do you speak Japanese? と聞くのが良いとされている(ジーニアス)。 一方、話し手が自分の語学の能力を「私は~できます」と言う場合は、なるべく be able to よりも canを使うほうが謙遜気味で礼儀正しいとされており、つまり I can のほうが良いとされている(ジーニアス)。I のあとに be able to を使うと、英米では能力自慢のように聞こえるらしい(ジーニアス)。 can youが無礼なのに I can が礼儀正しいのは意味不明だが、しかし覇権国家の英米人がそう使い分けているので、英語学ではそう合わせるしかない。うらやましい。所詮、語学は暗記科目であり、「理屈と膏薬はどこにでもつく」(日本のことわざ)である。 また、派生的にか、可能性のcanは疑問文では、強めの疑いや、おどろきや当惑などの意味をもつこともよくある(青チャート、インスパイア)。参考書によくある典型的な例文だが Can the rumor be true? 「そのウワサは本当だろうか?」 という疑問文では、そのような、強めの疑いや、おどろきなどの意味がある。・ さて、can は、今後も通用する能力や可能性について言うので、単に一回だけのことに「昨日は~できた」みたいに言う場合には can や could を使わない(ジーニアス、青チャート)。 1回だけ「~できた」場合には、 be able to や 「managed to不定詞」 や succeed in ~ing などを使う(青チャート、インスパイア)。 また、とくに能力などを強調するのでなければ、単に過去形だけを使って1回だけできたことを表現してもいい(ジーニアス)。 なお、否定文や疑問文の場合は could を使っても良く、つまり couldn't や wasn't(または weren't) able to でもいい(インスパイア)。 ただし、こういう細かい使い分けよりも、入試に出るのは、構文 cannot help ~ing 「~せざるを得ない」 cannot help but +動詞の原型 「~せざるを得ない」 cannot but +動詞の原型 などだろう(インスパイア、桐原ファクトブック)。 90年代、こういう二重否定的な構文が(中学範囲ではなく)高校範囲だった過去がある。 cannot ~ too ○○ 「いくら~しすぎても○○しすぎることはない」 という反語的な表現も、90年代の典型的な高校英文法の範囲であった。 そのほか、「ときに ~することがある」と好ましくない事を言う場合に can を使うことがある。ジーニアスいわく「風邪は時に重い病気につながることがある」とか、青チャートいわく「そういう事故はときどき起こりうるものだ」で can を使っている。 だが、これとは逆に思える用法もインスパイアにあり、「can はもともと備わっている能力を表す」として「be able to は一時的な能力を表す」などという用法もある。 ※ このように、助動詞まわりは、あまり規則的ではなく、またやや口語的であり、あまり日本の大学入試対策としては深入りする必要が無いだろう。上述したが cannot help ~ ing のような構文を覚えることを優先すべきである。 助動詞 need 本動詞 need とは別に、助動詞 need というのがあり、 「need +動詞の原型」の形で使う。 助動詞 need は主にイギリス英語である。 参考書では平叙文に助動詞 need が使われることもあるが(ジーニアス)、しかし実際の英米では疑問文と否定文でのみ助動詞 need が使われるのが一般的である(青チャート、桐原ファクト、インスパイア)。 つまり、平叙文、肯定文では、助動詞ではなく本動詞 need が使われるのが実際(インスパイア)。 このような制限が助動詞 need にあるため、実のところ、あまり信用頻度は高くない、・・・というのが桐原ファクトの見解。 助動詞 need の否定形は need not または needn't であり(青チャ-ト)、つまり「 need not +動詞の原型」のような形になる。 また、助動詞 need に過去形は無い(青チャ、インスパ)。また、主語が三人称単数でも、助動詞 need には sはつかず、needのまま(青チャ)。 もし、過去の必要性について言いたい場合、単に、本動詞 「need to不定詞」を使えばいい(ジーニアス、青チャ、インスパイア)。 なお、本動詞 need の否定文や疑問文は、単に中学英文法と同様に(たとえば過去形の場合なら) I didn't need to 不定詞 や Did you need to 不定詞 ? を使えばいいだけである。 なお、完了形との組み合わせ「 need not have +過去分詞」だと、「~する必要はなかったのに」(+「しかし実際は~してしまった」)という後悔や非難などの意味になる(ジーニアス、インスパイア、桐原ファクト)。 ※ インスパイア・桐原ファクトに「実際は~してしまった」の説明あり。インスパイアに「非難」の意味あり。桐原は「後悔」のみ。ジーニアスは二次熟語では表現せず。 dare 助動詞としては、2つの慣用文がある。 How dare say ~? 「よくも~できたものだね」 という苛立ち(いらだち)をあらわす。 I dare say ~. 「たぶん~だろう」「おそらく~だろう」 (インスパイア、ジーニアス、ブレイクスルー) sayのあとに接続詞 that は続かない(インスパイア)。 I daresay ~ という一語でdareとsayを縮めた言い回しもある(インスパイア、ブレイクスルー)。 dare の用法は、あまり論理的ではない。ほか、助動詞 dareに過去形 dared もあるとされているが、現代ではマレ(青チャート)。 そのほか、 Bod dare not propose to her. 「ボブは彼女にプロポーズする勇気がない」 のように、否定文や疑問文で dare が使われることがある。 だが、この場合の dare は「勇気のある」の意味なので、助動詞を使わずとも courage や brave などをつかった言い表すこともできて、むしろ英米では口語には courage などの言い回しのほうが多いのが実態とのこと(エバーグリーン)。 さて、助動詞以外にも、本動詞としての dare の用法があり、上記2つの「How dare」「I dare say(または daresay)」慣用表現以外の場合では、本動詞としてdareをつかうことのほうが一般的であり(ジーニアス)、 He dares(または dared) to ~ 「彼はずうずうしくも~する(した)」 のように使うこともある(青チャ)。 ought to ought to は、助動詞 should と同じような意味として紹介されることもある。だが、実際には should よりも、やや意味が強い。 ought to には、「~すべきである」という義務・当然の意味や、「~するはずだ」「~にちがいない」という強い推定・見込みの意味(インスパイア、青チャ)がある。 義務の強さは、 must > ought to > should である(ジーニアス)。 ought は助動詞であるが、to不定詞とともに使われる。 なお、ought to の否定形は ought not to ~ である(エバー、青、インスパ)。 oughtn't to ~ という短縮形の否定もある(青、インスパ)。 疑問文は、たとえば「私は~すべきでしょうか?」なら Ought I to 不定詞 ~? の語順になる(青、ファクト、インスパ)。 つまり、 Ought 主語 to 不定詞 ~? の語順。 had better had better 「~したほうがいい」は、字面だけなら「推奨」の意味だが、文脈によっては「命令」や「脅し」の意味に受け取られる場合がある。 had better には「そうしないと(or)、困った事になるぞ」という含みがあると感じられる場合があるから、である(桐原ファクト、)。 とくに、主語が you の場合、命令などの意味に受け取られやすいので、注意が必要(エバー)。 このため、 I think you had better ~ のように「I think 」や maybe などをつけて、意味をやわらげる場合もよくある。 had better の否定は 「had better not 動詞の原型」である(エバ、ジーニ)。 - ※ 完了形と混同してか、had better なのに had の後ろに not を置くミスが学生に多い(エバ)。 「It would be better for you to 不定詞」でも、意味をやわらげられる(青チャート、インスパ、ブレイク)ので、目上の人にはこの言い回しが良いとされる(青チャ)。 青チャートいわく、「 It might be better for you to 不定詞」や「I would suggest (that)」 などでも「~するのが良いでしょう」の意味で言い換えできる、とのこと(青チャ)。 言い換え表現のほうでは、動詞の前にtoがついてto不定詞になっているのに注意。 なお、口語では You'd better や I'd better のように、よくhad を 'd と省略する(青チャ、ブレイク)。 疑問文の語順については、インスパイアと青チャート以外、言及していない。説明の簡単のため主語を I とすると、「~したほうが良いですか?」は Had I better ~? または Hadn't I better ~? とのこと(インスパイア)。 いっぽう、 Han I better not ~? 「~しないほうが良いですか?」 とのこと(インスパイア)。 青チャートいわく、英語では実際によく使われるのは、 Hadn't I better ~? 「~しないほうが良いですか?」 という言い回しとのこと(青チャ)。 その他 助動詞には、ニュアンス的に、話し手・書き手の判断や気持ちが含まれている(インスパイア、桐原ファクト)。 なので、will→be going to や can→be able to などの言い換え表現をすると、じつはbe going to などのほうは話し手の判断や気持ちものニュアンスが薄まるので、客観的なニュアンスが強くなるので、参考書などでは「言い換え」とはいうが厳密には完全には同じ意味とは言えない場合もある。 ただし、日本人としては、そこまで考える必要は無い。 used to 助動詞used to の「 used to 動詞の原型」(よく~したものだ)は過去の習慣を表す(青チャ、ジーニアス)。通例、「(過去はよく~したが、)今は違う」というニュアンスを含むことも多い(インスパ、青チャ、ブレイク、ジーニアス)。 なお、現代との違いをとくに強調したくない場合は(used to ではなく) would を使えばいい(インスパ、青チャ、ブレイク、ジーニアス)。 かつて、過去の高校英語では、used to を単に「過去の習慣」として習い、「今は違う」というニュアンスについてはあまり教えられなかったが、現代の高校教育では違う。 なお、used to のtoは不定詞だと解釈されている(ジーニアス、青チャート)。 またなお、「be used to 名詞」の「~に慣れている」とは違うので注意せよ。 また、would は、あとに続く動詞が動作を表す動詞(いわゆる「動作動詞」)の場合にしか使えない(インスパイア、青チャート、ジーニアス)。ジ-ニアスおよびブレイクスルーが「動作動詞」だと明言。 いっぽう、used to は、あとに続く動詞が状態を表す動詞(状態動詞)でも構わないし、動作をあらわす動詞(動作動詞)でも構わない。ジーニアスおよびブレイクスルーが「状態動詞」と「動作動詞」だと明言している。 このように、used to にも would にも両方とも、制限がそれぞれある。なので、過去の高校教育では、状態動詞でも動作動詞でも使える used to を中心に教えたのも一理ある。このように昔の英語教育は、文法の覚えやすさを優先するために、細かいニュアンスや意味などは実は犠牲にしている面もある。 なお、前提として、will には「習慣」を表す意味がある。別の単元でも述べたが、willは未来専用の表現ではない。 こう考えれば、would で過去の習慣を表すのも、一応は体系的ではあるが、しかし実際には上述したようにwouldによる習慣の表現は状態動詞に限られるという制約もあるように、あまり文法としては一貫性が無く、論理的ではない。 もとの英語の使用状況がこういう、あまり論理的でない状況なので、おそらく大学入試では、あまり細かいニュアンスの違いは問われないだろう。
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高校英語の文法/動名詞 動名詞 動名詞と時や態 be動詞 be動詞や進行形の動詞も、動名詞にできる。 be動詞の動名詞は being であり、たとえば例文 He is proud of being a member of the team. 「彼はチームの一員であることを誇りに思っている」 のようになる。(青チャ、エバー、桐原ファクトに似た例文) He is proud of having won the prize. 「彼はその賞を受賞したことを誇りに思っている」※ジーニアスに似た例文(heをsheに変えれば同じ) He is proud of having won a medal at the Olympics. 「彼はオリンピックでメダルを獲得したことを誇りに思っている」 ※ エバグリに似た例文 ほかの例文としては、たとえば I don't like being treated like a child. 「私は子供のようにあつかわれるのは好きではない」 という例文もよくある(インスパ、エバグリ、ジーニアス)。 完了形 完了形の動名詞は「 having 過去分詞」であるが、意味は述語動詞より「以前」のときを名詞化したものである。 He is proud of having been a member of the team. 「彼はチームの一員であったことを誇りに思っている」 述語動詞よりも以前のことを名詞化しているので、接続詞 that をつかって言いかえすれば、過去形または完了形になる(青チャ)。つまり、 He is proud that he was a member of the team. 「彼はチームの一員であったことを誇りに思っている」 または He is proud that he has been a member of the team. 「彼はチームの一員であったことを誇りに思っている」 のように言い換えできる。 上記の言い換えについて、桐原ファクト、エバーグリ-ンだと、過去形の言い換えしか書いてないが、しかし青チャートのいうように完了形に言い換えできる場合もある。 受動態 なお、受動態の動名詞は「being 過去分詞」である。 否定語の位置 動名詞の直前に not などの否定語をつけて、その動名詞を否定した名詞的な概念を表現できる。たとえば下記の例文 Excuse me for not coming on time. 「時間通りにこれなくて、ごめんなさい」 ※ 青チャート、ブレイクスルー ほか、 I'm sorry for not calling you sooner. 「もっと早く電話しなくてごめんなさい」※ブレイクスル- I'm sorry for not having sent you e-mail sooner. 「もっと早くあなたにEメールを送らなくてすみません」※インスパ (なおインスパでは「Eメール」とEをつけた和訳) not の代わりに never の場合もある(インスパ)。 未分類 動名詞は、直後に名詞などをともなわなくとも、動名詞だけでも名詞的にあつかってよい。 たとえば、英語のコトワザ Seeing is believing. 「見ることは信じることである」(「百聞は一見にしかず」に相当) のSeeing も believing も動名詞である(青チャート、ジーニアス)。ジーニアスに「見ることは信じることである」アリ。 なお、上記の例文では、動作の主語も書いてないし、修飾先の目的語も見当たらないが、このように主語や目的語が見当たらない場合においての動名詞における実際の動作主はふつう、一般の人々が実際の動作主であることが多い(青チャ、インスパイラ)。 なお、動名詞に由来している名詞というものが存在している。 たとえば reading (読書), swimming (水泳), meeting (会合)、understanding(理解), meaning (意味)、 などの語句のことである。これらはもとは動名詞だったが、今では完全に名詞化している(青チャート)。 現在分詞と動名詞のちがい あまり明記している参考書は少ないが、青チャートやインスパイアやロイヤル英文法など難しめの参考書が紹介している話題として、現在分詞と動名詞との違いがある。(および、形容詞的な用法についても青チャートなどが言及。) たとえば、 a crying baby 「泣いている赤ん坊」の crying は現在分詞である。ここの crying は動名詞ではない。 なぜなら、crying しているのは誰かというと、修飾されている baby 赤ん坊だからである。 いっぽう、a swimming pool (水泳プール)と言った場合、ここでの swimming は動名詞である。なぜなら、けっしてプールさん(誰?)が泳いでいるわけではないからである(青チャの脚注)。 このように、現在分詞と動名詞の見分けかたは、修飾の対象の直後の語句が、動作の主語かどうかで判別する。 動名詞の場合は、直後の名詞は、主語ではなく、だいたいは動作の目的である事が多い(ブレイクスル-)。 なお、ロイヤル英文法によれば、a smoking chimney (煙を出している煙突)の smoking は現在分詞である。この場合は、実際に煙突が「煙を出す」という動作の動作主だからである(無生物主語ではあるが)。 このように、単語だけでは、それが動名詞か現在分詞かは決まらない。 無生物主語だとまぎらわしいと思うなら、下記のようなsleeping の例もある。 a sleeping bag 「寝袋」 、 ※ これは動名詞、 ※ ロイヤル、インスパ a sleeping lion 「寝ているライオン」、a sleeping baby 「寝ている赤ん坊」 ※ これは現在分詞、※ロイヤル、インスパ なお、暗黙の前提としたが、a swimming pool における swimming のように、動名詞は形容詞的な意味をもつこともある(青チャ、インスパ)。 以下、動名詞+名詞であるものをあげると、 a sleeping bag (寝袋)、※ ロイヤル、インスパ a sleeping car (寝台車) ※ エバーグリーン a waiting room (待合室)、※ 青、ロイヤ、エバー a washing machine (洗濯機)、※ 青、インスパ a dining room (食堂) ※ インスパ、ロイヤル、エバー a walking stick (杖(つえ) ) ※ ロイヤル、インスパ そのほか、形容詞的に使われる動名詞とそれとセットの名詞の具体例として a parking lot 駐車場、インスパ a cutting board まないた、インスパ a dressing room 更衣室、インスパ a vending machine 自動販売機、インスパ a driving school 自動車教習所、青チャ a racing car レーシングカー、青チャ flying pan フライパン、エバーグリーン などがある。 慣用表現 重要表現 feel like ~ing 「~したい気がする」(ジーニアス、エバー) How about ~ing ・・・? 「~するのはどうですか?」という勧誘の意味。What about ~ing ・・・? の場合もある(ジーニアス、ブレイク)。 What do you say to ~ing ・・・?「~してはどうですか」という勧誘の意味。 ジーニアスいわく、What do you say よりも How about のほうが よく使われる。 なお、勧誘なので返事は、たとえば賛同の返事なら Sounds good. (いいね)のようになる(ブレイク)。 cannot help ~ing 「(感情的に)~せずにはいられない」(ジーニアス)。 このhelpは「助ける」ではなく、エバグリいわく「避ける」の意味であるとされ(エバーグリーンの「否定」の章)、ブレイクいわく「こらえる」の意味だとされている。参考書によって help の意味が違っている。 なお、「cannot hep but 動詞の原形」も似たような意味。くわしくは英文法の『否定』の単元を読め。 on ~ing 「~するとすぐに」、「~と同時に」(エバー)、 一般に前置詞 on には、「~の上に」の意味ではなく、「接触して」の意味もあり、側面に接触している場合にも用いられる(青チャート前置詞、桐原ファクト)。 ここでの on の「すぐに」の意味は、接触の意味から派生したものと考えたほうが理解しやすいだろう(青チャ、桐原ファクトなど)。 接触しているものは、すぐ近くにある。 → 時間的にも「すぐに」な出来事 とでもなろうか。 暗黙の前提だが、on や in は、空間的な関係の説明にだけでなく、時間的な関係の説明にも(onやinを)使える。 in ~ing be used to ~ing または be accustomed to ~ing 「~することに慣れている」 ※青チャ、インスパ prevent O from ~ing または keep O from ~ing 「Oを~しないようにする」「Oが~しないように妨げる」 ※青、エバ、インスパ prevent , keep のほか、stop ,prohibit (禁止する)、discourage (思いとどまらせる)、の場合もある(青、エバ、インスパ)。 discourage O from ~ing 「Oが~するのを思いとどまらせる」※ インスパイアはdiscorage を prevent/keep/stop のグループとは分離している worth ~ing 「~する価値がある」 よく形式主語で「 It is worth ~ing ・・・. 」と書かれる 場合もあるが、べつに形式主語で使わなくとも構わない(インスパ、エバー、ジーニアス)。 典型的な例文は This book is worth reading. 「この本は読む価値がある。」 ※ 青チャ、ロイヤル これは形式主語 it でも書き換え可能であり、 It is worth reading this book. 「この本は読む価値がある。」 または It is worthwhile reading(または to read) this book. 「この本は読む価値がある。」 とも言える(青チャ、ロイヤル)。 ほか、 This museum id worth visiting. 「この博物館は訪れる価値がある。」 ※ インスパ、エバグリ も参考書によくある例文。 It is no use ~ing または It is no good ~ing 「~しても無駄である」 There is no ~ing 「~できない」 (エバーグリ-ン) look foraward to ~ing 「~することを楽しみに待つ」の意味(エバ)。 よく現在進行形で、 I'm looking forward to meeting you next week. 「来週、あなたに会えることを楽しみにしています」 のように使う(インスパ)。 to seeing you の場合もある(エバ)。 ここのtoは、不定詞ではなく、前置詞のtoである(インスパ)。ここでの to は不定詞ではないので、もし to の後ろに動詞の原形を置いたら間違いになる(ジーニアス)。 be used to ~ing 「~することに慣れている」 この to も前置詞のtoである(インスパ)。不定詞を使わないように注意(エバ)。ここでの to は不定詞ではないので、もし to の後ろに動詞の原形を置いたら間違いになる(ジーニアス)。 なお、助動詞used to の「 used to 動詞の原型」(よく~したものだ)とは異なるので(青チャ、ジーニアス)、混同しないように。 Do you mind me ~ing ・・・? 「(私が)~してもよろしいでしょうか?」という許可(エバー、ロイヤル英文法)を求める言い回し。meがつくと、動作主は自分になる(インスパ)。 me ではなく my の場合もある(青チャ)。つまり Do you mind my ~ing ・・・? 「(私が)~してもよろしいでしょうか?」も許可を求める言い回し。myがつくと、動作主は自分になる(イ青チャート)。 Would you の場合もある。つまり、 Would you mind my ~ing ・・・? 「(私が)~してもよろしいでしょうか?」も許可を求める言い回し(青チャート)。 would のほうが丁寧(ていねい)(※ 青チャート、ロイヤル英文法)。 一方、 me や my などがついてない場合 Do you mind ~ing(たとえばopening the window)? 「~していただけませんか」という依頼(エバー、ロイヤル英文法)になる。me などがついてないと、Do you で問いかけている相手への依頼になる(インスパ)。 ※ なお青チャと桐原ファクトの例文が opening the window である。 この依頼の表現も、Would you mind ~ing でもたずねてもよい(青チャ)。 なお、返事もふくめて書くと、 Do you mind my ~ing ・・・? 「(私が)~してもよろしいでしょうか?」 - No, not at all. 「ええ、どうぞ」 または - Certainly not. などになる(青チャ、インスパ)。 なお、文中の述語動詞のうしろにある動名詞の動作主をあらわす際、文法的には本来は所有格(上記例ではmy)を用いるものとされているが、しかし口語では目的格(上記例ではme)が好まれており、とくに名詞では 's のつかない形が好まれる(青チャート)。 いっぽう、文頭にある動名詞については、それに所有格をつけて動作主を表すことは、よく行われている(青チャート)。 Do you mind ~ing ・・・? 「~してくれませんか?」 - No, not at all. 「ええ、いいですとも」 または - Certainly not. Would you mind ~ または Do you mind ~ で聞かれた提案や依頼に賛同する場合は、Noで賛同の意味になる。なぜなら、ここでの mind は「嫌がる」の意味であるから。ここでの No は、I don't mind 「嫌ではない」の意味なので、よって No で賛同の意味になる(青チャ、インスパ)。 It goes without saying ~ 「~はいうまでもない」 be on the point of ~ing 「まさに~しようとしている」 ※ジーニアス、ブレイクスルー、インスパイア、青チャート なお、「be about to 不定詞」を使っても、同じような意味を表せる(インスパ、ジーニ)。 そのほか、二重否定の単元で習うだろうが never ・・・ without ~ing 「・・・するときは必ず~する」「~せずに・・・することはない」 ※インスパ、青チャート far from ~ing 「~には程遠い」※インスパ その他の慣用表現 with a view to ~ing(動名詞) 「~する目的で」「~するつもりで」 ※ジーニアス make a point of ~inf 「必ず~するようにする」「決まって~するように努力する」※ジーニアス 前置詞 to を用いている表現として、 object to ~ing(動名詞) 「~することに反対している」 ここでのtoは、不定詞ではない。なので、toのうしろは、けっして動詞の原形にしないように。 of one's own ~ing 「自分で~をしでかしたものだ」 ※ブレイク、 hope of ~ing 「~するという見込み」 ※青チャ 不定詞と動名詞 remember ~ing 「~したことを覚えている」と 「remember to 不定詞」((これから)忘れないで~する)のように、動名詞か不定詞かで意味の異なる表現がある。 wikibooks では 高校英語の文法/不定詞#不定詞と動名詞 で説明しておいたので、参照せよ。 動名詞 動名詞だけを目的語にとる動詞(不定詞はとらない) 下記の動詞のパターンはいくつかあ、現在・現実の今実際の行っている事や、過去の実際の出来事に対して使う動詞については、つづくのが動名詞になる事が多い(ジーニアス)。 ほか、「避ける」「嫌がる」など消極的なものは、つづくのが動名詞である事が多い(青チャート)。 admit(~したことを認める), deny(~したことを否定する), finish(~することを終える), give up(~するのをやめる), stop / quit(~するのをやめる), enjoy(~して楽しむ), practice(~(すること)を練習する), avoid(~するのを避ける), escape(~するのを逃れる), mind(~するのを嫌がる), miss(~しそこなう), put off (~するのを延期する), postpone(~するのを延期する) consider(~することをよく考える), suggest(~することを提案する), など , , , , , , ,
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高校英語の文法/動詞と文型 文型 英語の文型は基本的には、下記の5通りに分かれる。 「第1文型」と呼ぶ代わりに「SV文型」、第2文型と呼ぶ代わりに「SVC文型」のようにいう場合もある。なので、高校生としては、どの文型が何番だったかまでは覚える必要は無い。 なお、文型の数の表記(「第□文型」の四角のぶぶん)が算用数字かローマ数字かは、どれでもいい。参考書によっても異なり、とくに統一は無い。 SV(第1文型) 主語 + 動詞 ※ 未記述. SVC(第2文型) 主語 + 動詞 + 補語 がSVC文型である。 第2文型は - Mary is happy. - John became a doctor. などである。 SVC文型を取る典型的な動詞がある。 become(なる)、 turn(変化して~になる), go (~(悪い状態に)なる) のように、~になるという意味の動詞に多い。 The leaves turn red in the fall. 「秋になると、木の葉は赤くなる。」 leavesは必ずしも樹木の葉とは限らず、草の葉の場合もあるが、しかし市販の参考書などでは、これでも通じている。 The milk has gone bad. 「その牛乳は腐っている。」 などである。go は完了形で使うことが多い。 ほか、be動詞や、外見的な様子をあらわす look(のように見える), appear(~のように見える)、seem (~のように見える) なども典型的にSVC文型である。 She is happy. 「彼女はしあわせだ。」 She looks happy. 「彼女はしあわせそうに見える。」 She appears happy. 「彼女はしあわせそうだ。」 などである。 She seems happy. 「彼女はしあわせなように見える。」 知覚を表す、feel(感じられる), smell(においがする), sound(聞こえる),taste(味がする)、なども、典型的な第2文型をとることの多い動詞である。 そのほか、熟語 be fond of ~ 「~が好きである」や be sure of ~「~を確信している」のように、形式的にはSVC文型だが、続く修飾語がないと意味をなさない言い回しもあるが、便宜的にこういった熟語表現でも形式的にSVC文型でさえありさえずれば、分類上はSVC文型として分類する。 ほか、教育上の注意として、よく便宜的にS = Cと等号を使って比喩的に教育される場合もあるが、しかし数学の等号とは異なり、一般にSとCの単語のそれぞれの位置は交換できないことに教育者は気をつけておく必要がある。 SVO(第3文型) 主語 + 動詞 + 目的語 の文型がSVO文型である。 文法上は、一般にSVO文型を取る動詞は通常、他動詞である。 多くの動詞がSVO文型に該当するので、覚えるなら、他の文型と間違いやすいものを覚えると良い。 たとえば「議論する」discussは、よく間違いでabout を付けられる場合があるが、しかしaboutを使わずにSVO文型でdisucussは使う動詞である。 discuss はもともと「粉々にする」というような意味であり(ジーニアス英和)、それが転じて、話を分解するような意味になったので、なのでabout はつけない。 このような、前置詞をつけない他動詞を列挙すると、 approach(~に近づく)、attend (~に出席する), discuss(~について話し合う)、enter(~に入る)、join (~に参加する)、marry(~と結婚する)、resemble(~に似ている)、visit (~を訪問する) などが、参考書では代表的である。 ほかに、前置詞をつけない動詞の例としては contact (~と連絡をとる)※ジーニアス、 mention (~を述べる)※インスパイア、ジーニアス、 oppose (~に反対する)※エバーグリーン などがある。 逆に本来なら前置詞が必要なのにそれを忘れやすい動詞としては agree with ~(人) 「~に賛成する」、 ※ ブレイクスルー、エバーグリーン agree to 案 「<案>に賛成する」、※ エバーグリーン complain to 人 about 関心事 「<人>に<関心事>について不平を言う」 ※ ブレイクスルー、エバーグリーン complain の「to 人」は省略しても構わない(ブレイクスルー)。 apologize to ~(人) 「~に謝罪する」、 たとえば You should apologize to her. 「きみは彼女に謝罪するべきだよ。」 ※ エバーグリーン I must apologize to her. 「私は彼女に謝罪しなければならない。」※ 青チャート suggest 情報 to 人 「<人>に<情報>を提示する」、 同様に introduce も、 introduce 人1 to 人2 「<人2>に<人1>を紹介する」 である(青チャート、インスパイア)。<人1>のほうが紹介される情報になる。 ほか、 graduate from 学校「<学校>を卒業する」 ※日本語の「学校『を』」に引きずられて from を忘れる生徒が多いと言われている(ジーニアス)。 などがある(青チャート、インスパイア)。 そのほか、 She lived a happy life. 「彼女はしあわせな生活を送った」 のように、動詞と関連の深い目的語を取る例もある(青チャート、ジーニアス)。 ただし普通は、 She lived happily. のように言う場合が多い(青チャート)。 smile a happy smile 「うれしそうに笑う」、 dream a strange dream 「きみょうな夢を見る」、 などの表現もある(ジーニアス)。 - 同族目的語 下記のように、動詞と目的語で語源が同じ単語だったり似た意味の単語の場合、これらの目的語のことを同族目的語という。 She lived a happy life. 「彼女はしあわせな生活を送った.」 (語源が同じ)※ 青チャート、インスパイア They fought a fierce battle. 「彼らは激しく戦った.」(似た意味)※ インスパイア、ロイヤル英文法 なお、live は普段は自動詞なので目的語をとらないが、しかし同族目的語の場合、他動詞として目的語をとることができる。 このように同族目的語をとる動詞では例外的に、ふだんは自動詞でも目的語をとることができる場合がある。 言い換え表現として、 She lived happily. 「彼女はしあわせな生活を送った. They fought fiercely. 「彼らは激しく戦った.」 のように、同族目的語を使わなくても副詞を使って言い換えることもできる。 SVOO(第4文型) SVOO文型とは、 主語 + 動詞 + 目的語1 + 目的語2 である。なお、 主語 + 動詞 + 間接目的語 + 直接目的語 のようにも言う参考書も多い。 「~(人など)に○○(物など)を与える」という意味の基本的な動詞には、SVOO文型の用法をもつものが多い。 典型的なのは giveであり give O1 O2 で「O1にO2を与える」だが、そのほかにも hand (手渡す)や、offer (手渡す)など、和訳上では「与える」とは限らないので、意外と注意が必要である。sell 「売る」もこのグループである。 そのほか、物理的には物を渡さなくても、teach O1 O2 (O1にO2を教える)や 、tell O1 O2 (O1にO2を話す)や write O1 O2 (O1にO2(手紙など)を書く)といった、相手のもとに情報を届けるものにも、SVOO文型の用法がある。 この、相手のもとに何かを届けるグループのものは、前置詞 to を使った言い換えで、たとえば give the money to him のように表現できるものが多い。 列挙すると、 give(与える) , lend (貸す), hand (手渡す), offer (提供する), show (見せる), send (送る), tell (伝える・話す), write ((手紙などを)書く), などがある。 ほか、他人のために何かを「してあげる」という意味の動詞にも、SVOO文型のものが多い。 具体的には、buy 「買ってあげる」、cook 「料理を作ってあげる」や find 「見つけてあげる」や、get O1 O2 (O1のためにO2を手に入れる), make (作ってあげる)という用法をもつ動詞が、SVOO文型の用法をもつ。 この、「してあげる」グループの動詞は、前置詞を使った言い換えでは、to ではなく for のほうが適切な場合が多い。 buy a new bike for him. 「新しい自転車を買ってあげる」 などのように。 buy (買う), cook(料理する), make(作る), play(演奏する), sing (歌う)、が、 もし前置詞で言い換えるならそのforのほうが適切なグループである。 - そのほかのグループ bring「持ってくる」 とleave「残す」は、to でも for でも、SVOOでも、どれでも使える。 bringの場合で、前置詞を使う場合は、文脈から to か for かより適切なほうを判断する。 leave の場合、慣用的に、財産を残して死ぬ場合は to を、ケーキやクッキーなどを人に残しておくのは for である。 I left some cake for him. 「私は彼にケーキを少し残しておいた。」 He left a fortune to his wife. 「彼は妻に財産を残して死んだ。」 - to や for で言い換えできないグループ cost, envy(うらやましく思う), save(節約する), spare(省く) , は、SVOO文型の用法はあるが、しかし一般に to や for を使った言い換えは出来ないし、またそのためO1とO2の語順も変えられない(インスパイア、ジーニアス、ロイヤル)。 また、askも、「たずねる」の意味では、あまり語順を変えない(ロイヤル)。なお、ask~of はどちらかというと「頼む」の意味で使うことが多い(ロイヤル)。なお、インスパイアでは、askは「たずねる」の意味では語順を変えないとしているが、しかしロイヤルでは、そこまで断言していない。 SVOC(第5文型) 主語+動詞+目的語+補語 SVOC文型では、O = C の関係が成立する。 make O C 「OをCにさせる」がSVOCの一例である。 call 「~と呼ぶ」や name「~と名づける」など、何かを呼ぶ表現がSVOCである。 ほか、elect O C で 「OをCに選ぶ」だが、しかし類義語の choose は伝統的にはSVOC文型にはならない事に注意する必要がある。ただし、最近は事情が異なり、 choose でも SVOC文型を取る場合もあるので(ロイヤル英文法)、複雑である。 leave「残しておく」や keep「~にしておく」など、現状維持の意味の動詞でも、用法によっては SVOC の場合もある。 そのほか、「~を・・・と思う」グループとして、believe「OをCと信じる」、consider「OをCと見なす」, find「OがCだと分かる」, think 「OをCと思う」などがある。 I believe him a great artist. 「私は彼を偉大な芸術家だと思う。」 I consider him a great artist. 「私は彼を偉大な芸術家だとみなしている。 なお、regard 「見なす」は、このタイプではなく、前置詞 as が必要である(桐原フォレスト、大修館総合英語)。 regard A as B で、「AをBだと見なす」 たとえば、 regard her as our leader で、「彼女を私たちのリーダーだとみなす」である。 主語と述語動詞の構文 have 過去分詞 I have my teeth cleaned.(私は歯を磨いてもらっている) ここでは、 have=させる(依頼)である。主語(I)と述語動詞(cleaned)が対応している関係になっている。つまり、I cleaned というふうに組み合わせて文法的に正解であれば、このhave 過去分詞の構文は正解である。 there構文など There is ~ や There are ~ といった、いわゆるthere構文は、これをSV文型とみる解釈と、SVC文型とみる解釈とがある。 冒頭の there をS と解釈すれば SVC文型という解釈になる。 冒頭の there を M(修飾語)と解釈すれば、SV文型という解釈になる。 このため、there 構文は5文型による分類からは独立した特殊な構文であると考えられている。 ほか、it seems 「~のように見える」など形式主語 it を使った文章も、例外的なものだとして、文型の分類からは除外されることが多い。
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高校英語の文法/名詞 名詞の分類 基本 まず、中学でも習うように、たとえば人名 Tom とか、国名 America とか USA みたいなのを、固有名詞という。 これは良いとして、問題はそれ以外の名詞をどう分類するかで、学者によって、やや流儀が分かれている。 通常、固有名詞以外の名詞をまとめて言いたい場合、「普通名詞」と言う(ロイヤル英文法)。 だが、文法参考書によっては、「集合名詞」や「物質名詞」「抽象名詞」とは別に「普通名詞」という分類を設けている書籍もある(たとえば「ジーニアス総合英語」、桐原フォレスト)。 このように、書籍によって分類が微妙に異なり、一致しない。 裏を返せば、大学入試にこういう問題が出ることは無いので、安心していい(もし出題されたら、その大学の見識が疑われるし、予備校などから大学が猛批判されるだけである)。 このように分類の異なる普通名詞よりも、もっと重要な分類法として、「可算名詞」と「不可算名詞」の分類がある。 「可算名詞」とは、数えられる名詞のことで、たとえば dog → dogs のように単数形と複数形との区別のある名詞のことである。 一方、tea(茶) や milk (牛乳)などは、単数形と複数形の区別がなく、こういうのを「不可算名詞」という。 ただし、実際にはレストランなどでは、注文の単位として tea や milk を単数形扱いして、一杯の茶なら a tea でいい(ロイヤル英文法、ジーニアス総合英語), 2杯の茶なら two teas のように言う場合もある(ジーニアス総合英語)。 ほか、paper は、「紙」という意味では不可算名詞だが、「新聞」の意味ではpaper は加算名詞である(ロイヤル英文法)。 集合名詞 「集合名詞」とは、「家族」 family のように、人など構成要素のまとまりそのものを名詞としたもののことである。 1つの家族を言いたい場合は、たとえその家族が4人家族だろうが単数形で family である。 だが、「5世帯」とか言いたい場合は five families のように複数形になる。また、「私たちは5人家族です。」は We are a family of five. のように言う。 familyタイプの集合名詞を列記すると、 audience(聴衆), class(クラス) , club(クラブ) , committee(委員会) , crew(乗組員) , crowd(群集) , family(家族) , government(政府) , jury(陪審員団) , staff(職員) , team(チーム) , などがある。 ほか、policeタイプの集合名詞がある。policeは、つねに単数形の表記だが、意味的にはつねに複数的な意味である。 つまり、付随する be 動詞は現在形なら police are のようになるし、動詞は現在形なら、例えば police have のようになる(hasにしてはいけない)。 同様の police タイプの集合名詞を列挙すると、 cattle(畜牛), clergy(聖職者), people(人々), personnel(職員、社員), police(警察) である。 - furniture などのグループ 名詞の分類として、数えるときに a piece of ~ とか two pieces of ~ とかで数えなければいけない名詞があり、furniture (家具)などのグループがそれであり、不可算名詞である。名詞によっては、 piece 以外の名詞で数える場合もある。その情報が必要な場合、詳しくは辞書などを参考にせよ(市販の文法参考書では、深入りしていない)。 furniture タイプの集合名詞は、 baggage(手荷物),luggage, clothing(衣類)、furniture(家具)、machinery(機械類) 、poetry(詩)、 がある。 数える場合は、 a piece of furniture や two piece of furniture のように数える。 または two beds のように具体的に家具名で数える。 - その他 そのほか、注意すべき集合名詞として、fishがある。 同じ種類の魚なら、何匹でも fish である。だが、複数の種類の魚の事を言う場合、fishes と複数形になる。 hair は、頭髪全体を言う場合、aをつけずに hair といい、集合名詞になる。 なお a hair は「一本の髪の毛」の意味の普通名詞になる。 「果物」fruitは、日本語ではフルーツというが、しかし英語では普通は単数形で fruit で言う場合がほとんどである。 種類に注目する場合だけ、fruits と複数形で言う場合がある。 ほか、なお、よく中学英語などで 加算名詞としての a chicken は鳥としての一匹のニワトリだが、 「鶏肉」になると chicken になる。桐原ファクトいわく、こういうのは別に鶏肉にかぎった話ではなく、たとえばタマネギ an onion も、調理して刻んだりスープにしたりすれば不加算名詞 onion になるとのこと、である。 名詞の複数形 名詞の複数形の不規則変化 母音が変化するもの man →men woman → women (なおwomenの発音はウイミン) foot (足)→ feet goose (ガチョウ)→geese mouse (ネズミ)→ mice tooth (歯)→ teeth 語尾に-enがつくもの child (こども)→ children ox (雄牛)→ oxen 外来語に由来する名詞 ラテン語やギリシャ語に由来する名詞の複数形は次のようである。 a → ae us →i um, on → a ex,ix → ices 例: analysis (分析)→ analyses crisis (危機)→ crises datum (データ)→ data medium(メディア) → media phenomenon → phenomena (現象) focus → foci formula → formulae appendix → appendices data は本来は複数形だが、現代では、dataを単数形のように使う用例も多い。 mediaは本来は複数形である。 単複同形 deer シカ、sheep ヒツジ、carp コイ(魚のコイ)、など、いくつかの動物は、単数形と複数形が同じである。 ただし、複数形であることを特に強調したい場合には deers や sheeps のように言われたり書かれたりすることもある。 また、下記のように単数形のお末尾がsやそれに近いスペル単語のいくつかで、単複同形の例がある。 具体的には、Japanese や Chinese のように -ese で終わる国民も、同形である。 -ese ではないが、スイス人 Swiss も単数形と複数形が同形(単複同形)である。 そのほか、means(手段)、シリーズ series 、種 species 、のように単数形がもとからsで終わる幾つかの単語が、単複同形。 ほか、yen (円、日本円)も単複同形。 略語や数字の複数形 - 略語 略語の複数形には、s または 's をつける。 CD → CDs または CD's アポストロフィーを省略し、sだけつけるのが現代では普通。 DVD → DVDs または DVD's - 数字 2010s または 2010's で、「2010年代」の意味。 複合名詞の複数形 複合名詞の一部には、複数形では末尾ではなく第一の要素にsがつくものもある。これはその第一の要素がその単語の主要素だからである。 passer-by (通行人)→ passers-by いっぽう、複合名詞であっても、末尾の要素が主要素なら、複数形ではその末尾にsがつく。 college student (大学生)→ college students 対がセットのもの たとえば眼鏡(めがね)は、左右のレンズで合計2つで1セットだが、英語でメガネは glasses というふうに、常に複数形で言う。 同様に、靴下 socksや、靴 boots あるいは shoes 、手袋 gloves も、基本的には複数形で使う。 ただし、靴や靴下など2つに分けられるもののうち、左右のどちらか片方だけを言いたい場合は、sock や shoe などのように単数形で言う場合もある(ロイヤル英文法)。 ほか、ハサミ scissors なども、同様につねに複数形で使う。 これらの単語を数えたい場合、 a pair of socks や two pairs of socks のように、セット単位で数える。 そのほか、ズボンを意味する pants (米国英語でスボンの意味)、trousers (イギリス英語でズボン)も、同様に必ず複数形で用いる。 ジーンズ jeans も、必ず複数形。 比較的新しい単語では、 「コンタクトレンズ」 contact lens も必ず複数形だと、よく参考書で紹介される。 - 常に複数形のもの ほか、対のあるものではないが、日本語では行儀作法はマナーだが、英語では manners と常に複数形である。なお、単数形 manner は、「方法」という意味である(桐原フォレスト)。このように、単数形と複数形とで意味が異なる。 ほか、示した意味では単数形が存在せず一般に複数形扱いのものとしては、 clothes (衣服)、 riches (財産)、means(財産)、 などがある。 そのほか、「トランプ」cards, 病名の「はしか」 measles , など、表記だけは複数形だが、付随する動詞は一般に単数扱い(ロイヤル英文法、桐原フォレスト)。 単数形と複数形で意味が違う名詞 多くの参考書で紹介される典型的なものを示す。 air 空気、airs 気取った態度 arm 腕、arms 武器 custom 習慣、customs 税関 day 日、days 時代 force 力、forces 軍隊 glass ガラス、glasses 眼鏡 good 善、goods 商品 letter 文字・手紙、letters 文学 pain 苦痛、pains 骨折り 紹介しなかったが上記の他にも、色々な名詞がある。 なお、上述の武器 arms などいくつかの単語は、意味的には単数であっても、文章の形式では一般に複数形として扱い、動詞なども複数形に対応したものになる。 一方、税関 customs は、動詞が単数形に対応するものと複数形に対応するものとの両方がある(ロイヤル英文法)。 このように、対応する動詞のあつかいについては、あまり規則的ではないので、高校生はそこまで深入りする必要は無い。 せいぜい、単数形 custom と複数形 customs とで意味が違うという事が分かる程度でよい。 余談だが、「武器」 arms の語源は、本来は「腕」arm とは別だということが英語学・言語学などでは知られている(桐原ファクト)。 学問名 経済学 economics や 数学 mathematics や物理学 physics などは、語形は複数形のように見えるが、単数形扱いである。 たとえば Physics is difficult. 「物理学は難しい。」 のようになる。 statics は、「統計学」の意味では単数扱いをして、動詞なども単数形に対応したものになる。だが、「複数の統計」という意味で statics を使う用法の場合、複数形扱いをする(ロイヤル英文法)。 複数形を使う慣用表現 名詞の複数形を使う慣用表現や熟語は多数あるが、よく参考書で紹介されるものをあげると、 「電車を乗り換える」 change trains 「~と友達になる」make friends with ~ 「~と握手する」 shake hands with ~ である。 所有格のsのつけかた 所有格のsは、複数の意味ではないが、参考書では説明の都合上からか、複数形の単元にて所有格の解説もする。 さて、「AのB」という意味を書きたい場合、 アポストロフィ( ' )の意味が問題であり、 As' B か、それとも A's B と書くかは、名詞Aの種類によって分かれる。つ まず、 girls' school 「女子学校」のように、複数形がもともと末尾にsが付く場合(この場合はもともとgirls)、sのあとにアプストロフィが来る。 一方、複数形の語尾が -en の場合、 children's toy 「子供のおもちゃ」のように、 「 A's 」の並びになる。 なので、「女子大学」 women's college である。 なお「所有格」とは言うものの、所有以外の意味も表す。たとえば、対象者や目的語を所有格で表す場合もあり、たとえば上述の girls' school がそうである。 別に女子生徒が学校を所有しているわけではない。 そのほか、作家や作者なども所有格であり、たとえば Soseki's novel 「漱石の小説」である(ジーニアス)。 ほか、men's wear (紳士用衣服)など。 目的語のほかにも、意味上の主語を所有格で表す場合がある。 Tom's absence of school なら、「トムが学校を欠席したこと」である。 だから例えば mother's education と言った場合、母親による子への教育なのか、それとも母親への教育なのかは、文脈などから判断することになる(ロイヤル英文法)。 時間・金額・距離・重さなど、定量的な表現が可能なものを、形容詞的に名詞の前から修飾する場合、所有格を使う場合も多い。 「10分の休息」 ten minutes' break 「今日の新聞」 today's newspaper 「明日の天気」 tomorrow's weather 「3マイルの距離」 three miles' distance 「4キログラムの重さ」 four kilograms' weight ほか、国や地域などの名詞を形容詞的に使う場合、所有格になる。 「日本の気候」 Japan's climate 「日本の歴史」 Japan's history 「世界の人口」 the world's population なお、climateとweatherの違いとして、climate は年間を通じての気候、weather は一日単位の天気のこと。 固有名詞の末尾がsのとき、-sesや-susや-sasなら、下記のように最後にアポストロフィをつけるだけである。 Jesus' teaching 「イエスの教え」※ 青チャ、 Jesus' life 「イエスの人生」 ※インスパ いっぽう、そうでない場合は、たとえ末尾がsでも、 's を追加する。 Dickens's novel 「ディケンズの小説」 ※ 青チャ Henry James's novel 「ヘンリー・ジェームズの小説」 ※ ブレイク Keats's poem 「キーツの詩」 ※ インスパ 固有名詞 固有名詞は文中でも大文字で書き始める。 なお、Mt.Fuji などのような場合は、Mt. と Fuji のそれぞれを大文字にする。 固有名詞には、不定冠詞 a をつけない。なお、a をつけると、たとえば a Lincoln で「リンカーンのような人」という比喩的な意味になるか、あるいは「リンカーン家の出身の人」という出身の意味になる。 定冠詞 the もつけない場合も多いが、例外的につける固有名詞も少なくない。 the をつける固有名詞は、 たとえば the Alps(アルプス山脈)のように複数形の山脈の固有名詞、 船舶 the Titanic (タイタニック号)、 新聞・雑誌 the Washington Post (『ワシントンポスト』)、the Economist (『エコノミスト』)、the New York Times(『ニューy-クタイムズ』) ※ なお、新聞名や雑誌名の表記は通常、イタリック体(斜体)である。 of をともなう固有名詞 the sea of Japan(日本海)、the University of Washington(ワシントン大学)、the University of Chicago (シカゴ大学) 米国ホワイトハウス the White House, 太平洋 the Pacific Ocean などがある。 なお、大学だからといってtheをつけるとは限らず、たとえばオックスフォード大学 Oxford University には the をつけない。 国名としての「日本」 Japan にも、the をつけないのが普通。 物質名詞 gold (金)や iron(鉄) などの物質名は通常、物質名詞である。 「物質名詞」というものの、必ずしも物質だけでなく、ほかにも、物体として存在しているものの特定の形状をもたない液体や煙(smoke)なども物質名詞である。 なお、そもそも物体として存在しない「平和」などの抽象概念は、物質名詞ではなく「抽象名詞」である。 さて、ともかく物質名詞の例としては、まず water や milk や coffee や wine などの液体や飲料の物質、 sugar などの粉体、 などがある。 なお、sugar を数える場合、たとえば a spoonful of sugar (スプーン一杯の砂糖)のように数える。 液体はべつに飲料出なくてもかまわない。 たとえば「ガソリン」gasoline も物質名詞である。 a gallon of gasoline とか a liter of gasoline のように数える。 なお、飲料としての water や milk などを数える場合は、 容器に注目し、a glass of water や a cup of water や a bottle of milk のように容器単位で数える。 ここでいう a glass とは、ガラス製コップという意味である。 材質としてのガラス glass は物質名詞であり、数えられない。 日本人の感覚とは違うが英語では、下記のものも物質名詞である。 英語では、「紙」paper や「パン」 bread は物質名詞である。 紙は a peace of paper または a sheet of paper (1枚の紙)のように数える。 パンは、 a slice of bread (一切れのパン)または a loaf of bread (一斤(いっきん)のパン)のように数える。 バター butter もチーズ cheese も物質名詞である。 a pound of butter (1ポンドのバター)のように数える。 money (お金)も物質名詞である。 多額の金をあらわすときに much を使うのと関連づけて覚えれば、money が数えられないことを覚えやすいだろう。 英語では、紙幣 bill や硬貨 coin は数えられるが、お金そのものは数えられないとして考えている。 雨 rain も、分類上は、物質名詞としている参考書が多い。 なお、rains と言う場合、豪雨や長雨など、やや別の意味になる(ロイヤル英文法)。 そのほか、wood(木質)は材質としての木材・木造を表す場合は物質名詞である。だが、ほかにも「一本の木」のことを wood という用法があり、この用法の場合は普通名詞である。(このため、参考書によっては wood が物質名詞の項目では紹介されていない場合もある。) 同様に、「石」stone も、材質としての「石」「石造り」ならstoneは物質名詞である。しかし、手でもてる程度の一個の石を言う場合は普通名詞であり、複数個あれば stones のようにも言える。 ここで紹介する名詞以外にも、多くの物質名詞がある。多すぎて参考書でも紹介しきれておらず、参考書ごとに紹介する名詞が違う有様なので、けっして片っ端尾から丸暗記の必要は無い。 代表的な物質名詞と、その数え方や使い方をわかれば十分である。 抽象名詞 抽象名詞とは、たとえば happiness (幸福)やbeauty (美)などである。なお、fun(楽しみ)も抽象名詞。 information(情報)やadvice(忠告、助言)やnews(ニュース)なども抽象名詞である。 speech(言論)やwar(戦争)など行動が具体的に存在するものであっても、speechなどこれらの名詞は抽象名詞である。なお、「平和」 peace も抽象名詞である。 そのほか、kindness (親切)や homework (宿題)など、よく参考書では抽象名詞として紹介される。 抽象名詞の程度をあらわす場合、多い場合・大きい場合は much または a lot of を使う。抽象名詞の程度が少ない・小さい場合は、 a little of を使う。 many , few, a few は使えない。 news や advice は、抽象名詞ではあるが、数を数える方法があり、 a piece of news (1つのニュース)や a piece of advice (1つのアドバイス)のようにして数えられる。 ほか、「 of + 抽象名詞 」で、形容詞的な意味になる。 This map is use to me. 「この地図は私にとって役にたつ」 This map is of no use to me. 「この地図は私にとって役に立たない」 否定の場合は、「 of no 抽象名詞 」になる。 This book is of great use to me. 「この地図は私にとって大変に役に立つ」 ※インスパイア、ジーニアスに似た例文 of great use で「大変役に立つ」の意味(インスパイア、ジーニアス)。 This information is of importance to me. 「この情報は私にとって重要だ」 This information is of value to me. 「この情報は私にとって価値がある」 This information is of no importance to me. 「この情報は私にとって重要でない」 This information is of no value to me. 「この情報は私にとって価値がない」 関連して、前置詞 of にはofには「性質」の意味もあり、 a man of ability 「有能な人」(エバグリ、インスパイア) a man of courage 「勇敢な人」(ファクト、インスパイア) のような用法もある。 He is a man if ability. 「彼は有能な人だ」(エバグリ) with care で 副詞 carefully 「注意深く」と同じ意味。 一般に 「with +抽象名詞」で副詞的は働きをする(ジーニ、インスパ)。 with ease なら easily と同じで「簡単に」の意味。 Tom did it with ease. 「トムはそれをやすやすとやった」(青チャに似た例文) You can read this book with ease. 「この本は簡単に読める」(インスパに同じ例文) Tom did it with care. 「トムはそれを注意深く行った」(青チャに似た例文) 「Tom did it with ease. 」を Tom did it easily. と言っても意味は同じ。同様に Tom did it with care. = Tom did it carefully. である。 その他 英語の名詞を使う場合、単数形を使うか複数形を使うかは、ネイティブではない私たち日本人には難しい問題である。だが桐原ファクトいわく、迷ったら複数形を使えば実用上は済む場合が多い、とのことである。 a novelist and poet 「小説家であり詩人でもある1人の人」 a novelist and a poet 「1人の小説家と1人の詩人」(合計2人) a knife and fork 「ナイフとフォーク」 ナイフとフォークは、英米での食事では、通常は1セットで使う。 同様に a cup and saucer 「皿つきカップ」 などの表現もある。 名詞と性別 名詞の性別については中学校で習ったとおり。 高校でとくに新しく覚えることはない。そのため、参考書では名詞の性別について、紹介してない参考書も多い。 青チャートとインスパイアが、名詞の性別(gender ジャンダー)について紹介している。※ 青チャートが「 gender 」という単語を紹介。 参考書によって、性別の分類が少し違う。 青チャートでは、男性名詞、女性名詞、中性名詞、通性名詞、の4分類。 インスイパイアでは、男性名詞、女性名詞、中性名詞、の3分類。 まず、青チャートとインスパイアの共通点として、 boy, brother ,man ,father は男性名詞であり、代名詞は he で受ける。 girl や sister や lady や woman や mother, は女性名詞であり、代名詞は she で受ける。 man が本当に男性名詞かは、老人を old man といったりと疑問もあるかもしれないが、高校英語の参考書的にはman は男性名詞であることになっている。 上記のboy などの例のように、現実世界では人間である何かを現す単語では、その人間の自然界での性別(sex)と、単語の性別(gender)とは一致する。 英語では、現実世界の性別のないものは、とくに男性名詞でもなく女性名詞でもないのが一般的であり、よって「中性」名詞または「通性」名詞などと呼ばれる分類をされる(青チャート)。ただし、文学的表現などで、若干の例外があるが、後述する。 baby や person のように、単語だけでは性別が不明な場合は、とりあえず代名詞は it で受ける(青チャ、インスパ)。ただし文脈などから性別が判定できる場合、he や she に置き換える(ロイヤル英文法)。 動物・ペットなどは普通は it で受けるが、実際の性別に合わせて he または she で受けることも可能である(青チャート、インスパ)。 star や flower などの代名詞は単数はit で、複数は they で受ける。 - 「通性」と「中性」 現代の日本語では「中性」という表現を、あたかも女性的な見かけの男性、または男性的な見かけの女性などに対して使うことがある。 しかし英文法でいう「中性」は、それとは意味が違う。英文法でいう「中性」とは、無生物の star(星) や flower(花)のように、性別がない名詞のことである。 さて、青チャートおよびロイヤル英文法では、baby や person のように、ふつうは人間の男性か女性かのどちらかではあるはずだが、単語だけでは性別を決定できない名詞のことを「通性」としている。 一方、star や flower などは「中性」名詞であるとしていおり、it で受ける。 インスパイアでは「通性」の語を紹介せず。、star や flower などは「中性」名詞であるとしていおり、it で受けるとしている。 - 文学的な性別 「国」は本来、itで受ける。だが、文学または何らかの事情により、「国」をshe で受けることもある。 同様、船や愛車(青チャート)などの乗り物を she で受けることもある(青、インスパ)。 ほか、moon, sea を she で受けることもある(インスパ)。 sun, river を he で受けることもある(インスパ)。 - 男女でちがう名詞 actor 「男優」 actress 「女優」 god 「(男の)神」 goddess 「女神」 prince 「王子」 princess 「王女」 のように、いくつかの名詞では ess が語尾につくと女性名詞になる。また、上記のように語尾にessのついてない形が、それらの名詞の男性名詞である。 ただし、近年では actor を男優に限定するのは性差別だとされ、女優もふくめて男優も女優も「俳優」は actor とする傾向がある(青チャート)。 同様に、かつてレストランなどのウェイターについて、 waiter 男のウェイター waitress ウェイトレス(女性) だったが、近年では男女とも waiter で表すようになってきている(青チャート)。 waitperson という場合もあり、男女とも waitperson で受ける(インスパイア)。 なお、旅客航空機のスチュワーデス stewardess は女性名詞である。これを男性名詞にすると steward スチュワードになる(青チャート)。 しかし近年は、flight attendant または cabin attendant 「客室乗務員」という別の単語に置き換わっており、男女ともにそれを使う。 man という単語は性差別的であるとされ、英米では別の単語に言い換えている傾向が大きい。 (消防士) fireman → firefighter (議長) chairman → chairperson (販売員) salesman → salesperson または店舗販売員なら shop assistant (青チャ)など (警察官) policeman → police officer など。 - 古語 英語の古語では、自然の性別をもたない抽象名詞や物質名詞などにも、男性または女性の性別(「文法上の性」)が割り当てられていた過去があったが、現代では大部分が消失しているので(インスパイア)、高校生は覚える必要は無い。高校の範囲を大きく超えており、大学の英語学研究の範囲。 なお、インスパイアにある「文法上の性」とは、上記のような英語の古語などにあった抽象名詞や物質名詞などの性別のこと。
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高校英語の文法/完了形 完了形 現在完了の省略形 現在完了の省略形として、 I have → I've you have → you've のように省略することがある。コレは別にいいとして、 三人称単数の she,he,it などにつく has も同様に he has → he's she has → she's it has → she's のように省略する。be動詞のis の省略形ではないので、注意。 過去完了 大過去 現在完了の基本的な使い方は、中学でも習うように、現在における「完了」「継続」「経験」である。 いっぽう、過去完了の使い方は、現在における「完了」「継続」「経験」のほか、過去から見た時点でのさらなる過去の事を使う用法がある。 典型的なのは、 「~したとき、・・・を忘れていたことに気づいた。」 I realized that I had forgotten(または left など) ・・・ という表現で、過去完了を使う。なお、こういう、過去からみた過去を表すために用いる過去完了形の用法のことを「大過去」という。 ほか、典型的な表現として、 I lost the watch that My father bought for me. 「父が買ってくれた腕時計を、なくしてしまった。」 のような例文もよくある。 ただし、完了形を使わずとも、起きた順番どおりに My father bought the watch for me, but I lost it. のように過去形だけで言う方法もある。高校の定期テストなどで、この過去形を過去完了形に置き換える表現など、いかにも典型的に出題されそうなので、覚えとこう。 実現しなかった過去 実現しなかったことを表すのに、過去完了を使う用法がある。 参考書によくある典型的な例文は、 「君に来て欲しかったのに。」 I had expected yo to come. である。 expect の代わりに hope でもよく、たとえば 「君に来て欲しかったのに。」 I had hoped yo to come. という例文も参考書によくある。 ほか、 I had intend to go ・・・ 「・・・に行くつもりだったのですが(しかし私は行かなかった)。」 という例文もよくある。 expect(期待する), hope(望む), want(欲する) や intend(つもりである), think (思う) などの動詞で、このような用法がある。 未来完了形 未来完了形とは、未来のある時点での、予定や予測における、その未来時点での完了や結果や継続のことである。 たとえば、「来年で私たちは結婚30周年になる」(継続の未来完了)(※ 桐原フォレストに似た例文)とか「もう1回その映画を見たら、合計で3回その映画を見たことになる」(経験の未来完了)(※ジーニアスだと映画、桐原だとミュージカルで、ともに3回)とか、そういう表現が未来完了である。 映画など合計3回の英文は I will have seen (映画またはミュージカル) three times if I see it again. となる。if の代わりに when でもいい(桐原がif, ジーニアスが when)。
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高校英語の文法/形容詞 限定用法と叙述用法 This is a clean room. 「これはきれいな部屋だ」 のように名詞を修飾する用法を限定用法という。 限定用法の形容詞の多くはふつうは名詞の前から修飾するが、名詞の後ろから修飾する場合でも限定用法に含める(青チャート)。 This room is clean. 「この部屋はきれいだ」 のように、一語でbe動詞を受けるのを叙述用法という。 SVC文型のCや、SVOC文型のCになる形容詞が叙述用法である(青チャート、ブレイクスル-)。 形容詞によっては、限定用法しかないもの、叙述用法しかないもの、がある。 - 限定用法しかないもの。 an elder sister 「姉」 the former mayor 「前市長」※ 青チャート、ジーニアス和英(辞書)、 the latter half 「後半部」※ 青チャート なお、ジーニアス和英いわく the first half 「前半部」 なお、elder, former,latter, は形の上では比較級(語尾が-er)である。しかし、ある形容表現の形が比較級だからといって必ずしも限定用法しかないとは限らないので、結局は上述の単語 elder, former,latter, が限定用法しかないことを暗記するしかない。 a wooden house 「木造家屋」 なお、-en で終わる形容詞は限定用法が多い(インスパ)。 a drunken man 「酔っ払い」 ※叙述用法の「酒に酔った」はdrunk という別単語(インスパ) golden 「貴重な」※エバグリには「貴重な」しか紹介されてないが、辞書ジーニアスを見れば「金の」「金色の」の意味もある。 an only son 「1人息子」 the daily life 「日常生活」 a mere child 「ほんの子供」 very 「まさにその」※エバグリ main「主な」「主要な」※ジーニアス weekly 「毎週の」や yearly 「毎年の」など total 「全部の」 rural 「田舎の」※ジーニアス など。 - 叙述用法だけの形容詞 afraid「怖がって」 叙述用法だけの形容詞には a- 形のものが多い。 alike 「同じ」「似ている」 alive 「生きて」 alone 「孤独で」「1人の」 ashamed 「恥じて」 asleep 「眠って」 unable 「できない」 glad 「喜んで」※ジーニアス、エバグリ well 「健康な」※ジーニアス、エバグリ content 「満足して」※エバグリ。 名詞 content とは別物 インスパがworthを紹介しているが、この単語はやや特殊である。 aliveやasleepのa-はもともと古い英語にあった前置詞であり、inやonにあたる(ブレイクスルー)。よって、aliveはin life(またはon life)に意味が近いし、同様に asleep は in sleep である。 そう考えれば、aliveなどが名詞を前置的に修飾できないのは当然である。in life や in sleep が名詞を修飾できないのと同じである。 叙述用法であっても、a child asleep (眠っている子供)のように後置で修飾することは可能(ロイヤル)。これも、a child in sleep のようなものだと考えれば当然であろう。 限定用法と叙述用法で意味の異なるもの certain 限定では「ある」、叙述では「確かである」 In a certain sense, 「ある意味では」※ジーニアス a certain woman 「ある女性」 It is certain that ~ 「~は確かだ」※青チャート late 限定「最近の」「後半の」、叙述「遅れる」 the late news 「最新ニュース」 the late Mr.Smith 「故スミス氏」※青チャート He was born in the 1970s. 「彼は1970年代後半に生まれた」 He was late. 「彼は遅れた」 He was late for school. 「彼は学校に遅刻した」※青チャート present 限定「現在の」、叙述「出席している」 the present king 「現在の王」 He is present. 「彼は出席している」 なお、present は前置か後置かで意味が変わる(ジーニアス)。 the present member 「現在のメンバー」 the members present 「出席しているメンバー」 present の後置は the member (who were) present という関係詞を省略した叙述用法と考えることもできる(青チャ、インスパ、ブレイク)。 ill 限定「不機嫌」、叙述「病気」 He is ill. 「彼は病気だ」 - 前置と後置 the present member 「現在のメンバー」 the members present 「出席しているメンバー」 present の後置は the member (who were) present という関係詞を省略した叙述用法と考えることもできる(青チャ、インスパ、ブレイク)。 用法が何かはともかく、 responsible も a responsible person 「信頼できる人」 a person responsible 「責任者」 と意味が変わる(インスパ、ジーニアス、エバグリ)。 a concerned look 「心配そうな目」 the people concerned 「関係者」 と意味が変わる(インスパ、ジーニアス、エバグリ)。 このほか、インスパがinvolved の前置と後置を紹介。 形容詞と主語 たとえば、「あなたは~する必要があります」を英語でいうとき、 It is necessary for you to ~ . となる。 たとえ文中に「あなた」とあっても、you を主語にはできないし、人を主語にはできない。 このように、形容詞によっては主語が決まっている。 このような、人を主語にできない形容詞としては、 essential 「不可欠の」 necessary 「必要な」 possible 「可能な」 impossible 「不可能な」 などがある。 そのほか convenient 「都合がいい」※インスパ、ジーニ dangerous 「危険な」※インスパ useless 「無駄な」※ジーニ などがある。 dangerous について、 It is dangerous for you to ~ は「~するのは危ない」の意味。 You are dangerous to ~ だと「あなたは危険人物だ」の意味になる(インスパ)。 国名 一応、参考用に一覧表をあげておく。だが、入試には、直接は問われないだろう。 ジーニアスいわく、ブリテンの個人は a Briton 。しかしインスパイアいわく、 a British person とのこと。参考書によって違う。 Frenchman でも「フランス国民」だが(※インスパ)、しかし英語的なジェンダーポリコレにより a French person という場合もある(ジーニアス)。 傾向として、 多くの国で、言語名は形容詞と同じ。 「the +形容詞」で、「国民全体」を表す国が多い。いくつか例外的な事例もあるが(the Americans や the Germans や the Italian など語尾が-an で終わるのは)その場合も最後にsがついただけ。 地理的な知識として、カナダの公用語は英語・フランス語。スイスの公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語など。 上記の表の「国名」は基本的に、公式名とは異なる。 たとえばイギリスの公式名は The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland (グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国)である(青チャート)。 長すぎるので、よくBritain や the U.K. などと略されるが、これは別に公式名ではない。 Britain はイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドからなる。イングランドは地方の一つにすぎない。 このため、政治的な問題があるので、政治的な場では(England ではなく) Britain または the U.K. を用いたほうが良い(インスパイア)。 なお、「 U.K. 」など略語につく記号「.」は、文末に使われるピリオドの記号と同じものである(ブレイクスルー巻末)。 「スペインの一国民」はやや特殊で a Spaniard である。 数 加減乗除 5 + 4 = 9 Five plus four equal(s) nine. または Five and four are (または is または makes)nine. 8 - 3 = 5 Eight minus three equals five. または Three from eight is(またはare またはleves) five. 3×8=24 Three times eight is (makes) twenty-four. または Three (multiplied) by eight equals twenty four. 20÷4=5 Twenty divided by four equals(またはis) five. Four into twenty goes five. - 分数 分数は、分子を先に基数で読み、分母を序数で読む。 ただし 1/2 は a half または one half, 1/4 は a quarter または one quarter という専用の呼び方がある。 1/4 と 3/4 は通例 quarter を用いて表すが、fourths を用いても間違いではない(青チャート)。 - a half または one half - a third または one third - two thirds - three quarters または three fourths (※青チャート) - ttwo and three five (※ 帯分数は青チャート、エバグリ、ジーニアスなど) - 小数 小数点は point である。小数点以下は数字を1字ずつ読む。 0 は zero だが、「オウ」と読む場合もある。 23.504 twenty-three point five zero four 0.123 zero point one two three - 電話番号 一字ずつ読めばいい。 0794-1192 zero seven nine four, one one nine two 同じ数字が並んでいる場合、double を使う場合もあるが、イギリス英語(エバーグリーン)。つまり、 0794-1192 zero seven nine four, double one nine two ほか、0をzeroのかわりに「オウ」と読む場合もある。 - 年号 1995年 nineteen ninety-five 2007年 two thousands (and) seven なお、「1980年代」と言う場合は 1980s のようにsをつける(ジーニアス)。 「1960年代に」と言う場合、 in the ninety-sixties になる(青チャート)。 人の年齢について 「20歳代」とか言う場合は in one's twenty である。人が「30歳代」なら in one's thirties である。 金額 $5.20 five dollars (and) twenty (cents) £2.30 two pounds, thirty (pence) \500 hive hundred yen 温度 35℃ thirty-five degrees centigrade (または Celsius ) その他の慣用表現 ten to one 「十中八九」※ジーニアス、インスパ hundreds of 「何百もの」 thousands of 「何千もの」
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高校英語の文法/文の種類 文の種類 基礎知識 英語における「文」の単位は、2つの流儀がある。ひとつは、文頭から、文末のピリオド(.)またはクエスチョン(?)までとする流儀。 だか、この分類法では I have a pen ,and she has a pencil. のような「文」も、I から pencil までが「文」になってしまう。 瑣末(さまつ)な この問題を回避するため、本ページでは、とりあえず、 I have a pen. のような単純な構造の文だけを考えるとする。 こういう前提のもとなら、 中学で習ったのと同様に、英語の文の種類には、「平叙文」「疑問文」「命令文」「感嘆文」の4つだけが基本的なものである。 さらに、それぞれの種類の文に、肯定文と否定文とがあるので、分類上は 4×2で合計8種類になる。 だが実際には、感嘆文の否定文はめったに無い。なので、実用的には、7種類である。 「否定文」とは、助動詞などにnotがつく文のことであるとするのが基礎的な分類法である。 このため、 I have no idea. のように文法の形式上は、助動詞(上記の文で助動詞を使うとしたらdo)にnot がついてないので肯定文としてあつかう。しかし意味的には否定の内容のものもある。しかし、高校参考書では、こういう問題には触れない。入試にも上記の no idea 文などの肯定・否定の分類を問う出題は無いだろうから、深入りしない。 中学でも don't や can't などを習ったように、短縮形の否定が使われている文の場合も否定文として分類する。 また、cannot のように助動詞とくっついて一つの単語になっている語句が使われている場合も否定文である。 高校英語・大学受験英語として必要な否定文の分類についての知識は、これまでである。基本的には、否定文の分類については高校でも、中学で習った英文法と大差ない。大学生向けの文法書には他にもいくつか話題があるが、高校生には不要な瑣末またはイギリス固有の話題なので、これ以上は深入りしない。 参考知識 重文など さて、 I have a pen ,and she has a pencil. のような構造の文章を「重文」と言う。 一方、 I have a pen . のような、重文の構成単位となる、それ以上分割すると文章にならない最小単位のことを「単文」という。 この「重文」や「単文」という用語を紹介している参考書もある。 だが、参考書によっては、「単文」「重文」などを紹介していない参考書もある。このように参考書によっては紹介されない分野もある。 このような文章の組み合わせの有無の分類では「単文」「重文」「複文」「混文」の4種類がある。 間接疑問文 「彼の主張が本当かどうか、私には分からない」とか 「何が起きたかを話してください」Tell me what happened. (ジーニアス、ブレイクスルー) のように、文中に疑問的な言い回しが含まれているが、しかし文全体としては平叙文のような英文があり、こういう構造の文のことを間接疑問文という。 間接疑問文が疑問文なのか平叙文なのか分類は入試では問われないので、安心していい。文法参考書でも、間接疑問文については、紹介を書籍の後半部に後回しに後回しにしている参考書もある。 このため、高校英語では、疑問文とは、文末が「?」で終わる文章のことだと思っておけば、特に問題が無い。 Would you tell me what happened? 「何が起きたかを話してくれませんか.」 のように間接疑問文をさらに文全体でも疑問文にすることもできるが、本ページでは深入りしない。 修辞疑問 - 「反語」→「修辞疑問」 このほか、かつて「反語」という文法単元があって、「彼は医者ではないですよね?(→「彼は医者ではない」と言いたい)」のような否定の形式で聞く疑問文を紹介していた。 2020年代の現代では、より否定の形式にかぎらず、より広く、返事を求めるのではなく意図を伝えるための疑問文として「修辞疑問」として分類しなおされている。 たとえば、 「知らない人がいるだろうか?」 (=誰も知らない)Who doesn't know? が、多くの参考書にある典型的な例文である。(もっともこれは否定形式なので、1990年代の従来なら「反語」といわれていた表現だが。) 肯定の形式で、同じ意図を 「誰が知っているのか?」 (=誰も知らない)Who knows? ともいえる。 このように肯定であっても構わないので、「反語」という単元で分類するよりも、修辞疑問として分類するほうが合理的である。 なお当然だが、疑問文形式の反語表現は、修辞疑問の一部であるとして分類される。 修辞疑問はけっして返事をたずねているわけではない表現であるが、しかし分類上、修辞疑問は疑問文であるとして分類する。英文法学では、このような分類になっているので、とりあえず英文の文末がクエスチョン「?」でありさえずれば、とりあえずその文は形式的には疑問文であると分類して構わない。 付加疑問 頼みごとをする際、命令文の言い回しのあとに、will you? や can you? などをつけて、疑問文の形式にして、確認などのために、肯定または否定の平叙文のうしろに do you? または don't you? や are you? や would you? などをつける言い回しもある。 こういうのを付加疑問という。 もし末尾に don't you? や aren't you? をつける場合、直訳するとあたかも日本語の「反語」表現の訳のようになるが、しかし、付加疑問では反対の意味をほのめかすような意味合いは、あまり無い(参考書では特に言及されてない)。英文法の疑問文で反対の意味をほのめかす意味合いがある聞き方は、(付加疑問ではなく)修辞疑問である。 付加疑問は、確認や同意を求めるのに使うのが一般的である。日本語の反語にひきづられないように注意のこと。 確認事項としての付加疑問では、疑わしい内容のほうを疑問形式にする。このため、肯定文の平叙文の後ろにつける不可疑問は否定疑問になる。否定文の平叙文の後ろにつけつのは、肯定形式の付加疑問になる。 付加疑問を発音する際の調子(イントネ-ション)は、自信がある場合は文末の発音を下降調 () にする。自信が無く、確認を求めたい場合には、文末の発音を上昇調 () にする。 文末に do you や don't you の代わりに「 ,right?」 を使う場合もある(桐原、ジーニアス)。ほか、文末に代わりに OK を使う場合もある(桐原)。付加疑問としての right は念を押す目的などで使われる(桐原)。 なお、付加疑問に対する返事は、質問の動詞を基準に、その動詞の肯定形が答えならYes で答え、動詞の否定形が答えなら No で答える(桐原)。 つまり、もし質問の動詞が be 動詞で主語が it なら、質問の末尾が「 is it ?」でも「isn't it?」でも、答えがもし「it isn't.」の内容なら「No, it isn't 」になるし、逆に答えが「 it is.」の内容なら「 Yes, it is」と答えることになる。動詞を基準に考えれば良い。 感嘆文 How を使った言い回しと、whatを使った言い回しの2種類があり、ともに文末は「!」で終わる。形容詞だけを強調するなら How, 名詞と形容詞を強調するなら what である。 How + 形容詞(または副詞)+S+V ! What +形容詞 + 名詞 +S+V ! の語順である。 How を使うほうの言い回しは現代ではやや古風な言い回しとされているが、高校英語や大学入試ではそこまで要求されないし、高校生の参考書にもあまり書かれてない。 What で感嘆する場合、形容詞がなくても文脈から判断できる言い回しなら、形容詞を省略して What + 名詞 +S+V ! のように言っても良い。 さらに、SVも省略する場合もあり、 What a surprise! 「びっくりしたなあ。」 という慣用表現もある(ロイヤル英文法、桐原フォレスト)。 このほか、助動詞 may を使って「~しますように」という祈願をあらわすき祈願文も、文末が「!」なら、学者や書籍によっては感嘆文に含める場合もある。参考書によっては「文の種類」の単元ではなく助動詞の単元で紹介されることも多いので、文の種類を学ぶ現時点では祈願文に深入りする必要は無い。 さらに他に、文章の語順が疑問文だか文末が「!」で語調も感嘆のようなリズムとアクセントの言い回しをする表現方法も英語にあるが、高校英語を超えるのでこれ以上は紹介しない。
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高校英語の文法/時制 時制の一致と話法 時制の一致 時制の一致の原則 ジーニアス、ロイヤル英文法にある典型的な例文だが、 「私は、彼が忙しいと思う」 I think that he is busy. 「私は、彼が忙しいと思った」 I thought that he was busy. これを分析しよう。主節が「思った」と過去形になると、英語では、従属節の意味が「忙しい」と現在形であっても、主節にあわせて he was busy のように動詞が過去形になります。このような現象を「時制の一致」(じせいのいっち)と言います。 時制の一致が起きるのは、主節が過去形または過去完了形の場合だけである。なお、過去完了形については高校で習う。 つまり、現在形・現在進行形・現在完了形および未来・未来完了形では、時制の一致は起きない。 ほか、従属節がもとから過去完了の場合、主節が現在形から過去形に変わっても、(※wiki追記 : もはやこれ以上は従属節の時制を古くはできないので、)従属節の時制の変化はせず、従属節の時制は過去完了のままである(インスパイア)。 なお、過去から見た過去を言い表す場合は、従属節は過去形のままかあるいは過去完了(大過去)になる。参考書ではいちいち分析しないが、「時制の一致」の観点からも、「大過去」を考えることができる。 従属節が未来系であっても、主節が過去形でありさえすれば、時制の一致は起きる。たとえば例文、 「彼が~するだろうと思う」 I think he will ~. 「彼が遅れるだろうと思った。」 I thought he would ~. である。 時制の一致の例外 従属節で「水は100度で沸騰する」とか「光は音よりも速く伝わる」などの物理法則を習ったとか教わった、とかなどと場合は、習った時点が過去であっても、従属節の時制は現在形である。 これに準じてか、歴史的事実を習ったり知ったりした場合などは、その事実を習ったりした時点が過去であっても、従属節をけっして過去完了形にせず(大過去にせず)、従属節は単なる過去形にする。 また、「彼は毎日散歩をする」とか「彼は毎日ジョギングをする」など、現在も通用している習慣を表す場合、従属節を過去にせず現在形にするのが普通。 ただし、習慣については、必ずしも従属節を必ず現在形にしないといけないわけではなく、惰性的に主節が過去形なら従属節もひきづられて過去形にすることも実際にはよくあるのが現実である(ロイヤル英文法) ただし、習慣の内容の従属節を過去形にした場合、果たして現在もその習慣が続いているか分からない、という解釈をされるおそれがある。なので高校生向けの英文法参考書などでは、習慣については時制の一致の例外として現在形にするという教育が好まれている。 - 仮定法 仮定法の場合も、時制の一致の例外である。 なお、実現しなかった願望を表す意味での仮定法は基本、仮定法過去または仮定法過去完了のどちらか片方である。 これとは別に「仮定法現在」というのがあるが、願望の表現ではなく、かつては条件文などで仮定法現在が使われていた歴史もあったが、しかし古風な表現方法であり、なので21世紀ではあまり使われない。古風な文体を意図的に書く場合などで、仮定法現在を用いる場合もある。 未来 未来の出来事であっても、交通機関の時刻表にもとづく出来事や、カレンダーにもとづく行事などは、確定的な未来であるとして、動詞は現在形で表す。 The flight leaves at 10:30. 「その飛行機は10時30分に出発する。」 なお、「飛行機」はであってもいい(青チャート)。 The plane leaves at 10:30. 「その飛行機は10時30分に出発する。」 ほか、現在進行形で、比較的近い、自身などの予定を表せる。 I'm leaving for Sapporo tomorrow. 「私は明日、札幌に行く予定です。」 I'm visiting Sapporo tomorrow. 「私は明日、札幌に行く予定です。」 上述の現在進行形による予定の表現には、現在その準備や手配を具体的に整えているという含みもある。 be about to ~ 「まさに~が始まろうとしている」 be about to は、ごく近い未来に起きようとしている何か、しようとしている事に対して使うので、なので、tomorrow とか next week とかの未来を表す副詞句は伴わないのが普通(青チャート、ブレイク、インスパ)。now とともに使うことは可能(ジーニアス)。 過去形 was about to や were about to で使うことも可能であり、その場合は「~しようとしていたところだった」の意味になる場合もある(青チャート、ロイヤル)。 そのほか、実現しようとしてたが実現しなかったことに使う用法もある(インスパ)。 これとほとんど同じ意味で、 be on the point of ~ing というのもある(ジーニアス、エバーグリーン)。 中学でも習ったように、 be going to ~(不定詞) 「~するつもりだ」で、あらかじめ考えていた未来の予定・景気悪を表すのが(インスパイア、青チャート)、通常である。 だが例外的に、「行く予定である」を be going to go というのも、口調が悪いと考える人もいて、この場合は to go が省略されることもある(ロイヤル、インスパイア)。 be going on a picnic 「ピクニックに行くつもりだ」※ インスパイア ほか、「来るつもり」 going to come の代わりに「coming」と言う場合もある(※ インスパイア)。 なお、will は、その場で考えた意志にもとづく未来の予想に使う。 たとえば、家族に「冷蔵庫に牛乳がないよ」とか「時計が壊れた」とか言われて、その返事として下記、 I'll get a new one today. 「それ今日、買ってくるわ。」 ※ 牛乳がないことに、家族に言われて初めて気づいた I'm going to get a new one. 「それなら、今日買うつもりだよ。」 ※ 牛乳がなくなることを事前に予想していたり既に知っていたりして、購入計画をすでに立ててあった というニュアンスの違いがある(青チャート、インスパイア)。 そのほか、「be to 動詞の原形」つまり 「be to不定詞」で、公的な予定を表す。 現在 一般的事実 The earth goes around the sun. 「地球は太陽のまわりを回っている。」 のように、時間の経過により変化しない真理・一般的事実は、現在形であらわす(ジーニアス、エバーグリーン)。 なお、インスパイアでは、 The moon goes around the earth. 「月は地球のまわりを回っている。」 である。 ほか、 Water consists of hydrogen and oxygen. 「水は水素と酸素から成る。」※エバーグリーン、ロイヤル ことわざ ほか、ことわざも現在形が普通。 All roads lead to Rome. 「すべての道はローマに通ず」※ ジーニアス Practice makes perfect. 「習うより慣れろ」 ※インスパイア The earky bird catches the worm. 「早起きの鳥は虫を捕らえる。」(「早起きは三文の得」に相当)※青チャート なお、「ローマは一日にしてならず」は過去形。 Rome was not built in a day. 「ローマは一日にしてならず」※ インスパイア スポーツ実況など John pass the ball to Mike. He kicks to the goal. 「ジョンがボールをマイクにパス。マイク、ゴールへシュート。」 ※ 青チャート、インスパイア。 なお、実況放送では、進行の順番どおりに説明していくのが普通(インスパイア)。 歴史的現在 「歴史的現在」と言い、小説などで、過去の出来事でも、まるで目の前で起きているかのように、現在形で表す表現技法がある。(※ 青チャート、インスパイア。) そのほか、古人の言葉を引用するとき、「~は・・・と言っている」と現在時制 says を用いることがある。過去時制でも良い(インスパイア)。 未来の代用 時・条件を表す副詞節において、 条件 if(もし~ならば), unless(もし~でなければ), 時 when(~のとき), after(~してから), before(~の前に), until /till (~までに), as soon as(~するとすぐに), などで始まる副詞節の中では、未来の内容であっても、動詞の現在形を使う(インスパイア、青チャート)。 進行形 - 基本は動作の継続 進行形の用法は基本的には、継続中の動作を表すための用法です。 - 移りかけや取り掛かり ですが、ほかにも、 die (死ぬ)の進行形 dying (死にかけている)のように、状態が移りかけている最中であるという用法もあります(青チャート)。 begin, stop end, open, die, sink などの進行形は、それぞれ「~しかけている」「~しようとしている」の意味です(青チャート)。 - 反復動作 1 また、これとは別に、 cough (咳をする)など瞬時で終わる動作については、その動作が一回限りではなく何度か繰り返して行われている場合には coughing のように進行形にすることもよくあります(桐原ファクトブック)。nod(うなづく)が進行形 nodding の場合にも、繰り返しうなづいている、という意味です(桐原ファクトブック)。 - 反復動作への不満 日本語では、たとえば、しつこい何かにうんざりするとき、「いつも~ばかりしている」のように批判することがあります。英語でも同様のよう王があります。 英語の repeatedly (繰り返して)や always(いつも)やconstantly(たえず)や all the time(終始) には、 話し手や書き手が不満をもっているときにそれらの副詞が使われる、という用法もあります(インスパイア、桐原ファクト、青チャート)。 ただし、alwaysがある文だからといって非難とは限らず、文脈によっては特に非難はなかったり(ジーニアス)、場合によっては賞賛の場合もあるので(青チャート)、早合点しないこと。 - 一時性を強調する場合 be living は、一時的に住んでいる場合にだけ使う(エバーグリーン、インスパイア、ジーニアス)。 He is living in Tokyo. 「彼は東京に一時的に住んでいる。」 このように、一時性を強調するために進行形が使われる場合もある。 - ほか なお、完了形で He has lived in Tokyo for ten years. 「彼は東京に10年間住んでいる」のように言うのは構わないし、完了進行形でも He has been living in Tokyo for ten years. とも言える(インスパイア)。 下記の話は、完了形でない通常の現在形での進行形(つまり単なる現在進行形)のはなしです。 他の場合としては、推移中の現象を表すのに進行形が使われる場合もある。 たとえば be resembling は、進行中の「似てきている」という場合にだけ使う。 He is resembling his father more and more. 「彼はどんどん父親に似てきている。」 なお、 He resembles his mother.「彼は母に似ている。」 である。この母に似ているの文章を進行形にしたらダメ(青チャート)。なぜなら resemble の場合に進行形は、(時間の経過とともに)「どんどん似てきている」という推移を表す場合にしか使えないからである。 resemble は「似ている」という状態を表すので、だから resemble は「状態動詞」というものに分類されるのが一般的。 be動詞 resemble などが状態動詞である。 だが、青チャートは「状態動詞」の用語を採用していない。べつにこの用語がなくても説明できるので、読者はまあ頭の片隅にしまっておけばいい。 「状態動詞」の概念を採用している参考書では普通、動詞をおおまかに「動作動詞」か「状態動詞」かに二分する。 青チャートは「動作動詞」も「状態動詞」も採用していないし、これらの概念を知らなくても入試には対応できる。ジーニアスとインスパイアが「状態動詞」などを採用しているので、調べたい場合はこれらの参考書を調べればいい。 どの単語が状態動詞なのかも、参考書によって微妙に違う。 とりあえず、青チャートいわく、「物事の構成や関係を表す動詞」(=ほぼ他書の「状態動詞」に相当)は普通、進行形にならない場合が多いとのことであり、具体的には belong to (所属している)、 resemble (似ている)、differ (異なっている)、depend on (~に依存している)、consist of (~から成り立っている)、contain (~を含んでいる)、 などが、「原則として進行形にならない」とのこと(青チャート)。インスパイアにも、「状態や物事の構成、関係を表す動詞は進行形にならない」とあり、belong, consist, deffer, resemble を例にあげている。 もっと手短に言えば、「状態を表す動詞は進行形にできない」である(インスパイア、P83 自動詞と他動詞)。ここでいう「状態」には、狭い意味での状態のほか、「物事の構成や関係」なども広い意味での状態に含めている。 「状態動詞」の説明の例として「状態を表す動詞」だと説明するのは、同義反復であり頭が悪そうである。それと比べると、青チャートの説明は優れている。 なお、動作動詞は、進行形にすることができる(インスパイア、P83)。 動詞 have について、「持つ」という動作の意味では「動作動詞」という分類である。一方、「持っている」という意味でなら have は「状態動詞」である。このように、同じ単語でも、どの意味で考えるかによって動作動詞なのか状態動詞なのかが異なる。 - ※ 受験レベルでは、特にどの単語が動作動詞だったか等を覚える必要は無いだろう。 ほか、 have a breakfast 「朝食をとる」などの have もあり、これは行為をあらわす表現なので進行形になる場合もある(桐原ファクト)。 wear が参考書のよくある例(ジーニアス、ブレイクスルー)。 He always(またはusualy) wears a red sweater. 「彼はいつも(または「よく」)赤いセーターを着ている。」 He is wearing a red sweater. 「彼は赤いセーターを着ているところだ。」 知覚を表す動詞 see や have などは状態動詞に分類される(インスパイア、ブレイクスル-)。 知覚を表す see(見える) , hear(聞こえる), smell(においがする) ,taste (味がする),などは、ふつう、現在形である。 なにかが「現在、見えている最中である」ことを言いたい場合、seeではなく、looking や watching を使う(青チャート、エバーグリーンなど)。 なお、see には「会う」の意味もあり、会っている最中なら進行形になる場合もある(ジーニアス、インスパ、ブレイク)。つまり、「会う」の意味での see は動作動詞である(インスパ、ブレイク)。 「聞こえている最中である」場合なら、hear ではなく、listening を使う(エバ)。 smellを進行形にすると「においをかいでいる」という、やや別の意味の動詞になる(ブレイクスルー)。「においがしている」(×)というわけではない。 be tasting だと「味見をする」ときに使われる(青チャート)。このように進行形だと意味が違う場合がある。 そのほか、感情や心理を表す動詞も、状態動詞に分類される(インスパイア、ジーニアス)。心や感情などをあらわす like, love ,hate, want, hope,forget , , などいくつかの動詞は、進行形にならない(ジーニアス、エバ)。 ただし、普通は進行形にしない動詞でも、例外的に一時的な動作や一時的な状態であることなどを強調したい場合、つまり一時性を強調したい場合には、進行形にすることもある(インスパイア)。 また、単語のスペルは同じでも、違う複数の意味をもつ場合があり、そのような場合に意味によっては進行形にすべきかどうかが、それぞれ違っていることもある(インスパイア)。 ほか、ジーニアスいわく「 I'm just Loving it. 」「好きでたまらない」のように、本来なら進行形にしないloveでも強調のために進行形にすることもあるのが実際とのこと(ジーニアス)。ただし、他の参考書では記述が見つからない。 ある動詞が状態動詞であるかどうかの目安として、継続的である事が多い内容なら、普通は状態動詞である場合が多い(ジーニアス)。belong (所属する)や resemble (似ている)などは状態動詞であり、たしかに継続的であろう。 また、動作動詞は、状態動詞 see (単に目に映っている)と動作動詞 look (見ようとして「見る」)の違いなど。意志と関係することが多いことを指摘する参考書も多い(ジーニアス、ブレイク)。だが、意思だけだと、感情(like など)の状態動詞との区別がしづらい。 また、rain (雨が降る)やblow(風がふく)など無生物の動詞でも動作動詞である。 このため、意思の有無によって分類しようとするのは、あまり合理的ではない。 なので、それよりも、単に「 like や love は進行形では使わない」とでも覚えたほうが良いだろう。 なお、know (知る)も進行形にはできない。なので know もlike や love などと同様に状態動詞である。 しかし、knowを「感情」「心理」と解釈するのは、やや飛躍的である。 それよりも、「知っている最中」(?)みたいな表現をしないので、knowは進行形にはならない、と覚えたほうが良い(インスパイア)。 think は「(・・・が~であると)思う」の意味では状態動詞である(インスパ、ブレイク)。 ただし、think は「考えている」の意味では What are you thinking about? 「あなたじゃ何を考えてるのですか?」のように進行形を使うので(インスパイア)。「考えている最中」とも言うので、まあ「最中」分類は実用的ではある。 - 参考 状態動詞に分類されるのは、主に下記の3つ 所有や所属を表す動詞(belongなど)、 知覚を表す動詞(hear や see など)、 感情をあらわす動詞(love や like など)、 である。 現在完了形 現在完了には、中学校で習った基本の用法の「完了(・結果)」・「継続」・「経験」の3つの用法のほかにも、 終わったばかりの行為・状態を表すのに使うことがある(ジーニアス、桐原ファクト)。 なおジーニアスは、これを「継続」用法の派生の一種だと考えている。一方、桐原は、そうではない。 桐原ファクトの理論立ては、単なる過去形は、やや時間的に離れた過去を言うのに使うという事であり、完了形は直近の過去を使う用法もあるという理論立て。なお、桐原はこれを「完了」の用法に分類している。 なお、上記のように、参考書によって、同じ用法でも、「完了」に分類したり「継続」に分類したりと違っている。 青チャートおよびブレイクスルーやエバーグリーンも「完了」として分類しているが、しかし理論立ての仕方が桐原とは違う。青チャートおよびブレイクスル-では単に完了「すでに~してしまった」という典型的な用法のとなりに、さりげなく「ちょうど~したところだ」という訳も載せているだけである。 なお、この終わったばかりの行為・状態としての完了の用法では just (ちょうど)という副詞を使う場合も多い(青チャート)が、now (たった今)の場合もある(エバーグリーン)。 現在完了進行形 進行形でない単なる現在完了形には、状態の継続の用法がある。 一方、動作の継続については、現在完了進行形で言うことが多い。 I've been waiting here for an hour. 「私はここで一時間、待ち続けている。」 How long have you been waiting for the train? 「どれくらい電車を待っているのですか。」※ インスパイア、エバーグリーン He has been running for an hour. 「彼は一時間ずっと、ランニングし続けている」 ※ ジーニアス、エバーグリーンなど なお、「He has been running for an hour.」 は、現時点でランニングが終了しても構わない(ブレイクスルー、インスパイア)。だからといって、必ずしも現在完了進行形では現時点でランニング終了とも限らないので(エバーグリーン)、断定しないように。直前までの動作が終了している場合と、まだ終了指定なお場合との、両方の場合がありうる(エバーグリーン)。 参考書によっては動詞が running ではなく jogging の場合もある(ジーニアス、ブレイクスルー)。 He has been jogging for an hour. 「彼は一時間ずっと、ジョギングし続けている」 ほか参考書では、天候も、現在完了進行形でよく言われる例文が多い。 It has been raining for days. 「何日も雨が降り続いている。」 ※ ジーニアス、ブレイクスルー It has been raining all day. 「1日中雨が降り続いている。」 ※ インスパイア。 なお「1日中」の1はインスパイアでは算用数字。 なお、完了形で He has lived in Tokyo for ten years. 「彼は東京に10年間住んでいる」のように言うのは構わないし、完了進行形でも He has been living in Tokyo for ten years. とも言える(インスパイア)。 live の例でも分かるように、習慣を完了進行形で言っても構わない。 たとえばインスパイアでは「私たちは6年間ずっと英語を勉強しています」をhave been studying および have studied で説明している。 エバーグリーンでは、「私たちは5年間英語の勉強をしています」を We have studied English for five years. We have been studying English for five years. で説明しており(インスパイアもほぼ同様の例文で five が six になっただけ)、エバーグリーンいわく(現在完了形と)「現在完了進行形との意味の違いは、たいがい、無視できるほどわずかである。とはいえ、長期に渡って安定した状態を表す場合には、現在完了形が好まれる。」とある。 ジーニアスでは「エリーは10歳の時から日記をつづけている。」を has been keeping a diary で説明している。 まさか英語以外のことを6年間勉強してこない事は常識的に考えらないし、常識的にエリーも日記以外の動作もしているのだろうから、つまり上記の例文は習慣の意味だろう(参考書では明言されていない)。 また、習慣の継続の意味では、別に完了進行形でも、単なる完了形でも、どちらでもいいことが、上記の例文から分かる(参考書では明言されていない)。 これと似ているが、さらに、hear(~を聞く), forget(~を忘れる), find(~とわかる), understand(~がわかる)、learn, come などいくつかの動詞では、現在形で完了の意味を表す場合もある(エバーグリーン、インスパイア)。 learn と come はインスパイアが紹介。 つまり、 I forget his name. 「彼の名前を忘れてしまった。」 のように使う。インスパイアいわく、これを完了形で表しても構わない。つまり、 I have forgotten his name. とも言える。 hear, forget の件について、青チャートやジーニアスなど他の参考書はここまで紹介していない。 一部の参考書にしか書かれてない細かな知識よりも、まずは「時制の一致」など入試定番の概念を理解して使いこなせるようにするのが先決である。一部の参考書にある話題は、知識の補強として活用すればいいだろう。
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高校英語の文法/比較 比較 oldの比較級には、2種類ある。 elder というのがあり、兄弟姉妹の年齢について「年上の」という意味である。 単に年上なだけや、あるいは物や事が古いだけの場合は old でいう。なので、単に年上であることを older で言ってもよい。なので、中学では elder は一般に習わないのも妥当である。 old(古い、年をとった) - older(より古い、(単に)年上の) - oldest(最も古い、最も年上の) old - elder(兄弟姉妹において年上の) -eldest (兄弟姉妹で最年長の) である。 late(時間に関して遅れている) - later(より遅れた) - latest(もっとも遅れた) late(順序が後のほうの) -latter (後半の)- last(最後の) である。 far(距離が遠い) - farther - farthest far(程度が「いっそう」)- further - furthest なお、elder は elder brother や elder sister のように名詞を修飾する用法でしか用いられない(桐原フォレスト、ロイヤル)。 つまり、 be動詞 + elder (×)みたいな言い方はしない。 アメリカだと、兄弟姉妹でも兄は older sister または big brother と言い、姉も同様に older sister または big sister である。アメリカでは、elder による表現は古風だと感じられている(桐原フォレスト、ロイヤル)。 as 原級 as Mary is as tall as Bob (is). メアリーはボブと同じくらいの身長だ。 否定形の構文は、not as 原級 as as 原級 a 名詞 as ~ ※ 未記述 I'm not as well as you. 「私はあなたほど上手ではない」 倍数表現は、 X times as 原級 as ~ たとえば、 four times as 原級 as ~ なら、「~の4倍、・・・である」の意味。 This rooms is four times as large as that one. 「この部屋はあの部屋の4倍の大きさだ。」 小さくなる場合、times の代わりに、別の形容詞が入る。 This rooms is half as large as that one. 「この部屋はあの部屋の半分の大きさだ。」 2分の1の場合は half , 3分の1の場合は one-third , 4分の1の場合は a quarter または one quarter である。 This rooms is one-third as large as that one. 「この部屋はあの部屋の3分の1の大きさだ。」 This rooms is a quarter as large as that one. 「この部屋はあの部屋の4分の1の大きさだ。」 なお、疑問文で「何倍の大きさですか?」と当ときは、 How many times larger ~? と比較級になる。疑問文では、 as ~ as は使わない(ロイヤル英文法)。 さて、平叙文の話題に戻る。 「as 原級 as ~ 」の代わりに「the 名詞 of ~ 」によって表現する方法もある。 This rooms is four times the size of that one. 「この部屋はあの部屋の4倍の大きさだ。」 the 名詞 of の名詞がどの単語になるかは、比較される量の種類によって変わり、たとえば size(体積などの大きさ) のほか amount(量) , length(長さ) , height(高さ) , number(数) , weight (重さ)、などがある。 そのほか、慣用表現として、 as soon as possible で「できるだけ早く」の意味。 as soon as S can の場合もある(Sはその動作をする主語の人)。命令文の場合、S はyouになる。(つまり as soon as you can になる。) なお、主節が過去形の場合、時制の一致により as soon as S could になる。 文脈によって soon の代わりに fast や early の場合もある(桐原、ジーニアスなど)。 つまり、 as early as possible や as fast as possible など。 その他 最上級は、一番程度の高いものだけでなく、second や third などをおぎなうことにより、○○番目に程度の高いものをあらわすこともできる。 He is the second tallest boy in the class. 「彼はこのクラスの中で2番目に背が高い男子です。」 同様に、3番目に背が高いなら the third tallest boy になり, 4番目に背が高いなら the fourth tallest boy になる。 なお、「もっとも~でない」、たとえば「最も長くない(=一番短い)」は、 the least long のようになる。 long でなく least のほうが最上級であり、littleの最上級がleast である。 「the least +原級 」である。 なお、活用は little - less -least である。 だが実際には、アメリカ英語や口語などで、とくに比較級で littler や least などの単語もあるのが実際である(ロイヤル)。ただし、これらはニュアンスが限られるので、事情を知らない日本人は使わないほうが良い ラテン語からきた形容詞には senior(年上の),junior(年下の),superior(優れた),inferior(劣った),,, などがあるが、これらの比較の用法の構文では than の代わりに to を用い、また、修飾語として much や far を使う。 これら senior などの形容詞は、それ自体に比較の意味がある(ジーニアス、フォレスト)。そのことからか、比較級や最上級は変化しない。また、to のあとに人称代名詞が来る場合は目的格にする(ロイヤル、フォレスト)。 He is three years senior to me. 「彼は私より三歳上だ。」 = He is three years older than I. - one of the 最上級 本来、「最上」とは原則的に一つであるが(ジーニアス)、しかし英語では最上級を使った構文で、「one o the 最上級」で、その性質が高い程度にあるグループのひとつを表す用法がある。和訳では、よく「最も~なうちのひとつ」と訳される。 - by far と much など最上級の強調 最上級を「はるかに」「ずっと」の意味で強調したい場合、 by far か much を使い、位置は the の前になる。 つまり、たとえば the best player を強調するなら、 by far the best player または much the best player のようになる。 いっぽう、very で強調する場合、 the very best player になる。 - 不等号 英語の 「more than A」 や「比較級 than A」は、Aより程度の大きいものであるという表現であり、Aと同程度のものは含まない。つまり 不等号を使えば >A であるという表現である(桐原)。 一方、 not more than A や not 比較級 than A は、A と同程度のものを含む。つまり、≦A である。 これは数学でも同じであり、数学でも >A の否定は ≦A である。 では、「~以上」と言いたい場合、どう言うのかについては、これはもう高校英語の範囲外であり、一般的な高校参考書には無い。(ロイヤル英文法には書いてある。) - all the 比較級 「all the +比較級 + for ~(理由)」で、「~なので、ますます・・・になった」の意味。 for を使う場合は後ろに名詞句を使う。 for の代わりに because でもよく、その場合は後ろは文章になる。 「none the +比較級 + for ~(経験や出来事)」で、「~だからといって、・・・ではない」の意味。 なお、noneの場合、後半にbecauseはあまり使われない(ジーニアス)。 絶対比較級 英語教育の比較の単元において、「絶対比較級」と「絶対最上級」というのがある。 「絶対比較級」と「絶対最上級」とは異なる。 「絶対比較級」は、比較級を用いているが、ばくぜんと程度が高いことを示す表現であり、全体を2つに分けた場合に程度の高いほうに属するという程度の表現であり、 例として下記のようなものがある。 the younger generation 「若い世代」、 the upper class 「上流階級」、 the lower class 「上流階級」、 higher education 「高等教育」、 など(エバグリ、インスパ、ジーニアス)。 絶対最上級 絶対最上級は、最上級を用いているが、単に程度が非常に高いことを示す表現であり(青チャート)、具体的な比較の対象をもたない(ロイヤル、ジーニアス)。very をさらに強調したような言い方である(青チャ、ジーニアス、エバグリ)。 たとえば、clever (ロイヤル英文法)や important (ジーニアス)やkind(フォレスト)やhappy(青チャ)など何でもいいが、単数形の場合は a most 形容詞 名詞 のように冠詞が a になる。 たとえば a most clever ~(名詞) (とても利口な~(名詞)) である。 ふつう、最後に名詞が来る(青チャ、ロイヤル)。 たとえば、 a most clever person とでもなろうか。 定冠詞 the は使わないことが多い(青チャ)。 たとえば Tom is a most clever person. 「トムはとても利口な人だ.」 文脈によっては単数形でなくとも複数形でも構わない(エバグリ、ジーニアス)。つまり、複数形の場合は most 形容詞 名詞 の語順になる(エバグリ、ジーニアス)。 たとえば They are most kind people. 「彼らはとても親切な人たちだ.」 絶対最上級はやや特殊であり、本来なら最上級の語形変化が -est の語であっても例外的に most で強調する(フォレスト、青チャート)。ただし、ジーニアスやロイヤルを見てもそこまで書かれておらず、入試ではそこまで問われづらいだろう。 比較級を使ったその他の表現 more or less 多かれ少なかれ sooner or later 遅かれ早かれ(「いつかは」の意味) ※ エバグリーンに「いつかは」の意味が紹介されている。 know better than ~(to 不定詞など) 「~するほど馬鹿ではない」 I know better than go to ~(不定詞) 「私は~するほどの馬鹿ではないよ」 You should know better. 「きみはもっと分別を持つべきだ」 not even ○○, much less ~ 「○○すらない(/できない/しない)のだから、ましてや~なはずがない」 原級・比較級を使って最上級に近い意味を表す形 原級を使って最上級に近い意味を表す形 「as 原級 as ○○ 」は基本的な意味は「○○と同じくらいに ~ である」の意味。 しかし例外的に any がついて「as 原級 as any」になると、これは程度が高いことをあらわす表現になる。 「any」には、「すべての」という意味がある。桐原はこれを用いて説明している。だが、世界中に存在するすべてのものと同じだとしても、だったら世界全体で平均化されるはずなわけで、やはり例外的に扱うのが正しいだろう。 ただし、もとの「同じくらい」の意味を引きずってか、断定的ではないとされ、「もしかしたら程度が高くないかもしれず、同じくらいかもしれない」という若干控えめなニュアンスもある(ジーニアス)。 和訳の際は、肯定形で訳そうとしも日本語には対応する肯定の言い回しが無いので、技巧的ではあるが、否定形で「他のものに劣らないくらい、~である」と訳すのが良いだろう(ジーニアス、ロイヤル)。 参考書によっては「最上級の意味を表す」などと書いてあるが、しかし、厳密には、最上級の可能性をあらわす構文だろう。なお、ジーニアスの単元名では「原級を使って最上級に近い意味を表す」である。 同様に、論理的でなく例外的な表現だが、 「as 原級 as ever lived 」で「古来まれなほどに ~ である」の意味になる。これは文学的な表現であるので(ロイヤル、ジーニアス)、あまり論理的に考えても仕方が無い。 なお、これと紛らわしいが、lived 無しの「as 原級 as ever」は「あいかわらず~である」の意味。 こちらのほうは論理的に導ける。ever は経験を表す単語であり、 観察者の著者・筆者などが過去に観察した経験(ever)と同じ(as 原級 as)ようであるということから、「あいかわらず」と言い表せる。 比較級を使って最上級に近い意味を表す形 than any other たとえば、 Bob is taller than any other in the class. 「ボブはクラスの中でほかの誰よりも背が高い」 のように使う。 このように、 than any other は「他のどの○○よりも~である」である。これは、any を「すべての」と解釈すれば、論理的に導ける。 no other 文 「No other A ・・・ 比較級 than B 」は「ほかのどのAもBより~ではない」の意味であり、最上級に近い意味をあらわす。なお、Bより上はいないと言ってるだけであり、Bと同程度のものがいる可能性は残されている。 いっぽう、 「No other A ・・・ as 原級 as B 」は「どのAもBほど~ではない」の意味であり、最上級に近い意味をあらわす。 参考書では特に言及されていないが、この場合は、同程度のものが残されている可能性は、この構文の場合は無いと考えられている。 「A be動詞(is,are など)比較級 than any other B 」は「AはほかのどのBよりも~である」の意味であり、最上級に近い意味をあらわす。 同一のものにおける最上級 同一人物、同一事物内での最上級を言う場合、最上級変化する形容詞・副詞には the はつかない。 The lake is deepest here. 「この湖はここが一番深い。」(インスパ、エバグリ) The lake is deepest at this point. (青チャート)でも可 I'm happiest when I'm with my family. 「私は家族といるときが一番しあわせです」(ジーニアス、エバグリ with my friends 友人たちと、ブレイク with her 彼女と) なぜ、the がつかないかというと、theは本来は名詞の前につけるべきものであるが、同一人物・同一事物では名詞を補うことができないから、である(ブレイク、エバグリ、青チャート)と考えられている。(※インスパ、ジーニアスは紹介せず) いっぽう、 The lake is the deepest in Japan. 「この湖は日本で一番深い」 は、同一の湖内での比較ではないので、theがつく。これは単に、the deepest lake in Japan のうち名詞 lake が省略されたものと考えることができる。 ほか no longer で「もはや~ない」の意味。 He is no longer here. 「彼はもう、ここにはいない」 She lives no longer here. 「彼女はもう、ここには住んでいない」 参考書では、青チャートとインスパイアが、比較の単元であつかっている。 参考書によっては、比較級の単元ではなく接続詞や否定の単元であつかっている。当wikiでは 高校英語の文法/接続詞 でも no longer を紹介済み。 to say the least of it, 「控えめにいっても」※インスパイア、ロイヤル、青チャート 参考書によっては、不定詞の単元で、独立不定詞として「to say the least of it, 」を紹介している(ロイヤル、青チャート)。
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高校英語の文法/関係詞 関係詞 関係詞とは I have a friend who lived in Boston. 「私にはボストンに住んでいる友人がいる。」 のような文章での、who は「関係代名詞」という。 まず、「関係詞」は、「関係代名詞」と「関係副詞」の2種類に分類される。 とはいえ、「中学で『関係詞』なんて言葉、習ってないよ!」と思うかもしれない(その時代のカリキュラムによる)。もし中学で習ってない場合、単に下記の「関係代名詞」と「関係副詞」をあわせて「関係詞」と呼ぶ、とも思ってよい。 「関係代名詞」と「関係副詞」の違いは単に、「関係代名詞」とはwho, what, which , that および、whoから格変化として派生した whose や whom が「関係代名詞」である。 たとえば、 This is the house which I lived in. 「これが私の住んでいた家です。」 の which が関係代名詞。 いっぽう、 This is the house where lived. 「これが私の住んでいた家です。」 の where が関係副詞。 名詞のうしろに修飾のために置かれる when や where や why や how が、関係副詞です。 日本語の「副詞」のイメージに引きづられると、whyを忘れがちですので、気をつけましょう。 参考書では分類名の根拠は特に強調されてはいないが、関係代名詞における who , which, that は、参考書によくある一応の説明としては、関係詞節の中から見た場合には代名詞的に名詞格としてwho,which,thatが使われているので、「関係代名詞」としての分類である。 一方、where で場所を修飾したりや when で時期を修飾するのが「関係副詞」である。where や when が「関係副詞」として呼ばれる理由も単に、関係詞節のなかでは副詞として使われているので、「関係副詞」と呼ばれているという理由が、いちおうは参考書によく書いてある。 ※ 伝統的に、平成時代以降の日本の中学・高校の英語教育では、中学では関係代名詞まで(中3あたり)、高校では関係副詞もあつかう、というスタイルである。少なくとも2020年代の現代なら、中学で関係代名詞を習っている(桐原ファクト)。 関係代名詞も関係副詞も、共通して、後ろから修飾している。 日本語の修飾語は基本的に前から名詞などを修飾するが、しかし外国語は必ずしもそうとは限らない。 英語にかぎらず、外国語には、後ろから名詞を修飾する文法もよくある。言語学では、そのように後ろから名詞を修飾する文法のことを、たとえば「後置修飾」などといわれるが、別に覚えなくていい。(ただし、「関係代名詞」や「関係副詞」などの語句は、高校英語の内容なので覚えること。入試には出ないが。) なお、参考書ジーニアスが「後置修飾」という語句を関係詞のコラム節ほかで紹介している。 さて、後置修飾では当然ながら、修飾される対象の名詞が存在する。 関係代名詞において、下記例文の friend のように、関係詞の前に来る修飾対象の名詞のことを「先行詞」という。 I have a friend who lived in Boston. 「私にはボストンに住んでいる友人がいる。」 において、friend が「先行詞」である。 いっぽう、後ろ野側の節のことを「関係詞節」という(ジーニアス、エバーグリーン)。つまり、「who lived in Boston」 あるいは「lived in Boston」 の部分が関係詞節である。who を含むかどうかはあまり本質的でないので、気にしなくていい。 関係代名詞は別に主格でなくてもかまわず、所有格や目的格でも良い。たとえば下記に目的格の例をあげると I have a friend whom I respect. 「私には、私が尊敬している友人がいる。」 のようになる(青チャの例文に、エバーグリーンを組み合わせたwikiオリジナル例文)。 この目的格の例文のように、関係詞節のなかでは、動詞の後ろにはなんの名詞も来ない。 つまり、who I respect のうしろに、けっして who とか whom とか him とか her とかを書いてはいけないし、もし書いたらバツである。(中学でも習っているかもしれないが、あまり中学で詳しく文法を習わないし、高校参考書でもよく指摘されているので念のため) この規則のため、たとえば This is the house which I lived in. 「これが私の住んでいた家です。」 のように、 前置詞のうしろに名詞が何も来ない文章も、関係代名詞を用いた文章ではありうる(中学で習っているかもしれないが)。 ※ 参考書では説明の都合上、太字や斜め体にされているが、当然だが、実際に英語を書く時には、わざわざ斜めにする必要は無いし、太字にする必要も無い。 英語の文法は、覚えなければいけないこと好くな固唾もあるが、しかし上記のように文法どうしが結びつきあっているので、丸暗記の負担は少なめである。なるべく、文法知識をお互いに関連づけて覚えよう。 ほか、 This is the house in which I lived. 「これが私の住んでいた家です。」 の in which のような <前置詞+which> の言い回しもあるが、堅い表現である(ジーニアス、エバー)。 なお、that を使う場合、前置詞の後ろにthatを置いてはいけない(エバー)。つまり、必ず、 This is the house that I lived in . 「これが私の住んでいた家です。」 と言わなければならない。 先行詞が somewhere や anywhere の場合、関係副詞は that になる。あるいは、somewhere などのあとの関係副詞は省略してもいい(ジーニアス)。 関係副詞の where は、用法的には at which または in which に近い(エバー、青チャート)。 Boston is the city which I love. 「私の好きな都市はボストンです。」 のように、「愛する」love の目的語の場合、たとえ愛の対象が場所であっても、上記英文の関係詞は副詞ではないので which になる。 love 「愛する」のあとには、前置詞を使わずに直接的に目的語が来るので。 同様、「訪れる」 visit も、前置詞を使わずに直後に目的地を書く動詞なので、 Boston is the city which I visited. 「ボストンは私が訪れた都市です。」 のようになる(エバー)。 つまり、もし動詞と目的語の場所のあいだに前置詞が来ないなら、where は使えないのが原則であるので、which を使うことになる。 関係副詞 how は、その関係副詞自体に先行詞を含む。 how の意味合いは、the way in which とほぼ同じ(青チャート、エバー、ジーニアス)。 なお、in which はよく省略される。なので参考書には the way (in which) のように丸カッコで描かれている場合も多い(青チャートの表記がそう)。 ほか、関係副詞 why は、先行詞に the reason などがあってもいいが、先行詞がなくても良い。なので、whyは場合によっては、why自体に先行詞を含む、と見なすことも出来る。 なお、whyには、 This is why 「そういうわけで」や That's why 「そういうわけで」、 などの慣用句がある。 that that に所有格は無い。 - thatがよく用いられる場合 関係代名詞として that が好まれる場合として、 先行詞に最上級の形容詞や、「第一の」 the first や「第二の」the second ~ などの序数詞がついている場合の関係代名詞には、thatが好まれる。 先行詞が the same ~ (同じ~)の場合や、 the only ~ (ただひとつの)や the very ~(まさにその)といった限定の意味の強い用語の場合、that が好まれる。 先行詞に all, every , any , no がついている場合、thatが好まれる。 ほか、先行詞が 人+人以外 の組み合わせである場合、thatが好まれる。 先行詞が疑問詞の who, which の場合、つづく関係代名詞には that が好まれる。 who が2つ続くと口調が悪いので(青チャート)、当然であろう。 what 関係代名詞としての what はそれ自体が先行詞を含み、「~していること」「~~しているもの」の意味であり、名詞節をつくる。 たとえばエバーグリーンいわく What worries me is the result of the exam. 「私を不安にさせるのは、試験の成績のことだ」 What worries me で「私を不安にさせるのは」の意味(エバ)。 what worries me の部分が主語に使われている。このように文頭が what だからといって、疑問文とは限らないので、早合点しないように。 なお、(※ wiki注)直訳すれば、what worries me 「私を心配させているもの」である。 この使われ方のように、関係代名詞としての what は名詞節をつくる。(ここでの what は、形容詞ではない。) 同様の例をほかの参考書でも見ていこう。 ジーニアスいわく、 I believed what he said. 「私は彼が言った事を信じた。」 である。 ここでも、what が名詞節として使われている。 what の名詞節は、文全体の主語、目的語、補語として使われる(エバ、青)。あまり暗記の必要はなく、名詞が主語、目的語、補語として使われるのだから、それと同様にwhat の名詞節も主語、目的語、補語として使われるのだと理解すれば済む。 ジーニアスの和訳のように、日本語としてとくに不自然でなければ、機械的に「~していること」「~しているもの」と訳せばいい。 このほか、what には、形容詞的に 「(多くはないが)~(する)すべての」という意味の用法もある。たとえば what ( little ) money he had 「彼がもっていた全てのお金」 というふうに使う。 なお、上記の例では money は数えられないので little になっている。数えられる名詞の場合なら few になる。 little や few を省いてよい。つまり what money he had も可(インスパ、青チャ)。 I'll give you what help you need. 「できるだけ、あなたの力になります」←「私の与えられる援助すべてを、あなたにあげます」 ※ エバグリ、青チャ この「すべての」の意味の what を言い換える場合、 all ~ that (インスパ)または any ~ that になる(インスパ、青チャ)。 カンマの有無 先行詞と関係代名詞の間にカンマ( , )があるかどうかで、意味が変わる。 参考書に「限定用法」と「継続用法」(非制限用法)などと書いてあるのは、このカンマの有無による意味のちがいのこと。詳しくは参考書を読め。なお、ジーニアスと桐原ファクトとブレイクスルーだけ、「非制限用法」という言い回し。 カンマの無いほうが、限定用法であり、先行詞の内容を限定するので、限定用法という。 - ※ 中学で習った一般的な関係代名詞も、限定用法。 一方、カンマがあると、カンマ後の関係詞節の意味合いは補足説明になり、これが「継続用法」。 たとえば、 He has two son who works at the bank. 「彼には銀行に勤めている息子が2人いる」 は、限定用法であり、2人以外の息子がいるかは不明。(つまり、銀行に勤めていない3人目の息子がいる可能性がある。) 一方、 He has two son, who works at the bank. 「彼には息子は2人いるのだが、2人は銀行に勤めている。」 なら、息子は2人だけだと分かり、これが継続用法である。 カンマの細かなことを覚えるよりも、そもそも「カンマがある場合、読者は、その直前でそこまでに読んだ文面から、とりあえずの結論を出していい」という事に気づくべきである。そもそも英語のカンマや日本語の読点(「、」)はそういうふうに使って文章を作文するべきなのである。(むしろ、そういうふうに文章を書かないないと、社会や会社(勤務先)などでは「悪文」とされる場合が多いのが実態。『英文法教育の本当の目的が、日本語の論理的な文章の書き方の教育である』などと、昔から教育評論では、よく言われることである) 関係代名詞だけでなく関係副詞でも同様に、継続用法がある。 ほか、主語が複数形の場合、「そのうちのすべて」の意味で、カンマのあとに which の代わりに all of which を使うことがある(ジーニアス)。つまり、カンマも含めた語順は , all of which ~ の語順。 主語が人間の場合で「そのうちの全員が」と言いたい場合、who の代わりに all of whom になる(青チャート)。 語順は , all of whom ~ である。 ほか、値段や費用などを補足的に説明する場合、 for which を使う(青チャート、ジーニアス)。 そのほか、関係詞節での動詞の種類によっては、たとえば , with whom などもある(ジーニアス)。 「,in which city 」や「 , in which case 」等のように前置詞に加えてさらに形容詞的に which が使われるという場合もあるが(ジーニアス、青チャート)、ジーニアスいわく堅い書き言葉であるとのこと。 なお、関係代名詞の継続用法は、目的格の場合でも関係代名詞を省略できない(インスパイア、ブレイクスルー)。※ ほかの参考書では原級されておらず、教育的な優先度は低いとみられる。 関係副詞 when の継続用法は、「それから(~をした、~をする)」という意味の用法の場合が多い(青チャート、ジーニアス、インスパイア)。つまり「先に起きた事, when 後に起きた事」の語順。 「・・・ , when ~」で、「・・・をして、それから(間をあまり置かずに)~をする」という順序。これら when の継続用法は、and then または but then などで言い換えできる。この「それから」の意味の場合、when節のままで終わるのが普通。 ただし、必ずしも「それから」の意味とは限らず、when 節で終わる場合でも、単に先行詞の性質について(たとえば「そのときは~であった」のように)説明しているだけの場合もある(インスパイアの例文 He was born in , when Heisei era began. )。「それから」か「そのときは~である」か、どちらの意味なのかは文脈から判断することになる。 ※ なお、インスパイアは he was born 以下略の例文で「それから」の意味だと解説しているが、しかし解説内容と例文が合致してない。 when だけでなく where でも、「先に起きた事, where 後に起きた事」という「それから」の順序を説明できる。単に、「先に起きた事」の末尾が場所の名詞なら where が続くだけ。もし「先に起きた事」の末尾が時間の名詞なら when が続くだけである(インスパイア)。 一方、文中にwhen節が挿入される場合は、そういった順序関係は特に無い(下記の「関係詞節の挿入」についての単元を参照せよ)。区別の仕方は、形式的には when節の終わりにカンマがあるかどうか等で判別できる。ただし、文脈から判断したほうが確実であろう。 - カンマによる関係詞節の挿入 これとは別に、文中に補足的説明をカンマを前後にともなった関係代名詞などで挿入する方法がある。 例文がないと説明しづらいので、ジーニアスから最低限の引用をすると、 Jennifer, who I met the party, is very attractive. 「ジェニファーはパーティで出会ったのだが、とても魅力的だ。」 のような例文がある。 この場合の前後カンマをともなう関係詞節の挿入の使い方も、継続用法である。なお、ジーニアスおよび桐原ファクトでは継続用法のことを「非制限用法」と読んでいる。 なお、桐原ファクトいわく、よく固有名詞についての補足的説明として、上述のように前後にカンマをともなった関係詞節の挿入があるとこのと。 ジーニアスのほか、青チャート、エバーグリーンが、このようなカンマと関係詞節による挿入の使い方を説明している。 関係代名詞だけでなく関係副詞でも同様に、挿入の用法がある。 制限用法の二重限定 青チャート、インスパイア、ロイヤル英文法、ジーニアス総合英語に書いてある。 例文なしで説明が難しいので、それらの参考書を読め。 複合関係詞 複合関係代名詞 疑問詞の末尾に -ever をついたものを複合関係詞と言い、「~なら何でも」のような意味になる。 詳しくは下記を参照。 You can choose whichever you like. 「どちらでも好きなほうを選んでいいよ」 You can choose whatever you like. 「どれでも好きなのを選んでいいよ」 複合関係詞は、複合関係代名詞または複合関係副詞に分類される。 なお、関係副詞とは、when , where, why, how のことである。 複合関係副詞とは、上述の関係副詞の末尾に -ever がついたもののことである。 なお、that に-ever がついた形のものは無い。 whichever は、いくつか選択肢があって、「その中からどれでも」という意味である。 いっぽう、whatever は、特に選択肢は前提としていない。 whichever は形容詞的に使うことも可能であり、下記のように使える。 You can buy whichever books you like. 「どちらの本でも好きな方を買ってよい。」 「whoever ~ 」は、「~なら誰でも」の意味であり、主格または目的格になることができる。 目的格の場合だけ whomever という言い方もあるが、しかし古い言い方(ジーニアス)。 anything に「すべてのもの」の意味があるので、これを使って whichever や whatever を言い換えすることも可能である(桐原)。 たとえば例文 You can choose anything you like. 「どれでも好きなのを選んでいいよ」 anything が whatever の言い換えなのか whichever の言い換えなのかは、文脈から判断する。 「anything that 」とthatを加えてもよく、つまり例文 You can choose anything that you like. 「どれでも好きなのを選んでいいよ」 のようになる。 複合関係副詞 関係副詞 where , when の末尾に ever をつけた語を「複合関係副詞」といい、具体的には wherever およぼ whenever の事を言う。 複合関係副詞は、副詞節になる。このため、複合関係副詞節は、主格や目的格には普通、ならない。 具体的には、 wherever は「する所はどこでも 」の意味の副詞節を作り、 whenever は、「~する時はいつでも」の意味の副詞節を作る。 wherever 「する所はどこでも 」 たとえば、 wherever you like 「好きな所どこでも」 または同様の意味で wherever you want to 「好きな所どこでも」 wherever は anywhere を使っていいかえできる。 anywhere you like 「好きな所どこでも」または anywhere you want to whenever は、「~する時はいつでも」の意味。 譲歩の複合関係詞 譲歩を表す複合関係代名詞 whoever には、「誰が~しようとも」の意味もある。 whichever には、「どちらを~しようとも」の意味もある。 たとえば、 Whichever you choose, で「どちらを選ぼうとも」の意味。 whatever happens, で「何が起きようとも」の意味。 また、happens の末尾 sから分かるように、whatever は三人称単数として扱われるので、もし現在形なら動詞の末尾にsがつく。 同様、whoeverも三人称単数として扱われるので、現在形なら動詞の末尾にsがつく。 「Whichever you choose,」は言い換えで、 No matter which you choose, 訳「どちらを選ぼうとも」とも言い換えできる。 同様、whatever も no matter who で言い換えできる。つまり No matter what happens , 「何が起ころうとも」 の意味。 譲歩の意味での複合関係副詞 Wherever you are, I'll be thinking of you. 君がどこにいようとも、私は君のことを考えているよ。 Wherever は譲歩の意味では「どこにいようとも」(= no matter where)の意味。 「~するところなら、どこでも」(= at any place where)の意味もある。 whereverがどちらの意味かは、文脈から考える(ロイヤル、桐原)。 whenever you come, 「あなたがいつ来ても」 wheneverは譲歩の意味では「いつ~しても」の意味。 however は譲歩の意味では「どんなに~しても」の意味。 関係代名詞 関係代名詞とは、2つの文を接続するとき、前の文中の名詞を説明することで文を接続する語の使い方の事である。例として、 I see a person who bought the pen. などが関係代名詞を用いた文である。この文中では関係代名詞はwhoに対応する。 この文の意味は、'私はそのペンを買った人を見た'となるが、このことから分かる通り、この文は I see a person. He (or She) bought the pen. の2文に分けることが出来る。ここで、下の文のHeは、上の文のa personを表わしている。ここで、Heをwhoに置き換えてできた文をpersonの後に並べる事で、関係代名詞を用いた文を作成することが出来るのである。 この時関係代名詞whoは前の文では目的語a personと同じ意味を持ち、次の文では、主語Heと同じ意味を持つことに注意が必要である。 また、関係代名詞によって説明される名詞を、特に先行詞と呼ぶ。 関係代名詞whoは先行詞が人であるときにしか用いることが出来ない。 先行詞が人でない物体などであるときには、関係代名詞としてwhichが用いられる。 また、関係代名詞のthatは、先行詞が人であっても人以外のものであっても用いることが出来るが、whoやwhichを使うよりも少しだけくだけた言い方になるようである。 ここまでは関係代名詞が後の文の主語となる用法を解説した。ここからは関係代名詞が後の文の主語以外の語となる用法を解説する。例えば、 I gave him a pen which I bought yesterday. のような文がある。この文は「私が昨日買ったペンを彼に渡した。」という意味だが、この文は I gave him a pen. I bought it yesterday. という2つの文を合わせた文である。ここで、2つめの文の目的語であるitをwhichに変えて関係代名詞の文を作るのであるが、通常関係代名詞は先行詞の直後に置くため、whichの場所を2つめの文の文頭に動かして、関係代名詞の文を作るのである。 ここでは目的語的な関係代名詞としてwhichを用いたが、これは人以外の先行詞を修飾するときにしか用いられない。人を修飾するときには、通常whomを用いる。 ただし、whomを使った文章ややや古い言い方に取られるため、形式的でない文章ではwhoを用いることも行なわれるようである。 また、関係代名詞thatは、目的語の関係代名詞として用いることもでき、人が先行詞のときにも人以外のものが先行詞のときにも用いることが出来る。 また、whichやthatが目的語に対する関係代名詞になるときには、それらの関係代名詞はしばしば省略される。実際の文中では正しい関係代名詞を補いながら読むことが必要になる。 更に、所有格が関係代名詞となる場合もあるのでここで解説する。 I left the house whose roof I don't like very much. などが所有格関係代名詞の例である。この文は、 I left the house. I don't like its roof very much. の2文に分けることが出来るが、下の文のItsがthe house'sに対応しているので、この部分をwhoseに置き換え、また関係代名詞を先行詞の直後にするために、文頭に動かしている。ただし、whoseは関係代名詞であるが、所有格であるので直後にwhoseがかかる名詞を取る必要があるため、対応する名詞も文頭に動かしている。 whoseは人に対しても、人以外のものに対しても用いることが出来る。 関係副詞 関係代名詞は先行詞の様子を表わす文で、代名詞の働きをする語を修飾していた。 関係副詞は先行詞の様子を表わす文中で、副詞の働きをする語を修飾する文である。 例えば、 I like the house where I live. が、関係副詞を用いた文である。この文ではwhereが関係副詞である。上の文は I like the house. I live there. の2文に分けられるが、副詞thereがin the houseに対応することから、thereを関係副詞whereに変え、また関係副詞も対応する先行詞the houseの直後に持って来る必要があることから、whereを文頭に動かし、2つの文を接続したのである。 上の文は関係代名詞whichを用いて、 I like the house in which I live. と書き換えることが出来る。この文では、whichはthe houseに対応する関係代名詞であるが、特に前置詞inに続いて副詞句になる用法であったので、inとまとめて文頭に持って来た用法である。ここでは関係代名詞による副詞句in whichと関係副詞whereが同じ様に扱われている。 ただし、上の文でin whichとする用法はやや形式的であり、 I like the house which I live in. のように関係代名詞whichだけを文頭に持って行くことも、特に口語的な場面ではよく用いられる。 関係副詞whereは場所を表わす語に対してしか用いることが出来ない。他の関係副詞としては when: 時間を表わす語 why: 理由を表わす語 how (the way): 方法を表わす語(the way は必ず省略) などがある。例文としては I lived there at the time when he came. I don't see the reason why Tom didn't stop. It isn't an easy task to see how he did that. などがあげられる。
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高知工科大対策 本項は、高知工科大学の入学試験対策に関する事項である。 高知工科大学は高知県香美市に拠点を置く公立大学である。経済・マネージメント学群、情報学群、環境理工学群、システム工学群を有する。 センター試験 前期は環境理工学群を除き、A方式とB方式から1方式、出願時に選択する。環境理工学群はA方式のみである。A方式は5教科6~7科目、B方式は3教科3科目~4科目課される。どちらの方式もセンター試験の割合が高く、センター試験の配点割合が6割以上を占めるため、センター試験対策を念入りに行う必要がある。 2次試験 経済・マネージメント学群は英語と数学、国語、日本史、世界史から1科目選択の計2科目、情報学群、環境理工学群、システム工学群は数学と物理、化学、生物から1科目選択の計2科目が課される。以下前期試験対策について説明する。 英語 90分で短文読解集合1題、客観式解答の長文読解1題、会話文を利用した自由英作文1題、意味の近い単語選択問題1題、記述解答の長文読解と長文のテーマに沿った自由英作文問題1題が課される。短文読解、客観式解答の長文読解問題は全て選択肢の問題であり、センター試験対策で十分対応できる。単語を選ぶ問題は過去問や文法・語法問題集で対策しておくとよい。記述解答の長文読解問題は50~100字の内容説明問題が出題されるので記述、論述式の長文読解問題集で演習しておくとよい。会話文の自由英作文問題、長文のテーマを基にした自由英作文問題は、英語表現の教科書を1冊徹底して演習し、マスターすれば対応できる問題である。過去問演習の際に予備校講師や英語教師に添削してもらうと良い。 数学 経済・マネージメント学群と情報学群、環境理工学群、システム工学群で問題が異なる。 経済・マネージメント学群 出題範囲は数ⅠⅡABで、90分で小問集合1題、大問2題の計3題が出題される。小問集合問題は最終結果のみ解答が求められ、8問出題されるためスピーディーに解く必要がある。大問2題は3~4問からなる丁寧な誘導形式で解いていく問題である。難易度は教科書章末問題レベルであるので、教科書及び教科書傍用問題集のB問題程度を徹底してマスターしたら過去問で問題演習するとよい。 情報学群、環境理工学群、システム工学群 出題範囲は数ⅠⅡⅢABで、120分で大問3題出題される。小問集合1題、大問2題の問題構成である。小問集合は8問出題され、最終結果のみ解答が求められる。数Ⅲの微積計算問題、極限の問題が必ず出題されるため、普段から数Ⅲの極限の計算問題、微積計算問題の演習量を確保しておこう。それ以外には様々な分野がら出題されるので苦手分野を作らないことが肝要である。大問2題は3問~4問からなる丁寧な誘導で解いていく問題である。難易度は基本~標準レベルであり、教科書及び教科書傍用問題集で基本をマスターし、「黄チャート」レベルの参考書で入試に必要なテーマの問題を演習してから過去問演習をするとよい。 国語 90分で文学史・漢字・慣用句など国語常識の小問集合1題、論説文2題の計3題出題される。論説文の問題は一般的な国公立大2次試験対策の問題集などで対策しておこう。文学史・漢字・慣用句など国語常識の小問集合問題は学校で配布される文学史、漢字・慣用句の副教材で対策し、国語便覧をよく読んでおくと文学史の背景などが説明されているので活用するとよい。 理科 90分で物理、化学、生物から1科目選択し解答する。 物理 3題出題され。力学、電磁気が必ず出題され、熱力学、波動のどちらか1分野が出題されている。答えだけでなく導き出し過程も問われる問題が出題される。計算だけでなくグラフを図示する問題が出題されるため、普段から解答の過程を意識して問題演習するとよい。過去問以外に記述模試や入試対策用の問題集を活用して対策しておくと良い。 化学 5題出題され、理論化学分野の問題、理論化学分野と無機化学分野の融合問題、無機化学の問題、有機化学分野の問題、有機化学と理論化学の分野の融合問題が主に出題される。基本から標準レベルの問題が多い。用語の解答問題、計算問題、化学反応式、構造式とともに説明する問題、現象の説明問題等、標準的な出題である。したがって学校で配布された問題集を徹底的に演習してマスターし、過去問演習で対策しておくとよい。 生物 5題出題され、空欄に入る用語を答える問題、選択問題が多いが、50字程度の論述問題、どんな実験を行えばよいか等、暗記だけでなく論述、実験に関する問題等、理解度の深さが問われる問題が出題される。難易度は基本~標準的な問題が多く出題される。したがって教科書や副教材の図表を読み込み、学校で配布された問題集を徹底的に演習してマスターし、過去問演習で対策しておくとよい。 地歴公民 90分で国語、数学、日本史、世界史から1科目選択し解答する。 日本史 大問は5題構成であり、リード文、年表、史料から適語選択、短文説明問題、歴史用語の説明、史料から読み解く問題が4題と、2問からなる200字論述問題が1題である。問われている問題は基本~標準的な問題ばかりであり、一般的な問題集や論述問題集などで演習しておこう。 世界史 大問は5題構成であり、リード文、年表、史料、地図から適語選択、短文説明問題、歴史用語の説明、史料から読み解く問題が4題と、2問からなる200字論述問題が1題である。日本史と同じく問われている問題は基本~標準的な問題ばかりであり、一般的な問題集や論述問題集などで演習しておこう。
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高校化学 化学反応の速さ 反応の速さ 化学反応の反応速度は、注目した物質の変化の速度で表す。反応速度で濃度に着目するときは、モル濃度の変化速度で考えるのが一般である。 化学反応する物質Aが の間に濃度が 変化したとすると、この反応速度 は と表される。 ここで、絶対値がついているのは、反応速度を正の値にするためである。 Aが反応物で、Bが生成物の場合は、Aの濃度は減少するためため、 なので、 である。反応物Bの濃度は増加するため、 より、 である。 具体的に、 の反応速度について考えよう。 注目する物質が3種類あるので、濃度変化の速度の定義には、3通りの定義の仕方が生じる。物質によって、反応速度が違ってしまうと不便なので、そういうことが無くなるように、定義式で化学反応式の係数の逆数を濃度変化速度に掛けるのが一般である。 つまり、以上をまとめると、このHIの反応での3種類の物質の反応速度vの定義式は以下のようになる。 なお、反応速度の単位には[mol/(l・分)]を用いるのが一般である。 以上は反応速度の定義式であった。 つぎに、実際の化学反応で、反応速度を性質を考えよう。まず、ヨウ化水素HIの生成の例で考えよう。水素[H]とヨウ素[I]の濃度を色々変えて実験された結果、次の結果が、実際の測定でも確認されている。 反応速度vは、左辺の反応物との濃度に比例する。つまり、 である。ただしkは、反応速度の比例定数。この式の意味を考えてみれば、反応が起こるには、反応に必要な物質どうしが接触または衝突することが必要なのであろうということが想像できる。 他の物質の化学反応の場合も考慮して、反応速度の一般の式を求めよう。 a[A]+b[B] +c[C]+ ・・・・ → x[X]+y[Y]+・・・・ となるとき、ほとんどの物質で、反応速度は次の式で表される。(「ほとんど」というように例外もある。例外の場合は後述する。まずは一般の場合から学習してほしい。)反応速度は、 となる。 反応速度の式で、係数のaを[A]に乗じたりしているのは、たとえばa=3のときには、反応式 3[A] + b[B] ・・・・ → x[X]+y[Y]+・・・・ の式は、以下のように、 [A] + [A] + [A] + b[B] ・・・・ → x[X]+y[Y]+・・・・ のように書けるからである。 多段階反応と律速段階 上記のような例に従わない場合の、代表的な例としてがある。この物質の反応の仕組みも解明されているので、これを説明する。まずの反応式は、 である。式から推定した反応速度vは、 である。しかし、実際の反応速度を測定した結果は、 である。 では、次にこの謎を解明しよう。 じつは、 から が生成される反応は、ひとつの反応では無いのである。 以下に示すような順序で、4個の反応が行われているのである。 ・・・・(1) ・・・・(2) ・・・・(3) ・・・・(4) この一つ一つの反応を素反応(そはんのう)という。また、の反応のように、複数の素反応からなる反応を多段階反応という。 式(1)の左辺の反応物と式(4)の右辺の生成物を見ると、 と がある。これが反応速度の謎の正体である。 式(1)から式(2)、式(3)、式(4)のそれぞれの反応速度を、反応式から推定すると、 ・・・・(1) ・・・・(2) ・・・・(3) ・・・・(4) となる。実験の結果では、4つの素反応の中で、もっとも反応速度が小さいのは式(1)の反応であることが知られている。このように、多段階反応では、もっとも反応速度が遅い反応によって、全体の反応速度が決まる。 全体の反応を決定する素反応を律速段階という。 反応速度を変える条件 - 温度の影響 温度が増えると、常温付近では、だいたい10℃あがるごとに、反応速度が2倍から3倍程度になる。 この理由は、温度が増えると、活性化エネルギー以上のエネルギーをもつ分子が増えるからである。 - 触媒の影響 触媒もまた、反応速度を変える。前の節で既に記述したので、必要ならば参照のこと。 アレニウスの式 化学者のアレニウスが、多くの物質の反応速度と温度との関係を調べた結果、実験法則として、以下の関係式が分かった。 反応速度定数kは、活性化エネルギーを絶対温度をTとすると、以下の式で表される。 ここで、Rは気体定数、eはネイピア数である。 この実験式をアレニウスの式という。 活性化エネルギー たとえば、ヨウ化水素HIの生成の反応、つまり、ヨウ素Iと水素Hを容器に入れて高温にして起こす反応では、 では、なにも熱を加えない常温のままだと、反応は起こらない。また結合エネルギーの和は、左辺ののほうが右辺の2HIの和より大きい。エネルギー的にはエネルギーの低いほうが安定なので、2HIのほうが安定なはずなのに、熱を加えないと、反応が始まらないのである。 この状態から察するに、化学反応をする原子は、もとの分子よりエネルギーの高い状態を経由する必要がある。 たとえば、ヨウ化水素の生成の反応 では、解離エネルギーにより推測される必要なエネルギーと、実際の反応に要するエネルギーが一致しない。解離エネルギーを考えると、 により、合計で432 + 149 = 581 kJ のエネルギーが必要だと推測できる。しかし、実際の反応でのエネルギーは、そうではない。 HIの2molの生成でも、必要なエネルギーは348 kJ が必要であり、これは、解離エネルギーの和の581 kJよりも小さい。なお、この場合のヨウ化水素の反応温度は、およそ400℃である。348kJを1molあたりに換算すると、174 kJ/molである。 以上のような実験結果から、実際の反応では、分子は解離状態を経由しないと考えられている。代わりに経由するのは、「活性化錯体」(かっせいか さくたい)という状態であり、高温などのエネルギーを与えた状態の間のみに生じる、反応分子どうしの複合体である活性化錯体という複合体を経由して、そこから結合相手を変えて反応式右辺の生成物(この場合はHI)を生じる反応が行われていると考えられる。 この反応物と生成物との中間の状態を活性化状態(かっせいか じょうたい)と言い、その活性化状態にするために必要なエネルギーを活性化エネルギー(かっせいかエネルギー)という。反応が起こるためには、活性化エネルギー以上のエネルギーが分子に加わる必要がある。 「活性化状態」のことを「遷移状態」ともいう。 触媒 過酸化水素水は、そのままでは、常温では、ほとんど分解せず、ゆっくりと分解する。 しかし、少量の二酸化マンガンを加えると、分解は速まり、酸素の発生が激しくなる。そして、二酸化マンガンの量は、反応の前後では変化しない。この二酸化マンガンのように、自身は量が変化せず、反応の速度を変える働きのある物質を触媒(しょくばい)という。 触媒では、反応熱は変わらない。 この二酸化マンガンのように反応速度を上げるものを正触媒(せいしょくばい)という。また、反応速度を下げる触媒を負触媒(ふしょくばい)という。ふつう、「触媒」といったら、正触媒のことを指すことが多い。 正触媒で反応速度が増えるのは、一般に、触媒の表面では、触媒の吸着力により、もとの結合が弱められ、そのため、反応物の活性化錯体を作るエネルギーが減少し、したがって原子の組み換えをするためのエネルギーが減少したことから活性化エネルギーが減少するからである。 ヨウ化水素の場合、白金が触媒になる。白金があると、ヨウ化水素の反応での活性化エネルギーが小さくなる。また、活性化エネルギーが小さくなったため、反応も速くなる。触媒があっても、反応熱は変化しない。 一般に、(正触媒)触媒によって、活性化エネルギーが小さくなれば、反応速度は速くなる。一般に、触媒では、反応熱は変わらない。
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高等学校の学習 (高等学校 から転送) ここでは、高校向けの書籍が中心です。2022年から高校の新課程が実施されたため、改訂作業に時間がかかっています。そのため、現在でも多くの科目で旧課程の教科書を見ななければならない状況です。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。もしよろしければ、改訂作業を手伝っていただけると幸いです。 進捗状況の凡例 高等学校の教科書目録一覧 ※リンク先は、2022年以降入学された新高校1年生、新高校2年生で使う教科書です。 普通教育に関する各教科・科目と標準単位数 国語 新課程 (現在、国語表現の内容は執筆途中です。また、原文執筆者の許可が下りない可能性が高いので、国語表現以外のウィキブックス教科書は省略します。) - 高等学校現代の国語 - 高等学校言語文化 - 国語表現 (2022-10-29) - 高等学校論理国語 - 高等学校文学国語 - 高等学校古典探究 旧課程 - 国語総合 4単位 (2014-12-23) - 国語表現 3単位 - 現代文A 2単位 (2012-12-21) - 現代文B 4単位 (2014-11-24) - 古典A 2単位 (2012-12-21) - 古典B 4単位 (2014-12-22) 関連項目 地理歴史 (現在、探究科目の教科書は執筆途中です。) 新課程 - 歴史総合 2単位 (2023-03-05) - 地理総合 2単位 (2022-09-15) - 世界史探究 3単位 (2022-12-26) - 日本史探究 3単位 (2023-07-31) - 地理探究 3単位 (2023-03-22) 旧課程 - 世界史A 2単位 (2012-12-21) - 世界史B 4単位 (2018-05-04) - 日本史A 2単位 (2018-07-31) - 日本史B 4単位 (2018-06-06) - 地理A 2単位 - 地理B 4単位 (2022-09-14) 公民 (現在、新課程に対応する公民の教科書は執筆途中です。当面の間は/旧課程の教科書で代用してください) 新旧課程共通 - 政治経済 2単位 (2023-03-22) - 倫理 2単位 (2022-11-20) 旧課程 - 現代社会 2単位 (2013-09-30) 新課程 数学 (2021年入学生までの旧課程に対応する数学の教科書は高等学校数学を参照してください) 理科 (現在、現行・新課程に対応する生物・地学・物理の教科書は執筆途中です。当面の間は/旧課程の教科書で代用してください。) - 科学と人間生活 2単位 - 物理基礎 2単位 (2023-07-24) - 化学基礎 2単位 - 生物基礎 2単位 - 地学基礎 2単位 - 物理 4単位 (2022-06-27) - 化学 4単位 (2022-11-5) - 生物 4単位 (2022-11-18) - 地学 4単位 (2022-11-18) - 理科課題研究 1単位 - 理数探究基礎 1単位 (2023-00-00) 外国語 (現在日本語版ウィキブックスには現行課程に対応する外国語科の教科書はありません。当面の間は/旧課程の教科書で代用してください) - 英語コミュニケーションⅠ 3単位 - 英語コミュニケーションⅡ 4単位 - 英語コミュニケーションⅢ 4単位 - 論理・表現Ⅰ 2単位 - 論理・表現Ⅱ 2単位 - 論理・表現Ⅲ 2単位 - 英語以外の外国語に関する科目 関連項目 保健体育 - 実技編 7~8単位 (2023-00-00) - 座学編 2単位 (2023-05-21) 芸術 家庭 (現在日本語版ウィキブックスには新課程・現行課程に対応する家庭科の教科書は目次のみとなります。) - 家庭基礎 2単位 (2013-09-30) - 家庭総合 4単位 (2022-11-26) - 生活デザイン 4単位 情報 新課程 旧課程 - 社会と情報 2単位 (2016-06-10) - 情報の科学 2単位 (2016-06-10) 総合的な学習の時間 3~6単位(2単位まで減可) 専門教育に関する各教科 - 高等学校農業 (2013-09-30) - 高等学校工業 (2013-09-23) - 高等学校商業 (2013-09-30) - 高等学校水産 (2013-09-30) - 高等学校家庭 (2013-09-30) - 高等学校看護 (2013-09-30) - 高等学校情報 (2013-09-30) - 高等学校福祉 (2022-08-06) - 高等学校理数 (2013-09-30) - 高等学校体育 (2013-09-30) - 高等学校音楽 (2013-09-30) - 高等学校美術 (2013-09-30) - 高等学校英語 (2013-09-30)
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高等学校地学のページです。 以下の項目は啓林館地学の配列に従っています。 Part1 固体宇宙の概観と活動 地質学は、私達が住んでいる大地とそこで見たり感じたりしている現象を説明しようとする科学の一分野です。地球の内部を見たり触ったりするのは困難ですが、20世紀になって、科学者達は重力、地震波、熱、地磁気などを手がかりに、地球について急速に理解し始めました。一方、日本のように地質活動が盛んな地域では、地震や火山が多く、歴史の中で大きな災害を引き起こしてきました。このような「活動する地球」の仕組みや、私達の足元の地面はどうなっているのかを説明する科学的な枠組みが、「プレートテクトニクス」です。プレートテクトニクスは、20世紀後半に発表された理論です。その発展は、人々の自然に対する考え方や理解の仕方を大きく変える「科学革命」の代表例といえるでしょう。 ここでは、大地そのものである固体地球を人類がどのように観察・観測し、現在のような理解・認識に達したかについてお話しします。自然に対する人々の考え方が時代とともにどのように変化してきたかを見れば、科学がいかに進歩してきたかを理解出来ます。現在の理解の枠組みであるプレートテクトニクスは、地球が行う様々な活動を理解するのに役立ちます。 Chapter1 地球の概観 地球の表面では岩石を採取して調べられますが、地面から直接採取出来る最深部は地表から約12キロメートルしかありません。そのため、直径約6400キロメートルの地球の内部を知ろうとすると、別の方法を用いなければなりません。代表的な方法としては、重力、地震波、地殻熱流量、地磁気などを利用します。 Chapter2 プレートテクトニクス Chapter3 地球の活動 - 地震 (2022-11-19) - 地殻変動 (2022-11-19) - 火山と火成活動 (2022-11-19) - 造山帯と変成作用 (2022-11-19) Part2 地球の歴史 地球が誕生してから、約46億年が経ちました。この間、地球の内側も外側も大きな変化を遂げてきました。マグマの海を経て、液体の水がある海が現れ、原始生命が誕生して、プレートが動き始め、様々な生命が現れました。地表の層は安定していないため、少なくとも2回、地表が全て凍結しました。それでも、小さな単純な生物から、大きな複雑な生物が生まれ、そして人間という知的生命体が誕生しました。このように、地球は太陽系だけでなく、銀河系の中でも非常に珍しい惑星です。 人類と地球の未来を考え、行動する前に、過去に何があったのか、今どうなっているのかを知る必要があります。46億年の地球の歴史を、科学者達はどのように解明してきたでしょうか。岩石や地層に残された様々な地球史の記録を読み解く方法を学びましょう。日本列島はユーラシア大陸の最東端に位置します。その地殻は、大陸の地殻がどのように成長し、プレートがどのように移動してきたかを示しています。私達の住む日本列島の歴史も学んでみましょう。 Chapter1 地表の変化と地層 地球上の水は、大気、海洋、陸の間を循環しています。その際、水は地表を削って土砂を拾い上げ、下流に運んで積み上げます。土砂は積み重なり、堆積した場所の環境を示す層となります。そして、時間が経つと、この層が固まって堆積岩になります。 地層がどのように積み重なっているか、どの程度離れているかを調べて、地層の様子を調べれば、地球の歴史を理解出来ます。 Chapter2 地球・生命・環境の歴史 - 地殻の進化 (2022-11-19) - 生命の進化 (2022-11-19) - 長期の気候変動 (2022-11-03) Chapter3 私達の日本列島 - 日本列島 (2022-11-19) - 日本列島の歴史 (2022-11-19) Part3 大気と海洋 地球の周りには大気があります。大気は地表を暖かく保ち、有害な紫外線から地表の生物圏を守っています。地表の約70%を占める海は、多くの熱を蓄え、気温の変化が極端にならないようにしています。気温、風、雨量などの大気中の条件は、空間的・時間的に大きく変化します。これは、低緯度と高緯度、地表付近と上空、季節によって違いがあるためです。海水の流れは、大気の流れに似ていますが、ゆっくりした流れになっています。大気と海洋はつながっており、様々な影響を与え合っています。 太陽の放射と月の万有引力は、大気と海洋を宇宙と結びつけています。地形と火山活動は、大気と海洋を固体の地球に結びつけています。地球の長い歴史の中で、これらの条件は変化してきましたが、その変化の中には、宇宙や固体の地球が原因となっているものもあるのではないでしょうか。季節や天候が変化するのは、大気や海洋の動きによるものです。そんな大気や海について、もっと調べてみましょう。 Chapter1 大気の構造 高度100kmまで、地球大気の組成はほとんど同じです。しかし、その質量の90%は、高さ16kmまでの部分にあります。これは地球のの大きさに過ぎません。対流圏では、水は気体から液体、そして固体に変化します。その際、水は大量のエネルギーを取り込み、放出します。また、水蒸気が赤外線を放出したり吸収したりするため、地表は暖かく保たれます。成層圏では、地球上の生物にとって有害な紫外線を取り込むオゾン層があります。 Chapter2 大気の運動 - 風 (2022-11-19) - 大気の大循環と世界の気象 (2022-11-19) Chapter3 海洋と海水の運動 - 海洋 (2022-11-19) - 海水の運動 (2022-11-19) Chapter4 気候変動と地球環境 気候とは、ある地域の大気の状態を長い期間にわたって総合的に表した言葉です。地球上の気候がいつも変化している事実は、みなさんご存知の通りです。近年、人類による大気中の二酸化炭素の増加やフロンガスによるオゾン層の破壊が、気候変動を引き起こす可能性が指摘されています。その理由は、気候変動は、大気や海洋が異なる規模でどのように動き、物質がそれとともにどのように動くかに関係しているからです。 - 気候変動 (2023-01-25) - 物質の循環 (2022-11-19) - 人間の活動と地球環境 (2022-11-19) Part4 宇宙の構造 紀元前1000年頃、人々が農耕を始め、暦や時間を必要とするようになった頃、人々は空を見上げ、星を見るようになりました。つまり、最も古い分野の一つである天文学は、最も進んだ分野の一つでもあり、現在でも未知の分野が増え続けています。技術の進歩により、100億光年以上離れた宇宙の天体を見られるようになりました。太陽系の天体を調べるために送り出された探査機の中には、太陽風の範囲から外れて、星と星の間の空間にいる探査機もあります。 一方、宇宙は私達が知的好奇心で興味を持つだけの対象ではありません。宇宙の進化の過程で、星々は私達の住む地球を作り、地球上の生命を構成する炭素や酸素などの元素を作り出しました。太陽のもとで生命は進化して、人類が誕生しました。つまり、私達は星の子です。人は非常に高度な文明社会を築いてきました。私達人間は宇宙の中で生活している事実を忘れず、宇宙の姿や時間的な変化を学んでいきましょう。 Chapter1 太陽系の天体 約46億年前、太陽系の全ての天体はほぼ同時に誕生しました。太陽系の真ん中にある太陽は、たった1つの恒星です。太陽は太陽系全体の質量の99%以上を占めており、太陽系の天体の動きを支配しています。Chapter1では、太陽系の天体がどのような姿をしていて、どのように動いているのかを学びます。 Chapter2 恒星の性質と進化 - 恒星の光 (2022-11-19) - 恒星の性質とHR図 (2022-11-19) - 恒星の誕生と進化 (2022-11-19) Chapter3 銀河系と宇宙 - 銀河系 (2022-11-19) - 銀河と宇宙 (2022-11-19) - 膨張する宇宙 (2022-11-19) 当ページの
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1960年代の終わり頃までに、ほとんどの人がプレートテクトニクスの考え方に納得しました。現在、プレートテクトニクスは、マントルがどのように動いていて、地球全体がどのように動いているかという視点から理解されています。 プレートテクトニクスの展開 プレートテクトニクスは、造山帯がどこから来て、どのように大陸が組み合わされるのかを改めて考えるきっかけとなりました。その結果、次の内容が明らかになりました。 - 造山帯に見られるように、地殻の激しい変動は起こっています。 - 造山帯に見られるように、過去の地殻の激しい変動は、現在起こっている変動と変わりません。 多くの観測結果から、プレートが移動したため、大陸が移動して海溝や尾根、山脈などの大きな地形が出来たと考えられるようになりました。アルフレッド・ウェゲナーの大陸移動説は、プレートテクトニクスに変わり、その事実が証明されました。 プレート運動の実測 クエーサーと呼ばれる遠方の天体からの電波を利用して、地表の2点間の距離を精密に測定するVLBI(超長基線干渉法)という方法を使います。その結果、2000年から2010年にかけて太平洋プレート上の日本列島とハワイ諸島の距離が約61cm(1年あたり約6.1cm)縮んでいる様子が明らかになりました。 現在、最も速く動いているのは太平洋プレートです。日本列島周辺では、1年に10cmも動いており、これは回転運動と考えても構いません。一方、ユーラシアプレートはゆっくり動いています。
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地層や堆積岩は、過去の地球表層の環境(古環境)をよく知るために使われます。地層がどのように移動し、重なり合っているかを調べると、過去の環境がどのように変化したかを実感出来ます。 地層の観察 地層は、水によって運ばれた砂や泥の堆積物です。水の流れなどによって、粒子の大きさ、形、種類、並び方などから、地層にいろいろな模様が作られます。地層に含まれる化石や堆積構造から、地層が出来た当時の環境を解明出来ます。 地層の走向と傾斜 地層は、一般に、ほぼ水平に敷き詰められた板と考えられています。ある地点での地層の方向を見れば、他の場所の地層や地下の地層の大きさや厚さを推測出来ます。 地層の広がりと走向・傾斜 層理面(地層面)が水平面に接する方向を地層の走向といい、それらが接する線を走向線といいます。地層の傾斜は、層理面(地層面)と水平面が作る角度とその角度の方向です。地盤がどのように傾いているか、どの方向に走っているかを測定するためにクリノメーターが使われます。走向と角度の2方向から、地層がどの程度離れているかを計算出来ます。水平な地表では、地上の瓦礫の層理面(地層面)は走向方向に一直線に見えます。 地層を調べる ルートマップ 地形図には、地層や岩石の特徴、化石、走向・傾斜など、野外調査で入手したデータを記号や模様で記録しています。このようにして作られた作業用の地図がルートマップです。ルートマップの情報は、その地域の地質がどのような仕組みで、どこから来たのかを知るために使われます。 地質図 地質図には、その地域の岩石、地層、地質構造が示されています。ただし、表土・植生・建物などは示されていません。地表の層理面は、ほとんどが地表の形に合わせて折れ曲がっています。 地質図は、地層や岩石の種類とその境界(地層境界線)、走向・傾斜、断層・褶曲などの地質構造を記号や模様・色で表現しています。 地質柱状図 調査地域の地層を見やすく整理して表すために、地質柱状図が使われています。地質柱状図には、地層の上下関係や厚さ、特徴、産出化石などが示されています。継続的な調査データがなくても、複数の地質柱状図を比較すると、その地域の地質の全体像をつかめます。 地質構造 地層の切り口や曲がり方、割れ方などの構造は、 その地層やその地域が過去に受けてきた変化を表しています。 断層と褶曲 地層や岩盤に引張っている力や圧縮している力が働き、破断面で地層や岩盤が移動してずれた地層が断層です。断層は、力に応じて素早く起こる地層や岩盤の形状の変化です。 これに対して、大きな圧縮の力が地層や岩盤にゆっくりと長い時間加えられると、地層や岩盤は壊れずにゆっくりと折れ曲がっていきます。この変形を褶曲といいます。 断層や褶曲のような構造は、2枚のプレートが合わさった場所に作られます。 - 断層(モロッコ) - 崖に現れた褶曲面(ベルギー) 整合と不整合 地層累重の法則に従うと、地層は海底に堆積するような形で作られます。大きな地殻変動や気候変動の影響を受けず、堆積環境が同じなら、連続した地層が次々と作られます。このような地層の関係を整合といいます。一方、堆積が長期間中断したり、侵食作用によって地層の一部が削られたりすると、地層同士が合わない部分が見られます。このような地層同士の関係を不整合といいます。 地殻変動や気候変動によって海底が陸地に移動すると、堆積作用は停止して風化や侵食が進みます。その後、地殻変動で陸地が海面よりも下に沈むと、堆積作用が再開され、新しい地層が加わると、古い地層と新しい地層の間に区切りが出来ます。これを不整合面といいます。不整合の真上には、基底礫岩と呼ばれる岩石層が出来る場合があります。この地層には、下層の岩石が風化・侵食されて出来た礫がよく見られます。 断層や褶曲などの不整合は、地層の変形、堆積の中断・浸食などを表し、過去に地殻や気候がどのように変化したかを表しています。
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地球は常に太陽からエネルギーを取り込んでいますが、取り込んだ量と同じだけのエネルギーを宇宙へ送り出しています。その結果、地球全体のエネルギー収支は0に保たれています。 黒体放射 物体は、その表面の温度によって、エネルギーレベルや波長の長さが異なる電磁波を出しています。高温の太陽からは、主に紫外線や可視光線、波長が4μmより短い赤外線が放射されています(短波放射や太陽放射)。一方、冷たい地球からは、4μmより波長の長い赤外線が放射されています。長波放射や地球放射は、地球の表面や大気から出る放射線です。4μmでは、長波放射と短波放射の波長はあまり近づきません。 大気と地表のエネルギー収支 太陽定数とは、太陽からの放射が地球の大気圏上部に到達する量です。この量は約1370ワット平方メートルです。地球に降り注ぐ太陽放射のうち、大気は約30%反射し、大気と雲は約20%、地表は約50%取り込むと考えられています。アルベドとは、地表に当たる光の量と反射する光の量の比(反射率)で表します。地球全体の平均的なアルベドは0.30ですが、地表によって差があります。海や森林はアルベドが低く、雪原や雲はアルベドが高くなっています。 右の図は、外気、大気、地表にどれだけのエネルギーがあるのかを示しています。外気と大気のエネルギー収支が取れているだけでなく、大気と地表のエネルギー収支も平均して取れています。そのため、安定した環境が保たれています。熱伝導は、地表から空気中へと熱エネルギーを移動させます(顕熱)。また、水が蒸発する時、空気中に水蒸気を送り込みます。この水蒸気が蒸発熱(潜熱)を奪うので、地面から空気中への熱移動と考えられます。 大気の温室効果 波長0.3マイクロメートル以下の紫外線は、熱圏では酸素に、成層圏ではオゾンにほとんど吸収されます。対流圏下部では、水蒸気と二酸化炭素が主に赤外光の一部を取り込んでいます。一方、可視光線の一部は大気や雲で反射・散乱して大気圏外に送り返されますが、残りの大部分は大気に吸収されずに地表へ届きます。 地表から届く波長8〜13マイクロメートルの赤外線は、大気圏下層に含まれるガスに吸収されます。このガスには、水蒸気、二酸化炭素、メタンなどが含まれます。また、赤外線は大気からも放出され、大気は赤外線を吸収するため地表を暖めます。この放射の約3分の2は地表に戻り、地表を温めます。つまり、大気は可視光線を中心とした波長の短い太陽放射は通し、赤外線を中心とした波長の長い地球放射は吸収しています。これを大気の温室効果といい、その原因となる気体を温室効果ガスと呼びます。 地球の赤外線のうち、波長8〜13マイクロメートルの部分は、大気が吸収せず、ほぼ全部が宇宙へ抜けるため大気の窓と呼ばれています。大気の影響を受けにくい大気の窓の波長帯の赤外線は、人工衛星で地表を見るために利用されています。 低緯度から高緯度へのエネルギー輸送 1平方メートルあたり平均0.35キロワット平方メートルの太陽放射が地球全体に届いています。しかし、入射量は低緯度では多く、高緯度では減っています。これは、太陽の南中高度が低緯度では高く、高緯度では低いからです。 一日中太陽が沈まない夏の極域(白夜)では、1日平均の入射量が最も高くなります。一日中太陽が昇らない冬の極域では、1日平均の入射量は0です(極夜)。しかし、平均すると赤道では入射量が多く、高緯度では入射量が少なめです。地球の海はすぐに熱くなったり冷たくなったりしないので、季節による入射放射量の変化で地表付近の温度変化がかなり緩やかになります。そのため、一年を通して低緯度の地表付近の温度は高く、極域の温度は低く保たれています。 太陽放射と地球放射の緯度分布 地球のエネルギー収支が均衡しているといっても、ある場所が受ける日射量と、その場所が出す地球放射量が均衡しているわけではありません。地球が太陽から取り入れる放射量の変化に比べて、地球が送り出す放射量の変化は僅かです。これは、太陽からの熱量が多い低緯度の方が、少ない高緯度よりも高温なので、高温の低緯度から低温の高緯度へ熱が流れるからです。 熱輸送の担い手 低緯度から高緯度への熱の移動は、大きく分けて、大気中、大気中の水蒸気、海水の3つの経路で行われます。大気による移動、大気に含まれる水蒸気による移動、海水に含まれる水蒸気による移動です。大気中の水蒸気は、蒸発する時に潜熱を取り込み、凝縮する時に潜熱を出します。熱を移動させるものの一つです。全体として、北半球では北に、南半球では南に熱が移動し、緯度380付近で最も北に熱が移動します。そこでは、太陽の光を取り込むと同時に、地球の光を送り出しています。この3つの熱の動き方が、天気や気候にも大きな影響を与えています。気温の変化は大気中の熱の移動によって起こり、雨や雪は水蒸気中の潜熱の移動によって起こります。海の中では、海流が熱を動かしています。イギリスやノルウェーなどヨーロッパ北部の冬の気候が、サハリンやシベリアなど同じ緯度の他の地域よりもずっと穏やかなのは、ヨーロッパの北西海岸に沿って流れる暖流の影響もあります。
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高等学校 地学/地球の内部(地震波) アイソスタシー 水には、木などの密度の低い物質が浮かびます。地殻は、マントルよりも小さな密度なので、地殻はマントルの上に浮かぶような浮力を受けていると見なせます。例えば、海中に氷山が浮かぶようなものです。 さてマントルに浮かぶ地殻について、ある地点の付近での、地殻が安定するためには、力学的に直感的に考えれば、標高の高い地殻は、そのぶん浮力も多く必要なので、地下深くにまで地殻が続いている必要があります。 このような地殻とマントルの、浮力と重力の釣り合いを、アイソスタシー(isostacy)といいます。 ある一定深さでは、その地点付近では、ある面にかかる圧力は同じです。 このように地殻が地下まで続いているため、ブーゲー異常については、山などの高い地形がある場所では、アイソスタシーによって地下に密度の低い地殻があるため、山の付近ではブーゲー異常が負になるのが一般です。
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地球は、大きく分けて次の2つです。 - 岩石などからなる固体地球 - 固体地球を取り巻く大気圏 固体地球は、地殻、マントル、外核、内核の4つの区分に分かれています。これらを作るのに、地震波の伝わり方の変化が利用されています。大気は、地表から上空に向かって、対流圏、成層圏、中間圏、熱圏の順に構成されています。これらは、高度によって大気の温度がどのように変化するかに基づいています。 気球や人工衛星、ロケットなどを使って様々な高さから大気圏を観測すると、その構造や成り立ちが明らかになります。しかし、地表の岩石や地層の調査だけだと、地下の構造や成分は断片的にしか分かりません。そこで、以下のような方法で、地球の内部の構造を探ってみます。 地球の重力で調べる 地球の重力は、地球の内部構造や地形を示しています。地下に密度の大きい物質があれば、その部分の重力は他の場所より強まります。地球の重さを見れば、地下を構成している物質の密度がどれくらいあるかが分かります。 地震波で調べる 地震は特定の場所でしか起こりませんが、地震が出す波はどこでも感じられます。地震波は、通過する物質や形の良し悪しによって、動く速度が異なります。そこで、地球上の様々な場所から送られてくる地震波を見ると、地下の深さによって波がどこに行くのか、どのくらいの速さで動いているのかが分かります。その結果、地球内部の物質や構造を推測出来ます。 地下の熱で調べる 地球内部を知るもう一つの重要な手段は、地球が発する熱を見れば分かります。火山の噴火や高温のマグマの存在などから、地球の内部には熱いものがあると推測出来ます。火山が噴火している場所では、マグマが上昇し、地球内部の熱がその場所に伝わります。日本列島やアイスランドのように火山が多い地域では、地球内部の熱が地表にたくさん出てきています。一方、北欧やユーラシア大陸北部、アメリカのグレートプレーンズ中央部など、火山がない地域では、地球の中心からあまり熱が出てきません。かつて、地球内部から地表に出る熱量(地殻熱流量)は、大陸より海の底の方が少ないように思われていました。しかし、地球内部が海底でどれだけ熱を発しているかを注意深く測定した結果、海底の方が大陸よりも多くの熱を出していました。地球内部を知る1つの方法は、地球の熱を調べれば分かります。 地磁気で調べる 方位磁針のN極は、一般的な北の方角を指しています。これは、方位磁針のN極が、北極に近い地球内部の磁石のS極に引き寄せられるからです。地殻やマントルよりも深い部分にある外核液の流れが電流を作り、この磁力を生み出していると考えられています。地球の磁場の強さや方向(地磁気)を見れば、外核の状態や運動を知る手掛かりになります。
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地殻変動や火山活動、風化、侵食、運搬、堆積などによって、地形が変化しています。地表が急に変わってしまうと、しばしば災害が発生します。 風化 地殻変動や火山活動などによって、むき出しになった岩石や地層は破壊されて、化学変化を起こしたりします。それを風化といいます。風化によって、岩石は細かく砕かれた粒子(砕屑物)となり、成分の一部も溶け出します。 物理的風化 物理的風化(機械的風化)とは、地層や岩盤が物理的な作用によって破壊される現象です。温度が変化すると、岩石を構成する鉱物が伸びたり縮んだりします。膨張の速度は鉱物によって違うので、岩石には小さな罅割れが出来ます。その罅割れに入り込んだ水が凍ると、さらに罅割れが大きくなります。その結果、罅割れが大きくなり、岩石はさらに破壊されます。海水に溶けている塩類(硫酸ナトリウム、炭酸カルシウムなど)が結晶化して成長する場合があり、これを塩類風化と呼びます。また、生物的風化では、植物の根によって罅割れを広げます。 化学的風化 化学的風化とは、岩石が雨水や地下水と反応して、一部の鉱物が流出したり、他の鉱物に変化したりする現象をいいます。 石灰岩や花崗岩に含まれるカリ長石は、二酸化炭素の溶けた水と反応して化学的風化が進みます。熱帯地方では、カリ長石が化学的に分解してカオリンとなり、これが水と反応して水酸化アルミニウムになります。アルミニウムの原料となるボーキサイトの主成分は水酸化アルミニウムです。 以上から、化学的風化は温暖湿潤な熱帯・亜熱帯に多く、物理的風化は乾燥・寒冷で温度変化の激しい場所によく見られます。 地表の変化 水は、大気、海洋、陸を循環しながらその状態を変化させています。太陽放射エネルギーを吸収して海面から蒸発した水の一部は、雨や雪として地上に降り、海面より高い位置にあるため再び海へ流れます。この時、流水による侵食作用・運搬作用・堆積作用がはたらき、地表は多様な姿に変化しています。陸上で作られ、運搬した砕屑物の多くは海底にたどり着き、地層を作ります。 流水のはたらき 川底を削る下方侵食と川幅を広げる側方侵食は、どちらも河川侵食の1つです。侵食の強さは流速の2乗に関係するため、川が運ぶ最大の岩石の破片の大きさは流速の6乗にほぼ比例します。流水作用は、流水の速さと粒子の大きさの関係で決まります。流水によって運ばれた小さな岩片は、時間とともに砕かれたり、すり減ったりして、小さな砕屑物へと変化します。流速が遅くなると、河川の運搬能力は急速に下がり、堆積作用がはたらきます。 河川の縦断面 河川の縦断面図は、源流部から河口までの様子を示しています。縦断面図のうち、横軸は河口からの水平距離、縦軸は川底の高さです。一般に、河川の縦断面は下に凸の形をしており、中流域付近で河床の傾斜が大きく変化する地点があります。河川が流れる地域の地形や地質によって、下に凸になる度合いは変わります。 地形の傾斜が大きい上流部では、下方浸食が強く働き、川底も低くなっています。傾斜の変化が大きい中流部付近では、流速が大きく下がり、運搬力も弱まり、砂利や砂などの大粒の砕屑物が堆積します。一方、傾斜が緩やかな下流部では堆積が進み、平坦化が進みます。このように、流域ごとに水の流れも変わるため、河川の断面図は緩やかな曲線を描くように変化していきます。 大陸の河川と比べると、地殻変動の激しい日本の河川では、上流の山岳地帯から下流の平野部や河口部までの距離が短くなっています。また、これらの河川の縦断面は非常に急な勾配となっています。 陸域の地形と堆積作用 険しい山地や斜面では、河川は速く流れ、土砂を浸食して運搬します。その結果、谷底が深くなると、V字谷になり、谷底に土砂が堆積すると谷底平野になります。 河川が山地から平野のような平坦な土地へ出てくる地域では、地形の傾斜が急に小さくなります。そのため、流れが悪くなり、運搬も遅くなり、礫や砂のような大きな砕屑物が集まって扇状地を作ります。 平野部の河川は、側面の侵食によって曲がりくねっています。洪水時には、砂や泥が堆積して氾濫原になります。河口では流れが緩やかになり、土砂が堆積して三角州になります。 河岸段丘 河川の中流から下流の比較的平坦な地域では、川底にある土砂を削って運搬するよりも川を広げ、土砂が堆積しやすくなります。しかし、海面が上がったり、地盤が嵩上げしたりすると、海面との標高差が拡大します。しばらくの間、川の流速が大きくなります。川底にある土砂を削って、運びやすくなり、川底が階段状に削られると、河岸段丘が出来ます。 日本列島のように地殻変動が激しい地域では、河川が土砂を侵食して、運んで、堆積させるので、地形の変化に大きな影響を与えています。 海岸の地形 潮の流れによって河口から運ばれてきた土砂の一部が海岸近くに堆積すると、砂嘴(嘴状の陸地)が出来上がります。砂嘴が成長した地形は砂州とよばれ、砂州と海岸の間には潟(ラグーン)が出来ます。 岩石海岸に波が当たると、岩が砕けて崖(海食崖)になります。海岸近くの土地が高くなると、海底に沈んでいた部分が再び地表に上がってきます。この浮き出た部分を、再び波によって削り取ります。これを海食台(波食台)といいます。以上のような流れが繰り返されると、海岸段丘が出来ます[1]。 海域の地形と堆積物 大陸棚とは、海岸から沖に向けて小さな傾斜で平らな場所をいいます。大陸棚は、海岸から水深200mくらいまで傾き0.06度(の勾配)以下の起伏の少ない平坦面から出来ています。南極海では水深約400mの深さまであります。大陸棚の幅は平均で約80kmですが、北極海では400km以上ある場所もあります。大陸棚は、約1万8000年前の最終氷期で海面が現在より約120m低下した時に出来た海岸近くの広い平地と考えられています。大陸棚の端から水深数千メートルの海底まで、大陸斜面と呼ばれる急斜面があります。大陸棚の傾斜より3〜6度(〜の傾斜)ほど急な斜面になっています。大陸斜面下部の深海底には、陸源砕屑物が非常に厚く堆積して出来た海底扇状地があります。 海岸付近の海底に沈殿した細かい砂や泥は、大陸棚に移動して再堆積します。大陸棚末端や大陸斜面上部にしか堆積しない土砂は、不安定な状態にあり、地震などで海底地すべりや海底土石流が発生するきっかけとなります。また、この時、水と混じった砂が高密度に流れ、時速100kmで大陸斜面を移動する場合もあります。これを混濁流(乱泥流)といいます。タービダイトとは、混濁流によって形成された岩石層をいいます。タービダイトでは、級化構造、クロスラミナ(斜方葉理)など、様々な種類の堆積構造が見られます。級化構造とは、堆積物が粒径の大きいものから小さいものへと積み重なった構造をいいます。 堆積物重力流とは、海底地滑りや海底土石流、濁流など、重力の作用で下へ下へと移動する流れをいいます。堆積物重力流は、大陸の斜面を侵食して、深い海底谷を作り出します。また、陸上から大陸斜面下の深海底に大量の瓦礫を運んでしまいます。 深海底の堆積物 水深数千メートル以上の深海底には、陸上の砕屑物がほとんどありません。深海底によく堆積するのは、放散虫の殻や珪質軟泥です。堆積速度は非常に遅く、1000年に数ミリ程度しか堆積しません。珪質軟泥が固まってチャートになります。深海底には、風に運ばれてきた非常に細かい火山灰や風化生成物もあります。 深海底のほとんどは平らですが、海嶺という巨大山脈や海底火山列などの起伏があります。多くの海山はホットスポットとして始まり、その上に石灰岩を載せています。 海嶺で新しく出来た玄武岩質岩石の海洋底(海洋地殻)の表面に、珪質軟泥がゆっくりと堆積し、チャートとなります。大陸に近づくにつれて、陸上の火山灰や粘土が風に運ばれて堆積するようになり、珪質泥岩となります。海溝に近づくにつれて、陸からの砕屑物が重なります。これを海洋プレート層序といいます。 特殊な地形 これまで学習した一般的な地形以外にも、地球上には様々な種類の地形が見られます。特殊な地形は、高緯度地域、山岳地帯、乾燥地帯、海面下に沈む島などで作られています。 風による地形 沿岸流と波によって、海底の砂が海岸に押し寄せます。その砂は、北西からの強い風によって内陸に移動します。これを長期間にわたって繰り返すと、砂丘になります。砂丘の砂はよく磨かれ、粒の大きさも全て同じになります。また、圧倒的に硬くて壊れにくい石英粒も増えます[2]。 一方、砂漠は乾燥していて、水分も蒸発しやすい土地に出来ます。 氷河による地形 緯度が高く、山が多い場所では、夏でも気温が低いため、雪が積もって氷になります。長い年月をかけて氷は厚くなり、ゆっくりと移動して氷河となります。南極やグリーンランドには、氷床(大陸氷河)という厚い氷河があります。ヒマラヤやアルプスなどの山岳地帯の氷河は山岳氷河(谷氷河)といいます。氷河は固体ですが、1年に数十〜数百メートルの速さで下に向かって流れます。 氷河の侵食作用や運搬作用は、水よりもはるかに強力です。氷河は、カール(圏谷)やスプーンで削ったようなU字谷をつくります。氷河は岩盤を削り、直線状の引っかき傷(擦痕)を残します。氷河の両側や末端には、様々な形や大きさの礫が堆積して、モレーン(氷堆石)とよばれる小丘をつくります。 珊瑚がつくる地形 造礁性珊瑚は、熱帯・亜熱帯の浅瀬で成長し、珊瑚礁を作ります。裾礁とは、海岸からまっすぐ伸びている珊瑚礁をいいます。地殻変動や海面変動で島が沈むと、珊瑚礁は陸から離れ、島を取り囲むように成長します。これを堡礁といいます。島がどんどん沈み、陸地が海中に沈むと、珊瑚礁は水面近くにドーナツ状に残ります。これを環礁といいます。礁湖とは、湾の中で珊瑚礁によって海から隔てられている部分をいいます。 地質と災害 地質や地質現象に由来する地表の変化は、災害を引き起こします。これを地質災害といいます。地質災害には、開発によって起こる地質関連の災害も含まれます。地質災害には、地震や火山などのほか、斜面崩壊や地盤沈下など、地盤に起因する災害(地盤災害)があります。 地震による地質災害 地震が起きると、斜面が崩れたり、たくさんの土砂が移動したり、流れ出したりして、人々の生活に被害をもたらします。地盤の液状化は、沖積層やかつて農耕に使われていた土地など、水を多く含んだ柔らかい地盤が地震で揺れた時に起こります。沖積層とは、河床、氾濫原、低湿地、扇状地、河口などの河川堆積物の名称です。これらの堆積物は、現在の河川の作用によって作られました。また、砂のような土砂を多く含んだ水が地表の割れ目から上がってくる噴砂も起こります。 火山による地質災害 火山が噴火すると、火山砕屑物が降り積もり、その周辺地域に被害をもたらします。斜面などに大量に堆積した火山砕屑物は、大雨や雪解け水と混ざり合って土石流や火山泥流となって、下流の地域に大きな被害をもたらします。 斜面の崩壊による災害 日本列島は、火山灰や花崗岩の層が崩れ、真砂や真砂土と呼ばれる柔らかい堆積物で出来ている地域が各地に見られます。このような場所で、地震で地面が揺れたり、大雨が降ったりすると、土砂災害が起こります。斜面災害は、山の崖のような斜面で岩や土が動いて発生します。日本の国土のは山で、山の斜面の近くには多くの人が住んでいます。毎年、斜面災害は多くの被害をもたらしています。 斜面災害の多くは、崖崩れ(急傾斜地崩壊)、土石流、地滑りの3つに分類されます。崖崩れは30度以上の急斜面で起こり、大量の雨や地震による揺れで地盤がゆるみ、一瞬にして崩れ落ちます。地盤の動きが急激で、あっという間に起こるので、避難の目安がつかめません。土石流は、崖や谷の底に溜まった土砂が、長時間続く大雨や集中的に降る雨によって水と混ざり合い、一気に下流に流されて発生します。動きが早く、破壊力も大きいため、大きな災害をもたらします。また、地滑りは、粘土層や帯水層によって地盤が滑りやすくなり、緩やかな斜面を土砂が滑り落ちる現象です。動きはゆっくりですが、広い範囲が一度に動くため、災害が大きくなり、その影響が長く続きます。 地盤沈下 平野部に広がる沖積層には、土砂の粒子と粒子の間に多くの水を蓄えた層があります。この層から、ボーリングして地面の重さ(圧力)を利用すると、地下水を取り出せます。工業地帯で地下水の必要性が高まり、地下水を汲み上げ過ぎると、水を保持していた土砂粒子の間が小さくなり、地層が締まって、地面が沈み、周囲より低くなってしまいます。これを地盤沈下といいます。地盤沈下すると、建物が傾き、水害が起こりやすくなります。 堆積岩と堆積環境 岩石が時間の経過とともに細かく砕けた砕屑物(砂利、砂、泥)、火山の噴火によって噴出した火山砕屑物(火山岩塊、火山礫、火山灰)、生物の遺骸(貝殻、殻など)、化学的に堆積した堆積物などが含まれます。堆積岩とは、堆積物が固まって岩石になった状態を指します。緩い堆積物が圧密作用・膠結作用(セメンテーション)を経て、硬い堆積岩に変化します。この過程を続成作用といいます。 下の表は、堆積岩を堆積物の種類とその成因によってグループ分けした表です。堆積岩の種類は、それがどのような場所でつくられたかを示しています。 砕屑岩 岩石を砕いた状態を砕屑物、砕屑物から作られた岩石を砕屑岩といいます。岩石を構成する破片の大きさによって、礫岩、砂岩、泥岩などと呼ばれます。一般に、粒径が細かく均一なものほど、岩屑が供給源から遠くへ、長く移動する傾向があります。地層に含まれる砕屑物の多くは、海洋大陸棚、大陸斜面、その底にある深海底に堆積しました。陸上では、侵食と移動が最も重要なプロセスなので、河道や湖のような場所で堆積が起こり、砕屑岩が作られます。 火山砕屑岩 火山砕屑岩は、火山が噴火した後に残ったマグマの破片から作られる岩石です。火山砕屑岩は、砕屑岩と同じように、出来た粒子の大きさによって、凝灰角礫岩、火山礫凝灰岩、凝灰岩の3種類に分類されます。火山砕屑岩は、火山がどのようなマグマで出来ていて、どのように噴火しているのかを知るために役立ちます。 生物岩 生物岩とは、主に生物の死骸で出来た堆積岩をいいます。石灰岩を支えているのは、フズリナ(紡錘虫)などの有孔虫や貝殻、珊瑚などで、炭酸カルシウムを主成分としています。熱帯から亜熱帯の温かく浅い海では、珊瑚礁の石灰岩が出来ました。 チャートの多くは、深海の堆積物の底に残された二酸化珪素からなる放散虫の殻で出来ています。珪藻土では、植物プランクトンの一種(珪藻類)が集まっています。 化学岩 地殻変動によって、海が内陸に取り残されてしまう場合もあります。海水が蒸発する時、海水の一部が化学的に結合し、化学岩とよばれる岩石をつくります。塩化ナトリウムが主成分の岩塩や石膏(主成分は硫酸カルシウムと水)がその代表的な例です。また、石灰岩やチャートの一部もこのようにして出来たと考えられています。 ここに注意! 啓林館教科書の記述がかなり大人向けで、読みやすい文章に直しにくかったので、以下のホームページも参照しています。 - ^ 受験地理マスター塾「河岸段丘と海岸段丘のでき方をマスターするたった2つのポイントとは?」2022年11月17日参照。 - ^ 鳥取県公式ホームページ「鳥取砂丘ってどうやってできたの?」2022年11月17日参照。
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大気圏とは、地球を取り囲む大気の層を指します。地球の上空や宇宙に行くにつれて、地球の大気はどんどん薄くなっていきます。 大気の組成 地球の大気の大部分は、窒素と酸素で出来ています。100kmくらいまでは、大気が何で出来ているかはほとんど変わりません。これは、この辺りの空気は対流があるため、よく混ざり合っているからです。100km以上の高度になると、軽くなる分子や原子の量が増えていきます。170km以上では酸素原子の割合が増え、1000km以上ではヘリウム原子の割合が増えます。 空気中には少量の水蒸気、二酸化炭素、オゾンが存在しますが、上から下への温度変化に大きな影響を与えます。水蒸気のほとんどは対流圏にあり、その体積のうち地表に近い部分は3%ほどしかありません。 二酸化炭素 大気中の二酸化炭素の濃度は、年々高くなる傾向にあります。これに、夏には小さくなり、冬には大きくなるという変化が重なります。これは、植物が光合成によって作る酸素が夏に多く、冬に少なくなるのが主な理由です。二酸化炭素の濃度は、植物が多く、陸地が多い北半球では、夏に減少し始め、秋に最も下がります。 水蒸気 対流圏は、高度が高く、緯度が高いほど単位質量あたりの水蒸気量が少なくなります。これは、温度が上がると、より多くの水蒸気を保持出来るためです。水蒸気は、次のような働きをしているので、地球のエネルギー収支に重要な役割を果たしています。 - 蒸発や雲の形成の際に、蒸発や結露による熱を取り込みます。 - 赤外線を取り込みます。 - 雲を形成する時、可視光線を反射して拡散します。 大気圏の層構造 対流圏、成層圏、中間圏、熱圏は、高度による温度の変化をもとに、地球の大気を下から上に向かって4層に分けたものです。このような複雑な温度構造は、地球の大気圏にしかありません。火星や金星にはありません。地球の大気圏では、成層圏のオゾン層が太陽の紫外線を吸収して空気を温めています。この現象は、空気が最も暖かい高度50km付近で起こります。 熱圏の窒素や酸素の分子は、太陽の紫外線やX線を吸収し、熱圏の温度を高くしています。 気温 大気を構成する原子や分子は、あちこちに散らばっています。これを熱運動といいます。温度とは、この熱運動の強さを示す数値です。熱圏の上の空気は高温ですが、熱運動が激しいといっても、大気の密度があまり高くないので、単位体積あたりのエネルギーはそれほど多くありません。 気圧 その高さより上の大気の単位面積あたりの重さが気圧です。高度が上がるにつれて、大気中の圧力は16kmごとに約ずつ下がっていきます。例えば、高度50kmでは海面気圧(海抜0m)の約、高度100kmでは約100万分の1になります。 対流圏と大気境界層 大気中の水蒸気のほとんどは対流圏に存在します。大気が動くと、この水蒸気から雲や雨が発生し、毎日の天候を変化させています。対流圏と成層圏の境界である対流圏界面(圏界面)は、高緯度では約9km、中緯度では約12km、低緯度では約17kmの高さになっています。日本付近では、低緯度の球面界面は夏に多く見られ、低緯度と中緯度の球面界面(二重圏界面)は夏以外でもよく見られるようになりました。 対流圏では、高度が上がるにつれて空気が冷たくなります。高度が高くなるにつれて気温が下がる割合を気温減率といいます。平均すると、高度100mあたり約0.65℃の低下となります。 大気境界層は、対流圏のうち、地表の影響を受ける最も低い部分です。大気境界層では、地表に接する空気が日中の太陽によって暖められるため、気温は日々変化しています。上昇気流も起こり、地上から1〜1.5kmくらいまでの空気は非常によく混ざっています。 逆転層 空が澄んでいる夜、上空は暖かくなります。逆転層とは、このような層をいいます。夜、放射冷却によって地球の表面温度が下がると、地表に近い大気も冷やされます。これが地盤逆転の原因となります。逆転層の中では、空気はとても安定しています。上空に逆転層があると、煙や埃などの汚染物質が逆転層の下に集まりやすくなります。逆転層では対流が起こりにくいからです。 成層圏とオゾン層 対流圏界面の上では、宇宙空間の温度が上昇し、50〜60km上空で最も高くなります。この領域を成層圏といい、成層圏界面は成層圏の最上部を表す名称です。成層圏下部の約15〜30kmの高さには、大気中に多くのオゾンが存在します。この部分をオゾン層といいます。オゾン層は太陽の紫外線を吸収して大気を暖めるので、成層圏の気温が高くなる仕組みになっています。オゾン層の上部は紫外線を多く吸収しますが、上に行くほど大気の密度が低くなり、熱を保持出来なくなるので、最高気温は50kmくらいになります。オゾン層は、生物に悪い紫外線のほとんどを吸収してしまいます。 オゾンの多くは、熱帯地方の上部成層圏で、紫外線が酸素の分子にぶつかって作られます。しかし、オゾンの量は、低緯度よりも高緯度の方が多く見られます。これは、低緯度の成層圏で作られたオゾンが、大気の大規模な循環によって高緯度へ移動するためです。この循環は遅く、熱帯対流圏のオゾンが極域に到達するのに4〜5年かかるといわれています。 1980年代には、実験室で作られるフロンがオゾン層を薄くしている事実が明らかになりました。フロンの製造や使用には規制があるのに、まだ多くのフロンが大気中で残っています。オゾンホールとは、毎年春先(9〜10月頃)、主に南極に現れるオゾンが非常に少ない領域をいいます。 オゾンホールは、秋から春にかけて、強いジェット気流(成層圏の極渦)が南極大陸の周りを時計回りに流れるため、同じような状態になります。そのため、中緯度ではオゾンを多く含んだ空気が混ざらないようになっています。極渦の内側には大きな低気圧があり、これが冷たいので極成層圏雲が形成されます。この雲の表面で、オゾンホールを作るものの一つであるフロンから出る物質が、激しいオゾン層破壊反応を起こします。夏になると、極域の気温が上がり、極成層圏の雲や極渦が消えます。その結果、オゾンを多く含む低緯度の空気がオゾンホールに流れ込み、オゾンホールが閉じてしまいます。 成層圏突然昇温と赤道成層圏準2年周期振動 成層圏は、夏には極域を中心とした安定した高気圧に覆われます。しかし、冬になると、対流圏で作られた大規模な大気の波が成層圏に伝わり、一時的に極渦が乱されます。この時、成層圏の温度は一気に数十度上昇します。これを成層圏突然昇温といいます。成層圏突然昇温は、陸と海が複雑に広がっている北極では起こりやすく、南極では起こりにくいといわれています。 一方、赤道成層圏で起こる大規模な振動として、準2年周期振動があります。これは、26カ月ごとに東風と西風が入れ替わるものです。これは、対流圏で大小様々な波が作られ、伝わっていくためだと考えられています。また、対流圏の気候は、成層圏の急激な温暖化や、ほぼ2年ごとに起こる変化にも影響されます。 中間圏・熱圏 成層圏と対流圏の境界である約50〜60km上空は、空気が冷たくなっています。この範囲は中間圏といわれています。高度80〜90kmでは、最も気温が下がります。中間圏界面は、中間圏の上端です。 中間圏の上空で、高度が上がるにつれて気温が上昇するのが熱圏です。ここでは、酸素と窒素が太陽の紫外線やX線を吸収するため、大気が暖かくなります。波長の短い紫外線は熱圏で、波長の長い紫外線はオゾン層で吸収されます。オーロラは、熱圏のある高緯度地方で発生します。太陽からの荷電粒子が大気中の原子や分子にぶつかると、エネルギー状態が高まります。その結果、大気は光を放つようになります。太陽の動きに左右されますが、熱圏の上縁は地表から約500〜700kmの高さにあります。外気圏は、熱圏の上部にある宇宙空間です。 高度約80〜500kmで、太陽からの紫外線が原子や分子を電離し、イオンや電子が多く存在する場所となります。電離圏とは、この領域の名称です。電離圏には、電子密度が非常に高い層(電離層)が数種類存在します。短波の電波は電離層でよく反射されるので、地球の裏側にいる人と話すのに使えます。 大気の観測 新聞などでよく目にする地上天気図は、大気圏の底である地表の様子を示しています。しかし、地表の天気を調べるには、より広い範囲、地球の上空で大気がどのように動いているかを知る必要があります。 地表での観測 気圧、気温、湿度、風向、風速、降水量、雲、地表の日照時間などは、船や露場(気象観測所)で計測出来る範囲です。アメダス(地域気象観測システム)や海洋気象ブイロボットによる自動観測も行われています。雨粒が散乱する電波は、気象レーダーで雨や風の強さを測定するのに使われています。気象レーダーとアメダスのデータを合わせて、30分ごとに1km四方の雨の降っている場所を地図上に表示出来ます。この地図には日本近海も含まれています。 また、地球大気環境の実態や長期変化を知るために、世界中で次の内容について研究が行われています。 - 二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガス - オゾンやエアロゾルなどの大気中の微量ガスや微粒子 高層気象観測 ラジオゾンデは、気球に取り付けて、高度約30kmまでの気圧、気温、湿度、風向、風速を測定する装置です。 ウィンドプロファイラとは、上空の風速と風向きを常時測定する装置です。また、約5kmまでの大気の流れを3次元的に測定出来ます。ウィンドプロファイラでは、高度約5kmまでの大気の流れを立体的に測定できます。そのため、特定地域の大雨や竜巻の予測に役立っています。日本では、全国33カ所にウインドプロファイラを設置しています。 気象衛星による観測 気象衛星は、陸上から見えにくい海上の天候を観測出来ます。また、世界中の気象情報をリアルタイムで宇宙から伝えてくれます。地上からの観測と衛星からの観測は、それぞれ異なる高度で様々な気象要素を拾えるので、この2つの観測を組み合わせると、地球全体の気象情報をつかむのに有効です。気象衛星には、赤道上空を周回する静止気象衛星と極域を周回する極軌道気象衛星の2種類があります。 静止気象衛星は、赤道から約3万5800kmの上空にあります。地球の自転と同じ長さで公転しているため、常に同じ経度帯を観測出来ます。2022年現在、日本のひまわり9号のほか、静止気象衛星は世界に11機あります。静止気象衛星は、1時間ごとに可視画像、赤外画像、水蒸気画像を撮影しています。これらの写真は、雲や水蒸気がどこにあり、どのように動いているかを調べるために使われます。また、小さな雲の動きから風速や風向きを測定したり、海面の温度を測定したりするのにも使われます。 極軌道気象衛星は、高度850kmの地球を約100分で一周し、静止衛星では見えない極域を観測します。また、地球は自転しているので、1機の衛星で地球全体を観測出来ます。極軌道にある気象衛星は、約30km上空までの気温や水蒸気量などを測定します。さらに、エーロゾルの量や、オゾン、メタン、一酸化二窒素などの微量大気成分の濃度も測定しています。 気象衛星以外にも、GPS衛星の信号も利用されています。大気中では、温度構造や水蒸気の影響により、真空に比べて電波の速度が遅くなります。この性質を利用して、各地点の水蒸気の量や気温を把握し、大雨の予想などに役立っています。また、レーダーで雨を測るGPM衛星や、温室効果ガス観測技術衛星いぶきの情報も天気予報に利用されています。 天気予報と天気図 正確な天気予報を行うためには、その時々の天候を正確に知る必要があります。そのため、世界中で目を光らせており、その情報は国ごとにまとめて送られています。また、衛星観測やレーダーなどの観測データもより多く集められるようになりました。これらの観測データはスーパーコンピュータにかけられ、天気図や予想天気図が作られます。この地図には、風、等圧面高度、水蒸気量、気温などの情報が含まれています。このように、観測データを一つ一つコンピュータに取り込み、大気の状態を予測するのが数値予報です。数値予報では、数日前までの天気を予測でき、地球の大気の動きも水平方向で数十km、日本付近で数kmの精度で計算出来ます。 各地域の気象観測は、数値予報とともに、各地域の天気予報に利用されています。現在、3日先までの短期予報、1週間先までの週間天気予報、数カ月先までの季節予報など、様々な種類の予報が行われています。 高層天気図 中緯度地方でいつ低気圧が発生するかを知るには、上空を調べなければなりません。そこで、天気を予測するためには、上空の天気図も必要です。上空の天気図には、ある気圧面の高度分布(等圧面)や気温などが示されています。つまり、気圧の分布を示す等圧線の代わりに、等圧面の高度分布を示す等圧面等高線が表示されます。気圧は下層ほど高いので、低気圧部分は低圧部、高気圧部分は高圧部となります。等圧面が上に行くのが気圧の尾根、下に行くのが気圧の谷です。このような上空天気図を等圧面天気図といい、毎日0時と12時(日本時間では9時と21時)に作成されます。 ※図についてはこちら:高層天気図の見方・ポイント解説
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太陽は、安定して光を送り出しているように見えます。しかし、あらゆる観測により、活発に活動している様子が明らかになっています。 太陽の観測 太陽は、私達が見える光も含め、様々な長さの電磁波を発信しています。大気圏外や地上にある人工衛星は、この電磁波を観測出来ます。 太陽の大きさ 太陽までの距離と地球から見た太陽の大きさ(視半径)を使って、太陽の半径を求めます。地球から見た太陽の大きさは、時間の経過とともに変化します。これは、地球が楕円軌道を描くように回っているため、太陽との距離が変化するからです。 1天文単位(astronomical unit)は、地球と太陽の平均距離を表し、およそ1.5×kmです。 計算問題対策 太陽の視神経と半径 太陽の距離は三角視差で求められます。これは三角関数の弧の長さの式(弧度法)を使います。 l:2πr=:2π これを直せば弧の長さlは l=rとなります。 あとはl=rの式を変形させていくといいでしょう。 今、太陽の半径と地球の半径…、 視半径[1](太陽側)… 視差(地球側)… とします。 視半径と視差はダッシュがついているのでに代入します。 l=r l=r 半径、は、弧の長さlに代入します。 =r…① =r…② 式を変形して、 =r =r 両者はrで一致しているので、 =…③ ③を変形して、 =となります。 可視光線での観測 ここに注意! - ^ visual radiusの略です。
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太陽を除いて、太陽系を作る惑星などの大きな天体は、全て同じ方向に、ほぼ同一平面上を、ほぼ円軌道で回っています。これは、太陽系の天体が約46億年前に、ゆっくりと回転する星間物質から作られたからだと考えられています。 惑星の誕生 星間ガスが自身の重力で収縮し、真ん中に太陽が出来ました。これ以降は、万有引力の力に遠心力を加えたものを重力と呼ぶのではなく、2つの物体が引き合う力を重力とよびます。原始太陽系星雲は、残った星間ガスが円盤状に集まって出来ました。ここで原始惑星が誕生しました。火星の現在の半径と木星の軌道半径の距離から、その外側にある原始惑星は、原始太陽系星雲が尽きる前に周囲のガスを引き寄せ、巨大ガス惑星になりました。原始太陽系星雲は、太陽からの距離が遠いほど、ガスや塵の量が少なくなります。原始惑星は土星の軌道半径よりも太陽から遠いため、ガスはあまり得られませんが、氷を手に入れて巨大氷惑星となりました。 火星の軌道半径と木星の軌道半径の距離が大きく変わらなければ、その中にある原始惑星はあまり成長しません。そのため、原始太陽系星雲からガスを引き込めません。金星、地球、火星の大気は、小惑星や微惑星が衝突してきた内部から生まれています。生物の働きによって、地球の大気の成り立ちも変わってきます。そのため、地球型惑星とガスやの巨大氷惑星では、大気が大きく違います。 惑星の特徴 8個の惑星のうち、水星、金星、地球、火星は、太陽に近く、半径は小さくても平均密度が大きく、岩石の表面を持つため、地球型惑星と呼ばれています。木星、土星、天王星、海王星は、太陽から遠く離れていて、半径は大きいのに平均密度が低く、固体表面が見られないため、木星型惑星と呼ばれています。天王星と海王星は、木星型惑星のうちの1つです。氷が多く、水素やヘリウムが少ないので、巨大氷惑星と呼ばれています。 地球型惑星 水星は、地球に次ぐ2番目に平均密度が高く最も小さな惑星です。これは、鉄の核がその大部分を占めているからです。水星には大気や液体の水がないため、太陽系の初期の時代に小惑星が衝突して出来たクレーターがそのまま残っています。また、水星には大気がなく、太陽が北から南へ往復するのに約180日かかるため、太陽光が当たる場所と当たらない場所で大きな温度差があります。 金星は地球とほぼ同じ大きさで、内部の化学組成も似ていますが、その表面は大きく異なっています。金星は二酸化炭素を主成分とする厚い大気を持ち、大気の圧力は地球の約90倍になります。温室として機能しているため、地表の温度は約460℃にもなります。金星は他の惑星に比べ、自転が遅れています。自転周期は約243日なので、公転周期(約225日)よりも長くなっています。上空約60キロメートルでは、空気が秒速100メートルの速さで動いており、金星を1周するのに約4日かかります。これはスーパーローテーションと呼ばれています。 地球の内部が高温なのは、地球が出来た時からある熱と放射性同位体が分解する時に出来る熱だからです。そのため、マントルの対流やプレート運動が起こり、地震や火山、造山運動が起こり、地表に変化をもたらしています。また、適温を保つ大気があるおかげで液体の水が存在し、地球上では珍しい海を維持出来ました。海洋は、多くの生物の誕生と発展、そして大気の成り立ちに大きな影響を与えてきました。 火星の表面環境は、地球と最もよく似ています。自転周期は約24.6時間、自転軸の傾きは公転面に対して約25.2度と地球とほぼ同じです。また、季節の変化も確認されています。季節によって、火星の極付近にある氷やドライアイスで出来た極冠の大きさが変化します。 火星の大気は薄く、圧力は地球の約です。これは、大きさが小さく、重力が小さいからです。大気のほとんどは二酸化炭素ですが、大気が薄いので温室効果はそれほどありません。場所や時期によって、地表の温度は約-125℃から20℃の幅があります。この温度差が、砂嵐やモンスーン風を引き起こします。地球でいう台風のような大きな大気の渦は、ハッブル宇宙望遠鏡でも確認されています。 火星には、太陽系で最も荒れた地形と大きな火山があります。これまで複数の探査機が火星に着陸し、極付近を除く表面の砂の下に氷のような白い物質や液体の水が作ったような地形が見つかっています。かつて、火星にも液体の水が大量に存在したかもしれません。 - 水星 - 金星 - 地球 - 火星 木星型惑星 木星は、太陽系最大の惑星です。その平均密度や組成は、太陽と似ています。中心に近いほど圧力が高いので、表面付近の気体は水素とヘリウムですが、それ以下は液体水素で、中心では金属水素に変わります。ここで、金属元素とは、陽子と電子に分解された液体水素をいいます。科学者達は、その中心には岩石と氷で出来た核があり、その重さは地球全体の約10倍にもなると考えています。太陽系の始まり、原始太陽系星雲中では、重い鉄は太陽の方に引っ張られました。そのため、木星には地球型惑星のような鉄の核がありません。 木星の大気は通常東西に動いていて、赤茶色と白の帯状になっています。上昇気流によって、明るい白い部分にアンモニアの雲が発生すると、太陽の光を強く反射します。暗い部分は下降気流です。南半球で見られる大赤斑の大きさは、地球の約3倍あります。 木星の表面は、太陽から受けるエネルギーのほぼ2倍のエネルギーを放出しています。これは、木星が形成される時に自己重力によって収縮した時に出来た熱をゆっくりと放出するためだと考えられています。 土星は、太陽系の惑星の中で最も平均密度が低い惑星です。水よりもさらに小さい密度です。また、土星の表面には縞模様や白斑がありますが、これは大気の動き方が原因です。地球から見ると、土星の環は円盤のように見えますが、実は無数の小さな氷と珪酸塩からなる岩石の集まりです。 土星は磁場が強く、緯度の高い場所ではオーロラが見られる現象がハッブル宇宙望遠鏡で確認されています。また、他の木星型惑星にも磁場があります。木星も土星も自転が速く、大きな偏平率を持っています。 天王星の大気に含まれるメタンが赤色光を吸収するため、地表が青く見えます。天王星は、自転軸が公転面から約98度、横に傾いており、これが他の惑星と違っています。そのため、天王星の衛星軌道も、天王星の公転面に対して同じように傾いた軌道を描いています。 海王星の大気にはメタンが含まれているため、天王星と同じように表面が青い色をしています。また、内部には水、アンモニア、メタンからなる氷が多くあると考えられています。他の木星型惑星と同じように、赤道と同じ方向に風が吹いているため、表面に黒い斑点や縞模様が見られます。 - 木星 - 土星 - 天王星 - 海王星 太陽系のいろいろな天体 近年の観測技術の向上により、太陽系の惑星以外の天体がより詳しく見えたり、初めて発見されたりするようになりました。 太陽系外縁天体 1930年に発見された冥王星は、2006年まで第9惑星と考えられていました。1990年代には海王星以外の小天体が多数発見され、21世紀には冥王星より大きな天体(エリス)が発見されました。2006年に太陽系の惑星の定義が定められ、冥王星を含むこれらの天体は惑星ではなく太陽系外縁天体と呼ばれるようになりました。冥王星型天体は、冥王星や大きな天体のように太陽系外縁天体の中でも、かなり大きい天体を指します。 太陽系外縁天体には、今後も多くの天体が発見される可能性があり、太陽系に関する考え方はどんどん広がっていくでしょう。 小惑星 小惑星の多くは、火星と木星の間にある小惑星帯と呼ばれる領域にあります。最も大きなセレスは、幅が480キロメートルほどしかありません。科学者達は、小惑星帯について、原始太陽系の微惑星がそのまま残っている場合や原始惑星に成長した後、衝突によって壊れた場合が混じっていると考えています。地球に落ちてくる隕石の多くは小惑星から飛来しています。 隕石 隕石は、橄欖岩のような石質隕石、鉄やニッケルからなる鉄隕石、その中間の石質隕石の3つに分けられます。コンドライトとは、石質隕石の一部に含まれる球状の珪酸塩鉱物(コンドリュール)をいいます。コンドリュールとは、高温で溶けた珪酸塩が急速に冷えて、無重力状態で球状に固まった物質です。コンドリュールは、惑星形成時期の状態を保存していると考えられています。地球に落ちてくる隕石の約8割はコンドライト隕石です。鉄隕石は、太陽系が誕生したばかりの頃、原始惑星の中心部で出来た鉄とニッケルの合金が、原始惑星同士の衝突で破壊された破片と考えられています。このような理由から、隕石は地球や太陽系の歴史、そして地球の内部を知るために有効な手段です。 彗星 直径数kmから数十kmの氷や塵で出来た天体が太陽に近づくと、コマや尾を作ります。これが彗星です。彗星の核と呼ばれる本体は、太陽系が若かった頃、太陽系外縁部で形成された物質で出来ていると考えられています。彗星の核が太陽に近づくと、揮発性成分(氷やドライアイス)が蒸発し、核の周りに雲をつくります。この雲をコマといいます。揮発性成分の一部は太陽風に吹き飛ばされたり、小さな固体粒子が太陽の光圧で吹き飛ばされたりして太陽の反対側へ移動します。これが尾になります。 ほとんどの彗星は、離心率をもつ大きな楕円軌道で太陽の周りを回っています。しかし、中には太陽に戻らない放物線軌道や双曲線軌道の彗星もあり、さらに惑星の重力が全てに影響するため、途中で軌道を変える彗星もあります。 彗星がどこから来るかはまだはっきりしませんが、一説には、海王星が太陽の周りを回る距離の1000倍以上(太陽から約30天文単位)の距離からやってくると言われています。そこで、太陽系の周りには雲のような形をした天体が数多くあると考えられています。この雲は、オールトの雲と呼ばれています。しかし、この雲を作っている天体は、まだ科学者達でも見つかっていません。 彗星の塵は軌道上に広がり、地球が公転してその軌道を横切ると、塵は地球の大気圏にぶつかり、流星として見られます。地球の軌道と彗星の軌道が交わると、毎年ある時期に彗星軌道の塵が大量に地球の大気に入り込み、多くの流星が見られるようになります。これを流星群といいます。 衛星 衛星とは、宇宙空間で惑星や他の天体の周りを回っている天体をいいます。 月は地球の衛星です。表面は岩石から出来ていますが、平均密度は地球よりそれほど大きくありません。これは、月の中心部に地球ほど多くの鉄がないためだと考えられます。この理由として最も有力なのは、初期地球の核とマントルが分裂した頃に、火星ほどの大きさの原始惑星が衝突して、その破片が月となったというジャイアント・インパクト説です。 木星には、イオ・エウロパ・ガニメデ・カリストの4つの大きなガリレオ衛星があります。月とほぼ同じ大きさのイオには、太陽系で最も活発な火山活動が見られます。木星探査機ガリレオは、現在も噴火を続けている18の火山を発見しています。これは、木星の起潮力によってイオの形が頻繁に変わり、内部が高温になるためと考えられます。また、木星の衛星エウロパの表面には、厚い氷で覆われているのがガリレオの観測で分かっています。地下には液体の水があり、生命が存在するかもしれないと考えられています。 タイタンは土星最大の衛星です。その厚い大気中は、メタン、水蒸気、窒素で成り立っています。その中のメタンは、地球の水のように動き回り、気体から液体、固体に変化しているという説もあります。タイタンの大気には、タンパク質の元になる物質があります。タンパク質が出来るかもしれないので、タイタンには生命が存在するかもしれないと考えられています。
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1666年から1687年まで生きたイギリス出身のアイザック・ニュートンは、それが万有引力の法則だと発見しました。アイザック・ニュートンは、「慣性の法則」「運動の法則」「作用・反作用の法則」という力と運動の3つの法則を提唱して、近代力学の基礎としました。これにヨハネス・ケプラーの法則を組み合わせて、「あらゆる2つの物体の間には万有引力が働き、その大きさは2つの物体の質量の積に比例して、物体間の距離の2乗に反比例する」という万有引力の法則を考え出しました。 ティコ・ブラーエの観測からヨハネス・ケプラーの法則、アイザック・ニュートンの運動法則、万有引力の発見まで、天文学や物理学は、観測データと理論研究の相互作用により発展してきました。つまり、科学では、観察、実験、理論が車の両輪のように働いて、新しい知識を生み出していきます。
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地球上では、酸素・二酸化炭素・水など、様々な物質が移動しています。つまり、気候は大気や海だけではなくて、森林などの生命圏とも関係があります。 大気と海洋の相互作用 大気と海洋では、熱容量が違います。つまり、同じ量の太陽放射を浴びても、その温度変化の仕方は違います。季節風(モンスーン)や海陸風は、このような仕組みで発生します。また、海水は太陽放射のエネルギーを取り込んで蒸発するので、水蒸気となります。この水蒸気が蒸発する時、それまで蓄えていた熱(潜熱)を放出します。海洋は潜熱を放出しており、それが大気中に入り込み、暖かくなります。また、積乱雲を作り、台風や温帯低気圧のような大規模な大気現象を引き起こすエネルギーとなります。一方、風が海面を吹くと、水と摩擦するため、波(風浪)や海流が発生します。 このように、大気と海洋は、熱などのエネルギーと水などの物質をやりとりして、お互いに影響を与えます。これを大気と海洋の相互作用といいます。エルニーニョ現象はその代表例です。エルニーニョ現象が発生すると、熱帯地方の気候だけでなく、中高緯度の気候にも影響を与えます。このように、離れた場所の気象が連動する仕組みをテレコネクション(遠隔連鎖)といいます。 エルニーニョ現象とラニーニャ現象 太平洋赤道付近の海面水温は、通常、西部で高温、東部で低温となっています。また、暖水層は東部で薄く、西部で厚くなっています。これは、この地域を吹く貿易風(東風)の影響で、暖水層が西側に流されるからです。太平洋赤道付近の西側にある暖水層は、空気を暖めて、対流活動を活発にします。これが低気圧を作り、貿易風を維持します。また、赤道付近の海面温度は南北ともに低くなっています。何故なら、東から西へ吹く貿易風によって、赤道から中緯度に海水が流れるからです。このため、赤道上の深層から冷水が上がってきます。 しかし、貿易風が弱くなると、赤道太平洋中部から東部の暖水層が厚くなり、冷水があまり上がってこなくなります。ここからエルニーニョ現象が始まります。暖水層が太平洋中部から東部へ移動すると、大気の活発な対流運動の領域も、太平洋中部から東部へ移動します。そうすると、エルニーニョの状態が続き、貿易風が弱くなります。一方、ラニーニャ現象とは、貿易風が平年より強く、赤道太平洋中部から東部にかけての海面水温が平年より低い状態をいいます。 したがって、エルニーニョ現象は大気と海洋が連動して起こります。大気側では、太平洋東部と西部の海面気圧がシーソーのように変化して、一方は高く、もう一方は低くなります。これを南方振動といいます。熱帯では転向力が弱いので、東西方向の転向力と気圧傾度力が等しくなるような地衡風にはなりません。貿易風の強さは、南方振動に大きく関係しています。そのため、これらの海洋・大気の現象をまとめてエルニーニョ・南方振動(El Niño-Southern Oscillation)という言葉がよく使われます。エルニーニョ現象は特に珍しい現象ではありません。エルニーニョ現象もラニーニャ現象も、自然変動で特に振れ幅が大きい現象です。 エルニーニョ・南方振動とテレコネクション エルニーニョ・南方振動は、テレコネクションを通じて、世界中の天候に様々な影響を与えています。エルニーニョ現象が発生すると、夏に北太平洋高気圧が弱くなります。そのため、梅雨が明けるまでに時間がかかり、日本の夏の平均気温は下がります。冬は季節風が弱くなるので、気温が上がります。エルニーニョ現象は、気象の長期予報を行う上で大きな役割を果たしています。いつ発生するのかを正確に予測するためには、赤道太平洋の海洋状況や大気の状態を注意深く観察しなければなりません。 海流と気候 海洋から大気への熱移動は、太平洋と大西洋の西海岸を低緯度から高緯度へ流れる黒潮とメキシコ湾流付近で多く発生します。これは、この付近では海面の温度が空気の温度よりも高いために起こります。何故なら、熱帯からやってくる海流は暖かく、冬になると西の大陸からの季節風でこの海域の空気は冷たくなるからです。海水から大気への熱移動は、熱伝導(顕熱)でも行えますが、それよりも海水が蒸発して、水蒸気の潜熱を大気中に放出させる方が重要です。このように、海洋から大気への熱移動は効率的に行われます。ヨーロッパは暖かいメキシコ湾流の下流にあるため、高緯度に位置していながら、冬でも温暖な気候です。 異常気象 異常気象とは、これまでの平均的な気候(平年値)とは大きく違う気象をいいます。毎年、厳しい寒波・暖冬・猛暑・少雨・旱魃・洪水などの異常気象が世界各地で起こっています。これらの異常気象は、地球温暖化のような長期の気候変動が原因となっている場合もあれば、気候システムが働いている仕組みの中にある場合も考えられます。このうち、北極振動は日本に異常気象を招く自然現象の一つです。 北極振動 北極振動は、北半球全体に影響を与える気象の変化です。北極振動は、北極上空の気圧が平年より低くなると中緯度の気圧が上がり、北極上空の気圧が平年より高くなると中緯度の気圧が下がる変化です。正の北極振動は中緯度の気圧が上がる場合、負の北極振動は中緯度の気圧が下がる場合です。振動は数日から数十年続きますが、決まった周期をたどるわけではありません。北極振動が正の時は、偏西風が強く、蛇行がほとんどありません。そのため、日本付近の冬は暖かくなります。一方、北極振動が負の時は、偏西風が弱く蛇行するため、極域の空気が流れ込みやすくなります。そのため、日本付近の冬は寒く、雪が多くなります。 日本付近の気候変動は、エルニーニョ現象なども原因になっているので、はっきり分かりません。北極振動の原因ははっきりしませんが、エルニーニョ現象と同じように、海面水温の変化や北極振動の気圧配置が成層圏までよく届くので、突然暖かくなるなど成層圏の変化も影響していると考えられています。 南極振動は、南半球で起こる振動現象です。
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火山の噴火は、地球の中に高温の物質が含まれています。その熱はどこから来ているのでしょうか?地球表面の熱の出入りを見ると、地球の熱収支だけでなく、マントル対流など、マントルや核の様子も読み取れます。 地球内部の熱源 地球内部から熱を出す場所の1つとして、高温の核があると考えられています。これは、小さな惑星が衝突して地球が出来た時に、地球の中心部に残された熱です。地殻やマントルを作る岩石には、カリウム・ウラン・トリウムなどの放射性同位体が含まれているので、自然崩壊する時にも熱を出します。火成岩(花崗岩・玄武岩・橄欖岩)に含まれる放射性同位元素が1年間にどれだけの熱を出すのかを調べます。その結果、大陸地殻上部の花崗岩が一番高い発熱量を持っています。
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地球の天気は常に変化しています。過去にどのように気候が変化したかを知るために、地質学的な記録が利用されてきました。 過去の気候 地質時代、地球の気候は大きく変化し、寒冷化と温暖化のサイクルを繰り返してきました。約23億年前と7億年前のように、世界中が凍りついた時代もありました。一方、白亜紀のように温暖で、極地でも氷河がほとんどない時代もありました。これらの過去の気候変動は、それぞれの時代に堆積した土砂の層や作られた化石、その層の厚さの変化から推測される海水面の変化などから復元されています。 安定同位体と過去の気候 過去の正確な気温を把握するのは非常に困難です。しかし、地層や氷に含まれる安定した酸素同位体の比率から、第四紀にどれくらいの氷があり、どれくらいの気温であったかを突き止めました。 有孔虫の殻には、有孔虫が生息していた海水の酸素同位体比が記録されています。この事実は、過去に水温や気候がどのように変化したかを知る上で重要です。有孔虫の殻に含まれる酸素同位体比から、約300万年前に気候が寒冷化し、第四紀の氷河期が終わるまでその状態が続いていました。 ミランコビッチ周期 太陽の熱は、地球表面の天候を支配する大きな要素となっています。太陽の働きや、太陽の周りを回る地球の動きが変わると、地球が受ける熱の量に影響が出ます。そのため、地球の気候に大きな影響を与えます。ケプラーの法則によると、地球は太陽の周りを10万年ごとに円や長い楕円に近づく楕円の軌道で回っています。地球の自転軸は公転面に対して傾いている。この傾きの角度は時間とともに約22度〜25度変化するため、太陽に対して傾きが変化します(歳差運動)。ミランコビッチサイクルは、このような変化に最初に気づき、数学的に記述する方法を考え出したセルビアの気象学者の名前にちなんで名づけられました。その後、有孔虫化石に含まれる酸素同位体比の研究から、この温暖化と寒冷化の周期は、極域に当たる太陽光の量が変化した結果、発生した現象だと確認されています。
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自然界の様々な現象は、人間にとって良い面もあります。しかし、自然災害で生活を危うくしてしまいます。日本は地震や火山噴火などの自然災害が他国と比べても非常に多くなっています。これまでどのような災害を火山や地震からもたらしましたか? 地震と災害 激しい揺れによる被害 大きな地震があると、強い地震動で建物の倒壊や土砂災害などをもたらします。また、土地の隆起や沈降、水平方向のずれから被害が出るかもしれません。さらに、火災・停電・断水などの複雑的な災害に見舞われるかもしれません。大きな地震があると、砂地の地盤(河川沿いや埋め立て地など)も動きます。この時、地下水が砂層と混じり合い、砂層が一時的に液体のようになります(液状化現象)。2024年の能登半島地震は、建物の倒壊や火災で大きな被害を出しました。[1]2011年の東北地方太平洋沖地震は、強い地震動や津波で大きな被害を出しました。福島第一原子力発電所も東北地方太平洋沖地震で電源を全て失い、水素爆発や火災を招きました。その後、大量の放射性物質が空気中に運んでしまいました(福島第一原子力発電所事故)。 津波 地震で海底の断層が動いたり、海底地滑りがあったりすると、大きな波(津波)が出来ます。津波の波長(波の山から山の長さ・谷から谷の長さ)は数キロから数百キロメートルと非常に長く、津波の周期(波の山から次の山・谷から次の谷がくるまでの時間)も数10分と非常に長くなっています[2]。なお、波浪の波長は最大で数m~数十m程度と非常に短く、波浪の周期も数10秒と非常に短くなっています。津波は、地震の震源が海域で、あまり深くなく、マグニチュードも大きい時によく発生します。海底から海面までの水が全て動くので、津波は通常の波よりもはるかに大きなエネルギーを持ちます。2011年の東北地方太平洋沖地震後、約20mの津波が宮城県女川町を襲いました。また、宮城県女川町笠貝島で最大約43mの標高まで津波が来ました。 ★津波が出来るまで[3] - 地震前のプレート境界図 - 大陸プレートが海洋プレートの下に沈み込みます。この時、大陸プレートにひずみが出来ます。 - ひずみが限界を迎えると地震が発生します。 - 津波が発生します。 津波は、一度海面が下がってから押し寄せてきます。また、津波は第2波と第3波と繰り返すうちに大きくなります。このように、地震の数時間後でも津波が押し寄せるかもしれないので、津波が完全に収まるまで海岸付近に近づかないでください。津波の高さは、海岸の地形で変わります。岬の先端やリアス式海岸の奥に集まると、津波の波高も高くなってしまいます。 火山と災害 火山噴出物による被害 火山弾や溶岩流などが、近くの建物を壊したり燃やしたりします。火山灰はとても小さな粒子で作られているので、上空に送られて遠くの場所に飛んでいきます。大量の火山灰は、人々の健康や農作物に悪いかもしれません。また、雨と混ざると、家屋の倒壊も起こりやすくなります(泥流)。溶岩ドームの崩落なども火砕流の原因になります。火山ガスは火口とその周辺から出ており、人体に有害な成分を含まれています。 1991年、長崎県の雲仙岳で火砕流が起こり、43名が亡くなりました。2000年、東京都の三宅島で火山が噴火すると、高濃度の火山ガスが流れ込み、全島民が島外に逃げ出しました。2014年、長野県の御嶽山で水蒸気爆発があり、58名が亡くなりました。気象庁の説明から、火山が噴火すると風に乗って火山礫を遠くまで運ばれます(小さな噴石)。また、火山が噴火すると火口から放物線を描くように火山岩を運びます。この時、火山岩はおよそ2~4kmの間に落ちます(大きな噴石)。大きな噴石は建物を丸ごと壊してしまうような力もあります。さらに、昔は大きな火山活動もありました。例えば、約9万年前に熊本県の阿蘇山で大きな火砕流が半径180km(鹿児島県以外の九州全域と山口県)まで流れています。この研究は火山周辺の地層から分かっています。 噴火活動に伴う被害 火山性地震や火山性微動は、噴火や地下のマグマ活動からよく起こります。マグマの上昇で地盤が変わると、断層も出来ます。また、地震動や火山体内部のマグマの圧力上昇から火山体が崩れ、岩塊も砕けながら高速で斜面から流れるかもしれません(岩屑流・岩雪崩・岩屑雪崩)。岩屑流や火山砕屑物などの堆積物が河川をせき止めます。そして、河川が決壊すると土砂と水が一緒に動きます(土石流・泥流)。1985年、コロンビアのネバド・デル・ルイス山で、大きな泥流が発生しました。その結果、山麓で大勢の人が亡くなりました。2018年、インドネシアのクラカタウ山が噴火すると海に土砂が流れ込みました。そして、その土砂が津波を発生させ、沿岸地域に被害をもたらしました。 資料出所 - 啓林館『高等学校 地学基礎』磯崎行雄ほか編著 2022年
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大雨による災害 大雨 土砂災害 河川の氾濫と低地の浸水 突風による災害 これらの突風は、大気の状態がはっきりしない時に起こりやすくなります。毎年7月から10月は、前線や台風が頻繁に通るので、大気の状態もはっきりしません。年間発生数の約60%がこの4か月間に発生しています。 地域や季節に特有の気象災害 黄砂現象 東アジア大陸内部の砂漠地域や黄土高原から、大量の砂塵(黄砂)が強風で大気中に舞い上がります。その後、大量の砂塵(黄砂)は上空の偏西風で流されて地面に落ちます(黄砂現象)。3月から5月にかけて、日本の上空に移動性高気圧がよく見られます。この時、空全体が黄褐色に煙ります。 大雪 冬になると、日本海側は大雪の被害を受けやすくなります。また、冬の終わりから春の初め頃(1月~3月)になると、大陸の寒気も弱まります。この時、温帯低気圧が日本の南岸沿いを進みます(南岸低気圧)。その結果、関東から西日本までの太平洋側に大雪を降らせます。さらに、低気圧は急速に発達しながら北海道の東の海上に抜けるので、暴風雪と高波の被害が北日本で大きくなります。大雪が降ると、交通機関にも影響を与えます。加えて、山地に大雪が降ると、雪崩の被害をもたらします。 台風 資料出所 - 啓林館『高等学校 地学基礎』磯崎行雄ほか編著 2022年
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本ユニットでは交通・通信を学習します。交通・通信は私達の生活に欠かせません。例えば、当たり前ですが、郵便局の荷物や宅急便の荷物とか運ぶ際、配達員は車・バイクとかを使います。また、自宅から10キロ以上離れた高校に通っている学生は学校や親からの送迎がない場合、公共交通機関(電車・バス)を利用しているでしょう。 世界の交通網 航空交通 交通・移動手段の発達 人間は元々徒歩で移動しましたが、様々な交通手段の発明によって、行動の範囲は広がりました。船の発達により、水上を移動出来るようにもなりました。陸上交通では、馬車の時代から鉄道の時代を経て、現在では自動車が主流です。さらに、航空機によって人間の行動圏は著しく拡大し、地球上の時間距離を大幅に短縮させました。 現在、世界には様々な交通機関がありますが、人の移動にも貨物の流通にも、用途ごとに最適な手段を選べるようになっています。 水上交通 航空交通が発達するはるか以前から、水上交通は重要な交通手段でした。水上交通には、河川の流路や深さに影響されたり、移動の速度が遅い欠点もありますが、重い貨物や容積の大きい貨物を安い運賃で遠くまで運べるため、石油・石炭・鉱石・穀物などの輸送に利用されています。石油はオイルタンカー、鉱石は鉱石輸送用の撒積船などの大型専用船で輸送されます。また港として、港湾での積み替え作業を合理化、高速化するためにコンテナ船が普及し、世界各地の港湾にはコンテナ埠頭やオイルタンカー向け専用岸壁が整備されています。中国の上海、香港、シンガポール、オランダのロッテルダムは、中継貿易港として取り扱い貨物量の多い港湾都市として知られています。 ヨーロッパでは、河川や運河が国境を越える貨物輸送に欠かせない輸送路となっています。ライン川やドナウ川などの国際河川は、大小様々な運河を通じてオランダ・ドイツなどの工業地帯の河港を結びつけ、原料や製品の輸送路として利用されています。 鉄道交通 ヨーロッパやアメリカ合衆国では鉄道が発達しました。これらの地域には広大な平野が広がり、鉄道網を整備しやすかったからです。産業革命以降、産業活動の活発化に伴って高密度の鉄道網が形成され、経済発展の基盤となりました。鉄道は、レールの敷設や整備に多額の費用がかかりますが、大量の旅客や貨物を長距離にわたって、時間も正確に輸送出来るという利点があります。しかし、現在、鉄道の輸送量は多くの先進国で減少あるいは停滞しています。一方、ヨーロッパや日本のように国土が狭く人口密度の高い地域では、新幹線やフランスのTGV、ドイツのICE、ロンドン・パリ間を結ぶユーロスターなど、都市間に高速鉄道が整備され、旅客輸送では鉄道の利用度は高まっています。 先進国では、貨物輸送は鉄道の役割は薄かったのですが、渋滞がなく、温室効果ガス排出量が少なく環境への負荷を削減出来ているので、自動車輸送からの転換が進んでいます。また、鉄道によるコンテナ輸送の増加や、都市内の近距離用の路面電車・地下鉄・近郊鉄道などの路線も拡充されました。都市部ではLRTも増え、高齢者や障害者が利用しやすい低床車両も導入されています。ドイツでは、郊外駅に自家用車を駐車し、鉄道に乗り換えて市街地に出入りするパークアンドライド方式が普及しています。一方、発展途上国では、依然として貨物鉄道・旅客鉄道ともに大きな役割を担っています。 道路交通 自動車は、船舶や鉄道に比べて一度に輸送出来る旅客数や貨物量は少ないですが、道路網を自由に移動でき、目的地まで積み替えなしで貨物を運べる点で優れています。現在、世界各地でモータリゼーション(車社会化)が進み、道路交通は重要な陸上交通になっています。先進国では高速道路網や幹線道路などが整備され、貨物や旅客輸送に頻繁に利用されています。自動車は短距離利用がほとんどですが、国家間を結びます。 航空交通 航空交通には、発着が空港に限定され、輸送費用が高いなどの欠点もありますが、地形や海洋の影響をほとんど受けません。例えば、成田からホノルルに行く場合、航空手段を使えば、最短時間・最短距離で移動出来ます。国境を越えて移動する人々の数は年々増加傾向にあり、特に長距離旅客輸送では航空交通の利用が圧倒的に多くなっています。また、航空機の高速化・大型化によって、比較的近距離でも、高速鉄道などの競合する交通機関がない場合は、航空交通が利用されます。先端技術製品・生鮮食料品・花卉、貴金属など、付加価値が高く比較的軽量な貨物も航空機で輸送されるようになっています。 航空路線網と航空貨物輸送 航空路線網が密な地域は欧州・アメリカ・オーストラリアの域内路線です。このため、その地域の路線の利用が多くなっています。 世界中の物資流通の拡大とともに、航空機を利用した輸送も発展してきました。国際航空貨物を専門に扱う輸送業者も出現し、空港の近くには、先端技術産業のハイテクエ業団地や巨大流通センターが整備されています。日本でも成田国際空港は、電子部品や精密機械から生鮮食料品に至るまであらゆる貨物を取り扱い、輸入額では日本最大を誇っています。航空機で外国へ旅行する観光客も多く、国・大陸間の結びつきが強まっていますが、国際航空は国内と比べ大きな旅客数の変動があります。景気の変動や国際関係、感染症の流行などの影響を受けやすいからです。 航空交通網の地域差 最近の航空交通では、アメリカ合衆国のシカゴ、ヨーロッパのフランクフルトの空港など、国際・国内の航空路が集中する拠点であるハブ空港の重要性が高まっています。ハブ空港には、空港使用料ばかりでなく、人の移動や物流が生み出す大きな経済効果が期待されるため、先進国を中心に、ハブ空港をめぐる主導権争いが激しくなっています。 近年の航空交通の活発化を促進してきた一つの要因として、格安航空会社(LCC)の存在があげられます。かつては、大手航空会社によって国際航空運賃は高い水準で維持されていましたが、1980年代にアメリカ合衆国では規制緩和が進んで格安航空会社が登場し、低価格の航空運賃が普及するようになりました。 格安航空会社はその後、ヨーロッパでも急成長し、観光産業に新たな需要をもたらしています。21世紀に入ると、格安航空会社は東南アジアや中国、韓国でも出現し、低所得者を中心に移動手段としての重要性が増しています。現在、東南アジアでは航空輸送量の半分を格安航空会社が占めるまでになっています。 一方、発展途上国では航空路線網の整備が遅れ、先進国との経済格差の原因にもなっています。 情報通信の発達 通信技術の発達 通信設備の進歩によって、大量の情報が世界中に瞬時に伝達出来るようになりました。 このような、情報通信ネットワークが世界規模に発展した現在の社会は、高度情報化社会とよばれます。 情報をいかに早く大量に送受信出来るかが経済を左右するまでになっています。 インターネットの普及 インターネットは、世界各国のコンピューターを電話回線・衛星回線・専用回線などで相互接続したシステムで、大量の情報を瞬時に入手し、情報の発信も簡単に出来ます。 かつてのインターネットは、学術研究や軍事目的が中心でした。 革命が進むにつれて、人々は、コンピューターや携帯電話を使うようになりました。このため、自宅にいながら買い物・チケットの予約や世界の人々との交流も出来るようになりました。 しかし、コンピューターを使った犯罪の多発や、コンピュータウイルス侵入による被害など、高度情報化社会には弱点もあります。 さらに、情報化は均等に進行しているわけではありません。 例えば、若者達はインターネットやSNSを頻繁に利用していますが、高齢者はパソコンやスマートフォンの使い方が分からない人達が多く、その結果、特殊詐欺などに巻き込まれやすくなります。 このような格差は、情報格差(デジタルデバイド)とよばれます。
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本ユニットでは、人々が生きていくのに欠かせない食事や住居について見ていきます。 文化と自然環境 文化とは 人間は文化をもつ動物です。文化とは、言語によるコミュニケーション、道具の製作、慣習化した習俗、人生や物事についての価値観、身の回りの世界についての見方など、人間が成長していく中で学習によって身につけ、世代を超えて継承される生活様式の全体を意味します。 人間は文化なしでは生活出来ません。文化を獲得する能力は人類に共通して備わっていますが、どのような文化を身につけていくのかは、地域や時代によって異なり、世界中で多様な生活文化が見られます。 多様な生活文化が生まれた理由 地域によって異なる多様な生活文化は、なぜ生まれたのでしょうか。人間集団は文化を通して自然環境に働きかけます。また、自然環境は文化の形成に影響を受けます。異なる自然環境に適応した結果として、生活文化の多様性が生まれます。人間集団が多様な自然環境に適応してきた結果としての生活文化は、人類の地域的な多様性の原点ともいえます。 生活文化と現代世界 同じ地域に暮らす人々が、衣・食・住など生活に密着した事柄について、共通の言語、習慣や宗教、価値観、規範などに基づいて、同じようなものを使ったり、同じような行為をしたりする時に、地域で共通していると感じる文化を「地域の文化」といいます。ただし、同じ地域に住む人の宗教や言語が異なっていても、食べ物や着る物が似ているので、地域の文化を規定する要素は一つではありません。 そして、人・物・情報などが国境を越えて移動するグローバル化が進行し、地域固有の文化は、徐々に変わっていく場合もあります。 例えば、イヌイットはアザラシの狩猟にGPSを活用するようになり、アフリカでは牧畜民が携帯電話を利用して家畜の価格を教えあうようになるといった変化もみられます。 生活文化の地域性 生活文化の地域性と他文化とのつながり 人類の食料の獲得方法の違いは、自然環境と深い関わりを持っていました。年中高温湿潤な熱帯では、料理用のバナナやイモ類などが主に栽培されました。農耕に適さない乾燥帯や亜寒帯では遊牧が中心でした。一方、狩猟、採集を中心に生活した人々の間でも様々な形態がみられました。例えば、サケ類などの漁業資源が豊かな北アメリカ大陸の西岸では、定住生活を送る狩猟採集民が見られました。 ただし、狩猟採集民のように孤立しているように見える社会の文化も、現在では周囲の農耕民や牧畜民の文化との密接な関連の中にあり、都市の商工業と消費を中心とした生活文化ともつながっています。 世界の生業 牧畜・農耕・漁労 大規模な放牧をともなう牧畜は、ユーラシアでは中央アジア・西アジア・ヨーロッパとヒマラヤ山脈、アフリカではサハラ砂漠の周辺やナイル川上流の東アフリカ北部、南米ではアンデス山岳地帯に、それぞれ特有の家畜種と利用法を持って分布しています。特に広大な放牧面積を必要とする遊牧は、湿潤な熱帯やモンスーン地帯にはあまり見られず、ステップやサバナのような草原が広がる地域を中心に分布しています。 一方、様々な形の農耕は、低緯度地域から中緯度地域を中心に広がっています。これら農耕文化は、作物の種類、栽培技術、その利用形態などにおいて地域性を持っています。中緯度地域では米や小麦などの穀物と豆類などを組み合わせた農耕が広く見られる一方、低緯度地域ではイモ類やバナナを主食とする農耕が見られます。 大地を資源として利用する生業の牧畜と農耕に対し、海や川、湖の資源を利用した生業が漁労です。太平洋にあるポリネシアやメラネシア、ミクロネシアと呼ばれる島々では多様な漁労文化がみられます。こうした島々で生活してきた人々は、古くから航海の技術を発達させ、島から島へと移住し、人類の居住地域を広げていきました。 世界の衣服 気候や文化に合わせた衣服の工夫 暑さや寒さから身を守るのが、衣服の基本的な役割です。世界では、それぞれの地域の自然環境に応じて、衣服の素材や形が様々に工夫されています。寒冷な地域では、防寒のために、古くから動物の毛皮や皮(獣皮革)を使った衣服が着用されてきました。一方、高温で湿潤な地域では、吸湿性のよい木綿や麻を用い、ゆったりとして体を締めつけない形の衣服がみられます。1枚5~6mもある長い布を体に巻きつけて着るサリーは、古くから伝わるインドの女性の民族衣装です。サウジアラビアなどの乾燥地域に住む人々は、強い日差しや砂嵐から肌を守るため、長袖で裾の長い衣服を着ています。また、冬や夜の気温が低いアンデス地方のペルーに住む先住民は、頭や首、肩のあたりから冷気が入り込むのを防ぐため、ポンチョとよばれる毛織物の上着をまとっています。 また、衣服は、宗教や地域の伝統文化、階級の違いなど社会環境や経済的環境の影響も受けています。イスラームでは、女性は家族以外の男性には肌を見せてはいけないとされているため、女性達は頭にスカーフを巻き、体を隠すような形のゆったりとした衣服を着ています。 衣服の変化と伝統の保持 このように衣服の素材は、地域の自然環境によって様々で、栽培・飼育される作物や家畜にも左右されてきました。しかし、そうした制約も経済や技術の発達によって克服され、現在では、安価で丈夫な既製服が大量に生産され、短期間に大量に販売するファストファッションと呼ばれる販売形態も現れました。 世界の食生活 世界の多様な食生活 人類は、動物性と植物性の食物を満遍なく食べる雑食性の動物です。食物の料理には、煮たり焼いたりする加熱や、水さらしなどの方法が含まれ、加熱によって生のままでは消化出来ない原料が食べられるようになり、水さらしは有毒なイモ類などから毒を抜く効果をもちます。こうした料理法の発達によって、人類は多様な食材を用いられるようになり、地球上の様々な生態系に適応する生活を築けるようになりました。 食事のとり方や作法も文化によって異なります。東南アジアの都市では、屋台での食事風景が特徴的です。稲作の盛んなモンスーン地帯では、麺は小麦よりも米粉(ビーフン)がよく用いられます。宗教と食生活の関係も深く、例えばイスラム教では、食べてよい素材調理法が認められた食品をハラールといい、そうでない食品と区別しています。 現在では文化の違いを越えて、昔の人々が口にしなかったものも食べるようになっています。エスニック料理の流行は、今や世界の多くの都市生活に見られる現象ですが、食生活は依然として地域の文化を映し出す鏡ともいえ、だからこそエスニック料理の流行は、文化多様性の楽しみとして存在しているともいえます。 また、アメリカの食文化の影響で、半世紀の間にコーラやコーヒーを飲みながらハンバーガーを食べるといった光景が、日本をはじめ世界各地で見られるようになりました。こうしたファストフードは、元々はアメリカの大衆向けの簡易食に過ぎませんでした。しかし、冷凍食品やインスタント食品の普及、多国籍企業の外食産業への進出が国境を越えて広がり、食生活の均一化・等質化がますます進んでいます。 主食となる作物と各地の食文化 伝統的な主食は、その地域で栽培出来る作物と深い関わりがあります。コメ、小麦、とうもろこし、イモ類、雑穀、肉、乳は、世界各地で主食とされており、食べ方には地域ごとの特色があります。 小麦は西アジアで最初に栽培され主食となりました。その後、交易の拡大により、地中海沿岸からヨーロッパ・南アジア・中国、ヨーロッパ人が進出した北アメリカやオーストラリアで主食とされました。小麦の食べ方には2通りあります。 - ヨーロッパでは粉状にして、パンやパスタにして食べます。 - インドや西アジアでは、小麦粉で作った生地を薄く伸ばしナンやチャパティにして食べます。 キビやトウモロコシなどの雑穀は、アフリカ大陸やラテンアメリカに分布します。雑穀の食べ方は、次の通りです。 - 粉にひいてお粥や団子にして食べます。 - メキシコなどでは練って薄く伸ばして焼いたトルティーヤが食べられます。 イモ類は、ヤムイモやタロイモを食べる東南アジアや南太平洋の島々と、キャッサバ(マニオク)やジャガイモを食べる南アメリカやアフリカに分布します。アンデス地方が原産のジャガイモは、16世紀にヨーロッパへもち込まれ、現在ではドイツなどの主食になっています。 コメは夏に雨量が多い東アジア、東南アジアを中心に広がりました。コメの食べ方は、次の通りです。 - 粒のまま炊いたり蒸したりして食べられます。 - 中国のビーフンやベトナムのフォーのように、コメの粉を麺にした料理も見られます。 日本と同じ稲作農業を中心とする地域では、主食としての米飯に対して副食(おかず)があるという考えが広くみられます。主食と副食の区別は、私達にとってはごく自然のように思われます。しかし、この区別は決して世界的に共通ではありません。 アフリカや中央アジアの牧畜民や農耕と牧畜の組み合わせが見られるヨーロッパでは、このようなはっきりとした区別はありません。これらの地域では、乳製品の利用が目立ちます。例えば、モンゴルの遊牧民は多くの大型家畜の乳を利用し、それらの加工品としてバターやチーズがつくられます。また、乳製品と並んで羊・ヤギ・牛の肉が冬場の保存食として用いられます。 なお、北極海沿岸ではトナカイやアザラシなどが、伝統的に食べられてきました。 食生活の変質と伝統 世界の食生活は、交易の発展、生産技術や食品工業の発達、生活水準の向上によって、近代以降、大きく変化しました。ヨーロッパで肉類が広く食べられるようになったのは、18~19世紀の産業革命以降に過ぎず、ヨーロッパのほとんどの地域が伝統的に小麦を主食としてきました。 一方、食生活には、風土や環境のほか、民族的・地域的な多様性が深く根付いています。そのため世界中どこに行っても、その歴史の中で生まれた郷土料理があり、地域の独自性や魅力にもなってきました。食生活のグローバル化は国境を越え、例えば中国料理やイタリア料理、インド料理、韓国料理など、外国料理店が建ち並ぶ光景は、世界の大都市に共通する景観となっています。このように、食生活は、生産技術や流通の発達によって自然環境や地域の制約から解放され豊かになってきました。しかし、その恩恵を受ける国とそうでない国との格差は拡大しています。豊かな国では過食や偏食による健康への弊害が問題になっています。 世界の住居 気候や生活様式に合わせた住居 東南アジアや南アジアなど高温多湿な地域では、高床にして通気性をよくし、屋根の勾配を急にして雨水を流しやすくするなどの工夫がなされています。一方、北アフリカや西アジアのように、乾燥していて寒暖の差が大きい地域では、急激な気温の変化が室内に及ばないように、壁を厚くし、窓を小さくする工夫がなされています。ほかにも、イヌイット(エスキモー)のように雪や氷を材料としたイグルーや、モンゴルの遊牧民のように羊毛を圧縮したフェルトを材料にしたゲル(中国語ではパオ)もあります。 伝統的建築材料 こうした住居の多様性は建築資材や社会組織によって変わっていきます。熱帯地域では豊かな植生を反映して木や葉・草が、またやや乾燥した地域では、とげの多い灌木が古くから建築材料となってきました。一方、冷涼な針葉樹林地帯ではモミやマツが、反対に、降水量が少なく樹木が成長しにくい乾燥地域では、土・煉瓦・石が建築材料となりました。 日本の衣食住 日本の衣食住の変化 日本では、衣食住を厳しく規定する宗教上の規範はほとんど見られません。そのような背景から、経済発展に伴って、欧米諸国の文化が広く受け入れられてきました。生活文化の欧米化によって、最も大きく変わったのは服装です。大正時代になると洋服が普及し、第2次世界大戦以降には、女性の職場進出によって女性の洋装化も進みました。これ以降、和服は、日常の生活で着る人が少なくなり、結婚式や卒業式などの礼装として、限られた場面でのみ着用されるようになりました。第二次世界大戦後には、アメリカ合衆国の文化やファッションの影響を強く受けるようになり、若者を中心にジーンズやTシャツも普及しました。ファッションや流通がグローバル化され、多国籍企業によって世界中で普段着(カジュアルウェア)が着られるようになりました。 就職活動・転職活動や事務系の職場をみると、ワイシャツにネクタイ、背広(スーツ)を着用する習慣が定着しています。しかし、この服装は高温多湿な夏の日本では気候に適しているとは言いにくく、夏にはオフィスの冷房を強めなくてはならないという矛盾も起きています。 食文化についても、特に第二次世界大戦後、欧米諸国の食文化が普及し、パン食が定着しました。その後、タイなどアジア諸国の料理をはじめ、フランス料理・イタリア料理・インド料理など世界各地の食文化も広まり、食の好みも多様化しています。しかし、どの国の料理にしても、食材や調味料などにおいて、日本人の味覚に合わせる工夫がなされています。 日本の住居変化 日本の住宅事情の変化は次の通りです。
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本ユニットでは 国家と領域 現代世界と国家 現代世界は国家が一つの基本単位になっています。特に、かつて植民地だったアジアやアフリカの国々が独立を果たしました。以降、一部の自治領や南極大陸を除き、世界中のほとんどの地域は独立国家になりました。さらに、1990年代にはソ連やユーゴスラビアなど、社会主義国の解体によって独立国の数が増加し、現在、世界には約200の国家があります。 主権・領域・国民を国家の三要素といいます。主権とは他国からの干渉を受けずに自らの手で領域や国民を統治する権利です。領域とは主権が行き渡る範囲です。国民とは国籍をもつ国家の構成員を指します。 国家の領域 国家の主権が行き渡る領域は、領土・領海・領空から成り立っています。 領土は、陸地のほかに河川・湖沼などの内水面をも含んでいます。領土の形態には、ひとまとまりになっている国もあれば、多数の島々で成り立つ国もあります。また、領土が各地に分散している国もあります。 領海とは領土に接した一定の幅をもった海域です。現在、多くの国が12海里(約22km)を採用しています。領海は、通常、海岸の低潮線を基線として、そこからの距離で決定されます。海岸線の出入りが激しい場合は、直線的な基線を基準に決められます。その場合、基線の内側にある湾や内海は内水とよばれます。 また、領海の外側でも、接続水域とよばれる海域では、出入国管理などに関する権利が沿岸国に認められます。1982年に調印された国連海洋法条約によって、沿岸から200海里(約370km)までの海域が排他的経済水域(EEZ)として、水産資源や鉱産資源などに対する沿岸国の権利が認められています。 さらに、その外側の海域は、公海として船舶の航行や漁業が誰でも自由に出来ます。 領空は、領土・領海の上空にあります。ある国の航空機が他国の領空を通過する場合、事前に国家間の協定を結ばない限り自由な飛行は出来ません。領空の範囲は航空機の飛行可能な大気圏内とされますが、人工衛星が宇宙空間に多数打ち上げられている現在、その利用方法とルールの確立について国際的に議論されています。 様々な国境 世界の多くの国は隣国と陸続きで接しており、国家と国家との境界線が国境です。 山脈や河川などの境界は自然的国境とよばれるのに対し、緯度や経度などで定められた直線的な国境(数理的国境)は人為的国境とよばれています。人為的国境は民族の分布と無関係に引かれ、民族間の対立や紛争が絶えません。国境は、隣接する2国間の国境協定によって決定されます。しかし、互いに主張が対立し、国境紛争に発展する場合もあります。海を隔てて他国と接する場合でも、領海や排他的経済水域の範囲が重なりあう場合は、関係沿岸国の協議によって境界線を設定する必要があります。特に境界線周辺に海底油田や海底ガス田などが見つかると、資源開発を巡る争いに発展します。 国家の分類 国家は、様々な観点から分類出来ます。日本などの多くの国のように、地方自治体に比べて、中央政府の権限が強い国家を中央集権国家といいます。また、アメリカ合衆国やロシアのように、司法権と立法権などの権限をもつ州や共和国などが連合して成り立っている国を連邦国家といいます。これ以外にも、国家を構成する民族の数からみた分類もあります。一つの民族が一つの国をつくるという民族国家(国民国家)の考え方は、近代ヨーロッパで発達しました。しかし、現実の世界をみると、全ての国民が一つの民族に属するという単一民族国家はほとんど存在しません。これに対して、多民族国家とは、ナイジェリアやスペイン、ロシア、中国などのように、複数の民族から構成され、それぞれが強い民族意識を持っている国を指しています。近代以降の国家形成の過程では、このような民族意識やナショナリズム(民族主義)が重要な役割を果たしてきました。
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本ユニットでは、集落はどうして出来てきたのかを解説します。 集落の成り立ち 集落の立地条件 人々が一定の場所に集まり、居住しながら社会的な生活をする空間を集落といいます。集落は村落と都市の2つに区分されます。 世界各地の様々な村落は、いずれも居住村落の機能のための家屋だけでなく、生業や社会生活のための施設をも含んでいます。農業を営む場合には、家畜・農機具・飼料・肥料・収穫物などを納めたり、作業をしたりする畜舎や納屋、倉や中庭などが必要です。また、生活や共同作業のために共同体(コミュニティ)が形成され、祭りなどの行事も行われます。このため、寺社・教会・集会所なども重要な施設です。住居やこれらの施設のほか、それぞれの農業経営に合わせた区画の農地や、そこへの道路や用水路なども整備されなければなりません。 漁業を中心とする村落では、港や船着き場を中心にして多くの住居が密集しています。こうした漁村や、林業を生業の中心とする山村でも、自家で消費するための自給的な農業を行っており、乏しい平地に小規模な農地が見られます。 自然条件 現在、集落はどこにでもみられるように思われますが、歴史的にみると、一定の規則性をもって特定の場所に立地してきました。村落は、生活や農業・漁業などの仕事の場となるため、立地は自然条件に大きく左右されます。まず、生活には水が欠かせないため、立地に選ばれるのは川や泉のほとりがほとんどでした。河川下流部の海岸付近、山麓部、扇状地の扇端部に集落がみられるのも水が得やすいためです。さらに、生活環境としては高低差の少ない方が適しているため、平坦地に人口が密集するようになりました。一方、低地では、水害を避けるために自然堤防や盛り土をした土地などが選ばれます。濃尾平野の輪中集落などは、周囲に堤防を作って水害を克服してきました。また、農業には気候条件も欠かせないため、村落は、極度に乾燥した地域や寒冷な地域を避けてつくられています。世界に目を向けると、北半球の温帯の山間地では、日射量の多い南向きの日なた斜面に立地した集落もみられます。一方、砂漠やその周辺部の乾燥地域では、外来河川の付近や、地下水が豊富に得られるオアシスなどに早くから集落が発達しました。ヨーロッパの場合、人口分布の粗密は、農耕活動に深く関わってきたオーク林の北限である北緯60度を境としています。 社会条件 人や物の交流が活発になるにつれて、集落の立地には、社会条件が強く影響するようになりました。例えば、物資の交易点となる山地と平野とが接する場所や、主要交通路沿い、重要な道路の交わるところなどには、数多くの集落が発達しました。関東平野の周辺部にみられる谷口集落は、その典型です。 内陸アジアの遊牧地域と農耕地域とが接する場所の近くにも、両者の交易によって発達した集落がみられます。外敵や疫病から身を守るため、丘陵や高台に発達した丘上集落も見られます。さらに、ヨーロッパのように水上交通の発達した地域では、河川の合流点や河口部などに大規模な集落が発達しました。 やがて農業や漁業を主とする集落だけでなく、商業や政治などの新たな機能をもった集落も発達するようになりました。これらの集落は、周辺の地域への影響力を次第に強めるようになり、多くの人口を抱える中心集落に成長していきました。多くの集落は、一般に、これらの自然条件と社会条件が組み合わさって立地しています。 村落の形態と機能 村落は、家屋の分布形態によって、大きく集村と散村とに分けられます。歴史の古い地域では、田植えや稲刈りなどの共同作業が多いため、村落共同体のまとまりで居住するのが適していました。そうした人々が家屋を密集させて居住するようになった村落を集村といいます。中でも不規則な塊となって並ぶ塊村が自然に出来上がりました。 集村 ヨーロッパの村落形態はほとんど平野部を中心とした集村です。家族を養うための農地面積が小さくて済み、地形的な制約もあまりないからです。中世以降の開拓地域では、村落は道路を基準として計画的につくられたため、家屋は道路や水路に沿って分布しました。こうした集村を路村とよびます。路村の背後に細長い帯状の耕地が均等に割りあてられています。ドイツやポーランドの森林地域に発達した林地村は、路村の一類型です。 広場村や円村(環村)とよばれる集村では、外側に家屋を配置して村の中心に広場をつくり、そこに教会や共同牧場などを設けました。治安が悪くなった時には、防御の機能も果たしました。防御の機能をもっていた村落としては、ほかに中国の囲郭村などにみられます。 日本の村落形態 日本の村落をみると、山地や丘陵の麓、盆地の周縁、沖積地の微高地などに集村(塊村)がよく分布しています。中世後期から近世初期にかけて、稲作用の農業用水の管理や環濠集落のように侵入する外敵への防御などが必要になり、集まって住んだ結果です。一方、地形や道路に沿って列状に並ぶ集落を列状村といいます。列状村のうち、街道沿いに並ぶ集落を街村、道路に沿って農家などが並ぶ集落を路村ともよびます。例えば、海岸平野に平行する海岸砂丘・浜堤や、河川沿いの自然堤防には起伏に沿って集落が並びます。寺社への参詣路沿いや街道沿いには門前町や宿場町がみられます。江戸時代、武蔵野の台地などに開拓された新田集落や、明治時代、北海道の警備と開拓を目的として設置された屯田兵村には、道路沿いに短冊状に農家と耕地が並ぶ形態も見られます。 散村 農家が1戸ずつ分散して居住する村落は、散村とよばれます。散村は、開発の歴史が比較的新しく、農業の経営規模の大きいところによく見られます。各農家の周りに耕地を集めやすい利点があり、どの農家も耕地までの距離が近いため、日頃の耕作や収穫に便利です。散村は、アメリカ合衆国やカナダの土地分割制度(タウンシップ制)によって土地区画がなされた地域や、オーストラリアの小麦栽培地域、北海道の開拓地などのように、計画的に区画された農地が広がる地域によくみられます。また、散村は、北ヨーロッパやイタリア北部、アルプス地域などにみられます。近代に入ってからの囲い込み運動や、政策による農地の整理統合によって出来ました。特に山間部の冷涼な地域では、地形的な制約もあって穀物栽培が出来ず家畜飼育に依存していたため、散村や、数戸の家屋からなる小村が適していました。 本州以南の日本でも、最近まで砺波平野や出雲平野、大井川扇状地などで典型的な散村がみられました。しかし、ヨーロッパのように政策で大規模に進められた散村に比べ、日本の散村は、小規模に進められ、今ではそこにも市街地化の波が押し寄せてきています。 村落共同体の変容 村落に居住する人々は、伝統的に土地とのつながりが強く、一般に村落とその周辺の限られた範囲の中でよく日常生活を過ごします。また、主に何世代にもわたってそこに住み続けてきた人々によって構成されているため、住民相互の結びつきが強く、長い時間をかけて緊密な村落共同体が形成されてきました。しかし、近年、その変化が激しくなっています。例えば、日本の農村や山村では、これまで伝統的な村祭りや冠婚葬祭、農作業などを通じて、人々はお互いに協力し合ってきました。第二次世界大戦後の高度経済成長期から、都市部での雇用の機会を求めて村を離れる若者が相次ぎました。その結果、都市周辺部の丘陵地や農地は切り開かれ、住宅やビルが建ち並ぶようになりました。この現象を村落の都市化といいます。さらに、若者が逃げた村落では極端な人口減少(過疎化)と高齢化を招きました。現在、大都市から遠く離れた山間の地域では、人口の50%以上が65歳以上の高齢者によって構成される農村や山村も珍しくありません。このような村落では、共同体としての機能の維持が困難となっており、村自体の存続も限界に達しているといわれています。 伝統的な村落の人口流出や住民の高齢化は、日本と同様に、パリ盆地南部の円村がみられる地域など、ヨーロッパの村落でも起きています。そこでは、農村の伝統的な景観が大きく変化し、中世以来続いてきた共同体のしくみの急激な崩壊も進んでいます。 このように、第1次産業従事者が暮らす村落と第2次・第3次産業従事者が集中して居住する都市との区別は難しくなっています。 都市の成り立ち 都市の発達と形態 都市がもつ機能と都市化 人々は、なぜ都市に集まるのでしょうか。多くの都市には、各種の専門店やデパート、ホテル、銀行などが見られます。また、役所や学校のほか、博物館・美術館・ホールなども多数あります。このような都市施設は、商業・政治・教育・娯楽などの拠点となり、その都市に住んでいる人々だけでなく、周囲の村落や近くのより小さな都市に住んでいる人々もよく利用します。都市がもっている、このような財とサービスを提供する役割を中心地機能(都市機能)といいます。 多くの都市とその周辺とは鉄道や道路で結ばれ、電車やバスなどの公共交通機関が整備され、発達しています。都市は、財が移動し、人々が交流する結節点ともなっています。多数の労働者が集まってモノを生産する機能をもつ都市もあります。規模の大きな都市には、大企業の本社や支社などの管理機能が集中し、これらに関連する情報サービス業や生産者サービス業も集積します。様々な機能を併せ持った都市は、複合都市となります。 人々は、このような機能に従事するために、あるいは多種多様なサービスを求めて都市に集まります。こうして都市化が一層進みます。 歴史的背景 都市の成立は古代まで遡ります。ギリシャの都市国家(ポリス)はアクロポリスとよばれる丘を中心に発達し、メソポタミアのバビロン、中国の長安(現在の西安)、日本の平城京や平安京は、宮殿を中心に計画的に建設された都市でした。古代の都市は、政治を執り行う神殿や王宮などを中心にもつ、政治機能の強い都市でした。 しかし、広く発達するのは、ヨーロッパなどで交易が盛んになり交易都市があらわれた中世以降です。こうした都市には、外敵の侵入を防ぐために周囲を高い城壁で取り囲んだ城郭都市に起源を持ちます。 また、市民は商業や手工業などの経済力を背景に領主や国王から自治権を獲得しました。その結果、商業機能を中心とした都市が発達しました。ブレーメンやハンブルクやベネチアはその代表例です。 近代になって産業革命が波及すると、炭田や港湾周辺に工業を中心とする都市が生まれ、多くの労働者が集住するようになりました。さらに関連産業も集まり、様々な機能をもった大都市に成長しました。 このような都市発達の経緯は、日本でも同じようにみられます。城郭は、初期には防御に有利な山地や台地の先端部に作られましたが、戦国時代を過ぎると交易に便利な河口や河川沿いの平地に築かれるようになりました。特に、江戸時代に入って社会が安定すると、城下町や港町が発展しました。日本の都道府県庁所在地は、行政や経済の拠点となっていた城下町から発展しています。 都市の機能 私達が住む都市は、一般に行政・文化・生産・消費・交通などの様々な都市機能を備えています。フランスのニースは、近くのカンヌやモナコなどと並んで、世界有数の観光保養都市として知られており、ヨーロッパをはじめとして世界各地から多くの人々が訪れます。観光保養都市は、観光や避暑・避寒を目的としています。日本では軽井沢が当てはまります。 また、エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地です。宗教に関わる機能が卓越した宗教都市として、世界中の信者の信仰を集めています。計画的な市街地をもつブラジリアやキャンベラは、首都・行政機能を集める目的で建設された政治都市です。フランクフルトやニューヨークは、世界的規模の商業・金融都市として知られています。オックスフォードやハイデルベルクは、大学や研究機関を中心とした学術都市として知られています。 さらに、江戸時代からの繊維産業地域にある愛知県豊田市は、繊維関連産業で蓄積してきた技術を自動車産業に応用し、世界的規模の自動車工業都市として発展しました。しかし、都市は発展すればするほど様々な機能を併せ持ちますので、現在では、一つの機能のみが優れている都市はあまりありません。 都市の形態 都市は、道路網の形態によっても分類出来ます。北京やニューヨークの街は直交路型で、アジアの古代都市や新大陸などによくみられます。パリやモスクワなどは、1500年代から1800年代にかけて放射環状路型に発展した都市で、道路網が集中する中心点に宮殿や記念碑などをおき、首都としての威厳と美観を優先した構造になっています。西アジアや北アフリカに多くみられる迷路型は、外敵の侵入を防ぐとともに、強い日射しを遮る効果があります。このほか、ワシントンD.C.のような放射直交路型もみられます。一般的に、多くの都市は、村落に比べると計画的につくられています。 こうした道路網は平面的ですが、垂直的にも、都市の発展形態には様々な違いがみられます。ヨーロッパでは、旧市街などの中心部に低い建物が密集し、高層ビルは郊外に建てられています。歴史的景観を重視するため、都心部での高層ビルの建設が制限されているからです。一方、北アメリカでは都市の歴史が新しいため、都心部では高層ビルの開発が進んでいるのに対して、郊外には一戸建ての住宅や低階層の建物があります。 都市の拡大と都市圏 都市の拡大 都市は絶えず拡大しています。例えば、パリは10世紀頃にセーヌ川の中洲であるシテ島を中心に発達し、12世紀には城壁が築かれ、ヨーロッパの代表的な中世都市となりました。その後、城壁の修復・建築を繰り返し、19世紀初めには、市街は現在の6つのターミナル駅に囲まれる区域にまで拡大しました。さらに19世紀半ばには市街の外側に新たに城壁(現在の高速道路環状線)が築かれ、人口も100万に達しました。現在、さらに周辺に新しい市街地が広がっています。 大都市圏の機能 大都市圏の中心部(都心)は、交通機関や情報通信網が集中し、都市圏の中枢となっています。ここには、政府・行政機関などの官公庁街や金融業、大企業・多国籍企業の本社や支社などが集中します。これは中心業務地区(CBD)とよばれ、ニューヨークのマンハッタンやロンドンのシティなどが典型的な例です。中心業務地区(CBD)の特徴は次の通りです。 - 都心にある地価は高いので、ビルの高層化が進み、そこには企業のオフィスが数多く入っています。特に南北アメリカやオーストラリアの都市などでは超高層ビルが集中します。地下施設の開発も盛んで、ショッピングセンターや駐車場など、土地の垂直的な利用が行われています。 - ヨーロッパの都市では、都心でも歴史的な市街の保存に努めているため、高層ビルはむしろ都心の縁辺に多く見られます。 - ブランド品を扱う高級専門店街やデパート、ホテルなどの施設は、CBDに混在するか隣接するように立地します。 - 郊外からの交通の便がよいため、仕事と生活の場を切り離す職住分離が進んでおり、昼間人口が夜間人口を上回っています。 - 中心業務地区の周辺部には、小売・卸売業地区、住宅地区、工業地区などが発展し、合わせて一つのまとまりをつくるようになります。 都心と外縁の新しい住宅・工業地域の中間に位置する古くからの市街地は、住宅や商店・工場などの様々な都市機能がよく混在したままになっています。アメリカでは、低所得層の人々や高齢者、外国人労働者などの居住地となっているところも見られます。 また、都心の周辺部には、郊外へ向かう鉄道のターミナルを中心にして商業・娯楽施設の集中した副都心や新都心が発達します。東京の渋谷、池袋、大阪の天王寺、埼玉県さいたま市などがその例です。ロンドンやパリでも同様の例が見られます。 このような地区ごとに分かれる機能の違いは、都市の内部構造とよばれます。その特徴は、これまで同心円構造デル、扇形構造モデル、多核心構造モデルなどによって説明されてきました。しかし、実際には、地形や河川などの自然環境のほかに、地価や交通網にも左右されるため、それらが入り交じった複雑な構造になっています。 都市圏とその拡大 都市が発達するにつれて、市街が拡大し、周辺地域の都市化も進みました。大都市の周辺では、大都市へ通勤する人々が住む住宅都市(ベッドタウン)がつくられ、移転した工場や大学、研究所などを中心として新しい都市も形成されました。日本では大阪府の千里ニュータウン、東京都の多摩ニュータウンのような住宅都市や、筑波研究学園都市、関西文化学術研究都市などが典型的な例です。このように大都市の周辺に立地し、大都市の機能の一部を担う都市は衛星都市とよばれます。 大都市圏の形成 大都市に成長した都市は、周辺地域に工業製品やサービスを提供します。一方、周辺地域は都市に農産物を供給したり、通勤・通学者を送り込みます。こうして、日常生活の上で都市機能を通じて都市と密接な関係をもち、都市を中心に日常生活や生産活動が一体となる地域が形成されます。その範囲を都市圏とよびます。 都市圏の範囲は中心となる都市の人口規模と密接に関係します。大きな都市ほど政治・経済・文化の中心となる機能が集中するため、周辺地域に及ぼす影響力は強くなり、都市圏も広くなります。こうした大都市をメトロポリス(巨大都市)とよび、パリ・東京・ジャカルタなどが挙げられます。また、行政上の市域を越えて周辺地域を合わせた都市圏の範囲を大都市圏(メトロポリタンエリア)といいます。これに対して、連続する多くの都市が、交通網や情報通信網などによって、広範囲に一つのまとまりとして密接につながったメガロポリス(巨帯都市)も現れました。代表例として、アメリカ北東岸地域や日本の東海道メガロポリスがあげられます。 さらに、経済・社会のグローバル化の中で、人や物・情報・資金などの国際流動も活発になり、ニューヨークやロンドン・香港などは、国際金融市場や多国籍企業などが集中する世界都市(グローバルシティ)として発展しています。 都市システムの形成と国際化 中枢管理機能と都市 日本や世界の国々の行政機関は、それぞれの管轄地域の行政の中心として機能するだけでなく、国・県・市町村、あるいは連邦・州・市町村などといった行政組織によって、相互に連絡・指示がされています。企業の本社・支社・支店・営業所なども、企業内での情報・指令を伝えるネットワークを形成しています。これらの各組織は、大量の情報を収集・記録するとともに、加工して新たな情報をつくり出し、発信していきます。各種のデータを収集し、経営方針やその実施のための方策を決定して連絡する機能を中枢管理機能といい、関係する地域の政治・経済や社会生活に重要な影響を与えます。 都市には、それぞれの規模に応じて多くの中枢管理機能が集積しています。現代のように情報社会となり、経済の世界的な結びつきが強くなると、その役割は極めて大きくなります。 階層性をもつ都市~都市システム~ 中枢管理機能を担う都市は、情報・指令のネットワークの中枢となります。一方、出先機関や支店がおかれる中小の都市では、情報・指令の発信よりも受信機能に重点をおく傾向があります。大小様々な規模の都市は、政治的・経済的な機能を通じて、上位から下位へと相互に階層的関係で結びついています。このような都市間にみられる相互の関係を都市システムといいます。 多様な都市システムと首位都市 イギリスやフランスでは、中枢管理機能の首都への集中度は日本よりさらに大きく、一極集中型を示します。一方、ドイツでは、逆に中枢管理機能が多くの都市に分散する多極分散型を示します。アメリカでは、中枢管理機能の集中の度合いとしてはニューヨークの首位は変わらないものの、ロサンゼルスなどほかの都市の比重が増大しており、全体としては分散する傾向が見られます。 都市の発達は、都市を人口規模の順に並べてみるとよくわかります。一般的に、都市の発達の歴史が古い国ほど、人口規模が1位の都市と2位以下との隔たりは大きくありません。これに対して、第2次世界大戦後に植民地から独立した国々では、首都など優先的に資本が投下された都市に、政治・経済・文化などの中枢機能が集中しています。さらに、農村から職を求めて人口が流入するため、2位以下の都市との差が非常に大きくなります。このような都市を首位都市(プライメートシティ)といいます。 都市問題 20世紀後半以降の世界の大都市の人口増加をみると、パリやニューヨークのように早くから都市化の進んだ都市より、発展途上国の都市の方が急速に増加しています。そのため、社会基盤(インフラ、インフラストラクチャー)の整備が追いつかず、居住環境が劣悪なまま改善されていません。 発展途上国の都市問題 スラムの形成 発展途上国の大都市では、都市の内部や鉄道・主要道路沿いなどにスラム(不良住宅街)が形成されており、市街地の拡大に伴って都市周辺部にも増えてきています。政府機関や商業施設が集まる近代的な都心部のすぐそばに、劣悪な居住環境のスラムが広がる都市もあります。スラムの中には、水道や電気が不法に引かれ、下水処理の設備も整っていない場所もあります。そのため水質汚濁を招き、熱帯の地域では感染症もよく発生します。 スラム居住者のほとんどは、農村部での貧困に耐えかねて都市部に出てきた人々です。彼らは、農業の大規模化や機械化、都市部への産業の集中などによって土地や仕事を失い、農村から押し出されてきた農民やその家族が主体となっています。しかし、都市に移り住んでも定職に就ける人々はわずかで、露天商や修理業などのインフォーマルセクターとよばれる部門で働き、生活を支えている人もいます。この部門で働く人々の中には、ホームレスや親・親戚などによって養育・保護されずに路上で集団生活するストリートチルドレンなども含まれています。また、生計を立てられない者の中には、生活苦から逃れるため、密輸や麻薬取引などといった犯罪に手を染めていく場合もみられます。 発展途上国の都市問題解決 発展途上国では、都市環境や生活・居住環境などについての様々な都市問題を抱えていますが、その解決には莫大な費用と長い時間を必要としています。また、一般に発展途上国の都市問題は、いくつかの課題が複合的に関連している場合が少なくありません。現在では、大都市を中心に、都市内の道路整備や公共交通機関の充実化、上下水道の敷設、安定した電力の供給など、都市の基盤整備が進められています。低所得者層向けに安価な住宅を建設して、スラムの住民やホームレスなどに提供しています。 しかし発展途上国の中には、インフレや諸外国からの債務の増加など不安定な経済状況に苦しんでおり、その対策が十分に進められていない国もあります。このため、先進国に都市基盤整備の協力を求めている国もあります。これに対して、例えばNGOなどの手による住宅建設や、ストリートチルドレンのための学校づくりなども行われるようになってきています。 先進国の都市問題 都市環境の悪化 先進国の大都市では、第2次産業に比べて、第3次産業に携わる人々の割合が高く、そこに住む人々は医療・福祉・教育・娯楽などといった様々なサービスを受けれます。しかし、活発な都市活動によって、ごみや建設現場・工場からの産業廃棄物、病院などからの医療廃棄物などが大量に排出され、その処理には不法投棄の問題も含めて、多額の費用と労力がかけられています。また、上下水道の整備や市街地の照明、住宅やオフィスの冷暖房、道路や鉄道などの交通網の整備・維持、インターネットや携帯電話などといった情報・通信網の拡充にも、石油や電力などのエネルギーのほか、莫大な費用を必要とします。さらに、こうした大量のエネルギー消費が、大気汚染や都心部における気温上昇など、都市環境の悪化や環境負荷の増大に多く関係しています。このような問題は、一つの都市では解決出来ず、広域的な地域の課題として取り組まなくてはなりません。 インナーシティ問題 アメリカ合衆国やヨーロッパなどの大都市の中には、都心部やその周辺の古くからの市街地にあたる地域で、インナーシティ問題が顕在化しているところもみられます。早くから市街化した地域は、道路が狭く建物やライフラインなどの社会基盤の老朽化が進んでいます。そのため、低所得者や移民・高齢者などが都心部に取り残されやすく、地区の財政悪化や、地域コミュニティの崩壊、治安の悪化などが社会問題になっています。 しかし、いくつかの都市では、老朽化した住宅や工場・操車場などの施設を取り壊して再開発を行っています。その跡地に新しい商業施設や高級な高層住宅が建設され、比較的豊かな人々が流入するジェントリフィケーションとよばれる現象がみられます。 先進国の都市問題解決への取り組み 先進国の大都市では、都心地域の空洞化や極度の機能集中といった都市問題を解消するため、様々な再開発が行われています。例えば、パリ郊外のラ・デファンス地区では、都市機能の一部を担う副都心が形成されており、そこには高層のオフィスビルや高級アパート、ショッピングセンターなどがあります。また、ヨーロッパの大都市では、都心地域に残る伝統的な建物を、かつての雰囲気を残しながら再開発している例が少なくありません。一方、都心地域で供給が過剰ぎみとなったオフィスビルを改装し、住宅として利用する試みも行われており、利便性を求める人々に注目されています。ロンドンのテムズ川やパリのセーヌ川の周辺、日本の港湾都市などでは、ウォーターフロント開発が進められています。このように再開発された地域は、海外からも観光客を集める人気スポットとなっているところがあります。 しかし近年では、人口の集中に応じた市街地の拡大やインフラの整備を一方的に進めるのではなく、周囲の環境や資源・エネルギーの消費に配慮し、公共サービスの効率性をより高めた都市の建設を意味するサスティナブルシティ(持続可能な都市)やエコシティ(環境共生都市)の実現を目指す考え方がヨーロッパや日本で模索されています。交通渋滞や排ガスによる大気汚染の緩和に向けては、パークアンドライドやロードプライシング制度が取り入れられています。パークアンドライドは、自宅から自動車やバイクで郊外にある公共交通機関の駅近くまで行き、それらを駐車させたあと、鉄道やバスで通勤や買い物など、自分の目的地に向かう交通システムです。この仕組みは、ドイツのフライブルクやフランスのストラスブールなどで取り入れられています。これに対して、ロードプライシング制度は、平日の日中、官庁街やオフィス街、観光地や商業施設などが集まる都心部に乗り入れる自動車に課金するもので、ロンドンやストックホルム、オスロのほか、シンガポールなどでも取り入れられています。さらに、大量のごみや廃棄物の処理については、リサイクルやリユースの仕組みをつくり、その量を減らす努力が続けられています。 日本の都市・居住問題 都市の地域格差 現在では、都市と農村の間ばかりではなく、大都市と地方都市との間にも地域格差が目立っています。一般に、地方の中小都市では、大都市に比べて雇用の機会が少なく、労働人口の大幅な伸びは期待出来ないため、大都市に出て行く若者が増えて高齢化も進んでいます。人口の減少と高齢化は、同時に経済活動の停滞を招き、かつて賑わいをみせた駅前や街並み全体が寂れる事態も起きています。地方都市の商店街の中には、昼間からシャッターが閉められ、営業をしていない店も少なくありません。 人口の集中と居住 日本の大都市で生活する人々の多くは、都市・居住問題、面積が小さいわりに価格の高い家をもち、また通勤時間も比較的長い場所に住んでいます。東京・名古屋・京阪神の三大都市圏に人口が集中するようになったのは、特に高度経済成長期以降です。それに伴い、大都市では住宅不足の状態が続き、地価も次第に高騰していきました。また、市街地が周辺部へと急速に拡大し、郊外では無秩序な開発が行われた結果、スプロール現象もみられました。一方、高層のオフィス街や官庁街が分布する都心地域では、居住する人の数が郊外に比べて急激に少なくなり、空洞化が進行するドーナツ化現象もみられるようになりました。 一方、高度経済成長期に開発・建設された大阪府の千里ニュータウンや東京都の多摩ニュータウンなどでは、居住者の高齢化が急速に進んでいますが、近年は建物や傾斜地のバリアフリー化、老人福祉施設の建設などの対策が進められています。
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※令和5年度以降の新課程教科書も内容に変更はありません。 当ページでは 本文→整理→発展講義の構成となります。 以下の内容は、なぜそのような法則や公式が成り立つのかを物理の学習する全員にまず覚えてほしいため、講義内容を図・式・文章・証明の4点セットでまとめました。 ページ配列は東京書籍や啓林館の物理教科書に従いました。 次に整理の項目では、各章末や編末の重要事項を身に付けられるようにしています。 進捗状況の凡例 力学 円運動と万有引力 単振動 熱力学 気体分子の運動 波動 電気と磁気 原子 電子と光 原子と原子核 参考:物理の学習方法
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高校物理 熱力学 気体 ボイルの法則 commons:File:Boyle's law final.gif(参考画像) シリンダーの中に入れられた気体を、温度を一定に保ちながらピストンを押して圧力をn倍にすると、気体の体積は 倍になる。このことから、温度一定のとき、気体の圧力と体積は反比例する: - (k:定数) また、変化前の気体の圧力と体積を, 、変化後の圧力と体積を, とすると、 と表現できる。 シャルルの法則 commons:File:Charles and Gay-Lussac's Law animated.gif(参考画像) 気体を圧力を一定に保ちながら気体の温度を変化させると、気体の体積 と絶対温度 は比例する: - (k:定数) また、変化前の気体の圧力と絶対温度を, 、変化後の圧力と体積を, とすると、 と表現できる。 ボイル・シャルルの法則 ボイルの法則から、気体の体積 と圧力 は反比例し、シャルルの法則から、気体の体積 と絶対温度 は比例する。これらより、気体の体積 は絶対温度 に比例し圧力 に反比例する: - より (k:定数) 理想気体 ボイル・シャルルの法則から、圧力を上げたり、温度を下げていくと気体の体積は 0 に近づくはずである。しかし、現実には気体分子の体積や、分子間力が存在するため、ボイル・シャルルの法則からは外れることになる。ボイル・シャルルの法則が厳密に成り立つ仮想的な気体を理想気体といい、現実に存在する気体を実在気体という。理想気体では、気体分子の体積と分子間力が無視できる。 常温常圧付近では、実在気体は理想気体として近似できることが知られている。 理想気体の状態方程式 1 mol の理想気体について、ボイル・シャルルの法則の定数 の値は、 [1]であり、 を気体定数という。 理想気体の物質量が の場合、気体の体積は物質量に比例するため、 より を得る。これを理想気体の状態方程式という。 気体分子運動論 気体の圧力という巨視的な状態について、気体分子の運動といった微視的な視点から考察してみよう。 容器に衝突した分子の運動量変化 圧力の仕組みを分子1個1個から考える。説明の簡単化のため、気体分子は質点とする。 一辺の長さL[m]の立方体の容器に、気体が入っているとしよう。 分子1個の質量をm[kg]とする。これが速度v[m/s]で運動していたとして、速度vのx成分をvxとする。 容器の中で運動している分子が、x軸に垂直な右側の壁にあたったとする。壁は、つねに静止し、この衝突は、弾性衝突であるとする。 よって、衝突の前後で、分子の速度の大きさは変わらない。 すると運動量の変化は、図より、以下のようになる。 これは、容器の側から見れば、同じ大きさの力積を気体分子1個から受けとることになる。つまり、x軸に垂直な容器の壁が、気体分子1個の1回の衝突で受けた力積はである。 時間tの間に、この分子が壁に衝突する回数は である。なぜならば、往復に2Lの距離を移動して、速度はvxだからである。(壁は右側と左側の両方にあるが、左側の壁が受ける力積は右側の壁の力積にはならないので、片方の壁だけが受ける衝突だけの力積を計算する必要がある。) 衝突回数 と、1回の衝突の力積 を掛け、時間 t で割れば、単位時間あたりに壁が受ける力積が出てくる。 単位時間あたりの力積の変化とは、力である。つまり、気体分子1個が壁に及ぼす力が求まった。 次に気体分子全体が壁に与える力を求めたい。まず速度は分子ごとに異なる可能性があるので、分子速度の平均で考える必要がある。 の平均を で表そう。 分子の数をN個とすれば、気体分子全体が右側の壁に与える力F[N]は、 - [N] これを壁の面積 S=L2[m2] で割れば、右側の壁に与える圧力 P[Pa] が求まる。 - [Pa] ここで、 は、容器の体積である。 したがって、圧力P[Pa] は、 - [Pa] と書ける。 速度のx方向成分 vx と、速度vの関係を求める。 N個の分子の の2乗の平均を とすると、三平方の定理より、 である。 ここで を2乗平均速度(root mean square velosity)という。二乗平均速度は速度の絶対値の平均と多少値が違う。平均に関してはw:平均に詳しい解説があるので、適宜参照されたし。ただし高校段階ではこの平均の問題に深入りする必要は全くない。 また、気体の速度に特別な方向は無いと考えられるので[2]、 である。 よって、 である。 これを圧力の式に代入すれば、 となる。 気体分子の運動エネルギー - から を得る。気体のモル数 と分子数はアボガドロ定数 の関係 を代入し、理想気体の状態方程式 と比較すれば、 を得る。ここで、ボルツマン定数 を定義[3]すると、 - を得る。 これが、気体分子1個の運動エネルギーの平均値である。 気体分子の速度 気体分子1個の運動エネルギーの平均値の式 を について解けば、2乗平均速度 [m/s] が求まる。 ここで、分子量 は を満たすことを使った。 例えば、この式から 273 K (0 °C) における酸素分子の速さの平均を求めてみると 461 m/s であり、音速の 332 m/s よりも速く運動していることが分かる。 内部エネルギー 気体の内部エネルギーは分子の熱運動による運動エネルギーと分子間力による位置エネルギーの和である。 ここで、分子間力による位置エネルギーは無視できるほど小さいので、内部エネルギーは熱運動による運動エネルギーに等しいとする。 単原子分子の場合は、分子の回転を無視できるため、内部エネルギーは、運動エネルギーのみからなると見なしてよい。 単原子分子理想気体の内部エネルギー は である。 熱力学 気体のする仕事 シリンダー内に気体を入れ、なめらかに動く表面積 のピストンで閉じ込める。ピストンの外の大気圧が のとき、シリンダー内の圧力も である[4]。シリンダー内の気体に熱を与え、気体をゆっくり膨張させる。ピストンが 動いたときまで、気体がピストンに加える力は である。気体がピストンにした仕事 は である。 p-Vグラフ 気体の圧力が変化する場合でも、p-Vグラフで囲まれた面積から気体が外部にする仕事を求められる。 積分を使って表すと、 である。 定積変化と定圧変化と等温変化と断熱変化 定積変化では、気体の体積は一定なので、気体が外部にする仕事は である。従って熱力学第一法則より、 である。 定圧変化では、気体が外部にする仕事は なので、気体がされた仕事は 。熱力学第一法則より、 である。 等温変化では、気体の内部エネルギーの変化は0である。熱力学第一法則より である。 断熱変化では、外部との熱の出入りがないので、 である。熱力学第一法則より である。 (熱伝導の大きいシリンダーで)ピストンをゆっくと動かすと、シリンダー内の気体の温度を外気温と同じに保つことができるため、等温変化が実現できる。 熱伝導の小さいシリンダーを使ったり、ピストンを極めてすばやく動かすと外部と気体の熱の出入りが無視できるため、断熱変化が実現できる。 モル比熱 気体1molに対して、温度を1K上げるのに必要な熱量をモル比熱(molar heat capacity)という。 - の気体に熱量 を与えて温度 だけ上がったとすれば、モル比熱 は である。 さて、気体の温度を上げると、状態方程式から分かるように圧力や体積が変わる。もし、気体を変形が可能な容器(たとえばピストンヘッドが動けるシリンダー内部)に入れれば、温度を上昇させる際に気体は膨張し容積が上昇するので、外部に仕事をすることになる。 いっぽうで、もし、容器が固くて変形しない場合で、加熱によって温度や圧力のみが変わる定積変化の場合は、気体は外部に仕事をしない。 これらを考えると、容器の条件によって、比熱が変わるので、条件ごとに区別をする必要がある。 定積モル比熱 定積変化の場合のモル比熱を定積モル比熱(molar heat at constant volume)という。 定積モル比熱 は定義より、 である。 定積変化では体積一定なので熱力学第一法則より - . もし気体が単原子分子理想気体ならば、内部エネルギーの変化量は であったので より - (単原子分子理想気体) である。 定圧モル比熱 定圧変化の場合のモル比熱を定圧モル比熱(molar heat at constant pressure)という。 単分子原子理想気体の定圧モル比熱を求めてみよう。圧力 で の単分子原子理想気体の温度が 上がったときの内部エネルギーの変化量 は である。理想気体の状態方程式より、定圧変化では圧力一定のなので、 である。 また、単分子原子気体の内部エネルギーの変化は である。これを代入して を得る。定圧モル比熱は が成り立つので これより、 である。 熱機関 熱機関とサイクル 熱をもらって仕事をする装置のことを熱機関という。 自動車のガソリンエンジンや飛行機のジェットエンジンは、熱機関である。 なお、発電所の蒸気タービンも、熱機関とみなすのが一般的である。 熱機関は、たとえばピストン部分があって、ピストンが膨張して、また元の体積に戻ったりするなど、周期的に状態を繰り返すので、熱機関の動作の過程をサイクルという。 熱機関は、周囲の高温部分から熱をもらうだけでなく、周囲の低温部分に熱をすてなければならない。 なお、熱機関は、けっして、低温部分から熱をもらって、高温部分に熱をすてる事はない(もしあったとしたら、高温部分はますます高温になってしまうし、低温部分はますます低温になってしまう)。 仕事をする熱機関は、かならず高温部から熱をもらって仕事をして、低温部分に熱をすてるので、よって熱は自然には高温部から低温部に移動する。 例外としてクーラーやエアコンのように外部から電力などのエネルギーを加えないかぎり、けっして自然には、低温部から高温部に自然に移動させる事はない。 外部からエネルギーの加わってない熱機関では、自然には高温部から低温部に熱を移動させる事はあっても、けっして、低温部から高温部に自然に移動させる事はなく、これを熱力学の第2法則という。 また、すべての熱を仕事に変換する事は不可能であり、これも熱力学の第2法則に含める。 もし、受け取った熱をすべて仕事に変換できる熱機関があるなら、低温部分から受け取った熱を自然に高温部分に渡してしまう事もできてしまうと考えられている。 また、上述のように、逆の場合のない現象のことを不可逆変化という。いっぽう、逆の現象もあり得る場合は可逆変化という。 熱機関の運動は、厳密には、普通は不可逆変化である。(ただし、ある熱機関の熱効率が高い場合に、近似的に可逆変化として計算する場合がある。) たとえば、摩擦で止まる物体は、自然界には、けっして逆の現象はない。つまり、静止している物体が周囲から熱(摩擦熱の逆に相当)を受け取って、運動を始めるという現象は、自然界には存在しない。 つまり、このような考え方でいうなら、摩擦による物体の静止もまた、不可逆変化の一例である。 熱効率 気体を膨張させて仕事を取り出す熱機関(ねつきかん、thermal efficiency)が、あるとする。この熱機関の内部気体を圧縮させて戻すのにも、エネルギーが必要である。したがって、加熱膨張させて仕事をさせたあとは、熱機関の熱を放熱しないと、圧縮に膨張時と同じエネルギーが必要になり、熱機関として価値が無くなる。だから熱機関を繰り返し利用して仕事をさせるためには、加熱をして膨張をしたあとに、気体を収縮させる際に、冷却あるいは放熱して元の圧力や体積に戻すことになる。 - 低温熱源 したがって、熱機関には冷却源や放熱先が必要である。このような冷却源や放熱先を低温熱源という。(冷却をする場合は、当然に冷却源が必要である。放熱をさせる場合も、放熱先は温度が熱機関よりも低い必要があるから、結局、冷却源があることと同等になる。)「低温熱源」という呼び方に関して、熱を捨てる先なのに「熱源」というのは奇妙と感じるかもしれないが、便宜上、こういうので、慣れて頂きたい。 - 高温熱源 対して、膨張をさせるための気体の加熱に必要な熱源を高温熱源という。言葉通り、高温熱源の温度は、低温熱源の温度よりも高い。 - 熱効率 このように、サイクルとして繰り返し使用できる熱機関には、高温熱源と低音熱源の、温度の異なる2個の熱源が必要になる。 逆に言うと、たった一個の熱源だけでは、熱機関から仕事を取り出せない。 このような原理を、熱力学の第2法則という。 仕事として取り出せるエネルギーWは、高温熱源で得た熱量Q1のうち、低温熱源で捨てることになる熱量Q2を引いた残りQ1-Q2である。 - W=Q1-Q2 熱機関を動かすのに必要なエネルギーは、最低でも高温熱源の熱量Q1は必要である。 熱機関が高温熱源から吸収した熱量の内、仕事に変えた割合を熱効率(thermal efficiency)といい で表される。熱効率の式は100分率で表す場合もあり、その場合は上式の左辺を100倍すればよいだけである。本節では、100分率の表記は用いないとする。 熱効率eは、現実の機械では1より小さくなる。例外として、理論的な解析をする場合は、効率1の場合を含めて計算する場合もあるが、その場合でも、熱効率は1以下であり、1を超えることは無い。 熱効率の定義式に、W=Q1-Q2を代入すれば、 となる。 熱膨張率 物体は温度が上昇すると体積が膨張する。温度が1[℃](あるいは1[K])上昇するに連れて体積の増加する割合を体膨張率という。長さが、温度の1℃増加あたりに、長さの膨張する割合を線膨張率という。金属は熱伝導率が高い。中でも銀Agが最も高く、Cu、Au、Al、などがこれに次いでいる。線膨張率はプラスチックが最も高い。線膨張率をαとして、長さをL、加熱後の長さの変化量をΔL、加熱後の温度上昇をΔTとすると、定義より の関係式が成り立つ。膨張量が小さい場合の近似式として、線膨張率αと体積膨張率βとの間に、以下の近似式が知られている。 - . - 導出 導出は、物体の体積をV、その変化量をΔVとすると、 および の関係より、 さらに、近似式 により、 両辺から1を引き、この問題設定では体積膨張率βが、 であり、線膨張率αが なので、結局は となる。(以上、導出。) その他 状態量 気体の変数の変数p,V,Tは、理想気体であれ、ファンデルワールス気体であれ、状態方程式(理想気体かファンデルワールス気体かは、ここでは問わない)があるならば、変数p,V,Tのうちの、どれか二つが決まれば、気体の状態方程式から残りの変数も決まる。こうして3変数p,V,Tが決まる。 内部エネルギーは、理想気体であれ、ファンデルワールス気体であれ、どちらにしても、変数p,V,Tのうち、どれか二つが決まれば、気体の方程式から残りの変数も決まる。決まった3変数のp,V,Tによって、内部エネルギーも決まってしまう。このような、状態変数によってのみ決まる物理量を状態量(じょうたいりょう)という。 3変数のp,V,Tが決まれば内部エネルギーも決定されるので、内部エネルギーは状態量である。 内部エネルギーを決める3変数のうち、真に独立変数なのは、そのうちの2個のみである。変数p,V,Tのどれを2個まで独立変数に選んでもいいが、残りの1個は既に選んだ変数の従属変数になる。 どの変数を独立変数に選ぶと、知りたい答えが求めやすいかは、問題による。 (多変数の関数の微分積分については、大学理科系で扱う。多変数関数の微分を偏微分という。解説は高校範囲を超える。) 等温変化 (この節では、高校数学III の微分積分を用いる。適宜該当教科を参照してください。) 圧力をpと書くとする。体積をV、モル数をn、普遍気体定数をR、温度を絶対温度でTとする。 仕事Wの、瞬間的な仕事の大きさは微分を用いてdWと表せる。体積Vの、その瞬間の体積変化は微分を用いてdVと表せる。これらを用いれば、 dW=pdV と微分方程式で表せる。(定圧変化では無いから、この式のpは変数である。) 体積をV1からV2まで変化させた時の仕事は、積分を用いて以下のように書き表せる。 これに、状態方程式の pV = nRT を、組み合わせる。 積分変数のVに合わせて、pを書き換えよう。 である。これより、仕事の式は、 となる。(なお、logは自然対数である。) 結論をまとめると、 である。 内部エネルギーUは、理想気体では温度のみの関数で、等温変化では温度が変化しないから、 - ΔU=0 である。 したがって、等温変化では - Q=W である。 断熱変化 まず、熱と内部エネルギーと仕事の関係式 - Q=U+W を、次のように微分方程式に書き換える。内部エネルギーの変化を微小変化としてdUと表したとすると、熱量Qや仕事Wも微小変化になるので、以下の様な式になる。 - d'Q=dU+d'W QやWの微分演算記号dの上に点「'」が付いているのは、厳密に言うと、熱量Qや仕事Wは状態量で無いから、区別するために用いている。 断熱変化では - d'Q=0 なので、つまり、 - 0=dU+d'W となる。 仕事に関しては - d'W=pdV である。 内部エネルギーの微小変化は、定積モル比熱を用いて、 - dU=nCVdT と書ける。 なので、これ等を式 0=dU+d'W に代入し、 - 0=nCVdT+pdV と書ける。 両辺をpVで割ると、 であるが、pV=nRTを利用すると、 となる。 この微分方程式を解く。まず移項して、 となる。 積分して、 ここで、Constは積分定数とする。(積分定数を「C」と書かなかったのは、比熱の記号との混同を避けるため。) 対数の性質より、係数R/Cvを対数log()の中の変数の指数に持ってこれる(数学II相当)ので、計算すると、 さらに移項して、変数を左辺にまとめると、 対数の性質より、対数同士の和は、中の変数の積に変えられるので、 である。 対数の定義より、自然対数の底をeとすれば である。 eConstを新しく、別の定数として、定数“constant”と置き直せば、 である。 これで断熱変化の温度と体積の関係式の公式が求まった。 - 温度と体積の関係式 仕事Wとの関係を見たいので、先ほど求めた上の公式をpとTの式に書き換える事を考える。状態方程式pV=nRTを用いてTを、PとVを用いた式に書き換えると、まず代入しやすいように状態方程式を と書き換えて、これを公式に代入すれば、 - 圧力と体積の関係式 - は定数なので、これを定数部にまとめてしまえば、別の定数をConst2とでも置いて、 と書ける。 ここで、指数部の式は、マイヤーの式Cp=Cv+Rより、定圧モル比熱で書き換えが可能である。 である。 ここで、:を比熱比(ひねつひ、heat capacity ratio)と言う。比熱比の記号は一般にγで表す。 これを用いると、 である。 また、温度と体積の関係式 に比熱比を代入すると、 になる。 これらの、圧力と体積の公式、および温度と体積の公式の二式をポアソンの式という。 カルノーサイクル 等温変化や断熱変化の考察で求まった公式を用いて、理論的な熱機関の、理論的な効率を調べよう。 まず、熱源として、高温熱源T1と低温熱源T2を用意する。熱サイクルとして、 - 高温熱源による等温膨張 → 断熱膨張 → 低温熱源による等温収縮 → 断熱圧縮 というサイクルを考える。 このようなサイクルをカルノーサイクル(Carnot cycle)という。 なお教育の都合上の話として、蒸気機関や自動車エンジンなどのように現実世界で制作される熱サイクルは、もっと複雑な過程になるが、しかし、いきなりそういうのを考えるのは複雑なので、まず、熱力学の教育では、カルノーサイクルを考えるのが、大学の理系の熱力学の教育では一般的である。 カルノーサイクルがなぜ、このようなサイクル形状なのかというと、まず高温熱源から熱を貰う間は、気体温度は高温熱源の温度と均衡してるとしているので、等温膨張とするのが妥当だろう。高温熱源から熱をもらい終わったあと、低温圧縮される前に、等温変化以外で仕事をして、内部気体の温度を低温熱源の温度まで下げるとするのが妥当である(収縮時も気体の温度が熱源と同じほうが理論的に扱いやすい)。等温変化の膨張のあとの変化は、あまり余計なエネルギー源を増やしたくないので、理論的に扱いやすいのは、断熱変化とするのが扱いやすいだろう。(もし定積変化や定圧変化にすると、機関が外部と仕事のやりとりをするため、つまり外部とエネルギーのやりとりをする事態になるので、変数が増えてしまい、計算が面倒になるだろう。) ともかく、カルノーサイクルで行われる仕事を求めよう。 まず図の点1から点2の間の仕事W12は等温膨張での仕事なので、高温熱源の温度をT2とすれば、公式より、 である。 図の点2から点3の間の仕事W12は断熱膨張での仕事であり、ポアソンの公式W12 より(K1は定数とする)、 である。 図の点3から点4の間の仕事W34は等温圧縮での負の仕事なので、低温熱源の温度をT1とすれば、公式より、 であり、この負の仕事の大きさと等量の熱を放出することになる。 図の点4から点1の間の仕事W41は断熱圧縮での仕事であり、ポアソンの公式 より(K2は定数とする)、 である。 機関が1サイクルの間にした仕事は、これ等を足し合わせれば良いから、 である。 このうち、 なので、仕事として残る変数は、 であり、 だから、 である。これが、この機関が1サイクルで行う正味の仕事である。 ところで、と、の関係を求めよう。 状態方程式pV=nRTより、 - (1) - (2) である。さらにポアソンの公式より、 - (3) - (4) である。 これらを連立して解けば良い。計算の一例を示す。 まず、式(1)と式(2)の左辺どうしと右辺どうしを掛ける。すると、 - (5) である。 今度は式(3)と式(4)の左辺どうしと右辺どうしを掛ける。すると、 - (6) である。 式(6)に式(5)を代入すると、式(6)の左辺は、 - (7) 式(6)の右辺は、 - (8) となる。 式(7)=式(8)なので、 - (9) である。これを整理して、 - (10) となる。これより、 - (11) である。さらに、求めたいのは、と、の関係であったから、式(10)を移行すれば、 - (12) が求まる。 なぜ、式(12)を求めたかというと、そもそもの目的は、正味の仕事 - (13) を求めるためであったので、では、正味の仕事を求めよう。 式(12)より、式(13)を変形できて、 - (14) と書ける。 これが、カルノーサイクルの、1サイクルでの正味の仕事である。 カルノーサイクルの効率 まず、自動車エンジンの熱サイクルは、カルノーサイクルではない。 熱サイクルは、カルノーサイクルの他にも、さまざまな形がある。 自動車エンジンどうしの熱サイクルですら、ガソリンエンジンの熱サイクルとディーゼルエンジンの熱サイクルは、別々の形であるし、それらの熱効率の公式の具体形も違ってくる。 このように、具体的な熱サイクルの違いによって、それぞれ熱効率の公式も具体的な形が違う。 高校生は、まずは学習の基準としてカルノーサイクルの場合の熱効率の理論上の公式を導出してみよう。(また、後述の節にある「エントロピー」などの計算でも、カルノーサイクルをもとに計算をするので、まず、カルノーサイクルを学ぼう。) では、これからカルノーサイクルの理論上の仕事効率の公式を探求しよう。 - (※ 図では、x軸変数がPになっているが、x軸変数をPにするか、それともVにするかは、あまり本質的なことではないので、読者には容赦を願いたい。PVグラフの座標軸のとりかたは、分野によってはx軸が場合もあれば、別の分野ではx軸がVの場合もあり、分野ごとに異なっており、統一してない。) カルノーサイクルが高温熱源から受け取る熱量Q1は、行程1→2であり、この行程は等温変化なので、受け取った熱量はすべて仕事になっている。行程1→2での等温変化の仕事は、 であったので。これが高温熱源から受け取った熱量Q1に等しい。つまり である。 熱効率eの式は、高温熱源から受け取った熱量をQとして、正味の仕事をWとすれば、 であった。 これに、既に求めた、熱量Q1とW12を代入すれば、 である。これを約分して整理すれば、 である。これがカルノーサイクルの理論上の最高効率である。このカルノーサイクルの最高効率は、絶対温度だけで決まる。 実際の熱機関の効率は、不可逆変化(ふかぎゃくへんか、irreversible change)を含み、これよりも低くなるので、現実の熱効率まで式に含めたければ、不等号を用いて表せば良い。 式を書くと - ≦ となる。 - 注意事項 カルノーサイクルの最大効率のこの公式 は、あくまで熱サイクルの形がカルノーサイクルな場合のみの公式である。 サイクルがカルノーサイクル以外の場合については、上記の式変形では、何の導出・証明もできていない。 もし読者が、カルノーサイクル以外の熱サイクルの場合に、最大の効率の式を求めたいなら、効率の定義式 または式変形した に戻って、計算しなおす必要がある。 カルノーサイクルでない、自動車エンジンでのp,v,Tの変化をもとに考案された熱サイクルが、すでに工学などで提案されており、たとえばオットーサイクル(ガソリンエンジンの熱サイクル)やディーゼルサイクルなど(ディーゼルエンジンのサイクル)がある。(※ 大学の工学の範囲なので、高校生は覚えなくていい。) オットーサイクルやディーゼルサイクルの理論上の最大効率の式も、 をもとにした効率の公式がすでに提案されている。(※ 公式は、高校生にとっては複雑なので、省略する。) なお一般に、熱機関で理論上の効率が最大効率になりうる場合は、あくまで、まず、その熱機関の動かし方が可逆であり、さらに熱機関を準静的に動かした場合である。そもそも現実の自動車エンジンは可逆・準静的には運動してるとは言いづらいという現実にも、気をつける必要があるだろう。 - その他 (※ 範囲外) また、上記の議論をみるかぎり、「熱サイクルの形がカルノーサイクルの形に近いかどうか」は、効率の高低とは無関係である。 そもそも、どんな形の熱サイクルも、図のように、複数個のカルノーサイクルの組み合わせに分解できる。右図の例のように、ゆがんだ丸型のサイクルですら、複数個のカルノーサイクルの組み合わせに分解できる。 もし仮に、1個のカルノーサイクルに形が近いことで熱効率が高くなると仮定したら、では、どんな形の熱サイクルもカルノーサイクルの組み合わせに分解できるというグラフ上の事実をどう考えるのか? エントロピー 熱の伝わりとエントロピー 自然界では、外部からエネルギーを加えないかぎり、高温物体から接触した低温物体には熱が伝わり、高温物体から熱が失われただけ、高温物体の温度が下がっていき、逆に低温物体が得た熱のぶんだけ低温物体の温度は上がっていき、最終的に両物体(元・高温物体と元・低温物体)の温度は等しくなる。 その逆の現象(低温物体から高温物体に熱が伝わり、高温物体はますます高温になり、低温物体はますます低温になる現象)は存在しない。 このような、高温物体から低温物体に熱がつたわる現象を、数式で調べてみよう。 まず、図のように、床の上にある高温物体に接触した低温物体に、熱が伝わる場合を考える。高温物体も低温物体も静止してるとしよう。 床は熱を伝えにくい物体で作られているとする。問題の簡単化のため、高温物体の熱は低温物体にのみ伝わり、他の場所には拡散しないとしよう。(たとえば、空気中への熱の拡散は、無視する。) このとき、高温と低温の定義により、 - ≧ である。 まず、高温熱源の温度をThと書くとしよう。また、低温熱源の温度はTcと書くとしよう。 すると、高温物体が失った熱量のぶんだけ、低温物体は熱量を得るので、両物体の変化した熱量の大きさは同じである。 つまり、高温熱源の熱量の変化の大きさを Qh として、 また、低温熱源の熱量の変化の大きさを Qc とすれば、 - |Qh|=|Qc| である。(記号 | | は絶対値の記号。) 簡単化のため - |Qh|=|Qc|=Q と書くしよう。 さて、天下り的だが、 という量を考える。 量Sは、それぞれの物体ごとに考える必要があり、 - および という物理量をそれぞれ考える必要がある。 すごく天下り的だが、この量 S1 および S2 は、足しあわせられるとしよう。 - (※ つまり、いわゆる「示量性」(しりょうせい)の変数だとしよう。たとえば、質量は、示量性の変数である。質量1kg物体の物体Aと、質量2kgの物体を同時に重量計に乗せれば、重量計の示す数値として、質量は3kg(=1kg+2kg)を示す。 - いっぽう、温度は、示量性の変数ではない。温度20℃の水に、温度40℃の湯をまぜても、けっして温度60℃にはならない。) さて、とにかく、この量 S1 および S2 は、足しあわせる。 すると、系全体では、この量は、 になる。 このとき、 - |Qh|=|Qc|=Q といった仮定があったので、この仮定にもとづき、さきほどの式(S1+S2)にあるQhとQcに、それぞれQを代入すれば、 となる。 上式では、高温物体からは熱量が失われるので、負号(ー)を付けた。 さらに、 - ≧ の関係を思い出し、 さきほどの式と連立させると、 - ≧ 0 である。 つまり、 - ≧ 0 つまり、物理量 S_1 + S_2 は、時間経過とともに、かならず増える。 - はエントロピー(entropy)と呼ばれる物理量である。エントロピーの記号はSと置くとする。また、エントロピーの単位は[J/K]である。 つまり、エントロピーは、かならず増える。 熱効率とエントロピー 熱効率の定義式と、カルノーサイクルの熱効率の温度の関係式を連立させてみよう。 まず、高温熱源の温度をThと書くとして、高温熱源から熱機関に渡す熱量をQhと書くとしよう。 低温熱源の温度はTcとして、熱機関から低温熱源に放熱される熱量をQcと書くとしよう。 熱効率eの定義式は、 であった。いっぽう、カルノーサイクルの熱効率は、 - ≦ である。 これらより、 - ≦ である。これは、 - ≦ とも書けて、両辺の1を引いて消去して、 - ≦ となる。マイナスがあるので、移項すれば、 - ≦ である。 添字が同じ量どうしをまとめれば、 - ≦ (1) となる。ここで、を新しい物理量として定義して、この量はエントロピー(entropy)と呼ばれる。エントロピーの記号はSと置くとする。また、エントロピーの単位は[J/K]である。 つまり、 である。そうすると、式(1)は - ≦ (2) と書ける。 熱機関の動作の順序は、まず機関が高温熱源から熱を貰ってから、低温熱源に熱を渡すのであった。(逆に先に低音熱源に放熱してから高温熱源で吸熱するのは不可能である。熱機関は、もらってない熱は渡せない。熱力学の第二法則より当然である。)だから、時間的には、熱機関のエントロピーSは、まず先にS=Shになってから、時間が経って、あとからS=Scになったのである。 そして式(2)より、≦ であるから、熱機関のエントロピーは、時間が経って、増大したことが分かる。 以上の論証より、熱機関のエントロピーは、かならず増大する。これをエントロピー増大の法則という。 熱が伝わる現象にせよ、熱機関の現象にせよ、エントロピーは、かならず増加する。このように、自然界ではエントロピー増大の法則が成り立っている。 参考: 評論文に出て来る「エントロピー」について よく、科学評論とか文明評論を読むと、環境問題などに関して「エントロピー」という用語がでてくる。この評論における「エントロピー」とは、もともとの熱力学の意味とは、やや違う意味で用いられる事も多い。 - ※ 大学入試などの国語でも、ときどき、評論文で「エントロピー」という外来語が出て来る。 では、そのような評論における「エントロピー」とは、なにを表しているのかというと、たいていの場合、一度起きてしまったら元には戻らない現象について、表現しているのである。さらに、なるべく起こさないことが望ましい現象について、それらの評論では「エントロピー」という用語を用いている場合が多い。 環境問題などでは、以下のように、「エントロピー」が用いられる。 絶滅してしまった生物種は、もう復活できない。(※ ここでは骨格標本などからのクローン生成とか、そういう事は考えないとしよう。) 環境問題などでも、環境が悪化してしまったら、それはもう、完全には元には戻らないだろう。 評論では、「だから我々人類は、自然環境や生態系(せいたいけい)を、保全していかなければならない。」・・・のような文脈において、「エントロピー」という表現が用いられる事もある。 資源問題などでも同様で、ある油田や鉱床が枯渇してしまったら、もう、その採掘場所からは、資源が出てこないので、だから我々人類は、かぎりある資源を、けっして無駄づかいせずに、有効に使わなければならない、・・・のような文脈において、「エントロピー」という表現が用いられる事もある。 しかし、熱力学における「エントロピー」とは、このような環境問題的な意味ではない。 熱力学におけるエントロピーとは、あくまでも、 によって定義される量である。 このような熱力学における意味でのエントロピーのことを「熱力学的エントロピー」ということにより、他の意味でのエントロピーの用法と区別することも多い。 つまり、熱力学エントロピーの定義式は、 である。 「熱力学エントロピー」では、起こるのが望ましいか望ましくないかは、「熱力学エントロピー」の定義に無関係である。高温部から低温部へと熱が伝わっていこうが、望ましいか望ましくないかは、「熱力学エントロピー」は無関係である。 溶液とエントロピー - 『高等学校化学I/溶液の性質』と関連あり。 元には戻らない現象も「エントロピー」と言うのだったら、 だったら、 - 絵の具(えのぐ) を水にとかす事だって、エントロピーではないか? という疑問が、わいてくるかもしれない。 化学では、溶質が溶液にとける事について、「エントロピー」と表現する場合もある。(※ なお、絵の具(えのぐ) は溶質ではないので、間違えないように。絵の具は、水に溶けない。もし、絵の具が水に溶けてしまったら、無色透明になってしまい、絵の具としての効果がない。) また、この化学における溶質と溶液のエントロピーは、なんと数値的な計算が可能である。 説明の簡単化のため、不揮発性の溶質だとしよう。 熱力学における「エントロピー」とは、エネルギーを、絶対温度で割り算した値だった。 凝固点降下や沸点上昇をもとに、エネルギーを計算できる。なぜなら、比熱 C に、上昇または降下したぶんの温度 ΔT を掛ければいいだけであるから。 そして、その時の絶対温度 T は、その実験のときの溶液の温度をもとに、簡単に計算できる。たとえば、水の沸点上昇なら、T=373 K (=273+100)というふうに、簡単に計算できる。 つまり、 - (CΔT)/T が、溶質によるエントロピー変化である。 このように、化学では、エントロピーは、相変化(そうへんか)において、ひとつの計算方法を提供する。 ところで、分母Tが絶対零度の場合、つまり 0ケルビン の場合は、どうなるかというと、実はこれは、「量子力学」(りょうし りきがく)という分野が関わってくる、高校レベルを大幅に超えた、かなり専門的な話題になるので、高校レベルでは説明を省略する。 ※ なお、合金(ごうきん)のように、ある固体(仮にAとする)と別の固体(仮にBとする)が混合している場合にも、それぞれの純金属の場合とは熱力学的な性質が少々、違っている場合があるので、熱力学における「エントロピー」を計算できる場合もある。しかし、高校レベルを大幅に超えた、かなり専門的な話題になるので、高校レベルでは説明を省略する。 拡散とエントロピー 溶質が溶液にとけるときに、溶質が水中を広がっていくだろう。 熱も、温度の高い場所から、温度の低い場所へと広がっていく。 すると、エントロピーとは、熱や温度と関係のある現象をおこす何かが、不可逆的に広がっていく性質について、言及しているとも言えそうである。 溶質が溶液に溶けるという現象も、熱や温度と関係のある現象である。なぜなら、凝固点という温度を降下させたりするように、温度と関係のある現象を起こすので。 なお、物理学や数学では、なにかが広がっていく現象のことを「拡散」(かくさん)という。 ならば、この拡散という用語を用いて、エントロピーとは何だろうかの説明を次のように言い換えよう。 エントロピーとは、熱や温度と関係のある現象をおこす何かが、不可逆的に拡散している性質について、言及しているとも言えそうである。 固体のモル比熱 固体の(化合物や合金でない)単体元素の1モルあたりの定積モル比熱は、おおよそ一定値になり、 おおよそ - Cv = 24~30[J/mol・K] である。 とくに、かなりの単体元素が、 - Cv = 24~26[J/mol・K] である。 - (ただし、いくつか例外的に、当てはまらない元素もある。C(炭素)やBe(ベリリウム)やケイ素、ホウ素など。) また、気体定数Rやボルツマン定数kBを使えば - [J/mol・K] と近似できる。 これを、デュロン=プティの法則という。 - (※ 例外)ただし、極低温の付近になると、合わなくなる。(※ 大学の量子力学で、の理論を習う。)極低温の場合は、「アインシュタインの比熱式」になる。 - また、(大学ではロクに習わないが、)合金になると、合わなくなる。 - こうなる理論的考察は、定説では量子力学の理論を使うとされており、大学レベルになるので、説明を省略する。 なお、二原子分子の場合、たとえば NaClのモル比熱は約 50 [J/mol・K]であり、約 6R = 2×3R の値になっている。 酸化銅 CuO のモル比熱は 約42 [J/mol・K] と、若干、小さい。 気体分子にしろ、固体にしろ、比熱は、モル比熱で考えると、それぞれ、常温付近では、(例外的ないくつかの元素固体を除くと)元素の種類によらず、ほぼ一定値になることが分かる。(大学では極低温などの例外ばかりが強調されるが、しかし常温では多くの元素で十分にデュロン=プティの法則は成り立っている。) また、それらのモル比熱は、気体定数Rを使った式で簡潔に近似することができる。 こういう実験事実が、モルの概念の有用性や、気体の状態方程式の有用性の裏付けになっている。 なお液体の場合には、デュロン=プティの法則のような関係は特に見つかってない。 固体の比熱の法則には、例外は少ないが、しかし固体の比熱の法則のほうは(当てはまらない元素が多いなどのように)例外が比較的に多い。そういう事情もあってか、物理学の熱力学での「エネルギー等分配の法則」の理論が、気体を基準にして法則を導き出してから固体の比熱を考察していく理論体系になっていることも妥当であろう(例外の多い「固体」比熱よりも、例外の少ない「気体」比熱のほうが、法則に近いと考えるのは妥当だろうという事である)。 エネルギー等分配の法則 速度について、 であったから、運動エネルギーについても、 である。これに、単原子分子理想気体の内部エネルギーの式 とを合わせて、運動エネルギーは各方向成分を求める。各方向とも等分されるのが妥当なので、したがって、各方向の運動エネルギーは となる。 このことから、運動の自由度1個につき、エネルギーがずつ等分される事がわかる。これをエネルギー等分配の法則(law of equi-paritation of energy)という。 2原子分子では、運動の自由度は、分子速度の3方向に加えて、回転運動が2個、加わる。二つの分子を結ぶ軸に垂直な方向の平面上の線が回転軸の方向になるので、面の自由度2個が加わる。 よって、2原子分子(diatomic molecule)では、理想気体の内部エネルギーの式は、 になる。 2原子分子の内部エネルギーがになることは、実験的にも比熱の測定によって確認されている。 ここまでで、高校物理の熱力学での発展的話題は終了である。これより先の水準の話題は、大学での範囲になる。
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中学受験算数や数的処理で流水算や通過算が参考書とかに掲載しております。その背景が物理基礎の本節で学べます。 速度の合成 川のように流れのあるところでは、普段と違う速さになります。もし、分からない場合は流れるプールやエスカレーター(動く歩道)をイメージしましょう。流れに乗って動く時と、流れに逆らって動く時では全然感覚が違います。 また、動く歩道を歩く人は、普通に歩く速度よりも、大きな速度で動きます。これは、歩く速度に、動く歩道の速度が加わるためです。 川の流れのないところ(静水)での船の速さ(速度)が、川の流れる速さ(速度)で進んでいます。静止している人が岸から船の速さを見てみると、川の流れのないところ(静水)での船の速度と川の流れる速度の和として求めます。 このようにして、2つの速度(静水した時の船の速度と川の流れる速度)を1つの速度にまとめます。これを速度の合成や合成速度といいます。速度の合成や合成速度は、どの向きを正とするかを考えてから速度の和をとります。 この考え方を利用したものが流水算になります。 直線上の相対速度(私から見たあなたの速度) 基準物体(観測者)から見た対象物体の速度を相対速度といいます。相対速度は相手の速度〔対象物体〕から自分の速度〔基準物体(観測者)〕を引けば求められます。 同じ物体の運動でも、観測者の速度によって、動く向きも速さも異なって見えます。したがって、物体の運動を表す時は、それがどのような運動をしている観測者から見たものであるかを明確にしなければなりません。 なお、この考え方を利用したものが通過算になります。
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高等学校 物理基礎/熱 熱 熱(ねつ)は、物体や物質の内部エネルギーの一形態であり、分子や原子の運動に関連しています。熱は温度の差によって移動し、熱量(エネルギーの転送)を引き起こすことがあります。この章では、熱に関連する基本的な概念と法則について説明します。 温度と熱量 温度 物体や物質の熱状態を表す指標が「温度」です。温度は熱平衡にある物体の状態を比較するために使用されます。一般的に、温度は摂氏(℃)やケルビン(K)の単位で表されます。摂氏とケルビンの間には、次のような関係があります。 - 摂氏 = ケルビン - 273.15 熱量 物体が持つ熱エネルギーの総量を「熱量」と呼びます。熱量は物体の質量と温度の変化に関連しており、次のような関係があります。 - 熱量 = 質量 × 比熱容量 × 温度変化 熱の伝導 熱は物質内部を伝わることができます。この伝導は、熱伝導と呼ばれます。熱伝導は、温度勾配(温度の差)によって引き起こされ、物質の特性によって影響を受けます。一般的に、熱伝導は熱エネルギーの高い領域から低い領域への移動を意味します。 熱の拡散 熱は空気や流体などの物質の間を移動することができます。この移動は、熱拡散と呼ばれます。熱拡散は、物質の粒子(分子や原子)の運動によって引き起こされます。熱拡散によって、物質内の熱エネルギーが均等に分布することがあります。 熱容量 物質の熱エネルギーを蓄える能力を「熱容量」と呼びます。熱容量は物質の質量と比熱容量によって決まります。比熱容量は物質ごとに異なり、物質の種類や状態によって異なる値を持ちます。 熱力学第一法則 熱力学第一法則は、エネルギー保存の法則の一つであり、エネルギーの変化を熱量と仕事によるエネルギー変化の合計として表します。熱力学第一法則は、エネルギーが保存されるという基本原理を示しています。
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ここでは「物理基礎」や「物理」を理解するために必要な算数・数学の知識をまとめています。特に、割合・比、関数、図形、三角比は「物理基礎」「物理」の学習者は必ず全員マスターしてください。それ以外の項目に関しては問題集などで、実際に問題演習しながら覚えていくといいでしょう。 割合・比 物理では、小学校で習得した割合や比から避けて通れません。教科書を見たら、結構な確率で使用されているのが分かります。割合や比を知らずに物理基礎や物理を習得するのは出来ません。 例えば、●●度とかは割合、●●量とかは比だと思っておきましょう。 数と式 計算 分数 - 分数の意味: - . - 分数の性質: - ならば分子と分母に同じ数cをかけてとできる. - 約分: - . - 分数どうしの加法・減法(分母が同じ場合) - . - 分数どうしの加法・減法(分母がことなる場合) - . - 分数どうしの乗法・除法 - . - . - 分数の分数 比 - 比の性質 - ならば、 (c≠0). - 比例式 - ならば、 (c≠0). - ならば. 方程式 - 1次方程式 の解の公式: - 2次方程式 の解の公式: - - の場合: - の場合: - 平方根 - 根号を外す - 平方根の変形 - 有理化 - 平方根の乗法 - 平方根の除法 展開公式 - 中学の復習 - 高校数学I・数学IIの内容 累乗と指数法則 物理の世界では大変に大きな数、 逆に非常に小さな数も扱います。例えば、 光の速さは約300000000m/s(秒速3億m。キロメートルとすれば秒速30万km)、 電子の質量は約0.00000000000000000000000000000091kgです。こうした数をそのまま扱うと書くだけでも手間がかかるうえに間違るでしょう。まして、 これを使って計算する気にはなれません。 そこで、 位取りの0をで表して簡単な形に書き換える方法を利用していきます。 累乗 a を b回 掛けた積をと表し「aのb乗」と読む。なお、このときのbにあたる数を 指数 という。そして、 2乗を 平方、 3乗を 立方ともいいます。 指数法則 - . - . - . - . - . ゼロ乗とマイナス乗 特にを利用すると次のように考えれます。 もちろん同じ数同士の商は1なので - . となる。 さらにを使ってマイナス乗を考えてみましょう。 例えばm=1、 n=3を代入すると となりますが、 先ほどの公式からはともいえる。 ここから - . (詳細な説明は高等学校数学II/いろいろな関数#指数関数と対数関数にあるので、 出来ればそちらも読んで下さい。) 数の表現 上記を利用して大きな数を表現してみましょう。例えば、 10000はと書けます。先ほどの光の速さも同様に表現すれば、m/sとなり、そのまま書くよりも簡単に表現出来ます。 次に、 小さな数を表現してみよう。であるから、 例えばとなります。こうすれば、 先ほどの電子の質量はkgと表現出来ます。 まとめると、 自然科学の世界では非常に大きな数や小さな数はで表現します。 なお、 とするのが普通です。例えばアボガドロ定数(/mol)は(/mol)と書いても同じ値です。しかし「とするのが普通」ですからの書き方を採用します。 近似値と有効数字 測定値と近似値 長さや距離をはかる時にはものさしや目盛り付き定規を使い、 温度をはかる時には温度計を使い、 力の大きさをはかるときにばねばかりを使います。これらはすべて目盛りを読むが、 このときの値が測定値である。測定値は正しい値に近いが、完全に正しい値というわけではありません。例えば私たちの使うものさしも微妙な歪みがあり、 かつ1ミリメートルまでしか計れないためそれより小さな値をはかれません。そのため厳密に言えば「正しい数値に近い数値」となります。こうした数値のことを近似値という。測定値は近似値です。また、 計算で得られた正しい値に近い値も近似値です。例えば、 3.14は(lは円周、 rは半径)の近似値です。 有効数字 測定値の数値の最後の桁の数字は目分量で読むのが普通です。例えば、 12.3mmという値は12.25mm以上12.35mm未満の値とみなされます。この時の有効数字は3桁です。「有効数字n桁」と言われたら、 上からn+1桁の値まで計算してからその数を四捨五入します。例えば4.56789を有効数字3桁で表せという場合には、最初の4、 5、 6の3桁を正しい値とみなし、上から4桁目の7は四捨五入します。したがって、 4.57と表します。有効数字2桁なら4、 5のみを正しい値とみなして6は四捨五入して4.6と表します。 図形 物理基礎や物理では公式の証明に中学校数学で学んだ相似を使う場合があります。典型例が物理の円運動とかです。 三角比 関数 変化の割合 中学校数学で学びましたが、非常に大切です。加速度のベースの考え方となります。いわゆる傾きで、縦の変化÷横の変化で変化の割合が分かります。 ベクトル 詳しい説明は高等学校数学C/ベクトルを読んでください。ここでは、必要最小限の説明に止めます。 ベクトルとは 速度や力は大きさだけでなく、方向・向きも持つ。また、平行四辺形の法則によって分解・合成できる。こうした量のことをベクトルという。なお、速さや質量や時間などは大きさしか持たない量であり、これはスカラーという。 ベクトルの書き方 ベクトルは のように、ベクトルを表すアルファベットの上に矢印を書く。ベクトル の大きさは で表すが、単にとだけ書くこともある。
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進捗状況の凡例 理数探究基礎のページです。 目次のタイトル・項目・内容は、数研出版株式会社『理数探究基礎』【理数702】の教科書に合わせました。学習指導要領によると、標準単位数は1単位となっています。 理数探究基礎と高等学校の教科・科目との関係について 中学校までの学習内容を踏まえて、調査に必要な基本的な技術や知識を身につけるための教科書です。しかし、1つや2つの教科に限らない教科横断的・総合的な話題を扱っていますから、数学や理科など高等学校の話題はもちろん、どの教科にも当てはまらないような内容も触れています。そのため、初めて聞く言葉や内容に触れたら、参考文献やインターネットで調べたり、先生に聞いてみましょう。 序編 探究を始める前に 第1章 科学的とは - 科学とは (2023-00-00) - 科学的な探究とは (2023-00-00) 第2章 探究するうえでの心構え - 研究倫理とは (2023-00-00) 第1編 探究の流れ 第1章 テーマの設定 第2章 仮説を立てる - 仮説を立てる (2023-00-00) 第3章 計画を立てる 第4章 結果の分析 - データの性質を知る (2023-00-00) - 1項目のデータの特徴をみる (2023-00-00) - 2項目のデータの関連をみる (2023-00-00) - 分析結果とその評価 (2023-00-00) - 結果の考察 (2023-00-00) 第5章 成果をまとめる - 論文の書き方 (2023-00-00) 第6章 成果を発表する - 発表するにあたって (2023-00-00) - ポスターのつくリ方 (2023-00-00) - 口頭発表スライドのつくリ方 (2023-00-00) 第2編 探究に用いる技能と実践例 第1章 実験・観察・調査に関する基本操作 - 計る・測る・量る (2023-00-00) - 熱する・冷やす (2023-00-00) - 見る (2023-00-00) - つぶす・分ける (2023-00-00) - 増やす (2023-00-00) - 野外調査 (2023-00-00) - 記録する (2023-00-00) 第2章探究の実践例 - 表面張力のはたらき (2023-00-00) - 溶解による金属の表面積の変化 (2023-00-00) - 水蒸気以外の雲の生成 (2023-00-00) - 磁石モデルによるケプラーの法則の検証と応用 (2023-00-00) - 校舎の固有振動数の測定 (2023-00-00) - オオクチバスにおける鱗の形態と生息環境の関係 (2023-00-00) - ゼブラフィッシュから見える世界 (2023-00-00) - 図形パズル (2023-00-00) - 無理数の連分数表示 (2023-00-00) - 虫歯を減らす効果的な手段 (2023-00-00) - バスケットボールにおけるリバウンドの有用性 (2023-00-00) 第3編 探究に必要なその他の知識 第1章 統計学 - データの整理 (2023-00-00) - データの代表値 (2023-00-00) - 分散と標準偏差 (2023-00-00) - データの相関 (2023-00-00) - 回帰分析 (2023-00-00) - 正規分布 (2023-00-00) - 母集団と標本 (2023-00-00) - 標本平均の分布 (2023-00-00) - 母平均の推定 (2023-00-00) - 仮説検定 (2023-00-00) 第2章 インターネットでの情報収集 - インターネットでの情報収集の仕方 (2023-00-00) 第3章 英語での発表 - 探究で用いられる英語 (2023-00-00)
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質の高い探究を行うためには、探究テーマが個性的なテーマになっていなければなりません。しかし、優れたテーマを考えるには、それなりの時間を必要とします。ここで、優れたテーマとはよく調べられ、よく考えられ、具体的な内容が充分に盛り込まれているテーマとなります。優れたテーマなら、研究や実験がしやすく、優れた成果を導き出せるでしょう。 ここでは、テーマの見つけ方、優れたテーマの作り方を紹介します。 テーマを探す テーマを見極めるには、普段から様々な分野に興味を持ち、注意深く観察して、批判的に見なければなりません。 そのまま鵜呑みにしないで、原因・理由・対策を考えてみましょう。 理由を忘れない 「なぜだろう」という気持ちで、あらゆる状況に対応していきましょう。 教科書に書いてあるような内容や当たり前のように思っている内容も、疑ってみましょう。科学が進歩すれば、これまで述べてきた考えや理論が変わるかもしれません。 そのため、自分の体験や観察で納得出来ない部分があれば、それを研究テーマにしてもよいでしょう。 日常生活上の問題点 日常生活の中で、あなたが悩んでいたり、こうだったらいいなと思っているような内容があれば、それは探究のテーマとして相応しい考え方だと思います。実現しそうにない自分の考えをいつも意識して、その考えがどこから来たのか、よく調べてみましょう。 個人的に見つけた規則性 規則性を個人で見つけたら、疑問に思わなくても探究のテーマになります。規則性を個人で見つけ、いろんな人に見てもらいやすい形にしていくのが探究の楽しみです。この場合、規則性を個人で見つけたらそのまま「仮説」になります。 先輩達のテーマの継承 過去のテーマから探す インターネットの利用 テーマにふさわしい話題をインターネットで検索しても構いません。インターネット上で流行している話題は、個人・社会双方にとって、重要なテーマと思われます。しかし、そのテーマについて知識不足だったり、無関心だったりして、テーマの重要性を十分に理解出来ないかもしれないので、気を付けなければなりません。インターネットで検索して、注目話題・自分の関心分野を探してみましょう。その分野がどんな話題なのか、みんながどんな関心を持っているのかが分かれば、検索する時にテーマを探しやすくなります。しかし、インターネット上には無根拠情報が出回っています。テーマがある程度絞られているからこそ、より信頼性の高い論文などの資料を読まなければなりません。そうすると、より信頼性の高い情報になります。
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高等学校では、時間・設備・協力者・指導者の問題で探究活動に限界があります。このため、探究計画ではこれらの制限を踏まえて行わなければなりません。 探究計画の立て方 仮説を証明・検証するための方法を考える 過去の探究を振り返り、探究方法を探りましょう。まず、似たような探究を探し、探究者の考え方・発送・方法を学習してから、新しい探究方法を考えましょう。 限られた資源、限られた時間で出来る方法を選ぶ 高等学校での探究には、時間・設備・予算・労働力・技術力などの制約があるため、この制限内で上手くいく計画を選びます。特に、時間と頻度を考えながら探究方法を選んでいきましょう。集団で調査をする時には、各メンバーに時間を割り当てるなど、グループの強みを生かしましょう。なお、集団の場合は、メンバー間でしっかりと情報も共有しておきましょう。 探究計画を立てる時の注意点 探究にかけられる期間・時間は、学校・個人によって違います。しかし、予想以上の探究時間がかかるため、注意しましょう。 本実験の前に、実際に出来るかどうかを確かめるために、予備実験やリハーサルをしておきましょう。すぐに上手くいく実験はほとんどありません。 また、1回だけの本試験で全てのデータを集められるとは限りません。したがって、再実験をするために、予備日を前もって決めておきましょう。 発表準備やまとめを行う時間も考えなければなりません。探究には、中間発表・最終発表・発表会への出場・論文作成などが求められます。発表準備や論文作成は、少なくとも1か月はかかります。これらを踏まえて探究計画を立てましょう。 しかし、調査計画が思うように進まず、必要な情報が揃う前に準備を始めなければならない場合もあります。この時、集めた情報を踏まえて、どこまで仮説の検証が進んだのか、今後どのように探究を進めていくのかをまとめ、発表しましょう。 Point - 探究を行う時間・頻度・設備を考えて、探究計画を立てましょう。 - 探究の方法は、仮説を証明・検証出来るかどうか予想して検討しましょう。 - 探究計画では、論文の作成や発表の準備時間も考えておきましょう。
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新課程の生物・旧課程生物共通です。学習する順番やタイトルが入れ替わっているだけなので、以下のリンクを参照してください。[1] part1 生物の進化 Chapter1 生物の進化 当面の間は旧生物Ⅱから流用 Chapter2 生物の進化 - 有性生殖 - 遺伝子の多様な組み合わせ Chapter3 進化の仕組み 科学者達は、化石を見たり、生物の形や発達、生理、行動を研究して、生物がどのように進化してきたのか、どこから来たのか、多くの情報を収集してきました。ここ数年、DNAの解析によって新しい情報が得られています。進化を実現させる要因は何か、その仕組みはどうなっているのかを調べてみましょう。 Chapter4 生物の系統 - 生物の分類と系統 - 3ドメイン説 - 細菌(バクテリア)ドメイン - アーキア(古細菌)ドメイン - 真核生物ドメイン - 人類の起源と進化 part2 生命現象と物質 Chapter5 生命と物質 - 物質と細胞 - 生命現象と蛋白質 Chapter6 代謝 - 代謝とエネルギー - 呼吸 - 光合成 part3 遺伝情報の発現と発生 Chapter9 バイオテクノロジー 本Chapterは、遺伝子を使った最新技術を学びます。新型コロナウイルスの検査方法(PCR検査)で有名となったPCR法もここで学習します。時事問題で、しばらくの間、各大学入試で出題の増加が予想されます。そのため、かなり詳しく内容を記述しています。 part4 生物の環境応答 生物は環境の変化を感じ取り、行動出来ます。動物は、眼や耳などの器官で外界の変化を感じ取り、神経系でその情報を処理してから、筋肉などの器官を動かして、必要な活動を行います。植物では、植物ホルモンが環境応答の中心的な役割を果たしています。このパートでは、感覚器官、神経系、筋肉の仕組みについて学びます。また、動物の反応や行動の一部として、様々な動物がどのように行動するのかを学びます。また、植物反応の一部として、植物の生殖や植物ホルモンなどについて学びます。 Chapter10 刺激の受容と反応 Chapter11 動物の行動 動物を観察していると、時と場合によって様々な行動をしている様子が見られます。それぞれの行動は、環境中の特定の刺激に対する反応なので、神経系がどのように成長し、変化していくかに大きく関係しています。動物の行動が複雑で多様なら、その神経系はより発達しています。それでは、ある動物の行動を見てみましょう。 Chapter12 植物の環境応答 part5 生態と環境 当面の間は旧生物Ⅱから流用 参考
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この節の話題は、かつ2012年頃まで、下記の不完全優性~抑制遺伝子、伴性遺伝などの話題は、むかしは高校生物の教科書や参考書に良くある話題でしたが、しかし現代の高校教育では重要度が低いと考えられるように教育状況が変化しており(『もういちど読む』シリーズの高校生物にその事情が書いてあります)、現在の検定教科書にはほとんど載っていません。「生物資料集」にその内容が載っている程度です。 不完全優性 優性と劣性の関係が不完全な遺伝の仕方を不完全優性(incomplete dominance)と呼びます。 不完全優性では優性の法則は当てはまりません。 不完全優性は、マルバアサガオなどが行います。 マルバアサガオには、花の色が赤Rと白rのものがあります。 花の色が赤の純系RRと白の純系rrを両親Pとすると、 その子F1はRrで花の色が中間の桃色となります。 さらにその子F2は、RR:Rr:rr=1:2:1で、赤色:桃色:白色=1:2:1となります。 致死遺伝子 成体になるまでに致死作用がある遺伝子を致死遺伝子(lethal gene)と呼びます。 致死遺伝子は、多くの生物に存在します。 例えば、ハツカネズミは致死遺伝子を持っており、 毛の色が黄色Yと灰色yのものがあります。 黄色Yyを両親Pとすると、 その子F1はYy:yy=2:1で、[Y]:[y]=2:1となります。 YYの個体は発生の段階で死んでしまう。 これはYが劣性の致死遺伝子だからです。 複対立遺伝子 同一の遺伝子座にある、同一形質を決める、複数の遺伝子を複対立遺伝子(multiallelic gene)と呼びます。 複対立遺伝子には、ヒトのABO式血液型などがあります。 ヒトのABO式血液型には、A型、B型、AB型、O型の4種類があり、 AとBとは不完全優性で、A,BはOに対して完全優性です。 例えば下の表のように、AO(A型)とBO(B型)を両親とすると、 その子はAB,AO,BO,OOとなり、それぞれAB型,A型,B型,O型となります。 補足遺伝子 対立しない2つ以上の遺伝子が、その働きを互いに補足しあって1つの形質を決めるとき、その遺伝子を補足遺伝子()と呼びます。 補足遺伝子には、スイートピーの花の色などがあります。 色素原を作る遺伝子をC、色素原から色素を作る遺伝子をPとし、 白色花CCppと白色花ccPPを両親Pとすると、 その子F1はCcPpで有色花となります。 さらにその子F2は、C-P-:C-pp:ccP-:ccpp=9:3:3:1で、有色花:白色花:白色花:白色花=9:3:3:1つまり有色花:白色花=9:7となります。 これはCとPの両方をもっていないと色素が作られないためです。 抑制遺伝子 他の遺伝子の働きを抑制する遺伝子を抑制遺伝子(suppressor gene)と呼びます。 抑制遺伝子には、カイコガのまゆの色などがあります。 黄色遺伝子をY、Yの働きを抑制する遺伝子をIとし、 白まゆIIyyと黄まゆiiYYを両親Pとすると、 その子F1はIiYyで白まゆとなります。 さらにその子F2は、I-Y-:I-yy:iiY-:iiyy=9:3:3:1で、白まゆ:白まゆ:黄まゆ:白まゆ=9:3:3:1つまり白まゆ:黄まゆ=13:3となります。 これはIがYの働きを抑制するためです。
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個体群 ある地域に住む同種の個体(indvidual)の群れを個体群(こたいぐん、population)といいます。ゾウの群れでもウマの群れでも、ハエの群れでも、同種の個体の群れでさえあれば、個体群といいます。 ショウジョウバエの雄と雌とのつがいを、エサの足りた飼育ビンなどの中で飼育すると、初めは個体数が急激に増加します。 もし、エサが限りなく豊富にあり、居住空間も広ければ、どんどん増えていくことになります。しかし、実際には、エサには限りがあります。 ある環境において、個体数の密度が高まると、食べ物の不足や、居住空間の減少、排出物の増加などによって、生活空間が悪化します。その結果、生まれてくる子が減ったり、あるいは生存競争が激しくなって死亡率が増えるなどして、個体数の増加が抑えられます。そのため、個体数の時間についてのグラフを書くと、図のようにS字型になります。このグラフのように、個体群における個体数の推移を描いたグラフを個体群の成長曲線(せいちょうきょくせん、growth curve)といいます。 動物でも植物でも、このような現象が見られます。 ある環境においての、個体数の最大数を環境収容力(かんきょう しゅうようりょく、carrying capacity)といいます。 また、密度によって、個体の成長や発育などが変化することを密度効果(みつど こうか、density effect)といいます。 - 植物の密度効果 植物でも密度効果はあります。 ダイズでは、種をまいたときの密度に関わらず最終的な単位面積あたりの総重量が、ほぼ同じ値になります。 これを最終収量一定の法則(さいしゅうしゅうりょう いってい の ほうそく、law of constant final yield)といいます。 相変異 トノサマバッタでは、幼虫時の密度で、成虫になったときの様子が変わる。 幼虫時に密度が低いと、成虫は孤独相(こどくそう、solitarious phase)になります。子には遺伝しありません。 孤独相 - ・体が緑色。 - ・前脚が長い。 - ・はねが短い。 いっぽう、幼虫時に密度が高いと、成虫は群生相(ぐんせいそう)になります。子には遺伝しありません。 群生相 - ・体が黒ずんでいます。 - ・前脚が短い。 - ・はねが長い。 - ・移動能力が高くなっています。 移動能力の高さは、新しい環境を探すためのものです。 このように、個体群密度によって、同じ種の形態や行動に違いが出ることを相変異(そうへんい)といいます。アブラムシやヨトウガでも相変異が見られます。 生存曲線 動物の、ある個体群で、個体の生存数を数表にしたものを生命表(せいめいひょう、life table)といい、生命表の内容をグラフにしたものを生存曲線(survival curve)といいます。 種によって生存曲線は違い、主に3つの型に分かれます。 晩死型と早死型と平均型という3つです。 晩死型は、死期が寿命の近くです。早死型は、生まれてから、すぐに死ぬ個体が多くあります。平均型は、時期によらず死亡率が、ほぼ一定です。 魚類など、産卵数の多い生物は、子育てをせず、そのため早死型が多くあります。 いっぽう、大型の哺乳類は、晩死型です。 鳥類・爬虫類などは平均型です。 - 年齢ピラミッド 個体数の測りかた - 標識再捕法(ひょうしき さいとほう) - 自然環境の中で、ある種の動物の数を数えるとき、その動物が動き回る種であれば、その個体に印をつけてから放します。そして、その種を捕獲します。 - 捕獲された個体のうち、放流前に標識された個体数と、再捕獲されて標識された個体数の割合から、その種の総個体数を決定します。 - 全体の個数 = 最初の標識個体数 × 2度目の捕獲個体数 ÷ 2度目の捕獲での標識個体数 - 例えば、100個体を標識して200個体を捕獲し、そのうち15個体を標識した場合、その地域のその種の個体数は、100×200÷15=1333、と計算されます。 - 魚類では、胸ビレや尻ビレなど、ヒレの一部を切り取って標識にします。また中央型魚種では、樹脂小片(タグ)を束縛して標識にします。 - 昆虫では、落ちにくい絵の具を使って体の一部に色をつけます。 - 区画法(くかくほう) - 生息地を一定面積のいくつかの区画に分け、各区画の個体数をカウントします。植物や動きの遅い動物のカウントに適しています。 個体群内の関係 社会性昆虫 ハチ、アリ、シロアリなどでは、同種の個体が密集して生活し、コロニーとよばれる群れを形成しています。これらの昆虫(ハチ、アリ、シロアリ)は、社会性昆虫と呼ばれます。 シロアリの場合、産卵を行う個体は、ふつうは1匹に限られます。その産卵を行うアリが、女王アリです。 女王アリ以外のメスは不妊です。 女王以外のアリには、ワーカーや兵アリがいます。 ワーカーとは、いわゆる「はたらきアリ」のことで、食物の運搬や幼虫の世話などの仕事をする個体のことです。 シロアリのワーカーや兵アリには生殖能力が無い。 ハチも同様に、女王バチやワーカーがいます。ハチでも、産卵を行うのは女王ハチのみで、ワーカーや兵ハチには生殖能力が無い。 包括適応度 (ほうかつ てきおうど) 順位制 ニワトリやニホンザルやオオカミなどで、よく見られます。 ニワトリの場合、何羽かを檻(おり)の中で買うと、つつきあいをして順位が決まる。順位の高いほうが、つつく。順位のひくいほうが、つつかれます。 ニホンザルの場合、順位の高い個体のほうが、順位の低い個体の尻の上に乗っかり、これをマウンティングといいます。 異種個体群間の関係 生態的地位 ある種の個体群について、必要とする資源の特徴や、活動時間などのように、生態系の中で占めている地位を生態的地位(ニッチ、niche)といいます。 異種の個体群のニッチが似ている場合、ニッチを奪い合って競争が起きる場合が多いので、そのようなニッチの似ている異種個体群が共存するのは難しい。 たとえばゾウリムシ(P.caudatum)とヒメゾウリムシ(P.aurelia)は、ともに細菌を食物とするためニッチが似ており、よって共存は難しい。 いっぽう、タカとフクロウは、食べ物が似ていますが、活動時間が違うため、自然界なら共存は可能です。 ゾウリムシとヒメゾウリムシのように、異種がニッチを奪い合って競争することを種間競走(しゅかん きょうそう、interspecific competition)といいます。 ヒメゾウリムシのほうが体が小く、そのため、少ない食料でもヒメゾウリムシは有利です。なので、ヒメゾウリムシとゾウリムシを、たとえば狭い容器などに入れて競走させると、ゾウリムシが競争にやぶれて減少し、やがてゾウリムシは絶滅するという場合が多くあります。 このように、異種が競争して、どちらかが絶滅することを競走的排除(きょうそうてき はいじょ、competitive exclusion)といいます。 ニッチが異なっていれば、同じ場所であっても、異種の個体群が共存できる場合があります。 たとえばミドリゾウリムシとゾウリムシは、ニッチが微妙に異なっており、そのため共存しやすい。ミドリゾウリムシは光合成でエネルギーを生産出来ます。 執筆予定 - 行動圏 縄張り(テリトリー) - つがい シジュウカラは一夫一妻制。 - 捕食者 、被食者、被食者-捕食者相互関係 - 相利共生 アリとアブラムシ - 片利共生 サメとコバンザメ - 寄生 寄生者、宿主(しゅくしゅ) ベルクマンの法則、アレンの法則 - ベルクマンの法則 寒冷地ほど、体が大型化。 ホッキョクグマ(大きい)と、ツキノワグマ(小さい )との関係など。 - アレンの法則 寒冷地の動物は、耳などの突起物が小型です。寒冷地であるほど、突起物が小型化しています。
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視覚 眼の覚え方:眼はカメラに例えてみましょう。それぞれがカメラのどこになるかは本文を読めば分かると思います。 脊椎動物の視覚器(眼)は、視神経細胞(視細胞)という光を感じる細胞が1層に並んだ網膜を持っていて、物の形や色を見分けられます。哺乳類の網膜では、全ての視神経繊維が1か所に束状に集まっていて、網膜を内側から外側に向かって貫いて脳へと向かっている所があります。そこは視細胞が欠けているので、光刺激を受容出来ない部分(盲斑)となります。 網膜上での処理 視細胞は、形の違いからやや尖った錐体細胞と棒状の桿体細胞の2つに区別出来ます。ともに外節部と呼ばれる部分に光を吸収する色素(青錐体細胞、緑錐体細胞、赤錐体細胞)が多く含まれています。それぞれよく吸収する光の波長が異なっていて、特定の範囲の波長に最も反応する色素をもっています。どの細胞が強く刺激されたかという情報が大脳に伝わって、そこで私達は初めて色の違い(色覚)を認識出来ます。桿体細胞は、錐体細胞に比べると非常に弱い光も吸収して反応するという特徴がありますが、色の区別には使われません。 例えば、緑錐体細胞は緑色光を強く吸収し、その光に強く反応します。3種類の錐体細胞が同じように反応すると白いと感じます。緑と赤の錐体細胞が同じように反応すれば黄色いと感じます。 網膜上では、それぞれの視細胞が均一に分布しているのではなく、黄斑と呼ばれる視野の中心に相当する部分に錐体細胞が非常に多く、黄斑周辺部には桿体細胞が多く分布しています。視野の中心ほど、細かな形を識別でき、色の違いも見分けやすいのは、このような錐体細胞の密度が高いからです。 光を感じる物質 桿体細胞にはロドプシンという光を感じる物質があります。これは、オプシンというタンパク質にレチナールという物質が結合したもので、オプシンが光を吸収すると、レチナールの形がかわってオプシンから離れます。これが引き金となり、桿体細胞が興奮します。錐体細胞にもロドプシンによく似た物質があります。 明順応と暗順応 暗順応では、明るい所から急に暗い所に入ると、最初は真っ暗で何も見えませんが、しばらくすると次第に見えるようになります。これに対して、明順応では、暗い所から明るい所に出ると、最初はまぶしくて何も見えませんが、しばらくすると次第に見えるようになります。 このような光の強さの変化に対する調節は、主に網膜の視細胞によるものです。強い光から弱い光に変化する時の暗順応では、光に対する視細胞の感度が増加し、明順応では視細胞の感度が減少し、正常に見えるようになります。その結果、錐体細胞より桿体細胞の方が、視細胞の感度も変化しやすくなります。 光量調節 外界の明暗が変化すると、ヒトの眼は瞳孔(ひとみ)の大きさを変えて眼に入る光の量を調節します。網膜に到達する光の量は、虹彩により調節されています。虹彩は急激な光の強さの変化にも対応出来るようになっています。瞳孔は直径約1.3~10mmぐらいの範囲で変わり、60倍ほどの範囲で周りの明るさの調節が出来ます。 遠近調節 遠くのものを見る時も、近くのものを見る時も、眼が網膜の上に像が結ばれるように調節します。この現象を遠近調節といいます。ヒトは水晶体を取り巻いている毛様筋を収縮させて水晶体の厚さを変え、遠近調節をしています。普通ヒトの眼は、水晶体の周辺部にある毛様筋(毛様体の筋肉)が収縮しない状態では、6.5m以上の遠方にある物体にピントが合うようになっています。それより近い距離の物体を見る時は、毛様筋の収縮によって水晶体の厚みを調節し、網膜上に物体の像を結ぶように調節しています。 参考:視交叉 左右の視細胞からの神経は交差して、大脳の視覚野に伝わります。これを「視交叉」といいます。人間の眼では、両眼の内側半分からの神経だけが交差しています。人間の眼では、眼の内側半分の神経だけが交差しており、眼の外側半分の神経は交差せずにそのまま大脳に入ります。つまり、右側で見たもの(両眼の網膜の左半分に映るもの)は左の視覚野に、左側で見たもの(両眼の網膜の右半分に映るもの)は右の視覚野に送られます。 このような結果になるのは、人間が立体映像を見れるのと関係があります。同じものを両眼で見た時、右と左の網膜に映る像が少し違います。例えば、顔の前にある人差し指を左右の眼で見ると、指は背景に対して違う場所にあるように見えます。大脳は、左右の眼からの情報を比較し、距離感や立体感に変えています。そのため、左の視覚野は右の視覚野の情報をまとめ、右半球は左の視覚野の情報に対して同じ処理を行います。右視野からの情報は全て、左視覚野にとって処理しやすくなります。 なお、魚や鳥では、左右の視神経が全て交叉しています。これを「全交叉」といいます。魚や鳥の眼は頭の横にあり、右眼と左眼では見えるものが全く違います。左右の眼が同じものを見ているわけではありませんので、「半交叉」は必要ありません。 聴覚 空気の振動は、聴覚器官(耳)によって音として受容されます。動物の中でも、聴覚が特に発達しているのは、脊椎動物や昆虫です。また、猫、犬、海豚、蝙蝠などの聴覚器は、ヒトの耳には聞こえない超音波を受容出来ます。例えば、海豚は世間一般では賢い動物で有名です。なぜなら、超音波でヒトのようにコミュニケーションをとっているからです。 ※高等学校生物の教科書では、ヒト以外の耳について詳しく解説されていません。 こういった事情から、ヒトの聴覚器官(耳)の構造と音の受け入れ方法について学習していくようになります。 ヒトの聴覚器官(耳)の構造 ヒトの耳は、外耳、中耳、内耳の3つの部分からなります。外耳は、音を集めて中耳へと導く働きをします。外耳に入ってきた空気の振動は、まず鼓膜を振動させます。鼓膜の振動は中耳の耳小骨によって増幅され、内耳の渦巻き管に伝えられます。渦巻管はリンパ液で満たされており、リンパ液が振動すると、基底膜が振動します。このように、音の感覚細胞は内耳の渦巻き管に存在しています。 音が内耳のリンパ液の振動として伝わると、それに反応してコルチ器官(コルチ器)の基底膜が上下に小さく振動します。その結果、感覚細胞(聴細胞)の毛が動かされ、聴細胞が刺激を受けます。この情報が聴神経から大脳の聴覚の中枢(聴覚野)へと伝えられ、私達は音という感覚として受け入れられるようになります。 平衡感覚 耳は聴覚器官だけではなく、平衡覚の感覚器官ともいえます。内耳には、前庭(前庭器官)と半規管と呼ばれる2つの平衡感覚器があります。 前庭には、感覚毛をもった感覚細胞があり、その上に炭酸カルシウムで出来た平衡石(耳石)がのっています。体が傾くと平衡石が動いて感覚細胞を刺激するので、体の傾きを感じれます。 一方、半規管の中にも、感覚毛をもった感覚細胞があります。体が回転を始めたり止めたりすると、半規管の中のリンパ液が回転に対してバランスを取るために回転と反対方向に流されます。その流れによって、感覚毛の束が変形し、感覚細胞が興奮します。3つの半規管は互いに交わっているので、それぞれ別々の方向の回転運動を感知出来ます。 音の高低を聞き分ける仕組み 空気の振動(音波)の周期が短く、1秒間の振動数が多い(周波数が高い)場合、高音として感じます。逆に、振動数が少ない(周波数が低い)場合、私達は低音として感じます。私達は、これらの音をどのような仕組みで聞き分けているのでしょうか。高音の振動は渦巻管の入り口に近い部分の基底膜を、低音の振動は先端の方にある基底膜を振動させます。 その結果、音の高低の違いによって異なった場所の基底膜が振動し、それぞれ異なる聴細胞が刺激されて電気信号が発生します。この信号は、異なる聴神経の経路を使って聴覚野の異なる部分へと伝わるので、そこで初めて音の高低の違いを認知出来ます。
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外界に作用する器官、細胞、細胞小器官を効果器といいます。動物は刺激に応じて様々な反応を示します。その時、効果器が働きます。刺激に対する通常の反応は運動ですが、筋肉、繊毛、鞭毛などはそのための効果器です。電気や光を出す特殊な効果器を持っている動物もいます。また、色素胞や分泌腺も効果器です。 筋肉 筋肉は体の中で最も重い組織で、質量の約40%を占めています。 脊椎動物の筋肉には、横紋筋と平滑筋の2種類があります。横紋筋は顕微鏡で見た時に見えます。横紋筋は大きくなったり小さくなったりするのが早く、大きな力を出すのが特徴です。骨格筋も心臓の筋肉(心筋)も横紋筋です。骨格筋は骨に付いていて、体を動かしたり正しい位置に保ったりしています。平滑筋は、体内の血管や臓器にある筋肉です。 単収縮と強縮 神経筋標本は、カエルのように骨格筋に運動神経がつながっている実験用動物から採取します。カエルのふくらはぎの筋肉(腓腹筋)に座骨神経を貼り付けて作った神経筋標本を使って、神経を1回電気刺激すると、0.1秒で筋肉が収縮・弛緩します。これが単収縮です。単収縮が終わる前に次の電気刺激を与えると、単収縮が重なり、収縮が大きくなります。刺激の頻度がある一定以上になると、強い収縮が長時間続くようになります。これを強収縮といいます。強収縮は、健康な骨格筋で起こる種類の筋収縮です。これは、活動電位が運動神経を1秒間に10回以上伝わっているために起こります。収縮の量が時間とともにどのように変化するかを示す曲線を収縮曲線といいます。刺激があまり起こらない時は、不完全強縮を示します。そのため、単収縮が重なり合ったギザギザの収縮曲線になります。頻度が高くなると、完全強縮を示し、大きく滑らかに収縮する曲線になります。 骨格筋の構造 筋組織を作っているのは筋細胞という長い細胞で、筋繊維とも呼ばれます。骨格筋の筋細胞は、多くの細胞が集まってできており、それぞれの細胞には数百個の核があります。筋細胞は、細胞の長軸に沿って筋原繊維がずらりと並んでいます。筋原線維はサルコメア(筋節)で出来ています。両端はZ膜で仕切られ、サルコメアは長軸方向に何度もつながっています。サルコメアの真ん中の少し暗く見える部分を暗帯、Z膜に近い部分は明るく見えるので明帯といいます。ミオシンフィラメントとアクチンフィラメントは、サルコメアの筋原線維の長軸に沿って規則正しく並んでいます。ミオシンフィラメントはミオシン分子の束がたくさん集まって出来ており、ミオシン分子の頭がたくさん飛び出しています。 収縮のしくみ 横紋筋が収縮すると、明帯と呼ばれる明るい色の部分の長さだけが変化し、サルコメアの幅は小さくなります。明帯にはアクチンフィラメントがあり、暗帯にはミオシンフィラメントがあります。筋肉は、ミオシンとアクチンが連携して、収縮します。ミオシン分子の頭にATPが付着していない時は、頭はアクチンフィラメントに傾いた状態で付着しています。ATPがミオシン分子の頭部に結合していると、頭部はアクチンから離れます。ADPが頭部から放出されると同時に、頭部は再び傾きます。このため、頭部はアクチンフィラメントから離れます。この動きによって、アクチンフィラメントはサルコメアの中央部に向かって移動します。この動きを何度も繰り返すと、サルコメアの長さが短くなり、筋肉が収縮します。サルコメアが短くなっても、ミオシンフィラメントもアクチンフィラメントも長さは変わりません。アクチンフィラメントがミオシンフィラメントの間をすり抜けると、筋肉は収縮します。このような仕組みを滑り説といいます。なお、ミオシンは、筋肉を収縮させたり弛緩させたりするので、モータータンパク質と呼ばれています。 骨格筋の収縮制御 筋肉も神経系の力を借りて動かしています。骨の中にある筋肉は運動神経によって調節され、好きな時に収縮出来ます。このような筋肉を随意筋といいます。その他、平滑筋や心臓のように、自律神経系が働き方を調節している場合もあります。脊髄からの興奮が運動神経細胞を伝わって軸索末端に達すると、シナプス小胞からアセチルコリンという神経伝達物質がシナプス間隙に放出されます。アセチルコリンが筋繊維のリガンド依存性イオンチャネルに結合すると、チャネルが開き、ナトリウムイオンが流れ込みます。その結果、神経細胞と同じように筋繊維に活動電位が発生します。 筋小胞体は、筋繊維の筋原線維を包む袋のような構造をしています。筋繊維の膜が興奮すると、膜から内側に伸びているT字管から筋小胞体に興奮が送られます。そして、筋小胞体に蓄えられていたカルシウムイオンが放出されます。トロポニンとトロポミオシンは、アクチンフィラメントに付着するタンパク質です。カルシウムイオンが少なくなると、ミオシン頭部がアクチンに付着しなくなるため、筋肉が弛緩します。筋小胞体からのカルシウムイオンがトロポニンに結合すると、トロポミオシンの形が変化します。これにより、ミオシン頭部がアクチンに結合し、筋肉が収縮します。 筋収縮とクレアチンリン酸 筋細胞は、ATPがADPになる時に収縮します。これが筋細胞のエネルギーになります。筋細胞はATPをあまり持っていないので、グリコーゲンという形でエネルギーを蓄えています。呼吸と解糖によってグリコーゲンが分解され、ATPが作られます。また、筋細胞はクレアチンリン酸の形でエネルギーを蓄えており、激しい運動でATPが必要になった時に、ADPからATPを作るために使われます。また、ATPは、安静時にエネルギーを貯え、クレアチンリン酸を作り直すためにも使われます。 その他の効果器 動物が外界のものに反応するのは、筋肉だけではありません。 微細な生物や精子は、繊毛や鞭毛を使って泳いでいます。筋肉は細胞全体を収縮させて動きます。一方、繊毛や鞭毛は、細胞の表面に生えている小さな動く毛です。水を動かすために、この毛が動きます。1つの細胞にはたくさんの繊毛があり、細胞が泳ぐ時に、波打つように動きます。海に住む動物の幼生はよく繊毛を使って泳ぎます。長い繊毛は鞭毛といいます。 汗腺、乳腺、唾腺などの効果器は、刺激に反応して物質を送り出す動物の部分です。これらの腺は、その中の細胞が分泌した物質が管状の排出管を通って外に出るため、外分泌腺と呼ばれます。甲状腺は内分泌腺の一種なので、排出管を通さずに血液中にホルモンを送り込みます。中枢神経系からの自律神経やホルモンは、多くの腺組織を制御しています。 メダカの体の色は、背景の明るさによって変化します。色素胞とは、鱗粉の中に色素の子実体をたくさん持っている細胞です。色素胞が色を変えるのは、細胞の中の子実体が移動するためです。子実体が細胞全体にあると色がついたように見えますが、細胞の真ん中に集まると透明になります。 ホタルの腹部には光を放つ器官があります。種によって決められた時間に相手が光を放つと、自分も光を放ち、他の雌雄に話しかけます。 デンキウナギやシビレエイは、電気を使って身の安全を確保したり、餌を捕まえたりしています。
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動物の行動の2回目の講義は学習についてです。 学習とは、動物が生まれた時から受けている刺激に反応して、行動を変化させたり、新しい行動を行ったりする様子をいいます。一般に、神経系が発達している動物ほど、早く学習出来ます。 慣れと鋭敏化 慣れ アメフラシは背中にある水管を鰓に沿わせて呼吸し、海水を出し入れしています。アメフラシの鰓に触れると、鰓引っ込め反射が起こります。この時、鰓と水管が収縮し、体内に引き戻されます。水管への接触刺激は鰓の引っ込め反射を起こすには弱く、何度も刺激を与えると鰓が引っ込められなくなります。このような単純な学習を慣れといいます。このままでは、接触刺激(脱慣れ)により鰓が再び出てきてしまいます。しかし、その刺激が長く繰り返されると、数日〜数週間処置しなくても鰓が元に戻らなくなります。これを長期の慣れといいます。 アメフラシの鰓引っ込め反射に関して、水管感覚ニューロン・シナプス・運動ニューロンが接続しています。水管感覚ニューロンの軸索末端に活動電位が送られると、電位依存性カルシウムチャネルが開きます。この時、カルシウムイオンが流入し、シナプス小胞の神経伝達物質がシナプス間隙に放出されます。この反応を何度も繰り返すと、シナプス小胞やカルシウムチャネルが少なくなり、神経伝達物質の放出も少なくなります。さらに、運動ニューロンのシナプス後電位は小さくなります。そのため、反応が起こりにくくなります。これを短期の慣れといいます。長期の慣れでは、シナプス小胞の開口領域が狭くなります。そのため、シナプス小胞の量やカルシウムチャネルの不活性化が回復しても、反応しにくくなります。このように、生得的と思われていた多くの反射神経が、学習によって柔軟に変化する場合もあります。また、学習は、すでにあったシナプスの伝達効率が変化する場合でも起こります。 鋭敏化 アメフラシの尾部に電気を流すと、痛覚刺激として、通常は鰓の引き込み反射を起こさないような水管への弱い刺激でも敏感に反応するようになります。鋭敏化とは、この過程の名称です。この場合、何度も何度も刺激を与えると、鋭敏化が長く続きます。この場合、鋭敏化は水管感覚ニューロンの軸索末端と介在ニューロンの軸索末端がつながって起こります。これにより、反応が強くなったり、速くなったりします。介在ニューロンからの神経伝達物質が水管感覚ニューロンの軸索末端の受容体につながると、カリウムチャネルが消極的になり、カリウムイオンの流出が減少し、電位依存性カルシウムチャネルからカルシウムイオンの流入が増加します。これにより、活動電位の持続時間が長くなります。その結果、シナプス小胞がより多く開き、神経伝達物質がより多く放出されるようになり、運動ニューロンの興奮性シナプス後電位が上昇し、興奮しやすくなります。また、介在ニューロンが繰り返し作用すると、遺伝子発現により、水管感覚ニューロンの軸索末端が枝分かれするようになります。したがって、カリウムチャネルが遮断されなくなった場合でも、より反応しやすくなります。 条件付け 古典的条件付け 空腹の犬は、肉片を見ると、唾液を流します。無条件刺激とは、訓練しなくても自然にある行動を起こさせる重要な刺激をいいます。 唾液分泌とは全く関係のない行動しか起こせない場合もあります。例えば、犬に肉片を与え、同時に何度もブザー音を立てると、ブザー音だけで唾液が出やすくなります。このブザー音が条件刺激といい、古典的条件付けとは、無条件刺激と条件刺激の組み合わせから学習していく過程です。音だけで唾液分泌が起こるのは、聴覚の中枢と唾液分泌の中枢とが何らかの関係を持っているからです。 オペラント条件付け レバーを押すと餌が出てくる装置のついた箱に、お腹を空かせた鼠を入れると、最初は偶然にレバーが押されます。その後、もっと餌をもらおうと箱の中の色々な部分を触ると、レバーを押せば餌が出てくると学習し、どんどんレバーを押すようになります。これは、オペラント条件付けと呼ばれます。鼠は、鍵となる刺激がなくても勝手に行動して、自分の行動と報酬を結びつけて学習します。レバーを押して毎回電気ショックを受けると、レバーを押す回数が減ります。これもオペラント条件付けの1つです。 試行錯誤と知能行動 試行錯誤 鼠など学習能力の高い動物は、環境の中にある物の位置を記憶出来ます。例えば、迷路の最初に鼠を置き、最後に餌を置くと、鼠は行き止まりに何度もぶつかり、餌にたどり着けなくなります。しかし、鼠はこれを何度も繰り返しているうちに、餌の場所と行き方を覚えてしまいます。そうすると、行き止まりが少なくなり、早く餌にたどり着けるようになります。試行錯誤とは、失敗を何度も繰り返しながら修正していく学習方法です。 知能行動 動物の問題解決能力は、迂回実験で研究されています。この実験では、動物が見たり嗅いだり出来る餌に、障壁があるためにすぐには近づけません。餌を手に入れる前に、餌から遠ざかる(迂回する)必要があります。チンパンジーは、この実験を最初から正しく行える唯一の動物です。鼠や犬、アライグマは何度か失敗して迂回路を覚えます。チンパンジーのように最初から迂回する場合、どうなるかを知っていて、その通りに行動するという意味です。つまり、大脳が発達した動物は、感覚器からの情報を、すでに解決した類似の問題と比較しながら、状況を判断して、初めて見る問題をどう解決するか考えます。これを知能行動といいます。 チンパンジーは折れた木の枝などを拾ってきて、長くしたり強くしたりして、シロアリの巣穴に突き刺してシロアリを捕まえます。チンパンジーは、手では届かないシロアリの巣に、棒や小枝を使って近づきます。また、チンパンジーは枝を使って、穴の開いた容器に入った果物を穴に押し込んだり、引っ張り出したりして、食べます。チンパンジーは、シロアリを食べるための道具を作るために材料を探し、使えるので、とても賢いです。 宮崎県幸島で、子猿の雌が日本猿の群れに芋の洗い方を教え、今では群れ全員が芋の洗い方をしています。長野県地獄谷の日本猿の群れは外で水浴びをしています。しかし、地獄谷の日本猿は、汚れたジャガイモを洗いません。これが、同じ行動をとる動物の集団を指す動物の文化という言葉の意味です。 刷り込み 雁や鴨は、孵化後すぐに巣を出て、親と一緒に暮らし、親は雁や鴨を保護しながら世話をします。孵化後数日間は感受期(臨界期)と呼ばれ、雁や鴨は目にした動くものを親と見分けられます。この強い記憶は刷り込み(インプリンティング)と呼ばれ、生後一定期間で行われます。自然の環境では、感受期に雛は血の繋がった親にしか近づかないので、誤って他の親を追いかけてしまう心配はありません。親の近くにいれば、雛は保護や世話を受けられるので、生きられる可能性が高まります。でも、試しに玩具を動かしてみるなど、親以外にも印象を残したりもします。刷り込みは生得的行動か習得的行動のどちらなのでしょうか?刷り込みは、生まれた後、子供が親を認識し、記憶するために学ぶ必要があるため、完全な生得的行動ではありません。しかし、刷り込みは生得的行動なので、脳は親を認識し記憶出来るように発達します。つまり、刷り込みは完全な習得的行動でもありません。刷り込みのように、遺伝と環境が一緒になって生まれる行動は、簡単に生得的行動と習得的行動のどちらにも分けられません。
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植物の器官形成 栄養器官の形成 花芽形成の環境応答 花器官の形成と遺伝子制御 花の各部分は、植物ごとに色や形、数が違っても、花のつくりは同じです。花は同心円状に配置されており、4つの領域に分かれています。外側から見て、これらの領域は領域1から領域4と呼ばれます。萼片は領域1、花弁は領域2、雄蕊は領域3、雌蕊は領域4で作られています。ヘチマの花のような雄花と雌花には、その雌蕊と雄蕊の痕跡が残っています。この組み合わせを模式図にしたのが花式図です。花器官とは、このような花の4つの部分を指します。 植物の種類ごとに一定の条件を満たすと、それまで葉を作っていた頂端分裂組織から、花器官が違って見えるようになります。葉から花までの違いを変えるには、器官を決定する複数の遺伝子のはたらきに由来します。シロイヌナズナやキンギョソウでは、ある遺伝子が機能を失うと、花の形が変わるホメオティック突然変異を起こすそうです。このように、A、B、Cの遺伝子は、花の器官がどのように作られるかを制御しています。また、今回の調査結果、A、B、Cの遺伝子からつくられる蛋白質は、花器官の成長に必要な異なる遺伝子の転写を制御するはたらきをもっていました。ABCモデルとは、花器官が時間とともに成長して、変化する様子を表した分子構造モデルです。A、B、Cは次のようにはたらくと考えられています。 Aクラス遺伝子は領域1と2、Bクラス遺伝子は領域2と3、Cクラス遺伝子は領域3と4ではたらきます。一番外側の領域1では、Aクラス遺伝子のみがはたらき、萼片の形が違って見えます。その内側の領域2では、Aクラス遺伝子とBクラス遺伝子がはたらき、花弁の形が違って見えます。さらにその内側の領域3では、Bクラス遺伝子とCクラス遺伝子がはたらき、雄蕊の形が違って見えます。そして、最も内側の領域4では、Cクラス遺伝子のみがはたらき、雌蕊の形が違って見えます。 また、Aクラス遺伝子とCクラス遺伝子は、お互いのはたらきを抑制します。言い換えると、次の事実がいえます。萼片(領域1)と花弁(領域2)では、Aクラス遺伝子がCクラス遺伝子のはたらきを抑制しています。一方、雄蕊(領域3)と雌蕊(領域4)では、Cクラス遺伝子がAクラス遺伝子のはたらきを抑制しています。したがって、Aクラス遺伝子が働かなくなると、外側の領域1、領域2でもCクラス遺伝子が働き、花全体でCクラス遺伝子がはたらきます。このため、萼片や花弁は変化せず、最も外側の領域1が雌蕊、その内側の領域2が雄蕊になります。一方、Cクラス遺伝子がはたらかなくなると、Aクラス遺伝子も領域3、領域4ではたらくようになります。その結果、雄蕊ではなく花弁が領域3で作られ、雌蕊ではなく萼片が領域4で作られます。Cクラス遺伝子は頂点の細胞分裂を止めるはたらきも持っているので、Cクラス遺伝子を持たない突然変異体はこのはたらきを失い、細胞分裂は進み、萼片と花弁は離れ続けるので、萼片と花弁が増えます。Bクラス遺伝子が機能を失うと、領域2の花弁は萼片に、領域3の雄蕊は雌蕊に変化します。また、A、B、Cの3クラスの遺伝子の機能が全て失われると、花器官は変化しないで、代わりに葉が成長します。 動物の器官形成では、区分けごとに異なるボックス遺伝子が働き、個性的な仕組みが作られています。これは、花の形が変わるABCモデルのような仕組みです。実は、動物のボックス遺伝子と同じように、各クラスの遺伝子に何をしたらよいかを指示する調節遺伝子です。花を作るA、B、Cクラスの遺伝子に備わる転写因子にはDNA結合領域(MADSボックス)があります。調整遺伝子から作られる調整蛋白質の種類とその組み合わせによって調節されています。細胞の分化の方向は、動物でも植物でも同じ仕組みです。 参考:植物研究におけるシロイヌナズナ シロイヌナズナは、北半球の温帯に生育するアブラナ科の植物です。結構地味で特別な特徴がありませんが、ショウジョウバエのように遺伝子研究に利用されているのは、次のような理由からです。 - 植物の中でも世代交代が早いので、種子を植えてから2ヶ月後には、次の世代の種が手に入ります。 - 小さいので実験室での栽培が簡単です。 - 結実のほとんどが自家受粉なので、純系を得やすく、維持するのも簡単です。 - 1本のしっかりした株から、大量の種子が出来ます。 遺伝学や分子生物学の研究材料として注目されたのは、各ゲノムあたりのDNA量が極めて少なかったからです。このうち、シロイヌナズナは、初めて全ゲノムが解読された植物です。これは2000年末に解読されました。このように研究基盤が整えられたので、現在、植物科学のあらゆる分野でシロイヌナズナを使った研究が行われています。
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地球は約46億年前に誕生しました。太陽系の誕生初期に生まれた多くの微惑星が衝突・合体して誕生しました。地球の表面は非常に熱いマグマで覆われていたため、生命環境は出来ておりません。その後、隕石の衝突が少なくなり、表面が冷えてくると、大気中に含まれていた水蒸気が雨となり、海が形成されました。この海こそが、生命が誕生した鍵を握っていたと考えられています。 生命は、海が形成され、地球の環境も安定した約40億年前頃に誕生したと考えられています。紫外線の雨が降った陸地ではなく、深海で生命が誕生したという有力な説があります。 当時の地球の様子は、現在の地球の様子とは大きく違っています。生命が誕生した経緯について述べましょう。 生命は生物からしか生まれません。しかし、約40億年から38億年前の地球上で、少なくとも1回は、無生物から生物が発生したと考えられます。 生物はタンパク質や核酸などの多くの有機物から構成されています。誕生時の地球にはこれらの有機物は含まれていませんでした。無機物や簡単な有機物から新たな有機物を作るようになって、生命が誕生したと考えられています。この仕組みの解明をスタンリー・ミラーが証明しています。 化学進化 隕石や彗星中には、宇宙で作られた有機物が含まれています。彗星が地球からそれたり、隕石が衝突し、宇宙から地球に有機物が持ち込まれたかもしれません。海底には、硫化水素やメタン・水素などを含む350度以上の熱水が噴出する熱水噴出孔があります。このような場所で、有機物を作り出したかもしれません。その周辺では、高い水圧がかかっており、簡単な有機物を作り出しています。さらにタンパク質や核酸など、生物を構成するのに必要な物質を作り出しました。このような準備段階を化学進化といいます。
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これから、2回に分けて動物の行動について解説していきます。 まずは、行動の全体像から説明して、それから習得的行動の中身を解説します。 行動とは何か その受容器によって、周囲の環境から多くの情報を取り込んでいます。受け取った情報は神経を通して送られ、中枢神経系で処理されます。そして、処理された情報は、効果器に送られます。このため、環境に応じて反応が起こります。 動物が生きていくために、あるいは赤ちゃんを産むために必要な動きを取る場合を行動と呼びます。行動には、生得的行動と学習行動の2種類があります。生得的行動は遺伝子によって決まり、学習行動は経験によってのみ育まれます。学習行動には、推理力や洞察力といったものも含まれ、これらは知能に基づきます。 動物を見ていると、いろいろな行動をしている様子がうかがえます。これを「なぜ動物はそのような行動をとるのか」という視点から考えてみましょう。行動には、仕組み[1]・発達・機能・進化という4つの見方があります。仕組みとは、神経系などが連携して行動を起こす様子を表す言葉です。発達とは、生まれてから大人になるまでの変化、生まれてから行動が終わるまでの変化、行動がどのように形成されるかを意味します。機能とは、その行動が動物の生活の中でどのような役割を果たしているかという意味です。進化とは、祖先の行動から現在の行動まで、時間の経過とともに行動が変化していく様子をいいます。 鍵刺激による行動 動物が何かを見たり聞いたりした時に、いつも同じ行動をとる場合を鍵刺激(信号刺激)といいます。 これを取る代表的な生物は、トゲウオとセグロカモメです。順番に解説していきます。 トゲウオの攻撃行動 トゲウオはイトヨ、ハリヨなどの総称で、春になると腹が赤くなり、川や池の底にある植物を集めて巣を作ります。同じ種類の雄は、他の種類の雄を攻撃して追い払うという性質があります。同じ大きさの模型を使った実験では、底が赤く塗られていれば、形が大雑把でも雄は激しく攻撃してきました。例え非常によく出来た模型でも、腹が赤く塗られていなければ攻撃してきません。雄の神経系は腹部の赤色を取り込んで、攻撃的な行動を取るようになりました。腹部の赤色は、攻撃的な行動を取らせる最大の原因です。 ある行動が、相手の次の行動の重要なきっかけとなり、行動の連鎖が始まり、複雑な行動をとる場合もあります。お腹を膨らませた雌のトゲウオが巣に近づくと、雄は求愛の意味を込めて「ジグザグダンス」と呼ばれるダンスをします。雌のお腹が膨らんでいるのがこの行動をさせる主な理由です。 雌は雄がジグザグダンスを見ると、背筋を伸ばして雄の求愛に応えます。そして、雄は雌を巣に連れて行き、口先で巣の中を案内します。それを見た雌が巣の中に入ると、雄は口の先で雌の尾をつつきます。そうすると雌は卵を離し、雄は巣の中に入って卵に精子をかけます。雄は卵のある巣に傷があれば直し、卵に十分な酸素が行き渡るように鰭で水を動かして、受精卵の面倒を見ます。 - 赤い腹の場合。 - 赤くない場合。 - おおざっぱな形で、赤い腹の場合。 セグロカモメのつつき行動 セグロカモメの雛は、親鳥の黄色い嘴の先に赤い点があるのを見ると、赤い斑をつついて、親鳥に半分消化された魚を餌として吐き出してもらおうとします。この行動の鍵となる刺激は、外界の情報からもたらされ、中枢神経系の解発機構によって、嘴をつつく動作のパターンが引き起こされると考えられています。かつて本能とは、決められた動作パターンに基づいて自然に行われる行動を指す言葉でした。しかし、これらの行動は必ずしも完全に自然なものではありません。また、「本能」という言葉は分野によって意味が異なるため、動物行動学の分野では使われなくなりました。この餌ねだり行動は、習得的行動とも呼ばれ、孵化時にはありませんが、経験によって学習されます。 定位に関わる行動 動物は、光や温度、湿度などが自分に合った場所に移動したり、食べ物や異性を探そうとしたりします。定位とは、環境中の何かに反応し、一定の方向に移動する過程をいいます。定位には、刺激に向かって走るような単純な動作から、鳥が長距離を移動するような複雑な動作まであります。 走性 走性とは、光や匂い(化学物質)、音波などの刺激に反応して動いたり、感覚器官の働きで刺激と反対方向に動いたりする動物の行動をいいます。刺激に向かって動くのが正の走性、刺激から遠ざかるのが負の走性です。刺激の種類によって、光走性・化学走性・音波走性などといいます。 体の両側に感覚器官を持つ動物は、左右の刺激の強さを比較しながら、どちらに動くべきかを考えます。プラナリアの単眼視細胞は、開口部がそれぞれ前方と左右に向いており、片側から来た光はどちらかの単眼にしか入らないようになっています。プラナリアには負の光走性があり、脳は2つの単眼からの光刺激による活動電位の周波数を比較して、両方の単眼で周波数が同じになるように体の向きを変え、光刺激が弱くなるようにしています。 フェロモン カイコガの雄は、雌と交尾したい時、雌が出す匂いに引き寄せられます。この場合、刺激は化学物質なので、刺激源に向かう動きを正の化学走性といいます。カイコガなどの動物は、それぞれの情報をやりとりするために、様々な化学物質を体の外側に付着させています。フェロモンとは、体内から放出される化学物質をいい、仲間に決まった行動をさせる効果を持ちます。フェロモンには、異性を引き寄せる性フェロモン、仲間を集める集合フェロモン、敵が襲ってきたら仲間に知らせる警報フェロモン、餌の場所を仲間に知らせる道標フェロモンなど、様々な種類があります。昆虫では多くの例がありますが、哺乳類でも見られます。カイコガの雄は、雌からのフェロモンの匂いを嗅ぐと、羽ばたきながらフェロモンの元を探します。しかし、自然界では、風があると匂い物質が塊になって広がり、しかもその広がり方が刻々と変化します。そのため、匂いのする場所に真っ直ぐ移動出来ません。 カイコガの雄は、交尾の準備が整うとフェロモン刺激の方向へ直進歩行するようになります。フェロモン刺激がなくなると、カイコガは小さなターンから次第に大きくなるジグザグターンを繰り返し,回転歩行に移行します。再びフェロモン刺激に反応したカイコガは、直進歩行→ジグザグターン→回転歩行をして、フェロモンの発生源にたどり着きます。 多くの昆虫は触角で匂いを感じ取ります。カイコガの雄は、櫛のような触角を持ち、腹側に枝分かれしています。触角の側枝は、毛状感覚子と呼ばれる長く突き出た構造で覆われており、多くの小孔が開いています。雄の毛状感覚器には嗅細胞があり、同種の雌からのフェロモンにのみ強く反応します。 領域では、嗅覚細胞がフェロモンに関する情報をやり取りしています。この情報は他の感覚情報と組み合わされて処理されて、フェロモンの発生源探索行動がこれらの領域に指令されます。この指令は、脳から胸神経節へ、左右の神経節を縦断する介在ニューロンという神経細胞から送られます。胸神経節には、ジグザグ運動から回転歩行へと体を動かす神経回路があります。フェロモン刺激は、この神経回路に行動指令を送る介在ニューロンの興奮を交互に起こしたり止めたりしています。フェロモン刺激を受け付けなくなった時点の興奮状態は、次のフェロモン刺激を受け付けるまで維持されます。この介在ニューロンが、ジグザグターンや回転歩行などの定型的運動パターンを引き起こすと考えられています。一方、直進歩行は、別の介在ニューロンの指令によって起こると考えられています。 気流を利用した行動 ヒキガエルはコオロギなどの昆虫を捕まえて食べようと、素早く舌を伸ばしています。しかし、虫はヒキガエルの舌が来ると気流の変化で分かるので、違う方向へ逃げようとします。舌の動きで気流を作り、ヒキガエルの舌より先に昆虫に到達させます。これで昆虫は逃げられます。気流を感知する感覚器は、コオロギの腹部の先端から左右に長く突き出た尾状葉にあります。尾葉にはたくさんの感覚毛があります。毛が倒れると、毛の根元にある感覚神経が興奮します。毛はそれぞれ違う方向に倒れやすいので、どこから風が吹いても、感覚毛のどれかが反応します。風速が速い時は長い感覚毛が倒れやすく、風速が変わると短い感覚毛が倒れやすくなります。 感覚毛は、腹部末端神経節に情報を送ります。そこの神経細胞は感覚情報を組み合わせて、風の向きや強さを判断します。その情報は、巨大な介在神経を構成する太い軸索によって、すぐに胸部神経節に送られます。そこから手足の運動神経に信号が送られます。しかし、気流の変化に反応するだけでは、自然の風の変化にも逃げてしまいます。カエルの舌が向かって素早く動くと、気流の速度に大きな変化が生まれます。そのような時にしか反応しないのはこのためです。感覚毛には、流速のセンサーである長い感覚毛と、気流の速さの変化のセンサーである短い感覚毛の両方が存在します。神経系はこれらの情報をもとに、逃げるのかどうか、どの方向に逃げるのかを判断しています。流速センサーは気流変化センサーよりも感度が高いので、まず空気の流れが近づいているのを感じ取って準備をし、気流速度が変化した時に、ヒキガエルの舌が急に近づいてくるので逃げようとします。 音を利用した行動 夜間の蝙蝠は超音波を出し、反射波から昆虫などの形や距離、方向、速度などを判断しています。水中で生活し、暗かったり濁っていたりしていてよく見えなくても魚を捕まえる海豚も、この方法を利用しています。 夜間に飛ぶ蛾の中には、蛾を食べる蝙蝠が出す超音波を聞き分けられる個体もいます。蝙蝠は反射波を聞かなければ蛾を見つけられないので、蛾は蝙蝠より先に蝙蝠の存在を確認出来ます。蛾は超音波を浴びると、羽をたたんで下に潜ります。そのため、蝙蝠は蛾の行き先を予測しにくくなります。 雛を持つ雌の鶏は、聴覚的かぎ刺激にでしか救いません。何度も目の前で襲われていても、雛が「悲鳴」をあげるまで救いません。弱くて鳴けない雛は、「無視」されて、踏みつけてしまう場合もあります。逆に、雛の悲鳴をレコーダーで記録しておけば、襲われていなくても救う場合もあります。また、蝙蝠や海豚の超音波を利用する定位は、反響定位(エコーロケーション)ともいわれます。エコーは、反響やこだまと同じ意味です。 太陽を利用した行動 蜜蜂は、蜜や花粉を求めて約100キロ平方メートルの範囲を移動します。採餌蜂は良い場所を見つけると、巣箱に戻り、特別なダンスをします。餌場が50メートルから100メートル離れている場合、他の蜂に知らせるために円形ダンスをします。餌場の位置(方向と距離)が遠い場合、尻振りダンス(8の字ダンス)を踊って他の蜂に知らせます。 尻振りダンス(8の字ダンス)は、腹部を左右に動かして音を出す尻振り走行と羽を振って音を出し、体の周りを半周しながら元の位置に戻ってくる走行があります。尻振りダンスでは、直進する方向が餌場の方向を示しています。また、尻振り走行の時間は、餌場までの距離を示しています。屋外の水平面では、尾の振り方で餌場の方向を示します。ところが、暗い巣箱の中の垂直な巣板では、太陽の方向が垂直な巣板の上がり方に置き換わります。つまり、太陽に対する餌場への角度は、尻振り走行の真上と真下の方向(鉛直方向)と太陽間の角度になります。採餌蜂の行動に追従する蜂(追従蜂)は、尻振りダンス(8の字ダンス)による気流の振動や蜂についた花の匂いに気づき、餌場への行き方を教えてくれます。 蜜蜂の触角には、気流の振動や花の匂いを感知する受容体があります。この受容体からの情報は、触角の神経によって脳の介在ニューロンへと伝えられます。脳の介在神経細胞は、気流の振動の刺激と匂いの刺激との相互作用によって、暗い巣の中でも情報を得られるような仕組みになっています。この情報をさらに脳内の神経回路で処理すると、追跡蜂の尻振りダンスの情報が読み取れると考えられています。 蜜蜂は、1匹の女王蜂と数千から数万匹の雌の働き蜂、数百匹の雄の働き蜂からなる集団で暮らす社会性昆虫です。このように、働き蜂は年をとると、蜜蜂の群れを維持するために手分けして働くようになります。一般に、孵化したばかりの働きバチは幼虫の世話をします。そして、大きくなって記憶力や学習能力が高まると、巣を出て周りの景色や目印を覚えたり、食事の場所を探したり、蜜や花粉を巣に運んだりします。餌場が良かったら、尻振りダンス(8の字ダンス)をします。餌を探しに出かける働き蜂には、採餌を制御する遺伝子が多く存在しています。この遺伝子を変化させると、若い働き蜂が餌を探しに出かけるようになります。この変化が正常なら、環境が変わったり、蜜蜂が成長したりした時に起こるようにプログラムされていると思われます。 季節が変わると、場所によって様々な花が咲きます。その時、よい餌場が簡単に見つかるとは限りません。また、花蜜の量や質も時期や時間を通して変化します。蜜蜂は、数千から数万匹の群れを養うために必要な大量の蜜を手に入れるため、尻振りダンスで仲間に知らせます。巣箱の南北に餌場を設置して、低濃度のスクロース水溶液と高濃度のスクロース水溶液をそれぞれ入れました。昼に、餌場に来た採餌蜂の数を数えました。その後、北と南の餌場の濃度を入れ替えると、高濃度のスクロース水溶液の餌場に行く採餌蜂が増えました。つまり、尻振りダンスは環境の変化に素早く対応するので、より多くの採餌蜂をよい餌場に集めて、生存と繁殖をしやすくしていると考えられます。 蜜蜂とその近縁種には、マルハナバチ類、ハリナシバチ類、シタバチ類、蜜蜂類の4種類がいます。彼らの共通の祖先は、採餌蜂が採餌行動を促すフェロモンを分泌して翅や胸部を動かしながら、良い餌場を見つけては巣に戻るという原始的なダンスを覚えたと考えられています。そして、蜜蜂類と共通の祖先を持つマルハナバチ類の仲間は、胸部振動の長さと回数で餌場の質を示す招集ダンスを手に入れました。ハリナシバチの中には、フェロモンを使って蜂に餌場を知らせる種類もいます。このフェロモンは、採餌蜂も引き寄せてしまいます。また、蜜蜂類は尻振り走行の方向で餌場の方向を示し、尻振り走行の長さで餌場までの距離を示す尻振りダンス(8の字ダンス)を身につけたと考えられています。 太陽コンパス 太陽は東から昇り、西に沈みます。日中に移動する鳥達は、太陽の位置を利用して、目的地までどの方向に飛べばよいか考えます。このように、太陽コンパスでは、太陽がどこにあるかで進路を決めています。太陽の位置は一日中変化しているので、鳥は時間帯によって太陽の向きを調整しながら、どの方向に移動すればよいかを考えています。これは、生物時計(体内時計)と呼ばれる仕組みで実現しています。一方、夜間に移動する鳥は、北極星とその周りの星で出来た星座コンパスを使って、方向を決めています。また、空が曇って太陽や星が見えない時、駒鳥や鳩は地磁気コンパスとも呼ばれる地磁気分布パターンを使って自分のいる場所を確認していると考えられています。 飛び立つ時期になると、籠の中のホシムクドリは一定方向に羽ばたきます。そこで、鳥達が旅立つ時に、同じ間隔に並んでいる6つの窓から日光が入るような檻に入れました。しかし、それぞれの窓には鏡がついていて、鏡の向きで檻に入ってくる光の向きを変えられます。鏡によって太陽の光の向きが変わると、ホシムクドリは頭の向きを変えて、羽ばたきます。このように太陽コンパスは移動の方向を把握するために使われています。 ここに注意! - ^ 東京書籍の教科書では「メカニズム」と記していますが、この言葉が大学一般向けの用語で難しいため、本wikibooksでは「仕組み」と記述しました。
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植物と環境 発芽 成長 屈性 傾性 果実の成長と気孔の開閉 参考:分化 頂端分裂組織で分裂した細胞が分化を始めると、茎や根などになります。オーキシンとサイトカイニンは、植物細胞の分化に重要な役割を果たしています。 まず、それぞれのホルモンが組織培養でどのような働きをするのかを見てみましょう。植物の小片を切り取って、オーキシンやサイトカイニンを多く含む培地で培養すると、カルスと呼ばれる未分化な細胞の塊として成長する傾向があります。脱分化とは、分化した臓器や組織が、その組織を分化させた特徴を消失する過程をいいます。オーキシンやサイトカイニンの量によって、カルスは茎や根に分化します。一般に、オーキシンの量が少なく、サイトカイニンの量が多いと、茎や葉が分化します。根は、オーキシンの量が多く、サイトカイニンの量が少ない時に分化します。この2つのホルモンの量を調節すると、植物の体の一部から全く新しい植物を育てられます。このように、全能性[1]とは、1つの細胞が分化すると、あらゆる種類の細胞を作れるという性質です[2]。 また、オーキシンは、根が様々な方法で分化するのを助けますが、これは挿し木でも見れます。茎などの植物の一部をオーキシン溶液につけると、不定根と呼ばれる根が出来ます。不定根とは、茎や葉のような根ではない部分から生える根をいいます。オーキシンは、園芸で不定根を作るために使われます。 光受容体と植物ホルモンの働きのまとめ ここに注意! - ^ 分化全能性ともいいます。 - ^ wikipedia英語版「Cell potency」
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神経系の成り立ち 受容器と効果器の間にあるのが神経系です。受容器で受け取った刺激は、そのまま筋肉のような効果器へ送られるわけではありません。様々な刺激からの情報をまとめて初めて、いつ、どこから、どのような刺激が来たのかがわかり、それにどう反応すればいいのかが分かります。複雑な体の構造を持つ動物では、各器官が連携して働く必要があり、神経系はそのための役割を果たしています。神経系が発達した動物には、神経細胞の集まり(神経節)と、さらに大きな神経細胞の集まり(脳)があります。脳と神経節は、中枢神経系といわれ、情報処理の中心的な役割を果たしています。 脊椎動物の神経系 脊椎動物の神経系には、中枢神経系と末梢神経系があります。脳と脊髄をまとめて、中枢神経系といいます。これらは、神経管から作られます。神経管の前半分は脳になるために成長し、後半分は脊髄になるために成長します。大脳・間脳・中脳・小脳・延髄をまとめて、脳といいます。 体性神経系と自律神経系をまとめて、末梢神経系といいます。体性神経系は、感覚神経系と運動神経系で成り立っています。感覚神経系は末梢から中枢神経系に情報を送り、運動神経系は中枢神経系から筋肉に指令を送り、筋肉を動かす働きをします。交感神経と副交感神経をまとめて、自律神経系といいます。自律神経系は、様々な器官や血管に存在し、あらゆる活動を調整するのに役立っています。 神経系の分類 まとめ (中央) 神経系━┳━中枢神経系━┳━脳 ┃ ┗━脊髄 ┃ ┗━末梢神経系━┳━体性神経系━┳━運動神経 ┃ ┗━感覚神経 ┃ ┗━自律神経系━┳━交感神経 ┗━副交感神経 参考:いろいろな動物の神経系 散在神経系 クラゲやイソギンチャクなどの刺胞動物は、散在神経系が見られます。散在神経系では、神経繊維が網の目のようにつながっていますが、中枢神経系はありません。 集中神経系 プラナリアをはじめとする扁形動物では、頭に脳があります。 ミミズやハゼなどの環形動物、ハチやバタエビなどの節足動物では、脳は体の前部にあり、神経節は前部から後部へ走っています。2本の大きな神経がそれぞれの神経節をつないでいます。 扁形動物やより高度な動物群では、神経系は中枢神経系と末梢神経系に分かれています。このような神経系を集中神経系といいます。 脊椎動物の脳を比べると、大脳の割合が段階的に大きくなっており、鳥類は小脳が発達しているため、上手く空を飛べます。また、それぞれのグループには他にも特徴があります。 ヒトの脳と脊髄 大脳 中枢神経系の中でも、ニューロンの細胞体や神経線維は、全て正しい位置にあります。人間の脳では、大脳が大きな面積を占めていて、脳の機能のほとんどがここに集中しています。脳には、左半球と右半球があります。灰白質とは、大脳の外層の名称を指し、大脳皮質と呼ばれています。ここにはニューロンの細胞体が集まっています。大脳の内側(大脳髄質)には、多くの神経繊維が通っています。神経繊維が白く見えるので白質と呼ばれます。 大脳新皮質は、人間の大脳皮質の中で最も発達しており、最も大きい部分です。新皮質、古皮質、原始皮質から出来ています。視覚や聴覚などの受容体からの情報を処理する感覚野、随意運動(意志に基づく行動)を制御する運動野、記憶、思考、言語などの高度な精神活動に関係した連合野が発達しています。大脳には、嗅覚の中枢(嗅球)・記憶形成・学習・空間認識などに役立つ海馬、欲求や本能などに関係する扁桃体などがあります。これらをまとめて大脳辺縁系といいます。新皮質とは異なる大脳辺縁系は、古皮質や原皮質といわれています。両生類や爬虫類の大脳にも見られます。 小脳 体の平衡を保つ中枢があります。また、自分で上手に体を動かす方法(随意運動)を身につけられます。そのため、小脳に障害があると、上手く動けず、複雑な動きもしにくくなります。 脳幹 間脳・中脳・延髄が脳幹を作っています。視床と視床下部は、間脳の一部です。視床下部は、自律神経系の中枢です。体の器官の働きを制御しています。また、体温、水分、血糖値、血圧なども調節しています。視床下部は、脳下垂体とつながっています。中脳は、体の姿勢を維持すると共に、目の動きや瞳孔の大きさを制御しています。延髄は、呼吸や消化器・循環器系の働きなど、生命維持に重要な働きをする中枢です。 参考:脳機能マッピング ニューロンの働きによって、大脳皮質の様々な部位が異なる働きをします。大脳の機能局在とは、脳がどのように設定されているかを示す言葉です。以前は、脳に損傷を受けた人がどのような特定の行動が出来なくなったのかを調べて、大脳の各部分が何をしているのかを解明しようとしていました。しかし近年、機能的磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging)や陽電子放射断層撮影法(positron emission tomography)を用いた研究から、脳が実際にどのように働いているかが分かるようになりました。これは脳機能マッピングと呼ばれていますが、脳の機能がどこにどのように広がっているのかが、最近分かってきたばかりです。 脊髄 脊髄は脊椎骨の真ん中を通る円柱状の形をしています。大脳とは違って、外側(周辺部)は白質、内側(中心部)は灰白質です。脊髄神経は左右から出入りしています。腹側の神経は腹根で、ほとんどが運動神経の軸索の束で出来ています。背中側の神経は背根で、ほとんどが感覚神経の軸索の束から出来ています。このように、脊髄は体の一部が脳と連絡を取るための手段なので、反射が起こる場所でもあります。 皮膚の触覚や圧覚が刺激に反応すると、感覚神経の軸索(白質)が脊髄に情報を送ります。軸索は、脊髄神経をつなぐ神経(介在ニューロン)に情報を送ります。介在ニューロンの軸索は延髄を右から左へ通り、さらに上へ上がって視床に興奮を伝えます。興奮は、左脳の皮膚感覚中枢にも送られます。大脳皮質で処理された情報は、大脳皮質の運動中枢に送られ、さらに手の運動が起こる脊髄の細胞体(灰白質)を持つ運動神経に送られます。 反射 目の前にボールが飛んでくれば思わず目を閉じてしまうし、熱いものに手が触れればそれを引き離します。反射とは、外からの刺激に対して無意識に起こる素早い反応をいいます。反射は、変えられない固定された反応です。しかし、非常に素早く起こるため、私達の安全を守り、意識せずに体の働きを調整するのに役立っています。反射の際には、受容体→感覚神経→反射中枢→運動神経→効果器を通して情報が送られます。反射弓とは、この反射を制御する神経細胞の連鎖をいいます。反射中枢は主に脊髄、延髄、中脳にあります。つまり、反射は大脳皮質が関与せずに起こります。したがって、反射は何も考えずに素早く起こるので、危険な状況などに対処しやすくなります。 膝蓋腱反射と屈筋反射は、脊髄が関与する反射です。膝の腱が当たると、その刺激は膝の伸筋にある筋紡錘に送られます。ここで、刺激は脊髄にあるたった1つのシナプスを通して、筋肉の運動神経に送られます。そのため、素早い反応が期待出来ます。目に光を当てた時に瞳孔を小さくする反射(瞳孔反射)は中脳から来て、虹彩に行きます。自律神経系にも、反射の一部としてゆっくりとした反応があります。自律神経系は、気温の変化、塩分濃度、血糖値などの変化を拾っています。効果器としては、主に内分泌器官、内臓、血管の平滑筋を調節しています。
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進化を証明する証拠は何でしょうか? 本節では、それを見ていきましょう。中学の地学分野、高校の地学教科書+αの内容が入っています。 化石が示す証拠 基本的に年代が古いほど、地層の重なりは下になります。また、地層は、それが置かれた場所や当時の気候を物語っています。そこで見つかった化石から、生物がどのような姿をしていたか、当時の環境がどのような状況だったかがわかります。 化石と相対年代 ヨーロッパでは、化石は大昔に生きていた動物の遺骸ではなく、鉱物の中に作られた天然の物質だと考えられていました。日本では、象の臼歯や骨の化石を竜の歯や骨だと思い込んで、竜歯・竜骨と呼んでいました。化石が大昔に生きていた生物として知られるようになると、同じ種類の化石を持つ異なる地層は、同じ時代の地層として比較出来るようになりました。地質時代は、こうした研究の積み重ねによって、相対的な時代(相対年代)に分けられています。古生代の三葉虫やフズリナ(有孔虫)、中生代のアンモナイトなどは、様々な場所で発見され、同じ年代の地層でしばしば見られる化石の代表例です。このような化石を示準化石といいます。 一方、古生代の示準化石の一つとなっているクサリサンゴは、温暖で浅い海に生息し、サンゴ礁を築いていました。示相化石とは、当時の環境がどのような様子だったのかを示す化石です。 連続的な進化と中間型の化石 アンモナイトなどのように化石がたくさんあるグループでは、化石が見つかった地層を年代順に比較すると、化石の形が時代とともに変化している様子がわかります。環境の変化に伴い、現在の北アメリカにいた馬の仲間は大きくなり、肢の指が増え、歯の大きさや形も変化していきました。化石に見られるこうした変化は、進化の有力な根拠につながります。 たとえ連続的な変化ではなくても、グループの中間に位置する種類の化石は、生命がどのように進化してきたかを知る手がかりになります。ジュラ紀後期に発見された始祖鳥の化石は、爬虫類と鳥類の間を結ぶ存在ですが、現生鳥類の先祖ではありません。 従来、鳥はトカゲから進化した説がありました。しかし最近では、鳥は小型の恐竜から進化した説が有力です。この証拠が、中国で発見された羽毛の生えた恐竜です。 羽毛恐竜アンキオルニスは、始祖鳥よりも古い1億5100万年前から1億6100万年前に生きていました。羽毛恐竜は、まず保温や体のバランスを保つために羽毛を使い、その後、空を飛ぶために羽毛を使ったと考えられています。 形態の比較 化石と生物、生物同士の形を比較すると、進化の仕組みが見えてきます。 適応 生物はそれぞれ変化してきました。生物は、生き続けるために、そして繫殖出来るように、形態や生活様式を変えます。これが適応です。形態や生活様式が変わるにつれて、全ての生物は共通の祖先から進化してきました。例えば、海豚は水中を速く泳ぐために尾鰭を発達させました。 発生 あるグループが時間とともにどのように発生してきたかを見れば、その共通の祖先を見つけやすくなります。例えば、脊椎動物の発生初期には、魚の鰓のような部分があります。これは、脊椎動物が魚から進化したからだと考えられます。脊椎動物の中でも、爬虫類、鳥類、哺乳類の胚に胚膜があるのは、全て同じ祖先から誕生した証拠です。 相同器官と相似器官 見た目は違っても、動物の種類によって、多くの器官の基本的な仕組みは同じです。両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の前足や節足動物の足がその代表的な例です。哺乳類の中には、前脚に翼や鰭、腕などを持つ種類もありますが、それでも骨格はほとんど同じです。これらの前肢は全て同じ場所から生えています。相同器官とは、見た目も働きも全く違うのに、同じ場所から生まれたと考えられる器官を指します。相同器官には、私達の祖先が共有した仕組みに遡れる歴史があります。 一方、昆虫の翅と鳥の翼は、空を飛ぶという同じはたらき(機能)を持っていますが、発生の仕方や見た目、どこから来たかという観点では、同じ器官とは言えません。相似器官とは、見た目も働きも他の器官とそっくりなのに、違う場所から来た器官を指します。 痕跡器官 鯨や蛇にはもう後ろ足がありませんが、祖先の後ろ足の骨はまだ残っています。痕跡器官とは、このようにもう役目を終えた器官をいいます。痕跡器官は、進化がどのように起こったかを解明するのにも役立ちます。犬歯、虫垂、耳を動かす筋肉、尾骨などは、全て痕跡器官の代表例です。 適応放散と収斂 白亜紀末期に恐竜が大量絶滅した後、生き残った哺乳類は、恐竜が抜けた穴を埋めるかのような姿になりました。違う環境に適応するために、1つの系統が多くの異なる系統に分かれます。これを適応放散といいます。また、適応放散では、1つの系統が多くの異なる生態的地位(ニッチ)に生息する様々な生物に分かれます。有袋類と真獣類は、哺乳類の主な種類です。有袋類とは、育児嚢とも呼ばれる袋を持つ動物です。胎盤を持つ哺乳類は真獣類といいます。真獣類がほとんどいなかったオーストラリアでは、有袋類が様々な環境に適応放散しました。 当初、オーストラリアには真獣類はあまり生息せず、有袋類が多く生息していました。これらの有袋類は、様々な場所に住み、様々な生活様式を持っていました。それらの動物は柔軟で、動き回っていました。真獣類は、オーストラリア以外の場所でも進化しました。この真獣類とオーストラリアの有袋類を並べてみると、同じような場所に住み、同じような生活をしている動物は、よく似ています。 この有袋類の中には、他の大陸で適応放散した真獣類とよく似ている動物もいます。これは、似たような生活様式だからです。例えば、フクロオオカミとオオカミは共に群れで生活し、フクロモモンガとモモンガも群れで生活しています。収斂とは、異なる系統の生物が同じような環境に同じような方法で適応していく過程をいいます。鮫、魚竜、海豚が外見上似ているのは、いずれも海で生活し、素早く泳ぐために進化したからです。 窒素代謝の比較 脊椎動物は窒素を含む分子を取り込み、それを利用して、代謝物を排出します。生息環境に応じて、様々な種類の窒素代謝物が排出されます。アンモニアは、水中で生活する魚や両生類の幼虫が排出します。陸上で暮らす両生類の成体からは尿素が、爬虫類や鳥類からは尿酸が排出されます。 卵の中の鶏胚が出す窒素代謝物を見ると、最初はアンモニアを多く排出し、次に尿素を多く排出し、最後に尿酸を多く排出しています。窒素代謝物の排出から見ると、鶏胚は魚類、両生類、爬虫類から鳥類への進化した過程の繰り返しと言えるかもしれません。 分子レベルの比較 細胞は全ての生物に備わっています。さらに詳しく見ていくと、蛋白質は生物にとって最も基本的な物質です。そして、DNAがある塩基の並び方によって、蛋白質を作るアミノ酸の並び方を決めます。つまり、全ての生物は共通の祖先から生まれてきました。 蛋白質とDNAがあるアミノ酸の並び方を比較すると、生物同士の関係を分子レベルで研究出来るようになりました。様々な生物のアミノ酸やDNAの並び方は、同じ祖先から生まれたからこそ、似ています。アミノ酸と塩基の並び方が違う場合、共通祖先からの分岐がかなり前に起こったと考えられます。アミノ酸と塩基の並び方がどれだけ違うかに基づいた系統樹と生物の形がどれだけ違うかに基づいた系統樹は、ほぼ同じです。 参考:エルンスト・ヘッケルの「反復説」 私達の目の前であっという間に起こる変化に関して、祖先が生まれた段階から時間をかけて変化した繰り返しに過ぎません。このような説をエルンスト・ヘッケルの「反復説」といいます。
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遺伝子を扱った技術 バイオテクノロジー DNAの仕組みが明らかになってから、目的の遺伝子を取り出して調べる技術や遺伝子を変化させる技術が進歩してきました。これらの技術はいずれもバイオテクノロジーとよばれています。 人間の遺伝子も大腸菌の遺伝子も、DNAという化学物質で出来ています。つまり、DNAを切る鋏(はさみ)とそれを貼り合わせる糊があれば、ゲノムにある多くの遺伝子から目的の遺伝子を切り出したり、縫い合わせたり出来ます。切った遺伝子の数が少なくても、すぐに増殖させられます。 遺伝子組み換え 遺伝子組み換えでは、ある生物の目的遺伝子のDNAを一部切り取って、別の生物のDNAに繋ぎ合わせます。例えば、人間に良い蛋白質を作る遺伝子を大腸菌のDNAに戻せば、大腸菌を育てて、人間に良い蛋白質を簡単に作り出せます。 制限酵素・DNAリガーゼ そのために使われるのが、「 参考:制限酵素の名称由来とその特徴 制限酵素という名前は、その仕事が外来DNAの侵入を防ぐ働きからきています。DNAを持ったウイルスやプラスミドが細菌に入り込むと、細菌は自分自身の制限酵素を使って、特定の塩基配列の部分でDNAを切り離します。様々な細菌によって、多くの制限酵素が見つかっています。 制限酵素は、DNAの中の4〜8個の塩基のあるパターンを探して、そこで二本鎖のDNAを切断します。DNAには4種類の塩基があるので、ある塩基が現れる確率はです。は特定の塩基が3つ並ぶ頻度です。同じように、は特定の塩基が4つ並ぶ塩基配列の頻度、は特定の塩基が8つ並ぶ塩基配列の頻度です。したがって、4つの塩基しか認識出来ない制限酵素でゲノムDNAを切り取ると、短いDNAの欠片が出来ます。8つの塩基しか認識出来ない制限酵素でゲノムDNAを切り取ると、より長いDNAが出来ます。制限酵素が認識出来る塩基配列は、2本のDNAが同じ塩基配列を持ちながら逆の順序で並んでいる場合(回文構造)です。 PCR法 クローニングとは、目的の遺伝子と同じ塩基配列を持つDNAの断片を取り出せるようにする作業をいいます。近年、クローニングの方法として、ポリメラーゼ連鎖反応(Polymerase Chain Reaction)法が注目されています。 PCR(Polymerase Chain Reaction)法は、DNAの特定の領域を増幅(複製)するための分子生物学的な手法です。 PCR法は、DNAの少量から大量の特定のDNA断片を効率的に作成することができます。 PCR法は次のような手順で行います。 - 鋳型となるDNAとともに、2種類のプライマー、耐熱性のDNAポリメラーゼ、A(アデニン)、T(チミン、G(グアニン)、C(シトシン)の4種類の塩基を持つヌクレオチドで反応液を作ります。ここで、プライマーとは、DNAを作るプロセスを開始するために使われる短いヌクレオチドの鎖を指します。プライマーは化学的に作れ、DNAの両端の配列が同じなら、必要に応じてその部分だけが拡がります。 - Denaturation(変性): PCR反応が始まる前に、反応混合物を95℃で30秒から1分間程度加熱します。これにより、DNAの二重らせん構造が解離し、2本鎖DNAが単鎖DNAに変性します。 - Annealing(プライマー結合): 反応混合物を60℃程度まで急冷し1分間保持し、DNAプライマー(短いDNA断片)が特定の領域に結合することができるようにします。プライマーは、増幅したいDNA領域の始点と終点に相補的な配列を持っています。 - Extension(伸長): DNAポリメラーゼを反応混合物に加え、プライマーに結合したDNA領域を伸長します。DNAポリメラーゼは、プライマーに対して新しいDNA鎖を合成します。この過程により、DNA領域が増幅されます。 上記の3つのステップ(変性、プライマー結合、伸長)を繰り返すことで、増幅したいDNA領域が指数関数的に増加します。各サイクルごとにDNA断片の量が倍増するため、PCRは非常に効率的なDNA増幅法となります。 - 100μLの反応混合物が入ったPCRチューブが8本ずつあります。 - 政府医科大学エルナクラム校の遠隔PCR研究所には、Covid-19の感染を検査するための生体実験室が整備されています。 - PCRは、犯罪現場で採取されたDNAサンプルを調べるためによく使われます。 2本鎖の分離→焼なまし→DNA複製という流れを数分間ずつ約30回行うと、数時間で大量のDNAを作れます。このDNAポリメラーゼは、温泉に生息していた細菌から取り出した成分です。95℃でもまだ使えるので、反応の最初に加えるだけで構いません。DNAポリメラーゼは高温でもよく働くので、PCR法は実際の現場で使えるようになりました。少量のDNAとプライマーで済むため、短時間で遺伝子を作り出せます。そのため、PCR法は、遺伝子組み換え、COVID-19の検査方法、親子鑑定、犯罪捜査など、様々な分野で利用されています。 遺伝子の導入の方法 トランスジェニック生物 トランスジェニック技術は、生物の遺伝子組成を変えるための手法であり、ウイルスの利用もその一つです。ウイルスは、その特性を利用して遺伝子を効率的に他の生物体に導入することができます。 例えば、バクテリオファージと呼ばれるウイルスは、細菌に感染して増殖する性質を持っています。この性質を利用して、特定の遺伝子をバクテリオファージに組み込み、感染した細菌に遺伝子を導入することができます。これにより、目的の遺伝子を持つ細菌を作り出したり、特定のタンパク質を大量に生産するための工具として利用することができます。 また、他のウイルスもトランスジェニック技術で利用されることがあります。たとえば、アデノウイルスや lentivirus(レンチウイルス)などは、哺乳類細胞に遺伝子を導入するためのベクターとして使用されることがあります。これらのウイルスは、遺伝子を運ぶ能力を持っており、特定の組織や臓器に遺伝子を導入することができます。 ウイルスを利用したトランスジェニック技術は、遺伝子導入の効率性や特定の細胞や組織への遺伝子のターゲティングなど、他の方法に比べて優れた特性を持っています。ただし、ウイルスを使用する場合、安全性や倫理的な問題に留意する必要があります。ウイルスが感染した生物体や環境への影響を評価し、適切な規制や安全対策を講じることが重要です。 ゲノムの多様性とその応用 ゲノムの多様性とその応用は、現代の遺伝子工学やバイオテクノロジーの分野において重要なテーマです。 ゲノムは、ある生物の遺伝情報全体を指し、その中には生物の形質や機能を決定する遺伝子が含まれています。 - ゲノムの多様性: ゲノムは生物種や個体によって異なる特徴を持っています。例えば、異なる生物種のゲノムは、遺伝子の数や配置、ゲノムサイズなどが異なる場合があります。また、同じ生物種内でも個体間でゲノムの一部に変異が生じることがあります。この多様性は、生物の進化や適応能力に関与しています。 - ゲノム解析: ゲノムの多様性を理解するために、ゲノム解析が行われます。ゲノム解析では、DNAシーケンシング技術を用いてゲノム中の遺伝子やその他の機能的な領域を特定し、解読します。ゲノム解析により、生物の遺伝子構造や進化の仕組み、疾患の原因遺伝子の同定などが可能となります。 - ゲノムの応用: ゲノムの多様性を理解することで、さまざまな応用が可能となります。例えば、農業分野では、農作物の品種改良において特定の遺伝子を操作することで、収量向上や耐病性の向上などが実現されます。また、医療分野では、ゲノム解析を通じて遺伝子疾患の予測や個別化医療の実現が進められています。さらに、環境保護やエネルギー生産分野でも、ゲノムの解析や遺伝子工学の技術が応用されています。
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「生物基礎」は、中学校までに学習した内容を基礎として、日常生活や社会との関連を図りながら生物や生物現象に関わり、理科の見方・考え方を働かせ、見通しをもって観察、実験を行って、科学的に探究するために必要な資質・能力を育成する科目です。 「生物基礎」の特徴は、生物や生物現象に関わる基礎的な内容を扱い、日常生活や社会との関連を図りながら、生物や生物現象について理解させるとともに、科学的に探究する力と態度を育成します。 ※本解説では令和4年以降の新課程東京書籍の生物基礎教科書順番にそってリンクを掲載しています。 Feature Part1 生物の特徴 私達が住む地球には、どんな生物がいるのでしょうか?そもそも生き物って何なのでしょう?中学校では、細胞から生物の体は出来ており、生きるにはエネルギーが必要だと習いました。では、生きるとはいったいどういう意味なのでしょうか。生物の特徴を知る旅に出かけましょう。 Section1 生物の多様性と共通性 Section2 細胞とエネルギー Part2 遺伝子とその働き - 遺伝情報とDNA (2018-12-12) - 遺伝情報の分配 (2018-12-12) - 遺伝情報とタンパク質の合成(旧課程では生物IIの一部に対応 (2018-12-12) Part3 生物の体内環境の維持 Part4 生物の多様性と生態系 Section1 多様な植生と遷移 Section2 バイオームとその分布 本章は旧生物Ⅱ(理系のみ)の内容でしたが、現在の教科書では生物基礎で習う項目に移行しています。地理の気候とも絡んでおり、地理の気候の内容をある程度知っておかないと難しい内容といえるでしょう。
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本節では、単細胞生物と多細胞生物の用語の意味と代表的な動物名を押さえましょう。 単細胞生物と多細胞生物 アメーバ、ミドリムシ、ゾウリムシなど、個体が単一の細胞からできている生物は単細胞生物(unicellular organism)と呼ばれます。 例えばゾウリムシは、一つの細胞で、繊毛を使って泳いだり、細胞口を使って食べたり、食胞を使って消化したりしています。 単細胞生物に対して、形や働きの異なる多くの細胞からなる生物は多細胞生物(multicellular organism)と呼ばれます。多細胞生物において、藻類や腔腸動物は、種子植物や脊椎動物に比べると簡単な構造を持っています。 例えばヒドラは、8種類約10万個の細胞からなる多細胞生物で、刺細胞で攻撃したり、腺細胞で消化液を分泌したり、消化細胞で消化を行ったりしています。
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本節は、地学の視点から植生の分布に関する影響をみてみましょう。 ※バイオームの図は各生物基礎教科書や問題集ごとに違いますので、あまり深追いしすぎないようにしましょう。 地球規模の気候の違い 日中の同じ時刻に気温を観測しても、赤道付近や北極・南極、低山・高山で大きな差があります。また、同じ地域で1年を通して気温や降水量を測定すると、周期的な変化(季節)が見られる地域もあります。このような地球の気候変動は、どのようにして起こったのでしょうか。 地球規模の気候は、主にその地域の年平均気温と年降水量によって表されます。気温は、主に日差しによって決まります。地球は球状をしているため、緯度が高くなるにつれて日差しは減少します。赤道から北極・南極に向かうにつれて、年間平均気温は下がっていきます。また、地軸がわずかに傾いているため、日差しに季節変化が生まれます。さらに、地球の大気循環や親潮・黒潮などの海流も、日本で観測される気温や降水量に大きな影響を与えています。山や海などの地形が変わっても、同じ地域の気候は複雑に変化します。 このように、気候によって植生の分布が制限されるだけではなく、そこに生息する動物の分布にも大きな影響を与えているといえます。 上記の話に関連しますが、近年、気候変動による影響が全世界で発生しています。 例えば、ヨーロッパやインドの猛烈熱波やアメリカや日本の台風・ハリケーンの威力強化とかです。 このうち、日本では令和元年房総半島台風、令和元年東日本台風が有名です。 バイオーム 陸上を上空から眺めると、森林が延々と続く風景や、果てしなく草原が広がる風景を目にします。地球上には様々な環境があり、それぞれの環境に適応した植物で構成された植生が成立しています。ここでは陸上の植物が、どのように分布しているかをみていきましょう。 森林や草原のような植生の外観を相観といいます。ある気候の地域には、最終的にその気候に合った植物が、優占種として生育します。優占種は、その場所の環境に適応した形態をもつので、同じような環境のもとでは、同じような相観をもつ植生が成立します。例えば、カナダやシベリアなどの亜寒帯地域には、それぞれ種類は異なりますが、どの地域でも針葉樹が優占するため、相観はよく似てきました。また、生育している植物の種類や状態に応じて、特有の動物が生息しています。 陸上では一般に生産者〔植物〕を基準に、その地域に生息する動物や微生物などの全ての生物のまとまりをバイオーム(生物群系)といいます。植物の生育は、気温と降水量の影響を強く受けるため、陸上には、地理的な気候区分とほぼ一致する特徴ある相観をもったバイオームが成立しています。 陸上のバイオームの基準は植生なので、バイオームの分布と気候との関係は、植生を中心に研究されています。陸上のバイオームは、その地域の年平均気温と年降水量に大きく影響を受けます。陸上のバイオームを森林・草原・荒原に分類し、年平均気温と年降水量の関係について見ると次の通りです。 樹木を中心としたバイオーム(森林) 年平均気温がマイナス5度以上の地域や年降水量の多い地域に森林が見られます。熱帯や亜熱帯では、熱帯多雨林、亜熱帯多雨林、雨緑樹林が見られます。温帯では、照葉樹林、硬葉樹林、夏緑樹林が見られます。亜寒帯(冷帯)では、針葉樹林が見られます。 草本が密生したバイオーム(草原) 温暖でも、年降水量が少ない地域では、森林が成立せず、イネの仲間を主とした草原となります。草原のバイオームには、年平均気温の高い順からサバンナとステップがあります。熱帯の乾季の長い地域にはサバンナが見られます。温帯の雨の少ない地域にはステップが見られます。 植生が疎らなバイオーム(荒原) 年降水量が極端に少ない地域や年平均気温が極端に低い地域では植物が育たず、岩や砂が目立つ荒原となります。年平均降水量が200mm以下の地域には砂漠が見られます。年平均気温がマイナス5度以下の寒冷な地域では降水量に関係なくツンドラが見られます。
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植物の環境への適応 適応では、生物のもつ形態や生理的機能などの性質が、その環境のもとで生活していく上で都合よく出来ており、結果的に生物の生存や繁殖に役立っています。 生活形 寒冷で雪の多い地域に生育する樹木には、温暖な地域に生育する近縁な種に比べて背丈が低く、柔軟な茎をもつものがあります。この形態は、樹木の上に雪が積もっても折れにくいという特徴があります。また、砂漠のように乾燥した地域に生育する植物には、根を非常に長く伸ばし、地中深くの水分を吸収しているものもあります。環境への適応を反映した形態を生活形といいます。 生活形には様々なものがあります。種子が発芽してから1年以内に結実して枯死する植物を一年生植物、地下部などに養分を貯蔵しながら1年をこえて生育する植物を多年生植物といいます。 木本は、普通は、2m程度より低い低木と、低木より高い亜高木や高木に分けられます。また、木本は、冬季や乾季に葉を落とすかどうかで常緑樹と落葉樹に分けられます。広葉樹と針葉樹にも分けられます。 クリステン・ラウンケルの生活形 多くの植物は生育に不適切な冬季や乾季には成長を止め、休眠芽を作ります。休眠芽は、ある一定期間、発芽しない芽で、低温や乾燥に強い特徴を持ちます。クリステン・ラウンケルは、休眠芽の位置の違いによって植物の生活形を分類しました。熱帯では地上植物が、寒帯では半地中植物が、乾燥する砂漠では一年生植物がよく実ります。 光の強さと光合成 植物の光合成について、単位時間あたりの植物の二酸化炭素の吸収量を光合成速度、放出量を呼吸速度といいます。ある光の強さのもとでは、呼吸速度と光合成速度がつり合い、見かけ上、二酸化炭素を放出も吸収もしない状態になります。この時の光の強さを光補償点といいます。 光が十分な強さになると、それ以上、光を強くしても、光合成速度は光の強さに関係なく一定になります。この時の光の強さを光飽和点といいます。また、この一定になった時の光合成速度を最大光合成速度といいます。 陽生植物と陰生植物 植物の光の利用の仕方は、植物の種類によって異なります。草原や耕地など、日当たりのよい環境でよく生育する植物を陽生植物といいます。陽生植物の性質をもつ樹木を陽樹といいます。陽樹には、ヤシャブシ、クロマツなどがあります。陽樹の芽生えや幼木は、日陰では光合成による物質生産を十分に行えず、病原菌に感染したり昆虫などに食べられたりして、よく枯死します。 一方、森林の中など、日陰の環境に生育する植物を陰生植物といいます。芽生えや幼木の耐陰性が高く、ある程度成長すると、明るいほど成長がよくなります。このような陰生植物の性質をもつ樹木を陰樹といいます。陰樹には、タブノキ、アラカシなどがあります。遷移が進むにつれて目陰の環境が多くなり、陽樹が育ちにくくなるため、遷移が進むにつれて陰樹がよく実ります。そのため、陰樹は、極相に達した森林を構成する樹種によくみられます。 遷移の進行を促す環境要因の1つが地表に届く光の量です。草原の明るい環境では、陽樹は陰樹に比べて葉の光合成速度(葉の単位面積あたりの二酸化炭素の吸収速度)が大きく成長も速くなります。樹木は、草本に比べてより高く成長するため、草本は樹木の陰になります。そのため、草原の植生の次に陽樹林の植生によく遷移します。陽樹林が出来ると、地表に届く光が少なくなるので、陽樹の芽生えは生育しにくくなります。しかし、陽樹林に陰樹が侵入した場合、陰樹の芽生えは生育出来るので、陽樹が枯死すると陰樹を主とした森林に遷移していきます。 陽葉と陰葉 1本の植物体でも、日当たりのよい場所と悪い場所では、葉の特徴が異なります。日当たりのよい場所にある葉を陽葉といい、厚くて葉の面積が狭くなります。一方、日当たりの悪い場所にある葉を陰葉といい、薄くて葉の面積が広くなります。陽葉は陰葉より、葉の面積あたりの最大光合成速度が速くなります。
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本節では、国内外のバイオームとその分布について扱います。 世界のバイオーム またなお、グラフでの各植生の各領域の温度範囲や降水量範囲の広さや値は、教科書ごとに若干、異なります。なので、あまり細かな数値を覚えても無価値です。 日本のバイオーム 暖かさの指数 日本では、その地域の気温によって、植生が決まります。 よって、その地域の気温の積算値をもとにした指数によって、植生が説明出来ます。 植物の生育がうまくできる下限の値を5℃と考え、よって月平均気温からマイナス5℃をした値を各月もとめ、さらにその各月の値を足し合わせた積算値を、暖かさの指数といいます。 WIが15〜45は、トドマツなどの針葉樹が分布し、亜寒帯に相当し、北海道の北東部などです。 45〜85は、ミズナラなどの夏緑樹林が分布し、冷温帯に相当し、東北地方などです。 85〜180は、スタジイなどの照葉樹林が分布し、温暖帯に相当します。 180〜240は、沖縄県や鹿児島などで見られ、亜熱帯多雨林が分布し、亜熱帯に相当します。
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地球上には様々な植物が生育しています。ある場所に生育している植物の集まりを植生といいます。また、植生を外から見た時の様相を相観といい、植生の中で、個体数が多く、背丈が高くて葉や枝の広がりが大きい種を優占種といいます。一般に相観は優占種によって特徴づけられます。 森林の階層構造 森林は、草原や荒原に比べて植生が占める空間が大きく、構造も複雑です。 よく発達した森林の内部を観察すると、林冠と呼ばれる森林の最上部から、林床と呼ばれる地面に近い場所まで、様々な高さの樹木や草木による階層構造をみられます。森林の階層構造は、上層部から順に高木層、亜高木層、低木層、草本層、コケ植物などが生える地表層といった構造になっています。森林内の環境も多様です。森林の植生は、草原や荒原に比べて階層構造が複雑なので、多くの動物の生活場所にもなります。森林内の光環境は、1日の時刻や季節、天気によっても変化します。 植生と土壌の関係 植物は、土壌中の水や栄養分を吸収して成長します。そのため、土壌は、植物が生活する上で重要な環境要因です。土壌は、岩石が風化して出来た砂などに、落葉・落枝や生物の遺体が分解されて出来た有機物が混じり合って出来ています。落葉・落枝の分解は、ミミズ、ヤスデ、トビムシ、ダニ、ダンゴムシなどの土壌動物や細菌、キノコなどの菌類などの分解者のはたらきによって起こります。つまり、土壌の形成には、分解者が大きく関わっています。 よく発達した森林の土壌は、層状になっています。地表に近い最上層には落葉・落枝で覆われており、これを落葉層といいます。その下には落葉・落枝が分解されて出来た黒褐色の有機物(腐植質)と風化した岩石が混じった層(腐植土層)がみられます。その下には風化した岩石の層、さらにその下には風化を受けていない岩石(母岩)の層があります。 風化した細かい岩石と腐植がまとまった粒状の構造を団粒構造といいます。 団粒構造は保水力が高く、隙間が多いので通気性に優れています。根は、団粒構造の発達した、有機物に富む層でよく成長します。これは、水や養分の吸収が容易に行える上に、根の呼吸にも都合がよいためです。
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本節では、細胞に関する学説と細胞に関する基本構造について学びます。 細胞 細胞の研究の歴史(学説) ※細胞に関する学説の人物は正式名称で押さえておきましょう。 細胞は、1665年、イギリスのロバート・フックによって発見されました。 彼は、自作の顕微鏡を用いて、軽くて弾力のあるコルクの薄片を観察したところ、 多数の中空の構造があることを知りました。それを修道院の小部屋(cell、セル)にみたて、細胞(cell)と呼びました。 彼が観察したのは、死んだ植物細胞の細胞壁(さいぼうへき、cell wall)でしたが、 その後、1674年、オランダのアントニ・ファン・レーウェンフックにより初めて生きた細菌の細胞が観察されました。 19世紀に入ると、細胞と生命活動の関連性が気付かれ始めました。 まず1838年、ドイツのマティアス・ヤコブ・シュライデンが植物について、 翌1839年、ドイツのテオドール・シュワンが動物について、 「全ての生物は細胞から成り立つ」という細胞説(cell theory)を提唱しました。 さらに後、ドイツのルードルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウの「全ての細胞は他の細胞に由来する」という考えにより、細胞説は浸透していきました。 多様な細胞の大きさ 細胞の大きさはそのほとんどがあまり肉眼では見えません。顕微鏡の発達によって観察出来る分解能が高まり、細胞の内部構造が徐々に明らかになっていきました。 細胞は生物の種類や体の部位によって様々な大きさで存在しています。 以下に顕微鏡の分解能と細胞などの大きさを挙げます。 - 分解能(接近した2点を見分けることの出来る最小距離) - 肉眼で観察できるもの (分解能: 約0.2mm ※1mm=10-3m) - 数m:ヒトの座骨神経 (長さ1m以上) - 数cm:鶏の卵黄(約2.2cm) - 数mm:蛙の卵 (約3mm)、ゾウリムシ(約0.2mm) - 光学顕微鏡で観察できるもの (分解能: 約0.2μm ※1μm=10-6m) - 数μm:ヒトの卵 (約140μm)、ヒトの精子(約60μm)、ヒトの赤血球 (約7.5μm)、大腸菌 (約3μm) - 電子顕微鏡で観察できるもの (分解能: 約0.2nm ※1nm=10-9m) - 数nm:SARSコロナウイルスⅡ (直径80~220nm※ウイルスで細胞ではありません。)[1] μ(マイクロ)1μm=1,000分の1mm n(ナノ) 1nm=1,000分の1μm 観察してみましょう! ほほの内側の細胞は比較的簡単に観察出来ます。 ほほの内側を綿棒で軽くこすって、はがれた細胞を光学顕微鏡で観察してみましょう。 細胞の基本構造 生物の細胞には、核をもたない原核細胞と、核をもつ真核細胞とがあります。 細胞の見た目や働きは様々ですが、基本的な機能や構造は同じです。 細胞は核(かく、nucleus)と細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)、それらを囲む細胞膜(さいぼうまく、cell membrane)からなります。細胞膜に包まれた内部の物質のうちから核を除いた部分のことを細胞質といいます。 また、核と細胞質を合わせて原形質(げんけいしつ、protoplasm)とも呼びます。つまり、細胞膜に包まれた内部の物質のことを原形質といいます。よって原形質には核も含まれます。 細胞質には、核を始めとして、ミトコンドリアなど、様々な機能と構造をもつ小さな器官があり、これらを細胞小器官(さいぼうしょうきかん、organelle)と呼びます。 細胞小器官同士の間は、水・タンパク質などで満たされており、これを細胞質基質(さいぼうしつ きしつ、cytoplasmic matrix)と呼びます。この細胞質基質には、酵素などのタンパク質やアミノ酸、グルコースなどが含まれています。 細胞膜 細胞膜は動物にしかありません。動物細胞内部を守るためにあります。 細胞壁 細胞壁は植物にしかありません。植物細胞内部を守るためにあります。 真核細胞 核 核は、1つの細胞が普通1つもっており、核の表面には核膜(かくまく、nuclear membrane)、核の内部に染色体(chromosome)があります。 「染色体」という名前の由来は酢酸カーミンや酢酸オルセイン液などで染色出来る現象からです。 「染色体」の間を核液(nuclear sap)が満たしています。 染色体は、DNAとタンパク質からなります。 ミトコンドリア ミトコンドリア(mitochondria)は動物と植物の細胞に存在し、長さ1μm~数μm、幅0.5μm程度の粒状の細胞小器官で、化学反応によって酸素を消費して有機物を分解しエネルギーを得る呼吸(respiration)を行います。 葉緑体 葉緑体(chloroplast)は植物の細胞に存在し、直径5~10μm、厚さ2~3μmの凸レンズ形の器官で、光エネルギーを使って水と二酸化炭素から炭水化物を合成する光合成(photosynthesis)を行います。 また、葉緑体はクロロフィル(chlorophyll)という緑色の色素を含んでいます。葉緑体は、ミトコンドリアと同じように独自のDNAを持っています。 液胞 液胞(えきほう、vacuole)は主に植物細胞にみられ、物質を貯蔵したり浸透圧を調節したりします。 一重の液胞膜で包まれ、内部を細胞液(cell sap)が満たしています。 一部の植物細胞はアントシアン(anthocyan)と呼ばれる色素を含みます。 原核細胞 大腸菌などの細菌類や、ユレモなどのシアノバクテリア(ラン藻類)の細胞は、核を持ちません。 これらの生物の細胞も染色体とそれに含まれるDNAはもっていますが、それを包む核膜をもっていないので、核がありません。 このような、核のない細胞のことを原核細胞(prokaryotic cell)と呼びます。原核細胞は、真核細胞よりも小さいです。 また、原核細胞で出来た生物を原核生物(prokaryote)と呼びます。 シアノバクテリアは、ミトコンドリアと葉緑体を持たない原核生物ですが、光合成を行います。 脚注 - ^ https://gigazine.net/news/20210711-weight-sars-cov-2-coronavirus/ - ^ 以降、具体的な構造の仕組みは専門科目の生物で詳しく学習しますので、ここでは簡単に触れるだけにします。 - ^ 鈴木恵子 (2005) 「図解入門 よくわかる高校生物の基本と仕組み」(秀和システム)p.12 - ^ Mandoli, DF (1998). “Elaboration of Body Plan and Phase Change during Development of Acetabularia: How Is the Complex Architecture of a Giant Unicell Built?”. Annual Review of Plant Physiology and Plant Molecular Biology 49: 173–198. doi:10.1146/annurev.arplant.49.1.173. テンプレート:PMID. - ^ グッドウィン(1998)p.100
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このページからは、2012年度(平成24年)までに高校に入学した生徒に適用されていた古い課程の教科書へのリンクがあります。本来ならば高校生の参照には役に立たない教科書ですが、現行課程に対応する教科書の執筆が遅れていること、また次の指導要領改定以降で内容を再利用できる可能性があることから、便宜的に残されています。現行課程の教科書は高等学校の学習を参照してください。 なお、当wikibooksの旧課程(〜2012年までの課程)用の教科書の内容には、「旧課程」というタイトル名に反して、2013年以降の検定教科書に基づいた内容も多々、含まれています。なので、旧課程の教育内容を知るための資料としては使えませんので、ご注意ください。 進捗状況の凡例 普通教育に関する各教科・科目 - ※ 以下の科目一覧に併記してある単位数は、文部科学省の定めている標準単位数である。 国語 - 国語総合 4単位 (2015-08-14) - 国語表現 3単位 - 古典B (2015-08-07) - 現代文B (2014-11-24) - 古典A 2単位 (2015-08-14) - 現代文A 2単位 (2012-12-21) 地理歴史 - 世界史A 2単位 (2012-12-21) - 世界史B 4単位 (2018-05-04) - 日本史A 2単位 - 日本史B 4単位 (2012-12-21) - 地理A 2単位 - 地理B 4単位 (2016-03-23) 公民 - 現代社会 2単位 (2013-09-30) - 倫理 2単位 (2013-09-30) - 政治経済 2単位 (2016-04-05) 数学 - 数学基礎 2単位 (2013-09-30) - 数学I 3単位 (2013-09-30) - 数学II 4単位 (2013-09-30) - 数学III 3単位 (2013-09-30) - 数学A 2単位 (2013-09-30) - 数学B 2単位 (2013-09-30) - 数学C 2単位 (2013-09-30) 理科 - 物理I 3単位 (2015-07-24) - 物理II 3単位 (2015-07-24) - 化学I 3単位 (2016-01-26) - 化学II 3単位 (2016-01-26) - 生物I 3単位 (2015-05-06) - 生物II 3単位 (2015-05-06) - 地学I 3単位 (2015-06-05) - 地学II (2015-04-22) 外国語 - オーラル・コミュニケーションI 2単位 (2016-02-11) - オーラル・コミュニケーションII 4単位 - 英語I 3単位 (2016-02-11) - 英語II 4単位 (2016-02-11) - リーディング 4単位 - ライティング 4単位 - 英語以外の外国語に関する科目 保健体育 - 体育 7~8単位 - 保健 2単位 (2013-09-30) 芸術 家庭 - 家庭基礎 2単位 (2013-09-30) - 家庭総合 4単位 - 生活技術 4単位 情報 専門教育に関する各教科 - 高等学校農業 (2013-09-30) - 高等学校工業 (2013-09-23) - 高等学校商業 (2013-09-30) - 高等学校水産 (2013-09-30) - 高等学校家庭 (2013-09-30) - 高等学校看護 (2013-09-30) - 高等学校情報 (2013-09-30) - 高等学校福祉 (2013-09-30) - 高等学校理数 (2013-09-30) - 高等学校体育 (2013-09-30) - 高等学校音楽 (2013-09-30) - 高等学校美術 (2013-09-30) - 高等学校英語 (2013-09-30)
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高校英語の文法/冠詞 冠詞 不定冠詞 冠詞の a および an が不定冠詞である。 a および an の基本的な意味は、「1つの」である。 Rome was not built in a day. 「ローマは一日にしてならず」 ※ロイヤル、ブレイクスルー a か an のどちらを使うかは、発音によって決まる。(語のつづりではない) 名詞の最初の発音が母音なら、不定冠詞はanになる。 なので、 an hour 「1時間」や an SOS のように、不定冠詞のあとのつづりが母音でなくても、発音が母音なので冠詞が an になる。 もちろん an apple や an egg など、発音もつづりも母音のものは、不定冠詞もanになる。 文章中か会話などで、それまで話題に出てこなかった、初めて話題に出てくる名詞について、1つの名詞なら冠詞は a または an である(青チャ、エバー)。 なお、話題で2回目以降に出てくるものについては、特定できる語の冠詞として the をつけるのが一般的(インスパ)。 - その他の a の用法 時間や重さや量や個数などの単位とともに用いて「1~につき」の意味がある(青チャ)。 An apple a day keeps the doctor away. 「1日1個のりんごを食べれば医者はいらない」(ことわざ) once a day 「1日に1回」 twice a day 「1日に2回」、ブレイクスルー These apples are 1,000 yen a box. 「そのリンゴは一箱1000円です」※青チャに似た例文 These apples are 600 yen a box. 「そのリンゴは一袋600円です」※ジーニアスに似た例文 「ある~の」(= a certain)という意味もある。 in a sense 「ある意味では」 It is a true in a sense. 「ある意味では、それは正しい」 ※ ロイヤルに同じ例文、インスパイアに似た例文 「a ~(人名)」で、「~のような人」の意味がある。 He is a Edison. 「彼はエジソンのような人だ。」 aには「いくらかの」という意味もあり、some に近い意味である。 from a distance または in a distance で「いくらか離れて」の意味(インスパ)。 いくらかの意味のa を使った慣用句として、 at a distance (いくらか離れて) after a while 「しばらくして」 once in a while 「時折(ときおり)」 などがある(青チャ、)。 その他、ほかの意味の a も含めれば、 a または an を使った慣用句として at a loss 「途方にくれて」 in a hurry 「急いで」 come to an end 「終わる」 all of a sudden 「突然」 などが加わる(青チャ、インスパ)。 定冠詞 天体としての「月」 moon はひとつしか存在しないので、the moon と冠詞をつけていう。 しかし、「半月」は a half moon である。 これは、「満月」「新月」「半月」「三日月」など、月のいくつもある状態のうちの一つという意味で、a になっている。 無冠詞 定冠詞 the も不定冠詞 a/an も使わないのを、無冠詞という。 物質名詞、抽象名詞など、もともと冠詞を使わずに使う種類の名詞は、それらの種類の名詞が一般的な意味で使われている場合は無冠詞である。 なので、information 「情報」や、「お金」money や「金」gold なども、無冠詞である。 ただし、water は、the water で、海やプールや池など、大量の水のたまっている場所という意味になる。 「電車で」by train, 「飛行機で」by plane など交通手段は無冠詞である。by bicycle のように、自分の足で動かす乗り物でも同様(ブレイク)。 ただし、これらのもともとの単語(train や plane など)は無冠詞の名詞ではないので、どちらかというと、論理的なものというよりも慣用表現である。 また、「徒歩で」on foot のように、移動手段も無冠詞が普通。なお、徒歩の場合、byではなくonになることに注意。 by sea (「海路で」)や by air (「空路で」)や by land (「陸路で」)のように経路も無冠詞(インスパ、青チャ)。 交通手段に限らず、「電話で」by phone や「eメールで」by email も無冠詞である。 なお、eメールは email のほか e-mail とハイフンをつけて書いてもいい。 そのほか、go to bed や go to school などにおける bed や schoolなど、一部の慣用表現中の名詞に無冠詞のものがある。 これは、bedの場所よりも寝ることが意味の重点であったり、schoolの場所よりもそこで勉強することが意味の重点であるとも考えられるが、最終的には慣用表現として覚えるべきであろう。 参考書では、go to bed や go to school などの無冠詞の説明で、よく「機能」や「役割」に焦点を当てた場合である、などという(ジーニアス総合、フォレスト)。go to church 「教会に行く」も同様、無冠詞であり、また礼拝などをするために(ロイヤル英文法)行っていることを暗に示している。 だが実際、銀行にいく場合、 go to the bank や go a bank というのが通常である(ロイヤル英文法)。 このように、go to bed や go to school は単なる慣用表現に過ぎず、あまり論理的な根拠があるわけではない。参考書の理屈を鵜吞みにしすぎてはいけない。あんなのは、文科省的な建前である。 after school 「放課後」(青チャ)、 lie in bed 「ベッドで横になる」(ジーニアス) (be) in bed 「就寝中で」(インスパ)、「be」 はwiki側で追記 などもある。 なお、「入院中」は、イギリスでは (be) in hospital で無冠詞だが、アメリカでは (be) in the hospital と冠詞あり(青チャ、インスパ)。 建物ではないが、play soccer や play tennis や play chess (チェスをする)や play baseball のようにplayといっしょに使われるスポーツやゲームの場合、play などの動詞といっしょに使われるなら、無冠詞である(青チャ、インスパ、ブレイクスルー)。無冠詞である理由は、動詞的な意味合いが使いため、と考えられている(青チャ)。 ただし、楽器の場合は the が必要(インスパ)。 食事では have lunch や eat lunch や eat breakfast や skip breakfast のように食事を動詞と一緒に使うときも無冠詞(青チャ、インスパ、ブレイク)。 ただし、 The dinner was good . のように言う場合、冠詞が必要(青チャ)。 ほか、a late lunch 「遅れた昼食」のように言う場合、a が必要(ジーニアス、インスパ)。 ほか、「数学」mathematics や「歴史科目」 history のように学校の教科名は無冠詞(インスパ、ロイヤル)。 study mathematics 「数学を勉強する」※インスパ I like history. 「私は歴史(科目)が好き」 ※ロイヤル のようになる(インスパ、ロイヤル)。 そのほか、「大統領」president, 「教授」professor 、「(医者や博士の意味での)先生」doctor など役職の前には、冠詞はつかない。 ほか、 at noon (正午に)、by accident(偶然に), in fact (実際に) など、一部の慣用表現では冠詞がつかない。 ほか、from door to door 「一軒一軒」(※エバグリ、青チャ)や、from beginning to end 「始めから終わりまで」(※ロイヤル英文法)のように、from ~ to ・・・ の表現は無冠詞になる。 husband and wife 「夫婦」※インスパ、ロイヤル day and night 「昼夜」 day after day 「毎日毎日」 hand in hand 「手をつないで」 side by side 「並んで」※ロイヤル、インスパ、青チャ など、無冠詞となる慣用表現が色々ある(インスパ、青チャ)。 季節(summer や winter など)は、the を付けなくてもいいが、つけてもいい(インスパ、ロイヤル)。 ただし、 the spring of 2001 のように of がついて特定される場合は季節にも theがつくのが通常。 青チャートいわく day by day,(日ごとに) day after day,(来る日も来る日も) ※インスパ、青チャ arm in arm,(腕を組んで) young and old(老いも若きも) face to face(向かい合って) などがある。 インスパイアいわく、 from time to time (ときどき) step by step (一歩一歩) など。 その他、熟語的表現で無冠詞のものがある。 at noon (正午に)、by accident(偶然に), in fact (実際に) など、一部の慣用表現では冠詞がつかない。 インスパいわく by chance 「偶然に」、 by mistake 「誤って」m catch sight of ~ 「~を見つける」 at hand 「手元に」、 青チャートいわく take part in 「~に参加する」 take place 「起こす、催される」 ※インスパ、青チャート. インスパでは「起こる」 など。 ほか、新聞の見出しなどで、冠詞が省略されることがあるが(ロイヤル英文法)、参考書界隈ではロイヤル以外は紹介していない。
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高校英語の文法/否定 否定 never never は、頻度について「一度も~ない」(経験が「ない」)や「決して~ない」という意味。 「決して~ない」の意味の場合、never は決して単に not の強調語ではない。 never の「決して~ない」の意味は、現在の習慣として、比較的に長期の期間にわたって、確実に「ない」ことの意味である(青チャート、ジーニアス)。 なので、短期の間だけ「ない」場合には never は用いない(ジーニアス、青チャート)。 never は、助動詞ではない(don't などとは違う)。なので、never のあとの動詞は、主語や時制によって形が変わりうる(青チャート)。たとえば、もし主語が it や he や she など三単現なら、neverのうしろの動詞には三単現の s がついたまま(青チャート)。 助動詞ではないので、will never などのように助動詞と併用することも可能(エバーグリーン、ジーニアス)だし、will never は「(今後、)~することはないだろう」の意味を表す(ジーニアス)。 never は完了形have といっしょにhave never (または has never)という形で使われることもあり、have never は「一度も~したことがない」の意味で使われる(ジーニアス、桐原ファクト)。 never の語源と意味合いは、not ever である。 「 Nothing will ever 動詞 」の構文のように、一見すると never の単語が無くても、「否定の語句 + ever 」という構文なら、その意味合いは基本的には never と同じである場合もある(青チャートの無生物主語の単元)。 no どこの参考書にもある例文で(桐原、大修館)、 I have no money with me. 「お金の持ち合わせが少しもありません。」 no は強い否定を表す。 He is no genius. 「彼は天才なんかじゃない」(=馬鹿だ) He is no gentleman. 「彼は紳士なんかじゃない」 「no 形容詞」で、その逆の意味であることを表す。和訳の際は、単に「決して・・・でない」と訳せば十分(桐原、大修館)。 「no 名詞」は、「~がひとつもない」という意味も表す用法もある。 この場合、続く名詞が単数形か複数形かは、他の一般的な場合に単数であることの多い名詞ならnoに続く名詞も単数形に、同様に一般的に複数であることの多い名詞ならnoに続く名詞もあわせて複数形にする。 準否定語 not や no は、文を完全に否定する。 いっぽう、完全な否定ではなく、「ほとんどない」や「あまりない」といった程度や頻度が少ないことをあらわす語のことを「準否定語」という(青チャート、桐原ファクト)。 hardly や scarcely 、seldom や rarely, few や little などが準否定語である(インスパイア)。 なお、文中でのこれらの準否定語の位置は、never や not などと同じであり、具体的に言えば 一般動詞の前/ be動詞・助動詞の後ろ である(青チャート、桐原ファクト)。 - hardly, scarcely 程度が「ほとんど・・・ない」 hardly, scarcely は程度が「ほとんど・・・ない」ことを示す。 hardlyなどの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 scarcely は固い語である。 - seldom, rarely 頻度が低い「めったに・・・ない」 seldom, rarely は頻度が低いことを示し、和訳の際はよく「めったに・・・ない」と訳される。 seldom などの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 なお、hardly ever または scarcely ever で頻度の低さを示すこともできる(桐原、大修館)。 - few , little 数や量が「ほとんど~ない」 few や little は数や量が「ほとんど~ない」ことを示す。 few は数えられる名詞(可算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 たとえば 「few people ~」で、「~な人はほとんどいない」の意味。 little は数えられない名詞(不加算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 このように few や little は、やや否定の意味が弱まっている。 なお a few や a little のように不定冠詞 a がつくと、否定の意味がさらに弱まり、「少しはある」の意味になる。 しかし、まぎらわしいことに、 only a few および only a little は、「ほとんど~ない」の意味である(ロイヤル、大修館)。 なお、only a few および only a little は形容詞的に名詞を修飾するのに使うのが一般的である。参考書では特に言及されてないが、例文がそうである。 部分否定と全否定 not ・・・ all は「すべてが・・・というわけではない」のような意味なので、少しは・・・なものがある、という含みがある。また、このような否定の仕方を、部分否定という。 なお、not always 「いつも~なわけはない」も部分否定である。つまり、例の not always の場合なら時々は~な場合もある。 not ・・・ any は「ひとつも・・・なものはない」のような意味であり、またこのような否定のしかたを全否定という。 ただし、all ~notが部分否定か全否定かは文脈による(ロイヤル)。 また、nobody または no ~ も同様に全否定。 not ~ both は「両方とも~なわけではない」という部分否定。 not ~ neither は全否定。 部分否定を作る語は、次のようなものがある。一般に否定語とともに次の語が用いられると部分否定になる。 always(いつも), altogether(全く), every(すべての), necessarily(必ず), wholly , entirely(完全に), completely(完全に), これらの語の多くは、「全部」や「完全」などの意味をもつ副詞・形容詞であり、それらを否定することは「全部がそうである」という事を否定しているにすぎず、「一部にはそうでないものもありうる」という含みがある。 not necessarily は「必ずしも~というわけではない」の意味。 「not many 名詞」は、「あまり多くない」の意味。 「not much」は「あまり~でない」の意味。 「both ~ not 」および「 not ~ both 」は部分否定であり「両方とも・・・とは限らない」の意味だが、全否定と混同されやすにこともあり、使用は避けられている(インスパイア)。 all ~ not や every ~ not も同様、部分否定か全否定かは、形からは判別できない(インスパイア、青チャ)。ジーニアスは、all ~ not の語順は避けるべきだとしている。なお、always ~ not や every ~notなども同様(ジーニアス) ただし、次の慣用句 All that glitters is not gold. 「光るものは必ずしも金ならず.」(部分否定) は部分否定だと分かっている。 ここら辺の単元は紛らわしいので、入門的な参考書(エバーグリーンや桐原ファクトなど)では深入りしてない事項である。 なお、not all は部分否定である(エバーグリーン、ジーニアス)。いっぽう、 none は全否定である。 暗記としては「not all 部分否定」とでもnot all のほうだけをセットで覚えて、覚えてないほうは「使用が避けられているから、暗記対象から外れている」という事だけを覚えるのが良いだろう。 二重否定 たとえば It's not unusual ~ 「~するのは、めずらしいことではない」 のような表現を、二重否定という。 unusual は、usual(普通である)を否定した語である。 さらに not unusual とnotで否定しているので、つまり最終的には肯定の意味に近くなるが、しかし二重否定は肯定とまったく同じとは言えず、二重否定には若干のためらいや控えめな気持ちがある(大修館、ロイヤル)。 このためか、二重否定の文の和訳の際には、「めすらしいことではない」のように訳し分けるのが一般(ロイヤル、大修館)。 never ・・・ without ~ 「~なしで・・・することは決してない」 nobody や nothing や no one などは普通、二重否定にはしないので、つまり not や never とは併用しない(ロイヤル、桐原フォレスト、エバーグリーン)。 慣用表現 You cannot be too careful when ~ 「~する時はいくら気をつけても気をつけすぎることはない」 cannot help ~ing 「~せずにはいられない」 ここでの help は「~を避ける」の意味。 not ~ until ・・・ 「・・・して始めて~した」の意味。 no longer 「(今では)もはや~ではない」「(今では)もう~ではない」 not any longer でも言い換えできる。 no sooner ・・・ than ~ 「・・・するとすぐに~」 否定を使った慣用表現は多数あるので、紹介しきれない。市販の参考書でも、参考書によって紹介されている表現がマチマチである。 「do nothing but ~(動詞の原型)」は「~してばかりいる」「~ばかりしている」の意味。 このbutは「~を除いて」の意味であり、それを除くと何もしなくなるのだから、つまりそれしかしていないという意味になるので、上述のような意味になる。 否定語を使わない否定表現 不定詞を使った否定表現 「too ~ to ・・・」は「~すぎて・・・できない」の意味。直訳すると「・・・するには~すぎる」の意味。この直訳のほうを和訳として紹介している参考書もあるので、直訳でも間違いではない。 「be the last person to ~動詞の原型」は、「けっして~しない人である」の意味。主語がheならpersonの部分がmanのこともある。 He is the last man to ~. 「彼はけっして~する男ではない。」 fail to ~(不定詞)「しない」「できない」 は、本来なら起きるべき事が起こらなかった場合に使う。 その他の否定表現 far from ~ 「~から程遠い」=「けっして~とは言えない」、「少しも~ではない」の意味。 far from の後ろには名詞の場合のほかにも、形容詞が来る場合もある。 free from ~ 「~がない」 free from は、束縛するものがないという意味なので、意味的にやっかいなものが後ろに続き、嫌なものや心配や苦痛など(ジーニアス、フォレスト)が「~」の部分に来る。 たとえば、 be free from air pollution 「大気汚染がない」(ロイヤル、桐原フォレスト) 前置詞に fromの代わりにof が来ることもある。 free of ~ 「~がない」 anything but ~ 「けっして~ではない」 but は「~を除いて」「~以外」の意味。anything は「何でも」の意味。 「anything but ~」で直訳すれば「~以外は何でも」の意味だが、英語では「けっして~ではない」のように否定の強調として使われるので、和訳の際には「けっして~ではない」という風に訳す。 その他、前置詞 beyond ~ は「~を超えて」の意味であるが、文脈によっては否定の意味になる事もある。 たとえば、beyond my understanding 「私の理解を超えて」→「私には理解できない」、(ロイヤル英文法) beyond description 「描写を超えている」→(凄すぎたりして)「描写しようがない」 など。beyond の後ろに人がする行動の名詞などが来ると、「~をできる範囲を超えている」→「~できない」のような意味になる。
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高校英語の文法/接続詞 接続詞 語と語、句と句、節と節、など、文法上対等のものを結びつけるのが等位接続詞である。 いっぽう、従属節を主節と結びつけるのが従属接続詞であり(ジーニアス、フォレスト)、従位接続詞ともいう(ロイヤル)。 等位接続詞 概要 等位接続詞とは、and, or, but のように文法上等しいものを結びつける接続詞である。上記のほかにも、nor , so, for が等位接続詞である。 both A and B や either A or B なども便宜的にか等位接続詞として分類される。また、 not A but B や not only A but (also) B も等位接続詞として分類される。 便宜的に、not only A but also B と同じ意味をもつ as well as も、参考書では同じ単元で紹介される。 either は、「AかBかのどちらか」という意味である。 neither A nor B は、AもBも両方とも否定する表現であり、つまり「AとBのどちらも~ない」の意味である。 なお、neither A nor B が主語の場合、動詞はBの時制に一致させる(ジーニアス)。また、nor の直後の文章は肯定形である。 neither は基本、A,Bの2つしか使わない。3つ以上では使わないのが原則だが、しかし米英には原則に反して3つ以上で使う人もいるが(ロイヤル)、入試にはそこまで出ないだろう。また、neither で nor の代わりに原則に反して or を使う人もいるとのこと(ロイヤル)。入試では原則的な場合だけを考えればよいだろう。 「neither」とは not either の意味だろう、というのがロイヤル英文法の見解。 nor は、 neither のある文でなくても使われる場合がある(桐原、ロイヤル)。 否定語の not や don't などのあと、 「not A, nor B」または「don't A(動詞) nor B(動詞) 」で「AもBも無い」という意味で、neitherなしで nor が not などの否定語とともに使われる場合がある。 カンマが無い場合もある(ロイヤル英文法)。この場合でも、A nor B のあとに動詞が来る場合、その文は肯定形である。 「AもBもどちらも~ない」と否定の内容を並列させたい場合、andではなくnorを使う(桐原)。 さて、and には、命令文のあとに使われたい場合には、「そうすれば」の意味になるが、この意味の場合でも等位接続詞として分類される。 or には、「または」の意味のほかにも「すなわち」「言い換えれば」というある語を別の語で言い換える用法の意味もあるが(ジーニアスおよびエバーグリーンに「言い換えれば」アリ)、どちらの意味の場合でも等位接続詞として分類される。また、or には、命令文のあとに使われたい場合には、「さもなければ」の意味になるが、この意味の場合でも等位接続詞として分類される。 なお、「すなわち」「言い換えれば」の意味で or が接続詞として使われる場合、orの前にふつうはカンマ(,)が来る(ジーニアス、いいづなエバーグリーン)。 so/ for 接続詞としての so は、 <出来事→結果> の語順として「理由の文、so 結果の文」のように理由を前に、結果を後ろに書き、「・・・なので~」「・・・だから~」という意味になる。理由というほど明白な因果関係でなくても、比較的に関連性の高い2つの出来事において、「ある出来事, so 出来事の結果」という用法でも良い。 また、この場合の so の直前にはカンマ「 , 」を置くのが普通(ジーニアス、エバーグリーン)。 余談だが、接続詞としての so と for はそれぞれ、節と節だけ結びつける(フォレスト、エバーグリーン)。つまり、語と語、句と句、語と句などは結び付けない。 いっぽう、for は、 <結果←出来事> の語順として、「結果, for 理由の章」の構文で、堅い言い回しとして理由を説明する。口語で用いることはあまり無い(ジーニアス、エバーグリーン)。ほか、 for は、forの前述の出来事に対して、その理由を述べる接続詞である。 なので、普通は for の直前にはカンマ「 , 」が来る。 接続詞としての for は等位接続詞である。for は従属接続詞ではない等の理由で(ロイヤル)、because のように主節の前に出すことはできない。なお、もし For が文頭に置かれている場合、それは、その直前の文の理由を説明している(ロイヤル)。 and いつつかの名詞が and で結ばれている場合、基本的には全体としては複数形として判断する。 Tom, Bob and John are students of this school. しかし、下記のように例外がある。 Ham and eggs is my favorite breakfast. 「ハムアンドエッグは、私の好きな朝食だ」※ インスパイアより同じ例文 「Ham and eggs 」で1セットの食品なので、これは単数形として判定する。 同様に、 curry and rice (カレーライス) a cup of saucer (皿つきマグカップ) a knife and fork (ナイフとフォーク) ※インスパ、ジーニアス bread and butter (バターつきパン) body and mental (肉体と精神) ※インスパイア は1セットの名詞とみなすので、それぞで単数形として判定する(青チャ、インスパ)。 なお、a cup of saucer の 「a」は、a 「cup of saucer 」ということで、「cup of saucer 」のセットがひとつという意味(ジーニアス)。なので、後ろ側の saucer には a がつかない(ジーニアス)。 けっして、1つのカップといくつかの皿ではない。 a knife and fork も同様、 a「knife and fork」 という意味なので、「knife and fork」のセットが一つの意味(ジーニアス)。 まず、and の基本的な意味を確認しよう。 - 並列と順序 and の基本的な意味は並列「および」「と」の意味だが、もうひとつ、動作・時間の順序という意味もある。「先に起きたこと and その直後に起きたこと」のような語順で and を使うこともある。 動作や時間の順序のand は、「そして」や「~して、」の意味である(ジーニアス、ロイヤル)。 たとえば come and see は「先に来て、そして見る(見た)」の意味であり、つまり不定詞の結果用法 come to see と同じ意味である(フォレスト)。同様の表現として、 go and see もある。 - 因果関係 さらに、and が因果関係をあらわす場合もある(ジーニアス、ロイヤル)。普通、文章では、先に行ったり紹介した動作が、あとの動作の理由になるので、andで因果関係を表すのも自然であろう。 従属接続詞 名詞節を導く従属接続詞 whether と if 一方、名詞節を導くために使われる that およびwhether(~かどうか) と if(~かどうか) は従属接続詞である。that や whether を接続詞として解釈する考えもある。 ここでの名詞節を導く if は、「~かどうか」の意味での if である。「もし~ならば、」の if のことではない。また、「もし」の if との混同をさけるため、文頭では名詞節の if は使えない(ファクトブック)。この「~かどうか」の意味の if の性質について言い方を変えるなら、つまり if は動詞の目的語としてしか使えない(ジーニアス、青チャート、ほか多数)。 また、whether or not (~かどうか)という成句はある一方、ifにはない(インスパイア、青チャート)。 ほか、「whether to ~(動詞)」で「~すべきかどうか」というto不定詞の用法はあるが、ifには不定詞が続かない(インスパイア、青チャート)。 なお、 whether to go 「行くべきかどうか」という語が、参考書によくある典型例である。さらに、 whether to go or not (青チャート)「行くべきかどうか」や whether to go or stay (ブレイクスルー)「行くべきかとどまるべきか」のようになる場合もある。 さらに、助動詞 should を使って「べき」を強調する whether we should go or stay 「行くべきか残るべきか」という表現もある(青チャート)。 whether we should go or not のように、whether の直後ではなく分節の最後に or not をつける場合もある(ジーニアス)。 また、whether は前置詞の目的語になることがあるが、ifはならない(インスパイア)。 The question whether we should go or stay のように名詞と同格の節をみちびくこともある(インスパイア、青チャート、ジーニアス)。関係代名詞または前置詞のようにも見えるかもしれないが、しかしどの参考書も、関係詞や前置詞としてではなく「名詞と同格の節」という概念で説明している。一方、if には、名詞と同格の用法は無い。 if の本来の用法は「もしも~」であり、「~かどうか」の意味は派生的な意味にすぎない、と考えるのが良いだろう。 ほか、if は口語的、whether は文語的である(ジーニアス、青チャ-ト、エバグリ)。 depends on whether 、 など、動詞句 depends on とwhether との組み合わせが決まっている(青チャート)。depends on と if との組み合わせは禁止。なお depends on は、前置詞の目的語にwhether が来る例にもなっている。 wonder と ask は、if でも whether でも、どちらでも良い(ブレイクスルー、青チャート)。 ほか、 I wonder if ~ で「~がどうかなと思う」の意味。 that さて、従属接続詞の典型的な文で The fact is (that)・・・ 「事実は・・・ということだ。」 The trouble is (that)・・・ 「困ったことに・・・ということだ。」 The truth is (that)・・・ 「真実は・・・ということだ。」 The reason is (that)・・・ 「理由は・・・ということだ。」 などがある。 このように、名詞節を導く that は、「・・・ということだ。」の意味になる。 that は主語・補語・目的語になる(上記の the reason is that などの例文の場合は、that が補語になっている)。 ほか、 It is 形容詞 that ・・・ という形式主語の文章で 使われる that は接続詞でもある(ジーニアス、エバーグリーン )。 ほか、that節が know,say ,think, tell, hope など一般的な動詞の目的語になっている場合は、thatを省略することも多い(ブレイクスルー、インスパイア)。 ただし、形式目的語の that は省略できない(エバーグリーン)。形式目的語とは、 He made it clear that ~ . 「彼は~であることを明らかにした。」 のような it を仮の目的語とする文章のこと。 that 節は普通は前置詞の後ろに置かれることないが(ジーニアス)、例外的に in that(~という点で、~だから) と except that(~を除いて)という用法がある。 なお、 in that には意味の異なる「~という点で」という用法と、もうひとつ「~だから」「~であるか」という別の用法があることに注意(ジーニアス)。 参考書によっては in that は前置詞の項目に書いてある場合もある(青チャート)。 ほか、Now that で、「今や~だから」という表現ができる。口語ではよくthatが省略され、Now だけになる。 典型的な例文は Now (that) he is eighteen, he can vote. 「今や彼は18歳なのだから、彼は投票できる。」 である(ジーニアス、青チャート)。 このほか、紹介している参考書は少ないが(青チャート、インスパイア)、分詞構文の Seeing that ~「~であるから」「~だから」が接続詞的に用いられる用法もある(青チャート)。 I'm glad that you have come to meet us. 「あなたがお迎えにきてくれて、うれしく思います」(青チャート) のような例文がよくある。 I'm glad that ~ 「~できて、うれしいです」 のように、「感情を現す形容詞 + that 」の that も接続詞である(青チャート)。 afraid, disappointed, sad, sorry, glad, happy, angry, surprised , upset などがこのような形容詞である(青チャート、ジーニアス)。この場合の that は省略されることも多い。なお、この場合の感情に続く that 以下の内容は「理由」を表す(ジーニアス)。 We are sorry that you cannot come. 「あなたがこられないのは残念です。」(インスパイア) この場合の sorry は謝罪ではないので注意。 sure 「確信している」は日本語では感情とは言いづらいが、青チャートはこれを感情に含めている。ただし、ジーニアスはsureを不採用。 なお、sure は感情のように I'm sure that ~ と主語を人称代名詞とするのが普通。辞書ジーニアスを見たが、it を主語にする sure は見つからなかった。 いっぽう、certain は、 It is certain that ~ も I'm certain もともに許される。(フォレストに I'm certain あり。ブレイクスルーに it is certain) なお、確信ではなく「疑わしい」と思っている場合は、 It is doubtful whether (またはif)~ 「~かどうかは疑わしい」 のように、 接続詞は whether または if になる。この場合の whether や if も名詞節である。 I'm doubtful whether(if) のように人称代名詞で言ってもよい(インスパイア)。さらに、形容詞ではなく動詞 doubt で I doubt whether (if) ~ で言うことも可能(インスパイア)。 なお「確信」している場合、I'm sure は「確信している」の「信」じるの文字からも想像がつくように、動詞 believe で I believe that と細かなニュアンスを無視すれば言い換えもできる(インスパイア)。 ほか、確信していない場合は、つまり確信に not がつく場合は、that よりも whether や if のほうが好ましい(インスパイア、ブレイクスルー)。つまり I'm not sure whether(またはif) ~ のようになる(インスパイア、ブレイクスルー)。 なお、動詞で「信じていない」という場合、つまり don't believe の場合、 I didn't believe what ~ のように whether ではなく what になるのに注意(インスパイア)。 副詞節を導く従属接続詞 はじめに ほか、(たとえば平叙文のなかで)副詞節を導かれるために使われる when (~のとき、)や where (~の場所)が従属接続詞である。 before , after および since や until なども従属接続詞。 as soon as や once もこれに含める(ジーニアス、フォレスト)。 また、過去形で It was not ling before ~ なら「すぐに~できた」の意味であり、副詞 soon で言い換えできる(ジーニアス)。 after について、前後関係が文脈から明白な場合は、主節が過去形のときでも、本来ならafter節は(主節よりも前の出来事なので、after節が)過去完了形になるはずだが、実際には(主節が過去形であるのに合わせて)after節も過去形のままで済ませることも許される。もちろん、after節を過去完了形にしても良く、after節を過去完了ぬすると前後関係が強調される(ジーニアス、インスパイア)。 なお、beforeの場合は、過去のある出来事よりも前(before)の出来事について言及したい場合、場合によって完了形になるはずなのは主節のほうである(ジーニアス)。beforeの場合も、本来なら主節が過去完了になる場合でも、(before節が過去形であるのに合わせて)主節を過去形のままにすることが許される。 before節の中身は肯定形である。つまり、before節には否定形を置けない(エバグリ)。どうしてもbeforeを使って「忘れないうちに」といいたい場合、「忘れる前に」と脳内で和訳を言い換え、before you forget のように言い換える必要がある(ロイヤル、エバグリ)。 なお、since 「~してから」「~して以来」の場合、これは継続の起点を表す意味の「~してから」だが、主節は完了形であるのが原則である(ジーニアス、インスパイア)。sinceを用いて現在継続中の事を言う場合、主節は現在完了形、since節は過去形、というパターンが多い(青チャート)。 since の節に否定は用いない(インスパイア It's been ~ since の単元)。 「until ~」は、「~」の瞬間まで動作が継続しているときに使い、「~するまで(ずっと)」の意味である(エバーグリーンに「ずっと」)。 一方、継続しない場合で、その時までに動作が完了している場合には、untilではなくby the time 「~する(時)までに」を使う(ジーニアス、インスパイア)。 また、until と by the time の両方とも、内容が未来の話であっても従属節の時制は現在形になる(インスパイア)。 いっぽう、主節のほうは、until の主節は未来の内容でも現在時制だが、しかし by the time の主節は未来のほうなら未来表現(will)になるという違いがある(インスパイア)。 - ※ インスパイア以外は by the time の主節の時制に言及していない。 as well as が等位接続詞なのに as soon as が従属なのはアレだが、まあどの参考書でもそういう分類になっている。 as soon as は言い換えで、the moment や the instant や no sooner ・・・ than ~ などの言い換え表現がある。 なお、 no sooner ・・・ than ~ は参考書によっては、『接続詞』の単元ではなく『比較』の単元に節に書いてある(青チャートなど)。 青チャートいわく、immediately も「~するとすぐに」だが、イギリス英語とのこと。 no sooner ・・・ than ~ の言い回しは文頭にくる場合もあり、その際に倒置によって主語と助動詞の語順が逆になる。 つまり、助動詞に had を使っているなら、とりあえず主語をIとするなら(べつに he でも she でも構わない)、倒置の場合は No sooner had I + 過去分詞・・・ than ~ の語順である。 よく助動詞 had による過去完了形が使われるが(エバーグリーン、ジーニアス、青チャート)、しかし別に助動詞 did による単なる過去形でも構わない(インスパイア)。 構文の意味は微妙に違うが、 hardly(またはscarcely) ・・・ when(またはbefore) ~ 「~するやいなや」 も文頭にくる倒置をすれば主語と述語の動詞が逆転するので、よく no sooner の構文といっしょに参考書では紹介されることも多い(ジーニアス、青チャート)。 倒置する場合、上述の構文の語順は、とりあえず主語を he とするなら、 Hardly had he 過去分詞 when ・・・ の語順である。 なお、no longer 「もう~ではない」「もはや~ではない」は特に倒置は起きず、参考書でも特に倒置については言及はされていない(ジーニアス、エバーグリーン)。 よくある例文が、「宇宙旅行は(月への旅行は)もはや夢ではない」のような例文であり(インスパイア、青チャート)、たとえば Traveling into space is no longer a dream. 「宇宙への旅行はもはや夢ではない。」(インスパイア) A trip to the moon is no longer a dream. 「月への旅行はもはや単なる夢ではない。」(青チャート) また、no longer は現在時制とともに使われることが多い(青チャート)。上述の例文も現在時制になっていることに注目。 no longer ~ は、not ~ any longer でも言い換えでき、どの参考書でも言及されている。 Traveling into space is not a dream any longer. 「宇宙への旅行はもはや夢ではない。」(インスパイア) 青チャートはany longer の言い換えをしてないが、もし言い換えするなら、下記のようになるだろう。 A trip to the moon is not a dream any longer. 「月への旅行はもはや単なる夢ではない。」 (wikiオリジナル) I cannot stand ~ any longer. 「もうこれ以上、~に我慢できない。」(青チャート、ブレイクスルー) 入試にはめったに出ないが、じつは他にも言い換え表現として not ~ any more や not ~ anymore などもある(青チャート比較、ジーニアス接続詞)。 否定 参考書によっては「接続詞」の単元ではなく否定の単元に掛かれていることも多いが、no や not などの否定の語句をつかった接続詞的な内容の構文がある。 「cannot help ~ing 」と 「have no choice but to ~(to不定詞)」との使い分けが、重要である。 cannot help ~ing は「~せずにはいられない」「思わず~してしまう」の意味。cannot help ~ing は感情をおさえきれずに(青チャート)、思わず何かをしてしまう時に使う表現である。 Cannot help laughing 「笑わずにはいられない」 のように使う。「cannot help but 動詞の原型 」という言い方もある(ジーニアス、ブレイクスルー)。 cannot help but laugh のように使う。 一方、自分の感情に反して、外部的な事情などで「~せざるを得ない」場合には、 have no choice but to 動詞の原形(to不定詞) を使う(青チャート、ジーニアス)。 She had no choice to give up her job. 「彼女は仕事をやめざるを得なかった。」(青チャートを改変) のように使う(エバーグリーン、青チャート)。 なお、 I had no choice to quit my job. 「私は仕事をやめざるを得なかった。」(エバーグリーン) once once は「いったん~すると」の意味。once をどう分類するかが参考書ごとに違う。 ifやunlessなどと同様に「条件」として once を分類する参考書もあれば(ブレイクスルー、インスパイア)、 beforeやafterやsinceなどと同様の「起点」として once を分類する参考書もある(ジーニアス、フォレスト)。 なお、as soon as と once がなぜか同じ章節で紹介される参考書が多いが(ジーニアス、フォレスト、しかし意味が違う接続詞なので混同しないように。 if~ は内容が未来であっても現在形を使うが、as soon as ~ も後続の文では内容が未来であっても現在形を使うので、もしかしたらその理由でonceが「条件」として分類されているのかもしれない。 また、as soon as ~ と同様に、once ~ も後続の文の内容が未来であっても現在形を使う(ジーニアス)。そういう共通点からか、一緒に「起点」として紹介されるのかもしれない。 しかし、単に分類が同じだけであり、 once は as soon as とは意味がまったく違うので、混同しないように。 その他 理由や原因のbecause/since/as 時間の表現だけでなく、because や since (since には理由の意味もある)も従属接続詞。 because は従属接続詞なので、よって主節なしで 「Because ~ .」 といったBecause だけの節をつくることは原則、誤用だとみなされる(青チャート、ジーニアス)。 ただし例外的に、"Why ~?" といった Why を使った質問文に対して、解答で"Because ~" と because だけの節の文章が許されている(青チャート、ジーニアス)。 because は、相手がまだ知らない情報を理由としてあげるのに使われ、また主節のあとにbecause節が置かれるのが一般的である。 since は基本、相手が既知の話題についての理由を説明するときに使うので(ブレイクスルー、フォレスト、ジーニアス)、since節の時制は過去形になる事も多い(青チャート)。また、上記の事情のため、sinceのつくる副詞節は文頭や前方に置かれることも多いが(インスパイア、ジーニアス、ブレイクスルー)、しかしsinceを文頭に置かなくても正しい英語である(青チャート)。 as もssince と同様、相手がすでに知っている情報を理由としてあげる際に使われる(インスパイア、ジーニアス)。 ただし、asはいくつか意味があるので、あまり意味がはっきりしないので、はっきり説明したい場合にはasの使用が避けられる場合もある(インスパイア)。 理由の因果関係の強調の順序としては、 (因果関係が強い側)because > since > as (弱い側) の順に因果関係が強い(青、インスパ)。 このほか、forで理由を述べる用法があるが、文語調である(青チャート)。forについては紹介している参考書が少ないので省略。 その他 「so ~(形容詞) that ・・・(文)」 は従属接続詞。 so に等位接続詞の用法もあるが、しかし 「so 形容詞 that 文」で結びつけられている形容詞とthat後続の文は対等ではないので、従属接続詞のほうが適切であろう。 例文は著作権のため省略。 譲歩 「譲歩」の意味である、though や although が従属接続詞として分類されている(ジーニアス、フォレスト、ロイヤル)。 though よりも although のほうが堅い言い回しである(フォレスト、ロイヤル)。 なお、英文法の接続詞の単元でいう「譲歩」は、日本語の日常語の「譲歩」とは意味がやや違う。日常語の「譲歩」とは、自分と相手・他人の主張が対立したい場合に、相手の意見を聞き入れたり時には従うことに重点が置かれるのが日常語の譲歩である(広辞苑、三省堂新明解)。 しかし、この接続詞の英文法でいう「譲歩」とは、相手の主張の一部を事実ではあると認めた上で、それでも自分の主張に事実性などがあることを主張しているのが、英文法の接続詞の分野での「譲歩」である(桐原フォレスト)。 even if ~ も even though ~ も「たとえ ~ だとしても」という譲歩の意味があるが、下記のような違いがある。 even though ~ は、though の後に事実がきて、話し手は事実を知っている。 even if ~ は、if のあとに仮定がきて、その仮定が事実かどうかを話しては知らない。 これは基本的には、even がない場合の if節 や though節 における事実関係と同様である(インスパイア、桐原ファクト)。 日本語だと「たとえ~だとしても」と聞くと、なんとなく強い決心や確信や強めの命令などが続くように思われがちだが、しかし英語のeven if や even thoutgh は別にそういった決心や確信などではなくとも、使われる。たとえば青チャートに「彼は若かったが、優れた才能を持っていた。」と言う文章で Even though を用いている(青チャ)。桐原ファクトでは「彼はケガをしているにもかかわらず、プレーを続けた」という逆境を強調する文で even though を用いている。 もちろん、決心や確信や命令などを強調するために even if や even though が用いられることもよくあり、多くの参考書の例文がそうなっている(明言はしていないが)。※青チャ、インスパ これとは別に、 even if ~ で if のあとが仮定法過去になる場合もある(ジーニアス、インスパイア)。 基本的には、even if も even though も、evenは単に直後の語を強調しているだけである(インスパイア)。 if「もし~」 のあとが事実かどうかを話し手が知らないのもifの不普通の用法だし、though 「~にもかかわらず」も通常は話し手は事実を前提にしているからである。 単に even は if や though に譲歩の意味をつけたしたり、譲歩を強調したりしているだけにすぎない。 条件 条件を表すif および unless も従属接続詞。 unless は、「もし~でなければ」という意味であるが(ジーニアス、ロイヤル)、「~でない限り、」と訳される場合も多い(フォレスト、ロイヤル)。なお、unless の直後の文は否定形にはならず(フォレスト、ジーニアス)、つまり unless の直後の文は肯定形である。 unless は、「否定の条件」であるという性質に加えて、さらに基本的に「唯一の条件」という性質がある(青チャート)。「起きてほしくない事を避けるためには、unless 以降の内容を実行するしかない」という意味での唯一性の主張が unless にはある。 このことなどから、 unless ~の文を if ・・・ not ~ の文章に書き換えできる一方で(unless → if not は可能な場合が多い)、しかし if not → unless の書き換えが無理な場合が多い。 unless は「条件の文 unless 予想される結果の文」の語順。unless においてカンマなどは不要。 unless の語順は、「予想される結末 unless 結末が成り立たなくなる条件」である。なお、unlessの主節(※ 予想される結末のほう)には、willなどの未来表現を使うのが普通。一方、ifおよびunless では従属節の内容がたとえ未来における内容であっても従属節の時制は現在形にする(ジーニアス)。桐原やロイヤルでは従属節の時制はとくに解説では明記されていないが、例文の時制を見ればジーニアスと同様に桐原などでもunlessの従属節は現在形である。 否定の慣用表現 ※ 参考書によっては、「接続詞」の単元ではなく、「否定」の単元で下記が紹介されている場合もある(ジーニアス、エバーグリーン)。 not long before It will not long before ~ は「まもなく~するだろう」の意味である。直訳すれば「~するまでに長くはない」だが(青チャート)、英語では「まもなく~するだろう」の意味である。 not until It is not until ~ that ・・・ で「~して初めて・・・する」の意味である。直訳すれば「・・・まで~しない」だが(青チャート、インスパイア)、実際にはそこまで否定のニュアンスは無いし(とくに出典なし)、また過去形でも It was not until ~ that ・・・ として使われる(エバーグリーン、ジーニアス)。 典型的な文章は「病気になって初めて健康のありがたさが分かる」だが(ジーニアス、インスパイア)、参考書によって英文が微妙に違う。 ジーニアスでは It was not until I became ill that I realized the value of health. である。 インスパイアは、 It is not until we fail ill that we appreciate the value of good health. である。 上記のように、同じような和訳の言い回しでも、文献により英文が微妙に違うので、暗記の必要はない。もし暗記させる教育者がいれば教員としての見識不足を疑われるだけである。 in case ~ 「in case ~(文)」は「~の場合にそなえて」の意味であり、従属接続詞として分類され、この場合は普通は主節のあとに in case ~ が置かれる(フォレレスト、ジーニアス)。 in case ~ の典型的な例文は、 Take an umbrella with you in case it rains. 「雨が降るといけないから、かさを持っていきなさい。」 ※ 数研 青チャート、ジーニアス take の代わりに bring の場合もある。また、この傘をもっていく例文の場合なら with you は省略可能。上記例文の出典の参考書にも with you をつけてないものもある。 Bring an umbrella in case it rains. 「雨が降るといけないから、かさを持っていきなさい。」 ※ ファクトブック 命令形ではなく平叙文の場合もあり、下記のような例文もある。 I'll take an umbrella with me in case it rains. 「雨が降るといけないから、かさを持っていこう。」 ※ フォレスト with me は省略可能。自分で持っていくので with me になる(青チャート)。 「in case ~ 」の副詞節に it should rain. のように should が使われる場合もあるが、これは可能性が低いと話し手・書き手が思っている意味である(青チャート、ブレイクスルー)。 なお、in case は上記の「~するといけないから」「~しないように」の用法の他にも、case 「条件」の文字通り「~の条件で」の意味で in case を使う場合もアメリカ英語では見られ(ジーニアス、フォレスト)、この場合は if でも言い換えできる。 言い換え表現で、「~するといけないから」「~しないように」用法の in case と同じ意味は「for fear that A ~」や「lest A (should) ~」でも言える。 for fear も lest も、ともに固い表現である(ジーニアス)。ジーニアス以外の参考書の多くは、for fear が固い表現であることを取り上げていない。 for fear ~でも lest ~でも、つづく「~」の部分には not をつけない。日本語に引きづられて not をつけないように注意。 英和辞典を見れば fear は「恐れ」「不安」などの意味が書いてあることからも想像がつくように、for fear のあとには、おそれている内容を書くので、つまり、実現してほしくないことを肯定形で書くことになるのも当然であろう。 さて、lest について、ジーニアスいわく、 lest は固い言い方なだけであり、頻度自体は for fear よりも lest のほうが高いと、ジーニアスは主張している。 lest のshould が省略される場合もある。なお、shouldが省略された場合には、続く動詞には原形が来る。lest のshould 省略時の動詞の原形をつかうことを仮定法現在として解釈する流儀もある(青チャート)。 ほか、文法教育的にはあまり注目されないが、 so that ~ 「~のために」と、否定 not を組み合わせて、たとえば 「so that A won't ~」により「~しないように」という言い換えも可能である。won't の変わりに can't の場合もある(ブレイクスルー)。 その他 その他、as far as や as long as など範囲を表す表現が、カンマなどを補われて、従属接続詞として分類される。 「as far as I know,」 で「私の知る限りでは、」の意味。as far as の代わりに so far as とすることもある(ロイヤル)。 よくある典型文は As far as I know, he is ~. 「私の知るかぎり、彼は~な人だ」 である(フォレスト、インスパイア)。そのほか、 As far as I'm concerned, ~ 「私に関する限り、」 という表現が、たとえば「私に関する限り、それで結構です。」(青チャート)とか「私に関する限り、不満はありません。」(ジーニアス)のような文章で使われる。 このように as ・・・ as は範囲を表すことがある。 このほか、別の用法で as far as で、自分の意見を言う用法もある(ブレイクスルー、ジーニアス)。たとえばブレイクスルーいわく、「私の意見では、冷凍食品はおいしくない」という単なる持論にも as far as を使っている例文がある。 as long as には用法が2種類あり、ひとつの用法は「~する間」という時間的な範囲を表す用法であり、もうひとつの用法は最低限の条件を表し(フォレスト)、「~しさえすれば」などと訳される(ジーニアス、フォレスト)。as long as の代わりに so long as とすることもある(ジーニアス、フォレスト)。「~する限りは」と訳される場合もある(ロイヤル)。 慣用的なよくある言い回しとして、「as long as I live 」で「私が生きている限り」の意味(ロイヤル、ジーニアス)。 I will never forget your kindness as long as I live. 「私が生きているかぎり、あなたのご親切を忘れません。」 のような文章がよく参考書にある(ジーニアス、青チャート)。 なお、べつにneverを使わずとも、 I won't forget your kindness as long as I live. 「私が生きているかぎり、あなたのご親切を忘れません。」 のような文章もよくある(インスパイア)。 「~さえすれば」の as long as は、言い換えとして、if only または only if で言い換えすることもできる。 目的を表す「 so that ~」も接続詞である。in order that も同様、目的を表す接続詞である。なお、so that ~ について、口語では thatが省略されることも多く、つまり so だけで目的の接続詞になることもある(フォレスト、ジーニアス)。 so that 節の中では、can や will や may をつかうのが普通(フォレスト、ジーニアス)。 なお、「so ~(形容詞など) that ・・・」は程度をあらわす接続詞である。 in order that ~ は堅い表現。in order that 節の中では、can や will や may をつかうのが普通(フォレスト、ジーニアス)。 as も接続詞の用法がある(ロイヤル、フォレスト)。 その他にも、さまざまな接続詞がある suppose や supposed や providing や provided (どれも「もし~ならば」の意味)などを接続詞として分類することもある(フォレスト)。
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高等学校世界史A 高等学校世界史Aとは、世界史学習によって、現代世界の成り立ちを探る科目である。そのため、近代・現代史に自然と比重が置かれるわけだが、教科書そのものには近代以前の世界史も簡略に記述されていて、大学入試センター試験においても、前近代史も出題されている。 近代・現代 ヨーロッパ・アメリカの諸革命 ※ ドイツの近代化については、 を参照してください。 - 産業革命 18世紀の後半にイギリスで始まった。農業革命がおき、労働者が都市に流出し、工業都市が出現した。それと同時に蒸気機関が改良された。労働問題や社会問題が噴出するようになり、労働組合運動が起こり社会主義思想が芽生えた。1830年代にはフランス、19世紀中ごろにはドイツやアメリカで、1890年代にはロシアや日本にも波及した。 - アメリカ独立革命 13の植民地が建てられた。植民地民は、植民地議会を中心としたボストン茶会事件が起こると、イギリスとの対立が鮮明になった。トマス・ジェファーソンが独立宣言を起草し、1783年にパリ条約でアメリカ合衆国の独立は承認された。合衆国憲法が制定され、ジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれた。 - フランス革命 度かさなる戦争や宮廷の贅沢な暮らしでフランスの財政は困窮していた。当時のフランスは中世の封建的な身分制度を依然として引きずっていて、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれていた。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は免税特権や領事裁判権などの様々な特権が認められていた。1789年、ルイ16世は財源確保のためにこれらの特権階級への課税を提案した。これに反発した貴族は三部会を開くよう要求した。三部会は典型的な身分制議会で、第一身分、第二身分、第三身分(平民)の代表がそれぞれ召集されていたもので、ルイ13世の治世に停止されて以来、長い間開かれてなかった。この三部会で特権身分と第三身分の間で対立がおき、第三身分と第三身分寄りの特権身分の議員が、国民議会を組織し憲法制定まで解散しないことを誓い合った(テニスコートの誓い)。国民議会を国王も表向きは認めていたが、裏で武力弾圧しようという動きがあるのではないかという憶測が民衆の中で生まれ、特権階級への課税を主張していた財務統監のネッケルが罷免されたことをきっかけに、パリ民衆が7月14日にバスティーユ監獄を襲った。この事件は全国的な農民の暴動へつながり、これを終息しようとした国民議会が封建的特権の無償廃止、人権宣言を発表した。その後、国民議会で諸改革が進められていく中、国王一家がオーストリアへの亡命を図ろうとしたが失敗した。(ヴァレンヌ逃亡事件)91年9月、国民議会は当初の目的である憲法制定を達成したので解散し、新たに憲法に従い、立法議会が召集された。議会では立憲王政を目指すフイヤン派と共和政を目指すジロンド派が対立したが、オーストリアやプロイセンなどの反革命勢力に対する危機感が高まるにつれ、ジロンド派が優勢になり、92年春に政権を握り、オーストリアに宣戦した。国民公会になった。ジャコバン派のロベスピエールが恐怖政治を敷いた。イギリスの宰相小ピットを中心に第1回対仏大同盟がされた。公安委員会が経済統制をおこなうと反乱がおき、テルミドールのクーデタでロベスピエールは処刑され総裁政府になった。ナポレオン・ボナパルトはブリュメール18日のクーデタで統領政府を樹立させた。その後第一帝政を敷きナポレオン法典を発布した。さらにライン同盟の保護者となった。大陸封鎖令を出した後は、諸国民戦争や ワーテルローの戦い がおこなわれた。 - ラテンアメリカの独立 モンロー宣言は新旧大陸間の相互不干渉をうたうとともにパン=アメリカ主義を匂わせるものであった。クリオーリョのシモン・ボリバルなどの指導で独立が達成されていった。 - 自由主義と国民主義の進展 ウィーン会議が開かれ、正統主義のもとウィーン体制が敷かれた。ドイツではブルシェンシャフト(全ドイツ学生組合)が結成されたが、オーストリアの外相メッテルニヒによって解散させられた。イタリアではマッツィーニも参加した秘密結社カルボナリ(炭焼き党)がブルボン家に抵抗した。スペインではスペイン立憲革命が起こった。オスマン帝国からはギリシャが英仏露の支援を受けて独立した。ロシアでは青年将校によるデカブリストの乱が起こったが鎮圧された。そんな中、ウィーン体制によってブルボン朝が復活していたフランスでは七月革命が起き、自由主義者のルイ・フィリップが王位につき、七月王政が成立した。イギリスではこの影響を受け第一次選挙法改正がおこなわれた。選挙権を得られなかった労働者はチャーチスト運動を起こした。ドイツではドイツ関税同盟が締結された。ムハンマド・アリーはエジプト事件を起こして東方問題となった。1848年の春は諸国民の春といわれている。フランスでは二月革命がおき、ルイ・ナポレオンが皇帝ナポレオン3世となり第二帝政となった。ベルリンやウィーンでも三月革命が起き、メッテルニヒは追放された。グラッドストンとディズレーリは相次いで自由主義的改革をおこなった。ロシアは英仏とクリミア戦争をおこなった。そこではナイティンゲールが活躍している。クリミア戦争に敗れたロシアではアレクサンドル2世が農奴解放令を出し、知識人の中からは農民を教化するナロードニキが現れた。サルディーニャではヴィットリオ・エマヌエーレ2世のもと宰相カブールがイタリア統一戦争を起こした。両シチリア王国を開放したガリバルディはサルディーニャ国王に領土を献上し、イタリア王国になった。ユンカー出身のビスマルクは北ドイツ連邦を作ると、普仏戦争を仕掛け圧勝しドイツ帝国を築いた。普仏戦争で占領されたフランスでは、一時パリ・コミューンが形成されて、第三共和制となった。ドイツ帝国は南独のカトリック勢力と対立して文化闘争になり、社会主義者鎮圧法を制定した。そのころ露土戦争がおき、ベルリン会議がビスマルクのもとで開かれた。 - 拡大する貿易活動 イギリスは原綿、羊毛、穀類、肉類、茶、コーヒーなどを輸入し、世界の工場となって鉄製品や綿製品などを輸出した。こうしてイギリスを中心とする世界の一体化が急速に進んだ。 アジア諸国の変貌と日本 - ヨーロッパの進出期におけるアジア諸国の状況 オスマン帝国ではタンジマートがなされた。ムハンマド・アリーがエジプト太守になった。その後スエズ運河が開通し、アラービー・パシャが支配した。スーダンはムハンマド・アフマトが支配した。イランではカージャール朝が興ったが、ロシアとイギリスに南北を2分された。ムガル帝国はイギリスによってインド統治法が施行されると、インド独立戦争が起こった。セポイが活躍したが、イギリスの植民地であるインド帝国になった。イギリスはさらにイギリス・ビルマ戦争を仕掛け、シンガポールを海峡植民地にした。フランスは清の支配下であったベトナムを支援し阮朝を建てた。清仏戦争に勝つとフランス領インドシナ連邦となって拡大した。インドネシアはオランダ領東インド植民地となった。清は林則徐(りん そくじょ)がアヘン没収をおこなうとイギリスがアヘン戦争を起こし南京条約(ナンキンじょうやく)を締結させられた。洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)が太平天国(たいへいてんごく)を起こした混乱に乗じ第2次アヘン戦争がおこった。英仏と郷勇は太平天国を鎮めた。清は同治の中興をもたらしたが、義和団(ぎわだん)が山東省で蜂起した。 - 植民地化や従属化の過程での抵抗と挫折 インド国民会議が開かれると急進派のティラクが台頭した。スワデーシー、スワラージ、民族教育が掲げられた。オスマン帝国ではミドハト・パシャが憲法を作ったが露土戦争によってその効力が停止させられた。しかし青年トルコ人運動によって復活した。イランでは不買運動が起こり、立憲体制が成立したが、英露によって崩壊させられた。孫文(そんぶん)は三民主義(さんみんしゅぎ)を唱え中国同盟会を結成した。清でも立憲君主制や責任内閣制などの新政がおこなわれたが、財源を確保するために民間鉄道が国有化されると辛亥革命(しんがいかくめい)が起こった。孫文(そんぶん)を臨時大総統(りんじ だいそうとう)とする中華民国(ちゅうかみんこく)が成立すると、清の首相になった袁世凱(えんせいがい)は宣統帝を退位させ自ら中華民国の臨時大総統の地位についた。袁は国民党を弾圧した。袁がなくなると各地で軍閥が割拠した。 - 伝統文化の変容 イスラーム教の思想家であるアフガーニーが西欧化に反対し大きな影響を与えた。インドの詩人ダゴールはインドとヨーロッパの融合を試みた。中国では、中体西用論にもとづき西洋式の軍備を求める洋務運動(ようむ うんどう)がおこなわれ同治の中興をもたらしたが、軍閥のもとにもなった。立憲君主制を求める変法運動もおこなわれたが西太后を中心とする保守派のクーデターに遭い、改革は頓挫した。文学界からも新文化運動、白話運動が展開された。朝鮮ではハングルが考案され朝鮮実学が生まれた。また、キリスト教の西学(せいがく)に対する東学(とうがく)が完成した。 - 日本の対応 日本は日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)で開国し、不平等条約の日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)を受け入れた。明治維新後、殖産興業や富国強兵、四民平等、地租改正、徴兵令をおこない天皇制国家を確立していった。日朝間の不平等条約である日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が締結されると民衆は甲午農民戦争(こうご のうみんせんそう)を起こした。日本は日清戦争(にっしんせんそう)を起こし、勝利したが三国干渉(さんごくかんしょう)を受けた。日本は日英同盟(にちえいどうめい)を成立させると日露戦争(にちろせんそう)に踏み切った。その後、ポーツマス条約が締結された。 現代の世界と日本 急変する人類社会 - 輸送革命 飛行機、自動車などの交通手段の変革がおこった。 - マスメディアの発達 ラジオ、テレビなどが普及した。 - 企業や国家の巨大化 侵略した国々の企業では独占の傾向が強まった。侵略された国々ではプランテーションが増え、モノカルチャー経済になった。 - 社会の大衆化と政治や文化の変容 映画や舞台演劇が盛んになった。音楽はジャズやロックが誕生した。 - 公教育の普及と国民統合 ヴィクトリア女王下のイギリスでは教育法が成立し国民教育がおこなわれた。 二つの世界戦争と平和 - 第一次世界大戦 列強の対立はアフリカ大陸、太平洋諸島、中国大陸に及んだ。合衆国はパン=アメリカ会議を開いてラテンアメリカへの影響力を強めた。米西戦争を起こし、中国に対して門戸開放宣言をおこなった。英仏はファショダ事件やブール戦争を引き起こした。ビスマルクが失脚した後のドイツでは、ヴィルヘルム2世が親政を敷き、世界政策に乗り出した。これにより国際的緊張が急速に高まった。オスマン帝国で起こった青年トルコ革命に乗じ、ゲルマン系のオーストリアはスラブ系のボスニアとヘルツェゴビナを併合した。スラブ系のセルビアはこれをよく思わなかった。二度にわたるバルカン戦争がおき、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」といわれた。サライェヴォ事件が起こるとオーストリアがセルビアに先制し第一次世界大戦が勃発した。ロシアでは膨張政策に反対し第一次ロシア革命が起こった。大戦中に三月革命が起きてロマノフ朝は倒れ、ケレンスキーが首相になった。その後ボリシェヴィキの指導者レーニンが十月革命を起こしソヴィエト政権が樹立された。トロツキーが外相になった。チェカを設け、戦時共産主義となった。そしてソヴィエト社会主義共和国連邦となり新経済政策をおこなった。戦争が終結すると国際協調と民族自決を原則とするベルサイユ体制が敷かれた。これに対して東アジア、太平洋の協調体制のことをワシントン体制という。ワイマール憲法が制定され、欧州の安全保障を定めるロカルノ条約が制定され、パリ不戦条約が制定された。朝鮮では三・一運動がおこなわれた。中国では二十一か条要求が承認され、五・四運動に発展した。また、ロシア革命の影響を受けて、中国共産党が成立した。国民党では孫文に代わった蒋介石(しょうかいせき)が北伐をおこなった。オスマン帝国に代わりムスタファ・ケマル・パシャがトルコ共和国を樹立した。イランではカージャール朝に代わりレザー・ハーンがパフレビー朝を建てた。アラビア半島ではイブン・サウードがサウジアラビア王国を建国した。国民会議派ではマハトマ・ガンディーは非暴力抵抗運動をおこない、議長に選出されたネルーはインド統治法を制定させた。ムッソリーニはファシスタ党を率いた。 - 第二次世界大戦 繁栄の時代を築き上げたアメリカでは世界恐慌(せかいきょうこう)が起こった。アメリカはニューディール(新規まき直し)を採用した。(植民地を)「持てる国」である英仏はブロック経済をおこない、「持たざる国」の日独伊を締め出した。しかし英仏でさえもファシズム運動は起こっている。ドイツでは共産党の躍進を恐れた中産階級がヒトラー率いるナチスを支持した。スターリンは五か年計画をおこない、スターリン憲法を制定した。日本は満州事変を仕掛け満州国を成立させた。中国共産党は長征をおこなった。フランスでは人民政府が倒された。スペインではフランコが反乱を起こしスペイン内戦となった。ミュンヘン会談でチェコスロバキアのスデーデン地方の割譲が認められるとヒトラーは勢いに乗った。一時的に独ソ不可侵条約が締結され世界を驚かせた。ヒトラーの目的は東方の広大な領土を支配することであり、スターリンとは犬猿の仲である。イギリスの首相になったチャーチルは果敢な決断をした。ド・ゴールは自由フランス政府をロンドンに立てた。日独伊三国同盟が締結された。ソビエトは日ソ中立条約を締結しドイツとの戦いに備えた。大西洋憲章が制定された。日本は太平洋戦争(たいへいようせんそう)を仕掛けた。第二戦線が構築された。ドイツではベルリンが陥落し、日本には原子爆弾が投下されポツダム宣言を受諾した。大戦後には国際連合(こくさいれんごう)が成立した。 米ソ冷戦とアジア・アフリカ諸国 スカルノはインドネシアを独立させた。ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国を成立させた。植民地維持を目指すフランスはインドシナ戦争を仕掛けた。 南アジアはヒンドゥー教徒のインド連邦とイスラーム教徒のパキスタンに分裂した。 合衆国はトルーマン・ドクトリン、マーシャル・プランを発表し、ヨーロッパ経済復興会議を開いた。 ソ連はそれに対してコメコンを開いた。また、北大西洋条約機構に対して、ワルシャワ条約機構を結成した。さらにコミンフォルムを作って世界革命を画策した。 ラテンアメリカは米州機構に加盟した。 パレスティナでは国連決議に基き、ユダヤ教徒によるイスラエル共和国が成立した。 朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国に分裂した。 中国大陸では対日抗戦に国民党・共産党が勝利した後、国共内戦が再燃し、農村地帯を支配した共産党が勝利し、毛沢東(もうたくとう)によって中華人民共和国が成立した。ここに100年にわたる中国革命が終了した。 ドイツは、西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国に分裂した。 朝鮮戦争が起きた。38度線を境に休戦状態である。 日本は日米安全保障条約とサンフランシスコ平和条約を同時に承認した。 合衆国の巻き返し政策に対してコロンボで平和五原則が結ばれた。翌年ではバンドンで平和十原則となってバンドン精神と呼ばれている。チャーチルがジュネーブ巨頭会談を開いたり、フルシチョフがスターリン批判の演説をおこなったり、緩和の動きも見られる。 共和制になったエジプトのナセル首相は運河を国有化すると、英仏イスラエルと対立した。スエズ動乱または第二次中東戦争と呼ばれる。ガーナは最初の黒人共和国となった。エンクルマ大統領はアフリカ独立の父と呼ばれている。1960年は17ものアフリカ諸国が独立したのでアフリカの年といわれる。 カストロは社会主義を目指すキューバ革命を指導し、ソ連がミサイルの支援をしていることが分かるとキューバ危機になった。 アフリカ統一機構が結成された。アラブではパレスティナ解放機構が結成された。 アメリカはベトナム戦争に介入し、北爆をおこなった。 チェコスロバキアの民主化を求めるプラハの春が起こったがWTO軍によって鎮圧され、チェコ事件となった。西ドイツのブラントは東方外交を展開し、緊張緩和に努めた。 地球社会への歩みと日本 そして東西ドイツ基本条約が結ばれた。東パキスタンはバングラデシュとなった。アルゼンチン、メキシコ、ブラジル、ギリシャ、ポルトガル、ユーゴスラビア、シンガポール、台湾、韓国、香港などをNIESという。アラブ石油輸出国機構が結成され、第四次中東戦争の際に、石油危機を引き起こした。ベトナム戦争に敗れたアメリカでは科学技術に対する疑問がおこり、消費者問題、環境問題、人種問題、女性の権利の問題などが噴出した。シーア派のホメイニが指導するイラン・イスラーム革命が起き親米王政が倒された。日米間では貿易摩擦が深刻化した。韓国では民主化を求める光州事件がおきた。ポーランドでは連帯が結成された。ゴルバチョフがグラスノスチとペレストロイカをおこなうと、ソ連の実態が大衆の批判にさらされるようになった。 地域紛争と国際社会 中国では民主化を求める天安門事件が起こった。マルタ会談で冷戦の終結が確認された。東西ドイツは統一され、ソ連は崩壊し独立国家共同体になった。イラクがクウェート侵攻をおこなうと、アメリカが反撃し湾岸戦争(わんがんせんそう)となった。国連暫定カンボジア行政機構が結成されると、日本は国連平和維持活動に参加した。ヨーロッパ共同体が欧州連合となった。 科学技術と現代文明 アインシュタインは相対性理論を提唱し、ハイゼンベルクは量子力学を確立し、ラザフォードなどが活躍した。トランジスタや半導体が発明され、情報工学や情報科学が発達した。人工衛星が作られ宇宙科学が発達した。化石燃料から代替エネルギーに変わろうとしているがうまくいってはいない。 近代以前 諸地域世界と交流圏 東アジア世界 風土はステップ地帯、畑作地帯、穀倉地帯である。 政治の中心地はほとんどが黄河(こうが)流域であった。 民族は漢民族(かんみんぞく)が大多数だが、モンゴル、ウイグル、東南アジア系の人口も多い。殷(いん)の甲骨文字(こうこつもじ)から漢字が発展した。 漢字の特等は表意文字(ひょういもじ)が特徴である。 思想は孔子(こうし)の儒家(じゅか)思想が漢の武帝の時代に儒教(じゅきょう)となり、支配者層で信奉された。これは徳治主義や中華思想(ちゅうかしそう)となって、冊封体制(さくほうたいせい)の土台となった。 冊封体制(さくほうたいせい)とは、周辺国の朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)をする朝貢国に代わりに官爵を与える制度のことである。儒教は宋(そう)の科挙(かきょ)や、南宋(なんそう)の朱子学(しゅしがく)を生み出し日本にも影響を与えた。 南アジア世界 北部のインダス川やガンジス川の流域で、統一王朝が築かれることが多かった。 民族はアーリア人とドラヴィダ人が多い。中央アジアで遊牧を営んでいたアーリア人は前2000年ごろから移動を開始し、ヴェーダを作った。鉄器が発明され、生産があがるとヴァルナ制度が取り入れられた。 それに疑問を持ったガウタマ・シッダールタは仏教(ぶっきょう)を開いた。ヒンドゥー教はヴェーダと民間信仰が結びついたもので、ヴァルナ制度にジャーティが加わったカースト制に深く関係している。 インドでイスラーム教が盛んになったのは、16世紀のイスラーム神秘主義教団以降である。 イスラーム世界 風土は地中海気候および乾燥気候である。 民族はアラブ系、トルコ系、ベルベル系、モンゴル系などである。ナイル川、ティグリス川、ユーフラテス川の流域では灌漑農耕が起こった。 宗教や文字が多く生まれたところでもある。ムハンマドはイスラーム教を成立した。 ムハンマドが630年に死去すると、彼の築いたウンマ(信徒の共同体)を誰が継承するのかが問題となった。預言者ムハンマドには男児がいなかった。ゆえに初期イスラーム共同体の継承者はムスリムの中から合議で選ばれた。こうして選ばれた彼の後継者のことをカリフ(ハリーファ)といった。最初のカリフはムハンマドの旧来の友人のアブー・バクルで、彼は早くも分裂の危機にさらされた共同体の維持のための戦いを余儀なくされた。彼の後はウマル、ウスマーン、アリーと、信徒の合議により選出されたカリフ(正統カリフ)が続いた。この時代にイスラーム共同体はジハード(聖戦)を通じ、ビザンツ帝国やササン朝ペルシャの領域に対外進出をしていった。4代目カリフアリーが暗殺されるなどのイスラーム教徒の内紛を鎮めたムアーウィアはウマイヤ朝を開きカリフを世襲化した。ウマイヤ朝の最大領域は、東は中央アジアやパキスタンから西はモロッコ、イベリア半島にまで及んだ。 ヨーロッパ世界 ウラル山脈以西をヨーロッパという。 アルプス以南の地中海世界、以北の西ヨーロッパ世界、カルパチア山脈周辺以東の東ヨーロッパ世界の3つに分けることができる。 西ヨーロッパには最初ケルト系民族が住んでいたが、紀元前後にラテン系、4世紀頃にゲルマン系民族が侵入した。キリスト教はイエスが成立し、使徒のペテロやパウロによって広められた。 4世紀のローマ帝国によって公認され、国教となった。 ギリシアではアテネやスパルタなどの都市国家が栄えた。 ローマは前2世紀にギリシアを攻め、前1世紀に地中海世界を統一した。 ユーラシアの交流圏 海域世界の成長とユーラシア アラブ系のムスリム商人は、ダウと呼ばれる木造帆船で紅海、アラビア海、インド洋を交易した。中国からは、絹、陶磁器、銀、茶など、東南アジアからは、香辛料、象牙、珊瑚等が輸入されている。中国商人は、ジャンクという木造帆船で東シナ海を交易した。広州、泉州、明州などの都市には市舶司が置かれた。 遊牧社会の膨張とユーラシア 13世紀はタタールの平和(パックス=モンゴリカ)と呼ばれている。騎馬遊牧民による農耕地域の確保のため、チンギス・ハーンは千戸制を敷き、西夏とホラズムを滅ぼした。その子孫であるオゴタイ・ハーンは金を討ち、バトゥはロシアに遠征し、フラグはアッバース朝を滅ぼし、イル・ハン国を建て、フビライは元朝を開き南宋を滅ぼした。 地中海海域とユーラシア 十字軍(じゅうじぐん)の輸送により、ジェノヴァやヴェネツィアを拠点とするイタリア商人の東方貿易(レヴァント貿易)が盛んになった。黒海にはキプチャク・ハン国とイル・ハン国との航路を開いた。エジプト商人との交易では、ユーラシアから香料、染料、宝石、絹織物を輸入し、アフリカからは金が輸入されるようになった。 東アジア海域とユーラシア 元(げん)の時代に、首都の大都、黄海、杭州が大運河で結ばれた。マルコ・ポーロもこの航路を利用していた。日本は日宋貿易、日元貿易の後、倭寇(わこう)が氾濫したが、室町時代の勘合貿易(かんごうぼうえき)によって鎮められた。琉球王国は15世紀の初めに中山王(ちゅうざんおう)によって統一され、明(みん)に朝貢した。また、日本、朝鮮、東南アジアとの中継貿易も行われていた。 一体化する世界 大航海時代の世界 16世紀の象徴的な出来事は、スペインのマゼランとその部下による世界周航である。そもそもレコンキスタ(国土回復運動)の過程で国内的統一を成し遂げたポルトガルとスペインはキリスト教的宗教熱によって、他のヨーロッパ諸国に先駆けて対外進出を進めた。コロンブスがレコンキスタの終結した1492年に西インド諸島に到達したことがそれをよく示している。コロンブスは西回り航路によりインド到達を目指したが、これはトスカネリの地球球体説が理論的な根拠となっている。このように当時の科学の進展もヨーロッパの進出の追い風となったことも見逃してはならない。コロンブスが到達した地域を「新大陸」だとしたのは皮肉なことにコロンブスではなくアメリゴ・ヴェスプッチである。そして彼の名をとってアメリカ大陸となったことは多くの人が知っていよう。スペインはこうして新大陸を中心に勢力を伸ばしていく。一方ポルトガルはアフリカ大陸南端喜望峰を迂回する東回り航路によってインド進出を果たし(ヴァスコ・ダ・ガマ)、アジア地域を勢力の中心とした。船は陸上輸送よりコスト的に遥かに優位なので貿易が拡大した。アメリカに毛織物を輸出したスペインは、中南米から銀を大量輸入し銀本位体制を揺るがした。その銀は東インドに輸出され、香料と交換された。アメリカ大陸からもたらされたトマト、ジャガイモ、サツマイモ、とうもろこし、タバコは、ヨーロッパ、アジア、そしてアフリカの生活に重大な変化を起こした。 アジアの諸帝国とヨーロッパの主権国家体制 - アジア諸帝国の政治と社会 西アジアではオスマン帝国、南アジアではムガル帝国が栄えたが、17世紀末以降、オスマン帝国はオーストリア、ロシアの南下、そしてムガル帝国はイギリス、フランスの植民地化にあい衰退した。しかし東アジアの清(しん)帝国はヨーロッパとの貿易を制限し続け、康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)の3代130年間に渡り、中国史上空前の大繁栄を築き上げた。 - ヨーロッパの主権国家体制の成立 16世紀から17世紀のヨーロッパでは、常備軍、官僚制、重商主義を採用した絶対主義国家が成立した。これらは王権神授説(おうけん しんじゅせつ)で正統化された。スペインのフェリペ2世、イギリスではエリザベス1世時代に全盛期をむかえた。フランスではルイ14世に全盛期を迎えた。三十年戦争後の18世紀の啓蒙制君主としてはプロイセンのフリードリッヒ2世、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのピョートル1世、エカチェリーナ2世が有名である。 - 大西洋貿易の展開 17世紀はスペイン、ポルトガルに代わってオランダ、イギリス、フランスが台頭した。オランダはバタビアを拠点にした。女王は東インド会社を作った。17世紀後半にはオランダが後退し、イギリスとフランスが覇権を争うようになった。18世紀中ごろの七年戦争にフランスが敗れると、イギリスが資本主義の中核をなすようになった。またこのころ奴隷貿易を中心にヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ大西洋三角貿易が確立された。
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高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会 - ※ 『高等学校政治経済/政治/近代民主政治の歴史』『高等学校倫理/近代の合理的・科学的な思考と方法』も参考にせよ。 法律 17〜18世紀のヨーロッパは絶対王政の世の中ではあったが、この時代に「自然法」(しぜんほう)という概念も発達した。 自然法とは、慣習や人為的な法ではなく、人間の自然(本性)に根ざした法である。 オランダの法学者グロティウスは、自然法は時代や民族の違いをこえた、すべての人間に通用する普遍的なものだと考えた。そのため、国家間のあらそいの調停も自然法によるべきだとして『戦争と平和の法』や『海洋自由論』を発表し、「自然法の父」「国際法の祖」となった。 芸術 絶対王政の時代だったこともあり、権威づけのために豪華な宮殿や装飾品がつくられたこともあり、宮廷では芸術家が活躍した。 その宮廷には建築様式として、まず17世紀ごろにバロック様式が取り入れられ、18世紀ごろからロココ様式も流行していった。 音楽では、この17〜18世紀ころの音楽家として、18世紀前半にバッハやヘンデル、18世紀後半にはモーツァルトが活躍し、古典派音楽が確立した。 - (※ 範囲外:)なお、バッハの時代のドイツ宗教はプロテスタントであり、そとためバッハの請け負った宗教音楽もプロテスタントのものである。バッハの家系は代々、プロテスタント音楽家の家系だった。 いっぽう、市民社会でも富裕な市民が増えてきたこともあり、市民むけの娯楽も重視されるようになり、芸術や文芸においても、市民むけに作品をつくる作家も増えてきた。 絵画では、オランダでは画家レンブランドや画家フェルメールなどが、市民をうつくしく描いた肖像画や人物画などを制作した。 文芸では、冒険小説でもある『ガリヴァー旅行記』(著者:スウィフト)のような流行した。『ロビンソン=クルーソー』(著者: デフォー)も、同じ頃の時代に流行した小説である。 自然科学や哲学などの学問 ルネサンスや宗教改革、自然科学などの発達により、学問の世界に起きた変化として、(けっして人類が単に新しい個別の知識を発見するだけでなく、)さらに、中世の学問(スコラ学など)への批判が起き、学者たち間から、学問の研究方法についての見直しが起こった。 哲学において、大きな役割を果たしたのがフランスのデカルトとイギリスのベーコンである。デカルトは17世紀前半に活躍した。「われ思う、ゆえに我あり」の命題で知られる。なお、デカルトは代数などの研究もしており、数学の概念の確立にも大きく寄与している。デカルトは、彼の主張する合理的な思考法として、(wikibooks読者にとっては、中学の幾何学の証明のように)もし仮説や予想を主張するさいには、(幾何学の5つの公理のように、だれもが認めざるをえない)一般法則をもとに、論証によって派生的な事例の予想をすべしというような思考法である演繹法(えんえきほう)を主張した。(おそらくは、(読者が中学で習うような)幾何学の証明法をデカルトは参考にしたのだろう。) いっぽう哲学では、政治家でもあったベーコン(フランシス・ベーコン)が、(少し前の時代のガリレオなどの物理の研究を尊重してか)観察や実験を重んじる経験論を主張した。(彼らの主張した経験論によると、一般法則を導くさいには、観察や実験をもとに、帰納法によって、法則を導くべき・・・らしい。)「知は力なり」の格言も、フランシス・ベーコンによる格言である。(※ 『倫理』科目のほうで格言が出てくる。2018年センター『倫理・政治経済』に出題。) (※ ロジャー・ベーコンとは別人。 『高等学校世界史B/中世ヨーロッパの文化』。ロジャーもまた、実験を重んじるべきと主張しており、まぎらわしい。) デカルトも、ベーコンも、当時、隆盛を誇っていたスコラ学が、実態は形骸化した学問であるとして、新しい学問の方法を提示したという事情がある。 そして、時代が少しすぎて科学が数学が発展すると、科学者ニュートン(1727没)が物理学などで活躍した。 ニュートンは、力学や万有引力の研究をし、それらの分野で、多くの法則を解明した。 (※ 範囲外: )またニュートンは物理学の研究のために(日本の高校では数学IIや数学IIIで習うような)微分積分の理論を作り始め、その手法を用いて運動法則を解明したことで、物理学ととも数学にも大きな業績をのこした。 化学では化学者ボイル(1691没)などが、気体と圧力の関係についての法則を解明していた。(※ 現代の高校化学では「ボイル・シャルルの法則」など習う。そのボイルのこと。なお、シャルル(人名)はボイルとは別人。) そして、このような人類による自然法則を解明しようという好奇心は、社会の法則性を解明しようという動きにつながり、政治においても、神などの超自然の存在を前提としない合理的な説明がなされるようになった。そうして、17世紀のイギリスを中心に、自然法の概念を中心にすえて国家の起源を説明する社会契約説が発達した。 イギリスではホッブスが主権国家の必要性を主張した。その主張の際に仮説として、国家が存在しない状態(自然状態)には、「万人の万人に対する戦い」とよばれる人民どうしが争いあって傷つけ合う不毛な状態であったとした。それを避けるために一人一人が生まれながらに持っている権利(自然権)を主権者に譲り渡す一方、人々の生命や財産を主権者は保護しなければならないという契約を結んだという説を、主著『リヴァイアサン』にてうちたてた。 いっぽう、思想家ロックは名誉革命の時代に生きていたこともあり、革命を正当化する理論をつくろうとしたので、ロックは、もし君主が社会契約に反した場合には民衆には革命権があると主張した。 - その他 - ※ フランスの科学者ラプラス(1827年 没)が宇宙進化論を説いた、ということが検定教科書にのっている。哲学などでラプラスの宇宙進化論が有名なので、載っているのだろう。だが、自然科学的には、ラプラスの宇宙進化論は、あまり価値が無い。ラプラスの本職は数学者であり、彼ラプラスの名声も数学の研究成果によるものである。また、ラプラスは、ナポレオンが若い軍人の頃に在学していた士官学校で数学教師をしていたともいわれる。 啓蒙思想 啓蒙思想のためには教育が必要であるから、そのためには教科書が必要であり、そのためには百科事典が必要であると考えられ、ディドロやダランベールによって『百科全書』が編集された。 また、フランス人のヴォルテールは『哲学書簡』でイギリスを賛美して、フランスの後進性を批判した。 モンテスキューは『法の精神』で三権分立の必要性を主張し、またイギリスの憲法を賞賛した。 その少しあと、ルソーがあらわれ、『人間不平等論』『社会契約論』などで、人民主権と平等を主張した。 経済思想 イギリスでは工業力が高いこともあって、イギリスの経済思想では自由経済が尊重され、18世紀後半に経済学者アダム=スミス(1723〜90)が著書『諸国民の富』で経済を自由放任すべしと主張した。(※ アダム=スミスの理論が、のちの古典派経済学の基礎になる。) 経済学の「見えざる手」を主張したのがアダム=スミスである。またアダム=スミスは、富の源泉は労働であると主張し、さらに労働のおける分業の必要性も、アダム=スミスは主張した。 なお、ドイツの哲学者カントの生きた時代も、イギリスの経済学者アダム=スミスと同じ頃である。 範囲外? : 哲学者の生きた時代 哲学者カント(1724〜1804)は晩年、著書『純粋理性の批判』(1781年)、『永遠平和のために』(1795年)を著した。(※ 検定教科書では、デカルト(1650年に死没)やベーコン(1626年に死没)とまとめられてカントが紹介されることが多いがし、しかし、カントの生きた時代はデカルト達とはまったく別の時代である。) ドイツでフリードリヒ2世が啓蒙専制君主としての政策を実行していた頃の時代に、哲学者カントは生きていた。イギリスの経済学者アダム=スミスと同じ頃の時代を、ドイツの哲学者カントも生きた時代。 なお、哲学者ライプニッツ(1716年 死没)が生きていた時代は、ニュートン(1727年 死没)の人生と同じころ。(※ ニュートンとライプニッツの2人は、数学の微分積分をどちらが先に発見しかたで論争していた。) デカルトからライプニッツまでの間の哲学者を時代順にならべると、 - デカルト → パスカル → ライプニッツ の順番。(※ なお、デカルトもパスカルも本職は数学者。) 消費生活と貿易 大航海時代を経て全世界的な商業流通が確立していたこともあり、ヨーロッパには海外から茶や砂糖、タバコなどが流入した。 そして18世紀には、イギリスにはコーヒーハウス、フランスにはカフェなど、ヨーロッパでは喫茶店が流行した。そして、このような喫茶店が、比較的裕福な市民どうしの社交場になった。 また、(アフリカやアメリカなどの)海外の農地では、砂糖や綿花やタバコなどの農産物を大量生産でつくるために、ヨーロッパ資本によって(奴隷などの労働力を利用した)プランテーションがつくられた。 この頃に、アフリカで捕らえた黒人奴隷をアメリカ大陸やカリブ海一帯に送って農業などの労働をさせ、砂糖などの農産物をヨーロッパに売りさばく三角貿易が確立した。 三角貿易では、16世紀ごろまでの当初はスペインが海洋の覇権をにぎっていたが、17世紀になるとオランダなど新興国の攻撃によりスペインの地位は低下した。そして17世紀後半にはイギリスが海洋で台頭しはじめた。 - 注
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高等学校世界史B/1900年前後のアジア情勢 東南アジア情勢 フィリピンでは1896年に、スペインからの独立を目指すフィリピン革命が始まった。 1898年にアメリカ=スペイン戦争が起きると、当初アメリカは革命派を支持したが、アメリカがスペインに勝利すると、アメリカがフィリピンの領有権をしはじめ、アメリカはフィリピンに侵攻し、そしてフィリピンはアメリカの植民地となった。 なお、革命前からフィリピンでは、ホセ=リサールらが民族主義の言論を主張していた。ホセ自身は革命の指導者ではない。 なお、同1898年、ハワイをアメリカは併合した。 日露戦争(1904年)後、ベトナムでは知識人たちが、清仏戦争によってフランスの植民地になってしまった祖国ベトナムに対して、植民地支配脱却のため、日露戦争に勝利した日本に学ぼうと(ドンズー運動(東遊運動))、日本に留学生を送る運動をした。ファン=ボイチャウなどが、ドンズー運動すべきと主張し、「維新会」を組織した。 しかし日本政府は、欧米との協調路線のために、日本に来たヴェトナム人留学生を追放した。 中国情勢 日清戦争後、ヨーロッパ列強は中国に利権をつぎつぎと獲得していったが、アメリカは利権獲得に出遅れた。 そこでアメリカは、他の列強への牽制のため、1899〜1890年に国務長官ジョン=ヘイが対中貿易の門戸開放・機会均等および中国の領土保全を提唱する門戸開放宣言を出した。 これとは別に、日清戦争後の1898年、知識人の康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)たちが中国の敗戦をうれいて、中国でも日本の明治維新にならった政治改革をすべしと提唱し、その改革案は光緒帝に支持されたが、しかし改革開始の3ヶ月後に、改革に反対する保守派が西太后をかつぎだしてクーデターを起こし、皇帝は幽閉され、改革は失敗した(戊戌の政変 (ぼじゅつ の せいへん) )。 そして康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)は、日本に亡命した。 (その後、1900年に義和団事件が起きる。)
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高等学校世界史B/WW I 後のアジア情勢 中国の蒋介石クーデタ 1919年、孫文を中心とする中国国民党が出来た。ソ連は国民党を支援した。 ロシア革命後の1921年、中国では陳独秀(ちんどくしゅう)らの呼びかけで共産党が出来た 24年に国民党は、共産党と協力することを決定した。このころ孫文は「連ソ、容共、扶助工農」というスローガンを主張していた。 1925年、孫文は病死した。 1925年5月に、上海での労働争議をきっかけに、反帝国主義運動が起きる(五・三〇運動)。(きっかけになった労働運動は、紡績工場での労働運動だと言われる。) 1925年7月に国民党は広州で国民政府を樹立した。 翌1926年に蒋介石(しょうかいせき)の率いる国民革命軍が、中国統一をめざす北伐(ほくばつ)を開始した。 そして1927年に国民革命軍が南京・上海を占領すると蒋介石はクーデタを起こして共産党を排除し、南京に国民政府を建てた。 日本は妨害のため、山東に出兵した。しかし北伐軍は、日本との戦闘を避けた。1928年、北伐軍は北京政府の張作霖(ちょうさくりん)を敗走させた。 すると日本の関東軍は、張作霖の乗っている列車を爆破して殺害した。すると張作霖の息子の張学良(ちょうがくりょう)は、(日本に対抗するためか)国民党に従った。 こうして、国民政府(南京政府)は中国統一をした。国民政府は、欧米との外交につとめ、関税自主権の回復に成功した。そしてアメリカ合衆国やイギリスは、国民政府を支援した。 一方、中国の共産党は、1927年のクーデタで排除されて以降、山岳地帯などを拠点にしていた。 そして共産党はソ連の支援を受けていた。1931年に中国の共産党は、毛沢東の率いる中華ソヴィエト共和国臨時政府を江西省瑞金に樹立した。国民政府は中華ソヴィエトを武力攻撃したが、倒せなかった。 インドの独立運動 イギリスによってインドで1919年に制定されたローラット法の内容は、令状なしでテロリスト容疑者を逮捕できるという内容であった。 これに対し、インドの民族運動の指導者ガンディーは、暴力をもちいないで独立運動すべしという主張を国民会議でして、不買運動などの形で意志を示す運動を主張し、非暴力・不服従というスローガンの運動になった。 しかし、実際の運動のなかで暴力事件が多発してしまい、ガンディーは運動の中止を主張した。 しかし、インド人の独立運動の意志はおさまらず、インド国民会議は指導者を急進派のネルーに変えて、独立運動をつづけた。 そしてネルーひきいる国民会議は1929年、プールナ=スワラージ(完全な独立)を決議して、独立運動をつづけた。 いっぽう翌1930年、ガンディーは、塩の専売に反対する「塩の行進」(The Salt March[1])を行った。 イギリスは妥協をさがすため、ロンドンで開催する円卓会議に独立指導者をまねき、結果的に1935年に自治を認める新インド統治法が制定された。 トルコ革命 敗戦国のオスマン帝国はセーブル条約の締結により、領土を大幅に失った。これに反対する軍人ムスタファ=ケマルが、地方政権をたて、1920年にアンカラで臨時政府であるトルコ大国民会議を樹立した。 そして1922年には、ギリシアからイズミルを奪還した。同22年、ケマルはスルタン制を廃止した。 トルコ新政権は23年に列強とローザンヌ条約を締結し、新国境の決定、治外法権の廃止、関税自主権の回復、などの成果をおさめた。 そしてケマルは、オスマン帝国にかわるトルコ共和国の建国を宣言し、初代大統領になった。ケマルは改革として、脱イスラム化の政策を行い、アラビア文字からラテン文字への移行、女性参政権、政教分離などの改革を行った。 これらの諸改革をトルコ革命という。 パレスティナ パレスティナは最終的に、イギリスの委任統治領となった。そしてユダヤ人が入植してきた。 中東諸国の独立 ヨーロッパ諸国は、中東では、パレスチナを除いて、ほとんどの国の独立を承認した。 サウジアラビア アラビア半島では、イブン=サウードがイギリスの支援を受け、アラビア半島の大部分の領域を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。 エジプト エジプトでは大戦中の1914年にイギリスの保護国になったが、戦後、ワフド党の反英的な民族運動が活発化した。 すると、イギリスは保護権を放棄したので、1922年にエジプトは形式的には独立しエジプト王国となった。 しかし、スエズ運河の管理権は、イギリスのままだった。 1936年のイギリス=エジプト条約で、スエズ運河の管理権を除いて、エジプトはほぼ主権を回復した。スエズ運河には、イギリス軍が駐屯することになった。 イラン イランは大戦中、中立を宣言したが、イギリス・ロシアの両軍に占領された。戦後は、イギリス・ロシアが政治に介入してきた。1921年、軍人レザー=ハーンが、クーデタを起こし、カージャール朝を倒し、政権をにぎり、みずからが王となり、パフレヴィー朝を開いた。 そして立憲君主制として、トルコにならった改革を行った( 第二次大戦後のイラン革命より前は、イランはけっこう西洋化をしていた国だったのである)。 1935年には国号を「ペルシア」から「イラン」に改めた。 形式的な独立 第一次大戦後、英仏は大戦中の英仏の密約にしたがって、イラクとトランスヨルダンはイギリスの委任統治領になり、シリアはフランスの委任統治領になった。 その後、イギリスは、サウード家と対立していたハーシム家をイラクとトランスヨルダンの王位につけ、1920年代から1930年代のころに、それぞれ形式的な独立国としてイラク王国とトランスヨルダン王国となった。 イランやイギリスの石油利権は、イギリスが握りつづけた。 その他 アフガニスタンは1919年、イギリスからの独立に成功した。 東南アジアの動向 ヨーロッパ諸国は中東では多くの国に独立を認めたが、しかし東南アジアでは独立運動を弾圧した。 インドネシア(「オランダ領東インド」)では、コミンテルンの指導により結成されたインドネシア共産党が1926〜1927年に独立をもとめて蜂起したが、オランダ軍により弾圧されて失敗に終わった。 いっぽう、1927年にスカルノによってインドネシア国民党が結成され、独立運動を主張したが、1930年代にオランダの弾圧が強まり、指導者の大部分が逮捕されてしまった。 (その後、1942年に第二次世界大戦により、日本軍がインドネシアを占領する。) 1933年にオランダの弾圧によりスカルノは流刑にあっていたが、のちの1942年の日本の軍政によりスカルノは運動に復帰し、スカルノは日本軍と協力して(オランダからの)独立運動をつづけた。 ベトナムでは(「フランス領インドシナ」)、ホー=チミンがインドシナ共産党を結成し、蜂起した。いっぽう、これとは別に国民党も蜂起をした。しかし、共産党、国民党とも、フランス軍によって弾圧された。 (その後、1940年に第二次世界大戦により、フランス本国がドイツ軍に占領されたことにともない、ドイツの同盟国の日本軍がベトナムを占領する。) タイ(シャム)は、もともと独立国であり、1932年にはクーデタにより立憲君主化され、憲法が制定され、議会が開設された。 ビルマ(現: ミャンマー)では1930年、サヤ=サンの指導による蜂起が起きたが、イギリス軍に弾圧された。同年、ラングーン大学の学生を中心にタキン党が結成された。1935年、ビルマはインドから分離した。その後、アウンサンの指導により独立運動はつづいた。 フィリピンについては、宗主国のアメリカ本国で植民地放棄論が高まり、1934年にアメリカ合衆国が10年後のフィリピンの独立を約束した。これにともない、独立準備政府が発足した。(しかし、のちに太平洋戦争が発生したことで、独立は延期される。) こうした情勢のもと、1941年に東南アジアは太平洋戦争に突入し、日本軍がイギリス軍やオランダ軍と争って各地を侵攻していき、各地を占領していく。 - ^ 高等学校外国語『CROWN English Communication I』三省堂、2021年1月29日 文部科学省検定済、2022年3月30日発行、P137
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高等学校世界史B/WW I 後の欧米の情勢 イギリス 大戦中から戦後、イギリスでは選挙法の改正があった。 1918年の第4回の選挙法改正では、21歳以上の男性と31歳以上の女性に選挙権が与えられた。 1928年の第5回の選挙法改正では、21歳以上の男女すべてに選挙権が与えられた。 - (※ 範囲外:) 経済については、戦争によって男性労働者が不足したので女性が工場などの労働に進出したが、しかし戦後、多くの女性は工場をしだいに解雇され、女性は使用人など戦前の労働状況に戻ることになった[1]。 戦時中の当時、イギリスのマスコミ報道では女性の工場などへの就労が話題になったが結局、単に話題になっただけで、戦後の女性の労働はほぼ今までどおりの労働環境として終わった。 - ※ つまり、この時点では、まだイギリス女性の企業進出は進んでいない。 アメリカ (第一次大戦によるヨーロッパ経済の没落により、)アメリカ合衆国は第一次大戦後、債務国から債権国に転じた。(「債務」(さいむ)とは、借金のことである。この場合の債務とは、外国からの借金のこと。「債権」(さいけん)とは、債務の対義語であり、外国にカネを貸している状態のこと。「債」の漢字は、「負債」(ふさい)の「債」と同じ字。) また、アメリカは、国内市場を高関税で保護した。そのためヨーロッパは、復興が遅れた。 移民法が1924年に制定され、人種による区別のもと移民の人数制限が行われた。この移民法により、東欧や南欧の移民の流入の人数は減らされ、また、日本を含むアジア系移民は事実上禁止された。 アメリカでは女性の参政権は1920年に認められた。 禁酒法が1919〜33年。しかし大衆は禁酒法にさからって、密造酒をマフィアなどからの密売により入手してしまい、そのため、むしろマフィアの影響力が強まってしまった。 文化面では1920年代に、プロ野球などのプロスポーツやジャズがさかんになった。プロスポーツでは、野球やボクシングの人気が高かった。ラジオの放送が始まった。ハリウッド映画も普及した。(また、俳優のチャップリンや、アニメのミッキーマウスが流行しはじめたのも、この頃の時代である。) 1913年にはフォード社がベルトコンベア方式で自動車の生産することで、自動車の低価格化に成功し、自動車を普及させるのに貢献した。電気冷蔵庫が普及しはじめのも、1920年代である。 こうしてアメリカでは、大量生産・大量消費の社会が、つくられていった。 この頃、KKKの活動が活発化した。 イタリア イタリアは戦勝国であったが、期待していた領土(フィウメ市など)を獲得できず、国民のあいだに不満が高まっていた。 さらに戦後の不況により、1920年に北部で労働者による工場の占拠運動が頻発していた。 こうした情勢のなか、政治家ムッソリーニひきいるファシスト党が、中産階級に支持された。 - (※ 範囲外: )じつはイタリアのユダヤ資本は当初、ムッソリーニを比較的に好意に支持している。少なくとも当初、ムッソリーニとその政権はユダヤ人を迫害せず、そのためユダヤ資本は当初、ムッソリニーニを支持していた。(※ これは山川出版の『高校世界史B』にも紹介されている。) WW2戦後の国際社会などではドイツのナチス党とイタリアのファシスト党は政治理念が同一視されることが多いが、気をつける必要がある。なお、山川出版の教科書では、ムッソリーニは後にドイツとの同盟などのためユダヤ迫害の方針に転じたと結論づけている。 当初のファシスト党は国会では少数政党にすぎず、522議席中の32議席という少数政党にすぎなかった。だが1922年、ファシスト党が屋外で「ローマ進軍」と名づけた行進を示すと、数万人のファシスト党支持者が行進につどった。すると、国王はムッソリーニを首相に任命した。そしてファシスト党は、独裁的な政治を行った。1926年にはファシスト党以外の政党を解党させ、1927年頃には独裁体制を確立した。 (※ WW2後、ファシズム勢力が国際的に批判されるが、そもそもイタリア国王が悪いのでは? 軍部や国王が、ファシスト政党を容認・黙認していた。) イタリアは対外的には、ファシスト党ひきいるなか、1924年にはユーゴスラヴィアからフィウメを獲得し、1927年にはアルバニアを保護国化した。 1929年にはヴァチカン市国の独立を承認し、ローマ教皇と和解した(ラテラノ条約)。 また、東欧では、民族自決の原則にもとづいて独立したばかりの多くの国家が、それぞれ自国でファシズムを支持し、独裁体制に移行する。(検定教科書に普通に書いてある話題。) - ※ 第二次大戦中の日独伊の3カ国について、主に同盟関係に注目した「枢軸国」(すうじくこく、 Axis powers)という呼び方があり、第二次大戦中の英米ソ仏などの連合国と敵対した陣営のドイツ・イタリア・日本のことを「枢軸国」という。つまり、ドイツや日本などが枢軸国である。この呼び方のほうが、客観的な同盟関係にもとづいて呼称しているので、正確であろう。(※ 東京書籍の中学歴史教科書や高校世界史教科書で、「枢軸国」という用語を記載している。自由社も「枢軸国」という用語を記載している。ただし、他出版社の教科書では、あまり枢軸国という呼び方は定着していない。) - (※ 「ファシズム」は現代では、「独裁政治」のような意味で使われるが、これはマチガイですね。(※ 山川出版の詳説研究シリーズ(参考書のほう)の古い版でも、『ファシズム』という用語が主観的として、あまり客観的でない表現だと問題視している。) この間違った意味は、第二次大戦中および戦後の英米によるプロパガンダですね(※ なお、二次対戦中の英米の発表した大西洋憲章などで、ドイツ・イタリアなどをファシズムと批判しているので、ドイツ・イタリア・日本をファシズム国家ということには史料的な根拠はある。別に戦後の歴史学者が勝手にファシズム諸国の分類をしているわけではない)。 - ※ とはいえ、英米の政治的な宣言にすぎない大西洋憲章が、歴史学的な真相とするのも、学問的に非・公正であろう。ファシズムという言葉の本当の意味は、おそらく「立憲君主制による国王親政で、国際協調よりも民族の団結(もしくは国家の団結)を優先する体制」および「国王親政に類似した、一人の権力者による、立憲君主制による独裁的な体制」という意味だろう。こういう意味だとすれば、イタリアがファシズムなら、帝政ロシアやソ連も明治日本もファシズムだし、中華民国もファシズムっぽい。第二次大戦後を含めれば、韓国のパクチョンヒ政権などの開発独裁体制もまた、ファシズムだ。) - ※ 日本の第二次大戦前~対戦中の軍国主義を、ww2戦後の昭和日本の政治評論などでよく「天皇制ファシズム」などと批判する言説もあったが、しかし近年では歴史研究の進歩により、戦前当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの記録により、三国同盟の前の次期、じつは昭和天皇と近衛文麿が三国同盟に反対であった事が分かっている[2]。アメリカ大使は、のちのWW2の日米戦争では日本の敵国になるアメリカ側であるのだから、このジョセフの史料はかなり中立性・信憑性が高いだろう。 - ※ ソ連や中国のような共産主義さえもドイツの「ファシズム」(厳密にはナチズム)と似たような統制的な政治手法であろうと同類に分類することは、べつに日本の右翼だけの難癖ではなく、20世紀の思想家ハイエクや女性哲学者ハンア・アレントも取った立場である(※ 参考文献 : たとえばハイエクの著書『隷属への道]』(リンク先はwikipedia)や、アレントの著書『全体主義の起源』など)。なおハイエクは、ナチスドイツとソ連のイデオロギーをまとめて「集産主義」と言った。一方、アレントおよび彼女と同時期に活躍した政治学者C.J.フリードリヒは「全体主義」と言った。(なお、実は英語参考書の旺文社『英単語ターゲット1900』で、collectiveの派生の名詞として「集産主義」collectivism が英単語と和訳だけ紹介されている[3]。) - 今日、日本の中学教科書でナチスとソ連の類似性に触れるときは、「全体主義」(totalitarianism [4])と言う表現が、いくつかの検定教科書で使われている。これはアレント流・フリードリヒ流の表現を検定教科書が採用している事になる。 - なお、山川『英文詳説世界史』では、世界恐慌の節で、日本が軍によって "totalitarian" な状態(state)を構築しようとしたという表現を用いている[5]。おそらく、日独伊三国同盟か、大政翼賛会あたりの話だろうと思います。 - こういうふうに、現代では totalitarian という表現は、別にソ連だけに使う表現ではありません。 - なお、「全体主義」の対義語としては、たとえば「人道主義の」 humanitarian などがあるでしょうか。末尾スペルが共通しています。 - さて、ハイエクのほうの考えによれば、その思想の内容はおおむね、ナチスドイツもソビエト連邦も、単に手法が違うだけで思想の根源は似ており、経済の自由市場を、国家が統制する事でその場しのぎの問題解決を繰り返していく事で、結果的には深刻な社会不安や恐怖政治などを引きおこしてしまう、というような感じの経済思想を(ハイエクは)提唱しており、「集産主義」という用語をそういったナチやソ連のような統制的な経済手法にハイエクは当てはめた(「集産主義」という用語そのものはハイエクの提唱以前から別の意味で存在していた)。ハイエクが言うには、たとえ福祉政策などの為政者にとっては禁欲的な崇高な目的であっても、手段としてその場しのぎの経済統制をしていけば、それはナチやソ連のような独裁につながるとしている。だからハイエクは実際、福祉政策に懐疑的でもあった[6]。 - なおハイエクはのちの戦後にノーベル経済学賞を受賞している。(ただし、このハイエクの思想ではケインズ政策による恐慌からの脱出の成功という欧米各国の歴史をあまり上手く説明できないという欠点もある。なおハイエクはケインズ政策を福祉国家的であるとして(集産主義につながりかねないので)批判していた[7]。) - 21世紀の中学校社会科の歴史教科書で「つくる会」(自由社)や(たしか)東京書籍などの一部の出版社の歴史教科書で、ドイツのファシズムとソ連の共産主義を類似物だとして両方とも「全体主義」(これはアレント流の表現だが)の一形態と見なす言説が文部科学省の教科書検定を通るのには、ハイエクやハンナ・アレントという思想的背景があるという理由もある。 - アレントやハイエクらの問題意識の根底としてよく指摘されるのは、ナチスやソ連の圧制や恐怖政治の原因が、けっして権力者がわがままをしたいという暴政ではなく、一見すると禁欲的・倫理的な動機や背景によって、恐怖政治に至ってたしまった歴史の逆説をこそ問題視しているのである。つまり、古代ギリシアのプラトン的な「哲人政治」のような、伝統的な政治思想をアレントなどは否定しているのである[8]。しかし残念なことに日本の中学高校の政治経済の教育は、今のところプラトン政治哲学に毛の生えた程度でしかない。 - なお、国際政治的には、「ファシズム」という用語の意図として、英米の2か国がソ連など(の民主化の不十分な国々)を牽制(けんせい)するという意味合いもありうるかもしれない。ドイツとソ連はたびたび秘密外交で協力していることが解明されているし(ポーランド分割など)、ドイツと中国も秘密外交で協力している(ドイツから中国への武器援助と、中国からタングステンの提供)。 なお、説明の都合上、「ファシズム」という表現を使ったが、ハンナ=アレントは「ナチズム」と「ファシズム」とを区別するべきだとし、彼女によればファシズムとはイタリアのムッソリーニ政党の一党独裁的な主張に過ぎず、なのでナチスドイツの排他的な民族主義的なナチズムとは区別すべきというのが、アレントの主張である。このため、アレントの主張では、ファシズムは(ムッソリーニの一党独裁に過ぎないので)全体主義とは異なるとする[9]。アレントが言うには、ナチズムとボリシェヴィズム(ソ連のボリシェヴィキの政治理念のこと)が「全体主義」である。 - ※ 山川出版のある版の検定教科書が言うように、日本・ドイツ・イタリアという枢軸国の政治をまとめて「ファシズム」という表現は確かに歴史的に当時から使われている、歴史的な根拠のある表現である。また、当時の文献などにも枢軸国の意味での「ファシズム」という表現が出てくるので、歴史学としては「ファシズム」の枢軸国としての用法も覚える必要がある。しかし上述のアレントやハイエクの説明を読めばわかるように、はっきりいって「ファシズム」という表現は、あまり政治学的ではなく(つまり社会科学的ではない表現である)、学術的な厳密性を欠いている表現である(だから結果的にハイエクやアレントは、「集産主義」や「全体主義」などの別の表現を用いていたりする。アレントの場合、「ファシズム」はイタリアのムッソリーニの政党の主張という本来の意味にもどって限定的に使っていたりする)。高校生の読者がどうするかは任せる。とりあえず、大学への勉強にむけては「ナチズム」という表現も知っておいたほうが良いだろう(大学入試には出ないだろうが)。 - さて、ここまでハイエクやアレントを褒めてきたが、しかしアレントらの思想にも、学術的な批判がある。それは、アレントなどの思想は結局、アメリカ合衆国を正義とした冷戦思考の歴史観でしかないのでは、という批判である[10]。つまり、ソビエト連邦は冷戦中におけるアメリカの仮想敵国だし、ドイツは第二次世界大戦での名実ともに敵国であった。学問とは、アレントは彼女の著作中でユダヤ人に同情的であるが、学問とは、そのようなアレントですら神聖視せず、ここまで慎重に(学術的な意味での)批判的に読むのが学問である。 東欧諸国 1929年に世界恐慌が起こり、それによってドイツや日本などで政治の独裁化がはげしくなるわけだが、じつは東欧では、世界恐慌の前から政治の独裁化が激しかった。 東欧には、独立したばかりの国が多かったので、民族問題をかかえていて不安定であり、そのため強権的な政治によって国を統合しようとしていたからである。 ハンガリーでは1919年、ロシア革命にならったハンガリー革命が一時的に成功したが、ルーマニア軍の侵攻により倒された。 また、ポーランドは、ロシア革命・ドイツ革命の影響で権力の空白が生じたことから1918年に独立、ビウスツキを国家主席としてポーランド共和国を建国した。国境が決まってなかったため1920年からソヴィエト=ポーランド戦争を戦い、実力でウクライナ・ベラルーシ西部を勝ち取った。一度主席を退任するも、1926年にクーデーターを起こし再び権力を掌握する。しかし1935年に彼が亡くなったことで内政が不安定、第二次世界大戦の引き金となるドイツ軍のポーランド侵攻へと繋がっていく。 - ^ W.A.スペック『ケンブリッジ版世界各国史 イギリスの歴史』、月森左知・水戸尚子、創土社、2004年6月30日、176ページ - ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近現代史1』、ポプラ社、2013年3月5日、86ページ、 - ^ 『英単語ターゲット1900 〔6訂版〕』、旺文社、ターゲット編集部、2021年1月24日、P.250 の単語 collective の項目 - ^ 『ジーニアス英和辞典 第4版』、大修館書店、第3刷発行 2008年4月1日、P.2025、 totalitarianism の項目 - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for High School 英文詳説世界史』、山川出版社、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.355 - ^ 楠茂樹・楠美佐子 共著『ハイエク「保守」との決別』、中公選書、2013年4月10日 初版発行、138ページ - ^ 楠茂樹・楠美佐子 共著『ハイエク「保守」との決別』、中公選書、2013年4月10日 初版発行、138ページ - ^ 政治思想研究 20008年5月 第8号 『 『全体主義の起源』について 』、森川輝一、121ページ ※アレントについて、そう言及されている. (ハイエクについては文脈上の都合でwiki側で追記しただけ) - ^ 『精読 アレント『全体主義の起源』 』、牧野雅彦、講談社選書メチエ、2015年8月10日 第1刷 発行、p170 - ^ 『精読 アレント『全体主義の起源』 』、牧野雅彦、講談社選書メチエ、2015年8月10日 第1刷 発行、p16
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高等学校世界史B/アメリカの覇権と冷戦の展開 国際連合 世界恐慌の後、欧米主要国はブロック経済を推し進めた。そのようなブロック経済が国家間の対立を生んで戦争の一因になったという反省にもとづき、第二次大戦期の終盤ごろから、戦後の国際経済のありかたが国際会議で話し合われた。 1944年にアメリカのブレトンウッズでの国際会議が話し合われ(ブレトンウッズ会議、ブレトンウッズ合意、Bretton Woods Agreement)、それらの会議などにより、自由貿易が推進され、また国際的な経済の安定化のため国際通貨基金(IMF、1947年〜、International Monetary Fund)や国際復興開発銀行(IBRD、1946年〜、International Bank for Raconstructuion)が設立された。 また、関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、1948年発効、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。このような第二次大戦の経済秩序をブレトン・ウッズ体制またはIMF=GATT体制という。 敗戦国の民主化 敗戦国のドイツと日本では、戦勝国の行う裁判によって、ドイツと日本の戦争指導者たちが裁かれた。 ドイツではニュルンベルク国際軍事裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われた。 そして、従来の戦争犯罪(捕虜虐待など)による罪を問うのに加え、新たに加わった「平和に対する罪」によって、裁かれた。 ニュルンベルク裁判では、ナチスの指導者たちが裁かれた。(※ 検定教科書がこういう言い方をしてるのは、たとえ国際法違反をしたドイツ軍幹部でも、ナチス出身でなくドイツの名門エリート軍学校出身の軍人だった連中(エーリッヒ・フォン・マンシュタインやグデーリアンなど)は軽い罰だったから。) しかし、戦勝国による戦争犯罪については、これらの裁判では問われなかったので、当時から有識者には「不公平」な裁判だと問題視されていた。 冷戦 第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国の多くにはソ連が進駐し、まもなく東ヨーロッパに社会主義国が多く誕生した。 アメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦(Cold War [1])という。また、イギリスの前首相チャーチルは冷戦について、1946年、ソ連が「鉄のカーテン」を降ろしてヨーロッパを分断しているとして、ソ連を批判した。 アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリン(Truman Doctrine [2])を発表した。 また、西側諸国を経済援助する計画のマーシャル-プラン(Marshall Plan [3])を発表し実施した。 1948年6月、西側がソ連抜きでドイツの通貨改革をしたことに反発し、ソ連は西ベルリンへの交通路を遮断した(ベルリン封鎖)。しかし西側は空輸で物資を輸送して対抗した。 1949年、東側(ソ連側)は、東側圏内の経済協力機構としてコメコン(COMECON、経済相互援助会議)を設立した いっぽう、1949年5月、英米仏を中心とする西側諸国は、軍事同盟的な国際機構として、北大西洋条約機構(NATO、「ナトー」と読む)を設立した。 なお1945年、ソ連はベルリン封鎖の失敗をみとめ、1945年5月にソ連はベルリン封鎖を解除した。そして同1945年の秋に、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。 南アジア諸国の独立 イギリスは大戦で疲弊し、植民地を維持する力を失っており、またイギリス本国で植民地の維持のための軍事費などの負担が問題視されたこと等の理由から、イギリスは植民地の独立には協力的になった。 しかし、インドでは現地のアジア人たちが、独立後の国の方針や宗教上の方針をめぐって、(現地アジア人どうしで)対立した。全インドの統一を重視する国民会議派のガンディーおよびネルーらと、一方、ジンナーひきいるムスリム国家の分離独立をもとめる全インド=ムスリム連盟が対立した。 そして、ひとまず、1947年に、ヒンドゥー教徒の多いインド連邦と、ムスリムの多いパキスタン共和国に分かれて、ほぼ同時にイギリスから独立した。 その後、ヒンドゥーとムスリムの対立が激化し、武力衝突した。融和を説くガンディーは、急進派ヒンドゥー教徒によって暗殺されてしまった(1948年)。 パキスタンは当時、インドを挟んで東西に領土をもってたが、東パキスタンがパキスタンからの独立をもとめるとインドはこれを支援し、1971年にインドは西パキスタンに侵攻し、1971年に東パキスタンはバングラデシュとして独立した。 インドとパキスタンは、カシミール地方の帰属をめぐって、たびたび武力衝突し、 東南アジア諸国の独立 1945年、ホーチミンはベトナム人民共和国の独立を宣言したが、宗主国フランスはこれを認めず、ベトナムにフランス軍を派兵し、インドシナ戦争になった。 フランスは49年、げん朝の旧皇帝バオ=ダイをたて、ベトナム国を樹立したが、54年にティエンビエンフーの戦いでフランスは敗北し、ジュネーブ休戦協定を結んでフランスはインドシナから撤退した。 結果、ベトナムは北緯17度線を基準にして、北側がベトナム民主共和国、南側がベトナム国となった。こうしてベトナムは、南北2つの国家に分裂した。 (アメリカ植民地の)フィリピンについては、戦前からの独立の約束どおり(太平洋戦争によって少し遅れたが)、アメリカは1946年にフィリピンの独立を認めた。 (オランダ植民地の)インドネシアでは、日本の敗戦直後の1945年8月17日にスカルノが独立を宣言したが、宗主国オランダは独立を認めず、戦争になった。4年あまりの独立戦争のすえ、1949年にインドネシアは独立を認めさせた。 (イギリス植民地の)マレー半島では、ひとまず1948年にイギリス領マラヤ連邦が成立し、1957年に独立国の「マラヤ連邦」となり、63年に独立国のマレーシアになった。その後、中国人の多いシンガポールが1965年にマレーシアから分離独立した。 冷戦中の国際情勢 東南アジア方面 ベトナム周辺 1960年、アメリカの支援する南ベトナムでは、反政府組織の南ベトナム解放民族戦線が結成され。北ベトナムの支援を受けてゲリラ戦を展開した。 (※ なおゲリラ戦は、国際法違反である。理由は、非戦闘員の一般人が、戦闘員に間違われて巻き込まれる可能性があるため。よって、彼らは国際法違反のテロ集団でしかない。) 65年、アメリカは南ベトナムを支援する目的で、北ベトナムへの爆撃にふみきり(北爆)、南ベトナムにも兵数50万人を超える大軍をおくって支援した。(なお韓国軍も、アメリカ側として、ベトナム戦争に派兵され参戦している。) しかし、ソ連や中国が北ベトナムを支援したので、選局は膠着し、泥沼化した。こうして、ベトナム戦争は、本格化していった。 戦争中、アメリカは、ゲリラ側とみなした村を焼き払うなどした。これがマスコミ報道などによって、世論から非難された。西側のマスコミは偽善者なので、ゲリラ側のテロ行為は批判せず、アメリカ軍の行動を一方的に避難し、国際世論はアメリカに批判的になった。(なお、東側のマスコミは、単なる、政府に都合のいい宣伝機関である。) アメリカは国内外の反戦的な批判にたえられず、1973年、アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。 そして、戦況は北ベトナム側に有利になり、北ベトナムが75年には南ベトナムの首都サイゴンを攻略し、戦争は終結した。 こうして、ベトナム戦争は、北ベトナムの勝利で終わった。 さて1976年、カンボジアではポル=ポトが政権をにぎり共産主義政策を行ったが、独裁者のポルポトは、空想的な共産主義理念のもとに、自国民(カンボジア国民)の大虐殺を行った。知識人階級を中心にねらい、ポルポト政権は虐殺を行った。 そしてカンボジアは、たびたび隣国のベトナムに侵攻した。 ベトナムは反撃し、1979年にベトナムはカンボジアに攻め込み、ポルポト政権を倒した。 中国はカンボジアのポルポト政権を支持していたので、1979年、中国はベトナムに侵攻した(中越戦争)。(トウ小平 の時代) また、中越戦争で戦闘しあってる中国とベトナムは、両国とも社会主義国であるので、「社会主義国どうしは戦争をしない」とかいった幻想は崩壊していった。 - ※ なお、ポルポトの虐殺により、日本人も犠牲になっている。当時、アンコールワットの修復などの目的でカンボジアに滞在していた専門家などの日本人が数十名、知識人だとして虐殺された。(清水書院の『歴史総合』より) ソ連の外交 1953年にスターリンが死亡すると、ソ連は外交政策を見直して、アメリカに歩み寄ったフリを見せるようになり、 1955年には米ソ英仏の4か国首脳によるジュネーブ巨頭会談が開かれた。 そして56年にソ連はコミンフォルムを解散した。 しかし、実際には、ソ連は覇権を崩すつもりはなかった。 1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。 また東ドイツでは、1950年代から西ドイツに脱出する人が増えたので、1961年に東ドイツ政府はベルリンの壁を築いた。 またソ連は、キューバ革命後のキューバにミサイル基地を建設して、アメリカを挑発した(キューバ危機(Cuban Missile Crisis [4]))。 しかしアメリカが譲歩せず、ミサイル撤去をもとめて海上封鎖を行ったため、ソ連は譲歩してアメリカの要求を受け入れた。 その後、米英ソの3国が、1963年に部分的核実験禁止条約(Partial Nuclear Test Ban Treaty [5])に調印した。(これは単に、地下核実験以外の核実験を禁止するだけである。核保有は禁止しないし、地下核実験も禁止しない。)また、米ソの首脳どうしが電話で直接的に意見交換する「ホットライン」も、この63年に設置された。 1970年代後半、アフガニスタンは内戦状態にあり、親ソ連勢力やイスラム勢力が争っていた。 1979年にソ連はアフガニスタンにいる親ソ連勢力を軍事援助するために、ソ連はアフガニスタンに侵攻した。 これにより、米ソの緊張は高まり、アメリカは軍事費を増大するなどして対応した。 なお。翌1980年にはモスクワ・オリンピックが開催されたが、西側諸国の多くは、ボイコットをした。(ここでいう「ボイコット」とは、ソ連開催の行事に参加をしないことで、ソ連の行動に反対であるという意志を表明すること。) アメリカの情勢 1950年代から東西冷戦が深刻化していくと、アメリカ国内政治では、「アメリカ国内に、既にソ連のスパイが入り込んでいるのは?」という不安が高まり、マッカーシー上院議員を中心にして、反共産主義の活動が活発化し(「赤狩り」、マッカーシズム)、共産主義者とみなされた政治家や知識人が批判されたり失脚していったりした。 1980年代にアメリカの財政は悪化し、財政赤字と貿易赤字のため「双子の赤字」と言われる。原因はいろいろ考えられるが、一因として、アフガニスタン侵攻に対応する為に軍事費が急増している。 貿易赤字の原因については、ドル高による貿易の不振などもあるだろう。また、日本などによる、新興工業国の成長により、アメリカ経済が不振になったのかもしれない。 1987年のプラザ合意は、ドル高を是正するのが目的である。 ソ連・東欧の情勢 1956年にポーランドとハンガリーで、反政府運動が起き、新政権が樹立した際には、ハンガリーの新政権は、ソ連からの脱却を表明したが、ソ連軍に侵攻され、ハンガリーの独立は失敗した。また、新政権の指導者ナジは処刑された。 1960年代に入った頃になると、ソ連の経済は低迷し、しだいに、共産主義の失敗が明らかになってきた。 そして1968年、チェコスロバキアで、自由化と資本主義的な経済改革を主張する新政権が登場し、「プラハの春」と言われたが、ソ連は自国および周辺国への波及をおそれ、東ドイツなどワルシャワ条約機構の軍とともに軍事介入し、チェコスロバキアの民主化運動を弾圧した(チェコ事件)。 中国とソ連 ソ連では1953年にスターリンが死んで、後継の権力者のフルシチョフがソ連の権力をにぎり、フルシチョフらがスターリン批判を開始し、スターリン政権時代の大量粛清などの悪行を批判した。 なお、ここでいう「粛清」とは、スターリンのような独裁者が、反対派を処刑したり弾圧することである。 そしてフルシチョフひきいるソ連が、反アメリカ的な態度をゆるめると、中国はソ連を「修正主義」だと批判した(中ソ論争)。(社会主義者のなかでは、「修正主義」という用語は批判的な意味で用いられる。) 「大躍進政策」の失敗 検定教科書には、下記のような感じで書いてある。 1958年、毛沢東は大躍進政策を指示して、中国各地に人民公社をつくらせたが、失敗した。 実態は、農業や工業の知識のない毛沢東たちが、これら実業の実務に口出しをしたせいで、さんざんたる結果に終わったのである。 一例として、毛沢東が「農業では、スズメが稲を食べあらすので、ならばスズメを駆除して減らせば、農業生産が増えるだろう」と考えたが、スズメなど野鳥の退治を中国全土に命令した。しかし結果は、イナゴなど、それまではスズメなどの野鳥に食べられていた虫が増えたせいで、イナゴなどに稲は食べ荒らされ、ますます農業生産は減ったという。 検定教科書では「凶作」が失敗の原因だと言っている教科書もあるが、その「凶作」とやらの実態は、上述のような実態であろう。実態は、毛沢東の頭のなかの、理系学問の知能が、凶作らしい。 なお北朝鮮でも、類似の失敗があった。北朝鮮の指導者は「田畑で、苗(なえ)を植える密度を三倍にすれば、生産も3倍になる」と考えたが、しかし収穫物の栄養不足によって、むしろ農業生産は減ったという。 その他、彼らは「山林を切り開いて、田畑として開墾すれば、農業生産が増えるだろう」と考え、実行したが、しかし山林の減少によって、洪水や土砂くずれを招く結果に終わったという。 中国では、大躍進政策の失敗により、毛沢東は失脚した。しかし、北朝鮮では金日成は失脚せず、しばらく北朝鮮の農業の混乱は深まった。 なお、中国などでは人口政策として、当時は「人口を増やせば、農耕業の生産量も増えるし、軍隊の兵士も人数が増えるので、国が強くなる」のような幻想を考えていたので、人口増加政策の最中なのに凶作が起きてしまい、さんざんたる結果になる。 なお、中国が「一人っ子政策」を言い出したのは、大躍進政策よりも後の時代であり、1970年代後半ごろから「一人っ子政策」を言い出したである。(ウィキペディア『一人っ子政策』の記事によると、じつは60年代の大躍進政策の頃から、既に統計調査により、農業生産に対して人口が多すぎるという危惧が発見されてたらしいが、黙殺されたらしい。反政府的とみなされ、弾圧させられ、人口問題の提起をしようとしていた研究者は失脚していったらしい。) 文化大革命 1959年、劉少奇(りゅうしょうき)が政権につき、大躍進政策を見直したが、しかし66年に復帰をはかる毛沢東が文化大革命を起こした。 この文化大革命では、毛沢東に中世を誓う学生などを動員して「紅衛兵」(こうえいへい)を結成し、毛沢東に批判的な党幹部や知識人を批判させた。:(※ 学生は、生産現場の実務オンチで世間知らずだから、同じく(生産現場について)実務オンチの毛沢東にとっては扱いやすい。) そして劉少奇ら党幹部を失脚させ、また、知識人を弾圧した。 アフリカの連帯 アフリカで第二次世界大戦の前から独立しているのは、わずかにリベリアやエチオピア、南アフリカだけだった。 1955年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、参加国としてインド・中国・エジプト・インドネシア・日本など、日本をふくむ29ヶ国があつまり、帝国主義の植民地支配に反対することが決められ、また平和共存をうったえた。反帝国主義・平和共存の「平和10原則」(へいわ じゅうげんそく)が宣言された。 そして1960年にアフリカで一挙に17か国が独立し、1960年は「アフリカの年」と言われた。 その後、1961年にユーゴスラビアで開かれた(第1回)非同盟諸国首脳会議には、出席国にラテンアメリカ諸国も加わり、エジプトやインドなど25か国が出席し、東西冷戦のどちらの立場にもならない非同盟の立場を宣言した。そして、アフリカ諸国やエジプトインドなどは「第三世界」と呼ばれた。 そして、1963年にアフリカ諸国は、アフリカの連帯をめざすアフリカ統一機構(OAU。後のアフリカ連合、AUに発展する。)を結成した。 中東戦争 1945年、アラブ諸国はアラブどうしの連帯を強めるため、1945年にアラブ諸国はアラブ連盟を結成した。 この頃、国連はパレスティナについて、アラブ人とユダヤ人とで分割する案を出した。 しかし1948年、ユダヤ人がパレスティナの地え一方的にイスラエルの建国を宣言した。このため、イスラエルと、(イスラエルに反対する)アラブ諸国とのあいだで、第1次中東戦争が起きた。 第1次中東戦争にアラブ諸国はやぶれ、多くのアラブ人が土地を失ったため難民となった。 その後、エジプトでは、1952〜53年にナセル(人物名)ひきいる自由将校団が革命を起こし、王政を倒した(エジプト革命)。 翌1954年にナセルひきいるエジプトは、スエズ運河の国有化を宣言した。 すると、スエズ(運河のエジプト)国有化に反対するイギリスが、フランス・イスラエルともにエジプトに侵攻し、戦争になった。(第2次中東戦争、スエズ戦争) しかし国際世論は、英仏イスラエルのエジプト侵攻を非難し、英仏イスラエルは撤退に追い込まれた。 イラン革命から湾岸戦争まで 21世紀の今では信じられないかもしれないが、1979年より前のイランは、西洋化の進んでいた国であった。 しかし1979年、イスラーム教シーア派が革命を起こし、宗教家ホメイニを最高指導者とするイラン=イスラーム共和国が誕生した(イラン革命)。イラン革命は、それまでの革命とは違い、民主化の革命でもなく、共産主義にもとづく革命でもなく、宗教にもとづく復古的な革命であったので、国際社会を驚かせた。 イラクは、自国への革命の波及を恐れ、1980年にイランに侵攻し、イラン=イラク戦争が始まった。 そして、イラン=イラク戦争では、アメリカやソ連も革命の波及をおそれたため、米ソはイラクに軍事援助した。 イラン=イラク戦争は88年まで続いた。 その後の1990年、イラクが隣国クウェートに攻め込み、国連ではイラクへの武力行使を容認する決議が可決され、翌1991年には国連重決議に基づいてアメリカ合衆国ひきいる多国籍軍がイラクを攻撃し、イラクを降伏させ、クウェートからイラク軍を追い出した(湾岸戦争)。 なお、第二次石油危機の原因が、同時期のイラン革命である。(第一次石油危機の原因は、中東戦争。 ) ※ 政治思想的なこと 「ナショナリズム」について - ※ 世界史Bではなく「公共」科目の範囲。 上述のように、アジアやアフリカで、ナショナリズムの考えにもとづいて、独立が行われた。(※ 清水書院の高校「公共」の見解)(※ 第一学習社『現代社会』の教科書でも同様の見解。) 一方、日中や欧米列強などのナショナリズムが、二度の世界大戦を引きおこしたと考える説もよくある。 「ナショナリズム」や民族主義と言う言葉は悪いことのように使われることも多いが、実際の歴史はそう簡単ではない。 妥協点としては、(独立のように)外国からの支配には対抗・抵抗するが、しかし国内の少数民族も尊重しなければならない、といったところか。 歴史的には、フランス革命やその後の動乱、ウェストフェリア条約などを通じて、ナショナリズムによって国家の一体性が確立していき、それが福祉の向上につながっていったという側面もある。(清水書院の高校「公共」の見解) - ※ 清水の教科書は言ってないが、たとえば外国の社交相手の同格の貴族よりも、階級は違っていて縁がなくても国内の貧民こそ援助すべきだという考え。 また、ナショナリズムによって、(絶対王政のような意味での)封建制が解体していったのが、少なくともヨーロッパ史での流れである。(清水書院の高校「公共」の見解) - ※ 現代語では「国民意識」は良いことに使われる傾向であり、「ナショナリズム」や民族主義は批判的なことに使われる傾向があるが、しかし実態はそう単純ではなく、この二つの用語には似た点もある。アフリカのWW2戦後の独立がその例であろう。できれば高校レベルでは、言葉のイメージだけでなく実態を考えるという、こういう水準まで考えてほしい。(ただし日本の大学入試はアレなので受験勉強には不要だが。) - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.375 - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.374 - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.374 - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.389 - ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.389
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高等学校世界史B/イギリス革命 ※ 概要 エリザベス1世は有能だったらしく、このエリザベス1世の時代にイギリスで王権が強大化する。しかし、エリザベスのあとの国王ジェームズ1世が低能だったらしく、国王ジェームズ1世は低能なくせに議会を無視した。 まずエリザベス1世の時代に話を戻すと、エリザベス1世の時代のイギリス国内では、イギリス国教会の教義を、カトリックとプロテスタントの教義を折衷させたものにすることで、イギリス内での宗教対立を押さえた。また、国際的には、以前の海洋覇権国だったスペインの「無敵艦隊」を倒し、のちのイギリスの海洋派遣の基礎を築いた。 - ※ なお、劇作家のシェークスピアが活躍した時期も、エリザベス1世の統治時代である。 しかし、エリザベスのあとの国王ジェームズ1世が低能だったらしく、議会を無視した。 ジェームズ1世の専政にこまった議会は「権利の請願」(けんりのせいがん、the Petition of Right [1])によって、国王ジェームズ1世に、議会の同意なしの課税をしない事と、法によらない逮捕をしない事を、国王ジェームズ1世に求めた。 しかし、国王ジェームズ1世は議会を無視したようで、ついに反乱が起き、最終的に反乱軍が勝利してジェームズ1世は処刑された。 これが「ピューリタン革命」である。 この反乱軍を指揮したのがクロムウェルであり、革命直後のイギリスを、実質的にはクロムウェルが独裁的に支配した。 しかしクロムウェルの生存中は、イギリス国民はクロムウェルを倒す事はできず、しかたなくイギリス国民はクロムウェルに従い、なのでクロムウェルの死後、さっさと王政を復活させた(王政復古)。 しかし、この王政復古で復活した国王チャールズ2世はカトリック優遇をしたので、イギリス国教徒の不満が増大した。なので議会は、国教徒以外が公職につく事を禁止する法律を制定した。 次の国王ジェームズ2世もカトリックを優遇し、(国民の不満が頂点に達したのか)このジェームズ2世を国外追放し、かわりにオランダ出身のオランダ総督であるウィレム3世をイギリスにまねいてイギリス国王とした。今度の国王のウィレム3世は議会に従ったので、問題は解決した。 これが「名誉革命」(めいよかくめい)である。 ウィレム3世のイギリス国王としての即位は、外交的に見れば、実質的にオランダとイギリスとの同盟を意味する。なぜ、こうなったかというと、当時イギリスはフランスと対立しており、そのためオランダの支援が必要だった。 そして、このウィレム3世が、現在のイギリス政治制度につながる立憲君主制の基礎を築いた。 ウィレム3世が具体的に何をしたかというと、けっして何か特別なことをしたわけでなく、議会の決定にきちんと従っただけである。具体的には、ウィレム3世は「権利の宣言」を承認して、権利の章典として立法化した。こうしてイギリスで立憲君主制が確立した。 なお、イギリスで責任内閣制を確立させたのは、ウィレム3世ではなく、ウィレム3世のあとのアン女王のあとの国王ジョージ1世である。ジョージ1世は40歳すぎになってからドイツに連れてこられた事もあり、首相ウォルポールに政治の実務を任せ、ウォルポールに議会の対応を任せた。 - ※ (インターネット上のさまざまな記事によると、)このウォルポールがとても有能だったらしく長期政権を20年間にわたって築いた。にもかかわらず、ついに選挙の結果、ウォポールの政権が議会で議席を大幅に減らした時、ウォルポール内閣はいさぎよく退陣したので、それ以降、イギリスの内閣は、議会の議席で反対多数になれば、その内閣は辞任すべき、という慣習が生まれたとされる。 - ※ 要するに、ジョージ1世とウォルポールが有能であり、現在のイギリス議会でも通用するような責任内閣制の方法を、彼らの時代に築きあげた。 革命前の状況 イギリスでは16世紀、農村の大地主が経済への影響力を強めてきた。イギリスにおける16世紀ごろの農村などの大地主のことをジェントリ(gentry)という。 また、農村では、それまで共有地とされてきた耕地や牧羊地が、大地主の所有物になる囲い込み(エンクロージャー、enclosure)が行われ、農民が土地を失った。そして、その囲い込みされた農地で、羊毛や毛織物などの生産が増大した。 宗教では、ヘンリ8世がイギリス国教会を設立したが、1553年に即位したメアリ1世がイギリスのカトリックを復活させた。そして、1558年に即位したエリザベス1世が、プロテスタントとカトリックを折衷させた内容になるようにイギリス国教会を改革した。 このエリザベス1世の時代にスペインの「無敵艦隊」をやぶった。 イギリス革命 エリザベス1世の死後、1603年にジェームズ1世が即位し、ジェームズ1世は王権神授説をとなえ、議会を無視して新税を取り立てた。 このため、国民の反発が起こり、国民は議会を支持した。 そして、1628年に議会から権利の請願(けんりのせいがん)が提出され、議会の同意なしの課税をしない事と、法によらない逮捕をしない事を、国王に求めた。 しかし、一行に国王の政治は変わらず、ついに1642年に反乱が起き内戦に発展した。内戦では、王党派と独立派が対立した。独立派の指導者クロムウェルの統率のもと、独立派の軍隊(「鉄騎隊」)は王党派との戦いに勝利し、1649年に当時の国王チャールズ1世は処刑され、さらに穏健派である長老派を追放し、こうしてイギリスで共和政が樹立した。 このような、1640年ごろからのイギリスでの革命をイギリス革命という。また、ピューリタンが革命に深く関わったとして、イギリス革命のことをピューリタン革命ともいう。 イギリスは、自国経済保護のために、植民地とイギリス本土とを往復する貿易船はイギリス国籍か原産国のものに限るとする航海法を1651年に制定した。この航海法によって、それまで中継貿易をしていたオランダは経済的打撃を受けたので、イギリスとオランダは対立し、1652年にイギリス=オランダ戦争が起きた。 この戦争に対処するためとして、クロムウェルは1653年に終身の護国卿(ごこくきょう)となり、クロムウェルは事実上の独裁者となり、軍事的な独裁政治を行った。 そのためイギリス国民の不満が高まり、クロムウェルの死後は、1660年に先王の子が亡命先のフランスからイギリスに帰国して、その帰国した先王の子がチャールズ2世として迎えられ、イギリスで王政が復活した(王政復古)。 名誉革命 王政復古でチャールズ2世は王位についた。だが、やがてチャールズ2世は議会と対立し、カトリックを優遇し、また専制政治を行うようになった。 - ※ チャールズ2世がピューリタン革命中に亡命していた先のフランスは、カトリック勢力圏であり、フランスのルイ14世もカトリック信者である。チャールズ2世のカトリック優遇は、推測だが、もしかしたらフランスとの外交的な関係によるものか? - ※ 帝国書院の検定教科書でも、チャールズ2世のカトリック信仰はフランスの影響があると言及している。 議会はこれに対抗して審査法(しんさほう、Test Act)を73年に制定し、国教徒以外の信者が公職につく事を禁じた。 また議会は人身保護法(じんしんほごほう、Habeas Corpus Act)を制定し、不当な逮捕を禁じた。 このころ議会は活発化し、議会の主要な政党は、王権を尊重するトーリ党と、王権に批判的なホイッグ党との、2つの大政党に議会の勢力は分裂した。 そしてジェームズ2世が即位し、ジェームズ2世もまたカトリックを優遇したとして、両党はオランダ総督であったウィレム3世をまねいた。 - ※ 1672年から1678年にかけてオランダはフランスと戦争をしており、フランスとオランダは敵対関係にあった。つまり、イギリスがオランダ総督を受け入れる事は、事実上はオランダとイギリスによる同盟を意味し、反フランスのための同盟だろう、と解釈できるだろう。 そしてジェームズ2世はフランスに亡命した。 翌89年、ウィレム夫妻は議会がまとめた「権利の宣言」(Declaration of Rights)を承認し、ウィリアム3世とメアリ2世として共同で王位に即位し、「権利の宣言」を権利の章典(Bill of Rights)として立法化した。こうしてイギリスで立憲君主制が確立した。 イギリスのこの事件は、流血をともなわずに議会の権利向上が行われたので「名誉革命」(めいよかくめい、Glorious Revolution)と呼ばれた。 - ※ なお、ピューリタン革命から名誉革命の一連の政変をまとめて「イギリス革命」ともいう。 ついでメアリの妹アンが即位し、1707年、イギリスはスコットランドを併合し、グレートブリテン王国(Great Britain)が成立した。 1714年、アンが死去してスチュアート朝が断絶したので、アンの遠縁にあたる、ドイツのハノーヴァー選帝侯がイギリス国王として迎えられ、ジョージ1世として即位し、こうしてハノーヴァー朝が開かれた。 ジョージ1世は英語が話せなかったこともあり(※ ジョージ1世は40歳をすぎてイギリスに来た)、議会にはあまり干渉せず、「国王は君臨すれども統治せず」の原則が確立した。そして、ホイッグ党出身の首相であるウォルポール(Walpore)が政治の実務を行うようになり、内閣は国王に対してではなく議会に対して責任を負うとする責任内閣制が確立した。 - ^ 『ジーニアス英和辞典 第4版』、大修館書店、第3刷発行 2008年4月1日、P.1446、 petition の項目
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高等学校世界史B/イスラーム世界の形成と発展 1055年にはトルコ系のセルジューク朝がバグダードに進出し、スルタン(Sultan)の称号をさずけられる。 またセルジューク朝は、シリアやアナトリアにも進出した。これがビザンツ帝国を圧迫したので、のちに、キリスト教諸国による十字軍遠征の原因の一つになる。 エジプトのイスラーム 11世紀末、第1回の十字軍がシリアに侵攻し、イェルサレムが占領される。 エジプトでは、1169年、クルド人のサラディン(Saladin)(正確には「サラーフ=アッディーン」)が、ファーティマ朝を滅ぼして、1169年にスンナ派のアイユーブ朝(Ayyub)を樹立した。 サラディンは、十字軍に対抗することをとなえた。 1187年、アイユーブ朝は十字軍との戦いになり(第2回十字軍)、アイユーブ朝は十字軍をやぶり、イェルサレムを奪回する。 エジプトでは、アイユーブ朝が、1250年にマムルークによるクーデターによって倒され、マムルーク朝が樹立した。そしてアイユーブ朝は、それまでモンゴル軍がシリアに侵入していたが、モンゴル軍をやぶる。 北アフリカ・イベリア半島のイスラーム 11世紀なかば、北アフリカの西サハラの先住民ベルベル人のあいだで、イスラーム教への改宗が急にすすむ宗教運動が起きた。そして彼等により、ムラービト朝(Murabit)が成立された。ムラービト朝の経済は、サハラの交易を保護し、繁栄した。また南のガーナ王国を、ムラービト朝は滅ぼした。そしてイベリア半島にも、ムラービト朝は進出した。 さらに12世紀に、ムラービト朝に対抗してムワッヒド朝(Muwahhid)が成立した。そしてムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、北アフリカとイベリア半島を支配した。ムワッヒド朝の経済は、サハラの交易を保護し、繁栄した。 ムラービト朝とムワッヒド朝の両王朝とも、マラケシュ(Marrakesh)を首都とした。 - イベリア半島の領土喪失 その後、13世紀にキリスト教諸国がイベリア半島の奪回し始めると、グラナダのナスル朝が1492年まで残る。そして1492年、ナスル朝はスペイン王国に滅ぼされ、ムスリムはイベリア半島の領土を失う。 アフリカのイスラーム化 - 西アフリカ サハラ以南の西アフリカでは、7世紀ごろからガーナ王国が成立しており、金をたくさん産出していたので、北アフリカの岩塩などとの交易によって栄えていた。 1076年ごろのムラービト朝による侵入でガーナ王国は征服され、衰退した。その後、13世紀にマリ王国(Mali)が起こり、14世紀にはマリ王国が栄え、15世紀にはソンガイ王国(Songhai)が栄えた。マリ王国やソンガイ王国は、ムスリムとの交易とのため、イスラームを受容した。 マリ、ソンガイの両王国とも、ニジェール川の中流にあるトンブクトゥ(Tombouctou)が交易の中心都市として栄えた。 - 東アフリカ いっぽう、アフリカ東海岸では、アラビアとの海上交易によって栄え、アフリカのバンドゥー系の言語に、アラビア語の影響を受けたスワヒリ語が共通語として用いられた。 - アフリカ南部 ジンバブエを中心に、モノモダバ王国が栄えた。 インド・東南アジアのイスラーム 10世紀なかばにアフガニスタンでトルコ系のガズナ朝がおきた。さらにのちにガズナ朝から独立したゴール朝(Gohr)がおきた。ゴール朝が北インドに侵攻をくりかえした。 13世紀はじめに、北インドでイスラム系の諸王朝ができた。これら北インドの諸王朝が都市デリーを中心にした王朝だったので、一般にデリー=スルタン朝(Delhi Sultan)という。
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高等学校世界史B/イタリア統一とドイツ統一 イタリアの統一 ウィーン会議後のイタリアは、国土が統一されずに幾つかの国によって分裂しており、サルディーニャ王国、両シチリア王国、教皇領など、いくつかの小国に分裂していた。また、ヴェネチアやロンバルディアなどの北イタリアはオーストリア領に併合されていた。 (※ 最終的にサルディーニャ王国がイタリア統一をすることになる。なお、当時のサルディーニャ国王はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。) このようにイタリアは小国に分裂していたが、しかしサルディーニャ王国は首相カブールのもと1859年、ナポレオン3世と秘密同盟をむすんでオーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得した。翌1860年、中部イタリアを併合した。 いっぽう南部イタリアでは、「青年イタリア」のガリバルディが両シチリア王国を占領し、サルディーニャ王国に献上した。 この結果、教皇領を除いてイタリアが統一され、1861年にイタリア王国が成立し、サルディーニャ国王がイタリア国王となった。 その後、1866年に普墺戦争(「ふおう せんそう」、プロイセン・オーストリア間の戦争)でイタリアがプロイセンを助けたことの見返りとして、イタリアは(オーストリア領だった)ヴェネチアを獲得した。 また1870年、イタリアは教皇領を併合して、イタリア王国は首都をローマに遷都して、こうしてイタリア統一は完了した。 しかし北部と南部のあいだに経済格差があり、北部は工業化が進んでいる一方、南部は進んでおらず貧しく、イタリア南北の経済格差が残った。 また、教皇は「ヴァチカンの囚人」(しゅうじん)と自称し、イタリア王国と反目(はんもく)した。 また、トリエステや南チロルはオーストリア領にとどまり、イタリアはこれらの土地を「未回収のイタリア」と呼び、イタリアはオーストリアと対立した。(のちの第一次世界大戦で、「未回収のイタリア」がイタリア参戦の口実になる。) ドイツの統一 17世紀前半のドイツでは、プロイセンのほか、小国が分立していた。 そのため、ドイツ地方で商品を運送をするたびに国境ぞいで関税をとられて非効率だったので、1834年にドイツ域内で関税を撤廃するためのドイツ関税同盟がプロイセンを中心に結成し、経済では早くから協力しあった。なお、この関税同盟じたいは、ドイツの国土統一を目指したものではない。 さて、1861年にプロイセン国王としてヴィルヘルム1世が即位した。そして1862年にヴィルヘルム1世はビスマルクを首相に任命した。 そしてビスマルクの政治により、軍事力が強化された(鉄血政策)。 - (ビスマルクが演説で「現在の問題は、演説や多数決によってではなく ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― 、鉄と血によってのみ解決される。」と演説したことから、『鉄血政策』と言われる。なお、1848年はフランクフルト国民議会の年。) 1864年、プロイセンはオーストリアとともにデンマークを攻めて、勝利し、シュレスヴィヒ・ホルスタイン両公国をうばった。 その後、両公国をめぐってオーストリアと戦って(プロイセン・オーストリア戦争)、プロイセンが勝利した。 そして(オーストリアを盟主とする)ドイツ連邦は解体され、かわりに1867年にはプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が結成された。 - ※ いっぽう、オーストリアは北ドイツ連邦から除外され、ドイツ統一運動からも除外されたので、ハンガリーと手を組むために1867年にハンガリーを王国とみとめ、オーストリア=ハンガリー帝国を築いた。 プロイセンは1870年にはフランスと戦争して、ナポレオン3世を捕らえて捕虜にし、パリを包囲した。 そして1871年、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が成立した。 翌年の講和条約では、フランスはアルザス=ロレーヌ地方をドイツにゆずる事になり、また、フランスは莫大な賠償金を課せられた。 - ※ アルザスとロレーヌは、ドイツとフランスの国境地帯にある地域で、鉄鉱石や石炭の産地でもあるため、歴史上、独仏の両国がたびたび領有を争った。 フランス第二帝政の崩壊と第三共和政 普仏戦争でナポレオン3世が捕虜になったので、フランスの帝政は崩壊した。 臨時政府が建てられ、プロイセンとの講和を望む臨時政府と、戦争継続を望む一部のパリ市民とが対立した。 そして臨時政府がプロイセンと講和条約を結ぶと、これに反対する戦争継続派の市民は自治政府を建てた。このときのフランスの戦争継続派の自治組織のことをパリ=コミューンという。パリ=コミューンの構成員は、主に中下層の労働者などの民衆だった。 だがパリ=コミューンは弱く、たった2か月ほどで、プロイセンの支援を受けた臨時政府によって倒された。 その後、フランス国内では将来の国家体制のありかたをめぐって王党派と共和派が対立したが、75年に共和国憲法が制定されるとともに共和政に移行し、第三共和政の基礎となった。
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高等学校世界史B/イラン民族 イラン民族の国家 アレクサンドロスの没後 アレクサンドロスが没すると、彼の帝国は分裂し、イランの地方は、ギリシア系のセレウコス朝(Seleukos)に支配された。 前3世紀に、アム川のギリシア人が独立してバクトリア(Bactria)を建国した。 パルティアとササン朝 セレウコス朝が弱体化していき、前3世紀にイラン北部でイラン系遊牧民がアルサケス朝パルティア(Parthia)をおこした。 パルティアはローマとしばしば対立しながらも、ローマと中国とを結ぶ東西交易でもうけた。 前漢の司馬遷(しばせん)の『史記』に「安息」(あんそく)と書かれているのは、「アルサケス」朝パルティアのことだと考えられている。 パルティアの滅亡の経緯については、紀元後の224年にササン朝ペルシアのアルダシール1世(Ardeshir I )によって滅ぼされる。アルダシール1世が、ササン朝ペルシアの建国をした1代目である。 ササン朝 ササン朝2代目皇帝のシャープール1世(Shapur I)は、ローマ軍をやぶって、ローマ皇帝ウェレリアヌス(Velerianus)を捕虜とした。 ササン朝は、5世紀後半に中央アジアの遊牧民エフタルによる侵入を受け、一時的に弱体化したが、6世紀にホスロー1世(Khosro I)がトルコ系遊牧民( 突厥(とっけつ) )と協力してエフタルを滅ぼした。 しかし、7世紀の642年にニハーヴァンドの戦いで新興のイスラム勢力との戦いにやぶれ、651年にササン朝は滅ぼされた。 ササン朝の宗教 ササン朝の宗教は、ゾロアスター教を信仰していた。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』(Avesta)が編纂された。 3世紀に、バビロンでイラン人(ペルシア人)のマニ(Mani)が、ゾロアスター教をふくむ様々な宗教(キリスト教や仏教など)を融合して、マニ教(MAnichaeism)ができた。マニ教は異端として、ササン朝では弾圧された。北アフリカや中央アジアや中国などにマニ教が広まった。 ササン朝の工芸品は、日本にも伝わり、正倉院に、その工芸品がある。
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高等学校世界史B/インドのムガル帝国 ティムールの子孫バーブール(位1526〜30)が北インドに侵入し、1526年にロディー朝を倒してムガル帝国の基礎を建てた。 ムガル帝国を実質的に建国した人物は、(ムガル帝国の)第3代皇帝アクバル(位1556〜1605)であり、アクバルが北インドを統一して、帝国の中央集権化をすすめた。 また、アクバルは全国の土地を測量させて検地を行い、徴税制度を整えた。またアクバルは、ヒンドゥー教徒の支持を得たいなどの目的もあってか、アクバルは、非イスラーム教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止した。このようにしてアクバルは、イスラーム教とヒンドゥー教の融和につとめた。 また、アクバルは首都をアグラ(Agra)に移した。 ムガル帝国は第6代アウラングゼーブ(位1658〜1707)の時代に最大の領土になった。しかし、アウラングゼーブは、イスラーム教とヒンドゥー教の融和をやめて、イスラーム教ばかりを優遇した。そのためアウラングゼーブは、非イスラーム教徒への人頭税(ジズヤ)を復活し、ヒンドゥー教徒を破壊させ、このように非イスラーム教徒を圧迫し、このため各地で農民反乱が起きた。 また、17世紀にはヒンドゥー国家のマラーター王国が誕生して、ムガル帝国に対抗した。 さらに、アウラングゼーブのイスラーム原理主義的な政策が、シク教徒の反発をまねき、西北インド(パンジャーブ地方)ではシク教徒が反乱を起こした。 アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は衰退し、解体に向かっていく。 インド=イスラーム文化 15〜16世紀のインドでは、ヒンドゥー教とイスラーム教を融合させた新しい宗教をつくる動きが起きた。 まず、宗教家カビールによって、ヒンドゥーの神もイスラームの唯一神も、本質的には同じ神の、別々のあらわれかたにすぎないとする思想が登場した。 つづけて、宗教家ナーナクによって、カーストの否定をして、偶像崇拝も否定する、一神教のシク教が、開かれた。 北インドでは、インドの地方語にアラビア語・ペルシア語のまざったウルドゥー語が登場してきた。 - ※ なお、ウルドゥー語は、現在のパキスタンの公用語である。 建築においても、インド様式とイスラーム様式の混合が起きた。タージ=マハルは、インド=イスラーム様式の建築だとされる。
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高等学校世界史B/インドの植民地化 インド大反乱とインド帝国 ムガル帝国が衰退すると、インド各地で地方勢力が蜂起して、利権を争った。 この頃、イギリスやフランスがそれぞれ別個に東インド会社の経営によってインドに進出しており、インドの紛争に介入し、英仏が利権を争った。 1757年のプラッシーの戦いでは、フランスはベンガル太守軍を支援したが、イギリスはベンガル太守軍をやぶった。 そして1765年にイギリスがベンガル地方の徴税権を獲得したことをきっかけに、イギリスの東インド会社の方針は、インドの植民地拡大の方針に変わっていく。 その後、イギリスは、インドの地方勢力との抗争(南部のマイソール戦争、中西部のマラータ戦争、シク戦争)に勝利し、最終的にインドの大半を植民地にした。 1857年、イギリス東インド会社の雇っていた傭兵集団(シパーヒー)が、(イギリス支配に対する)反乱を起こすと、反乱はまたたくまにインド全土に拡大した (インド大反乱)。 シパーヒーは、名目だけの存在となっていたムガル皇帝を擁立して戦ったが、反乱はイギリス軍によって1859年には鎮圧されてしまい、ムガル皇帝は流刑(るけい)にあい、ムガル帝国は滅亡した。 その後インドは1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることになり、イギリス支配下のインド帝国になった(1947年の独立まで、インド帝国はつづく。)。 そしてイギリスは、統治のため、宗教対立やカースト制度などを利用し、インド人同士の団結をふせぐ方針で統治を行った(特定の勢力だけを不公平に優遇することで、インド現地人の不満がイギリスに向かわずに、異なる宗教や異なるカーストのインド人にむかうように仕向けたので、このような支配の手法を「分割統治」という。)。 (なお、「分割統治」と名前の似ている「間接統治」はインド支配ではなく、東南アジア支配でイギリスが用いた手法。)
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高等学校世界史B/ウィーン体制と1848年の革命 ウィーン会議 ナポレオンがエルバ島に流された直後の1814年、ヨーロッパ諸国が旧来の保守的・復古的な政治体制を回復しようとして、ウィーンにあつまり国際会議を開いた。(つまり、ヨーロッパ諸国の政府は、自由主義的な運動を弾圧しようとした。) この1814年のウィーンでの国際会議はウィーン会議と言われる。ウィーン会議はオーストリアの外相メッテルニヒの主導で行われた。 ヨーロッパ諸国は、勢力均衡を重んじた。 これらの結果、スイスの永世中立が認められた。また、ドイツではプロイセンとオーストリアをはじめとする35か国と4自由都市からなるドイツ連邦が形成された。また、ポーランド分割は追認され、ロシア皇帝がポーランド王を兼任することになった。 ヨーロッパ諸国政府は国際協調を重んじたので、国民主義(ナショナリズム)的な運動は弾圧・抑圧された。 このような、ウィーン会議で認められた(ヨーロッパにおける)国際秩序のことをウィーン体制という。 つまり、ウィーン体制では、以下のようになった。 - 国家の枠組みにおいて、スイスは永世中立国になった。また、ドイツ連邦が形成された。 - 政治運動において、ナショナリズムと自由主義が弾圧・抑圧された。 また、フランスやスペインでは、(一時的に)ブルボン王朝が復活した。(しかし、後述するように、王朝が倒れる。) ブルボン王朝の復活の理由は、ウィーン会議で、フランスのタレーラン外相が「正統主義」を主張したことにもとづく。 ウィーン会議の後 そして、1815年9月に(革命の再発を恐れるための同盟か、)ロシアの提唱により神聖同盟が結成された。 同1815年11月には、イギリス・プロイセン・オーストリアとロシアの四国同盟が結成された。(なお1818年には四国同盟にフランスが加わり、五国同盟となる。) ナポレオンが失脚しても、ヨーロッパ各地で住民が政府に改革を要求する運動は、おさまらなかった。 ドイツでは学生たちのブルツェンシャフト運動が起き、イタリアでは秘密結社カルボナリの蜂起が起き、ロシアでは貴族が改革を求めるデカブリストの反乱が起きたが、いずれも鎮圧されてしまった。 - ギリシア独立戦争 また、オスマン帝国の支配下にあったギリシアでは、1821年、ギリシア独立戦争が始まった(トルコの支配下からギリシアが独立しようとする戦争)。 ギリシアによる独立運動に対して、オーストリアは中立を維持したが、ロシア・イギリス・フランスはギリシア独立運動を支持した。 そしてトルコが敗戦し、最終的に1929年にトルコはギリシア独立を承認させられ、1930年のロンドン会議で国際的にもギリシア独立が承認された。 7月革命と1848年革命 さて1848年にフランスでまた革命が起き、さらに革命の影響により周辺のドイツなどの国でも様々な議論を引きおこした。 ではまず、フランス側の経緯を見ていこう。 経緯は、1830年ごろに、さかのぼる。 ウィーン会議から十数年後、フランスでは、ブルボン王朝による復古的な政治に、フランス国民の反感が高まり、1830年7月に反乱がパリで起き、革命になった。この革命を7月革命という。国王(シャルル10世)は亡命に追い込まれ、ブルボン王朝は倒れた。 革命政権は、かわりに王族(オルレアン家)のルイ=フィリップをフランス国王にした(七月王政)。 また、ベルギーはオランダ支配下だったが、七月革命の影響を受けてベルギーの独立運動が活発化し、同年にベルギーはオランダから独立した。 いっぽう、ポーランドでも独立を求める蜂起が起きたが、ロシア軍によって鎮圧された。 イタリアでもカルボナリの蜂起が起きたが、鎮圧された。 七月革命からさらに十数年後の1848年、フランスのパリで革命が起きた(二月革命)。七月王政下の政治では、富裕層だけの制限選挙が行われたこともあり、労働者が反感を抱いていたので、二月革命では労働者が革命を支持した。 革命によって国王は退位し、フランスは共和制になり、4月に男性普通選挙が行われた(第二共和政)。 (このころ、経済思想では社会主義思想が登場していた頃だったので、)4月の選挙には社会主義者も立候補していたが、しかしフランス国民の多くは社会主義によって土地や財産をうしなうことを危惧したので、投票結果では穏健派が支持をあつめた。社会主義者はこの選挙で大敗した。 パリの労働者はこの選挙結果に不満をいだき蜂起したが(六月蜂起)、鎮圧された。 そして1848年12月の大統領選挙ではナポレオン1世の甥(おい)であるルイ=ナポレオンが大統領に選ばれた。 1851年に彼ルイ=ナポレオンはクーデターを起こして独裁権をにぎり、翌1852年に皇帝になってナポレオン3世と称した(第二帝政)。 二月革命はフランス国外にも波及した。1848年3月にウィーンで反政府暴動が起こり、メッテルニヒは失脚しイギリスに亡命した。また、オーストリア帝国は多数の民族をかかえてたこともあり、(当時、オーストリアに支配されていた)イタリア・ベーメン(ボヘミア)・ハンガリーで民族運動が活発化した。ヨーロッパ各地で1848年に起きた、これら一連の革命を1848年革命という。 - (※ 範囲外:) なお主に、オーストリア王室のハプスブルク家の領地でこの1948年の民族運動の反乱が起きたのであり、当時のベーメンとハンガリーはハプスブルク家の領地。 ドイツでも1848年の5月にフランクフルト国民議会が開かれ、プロイセンによるドイツ統一が議論されて、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」の対立になって、議会はプロイセン王をドイツ皇帝として推薦したが、プロイセン王が議会を嫌って拒否したので、ドイツ統一は失敗した。そしてプロイセン王は翌1849年、国民議会を軍事力で解散させた。(なお、ドイツ統一は最終的に1871年になる。この1848年の議論は結局、あまりドイツ統一には影響を与えられなかった[1]。) - (※ 範囲外:) - ※ 「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」とは、ドイツを周辺国と統一する際に、オーストリアを含めるかどうかという方針の違い。大ドイツ主義のほうが、オーストリアを含める方針。なお、結果的に、のちのドイツ統一は、小ドイツ主義の方針によって達成された。 このようにヨーロッパ各地でナショナリズムの高揚にもとづく出来事の起きた1848年の春のことを「諸国民の春」という。 なお、マルクスが『共産党宣言』を発表したのは、この1848年である。 社会主義思想 産業革命の進展によってイギリスは人口が増えたが、イギリスの労働者はとても貧しかった。イギリスの工場主オーウェンは労働者の待遇改善を世間に訴えたが、失敗した。イギリス政治では労働環境の改善のため、1833年に工場法が制定され、この工場法によって児童労働の制限や労働時間短縮などの規制が行われた。 また、ヨーロッパ各地で資本主義を見なおす様々な思想をとなえる思想家があらわれた。 フランスのサン=シモンやフーリエは、生産を(資本家による管理でなく)国家管理すべきだというような内容の、社会主義的な思想を唱えた。 ドイツのマルクスとエンゲルスは、労働運動と社会主義思想をむすびつけ、1848年に『共産党宣言』を発表し、将来的な社会主義革命を予想した。 また、マルクスらは、(資本家に抵抗するために)労働者は国際的に団結すべきであると主張した。 - (※ 検定教科書の範囲内:)なお、マルクスは自身の言説を「科学的社会主義」と称し、いっぽうそれ以前の他人の社会主義思想を「空想的社会主義」と称した (※ ← 実教出版などに記載あり)。 しかし、彼マルクスのいう「科学的」とは、単にかれがそう自称しているにすぎない。(※ マルクスは数学が苦手だったようであり、マルクスの経済学説は まったく数理的でなく、ぜんぜん「科学」に値しないのが実情である。) 革命と芸術 この時代は、画家や作曲家など多くの芸術家が、革命や独立運動などに関する作品を残している。 作曲家ショパンはポーランド人であり、彼の作曲した『革命のエチュード』は、ポーランド独立運動をたたえる曲であると言われる。 (※ 範囲外: ) ドイツの作曲家ベートーベンの作曲した『英雄』は、政治に登場したばかりのナポレオン(皇帝即位の前)を改革者として賞賛した作曲であると言われる。 パクス=ブリタニカ ウィーン体制そのものは自由主義を目指したものではなく、むしろ旧来の秩序や伝統を復活させる側面のあった体制だったが、しかしヨーロッパ各国の民衆には自由主義の思想が高まった。 なのに、ドイツやフロシアなどでは、改革を求める運動は弾圧されてしまった。 しかしイギリスでは、政府が議会を通じた改革に応じ、(下記のように)自由主義的な政策の改革が行われる。 イギリスでは1820年ごろから、自由主義的な改革が行われるようになった。 背景事情として、ナポレオン戦争以前のころまではイギリスは重商主義的な政策のために種々の規制的な政策を行ってきたが、しかしウィーン体制の頃には産業革命の成果によってイギリスの経済力も高まり、資本家などが自由貿易や規制緩和を求めた、という背景事情がある。 1828年には審査法(官吏を国教徒に限定する法律)が廃止され、それにともない翌1829年にはカトリック教徒解放法が制定され、国教徒以外でも公職につけるようになった。 また、東インド会社による貿易独占が、参入を求める(イギリス国内の)資本家たちから批判され、1813年には東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、1833〜1834年には東インド会社の中国貿易独占権が廃止された。 そして(労働組合の結成も許可されるようになっていき)、1824年には団結禁止法が廃止されて、労働組合が認められる。 イギリス政治では労働環境の改善のため、1833年に工場法が制定され、この工場法によって児童労働の制限や労働時間短縮などの規制が行われた。 同じくイギリスでは1833年に奴隷制が廃止された。(その後、フランスでも1848年に奴隷制が廃止。アメリカ合衆国の奴隷解放よりも早い。アメリカの南北戦争は1861〜65年。アメリカの奴隷廃止は、べつに世界初ではない。) また、1832年に法改正では、選挙権が都市の中産層の成人男性にも拡大された(第一回選挙法改正)。同時に、有権者の極端に少ない腐敗選挙区も整理された。その後、選挙権を与えられなかった男性たちが男子普通選挙を求める人民憲章(People′s charter)をかかげて運動を起こしたが(チャーティスト運動)、成果は無かった。(イギリス初の男子普通選挙は1918年。) そして選挙権を獲得した資本家たちが、(旧来の地主などの)既得権益を保護するための規制の廃止を主張したこともあり、1840年代には穀物法や航海法が廃止された。 (それまで貿易を統制していた)航海法の廃止により、イギリス側の自由貿易が達成された。(なお、これに先んじて30年代には東インド会社の貿易特権が廃止されている事からも分かるように、おそらく40年代の航海法廃止も同様の方針の出来事であろう。) なお「穀物法」とは、輸入農産物に高い関税をかける法律。つまり地主を保護する法律。イギリスはその穀物法を1840年代に撤廃したのだから、つまり地主の保護をやめ、それyりも資本家を保護することにイギリスが政策を転換したわけである。(実教出版の「歴史総合」の見解) イギリスは自国だけでなく他国にも自由貿易を要求した。(そのため、のちにインドや中国も自由貿易を要求される。アヘン戦争などの一因になる。) (そして「1848年革命」でウィーン体制は崩壊。) ウィーン体制の崩壊からしばらくイギリスは、実質的にヨーロッパで覇権的な地位にあった国は、イギリスであった。 イギリスでは自国をゆるがすような政変もなく、産業革命によって工業・経済において他国よりも優位的な地位にたち、また、アジアなどの植民地を、他のヨーロッパの大国よりも早く獲得した。(アヘン戦争は1840年。インドも同時期に実質的にイギリスの植民地になっていた。) しかも、イギリスの敵だったナポレオン1世は失脚したあとの時代である。 このようにして、18世紀なかば頃には既に、イギリスが国際社会の覇権をにぎっていた。このような、近代におけるイギリスの覇権のあった時代のことを「パクス=ブリタニカ」と呼ぶ( 古代ローマの覇権による平和をあらわす「パクス=ロマーナ」になぞらえた表現。「パクス」とは「平和」の意味)。 「パクス=ブリタニカ」の期間は、上述したように18世紀から第一次世界大戦までの期間がおおむね「パクス=ブリタニカ」の時代に相当にする。(なお、第一次世界大戦後は、アメリカが経済・国際政治とも覇権的な地位になり、「パクス=アメリカーナ」と呼ばれる。) なお、ヴィクトリア女王の在位期間が1837〜1901年であり、上述のようにイギリスの覇権が繁栄した期間と重なっているので、日本では「ヴィクトリア時代」という言葉を19世紀イギリスの黄金時代の意味で使う場合もある。 なお1851年には世界初の万国博覧会がイギリスのロンドンで開かれる。 なお、イギリスでは1860〜1880年ごろに政党の再編が進んで、二大政党化が進んだ。二大政党のいっぽうは自由党で、もういっぽうは保守党である。 - ^ メアリー・フルブルック『ケンブリッジ版世界各国史 ドイツの歴史』、高田有現・高野淳 和訳、2005年8月10日 初版第1刷発行、171ページ
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高等学校世界史B/エジプト文明 この項目では、高等学校世界史Bにおける古代エジプト文明について概説する。太字の場所は重要事項である。 概要 エジプトはアフリカの右端に位置し、国土には世界最長のナイル川が流れている。ナイル川の水は定期的に氾濫し、その水を引く灌漑農業によりエジプトは栄えた。これをギリシャの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの また、毎年のナイル川の増水の時期を予測するために天文観測技術が発達し、1年を365日とする太陽暦がつくられた[注釈 1]。また10進法[注釈 2]が用いられ、農地の配分などのため測地術・幾何学などの数学が発達した。 用いられた文字ヒエログリフ (Hierogryph, 神聖文字)は、崩し字であるヒエラティック (Hieratic, 神官文字)およびデモティック (Demotic, 民衆文字)へと発達し、デモティックはアルファベットの基礎となった。 歴史 エジプトは上エジプト (Upper Egypt)と下エジプト (Lower Egypt)から成り、エジプトという国はこの2つの国が統一されたものであるという意識は3000年のエジプトの歴史の中で常に存在した。 統一国家以前、エジプトでは氾濫したナイル川の水を効率的に農業に生かすための大規模な灌漑・治水工事を実行する必要が発生したため、共同体の権力は責任ある一人の人物に集中するようになった。これが王の原型である。また、紀元前3000年以前に自治体である州 (ギリシャ語でノモス)が成立した[注釈 3]。 紀元前31世紀ごろ、上エジプトの王ナルメルが下エジプトを征服し、ナイル川下流のメンフィス[注釈 4] (Memphis)を都とする統一王国を建てた。 エジプトには合計して30または31の王朝 (Dynasty)があったがその中で特に繁栄した時代を古王国時代、中王国時代、新王国時代という。 古王国 都:メンフィス 古王国時代 (前2686年頃〜前2181年頃)[注釈 5]では王の権力が高まり、エジプトは最初の繁栄期を迎えた。例として、クフ(Khufu)王の時代には巨大なギザの大ピラミッド(Pyramid)が建造された。 中王国 中王国時代 (前2055年頃~前1795年頃[注釈 8])末期、アジア系の異民族ヒクソス(Hyksos)がエジプトに流入し、権力が衰えたエジプト王家にとって代わりエジプトを支配した。ヒクソスは、馬と戦車で武装しており、ナイル川下流域のデルタ地帯を中心とする王朝を建てた。 新王国 都:テーベ[注釈 9] 軍備を増強したテーベの王家はヒクソスを撃退し、新王国時代 (前1550年頃~前1069年頃)が開始される。「エジプトのナポレオン」とも言われるトトメス3世は、幾度もシリア・パレスティナ方面へ軍事遠征し、新王国時代最大の領土を築いた。 宗教改革 新王国では、首都テーべの守護神アモン[注釈 10]と、古くからの太陽神ラーとが結びつき[注釈 11]、アモン=ラーという神としてまつられていた。この時、アモン神をまつる神官の権力は増大し、同じく権力を保有する王と対立状態になった。 父王の影響で専制君主的に育ったアメンホテプ4世は主神をアモンからアトン[注釈 12]に変更する宗教改革を行い、従来の多神教を否定した[注釈 13]。 また、アメンホテプ4世はみずからの名を、「アモン神を満足させる者」という意味のアメンホテプから、「アトン神に有益なる者」を意味するイクナートン[注釈 14]へと改め、都もテル=エル=アマルナ[注釈 15]に遷した。また、この時代では体の輪郭を強調する、写実的なアマルナ美術が生まれた。 しかしながら、王の死を経てその息子ツタンカーメン[注釈 16]の時代に、信仰は従来の多神教に戻された。 また、新王国時代にはラメス2世[注釈 17]によりアブ・シンベル神殿をはじめとする数多くの建築物が築かれた。 宗教 古代エジプトの宗教は、多神教であったが、その3000年の間の人々の思想の変化により変化を繰り返したため一概に説明することはできない。しかし、エジプトの歴史を通して太陽神ラー (Ra)は信仰され、王(ファラオ)は太陽神の息子とされた。 エジプト人は霊魂の不滅と死後の世界を信じて遺体をミイラ化させ、埋葬した。また、パピルスに書かれた『死者の書(Book of the Dead)』を副葬品とする場合もあった。死者の書において、画像右端に座っているのは冥界の神オシリス (Osiris)であり、死者は自分の心臓と正義の羽が釣り合うかどうかを判断され、釣り合った場合は楽園へ行けるとされた。 文化 前述のように、エジプトではヒエログリフが用いられていたが、これはフランス人学者のシャンポリオンによって解読された。この解読のきっかけとなったのがナポレオンのエジプト遠征の際に発見されたロゼッタ・ストーンである。この碑文には (画像では上から順に)ヒエログリフ、ヒエラティック、ギリシャ文字の3種の文字で同じ内容が刻まれており、ギリシャ語との対比からヒエログリフは解読することができたのである。 また、パピルス草から作った紙であるパピルス(Papyrus)が発明され、数多くの文学作品がパピルスに書かれた。そのうちいくつかは、現在でも読むことができる[注釈 18]。
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高等学校世界史B/オスマン帝国とエジプト オスマン帝国の没落 「オスマン帝国の没落の時期はいつか?」と言われると、われわれ現代人はついつい、18世紀 中〜後期の産業革命や、18世紀末ごろのフランス革命を連想してしまいがちである。 しかし、じつは17世紀末のころから、オスマン帝国は軍事的には衰退に向かっていた。 オスマン帝国は17世紀末にウィーン包囲をしたが、これに失敗し、1699年のカルロヴィッツ条約によって(それまでオスマン帝国の領有していた)ハンガリーをオーストリアに割譲することになった。 さらに18世紀では、1762年のロシア・トルコ戦争で、オスマン帝国はロシアにやぶれてしまう(ロシアでは女帝エカチェリーナ2世の時代)。 さて18世紀後半に産業革命やフランス革命も終わり、19世紀に入ると、19世紀半ばに1877年のロシア・トルコ戦争で、オスマン帝国は敗北してしまい、クリミア半島の支配権を失った(ロシアではアレクサンドリア2世の時代)。(※ クリミア戦争とは別の出来事。混同しないように。) (「ロシア・トルコ戦争」と呼ばれる戦争は、歴史上、数回ある。) エジプトの自立と挫折(ざせつ) じつは18世紀の西アジアでは、イスラーム教の古い教え(預言者ムハンマドの教えなど)に立ち戻るべきだと主張するワッハーブ運動が起きている。 さてエジプトでは、1798年にナポレオンひきいるフランス軍が侵略にきたが、ナポレオンが去った後、オスマン帝国はエジプトの侵略に対抗するためにムハンマド=アリーをエジプトに送り込んだ。そして、ムハンマド=アリーは1805年にエジプト総督になった。 彼は、軍隊の改革としてヨーロッパ式の手法を取り入れたり等の改革を行った。また、綿花の専売制などの施策を行った。 また、ムハンマド=アリーひきいるエジプト軍は、ワッハーブ運動を滅ぼした。 ギリシア独立運動が起きると、オスマン帝国はエジプトに援軍を要請し、エジプトはオスマン帝国に協力して出兵したので、ムハンマド・アリーは見返りとしてエジプト総督の世襲化を望んだが、しかしオスマン帝国がエジプト総督の世襲制を認めなかったので、1830年代に2度にわたるエジプト・トルコ戦争が起きた。 2度目のエジプト・トルコ戦争の直後の1840年にロンドン会議がひらかれ、エジプト総督の世襲は認められたが、シリアなどをエジプトは手放すことになった。また、このロンドン会議により、エジプトは貿易の不平等条約のもと関税自主権を失い、国内市場を開放することになった。(※ ギリシア独立戦争のときの「ロンドン会議」とは、別の国際会議。) 1849年にムハンマド=アリーは死没した。アリーの死没後、エジプトでは鉄道がひかれたり、1869年にはスエズ運河が開通するなど、土木開発が進んだ。 しかし、このような急激な開発は資金の負担が大きい。なので、エジプトは外債(がいさい)によって、資金調達をした(「外債」とは、国家などが外国から借金すること)。また輸出産業の主力だった綿花の価格がアメリカ産の綿花のヨーロッパ等への輸出攻勢によって、綿花の価格が暴落した。このことによって、エジプトの財政は悪化し、破綻寸前になった。 スエズ運河は、フランス人技師レセップスが提案した。 スエズ運河の開通時、エジプトはスエズ運河の株を持っていた。スエズ運河の当初の大株主は、エジプトとフランスである。しかしエジプトの財政悪化のため、1875年にはスエズ運河のエジプトの持ち株をイギリスに売却した。 こうして、スエズ運河はイギリス・フランスの管理下におかれることになった。さらに翌1876年には、エジプトの国家財政が破綻した。そしてエジプトの財政は、イギリスとフランスの管理下におかれることになった。 このような外国の経済支配に対して、エジプトでは抵抗勢力が活発になり、1881年には軍人ウラービーが反ヨーロッパの改革のために立憲議会の設立をめざす運動を行った。しかし、(債権の回収できなくなることをおそれたのか)イギリスは1882年にエジプトを軍事占領し、エジプトを事実上の植民地にした。 だが、ウラービーたちが運動のさなかに掲げたスローガン「エジプト人のためのエジプト」は、その後もエジプト民族運動の精神になった。 イギリスは以降、アフリカ大陸において、エジプトを起点に、植民地を南に拡大しようとしていく(エジプトはアフリカ東北部にある)。 アフリカの植民地化の進展 じつは1870年代までは、列強によるアフリカの植民地は、沿岸部だけだった。しかし、1880年代ごろから、植民地は内陸部にも拡大していく。 (前の節で上述したように、)エジプトは1880年代に、イギリスの事実上の植民地になってしまった。また、南アフリカのケープは、ナポレオン戦争以降、イギリスの植民地になっていた。 なのでイギリスは、エジプトとケープをつなげようと、植民地を南北に拡大しようとしていき、イギリス植民地でアフリカを南北に縦断しようとしていく。このようなイギリスの植民地拡大の方向性は、(エジプトの)カイロ、ケープタウン、(インドの)カルカッタの頭文字を由来に「3C政策」といわれる。 いっぽう、フランスは1830年代にアフリカ北西部のアルジェリアを獲得して植民地にしており、ここを起点に19世紀後半ごろにはモロッコ(1904年に獲得)やチェニジア(1881年に獲得)などアフリカ北西部に、フランスは植民地を拡大していく。 もっていたフランスは、当初は植民地の拡大の方向をサハラ砂漠一帯の南下方向にしてたが、(アフリカ大陸の「フ」の字型の形状により、行き止まりなので、)さらに植民地を拡大するには東部に植民地を拡大せざるをえず、フランスはイギリスと対立することになる。 さらにドイツでは1890年にビスマルクが皇帝ヴィルヘルム2世と外交政策が対立したことにより解任され、ヴィルヘルム2世が親政を行ったことにより、外交政策が対外膨張主義になり、ヨーロッパ列強のアフリカ植民地の争奪にドイツも参加する。しかし、おくれて植民地争奪戦に参加したドイツの植民地は(英仏と較べて)小さく、アフリカのほとんどの土地は、イギリスまたはフランスの植民地であった。
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高等学校世界史B/オリエントの統一 アッシリアによるオリエントの統一 前2000年〜前1000年ごろにメソポタミアにおこったアッシリア(Assyria)が、最終的に前671年にオリエントを統一することになる。アッシリア人はセム系である。 まず、前15世紀ごろ、アッシリアはミタンニ王国に服属したが、その後独立した。前9世紀ごろにヒッタイトから製鉄技術を取り入れ、鉄製の武器や戦車・騎兵などで武装して強大な軍事力を誇った。 アッシリアは前8世紀に、ニネヴェ (Nineveh) を首都とした。 前671年にエジプトを征服し、全オリエントを統一した。 アッシリア王は征服地を州に区分して、各地に また、支配地には重税を課した。しかし重税と圧政のため、諸民族が反乱し、前612年には都ニネヴェが陥落してアッシリアは滅亡した。 アッシリアの滅亡後、オリエントは4つの王国に分裂し、オリエントでは、エジプト、小アジアのリディア(Lydia)、メソポタミアでは新バビロニア、イラン高原のメディア(Media)の4王国が分立した。 新バビロニアが、ユダ王国を滅ぼした。このとき、ユダ王国のヘブライ人が、バビロンに強制的に連行された(バビロン捕囚)。 リディア王国は、世界ではじめての金属硬貨を発行した。 アケメネス朝によるオリエントの再統一 オリエントを再統一したのは、アケメネス朝ペルシアである。これは、前6世紀に、イラン高原で、インド=ヨーロッパ語系のペルシア人が台頭して建国した国であり、前550年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世 (Kyros II) のときにメディアを滅ぼした。 そしてキュロス2世は、リディア・新バビロニアも征服した。 このとき、新バビロニアによって、バビロンに捕囚されていたヘブライ人が、新バビロニアが滅んだことによって、解放された。このように、アケメネス朝は、ヘブライ人など異民族の信仰には、なるべく干渉せず、異民族の独自の信仰をみとめるという方針であった。 第2代のカンビュセス2世 KamByses II のときに、エジプトを征服した。第3代のダレイオス1世 (Dareios I) のときに、領土が拡大し、西はエーゲ海北岸から、東はインダス川までの、大帝国になった。 服属した被征服民や異民族に対しては、かれらの宗教には干渉せず、かれらの信仰や慣習を尊重するなど、柔軟な措置をとった。被征服民には、貢納や軍役が課された。 アケメネス朝のダレイオス1世 (Dareios I) は、アッシリアの統治方法を受け継ぎ、さらに発展させた。 ダレイオス1世は、各地に知事(サトラップ、satrap)を置き、さらに監察官として「王の目」「王の耳」と呼ばれる直属の監察官を巡回させ、各地を支配した。 また、ダレイオス1世は、陸上での交通網や軍道を整備するため「王の道」(スサ〜サルデス) に代表される道路を整え要所を国道で結び、さらに都スサ (Susa) を中心に駅伝制をしいて中央集権をはかった。 また、アケメネス朝は、貿易や商業の奨励のため、異民族であるフェニキア人やアラム人の商業活動も保護した。また、アケメネス朝は、金貨・銀貨も発行し、多いに商業を発展させた。 さらに、アケメネス朝の公用語には、ペルシア語だけでなく、国際共通語のアラム語も、アケメネス朝の公用語として用いられた。つまり、アケメネス朝の公用語は、ペルシア語とアラム語である。 このように、商業などを重んじる実用的な発想にもとづく支配体制のため、ながく、アケメネス朝の支配が続いた。 前5世紀に、アケメネス朝は、ギリシアに遠征して戦争したが、敗れた(ペルシア戦争)。 前330年、マケドニア(ギリシア)のアレクサンドロス大王の遠征によって、アケメネス朝は敗れて、アケメネス朝は滅亡した。 アケメネス朝の宗教 アケメネス朝の宗教では、宗教改革者ゾロアスターによって創始されたゾロアスター教が信仰された。これは、光の ユダヤ教の教えの一部は、このゾロアスター教を参考にしたと考えられている。また、のちの時代のキリスト教などの神話にも、ゾロアスター教は影響を与えたと考えられている。 ゾロアスター教は火を重んじるので、
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高等学校世界史B/ギリシア世界とオリエント エーゲ文明 エーゲ文明 後述するクレタ文明とミケーネ文明をまとめてエーゲ文明という。 - ミケーネ文明 前1600年ごろから、ギリシア本土で文明が発達し、ミケーネ Mycenae やティリンス Tiryns やピュロス Pylos などの王国が立ち並び、ミケーネ文明が栄えた。これらミケーネ文明の城には城壁があった。ミケーネ文明の王国は戦闘的であるのだろう、と考えられている。ミケーネ文明は、青銅器文明である。ミケーネ文明をつくった人たちは、北方から移住してきたギリシア人たちであった。 ミケーネ文明は前15世紀(前1400年代)にクレタ島を侵略し、のちに小アジアのトロイアにも遠征した。トロイア戦争は前13世紀に起こったようである。 ミケーネ文明には文字があり、粘土板に文字が掘られ、その文字は現代では線文字B(Linear B Script)と呼ばれている。つまり、線文字Bという文字が、粘土板に掘られた。 のちの時代(20世紀)の線文字Bの解読によって、王権が強かったことが、わかっている。 - イギリスのヴェントリス(1922〜56)Ventrisらが、線文字Bを解読した。 なお、この線文字Bは、クレタ文明の線文字A(未解読)をもとに、ミケーネ時代のギリシア人が作ったものである。 ミケーネ文明は前1200年ごろ滅亡したが、原因は不明である。ミケーネ文明の滅亡とともに王宮は破壊され焼け落ち、線文字Bも忘れ去られ、前8世紀までの400年ほどのあいだ、ギリシアには文字がない時代となる。この前12世紀から前8世紀までのギリシアの約400年間は混乱していたようであり、現代の歴史学では、このころのギリシアは「暗黒時代」 Dark age と呼ばれる。 このあいだ、ギリシアにいた人々は、エーゲ海や西アジアなどに移住するようになる。おそらく、ギリシア本土での混乱を避けたのだろう、と考えられている。 なお、古代ギリシア人は方言の違いから、イオニア系、アイオリス系、ドーリア系にわかれる。 また、この時代に、鉄器時代に移行した。 遺跡の発掘 ミケーネ文明の遺跡は、19世紀にドイツのシュリーマン Schliemann が発掘した。前8世紀のホメロスの叙事詩に書かれたトロイア戦争を真実だと信じて遺跡を調査し、トロイア Troia の遺跡やミケーネの遺跡を発掘した。シュリーマンが発掘するより前のころは、ホメロスの叙事詩のトロイア戦争の期記述は空想だろうと思われていた。 なお、クレタ文明の中心地クノッソスを発掘したのは、イギリスのエヴァンズである。 ポリスの形成 前8世紀ごろになると、ギリシア人は丘に神殿を建て、その神殿を中心に、丘のふもとなどに集まって都市をつくって生活するようになった。これらの、神殿のある丘は、アクロポリス acropolis と呼ばれる。また、アクロポリスを中心に集住することをシノイキスモス sinoikismos という。そして、このアクロポリスのある都市および都市国家をポリス polis という。 - まとめると、つまり、ギリシア人は丘アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)し、ポリスといわれる都市国家を建設した。 ポリスには少数の貴族がいて、貴族がポリスの人々を指導していた。丘のふもとにはアゴラと呼ばれる広場があり、そこで談話や議論したり、市場になったりした。 このようなポリスが、海上交易のため、地中海沿岸に多くのポリスが建てられた。 ポリスはそれぞれ独立しており、ポリスどうしが抗争もしていたが、共通の言語と宗教を持っていて、同じギリシア人どうしという民族意識も持っており、異なるポリスと共同でオリュンピアの祭典を4年に1度、行ったりもした。ホメロスの叙事詩 や デルフォイの神託(しんたく) などを、ギリシア人が共有することで、共通の民族意識も持っていた。 また、同じころ、フェニキア文字をもとにギリシア文字のアルファベットが作られて、商業の記録や文学などのための文字として活用された。 ギリシア人は自分たちギリシア人のことを「ヘレネス」(Hellenes)と呼び、ギリシア人以外の異民族のことを「バルバロイ」(barbaroi)と呼んで区別した。 ポリスの発展 ポリスはいくつもあるため、発展の歴史は同じではない。 ほとんどのポリスは王政(王自らが行う政治)だったが、次第に貴族政(貴族による支配)(当時は貴族が政治を独占していた)へと変わっていった。 ポリスは人口増加により耕地が足りなくなり、ギリシア人は植民市(しょくみんし)の獲得に乗り出した。 ポリスの人々の身分には、貴族と平民と奴隷があった。貴族は奴隷を持っていたし、平民も奴隷を持っていた。平民と貴族が市民とされた。 奴隷は市場で売買された。奴隷にされる人は、借財などの債務(さいむ)で財産を失って市民身分から転落した人や、戦争捕虜(ほりょ)などであった。 アテネとスパルタ ギリシアの多くのポリスの中でもとくにアテネとスパルタが有力なポリスであった。 ギリシアの有力なポリスであるアテネ(Athenai)には、奴隷制度があった。 そしてアテネの政治は、市民や貴族による民主制。このように歴史上では、民主制と奴隷制とは矛盾しない。それらは両立可能なのである。 ギリシアの市民の成年男子は、兵士でもあった。重装歩兵(hoplitai)の密集隊をファランクス(phalanx)という。戦争では、この重装歩兵の密集隊による攻撃が有力だった。つまり戦争では、ファランクスが有力だった。 ちなみに武器や鎧、盾などの装備は自腹である。総額凄い高かったらしい。 アテネの守護神は女神アテナ。 - スパルタ=統制経済+軍国主義 さて、ドーリス人のスパルタ(Sparta)は近隣を侵略し、支配された地域の被征服民を、隷属農民とした。このように、スパルタに支配され、隷属農民におとされた被征服民をヘイロータイという。 スパルタ人よりもヘイロータイのほうが人数は多かった。ヘイロータイによる反乱をふせぐため、スパルタ人は軍事に専念し生産労働をしなかった。 また、スパルタの支配によって商工業に従事させられた者をペリオイコイ(perioikoi)といい、彼らは参政権を持てなかった上に従軍もさせられた。 スパルタ人の男子には、軍国主義的な教育が施された。スパルタ人の少年たちは少年期から兵士として育てられ、その軍事訓練では、厳格な規律によって集団訓練をさせられた。こうしてスパルタは、ギリシアで最強の陸軍国になった。恐らく厳しい教育を意味する「スパルタ」はここから来ている。 またスパルタの支配では、貧富の差を発生させないように、貨幣の使用を禁止したり、土地の売買を禁止したり、さらに鎖国して他のポリスとの交易を行わなかったりと、経済統制をした。このようなスパルタの統制経済的な国制をリュクルゴス(Lykurgos)という。 このような経済統制をスパルタでは行っていたため、商工業はあまり発達しなかった。 アテネの民主制 - アテネの自由経済 いっぽうイオニア人のアテネでは、商工業が自由だった。そのため貧富の差も開いて、裕福な貴族が政治を独占した。平民─特に貧しい者や、借金などをかかえてしまった者の中には奴隷に転落する平民もでてきた。 このような奴隷転落の事が、古代アテネでは社会問題として注目され問題視されたようであり、「奴隷転落を防ぐための法律がつくられる」という改革が、前6世紀のアテネで行われた。前594年に、政治家のソロン(Solon)が法律をつくって、債務(さいむ)によって奴隷に転落させることを禁止し、また、債務を帳消しにした。 ソロンは、人々の政治的な権利や義務を、その人の家柄でなく、財産によって分けるという改革を行った。(財産政治、tymokuratia) 裕福な貴族は、改革後も、その貴族の財産にもとづき、政治的な権利があった。なので相変らず、平民と貴族との政治的な対立があった。 こうした状況で、アテネの政治では、貧しい平民からの政治的な支持を集める独裁者があらわれた。そのような人物として、貴族出身のペイシストラスは、彼は貴族出身だが、中小の農民を保護するなどの施策(しさく)によって平民から支持を集め、その支持を背景に独裁的に政権を握った。 ほかの多くのポリスでも独裁者が現れ始め、彼ら独裁者は僭主(せんしゅ、tyrannos)と呼ばれた。 ペイシストラスは独裁者だったが、同時に経済政策の優秀な政治家であったようだ。しかし彼の権力を引き継いだ息子は低能だったようで、息子の政治は暴政として受け取られ、息子は政治の世界から追放された。 - 政治における不信任投票の制度の設立 このようにして僭主政が平民の支持を失っていき、アテネでは僭主の出現を防ぐための改革として、政治家として不適切な者を、投票によって追放するための制度が導入された。 陶器の破片(オストラコン)に、市民たちが追放したい者の名前を刻んで書いたので、この追放制度を陶片追放(とうへんついほう、オストラキスモス ostrakismos)という。 僭主のおそれのある人物としての票を6000票以上あつめ、最多投票された者は、10年間国外追放される。 また、前508年、アテネの指導者のクレイステネスは、貴族への規制として、旧来の血縁的な4部族にもとづく政治制度から、地域にもとづく政治制度へと行政を改めるために、地域を区分けして、その地域区分けにもとづいて行政をおこなうという改革をした。 なおアテネの法律は、まず、前7世紀にドラコンによって成文法がつくられた。 ペルシア戦争 アケメネス朝ペルシア支配下にあったイオニア地方のポリスが、反乱を起こした。この反乱をアテネが支援したため、ペルシアとギリシア諸国との戦争になった。 前490年のマラトンの戦いでは、アテネの重装歩兵が中心となって戦い、ギリシアが勝った。 その後、アテネは海軍を増強した。 前480年、再度、ペルシアがギリシアに遠征をしかけてきて、アテネが一時的にペルシアに侵入さたが、最終的にギリシアはサラミスの海戦でペルシア軍を撃退して、ギリシアが勝利した。 さらに翌年の前479年のプラタイアの戦いで、ギリシア軍はペルシア軍に勝利した。 こうして、最終的にギリシアが勝利した。 ギリシア諸国は、今後のペルシアの襲来にそなえるため、デロス同盟を結んだ。この同盟では、とくにペルシア戦争で活躍したアテネが、同盟の盟主になった。 ペルシア戦争で、ギリシア海軍の軍艦の漕ぎ手として参戦した無産市民が、このペルシア戦争で活躍したため、下層の無産市民が参政権を得て発言力が強まった。 このような市民たちによって支持された政治家のペリクレスが権力をにぎった。ペリクレスはさまざまな改革を行い、彼によって、成年男子の市民全員が直接参加をする民会(みんかい)の制度がつくられた。ペリクレスによって古代アテネの民主制は直接民主制になった。 民会で選ばれた政治家や役人の任期は、将軍などの一部をのぞき、一般の役人などの任期は1年であった。 また裁判では、陪審員(ばいしんいん)の制度が採用され、投票によって、判決が出た。 その後、ギリシアでは、アテネとスパルタとが対立して、ギリシアを二分する戦争になった。アテネを中心とするデロス同盟の勢力と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力との、二大勢力が対立して、前431年にアテネとスパルタとの戦争になった。この前431年のアテネ対スパルタの戦争が、ペロポネソス戦争である。 戦争中、ペリクレスは疫病で死亡した。そして、アテネの政治は混乱していった。 この戦争は最終的にスパルタが勝った。軍事国家強い。 スパルタはペルシアとも、協力を結んでいた。 勝ったスパルタの側も、経済の変化などの理由で貨幣経済が流入し、スパルタの社会は急激に変化した。もうスパルタでは軍国主義が維持できなくなり、衰退していく。 あらたにテーベが台頭し、また、北方ではマケドニアが台頭した。 戦後、アテネは復興するものの、スパルタ共々弱体化して行った。にもかかわらずポリス間の抗争が続いた。 のちに、このような弱体化したアテネやスパルタの支配していたギリシアを、北方のマケドニアが支配することになる。 ギリシアの文化 ギリシア文化では演劇や詩などの娯楽が楽しまれていた一方、古くからのギリシア神話も物語として楽しまれていた。また、神話は歴史や自然現象からは切り離され、神話はあくまでも物語として受け取られ、神話を前提とせずに歴史や自然を語ろうという思想も現れてきた。 ギリシアの神話および宗教における「神」とは、ゼウスを主神とするオリンポス12神をもつ多神教である。 - 三大悲劇作家のアイスキュロス(Aischylos)、ソフォクレス(Sophokles)、エウリピデス(Euripides)(※ 記述中) - 喜劇作家アリストファネス(Aristophanes)(※ 記述中) - ホメロス(Homeros)の叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』(※ 記述中)。 詩人ヘシオドス(Hesiodos)は『神統記』で神々の生い立ちを記した。 歴史学では、ヘロドトスが著書『歴史』でペルシア戦争について、物語風に記述した。トゥキディデスはペロポネソス戦争を、より厳密に検証した。 神話から離れて自然現象を理解しようとする自然哲学が、イオニア地方のミレトス(←地名)を中心に現れた。 ミレトスの自然哲学者タレス(Tales)は万物の根源を水と考えた。 また、数学の「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラス(Pythagoras)も、イオニアの周辺に現れた。 いっぽう、このような自然哲学とはべつの、哲学者もあらわれ、ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどである。 ソクラテス(Sokrates)は、真理の絶対生を主張したが、民主制に懐疑的であったため、市民の反感をかい、ソクラテスは処刑された。 このようなこともあり、ソクラテスの弟子プラトン(Platons)は、民主制には批判的であり、哲学者が政治をする哲人政治(てつじんせいじ)が理想だと著者『国家』などで主張した。 また、プラトンは、真理の絶対性の例として、具体的な出来事の羅列は真理ではなく、その事実の背後にあるものを真理とするべきだというイデア論を主張した。(イデア、idea) ソクラテスの弟子はプラトン。プラトンの弟子はアリストテレス。 この時代、弁論術を教えるソフィスト(sophist)とよばれる教師たちが登場してきた。ソフイストに求められた能力が、物事の真偽にかかわらず、弁論で相手を説得させる技術を教えることであった。たとえばソフィストのプロタゴラスは「人間は万物の尺度」と唱え、相対主義を主張した。 ソクラテスは、ソフィストの相対主義を批判し、ソクラテスは真理の絶対性を主張したのである。 アリストテレスは、自然・人文・社会のさまざまなことに思索をして、諸学を集大成した。 エピクロス(Epikuros)に代表されるエピクロス学派は、精神の安定を最高の快楽として、精神の安定を理想とした。 禁欲を理想とするゼノン(Senon)のストア派も盛んになった。ストアは「ストイック」の語源となった。 建築は、柱の様式により、ドーリア式、イオニア式、コリント式などに分かれる。 アテネのパルテノン神殿はドーリア式である。 建築では、パルテノン神殿(※ 記述中)。彫刻家では、フェイデアス(Pheidoas)が有名である。 マケドニア ギリシアの北方には、ドーリア系のマケドニア王国(Macedonia)があった。前4世紀には、マケドニアのフィリッポス2世(Philippos II)は、金山を経営するなどして、国力をたくわえていき、軍事力を高めた。 そして、ついに前338年にフィリッポス2世ひきいるマケドニア軍はギリシアに遠征し、敵対するギリシア側のアテネ・テーベ連合軍を倒し、これらのポリスを支配して、スパルタを除くポリスを掌握し、コリントス同盟(「ヘロス同盟」ともいう)を結成させた。 フィリッポス2世は暗殺され、彼の子であるアレクサンドロス大王(Alexsandros)が権力を引きついだ。(歴史上、複数人、「アレクサンドロス」という名前がつく王がいるので、ほかのアレクサンドロスと区別するために、東方遠征(とうほうえんせい)して古代オリエントを征服したアレクサンドロスに「大王」と付けて、「アレクサンドロス大王」という。本書では、単に「アレクサンドロス」と言った場合、とくに指定しないかぎり、「アレクサンドロス大王」のこととする。) アレクサンドロスは、これまでペルシアがギリシア諸国に度々したことについて、ペルシアへの報復を決め、そして前334年にアレクサンドロスはマケドニア軍とギリシア軍との連合軍を率いてペルシアに遠征した。この前334年のマケドニア対ペルシアの戦争を東方遠征(とうほう えんせい)という。 前333年のイッソスの戦いで、アレクサンドロス率いるマケドニア軍はペルシア軍に勝利し、アケメネス朝ペルシアは滅ぼされた。 アレクサンドロス大王は、さらにエジプトを征服し、そしてさらに大王は西インドまで遠征をしかけたが、323年にアレクサンドロスは病死した。死亡時のアレクサンドロスの年齢は30歳台であり、若い。(※ 大学入試では、アレクサンドロス死亡時の年齢は、覚えなくて良いだろう。仮に入試で出題したとしても、単なる知識自慢大会のクイズにしかならないので、出題の意義が問われる。なので、このウィキブックス教科書では、アレクサンドロス死亡時の正確な年齢は、教えないことにする。) - ※ つまり、アレクサンドロスを描いた肖像画には、若い男が描かれているはずである。老後のアレクサンドロスは、歴史教科書では描かれるはずがない。 伝説では、アレクサンドロスの遺言で「最強の者が、わが帝国を継承せよ」と語ったと伝えられている。 アレクサンドロスの死後、帝国は分裂し、後継者を意味する「ディアドコイ」(Diadokoi)を名乗る将軍たちによって分割され、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトなどの諸王国が成立した。 - 備考 ちなみに、アレクサンドロスはダレイオス3世を殺していない。ダレイオス3世は、敗走中に部下の裏切りによって殺された。 また、アレクサンドロスは、ペルシア大王の地位を受け継ごうとするためか、マケドニア軍兵士とペルシア人女性の集団結婚式を挙行し、アレクサンドロス自身もダレイオス3世の娘と結婚している。 - 備考 アリストテレスは、アレクサンドロスの家庭教師であった。アリストテレスは、もともとギリシアにいたが、アレクサンドロスの父フィリッポス2世によってマケドニアに招かれ、アレクサンドロスの教育係として、家庭教師になった。(参考文献:旺文社『教科書よりやさしい世界史』、2016年重版、34ページ) そのアリストテレスは、プラトンの弟子であり、そのプラトンはソクラテスの弟子である。ということは、ソクラテスの学問を間接的にだが、アレクサンドロスが教わっていることになる。 ヘレニズム文化 大王の東方遠征から、もっとも分割された帝国のうち、長く続いたプトレマイオス朝エジプトが滅びるまでの300年間をヘレニズム時代という。 この時代に理想とされた思想は、ポリスの枠にとらわれない世界市民主義(コスモポリタニズム、cosmopolitanism)が理想とされた。 これらの分割された旧帝国の地域ではギリシア語が共通語(コイネー)になった。 また、ヘレニズム時代の文化のことをヘレニズム(Hellenism)という。「ヘレニズム」は、「ギリシア風」という意味。 プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアには、大きな図書館を持つ研究所のムセイオン(Museion)が作られ、地中海周辺地域の各地から学者が招かれ、さまざまな研究が行われた。 (英語のミュージアム<博物館> museum の語源が「ムセイオン」。)ムセイオンでは、学問の女神たちであるムーサイをまつっていた。 ヘレニズム時代には自然科学が大きく発達した。平面幾何学のもととなったユークリッド幾何学は、このヘレニズム時代に、エウクレイデス(Eukleides)によって整理された。また、物理学や数学の研究をしたアルキメデス(Archimedes)も、ヘレニズム時代の人物である。 また、天文学者のエラトステネスは、地球を球形と仮定して、地球の周囲の長さを計算した。(※ 高校理科の地学で、エラトステネスの計算法を習う。よって、世界史では、理系の勉強もしているかどうかを問う教養問題として彼の名前が出題される可能性がありうる。計算法については ウィキブックス【地学I/地球の概観】 などを参照せよ。) また、アリスタルコスが地球の自転と、太陽を中心として地球が公転しているという、今の「地動説」に近い説を唱えた。 このように、古代ギリシアの天文学は、一部をのぞいて中世前半のヨーロッパよりも、進歩していた。中世ヨーロッパでは、キリスト教の宗教的観点から天動説が主流であり、地動説は異端(いたん)であった。中世ヨーロッパで地動説をとなえたガリレオなどの学者は、キリスト教によって弾圧を受けた。 彫刻では、「ラオコーン」、「サモトラケのニケ」、「ミロのヴィーナス」などが、ヘレニズム時代に作られた。 - ラオコーン - サモトラケのニケ
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高等学校世界史B/クリミア戦争とロシアの改革 東方問題 1820年代のギリシア独立戦争(ギリシアがオスマン帝国から独立した戦争)によってギリシアが独立に成功すると、オスマン帝国に実質的に支配されていたエジプトでも反トルコ的な思想にもとづく領土拡大の気運が高まり、1830年代に2度のエジプト=トルコ戦争が起きる。 ロシアは、南下政策をたくらんでいるので、見返り(不凍港や、地中海へ進出するための海峡(ボスポラス海峡およびダーダネルス海峡)通交権など)をもとめてオスマン帝国を支持した。いっぽう、イギリスおよびフランスはエジプトを支持した。 (※ イギリスは、インドへの航路をイギリス支配下にしたい。フランスは、ナポレオンのエジプト遠征のころからの利権がある。) エジプト=トルコ戦争において、最終的に、英仏の支援をうけたエジプトが勝利し、ロシアの南下は失敗する。そして1940年のロンドン会議によって、ロシアはボスポラス・ダーダネルス海峡の軍艦通行を禁止された。 このような、バルカン半島周辺の外交問題・国際問題は、ヨーロッパから見て地理的に東方にあるので、「東方問題」といわれた。 クリミア戦争 南下政策を進めたいロシアは1853年、ギリシア正教徒の保護を口実に、オスマン帝国と開戦した(クリミア戦争)。イギリス・フランスはロシアの南下を阻止するため、クリミア戦争ではオスマン帝国を支援したので、この戦争はヨーロッパ列強国を巻き込む戦争になった。 クリミア半島のセヴァストーポリ要塞を中心に激しい戦闘が行われ、最終的にロシアは敗退し、1856年にパリ条約が結ばれた。 そして、このパリ条約によって、黒海の中立化が決定し、ロシアは南下を阻止された。 - ※ 偉人伝によくある看護師ナイチンゲールが活躍したのも、このクリミア戦争である。また、赤十字社の設立につながった出来事も、このクリミア戦争である。 ロシアの改革 クリミア戦争末期に即位したロシア皇帝 アレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗戦後、敗戦の原因はロシアの工業化がおくれていることが原因だと考え、また、工業化の遅れた原因のひとつは農奴制にあると考え、アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出した。 また、1863年にポーランドで独立運動が起きると、皇帝は専制政治を強化した。ロシアのこの頃の専制に反感を感じた知識人(「インテリゲンツィア」と言われた)の中から、農村を革命に協力させようと「人民の中へ」(ヴ=ナロード)というスローガンをかかげるナロードニキ運動が起きた。 しかし、この運動は弾圧された。弾圧によって絶望したナロードニキ運動の一部はテロに走り、アレクサンドル2世を暗殺し、その他、政府高官を暗殺した。 - ※ 近現代の日本では知識人のことを「インテリ」とも言った。語源は、上述のナロードニキ運動の「インテリゲンツィア」である。
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高等学校世界史B/スペインの盛衰からオランダの覇権へ スペインからのオランダ独立 1516年にハプスブルク家のカルロス1世がスペイン王位につき、さらに神聖ローマ皇帝もカルロス1世が兼任した。 ハプスブルク家の領土はスペインとオランダであった。 カルロス1世の退位後は、皇帝位は弟のフェルディナント1世が相続し、息子のフェリペ2世がスペインのハプスブルク家を相続し、フェリペ2世がオランダも支配した。 しかし、1568年にオランダでスペインの支配を拒否する独立運動が起き、1581年にオランダが独立してネーデルランド連邦共和国の独立を宣言し、オランダ独立戦争が始まり(1568〜1609年)、こうしてハプスブルク家はオランダ領土を失った。 この時代、スペインはアメリカ大陸から大量に銀が流入して繁栄しており、また、1571年のオスマン帝国との海戦であるレパントの海戦にもスペインは勝利したが、オランダに独立されるなどして、しだいにスペインは弱まっていった。 また、イギリスはオランダ独立を支持していた。 1588年、スペイン対イギリスの海戦が起きたが、スペイン海軍はイギリス海軍に敗れて、のちにスペインが衰退する原因にもなった。 1609年にはオランダとスペインの休戦条約が締結され、こうしてオランダは独立を勝ち取った。 1602年、オランダは連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立し、東南アジア・東アジアとの貿易を行った。 オランダのアムステルダムは国際金融の中心的な都市になった。
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高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国 概要 (※ のちの節で重要語句などを後述するので、この節「概要」を読んでる時点では、暗記しなくてよい。) 16世紀、バルカン半島とトルコ地域を中心にオスマン帝国が繁栄する。経済において、このオスマン帝国が、ヨーロッパとイスラーム地域との東西交易の中心地になる。 いっぽう、14世紀にモンゴル帝国が解体したことにより、イスラーム地域では、モンゴルにかわって、ティムール朝などの新興の勢力が現れ始めた。 しかし、このティムール朝もまた、王ティムール(1405に死亡)の死亡の後には衰退してしまい、分裂などを繰りかえすが、1507年までティムール朝は残る。 さて、ティムールが死亡してから約100年後、今度はイラン地域で歴史的な変動が起きた。どういうことかとうと、1501年にイラン地域にイスラーム教的な新興国としてサファヴィー朝が現れ、かつてのティムール朝の領地のうちのイラン地域を占領していき、イラン地域がイスラーム教シーア派(サファヴィー朝の国教がイスラーム教のシーア派)の国になっていく。 (なお、最終的にティムール朝を倒して滅ぼした勢力は、トルコ系のウズベクである。) いっぽう、オスマン帝国は1299年に建国しており、たびたび領土をティムール朝と争い、ティムール朝が衰退・滅亡していって代わりに新興勢力であるサファヴィー朝が台頭してくると、今度は帝国はサファヴィー朝と領土を争った。 オスマン帝国は、ヨーロッパ商人との貿易を行っていた。サファヴィー朝もまた、ヨーロッパ商人との交易を行った。 こうして、経済面では、オスマン帝国やサファヴィー朝といった中東地域が、交易によってヨーロッパとアジアとをつなぐ東西交易の中心地になっていった。 モンゴル帝国崩壊とティムール朝 14世紀にモンゴル帝国が解体するなかで、チャガタイ=ハン国は東西に分裂し、西チャガタイ=ハン国はイスラーム化(トルコ化またはイスラーム化)した。 西チャガタイ=ハン国出身のトルコ系軍人ティムール(Timur)は、1370年にティムール朝を開いた。ティムール朝の都はサマルカンドである。 そしてティムールは周辺国に攻め入り、ティムール朝の領土をふやしていった。1402年にはアンカラの戦いでオスマン軍と戦って破り、そのスルタンのバヤジット1世を捕虜にした。なお、この1402年のころ、オスマン帝国は勃興期であった。 ティムール朝は、これらの領土拡張戦争の結果、最終的にティムール朝は、旧モンゴル帝国の西半分の広大な領地を手にいれた。 その後、ティムールはさらに永楽帝支配下の明(ミン)も支配しようとして東方遠征に出発したが、その途中でティムールは病死した。 ティムールの死後、帝国は分裂と統合をくりかえした。 しかし、ティムールが生前、イラン的文化の地域とトルコ的文化の地域をともに領有したことにより、文化ではイラン文化とトルコ文化の融合が起こったことによりトルコ=イスラーム文化が発展した。そして、首都サマルカンドやヘラードが文化の中心的な地域になった。 ティムール朝衰退とサファヴィー朝 ティムール朝が衰えると、イラン地域ではシーア派で宗教家イスマーイールのひきいる神秘主義教団であるサファヴィー教が武装蜂起してタブリーズを中心に周辺地域を統一し、1501年にサファヴィー朝があらわれた。そしてサファヴィー朝はイラン地域を支配する広大な国になった。サファヴィー朝はシーア派を国教とした。 いっぽう、この時代、イランの西隣のトルコ地域にはオスマン帝国があった。 よって、中東地域は、オスマン帝国とサファヴィー朝が、東西を二分するような勢力図になった。 オスマン帝国とサファヴィー朝は、たびたび敵対した。 さて、サファヴィー朝はアッバース1世のときに最盛期をむかえた。 アッバース1世はオスマン帝国と戦い、領土の一部を取り返した。 また、アッバース1世は新たにイスファハーンを都として造営して、「イスファハーンは世界の半分」とまで言われるほどに繁栄した。 オスマン帝国 オスマン帝国の成立と拡大 1299年ごろ、トルコ人がアナトリア西北部にオスマン帝国を建設した。オスマン帝国はビザンツ帝国のアジア側の領土を奪っていき、オスマン帝国はバルカン半島に進出して、ついにアドリアノープルを占領して、オスマン帝国は1366年にアドリアノープルを首都にした。 いっぽう、西ヨーロッパでは領土を取り戻そうとして西ヨーロッパ諸国による連合軍が結成され、西ヨーロッパ諸国はオスマン帝国と対立した。 しかし、1396年、オスマン帝国のバヤジット1世は、ハンガリーを中心とする西ヨーロッパ諸国の連合軍を破る。 しかし、このバヤジット1世が、ティムール朝との戦争であるアンカラの戦い(1402年)においてオスマン帝国は大敗し、ティムール朝によってバヤジット1世は捕虜にされてしまった。 しかし、オスマン帝国はすみやかに再建され、1453年にはメフメト2世がコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、そしてコンスタンティノープルを(オスマン帝国の)首都にした。 このコンスタンティノープルが、のちのイスタンブルである。 その後、セリム1世(Selim I)はアラブ地域に遠征軍を派遣し、サファヴィー朝やマムルーク朝を破って、シリアやエジプトなどの領土を手に入れた。 セリム1世のこの領土拡張の結果、それまでマムルーク朝が領有していた聖都メッカと聖都メディナについては、オスマン帝国がそのマムルーク朝を滅ぼしたので、オスマン帝国が聖都メッカ・メディナを領有する事になり、つまりオスマン帝国が聖都(メッカ・メディナ)を保護下におくことになった。 - ※ セリム1世のこれまでの出来事の順を追って話すと、・・・ - まず、サファヴィー朝を破った出来事が先であり、その後の出来事として1517年にマムルーク朝を滅ぼしたのである。 - つまり、まとめると、・・・ - セリム1世はサファヴィー朝をやぶり、その後、1517年にオスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼして聖都メッカ・メディナを保護下においた。 - ・・・のようになる。 セリム1世の次のスレイマン1世(Suleyman I)のとき、オスマン帝国は最盛期をむかえる。 どういうことかというと、スレイマン1世の時代のオスマン帝国はハンガリーを征服し、さらに1529年の9月にはウィーンにせまった(第一次ウィーン包囲網)。 (なお、ヨーロッパの冬の寒さのために、最終的にオスマン帝国は1529年10月にはウィーン方面からは撤退した。) また地中海においても、スレイマン1世の時代、1538年にプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネティアなどの連合艦隊をオスマン帝国は破り、オスマン帝国が地中海の制海権を手に入れた。 (より正確には、プレヴェザの海戦でのオスマン帝国の勝利により、地中海の中部から東部における海域の制海権を、オスマン帝国は手に入れたのである。つまり地中海の4分の3の海域の制海権を、オスマン帝国は手に入れたのである。) - ※ このスペイン・ヴェネティアの連合艦隊は、ローマ教皇の支持する艦隊であった。つまり、ローマ教皇は、オスマン帝国とは敵対する勢力である。 さて、スレイマン1世の次のセリム2世の時代、フランス商人にも通商の自由を与えた。これをカピチュレーション(capitulation)という。 - ※ カピチュレーション導入当時のフランスは、(ウィーンを支配していた)ハプスブルク家と対立していた。 経済的には、このようにしてオスマン帝国は東西交易の中継地点となり、そのため首都イスタンブルは各地から訪れる商人でにぎわい、その結果、イスタンブルが東西交易の中心地となった。 こうして、オスマン帝国は軍事大国としてだけではなく経済大国にもなった。 - ※ なお、このカピチュレーションが、のちの時代、イギリスやドイツなどにも与えられる。そして残念なことに、のちの帝国主義の時代に、ヨーロッパ諸国の治外法権の不平等条約としてカピチュレーションは悪用される。 しかし、プレヴェザの海戦のその後、1571年にレパントの海戦が起こり、オスマン帝国を敵として、スペイン海軍などの連合艦隊が敵対し、オスマン海軍と連合艦隊が海戦をした。レパントの海戦で、スペイン艦隊などからなる連合艦隊を敵としてオスマン海軍は敗退してしまったが、しかしオスマン帝国はすぐに艦隊を再建したこともあり、オスマン帝国の制海権には戦後ほとんど変化はなく、オスマン帝国は16世紀末までは制海権を維持した。 オスマン帝国の統治方法 オスマン帝国は、実質的には君主が絶大な権力をにぎる専制君主国家であり、中央集権国家でもあるが、文化的にはイスラーム的な文化にもとづきつつさらに世俗化をしており、領土内のキリスト教徒やユダヤ教徒にも自治を認めた。人頭税(ジズヤ)さえ払えば、キリスト教徒やユダヤ教徒にも信仰の自由が認められたのである。ジズヤによる信仰の自由は、7世紀からの伝統である。オスマン帝国内のキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体のことをまとめてミッレト(millet)という。しかし、その存在は怪しい このようにオスマン帝国は、領土内のイスラーム教徒やキリスト教徒・ユダヤ教徒の共存をはかった。 オスマン帝国は、行政では形式的にはイスラーム法の制度を使用していたが、実際は慣習法や君主の勅令などを活用した。 バルカン半島の征服後、キリスト教徒の男子少年が強制的にオスマン軍兵士として徴兵され、スルタン直属の常備軍の歩兵軍団であるイェニチェリ(yeniceri)にされ、オスマン帝国の周辺諸国との戦闘でイェニチェリは戦わされた。
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高等学校世界史B/ドイツの統一とビスマルク外交 これから説明するドイツ統一のできごとは、フランス革命後のナポレオン失脚(1815年)後から数十年たった時代のできごとである。 ドイツの統一とビスマルク フランスは革命によって強化した。ドイツ地方では、フランスなどへの対抗のため、ドイツはそれまで小国に分かれていたが、ドイツで統一が進んだ。そしてドイツ地方でプロイセン(「プロシア」ともいう)を中心にドイツ内の統一が進み、統一のさまたげになるフランスやオーストリアなどとプロイセンは戦い、1871年にドイツは統一されドイツ帝国になった。プロイセンの王ヴィルヘルム1世がドイツの皇帝になり、ドイツ(プロイセン)の宰相(さいしょう)のビスマルクが首相として実際の政治を行った。 ドイツは工業化および軍事力の増強の政策を推し進めた(おしすすめた)。これらビスマルクの主導する政策は「鉄血政策」(てっけつ せいさく、独: Blut und Eisen)といわれ、そのためビスマルク本人は「鉄血宰相」(てっけつ さいしょう)と言われた。 - 「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」 (ビスマルクの演説の要約) ビスマルクの鉄血政策(要約) - ドイツが期待するべきは自由主義ではなく武力である。プロイセンは力を蓄えておかねばならない。現在の問題は、演説や多数決によってではなく ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― 、鉄と血によってのみ解決される。 ビスマルクの外交政策では、ドイツに脅威になる周辺国があらわれないようにヨーロッパの勢力の均衡を重視し、時代によってドイツと組む相手国を上手く変えていった。また、フランスをドイツの脅威(きょうい)となる国と考えられたため、ドイツはフランスを孤立させるために、フランス以外の国とドイツは同盟をしていった。こうしてドイツ国内の平和を守り、ドイツの国力を高めていった。ビスマルク政権下でのドイツでは、軍備は備えていたが、アジア・アフリカの植民地への進出はあまり重視しなかった。 このようなビスマルクの外交を「ビスマルク体制」とか「ビスマルク外交」という。 ビスマルクは三帝同盟(さんていどうめい、英:League of the Three Emperors)をドイツ・ロシア・オーストリア間で1873年に結んだ。1882年にはドイツ・イタリア・オーストリア間で三国同盟(さんごくどうめい、英:Triple Alliance )を結んだ。 どちらの同盟とも、フランスが入っていないことに注意しよう。また、イギリスとドイツとの関係については、ビスマルクは友好関係につとめた。同盟の名前を覚えるよりも、ビスマルクの外交方針に注目してもらいたい。 ビスマルクと日本との関係 なおビスマルクと日本との関係について、日本の明治時代の政治家の伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、日本の近代化のための欧米への視察団である「岩倉使節団」の一員として、ヨーロッパを明治6年(1873年)に訪問中の際に、首相だったころのビスマルクに面会してもらっています。伊藤たちはビスマルクの鉄血政策などの政治手法に、たいそう感激したそうである。またビスマルクは、使節団との会談中、伊藤たちに、イギリスなど欧州列強の外交の本質は軍事力を背景としたものであり、国家どうしの友好や外交儀礼などは表面上に過ぎないのが実情である事を説いたという。 伊藤ら政府の首脳は、日本への帰国後には、主にドイツを参考にして日本の政治制度を作った。この理由の一つとして、ドイツの鉄血政策を参考に明治日本の「富国強兵」の政策方針を行ったから、とも考えられています。 ビスマルク失脚後のヨーロッパ のちに皇帝が変わり、ヴィルヘルム2世の即位後は、ビスマルクとヴィルヘルム2世の外交方針などがあわず、皇帝ヴィルヘルム2世からはビスマルクが臆病(おくびょう)・消極的と見られ、そしてビスマルクは1890年に辞職した。 ビスマルクの失脚後、ドイツは海外への進出をしようと海軍を強めようとして軍艦(ぐんかん)の建艦(けんかん)をすすめたので、イギリスと対立するようになる。(イギリスは島国であり、また世界各地に多くの植民地を持っている。) イギリスとフランスは、ともにドイツと対立していたため、イギリスとフランスとが結びついて、最終的に三国協商(さんごくきょうしょう、英: Triple Entente)がイギリス・フランス・ロシアとの間で1907年に成立された。 こうしてヨーロッパの列強は、イギリス中心の三国協商の陣営と、いっぽうドイツ中心の三国同盟の陣営とに、二分化していく。そして二つの陣営が対立していった。 同盟や協商の名前を覚えるよりも、海外進出を図ったドイツがイギリスと対立するようになったという知識をおさえてもらいたい。また、ドイツと対立するイギリスとフランスとが、反ドイツ国どうしで協力をしあったという知識をおさえるのが大切である。 - ※ 参考書を見ると、このほかにも、いろんな知識が書いてあるだろうが、まずはイギリスとドイツが対立するようになったことが中心だという基礎知識を知っておく必要がある。 このドイツを中心とした列強の二分化した対立が、のちの第一次世界大戦のさいのヨーロッパ列強どうしの同盟関係の基礎にもなっている。
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高等学校世界史B/ビザンツ帝国と東ヨーロッパ ビザンツ帝国 東ローマ帝国のことをビザンツ帝国(Byzantine Empire)ともいう。 「ビザンツ」の名称の由来は、首都のコンスタンティノープルの旧名ビザンティウムに由来する。 ビザンツ帝国ではギリシア古典文化の影響が強く、ビザンツ帝国の公用語もギリシア語が7世紀から用いられている。 6世紀、ユスティニアヌス帝(Justinianus)が、イタリアの東ゴート王国とアフリカのヴァンダル王国をほろぼし、イベリアの西ゴート王国からも領土の一部をうばい、ローマ帝国時代の地中海の覇権を回復した。 ユスティニアヌス帝は、『ローマ法大全』を編纂(へんさん)させた。また、ハギア=ソフィア聖堂(hagia sophia)を建立(こんりゅう)した。また、中国から養蚕(ようさん)技術を取り入れた。 この時代の前後、ビザンツ帝国は商業で栄え、貨幣経済であり、貿易での東西交易の中継地点として栄えていた。 ビザンツ帝国は、専制国家であり、皇帝の権力が強い。またビザンツ帝国では、教会よりも皇帝の権力がとても強く、皇帝はギリシア正教会(Greek Orthodox Church)を支配していた。 ゲルマン諸国家どうしの対立もあり、西方のゲルマン諸国家はビザンツ帝国に服従していった。 ユスティニアヌス帝の死後、領土は縮小したが、経済ではビザンツ帝国は東西貿易のかなめとして、長らく繁栄した。しかし11世紀ごろになると、イタリアの諸都市が東西貿易に進出し、ビザンツ帝国による東西貿易への影響力は落る。 ビザンツ帝国の滅亡は1453年にオスマン帝国に攻撃されて滅亡する。 ギリシア正教会とローマ教会は対立していた。 726年に皇帝レオン3世(Leon III)が聖像禁止令(iconoclasm)を出して聖像・聖画像(イコン、ikon、icon)を禁止すると、布教に聖像・聖画像を用いていたローマ教会は強く反発した。 レオン3世が聖画像を禁止したのは、イスラームの偶像崇拝禁止の影響をうけてのことである。 のちに、聖像禁止令は843年に撤回される。 7世紀以降、異民族の侵入に対処するため、地方に軍の駐屯地をおいて、その駐屯地の司令官に民生と軍事の両方の権限を与えるという軍管区制(ぐんかんくせい、テマ制 ,Thema)が行われた。軍管区では、農民に土地を与えるかわりに兵役義務を課す屯田制(とんでんせい)が行われた。 ビザンツ文化 ビザンツ帝国では、ギリシア語の古典文化が中心に研究されつつも、ローマ法も研究された。 ビザンツ帝国の公用語は7世紀以降はギリシア語である。こうしてビザンツ帝国には古代のギリシア文化が残り、のちの14世紀ごろにビザンツのギリシア文化がイタリアに伝えられてイタリア=ルネサンスの一因になる。 ビザンツ帝国の美術では、ドーム屋根やモザイク壁画などを用いた教会建築のビザンツ様式があり、首都のハギア=ソフィア聖堂や、ラウ゛ェンナのサン=ヴィターレ聖堂などが代表的である。 また、聖母子などを描いたイコン(ikon、icon)も、ビザンツ帝国の美術の特徴である。 スラブ人 古代に、カルパティア山脈の北方に、インド=ヨーロッパ語系のスラブ人(slavs)が住んでいた。 ロシア 9世紀にノルマン人がキエフ公国をたてた。このキエフ公国が、のちのロシアの起源である。 10世紀、ウラディミル1世(Vladimir I)がビザンツ帝国との友好を強め、ギリシア正教を国教にし、またビザンツ帝国の皇帝の妹と結婚した。ウラディミル1世は周辺諸国と戦い領土を広げ、その地方の諸国での盟主となった。 13世紀にモンゴル人がロシアを支配して、キプチャク=ハン国をたてた。13世紀にロシアがモンゴルに支配されたこのことを、ロシアでは「タタールの軛」(くびき)という。 15世紀末にイヴァン3世(Ivan III)が東北ロシアを統一して、モスクワ大公国(Moskva)と呼ばれるにいたった。 そして15世紀末の1480年、イヴァン3世の率いるモスクワ大公国は、モンゴル人(キプチャク=ハン国)の支配から脱した。 またイヴァン3世はビザンツ帝国との友好を強め、ビザンツ皇帝の姪(めい)と結婚し、イヴァン3世はローマ皇帝の後継者を自認してツァーリ(Czar)という称号を自称した。「ツァーリ」とは「カエサル」が語源である。 東欧諸国 西スラブ いまの東欧あたりに相当する地方の、古代にロシアの西方に住んでいた西スラブ人は、やがてポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人などに分かれた。これら西スラブの諸国は、西ヨーロッパとの交流が強く、ローマ教会を受け入れ、言葉の発音はロシア語に近いが文字にはラテン文字を用いた。 - ポーランド ポーランドのもとになった王国は9世紀〜10世紀に建国された。ポーランド人(Poles)の国は14世紀前半にはカジミェシュ3世によって統一され繁栄した。15世紀にドイツ騎士団に対抗するため、ポーランドはリトアニアと合体してヤゲウォ朝(Jagiellonowie)のリトアニア=ポーランド王国を建て、ポーランド人のその王国は強大になった。 バルカン半島 バルカン半島周辺の南スラブでは、スラブ系はセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人などに分かれた。 ブルガール人(Bulgars)は、トルコ系であり、もともとは非スラブ系である。 - ブルガリア ブルガール人が7世紀にバルカン半島北部で建国し、のちにビザンツ帝国に併合されてギリシア正教に改宗し、そしてスラブ化していった。そして12世紀に独立してブルガリア帝国とつくるが、14世紀にオスマン帝国に併合される。 - セルビア 南スラブ系のセルビア人は7世紀にバルカン半島に定住し、そしてビザンツ帝国に服従してギリシア正教に改宗し、12世紀に独立して、のちにオスマン帝国に14世紀ごろから支配される。 未分類 - ハンガリー マジャール人(Magyars)が、10世紀にハンガリー王国(Hangary)を建てた。宗教ではカトリックを受け入れた。
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高等学校世界史B/ビスマルク外交 ドイツの三帝同盟と三国同盟 1871年にフランスのナポレオン3世は失脚した。 それでもビスマルクは、フランスを警戒していたので、1873年にロシア・オーストリアと三帝同盟を結んだ。つづいて1882年にプロイセンは独墺伊の三国同盟を結んだ。(独:ドイツ、墺:オーストリア、伊:イタリア) しかし、その後、ビスマルクはヴィルヘルム2世と政策が対立し、1890年にビスマルクは辞任し、そしてヴィルヘルム2世の親政が始まった。 ロシアの視点 さてロシアは、1873年の三帝同盟で同盟国を得たこともあって強気になり、(トルコを侵略しようとしたのか、)ボスニア・ヘルツェゴビナでの農民反乱およびトルコによる鎮圧をきっかけにロシアは介入して、1877年にロシアはオスマン帝国に開戦して露土戦争が始まり、ロシアはこの戦争に勝利し、翌1878年にサン=ステファノ講和条約が結ばれ、この条約によりブルガリアを保護下に置くことになったのだが、しかしイギリスとオーストリアがこの決定に反発し、ビスマルクの調停によって同1878年にベルリン会議が開かれ、結局、サン=ステファノ講和条約は破棄されて新たにベルリン条約は結ばれ、このベルリン条約によって(ロシアの保護する)ブルガリアの領土は大幅に減らされてしまい、ロシアの南下は阻止された。 - ※ なお、露土戦争の背景として、三帝同盟のほかにも背景があり、1870年代、オスマン帝国支配下のバルカンで、オスマン帝国に反発するスラブ民族主義運動であるパン=スラブ主義が活発になり、ロシアはこれを利用して1877年に参戦したのである。 - (※ 「露土戦争」を太字にすると文字がつぶれて見づらいので、拡大。) 露土戦争にいたるまでの経緯 - (※ 『高等学校世界史B/クリミア戦争とロシアの改革』の復習。)
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高等学校世界史B/フランスの宗教戦争と絶対王政 ※ 概要 ※ この節「概要」にある語句はのちの節で後述するので、節「概要」を読んでいる現時点では覚えなくていい。 読者の高校生のきみたちは、おそらく中学校で、ルイ14世が「王権神授説」をとなえた「絶対王政」の君主であると習ったと思う。 では、フランスのその「絶対王政」がどうやって出来たかというと、さまざまな理由が考えられるだろうが、大きな理由として、絶対王政になる以前のフランス国内で、中学校では習ってないが(次に述べるように)宗教対立による内戦があったのである。 フランスでは16世紀の後半、フランス国内での王族たちの王位継承争いなどとも絡むが、フランス国内がカトリック信者とプロテスタント信者(フランスでは「ユグノー」という)とに分かれて、数十年にわたる戦争があったのである。 フランス政府は、この内乱の宗教戦争を終わらせるために、フランス国王の権力によってカトリックもプロテスタントも押さえつける必要があり、そのためフランスでは中央集権化が進められたのである。 つまり、宗教よりもフランス国内の団結心・愛国心をフランスは重視したのである。 そして、当時のフランス国王アンリ4世は、(実質的には)カトリックとプロテスタントの両方の信仰の自由を認める「ナントの王令」(ナント の おうれい)を発して、この宗教戦争を終結させたのである。 宗教戦争の終戦後も、フランスでは中央集権化が進められた事により、国王の権力が強まり、しだいに国王が政治を行うようになり、ルイ14世が大人になると、国王ルイ14世が直接的に政治を行った(ルイ14世による親政)。もちろん、王権が強化されるという事は、相対的には貴族の権力は低下するので、貴族などによる反抗はあったが、フランス国王は、このような貴族との戦いにも勝利していった。このようにして、フランスはいわゆる絶対王政になったのである。 しかし、フランスは、(おそらく王権を強化させたいつもりだったのだろうが、)ルイ14世の時代に周辺国に侵略戦争をしたり、ヴェルサイユ宮殿を豪華にしたりするが、それがかえってフランスの国民の税負担を増していったので、国民の不満を増していく。しかもルイ14世は、ナントの王令を廃止してしまい、商工業者がフランス国外に脱出したりするなど、さまざまな混乱が起き、ルイ14世の没後はフランス国王の影響力はしだいに弱まっていく。 わかりやすく言うと、アンリ4世がすごく有能で、アンリ4世がせっかく「ナントの王令」などの改革をして内乱終結をしたのに、のちにルイ14世が低能だったので、ルイ14世はアンリ4世の中央集権化の仕組みだけを真似て、しかしアンリ4世の現実的な有能さについてはルイ14世は真似できず、それどころかルイ14世の馬鹿は「ナントの王令」を廃止してしまい、そしてルイ14世の時代からフランスは国力低下した。 このようなフランス国民の不満の増大が、のちのフランス革命につながる、・・・というわけである。 フランスの宗教戦争 フランスでは16世紀の後半、貴族や商工業者が、ユグノーと呼ばれるカルヴァン派の新教を支持した。フランスでは、ユグノーとカトリック教会とは対立した。 そして両派の対立は戦争になり、1562年にユグノー戦争になった(いわゆる「ユグノー戦争」(1562年 〜 98年))。また、サン=バルテルミの虐殺などの宗教テロ事件も起きた。 この宗教戦争は30年ちかく続き、スペインやイギリスなどの外国の干渉も起き、フランス国内は疲弊したので、フランスは信仰よりも国内のまとまりを重視するようになった。そして1589年にアンリ4世が王になり、ユグノーとカトリックの両者にそれぞれの信仰の自由を認め、戦争を終わらせた。 アンリ4世じしんはユグノー信者であったが、戦争を終わらせるためにカトリックに改宗した。そして1598年のナントの王令(「ナントの勅令」とも言う)でユグノーに信仰の自由を認めた。 アンリ4世は、中小貴族を官僚として積極的に登用した。 こうして、フランスでは宗教の権威よりも国王の王権を尊重する社会へと、なっていった。 ルイ13世の宰相(さいしょう)であるリシュリューは、貴族やユグノーと対立し、三部会を開かなかった。しかし、ルイ13世時代の王権がユグノーと対立したからといって、けっしてカトリック陣営になったわけではなく、国際政治ではハプスブルク家をくじくため、三十年戦争(※ 後述する)ではフランスは新教側についた。(なお、三部会は以降、ルイ16世の時代の1789年まで、ずっと開かれないままである。) このようにしてリシュリューの宰相の時代から、フランスで王権を強化する政策がつづいた。 ルイ14世の幼少時代には宰相マザランが同様に王権強化をすすめる改革をすすめた。マザランの宰相時代の1648年に、高等法院と貴族による反乱であるフロンドの乱(1648年 〜 53年)が起きたが、王権は数年でフロンドの乱を鎮圧した。 ルイ14世の時代 1661年にマザランが死亡し、ルイ14世が親政(王が直接に政治をする事)を行うようになった。ルイ14世は官僚制を整えたり、軍隊の常備軍化をすすめたとされる。また、ルイ14世は豪華なヴェルサイユ宮殿をパリに建築させた。そしてこの宮殿に芸術家などをあつめ、一時期フランスはヨーロッパ芸術の中心地になった。 ルイ14世は王権神授説をとなえ、ルイ14世は「朕は国家なり」と述べたと伝えられており、ルイ14世は「太陽王」とも呼ばれたと伝えられている。 また、ルイ14世は、周辺国の王位継承などにたびたび干渉し、フランスは周辺国を相手にたびたび侵略戦争をした。(ルイ14世は、南ネーデルランド継承戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争などを起こした。) そして戦費や宮廷費が多額になったのでルイ14世は増税でまかない、ルイ14世は1685年にナントの王令を廃止したので、ユグノーの商工業者が大量に外国に亡命してしまったので、フランスは経済的な損失をした。 スペイン継承戦争によってルイの孫がスペイン王になったが、しかし結果的に上述のようなフランス国内の混乱により、フランスの国力は低下した。
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高等学校世界史B/フランス革命とナポレオン フランス革命の理想と現実 中学校ではフランス革命は、民主主義のさきがけの出来事として、かがやかしい出来事として習うかもしれない。だが、じっさいのフランス革命で起きたことは、革命に対して批判する反対派の人間を、多数、処刑しまくるという、「恐怖政治」(きょうふせいじ)であった。 つぎのような出来事が、フランス革命で起きた。 経緯 フランス革命後、オーストリアやプロイセンがフランス革命を非難したため、1792年にフランスはオーストリアに宣戦したが、フランス軍は緒戦で敗退をつづけた。しかし、フランスの民衆は、この敗戦の責任を、フランスの国王が裏切ってるに違いないなどと考え、フランス国王など王族に責任をなすりつけた。そして、そのようにフランス国王が裏切り者だろうと考えたフランス義勇兵とパリの民衆が、テュイルリー宮殿に乱入し、こうして王権が停止した。 1792年9月に、男子普通選挙による国民公会(こくみん こうかい)が開かれ、王政の廃止と共和政(第一共和政)の成立が宣言された。 ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが国外のオーストリア(マリーの実家がオーストリアにある)に逃亡をしようとしたが、逃亡は失敗した。革命政権は、この事でルイ16世とマリー=アントワネットを処刑に追い込み、1793年、ルイ16世およびマリー=アントワネットはギロチンで処刑された。 イギリスは、フランス王ルイ16世を処刑した革命フランス政府を嫌い、また革命の広がりをおそれて、イギリスはフランスを敵視した。 イギリス首相ピット(Pitt)は、フランスに反対するロシアやプロイセンなどと共に、第1回対仏大同盟を結成した。 このような情勢のもと、フランスの国民公会では、急進的で中小農民などに支持されたジャコバン派と、保守的なジロンド派が対立していたが、ジャコバン派が有利になり、ジロンド派を追放した。そしてジャコバン派が政権となった。 ロベスピエール そして政権となったジャコバン派の中心人物のロベスピエール(Robespierre)は、1793年、徴兵制の導入や、また暦について十進法を徹底した革命歴(共和歴)の導入などの政策を急進的に行う一方、公安委員会を用いて、反対派を多数処刑するなどの恐怖政治(Reign of Terror)を行った。 このような恐怖政治に商工業者などが不満を持った。ついに1794年7月に、ロベスピエールを倒すためのクーデターが起き(テルミドール9日のクーデタ)、ロベスピエールは逮捕・処刑された。 なお、共和暦の導入理由には、キリスト教に対する反発という説もある。 (共和歴は、現在のフランスでは用いられておらず、1806年に共和歴は廃止された。現在のフランスではグレゴリウス歴に復帰している。廃止された理由として、あまりにも共和歴が不便だったという理由が、よく挙げられる。結局、共和暦は、たったの十数年しか用いられなかったことになる。) フランス革命による改革 革命中の1790年のころフランスでは、さまざまな改革が行われた。 長さの単位系であるメートル法は、このころにフランスが中心となって制定されたものである。(1799年にメートル法を制式採用。) なお、重さの単位の「グラム」も、この頃に制定されていった。(※ 検定教科書の範囲内。実教出版の教科書などで確認。) フランスは、度量衡(どりょうこう)を統一しようとしたのである。 - ※ ウィキペディア日本語版の記事『キログラム』によると、べつに革命政権が度量衡統一を開始したのではなく、ルイ16世の政権下の頃から既に、重さの単位の統一作業が始められてたらしい。どうやら、度量衡の統一作業中に、フランス革命(1789年に本格化)が起きた、・・・というのが真相であるようだ。 ナポレオンとその後 1799年、ナポレオンはクーデタで統領政府を樹立し、みずから第一統領となり、政治の実権をにぎった。 中学校での内容の復習 フランス革命後、ナポレオンの統治していたころのフランスは、ロシアを征服しようとして1812年にロシア遠征したが、フランスは大敗をした。モスクワを占領したものの、モスクワの街はロシア軍によって既に焼き払われており(いわゆる「焦土作戦」、しょうどさくせん)、そのうち冬が到来し、きびしい寒さのため、フランス軍は冬をこせなかった。そうして弱ったフランス軍に、ロシア軍が反撃してきたのであった。 ロシア遠征の大敗後、フランスは諸国に攻め込まれ、ナポレオンは失脚し、1815年にナポレオンはエルバ島に流された。 そして、フランスではルイ18世が即位して、ブルボン王朝が復活し、いったんフランスは王政に戻った。 エルバ島からのナポレオンの脱出 ナポレオンはエルバ島に流されたといっても、次に説明するような経緯によって、またまたナポレオンがらみの戦争が起きた。 ナポレオンは、1815年にエルバ島から脱出し、1815年の3月にフランスのパリにもどり、フランス国民からの支持のもとにナポレオンは帝位を取り戻す。 諸外国のイギリス・オランダ・プロイセン(ドイツ)はナポレオンをみとめず、フランスに対抗する同盟を結び合う。 そしてナポレオンは諸外国に攻め込む。こうして1815年の6月に、フランス 対 周辺国 の戦争である ワーテルローの戦いが起きる。(ワーテルロー、waterloo) このワーテルローの戦いでフランスは、負けてしまう。こんどはナポレオンは大西洋のセントヘレナ島 (Saint Helena) に流されてしまう。 けっきょく、ナポレオンが皇帝に返り咲けた期間は、100日ほどであった。これを「百日天下」(ひゃくにちてんか、仏: Cent-Jours, 英: Hundred Days)という。1821年にナポレオンはセントヘレナ島で死亡する。 そして、フランスでは、ブルボン王朝が復活したことにより、ルイ18世がフランス国王につき、いったんフランスは王政に戻った。フランスでは、これからしばらく王政が続く。 ナポレオンの改革 ナポレオンの統治期間中、フランス国内で、法律や行政などの改革が進んだ。 フランスでは民法が改革され、契約の自由、私有財産の不可侵(つまり 所有権の絶対性)、などが民法典などで明記された。 この、ナポレオン統治時代に改革されたフランス民法およびフランス民法典を、一般に「ナポレオン法典」という。 ロシア遠征に至る経緯 ナポレオンの失脚の発端は、1812年でのロシア遠征でのフランスの敗退であろう。きびしい寒さなどのため、冬にフランス軍は敗退したのであった。 - 大陸封鎖令 → ロシア遠征 ではなぜ、そもそもナポレオンがロシア遠征をしたのか。その理由は、ナポレオンはイギリスと戦争していたので、欧州諸国にイギリスとの通商を禁止させる大陸封鎖令(たいりく ふうされい)を1806年に出したのだが、ロシアが封鎖令に従わなかったのである。ロシアは穀物などをイギリスに輸出した。 (なお、じつは前年の1805年の時点で、フランスはイギリスに トラファルガーの戦い(海戦)で敗北している。つまりイギリスの勝ち。フランス(ナポレオン)の負け。しかし同1805年のアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア連合軍にフランスは勝利している。) なお、この時代のイギリスの産業では、産業革命がすでに進行しており、よってイギリスの産業競争力、経済力などに、産業のおくれたフランス経済では勝ち目が無かったので、どのみちフランスによるイギリス封鎖令は失敗する運命だったのだろう。 - ※ 21世紀現代のロシア地方の農業については、『中学校社会 地理/ロシアと周辺の国』『高等学校地理B/地誌 ロシアと周辺』 などで学んだように、ロシア南部や西部は以外と温暖であり、農業生産量も多い。かならずしもナポレオンの時代と21世紀現代とでは、国境も違うだろうし、農業技術も違っているだろうが、そういう細かいことは大学の歴史学に回すとして、高校では地理科目などと関連づけると覚えやすいだろう。 - 対仏大同盟 → 大陸封鎖令 → ロシア遠征 ではなぜ、イギリスとフランスは戦争に至ったのか。 それは、反フランスの立場の諸国による対仏大同盟に、イギリスが対仏大同盟の主要国として参加してたからである。 補足 - ライプツィヒの戦い ロシア遠征の敗退後に、ナポレオンを捕らえるに至った戦争が、戦場がドイツになったライプツィヒの戦いである。(Leipzig、ライプティヒ) ロシア遠征(1812年)でのフランス敗退後、1813年に反フランスの諸国(イギリス、ロシア、プロイセン、スウェーデンなど)がフランス攻めこもうとして、ドイツのライプツィヒで決戦になった。 このライプツィヒでの決戦で、フランス軍は敗退して、フランス軍は後退した。そして翌年1814年にパリまで占領されて、ナポレオンは失脚しエルバ島に流されるに至った。 ナポレオン戦争の結果 - いったんフランスは王政に戻り,フランスではブルボン王家が復活する。スペインでも王政が復活するなど、ヨーロッパでは王政は素晴らしいものだという価値観が、政治闘争では有力になる。 - ヨーロッパ諸国は協調体制になる。そのため、ナポレオン戦争中の各国で湧き上がった愛国心(ナショナリズム)や自由主義などは、各国で、おさえつけられるようになった。 - しかし庶民などにとっては、このような不自由で、中世に逆戻りしたかのような国際体制が、気にいらない。 次の「ウィーン体制」の単元で、このナポレオン戦争後の時代を学んでいく。 ナポレオンとドイツ ナポレオンがフランスの皇帝になったばかりの頃、フランスの隣国であるドイツは、ほとんどフランスと戦わなかったようだ。(もしくは,まったくフランスと戦っていない。) まず、ナポレオンがフランス皇帝に即位したのが1804年である。 1805年に、イギリス・ロシア・オーストラリアは第3回対仏大同盟を結成し、フランスと戦う。 - なお、この結果、トラファルガーの戦いが同1805年10月に起き、イギリス海軍人ネルソンひきいる艦隊が活躍し、フランスを負かす。 - いっぽう、ヨーロッパ大陸では、フランスが、フランスと敵対するオーストラリア・ロシアの連合軍を、同1805年、アウステルリッツの戦いで破る。 そして1806年、ナポレオンは大陸封鎖令を出し、イギリスと諸国の通称を禁止させようとする。 1806年、フランスは南西ドイツ諸邦とライン同盟を結ぶ。 - ※ 検定教科書を読む限り、ナポレオン即位から同盟までの期間、上述のように、まったくドイツはフランスと戦ってない。 国民意識 フランス革命やナポレオンの活躍により、フランスでは、国民としての意識が芽生えた。 ※ これは別にwikiの独自見解ではなく、山川「高校世界史B」や東京書籍「世界史B」などに普通に書かれている。 また、国語教育も重視され、それにつれて地域言語は否定されていった。(東京書籍の見解) - ※ 現代では経済のグローバル化が進んでいるので国民意識と民主主義を同一視するのが難しいかもしれないが、しかし歴史的にはそうではない。 こうして、「国民国家」としてフランスは変化していった。 また、ナポレオンの戦争は、従来の絶対王政の戦争ではなく国民戦争という側面をもっていた(東京書籍の見解)。 フランスに攻め込まれたドイツでも、ドイツの哲学者フィヒテが、連続講演「ドイツ国民に告ぐ」により、ドイツの大衆に対してドイツ人としての国民意識を覚醒するように訴えつづけた。(東京書籍の見解) 詳しくはドイツの単元で説明するが、ドイツ(プロイセン)でもフランスに対抗するために農民開放や行政改革などがシュタインやハルデンベルクにより進められることになる。 こうして、のちに世界において近代国家の手本が、国民国家となっていった。 - 文化への影響 ドイツの音楽家ベートーベンは、フランス革命中にナポレオンが台頭した当初、民主主義を夢見てナポレオンを応援した。ベートベンの交響曲『英雄』はナポレオンをたたえる曲である。しかしナポレオンが皇帝に即位すると、単なる独裁者だとしてベートベンはナポレオンに失望したといわれる。 イタリア遠征など ナポレオンはフランス革命中、エジプトやイタリアに遠征している。なおエジプト遠征の理由は、敵国イギリスとその植民地インドとの連絡を絶つためである(※ 山川出版の詳説世界史Bの見解)。 画家ダヴィドによるナポレオンのアルプス越えの絵画も、このイタリア遠征を描いたものである。 ナポレオンの戴冠式に出てくる教皇(ナポレオンの後ろに座っている人物)も、ローマ教皇である。(※ ローマは事実上の現在のイタリアに相当する。バチカン市国とかそういうのは考えないことにする。) ※ コラム:日本への影響 - ※ 第一学習社『世界史A』が紹介。 日本はナポレオン活躍の当時、江戸時代であり、ヨーロッパ情勢についてはオランダから情報を得ていた。しかしオランダがフランス軍に占領されると、オランダは日本との貿易が不利になることをおそれ、幕府にナポレオン関係の情報を隠した。 しかし江戸幕府は、オランダからの情報がなにかがおかしいことに気づき、蘭学書や漂流民からひそかにヨーロッパ情勢の情報を得ており、こうしてナポレオンについての情報が日本の江戸幕府に伝わっていった。 ナポレオンについては、そのうち日本でも日本人の翻訳した蘭学書などで紹介されるほどになっており、幕末のころには、たとえば西郷隆盛が尊敬する人物としてナポレオンと(米国の)ワシントンをあげていたほどである。
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高等学校世界史B/フランス革命の経緯 フランス革命 フランス革命以前は身分は、聖職者である第一身分、貴族である第二身分、平民である第三身分、と3種類に分かれていた。(なお、このような、フランス革命前のフランスの制度のことをアンシャン=レジーム(旧制度)という。) 革命以前は人口の9割以上は第三身分であり、さらに人口の8割ほどは農民だった。 いっぽう、フランス国土の3割〜4割ほどが彼ら第一身分と第二身分の保有する土地だった。 そして平民は、領主に税を納めるために課税させられていた。いっぽう聖職者は、課税が免除されていた。 しかし啓蒙思想などの影響で、政治の見直しをもとめる気運が起こり、シェイエスは小冊子『第三身分とは何か』を刊行して第三身分の権利を主張した。 さて、国王ルイ16世が王権をひきついだ頃、ルイ14世など先王たちの度重なる戦争の戦費もあって、フランスの財政は悪化していた。 ルイ16世紀は財政改革のため、第一身分など特権階級にも課税しようと改革をこころみ、ルイ16世は銀行家ネッケルなどの人材を登用したが、しかし税制改革は貴族の抵抗にあい、そのため1789年に三部会が招集された。(なお、以前の三部会は、ルイ13世の時代に開かれた1615年の三部会だったので、実に百数十年ぶりの三部会である。) ヴェルサイユで三部会が開かれると、第三身分は議決方法をめぐって特権身分と対立した。そして第三身分は独自に集会をひらいて「国民議会」と自称し、憲法が制定されるまで解散しないことを誓いあった ( 球戯場の誓い )(「きゅうぎじょう」と読む。「球技」ではないので注意)。 なお、フランス国王は国民議会を認める方針であったとも伝えられるが、国王はしだいに議会を軍隊で弾圧しようとした、と伝えられる。 フランスの第三身分は7月に(国王の本音が国民議会の弾圧にあると考えたのか)バスティーユ牢獄を襲撃した。そして全国的に農民放棄の反乱が広まった。 こうしてフランス革命が本格化していった。 そして8月、国民議会は封建制の廃止を宣言し、それによって 領主裁判権 および 教会への十分の一税 は廃止されたが、いっぽう、一般の領主への地代は維持された。 ついで同8月、国民議会は『人権宣言』を採択した。 そして同1789年の10月、女性を先頭にしたパリの民衆数千人がヴェルサイユに行進し、国王一家をパリに連行した。 そして国民議会もパリに移り、以降のフランス政治の中心地はパリになった。 1792年、国民議会(フランス議会)はオーストリアに宣戦したが、緒戦ではフランスは敗退した。 そしてオーストリア・プロイセンの連合軍がフランスに侵入したので、フランスでは義勇兵が立ち上がった。 愚かなフランス大衆は、これらの緒戦の敗退の原因を、旧貴族や国王の裏切りのせいだと決め付けたので、フランス国王の権威はますます低下した。 そして同92年の8月、パリ民衆とフランス全土からパリに集まった義勇兵が、テュイルリー宮殿に乱入し、王権を停止させた(8月10日事件)。 そして翌9月には、(選挙制度および議会制度として)男性普通選挙による国民公会が成立し、王政の廃止が宣言され、共和制が宣言された。 国民公会ではジロンド派と急進派であるジャコバン派(「山岳派」ともいう)が対立していた。当初はジロンド派が優勢だったが、しだいにジャコバン派が優勢になった。そして1793年1月、ルイ16世はギロチンで処刑された。 イギリスは、この処刑を期に、革命がイギリスに波及することを警戒して、イギリス首相ピットはフランス周辺の国々(プロイセンやロシアなど)に対仏大同盟をよびかけ対仏大同盟を結成した。 いっぽう、フランスではジャコバン派政権のロベスピエールが公安委員会をつくって、反対派を処刑するなどの恐怖政治を行った。 なお同じ頃、ジャコバン派政権によってフランスにおける徴兵制の導入、革命暦の導入が行われた。また、憲法制定以前から度量衡(「どりょうこう」、意味: 長さ、重さなどの単位のこと)の整理が企画されていたが、憲法制定後にメートル法が導入され、メートルやグラムが導入された。 そしてフランスでは、しだいにロベスピエールの独裁に対する不満が高まり、ついに1794年7月にテルミドール9日のクーデターによってロベスピエール政権が倒され、ロベスピエールは処刑された。 そしてジャコバン派は失墜し、1795年には穏健共和派によって新憲法が制定し、フランス政治は財産額によって選挙権を制限する制限選挙制になった。 1796年、フランス軍人ナポレオン=ボナパルトがひきいる部隊が敵国のオーストリア軍をやぶったことで、ナポレオンの評判が高まった。(※ ナポレオンだけがフルネームで「ボナパルト」まで氏名を紹介されてるのが、読者には奇妙に思えるかもしれない。しかし日本の高校の教科書では、なぜかナポレオンだけ特別扱いされてフルネームで紹介されるので、残念ながら高校生は、こういう表記に従うしかない。なお、政治学用語または哲学用語で「ボナパルティズム」という、ナポレオン=ボナパルトに由来する語がある。) また1798年、ナポレオンらは敵国イギリスとインドとの連絡を絶つために、エジプトに遠征した。(なお、ロゼッタストーンが発見されたのは、この遠征中の1798年である。) 1799年にイギリスがロシアなどに呼びかけて第2回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンはひそかにフランスに帰国し、ナポレオンは11月にクーデタを起こしてフランスの政権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。 そしてナポレオンひきいるフランスは、それまで対立していたローマ教皇と1801年に和解し、翌1802年にはイギリスとも和解(「アミアンの和約」)したので、対仏大同盟は存在理由がなくなり、いったん対仏大同盟は消滅した。(※ 「和約」の「約」の字に注意。「和訳」ではない。) 1804年には『ナポレオン法典』によって、私有財産の不可侵などが定められた。そして1804年に議会の圧倒的支持のもと、ナポレオンは帝位につき、『ナポレオン1世』と称した(第一帝政)。 第3回対仏大同盟 第2回対仏大同盟が消滅したにもかかわらず、1805年には第3回対仏大同盟がイギリス・ロシア・オーストリアによって結成された。 フランス海軍は1805年にイギリス海軍を相手にトラファルガーの海戦でたたかったが、フランスは敗退した。(なお、このトラファルガー海戦でイギリス海軍は提督ネルソンが指揮していた。) しかしフランスは、陸戦では同1805年のアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアの連合軍を破った。 そして1806年、フランスはドイツ西部諸国とともにライン同盟を結成し、フランスはドイツ諸国の保護者となった。また、このライン同盟にともない神聖ローマ帝国は消滅した。 1806年、プロイセンはロシアと共同してフランスと戦ったが、フランスに破れてしまい、ロシアもフランスに同様に破れてしまったので、1907年にはフランスとの和議を結ばされた。 同じころ、フランスは、イギリスを経済的に孤立させるために大陸封鎖令を1806年に発し、大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じた。(現代語で言うところの、いわゆる「経済封鎖」を、ナポレオンはこころみた。) しかし、やがてロシアが封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したので、1812年にフランスはロシアに遠征したが、このロシア遠征でフランスは敗退してしまい、この敗退をきっかけに各地で反乱が起き、1813年には反フランスの諸国がライプツィヒの戦いでフランスを破り、翌1814年にパリを占領した。そしてナポレオンは諸国軍に捕らえられ、エルバ島に流された。 ナポレオンがエルバ島に流されたあと、フランスではブルボン王朝が復活し、ルイ18世が即位した。 その後ナポレオンはエルバ島を脱出して復帰したが、しかしワーテルローの戦いで再びナポレオンは破れてしまい、セントヘレナ島に流されてしまい、以降、ナポレオンの復帰は無く、ナポレオンはセントヘレナ島で没した。 こうしてナポレオン本人は失脚したが、しかし「私有財産の不可侵」などの民主的な考えかたはヨーロッパに広がり、以降、諸国は民衆を尊重せざるを得なくなっていった。 - ※ なお、ナポレオンがエルバ島を脱出して政権復帰してから、セントヘレナ島に流されるまでの政権期間のことを、(およそ100日であるため、歴史用語で)「百日天下」という。(※ 検定教科書では、どの教科書でも「百日天下」は太字になっておらず、あまり意義の無い用語だと考えているようだ。当時の人が「百日天下」と言ったかどうかは記述されてない。) ドイツでのナショナリズム ドイツがナポレオンに占領されていた頃の1807年、プロイセン人思想家のフィヒテは、ドイツの民衆に(ドイツへの)民族意識を鼓舞しようと『ドイツ国民に告ぐ』と題した講演で、プロイセン人に(ドイツ国民としての)国民意識(いわゆる「愛国心」)の必要性を主張した。(この時点では、まだ統一国家としての「ドイツ」は存在してなかった。ナポレオンが占領する前の「ドイツ」は、プロイセン等のいくつかの国が分立していた状態である。) また、1807年、プロイセン宰相のシュタインは農奴解放および付随する様々な自由化(営業の自由化など)を行った。あとの地位を継いだ宰相ハルデンベルクも同様に様々な改革を行った。(シュタインとハルデンベルクは、営業の自由化(つまり、ギルドの特権廃止)、教育改革、都市の自治化などの改革を行った。) (※ ハ「イ」デ「ル」ベルク(×)ではなく ハ「ル」デ「ン」ベルク。「貼るでん、ベルク」とかコジつけて覚えよう。)
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高等学校世界史B/プロイセンとオーストリアとロシアの台頭 日本人にとって、プロイセン(ドイツ)は、日本史において明治維新のあとに、日本の近代化のための手本にされた国である。明治日本で、おもに軍隊(日本軍)の近代化の手本や、立憲君主制の手本として、プロイセンが手本にされることになる。 では我々、学生は、このプロイセンの成立と台頭について、学んでいこう。 なお、日本史では時期的に江戸時代後半〜幕末のころが、下記に紹介するプロイセンやロシアの台頭してきた時代と、同じ頃の時代である。 プロイセンとオーストリアの台頭 プロイセンの原型になった国は、もともと15世紀のホーエンツォレルン家のブランデンブルク公国であった。 そして17世紀、ドイツ騎士団領をもとにプロイセン公国が成立し、さらに18世紀はじめの1701年にはプロイセン王国になった。 プロイセン王国の2代目の国王であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、制度を整え、軍備も増強し、プロイセンにおける絶対王政の基礎を築いた。(なお、後世でいわゆる「フリードリヒ大王」とは、彼 フリードリヒ1世のことである。) ついで1740年にフリードリヒ2世(在位1740〜86)が即位し、(国の改革のためか)啓蒙思想を取り入れ、農民を保護し、農耕業を奨励し、さらに教育を充実させ、宗教の寛容の政策を実施するなどの施策を実行したので、彼 フリードリヒ2世は典型的な「啓蒙専制君主」となった。フリードリヒ2世は「君主は国家第一の しもべ」と言ったと伝えられる。 さて、そのころオーストリアでは、1740年、マリア=テレジアがハプスブルク家の領土を継いだ。 フランスおよびプロイセンは、マリア=テレジアの継承に異議をとなえ、武力介入し、オーストリア継承戦争となった。 なお、この開戦当時のプロイセン国王はフリードリヒ2世なので、フリードリヒ2世が武力介入したことになる。 そして最終的にプロイセンはオーストリアからシュレジエン(地名)を獲得した。 戦争後、オーストリアは対立するプロイセンに対抗するために、それまで敵対していたフランスと友好的な外交政策を行った。 そして1756年には、オーストリアが目標としてシュレジエンの奪回をめざす七年戦争(1756〜63)が起きた。 しかしプロイセンもイギリスの支援を得て対抗したこともあり、オーストリアはシュレジエンを獲得できなかった。最終的にプロイセンがシュレジエンを確保した結末で和議となった。 さて、マリア=テレジアはプロイセンに対抗する目的もあって、さまざまな内政改革をすすめていた。そしてテレジアの子ヨーゼフ2世は農奴解放令や宗教寛容令などを実施して、オーストリア政治の近代化を行い、彼ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として知られることになった。 ロシアのロマノフ朝と近代化 ピョートルの活躍 ロシアでは1682年、ロマノフ朝のピョートル1世が、ロシアの近代化のために、西ヨーロッパ地方の造船術などを取り入れた。 彼ピョートル1世じしんが、300人ほどの部下とともに西ヨーロッパに視察に出てまでして、西欧の造船術などの工業を学んだ、ほどだであった。) そしてピョートルの時代、清(シン、中国)と国境を確定するためのネルチンスク条約が結ばれた。 ピョートル1世はアゾフ海に進出した。 1700年に始まった北方戦争は、ロシア対スウェーデンの戦争であり、最終的にロシアが勝利した。スウェーデンは敗退した。勝利したロシアは、バルト海東岸を獲得した。そしてロシアは、このバルトの地に、ロシアの新首都サンクト=ペテルブルクを築いた。 エカチェリーナ2世の活躍 時はすぎ、18世紀の後半、ロシアでは女王エカチェリーナ2世が、ロシアを東方まで進出させ、その一貫として日本に使節ラクスマンを送った。 また当時のロシアは南方ではトルコと戦い、ロシアはクリミア半島を獲得した。 エカチェリーナ2世は当初は(近代化を目指すためか)啓蒙専制君主を目指し、啓蒙思想家ヴォルテールなどの助言も参考にしたが、しかし農民反乱が発生してしまい(ブガチョフの農民反乱)、(おそらく貴族の協力を得るために)エカチェリーナは農奴制を強化した。 - 備考 - なおロマノフ王朝そのものは、1618年にミハイル=ロマノフが開いた。 ポーランド分割 ポーランドでは16世紀後半、ヤゲウォ朝が断絶し、選挙による王政に移行した。 1772年、プロイセンが侵略目的のため、プロイセン・ロシア・オーストリアの3か国でポーランドの分割を提案し、実行されてしまい、ポーランドはまず国境ちかくの領土を3か国にうばわれてしまった。 ポーランド側では義勇軍が貴族コシューシコ(←人名)に率いられて抵抗したが、抵抗むなしく失敗してしまい、ポーランドでは最終的に(1772年の最初の領土分割も含めて)合計3回の領土分割が行われてしまい(ポーランド分割)、そのため地図上からポーランドは、いったん消滅した。(ポーランドが独立を回復するのは第一次世界大戦後である)
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高等学校世界史B/メソポタミア文明 メソポタミア文明 メソポタミア(Mesopotamia)とはギリシア語で「川の間の地」という言葉であり、また、ティグリス川とユーフラテス川の流域で発生した文明および、このティグリス川とユーフラテス川の流域の地域のことを指す。 この地域には、これらの川があったために、灌漑(かんがい)によって農業が発達し、食糧生産が増えたことにより、人口が増加し、発展していった。そのため、このメソポタミア地域を「肥沃な三日月地帯」(ひよくな みかづきちたい、Fertile Crescent)と言い表すこともある。 また灌漑とは、川などの外部の水源からから人工的に水を引き、農地に水を供給することを指す。先述の通り、2本の川の間に挟まれているメソポタミアでは、外部の水源が豊かであり、そこから水を引いたことにより、耕作可能な土地や作物の収穫量が増え、農業を大きく発達させることに成功した。 紀元前3100年ごろ、このメソポタミア南部の地域に、系統不明の民族シュメール人(Sumerians)が都市国家を創りだし、このシュメール人が都市国家を3つ建てた。その3つの都市国家の名前は ウル(Ur)、ウルク(Urk)、ラガシュ(Lagash) である。また都市の中心には神殿・聖塔として、ジッグラト(ziggurat)が建設された。 シュメール人は青銅器を用いており、また、シュメール人は楔形文字(くさびがた もじ)を用いていた。 紀元前2350年ごろ、シュメール人にとって変わって、セム系のアッカド人(Akkadians)が都市シュメールを征服した。アッカド人はメソポタミアにおける最初の帝国アッカド帝国を建国し、サルゴン1世のころ、メソポタミアのほぼ全域を征服した。 アッカド帝国はその後おとろえ、シュメール人の建てたウル第三王朝にとって変わられたが、そのウル第三王朝もおとろえて、紀元前2000年ごろ、セム系アムル人(Amurrites)によってバビロン第一王朝(古バビロニア王国、Babylonia)が建国された。そして紀元前1700年ごろのハンムラビ王(Hammurabi)のときに、メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は、国家の統治のため、それまでの法律をまとめた『ハンムラビ法典』を制定して発布した。 このハンムラビ法典で抑えたいポイントは - ① 「目には目を」で知られる復讐法(ふくしゅうほう)。同害復讐法(どうがい ふくしゅうほう)。 - ② 身分により刑罰に差が生まれる身分法(みぶんほう)。 の二点である。 ハンムラビ法典(抜粋) - 196条 他人の目をつぶしたものは、その目をつぶされる。 - 199条 他人の奴隷の目をつぶしたり、骨を折ったりした者は、その奴隷の値の半分を支払う。 (※ 日本語訳の言い回しの細部は教科書によって違うので、一字一句は覚える必要性は無い。) ハンムラビ法典は、シュメール法を集大成したものである。シュメール時代から法典が編纂(へんさん)されていた。 メソポタミアの文化・地形 メソポタミアの地形は比較的、開放的である。このような地形のため、軍事的には、外敵からの進入がされやすいなどの特徴がある。 文化面では、太陰暦(たいいんれき)を採用しており、閏年(うるうどし)のずれは太陰太陽暦で修正していた。 また1週7日制、六十進法はメソポタミア文明の特徴である。 メソポタミア文明の文字は、シュメール人によって楔形文字(くさびがたもじ)が作られ、これが他の民族にも用いられた。メソポタミア文明では基本的に、粘土板に刻む(きざむ)方法で文字が書かれていた。 (※ 発展項目) この文字の解読は、19世紀にイギリスのローリンソンによって、アケメネス朝のダレイオス1世の功績が書かれた石碑(せきひ)の文章(ベヒストゥーン碑文)をもとに解読された。 (※ 発展項目)古代メソポタミアでは 『ギルガメッシュ叙事詩(じょじし)』という文学作品が作られた。これは、世界最古の文学作品であると考えられている。ギルガメッシュ叙事詩の内容だが、これはウルク王ギルガメッシュが主人公の英雄譚(えいゆうたん)であり、『旧約聖書』にある「ノアの箱舟」の話のモデルになったと考えられている、洪水伝説などが書かれている。 インド=ヨーロッパ語族の進出 紀元前2000年ごろ、インド=ヨーロッパ語系の遊牧民が、カスピ海周辺の地域から西アジアへと、大きな移動をしていた。 そして紀元前1800年ごろ、インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人(Hittites)によって、メソポタミアの北にあるアナトリア高原のあたりに、強力な王国が建国された。ヒッタイト人の文明は、製鉄技術を持っており、鉄製の武具や、馬でひく鉄製の戦車など、優れた武器の生産が可能であった。そして紀元前1600年ごろ、ヒッタイトがメソポタミアに遠征し、バビロン第一王朝を滅ぼした。また同時にカッシート人(Kassites)がイラン方面からバビロニアに侵入してメソポタミアを支配し、カッシート王国(バビロン第三王朝)が成立した。 また、紀元前1500年ごろ、メソポタミア北部にフルリ人がミタンニ王国(Mitanni)を建て、勢力を増した。 こうしてオリエント世界では、これらのいくつもの王国が(ヒッタイト、カッシート、ミタンニ、エジプト)、割拠する状態になった。 紀元前1286年 ヒッタイトとエジプト新王国とでカデシュの戦いが行われ、ヒッタイトが勝利を収めた。 カデシュの戦いのポイントは - ① 現存する最古の戦いである - ② 最古の国際条約が結ばれる の二点である。
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高等学校世界史B/モンゴル帝国 モンゴル帝国 モンゴル帝国 テムジン(Temujin)とは、チンギス=ハンの若いころの名前。 - ※ 数学っぽく等式で書くなら - 「テムジン」=「チンギス=ハン」 - である。 1204年ごろにモンゴルを統一したテムジンが、1206年に諸部族長の集会(クリルタイ)で指導者に推薦され、チンギス=ハンと名乗り、国名を大モンゴル国と称した。 第5代のフビライ(クビライ、Khubilai)は、1271年ごろ都をカラコルムから大都(だいと)(現代の北京)に移し、1271年に国号を元(げん)に変えた。 - ※ つまりモンゴルの首都は、 - カラコルム → ペキン - というふうに移動した。 - ※ つまりモンゴルの国号は、 - 「大モンゴル国」 → 「元」(ゲン) - というふうに変化した。 では誰がカラコルム(Khara Khorum)を都にしていたかというと、オゴタイ(Ogotai)がカラコルムを都にしたのである。ではオゴタイとは誰かというと、チンギスの三男であり、チンギスの次に即位した人物である。 そしてオゴタイは1234年に金を攻めて滅ぼし、華北を領有した。 中学では、「モンゴル帝国は、ヨーロッパまで攻め込んだ」と習うかもしれないが、では、いつ誰が攻め込んだかというと、 オゴタイの甥(おい)のバトゥ(Batu)が、オゴタイから西方のヨーロッパ遠征を命じられ、そしてバトゥはヨーロッパに遠征して、オゴタイは1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍をやぶった。 なお、モンゴル帝国は、西アジアのアッバース朝も滅ぼしている。 フレグがバグダードを占領し、アッバース朝を攻め滅ぼした。 そしてモンゴル帝国の各地の征服地には、南ロシアのキプチャク=ハン国、中央アジアのチャガタイ=ハン国、イラン方面のイル=ハン国、などのように、チンギス=ハンの子孫たちが治める地方政権となった。 さて(※ 再掲)、第5代のフビライ(クビライ、Khubilai)は、1271年ごろ都をカラコルムから大都(だいと)(現代の北京)に移し、1271年に国号を元(げん)に変えた。 つづいてフビライは、1279年に南宋を滅ぼし、よって中国全土は統一された。チベットや高麗も属国になった。 なお、フビライの出身の家系は、オゴタイの家系ではない。そのため、オゴタイの家系と、フビライの家系で、勢力あらそいの戦争があったのであり、1266年にハイドゥの乱となっていた。この反乱が約40年間つづいて、鎮圧された。 フビライは周辺諸国に遠征し、モンゴル軍はベトナム・チャンバー・ビルマ・日本などに遠征をした。 元軍(げんぐん)が日本に襲撃する前に、朝鮮(高麗)を征服し、従えていた。このため、日本へ侵略軍は、元軍と高麗軍の連合軍である。 元軍による日本への侵略のことを日本語で「元寇」(げんこう)と言う。(※ 「元寇」は高校世界史の検定教科書でも登場する用語です。) 元軍は、1274年と1278年の2回にわたって日本を襲撃したが、2回とも鎌倉武士によって撃退された。 元寇では、元軍は、「てつはう」と呼ばれる火薬弾をもちいていたと言われている。 元による(日本と朝鮮以外の)他の国への遠征は、おおくの場合、遠征先の国からの強い抵抗にあい、征服は失敗した場合が多い。 モンゴル帝国の政治体制 - 人種と政治 元の政治制度は、形式的に、中国の官僚制度を採用した。しかし実質的な政策決定は、モンゴル人が政策を決定した。また、中央アジア・西アジア出身の者が、色目人(しきもくじん)として、官僚などとして活用された。 科挙の回数が、少なかった。人材登用で重視された人材は、武人や実務官僚が重視された。いっぽう、儒学は重視されなかった。 金(きん)の支配下にあった人は、漢人(かんじん)と呼ばれた。「漢人」には、華北の漢民族のほか、契丹人(きったんじん)・女真人(じょしんじん)が含まれる。 南宋の支配下にあった人は、南人(なんじん)と呼ばれた。 交通 広大な領土を統治するために駅伝制(えきでんせい、ジャムチ)がしかれた。 これにより交通網が発達し、これを商人が活用し、ムスリム商人が活用し、ムスリム商人による通商が活発になった。 また、海上交易は、宋に引き続き、元も海上交易を行ったため、陸上交易の発達と同様に、海上交易も盛んになった。そのため、杭州(こうしゅう)・泉州(せんしゅう)・広州(こうしゅう)などの港市が繁栄した。また、海運も発展し、長江下流から山東半島を経由して大都にたる海運も発展した。 経済 モンゴル政府から紙幣が発行された。その紙幣は交鈔(こうしょう)という。貨幣では、銀・銅銭・金などが用いられた。とくに銀が、貨幣では中心的に扱われた。 また、余った銅銭が日本に輸出され、日本の商業の発展に役だった。 東西交流 当時、西ヨーロッパは十字軍をおこしており、そのためイスラーム勢力とヨーロッパは対立していた。そのためヨーロッパは、モンゴルにも関心があった。 ヨーロッパ諸国は、使節をモンゴルに送って、内情をさぐった。 ローマ教皇インノケンティウス4世は、修道士ブラノ=カルピニ(Plano Carpini)を使節として送った。 フランス王ルイ9世はルブルック(Ruburuck)を使節として送った。 またイタリア商人マルコ=ポーロが大都に来て、元に仕え(つかえ)、マルコ=ポーロのヨーロッパの帰国後、マルコ=ポーロはその見聞を『世界の記述』(東方見聞録)にまとめた。 - ※ 「東方見聞録」(とうほう けんぶんろく)とは、明治時代ころに日本人が意訳したときに命名した題名だと思われています。マルコ=ポーロの書いたその本のもともとの題名は不明なようです。欧米では『世界の記述』のような意味の題名で知られています。 なお、モロッコ生まれのムスリムの旅行家イブン=バットゥーダは、この時代の大都にも来ている。(イブン=バットゥーダについては、※ 高等学校世界史B/イスラーム世界の形成と発展を参照せよ。) イスラーム圏の人びとが通商などで中国にきたり、モンゴル帝国じたいがイスラーム圏の西アジアを支配していたことから、モンゴル帝国もイスラーム文化の影響を受けた。 そして、イスラームの天文学を取り入れて郭守敬(かくしゅけい)が授時歴(じゅじれき)をつくった。 なお、のちの日本の江戸時代の貞享暦(じょうきょうれき)は、この授時歴を手本にしている。 モンゴル帝国の文化 外来の文化 チベット仏教が重視された。 元(げん)でキリスト教が布教され、また、元では、ネストリウス派キリスト教が保護された。 1294年にモンテ=コルヴィノが大都でキリスト教カトリックの司教になった。 中国でキリスト教が布教されたのは、この時代が、はじめて。 文字 文字は、ウイグル文字が、普及した。言語は、モンゴル語が、政府などで使われた。 つまり、政府の命令書などでは、モンゴル語をウイグル文字で記載した。 パスパ文字がつくられたが、普及しなかった。 パスパ文字をつくった人は、チベット仏教の教主パスパである。パスパは、フビライの宗教顧問である。 中国内発祥の文化 戯曲が庶民文化として発達し、元曲(げんきょく)となって流行った。 モンゴル帝国の衰退 14世紀に入ったころから、財政がうまくいかなくなり、元(げん)政府はその場しのぎに交鈔の乱発や専売の強化をしたため、民衆が苦しみ、 紅巾の乱(こうきんのらん)が起こり、1368年に元(げん)は明(みん)軍に大都をうばわれ、元(げん)はモンゴル高原に退いた。 - ※ この「紅巾の乱」によって、中国の王朝が「元」から「明」に変わる、と見なしてよいだろう。 - モンゴル人自体は北方に撤退しただけであり、けっしてモンゴル人が滅んだわけではない。 - ともかく、こうして中国の王朝は、 - 元→明(ミン) - と変化した。 - ともかく、こうして中国の王朝は、
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高等学校世界史B/ヨーロッパ中世世界の変容 教皇の権威の確立 11世紀ころ、聖職の売買や、聖職者の妻帯など、俗化し、厳格な信者からは堕落(だらく)と考えられてていた。11世紀後半にクリュニー修道院で戒律を遵守させる運動が起こると、これが広まり、教会全体を改革する運動となった。そして教皇グレゴリウス7世(Gregorius VII、在位1073〜85)は、聖職売買や聖職者の妻帯を禁止した。 しかし、この改革は、教会を支配していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(Heinrich IV)と対立した。そして教皇と皇帝の間で、聖職者の任命権をめぐる、叙任権闘争(じょにんけん とうそう)が起きた。 そして教皇が皇帝を破門するに至った。すると、破門に乗じて、諸侯が皇帝から離反する動きが起こったので、1077年、やむなく皇帝が教皇に謝罪するに至った(カノッサの屈辱)。 北イタリアのカノッサ城で、カノッサ城主のトスカーナ女伯(じょはく)に教皇へのとりないを頼んだので、こう言われる。皇帝は雪の中、3日3晩、許しをこうたという。 その後、この叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協が図られ、聖職者は教会が信仰にもとづいて選出し、皇帝が世俗的権利を選ばれた聖職者に与えるという形式になった。 こうして、西ヨーロッパの教会に対しては、皇帝よりも教皇権が優位になった。 13世紀の教皇インノケンティウス3世(在位1198〜1216、Innocentius III)のとき、教皇の権威は絶頂期に達した。 インノケンティウス3世は、対立したイギリス王ジョンを破門して屈服させるなど、強大な影響力を持った。 十字軍 11世紀にイスラーム系のセルジューク朝がイェルサレムを支配下に置き、ビザンツ帝国を圧迫する。 ビザンツ帝国はローマ教皇に援助をもとめる。教皇ウルバヌス2世(Urbanus II)が1095年にクレルモン宗教会議を開き、聖地イェルサレム回復のための聖戦を行うために十字軍(Crusades)を派遣して遠征すべきことを提唱した。こうして翌1096年、各国の数万人の騎士からなる第1回十字軍(1096〜99)が出発し、1099年にはイェルサレムを占領して、ムスリムやユダヤ人に対する虐殺や略奪をして、イェルサレム王国(1099〜1291)をたてた。 しかしその後、イスラーム勢力がもりかえしたので、第2回十字軍が派遣された。 その後、アイユーブ朝のサラディンによってイェルサレムが奪回されたので、これに対抗するために第3回十字軍(1189〜1192)が派遣されたが、十字軍は失敗した。 十字軍に加わっていたイングランド王が講和をアイユーブ朝のサラディンにもちかけた。サラディンは、講和は、イスラームの復讐を禁ずる教えにもとづくとして、講和を承諾した。 第4回十字軍(1202〜04)は、当時のヨーロッパで絶大な権力をもっていた教皇インノケンティウス3世が提唱したのだが、どういうわけか、ヴェネチア商業の要望により、十字軍はイェルサレムには向かわずに、ヴェネチアの商業上のライバルであるコンスタンティノープルを占領して1204年にラテン帝国(Latin Empire)をたてるという、聖地回復の目的から外れた結果となった。 - ※ このコンスタンティノープルは、ビザンツ帝国の領土である。つまり第4回十字軍は、ビザンツ帝国を侵略したことになる。そして、ビザンツ帝国で主に信仰されている宗教はキリスト教である。(コンスタンティノープルは、イスラム教徒の街ではない。) なので、つまり十字軍は、キリスト教を信仰する都市(コンスタンティノープル)に攻め込んだことになる。 第5回十字軍では、戦争には乗り気でない神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1215〜50、Friedrich II)が十字軍の指揮官として派遣され、フリードリヒ2世はアイユーブ朝との外交によってイェルサレムを形式的に回復した。フリードリヒ2世はシチリア育ちであり、そこにはアラブ人が多く居住しており、フリードリヒ2世自身もアラビア語を話すことができた。アラブ人やムスリムに、フリードリヒ2世は偏見をもたなかった。 第6回・第7回十字軍は、フランス王ルイ9世によって、エジプトやチェ二ジアを攻めたが、失敗した。 最終的に十字軍は1270年までに7回行われた。 1291年に十字軍の最後の拠点アッコン(Akkon)が陥落し、十字軍国家は消滅した。 これらの一連の十字軍のほかにも、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で組織された。修道士と騎士の性質をあわせもった騎士団である。三大宗教騎士団として、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団がある。 ほかにも宗教的陶酔によって起こされた少年十字軍が1212年にあったが、参加者が離散して、参加者の一部が奴隷に売られるなどの、ぶざまな結果に終わった。 結局、十字軍の軍事的な成果は、すべて失敗に終わった。そのため、教皇の権威が低下した。また、参戦した諸侯や騎士も没落する者が多く、いっぽうで、国王が没落した諸侯・騎士の領地を没収し、国王の権力が増した。 また、東方貿易が活発になり、ヴェネチアが経済発展した。また東方貿易の結果、ビザンツ文明やイスラーム文明が西ヨーロッパに流入することになった。 都市の発展と自治 ヨーロッパでは11世紀ごろから、地中海貿易を中心とする地中海商業圏のほかに、北海・バルト海を中心とする北ヨーロッパ商業圏が栄えた。 北ヨーロッパ商業圏で、北ドイツのリューベック(Lubeck)、ハンブルク(Hambrug)、ブレーメン(Bremen)などの諸都市は、木材や毛皮、穀物、海産物などの取引きで儲けた。 いまでいうフランスとドイツの境いあたりにあるブルッヘ(ブリュージュ)、ヘント(ガン)などのフランドル地方(Frandre)は、毛織物工業で栄えた。 フランスのシャンパーニュ地方(Champagne)は定期市で栄えた。 地中海商業圏では、ヴェネチア(Venezia)、ジェノヴァ(Genova)、ピサなどのイタリアの開港都市が東西貿易で栄え、香辛料・絹織物などが取引きされた。また、この影響で、内陸部のミラノ(Milano)やフィレンツェ(Firenze)などの都市も毛織物産業や金融業などで栄えた。 都市は、諸侯や領主などの支配を受けていたが、しだいに自治の志向が高まり、11世紀ころから自治権を獲得し、自治都市になっていった。 都市は、自治の権利を行政的に正当化するため、皇帝や領主などから特許状(とっきょじょう)をもらい、その都市を自治した。 また、都市どうしで同盟をむすび、諸侯の支配に対抗した。 北ドイツでは諸都市がハンザ同盟(Hansebund)をむすび、北イタリアでは諸都市がロンバルディア同盟(Lega Lombarda)をむすぶなどの都市同盟がむすばれ、これらの同盟の都市は諸侯と同等の地位に立った。 いっぽう、イギリスやフランスの諸都市では国王との結びつきが強かった。 有力な大商人のなかには、国際政治に影響をおよぼす者も、あらわれた。フィレンツェのメディチ家(Medici)や、アウクスブルク(Augsburg)のフッガー家(Fugger)などが、そのような大商人として代表的である。 都市内部では、商人ギルドや同職ギルド(ツンフト)などの同業組合が、あった。同職ギルド(「ツンフト」ともいう)は、商人ギルドと対立しながら(ツンフト闘争)、市政に参加していった。 同職ギルド(ツンフト)は、きびしい規制で自由競争を規制し、それぞれの職業の市場を独占した。 また、同職ギルドの組合員になれたのは親方だけであり、徒弟(とてい)などは従属的な身分として扱われた。
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高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺 中世イギリス ノルマンコンクエスト 1066年にノルマンディー公がイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世としてノルマン朝(1066〜1154)をたてた(ノルマン コンクエスト)。 フランス北部にノルマンディー公国がある。西フランク公国(今でいうフランス)とノルマディー公国は、異なる国である。 西フランク公国(今でいうフランス)とノルマディー公国は、隣接している。 このようなノルマンディーの地理的な状況のため、ノルマン朝の王族・貴族は、領地はイギリスだけでなく、フランスにも領地を持っていた。(このため、フランスとイギリスが、のちのこれらのノルマンディー周辺の領土をめぐって、のちに争う。) マグナカルタ ノルマン朝は断絶して(1154年)、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世(Henry II)としてプランタジネット朝(1154〜1399)をたて、フランスにも広大な領地を領有していた。しかし、その子ジョン王(John)のとき、フランス王フィリップス2世と戦って敗れ、フランスの領地の大半を失った。さらに、戦争遂行のために重税を課したので、諸侯や貴族などが反発し、1215年にマグナ=カルタ(Magna Carta、大憲章)を王に認めさせた。マグナ=カルタは、あらゆる課税には、高位の聖職者や高位の貴族による了承が必要になることを定めている。このマグナ=カルタが、のちのイギリスの立憲政治の基礎になる。 - なお、ジョン王は、司教の任命の権限を教皇インノケンティウス3世とあらそって(叙任権闘争、じょにんけんとうそう)、教皇によってジョンは破門され、破門を解いてもらうために教皇に屈服するという失態をおかしたこともある。 ジョン王のつぎのヘンリ3世がマグナ=カルタを無視したため、シモン=ド=モンフォール(Simon de Monfort)を中心とする貴族が反乱を起こし、国王軍をやぶった。そして国王にせまり、1265年にそれまでの高位聖職者や高位貴族たちの協議会に、それまで協議会に含まれなていなかった、各州の代表者を、新たに加えた。 模範会議 その後1295年にエドワード1世(Edward I)が召集した会議が、のちに模範会議(もはん かいぎ、Model Parliament)と言われるようになった。 そし14世紀には貴族院(上院、House of Lords)と庶民院(下院、House of commons)の二院制をとるようになった。 フランスの中世 フランスのカペー朝は、はじめ王権はパリ周辺の北フランスを中心とする、弱体な王権だった。しかし、その後、王権と領土を増していく。 12世紀末にフィリップス2世(Phillippe II)は、イギリス王ジョンと戦い、ジョンに勝ち、フランス国内の旧イングランド領の大半をうばう。 さらにルイ9世(Louis IX)が、アルビジョア十字軍をもちいて、南フランスの諸侯を制圧し、アルビやベジエなどの街を攻撃し、南フランスを併合した。ルイ9世はアルビジョア十字軍の出兵のため、異端カタリ派の制圧をかかげていた。 - 教会使節はベジエのすべての住民の虐殺を命じたという。もし殺した相手が異端なら地獄に落ち、殺した相手がカトリックなら天国に行くから、殺しても問題ない、というような論理で、住民虐殺を正当化し、「すべてを殺せ。」と主張したという。 その後、フィリップス4世はローマ教皇ポニファティウス8世と対立したが、1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる三部会(さんぶかい、Etats generaux)をひらき、その支持を得て、教皇を屈服させ、王権をさらに強化した。 貨幣経済の進展と政治権力の変化 14世紀ごろから、貨幣経済がヨーロッパに行き渡る。すると、それまでの生産物を中心とした荘園では、経営が行き詰まるので、貨幣で地代を徴収する領主が出て来た。 また、農民が市場で生産物を売るなどして、貨幣をたくわえる農民も出て来た。 このようなことがあり、農民の地位が高まった。 そして、貨幣を調達するには、優秀な農民を集めなければならず、なので領主は農民を待遇を改善するため、農奴(のうど)の扱いを改善しなければならなくなり、結果的に農奴(のうど)という奴隷的な扱いを廃止し、農民が自由市民になっていった。 とくにイギリスでは、貨幣経済の進展もあってか、この農奴解放の現象が顕著で、ヨーマン(yeoman)と言われる独立自営農民が誕生した。 いっぽう、各国各地の領主の中には、社会の変化に対応できず、落ちぶれていく領主も出て来た。 14世紀に入ると、ヨーロッパでは人口が減少し始める。原因としては、通説では、気候の寒冷化、ペスト(黒死病)の流行、戦乱などが挙げられる。 - (※ 範囲外)背景として、一説には、13世紀後半までの人口増加が、食料生産の限界による飢饉や、主に都市部などでゴミや排泄物の処理といった衛生処理の限界を超えたことによる疫病の蔓延であるという説もある[1]。 さて、人口がヨーロッパでは減少したことにともない、ヨーロッパでは人手不足のため労働力が不足した。 にもかかわらず、領主の中には改革をせず重税で当面の問題解決しようとした領主もいたり、また当時あった戦争の戦費の負担を農民に押し付ける国王がいたりしたので、ヨーロッパでは一揆が増えた。 14世紀後半のフランスのジャックリーの乱や、イギリスのワット=タイラーの乱が、農民の一揆として有名である。 どちらの一揆とも鎮圧されたが、しかし貨幣経済に対応できない領主が世間には多かったようで、領主の多くは落ちぶれていった。 また、この頃、王権の強大化もあり、国王や有力者に領地を没収させる領主もあり、領主の多くはますます厳しい状況になった。 また、14世紀ころから火砲が誕生し、戦争の戦術が変わっていくと、むかしながらの一騎打ちを花形としていた騎士の立場はきびしくなり、騎士の没落の原因になった。 そして、没落した旧来の領主によって手放された土地を、都市の大商人などが購入して、大商人などが新しい領主になった。 こうして、荘園制を基盤とする封建社会は、しだいに解体していき、かわりに貨幣経済と絶大な王権を基盤とする社会になっていく。 教皇権の衰退 各国で王権が強まったことや、十字軍の失敗により、ローマ教会の権威は低下した。 その結果、各国の国王は教会からの破門をおそれずに、教会に従わなくなった。 フランスでは、聖職者への課税をめぐって、聖職者に課税しようとする国王フィリップス4世と、課税に反対していた教皇ポニファティウス8世が対立した結果、1303年に国王派が教皇を監禁してしまうアナーニ事件が起きた。 教皇は解放されたが、まもなく死去した。 1309年には、教皇庁を強制的に移転させ、南フランスのアヴィニヨン(AVignon)に移転させた。これを、古代のバビロン捕囚にたとえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜77)という。その後、教皇庁がローマにもどると、今度はフランスは対抗して、アヴィニヨンに別の教皇をたてた。こうして、ヨーロッパで複数の教皇が並び立った。これを教会大分裂(1378〜1417)または大シスマという。 これにより、各地で教会を改革しようという運動が起きた。 いっぽう教会は、カトリックの教えに逆らうものを異端審問や魔女狩りなどで処刑していった。 14世紀後半、イギリスのウィクリフ(Wycliffe)が教会の改革をとなえ、聖書の教えにもとづくべきとし、当時の教会は聖書から外れていると批判し、また聖書を英訳した。 ベーメンのフス(Hus)も、ウィクリフの説に賛同して、教会を批判した。 しかし教会は、かれらの説を認めず、コンスタンツ公会議(1414〜18)を開いて、ウィクリフとフスを異端と認定し、フスを火刑に処し、異端問題を終結させようとした。 しかし、ベーメンではフス派がチェコの民族運動とむすびつき、教会に反対する戦争(フス戦争)が起きるなど、教会から人心は離れていき、教皇権の権威は戻らなかった。 これが、近世初頭の、ルターなどによる宗教改革につながっていく。 百年戦争 と ばら戦争 百年戦争 毛織物産地として有名なフランドル地方への利権をめぐって、イギリスとフランスが対立をした。 なおフランドル地方の場所は北フランスにある。 イギリス国王エドワード3世(Edward III)は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに百年戦争が始まった。 戦局ははじめイギリス軍が優勢であったが、しかし最終的にイギリスは敗れる。 フランスでシャルル7世(Charles VII)が即位したころはフランスは降伏寸前であった。 このころ、1429年に神のお告げを聞いたと信じる、農民の娘であるジャンヌ=ダルク(Jeanne d′Arc)が現れ、英雄視された。(ジャンヌ=ダルクは実在の人物) フランス側の言い伝えでは、ジャンヌがフランス軍を先頭で率いて、要衝オルレアンの防衛に成功し、それから、つぎつぎと敵を破ったという。 さて現実では、このオルレアンの防衛戦以降、フランス軍は勢いを盛り返し、フランスに侵入したイギリス軍を破り、最終的にイギリス軍をフランスから追放し、そして戦争は1453年にフランスの勝利で終わった。 この百年戦争の結果、イギリスはわずかにカレー市(Calais)を残して、大陸の所領を失った。 フランスでは、この戦争の結果、諸侯・騎士が没落した。いっぽう、シャルル7世は常備軍を設置して、中央集権化が強まった。またフランスでは、官僚制も強まった。 バラ戦争 いっぽう、イギリスでは、百年戦争ののち、イギリス国内での王位継承権をめぐっての内乱で、ランカスター家(Lancaster)とヨーク家(York)が争った。これをバラ戦争という。 イギリスの諸侯・騎士は両派に分かれた争い、結果的に諸侯・騎士は没落した。そして結局、この内乱をしずめたヘンリ7世(Henry VII)が1485年にテューダー朝(Tudor)をひらき、王権に反対する勢力を処罰するための星室庁(せいしつちょう)裁判所をウェストミンスター宮殿の「星の間」(ほしのま)に設置し、イングランドは絶対王政へと向かった。 こうして王権については、イギリス・フランスの両国とも王権が強化され中央集権化へと向かい、両国とも絶対王政へと向かっていった。 ドイツとスイス 今でいうドイツの地方を支配していた神聖ローマ皇帝は、イタリアの利権をめぐって、イタリアに遠征ばかりしていて、イタリア政策に熱中していた。そのため、ドイツ地方には皇帝は不在になりがちで、なのでドイツでは諸侯や都市が自立化して台頭した。そのため、皇帝権が弱体化した。 そしてドイツは、大諸侯たちの領邦(りょうほう)の連合体となった。 さらに、シュタウフェン朝(Staufen)が断絶し、事実上は皇帝位のいない「大空位時代」が生じた。その後、皇帝は出たが、皇帝権は低迷した。 皇帝カール4世(Karl IV)は、有力者による選挙によって皇帝を決める「金印勅書」(Goldene Bulle)を1356年に発布して、聖俗7名からなる七選帝侯(せんていこう)が皇帝を選挙する制度を定めた。 15世紀半ばから、ハプスブルク家(Habsburg)から皇帝が選出されるようになった。 いっぽう12世紀からエルベ川の以東でドイツ人の植民が進んだ。ブランデンブルク辺境伯領や、ドイツ騎士団領がつくられた。 スイスでは、13世紀にハプスブルク家の支配に抵抗する独立運動が起こり、こんにちのスイスの母体になった。 北欧では、14世紀末に同盟勢力が台頭した。説明すると、北欧で14世紀末、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3ヶ国がカルマル同盟をむすんだ。この同盟はデンマーク女王マルグレーテ(Margrete)の主導による。 イタリア 13世紀末、イタリア南部ではシチリア王国が分裂し、ナポリ王国とシチリア王国に分かれた。 12世紀以降、イタリア北部では都市国家が成立し、ヴェネチア・フィレンチェ・ミラノ・ジェノヴァなどの都市国家が分立した。 12世紀〜14世紀、神聖ローマ皇帝がイタリア政策によって介入してくると、これらのイタリア諸国家では、教皇派(ギベリン)と教会派(ゲルフ)とに別れて派閥争いをして混乱をした。 イベリア半島でのレコンキスタ イベリア半島は711年からイスラーム系のウマイヤ朝に征服されていた。その後、後ウマイヤ朝に変わったが、依然としてイベリア半島はイスラーム系の王朝の勢力下だった。 しかし、キリスト教の勢力がイベリア半島を奪回しようという闘争であるレコンキスタ(国土回復運動、再征服)が起こり、そしてイベリア半島北部からキリスト教の勢力がもりかえして、キリスト教の領土を広げ、12世紀にはイベリア半島の半分ほどを支配下においた。 そしてキリスト教圏として回復された領土には、カスティリア王国、アラゴン王国、ポルトガル王国の3ヶ国がたてられた。 その後、カスティリア王女イザベルとアラゴン王子フェルナンドとの結婚により、カスティリア王国 とアラゴン王国が合併して、スペイン王国となった。そして軍事ではスペイン王国が1492年、イスラーム最後の拠点グラナダを占領し、レコンキスタを完成させた。 その後、スペインやポルトガルは、大航海時代に関わっていくことになる。 - ^ ロジャー・プライス著、『ケンブリッジ版世界各国史 フランスの歴史』河野肇 和訳、創土社、2008年8月1日 第1刷発行、食料生産の限界については23ページ、衛生処理の限界については28ページ、
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高等学校世界史B/ラテンアメリカ諸国の独立 カリブ海地域 キューバのとなりの島でハイチという島国がある。 このハイチは19世紀初頭、フランスの植民地だった。 しかしフランス革命の影響で、ハイチで黒人奴隷による解放運動が起き、トゥサン=ルヴェルチュールを指導者とした。 ナポレオンは弾圧しようとフランス軍を派遣した。 トゥサン自身はナポレオン軍に逮捕され獄死した。 しかし、独立解放軍は戦ってフランス軍をやぶり、1804年に、黒人国家のハイチが誕生した(ハイチ革命)。 ラテンアメリカ地域 ラテンアメリカ地域の多くはスペインの植民地になっていたが、しかしナポレオンがスペインを占領したことなどもあり、スペイン本国が混乱した。 このような混乱(スペイン本国の混乱、フランス革命)の影響に乗じて、クリオーリョ(植民地生まれの白人)が中心になって独立運動を起こし、1810〜20年代ごろに独立する。 ラテンアメリカ北部(現:ベネズエラあたり)では、クリオーリョのシモン=ボリバルによる独立運動が起き、南部(現:アルゼンチンあたり)ではクリオーリョのサン=マルティンによる独立運動が起き、ラテンアメリカの多くの国はスペインからの独立に成功した。 また、ポルトガル領ブラジルでは、1822年にポルトガル王子がブラジルで即位して独立を宣言した。 独立運動中、イギリスやアメリカは独立運動を容認していた。 なぜなら、イギリスの首相カニングは、スペインの影響力が弱まればイギリスの影響力が強まると期待したので、ラテンアメリカでの独立運動を容認した。 また、アメリカ合衆国大統領モンローは、1823年、モンロー宣言を出し、その宣言ではアメリカ合衆国はヨーロッパ地方の問題に干渉しないかわりにヨーロッパも南北アメリカの問題に干渉すべきでないと主張した。 経済では、独立したラテンアメリカ諸国は、独立後もプランテーション経営が続いた。
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高等学校世界史B/ルネサンス ルネサンスの芸術と文化 イタリアのルネサンス ヨーロッパでは中世の末期、美術や彫刻や文芸などの芸術が活発になり、また、それまでの宗教的に非写実的な美術をやめて、写実的な美術や彫刻を追求する運動が起き、また、ヴィーナスなどのギリシャ神話の神々を題材にした芸術作品もつくられ、古代の文化を見直す運動が起きた。 ヨーロッパでの中世後半の、このような芸術運動をルネサンス(「再生」という意味)という。ヨーロッパのこのルネサンスは、14世紀から16世紀にかけて起きた。 ルネサンスは、まずイタリアで起きた。 この時代、イタリアはオスマン帝国など中東諸国との地中海貿易などによって経済発展していた。なので、ルネサンスの発生理由として、そのような地中海貿易による経済的余裕や、イスラーム文化との異文化交流などによる文化的刺激などが考えられる。 文学では、イタリアでダンテが、ラテン語ではなくイタリアのトスカーナ地方の口語をもちいて『神曲』などの作品を書いた。 15世紀後半から16世紀には、絵画ではボッティチェッリやレオナルド=ダ=ビンチ や ラファエロ などの芸術家が活躍し、写実的な絵画作品を発表した。 また、このルネサンスの時代、絵画では遠近法などの技法が確立した。 - ラファエロによる聖母子像 - 『モナ・リザ』 レオナルド=ダ=ヴィンチの作品。 - 『ダビデ像』 ミケランジェロ作 - 『春』 ボッティチェッリの作品。 - 『最後の審判』(さいごの しんぱん)。 ミケランジェロの作品。バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれた。 フィレンチェの大商人のメディチ家も、このルネサンスを経済的に支援した。 また、ローマ教皇も、ルネサンスを支援した。サン=ピエトロ大聖堂は、このルネサンスの時代に大改築された。 また、政治学でも、マキャヴェリがそれまでの道徳や宗教(キリスト教神学)とは切り離した[1]現実的な政治学を研究し[2]、マキャヴェリは彼の著書『君主論』で、君主には場合によっては権謀術数も必要であると発表した。 - ※ マキャヴェリを紹介している検定教科書としては、いちおう山川出版社『詳説世界史B』(2012年3月27日 文部科学省検定済み、2013年3月5日 発行、P206)にマキャヴェリについての記述が「マキャヴェリは『君主論』を書いて、政治を宗教・道徳から切り離す近代的な政治感を提示した」とある。他社の検定教科書では、東京書籍『世界史B』(平成28年3月18日検定済み、平成30年2月10日発行、P166)が「マキャヴェリは『君主論』を著し、政治を宗教や道徳とは別個のものとして論じ、のちの政治思想に大きな影響を与えた」とある。 - 権謀術数についての出典は、たとえば『詳説世界史研究』(2005年10月31日 第13版発行、P228の『君主論』清水廣一郎訳)に「信義を顧慮せず、術策によって人々の頭を混乱させることのできた君主が、むしろ大事業をなしとげている。」と記述がある。検定教科書が「政治」を「道徳から切り離し」たとか入ってるのは、こういう意味である。『君主論』では、宗教から政治を切り離すだけでなく、道徳からも切り離していることにも注目せよ。 イタリア以外でのルネサンス ルネサンスはイタリア以外にも広まっていった。 ネーデルランドでは、エラスムスが『愚神礼賛』(ぐしんらいさん)で社会風刺として教会の堕落(だらく)などを書いた。 また、ネーデルランドでは、ファン=アイク兄弟が油絵の技法を改良した。 ドイツでは、デューラーは油絵の画家でもあるが、また、デューラーは版画の作品を多く作った。 イギリスでは演劇作家のシェークスピアが『ハムレット』など多くの文芸を残した。 画家ブリューゲルや画家ホルバインも、ルネサンス時代の画家である。 ルネサンス時代の科学技術 ポーランド人のコペルニクスは、地球は太陽のまわりを回っているとする地動説を発見し、宇宙の中心は地球ではなく太陽だと主張した。 しかし、この地動説が、当時のキリスト教の天動説と矛盾していたため、コペルニクスは教会からの批判をおそれ、主張を隠した。 実際、地動説を主張したイタリア人のブルーノは処刑された。 また、地動説を観測によって実証したと主張した物理学者ガリレイも、教会によって宗教裁判にかけられ、ガリレイは地動説の放棄を強制された。 ドイツ人のケプラーは、地動説を参考に、惑星の運行を観測して、惑星の運行についての法則を発見した。 写実的な画家のレオナルド=ダ=ヴィンチは、人体の解剖図も多く残した。 15世紀にドイツのグーテンベルクは活版印刷を発明した。なお、製紙法は中国で発明された。ヨーロッパに、その製紙法が伝わってきたとされる。 この活版印刷の普及により、言論の印刷物が安価に入手しやすくなったため、新しい思想が広まりやすくなったと考えられている。 - ※ のちの時代の宗教改革でも、ルターの思想が活版印刷されたパンフレットなどによって広まった。 火薬は中国で発明された。ルネサンスの時代、ヨーロッパにも火薬が伝わってきて、ヨーロッパでは鉄砲や大砲などの火器が開発された。 羅針盤もまた、中国で発明されたが、ヨーロッパで改良が加えられた。 こうして、中国で発明された火薬・製紙法・羅針盤が、ヨーロッパでそれぞれ改良された。 ※ 分析 (範囲外) ルネサンス当時、人体の解剖は、キリスト教では、禁止的な行為だった。つまり、解剖図を残したダヴィンチは、そういったキリスト教の風潮に敵対したことになる。 また、ボッティチェリの絵画『ウィーナスの誕生』では、キリスト教にとっては異教であるギリシア神話を描いている。 つまり、おそらく、この時代、キリスト教の権威が落ちてきたことになろう。
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高等学校世界史B/ロシア革命 ロシア革命 じつはロシア革命の発生時の1917年3月、革命運動家レーニンはスイスに亡命中であり、彼レーニンは最初の革命を起こしてない。 1917年3月、革命によって臨時政府が樹立した(二月革命)。(ロシア暦では2月なので、二月革命という。) 臨時政府は、当初、戦争を継続した。 その後、1917年4月、スイスからレーニンが帰国し、臨時政府と対決した。 レーニンはボリシェヴィキの支持を集めた。いっぽう臨時政府はメンシェビキの支持を集めた。 また4月には、レーニンは、ドイツとの戦争の即時停止などをうったえる「四月テーゼ」を発表した。(四月テーゼでは、「即時停戦」と「すべての権力をソヴィエトへ」などのスローガンを主張していた。) だが臨時政府は、首相をケレンスキーに変えて戦争を続行した。 そして、1917年11月に、レーニン側の勢力であるボリシェヴィキが武装蜂起し、ソヴィエト政権を樹立した(十月革命)。 そしてレーニンの政権獲得後、「平和に関する布告」を列強に呼びかけ、無併合・無賠償・民族自決をよびかけた。同時に、新政権は「土地に関する布告」も発表し、土地の自由権を廃止して、大地主の土地を没収し、農民に分配した。 フランスがロシア革命前にロシアに投資していたぶんの債権(さいけん)は、ロシア革命によって消失した。(※ 参考文献: 東京書籍『新選 世界史B』) - (なお「債権」(さいけん)とは、相手に「カネを返せ」と要求できる権利。 いっぽう「債務」(さいむ)とは、相手から「カネを返せ」と要求されてしまう義務。) なお、一連の革命によって、帝政ロシアの皇帝ニコライ2世は退位した。(のちに、革命政権の処刑により、ニコライ2世は銃殺される。) そして1918年3月に、ロシアはドイツと単独講和した(ブレスト=リトフスク条約)。なお、この講和で、ロシアはポーランドやフィンランドなどをドイツに割譲し、領土を失った。(なお、のちの1919年のパリ講和会議でドイツの敗戦が決まると、ポーランドやフィンランドの独立が国際的に承認される。) ロシア国内では、選挙でレーニンの政敵の社会革命党が優勢になると、レーニンは議会を解散し、レーニンひきいるボリシェヴィキによる独裁体制を築いた。(なお、1924年にレーニンが死亡すると、スターリンがソヴィエトの政権をにぎり、ひきつづき独裁政治を進めていく。) なおボリシェヴィキは1918年3月に、自分たちの政党の呼び名を共産党と改称し、首都をモスクワに移した。 さて、十月革命の頃、トロツキーという人物がいた。 レーニンやトロツキーは、ロシア以外の地域でも社会主義革命を起こさせるべきだという「世界革命」を主張していた。1919年にモスクワで設立されたコミンテルンも、世界革命を目指して設立された組織である。 レーニンの死後、トロツキーとスターリンが政権をあらそい、最終的にスターリンが政権をにぎった。 すると、スターリンは、それまでの世界革命を否定し、ロシア地域が単独で社会主義を推進すべきだという「一国社会主義」を主張した。そして、スターリンはトロツキーを失脚させ、やがて国外追放した。(※ トロツキーは、1940年、亡命のためメキシコに滞在している時に、暗殺された。) トロツキーの失脚後、スターリンは、トロツキーがレーニンの側近のように映っている写真を修正させ、それらの写真からトロツキーの姿を消させた。 (※ 現代の私たちにとっては、第二次大戦後の冷戦中のソヴィエトによる東欧支配などを考えると、ソヴィエトの政治は「一国社会主義」とは、結果はまったく違うという実情を知っている。だが、じつはスターリン政権の最初のころ、スターリンは領土獲得には、あまり関心が無かったのである。) - その他 - (※ 範囲外:) レーニンが、地主や資本家などの不労所得を戒める意味で「働かざる者、食うべからず」と共産党の機関紙で述べたが、この慣用句(「働かざる者、食うべからず」)はもともと新約聖書にある一文である。けっしてレーニンの発明した格言ではない。 対ソ干渉戦争 (上述のように)ボリシェヴィキが十月革命などの革命を起こすと、帝政ロシアの将軍たちが各地に反ソヴィエト軍の組織(白軍)をつくり、内戦が始まった。 また、イギリス・アメリカ・日本が、反ソヴィエト軍を支援するため、出兵して、対ソ干渉戦争が始まった。 日本はアメリカ合衆国とともに、シベリアに出兵した。 ソヴィエト政府は、赤軍(せきぐん)を組織して、対抗した。また、ソヴィエト政府はチェカ(非常委員会)を組織して、反革命運動を取り締まった。 さらにソヴィエト政府は戦時共産主義をしいて、食料の強制徴発(ちょうはつ)、中小企業まで含むほとんどの企業の国有化、などを行った。 しかし、戦時共産主義には、農民の不満が高かった。 そこで1921年になると、反ソヴィエト軍もほとんど倒され、外国軍もほとんど撤退をしていたので、1921年にレーニンは戦時共産主義を撤回し、1921年に食料の強制徴収をゆるめ、国有化もゆるめる新経済政策(ネップ、NEP)をソヴィエト政権は採用した。 そして1922年にソヴィエト政権は、ロシア・ベラルーシ・ウクライナ・ザカフカースの4つの地域を4つの「ソヴィエト共和国」として連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立を宣言し、1924年にソ連の憲法を発布した。 - ※ 備考: 共産主義(communism)とは、文字通りに考えれば共産党の者(communist)の思想という意味であり、「ソビエトの思想」のような意味で使う場合もあるが、しかし日本語で『共産主義』といった場合、私有財産の否定の思想のことを言う場合も多い。高校レベルでは、私有財産性の否定としての意味での『共産主義』とは、具体的には、企業の生産設備を国有化して、国の共有にする主義思想だから、共有の生産設備の主義という意味で、共産主義という、くらいに覚えておけばいい(※ 教科書では説明されてないが、山川の用語集などで『共産主義』の意味が書いてある。)。高校の日本史や世界史では、ロシア革命以降の単元で、『共産主義』という用語がたびたび出てくるので、意味を把握しておくように。