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3,267 | 耳 | 耳(みみ)は、動物の器官の1つで、音を適刺激とする感覚器であると同時に、重力の向きと加速度を適刺激とする感覚器でもある。一般に、聴覚にとって重要な器官として広く認知されているが、聴覚以外にも平衡感覚と回転覚を感知しているため、合わせて平衡聴覚器とも言う。
音波を受容し、それを感覚神経に伝える構造を持つのが耳である。動物全体で見ると、耳を持つ種の割合はそれほど多いわけではないが、脊椎動物には耳を持つ種が幾つも見られる。
ヒトの場合、耳介や外耳道で音を拾い集め、音によって振動する鼓膜の動きを耳小骨を用いて蝸牛の中へと伝え、蝸牛の中にある有毛細胞で神経パルス(電気信号)に変換して、蝸牛神経を通して大脳の聴覚中枢へと送る。
なお、ほとんどの哺乳類(ヒトを含む)においては、五感を司る器官の中でも、耳は生まれたときすでに成体に近いレベルまで発達している。これは、外界の危険を感じ取ったり、親とのコミュニケーション(ヒトの場合、特に言語)を維持・学習するために必要だからと考えられる。ただし、ヒトの聴覚は発育とともに徐々に発達していくものであるので、乳児は成人と同じ聴覚をもってはいない。音を感じることはできても、それを周波数別に分別して音を理解する側頭葉の発育が不十分であるためである。検知はできるが、認知ができないのである。したがって、生下時に十分な聴力がなく音が聞こえない状態で育ったヒトは、たとえその状態が成人になってから良くなっても、音声を理解することができない。脳で音声信号を処理することができないのである。これは視覚についても同様のことが言える。
ヒトの耳は、外耳・中耳・内耳の3部分に区別できる。
外観として目立つヒトの耳介は、体外の音波を集める集音器の機能を持ち、3,000Hzを中心に約10-15dBの音響利得があるとされる。耳介軟骨(弾性軟骨)に耳介筋と呼ばれる横紋筋が取り付き、その全体を皮膚が覆う構造をしている。ヒトの場合、この耳介筋は退化しているため、動かす事は難しい。耳介の下端には耳朶(耳垂)という柔らかい部分がある。一般的な形状として、前は1個の黄色繊維軟骨がもたらす複雑な浮き上がりの中にくぼみがあり、後ろは滑らかな凸状になっている。人によって見られるダーウィン結節(英語版)は、耳輪の下向きになった部分にある突起で、長い耳を持つ哺乳動物の耳の穂先に対応する。
ヒトの耳介は身体の中でも特徴的な形状をしており、成人後は基本的に変化しないので、まれに個体識別の材料となることもある。また、よく遺伝するので、DNAや血液型による親子鑑定が一般的となる前は、親子鑑定の材料として用いられていた。ただし、柔道、レスリング、相撲などの組技格闘技をすると、耳介がこすれて内出血を起こしやすく、これを繰り返すうちに耳全体が腫れ上がって形状が変わってしまう場合がある(耳介血腫)。
耳介の血流の変化は見て取りやすく、興奮時などには耳介が赤くなる場合がある。そのため、俗に興奮した際や強い羞恥を感じた際の比喩表現として「耳まで赤くなる」と言うことがあるが、冷気に曝された場合などにおいて、精神的な活動とは無関係に赤くなることもある。また、ヒトの身体の中では比較的凍傷になりやすい部分であり、寒冷地では耳介を保護する防寒具が用いられることがある。
ヒトだけでなくオランウータンやチンパンジーなど霊長類は、耳にあまり発達しておらず機能も持たないが識別に充分な大きさがある筋肉を持つ事が知られている。この未発達の筋肉は遺残構造(英語版)に当たり、理由はどうあれ耳介を動かせないこの筋肉は、生物学的機能を失ってしまったと言うことができ、近縁種間にある相同の証拠ともみなされる。なお、ヒトの中でも変異性があり、この筋肉を使って耳介を動かせる者もいる。この筋肉の目的は一般的なサルが持たない首を水平に回す能力で代替されており、これはある器官が備えた機能がのちに別の器官の機能に移ってしまう例に当たる。
美容整形手術によって耳を小さくしたり形を整えたりすることは耳介形成術(英語版)と言う。まれにある耳介が形成されない先天性閉鎖症や発達が小さい小耳症などへの対応として、耳介の再建も行われている。通常、肋骨部など身体の別の部位から軟骨を採取して耳の形に成形し、移植用皮膚や回転皮弁で覆う。近年ではラットの背中で耳介を発達させ、然るべき後に移植する方法もある。しかし、閉鎖症や未発達状態の耳介を持って生まれた新生児の抱える問題は外耳にとどまらず、三半規管の未発達や欠落、または奇形を伴うことがある。医学的な初期対処は、赤ちゃんの聴力や外耳道とともに三半規管の状態を調べる必要があり、その結果から耳介を含む耳全体の修復治療計画が立てられる。
20世紀後半までは、「サザエさん」や「ドラえもん」といった子供向け番組で、家族の年長者が耳介を引っ張るという児童虐待がしばしば見られたが、近年では自主規制によりあまり見られなくなっている。
耳の外部に開かれた孔(外耳孔)と鼓膜の間にある約25mmの管状部分は外耳道という。外側から1/3は軟骨で、その奥の2/3は骨が周りを囲い、皮膚が覆う。形状はゆるやかなS字型に曲がっている。皮膚部分にはアポクリン腺という分泌を行う腺があり、この分泌物が耳垢となる。
鼓膜とは外耳と中耳の間にある線維性の薄い膜で、寸法は直径約10mm、厚さ約0.1mmである。外耳道に対し上が覆いかぶさるような斜めになっており、中央は漏斗状のへこみ(鼓膜臍)がある。鼓膜には外面内面ともに神経が分布し、痛覚にきわめて敏感である。鼓膜の内側は粘膜で覆われた鼓室があり、耳管で咽頭と繋がっている。鼓膜には耳小骨という米粒ほどの大きさである3つの骨が繋がっており、鼓膜側から槌骨・砧骨・鐙骨と言う。この3つの骨は関節で繋がり、耳小骨筋(鼓膜張筋・鐙骨筋)という筋肉がついている。音波を捉え鼓膜が振動すると、耳小骨は連動し、内耳へ伝える。耳小骨筋は、大きすぎる音によって耳小骨が過剰に動かないよう収縮の力を加えている。なお、耳小骨を3つ持っている生物は、哺乳類以外に知られていない。
耳管(エウスタキオ管)は通常は圧迫されて閉じている。しかし何かを飲み込むなどの動きに連動して一時的に開く。この動きによって外気圧と中耳の気圧差を解消する。これが何らかの原因で閉塞すると、鼓膜が陥没して振動しにくくなり、難聴を引き起こす。逆に開放されたままの状態だと、自らの声が異常に大きく聞こえる自声強聴という状態になる。
内耳全体は、側頭骨に空いた複雑な空間である骨迷路の中に、ほぼ同じ形の膜迷路が収まって形成されている。この間には外リンパというリンパ液で満たされている。膜迷路には、前方から三半規管(半規管)、前庭、蝸牛の3つの構造がある。
前庭は三半規管と蝸牛に挟まれた内耳の中央にあり、側面の前庭窓で中耳の鼓膜部分と接している。その中には2つの袋があり球形嚢と卵形嚢と呼ばれ、これらの中に有毛細胞を持つ平衡斑が感覚器官として働く。嚢の中には平衡砂という炭酸カルシウムの結晶を乗せた平衡砂漠と呼ばれるゼリー状物質が有毛細胞を覆っており、身体の動きや傾きなどによって平衡砂漠が動き、それを有毛細胞が感知する。
耳が捉えた音波は鼓膜を介して前庭窓から膜迷路を振動させる。蝸牛はカタツムリの殻に似たらせん状の管が蝸牛軸に2巻き半巻いた形を持つ。らせん管の断面は、前庭球形嚢と繋がる蝸牛管を挟んで前庭階と鼓室階という外リンパで満たされ蝸牛頂部で繋がった2つの空洞がある。蝸牛管の底には高さが伸びた上皮細胞によって作られた有毛細胞を持つラセン器(コルト器)が形成されている。膜迷路の振動は外リンパを介し、根元の穴(前庭窓・卵円窓)を通って前庭階内部に伝わる。そして蝸牛先端で鼓室階へ抜け、最終的に蝸牛窓(正円窓)で消える。この一連の振動は間にある蝸牛管に満たされた内リンパ液を揺らし、ラセン器の毛細血管に感知される。
三半規管は、それぞれが直交に配置された半円弧状の前半規管・後半規管・外側半規管の3つの管で構成され、それぞれ途中に膨らんだ膨大部という部分がある。膨大部の中には有毛細胞の感覚毛が伸びた膨大部稜(小帽)があり、ここで身体の傾きを感じ取る(平衡感覚)。
内耳で感知された音波や平衡感覚などの神経信号は、神経系の器官に属し脳神経の感覚性の一部をなす内耳神経を伝って脳へ届く。蝸牛から聴覚信号を送る部分は蝸牛神経、前庭から平衡覚などの信号を送る部分は前庭神経という。これらは内耳道の底で合流して頭蓋の中に導かれ、顔面神経の外側で脳と接続する。
先述のように、外観として目立つ耳介を俗に「耳」と呼ぶ場合も少なくないが、外耳、中耳、内耳までの全体が耳である。そして、音を感知する部分も、平衡覚を感知する部分も、回転覚を感知する部分も、全ては内耳に存在している。ただし、音の感知に関しては内耳以外に、外耳や中耳も一定の役割を果たしている。なお、いずれの感覚も、脳で処理されることによって、はじめて知覚される。
音は、主に外耳より空気の振動として外耳道を通って耳の中へ進入し、鼓膜により固体の振動へと変換され、それが中耳内の耳小骨を伝わり、内耳の蝸牛へと到達する。なお、蝸牛の中は液体で満たされているので、ここまでで、気体の振動、固体の振動、液体の振動と変化していることになる。ただし、自らが発した声の場合は、自らの骨などを伝わってゆく音、いわゆる骨導音も内耳の蝸牛へと到達しているように、音の伝達には別ルートも存在する。
いずれのルートから来た音による振動であっても、蝸牛に到達した振動は、蝸牛の中にある基底膜上の有毛細胞の毛を振動させる。この有毛細胞に伝わった振動は、有毛細胞の外にあるカリウムイオンが、有毛細胞の内側へと移動し、これによって電位の変化が発生する(カリウムイオンは正の電荷を持つため)。これが有毛細胞を興奮させ、その興奮は電気信号となって大脳の聴覚中枢へと達し、音として知覚される。なお、左右に2つの耳を持ち、この信号を脳で処理することによって、音源の定位なども知覚している。また、入力された音の強さに応じて感度を変えるといったこともしている。このように、音を知覚するには脳の活動が欠かせないが、内耳で有毛細胞が音によって生じた振動を電気信号に変えてくれなければ、脳の側ではどうすることもできない。ちなみに、音を電気信号に変換している有毛細胞が活動しているかどうかは、外耳道に高性能のマイクロフォンを近づけた時、微弱な音が耳の中から出ていれば、活動していることを確認することができるので、乳児の聴覚が正常かどうかの検査に利用されることがある。
音の感知に関しては、内耳以外に、外耳や中耳にも役割がある。まず、外耳の耳介は集音器としても役立っている。これは手を耳介の後ろにあてがってみれば、音の聞こえが良くなることから、その効果を簡単に確かめることができる。他にも、外耳道は閉管と考えることができ、これが共鳴器となり、共鳴する周波数付近の感度を上げている。
また、中耳は、内耳の蝸牛を満たしている液体に、効率的に振動を伝えるために大きな役割を果たしている。この役割を担っているのは、主に鼓膜と耳小骨である。鼓室形成術のような手術が考案されたのも、たとえ内耳の機能が保たれていたとしても、鼓膜と耳小骨とが正常に機能していないと音の聞こえが悪くなってしまうからである。中耳は、内耳のように液体で満たされているのではなく、空気で満たされているので、耳小骨は振動しやすくなっており、これが振動を伝える効率を上げている。また、鼓膜も中耳側に凹んだ形状を持っているなど、空気の振動をより効率良く受け取れるようになっている。加齢と共に鼓膜や耳小骨が振動しにくくなることは老人性難聴の一因である。なお、中耳は耳管で咽頭とつながっており、外耳と中耳の間に気圧の差が生じた時に、この耳管を用いて気圧差を解消することで鼓膜の振動が妨げられないようにしている。
ヒトの耳は一般的に20ヘルツから20キロヘルツの音域を聴く事が可能で、これは可聴周波数と呼ばれる。聴覚には耳の働きと同様に中枢神経の聴覚野が充分に機能していることが必要だが、ヒトの聴覚障害(音に対する極端な鈍感さ)は神経や聴覚野よりも内耳に問題を抱えている場合が最も多い。
平衡感覚に関係しているのは、耳では内耳と呼ばれる部分のみである。ただし、ヒトの場合、平衡感覚に関係しているのは、内耳だけではない点には注意が必要である。しかし、それでも平衡覚の感知や回転覚の感知に、内耳は大きな役割を果たしている。もしも内耳の疾患があると、耳鳴りや難聴が起こったりする以外に、めまいなどが起こったりするのは、これらの感覚が狂うためである。この内耳での平衡覚と回転覚の感知においても有毛細胞が活躍しており、耳石器(卵形嚢斑と球形嚢斑の部分)にある有毛細胞は、主に頭部の傾斜を感知し、三半規管にある有毛細胞は、主に頭部の回転を感知している。これらの有毛細胞からの情報が電気信号として脳に伝えられ、視覚や皮膚感覚や関節の動きや筋肉の動きなど、他の感覚と統合することによって、ヒトは平衡感覚を得ている。
薬剤などがヒトの耳の機能に与える悪影響(耳毒性)については、ある程度の調査が行われてきた。聴力低下を招く物質や耳石器にダメージを与える物質を幾つか挙げておく。
トルエンに暴露されると、聴力にも悪影響があることが知られている。ヒトの場合、日常的にトルエンに暴露されていた個体において、聴性脳幹反応の潜時(電位変化が現れるまでの時間)が長くなることが確認されている。 つまり、音の入力があってから脳で解析されるまでの時間が、健康な個体と比べて長くなってしまうのである。
以下は動物実験でトルエンが聴力に悪影響を与えた事例である。1200ppm(4500 [mg/m3])のトルエンに5週間暴露され続けたラットは、その直後〜数週間程度は何ともなかったが、約10週間後(2.5ヶ月後)には4 [kHz]の音では問題が起こらなかったものの、8 [kHz]の音でわずかに聴力低下、12 [kHz]以上の音では顕著な聴力低下が見られた。つまり、ラットはトルエンの影響で、特に高い周波数において聴力障害が起こるのである。さらに、聴性脳幹反応を見ても、音に対する反応速度が低下している(聴性脳幹反応の各波の発生が遅くなる)のが見られた。
他にも様々な条件で調べられており、
などの条件でラットに聴力低下が発生した。また、モルモットでもトルエンは、その蝸牛にダメージを与えることが明らかになっている。
なお、2005年現在なぜトルエンでこのようなことが起こるのかについては判っていない。
抗生物質の中でも、アミノ配糖体系抗生物質には耳毒性があることが知られており、内耳障害を引き起こす。音の感知については、まず高音域から聴力低下が始まり、次第に低音域へと進行し、最終的には聴力を喪失する。低下した聴力は、投薬を中止しても回復しない。また、耳石器へも毒性を発揮し平衡感覚を狂わせる。最悪の場合、耳石器の機能が完全に失われる。こちらも投薬を中止しても回復しない。このような抗生物質として、カナマイシン、ストレプトマイシン、ゲンタマイシンが知られる。
他の抗生物質でも、例えばテトラサイクリン系抗生物質のミノマイシンは耳石器への毒性が知られており、めまいなどを引き起こすことがある。ただ、ミノマイシンの場合は投薬を中止すれば回復する。
ループ利尿薬には、Na+/K+/2Cl-共輸送系を阻害することで尿量の増加を起こさせているが、体内のNa+とK+とのバランスも崩してしまうという副作用が存在する。この時、内耳のリンパ液のNa+とK+とのバランスまで崩してしまい、結果として感音難聴を生じることがある。投薬を中止すれば、多くは難聴も解消するが、まれに障害が残るケースも存在する。このような利尿薬として、フロセミドやエタクリン酸などが知られている。
他にも次のような薬剤で耳毒性が知られている。
両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が持つ半規管は、全て三半規管であるという共通点を持つ。したがって、以降は半規管の種類に関する記述は省略する。参考までに、脊椎動物の中で半規管がニ半規管なのはヤツメウナギが知られており、半規管が一半規管なのはヌタウナギが知られている。
両生類の耳は、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、この部分は小柱(しょうちゅう)と呼ばれている。
爬虫類の耳は、外耳道が短く、外側から見て浅いくぼみになっており、前縁を方形骨に支えられた鼓膜が見える。また、両生類と同様、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、カメレオンなど幾つかの種類では、鼓膜は皮膚に覆われている。また、ヘビや無肢トカゲは鼓膜を持っておらず、耳小骨は直接方形骨に接し骨伝導で振動を伝える。
鳥類の耳は爬虫類と同様、鼓膜の前縁は方形骨に支持され、ここからの伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、フクロウ科の羽角は、耳そのものというわけではないものの、俗に「フクロウの耳」「ミミズクの耳」などと言われることもある。
陸上に住む哺乳類は、しばしば耳介を動かすことができる。また、同じく陸上に住む哺乳類の中には、耳介が体温調節の機能を持っている場合もある。例えば、ゾウは、その表面積の大きな耳介を利用して、中を流れる血液を空冷している。ちなみに、これは自然界でのことではないが、ヒトが家畜としているウシの個体識別などのための札も、この耳介の部分に装着する場合がある。
ある種の哺乳動物の耳に見られる内側にある複雑な隆線は、反響や獲物が立てる音に耳を向けて敏感に受け止める行動の際に役立つ。この隆線は、フレネルレンズと似た効果を音響上で得る役割を持つと見なす事ができ、またコウモリ、アイアイ、ショウガラゴ、オオミミギツネ、ネズミキツネザルなど種に関わらず多様な動物に見られる。
無脊椎動物において、耳、すなわち、空気中または水中を伝わる音波を検出するための特殊化した聴覚器官 を有する分類群はあまり多くなく、具体的には節足動物と頭足類の一部でしか知られていない。
節足動物の耳は基本的に昆虫類においてのみ知られるもので、おもに鼓膜器官とジョンストン器官(英語: Johnston's organ)のふたつのタイプに分けられる。ジョンストン器官が触角に位置するのに対して、鼓膜器官は体のさまざまな部位に発生し、その位置は分類群によって異なる傾向がある。昆虫における聴覚は、捕食者から身を守るための手段としてのほか、種内コミュニケーションのために機能する場合も多い。
何千年も昔から、伝統的に耳介のピアスなど宝石等が装飾された。中には装飾に耳たぶを伸ばして大きくする目的を持たせた文化圏もある。しかし一方で、余りに重い耳飾りや、衣服に絡んだりして耳介を傷つける事例も生じている。
耳(耳介)は、外観上目立つ部分なので、イヤリングなどで装飾されたり眼鏡の装着場所としても利用されたりする。また、コスプレなどにおいて、例えばバニーガールではウサギの耳介を模した装飾を付けたり、ある種の衣装では他の動物の耳介を模した装飾(猫耳など)を付けたりする例が見られる。さらに、そのようなヒトと他の動物の耳介をくっつけたイラストなども存在する。
また、耳に関する習慣として、外耳道から耳垢を取り出す行為である耳掻きのように、日本など限られた地域だけの習慣もある。他、福耳のように、特定の文化圏で珍重される耳介の形状などもある。
近年行われるようになった利用法として、皮膚の細胞の採取の場所として、耳介があるために目立たない耳介と頭の間が選択されたりもする。他に、体温の計測の時に、耳介の中央部にある外耳道が利用されることもある。
また、ヒトの耳介は、ヒトの身体の中でも特徴的な形状をしていて目立つ部分でもあるので、この部分にコンプレックスを持つ例も見受けられる。これは美容形成の分野で、耳介の角度を変えるといったことが行われることがあることからもうかがえる。中には、画家のゴッホのように、自分の耳介を切り取ってしまった者も存在する。 | [
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"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "三半規管は、それぞれが直交に配置された半円弧状の前半規管・後半規管・外側半規管の3つの管で構成され、それぞれ途中に膨らんだ膨大部という部分がある。膨大部の中には有毛細胞の感覚毛が伸びた膨大部稜(小帽)があり、ここで身体の傾きを感じ取る(平衡感覚)。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "内耳で感知された音波や平衡感覚などの神経信号は、神経系の器官に属し脳神経の感覚性の一部をなす内耳神経を伝って脳へ届く。蝸牛から聴覚信号を送る部分は蝸牛神経、前庭から平衡覚などの信号を送る部分は前庭神経という。これらは内耳道の底で合流して頭蓋の中に導かれ、顔面神経の外側で脳と接続する。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "先述のように、外観として目立つ耳介を俗に「耳」と呼ぶ場合も少なくないが、外耳、中耳、内耳までの全体が耳である。そして、音を感知する部分も、平衡覚を感知する部分も、回転覚を感知する部分も、全ては内耳に存在している。ただし、音の感知に関しては内耳以外に、外耳や中耳も一定の役割を果たしている。なお、いずれの感覚も、脳で処理されることによって、はじめて知覚される。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "音は、主に外耳より空気の振動として外耳道を通って耳の中へ進入し、鼓膜により固体の振動へと変換され、それが中耳内の耳小骨を伝わり、内耳の蝸牛へと到達する。なお、蝸牛の中は液体で満たされているので、ここまでで、気体の振動、固体の振動、液体の振動と変化していることになる。ただし、自らが発した声の場合は、自らの骨などを伝わってゆく音、いわゆる骨導音も内耳の蝸牛へと到達しているように、音の伝達には別ルートも存在する。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "いずれのルートから来た音による振動であっても、蝸牛に到達した振動は、蝸牛の中にある基底膜上の有毛細胞の毛を振動させる。この有毛細胞に伝わった振動は、有毛細胞の外にあるカリウムイオンが、有毛細胞の内側へと移動し、これによって電位の変化が発生する(カリウムイオンは正の電荷を持つため)。これが有毛細胞を興奮させ、その興奮は電気信号となって大脳の聴覚中枢へと達し、音として知覚される。なお、左右に2つの耳を持ち、この信号を脳で処理することによって、音源の定位なども知覚している。また、入力された音の強さに応じて感度を変えるといったこともしている。このように、音を知覚するには脳の活動が欠かせないが、内耳で有毛細胞が音によって生じた振動を電気信号に変えてくれなければ、脳の側ではどうすることもできない。ちなみに、音を電気信号に変換している有毛細胞が活動しているかどうかは、外耳道に高性能のマイクロフォンを近づけた時、微弱な音が耳の中から出ていれば、活動していることを確認することができるので、乳児の聴覚が正常かどうかの検査に利用されることがある。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "音の感知に関しては、内耳以外に、外耳や中耳にも役割がある。まず、外耳の耳介は集音器としても役立っている。これは手を耳介の後ろにあてがってみれば、音の聞こえが良くなることから、その効果を簡単に確かめることができる。他にも、外耳道は閉管と考えることができ、これが共鳴器となり、共鳴する周波数付近の感度を上げている。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、中耳は、内耳の蝸牛を満たしている液体に、効率的に振動を伝えるために大きな役割を果たしている。この役割を担っているのは、主に鼓膜と耳小骨である。鼓室形成術のような手術が考案されたのも、たとえ内耳の機能が保たれていたとしても、鼓膜と耳小骨とが正常に機能していないと音の聞こえが悪くなってしまうからである。中耳は、内耳のように液体で満たされているのではなく、空気で満たされているので、耳小骨は振動しやすくなっており、これが振動を伝える効率を上げている。また、鼓膜も中耳側に凹んだ形状を持っているなど、空気の振動をより効率良く受け取れるようになっている。加齢と共に鼓膜や耳小骨が振動しにくくなることは老人性難聴の一因である。なお、中耳は耳管で咽頭とつながっており、外耳と中耳の間に気圧の差が生じた時に、この耳管を用いて気圧差を解消することで鼓膜の振動が妨げられないようにしている。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ヒトの耳は一般的に20ヘルツから20キロヘルツの音域を聴く事が可能で、これは可聴周波数と呼ばれる。聴覚には耳の働きと同様に中枢神経の聴覚野が充分に機能していることが必要だが、ヒトの聴覚障害(音に対する極端な鈍感さ)は神経や聴覚野よりも内耳に問題を抱えている場合が最も多い。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "平衡感覚に関係しているのは、耳では内耳と呼ばれる部分のみである。ただし、ヒトの場合、平衡感覚に関係しているのは、内耳だけではない点には注意が必要である。しかし、それでも平衡覚の感知や回転覚の感知に、内耳は大きな役割を果たしている。もしも内耳の疾患があると、耳鳴りや難聴が起こったりする以外に、めまいなどが起こったりするのは、これらの感覚が狂うためである。この内耳での平衡覚と回転覚の感知においても有毛細胞が活躍しており、耳石器(卵形嚢斑と球形嚢斑の部分)にある有毛細胞は、主に頭部の傾斜を感知し、三半規管にある有毛細胞は、主に頭部の回転を感知している。これらの有毛細胞からの情報が電気信号として脳に伝えられ、視覚や皮膚感覚や関節の動きや筋肉の動きなど、他の感覚と統合することによって、ヒトは平衡感覚を得ている。",
"title": "ヒトの耳"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "薬剤などがヒトの耳の機能に与える悪影響(耳毒性)については、ある程度の調査が行われてきた。聴力低下を招く物質や耳石器にダメージを与える物質を幾つか挙げておく。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "トルエンに暴露されると、聴力にも悪影響があることが知られている。ヒトの場合、日常的にトルエンに暴露されていた個体において、聴性脳幹反応の潜時(電位変化が現れるまでの時間)が長くなることが確認されている。 つまり、音の入力があってから脳で解析されるまでの時間が、健康な個体と比べて長くなってしまうのである。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下は動物実験でトルエンが聴力に悪影響を与えた事例である。1200ppm(4500 [mg/m3])のトルエンに5週間暴露され続けたラットは、その直後〜数週間程度は何ともなかったが、約10週間後(2.5ヶ月後)には4 [kHz]の音では問題が起こらなかったものの、8 [kHz]の音でわずかに聴力低下、12 [kHz]以上の音では顕著な聴力低下が見られた。つまり、ラットはトルエンの影響で、特に高い周波数において聴力障害が起こるのである。さらに、聴性脳幹反応を見ても、音に対する反応速度が低下している(聴性脳幹反応の各波の発生が遅くなる)のが見られた。",
"title": "耳毒性"
},
{
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"text": "他にも様々な条件で調べられており、",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "などの条件でラットに聴力低下が発生した。また、モルモットでもトルエンは、その蝸牛にダメージを与えることが明らかになっている。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、2005年現在なぜトルエンでこのようなことが起こるのかについては判っていない。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "抗生物質の中でも、アミノ配糖体系抗生物質には耳毒性があることが知られており、内耳障害を引き起こす。音の感知については、まず高音域から聴力低下が始まり、次第に低音域へと進行し、最終的には聴力を喪失する。低下した聴力は、投薬を中止しても回復しない。また、耳石器へも毒性を発揮し平衡感覚を狂わせる。最悪の場合、耳石器の機能が完全に失われる。こちらも投薬を中止しても回復しない。このような抗生物質として、カナマイシン、ストレプトマイシン、ゲンタマイシンが知られる。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "他の抗生物質でも、例えばテトラサイクリン系抗生物質のミノマイシンは耳石器への毒性が知られており、めまいなどを引き起こすことがある。ただ、ミノマイシンの場合は投薬を中止すれば回復する。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ループ利尿薬には、Na+/K+/2Cl-共輸送系を阻害することで尿量の増加を起こさせているが、体内のNa+とK+とのバランスも崩してしまうという副作用が存在する。この時、内耳のリンパ液のNa+とK+とのバランスまで崩してしまい、結果として感音難聴を生じることがある。投薬を中止すれば、多くは難聴も解消するが、まれに障害が残るケースも存在する。このような利尿薬として、フロセミドやエタクリン酸などが知られている。",
"title": "耳毒性"
},
{
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"text": "他にも次のような薬剤で耳毒性が知られている。",
"title": "耳毒性"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が持つ半規管は、全て三半規管であるという共通点を持つ。したがって、以降は半規管の種類に関する記述は省略する。参考までに、脊椎動物の中で半規管がニ半規管なのはヤツメウナギが知られており、半規管が一半規管なのはヌタウナギが知られている。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "両生類の耳は、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、この部分は小柱(しょうちゅう)と呼ばれている。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "爬虫類の耳は、外耳道が短く、外側から見て浅いくぼみになっており、前縁を方形骨に支えられた鼓膜が見える。また、両生類と同様、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、カメレオンなど幾つかの種類では、鼓膜は皮膚に覆われている。また、ヘビや無肢トカゲは鼓膜を持っておらず、耳小骨は直接方形骨に接し骨伝導で振動を伝える。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "鳥類の耳は爬虫類と同様、鼓膜の前縁は方形骨に支持され、ここからの伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、フクロウ科の羽角は、耳そのものというわけではないものの、俗に「フクロウの耳」「ミミズクの耳」などと言われることもある。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "陸上に住む哺乳類は、しばしば耳介を動かすことができる。また、同じく陸上に住む哺乳類の中には、耳介が体温調節の機能を持っている場合もある。例えば、ゾウは、その表面積の大きな耳介を利用して、中を流れる血液を空冷している。ちなみに、これは自然界でのことではないが、ヒトが家畜としているウシの個体識別などのための札も、この耳介の部分に装着する場合がある。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ある種の哺乳動物の耳に見られる内側にある複雑な隆線は、反響や獲物が立てる音に耳を向けて敏感に受け止める行動の際に役立つ。この隆線は、フレネルレンズと似た効果を音響上で得る役割を持つと見なす事ができ、またコウモリ、アイアイ、ショウガラゴ、オオミミギツネ、ネズミキツネザルなど種に関わらず多様な動物に見られる。",
"title": "脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "無脊椎動物において、耳、すなわち、空気中または水中を伝わる音波を検出するための特殊化した聴覚器官 を有する分類群はあまり多くなく、具体的には節足動物と頭足類の一部でしか知られていない。",
"title": "無脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "節足動物の耳は基本的に昆虫類においてのみ知られるもので、おもに鼓膜器官とジョンストン器官(英語: Johnston's organ)のふたつのタイプに分けられる。ジョンストン器官が触角に位置するのに対して、鼓膜器官は体のさまざまな部位に発生し、その位置は分類群によって異なる傾向がある。昆虫における聴覚は、捕食者から身を守るための手段としてのほか、種内コミュニケーションのために機能する場合も多い。",
"title": "無脊椎動物の耳"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "何千年も昔から、伝統的に耳介のピアスなど宝石等が装飾された。中には装飾に耳たぶを伸ばして大きくする目的を持たせた文化圏もある。しかし一方で、余りに重い耳飾りや、衣服に絡んだりして耳介を傷つける事例も生じている。",
"title": "耳と文化"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "耳(耳介)は、外観上目立つ部分なので、イヤリングなどで装飾されたり眼鏡の装着場所としても利用されたりする。また、コスプレなどにおいて、例えばバニーガールではウサギの耳介を模した装飾を付けたり、ある種の衣装では他の動物の耳介を模した装飾(猫耳など)を付けたりする例が見られる。さらに、そのようなヒトと他の動物の耳介をくっつけたイラストなども存在する。",
"title": "耳と文化"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、耳に関する習慣として、外耳道から耳垢を取り出す行為である耳掻きのように、日本など限られた地域だけの習慣もある。他、福耳のように、特定の文化圏で珍重される耳介の形状などもある。",
"title": "耳と文化"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "近年行われるようになった利用法として、皮膚の細胞の採取の場所として、耳介があるために目立たない耳介と頭の間が選択されたりもする。他に、体温の計測の時に、耳介の中央部にある外耳道が利用されることもある。",
"title": "耳と文化"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、ヒトの耳介は、ヒトの身体の中でも特徴的な形状をしていて目立つ部分でもあるので、この部分にコンプレックスを持つ例も見受けられる。これは美容形成の分野で、耳介の角度を変えるといったことが行われることがあることからもうかがえる。中には、画家のゴッホのように、自分の耳介を切り取ってしまった者も存在する。",
"title": "耳と文化"
}
] | 耳(みみ)は、動物の器官の1つで、音を適刺激とする感覚器であると同時に、重力の向きと加速度を適刺激とする感覚器でもある。一般に、聴覚にとって重要な器官として広く認知されているが、聴覚以外にも平衡感覚と回転覚を感知しているため、合わせて平衡聴覚器とも言う。 | {{for|漢字の部首|耳部}}
{{Redirect|耳の穴|[[エフエム東京|TOKYO FM]]・[[全国FM放送協議会|JFN]]系列で放送されていた[[ラジオ番組]]|EAR STATION 耳の穴}}
{{Infobox 解剖学
| name=耳
| 画像1=[[ファイル:Earcov.JPG|250px]]
| 画像説明1=ヒトの左耳の外観
| 画像2=[[ファイル:Anatomy of the Human Ear ja font.svg|200px]]
| 画像説明2=耳の構造
| 英語=Ear
| ラテン語=
| 器官=[[感覚器]]
| 動脈=
| 静脈=
| 神経=[[聴神経]]
}}
'''耳'''(みみ)は、[[動物]]の[[器官]]の1つで、[[音]]を[[適刺激]]とする[[感覚器]]であると同時に、[[重力]]の向きと[[加速度]]を適刺激とする感覚器でもある。一般に、[[聴覚]]にとって重要な器官として広く認知されているが、聴覚以外にも[[平衡感覚]]と[[回転覚]]を感知しているため、合わせて'''平衡聴覚器'''とも言う<ref name=Kaibou2v153>[[#解剖学第2版|解剖学第2版、p.153-157、平衡聴覚器]]</ref>。
== 概説 ==
[[音波]]を受容し、それを[[感覚神経]]に伝える[[構造]]を持つのが耳である。[[動物]]全体で見ると、耳を持つ[[種 (分類学)|種]]の割合はそれほど多いわけではないが、[[脊椎動物]]には耳を持つ種が幾つも見られる。
[[ヒト]]の場合、[[耳介]]や[[外耳道]]で音を拾い集め、音によって振動する[[鼓膜]]の動きを[[耳小骨]]を用いて[[蝸牛]]の中へと伝え、蝸牛の中にある[[有毛細胞]]で神経パルス(電気信号)に変換して、[[蝸牛神経]]を通して[[大脳]]の聴覚中枢へと送る。
なお、ほとんどの[[哺乳類]](ヒトを含む)においては、[[五感]]を司る器官の中でも、耳は生まれたときすでに成体に近いレベルまで発達している。これは、[[外界]]の危険を感じ取ったり、[[親]]との[[コミュニケーション]](ヒトの場合、特に[[言語]])を維持・学習するために必要だからと考えられる。ただし、ヒトの聴覚は発育とともに徐々に発達していくものであるので、[[乳児]]は[[成人]]と同じ聴覚をもってはいない。音を感じることはできても、それを[[周波数]]別に分別して音を理解する[[側頭葉]]の発育が不十分であるためである。[[検知]]はできるが、[[認知]]ができないのである。したがって、生下時に十分な聴力がなく音が聞こえない状態で育ったヒトは、たとえその状態が成人になってから良くなっても、音声を理解することができない。脳で音声信号を処理することができないのである。これは[[視覚]]についても同様のことが言える。
== ヒトの耳 ==
ヒトの耳は、[[外耳]]・[[中耳]]・[[内耳]]の3部分に区別できる<ref name=Kaibou2v153 />。
=== 外耳 ===
==== 耳介 ====
[[ファイル:Ear.jpg|thumb|外耳]]
外観として目立つヒトの[[耳介]]は、体外の[[音波]]を集める[[集音器]]の機能を持ち、3,000[[ヘルツ (単位)|Hz]]を中心に約10-15[[デシベル|dB]]の音響利得があるとされる。耳介軟骨(弾性軟骨)に耳介筋と呼ばれる[[横紋筋]]が取り付き、その全体を[[皮膚]]が覆う構造をしている。ヒトの場合、この耳介筋は[[退化]]しているため、動かす事は難しい<ref name=Kaibou2v153 />。耳介の下端には耳朶([[耳垂]])という柔らかい部分がある<ref name=Kaibou2v153 />。一般的な形状として、前は1個の黄色繊維軟骨がもたらす複雑な浮き上がりの中にくぼみがあり、後ろは滑らかな凸状になっている。人によって見られる{{仮リンク|ダーウィン結節|en| Darwin's tubercle}}は、耳輪の下向きになった部分にある突起で、長い耳を持つ哺乳動物の耳の穂先に対応する<ref>Stenström, J. Sten: Deformities of the ear; In: Grabb, W., C., Smith, J.S. (Edited): “Plastic Surgery”, Little, Brown and Company, Boston, 1979, ISBN 0-316-32269-5 (C), ISBN 0-316-32268-7 (P)</ref>。
ヒトの耳介は身体の中でも特徴的な形状をしており、成人後は基本的に変化しないので、まれに個体識別の材料となることもある。また、よく[[遺伝]]するので、[[デオキシリボ核酸|DNA]]や[[血液型]]による親子鑑定が一般的となる前は、親子鑑定の材料として用いられていた。ただし、[[柔道]]、[[レスリング]]、[[相撲]]などの組技格闘技をすると、耳介がこすれて[[内出血]]を起こしやすく、これを繰り返すうちに耳全体が腫れ上がって形状が変わってしまう場合がある([[耳血腫|耳介血腫]])。
耳介の血流の変化は見て取りやすく、興奮時などには耳介が赤くなる場合がある。そのため、俗に[[興奮]]した際や強い[[羞恥]]を感じた際の比喩表現として「耳まで赤くなる」と言うことがあるが、冷気に曝された場合などにおいて、精神的な活動とは無関係に赤くなることもある。また、ヒトの身体の中では比較的[[凍傷]]になりやすい部分であり、寒冷地では耳介を保護する[[防寒具]]が用いられることがある。
[[File:Darwin-s-tubercle.jpg|thumb|right|[[サル目]]としてヒト(左)と[[バーバリーマカク]](右)の[[比較解剖学|比較]]。矢印で示した部分がダーウィン結節。]]
ヒトだけでなく[[オランウータン]]や[[チンパンジー]]など[[霊長類]]は、耳にあまり発達しておらず機能も持たないが識別に充分な大きさがある[[筋肉]]を持つ事が知られている<ref name="Descent">[[チャールズ・ダーウィン]]、1871年、『{{仮リンク|人類の由来(及び雌雄淘汰より見たる男女の関係)|en|The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex}}』、John Murray: London.</ref>。この未発達の筋肉は{{仮リンク|遺残構造|en|vestigial structure}}に当たり、理由はどうあれ耳介を動かせないこの筋肉は、生物学的機能を失ってしまったと言うことができ、近縁種間にある[[相同]]の証拠ともみなされる。なお、ヒトの中でも変異性があり、この筋肉を使って耳介を動かせる者もいる<ref name="Descent" />。この筋肉の目的は一般的なサルが持たない首を水平に回す能力で代替されており、これはある器官が備えた機能がのちに別の器官の機能に移ってしまう例に当たる<ref>Mr. St. George Mivart, Elementary Anatomy, 1873, p. 396.</ref>。
美容整形手術によって耳を小さくしたり形を整えたりすることは{{仮リンク|耳介形成術|en|otoplasty}}と言う。まれにある耳介が形成されない先天性閉鎖症や発達が小さい[[小耳症]]などへの対応として、耳介の再建も行われている。通常、肋骨部など身体の別の部位から軟骨を採取して耳の形に成形し、移植用皮膚や回転皮弁で覆う。近年ではラットの背中で耳介を発達させ、然るべき後に移植する方法もある。しかし、閉鎖症や未発達状態の耳介を持って生まれた新生児の抱える問題は外耳にとどまらず、三半規管の未発達や欠落、または奇形を伴うことがある。医学的な初期対処は、赤ちゃんの聴力や外耳道とともに三半規管の状態を調べる必要があり、その結果から耳介を含む耳全体の修復治療計画が立てられる<ref>Lam SM. Edward Talbot Ely: father of aesthetic otoplasty. [Biography. Historical Article. Journal Article] Archives of Facial Plastic Surgery. 6(1):64, 2004 Jan-Feb.</ref><ref>Siegert R. Combined reconstruction of congenital auricular atresia and severe microtia. [Evaluation Studies. Journal Article] Laryngoscope. 113(11):2021-7; discussion 2028-9, 2003 Nov.</ref><ref>Trigg DJ. Applebaum EL. Indications for the surgical repair of unilateral aural atresia in children. [Review] [33 refs] [Journal Article. Review], American Journal of Otology. 19(5):679-84; discussion 684-6, 1998 September</ref>。
20世紀後半までは、「サザエさん」や「ドラえもん」といった子供向け番組で、家族の年長者が耳介を引っ張るという児童虐待がしばしば見られたが、近年では自主規制によりあまり見られなくなっている。
==== 外耳道 ====
耳の外部に開かれた孔(外耳孔)と[[鼓膜]]の間にある約25mmの管状部分は[[外耳道]]という。外側から1/3は[[軟骨]]で、その奥の2/3は[[骨]]が周りを囲い、皮膚が覆う。形状はゆるやかなS字型に曲がっている。皮膚部分には[[アポクリン腺]]という分泌を行う腺があり、この分泌物が[[耳垢]]となる<ref name=Kaibou2v153 />。
=== 中耳 ===
[[ファイル:Ear-anatomy.png|thumb|250px|ヒトの耳の構造。1:骨導、2:外耳道、3:耳殻、4:鼓膜、5:前庭窓、6:槌骨、7:砧骨、8:鐙骨、9:三半規管、10:蝸牛、11:聴神経、12:耳管]]
==== 鼓膜と鼓室 ====
鼓膜とは外耳と中耳の間にある線維性の薄い膜で、寸法は直径約10mm、厚さ約0.1mmである。外耳道に対し上が覆いかぶさるような斜めになっており、中央は漏斗状のへこみ(鼓膜臍)がある。鼓膜には外面内面ともに[[神経]]が分布し、[[痛覚]]にきわめて敏感である<ref name=Kaibou2v153 />。鼓膜の内側は粘膜で覆われた鼓室があり、[[耳管]]で[[咽頭]]と繋がっている。鼓膜には[[耳小骨]]という米粒ほどの大きさである3つの骨が繋がっており、鼓膜側から[[槌骨]]・[[砧骨]]・[[鐙骨]]と言う。この3つの骨は[[関節]]で繋がり、耳小骨筋(鼓膜張筋・[[鐙骨筋]])という筋肉がついている。[[音波]]を捉え鼓膜が振動すると、耳小骨は連動し、内耳へ伝える。耳小骨筋は、大きすぎる音によって耳小骨が過剰に動かないよう収縮の力を加えている<ref name=Kaibou2v153 />。なお、耳小骨を3つ持っている生物は、哺乳類以外に知られていない。
耳管(エウスタキオ管)は通常は圧迫されて閉じている。しかし何かを飲み込むなどの動きに連動して一時的に開く。この動きによって外気圧と中耳の[[気圧]]差を解消する。これが何らかの原因で閉塞すると、鼓膜が陥没して振動しにくくなり、難聴を引き起こす。逆に開放されたままの状態だと、自らの声が異常に大きく聞こえる自声強聴という状態になる<ref name=Kaibou2v153 />。
=== 内耳 ===
[[内耳]]全体は、[[側頭骨]]に空いた複雑な空間である[[骨迷路]]の中に、ほぼ同じ形の[[膜迷路]]が収まって形成されている。この間には外リンパという[[リンパ液]]で満たされている。膜迷路には、前方から[[三半規管]](半規管)、[[前庭]]、[[蝸牛]]の3つの構造がある<ref name=Kaibou2v153 />。
==== 前庭 ====
前庭は三半規管と蝸牛に挟まれた内耳の中央にあり、側面の前庭窓で中耳の鼓膜部分と接している。その中には2つの袋があり[[球形嚢]]と[[卵形嚢]]と呼ばれ、これらの中に有毛細胞を持つ[[平衡斑]]が感覚器官として働く。嚢の中には[[平衡砂]]という[[炭酸カルシウム]]の結晶を乗せた[[平衡砂漠]]と呼ばれるゼリー状物質が有毛細胞を覆っており、身体の動きや傾きなどによって平衡砂漠が動き、それを有毛細胞が感知する<ref name=Kaibou2v153 />。
==== 蝸牛 ====
耳が捉えた音波は鼓膜を介して前庭窓から膜迷路を振動させる。蝸牛は[[カタツムリ]]の[[殻]]に似た[[らせん]]状の管が蝸牛軸に2巻き半巻いた形を持つ。らせん管の断面は、前庭球形嚢と繋がる蝸牛管を挟んで[[前庭階]]と[[鼓室階]]という外リンパで満たされ蝸牛頂部で繋がった2つの空洞がある。蝸牛管の底には高さが伸びた上皮細胞によって作られた有毛細胞を持つ[[ラセン器]](コルト器)が形成されている。膜迷路の振動は外リンパを介し、根元の穴(前庭窓・卵円窓)を通って前庭階内部に伝わる。そして蝸牛先端で鼓室階へ抜け、最終的に蝸牛窓(正円窓)で消える。この一連の振動は間にある蝸牛管に満たされた内リンパ液を揺らし、ラセン器の毛細血管に感知される<ref name=Kaibou2v153 />。
==== 三半規管 ====
三半規管は、それぞれが[[直交]]に配置された半円弧状の前半規管・後半規管・外側半規管の3つの管で構成され、それぞれ途中に膨らんだ膨大部という部分がある。膨大部の中には有毛細胞の感覚毛が伸びた膨大部稜(小帽)があり、ここで身体の傾きを感じ取る([[平衡感覚]])<ref name=Kaibou2v153 />。
=== 内耳神経 ===
内耳で感知された音波や平衡感覚などの神経信号は、[[神経系]]の器官に属し[[脳神経]]の感覚性の一部をなす[[内耳神経]]を伝って[[脳]]へ届く。蝸牛から聴覚信号を送る部分は[[蝸牛神経]]、前庭から平衡覚などの信号を送る部分は[[前庭神経]]という。これらは内耳道の底で合流して頭蓋の中に導かれ、顔面神経の外側で脳と接続する<ref name=Kaibou2v138>[[#解剖学第2版|解剖学第2版、p.135-139、神経系 4.末端神経系 1)脳神経]]</ref>。
=== 機能から見た耳 ===
先述のように、外観として目立つ耳介を俗に「耳」と呼ぶ場合も少なくないが、外耳、中耳、内耳までの全体が耳である。そして、音を感知する部分も、平衡覚を感知する部分も、回転覚を感知する部分も、全ては内耳に存在している。ただし、音の感知に関しては内耳以外に、外耳や中耳も一定の役割を果たしている。なお、いずれの感覚も、脳で処理されることによって、はじめて知覚される。
==== 音の感知 ====
音は、主に外耳より[[空気]]の[[振動]]として外耳道を通って耳の中へ進入し、鼓膜により[[固体]]の振動へと変換され、それが中耳内の耳小骨を伝わり、内耳の蝸牛へと到達する。なお、蝸牛の中は[[液体]]で満たされているので、ここまでで、気体の振動、固体の振動、液体の振動と変化していることになる。ただし、自らが発した[[声]]の場合は、自らの[[骨]]などを伝わってゆく音、いわゆる[[骨導音]]も内耳の蝸牛へと到達しているように、音の伝達には別ルートも存在する。
いずれのルートから来た音による振動であっても、蝸牛に到達した振動は、蝸牛の中にある[[基底膜]]上の[[有毛細胞]]の毛を振動させる。この有毛細胞に伝わった振動は、有毛細胞の外にある[[カリウムイオン]]が、有毛細胞の内側へと移動し、これによって[[電位]]の変化が発生する(カリウムイオンは正の電荷を持つため)。これが有毛細胞を興奮させ、その興奮は[[電気信号]]となって[[大脳]]の[[聴覚中枢]]へと達し、音として知覚される<ref group="注釈">ただし、その音が適切な[[周波数]]([[可聴域]])で、かつ、適切な[[エネルギー]](強さ)を持っている場合に限られる。</ref>。なお、左右に2つの耳を持ち、この信号を脳で処理することによって、音源の[[定位]]なども知覚している。また、入力された音の強さに応じて感度を変えるといったこともしている。このように、音を知覚するには脳の活動が欠かせないが、内耳で有毛細胞が音によって生じた振動を電気信号に変えてくれなければ、脳の側ではどうすることもできない。ちなみに、音を電気信号に変換している有毛細胞が活動しているかどうかは、外耳道に高性能の[[マイクロフォン]]を近づけた時、微弱な音が耳の中から出ていれば、活動していることを確認することができるので、[[乳児]]の聴覚が正常かどうかの検査に利用されることがある。
音の感知に関しては、内耳以外に、外耳や中耳にも役割がある。まず、外耳の耳介は[[集音器]]としても役立っている。これは手を耳介の後ろにあてがってみれば、音の聞こえが良くなることから、その効果を簡単に確かめることができる。他にも、外耳道は閉管と考えることができ、これが[[共鳴器]]となり、共鳴する周波数付近の感度を上げている。
また、中耳は、内耳の蝸牛を満たしている液体に、効率的に振動を伝えるために大きな役割を果たしている。この役割を担っているのは、主に[[鼓膜]]と[[耳小骨]]である。[[鼓室形成術]]のような手術が考案されたのも、たとえ内耳の機能が保たれていたとしても、鼓膜と耳小骨とが正常に機能していないと音の聞こえが悪くなってしまうからである。中耳は、内耳のように液体で満たされているのではなく、空気で満たされているので、耳小骨は振動しやすくなっており、これが振動を伝える効率を上げている。また、鼓膜も中耳側に凹んだ形状を持っているなど、空気の振動をより効率良く受け取れるようになっている。加齢と共に鼓膜や耳小骨が振動しにくくなることは[[老人性難聴]]の一因である。なお、中耳は[[耳管]]で[[咽頭]]とつながっており、外耳と中耳の間に[[気圧]]の差が生じた時に、この耳管を用いて気圧差を解消することで鼓膜の振動が妨げられないようにしている。
ヒトの耳は一般的に20ヘルツから20キロヘルツの音域を聴く事が可能で、これは可聴周波数と呼ばれる。聴覚には耳の働きと同様に中枢神経の聴覚野が充分に機能していることが必要だが、ヒトの聴覚障害(音に対する極端な鈍感さ)は神経や聴覚野よりも内耳に問題を抱えている場合が最も多い<ref>Greinwald, John H. Jr MD; Hartnick, Christopher J. MD The Evaluation of Children With Hearing Loss. Archives of Otolaryngology — Head & Neck Surgery. 128(1):84-87, January 2002</ref>。
==== 平衡感覚 ====
[[平衡感覚]]に関係しているのは、耳では内耳と呼ばれる部分のみである。ただし、ヒトの場合、平衡感覚に関係しているのは、内耳だけではない点には注意が必要である。しかし、それでも平衡覚の感知や回転覚の感知に、内耳は大きな役割を果たしている。もしも内耳の疾患があると、[[耳鳴り]]や[[難聴]]が起こったりする以外に、[[めまい]]などが起こったりするのは、これらの感覚が狂うためである。この内耳での平衡覚と回転覚の感知においても有毛細胞が活躍しており、[[耳石器]]([[卵形嚢斑]]と[[球形嚢斑]]の部分)にある有毛細胞は、主に頭部の傾斜を感知し、[[三半規管]]にある有毛細胞は、主に頭部の回転を感知している。これらの有毛細胞からの情報が電気信号として脳に伝えられ、[[視覚]]や[[皮膚感覚]]や関節の動きや筋肉の動きなど、他の感覚と統合することによって、ヒトは平衡感覚を得ている。
== 耳毒性 ==
[[薬剤]]などがヒトの耳の機能に与える悪影響(耳毒性)については、ある程度の調査が行われてきた。聴力低下を招く物質や耳石器にダメージを与える物質を幾つか挙げておく。
=== トルエン ===
{{Main2|耳以外への毒性など|トルエン}}
[[トルエン]]に暴露されると、聴力にも悪影響があることが知られている。ヒトの場合、日常的にトルエンに暴露されていた個体において、[[聴性脳幹反応]]の潜時(電位変化が現れるまでの時間)が長くなることが確認されている<ref>{{Cite book|和書
|author = [[中西準子]]
|coauthors = 岸本充生
|editor = NEDO技術開発機構・産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター
|title = トルエン
|edition =
|origyear =
|year = 2005
|publisher = [[丸善雄松堂|丸善]]
|series = 詳細リスク評価書シリーズ
|isbn = 4-621-07519-5
|page = 43
}}</ref>。
つまり、音の入力があってから脳で解析されるまでの時間が、健康な個体と比べて長くなってしまうのである。
以下は動物実験でトルエンが聴力に悪影響を与えた事例である。1200ppm(4500 [mg/m3])のトルエンに5週間暴露され続けたラットは、その直後〜数週間程度は何ともなかったが、約10週間後(2.5ヶ月後)には4 [kHz]の音では問題が起こらなかったものの、8 [kHz]の音でわずかに聴力低下、12 [kHz]以上の音では顕著な聴力低下が見られた<ref name="nk_tolu_p64">『トルエン』64頁。</ref>。つまり、ラットはトルエンの影響で、特に高い周波数において聴力障害が起こるのである。さらに、[[聴性脳幹反応]]を見ても、音に対する反応速度が低下している(聴性脳幹反応の各波の発生が遅くなる)のが見られた<ref name="nk_tolu_p64" />。
他にも様々な条件で調べられており、
* 1000ppm(3750 [mg/m3])のトルエンを1日当たり14時間・2週間に渡って暴露
* 1500ppm(5625 [mg/m3])のトルエンを1日当たり14時間・3日間に渡って暴露
* 2000ppm(7500 [mg/m3])のトルエンを1日当たり8時間・3日間に渡って暴露
などの条件でラットに聴力低下が発生した<ref name="nk_tolu_p64" />。また、モルモットでもトルエンは、その蝸牛にダメージを与えることが明らかになっている<ref>『トルエン』65頁。</ref>。
なお、2005年現在なぜトルエンでこのようなことが起こるのかについては判っていない<ref>『トルエン』87頁。</ref>。
=== 抗生物質 ===
[[抗生物質]]の中でも、[[アミノ配糖体系抗生物質]]には耳毒性があることが知られており、内耳障害を引き起こす。音の感知については、まず高音域から聴力低下が始まり、次第に低音域へと進行し、最終的には聴力を喪失する。低下した聴力は、投薬を中止しても回復しない。また、耳石器へも毒性を発揮し平衡感覚を狂わせる。最悪の場合、耳石器の機能が完全に失われる。こちらも投薬を中止しても回復しない。このような抗生物質として、[[カナマイシン]]、[[ストレプトマイシン]]、[[ゲンタマイシン]]が知られる。
他の抗生物質でも、例えばテトラサイクリン系抗生物質の[[ミノマイシン]]は耳石器への毒性が知られており、めまいなどを引き起こすことがある。ただ、ミノマイシンの場合は投薬を中止すれば回復する。
=== ループ利尿薬 ===
ループ利尿薬には、Na+/K+/2Cl-共輸送系を阻害することで尿量の増加を起こさせているが、体内のNa+とK+とのバランスも崩してしまうという副作用が存在する。この時、内耳のリンパ液のNa+とK+とのバランスまで崩してしまい、結果として感音難聴を生じることがある。投薬を中止すれば、多くは難聴も解消するが、まれに障害が残るケースも存在する。このような利尿薬として、[[フロセミド]]や[[エタクリン酸]]などが知られている。
=== その他の薬剤 ===
他にも次のような薬剤で耳毒性が知られている。
* [[アセチルサリチル酸]] - 大量使用して血中濃度が高くなると、耳鳴りと難聴を生ずる。ただし、使用を中止すれば回復する。
* [[シスプラチン]] - 副作用の1つとして、耳鳴りと難聴を引き起こす。使用を中止しても回復しない。
== 脊椎動物の耳 ==
[[File:Haeckel Chiroptera.jpg|250px|thumb|right|多様な[[コウモリ]]の耳介]]
[[両生類]]、[[爬虫類]]、[[鳥類]]、[[哺乳類]]が持つ[[半規管]]は、全て[[三半規管]]であるという共通点を持つ。したがって、以降は半規管の種類に関する記述は省略する。参考までに、[[脊椎動物]]の中で半規管が[[ニ半規管]]なのは[[ヤツメウナギ]]が知られており、半規管が[[一半規管]]なのは[[ヌタウナギ]]が知られている。
=== 両生類の耳 ===
両生類の耳は、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、この部分は小柱(しょうちゅう)と呼ばれている。
=== 爬虫類の耳 ===
爬虫類の耳は、外耳道が短く、外側から見て浅いくぼみになっており、前縁を[[方形骨]]に支えられた鼓膜が見える。また、両生類と同様、伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、[[カメレオン]]など幾つかの種類では、鼓膜は[[皮膚]]に覆われている。また、[[ヘビ]]や[[無肢トカゲ]]は鼓膜を持っておらず、耳小骨は直接方形骨に接し[[骨伝導]]で振動を伝える。
=== 鳥類の耳 ===
鳥類の耳は爬虫類と同様、鼓膜の前縁は方形骨に支持され、ここからの伝音の役目を果たしている耳小骨は1つだけであり、小柱と呼ばれている。なお、[[フクロウ科]]の[[羽角]]は、耳そのものというわけではないものの、俗に「[[フクロウ]]の耳」「[[ミミズク]]の耳」などと言われることもある。{{See also|#派生義}}
=== 哺乳類の耳 ===
陸上に住む哺乳類は、しばしば耳介を動かすことができる。また、同じく陸上に住む哺乳類の中には、耳介が[[体温]]調節の機能を持っている場合もある。例えば、[[ゾウ]]は、その表面積の大きな耳介を利用して、中を流れる[[血液]]を空冷している。ちなみに、これは[[自然界]]でのことではないが、ヒトが[[家畜]]としている[[ウシ]]の個体識別などのための札も、この耳介の部分に装着する場合がある。
ある種の哺乳動物の耳に見られる内側にある複雑な隆線は、反響や獲物が立てる音に耳を向けて敏感に受け止める行動の際に役立つ。この隆線は、[[フレネルレンズ]]と似た効果を音響上で得る役割を持つと見なす事ができ、また[[コウモリ]]、[[アイアイ]]、[[ショウガラゴ]]、[[オオミミギツネ]]、[[ネズミキツネザル]]など[[種 (分類学)|種]]に関わらず多様な動物に見られる<ref>[http://www.jstor.org/pss/3546476]</ref><ref>[http://oai.dtic.mil/oai/oai?verb=getRecord&metadataPrefix=html&identifier=ADA164098]</ref><ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19425684]</ref>。
== 無脊椎動物の耳 ==
[[無脊椎動物]]において、耳、すなわち、空気中または水中を伝わる[[音波]]を検出するための特殊化した聴覚器官 を有する[[分類群]]はあまり多くなく、具体的には[[節足動物]]と[[頭足類]]の一部でしか知られていない<ref name = "Greenfield(2016)">{{Cite journal| first = Michael D.| last = Greenfield| chapter = Evolution of Acoustic Communication in Insects| editor = Pollack, G.S.; Mason, A.C.; Popper, A.; Fay, R.R. (eds)| title = Insect Hearing| pages = 17-47| year = 2016| doi = 10.1007/978-3-319-28890-1_2| isbn = 978-3-319-28888-8| url = https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-3-319-28890-1_2}}</ref>。<br/>
節足動物の耳は基本的に[[昆虫]]類においてのみ知られるもので、おもに[[鼓膜器官]]と{{日本語版にない記事リンク|ジョンストン器官|en|Johnston's organ}}のふたつのタイプに分けられる。ジョンストン器官が[[触角]]に位置するのに対して、鼓膜器官は体のさまざまな部位に発生し、その位置は分類群によって異なる傾向がある<ref name = "西野(2006)">{{Cite journal|和書| first = 浩史| last = 西野| title = 昆虫の聴覚器官 - その進化 -| journal = 比較生理生化学| volume = 23| issue = 2| year = 2006| pages = 26-37| doi = 10.3330/hikakuseiriseika.23.26| issn = 1881-9346| naid = 10025858599| url = https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiriseika/23/2/23_2_26/_article/-char/ja/}}</ref>。昆虫における聴覚は、捕食者から身を守るための手段としてのほか、種内コミュニケーションのために機能する場合も多い<ref name = "Greenfield(2016)"/><ref name = "西野(2006)"/>。
== 耳と文化 ==
[[File:Modified Ear.jpg|thumb|様々なピアスをつけた耳]]
何千年も昔から、伝統的に耳介の[[ピアス]]など宝石等が装飾された。中には装飾に耳たぶを伸ばして大きくする目的を持たせた文化圏もある。しかし一方で、余りに重い耳飾りや、衣服に絡んだりして耳介を傷つける事例も生じている<ref>{{cite book | url = https://books.google.co.jp/books?id=ljeY_Tvyl_MC&pg=PA60&ots=pt_I8xjg9k&dq=earlobe+tear+earring&sig=YBnRJSoIUiA1Kjhrzpq_Odd_0yk&redir_esc=y&hl=ja | title = Instant Beauty: Getting Gorgeous on Your Lunch Break | author = Deborah S. Sarnoff, Robert H. Gotkin, and Joan Swirsky | publisher = St. Martin's Press | year = 2002 | isbn = 0-312-28697-X }}</ref>。
耳(耳介)は、外観上目立つ部分なので、[[イヤリング]]などで装飾されたり[[眼鏡]]の装着場所としても利用されたりする。また、コスプレなどにおいて、例えば[[バニーガール]]ではウサギの耳介を模した装飾を付けたり、ある種の衣装では他の動物の耳介を模した装飾([[猫耳]]など)を付けたりする例が見られる。さらに、そのようなヒトと他の動物の耳介をくっつけた[[イラスト]]なども存在する。
また、耳に関する[[習慣]]として、外耳道から[[耳垢]]を取り出す行為である[[耳掻き]]のように、[[日本]]など限られた地域だけの習慣もある。他、[[福耳]]のように、特定の[[文化圏]]で珍重される耳介の形状などもある。
近年行われるようになった利用法として、皮膚の細胞の採取の場所として、耳介があるために目立たない耳介と頭の間が選択されたりもする。他に、体温の計測の時に、耳介の中央部にある外耳道が利用されることもある。
また、ヒトの耳介は、ヒトの身体の中でも特徴的な形状をしていて目立つ部分でもあるので、この部分に[[コンプレックス]]を持つ例も見受けられる。これは[[美容形成]]の分野で、耳介の角度を変えるといったことが行われることがあることからもうかがえる。中には、画家の[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]のように、自分の耳介を切り取ってしまった者も存在する。
== 派生義 ==
* [[フクロウ科]]の羽角、物の外周部、先端部、突出部を耳介に喩えて、耳と呼ぶ場合がある。[[ミミズク]]の耳、[[食パン]]の[[食パン#パン耳|耳]]、[[カステラ]]の耳、[[ティーカップ]]の耳(=取っ手)、[[イカ]]の耳([[頭足類の体#鰭|鰭]])など。[[木工]]では、[[丸太]]を板に[[製材]]した後で側面に残る[[樹皮]]を、耳と言う。
** 物の外周部という意味では同じだが、単に「耳」ではなく、例えば[[切手シート]]の耳紙のように、「耳*」などと呼ばれる場合もある。
* [[聴覚]]及び聴覚情報を使った認識を耳に喩える場合がある。地獄耳、早耳、英語の耳など。[[道教]]の神に、聴覚に優れた[[順風耳]]がいる。
* [[中華人民共和国|中国]]では[[漢字]]のこざとへん([[阜部]]。阝)、おおざと([[邑部]]。阝)を耳に喩えている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = 山内昭雄|coauthors = 鮎川武二|title = 感覚の地図帳|year = 2001|publisher = [[講談社]]|isbn = 4-06-206148-1|pages = 34・35・40〜53頁}}
* {{Cite book|和書|author = 馬場俊吉編|editor = |title = 耳鼻咽喉科|edition = 改訂第2版|year = 1999|publisher = [[医学評論社]]|series = Chart|isbn = 4-87211-413-2|page = }}
* {{Cite book|和書|author =河野邦雄、伊藤隆造、坂本裕和、前島徹、樋口桂|editor = 財団法人 東洋療法学校協会 |title = 解剖学第2版|edition = 第2版第1刷|year = 2006|publisher = [[医歯薬出版]]|isbn = 4-263-24207-6|page = |ref = 解剖学第2版}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ears}}
{{Wiktionary}}
* [[聴覚]]
* [[:en:electrocochleography|蝸電図]]
* [[防音具]]
* [[難聴]]
* [[平衡感覚]]
* [[耳石]]
* [[めまい]]
* [[外耳道#外耳道軟骨部|毳毛]]
* [[耳塞ぎ餅]]
* [[みみがー|ミミガー]]
* [[耳炎]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|author = |date = |url = https://bunseiri.com/?p=315|title = 聴覚・平衡感覚の受容器と伝導路|work = [https://bunseiri.com/ ビジュアル生理学]|publisher = |accessdate = 2011-09-05}}
*[http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/3740680.stm Protein behind hearing]
*[http://audilab.bmed.mcgill.ca/~daren/3Dear/3d_ear_homepage.html 3D Ear page]
*[http://www.entusa.com/external_ear_canal.htm Details of various ear problems]
*[http://www.abc.net.au/science/articles/2006/05/25/1647353.htm Ear wiggling mechanism unmasked]
*[http://www.ctv.ca/servlet/ArticleNews/story/CTVNews/20080205/cotton_swab_080205/20080205?hub=Health Cotton swabs can pose serious health risk: coroner from ctv.ca]
*[http://rad.usuhs.edu/medpix/master.php3?mode=case_viewer&pt_id=13048&imid=49500&quiz=no#top Radiology of the Ear Canal] from MedPix
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:耳|*]]
[[Category:感覚器]]
[[Category:聴覚]]
[[Category:動物解剖学]] | 2003-03-02T21:28:19Z | 2023-12-01T00:26:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3 |
3,269 | メロン | メロン(甜瓜、和名:メロン、英: melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物である。また、その果物・果実のこと。漢字では甜瓜(てんか)と呼ぶが、これはメロンを指すと同時にマクワウリをも含む表記である。
メロンは園芸分野では果菜(実を食用とする野菜)とされるが、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類される。
インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンはウリとよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある。栄養的にはビタミンCやカリウムが豊富なのが特徴。
北アフリカや中近東地方の原産地と推定されたが、2010年に発表された植物学者スザンヌ・レナーとミュンヘン大学の研究者らの遺伝子研究によれば、インドが原産地と裏付けられた。インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが、インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されている。古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいたが、これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となった。
メロンはごく早い時代にインドから西方のイラン(ペルシア)へ広がったとみられており、紀元前3000年ごろのメロンの種子がイラン南東部の古代遺跡シャフリ・ソフタから発見されている。紀元前7世紀の古代メソポタミアでは、粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられている。紀元前2000年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれている。古代ギリシアにおいて、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前4世紀のヒポクラテスによるもので、科学者の多くはこれがメロンであるとみている。古代ローマでも、同様にメロンが食べられていたとみられているが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられている。
メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明であるが、中国浙江省では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されている。このメロン種子は甘くないメロンだった可能性もあるが、植物学者のテレンス・W・ウォルターズによれば西周時代(紀元前1100年ごろ - 同771年)における中国では、マスクメロンと野菜用メロンは重要な果菜であったという。漢代(紀元前206年 - 紀元220年)にはメロンは中国で一般に食べられていた。
その後、甘いメロンが作られるまで数世紀に及ぶ改良の努力が行われた。研究者の多くは、中世の終わり(15世紀末)になって、ようやく現代と同じ甘いメロンがアルメニアからイタリアへと入ってきて、その後ヨーロッパ全土に広がったと考えている。中世ヨーロッパではメロンは甘いものということは知られており、甘くて食味の良いメロンも作られていたとみられているが、一方では栽培技術が未熟であったため、メロンは味気ないものという評価もなされていた。ルネサンスのころに南フランスでカンタルー種のような甘い品種が作られるようになり、メロンは野菜の仲間ではなくなっていった。
近東と中央アジアなどのシルクロード沿いのオアシスでは、栽培環境が整った上に最高品質のメロンが採れ、その種を取引する市場となっていた。10世紀にアラビア語による最古の料理書を編纂したアル=ワッラークは、多様なメロンについて執筆しており、中でも中国産メロンについて「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評している。6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説されており、『西遊記』の三蔵法師で知られる7世紀唐代の仏僧・玄奘は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残している。13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロは、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書き、メロンの評判を呼んでいた。14世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評した。
大航海時代に入るとシルクロード(陸路)の交易は廃れたが、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀ヴィクトリア朝の探検家フィレッド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及したとされる。16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になった。
新世界には元々メロンは存在しなかったが、クリストファー・コロンブスが1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込んだ。メロンは旧世界から新世界でも急速に広がり、16世紀前半には中米で栽培され、16世紀後半から17世紀前半にかけて北米のフロリダやハドソン川流域でも栽培されるようになった。さらに1683年、スペイン人はメロンの種をカリフォルニアに持ち込んでおり、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげている。スペイン植民地時代初期のパナマとペルーや、イギリス・オランダ植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていた。南米北東部にあるオランダ植民地のスリナムで、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、18世紀末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えている。
一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていた
19世紀末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきたアルメニア人は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを栽培した。その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいる。北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末にイエズス会がフランスからカナダに持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われている。収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかったが、1995年に種子がアイオワ州のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられている。
1970年代のイスラエルでは、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これがブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されている。
フランスでは、南フランスのカヴァイヨン地方で産するカンタロープメロンが国の誇りとなっている。1987年には、カヴァイヨンのシャラントメロンを称え、販売促進の目的もあって「同胞騎士団メロン勲章」が創設されている。
日本では中世以前に中国方面から東洋系品種であるマクワウリが渡来し、近代に入り西洋系のメロンが移入された。両者は生物学上は同種だが、一般的にはメロンの名称は西洋系品種を指す。
中世の考古遺跡から炭化種子が検出されており、古い時代に渡来して雑草化したものは「雑草メロン」(Cucumis melo L. var. agrestis Naud.)と呼ばれ、西日本の島嶼部などに自生している。元和年間(1615年 - 1624年)、徳川家康が江戸に美濃真桑村の名産だったマクワウリの栽培を命じた。明治時代になると政府は北海道の開拓を始めたが、1872年(明治5年)に北海道導入前の農作物を試験育成する開拓使官園(東京官園)で、米国から導入した甜瓜の栽培が行われ、翌1873年(明治6年)に北海道の七重開墾場(七重官園)で、東京官園から甜瓜を取り寄せて栽培を開始した。日本で最初のマスクメロン栽培は、1893年(明治26年)ごろに新宿植物御苑で日本初の加湿式温室が完成し、責任者の福羽逸人はここで果物の研究を行い、イギリスやフランスから取り寄せた種からマスクメロンの栽培方法を確立したといわれている。マスクメロンの中でも、1925年(大正14年)にイギリスの宮廷園芸用育成品種「アールス・フェボリット」(マスクメロンの1種)の種子が日本へ導入され、静岡県温室農業協同組合クラウンメロン支所の前身である磐田温室農協丸静支所などで、その栽培方法の確立が行われた。
1932年(昭和7年)になって、静岡県で「アールス・フェボリット」の栽培が始められ、以後同県でのみ栽培が続けられた。マスクメロンの一品種で、贈答用として化粧箱に入れて販売されることの多い夕張メロンは、戦後の1961年(昭和36年)に誕生した。一方、坂田種苗(現在のサカタのタネ)の創業者である坂田武雄は、フランスで食べた露地メロンの味に感動し、日本に戻って開発を指示。試行錯誤のうえ日本在来のマクワウリの系統と、ヨーロッパの甘いメロンを交配して新しいメロンの品種を開発し、1962年(昭和37年)に「プリンスメロン」を発表した。プリンスメロンは茨城県旭村(現・鉾田市)と八千代村(現・八千代町)で栽培が始められ、それまで高級果物だった甘いメロンを、一般家庭の食卓に普及させた。静岡県では、1本の「アールス・フェボリット」のつるに1個だけ果実つけさせた栽培法で作った最高級ブランド「クラウンメロン」の販売を開始。1974年(昭和49年)、園芸植物育種研究所により青肉ネット系の「アムスメロン」が発表される。
日本はマスクメロン栽培のパイオニアともいわれており、一般的なメロンよりもかなり高価な値段がつけられている。夕張メロンは、2008年(平成20年)の初競りで2玉250万円の高値をつけている。一方で栽培難度が高いアールス系マスクメロンに外見や食味が近くかつ生産が容易な新たなネットメロン品種の開発も積極的になされ、「アンデスメロン」や「クインシーメロン」といった低価格かつ食味にも優れた品種が多く出回るようになってきた。1977年(昭和52年)、サカタのタネがオリジナル品種の「アンデスメロン」を発売。1989年(平成元年)に横浜植木が開発した赤肉ネット系メロンの「クインシーメロン」を発売。2010年(平成22年)、茨城県農業センターがアールス系の青肉ネットメロン「イバラキング」を発売した。
一年生のつる植物で、一般に食べられているような果肉が詰まったメロンは、品種改良を経て作られたものである。ウリ科植物のなかでも旧世界に由来する植物で、熟成期間の最後を、十分な日光に当てて過不足ない水分を与えた適切な環境で育てられることによって、果実の甘い風味が増す。
果実は多くの場合に球形であるが、ラグビーボール形やこん棒形、さらには蛇の様に細長いものまで変化に富む。表面は白色、緑色、黄色などで、複数の色が混ざる事もあり、イボや深い溝を生ずることも多い。網目が生じるもの(アミメロン・網系)と生じないもの(アミナシメロン・網無し系)とがある。多くは中心部が綿状で多数の種子を含む。
日本で流通しているアミメロンは、品質を高めるために1本の蔓から通常1個しか収穫しない。主なネットメロン品種は受粉してから食べ頃までの日数が特定されている。ネットとは、かさぶたのようなものであり、果実の成長期に果肉と表皮の伸長率のずれによって生じるひび割れを塞ぐ分泌物から形成されるもの。 実を1個残す過程で未熟な状態で収穫される実は「摘果メロン」と呼ばれ、メロン漬けの材料となる。ただし生産量最大の茨城県では1株に2玉としており、サイズや品位は下がるが低価格で近隣の大消費地へ供給可能としている。
果実は熟すと甘くなるが、酸味が含まれる場合もある。極粉質の果実をつける品種(ババゴロシとも呼ばれる)や、乾燥地帯の品種には極めて保存性のよい(1年程度もつ)品種もある。この場合は果物というより、水筒の代わりとしての利用である。
スイカほど実は大きくならないが、それでも2004年に世界最大のマスクメロン(29.4キログラム)が米国アラスカ州の都市パーマーで採れている。
果肉色は、主に赤肉種・青肉種・白肉種に分類される。
通常Cucumis melo L.の西方に伝わった品種群をメロンと呼び、東方に伝わった品種群を瓜(ウリ)と呼ぶ。日本のマクワウリなどもそのひとつである。欧米では、ウリ科キュウリ属の甘いメロンや野菜タイプのメロンとウリ科スイカ属をまとめて、「メロン」と一般に呼ばれている。メロンと同じキュウリ属の有用植物としてキュウリ(胡瓜、C. sativus)があるが、植物学的な種のメロン(C. melo)のなかでも特に甘いものが、ふつう「メロン」として扱われている。
植物学者のあいだで、長年いくつかの群に分類することについて取り組まれてきたが、メロンは異種交配するため系統が複雑で、厳密なグループ分けをすることがむずかしい。分類法について科学者によっては見解は分かれ長く議論されているが、ここでは7つの群とその他に分けた分類法で列挙する。
マスクメロンとは、品種名ではなく麝香(Musk)の香りがするメロンの総称のことである。
春に種をまき、晩春に植え付け、初夏から盛夏にかけて収穫する果実的野菜である。野菜類のうちでは最も高温性で、栽培適温は昼間28 - 30度、夜温18 - 20度、15度以下では生育困難になるといわれている。日照を大変好む性質のため、日当たりのよい場所で作付けしないと栽培は難しい。連作障害もあり、これを防ぐためには接ぎ木苗を使わない場合で3 - 4年は畑を休める必要が出てくる。畑は前作が終わったときにできるだけ早く石灰をまいて良く耕して準備し、植え付けの2週間くらい前に溝を掘って元肥を入れて埋めて、畝をつくる。畝全体を黒色ポリフィルムで覆ってマルチングすることにより地温を上げたり、フィルム保温により作柄が安定するようになる。つるを地面に這わせる地ばい栽培と、支柱を立てて栽培する支柱立て栽培がある。
種は育苗ポットに3粒ほどまいて、地温25度前後を目安に保温して発芽させ、本葉1枚のころに間引いて1本仕立てにし、本葉4 - 5枚になったときが仕上がり苗となる。定植は、苗を75 cm以上の間隔で畝に植え付けるようにする。
地ばい栽培の場合では、親づるの本葉5 - 6枚で摘心し、葉わきから子づるを伸ばしていくが、一番根元の子づるは摘み取る。伸ばした子づるは本葉10 - 12枚で摘心し、孫づるの発生を促す。小果品種では子づるを3本伸ばし、ネット系などの大果品種では2本仕立てにするのが基本になる。果実になる雌花は孫づるにつくので、親づると子づるの摘心によって整枝し、よい孫づるを伸ばすことがよい果実をつくるポイントとなる。支柱立て栽培の場合では、畝に2条植え付けて、子づるの10-15節目から発生した孫づるの1節目の雌花に着果させる。主枝は本葉25枚までに摘心し、果実がついた先の枝のほうは摘心する。メロンは雌雄異花であり、開花日に雄花の葯を雌花の柱頭になするつけるように人工授粉させることにより、着果を確実なものにすることができる。着果10 - 14日後、予定数の形のよいものだけを残すようにして、他は摘果する。1株あたりの着果の目安は、ふつう小果品種で7 - 8個、大果品種で1株4 - 5個ほどである。着果後は畝の両側に追肥を行い、15 - 20日後に2回目の追肥も行う。また地ばい栽培では、着果後につるの下の畝に敷き藁をする。結実後、果実の糖度が高まり収穫できるようになるまでの日数は、品種と栽培時期によって異なる。果実の状態を見て収穫期を判断することもできるが、あらかじめ試し取りなどの方法でよく調べて、熟期を逃さないように収穫することが肝要になる。
病虫害に、つる割病、ベと病、うどんこ病にかかったり、アブラムシがつくことがある。十分な糖度のある実をならすためには、収穫期までに葉が健全であることも重要となる。病虫害が発生したら、早めに葉の表と裏面に薬剤を散布して防除する。
メロンは世界中の温暖な地域で栽培され、各地で多くの収穫が上がっている。
世界の生産国のなかでも中国は他を圧倒して、重量比でおよそ50%近い生産量を誇る。その他で生産量が多い国々は、上位順でトルコ、インド、イラン、カザフスタン、アメリカ合衆国、グアテマラ、ブラジル、メキシコなどである(2020年度統計)。
中国ではハミウリをはじめとする甘いメロンを栽培しており、毎年1400万トン近いメロンを生産している。トルコはヘビウリやカンタロープメロン・イノドルス群の甘いメロンを中心に多品種栽培しており、年170万トン近くを生産している。
一方で、甘いメロンを最も多く輸入している国は、アメリカ合衆国が最多となっている。スペインは多品種のメロンを生産するが、特にイノドルス群のピエル・デ・サポが有名で、スペイン国内での消費が非常に多いため、ブラジルと中米で生産されたものを逆輸入している。
世界の収穫量上位10か国(2012年)
日本の収穫量は21位で190,000トン、作付面積は25位で8,550 haである。
主要産地とその品種を記載する。 産地により収穫時期も異なり、南の県では春が収穫時期で、北の県では夏が収穫時期である。ハウス栽培が基本のアールスメロンは通年流通している。 2019年におけるメロン出荷量の全国計は141,900トンで、上位3位までの順位は1位 茨城県35,500トン、2位 熊本県23,000トン、3位 北海道21,600トンとなっており、茨城県は21年連続出荷量日本一を誇る。
農林水産省の統計による(2013年)
果実の食べ方は様々であるが、一般的には冷たくして食べられている。果物および野菜として生食されることが多いが、アカゲウリなどは煮物にすることもある。加工品用・飼料用での利用もある。マスクメロンは日本では贈答品として用いられることも多いが、国によっては庶民的な果物である。特有の甘い風味と香りから飲料や菓子のフレーバーにも多用される。また、上記のとおりメロン果肉・果汁には緑(青肉系)以外にも白や赤肉品種も多く出回っているが、加工食品でのメロンを示すアイコンは基本的に緑である。
熟したメロンを見分ける目安は、形や大きさ、手触り、色、香り(香りがある種類の場合)で判断する。手に持ったときに大きさの割に重さを感じ、熟したときの色になっていること、果実のお尻の部分を軽く押したときにへこむようであれば熟していると判断できる。マスクメロンの場合は、市場で売られているものは収穫の際に成りづる(果梗:かこう)から切り取られたものもあるが、自然に熟すと成りづるから果実が外れることが知られている。
食品
飲料
メロンは世界の多くで、美味しくて滋養がある冷たい食べ物と認識されている。 メロン果実は、炭水化物が少なく、コレステロールは含まないうえ脂肪分もほとんどない。微量栄養素では、ビタミンCを豊富に含み、果肉が黄色・オレンジ色・緑色のメロンはカロテン(ビタミンA)も豊富である。メロンの全品種で、葉酸やナイアシンなどのビタミンB群とカリウムを多く含む。ナトリウムはごく僅かであるが、微量ミネラルが豊富である。糖類の主成分は、ショ糖、ブドウ糖、果糖などである。果肉には、食物繊維のペクチンが多い。
また、スイカと同様に水分が多いウリ科の植物であり、体内の余分な塩分(ナトリウム)を排泄させるカリウムが多く含まれ、腎臓病や高血圧の予防・体内温度を下げる成分も含まれており、夏バテによる食欲不振の予防も効果的である。また、解毒作用もあり、リューマチや神経痛の痛みやしびれの予防にも効果的である。
ククミシンというタンパク質分解酵素を多く含むため、多量に食べると口腔内がピリピリと痛みを生じ、まれに出血する場合もある。収穫後、熟成するにつれ、分解酵素が増加する。熟成期を極度に過ぎたものには、甘さよりも苦味が生じる。
古代ギリシアの医者ヒポクラテス(紀元前460年 - 同377年)以降の西洋医学では、人間の身体の構成要素を4つの体液(気質)とする説が主流だったが、あらゆる食物は熱・冷・湿・寒の4つの区分に分けられ、これらを食べるときにバランス良くコントロールして健康促進と回復を行うとされていた。メロンは冷たく湿った食物とされ、熟成チーズや酢・塩・塩漬け肉など熱く乾いた食材でバランスをとることが必要とされた。イタリア料理に「プロシュート・ディ・パルマ」というメロンを生ハムで包んだ前菜(生ハムメロン)があるが、この気質説を元に生まれた伝統料理は現在でも食べられている。
中世初期のヨーロッパでは「存在の大いなる連鎖」という概念も発達し、地上で育つメロンは連鎖の最下層に位置するもののひとつとされ、あまり安全ではない食べ物とみなされていた。しかし、メロンの果実は地面に茂り、動物の糞を肥料とすることも多いことから、表面に凹凸があるメロン果皮に大腸菌などの汚染物質がつきやすく、十分に洗わないと体内に入ってきて重篤な病気を引き起こすことがある。実際に北米では、2004年にメロンを介した大腸菌感染によって、多数の死者を出している。
中世のビザンチウム(現在のイスタンブール)では、水分が多く冷たいメロンの性質が文書で述べられており、健康に役立てることに活用していた。スイカを含むメロンの仲間は腎結石に効果があり、熱中症にかかりにくくするといった効能ももつと考えられたり、高血圧や痛風、黄斑変性、白内障にも推奨されてきた。イギリス人料理研究家のエリザベス・デイヴィッドは、1970年の著書の中で、メロンが持つ身体を冷やす作用を中和するために、ショウガ粉末をメロンにかけて家族全員で食べていたという幼少期の経験談を書いている。
メロンは、道徳的な話や、善悪や貧富の対象にもよく使われた。ロシアには二人の兄弟のうち、ひとりは利己的で金持ち、もうひとりは親切で貧乏で、小鳥とメロンの種を通してそれぞれに破滅と富をもたらすという民話がある。
ロシア南部のアストラハンの旅人が語る説話では、育つと仔羊の形になるというメロンの話があり、このメロンが下草を食べて、転がってはもっと餌になる草がないかと探したという。仔羊形のメロンにはびっしりと毛が生えて、刈り取って服を作ることができたり、さらには仔羊にとっては天敵であるオオカミを捕らえることもできたという。
明代の中国では、老いた庭師の姿を借りた不死の仙人が、冷たくて深い雪の中から香しい匂いが漂う甘いメロンを掘り出して、人間の庭師仲間を驚かせたという道教の話がある。中央アジアのウイグルでは、メロンがきっかけで農家の貧しい少女が裕福な王子と結婚したという民話がある。王から2枚の硬貨だけを渡されて王家の食べ物とニワトリとロバの餌を買ってくるように言いつけられた王子が街中で困り果て、そこで出会った少女がその硬貨で大きなメロンを買ってきて王子に渡し、その話を聞いた王が貧しい少女を迎えにやり王子と結婚させたのだという。
インドには、王を笑わせた生意気な農民の話がある。お忍び旅行をしていた王が貧しい農民の男に、空腹でのども渇いておりメロンを求めたが、男は王に献上するためのメロンだから渡せないと断り、さらにもしも献上したメロンを受け取らないような王様ならば死んでしまえと言い放って毒づいた。後日、宮殿へ献上メロンを持って王の前に現れた男は、先日出会った相手が王であることにすぐ気づき、メロンを受け取らなかったらどうするかと問い詰めた王に対してとんちで笑わせた。あっぱれに思った王は、男にメロンを献上した褒美をたくさん持たせた。
イタリアでは、トスカーナ地方の王妃が三つ子を産んだとき、小姑の姉妹が王に「三つ子はひとじゃなく、ネコとヘビとナナフシ」だと告げ口をした逸話が伝わる。王は妻を魔女として牢に入れ、子供を殺すように命じたが、家臣は子供を殺すことができず、自分で育てた。あるとき、その臣下の家においしそうなメロンができ、王に献上することになった。王がメロンを切ると種子が宝石だった。王が不思議がると、そばにいた侍女が「人間の女がネコとヘビとナナフシを産むよりたやすいことです。」と申し立て、王を説得。妻は釈放され、子供たちは迎え入れられ、小姑たちは公衆のさらし者にされた。
メロンの祭事は世界中で開催されている。
メロンは絵画や彫刻、民芸品などの芸術分野においても、よく題材として使われている。17世紀初めのイタリア人画家カラヴァッジョの絵画には、瑞々しいメロンが描かれている。2006年にチェコで始まった「ヨーロッパ・メロン・カービング・フェスティバル」(英: Melounovy European Melon Carving Festival) は、メロンやスイカにカービング(芸術的な彫刻)を施す技術を競う大会で、世界中から果物・野菜彫刻のアーティストが集まる。 | [
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"text": "メロンは園芸分野では果菜(実を食用とする野菜)とされるが、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類される。",
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"text": "インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンはウリとよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある。栄養的にはビタミンCやカリウムが豊富なのが特徴。",
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"text": "北アフリカや中近東地方の原産地と推定されたが、2010年に発表された植物学者スザンヌ・レナーとミュンヘン大学の研究者らの遺伝子研究によれば、インドが原産地と裏付けられた。インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが、インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されている。古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいたが、これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となった。",
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"text": "メロンはごく早い時代にインドから西方のイラン(ペルシア)へ広がったとみられており、紀元前3000年ごろのメロンの種子がイラン南東部の古代遺跡シャフリ・ソフタから発見されている。紀元前7世紀の古代メソポタミアでは、粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられている。紀元前2000年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれている。古代ギリシアにおいて、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前4世紀のヒポクラテスによるもので、科学者の多くはこれがメロンであるとみている。古代ローマでも、同様にメロンが食べられていたとみられているが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられている。",
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"text": "メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明であるが、中国浙江省では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されている。このメロン種子は甘くないメロンだった可能性もあるが、植物学者のテレンス・W・ウォルターズによれば西周時代(紀元前1100年ごろ - 同771年)における中国では、マスクメロンと野菜用メロンは重要な果菜であったという。漢代(紀元前206年 - 紀元220年)にはメロンは中国で一般に食べられていた。",
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"text": "その後、甘いメロンが作られるまで数世紀に及ぶ改良の努力が行われた。研究者の多くは、中世の終わり(15世紀末)になって、ようやく現代と同じ甘いメロンがアルメニアからイタリアへと入ってきて、その後ヨーロッパ全土に広がったと考えている。中世ヨーロッパではメロンは甘いものということは知られており、甘くて食味の良いメロンも作られていたとみられているが、一方では栽培技術が未熟であったため、メロンは味気ないものという評価もなされていた。ルネサンスのころに南フランスでカンタルー種のような甘い品種が作られるようになり、メロンは野菜の仲間ではなくなっていった。",
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"text": "近東と中央アジアなどのシルクロード沿いのオアシスでは、栽培環境が整った上に最高品質のメロンが採れ、その種を取引する市場となっていた。10世紀にアラビア語による最古の料理書を編纂したアル=ワッラークは、多様なメロンについて執筆しており、中でも中国産メロンについて「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評している。6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説されており、『西遊記』の三蔵法師で知られる7世紀唐代の仏僧・玄奘は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残している。13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロは、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書き、メロンの評判を呼んでいた。14世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評した。",
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"text": "大航海時代に入るとシルクロード(陸路)の交易は廃れたが、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀ヴィクトリア朝の探検家フィレッド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及したとされる。16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になった。",
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"text": "新世界には元々メロンは存在しなかったが、クリストファー・コロンブスが1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込んだ。メロンは旧世界から新世界でも急速に広がり、16世紀前半には中米で栽培され、16世紀後半から17世紀前半にかけて北米のフロリダやハドソン川流域でも栽培されるようになった。さらに1683年、スペイン人はメロンの種をカリフォルニアに持ち込んでおり、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげている。スペイン植民地時代初期のパナマとペルーや、イギリス・オランダ植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていた。南米北東部にあるオランダ植民地のスリナムで、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、18世紀末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えている。",
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"text": "一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていた",
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"text": "19世紀末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきたアルメニア人は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを栽培した。その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいる。北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末にイエズス会がフランスからカナダに持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われている。収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかったが、1995年に種子がアイオワ州のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられている。",
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"text": "1970年代のイスラエルでは、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これがブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されている。",
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "一年生のつる植物で、一般に食べられているような果肉が詰まったメロンは、品種改良を経て作られたものである。ウリ科植物のなかでも旧世界に由来する植物で、熟成期間の最後を、十分な日光に当てて過不足ない水分を与えた適切な環境で育てられることによって、果実の甘い風味が増す。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "果実は多くの場合に球形であるが、ラグビーボール形やこん棒形、さらには蛇の様に細長いものまで変化に富む。表面は白色、緑色、黄色などで、複数の色が混ざる事もあり、イボや深い溝を生ずることも多い。網目が生じるもの(アミメロン・網系)と生じないもの(アミナシメロン・網無し系)とがある。多くは中心部が綿状で多数の種子を含む。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本で流通しているアミメロンは、品質を高めるために1本の蔓から通常1個しか収穫しない。主なネットメロン品種は受粉してから食べ頃までの日数が特定されている。ネットとは、かさぶたのようなものであり、果実の成長期に果肉と表皮の伸長率のずれによって生じるひび割れを塞ぐ分泌物から形成されるもの。 実を1個残す過程で未熟な状態で収穫される実は「摘果メロン」と呼ばれ、メロン漬けの材料となる。ただし生産量最大の茨城県では1株に2玉としており、サイズや品位は下がるが低価格で近隣の大消費地へ供給可能としている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "果実は熟すと甘くなるが、酸味が含まれる場合もある。極粉質の果実をつける品種(ババゴロシとも呼ばれる)や、乾燥地帯の品種には極めて保存性のよい(1年程度もつ)品種もある。この場合は果物というより、水筒の代わりとしての利用である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "スイカほど実は大きくならないが、それでも2004年に世界最大のマスクメロン(29.4キログラム)が米国アラスカ州の都市パーマーで採れている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "果肉色は、主に赤肉種・青肉種・白肉種に分類される。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "通常Cucumis melo L.の西方に伝わった品種群をメロンと呼び、東方に伝わった品種群を瓜(ウリ)と呼ぶ。日本のマクワウリなどもそのひとつである。欧米では、ウリ科キュウリ属の甘いメロンや野菜タイプのメロンとウリ科スイカ属をまとめて、「メロン」と一般に呼ばれている。メロンと同じキュウリ属の有用植物としてキュウリ(胡瓜、C. sativus)があるが、植物学的な種のメロン(C. melo)のなかでも特に甘いものが、ふつう「メロン」として扱われている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "植物学者のあいだで、長年いくつかの群に分類することについて取り組まれてきたが、メロンは異種交配するため系統が複雑で、厳密なグループ分けをすることがむずかしい。分類法について科学者によっては見解は分かれ長く議論されているが、ここでは7つの群とその他に分けた分類法で列挙する。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "マスクメロンとは、品種名ではなく麝香(Musk)の香りがするメロンの総称のことである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "春に種をまき、晩春に植え付け、初夏から盛夏にかけて収穫する果実的野菜である。野菜類のうちでは最も高温性で、栽培適温は昼間28 - 30度、夜温18 - 20度、15度以下では生育困難になるといわれている。日照を大変好む性質のため、日当たりのよい場所で作付けしないと栽培は難しい。連作障害もあり、これを防ぐためには接ぎ木苗を使わない場合で3 - 4年は畑を休める必要が出てくる。畑は前作が終わったときにできるだけ早く石灰をまいて良く耕して準備し、植え付けの2週間くらい前に溝を掘って元肥を入れて埋めて、畝をつくる。畝全体を黒色ポリフィルムで覆ってマルチングすることにより地温を上げたり、フィルム保温により作柄が安定するようになる。つるを地面に這わせる地ばい栽培と、支柱を立てて栽培する支柱立て栽培がある。",
"title": "栽培"
},
{
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"text": "種は育苗ポットに3粒ほどまいて、地温25度前後を目安に保温して発芽させ、本葉1枚のころに間引いて1本仕立てにし、本葉4 - 5枚になったときが仕上がり苗となる。定植は、苗を75 cm以上の間隔で畝に植え付けるようにする。",
"title": "栽培"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "地ばい栽培の場合では、親づるの本葉5 - 6枚で摘心し、葉わきから子づるを伸ばしていくが、一番根元の子づるは摘み取る。伸ばした子づるは本葉10 - 12枚で摘心し、孫づるの発生を促す。小果品種では子づるを3本伸ばし、ネット系などの大果品種では2本仕立てにするのが基本になる。果実になる雌花は孫づるにつくので、親づると子づるの摘心によって整枝し、よい孫づるを伸ばすことがよい果実をつくるポイントとなる。支柱立て栽培の場合では、畝に2条植え付けて、子づるの10-15節目から発生した孫づるの1節目の雌花に着果させる。主枝は本葉25枚までに摘心し、果実がついた先の枝のほうは摘心する。メロンは雌雄異花であり、開花日に雄花の葯を雌花の柱頭になするつけるように人工授粉させることにより、着果を確実なものにすることができる。着果10 - 14日後、予定数の形のよいものだけを残すようにして、他は摘果する。1株あたりの着果の目安は、ふつう小果品種で7 - 8個、大果品種で1株4 - 5個ほどである。着果後は畝の両側に追肥を行い、15 - 20日後に2回目の追肥も行う。また地ばい栽培では、着果後につるの下の畝に敷き藁をする。結実後、果実の糖度が高まり収穫できるようになるまでの日数は、品種と栽培時期によって異なる。果実の状態を見て収穫期を判断することもできるが、あらかじめ試し取りなどの方法でよく調べて、熟期を逃さないように収穫することが肝要になる。",
"title": "栽培"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "病虫害に、つる割病、ベと病、うどんこ病にかかったり、アブラムシがつくことがある。十分な糖度のある実をならすためには、収穫期までに葉が健全であることも重要となる。病虫害が発生したら、早めに葉の表と裏面に薬剤を散布して防除する。",
"title": "栽培"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "メロンは世界中の温暖な地域で栽培され、各地で多くの収穫が上がっている。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "世界の生産国のなかでも中国は他を圧倒して、重量比でおよそ50%近い生産量を誇る。その他で生産量が多い国々は、上位順でトルコ、インド、イラン、カザフスタン、アメリカ合衆国、グアテマラ、ブラジル、メキシコなどである(2020年度統計)。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "中国ではハミウリをはじめとする甘いメロンを栽培しており、毎年1400万トン近いメロンを生産している。トルコはヘビウリやカンタロープメロン・イノドルス群の甘いメロンを中心に多品種栽培しており、年170万トン近くを生産している。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一方で、甘いメロンを最も多く輸入している国は、アメリカ合衆国が最多となっている。スペインは多品種のメロンを生産するが、特にイノドルス群のピエル・デ・サポが有名で、スペイン国内での消費が非常に多いため、ブラジルと中米で生産されたものを逆輸入している。",
"title": "生産"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "世界の収穫量上位10か国(2012年)",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日本の収穫量は21位で190,000トン、作付面積は25位で8,550 haである。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "主要産地とその品種を記載する。 産地により収穫時期も異なり、南の県では春が収穫時期で、北の県では夏が収穫時期である。ハウス栽培が基本のアールスメロンは通年流通している。 2019年におけるメロン出荷量の全国計は141,900トンで、上位3位までの順位は1位 茨城県35,500トン、2位 熊本県23,000トン、3位 北海道21,600トンとなっており、茨城県は21年連続出荷量日本一を誇る。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "農林水産省の統計による(2013年)",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "果実の食べ方は様々であるが、一般的には冷たくして食べられている。果物および野菜として生食されることが多いが、アカゲウリなどは煮物にすることもある。加工品用・飼料用での利用もある。マスクメロンは日本では贈答品として用いられることも多いが、国によっては庶民的な果物である。特有の甘い風味と香りから飲料や菓子のフレーバーにも多用される。また、上記のとおりメロン果肉・果汁には緑(青肉系)以外にも白や赤肉品種も多く出回っているが、加工食品でのメロンを示すアイコンは基本的に緑である。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "熟したメロンを見分ける目安は、形や大きさ、手触り、色、香り(香りがある種類の場合)で判断する。手に持ったときに大きさの割に重さを感じ、熟したときの色になっていること、果実のお尻の部分を軽く押したときにへこむようであれば熟していると判断できる。マスクメロンの場合は、市場で売られているものは収穫の際に成りづる(果梗:かこう)から切り取られたものもあるが、自然に熟すと成りづるから果実が外れることが知られている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "食品",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "飲料",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "メロンは世界の多くで、美味しくて滋養がある冷たい食べ物と認識されている。 メロン果実は、炭水化物が少なく、コレステロールは含まないうえ脂肪分もほとんどない。微量栄養素では、ビタミンCを豊富に含み、果肉が黄色・オレンジ色・緑色のメロンはカロテン(ビタミンA)も豊富である。メロンの全品種で、葉酸やナイアシンなどのビタミンB群とカリウムを多く含む。ナトリウムはごく僅かであるが、微量ミネラルが豊富である。糖類の主成分は、ショ糖、ブドウ糖、果糖などである。果肉には、食物繊維のペクチンが多い。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、スイカと同様に水分が多いウリ科の植物であり、体内の余分な塩分(ナトリウム)を排泄させるカリウムが多く含まれ、腎臓病や高血圧の予防・体内温度を下げる成分も含まれており、夏バテによる食欲不振の予防も効果的である。また、解毒作用もあり、リューマチや神経痛の痛みやしびれの予防にも効果的である。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ククミシンというタンパク質分解酵素を多く含むため、多量に食べると口腔内がピリピリと痛みを生じ、まれに出血する場合もある。収穫後、熟成するにつれ、分解酵素が増加する。熟成期を極度に過ぎたものには、甘さよりも苦味が生じる。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "古代ギリシアの医者ヒポクラテス(紀元前460年 - 同377年)以降の西洋医学では、人間の身体の構成要素を4つの体液(気質)とする説が主流だったが、あらゆる食物は熱・冷・湿・寒の4つの区分に分けられ、これらを食べるときにバランス良くコントロールして健康促進と回復を行うとされていた。メロンは冷たく湿った食物とされ、熟成チーズや酢・塩・塩漬け肉など熱く乾いた食材でバランスをとることが必要とされた。イタリア料理に「プロシュート・ディ・パルマ」というメロンを生ハムで包んだ前菜(生ハムメロン)があるが、この気質説を元に生まれた伝統料理は現在でも食べられている。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "中世初期のヨーロッパでは「存在の大いなる連鎖」という概念も発達し、地上で育つメロンは連鎖の最下層に位置するもののひとつとされ、あまり安全ではない食べ物とみなされていた。しかし、メロンの果実は地面に茂り、動物の糞を肥料とすることも多いことから、表面に凹凸があるメロン果皮に大腸菌などの汚染物質がつきやすく、十分に洗わないと体内に入ってきて重篤な病気を引き起こすことがある。実際に北米では、2004年にメロンを介した大腸菌感染によって、多数の死者を出している。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "中世のビザンチウム(現在のイスタンブール)では、水分が多く冷たいメロンの性質が文書で述べられており、健康に役立てることに活用していた。スイカを含むメロンの仲間は腎結石に効果があり、熱中症にかかりにくくするといった効能ももつと考えられたり、高血圧や痛風、黄斑変性、白内障にも推奨されてきた。イギリス人料理研究家のエリザベス・デイヴィッドは、1970年の著書の中で、メロンが持つ身体を冷やす作用を中和するために、ショウガ粉末をメロンにかけて家族全員で食べていたという幼少期の経験談を書いている。",
"title": "成分・効能"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "メロンは、道徳的な話や、善悪や貧富の対象にもよく使われた。ロシアには二人の兄弟のうち、ひとりは利己的で金持ち、もうひとりは親切で貧乏で、小鳥とメロンの種を通してそれぞれに破滅と富をもたらすという民話がある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ロシア南部のアストラハンの旅人が語る説話では、育つと仔羊の形になるというメロンの話があり、このメロンが下草を食べて、転がってはもっと餌になる草がないかと探したという。仔羊形のメロンにはびっしりと毛が生えて、刈り取って服を作ることができたり、さらには仔羊にとっては天敵であるオオカミを捕らえることもできたという。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "明代の中国では、老いた庭師の姿を借りた不死の仙人が、冷たくて深い雪の中から香しい匂いが漂う甘いメロンを掘り出して、人間の庭師仲間を驚かせたという道教の話がある。中央アジアのウイグルでは、メロンがきっかけで農家の貧しい少女が裕福な王子と結婚したという民話がある。王から2枚の硬貨だけを渡されて王家の食べ物とニワトリとロバの餌を買ってくるように言いつけられた王子が街中で困り果て、そこで出会った少女がその硬貨で大きなメロンを買ってきて王子に渡し、その話を聞いた王が貧しい少女を迎えにやり王子と結婚させたのだという。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "インドには、王を笑わせた生意気な農民の話がある。お忍び旅行をしていた王が貧しい農民の男に、空腹でのども渇いておりメロンを求めたが、男は王に献上するためのメロンだから渡せないと断り、さらにもしも献上したメロンを受け取らないような王様ならば死んでしまえと言い放って毒づいた。後日、宮殿へ献上メロンを持って王の前に現れた男は、先日出会った相手が王であることにすぐ気づき、メロンを受け取らなかったらどうするかと問い詰めた王に対してとんちで笑わせた。あっぱれに思った王は、男にメロンを献上した褒美をたくさん持たせた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "イタリアでは、トスカーナ地方の王妃が三つ子を産んだとき、小姑の姉妹が王に「三つ子はひとじゃなく、ネコとヘビとナナフシ」だと告げ口をした逸話が伝わる。王は妻を魔女として牢に入れ、子供を殺すように命じたが、家臣は子供を殺すことができず、自分で育てた。あるとき、その臣下の家においしそうなメロンができ、王に献上することになった。王がメロンを切ると種子が宝石だった。王が不思議がると、そばにいた侍女が「人間の女がネコとヘビとナナフシを産むよりたやすいことです。」と申し立て、王を説得。妻は釈放され、子供たちは迎え入れられ、小姑たちは公衆のさらし者にされた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "メロンの祭事は世界中で開催されている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "メロンは絵画や彫刻、民芸品などの芸術分野においても、よく題材として使われている。17世紀初めのイタリア人画家カラヴァッジョの絵画には、瑞々しいメロンが描かれている。2006年にチェコで始まった「ヨーロッパ・メロン・カービング・フェスティバル」(英: Melounovy European Melon Carving Festival) は、メロンやスイカにカービング(芸術的な彫刻)を施す技術を競う大会で、世界中から果物・野菜彫刻のアーティストが集まる。",
"title": "文化"
}
] | メロンは、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物である。また、その果物・果実のこと。漢字では甜瓜(てんか)と呼ぶが、これはメロンを指すと同時にマクワウリをも含む表記である。 メロンは園芸分野では果菜(実を食用とする野菜)とされるが、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類される。 インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンはウリとよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある。栄養的にはビタミンCやカリウムが豊富なのが特徴。 | {{Otheruses|[[果物]]のメロン}}
{{生物分類表
|名称 = メロン(甜瓜)
|色 = lightgreen
|画像=[[File:Cantaloupes.jpg|300px]]
|画像キャプション = [[カンタロープ|カンタロープメロン]]
|界 = [[植物界]] [[:w:Plantae|Plantae]]
|門階級なし = [[被子植物]] {{sname||Angiosperm}}
|綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{interlang|en|eudicots}}
|下綱階級なし = [[バラ類]] {{interlang|en|rosids}}
|目 = [[ウリ目]] {{sname||Cucurbitales}}
|科 = [[ウリ科]] [[:w:Cucurbitaceae|Cucurbitaceae]]
|属 = [[キュウリ属]] ''[[:w:Cucumis|Cucumis]]''
|種 = '''メロン''' ''C. melo''
|学名 = {{Snamei||Cucumis melo}} {{AU|L.}} {{small|(1753)}}<ref name="YList">{{YList|id=24910|taxon=Cucumis melo L. メロン(標準)|accessdate=2023-01-29}}</ref>
|シノニム =
* {{Snamei|Melo sativus}} {{AU|Sager.}} ex {{AU|M.Roem.}} {{small|(1846)}}<ref name="YList_33949">{{YList|id=33949|taxon=Melo sativus Sager. ex M.Roem. メロン(シノニム)|accessdate=2023-01-29}}</ref>
|和名 = メロン
|英名 = melon<ref>[http://www.ars-grin.gov/cgi-bin/npgs/html/taxon.pl?404410 Cucumis melo L.]USDA Germplasm Resources Information Network、2015年7月6日閲覧。</ref>
}}
'''メロン'''(甜瓜{{efn|中国語での表記<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/jazhword/メロン |title=メロンを中国語で言うと |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-11-17 }}</ref>。本来の日本語では「テンカ」「マクワ」「マクワウリ」と読むが、中国語の表記を受けて「メロン」と読ませる例も見られる<ref>{{Cite web |url=https://furigana.info/w/甜瓜:メロン |title=“甜瓜(メロン)” の例文 |publisher=ふりがな文庫 |accessdate=2023-11-17 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mdpr.jp/other/detail/2440551 |title=「甘蕉」ってなんて読む…?ヒントはあのフルーツ!難読《果物》漢字 |access-date=2023-10-09 |publisher=modelpress |date=2021-02-15}}</ref>。}}、和名:メロン、{{lang-en-short|melon}}、学名:''Cucumis melo'')は、[[果実]]を食用にする[[ウリ科]]の[[一年生植物|一年生草本植物]]である。また、その[[果物]]・果実のこと。漢字では甜瓜(てんか)と呼び{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}、これはメロンを指すと同時に[[マクワウリ]]をも含む表記である。
メロンは園芸分野では[[果菜]](実を食用とする[[野菜]])とされる<ref name="nousui"> [http://www.maff.go.jp/hokuriku/kids/question/green03.html 農林水産省のQ&Aページ]</ref>が、青果市場での取り扱い<ref name="nousui" />や、栄養学上の分類<ref> [http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802/002/007.pdf 五訂増補日本食品標準成分表 果実類]</ref>では[[果物]]あるいは[[果実]]と分類される。
インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンは[[ウリ]]とよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}。栄養的には[[ビタミンC]]や[[カリウム]]が豊富なのが特徴。
== 歴史 ==
=== 起源地と古代文明地への伝播 ===
[[北アフリカ]]や[[中近東]]地方の原産地と推定されたが、2010年に発表された植物学者スザンヌ・レナーとミュンヘン大学の研究者らの[[遺伝子]]研究によれば、[[インド]]が原産地と裏付けられた{{sfn|ラブグレン|2017|p=37}}<ref>キュウリやメロン、インドが原産地₋ニュース【ビジネスプレミアム】 2013年3月15日₋[http://www.indochannel.jp/member-area/news/hindi/nws0001523.html] </ref>。インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが、インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=39}}。古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいたが、これがウリ科植物やメロンの仲間を表す[[ラテン語]]のククルビット(cucurbit)の語源となった{{sfn|ラブグレン|2017|p=39}}。
メロンはごく早い時代にインドから西方のイラン([[ペルシア]])へ広がったとみられており、紀元前3000年ごろのメロンの種子がイラン南東部の古代遺跡シャフリ・ソフタから発見されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=39}}。[[紀元前7世紀]]の古代[[メソポタミア]]では、粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられている{{sfn|ラブグレン|2017|pp=43–44}}。紀元前2000年ごろの[[古代エジプト]]では、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれている{{sfn|ラブグレン|2017|pp=45–50}}。[[古代ギリシア]]において、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、[[紀元前4世紀]]の[[ヒポクラテス]]によるもので、科学者の多くはこれがメロンであるとみている{{sfn|ラブグレン|2017|p=52}}。[[古代ローマ]]でも、同様にメロンが食べられていたとみられているが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられている{{sfn|ラブグレン|2017|p=54–56}}。
メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明であるが、中国[[浙江省]]では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=40}}。このメロン種子は甘くないメロンだった可能性もあるが、植物学者のテレンス・W・ウォルターズによれば西周時代(紀元前1100年ごろ - 同771年)における中国では、マスクメロンと野菜用メロンは重要な果菜であったという{{sfn|ラブグレン|2017|p=40}}。[[漢代]](紀元前206年 - 紀元220年)にはメロンは中国で一般に食べられていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=40}}。
=== 中世から近世 ===
その後、甘いメロンが作られるまで数世紀に及ぶ改良の努力が行われた。研究者の多くは、中世の終わり([[15世紀]]末)になって、ようやく現代と同じ甘いメロンが[[アルメニア]]から[[イタリア]]へと入ってきて、その後[[ヨーロッパ]]全土に広がったと考えている{{sfn|ラブグレン|2017|p=57}}。中世ヨーロッパではメロンは甘いものということは知られており、甘くて食味の良いメロンも作られていたとみられているが、一方では栽培技術が未熟であったため、メロンは味気ないものという評価もなされていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=70}}。[[ルネサンス]]のころに南フランスでカンタルー種のような甘い品種が作られるようになり、メロンは[[野菜]]の仲間ではなくなっていった<ref>マグロンヌ・トゥーサン=サマ 『世界食物百科』[[玉村豊男]] 翻訳監修、[[原書房]]、[[1998年]]、ISBN 4087603172、pp.684-687</ref>。
近東と中央アジアなどの[[シルクロード]]沿いの[[オアシス]]では、栽培環境が整った上に最高品質のメロンが採れ、その種を取引する市場となっていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=72}}。10世紀にアラビア語による最古の料理書を編纂したアル=ワッラークは、多様なメロンについて執筆しており、中でも中国産メロンについて「蜂蜜のように甘く、[[麝香]]のような芳香を持つ」と評している{{sfn|ラブグレン|2017|p=74}}。6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説されており、『[[西遊記]]』の三蔵法師で知られる7世紀[[唐]]代の仏僧・[[玄奘]]は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残している{{sfn|ラブグレン|2017|p=78}}。13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅した[[マルコ・ポーロ]]は、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書き、メロンの評判を呼んでいた{{sfn|ラブグレン|2017|p=83}}。14世紀後半に中央アジアを支配した[[ティムール]]を訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評した{{sfn|ラブグレン|2017|p=86}}。
[[大航海時代]]に入るとシルクロード(陸路)の交易は廃れたが、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀[[ヴィクトリア朝]]の探検家フィレッド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及したとされる{{sfn|ラブグレン|2017|pp=88–90}}。16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になった{{sfn|ラブグレン|2017|pp=96}}。
[[新世界]]には元々メロンは存在しなかったが、[[クリストファー・コロンブス]]が1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込んだ{{sfn|ラブグレン|2017|p=104}}。メロンは[[旧世界]]から新世界でも急速に広がり、[[16世紀]]前半には[[中米]]で栽培され、16世紀後半から[[17世紀]]前半にかけて[[北米]]の[[フロリダ]]や[[ハドソン川]]流域でも栽培されるようになった{{sfn|ラブグレン|2017|p=106}}。さらに1683年、[[スペイン人]]はメロンの種を[[カリフォルニア]]に持ち込んでおり、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげている{{sfn|ラブグレン|2017|p=106}}。[[スペイン]][[植民地]]時代初期の[[パナマ]]と[[ペルー]]や、[[イギリス]]・[[オランダ]]植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=108}}。南米北東部にあるオランダ植民地の[[スリナム]]で、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、[[18世紀]]末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えている{{sfn|ラブグレン|2017|p=109}}。
一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=109}}
=== 近代以降 ===
[[19世紀]]末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきた[[アルメニア人]]は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを栽培した{{sfn|ラブグレン|2017|p=141}}。その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいる{{sfn|ラブグレン|2017|p=141}}。北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末に[[イエズス会]]がフランスから[[カナダ]]に持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われている{{sfn|ラブグレン|2017|p=144}}。収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかったが、1995年に種子が[[アイオワ州]]のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられている{{sfn|ラブグレン|2017|p=145}}。
1970年代の[[イスラエル]]では、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これが[[ブラジル]]、スペイン、アメリカ、パナマ、[[エジプト]]、[[コスタリカ]]で商業生産されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=142}}。
フランスでは、南フランスのカヴァイヨン地方で産するカンタロープメロンが国の誇りとなっている{{sfn|ラブグレン|2017|p=142}}。1987年には、カヴァイヨンのシャラントメロンを称え、販売促進の目的もあって「同胞騎士団メロン勲章」が創設されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=142}}。
=== 日本 ===
日本では中世以前に中国方面から東洋系品種であるマクワウリが渡来し、近代に入り西洋系のメロンが移入された。両者は生物学上は同種だが、一般的にはメロンの名称は西洋系品種を指す。
中世の考古遺跡から[[炭化種子]]が検出されており、古い時代に渡来して雑草化したものは「雑草メロン」(Cucumis melo L. var. agrestis Naud.)と呼ばれ、[[西日本]]の[[島嶼]]部などに自生している。[[元和 (日本)|元和]]年間(1615年 - 1624年)、[[徳川家康]]が[[江戸]]に[[美濃]][[真桑村]]の名産だったマクワウリの栽培を命じた{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}。明治時代になると政府は[[北海道]]の開拓を始めたが、1872年(明治5年)に北海道導入前の農作物を試験育成する[[官園 (開拓使)|開拓使官園]](東京官園)で、[[アメリカ合衆国|米国]]から導入した甜瓜の栽培が行われ、翌1873年(明治6年)に北海道の七重開墾場(七重官園)で、東京官園から甜瓜を取り寄せて栽培を開始した{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}。日本で最初のマスクメロン栽培は、1893年(明治26年)ごろに[[新宿御苑|新宿植物御苑]]で日本初の加湿式温室が完成し、責任者の[[福羽逸人]]はここで果物の研究を行い、イギリスやフランスから取り寄せた種からマスクメロンの栽培方法を確立したといわれている{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://melon-fruits.com/topics1/|title=メロンの歴史について|website=fruitfarmers Online|publisher=スクープ|accessdate=2023-08-08}}</ref>。マスクメロンの中でも、1925年(大正14年)に[[イギリス]]の宮廷園芸用育成品種「アールス・フェボリット」(マスクメロンの1種)の種子が日本へ導入され{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}、静岡県温室農業協同組合クラウンメロン支所の前身である磐田温室農協丸静支所などで、その栽培方法の確立が行われた。
1932年(昭和7年)になって、静岡県で「アールス・フェボリット」の栽培が始められ、以後同県でのみ栽培が続けられた{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}。マスクメロンの一品種で、贈答用として化粧箱に入れて販売されることの多い[[夕張メロン]]は、戦後の1961年(昭和36年)に誕生した{{sfn|竹下大学|2022|p=166}}。一方、坂田種苗(現在の[[サカタのタネ]])の創業者である坂田武雄は、フランスで食べた露地メロンの味に感動し、日本に戻って開発を指示{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。試行錯誤のうえ日本在来のマクワウリの系統と、ヨーロッパの甘いメロンを交配して新しいメロンの品種を開発し、1962年(昭和37年)に「[[プリンスメロン]]」を発表した{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。プリンスメロンは[[茨城県]][[旭村 (茨城県鹿島郡)|旭村]](現・[[鉾田市]])と八千代村(現・[[八千代町]])で栽培が始められ、それまで高級果物だった甘いメロンを、一般家庭の食卓に普及させた{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。静岡県では、1本の「アールス・フェボリット」のつるに1個だけ果実つけさせた栽培法で作った最高級ブランド「クラウンメロン」の販売を開始{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。1974年(昭和49年)、園芸植物育種研究所により青肉ネット系の「[[アムスメロン]]」が発表される{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。
日本はマスクメロン栽培のパイオニアともいわれており、一般的なメロンよりもかなり高価な値段がつけられている{{sfn|ラブグレン|2017|p=147}}。夕張メロンは、2008年(平成20年)の初競りで2玉250万円の高値をつけている{{sfn|ラブグレン|2017|p=147}}。一方で栽培難度が高いアールス系マスクメロンに外見や食味が近くかつ生産が容易な新たなネットメロン品種の開発も積極的になされ、「[[アンデスメロン]]」や「[[クインシーメロン]]」といった低価格かつ食味にも優れた品種が多く出回るようになってきた。1977年(昭和52年)、サカタのタネがオリジナル品種の「アンデスメロン」を発売{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。1989年(平成元年)に横浜植木が開発した赤肉ネット系メロンの「クインシーメロン」を発売{{sfn|竹下大学|2022|p=1697}}。2010年(平成22年)、茨城県農業センターがアールス系の青肉ネットメロン「[[イバラキング]]」を発売した{{sfn|竹下大学|2022|p=1697}}。
== 特徴 ==
[[ファイル:Cucumis melo 4 (Piotr Kuczynski).jpg|thumb|200px|苗]]
[[ファイル:Cucumis melo var. makuwa 02.jpg|thumb|200px|花]]
一年生のつる植物で、一般に食べられているような果肉が詰まったメロンは、品種改良を経て作られたものである{{sfn|ラブグレン|2017|p=18}}。ウリ科植物のなかでも[[旧世界]]に由来する植物で、熟成期間の最後を、十分な日光に当てて過不足ない水分を与えた適切な環境で育てられることによって、果実の甘い風味が増す{{sfn|ラブグレン|2017|p=18}}。
=== 実 ===
果実は多くの場合に球形であるが、ラグビーボール形やこん棒形、さらには蛇の様に細長いものまで変化に富む。表面は白色、緑色、黄色などで、複数の色が混ざる事もあり、イボや深い溝を生ずることも多い。網目が生じるもの(アミメロン・網系)と生じないもの(アミナシメロン・網無し系)とがある。多くは中心部が綿状で多数の[[種子]]を含む。
日本で流通しているアミメロンは、品質を高めるために1本の蔓から通常1個しか収穫しない。主なネットメロン品種は受粉してから食べ頃までの日数が特定されている。ネットとは、かさぶたのようなものであり、果実の成長期に果肉と表皮の伸長率のずれによって生じるひび割れを塞ぐ分泌物から形成されるもの。
実を1個残す過程で未熟な状態で収穫される実は「摘果メロン」と呼ばれ、[[メロン漬け]]の材料となる<ref>[http://www.pref.kagawa.jp/shozu/nokai/topic/01meron.htm 小豆島産の摘果メロンの粕漬‐香川県小豆農業改良普及センター]</ref>。ただし生産量最大の茨城県では1株に2玉としており、サイズや品位は下がるが低価格で近隣の大消費地へ供給可能としている。
果実は熟すと甘くなるが、[[酸味]]が含まれる場合もある。極粉質の果実をつける品種(ババゴロシとも呼ばれる)や、乾燥地帯の品種には極めて保存性のよい(1年程度もつ)品種もある。この場合は果物というより、水筒の代わりとしての利用である。
スイカほど実は大きくならないが、それでも2004年に世界最大のマスクメロン(29.4キログラム)が[[米国]][[アラスカ州]]の都市[[パーマー (アラスカ州)|パーマー]]で採れている{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。
=== 果肉 ===
果肉色は、主に赤肉種・青肉種・白肉種に分類される。
; 赤肉種:赤色系(橙色)
: [[夕張メロン]]・クインシーメロン・アムスメロンなど。
; 青肉種:緑色系(黄緑色)
: [[アンデスメロン]]・[[プリンスメロン]]・[[タカミメロン]]・[[アールスメロン]]・イバラキングメロンなど。
; 白肉種:白色系(乳白色)
: [[ホームランメロン]]・[[ハネデューメロン]]・パパイヤメロンなど。
== 分類 ==
通常''Cucumis melo'' L.の西方に伝わった品種群をメロンと呼び、東方に伝わった品種群を瓜([[ウリ]])と呼ぶ。[[日本]]の[[マクワウリ]]などもそのひとつである。欧米では、ウリ科[[キュウリ属]]の甘いメロンや野菜タイプのメロンとウリ科[[スイカ属]]をまとめて、「メロン」と一般に呼ばれている{{sfn|ラブグレン|2017|p=18}}。メロンと同じキュウリ属の有用植物として[[キュウリ]](胡瓜、''C. sativus'')があるが、植物学的な種のメロン(''C. melo'')のなかでも特に甘いものが、ふつう「メロン」として扱われている{{sfn|ラブグレン|2017|p=18}}。
植物学者のあいだで、長年いくつかの群に分類することについて取り組まれてきたが、メロンは異種交配するため系統が複雑で、厳密なグループ分けをすることがむずかしい{{sfn|ラブグレン|2017|p=20}}。分類法について科学者によっては見解は分かれ長く議論されているが、ここでは7つの群とその他に分けた分類法で列挙する。
=== 品種 ===
*'''カンタルペンシス群''' (''C. melo'' var ''cantalupensis'')
*: 一般に果実は丸く、果皮に畝を立てたような筋が走ってゴワゴワして、滑らかなものでもでこぼこしたタイプがあるのが特徴{{sfn|ラブグレン|2017|p=20}}。網目は生じない。独特の香りをもち、果肉はオレンジ色が多く、熟してもつるから外れない{{sfn|ラブグレン|2017|p=20}}。[[シャラントメロン]]、[[ガリアメロン]]、[[アルジェリアンメロン]]など{{sfn|ラブグレン|2017|p=20}}。北米で「カンタロープ」と呼ばれるメロンは、この群には含まれない{{sfn|ラブグレン|2017|p=20}}。
*'''レティクラトゥス群'''(''C. melo'' var. ''reticulatus'')
*: 果実は丸形からラグビーボール形で、果肉に[[麝香]]のような香りを持つ品種群で、果皮には網目模様が走り、熟すとつるから外れるのが特徴{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。果肉はオレンジ色、クリーム色、緑色のものがある{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。[[マスクメロン]]、[[カンタロープ]]、[[スペインメロン]]、[[ナツメグメロン]](ネットメロン)、[[ペルシャメロン]]、[[アンデスメロン]]、[[アールスメロン]]など{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。
**[[アールス・フェボリット]](アールスメロン) - 元々は英国宮廷園芸用に育成された品種で、1925年に日本に導入され、現在は日本だけで栽培されているマスクメロン。静岡県は主生産地。{{sfn|竹下大学|2022|p=168}}
***クラウンメロン - 静岡県袋井市や森町などで温室栽培されているアールスメロンの地域ブランド名。1本の木に1個の実だけを育てた高品質なメロン。四季に合わせた20数種類の品種があり、周年販売されている{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**[[アンデスメロン]](アンデス) - 日本で高級マスクメロンかプリンスメロンの2択しかできなかった1977年に登場した品種で、[[サカタのタネ]]が開発し、ネットメロンを大衆化させた{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。「アンデス」は登録商標で、「作って安心」「売って安心」「安心です」の意味から命名された{{sfn|竹下大学|2022|p=167}}。青肉で果皮に網目があり、食味が良く、日持ちがする。日本では高級なマスクメロン(アールス・フェボリット)に代って人気がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}。
***赤いアンデス - 2015年に誕生した「アンデス」の赤肉メロン品種。他の赤肉メロンよりも賞味期限が長い{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**[[イバラキング]] - 茨城県の育種技術を結集して、アールス系統F1品種から10年以上かけて誕生したオリジナル品種。きめ細かい緑果肉で、爽やかな味が特徴{{sfn|竹下大学|2022|p=168}}。名称は、全国一のメロン生産量を誇る茨城県の「メロンの王様として茨城の顔になってほしい」との願いを込めて命名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/nosose/cont/ibaraking.html|title=緑肉メロン「イバラキング」|publisher=茨城県農業総合センター|accessdate=2023-08-09}}</ref>。
**[[オトメ]] - タキイ種苗が育成したマスクメロンの品種で、茨城県鉾田市の種苗会社と協力して2000年から出荷されている。果肉は黄緑色で甘く、芳香がある{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**[[クインシー]](クインシーメロン) - 赤肉で果皮に網目がある。口当たりの良い深みのある甘味が特徴。実は大きめで糖度が高い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}。名称は、女王の「クイーン」と、カロテンが豊富で健康を意味する「ヘルシー」から命名されている{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**[[タカミメロン]] - 果肉が青肉の「タカミ」と赤肉の「タカミレッド」があり、果皮の網目が細かく入る。糖度が高く、さわやかな甘味があり「貴味メロン」とよばれている。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}
**[[肥後グリーン]] - 主に熊本県で栽培されている果肉が緑色で果皮に細かいネットがあるメロン。高糖度でありながらすっきりした味わいがある{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**[[夕張メロン|夕張キング]](夕張メロン) - カンタロープの後継品種「スパイシー・カンタロープ」の赤果肉と香りと、「アールス・フェボリット」の甘さを求めて交配した[[F1品種]]{{sfn|竹下大学|2022|p=168}}。主生産地は北海道[[夕張市]]で、夕張市農業協同組合(JA夕張市)の品質検査に合格したものだけが「夕張メロン」の商標で出荷される。
**ルピアレッド - みかど協和が「IK×アールス」に「アンデス」を交配育成した赤肉のネットメロン。主産地は北海道や茨城県などで、北海道産のものは「らいでんメロン」(共和町)や「富良野メロン」(富良野市)のブランド名で販売されている{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
**レノン(レノンメロン) - タキイ種苗が交配育成した大玉で種の部分が少ない可食部が多い赤肉ネットメロン。主に茨城県、青森県、熊本県で栽培されている。
* '''イノドルス群'''(フユメロン群、''C. melo ver. inodorus'')
*: 果実は丸形からラグビーボール形で、果皮の表面に網目がなく滑らかなものやいぼ状をしており、一部の品種を除いて熟しても大半はつるから外れない{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。果肉は緑色や白色が多く、[[麝香]]のような香りを持たない{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。熟すまでに時間がかかり、他のメロンよりも大型のものが多く、収穫後も数か月保管できることから「フユメロン」{{efn|アジアで栽培される[[トウガン]](冬瓜)とは異なる{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。}}ともよばれる{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。[[ハネデューメロン]](ホワイトアンディーブ)、[[ハミウリ]]、[[クレンショーメロン]]、[[サンタクロースメロン]]、[[カナリアメロン]]、[[カサバメロン]]、[[ピエル・デ・サポ]]、[[クリスマスメロン]]など{{sfn|ラブグレン|2017|p=22}}。
** [[ボナンザメロン]] - 網目がない果皮は黄色く、果肉が白色で熟すと半透明になってくる。皮はごく薄く、果肉に歯ごたえがあり、あっさりした甘味がある。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}
** [[ホームランスター]] - ハネデュー系メロンを交配して作られたやや楕円形の果実で、果皮と果肉が乳白色の品種。果肉はなめらかで、完熟すると甘味が強くなり、とろけるような果肉になる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}。
* '''フレクスオスス群''' (''C. melo'' ver. ''flexuosus'')
*: Flex は「曲がる」の意で、果実は蛇のように長くなる{{sfn|ラブグレン|2017|p=23}}。果皮は淡緑色や暗緑色で、食味は甘くなくキュウリに似ており、一般には野菜として扱われる{{sfn|ラブグレン|2017|p=23}}。南アジアから北アフリカにかけて栽培されている。[[ヘビウリ]]、[[アルメニアキュウリ]]など{{sfn|ラブグレン|2017|p=23}}。
* '''コノモン群''' (''C. melo'' ver. conomon'')
*: ピクルスメロンともよばれるアジアで数千年にわたって栽培されてきたメロンで、一般に甘くはなく野菜として利用される{{sfn|ラブグレン|2017|p=24}}。果実は球形か円筒状で、果皮はなめらかで緑色・白色・縞模様のものがある{{sfn|ラブグレン|2017|p=24}}。[[シロウリ]]、アカゲウリ(モーウイ)など。
* '''ドゥダイム群''' (''C. melo'' ver. ''dudaim'')
*: 小型のメロンで果実は球形やラグビーボール形で、果皮に縞模様、果肉は苦味を持つものもあり、あまり食用では利用されない{{sfn|ラブグレン|2017|p=24}}。ポケットメロン、ザクロメロン、ドゥダイムメロン、アップルメロン、ヴァインボメグラネート、プラムグラニー、ワイルドマスクメロンなどとも呼ばれ{{sfn|ラブグレン|2017|p=25}}、[[ジャム|プレザーブ]]や部屋の[[芳香剤]]に用いられる。
* '''モモルディカ群''' (''C. melo'' ver. ''momordica'')
*: 果実は球形やラグビーボール形で、果皮は滑らか、熟すと果実が割れるのが特徴{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。果肉の果汁は少なくパサパサした食感で、一般には実が若いうちに生食するか調理して食べる{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。スナップメロン(ポンメロン)など。
* チト群 (チトメロン、''Chito group'')
*: 果実が小型の球形でカンタロープを小型にしたような外見{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。食味は中には甘いものもあるが、キュウリに近い{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。ガーデンレモン、メロンアップル、ツルモモ、マンゴーメロン、オレンジメロンの名称でも知られ、これらは外見的特徴から名付けられている{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。主にピクルスに使われる{{sfn|ラブグレン|2017|p=26}}。
* マクワ群 (''Makuwa Group'')
*: [[マクワウリ]]など。
** [[キンショウメロン]](キンショーメロン) - 1968年に誕生したマクワウリとスペイン系メロンを交配した品種で、果実はやや縦長の球形で、果皮は濃い黄色で果肉が白い。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}
** [[マクワウリ]] - 日本の代表的な東洋系メロンで果肉は白い。濃厚な甘味や香りはないが、あっさりした甘味と歯ごたえがある。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}
*** [[黄金まくわ]] - マクワウリの改良品種。奈良県では伝統野菜として「[[大和野菜]]」に認定される。{{sfn|竹下大学|2022|p=169}}
** [[タイガーメロン]] - マクワウリの一種と西洋系メロンの交配種で、果皮に緑と黄色の縦縞模様が入るのが特徴。果肉は白色で、さっぱりした甘さがある。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=210}}
{{Gallery
|ファイル:Melon honeydew.jpg|イノドルス群の一種[[ハネデューメロン]]
|ファイル:Whole melon.jpg|イノドルス群の一種[[ハミウリ]]
|ファイル:Cucumis melo var. makuwa 01.jpg|マクワ群の[[マクワウリ]]
|ファイル:Melon persian.jpg|レティクラトゥス群に分類されるネットメロン
|ファイル:Cucumis melo flexuosus.jpg|フレクスオスス群の一種[[ヘビウリ]]
|ファイル:Piel De Sapo Melon.jpg|イノドルス群の一種ピエル・デ・サポ
|File:Shirouri.JPG|[[シロウリ]]もメロンの一種(コノモン群)
<!-- |ファイル:Squeredmelon inside001.jpg|カクメロ -->
}}
=== マスクメロン ===
マスクメロンとは、品種名ではなく[[麝香]](Musk)の香りがするメロンの総称のことである。
{{Main|マスクメロン}}
== 栽培 ==
[[File:Melon plant.jpg|thumb|200px|メロンの露地栽培例]]
春に種をまき、晩春に植え付け、初夏から盛夏にかけて収穫する果実的野菜である。野菜類のうちでは最も高温性で、栽培適温は昼間28 - 30度、夜温18 - 20度、15度以下では生育困難になるといわれている{{sfn|板木利隆|2020|p=52}}。日照を大変好む性質のため、日当たりのよい場所で作付けしないと栽培は難しい{{sfn|板木利隆|2020|p=52}}。連作障害もあり、これを防ぐためには接ぎ木苗を使わない場合で3 - 4年は畑を休める必要が出てくる{{sfn|板木利隆|2020|p=52}}。畑は前作が終わったときにできるだけ早く[[石灰]]をまいて良く耕して準備し、植え付けの2週間くらい前に溝を掘って元肥を入れて埋めて、[[畝]]をつくる{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。畝全体を黒色ポリフィルムで覆って[[マルチング]]することにより地温を上げたり、フィルム保温により作柄が安定するようになる{{sfn|板木利隆|2020|p=52}}。つるを地面に這わせる地ばい栽培と、支柱を立てて栽培する支柱立て栽培がある。
種は育苗ポットに3粒ほどまいて、地温25度前後を目安に保温して発芽させ、本葉1枚のころに間引いて1本仕立てにし、本葉4 - 5枚になったときが仕上がり苗となる{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。定植は、苗を75 cm以上の間隔で畝に植え付けるようにする{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。
地ばい栽培の場合では、親づるの本葉5 - 6枚で摘心し、葉わきから子づるを伸ばしていくが、一番根元の子づるは摘み取る。伸ばした子づるは本葉10 - 12枚で摘心し、孫づるの発生を促す{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。小果品種では子づるを3本伸ばし、ネット系などの大果品種では2本仕立てにするのが基本になる{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。果実になる雌花は孫づるにつくので、親づると子づるの摘心によって整枝し、よい孫づるを伸ばすことがよい果実をつくるポイントとなる{{sfn|板木利隆|2020|p=53}}。支柱立て栽培の場合では、畝に2条植え付けて、子づるの10-15節目から発生した孫づるの1節目の雌花に着果させる{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。主枝は本葉25枚までに摘心し、果実がついた先の枝のほうは摘心する{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。メロンは雌雄異花であり、開花日に雄花の[[葯]]を雌花の[[柱頭 (植物学)|柱頭]]になするつけるように[[人工授粉]]させることにより、着果を確実なものにすることができる{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。着果10 - 14日後、予定数の形のよいものだけを残すようにして、他は摘果する{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。1株あたりの着果の目安は、ふつう小果品種で7 - 8個、大果品種で1株4 - 5個ほどである{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。着果後は畝の両側に追肥を行い、15 - 20日後に2回目の追肥も行う{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。また地ばい栽培では、着果後につるの下の畝に敷き藁をする{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。結実後、果実の糖度が高まり収穫できるようになるまでの日数は、品種と栽培時期によって異なる{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。果実の状態を見て収穫期を判断することもできるが、あらかじめ試し取りなどの方法でよく調べて、熟期を逃さないように収穫することが肝要になる{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。
病虫害に、[[つる割病]]、[[ベと病]]、[[うどんこ病]]にかかったり、[[アブラムシ]]がつくことがある{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。十分な糖度のある実をならすためには、収穫期までに葉が健全であることも重要となる{{sfn|板木利隆|2020|p=52}}。病虫害が発生したら、早めに葉の表と裏面に薬剤を散布して防除する{{sfn|板木利隆|2020|p=54}}。
== 生産 ==
メロンは世界中の温暖な地域で栽培され、各地で多くの収穫が上がっている{{sfn|ラブグレン|2017|p=140}}。
=== 収穫量と作付 ===
[[File:Production Quantity & Area Harvested of Melons all of the world 1961-2012.png|thumb|300px|世界のメロンの収穫量と作付面積の推移(1961-2012年)]]
世界の生産国のなかでも[[中国]]は他を圧倒して、重量比でおよそ50%近い生産量を誇る{{sfn|ラブグレン|2017|p=140}}<ref name="GROBAL_NOTE"/>。その他で生産量が多い国々は、上位順で[[トルコ]]、[[インド]]、[[イラン]]、[[カザフスタン]]、[[アメリカ合衆国]]、[[グアテマラ]]、[[ブラジル]]、[[メキシコ]]などである(2020年度統計)<ref name="GROBAL_NOTE">{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-5727.html|title=世界のメロン生産量 国別ランキング・推移|website=GLOBAL NOTE グローバルノート – 国際統計データ専門サイト|publisher=グローバルノート|accessdate=2022-08-13}}</ref>。
中国ではハミウリをはじめとする甘いメロンを栽培しており、毎年1400万[[トン]]近いメロンを生産している{{sfn|ラブグレン|2017|p=140}}<ref name="GROBAL_NOTE"/>。トルコはヘビウリやカンタロープメロン・イノドルス群の甘いメロンを中心に多品種栽培しており{{sfn|ラブグレン|2017|p=141}}、年170万トン近くを生産している<ref name="GROBAL_NOTE"/>。
一方で、甘いメロンを最も多く輸入している国は、[[アメリカ合衆国]]が最多となっている{{sfn|ラブグレン|2017|p=141}}。[[スペイン]]は多品種のメロンを生産するが、特にイノドルス群のピエル・デ・サポが有名で、[[スペイン]]国内での消費が非常に多いため、ブラジルと中米で生産されたものを逆輸入している{{sfn|ラブグレン|2017|p=144}}。
'''世界の収穫量上位10か国'''([[2012年]])<ref name="fao">{{cite web|url=http://faostat3.fao.org/download/Q/QC/E|title=FAOSTAT>DOWNLOAD DATA|work=FAOSTAT|publisher=[[国際連合食糧農業機関|FAO]]|language=[[英語]]|accessdate=2014-11-14}}</ref>
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right; font-size:95%"
|+
!収穫量順位!!国!!収穫量 (t) !!作付面積 (ha)
|-
|1||[[中華人民共和国]]||17,500,000||600,000
|-
|2||[[トルコ]]||1,708,415||102,000
|-
|3||[[イラン]]||1,450,000||82,000
|-
|4||[[エジプト]]||1,007,845||40,218
|-
|5||[[インド]]||1,000,000||44,500
|-
|6||[[アメリカ合衆国]]||925,060||31,730
|-
|7||[[スペイン]]||870,900||27,500
|-
|8||[[モロッコ]]||717,602||20,982
|-
|9||[[ブラジル]]||575,386||22,789
|-
|10||[[メキシコ]]||574,976||20,172
|-
|―||世界計||31,925,787||1,339,006
|}
[[日本]]の収穫量は21位で190,000トン、作付面積は25位で8,550 haである<ref name="fao" />。
=== 日本 ===
[[File:Production Quantity & Area Harvested of Melons in Japan 1973-2012.png|thumb|日本のメロンの収穫量と作付面積の推移([[1973年]] - [[2012年]])]]
==== 主要産地と品種 ====
主要産地とその品種を記載する。
産地により収穫時期も異なり、南の県では春が収穫時期で、北の県では夏が収穫時期である。ハウス栽培が基本のアールスメロンは通年流通している。
2019年におけるメロン出荷量の全国計は141,900トンで、上位3位までの順位は1位 茨城県35,500トン、2位 熊本県23,000トン、3位 北海道21,600トンとなっており、茨城県は21年連続出荷量日本一を誇る。
* [[北海道]] - 三大産地は富良野(ふらのメロン)、夕張(夕張メロン)、共和(らいでんメロン)である。
** [[夕張市]] - [[夕張メロン]](赤肉種)・夕張IKメロン(赤肉種)
** [[富良野市]]近郊 - [[ふらのメロン]](赤肉種・青肉種)
** [[共和町]]雷電 - [[らいでんメロン]](赤肉種)
** [[栗山町]] - きららクイーン(赤肉種)
** [[むかわ町]]穂別 - [[ほべつメロン]](赤肉種)・[[I.Kメロン]](赤肉種)
** [[安平町]] - [[アサヒメロン]](赤肉種)
** [[三笠市]] - [[三笠メロン]](赤肉・青肉種)
** [[北竜町]] - 北竜メロン(赤肉種・青肉種)
** [[雨竜町]] - 暑寒メロン(青肉種・赤肉種)
** [[浦臼町]] - 浦臼メルティーメロン(北海道において最初に栽培されたといってもいい歴史あるメロン産地 - JAピンネによる)
** [[月形町]] - 月形キングメルティー(青肉種)
** [[奈井江町]] - 北海キング(赤肉種)
** [[石狩市]] - 厚田メロン(赤肉種)
** [[札幌市]][[手稲区]]山口 - サッポロメロン(赤肉種)
** [[訓子府町]] - 訓子府メロン(赤肉・青肉種)
** [[北見市]] - 北見メロン(赤肉種)
** [[ニセコ町]]・[[蘭越町]] - ようていメロン(赤肉種(ルピアレッド・羊蹄レッド・レッド113))・青肉種(ニセコグリーン))
** [[森町 (北海道)|森町]]・[[厚沢部町]] - さぶりメロン(赤肉種(ルピアレッド・レッド113))
** [[弟子屈町]] - 摩周メロン(赤肉・青肉種)
** [[苫前町]] - 苫前メロン(赤肉種・青肉種)
** [[小平町]] - (青肉種(アイボリーメロン等)・赤肉種)
** [[遠別町]]・[[羽幌町]] - オロロンメロン(赤肉種・青肉種)
* [[青森県]]
** [[つがる市]] - [[タカミメロン]](青肉種)
** [[七里長浜]] - [[つがりあんメロン]]
* [[秋田県]]
** [[三種町]] - サンキューメロン・[[カナリアメロン|カナリアンメロン]]
** [[男鹿市]] - わかみメロン・秋田美人メロン
** [[八竜町]] - 八竜メロン(アムスメロン)
* [[山形県]]([[庄内地方]]) - [[庄内砂丘メロン]]
**[[酒田市]]酒田地区日本海沿岸
**[[遊佐町]] - [[アンデスメロン]](青肉種・赤肉種)・[[キスミーメロン]](青肉種)・[[グレースメロン]](青肉種)・[[クインシーメロン]](赤肉種)・紅花メロン(赤肉種)
**[[鶴岡市]]鶴岡地区・大山地区 - アンデスメロン(青肉種・赤肉種)・鶴姫ブランド(鶴姫(青肉種)・鶴姫レッド(赤肉種))
*[[宮城県]]
**クールボジャメロン(青肉種) - [[岩沼市|岩沼市と]][[名取市]]の一部で生産されていた[[プリンスメロン]]の改良品種<ref>{{Cite web|和書|title=幻の…?「クールボジャメロン」 |url=https://www.toyotane.co.jp/blog/chlorophyll/000596.html |website=トヨタネ株式会社 |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=宮城地域からの便り(平成29年度):東北農政局 |url=https://www.maff.go.jp/tohoku/rin/tayori/29_miyagi.html |website=www.maff.go.jp |access-date=2022-10-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「幻のメロン」クールボジャ今年限り 岩沼の生産組合、高齢化で生産断念 |url=https://kahoku.news/articles/20220621khn000034.html |website=河北新報オンライン |date=2022-06-22 |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref>。
* [[新潟県]]
**[[新潟市]]・[[五泉市]] - タカミメロン・アールスメロン・モンドメロン・ほほえみ・あきみどり・サニースイート・ミラノ・ヴェルダ・雅(青肉種)
**[[小千谷市]] - [[ユウカメロン]]・タカミメロン・ボクの夏(青肉種)・[[マリアージュメロン]](赤肉種)
* [[茨城県]] - アンデスメロン(青肉種)・タカミメロン(青肉種)・[[オトメメロン]](青肉種)・[[クインシーメロン]](赤肉種)・[[プリンスメロン]](青肉種)
**[[鉾田市]] - メロンの出荷量が日本一。
**[[八千代町]] - メロンの出荷量が鉾田市に次いで全国第二位。
**[[坂東市]]- [[妃 (メロン)|妃]]([[マスクメロン|アールスフェボリット]]赤肉種)[[茨城県立坂東総合高等学校]]が栽培している。
*東京都 ‐ 町田シルクメロン
**[[町田市]] ‐ 世界初の温室栽培の水耕栽培で一株から60個も収穫出来る。
*[[千葉県]] - [[アクアメロン|千葉アクアメロン]]
**[[銚子市]] - [[銚子メロン]]
**(銚子[[アムスメロン]](第16回[[日本農業賞]]受賞)・銚子クインシーメロン・銚子タカミメロン)
**[[旭市]]飯岡 - [[タカミメロン|飯岡貴味メロン]](青肉種)
* [[静岡県]] - [[温室]]メロンの生産量が日本一。[[静岡クラウンメロン]](青肉種)
* [[愛知県]]
** [[渥美半島]] - [[渥美メロン]]・[[イエローキングメロン]](ノーネットメロン)
** [[カクメロ]] - 県内の[[高等学校]]が開発した角形メロン。一般販売もされる。
* [[三重県]]
** [[志摩市]][[浜島町南張]] - [[南張メロン]]
** [[名張市]][[美旗]]地域 - [[美旗メロン]]
* [[滋賀県]]
** [[草津市]]下笠町 - [[草津メロン]]
** [[守山市]]吉身町 - [[守山メロン]]
** [[愛東町]]愛東町 - [[愛東メロン]]
* [[京都府]]
** [[京丹後市]]網野町 - [[砂丘メロン]]
* [[岡山県]]
** [[岡山市]] - [[足守メロン]]
* [[鳥取県]]
** [[倉吉市]] - [[倉吉メロン]]
* [[島根県]]
** [[益田市]] - [[益田メロン]]・[[アムスメロン]]
* [[福岡県]]
** [[行橋市]] - [[白雪メロン]]
* [[長崎県]]
** [[南島原市]] - [[パパイヤメロン]](白肉種)
** [[壱岐市]] - アムスメロン・[[マスクメロン|アールスメロン]](青肉種)・[[キューピットメロン]]
* [[熊本県]]
** [[山鹿市]] - アールスメロン
** [[宇城市]] - クインシーメロン、アンデスメロン
** [[玉名市]] - キンショーメロン
** [[八代市]] - [[肥後グリーンメロン]](青肉種)
** [[球磨郡]]地域 - プリンスメロン・[[ホームランメロン]](白)
==== 収穫量上位10都道府県 ====
[[農林水産省]]の統計による([[2013年]])<ref name="es">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&listID=000001128458|title=作物統計調査>作況調査(野菜) >確報>平成25年産野菜生産出荷統計|work=e-Stat|publisher=[[総務省]][[統計局]]|accessdate=2015-09-05}}</ref>
{| class="wikitable sortable" style="text-align:right; font-size:95%"
|-
!収穫量順位!!都道府県!!収穫量 (t) !!作付面積 (ha)
|-
|1||茨城県||38,900||1,390
|-
|2||北海道||28,100||1,240
|-
|3||熊本県||24,800||1,050
|-
|4||山形県||12,500||603
|-
|5||青森県||10,900||585
|-
|6||静岡県||9,260||325
|-
|7||愛知県||8,690||410
|-
|8||千葉県||8,060||358
|-
|9||高知県||3,240||130
|-
|10||秋田県||3,130||198
|-
|―||全国計||168,700||7,560
|}
==== 輸入・輸出 ====
; 日本向けの主な輸出国
:* アメリカ・メキシコ - ハネデューメロン
:
; 日本産の主な輸入国
:* オマーン・中国-香港- マスクメロン(アールスメロン)
== 利用 ==
果実の食べ方は様々であるが、一般的には冷たくして食べられている。果物および野菜として生食されることが多いが、アカゲウリなどは煮物にすることもある。加工品用・飼料用での利用もある。マスクメロンは日本では贈答品として用いられることも多いが、国によっては庶民的な果物である。特有の甘い風味と香りから飲料や菓子のフレーバーにも多用される。また、上記のとおりメロン果肉・果汁には緑(青肉系)以外にも白や赤肉品種も多く出回っているが、加工食品でのメロンを示すアイコンは基本的に緑である。
熟したメロンを見分ける目安は、形や大きさ、手触り、色、香り(香りがある種類の場合)で判断する{{Sfn|ラブグレン|2017|p=151}}。手に持ったときに大きさの割に重さを感じ、熟したときの色になっていること、果実のお尻の部分を軽く押したときにへこむようであれば熟していると判断できる{{Sfn|ラブグレン|2017|p=151}}。マスクメロンの場合は、市場で売られているものは収穫の際に成りづる(果梗:かこう)から切り取られたものもあるが、自然に熟すと成りづるから果実が外れることが知られている{{Sfn|ラブグレン|2017|p=151}}。
=== 加工品 ===
'''食品'''
* メロン味([[シャーベット]]・[[アイスクリーム]]・[[ソフトクリーム]])
* [[メロンゼリー]]
* [[生ハムメロン]] - メロンと[[プロシュット]]を組み合わせた、[[イタリア料理]]の代表的な前菜の1つ。[[スペイン料理]]では[[ハモン・セラーノ]]と合わせる。
* ドライメロン - メロンの菓子。砂糖で漬け、乾燥させたもの。
* [[メロン漬け]] - [[漬物]]。未熟で甘みがない果実を皮ごと塩漬けしたもの。マクワウリやシロウリも漬物にされる。
* [[メロンパン]] - メロンのような形状の菓子パン。メロンが使用されていない場合が多いが、実際にメロン果汁やメロンの果肉、メロンクリームを使用した商品も存在する。
'''飲料'''
* [[メロン・リキュール]] - メロンを原材料とした[[リキュール]]。日本産で世界初のメロン・リキュールであるMidoriが有名。
* メロンシロップ - [[かき氷]]用の緑色に着色された[[シロップ|シュガーシロップ]]。メロンは使用されていない場合が多い。
* [[メロンソーダ]] - 緑色に着色された[[炭酸水]]。シロップ同様、メロンは使用されていない場合が多い。
* メロンミルク - メロンと[[牛乳]]を用いた[[乳飲料]]。苦味を抑えるためメロンは加熱したものを用いる。
== 成分・効能 ==
{{栄養価 | name=メロン 露地 緑肉種 生<ref name=mext7>[[文部科学省]] 「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =176| water=87.9 g| protein=1.0 g| fat=0.1 g| carbs=10.4 g| opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.2 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=0.3 g| fiber=0.5 g| sodium_mg=6| potassium_mg=350| calcium_mg=6| magnesium_mg=12| phosphorus_mg=13| iron_mg=0.2| zinc_mg=0.2| copper_mg=0.04| Manganese_mg=0.02| selenium_ug =1| betacarotene_ug=140| vitA_ug =12| vitE_mg =0.2| thiamin_mg=0.05| riboflavin_mg=0.02| niacin_mg=0.8| vitB6_mg=0.11| folate_ug=24| pantothenic_mg=0.16| opt3n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt3v=0.9 µg| vitC_mg=25| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。廃棄部位: 果皮及び種子| right=1 }}
メロンは世界の多くで、美味しくて滋養がある冷たい食べ物と認識されている{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。
メロン果実は、[[炭水化物]]が少なく、[[コレステロール]]は含まないうえ[[脂肪]]分もほとんどない{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。微量栄養素では、[[ビタミンC]]を豊富に含み、果肉が黄色・オレンジ色・緑色のメロンは[[カロテン]]([[ビタミンA]])も豊富である{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。メロンの全品種で、[[葉酸]]や[[ナイアシン]]などの[[ビタミンB群]]と[[カリウム]]を多く含む{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。[[ナトリウム]]はごく僅かであるが、微量ミネラル{{efn|[[必須ミネラル]]の中で、体内に極めて微量しかないもの{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。}}が豊富である{{sfn|ラブグレン|2017|p=119}}。糖類の主成分は、[[ショ糖]]、[[ブドウ糖]]、[[果糖]]などである。果肉には、[[食物繊維]]の[[ペクチン]]が多い。
また、[[スイカ]]と同様に水分が多いウリ科の植物であり、体内の余分な塩分([[ナトリウム]])を排泄させるカリウムが多く含まれ、腎臓病や高血圧の予防・体内温度を下げる成分も含まれており、夏バテによる食欲不振の予防も効果的である。また、解毒作用もあり、[[リューマチ]]や神経痛の痛みやしびれの予防にも効果的である。
[[ククミシン]]という[[タンパク質]]分解酵素を多く含むため、多量に食べると口腔内がピリピリと痛みを生じ、まれに出血する場合もある。収穫後、熟成するにつれ、分解酵素が増加する。熟成期を極度に過ぎたものには、甘さよりも苦味が生じる。
=== 伝統医学との関係 ===
古代ギリシアの医者[[ヒポクラテス]](紀元前460年 - 同377年)以降の西洋医学では、人間の身体の構成要素を4つの体液(気質)とする説が主流だったが、あらゆる食物は熱・冷・湿・寒の4つの区分に分けられ、これらを食べるときにバランス良くコントロールして健康促進と回復を行うとされていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=114}}。メロンは冷たく湿った食物とされ、熟成チーズや酢・塩・塩漬け肉など熱く乾いた食材でバランスをとることが必要とされた{{sfn|ラブグレン|2017|p=114}}。イタリア料理に「プロシュート・ディ・パルマ」というメロンを[[生ハム]]で包んだ[[前菜]]([[生ハムメロン]])があるが、この気質説を元に生まれた伝統料理は現在でも食べられている{{sfn|ラブグレン|2017|pp=114–115}}。
中世初期のヨーロッパでは「存在の大いなる連鎖」という概念も発達し、地上で育つメロンは連鎖の最下層に位置するもののひとつとされ、あまり安全ではない食べ物とみなされていた{{sfn|ラブグレン|2017|p=114}}。しかし、メロンの果実は地面に茂り、動物の[[糞]]を肥料とすることも多いことから、表面に凹凸があるメロン果皮に[[大腸菌]]などの汚染物質がつきやすく、十分に洗わないと体内に入ってきて重篤な病気を引き起こすことがある{{sfn|ラブグレン|2017|p=115}}。実際に北米では、2004年にメロンを介した大腸菌感染によって、多数の死者を出している{{sfn|ラブグレン|2017|p=115}}。
中世の[[ビュザンティオン|ビザンチウム]](現在の[[イスタンブール]])では、水分が多く冷たいメロンの性質が文書で述べられており、健康に役立てることに活用していた{{sfn|ラブグレン|2017|p=116}}。スイカを含むメロンの仲間は[[腎結石]]に効果があり、[[熱中症]]にかかりにくくするといった効能ももつと考えられたり、[[高血圧]]や[[痛風]]、[[黄斑変性]]、[[白内障]]にも推奨されてきた{{sfn|ラブグレン|2017|p=116}}。イギリス人料理研究家のエリザベス・デイヴィッドは、1970年の著書の中で、メロンが持つ身体を冷やす作用を中和するために、[[ショウガ]]粉末をメロンにかけて家族全員で食べていたという幼少期の経験談を書いている{{sfn|ラブグレン|2017|p=118}}。
== 文化 ==
=== メロンにまつわる民話 ===
メロンは、道徳的な話や、善悪や貧富の対象にもよく使われた{{sfn|ラブグレン|2017|p=126}}。ロシアには二人の兄弟のうち、ひとりは利己的で金持ち、もうひとりは親切で貧乏で、小鳥とメロンの種を通してそれぞれに破滅と富をもたらすという民話がある{{sfn|ラブグレン|2017|p=126}}。
[[ロシア]]南部のアストラハンの旅人が語る説話では、育つと仔羊の形になるというメロンの話があり、このメロンが下草を食べて、転がってはもっと餌になる草がないかと探したという。仔羊形のメロンにはびっしりと毛が生えて、刈り取って服を作ることができたり、さらには仔羊にとっては天敵であるオオカミを捕らえることもできたという{{sfn|ラブグレン|2017|p=127}}。
[[明]]代の中国では、老いた庭師の姿を借りた不死の仙人が、冷たくて深い雪の中から香しい匂いが漂う甘いメロンを掘り出して、人間の庭師仲間を驚かせたという[[道教]]の話がある{{sfn|ラブグレン|2017|p=127}}。中央アジアの[[ウイグル]]では、メロンがきっかけで農家の貧しい少女が裕福な王子と結婚したという民話がある。王から2枚の硬貨だけを渡されて王家の食べ物とニワトリとロバの餌を買ってくるように言いつけられた王子が街中で困り果て、そこで出会った少女がその硬貨で大きなメロンを買ってきて王子に渡し、その話を聞いた王が貧しい少女を迎えにやり王子と結婚させたのだという{{sfn|ラブグレン|2017|p=128}}。
[[インド]]には、王を笑わせた生意気な農民の話がある。お忍び旅行をしていた王が貧しい農民の男に、空腹でのども渇いておりメロンを求めたが、男は王に献上するためのメロンだから渡せないと断り、さらにもしも献上したメロンを受け取らないような王様ならば死んでしまえと言い放って毒づいた。後日、宮殿へ献上メロンを持って王の前に現れた男は、先日出会った相手が王であることにすぐ気づき、メロンを受け取らなかったらどうするかと問い詰めた王に対して[[頓智話|とんち]]で笑わせた。あっぱれに思った王は、男にメロンを献上した褒美をたくさん持たせた{{sfn|ラブグレン|2017|p=129}}。
[[イタリア]]では、[[トスカーナ州|トスカーナ地方]]の王妃が三つ子を産んだとき、小姑の姉妹が王に「三つ子はひとじゃなく、ネコとヘビとナナフシ」だと告げ口をした逸話が伝わる。王は妻を魔女として牢に入れ、子供を殺すように命じたが、家臣は子供を殺すことができず、自分で育てた。あるとき、その臣下の家においしそうなメロンができ、王に献上することになった。王がメロンを切ると種子が宝石だった。王が不思議がると、そばにいた侍女が「人間の女がネコとヘビとナナフシを産むよりたやすいことです。」と申し立て、王を説得。妻は釈放され、子供たちは迎え入れられ、小姑たちは公衆のさらし者にされた<ref>{{Cite book|和書 |title=366日誕生花の本 |date=1990-11-30 |publisher=日本ヴォーグ社 |page=287 |author=瀧井康勝}}</ref>。
=== 祭事 ===
メロンの祭事は世界中で開催されている。
* アメリカ合衆国[[ミシガン州]]・ハウエル - アメリカ独自のカンタロープメロンを祝う地元向けのチャリティーイベントを開催。ダンス大会の「メロン・ボール」、長距離走大会、カンタロープ・アイスクリームの販売などが行われる{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。
* [[フランス]]・[[カヴァイヨン]] - 地元産メロンが旬を迎える7月に、街はメロン一色となる{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。
* [[トルクメニスタン]] - 8月2日は「[[メロンの日]]」とされ、祭りの日であるとともに国民の祝日でもある{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。
* [[タジキスタン]] - 2012年のハニー・アンド・メロン・フェスティバルで、150トンにもおよぶメロンが用意された{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。
* [[カタール]] - 2014年4月に、大型スーパーマーケット「ルル・ハイパーマーケット」にて第1回メロンフェスティバルを開催{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。
=== 芸術 ===
メロンは絵画や彫刻、民芸品などの芸術分野においても、よく題材として使われている{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。17世紀初めのイタリア人画家[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]の絵画には、瑞々しいメロンが描かれている{{sfn|ラブグレン|2017|p=136}}。2006年に[[チェコ]]で始まった「ヨーロッパ・メロン・カービング・フェスティバル」([[英語|英]]: Melounovy European Melon Carving Festival) は、メロンやスイカに[[カービング]](芸術的な彫刻)を施す技術を競う大会で、世界中から果物・野菜彫刻のアーティストが集まる{{sfn|ラブグレン|2017|p=137}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =板木利隆|title = 決定版 野菜づくり大百科|date=2020-03-16|publisher = [[家の光協会]]|isbn=978-4-259-56650-0|pages =52 - 55|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|page =210|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=シルヴィア・ラブグレン|translator=龍和子|title=メロンとスイカの歴史|series=「食」の図書館|publisher=[[原書房]]|date=2017-06-24|isbn=978-4-562-05406-0|ref={{SfnRef|ラブグレン|2017}} }}
* {{Cite book|和書|author =竹下大学|title = 野菜と果物すごい品種図鑑:知られざるルーツを味わう|date=2022-07-12|publisher = [[エクスナレッジ]]|isbn=978-4-7678-3026-1|pages =166 - 169|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|果物|[[画像:Illustration des fruits en pays Bassa.jpg|50px|Portal:果物]]}}
{{Commonscat|Cucumis melo|メロン}}
{{Wikispecies|Cucumis melo|メロン}}
* [[ウリ]]
* [[マスクメロン]]
* [[メロンの日]] - [[トルクメニスタン]]の祝日。当地がメロン発祥の地とされている事に由来。
* [[ペピーノ|ペピーノメロン]]
* [[スイカ|ウォターメロン]]
== 外部リンク ==
* [https://www.alic.go.jp/consumer/photogallery_melon1.html メロンの画像一覧] [[農畜産業振興機構]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めろん}}
[[Category:メロン|*]] | 2003-03-02T21:55:15Z | 2023-11-17T09:28:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B3 |
3,270 | 未確認物体 | 未確認物体(みかくにんぶったい)とは、それを見たという者はいるものの一般的にそれが存在するかどうかの合意形成ができていない又はその存在が確認されていない物体。
未確認物体は、前述されているとおり、確認がなされていない。したがって、その人の幻想であったり、実際に撮影されていても、カメラの不具合の時の起こったものであったりする。 UFOに至っては、カメラの綴りがおかしくなったりすると、UFOのような光が写ってしまう。また、最近はコンピューターグラフィックス、通称CGによって家に隕石を落とす動画をあげられもする。そのため、UFOなどを作ることは容易であるといえる。
未確認物体では、前述したとおりのことが考えられるため、疑う者もいる。また、限られた地点でみられるということは、そこに来た者が現れると信じて幻想し、本当に現れたと考えることも可能である。確認では、第三者の確認が必要である。 | [
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] | 未確認物体(みかくにんぶったい)とは、それを見たという者はいるものの一般的にそれが存在するかどうかの合意形成ができていない又はその存在が確認されていない物体。 | '''未確認物体'''(みかくにんぶったい)とは、それを見たという者はいるものの一般的にそれが存在するかどうかの合意形成ができていない又はその存在が確認されていない物体。
== 未確認物体の種類 ==
*[[未確認飛行物体]] (UFO)
*[[未確認潜水物体]] (USO)
*[[未確認動物]] (UMA)
== 未確認物体の発見について ==
未確認物体は、前述されているとおり、確認がなされていない。したがって、その人の[[幻想]]であったり、実際に撮影されていても、カメラの不具合の時の起こったものであったりする。
UFOに至っては、カメラの綴りがおかしくなったりすると、UFOのような光が写ってしまう。また、最近は[[コンピューターグラフィックス]]、通称CGによって家に隕石を落とす動画をあげられもする。そのため、UFOなどを作ることは容易であるといえる。
== 未確認物体についての賛否 ==
未確認物体では、前述したとおりのことが考えられるため、疑う者もいる。また、限られた地点でみられるということは、そこに来た者が現れると信じて幻想し、本当に現れたと考えることも可能である。確認では、第三者の確認が必要である。
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[[Category:超常現象]] | null | 2018-03-11T00:08:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E7%89%A9%E4%BD%93 |
3,272 | SCMS | SCMS(Serial Copy Management System、シリアルコピーマネジメントシステム)は、民生用のDATやMini Disc、DCC、CDレコーダーなどのデジタル録音機器に付加されているコピー防止技術。
SCMS対応機器間では、デジタル接続によるコピーは1世代のみ可能。2世代目からは、録音側機器がデジタル信号に含まれるコピー情報を検出して、録音を行わないようにする。ただしアナログ接続によるコピーは無制限で行える。なお、音楽コンテンツの制作やそのメディアのバックアップを主な用途としている業務用のデジタル録音再生機器では、SCMSの制限を解除できるものもある。 また、コピーコントロールCDの一部(主にEU製のもの)には、1世代目のコピーも許可しないものがある。
au(KDDI・沖縄セルラー電話連合)向けのW44T、TiMO W44T II、LEXUS W44T III、W52T、W54T、W56T、W54SA、W54S、W63CAや、NTTドコモ向けのP902iSなどのBluetooth対応携帯電話で、付属のワイヤレスレシーバなどに音楽を転送する際に利用されている。 前述のau向け各機種や、ソフトバンクモバイル向けの910T、911T、912SH、ドコモのP903iTV、P905i、P905iTV(ワンセグの音声を転送する際)の場合は、派生規格のSCMS-Tという仕組みが使われている。
一部のAndroid搭載スマートフォン用を含むauのLISMO PlayerでBluetoothレシーバー、およびBluetoothヘッドフォンを使用するにはSCMS-T規格に対応したレシーバー、およびヘッドフォンを購入しなければならない。ただ、これらの情報は取扱説明書に小さく記述されているだけなので、知らない利用者も決して少なくない。
各トラックの最後に、コピービットという2桁の管理情報が記録されているだけである。ID6コードとも呼ばれる。
ソニーのDATデッキのDTC-55ES、DTC-77ESなど、SCMS搭載以降の一部機種においては、隠しコマンドでID6コードを表示させて、現在走行しているテープがコピー可能な物なのかどうか調べられるようになっている。
コピービットについて
00=無制限コピー可能
01=未定義(基本的に「一回だけ録音可」で処理)
10=コピー不可能
11=一回だけコピー可能 SCMSを制定する以前は、ここも未定義とされていた。
このコピービットを書き換えてコピー永久可能にするような装置を売り買いすると、1999年以降は著作権法・不正競争防止法改正により、違法になる。ただし、自分たちで作詞、作曲、演奏などを手がけた音楽作品など、SCMSを解除する者がそのコンテンツの著作権を有している場合は、この限りではない。業務用のデジタル録音再生機器にSCMSの制限を解除できる機能が搭載されているのは、このためである。
かつては、秋月電子や共立電子などの電子工作専門店からSCMS解除装置作成キットが売られていた時期があり、音楽制作などで安価な民生用のデジタルオーディオ機器を活用する個人やアマチュアの音楽グループなどがコンテンツのバックアップを主な目的としてSCMS解除装置作成キットなどを購入する事があったが、1999年の不正競争防止法の改正に伴い、SCMS解除装置作成キットの日本国内での販売が禁止されたため、趣味などで音楽制作を行なう個人やアマチュアの音楽グループなどは、コンテンツのバックアップには、民生用に比べ高額な業務用デジタル録音再生機器を導入せざるを得なくなった。なお、秋月電子や共立電子から回路図を入手したとしても、部品が入手困難である上に、プログラムが開示されていないため、再現は不可能に近い。
MDでコピービットが異なるトラックを結合した場合、自動的にコピービットがコピー制限の大きいのものに合わせられる。たとえば、「一回だけコピー可能(11)」のトラックと「コピー不可能(10)」のトラックを結合すると、結合後のトラックは「コピー不可能(10)」のトラックとして処理される。尚、コピービットが異なるトラックを結合できない機種も存在する。
また、SCMS搭載DATデッキでアナログ録音したDATテープも、ID6コードは「11」なので、1回限りしかデジタルコピーが出来ないが、このようなテープをSCMS導入前(ID6=「11]が未定義とされていた)の懇談会仕様のソニー製DATデッキで再生すると、ID6コードは「00」として扱われて、デジタル出力される。録音側のデッキでデジタル録音しても、コピーした側のテープもID6=「00」なので、それ以降のデジタルコピーが無制限に行えるようになった。しかし、再生側がSCMS導入後の製品で、録音側が懇談会仕様のDATデッキの組み合わせだと、懇談会仕様のDATデッキのデジタル入力については、ID6=「00」以外のデジタル録音は認められないため、デジタル録音は出来ない。たとえID6=「11」(1回のみ録音可能)であっても録音できない。必ず送り出しを懇談会仕様のDATデッキで行う必要があった。 | [
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] | SCMSは、民生用のDATやMini Disc、DCC、CDレコーダーなどのデジタル録音機器に付加されているコピー防止技術。 | '''SCMS'''(Serial Copy Management System、シリアルコピーマネジメントシステム)は、民生用の[[DAT]]や[[ミニディスク|Mini Disc]]、[[デジタルコンパクトカセット|DCC]]、[[CDレコーダー]]などの[[デジタル]][[録音再生機器|録音機器]]に付加されている[[コピーガード#音楽メディアなどに使用されているもの|コピー防止技術]]。
== 概要 ==
SCMS対応機器間では、デジタル接続による[[コピー]]は1世代のみ可能。2世代目からは、録音側機器が[[デジタル信号]]に含まれるコピー情報を検出して、録音を行わないようにする。ただしアナログ接続によるコピーは無制限で行える。なお、音楽[[コンテンツ]]の制作やその[[電子媒体|メディア]]の[[バックアップ]]を主な用途としている[[業務用]]のデジタル録音再生機器では、SCMSの制限を解除できるものもある。
また、[[コピーコントロールCD]]の一部(主に[[欧州連合|EU]]製のもの)には、1世代目のコピーも許可しないものがある。
==SCMS-T(派生規格)==
[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]][[連合]])向けの[[W44T|W44T、TiMO W44T II、LEXUS W44T III]]、[[W52T]]、[[W54T]]、[[W56T]]、[[W54SA]]、[[W54S]]、[[W63CA]]や、[[NTTドコモ]]向けの[[P902iS]]などの[[Bluetooth]]対応[[携帯電話]]で、付属のワイヤレスレシーバなどに音楽を転送する際に利用されている。
前述のau向け各機種や、[[ソフトバンクモバイル]]向けの[[SoftBank 910T|910T]]、[[SoftBank 911T|911T]]、[[SoftBank 912SH|912SH]]、ドコモの[[P903iTV]]、[[P905i]]、[[P905iTV]]([[ワンセグ]]の音声を転送する際)の場合は、派生規格の'''SCMS-T'''という仕組みが使われている。
一部の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載[[スマートフォン]]用を含むauのLISMO PlayerでBluetoothレシーバー、およびBluetoothヘッドフォンを使用するにはSCMS-T規格に対応したレシーバー、およびヘッドフォンを購入しなければならない。ただ、これらの情報は取扱説明書に小さく記述されているだけなので、知らない利用者も決して少なくない。
== 仕組 ==
各トラックの最後に、[[コピービット]]という2桁の管理情報が記録されているだけである。ID6コードとも呼ばれる。
ソニーのDATデッキのDTC-55ES、DTC-77ESなど、SCMS搭載以降の一部機種においては、隠しコマンドでID6コードを表示させて、現在走行しているテープがコピー可能な物なのかどうか調べられるようになっている。
コピービットについて
00=無制限コピー可能
01=未定義(基本的に「一回だけ録音可」で処理)
10=コピー不可能
11=一回だけコピー可能 SCMSを制定する以前は、ここも未定義とされていた。
このコピービットを書き換えてコピー永久可能にするような装置を売り買いすると、[[1999年]]以降は[[著作権法]]・[[不正競争防止法]]改正により、違法になる。ただし、自分たちで作詞、作曲、演奏などを手がけた音楽作品など、SCMSを解除する者がそのコンテンツの[[著作権]]を有している場合は、この限りではない。業務用のデジタル録音再生機器にSCMSの制限を解除できる機能が搭載されているのは、このためである。
かつては、[[秋月電子通商|秋月電子]]や[[共立電子]]などの[[電子工作]]専門店からSCMS解除装置作成キットが売られていた時期があり、音楽制作などで安価な民生用のデジタルオーディオ機器を活用する個人やアマチュアの音楽グループなどがコンテンツのバックアップを主な目的としてSCMS解除装置作成キットなどを購入する事があったが、1999年の[[不正競争防止法]]の改正に伴い、SCMS解除装置作成キットの[[日本]]国内での[[販売]]が禁止されたため、[[趣味]]などで音楽制作を行なう個人やアマチュアの音楽グループなどは、コンテンツのバックアップには、民生用に比べ高額な業務用デジタル録音再生機器を導入せざるを得なくなった。なお、秋月電子や共立電子から回路図を入手したとしても、部品が入手困難である上に、プログラムが開示されていないため、再現は不可能に近い。
MDでコピービットが異なるトラックを結合した場合、自動的にコピービットがコピー制限の大きいのものに合わせられる。たとえば、「一回だけコピー可能(11)」のトラックと「コピー不可能(10)」のトラックを結合すると、結合後のトラックは「コピー不可能(10)」のトラックとして処理される。尚、コピービットが異なるトラックを結合できない機種も存在する。
また、SCMS搭載DATデッキでアナログ録音したDATテープも、ID6コードは「11」なので、1回限りしかデジタルコピーが出来ないが、このようなテープをSCMS導入前(ID6=「11]が未定義とされていた)の懇談会仕様のソニー製DATデッキで再生すると、ID6コードは「00」として扱われて、デジタル出力される。録音側のデッキでデジタル録音しても、コピーした側のテープもID6=「00」なので、それ以降のデジタルコピーが無制限に行えるようになった。しかし、再生側がSCMS導入後の製品で、録音側が懇談会仕様のDATデッキの組み合わせだと、懇談会仕様のDATデッキのデジタル入力については、ID6=「00」以外のデジタル録音は認められないため、デジタル録音は出来ない。たとえID6=「11」(1回のみ録音可能)であっても録音できない。必ず送り出しを懇談会仕様のDATデッキで行う必要があった。
== 関連項目 ==
*[[コピーガード]]
{{Tech-stub|しりあるこひいまねしめんとしすてむ}}
[[Category:著作権管理技術|しりあるこひいまねしめんとしすてむ]] | 2003-03-03T02:51:59Z | 2023-11-27T04:54:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SCMS |
3,273 | Bot | Bot(ボット)は、robot(ロボット)の短縮形・略称。転じて、コンピュータやインターネットの分野においては、作業を自動化するプログラムの総称。 | [
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] | Bot(ボット)は、robot(ロボット)の短縮形・略称。転じて、コンピュータやインターネットの分野においては、作業を自動化するプログラムの総称。 クローラ、インターネットボット - WWWにおいては、ウェブサーバとのやりとりを自動的に行うプログラム。
ボットネット - コンピュータウイルスなどにより自動化されたコンピューターのネットワークで、スパムなどに利用される。
ボット (ゲーム) - オンラインゲームなどで使われるAIのプレイヤー。 | {{WikipediaPage|Bot(クローラ)|Wikipedia:Bot}}
'''Bot'''(ボット)は、{{en|robot}}([[ロボット]])の短縮形・略称。転じて、[[コンピュータ]]や[[インターネット]]の分野においては、作業を自動化するプログラムの総称。
* [[クローラ]]、[[インターネットボット]] - [[World Wide Web|WWW]]においては、[[Webサーバ|ウェブサーバ]]とのやりとりを自動的に行う[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]。
* [[ボットネット]] - [[コンピュータウイルス]]などにより自動化されたコンピューターのネットワークで、[[スパム (メール)|スパム]]などに利用される。
* [[ボット (ゲーム)]] - [[オンラインゲーム]]などで使われる[[人工知能|AI]]のプレイヤー。
==関連項目==
* [[BOT]]
* [[ボット]]
{{aimai}} | null | 2019-01-10T10:40:44Z | true | false | false | [
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3,274 | 未確認動物 | 未確認動物(みかくにんどうぶつ)または未確認生物(みかくにんせいぶつ)とは、目撃例や伝聞による情報はあるが、実在が確認されていない生物のことである。日本ではUMA (ユーマ, Unidentified Mysterious Animal)とも呼ばれるが、これは日本人による造語。英語ではCryptid (クリプティッド)と呼ばれ、これを研究する学問はCryptozoology(隠棲動物学)と呼ばれる。オカルトに分類されることもある。
UMAという呼称は、英語で「謎の未確認動物」を意味する Unidentified Mysterious Animal (和製英語)の頭文字をとったものである。實吉達郎に依頼された1976年当時の『SFマガジン』編集長の森優(後の超常現象研究家の南山宏)が、UFO(Unidentified Flying Object)を参考に考案したものであり、初出は、實吉達郎の『UMA―謎の未確認動物』(1976年、スポーツニッポン新聞社出版局)であるという。ただし、森優本人はこれを和製英語だとして用いなかった。 | [
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] | 未確認動物(みかくにんどうぶつ)または未確認生物(みかくにんせいぶつ)とは、目撃例や伝聞による情報はあるが、実在が確認されていない生物のことである。日本ではUMA とも呼ばれるが、これは日本人による造語。英語ではCryptid (クリプティッド)と呼ばれ、これを研究する学問はCryptozoology(隠棲動物学)と呼ばれる。オカルトに分類されることもある。 | '''未確認動物'''(みかくにんどうぶつ)または'''未確認生物'''(みかくにんせいぶつ)とは、目撃例や伝聞による[[情報]]はあるが、実在が確認されていない[[生物]]のことである。[[日本]]では'''UMA''' (ユーマ, Unidentified Mysterious Animal)とも呼ばれるが、これは[[日本人]]による[[造語]]。[[英語]]では{{Lang|en|''Cryptid''}} (クリプティッド)と呼ばれ、これを研究する[[学問]]は{{Lang|en|''Cryptozoology''}}(隠棲動物学<ref>{{Cite journal|和書|author=中根研一 |title=中国「怪獣文化」の研究 : 現代メディアの中で増殖する異形の動物たち |journal=学園論集 |issn=03857271 |publisher=北海学園大学学術研究会 |year=2009 |month=sep |issue=141 |pages=91(p.91-121) |naid=110007480367 |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/1189 |ref={{Harvid|中根|2009}} }}</ref>)と呼ばれる。[[オカルト]]に分類されることもある。
== 呼称 ==
'''UMA'''という呼称は、英語で「謎の未確認動物」を意味する {{Lang|en|''Unidentified Mysterious Animal''}} ([[和製英語]])の頭文字をとったものである。[[實吉達郎]]に依頼された[[1976年]]当時の『[[SFマガジン]]』編集長の森優(後の[[超常現象]]研究家の[[南山宏]])が、[[UFO]]({{Lang|en|''Unidentified Flying Object''}})を参考に考案したものであり、初出は、實吉達郎の『UMA―謎の未確認動物』(1976年、スポーツニッポン新聞社出版局)であるという。ただし、森優本人はこれを[[和製英語]]だとして用いなかった<ref>{{harvp|實吉|2004}}、まえがき; {{harvp|南山|1993}}。{{harvp|中根|2009|p=112}}, 注2参照。</ref>。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2023年4月|section=1}}
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* {{Cite book|和書|author=ASIOS|authorlink=ASIOS|date=2018-07-18|title=UMA事件クロニクル|publisher=彩図社|isbn=978-4-8013-0311-9|ref={{Harvid|ASIOS|2018}} }}
* {{Cite book|和書|author=實吉達郎|authorlink=實吉達郎|title=世界の怪動物99の謎 不思議ビックリ |date=1992-03 |series=二見WAi WAi文庫 |publisher=[[二見書房]] |isbn=4-5769-2035-9 |ref={{Harvid|實吉|1992}} }}
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**{{Cite book|和書|author=山口敏太郎 監修|date=2007-12|title=本当にいる日本の「未知生物」案内 47都道府県出没MAP付きガイド|publisher=笠倉出版社|isbn=978-4-7730-0399-4|ref={{Harvid|山口|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author1=山口敏太郎|author2=天野ミチヒロ|date=2007-06|title=決定版!本当にいる日本・世界の「未知生物」案内|publisher=笠倉出版社|isbn=978-4-7730-0364-2|ref={{Harvid|山口|天野|2007}} }}
* {{Cite book|和書|last=ユーヴェルマンス|first=ベルナール|translator=今井幸彦|date=1981-03|title=未知の動物を求めて|publisher=講談社|ref={{Harvid|ユーヴェルマンス|1981}} }}
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* {{Citation|last=Coleman|first=Loren|date=2007-04-24|title=Mysterious America: The Ultimate Guide to the Nation's Weirdest Wonders, Strangest Spots, and Creepiest Creatures|publisher=Paraview Pocket Books|location=NY|isbn=978-1-4165-2736-7}}
* {{Citation|last=Newton|first=Michael|date=2005-01-06|title=Encyclopedia of Cryptozoology: A Global Guide to Hidden Animals and Their Pursuers|publisher=McFarland & Company|location=Jefferson, North Carolina, and London|isbn=978-0-7864-2036-0}}
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== 関連項目 ==
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* [[怪物]]
* [[検証と反証の非対称性]]
* [[超常現象]]
* [[オカルト]]
* [[都市伝説]]
* [[未確認生物一覧]]
* [[未確認動物学]]
* [[ミュータント]]
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Cryptozoology}}
* [http://dmoz.org/World/Japanese/%e7%a7%91%e5%ad%a6/%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%82%bf%e3%83%8a%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%96%e7%a7%91%e5%ad%a6/%e6%9c%aa%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e7%94%9f%e7%89%a9/ オープンディレクトリ: 科学: オルタナティブ科学: 未確認生物]
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[[Category:オカルト]]
[[Category:超常現象]]
[[Category:未確認動物|*]] | 2003-03-03T03:28:08Z | 2023-11-07T13:13:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E5%8B%95%E7%89%A9 |
3,277 | 真言宗 | 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。
空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。
天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する。 教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。
平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、東寺に対して「真言宗の定額僧五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。また、淳和天皇に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上した。
空海は入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。
教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。後に、東寺長者が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。
観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、教王護国寺東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立。金剛峯寺は本末争いに負け、一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。
高野山は落雷により伽藍・諸堂を焼失したり、国司による押妨などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。
その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、高野山は財政においても安定していった。
宗団は、師資相承を重視するため、事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いにより分派していった。ただし、教学(教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。
11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。
徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院を京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。
南北朝時代に東寺の僧、杲宝・賢宝(げんぼう)らが東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。
江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じ、1604年(慶長14年)に関東真言宗古義法度が出された。
1615年(元和元年)7月24日には、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出し、幕府の監視下に置かれることになった。同時に、幕府の宗教政策である寺壇制度が確立した。宗門改などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。
寺壇制度は諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみも起きた。このことから、浄厳・慈雲らが戒律に関心をよせ、戒律の研鑽・研究による復興を行った。
明治維新以降、神仏分離が推進され、宮中での勅修法会が廃止となって、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い廃仏棄釈も起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧も現れた。政府は寺院の所有している土地の返納を要求して、強制的に返納または没収措置を取った。勅願所・門跡の称号も禁止され、財政基盤も失って多くの寺院関係が廃寺に追い込まれた。廃仏毀釈の機運に仏教各派も危機感を募らせ、各派が団結して仏教を宣揚して、邪論を廃すべく各宗同盟会を結成した。1869年(明治2年)東京の大徳院にて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。神葬祭が盛んであったため無住寺院が増え、そのことでも廃寺は続き、深刻な事態になっていった。
1872年(明治5年)、古義真言宗を統括すべく管長職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。1873年(明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。
政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗からは教王護国寺東寺と金剛峯寺が、新義真言宗からは智積院と長谷寺が各々交替で真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。
しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置く。また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置き、古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して独自の管長を置いた。こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、教王護国寺東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。
1896年(明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。
1899年(明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や事相(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の二派による対立があり、紛糾した。
1895年(明治28年)6月、真言律宗(西大寺)に対して独立が認可される。
1900年(明治33年)9月、真言宗高野派(金剛峯寺)・真言宗御室派(仁和寺)・真言宗大覚寺派(大覚寺)・真言宗醍醐派(醍醐寺)・新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)・律宗に対して独立が認可された。 さらに、1907年(明治40年)、真言宗東寺派(東寺)・真言宗山階派(勧修寺)・真言宗泉涌寺派(泉涌寺)・真言宗小野派(随心院)が独立し、真言宗は解体された。
真言宗各派の独立により、東寺を真言宗の総本山とする制度が終焉する。
古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。
1925年(大正14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。
1926年(大正15年)、真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。古義真言宗はほかの古義真言宗系宗派との間に真言宗各派協約を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。
日中戦争下の1941年(昭和16年)3月、政府の宗教政策により古義真言宗・新義真言宗系の宗派が合同し、大真言宗が成立する。政府の主導によりこれまでの歴史的経緯や教義の違いを無視して無理やり合同させた。戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において度々行われた。
戦後、大真言宗から独立していく古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。新しい宗教法人制度が制定され、その動きは加速した。古義・新義の諸宗派から更に別れ、修験道・儒教・道教等と組み合わさって独自の教義を唱え、真言宗系新宗教と分類される宗教団体が幾つか成立した。真言宗醍醐派に属していた伊藤真乗は真如苑を開いた。これらの団体は、他の仏教系新宗教と異なり、真言宗との関係はおおむね良好である。
宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤く、10世紀には高野山で空海の入定信仰が起こり、弘法大師信仰(大師信仰)を説いている。
弘法大師信仰の高まりのなかで、稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などで信仰の対象になった。
宗祖・空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。
弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。
835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。
密教がインドで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承があり、真言八祖(しんごんはっそ)という。
付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『真言付法伝』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。
真言宗のほとんどの寺院は、本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)が祀っているのが特徴の一つである。
真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。
真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、仏尊である大日如来、金剛薩埵を除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。
手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。
真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。
中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。
教理として、4つ。六大(六大縁起)の教え、曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。
教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、根本所依とされる。
真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と教相(きょうそう)が重要視される。
事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂・護摩・観法・印契・真言などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。
教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。
事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、慈雲は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。
9世紀半ば(平安時代前期、律令制度から王朝国家に至る転換期)から、事相の研究が盛んとなった。益信に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。
平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。
野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。また、中院流を小野流に入れない。いずれの法流も、高野山に移ったためである。これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。
特徴は、儀軌を重んじる。寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。
小野流は、真言宗善通寺派大本山随心院(旧称・曼荼羅寺)がある京都市山科区小野が語源となっている。聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。口伝口訣を重じるのが特徴である。
広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。単に随心院流のみを指す場合もある。
真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。
昭和14年(1939年)の宗教団体法成立により、真言律宗以外の宗派は真言宗として統合された。しかし、戦後は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。そのうち主要な16派の18の総大本山が、昭和33年(1958年)6月15日に、真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。これらの寺院を真言宗十八本山という。
各山会の事業として、後七日御修法のほかに密教学芸賞及び密教教化賞の授与がある。受賞者は以下の通りである。
真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ定額僧により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行っている。真言宗最高の秘儀とされている。
後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅほう)と呼ばれている。真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。
正月1日から7日まで宮中で行われている、神事である宮中前七日節会に対する行事。834年(承和元年)に、仁明天皇の勅を奉じて、空海(弘法大師)が宮中真言院にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。
南北朝時代の戦乱期や地震などを含めて、数度、中断する時期があったが、後水尾天皇と醍醐寺座主義演の尽力により、1623年(元和9年)に170年ぶりに復活された。1871年(明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。
釈雲照らの嘆願により、1883年(明治16年)1月8日に復活した。そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。
1920年(大正9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。
1968年より、各山会の事業となった。
修法は、合計21ヶ座行われる。勧修寺流(金剛界法)と西院流(胎蔵界法)の両界を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。
前日の7日、修法に出仕する供僧が、東寺の集会所で習礼を行う。
初日(開白)の1月8日には、宮内庁より、天皇の御衣を納めた唐櫃を捧持した勅使を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂の瑜伽壇上に安置する。
11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場において焼香し、参拝をされる。同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。
修法で使用する念珠・五鈷杵・袈裟などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。以前は、東寺長者が大阿闍梨を務めていた。
結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。
これらの宗派はほとんどが戦後の分離独立であるが、寺院そのものは古くからあったものや新設されたものなど、さまざまである。 | [
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"text": "真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。",
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"text": "空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。",
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"text": "天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する。 教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。",
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"text": "平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、東寺に対して「真言宗の定額僧五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。また、淳和天皇に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上した。",
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"text": "空海は入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。",
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"text": "教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。後に、東寺長者が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。",
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"text": "観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、教王護国寺東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立。金剛峯寺は本末争いに負け、一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。",
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"text": "高野山は落雷により伽藍・諸堂を焼失したり、国司による押妨などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。",
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"text": "その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、高野山は財政においても安定していった。",
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"text": "宗団は、師資相承を重視するため、事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いにより分派していった。ただし、教学(教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。",
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"text": "11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。",
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"text": "1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。",
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"text": "徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院を京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。",
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"text": "南北朝時代に東寺の僧、杲宝・賢宝(げんぼう)らが東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。",
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"text": "江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じ、1604年(慶長14年)に関東真言宗古義法度が出された。",
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"text": "1615年(元和元年)7月24日には、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出し、幕府の監視下に置かれることになった。同時に、幕府の宗教政策である寺壇制度が確立した。宗門改などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。",
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"text": "寺壇制度は諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみも起きた。このことから、浄厳・慈雲らが戒律に関心をよせ、戒律の研鑽・研究による復興を行った。",
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"text": "明治維新以降、神仏分離が推進され、宮中での勅修法会が廃止となって、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い廃仏棄釈も起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧も現れた。政府は寺院の所有している土地の返納を要求して、強制的に返納または没収措置を取った。勅願所・門跡の称号も禁止され、財政基盤も失って多くの寺院関係が廃寺に追い込まれた。廃仏毀釈の機運に仏教各派も危機感を募らせ、各派が団結して仏教を宣揚して、邪論を廃すべく各宗同盟会を結成した。1869年(明治2年)東京の大徳院にて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。神葬祭が盛んであったため無住寺院が増え、そのことでも廃寺は続き、深刻な事態になっていった。",
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"text": "1872年(明治5年)、古義真言宗を統括すべく管長職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。1873年(明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。",
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"text": "政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗からは教王護国寺東寺と金剛峯寺が、新義真言宗からは智積院と長谷寺が各々交替で真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。",
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"text": "しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置く。また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置き、古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して独自の管長を置いた。こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、教王護国寺東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。",
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"text": "1896年(明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。",
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"text": "1899年(明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や事相(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の二派による対立があり、紛糾した。",
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"text": "1895年(明治28年)6月、真言律宗(西大寺)に対して独立が認可される。",
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"text": "1900年(明治33年)9月、真言宗高野派(金剛峯寺)・真言宗御室派(仁和寺)・真言宗大覚寺派(大覚寺)・真言宗醍醐派(醍醐寺)・新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)・律宗に対して独立が認可された。 さらに、1907年(明治40年)、真言宗東寺派(東寺)・真言宗山階派(勧修寺)・真言宗泉涌寺派(泉涌寺)・真言宗小野派(随心院)が独立し、真言宗は解体された。",
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"text": "真言宗各派の独立により、東寺を真言宗の総本山とする制度が終焉する。",
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"text": "古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。",
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"text": "1925年(大正14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。",
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"text": "1926年(大正15年)、真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。古義真言宗はほかの古義真言宗系宗派との間に真言宗各派協約を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。",
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"text": "日中戦争下の1941年(昭和16年)3月、政府の宗教政策により古義真言宗・新義真言宗系の宗派が合同し、大真言宗が成立する。政府の主導によりこれまでの歴史的経緯や教義の違いを無視して無理やり合同させた。戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において度々行われた。",
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"text": "戦後、大真言宗から独立していく古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。新しい宗教法人制度が制定され、その動きは加速した。古義・新義の諸宗派から更に別れ、修験道・儒教・道教等と組み合わさって独自の教義を唱え、真言宗系新宗教と分類される宗教団体が幾つか成立した。真言宗醍醐派に属していた伊藤真乗は真如苑を開いた。これらの団体は、他の仏教系新宗教と異なり、真言宗との関係はおおむね良好である。",
"title": "歴史"
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"text": "宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤く、10世紀には高野山で空海の入定信仰が起こり、弘法大師信仰(大師信仰)を説いている。",
"title": "大師信仰"
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"text": "弘法大師信仰の高まりのなかで、稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などで信仰の対象になった。",
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"text": "宗祖・空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。",
"title": "大師信仰"
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"text": "弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。",
"title": "大師信仰"
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"text": "835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。",
"title": "大師信仰"
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"text": "密教がインドで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承があり、真言八祖(しんごんはっそ)という。",
"title": "真言八祖"
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{
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"text": "付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『真言付法伝』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。",
"title": "真言八祖"
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"text": "真言宗のほとんどの寺院は、本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)が祀っているのが特徴の一つである。",
"title": "真言八祖"
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"text": "真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。",
"title": "真言八祖"
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"text": "真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、仏尊である大日如来、金剛薩埵を除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。",
"title": "真言八祖"
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{
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"text": "手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。",
"title": "真言八祖"
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"text": "真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。",
"title": "教義"
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"text": "中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。",
"title": "教義"
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{
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"text": "教理として、4つ。六大(六大縁起)の教え、曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。",
"title": "教義"
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"text": "教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、根本所依とされる。",
"title": "教義"
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"text": "真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と教相(きょうそう)が重要視される。",
"title": "事相と教相"
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"text": "事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂・護摩・観法・印契・真言などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。",
"title": "事相と教相"
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{
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"text": "教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。",
"title": "事相と教相"
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"text": "事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、慈雲は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。",
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"text": "9世紀半ば(平安時代前期、律令制度から王朝国家に至る転換期)から、事相の研究が盛んとなった。益信に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。",
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"text": "平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。",
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"text": "野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。また、中院流を小野流に入れない。いずれの法流も、高野山に移ったためである。これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。",
"title": "事相と教相"
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{
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"text": "特徴は、儀軌を重んじる。寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。",
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{
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"text": "広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。",
"title": "事相と教相"
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{
"paragraph_id": 55,
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"text": "小野流は、真言宗善通寺派大本山随心院(旧称・曼荼羅寺)がある京都市山科区小野が語源となっている。聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。口伝口訣を重じるのが特徴である。",
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{
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"text": "広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。単に随心院流のみを指す場合もある。",
"title": "事相と教相"
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{
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"text": "真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。",
"title": "古義派・新義派"
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"text": "大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。",
"title": "古義派・新義派"
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"text": "覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。",
"title": "古義派・新義派"
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{
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"text": "昭和14年(1939年)の宗教団体法成立により、真言律宗以外の宗派は真言宗として統合された。しかし、戦後は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。そのうち主要な16派の18の総大本山が、昭和33年(1958年)6月15日に、真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。これらの寺院を真言宗十八本山という。",
"title": "真言宗各派総大本山会(各山会)"
},
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "各山会の事業として、後七日御修法のほかに密教学芸賞及び密教教化賞の授与がある。受賞者は以下の通りである。",
"title": "真言宗各派総大本山会(各山会)"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ定額僧により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行っている。真言宗最高の秘儀とされている。",
"title": "後七日御修法"
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"text": "後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅほう)と呼ばれている。真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。",
"title": "後七日御修法"
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"text": "正月1日から7日まで宮中で行われている、神事である宮中前七日節会に対する行事。834年(承和元年)に、仁明天皇の勅を奉じて、空海(弘法大師)が宮中真言院にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。",
"title": "後七日御修法"
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"text": "南北朝時代の戦乱期や地震などを含めて、数度、中断する時期があったが、後水尾天皇と醍醐寺座主義演の尽力により、1623年(元和9年)に170年ぶりに復活された。1871年(明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。",
"title": "後七日御修法"
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"text": "釈雲照らの嘆願により、1883年(明治16年)1月8日に復活した。そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "1920年(大正9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "1968年より、各山会の事業となった。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "修法は、合計21ヶ座行われる。勧修寺流(金剛界法)と西院流(胎蔵界法)の両界を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "前日の7日、修法に出仕する供僧が、東寺の集会所で習礼を行う。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "初日(開白)の1月8日には、宮内庁より、天皇の御衣を納めた唐櫃を捧持した勅使を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂の瑜伽壇上に安置する。",
"title": "後七日御修法"
},
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"text": "11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場において焼香し、参拝をされる。同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。",
"title": "後七日御修法"
},
{
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"text": "修法で使用する念珠・五鈷杵・袈裟などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。以前は、東寺長者が大阿闍梨を務めていた。",
"title": "後七日御修法"
},
{
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"text": "結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。",
"title": "後七日御修法"
},
{
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"text": "これらの宗派はほとんどが戦後の分離独立であるが、寺院そのものは古くからあったものや新設されたものなど、さまざまである。",
"title": "真言宗系諸派 総本山・大本山(各山会所属宗派以外)"
}
] | 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。 空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。 天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する。
教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。 | {{出典の明記|date=2019-08-27}}
[[画像:Kobo_Daishi_(Taisanji Matsuyama).jpg|サムネイル|250px|空海|右]]
{{大乗仏教}}
'''真言宗'''(しんごんしゅう)は、[[空海]](弘法大師)によって[[9世紀]]([[平安時代]])初頭に開かれた[[大乗仏教]]の宗派で[[日本の仏教|日本仏教]]のひとつ。空海が[[長安]]に渡り、[[青龍寺 (西安市)|青龍寺]]で[[恵果]]から学んだ[[中国密教]]([[唐密]])を基盤としている。
空海は著作『[[十住心論|秘密曼荼羅十住心論]]』『[[十住心論|秘蔵宝鑰]]』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には[[顕教]]と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の[[思想]]・[[経典]]も真言密教に包摂されることを説いた。
天台密教を'''[[台密]]'''と称するのに対し、真言密教は'''[[東寺]]'''を基盤としたので'''[[東密]]'''と称する<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97-81788 真言宗とは] - [[コトバンク]]/[[世界大百科事典]]</ref>。
教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。
== 歴史 ==
=== 立教開宗 ===
{{multiple image
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| caption1 =金剛峯寺、主殿(和歌山県高野町)
| image1= Kongobuji Koyasan01n4272.jpg
| image2= JP-Kyoto-Toji-kondo.jpg
|caption2 = 東寺、金堂(京都府京都市)
}}
[[平安時代]]初期の[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])、空海が[[中国]]([[唐]])より帰朝。その後空海は、[[弘仁]]7年([[816年]])に[[高野山]][[金剛峯寺]]を修禅の道場として開創。弘仁14年([[823年]])には、[[嵯峨天皇]]より勅賜された[[東寺|教王護国寺]]を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、[[東寺]]に対して「真言宗の[[定額僧]]五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。また、[[淳和天皇]]に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上した。
=== 空海入定後 ===
空海は[[入定]]に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。
[[東寺|教王護国寺]]は[[実慧]]、金剛峯寺は[[真然]]、[[神護寺]]は[[真済]]、[[安祥寺 (京都市)|安祥寺]]を[[恵運]]、[[宇多天皇|寛平法皇(宇多天皇)]]が開基した仁和寺、[[醍醐寺]]は[[聖宝]]、[[円成寺 (奈良市)|円成寺]]は[[益信]]などがあり、これらの寺院に[[年分度者]](国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの[[寺院]]が独立した傾向を持っていった。後に、[[東寺長者]]が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。
=== 東寺と高野山(本末争い) ===
[[観賢]]が[[東寺長者]]・金剛峯寺[[座主]]を兼ね、教王護国寺東寺を[[本寺]]とし、金剛峯寺を[[末寺]]とする本末制度を確立。金剛峯寺は本末争いに負け、一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。
高野山は[[落雷]]により[[伽藍]]・諸堂を焼失したり、[[国司]]による[[押妨]]などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、[[藤原道長]]が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、[[皇族]]・[[摂関家]]・[[公家]]が高野山への登山が続いた。
その後、皇族・摂関家・公家などによる[[経済]]的な支援もあり、高野山は[[財政]]においても安定していった。
=== 覚鑁と新義派教学 ===
宗団は、師資相承を重視するため、[[事相]](真言密教を実践するための作法。[[修法]]の作法など)の違いにより分派していった。ただし、[[教学]](教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。
[[11世紀|11世紀末]]、'''[[覚鑁]]'''(興教大師)は、[[大伝法院]]を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して[[根来寺|根来山]](和歌山県)に隠棲した。これより、'''金剛峯寺方'''(本寺方)と覚鑁の流れを汲む'''大伝法院方'''(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義([[古義真言宗]])・新義([[新義真言宗]])に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。
[[1290年]]([[正応]]3年)には、[[頼瑜]]が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。
[[徳川家康]]の保護を受け、[[1601年]]([[慶長]]6年)に[[玄宥]]が、根来寺にあった[[智積院]]を[[京都]]・東山七条に再建した。のちに[[真言宗智山派]]の総本山となった。
=== 古義派教学の振興 ===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に東寺の僧、[[杲宝]]・[[賢宝]](げんぼう)らが東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。高野山では「[[応永]]の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院[[宥快]]が而二門(ににもん)の教学、無量壽院[[長覚]]が不二門の教学を振興させた。
=== 江戸幕府による統制と戒律への関心 ===
[[江戸時代]]に入ると、[[江戸幕府]]は仏教界に対して新たな宗教統制を講じ、[[1604年]]([[慶長]]14年)に関東真言宗古義法度が出された。
[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)7月24日には、[[徳川家康]]が[[真言宗諸法度]]を真言宗諸本山・諸寺に対して出し、幕府の監視下に置かれることになった。同時に、幕府の宗教政策である[[寺壇制度]]が確立した。[[宗門改]]などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。
寺壇制度は諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみも起きた。このことから、[[浄厳]]・[[慈雲]]らが[[戒律]]に関心をよせ、戒律の研鑽・研究による復興を行った。
=== 廃仏棄釈の打撃と余波 ===
[[明治維新]]以降、[[神仏分離]]が推進され、宮中での勅修法会が廃止となって、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い[[廃仏棄釈]]も起り、真言宗の寺院は[[本山]]・[[末寺]]にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している[[神宮寺]]が廃されて、[[神社]]に改められることもあった。[[僧籍]]を離脱して、神社の[[神職]]になったり、[[還俗]]する[[僧]]も現れた。[[政府]]は寺院の所有している土地の返納を要求して、強制的に返納または没収措置を取った。[[勅願所]]・[[門跡]]の称号も禁止され、財政基盤も失って多くの寺院関係が廃寺に追い込まれた。廃仏毀釈の機運に仏教各派も危機感を募らせ、各派が団結して仏教を宣揚して、邪論を廃すべく[[各宗同盟会]]を結成した。1869年([[明治]]2年)[[東京]]の[[大徳院]]にて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。神葬祭が盛んであったため無住寺院が増え、そのことでも廃寺は続き、深刻な事態になっていった。
=== 宗団の近代化 ===
[[画像:Reiunji_ushima.JPG|サムネイル|霊雲寺、山門(東京都文京区)|250px]]
[[1872年]](明治5年)、古義真言宗を統括すべく[[管長]]職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。[[1873年]](明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。
政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗からは教王護国寺東寺と金剛峯寺が、新義真言宗からは智積院と長谷寺が各々交替で真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。
しかし、[[1878年]](明治11年)、[[仁和寺]]・[[大覚寺]]・[[広隆寺]]・[[神護寺]]・[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]・[[法隆寺]]・[[唐招提寺]]が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置く。また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置き、古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して独自の管長を置いた。こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。このことは、政府の知るところとなり、[[内務省 (日本)|内務省]]から、一宗一管長制を採るよう[[通達]]があった。これを受け、[[霊雲寺]]において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、[[1879年]](明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、教王護国寺東寺を[[総本山]]にして、[[長者]]の称号を復することになった。
=== 画一宗派と分離独立派の抗争 ===
[[1896年]](明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。
[[1899年]](明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や[[事相]](真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の二派による対立があり、紛糾した。
=== 真言宗の解体と「古義八派・各派」の分離独立 ===
[[画像:Daigoji_Kyoto01s5s4110.jpg|サムネイル|醍醐寺、金堂(京都府京都市)|250px]]
[[1895年]](明治28年)6月、[[真言律宗]]([[西大寺 (奈良市)|西大寺]])に対して独立が認可される。
[[1900年]](明治33年)9月、[[高野山真言宗|真言宗高野派]]([[金剛峯寺]])・[[真言宗御室派]]([[仁和寺]])・[[真言宗大覚寺派]]([[大覚寺]])・[[真言宗醍醐派]]([[醍醐寺]])・[[真言宗智山派|新義真言宗智山派]]([[智積院]])・[[真言宗豊山派|新義真言宗豊山派]]([[長谷寺]])・[[律宗]]に対して独立が認可された。
さらに、[[1907年]](明治40年)、[[真言宗東寺派]]([[東寺]])・[[真言宗山階派]]([[勧修寺]])・[[真言宗泉涌寺派]]([[泉涌寺]])・[[真言宗善通寺派|真言宗小野派]]([[随心院]])が独立し、真言宗は解体された。
真言宗各派の独立により、東寺を真言宗の総本山とする制度が終焉する。
古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。
[[1925年]]([[大正]]14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。
[[1926年]](大正15年)、真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。古義真言宗はほかの古義真言宗系宗派との間に真言宗各派[[協約]]を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。
=== 大真言宗(戦時下・戦後の宗団) ===
[[日中戦争]]下の[[1941年]]([[昭和]]16年)3月、政府の宗教政策により古義真言宗・新義真言宗系の宗派が合同し、大真言宗が成立する。政府の主導によりこれまでの歴史的経緯や教義の違いを無視して無理やり合同させた。戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において度々行われた。
戦後、大真言宗から独立していく古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。新しい[[宗教法人]]制度が制定され、その動きは加速した。古義・新義の諸宗派から更に別れ、[[修験道]]・[[儒教]]・[[道教]]等と組み合わさって独自の教義を唱え、真言宗系新宗教と分類される宗教団体が幾つか成立した。真言宗醍醐派に属していた[[伊藤真乗]]は[[真如苑]]を開いた。これらの団体は、他の仏教系新宗教と異なり、真言宗との関係はおおむね良好である。
== 大師信仰 ==
宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤く、10世紀には高野山で空海の[[入定]]信仰が起こり、弘法大師信仰(大師信仰)を説いている。
弘法大師信仰の高まりのなかで、稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などで信仰の対象になった。
宗祖・空海は、[[讃岐国]]屏風浦(現・[[香川県]][[善通寺市]])の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「[[三筆]]」の1人に数えられる[[能書家]]として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、[[遣唐使]]船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。
弘仁7年(816年)には高野山([[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]])の地を得て、ここに[[金剛峯寺]]を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。
[[835年]]([[承和 (日本)|承和]]2年)[[3月21日]]に、62歳で高野山で[[入定]]した。空海が入定してから86年後の[[延喜]]21年([[921年]])に、弘法大師の[[諡号]]が[[醍醐天皇]]より贈られた。
== 真言八祖 ==
密教が[[インド]]で起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承があり、真言八祖(しんごんはっそ)という。
'''付法(ふほう)の八祖'''と'''伝持(でんじ)の八祖'''の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『[[真言付法伝]]』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。
真言宗のほとんどの寺院は、本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)が祀っているのが特徴の一つである。
=== 付法の八祖 ===
真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。
# [[大日如来]](だいにちにょらい)
# [[金剛薩埵]](こんごうさった)
# [[龍猛]]菩薩(りゅうみょうぼさつ)
# [[龍智]]菩薩(りゅうちぼさつ)
# [[金剛智]]三蔵(こんごうちさんぞう)
# [[不空]]三蔵(ふくうさんぞう)
# [[恵果]]阿闍梨(けいかあじゃり)
# [[空海|弘法大師]]
=== 伝持の八祖 ===
真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、仏尊である大日如来、金剛薩埵を除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。
手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。
# [[龍樹|龍猛]]菩薩 : [[大日如来]]の直弟子[[金剛薩埵]]から[[密教経典]]を授かって、世に伝えたといわれている([[金剛杵|三鈷杵]](さんこしょ)を右手に持っている)。
# 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった(経文を右手に持っている)。
# 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、『[[金剛頂経]]』を伝える(数珠を右手に持っている)。
# 不空三蔵 : [[西域]]生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。『金剛頂経』を漢語に翻訳し、[[灌頂]]道場を開いた([[外縛印]](げばくいん)を結んでいる)。
# [[善無畏]]三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。[[大乗仏教]]を学び、さらに密教を受け継ぐ。80歳になって唐に渡り『[[大日経]]』を伝える(右手の人さし指を立てている) 。
# [[一行]]禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。[[禅宗]]や[[天台教学]]、天文学、数学を学ぶ。長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに『[[大日経疏]](だいにちきょうしょ)』を完成させた(法衣のなかで印を結んでいる)。
# 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。[[金剛界]]・[[胎蔵界]]両部の密教を受け継いだ(椅子に座り、横に童子を待らせている)。
# 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。空海([[五鈷杵]](ごこしょ)を右手に持ち、左手には[[念珠]]を持っている)。
[[ファイル:Singonhasso.jpg|center|thumb|800px|八祖大師[[光林寺 (今治市)|(光林寺)]]]]
== 教義 ==
真言宗は[[即身成仏]]と[[密厳国土]]をその教義とする。
中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である[[大日如来]]。
教理として、4つ。六大(六大縁起)の教え、曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。
教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、根本所依とされる。
* 所依の経典(基本の重要経典)
** 『[[大日経]]』(正式には『[[大毘盧遮那成仏神変加持経]]』/だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)
** 『[[金剛頂経]]』(正式には『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』、または『金剛頂瑜伽真実大教王経』)
** 『[[蘇悉地経]]』(そじつぢきょう)
** 『[[瑜祗経]]』(ゆぎきょう)
** 『[[要略念誦経]]』(ようりゃくねんじゅきょう)
** 『[[理趣経]]』(りしゅきょう)など。
* 論疏(論文の類)
** 『[[菩提心論]]』(ぼだいしんろん)
** 『[[釈摩訶衍論]]』(しゃくまかえんろん)
** 『[[大日経疏]]』(だいにちきょうしょ)など。
* 空海の著作
** 『秘密曼荼羅十住心論』(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)(「[[十住心論]]」)
** 『[[秘蔵宝鑰]]』(ひぞうほうやく)
** 『[[弁顕密二教論]]』(べんけんみつにきょうろん)
** 『[[即身成仏義]]』(そくしんじょうぶつぎ)
** 『[[声字実相義]]』(しょうじじっそうぎ)
** 『[[吽字義]]』(うんじぎ)などの論疏。
* [[三密]](「'''身密'''・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ」、「'''口密'''(語密)・口に真言を読誦する」、「'''心密'''・心に[[曼荼羅]]の諸尊を観想する」)の修行により、[[本尊]]と一体となり、[[即身成仏]]が実現するとしている。
== 事相と教相 ==
真言密教を学んでいくうえで、'''事相'''(じそう)と'''教相'''(きょうそう)が重要視される。
事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法([[灌頂]]・[[護摩]]・[[観|観法]]・[[印契]]・[[真言]]などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。
教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。
事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、[[慈雲]]は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。
9世紀半ば(平安時代前期、律令制度から王朝国家に至る転換期)から、事相の研究が盛んとなった。益信に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。
=== 広沢流・小野流(野沢十二流) ===
平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。
野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。また、[[中院流]]を小野流に入れない。いずれの法流も、高野山に移ったためである。これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、'''野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。'''
==== 広沢流 ====
特徴は、儀軌を重んじる。[[寛朝]]が建立した[[京都市]][[右京区]][[嵯峨広沢]]にある[[広沢池]]の南にある[[遍照寺 (京都市)|遍照寺]]の所在地名が語源となっている。
広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。
* 広沢流系流派略系譜
** 仁和御流略系譜(派祖・覚法) [[空海]]-[[真雅]]-[[源仁]]-[[益信]]-寛平法皇([[宇多天皇]])-[[寛朝]]-[[済信]]-[[性信]]-[[寛助]]-[[覚法]]
** 西院流略系譜 (派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-[[信証]]
** 保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-[[永厳]]
** 華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-[[聖恵]]
** 忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-[[寛遍]]
** 伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-[[覚鑁]]
==== 小野流 ====
小野流は、[[真言宗善通寺派]]大本山[[大本山随心院|随心院]](旧称・曼荼羅寺)がある[[京都市]][[山科区]]'''小野'''が語源となっている。聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。[[口伝|口伝口訣]]を重じるのが特徴である。
広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。単に随心院流のみを指す場合もある。
* 小野流系流派略系譜
** 安祥寺流略系譜 (派祖・宗意) 空海-真雅-源仁-[[聖宝]]-[[観賢]]-[[仁海]]-[[成尊]]-[[範俊]]-[[厳覚]]-[[宗意]]
** 勧修寺流略系譜 (派祖・寛信) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-[[寛信]]
** 随心院流略系譜 (派祖・増俊) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-[[増俊]]
** 三宝院流略系譜 (派祖・定海) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-[[義範]]-[[勝覚]]-[[定海]]
** 理性院流略系譜 (派祖・賢覚) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-[[賢覚]]
** 金剛王院流略系譜(派祖・聖賢) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-[[聖賢]]
== 古義派・新義派 ==
真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。13世紀末に'''[[古義真言宗]]'''と'''[[新義真言宗]]'''に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
=== 古義派 ===
[[大日如来]]の[[本地法身説]]の教学(古義)による。現実世界の一事一物が[[法身]](真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
=== 新義派 ===
覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の[[加持身説]]の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。
== 真言宗各派総大本山会(各山会) ==
昭和14年([[1939年]])の[[宗教団体法]]成立により、[[真言律宗]]以外の宗派は真言宗として統合された。しかし、[[戦後]]は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。そのうち'''主要な16派の18の総大本山'''が、昭和33年([[1958年]])[[6月15日]]に、'''真言宗各派総大本山会'''(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。これらの寺院を[[真言宗十八本山]]という。
* 真言宗各派総大本山会事務局 - 総本山[[智積院]]内(事務局長・主事・書記を置く)
** 代表総務
** 常任委員会([[議長]]を置く。また、常任委員については[[代理]][[出席]]が許されている)
** 事務局長 各山会が事務局を置いている智山派から選出するのが慣例となっている。
=== 真言宗長者 ===
* 真言宗内最高の名誉職。真言宗を代表して、真言宗内外の重要な法会、諸行事に参列する。
* 任期は1年間。その年の[[後七日御修法]](御修法)の大阿闍梨が真言宗長者となる。
* 毎年、各山会に属する真言宗十八本山の管長・山主の中から推戴で、毎年、御修法(後七日御修法)の大阿闍梨を選出する。
* 御修法が成満した後、各山会から長者杖が贈られる。
=== 真言宗長者歴代 ===
* 1968年 平野龍法(泉涌寺第150世長老)
* 1969年 [[那須政隆]](智積院第60世化主)
* 1970年 木村澄覚(教王護国寺第254世長者)
* 1971年 堀田真快(金剛峯寺第403世座主)
* 1972年 平林宥高(長谷寺第74世化主)
* 1973年 [[森諦圓]](仁和寺第41世門跡)
* 1974年 松本實道(宝山寺第18世貫主)
* 1975年 石堂恵俊(中山寺長老)
* 1976年 関尚道(根来寺第38世座主)
* 1977年 蓮生善隆(善通寺第55世法主)
* 1978年 川田聖見(長谷寺第76世化主)
* 1979年 [[芙蓉良順]](智積院第62世化主)
* 1980年 田中真弘(朝護孫子寺第131世法主)
* 1981年 [[小松道圓]](泉涌寺第151世長老)
* 1982年 立部瑞祐(仁和寺第43世門跡)
* 1983年 上野頼栄(智積院第63世化主)
* 1984年 松本實道(西大寺第69世長老)
* 1985年 小峰順誉(智積院第64世化主)
* 1986年 小林隆仁(仁和寺第44世門跡)
* 1987年 村主恵快(中山寺長老)
* 1988年 [[勝又俊教]](長谷寺第79世化主)
* 1989年 [[藤井龍心]](智積院第65世化主)
* 1990年 鈴木凰永(朝護孫子寺第132世法主)
* 1991年 池田瑩輝(中山寺長老)
* 1992年 廣澤純孝(根来寺第39世座主)
* 1993年 竹内崇峯(金剛峯寺第408世座主)
* 1994年 小林海暢(泉涌寺第152世長老)
* 1995年 吉田俊誉(長谷寺第81世化主)
* 1996年 吉田裕信(仁和寺第47世門跡)
* 1997年 野澤密厳(朝護孫子寺第133世法主)
* 1998年 [[麻生文雄]](醍醐寺第102世座主)
* 1999年 稲葉信隆(根来寺第41世座主)
* 2000年 和田有玄(金剛峯寺第410世座主)
* 2001年 高吉清順(善通寺第56世法主)
* 2002年 堀智範(仁和寺第47世門跡)
* 2003年 川田聖定(長谷寺第83世化主)
* 2004年 片山宥雄(大覚寺第60世門跡)
* 2005年 [[宮坂宥勝]](智積院第68世化主)
* 2006年 佐藤令宜(仁和寺第48世門跡)
* 2007年 大矢実圓(宝山寺第19世貫主)
* 2008年 上村貞郎(泉涌寺第154世長老)
* 2009年 阿部龍文(智積院第69世化主)
* 2010年 [[松長有慶]](金剛峯寺第412世座主)
* 2011年 南揚道(仁和寺第49世門跡)
* 2012年 樫原禅澄(善通寺第57世法主)
* 2013年 亀谷暁英(隨心院第43世門跡)
* 2014年 [[加藤精一 (仏教学者)|加藤精一]](長谷寺第86世化主)
* 2015年 立部祐道(仁和寺第50世門跡)
* 2016年 仲田順和(醍醐寺第103世座主)
* 2017年 [[小峰一允]](智積院第71世化主)
* 2018年 黒沢全紹(大覚寺第63世門跡)
* 2019年 田代弘興(長谷寺第87世化主)
* 2020年 瀬川大秀(仁和寺第51世門跡)
* 2021年 [[布施浄慧]](智積院第72世化主)
* 2022年 尾池泰道(大覚寺第64世門跡)
* 2023年 飛鷹全隆(教王護国寺第258世長者)
* 2024年 菅智潤(善通寺第58世法主)
=== 各山会に参画する真言宗十八本山(順不同) ===
; [[古義真言宗]]系
:* [[東寺|教王護国寺]] - [[東寺真言宗]]総本山
:* [[金剛峯寺]] - [[高野山真言宗]]総本山
:* [[善通寺]] - [[真言宗善通寺派]]総本山
:* [[随心院]] - [[真言宗善通寺派]]大本山
:* [[醍醐寺]] - [[真言宗醍醐派]]総本山
:* [[仁和寺]] - [[真言宗御室派]]総本山
:* [[大覚寺]] - [[真言宗大覚寺派]]大本山
:* [[泉涌寺]] - [[真言宗泉涌寺派]]総本山
:* [[勧修寺]] - [[真言宗山階派]]大本山
:* [[朝護孫子寺]] - [[信貴山真言宗]]総本山
:* [[中山寺 (宝塚市)|中山寺]] - [[真言宗中山寺派]]大本山
:* [[清荒神清澄寺|清澄寺]] - [[真言三宝宗]]大本山
:* [[須磨寺]] - [[真言宗須磨寺派]]大本山
; [[新義真言宗]]系
:* [[智積院]] - [[真言宗智山派]]総本山
:* [[長谷寺]] - [[真言宗豊山派]]総本山
:* [[根来寺]] - [[新義真言宗]]総本山
; [[真言律宗]]
:* [[西大寺 (奈良市)|西大寺]] - 真言律宗総本山
:* [[宝山寺]] - 真言律宗大本山
:* [[長栄寺 (東大阪市)|長栄寺]] - [[新真言宗]]総本山
=== 密教学芸賞・密教教化賞 ===
各山会の事業として、後七日御修法のほかに[[密教学芸賞]]及び[[密教教化賞]]の授与がある。受賞者は以下の通りである。
==== 密教学芸賞 ====
# 1961年、長谷宝秀・[[栂尾祥雲]]・小野立妙・安間立雄・神林隆浄
# 1962年、鈴木智辨・[[那須政隆]]([[大正大学]]学長)・[[堂本印象]]
# 1963年、大山公淳・[[勝又俊教]]・伊藤久
# 1964年、岩原諦信・[[渡辺照宏]]([[東洋大学]]教授)・辻井弘洲
# 1965年、田中海応・干潟龍祥・文化財保護委員会古文書調査特別調査班
# 1966年、守山聖真
# 1967年、[[佐和隆研]]([[京都市立芸術大学]]教授)
# 1968年、小田慈舟([[高野山大学]]教授)
# 1969年、[[青木融光]](円通寺住職)・服部如実([[種智院大学]]教授)・[[芙蓉良順]](大正大学学長)
# 1970年、櫛田良洪(大正大学学長)
# 1972年、梶芳光雲(大正大学教授)・中川善教(高野山大学教授)
# 1973年、田久保周誉(福性寺住職)・山本智教(高野山大学教授)
# 1974年、酒井真典(高野山大学教授)
# 1975年、高橋宥順(観智院住職)
# 1976年、堀内寛仁(高野山大学教授)・[[宮坂宥勝]]([[名古屋大学]]教授)
# 1977年、加藤章一(大正大学教授)・大森健二((財)建築研究協会)
# 1978年、[[金岡秀友]]([[東洋大学]]教授)・ [[松長有慶]](高野山大学教授)
# 1980年、高田仁覚(高野山大学教授)・高木紳元(高野山大学教授)
# 1981年、伊原照蓮([[九州大学]]教授)・羽毛田義人([[コロンビア大学]]教授)
# 1982年、松尾義海([[京都大学]]名誉教授)・吉原榮覚([[神戸商船大学]]教授)
# 1983年、和多秀乗(高野山大学教授)
# 1984年、[[高井隆秀]](種智院大学教授)・田村隆照(京都市立芸術大学教授)
# 1985年、[[藤井龍心]](種智院大学教授)
# 1986年、永井義憲([[大妻女子大学]]教授)
# 1987年、(財)美術院国宝修理所
# 1988年、吉井芳純(清水寺住職)・手嶋千俊(御室流華務長 (財)京都市芸術協会)
# 1989年、[[高見寛恭]](萬福寺住職)
# 1990年、加藤宥雄(種智院大学教授)・山崎泰廣(種智院大学教授)
# 1991年、周藤真雄(林昌寺住職)・三神榮昇(智山講傳所)
# 1992年、壁瀬灌雄(種智院大学助教授)・日野西眞定(高野山大学教授)・[[上田霊城]](延命寺住職)
# 1993年、川原榮峰([[早稲田大学]]教授)
# 1994年、牧尾良海(大正大学学長)・村主恵快([[追手門学院大学]]教授)・蜜波羅鳳洲(高野山大学教授)・東智學(高野山大学教授)
# 1995年、佐藤良盛(智山講伝所、山形・地蔵寺住職)・[[加藤精一 (仏教学者)|加藤精一]](大正大学教授)・[[頼富本宏]](種智院大学教授)
# 1996年、和田仁雅(龍華寺住職)・[[佐藤隆賢]](大正大学学長)・柏本弘雄([[三重中京大学|松阪女子短期大学]]教授)・[[川崎信定]]([[筑波大学]]教授)
# 1997年、鳥越正道(神泉院住職、種智院大学教授)・[[吉田宏晢]](大正大学教授)・加藤純章(名古屋大学教授)
# 1998年、[[上山春平]]([[京都大学]]教授)・齋藤昭俊(大正大学教授)・橋本初子([[大谷大学]]教授)・津田真阿([[国際仏教学大学院大学]]教授)
# 1999年、上島有([[花園大学]]教授)・[[小野塚幾澄]](大正大学教授)・岡村圭真([[高知大学]]教授)・静慈圓(高野山大学教授)
# 2000年、[[金田一春彦]]([[玉川大学]]客員教授)・北条賢三(大正大学教授)・[[浜田泰介]](日本画家)・村上保壽([[山口大学]]教授)
# 2001年、松崎恵水(大正大学教授)・村岡空(光明寺名誉住職)・[[福田亮成]](大正大学教授)・北村太道(種智院大学教授)・真鍋俊照(宝仙短期大学学長)
# 2002年、辻井弘(旧嵯峨御所華道総司所副総裁)・[[池口恵観]](最福寺法主)
# 2003年、稲葉義猛(高野山本覚院住職)
# 2004年、吉田寛如(正興寺住職)
# 2005年、該当なし
# 2006年、該当なし
# 2007年、越智淳仁(高野山大学教授)・[[小峰彌彦]](大正大学学長)
# 2008年、児玉義隆(種智院大学教授)
# 2009年、[[梅原猛]](京都市立芸術大学名誉教授)
# 2010年、該当なし
# 2011年、目黒宗光(萬善寺住職)、[[布施浄慧]](智山講伝所)、中村幸真(種智院大学教授)、長谷法寿(賢劫造佛所所主)
# 2012年、岡田脩克(嵯峨御流華道総司所華務長)、[[廣澤隆之]](大正大学教授、智山伝法院長)
# 2013年、松本照敬([[大東文化大学]]名誉教授)、[[星野英紀]](大正大学学長)
# 2014年、真保龍敞(善養寺住職)、大澤聖寬(豊山派総合研究院教授)、生井智紹(高野山大学名誉教授)
# 2015年、松本俊彰(三重・真福寺住職)、高橋尚夫(大正大学名誉教授、豊山派総合研究院宗学研究所所長)、苫米地誠一(大正大学教授)
# 2016年、木南卓一([[帝塚山大学]]名誉教授、平井宥慶(大正大学名誉教授)、小山典勇(大正大学名誉教授)、潮弘憲(種智院大学特任教授)、中川委紀子(新義真言宗総本山根来寺文化研究所所長)
# 2017年、永村眞(日本女子大名誉教授)、藤田光寛(高野山大名誉教授)、本多隆仁(大正大学元教授)、大塚慈伸(大正大学長)
#2018年、[[宮坂宥洪]](智山伝法院院長)、木村秀明(大正大学名誉教授)
#2019年、榊義孝(大正大学元副学長)、山陰加春夫(高野山大学名誉教授)
==== 密教教化賞 ====
{{main|密教教化賞}}
== 後七日御修法 ==
{{seealso|後七日御修法}}
真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ[[定額僧]]により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行っている。真言宗最高の秘儀とされている。
=== 沿革 ===
後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅほう)と呼ばれている。真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。
[[正月]]1日から7日まで[[宮中]]で行われている、神事である[[宮中前七日節会]]に対する行事。[[834年]]([[承和 (日本)|承和]]元年)に、[[仁明天皇]]の[[勅]]を奉じて、空海(弘法大師)が宮中[[真言院]]にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・[[五穀]]豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。
南北朝時代の戦乱期や[[地震]]などを含めて、数度、中断する時期があったが、[[後水尾天皇]]と醍醐寺[[座主]][[義演]]の尽力により、[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)に170年ぶりに復活された。[[1871年]](明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。
[[釈雲照]]らの嘆願により、[[1883年]](明治16年)1月8日に復活した。そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。
[[1920年]]([[大正]]9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。
[[1968年]]より、各山会の事業となった。
=== 次第 ===
修法は、合計21ヶ座行われる。[[勧修寺]]流(金剛界法)と西院流(胎蔵界法)の両界を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。
前日の7日、修法に出仕する[[供僧]]が、東寺の集会所で習礼を行う。
初日(開白)の1月8日には、[[宮内庁]]より、[[天皇]]の御衣を納めた[[唐櫃]]を捧持した[[勅使]]を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂の瑜伽壇上に安置する。
11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場において[[焼香]]し、参拝をされる。同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。
[[修法]]で使用する[[念珠]]・五鈷杵・[[袈裟]]などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。以前は、[[東寺長者]]が大阿闍梨を務めていた。
'''結願後に限り'''、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。
* '''構成'''(真言宗各派総大本山会所属の各宗派より選出された者)
** 法務法印大阿闍梨(1名)
** 御手替(1名)
** 息災護摩供(1名)
** 増益護摩供(1名)
** 五大尊供(1名)
** 十二天供(1名)
** 聖天供(1名)
** 神供(1名)
** 二間観音供(1名)
** 舎利守(1名)
** 咒頭(1名)
** 伴僧(4名)
* '''事務局'''
** 別当(1名)
** 大行事(1名)
** 小行事(1名)
** 局長(1名)
** 総務(1名)
** 用度(1名)
** 承仕(16名)
** 随行(17名)
** 従弟子(2名)
** 定額僧
** 御修法事務局員
== 真言宗系大学 ==
* [[種智院大学]](古義真言宗・新義真言宗・真言律宗22本山、新義真言宗、真言宗智山派、真言宗豊山派)
* [[高野山大学]](高野山真言宗)
* [[大正大学]](真言宗豊山派、真言宗智山派)
* [[嵯峨美術大学]](真言宗大覚寺派)
* [[こども教育宝仙大学]]
* [[大阪千代田短期大学]]
== 真言宗系高等学校 ==
* [[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]](古義真言宗14本山、新義3派)(京都市南区)
* [[高野山高等学校]](高野山真言宗)(和歌山県高野町)
* [[成田高等学校・付属中学校|成田高等学校]](真言宗智山派大本山[[成田山新勝寺]])(千葉県[[成田市]])
* [[清風中学校・高等学校|清風高等学校]]([[大阪市]][[天王寺区]])
* [[清風南海中学校・高等学校|清風南海高等学校]]([[大阪府]][[高石市]])
* [[横浜清風高等学校]]([[横浜市]][[保土ケ谷区]])
* [[宣真高等学校]](大阪府[[池田市]])
* [[大阪暁光高等学校]](大阪府[[河内長野市]])
* [[叡明高等学校]]、[[浦和麗明高等学校]]([[埼玉県]][[越谷市]]、[[さいたま市]][[浦和区]])
* [[宝仙学園高等学校]](東京都[[中野区]])
* [[日本大学豊山中学校・高等学校|日本大学豊山高等学校]](東京都[[文京区]])
* [[智辯学園中学校・高等学校|智辯学園高等学校]]([[奈良県]][[五條市]])、[[智辯学園和歌山小学校・中学校・高等学校|智辯学園和歌山高等学校]](和歌山県[[和歌山市]])
=== 真言宗系中等学校ほかの由緒地 ===
* [[京都市立紫野高等学校]](大徳寺内にあった高野山真言宗系京都淑徳女学園の敷地に設置)
* [[日本大学豊山中学校・高等学校|日本大学豊山中学校]](前身は旧制豊山中学校)
* [[早稲田大学高等学院・中学部]](旧制[[智山専門学校]]、智山中学校、新制智山高等学校の敷地に設置)
== 真言宗系諸派 総本山・大本山(各山会所属宗派以外) ==
これらの宗派はほとんどが戦後の分離独立であるが、寺院そのものは古くからあったものや新設されたものなど、さまざまである。
; 古義真言宗系
:* [[霊雲寺]] - 東京都文京区。真言宗霊雲寺派総本山
:* [[七宝瀧寺]] -(大阪府泉佐野市) 真言宗犬鳴派大本山
:* [[弘法寺 -(兵庫県たつの市)|弘法寺]] 真言宗金剛院派大本山
:* [[国分寺 (大阪市)|長柄国分寺]] - 真言宗国分寺派大本山
:* [[鳳閣寺]] - 真言宗鳳閣寺派大本山
:* [[極楽寺 (西条市)|極楽寺(西条市/石鎚山峰下)]] - 石鎚山真言宗総本山
:* [[前神寺]] - 真言宗石鉄派総本山
:* [[菩提寺 (三田市)|菩提寺]] - 真言宗花山院派大本山
:* [[鳳来寺]] - 真言宗五智教団大本山
:* [[東長寺]] - 真言宗九州教団本山
:* [[霊山寺 (奈良市)|霊山寺]] - 霊山寺真言宗大本山
:* [[長栄寺]] - 新真言宗総本山
:* [[光明宝院]] - 光明真言宗大本山
:* [[圓蔵院]] - 明算真言宗大本山
:* [[日石寺]] - 真言密宗大本山
:* [[福田寺 (尼崎市)|福田寺]] - 真言聖天宗大本山
:* [[千手寺 (東大阪市)|千手寺]] - 真言毘盧舎那宗大本山
:* [[大聖観音寺]] - 観音宗総本山
:* [[紀三井寺|護国院]](紀三井寺) - 救世観音宗総本山
:* [[正暦寺]] - 菩提山真言宗大本山
:* [[金剛寺]] -(福岡県福津市)修験真言宗大本山
; 新義真言宗系
:* [[室生寺]] - 真言宗室生寺派大本山
:* [[鑁阿寺]] - 真言宗大日派根本道場
; その他・真言宗系新宗教教団
:* [[大王寺]] - [[一切宗]]大本山
:* [[解脱会]] -(真言宗醍醐派から分離独立、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている)
:* [[真澄寺]] - [[真如苑]]総本部(真言宗醍醐派から分離独立)
:* 如意寺 - [[辯天宗]]総本山(高野山真言宗から分離独立)
:* [[瀧光徳寺]] - [[中山身語正宗]]大本山(高野山真言宗から分離独立)
:* [[台覚寺]] - [[身言正宗]]総本山(中山身語正宗から分派独立)
:* [[本福寺 (基山町)|本福寺]] - [[光明念佛身語聖宗]]総本山(中山身語正宗と創設者同一・真言宗泉涌寺派から分離独立)
:* [[金毘羅院]] - 真言宗金毘羅尊流総本山
:* [[卍教団]](真言宗諸派連合)系
:** 龍造寺 - 大本山([[旭川市]])
:** 高野山八葉閣 - 総本山([[久留米市]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shingon Buddhism}}
* [[日本の仏教]]
* [[空海]]
* [[密教]]
* [[両界曼荼羅]]
* [[大日如来]]
* [[不動明王]]
* [[愛染明王]]
* [[馬頭観音]]
== 外部リンク ==
=== 真言宗十八本山リンク ===
* [https://toji.or.jp/ 東寺真言宗 総本山教王護国寺(東寺)]
* [https://www.koyasan.or.jp/ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺]
* [https://ninnaji.jp/ 真言宗御室派 総本山仁和寺]
* [https://www.daikakuji.or.jp/ 真言宗大覚寺派 旧嵯峨御所 大覚寺]
* [https://www.daigoji.or.jp/ 真言宗醍醐派 総本山醍醐寺]
* [https://www.mitera.org/ 真言宗泉涌寺派 総本山泉涌寺]
* [https://www.zentsuji.com/ 真言宗善通寺派 総本山善通寺]
* [https://www.zuishinin.or.jp/ 真言宗善通寺派 大本山随心院]
* [https://www.nakayamadera.or.jp/ 真言宗中山寺派 大本山中山寺]
* [http://www.kiyoshikojin.or.jp/ 真言三宝宗 大本山清荒神清澄寺]
* [https://www.sumadera.or.jp/ 真言宗須磨寺派 大本山須磨寺]
* [http://www.saidaiji.or.jp/ 真言律宗 総本山西大寺]
* [https://www.hozanji.com/ 真言律宗 大本山宝山寺]
* [http://www.sigisan.or.jp/ 信貴山真言宗 総本山朝護孫子寺]
* [https://www.negoroji.org/ 新義真言宗 総本山根来寺]
* [http://www.buzan.or.jp/ 真言宗豊山派 総本山長谷寺]
* [http://www.chisan.or.jp/sohonzan/ 真言宗智山派 総本山智積院]
=== 真言宗系諸派・本山リンク ===
* [http://www.reiunji.or.jp/ 真言宗霊雲寺派 総本山霊雲寺]
* [http://www.inunakisan.com/ 真言宗犬鳴派 大本山七宝瀧寺]
* [http://www.ryosenji.jp/ 霊山寺真言宗 大本山霊山寺]
* [https://www.kimiidera.com/ 救世観音宗 総本山護国院(紀三井寺)]
* {{Wayback|url=http://www.asahi-net.or.jp/~id9s-mti/shouryakuji/ |title=菩提山真言宗 正暦寺 |date=20120115053531}}
* [http://www.nakayamashingoshoshu.com/ 中山身語正宗 瀧光徳寺]
=== 真言宗系大学 ===
* [https://www.koyasan-u.ac.jp/ 高野山大学]
* [http://www.shuchiin.ac.jp/ 種智院大学]
* [https://www.tais.ac.jp/ 大正大学](天台宗・真言宗智山派・真言宗豊山派・浄土宗)
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[[Category:空海]]
[[Category:日本の仏教史|+しんこんしゆう]] | 2003-03-03T04:23:51Z | 2023-12-28T08:11:25Z | false | false | false | [
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3,278 | 日常 | 日常(にちじょう) | [
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] | 日常(にちじょう) 日常生活 - 常日頃(つねひごろ)
鎌倉時代の豪族・日蓮宗の僧である富木常忍の号名
日常 〜COM'ON! 超B級娯楽音楽〜 - 嘉門達夫のアルバム(1986年)
日常 (映画) - 2006年公開の日本映画
日常〜恋の声〜 - 2007年公開の日本映画、上記映画の続編
日常 (漫画) - あらゐけいいちによる漫画、及びそれを原作とするテレビアニメ
日常 - SUPER BEAVERのミニアルバム(2007年)
日常組 - ゲーム実況グループ、略称「日常」
日常 - Official髭男dismの楽曲。6thシングル『Chessboard / 日常』に収録。 | {{Wiktionary|日常}}
'''日常'''(にちじょう)
* [[日常生活]] - 常日頃(つねひごろ)
* [[鎌倉時代]]の豪族・[[日蓮宗]]の僧である[[富木常忍]]の号名
* [[日常 〜COM'ON! 超B級娯楽音楽〜]] - [[嘉門達夫]]のアルバム(1986年)
* [[日常 (映画)]] - 2006年公開の日本映画
** [[日常〜恋の声〜]] - 2007年公開の日本映画、上記映画の続編
* [[日常 (漫画)]] - [[あらゐけいいち]]による漫画、及びそれを原作とするテレビアニメ
* [[日常 (SUPER BEAVERのアルバム)]] - [[SUPER BEAVER]]のミニアルバム(2007年)
* [[日常組]] - ゲーム実況グループ、略称「'''日常'''」
* [[日常 (Official髭男dismの曲)]] - [[Official髭男dism]]のシングル『[[Chessboard/日常]]』に収録(2023年)
== 関連項目 ==
* {{Prefix|日常}}
* {{Intitle|日常}}
* [[Wikipedia:索引 にち#にちし]]
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[[Category:同名の作品]] | 2003-03-03T04:38:33Z | 2023-10-28T03:44:00Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%B8%B8 |
3,282 | レガシー (マジック:ザ・ギャザリング) | レガシーは、マジック・ザ・ギャザリングの大会ルール(フォーマット)のひとつ。
このフォーマットではいままでに発売されたすべての基本セットとすべてのエキスパンションのカードが使用できる。入門セット(ポータルなど)のカードやプロモーションカードも使用可能である。このようなフォーマットには他にヴィンテージがあるが、レガシーには制限カードが無く禁止カードのみである。 廃止されたフォーマットであるタイプ1.5とはカードプールこそ同じだが、禁止カードの指定方法がヴィンテージと切り離されたため、似て非なるフォーマットである。
フォーマットの特徴としてはパワー・ナインを筆頭としたパワーカードが軒並み禁止されていることもあり、カードプールの割には低速な環境。しかしカードの禁止基準は「先攻2ターン目で勝負を決めるデッキ」となっており、すなわち(それに違反しない)早いデッキも存在するため、決して速度をおろそかにはしてはいけない環境となっている。また、実際に勝負が決まるターンは遅くとも、それより前に事実上抵抗不可能にするデッキも存在するため、遅いデッキならばそれらに対抗する手段を用意することが必要である。
以前は、日本では競技人口が少なめのフォーマットであったが、都市圏を中心に競技人口が上昇傾向にあり、草の根大会の数も増えてきている。2015年にはグランプリ京都15にて、日本初、そしてアジア太平洋地域で初のレガシーグランプリが開催された。
Magic Onlineでもサポートされているが、基本的にサポートされているカードが第7版以降/ミラージュ・ブロック以降となっており、それ以前のカードは特殊セットに収録されているものの入手性に難があるカードも存在する。また、一部カードはそもそも収録されていないこともあり、アナログ環境とは違うデッキを要求されることがある。しかし再録禁止ポリシーはMOでは適用されないため、紙で組むよりはかなり安く組めることが多い。
2018年7月現在、アンティに関するすべてのカード9枚、カード・タイプが「策略」であるカード(コンスピラシー、コンスピラシー:王位争奪に収録されているドラフト専用カード)25枚、「人種や文化に対し攻撃的なカード」とされた7枚と、以下のカードが禁止カードとして指定されている。 | [
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] | レガシーは、マジック・ザ・ギャザリングの大会ルール(フォーマット)のひとつ。 このフォーマットではいままでに発売されたすべての基本セットとすべてのエキスパンションのカードが使用できる。入門セット(ポータルなど)のカードやプロモーションカードも使用可能である。このようなフォーマットには他にヴィンテージがあるが、レガシーには制限カードが無く禁止カードのみである。
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'''レガシー'''は、[[マジック・ザ・ギャザリング]]の大会ルール(フォーマット)のひとつ。
このフォーマットではいままでに発売されたすべての基本セットとすべてのエキスパンションのカードが使用できる。入門セット(ポータルなど)のカードやプロモーションカードも使用可能である。このようなフォーマットには他に[[ヴィンテージ (マジック:ザ・ギャザリング) |ヴィンテージ]]があるが、レガシーには制限カードが無く禁止カードのみである。
廃止されたフォーマットであるタイプ1.5とはカードプールこそ同じだが、禁止カードの指定方法がヴィンテージと切り離されたため、似て非なるフォーマットである。
フォーマットの特徴としては[[パワー・ナイン]]を筆頭としたパワーカードが軒並み禁止されていることもあり、カードプールの割には低速な環境。しかしカードの禁止基準は「先攻2ターン目で勝負を決めるデッキ」となっており、すなわち(それに違反しない)早いデッキも存在するため、決して速度をおろそかにはしてはいけない環境となっている。また、実際に勝負が決まるターンは遅くとも、それより前に事実上抵抗不可能にするデッキも存在するため、遅いデッキならばそれらに対抗する手段を用意することが必要である。
以前は、日本では競技人口が少なめのフォーマットであったが、都市圏を中心に競技人口が上昇傾向にあり、草の根大会の数も増えてきている。2015年にはグランプリ京都15にて、日本初、そしてアジア太平洋地域で初のレガシーグランプリが開催された。
Magic Onlineでもサポートされているが、基本的にサポートされているカードが第7版以降/ミラージュ・ブロック以降となっており、それ以前のカードは特殊セットに収録されているものの入手性に難があるカードも存在する。また、一部カードはそもそも収録されていないこともあり、アナログ環境とは違うデッキを要求されることがある。しかし再録禁止ポリシーはMOでは適用されないため、紙で組むよりはかなり安く組めることが多い<ref>同じことは[[ヴィンテージ (マジック:ザ・ギャザリング)|ヴィンテージ]]にも言える。</ref>。
== 禁止カード ==
2023年12月現在、[[トレーディングカードゲームの用語一覧#あ行|アンティ]]に関するすべてのカード9枚、カード・タイプが「策略」であるカード(コンスピラシー、コンスピラシー:王位争奪に収録されているドラフト専用カード)25枚、「人種や文化に対し攻撃的なカード」とされた7枚と、以下のカードが禁止カードとして指定されている。
* Ancestral Recall
* アーカムの天測儀/Arcum's Astrolabe
* 天秤/Balance
* Bazaar of Baghdad
* Black Lotus
* チャネル/Channel
* Chaos Orb
* 死儀礼のシャーマン/Deathrite Shaman
* Demonic Consultation
* 悪魔の教示者/Demonic Tutor
* 時を越えた探索/Dig Through Time
* 戦慄衆の秘儀術師/Dreadhorde Arcanist
* 大地の知識/Earthcraft
* 表現の反復/Expressive Iteration
* Falling Star
* Fastbond
* 閃光/Flash
* 大あわての捜索/Frantic Search
* ギタクシア派の調査/Gitaxian Probe
* ゴブリン徴募兵/Goblin Recruiter
* 噴出/Gush
* 隠遁ドルイド/Hermit Druid
* 伝国の玉璽/Imperial Seal
* Library of Alexandria
* 夢の巣のルールス/Lurrus of the Dream-Den
* 魔力の墓所/Mana Crypt
* マナ吸収/Mana Drain
* 魔力の櫃/Mana Vault
* 記憶の壺/Memory Jar
* 精神的つまづき/Mental Misstep
* 精神錯乱/Mind Twist
* Mishra's Workshop
* Mox Emerald
* Mox Jet
* Mox Pearl
* Mox Ruby
* Mox Sapphire
* 神秘の教示者/Mystical Tutor
* ネクロポーテンス/Necropotence
* ドルイドの誓い/Oath of Druids
* 王冠泥棒、オーコ/Oko, Thief of Crowns
* 敏捷なこそ泥、ラガバン/Ragavan, Nimble Pilferer
* 師範の占い独楽/Sensei's Divining Top
* Shahrazad
* 頭蓋骨絞め/Skullclamp
* 太陽の指輪/Sol Ring
* 露天鉱床/Strip Mine
* 適者生存/Survival of the Fittest
* Time Vault
* Time Walk
* Timetwister
* 修繕/Tinker
* トレイリアのアカデミー/Tolarian Academy
* 宝船の巡航/Treasure Cruise
* 死の国からの脱出/Underworld Breach
* 吸血の教示者/Vampiric Tutor
* Wheel of Fortune
* 白羽山の冒険者/White Plume Adventurer
* 意外な授かり物/Windfall
* レンと六番/Wrenn and Six
* ヨーグモスの取り引き/Yawgmoth's Bargain
* ヨーグモスの意志/Yawgmoth's Will
* 黎明起こし、ザーダ/Zirda, the Dawnwaker
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{マジック:ザ・ギャザリング}}
[[Category:マジック:ザ・ギャザリングのフォーマット|れかしい]] | 2003-03-03T06:02:52Z | 2023-12-03T13:39:57Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:マジック:ザ・ギャザリング"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%BC_(%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF:%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0) |
3,284 | エクステンデッド (マジック:ザ・ギャザリング) | エクステンデッドは、マジック・ザ・ギャザリングの大会ルール(フォーマット)のひとつ。
その名のとおりスタンダードより拡張された(Extend-ed)構築フォーマットで、過去4年間に発売された2-3の基本セットと4つのエキスパンションブロックが使える。ヴィンテージやレガシーより比較的入手しやすいセットやエキスパンションで構成されているのでカードが集めやすく、昔使っていたカードやデッキが使えるとあって日本でも人気が高い。スタンダードと比べるとスピードは速め。
ローテーションの形式はスタンダードと同じく、新たなブロックが登場するたび、一番古いブロックが使用できなくなるものである。基本セットは発売日当時のブロックと同時にローテーションする。2008年10月のローテーションまでは3年に1度、使用可能セットのローテーションが行われる制度だった。
プロツアー・フィラデルフィア11よりモダンが正式フォーマットに組み込まれたことにより、大会数が激減。プロレベルの大会としては2011年4月に行われたグランプリ神戸11が最後となっている。
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] | エクステンデッドは、マジック・ザ・ギャザリングの大会ルール(フォーマット)のひとつ。 その名のとおりスタンダードより拡張された(Extend-ed)構築フォーマットで、過去4年間に発売された2-3の基本セットと4つのエキスパンションブロックが使える。ヴィンテージやレガシーより比較的入手しやすいセットやエキスパンションで構成されているのでカードが集めやすく、昔使っていたカードやデッキが使えるとあって日本でも人気が高い。スタンダードと比べるとスピードは速め。 ローテーションの形式はスタンダードと同じく、新たなブロックが登場するたび、一番古いブロックが使用できなくなるものである。基本セットは発売日当時のブロックと同時にローテーションする。2008年10月のローテーションまでは3年に1度、使用可能セットのローテーションが行われる制度だった。 プロツアー・フィラデルフィア11よりモダンが正式フォーマットに組み込まれたことにより、大会数が激減。プロレベルの大会としては2011年4月に行われたグランプリ神戸11が最後となっている。 2013年7月22日、エクステンデッドが公式フォーマットから廃止されることが発表された。 | '''エクステンデッド'''は、[[マジック・ザ・ギャザリング]]の大会ルール(フォーマット)のひとつ。
その名のとおり[[スタンダード (マジック:ザ・ギャザリング)|スタンダード]]より'''拡張された(Extend-ed)'''構築フォーマットで、過去4年間に発売された2-3の基本セットと4つのエキスパンションブロックが使える。[[ヴィンテージ (マジック:ザ・ギャザリング)|ヴィンテージ]]や[[レガシー (マジック:ザ・ギャザリング)|レガシー]]より比較的入手しやすいセットやエキスパンションで構成されているのでカードが集めやすく、昔使っていたカードやデッキが使えるとあって日本でも人気が高い。スタンダードと比べるとスピードは速め。
ローテーションの形式はスタンダードと同じく、新たなブロックが登場するたび、一番古いブロックが使用できなくなるものである。基本セットは発売日当時のブロックと同時にローテーションする。2008年10月のローテーションまでは3年に1度、使用可能セットのローテーションが行われる制度だった。
プロツアー・フィラデルフィア11より[[モダン (マジック:ザ・ギャザリング)|モダン]]が正式フォーマットに組み込まれたことにより、大会数が激減。プロレベルの大会としては2011年4月に行われたグランプリ神戸11が最後となっている。
2013年7月22日、エクステンデッドが公式フォーマットから廃止されることが発表された<ref>「[http://www.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=mtg/daily/other/07222013 Retiring the Extended Format]」 Wizards of the Coast(2013年7月22日)</ref>。
==使用可能なカード==
2013年7月現在、エクステンデッドで使用可能なカードセットは、以下の通り<ref>「[http://www.wizards.com/Magic/TCG/Resources.aspx?x=judge/resources/sfrextended エクステンデッド・フォーマットのデッキ構築について]」 Wizards of the Coast(2013年4月22日)</ref>。
*基本セット
**基本セット2011
**基本セット2012
**基本セット2013
**基本セット2014
*ゼンディカーブロック
**ゼンディカー
**ワールドウェイク
**エルドラージ覚醒
*ミラディンの傷跡ブロック
**ミラディンの傷跡
**ミラディン包囲戦
**新たなるファイレクシア
*イニストラード・ブロック
**イニストラード
**闇の隆盛
**アヴァシンの帰還
*ラヴニカへの回帰ブロック
**ラヴニカへの回帰
**ギルド門侵犯
**ドラゴンの迷路
==禁止カード==
*精神を刻む者、ジェイス/Jace, the Mind Sculptor(2011年10月1日から)
*精神的つまづき/Mental Misstep(同上)
*思案/Ponder(同上)
*定業/Preordain(同上)
*石鍛冶の神秘家/Stoneforge Mystic (同上)
==脚注==
{{reflist}}
{{マジック:ザ・ギャザリング}}
[[Category:マジック:ザ・ギャザリングのフォーマット|えくすてんてつと]] | null | 2013-07-25T19:12:52Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:マジック:ザ・ギャザリング"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%89_(%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF:%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0) |
3,287 | 日本の行政機関 | 本項では、日本の行政機関(にほんのぎょうせいきかん)について解説する。
日本国政府の行政事務を担当する機関であり、府、省、委員会、庁などが挙げられる。国政の行政機関は、地方公共団体と区別して、「中央省庁」または「中央官庁」などと呼ばれることが多い。単に府省とも呼ばれる。
一般に内閣府設置法が定める内閣府及びその外局(行政委員会及び庁)並びに国家行政組織法が「国の行政機関」と定める省及びそれらの外局(行政委員会及び庁)をいう。また1府11省3庁とは、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省並びに国家公安委員会(警察庁)をいう。2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編によって現体制の大枠が出来た。なお、日本の行政機関は原則として内閣に属しているが、会計検査院は内閣に属さない唯一の日本の行政機関である。
行政機関のうち各省の長は、それぞれ「各省大臣」という(国家行政組織法第5条第1項)。各省大臣は、国務大臣の中から内閣総理大臣が命じ、または、内閣総理大臣自らこれに任じる(同条第3項)。各省大臣は、内閣法にいう「主任の大臣」として、それぞれ行政事務を分担管理する(同条)。その他、委員会の長は委員長とし、庁の長は長官とする(同法第6条)。
2023年(令和5年)4月1日現在の日本の行政機関の一覧である。 | [
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"text": "行政機関のうち各省の長は、それぞれ「各省大臣」という(国家行政組織法第5条第1項)。各省大臣は、国務大臣の中から内閣総理大臣が命じ、または、内閣総理大臣自らこれに任じる(同条第3項)。各省大臣は、内閣法にいう「主任の大臣」として、それぞれ行政事務を分担管理する(同条)。その他、委員会の長は委員長とし、庁の長は長官とする(同法第6条)。",
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] | 本項では、日本の行政機関(にほんのぎょうせいきかん)について解説する。 日本国政府の行政事務を担当する機関であり、府、省、委員会、庁などが挙げられる。国政の行政機関は、地方公共団体と区別して、「中央省庁」または「中央官庁」などと呼ばれることが多い。単に府省とも呼ばれる。 | {{出典の明記|date=2022年1月}}
{{日本の統治機構}}
本項では、'''[[日本]]の[[行政機関]]'''(にほんのぎょうせいきかん)について解説する。
[[日本国政府]]の[[行政事務]]を担当する機関であり、'''[[内閣府|府]]'''、'''[[省]]'''、'''[[行政委員会|委員会]]'''、'''[[庁]]'''などが挙げられる。[[国政]]の[[行政機関]]は、[[地方公共団体]]と区別して、「'''中央省庁'''」または「'''[[官庁#中央官庁と地方官庁|中央官庁]]'''」などと呼ばれることが多い。単に'''府省'''とも呼ばれる。
== 概説 ==
一般に[[内閣府設置法]]が定める[[内閣府]]及びその[[外局]]([[行政委員会]]及び[[庁]])並びに[[国家行政組織法]]が「国の行政機関」と定める[[省]]及びそれらの外局(行政委員会及び庁)をいう。また1府11省3庁とは、[[内閣府]]、[[デジタル庁]]、[[復興庁]]、[[総務省]]、[[法務省]]、[[外務省]]、[[財務省]]、[[文部科学省]]、[[厚生労働省]]、[[農林水産省]]、[[経済産業省]]、[[国土交通省]]、[[環境省]]、[[防衛省]]並びに[[国家公安委員会]]([[警察庁]])をいう。[[2001年]](平成13年)1月6日の[[中央省庁再編]]によって現体制の大枠が出来た。なお、日本の行政機関は原則として[[内閣 (日本)|内閣]]に属しているが、[[会計検査院]]は内閣に属さない唯一の日本の行政機関である。
行政機関のうち各省の長は、それぞれ「各省大臣」という(国家行政組織法第5条第1項){{Efn2|「○○省」の長の名称は「○○大臣」とし、「省」を付けない。例えば、[[総務省]]の長の名称は[[総務大臣]]である。}}。各省大臣は、[[国務大臣]]の中から[[内閣総理大臣]]が命じ、または、内閣総理大臣自らこれに任じる(同条第3項)。各省大臣は、[[内閣法]]にいう「[[主任の大臣]]」として、それぞれ行政事務を分担管理する(同条)。その他、委員会の長は委員長とし、庁の長は長官とする(同法第6条){{Efn2|「○○委員会」の長の名称は「○○委員会委員長」とし、「委員会」を付ける。また、「○○庁」の長の名称は「○○庁長官」とし、「庁」を付ける。例えば、[[国家公安委員会]]の長の名称は[[国家公安委員会委員長]]であり、[[警察庁]]の長の名称は[[警察庁長官]]である。}}{{Efn2|name="fukko"|[[デジタル庁]]及び[[復興庁]]は「庁」であるものの、主任の大臣が内閣総理大臣とされるほか、[[デジタル大臣]]及び[[復興大臣]]がそれぞれ置かれ、デジタル庁長官及び復興庁長官という官職は設置されない。また、事務次官級の官職として、デジタル監及び復興庁事務次官がそれぞれ設置される。}}{{Efn2|name="gaikyoku"|[[警察庁]]の長は[[警察庁長官]]であるが、同庁は、[[内閣府]]の[[外局]]で且ついわゆる[[大臣委員会]]である[[国家公安委員会]]の[[特別の機関]]であり、その上位には[[国務大臣]]たる[[国家公安委員会委員長]]が設置されている。また、[[金融庁]]及び[[消費者庁]]は内閣府の外局たる庁であり、その長はそれぞれ[[金融庁長官]]及び[[消費者庁#歴代長官|消費者庁長官]]であるが、金融庁の上位には[[内閣府特命担当大臣(金融担当)]]が、消費者庁の上位には[[内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)]]が、それぞれ設置されている。国家公安委員会委員長及び内閣府特命担当大臣(金融担当)が疑似的な各省大臣となっているため、警察庁及び金融庁は、「庁」でありながらも、[[内部部局]]として「部」ではなく「局」を設置している。}}。
== 現行の行政機関の一覧 ==
[[2023年]](令和5年)4月1日現在の日本の行政機関の一覧である。
;凡例
* 内閣直下の機関、[[府]][[省]]、[[特別の機関]]、[[外局]]及び[[会計検査院]]を記載した。
* [[内部部局]]、[[重要政策に関する会議]]、[[審議会#行政庁|審議会等]]、[[施設等機関]]、[[地方支分部局]]など、詳細は各行政機関の記事を参照のこと。
* 「機関名」欄の太字は'''国務大臣を主任の大臣とする行政機関'''、「長の名称」欄の太字は'''国務大臣が就く役職'''をそれぞれ示す(いずれも、[[充て職]]は除く)。
{| class="wikitable"
!colspan="4"|機関名!!長の名称!!設置根拠法、備考など
|-
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|'''[[内閣 (日本)|内閣]]'''||'''[[内閣総理大臣]]'''||[[日本国憲法]]、[[内閣法]]。
|-
| rowspan="127" style="border-top-style:none;" |
|colspan="3"|'''[[内閣官房]]'''||'''[[内閣官房長官]]'''{{efn-ua|name=shunin-soori}}||内閣法
|-
|colspan="3"|[[内閣法制局]]||[[内閣法制局長官]]{{efn-ua|name=shunin-soori}}||[[内閣法制局設置法]]
|-
|colspan="3"|[[国家安全保障会議 (日本)|国家安全保障会議]]||国家安全保障会議議長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[国家安全保障会議設置法]]
|-
|colspan="3"|[[都市再生本部]]||都市再生本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[都市再生特別措置法]]
|-
|colspan="3"|構造改革特別区域推進本部||構造改革特別区域推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[構造改革特別区域法]]
|-
|colspan="3"|[[知的財産戦略本部]]||知的財産戦略本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[知的財産基本法]]
|-
|colspan="3"|[[地球温暖化対策推進本部]]||地球温暖化対策推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[地球温暖化対策の推進に関する法律]]
|-
|colspan="3"|[[地域再生本部]]||地域再生本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[地域再生法]]
|-
|colspan="3"|郵政民営化推進本部||郵政民営化推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[郵政民営化法]]
|-
|colspan="3"|中心市街地活性化本部||中心市街地活性化本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[中心市街地の活性化に関する法律]]
|-
|colspan="3"|[[道州制特別区域における広域行政の推進に関する法律#道州制特別区域推進本部|道州制特別区域推進本部]]||道州制特別区域推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[道州制特別区域における広域行政の推進に関する法律]]
|-
|colspan="3"|[[総合海洋政策本部]]||総合海洋政策本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[海洋基本法]]
|-
|colspan="3"|[[宇宙開発戦略本部]]||宇宙開発戦略本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[宇宙基本法]]
|-
|colspan="3"|総合特別区域推進本部||総合特別区域推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[総合特別区域法]]
|-
|colspan="3"|[[原子力防災会議]]||原子力防災会議議長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[原子力基本法]]
|-
|colspan="3"|国土強靭化推進本部||国土強靭化推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靱化基本法
|-
|colspan="3"|健康・医療戦略推進本部||健康・医療戦略推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||健康・医療戦略推進法
|-
|colspan="3"|[[水循環政策本部]]||水循環政策本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[水循環基本法]]
|-
|colspan="3"|[[まち・ひと・しごと創生本部]]||まち・ひと・しごと創生本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[まち・ひと・しごと創生法]]
|-
|colspan="3"|サイバーセキュリティ戦略本部||サイバーセキュリティ戦略本部長{{efn-ua|name=kanboate|内閣官房長官の充て職。}}||[[サイバーセキュリティ基本法]]
|-
|colspan="3"|[[特定複合観光施設区域整備推進本部]]||特定複合観光施設区域整備推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律]]
|-
|colspan="3"|ギャンブル等依存症対策推進本部||ギャンブル等依存症対策推進本部長{{efn-ua|name=kanboate}}||[[ギャンブル等依存症対策基本法]]
|-
|colspan="3"|アイヌ政策推進本部||アイヌ政策推進本部長{{efn-ua|name=kanboate}}||[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律|アイヌの<wbr>人々の<wbr>誇りが<wbr>尊重される<wbr>社会を<wbr>実現するための<wbr>施策の<wbr>推進に<wbr>関する<wbr>法律]]
|-
|colspan="3"|国際博覧会推進本部||国際博覧会推進本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[令和七年に開催される国際博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律|令和七年に<wbr>開催される<wbr>国際博覧会の<wbr>準備<wbr>及び<wbr>運営のために<wbr>必要な<wbr>特別措置に<wbr>関する<wbr>法律]]
|-
|colspan="3"|[[新型インフルエンザ等対策推進会議]]||新型インフルエンザ等対策推進会議議長||新型インフルエンザ等対策特別措置法
|-
|colspan="3"|[[人事院]]||[[人事院#歴代人事院総裁|人事院総裁]]||[[国家公務員法]]。「内閣の所轄の下」に置かれる。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[内閣府]]'''||'''内閣総理大臣'''||[[内閣府設置法]]
|-
|rowspan="28" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[地方創生推進事務局]]||地方創生推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の[[特別の機関]]。
|-
|colspan="2"|[[知的財産戦略推進事務局]]||知的財産戦略推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|科学技術・イノベーション推進事務局||科学技術・イノベーション推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|健康・医療戦略推進事務局||健康・医療戦略推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|宇宙開発戦略推進事務局||宇宙開発戦略推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[北方対策本部]]||北方対策本部長{{efn-ua|name=tokumeiate}}||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|総合海洋政策推進事務局||総合海洋政策推進事務局長||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[金融危機対応会議]]||金融危機対応会議議長{{efn-ua|name=shushoate}}||内閣府設置法。内閣府の特別の機関。
|-
| colspan="2" |民間資金等活用事業推進会議||民間資金等活用事業推進会議会長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律|民間資金等の<wbr>活用による<wbr>公共施設等の<wbr>整備等の<wbr>促進に<wbr>関する<wbr>法律]]。内閣府の特別の機関。
|-
| colspan="2" |高齢社会対策会議||高齢社会対策会議会長{{efn-ua|name=shushoate}}||高齢社会対策基本法。内閣府の特別の機関。
|-
| colspan="2" |中央交通安全対策会議||中央交通安全対策会議会長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[交通安全対策基本法]]。内閣府の特別の機関。
|-
| colspan="2" |犯罪被害者等施策推進会議||犯罪被害者等施策推進会議会長{{efn-ua|name=kanboate}}||[[犯罪被害者等基本法]]。内閣府の特別の機関。
|-
| colspan="2" |[[消費者政策会議]]||[[消費者政策会議会長]]{{efn-ua|name=shushoate}}||[[消費者基本法]]。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[国際平和協力本部]]||国際平和協力本部長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律]]。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[日本学術会議]]||[[日本学術会議会長]]||日本学術会議法。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[官民人材交流センター]]||官民人材交流センター長{{efn-ua|name=kanboate}}||[[国家公務員法]]。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|食品ロス削減推進会議||食品ロス削減推進会議会長{{efn-ua|name=tokumeiate}}||食品ロスの削減の推進に関する法律。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[原子力立地会議]]||原子力立地会議議長{{efn-ua|name=shushoate}}||[[原子力発電施設等立地地域の振興に関する特別措置法]]。内閣府の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[宮内庁]]||[[宮内庁#長官|宮内庁長官]]||内閣府設置法、[[宮内庁法]]。内閣府の外局ではないが、「内閣府に置かれるものとする」(内閣府設置法第48条)。
|-
|colspan="2"|[[公正取引委員会]]||[[公正取引委員会委員長]]||内閣府設置法、[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]]。「内閣総理大臣の所轄」に属する、内閣府の外局。
|-
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|'''[[国家公安委員会]]'''||'''[[国家公安委員会委員長]]'''||内閣府設置法、[[警察法]]。「内閣総理大臣の所轄の下」に置かれ(同法第4条第1項)、「警察庁を管理」(同法第5条第2項)する内閣府の外局。
|-
|style="border-top-style:none;"|
|'''[[警察庁]]'''||[[警察庁長官]]||警察法。国家公安委員会の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[個人情報保護委員会]]||個人情報保護委員会委員長||内閣府設置法、[[個人情報の保護に関する法律]]。「内閣総理大臣の所轄」に属する(個人情報保護法第50条2項)、内閣府の外局。
|-
|colspan="2"|[[カジノ管理委員会]]||カジノ管理委員会委員長||内閣府設置法、[[特定複合観光施設区域整備法]]。「内閣総理大臣の所轄」に属する、内閣府の外局。
|-
|colspan="2"|'''[[金融庁]]'''||[[金融庁長官]]{{efn2|name=kinyu|金融庁の所掌事務については、'''[[内閣府特命担当大臣(金融担当)]]'''が置かれる(内閣府設置法第11条)。}}||内閣府設置法、[[金融庁設置法]]。内閣府の外局。
|-
|colspan="2"|'''[[消費者庁]]'''||[[消費者庁#歴代長官|消費者庁長官]]{{efn2|name=shohisha|消費者庁の所掌事務については、'''[[内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)]]'''が置かれる(内閣府設置法第11条の2)。}}||内閣府設置法、[[消費者庁及び消費者委員会設置法]]。内閣府の外局。
|-
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|'''[[こども家庭庁]]'''||[[こども家庭庁#歴代長官|こども家庭庁長官]]{{efn2|name=kodomo|こども家庭庁の所掌事務については、'''[[こども家庭庁#内閣府特命担当大臣(こども政策)|こども政策担当の特命担当大臣]]'''が置かれる(内閣府設置法第11条の3)。}}||内閣府設置法、[[こども家庭庁設置法]]。内閣府の外局。
|-
|style="border-top-style:none;"|
|こども政策推進会議||こども政策推進会議会長{{efn-ua|name=shushoate}}||こども家庭庁設置法、[[こども基本法]]。こども家庭庁の特別の機関。
|-
|colspan="3"|'''[[デジタル庁]]'''||'''内閣総理大臣'''{{efn2|name=digital1|デジタル庁設置法第6条。ただし、デジタル庁の事務を統括し、職員の服務について統督するために、デジタル庁に'''[[デジタル大臣]]'''を置く(デジタル庁設置法第8条)。}}||[[デジタル庁設置法]]
|-
|colspan="3"|'''[[復興庁]]'''||'''内閣総理大臣'''{{efn2|name=fukkou1|復興庁設置法第6条。ただし、復興庁の事務を統括し、職員の服務について統督するために、復興庁に'''[[復興大臣]]'''を置く(復興庁設置法第8条)。}}||[[復興庁設置法]]
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[総務省]]'''||'''[[総務大臣]]'''||[[総務省設置法]]
|-
|rowspan="5" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[中央選挙管理会]]||中央選挙管理会委員長||総務省設置法。総務省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[政治資金適正化委員会]]||[[政治資金適正化委員会委員長]]||[[政治資金規正法]]。総務省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[自治紛争処理委員]]||-||[[地方自治法]]。総務省の特別の機関。事件ごとに総務大臣が任命する。
|-
|colspan="2"|[[公害等調整委員会]]||[[公害等調整委員会委員長]]||公害等調整委員会設置法。総務省の外局。
|-
|colspan="2"|[[消防庁]]||[[消防庁長官]]||[[消防組織法]]。総務省の外局。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[法務省]]'''||'''[[法務大臣]]'''||[[法務省設置法]]
|-
|rowspan="4" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[検察庁]]{{efn-ua|[[最高検察庁]]のほか、2020年(令和2年)10月現在、[[高等検察庁]]は8、[[地方検察庁]]は50、[[区検察庁]]は438。}}||[[検事総長]]{{efn-ua|最高検察庁の長である検事総長が、すべての検察庁の職員を指揮監督する権限を有する(検察庁法第7条第1項)。}}||法務省設置法、[[検察庁法]]。法務省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[出入国在留管理庁]]||出入国在留管理庁長官||法務省設置法。法務省の外局。
|-
|colspan="2"|[[公安審査委員会]]||公安審査委員会委員長||[[公安審査委員会設置法]]。法務省の外局。
|-
|colspan="2"|[[公安調査庁]]||公安調査庁長官||[[公安調査庁設置法]]。法務省の外局。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[外務省]]'''||'''[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]'''||[[外務省設置法]]
|-
|style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[在外公館]]{{efn-ua|2021年(令和3年)1月現在、[[大使館]]は195、[[総領事館]]は66、[[政府代表部]]は11(兼館含む。)。}}||在外公館長||外務省設置法。外務省の特別の機関。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[財務省]]'''||'''[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]'''||[[財務省設置法]]
|-
|rowspan="2" style="border-top-style:none;" |
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|[[国税庁]]||[[国税庁#歴代の国税庁長官|国税庁長官]]||財務省設置法。財務省の外局。
|-
|style="border-top-style:none;"|
|[[国税不服審判所]]||国税不服審判所長||財務省設置法。国税庁の特別の機関。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[文部科学省]]'''||'''[[文部科学大臣]]'''||[[文部科学省設置法]]
|-
|rowspan="6" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[日本学士院]]||日本学士院院長||日本学士院法。文部科学省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[地震調査研究推進本部]]||地震調査研究推進本部長{{efn-ua|文部科学大臣の充て職。}}||[[地震防災対策特別措置法]]。文部科学省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[日本ユネスコ国内委員会]]||日本ユネスコ国内委員会会長||ユネスコ活動に関する法律。文部科学省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[スポーツ庁]]||スポーツ庁長官||文部科学省設置法。文部科学省の外局。
|-
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|[[文化庁]]||文化庁長官||文部科学省設置法。文部科学省の外局。
|-
|style="border-top-style:none;"|
|[[日本芸術院]]||日本芸術院院長||文部科学省設置法。文化庁の特別の機関。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[厚生労働省]]'''||'''[[厚生労働大臣]]'''|||[[厚生労働省設置法]]
|-
|rowspan="4" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[死因究明等推進本部]]||死因究明等推進本部長{{efn-ua|name=kouseiroudoate}}||死因究明等推進基本法。厚生労働省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[自殺総合対策会議]]||自殺総合対策会議会長{{efn-ua|name=kouseiroudoate}}||[[自殺対策基本法]]。厚生労働省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[中央駐留軍関係離職者等対策協議会]]||中央駐留軍関係離職者等対策協議会会長{{efn-ua|name=kouseiroudoate}}||駐留軍関係離職者臨時措置法。厚生労働省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[中央労働委員会]]||中央労働委員会会長||厚生労働省設置法、[[労働組合法]]、[[労働関係調整法]]等。厚生労働省の外局。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[農林水産省]]'''||'''[[農林水産大臣]]'''||[[農林水産省設置法]]
|-
|rowspan="9" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[農林水産技術会議]]||農林水産技術会議会長||農林水産省設置法。農林水産省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|食育推進会議||食育推進会議会長{{efn-ua|name=nourinnsuisanate}}||[[食育基本法]]。農林水産省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|農林水産物・食品輸出本部||農林水産物・食品輸出本部長{{efn-ua|name=nourinnsuisanate}}||[[農林水産物及び食品の輸出の促進に関する法律]]。農林水産省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|木材利用促進本部||木材利用促進本部長{{efn-ua|name=nourinnsuisanate}}||脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律。農林水産省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[林野庁]]||[[林野庁#歴代の林野庁長官|林野庁長官]]||農林水産省設置法。農林水産省の外局。
|-
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|[[水産庁]]||水産庁長官||農林水産省設置法。農林水産省の外局。
|-
|rowspan="3" style="border-top-style:none;"|
|太平洋広域漁業調整委員会||太平洋広域漁業調整委員会会長||[[漁業法]]。水産庁の特別の機関。
|-
|日本海・九州西広域漁業調整委員会||日本海・九州西広域漁業調整委員会会長||漁業法。水産庁の特別の機関。
|-
|瀬戸内海広域漁業調整委員会||瀬戸内海広域漁業調整委員会会長||漁業法。水産庁の特別の機関。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[経済産業省]]'''||'''[[経済産業大臣]]'''||[[経済産業省設置法]]
|-
|rowspan="3" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|[[資源エネルギー庁]]||資源エネルギー庁長官||経済産業省設置法。経済産業省の外局。
|-
|colspan="2"|[[特許庁]]||[[特許庁長官]]||経済産業省設置法。経済産業省の外局。
|-
|colspan="2"|[[中小企業庁]]||中小企業庁長官||[[中小企業庁設置法]]。経済産業省の外局。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[国土交通省]]'''||'''[[国土交通大臣]]'''||[[国土交通省設置法]]
|-
|rowspan="8" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[国土地理院]]||国土地理院長||国土交通省設置法。国土交通省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[小笠原総合事務所]]||小笠原総合事務所長||国土交通省設置法。国土交通省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|自転車活用推進本部||自転車活用推進本部長{{efn-ua|name=kokudokoutuate}}||自転車活用推進法。国土交通省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[海難審判所]]||海難審判所長||[[海難審判法]]。国土交通省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[観光庁]]||観光庁長官||国土交通省設置法。国土交通省の外局。
|-
|colspan="2"|[[気象庁]]||気象庁長官||国土交通省設置法。国土交通省の外局。
|-
|colspan="2"|[[運輸安全委員会]]||運輸安全委員会委員長||国土交通省設置法。国土交通省の外局。
|-
|colspan="2"|[[海上保安庁]]||[[海上保安庁長官]]||[[海上保安庁法]]。国土交通省の外局。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[環境省]]'''||'''[[環境大臣]]'''||[[環境省設置法]]
|-
|rowspan="2" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|公害対策会議||公害対策会議会長{{efn-ua|環境大臣の充て職。}}||[[環境基本法]]。環境省の特別の機関。
|-
| colspan="2" style="border-bottom-style:none;" |[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]||原子力規制委員会委員長{{efn-ua|委員長及び委員は、人格が高潔であって、原子力利用における安全の確保に関して専門的知識及び経験並びに高い識見を有する者のうちから、両議院の同意を得て[[内閣総理大臣]]が任命する(法7条1項)。}}||原子力規制委員会設置法。環境省の外局。事務局として原子力規制庁が置かれる。
|-
|colspan="3" style="border-bottom-style:none;"|'''[[防衛省]]'''||'''[[防衛大臣]]'''||[[防衛省設置法]]。2007年(平成19年)1月9日、内閣府の外局であった防衛庁から省に昇格。
|-
|rowspan="15" style="border-top-style:none;"|
|colspan="2"|[[防衛会議]]||防衛会議議長{{efn-ua|name=boueiate}}||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|rowspan="4"|幕僚監部||[[統合幕僚監部]]||[[統合幕僚長]]||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[陸上幕僚監部]]{{efn-ua|陸上自衛隊に含まれる。}}||[[陸上幕僚長]]||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[海上幕僚監部]]{{efn-ua|海上自衛隊に含まれる。}}||[[海上幕僚長]]||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[航空幕僚監部]]{{efn-ua|航空自衛隊に含まれる。}}||[[航空幕僚長]]||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|rowspan="5"|自衛隊の<wbr>部隊<wbr>及び<wbr>機関||[[陸上自衛隊]]{{efn-ua|この表では、陸上自衛隊のうち、統合幕僚長及び陸上幕僚長の監督を受ける部隊及び機関を指す。}}||陸上幕僚長{{efn-ua|陸上自衛隊の部隊及び機関に対する防衛大臣の指揮監督について、陸上幕僚監部の所掌隊務についてはその長である陸上幕僚長を通じて行い、統合幕僚監部の所掌隊務についてはその長である統合幕僚長を通じて行う(自衛隊法第8条)。}}||防衛省設置法、[[自衛隊法]]。防衛省の特別の機関。
|-
|[[海上自衛隊]]{{efn-ua|この表では、海上自衛隊のうち、統合幕僚長及び海上幕僚長の監督を受ける部隊及び機関を指す。}}||海上幕僚長{{efn-ua|海上自衛隊の部隊及び機関に対する防衛大臣の指揮監督について、海上幕僚監部の所掌隊務についてはその長である海上幕僚長を通じて行い、統合幕僚監部の所掌隊務についてはその長である統合幕僚長を通じて行う(自衛隊法第8条)。}}||防衛省設置法、自衛隊法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[航空自衛隊]]{{efn-ua|この表では、航空自衛隊のうち、統合幕僚長及び航空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関を指す。}}||航空幕僚長{{efn-ua|航空自衛隊の部隊及び機関に対する防衛大臣の指揮監督について、航空幕僚監部の所掌隊務についてはその長である航空幕僚長を通じて行い、統合幕僚監部の所掌隊務についてはその長である統合幕僚長を通じて行う(自衛隊法第8条)。}}||防衛省設置法、自衛隊法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[共同の部隊 (自衛隊)|陸上自衛隊、<wbr>海上自衛隊<wbr>及び<wbr>航空自衛隊の<wbr>共同の<wbr>部隊]]||幕僚長{{efn-ua|共同の部隊の運用に係る防衛大臣の指揮は統合幕僚長を通じて行い、これに関する防衛大臣の命令は統合幕僚長が執行するほか、共同の部隊に対する防衛大臣の指揮監督について各幕僚長の行う職務は、防衛大臣が定める(自衛隊法第21条の2第2項)。}}||防衛省設置法、自衛隊法。防衛省の特別の機関。
|-
|[[共同の機関 (自衛隊)|陸上自衛隊、<wbr>海上自衛隊<wbr>及び<wbr>航空自衛隊の<wbr>共同の<wbr>機関]]||幕僚長{{efn-ua|共同の機関に対する防衛大臣の指揮監督について各幕僚長の行う職務は、防衛大臣が定める(自衛隊法第24条第6項)。}}||防衛省設置法、自衛隊法。防衛省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[情報本部]]||情報本部長||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[防衛監察本部]]||防衛監察監||防衛省設置法。防衛省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|([[外国軍用品審判所]])||外国軍用品審判所長||[[武力攻撃事態及び存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律|武力攻撃事態<wbr>及び<wbr>存立危機事態における<wbr>外国軍用品等の<wbr>海上輸送の<wbr>規制に<wbr>関する<wbr>法律]]。防衛省の特別の機関。臨時に置かれる。
|-
|colspan="2"|駐留軍等再編関連振興会議||駐留軍等再編関連振興会議議長{{efn-ua|name=boueiate}}||[[駐留軍等の再編の円滑な実施に関する特別措置法]]。防衛省の特別の機関。
|-
|colspan="2"|[[防衛装備庁]]||防衛装備庁長官||防衛省設置法。防衛省の外局。
|-
|colspan="4"|[[会計検査院]]||[[検査官|会計検査院長]]||日本国憲法、[[会計検査院法]]。内閣に対して独立した地位を有する。
|}
{{notelist-ua|2|refs=
{{efn-ua|name=shunin-soori|主任の大臣は内閣総理大臣。}}
{{efn-ua|name=shushoate|内閣総理大臣の充て職。}}
{{efn-ua|name=kanboate|内閣官房長官の充て職。}}
{{efn-ua|name=tokumeiate|内閣府特命担当大臣の充て職。}}
{{efn-ua|name=kouseiroudoate|厚生労働大臣の充て職。}}
{{efn-ua|name=nourinnsuisanate|農林水産大臣の充て職。}}
{{efn-ua|name=kokudokoutuate|国土交通大臣の充て職。}}
{{efn-ua|name=boueiate|防衛大臣の充て職。}}
}}
== 現行の行政機関の組織図 ==
*2023年(令和5年)5月8日現在の日本の行政機関の組織図である。
*内閣直下の機関、[[内閣府|府]][[省]]、[[特別の機関]]、[[外局]]及び[[会計検査院]]を記載した。
{{Hidden
| bg1 = #ccccff; font-size: 90%;
| ta1 = left; color:green;
| header = 行政機構図
| content =
{{familytree/start}}
{{familytree|CAB |v|-|v|-|-|-|-|.| | | |,|.| | | | CAB=[[内閣 (日本)|内閣]]}}
{{familytree| | | |!| |`|CS | |)|CLB |!|)|NEPC | CS=[[内閣官房]]|CLB=[[内閣法制局]]|NEPC=[[原子力防災会議]]}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|SECC |!|)|HPNR | SECC=[[国家安全保障会議 (日本)|国家安全保障会議]]|HPNR=国土強靭化推進本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|URH |!|)|HHP | URH=[[都市再生本部]]|HHP=健康・医療戦略推進本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HSZSR|!|)|HWCP | HSZSR=構造改革特別区域推進本部|HWCP=水循環政策本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|IPSH |!|)|OPDVL| IPSH=[[知的財産戦略本部]]|OPDVL=[[まち・ひと・しごと創生本部]]}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|GWPH |!|)|CSH | GWPH=[[地球温暖化対策推進本部]]|CSH=サイバーセキュリティ戦略本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HRR |!|)|SCTFA| HRR=地域再生本部|SCTFA=[[特定複合観光施設区域整備推進本部|特定複合観光施設区域]]<br/>[[特定複合観光施設区域整備推進本部|整備推進本部]]}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HPPPS|!|)|HPGA | HPPPS=郵政民営化推進本部|HPGA=ギャンブル等依存症対策推進本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|CCVH |!|)|APPH | CCVH=中心市街地活性化本部|APPH=アイヌ政策推進本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HSZRG|!|)|SHWE | HSZRG=道州制特別区域推進本部|SHWE=国際博覧会推進本部}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HOP |!|)|PCNI | HOP=[[総合海洋政策本部]]|PCNI=新型インフルエンザ等対策推進会議}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|SHSP |!|`|NPA | SHSP=[[宇宙開発戦略本部]]|NPA=[[人事院]]}}
{{familytree| | | |!| | | | | | |)|HDCSZ|!| | | | | HDCSZ=総合特別区域推進本部}}
{{familytree| |,|-|'| | | | | | |`|-|-|-|'| | | | |}}
{{familytree| |)|CO |v|-|-|-|-|.| | | |,|.| | | | CO=[[内閣府]]}}
{{familytree| |!| | | |)|IHA | |)|BOPVL|!|)|ASC | IHA=[[宮内庁]]|BOPVL=地方創生推進事務局|ASC=高齢社会対策会議}}
{{familytree| |!| | | |)|FTC | |)|SIPSH|!|)|CTSPC| FTC=[[公正取引委員会]]|SIPSH=知的財産戦略推進事務局|CTSPC=中央交通安全対策会議}}
{{familytree| |!| | | |)|NPSC |.|)|SSTI |!|)|CPPCV| NPSC=[[国家公安委員会]]|SSTI=科学技術・イノベーション推進事務局|CPPCV=犯罪被害者等施策推進会議}}
{{familytree| |!| | | |)|SPI |!|)|SHP |!|)|CPC | SPI=[[個人情報保護委員会]]|SHP=健康・医療戦略推進事務局|CPC=[[消費者政策会議]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JCRC |!|)|UCJIM|!|)|IPCH | JCRC=[[カジノ管理委員会]]|UCJIM=宇宙開発戦略推進事務局|IPCH=[[国際平和協力本部]]}}
{{familytree| |!| | | |)|FSA |!|)|NTAA |!|)|SCJ | FSA=[[金融庁]]|NTAA=[[北方対策本部]]|SCJ=[[日本学術会議]]}}
{{familytree| |!| | | |)|CAA |!|)|OSEAJ|!|)|CPIGP| CAA=[[消費者庁]]|OSEAJ=総合海洋政策推進事務局|CPIGP=[[官民人材交流センター]]}}
{{familytree| |!| | | |`|CFA |!|)|FSMC |!|)|CPFWR| CFA=[[こども家庭庁]]|FSMC=[[金融危機対応会議]]|CPFWR=食品ロス削減推進会議}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!|)|CPPFI|!|`|CNPSR| CPPFI=民間資金等活用事業推進会議|CNPSR=原子力立地会議}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!|`|-|-|-|'| | | | }}
{{familytree| |!| | | | | | | |`|-|NPA | | | | | | NPA=[[警察庁]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|DA | | | | | | | | | | | | | | | DA=[[デジタル庁]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|RA | | | | | | | | | | | | | | | RA=[[復興庁]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MIC |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MIC=[[総務省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|EDCC | |)|CEMC | | | | | | EDCC=[[公害等調整委員会]]|CEMC=[[中央選挙管理会]]}}
{{familytree| |!| | | |`|FDMA | |)|NCMPF| | | | | | FDMA=[[消防庁]]|NCMPF=[[政治資金適正化委員会]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | |`|CLDM | | | | | | CLDM=[[自治紛争処理委員]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MOJ |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MOJ=[[法務省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|ISA | |`|PPO | | | | | | ISA=[[出入国在留管理庁]]|PPO=[[検察庁]]}}
{{familytree| |!| | | |)|PSEC | | | | | | | | | | | PSEC=[[公安審査委員会]]}}
{{familytree| |!| | | |`|PSIA | | | | | | | | | | | PSIA=[[公安調査庁]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MOFA |-|-|-|-|-|-|OE | | | | | | MOFA=[[外務省]]|OE=[[在外公館]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MOF |.| | | | | | | | | | | | | | MOF=[[財務省]]}}
{{familytree| |!| | | |`|NTA |-|-|NTT | | | | | | NTA=[[国税庁]]|NTT=[[国税不服審判所]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MEXT |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MEXT=[[文部科学省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JSA | |)|JA | | | | | | JSA=[[スポーツ庁]]|JA=[[日本学士院]]}}
{{familytree| |!| | | |`|ACA |.|)|HERP | | | | | | ACA=[[文化庁]]|HERP=[[地震調査研究推進本部]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!|`|JNCU | | | | | | JNCU=[[日本ユネスコ国内委員会]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }}
{{familytree| |!| | | | | | | |`|-|JAA | | | | | | JAA=[[日本芸術院]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MHLW |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MHLW=[[厚生労働省]]}}
{{familytree| |!| | | |`|CLRC | |)|CPCE | | | | | | CLRC=[[中央労働委員会]]|CPCE=[[死因究明等推進本部]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | |)|CPSP | | | | | | CPSP=[[自殺総合対策会議]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | |`|CRGRK| | | | | | CRGRK=中央駐留軍関係<br/>離職者等対策協議会}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MAFF |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MAFF=[[農林水産省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|FRA | |)|AFFRC| | | | | | FRA=[[林野庁]]|AFFRC=[[農林水産技術会議]]}}
{{familytree| |!| | | |`|FSA |.|)|SPC | | | | | | FSA=[[水産庁]]|SPC=食育推進会議}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!|)|EAFFF| | | | | | EAFFF=農林水産物・食品輸出本部}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!|`|WUPH | | | | | | WUPH=木材利用促進本部}}
{{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }}
{{familytree| |!| | | | | | | |)|-|PFCC | | | | | | PFCC=太平洋広域<br />漁業調整委員会}}
{{familytree| |!| | | | | | | |)|-|JKFCC| | | | | | JKFCC=日本海・九州西広域<br />漁業調整委員会}}
{{familytree| |!| | | | | | | |`|-|SFCC | | | | | | SFCC=瀬戸内海広域<br />漁業調整委員会}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|METI |.| | | | | | | | | | | | | | METI=[[経済産業省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|ANRE | | | | | | | | | | | ANRE=[[資源エネルギー庁]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JPO | | | | | | | | | | | JPO=[[特許庁]]}}
{{familytree| |!| | | |`|SEMA | | | | | | | | | | | SEMA=[[中小企業庁]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MLIT |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MLIT=[[国土交通省]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JTA | |)|GSI | | | | | | JTA=[[観光庁]]|GSI=[[国土地理院]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JMA | |)|OGO | | | | | | JMA=[[気象庁]]|OGO=[[小笠原総合事務所]]}}
{{familytree| |!| | | |)|JTSB | |)|BUPH | | | | | | JTSB=[[運輸安全委員会]]|BUPH=自転車活用推進本部}}
{{familytree| |!| | | |`|JCG | |`|JMAT | | | | | | JCG=[[海上保安庁]]|JMAT=[[海難審判所]]}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |)|MOE |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MOE=[[環境省]]}}
{{familytree| |!| | | |`|NRA | |`|CEPC | | | | | | NRA=[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]|CEPC=公害対策会議}}
{{familytree| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree| |`|MOD |v|-|-|-|-|.| | | | | | | | | MOD=[[防衛省]]}}
{{familytree| | | | | |`|ATLA | |)|DC | | | | | | ATLA=[[防衛装備庁]]|DC=[[防衛会議]]}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|JSO |v|v|BUTAI| JSO=[[統合幕僚監部]]|BUTAI=[[共同の部隊 (自衛隊)|陸上自衛隊、海上自衛隊及び<br />航空自衛隊の共同の部隊]]}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|JGSDF|(|`|KIKAN| JGSDF=[[陸上自衛隊]]<ref group="注">[[陸上幕僚監部]]、陸上自衛隊の部隊及び機関</ref>|KIKAN=[[共同の機関 (自衛隊)|陸上自衛隊、海上自衛隊及び<br />航空自衛隊の共同の機関]]}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|JMSDF|(| | | | | JMSDF=[[海上自衛隊]]<ref group="注">[[海上幕僚監部]]、海上自衛隊の部隊及び機関</ref>}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|JASDF|'| | | | | JASDF=[[航空自衛隊]]<ref group="注">[[航空幕僚監部]]、航空自衛隊の部隊及び機関</ref>}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|DIH | | | | | | DIH=[[情報本部]]}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|IGO | | | | | | IGO=[[防衛監察本部]]}}
{{familytree| | | | | | | | | | |)|FMT | | | | | | FMT=([[外国軍用品審判所]])}}
{{familytree| | | | | | | | | | |`|CRGSK| | | | | | CRGSK=駐留軍等再編関連振興会議}}
{{familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{familytree|BAJ | | | | | | | | | | | | | | | | | BAJ=[[会計検査院]]}}
{{familytree/end}}
}}
==中央省庁再編以降の廃止、新設外局==
===廃止された外局===
*[[郵政事業庁]]([[総務省]]) - 2003年(平成15年)4月1日廃止。現業部門と現業管理部門は[[特殊法人]]である[[日本郵政公社]]へ組織移行。郵政業務の企画立案機能等は総務省郵政行政局へ移管。なお、日本郵政公社は[[郵政民営化法]](平成17年法律第97号)等により、2007年(平成19年)10月1日に部門ごとに分割して[[株式会社 (日本)|株式会社]]化され、'''[[日本郵政|日本郵政株式会社]]'''となった。
*[[食糧庁]]([[農林水産省]]) - 2003年(平成15年)7月1日廃止。その機能は総合食料局として農林水産省本省に統合された。
*[[司法試験管理委員会]]([[法務省]]) - 2004年(平成16年)1月1日廃止。その機能は'''[[司法試験委員会]]'''に移行。国家行政組織法第3条第2項に規定する「省の外局たる委員会」から、同法第8条に規定する「省の審議会等」(外局の委員会より独立性が弱い)に事実上の格下げがなされた。
*[[防衛施設庁]]([[防衛省]]) - 2007年(平成19年)9月1日廃止。その機能は防衛省[[内部部局]]、特別の機関である[[装備施設本部]]及び新設の[[地方防衛局]]に移管された。
*[[船員労働委員会]]([[国土交通省]]) - 2008年(平成20年)10月1日廃止。集団的紛争調整事務については、厚生労働省の外局である[[中央労働委員会]]及び、[[都道府県]]に置かれる[[行政委員会]]である[[都道府県労働委員会]]に移管された。また、政策諮問に対する調査審議事務については、国土交通省の審議会等である[[交通政策審議会]]及び地方交通審議会に移管された。
*[[海難審判庁]]([[国土交通省]]) - 2008年(平成20年)10月1日廃止。懲戒処分業務については国土交通省の新設の特別の機関である[[海難審判所]]に、事故原因究明事務については国土交通省の新設の外局である[[運輸安全委員会]]にそれぞれ移管された。
*[[社会保険庁]]([[厚生労働省]]) - 2009年(平成21年)12月31日廃止。新たに[[特殊法人]]である'''[[日本年金機構]]'''が発足した。
===新設された外局===
*[[運輸安全委員会]]([[国土交通省]]) - 2008年(平成20年)10月1日新設。母体は、[[航空・鉄道事故調査委員会]]及び[[海難審判庁]](共に廃止)である。
*[[観光庁]]([[国土交通省]]) - 2008年(平成20年)10月1日新設。母体は、国土交通省大臣官房総合観光政策審議官(廃止)である。
*[[消費者庁]]([[内閣府]]) - 2009年(平成21年)9月1日新設。母体は、内閣府国民生活局(廃止)である。
*[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]([[環境省]]) - 2012年(平成24年)9月19日新設。母体は、経済産業省資源エネルギー庁[[原子力安全・保安院]](廃止)である。
*[[スポーツ庁]]([[文部科学省]]) - 2015年(平成27年)10月1日新設。母体は、文部科学省[[スポーツ・青少年局]](廃止)である。
*[[防衛装備庁]]([[防衛省]]) - 2015年(平成27年)10月1日新設。母体は、防衛省[[装備施設本部]]及び防衛省[[技術研究本部]](共に廃止)である。
*[[出入国在留管理庁]]([[法務省]]) - 2019年(平成31年)4月1日新設。母体は、法務省入国管理局(廃止)である。
*[[カジノ管理委員会]]([[内閣府]]) - 2020年(令和2年)1月7日新設。
*[[こども家庭庁]](内閣府) - 2023年(令和5年)4月1日新設。母体は、厚生労働省[[子ども家庭局]]及び内閣府[[子ども・子育て本部]]である。
==日本の行政機関一覧==
*内閣制度が創設された[[1885年]](明治18年)以降に存在した省庁([[国務大臣]]を長とする行政機関およびそれに準じる機関。)の一覧。
*'''太字'''は、2021年9月1日現在、存在する機関。
{| class="wikitable" style="font-size:80%; width:100%;"
|-
!style="width:14%;" |名称!!style="width:14%;" |長!!style="width:22%;" |設置年月日!!style="width:14%;" |主な前身!!style="width:22%;" |廃止年月日!!style="width:14%;" |主な後身
|-
|'''[[内閣 (日本)|内閣]]'''||[[内閣総理大臣]]||1885年(明治18年)12月22日||[[太政官]]||-||-
|-
|'''[[外務省]]'''||[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]||明治2年7月8日(1869年8月15日)||外国官||-||-
|-
|[[大蔵省]]||[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]||明治2年7月8日(1869年8月15日)||会計官||2001年(平成13年)1月6日||[[財務省]]<br>[[金融庁]]
|-
|[[司法省 (日本)|司法省]]||[[法務大臣|司法大臣]]|| nowrap="nowrap" |明治4年7月9日(1871年8月24日)||[[刑部省]]||1948年(昭和23年)2月15日||[[法務庁]]<br>[[検察庁]]<br>[[最高裁判所事務総局|最高裁判所事務局]]
|-
|[[文部省]]||[[文部大臣]]||明治4年7月18日(1871年9月2日)||-||2001年(平成13年)1月6日||[[文部科学省]]
|-
|[[陸軍省]]||[[陸軍大臣]]||明治5年2月28日(1872年4月5日)||兵部省||1945年(昭和20年)12月1日||[[第一復員省]]
|-
|[[海軍省]]||[[海軍大臣]]||明治5年2月28日(1872年4月5日)||兵部省||1945年(昭和20年)12月1日||[[第二復員省]]
|-
|[[内務省 (日本)|内務省]]||[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]||1873年(明治6年)11月10日||-||1947年(昭和22年)12月31日||[[内事局]]<br>[[建設院]]<br>[[全国選挙管理委員会]]
|-
|[[農商務省 (日本)|農商務省]]||農商務大臣||1881年(明治14年)4月7日||[[工部省]]||1925年(大正14年)4月1日||農林省(第1次)<br>商工省(第1次)
|-
|[[逓信省]](第1次)||逓信大臣||1885年(明治18年)12月22日||工部省||1943年(昭和18年)11月1日||[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]
|-
|[[拓殖務省]]||拓殖務大臣||1896年(明治29年)4月1日||-||1897年(明治30年)9月2日||内務省
|-
|[[鉄道省]]||鉄道大臣||1920年(大正9年)5月15日||鉄道院(内閣)||1943年(昭和18年)11月1日||[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]
|-
|[[農林水産省|農林省]](第1次)||[[農林水産大臣|農林大臣]]||1925年(大正14年)4月1日||農商務省||1943年(昭和18年)11月1日||[[農商省]]
|-
|[[商工省]](第1次)||商工大臣||1925年(大正14年)4月1日||農商務省||1943年(昭和18年)11月1日||農商省<br>[[軍需省]]
|-
|[[拓務省]]||拓務大臣||1929年(昭和4年)6月10日||内務省||1942年(昭和17年)11月1日||外務省<br>内務省<br>[[大東亜省]]
|-
|[[企画院]]||企画院総裁||1935年(昭和10年)5月10日||内閣調査局(第1次)||1943年(昭和18年)11月1日||内閣参事官(内閣参事官室)<br>軍需省(移管)<br>内務省(移管)
|-
|[[厚生省]]||厚生大臣||1938年(昭和13年)1月11日||内務省衛生局<br>内務省社会局||2001年(平成13年)1月6日||厚生労働省
|-
|[[情報局]]||[[情報局総裁]]||1940年(昭和15年)12月6日||内閣情報部||1945年(昭和20年)12月31日||-
|-
|[[大東亜省]]||[[大東亜大臣]]||1942年(昭和17年)11月1日||拓務省||1945年(昭和20年)8月26日||外務省
|-
|[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]||運輸通信大臣||1943年(昭和18年)11月1日||[[逓信省]]<br>[[鉄道省]]||1945年(昭和20年)5月19日||[[逓信院]](内閣)<br>[[運輸省]]
|-
|[[農商務省 (日本)|農商省]]||農商大臣||1943年(昭和18年)11月1日||農林省<br>商工省||1945年(昭和20年)8月26日||[[農林省 (日本)|農林省]]<br>商工省
|-
|[[軍需省]]||[[軍需大臣]]||1943年(昭和18年)11月1日||商工省<br>企画院||1945年(昭和20年)8月26日||商工省(第2次)
|-
|綜合計画局||綜合計画局長官||1944年(昭和19年)11月1日||内閣参事官(内閣参事官室)||1945年(昭和20年)8月31日||内閣調査局(第2次)
|-
|[[運輸省]]||[[運輸大臣]]||1945年(昭和20年)5月19日||運輸通信省||2001年(平成13年)1月6日||[[国土交通省]]
|-
|[[農林水産省|農林省]](第2次)||[[農林水産大臣|農林大臣]]||1945年(昭和20年)8月26日||農商省||1978年(昭和53年)7月5日||農林水産省
|-
|[[商工省]](第2次)||商工大臣||1945年(昭和20年)8月26日||軍需省<br>農商省||1949年(昭和24年)5月25日||通商産業省
|-
|内閣調査局(第2次)||内閣調査局長官||1945年(昭和20年)9月1日||綜合計画局||1945年(昭和20年)11月24日||内閣審議室
|-
|[[戦災復興院]]||[[戦災復興院総裁]]||1945年(昭和20年)11月5日||-||1947年(昭和22年)12月31日||建設院
|-
|[[第一復員省]]||第一復員大臣||1945年(昭和20年)12月1日||陸軍省||1946年(昭和21年)6月15日||[[復員庁]]第一復員局
|-
|[[第二復員省]]||第二復員大臣||1945年(昭和20年)12月1日||海軍省||1946年(昭和21年)6月15日||復員庁第二復員局
|-
|[[復員庁]]||復員庁総裁||1946年(昭和21年)6月15日||第一復員省<br>第二復員省||1947年(昭和22年)10月15日||厚生省第一復員局<ref group="注">復員局官制改正により、厚生省第一復員局は復員局と改称。</ref><br>[[総理府]]第二復員局<ref group="注">復員局官制改正により、総理府第二復員局は、厚生省復員局内の第二復員局残務処理部となる。</ref>
|-
|[[逓信省]](第2次)||逓信大臣||1946年(昭和21年)7月1日||逓信院(内閣)||1949年(昭和24年)6月1日||[[郵政省]]<br>[[電気通信省]]
|-
|[[物価庁]]||[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|物価庁長官]]||1946年(昭和21年)8月12日||大蔵省物価部||1952年(昭和27年)4月1日||経済安定本部
|-
|[[経済安定本部]]||[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済安定本部総務長官]]||1946年(昭和21年)8月12日||-||1952年(昭和27年)8月1日||[[経済審議庁]]
|-
|[[行政調査部]]||[[行政管理庁長官|行政調査部総裁]]||1946年(昭和21年)10月28日||-||1948年(昭和23年)7月1日||[[行政管理庁]]
|-
|[[総理府|総理庁]]||内閣総理大臣||1947年(昭和22年)5月3日||-||1949年(昭和24年)6月1日||[[総理府]]
|-
|[[労働省]]||労働大臣||1947年(昭和22年)9月1日||厚生省||2001年(平成13年)1月6日||厚生労働省
|-
|[[賠償庁]]||賠償庁長官||1948年(昭和23年)2月1日||-||1952年(昭和27年)4月28日||総理府
|-
|[[内事局]]||内事局長官||1948年(昭和23年)1月1日||内務省||1948年(昭和23年)3月7日||総理庁官房自治課<br>[[地方財政委員会]]<br>[[国家地方警察本部]]<br>[[消防庁|国家消防庁]]<br>[[法務庁]][[公安調査庁|特別審査局]]<br>法務庁[[民事局]]第五課
|-
|[[建設院]]||建設院総裁||1948年(昭和23年)1月1日||内務省国土局<br>内務省調査局総務課及び第一課||1948年(昭和23年)7月10日||[[建設省]]
|-
|[[地方財政委員会]]||[[自治大臣|地方財政委員会委員長]]||1948年(昭和23年)1月7日||内事局||1949年(昭和24年)6月1日||[[自治省|地方自治庁]]
|-
|[[法務省|法務庁]]||[[法務大臣|法務総裁]]||1948年(昭和23年)2月15日||司法省<br>[[内閣法制局|法制局]]<br>内事局第二局||1949年(昭和24年)6月1日||[[法務府]]
|-
|'''[[国家公安委員会]]'''||[[国家公安委員会委員長]]||1948年(昭和23年)3月7日||内事局||-||-
|-
|[[行政管理庁]]||[[行政管理庁長官]]||1948年(昭和23年)7月1日||行政調査部||1984年(昭和59年)7月1日||[[総務庁]]
|-
|[[建設省]]||[[建設大臣]]||1948年(昭和23年)7月10日||建設院||2001年(平成13年)1月6日||国土交通省
|-
|[[経済調査庁|中央経済調査庁<br>(経済調査庁)]]||[[中央経済調査庁長官]]||1948年(昭和23年)8月1日||-||1949年(昭和24年)6月1日||経済安定本部
|-
|[[経済産業省|通商産業省]]||[[経済産業大臣|通商産業大臣]]||1949年(昭和24年)5月25日||商工省||2001年(平成13年)1月6日||経済産業省
|-
|[[電気通信省]]||[[電気通信大臣]]||1949年(昭和24年)6月1日|||逓信省||1952年(昭和27年)8月1日||郵政省
|-
|[[自治省|地方自治庁]]||[[自治大臣|地方自治庁長官]]||1949年(昭和24年)6月1日||総理庁官房自治課<br>地方財政委員会||1952年(昭和27年)8月1日||[[自治庁]]
|-
|[[法務府]]||法務総裁||1949年(昭和24年)6月1日||法務庁||1952年(昭和27年)8月1日||法務省<br>[[法制局]]
|-
|[[郵政省]]||[[郵政大臣]]||1949年(昭和24年)6月1日||逓信省||2001年(平成13年)1月6日||総務省
|-
|[[総理府]]||内閣総理大臣<br>(総理府総務長官<br> →[[内閣官房長官]])||1949年(昭和24年)6月1日||総理庁||2001年(平成13年)1月6日||内閣府
|-
|[[北海道開発庁]]||北海道開発庁長官||1950年(昭和25年)6月1日||建設省||2001年(平成13年)1月6日||国土交通省
|-
|[[保安庁]]||[[防衛大臣|保安庁長官]]||1952年(昭和27年)8月1日||[[警察予備隊|警察予備隊本部]]<br>[[海上警備隊]]||1954年(昭和29年)7月1日||[[防衛省|防衛庁]]
|-
|[[経済企画庁|経済審議庁]]||[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]||1952年(昭和27年)8月1日||経済安定本部||1955年(昭和30年)7月20日||[[経済企画庁]]
|-
|[[自治省|自治庁]]||[[自治大臣|自治庁長官]]||1952年(昭和27年)8月1日||地方自治庁<br>地方財政委員会<br>全国選挙管理委員会||1960年(昭和35年)7月1日||[[自治省]]
|-
|'''[[法務省]]'''||[[法務大臣]]||1952年(昭和27年)8月1日||法務府||-||-
|-
|[[防衛省|防衛庁]]||[[防衛大臣|防衛庁長官]]||1954年(昭和29年)7月1日||保安庁||2007年(平成19年)1月9日||防衛省
|-
|[[経済企画庁]]||[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]]||1955年(昭和30年)7月20日||経済審議庁||2001年(平成13年)1月6日||内閣府
|-
|[[科学技術庁]]||[[科学技術庁長官]]||1956年(昭和31年)5月19日||-||2001年(平成13年)1月6日||文部科学省
|-
|[[首都圏整備委員会]]|| nowrap="nowrap" |首都圏整備委員会委員長||1956年(昭和31年)6月9日||首都建設委員会<br>(建設省)||1974年(昭和49年)6月26日||国土庁
|-
|[[自治省]]||[[自治大臣]]||1960年(昭和35年)7月1日||自治庁<br>国家消防本部||2001年(平成13年)1月6日||総務省
|-
|[[近畿圏整備本部]]||近畿圏整備長官||1963年(昭和38年)7月10日||-||1974年(昭和49年)6月26日||[[国土庁]]
|-
| nowrap="nowrap" |[[中部圏開発整備本部]]||中部圏開発整備長官||1966年(昭和41年)7月1日||-||1974年(昭和49年)6月26日||国土庁
|-
|[[環境省|環境庁]]||[[環境大臣|環境庁長官]]||1971年(昭和46年)7月1日||厚生省||2001年(平成13年)1月6日||環境省
|-
|[[沖縄振興局|沖縄開発庁]]||沖縄開発庁長官||1972年(昭和47年)5月15日||-||2001年(平成13年)1月6日||内閣府沖縄振興局
|-
|[[国土庁]]||国土庁長官||1974年(昭和49年)6月26日||-||2001年(平成13年)1月6日||国土交通省
|-
|'''[[農林水産省]]'''||[[農林水産大臣]]||1978年(昭和53年)7月5日||農林省||-||-
|-
|[[総務庁]]||総務庁長官||1984年(昭和59年)7月1日||行政管理庁||2001年(平成13年)1月6日||総務省
|-
|[[金融庁|金融監督庁]]||[[金融庁長官|金融監督庁長官]]||1998年(平成10年)6月22日||大蔵省[[銀行局]]<br>大蔵省[[証券局]]||2000年(平成12年)7月1日||金融庁
|-
|'''[[金融庁]]'''||[[金融庁長官]]{{Efn2|name="kinyu"}}||2000年(平成12年)7月1日||大蔵省金融企画局<br>金融監督庁||-||-
|-
|'''[[内閣府]]'''||内閣総理大臣||2001年(平成13年)1月6日||総理府||-||-
|-
|'''[[総務省]]'''||[[総務大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||自治省<br>郵政省<br>総務庁||-||-
|-
|'''[[財務省]]'''||[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||大蔵省||-||-
|-
|'''[[文部科学省]]'''||[[文部科学大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||文部省<br>科学技術庁||-||-
|-
|'''[[厚生労働省]]'''||[[厚生労働大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||厚生省<br>労働省||-||-
|-
|'''[[経済産業省]]'''||[[経済産業大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||通商産業省||-||-
|-
|'''[[国土交通省]]'''||[[国土交通大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||建設省<br>運輸省<br>国土庁||-||-
|-
|'''[[環境省]]'''||[[環境大臣]]||2001年(平成13年)1月6日||環境庁||-||-
|-
|'''[[防衛省]]'''||[[防衛大臣]]||2007年(平成17年)1月9日||防衛庁<br>[[防衛施設庁]]||-||-
|-
|'''[[消費者庁]]'''||[[消費者庁長官]]{{Efn2|name="shohisha"}}||2009年(平成21年)9月1日||内閣府||-||-
|-
|'''[[復興庁]]'''||内閣総理大臣{{Efn2|name="fukkou1"}}||2012年(平成24年)2月10日||-||-<ref group="注">2031年(令和13年)3月31日までに廃止することとされている(復興庁設置法第21条)。</ref>||-
|-
|'''[[デジタル庁]]'''||内閣総理大臣{{Efn2|name="digital1"}}||2021年(令和3年)9月1日||内閣官房||-||-
|-
|'''[[こども家庭庁]]'''||[[こども家庭庁#歴代長官|こども家庭庁長官]]{{Efn2|name="kodomo"}}||2023年(令和5年年)4月1日||厚生労働省[[子ども家庭局]]<br>内閣府[[子ども・子育て本部]]||-||-
|}
;内閣外の機関(独立行政機関)
{|class="wikitable" style="FONT-SIZE:80%; width:100%;"
|-
!style="width:14%;" |名称!!style="width:14%;" |長!!style="width:22%;" |設置年月日!!style="width:14%;" |主な前身!!style="width:22%;" |廃止年月日!!style="width:14%;" |主な後身
|-
|[[宮内省]]||[[宮内大臣]]|| nowrap="nowrap" |明治2年7月8日(1869年8月15日)||-||1947年(昭和22年)5月2日||[[宮内府]]<br>農林省林野局
|-
|[[元老院 (日本)|元老院]]||元老院議長||1875年(明治8年)4月14日||-||1890年(明治23年)10月20日||-
|-
|内大臣官房||[[内大臣府#歴代内大臣|内大臣]]||1885年(明治18年)12月22日||-||1908年(明治41年)1月1日||[[内大臣府]]
|-
|[[枢密院 (日本)|枢密院]]||[[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]||1888年(明治21年)4月30日||-||1947年(昭和22年)5月2日||-
|-
|'''[[会計検査院]]'''||[[会計検査院長]]||1890年(明治23年)3月5日||-||-||-
|-
|[[行政裁判所 (日本)|行政裁判所]]||[[行政裁判所長官]]||1890年(明治23年)10月1日||-||1947年(昭和22年)5月2日||-
|-
|[[内大臣府]]||内大臣||1908年(明治41年)1月1日||-||1945年(昭和20年)11月24日||宮内省[[侍従職]]内記部
|}
;外地機関
{| class="wikitable" style="font-size:80%; width:100%;"
|-
!style="width:14%;" |名称!!style="width:14%;" |長!!style="width:22%;" |設置年月日!!style="width:14%;" |主な前身!!style="width:22%;" |廃止年月日!!style="width:14%;" |主な後身
|-
|[[台湾総督府]]||[[台湾総督]]||1896年(明治29年)4月1日||-||1949年(昭和24年)6月1日<ref group="注" name="gaitikikan">敗戦により実態が消滅したが、設置の勅令の廃止がされなかったため、国家行政組織法の施行により廃止とされる。</ref>||-
|-
|[[統監府]]||統監||1905年(明治38年)12月21日||-||1910年(明治43年)10月1日||朝鮮総督府
|-
|関東総督府<br>→[[関東都督府]]||関東総督<br>→[[関東都督]]||1906年(明治39年)9月1日||-||1919年(大正8年)4月12日||関東庁<br>関東軍
|-
|[[樺太庁]]||[[樺太庁長官]]||1907年(明治40年)4月1日||-||1949年(昭和24年)6月1日<ref group="注" name="gaitikikan" />||-
|-
|[[朝鮮総督府]]||[[朝鮮総督]]||1910年(明治43年)10月1日||統監府||1949年(昭和24年)6月1日<ref group="注" name="gaitikikan" />||-
|-
|[[関東庁]]||[[関東長官]]||1919年(大正8年)4月12日||関東都督府||1934年(昭和9年)12月26日||関東局
|-
|[[南洋庁]]||[[南洋庁長官]]||1922年(大正11年)4月1日||-||1949年(昭和24年)6月1日<ref group="注" name="gaitikikan" />||-
|-
|[[関東局]]||[[満洲国駐箚特命全権大使]]||1934年(昭和9年)12月26日||関東庁||1949年(昭和24年)6月1日<ref group="注" name="gaitikikan" />||-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
<!--=== 出典 ===
{{Reflist|2}}-->
== 関連項目 ==
*[[内閣 (日本)]]
*[[内部部局]]
*[[行政委員会]]
*[[審議会]]
*[[施設等機関]]
*[[特別の機関]]
*[[地方支分部局]]
*[[外局]]
*[[御三家#官庁|官庁御三家]]
== 外部リンク ==
{{wikisource|内閣府設置法及び国家行政組織法の規定に基づき平成二十年十月一日現在の行政機関の組織を告示する件|内閣府設置法及び国家行政組織法の規定に基づき平成二十年十月一日現在の行政機関の組織を告示する件}}
* [https://www.digital.archives.go.jp/hensen/ 省庁組織変遷図] - [[国立公文書館]]
{{中央省庁}}
{{中央省庁(中央省庁再編前)}}
{{日本関連の項目}}
{{デフォルトソート:にほんのきようせいきかん}}
[[Category:日本の行政機関|*]]
[[Category:日本の中央省庁|*]] | 2003-03-03T06:25:29Z | 2023-11-24T21:59:13Z | false | false | false | [
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"Template:中央省庁(中央省庁再編前)"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%94%BF%E6%A9%9F%E9%96%A2 |
3,289 | グラフィカルユーザインタフェース | グラフィカルユーザインタフェース(英: graphical user interface、略称:GUI(ジーユーアイ、グイ、グーイ))は、コンピュータグラフィックスとポインティングデバイスなどを用いる、グラフィカル(ビジュアル)であることを特徴とするユーザインタフェース。キャラクタユーザインタフェース (CUI) やテキストユーザインタフェース (TUI) と対比して語られることが多い。
世界初の実用となったGUIは1963年に完成したSAGEというアメリカ空軍の開発した防空管制システムである。これはCRTとライトガンを備えており、核爆弾を搭載した敵航空機を迎撃するために多数のレーダーからの情報を統合し、複数のオペレーターがライトガンで迎撃目標を指示するだけで全軍の適切な箇所に自動で指令が届き、その結果レーダー情報の膨大さを気にすることなく的確に敵機を迎撃できるというものであった。
また、オシロスコープはテレビやディスプレイと同じ原理を使った装置だが、コンピュータの内部の信号を直接観察できる装置としても都合が良いため、初期のコンピュータではしばしばそのような目的でブラウン管が情報出力のために備えられていた。これはGUIとして扱うには機能的には足りないものだが、最初期のコンピュータの1基であるEDSACにも付いており、OXOというゲームに使われている。実用の目的で情報表示にブラウン管が使われた例としてはMARS-1(1960年、日本国有鉄道)がある。
1960年代の米国において、サザランドのSketchpadや、1960年代後半、マウスの発明者でもあるダグラス・エンゲルバートが率いるスタンフォード研究所の研究者は、当時の新しいデバイスであるマウスで操作されるテキストベースのハイパーリンクを使用するオンラインシステムNLSを開発した(軍用などの専用目的ではなく、汎用を意図した)。 1968年12月のNLSのデモンストレーションは、「すべてのデモの母」として知られるようになった。NLSはエンゲルバートの提唱する「人間知性の拡大」という概念を実現するために作られており、ハイパーテキスト、ハイパーリンク、マルチウインドウなどの今日的なGUIには必須の概念を実装して見せたきわめて革新的なものである。またジャーナルと呼ばれるハイパーテキストベースの文書共有システムは正にWikiと同じ概念である文書によるコラボレーション・グループウェアを実装したものである。NLSの本質は単なるGUIの実装ではなく、GUIは会話・画像・文書をリアルタイムで共有する電子会議を通じた知的共有グループウェアを実現するための手段であった。さらに、後にWYSIWYGと呼ばれることになる機能もこのとき既に実装されていた。
1970年代には、アラン・ケイにより、誰でも簡単に使えることを目指して暫定Dynabook環境が作られた。当初はData General社のNovaでスクリプト言語的な位置づけで開発されたSmalltalk-72だったが、約5〜10倍の能力とビットマップディスプレイ、マウスを装備したAltoへと移植され、マシンパワーを得るとすぐにオーバーラップ可能なウインドウシステムの構築が試みられた(Smalltalk-74)。このマルチウインドウシステムを効率よく機能させるために後に考え出されたダブルバッファリングおよびBitBltは、現在も、ちらつきのない画面描画のために使われるアルゴリズムおよびデータ操作/ハードウェア機能として知られる。
1974年までには、後にMicrosoft Wordの前身と言われるようになるBravoを開発していた別グループとの情報交換を経てパロアルト研究所初のWYSIWYGエディタも実装される。70年代半ば過ぎにはマウスによる操作、メニューによる命令実行、オーバーラップマルチウインドウシステム、絵と文章の共存できるWYSIWYGのマルチフォントエディタ、アイコンによる機能やオブジェクトの簡易表現など、現在ごくふつうに見られるグラフィカルユーザインタフェースの主要な要素は固まっていた。Smalltalk-72、同-74の後継であるSmalltalk-76ではさらに洗練・整備され、それを1979年に見たスティーブ・ジョブズが策定中のLisaの仕様決定に役立てた。
GUIでは、コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスなどのポインティングデバイスで選択する。
基本的には「デスクトップ」「ウィンドウ」「メニュー」「アイコン」「ボタン」など要素を組み合わせて構成され、それらをポインティングデバイスによって操作されるカーソルを通じて指示を与える。
端的に言うと、画面上のボタンや画像などを選択する事でリアクションを発生させる仕組みを総称してGUIと言う。
GUIにおいて、作業はウィンドウ単位に分割される。MDIとMac OS(macOSを含む)の場合を除いて、「ウィンドウの数 = タスクの数」であることが多い。このため、インタフェース全体で見た場合、どのようにしてタスク管理を行うかが重要になる。Windows 95以降のWindowsファミリーをはじめとしていちばん多い方式は、タスクバーと呼ばれる棒状の領域をデスクトップ上に用意し、ここに、各ウィンドウのアイコンやタイトルを並べるものである。これにより、視認性、操作性を確保しながら、多くのウィンドウを管理することができる。他には、デスクトップ上のメニューに各ウィンドウを管理するメニューを追加する、デスクトップにタスクをアイコンで表示する(Windows 3.xまでのWindowsファミリーの方式)、タスクの数だけ仮想デスクトップを用意する(Palm WebOSなどの方式)などの方法がある。macOSはDockでタスク管理を行うが、Mission Controlというウィンドウ一覧表示モードも併用されている。
GUIの基本は、ポインティングデバイスによってカーソルを操作し、デバイスに付いたボタン(通常2〜3個)を押すことである。これにより、「位置」と「指示」を明確にし、視覚的な操作を行うことが出来る。
指示の内容は、カーソルの位置によって異なる。データ管理アプリケーションでは、第1ボタンは、カーソルの位置にあるデータを選択し、2回連続で押す(ダブルクリックする)ことによって、データに応じて適宜定義されたアプリケーションを呼び出し、処理を開始する。アプリケーションのメニュー、ボタン上では、そのコマンドを開始する。データ上では、データにおける操作の位置を指示する。
第2ボタンは、通常、どの場合でも、アプリケーションによって定義されたコンテキストメニューを出力する。このメニューを第一ボタンによって指示することで、そのコマンドを実行することができる。第3ボタンは、X Window Systemではよく使われる。
また、最近は第4ボタン、第5ボタンを装備したマウスや、第3ボタンがウィンドウに直接機能するホイール機能を兼ねているものがあり、適宜、アプリケーション又はOSによって定義された機能を提供する。
GUIにおいても、キャラクタユーザインタフェースに劣らず、キーボードは重要なデバイスである。データの内容だけでなく、キーボードショートカットといった、インタフェース操作を向上させる機能と連動させることで、操作性の向上をはかることもある。
上記にあげたデバイス以外にも、タブレットなどのペンデバイスによる操作もあり、特に画像データ操作や手書き入力において威力を発揮する。
タッチパネルに表示されたボタンやアイコンに直接指やペンで触れることで、各種の操作を行うデバイスもあり、ATMなどで一般化している。カーナビゲーションシステムやニンテンドーDSでも使われ、直感的な操作に優れる。2007年以降、パッドに接触する指の本数を認識し、その振る舞いを変えるマルチタッチ対応パネルを利用した機器が市場に出回るようになった。
GUIは様々な方法・ライブラリを用いて生成される。ユーザーへ提示される視覚的要素はしばしばViewと呼ばれ、ユーザーからの入力を扱う内部要素はしばしばControllerと呼ばれる。
宣言的UIは宣言型プログラミングを用いて構成されたGUI、それを実現する手法である。GUIの生成・更新を変更前状態に基づいた更新命令によってコーディングするのではなく、あるべき状態を宣言してコーディングする。状態を分離することでUIの状態をより予測しやすいものにできる。テンプレートエンジンは静的テンプレートと動的変数の関係を宣言しているとみなせるため、更新された状態とテンプレートからテンプレートエンジンによってUI生成をおこなってUIを更新する形は宣言的UIといえる。そういった意味でも宣言的UI自体は古くから存在するGUI実装手法の1つである。
2010年代中盤におけるWebアプリケーションの分野を皮切りに、様々なデバイスで宣言的UIを標榜するUIフレームワークが登場している。
データ(モデル)とUI(View)を結びつけ、片方の変更を暗示的に他方へ伝播する手法をデータバインディングという。宣言的UIと組み合わせることで、モデルの変更が自動的に宣言的UIの更新へと暗示的に反映されるようになる。 | [
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"text": "グラフィカルユーザインタフェース(英: graphical user interface、略称:GUI(ジーユーアイ、グイ、グーイ))は、コンピュータグラフィックスとポインティングデバイスなどを用いる、グラフィカル(ビジュアル)であることを特徴とするユーザインタフェース。キャラクタユーザインタフェース (CUI) やテキストユーザインタフェース (TUI) と対比して語られることが多い。",
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"text": "世界初の実用となったGUIは1963年に完成したSAGEというアメリカ空軍の開発した防空管制システムである。これはCRTとライトガンを備えており、核爆弾を搭載した敵航空機を迎撃するために多数のレーダーからの情報を統合し、複数のオペレーターがライトガンで迎撃目標を指示するだけで全軍の適切な箇所に自動で指令が届き、その結果レーダー情報の膨大さを気にすることなく的確に敵機を迎撃できるというものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、オシロスコープはテレビやディスプレイと同じ原理を使った装置だが、コンピュータの内部の信号を直接観察できる装置としても都合が良いため、初期のコンピュータではしばしばそのような目的でブラウン管が情報出力のために備えられていた。これはGUIとして扱うには機能的には足りないものだが、最初期のコンピュータの1基であるEDSACにも付いており、OXOというゲームに使われている。実用の目的で情報表示にブラウン管が使われた例としてはMARS-1(1960年、日本国有鉄道)がある。",
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"text": "1960年代の米国において、サザランドのSketchpadや、1960年代後半、マウスの発明者でもあるダグラス・エンゲルバートが率いるスタンフォード研究所の研究者は、当時の新しいデバイスであるマウスで操作されるテキストベースのハイパーリンクを使用するオンラインシステムNLSを開発した(軍用などの専用目的ではなく、汎用を意図した)。 1968年12月のNLSのデモンストレーションは、「すべてのデモの母」として知られるようになった。NLSはエンゲルバートの提唱する「人間知性の拡大」という概念を実現するために作られており、ハイパーテキスト、ハイパーリンク、マルチウインドウなどの今日的なGUIには必須の概念を実装して見せたきわめて革新的なものである。またジャーナルと呼ばれるハイパーテキストベースの文書共有システムは正にWikiと同じ概念である文書によるコラボレーション・グループウェアを実装したものである。NLSの本質は単なるGUIの実装ではなく、GUIは会話・画像・文書をリアルタイムで共有する電子会議を通じた知的共有グループウェアを実現するための手段であった。さらに、後にWYSIWYGと呼ばれることになる機能もこのとき既に実装されていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1970年代には、アラン・ケイにより、誰でも簡単に使えることを目指して暫定Dynabook環境が作られた。当初はData General社のNovaでスクリプト言語的な位置づけで開発されたSmalltalk-72だったが、約5〜10倍の能力とビットマップディスプレイ、マウスを装備したAltoへと移植され、マシンパワーを得るとすぐにオーバーラップ可能なウインドウシステムの構築が試みられた(Smalltalk-74)。このマルチウインドウシステムを効率よく機能させるために後に考え出されたダブルバッファリングおよびBitBltは、現在も、ちらつきのない画面描画のために使われるアルゴリズムおよびデータ操作/ハードウェア機能として知られる。",
"title": "歴史"
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"text": "1974年までには、後にMicrosoft Wordの前身と言われるようになるBravoを開発していた別グループとの情報交換を経てパロアルト研究所初のWYSIWYGエディタも実装される。70年代半ば過ぎにはマウスによる操作、メニューによる命令実行、オーバーラップマルチウインドウシステム、絵と文章の共存できるWYSIWYGのマルチフォントエディタ、アイコンによる機能やオブジェクトの簡易表現など、現在ごくふつうに見られるグラフィカルユーザインタフェースの主要な要素は固まっていた。Smalltalk-72、同-74の後継であるSmalltalk-76ではさらに洗練・整備され、それを1979年に見たスティーブ・ジョブズが策定中のLisaの仕様決定に役立てた。",
"title": "歴史"
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"text": "GUIでは、コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスなどのポインティングデバイスで選択する。",
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"text": "基本的には「デスクトップ」「ウィンドウ」「メニュー」「アイコン」「ボタン」など要素を組み合わせて構成され、それらをポインティングデバイスによって操作されるカーソルを通じて指示を与える。",
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"text": "端的に言うと、画面上のボタンや画像などを選択する事でリアクションを発生させる仕組みを総称してGUIと言う。",
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"text": "GUIにおいて、作業はウィンドウ単位に分割される。MDIとMac OS(macOSを含む)の場合を除いて、「ウィンドウの数 = タスクの数」であることが多い。このため、インタフェース全体で見た場合、どのようにしてタスク管理を行うかが重要になる。Windows 95以降のWindowsファミリーをはじめとしていちばん多い方式は、タスクバーと呼ばれる棒状の領域をデスクトップ上に用意し、ここに、各ウィンドウのアイコンやタイトルを並べるものである。これにより、視認性、操作性を確保しながら、多くのウィンドウを管理することができる。他には、デスクトップ上のメニューに各ウィンドウを管理するメニューを追加する、デスクトップにタスクをアイコンで表示する(Windows 3.xまでのWindowsファミリーの方式)、タスクの数だけ仮想デスクトップを用意する(Palm WebOSなどの方式)などの方法がある。macOSはDockでタスク管理を行うが、Mission Controlというウィンドウ一覧表示モードも併用されている。",
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"text": "GUIの基本は、ポインティングデバイスによってカーソルを操作し、デバイスに付いたボタン(通常2〜3個)を押すことである。これにより、「位置」と「指示」を明確にし、視覚的な操作を行うことが出来る。",
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},
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"text": "指示の内容は、カーソルの位置によって異なる。データ管理アプリケーションでは、第1ボタンは、カーソルの位置にあるデータを選択し、2回連続で押す(ダブルクリックする)ことによって、データに応じて適宜定義されたアプリケーションを呼び出し、処理を開始する。アプリケーションのメニュー、ボタン上では、そのコマンドを開始する。データ上では、データにおける操作の位置を指示する。",
"title": "概要"
},
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"text": "第2ボタンは、通常、どの場合でも、アプリケーションによって定義されたコンテキストメニューを出力する。このメニューを第一ボタンによって指示することで、そのコマンドを実行することができる。第3ボタンは、X Window Systemではよく使われる。",
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},
{
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"text": "また、最近は第4ボタン、第5ボタンを装備したマウスや、第3ボタンがウィンドウに直接機能するホイール機能を兼ねているものがあり、適宜、アプリケーション又はOSによって定義された機能を提供する。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "GUIにおいても、キャラクタユーザインタフェースに劣らず、キーボードは重要なデバイスである。データの内容だけでなく、キーボードショートカットといった、インタフェース操作を向上させる機能と連動させることで、操作性の向上をはかることもある。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "上記にあげたデバイス以外にも、タブレットなどのペンデバイスによる操作もあり、特に画像データ操作や手書き入力において威力を発揮する。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "タッチパネルに表示されたボタンやアイコンに直接指やペンで触れることで、各種の操作を行うデバイスもあり、ATMなどで一般化している。カーナビゲーションシステムやニンテンドーDSでも使われ、直感的な操作に優れる。2007年以降、パッドに接触する指の本数を認識し、その振る舞いを変えるマルチタッチ対応パネルを利用した機器が市場に出回るようになった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "GUIは様々な方法・ライブラリを用いて生成される。ユーザーへ提示される視覚的要素はしばしばViewと呼ばれ、ユーザーからの入力を扱う内部要素はしばしばControllerと呼ばれる。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "宣言的UIは宣言型プログラミングを用いて構成されたGUI、それを実現する手法である。GUIの生成・更新を変更前状態に基づいた更新命令によってコーディングするのではなく、あるべき状態を宣言してコーディングする。状態を分離することでUIの状態をより予測しやすいものにできる。テンプレートエンジンは静的テンプレートと動的変数の関係を宣言しているとみなせるため、更新された状態とテンプレートからテンプレートエンジンによってUI生成をおこなってUIを更新する形は宣言的UIといえる。そういった意味でも宣言的UI自体は古くから存在するGUI実装手法の1つである。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2010年代中盤におけるWebアプリケーションの分野を皮切りに、様々なデバイスで宣言的UIを標榜するUIフレームワークが登場している。",
"title": "実装"
},
{
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"text": "データ(モデル)とUI(View)を結びつけ、片方の変更を暗示的に他方へ伝播する手法をデータバインディングという。宣言的UIと組み合わせることで、モデルの変更が自動的に宣言的UIの更新へと暗示的に反映されるようになる。",
"title": "実装"
}
] | グラフィカルユーザインタフェースは、コンピュータグラフィックスとポインティングデバイスなどを用いる、グラフィカル(ビジュアル)であることを特徴とするユーザインタフェース。キャラクタユーザインタフェース (CUI) やテキストユーザインタフェース (TUI) と対比して語られることが多い。 | {{Redirect|GUI}}
{{出典の明記|date=2021年4月4日 (日) 10:31 (UTC)}}
[[画像:GNOME-Shell-3.10.png|thumb|250px|GUIを提供するソフトウェアの1つ、[[GNOME]]]]
{{OS}}
'''グラフィカルユーザインタフェース'''({{lang-en-short|graphical user interface}}、略称:'''GUI'''(ジーユーアイ、グイ、グーイ<ref>{{cite web | url=https://www.sophia-it.com/content/GUI| title=GUI | work=[[IT用語辞典バイナリ]] | accessdate=2020-7-11}}</ref>))は、[[コンピュータグラフィックス]]と[[ポインティングデバイス]]などを用いる、グラフィカル(ビジュアル)であることを特徴とする[[ユーザインタフェース]]。[[キャラクタユーザインタフェース]] (CUI) や[[テキストユーザインタフェース]] (TUI) と対比して語られることが多い。
== 歴史 ==
[[Image:SAGE control room.png|thumb|right|SAGE制御室。スクリーンにはアメリカ東海岸が表示されている。二つのターゲットが追跡されているところ]]
世界初の実用となったGUIは1963年に完成した[[半自動式防空管制組織|SAGE]]というアメリカ空軍の開発した防空管制システムである。これは[[ブラウン管|CRT]]と[[ライトガン]]を備えており、核爆弾を搭載した敵航空機を迎撃するために多数のレーダーからの情報を統合し、複数のオペレーターがライトガンで迎撃目標を指示するだけで全軍の適切な箇所に自動で指令が届き、その結果レーダー情報の膨大さを気にすることなく的確に敵機を迎撃できるというものであった。
また、[[オシロスコープ]]はテレビやディスプレイと同じ原理を使った装置だが、コンピュータの内部の信号を直接観察できる装置としても都合が良いため、初期のコンピュータではしばしばそのような目的で[[ブラウン管]]が情報出力のために備えられていた。これはGUIとして扱うには機能的には足りないものだが、最初期のコンピュータの1基である[[EDSAC]]にも付いており、[[OXO]]というゲームに使われている。実用の目的で情報表示にブラウン管が使われた例としては[[マルス (システム)#マルス1|MARS-1]](1960年、[[日本国有鉄道]])がある。
1960年代の米国において、[[アイバン・サザランド|サザランド]]の[[Sketchpad]]や、1960年代後半、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の発明者でもある[[ダグラス・エンゲルバート]]が率いるスタンフォード研究所の研究者は、当時の新しいデバイスであるマウスで操作されるテキストベースのハイパーリンクを使用するオンラインシステム'''[[NLS]]'''を開発した(軍用などの専用目的ではなく、汎用を意図した)。
1968年12月のNLSのデモンストレーションは、「[[すべてのデモの母]]」として知られるようになった。NLSはエンゲルバートの提唱する「人間知性の拡大」という概念を実現するために作られており、[[ハイパーテキスト]]、[[ハイパーリンク]]、[[ウィンドウシステム|マルチウインドウ]]などの今日的なGUIには必須の概念を実装して見せたきわめて革新的なものである。また[[ジャーナル]]と呼ばれるハイパーテキストベースの文書共有システムは正にWikiと同じ概念である文書によるコラボレーション・グループウェアを実装したものである。NLSの本質は単なるGUIの実装ではなく、GUIは会話・画像・文書をリアルタイムで共有する電子会議を通じた知的共有グループウェアを実現するための手段であった。さらに、後に[[WYSIWYG]]と呼ばれることになる機能もこのとき既に実装されていた<ref>[http://vodreal.stanford.edu/engel/22engel200.ram エンゲルバートによる1968年のプレゼンテーションの一部。レポートや論文をどのようにして共同作成・編集・完成・閲覧・出力させるかのデモ。]{{リンク切れ|date=2021-03-11}}</ref>。
[[ファイル:Smalltalk-76 (2).png|サムネイル|右|AltoやNoteTakerで動作した暫定Dynabook環境(Smalltalk-76、同-78の頃)のGUI]]1970年代には、[[アラン・ケイ]]により、誰でも簡単に使えることを目指して[[暫定Dynabook]]環境が作られた。当初はData General社の[[データゼネラルNova|Nova]]でスクリプト言語的な位置づけで開発された[[Smalltalk|Smalltalk-72]]だったが、約5〜10倍の能力と[[ビットマップディスプレイ]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]を装備した[[Alto]]へと移植され、マシンパワーを得るとすぐにオーバーラップ可能なウインドウシステムの構築が試みられた(Smalltalk-74)。このマルチウインドウシステムを効率よく機能させるために後に考え出された[[ダブルバッファリング]]および[[BitBlt]]は、現在も、ちらつきのない画面描画のために使われる[[アルゴリズム]]およびデータ操作/ハードウェア機能として知られる。
1974年までには、後に[[Microsoft Word]]の前身と言われるようになる[[:en:Bravo_(software)|Bravo]]を開発していた別グループとの情報交換を経て[[パロアルト研究所]]初の[[WYSIWYG]]エディタも実装される。70年代半ば過ぎにはマウスによる操作、メニューによる命令実行、オーバーラップマルチウインドウシステム、絵と文章の共存できるWYSIWYGのマルチフォントエディタ、[[アイコン]]による機能やオブジェクトの簡易表現など、現在ごくふつうに見られるグラフィカルユーザインタフェースの主要な要素は固まっていた。Smalltalk-72、同-74の後継であるSmalltalk-76ではさらに洗練・整備され、それを1979年に見た[[スティーブ・ジョブズ]]が策定中の[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]の仕様決定に役立てた<ref>[http://www.metaobject.com/papers/Smallhistory.pdf THE EARLY HISTORY OF SMALLTALK, Alan C.Kay]</ref>。
== 概要 ==
GUIでは、コンピュータの画面上に、[[ウィンドウ]]、[[アイコン]]、[[ボタン (GUI)|ボタン]]といったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスを[[マウス (コンピュータ)|マウス]]などのポインティングデバイスで選択する。
基本的には「デスクトップ」「ウィンドウ」「メニュー」「アイコン」「ボタン」など要素を組み合わせて構成され、それらをポインティングデバイスによって操作されるカーソルを通じて指示を与える。
端的に言うと、画面上のボタンや画像などを選択する事でリアクションを発生させる仕組みを総称してGUIと言う。
{{See also|ウィジェット (GUI)}}
=== 構成要素 ===
;[[デスクトップ環境|デスクトップ]]
:X Window System ではルートウィンドウと言う。「[[デスクトップ環境]]」のこと。この上にウィンドウを重ねることによってインタフェースは[[マルチタスク]]を実現する。一般的なインタフェースでは、ここに[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]やデータのアイコンをおき、ここから作業を開始できるようにする。この画面は、既存のディレクトリ構成とは相容れない立場のため、特殊な位置におかれるディレクトリを参照する形でデータの内容を定義する。
:[[デスクトップの背景]]に画像や各種アクセサリを置いて、視覚的に楽しませる機能が提供される。また、アプリケーションの役割を果たす[[Active Desktop]]やガジェットなど([[ウィジェットエンジン]])を置くこともできる。
:最近では、[[仮想デスクトップ]]をキューブで表示する、アイコンの配置に立体感を着ける、ウィンドウを立体的に表示など、3D効果によって操作性を向上するデスクトップ環境が増えている。[[Unix系]][[ウィンドウマネージャ]]の[[Compiz]]、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]の[[Windows Aero|Aero]]、[[サン・マイクロシステムズ]]の[[:en:Project Looking Glass|Project Looking Glass]]などが例に挙げられる。
; [[ウィンドウ]]
:アプリケーションがデータを扱うためのグラフィカルインタフェースにおけるひとつの単位となるもの。ウィンドウ内においては、アプリケーションとデータは一体化する。ここにおいて、アプリケーションを操作し、データを管理、生成、編集する。通常はメニュー、アイコンなどを周辺に配置し、中央にデータをおく。
:ウィンドウには、データやアプリケーションに応じてタイトルが付けられ、ウィンドウの最上部にタイトルがおかれる。一般的には、ウィンドウをディスプレイ全体に表示する「最大化」、表示を隠す「最小化」、複数枚のウィンドウの最前面、タイトルだけを表示する「シェード」などがサポートされ、これにより、ウィンドウの操作を簡単に行うことが出来る。
:; [[Single Document Interface]] (''SDI'')
::ウィンドウにおいて、ひとつのデータをひとつのウィンドウ内に完結させる方式。この場合は、データの数だけ、ウィンドウが出力される。他のアプリケーションのウィンドウと突き合わせて利用できるが、その分だけ、ウィンドウの数が多くなり、管理が繁雑になる。
:; [[Multiple Document Interface]] (''MDI'')
::ひとつのウィンドウ内に入れ子状にウィンドウが表示され、複数のデータ管理を行う方式。この場合は、ウィンドウ管理が簡単になるが、作業の管理が二重になる。
:; [[タブ (GUI)|タブ]]
::MDIにおけるデータ管理方式のうち、データのタイトルをウィンドウ内に並べ、タイトルを選んで必要なデータだけを表示するもの。これにより、簡単にデータにアクセスできるようになる。
; [[メニュー (コンピュータ)|メニュー]]
:アプリケーション、[[オペレーティングシステム]] (OS)より指示できるコマンドを階層上に表現したもの。画面上部、または画面下部におかれ、そのアプリケーションから利用できるコマンドがほぼ全て配置される。通常は左に重要度の高いものがおかれ、右にいくにしたがって重要度は低くなる。コマンドの階層はアプリケーションにより異なるが、ファイル操作、編集の機能を重視して、それらのコマンドから左側からおかれ、右には、ヘルプなどがおかれる。マウスの第一ボタンによって操作する。
; コンテキストメニュー
:アプリケーションの用意した階層上のメニューとは別に、メニュー以外のところでマウスの第二ボタンなどを押した際に機能するメニューの事。ボタンが呼び出された位置に応じてメニューの内容が変化し、編集操作を簡単に行うことが出来るようになっている。
; [[アイコン]]
:データ管理アプリケーションにおいて、データ、アプリケーション、[[ディレクトリ]]など表現したもの。
:データ管理アプリケーション、すなわち、ディレクトリにおけるユーザーデータの管理や、特定のデータを管理を行うアプリケーションの場合、アイコンによりデータを表現する。通常は、データの中身や、[[拡張子]]などから関連づけられたアプリケーションを表現するが、ユーザーが自由に変更する場合もある。
:データのアイコンは開くことにより、関連づけられたアプリケーションの起動からサポートしてくれる。アプリケーションアイコンは、アプリケーションの起動だけを行う。
; [[ボタン (GUI)|ボタン]]
:メニューのうち、利用頻度の高いコマンドを絵で表現し、アプリケーション内に配置したもの。
:アプリケーション上におかれるボタンは、普通はメニューの代わりをする。利用頻度の高いものからおかれ、メニューの階層を辿らなくてもその機能が使えるようになっている。ただし、ユーザーによりコマンドの利用頻度は異なるので、この配置を編集できるようになっているのが普通である。
=== その他 ===
; [[ごみ箱 (GUI)|ごみ箱]]
:ファイル消去に対する[[フェイルセーフ]]を果たすために、「ゴミ箱」などと呼ばれる機能を持つものがある。これは、ファイルの消去を行なう際に、一時的に別の場所に移すことで、誤ったファイル消去を未然に防ぐことが出来る。[[Macintosh]]では、ゴミ箱はファイルだけでなく、さまざまなオブジェクトの削除の機能を持っている。
; アプリケーションランチャ
:GUI上からアプリケーションを呼び出す際に様々な方式があるが、いくつかのOSではメニュー形式のアプリケーションランチャを持っている。[[NEXTSTEP]]と[[macOS]]では、[[Dock|ドック]]と呼ばれるパレット型の機構を持ち、ファイルやアプリケーションの各種の情報を格納してクリックでそれらを呼び出せる。
=== GUIにおけるタスク管理 ===
GUIにおいて、作業はウィンドウ単位に分割される。MDIと[[Mac OS]](macOSを含む)の場合を除いて、「ウィンドウの数 = タスクの数」であることが多い。このため、インタフェース全体で見た場合、どのようにしてタスク管理を行うかが重要になる。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]以降の[[Microsoft Windows|Windows]]ファミリーをはじめとしていちばん多い方式は、[[タスクバー]]と呼ばれる棒状の領域をデスクトップ上に用意し、ここに、各ウィンドウのアイコンやタイトルを並べるものである。これにより、視認性、操作性を確保しながら、多くのウィンドウを管理することができる。他には、デスクトップ上のメニューに各ウィンドウを管理するメニューを追加する、デスクトップにタスクをアイコンで表示する([[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]までのWindowsファミリーの方式)、タスクの数だけ[[仮想デスクトップ]]を用意する([[Palm WebOS]]などの方式)などの方法がある。macOSは[[Dock]]でタスク管理を行うが、[[Mission Control]]というウィンドウ一覧表示モードも併用されている。
=== ポインティングデバイスによる操作 ===
GUIの基本は、ポインティングデバイスによってカーソルを操作し、デバイスに付いたボタン(通常2〜3個)を押すことである。これにより、「位置」と「指示」を明確にし、視覚的な操作を行うことが出来る。
指示の内容は、カーソルの位置によって異なる。データ管理アプリケーションでは、第1ボタンは、カーソルの位置にあるデータを選択し、2回連続で押す([[ダブルクリック]]する)ことによって、データに応じて適宜定義されたアプリケーションを呼び出し、処理を開始する。アプリケーションのメニュー、ボタン上では、そのコマンドを開始する。データ上では、データにおける操作の位置を指示する。
第2ボタンは、通常、どの場合でも、アプリケーションによって定義された[[コンテキストメニュー]]を出力する。このメニューを第一ボタンによって指示することで、そのコマンドを実行することができる。第3ボタンは、[[X Window System]]ではよく使われる。
また、最近は第4ボタン、第5ボタンを装備したマウスや、第3ボタンがウィンドウに直接機能するホイール機能を兼ねているものがあり、適宜、アプリケーション又はOSによって定義された機能を提供する。
=== GUIとキーボード ===
GUIにおいても、キャラクタユーザインタフェースに劣らず、キーボードは重要なデバイスである。データの内容だけでなく、キーボードショートカットといった、インタフェース操作を向上させる機能と連動させることで、操作性の向上をはかることもある。
=== GUIと各種デバイス ===
上記にあげたデバイス以外にも、[[ペンタブレット|タブレット]]などのペンデバイスによる操作もあり、特に画像データ操作や[[手書き入力]]において威力を発揮する。
=== タッチパネルによるGUI ===
[[タッチパネル]]に表示されたボタンやアイコンに直接指やペンで触れることで、各種の操作を行うデバイスもあり、[[現金自動預け払い機|ATM]]などで一般化している。[[カーナビゲーションシステム]]や[[ニンテンドーDS]]でも使われ、直感的な操作に優れる。2007年以降、パッドに接触する指の本数を認識し、その振る舞いを変えるマルチタッチ対応パネルを利用した機器が市場に出回るようになった。
== 実装 ==
GUIは様々な方法・ライブラリを用いて生成される。ユーザーへ提示される視覚的要素はしばしばViewと呼ばれ、ユーザーからの入力を扱う内部要素はしばしばControllerと呼ばれる。
=== 宣言的UI ===
宣言的UIは[[宣言型プログラミング]]を用いて構成されたGUI、それを実現する手法である。GUIの生成・更新を変更前状態に基づいた更新命令によってコーディングするのではなく、あるべき状態を宣言してコーディングする。状態を分離することでUIの状態をより予測しやすいものにできる。[[テンプレートエンジン]]は静的テンプレートと動的変数の関係を宣言しているとみなせるため、更新された状態とテンプレートからテンプレートエンジンによってUI生成をおこなってUIを更新する形は宣言的UIといえる。そういった意味でも宣言的UI自体は古くから存在するGUI実装手法の1つである。
2010年代中盤における[[Webアプリケーション]]の分野を皮切りに、様々なデバイスで宣言的UIを標榜するUIフレームワークが登場している。
* [[Webアプリケーション|Web]]
** [[React]]<ref>宣言的な View [https://ja.reactjs.org/ React] 2019-11-08閲覧</ref>
** [[Angular]]<ref>シンプルで宣言的なテンプレートを使用して素早く機能を構築します [https://angular.jp/ Angular] 2019-11-08閲覧</ref>
** [[Vue.js]]<ref>Vue.js のコアは、単純なテンプレート構文を使って宣言的にデータを DOM に描画することを可能にするシステムです [https://jp.vuejs.org/v2/guide/#%E5%AE%A3%E8%A8%80%E7%9A%84%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0 Vue.js - はじめに - 宣言的レンダリング]</ref>
* [[macOS]], [[iOS]]
** SwiftUI<ref>宣言型シンタックス. SwiftUIは宣言型シンタックスを使用しているため、ユーザーインターフェイスの動作をシンプルに記述することができます。 [https://developer.apple.com/jp/xcode/swiftui/ SwiftUI]</ref>
* [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]
** [[React Native]]<ref>React components wrap existing native code and interact with native APIs via React’s declarative UI paradigm and JavaScript. [https://facebook.github.io/react-native/ React Native]</ref> (iOS含む)
* マルチプラットフォーム
** [[Flutter]]<ref> ''declarative style used by Flutter'' [https://flutter.dev/docs/get-started/flutter-for/declarative Flutter - Introduction to Declarative UI]</ref> (マルチプラットフォーム)
=== データバインディング ===
{{Main|データバインディング}}データ(モデル)とUI(View)を結びつけ、片方の変更を暗示的に他方へ伝播する手法を[[データバインディング]]という。宣言的UIと組み合わせることで、モデルの変更が自動的に宣言的UIの更新へと暗示的に反映されるようになる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Graphical user interface}}
*[[WYSIWYG]](ウィジウィグ・ウィズウィグ)
*[[ウィジェット (GUI)|ウィジェット]]
*[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]](キャラクターユーザーインタフェース)
*[[テキストボックス]]
*[[コマンドボタン]](GUI)
*[[ラジオボタン]]
*[[チェックボックス]]
*[[スピンボタン]]
*[[プルダウンメニュー]]
*[[ポップアップメニュー]]
*[[オンラインヘルプ]]
*[[サムネイル]]
*[[ユーザインタフェース設計]]
*[[ズーミングユーザインタフェース]]
*[[オブジェクト指向]]
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|GUI}}
{{GUIウィジェット}}
{{オペレーティングシステム}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くらふいかるゆうさいんたふええす}}
[[Category:グラフィカルユーザインタフェース|*]]
[[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
[[Category:コンピュータグラフィックス]]
[[Category:ソフトウェアアーキテクチャ]]
[[Category:ダグラス・エンゲルバート]] | null | 2023-06-07T08:24:15Z | false | false | false | [
"Template:Redirect",
"Template:Notelist",
"Template:オペレーティングシステム",
"Template:Kotobank",
"Template:GUIウィジェット",
"Template:出典の明記",
"Template:See also",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:Lang-en-short",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:OS",
"Template:Main",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9 |
3,290 | ツチノコ | ツチノコ(槌の子)は、日本に生息すると言い伝えられている未確認動物(UMA)のひとつ。横槌に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で“目撃例”があるとされる。
ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた方言であった。わら打ち仕事や砧(布を柔らかくするために、槌で打つ作業)の際に用いる叩き道具「横槌」に、この生物の形状が似ている、とされることにちなむ。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約40種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。
大半は、「ツチノコ生け捕り」が条件となっている。なお、以下には懸賞を終了しているものも含む。 | [
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] | ツチノコ(槌の子)は、日本に生息すると言い伝えられている未確認動物(UMA)のひとつ。横槌に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で“目撃例”があるとされる。 | [[ファイル:Tsuchinoko photo 01.jpg|thumbnail|200px|立ち上がるツチノコの[[模型]]<br/>『[[コレクト倶楽部]]』([[味覚糖]]、2002年)より]]
'''ツチノコ'''(槌の子)は、[[日本]]に生息すると言い伝えられている[[未確認動物|未確認動物(UMA)]]のひとつ。[[横槌]]に似た形態の、胴が太い[[ヘビ]]と形容される。[[北海道]]と[[南西諸島]]を除く日本全国で“目撃例”があるとされる。
== 目撃談などによる特徴 ==
[[ファイル:Doeti_Nozuchi.jpg|thumb|240px|井出道貞『[[信濃奇勝録]]』(1834年脱稿1886年出版)に描かれた「野槌」。下記の翠山の画とともに、最も古いツチノコの図像といわれる。]]
[[ファイル:Suizan_Nozuchi.jpg|thumb|92px|畔田翠山『野山草木通志』に描かれた「野槌」]]
* 普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている<ref name="oni">{{Harvnb|笹間|2005|p=203}}</ref>。
* 通常のヘビには[[瞼]]がないが、ツチノコは瞼がある。
* 2メートルほどの跳躍力を持つ<ref name="tada">{{Harvnb|多田|1990|pp=91-93}}</ref>。高さ5メートル、前方2メートル以上との説や<ref name="shogeki">{{Harvnb|伊保内編|2008|pp=13-21}}</ref>、10メートルとの説もある{{Sfn|伊保内編|2008|loc=付録DVD}}。
* [[日本酒]]が好き{{R|shogeki}}。
* 「チー」などと鳴き声をあげる{{R|shogeki}}。
*メスの歯はすきっ歯である。
* 非常に素早い<ref name="ito">{{Harvnb|伊藤|2008|p=251}}</ref>。
* 高くジャンプする、[[シャクトリムシ]]のように体を屈伸させて進む{{R|shogeki}}、丸太のように横に転がる、尾をくわえて体を輪にして転がる、傾斜を登る時は胴体の前部を支点に後部を左右に移動させながら登る、などの手段で移動する{{R|tada}}。
* [[いびき]]をかく{{R|ito}}。
* [[味噌]]、[[スルメ]]、[[頭髪]]を焼く臭いが好きなヘビである。{{R|shogeki}}。
* [[毒|猛毒]]を持っているとされることもある{{R|oni}}。
== 名前 ==
'''ツチノコ'''という名称は元々[[京都府]]、[[三重県]]、[[奈良県]]、[[四国]]北部などで用いられていた[[日本語の方言|方言]]であった。[[わら]]打ち仕事や[[砧]](布を柔らかくするために、槌で打つ作業)の際に用いる叩き道具「[[横槌]]」に、この生物の形状が似ている、とされることにちなむ。[[東北地方]]では'''バチヘビ'''とも呼ばれ、ほかにも[[野槌|ノヅチ]]、[[転バシ|タテクリカエシ]]、ツチンボ、ツチヘビ、[[土転び]]など日本全国で約40種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。
== 歴史 ==
=== 現代以前 ===
[[ファイル:Wakan Sansai Zue - Nodzuchi.jpg|right|thumb|180px|『[[和漢三才図会]]』の「[[野槌|野槌蛇]]」(1712年ごろ)]]
[[ファイル:SekienNodzuchi.jpg|right|thumb|180px|『[[今昔画図続百鬼]]』の「[[野槌]]」([[鳥山石燕]], 1779年)]]
[[ファイル:Klüpfel.png|thumb|180px|横槌。この道具に姿が似ているから「ツチノコ」とされる]]
* [[縄文時代]]の[[石器]]にツチノコに酷似する蛇型の石器がある([[岐阜県]]飛騨縄文遺跡出土)。また、[[長野県]]で出土した[[縄文土器]]の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている。
* [[奈良時代]]の『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』には[[カヤノヒメ]]神の別名であり野の神、主と書かれてある。
* [[1712年]]、[[寺島良安]]が記した『[[和漢三才図会]]』第四十五巻 竜蛇類に「'''野槌蛇'''」の名称でツチノコの解説がある<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161/148 第四十五巻 竜蛇類 野槌蛇]</ref>。「(一つ手前の項目に記された)合木蛇の仲間で、深い山奥に棲む。頭と尾は均等で尾は尖らず、柯の無い槌に似ている為俗に野槌と呼ばれる。吉野山中の菜摘川の清明の滝の周辺に往往見られる。口は大きく人の脚を噛む。坂を下り走ると甚だ速く人を追う。但し登りは極めて遅い為、これに出会ったら急いで高い處に登るべし。追い付かれる事は無い」。
* [[1799年]]、[[加賀国]][[江沼郡]](現・[[石川県]][[加賀市]]周辺)の怪談を集めた『聖城怪談録』には、瓜生傳という人物による「つちのこ」の目撃談が所収されている<ref>『聖城怪談録 上』「瓜生傳つちのこに逢ふ事」([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442187/6]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442187/7])</ref>。「黒く丸く壱尺四五寸ばかりもあるべきと思ふものころころとして行たり」と描写されている。
* [[1886年]]、[[井出道貞]]が『[[信濃奇勝録]]』に「野槌 のつち 漢名 千歳蝮」を記す<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765064/14 巻之1]</ref>。「八月の頃たまたま出る。坂道は転がって進む。人に害を成さない。和漢三才図会の説明とは異なる」と書き留めている。
=== 現代 ===
* [[1972年]]、[[作家]]の[[田辺聖子]]が、ツチノコ捕獲に情熱を燃やす作家[[山本素石]]をモデルとした人物が登場する[[小説]]『すべってころんで』を朝日新聞夕刊に連載。翌年には[[銀河テレビ小説|NHKでドラマ化]]され、ツチノコの名が全国的に知れ渡ることとなった{{R|shogeki}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/26088/|title=田辺聖子はツチノコブームの火付け役だった 1972年の連載小説『すべってころんで』の意義|website=東洋経済オンライン|accessdate=2020-09-22}}</ref>。
* [[1973年]]、ツチノコに遭遇した経験を持つという漫画家の[[矢口高雄]]が、ツチノコをテーマとした漫画『[[幻の怪蛇バチヘビ]]』を発表{{Sfn|伊藤|2008|pp=198-199}}。ツチノコブームのきっかけを作った{{R|shogeki}}。なお、同作品は『[[釣りキチ三平]]』と共に、[[1974年]]の第4回[[講談社出版文化賞]]を受賞している。
* [[1974年]]、漫画『[[ドラえもん]]』においてツチノコを描いたエピソード「ツチノコさがそう」(雑誌掲載時はサブタイトルなし)が雑誌「小学五年生」7月号に掲載され、翌[[1975年]]には「ツチノコ見つけた!」(雑誌掲載時のタイトルは「歴史に名を残そう!」)が「小学六年生」3月号に掲載された。後に『ドラえもん』が[[台湾]]へ輸出されたことで、台湾の多くの学生たちにはツチノコの姿として、これらの作中で漫画風にアレンジされたツチノコのイメージが定着している{{Sfn|伊藤|2008|pp=204-214}}。
* [[1989年]]、岐阜県加茂郡東白川村がヘビ年に因んで村発行の広報紙でツチノコを特集したことをきっかけに注目を集め始めた<ref name="gifu-np20230501" />。
* [[フジテレビ系列|フジテレビ系]]バラエティ番組、[[奇跡体験!アンビリバボー]]では、太平洋戦争当時の[[日本軍]]が捕獲し、軍の研究所で飼育、観察されていたとされるツチノコの話題を取り上げた。不鮮明ながら、モノクロ写真とされる物も残されている。ただし、死後解剖された際の結論は、毒の成分から考えて[[ニホンマムシ]]の亜種だったと記されている。
== 各地の目撃談 ==
* [[東北地方]]
** [[十和田湖]]付近の山中で、体長約30センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている{{R|shogeki}}。
** [[2007年]][[4月1日]]、[[山形県]][[最上郡]][[大蔵村]]の牧場の干草の中から、ツチノコ状のヘビの死骸が発見された。この死骸は写真が撮影され、ツチノコ写真の中でも信憑性が高いとの声もあるが、日本国内のヘビ研究の権威である[[ジャパンスネークセンター|日本蛇族学術研究所]]は、干草が[[オーストラリア]]産であったことから、この死骸はオーストラリアの毒ヘビである[[コモンデスアダー|デスアダー]]だった可能性を示唆している{{R|shogeki}}。
** [[妙見山]]は前述の漫画『バチヘビ』の舞台でもある{{R|shogeki}}。
* [[関東地方]]
** [[茨城県]][[土浦市]]がツチノコ捕獲地域として注目されており<ref>{{Cite news|language=ja|date=2008-4-9|url=http://news.ameba.jp/special/2008/04/12701.html|title=賞金1億円の例も 熱くなるツチノコ捕獲の注目は土浦|newspaper=[http://news.ameba.jp/ アメーバニュース]|publisher=[[サイバーエージェント]]|accessdate=2009-1-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080413074100/http://news.ameba.jp/special/2008/04/12701.html|archivedate=2008年4月13日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、山奥などでなく町中での目撃証言が多い{{R|shogeki}}。
** [[多摩川]]で、上流から中流にかけて目撃情報が多発している{{R|shogeki}}。
** [[2008年]][[8月31日]]、[[千葉県]][[白井市]]の田園地帯において水平に3メートルジャンプしたツチノコらしき生物の目撃情報が寄せられた。
* [[中部地方]]
** [[岐阜県]][[東白川村]]は目撃証言が多く、全国でも有数の目撃多発地帯といわれる<ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=http://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/con4aa.htm|title=つちのこ秘伝|website=[http://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/ 東白川村]|publisher=東白川村役場|accessdate=2008-1-22}}</ref><ref name="目がテン">{{Cite web|和書|date=2012-4-28|url=https://www.ntv.co.jp/megaten/archive/link/right_library.html |title=幻の生物ツチノコ発見|website=[[所さんの目がテン!]]|publisher=[[日本テレビ放送網]]|accessdate=2014-7-1}}</ref>。東白川村では「つちへんび」などの呼び名で目撃体験は多かったが、神道の信仰が厚い地域で神の使いとされていたためそれを語ることが憚られていたが、1989年に村がヘビ年に因んで広報紙でツチノコを特集したことをきっかけに多くの目撃談が語られるようになったとする見方もある<ref name="gifu-np20230501" />。東白川村には日本唯一のツチノコ資料館が「[[つちのこ館]]」内にあり、ツチノコ捜索のイベント「つちのこフェスタ」が行われている<ref name="gifu-np20230501" />(詳細は[[#各地の取り組み|各地の取り組み]]を参照)。
** 岐阜県[[美濃市]]の農道で、数ある目撃例の中でも巨大な、全長約2メートルの個体が目撃された<ref name="mikakunin">{{Harvnb|並木|2007|p=186}}</ref>。
** 1970年代の[[静岡県]][[清水市]](現[[静岡市]][[清水区]])で、当時小学生だった[[さくらももこ]]の親友が、自宅でツチノコを目撃した。後日、さくらと親友の2人で捜索したものの発見には至らなかった<ref>さくらももこ『[[あのころ]]』「ツチノコ騒動」、集英社、1996年。</ref>。その親友は後年、ネズミか何かを飲み込んだ蛇と見間違えたかもしれないと振り返っている<ref>穂波珠絵「ももちゃんとの出会い」、『さくらももこ展 図録』393頁、集英社、2022年。</ref>。このときの体験が、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』の「まぼろしの「ツチノコ株式会社」」に反映されている。
** [[1992年]]、岐阜県[[中津川市]][[付知町]]の農家でツチノコらしき生物の死体が発見されて話題になったが、鑑定の結果、[[マツカサトカゲ]]と判明した<ref name="michi">{{Harvnb|山口|2007|p=139}}</ref>。
* [[北陸地方]]
** [[文化 (元号)|文化]]時代の随筆『北国奇談巡杖記』に、ツチノコのものとされる話が以下のようにある。[[石川県]][[金沢市]]の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、[[雷]]のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという。同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集『聖域怪談録』にも記述がある<ref>{{Cite book|和書|author=村上健司編著|authorlink=村上健司|title=妖怪事典|date=2000-4|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4-620-31428-0|page=223}}</ref>。
** [[新潟県]][[糸魚川市]]能生地区の山中でツチノコが目撃された<ref>{{Cite news|language=ja|date=2006-8-2|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/kikaku/080/41.htm|title=うちのトップ 久比岐開発社長 丸山隆志氏59|newspaper=[[読売新聞]]|edition=東京朝刊|page=26|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2014-7-6|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121204203038/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/kikaku/080/41.htm |archivedate=2012年12月4日}}</ref>。同地区では「つちのこ探検隊」が結成され、[[2006年]]以降から毎年ツチノコの捜索が行われ、最大1億円の賞金がかけられている<ref>{{Cite news|language=ja|date=2012-6-8|url=https://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/567521/ |title=今年こそツチノコをゲットだぜ! 新潟で賞金1億円|newspaper=[https://www.iza.ne.jp/ イザ!]|publisher=[http://www.sankei-digital.co.jp/ 産経デジタル]|accessdate=2013-8-25|archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0516-1943-58/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/567521/ |archivedate=2013年5月16日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://nunagawa.ne.jp/tsuchinoko/ |title=つちのこ探検隊|publisher=[[糸魚川市]]観光協会|accessdate=2013-5-16}}</ref>。
** 新潟県[[小千谷市]]に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている{{R|mikakunin}}。
* [[近畿地方]]
** [[兵庫県]]では、但馬地方に50件以上の目撃情報がある。[[香美町]]では「美方つちのこ探索隊」が結成されており、捕獲したツチノコを飼うための「つちのこ飼育庭園」も設置されている。[[千種町 (兵庫県)|千種町]](現[[宍粟市]])では捕獲に2億円の賞金をかけたこともあり、ツチノコの懸賞金としては過去最高額{{R|shogeki}}。
** [[2004年]][[5月30日]]、兵庫県[[美方町]]のツチノコ探検隊が、同町でツチノコらしき生物の死骸を発見したと発表したが、鑑定の結果ツチノコではないと判明した。同年には6月にも同町でツチノコ状のヘビが発見され、「ツーちゃん」の名で飼育されたものの、これは[[妊娠]]して胴が膨れ上がった[[ヤマカガシ]]に過ぎず、[[卵]]を産み落とすと普通のヘビとなってしまった<ref name="mysbox">{{Cite book|和書|author=山口敏太郎|authorlink=山口敏太郎|title=ミステリー・ボックス コレが都市伝説の超決定版!|date=2007-8|publisher=[[メディア・クライス]]|isbn=978-4-7788-0334-6|pages=131-133}}</ref>。
** 兵庫県[[多紀郡]](現[[丹波篠山市]])で、体長約50センチメートル、直径約10センチメートルの、[[サンショウウオ]]に似たツチノコらしき生物が目撃された{{R|mikakunin}}。
** [[奈良県]][[吉野郡]][[下北山村]]で、体長約30センチメートルのツチノコが目撃された{{R|mikakunin}}。
** [[2008年]][[3月]]、奈良県の竜王山で発見された生物が、同年[[3月7日]]発行の[[東京スポーツ]]の一面にツチノコではないかとして掲載された。一部の学者はツチノコではなく[[ヒル (動物)|ヒル]]との見方を示している<ref>{{Cite book|和書|title=恐怖の都市伝説ファイナル|date=2009-1|publisher=[[ミリオン出版]]|series=ナックルズBOOKS|volume=|isbn=978-4-8130-2090-5|page=74}}</ref>。
** [[2014年]][[10月]]、[[滋賀県]][[近江八幡市]]の古民家の床下からツチノコの死骸らしき骨が発見されている。滋賀県内では、1950年代に[[伊吹町|伊吹村]]上野(現[[米原市]])でツチノコの死骸が発見されて産経新聞長浜支局長が取材を行っている。1961年秋、[[永源寺町]](現[[東近江市]])の古い炭焼き窯でツチノコが捕獲され、名古屋のヘビ業者に売られたこともあるという<ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/99500|title=ツチノコミイラか 聖地で発見|work=[https://www.tokyo-sports.co.jp/ 東スポWEB]|publisher=東京スポーツ|accessdate=2015-1-12}}</ref>。
* [[中国地方]]
** [[鳥取県]]東部の山間部、[[岡山県]]、[[広島県]]など、県全域でツチノコらしき生物の目撃談がある{{R|shogeki}}。
** [[2000年]][[5月21日]]、岡山県[[吉井町 (岡山県)|吉井町]](現・[[赤磐市]])でツチノコ状の生物が発見され、数日後にも同様の生物の死骸が発見された。ツチノコではないかと話題になったものの、[[川崎医療福祉大学]]の鑑定によりヤマカガシと判明し、ツチノコになれなかったヘビとの意味で「ツチナロ」と命名された<ref name="michi216">{{Harvnb|山口|2007|p=216}}</ref>。同町ではこの一件でツチノコ生息スポットとして脚光を浴び{{R|shogeki}}、ツチノコ特別捜索隊が結成され、ツチノコの生け捕りに2000万円の賞金がかけられており{{R|michi216}}、1年に1万円ずつ上乗せされ、2008年の時点で2008万円に達した{{R|shogeki}}。
* [[四国|四国地方]]
** [[徳島県]]で[[三好市]]をはじめとする県内全域で多数目撃されている{{R|shogeki}}。
* [[九州|九州地方]]
** [[福岡県]]、特に[[朝倉市]]を中心とした[[大分県]]境付近に発見情報が多い。[[宮若市]]、[[築上町]]で一時、捕獲の噂が流れた。
** [[熊本県]]では、[[八代市]]から[[人吉市]]にかけての山間部に目撃談が多い{{R|shogeki}}。
** [[五島列島]]でも古くから目撃されている{{R|shogeki}}。
== 各地の取り組み ==
=== 施設 ===
* つちのこ資料館 - 岐阜県加茂郡東白川村神土の「[[つちのこ館]](やかた)」内には「つちのこ資料館」がある<ref name="gifu-np20230501">[https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/226800 きっと何かいる… ツチノコ目撃証言多数の東白川村を巡る オカルトブームで注目、今は地域のマスコット]、岐阜新聞、2023年5月2日閲覧。</ref>。同村には「[[つちのこ館]]」のほか平成元年に建立のツチノコを祀った「つちのこ神社」もある{{R|shogeki}}。
=== イベント ===
* つちのこフェスタ - 岐阜県加茂郡東白川村では毎年5月にツチノコ捜索のイベント「つちのこフェスタ」が行なわれ、捕獲賞金もかけられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/tu/tutinoko.htm|title=つちのこフェスタ|website=東白川村|publisher=東白川村役場|accessdate=2009-1-22}}</ref>。2020年から2022年までは[[コロナ禍]]の影響で中止され、2023年5月3日に4年ぶりに開催された<ref name="gifu-np20230501" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230503/k00/00m/040/118000c/ |title=230人が捜索、ツチノコ発見…できず 岐阜・東白川でフェスタ |website=[[毎日新聞]]デジタル |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2023-05-03 |accessdate=2023-07-14}}</ref>。「つちのこフェスタ」公式マスコットキャラクター「つっちー&のこりん」は村のマスコット([[ゆるキャラ]])として村内外のイベント等で活動している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/syoukai/gaiyo/tsuchinoko/yuruchara/|title=つっちー&のこりん|website=東白川村|publisher=東白川村役場|accessdate=2017-8-3}}</ref>。
=== 懸賞 ===
大半は、「ツチノコ生け捕り」が条件となっている。なお、以下には懸賞を終了しているものも含む。
* 兵庫県[[千種町 (兵庫県)|千種町]] 賞金2億円(宍粟市成立時に終了<ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=ufo100-jlp07388380&d=d4_int 兵庫県宍粟郡千種町にできた、2億円の賞金を懸けツチノコを“指名手配”する看板(兵庫)(1992年08月19日)] - 時事通信社</ref><ref>ツチノコ:賞金も幻 生け捕り2億円、合併で廃止--兵庫・旧千種町 -毎日新聞 2005年8月18日</ref>)
* 岡山県吉井町:賞金2000万円
* 兵庫県美方町:別荘地100坪
* 広島県上下町:賞金300万円(1989年)
* [[西武百貨店]]:賞金6万円(写真)・10万円(遺体)・30万円(生け捕り)<ref name="shiota">{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/105216?page=3|author=塩田春香|title=週末はこれを読め!from HONZ 幻の怪蛇「ツチノコ」探しに情熱を傾けた男たちの物語 『逃げろツチノコ』 (3/3ページ)|website=東洋経済ONLINE|date=2016-10-21|accessdate=2021-02-20}}</ref>
* [[山と溪谷社]]:生態写真に賞金10万円<ref name="shiota"/>
* 和歌山県すさみ町:賞金100万円と副賞イノブタ1頭
* 岐阜県東白川村:賞金100万円(1989年以降は毎年1万円ずつアップ、2023年は131万円)
* 奈良県下北山村:賞金100万円
* 学研『[[ムー (雑誌)|ムー]]』編集部:賞金100万円
== 正体についての仮説 ==
[[ファイル:Immature_eastern_blue_tongued_lizard.jpg|thumbnail|220px|ヒガシアオジタトカゲ]]
* 新種の[[未確認動物]]とする説。
** 未発見の新種のヘビとする説。
** いくつかの特徴がヘビではなくトカゲであることを示しており、海外には実際に足が退化したヘビのような形態の[[アシナシトカゲ]]が実在していることから、ツチノコも足が退化した未発見のトカゲの一種ではないかとする説。
* 特定種の[[トカゲ]]類の誤認とする説。
** [[アオジタトカゲ属|アオジタトカゲ]]を誤認したとする説。このトカゲは[[1970年代]]から日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の[[荒俣宏]]は、流行の原因となった漫画の影響で脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある{{R|目がテン}}。
** [[マツカサトカゲ]]を誤認したとする説。このトカゲは[[岐阜県]]の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも[[ペット|愛玩動物]]として飼育されている。このことから、野山に捨てられたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある{{R|michi}}。ツチノコは尾が細いとされるのに対しマツカサトカゲは尻尾が太い点が異なるが、古い絵図などでは尾が太く描かれている例もあるので何ともいえないところではある。
*胴の短い種類の蛇の誤認とする説。
** [[コモンデスアダー|デスアダー]]を誤認したとする説。これは毒蛇で太く短い体型がツチノコに近い。実際に山形の目撃談にも出てくる{{R|shogeki}}。
** [[ヒメハブ]]を誤認したとする説。これも毒蛇で南西諸島に生息し、ツチノコとの類似も古くから指摘されている。デスアダーとも似ているが胴の短さではデスアダー以上にツチノコに近い。
* 腹の膨れた蛇を誤認したとする説。
** 在来の蛇である[[ヤマカガシ]]や[[ニホンマムシ]]などが妊娠中で[[腹]]が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある<ref>{{Cite book|和書|author=羽仁礼|authorlink=羽仁礼|title=超常現象大事典 永久保存版|date=2001-4|publisher=[[成甲書房]]|isbn=978-4-88086-115-9|page=186}}</ref>。
** 大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説。蛇は顎の関節が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる。
* 以上に上げたような複数の目撃証言が一つに複合されたものがツチノコとする仮説もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=伊藤龍平|authorlink=伊藤龍平|title=ツチノコの民俗学|date=2008-8|publisher=[[青弓社]]|isbn=978-4-7872-2029-5|ref={{SfnRef|伊藤|2008}}}}
* {{Cite book|和書|author=笹間良彦|authorlink=笹間良彦|editor=瓜坊進|title=絵で見て不思議! 鬼ともののけの文化史|date=2005-11|publisher=遊子館|series=遊子館歴史選書|isbn=978-4-946525-76-6|ref={{SfnRef|笹間|2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=多田克己|authorlink=多田克己|title=幻想世界の住人たち|date=1990-12|publisher=[[新紀元社]]|series=[[Truth In Fantasy]]|volume=IV|isbn=978-4-915146-44-2|ref={{SfnRef|多田|1990}}}}
* {{Cite book|和書|author=並木伸一郎|authorlink=並木伸一郎|title=本当に会った!! 未確認生物目撃ファイル|date=2007-5|publisher=[[竹書房]]|isbn=978-4-8124-3097-2|ref={{SfnRef|並木|2007}}}}
* {{Cite book|和書|author=山口敏太郎|authorlink=山口敏太郎|title=最新版! 本当にいる日本の「未知生物」案内|date=2007-12|publisher=[[笠倉出版社]]|isbn=978-4-7730-0399-4|ref={{SfnRef|山口|2007}}}}
* {{Cite book|和書|editor=伊保内裕美|title=UMA未知生物衝撃映像|date=2008-3|publisher=[[ミリオン出版]]|series=ミリオンムック|isbn=978-4-8130-6216-5|ref={{SfnRef|伊保内編|2008}}}}
== 関連項目 ==
* [[矢口高雄]]『[[幻の怪蛇バチヘビ]]』[[講談社コミックス]](1973年12月20日発売)
== 外部リンク ==
* [http://web1.kcn.jp/tutinoko/public_html/rekisi_mokugeki.htm 幻のツチノコ]
* [http://web1.kcn.jp/tutinoko/index.html 地域づくり団体ツチノコ共和国]
* [https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20230818-OYT1T50126/ ツチノコ「突然ジャンプ」「神の使い」…各地の証言追った映画監督は「目撃」多い岐阜の村出身 (読売新聞2023年8月18日)]
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[[Category:未確認動物]]
[[Category:流行]]
[[Category:1970年代の日本]] | 2003-03-03T06:39:08Z | 2023-11-04T12:32:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%B3 |
3,291 | スライム | スライム(英: slime)は本来、ある種の性状を持った物質(どろどろ、ぬるぬるしたもの)を大ざっぱに指す言葉であった。従って粘土や泥などの無機物から、生物の分泌する粘液などの有機物、またそれらの複合体など実に様々なものがスライムと呼ばれる。
ここでは人工的に作られ、玩具や教材として使われているスライムを紹介する。
アメリカ合衆国では玩具メーカーのマテルにより、1976年から1979年まで出荷され、発売翌年の1977年だけで約1000万個が売れた。日本では1978年、ツクダオリジナル(現 メガハウス第4事業部)がマテル社製玩具のスライム状の物質を日本で発売し、同年の報告によれば小学生を中心に250万個が売れた。当時ツクダオリジナルの責任者だった和久井威によると、ニューヨークのトイショーで見て「インスピレーション」で販売を決めたという。国内業者向けの内見会での反応はよくなかったが、発表会の報道やテレビ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で使われたことで人気に火がついた。原料の大部分が水であるため、日本での大ブーム時にはツクダが製造に大量の水を必要としたことで、水道局からクレームが来たという逸話もある。和久井威は、実際の製造は大阪のコルマという化粧品メーカー(製造には化粧品製造用の機器が必要なため)が担当したが、ブームによりコルマで使用する水が不足し、スライム専用の水道管を増設したと述べている。
この「スライム」は小さなポリバケツを模した容器に収められた、緑色の半固形の物体で、手にべとつかない程度の適度な粘性と冷たく湿った感触がある。触って遊ぶためだけの玩具であったが、それまでにない新鮮な感覚をもたらしたため大ヒットし、後に様々な類似商品も生まれた。
そもそもは第二次世界大戦の時にゴムの産地を日本軍に占拠され、ゴム不足となったアメリカで、人工的にゴムを作ろうとして生まれた物であった。また、アメリカで樹脂から化粧品を製造しようとした過程で作られたとの説もある。
スライムを教材として初めて自作して紹介したのは、1985年に東京で開催された、第8回科学教育国際会議で国際化学教育学会があったとき、マイアミ大学の A.M.Sarquis が発表したものとされる。A.M.Sarquisは、「高分子やスライムが水と仲の良いこと」を子どもたちに教えるために利用していた。
その作り方をすぐに追試した大槻勇は、材料として使われていたポバールの溶解がうまくいかなかったが、鈴木清龍が洗濯糊を使うことを助言して、容易に作れるようになった。また、食紅で色を付けることは宮城県第二女子高等学校の化学クラブの生徒が見つけたもので、1986年8月の日本化学会東北支部主催の「化学への招待」で紹介された。これらの作り方は同時期に極地方式研究会にも紹介された。
大槻勇は科学教育研究協議会(科教協)の「やさしくて本質的な理科実験'86」で「宮城県第二女高大槻勇」の名でスライムの作り方を発表し、その内容はさらに1987年11月の神奈川県教育研究集会の理科分科会で、細谷善郎の「スライムを作って遊ぼう」という資料で発表され、理科教育の現場で広く知られるようになった。
さらに仮説実験授業研究会で由良文隆が細谷善郎の発表を紹介する形で1988年3月の『たのしい授業』(仮説社)誌上に「たのしくできるスライム作り」を掲載し、その後、仮説実験授業研究会の中でも学校・年齢を問わず「たのしいものづくり」として今日まで定着することとなった。
ポリビニルアルコール (PVA) は合成糊や洗濯糊の主成分であり、直鎖状の高分子である。これがホウ砂を介して架橋結合するため、ゲル化する。代表的な作り方は以下の通り。
澱粉(片栗粉やコーンスターチなど)に水を適量(澱粉:水=3:2程度)加えると、液体のように見えて力が加わると固化する性質(ダイラタンシー)をもった、スライム状の物質ができる。これはウーブレック (oobleck) と呼ばれ、液体と固体の性質の違いや非ニュートン流体について説明する理科教材として使われている。
この名前は、アメリカ合衆国の作家ドクター・スースの童話『ふしぎなウーベタベタ(英語版)』(1949年)に登場する、天から降ってきたどろどろの物体にちなんで付けられた。
このスライムや、木工用ボンド(酢酸ビニル樹脂エマルジョン系接着剤)などに澱粉と少量の塩を加えて作られたものはグラーチ (glurch; glue+starch) とも呼ばれ、やはり教材や玩具として作られる。 | [
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] | スライムは本来、ある種の性状を持った物質(どろどろ、ぬるぬるしたもの)を大ざっぱに指す言葉であった。従って粘土や泥などの無機物から、生物の分泌する粘液などの有機物、またそれらの複合体など実に様々なものがスライムと呼ばれる。 ここでは人工的に作られ、玩具や教材として使われているスライムを紹介する。 | {{Otheruses|玩具のスライム|その他の用法|スライム (曖昧さ回避)}}
[[File:Slime 02471 Nevit.jpg|thumb|right|250px|スライム。]]
'''スライム'''({{lang-en-short|slime}})は本来、ある種の性状を持った物質(どろどろ、ぬるぬるしたもの)を大ざっぱに指す言葉であった。従って粘土や泥などの無機物から、生物の分泌する[[粘液]]などの有機物、またそれらの複合体など実に様々なものがスライムと呼ばれる。
ここでは人工的に作られ、玩具や教材として使われているスライムを紹介する。
== 玩具としてのスライム ==
[[アメリカ合衆国]]では玩具メーカーの[[マテル]]により、[[1976年]]から[[1979年]]まで出荷され、発売翌年の[[1977年]]だけで約1000万個が売れた<ref name="串間">{{Cite book|和書|author=串間努|title=少年ブーム 昭和レトロの流行もの|year=2003|publisher=[[晶文社]]|isbn=978-4-7949-6561-5|pages=339-340}}</ref>。[[日本]]では[[1978年]]、[[ツクダオリジナル]](現 [[メガハウス]]第4事業部)がマテル社製玩具のスライム状の物質を日本で発売し、同年の報告によれば小学生を中心に250万個が売れた<ref name="串間" />。当時ツクダオリジナルの責任者だった和久井威によると、[[ニューヨーク]]のトイショーで見て「インスピレーション」で販売を決めたという<ref name="tj">「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合、p.72</ref>。国内業者向けの内見会での反応はよくなかったが、発表会の報道やテレビ番組「[[金曜10時!うわさのチャンネル!!]]」で使われたことで人気に火がついた<ref name="tj"/>。原料の大部分が水であるため、日本での大ブーム時にはツクダが製造に大量の水を必要としたことで、水道局からクレームが来たという逸話もある<ref name="串間" />。和久井威は、実際の製造は大阪のコルマという化粧品メーカー(製造には化粧品製造用の機器が必要なため)が担当したが、ブームによりコルマで使用する水が不足し、スライム専用の水道管を増設したと述べている<ref name="tj"/>。
この「スライム」は小さなポリバケツを模した容器に収められた、緑色の半固形の物体で、手にべとつかない程度の適度な粘性と冷たく湿った感触がある。触って遊ぶためだけの玩具であったが、それまでにない新鮮な感覚をもたらしたため大ヒットし、後に様々な類似商品も生まれた。
{{要出典範囲|そもそもは[[第二次世界大戦]]の時にゴムの産地を日本軍に占拠され、ゴム不足となったアメリカで、人工的にゴムを作ろうとして生まれた物であった。|date=2021年10月}}また、アメリカで樹脂から化粧品を製造しようとした過程で作られたとの説もある<ref name="串間" />。<!-- これは[[ポリビニルアルコール]](PVA)に[[ホルムアルデヒド]]を少量加え、わずかに[[アセタール]]化したものである。すなわち[[ビニロン]]の遠い親戚であるとも言える。水との親和力を持つため、乾かすと硬い樹脂状になるが、水を入れると元に戻り流動するようになる。 ノート参照 -->
== スライムの自作教材としての普及 ==
=== ポリビニルアルコールとホウ砂で作るスライムの発明と普及 ===
スライムを教材として初めて自作して紹介したのは、[[1985年]]に[[東京]]で開催された、第8回科学教育国際会議で国際化学教育学会があったとき、マイアミ大学の A.M.Sarquis が発表したものとされる<ref name="由良">{{Cite journal|和書|author=由良文隆|title=スライムの出典|journal=たのしい授業|publisher=仮説社|year=1988|issue=66|page=121}}</ref>。A.M.Sarquisは、「高分子やスライムが水と仲の良いこと」を子どもたちに教えるために利用していた<ref name="由良"/>。
その作り方をすぐに追試した大槻勇<ref>当時は宮城県立高校の教師。</ref><ref name="由良2"/>は、材料として使われていた[[ポリビニルアルコール|ポバール]]の溶解がうまくいかなかったが、鈴木清龍<ref>当時は宮城教育大学。</ref><ref name="由良2"/>が洗濯糊を使うことを助言して、容易に作れるようになった<ref name="由良2">{{Cite journal|和書|author=由良文隆|title=スライムの出典|journal=たのしい授業|publisher=仮説社|year=1988|issue=66|page=122}}</ref>。また、食紅で色を付けることは[[宮城県仙台二華中学校・高等学校|宮城県第二女子高等学校]]の化学クラブの生徒が見つけたもので、1986年8月の日本化学会東北支部主催の「化学への招待」で紹介された<ref name="由良2"/>。これらの作り方は同時期に極地方式研究会にも紹介された<ref name="由良2"/>。
大槻勇は科学教育研究協議会(科教協)の「やさしくて本質的な理科実験'86」で「宮城県第二女高大槻勇」の名でスライムの作り方を発表し、その内容はさらに1987年11月の神奈川県教育研究集会の理科分科会で、細谷善郎<ref>当時は湘南台中学校教諭。</ref><ref name="由良2"/>の「スライムを作って遊ぼう」という資料で発表され、理科教育の現場で広く知られるようになった<ref name="由良2"/>。
さらに[[仮説実験授業研究会]]で由良文隆<ref>当時は神奈川県川崎市田島中学校教諭。</ref><ref name="由良"/>が細谷善郎の発表を紹介する形で1988年3月の『たのしい授業』([[仮説社]])誌上に「たのしくできるスライム作り」を掲載し、その後、仮説実験授業研究会の中でも学校・年齢を問わず「たのしいものづくり」として今日まで定着することとなった<ref name="由良2"/>。
===PVAを使ったスライムの作り方===
[[ポリビニルアルコール]] (PVA) は合成糊や洗濯糊の主成分であり、直鎖状の[[高分子]]である。これが[[ホウ砂]]を介して[[架橋|架橋結合]]するため、ゲル化する。代表的な作り方は以下の通り。
# [[ホウ砂]]の4%水溶液を作る。ホウ砂は薬局などで眼の消毒薬として粉末で入手できる。20℃の水に対する[[溶解度]]は4.7g/100g。
# 主成分がPVAの洗濯糊(通常、PVAの10%水溶液)と水を2:3の割合で混ぜ、PVAの4%水溶液を作る。このとき、冷水ではなく熱湯を使うと次の反応がうまくいきやすい。
# 2を撹拌しながら、1の水溶液を少しずつ混ぜる(容積比10:1程度)。
# 手につかなくなるまでよくこねる。
=== 澱粉で作るスライムの作り方 ===
[[澱粉]](片栗粉やコーンスターチなど)に水を適量(澱粉:水=3:2程度)加えると、液体のように見えて力が加わると固化する性質('''[[ダイラタンシー]]''')をもった、スライム状の物質ができる。これは'''ウーブレック''' (oobleck) と呼ばれ、液体と固体の性質の違いや[[非ニュートン流体]]について説明する理科教材として使われている。
この名前は、[[アメリカ合衆国]]の作家[[ドクター・スース]]の童話『{{仮リンク|ふしぎなウーベタベタ|en|Bartholomew and the Oobleck}}』([[1949年]])に登場する、天から降ってきたどろどろの物体にちなんで付けられた。
このスライムや、木工用ボンド(酢酸ビニル樹脂エマルジョン系接着剤)などに澱粉と少量の塩を加えて作られたものは'''グラーチ''' (glurch; glue+starch) とも呼ばれ、やはり教材や玩具として作られる。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 盛口 襄 『いきいき化学 明日を拓く夢実験』 新生出版、1994年
*{{Cite journal|和書|author=由良文隆|title=スライムの出典|journal=たのしい授業|publisher=仮説社|year=1988|issue=66|pages=121-122|ref={{Sfnref|由良文隆|1988}}}}
*{{Cite journal|author1=E.Z. Casassa|author2=A.M. Sarquis|author3=C.H. Van Dyke|title=The gelation of polyvinyl alcohol with borax: A novel class participation experiment involving the preparation and properties of a "slime"|journal=Journal of Chemical Education|publisher=American Chemical Society|date=1986-01-01|volume=63|issue=1|pages=57}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Slime|Slime}}
* [[シリーパティー]] - [[シリコーン]]の一種([[ジメチルポリシロキサン|ジメチルシロキサン]])を主成分とする同様の製品。
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[[Category:ツクダオリジナル]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0 |
3,293 | 中江裕司 | 中江 裕司(なかえ ゆうじ、1960年11月16日 - )は、日本の映画監督。
京都府京都市出身。京都府立洛北高等学校から琉球大学農学部へ入学して以後、沖縄県で生活する。
学生時代から映画研究会で8ミリ作品を発表しており、自主映画の仲間とともにオムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』を制作して商業映画デビュー。日本映画監督協会新人賞を受賞する。以降も、作品のほとんどは沖縄を舞台にしている。2000年に自ら監督・脚本を担当した映画『ナビィの恋』で芸術選奨新人賞、新藤兼人賞・金賞を受賞。
また、2005年5月には真喜屋力らと、那覇市の閉館した映画館を「桜坂劇場」として復活(劇場支配人は真喜屋)。劇場を運営する「株式会社クランク」の代表取締役社長を務め、体験ワークショップ「桜坂市民大学」等も開催している。 2010年には桜坂劇場内に、沖縄クラフトのセレクトショップ「ふくら舎」をオープン。沖縄の焼き物の工房から直接買い付けるバイヤーを担当。 | [
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] | 中江 裕司は、日本の映画監督。 | {{ActorActress
|芸名 = 中江 裕司
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|備考 =
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'''中江 裕司'''(なかえ ゆうじ、[[1960年]][[11月16日]]<ref>『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.552</ref> - )は、[[日本]]の[[映画監督]]。
== 経歴 ==
[[京都府]][[京都市]]出身。[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都府立洛北高等学校]]から[[琉球大学]][[農学部]]へ入学して以後、[[沖縄県]]で生活する。
学生時代から映画研究会で[[8ミリ映画|8ミリ]]作品を発表しており、自主映画の仲間とともにオムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』を制作して商業映画デビュー。[[日本映画監督協会新人賞]]を受賞する。以降も、作品のほとんどは沖縄を舞台にしている。[[2000年]]に自ら監督・脚本を担当した映画『[[ナビィの恋]]』で[[芸術選奨新人賞]]、[[新藤兼人賞]]・金賞を受賞。
また、[[2005年]]5月には[[真喜屋力]]らと、[[那覇市]]の閉館した映画館を「[[桜坂劇場]]」として復活(劇場支配人は真喜屋)。劇場を運営する「株式会社クランク」の代表取締役社長を務め、体験ワークショップ「[https://manabiya.sakura-zaka.com/ 桜坂市民大学]」等も開催している。 2010年には桜坂劇場内に、沖縄クラフトのセレクトショップ「[https://sakura-zaka.com/?page_id=705 ふくら舎]」をオープン。沖縄の焼き物の工房から直接買い付けるバイヤーを担当。
== 作品 ==
*パイナップル・ツアーズ([[1992年]])オムニバス(他の監督は[[真喜屋力]]、[[當間早志]])
*[[パイパティローマ]]([[1994年]])
*[[ナビィの恋]]([[1999年]])
*[[琉球の魂を唄う]]([[2001年]])NHK-BS
*[[ホテル・ハイビスカス]]([[2002年]])
*[[白百合クラブ 東京へ行く]]([[2003年]])
*[[恋しくて (2007年の映画)|恋しくて]]([[2007年]])
*[[40歳問題]]([[2008年]])
*[[真夏の夜の夢 (2009年の映画)|真夏の夜の夢 ~さんかく山のマジルー~]]([[2009年]])
*[[「情」の世界は滅びない ~未来に流れる琉球民謡~]]([[2011年]])WOWOW
*[[たしかなあしぶみ ~なかむらはるじ~]]([[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]創立100周年記念ドキュメンタリードラマ)([[2012年]])
*[[豚の音がえし BEGINが結ぶ沖縄とハワイの絆]]([[2012年]])[[NHK BSプレミアム]]
*[[甲子園とオバーと爆弾なべ]]([[2019年]])NHK BSプレミアム
*[[盆唄]]([[2019年]])
*[[圡楽さんの日日]]([[2021年]])NHK BSプレミアム
*[[ふたりのウルトラマン]]([[2022年]])NHK BSプレミアム
*[[土を喰う日々―わが精進十二ヵ月―#映画|土を喰らう十二ヵ月]](2022年)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連 ==
*[[京都府出身の人物一覧]]
== 外部リンク ==
* {{allcinema name|258829|中江裕司}}
* {{Kinejun name|125515|中江裕司}}
* {{IMDb name|0619946|Yuji Nakae}}
* [http://www.sakura-zaka.com/ 桜坂劇場]
* [http://fukurasha.net/ ふくら舎]
{{日本映画監督協会新人賞}}
{{新藤兼人賞金賞・銀賞}}
{{J・MOVIE・WARS}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:なかえ ゆうし}}
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:琉球大学出身の人物]]
[[Category:京都府立洛北高等学校・附属中学校出身の人物]]
[[Category:京都市出身の人物]]
[[Category:1960年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%A3%95%E5%8F%B8 |
3,295 | 矢口史靖 | 矢口 史靖(やぐち しのぶ、1967年5月30日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。神奈川県伊勢原市出身。東京造形大学卒業。
神奈川県立伊志田高等学校卒業。東京造形大学に入学後、1年先輩の鈴木卓爾に影響を受け、8ミリによる自主映画を撮り始める。1990年のぴあフィルムフェスティバルにて、8ミリ長編『雨女』がグランプリを受賞。PFFスカラシップを獲得し、16ミリ長編『裸足のピクニック』(1993年)で劇場監督デビュー。
フジテレビ、アルタミラピクチャーズと共に制作した『ウォーターボーイズ』(2001年)では、“男子シンクロナイズドスイミング部”というユニークな題材をもとにし、大ヒットを記録。第25回日本アカデミー賞には優秀脚本賞、優秀監督賞にノミネートされる。
同じくフジテレビ、アルタミラピクチャーズ作品である『スウィングガールズ』(2004年)も大ヒットし、第28回日本アカデミー賞では、最優秀脚本賞・最優秀音楽賞・最優秀録音賞・最優秀編集賞・話題賞等の5部門を受賞した。
2008年には、『ハッピーフライト』が公開された。
矢口映画では、主人公の名字が「鈴木」である場合が多い。以下はその例である。
なお『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』の主人公の名前は平野勇気であるが、これは三浦しをんによる原作の登場人物名をそのまま使用しているためである。
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] | 矢口 史靖は、日本の映画監督、脚本家である。神奈川県伊勢原市出身。東京造形大学卒業。 | {{ActorActress
| 芸名 = 矢口 史靖
| ふりがな = やぐち しのぶ
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| 生年 = 1967
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| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[ウォーターボーイズ]]』<br />『[[スウィングガールズ]]』<br />『[[ハッピーフライト]]』<br />『[[ロボジー]]』<br />『[[神去なあなあ日常#映画|WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~]]』
| アカデミー賞 =
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| 英国アカデミー賞 =
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| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
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| ローレンス・オリヴィエ賞 =
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| 日本アカデミー賞 = '''最優秀脚本賞'''<br />[[第28回日本アカデミー賞|2005年]]『[[スウィングガールズ]]』<hr />'''優秀監督賞'''<br />[[第25回日本アカデミー賞|2003年]]『[[ウォーターボーイズ]]』<br />2005年『スウィングガールズ』<br />'''優秀脚本賞'''<br />2003年『ウォーターボーイズ』
| その他の賞 = '''[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]'''<br />'''日本映画ベストテン'''<br />第44回『[[ウォーターボーイズ]]』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''日本映画優秀賞'''<br />第56回『ウォーターボーイズ』<hr />'''[[日本映画批評家大賞]]'''<br />第14回『[[スウィングガールズ]]』<hr />'''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''脚本賞'''<br />第26回『スウィングガールズ』
| 備考 =
}}
'''矢口 史靖'''(やぐち しのぶ、[[1967年]][[5月30日]]<ref name=news-digest>{{Cite web|和書|url=http://www.news-digest.co.uk/news/features/13220-yaguchi-shinobu.html|title=矢口史靖監督 インタビュー 「WOOD JOB!」イギリス上映|work=英国ニュースダイジェスト|date=2015-02-05|accessdate=2015-08-08}}</ref> - )は、日本の[[映画監督]]、[[脚本家]]である。[[神奈川県]][[伊勢原市]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-wave.co.jp/original/lifeisagift/120107.html|title=映画監督 矢口史靖さん|work=LIFE IS A GIFT|publisher=J-WAVE|date=2012|accessdate=2015-08-08}}</ref>。[[東京造形大学]]卒業。
==人物・来歴==
[[神奈川県立伊志田高等学校]]卒業。[[東京造形大学]]に入学後、1年先輩の[[鈴木卓爾]]に影響を受け、[[8ミリ映画|8ミリ]]による[[自主映画]]を撮り始める。[[1990年]]の[[ぴあフィルムフェスティバル]]にて、8ミリ長編『雨女』がグランプリを受賞。PFFスカラシップを獲得し、16ミリ長編『[[裸足のピクニック]]』(1993年)で劇場監督デビュー。
[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[アルタミラピクチャーズ]]と共に制作した『[[ウォーターボーイズ]]』(2001年)では、“男子[[アーティスティックスイミング|シンクロナイズドスイミング]]部”というユニークな題材をもとにし、大ヒットを記録。第25回[[日本アカデミー賞]]には優秀脚本賞、優秀監督賞にノミネートされる。
同じく[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[アルタミラピクチャーズ]]作品である『[[スウィングガールズ]]』(2004年)も大ヒットし、第28回[[日本アカデミー賞]]では、最優秀脚本賞・最優秀音楽賞・最優秀録音賞・最優秀編集賞・話題賞等の5部門を受賞した。
[[2008年]]には、『[[ハッピーフライト]]』が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20081117/13/|title=綾瀬はるかの天然ボケ連発に客席仰天!?「ハッピーフライト」初日|work=映画.com|date=2008-11-17|accessdate=2015-08-08}}</ref>。
== 作品 ==
=== 監督作品 ===
==== 自主制作 ====
* フラストレイター (1986年) ※8ミリ/20分
* 回記線 (1987年) ※8ミリ/17分
* 浅き夢みし (1990年) ※[[東京造形大学]]映画ゼミのメンバーによる8ミリのオムニバス作品
* 水栓テレビ (1990年) ※VTR/5分
* 雨女 (1990年) ※8ミリ/72分
* [[ワンピース (短編映画)|ワンピース]] (1994年 - 現在) ※ビデオ短編集
* バードウォッチング (1996年) ※16ミリ/13分
==== 劇場映画 ====
* [[裸足のピクニック]] (1993年)兼脚本
* [[ひみつの花園 (1997年の映画)|ひみつの花園]] (1997年)兼脚本
* [[アドレナリンドライブ]] (1999年)兼脚本
* [[ウォーターボーイズ]] (2001年)兼脚本
* [[パルコ フィクション]] (2002年) ※[[鈴木卓爾]]との共同監督によるオムニバス作品
* [[スウィングガールズ]] (2004年)兼脚本
* [[歌謡曲だよ、人生は]] (2007年) ※第9話「逢いたくて逢いたくて」脚本・監督
* [[ハッピーフライト]] (2008年)兼脚本
* [[ロボジー]] (2012年<ref>[http://eiga.com/news/20110701/1/ 矢口史靖監督最新作「ロボジー」主演は73歳・五十嵐信次郎]映画.com、2011年7月1日閲覧</ref>)兼脚本
* [[神去なあなあ日常|WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜]](2014年)兼脚本
* [[サバイバルファミリー]](2017年)兼脚本<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/194674|title=小日向文世&深津絵里の夫婦が電気のない世界を旅、矢口史靖「サバイバルファミリー」|newspaper=映画ナタリー|date=2016-07-15|accessdate=2016-07-15}}</ref>
* [[ダンスウィズミー]](2019年8月16日公開)兼脚本
==== テレビドラマ ====
*[[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談 春のたたりスペシャル]](1999年3月30日、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
: 第3話「悪魔の選択」
*[[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談 春の呪いスペシャル]](2000年3月28日、関西テレビ)
: オープニング「魔界教室」
: 第1話「恐怖心理学入門」
*[[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談 春の物の怪スペシャル]](2001年3月27日、関西テレビ)
: オープニング&エンディング「魔界学園」
: 第1話「怪猫伝説」※[[ワンピース (短編映画)|ワンピース]]の代表作「猫田さん」のセルフリメーク版。
=== 漫画原作 ===
*[[プリーズ・フリーズ・Me]](1998年 - 1999年、[[ビッグコミックスペリオール]]連載、画・[[とみさわ千夏]])
=== 著書 ===
*メイキング オブ モスラ―探検!モスラ絵日記(1996年、フォレスト出版)([[東宝映画]]「[[モスラ (1996年の映画)|モスラ]]」の撮影現場を取材した[[鈴木卓爾]]との共著)
==「鈴木」という主人公==
矢口映画では、主人公の名字が「鈴木」である場合が多い。以下はその例である。
*『裸足のピクニック』鈴木純子(芹川砂織)
*『ひみつの花園』鈴木咲子([[西田尚美]])
*『アドレナリンドライブ』鈴木悟([[安藤政信]])
*『ウォーターボーイズ』鈴木智([[妻夫木聡]])
*『スウィングガールズ』鈴木友子([[上野樹里]])
*『歌謡曲だよ、人生は』第9話「逢いたくて逢いたくて」鈴木夫妻(妻夫木聡・[[伊藤歩]])
*『ハッピーフライト』鈴木和博([[田辺誠一]])
*『ロボジー』鈴木重光([[ミッキー・カーチス|五十嵐信次郎]])
*『サバイバルファミリー』鈴木義之([[小日向文世]])、鈴木光恵([[深津絵里]])、鈴木賢司([[泉澤祐希]])、鈴木結衣([[葵わかな]])
*『ダンスウィズミー』鈴木静香([[三吉彩花]])
なお『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』の主人公の名前は平野勇気であるが、これは[[三浦しをん]]による原作の登場人物名をそのまま使用しているためである。
主人公の名字以外に、「伊丹弥生」という役名を複数の映画で使用している。これは東京造形大時代に自主製作映画を作っていた際、協力してくれた知人への御礼の意味である<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/shop_tsutaya/status/207625249922088960?lang=bn |title=TSUTAYA on Twitter(2012年5月30日) |access-date=2022-5-28 |publisher=カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2017/01/post-3919.html |title=矢口史靖監督と葵わかな『サバイバルファミリー』舞台裏を語る(2017年1月30日) |access-date=2022-5-28 |publisher=リアルサウンド映画部}}</ref>。以下はその例である。
* 『ひみつの花園』([[加藤貴子 (女優)|加藤貴子]])
* 『アドレナリンドライブ』ラジオから流れるパーソナリティの名。
* 『ウォーターボーイズ』([[秋定里穂]])
* 『スウィングガールズ』([[白石美帆]])
* 『ハッピーフライト』場内アナウンスで名前がコールされる。
* 『ロボジー』([[田畑智子]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[鈴木卓爾]]
*[[桝井省志]] -矢口監督を育てたアルタミラピクチャーズ代表
*[[関口大輔]] -『[[ウォーターボーイズ]]』 『[[スウィングガールズ]]』『[[ハッピーフライト]]』 プロデューサー。
*[[フレンチドレッシング (映画)]]
== 著書 ==
* 『[https://www.amazon.co.jp/gp/product/486647100X?pf_rd_p=3d322af3-60ce-4778-b834-9b7ade73f617&pf_rd_r=SERFEPBBS3K0MRZ5KB5J 映画監督はサービス業です。ー矢口史靖のヘンテコ映画術―]』、DU BOOKS、2019年9月、 ISBN 978-4866471006。
== 外部リンク ==
* {{allcinema name|127590|矢口史靖}}
* {{Kinejun name|126527|矢口史靖}}
* {{jmdb name|0364320|矢口史靖}}
* {{IMDb name|0944937|Shinobu Yaguchi}}
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}
{{ヨコハマ映画祭脚本賞}}
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{{DEFAULTSORT:やくち しのふ}}
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の脚本家]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:東京造形大学出身の人物]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-03T08:08:41Z | 2023-12-26T08:20:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%8F%A3%E5%8F%B2%E9%9D%96 |
3,296 | ウィザードリィ | 『ウィザードリィ』(Wizardry)は、1981年に米国のSir-Tech(サーテック)社(※)からApple II用ソフトウェアとして発売された『 Wizardry: Proving Grounds of the Mad Overlord 』(邦題 『ウィザードリィ 狂王の試練場』以下の記述で『1』・「オリジナル版」と略記する場合あり)を初作とする、コンピュータ・ロールプレイングゲーム(RPG)シリーズの総称である。「ウィザードリィシリーズ」(Wizardry Series)とも称される。形式(ジャンル)は3DダンジョンRPGに属する。
(※)現在、サーテック社自体は事実上消滅しておりシリーズ版権が散逸・複雑化している。詳しくは「#現在の版権保有企業」に状況を整理して記載しているので必要ならば参照のこと。
※以下の記載では大半でナンバリング作品を数字で略記している。正式名称は上記リンク先などを参照。
本シリーズは前述のとおり、大半の作品において3DダンジョンRPG形式をとっている。プレイヤーは主観的な視点で表現される迷宮を探索し、目的の達成とキャラクターの成長を楽しむことがプレイの目的となる。
『1』の好評により、サーテック社はナンバーを継承・カウントアップしたシリーズ作品(ナンバリング作品)をリリースし、Apple以外のパソコン機種へも移植。やがて家庭用ゲーム機(ファミコンなど)へも移植されている。結果として本シリーズはRPGの発展に大きく影響を及ぼした。特に初期作品(『1』~『3』くらいまで)は日本で生まれた家庭用ゲーム機用RPGシリーズである「ドラゴンクエストシリーズ」や「ファイナルファンタジーシリーズ」に重要な影響を与え、日本独自のスピンオフ作品がリリースされるようにもなった。
サーテック社による最後のシリーズナンバリング作品である『ウィザードリィ8』はWindows用として発売されたが、これ以降は様々な要因により権利関係が複雑化しナンバリングを受け継ぐ正当なシリーズ新作は途絶え、『1』~『5』のリメイクについても殆ど出ていない。(詳細後述)『6』~『8』については後述する日本企業が版権取得を行った事もあり、ライセンスを行使したスピンオフ作品も含め不定期ながら発表され続けている。
現在、現在『Wizardry』という名称商標権を所有しているのは日本のゲーム会社・「Drecom Co., Ltd.」(ドリコム)である。経緯としては下記のとおり。
5以前のいわゆる「クラシック」タイトルの権利については、旧Sir-Techと原作者の一人、アンドリュー・グリーンバーグとの間で2000年代から2012年ごろまで版権を巡る法廷闘争が発生していた。この影響で『Wizardry(ウィザードリィ)』の名を冠する新作をリリースしても、クラシックタイトルに登場した「トレボー」・「ワードナ」・「リルガミン」といった固有名詞、呪文名は新作で使用することができていない。日本で過去に開発したクラシックタイトルの移植版についても現行の家庭用ゲーム機器に新規移植・販売が出来ず、中古で入手するしかプレイできない状態となっている。
ただし『1』については2023年、PCアーキテクチャを使うゲームプラットフォーム・Steamを用いたリメイク版(のアーリーアクセスバージョン)が正規に公開されている。このリメイク版のストアページにおける版権(クレジット)表記は
WizardryTM is a trademark of Drecom Co., Ltd.
Proving Grounds of the Mad Overlord has been licensed to Digital Eclipse Entertainment Partners Co. by SirTech Entertainment Corp. All rights reserved.
と記載されている。
このクレジット表記について、右記出典→先の記事を書いた「ずんこ。」氏は下記のように解説している。(本ページの記事を書いた者により要約化して列挙)
現在は「名称商標権について」に記載した経緯により、ドリコム社が同作品の6以降の新シリーズのすべての権利も取得している。
ドリコム社は上記の権利を行使し、2023年に『6』~『8』の復刻版をプロジェクトEGG(D4エンタープライズ社)からリリース。またスマートフォン向け3DダンジョンRPG『Wizardry Variants Daphne』やブロックチェーン技術を用いた『Eternal Crypt - Wizardry BC -』といった関連する新作を(早期アクセス版として)リリースし始めている。
メインデザイナーはロバート・ウッドヘッド(Robert Woodhead)とアンドリュー・グリーンバーグ(Andrew C. Greenberg)である。当時、コーネル大学の学生だった2人がそれぞれ作成していた『パラディン』『ダンジョンオブディスペア』というゲームを互いに評価し、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)に代表されるRPGを、大学でのコンピュータ支援教育に用いられていたメインフレームよりも規模の小さな個人向けのパソコンで再現するため製作したものが、本作のシナリオ#1である。
そのため、行動の成功判定処理、アイテムやモンスターの名称、データ数値などに、『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』(AD&D)の影響が色濃く見受けられる。また、ウッドヘッドが在校当時に熱狂したPLATOのコンピュータゲーム群、特に『Oubliette』の影響も大きい。ウィザードリィの初期作品はD&Dが高い人気を誇った時期に発売され、D&Dタイプでありながら豊富な映像表現を実現した最初のゲームとして成功した。
なお、シナリオ#1「狂王の試練場」の狂王トレボー(Trebor)と邪悪な魔術師ワードナ(Werdna)の名は、彼ら2人の名前を逆につづったものである。
Apple IIでは、Apple Pascal(UCSD Pascal)で開発されている。
シナリオ#5以降はデヴィッド・W・ブラッドリー(英語版)がシリーズを引き継いだ。
1985年にPC版を、株式会社フォア・チューンが移植し、アスキーが販売している。
1987年にゲームスタジオがファミリーコンピュータ(FC)への移植の実作業を行ったが、Pascalの動作しないFCへの移植についてウッドヘッドは難色を示していた。しかし、遠藤雅伸率いるゲームスタジオのプログラマは、この問題をクリアした。FC版ではBGMの作曲に羽田健太郎、登場モンスターのデザインや広告イラストに末弥純を起用している。
一方、1998年発売のプレイステーション(PS)版とWindows版の移植は、ローカスが行った。シナリオ#1 - 3を「リルガミンサーガ」、シナリオ#4・5を「ニューエイジオブリルガミン」として1本にまとめている。こちらも羽田健太郎がFC版とは異なる楽曲を、末弥純はFC版とほぼ同じイラストを提供している。なお、「リルガミンサーガ」Windows版は後年の移植で唯一、Macintosh版のUIに近い作りとなっている。
バンダイもワンダースワン用に移植するが(実際の移植作業は株式会社スティングが担当)1作のみで打ち切った。
サーテックより発売されたオリジナルタイトルは1981年の『ウィザードリィ 狂王の試練場』から2001年の『ウィザードリィ8(英語版)』が存在する。
日本においては、上記をローカライズした作品のほか、1991年にアスキーより発売された『ウィザードリィ外伝』を始めとして、ウィザードリィのタイトルを冠するスピンオフ作品が現在に至るまで多数製作されている。
これらの作品は主に日本国内のみで販売されているが、『BUSIN Wizardry Alternative』『ウィザードリィ 囚われし魂の迷宮』『Wizardry Online』のように日本で開発・リリースされた後、欧米でもリリースされた作品も存在する。
戦士や盗賊、僧侶、魔法使いといった、異なる能力を持った最大6人のパーティを組み、3D表示された迷宮を探検するのが基本のスタイルである。なお、メンバーの前から3人までが前衛となり、敵との格闘戦を担当する。
迷宮では、遭遇する敵を倒しつつ攻略していく。敵を倒すと経験値であるE.P.と通貨であるG.P.が獲得できる。E.P.とG.P.は他の一般的なRPGとは異なり、パーティ全体に与えられるものではなく、生存メンバー毎への分配式であるため、E.P.は各メンバー毎に同じ数値が、G.P.は同じ額が参加メンバー1人ずつに与えられる。
また、敵を倒すと宝箱が出現することがあり、この宝箱は任意で開閉の有無が選択可能である。開けた場合は戦利品を獲得できることもあるが、宝箱には罠が仕掛けられていることが多い。宝箱の罠の解除は、#3では盗賊、忍者のみが可能であるが、解除に失敗する場合もある。なお、宝箱の罠の内容を調べるのは全メンバーが可能であるが、これには盗賊、忍者以外では正答率が相当に低く、また盗賊や忍者であっても当たり外れがあるため、実際に開けた場合の罠と異なることもある。盗賊は他の職業に比べて戦闘力に劣るが宝箱の罠を解除しなければ強力な装備は入手できないため、パーティの戦力が落ちるのを承知で盗賊を一人入れ、将来的に上位クラスの忍者にクラスチェンジするのが通常である。
耐久力(HP)や呪文の使用回数(マジックポイント、MP)が少なくなったら街へ戻り、宿屋に泊まって回復し、装備を整えて再び迷宮に入り、徐々に探索範囲を広げていく、という行程の繰り返しでゲームは進んでいく。
その間に、各キャラクターは経験を積んでレベルを上げることで成長していき、一度の攻撃で多くのダメージを与えられるようになったり強力な呪文をより多くの回数唱えられるようになっていく。また、戦利品から優れた武具を選び身に付けることでも戦力を強化できる。
ウィザードリィシリーズの初期の作品は、拠点となる街は文章で表示され、魔物や迷宮のグラフィックも現在のゲームと比べると簡素ではあった。しかし、迷宮とその内のあらゆる物がアスキー文字による疑似平面図で構成され示される『ローグ』と比べると、冒険者の視点で描かれた迷路は臨場感があった。PC98シリーズ版のパッケージには書き込み式のマップシートが同梱されており、プレイヤーは地図を自作するようになっていたが、後期の移植作品ではゲーム内で自動的にマップを生成できるようになった。
世界設定やシナリオは、基本的に従来のテーブルトークRPGの流れを汲むが、ウィザードリィはさらに独自のネタを追加し、モンスターやアイテムに各地の神話、SF、黒澤明作品など日本の時代劇ネタ、幼児番組『セサミストリート』、童謡『マザー・グース』、駄洒落、果ては『空飛ぶモンティ・パイソン』の影響も散見される。後のドラゴンクエストもこれらに影響を受けている。
しかしながら日本では上記のようなパロディはあまり注目されず、正統派ファンタジーとして受け入れられた。例えば、ゲーム中に登場する剣「“カシナートの剣(Blade Cusinart')”」(クイジナート社のフードプロセッサーのパロディ)が、日本では「名匠カシナートが鍛えた剣」として紹介されている。この「名匠カシナート」の設定はテーブルトークRPG版『ウィザードリィRPG』などに引き継がれている。
ファミコン版移植の際には、由来不明の魔物マイルフィック(Maelific)にパズスのような独自の解釈によるイラストが付けられている。ベニー松山によるノベライズ作品や石垣環によるコミカライズ作品も日本人が受容した正統派ファンタジーの設定を用いている。
ゲームを開始した直後、プレイヤーはまず冒険に参加するキャラクター(プレイヤーキャラクター)について、種族と性格、職業を選択することで作成する。シナリオ#1・#3、#5ではゲーム中で最大20人まで登録でき、うち最大6人までパーティに参加させ冒険することとなる。シナリオ#6以降では、6人のパーティメンバーのみ作成する。なお、#6以降では性別がデータに追加された。
各キャラクターは戦闘で経験を積むことでレベルアップが可能である。レベルアップすると、力や素早さなどが向上する可能性があるほか(低下する場合もある。年齢が高いと低下しやすい)、耐久力(HP)の向上、攻撃回数の増加(直接攻撃を行う前衛の3人にとっては重要である)、呪文の修得、呪文使用回数の増加という面でキャラクターが強化される。このゲームにおいては、各種能力値ではなく、「レベル」の値そのものが非常に重要となっている。なお、レベルアップに必要な経験値は職業によって大きく異なる。もっとも成長が早いのは盗賊であり、遅いのは忍者である。
レベルの上限は設定されておらず、無限に上げることができる。ただし、PCエンジン版I、II、III、Vはレベル1000でカウンターストップ。PS版「リルガミンサーガ」では上限が999に変更されている。
キャラクターの打たれ強さ。レベルアップによる累積ではなく、レベルアップごとに乱数で算出されるため、非常に幅が広いのが特徴である。
防御力。値が小さいほど相手の攻撃成功率が下がる。防具を装備するか、一部呪文を受けることで変動する。忍者のみ、装備を付けない裸の状態でレベルによりアーマークラス(AC)が減少する。AC-10以下で「LO」と表示されるようになり、シャーマン戦車級の防御力があるとされる。AC-100以下で「VL」と表示されるようになる。レベル221以上の忍者を裸にするか、#4のラスボスであるホークウインド卿に遭遇するとVL表示を見ることができる。ただし、近年の作品ではAC-20以下で「VL」と表示されるものもある。
5つの種族から選択する。種族によって能力値の基本値が定められており、職業の選択に大いに影響を与える。選択時制限は無いが変更はできない。他のファンタジー作品ではデミヒューマンは人間よりも長命であることが多いが、本シリーズにおいてはどの種族も同程度である。シナリオ#6以降はさらに6つの種族が追加されている。
善 (good)・中立 (neutral)・悪 (evil) の3種類から1つを選択する。
キャラクターの特徴を決定付ける要素で、シナリオ#1 - #3と#5では8つの職業(クラス)がある。初期段階では制限によって選択できないものがあるが、別の職業で成長して条件を満たすことで転職できる。シナリオ#5までの職業は能力値の他、性格によっても選択できなくなる可能性があるが、職に就いたあとで性格が変わる可能性はある。例えば、性格が悪の者は能力値が条件を満たしていても侍にはなれないが、性格が善の侍が悪の性格に転じることはある。
シナリオ#6以降は、さらに6つの職業が追加されている。
#6以降にも引き続き登場するが、一部の職業は特徴が変更されている。
能力値が各職業の条件を満たしたキャラクターは転職が可能である。転職後はレベル1となり、それまでに得た耐久力(HP)と修得した呪文は引き継がれるが、5歳程度老化し、能力値は各種族の基本値まで低下し、呪文使用回数も最低限まで低下してしまう。なお、一部の機種・シナリオにおいては、アイテムを使用してレベルや能力値などをそのままに転職を行うことが可能である。
シナリオ#1 - #5では、魔術師呪文と僧侶呪文の二系統に分類される。それぞれが第1 - 第7段階に分けられ、段階ごとに数個ずつの呪文が属している。キャラクターのレベルが上がるにつれて、新しい呪文を習得し、MPが増える。MPはその段階ごとに設定されており、呪文を行使するごとにMPを消費する。僧侶と魔術師は最短でレベル13に達した時点で全ての呪文を修得するが、司教、侍、君主の場合はより高いレベルが必要とされる。PC版のシナリオ#2ではマロールが、シナリオ#5ではソコルディかバモルディが攻略上必須となる。
シナリオ#6以降では呪文のシステムが一新された。火水風土心聖の6領域に大きく分類され、それぞれの呪文は6領域のうちのどれか一つに属する。どの呪文を習得できるかは、魔術師系統、僧侶系統、錬金術系統、霊能力系統の4系統によって異なっており、現在就いている職業によってどの系統の呪文を習得できるかが決まる。呪文によっては複数の系統で習得できるものもある。高度な呪文は、レベルやそれぞれの系統のスキル値を上げないと習得できない。
MPは6つの領域ごとに設定されており、呪文によって定められたポイントを消費する。レベルが上がれば最大6倍まで一度にMPを消費して効果を上げることができる。ただし、「発声」のスキルが低いと呪文が逆流(バックファイアー)してパーティがダメージを受けることがある。
呪文の名称は、シナリオ#1 - #5ではアルファベットを組み合わせた独特のもの(竹内誠の小説・原作漫画では真言葉(トゥルー・ワード)という魔法単語の組み合わせ)、シナリオ#6以降ではその効果を表す英単語・熟語がそのまま呪文の名称となっている。
1つのシナリオで成長させたキャラクターは、別のシナリオに転送して使用することができる。転送した場合に持ち越せるもの(能力値やアイテムなど)はシナリオや機種などにより異なる。
キャラクターの転送にはフロッピーディスク、ターボファイル、メモリーカードなどの外部記憶装置やパスワード方式が用いられる。また、複数のシナリオを収録しているタイトル(「リルガミンサーガ」など)ではシナリオ間でのキャラクター転送をサポートしているものもある。
シナリオ#6→#7→#8のキャラクターの転送では、プレイヤーの迎えたエンディングによって次のシナリオでのゲーム開始状況が異なるマルチビギニング方式を採用している。
シナリオ#1 - #3、#5では、街にある各施設を利用することで、冒険によって失われた体力や魔力を回復して体勢を立て直すことができる。そして迷宮と街との往復を繰り返しながら、探索を進めることとなる。
シナリオ#2および#3、#5は「リルガミン」と明示されているが、#1、#4については単に「トレボーの城」とだけ書かれており、両者が同じ街かどうかは不明。
シナリオ#6以降には、このような「拠点としての街」は登場しない。
なお原作者ロバート・ウッドヘッドによれば、「ギルガメッシュ」「ボルタック」「カント」などは、彼とアンドリュー・グリーンバーグがTRPGをプレイしていた時のキャラクターの名前からとられているとのこと。
シナリオ#1 - #4では、1つの階層は20マス×20マスの正方形で構成されている(#5以降は不定形。また、#4ではマップが俯瞰図ではなく横からみた図(つまり、他の階層では南北で表される位相が上下になっている)になっている階層もある)。
壁や扉は、マスとマスの間を仕切っている。
マップの端(北と南、西と東)は、つながっていることがある。
パーティは一度に東西南北のいずれか一方向、初期状態では1マス先までしか見られない。一度に狭い範囲の状況しか見られないので、方向を変えてフロアを歩き回りながら、プレイヤーは方眼紙とペンを用意して独自に地図を作成する必要に迫られる。据え置き機や携帯機では、オートマッピング機能がついている作品もある。
ある特定のマスには、以下のようなものが設置されている。壁や扉にも、「一方通行」や「見えない扉」などの仕掛けがある。
迷宮探検を行うパーティに立ち塞がる主な障害として、戦闘を仕掛けてくるモンスターが挙げられる。彼らとの戦いをいかにうまく切り抜けて効率良く探索できるかがプレイヤーの腕の見せ所である。『AD&D』に倣い、ドラゴン、マンティコア、スライムなどの神話や想像上の生き物から、カピバラ、コヨーテなどの実在の動物までさまざまなモンスターが存在する。また、プレイヤーキャラクターと同じ戦士や魔術師などの人間達も襲い掛かってくる。以下に「本家」に登場するものから過半数である4作品以上に登場したものを紹介する。
本作品ではプレイヤーキャラクターが死んだ場合、「ロスト」(lost)と呼ばれる、復活できない状況が生じることがある。
HPが0になった状態は「死亡」(dead)である。モンスターの攻撃や罠などでヒットポイントがゼロになるほか、クリティカルヒット攻撃を受けたり、宝箱の罠が発動したりして、残りHPに関係なく死亡する場合もある。
キャラクターが死亡した場合は寺院や呪文で蘇生させることができるが、失敗する場合もあり、死亡からの蘇生に失敗すると「灰」(ashed)状態になる。灰からの蘇生も可能だが、死亡からの蘇生に比べ、寺院の場合は高額の費用が、呪文の場合は高レベルの呪文が必要となる。灰からの蘇生にも失敗すると「ロスト」(lost)となり、そのキャラクターはデータを抹消されて完全に消滅し、蘇生させることはできなくなる。
データが抹消されるタイミングはさまざまである。寺院で灰からの蘇生に失敗した場合は即座に埋葬され、そのキャラクターのデータは消滅する。迷宮内ではシナリオにより、蘇生に失敗した時点で即座に消滅するものや、メンバーから離れたり城に戻ったりした時点で消滅するものがある。シナリオによっては泉の奇跡などによりロストから蘇生するケースもある。シナリオ#2では、一部アイテムのスペシャルパワーを使うと即座に死亡するが、ロストした状態のキャラクターに使った場合でも「死亡」となるため、ロストから復活することも可能である。
また、全滅した場合にキャラクターがロストすることがある。本作品では迷宮内でパーティが全滅した場合、パーティーメンバーの死体はその場所に取り残されることになり、その者たちを復帰させるためには、生きている者がその場所へ行き、死体を回収して蘇生させなければならない。その際に、一部のメンバーがロストし回収できないこともあるほか、回収した場合でも、そのメンバーの所持品が奪われてなくなっていることもある。死体を回収するときには回収のための空きメンバーを作らなければならないため、少ない人数で行く必要があり、道中の戦闘がより困難となる。
そのほかのロストの要因として、レベルアップなどで生命力のパラメータが極端に低くなった場合や、エナジードレイン攻撃によってキャラクターがレベル0以下になった場合がある。ほかに、主に宝箱の罠「テレポータ」に引っ掛かった場合、岩のマスにテレポートで飛ばされることがあり、このときは「石の中にいる!」(ローカス版では「壁の中に入ってしまった!」)と表示されてロストとなる。ただし機種によっては、このときはロストせず、全員が死亡して城に送還されるものもある。シナリオ#2では、スペシャルパワーを開放するとロストになってしまうアイテムが複数存在する。シナリオ#3では、そこに到達する直前に何度も警告はされるものの、普通に歩いていける場所に全員強制ロストとなるトラップがある。
特殊な例だが、PCエンジン版Wizardry5は原作および他の移植作の5と大きく異なる点が非常に多く、本来味方専用である魔法を敵が詠唱してくる(敵は全ての魔法を詠唱できる)。その中で「悪魔にのみ効果がある」魔法がヒューマノイドのプレイヤーに効果があり、効果は「即ロスト」である。Wizardry5は城に帰った時点で「ロストとなったキャラが消える」という仕様が多く、さまざまな裏技でロストからの蘇生が可能なバージョンが多いが、PCエンジン版は戦闘中に即抹消されるため、他の一部バージョンで存在している「スペシャルパワーや水泳でロストから復活」との裏技が全く使えないため、簡単にロストになってしまうこともある(基本的に蘇生を全てカント寺院に任せておけばロストに遭遇する頻度はPCエンジン版Wizardry5以外では少ない)。
シナリオ#6以降では、このロストの要素はなくなった。ただしシナリオの特性上、恒常的にキャラクターの蘇生を行う施設がなく、補充メンバーを入れることもできないため、蘇生手段を持ち合わせていない場合、メンバーが欠けたままゲームを進めなければならない。
ウィザードリィのオリジナル版は、ゲーム雑誌『ソフトーク』の売上調査によれば、発売9ヶ月の1982年6月には24,000本を売り上げて成功した。1983年6月の『Electronic Games』誌には、「疑うまでも無く、ウィザードリィは現在最もappleIIで人気のあるファンタジー冒険ゲームである」と書かれた。
1980年代、ウィザードリィは、ロビン・ウィリアムズ、ハリー・アンダーソン(en:Harry Anderson)およびバーレーンの皇太子のような 著名人を含んだファンを楽しませた。特に後者は、個人的にサーテック社と同等の立場で話をした。
1996年発行の「Net Generation」では上位60番のゲームとしてランクされた。
押井守は「『設定だけで全部が成立していて、物語は自前で作る』という画期的なスタイルに感動して、丸1年毎日やっていた時期もあった」「ゲームの歴史の中でも別格的な存在だと思いますよ。あれ以降のゲームは全部『ビジュアルや音声等余計なものを増やしただけだ』と感じたくらい」「このゲームに出逢ったことは、僕がデジタルを用いた表現にハマる伏線にもなりました」と絶賛している。
1986年の雑誌『週刊ファミコン通信』第2号のコラム「パソコンゲーム通信」の筆者もプレイすると作中世界に浸ることができる点を評価している。 その一方で、コラムの筆者は第1作のPC版が日本で発売されたのと同じ時期に発売された『ザナドゥ』に人気を奪われてしまったことを指摘しており、その原因として敵キャラクターの絵が動かないなど、アクションゲームとしての要素を欠いていたことを指摘している。
ウィザードリィは対戦している魔物の画像を表示したコマンド式戦闘システムを確立した。このシステムは『バーズテイル』や『ドラゴンクエスト』、『ファイナルファンタジー』といった後のゲームに模倣された。
ウィザードリィのパーティ単位の戦闘は、リチャード・ギャリオットに『ウルティマIII』で同様のパーティ制システムを取り入れることを促した。
また、基本職での下積みを経て上級職へキャラクタークラスの変更を行うクラスチェンジの要素を取り入れたゲームであった。
ウィザードリィに触発されて多くのクローンが生まれ、コンピュータRPGのテンプレートとなった。1985年の『バーズテイル』や『マイトアンドマジック』は、ウィザードリィを起源とする著名なシリーズに含まれる。
日本では、ウィザードリィを元にシステムを簡素化した事実上国内PC用初のコンピュータRPG『ザ・ブラックオニキス』がウィザードリィの日本語版よりも1年早い1984年に発売された。
なかでも家庭用機向けRPG『ドラゴンクエスト』シリーズは、3作目までを通じて、ウィザードリィのコマンド式戦闘やキャラクターの装備やステータス異常、パーティー制、職業や転職といったシステムをコンピュータRPGに不慣れなユーザーにとっても段階的にわかりやすく取り入れ、これらのシステム、ひいてはコンピュータRPGそのものを日本において真に一般化させた。
その後の大きなフォロワーとしては、ベセスダのトッドハワード氏はクリエイターになるきっかけになったゲームタイトルの一つとして本作を挙げており、特にfallout3以降の彼が関わった作品には、主観視点で、また常にリアルタイムバトル以外の、コマンド式のバトルシステムをサポートしており、敵を倒した後にアイテムを拾ったり、謎解きでストーリーを進めていくアドベンチャーゲーム要素、キャラクター作成時に特性別にボーナスポイントを振り分けたり、メインストーリー終了後も永遠に宝探しが楽しめると言ったさまざまな部分で、意識的に影響を感じさせる作り方をしている。
コンピュータゲーム以外の分野においても、本シリーズのファンを明言する者もおり、彼らの作品において本シリーズからの引用がなされることもある。
たとえば、映画監督の押井守はアニメ映画『機動警察パトレイバー 2 the Movie』にて、自衛隊の要撃機のコールサインとして「ワイバーン」や「トレボー」といった名称を使用している。また、テレビアニメ『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』でもコールサインサインとして「ホークウィンド」と「トレボー」という名称が使用されている。
『ウィザードリィ』は、1991年2月20日に松竹富士より発売されたOVA作品。シナリオ#1をベースにしたオリジナルストーリーで、モンスターデザインはファミコン版を元にしている。独自の設定として、ワードナはアミュレットを使って世界征服を企む悪の魔術師で、アミュレットに施された封印が解かれたとき、1000年の呪いにより世界は滅び去り永遠の闇が訪れるとされている。
現行のセルメディアではリリースされておらずネット配信もされていないため、プレミア化した旧メディア(VHSなど)の中古品を再生機器と共に確保しないとならないなど、新規に見る事自体が難しい「幻の作品」となっている。
ワードナからアミュレットを取り戻すべくトレボー王によって集められた冒険者たち。だがいつしか冒険者は危険を犯すことを避け、迷宮の手頃な階層で魔物を倒して日銭を得ることに執心するようになり、本気でアミュレット奪還を考える者は殆どいなくなっていた。
侍のシン、君主のアレックス、忍者のホークウィンドたち3人もそんなパーティの一つであった。
ある日、地下4階で魔物に苦戦した3人は、凄腕の僧侶ジューザとその弟子アルパーに救われる。かつてワードナと共に冒険し、狂王トレボーにアミュレットをもたらしたジューザは、アミュレットを取り戻さねば、いずれワードナの手によって世界が滅びることを知っていた。それを阻止する為アミュレット奪還を目指すジューザは、3人の腕を見込み共に地下10階へ向かう事を誘う。しかしアミュレットには興味がないとその申し出を断った3人は地下9階まで同行する事にする。地下9階に降りた一行はグレーターデーモンの群れに襲われている女魔術師シーラと出会う。
シーラやジューザの呪文の助けもあり辛くもグレーターデーモン、フラックとの連戦を切り抜ける3人。日に日に迷宮の魔物たちが強くなってきていることを実感していた3人は、ジューザ、アルパーと共に地下10階へ降りてワードナへ挑戦することを決意。シーラもまた、村正を求めて地下迷宮に消えた恋人ランディの手掛かりを求めて一行と同行する。
地下10階に下り先へ進む彼らの前に村正を手にした侍が立ちはだかる。それはワードナが送り込んだ刺客、バンパイアロードによって魔物にされたランディであった。
死闘の末にランディを倒し、村正を手に入れたシン。彼らはランディの仇を討つべく、そのままワードナの玄室へと乗り込み、決戦に臨む。しかしワードナは既にアミュレットにかけられた封印を解き、恐るべき力を手に入れようとしていた。シンは村正を使いこなせずに苦戦を強いられ、アレックスはバンパイアロードを倒すもエナジードレインを受けて戦闘不能、さらにアルパーをかばったジューザが倒れ、一行は窮地に陥ってしまう。だがジューザの死によってシンは怒りを爆発させ、遂に村正の真の力を引き出すことに成功。シーラのマハマンに魔力を封じられたワードナを、アミュレットごと一刀両断に斬り伏せる。
すべての後、魔物として死んだランディ、精神力を使い果たしていたジューザの魂は失われ、共に蘇生は叶わず埋葬された。一行は全ての力を失ったアミュレットをトレボーに返さず、ジューザと共に埋葬する。そしてシンは恋人を失ったシーラへ「ランディが手に入れたものだから」と形見である村正を返そうとするが、彼女は「村正を使いこなせるのは真の侍だけ」と彼に村正を託す。
こうしてアミュレットを巡る戦いは終わったが、一連の冒険を通じて得難い仲間となった5人は、共に新たなる冒険に旅立つのだった。
下記は大半がサーテック社が存続していた当時にリリースされていたもので、21世紀以降は大半が絶版になっている。ドリコム社が版権を取得して以降はウィザードリィの世界観を用いたオリジナル小説『ブレイド&バスタード』が日本で刊行されている。
現在の状況としては「小説・エッセイ集」と同様。2022年からは『隣り合わせの灰と青春』のコミカライズ版が、2023年からは『ブレイド&バスタード』コミカライズ版が、それぞれ連載・刊行を開始している。 | [
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"text": "『ウィザードリィ』(Wizardry)は、1981年に米国のSir-Tech(サーテック)社(※)からApple II用ソフトウェアとして発売された『 Wizardry: Proving Grounds of the Mad Overlord 』(邦題 『ウィザードリィ 狂王の試練場』以下の記述で『1』・「オリジナル版」と略記する場合あり)を初作とする、コンピュータ・ロールプレイングゲーム(RPG)シリーズの総称である。「ウィザードリィシリーズ」(Wizardry Series)とも称される。形式(ジャンル)は3DダンジョンRPGに属する。",
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"text": "(※)現在、サーテック社自体は事実上消滅しておりシリーズ版権が散逸・複雑化している。詳しくは「#現在の版権保有企業」に状況を整理して記載しているので必要ならば参照のこと。",
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"text": "※以下の記載では大半でナンバリング作品を数字で略記している。正式名称は上記リンク先などを参照。",
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"text": "本シリーズは前述のとおり、大半の作品において3DダンジョンRPG形式をとっている。プレイヤーは主観的な視点で表現される迷宮を探索し、目的の達成とキャラクターの成長を楽しむことがプレイの目的となる。",
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"text": "『1』の好評により、サーテック社はナンバーを継承・カウントアップしたシリーズ作品(ナンバリング作品)をリリースし、Apple以外のパソコン機種へも移植。やがて家庭用ゲーム機(ファミコンなど)へも移植されている。結果として本シリーズはRPGの発展に大きく影響を及ぼした。特に初期作品(『1』~『3』くらいまで)は日本で生まれた家庭用ゲーム機用RPGシリーズである「ドラゴンクエストシリーズ」や「ファイナルファンタジーシリーズ」に重要な影響を与え、日本独自のスピンオフ作品がリリースされるようにもなった。",
"title": "概要"
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"text": "サーテック社による最後のシリーズナンバリング作品である『ウィザードリィ8』はWindows用として発売されたが、これ以降は様々な要因により権利関係が複雑化しナンバリングを受け継ぐ正当なシリーズ新作は途絶え、『1』~『5』のリメイクについても殆ど出ていない。(詳細後述)『6』~『8』については後述する日本企業が版権取得を行った事もあり、ライセンスを行使したスピンオフ作品も含め不定期ながら発表され続けている。",
"title": "概要"
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"text": "現在、現在『Wizardry』という名称商標権を所有しているのは日本のゲーム会社・「Drecom Co., Ltd.」(ドリコム)である。経緯としては下記のとおり。",
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"text": "5以前のいわゆる「クラシック」タイトルの権利については、旧Sir-Techと原作者の一人、アンドリュー・グリーンバーグとの間で2000年代から2012年ごろまで版権を巡る法廷闘争が発生していた。この影響で『Wizardry(ウィザードリィ)』の名を冠する新作をリリースしても、クラシックタイトルに登場した「トレボー」・「ワードナ」・「リルガミン」といった固有名詞、呪文名は新作で使用することができていない。日本で過去に開発したクラシックタイトルの移植版についても現行の家庭用ゲーム機器に新規移植・販売が出来ず、中古で入手するしかプレイできない状態となっている。",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "ただし『1』については2023年、PCアーキテクチャを使うゲームプラットフォーム・Steamを用いたリメイク版(のアーリーアクセスバージョン)が正規に公開されている。このリメイク版のストアページにおける版権(クレジット)表記は",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "WizardryTM is a trademark of Drecom Co., Ltd.",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "Proving Grounds of the Mad Overlord has been licensed to Digital Eclipse Entertainment Partners Co. by SirTech Entertainment Corp. All rights reserved.",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "と記載されている。",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "このクレジット表記について、右記出典→先の記事を書いた「ずんこ。」氏は下記のように解説している。(本ページの記事を書いた者により要約化して列挙)",
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"text": "現在は「名称商標権について」に記載した経緯により、ドリコム社が同作品の6以降の新シリーズのすべての権利も取得している。",
"title": "現在の版権保有企業"
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"text": "ドリコム社は上記の権利を行使し、2023年に『6』~『8』の復刻版をプロジェクトEGG(D4エンタープライズ社)からリリース。またスマートフォン向け3DダンジョンRPG『Wizardry Variants Daphne』やブロックチェーン技術を用いた『Eternal Crypt - Wizardry BC -』といった関連する新作を(早期アクセス版として)リリースし始めている。",
"title": "現在の版権保有企業"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "メインデザイナーはロバート・ウッドヘッド(Robert Woodhead)とアンドリュー・グリーンバーグ(Andrew C. Greenberg)である。当時、コーネル大学の学生だった2人がそれぞれ作成していた『パラディン』『ダンジョンオブディスペア』というゲームを互いに評価し、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)に代表されるRPGを、大学でのコンピュータ支援教育に用いられていたメインフレームよりも規模の小さな個人向けのパソコンで再現するため製作したものが、本作のシナリオ#1である。",
"title": "制作"
},
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "そのため、行動の成功判定処理、アイテムやモンスターの名称、データ数値などに、『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』(AD&D)の影響が色濃く見受けられる。また、ウッドヘッドが在校当時に熱狂したPLATOのコンピュータゲーム群、特に『Oubliette』の影響も大きい。ウィザードリィの初期作品はD&Dが高い人気を誇った時期に発売され、D&Dタイプでありながら豊富な映像表現を実現した最初のゲームとして成功した。",
"title": "制作"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "なお、シナリオ#1「狂王の試練場」の狂王トレボー(Trebor)と邪悪な魔術師ワードナ(Werdna)の名は、彼ら2人の名前を逆につづったものである。",
"title": "制作"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "Apple IIでは、Apple Pascal(UCSD Pascal)で開発されている。",
"title": "制作"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#5以降はデヴィッド・W・ブラッドリー(英語版)がシリーズを引き継いだ。",
"title": "制作"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1985年にPC版を、株式会社フォア・チューンが移植し、アスキーが販売している。",
"title": "制作"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1987年にゲームスタジオがファミリーコンピュータ(FC)への移植の実作業を行ったが、Pascalの動作しないFCへの移植についてウッドヘッドは難色を示していた。しかし、遠藤雅伸率いるゲームスタジオのプログラマは、この問題をクリアした。FC版ではBGMの作曲に羽田健太郎、登場モンスターのデザインや広告イラストに末弥純を起用している。",
"title": "制作"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "一方、1998年発売のプレイステーション(PS)版とWindows版の移植は、ローカスが行った。シナリオ#1 - 3を「リルガミンサーガ」、シナリオ#4・5を「ニューエイジオブリルガミン」として1本にまとめている。こちらも羽田健太郎がFC版とは異なる楽曲を、末弥純はFC版とほぼ同じイラストを提供している。なお、「リルガミンサーガ」Windows版は後年の移植で唯一、Macintosh版のUIに近い作りとなっている。",
"title": "制作"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "バンダイもワンダースワン用に移植するが(実際の移植作業は株式会社スティングが担当)1作のみで打ち切った。",
"title": "制作"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "サーテックより発売されたオリジナルタイトルは1981年の『ウィザードリィ 狂王の試練場』から2001年の『ウィザードリィ8(英語版)』が存在する。",
"title": "シリーズ作品"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本においては、上記をローカライズした作品のほか、1991年にアスキーより発売された『ウィザードリィ外伝』を始めとして、ウィザードリィのタイトルを冠するスピンオフ作品が現在に至るまで多数製作されている。",
"title": "シリーズ作品"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "これらの作品は主に日本国内のみで販売されているが、『BUSIN Wizardry Alternative』『ウィザードリィ 囚われし魂の迷宮』『Wizardry Online』のように日本で開発・リリースされた後、欧米でもリリースされた作品も存在する。",
"title": "シリーズ作品"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "戦士や盗賊、僧侶、魔法使いといった、異なる能力を持った最大6人のパーティを組み、3D表示された迷宮を探検するのが基本のスタイルである。なお、メンバーの前から3人までが前衛となり、敵との格闘戦を担当する。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "迷宮では、遭遇する敵を倒しつつ攻略していく。敵を倒すと経験値であるE.P.と通貨であるG.P.が獲得できる。E.P.とG.P.は他の一般的なRPGとは異なり、パーティ全体に与えられるものではなく、生存メンバー毎への分配式であるため、E.P.は各メンバー毎に同じ数値が、G.P.は同じ額が参加メンバー1人ずつに与えられる。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "また、敵を倒すと宝箱が出現することがあり、この宝箱は任意で開閉の有無が選択可能である。開けた場合は戦利品を獲得できることもあるが、宝箱には罠が仕掛けられていることが多い。宝箱の罠の解除は、#3では盗賊、忍者のみが可能であるが、解除に失敗する場合もある。なお、宝箱の罠の内容を調べるのは全メンバーが可能であるが、これには盗賊、忍者以外では正答率が相当に低く、また盗賊や忍者であっても当たり外れがあるため、実際に開けた場合の罠と異なることもある。盗賊は他の職業に比べて戦闘力に劣るが宝箱の罠を解除しなければ強力な装備は入手できないため、パーティの戦力が落ちるのを承知で盗賊を一人入れ、将来的に上位クラスの忍者にクラスチェンジするのが通常である。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "耐久力(HP)や呪文の使用回数(マジックポイント、MP)が少なくなったら街へ戻り、宿屋に泊まって回復し、装備を整えて再び迷宮に入り、徐々に探索範囲を広げていく、という行程の繰り返しでゲームは進んでいく。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "その間に、各キャラクターは経験を積んでレベルを上げることで成長していき、一度の攻撃で多くのダメージを与えられるようになったり強力な呪文をより多くの回数唱えられるようになっていく。また、戦利品から優れた武具を選び身に付けることでも戦力を強化できる。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ウィザードリィシリーズの初期の作品は、拠点となる街は文章で表示され、魔物や迷宮のグラフィックも現在のゲームと比べると簡素ではあった。しかし、迷宮とその内のあらゆる物がアスキー文字による疑似平面図で構成され示される『ローグ』と比べると、冒険者の視点で描かれた迷路は臨場感があった。PC98シリーズ版のパッケージには書き込み式のマップシートが同梱されており、プレイヤーは地図を自作するようになっていたが、後期の移植作品ではゲーム内で自動的にマップを生成できるようになった。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "世界設定やシナリオは、基本的に従来のテーブルトークRPGの流れを汲むが、ウィザードリィはさらに独自のネタを追加し、モンスターやアイテムに各地の神話、SF、黒澤明作品など日本の時代劇ネタ、幼児番組『セサミストリート』、童謡『マザー・グース』、駄洒落、果ては『空飛ぶモンティ・パイソン』の影響も散見される。後のドラゴンクエストもこれらに影響を受けている。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "しかしながら日本では上記のようなパロディはあまり注目されず、正統派ファンタジーとして受け入れられた。例えば、ゲーム中に登場する剣「“カシナートの剣(Blade Cusinart')”」(クイジナート社のフードプロセッサーのパロディ)が、日本では「名匠カシナートが鍛えた剣」として紹介されている。この「名匠カシナート」の設定はテーブルトークRPG版『ウィザードリィRPG』などに引き継がれている。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ファミコン版移植の際には、由来不明の魔物マイルフィック(Maelific)にパズスのような独自の解釈によるイラストが付けられている。ベニー松山によるノベライズ作品や石垣環によるコミカライズ作品も日本人が受容した正統派ファンタジーの設定を用いている。",
"title": "ゲームの流れ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ゲームを開始した直後、プレイヤーはまず冒険に参加するキャラクター(プレイヤーキャラクター)について、種族と性格、職業を選択することで作成する。シナリオ#1・#3、#5ではゲーム中で最大20人まで登録でき、うち最大6人までパーティに参加させ冒険することとなる。シナリオ#6以降では、6人のパーティメンバーのみ作成する。なお、#6以降では性別がデータに追加された。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "各キャラクターは戦闘で経験を積むことでレベルアップが可能である。レベルアップすると、力や素早さなどが向上する可能性があるほか(低下する場合もある。年齢が高いと低下しやすい)、耐久力(HP)の向上、攻撃回数の増加(直接攻撃を行う前衛の3人にとっては重要である)、呪文の修得、呪文使用回数の増加という面でキャラクターが強化される。このゲームにおいては、各種能力値ではなく、「レベル」の値そのものが非常に重要となっている。なお、レベルアップに必要な経験値は職業によって大きく異なる。もっとも成長が早いのは盗賊であり、遅いのは忍者である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "レベルの上限は設定されておらず、無限に上げることができる。ただし、PCエンジン版I、II、III、Vはレベル1000でカウンターストップ。PS版「リルガミンサーガ」では上限が999に変更されている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "キャラクターの打たれ強さ。レベルアップによる累積ではなく、レベルアップごとに乱数で算出されるため、非常に幅が広いのが特徴である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "防御力。値が小さいほど相手の攻撃成功率が下がる。防具を装備するか、一部呪文を受けることで変動する。忍者のみ、装備を付けない裸の状態でレベルによりアーマークラス(AC)が減少する。AC-10以下で「LO」と表示されるようになり、シャーマン戦車級の防御力があるとされる。AC-100以下で「VL」と表示されるようになる。レベル221以上の忍者を裸にするか、#4のラスボスであるホークウインド卿に遭遇するとVL表示を見ることができる。ただし、近年の作品ではAC-20以下で「VL」と表示されるものもある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "5つの種族から選択する。種族によって能力値の基本値が定められており、職業の選択に大いに影響を与える。選択時制限は無いが変更はできない。他のファンタジー作品ではデミヒューマンは人間よりも長命であることが多いが、本シリーズにおいてはどの種族も同程度である。シナリオ#6以降はさらに6つの種族が追加されている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "善 (good)・中立 (neutral)・悪 (evil) の3種類から1つを選択する。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "キャラクターの特徴を決定付ける要素で、シナリオ#1 - #3と#5では8つの職業(クラス)がある。初期段階では制限によって選択できないものがあるが、別の職業で成長して条件を満たすことで転職できる。シナリオ#5までの職業は能力値の他、性格によっても選択できなくなる可能性があるが、職に就いたあとで性格が変わる可能性はある。例えば、性格が悪の者は能力値が条件を満たしていても侍にはなれないが、性格が善の侍が悪の性格に転じることはある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#6以降は、さらに6つの職業が追加されている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "#6以降にも引き続き登場するが、一部の職業は特徴が変更されている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "能力値が各職業の条件を満たしたキャラクターは転職が可能である。転職後はレベル1となり、それまでに得た耐久力(HP)と修得した呪文は引き継がれるが、5歳程度老化し、能力値は各種族の基本値まで低下し、呪文使用回数も最低限まで低下してしまう。なお、一部の機種・シナリオにおいては、アイテムを使用してレベルや能力値などをそのままに転職を行うことが可能である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#1 - #5では、魔術師呪文と僧侶呪文の二系統に分類される。それぞれが第1 - 第7段階に分けられ、段階ごとに数個ずつの呪文が属している。キャラクターのレベルが上がるにつれて、新しい呪文を習得し、MPが増える。MPはその段階ごとに設定されており、呪文を行使するごとにMPを消費する。僧侶と魔術師は最短でレベル13に達した時点で全ての呪文を修得するが、司教、侍、君主の場合はより高いレベルが必要とされる。PC版のシナリオ#2ではマロールが、シナリオ#5ではソコルディかバモルディが攻略上必須となる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#6以降では呪文のシステムが一新された。火水風土心聖の6領域に大きく分類され、それぞれの呪文は6領域のうちのどれか一つに属する。どの呪文を習得できるかは、魔術師系統、僧侶系統、錬金術系統、霊能力系統の4系統によって異なっており、現在就いている職業によってどの系統の呪文を習得できるかが決まる。呪文によっては複数の系統で習得できるものもある。高度な呪文は、レベルやそれぞれの系統のスキル値を上げないと習得できない。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "MPは6つの領域ごとに設定されており、呪文によって定められたポイントを消費する。レベルが上がれば最大6倍まで一度にMPを消費して効果を上げることができる。ただし、「発声」のスキルが低いと呪文が逆流(バックファイアー)してパーティがダメージを受けることがある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "呪文の名称は、シナリオ#1 - #5ではアルファベットを組み合わせた独特のもの(竹内誠の小説・原作漫画では真言葉(トゥルー・ワード)という魔法単語の組み合わせ)、シナリオ#6以降ではその効果を表す英単語・熟語がそのまま呪文の名称となっている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1つのシナリオで成長させたキャラクターは、別のシナリオに転送して使用することができる。転送した場合に持ち越せるもの(能力値やアイテムなど)はシナリオや機種などにより異なる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "キャラクターの転送にはフロッピーディスク、ターボファイル、メモリーカードなどの外部記憶装置やパスワード方式が用いられる。また、複数のシナリオを収録しているタイトル(「リルガミンサーガ」など)ではシナリオ間でのキャラクター転送をサポートしているものもある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#6→#7→#8のキャラクターの転送では、プレイヤーの迎えたエンディングによって次のシナリオでのゲーム開始状況が異なるマルチビギニング方式を採用している。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#1 - #3、#5では、街にある各施設を利用することで、冒険によって失われた体力や魔力を回復して体勢を立て直すことができる。そして迷宮と街との往復を繰り返しながら、探索を進めることとなる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#2および#3、#5は「リルガミン」と明示されているが、#1、#4については単に「トレボーの城」とだけ書かれており、両者が同じ街かどうかは不明。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#6以降には、このような「拠点としての街」は登場しない。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお原作者ロバート・ウッドヘッドによれば、「ギルガメッシュ」「ボルタック」「カント」などは、彼とアンドリュー・グリーンバーグがTRPGをプレイしていた時のキャラクターの名前からとられているとのこと。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#1 - #4では、1つの階層は20マス×20マスの正方形で構成されている(#5以降は不定形。また、#4ではマップが俯瞰図ではなく横からみた図(つまり、他の階層では南北で表される位相が上下になっている)になっている階層もある)。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "壁や扉は、マスとマスの間を仕切っている。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "マップの端(北と南、西と東)は、つながっていることがある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "パーティは一度に東西南北のいずれか一方向、初期状態では1マス先までしか見られない。一度に狭い範囲の状況しか見られないので、方向を変えてフロアを歩き回りながら、プレイヤーは方眼紙とペンを用意して独自に地図を作成する必要に迫られる。据え置き機や携帯機では、オートマッピング機能がついている作品もある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ある特定のマスには、以下のようなものが設置されている。壁や扉にも、「一方通行」や「見えない扉」などの仕掛けがある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "迷宮探検を行うパーティに立ち塞がる主な障害として、戦闘を仕掛けてくるモンスターが挙げられる。彼らとの戦いをいかにうまく切り抜けて効率良く探索できるかがプレイヤーの腕の見せ所である。『AD&D』に倣い、ドラゴン、マンティコア、スライムなどの神話や想像上の生き物から、カピバラ、コヨーテなどの実在の動物までさまざまなモンスターが存在する。また、プレイヤーキャラクターと同じ戦士や魔術師などの人間達も襲い掛かってくる。以下に「本家」に登場するものから過半数である4作品以上に登場したものを紹介する。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "本作品ではプレイヤーキャラクターが死んだ場合、「ロスト」(lost)と呼ばれる、復活できない状況が生じることがある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "HPが0になった状態は「死亡」(dead)である。モンスターの攻撃や罠などでヒットポイントがゼロになるほか、クリティカルヒット攻撃を受けたり、宝箱の罠が発動したりして、残りHPに関係なく死亡する場合もある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "キャラクターが死亡した場合は寺院や呪文で蘇生させることができるが、失敗する場合もあり、死亡からの蘇生に失敗すると「灰」(ashed)状態になる。灰からの蘇生も可能だが、死亡からの蘇生に比べ、寺院の場合は高額の費用が、呪文の場合は高レベルの呪文が必要となる。灰からの蘇生にも失敗すると「ロスト」(lost)となり、そのキャラクターはデータを抹消されて完全に消滅し、蘇生させることはできなくなる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "データが抹消されるタイミングはさまざまである。寺院で灰からの蘇生に失敗した場合は即座に埋葬され、そのキャラクターのデータは消滅する。迷宮内ではシナリオにより、蘇生に失敗した時点で即座に消滅するものや、メンバーから離れたり城に戻ったりした時点で消滅するものがある。シナリオによっては泉の奇跡などによりロストから蘇生するケースもある。シナリオ#2では、一部アイテムのスペシャルパワーを使うと即座に死亡するが、ロストした状態のキャラクターに使った場合でも「死亡」となるため、ロストから復活することも可能である。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、全滅した場合にキャラクターがロストすることがある。本作品では迷宮内でパーティが全滅した場合、パーティーメンバーの死体はその場所に取り残されることになり、その者たちを復帰させるためには、生きている者がその場所へ行き、死体を回収して蘇生させなければならない。その際に、一部のメンバーがロストし回収できないこともあるほか、回収した場合でも、そのメンバーの所持品が奪われてなくなっていることもある。死体を回収するときには回収のための空きメンバーを作らなければならないため、少ない人数で行く必要があり、道中の戦闘がより困難となる。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "そのほかのロストの要因として、レベルアップなどで生命力のパラメータが極端に低くなった場合や、エナジードレイン攻撃によってキャラクターがレベル0以下になった場合がある。ほかに、主に宝箱の罠「テレポータ」に引っ掛かった場合、岩のマスにテレポートで飛ばされることがあり、このときは「石の中にいる!」(ローカス版では「壁の中に入ってしまった!」)と表示されてロストとなる。ただし機種によっては、このときはロストせず、全員が死亡して城に送還されるものもある。シナリオ#2では、スペシャルパワーを開放するとロストになってしまうアイテムが複数存在する。シナリオ#3では、そこに到達する直前に何度も警告はされるものの、普通に歩いていける場所に全員強制ロストとなるトラップがある。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "特殊な例だが、PCエンジン版Wizardry5は原作および他の移植作の5と大きく異なる点が非常に多く、本来味方専用である魔法を敵が詠唱してくる(敵は全ての魔法を詠唱できる)。その中で「悪魔にのみ効果がある」魔法がヒューマノイドのプレイヤーに効果があり、効果は「即ロスト」である。Wizardry5は城に帰った時点で「ロストとなったキャラが消える」という仕様が多く、さまざまな裏技でロストからの蘇生が可能なバージョンが多いが、PCエンジン版は戦闘中に即抹消されるため、他の一部バージョンで存在している「スペシャルパワーや水泳でロストから復活」との裏技が全く使えないため、簡単にロストになってしまうこともある(基本的に蘇生を全てカント寺院に任せておけばロストに遭遇する頻度はPCエンジン版Wizardry5以外では少ない)。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "シナリオ#6以降では、このロストの要素はなくなった。ただしシナリオの特性上、恒常的にキャラクターの蘇生を行う施設がなく、補充メンバーを入れることもできないため、蘇生手段を持ち合わせていない場合、メンバーが欠けたままゲームを進めなければならない。",
"title": "ゲームシステム"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ウィザードリィのオリジナル版は、ゲーム雑誌『ソフトーク』の売上調査によれば、発売9ヶ月の1982年6月には24,000本を売り上げて成功した。1983年6月の『Electronic Games』誌には、「疑うまでも無く、ウィザードリィは現在最もappleIIで人気のあるファンタジー冒険ゲームである」と書かれた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1980年代、ウィザードリィは、ロビン・ウィリアムズ、ハリー・アンダーソン(en:Harry Anderson)およびバーレーンの皇太子のような 著名人を含んだファンを楽しませた。特に後者は、個人的にサーテック社と同等の立場で話をした。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1996年発行の「Net Generation」では上位60番のゲームとしてランクされた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "押井守は「『設定だけで全部が成立していて、物語は自前で作る』という画期的なスタイルに感動して、丸1年毎日やっていた時期もあった」「ゲームの歴史の中でも別格的な存在だと思いますよ。あれ以降のゲームは全部『ビジュアルや音声等余計なものを増やしただけだ』と感じたくらい」「このゲームに出逢ったことは、僕がデジタルを用いた表現にハマる伏線にもなりました」と絶賛している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1986年の雑誌『週刊ファミコン通信』第2号のコラム「パソコンゲーム通信」の筆者もプレイすると作中世界に浸ることができる点を評価している。 その一方で、コラムの筆者は第1作のPC版が日本で発売されたのと同じ時期に発売された『ザナドゥ』に人気を奪われてしまったことを指摘しており、その原因として敵キャラクターの絵が動かないなど、アクションゲームとしての要素を欠いていたことを指摘している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ウィザードリィは対戦している魔物の画像を表示したコマンド式戦闘システムを確立した。このシステムは『バーズテイル』や『ドラゴンクエスト』、『ファイナルファンタジー』といった後のゲームに模倣された。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ウィザードリィのパーティ単位の戦闘は、リチャード・ギャリオットに『ウルティマIII』で同様のパーティ制システムを取り入れることを促した。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "また、基本職での下積みを経て上級職へキャラクタークラスの変更を行うクラスチェンジの要素を取り入れたゲームであった。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ウィザードリィに触発されて多くのクローンが生まれ、コンピュータRPGのテンプレートとなった。1985年の『バーズテイル』や『マイトアンドマジック』は、ウィザードリィを起源とする著名なシリーズに含まれる。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日本では、ウィザードリィを元にシステムを簡素化した事実上国内PC用初のコンピュータRPG『ザ・ブラックオニキス』がウィザードリィの日本語版よりも1年早い1984年に発売された。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "なかでも家庭用機向けRPG『ドラゴンクエスト』シリーズは、3作目までを通じて、ウィザードリィのコマンド式戦闘やキャラクターの装備やステータス異常、パーティー制、職業や転職といったシステムをコンピュータRPGに不慣れなユーザーにとっても段階的にわかりやすく取り入れ、これらのシステム、ひいてはコンピュータRPGそのものを日本において真に一般化させた。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その後の大きなフォロワーとしては、ベセスダのトッドハワード氏はクリエイターになるきっかけになったゲームタイトルの一つとして本作を挙げており、特にfallout3以降の彼が関わった作品には、主観視点で、また常にリアルタイムバトル以外の、コマンド式のバトルシステムをサポートしており、敵を倒した後にアイテムを拾ったり、謎解きでストーリーを進めていくアドベンチャーゲーム要素、キャラクター作成時に特性別にボーナスポイントを振り分けたり、メインストーリー終了後も永遠に宝探しが楽しめると言ったさまざまな部分で、意識的に影響を感じさせる作り方をしている。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "コンピュータゲーム以外の分野においても、本シリーズのファンを明言する者もおり、彼らの作品において本シリーズからの引用がなされることもある。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "たとえば、映画監督の押井守はアニメ映画『機動警察パトレイバー 2 the Movie』にて、自衛隊の要撃機のコールサインとして「ワイバーン」や「トレボー」といった名称を使用している。また、テレビアニメ『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』でもコールサインサインとして「ホークウィンド」と「トレボー」という名称が使用されている。",
"title": "後世への影響"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "『ウィザードリィ』は、1991年2月20日に松竹富士より発売されたOVA作品。シナリオ#1をベースにしたオリジナルストーリーで、モンスターデザインはファミコン版を元にしている。独自の設定として、ワードナはアミュレットを使って世界征服を企む悪の魔術師で、アミュレットに施された封印が解かれたとき、1000年の呪いにより世界は滅び去り永遠の闇が訪れるとされている。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "現行のセルメディアではリリースされておらずネット配信もされていないため、プレミア化した旧メディア(VHSなど)の中古品を再生機器と共に確保しないとならないなど、新規に見る事自体が難しい「幻の作品」となっている。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ワードナからアミュレットを取り戻すべくトレボー王によって集められた冒険者たち。だがいつしか冒険者は危険を犯すことを避け、迷宮の手頃な階層で魔物を倒して日銭を得ることに執心するようになり、本気でアミュレット奪還を考える者は殆どいなくなっていた。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "侍のシン、君主のアレックス、忍者のホークウィンドたち3人もそんなパーティの一つであった。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ある日、地下4階で魔物に苦戦した3人は、凄腕の僧侶ジューザとその弟子アルパーに救われる。かつてワードナと共に冒険し、狂王トレボーにアミュレットをもたらしたジューザは、アミュレットを取り戻さねば、いずれワードナの手によって世界が滅びることを知っていた。それを阻止する為アミュレット奪還を目指すジューザは、3人の腕を見込み共に地下10階へ向かう事を誘う。しかしアミュレットには興味がないとその申し出を断った3人は地下9階まで同行する事にする。地下9階に降りた一行はグレーターデーモンの群れに襲われている女魔術師シーラと出会う。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "シーラやジューザの呪文の助けもあり辛くもグレーターデーモン、フラックとの連戦を切り抜ける3人。日に日に迷宮の魔物たちが強くなってきていることを実感していた3人は、ジューザ、アルパーと共に地下10階へ降りてワードナへ挑戦することを決意。シーラもまた、村正を求めて地下迷宮に消えた恋人ランディの手掛かりを求めて一行と同行する。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "地下10階に下り先へ進む彼らの前に村正を手にした侍が立ちはだかる。それはワードナが送り込んだ刺客、バンパイアロードによって魔物にされたランディであった。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "死闘の末にランディを倒し、村正を手に入れたシン。彼らはランディの仇を討つべく、そのままワードナの玄室へと乗り込み、決戦に臨む。しかしワードナは既にアミュレットにかけられた封印を解き、恐るべき力を手に入れようとしていた。シンは村正を使いこなせずに苦戦を強いられ、アレックスはバンパイアロードを倒すもエナジードレインを受けて戦闘不能、さらにアルパーをかばったジューザが倒れ、一行は窮地に陥ってしまう。だがジューザの死によってシンは怒りを爆発させ、遂に村正の真の力を引き出すことに成功。シーラのマハマンに魔力を封じられたワードナを、アミュレットごと一刀両断に斬り伏せる。",
"title": "関連作品"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "すべての後、魔物として死んだランディ、精神力を使い果たしていたジューザの魂は失われ、共に蘇生は叶わず埋葬された。一行は全ての力を失ったアミュレットをトレボーに返さず、ジューザと共に埋葬する。そしてシンは恋人を失ったシーラへ「ランディが手に入れたものだから」と形見である村正を返そうとするが、彼女は「村正を使いこなせるのは真の侍だけ」と彼に村正を託す。",
"title": "関連作品"
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"text": "こうしてアミュレットを巡る戦いは終わったが、一連の冒険を通じて得難い仲間となった5人は、共に新たなる冒険に旅立つのだった。",
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"text": "下記は大半がサーテック社が存続していた当時にリリースされていたもので、21世紀以降は大半が絶版になっている。ドリコム社が版権を取得して以降はウィザードリィの世界観を用いたオリジナル小説『ブレイド&バスタード』が日本で刊行されている。",
"title": "関連作品"
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{
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"text": "現在の状況としては「小説・エッセイ集」と同様。2022年からは『隣り合わせの灰と青春』のコミカライズ版が、2023年からは『ブレイド&バスタード』コミカライズ版が、それぞれ連載・刊行を開始している。",
"title": "関連作品"
}
] | 『ウィザードリィ』(Wizardry)は、1981年に米国のSir-Tech(サーテック)社(※)からApple II用ソフトウェアとして発売された『 Wizardry: Proving Grounds of the Mad Overlord 』を初作とする、コンピュータ・ロールプレイングゲーム(RPG)シリーズの総称である。「ウィザードリィシリーズ」とも称される。形式(ジャンル)は3DダンジョンRPGに属する。 (※)現在、サーテック社自体は事実上消滅しておりシリーズ版権が散逸・複雑化している。詳しくは「#現在の版権保有企業」に状況を整理して記載しているので必要ならば参照のこと。 ※以下の記載では大半でナンバリング作品を数字で略記している。正式名称は上記リンク先などを参照。 | {{出典の明記|date=2014年12月}}
{{コンピュータゲームシリーズ
| title = ウィザードリィ
| genre = [[3DダンジョンRPG]]
| developer = [[サーテック]]
| publisher = サーテック
| creator = [[アンドリュー・グリーンバーグ]]<br>[[ロバート・ウッドヘッド]]
| spinoffs = [[BUSIN Wizardry Alternative]]<br>''[[ウィザードリィのシリーズ一覧#Nemesis_-_the_Wizardry_Adventure|Nemesis: The Wizardry Adventure]]''<br>[[ウィザードリィ 囚われし魂の迷宮]]<br>[[Wizardry Online]]
| first release version = [[ウィザードリィ 狂王の試練場]]
| first release date = 1981年9月
| latest release version = ''[[ウィザードリィのシリーズ一覧#Wizrogue 〜Labyrinth of Wizardry〜|Wizrogue: Labyrinth of Wizardry]]''
| latest release date = 2017年2月24日
}}
『'''ウィザードリィ'''』('''Wizardry''')は、[[1981年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]の[[サーテック]]社から[[Apple II]]用[[ソフトウェア]]として発売された[[3DダンジョンRPG]]のシリーズである。
現在の[[ロールプレイングゲーム]](RPG)の発展に大きく影響したシリーズであり、特に初期作品は[[ドラゴンクエストシリーズ]]<ref>{{cite web|url=http://www.1up.com/features/dragon-quest-retrospective |title=East and West, Warrior and Quest: A Dragon Quest Retrospective from |language=英語 |publisher=1UP.com |date= |accessdate=2014-03-22 |deadlinkdate=2016-11-27 |archiveurl=https://archive.is/20120716165321/http://www.1up.com/features/dragon-quest-retrospective |archivedate=2012-07-16}}</ref>や[[ファイナルファンタジーシリーズ]]<ref>{{cite web|url=https://www.pcmag.com/slideshow/story/295139/10-classic-computer-rpgs/10 |title=10 Classic Computer RPGs - Wizardry:Proving Grounds of the Mad Overlord (1981) - Slideshow from |publisher=PCMag.com |date=2012-03-10 |language=英語 |accessdate=2014-03-22}}</ref>などのRPGに多大な影響を与えた。
サーテック社は[[2001年]]に発売された『{{仮リンク|ウィザードリィ8|en|Wizardry 8}}』を最後に倒産し、以降はシリーズの版権を取得・ライセンス供与を受けた日本企業によるスピンオフ作品が発表され続けている。詳細は[[#版権元の変遷]]にて。
== シリーズ作品 ==
{{Main|ウィザードリィのシリーズ一覧}}
サーテック社より発売されたオリジナルタイトルは1981年の『[[ウィザードリィ 狂王の試練場]]』から2001年の『{{仮リンク|ウィザードリィ8|en|Wizardry 8}}』が存在する。
日本においては、上記をローカライズした作品のほか、1991年にアスキーより発売された『ウィザードリィ外伝』を始めとして、ウィザードリィのタイトルを冠するスピンオフ作品が現在に至るまで多数製作されている。
これらの作品は主に日本国内のみで販売されているが、『[[BUSIN Wizardry Alternative]]』『[[ウィザードリィ 囚われし魂の迷宮]]』『[[Wizardry Online]]』のように日本で開発・リリースされた後、欧米でもリリースされた作品も存在する。
== ゲームの流れ ==
主観視点で表現される迷宮を探索し、目的の達成とキャラクターの成長を楽しむことがプレイの目的となる。
戦士や盗賊、僧侶、魔法使いといった、異なる能力を持った最大6人のパーティを組み、3D表示された迷宮を探検するのが基本のスタイルである。なお、メンバーの前から3人までが前衛となり、敵との格闘戦を担当する。
迷宮では、遭遇する敵を倒しつつ攻略していく。敵を倒すと経験値であるE.P.と通貨であるG.P.が獲得できる。E.P.とG.P.は他の一般的なRPGとは異なり、パーティ全体に与えられるものではなく、生存メンバー毎への分配式であるため、E.P.は各メンバー毎に同じ数値が、G.P.は同じ額が参加メンバー1人ずつに与えられる。
また、敵を倒すと宝箱が出現することがあり、この宝箱は任意で開閉の有無が選択可能である。開けた場合は戦利品を獲得できることもあるが、宝箱には罠が仕掛けられていることが多い。宝箱の罠の解除は、#3では盗賊、忍者のみが可能であるが、解除に失敗する場合もある。なお、宝箱の罠の内容を調べるのは全メンバーが可能であるが、これには盗賊、忍者以外では正答率が相当に低く、また盗賊や忍者であっても当たり外れがあるため、実際に開けた場合の罠と異なることもある。盗賊は他の職業に比べて戦闘力に劣るが宝箱の罠を解除しなければ強力な装備は入手できないため、パーティの戦力が落ちるのを承知で盗賊を一人入れ、将来的に上位クラスの忍者にクラスチェンジするのが通常である。
耐久力(HP)や呪文の使用回数([[マジックポイント]]、MP)が少なくなったら街へ戻り、宿屋に泊まって回復し、装備を整えて再び迷宮に入り、徐々に探索範囲を広げていく、という行程の繰り返しでゲームは進んでいく。
その間に、各キャラクターは経験を積んで[[レベル (ロールプレイングゲーム)|レベル]]を上げることで成長していき、一度の攻撃で多くのダメージを与えられるようになったり強力な呪文をより多くの回数唱えられるようになっていく。また、戦利品から優れた武具を選び身に付けることでも戦力を強化できる。
ウィザードリィシリーズの初期の作品は、拠点となる街は文章で表示され、魔物や迷宮のグラフィックも現在のゲームと比べると簡素ではあった。しかし、迷宮とその内のあらゆる物がアスキー文字による疑似平面図で構成され示される『[[ローグ]]』と比べると、冒険者の視点で描かれた迷路は臨場感があった<ref group="注">本作のオリジナル版時点で、現在の[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]において一般的な設定と同じく「[[WASD]]」を移動に割り当てていたが、本作では左右キーが平行移動ではなく旋回である点・そもそも「マウスとの同時使用は考慮していないが、AppleIIのキーボードに矢印キーがなかったため」という理由で異なり、配置が同じなのは偶然である。</ref>。[[PC-9800シリーズ|PC98シリーズ]]版のパッケージには書き込み式のマップシートが同梱されており、プレイヤーは地図を自作するようになっていたが、後期の移植作品ではゲーム内で自動的にマップを生成できるようになった。
=== 舞台設定 ===
{{Main2|登場キャラクター|ウィザードリィの登場キャラクター}}
世界設定やシナリオは、基本的に従来のテーブルトークRPGの流れを汲むが、ウィザードリィはさらに独自のネタを追加し、モンスターやアイテムに各地の神話、SF、[[黒澤明]]作品など日本の[[時代劇]]ネタ、幼児番組『[[セサミストリート]]』、童謡『[[マザー・グース]]』、駄洒落、果ては『[[空飛ぶモンティ・パイソン]]』の影響も散見される。後の[[ドラゴンクエスト]]もこれらに影響を受けている。
[[File:Blade Cusinart in Wizardry 2020-01-13.gif|thumb|120px|オリジナル英語版の「Blade Cusinart」の概略]]
しかしながら日本では上記のようなパロディはあまり注目されず、正統派ファンタジーとして受け入れられた。例えば、ゲーム中に登場する剣「“カシナートの剣(Blade Cusinart')”」([[クイジナート|クイジナート社]]の[[フードプロセッサー]]のパロディ)<ref group="注">#4に登場する冒険者「ホリンの聖なるローラーズ」の一団の初期PC版の前衛グループグラフィックでその全貌をうかがい知ることができる。</ref>が、日本では「名匠カシナートが鍛えた剣」として紹介されている。この「名匠カシナート」の設定はテーブルトークRPG版『[[ウィザードリィRPG]]』などに引き継がれている。
ファミコン版移植の際には、由来不明の魔物マイルフィック(Maelific)に[[パズズ|パズス]]のような独自の解釈によるイラストが付けられている{{Refnest|group="注"|『ウィザードリィ モンスターズマニュアル』では[[荒魂・和魂|荒御霊]]という解釈でイラスト化されていた<ref>{{Cite book |和書 |author=ゲームアーツ|authorlink=ゲームアーツ |title=ウィザードリィ モンスターズマニュアル |year=1986 |publisher=[[アスペクト (企業)|アスペクト]] |page=106 |isbn=4-89366-215-5}}</ref>。}}。[[ベニー松山]]による[[小説化|ノベライズ]]作品や[[石垣環]]による[[コミカライズ]]作品も日本人が受容した正統派ファンタジーの設定を用いている。
== ゲームシステム ==
{{Main2|登場するアイテム|ウィザードリィのアイテム}}
=== プレイヤーキャラクター ===
ゲームを開始した直後、プレイヤーはまず冒険に参加するキャラクター([[プレイヤーキャラクター]])について、'''種族'''と'''性格'''、'''職業'''を選択することで作成する。シナリオ#1・#3、#5ではゲーム中で最大20人まで登録でき、うち最大6人までパーティに参加させ冒険することとなる。シナリオ#6以降では、6人のパーティメンバーのみ作成する。なお、#6以降では性別がデータに追加された。
==== レベル ====
各キャラクターは戦闘で経験を積むことでレベルアップが可能である。レベルアップすると、力や素早さなどが向上する可能性があるほか(低下する場合もある。年齢が高いと低下しやすい)、耐久力(HP)の向上、攻撃回数の増加(直接攻撃を行う前衛の3人にとっては重要である)、呪文の修得、呪文使用回数の増加という面でキャラクターが強化される。このゲームにおいては、各種能力値ではなく、「レベル」の値そのものが非常に重要となっている<ref group="注">呪文の成功率、宝箱の罠を解除する際の成功率、攻撃回数など、全てレベルの値に依存する。</ref>。なお、レベルアップに必要な経験値は職業によって大きく異なる。もっとも成長が早いのは盗賊であり、遅いのは忍者である。
レベルの上限は設定されておらず、無限に上げることができる。ただし、PCエンジン版I、II、III、Vはレベル1000でカウンターストップ。PS版「リルガミンサーガ」では上限が999に変更されている。
==== ヒットポイント(HP) ====
キャラクターの打たれ強さ。レベルアップによる累積ではなく、レベルアップごとに乱数で算出されるため、非常に幅が広いのが特徴である<ref group="注">例えば戦士であれば、レベルアップした時に、(1 - 10)のサイコロをレベル数と同一の回数振り、出た値の合計が新たなHPとなるが、以前の値を下回り続けることは多々ある。下回った場合、現在の最大HPが+1される。よって、レベル13の戦士のHPは、単純計算で13 - 130の間という振れ幅になりかねないが、前述の通りHPの向上に失敗した時はHPが+1されるほか、生命力が高いとダイスにボーナスが付くため、あくまで単純計算での話である。一方で、前述のようなHP算出方法のため、レベルアップの際に最大HPが大幅に増加する場合もある。ちなみに振られるダイスは職業ごとに異なり、戦士と君主は10、僧侶と侍は8、盗賊、忍者、司教が6、魔術師は4である。侍の場合はダイスを振る回数に+1のボーナスがある。</ref>。
==== アーマークラス(AC) ====
防御力。値が小さいほど相手の攻撃成功率が下がる。防具を装備するか、一部呪文を受けることで変動する。忍者のみ、装備を付けない裸の状態でレベルにより[[アーマークラス]](AC)が減少する。AC-10以下で「LO」と表示されるようになり、[[M4中戦車|シャーマン戦車]]級の防御力があるとされる。{{要出典範囲|date=2015年10月|AC-100以下で「VL」と表示されるようになる。レベル221以上の忍者を裸にするか、#4のラスボスであるホークウインド卿に遭遇するとVL表示を見ることができる}}。ただし、近年の作品ではAC-20以下で「VL」と表示されるものもある。
==== 能力値 ====
; 力(STRENGTH)
: 攻撃の命中率と、追加ダメージに影響する。各種武器は攻撃の命中率にボーナスを持つ場合がある。
; 知恵(I.Q)
: 魔術師系呪文の覚え漏らしを軽減する効果がある。そのほか、一部シリーズではこの能力が高いほど魔術師系呪文の効果が上昇する<ref group="注" name="int_pie">[[ゲームボーイカラー]]版シナリオ1 - 3が該当。</ref>。
; 信仰心(PIETY)
: 僧侶系呪文の覚え漏らしを軽減する効果がある。一部シリーズではこの能力が高いほど僧侶系呪文の効果が上昇する<ref group="注" name="int_pie" />。
; 生命力(VITALITY)
: レベルアップ時のHP増加に寄与する<ref group="注">ただし、いくらこの値が高くてもレベルが低い場合にはHPは上がらず、その逆もある。</ref>。その他、死体や灰からの復活にボーナスがある。極端に低下すると、老衰で死亡してしまう。
; 素早さ(AGILITY)
: 戦闘時の行動順決定にボーナスが付くほか、宝箱の罠を調べる際や解除する際に成功率が高くなる。
; 運(LUCK)
: 主に、モンスターによる各種の特殊攻撃への耐性、罠にかかった際の回避率に影響する。また、ステータス画面では参照されない、隠しパラメータとしての運も存在している。
==== 種族 ====
5つの種族から選択する。種族によって能力値の基本値が定められており、職業の選択に大いに影響を与える。選択時制限は無いが変更はできない。他のファンタジー作品では[[亜人|デミヒューマン]]は人間よりも長命であることが多いが、本シリーズにおいてはどの種族も同程度である。シナリオ#6以降はさらに6つの種族が追加されている。
===== #1 - #5の種族 =====
#6以降にも引き続き登場するが、能力の特徴が変更されている種族がある。
; [[人間]](human)
: [[ヒト]]と同一の特徴をもつ種族。
: 総合的な能力値は五種族の中で最も低いが、能力値のほとんどが高いレベルで平均的。信仰心のみ低い。
: 僧侶以外の職業であれば無難にこなせる。#6以降では信仰心もそれなりにある。
; [[エルフ]](elf)
: 美しい外見を持つ種族。
: 知恵があり信仰に{{読み仮名|篤|あつ}}い上に身軽だが、{{読み仮名|脆弱|ぜいじゃく}}で運に欠ける。
: 魔術師や僧侶に高い適性があるが、戦士についての適性は低い。
; [[ドワーフ]](dwarf)
: 背丈は低いが、筋肉質の種族。
: 力や生命力に優れ、信仰心にも素晴らしい素質を持つが、鈍重で運が低い。
: 戦士・僧侶などに向いているが、盗賊の適性はない。
; [[ノーム (妖精)|ノーム]](gnome)
: ドワーフとよく似た小さい種族。『Wizardry Online』では[[ヒツジ]]や[[ヤギ]]のような角がある。
: 能力値はバランスが良く、特に信仰に篤くて身軽。
: 僧侶に高い適性を示すが、他の職種もほぼ問題なくこなせる。
; [[ホビット]](hobbit)
: #5までに登場した中では一番小さな種族。
: 総合的な能力値は5種族の中で最も高いが、脆弱で非力。その反面非常に身軽で高い幸運と、振り分けがかなり偏っている。
: 盗賊には高い適性を示すが、それ以外の職業の適性は低い。
===== #6以降に追加された種族 =====
; [[フェアリー]](faerie)
: 羽を生やしたホビットより小さな種族。
: 知恵があり身軽だが、脆弱で武具の装備についての制約が多い。
; [[リザードマン]](lizardman)
: [[トカゲ]]が二足歩行したような種族。
: ドワーフ以上に{{読み仮名|強靭|きょうじん}}な肉体を持つが、知力や信仰心に劣る。
: この種族の登場によって人間は初めて基本特性値の合計がワーストの種族でなくなった<ref group="注">これは、#6で初登場した「魅力」という特性値の影響も大きい。リザードマンは魅力が3しかないため、カルマを除く特性値の合計も57(男性の場合)となり、人間の59を下回った。</ref>
: 戦士としての適正は高いが、ほとんどの上級職はバランスよく高い能力を求められる(Wizardryにおける上級職とは、下級職を特化させたものではなく、忍者=打撃もできる盗賊、侍=魔法も使える戦士のように、下級職の複合型として表現される)ため、こうした特化型種族はやや使いにくい傾向がある。
; ドラコン(dracon)
: [[ドラゴン]]が小型化して二足歩行したような種族。ドラゴンと人間のハーフとされる。
: スタミナを消費して、酸性のブレスを敵に吹き付ける能力を持つ。
: 『外伝III』では敵味方含めてドラコンに「逃げる」というコマンドが存在しない。
; フェルプール(felpurr)
: フェルパーとも。[[ネコ]]が二足歩行したような種族。
: 知恵が高く身軽である。
; ラウルフ(rawulf)
: [[イヌ]]が擬人化したような種族。
: 信仰に篤く生命力に優れる。
; ムーク(mook)
: 宇宙から来たとも言われる、全身体毛だらけの正体不明の種族。
: 強靭で知恵にも優れ、超能力者に向く。信仰心は低い。
==== 性格 (alignment) ====
'''善''' (good)・'''中立''' (neutral)・'''悪''' (evil) の3種類から1つを選択する{{R|Famitsu1986P100-101}}。
* 性格によって、就くことのできる職業や装備できる品に制限が掛けられている。
* 善と悪のキャラクターが同じパーティに参加することはできない{{R|Famitsu1986P100-101}}。ただし迷宮内で合流することは可能であり、この方法で善悪混合のパーティを組成することは可能である。
* 善と悪のキャラクターは冒険中に時折出会う「友好的な魔物(達)」への対応によっては善悪が逆転する場合がある。中立のキャラクターは変化しない。
* シナリオ#1においては、「杖をついた老婆が車の通行量の多い横断歩道を渡ろうとするときにどうするか?」という命題に対する行動指針として解説があった。
* シナリオ#3は善のキャラクターが入れない場所、悪のキャラクターが入れない場所があるため、善のパーティと悪のパーティが協力しなければクリアできない。
* シナリオ#6からは廃止された。
; 善
: 友好的な者に出会ったら、これに戦いを挑んではならない。戦いを挑んだ場合、性格が悪へ転じる可能性がある。
: キャラクター新規作成時に盗賊と忍者にはなれないが、悪の盗賊・忍者が善に転じた場合は善の盗賊・忍者となる。
: 進んで老婆の手を引いて渡るのを手伝うタイプ。
; 中立
: 友好的な者に対しては、その時の状況次第で対応を変えても問題はない。
: キャラクター新規作成時に僧侶・司教・君主・忍者の職業には就けない。したがって回復系などの僧侶系魔法を使える職業には就けない。
: 通常の手段では性格が変化しない。
: 中立属性だけのパーティでプレイするのは、通常では回復系魔法の使い手が作れないため迷宮探索に難があるが、#2のみ、変化の指輪(METAMORPH RING)もしくは、力のコイン(COINPOWER)を用いれば回復系魔法の使い手がいる中立属性だけのパーティを作ることができるため、中立属性のみでのパーティ構成で迷宮探索が可能である。
: 気分によって(あるいは自分と同じ方向なら)老婆の手を引いて渡るのを手伝うこともあるタイプ。
; 悪
: 相手が友好的であろうとも、魔物に対しては容赦なく戦いを挑まなければならない。見逃した場合、性格が善へ転じる可能性がある。
: キャラクター新規作成時に君主と侍にはなれないが、善の君主・侍が悪に転じた場合は悪の君主・侍となる。
: 基本的には老婆を手伝うことはないが、お礼がもらえそうだったり、魅力的な孫娘がいっしょにいる場合には、老婆の手を引いて渡るのを手伝うこともあるタイプ。
: なお、シナリオ#1の敵であるワードナについては、老婆の手を引いて渡り始めるが途中で手を放し料金を要求すると説明されていた。
==== 職業 ====
キャラクターの特徴を決定付ける要素で、シナリオ#1 - #3と#5では8つの職業([[キャラクタークラス|クラス]])がある。初期段階では制限によって選択できないものがあるが、別の職業で成長して条件を満たすことで転職できる。シナリオ#5までの職業は能力値の他、性格によっても選択できなくなる可能性があるが、職に就いたあとで性格が変わる可能性はある。例えば、性格が悪の者は能力値が条件を満たしていても侍にはなれないが、性格が善の侍が悪の性格に転じることはある。
シナリオ#6以降は、さらに6つの職業が追加されている。
===== #1 - #5の職業 =====
<nowiki>#</nowiki>6以降にも引き続き登場するが、一部の職業は特徴が変更されている。
; 戦士(Fighter)
: 武器や防具の扱いに長け、攻撃力と耐久力に優れる。
: 前衛に立って敵の攻撃を食い止め、近接攻撃<ref group="注">シナリオによっては、遠距離攻撃ができる武器もある。</ref>にて確実にダメージを積み上げていく役割を担う。
: どの性格でも選択できる。
; 魔術師(Mage、「リルガミンサーガ」では魔術師、ファミコン版では魔法使い)
: 広範囲の敵に影響をもたらす呪文や、位置・移動に関する呪文を修得する。
: 耐久力は低く、武具・防具はほとんど装備できない。
: 序盤は主にパーティの現在位置を知る呪文や、前衛の攻撃を補助する呪文を使うことになる。
: 中盤は敵集団にダメージを与える呪文を習得し攻撃の中核となる。
: 終盤になると魔法を高い割合で無力化する強力な敵が増えだすため、露払いと瞬間移動が役割となる。
: どの性格でも選択できる。
; 僧侶(Priest)
: パーティの傷病を癒し、能力を一時的に上げる「祈りの呪文」を行使する。
: メンバーのHPを維持できるため、探索の期間を延ばす役割を担う。
: 魔封じなど敵の行動を封じる呪文や照明<ref group="注">#1 - #3では照明呪文を扱うことで隠し扉の姿が明らかになる効果がもたらされる。</ref>・識別など情報の可視化に関わる呪文も得意とする。[[アンデッド]]の呪いを解く「ディスペル」もできる。
: 耐久力は高いが戦闘能力は低く、武具・防具の装備にやや制限がある。
: 後衛向きだが、前衛での戦闘も不可能ではない。
: 善か悪の性格でなければ選択できない。
; 盗賊、シーフ(Thief、8ではRogue)
: 敵が残した宝箱 (chest)に仕掛けられた罠を見破り、解除する技術を持つ。
: 近接攻撃しかできない<ref group="注">シナリオによっては、後衛にいても物陰に隠れてからの奇襲攻撃(遠距離攻撃扱い)が可能か、遠距離攻撃ができる武器がある場合がある。</ref>が、装備の制限が大きいため戦闘能力や耐久力が低く、HPも低いので、基本的に前衛には向かない。
: 中立か悪の性格でなければ選択できない。
: レベル上昇に必要な経験値が全職業中で最も少なく、早く成長するので、結果的に前衛となる場合もある。
; ビショップ、司教(Bishop、Apple II版#1の初期版ではSage〈賢者〉)
: 魔術師と僧侶の二系統の呪文を扱う上級職(8ではさらに錬金術と霊能術も習得可能)。ただし、魔術師や僧侶といった専門の職業に比べ呪文を修得するスピードが遅い。ディスペルもできる。
: 正体不明の戦利品を無料で鑑定できるが、失敗して不利益を被ることもある。
: 装備の制限が僧侶より厳しく、戦闘能力も耐久力も前衛には向かない。
: 善か悪の性格でなければ選択できない。
; 侍(Samurai、Apple II版#1の初期版ではranger〈野伏〉)
: 戦士と同等の戦闘能力を持ち、魔術師の呪文も扱える上級職。
: 能力値による条件が厳しいが、(ボーナスポイント次第では)戦士系上級職の中では唯一最初から選択可能。
: 戦士とほぼ同じ装備ができるため、戦闘能力や耐久力は高いが、高レベルとなるにしたがって戦士に比べHPで見劣りするようになる。
: 善か中立の性格でなければ選択できない。
: また、ほとんどのシリーズを通して最強の武器「[[ウィザードリィのアイテム#村正 Muramasa Blade!|村正]]」<ref group="注">いくつかのシナリオではこれよりもさらに強力な武器もある。</ref>を装備できる。#6以降ではキリジュツ(クリティカルヒット)も取得する。
; 君主(Lord)
: 戦士と同等の戦闘能力を持ち、僧侶の祈祷呪文を扱う上級職。ただし、僧侶に比べ高度な呪文を修得するスピードは遅い。
: 能力値による条件が厳しいので、初期段階ではこの職業を選択できない(シナリオ・機種によって例外あり)。
: 戦士とほぼ同じ装備ができるため、戦闘能力や耐久力は高い。
: 善のみ選択できる。
: また、ほとんどのシリーズを通して最強の防具「[[ウィザードリィのアイテム#君主の聖衣 Garb of Lords|聖なる鎧(君主の聖衣)]]」<ref group="注">いくつかのシナリオではこれ以上の性能を誇る防具もある。</ref>を装備できる。
; 忍者(Ninja)
: 戦士と同等の戦闘能力と、盗賊の罠解除技術を併せ持つ(#6以降は錬金術も修得する)上級職。ただし、罠の解除技術は盗賊より劣る。
: 能力値による条件が厳しいので、初期段階ではこの職業を選択できない(シナリオ・機種によって例外あり)。
: 戦士とほぼ同じ装備ができるため、戦闘能力や耐久力は高いが、HPは低い。
: 非常に特殊な職業で、攻撃時に敵を一撃で倒す[[クリティカルヒット]]が発動することがあり、何も装備していない時にACがレベルの上昇に応じて低くなる。一方、たとえリング1個でも装備するとそういった恩恵は一切受けられない(#6以降は武器や防具などを装備していてもACは下がる)。
: FC版などの比較的古い版においては何も装備していないほうが強かったため、何も装備しない状態(全裸)にするプレイヤーも多く、フリークの間で「全裸の忍者」は定番のネタとされていた。
: 悪のみ選択することができる。
===== #6以降追加された職業 =====
; [[錬金術師]](Alchemist)
: 英名のままアルケミストとも。攻撃や治癒など、さまざまな効果を持つ錬金術を操る。
: 瞬間的な威力に長ける魔術師と違い、威力は控えめだが長時間有効であったり、広範囲にステータス異常を引き起こす術がそろっている。また、沈黙状態でも術が使える。
: 耐久力や武具の装備技術は、魔術師並に低い。
: 「外伝III」「外伝IV」ではどの性格でも選択できる。
; [[超能力者]](Psionic)
: サイオニックとも。自身の感知能力を上げたり、敵や交渉相手の精神に影響を与える霊能術を操る。
: 魔術師が高威力の攻撃呪文を多く習得するのに対して、こちらは迷宮探索に役立つ呪文や、NPCとの交渉を円滑に進める呪文を多く習得する。精神系の攻撃魔法も取得する。
: 肉体能力や武具の装備制限は、魔術師並に低い。
: 「外伝IV」ではどの性格でも選択できる。
; レンジャー(Ranger)
: 野伏。弓矢による戦闘に長け、盗賊の解除技術や探索、錬金術を修得する。
: 耐久力や武具の装備制限は、中級程度である。
: 「外伝III」「外伝IV」では善か中立の性格でなければ選択できない。
; 吟遊詩人(Bard)
: バードとも。呪文と同じ効果を秘めた楽器を演奏できる。
: 盗賊の解除技術や、魔術師呪文を修得する。
: 耐久力や武具の装備制限は、盗賊と同程度である。
: 「外伝III」「外伝IV」では悪か中立の性格でなければ選択できない。
; [[ワルキューレ|ヴァルキリー]](Valkyrie)
: 君主とほぼ同等の能力を有し、槍の扱いに長ける。 一方で、能力値による就職条件は、君主よりも緩く、成長も早い。
: 女性のみ就くことができる。
: 「外伝III」「外伝IV」では中立のみ選択できる。
; モンク(Monk)
: 修道僧。格闘能力に長け、霊能術を修得する。
: 武器や防具をほとんど装備できないが、素手での戦闘が得意で、忍者と同じく成長することで徐々に防御能力が向上するので、十分に前衛を務めることができる。後衛からの棒術も得意。
: クリティカルヒットも取得する。
: 「外伝IV」では善のみ選択できる。
; ガジェッティアー(Gadgeteer)
: シナリオ#8で追加された職業。
: エンジニアリングのエキスパートで、さまざまな機械を組み立てて使うことができる。
: 銃器の扱いにも長けている。
==== 転職 ====
能力値が各職業の条件を満たしたキャラクターは転職が可能である。転職後はレベル1となり、それまでに得た耐久力(HP)と修得した呪文は引き継がれるが、5歳程度老化し、能力値は各種族の基本値まで低下し、呪文使用回数も最低限まで低下してしまう。なお、一部の機種・シナリオにおいては、アイテムを使用してレベルや能力値などをそのままに転職を行うことが可能である。
==== 呪文 ====
{{Seealso|ウィザードリィの呪文}}
シナリオ#1 - #5では、魔術師呪文と僧侶呪文の二系統に分類される。それぞれが第1 - 第7段階に分けられ、段階ごとに数個ずつの呪文が属している。キャラクターのレベルが上がるにつれて、新しい呪文を習得し、MPが増える。MPはその段階ごとに設定されており、呪文を行使するごとにMPを消費する<ref group="注">別の段階のMPが残っていても、その他の段階の呪文を行使することはできない</ref>。僧侶と魔術師は最短でレベル13に達した時点で全ての呪文を修得するが、司教、侍、君主の場合はより高いレベルが必要とされる<ref group="注">具体的には司教が25レベル(魔術師)・28レベル(僧侶)。侍が22レベル、君主が16レベル。司教の祈祷呪文と侍・君主は4レベルで習得を開始する。</ref>。PC版のシナリオ#2ではマロールが、シナリオ#5ではソコルディかバモルディが攻略上必須となる。
シナリオ#6以降では呪文のシステムが一新された。火水風土心聖の6領域に大きく分類され、それぞれの呪文は6領域のうちのどれか一つに属する。どの呪文を習得できるかは、魔術師系統、僧侶系統、錬金術系統、霊能力系統の4系統によって異なっており、現在就いている職業によってどの系統の呪文を習得できるかが決まる。呪文によっては複数の系統で習得できるものもある。高度な呪文は、レベルやそれぞれの系統のスキル値を上げないと習得できない。
MPは6つの領域ごとに設定されており、呪文によって定められたポイントを消費する。レベルが上がれば最大6倍まで一度にMPを消費して効果を上げることができる。ただし、「発声」のスキルが低いと呪文が逆流(バックファイアー)してパーティがダメージを受けることがある。
呪文の名称は、シナリオ#1 - #5ではアルファベットを組み合わせた独特のもの(竹内誠の小説・原作漫画では真言葉(トゥルー・ワード)という魔法単語の組み合わせ)、シナリオ#6以降ではその効果を表す英単語・熟語がそのまま呪文の名称となっている。
==== 転送 ====
1つのシナリオで成長させたキャラクターは、別のシナリオに転送して使用することができる。転送した場合に持ち越せるもの(能力値やアイテムなど)はシナリオや機種などにより異なる。
キャラクターの転送には[[フロッピーディスク]]、[[ターボファイル]]、[[メモリーカード]]などの外部記憶装置やパスワード方式が用いられる。また、複数のシナリオを収録しているタイトル(「リルガミンサーガ」など)ではシナリオ間でのキャラクター転送をサポートしているものもある。
シナリオ#6→#7→#8のキャラクターの転送では、プレイヤーの迎えたエンディングによって次のシナリオでのゲーム開始状況が異なるマルチビギニング方式を採用している。
=== 街 ===
シナリオ#1 - #3、#5では、街にある各施設を利用することで、冒険によって失われた体力や魔力を回復して体勢を立て直すことができる。そして迷宮と街との往復を繰り返しながら、探索を進めることとなる。
シナリオ#2および#3、#5は「リルガミン」と明示されているが、#1、#4については単に「トレボーの城」とだけ書かれており、両者が同じ街かどうかは不明。
シナリオ#6以降には、このような「拠点としての街」は登場しない。
なお原作者ロバート・ウッドヘッドによれば、「ギルガメッシュ」「ボルタック」「カント」などは、彼とアンドリュー・グリーンバーグがTRPGをプレイしていた時のキャラクターの名前からとられているとのこと。
; ギルガメッシュの酒場(Gilgamesh's Tavern)
: 訓練場で作成したキャラクターから、実際に冒険に参加するメンバーを選択してパーティを編成する{{R|Famitsu1986P100-101}}。
: 「死亡」「石化」などの状態異常のキャラクターはカント寺院(後述)に運ばれることになっているが、パーティーとして連れて行くならばここで行う。これら行動不能の状態のキャラクターのみでパーティーを組むことも可能だが、ダンジョンに入ると直ちに全滅となる。
: <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照 -->
; ボルタック商店(Boltac's Trading Post)
: 武器や防具などの装備品、薬や巻物の売買、正体不明の戦利品の鑑定及び、呪われた装備品の解除も、有料で行う。
: ゲーム開始時には、基本的なアイテムのみ販売している。シリーズによっては少しいい武具も販売しているが、初期の段階では高価で手が出せない場合が多い。
: プレイヤーが売ったアイテムがその数だけ店頭に並ぶため、次第に品ぞろえが充実していく。そのため、アイテムの保管所としての役割も果たすことになる。ただし、[[iアプリ]]版、[[ゲームボーイカラー|GBC]]版を除いて呪いのアイテムは並ばない。また、売り値がつかないアイテムは売却できない(売り値0Gのアイテムは売れない)。
: アイテムの鑑定・解呪は売価と同額であり、正体不明の戦利品を鑑定して売却した場合、プレーヤーに利益はない。さらに売ったアイテムは売価の2倍の価格で店頭に並ぶ。そのため、日本人ユーザーの間では「[[ボッタクリ|ボッタクル]]商店」とも呼ばれる。ただし鑑定額である程度アイテムの正体を予測することができる。
; 冒険者の宿(Adventurer's Inn)
: 減少したHPやMPを回復する{{R|Famitsu1986P100-101}}。
: 経験値が基準を上回っていた場合にはレベルが上昇する。
: ただし、能力値が上昇するとは限らず、減少することもある。キャラクターが高齢の場合は能力値が減少する確率が高くなる。
: 一度の宿泊で上がるレベルは、2レベル分以上の経験値が溜まっていた場合でも1レベル分のみなので、必要回数だけ宿泊しなければならない。
: 値段が高い部屋ほどHPの回復量が多いが、MPの回復量とレベルアップは、どの部屋でも同じである。
: 宿泊をすると加齢されていき、成長率が徐々に下がってしまう<ref group="注">年齢は週単位で管理されており、馬小屋は0日の場合と、1/7の確率で1週間経過する場合とがある。これは機種により異なる。それ以外の部屋は1週間単位での宿泊となる</ref>。あまりに高齢だと、レベルアップ時に老衰で死ぬ(このゲームでは消失扱い)場合がある。加齢するのは宿泊したキャラクターのみで、他のキャラクターの時間が進むことはない。従って、攻略本などでは「僧侶のみを馬小屋に泊めてMP回復させ、迷宮に戻り入り口付近で他のメンバーのHPを僧侶呪文で回復させて、再び僧侶を馬小屋に泊める」という方法が紹介されている。
: iアプリ版では省略されており、城に戻るとステータス異常がない限り自動的にMP・HPは最高値まで回復し、レベルアップのチェックも行われる。
; カント寺院(Temple of Cant)
: 死亡(および灰化)したキャラクターの蘇生{{R|Famitsu1986P100-101}}や、ステータス異常([[麻痺]]、石化など)の治療を行う。
: キャラクターのレベルが高いほど、治療にかかる値段(寄付金)が高い。
: 蘇生は失敗の可能性があるが、失敗した場合でも返金はされない。
: お金が不足した状態で治療しようとすると、「けちな不信心者(もしくは背教者)め!」と言われて追い出される。
: 英単語「cant」には「(宗教的に)上っ面だけで偽善的な言葉」という意味がある。
; 街外れ(Edge of Town)
: 城の出口。迷宮に入る、城に戻る以外を選択するとパーティは解散となる。
:; 訓練場(Training)
:: プレイヤーキャラクターの新規作成や削除、名前の変更、並びに転職を行う。
:; 迷宮の入り口(Maze)
:: 酒場でパーティを編成した後、ここに来ることで迷宮の探索が開始できる。
:; ユーティリティ(Utilities)
:: 迷宮内で探索を中断したパーティの再開、他シナリオへの転送を行う。
:; ゲームの終了(Leave Game)
:: PC版ではオートセーブを採用しているため、この処置をしてから電源を切る必要がある。
=== 迷宮 ===
シナリオ#1 - #4では、1つの階層は20マス×20マスの正方形で構成されている(#5以降は不定形。また、#4ではマップが俯瞰図ではなく横からみた図(つまり、他の階層では南北で表される位相が上下になっている)になっている階層もある)。
壁や扉は、マスとマスの間を仕切っている。
マップの端(北と南、西と東)は、つながっていることがある。
パーティは一度に東西南北のいずれか一方向、初期状態では1マス先までしか見られない。一度に狭い範囲の状況しか見られないので、方向を変えてフロアを歩き回りながら、プレイヤーは方眼紙とペンを用意して独自に地図を作成する必要に迫られる。据え置き機や携帯機では、オートマッピング機能がついている作品もある。
ある特定のマスには、以下のようなものが設置されている。壁や扉にも、「一方通行」や「見えない扉」などの仕掛けがある。
; 階段や[[梯子|縄梯子]]
: 上や下の階層へ移動する。街への出口も階段である。
; 回転床
: そのマスに足を踏み入れると、パーティの向き(方角)が変わってしまう。キャンプを閉じるたびに起動するので、呪文などで方角を確認しても無意味である。
; 瞬間転移
: 物理的に離れた、特定のマスへ瞬間移動する。一方通行であり転移の表示が出ない<ref group="注">シリーズによっては転移した瞬間に一瞬画面が暗転する。</ref>ので、地図作成を困難にし、探索計画を狂わせる。
; 落とし穴など
: キャラクターにダメージを与える罠である。宝箱の罠とは違い、盗賊がいても無効化できない(#5など、魔法使いの呪文で回避できる場合もある)。キャンプを閉じるたびに起動する。
; ダークゾーン
: 闇によって、周囲の壁や扉、次のマスが全く見えないマス。照明の呪文でも闇を照らせないどころか、照明そのものまでかき消されてしまう。
; イベント地点
: 雰囲気を出す何らかのメッセージの表示、キーアイテム、あるいはそれを守る固定モンスターとの戦闘、キーアイテムを所持していないパーティを追い返す関所などが待ち受けている。見た目だけで落とし穴などが仕掛けられているダミーのイベント地点も存在する。
; 岩のマス
: マスが丸々岩や土砂で埋まっている。基本的に壁で区切られているため直接侵入は不可能だが、ここに呪文や宝箱の罠によってテレポートすると、キャラクターが消滅(ロスト)する。一部機種では「全滅」に変更されている。
; シュート(shute)
: 落とし穴に似ているが、落ちてもダメージを受けず、下の階層(場合により上の階層)に移動する(#4では、瞬間転移と同じ機能を持つ)。
; 呪文封じ
: そのマスに足を踏み入れると、一切の呪文が使えなくなる。効果はその階から出るまで続く。
; 玄室
: 一見何も無いフロアに見えるがモンスターの群れが住み着いており、踏み込むと必ずモンスターが出現する。一度モンスター達を倒すと階層を変えない限りは補充されない。玄室のモンスター以外は宝箱を落とさないため、あえて玄室に向かわなければいくら探索してもアイテムを得られず、パーティの装備を強化できない。
=== モンスター ===
迷宮探検を行うパーティに立ち塞がる主な障害として、戦闘を仕掛けてくるモンスターが挙げられる。彼らとの戦いをいかにうまく切り抜けて効率良く探索できるかがプレイヤーの腕の見せ所である。『AD&D』に倣い、[[ドラゴン]]、[[マンティコア]]、[[スライム]]などの神話や想像上の生き物から、[[カピバラ]]、[[コヨーテ]]などの実在の動物までさまざまなモンスターが存在する。また、プレイヤーキャラクターと同じ戦士や魔術師などの人間達も襲い掛かってくる。以下に「本家」に登場するものから過半数である4作品以上に登場したものを紹介する。
; マーフィーズゴースト
: シナリオ#1、#2、#4、#5に登場する。シナリオ#1では第1層のある地点に固定出現する。何度でも戦うことができ、攻撃力が低いので低レベルキャラクターでも勝利して経験値をそこそこもらえるモンスターである。モデルとなった人物は、原作者の一人アンドリュー・グリーンバーグの級友Paul Murphyで、グリーンバーグの作成したゲームのテストを務めていた。#1や#2の最下層では、冷気ブレスや毒、石化、クリティカルヒット攻撃を持つ強敵'''フラック'''とともに複数体が同時に登場する。なおフラックは、Apple II版ではスライムのイラストが付加されているが、ファミコン版で[[末弥純]]によって緑色の[[道化師|ピエロ]]服を着た怪人として描かれている。
; グレーターデーモン
: シナリオ#3を除く多数のシナリオに登場。[[悪魔]]の中でもトップクラスの能力を持ち、集団で出現することが多いうえに仲間を次々と呼び寄せるという特徴があり、強力な攻撃呪文と高い呪文無効化能力も持っているため、高レベルのパーティでも全滅させられることがある。ただしシナリオ#1では呪文を封じ込めて使用不能にすると、呼び出された仲間も最初から呪文が封じられた状態となる<ref group="注">これを呪文封じ呪文の仕様として採用しているシリーズもある。</ref>ため、仲間を呼び寄せる性質を利用して「養殖」し、倒し続けることで莫大な経験値を得られる。
; ポイズンジャイアント
: シナリオ#1、#4、#6に登場。迷宮に登場する巨人族の中でも最強クラスの能力を持ち、強力な毒ガスのブレスによる攻撃を行う。このモンスターに奇襲されると高レベルのパーティでも全滅してしまう可能性がある。大半のシリーズではマカニトで全滅させることができるが、国内PC版及びリルガミンサーガではマカニトは呪文無効化率(95%)の影響を受けるので非常に効きにくい。なお、シナリオ#2に登場する'''ジャイアントゾンビ'''はポイズンジャイアントのゾンビとされている。
; [[吸血鬼|バンパイア]]
: シナリオ#1、#2、#4、#5に登場する強力なモンスター。冒険者の血を吸い取り経験値とレベルを低下させるエナジードレイン能力を持つ。一度エナジードレインを受けると倒しても失ったレベルを取り戻すことはできず、再度経験値を貯め直さなくてはならない。シナリオ#1や#2、#4では上位種の'''バンパイアロード'''も登場する。シナリオ#4のプロローグによればバンパイアロードはワードナに招かれた客分とのことである。
; [[忍者]]
: シナリオ#1、#2、#3、#4、#6などに登場するモンスター、およびその系統。即死攻撃を行う。即死攻撃はあくまで通常攻撃の追加効果のため、魔法が唱えられない状況下でも即死攻撃を行う。比較的浅めの階層から複数体で出現し、HPの多寡に関係なくパーティメンバーを即死させていく。深い階層に出現する上位種は'''ハイマスター'''、'''マスターニンジャ'''、'''ハイニンジャ'''といった名が付くことが多い。
; [[侍]]
: シナリオ#1、#3、#4、#5、#6、#7などに登場するモンスター、およびその系統。出現階層にしては比較的低いレベルの魔術師呪文を唱える戦士。取り立てて優れた技能はない代わり、集団で出現することが多い。#2では最上位種として'''[[三船敏郎|ミフネ]]'''が登場し、他に侍系統が出現しないFC版以降のIIIなどでも登場している。また、#1、#5の最上位種は'''[[旗本|ハタモト]]'''である。
: なお、シナリオ#1、#2、#4などには'''[[大名|ダイミョウ]]'''の名を冠するモンスターが登場するが、通常攻撃のみ・集団で出現・侍系統とは同時に出現しない等、侍系統とは全く無関係なモンスターである。その反面、#6の侍系統の最上位種は'''ロード・ダイミョー'''となっている。
=== 死・ロスト ===
本作品ではプレイヤーキャラクターが死んだ場合、「ロスト」(lost)と呼ばれる、復活できない状況が生じることがある。
HPが0になった状態は「死亡」(dead)である。モンスターの攻撃や罠などでヒットポイントがゼロになるほか、クリティカルヒット攻撃を受けたり、宝箱の罠が発動したりして、残りHPに関係なく死亡する場合もある。
キャラクターが死亡した場合は寺院や呪文で蘇生させることができるが、失敗する場合もあり、死亡からの蘇生に失敗すると「灰」(ashed)状態になる。灰からの蘇生も可能だが、死亡からの蘇生に比べ、寺院の場合は高額の費用が、呪文の場合は高レベルの呪文が必要となる。灰からの蘇生にも失敗すると「ロスト」(lost)となり、そのキャラクターはデータを抹消されて完全に消滅し、蘇生させることはできなくなる。
データが抹消されるタイミングはさまざまである。寺院で灰からの蘇生に失敗した場合は即座に埋葬され、そのキャラクターのデータは消滅する。迷宮内ではシナリオにより、蘇生に失敗した時点で即座に消滅するものや、メンバーから離れたり城に戻ったりした時点で消滅するものがある。シナリオによっては泉の奇跡などによりロストから蘇生するケースもある。シナリオ#2では、一部アイテムのスペシャルパワーを使うと即座に死亡するが、ロストした状態のキャラクターに使った場合でも「死亡」となるため、ロストから復活することも可能である。
また、全滅した場合にキャラクターがロストすることがある。本作品では迷宮内でパーティが全滅した場合、パーティーメンバーの死体はその場所に取り残されることになり、その者たちを復帰させるためには、生きている者がその場所へ行き、死体を回収して蘇生させなければならない。その際に、一部のメンバーがロストし回収できないこともあるほか、回収した場合でも、そのメンバーの所持品が奪われてなくなっていることもある。死体を回収するときには回収のための空きメンバーを作らなければならないため、少ない人数で行く必要があり、道中の戦闘がより困難となる。
そのほかのロストの要因として、レベルアップなどで生命力のパラメータが極端に低くなった場合や、エナジードレイン攻撃によってキャラクターがレベル0以下になった場合がある。ほかに、主に宝箱の罠「テレポータ」に引っ掛かった場合、岩のマスにテレポートで飛ばされることがあり、このときは「'''石の中にいる!'''」(ローカス版では「'''壁の中に入ってしまった!'''」)と表示されてロストとなる。ただし機種によっては、このときはロストせず、全員が死亡して城に送還されるものもある。シナリオ#2では、スペシャルパワーを開放するとロストになってしまうアイテムが複数存在する。シナリオ#3では、そこに到達する直前に何度も警告はされるものの、普通に歩いていける場所に全員強制ロストとなるトラップがある。
特殊な例だが、[[PCエンジン]]版Wizardry5は原作および他の移植作の5と大きく異なる点が非常に多く、本来味方専用である魔法を敵が詠唱してくる(敵は全ての魔法を詠唱できる)。その中で「悪魔にのみ効果がある」魔法がヒューマノイドのプレイヤーに効果があり、効果は「即ロスト」である。Wizardry5は城に帰った時点で「ロストとなったキャラが消える」という仕様が多く、さまざまな裏技でロストからの蘇生が可能なバージョンが多いが、PCエンジン版は戦闘中に即抹消されるため、他の一部バージョンで存在している「スペシャルパワーや水泳でロストから復活」との裏技が全く使えないため、簡単にロストになってしまうこともある(基本的に蘇生を全てカント寺院に任せておけばロストに遭遇する頻度はPCエンジン版Wizardry5以外では少ない)。
シナリオ#6以降では、このロストの要素はなくなった<ref group="注">生命力のステータスが極端に下がると蘇生不能にはなる。</ref>。ただしシナリオの特性上、恒常的にキャラクターの蘇生を行う施設がなく、補充メンバーを入れることもできないため、蘇生手段を持ち合わせていない場合、メンバーが欠けたままゲームを進めなければならない。
== 開発 ==
メインデザイナーは[[ロバート・ウッドヘッド]](Robert Woodhead)と[[アンドリュー・グリーンバーグ]](Andrew C. Greenberg)である。当時、[[コーネル大学]]の学生だった2人がそれぞれ作成していた『パラディン』『ダンジョンオブディスペア』というゲームを互いに評価し、『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』(D&D)に代表されるRPGを、大学での[[コンピュータ支援教育]]に用いられていた[[メインフレーム]]よりも規模の小さな個人向けの[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で再現するため製作したものが、本作のシナリオ#1である。
そのため、行動の成功判定処理、アイテムやモンスターの名称、データ数値などに、『[[アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』(AD&D)の影響が色濃く見受けられる<ref group="注">例えば、キャラクターの防御力を示すアーマークラスが『AD&D』のTHAC0と全く同じシステム(+9から-10の20段階で、数字が低いほど攻撃が命中しにくいが、命中したダメージそのものは減らない)だったり、ダメージ決定にサイコロ(1 - 6の乱数)を使用している点など、コンピュータゲームとしては必然性がない仕様が多い。</ref>。また、ウッドヘッドが在校当時に熱狂した[[PLATO]]のコンピュータゲーム群、特に『Oubliette』の影響も大きい<ref name="interview">{{cite interview | url = http://www.hardcoregaming101.net/wizardry/wizardry-interview.htm | publisher = Hardcore Gaming 101 | title = Wizardry: A Conversation with Robert Woodhead | interviewer = Jared Petty |date=2012-03-25 |accessdate=2016-11-27}}</ref>。ウィザードリィの初期作品はD&Dが高い人気を誇った時期に発売され、D&Dタイプでありながら豊富な映像表現を実現した最初のゲームとして成功した。
なお、シナリオ#1「狂王の試練場」の狂王トレボー(Trebor)と邪悪な魔術師ワードナ(Werdna)の名は、彼ら2人の名前を逆につづったものである。
[[Apple II]]では、Apple Pascal([[UCSD Pascal]])で開発されている。
シナリオ#5以降は{{仮リンク|デヴィッド・W・ブラッドリー|en|David W. Bradley}}がシリーズを引き継いだ。
=== 日本語版ローカライズ ===
1985年に[[パーソナルコンピュータ|PC]]版を、株式会社フォア・チューンが移植し、[[アスキー (企業)|アスキー]]{{R|Famitsu1986P100-101}}が販売している。
1987年に[[ゲームスタジオ]]が[[ファミリーコンピュータ]](FC)への移植の実作業を行ったが、[[UCSD Pascal|Pascal]]の動作しないFCへの移植についてウッドヘッドは難色を示していた。しかし、[[遠藤雅伸]]率いるゲームスタジオのプログラマは、この問題をクリアした。FC版では[[背景音楽|BGM]]の作曲に[[羽田健太郎]]、登場モンスターのデザインや広告イラストに[[末弥純]]を起用している。
一方、1998年発売の[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]](PS)版とWindows版の移植は、[[ローカス (出版社)|ローカス]]が行った。シナリオ#1 - 3を「リルガミンサーガ」、シナリオ#4・5を「ニューエイジオブリルガミン」として1本にまとめている。こちらも羽田健太郎がFC版とは異なる楽曲を、末弥純はFC版とほぼ同じイラストを提供している。なお、「リルガミンサーガ」Windows版は後年の移植で唯一、[[Macintosh]]版のUIに近い作りとなっている。
[[バンダイ]]も[[ワンダースワン]]用に移植するが(実際の移植作業は[[スティング (ゲーム会社)|株式会社スティング]]が担当)1作のみで打ち切った。
== 版権元の変遷 ==
サーテック社倒産後の本シリーズの版権は、[[2006年]][[11月27日]]に[[アエリア]]の版権管理会社「アエリアIPM」(現:IPM、[[ゲームポット]]子会社)が『ウィザードリィ6』以降のシリーズのすべての権利と全世界における商標権をサーテック・カナダなどから取得していたが<ref name="ipm">{{Cite news |title=アエリアIPM,「Wizardry」の全世界における商標権などを獲得 |newspaper=[[4Gamer.net]] |date=2006-11-27 |author=大路政志 |url=https://www.4gamer.net/games/000/G000038/20061127191030/ |accessdate=2016-11-27}}</ref><ref>[https://www.4gamer.net/games/044/G004471/20110602083/ 4Gamer.net ― いま明かされる「ロスト」の仕様――“喜怒哀楽”を喚起し,プレイヤーの記憶に残るゲーム体験を提供する「Wizardry Online」について,二人のプロデューサーに聞いた] </ref>、この権利は[[GMOインターネット]]によるゲームポット子会社化(2013年)・GMOゲームポットの本社への吸収合併(2017年)を経てGMOインターネットに移行。2020年10月29日に[[ドリコム]]がGMOインターネットより権利を取得。新規タイトルを開発中であることを発表した<ref>{{Cite news |title=ドリコム,「Wizardry」(ウィザードリィ)シリーズの著作権と国内外での商標権を取得したと発表 |newspaper=[[4Gamer.net]]|date=2020-10-29 |author=松本隆一 |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20201029088/|accessdate=2020-10-29}}</ref><ref>{{Cite news |title=ドリコム、『ウィザードリィ』6~8とタイトル版権を取得!今後新作も予定 |newspaper=Game*SPARK |date=2020-10-29 |url=https://www.gamespark.jp/article/2020/10/29/103395.html|accessdate=2020-10-29}}</ref>。
『5』以前のいわゆる「クラシック」タイトルの権利については、サーテック社と原作者の一人、アンドリュー・グリーンバーグとの間で2000年代から2012年ごろまで版権を巡る法廷闘争が発生していた<ref>{{Cite web |title=3 No. 19: Andrew Greenberg, Inc. v. Sir-Tech Software, Inc., et al. |url=https://www.law.cornell.edu/nyctap/I05_0008.htm |website=www.law.cornell.edu |date=2005-02-15 |access-date=2023-12-23 |language=English |publisher=[[:en:Legal Information Institute|Legal Information Institute]]}}</ref>。この影響で『Wizardry(ウィザードリィ)』の名を冠する新作をリリースしても、クラシックタイトルに登場した「トレボー」・「ワードナ」・「リルガミン」といった固有名詞、呪文名は登場せず、長らく現行機種でクラシックタイトルが発売されていなかったが、2023年に{{仮リンク|デジタルエクリプス|en|Digital Eclipse}}から『1』のリメイク版が発売されることが発表された<ref>{{Cite web |title=ダンジョン探索RPG『ウィザードリィ』第一作リメイクがいきなり早期アクセス配信開始。無慈悲なるダンジョンRPGの金字塔がフル3Dでよみがえる、日本語対応も |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230916-264764/ |website=AUTOMATON |date=2023-09-16 |access-date=2023-12-23 |language=ja |first=Kosuke |last=Takenaka}}</ref>。
== 評価 ==
{{expand section|date=2014年9月}}
ウィザードリィのオリジナル版は、ゲーム雑誌『[[:en:softalk|ソフトーク]]』の売上調査によれば、発売9ヶ月の1982年6月には24,000本を売り上げて成功した<ref>{{citation|title=List of Top Sellers|date=September?October 1982|work=[[Computer Gaming World]]|volume=2|issue=5|page=2}}[https://www.filfre.net/2012/03/26/]</ref>。1983年6月の『[[:en:Electronic Games|Electronic Games]]』誌には、「疑うまでも無く、ウィザードリィは現在最もappleIIで人気のあるファンタジー冒険ゲームである」と書かれた<ref>{{cite journal|title=Explore the Worlds of Computer Fantasy|journal=[[Electronic Games]]|date=June 1983|volume=4|issue=16|pages=52 - 56 [52]|url=https://archive.org/stream/electronic-games-magazine-1983-06/Electronic_Games_Issue_16_Vol_02_04_1983_Jun#page/n51/mode/2up |accessdate=2012-02-02}}</ref>。
1980年代、ウィザードリィは、[[ロビン・ウィリアムズ]]、ハリー・アンダーソン([[:en:Harry Anderson]])および[[バーレーン]]の皇太子のような
著名人を含んだファンを楽しませた。特に後者<!-- 3人挙げられているが誰のこと?) -->は、個人的にサーテック社と同等の立場で話をした<ref>{{cite book|title=High score! : The illustrated history of electronic games|year=2003|publisher=[[マグロウヒル・エデュケーション|マグロウヒル]]|location=New York|isbn=0-07-223172-6 <!-- |url=https://books.google.co.uk/books?id=HJNvZLvpCEQC&pg=PA154&hl=en (直に本文が読めるリンクでないのでコメントアウト) -->|first=Rusel | last =DeMaria|edition=2nd|first2 = Johnny L. | last2= Wilson|page=154}}</ref>。
1996年発行の「[[:en:Net Generation|Net Generation]]」では上位60番のゲームとしてランクされた<ref>''Next Generation'' 21 (September 1996), p. 52.</ref>。
[[押井守]]は「『設定だけで全部が成立していて、物語は自前で作る』という画期的なスタイルに感動して、丸1年毎日やっていた時期もあった」「ゲームの歴史の中でも別格的な存在だと思いますよ。あれ以降のゲームは全部『ビジュアルや音声等余計なものを増やしただけだ』と感じたくらい」「このゲームに出逢ったことは、僕がデジタルを用いた表現にハマる伏線にもなりました」と絶賛している<ref>[[メディアファクトリー]]刊「[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]」2001年2月号「押井守が明かす、映画『アヴァロン』のマトリックス構造」p.157より</ref>。
1986年の雑誌『週刊ファミコン通信』第2号のコラム「パソコンゲーム通信」の筆者もプレイすると作中世界に浸ることができる点を評価している{{R|Famitsu1986P100-101}}。
その一方で、コラムの筆者は第1作のPC版が日本で発売されたのと同じ時期に発売された『[[ザナドゥ (ゲーム)|ザナドゥ]]』に人気を奪われてしまったことを指摘しており、その原因として敵キャラクターの絵が動かないなど、アクションゲームとしての要素を欠いていたことを指摘している<ref name="Famitsu1986P100-101">[[#Famitsu1986T_2nd|「パソコンゲーム通信第2号」, 『週刊ファミコン通信』, pp. 100-101.]]</ref>。
== 後世への影響 ==
{{出典の明記|section=1|date=2021年2月}}
=== ゲームの新機軸 ===
ウィザードリィは対戦している魔物の画像を表示したコマンド式戦闘システムを確立した。このシステムは『[[バーズテイル]]』や『ドラゴンクエスト』、『ファイナルファンタジー』といった後のゲームに模倣された。
ウィザードリィのパーティ単位の戦闘は、[[リチャード・ギャリオット]]に『[[ウルティマ|ウルティマIII]]』で同様のパーティ制システムを取り入れることを促した<ref>{{Cite book|first=Matt|last=Barton<!-- |url=https://books.google.co.jp/books?id=IMXu61GbTqMC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=japanese&f=false (直に本文が読めるリンクでないのでコメントアウト) --> |title=Dungeons & Desktops: The History of Computer Role-Playing Games |publisher=[[A K Peters, Ltd.]] |year=2008|isbn = 1-56881-411-9 |ref=barton_ddesktops | page=76}}</ref>。
また、基本職での下積みを経て上級職へ[[キャラクタークラス]]の変更を行うクラスチェンジの要素を取り入れたゲームであった。
=== 後続作品への影響 ===
ウィザードリィに触発されて多くのクローンが生まれ、コンピュータRPGのテンプレートとなった。1985年の『[[バーズテイル]]』や『[[マイトアンドマジック]]』は、ウィザードリィを起源とする著名なシリーズに含まれる。
日本では、ウィザードリィを元にシステムを簡素化した事実上国内PC用初のコンピュータRPG『[[ザ・ブラックオニキス]]』がウィザードリィの日本語版よりも1年早い1984年に発売された。
なかでも家庭用機向けRPG『[[ドラゴンクエストシリーズ|ドラゴンクエスト]]』シリーズは、3作目までを通じて、ウィザードリィのコマンド式戦闘やキャラクターの装備やステータス異常、パーティー制、職業や転職といったシステムをコンピュータRPGに不慣れなユーザーにとっても段階的にわかりやすく取り入れ、これらのシステム、ひいてはコンピュータRPGそのものを日本において真に一般化させた。
その後の大きなフォロワーとしては、ベセスダのトッドハワード氏はクリエイターになるきっかけになったゲームタイトルの一つとして本作を挙げており、特にfallout3以降の彼が関わった作品には、主観視点で、また常にリアルタイムバトル以外の、コマンド式のバトルシステムをサポートしており、敵を倒した後にアイテムを拾ったり、謎解きでストーリーを進めていくアドベンチャーゲーム要素、キャラクター作成時に特性別にボーナスポイントを振り分けたり、メインストーリー終了後も永遠に宝探しが楽しめると言ったさまざまな部分で、意識的に影響を感じさせる作り方をしている。
=== 他作品での引用 ===
コンピュータゲーム以外の分野においても、本シリーズのファンを明言する者もおり、彼らの作品において本シリーズからの引用がなされることもある<ref name="nlab20160330">{{Cite web|和書|title=「ウィザードリィ」とアニメの意外な関係 作者ロバート・ウッドヘッド氏インタビュー|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1603/30/news053.html|website=ねとらぼ|accessdate=2021-09-18|date=2016年03月30日}}</ref>。
たとえば、映画監督の[[押井守]]はアニメ映画『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』にて、自衛隊の要撃機のコールサインとして「ワイバーン」や「トレボー」といった名称を使用している{{R|nlab20160330}}。また、テレビアニメ『[[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり|GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]]』でもコールサインサインとして「ホークウィンド」と「トレボー」という名称が使用されている{{R|nlab20160330}}。
== OVA ==
『ウィザードリィ』は、[[1991年]][[2月20日]]に[[松竹富士]]より発売された[[OVA]]作品。シナリオ#1をベースにしたオリジナルストーリーで、モンスターデザインはファミコン版を元にしている。独自の設定として、ワードナはアミュレットを使って世界征服を企む悪の魔術師で、アミュレットに施された封印が解かれたとき、1000年の呪いにより世界は滅び去り永遠の闇が訪れるとされている。
=== ストーリー ===
ワードナからアミュレットを取り戻すべくトレボー王によって集められた冒険者たち。だがいつしか冒険者は危険を犯すことを避け、迷宮の手頃な階層で魔物を倒して日銭を得ることに執心するようになり、本気でアミュレット奪還を考える者は殆どいなくなっていた。
侍のシン、君主のアレックス、忍者のホークウィンドたち3人もそんなパーティの一つであった。
ある日、地下4階で魔物に苦戦した3人は、凄腕の僧侶ジューザとその弟子アルパーに救われる。かつてワードナと共に冒険し、狂王トレボーにアミュレットをもたらしたジューザは、アミュレットを取り戻さねば、いずれワードナの手によって世界が滅びることを知っていた。それを阻止する為アミュレット奪還を目指すジューザは、3人の腕を見込み共に地下10階へ向かう事を誘う。しかしアミュレットには興味がないとその申し出を断った3人は地下9階まで同行する事にする。地下9階に降りた一行はグレーターデーモンの群れに襲われている女魔術師シーラと出会う。
シーラやジューザの呪文の助けもあり辛くもグレーターデーモン、フラックとの連戦を切り抜ける3人。日に日に迷宮の魔物たちが強くなってきていることを実感していた3人は、ジューザ、アルパーと共に地下10階へ降りてワードナへ挑戦することを決意。シーラもまた、村正を求めて地下迷宮に消えた恋人ランディの手掛かりを求めて一行と同行する。
地下10階に下り先へ進む彼らの前に村正を手にした侍が立ちはだかる。それはワードナが送り込んだ刺客、バンパイアロードによって魔物にされたランディであった。
死闘の末にランディを倒し、村正を手に入れたシン。彼らはランディの仇を討つべく、そのままワードナの玄室へと乗り込み、決戦に臨む。しかしワードナは既にアミュレットにかけられた封印を解き、恐るべき力を手に入れようとしていた。シンは村正を使いこなせずに苦戦を強いられ、アレックスはバンパイアロードを倒すもエナジードレインを受けて戦闘不能、さらにアルパーをかばったジューザが倒れ、一行は窮地に陥ってしまう。だがジューザの死によってシンは怒りを爆発させ、遂に村正の真の力を引き出すことに成功。シーラのマハマンに魔力を封じられたワードナを、アミュレットごと一刀両断に斬り伏せる。
すべての後、魔物として死んだランディ、精神力を使い果たしていたジューザの魂は失われ、共に蘇生は叶わず埋葬された。一行は全ての力を失ったアミュレットをトレボーに返さず、ジューザと共に埋葬する。そしてシンは恋人を失ったシーラへ「ランディが手に入れたものだから」と形見である村正を返そうとするが、彼女は「村正を使いこなせるのは真の侍だけ」と彼に村正を託す。
こうしてアミュレットを巡る戦いは終わったが、一連の冒険を通じて得難い仲間となった5人は、共に新たなる冒険に旅立つのだった。
=== キャスト ===
* シン(侍) - [[古川登志夫]]
* シーラ(エルフ・魔法使い) - [[戸田恵子]]
* アレックス(君主) - [[難波圭一]]
* ホークウィンド(忍者) - [[玄田哲章]]
* ジューザ(ドワーフ・僧侶) - [[永井一郎]]
* アルパー(ホビット・司教) - [[塩屋翼]]
* ランディ - [[若本規夫]]
* ワードナ - [[内海賢二]]
* フラック - [[中尾隆聖]]
* モーガン - [[石塚運昇]]
* バンパイアロード - [[岸野幸正]]
* グレーターデーモン - [[田中和実]]
* 老乞食 - [[野本礼三]]
* ライフスティーラー - [[太田真一郎|太田慎一郎]]、[[置鮎龍太郎]]、滝口仁、[[田中一成]]、高橋健一
=== スタッフ ===
* 製作 - 幸甫、加藤俊三
* 企画 - 下川東彦、松元文一
* 原作 - Sir-tech Software, Inc.、[[アンドリュー・グリーンバーグ|Andrew Greenberg, Inc.]]、[[アスキー (企業)|ASCII CORPORATION]]
* 監修 - 須田PIN
* 脚本 - 寺島優
* 絵コンテ - [[こだま兼嗣|児玉兼嗣]]
* 音楽 - 川村栄司
* モンスター・デザイン原案 - [[末弥純]]
* キャラ・デザイン - [[平山智 (アニメーター)|平山智]]、[[長岡康史]]
* 作画監督 - 長岡康史、[[山本泰一郎]]、福田紀之
* 協力 - [[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]、SHV松竹ホームビデオ
* プロデューサー - 三上満雄、藤原みさき、尾崎穏通
* 演出 - [[篠原俊哉]]
* 製作 - [[松竹富士|松竹富士株式会社]]、[[東京ムービー新社]]
=== 主題歌 ===
; エンディングテーマ「Distance (ディスタンス)」
: 作詞 - 梅津真樹 / 作曲 - [[割田康彦]] / 編曲 - 恩田直幸 / 歌 - [[笠原弘子]]
== 書籍 ==
=== 攻略本 ===
* [[アスキー (企業)|ビジネス・アスキー]]刊行
** 『ウィザードリィ プレイングマニュアル』編: ゲームアーツ、1986年。
** 『ウィザードリィ攻略の手引き』編: ゲームアーツ、1987年。
** 『ウィザードリィマガジン』編: MSXマガジン編集部、1991年。
*** ウィザードリィ生誕10周年記念出版。ウィザードリィの歴史や[[世界観]]の考察など、資料的な意味合いが強い。
** 『ウィザードリィ・外伝IIイマジネーションズガイドブック』編: [[ベニー松山]]・[[スタジオベントスタッフ|BENTSTUFF]]、1993年。
* 『ウィザードリィ ハンドブック』BNN〈ゲームハンドブックシリーズ〉、1986年。
* 『ウィザードリィ事典』編著: ヘッドルーム、冬樹社、1991年。
* 『ウィザードリィ大事典』編著: ヘッドルーム、[[SBクリエイティブ|ソフトバンク出版事業部]]、1996年。
* ウィザードリィのすべて
** 『ウィザードリィのすべて : ファミコン版』ベニー松山、JICC出版局(現:[[宝島社]])、1989年8月31日。
*** ファミコン版『1』『2』の攻略本。攻略方法自体はシンプルにまとめられており、ほぼ全編に末弥純のイラストが掲載されているなど、資料的な意味合いが強い。
** 『ウィザードリィIIIのすべて : ファミコン版』ベニー松山、JICC出版局、1990年8月。
** 『ウィザードリィ・外伝Ⅰのすべて : ゲームボーイ版』Hippon super!編集部、JICC出版、1991年12月。
** 『ウィザードリィVのすべて : スーパーファミコン版』Hippon super!編集部、JICC出版、1993年1月。
** 『ウィザードリィ・外伝IIのすべて : ゲームボーイ版』Hippon super!編集部、JICC出版、1993年2月。
** 『ウィザードリィ・外伝IIIのすべて : ゲームボーイ版』Hippon super!編集部、宝島社、1993年11月。
* 『ウィザードリィコレクション』著: 鈴木常信、編: アークライト、発行: ローカス、発売: 角川書店、1999年8月1日。
** シナリオ#1-5の攻略記事に加えて、原作者や日本語PC版移植スタッフ、末弥純のインタビューと、さまざまなこぼれ話が掲載されている。また、Apple II版#1 - 5のイメージファイルを収録したCD-ROMが付属しており、別途Apple IIの[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]を用意することでプレイできる。後に日本語PC版のイメージファイルを収録した同名のWindows用ソフトも発売されている。
=== 小説・エッセイ集 ===
* [[安藤君平]]
** 『小説ウィザードリィ(2) アラビクとマルグダの物語』イラスト: [[浅田隆]]、[[双葉社]]〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年3月25日。
* [[井上尚美 (作家)|井上尚美]]
** 『小説ウィザードリィ(4) リルガミンの遺産』イラスト: 浅田隆、双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年7月10日。
* [[伊吹秀明|大出光貴]]
** 『小説ウィザードリィ(1) 狂王の試練場』イラスト: [[吉井宏]]、 双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年2月5日。
** 『小説ウィザードリィ(5) ハート オブ メイルストローム』イラスト: 吉井宏、双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年8月10日。
** 『小説ウィザードリィ(8) リルガミン戦記【飛翔編】』イラスト: 吉井宏/[[中村淳一]]、双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1993年1月30日。
* [[後藤信二]]
** 『小説ウィザードリィ(3) ダイヤモンドの騎士』イラスト: 吉井宏、双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年4月20日。
** 『小説ウィザードリィ(7) リルガミン戦記【鳴動編】』イラスト: 吉井宏/[[前田達彦]]、双葉社〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1993年1月30日。
* [[高井信]]
** 『ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難』イラスト: [[末弥純]]、[[アスペクト (企業)|アスペクト]]〈[[ログアウト冒険文庫]]〉、1993年10月22日。
* [[竹内誠 (小説家)|竹内誠]]
** 『小説ウィザードリィ ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ 呪われし聖筆』イラスト: 末弥純、 [[アスキー (企業)|アスキー出版局]]、1992年12月21日。
** 『ウィザードリィ・ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ 呪われし聖筆』イラスト: 末弥純、アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1995年2月22日。
** 『ウィザードリィ異聞 リルガミン冒険奇譚』イラスト: 結城信輝、アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1994年1月。
** 『ウィザードリィ異聞 続リルガミン冒険奇譚』アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1994年10月。
** 『ウィザードリィ異聞 続々リルガミン冒険奇譚』アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1995年10月。
* [[多摩豊]]
** 『ウィザードリィ正伝 トレボーと黄金の剣』イラスト: [[結城信輝]]、アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1994年6月22日。
*** 原作者ロバートやアンドリュー、シナリオ#4の作者ロー・アダムズが構想していたアイデアを元に書かれている。
* [[ベニー松山]]
** 『[[小説ウィザードリィ 隣り合わせの灰と青春]]』イラスト: 品川るみ、[[宝島社|JICC出版局]]、1988年12月19日。
*** 『隣り合わせの灰と青春』イラスト: 緒方剛志、[[集英社]]〈[[スーパーファンタジー文庫]]〉、1998年12月10日。
*** 『隣り合わせの灰と青春』イラスト: 高橋政輝、[[幻想迷宮書店]]([[Amazon Kindle|Kindle版]])、2016年4月11日。
** 『[[小説ウィザードリィII 風よ。龍に届いているか]]』イラスト: [[高橋政輝]]、[[宝島社]]、1994年9月1日。
*** 『風よ。龍に届いているか(上・下)』イラスト: 高橋政輝、[[創土社]]、2002年11月11日。
****下巻には『ウィザードリィ小説アンソロジー』に収録された短編「不死王」が併録されている。
*** 『風よ。龍に届いているか』イラスト: 高橋政輝、幻想迷宮書店(Kindle版)、2016年7月11日。
** 『不死王』イラスト: 高橋政輝 幻想迷宮書店(Kindle版)、2016年5月1日。
* [[手塚一郎]]
** 『[[小説ウィザードリィ シナリオ4 ワードナの逆襲]]』JICC出版局、1990年8月1日。
* [[馳星周|佐山アキラ]] / 手塚一郎 / ベニー松山
** 『ウィザードリィ小説アンソロジー(酔いどれの墓標 / 女神ソルジーナ / 不死王)』JICC出版局、1991年9月15日。
* [[古川日出男]]
** 『ウィザードリィ外伝II 砂の王(1)』イラスト: 小島文美、アスペクト〈ログアウト冒険文庫〉、1994年3月22日。
*** 1巻のみの刊行で未完の作品だが、同作者による小説『アラビアの夜の種族』にて本作の全容が作中作として組み込まれている<ref>{{Cite web |title=俺を信じてコレを買え Web版 第1回 古川日出男『アラビアの夜の種族』 - スタジオベントスタッフ |url=https://www.bent.co.jp/special_staff/kore_wo_kae_1/ |website=スタジオベントスタッフ - Just another WordPress site |date=2016-06-20 |access-date=2023-12-22}}</ref><ref>{{Cite web |title=特別対談 – 公式WEBサイト『古川日出男のむかしとミライ』 |url=https://furukawahideo.com/taidan/ |access-date=2023-12-22 |language=ja}}</ref>。
* [[矢野徹]]
** 『ウィザードリィ日記 -パソコン文化の冒険』アスペクト、1988年<!--5日-->。
** 『ウィザードリィ日記 -熟年世代のパソコン・アドヴェンチャー』[[角川書店]]〈[[角川文庫]]〉、1989年7月25日。
** 『続・ウィザードリィ日記 -未来はバラ色』[[アスキー (企業)|アスキー]]〈Login Books〉、1991年7月20日。
** 『ウィザードリィ幻想曲』[[マイクロデザイン出版局]]〈RPG books〉、1992年5月10日。
* [[吉本正彦]]
** 『小説ウィザードリィ(6) 女王の受難』イラスト: 浅田隆/中村淳一、[[双葉社]]〈ファンタジーノベルシリーズ〉、1992年10月26日。
* [[伏見健二]]
** 『サイレンの哀歌が聞こえる 小説 新・ウィザードリィ』JICC出版局、1992年9月。
* [[押井守]]
** 『注文の多い傭兵たち』イラスト:[[桜玉吉]]、[[メディアワークス]]、1995年12月、2004年3月27日再版。
* [[蝸牛くも]]
** 『ブレイド&バスタード』イラスト: [[so-bin]]、[[DREノベルス]]、第1巻:2022年12月9日・第2巻:2023年6月9日。
=== 漫画 ===
* [[石垣環]]
** 『ウィザードリィ』シリーズ全3巻 [[宝島社|JICC出版局]]〈宝島コミックス〉、1988年。
** 『[[ウィザードリィ外伝 (漫画)|ウィザードリィ外伝]]』シリーズ全6巻 JICC出版局〈宝島コミックス〉、1990年。
* [[渡辺電機(株)]]
** 『ダンジョン退屈男』作: [[竹内誠 (小説家)|竹内誠]] / 画: しのざき嶺、アスキーコミック、1994年。
** 『メイルストロームの彼方 ウィザードリィ5』作: [[ベニー松山]] / 画: [[池上紗京|池上明子]]、アスキーコミック、1993年5月。
** 『ウィザードリィ外伝II 黄泉の覇王』全2巻 原案: 岩原ケイシ / 作画: 福原蓮士、アスキーコミック、1994年。
** 『ウィザードリィZEO』全4巻 講談社コミックスマガジン、2009年 - 2011年。
*アンソロジー
** 『ウィザードリィ[[4コマまんが王国]]』全3巻 双葉社〈アクションコミックス〉、1991年・1992年
* 『ウィザードリィ-虚空の迷宮-』[[草壁嘉紋]]、[[みのり書房]]〈アニパロコミックス6月号増刊 コミックゼノン Vol.1<ref group="注">Vol.1で廃刊のため1話のみ。</ref>〉、1992年。
* 『魔境斬刻録 隣り合わせの灰と青春』稲田晃司、原作・監修: ベニー松山、[[リイド社]]〈連載: コミックボーダー、刊行: ボーダーコミックス〉、2022年12月 - 連載中。既刊1巻。
** 小説『隣り合わせの灰と青春』のコミカライズ作品。コミカライズ版では「ウィザードリィ」の版権に関わる特有の語句・名称は使用されていない。
* 『ブレイド&バスタード』楓月誠、原作: 蝸牛くも、キャラクター原案: so-bin、[[ドリコム]]〈DREコミックス〉、2023年6月 - 連載中。既刊2巻。
** 同名小説のコミカライズ版。
=== 資料集 ===
* 『画集 ウィザードリィ』[[末弥純]]、[[新紀元社]]、2006年。
* 『ウィザードリィルネサンス 公式資料集』[[ファミ通コネクト!オン]]、[[エンターブレイン]]、2013年。
=== その他 ===
* [[ファミコン必勝本]] - JICC出版局(現:[[宝島社]])発行のゲーム雑誌。ウィザードリィの漫画や小説、ファンページが連載されていた。
* [[ログイン (雑誌)|ログイン]] - 日本語PCやファミコン移植版を発売した[[アスキー (企業)|アスキー]]発行のゲーム雑誌。[[忍者増田]]によるウィザードリィの紹介ページが連載されていた。
== テーブルゲーム ==
* [[ウィザードリィRPG]] - 日本で製作されたテーブルトークRPG版。
* [[ウィズボール]] - ウィザードリィ、ウィザードリィRPGをモチーフとしたコミカルな野球風カードゲーム。ワードナが選手としても出場している。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2016年11月|section=1}}
* {{Cite book |和書
|author= ベニー松山|authorlink=ベニー松山
|year = 1989
|title = ウィザードリィのすべて ファミコン版
|publisher = [[宝島社|JICC出版局]]
|isbn = 978-4880636030
}}
* {{Cite book |和書
|author= 山下章|authorlink=山下章
|year = 1989
|title = チャレンジ!!パソコンアドベンチャーゲーム&ロールプレイングゲーム
|volume = 3
|publisher = [[電波新聞社]]
|isbn = 978-4885547522
}} ※ウィザードリィの章はベニー松山の執筆である。当時の名義はTOMMY。
* {{Cite book |和書
|author = ベニー松山
|year = 1990
|title = ウィザードリィIIIのすべて ファミコン版
|publisher = JICC出版局
|isbn = 978-4880639628
}}
* {{Cite book |和書
|year = 1991
|title = ウィザードリィマガジン
|editor=MSXマガジン編集部|editor-link=MSXマガジン
|publisher = [[ビジネス・アスキー]]
|asin = B009QWSYHO
}}
* {{Cite book |和書
|year = 1992
|title = ウィザードリィVのすべて
|editor=Hippon SUPER!編集部|editor-link=ファミコン必勝本
|publisher = JICC出版局
|isbn = 978-4796605526
}}
* {{Cite book |和書
|year = 1993
|title = ログアウト・ノベルスペシャル
|publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]]
|chapter = 多摩豊「ウィザードリィ開発秘話 絶望のダンジョンを越えて」
}}
* {{Cite book |和書
|year = 1998
|title = ウィザードリィリルガミンサーガ 完全攻略ガイド
|publisher = [[NTT出版]]
|isbn = 978-4871889452
}}
* {{Cite book |和書
|year = 2014
|title = ロールプレイングゲームサイド
|volume = Vol.1
|publisher = [[マイクロマガジン社]]
|isbn = 978-4-89637-470-4
}}
*{{Cite journal|year=1986|title=パソコンゲーム通信第2号|journal=週刊ファミコン通信|volume=2|pages=100-102|refs=Famitsu1986_2nd}}
== 関連項目 ==
=== 基本システムを踏襲しているゲーム ===
{{出典の明記|date=2014年12月|section=1}}
「3Dダンジョンもの」以外の共通項があるもののみ記載。
* [[GENERATION XTH]]([[エクスペリエンス]]〈[[チーム ムラマサ]]〉) - 基本的なシステムが『[[ウィザードリィ エクス]]』。また、以降の同社製3DダンジョンRPGの大半にも『ウィザードリィ』の強い影響が見られる。
* [[剣と魔法と学園モノ。]]([[アクワイア (ゲーム会社)|アクワイア]]) - 基本的なシステムが『[[ウィザードリィ エクス]]』。内部データには同社に引き継がれた該当作のコードやアセットを流用した痕跡が強く見られる。
* [[エルミナージュ]]([[スターフィッシュ]]) - 『ウィザードリィ エンパイア』や『ウィザードリィ アスタリスク』の流れを汲む。
*[https://www.gamestudio.co.jp/game_cat/others/page/9/ ネザードメイン]([[バタフライ (企業)|バタフライ]]) - 基本的なシステムが『ウィザードリィ外伝』。同I~IIがシナリオとして移植されてもいる。
* 幻霧ノ塔ト剣ノ掟([[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]) - 呪文体系やパロディ色の濃さなどを踏襲。パーティ人数は4人。
* [[世界樹の迷宮]]([[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]) - 本作に強く影響を受けた。
* [[アビスアンドダーク]]([[エイコードバンク]]) - FC版#1~3に強く影響を受けている。
=== オマージュ・パロディなど ===
* [[機動警察パトレイバー]] - [[押井守]]が脚本を担当したテレビシリーズ第38話「地下迷宮物件」、後期OVA第13話「ダンジョン再び」はタイトルが示すようにウィザードリィのパロディ。押井が監督を務めた劇場版第2作にもウィザードリィからのオマージュが見られる。
* [[アヴァロン (映画)|アヴァロン]] - 押井守監督の映画。パトレイバー劇場版と同様にこちらもウィザードリィのオマージュ。
* [[キツネはかせのへんなカレーライス]] - [[小沢正]](さし絵:[[佐々木マキ]])の[[児童文学]]。あとがきでは小沢もコンピュータRPGに熱中していることが語られている。
* [[迷宮街クロニクル]] - 林亮介の[[ライトノベル]](元々は[[オンライン小説]])。オンライン時のタイトルは『和風Wizardry純情派』で、2000年代前半の京都に突如開いた地下迷宮が舞台。性格システムや職業、怪物などウィザードリィからのオマージュが多数見られる。
* [[ポートピア連続殺人事件]] - ファミコン版で追加された3D地下迷路そのものや、そこで見つかる「もんすたあ さぷらいずど ゆう」という落書き。(ウィザードリィでは戦闘開始時に敵に奇襲されると「MONSTER SURPRISED YOU」と表示される)
== 外部リンク ==
* [https://wizardry.info/ Wizardry Portal Site(ウィザードリィ ポータルサイト)]
*{{Twitter|wizardry_series|Wizardry(ウィザードリィ)【official】}}
{{Wizardry}}
{{DEFAULTSORT:ういさあとりい}}
[[Category:ウィザードリィ|*]]
[[Category:Apple II用ゲームソフト]]
[[Category:PC-8800用ゲームソフト]]
[[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]]
[[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]]
[[Category:X1用ゲームソフト]]
[[Category:MSX/MSX2用ソフト]]
[[Category:ゲームボーイ用ソフト]]
[[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]]
[[Category:スーパーファミコン用ソフト]]
[[Category:PCエンジン用ソフト]]
[[Category:セガサターン用ソフト]]
[[Category:ニンテンドーDS用ソフト]]
[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
[[Category:PlayStation用ソフト]]
[[Category:PlayStation 2用ソフト]]
[[Category:ワンダースワン用ソフト]]
[[Category:1981年のパソコンゲーム]]
[[Category:アスキーのゲームソフト]]
[[Category:コンピュータゲームのシリーズ]]
[[Category:冒険ゲームブック]]
[[Category:漫画作品 う|いさあとりい]]
[[Category:アニメ作品 う|いさあとりい]]
[[Category:1991年のOVA]]
[[Category:東京ムービーのアニメ作品]]
[[Category:コンピュータゲームを原作とするアニメ作品]]
[[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]]
[[Category:3DダンジョンRPG]]
[[Category:ファミ通クロスレビューゴールド殿堂入りソフト]] | 2003-03-03T08:49:08Z | 2023-12-23T02:04:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A3 |
3,297 | ナビィの恋 | 『ナビィの恋』(なびぃのこい)は1999年12月4日公開の中江裕司監督が製作した日本映画。沖縄民謡の大御所を多数起用し、音楽と笑いを基調にしたミュージカル的作品。地元沖縄県でも公開され(1999年には劇場ではなく那覇市内のリウボウホールで上映)、人気を集めた。
祖父母の暮らす沖縄県・粟国島に里帰りした奈々子(西田尚美)。幼馴染みのケンジ(津波信一)が操縦する島への連絡船で、奈々子は白いスーツの老紳士を見かける。奈々子を迎えるナビィおばあ(平良とみ)とおじぃの恵達(登川誠仁)。ひょんなことで恵達の家に滞在することになった風来坊、福之助(村上淳)も交えてにぎやかな雰囲気に。
だがなんとなくナビィおばあの様子が落ち着かない。奈々子が船で見かけた男性は、60年ぶりに島へ帰ってきたナビィおばあのかつての恋人・サンラー(平良進)だったのだ。島から追放されたサンラーが戻ってきたことで、東金城(あがりかなぐすく)家一同はユタ(吉田妙子)を囲んで大騒ぎなった。
(曲名などはエンドロールより)
「ナビィ」は「なべ」の意味で、カマド・ウシなど、昔の沖縄県では女性によく使われた名前のひとつ。日常生活で身近なものの名前を女性の名前につける風習による。また「チルー」は「つる」、「サンラー」は「三郎」の転訛である。ユタは先祖や神々の霊と言葉を交わす霊能力を持った女性。現在の沖縄にも占いや相談ごとに対応するユタが多く存在する。
ラストシーンで踊られる三線の速弾きは、祝いの席に踊られるカチャーシー。手を上げ、空をかき回すように(カチャーシー=かき回す、の意)動かす動作と軽快なリズムが特徴的。最初の歌詞は琉球古典舞踊「かぎやで風」が出典。かぎやで風も祝席の踊りと親しまれており、現在では結婚披露宴の冒頭に披露される事が多い。
当時の総理大臣の小渕恵三が東京のテアトル新宿で鑑賞し、絶賛。後日、沖縄県に訪問時に総理の強い希望で「総理と語る」の番組中に監督の中江裕司と対談するまでに至る。 | [
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] | 『ナビィの恋』(なびぃのこい)は1999年12月4日公開の中江裕司監督が製作した日本映画。沖縄民謡の大御所を多数起用し、音楽と笑いを基調にしたミュージカル的作品。地元沖縄県でも公開され(1999年には劇場ではなく那覇市内のリウボウホールで上映)、人気を集めた。 | {{出典の明記|date=2014年2月9日 (日) 07:23 (UTC)|ソートキー=沖縄なひいのこい}}
{{Infobox Film
|作品名=ナビィの恋
|原題=
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|画像サイズ=
|画像解説=
|監督=[[中江裕司]]
|脚本=中江裕司<br />[[中江素子]]
|原案=
|原作=
|製作=竹中功<br />[[佐々木史朗 (映画プロデューサー)|佐々木史朗]]
|製作総指揮=
|ナレーター=
|出演者=[[西田尚美]]<br/>[[平良とみ]] <br/>[[登川誠仁]]
|音楽=[[磯田健一郎]]
|主題歌=
|撮影=[[高間賢治]]
|編集=[[宮島竜治]]
|製作会社=イエス・ビジョンズ<br />[[オフィス・シロウズ]]
|配給=オフィス・シロウズ / [[東京テアトル]]
|公開=1999年12月4日
|上映時間=92分
|製作国={{JPN}}
|言語=[[日本語]]
|製作費=
|興行収入=
|前作=
|次作=
}}
『'''ナビィの恋'''』(なびぃのこい)は[[1999年]][[12月4日]]公開の[[中江裕司]]監督が製作した[[日本映画]]。[[沖縄民謡]]の大御所を多数起用し、音楽と笑いを基調にしたミュージカル的作品。地元沖縄県でも公開され(1999年には劇場ではなく那覇市内のリウボウホールで上映)、人気を集めた。
== ストーリー ==
祖父母の暮らす[[沖縄県]]・[[粟国島]]に里帰りした奈々子([[西田尚美]])。幼馴染みのケンジ([[津波信一]])が操縦する島への連絡船で、奈々子は白いスーツの老紳士を見かける。奈々子を迎えるナビィおばあ([[平良とみ]])とおじぃの恵達([[登川誠仁]])。ひょんなことで恵達の家に滞在することになった風来坊、福之助([[村上淳]])も交えてにぎやかな雰囲気に。
だがなんとなくナビィおばあの様子が落ち着かない。奈々子が船で見かけた男性は、60年ぶりに島へ帰ってきたナビィおばあのかつての恋人・サンラー([[平良進]])だったのだ。島から追放されたサンラーが戻ってきたことで、東金城(あがりかなぐすく)家一同は[[ユタ]]([[吉田妙子]])を囲んで大騒ぎなった。
== キャスト ==
; 東金城奈々子
: 演 - [[西田尚美]]
: 仕事を辞めて、東京から故郷の島に戻ってきた女性。明朗快活な性格でお酒好き。祖父母と暮らし始めるが、ナビィとサンラーのことに気を揉む。緩やかな時間が流れる故郷の島で過ごしながら、持ち前の明るさで人々との交流を深める。
; 東金城ナビィ
: 演 - [[平良とみ]]
: 奈々子の祖母。恵達より数歳年上。家の周りに植えた[[ブーゲンビリア]]の世話をするなどして過ごす。恵達から「島一番の美人」と評されている。腰痛持ち。ある時からこそこそと行き先も告げずにどこかへ行きだし、奈々子に怪しまれる。
: 平良は本作で注目され、2001年放送の[[NHK連続テレビ小説]]『[[ちゅらさん]]』で全国区の人気女優となる。
=== 奈々子と関わる人 ===
; 福之助
: 演 - [[村上淳]]
: 島にふらっとやってきた若者。島に滞在することになり、奈々子の家で寝泊まりする。恵達の仕事を手伝ったり三線を教わったり、奈々子と浜辺で語るなどして過ごす。
; ケンジ
: 演 - [[津波信一]]
: 島の連絡船の運転手。奈々子の幼なじみ。大雑把な言動と周りの人のことをあまり考えない人物で連絡船の運転も荒い。奈々子に好意を寄せていて、勝手に婚約者を気取る。
=== ナビィと関わる人 ===
; 東金城恵達
: 演 - [[登川誠仁]]
: 奈々子の祖父。いつも三線を持ち歩き、気ままに沖縄民謡などを弾き語っている。普段は自身の牧場でのんびりと牛を育てている。年は取っているが女性のおっぱいやお尻が好き。会話に時々英語を交えたり、時々三線でアメリカ国歌を弾いたりするところにアメリカ統治下時代の名残りを感じさせる。
: 監督の中江裕司やスタッフが出演オファーのため何度も登川の自宅まで行き説得を試みたものの、当初は「歌が専門で、カメラの前で演技ができるわけがない。冗談じゃない。」と断られ続けていた。門前払いやフテ寝や居留守など全力で断られること6ヶ月、誠仁の妻シゲが「こんなことを繰り返していると、いつか、登川誠仁という人間は偉そうにしている奴だと世間に知れるよ」という一言で、70歳手前にして重い腰を上げ、初の映画出演を承諾することとなった<ref name="seijin-book"> {{Cite book|和書|author=登川誠仁|title=登川誠仁自伝 オキナワをうたう|others=構成・藤田正|year=2002|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-454901-0}}</ref>。
; サンラー
: 演 - [[平良進]]
: 元々この島の住人で、ナビィの元恋人。素潜りで魚を捕まえるのが得意。恵達が子供の頃に島を出て行き、その後ナビィと結婚した恵達に会っているが仲は悪くない。
; ツル(ユタ)
: 演 - [[吉田妙子]]
: 島の占い師のような存在。ナビィとサンラーについて先祖の言葉を聞いて占う。足が悪いため外出時は電動三輪車に乗っている。占いの信ぴょう性は不明だが、奈々子からは「インチキ占い師」と言われる。
=== 東金城家の親族 ===
; 本家の長老の家族
: 演 - 長老([[嘉手苅林昌]])、妻・ミサコ([[大城美佐子]])、息子([[嘉手苅林次]])
: 息子のヴァイオリン演奏と夫妻の三線の弾き語りで、『十九の春』などの沖縄民謡を3人で演奏する。
: 長老を演じた嘉手苅林昌は沖縄民謡の草分け的存在として親しまれていたが、撮影後間もない[[1999年]][[10月9日]]に死去。本作が遺作となった。
; けいいち
: 演 - [[島正廣]]
: 奈々子の父。全然連絡をくれない奈々子に久しぶりに会い、愚痴をこぼす。クライマックスのみんなで踊るシーンでは太鼓を担当。
; 親戚のおじさん
: 演 - [[仲嶺眞永]]
: 奈々子の親戚。島の占い師であるユタの判断を仰ぐため、けいいちと共にナビィの家に身内で集まる。
=== その他主な住人 ===
; 麗子
: 演 - [[兼島麗子]]
: 商店を営む。オコーナーをダーリンと呼び、作中では妊娠中。オペラ歌手のような美声で『ハバネラ』(ビゼー作曲)をスペイン語らしき歌詞で歌う。
; オコーナー
: 演 - {{仮リンク|アシュレイ・マックアイザック|en|Ashley MacIsaac}}
: 麗子の夫。アイルランド人。[[フィドル]](ヴァイオリンと同じ楽器)で、ケルト民謡などを仲間たちと演奏する。ちなみにナビィは、『アイルランド』が中々覚えられずに『愛してるランドの人』と言っている。[[アイルランド音楽]]の曲「クレイグニッシュ・ヒルズ」と「The Green Fields Of Glentown(サントラのタイトルは「アイリッシュ・リール」)」をそれぞれ初登場時の合奏と映画中盤の独奏シーンで弾く他、島人バンドといろいろな曲を合奏する。
; 島人バンド
: 演 - 磯田健一郎(大太鼓)、長生淳(オルガン)、大城正司(サックス)
: 同じく島に住むオコーナーと共に演奏活動をする。
; アブジャーマー男
: 演 - [[山里勇吉]]
: いつも老人のお面を被っている人。普段は祝いの席で沖縄民謡を三線弾き語る(流しのような)仕事をしている。
; 島の子供たち
: 演 - 新城司、新城世梨奈、新城亜梨沙、宮里由布佳、宮里由似、高良 俊、平田修一朗
: ケンジと奈々子が好きかどうかが気になり、奈々子をからかう。また、奈々子に頼まれてナビィを尾行する。
=== その他の人 ===
; 若き日のナビィ
: 演 - 宇座里枝
: サンラーと付き合っていたが、昔から影響力のある島の占い師の判断により、サンラーとの恋愛は良くないと無理やり別れさせられる。
; 若き日のサンラー
: 演 - 大田守邦
: 恋人のナビィと別れさせられ島を追い出された後、恵達によると移民としてブラジルに渡ったとされる。
; 牛祭りの司会
: 演 - [[ぴのっきを|ぴのっきお]]
: 大阪からこの仕事をするためにやってきた漫才師。ボケツッコミをしながら進行するが、あまりウケていない。
== スタッフ ==
*製作:[[竹中功]]、[[佐々木史朗 (映画プロデューサー)|佐々木史朗]]
*監督:[[中江裕司]]
*脚本:[[中江素子]]、[[中江裕司]]
*撮影監督:[[高間賢治]]
*美術:[[真喜屋力]]
*音楽:[[磯田健一郎]]、[[藤田正]]
*編集:[[宮島竜治]]
*助監督:[[土岐善將]]、[[小林聖太郎]]、[[新藤風]]
*協力プロデューサー:[[佐藤美由紀 (映画プロデューサー)|佐藤美由紀]]
== 挿入曲 ==
(曲名などはエンドロールより)
; 『ひょっこりひょうたん島』
* 作詞:[[井上ひさし]]、[[山元護久]]、作曲:[[宇野誠一郎]]、唄:津波信一
; 『下千鳥』(沖縄民謡)
* 唄三線:[[登川誠仁]]
; 『海ぬチンボーラ』(沖縄民謡)
* 三線:登川誠仁
; 『じゅりぐわぁ小唄/十九の春』~本家バージョン1~
* 唄三線:嘉手苅林昌、大城美佐子、唄:西田尚美、ヴァイオリン:嘉手苅林次
; 『じゅりぐわぁ小唄/十九の春』~本家バージョン2~
* 唄三線:嘉手苅林昌、大城美佐子
; 『じゅりぐわぁ小唄/十九の春』~メドレーバージョン~
* 補作詞:中江裕司、編曲:長生淳、三線:大城美佐子、嘉手苅林次、
* フィドル:アシュレイ・マックアイザック、オルガン:長生淳、サックス:大城正司、パーカッション:磯田健一郎
* 唄:山里勇吉、嘉手苅林昌、大城美佐子、津波信一、兼島麗子、西田尚美、村上淳、登川誠仁
; 『ザ・スター・スパングルド・バナー』
* 作曲:フランシス・スコットキー、三線:登川誠仁
; 『六調節』(八重山民謡)
* 唄三線:山里勇吉
; 『クレイグニッシュ・ヒルズ』(ケルト民謡)
* 編曲:長生淳、フィドル:アシュレイ・マックアイザック
* オルガン:長生淳、サックス:大城正司、パーカッション:磯田健一郎
; 『ケルティック・リール』(ケルト民謡)
* フィドル:アシュレイ・マックアイザック
; 『トゥバラーマ』(八重山民謡)~大濱商店バージョン~
* 編曲:長生淳、磯田健一郎、アシュレイ・マックアイザック、兼島麗子
* フィドル:アシュレイ・マックアイザック、唄:兼島麗子
; 『トゥバラーマ』(八重山民謡)~回想・ナビィバージョン~
* 笛:喜舎場孫好、唄:神村るみ子、山里勇吉
; 『国頭ジントヨー』(沖縄民謡)
* 唄三線:登川誠仁、村上淳
; 『国頭ジントヨー』(沖縄民謡)~モンデヨーバージョン~
* 作詞:中江裕司、唄三線:登川誠仁、村上淳
; 『国頭ジントヨー』(沖縄民謡)~サンラーを称えるバージョン~
* 作詞:ビセカツ、唄三線:登川誠仁、村上淳
; 『月ぬ美しゃ』(八重山民謡)
* 唄三線:山里勇吉
; 『むんじゅる節』(沖縄民謡)
* 演奏/唄:[[照喜名朝一]]、安冨祖流絃声会
; 『夏の扉』
* 作詞:[[三浦徳子]]、作曲:[[財津和夫]]、唄:西田尚美
; 『ロンドンデリーの歌』(アイルランド民謡)
* 訳詞:津川主一、編曲:長生淳、フィドル:アシュレイ・マックアイザック
* オルガン:長生淳、サックス:大城正司、パーカッション:磯田健一郎、唄:山里勇吉
; 『[[ハバネラ (アリア)|ハバネラ]]』(カルメン~恋は野の鳥~)
* 作曲:[[ジョルジュ・ビゼー]]、作詞:[[プロスペル・メリメ|プロスペール・メリメ]]、アンリ・メイヤック
* 編曲:長生淳、普久原恒勇、演奏:三絃木謡会、唄:兼島麗子
; 『アッチャメー小』(沖縄民謡)
* 唄三線:登川誠仁、太鼓:島正廣
== テーマ曲 ==
; 『RAFUTI』
* 作曲:[[マイケル・ナイマン]]、プロデューサー:キャメロン・アラン、藤田正
* ピアノ:マイケル・ナイマン、唄三線:[[登川誠仁]]
== 関連事項 ==
「ナビィ」は「なべ」の意味で、カマド・ウシなど、昔の沖縄県では女性によく使われた名前のひとつ。日常生活で身近なものの名前を女性の名前につける風習による。また「チルー」は「つる」、「サンラー」は「三郎」の転訛である。[[ユタ]]は先祖や神々の霊と言葉を交わす霊能力を持った女性。現在の沖縄にも占いや相談ごとに対応するユタが多く存在する。
ラストシーンで踊られる三線の速弾きは、祝いの席に踊られる[[カチャーシー]]。手を上げ、空をかき回すように(カチャーシー=かき回す、の意)動かす動作と軽快なリズムが特徴的。最初の歌詞は[[琉球舞踊|琉球古典舞踊]]「[[かぎやで風]]」が出典。かぎやで風も祝席の踊りと親しまれており、現在では結婚披露宴の冒頭に披露される事が多い。
当時の[[総理大臣]]の[[小渕恵三]]が[[東京]]の[[テアトル新宿]]で鑑賞し、絶賛。後日、沖縄県に訪問時に総理の強い希望で「総理と語る」の番組中に監督の[[中江裕司]]と対談するまでに至る。
== 評価・受賞歴 ==
*2000年[[日本インターネット映画大賞]] 日本映画作品賞
*2000年[[芸術選奨新人賞]]
*2000年[[新藤兼人賞]]・金賞
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20181013094104/http://www.shirous.com/jp/films/f007.html ナビィの恋] - オフィス・シロウズの公式サイト
* [https://web.archive.org/web/20010205163300/http://www.shirous.com/nabbie/index01.htm 映画公式ホームページ][https://web.archive.org/web/20010520025049/http://www.d2.dion.ne.jp/~shirous/]
* [http://fjmovie.la.coocan.jp/interview/2000/nabbie/index.htm FJMOVIE インタビュー]
* [https://web.archive.org/web/20030417041535/http://www2.justnet.ne.jp/~noproblem/yes.htm 株式会社イエス・ビジョンズ 作品解説]
* {{Allcinema title|160223|ナビィの恋}}
* {{Kinejun title|32021|ナビィの恋}}
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:なひいのこい}}
[[Category:1999年の映画]]
[[Category:日本の恋愛映画]]
[[Category:日本の青春映画]]
[[Category:沖縄県を舞台とした映画作品]]
[[Category:沖縄県で製作された映画作品]]
[[Category:吉本興業製作の映画作品]]<!--子会社--> | null | 2023-02-17T09:25:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%A3%E3%81%AE%E6%81%8B |
3,299 | リール | [] | null | '''リール'''
== 地名 ==
* [[リール (ベルギー)]] ({{Lang-fr-short|Lierre}}、{{Lang-nl-short|Lier}}) - ベルギーの都市。
* [[リール (フランス)]] ({{Lang-fr-short|Lille}}) - フランス北部の都市。
== 道具 ==
リール ({{Lang-en-short|Reel}})は何らかの物を巻くときに使う器具。
* [[リール (釣具)]] - 釣り竿に取り付けて釣り糸を巻き取る道具。
* [[リール (機構)]] - AV機器で音響や映像、データを記録するテープを巻きつける部品。
* [[スロットマシン]]のドラム。([[パチスロ用語の一覧#器具・部位・周辺機器]]も参照)
== その他 ==
* [[リールOSC]] - フランス・リールに本拠地を置くサッカークラブチーム。
* [[リル (ケルト神話)]] (Lir) - ケルト神話に登場する海神。
* [[リール (ダンス)]] (Reel) - スコットランドとアイルランドのフォークダンス、およびそのための舞曲。
* [[Le Rire]](ル・リール) - フランスの雑誌。
== 人名 ==
; リール ({{Lang-de-short|Riehl}}) - ドイツ語圏に見られる姓
* [[アロイス・リール]] - ドイツの哲学者。新カント派の一人。
* [[ヴィルヘルム・ハインリヒ・リール]] - ドイツ文化学者、小説家。社会民俗学の創設者。
; リール ({{Lang-en-short|Riehle}})
* [[リチャード・リール]] - アメリカの俳優。
; リール ({{Lang-en-short|Reile}})
* [[ステイシー・リール]] - アメリカのプロボクサー。
== 架空の人物 ==
* ツゥエイ・ダ・リール - 漫画『[[9番目のムサシ|9番目のムサシ Ghost & Gray]]』の登場人物。西アジアのラド王国の外務大臣。
{{aimai}}
{{デフォルトソート:りいる}}
[[Category:英語の姓]]
[[Category:ドイツ語の姓]]
[[Category:フランス語の地名]]
[[Category:同名の地名]] | 2003-03-03T09:26:28Z | 2023-12-09T04:08:54Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AB |
|
3,301 | 習志野市 | 習志野市(ならしのし)は、千葉県の北西部に位置する市。
人口は約17.6万人で、千葉県内では八千代市に次いで第9位の人口規模である。旧千葉郡。1954年(昭和29年)市制施行。
明治時代には軍都として栄え、津田沼駅周辺は津田沼戦争と称されるほど商業施設や学習塾の競争激化が相次ぐ関東有数の繁華街・文教都市となっている。人口密度は非常に高く、松戸市に次ぎ県内では4位であり、これは千葉市で一番人口密度が高い稲毛区や船橋市を上回る。
東京都の都心から約20-30キロメートル圏内に位置し、都市雇用圏における東京都市圏(東京都区部・千葉市)のベッドタウンとしての性質が強く、高層マンションや住宅街が林立している。通勤率は、東京都特別区部へ32.7%・船橋市へ11.7%・千葉市へ10.5%(いずれも平成22年国勢調査)。
千葉県北西部に位置し、東は県庁所在地である千葉市、西は中核都市の船橋市、北は八千代市に接し、南は東京湾奥部の千葉港第5区に面している。幕張新都心拡大地区に一部含まれる。
関東平野に含まれ、下総台地の端に位置する。内陸部から海岸部にかけて高低差が大きい。東京湾沿いには広大な遠浅の海岸を埋め立てた住宅地や商工業地が広がるなか、1か所だけ埋め立てられずに残ったラムサール条約登録地谷津干潟があり、干潟を必要とする渡り鳥の重要な中継飛来地となっている。
千葉市の加曽利貝塚などにも見られるように千葉県の東京湾岸には多くの縄文時代の遺跡が存在する。習志野市周辺にも藤崎堀込貝塚などの当時の遺跡が多数確認されている。市内には鷺沼古墳群があり、鷺沼地区には有力な豪族がいたことが分かる。律令制下で下総国に属し、古東海道の浮嶋駅を習志野市内に比定する説もあるが詳しくは不明である。治承4年(1180年)、吾妻鏡には、石橋山の戦いに敗れ安房国に上陸した源頼朝が、軍勢を連れて北上して鎌倉に向かったときに陣を置いた館(やかた)の場所として、「鷺沼御旅館」の名前が見られる。現在、市役所がある鷺沼地区の八剱台や、八剣神社周辺、また、暗渠となっている菊田川の左岸が下総台地に迫る位置の大堀込が、中世の武士の城館である鷺沼城跡の候補地となっている。
中世までは葛飾郡とされることもあったが、江戸時代初期に現市域内に分布した谷津、久々田、鷺沼、藤崎、実籾などの村々は千葉郡に属し、ほとんどが幕府領または旗本領となっていた。また、大久保新田が関西(おもに大阪府羽曳野市)からの移住者である市⻆頼母ら一族によって開発された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には幕府によって小金牧が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には東金御成街道が通り、藤崎の名はその地を通った徳川家康が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神コノハナサク(咲)ヤヒメの名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷台新田が馬加村(後に幕張)の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「津田沼」と「習志野原」を構成するようになるのである。
東京湾沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷(谷津田)が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。
1888年(明治21年)、町村制施行により、谷津、久々田、鷺沼、藤崎、大久保新田(後の大久保)の5村が合併し、人口約4,500人の千葉郡津田沼村が誕生した。「津田沼」の名は、谷津の津、久々田の田、鷺沼の沼を合わせたものである。一方、実籾村は馬加村などと合併して幕張村となった。1895年(明治28年)、前年開通した総武鉄道に津田沼駅が開業。1903年(明治36年)には津田沼村が町制を敷き、人口約6,000人の津田沼町となった。
1873年(明治6年)、小金牧の大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。なお演習場の敷地はその後拡張され、現在の当市・八千代市の一部の広大なものとなった。※一説には篠原国幹少将による指揮に感銘し、そのときの天皇の発言(「篠原を見習え」>習え篠原>習志野原)がもととなったという。後に陸軍によって買収され習志野演習場となった。
陸軍習志野練兵場には日露戦争の時に捕虜の収容施設が作られ、ロシアの捕虜が、また、第一次世界大戦の時には、ドイツやオーストリア=ハンガリーの捕虜が収容された。大久保には、第十三・十四・十五・十六の4つの騎兵連隊と陸軍衛戍病院(現在の千葉県済生会習志野病院)がおかれ、第1・第2の2つの騎兵旅団が編成された。昭和に入り騎兵連隊が中国大陸へと侵出すると、後には陸軍習志野学校や戦車第2連隊が置かれるようになった。また、近隣の藤崎に騎砲兵第2連隊が、実籾には東西の高津廠舎と糧秣廠倉庫が置かれた。津田沼には鉄道第二連隊が置かれ、松戸から津田沼までに演習で路線が引かれ、それが現在の新京成電鉄となった。
こうして津田沼町の一帯も含む広い地域が「軍郷」とよばれ、軍隊の街「習志野」が成立した。戦前には本町と二宮町、幕張町、犢橋村、大和田町、睦村、豊富村の千葉郡西部7町村を合併させる大習志野市建設構想も持ち上がったが、実現しなかった。近年では日本全国の日本陸軍軍用跡地で旧帝国陸軍地毒ガス埋設問題が浮上し、関連施設の安全性調査を実施している(別項陸軍習志野学校、習志野演習場を参照)。
津田沼町周辺は軍郷・習志野の一部として1901年(明治34年)に設置された騎兵第1旅団(現日本大学・東邦大学)、騎兵第2旅団(現東邦大学付属東邦中学校・高等学校など)をはじめ、津田沼駅前に鉄道第二連隊(現千葉工業大学)などの軍関係施設が点在していた。
戦後、軍施設は民用施設に転換され、住宅地となったり、教育施設、病院、工場として利用された。千葉工業大学津田沼キャンパスには、鉄道第二連隊の表門が残されている。北東部の「習志野原」と呼ばれる旧陸軍演習場の敷地の大部分は、外地からの引揚者などの手による開墾地となった。(「平林巌と習志野原の開拓」を参考)
昭和の大合併では当初幕張・二宮両町との合併を目指すも、旧幕張は千葉市に編入された上に、習志野演習場の自衛隊施設に転用された部分を含む旧二宮も1953年(昭和28年)に船橋市に編入されてしまった。結果として1954年(昭和29年)8月1日 津田沼町が習志野町に名称変更、同日千葉市の一部(旧幕張町北部)を編入合併、同日市制施行により習志野市が成立した(この部分、「習志野市の成立」を参照)。市制が布かれて以降、「津田沼」の地名は旧久々田村の地域を指す地名として残された。総武線は乗客数増加に対応し東京-津田沼間で複々線化し、快速運転を開始するようになった。また、津田沼駅周辺に大型店舗が乱立するようになった。津田沼戦争を参照のこと)。
沖合いに広がる遠浅の海岸は、戦後、伝統的な潮干狩りに加えて海苔の養殖で繁栄したが、1960年代に千葉県企業庁がこれを埋め立て、日本住宅公団が袖ヶ浦団地を造成した。また、1970年代の第二次の埋め立てでは秋津、香澄の住宅公団の団地や分譲住宅地の他、芝園・茜浜などに工業地が作られ、東関東自動車道水戸線の建設の際には緑地が作られた。このとき旧大蔵省管轄の土地が池状に埋め立てられずに残された。東京湾と二本の水路でつながった干潟は谷津干潟と呼ばれ、船橋沖に広がる三番瀬と並ぶ野鳥の飛来地として保護され、ラムサール条約登録地となった。
東日本大震災の影響により市役所本庁舎の耐震強度が低下したことから、道路を挟んだ北側の場所に本庁舎を移転して建て替えすることになり、2012年10月1日からは別棟の市民課を除き、本庁舎内の各課を市役所周辺の施設に移転させた上、習志野市津田沼五丁目(京成津田沼駅前)の以前ホテルが入っていた建物も仮庁舎として使用した。新しい本庁舎は2017年4月30日に竣工し、5月8日より新庁舎での業務を開始している。
2020年7月2日に隕石が落下した(習志野隕石)。
町村制の施行以来、一度も他の市町村全域との廃置分合を行っていない。千葉県内では他に鎌ケ谷市、富里市、酒々井町がある。
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.05%増の167,909人であり、増減率は千葉県下54市町村中8位、60行政区域中10位。
習志野市では、ほとんどの区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
住宅化が進み、農地は減って来ているが、近郊農業は行われている。主な産物はニンジンやネギなどで、菊田川・浜田川上流域において水田が僅かに存在する。
東習志野にいくつか大きな工場がある。千葉港から広がる京葉工業地域には、重化学工業が発達している。
習志野市は当初、内陸部・東習志野の旧陸軍習志野演習場を解放した開拓地を、農地法による売買制限解除前に買い上げ、工業団地を造成して日立製作所(現在の日立産機システム)などの大工場を誘致した。沿岸部では第二次埋立の行われた1970年代に公害が大きな社会問題となったこともあって大工場の誘致は行わず、埋め立て完了後、茜浜に中小工場による工業団地を造成した。また、鷺沼で天然ガスの採掘が行われていたが、現在は休止中である。
習志野の陸軍施設の玄関口として総武線津田沼駅北口には戦前から駅前商店街が形成されたが、それらの多くは船橋市(旧二宮町)に属する。津田沼駅北口・南口の再開発事業によって大型商業施設が集積する1970年代後半までは京成電鉄の谷津遊園(現・谷津)・京成津田沼・京成大久保・実籾の各駅周辺に駅前商店街が形成される以外に目立った商業施設は無かった。その中で谷津遊園に続く谷津遊園駅南口と、大久保の陸軍施設(戦後は国立病院および大学)に続く京成大久保駅北口の商店街は早くから発展し、市内で最も賑わう繁華街であった。
1970年代後半、千葉県立千葉工業高等学校と習志野第一中学校といった駅周辺に大きな面積を占めていた学校施設の移転後に再開発事業の行われた津田沼駅周辺では、隣接する船橋市域に跨って長崎屋やパルコ、イトーヨーカドー、丸井(以上北口)、髙島屋、ダイエー(以上南口)などの大型店が相次いで進出し、新京成電鉄沿線の船橋市東部も含めた膨大な居住人口を背景に津田沼戦争と呼ばれる激しい競争が展開した。これらの大型店のうち長崎屋、高島屋は1980年代に、ダイエーが2005年(平成17年)末に、丸井が2007年(平成19年)に撤退しているが、2003年(平成15年)10月4日にイオン株式会社がイオン津田沼ショッピングセンター(現在のイオンモール津田沼)をオープン、2007年(平成19年)11月9日にファーストリテイリングがユニクロを核店舗としたミーナ津田沼を丸井撤退後の店舗にオープンさせ、更に2008年(平成20年)にはダイエー撤退後の津田沼サンペデックビルがモリシア津田沼と名称を変え(核店舗はイオンモリシア津田沼店であったが後々ダイエーモリシア津田沼店として再出店)、ヤマダデンキLABI津田沼店ほか多数テナントをオープンさせた。また、奏の杜地区の再開発が行われ、奏の杜フォルテなど大型店舗が新たにオープンしている。
2000年代に入って、造成の遅れていた京葉線新習志野駅南側に郊外型大型商業施設が進出した。これに対してかつては団地住民の日常の買い物で賑わった袖ヶ浦団地内のショッピングセンターは、苦戦を強いられながらも比較的健闘していたが秋津団地のショッピングセンターは撤退に至り、跡地はマンションやセブン-イレブンになった。
京田辺市(京都府)
郵便番号は以下が該当する。1集配局が集配を担当する。
二次医療圏(二次保健医療圏)としては東葛南部医療圏(管轄区域:葛南地域および鎌ヶ谷市)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。
※ 東邦大学習志野キャンパスは市境沿いの船橋市に所在。
市立
※ 統合
私立
認可外保育園
市役所の最寄り駅は京成津田沼駅である。なお、新京成線の習志野駅及び北習志野駅は、習志野市ではなく船橋市に所在する。
以下のバス事業者が市内で一般路線バスを運行している。路線の詳細は各記事を参照のこと。
一部遺構や石碑が軍事史跡として残されている。
上記以外の観光スポット。
千葉県指定および国登録文化財一覧。
・バディコンプレックス 渡良瀬青葉の出身地 1話で登校風景が出てくる習志野市谷津と学生証に住所に表記されている | [
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"text": "習志野市(ならしのし)は、千葉県の北西部に位置する市。",
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"text": "人口は約17.6万人で、千葉県内では八千代市に次いで第9位の人口規模である。旧千葉郡。1954年(昭和29年)市制施行。",
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"text": "明治時代には軍都として栄え、津田沼駅周辺は津田沼戦争と称されるほど商業施設や学習塾の競争激化が相次ぐ関東有数の繁華街・文教都市となっている。人口密度は非常に高く、松戸市に次ぎ県内では4位であり、これは千葉市で一番人口密度が高い稲毛区や船橋市を上回る。",
"title": "概要"
},
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"text": "東京都の都心から約20-30キロメートル圏内に位置し、都市雇用圏における東京都市圏(東京都区部・千葉市)のベッドタウンとしての性質が強く、高層マンションや住宅街が林立している。通勤率は、東京都特別区部へ32.7%・船橋市へ11.7%・千葉市へ10.5%(いずれも平成22年国勢調査)。",
"title": "概要"
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"text": "千葉県北西部に位置し、東は県庁所在地である千葉市、西は中核都市の船橋市、北は八千代市に接し、南は東京湾奥部の千葉港第5区に面している。幕張新都心拡大地区に一部含まれる。",
"title": "地理"
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"text": "関東平野に含まれ、下総台地の端に位置する。内陸部から海岸部にかけて高低差が大きい。東京湾沿いには広大な遠浅の海岸を埋め立てた住宅地や商工業地が広がるなか、1か所だけ埋め立てられずに残ったラムサール条約登録地谷津干潟があり、干潟を必要とする渡り鳥の重要な中継飛来地となっている。",
"title": "地理"
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"text": "千葉市の加曽利貝塚などにも見られるように千葉県の東京湾岸には多くの縄文時代の遺跡が存在する。習志野市周辺にも藤崎堀込貝塚などの当時の遺跡が多数確認されている。市内には鷺沼古墳群があり、鷺沼地区には有力な豪族がいたことが分かる。律令制下で下総国に属し、古東海道の浮嶋駅を習志野市内に比定する説もあるが詳しくは不明である。治承4年(1180年)、吾妻鏡には、石橋山の戦いに敗れ安房国に上陸した源頼朝が、軍勢を連れて北上して鎌倉に向かったときに陣を置いた館(やかた)の場所として、「鷺沼御旅館」の名前が見られる。現在、市役所がある鷺沼地区の八剱台や、八剣神社周辺、また、暗渠となっている菊田川の左岸が下総台地に迫る位置の大堀込が、中世の武士の城館である鷺沼城跡の候補地となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "中世までは葛飾郡とされることもあったが、江戸時代初期に現市域内に分布した谷津、久々田、鷺沼、藤崎、実籾などの村々は千葉郡に属し、ほとんどが幕府領または旗本領となっていた。また、大久保新田が関西(おもに大阪府羽曳野市)からの移住者である市⻆頼母ら一族によって開発された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には幕府によって小金牧が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には東金御成街道が通り、藤崎の名はその地を通った徳川家康が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神コノハナサク(咲)ヤヒメの名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷台新田が馬加村(後に幕張)の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「津田沼」と「習志野原」を構成するようになるのである。",
"title": "歴史"
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"text": "東京湾沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷(谷津田)が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。",
"title": "歴史"
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"text": "1888年(明治21年)、町村制施行により、谷津、久々田、鷺沼、藤崎、大久保新田(後の大久保)の5村が合併し、人口約4,500人の千葉郡津田沼村が誕生した。「津田沼」の名は、谷津の津、久々田の田、鷺沼の沼を合わせたものである。一方、実籾村は馬加村などと合併して幕張村となった。1895年(明治28年)、前年開通した総武鉄道に津田沼駅が開業。1903年(明治36年)には津田沼村が町制を敷き、人口約6,000人の津田沼町となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1873年(明治6年)、小金牧の大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。なお演習場の敷地はその後拡張され、現在の当市・八千代市の一部の広大なものとなった。※一説には篠原国幹少将による指揮に感銘し、そのときの天皇の発言(「篠原を見習え」>習え篠原>習志野原)がもととなったという。後に陸軍によって買収され習志野演習場となった。",
"title": "歴史"
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"text": "陸軍習志野練兵場には日露戦争の時に捕虜の収容施設が作られ、ロシアの捕虜が、また、第一次世界大戦の時には、ドイツやオーストリア=ハンガリーの捕虜が収容された。大久保には、第十三・十四・十五・十六の4つの騎兵連隊と陸軍衛戍病院(現在の千葉県済生会習志野病院)がおかれ、第1・第2の2つの騎兵旅団が編成された。昭和に入り騎兵連隊が中国大陸へと侵出すると、後には陸軍習志野学校や戦車第2連隊が置かれるようになった。また、近隣の藤崎に騎砲兵第2連隊が、実籾には東西の高津廠舎と糧秣廠倉庫が置かれた。津田沼には鉄道第二連隊が置かれ、松戸から津田沼までに演習で路線が引かれ、それが現在の新京成電鉄となった。",
"title": "歴史"
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"text": "こうして津田沼町の一帯も含む広い地域が「軍郷」とよばれ、軍隊の街「習志野」が成立した。戦前には本町と二宮町、幕張町、犢橋村、大和田町、睦村、豊富村の千葉郡西部7町村を合併させる大習志野市建設構想も持ち上がったが、実現しなかった。近年では日本全国の日本陸軍軍用跡地で旧帝国陸軍地毒ガス埋設問題が浮上し、関連施設の安全性調査を実施している(別項陸軍習志野学校、習志野演習場を参照)。",
"title": "歴史"
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"text": "津田沼町周辺は軍郷・習志野の一部として1901年(明治34年)に設置された騎兵第1旅団(現日本大学・東邦大学)、騎兵第2旅団(現東邦大学付属東邦中学校・高等学校など)をはじめ、津田沼駅前に鉄道第二連隊(現千葉工業大学)などの軍関係施設が点在していた。",
"title": "歴史"
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"text": "戦後、軍施設は民用施設に転換され、住宅地となったり、教育施設、病院、工場として利用された。千葉工業大学津田沼キャンパスには、鉄道第二連隊の表門が残されている。北東部の「習志野原」と呼ばれる旧陸軍演習場の敷地の大部分は、外地からの引揚者などの手による開墾地となった。(「平林巌と習志野原の開拓」を参考)",
"title": "歴史"
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"text": "昭和の大合併では当初幕張・二宮両町との合併を目指すも、旧幕張は千葉市に編入された上に、習志野演習場の自衛隊施設に転用された部分を含む旧二宮も1953年(昭和28年)に船橋市に編入されてしまった。結果として1954年(昭和29年)8月1日 津田沼町が習志野町に名称変更、同日千葉市の一部(旧幕張町北部)を編入合併、同日市制施行により習志野市が成立した(この部分、「習志野市の成立」を参照)。市制が布かれて以降、「津田沼」の地名は旧久々田村の地域を指す地名として残された。総武線は乗客数増加に対応し東京-津田沼間で複々線化し、快速運転を開始するようになった。また、津田沼駅周辺に大型店舗が乱立するようになった。津田沼戦争を参照のこと)。",
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"text": "沖合いに広がる遠浅の海岸は、戦後、伝統的な潮干狩りに加えて海苔の養殖で繁栄したが、1960年代に千葉県企業庁がこれを埋め立て、日本住宅公団が袖ヶ浦団地を造成した。また、1970年代の第二次の埋め立てでは秋津、香澄の住宅公団の団地や分譲住宅地の他、芝園・茜浜などに工業地が作られ、東関東自動車道水戸線の建設の際には緑地が作られた。このとき旧大蔵省管轄の土地が池状に埋め立てられずに残された。東京湾と二本の水路でつながった干潟は谷津干潟と呼ばれ、船橋沖に広がる三番瀬と並ぶ野鳥の飛来地として保護され、ラムサール条約登録地となった。",
"title": "歴史"
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"text": "東日本大震災の影響により市役所本庁舎の耐震強度が低下したことから、道路を挟んだ北側の場所に本庁舎を移転して建て替えすることになり、2012年10月1日からは別棟の市民課を除き、本庁舎内の各課を市役所周辺の施設に移転させた上、習志野市津田沼五丁目(京成津田沼駅前)の以前ホテルが入っていた建物も仮庁舎として使用した。新しい本庁舎は2017年4月30日に竣工し、5月8日より新庁舎での業務を開始している。",
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"text": "2020年7月2日に隕石が落下した(習志野隕石)。",
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"text": "町村制の施行以来、一度も他の市町村全域との廃置分合を行っていない。千葉県内では他に鎌ケ谷市、富里市、酒々井町がある。",
"title": "歴史"
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"text": "平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.05%増の167,909人であり、増減率は千葉県下54市町村中8位、60行政区域中10位。",
"title": "人口"
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"text": "習志野市では、ほとんどの区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。",
"title": "町名"
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"text": "住宅化が進み、農地は減って来ているが、近郊農業は行われている。主な産物はニンジンやネギなどで、菊田川・浜田川上流域において水田が僅かに存在する。",
"title": "経済"
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"text": "東習志野にいくつか大きな工場がある。千葉港から広がる京葉工業地域には、重化学工業が発達している。",
"title": "経済"
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"text": "習志野市は当初、内陸部・東習志野の旧陸軍習志野演習場を解放した開拓地を、農地法による売買制限解除前に買い上げ、工業団地を造成して日立製作所(現在の日立産機システム)などの大工場を誘致した。沿岸部では第二次埋立の行われた1970年代に公害が大きな社会問題となったこともあって大工場の誘致は行わず、埋め立て完了後、茜浜に中小工場による工業団地を造成した。また、鷺沼で天然ガスの採掘が行われていたが、現在は休止中である。",
"title": "経済"
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"text": "習志野の陸軍施設の玄関口として総武線津田沼駅北口には戦前から駅前商店街が形成されたが、それらの多くは船橋市(旧二宮町)に属する。津田沼駅北口・南口の再開発事業によって大型商業施設が集積する1970年代後半までは京成電鉄の谷津遊園(現・谷津)・京成津田沼・京成大久保・実籾の各駅周辺に駅前商店街が形成される以外に目立った商業施設は無かった。その中で谷津遊園に続く谷津遊園駅南口と、大久保の陸軍施設(戦後は国立病院および大学)に続く京成大久保駅北口の商店街は早くから発展し、市内で最も賑わう繁華街であった。",
"title": "経済"
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"text": "1970年代後半、千葉県立千葉工業高等学校と習志野第一中学校といった駅周辺に大きな面積を占めていた学校施設の移転後に再開発事業の行われた津田沼駅周辺では、隣接する船橋市域に跨って長崎屋やパルコ、イトーヨーカドー、丸井(以上北口)、髙島屋、ダイエー(以上南口)などの大型店が相次いで進出し、新京成電鉄沿線の船橋市東部も含めた膨大な居住人口を背景に津田沼戦争と呼ばれる激しい競争が展開した。これらの大型店のうち長崎屋、高島屋は1980年代に、ダイエーが2005年(平成17年)末に、丸井が2007年(平成19年)に撤退しているが、2003年(平成15年)10月4日にイオン株式会社がイオン津田沼ショッピングセンター(現在のイオンモール津田沼)をオープン、2007年(平成19年)11月9日にファーストリテイリングがユニクロを核店舗としたミーナ津田沼を丸井撤退後の店舗にオープンさせ、更に2008年(平成20年)にはダイエー撤退後の津田沼サンペデックビルがモリシア津田沼と名称を変え(核店舗はイオンモリシア津田沼店であったが後々ダイエーモリシア津田沼店として再出店)、ヤマダデンキLABI津田沼店ほか多数テナントをオープンさせた。また、奏の杜地区の再開発が行われ、奏の杜フォルテなど大型店舗が新たにオープンしている。",
"title": "経済"
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"text": "2000年代に入って、造成の遅れていた京葉線新習志野駅南側に郊外型大型商業施設が進出した。これに対してかつては団地住民の日常の買い物で賑わった袖ヶ浦団地内のショッピングセンターは、苦戦を強いられながらも比較的健闘していたが秋津団地のショッピングセンターは撤退に至り、跡地はマンションやセブン-イレブンになった。",
"title": "経済"
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"text": "京田辺市(京都府)",
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"text": "郵便番号は以下が該当する。1集配局が集配を担当する。",
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"text": "医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。",
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"text": "※ 東邦大学習志野キャンパスは市境沿いの船橋市に所在。",
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"text": "認可外保育園",
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"text": "市役所の最寄り駅は京成津田沼駅である。なお、新京成線の習志野駅及び北習志野駅は、習志野市ではなく船橋市に所在する。",
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"text": "以下のバス事業者が市内で一般路線バスを運行している。路線の詳細は各記事を参照のこと。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "一部遺構や石碑が軍事史跡として残されている。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "上記以外の観光スポット。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事"
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"tag": "p",
"text": "千葉県指定および国登録文化財一覧。",
"title": "文化財"
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"tag": "p",
"text": "・バディコンプレックス 渡良瀬青葉の出身地 1話で登校風景が出てくる習志野市谷津と学生証に住所に表記されている",
"title": "習志野市を舞台・ロケ地とした作品"
}
] | 習志野市(ならしのし)は、千葉県の北西部に位置する市。 人口は約17.6万人で、千葉県内では八千代市に次いで第9位の人口規模である。旧千葉郡。1954年(昭和29年)市制施行。 | {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{日本の市
| 画像 = Narashino montage.jpg
| 画像の説明 = {{crlf2}}
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{{!)}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Narashino, Chiba.svg|border|100px|習志野市旗]]
| 市旗の説明 = 習志野[[市町村旗|市旗]]<br /><span style="font-size: smaller;">1975年11月13日制定</span>
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Narashino, Chiba.svg|70px|習志野市章]]
| 市章の説明 = 習志野[[市町村章|市章]]<br /><span style="font-size: smaller;">1955年8月1日制定</span>
| 自治体名 = 習志野市
| 都道府県 = 千葉県
| コード = 12216-5
| 隣接自治体 = [[千葉市]]、[[船橋市]]、[[八千代市]]
| 木 = [[アカシア]]
| 花 = [[アジサイ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 = 275-8601
| 所在地 = 習志野市鷺沼二丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[File:習志野市役所(2018年3月).jpg|250px|center]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|216|image=Narashino in Chiba Prefecture Ja.svg}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=point|marker=town-hall|text=市庁舎位置}}
| 特記事項 =
}}
'''習志野市'''(ならしのし)は、[[千葉県]]の北西部に位置する[[市]]。
[[人口]]は約17.6万人で、千葉県内では[[八千代市]]に次いで第9位の人口規模である。旧[[千葉郡]]。1954年(昭和29年)市制施行。
== 概要 ==
[[ファイル:TSUDANUMA-PARCO.gif|thumb|300x300px|[[津田沼]]の繁華街([[津田沼駅]]北口側)]]
[[明治|明治時代]]には[[軍都]]として栄え、[[津田沼駅]]周辺は[[津田沼#商業施設による競争の激化|津田沼戦争]]と称されるほど[[商業施設]]や[[学習塾]]の競争激化が相次ぐ[[関東]]有数の[[繁華街]]・[[文教都市]]となっている(ただし津田沼は船橋市にも属している地域も多い)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「津田沼戦争」「谷津遊園」…懐かしさと戦後教育の問題描く長編『みかづき』(インタビュー・記事/金井元貴)|url=https://www.sinkan.jp/news/7570|website=だれかに話したくなる本の話 - 新刊JP|accessdate=2019-04-01|language=ja|publisher=}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=住んでみたい街カタログ〜第1回 習志野市〜 {{!}} 京成不動産|url=https://www.keisei-land.co.jp/contents/code/machi_01narashino/link.html%22index.html%22|website=www.keisei-land.co.jp|accessdate=2019-05-20}}</ref>。[[人口密度]]は非常に高く、[[松戸市]]に次ぎ県内では4位であり、これは千葉市で一番人口密度が高い[[稲毛区]]や[[船橋市]]を上回る<ref>http://area-info.jpn.org/to21010006120006.html</ref>。
[[東京都]]の[[都心]]から約20-30キロメートル圏内に位置し、[[都市雇用圏]]における[[東京都市圏]]([[東京都区部]]・千葉市)の[[ベッドタウン]]としての性質が強く、[[高層マンション]]や[[住宅街]]が林立している。通勤率は、東京都特別区部へ32.7%・船橋市へ11.7%・千葉市へ10.5%(いずれも平成22年国勢調査)。
== 地理 ==
千葉県北西部に位置し、東は[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[千葉市]]、西は[[中核市|中核都市]]の[[船橋市]]、北は[[八千代市]]に接し、南は[[東京湾]]奥部の[[千葉港]]第5区に面している。[[幕張新都心]]拡大地区に一部含まれる。
[[関東平野]]に含まれ、[[下総台地]]の端に位置する。内陸部から海岸部にかけて高低差が大きい。東京湾沿いには広大な遠浅の海岸を埋め立てた[[住宅地]]や商工業地が広がるなか、1か所だけ埋め立てられずに残った[[ラムサール条約]]登録地[[谷津干潟]]があり、[[干潟]]を必要とする[[渡り鳥]]の重要な中継飛来地となっている。
=== 隣接している自治体・行政区 ===
* [[千葉市]]
** [[美浜区]]
** [[花見川区]]
* [[船橋市]]
* [[八千代市]]
; 旧津田沼町時代
* [[幕張町]](村) - 南部は現千葉市、北部は現習志野市
* [[二宮町 (千葉県)|二宮町]](村) - 現船橋市
* [[大和田町 (千葉県)|大和田町]](村) - 現八千代市
== 歴史 ==
=== 原始・古代・中世 ===
[[ファイル:鷺沼古墳群A号墳.jpg|thumb|鷺沼古墳群A号墳]]
[[千葉市]]の[[加曽利貝塚]]などにも見られるように千葉県の[[東京湾]]岸には多くの[[縄文時代]]の[[遺跡]]が存在する。習志野市周辺にも[[藤崎堀込貝塚]]などの当時の遺跡が多数確認されている。市内には[[鷺沼古墳群]]があり、鷺沼地区には有力な[[豪族]]がいたことが分かる。[[律令制]]下で[[下総国]]に属し、古[[東海道]]の浮嶋駅を習志野市内に比定する説もあるが詳しくは不明である。治承4年(1180年)、[[吾妻鏡]]には、[[石橋山の戦い]]に敗れ[[安房国]]に上陸した[[源頼朝]]が、軍勢を連れて北上して[[鎌倉]]に向かったときに陣を置いた館(やかた)の場所として、「鷺沼御旅館」の名前が見られる。現在、市役所がある鷺沼地区の八剱台や、[[八剣神社 (習志野市)|八剣神社]]周辺、また、[[暗渠]]となっている菊田川の左岸が[[下総台地]]に迫る位置の大堀込が、中世の武士の城館である[[鷺沼城|鷺沼城跡]]の候補地となっている。
=== 近世 ===
中世までは[[葛飾郡]]とされることもあったが、[[江戸時代]]初期に現市域内に分布した谷津、[[久々田]]、鷺沼、藤崎、実籾などの村々は[[千葉郡]]に属し、ほとんどが[[天領|幕府領]]または[[旗本]]領となっていた。また、大久保新田が[[関西]](おもに[[大阪府]][[羽曳野市]])からの移住者である市⻆頼母ら一族によって[[新田開発|開発]]された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には[[江戸幕府|幕府]]によって[[小金牧]]が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には[[東金御成街道]]が通り、藤崎の名はその地を通った[[徳川家康]]が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神[[コノハナノサクヤビメ|コノハナサク(咲)ヤヒメ]]の名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷台新田が馬加村(後に[[幕張]])の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「[[津田沼]]」と「[[習志野|習志野原]]」を構成するようになるのである。
[[東京湾]]沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷([[谷津田]])が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。
=== 明治 - 昭和 ===
[[ファイル:2nd railway regiment,Tsudanuma.jpg|thumb|鉄道連隊材料廠舎・鉄道第2連隊営舎|left]]
[[1888年]](明治21年)、町村制施行により、谷津、[[津田沼|久々田]]、鷺沼、藤崎、大久保新田(後の大久保)の5村が[[市町村合併|合併]]し、人口約4,500人の千葉郡津田沼村が誕生した。「津田沼」の名は、谷津の津、久々田の田、鷺沼の沼を合わせたものである。一方、実籾村は馬加村などと合併して[[幕張|幕張村]]となった。[[1895年]](明治28年)、前年開通した[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]に[[津田沼駅]]が開業。[[1903年]](明治36年)には津田沼村が[[町村制|町制]]を敷き、人口約6,000人の津田沼町となった。
[[1873年]](明治6年)、小金牧の[[大和田原]](現・千葉県船橋市習志野台から[[高根台]]周辺)で[[明治天皇]]御覧の下で[[陸軍]]による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。なお演習場の敷地はその後拡張され、現在の当市・[[八千代市]]の一部の広大なものとなった。※一説には[[篠原国幹]]少将による指揮に感銘し、そのときの天皇の発言(「篠原を見習え」>習え篠原>習志野原)がもととなったという。後に陸軍によって買収され[[習志野演習場]]となった。
[[習志野|陸軍習志野練兵場]]には[[日露戦争]]の時に[[捕虜]]の収容施設が作られ、[[ロシア]]の捕虜が、また、[[第一次世界大戦]]の時には、[[ドイツ]]や[[オーストリア|オーストリア=ハンガリー]]の捕虜が収容された。大久保には、第十三・十四・十五・十六の4つの[[騎兵]][[連隊]]と[[習志野陸軍病院|陸軍衛戍病院]](現在の[[千葉県済生会習志野病院]])がおかれ、[[騎兵第1旅団 (日本軍)|第1]]・[[騎兵第2旅団 (日本軍)|第2]]の2つの騎兵旅団が編成された。[[昭和]]に入り騎兵連隊が[[中国大陸]]へと侵出すると、後には[[陸軍習志野学校]]や戦車第2連隊が置かれるようになった。また、近隣の藤崎に騎砲兵第2連隊が、実籾には東西の高津廠舎と糧秣廠倉庫が置かれた。[[津田沼]]には[[鉄道連隊#鉄道第二連隊|鉄道第二連隊]]が置かれ、[[松戸市|松戸]]から津田沼までに演習で[[鉄道連隊演習線#習志野線|路線]]が引かれ、それが現在の[[新京成電鉄]]となった。
こうして津田沼町の一帯も含む広い地域が「[[軍郷]]」とよばれ、軍隊の街「習志野」が成立した。戦前には本町と[[二宮町 (千葉県)|二宮町]]、[[幕張町]]、[[犢橋村]]、[[大和田町 (千葉県)|大和田町]]、[[睦村]]、[[豊富村 (千葉県)|豊富村]]の千葉郡西部7町村を合併させる'''大習志野市'''建設構想も持ち上がったが、実現しなかった。近年では日本全国の日本陸軍軍用跡地で旧帝国陸軍地毒ガス埋設問題が浮上し、関連施設の安全性調査を実施している<ref>[https://web.archive.org/web/20070115000201/http://www.mod.go.jp/j/info/narasino/index.html 防衛省:習志野演習場に係る旧軍毒ガス弾等の環境調査について]</ref>(別項[[陸軍習志野学校]]、[[習志野演習場]]を参照)。
=== 太平洋戦争後 ===
[[ファイル:CIT-Tsudanuma-RearGate01.jpg|thumb|旧陸軍 鉄道第二連隊表門(登録有形文化財 第12-0007号)]]
津田沼町周辺は[[軍郷]]・習志野の一部として[[1901年]](明治34年)に設置された騎兵第1旅団(現[[日本大学]]・[[東邦大学]])、騎兵第2旅団(現[[東邦大学付属東邦中学校・高等学校]]など)をはじめ、津田沼駅前に[[鉄道連隊#鉄道第二連隊|鉄道第二連隊]](現[[千葉工業大学]])などの軍関係施設が点在していた。
戦後、軍施設は民用施設に転換され、住宅地となったり、教育施設、病院、工場として利用された。千葉工業大学津田沼キャンパスには、鉄道第二連隊の表門が残されている。北東部の「[[習志野原]]」と呼ばれる旧陸軍演習場の敷地の大部分は、[[外地]]からの引揚者などの手による開墾地となった。(「[[陸軍習志野学校#平林巌と習志野原の開拓|平林巌と習志野原の開拓]]」を参考)
[[日本の市町村の廃置分合|昭和の大合併]]では当初幕張・二宮両町との合併を目指すも、旧幕張は[[千葉市]]に編入された上に、習志野演習場の[[自衛隊]]施設に転用された部分を含む旧二宮も1953年(昭和28年)に[[船橋市]]に編入されてしまった。結果として[[1954年]](昭和29年)8月1日 津田沼町が'''習志野町'''に名称変更、同日[[千葉市]]の一部(旧[[幕張町]]北部)を編入合併、同日[[市制]]施行により'''習志野市'''が成立した(この部分、「[[習志野#習志野市の成立|習志野市の成立]]」を参照)。市制が布かれて以降、「[[津田沼]]」の地名は旧[[久々田]]村の地域を指す地名として残された。[[総武本線|総武線]]は乗客数増加に対応し東京-津田沼間で[[複々線]]化し、快速運転を開始するようになった。また、[[津田沼駅]]周辺に大型店舗が乱立するようになった。[[津田沼#商業施設による競争の激化|津田沼戦争]]を参照のこと)。
沖合いに広がる遠浅の海岸は、戦後、伝統的な[[潮干狩り]]に加えて[[海苔]]の[[養殖]]で繁栄したが、[[1960年代]]に[[千葉県企業庁]]がこれを埋め立て、[[日本住宅公団]]が[[袖ケ浦 (習志野市)|袖ヶ浦]][[団地]]を造成した。また、[[1970年代]]の第二次の埋め立てでは秋津、香澄の住宅公団の団地や分譲住宅地の他、芝園・茜浜などに工業地が作られ、[[東関東自動車道]]水戸線の建設の際には[[緑地]]が作られた。このとき旧大蔵省管轄の土地が池状に埋め立てられずに残された。[[東京湾]]と二本の水路でつながった[[干潟]]は[[谷津干潟]]と呼ばれ、船橋沖に広がる[[三番瀬]]と並ぶ[[野鳥]]の飛来地として保護され、[[ラムサール条約]]登録地となった。
[[東日本大震災]]の影響により市役所本庁舎の耐震強度が低下したことから、道路を挟んだ北側の場所に本庁舎を移転して建て替えすることになり、[[2012年]][[10月1日]]からは別棟の市民課を除き、本庁舎内の各課を市役所周辺の施設に移転させた上、習志野市津田沼五丁目([[京成津田沼駅]]前)の以前[[ホテル]]が入っていた建物も仮庁舎として使用した。新しい本庁舎は[[2017年]][[4月30日]]に竣工し、[[5月8日]]より新庁舎での業務を開始している<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201704/CK2017042602000192.html 習志野市の新庁舎完成 30日、竣工式と市民見学会] - [[東京新聞]]・2017年4月26日</ref>。
[[2020年]][[7月2日]]に隕石が落下した([[習志野隕石]])。
=== 沿革 ===
[[ファイル:narashinoshiyakusho.jpg|thumb|旧・習志野市役所(建て替え前)]]
[[町村制]]の施行以来、一度も他の市町村全域との廃置分合を行っていない。千葉県内では他に[[鎌ケ谷市]]、[[富里市]]、[[酒々井町]]がある。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 町村制の施行により谷津村、久々田村(現津田沼)、鷺沼村、藤崎村、大久保新田の区域を以って[[千葉郡]]'''津田沼村'''が発足。
* [[1903年]](明治36年)[[3月3日]]([[6月3日]]) - 町制を施行し'''津田沼町'''となる。
* [[1954年]](昭和29年)
** [[8月1日]] - 津田沼町が[[千葉市]]の一部(旧[[幕張町]]北部:実籾、愛宕、安生津、長作、天戸)を編入して改称、市制を施行し'''習志野市'''となる。
** [[8月28日]] - 一部の地域(旧幕張町北部:天戸、長作の字開有富、字享保の一部を除く大部分)を千葉市に編入。
** 大字久々田が改称して津田沼となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[9月30日]] - 船橋市習志野町の一部(現東習志野)を編入。
* [[1957年]](昭和32年)[[12月1日]] - 千葉市幕張町二丁目の一部(現花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
* [[1964年]](昭和39年) - 習志野市役所庁舎(旧庁舎)完成。
* [[1965年]](昭和40年)[[9月1日]] - 千葉市長作町の一部(現実籾)を編入。
* [[1966年]](昭和41年)[[12月27日]] - 公有水面埋立地(現袖ケ浦)を編入。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月1日]] - 東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。千葉市幕張町二丁目の一部(現花咲)を編入。
* [[1969年]](昭和44年)
** 3月1日 - 千葉市幕張町二丁目の一部(現屋敷、花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
** [[10月1日]] - 東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。
* [[1970年]](昭和45年)[[5月1日]] - 千葉市幕張町二丁目の一部(現屋敷、花咲)を編入。
* [[1971年]](昭和46年)5月1日 - 屋敷町の一部を千葉市に編入(現幕張町)。千葉市幕張町二丁目の一部(現花咲、本大久保、花咲)、長作町の一部(現実籾、実籾本郷)を編入。
* [[1977年]](昭和52年)[[12月15日]] - 公有水面埋立地(現香澄、秋津、茜浜、芝園)を編入。
* [[1980年]](昭和55年)[[8月5日]] - 公有水面埋立地(現芝園)を編入。
* [[1981年]](昭和56年)5月1日 - 谷津7丁目の一部を船橋市に編入(現[[前原 (船橋市)|前原西]])。
* [[1989年]](平成元年)[[2月17日]] - 公有水面埋立地(現香澄)を編入。
* [[1992年]](平成4年)[[3月3日]] - 公有水面埋立地(現袖ケ浦)を編入。現在の市域となる。
* [[1994年]](平成6年)7月31日 - 市制40周年を記念して、第1回市民まつり「[[習志野きらっと]]’94」が開催される。
* [[2017年]](平成29年)4月30日 - 新市庁舎(2代)が竣工。
* [[2020年]](令和2年) [[7月2日]] - 隕石が落下した([[習志野隕石]])。
* 2021年(令和3年)3月 - 新消防本部庁舎(3代)が竣工。
== 人口 ==
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.05%増の167,909人であり、増減率は千葉県下54市町村中8位、60行政区域中10位。{{人口統計|code=12216|name=習志野市|image=Population distribution of Narashino, Chiba, Japan.svg}}
== 町名 ==
習志野市では、ほとんどの区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。
{{hidden begin
| title = 習志野市役所管内(83町丁)
| titlestyle = background; text-align:center;
| border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!style="width:14%;|町名
!style="width:12%;|町名の読み
!style="width:12%;|町区域新設年月日
!style="width:12%;|住居表示実施年月日
!style="width:32%;|住居表示実施前の町名等
!style="width:18%;|備考
|-
|'''[[茜浜|茜浜一丁目]]'''
|rowspan="3"|あかねはま
|rowspan="3"|1977年4月1日
|rowspan="3"|1977年4月1日
|
|
|-
|'''[[茜浜|茜浜二丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[茜浜|茜浜三丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[秋津 (習志野市)|秋津一丁目]]'''
|rowspan="5"|あきつ
|rowspan="5"|1977年4月1日
|rowspan="5"|1977年4月1日
|
|
|-
|'''[[秋津 (習志野市)|秋津二丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[秋津 (習志野市)|秋津三丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[秋津 (習志野市)|秋津四丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[秋津 (習志野市)|秋津五丁目]]'''
|
|
|-
|'''[[泉町 (習志野市)|泉町一丁目]]'''
|rowspan="3"|いずみちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[泉町 (習志野市)|泉町二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[泉町 (習志野市)|泉町三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[大久保 (習志野市)|大久保一丁目]]'''
|rowspan="3"|おおくぼ
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[大久保 (習志野市)|大久保二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[大久保 (習志野市)|大久保三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄一丁目]]'''
|rowspan="6"|かすみ
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄四丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄五丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[香澄 (習志野市)|香澄六丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[奏の杜|奏の杜一丁目]]'''
|rowspan="3"|かなでのもり
|rowspan="3"|2013年2月1日
|rowspan="3"|2013年2月1日
|rowspan="3"|谷津一・六・七丁目の各一部
|
|-
|'''[[奏の杜|奏の杜二丁目]]'''
|
|-
|'''[[奏の杜|奏の杜三丁目]]'''
|
|-
|'''[[鷺沼台|鷺沼台一丁目]]'''
|rowspan="4"|さぎぬまだい
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼台|鷺沼台二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼台|鷺沼台三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼台|鷺沼台四丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼一丁目]]'''
|rowspan="5"|さぎぬま
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼四丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[鷺沼 (習志野市)|鷺沼五丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[芝園 (習志野市)|芝園一丁目]]'''
|rowspan="3"|しばぞの
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[芝園 (習志野市)|芝園二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[芝園 (習志野市)|芝園三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[新栄 (習志野市)|新栄一丁目]]'''
|rowspan="2"|しんえい
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[新栄 (習志野市)|新栄二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦一丁目]]'''
|rowspan="6"|そでがうら
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦三丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦四丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦五丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[袖ケ浦|袖ケ浦六丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[津田沼|津田沼一丁目]]'''
|rowspan="7"|つだぬま
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[津田沼|津田沼二丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[津田沼|津田沼三丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|
|-
|'''[[津田沼|津田沼四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[津田沼|津田沼五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[津田沼|津田沼六丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|
|-
|'''[[津田沼|津田沼七丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[花咲 (習志野市)|花咲一丁目]]'''
|rowspan="2"|はなさき
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[花咲 (習志野市)|花咲二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野一丁目]]'''
|rowspan="8"|ひがしならしの
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野三丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野六丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[東習志野|東習志野七丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[東習志野|東習志野八丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎一丁目]]'''
|rowspan="7"|ふじさき
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎三丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎六丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[藤崎 (習志野市)|藤崎七丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[実籾本郷]]'''
|みもみほんごう
|2001年2月1日
|2001年2月1日
|実籾町本郷、実籾町三丁目の一部
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|-
|'''[[実籾|実籾一丁目]]'''
|rowspan="6"|みもみ
|年月日
|rowspan="6"|2001年2月1日
|rowspan="6"|実籾町一〜四丁目<br />(三丁目は一部を除く)
|
|-
|'''[[実籾|実籾二丁目]]'''
|年月日
|
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|'''[[実籾|実籾三丁目]]'''
|年月日
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|'''[[実籾|実籾四丁目]]'''
|年月日
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|'''[[実籾|実籾五丁目]]'''
|年月日
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|'''[[実籾|実籾六丁目]]'''
|年月日
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|'''[[本大久保|本大久保一丁目]]'''
|rowspan="5"|もとおおくぼ
|年月日
|年月日
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|'''[[本大久保|本大久保二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[本大久保|本大久保三丁目]]'''
|年月日
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|'''[[本大久保|本大久保四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[本大久保|本大久保五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[屋敷 (習志野市)|屋敷一丁目]]'''
|rowspan="5"|やしき
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[屋敷 (習志野市)|屋敷二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[屋敷 (習志野市)|屋敷三丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[屋敷 (習志野市)|屋敷四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[屋敷 (習志野市)|屋敷五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[谷津町 (習志野市)|谷津町一丁目]]'''
|rowspan="2"|やつちょう
|年月日
|年月日
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|rowspan="2"|住居表示未実施
|-
|'''[[谷津町 (習志野市)|谷津町四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[谷津 (習志野市)|谷津一丁目]]'''
|rowspan="7"|やつ
|年月日
|年月日
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|一部の地域は分割し、奏の杜に変更
|-
|'''[[谷津 (習志野市)|谷津二丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[谷津 (習志野市)|谷津三丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[谷津 (習志野市)|谷津四丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|-
|'''[[谷津 (習志野市)|谷津五丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|'''[[谷津 (習志野市)|谷津六丁目]]'''
|年月日
|年月日
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|rowspan="2"|一部の地域は分割し、奏の杜に変更
|-
|'''[[谷津 (習志野市)|谷津七丁目]]'''
|年月日
|年月日
|
|-
|}
{{hidden end}}
== 行政 ==
=== 市長 ===
* 市長:[[宮本泰介]]([[2011年]](平成23年)[[4月27日]]就任、4期目)
; 歴代市長
* 初代 [[白鳥義三郎]]:[[1954年]](昭和29年)-[[1963年]](昭和38年)
* 2代 [[大塚軍記]]:[[1963年]](昭和38年)-[[1967年]](昭和42年)
* 3代 [[吉野孝 (政治家)|吉野孝]] :[[1967年]](昭和42年)-[[1983年]](昭和58年)
* 4代 [[三上文一]]:[[1983年]](昭和58年)4月-[[1991年]](平成3年)4月
* 5代 [[荒木勇]]:[[1991年]](平成3年)4月-[[2011年]](平成23年)4月
* 6代 宮本泰介:[[2011年]](平成23年)4月-(現職)
== 議会 ==
=== 習志野市議会 ===
{{main|習志野市議会}}
=== 千葉県議会 ===
; 2023年千葉県議会議員選挙
* 選挙区:習志野市選挙区
* 定数:2人
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:141,772人
* 投票率:41.31%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 鈴木均 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 59 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 元 || 20,328票
|-
| 伊藤寛 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 47 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 19,098票
|-
| 佐藤健二郎 || align="center" | 落 || align="center" | 47 || 自由民主党 || align="center" | 現 || 18,076票
|}
;2019年千葉県議会議員選挙
* 選挙区:習志野市選挙区
* 定数:2人
* 投票日:2019年4月7日
* 当日有権者数:139,472人
* 投票率:39.53%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 伊藤寛 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 43 || [[無所属]] || style="text-align:center" | 新 || 19,809票
|-
| 佐藤健二郎 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 43 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 18,305票
|-
| 鈴木均 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 55 || [[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 16,078票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[千葉県第2区|千葉2区]]([[千葉市]][[花見川区]]、習志野市、[[八千代市]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:465,009人
* 投票率:54.65%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[小林鷹之]] || align="center" | 46 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 153,017票 || align="center" | ○
|-
| || [[黒田雄]] || align="center" | 62 || 立憲民主党 || align="center" | 元 || align="right" | 69,583票 || align="center" | ○
|-
| || 寺尾賢 || align="center" | 45 || 日本共産党 || align="center" | 新 || align="right" | 24,052票 || align="center" | ○
|}
== 経済 ==
=== 産業 ===
; 農業
住宅化が進み、農地は減って来ているが、近郊農業は行われている。主な産物は[[ニンジン]]や[[ネギ]]などで、菊田川・浜田川上流域において水田が僅かに存在する。
; 工業
東習志野にいくつか大きな工場がある。[[千葉港]]から広がる[[京葉工業地域]]には、[[化学工業|重化学工業]]が発達している。
習志野市は当初、内陸部・東習志野の旧陸軍習志野演習場を解放した開拓地を、農地法による売買制限解除前に買い上げ、工業団地を造成して[[日立製作所]](現在の[[日立産機システム]])などの大工場を誘致した。沿岸部では第二次埋立の行われた1970年代に[[公害]]が大きな社会問題となったこともあって大工場の誘致は行わず、埋め立て完了後、茜浜に中小工場による工業団地を造成した。また、鷺沼で天然ガスの採掘が行われていたが、現在は休止中である。
; 商業
{{main|津田沼}}
[[ファイル:Morisia_Tsudanuma_004.jpg|サムネイル|モリシア津田沼]]
[[ファイル:Tsudanuma_Parco.jpg|サムネイル|津田沼パルコ]]
習志野の陸軍施設の玄関口として[[総武本線|総武線]][[津田沼駅]]北口には戦前から駅前[[商店街]]が形成されたが、それらの多くは[[船橋市]](旧二宮町)に属する。津田沼駅北口・南口の再開発事業によって大型商業施設が集積する1970年代後半までは[[京成電鉄]]の[[谷津駅|谷津遊園]](現・谷津)・[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成大久保駅|京成大久保]]・[[実籾駅|実籾]]の各駅周辺に駅前商店街が形成される以外に目立った商業施設は無かった。その中で[[谷津遊園]]に続く谷津遊園駅南口と、大久保の陸軍施設(戦後は国立病院および大学)に続く京成大久保駅北口の商店街は早くから発展し、市内で最も賑わう[[繁華街]]であった。
[[1970年代]]後半、[[千葉県立千葉工業高等学校]]と習志野第一中学校といった駅周辺に大きな面積を占めていた学校施設の移転後に再開発事業の行われた津田沼駅周辺では、隣接する船橋市域に跨って[[長崎屋]]や[[パルコ]]、[[イトーヨーカドー]]、[[丸井]](以上北口)、[[髙島屋]]、[[ダイエー]](以上南口)などの大型店が相次いで進出し、[[新京成電鉄]]沿線の船橋市東部も含めた膨大な居住人口を背景に[[津田沼#商業施設による競争の激化|津田沼戦争]]{{refnest|group="注"|特に昭和53年(1978年)を中心に新聞・雑誌に「津田沼戦争」「[[戦場にかける橋]]」(総武線上をかけただけでなく、当地にあった鉄道連隊もかけたと見られている) 、「津田沼も戦国時代」という見出しが現れた。<ref>東武百貨店著『グッドデパートメント東武百貨店30年の歩み』船橋東武小史・P.177「激戦地、船橋・津田沼」</ref>}}と呼ばれる激しい競争が展開した。これらの大型店のうち長崎屋、高島屋は1980年代に、ダイエーが[[2005年]](平成17年)末に、丸井が[[2007年]](平成19年)に撤退しているが、[[2003年]](平成15年)[[10月4日]]に[[イオン (企業)|イオン株式会社]]がイオン津田沼ショッピングセンター(現在の[[イオンモール津田沼]])をオープン、[[2007年]](平成19年)[[11月9日]]に[[ファーストリテイリング]]が[[ユニクロ]]を核店舗とした[[ミーナ (商業施設)#ミーナ津田沼(mina tsudanuma)|ミーナ津田沼]]を丸井撤退後の店舗にオープンさせ、更に[[2008年]](平成20年)にはダイエー撤退後の津田沼サンペデックビルが[[モリシア津田沼]]と名称を変え(核店舗は[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]モリシア津田沼店であったが後々ダイエーモリシア津田沼店として再出店)、[[ヤマダデンキ]]LABI津田沼店ほか多数テナントをオープンさせた。また、[[奏の杜]]地区の再開発が行われ、奏の杜フォルテなど大型店舗が新たにオープンしている。
[[2000年代]]に入って、造成の遅れていた[[京葉線]][[新習志野駅]]南側に郊外型大型商業施設が進出した。これに対してかつては団地住民の日常の買い物で賑わった袖ヶ浦団地内のショッピングセンターは、苦戦を強いられながらも比較的健闘していたが秋津団地のショッピングセンターは撤退に至り、跡地は[[マンション]]や[[セブン-イレブン]]になった。
; 主な商業施設
[[ファイル:AEON_Mall_Tsudanuma.jpg|サムネイル|イオンモール津田沼]]
[[ファイル:Mina_Tsudanuma.jpg|サムネイル|ミーナ津田沼]]
* [[イオンモール津田沼]]
* [[ミーナ (商業施設)|ミーナ津田沼]]
* 津田沼[[パルコ]](敷地一部が市内に跨る)
* [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 津田沼店
* [[モリシア津田沼]]
* [[Loharu津田沼]]
* 奏の杜フォルテ(forte)
* [[ペリエ (駅ビル)|ペリエ]]津田沼 (Perie)
* [[ユザワヤ]] 津田沼店
* [[ミスターマックス]] 新習志野店
* [[イオンタウン東習志野]]
; 主な宿泊施設
* [[東横イン]]津田沼
* [[ホテルメッツ]]津田沼
==== 本社・本店を構える企業 ====
* '''[[東証1部]]'''
** [[東洋エンジニアリング]]
* '''非上場'''
** [[アクセス (千葉県の企業)|アクセス]]
** [[京成自動車整備]]
** [[染谷家具店 (千葉県の企業)|染谷家具店]]
** [[大栄車輌]]
** [[大平洋機工]]
** [[大和商事]]
** [[ミヤコシ]]
== 姉妹都市・提携都市 ==
; 日本国内
{{flagicon|Japan}} [[京田辺市]]([[京都府]])
* [[2013年]](平成25年)、京都府京田辺市と[[災害時相互応援協定]]を締結した。
; 日本国外
* {{flagicon|USA}} [[タスカルーサ (アラバマ州)|タスカルーサ市]]([[アメリカ合衆国]][[アラバマ州]])
** [[1986年]][[4月26日]]タスカルーサ市長他24名の代表団を迎えて姉妹都市提携に関する協定書に調印した。なお、隣の千葉市にある[[千葉大学]]はタスカルーサ市内のアラバマ大学と姉妹校の関係にある。ホームステイなどの活動を行っている。
== 地域 ==
=== 地区 ===
; 住宅団地
* 香澄団地
* [[秋津 (習志野市)|秋津]]住宅公団海浜団地
* [[袖ケ浦 (習志野市)#袖ヶ浦団地|袖ヶ浦団地]]
* 谷津パークタウン
* 大久保団地(本大久保、賃貸224 [[1957年]](昭和32年))
* 谷津遊園ハイツ
* 海浜谷津団地
; 郵便局
{{div col}}
* [[習志野郵便局]](ゆうちょ銀行 習志野店)(05107)
* 習志野津田沼郵便局(05108)
* 習志野谷津郵便局(05347)
* 習志野大久保郵便局(05366)
* 習志野実籾郵便局(05370)
* 習志野袖ヶ浦郵便局(05403)
* 習志野藤崎郵便局(05411)
* 東習志野郵便局(05474)
* 習志野鷺沼台郵便局(05490)
* 津田沼南口郵便局(05549)
* 習志野秋津郵便局(05562)
* 習志野屋敷郵便局(05579)
* 習志野さぎ沼一郵便局(05596)
* 習志野大久保東郵便局(05696)
{{div col end}}
郵便番号は以下が該当する。1集配局が集配を担当する。
* [[習志野郵便局]]:「275-00xx」
=== 医療 ===
{{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=Chibaken Saiseikai Narashino Hospital.JPG|説明1=千葉県済生会習志野病院(災害拠点病院)|画像2=|説明2=|画像3=|説明3=|画像4=|説明4=|画像5=|説明5=|画像6=|説明6=|画像7=|説明7=|画像8=|説明8=|画像9=|説明9=}}
二次[[医療圏]](二次保健医療圏)としては東葛南部医療圏(管轄区域:葛南地域および鎌ヶ谷市)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
[[医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=千葉県保健医療計画(平成30年度〜平成35年度)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/30hokeniryou.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>。
* 一次医療圏(市内)
** 緊急指定病院
*** [[千葉県済生会習志野病院]]([[災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>)
*** 津田沼中央総合病院
*** 習志野第一病院
*** 谷津保健病院
** 東京湾岸リハビリテーション病院
** 三橋病院
* 二次医療圏
** [[東京女子医科大学八千代医療センター]]([[八千代市]]、災害拠点病院・[[救命救急センター]])
** [[船橋市立医療センター]]([[船橋市]]、災害拠点病院・救命救急センター)
** [[順天堂大学医学部附属浦安病院]]([[浦安市]]、災害拠点病院・救命救急センター)
** [[東京ベイ・浦安市川医療センター]](浦安市、災害拠点病院・救急基幹センター)
** [[東京歯科大学市川総合病院]]([[市川市]]、災害拠点病院)
=== 教育 ===
==== 大学 ====
[[ファイル:CIT20110828.jpg|サムネイル|千葉工業大学(新習志野キャンパス)]]
[[ファイル:Nihon_University_Tsudanuma_Campus_01.JPG|サムネイル|日本大学(津田沼キャンパス)]]
* [[千葉工業大学]](津田沼キャンパス本部・新習志野キャンパス)
** [[未来ロボット技術研究センター]]
** [[惑星探査研究センター]]
* [[日本大学生産工学部|日本大学]](津田沼キャンパス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cit.nihon-u.ac.jp/campus-life/location/tsudanuma_campus-map/ |title=津田沼キャンパスマップ |access-date=2022-11-01 |publisher=日本大学生産工学部}}</ref>・実籾キャンパス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cit.nihon-u.ac.jp/campus-life/location/mimomi_campus-map/ |title=実籾キャンパスマップ |access-date=2022-11-01 |publisher=日本大学生産工学部}}</ref>)
* 以下、過去に所在した大学関係施設
** [[巣鴨経済専門学校]](現在の[[千葉商科大学]]、[[1945年]] - [[1946年]])
** [[東洋高等学校 (旧制)]](現在の[[東洋学園大学]]、[[1947年]] - [[1950年]])
** [[順天堂大学]]習志野キャンパス(1947年 - [[1988年]])
** [[千葉大学]]腐敗研究所([[1949年]] - [[1987年]])
※ [[東邦大学]]習志野キャンパスは市境沿いの[[船橋市]]に所在。
==== 専門学校 ====
* [[学校法人大原学園|大原簿記公務員医療情報ビジネス専門学校]](津田沼校)
==== 高等学校 ====
[[ファイル:ShiritsuNarashino20121104.jpg|サムネイル|習志野市立習志野高等学校]]
* [[習志野市立習志野高等学校]]
* [[千葉県立津田沼高等学校]]
* [[千葉県立実籾高等学校]]
* [[東邦大学付属東邦中学校・高等学校|東邦大学付属東邦高等学校]]
==== 中学校 ====
{{Div col}}
* [[習志野市立第一中学校]]
* [[習志野市立第二中学校]]
* [[習志野市立第三中学校]]
* [[習志野市立第四中学校]]
* [[習志野市立第五中学校]]
* [[習志野市立第六中学校]]
* [[習志野市立第七中学校]]
* [[東邦大学付属東邦中学校]]{{Div col end}}
==== 小学校 ====
{{Div col}}
* [[習志野市立津田沼小学校]]
* [[習志野市立大久保小学校]]
* [[習志野市立谷津小学校]]
* [[習志野市立鷺沼小学校]]
* [[習志野市立実籾小学校]]
* [[習志野市立大久保東小学校]]
* [[習志野市立袖ケ浦西小学校]]
* [[習志野市立東習志野小学校]]
* [[習志野市立袖ケ浦東小学校]]
* [[習志野市立屋敷小学校]]
* [[習志野市立藤崎小学校]]
* [[習志野市立実花小学校]]
* [[習志野市立向山小学校]]
* [[習志野市立秋津小学校]]
* [[習志野市立香澄小学校]]
* [[習志野市立谷津南小学校]]{{Div col end}}
==== 幼稚園 ====
市立{{Div col}}
* 習志野市立東習志野こども園(2004年4月開設)
* 習志野市立杉の子こども園(2012年4月に開設)
* 習志野市立袖ケ浦こども園(2014年9月開設)
* 習志野市立つくし幼稚園
* 習志野市立谷津幼稚園
* 習志野市立津田沼幼稚園
* 習志野市立屋敷幼稚園
* 習志野市立藤崎幼稚園
* 習志野市立大久保東幼稚園
* 習志野市立向山幼稚園
* 習志野市立新栄幼稚園
* 習志野市立秋津幼稚園
* 習志野市立香澄幼稚園
* 習志野市立実花幼稚園
※ 統合
* 習志野市立袖ケ浦東幼稚園(袖ケ浦こども園に吸収合併)
* 習志野市立袖ケ浦西幼稚園(袖ケ浦こども園に吸収合併){{Div col end}}私立{{Div col}}
* 第一くるみ幼稚園
* 青葉幼稚園
* 習志野みのり幼稚園
* みもみ幼稚園
* ホーリネス幼稚園{{Div col end}}
認可外保育園
* やひろ学園
=== スポーツ ===
* [[阿武松部屋]] - [[日本相撲協会]]所属で[[二所ノ関一門]]の[[相撲部屋]]。
* [[オービックシーガルズ]] - [[Xリーグ]]に所属する[[アメリカンフットボール]]の社会人クラブチーム。
* [[住友金属スパークス]]
; スポーツ施設
* [[習志野市秋津球場]] - 2018年には[[第16回世界女子ソフトボール選手権]]が開催された。
* [[習志野市秋津サッカー場]]
* [[千葉県国際総合水泳場]] - 2007年には[[インターナショナル・スイム・ミート2007]]が開催された。
* オービック習志野グラウンド(茜浜) - 市内の教育イベントに参加するなど、地元密着の姿勢を打ち出している
; [[公営競技]]
* [[ボートピア習志野]]
* [[船橋競馬場]](一部施設が市内に跨る) - [[習志野きらっとスプリント]]は習志野の名を冠する[[重賞]]([[南関東公営競馬|南関東]][[競馬の競走格付け|SII]])競走
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
[[ファイル:JR Tsudanuma sta 009.jpg|サムネイル|津田沼駅(JR東日本)]]
[[ファイル:Tobu_Store_Tsudanuma.jpg|サムネイル|京成津田沼駅(京成電鉄・新京成電鉄)]]
* [[総武本線]]([[横須賀・総武快速線|総武快速線]]・[[中央・総武緩行線|総武緩行線]])
** [[津田沼駅]]
* [[京葉線]]
** [[新習志野駅]]
; [[京成電鉄]]
* [[京成本線]]
** [[谷津駅]] - [[京成津田沼駅]] - [[京成大久保駅]] - [[実籾駅]]
* [[京成千葉線]]
** 京成津田沼駅
; [[新京成電鉄]]
* [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]
** [[新津田沼駅]] - 京成津田沼駅
市役所の最寄り駅は京成津田沼駅である。なお、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]の[[習志野駅]]及び[[北習志野駅]]は、習志野市ではなく[[船橋市]]に所在する。
=== かつて存在した鉄道路線 ===
; [[京成電鉄|京成電気軌道]]
* [[京成谷津支線|谷津支線]](1934年6月22日廃止)
** [[谷津遊園地駅]]
=== バス ===
==== 路線バス ====
[[ファイル:QSG-HL2ASAP_keisei4533.jpg|thumb|京成バス(新都心営業所の車両)]]
以下のバス事業者が市内で一般[[路線バス]]を運行している。路線の詳細は各記事を参照のこと。
* [[京成バス]]
** [[京成バス新都心営業所]]
** [[京成バス新習志野高速営業所]]
* [[京成バスシステム]]
* [[ちばレインボーバス]]
* [[千葉シーサイドバス]]
* [[船橋新京成バス]]
* [[平和交通 (千葉県)]]
==== コミュニティバス ====
[[ファイル:Keiseibus_4473_narashino-happybus.jpg|thumb|習志野市ハッピーバス]]
* [[習志野市ハッピーバス]] - 京成バス新都心営業所が事業主体として運行。
* [[東習志野・実籾地域バス]](愛称「[[ナラシド♪バス]]」) - [[京成タクシー習志野]]が事業主体として運行。
==== 深夜急行バス ====
* [[平和交通 (千葉県)|平和交通]]
** [[銀座駅]]・[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]→[[津田沼駅]]南口
* [[ちばグリーンバス]]
** [[新橋駅]]・[[有楽町駅]]→[[津田沼駅|津田沼駅北口]]→[[京成佐倉駅]]・[[成田駅]]
==== 高速バス ====
* [[東京空港交通]]・[[京成バス]]
** [[津田沼駅]]南口 - [[京成津田沼駅]] - [[東京国際空港|羽田空港]]
* [[京成バス]]、[[富士急行#バス営業所・地域子会社|富士急行観光]]
** 津田沼駅南口 - 京成津田沼駅 - 富士急ハイランド
* 京成バス・[[奈良交通]]
** 津田沼駅南口 - 京成津田沼駅 - [[天理駅]] - [[近鉄奈良駅]] - [[奈良駅|JR奈良駅]] - [[近鉄郡山駅]] - [[王寺駅]] - [[五位堂駅]]
=== 道路 ===
; 高速道路
* [[京葉道路]]
** - [[花輪インターチェンジ|花輪IC]] - [[幕張インターチェンジ|幕張IC]] -
*: 幕張インターチェンジは千葉市、花輪インターチェンジは[[船橋市]]に一部またがる。千葉市の[[穴川インターチェンジ]]および[[武石インターチェンジ]]が近隣に位置する。
* [[東関東自動車道]]
** - [[谷津船橋インターチェンジ|谷津船橋IC]] - [[湾岸習志野インターチェンジ|湾岸習志野IC]] - [[習志野本線料金所]] -
*: 千葉市の[[湾岸千葉インターチェンジ]]および[[千葉北インターチェンジ]]が近隣に位置する。
; 国道
* [[国道14号]]
* [[国道357号]]
; 街道
* [[東金街道]](御成街道)
* [[千葉街道]]
=== 船舶 ===
; [[国際拠点港湾]]
* [[千葉港]](第5区、千葉北部地区)
** 習志野港
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
=== 名所・旧跡 ===
; 主な神社
[[ファイル:Kikutajinnjya1.jpg|サムネイル|菊田神社]]
* [[天津神社 (習志野市)|天津神社]](屋敷)
* [[大原大宮神社]](実籾)
* [[菊田神社]](津田沼)
* [[子安神社 (習志野市)|子安神社]](藤崎)
* [[誉田八幡神社 (習志野市)|誉田八幡神社]](大久保)
* [[根神社]](鷺沼)
* [[八剱神社 (習志野市)|八剣神社]](鷺沼)
* [[丹生神社 (習志野市)|丹生神社]](谷津)
; 主な寺院
[[ファイル:IMG_muruzi.JPG|サムネイル|西中山無量寺]]
* [[照光寺 (習志野市)|照光寺]]
* [[東漸寺 (習志野市)|東漸寺]]([[津田沼]])
* [[無量寺 (習志野市)|無量寺]](実籾)
* 東福寺(谷津)
* 西光寺(谷津)
* 慈眼寺(鷺沼)
* 正福寺(藤崎)
* 薬師寺(大久保)
; 主な旧跡
[[ファイル:MimomiHongo_Park,Tokita-house.JPG|サムネイル|旧鴇田家住宅]]
* [[旧鴇田家住宅]](実籾本郷公園にある[[千葉県指定文化財一覧|千葉県指定有形文化財]]の民家)
* [[旧大沢家住宅]](藤崎森林公園にある千葉県指定有形文化財の民家)
* 旧[[伊藤飛行機研究所]]滑走路跡
* [[鷺沼古墳群]]
* [[鷺沼城]]跡
* [[実籾城]]跡
* 藤崎堀込[[貝塚]]([[千葉県指定文化財一覧|千葉県指定史跡]])
* [[読売ジャイアンツ|巨人軍]]発祥の地の碑([[谷津バラ園]]の近く)
* [[ソーセージ]]製法伝来の地<ref>{{Cite web|和書|title=習志野市は「ソーセージ製法 伝承の地」 習志野 地域情報・コミュニティーサイト 『ならコミ』|url=http://naracomi.com/feature/103/|website=naracomi.com|accessdate=2019-08-05}}</ref>([[カール・ヤーン]]ら5名のソーセージ職人)
; 過去に存在した主な軍事施設
一部遺構や石碑が軍事史跡として残されている。
* [[陸軍習志野錬兵場]]の一部(大部分は二宮町に属していた)
* [[騎兵第1旅団 (日本軍)|騎兵第1旅団]](敷地の一部が二宮町に属していた、騎兵旅団の碑、騎兵第13・14連隊の碑)
* [[騎兵第2旅団 (日本軍)|騎兵第2旅団]]
* [[陸軍習志野学校]]
* [[鉄道連隊|鉄道第2連隊]](旧鉄道第2連隊正門として保存)
* 鉄道連隊材料工廠
* [[鉄道連隊演習線]]
* [[習志野俘虜収容所]](ドイツ捕虜オーケストラの碑)
* [[支那囲壁砲台]](一部現存、国の[[登録有形文化財]])
=== 観光スポット ===
上記以外の観光スポット。
[[ファイル:YatsuHigataNatureObservationCenter20110828.jpg|サムネイル|谷津干潟自然観察センター]]
[[ファイル:YatsuRoseGarden20110828.jpg|サムネイル|谷津バラ園]]
* [[谷津干潟]]
** 谷津干潟自然観察センター
* [[三番瀬]]
* [[谷津バラ園]]([[谷津遊園]]内にあったバラ園が市に移管されたもの)
* [[実籾本郷公園]]
* [[さくら広場]](幕張)
<gallery widths="200">
ファイル:谷津干潟 - panoramio (1).jpg|谷津干潟
ファイル:MimomiHongo Park02.JPG|実籾本郷公園
</gallery>
=== 祭事・催事 ===
* [[下総三山の七年祭り]](大原大宮神社、菊田神社)
* あんば様の祭り<ref>{{Cite web|和書|title=あんば様 習志野市ホームページ|url=http://www.city.narashino.lg.jp/citysales/kanko/maturi/anbasama.html|website=www.city.narashino.lg.jp|accessdate=2019-08-05}}</ref>(菊田神社)
* 剣の祭(八剣神社)
* 市民まつり「習志野きらっと」
== 文化財 ==
千葉県指定および国[[登録文化財]]一覧<ref>{{Cite web|和書|title=習志野市の県指定および国登録文化財|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/shitei/shichouson/narashino.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-21|language=ja|last=千葉県}}</ref>。
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!番号
!指定・登録
!類別
!名称
!所在地
!所有者または管理者
!指定年月日
!備考
|-
!1
| rowspan="5" |県指定
| rowspan="2" |有形文化財(建造物)
|旧大沢家住宅
|森林公園内
|習志野市
|昭和50年12月12日
|1棟
|-
!2
|旧鴇田家住宅
|実籾本郷公園内
|習志野市
|平成17年3月29日
|1棟
|-
!3
|有形文化財(歴史資料)
|小金原のしし狩り資料・色羽織1枚・村小旗2枚・稲葉神明社の絵馬1面
|習志野市鷺沼二丁目1-10
|個人・習志野市・神明社
|昭和42年3月7日
|3枚・1面
|-
!4
|無形民俗文化財
|下総三山の七年祭り
|習志野市津田沼・実籾町
|七年祭り保存會
|平成16年3月30日
|
|-
!5
|記念物(史跡)
|藤崎堀込貝塚
|習志野市藤崎一丁目
|習志野市他
|昭和42年3月7日
|
|-
!6
| rowspan="3" |国登録
| rowspan="3" |登録有形文化財(建造物)
|千葉工業大学通用門(旧鉄道第2連隊表門)
|習志野市津田沼二丁目17-1
|千葉工業大学
|平成10年9月2日
|1件
|-
!7
|旧陸軍演習場内圍壁
|習志野市東習志野四丁目
|個人
|平成14年2月14日
|1件
|-
!8
|廣瀬家住宅主屋他
|習志野市津田沼六丁目
|個人
|平成15年7月1日
|4件
|}
== 出身有名人 ==
{{columns-list|2|
* [[青木一平]]([[バレーボール]][[NECブルーロケッツ]]元選手)
* [[AKIRA (プロレスラー)|AKIRA(本名・野上彰)]](プロレスラー)
* [[有岡大貴]](アイドル、[[Hey! Say! JUMP]])
* [[井上貴朗]]([[日本のプロ野球|プロ野球]][[阪神タイガース]]・[[千葉ロッテマリーンズ]]元[[プロ野球選手|選手]])
<!--* [[大北浩士]](フリーライター・写真家)-->
* [[小川淳司]](プロ野球[[東京ヤクルトスワローズ]]元監督)
* [[田村藤夫]](プロ野球[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]・千葉ロッテマリーンズ・[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]元選手)
* [[北嶋秀朗]](サッカー[[柏レイソル]]・[[清水エスパルス]]・[[ロアッソ熊本]]元選手)
* [[栗本祐子]]([[フリーアナウンサー]])
* [[小林一枝 (洋画家)|小林一枝]]([[洋画家]]、[[山梨県]]を拠点に活動)
* [[斎藤恒雄]](元[[福岡放送]]アナウンサー)
* [[酒主義久]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー)
* [[白鳥伸雄]]([[競輪]]元選手・元賞金王)
* 白鳥充紀(元えちうら)
* [[鈴川絢子]](お笑い芸人・[[YouTuber]])
* [[鈴木大地]]([[日本水泳連盟]]会長、[[ソウルオリンピック]]100m背泳ぎ金メダリスト)
* [[砂川誠]](サッカー[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]元選手)
* [[だいにぐるーぷ]](YouTuberチーム)※メンバー全員、津田沼出身
* [[高田昌明]]([[サッカー]][[静岡FC]]選手兼監督)
* [[立石尚行]](プロ野球日本ハムファイターズ元選手)
* [[反田有沙]]([[モデル (職業)|モデル]])
* [[中村晃子]](俳優・歌手)<!--
* [[仲村浩二]]([[尚志学園尚志高等学校]]サッカー部監督) 出典不明-->
* 長柄琢磨(元[[えちうら]])
* [[西村ちなみ]](声優)
* [[野口寿浩]](プロ野球東京ヤクルトスワローズ・日本ハムファイターズ・阪神タイガース・[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]元選手)
* [[長谷部徹 (ドラマー)|長谷部徹]](スタジオ・ミュージシャン ドラマー 元[[T-SQUARE]]のメンバー)
* [[服部公太]](サッカー[[サンフレッチェ広島]]・[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]元選手)
* [[平沼定晴]](プロ野球:元[[中日ドラゴンズ]]、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ・オリオンズ]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]選手)
* [[福浦和也]](プロ野球千葉ロッテマリーンズ元選手)
* [[鳳凰馬五郎]]([[大相撲]]元[[大関]] 5代目[[年寄]][[宮城野 (年寄名跡)|宮城野]])
* [[松尾翠]](フジテレビアナウンサー)
* [[松下力]](将棋棋士)
* [[三角哲男]]([[競艇選手]]・[[スペシャルグレード|SG]][[住之江競艇場|住之江]][[グランドチャンピオン決定戦競走|第4回グラチャン]]優勝)
* [[宮本泰介]]([[政治家]]・千葉県習志野[[市町村長|市長]])
* [[村木藤志郎]](俳優・劇作家)
* [[森田彩華]]([[美少女クラブ31]])
* [[楠田亜衣奈]](声優)
}}
== 習志野市を舞台・ロケ地とした作品 ==
* 「[[BPS バトルプログラマーシラセ]]」
* 「[[ゴジラ×メカゴジラ]]」
* 「[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]」
*「[[みかづき (小説)|みかづき]]」([[森絵都]]の[[長編小説]])
* 「[[でじぱら]]」([[髙木信孝]]の漫画作品)
* 「[[ツマヌダ格闘街]] 」([[上山道郎]]の漫画作品)
*「[[きんいろモザイク]]」([[原悠衣]]の漫画作品、アニメ)
* 「キャッチボール×3」[[2010年]](平成22年)秋公開の映画
*「[[100年に1度の奥華子まつり!]]」[[2009年]](平成21年)[[津田沼]]公園広場にて行われた[[奥華子]]無料ライブイベント
* [[aiko]] -「[[あたしの向こう]]」[[2014年]](平成26年)[[京成本線]] 谷津1号踏切付近と[[谷津駅]]にてミュージックビデオのロケ地となった。
・バディコンプレックス 渡良瀬青葉の出身地 1話で登校風景が出てくる習志野市谷津と学生証に住所に表記されている
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{See also|Category:習志野市}}
* [[全国市町村一覧]]
* [[下総国]]([[令制国]])
* [[印旛県]]([[廃藩置県]])
* [[関東地方]]
* [[首都圏 (日本)]]
* [[関東大都市圏]]
* [[東京都市圏]]([[都市雇用圏]])
* [[習志野]](広域地名)
* [[幕張]](広域地名)
* [[津田沼]]
* [[幕張新都心]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}{{osm box|r|2679934}}
; 行政
* {{Official website}}
* {{Twitter|Narashino_EI}}
* {{YouTube|user=narashinocity}}
; 観光
* [https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/kanko/kanko/index.html ならしの観光]{{Geographic Location|Centre=習志野市|North=|Northeast=[[八千代市]]|East=[[千葉市]]:[[花見川区]]|Southeast=千葉市:[[美浜区]]|South=|Southwest=([[東京湾]])|West=|Northwest=[[船橋市]]|image=}}
{{習志野市の町名}}
{{千葉県の自治体}}
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[[Category:千葉県の市町村]]
[[Category:習志野市|*]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1954年設置の日本の市町村]] | 2003-03-03T09:43:22Z | 2023-12-25T17:48:03Z | false | false | false | [
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"Template:習志野市の町名",
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E5%BF%97%E9%87%8E%E5%B8%82 |
3,302 | 音楽・音響・録音技術 | 音楽・音響の録音技術はトーマス・エジソンが1877年に発明したフォノグラフに始まる。
ここでは記録技術(録音技術)について扱うが、記録メディア(録音媒体、レコード)や記録再生機器についても密接な関係があるため、特に歴史の記述においては適宜触れるものとしたい。 | [
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] | 音楽・音響の録音技術はトーマス・エジソンが1877年に発明したフォノグラフに始まる。 ここでは記録技術(録音技術)について扱うが、記録メディア(録音媒体、レコード)や記録再生機器についても密接な関係があるため、特に歴史の記述においては適宜触れるものとしたい。 | '''音楽・音響の録音技術'''は[[トーマス・エジソン]]が[[1877年]]に発明したフォノグラフに始まる。
ここでは記録技術(録音技術)について扱うが、記録[[メディア (媒体)|メディア]](録音媒体、[[レコード]])や記録再生機器についても密接な関係があるため、特に歴史の記述においては適宜触れるものとしたい。
==歴史と概観==
{{see also|録音#歴史}}
*前史:[[ピアノロール]]
*エジソンのフォノグラフ([[蓄音機]])の発明と円筒型レコードの登場
*ベルリナーの円盤型レコードの登場
*[[アコースティック録音]]の時代
*[[光学録音]]の発明
**映画のトーキー化
*[[電気録音]]の発明
**初期の磁気記録装置
**テープ(主として[[オープンリール]])
*[[レコード]]の普及と技術革新
**SPレコード
**LPレコード
*[[マルチトラックレコーダー]]の出現と[[多重録音]]
*再生チャンネルの拡大(モノラル→ステレオ→4chをはじめとするサラウンド再生)
*[[デジタル]]録音技術の登場(→[[パルス符号変調]])
*デジタルパッケージメディアの登場と普及
*コンピュータによる制作環境の統合
*音声データの圧縮技術(可逆、非可逆)
*インターネットによる音楽データの流通、ノンパッケージ販売
*録音技術と[[著作権]]
==録音手法、技術==
*[[ワンポイントマイク録音]]
*[[マルチマイク録音]]
*[[ダイレクトカッティング]]
*[[2トラック録音]](俗称 一発録り)
*[[マルチトラック録音]]
*[[マスタリング技術]](整音、管理データ編集)
==各種記録媒体==
*[[レコード]]
*[[コンパクトディスク]]
*[[DAT]]
*記録型光学ディスク([[CD-R]]など)
*[[DVD]]
*[[ハードディスクドライブ|HDD]]
*[[ソリッドステートドライブ|SSD]]
*[[半導体メモリ]]
==関連記事==
*[[録音再生機器]]
*[[音響技術者]]
*[[レコーディング・エンジニア]]
*[[マスタリング・エンジニア]]
{{DEFAULTSORT:おんかくおんきようろくおんきしゆつ}}
[[Category:音響工学]]
[[Category:録音]]
[[Category:情報技術史]] | null | 2020-09-14T08:55:37Z | false | false | false | [
"Template:See also"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%83%BB%E9%9F%B3%E9%9F%BF%E3%83%BB%E9%8C%B2%E9%9F%B3%E6%8A%80%E8%A1%93 |
3,303 | ダイヤモンドは砕けない | 『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』(ジョジョのきみょうなぼうけん パート4 ダイヤモンドはくだけない、JOJO'S BIZARRE ADVENTURE Part4 Diamond is Unbreakable)は、荒木飛呂彦の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart4(第4部)。スタンド(幽波紋)シリーズ・第2弾。サスペンス・ホラー漫画に分類されるが、シュール・コメディの要素が取り込まれている。単行本29巻 - 46巻(1992年 - 1995年)に収録。
『ダイヤモンドは砕けない』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第4部 東方仗助」。なお、文庫版で付けられた日本における英語表記は『Diamond is not Crash』だったが、これは英語としては誤った表現であるため、後に発売されたゲーム版や画集やアニメ、実写版(後述)では『Diamond is Unbreakable』へと変更された。
2015年10月24日には、テレビアニメ化が決定したことが報じられ、2016年4月から12月まで放送された。
2017年8月4日には、本作単体での実写映画版が劇場公開された。詳細は#実写映画を参照。
作者によると、本作のテーマの1つは「街を描く、街を創る」ということ。本来はPart3で『ジョジョ』を完結させて、次回作として隣の街にいそうな殺人鬼の話を新しく描く予定だったが、蜘蛛の巣を張って待ち構えているタイプのスタンドのアイデアが残っていたため、「街を舞台にして第4部をやろう」ということになった。
また作者自身が完結後に振り返ってみると、「第1部から第3部のひとつの流れから緩やかにつながって広がっていったのが第4部であり、第5部からはテーマ性が深化したため、初期の構想から考えると『ジョジョ』は第4部で終わっていたと言えるかもしれない」とも語られている。
読者や編集部から「第4部になって敵が弱くなった」という意見が多く寄せられたという。これに対して作者は「第4部は人の心の弱さがテーマ」「心に弱さをもった人が、その弱さを攻撃に向けることが真の怖さである」といった趣旨の反論をしている。インフレ前提の「DIOより強い敵が出てこないがどうなっているのか」という意見も寄せられたが、インフレを否定しその上で作ったラスボスが吉良吉影である。
本作の時代設定は連載当時からは未来に当たり、作者によると世紀末の不安と日常が描けるということで1999年という近い未来になった。「ウソの(架空の)犯罪や事件も作れるような」世界観にしたかったと言い、「死後の世界にしようかな」とも考えたが馴染みがないため止めたと語られている。
担当編集者インタビューで、4部は「読者の年齢層は高め」「日本人の主人公で舞台も日本という身近な設定でもあり読者アンケートの結果は良かった」と語られている。
空条承太郎がエジプトでDIOを撃破してから10年以上の月日が流れた、1999年。日本のM県S市の杜王町()に住む高校生の広瀬康一()の視点と語りで物語が語られる。海洋冒険家となった承太郎は祖父のジョセフ・ジョースターの遺産分配について調査した結果、彼の隠し子(承太郎にとっては年下の叔父)である高校生の東方仗助()が杜王町に住んでいることを知る。承太郎から父のことと、町に邪悪なスタンド使いが潜んでいることを聞かされた仗助は、邪悪なスタンド使いに殺害された母方の祖父の意思を継ぎ、町を守るために自らが戦うことを決意する。
何者かが杜王町で意図的にスタンド使いを増やしていることを知った仗助と承太郎は、スタンド能力を覚醒させる「弓と矢」を巡って激闘を繰り広げる。仗助たちは次々と立ちはだかるスタンド使い達との戦いの末に「弓と矢」の回収に成功するが、杜王町には「弓と矢」によって覚醒したスタンド使いが多数存在しており、数々の奇妙な事件を経て彼らと邂逅する。また、仗助は杜王町を訪れたジョセフと対面し、不器用ながらも親子の絆を深めていく。
康一と漫画家・岸辺露伴は15年前に起きた事件で死亡して幽霊となった少女の杉本鈴美と出会い、彼女を殺した殺人鬼が今もなお杜王町で快楽殺人を続けていることを知る。その後、仗助達が知り合ったスタンド使いの一人・矢安宮重清がひょんな事から殺人鬼と遭遇した末に犠牲にあったことで、殺人鬼もまたスタンド使いであることが判明する。調査の末に仗助たちは殺人鬼が吉良吉影()という人物だと知り、追い詰める。だが、吉良は他人のスタンド能力を利用して自分の顔と逃亡の際に遭遇した背格好の近い男・川尻浩作の顔を入れ替え、彼に成り済まして行方をくらませる。
川尻浩作の顔と生活を奪った吉良だったが、父の変化に不審感を抱いた小学生・川尻早人は独自に調査を始めた末、父に成り済ました吉良が殺人行為をした瞬間を目撃。同時に本物の父は殺されて今の父は殺人鬼が成り済ました偽者であるという事実を知る。早人の奮闘によって正体を暴かれた吉良は仗助と対決するも追いつめられ、最後は野次馬に包囲されて逃げ場を失ったところを救助に来た救急車に轢かれて死亡する。吉良の魂は生死の境界へたどり着き、待ち構えていた鈴美の策に敗れて現世から追放される。
役目を終えた鈴美は仗助たちに見送られながら現世を去り、「弓と矢」がもたらした一連の脅威も去ったことから、承太郎とジョセフも仗助に見送られてアメリカへの帰国の途に就く。ジョセフは、仗助ら杜王町の住人たちには悪に屈さない正義の心「黄金の精神」が宿っており、その精神は連綿と引き継がれていくことを確信する。康一は、1999年の夏はほとんどの人々にとってはいつもと同じようにすぎていったと語り、第4部は閉幕する。
スタンドのパラメーターは『JOJO A-GO!GO!』より。
担当声優はASB版・EOH版 / テレビアニメ版の順に表記。1人しか記載がない場合はテレビアニメ版のものとする。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。
演の項は特記の無い限り、実写映画版における俳優。
『岸辺露伴は動かない』 - 登場人物の一人である岸辺露伴を中心として展開するスピンオフ作品。『週刊少年ジャンプ』1997年30号にて第1作『懺悔室』が発表され、その後、不定期に新作が発表されており、一部のエピソードは2017年以降にOVA化や実写ドラマ化がされている。時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種のパラレルワールド的なエピソードも存在する。なお、Part4の主人公東方仗助は一貫して後ろ姿のみの登場となっており、セリフも一切ない。これは「ひとつの作品に主役はふたり並び立てない」という原作者である荒木の考えからであることが、OVA版監督の加藤敏幸によって明かされている。
『ジョジョの奇妙な冒険 クレイジー・Dの悪霊的失恋』(原作:上遠野浩平、漫画:カラスマタスク) - 『ウルトラジャンプ』2022年1月号より連載が開始されたスピンオフ作品。時系列は原作Part4の前日談に当たり、東方仗助が空条承太郎と出会う前、まだ仗助のスタンドが「クレイジー・ダイヤモンド」と名付けられる以前に杜王町で起きた事件を描く。また、Part4の前日談だけでなく、Part3の登場人物や、登場人物の親族も登場しており、Part3の後日談的な内容にもなっている。原作者である荒木飛呂彦は『Original Concept』という形で作品に関わるため、原作者が執筆しないジョジョの奇妙な冒険のスピンオフ漫画作品はこれが初になる。
『“The Book” Jojo's Bizarre Adventure 4th Another Day』(著:乙一。2007年。ジャンプ j-BOOKS) - 時系列は原作Part4の後日談に当たり、杜王町の住人である新たな人物や広瀬康一などを語り部として、杜王町で起こったもう一つの事件を描くノベライズ作品。キャッチコピーは「ジョジョの奇妙な冒険20周年乙一×JOJO」「本の存在により、仗助は死ぬ」。
『岸辺露伴は叫ばない 短編小説集』(著:維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上亮。2017年 - 2018年。ジャンプ j-BOOKS) - 『岸辺露伴は動かない』を原作とするノベライズ作品のスピンオフ集。『ウルトラジャンプ』2017年8月号および9月号、2018年1月号にて作品が発表され、後にこれらのエピソードを集めた作品集として『岸辺露伴は叫ばない』『岸辺露伴は戯れない』の2巻が発行されている。『岸辺露伴は動かない』同様に、時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種のパラレルワールド的なエピソードも存在する。
他に『テュルプ博士の解剖学講義』がある。『The Book』の前に冒頭部のみが書かれた作品であり、未完・単行本未収録、荒木飛呂彦が挿絵を描き下ろしている。2002年の『読むジャンプ』に掲載された。書き直して別物になった完成作が『The Book』である。
『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』のタイトルで、2016年4月から12月まで全39話で放送された。
アニメ化での主な変更点は、エピソードの時系列が「山岸由花子はシンデレラに憧れる」→「吉良吉影は静かに暮らしたい」の順に入れ替わっているほか、「鉄塔に住もう」「エニグマの少年」「ぼくのパパはパパじゃない」「チープ・トリック」の4つのエピソードをまとめて「7月15日(木)」とし、ストーリーを時系列順に進行させている。
『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』(ジョジョのきみょうなぼうけん ダイヤモンドはくだけない だいいっしょう)のタイトルで、2017年8月4日に公開。監督は三池崇史、主演は山﨑賢人。東宝とワーナー ブラザース ジャパンによる初の共同製作・配給作品である。
2016年9月28日に制作発表記者会見が行われ、監督の三池や主演の山﨑ら主要俳優陣が登壇した。
プロデューサーの平野隆によれば、タイトルに「第一章」と冠している理由は原作の第4部の長さが2時間の尺では収まらないことを挙げ、第一章は1本で楽しめるようにしたいが、客の応援次第で第4部をすべてやっていきたいからだそうである。実写化の構想は10年ほど前から抱いており、日本が舞台ということから第4部を選んで5年以上前から企画を始動させ、荒木を口説き落として実写化にこぎつけた。荒木は、撮影現場で組まれているセットなどのイメージボードも確認しているという。スペインのシッチェスをロケ地に選んだ理由は、原作に登場する大きな館などの西洋風味の部分を取り入れるためと、劇中のキャラクターたちの「なじみやすさ」を考慮してのことだそうである。また、監督の三池によれば、荒木の思い出の街が増幅してできた杜王町をリアルのものにすべく、昔ながらの不良学生が馴染む風景を探してシッチェスにたどり着いたという。
国内映画ランキング初登場5位。土日2日間で動員11万7000人、興行1億6600万円の成績となった。
2018年3月23日発売。発売元はTBS、販売元はTCエンタテインメント。 | [
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"text": "作者によると、本作のテーマの1つは「街を描く、街を創る」ということ。本来はPart3で『ジョジョ』を完結させて、次回作として隣の街にいそうな殺人鬼の話を新しく描く予定だったが、蜘蛛の巣を張って待ち構えているタイプのスタンドのアイデアが残っていたため、「街を舞台にして第4部をやろう」ということになった。",
"title": "制作背景"
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"text": "また作者自身が完結後に振り返ってみると、「第1部から第3部のひとつの流れから緩やかにつながって広がっていったのが第4部であり、第5部からはテーマ性が深化したため、初期の構想から考えると『ジョジョ』は第4部で終わっていたと言えるかもしれない」とも語られている。",
"title": "制作背景"
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"text": "読者や編集部から「第4部になって敵が弱くなった」という意見が多く寄せられたという。これに対して作者は「第4部は人の心の弱さがテーマ」「心に弱さをもった人が、その弱さを攻撃に向けることが真の怖さである」といった趣旨の反論をしている。インフレ前提の「DIOより強い敵が出てこないがどうなっているのか」という意見も寄せられたが、インフレを否定しその上で作ったラスボスが吉良吉影である。",
"title": "制作背景"
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"text": "本作の時代設定は連載当時からは未来に当たり、作者によると世紀末の不安と日常が描けるということで1999年という近い未来になった。「ウソの(架空の)犯罪や事件も作れるような」世界観にしたかったと言い、「死後の世界にしようかな」とも考えたが馴染みがないため止めたと語られている。",
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"text": "担当編集者インタビューで、4部は「読者の年齢層は高め」「日本人の主人公で舞台も日本という身近な設定でもあり読者アンケートの結果は良かった」と語られている。",
"title": "制作背景"
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"text": "空条承太郎がエジプトでDIOを撃破してから10年以上の月日が流れた、1999年。日本のM県S市の杜王町()に住む高校生の広瀬康一()の視点と語りで物語が語られる。海洋冒険家となった承太郎は祖父のジョセフ・ジョースターの遺産分配について調査した結果、彼の隠し子(承太郎にとっては年下の叔父)である高校生の東方仗助()が杜王町に住んでいることを知る。承太郎から父のことと、町に邪悪なスタンド使いが潜んでいることを聞かされた仗助は、邪悪なスタンド使いに殺害された母方の祖父の意思を継ぎ、町を守るために自らが戦うことを決意する。",
"title": "あらすじ"
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"text": "何者かが杜王町で意図的にスタンド使いを増やしていることを知った仗助と承太郎は、スタンド能力を覚醒させる「弓と矢」を巡って激闘を繰り広げる。仗助たちは次々と立ちはだかるスタンド使い達との戦いの末に「弓と矢」の回収に成功するが、杜王町には「弓と矢」によって覚醒したスタンド使いが多数存在しており、数々の奇妙な事件を経て彼らと邂逅する。また、仗助は杜王町を訪れたジョセフと対面し、不器用ながらも親子の絆を深めていく。",
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"text": "康一と漫画家・岸辺露伴は15年前に起きた事件で死亡して幽霊となった少女の杉本鈴美と出会い、彼女を殺した殺人鬼が今もなお杜王町で快楽殺人を続けていることを知る。その後、仗助達が知り合ったスタンド使いの一人・矢安宮重清がひょんな事から殺人鬼と遭遇した末に犠牲にあったことで、殺人鬼もまたスタンド使いであることが判明する。調査の末に仗助たちは殺人鬼が吉良吉影()という人物だと知り、追い詰める。だが、吉良は他人のスタンド能力を利用して自分の顔と逃亡の際に遭遇した背格好の近い男・川尻浩作の顔を入れ替え、彼に成り済まして行方をくらませる。",
"title": "あらすじ"
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"text": "川尻浩作の顔と生活を奪った吉良だったが、父の変化に不審感を抱いた小学生・川尻早人は独自に調査を始めた末、父に成り済ました吉良が殺人行為をした瞬間を目撃。同時に本物の父は殺されて今の父は殺人鬼が成り済ました偽者であるという事実を知る。早人の奮闘によって正体を暴かれた吉良は仗助と対決するも追いつめられ、最後は野次馬に包囲されて逃げ場を失ったところを救助に来た救急車に轢かれて死亡する。吉良の魂は生死の境界へたどり着き、待ち構えていた鈴美の策に敗れて現世から追放される。",
"title": "あらすじ"
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"text": "役目を終えた鈴美は仗助たちに見送られながら現世を去り、「弓と矢」がもたらした一連の脅威も去ったことから、承太郎とジョセフも仗助に見送られてアメリカへの帰国の途に就く。ジョセフは、仗助ら杜王町の住人たちには悪に屈さない正義の心「黄金の精神」が宿っており、その精神は連綿と引き継がれていくことを確信する。康一は、1999年の夏はほとんどの人々にとってはいつもと同じようにすぎていったと語り、第4部は閉幕する。",
"title": "あらすじ"
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"text": "スタンドのパラメーターは『JOJO A-GO!GO!』より。",
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"text": "担当声優はASB版・EOH版 / テレビアニメ版の順に表記。1人しか記載がない場合はテレビアニメ版のものとする。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。",
"title": "登場人物"
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"text": "演の項は特記の無い限り、実写映画版における俳優。",
"title": "登場人物"
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"text": "『岸辺露伴は動かない』 - 登場人物の一人である岸辺露伴を中心として展開するスピンオフ作品。『週刊少年ジャンプ』1997年30号にて第1作『懺悔室』が発表され、その後、不定期に新作が発表されており、一部のエピソードは2017年以降にOVA化や実写ドラマ化がされている。時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種のパラレルワールド的なエピソードも存在する。なお、Part4の主人公東方仗助は一貫して後ろ姿のみの登場となっており、セリフも一切ない。これは「ひとつの作品に主役はふたり並び立てない」という原作者である荒木の考えからであることが、OVA版監督の加藤敏幸によって明かされている。",
"title": "書誌情報"
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"text": "『ジョジョの奇妙な冒険 クレイジー・Dの悪霊的失恋』(原作:上遠野浩平、漫画:カラスマタスク) - 『ウルトラジャンプ』2022年1月号より連載が開始されたスピンオフ作品。時系列は原作Part4の前日談に当たり、東方仗助が空条承太郎と出会う前、まだ仗助のスタンドが「クレイジー・ダイヤモンド」と名付けられる以前に杜王町で起きた事件を描く。また、Part4の前日談だけでなく、Part3の登場人物や、登場人物の親族も登場しており、Part3の後日談的な内容にもなっている。原作者である荒木飛呂彦は『Original Concept』という形で作品に関わるため、原作者が執筆しないジョジョの奇妙な冒険のスピンオフ漫画作品はこれが初になる。",
"title": "書誌情報"
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"text": "『“The Book” Jojo's Bizarre Adventure 4th Another Day』(著:乙一。2007年。ジャンプ j-BOOKS) - 時系列は原作Part4の後日談に当たり、杜王町の住人である新たな人物や広瀬康一などを語り部として、杜王町で起こったもう一つの事件を描くノベライズ作品。キャッチコピーは「ジョジョの奇妙な冒険20周年乙一×JOJO」「本の存在により、仗助は死ぬ」。",
"title": "書誌情報"
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"text": "『岸辺露伴は叫ばない 短編小説集』(著:維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上亮。2017年 - 2018年。ジャンプ j-BOOKS) - 『岸辺露伴は動かない』を原作とするノベライズ作品のスピンオフ集。『ウルトラジャンプ』2017年8月号および9月号、2018年1月号にて作品が発表され、後にこれらのエピソードを集めた作品集として『岸辺露伴は叫ばない』『岸辺露伴は戯れない』の2巻が発行されている。『岸辺露伴は動かない』同様に、時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種のパラレルワールド的なエピソードも存在する。",
"title": "書誌情報"
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"text": "他に『テュルプ博士の解剖学講義』がある。『The Book』の前に冒頭部のみが書かれた作品であり、未完・単行本未収録、荒木飛呂彦が挿絵を描き下ろしている。2002年の『読むジャンプ』に掲載された。書き直して別物になった完成作が『The Book』である。",
"title": "書誌情報"
},
{
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"text": "『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』のタイトルで、2016年4月から12月まで全39話で放送された。",
"title": "テレビアニメ"
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"text": "アニメ化での主な変更点は、エピソードの時系列が「山岸由花子はシンデレラに憧れる」→「吉良吉影は静かに暮らしたい」の順に入れ替わっているほか、「鉄塔に住もう」「エニグマの少年」「ぼくのパパはパパじゃない」「チープ・トリック」の4つのエピソードをまとめて「7月15日(木)」とし、ストーリーを時系列順に進行させている。",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』(ジョジョのきみょうなぼうけん ダイヤモンドはくだけない だいいっしょう)のタイトルで、2017年8月4日に公開。監督は三池崇史、主演は山﨑賢人。東宝とワーナー ブラザース ジャパンによる初の共同製作・配給作品である。",
"title": "実写映画"
},
{
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"text": "2016年9月28日に制作発表記者会見が行われ、監督の三池や主演の山﨑ら主要俳優陣が登壇した。",
"title": "実写映画"
},
{
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"text": "プロデューサーの平野隆によれば、タイトルに「第一章」と冠している理由は原作の第4部の長さが2時間の尺では収まらないことを挙げ、第一章は1本で楽しめるようにしたいが、客の応援次第で第4部をすべてやっていきたいからだそうである。実写化の構想は10年ほど前から抱いており、日本が舞台ということから第4部を選んで5年以上前から企画を始動させ、荒木を口説き落として実写化にこぎつけた。荒木は、撮影現場で組まれているセットなどのイメージボードも確認しているという。スペインのシッチェスをロケ地に選んだ理由は、原作に登場する大きな館などの西洋風味の部分を取り入れるためと、劇中のキャラクターたちの「なじみやすさ」を考慮してのことだそうである。また、監督の三池によれば、荒木の思い出の街が増幅してできた杜王町をリアルのものにすべく、昔ながらの不良学生が馴染む風景を探してシッチェスにたどり着いたという。",
"title": "実写映画"
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"text": "国内映画ランキング初登場5位。土日2日間で動員11万7000人、興行1億6600万円の成績となった。",
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{
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"text": "2018年3月23日発売。発売元はTBS、販売元はTCエンタテインメント。",
"title": "実写映画"
}
] | 『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』は、荒木飛呂彦の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart4(第4部)。スタンド(幽波紋)シリーズ・第2弾。サスペンス・ホラー漫画に分類されるが、シュール・コメディの要素が取り込まれている。単行本29巻 - 46巻に収録。 『ダイヤモンドは砕けない』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第4部 東方仗助」。なお、文庫版で付けられた日本における英語表記は『Diamond is not Crash』だったが、これは英語としては誤った表現であるため、後に発売されたゲーム版や画集やアニメ、実写版(後述)では『Diamond is Unbreakable』へと変更された。 2015年10月24日には、テレビアニメ化が決定したことが報じられ、2016年4月から12月まで放送された。 2017年8月4日には、本作単体での実写映画版が劇場公開された。詳細は#実写映画を参照。 | {{Pathnav|ジョジョの奇妙な冒険|frame=1}}
{{Redirect|ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない|テレビアニメ|ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)}}
{{Infobox animanga/Header
| タイトル= ダイヤモンドは砕けない
| ジャンル= サスペンス・ホラー<br />シュール・コメディ
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル= ジョジョの奇妙な冒険 Part4<br />ダイヤモンドは砕けない
| 作者= [[荒木飛呂彦]]
| 出版社= [[集英社]]
| 掲載誌= [[週刊少年ジャンプ]]
| レーベル= [[ジャンプ・コミックス]]
| 開始= 1992年20号
| 終了= 1995年51号
| 巻数= 全18巻(29 - 46巻)
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}}
{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]
| ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]
}}
『'''ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない'''』(ジョジョのきみょうなぼうけん パート4 ダイヤモンドはくだけない、''JOJO'S BIZARRE ADVENTURE Part4 Diamond is Unbreakable'')は、[[荒木飛呂彦]]の[[漫画]]作品『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』のPart4(第4部)。[[スタンド (ジョジョの奇妙な冒険)|スタンド]](幽波紋)シリーズ・第2弾。[[サスペンス]]・[[ホラー漫画]]に分類されるが、[[シュール]]・[[コメディ]]の要素が取り込まれている。単行本29巻 - 46巻(1992年 - 1995年)に収録。
『ダイヤモンドは砕けない』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「'''第4部 東方仗助'''」。なお、文庫版で付けられた日本における英語表記は『'''Diamond is not Crash'''』だったが、これは英語としては誤った表現であるため、後に発売されたゲーム版や画集やアニメ、実写版(後述)では『'''Diamond is Unbreakable'''』へと変更された。
2015年10月24日には、[[テレビアニメ]]化が決定したことが報じられ<ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://mantan-web.jp/article/20151024dog00m200025000c.html|title=ジョジョの奇妙な冒険:第4部「ダイヤモンドは砕けない」がテレビアニメ化|accessdate=2015-10-24}}</ref>、2016年4月から12月まで放送された。
2017年8月4日には、本作単体での実写映画版が劇場公開された。詳細は[[#実写映画]]を参照。
== 制作背景 ==
作者によると、本作のテーマの1つは「街を描く、街を創る」ということ<ref name="sekai" />。本来はPart3で『ジョジョ』を完結させて、次回作として隣の街にいそうな殺人鬼の話を新しく描く予定だったが、蜘蛛の巣を張って待ち構えているタイプのスタンドのアイデアが残っていたため、「街を舞台にして第4部をやろう」ということになった<ref name="gogo" />。
また作者自身が完結後に振り返ってみると、「第1部から第3部のひとつの流れから緩やかにつながって広がっていったのが第4部であり、第5部からはテーマ性が深化したため、初期の構想から考えると『ジョジョ』は第4部で終わっていたと言えるかもしれない」とも語られている<ref name="menon" />。
読者や[[週刊少年ジャンプ編集部|編集部]]から「第4部になって敵が弱くなった」という意見が多く寄せられたという。これに対して作者は「第4部は人の心の弱さがテーマ」「心に弱さをもった人が、その弱さを攻撃に向けることが真の怖さである」といった趣旨の反論をしている<ref>単行本第46巻のカバー折り返しより。</ref>。インフレ前提の「[[ディオ・ブランドー|DIO]]より強い敵が出てこないがどうなっているのか」という意見も寄せられたが、インフレを否定しその上で作ったラスボスが[[吉良吉影]]である<ref>『JOJOVELLER3-HISTORY』59-60ページ。</ref>。
本作の時代設定は連載当時からは未来に当たり、作者によると世紀末の不安と日常が描けるということで1999年という近い未来になった。「ウソの(架空の)犯罪や事件も作れるような」世界観にしたかったと言い、「死後の世界にしようかな」とも考えたが馴染みがないため止めたと語られている<ref name="sekai" />。
担当編集者インタビューで、4部は「読者の年齢層は高め」「日本人の主人公で舞台も日本という身近な設定でもあり読者アンケートの結果は良かった」と語られている<ref>『JOJOVELLER3-HISTORY』54、62ページ。</ref>。
== あらすじ ==
'''[[空条承太郎]]'''が[[エジプト]]で'''[[ディオ・ブランドー|DIO]]'''を撃破してから10年以上の月日が流れた、1999年。[[日本]]のM県S市の{{読み仮名|'''杜王町'''|もりおうちょう}}に住む高校生の{{読み仮名|'''広瀬康一'''|ひろせ こういち}}の視点と語りで物語が語られる。海洋冒険家となった承太郎は祖父の'''[[ジョセフ・ジョースター]]'''の遺産分配について調査した結果、彼の隠し子(承太郎にとっては年下の叔父)である高校生の{{読み仮名|'''[[東方仗助]]'''|ひがしかた じょうすけ}}が杜王町に住んでいることを知る。承太郎から父のことと、町に邪悪なスタンド使いが潜んでいることを聞かされた仗助は、邪悪なスタンド使いに殺害された[[母方]]の祖父の意思を継ぎ、町を守るために自らが戦うことを決意する。
何者かが杜王町で意図的にスタンド使いを増やしていることを知った仗助と承太郎は、スタンド能力を覚醒させる'''「弓と矢」'''を巡って激闘を繰り広げる。仗助たちは次々と立ちはだかるスタンド使い達との戦いの末に「弓と矢」の回収に成功するが、杜王町には「弓と矢」によって覚醒したスタンド使いが多数存在しており、数々の奇妙な事件を経て彼らと邂逅する。また、仗助は杜王町を訪れたジョセフと対面し、不器用ながらも親子の絆を深めていく。
康一と漫画家・'''[[岸辺露伴]]'''は15年前に起きた事件で死亡して幽霊となった少女の'''杉本鈴美'''と出会い、彼女を殺した殺人鬼が今もなお杜王町で快楽殺人を続けていることを知る。その後、仗助達が知り合ったスタンド使いの一人・矢安宮重清がひょんな事から殺人鬼と遭遇した末に犠牲にあったことで、殺人鬼もまたスタンド使いであることが判明する。調査の末に仗助たちは殺人鬼が{{読み仮名|'''[[吉良吉影]]'''|きら よしかげ}}という人物だと知り、追い詰める。だが、吉良は他人のスタンド能力を利用して自分の顔と逃亡の際に遭遇した背格好の近い男・川尻浩作の顔を入れ替え、彼に成り済まして行方をくらませる。
川尻浩作の顔と生活を奪った吉良だったが、父の変化に不審感を抱いた小学生・'''川尻早人'''は独自に調査を始めた末、父に成り済ました吉良が殺人行為をした瞬間を目撃。同時に本物の父は殺されて今の父は殺人鬼が成り済ました偽者であるという事実を知る。早人の奮闘によって正体を暴かれた吉良は仗助と対決するも追いつめられ、最後は野次馬に包囲されて逃げ場を失ったところを救助に来た救急車に轢かれて死亡する。吉良の魂は生死の境界へたどり着き、待ち構えていた鈴美の策に敗れて現世から追放される。
役目を終えた鈴美は仗助たちに見送られながら現世を去り、「弓と矢」がもたらした一連の脅威も去ったことから、承太郎とジョセフも仗助に見送られてアメリカへの帰国の途に就く。ジョセフは、仗助ら杜王町の住人たちには悪に屈さない正義の心「黄金の精神」が宿っており、その精神は連綿と引き継がれていくことを確信する。康一は、1999年の夏はほとんどの人々にとってはいつもと同じようにすぎていったと語り、第4部は閉幕する。
== 登場人物 ==
スタンドのパラメーターは『JOJO A-GO!GO!』より。
担当[[声優]]は[[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|ASB]]版・[[ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン|EOH]]版 / テレビアニメ版の順に表記。1人しか記載がない場合はテレビアニメ版のものとする。なお、テレビアニメ版以降に発表されたゲーム作品では、テレビアニメ版に準じたキャストが起用されている。
[[俳優|演]]の項は特記の無い限り、実写映画版における俳優。
=== 主要人物 ===
; 東方 仗助(ひがしかた じょうすけ)
: 声 - [[羽多野渉]] / [[小野友樹]](少年時代 - [[大地葉]])
: 演 - [[山﨑賢人]]
: Part4の主人公。身長180センチメートル{{efn2|初登場時185センチメートル(成長中)と記載されていたが後に180センチメートルとなった。}}。第4部のJOJO。ジョセフの隠し子で、血縁上は承太郎の叔父。スタンドは触れたものを治す「'''クレイジー・ダイヤモンド'''」。
: 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズを象徴する主人公の愛称は「ジョジョ」だが、仗助に対しては序盤で一度用いられただけである。
: 『オールスターバトル』以降の北米版では第八部の東方'''定'''助との区別のため"Josuke Higashikata 4"と表記されるほか、スタンド名も"Shining Diamond"(シャイニング・ダイヤモンド)と改名されている。[[Crunchyroll]]で配信されているテレビアニメの北米版でも、スタンド名は同様の変更である。
{{main|東方仗助}}
; {{Anchors|広瀬康一}}広瀬 康一(ひろせ こういち)
: 声 - [[朴璐美]] / [[梶裕貴]]
: 演 - [[神木隆之介]]
: 仗助の同級生。今作の[[狂言回し|語り部]]。1984年3月28日生まれ。[[牡羊座]]。設定上の身長は157センチメートルだが、デフォルメされてもっと低く描かれている。両親と姉との4人暮らしで老犬ポリスを飼っている。当初は一般人だったが、虹村形兆に「矢」で射抜かれスタンド使いとなる{{efn2|当初は素質がなく致命傷だったが、仗助のクレイジー・ダイヤモンドによって傷を治されたため、結果的にスタンド使いになった。}}。
: 最初は頼りない性格だったが、自分で窮地を乗り越えていく度に人間的に成長していき(その都度、髪が逆立つ)、仗助たちから強く信頼されるようになる。特に承太郎からの信頼は厚い{{efn2|Parte5『黄金の風』序盤においては、承太郎からジョルノの調査を直々に依頼された。}}。一癖ある人物からも好かれる性質で、露伴は彼を親友と言い、山岸由花子は異常に彼を愛し、敵として交戦経験もあった小林玉美や間田敏和からも親しくされている。
: 当初は由花子の強引な求愛に引き気味であったが、和解を申し出たのち、辻彩によるスタンドメイク術を経て彼女に想いを寄せ、両想いとなり成就する。
: Part5『[[黄金の風]]』の序盤にも登場しジョルノと接触、共闘した。そのため[[PlayStation 2]]用ゲーム『[[ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風]]』に登場予定だったが事情により未登場となった{{efn2|ゲームのサウンドトラックにはボイスの一部が収録されており、[[夏樹リオ]]が演じている。}}。
: 名字の由来は、[[宮城県]][[仙台市]]を流れる河川「[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]」<ref>{{Cite web|和書|publisher=広瀬川ホームページ|url=https://www.hirosegawa-net.com/hirosegawa_interview/vol18-3|title=私の広瀬川インタビューVol.18 マンガ家 荒木飛呂彦さん「第3回 広瀬康一君の由来は? 」|accessdate=2020-03-5}}</ref>。
:; エコーズ
:: 虹村形兆に「矢」で射抜かれたことで発現したスタンド。当初卵の状態で出現し、玉美との戦いで殻を破って誕生した。康一の精神的成長に合わせて脱皮するように進化していく{{efn2|「ACT2」の登場後は、初期のエコーズは「ACT1」と命名された。}}。進化直後は進化前の能力を使用できず狼狽する場面もあったが、後にエコーズの各形態を用途に応じて任意で切り替えて使い分けることができるようになった。
:: スタンド名の由来はイギリスのバンド''[[ピンク・フロイド]]''の楽曲「''[[エコーズ (ピンク・フロイドの曲)|エコーズ]]''」<ref name="SJR No14-2">『[[集英社ジャンプリミックス]] ダイヤモンドは砕けないvol14 ラブ・デラックス編』 P86「The origin of STANDS!」part.2</ref>。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、"Reverb"(リバーブ)と改名されている。
::; ACT1(アクトワン)
::: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - B / 持続力 - B / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
::: 卵から孵ったエコーズ。長い尻尾と車輪が合わさった姿をしている。射程は50m程度。パワー、スピードはほとんど無いが、物体に文字(擬音)を貼り付け、その音を繰り返し響かせる能力を持つ。物理的攻撃力はないが、騒音を継続して聞かせるなどして精神にダメージを与えることはできる。また、康一の気持ちを文章にしたモノを相手に貼り付ければ、相手の心に直に想いを強く訴えることができる。ただし、由花子のような異常なまでに思い込みの激しい人間には通用しない。射程距離が長いので、偵察に使われたりもする。
::: デザインのイメージは[[エイリアン (架空の生物)|エイリアン]]の幼生<ref name="STANDS">『JOJOVELLER完全限定版 STANDS』より。</ref>。
::; ACT2(アクトツー)
::: 【破壊力 - C / スピード - D / 射程距離 - B / 持続力 - B / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
::: 「ACT1」が進化した姿で、やや小型化したエコーズ。射程はACT1と変わらない。ACT1よりスピードが格段に上昇し、尻尾を切り離して変形させたしっぽ文字に触れた者に文字に応じた擬音の効果を体感させる能力を持つ。文字はACT1同様物体に貼り付けることも可能。ただし、しっぽが変形したものであるため、破壊されると本体にダメージが及ぶ。シアーハートアタック戦を最後に登場しなくなる。
::: ゲーム『アイズオブヘブン』では、「ドラララ」を張り付けることでクレイジーダイヤモンドのラッシュを再現している。
::: デザインのイメージは立ち上がった[[アライグマ]]<ref name="STANDS" />。
::; ACT3(アクトスリー)
::: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - C / 持続力 - B / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
::: 「ACT2」が進化した姿で、それまでのエコーズの姿とは異なり子供のような姿をした人間型のスタンド。自意識を持ち会話も可能であり、康一には従順で丁寧な言葉使いだが口汚く、「S・H・I・T(エス・エイチ・アイ・ティー)」が口癖。射程は短く5m程度だが、その分身体的強度とパワーが増し肉弾戦が可能となった。殴った物質を重くする「3 FREEZE(スリー・フリーズ)」の能力を持つ。重さは康一が対象に近づけば近づくほど重くなり、30センチメートルくらいまで接近すればスタンドさえも地面にめり込みほとんど動けなくなるほど重くできるが、一度に一つの物しか重くできず、射程距離外に出てしまうと重さが消えるどころか能力自体が解除されてしまう。
::: なお第5部『黄金の風』での登場時には、破壊力が「A」になっている{{efn2|テレビアニメ第4話では4部と同じパラメーターが表記されている。}}。
; {{Anchors|虹村億泰}}虹村 億泰(にじむら おくやす)
: 声 - [[高木渉]] / 高木渉(小学生時代 - [[齋藤小浪]])
: 演 - [[新田真剣佑]](幼少期 - [[岩田琉聖]])
: 虹村家の次男、形兆の弟。身長178センチメートル。[[てんびん座]]。各部に貨幣に関するマークが入り、右肩に「億」、左肩に「BILLION」と書かれた学ランを着ている。ぶどうヶ丘高校の一年生で、仗助と康一とは在籍クラスが違う。
: 単純で直情的だが気のよい人物。自他ともに頭が良くないことを認めており、深い思考は不得手{{efn2|本人曰く、深く考えると頭痛がおきる。}}。いつも兄頼りだったために決断も苦手{{efn2|レッド・ホット・チリ・ペッパーにそのことを指摘された以降は、「兄を越える」ということを意識するようになった。}}。女子に縁がないらしく、康一と由花子の関係に嫉妬して泣いて悔しがることも多い。強面な容姿に似合わず、なかなかのおぼっちゃん育ちでグルメ。甘党であり、辛いものは苦手。
: 物語序盤は敵スタンド使いとして登場。死ねない怪物と化した父を死なせてやるために「弓と矢」で「父親を殺せるスタンド使い」を産み出そうとする兄の手助けで仗助と戦った。しかし彼に助けられ、父親を治すスタンドを探すのなら手伝ってもいいというのを聞いたことにより改心し、それ以降は仗助の親友となる。レッド・ホット・チリ・ペッパーに兄を殺害された後、捜索の末に本体の音石明を見つけ出し仇を討つことに成功{{efn2|兄はスタンド使いを増やす過程で殺人を繰り返していたという事情から、命だけは見逃した。}}。その後も仗助らと行動を共にする。
: 吉良吉影との決戦では、猫草の「空気弾」による爆撃で重傷を負い、心肺停止状態に陥るが、クレイジー・ダイヤモンドによる修復と、夢の中で邂逅した兄から「自分の行き先は自分で決めろ」と諭され「杜王町に戻る」と決断したことで戦線に復帰した。
: 最終決戦後、貰い手のいない猫草を新しい家族の一員として迎え入れた。アニメ版最終話のエピローグシーンでは父、猫草と家族揃って「トラサルディー」に来店している。トニオのパール・ジャムの力をもってしても父を元に戻すことはできなかったが、「まあ、いいか」と気にしていなかった。
: 作者によると、「虹村」という名前は漢和辞典を取り出しながら「虹がいいなあ」と考えて決めたという<ref name="sekai">画集『JoJo6251 [荒木飛呂彦の世界]』より。</ref>。
:; ザ・ハンド(手)
:: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - D / 持続力 - C / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 右手で掴んだあらゆる物を空間ごと削り取る、人型のスタンド。削られた空間は自然に閉じ、空間ごと削り取られた対象物がどこに行くのかは億泰自身にも分からず、クレイジー・ダイヤモンドの修復能力でも戻すことはできない。対象の強度・硬度にかかわらず、当てることさえできればあらゆる物を削り取れる驚異的な能力を持つ{{efn2|仗助や形兆など複数の人物から「恐ろしいスタンド」と評されている。}}。
:: 空間ごと削り取るには、右手で弧を描くような軌道で大振りする必要があるため、接近戦を得意とするスタンドやスピードが速いスタンドには直接当てることは難しく、劇中でも戦闘中に敵自体を削り取ったことは一度もなかった{{efn2|レッド・ホット・チリ・ペッパーにも「スローすぎる」とこの欠点を指摘された。}}。
:: だが直接削り取る以外にも能力の応用として、自分と対象の間の空間を削り取り、その空間が閉じる力を利用して、弧を描いた方向へ自身を瞬間移動させたり、弧を描いた軌道上の対象物を自身の方へと引き寄せることが可能で、これを用いることにより多彩な行動や味方の戦闘のサポートが行える。レッド・ホット・チリ・ペッパー戦では、この能力で自身を瞬間移動させて戦い相手を翻弄し、仗助と吉良吉影の決戦の最終局面では、追い詰められたキラークイーンが腹部のシャッターを閉めていない隙を突いて、この能力で猫草を引き寄せ奪い取っている。また、空間を削り取るがその空間に存在する物質には触れるわけではないという性質上、キラークイーンの空気弾爆弾を爆発させずに消滅させることができるため、仗助らでは避けて逃げるしかなかったこの爆弾を一挙に無力化した。
:: スタンド名の由来は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のバンド「''[[ザ・バンド]]''」<ref name="SJR No14-1">『集英社ジャンプリミックス ダイヤモンドは砕けないvol14 ラブ・デラックス編』 P83「The origin of STANDS!」part.1</ref>。
; 岸辺 露伴(きしべ ろはん)
: 声 - [[神谷浩史]] / [[櫻井孝宏]]
: 演 - [[高橋一生]](『[[岸辺露伴は動かない]]』)
: 杜王町に住む人気天才漫画家。虹村形兆によりスタンド能力に覚醒する。
: スタンド能力で対象を本へと変え、情報を閲覧したり書き込んだりもできるスタンド「'''ヘブンズ・ドアー'''('''天国への扉''')」を操る。1983年の杉本家殺人事件の生き残り。
{{main|岸辺露伴}}
; 空条 承太郎(くうじょう じょうたろう)
: 声 - [[小野大輔]] / 小野大輔
: 演 - [[伊勢谷友介]]
: [[スターダストクルセイダース|Part3]]の主人公で仗助の(年上の)甥。28歳。ジョセフに隠し子・仗助がいることが発覚したことで、彼に会うために杜王町を来訪する。スタンド使いの殺人鬼・アンジェロから、DIOの遺産たる「弓と矢」の存在を知り、行方を追う。絶大な破壊力と精密性、時間停止能力を持つ最強のスタンド「'''スタープラチナ'''('''星の白金''')」を操る。
{{main|空条承太郎}}
; ジョセフ・ジョースター
: 声 - [[杉田智和]](ASB版)・[[石塚運昇]](EoH版) / 石塚運昇
: [[戦闘潮流|Part2]]の主人公で仗助の父親。79歳。仗助と対面するため、また音石明をそのスタンド能力で追跡するため、杜王町を訪れる。念写能力を持つ茨状のスタンド「'''ハーミットパープル'''('''隠者の紫''')」を操る。
{{main|ジョセフ・ジョースター}}
; 吉良 吉影(きら よしかげ)
: 声 - [[小山力也]] / [[森川智之]]
: 手の綺麗な女性を48人殺してきた連続殺人鬼。杉本鈴美、矢安宮重清、辻彩などを殺害した。本作における最大の敵。
: スタンドは爆弾に関する能力を持つ「'''キラークイーン'''」。スタンド名は、『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では"Deadly Queen"(デッドリークイーン)と改名されている。
: {{main|吉良吉影}}
; {{Anchors|川尻早人}}川尻 早人(かわじり はやと)
: 声 - [[佐藤ゆうこ (声優)|佐藤ゆうこ]] / [[佐藤利奈]]
: 川尻浩作と川尻しのぶの息子。11歳。登場時点では両親の盗撮や盗聴が趣味の暗い性格の少年だったが、父親が別人と分かり得体の知れない恐怖と危機感を抱くようになってからは、感情表現豊かな子供となった。母いわく「何を考えてるか分からない子」。本人いわく「本当に自分は両親から求められて生まれた子なのか?」と両親の愛が欲しかったゆえ、考えた末に「記録と観察」という理由で両親の盗撮に走った。その中で吉良吉影が成り済ました父の不審な行動に疑念を抱き、猫草の一件で今の父は殺人鬼が成り替わった偽者であると確信に変わる。吉良と戦おうと決心し、スタンド能力を持たない一般人でありながら、仗助たちと共に最終決戦で吉良を追いつめた。
: 前述の確信を得たことから吉良に一度殺害されるが、バイツァ・ダストが時間を巻き戻したことで生きていることになる。吉良に恐怖しつつも、母を守るために意志の強さと度胸を見せるようになっていく。バイツァ・ダストを解除すべく策に賭けたり、仗助と吉良の最終決戦でも、捨て身で爆弾に変えられた億泰に触って第一の爆弾を解除するなど、共闘した仗助を驚愕させるほどの行動力を示し、吉良撃破に貢献する。
: 父とは決して仲が良いわけではなかったが、吉良(浩作)の死亡後は夫を待つ母の姿に心を打たれ、自分も父を一緒に待ち続けると涙した。
=== 杜王町のスタンド使い ===
; {{Anchors|片桐安十郎|アンジェロ}}片桐 安十郎(かたぎり あんじゅうろう) / アンジェロ
: 声 - [[浜田賢二]]
: 演 - [[山田孝之]]
: 「日本犯罪史上最低の犯罪者」。1964年杜王町生まれ。[[知能指数|IQ]]160。仗助の最初の敵。
: 「いい気になっている奴」を破滅させることが生き甲斐。12歳の時に[[強姦]]と[[強盗]]を犯し、投獄。それからも罪を犯し続け、青春の大半を獄中で過ごしてきた。1994年3月に少年3人を強姦殺人して死刑判決を受けていたが、虹村形兆に「矢」で射抜かれてスタンド使いとなり、スタンド能力で[[絞首刑]]を生き延びて脱獄した。[[両性愛|バイセクシャル]]であるらしく、アニメでは男性女性どちらも強姦の被害に遭う描写がなされた。
: その後、杜王町でスタンドを一般市民に取り付かせ、犯罪を楽しんでいたところ、仗助に邪魔されて彼を逆恨みする。仗助の母に取り付こうとして失敗し、スタンドを小瓶の中に閉じ込められてしまうが、そこでかつて自分を逮捕した仗助の祖父を偶然発見し、仗助の目を盗んで私怨により殺害する。
: 葬式の3日後、雨の日を狙って仗助と承太郎に襲い掛かるが、仗助の機転により再度スタンドを捕らえられ、本体の居場所も暴かれる。「俺を殺したらお前も殺人犯だぜ」と身勝手な理屈で煽りつつ命乞いするも一蹴され、「供養しろ」と岩に埋め込まれる。埋め込まれた直後は上半身がほぼそのままの形で残っていて会話もでき、スタンド能力を得た経緯を白状していた。しかし隙をついて通りすがりの子供を人質にとって悪あがきした上に、仗助の髪型を貶したことで遂に逆鱗に触れる。怒りの追撃を喰らって融合が更に進行した結果、原型をとどめず思考もままならない姿にまで変えられ、僅かに残された意識で未来永劫自分の犯した罪を悔い改め続けることとなった。その後、「アンジェロ岩」と呼ばれる杜王町の観光名所と化す。
: 通称の由来はアメリカの作曲家「''アンジェロ・バダラメンティ''」<ref name="SJR No14-2" />。
:; アクア・ネックレス(水の首かざり)
:: 【破壊力 - C / スピード - C / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - E】
:: 水分に混ざり相手の体内に侵入して攻撃するスタンド。水蒸気にも同化できる。簡単なものになら姿を変えることもできる。人型で全身には無数の目がある。人間に取り憑いて操ることもできる。
:: 物質同化タイプのスタンドなので自由に消すことができず、閉じ込められてもガラスを破るパワーもないという弱点がある。
; {{Anchors|虹村形兆}}虹村 形兆(にじむら けいちょう)
: 声 - [[志村知幸]](小学生時代 - [[東内マリ子]])
: 演 - [[岡田将生]]
: 虹村億泰の兄。18歳。億泰とは対照的に冷静沈着で判断力と行動力に長け、非常に几帳面な性格。
: 父と繋がりのあったDIO・エンヤ婆の遺物を調べ、「弓と矢」を入手し、杜王町でスタンド使いを増やしていた。「弓と矢」の性質上、スタンドの素質のない者を何人も殺害してきた。その目的は、DIOの肉の芽の暴走により死ねない化け物になってしまった父を「普通に死なせてやる」ことのできる能力者を探すこと。幼い自分たちに暴力を振るい、金銭目的で悪事に加担していた父に複雑な感情を抱いてはいるが、それでも肉親としての情から怪物と化した父の姿を見るに堪えず、父に死を与えるためならば手段を選ばない決意を固めている。
: 仗助に倒された億泰に重傷を負わせ、自身はスタンドで仗助を迎え打つ。奇襲攻撃や連携による戦術など駆使しながら仗助を苦戦させるも、破壊されたミサイルをクレイジー・ダイヤモンドで再生されて撃ち返されたことで敗北し、父の家族を想う気持ちを仗助に知らされた直後、レッド・ホット・チリ・ペッパーの攻撃から億泰を庇い、感電死する。億泰は兄の死を悲しみつつも、「今まで何人も人を殺し続けてきた当然の報い」と割り切っていた。その後、彼の死体は墓に埋葬された。
: 後に吉良吉影との戦いで重傷を負った億泰の夢の中に現れ、彼自身に進むべき道を決断させ、戦線へ復帰させた。
: 自分で調べた情報から、承太郎がDIOを殺したことがきっかけで父が変貌したことは知っているが、承太郎に対して言及するシーンはなく、父の病も「DIOに魂を売って悪行を行っていたゆえの自業自得」と割り切っている。
: 実写映画版では、上記の場面でレッド・ホット・チリ・ペッパーが登場せずにシアーハートアタックが登場するうえ、形兆の死体は爆破されて跡形も残らないという展開に改変されている。
:; バッド・カンパニー(極悪中隊)
:: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - C / 持続力 - B / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: [[M16自動小銃]]を装備した [[歩兵]]60名、[[戦車]]7台、[[AH-64 アパッチ]]ヘリ4機で構成されている米陸軍を模したミニチュア軍隊のスタンド。他にも[[地雷]]や、康一のスタンドを覚醒させるためにけしかけた[[グリーンベレー]]がいる。
:: 作中に初めて登場した群体型のスタンドであり、数体倒されたところで本体には影響はほとんどない。軍隊の武器のサイズは小さいが威力は本物である。個体の破壊力も大きくないが、同時攻撃やミサイルでの攻撃力は壁やドアやガラスを破壊したり、仗助や億泰を重傷に負わせるなど高い殺傷力を誇る。
:: スタンド名の由来はイギリスのバンド「''[[バッド・カンパニー]]''」<ref name="SJR No14-1" />。作者は「『[[G.I.ジョー]]』のフィギュアなどからの発想」と語っている<ref name="STANDS" />。
:: テレビアニメの北米版では、"Worse Company"(ワース・カンパニー)と改名されている。
:: 実写映画版では大幅な変更が加えられており、原作では戦車は7両だったのが、実写では50両ほどとなっており、歩兵の数も大幅に増加{{efn2|ノベライズ版では約200人。}}している他、ライフル以外にも[[ジャベリン (対戦車ミサイル)|FGM-148 ジャベリン]]やグレネードランチャーを持った者も存在する。また、ヘリ部隊に関してもアパッチに加えて[[MH-6 リトルバード]]と[[UH-60 ブラックホーク]]が加わっており、機銃による攻撃だけでなく歩兵の移動補助を行っている。
:: カンパニー(中隊)という名前に反してバタリオン(大隊)規模となっており、原作と違って集中砲火だけでクレイジー・ダイヤモンドを圧倒している。しかし、タイプが自動操縦型となっているのか、「一度命令を与えると完遂するまで修正できない」という設定になっており、クレイジー・ダイヤモンドのミサイル復元によるカウンターに対処できず、敗北する要因となった。
:: なお、歩兵の迷彩柄を作者が描き下ろしている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20170708-a031/ 映画「ジョジョ」新予告編で、クレイジー・ダイヤモンドの新規映像解禁] - マイナビニュース</ref>。
; {{Anchors|小林玉美}}小林 玉美(こばやし たまみ)
: 声 - [[田中一成]] / [[鶴岡聡]]
: 仗助たちの高校のOBで、ゆすり屋。身長153センチメートル(初登場時は長身で6頭身以上あったが、回を追うごとにだんだん身長が縮み、顔もデフォルメ化されていった。テレビアニメでは最初から身長が低く、顔もややデフォルメ気味に描写されている)。[[乙女座]]。20歳。口の左に十字型の傷がある。
: 虹村形兆によりスタンド使いになった。能力を悪用して康一とその家族をゆすって破滅させようとしたが、康一のスタンド「エコーズ」に倒されて改心、以後は一方的に彼の舎弟になる。その後はゆすり屋を辞め、金融業者の取立人となる。
: 味方にはなったものの、活躍は間田に関する情報を提供したのみで、実戦には一切参加していない。間田編では、偽仗助に攻撃されて入院する。後にスタンド能力を買われて仗助と露伴のチンチロリン勝負に取立人として立ち会ったり、吉良の事件が終結した後は他のスタンド使いたちと共に杉本鈴美が成仏する様子を見届けた。
: 前述の通り康一のことは「康一どの」と呼び打算抜きで慕っている一方、改心してからも仗助と露伴のチンチロリン勝負に立ち会った際に「仗助の『小指』がブッ飛ぶの見てェな〜っ」と内心思うなど、仗助のことは変わらず気に食わない様子。
: テレビアニメ版最終話のエピローグシーンでは蹴飛ばした空き缶からこぼれたジュースが間田の読んでいた漫画本にかかったということで因縁をつけられ、小競り合いをしていた。
: 後に、数コマだが『[[岸辺露伴は動かない#エピソード#02 六壁坂|岸辺露伴は動かない -六壁坂-]]』にも登場している。
:; ザ・ロック(錠前)
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 他者に取り付く[[南京錠]]型のスタンド。本体の周囲で罪悪感を感じた人間から出現し、対象の持つ罪悪感に応じて大きくなり、心身に重圧を与える。複数の相手に同時に取り付けることも可能。精神作用から、相手の自殺を誘発することさえあるという。
:: 罪悪感を持たない相手には効果がなく、錠を取り付けられた場合でもその素である罪悪感が無くなれば解除される。
:: ゲームなどのルールを、契約した「約束」として守らせるために能力を使うこともでき、仗助と露伴のチンチロリン勝負では取立人として呼び出され、二人の勝負に立ち会った。
; {{Anchors|間田敏和}}間田 敏和(はざまだ としかず)
: 声 - [[松野太紀]] / [[下和田ヒロキ]]
: 仗助たちと同じ高校の3年生。身長165センチメートル。[[獅子座]]。虹村形兆によりスタンド使いとなった。かなり卑屈で陰険な性格。テニス部でマンガ好き。同級生の順子に片思いしており、露伴の話では順子を強姦したい願望を持っている。些細な喧嘩で友人の眼をスタンド能力で抉りとるなど残忍で冷酷でもある。
: 承太郎を町から追い出そうと画策し、最終的には殺害しようとするが、仗助に出し抜かれ、敗北して入院する。仗助たちに「スタンド使いは無意識のうちにひかれ合う」という物語の重要なキーワードを話した。
: 最初は頭身が高く、男らしい顔つきで描写されていたが、やがて顔もデフォルメされ、身長も康一と同じ程度にまで縮んで描写されている{{efn2|テレビアニメ版では小林玉美と同様に最初から身長が低く、なおかつ顔もデフォルメ化した状態で描写されている。}}。康一のことを気に入り、同じ漫画好きという共通点で一方的に友人として接している。
: 岸辺露伴の大ファン。ヘブンズドアーで本にされても、露伴に読まれるなら本望と思っていたが、康一は露伴から高評価だったのに対し、敏和は「最低」「読者が喜ぶハズがない」と酷評され、嘆く。
: 吉良の事件が終結した後は他のスタンド使いたちと共に杉本鈴美が成仏する様子を見届けた。
: テレビアニメ版最終話のエピローグシーンでは玉美が蹴飛ばした空き缶からこぼれたジュースが自身の読んでいた漫画本にかかったと因縁をつけ、小競り合いをしていた。
:; サーフィス(うわっ面)
:: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - C(数十メートル) / 持続力 - B / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 等身大の木製[[デッサン人形]]をベースに、触れた人間の姿、仕草、指紋、声紋からすべてコピーするスタンド。自律型スタンドで性格までコピーされるため、大雑把な命令には従うが本体の間田に忠実というわけではない。コピーした本体との見分け方は、サーフィスの方の額についている+型のネジ。実体化しており、普通の人にも見える。コピーされた相手はサーフィスと向き合うと、鏡に映ったように同じ動作しか取れなくなる。また向き合うと言ってもお互いを認識する必要はなく、サーフィスがコピー元の姿を視認していればいい。また動作させる部位はある程度サーフィスが指定可能であり、サーフィスの支配下にあっても一寸も違わぬような動作をするわけではない。外見が変わっても木製なのは変わらないため衝撃により破損することがあり、パーツが千切れるとその部分の変身は強制解除される。あくまでデッサン人形に憑依するタイプのスタンドで、人形にダメージを与えても本体である間田にダメージは反映されない。また、クレイジー・ダイヤモンドほどではないが、パワーもスピードも共に高い。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[サーフェス]]''」<ref name="SJR No14-2" />。作者は「漫画『[[パーマン]]』の[[コピーロボット]]のイメージかもしれない」と語っており<ref name="STANDS" />、作中でサーフィス自身も自分の能力に関してそのことに言及している。
:: テレビアニメの北米版では、"Show Off"(ショウ・オフ)と改名されている。
; {{Anchors|山岸由花子}}山岸 由花子(やまぎし ゆかこ)
: 声 - [[赤﨑千夏]] / [[能登麻美子]]
: 演 - [[小松菜奈]]
: 康一を異常に愛する容姿端麗な女性。高校1年生。身長167センチメートル。[[射手座]]。腰まである長い髪が特徴。高校では億泰と同じクラス。虹村形兆によりスタンド使いとなった。
: 普段はクールで素っ気無い態度だが、非常に身勝手でキレやすく、思い込みの激しい性格。
: 康一に一目ぼれし、喫茶店に呼び出して告白する。その愛情が一途過ぎるためストーカー紛いのアプローチを開始し、康一に関わる女生徒を殺そうとするなど、行動はエスカレートしていく。康一を自分好みに教育しようと別荘に軟禁するが、求愛を拒否されたことに逆上して暴走する。結果として康一とエコーズが成長するきっかけとなり、頭髪が真っ白になるほどのダメージを受けたことで「自分の美貌を傷つけた」と激昂し、エコーズ諸共引き裂いて殺害しようとしたが、直後に崖が崩れてしまい転落しかけるもとっさに康一が仕掛けていたエコーズの能力で命拾いをした。敵でさえ気にかける彼の優しさに触れ、完敗してもなお康一を愛し続ける。辻彩の介入の後、やがて両想いとなった。
: 料理の腕は抜群で、康一は監禁されている間も由花子の作る料理だけは本心から喜んで食べていた。
: テレビアニメ版では、第7話の間田戦の中盤で仗助と康一が間田を追跡する場面でワンシーンであるが先行登場している。
: 『アイズオブヘブン』では康一に危害を加える者に容赦ない一面が強調されており、第5部の主人公[[ジョルノ・ジョバァーナ]]には、康一のカバンを盗んだと聞いて彼に因縁をつけていた。
:; ラブ・デラックス
:: 【破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - B】
:: 髪の毛を自在に伸ばして動かすスタンド。縛りつけたり締め上げたりする単純な攻撃から、標的の頭皮に「ラブ・デラックス」の一部を植え込むことにより、頭皮から強引に引き回して歩行を阻害したり、その応用で行動範囲に制限を加えるなど幅広く応用が利く。また、頭髪は巨大な別荘を覆い尽くすほどに伸ばせる。
:: 『アイズオブヘブン』では、エコーズAct.3の能力で重くされた相手を持ち上げるなどしている。
:: スタンド名の由来はイギリスのバンド''[[シャーデー]]''のアルバム「''ラヴ・デラックス''」<ref name="SJR No14-2" />。
:: 『アイズオブヘブン』およびテレビアニメの北米版では、"Love Extra"(ラブ・エクストラ)と改名されている。
; {{Anchors|トニオ・トラサルディー}}トニオ・トラサルディー
: 声 - [[松原大典]] / [[川島得愛]]
: 杜王町で[[イタリア料理]]店「トラサルディー」を営むイタリア人の男性([[ナポリ]]生まれ)。「自分の作った料理でお客様に快適になってもらうこと」を望み、それに情熱のすべてをかける。年は若いが、料理人としての腕前は億泰の舌を唸らせ、「天使のような料理人」とまで言わせるほど。
: 自分の理想とする料理を求めて世界中を旅していた当時、スタンド能力に気づいたと語っている。故郷ではまだ若いという理由で自分の店を出すことを認められず、日本でなら実力さえあれば年齢に関係なくチャンスが得られると考えて来日し、新鮮で美味しい食材が手に入るという理由から杜王町に出店した。
: 店の仕事はすべて単独でやっており、料理を運ぶ[[ウェイター]]の仕事もこなさなければならないため、テーブルの数はわずか2つという小さな店である。しかしながら、料理の才能は超一流であるのはもちろん、手のひらを見ただけで相手の体調を完璧に見抜くという特殊能力を持っており、それぞれの客の体調に合わせた健康に良い料理を出すことをポリシーとしている。そのため、店に決まった形のメニューはない。料理はどれも基本的にはイタリアの伝統的な家庭料理をベースとしている。
: 基本的には善人だが、店の衛生管理には非常に気を使っており、手を洗わないまま厨房に踏み入った者に激怒し、包丁を投げ付けるという神経質な一面を持つ。
: 料理を食べる度に億泰が常軌を逸して健康的になるリアクションをとったことから、敵スタンド使いとの連戦で疑心暗鬼気味になっていた仗助から敵ではないかと誤解されたが、結局は誤解が解けて戦わずに終わり、逆に厨房に勝手に入った仗助を罰として掃除係としてこき使った。
: 2013年に発表された『[[岸辺露伴は動かない#エピソード#06 密漁海岸|岸辺露伴は動かない 〜エピソード6:密漁海岸〜]]』にも登場するが、来日した理由や杜王町に出店した理由が本編とは異なり、重病の恋人の治療に必要な食材が杜王町にあり、それを手に入れるために来日し、入手の機会を得るために杜王町に出店したことになっている。
: 2011年に刊行された小説版『[[恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-|恥知らずのパープルヘイズ]]』では、主要登場人物のひとりであるマッシモ・ヴォルペの実兄という設定となっている。本名は'''アントニーオ・ヴォルペ'''。イタリアの没落した貴族ヴォルぺ家の後継者であったが、金持ちに媚びながらも陰では罵倒するような父親に失望し、自分の夢であった料理人を目指そうとするも、それを認めない父親から勘当され、家を出た後母方の姓であるトラサルディーを名乗ったとされている。
: 2007年に刊行された小説版『[[The Book (小説)|The Book]]』では本人は登場しないが、「トラサルディー」の料理を食べると病気が治るらしいと評判になっており、作中の登場人物がこの店で料理を食べ体調を回復したことが語られている。
: テレビアニメの北米版では、"Tonio Trendy"(トニオ・トレンディー)と改名されている。
:; パール・ジャム
:: 【破壊力 - E / スピード - C / 射程距離 - B / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 料理に混入し、食べた者の身体の不調を治すスタンド。顔と腕のあるプチトマトのような姿をしており、複数いる。治し方は症状にもよるが、目から涙が滝のように流れて睡眠不足が解消されたり、虫歯が凄まじい勢いで抜けた後に新しい歯が猛スピードで生えてきたりするなど、常軌を逸したリアクションが起こる。ただし、治せる不調には限度があり、一定以上の重病には効果を発揮しない。本体が善人ということもあって、基本的に無害なスタンドである(スタンドの特徴上、能力が治療・健康促進面に特化しており、戦闘には向いていない)。
:: なお、客に対しては治る理由を「食材に含まれる栄養素の効能」と説明しており、身体に不調の無い者が同じ料理を食べてもリアクションは起きない。治癒能力は基礎となる食材に大きく左右され、トニオの調理技術と食材と相俟ってはじめてその力が発揮される。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[パール・ジャム]]''」<ref name="SJR No16" />。
:: 『オールスターバトル』以降の北米版では"Opal Jam"(オパール・ジャム)、テレビアニメの北米版では"Pole Jam"(ポール・ジャム)と改名されている。
; {{Anchors|音石明}}音石 明(おといし あきら)
: 声 - [[森久保祥太郎]] / 森久保祥太郎
: ギターを愛するロッカー。19歳。[[ライトハンド奏法]]ができる。自信家でお調子者のように見えるが、仗助や承太郎らと渡り合うために力を蓄えてから彼らの前に姿を現したり、相手の実力を見極めて反省すると即座にその戦いに適応するなど、戦いの駆け引きに関しては優れた能力を持つ。
: 虹村形兆によりスタンド使いとなる。強力に成長したスタンドで形兆を殺して「弓と矢」を奪い、以降はスタンドによる窃盗などを繰り返しながら力を蓄えていた。形兆を口封じしたため、億泰と仗助は正体を探していた。その後、仗助らの前に姿を現し、探知能力持ちのジョセフの存在を知って彼を殺そうとしたところ、億泰と仗助に阻まれる。億泰には勝利し、仗助をも圧倒するが、スタンドを海に落とされて電気が散り敗北する。力尽きたと思いきや、仗助たちの目を盗んでジョセフの乗った船まで泳いで乗り込み、船員に扮してジョセフに近づき殺そうとした間際、腹を括った億泰に殴り倒され、今度こそ敗北した。弓と矢は承太郎とSPW財団に回収される。
: スタンドを悪用した5億円相当の[[窃盗罪]]で逮捕され、懲役3年の刑に科せられる。形兆殺しはスタンドで物証がないため[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]で立件できなかったが、承太郎と億泰には「今度スタンドで悪事をしたら、確実に息の根をとめてやる」と念押しされた。その後、盗んだ矢で2匹のネズミを射たことを自白し、仗助と承太郎が駆除に赴く事態となった。
: 後に、数コマだが『[[岸辺露伴は動かない#エピソード#02 六壁坂|岸辺露伴は動かない -六壁坂-]]』にも登場している。
: 『オールスターバトル』では、康一に仲良くしようと歩み寄ったり露伴にかなり真剣にサインを求めるなど、作中でほぼ描かれなかった一面を見せた。
:; レッド・ホット・チリ・ペッパー
:: 【破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - A】
:: 電気を操り、電気と同化するスタンド。像は人型の[[堅頭竜類|堅頭竜恐竜]]。電気があるところならどこにでも移動可能であり、普段はコンセントや電線の中を移動する。他の物体を電気と同化させて電線の中に引っ張り込むこともできる。
:: 遠隔操作型のスタンドだが、電気を吸収すればするほど強くなる特性を持つため、電気さえあれば遠距離でも近距離パワー型に匹敵するパワーと精密動作性を誇る。特にスピードは、電気と同化しているために光速に近い。弱点はスタンドが電気と一体になっていることで、電気が失われるとパワーダウンにとどまらずスタンド自体が消滅(=本体の死)してしまう危険性がある{{efn2|同化タイプのスタンドなので、本体の自由には消せない。}}。
:: スタンドが顕現している状態では常に電気を消費し続けているため、長く活動するにはそれだけ大量の電気が必要となる。また、電気抵抗の影響も直に受けるため、ゴムなどの絶縁体内では電気の補給も通過もできず、逆に導体である海に転落すれば短時間で拡散してしまう。
:: 舞台となった杜王町では、町一帯の電力を全て吸い上げることでクレイジー・ダイヤモンドを遥かに超えるスピードとパワーを発揮できるが、それを行なうとしばらく町が停電に陥りバッテリーなどの弱い電力でしか活動できなくなるため、最後の切り札としていた。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[レッド・ホット・チリ・ペッパーズ]]''」<ref name="SJR No14-1" />。デザインは漫画『[[恐竜大紀行]]』の頭突きの強い恐竜([[パキケファロサウルス]])と漫画『[[ドラゴンボール]]』の[[フリーザ]]の影響を受けている<ref name="STANDS" />。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、前半部分が省略され"Chili Pepper"(チリ・ペッパー)と改名されている。
; {{Anchors|静・ジョースター}}静・ジョースター(しずか・ジョースター) / 透明の赤ちゃん
: 声 - [[川田妙子]]
: 杜王町で迷子になっていた所をジョセフに保護された身元不明の赤ん坊。女性。
: 当初はストレスから生じた無意識のスタンドの暴走であらゆる物を透明にして騒ぎを起こしたが、結果的に静の存在が仗助とジョセフのわだかまりを解消するきっかけとなった。
: その後、ジョセフにだけは心を開き、彼のそばにいる間は能力を発動しなくなったが、ジョセフから離れたりカメラのフラッシュなどでショックを受けると、すぐに周囲を透明にしてしまう。
: 常にサングラスをかけているため、はっきりとした素顔は描写されていない。また、最後まで両親と素性は分からず、ジョセフの養女となる。静・ジョースターはファンブックで初めて明らかとなった名前であり、出生名は不明。テレビアニメ版では透明の赤ちゃんとクレジットされ、最終話でのみ静・ジョースターとクレジットされた。
:; アクトン・ベイビー
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - なし / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - A】
:: 物体や生物を透明化させるスタンド。他のスタンドを透明化させることはできない。当初は本体自身を透明化しているだけであったが、ストレスによりスタンド能力が強く発現するようになると、本体を中心として球状に一定距離内のものを無差別に透明化するようになる。
:: 一度範囲内に入って透明になったものは、範囲を出ても能力が解除されない限り透明のままである。見えなくなるだけで特に害はなく、手で触れたり臭いを嗅ぐことはできる。
:: スタンド名の由来は[[U2]]のアルバム「''[[アクトン・ベイビー]]''」<ref name="SJR No16" />。
; {{Anchors|ネズミ}}ネズミ(虫喰い、虫喰いでない<ref>画集『JOJO A GOGO』、および[[トレーディングカードゲーム|TCG]]『ジョジョの奇妙な冒険 Adventure Battle Card』における呼称</ref>)
: 声 - なし
: 杜王町に生息する2匹の[[ドブネズミ]]。音石明に「矢」で射抜かれ、スタンド使いとなる。承太郎を襲った個体は耳たぶが虫喰い状にちぎれているため、承太郎が「虫喰い」という通称を名付けた。
: 普通のネズミを凌駕する高度な知能をスタンド能力と合わせ、同種のネズミや人間を襲っていた。音石の自白からその存在を知った承太郎と仗助が狩りに乗り出す。身体能力自体は普通のネズミと同様であり、高速で放たれたパチンコ玉や銃弾が直撃すれば一溜まりもなく、「虫喰いでない」は仗助の放ったパチンコ玉で仕留められたが、さらに奸智に長けた「虫喰い」は仗助と承太郎を苦戦させる。仗助と承太郎の仕掛けた罠を逆に利用したり、[[足跡#動物の足跡|バックトラック]]を用いたりして彼らを手玉にとり承太郎を戦闘不能にするが、仗助の放った1発目の銃弾が外れたことに油断し、岩陰から顔を出したところを2発目の銃弾で仕留められた。
:; ラット
:: 【破壊力 - B / スピード - C / 射程距離 - D / 持続力 - B / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 有機物や無機物、さらにはスタンドさえ溶かしてしまう毒針を発射する、背中に乗せた砲台型のスタンド。通常は一つ眼の怪物のような形態で、眼の部分が[[照準器|スコープ]]になっている。詳細は不明だが、溶かしたものを[[煮こごり]]のように固めることもできる模様。毒針自体の威力はさほどではなく、金属製のフライパンや岩など、ある程度硬いものは溶かしつつも跳ね返された。また、スタープラチナのようなスピードと精密性に優れるスタンドならば容易に針を掴んで止めることができるが、針に触っただけで毒が回ってしまうため、実質的には避けるしかない。針は通常時は単発発射だが、3発までなら連続発射できる。
:: この毒で溶かされた生物はすぐ死ぬわけではなく、原形を止めないほどに溶かされて形を変えられていても、頭などの重要な部分が原形を保っていれば生きていることが多い。そのため、息さえあればクレイジー・ダイヤモンドで元の溶かされる前の姿に戻せる。
:: 耳が虫食いの個体とそうでない個体でネズミが2匹存在するが、2匹でスタンドを共有しているわけではなく、2匹が同じ外見・同じ能力のスタンドをそれぞれ持っているという珍しいパターン。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[ラット (バンド)|ラット]]''」<ref name="SJR No16">『集英社ジャンプリミックス ダイヤモンドは砕けないvol16 ヘブンズ・ドアー編』 P90「The origin of STANDS!」part.3</ref>。
; {{Anchors|矢安宮重清|重ちー}}矢安宮 重清(やんぐう しげきよ)
: 声 - [[山口勝平]] / 山口勝平
: ぶどうヶ丘中学校に通う中学2年生。あだ名は「'''重ちー'''」。体重110キログラム。実年齢より精神年齢は幼く、口癖は「〜だど」「ししっ」「理解不能」。頭に無数のトゲが生えたような髪型。家で飼っている亀の名は「ゴン太」。自らのスタンドを使い、町中に落ちている小銭を集めている。
: 欲深な守銭奴だが、仗助いわく「どこかほっとけない」人物。心の底では杜王町と両親を一心に想い愛している。「サンジェルマン{{efn2|テレビアニメ版では「サンジェルメン」と呼称されている。}}」のテリヤキチキンサンドが好物。当初は仗助と億泰から「小遣い稼ぎ」に利用され、3人で手に入れた[[宝くじ]]の賞金を独占しようとして一悶着起こしたが、結局は自分だけでは宝くじを手に入れられなかったことを悟って改心し、その賞金は平等に三等分した。その後は仗助と億泰と友人になる。
: 吉良吉影と遭遇した際に「手首」を見てしまう。秘密を知られた吉良と交戦するが、キラー・クイーンに敗れ、爆殺される。死の間際に吉良の服のボタンを手に入れ、スタンドに運ばせることで仗助たちに手がかりを残した。彼の魂は昇天しながら崩れ去り、その際の叫びは仗助や億泰をはじめとするスタンド使いたちにも届き、彼らを鈴美の元に集結させ、町に長年潜む連続殺人鬼(吉良吉影)の危険性を知ることになった。死の当日も重ちーと親しくしていた仗助や億泰の受けた衝撃は大きく、率先して吉良を探し出すきっかけを作った。爆破によって遺体すら残らず、社会的には行方不明者となっている。
: 苗字の「矢安宮」はカナダの歌手[[ニール・ヤング]]に由来する<ref name="SJR No16" />。仗助と並び、作者の一番のお気に入りキャラクターであり、『ジョジョ』シリーズ通して一番好きなキャラクターと評している<ref name="menon">[[SPUR (雑誌)|SPUR]]ムック『JOJOmenon』より。</ref>。また、物語を盛り上げるためとはいえ死なせたことに苦悩し、何度も復活させたいと思っていたと語っている<ref name="menon" />。
:; ハーヴェスト(収穫)
:: 【破壊力 - E / スピード - B / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 自称500体からなる、4本の腕を持つ小さな群体型スタンド。物を集めることを得意とする。破壊力自体は低いものの、相手の皮膚を「集める」能力で削り取ることは可能であるうえ、眼球や頸動脈といった急所をピンポイントで狙えるため、高い殺傷力を発揮する。眉間から注射針のような器官を出し、酒など集めた液体を相手の身体に直接注入できる。バケツリレーのように重ちー自身を運ばせることで素早い移動も可能であるうえ、悪路走破能力も高く、ビルを垂直に登ることもできる。遠隔操作が可能で、射程距離については「迷子になるから杜王町の外には出ないようにしている」とのこと。
:: 非常に数が多い群体型スタンドであるため、スタンドを攻撃しても数匹潰した程度では本体へのダメージにならず、1体がかなり小さいのでそもそも攻撃することが困難。それでいて急所を狙えば人間に致命傷を与えられる程度の攻撃力を持ち、酒類などを利用すれば致命傷を与えるまでも無く戦闘能力を奪うこともできる。精密動作性は「E」と評価されているが、先述の酒を血管に注射する際、目の前の相手に気づかれないよう1匹を死角から回り込ませていることから、少なくても目に見える範囲であれば1体ずつにバラバラの命令を与えられる模様。このスタンドの特性と「集める」能力を駆使したトリッキーな戦闘スタイルは、仗助と億泰の2人がかりでも奇策で降参させるのがやっとなほど強力で、仗助からは「ハーヴェストに勝てるやつがいるとは考えられない」と高評されている。作者自身も[[西尾維新]]との対談において、重ちー(ハーヴェスト)は最強ではないかという西尾の質問に対し、肯定している<ref>{{Cite book|和書|year=2006|title=西尾維新クロニクル|page=86|publisher=[[宝島社]]|isbn=4-7966-5092-X}}</ref>。
:: スタンド名の由来はニール・ヤングのアルバム「''ハーヴェスト''」<ref name="SJR No16" />。
; {{Anchors|辻彩}}辻 彩(つじ あや)
: 声 - [[水橋かおり]] / [[大原さやか]]
: 杜王町でエステ「シンデレラ」を営む[[エステティシャン]]。世界各国のエステティシャンコンクールで優勝した実力派で「魔法使い」を自称する。「フ〜」とため息をつきながら喋る口調が特徴。幼い頃から童話『[[シンデレラ]]』に登場する魔法使いに憧れ、エステティシャンとなった。
: 「愛と出遭うためのメイク」と称し、スタンド能力でエステを行っていた。康一を振り向かせたい由花子の願いを聞き入れ協力するが、顔を維持するための条件を守らなかったために顔が崩れて逆恨みしてきた彼女に「無数の顔の中から自分の顔を見つけ出す」という選択を迫る。実はその中に正解はなかったが、康一の自身の犠牲を一切厭わない優しさを目の当たりにして心を打たれ、由花子の顔を元に戻した。
: その後、逃走中だった吉良吉影に、川尻浩作の顔と右手の指紋を無理矢理移植させられた後、口封じに殺される。駆け付けた仗助たちに吉良の新しい顔を伝えようとするも、間に合わず爆殺された。遺体も残らなかったため社会的には行方不明者となる。
: テレビアニメでは原作の掲載順とアニメでの放送順が異なる関係上、鈴美の元にスタンド使いが集結する場面にも登場しており、その時点では自分の店に来るとは思っていない旨の発言をする描写が挿れられた。
:; シンデレラ
:: 【破壊力 - D / スピード - C / 射程距離 - C / 持続力 - C / 精密動作性 - A / 成長性 - C】
:: ロボットのような人型のスタンド。身体の部分を[[モンタージュ]]のようにイメージ変換し、人相や運勢を固定する。30分以上固定し続けるためには、スタンドの口紅を30分ごとに塗らなければならず、それを怠ると固定された部分がドロドロに崩れてしまう。ただし、由花子に最終的に固定したメイクはその後はそのまま保たれており、川尻になりすました吉良も彩の死亡後にその身体が崩れることはなかった。
:: スタンド名の由来はアメリカの[[ヘヴィメタル]]バンド「''[[シンデレラ (バンド)|シンデレラ]]''」<ref name="SJR No16" />。
; {{Anchors|吉良吉廣}}吉良 吉廣(きら よしひろ) / 写真のおやじ
: 声 - [[島田敏]] / [[千葉繁]]
: 吉良吉影の父。息子を溺愛し、異常な性癖を理解している唯一の人物。
: かつて、エジプトでエンヤ婆から素養のある人間をスタンド使いに覚醒させる「弓と矢」を譲り受け、その時点でスタンド能力を手にした。吉影が21歳の時に癌により死亡するが、幽霊となってからもスタンド能力で現世に残り息子を護り続けている。写真の中から、着ている寝間着から綻びさせた毛糸を巧みに操り、物体を取ったり移動したりできる。吉影に対しては慈愛に満ちた態度で接する一方、吉影に害を成す相手に対しては一転して攻撃的な本性をさらけ出し、徹底的に排除しようとする。
: 吉良家を調査に来た仗助たちにスタンド能力を用いて襲いかかるが、スタンド能力の弱点を見抜いた承太郎に無力化され、一度は捕われる。だが話術と奇策で億泰と康一を出し抜き「矢」を奪って逃走する。
: その後は「矢」を用いて、吉影を支援して仗助たちを倒すためのスタンド使い(大柳賢、支倉未起隆、噴上裕也、猫草、宮本輝之輔、乙雅三)を作り、また鋼田一豊大を唆して味方につける。仗助と吉影の最終決戦では、早人のポケットに隠れて携帯電話で吉影を援護していたが、それを仗助に気づかれて空気弾を誘導され、吉影の誤爆で写真ごと完全に消滅した。
:; アトム・ハート・ファーザー
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - なし / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 自身が写っている写真の中に空間を隔離するスタンド。写真の中で起きたことは隔離された空間の中にも作用する。写真と同じ空間にいる人間はその枠内から出られず、枠の外からの干渉もできない(干渉しようとすると、枠の外から中をすり抜けて反対側へ移動する)。
:: 「写真の中」へは一切干渉できず、写真自体に攻撃してもそのダメージは写っている人間にそのまま返ってくるため、「写真の中」からの攻撃を防ぐ手段はない。ただし、影響を及ぼせる写真は本体が最後に写った1枚のみなので、新たに写真を撮り直せばリセットされる。半ば「写真の中」と一体化しており、このスタンドの影響下にある写真を吉廣ごと撮影すれば、その空間がくり抜かれたようになる。この能力で仗助と承太郎を殺そうとするが、承太郎に能力の弱点を見抜かれ無力化された。
:: 吉廣のセリフによると生前は写真に入り込む能力だったらしく、幽霊となった現在も感光された後の写真の中に自身や物体を出し入れできる。
:: スタンド名の由来は[[ピンク・フロイド]]のアルバム『アトム・ハート・マザー』(邦題『[[原子心母 (代表的なトピック)|原子心母]]』)<ref name="SJR No17-1" />。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、前半部分が省略され"Heart Father"(ハート・ファーザー)と改名されている。
; {{Anchors|大柳賢}}大柳 賢(おおやなぎ けん) / ジャンケン小僧
: 声 - [[日野未歩]] / [[坂本千夏]]
: 演 - [[柊木陽太]](『[[岸辺露伴は動かない]]』)
: 岸辺露伴が町で吉良吉影の捜査を行っている際、唐突にジャンケン勝負をけしかけてきた捉え所のない不思議な少年。年齢11歳の小学6年生。
: 吉良吉廣によりスタンド使いとなる。左頬には「矢」が刺さった際に生じた穴が開いたままになっている。ジャンケンの勝敗は単なる運ではなく、「心の強さ」で決するものだという持論を持つ。自覚なくスタンドを身につけ、運命で露伴に引かれ戦いとなる。
: 20歳という若さで漫画家として認められている露伴に目をつけ、彼を心の強さで打ち負かして乗り越え、露伴を超える尊敬される人物になるため、ジャンケン勝負を挑む。スタンド能力でヘブンズ・ドアーの2/3を奪うところまで追い詰めるが、静・ジョースターを利用した露伴の策によりヘブンズ・ドアーを奪い返されたうえ、強運を自力で手繰り寄せた露伴に敗北する。その後、露伴に悪事を働くことがないようヘブンズ・ドアーで「再起不能」にしようと詰め寄られるが、「自身の精神が他人の命令に左右されるくらいなら」と道路に飛び出して自決を図ったところ、その矜持に感銘を受けた露伴が自らの強運のみで彼の命を救ってみせたため完全敗北を認める。露伴も潔く敗北を受け入れた賢を「短期間でスゴい奴になった」と認めて「再起可能」のまま見逃した。
:; ボーイ・II・マン
:: 【破壊力 - C / スピード - B / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 5回勝負の「[[ジャンケン]]」を行い、勝った相手のスタンド能力を本体の頬の穴から1/3ずつ吸収するスタンド(自身は2敗までは影響なし)。奪われた相手は、その部位の自由が利かなくなる。その能力の特性から「スタンドは一人一体」の原則の例外であり、一人で複数のスタンドを行使できるようである。フードを被った鋼鉄のロボットのような容姿をしている。吸収したスタンドは、ジャンケン勝負の途中でも吸収した分だけスタンド能力を使える。奪われた相手は、その時点からスタンド能力を奪われた分だけ使えなくなる。また、該当する部分の身体を本体の意のままに操ることもできる。負ければスタンドは逆に奪い返され、相手が3勝すれば吸収した分に関係なくすべて奪い返される。
:: 吉廣はジャンケン勝負という能力の性質上、露伴の「相手の心を覗き見られる」ヘブンズ・ドアーさえ手に入れてしまえば、無敵のスタンドになれると踏んでいた。
:: スタンド名の由来はアメリカのコーラス・グループ「''[[ボーイズIIメン]]''」<ref name="SJR No17-1">『集英社ジャンプリミックス ダイヤモンドは砕けないvol17ハーヴェスト編』 P106-107「The origin of STANDS!」part.4</ref>。デザインのイメージは[[横山光輝]]の漫画に登場するロボット<ref name="STANDS" />。
:: 『オールスターバトル』以降の北米版では"BoyManMan"(ボーイマンマン)、テレビアニメの北米版では"Boys Man Man"(ボーイズ・マン・マン)と改名されている。
; {{Anchors|支倉未起隆}}支倉 未起隆(はぜくら みきたか) / ヌ・ミキタカゾ・ンシ
: 声 - [[加瀬康之]]
: 仗助の高校に転校してきた、「[[マゼラン雲|マゼラン星雲]]からやって来た『宇宙人』で、本名はヌ・ミキタカゾ・ンシ、年齢は216歳、職業は宇宙船のパイロット」と自称する青年。
: 吉良吉廣によりスタンド使いになった、と目されるが描写が不可解で怪しい。吉廣の矢に射抜かれずには済んだものの命中した首の右側に軽傷を負い、意識を失い[[ミステリーサークル]]の中心で倒れていた。目覚めた際に仗助と億泰に出会う。
: 掴み所の無い性格で一般常識に乏しい。ポケットティッシュを丸飲みするなど常軌を逸した行動に出ることもあったが、仗助からは悪人でないと判断された。登場当初はスタンドが見えていない描写があったが、後の相関図(44巻)には「スタンドは見えるらしい」との記述がある{{efn2|スーパーフライ戦でも、クレイジー・ダイヤモンドが見えているかのような発言をしていた。}}。[[サイレン]]の音に対してアレルギーがあると言い、耳にするとジンマシンが出たり、悲鳴を上げたり、嘔吐したりしていた。
: 苦手とするサイレンの音から逃げるために仗助のスニーカーに変身して逃げる手助けをしてもらい、その恩を仗助に返そうとする。仗助は未起隆をサイコロに変身させ、イカサマ博打で露伴から金を巻き上げようと画策した。その後の鋼田一との戦闘の際には変身能力を駆使して仗助と共に戦い、億泰からもその覚悟を認められた。
: 母親なる人物が登場し「息子が『自分は宇宙人だ』と言って転校する先々の学校を混乱させて困る」と言うが、当の未起隆は彼女のことを「母親役を演じさせるために洗脳している」と語っていた。結局、未起隆が宇宙人なのか、そう思い込んでいるスタンド使いなのかは不明のままとなっている。作者は「本当はどっちなんだろうな、というのが面白い」ということで、自分では決めていないと語っている<ref name="gogo">『JOJO-A-GO!GO!』 DISC.3 ARAKI HIROHIKOより。</ref>。
:; アース・ウインド・アンド・ファイヤー
:: 【破壊力 - C / スピード - C / 射程距離 - なし / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: 本体をバラけさせ、何にでも変身できる能力。小さな物や軽いものなら何でも変身でき、複数に分裂することもできるが、自分以上に力のあるものや複雑な機械には変身できないうえ、人の顔真似などもできない。姿を変えた自分を対象に装着させることで自分+対象の結果を出せる。本体の一部を分離して変身させることも可能。未起隆自身はスタンド能力ではなく、宇宙人としての特殊能力だと語り、後のスタンド図鑑で便宜上スタンドに分類されているというタイプ。
:: 後の[[ストーンオーシャン|Part6]]にて同名のスタンド能力が登場したが、そちらは単行本収録時に名称が「プラネット・ウェイブス」に変更されている。
:: 能力名は劇中には登場せず、画集『JOJO A-GO!GO!』でつけられた。能力名の由来はアメリカのバンド「''[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー]]''」<ref name="SJR No17-1" />。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、"Terra Ventus"(テラ・ヴェントゥス)と改名されている。
; {{Anchors|噴上裕也}}噴上 裕也(ふんがみ ゆうや)
: 声 - [[神原大地]] / [[谷山紀章]]
: [[暴走族]]の高校生。「控えめに言っても[[ミケランジェロ]]の彫刻のように美しい」と自称する[[ナルシスト]]。取り巻きにアケミ(声 - [[古賀葵]])、ヨシエ(声 - [[木村珠莉]])、レイコ(声 - [[篠田みなみ]])というヤンキー女3人をはべらせている。自慢は猟犬以上に良い鼻{{efn2|見舞いの品の桃が腐っていることを切る前に察知したり、自身の病室に取り巻きの女たちが来ることが匂いでわかったり、アドレナリンといった常人では匂いを嗅ぐことすらできないものの匂いさえ嗅ぎ分けることが可能。}}。
: 自惚れが強く調子が良い一方で臆病な性格だが、後述のエニグマ戦のように「カッコ悪いことはしない」という心意気が誇り高さとして現れることもある。
: 吉良吉廣によりスタンド使いとなる。バイク事故で重傷を負った際に吉廣の「矢」で貫かれ、スタンド能力を発現する。病院に運ばれた後、自身の負傷を回復させたいという強い思いから事故を起こした二つ杜トンネルに罠を張り、強い生命力を持つスタンド使いを取り込もうと待ち構えていた。
: 岸辺露伴を罠に取り込み、彼を追って現れた仗助と追跡戦を繰り広げた末に辿り着かれた病室では、仗助の養分を吸い取って追い詰めるが、自分の治療用の点滴で仗助が体力を回復したことにより、形勢は逆転する。ケガ人であることを盾に命乞いするも、仗助のスタンドでケガを治されたうえでラッシュ攻撃を叩き込まれ、敗北しそのまま入院継続。
: 後のエニグマ戦にて、仗助と共闘する。当初は調査のみで深入りするつもりはなかったが、康一や仗助の母親を人質にする輝之輔の卑劣さや、罠と分かっていながらそれらを助けようとする仗助のスタイルを目の当たりにし「紙にされたのが取り巻きの誰かだったなら自分もそうしていた」「てめー(宮本輝之輔)や吉良吉影をこの町で生かしておくのはカッコ悪いことだ」と、男気を見せて戦いにも加わった。最終的に敗北して紙にされてしまったものの、それを利用した捨て身の奇策で仗助と康一を救出して勝利に貢献し、仗助からも称賛された。
: 「弓と矢」にまつわる一連の事件の解決後、杉本鈴美が天国へと旅立つ際には見送りに顔を出した。
: テレビアニメ版最終話のエピローグシーンでは取り巻きの女3人を連れて「トラサルディー」に料理を食べに来ており、「ますます美しさに磨きがかかった」と悦に入っていた。
:; ハイウェイ・スター
:: 【破壊力 - C / スピード - B / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 人間の体内に侵入して養分を吸い取る遠隔操作型のスタンド。二つ杜トンネルの中に部屋を作り出し、対象人物が興味をそそる幻覚を見せておびき寄せ、好奇心でその部屋に入り込んだ者の匂いを記憶し、標的をどこまでも追跡する。網目状の模様が付いた人型の姿から、スライス状に分離して複数の足跡のような姿に変化できる。強化された嗅覚や吸収した栄養など、ダメージ以外も本体にフィードバックする特性を持つ。
:: 視覚や聴覚は本体と共有でき、遠隔自動操縦も可能。追跡スピードの最高は時速60km。追跡相手に振り切られた場合には、スタンドを一度解除して予測した大よその位置に再出現させ、相手の匂いを頼りに再度追跡を開始することもできる。
:: スタンド名の由来は[[ディープ・パープル]]の楽曲「''[[ハイウェイ・スター (曲)|ハイウェイ・スター]]''」<ref name="SJR No17-1" />。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、"Highway Go Go"(ハイウェイ・ゴー・ゴー)と改名されている。
; {{Anchors|ストレイ・キャット|猫草}}ストレイ・キャット / 猫草(ねこぐさ) / 元「タマ」
: 声 - なし
: 元は[[ブリティッシュショートヘア|ブリティッシュ・ブルー]]種のネコで、その頃の名前は「タマ」。吉廣の「矢」に貫かれた後、川尻しのぶが誤って倒した棚の下敷きにされて死んだと判断され、川尻家の庭に埋葬されてしまう。だが、実際には仮死状態のまま生きていたため、スタンドの影響で埋葬場所からネコとも草ともつかない未知の生物として生まれ変わる。
: 一応は植物なので歩けず、日の当たらないところではほとんど活動しない。自我はネコのままなので、性格は気まぐれ。「本能と欲望のままに生きる」がモットー。
: 吉廣が吉影を支援するために作った6人のスタンド使いの一人だが、仗助たちよりも先に吉影の方と遭遇する。殺されかけた時の恨みからしのぶを攻撃し、その様子を見た吉良が危険と判断して始末に踏み切るが、スタンドの相性の悪さから断念し、扱いようによっては利用できると考えた彼によって植木鉢に移され、川尻家の屋根裏部屋でひそかに育てられていた。その後、成長により姿が変化した。
: 直接的に仗助らと敵対することはなかったが、仗助と吉良の最終決戦時には「キラークイーン」の腹部シャッター内に取り込まれ、爆弾の能力を最大限に生かす強力な「武器」として利用され、仗助を大いに苦しめる。しかし決戦終盤、キラークイーンが腹部シャッターを閉めていない隙をついて、復活した億泰が「ザ・ハンド」でキラークイーンの腹部から引き寄せて捕えた。
: 吉良との最終決戦後は億泰の父を気に入り、彼の友達になった。
:; ストレイ・キャット
:: 【破壊力 - B / スピード - E / 射程距離 - なし / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - C】
:: 本体と一体化しているスタンド。空気を操る能力を持ち、固めて発砲したりクッション代わりにして防御するなど、幅広く応用できる。空気をなくすことで「キラークイーン」の「第一の爆弾」を無力化した、唯一のスタンドでもある。光合成で行われる呼吸により操作するため、強い光を当てれば当てるほど強化されるが、逆に光を当てなければほとんど無力化される。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[ストレイ・キャッツ]]''」<ref name="SJR No17-2" />。
:: 『オールスターバトル』以降およびテレビアニメの北米版では、"Feral Cat"(フェラル・キャット)と改名されている。
; {{Anchors|鋼田一豊大}}鋼田一 豊大(かねだいち とよひろ)
: 声 - [[遠近孝一]]
: 杜王町郊外の廃[[鉄塔]]を10万円で買い取り、3年間その鉄塔の中だけで[[自給自足]]の生活を送っていた奇妙な男。
: 仗助、億泰、未起隆の3人が好奇心から近寄るが、実は自らのスタンドと一体化した鉄塔に囚われているスタンド使いであり、吉良吉廣が唆して吉影を追う仗助らに仕向けた刺客であった。仗助ら吉影の追跡者の誰かを鉄塔に閉じ込めれば「鉄塔を出た後の生活の面倒はすべて見てやる」という吉廣の言葉を信じ、自身の身代わりとして鉄塔に閉じ込めようと仗助らに襲いかかる。
: 仗助たちと出会った際の顔は素顔ではなく精巧なマスクを被っており、名前も偽名であったりと、鉄塔を出た逃亡後に追跡されないための下準備もしていた。長年の鉄塔での生活で掌のタコが異常なほど硬く発達しており、電線に引っかけたり、カッターナイフなどの小物を収納できるなど幅広く応用が利く。鉄塔とスタンド能力の特性を熟知しており、鉄塔内での地の利を生かして戦う。
: 鉄塔に入り込んだ仗助と未起隆に対し、鉄塔への攻撃エネルギー循環を操作して戦い追い詰めるが、クレイジー・ダイヤモンドの「治す」能力でエネルギーを撃ち返されて敗北した。この敗北で、自分が一番安心して生活できる場所はここしかないと改心し、鉄塔中で生涯を過ごすことを決意する。
: その後、吉良親子に関する情報を仗助に問われた際には、別の刺客(エニグマの少年)によって康一がすでに始末されたという情報を、仗助らに提供している。
: テレビアニメ版ではその後も未起隆と交流があるようで、彼に釣った魚の手料理を振舞っている。
:; スーパーフライ
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - なし / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 豊大が住居としている鉄塔と一体化しているスタンド。鉄塔の枠の中に1人以上残っていない状態で枠の外に出ようとすると、枠の外に出た部分が鉄塔の一部に変化してしまうため、一度捕らわれれば誰かと入れ替わるまで脱出できない。本体である鋼田一豊大にも制御ができず同調もしておらず、スタンド能力が「ひとり歩き」している状態のため、彼自身も能力に囚われてしまっている。
:: また、攻撃を受けるとその破壊エネルギーを鉄塔内で循環させた後、攻撃を受けた場所から放出するため、破壊することもできない。この性質を利用し、豊大は放出される破壊エネルギーの軌道を見切ることで、攻撃や移動にも使用している。また、鉄塔に多少のダメージを与えても本体に影響はない。
:: スタンド名の由来はアメリカの歌手[[カーティス・メイフィールド]]の楽曲およびその収録アルバム「''[[スーパーフライ (アルバム)|スーパーフライ]]''」<ref name="SJR No17-1" />。
; {{Anchors|宮本輝之輔}}宮本 輝之輔(みやもと てるのすけ) / エニグマの少年
: 声 - [[成瀬誠]] / [[河西健吾]]
: 吉良吉廣によりスタンド使いとなる。他人が恐怖する姿を観察することに悦びを得る悪癖を持ち、その欲求を満たすために能力を悪用する少年。劇中では本名が出ず「エニグマの少年」と表記されていたが、後に関連書籍で正式な名前「宮本輝之輔」が明かされた。
: 康一や朋子をスタンド能力で人質にして仗助を追い詰めるが、噴上裕也の協力もあり抹殺に失敗する。その卑劣な手段と陰湿な性格が仗助の怒りを買い、最後は彼によって[[シュレッダー]]の紙屑と融合させられて本になり、杜王町の図書館に寄贈される。この本を読んでいると、時折声が聞こえるらしい。
:; エニグマ
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - C / 持続力 - A / 精密動作性 - C / 成長性 - C】
:: あらゆる物体を紙の中に閉じ込めることができる人型のスタンド。人間に対しては発動条件があり、個人が持つ特有の「恐怖のサイン」を、輝之輔が見抜いたうえで相手に示させることで紙に閉じ込めることができる。何かを閉じ込めた紙は折りたたまれており、開くことで中身を取り出すことができる。
:: 本体の輝之輔も紙の中へ自由に出入り可能で、紙に入った状態で身を潜めたり、風を利用して飛び回ったりする移動ができる。紙の中では時間経過の概念がないため、ラーメンも温かいまま麺が伸びることなく保存でき、タクシーのような大きな物体も運転手ごと閉じ込めることが可能{{efn2|作中では運転手ごと閉じ込められており、出された際には紙の中での記憶はなかった。}}。
:: スタンド自身に攻撃力はないが、紙に閉じ込めた物体は、紙を破り裂くなど破損させれば同じようにダメージを受けるため、あらゆる物体を簡単に破壊できる。
:: スタンド名の由来は[[ルーマニア]]の音楽プロジェクト「''[[エニグマ (ミュージシャン)|エニグマ]]''」<ref name="SJR No17-1" />。
:: 『オールスターバトル』、テレビアニメの北米版では、"Misterioso"(ミステリオーゾ)と改名されている。
; {{Anchors|乙雅三}}乙 雅三(きのと まさぞう)
: 声 - [[石井真]]
: 演 - [[市川猿之助 (4代目)|市川猿之助]](『岸辺露伴は動かない』)
: 半焼した岸辺邸を改修工事の見積りのために訪れた、一級建築士。1970年生まれ。
: 吉良吉廣によりスタンドを引き出されるも雅三にその自覚はなく、スタンドが生み出した本体にさえ害をなしている。スタンド能力には最後まで無自覚だったが、「背中を見られたくない」「見られたらおしまいだ」という恐怖だけは感じており、他人に背中を見せないように生活していた。対面の際に背中を隠すための奇行が多い一方、性格は温厚で礼儀正しく商売人としては腹黒く金に汚いという、あくまで普通の人間である。
: 岸辺邸を訪れた際には先述の奇行が逆に露伴の好奇心を煽り、背中を見られたことでスタンドのスイッチが入ってしまう。最後は、チープ・トリックが露伴へ移動したときのショックによって背中から血を噴き出して怪死し、ミニチュア人形のように小さく干からびた死体と化した。
:; チープ・トリック
:: 【破壊力 - E / スピード - E / 射程距離 - E / 持続力 - A / 精密動作性 - E / 成長性 - E】
:: 自意識を持ち、宿主の背中に取り憑く完全な自律型スタンド。パワーはほとんど無く、本人いわく「絆創膏を剥がすほどの力さえも持っていない」そうだが、作中で出前を注文しているシーン{{efn2|テレビアニメ版ではカットされている。}}があるので、受話器を持ち上げる程度の力はある模様。他人のボケに対してツッコミをしたり、慰めたりもする。「ね?」が口癖。
:: 宿主の耳元で囁くことで精神的なダメージを負わせるほか、周囲の人や動物に話しかけ、宿主の背中を見るように仕向ける。宿主が誰かに背中を見られると、このスタンドは背中を見た者(動物も含む)の背中へ移動して取り憑き、その者を新たな宿主とする。その際に元の宿主は背中を引き裂かれ、精気を吸われて死亡する。
:: 能力によって貼り付いているために物理的な力で引き剥がすことはできず、強引に剥がそうとすれば背中ごと裂けてしまううえ、スタンド攻撃もそのまま宿主へ跳ね返ってくる。自他ともにろくな行動ができず、能力の発現に第三者を必要とする受動的なスタンドである。
:: 雅三の背中を見た露伴に取り憑き、吉良の手掛かりとなる写真を焼けば周囲に背中を見るように仕向けないと露伴に取引を持ち掛けるが拒否され、対抗策を思いついて外出した彼にさまざまな妨害を行う。最後は、「ふり向いてはいけない小道」にたどり着いた露伴が康一にわざと背中を見せ、彼に取り憑こうとふり向いた結果、そこにいる存在によって露伴から引き剥がされ、彼のヘブンズ・ドアーによって「地獄に行く」と書かれた状態であの世へ引き込まれていった。
:: スタンド名の由来はアメリカのバンド「''[[チープ・トリック]]''」<ref name="SJR No17-2">『集英社ジャンプリミックス ダイヤモンドは砕けないvol17ハーヴェスト編』 P188「The origin of STANDS!」part.5</ref>。モチーフは[[おばりよん|おんぶおばけ]]<ref name="STANDS" />。
:: テレビアニメの北米版では、"Cheap Trap"(チープ・トラップ)と改名されている。
=== その他・杜王町の住人 ===
; 杉本 鈴美(すぎもと れいみ)
: 声 - [[広橋涼]] / [[原紗友里]]
: コンビニ「オーソン」と薬局「ドラッグのキサラ」の間にある(実際には存在せず地図にも掲載されていない)小路に出現する、少女の幽霊。
: 1983年8月13日、自宅において両親や飼い犬アーノルドと共に、吉良吉影に殺害された。享年16。吉良の顔を見ていないため、正体までは知らない。それから15年間、犯人の危険性を街中の人に伝えるため、[[地縛霊]]となって現世に留まっている。
: 事件のあった晩、杉本家は当時4歳の岸辺露伴を預かっていた。自らの命を犠牲にして露伴を逃がしたが、彼は当時の記憶を喪失している。幼少時の露伴を知っているため、彼のことは「ちゃん」付けで呼ぶ。吉良の死後、露伴や康一、杜王町の人々に見守られながら、アーノルドと共に現世を去る。
; アーノルド
: 杉本鈴美の飼い犬の幽霊。かつて、杉本家で吉良吉影によって首を切られて殺害された。鈴美と共に地縛霊となっている。
: 死んで幽霊となった吉良に奇襲をかけ、罠にはめて完全に倒す。最終的には鈴美と共に現世を去る。
; 虹村(父)(にじむら)
: 声 - [[楠見尚己]]
: 演 - [[水橋研二]]
: 虹村兄弟の父親。
: 元々は東京在住で、何らかの会社(テレビアニメ版では不動産会社)を経営していた。しかし、1987年に妻を病で失ったうえ、1989年には[[バブル景気|バブル]]期でありながらも運営に失敗し、莫大な借金を残して会社は倒産した。
: その後、スタンドの才能をDIOに見いだされ、報酬と引き換えに彼の部下になる(ただしPart4からの登場であり、Part3作中には未登場)。億泰が「5〜6年は生活していく蓄えはある」「家には食っていくだけの金はある」と発言していることから、DIOによる報酬は借金を返済しても余るほどであったことがうかがえる。
: DIOが死亡したことで頭に打ち込まれていた「肉の芽」が暴走して脳と肉体を侵食され、醜悪な肉塊に包まれた容姿と化す。知能も著しく低下し、異常な再生能力を有して死にたくても死ねない怪物と変わり果ててしまう。スタンド使いであったが、人格を失ったことでスタンドを使用することはできなくなり、どのようなスタンドであったかは不明である。
: 息子の形兆によれば、会社の倒産直後は息子たちに理不尽な暴力を振るうような堕落しきった状態だった。しかし、不死身の怪物と化したのちも、家族の写真が入っていたはずの箱を必死に漁り、写真の復元を試み続けるなど、家族を思う気持ちだけは残っていた。
: 吉良吉影の死後は彼の飼育していた猫草に気に入られ、一緒に暮らしている。テレビアニメ版では最終話エピローグでトニオの料理を食べ、億泰は元の体に戻ることを期待するが、一皮剥けて肌がきれいになっただけに留まるというシーンが追加された。
: ノベライズ『[[JOJO'S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN|OVER HEAVEN]]』によると、DIOの組織での役割は日本担当で、主に病床の空条ホリィの監視が仕事であった。
: 下の名前は原作・テレビアニメ版では不明だったが、実写映画版にて'''虹村万作'''(にじむら まんさく)とつけられた<ref>「映画 ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章 公式パンフレット」[[東宝]]、6頁</ref>。
; 川尻 浩作(かわじり こうさく)
: 会社員。吉良吉影に年齢と体格が近い。そのために身代わりとして狙われ、殺害されたのちに自身の顔と右手の指紋をシンデレラの能力で吉良に移植させられ、成り替わられた。
: 寡黙で朴訥(ぼくとつ)な性格だったらしく、「大酒をくらうわけではない」「仕事には真面目」と妻のしのぶに評されているが、同時に「フロ・メシ・ネルしか言わない」「つまらない男」と語られている。息子の早人には「普段から会話の機会もなく、親子仲は決して良いものとはいえなかった」と評されている。吉良の推測によれば、生前は仕事での昇進を狙っていたふしがある。
: [[シイタケ]]が大の苦手。浩作になりすました吉良はそのことを知らずに食してしまい、しのぶに「珍しい」と指摘される。身体が完全一致であるわけもないことも踏まえて、早人に怪しまれた。本物の遺体は爆破で消され、吉良の死後は[[行方不明]]扱いになっている。
; 川尻 しのぶ(かわじり しのぶ)
: 声 - [[嶋村侑]]
: 川尻浩作の妻。短大生時代に川尻浩作と交際し、[[できちゃった結婚|早人を妊娠したために結婚]]した。周囲への優越感で選んだ浩作に「つまらない」という感情を抱き続けており、結婚の理由になった早人の存在をも枷と考え、内心では疎んじていた。
: だが、夫が吉良吉影と入れ替わってからは、打って変わってスリルのある行動を取るようになった夫に対し、ときめきを感じるようになる。最終的には早人の成長にも気づくようになり、母としても成長している。
: 猫好きだが、猫草になる前の猫(タマ)を事故で殺してしまったことにより、猫草に嫌われている。襲われた際には足の爪を剥がされたうえ、胸に空気弾を受けて吹き飛ばされて失神したところを吉良に助けられている。
: 最終決戦後、吉良の事故死により失踪扱いとなった夫の帰りを、今後も待ち続けるであろうと語られている。
; 東方 朋子(ひがしかた ともこ)
: 声 - [[豊口めぐみ]](第1話 - 第15話)→[[伊藤静]](第31話 - 第39話){{efn2|豊口の産休による声優交代。}}
: 演 - [[観月ありさ]]
: 仗助の母親。36歳。職業は教師(科目は不明)。恐怖を感じると唾を飲みこむクセがある。好物は鎌倉銘菓の「[[鎌倉カスター]]」。大学在学中に当時62歳のジョセフと不倫し、仗助を産んだ。
: 実年齢よりも若く見える美人。仗助と同様にキレやすい性格をしており、自分をナンパしてきた男には暴力を振るい、家の前に犬の糞をされた際には「飼い主のポケットに糞を入れてやる」などと発言している。注意深い性格でもあり、牛乳屋に変装したアンジェロが渡してきた牛乳瓶に、わずかな異変があることにもすぐ気づいている。
: 幼少時代の仗助が高熱で生死の境をさまよった際には大雪の中を自家用車で病院へ急ごうとして立ち往生し、「ただのカゼだと言われようとも救急車を呼ぶのをためらうのではなかった」と後悔した。しかし、結果的にはこの出来事が、仗助が学ラン姿の少年に憧れるきっかけとなる。
: ジョセフのことは現在でも愛しており、承太郎が来宅したときにはジョセフと間違えて抱きついた。
; 東方 良平(ひがしかた りょうへい)
: 声 - [[宝亀克寿]]
: 演 - [[國村隼]]
: 朋子の父で、仗助の母方の祖父。定年間近で出世こそ無かったが、35年間杜王町を守ってきた正義感あふれる[[日本の警察官|警察官]]。普段はお茶目な姿も見せるが、時折見せる顔は町を守る男の顔。杜王町と朋子、仗助を深く愛する。ファッション収集が唯一の趣味であり、その性格は仗助にも受け継がれている。
: 片桐安十郎(アンジェロ)を最初に捕まえた警官でもあり、逆恨みを込められたアクア・ネックレスによって殺害される。その際に出血していた遺体は仗助のクレイジー・ダイヤモンドによって修復されるが、すでに良平が絶命していたことから蘇生までは叶わず、死因は急性[[心臓発作]]{{efn2|テレビアニメ版では[[脳出血|脳溢血]]。}}として扱われた。享年55。仗助は尊敬すべき祖父を殺害された後悔から、彼の代わりに杜王町を守ろうと決意することになる。
: テレビアニメ版では、骨壺が入った化粧箱や「福守良道信士」という戒名が書かれた位牌が遺影の隣に添えられている。
; 広瀬姉弟の母親
: 声 - [[長尾歩]]
: 下の名は不明。息子の康一を信じている温和な性格で、良き理解者。
; 広瀬 綾那(ひろせ あやな)
: 声 - [[武田華]]
: 康一の2つ年上の姉で、女子高の3年生。母親似で康一を「康ちゃん」と呼んでいる。名前は露伴のヘブンズ・ドアーによって判明した。
; ポリス
: 広瀬家で飼っている犬。動くことが苦手ですぐ眠ろうとする。康一いわく「ボケ犬」。
; 学ラン姿の少年
: DIOの復活でスタンド能力が発現し、それに伴う高熱で生死の境をさまよう幼少期の仗助を朋子が病院に運ぶ途中、積雪に車のタイヤを取られて立ち往生していたところに通りかかった、リーゼントヘアで学ラン姿の少年。どこかで喧嘩でもしてきたのか傷だらけの姿だったが、着ていた学ランを何の躊躇もなく車のタイヤ下に敷いて車を押し動かすと、ボロボロになった学ランを手にして何事もなかったようにその場を立ち去る。後日、朋子は礼を言うためにその少年を探したが見つからず、彼が誰なのかは不明のままだったが、朦朧とする意識の中で見たその姿に仗助は憧れ、同じような服装や髪型をするようになる。
: テレビアニメ版では声優がキャスティングされておらず、台詞は字幕で表示されている。ノベライズ版『The Book』でも言及がある。
; DIO(ディオ)
: [[ファントムブラッド|Part1]]や[[スターダストクルセイダース|Part3]]でジョースター家の宿敵として登場した人物。
: Part3で空条承太郎に倒されたため、本作では直接の登場はないが、承太郎などの台詞や虹村形兆の回想で登場する。
: {{main|ディオ・ブランドー}}
; エンヤ婆
: [[スターダストクルセイダース|Part3]]の登場人物で「魔女」の異名を持つ老婆。素養のある人間にスタンド能力を発現させる「弓と矢」を使い、DIOをはじめとする多くのスタンド使いを生み出した。
: 本作では、かつて虹村形兆や吉良吉廣に接触し、「弓と矢」を託していたことが明らかとなる。
; 大倉 美那子(おおくら みなこ){{efn2|エンディングテロップでのキャスト表記では「美那子」のみ。}}
: 声 - [[朝井彩加]]
: 川尻に化けた吉良が通勤電車内で接触し、ひと悶着起こした一般人女性。殺人衝動を抑えられなくなった吉良に後をつけられ、交際相手のサトルを殺された直後に爪切りを強要された後、爪切りをした手だけを残してキラークイーンで爆殺される(この現場は後をつけていた早人に目撃される)。
: 原作では下の名前しか登場していないが、テレビアニメ版では承太郎が持っていた行方不明者の資料にフルネームが記載されている。また、その資料によるとS市M短大一年生の19歳で家族は両親と弟・妹がおり、父親との口論が元で家出してサトルの家に転がり込んでいたとされている。
; 中江 悟(なかえ さとる){{efn2|エンディングテロップでのキャスト表記では「'''サトル'''」。}}
: 声 - [[畠中祐]]
: 美那子の交際相手。電車内で川尻(吉良)と揉めた後、マンションの部屋に上がりこんできた吉良を追い出そうとして爆殺される。
: 名前は美那子のフルネームと同様、テレビアニメ版で承太郎が持っていた行方不明者資料に記載。また資料中ではT大学三年生の22歳で、マンションの部屋が彼の自宅であることが分かる。
; カイ原田(カイ はらだ)
: 声 - [[バッキー木場]]
: アニメオリジナルキャラクター。杜王町で放送中のラジオ番組『杜王町RADIO』のメイン[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティー]]。キャッチフレーズは「あなたの隣人、カイ原田!」。ラジオからの声のみで本人の姿は登場していない。
: 吉良吉影は『杜王町RADIO』が好きな様子で、自宅および殺害した女性宅での朝食の準備中に流したり、川尻浩作に成り済ましてからさえも食事の準備中には同番組を流していた。
== 用語 ==
; M県S市杜王町
: 人口約53000人の[[東北地方]]の中心都市の郊外にある大規模な[[日本のニュータウン|ニュータウン]]。町の花は「フクジュソウ」。特産品は「[[牛タン|牛たん]]のみそづけ」。1980年前半からS市の[[ベッドタウン]]として急速に発展した。その後の外伝『デッドマンズQ』では、S市の[[政令指定都市]]化によって[[行政区]]化している。その範囲は海岸部から丘陵部まで幅広く(『[The Book』より)、その快適な環境から行楽シーズンでは各地から観光客が訪れるが、同時に年に全国的平均から見ても7、8倍の行方不明者が発生する。
: モデルとなっているのは、作者の出身地である[[宮城県]][[仙台市]]<ref name="hirosegawa1">[http://www.hirosegawa-net.com/interview/new/18_01.html 私の広瀬川インタビューVol.18 マンガ家 荒木飛呂彦さん「第1回 「杜王町」と仙台市との関係は?」]</ref>であり、作中に出てくる地名(勾当台、定禅寺、国見など)には実際の仙台市北部・中心部の地名と同一のものもみられる。市の名前が'''S市'''と伏せ字になっているのは、本作に殺人鬼が登場することから仙台を舞台とすることをためらったためであり、杜王町という架空の街を舞台にしたのも「仙台市民になるべく迷惑がかからないように」という配慮からである<ref name="hirosegawa1"/>。また、連載時(1992年 - 1995年)はS市というのが仙台市で、杜王町はその郊外の街という設定になっており、仙台市そのものが舞台ではなかった。
: 地理上のモデルは、[[松島町]]の北から[[東松島市]]のあたりが参考にされている。また、ベッドタウンとしての街のイメージは、1970 - 1980年代に仙台市北部周辺に造成されていった新興住宅地(仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]]〈旧・泉市〉や[[宮城野区]]の[[鶴ヶ谷ニュータウン]]など)がモデルとなっている<ref name="hirosegawa1"/>。
: この地名は[[ジョジョリオン|Part8]]など作中だけではなく、作者の原画展の告知にも使われている<ref>[http://www.jojo-morioh.com/ 荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町]</ref>。
: 物語の途中で杜王町内の一部の地名が変更され、「定禅寺」が読みはそのままで字が「浄禅寺」に(なお、モデルである仙台市の地名は最初に使われていた「定禅寺」の字)、「杜王駅」が「杜王町駅」にそれぞれ変わっている。
: 単行本第33巻に登場した杜王町地図では、第32巻に登場した「CAFE れんが亭」の位置に「カフェ ドゥ・マゴ」と表記されているが、第38巻に登場した杜王駅前上面図でのカフェ ドゥ・マゴの位置は、第33巻の地図と異なっている。なお、リミックス版のおまけページでの特集では、先に発売された一部抜粋収録版でれんが亭の名前が変わったと書かれているが、後に発売された全話収録版ではれんが亭とドゥ・マゴを別々の店として扱っている。
: 実写映画版では、後述するように[[スペイン]]の[[シッチェス]]が[[ロケーション撮影|ロケ]]地として用いられている。
; 「弓と矢」
: Part4以降の物語に深く関わるアイテム。矢に射抜かれた者は、スタンド使いの素質を持っていれば死なずにスタンド使いとなる。射抜かれずに傷つけられても、発熱に苛まれて、生き残ればスタンド使いとなる。適性がなければそのまま死ぬ。弓および矢の胴体部分には、特に特殊な能力はない。
: DIOのもとでエンヤ婆が所有していたことが判明しており、Part4の劇中では2組登場する。虹村形兆は1組目の弓矢で無差別に町の人間を射抜いてスタンド使いと犠牲者を作っていた。吉良吉廣の2本目の矢は、吉廣と吉影からスタンド能力を引き出す。この2本目はスタンドの素質を持つ者を意思を持ったかのように選んで指し示し、仲間作りに貢献したほか、勝手に動き出して吉影を貫いて「バイツァ・ダスト」を目覚めさせた。
: 続くPart5『黄金の風』にてさらなる情報が明らかになる。鏃は50,000年ほど前に地球に飛来した隕石を古代人が加工したもので、発熱とスタンドを引き出す原理はウイルス進化ではないかと言われる。[[ディアボロ (ジョジョの奇妙な冒険)|ディアボロ]]がエジプトで矢6本を発掘し、1本を私有して5本をエンヤ婆に売った。またノベライズ版の『The Book』には、ディアボロの6本以外の矢(古代人の失敗作か)が言及される。
; オーソン (OWSON)
: 杜王町の名所「少女の幽霊に会える小道」に隣接する[[コンビニエンスストア]]。康一が利用するほか、吉良に関する打ち合わせを店の前で行っている。
: なお、モデルになった[[ローソン]] (LAWSON) は、連載開始以前の1978年に仙台市への出店を果たしている。2012年には、同時期に開催された作者の原画展に合わせてローソン仙台柳町通店の看板が改装され、「オーソンS市杜王町店」として期間限定営業が実施された<ref>[http://lwp.jp/jkb/campaign/static/jkb/owson/ ジョジョの奇妙な冒険キャンペーン]</ref>。また、2016年8月に開催された「ジョジョ七夕まつり in S市杜王町」においても仙台柳町通店が「オーソンS市杜王町店」として期間限定で営業した<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-06|url=http://gigazine.net/news/20160806-jojo-sendai/|title=「ジョジョ七夕まつり in S市杜王町」に参加すべく仙台に行ってきました - GIGAZINE|work=[[GIGAZINE]]|accessdate=2016-10-01}}</ref>。
; 黄金の精神
: 最終話にて、ジョセフが町を離れる際、杜王町の若者たちに向けて彼らを賞賛した言葉。
=== 杜王町の名所 ===
; アンジェロ岩
: 名所その(1)。片桐安十郎が仗助によって岩と一体化させられ、そのまま放置されている。不気味な外見とは裏腹に町民には親しまれており、恋人の待ち合わせの場所として人気を博している。粉々に粉砕された後、念入りに融合させられたので、動くこともスタンドを出すこともできないが、意識は残っており、話しかけると、「アギ…」という唸り声が聴こえてくることがある。
; ボヨヨン岬
: 名所その(2)。岬の崖から転落して岩にぶつかりそうになった由花子が、エコーズACT2の能力によって助けられた瞬間を漁師が目撃したことから広まった。漁師たちの間では海の神様がいると信じられている。ただし、そのしっぽ文字はACT2により取り去らわれているため、二度と弾くことはない。
; 岸辺露伴の家
: 名所その(3)。物語開始の3か月前に引っ越してきた。本人はとても忙しいためか、サインをもらおうと家を訪れても出てこない。仗助のせいで火事に遭っている。後に、この家は山を購入したことが原因で破産し売却したことが『[[岸辺露伴は動かない]]』にて判明している。
; 少女の幽霊に会える小道
: 名所その(4)。「振り向いてはいけない小道」とも呼ばれる。地縛霊になった杉本鈴美と愛犬アーノルドが存在している場所であり、死者の魂の通り道。入口はオーソンとキサラの間の道だが、前述の理由から地図にも無く通常は見えない。出口はポストを越えて曲がった後、20m先の道にある。その間、ポストを越えて出口に到着するまでは決して後ろをふり返ってはいけないという決まりがあり、ふり返った者(人間はもちろん、スタンドでも)無数の手によりあの世へ引きずり込まれる。道を通る間は、後ろから得体の知れない何者かが振り向かせようと、さまざまな嫌がらせや誘惑、脅しをかけてくるが、振り向かない限りその実体には捕まらない。吉良吉廣は「この世とあの世の通り道」と息子・吉影に話している。
; 送電鉄塔に住む男
: 名所その(5)。鋼田一豊大が住んでいる鉄塔。豊大は自給自足で鉄塔ライフを確立させているが、塩や菓子類は手に入らないため、持って行くと喜んで写真撮影などに応じてくれるという。
==== アニメ版で追加された名所 ====
; イタリア料理店「トラサルディー」
: 杜王町国見峠霊園バス停から徒歩で1分の所で営業しているイタリア料理店。決まったメニューはなく、経営者兼シェフのイタリア人・トニオが客の健康状態を診て、体調に見合った料理を出す。杜王町で採れた食材を使うイタリア料理は絶品で体調も回復することから繁盛しているが、トニオが1人で経営しているためにテーブルが2つしかなく、予約が推奨とされている。
; 杜王グランドホテル
: 海岸沿いの「杜王海水浴場」に位置する杜王町を代表するホテル。杜王町に滞在中の承太郎が長期宿泊している。
: 高級別荘地帯にある趣と歴史あるホテルは杜王町を訪れる旅行者の宿として長年愛され、満足できるサービス精神によりリピーター客も多い。ホテル内のレストランで食べられる[[牛タン]]料理は、絶品と評判である。
; パン屋「サンジェルメン」{{efn2|原作では「サンジェル'''マ'''ン」と呼称されている。}}
: 杜王駅から伸びるグリーンロードを歩いて1分の所に位置するパン屋。独自の製法と石窯で焼いたパンにこだわりを持ち、学生やOLなどの幅広い層から支持され、特に11時に焼き上がったパンで作るサンドイッチは、昼食時には必ず売り切れるほどに人気がある。
; 二つ杜トンネル
: 杜王町とS市をつなぐ国道に存在する[[トンネル]]。[[嘉永]]五年(1852年)開通。[[昭和]]58年(1983年)修復。全長450m。
: トンネル内はカーブしているために反対側の道路が見えず、夜道の灯りが少ないために[[交通事故]]が絶えないうえ、不気味な雰囲気からも[[心霊スポット]]として若者の間で有名である。
== 書誌情報 ==
=== 漫画 ===
{{main|ジョジョの奇妙な冒険#書誌情報}}
* 『ジョジョの奇妙な冒険』29 - 47、[[ジャンプ・コミックス]]、1992年 - 1996年、全19巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険』12 - 28「Part4 ダイヤモンドは砕けない」、[[集英社ジャンプリミックス]]、2002年 - 2004年、全17巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険』18 - 29「Part4 ダイヤモンドは砕けない」、[[集英社文庫]]、2004年、全12巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』、集英社ジャンプリミックス、2006年、全10巻
* 『ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない 総集編』、集英社マンガ総集編シリーズ、2016年、全6巻
=== スピンオフ ===
『[[岸辺露伴は動かない]]』 - 登場人物の一人である[[岸辺露伴]]を中心として展開するスピンオフ作品。『週刊少年ジャンプ』1997年30号にて第1作『懺悔室』が発表され、その後、不定期に新作が発表されており、一部のエピソードは2017年以降に[[OVA]]化や実写ドラマ化がされている。時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種の[[パラレルワールド]]的なエピソードも存在する。なお、Part4の主人公東方仗助は一貫して後ろ姿のみの登場となっており、セリフも一切ない。これは「ひとつの作品に主役はふたり並び立てない」という原作者である荒木の考えからであることが、OVA版監督の加藤敏幸によって明かされている<ref>『岸辺露伴は動かない』OVAコレクターズエディション 同梱ブックレット 5ページ 「エピソード#16 懺悔室」</ref>。{{main| 岸辺露伴は動かない}}
『ジョジョの奇妙な冒険 クレイジー・Dの悪霊的失恋』(原作:[[上遠野浩平]]、漫画:[[烏丸匡|カラスマタスク]]) - 『[[ウルトラジャンプ]]』2022年1月号より連載が開始されたスピンオフ作品。時系列は原作Part4の前日談に当たり、東方仗助が空条承太郎と出会う前、まだ仗助のスタンドが「クレイジー・ダイヤモンド」と名付けられる以前に杜王町で起きた事件を描く。また、Part4の前日談だけでなく、Part3の登場人物や、登場人物の親族も登場しており、Part3の後日談的な内容にもなっている。原作者である荒木飛呂彦は『Original Concept』という形で作品に関わるため、原作者が執筆しないジョジョの奇妙な冒険のスピンオフ漫画作品はこれが初になる<ref>https://ultra.shueisha.co.jp/manga/manga-4386/ ウルトラジャンプ作品紹介</ref>。
=== 小説 ===
『“The Book” Jojo's Bizarre Adventure 4th Another Day』(著:[[乙一]]。2007年。ジャンプ j-BOOKS) - 時系列は原作Part4の後日談に当たり、杜王町の住人である新たな人物や広瀬康一などを語り部として、杜王町で起こったもう一つの事件を描くノベライズ作品。キャッチコピーは「ジョジョの奇妙な冒険20周年乙一×JOJO」「本の存在により、仗助は死ぬ」{{要出典|date=2021年4月}}。{{main| The Book (小説)}}
『岸辺露伴は叫ばない 短編小説集』(著:[[維羽裕介]]、[[北國ばらっど]]、[[宮本深礼]]、[[吉上亮]]。2017年 - 2018年。ジャンプ j-BOOKS) - 『岸辺露伴は動かない』を原作とするノベライズ作品のスピンオフ集。『ウルトラジャンプ』2017年8月号および9月号、2018年1月号にて作品が発表され、後にこれらのエピソードを集めた作品集として『岸辺露伴は叫ばない』『岸辺露伴は戯れない』の2巻が発行されている。『岸辺露伴は動かない』同様に、時系列はエピソードごとに異なり、Part4本編とはつながらない一種のパラレルワールド的なエピソードも存在する。{{main| 岸辺露伴は叫ばない 短編小説集}}
他に『テュルプ博士の解剖学講義』がある。『The Book』の前に冒頭部のみが書かれた作品であり、未完・単行本未収録、荒木飛呂彦が挿絵を描き下ろしている。2002年の『読むジャンプ』に掲載された。書き直して別物になった完成作が『The Book』である。
== テレビアニメ ==
{{main|ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)}}
『'''ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない'''』のタイトルで、2016年4月から12月まで全39話で放送された。
アニメ化での主な変更点は、エピソードの時系列が「山岸由花子はシンデレラに憧れる」→「吉良吉影は静かに暮らしたい」の順に入れ替わっているほか、「鉄塔に住もう」「エニグマの少年」「ぼくのパパはパパじゃない」「チープ・トリック」の4つのエピソードをまとめて「7月15日(木)」とし、ストーリーを時系列順に進行させている。
== 実写映画 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = ジョジョの奇妙な冒険<br />ダイヤモンドは砕けない 第一章
| 原題 = JOJO's Bizarre Adveture: <br />Diamond is Unbreakable - Chapter 1
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[三池崇史]]
| 脚本 = [[江良至]]
| 原作 = [[荒木飛呂彦]]「ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない」
| 製作 = [[源生哲雄]]<br />坂美佐子
| 製作総指揮 =
| 出演者 = [[山﨑賢人]]<br />[[神木隆之介]]<br />[[小松菜奈]]<br />[[岡田将生]]<br />[[新田真剣佑]]<br />[[山田孝之]]<br />[[伊勢谷友介]]<br />[[観月ありさ]]<br />[[國村隼]]
| 音楽 = [[遠藤浩二]]
| 主題歌 =
| 撮影 = [[北信康]]([[日本映画撮影監督協会|J.S.C.]])
| 編集 = [[山下健治]]
| 制作会社 = [[オー・エル・エム|OLM]]
| 製作会社 = 映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』製作委員会<br />[[TBSテレビ]]
| 配給 = [[東宝]]<br />[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]
| 公開 = {{flagicon|JPN}}2017年8月4日
| 上映時間 = 119分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 = 9億2000万円<ref>『[[キネマ旬報]]』2018年3月下旬 映画業界決算特別号 p.33</ref>
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章'''』(ジョジョのきみょうなぼうけん ダイヤモンドはくだけない だいいっしょう)のタイトルで、2017年8月4日に公開<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/213301|title=山崎賢人主演「ジョジョの奇妙な冒険」公開日が8月4日に決定|newspaper=映画ナタリー|date=2016-12-15|accessdate=2016-12-15}}</ref>。監督は[[三池崇史]]、主演は[[山﨑賢人]]。[[東宝]]と[[ワーナー ブラザース ジャパン]]による初の共同製作・配給作品である。
=== 製作 ===
2016年9月28日に制作発表記者会見が行われ、監督の三池や主演の山﨑ら主要俳優陣が登壇した<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2079123/full/|title=人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』が初の実写映画化 山崎賢人が主演|newspaper=ORICON NEWS|date=2016-09-28|accessdate=2017-05-04}}</ref>。
プロデューサーの[[平野隆]]によれば、タイトルに「第一章」と冠している理由は原作の第4部の長さが2時間の尺では収まらないことを挙げ、第一章は1本で楽しめるようにしたいが、客の応援次第で第4部をすべてやっていきたいからだそうである<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2079137/full/|title=実写『ジョジョの奇妙な冒険』続編も視野「第4部すべてやりたい」|newspaper=ORICON NEWS|date=2016-09-28|accessdate=2017-05-04}}</ref>。実写化の構想は10年ほど前から抱いており、日本が舞台ということから第4部を選んで5年以上前から企画を始動させ、荒木を口説き落として実写化にこぎつけた<ref name="N0090986">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0090986|title=『ジョジョ』、4部を実写化に選んだ理由|newspaper=シネマトゥデイ|date=2017-05-04|accessdate=2017-05-04}}</ref>。荒木は、撮影現場で組まれているセットなどのイメージボードも確認しているという<ref name="N0090986"/>。[[スペイン]]の[[シッチェス]]をロケ地に選んだ理由は、原作に登場する大きな館などの西洋風味の部分を取り入れるためと、劇中のキャラクターたちの「なじみやすさ」を考慮してのことだそうである<ref name="N0090986"/>。また、監督の三池によれば、荒木の思い出の街が増幅してできた杜王町をリアルのものにすべく、昔ながらの不良学生が馴染む風景を探してシッチェスにたどり着いたという<ref name="N0090986"/>。
=== キャスト(実写映画)===
* 東方仗助 - [[山﨑賢人]]
* 広瀬康一 - [[神木隆之介]]
* 山岸由花子 - [[小松菜奈]]
* 虹村形兆 - [[岡田将生]]
* 虹村億泰 - [[新田真剣佑]]
* 東方朋子 - [[観月ありさ]]
* 東方良平 - [[國村隼]]
* 片桐安十郎 - [[山田孝之]]
* 空条承太郎 - [[伊勢谷友介]]
=== スタッフ(実写映画)===
* 原作 - [[荒木飛呂彦]]『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』([[集英社]][[ジャンプ・コミックス]]刊)
* 監督 - [[三池崇史]]
* 脚本 - [[江良至]]
* 音楽 - [[遠藤浩二]]
* 企画プロデュース - [[平野隆]]
* プロデューサー - [[源生哲雄]]、坂美佐子
* 共同プロデューサー - [[前田茂司]]、[[岡田有正]]、刀根鉄太、阿相道広
* ラインプロデューサー - 今井朝幸、善田真也
* アソシエイトプロデューサー - 諸井雄一
* 撮影 - [[北信康]]([[日本映画撮影監督協会|J.S.C.]])
* 照明 - 渡部嘉
* 美術 - [[林田裕至]]、佐久嶋依里
* 録音 - 中村淳
* 装飾 - 坂本朗
* 編集 - [[山下健治]]
* スーパーバイジングサウンドエディター - 勝俣まさとし
* キャラクタースーパーバイザー - 前田勇弥
* ヘアメイク - 酒井啓介
* スタントコーディネーター - [[辻井啓伺]]、出口正義
* 軍事・警察監修 - 古谷謙一
* キャスティングプロデューサー - 杉野剛
* 俳優担当 - 平出千尋
* 画コンテ - 相馬宏光
* 助監督 - 倉橋龍介、長尾楽
* 制作担当 - 柄本かのこ
* VFXスーパーバイザー - [[太田垣香織]]
* コンポジットスーパーバイザー - 細川貴史
* VFXコーディネーター - 川出海
* リードギター - [[マーティ・フリードマン]]
* プランニングスーパーバイザー - [[濱名一哉]]、大原真人、坂部康二
* 出版協力([[ウルトラジャンプ]]編集部) - 井藤涼、西村新平、横井秀和
* 集英社ライツ担当 - 森亮介、高野貴志、末吉孝充
* 製作委員会統括 - 吉田尚子、[[市川南 (映画プロデューサー)|市川南]]、[[高橋雅美]]、木下暢起、[[奥野敏聡]]、二宮清隆、石川豊、伍賀一統、[[木谷高明]]、小玉滋彦、佐藤義比古、新開恒平、[[荒波修]]、植山信一、国貞泰生、長瀬直之、吉川英作、榛葉英二、城雅治
* 配給 - [[東宝]]、[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]
* 制作プロダクション - [[オー・エル・エム|OLM]]
* 制作協力 - [[楽映舎]]、b-mount film
* 製作幹事 - [[TBSテレビ]]
* 製作 - [[製作委員会方式|映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』製作委員会]](TBSテレビ、東宝、ワーナー・ブラザース映画、[[集英社]]、OLM、[[東北新社]]、[[電通]]、[[バンダイナムコエンターテインメント]]、[[ブシロード]]、[[TCエンタテインメント]]、[[CBCテレビ]]、[[毎日放送]]、[[GYAO!|GYAO]]、[[RKB毎日放送]]、[[北海道放送]]、[[東北放送|TBC東北放送]]、[[日本出版販売]]、[[静岡放送]]、[[中国放送]])
=== 興行成績 ===
国内映画ランキング初登場5位。土日2日間で動員11万7000人、興行1億6600万円の成績となった<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0093525|title=『怪盗グルー』30億円突破でV3!『トランスフォーマー』『ジョジョ』も初登場!【映画週末興行成績】|newspaper=シネマトゥデイ|date=2017-08-08|accessdate=2017-08-08}}</ref>。
=== 受賞 ===
* 第17回[[ヌーシャテル]]国際ファンタスティック映画祭 インターナショナル・コンペティション部門 - 観客賞<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/240077|title=山崎賢人が歓喜!「ジョジョの奇妙な冒険」スイスの映画祭で観客賞受賞|newspaper=映画ナタリー|date=2017-07-09||accessdate=2017-11-20}}</ref>
* 第3回CGWORLD AWARDS 作品賞・実写VFX部門 - 最優秀賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tc-ent.co.jp/tctopics/index/?id=91#91|title=映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』が第3回「CGWORLD AWARDS」実写VFX部門 最優秀賞 受賞!|publisher=TCエンタテインメント|date=2018-01-10|accessdate=2018-01-22}}</ref>
=== DVD/Blu-ray ===
2018年3月23日発売<ref name="dvd">{{cite web|url=https://warnerbros.co.jp/movie/jojo/bddvd/index.html|title=Blu-ray&DVD Release|work=映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』公式サイト|accessdate=2021-04-18}}</ref>。発売元は[[TBSテレビ|TBS]]、販売元は[[TCエンタテインメント]]<ref name="dvd" />。
=== テレビ放送 ===
{| class="wikitable"
!回!!テレビ局!!年月日!!放送時間([[日本標準時|JST]])!!備考
|-
|1||[[TBSテレビ|TBS]]||2018年2月11日||1:20(10日深夜)||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/program/eiga_jojo20190210.html|title=映画「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」|work=TBSテレビ|accessdate=2021-04-18}}</ref>
|-
|}
== 関連項目 ==
* [[魁!!男塾]] - [[宮下あきら]]の漫画作品。本作品中に登場する本「旅行するなら日本のここベスト100」の出版元として、同作品に登場する架空の出版社、[[魁!!男塾#民明書房|民明書房]]の名が出る。
* [[BREEEEZE GIRL]] - 日本のバンド[[Base Ball Bear]]のシングル。ジャケットに山岸由花子が描かれている。また同曲のPVに[[市川紗椰]]を起用、由花子をイメージ再現して演じている<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=bLnRythb-pw&feature=youtu.be|title=Base Ball Bear - BREEEEZE GIRL|publisher= BaseBallBearVEVO|date=2012-07-08|accessdate=2016-04-03}}</ref>。
* [[田中刑事]] - [[フィギュアスケート]]選手。エキシビジョンで東方仗助を演じている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [http://annex.s-manga.net/jojo/ ジョジョの奇妙な冒険公式サイト]
* [http://j-books.shueisha.co.jp/jojo/ JOJO×乙一] - JUMP j-BOOKS内 ノベライズ本公式サイト
* [https://warnerbros.co.jp/movie/jojo/index.html 映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』公式サイト]
* {{Twitter|jojomovie_jp|映画『ジョジョの奇妙な冒険』公式}}
* {{IMDb title|6105880}}
* {{YouTube|playlist = PLizFMbnOjAaXQXzJN6cuwVzKkeyIsPcnT|映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』}}
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3,304 | 読書 | 読書(どくしょ)は、本を読むこと。特に好んで読む本を愛読書、また本を読む人は読者と呼ぶ。
読書の意味は「書を読むこと」とされるが、活字の登場以前では、これらは主に富裕層やインテリ層にのみに許された行為であった。活版印刷技術の登場以降は、書籍が大量生産されるようになって、大衆の識字率が格段に向上し、読書は大衆娯楽(趣味)としても、広く受け容れられるようになっていった。
日本では、江戸時代までは、主に四書五経など漢籍の音読()が行われていたが、明治時代以降になると黙読()が主となった。また、江戸時代には四書五経のような教養書の他に、戯作本(『東海道中膝栗毛』など)が登場して出版業が成立し、生活に余裕のある都市住民を中心に、娯楽としての読書が広がっていた。当時は日本語の崩した文字に対応するために、木版印刷が広く用いられた。
20世紀になると大衆の教育の広がりと向上により、かつてよりも書を読む者が増え、また出版技術の向上により大量出版の時代となった。日本においては、大正時代から昭和前期における円本の流行が、「廉価な本を大量に発行する」という出版形態の発端とされる。しかし、20世紀後期になってテレビやインターネットなどの他、メディアの爆発的な発達により、知識情報獲得手段としての読書の地位が相対的に低下していったため、人々が本を読まなくなったと嘆く者の間で「活字離れ」が語られることがある。
他の読み方としては、要所をピックアップして行くどして読書速度を上げる速読()や、内容をよく理解してさらにはその思想までもを汲み取ろうとする精読()などがある。本を読まずに大量積み上げることを、皮肉的に「積ん読()」ともいう。(この「積ん読」という言葉を発案したのは田尻稲次郎である。また、書籍に限らないその原稿を関係者や第三者が読んで問題点を指摘することを査読(さどく)といい、さらに問題点を修正したりすることを校正(こうせい)という。
読書にのめり込んで、終始活字を目で追わなければ気がすまないようになった人間は、「活字中毒」とされる。その一方でビブリオマニア(書痴・愛書狂)のように、書籍それ自体をこよなく愛好する向きもあり、書店のみならず古書専門店も根強い人気を得ている。
20世紀末期より、インターネットの普及などにより、プレーンテキストデータのみならず、様々な図表も入った書籍データをパソコンや携帯情報端末 (PDA) 等にダウンロードして、専用ビューワーを利用して読書するなど、その方法は多様化している( → 電子書籍)。
本来、内向的な行為とされる読書だが書評や読書日記などを通して自己表現として評価されることもある。読書のウェブサイトでは、書評ページの「松岡正剛の千夜千冊」に見られるような、様々な書評サイトがある。
外国の文献については、逐語訳()か意訳か議論の分かれるところである。福沢諭吉は意訳で読むことを進めている。しかし、逐語訳()しかない難読本でも、あらすじや執筆背景などの理解に努めれば、多少読みやすくもなるとされる。
読書を呼びかける運動を総称して、読書運動と呼ぶ。子どもの情操教育、リテラシー教育、活字離れ対策、出版産業の振興など、さまざまな視点から運動が展開されている。中でも青少年読書感想文全国コンクールは知名度と歴史において際だっている。
2023年10月、ベネッセは東京大学社会科学研究所と共同で行った読書に関するアンケートの分析結果を発表した。それによると、2022年の子どもの1日あたりの読書時間は平均15.2分で、2015年よりも3分減少している。また49%の子どもは読書時間が0分であった。読書量が多い子どもは少ない子どもと比べて「図や表を見て理解する」「論理的に考える」「長い文章を読んで理解する」「自分の考えを文章にまとめる」といった学習面でも得意だとする回答が多かった。 | [
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] | 読書(どくしょ)は、本を読むこと。特に好んで読む本を愛読書、また本を読む人は読者と呼ぶ。 | {{出典の明記|date= 2010年3月}}
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[[File:Woman Reading (Kuroda Seiki).jpg|thumb|250px|<div style="text-align:center;">[[黒田清輝]]画 『[[読書 (黒田清輝)|読書]]』<br />([[1890年]]([[明治]]23年)頃)</div>]]
'''読書'''(どくしょ)は、[[本]]を読むこと。特に好んで読む本を'''愛読書'''、また本を読む人は[[読者]]と呼ぶ。
__TOC__
== 歴史 ==
読書の意味は「書を読むこと」とされるが、[[活字]]の登場以前では、これらは主に[[富裕層]]や[[インテリ]]層にのみに許された行為であった。[[活版印刷]]技術の登場以降は、書籍が[[大量生産]]されるようになって、[[大衆]]の[[識字率]]が格段に向上し、読書は大衆娯楽([[趣味]])としても、広く受け容れられるようになっていった。
[[日本]]では、[[江戸時代]]までは、主に[[四書五経]]など[[漢籍]]の{{読み仮名|'''[[朗読|音読]]'''|おんどく}}が行われていたが、[[明治]]時代以降になると{{読み仮名|黙読|もくどく}}が主となった。また、江戸時代には四書五経のような教養書の他に、[[戯作]]本(『[[東海道中膝栗毛]]』など)が登場して[[出版業]]が成立し、生活に余裕のある[[都市]][[住民]]を中心に、娯楽としての読書が広がっていた。当時は[[日本語]]の崩した文字に対応するために、[[木版印刷]]が広く用いられた。
[[20世紀]]になると大衆の教育の広がりと向上により、かつてよりも書を読む者が増え、また出版技術の向上により大量出版の時代となった。日本においては、[[大正]]時代から[[昭和]]前期における[[円本]]の流行が、「廉価な本を大量に発行する」という出版形態の発端とされる。しかし、20世紀後期になって[[テレビ]]や[[インターネット]]などの他、[[メディア (媒体)|メディア]]の爆発的な発達により、知識情報獲得手段としての読書の[[地位]]が相対的に低下していったため、人々が本を読まなくなったと嘆く者の間で「[[活字離れ]]」が語られることがある。
== 読書の様式 ==
[[File:Japanese Reading.jpg|thumb|250px]]
他の読み方としては、要所をピックアップして行くどして読書速度を上げる{{読み仮名|[[速読術|速読]]|そくどく}}や、内容をよく理解してさらにはその[[思想]]までもを汲み取ろうとする{{読み仮名|精読|せいどく}}などがある。本を読まずに大量積み上げることを、皮肉的に「{{読み仮名|[[積読|積ん読]]|つんどく}}」ともいう。(この「積ん読」という言葉を発案したのは[[田尻稲次郎]]である。また、書籍に限らないその[[原稿]]を関係者や第三者が読んで問題点を指摘することを[[査読]](さどく)といい、さらに問題点を修正したりすることを[[校正]](こうせい)という。
読書にのめり込んで、終始活字を目で追わなければ気がすまないようになった[[人間]]は、「[[活字中毒]]」とされる。その一方で[[ビブリオマニア]](書痴・愛書狂)のように、書籍それ自体をこよなく愛好する向きもあり、[[書店]]のみならず[[古書]]専門店も根強い人気を得ている。
20世紀末期より、[[インターネット]]の普及などにより、[[プレーンテキスト]]データのみならず、様々な[[図表]]も入った書籍[[データ]]を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[携帯情報端末]] (PDA) 等に[[ダウンロード]]して、専用ビューワーを利用して読書するなど、その方法は多様化している( → [[電子書籍]])。
本来、内向的な行為とされる読書だが[[書評]]や[[日記|読書日記]]などを通して自己表現として評価されることもある。読書の[[ウェブサイト]]では、書評ページの「[[松岡正剛]]の千夜千冊」<ref>[http://1000ya.isis.ne.jp/ 松岡正剛の千夜千冊]</ref>に見られるような、様々な[[書評]][[ウェブサイト|サイト]]がある。
== 翻訳本の取り扱い ==
[[外国]]の[[参考文献|文献]]については、{{読み仮名|逐語訳|ちくごやく}}か[[直訳と意訳#意訳|意訳]]か[[議論]]の分かれるところである。[[福沢諭吉]]は意訳で読むことを進めている。しかし、{{読み仮名|逐語訳|ちくごやく}}しかない難読本でも、[[あらすじ]]や[[執筆]]背景などの理解に努めれば、多少読みやすくもなるとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enjoy-scholarship.com/vorbereitung_zum_lesen/|title=難しい本を読むコツ:読む前に◯◯と◯◯を把握しよう!|accessdate=2020/09/28|publisher=学問のカクテル |archive-url=https://web.archive.org/web/20180612144105/https://www.enjoy-scholarship.com/vorbereitung_zum_lesen/ |archive-date=2018-06-12}}{{信頼性要検証|date=2023年10月}}</ref>。
== 読書運動 ==
[[File:Kunitomo03s3200.jpg|thumb|right|180px|「読書する少女」像([[長浜市]])]]
読書を呼びかける運動を総称して、読書運動と呼ぶ。子どもの情操[[教育]]、リテラシー教育、活字離れ対策、出版産業の振興など、さまざまな視点から運動が展開されている。中でも[[青少年読書感想文全国コンクール]]は知名度と[[歴史]]において際だっている。
2023年10月、[[ベネッセコーポレーション|ベネッセ]]は[[東京大学社会科学研究所]]と共同で行った読書に関するアンケートの分析結果を発表した。それによると、2022年の子どもの1日あたりの読書時間は平均15.2分で、2015年よりも3分減少している。また49%の子どもは読書時間が0分であった。読書量が多い子どもは少ない子どもと比べて「図や表を見て理解する」「論理的に考える」「長い文章を読んで理解する」「自分の考えを文章にまとめる」といった学習面でも得意だとする回答が多かった<ref>{{Cite web|和書|author=嶋田夕子 |url=https://mainichi.jp/articles/20231020/k00/00m/040/392000c |title=子どもの半数が1日の読書時間ゼロ 平均は約15分 ベネッセ調査 |publisher=[[毎日新聞]] |date=2023-10-21 |access-date=2023-10-22}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[読書感想文]]
* [[書見台]]
* [[教養]]
* [[図書館]]
* [[読書週間]]
* [[活字離れ]]
* [[読書マラソン]]
* [[ビブリオバトル]]
* [[読書会]]
* [[ブッククラブ]]
* [[世界図書・著作権デー]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Reading}}
* [https://www.readingassoc.site/ 日本読書学会 公式サイト]
* [http://jgameka.com/r/ 福岡天神読書会 公式サイト] {{リンク切れ|date= 2020年9月28日 (月) 13:05 (UTC)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とくしよ}}
[[Category:読書|*とくしよ]]
[[Category:学校図書館]] | 2003-03-03T10:41:59Z | 2023-12-02T13:51:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E6%9B%B8 |
3,306 | 中田秀夫 | 中田 秀夫(なかた ひでお、1961年7月19日 - )は、日本の映画監督。 | [
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] | 中田 秀夫は、日本の映画監督。 | {{存命人物の出典明記|date=2013年5月}}
{{ActorActress
| 芸名 = 中田 秀夫
| ふりがな = なかた ひでお
| 画像ファイル = Shimazaki Haruka & Nakata Hideo "Ghost Theater" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival (22242680869) (cropped).jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2015年、[[第28回東京国際映画祭]]にて
| 本名 =
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 出生地 = [[岡山県]][[浅口郡]][[金光町]]
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1961
| 生月 = 7
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| 職業 = [[映画監督]]
| ジャンル = [[ホラー映画|ホラー]]、[[サスペンス]]
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
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| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[女優霊]]』<br />『[[リング (1998年の映画)|リング]]』シリーズ<br />『[[仄暗い水の底から#映画『仄暗い水の底から』(2002)|仄暗い水の底から]]』<br />『[[スマホを落としただけなのに#映画|スマホを落としただけなのに]]』<br />『[[事故物件怪談 恐い間取り#映画|事故物件 恐い間取り]]』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 = '''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]'''<br />'''グランプリ'''<br />[[1999年]]『[[リング (1998年の映画)|リング]]』<br>'''審査員特別賞'''<br>[[2002年]]『[[仄暗い水の底から]]』<hr />'''[[ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭]]'''<br />'''金鴉賞(グランプリ)'''<br />[[1999年]]『リング』<hr />'''[[ジェラルメ国際ファンタスティカ映画祭]]'''<br />'''グランプリ'''<br />[[2003年]]『仄暗い水の底から』<hr />'''[[芸術選奨]]'''<br /> '''[[芸術選奨新人賞|文部科学大臣新人賞]]'''<br />[[2002年]]『[[ラストシーン]]』
| 備考 =
}}
'''中田 秀夫'''(なかた ひでお、[[1961年]][[7月19日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]。
== 略歴 ==
* [[岡山県]][[浅口郡]][[金光町]](現・[[浅口市]])出身<ref name="秘宝1702">{{Cite journal|和書 |author = [[藤木TDC]] | title = 中田秀夫インタビュー | journal = [[映画秘宝]] |issue = 2017年2月号 |publisher = [[洋泉社]] |pages = 80 - 81 }}</ref>。[[金光学園高等学校]]卒業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.konkougakuen.net/nakata/nakata08.02.htm |title=卒業生の活躍 |publisher=金光学園中学校・高等学校 |accessdate=2013-05-16}}{{リンク切れ|date=2014年7月}}</ref>。[[1980年]]、[[東京大学]]理科1類に入学し工学部応用物理学科に進学が内定していたが、進路を変更し[[教養学部]]アジア学科卒業。在学中に[[蓮實重彦]]の映画ゼミに参加し、大きな影響を受ける。大学時代の行きつけの飲み屋で、[[ヘラルド・エース]]の社長・[[原正人]]の知り合いから[[篠田正浩]]組の[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を紹介してもらい、篠田監督の中編『[[ALLUSION 転生譚]]』や企業PR映画の助監督に就く<ref name="秘宝1702"/>。
* [[1985年]]に、[[日活撮影所|にっかつ撮影所]]に入社<ref name="秘宝1702"/>。直後に東大の先輩・[[那須博之]]が[[東映]]で『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』を撮ることになり<ref name="秘宝1702"/>、スタジオ撮影はにっかつ撮影所を使った関係で、4人の助監督のうち、2人をにっかつから出すことになり<ref name="秘宝1702"/>、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール』1作目]]から[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲|3作目]]や『[[ラブ・ストーリーを君に]]』などの[[セントラルアーツ]]作品の助監督に就き、にっかつロマンポルノの他、東映でも助監督修行した<ref name="秘宝1702"/>。[[1992年]]に『[[本当にあった怖い話]]』で監督デビュー。
* 同年、文化庁芸術家在外研修員として渡英。[[1995年]]に帰国するが、渡英中に製作を開始した[[ジョゼフ・ロージー]]のドキュメンタリー『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』が完成したのは[[1998年]]だった<ref name="秘宝1702"/>。
* 帰国後に[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]セントラルアーツ代表から「[[東映Vシネマ|Vシネマ]]なら監督やれるぞ」と言われ、[[1995年]]『[[女教師日記・禁じられた性]]』を監督<ref name="秘宝1702"/>。[[1996年]]『[[女優霊]]』を監督し、1998年に発表した『[[リング (1998年の映画)|リング]]』が大ヒット。現在では[[黒沢清]]や[[清水崇]]らと並ぶ、[[ホラー映画|Jホラー(ジャパニーズホラー)]]の代表の一人と目されている。
* [[2003年]]、『[[ラストシーン (映画)|ラストシーン]]』で[[芸術選奨新人賞]]受賞。
* 『リング』は、アメリカでリメイクされた。この作品は他の監督([[ゴア・ヴァービンスキー]])の手なるものだったが、続編である『[[ザ・リング2]]』では自身が監督を務め、念願のハリウッド・デビューを果たしている。このハリウッド滞在時に味わった違和感を、のちにドキュメンタリー映画『[[ハリウッド監督学入門]]』にまとめた。
* また、『[[仄暗い水の底から]]』もアメリカで『[[ダーク・ウォーター]]』としてリメイクされている。
* 2010年、英国で監督した『[[Chatroom/チャットルーム]]』がカンヌ映画祭「ある視点」部門で上映された。
* [[2016年]]の[[日活ロマンポルノ]]45周年を記念した企画「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」に参加する。28年ぶりにロマンポルノに携わり、『[[ホワイトリリー]]』は彼にとってロマンポルノ初監督作品となる。
== 人物 ==
* デビュー作が『[[本当にあった怖い話]]』シリーズの一作であったり、出世作も『女優霊』というホラー作品であり、何よりも『リング』の監督であることからホラー(専門)監督と見なされることが多いが、本人に取り立ててホラー映画指向はなく「本当に撮りたいものはホラーではない」と公言している。実際はメロドラマ志向の人であり、[[手塚治虫]]原作『ガラスの脳』はそれが結実した念願の企画でもある。
* 映画ファンだったころから[[日活ロマンポルノ|ロマンポルノ]]の巨匠[[小沼勝]]監督の作品を愛好し、[[日活]]の助監督時代にも小沼に師事した。もっとも小沼監督の現場は凄惨で、「(小沼に)殺意を抱いた」と冗談まじりに回顧している。[[2000年]]に小沼作品のドキュメンタリー映画『サディスティック&マゾヒスティック』を撮った。
* 撮影中は、常に頭にタオルを巻いていることが多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/ZIP%ef%bc%81/685832/3 |title=ZIP!|2013/12/03(火)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-07-08}}</ref>。
== 監督作品 ==
=== 映画 ===
* [[女教師日記・禁じられた性]]([[1995年]]、[[東映ビデオ]]) - オリジナル・ビデオ作品
* [[女優霊]]([[1996年]]、ビターズ・エンド)
* [[(裏)盗撮ナンパ道]](1996年、[[日活|にっかつ]]) - オリジナル・ビデオ作品
* [[暗殺の街・極道捜査線]]([[1997年]]、大映)
* [[ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男]]([[1998年]]、ピターズ・エンド) - 16mm作品
* [[リング (1998年の映画)|リング]](1998年、[[東宝]])
* [[リング2]]([[1999年]]、東宝)
* [[ガラスの脳]]([[2000年]]、日活)
* [https://web.archive.org/web/20010411140407fw_/http://www.nikkatsu.com/movie/mov_sm.htm サディスティック&マゾヒスティック](2000年、日活)
* [[カオス (2000年の映画)|カオス]](2000年、[[オデッサ・エンタテインメント|タキコーポレーション]] / サンセントシネマワークス)
* [[仄暗い水の底から#映画『仄暗い水の底から』(2002)|仄暗い水の底から]]([[2002年]]、東宝)
* [[ラストシーン (映画)|ラストシーン]](2002年、オズ/オムロ)
* [[ザ・リング2]]([[2005年]]、[[アスミック・エース]]) - ハリウッド映画版
* [[怪談 (2007年の映画)|怪談]]([[2007年]]、[[松竹]])
* [[L change the WorLd]]([[2008年]]、[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]])
* [[ハリウッド監督学入門]]([[2009年]]、ビターズ・エンド)
* [[インシテミル#映画|インシテミル 7日間のデス・ゲーム]]([[2010年]]、ワーナー・ブラザース映画)
* [[Chatroom/チャットルーム]](2010年、パテ/リボルバー・エンタテインメント/アルシネテラン)- 英国映画
* [[3.11後を生きる]]([[2012年]]、エネサイ)
* [[クロユリ団地]]([[2013年]]、松竹) - 日活創立100周年記念作品
* [[MONSTERZ モンスターズ]]([[2014年]]、ワーナー・ブラザース映画)<ref>{{cite news |title=藤原竜也&山田孝之、中田秀夫監督新作で初共演!大ヒット韓国映画をリメイク |newspaper=映画.com |date=2013-07-01 |url=https://eiga.com/news/20130701/1/ |accessdate=2013-07-02}}</ref>
* [[Words with Gods]]『四苦八苦』([[2014年]])
* [[劇場霊]]([[2015年]]、松竹)<ref>{{Cite news |title=最新ホラー映画『劇場霊』、主演はぱるる |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000110692 |date=2014-12-14 |newspaper=BARKSニュース |publisher=グローバル・プラス |accessdate=2014-12-15}}</ref>
* 鎌倉にて(2016年、香港国際映画祭用短編)
* [[ホワイトリリー]]([[2016年]]、日活)
* [[終わった人]](2018年、[[東映]])
* [[スマホを落としただけなのに]](2018年、東宝)
* [[殺人鬼を飼う女]](2018年、KADOKAWA)
* [[タイド (鈴木光司の小説)#実写映画|貞子]](2019年、[[KADOKAWA]])
* [[スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼]](2020年、東宝)
* [[事故物件怪談 恐い間取り#映画|事故物件 恐い間取り]](2020年、松竹)
* [[嘘喰い#実写映画|嘘喰い]](2022年、ワーナー・ブラザース映画)
* [[“それ”がいる森]](2022年、松竹)<ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/cinema/detail/3077293|title=相葉雅紀、8年ぶり映画主演決定 初ホラー作品挑戦に「本当に光栄」<“それ”がいる森>|newspaper=モデルプレス|publisher=ネットネイティブ|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28}}</ref>
* [[禁じられた遊び (小説)#映画|禁じられた遊び]](2023年、東映)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei.co.jp/release/movie/1230465_979.html |title=映画『禁じられた遊び』映画化決定!戦慄のビジュアル解禁!|accessdate=2022-11-05|date=2022-11-05 |website=映画|publisher=東映}}</ref>
=== テレビドラマ ===
* [[本当にあった怖い話]]([[1992年]]、テレビ朝日)
**「幽霊の棲む旅館」
**「呪いの人形」
**「死霊の滝」
* [[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談f]](1997年、関西テレビ)
**「霊ビデオ」
**「保健室」
* [[愛と不思議と恐怖の物語]]([[2002年]]、関西テレビ)
**「進路指導室」
* [[濹東綺譚]](2002年、NHK BS2)
* [[怪奇大作戦 セカンドファイル]](2007年、[[日本放送協会|NHK]])
**「人喰い樹」
* [[クロユリ団地|クロユリ団地〜序章〜]](2013年、TBS)※総合監修兼任
* [[死神くん#テレビドラマ|死神くん]](2014年、テレビ朝日)
* [[劇場霊#ドラマ|劇場霊からの招待状]](2015年、TBS)
* [[世にも奇妙な物語]](2015年、フジテレビ)
**「事故物件」
* [[ママゴト]](2016年、[[NHK BSプレミアム]])
* [[屋根裏の恋人]](2017年、東海テレビ)
* [[リモートで殺される]]([[2020年]]、日本テレビ)
* [[恐怖新聞]](2020年、東海テレビ)
* [[連続ドラマW]] [[正体 (染井為人)|正体]](2022年、WOWOW)
* [[秘密を持った少年たち]](2023年、日本テレビ)
=== 配信ドラマ ===
* [[THE DAYS]](2023年、[[Netflix]])
=== 助監督作品 ===
* 箱の中の女(1985年、にっかつ)
* [[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]([[1985年]]、東映)<ref name="秘宝1702" />
* [[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]([[1986年]]、東映)<ref name="秘宝1702"/>
* [[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲]] ([[1987年]]、東映)<ref name="秘宝1702"/>
* [[新宿純愛物語]](1987年、東映)<ref name="秘宝1702"/>
* [[箱の中の女2]]([[1988年]]、にっかつ)<ref name="秘宝1702"/>
*[[ラブ・ストーリーを君に]](1988年、東映)<ref name="秘宝1702"/>
== 出演 ==
=== 映画 ===
* [[東京日和 (映画)|東京日和]]([[1997年]]、東宝)
* 血を吸う宇宙([[2001年]]、オメガ・ピクチャーズ)
=== テレビ ===
* 極上美の饗宴「ムンク 自然を貫く“叫び”の謎」(2011年7月25日、NHK BSプレミアム)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bijutsu/kyoen/index_07.html |title=おうちでアート「極上 美の饗宴」 |work=ほぼ毎日、美術番組がゾクゾク!ワクワク!NHK。 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2013-05-16}}{{リンク切れ|date=2014年7月}}</ref>
* [[心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU]](2013年5月4日、日本テレビ)<ref>{{Cite news |author=真紀和泉 |title=「竹内結子の中に入りたい」。ホラー映画『リング』の中田秀夫監督が“主役は女優に限る”ワケ。 |url=https://japan.techinsight.jp/2013/05/ringkantoku-takeutinihairu-rockyou20130504.html |date=2013-05-07 |newspaper=Techinsight |publisher=メディアプロダクツジャパン |accessdate=2013-05-16}}</ref>
* [[スカパー!映画部ホメシネX]](2013年5月15日、スカパー!)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-sptv.com/homecinema_x/ |title=スカパー!映画部 ホメシネX(クロス) (BSスカパー! 毎週水曜日 夜10:00~) |publisher=スカパー・エンターテイメント |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0516-2149-56/www.bs-sptv.com/homecinema_x/ |archivedate=2013-05-16 |accessdate=2013-05-16}}</ref>
* [[アウト×デラックス]](2014年6月5日、フジテレビ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/%e3%82%a2%e3%82%a6%e3%83%88%c3%97%e3%83%87%e3%83%a9%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%b9/757963 |title=アウト×デラックス|2014/06/05(木)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-07-08}}</ref>
* SWITCHインタビュー達人たち 前田敦子×中田秀夫(2014年6月14日、NHK総合)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160305142806/https://www.nhk.or.jp/switch-int-blog/100/190301.html |title=あっちゃんは映画マニア |work=SWITCHインタビュー ここだけの話 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2014-07-08}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20031208125844/http://www.mars.dti.ne.jp/~yukiko/index.html 公式ホームページ]
* {{Twitter|hideonakatan}}
* {{Allcinema name|123223}}
* {{IMDb name|0620378|Hideo Nakata}}
* {{JMDb name|0277730}}
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[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:ホラー映画の監督]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
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[[Category:1961年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E7%A7%80%E5%A4%AB |
3,307 | 空港コード | 空港コード(くうこうコード、英語: Airport code)は、空港ひとつひとつに付けられるコード。
国際機関が定めたものとしては、IATAによるラテン文字3文字のコードと、ICAOによる英数4文字のコードがある。主要な空港は双方のコードを持つ。
そのほか、いくつかの国には、国内機関が定めたローカルなコードがある。
3レターコードは国際航空運送協会 (IATA) により定められており、世界に1万以上ある空港にコードが割り振られている。早くに開港した空港にはなるべくその名称(都市コード)にのっとった文字が割り当てられている(例:羽田=HND、伊丹=ITM)。主に旅客系で使われる。
旅行会社や航空貨物代理店などでも使われる。国際線航空券に印字されている場合もある。
欧州では、航空路線の代替交通機関として高速列車が航空会社のコードシェアを行う例があり、ブリュッセル南駅(ZYR)や、ケルン中央駅(QKL)などは、鉄道駅にも空港コードが振られている。詳細は、IATAコードを持つ鉄道駅一覧を参照。
ストラスブール(XER)など、バスターミナルに空港コードが振られている例もある。
ユーロエアポート・バーゼル=ミュールーズ空港(MLH, BSL, EAP)のように、複数のコードが振られている例外もある。
民間航空のためのコードではあるが、ダイバートを想定し一部の軍用飛行場にも割り当てがある(硫黄島航空基地など)。
IATAが定義しているコードとしてはこの他に、IATA航空会社コード(エアラインコード、2レターコードまたは3レター)、都市コード(3レター)がある。
IATA空港コードの一覧: A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z
4レターコードは国際民間航空機関 (ICAO) の割り当て規則に従って国が定めるコードで、ICAOドキュメント7910に掲載される。世界の空港、飛行場、管制機関等につけられており、主に航空管制などの運航系で使われる。IATAの定める3レターコードとは違い、ICAO空港コードには規則がある。4レターコードの1文字目は航空固定業務のルーティングエリア、2文字目は「国または領域」、3文字目は接続する航空固定業務中継局を表す。ただし例外も多い。
日本の空港・飛行場はRJまたはROではじまるコードが割り当てられており、沖縄県と鹿児島県与論空港はRO、それ以外はRJである。一般の空港・飛行場以外に自衛隊や在日米軍の飛行場にも4レターコードが割り当てられている(横田飛行場=RJTY、厚木飛行場=RJTAなど)。主要空港は下二文字が同じアルファベットになっていることが多いほか、同一地域にある空港は3文字目が共通しているケースもある(例 主要空港:羽田空港=RJTT、成田空港=RJAA、セントレア=RJGG、伊丹空港=RJOO、関空=RJBB、新千歳空港=RJCC、福岡空港=RJFF。主要空港と同一地域の空港:調布飛行場=RJTF、八尾空港=RJOY、丘珠空港=RJCO、名古屋飛行場=RJNA、北九州空港=RJFR。
ICAO空港コードの一覧: A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K(KA - KG - KN) - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z
アメリカ連邦航空局 (FAA) が定めた3または4レターコード。
実際には空港コードに限るものではなく、航空に関わる様々な施設に与えられたLID (location identifier) である。
アメリカ国内の施設に限りコードがある。なお、プエルトリコ、グアム、米領サモアなどの海外領土にもあるが、在日米軍など在外米軍基地にはない。
主要な空港にはアルファベット3文字のコードが与えられる。多くはIATA空港コードと一致しているが、FAAコードは基本的に「N、W、Y、Z で始まる3文字コード」を使わないので、IATAコードがそれらで始まっていた場合の多くはFAAコードは異なる。また、ICAO空港コードの定めのないような小さな空港についてはFAA、IATA双方が独自に定めており、同じコードを使いながらも両者で違う空港(または都市)を示していることがほとんどである。その違いを認識せず混同して使用されることも多い。
FAA空港コードとIATA空港コードが異なる空港である一例。
原則として使用しない頭文字の理由は以下の通り:
小さな飛行場(および空港・飛行場以外の施設)には数字/アルファベット混りの3文字コードが与えられる。私用の飛行場には数字/アルファベット混りの4文字コードが与えられる。 | [
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"text": "4レターコードは国際民間航空機関 (ICAO) の割り当て規則に従って国が定めるコードで、ICAOドキュメント7910に掲載される。世界の空港、飛行場、管制機関等につけられており、主に航空管制などの運航系で使われる。IATAの定める3レターコードとは違い、ICAO空港コードには規則がある。4レターコードの1文字目は航空固定業務のルーティングエリア、2文字目は「国または領域」、3文字目は接続する航空固定業務中継局を表す。ただし例外も多い。",
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"text": "日本の空港・飛行場はRJまたはROではじまるコードが割り当てられており、沖縄県と鹿児島県与論空港はRO、それ以外はRJである。一般の空港・飛行場以外に自衛隊や在日米軍の飛行場にも4レターコードが割り当てられている(横田飛行場=RJTY、厚木飛行場=RJTAなど)。主要空港は下二文字が同じアルファベットになっていることが多いほか、同一地域にある空港は3文字目が共通しているケースもある(例 主要空港:羽田空港=RJTT、成田空港=RJAA、セントレア=RJGG、伊丹空港=RJOO、関空=RJBB、新千歳空港=RJCC、福岡空港=RJFF。主要空港と同一地域の空港:調布飛行場=RJTF、八尾空港=RJOY、丘珠空港=RJCO、名古屋飛行場=RJNA、北九州空港=RJFR。",
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"text": "アメリカ国内の施設に限りコードがある。なお、プエルトリコ、グアム、米領サモアなどの海外領土にもあるが、在日米軍など在外米軍基地にはない。",
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"text": "主要な空港にはアルファベット3文字のコードが与えられる。多くはIATA空港コードと一致しているが、FAAコードは基本的に「N、W、Y、Z で始まる3文字コード」を使わないので、IATAコードがそれらで始まっていた場合の多くはFAAコードは異なる。また、ICAO空港コードの定めのないような小さな空港についてはFAA、IATA双方が独自に定めており、同じコードを使いながらも両者で違う空港(または都市)を示していることがほとんどである。その違いを認識せず混同して使用されることも多い。",
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"text": "FAA空港コードとIATA空港コードが異なる空港である一例。",
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"text": "小さな飛行場(および空港・飛行場以外の施設)には数字/アルファベット混りの3文字コードが与えられる。私用の飛行場には数字/アルファベット混りの4文字コードが与えられる。",
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] | 空港コードは、空港ひとつひとつに付けられるコード。 国際機関が定めたものとしては、IATAによるラテン文字3文字のコードと、ICAOによる英数4文字のコードがある。主要な空港は双方のコードを持つ。 そのほか、いくつかの国には、国内機関が定めたローカルなコードがある。 | {{複数の問題
|出典の明記=2021年2月
|独自研究=2022年6月}}
'''空港コード'''(くうこうコード、{{lang-en|Airport code}})は、[[空港]]ひとつひとつに付けられる[[符号|コード]]。
国際機関が定めたものとしては、[[IATA]]による[[ラテン文字]]3文字のコードと、[[ICAO]]による英数4文字のコードがある。主要な空港は双方のコードを持つ。
そのほか、いくつかの国には、国内機関が定めたローカルなコードがある。
== IATA空港コード(3レターコード) ==
3レターコードは[[国際航空運送協会]] (IATA) により定められており、世界に1万以上ある[[空港]]にコードが割り振られている。早くに開港した空港にはなるべくその名称([[都市コード]])にのっとった文字が割り当てられている(例:[[東京国際空港|羽田]]=HND、[[大阪国際空港|伊丹]]=ITM)。主に旅客系で使われる。
[[旅行会社]]や航空貨物代理店などでも使われる。国際線航空券に印字されている場合もある。
欧州では、航空路線の代替交通機関として高速列車が航空会社の[[コードシェア]]を行う例があり、[[ブリュッセル南駅]](ZYR)や、[[ケルン中央駅]](QKL)などは、鉄道駅にも空港コードが振られている。詳細は、[[IATAコードを持つ鉄道駅一覧]]を参照。
ストラスブール(XER)など、バスターミナルに空港コードが振られている例もある。
[[ユーロエアポート・バーゼル=ミュールーズ空港]](MLH, BSL, EAP)のように、複数のコードが振られている例外もある。
民間航空のためのコードではあるが、[[ダイバート]]を想定し一部の軍用飛行場にも割り当てがある([[硫黄島航空基地]]など)。
IATAが定義しているコードとしてはこの他に、[[IATA航空会社コード]](エアラインコード、2レターコードまたは3レター)、[[都市コード]](3レター)がある。
=== 一覧 ===
'''[[IATA空港コードの一覧]]:''' [[IATA空港コードの一覧/A|A]] - [[IATA空港コードの一覧/B|B]] - [[IATA空港コードの一覧/C|C]] - [[IATA空港コードの一覧/D|D]] - [[IATA空港コードの一覧/E|E]] - [[IATA空港コードの一覧/F|F]] - [[IATA空港コードの一覧/G|G]] - [[IATA空港コードの一覧/H|H]] - [[IATA空港コードの一覧/I|I]] - [[IATA空港コードの一覧/J|J]] - [[IATA空港コードの一覧/K|K]] - [[IATA空港コードの一覧/L|L]] - [[IATA空港コードの一覧/M|M]] - [[IATA空港コードの一覧/N|N]] - [[IATA空港コードの一覧/O|O]] - [[IATA空港コードの一覧/P|P]] - [[IATA空港コードの一覧/Q|Q]] - [[IATA空港コードの一覧/R|R]] - [[IATA空港コードの一覧/S|S]] - [[IATA空港コードの一覧/T|T]] - [[IATA空港コードの一覧/U|U]] - [[IATA空港コードの一覧/V|V]] - [[IATA空港コードの一覧/W|W]] - [[IATA空港コードの一覧/X|X]] - [[IATA空港コードの一覧/Y|Y]] - [[IATA空港コードの一覧/Z|Z]]
== ICAO空港コード(4レターコード) ==
[[File:ICAO FirstLetter.svg|thumb|600px|ICAOコードの1文字目]]
[[File:ICAO-countries.png|thumb|600px|ICAOコードの国プレフィックス]]
4レターコードは[[国際民間航空機関]] (ICAO) の割り当て規則に従って国が定めるコードで、ICAOドキュメント7910に掲載される。世界の[[空港]]、[[飛行場]]、管制機関等につけられており、主に[[航空管制]]などの運航系で使われる。IATAの定める3レターコードとは違い、ICAO空港コードには規則がある。4レターコードの1文字目は航空固定業務のルーティングエリア、2文字目は「国または領域」、3文字目は接続する航空固定業務中継局を表す。ただし例外も多い。
日本の空港・飛行場はRJまたはROではじまるコードが割り当てられており、沖縄県と鹿児島県[[与論空港]]はRO、それ以外はRJである。一般の空港・飛行場以外に[[自衛隊]]や在日米軍の飛行場にも4レターコードが割り当てられている(横田飛行場=RJTY、厚木飛行場=RJTAなど)。主要空港は下二文字が同じアルファベットになっていることが多いほか、同一地域にある空港は3文字目が共通しているケースもある(例 主要空港:[[東京国際空港|羽田空港]]=RJTT、[[成田国際空港|成田空港]]=RJAA、[[中部国際空港|セントレア]]=RJGG、[[大阪国際空港|伊丹空港]]=RJOO、[[関西国際空港|関空]]=RJBB、[[新千歳空港]]=RJCC、[[福岡空港]]=RJFF。主要空港と同一地域の空港:[[調布飛行場]]=RJTF、[[八尾空港]]=RJOY、[[札幌飛行場|丘珠空港]]=RJCO、[[名古屋飛行場]]=RJNA、[[北九州空港]]=RJFR。
===一覧===
ICAO空港コードの一覧: [[ICAO空港コードの一覧/A|A]] - [[ICAO空港コードの一覧/B|B]] - [[ICAO空港コードの一覧/C|C]] - [[ICAO空港コードの一覧/D|D]] - [[ICAO空港コードの一覧/E|E]] - [[ICAO空港コードの一覧/F|F]] - [[ICAO空港コードの一覧/G|G]] - [[ICAO空港コードの一覧/H|H]] - <s>I</s> - <s>J</s> - K([[ICAO空港コードの一覧/KA-KF|KA]] - [[ICAO空港コードの一覧/KG-KM|KG]] - [[ICAO空港コードの一覧/KN-KZ|KN]]) - [[ICAO空港コードの一覧/L|L]] - [[ICAO空港コードの一覧/M|M]] - [[ICAO空港コードの一覧/N|N]] - [[ICAO空港コードの一覧/O|O]] - [[ICAO空港コードの一覧/P|P]] - [[ICAO空港コードの一覧/Q|Q]] - [[ICAO空港コードの一覧/R|R]] - [[ICAO空港コードの一覧/S|S]] - [[ICAO空港コードの一覧/T|T]] - [[ICAO空港コードの一覧/U|U]] - [[ICAO空港コードの一覧/V|V]] - [[ICAO空港コードの一覧/W|W]] - <s>X</s> - [[ICAO空港コードの一覧/Y|Y]] - [[ICAO空港コードの一覧/Z|Z]]
{{clear}}
== FAA空港コード(3/4レターコード) ==
アメリカ[[連邦航空局]] (FAA) が定めた3または4レターコード。
実際には空港コードに限るものではなく、航空に関わる様々な施設に与えられたLID ({{interlang|en|location identifier}}) である。
アメリカ国内の施設に限りコードがある。なお、[[プエルトリコ]]、[[グアム]]、[[米領サモア]]などの[[アメリカ合衆国の海外領土|海外領土]]にもあるが、[[在日米軍]]など[[在外米軍]]基地にはない。
主要な空港にはアルファベット3文字のコードが与えられる。多くはIATA空港コードと一致しているが、FAAコードは基本的に「N、W、Y、Z で始まる3文字コード」を使わないので、IATAコードがそれらで始まっていた場合の多くはFAAコードは異なる。また、ICAO空港コードの定めのないような小さな空港についてはFAA、IATA双方が独自に定めており、同じコードを使いながらも両者で違う空港(または都市)を示していることがほとんどである。その違いを認識せず混同して使用されることも多い。
FAA空港コードとIATA空港コードが異なる空港である一例。
* AAA (FAA) :ローガン郡空港([[:en:Logan County Airport (Illinois)]]) – [[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]]リンカーン
* AAA (IATA) :アナア空港([[:en:Anaa Airport]]) - [[フランス領ポリネシア]]
原則として使用しない頭文字の理由は以下の通り:
*「N」で始まる3文字コードは原則として[[アメリカ海軍|海軍]] ({{en|Navy}}) 基地に与えられている。これらは元々はFAAではなく[[海軍省 (アメリカ合衆国)|海軍省]]が管理していた。
*「W、Y、Z」で始まる3文字コードは[[運輸省 (カナダ)|カナダ運輸省]]が[[カナダ]]の空港に与えており、アメリカの空港では使わない。ただし実際には、ごく少数の重複が起こっている([[IATA空港コードの一覧/W|WMC]](ウィネマッカ市営空港)など)。なお、カナダの空港コードは3文字に限らず2文字や4文字のものもある。
小さな飛行場(および空港・飛行場以外の施設)には数字/アルファベット混りの3文字コードが与えられる。私用の飛行場には数字/アルファベット混りの4文字コードが与えられる。
== 関連項目 ==
* [[IATAコード]]
*[[ICAOコード]]
* [[航空会社コード]]
* [[ICAO機種コード一覧]]
* [[航空管制運航情報官]]
* [[レディオ空港]]
* [[リモート空港]]
* [[国際空港の一覧]]
==外部リンク==
*[http://www.iata.org/publications/Pages/code-search.aspx IATA Airline and Airport Code Search](英語)
{{空港の一覧}}
{{民間航空輸送}}
{{航空の一覧}}
{{DEFAULTSORT:くうこうこおと}}
[[Category:空港|こおと]]
[[Category:国際航空運送協会]]
[[Category:国際民間航空機関]]
[[Category:略語の一覧]]
[[Category:識別子]] | 2003-03-03T11:16:03Z | 2023-08-14T04:45:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,308 | 分子動力学法 | 分子動力学法(ぶんしどうりきがくほう、英: molecular dynamics、MD法)は、原子ならびに分子の物理的な動きのコンピューターシミュレーション手法である。原子および分子はある時間の間相互作用することが許され、これによって原子の動的発展の光景が得られる。最も一般的なMD法では、原子および分子のトラクジェクトリは、相互作用する粒子の系についての古典力学におけるニュートンの運動方程式を数値的に解くことによって決定される。この系では粒子間の力およびポテンシャルエネルギーは原子間ポテンシャル(分子力学力場)によって定義される。MD法は元々は1950年代末に理論物理学分野で考え出されたが、今日では主に化学物理学、材料科学、生体分子のモデリングに適用されている。系の静的、動的安定構造や、動的過程(ダイナミクス)を解析する手法。
分子の系は莫大な数の粒子から構成されるため、このような複雑系の性質を解析的に探ることは不可能である。MDシミュレーションは 数値的手法を用いることによってこの問題を回避する。しかしながら、長いMDシミュレーションは数学的に悪条件であり、数値積分において累積誤差を生成してしまう。これはアルゴリズムとパラメータの適切な選択によって最小化することができるが、完全に取り除くことはできない。
エルゴード仮説に従う系では、単一の分子動力学シミュレーションの展開は系の巨視的熱力学的性質を決定するために使うことができる。エルゴード系の時間平均はミクロカノニカルアンサンブル(小正準集団)平均に対応する。MDは自然の力をアニメーションすることによって未来を予測する、原子スケールの分子の運動についての理解を可能にする「数による統計力学」や「ニュートン力学のラプラス的視点」とも称されている。
MDシミュレーションでは等温、定圧、等温・定圧、定エネルギー、定積、定ケミカルポテンシャル、グランドカノニカルといった様々なアンサンブル(統計集団)の計算が可能である。また、結合長や位置の固定など様々な拘束条件を付加することもできる。計算対象は、バルク、表面、界面、クラスターなど多様な系を扱える。
MD法で扱える系の規模としては、最大で数億原子からなる系の計算例がある。通常の計算規模は数百から数万原子(分子、粒子)程度である。
通常、ポテンシャル関数は、原子-原子の二体ポテンシャルを組み合わせて表現し、これを計算中に変更しない。そのため化学反応のように、原子間結合の生成・開裂を表現するには、何らかの追加の工夫が必要となる。また、ポテンシャルは経験的・半経験的なパラメータから求められる。
こうしたポテンシャル面の精度の問題を回避するため、ポテンシャル面を電子状態の第一原理計算から求める手法もある。このような方法は、第一原理分子動力学法〔量子(ab initio)分子動力学法〕と呼ばれる。この方法では、ポテンシャル面がより正確なものになるが、扱える原子数は格段に減る(スーパーコンピュータを利用しても、最大で約千個程度)。
また第一原理分子動力学法の多くは、電子状態が常に基底状態であることを前提としているものが多く、電子励起状態や電子状態間の非断熱遷移を含む現象の記述は、こうした手法であってもなお困難である。
モンテカルロシミュレーションの先行する成功に続いて、1950年代末にアルダーとウェインライトによって、1960年代にラーマンによってそれぞれ独立にMD法が開発された。1957年、アルダーおよびウェインライトは剛体球間の弾性衝突を完全にシミュレーションするためにIBM 704計算機を使用した。1960年、ギブソンらはボルン=マイヤー型の反発相互作用と凝集面積力を用いることによって固体銅の放射線障害をシミュレーションした。1964年、ラーマンはレナード=ジョーンズ・ポテンシャルを利用した液体アルゴンの画期的シミュレーションを発表した。自己拡散係数といった系の性質の計算は実験データと遜色がなかった。
理論物理学分野で始まったMD法は材料科学において人気を得て、1970年代からは生化学および生物物理学での人気を得ている。MDはX線結晶構造解析あるいはNMR分光法から得られた実験的拘束情報に基づいてタンパク質やその他の高分子の三次元構造を洗練するために頻繁に用いられる。物理学において、MDは薄膜成長やイオン-サブプランテーションといった直接観測することができない原子レベルの現象のダイナミクスを調べるために使われる。また、まだ作成されていないあるいは作成することができないナノテクノロジー装置の物理的性質を調べるためにも使われる。生物物理学および構造生物学では、MD法はリガンドドッキング、脂質二重膜のシミュレーション、ホモロジーモデリング、さらにランダムコイルからポリペプチド鎖の折り畳みをシミュレーションすることによってタンパク質構造をab initioに予測するためにも頻繁に適用されている。
分子動力学シミュレーションの設計は利用可能な計算機能力を考慮しなければならない。計算が合理的な時間で終了できるように、シミュレーションサイズ(n = 粒子の数)、時間ステップ、総シミュレーション時間が選択されなければならない。しかしながら、シミュレーションは調べる自然の過程の時間スケールにとって適切なように十分長くなければならない。シミュレーションから統計的に妥当な結論を得るためには、シミュレーションされる時間は自然の過程の速度論と一致しなければならない。さもなければ、MD法は人間が一歩進むよりも短い時間を観察して人間がどうやって歩くのかについて結論付けるのと同じである。タンパク質およびDNAの動力学に関するほとんどの科学論文はナノ秒(10 s)からマイクロ秒(10 s)のシミュレーションからのデータを用いている。これらのシミュレーションを得るためには、複数CPU日からCPU年が必要である。並列アルゴリズムによって負荷をCPU間で分散することができる。この例としては空間的分解アルゴリズムや力分解アルゴリズムがある。
古典的MDシミュレーションの間、CPUを消費するほとんどのタスクは粒子の内部座標の関数としてのポテンシャルの評価である。このエネルギー評価内で最も計算コストが高いのが非結合(非共有結合)部分である。ランダウのO-記法では、全ての対静電相互作用およびファンデルワールス相互作用があらわに考慮されるとすると、一般的な分子動力学シミュレーションは O ( n 2 ) {\displaystyle O(n^{2})} でスケールする。この計算コストは粒子メッシュエバルト (PME) 法( O ( n log ( n ) ) {\displaystyle O(n\log(n))} )、P3M法あるいはより球面カットオフ手法( O ( n ) {\displaystyle O(n)} )といった静電的手法を利用することによって低減することができる。
シミュレーションに必要な総CPU時間に影響を与えるもう一つの要素は、積分時間ステップの大きさである。これはポテンシャルの評価の間の時間の長さである。時間ステップは離散化誤差を避けるのに十分小さいように(すなわち系の最も速い振動周波数よりも小さく)選ばれなければならない。古典的MDの典型的な時間ステップは1フェムト秒(10 s)のオーダーである。この値はSHAKE〔最も速い原子(例えば水素)の振動を空間に固定する〕といったアルゴリズムを用いることによって延ばすことができる。複数の時間ステップ法が開発されており、これらによってより遅い長距離力の更新の間隔を延ばすことができる。
溶媒中の分子のシミュレーションでは、露な溶媒(陽溶媒)と露でない溶媒(陰溶媒)のどちらかを選択しなければならない。陽溶媒粒子(TIP3P、SPC/E、SPC-f水モデルなど)は力場によって計算コストを掛けて計算しなければならないのに対して、陰溶媒は平均力手法を用いる。陽溶媒は計算コストが高く、シミュレーション中におよそ10倍を超える粒子を含む必要がある。しかし、陽溶媒の粒度と粘度は溶質分子の特定の性質を再現するために必須である。これは運動力学を再現するために特に重要である。
分子動力学シミュレーションの全ての種類において、シミュレーションの箱の大きさは境界条件アーティファクトを避けるのに十分な程大きくなければならない。境界条件は、端において固定された値を選択することによって、あるいは周期境界条件(シミュレーションの一方がその逆側につながることによてバルク相を模倣する)を採用することによってしばしば扱われる。
小正準(ミクロカノニカル、NVE)集団(アンサンブル)において、系はモル(N)、容積(V)、エネルギー(E)の変化から分離される。これは熱交換のない断熱過程に対応する。ミクロカノニカル分子動力学トラクジェクトリは全エネルギーが保存されたポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの交換として見ることができる。座標 X {\displaystyle X} と V {\displaystyle V} を持つ速度N個の粒子の系では、一次微分方程式の対をニュートンの記法で以下のように書くことができる。
系のポテンシャルエネルギー関数 U ( X ) {\displaystyle U(X)} は、粒子の座標 X {\displaystyle X} の関数である。これは物理学では「ポテンシャル」、化学では「力場」と単に呼ばれる。最初の方程式はニュートンの法則(系中の個々の粒子に作用する力 F {\displaystyle F} は U ( X ) {\displaystyle U(X)} の負の勾配として計算できる)から来ている。
全ての時間ステップについて、個々の粒子の位置 X {\displaystyle X} および速度 V {\displaystyle V} はVerlet法といったシンプレティック法を用いて積分することができる。 X {\displaystyle X} および V {\displaystyle V} の時間発展はトラジェクトリと呼ばれる。初期位置(例えば理論上の知見から)および初期速度(例えばランダム化ガウシアンから)が与えられれば、未来(あるいは過去)の全ての位置および速度を計算することができる。
よくある混乱の源の一つはMDにおける温度の意味である。一般に、我々が経験しているのは膨大な数の粒子を含む巨視的温度である。しかし温度は統計的量である。もし、十分大きな数の原子が存在すれば、統計的温度は「瞬間温度」から見積ることができる。これは、系の運動エネルギーをnkBT/2(kBはボルツマン定数、nは系の自由度の数)と同じと見なすことで得られる。
温度に関連した現象はMDシミュレーションで使われる少数の原子が原因で生じる。例えば、500原子を含む基質と100 eVの蒸着エネルギーから開始される銅薄膜の成長のシミュレーションを考える。現実世界では、蒸着した原子からの100 eVは多数の原子( 10 10 {\displaystyle 10^{10}} 以上)の間ですばやく輸送、共有され、温度に大きな変化は生じない。しかしながら、わずか500原子しかない時は、基質は蒸着によってほぼすぐに蒸発する。生物物理学シミュレーションでも似た事例が起こる。NVEにおける系の温度はタンパク質といった高分子が発熱的なコンホメーション変化や結合を起こす時に自然に上昇する。
正準集団(カノニカルアンサンブル)では、物質の量(N)、容積(V)、温度(T)が保存される。これは等温分子動力学(constant temperature molecular dynamics、CTMD)と呼ばれることもある。NVTでは、吸熱的過程と発熱的過程のエネルギーはサーモスタット(温度調整器)によって交換される。
MDシミュレーションの境界にエネルギーを加えたり取り除いたりするための様々なサーモスタットアルゴリズムが利用可能であり、カノニカルアンサンブルを近似する。温度を制御するための人気のある手法には、速度リスケーリング(V-rescale)、能勢=フーバー・サーモスタット、能勢=フーバー・チェイン、ベレンゼン・サーモスタット、アンダーセン・サーモスタット、ランジュバン動力学がある。ベレンゼン・サーモスタットはフライングアイスキューブ効果を発生する可能性があることに留意すべきである。
これらのアルゴリズムを用いてコンホメーションや速度のカノニカル分布を得るのは簡単ではない。これが系の大きさ、サーモスタットの選択、サーモスタットのパラメータ、時間ステップ、積分器にいかに依存するかは、この分野の多くの論文のテーマとなっている。
等温定圧集団(アンサンブル)では、物質の量(N)、圧力(P)、温度(T)が保存される。サーモスタットに加えて、バロスタット(圧力調整器)が必要である。NPTアンサンブルは、気温と大気圧に開放されているフラスコを用いた実験室条件に最も密接に対応している。
生物膜のシミュレーションでは、等方性圧力制御は適切ではない。脂質二重膜については、圧力制御は定膜面積(NPAT、Aは面積)あるいは定表面張力γ(NPγT)下で行なわれる。
レプリカ交換法は拡張アンサンブルである。これは元々、無秩序なスピン系の遅い動力学を扱うために作られた。並列焼きもどし(parallel tempering)法とも呼ばれる。レプリカ交換MD(REMD)法は、複数の温度で走らせた系の非相互作用レプリカの温度を交換することによって多重極小問題を克服しようと試みている。
分子動力学シミュレーションはポテンシャル関数(シミュレーション中の粒子の相互作用を決定する項の記述)を必要とする。化学および生物学では通常これは力場と呼ばれ、材料物理学では原子間ポテンシャルと呼ばれる。ポテンシャルは多くの段階の物理学的正確性で定義できる。化学で最も一般的に用いられているものは分子力学法に基づいており、粒子-粒子相互作用の古典的取扱い(構造変化やコンホメーション変化は再現できるが、化学反応は再現できない)を具体化している。
完全な量子力学的記述から古典的ポテンシャルへの簡略化は2つの主要な近似を伴う。1つ目はボルン=オッペンハイマー近似である。この近似では電子のダイナミクスが非常に速く、核の運動に瞬間的反応すると考えることができる、と述べる。結果として、電子の動きと核の動きは別々に扱うことができる。2つ目の近似は、電子よりもかなり重い核を古典ニュートン動力学に従う点粒子として扱う。古典的分子動力学では、電子の影響は単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態を表す)として近似される。
より細かい詳細が必要な時は、量子力学に基づくポテンシャルが用いられる。また、系の大部分を古典的に扱うが、化学的変換が起こる小さな領域を量子系として扱うハイブリッド古典/量子ポテンシャルも開発されている。
化学で用いられる経験的ポテンシャルは力場と呼ばれることが多いのに対して、材料化学分野では原子間ポテンシャルと呼ばれる。
化学におけるほとんどの力場は経験的なものであり、化学結合と関連する結合力、結合角、結合二面角、ファンデルワールス力および静電価と関連する非結合力の和から成る。経験的ポテンシャルはアドホックな機能的近似によって限定的に量子力学的効果を表わす。これらのポテンシャルは原子電荷、原子半径の推定値を反映するファンデルワールスパラメータ、平衡結合長、結合角、結合二面角といった自由なパラメータを含む。これらは、詳細な電子構造(量子化学シミュレーション)あるいは弾性係数、格子パラメータ、分光測定といった経験的な物理的性質に対してフィッティングを行うことで得られる。
非結合性相互作用の非局所的な特性のため、これらは系の全ての粒子間の弱い相互作用を少なくとも含む。その計算は通常、MDシミュレーションの速度のボトルネックである。計算コストを下げるため、力場はシフト打ち切り半径、反応場アルゴリズム、粒子メッシュ・エバルト和、あるいはより新しい粒子-粒子-粒子-メッシュ(P3M)法といった数値的近似を用いる。
化学力場は一般にあらかじめ設定された結合様式を用いる(非経験的動力学法を除く)。したがって、化学力場は化学結合の切断の過程や反応を露にモデル化することができない。一方で、結合次数形式に基づいたもののような物理学におけるポテンシャルの多くは、系の複数の異なる接続や結合の切断を記述することができる。こういったポテンシャルの例としては、炭化水素のためのブレナー・ポテンシャルやそれをC-Si-H系とC-O-H系にさらに発展させたものがある。ReaxFFポテンシャルは、結合次数ポテンシャルと化学力場とを組み合わせた完全な反応力場と見なすことができる。
非結合性エネルギーを表わすポテンシャル関数は、系の粒子間の相互作用全体の和として定式化される。多くの人気のある力場で採用されている最も単純な選択肢は、全ポテンシャルエネルギーが原子の対の間のエネルギー寄与の和から計算できる「対ポテンシャル」である。こういった対ポテンシャルの一例は非結合性レナード=ジョーンズ・ポテンシャルであり、ファンデルワールス力を計算するために使われる。
もう一つの例はイオン格子のボルン(イオン)モデルである。次式の第一項はイオンの対についてのクーロンの法則であり、第二項はパウリの排他原理によって説明される短距離反発であり、最終項は分散相互作用項である。大抵は、シミュレーションは双極子項のみを含むが、四極子項も同様に含まれることもある(バッキンガム・ポテンシャルとして知られる)。
多体ポテンシャルにおいて、ポテンシャルエネルギーは互いに相互作用する3つ以上の粒子の効果を含む。対ポテンシャルを用いたシミュレーションでは、系の包括的な相互作用も存在するが、対ポテンシャル項を通じてのみ生じる。多体ポテンシャルにおいて、ポテンシャルエネルギーは原子の対全体の和によって表わすことができない。これは、これらの相互作用が高次項の組合せとして明確に計算されるためである。統計的見方では、変数間の依存性は一般に自由度の対ごとの積のみを用いて表現することはできない。例えば、炭素、ケイ素、ゲルマニウムのシミュレーションに元々使われ、その他の幅広い材料に対しても用いられているターソフ・ポテンシャルは3個の原子の群についての和を含む。このポテンシャルでは、原子間の角度が重要な要素である。その他の例としては、原子挿入法(EAM)や強結合二次モーメント近似(TBSMA)ポテンシャルがある。TBSMAポテンシャルでは、原子の領域における状態の電子密度は周囲の原子からの寄与の和から計算され、ポテンシャルエネルギー寄与はこの和の関数である。
半経験的ポテンシャルは、量子力学からの行列表示を使用する。しかしながら、行列要素の値は特定の原子軌道の重なりの度合いを見積る経験式によって決定される。次に、この行列は異なる原子軌道の占有率を決定するために対角化され、軌道のエネルギー寄与を決定するために再び経験式が使われる。
強結合ポテンシャルとして知られる半経験的ポテンシャルには様々な種類があり、これらはモデル化される原子によって異なる。
ほとんどの古典的力場は分極率の効果を黙示的に含む(例えば量子化学計算から得られた部分電荷を拡大することによって)。これらの部分電荷は原子の質量に関して固定である。しかし、分子動力学シミュレーションはドルーデ粒子や変動電荷といった異なる手法を用いた誘導双極子の導入によって分極率を明示的にモデル化できる。これによって、局所的な化学的環境に応答する原子間の電荷の動的再分配が可能になる。
長年、分極可能MDシミュレーションは次世代シミュレーションとしてもてはやされてきた。水といった均一な液体については、分極率を含めることによって正確性の向上が達成されてきた。タンパク質についても有望な結果が得られている。しかしながら、シミュレーションにおいて分極率をどのように近似するのが最適化についてはいまだ不確かである。
古典的分子動力学では、単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態)は力場によって表わされる。これはボルン=オッペンハイマー近似の結果である。励起状態では、化学反応あるいはより正確な表現が必要な時は、電子の振る舞いを密度汎関数法といった量子力学的手法を用いることによって第一原理から得ることができる。これはab initio分子動力学(AIMD)と呼ばれる。電子の自由度を扱うコストから、このシミュレーションの計算コストは古典的分子動力学よりもかなり高い。これはAIMDがより小さな系あるいはより短い時間に制限されることを意味する。
Ab initio量子力学法は、トラジェクトリ中の配座について必要に応じてその場で系のポテンシャルエネルギーを計算するために使うことができる。この計算は反応座標の近傍で大抵行われる。様々な近似を使うことができるが、これらは経験的当て嵌めではなく理論的考察に基づいている。Ab-initio計算は、電子状態の密度やその他の電子的性質といった、経験的手法からは得ることのできない膨大な情報を与える。Ab-initio法を使用する大きな利点は、共有結合の切断あるいは形成を含む反応を調べる能力である。これらの現象は複数の電子状態に対応する。
QM(量子力学的)法は非常に強力である。しかしながら、その計算コストは高い。それに対してMM(古典的あるいは分子力学)法は高速だが、いくつかの制限がある(膨大なパラメータ化の必要性、得られたエネルギー推定値がそれ程正確ではないこと、共有結合が切断/形成する反応のシミュレーションに使うことができないこと、化学的反応に関する正確な詳細を与える能力に限界があること)。QM計算の利点(正確性)とMM計算の利点(速さ)を組み合わせた新たな手法が開発されている。これらの手法は混合あるいはハイブリッド量子力学/分子力学法(ハイブリッドQM/MM法)と呼ばれている。
ハイブリッドQM/MM法の最も重要な利点は速さである。最も分かりやすい場合において古典的分子動力学 (MM) を行うコストはO(n) と見積られる(nは系中の原子の数)。これは主に静電相互作用項(全ての粒子がその他全ての粒子と相互作用する)のためである。しかしながら、打ち切り半径の使用、周期的対表の更新、粒子-メッシュ・エバルト (PME) 法の派生法によって、このコストをO(n) からO(n) に減らすることができる。言い換えると、2倍の数の原子の系をシミュレーションすると、2倍から4倍の計算力を要することになる。一方で、最も単純なab-initio計算のコストは典型的にO(n) あるいはそれ以上を見積られる(制限ハートリー=フォック計算は~O(n) でスケールすることが示唆されている)。この制限を乗り越えるため、系の小さな部分が量子力学的に取り扱われ(典型的には酵素の活性部位)、残りの系が古典的に取り扱われる。
より洗練された実装では、QM/MM法は量子効果に対して敏感な軽い核(例えば水素)と電子状態の両方を扱うために存在する。これによって、水素の波動関数の生成を行うことができる。この方法論は、水素のトンネリングといった現象を調べるために有用である。QM/MM法が新たな発見をもたらした一つの例は、肝臓のアルコール脱水素酵素におけるヒドリド転移の計算である。この場合、水素原子のトンネリングが重要である(反応速度を決定する)。
詳細なスケールの対極にあるのが、粗視化モデルと格子モデルである。系の全ての原子を露に(明示的に)表現する代わりに、ここでは原子の群を表現するために「擬原子」を用いる。非常に大きな系のMDシミュレーションは非常に大きな計算機資源を必要とするため、伝統的な全原子手法によって容易に調べることができない。同様に、長い時間スケール(1マイクロ秒を超える)の過程のシミュレーションは、多くの時間ステップを必要とするため、極めて計算コストが高い。これらの場合、粗視化(粗粒化)表現とも呼ばれる簡約表現を用いることによってこの問題に対処することができることもある。
粗視化(coarse graining、CG)手法の例としては、不連続分子動力学(CG-DMD)やGoモデルがある。粗視化はより大きな擬原子を用いることによって行なわれることもある。こういった合同原子(united atom)近似は生体膜のMDシミュレーションにおいて使用されてきた。電子的性質が興味の対象である系へのこういった手法の導入は、擬原子上の適切な電荷分布を使うことの困難さのため難しい。脂質の脂肪族末端は2から4のメチレン基を1つの擬原子としてまとめたいくつかの擬原子によって表わされる。
これらの非常に粗視的なモデルのパラメータ化は、モデルの挙動を適切な実験的データあるいは全原子シミュレーションへ合致させることによって、経験的に行われる。理想的には、これらのパラメータは自由エネルギーへのエンタルピー寄与とエントロピー寄与の両方を黙示的に考慮しなければならない。粗視化がより高い水準で行われる時、動力学的記述の正確性はより信頼できなくなる。しかし、よく粗視化されたモデルは、構造生物学、液晶の組織化、高分子ガラスの分野における幅広い疑問を調べるためにうまく使われてきている。
粗視化の応用の例を以下に挙げる。
最も単純な粗視化の形は「合同原子(united atom)」であり、初期のタンパク質、脂質、核酸のMDシミュレーションのほとんどで使われた。例えば、CH3メチル基の4原子全て(あるいはCH2メチレン基の3原子全て)を露(明示的)に扱う代わりに、メチル基あるいはメチレン基全体を単一の擬原子によって表わす。この擬原子はもちろん、他の基とのファンデルワールス相互作用が適切な距離依存性を持つように適切にパラメータ化されなければならない。この種の合同原子の表現においては通常、水素結合に関与する能力のあるもの(極性水素)を除いて全ての明示的水素原子を消去する。この一つの例がCharmm 19力場である。
極性水素は通常モデルに保持される。これは水素結合の適切な取扱いが水素結合ドナー基とアクセプター基との間の指向性と静電相互作用のかなり正確な記述を必要とするためである。例えば水酸基は水素結合ドナーと水素結合アクセプターのどちらのなることができ、単一のOH擬原子ではこれを扱うことは不可能であろう。ここで留意すべきはタンパク質あるいは核酸中の原子の約半数は非極性水素であることであり、したがって合同原子を使用することによって計算時間を相当短縮することができる。
操舵分子動力学(Steered molecular dynamics; SMD)シミュレーションでは、望む自由度に沿ってタンパク質の構造を引っ張ることによってその構造を操作するためにタンパク質に力を印加する。これらの実験は原子レベルでのタンパク質における構造変化を明らかにするために用いることができる。SMDは機械的な折り畳み構造のほどけや伸長といった出来事をシミュレーションするためにしばしば用いられている。
SMDには2種類の典型的手順がある。1つは引っ張る速度が一定に保たれるもので、もう1つは印加される力が一定のものである。典型的には、調べる系の部分(例えばタンパク質中の1原子)を調和ポテンシャルによって拘束する。次に特定の原子に一定の速度あるいは一定の力を印加する。シミュレーション中で操作される力、距離、角度を変化させることによって望む反応座標に沿って系を動かすために傘サンプリングが用いられる。傘サンプリングによって、系の配置の全て(高エネルギーと低エネルギーのどちらも)が十分にサンプリングされる。次に、それぞれの配置の自由エネルギー変化を平均力ポテンシャル(PMF)として計算することができる。PMFを計算する人気のある手法は一連の傘サンプリングシミュレーションを解析する重みつきヒストグラム解析法(weighted histogram analysis method; WHAM)である。
分子動力学は多くの科学分野で使われている。
以下の生物物理学的例は非常に大きな系(完全なウイルス)あるいは非常に長いシミュレーション時間(1.112ミリ秒まで)のシミュレーションを行うための注目に値する成果を示している。 | [
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"text": "分子動力学法(ぶんしどうりきがくほう、英: molecular dynamics、MD法)は、原子ならびに分子の物理的な動きのコンピューターシミュレーション手法である。原子および分子はある時間の間相互作用することが許され、これによって原子の動的発展の光景が得られる。最も一般的なMD法では、原子および分子のトラクジェクトリは、相互作用する粒子の系についての古典力学におけるニュートンの運動方程式を数値的に解くことによって決定される。この系では粒子間の力およびポテンシャルエネルギーは原子間ポテンシャル(分子力学力場)によって定義される。MD法は元々は1950年代末に理論物理学分野で考え出されたが、今日では主に化学物理学、材料科学、生体分子のモデリングに適用されている。系の静的、動的安定構造や、動的過程(ダイナミクス)を解析する手法。",
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"text": "分子の系は莫大な数の粒子から構成されるため、このような複雑系の性質を解析的に探ることは不可能である。MDシミュレーションは 数値的手法を用いることによってこの問題を回避する。しかしながら、長いMDシミュレーションは数学的に悪条件であり、数値積分において累積誤差を生成してしまう。これはアルゴリズムとパラメータの適切な選択によって最小化することができるが、完全に取り除くことはできない。",
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"text": "エルゴード仮説に従う系では、単一の分子動力学シミュレーションの展開は系の巨視的熱力学的性質を決定するために使うことができる。エルゴード系の時間平均はミクロカノニカルアンサンブル(小正準集団)平均に対応する。MDは自然の力をアニメーションすることによって未来を予測する、原子スケールの分子の運動についての理解を可能にする「数による統計力学」や「ニュートン力学のラプラス的視点」とも称されている。",
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"text": "MDシミュレーションでは等温、定圧、等温・定圧、定エネルギー、定積、定ケミカルポテンシャル、グランドカノニカルといった様々なアンサンブル(統計集団)の計算が可能である。また、結合長や位置の固定など様々な拘束条件を付加することもできる。計算対象は、バルク、表面、界面、クラスターなど多様な系を扱える。",
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"text": "MD法で扱える系の規模としては、最大で数億原子からなる系の計算例がある。通常の計算規模は数百から数万原子(分子、粒子)程度である。",
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"text": "通常、ポテンシャル関数は、原子-原子の二体ポテンシャルを組み合わせて表現し、これを計算中に変更しない。そのため化学反応のように、原子間結合の生成・開裂を表現するには、何らかの追加の工夫が必要となる。また、ポテンシャルは経験的・半経験的なパラメータから求められる。",
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"text": "こうしたポテンシャル面の精度の問題を回避するため、ポテンシャル面を電子状態の第一原理計算から求める手法もある。このような方法は、第一原理分子動力学法〔量子(ab initio)分子動力学法〕と呼ばれる。この方法では、ポテンシャル面がより正確なものになるが、扱える原子数は格段に減る(スーパーコンピュータを利用しても、最大で約千個程度)。",
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"text": "また第一原理分子動力学法の多くは、電子状態が常に基底状態であることを前提としているものが多く、電子励起状態や電子状態間の非断熱遷移を含む現象の記述は、こうした手法であってもなお困難である。",
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"text": "モンテカルロシミュレーションの先行する成功に続いて、1950年代末にアルダーとウェインライトによって、1960年代にラーマンによってそれぞれ独立にMD法が開発された。1957年、アルダーおよびウェインライトは剛体球間の弾性衝突を完全にシミュレーションするためにIBM 704計算機を使用した。1960年、ギブソンらはボルン=マイヤー型の反発相互作用と凝集面積力を用いることによって固体銅の放射線障害をシミュレーションした。1964年、ラーマンはレナード=ジョーンズ・ポテンシャルを利用した液体アルゴンの画期的シミュレーションを発表した。自己拡散係数といった系の性質の計算は実験データと遜色がなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "理論物理学分野で始まったMD法は材料科学において人気を得て、1970年代からは生化学および生物物理学での人気を得ている。MDはX線結晶構造解析あるいはNMR分光法から得られた実験的拘束情報に基づいてタンパク質やその他の高分子の三次元構造を洗練するために頻繁に用いられる。物理学において、MDは薄膜成長やイオン-サブプランテーションといった直接観測することができない原子レベルの現象のダイナミクスを調べるために使われる。また、まだ作成されていないあるいは作成することができないナノテクノロジー装置の物理的性質を調べるためにも使われる。生物物理学および構造生物学では、MD法はリガンドドッキング、脂質二重膜のシミュレーション、ホモロジーモデリング、さらにランダムコイルからポリペプチド鎖の折り畳みをシミュレーションすることによってタンパク質構造をab initioに予測するためにも頻繁に適用されている。",
"title": "応用領域"
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"text": "分子動力学シミュレーションの設計は利用可能な計算機能力を考慮しなければならない。計算が合理的な時間で終了できるように、シミュレーションサイズ(n = 粒子の数)、時間ステップ、総シミュレーション時間が選択されなければならない。しかしながら、シミュレーションは調べる自然の過程の時間スケールにとって適切なように十分長くなければならない。シミュレーションから統計的に妥当な結論を得るためには、シミュレーションされる時間は自然の過程の速度論と一致しなければならない。さもなければ、MD法は人間が一歩進むよりも短い時間を観察して人間がどうやって歩くのかについて結論付けるのと同じである。タンパク質およびDNAの動力学に関するほとんどの科学論文はナノ秒(10 s)からマイクロ秒(10 s)のシミュレーションからのデータを用いている。これらのシミュレーションを得るためには、複数CPU日からCPU年が必要である。並列アルゴリズムによって負荷をCPU間で分散することができる。この例としては空間的分解アルゴリズムや力分解アルゴリズムがある。",
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"text": "古典的MDシミュレーションの間、CPUを消費するほとんどのタスクは粒子の内部座標の関数としてのポテンシャルの評価である。このエネルギー評価内で最も計算コストが高いのが非結合(非共有結合)部分である。ランダウのO-記法では、全ての対静電相互作用およびファンデルワールス相互作用があらわに考慮されるとすると、一般的な分子動力学シミュレーションは O ( n 2 ) {\\displaystyle O(n^{2})} でスケールする。この計算コストは粒子メッシュエバルト (PME) 法( O ( n log ( n ) ) {\\displaystyle O(n\\log(n))} )、P3M法あるいはより球面カットオフ手法( O ( n ) {\\displaystyle O(n)} )といった静電的手法を利用することによって低減することができる。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "シミュレーションに必要な総CPU時間に影響を与えるもう一つの要素は、積分時間ステップの大きさである。これはポテンシャルの評価の間の時間の長さである。時間ステップは離散化誤差を避けるのに十分小さいように(すなわち系の最も速い振動周波数よりも小さく)選ばれなければならない。古典的MDの典型的な時間ステップは1フェムト秒(10 s)のオーダーである。この値はSHAKE〔最も速い原子(例えば水素)の振動を空間に固定する〕といったアルゴリズムを用いることによって延ばすことができる。複数の時間ステップ法が開発されており、これらによってより遅い長距離力の更新の間隔を延ばすことができる。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "溶媒中の分子のシミュレーションでは、露な溶媒(陽溶媒)と露でない溶媒(陰溶媒)のどちらかを選択しなければならない。陽溶媒粒子(TIP3P、SPC/E、SPC-f水モデルなど)は力場によって計算コストを掛けて計算しなければならないのに対して、陰溶媒は平均力手法を用いる。陽溶媒は計算コストが高く、シミュレーション中におよそ10倍を超える粒子を含む必要がある。しかし、陽溶媒の粒度と粘度は溶質分子の特定の性質を再現するために必須である。これは運動力学を再現するために特に重要である。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "分子動力学シミュレーションの全ての種類において、シミュレーションの箱の大きさは境界条件アーティファクトを避けるのに十分な程大きくなければならない。境界条件は、端において固定された値を選択することによって、あるいは周期境界条件(シミュレーションの一方がその逆側につながることによてバルク相を模倣する)を採用することによってしばしば扱われる。",
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"text": "小正準(ミクロカノニカル、NVE)集団(アンサンブル)において、系はモル(N)、容積(V)、エネルギー(E)の変化から分離される。これは熱交換のない断熱過程に対応する。ミクロカノニカル分子動力学トラクジェクトリは全エネルギーが保存されたポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの交換として見ることができる。座標 X {\\displaystyle X} と V {\\displaystyle V} を持つ速度N個の粒子の系では、一次微分方程式の対をニュートンの記法で以下のように書くことができる。",
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"text": "系のポテンシャルエネルギー関数 U ( X ) {\\displaystyle U(X)} は、粒子の座標 X {\\displaystyle X} の関数である。これは物理学では「ポテンシャル」、化学では「力場」と単に呼ばれる。最初の方程式はニュートンの法則(系中の個々の粒子に作用する力 F {\\displaystyle F} は U ( X ) {\\displaystyle U(X)} の負の勾配として計算できる)から来ている。",
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"text": "全ての時間ステップについて、個々の粒子の位置 X {\\displaystyle X} および速度 V {\\displaystyle V} はVerlet法といったシンプレティック法を用いて積分することができる。 X {\\displaystyle X} および V {\\displaystyle V} の時間発展はトラジェクトリと呼ばれる。初期位置(例えば理論上の知見から)および初期速度(例えばランダム化ガウシアンから)が与えられれば、未来(あるいは過去)の全ての位置および速度を計算することができる。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "よくある混乱の源の一つはMDにおける温度の意味である。一般に、我々が経験しているのは膨大な数の粒子を含む巨視的温度である。しかし温度は統計的量である。もし、十分大きな数の原子が存在すれば、統計的温度は「瞬間温度」から見積ることができる。これは、系の運動エネルギーをnkBT/2(kBはボルツマン定数、nは系の自由度の数)と同じと見なすことで得られる。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "温度に関連した現象はMDシミュレーションで使われる少数の原子が原因で生じる。例えば、500原子を含む基質と100 eVの蒸着エネルギーから開始される銅薄膜の成長のシミュレーションを考える。現実世界では、蒸着した原子からの100 eVは多数の原子( 10 10 {\\displaystyle 10^{10}} 以上)の間ですばやく輸送、共有され、温度に大きな変化は生じない。しかしながら、わずか500原子しかない時は、基質は蒸着によってほぼすぐに蒸発する。生物物理学シミュレーションでも似た事例が起こる。NVEにおける系の温度はタンパク質といった高分子が発熱的なコンホメーション変化や結合を起こす時に自然に上昇する。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "正準集団(カノニカルアンサンブル)では、物質の量(N)、容積(V)、温度(T)が保存される。これは等温分子動力学(constant temperature molecular dynamics、CTMD)と呼ばれることもある。NVTでは、吸熱的過程と発熱的過程のエネルギーはサーモスタット(温度調整器)によって交換される。",
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"text": "MDシミュレーションの境界にエネルギーを加えたり取り除いたりするための様々なサーモスタットアルゴリズムが利用可能であり、カノニカルアンサンブルを近似する。温度を制御するための人気のある手法には、速度リスケーリング(V-rescale)、能勢=フーバー・サーモスタット、能勢=フーバー・チェイン、ベレンゼン・サーモスタット、アンダーセン・サーモスタット、ランジュバン動力学がある。ベレンゼン・サーモスタットはフライングアイスキューブ効果を発生する可能性があることに留意すべきである。",
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"text": "これらのアルゴリズムを用いてコンホメーションや速度のカノニカル分布を得るのは簡単ではない。これが系の大きさ、サーモスタットの選択、サーモスタットのパラメータ、時間ステップ、積分器にいかに依存するかは、この分野の多くの論文のテーマとなっている。",
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"text": "等温定圧集団(アンサンブル)では、物質の量(N)、圧力(P)、温度(T)が保存される。サーモスタットに加えて、バロスタット(圧力調整器)が必要である。NPTアンサンブルは、気温と大気圧に開放されているフラスコを用いた実験室条件に最も密接に対応している。",
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"text": "生物膜のシミュレーションでは、等方性圧力制御は適切ではない。脂質二重膜については、圧力制御は定膜面積(NPAT、Aは面積)あるいは定表面張力γ(NPγT)下で行なわれる。",
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"text": "レプリカ交換法は拡張アンサンブルである。これは元々、無秩序なスピン系の遅い動力学を扱うために作られた。並列焼きもどし(parallel tempering)法とも呼ばれる。レプリカ交換MD(REMD)法は、複数の温度で走らせた系の非相互作用レプリカの温度を交換することによって多重極小問題を克服しようと試みている。",
"title": "シミュレーション設計の制約"
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"text": "分子動力学シミュレーションはポテンシャル関数(シミュレーション中の粒子の相互作用を決定する項の記述)を必要とする。化学および生物学では通常これは力場と呼ばれ、材料物理学では原子間ポテンシャルと呼ばれる。ポテンシャルは多くの段階の物理学的正確性で定義できる。化学で最も一般的に用いられているものは分子力学法に基づいており、粒子-粒子相互作用の古典的取扱い(構造変化やコンホメーション変化は再現できるが、化学反応は再現できない)を具体化している。",
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"text": "完全な量子力学的記述から古典的ポテンシャルへの簡略化は2つの主要な近似を伴う。1つ目はボルン=オッペンハイマー近似である。この近似では電子のダイナミクスが非常に速く、核の運動に瞬間的反応すると考えることができる、と述べる。結果として、電子の動きと核の動きは別々に扱うことができる。2つ目の近似は、電子よりもかなり重い核を古典ニュートン動力学に従う点粒子として扱う。古典的分子動力学では、電子の影響は単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態を表す)として近似される。",
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"text": "より細かい詳細が必要な時は、量子力学に基づくポテンシャルが用いられる。また、系の大部分を古典的に扱うが、化学的変換が起こる小さな領域を量子系として扱うハイブリッド古典/量子ポテンシャルも開発されている。",
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"text": "化学で用いられる経験的ポテンシャルは力場と呼ばれることが多いのに対して、材料化学分野では原子間ポテンシャルと呼ばれる。",
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"text": "化学におけるほとんどの力場は経験的なものであり、化学結合と関連する結合力、結合角、結合二面角、ファンデルワールス力および静電価と関連する非結合力の和から成る。経験的ポテンシャルはアドホックな機能的近似によって限定的に量子力学的効果を表わす。これらのポテンシャルは原子電荷、原子半径の推定値を反映するファンデルワールスパラメータ、平衡結合長、結合角、結合二面角といった自由なパラメータを含む。これらは、詳細な電子構造(量子化学シミュレーション)あるいは弾性係数、格子パラメータ、分光測定といった経験的な物理的性質に対してフィッティングを行うことで得られる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
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"text": "非結合性相互作用の非局所的な特性のため、これらは系の全ての粒子間の弱い相互作用を少なくとも含む。その計算は通常、MDシミュレーションの速度のボトルネックである。計算コストを下げるため、力場はシフト打ち切り半径、反応場アルゴリズム、粒子メッシュ・エバルト和、あるいはより新しい粒子-粒子-粒子-メッシュ(P3M)法といった数値的近似を用いる。",
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"text": "化学力場は一般にあらかじめ設定された結合様式を用いる(非経験的動力学法を除く)。したがって、化学力場は化学結合の切断の過程や反応を露にモデル化することができない。一方で、結合次数形式に基づいたもののような物理学におけるポテンシャルの多くは、系の複数の異なる接続や結合の切断を記述することができる。こういったポテンシャルの例としては、炭化水素のためのブレナー・ポテンシャルやそれをC-Si-H系とC-O-H系にさらに発展させたものがある。ReaxFFポテンシャルは、結合次数ポテンシャルと化学力場とを組み合わせた完全な反応力場と見なすことができる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "非結合性エネルギーを表わすポテンシャル関数は、系の粒子間の相互作用全体の和として定式化される。多くの人気のある力場で採用されている最も単純な選択肢は、全ポテンシャルエネルギーが原子の対の間のエネルギー寄与の和から計算できる「対ポテンシャル」である。こういった対ポテンシャルの一例は非結合性レナード=ジョーンズ・ポテンシャルであり、ファンデルワールス力を計算するために使われる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "もう一つの例はイオン格子のボルン(イオン)モデルである。次式の第一項はイオンの対についてのクーロンの法則であり、第二項はパウリの排他原理によって説明される短距離反発であり、最終項は分散相互作用項である。大抵は、シミュレーションは双極子項のみを含むが、四極子項も同様に含まれることもある(バッキンガム・ポテンシャルとして知られる)。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "多体ポテンシャルにおいて、ポテンシャルエネルギーは互いに相互作用する3つ以上の粒子の効果を含む。対ポテンシャルを用いたシミュレーションでは、系の包括的な相互作用も存在するが、対ポテンシャル項を通じてのみ生じる。多体ポテンシャルにおいて、ポテンシャルエネルギーは原子の対全体の和によって表わすことができない。これは、これらの相互作用が高次項の組合せとして明確に計算されるためである。統計的見方では、変数間の依存性は一般に自由度の対ごとの積のみを用いて表現することはできない。例えば、炭素、ケイ素、ゲルマニウムのシミュレーションに元々使われ、その他の幅広い材料に対しても用いられているターソフ・ポテンシャルは3個の原子の群についての和を含む。このポテンシャルでは、原子間の角度が重要な要素である。その他の例としては、原子挿入法(EAM)や強結合二次モーメント近似(TBSMA)ポテンシャルがある。TBSMAポテンシャルでは、原子の領域における状態の電子密度は周囲の原子からの寄与の和から計算され、ポテンシャルエネルギー寄与はこの和の関数である。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
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"text": "半経験的ポテンシャルは、量子力学からの行列表示を使用する。しかしながら、行列要素の値は特定の原子軌道の重なりの度合いを見積る経験式によって決定される。次に、この行列は異なる原子軌道の占有率を決定するために対角化され、軌道のエネルギー寄与を決定するために再び経験式が使われる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
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"text": "強結合ポテンシャルとして知られる半経験的ポテンシャルには様々な種類があり、これらはモデル化される原子によって異なる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
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"tag": "p",
"text": "ほとんどの古典的力場は分極率の効果を黙示的に含む(例えば量子化学計算から得られた部分電荷を拡大することによって)。これらの部分電荷は原子の質量に関して固定である。しかし、分子動力学シミュレーションはドルーデ粒子や変動電荷といった異なる手法を用いた誘導双極子の導入によって分極率を明示的にモデル化できる。これによって、局所的な化学的環境に応答する原子間の電荷の動的再分配が可能になる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
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"text": "長年、分極可能MDシミュレーションは次世代シミュレーションとしてもてはやされてきた。水といった均一な液体については、分極率を含めることによって正確性の向上が達成されてきた。タンパク質についても有望な結果が得られている。しかしながら、シミュレーションにおいて分極率をどのように近似するのが最適化についてはいまだ不確かである。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
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{
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"text": "古典的分子動力学では、単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態)は力場によって表わされる。これはボルン=オッペンハイマー近似の結果である。励起状態では、化学反応あるいはより正確な表現が必要な時は、電子の振る舞いを密度汎関数法といった量子力学的手法を用いることによって第一原理から得ることができる。これはab initio分子動力学(AIMD)と呼ばれる。電子の自由度を扱うコストから、このシミュレーションの計算コストは古典的分子動力学よりもかなり高い。これはAIMDがより小さな系あるいはより短い時間に制限されることを意味する。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
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{
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"text": "Ab initio量子力学法は、トラジェクトリ中の配座について必要に応じてその場で系のポテンシャルエネルギーを計算するために使うことができる。この計算は反応座標の近傍で大抵行われる。様々な近似を使うことができるが、これらは経験的当て嵌めではなく理論的考察に基づいている。Ab-initio計算は、電子状態の密度やその他の電子的性質といった、経験的手法からは得ることのできない膨大な情報を与える。Ab-initio法を使用する大きな利点は、共有結合の切断あるいは形成を含む反応を調べる能力である。これらの現象は複数の電子状態に対応する。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "QM(量子力学的)法は非常に強力である。しかしながら、その計算コストは高い。それに対してMM(古典的あるいは分子力学)法は高速だが、いくつかの制限がある(膨大なパラメータ化の必要性、得られたエネルギー推定値がそれ程正確ではないこと、共有結合が切断/形成する反応のシミュレーションに使うことができないこと、化学的反応に関する正確な詳細を与える能力に限界があること)。QM計算の利点(正確性)とMM計算の利点(速さ)を組み合わせた新たな手法が開発されている。これらの手法は混合あるいはハイブリッド量子力学/分子力学法(ハイブリッドQM/MM法)と呼ばれている。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
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"text": "ハイブリッドQM/MM法の最も重要な利点は速さである。最も分かりやすい場合において古典的分子動力学 (MM) を行うコストはO(n) と見積られる(nは系中の原子の数)。これは主に静電相互作用項(全ての粒子がその他全ての粒子と相互作用する)のためである。しかしながら、打ち切り半径の使用、周期的対表の更新、粒子-メッシュ・エバルト (PME) 法の派生法によって、このコストをO(n) からO(n) に減らすることができる。言い換えると、2倍の数の原子の系をシミュレーションすると、2倍から4倍の計算力を要することになる。一方で、最も単純なab-initio計算のコストは典型的にO(n) あるいはそれ以上を見積られる(制限ハートリー=フォック計算は~O(n) でスケールすることが示唆されている)。この制限を乗り越えるため、系の小さな部分が量子力学的に取り扱われ(典型的には酵素の活性部位)、残りの系が古典的に取り扱われる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "より洗練された実装では、QM/MM法は量子効果に対して敏感な軽い核(例えば水素)と電子状態の両方を扱うために存在する。これによって、水素の波動関数の生成を行うことができる。この方法論は、水素のトンネリングといった現象を調べるために有用である。QM/MM法が新たな発見をもたらした一つの例は、肝臓のアルコール脱水素酵素におけるヒドリド転移の計算である。この場合、水素原子のトンネリングが重要である(反応速度を決定する)。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "詳細なスケールの対極にあるのが、粗視化モデルと格子モデルである。系の全ての原子を露に(明示的に)表現する代わりに、ここでは原子の群を表現するために「擬原子」を用いる。非常に大きな系のMDシミュレーションは非常に大きな計算機資源を必要とするため、伝統的な全原子手法によって容易に調べることができない。同様に、長い時間スケール(1マイクロ秒を超える)の過程のシミュレーションは、多くの時間ステップを必要とするため、極めて計算コストが高い。これらの場合、粗視化(粗粒化)表現とも呼ばれる簡約表現を用いることによってこの問題に対処することができることもある。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "粗視化(coarse graining、CG)手法の例としては、不連続分子動力学(CG-DMD)やGoモデルがある。粗視化はより大きな擬原子を用いることによって行なわれることもある。こういった合同原子(united atom)近似は生体膜のMDシミュレーションにおいて使用されてきた。電子的性質が興味の対象である系へのこういった手法の導入は、擬原子上の適切な電荷分布を使うことの困難さのため難しい。脂質の脂肪族末端は2から4のメチレン基を1つの擬原子としてまとめたいくつかの擬原子によって表わされる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "これらの非常に粗視的なモデルのパラメータ化は、モデルの挙動を適切な実験的データあるいは全原子シミュレーションへ合致させることによって、経験的に行われる。理想的には、これらのパラメータは自由エネルギーへのエンタルピー寄与とエントロピー寄与の両方を黙示的に考慮しなければならない。粗視化がより高い水準で行われる時、動力学的記述の正確性はより信頼できなくなる。しかし、よく粗視化されたモデルは、構造生物学、液晶の組織化、高分子ガラスの分野における幅広い疑問を調べるためにうまく使われてきている。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "粗視化の応用の例を以下に挙げる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "最も単純な粗視化の形は「合同原子(united atom)」であり、初期のタンパク質、脂質、核酸のMDシミュレーションのほとんどで使われた。例えば、CH3メチル基の4原子全て(あるいはCH2メチレン基の3原子全て)を露(明示的)に扱う代わりに、メチル基あるいはメチレン基全体を単一の擬原子によって表わす。この擬原子はもちろん、他の基とのファンデルワールス相互作用が適切な距離依存性を持つように適切にパラメータ化されなければならない。この種の合同原子の表現においては通常、水素結合に関与する能力のあるもの(極性水素)を除いて全ての明示的水素原子を消去する。この一つの例がCharmm 19力場である。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "極性水素は通常モデルに保持される。これは水素結合の適切な取扱いが水素結合ドナー基とアクセプター基との間の指向性と静電相互作用のかなり正確な記述を必要とするためである。例えば水酸基は水素結合ドナーと水素結合アクセプターのどちらのなることができ、単一のOH擬原子ではこれを扱うことは不可能であろう。ここで留意すべきはタンパク質あるいは核酸中の原子の約半数は非極性水素であることであり、したがって合同原子を使用することによって計算時間を相当短縮することができる。",
"title": "MDシミュレーションにおけるポテンシャル"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "操舵分子動力学(Steered molecular dynamics; SMD)シミュレーションでは、望む自由度に沿ってタンパク質の構造を引っ張ることによってその構造を操作するためにタンパク質に力を印加する。これらの実験は原子レベルでのタンパク質における構造変化を明らかにするために用いることができる。SMDは機械的な折り畳み構造のほどけや伸長といった出来事をシミュレーションするためにしばしば用いられている。",
"title": "操舵分子動力学 (SMD)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "SMDには2種類の典型的手順がある。1つは引っ張る速度が一定に保たれるもので、もう1つは印加される力が一定のものである。典型的には、調べる系の部分(例えばタンパク質中の1原子)を調和ポテンシャルによって拘束する。次に特定の原子に一定の速度あるいは一定の力を印加する。シミュレーション中で操作される力、距離、角度を変化させることによって望む反応座標に沿って系を動かすために傘サンプリングが用いられる。傘サンプリングによって、系の配置の全て(高エネルギーと低エネルギーのどちらも)が十分にサンプリングされる。次に、それぞれの配置の自由エネルギー変化を平均力ポテンシャル(PMF)として計算することができる。PMFを計算する人気のある手法は一連の傘サンプリングシミュレーションを解析する重みつきヒストグラム解析法(weighted histogram analysis method; WHAM)である。",
"title": "操舵分子動力学 (SMD)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "分子動力学は多くの科学分野で使われている。",
"title": "応用例"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "以下の生物物理学的例は非常に大きな系(完全なウイルス)あるいは非常に長いシミュレーション時間(1.112ミリ秒まで)のシミュレーションを行うための注目に値する成果を示している。",
"title": "応用例"
}
] | 分子動力学法は、原子ならびに分子の物理的な動きのコンピューターシミュレーション手法である。原子および分子はある時間の間相互作用することが許され、これによって原子の動的発展の光景が得られる。最も一般的なMD法では、原子および分子のトラクジェクトリは、相互作用する粒子の系についての古典力学におけるニュートンの運動方程式を数値的に解くことによって決定される。この系では粒子間の力およびポテンシャルエネルギーは原子間ポテンシャル(分子力学力場)によって定義される。MD法は元々は1950年代末に理論物理学分野で考え出されたが、今日では主に化学物理学、材料科学、生体分子のモデリングに適用されている。系の静的、動的安定構造や、動的過程(ダイナミクス)を解析する手法。 分子の系は莫大な数の粒子から構成されるため、このような複雑系の性質を解析的に探ることは不可能である。MDシミュレーションは
数値的手法を用いることによってこの問題を回避する。しかしながら、長いMDシミュレーションは数学的に悪条件であり、数値積分において累積誤差を生成してしまう。これはアルゴリズムとパラメータの適切な選択によって最小化することができるが、完全に取り除くことはできない。 エルゴード仮説に従う系では、単一の分子動力学シミュレーションの展開は系の巨視的熱力学的性質を決定するために使うことができる。エルゴード系の時間平均はミクロカノニカルアンサンブル(小正準集団)平均に対応する。MDは自然の力をアニメーションすることによって未来を予測する、原子スケールの分子の運動についての理解を可能にする「数による統計力学」や「ニュートン力学のラプラス的視点」とも称されている。 MDシミュレーションでは等温、定圧、等温・定圧、定エネルギー、定積、定ケミカルポテンシャル、グランドカノニカルといった様々なアンサンブル(統計集団)の計算が可能である。また、結合長や位置の固定など様々な拘束条件を付加することもできる。計算対象は、バルク、表面、界面、クラスターなど多様な系を扱える。 MD法で扱える系の規模としては、最大で数億原子からなる系の計算例がある。通常の計算規模は数百から数万原子(分子、粒子)程度である。 通常、ポテンシャル関数は、原子-原子の二体ポテンシャルを組み合わせて表現し、これを計算中に変更しない。そのため化学反応のように、原子間結合の生成・開裂を表現するには、何らかの追加の工夫が必要となる。また、ポテンシャルは経験的・半経験的なパラメータから求められる。 こうしたポテンシャル面の精度の問題を回避するため、ポテンシャル面を電子状態の第一原理計算から求める手法もある。このような方法は、第一原理分子動力学法〔量子分子動力学法〕と呼ばれる。この方法では、ポテンシャル面がより正確なものになるが、扱える原子数は格段に減る(スーパーコンピュータを利用しても、最大で約千個程度)。 また第一原理分子動力学法の多くは、電子状態が常に基底状態であることを前提としているものが多く、電子励起状態や電子状態間の非断熱遷移を含む現象の記述は、こうした手法であってもなお困難である。 | [[ファイル:Cudeposition.gif|thumb|320px|単純な系における分子動力学シミュレーションの例: 単一の[[銅|Cu]][[原子]]のCu [[ミラー指数|(001)]] [[表面科学|表面]]への堆積。それぞれの円は単一原子の位置を示す。現在のシミュレーションにおいて用いられる実際の原子的相互作用は図中の2次元剛体球の相互作用よりも複雑である。]]
[[File:MD water.gif|thumb|320px|分子動力学法は生物物理学的系をシミュレーションするためにしばしば用いられる。ここで描かれているのは水の100 psシミュレーションである。]]
'''分子[[動力学]]法'''(ぶんしどうりきがくほう、{{lang-en-short|molecular dynamics}}、MD法)は、[[原子]]ならびに[[分子]]の[[運動 (物理学)|物理的な動き]]の[[コンピューターシミュレーション]]手法である。原子および分子はある時間の間相互作用することが許され、これによって原子の動的発展の光景が得られる。最も一般的なMD法では、原子および分子の[[弾道|トラクジェクトリ]]は、相互作用する粒子の系についての[[古典力学]]における[[ニュートン力学|ニュートンの運動方程式]]を[[数値積分|数値的に解く]]ことによって決定される。この系では粒子間の[[力 (物理学)|力]]および[[ポテンシャルエネルギー]]は[[原子間ポテンシャル]]([[分子力学]][[力場 (化学)|力場]])によって定義される。MD法は元々は1950年代末に理論物理学分野で考え出されたが<ref name= a&w>{{cite journal
| first = B. J.
| last = Alder
| authorlink =
|author2=T. E. Wainwright
| year = 1959
| title = Studies in Molecular Dynamics. I. General Method
| journal = J. Chem. Phys.
| volume = 31
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| id =
| url =
| doi = 10.1063/1.1730376
|bibcode = 1959JChPh..31..459A }}</ref><ref name= a.rahman>{{cite journal|last1=Rahman|first1=A.|authorlink1=Aneesur Rahman|title=Correlations in the Motion of Atoms in Liquid Argon|journal=Physical Review|date=19 October 1964|volume=136|issue=2A|pages=A405–A411|doi=10.1103/PhysRev.136.A405|bibcode = 1964PhRv..136..405R}}</ref>、今日では主に[[化学物理学]]、[[材料科学]]、[[生体分子]]のモデリングに適用されている。系の静的、動的安定構造や、動的過程(ダイナミクス)を解析する手法。
分子の系は莫大な数の粒子から構成されるため、このような[[複雑系]]の性質を解析的に探ることは不可能である。MDシミュレーションは
[[数値解析|数値的]]手法を用いることによってこの問題を回避する。しかしながら、長いMDシミュレーションは数学的に[[条件数|悪条件]]であり、[[数値積分]]において累積誤差を生成してしまう。これはアルゴリズムとパラメータの適切な選択によって最小化することができるが、完全に取り除くことはできない。
[[エルゴード仮説]]に従う系では、単一の分子動力学シミュレーションの展開は系の巨視的[[熱力学]]的性質を決定するために使うことができる。エルゴード系の時間平均は[[ミクロカノニカルアンサンブル]](小正準集団)平均に対応する。MDは自然の力をアニメーションすることによって未来を予測する、原子スケールの分子の運動についての理解を可能にする「数による統計力学」や「[[ニュートン力学]]の[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]的視点」とも称されている<ref>{{cite book
| last = Schlick
| first = T.
| editor = J. P. Mesirov, K. Schulten and D. W. Sumners
| title = Mathematical Applications to Biomolecular Structure and Dynamics, IMA Volumes in Mathematics and Its Applications
| year = 1996
| publisher = Springer-Verlag
| location = New York
| language =
| volume = 82
| isbn = 978-0-387-94838-6
| pages = 218–247
| chapter = Pursuing Laplace's Vision on Modern Computers
}}</ref><ref>{{cite book
|last = de Laplace
|first = P. S.
|title = Oeuveres Completes de Laplace, Theorie Analytique des Probabilites
|year = 1820
|publisher = Gauthier-Villars
|location = Paris, France
|language = French
}}</ref>。
MDシミュレーションでは等温、定圧、[[等温定圧集団|等温・定圧]]、定エネルギー、定積、定ケミカルポテンシャル、グランドカノニカルといった様々なアンサンブル([[統計集団]])の計算が可能である。また、結合長や位置の固定など様々な拘束条件を付加することもできる。計算対象は、[[バルク (界面化学)|バルク]]、[[表面]]、[[界面]]、[[クラスター (物質科学)|クラスター]]など多様な系を扱える。
MD法で扱える系の規模としては、最大で数億原子からなる系の計算例がある。通常の計算規模は数百から数万原子(分子、粒子)程度である。
通常、ポテンシャル関数は、原子-原子の二体ポテンシャルを組み合わせて表現し、これを計算中に変更しない。そのため化学反応のように、原子間結合の生成・開裂を表現するには、何らかの追加の工夫が必要となる。また、ポテンシャルは経験的・半経験的なパラメータから求められる。
こうしたポテンシャル面の精度の問題を回避するため、ポテンシャル面を電子状態の第一原理計算から求める手法もある。このような方法は、[[第一原理分子動力学法]]〔量子(ab initio)分子動力学法〕と呼ばれる。この方法では、ポテンシャル面がより正確なものになるが、扱える原子数は格段に減る(スーパーコンピュータを利用しても、最大で約千個程度)。
また第一原理分子動力学法の多くは、電子状態が常に基底状態であることを前提としているものが多く、電子励起状態や電子状態間の非断熱遷移を含む現象の記述は、こうした手法であってもなお困難である。
== 歴史 ==
[[モンテカルロ法|モンテカルロシミュレーション]]の先行する成功に続いて、1950年代末に[[バーニ・アルダー|アルダー]]とウェインライトによって<ref name=a&w />、1960年代に[[アニーサー・ラーマン|ラーマン]]によって<ref name=a.rahman />それぞれ独立にMD法が開発された。1957年、アルダーおよびウェインライトは[[剛体球]]間の弾性衝突を完全にシミュレーションするために[[IBM 704]]計算機を使用した<ref name=a&w />。1960年、ギブソンらはボルン=マイヤー型の反発相互作用と凝集面積力を用いることによって固体[[銅]]の放射線障害をシミュレーションした<ref>{{cite journal | first1 = J B | last1 = Gibson | first2 = A N | last2 = Goland | first3 = M | last3 = Milgram | first4 = G H | last4 = Vineyard | year = 1960 | title = Dynamics of Radiation Damage | journal = Phys. Rev. | volume = 120 | pages = 1229–1253 | doi=10.1103/PhysRev.120.1229 |bibcode = 1960PhRv..120.1229G }}</ref>。1964年、ラーマンは[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル|レナード=ジョーンズ・ポテンシャル]]を利用した液体[[アルゴン]]の画期的シミュレーションを発表した。[[自己拡散]]係数といった系の性質の計算は実験データと遜色がなかった<ref name=a.rahman />。
=== 年表 ===
* [[1957年]]:剛体球の分子動力学法(Alder and Wainwright←最初のMD)
* [[1964年]]:質点系への拡張 (Rahman)
* [[1971年]]:剛体系への拡張 (Rahman and Stillinger)
* [[1977年]]:拘束系への拡張(Rychaert等)
* [[1980年]]:定圧条件の導入(Andersenの方法、Parrinello-Rahman法)
* [[1983年]]:非平衡系への拡張 (Gillan and Dixon)
* [[1984年]]:定温条件の導入([[能勢=フーバー・サーモスタット|能勢=フーバーの方法]])
* [[1985年]]:第一原理分子動力学法(→[[カー・パリネロ法]])
* [[1991年]]:大正準集団(集合)系への拡張 (Cagin and Pettit)
== 応用領域 ==
理論[[物理学]]分野で始まったMD法は[[材料科学]]において人気を得て、1970年代からは[[生化学]]および[[生物物理学]]での人気を得ている。MDは[[X線結晶構造解析]]あるいは[[NMR]]分光法から得られた実験的拘束情報に基づいて[[タンパク質]]やその他の[[高分子]]の三次元構造を洗練するために頻繁に用いられる。物理学において、MDは薄膜成長やイオン-サブプランテーションといった直接観測することができない原子レベルの現象のダイナミクスを調べるために使われる。また、まだ作成されていないあるいは作成することができない[[ナノテクノロジー]]装置の物理的性質を調べるためにも使われる。[[生物物理学]]および[[構造生物学]]では、MD法は[[ドッキング (分子)|リガンドドッキング]]、[[脂質二重膜]]のシミュレーション、[[ホモロジーモデリング]]、さらに[[ランダムコイル]]から[[ポリペプチド鎖]]の[[フォールディング|折り畳み]]をシミュレーションすることによって[[タンパク質構造]]をab initioに予測するためにも頻繁に適用されている。
==シミュレーション設計の制約==
分子動力学シミュレーションの設計は利用可能な計算機能力を考慮しなければならない。計算が合理的な時間で終了できるように、シミュレーションサイズ(n = 粒子の数)、時間ステップ、総シミュレーション時間が選択されなければならない。しかしながら、シミュレーションは調べる自然の過程の時間スケールにとって適切なように十分長くなければならない。シミュレーションから統計的に妥当な結論を得るためには、シミュレーションされる時間は自然の過程の速度論と一致しなければならない。さもなければ、MD法は人間が一歩進むよりも短い時間を観察して人間がどうやって歩くのかについて結論付けるのと同じである。タンパク質およびDNAの動力学に関するほとんどの科学論文はナノ秒(10<sup>−9</sup> s)からマイクロ秒(10<sup>−6</sup> s)のシミュレーションからのデータを用いている。これらのシミュレーションを得るためには、複数CPU日からCPU年が必要である。並列アルゴリズムによって負荷をCPU間で分散することができる。この例としては空間的分解アルゴリズムや力分解アルゴリズムがある<ref>{{cite web|url=http://www.sandia.gov/~sjplimp/md.html|title=Molecular Dynamics - Parallel Algorithms |author=Steve Plimpton|accessdate=2015-07-22}}</ref>。
古典的MDシミュレーションの間、CPUを消費するほとんどのタスクは粒子の内部座標の関数としての[[力場 (化学)|ポテンシャル]]の評価である。このエネルギー評価内で最も計算コストが高いのが非結合(非共有結合)部分である。[[ランダウの記号|ランダウの''O''-記法]]では、全ての対[[静電気学|静電]]相互作用および[[ファンデルワールス力|ファンデルワールス相互作用]]があらわに考慮されるとすると、一般的な分子動力学シミュレーションは<math>O(n^2)</math>で[[アルゴリズム解析|スケール]]する。この計算コストは[[エバルト和#粒子・メッシュ・エバルト (PME) 法|粒子メッシュエバルト (PME) 法]](<math>O(n \log(n))</math>)、[[P3M]]法あるいはより球面カットオフ手法(<math>O(n)</math>)といった静電的手法を利用することによって低減することができる。
シミュレーションに必要な総CPU時間に影響を与えるもう一つの要素は、積分時間ステップの大きさである。これはポテンシャルの評価の間の時間の長さである。時間ステップは[[離散化]]誤差を避けるのに十分小さいように(すなわち系の最も速い振動周波数よりも小さく)選ばれなければならない。古典的MDの典型的な時間ステップは1フェムト秒(10<sup>−15</sup> s)のオーダーである。この値は[[拘束アルゴリズム|SHAKE]]〔最も速い原子(例えば水素)の振動を空間に固定する〕といったアルゴリズムを用いることによって延ばすことができる。複数の時間ステップ法が開発されており、これらによってより遅い長距離力の更新の間隔を延ばすことができる<ref name="Streett">{{cite journal |author=Streett WB, Tildesley DJ, Saville G |year=1978 |title=Multiple time-step methods in molecular dynamics |journal=Mol Phys |volume=35 |issue=3 |pages=639–648 |doi=10.1080/00268977800100471|bibcode = 1978MolPh..35..639S |last2=Tildesley |last3=Saville }}</ref><ref name="Tuckerman1991">{{cite journal |author=Tuckerman ME, Berne BJ, Martyna GJ |year=1991 |title=Molecular dynamics algorithm for multiple time scales: systems with long range forces |journal=J Chem Phys |volume=94 |issue=10 |pages=6811–6815 |doi=10.1063/1.460259|bibcode = 1991JChPh..94.6811T |last2=Berne |last3=Martyna }}</ref><ref name="Tuckerman1992">{{cite journal |author=Tuckerman ME, Berne BJ, Martyna GJ |year=1992 |title=Reversible multiple time scale molecular dynamics |journal=J Chem Phys |volume=97 |issue=3 |pages=1990–2001 |doi=10.1063/1.463137|bibcode = 1992JChPh..97.1990T |last2=Berne |last3=Martyna }}</ref>。
溶媒中の分子のシミュレーションでは、[[水模型|露な溶媒]](陽溶媒)と[[陰溶媒|露でない溶媒]](陰溶媒)のどちらかを選択しなければならない。陽溶媒粒子([[TIP3P]]、SPC/E、[[柔軟なSPC水模型|SPC-f]]水モデルなど)は力場によって計算コストを掛けて計算しなければならないのに対して、陰溶媒は平均力手法を用いる。陽溶媒は計算コストが高く、シミュレーション中におよそ10倍を超える粒子を含む必要がある。しかし、陽溶媒の粒度と粘度は溶質分子の特定の性質を再現するために必須である。これは[[反応速度論|運動力学]]を再現するために特に重要である。
分子動力学シミュレーションの全ての種類において、シミュレーションの箱の大きさは[[境界条件]]アーティファクトを避けるのに十分な程大きくなければならない。境界条件は、端において固定された値を選択することによって、あるいは[[周期境界条件]](シミュレーションの一方がその逆側につながることによてバルク相を模倣する)を採用することによってしばしば扱われる。
=== 小正準集団(NVE) ===
小正準([[ミクロカノニカルアンサンブル|ミクロカノニカル]]、NVE)集団(アンサンブル)において、系はモル(N)、容積(V)、エネルギー(E)の変化から分離される。これは熱交換のない[[断熱過程]]に対応する。ミクロカノニカル分子動力学トラクジェクトリは全エネルギーが保存されたポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの交換として見ることができる。座標<math>X</math>と<math>V</math>を持つ速度N個の粒子の系では、一次微分方程式の対を[[ニュートンの記法]]で以下のように書くことができる。
:<math>F(X) = -\nabla U(X)=M\dot{V}(t)</math>
:<math>V(t) = \dot{X} (t). </math>
系のポテンシャルエネルギー関数<math>U(X)</math>は、粒子の座標<math>X</math>の関数である。これは物理学では「ポテンシャル」、化学では「力場」と単に呼ばれる。最初の方程式は[[ニュートン力学|ニュートンの法則]](系中の個々の粒子に作用する力<math>F</math>は<math>U(X)</math>の負の勾配として計算できる)から来ている。
全ての時間ステップについて、個々の粒子の位置<math>X</math>および速度<math>V</math>は[[ベレの方法|Verlet]]法といった[[シンプレティック積分器|シンプレティック法]]を用いて積分することができる。<math>X</math>および<math>V</math>の時間発展はトラジェクトリと呼ばれる。初期位置(例えば理論上の知見から)および初期速度(例えばランダム化ガウシアンから)が与えられれば、未来(あるいは過去)の全ての位置および速度を計算することができる。
よくある混乱の源の一つはMDにおける[[温度]]の意味である。一般に、我々が経験しているのは膨大な数の粒子を含む巨視的温度である。しかし温度は統計的量である。もし、十分大きな数の原子が存在すれば、統計的温度は「瞬間温度」から見積ることができる。これは、系の運動エネルギーをnk<sub>B</sub>T/2(kBはボルツマン定数、nは系の自由度の数)と同じと見なすことで得られる。
温度に関連した現象はMDシミュレーションで使われる少数の原子が原因で生じる。例えば、500原子を含む基質と100 eVの蒸着エネルギーから開始される銅薄膜の成長のシミュレーションを考える。現実世界では、蒸着した原子からの100 eVは多数の原子(<math>10^{10}</math>以上)の間ですばやく輸送、共有され、温度に大きな変化は生じない。しかしながら、わずか500原子しかない時は、基質は蒸着によってほぼすぐに蒸発する。生物物理学シミュレーションでも似た事例が起こる。NVEにおける系の温度はタンパク質といった高分子が発熱的な[[コンホメーション]]変化や結合を起こす時に自然に上昇する。
=== 正準集団(NVT) ===
[[正準集団]](カノニカルアンサンブル)では、物質の量(N)、容積(V)、温度(T)が保存される。これは等温分子動力学(constant temperature molecular dynamics、CTMD)と呼ばれることもある。NVTでは、吸熱的過程と発熱的過程のエネルギーは[[サーモスタット]](温度調整器)によって交換される。
MDシミュレーションの境界にエネルギーを加えたり取り除いたりするための様々なサーモスタットアルゴリズムが利用可能であり、カノニカルアンサンブルを近似する。温度を制御するための人気のある手法には、速度リスケーリング(V-rescale)、[[能勢=フーバー・サーモスタット]]、能勢=フーバー・チェイン、[[ベレンゼン・サーモスタット]]、[[アンダーセン・サーモスタット]]、[[ランジュバン動力学]]がある。ベレンゼン・サーモスタットは[[フライングアイスキューブ効果]]を発生する可能性があることに留意すべきである。
これらのアルゴリズムを用いてコンホメーションや速度の[[カノニカル分布]]を得るのは簡単ではない。これが系の大きさ、サーモスタットの選択、サーモスタットのパラメータ、時間ステップ、積分器にいかに依存するかは、この分野の多くの論文のテーマとなっている。
=== 等温定圧(NPT)集団 ===
[[等温定圧集団]](アンサンブル)では、物質の量(N)、圧力(P)、温度(T)が保存される。サーモスタットに加えて、バロスタット(圧力調整器)が必要である。NPTアンサンブルは、気温と大気圧に開放されているフラスコを用いた実験室条件に最も密接に対応している。
生物膜のシミュレーションでは、[[等方性媒質|等方性]]圧力制御は適切ではない。脂質二重膜については、圧力制御は定膜面積(NPAT、Aは面積)あるいは定表面張力{{lang|el|γ}}(NP{{lang|el|γ}}T)下で行なわれる。
=== 拡張アンサンブル法 ===
[[レプリカ交換法]]は拡張アンサンブルである。これは元々、無秩序なスピン系の遅い動力学を扱うために作られた。並列焼きもどし(parallel tempering)法とも呼ばれる。レプリカ交換MD(REMD)法<ref>{{cite journal
| first = Yuji
| last = Sugita
|author2=Yuko Okamoto
| year = 1999
| title = Replica-exchange molecular dynamics method for protein folding
| journal = Chem Phys Letters
| volume = 314
| pages = 141–151
| doi =10.1016/S0009-2614(99)01123-9
|bibcode = 1999CPL...314..141S }}</ref>は、複数の温度で走らせた系の非相互作用レプリカの温度を交換することによって多重極小問題を克服しようと試みている。
== MDシミュレーションにおけるポテンシャル ==
{{Main|原子間ポテンシャル|力場 (化学)}}
分子動力学シミュレーションは[[ポテンシャル関数]](シミュレーション中の粒子の相互作用を決定する項の記述)を必要とする。化学および生物学では通常これは[[力場 (化学)|力場]]と呼ばれ、材料物理学では原子間ポテンシャルと呼ばれる。ポテンシャルは多くの段階の物理学的正確性で定義できる。化学で最も一般的に用いられているものは[[分子力学法]]に基づいており、粒子-粒子相互作用の[[古典力学|古典的]]取扱い(構造変化や[[コンホメーション変化]]は再現できるが、[[化学反応]]は再現できない)を具体化している。
完全な量子力学的記述から古典的ポテンシャルへの簡略化は2つの主要な近似を伴う。1つ目は[[ボルン-オッペンハイマー近似|ボルン=オッペンハイマー近似]]である。この近似では電子のダイナミクスが非常に速く、核の運動に瞬間的反応すると考えることができる、と述べる。結果として、電子の動きと核の動きは別々に扱うことができる。2つ目の近似は、電子よりもかなり重い核を古典ニュートン動力学に従う点粒子として扱う。古典的分子動力学では、電子の影響は単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態を表す)として近似される。
より細かい詳細が必要な時は、[[量子力学]]に基づくポテンシャルが用いられる。また、系の大部分を古典的に扱うが、化学的変換が起こる小さな領域を量子系として扱うハイブリッド[[QM/MM|古典/量子]]ポテンシャルも開発されている。
=== 経験的ポテンシャル ===
化学で用いられる経験的ポテンシャルは[[力場 (化学)|力場]]と呼ばれることが多いのに対して、材料化学分野では[[原子間ポテンシャル]]と呼ばれる。
化学におけるほとんどの力場は経験的なものであり、[[化学結合]]と関連する結合力、結合角、結合[[二面角]]、[[ファンデルワールス力]]および[[電荷|静電価]]と関連する非結合力の和から成る。経験的ポテンシャルはアドホックな機能的近似によって限定的に量子力学的効果を表わす。これらのポテンシャルは[[電荷|原子電荷]]、[[原子半径]]の推定値を反映するファンデルワールスパラメータ、平衡[[結合長]]、結合角、結合二面角といった自由なパラメータを含む。これらは、詳細な電子構造(量子化学シミュレーション)あるいは[[ヤング率|弾性係数]]、格子パラメータ、[[分光学|分光]]測定といった経験的な物理的性質に対してフィッティングを行うことで得られる。
非結合性相互作用の非局所的な特性のため、これらは系の全ての粒子間の弱い相互作用を少なくとも含む。その計算は通常、MDシミュレーションの速度のボトルネックである。計算コストを下げるため、力場はシフト打ち切り半径、[[反応場法|反応場]]アルゴリズム、[[エバルトの方法|粒子メッシュ・エバルト]]和、あるいはより新しい[[P3M|粒子-粒子-粒子-メッシュ]](P3M)法といった数値的近似を用いる。
化学力場は一般にあらかじめ設定された結合様式を用いる([[非経験的分子軌道法|非経験的]]動力学法を除く)。したがって、化学力場は化学結合の切断の過程や反応を露にモデル化することができない。一方で、[[結合次数ポテンシャル|結合次数形式]]に基づいたもののような物理学におけるポテンシャルの多くは、系の複数の異なる接続や結合の切断を記述することができる<ref>{{cite journal | last1 = Sinnott | first1 = S. B. | last2 = Brenner | first2 = D. W. | year = 2012 | title = Three decades of many-body potentials in materials research | url = | journal = MRS Bulletin | volume = 37 | issue = 5| pages = 469–473 | doi=10.1557/mrs.2012.88}}</ref><ref>{{cite journal | last1 = Albe | first1 = K. | last2 = Nordlund | first2 = K. | last3 = Averback | first3 = R. S. | year = 2002 | title = Modeling metal-semiconductor interaction: Analytical bond-order potential for platinum-carbon | url = | journal = Phys. Rev. B | volume = 65 | issue = 19| page = 195124 | doi=10.1103/physrevb.65.195124|bibcode = 2002PhRvB..65s5124A }}</ref>。こういったポテンシャルの例としては、炭化水素のためのブレナー・ポテンシャル<ref>{{cite journal
| first = D. W.
| last = Brenner
| year = 1990
| title = Empirical potential for hydrocarbons for use in simulating the chemical vapor deposition of diamond films
| journal = Phys. Rev. B
| volume = 42
| issue = 15
| pages = 9458–9471
| doi = 10.1103/PhysRevB.42.9458
|bibcode = 1990PhRvB..42.9458B }}</ref>やそれをC-Si-H系<ref>Keith Beardmore and Roger Smith. (1996) Empirical potentials for c-si-h systems with application to C60 interactions with Si crystal surfaces. ''Phil. Mag. A'' 74:1439--1466.</ref>とC-O-H系<ref>Boris Ni, Ki-Ho Lee, and Susan B Sinnott. (2004) A reactive empirical bond order (rebo) potential for hydrocarbon oxygen interactions. ''J. Phys.: Condens. Matter'' 16:7261--7275.</ref>にさらに発展させたものがある。[[ReaxFF]]ポテンシャル<ref>{{cite journal
| first = A.
| last = van Duin
| author2 = Siddharth Dasgupta, François Lorant and William A. Goddard III
| year = 2001
| journal = J. Phys. Chem. A
| volume = 105
| issue = 41
| pages = 9398
| doi = 10.1021/jp004368u
| title = ReaxFF: A Reactive Force Field for Hydrocarbons
| last3 = Lorant
| first3 = Francois
| last4 = Goddard
| first4 = William A.
}}</ref>は、結合次数ポテンシャルと化学力場とを組み合わせた完全な反応力場と見なすことができる。
=== 対ポテンシャルと多体ポテンシャル ===
非結合性エネルギーを表わすポテンシャル関数は、系の粒子間の相互作用全体の和として定式化される。多くの人気のある[[力場 (化学)|力場]]で採用されている最も単純な選択肢は、全ポテンシャルエネルギーが原子の対の間のエネルギー寄与の和から計算できる「対ポテンシャル」である。こういった対ポテンシャルの一例は非結合性[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル|レナード=ジョーンズ・ポテンシャル]]であり、ファンデルワールス力を計算するために使われる。
:<math>
U(r) = 4\varepsilon \left[ \left(\frac{\sigma}{r}\right)^{12} - \left(\frac{\sigma}{r}\right)^{6} \right]
</math>
もう一つの例はイオン格子のボルン(イオン)モデルである。次式の第一項はイオンの対についての[[クーロンの法則]]であり、第二項はパウリの排他原理によって説明される短距離反発であり、最終項は分散相互作用項である。大抵は、シミュレーションは双極子項のみを含むが、四極子項も同様に含まれることもある([[バッキンガム・ポテンシャル]]として知られる)。
:<math>U_{ij}(r_{ij}) = \frac {z_i z_j}{4 \pi \epsilon_0} \frac {1}{r_{ij}} + A_l \exp \frac {-r_{ij}}{p_l} + C_l r_{ij}^{-n_l} + \cdots
</math>
[[多体問題|多体ポテンシャル]]において、ポテンシャルエネルギーは互いに相互作用する3つ以上の粒子の効果を含む。対ポテンシャルを用いたシミュレーションでは、系の包括的な相互作用も存在するが、対ポテンシャル項を通じてのみ生じる。多体ポテンシャルにおいて、ポテンシャルエネルギーは原子の対全体の和によって表わすことができない。これは、これらの相互作用が高次項の組合せとして明確に計算されるためである。統計的見方では、変数間の依存性は一般に自由度の対ごとの積のみを用いて表現することはできない。例えば、[[炭素]]、[[ケイ素]]、[[ゲルマニウム]]のシミュレーションに元々使われ、その他の幅広い材料に対しても用いられている[[結合次数ポテンシャル|ターソフ・ポテンシャル]]<ref>{{cite journal
| first = J.
| last = Tersoff
| year = 1989
| title = Modeling solid-state chemistry: Interatomic potentials for multicomponent systems
| journal = Phys. Rev. B
| volume = 39
| issue = 8
| pages = 5566–5568
| doi = 10.1103/PhysRevB.39.5566
|bibcode = 1989PhRvB..39.5566T }}</ref>は3個の原子の群についての和を含む。このポテンシャルでは、原子間の角度が重要な要素である。その他の例としては、[[原子挿入法]](EAM)<ref>{{cite journal
| first = M. S.
| last = Daw
| author2 = S. M. Foiles and M. I. Baskes
| year = 1993
| title = The embedded-atom method: a review of theory and applications
| journal = Mat. Sci. And Engr. Rep.
| volume = 9
| issue = 7–8
| pages = 251–310
| doi = 10.1016/0920-2307(93)90001-U
}}</ref>や強結合二次モーメント近似(TBSMA)ポテンシャル<ref>{{cite journal
| first = F.
| last = Cleri
|author2=V. Rosato
| year = 1993
| title = Tight-binding potentials for transition metals and alloys
| journal = Phys. Rev. B
| volume = 48
| pages = 22–33
| doi = 10.1103/PhysRevB.48.22
|bibcode = 1993PhRvB..48...22C }}</ref>がある。TBSMAポテンシャルでは、原子の領域における状態の電子密度は周囲の原子からの寄与の和から計算され、ポテンシャルエネルギー寄与はこの和の関数である。
=== 半経験的ポテンシャル ===
[[半経験的分子軌道法|半経験的]]ポテンシャルは、量子力学からの行列表示を使用する。しかしながら、行列要素の値は特定の原子軌道の重なりの度合いを見積る経験式によって決定される。次に、この行列は異なる原子軌道の占有率を決定するために対角化され、軌道のエネルギー寄与を決定するために再び経験式が使われる。
[[強結合近似|強結合]]ポテンシャルとして知られる半経験的ポテンシャルには様々な種類があり、これらはモデル化される原子によって異なる。
=== 分極可能なポテンシャル ===
ほとんどの古典的力場は[[分極率]]の効果を黙示的に含む(例えば量子化学計算から得られた部分電荷を拡大することによって)。これらの部分電荷は原子の質量に関して固定である。しかし、分子動力学シミュレーションは[[ドルーデ粒子]]や変動電荷といった異なる手法を用いた誘導双極子の導入によって分極率を明示的にモデル化できる。これによって、局所的な化学的環境に応答する原子間の電荷の動的再分配が可能になる。
長年、分極可能MDシミュレーションは次世代シミュレーションとしてもてはやされてきた。水といった均一な液体については、分極率を含めることによって正確性の向上が達成されてきた<ref name="Lamoureux3">{{cite journal |author=Lamoureux G, Harder E, Vorobyov IV, Roux B, MacKerell AD |year=2006 |title=A polarizable model of water for molecular dynamics simulations of biomolecules |journal=Chem Phys Lett |volume=418 |pages=245–249 |doi=10.1016/j.cplett.2005.10.135|bibcode = 2006CPL...418..245L |last2=Harder |last3=Vorobyov |last4=Roux |last5=MacKerell }}</ref>。タンパク質についても有望な結果が得られている<ref name=Patel2004b>{{cite journal | author=Patel, S.; MacKerell, Jr. AD; Brooks III, Charles L | year=2004 | title=CHARMM fluctuating charge force field for proteins: II protein/solvent properties from molecular dynamics simulations using a nonadditive electrostatic model | journal=J Comput Chem | volume=25 | pages=1504–1514 | doi=10.1002/jcc.20077 | pmid=15224394 | issue=12}}</ref>。しかしながら、シミュレーションにおいて分極率をどのように近似するのが最適化についてはいまだ不確かである{{Citation needed|date=April 2009}}。
=== ''ab-initio''法におけるポテンシャル ===
{{Main|量子化学}}
古典的分子動力学では、単一のポテンシャルエネルギー表面(通常は基底状態)は力場によって表わされる。これは[[ボルン-オッペンハイマー近似|ボルン=オッペンハイマー近似]]の結果である。励起状態では、化学反応あるいはより正確な表現が必要な時は、電子の振る舞いを[[密度汎関数法]]といった量子力学的手法を用いることによって第一原理から得ることができる。これは''ab initio''分子動力学(AIMD)と呼ばれる。電子の自由度を扱うコストから、このシミュレーションの計算コストは古典的分子動力学よりもかなり高い。これはAIMDがより小さな系あるいはより短い時間に制限されることを意味する。
''[[Ab initio]]''[[量子化学|量子力学]]法は、トラジェクトリ中の配座について必要に応じてその場で系の[[ポテンシャルエネルギー表面|ポテンシャルエネルギー]]を計算するために使うことができる。この計算は[[反応座標]]の近傍で大抵行われる。様々な近似を使うことができるが、これらは経験的当て嵌めではなく理論的考察に基づいている。''Ab-initio''計算は、電子状態の密度やその他の電子的性質といった、経験的手法からは得ることのできない膨大な情報を与える。''Ab-initio''法を使用する大きな利点は、共有結合の切断あるいは形成を含む反応を調べる能力である。これらの現象は複数の電子状態に対応する。
=== ハイブリッドQM/MM法 ===
{{Main|QM/MM}}
QM(量子力学的)法は非常に強力である。しかしながら、その計算コストは高い。それに対してMM(古典的あるいは分子力学)法は高速だが、いくつかの制限がある(膨大なパラメータ化の必要性、得られたエネルギー推定値がそれ程正確ではないこと、共有結合が切断/形成する反応のシミュレーションに使うことができないこと、化学的反応に関する正確な詳細を与える能力に限界があること)。QM計算の利点(正確性)とMM計算の利点(速さ)を組み合わせた新たな手法が開発されている。これらの手法は混合あるいはハイブリッド量子力学/分子力学法(ハイブリッドQM/MM法)と呼ばれている<ref>こういった手法のための方法論は[[アリー・ウォーシェル|ウォーシェル]]と共同研究者らによって発表された。近年、[[アリー・ウォーシェル]]([[南カリフォルニア大学]])、Weitao Yang([[デューク大学]])、Sharon Hammes-Schiffer([[ペンシルベニア州立大学]])、[[ドナルド・トゥルーラー]]およびJiali Gao([[ミネソタ大学]])、Kenneth Merz([[フロリダ大学]])を含む複数のグループによって開拓された。</ref>。
ハイブリッドQM/MM法の最も重要な利点は速さである。最も分かりやすい場合において古典的分子動力学 (MM) を行うコストはO(n<sup>2</sup>) と見積られる(nは系中の原子の数)。これは主に静電相互作用項(全ての粒子がその他全ての粒子と相互作用する)のためである。しかしながら、打ち切り半径の使用、周期的対表の更新、粒子-メッシュ・エバルト (PME) 法の派生法によって、このコストをO(n) からO(n<sup>2</sup>) に減らすることができる。言い換えると、2倍の数の原子の系をシミュレーションすると、2倍から4倍の計算力を要することになる。一方で、最も単純な''ab-initio''計算のコストは典型的にO(n<sup>3</sup>) あるいはそれ以上を見積られる(制限[[ハートリー-フォック方程式|ハートリー=フォック]]計算は~O(n<sup>2.7</sup>) でスケールすることが示唆されている)。この制限を乗り越えるため、系の小さな部分が量子力学的に取り扱われ(典型的には酵素の活性部位)、残りの系が古典的に取り扱われる。
より洗練された実装では、QM/MM法は量子効果に対して敏感な軽い核(例えば水素)と電子状態の両方を扱うために存在する。これによって、水素の波動関数の生成を行うことができる。この方法論は、水素のトンネリングといった現象を調べるために有用である。QM/MM法が新たな発見をもたらした一つの例は、肝臓の[[アルコールデヒドロゲナーゼ|アルコール脱水素酵素]]におけるヒドリド転移の計算である。この場合、水素原子の[[トンネル効果|トンネリング]]が重要である(反応速度を決定する)<ref>{{cite journal
| first = SR | last = Billeter
|author2=SP Webb |author3=PK Agarwal |author4=T Iordanov |author5=S Hammes-Schiffer
| year = 2001
| title = Hydride Transfer in Liver Alcohol Dehydrogenase: Quantum Dynamics, Kinetic Isotope Effects, and Role of Enzyme Motion
| journal = J Am Chem Soc
| volume = 123 | pages = 11262–11272
| doi =10.1021/ja011384b
| pmid = 11697969
| issue = 45
}}</ref>。
=== 粗視化表現 ===
詳細なスケールの対極にあるのが、粗視化モデルと格子モデルである。系の全ての原子を露に(明示的に)表現する代わりに、ここでは原子の群を表現するために「擬原子」を用いる。非常に大きな系のMDシミュレーションは非常に大きな計算機資源を必要とするため、伝統的な全原子手法によって容易に調べることができない。同様に、長い時間スケール(1マイクロ秒を超える)の過程のシミュレーションは、多くの時間ステップを必要とするため、極めて計算コストが高い。これらの場合、粗視化(粗粒化)表現とも呼ばれる簡約表現を用いることによってこの問題に対処することができることもある。
粗視化(coarse graining、CG)手法の例としては、不連続分子動力学(CG-DMD)<ref>{{cite journal
| first = A | last = Smith
|author2=CK Hall
| year = 2001
| title = Alpha-Helix Formation: Discontinuous Molecular Dynamics on an Intermediate-Resolution Protein Model
| journal = Proteins
| volume = 44 | pages = 344–360
| doi = 10.1002/prot.1100
| pmid = 11455608
| issue = 3
}}</ref><ref>{{cite journal
| first = F | last = Ding
|author2=JM Borreguero |author3=SV Buldyrey |author4=HE Stanley |author5=NV Dokholyan
| year = 2003
| title = Mechanism for the alpha-helix to beta-hairpin transition
| journal = J Am Chem Soc
| volume = 53
| pages = 220–228
| doi =10.1002/prot.10468
| pmid = 14517973
| issue = 2
}}</ref>やGoモデルがある<ref>{{cite journal
| first = E | last = Paci
|author2=M Vendruscolo |author3=M Karplus
| year = 2002
| title = Validity of Go Models: Comparison with a Solvent-Shielded Empirical Energy Decomposition
| journal = Biophys J
| volume = 83 | pages = 3032–3038
| doi = 10.1016/S0006-3495(02)75308-3
| pmid = 12496075
| issue = 6
| pmc = 1302383
|bibcode = 2002BpJ....83.3032P }}</ref>。粗視化はより大きな擬原子を用いることによって行なわれることもある。こういった合同原子(united atom)近似は生体膜のMDシミュレーションにおいて使用されてきた。電子的性質が興味の対象である系へのこういった手法の導入は、擬原子上の適切な電荷分布を使うことの困難さのため難しい<ref>{{cite journal
| first = A | last = Chakrabarty
|author2=T Cagin
| year = 2010
| title = Coarse grain modeling of polyimide copolymers
| journal = Polymer
| volume = 51
| issue = 12
| pages = 2786–2794
| doi=10.1016/j.polymer.2010.03.060
}}</ref>。脂質の脂肪族末端は2から4のメチレン基を1つの擬原子としてまとめたいくつかの擬原子によって表わされる。
これらの非常に粗視的なモデルのパラメータ化は、モデルの挙動を適切な実験的データあるいは全原子シミュレーションへ合致させることによって、経験的に行われる。理想的には、これらのパラメータは自由エネルギーへの[[エンタルピー]]寄与と[[エントロピー]]寄与の両方を黙示的に考慮しなければならない。粗視化がより高い水準で行われる時、動力学的記述の正確性はより信頼できなくなる。しかし、よく粗視化されたモデルは、構造生物学、液晶の組織化、高分子ガラスの分野における幅広い疑問を調べるためにうまく使われてきている。
粗視化の応用の例を以下に挙げる。
* [[フォールディング|タンパク質のフォールディング]]の研究はアミノ酸毎に単一(あるいはいくつかの)擬原子を使ってしばしば行なわれる。
* [[液晶]]の相転移は制限された幾何構造と異方性種を記述するGay-Berneポテンシャルを用いた計算の一方あるいは両方で調べられている。
* 変形中の[[重合体|ポリマー]]ガラスは、レナード=ジョーンズポテンシャルによって記述され球を接続する単純な調和バネあるいは有限伸張性の非線形バネ (FENE; Finitely Extensible Nonlinear Elastic) を用いて研究されている。
* [[DNA超らせん|DNA超らせん化]]は塩基対当たり1-3の擬原子を用いて、またそれよりもさらに低い分解能で研究されている。
* [[DNA|二重らせんDNA]]の[[バクテリオファージ]]内への詰め込みは二重らせんの1ターン(約10塩基対)を表わす1つの擬原子を使ったモデルによって調べられている。
* [[リボソーム]]やその他の大きな系におけるRNA構造はヌクレオチド当たり1つの擬原子を用いてモデル化されている。
最も単純な粗視化の形は「合同原子(united atom)」であり、初期のタンパク質、脂質、核酸のMDシミュレーションのほとんどで使われた。例えば、CH<sub>3</sub>メチル基の4原子全て(あるいはCH<sub>2</sub>メチレン基の3原子全て)を露(明示的)に扱う代わりに、メチル基あるいはメチレン基全体を単一の擬原子によって表わす。この擬原子はもちろん、他の基とのファンデルワールス相互作用が適切な距離依存性を持つように適切にパラメータ化されなければならない。この種の合同原子の表現においては通常、水素結合に関与する能力のあるもの(極性水素)を除いて全ての明示的水素原子を消去する。この一つの例が[[CHARMM|Charmm 19]]力場である。
極性水素は通常モデルに保持される。これは水素結合の適切な取扱いが水素結合ドナー基とアクセプター基との間の指向性と静電相互作用のかなり正確な記述を必要とするためである。例えば水酸基は水素結合ドナーと水素結合アクセプターのどちらのなることができ、単一のOH擬原子ではこれを扱うことは不可能であろう。ここで留意すべきはタンパク質あるいは核酸中の原子の約半数は非極性水素であることであり、したがって合同原子を使用することによって計算時間を相当短縮することができる。
== 操舵分子動力学 (SMD) ==
操舵分子動力学(Steered molecular dynamics; SMD)シミュレーションでは、望む自由度に沿ってタンパク質の構造を引っ張ることによってその構造を操作するためにタンパク質に力を印加する。これらの実験は原子レベルでのタンパク質における構造変化を明らかにするために用いることができる。SMDは機械的な折り畳み構造のほどけや伸長といった出来事をシミュレーションするためにしばしば用いられている<ref name="Nienhaus">{{cite book | title=Protein-ligand interactions: methods and applications | author=Nienhaus, Gerd Ulrich | year=2005 | pages=54–56 | isbn=978-1-61737-525-5}}</ref>。
SMDには2種類の典型的手順がある。1つは引っ張る速度が一定に保たれるもので、もう1つは印加される力が一定のものである。典型的には、調べる系の部分(例えばタンパク質中の1原子)を調和ポテンシャルによって拘束する。次に特定の原子に一定の速度あるいは一定の力を印加する。シミュレーション中で操作される力、距離、角度を変化させることによって望む反応座標に沿って系を動かすために[[傘サンプリング]]が用いられる。傘サンプリングによって、系の配置の全て(高エネルギーと低エネルギーのどちらも)が十分にサンプリングされる。次に、それぞれの配置の自由エネルギー変化を[[平均力ポテンシャル]](PMF)として計算することができる<ref name="Leszczyński">{{cite book | title=Computational chemistry: reviews of current trends, Volume 9 | author=Leszczyński, Jerzy | year=2005 | pages=54–56 | isbn=978-981-256-742-0}}</ref>。PMFを計算する人気のある手法は一連の傘サンプリングシミュレーションを解析する重みつきヒストグラム解析法(weighted histogram analysis method; WHAM)である<ref>{{cite journal|last=Kumar|first=Shankar|author2=Rosenberg, John M. |author3=Bouzida, Djamal |author4=Swendsen, Robert H. |author5=Kollman, Peter A. |title=The weighted histogram analysis method for free-energy calculations on biomolecules. I. The method|journal=J. Comput. Chem.|date= 1992|volume=13|issue=8|pages=1011–1021|doi=10.1002/jcc.540130812}}</ref><ref>{{cite journal|last=Bartels|first=Christian|title=Analyzing biased Monte Carlo and molecular dynamics simulations|journal=Chem. Phys. Lett.|date=2000|volume=331|issue=5–6|pages=446–454|doi=10.1016/S0009-2614(00)01215-X|bibcode = 2000CPL...331..446B }}</ref>。
== 応用例 ==
[[ファイル:MD rotor 250K 1ns.gif|thumb|ナノポア(外径 6.7 nm)中の3分子から構成される[[人工分子モーター]]の分子動力学シミュレーション(250 K)。]]
分子動力学は多くの科学分野で使われている。
*単純化された生物学的折り畳み過程の最初のMDシミュレーションは1975年に発表された。Nature誌で発表されたそのシミュレーションは現代のタンパク質折り畳み計算の広大な領域への道を開いた<ref>{{cite journal
| first = M| last = Levitt
|author2=A Warshel
|year = 1975
|title=Computer Simulations of Protein Folding
|journal=Nature
|volume=253
|pages=694–8
|bibcode = 1975Natur.253..694L |doi = 10.1038/253694a0
| pmid = 1167625
| issue=5494}}</ref>。
*生物学的過程の最初のMDシミュレーションは1976年に発表された。Nature誌で発表されたそのシミュレーションはタンパク質の運動が単なる飾りではなく機能に必須であることの理解への道を開いた<ref>{{cite journal
| first = A | last = Warshel
| year = 1976
| title = Bicycle-pedal Model for the First Step in the Vision Process
| journal = Nature
| volume = 260 | pages = 679–683
|bibcode = 1976Natur.260..694B |doi = 10.1038/260679a0 | issue=5553
}}</ref>。
*MDはheat spike regimeにおける[[衝突カスケード]]、すなわちエネルギー中性子と[[イオン放射]]が固体および固体表面上で持つ効果を取り扱うための標準的手法である<ref name="Ave98">{{cite book |first1=R. S. |last1=Averback |first2=T. |last2=Diaz de la Rubia |chapter=Displacement damage in irradiated metals and semiconductors |title=Solid State Physics |editor=H. Ehrenfest and F. Spaepen |volume=51 |pages=281–402 |publisher=Academic Press |location=New York |year=1998}}</ref><ref name="Smith">{{cite book |editor=R. Smith |title=Atomic & ion collisions in solids and at surfaces: theory, simulation and applications |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge, UK |year=1997}}</ref>。
*MDシミュレーションは[[ゴーシェ病]]の原因である最も一般的なタンパク質変異N370Sの分子基盤を予測することにうまく応用された<ref>{{cite journal
| first = MN | last = Offman
|author2=M Krol |author3=I Silman |author4=JL Sussman |author5=AH Futerman
| year = 2010
| title = Molecular basis of reduced glucosylceramidase activity in the most common Gaucher disease mutant, N370S
| journal = J. Biol. Chem.
| volume = 285 | pages = 42105–42114
| pmid = 20980259
| doi=10.1074/jbc.M110.172098
| issue=53
| pmc=3009936
}}</ref>。後続の論文では、これらの目隠し予測が同じ変異についての実験結果と驚く程に高い相関を見せることが示された<ref>{{cite journal
| first = MN | last = Offman
|author2=M Krol |author3=B Rost |author4=I Silman |author5=JL Sussman |author6=AH Futerman
| year = 2011
| title = Comparison of a molecular dynamics model with the X-ray structure of the N370S acid-beta-glucosidase mutant that causes Gaucher disease
| journal = Protein Eng. Des. Sel.
| volume = 24 | pages = 773–775
| pmid = 21724649
| doi=10.1093/protein/gzr032
| issue=10
}}</ref>。
*MDシミュレーションは金属表面上の水薄膜の分離圧に対する表面電荷の影響について調べるために用いられている<ref>{{cite journal | last1 = Hu | first1 = Han | last2 = Sun | first2 = Ying | title = Molecular dynamics simulations of disjoining pressure effect in ultra-thin water film on a metal surface| url = | journal = Appl. Phys. Lett. | volume = 14 | issue = | pages = 263110| doi = 10.1063/1.4858469 |bibcode = 2013ApPhL.103z3110H }}</ref>。
*MDシミュレーションは[[透過型電子顕微鏡]]の画像特徴を理解するために[[マルチスライス]]画像シミュレーションと共に用いられる<ref>{{cite journal|title=Using molecular dynamics to quantify the electrical double layer and examine the potential for its direct observation in the in-situ TEM|author=David A Welch, B Layla Mehdi, Hannah J Hatchell, Roland Faller, James E Evans and Nigel D Browning|journal=Advanced Structural and Chemical Imaging|year= 2015|volume= 1|pages=1 |doi=10.1186/s40679-014-0002-2}}</ref>。
以下の生物物理学的例は非常に大きな系(完全なウイルス)あるいは非常に長いシミュレーション時間(1.112ミリ秒まで)のシミュレーションを行うための注目に値する成果を示している。
*完全な[[サテライトタバコモザイクウイルス]](STMV)のMDシミュレーション(2006年、規模: 100万原子、シミュレーション時間: 50ナノ秒、プログラム: [[NAMD]])。このウイルスは小さい20面体植物ウイルスであり、タバコモザイクウイルス (TMV) による感染の症状を悪化させる。分子動力学シミュレーションは、ウイルス集合の機構を詳細に調べるために用いられた。全STMV粒子はウイルス[[カプシド]](被覆)を作り上げる単一タンパク質の同一の複製物60個と1063ヌクレオチドの一本鎖RNAゲノムから構成される。1つの重要な発見は、RNAが内部にない時はカプシドが非常に不安定であるということである。このシミュレーションは2006年のデスクトップコンピュータ1台では完了するのに約35年を要する。したがって、シミュレーションは並列に接続した多数のプロセッサによって行われた<ref>{{cite web |url=http://www.ks.uiuc.edu/Research/STMV/ |title=Molecular dynamics simulation of the Satellite Tobacco Mosaic Virus (STMV) |author=Freddolino P, Arkhipov A, Larson SB, McPherson A, Schulten K |work=Theoretical and Computational Biophysics Group |publisher=University of Illinois at Urbana Champaign|accessdate=2015-08-26}}</ref>。
*[[ビリン]]タンパク質の頭部断片の全原子力場による折り畳みシミュレーション(2006年、規模: 2万原子、シミュレーション時間: 500マイクロ秒、プログラム: [[Folding@home]])。このシミュレーションは参加した世界中のパーソナルコンピュータの20万CPU上で実行された。これらのコンピュータにはFolding@homeプログラムがインストールされていた。ビリン頭部タンパク質の動力学的特性は、連続したリアルタイムコミュニケーションを行わないCPUによる多くの独立した短時間のシミュレーションを用いることによって詳細に調べられた。使われた1つの手法が、特定の開始コンホメーションの折り畳みがほどける前の折り畳みの確率を測定するPfold値解析である。Pfoldは[[φ値解析|遷移状態]]構造と折り畳み経路に沿ったコンホメーションの規則化に関する情報を与える。Pfold計算におけるそれぞれのトラクジェクトリは比較的短くてもよいが、多くの独立したトラクジェクトリが必要である<ref>[http://folding.stanford.edu/ The Folding@Home Project] and [http://folding.stanford.edu/papers.html recent papers] published using trajectories from it. Vijay Pande Group. Stanford University</ref>。
*長い連続トラクジェクトリシミュレーションが、[[超並列マシン|超並列スーパーコンピュータ]][[アントン (スーパーコンピュータ)|アントン]]上で実行された。発表された最長のアントンを用いて実行されたシミュレーション結果は355 KにおけるNTL9の1.112ミリ秒シミュレーションである。2番目は、同じ構造について独立して行われた1.073ミリ秒シミュレーションである<ref name="DESRES-Science2011">{{cite journal | last1 = Lindorff-Larsen | first1 = Kresten | last2 = Piana | first2 = Stefano | last3 = Dror | first3 = Ron O. | last4 = Shaw | first4 = David E. | year = 2011 | title = How Fast-Folding Proteins Fold | url = | journal = Science | volume = 334 | issue = 6055| pages = 517–520 | doi=10.1126/science.1208351| pmid = 22034434 |bibcode = 2011Sci...334..517L }}</ref>。『How Fast-Folding Proteins Fold』において、研究者のKresten Lindorff-Larsen、Stefano Piana、Ron O. Dror、David E. Shawは「12種類の構造的に多様なタンパク質の折り畳みに内在する一連の一般原理を明らかにする100 μ秒から1 m秒の間の範囲に渡る原子レベルでの分子動力学シミュレーションの結果」について議論した。専用のカスタムハードウェアによって可能になったこれらの多様な長いトラクジェクトリの調査から、彼らは「ほとんどの場合において、折り畳みは、非折り畳み状態において形成される要素の傾向と高度に相関した順序でネイティブ構造の要素が現われる単一の支配的経路を取る」と結論付けた<ref name="DESRES-Science2011" />。別の研究において、300 Kにおけるウシ膵臓トリプシンインヒビター(BPTI)のネイティブ状態動力学の1.031ミリ秒シミュレーションを行うためにアントンが使われた<ref>{{cite journal | last1 = Shaw | first1 = David E. | last2 = Maragakis | first2 = Paul | last3 = Lindorff-Larsen | first3 = Kresten | last4 = Piana | first4 = Stefano | last5 = Dror | first5 = Ron O. | last6 = Eastwood | first6 = Michael P. | last7 = Bank | first7 = Joseph A. | last8 = Jumper | first8 = John M. | last9 = Salmon | first9 = John K. | year = 2010 | title = Atomic-Level Characterization of the Structural Dynamics of Proteins | url = | journal = Science | volume = 330 | issue = 6002| pages = 341–346 | doi=10.1126/science.1187409| pmid = 20947758 |bibcode = 2010Sci...330..341S }}</ref>。
*これらの分子シミュレーションは、材料除去の機構や道具の形状、温度、切断速度や切断力といった加工パラメータの影響について理解するために用いられている<ref>{{cite journal|last=Goel S, Luo|author2=Reuben R L|title=Molecular dynamics simulation model for the quantitative assessment of tool wear during single point diamond turning of cubic silicon carbide|journal=Comput. Mater. Sci|volume=51}}</ref>。また、数層のグラフェン<ref name=Jaya2011>{{cite journal|last=Jayasena|first=Buddhika|author2=Subbiah Sathyan|title=A novel mechanical cleavage method for synthesizing few-layer graphenes|journal=Nanoscale Research Letters|volume=6|issue=1|pages=95|doi=10.1186/1556-276X-6-95|pmid=21711598|pmc=3212245|url=http://www.nanoscalereslett.com/content/6/1/95|bibcode = 2011NRL.....6...95J |year=2011}}</ref><ref>{{cite journal|last=Jayasena|first=B|author2=Reddy C.D |author3=Subbiah S |title=Separation, folding and shearing of graphene layers during wedge-based mechanical exfoliation|journal=Nanotechnology.|volume=24|issue=20|doi=10.1088/0957-4484/24/20/205301|url=http://iopscience.iop.org/0957-4484/24/20/205301/|pages=205301|bibcode = 2013Nanot..24t5301J }}</ref>やカーボンナノスクロールの剥離の背後にある機構を調べるためにも用いられた。
== 分子動力学アルゴリズム ==
=== 積分器 ===
* [[シンプレクティック積分器]]
* [[ベレの方法|ベルレ=ストーマー積分]]
* [[ルンゲ=クッタ法|ルンゲ=クッタ積分]]
* [[ビーマンのアルゴリズム]]
* [[拘束アルゴリズム]](拘束された系)
=== 短距離相互作用アルゴリズム ===
* [[セル・リスト]]
* [[ベルレ・リスト]]
* 結合相互作用
=== 長距離相互作用アルゴリズム ===
* [[エバルトの方法|エバルト和]]
* [[エバルトの方法|粒子メッシュエバルト]](Particle mesh Ewald、PME)
* 粒子–粒子–粒子–メッシュ([[P3M]])
* Shifted force method
*Isotropic periodic sum method
=== 並列化戦略 ===
* [[領域分割法]]
== 分子動力学シミュレーションソフトウエアパッケージ ==
* Advance/PHASE
* [[AMBER (分子動力学)|AMBER]]
* [[CHARMM]]
*Desmond
* DL_POLY
* [[GROMACS]]
*[[LAMMPS]]
*Materials Studio
* [[NAMD]]
* PEACH
* PRESTO
*[[Quantum ESPRESSO]]
* [[Scigress|SCIGRESS]]
*[[Vienna Ab initio Simulation Package|VASP]]
* [[Winmostar]]
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
{{refbegin}}
* M. P. Allen, D. J. Tildesley (1989) ''Computer simulation of liquids''. Oxford University Press. ISBN 0-19-855645-4.
* J. A. McCammon, S. C. Harvey (1987) ''Dynamics of Proteins and Nucleic Acids''. Cambridge University Press. ISBN 0-521-30750-3 (hardback).
* D. C. Rapaport (1996) ''The Art of Molecular Dynamics Simulation''. ISBN 0-521-44561-2.
* {{cite book | title=Numerical Simulation in Molecular Dynamics | publisher=Springer | location=Berlin, Heidelberg | year=2007 | isbn=978-3-540-68094-9 |author1 = M. Griebel|author2 = S. Knapek| author3=G. Zumbusch | authorlink1=Michael Griebel }}
* {{cite book | last = Frenkel | first = Daan | authorlink = Daan Frenkel |author2=Smit, Berend | title = Understanding Molecular Simulation : from algorithms to applications | publisher = Academic Press | origyear = 2001 | location = San Diego | pages = | url = | doi = | id = | isbn = 0-12-267351-4 | year = 2002 }}
* J. M. Haile (2001) ''Molecular Dynamics Simulation: Elementary Methods''. ISBN 0-471-18439-X
* R. J. Sadus, ''Molecular Simulation of Fluids: Theory, Algorithms and Object-Orientation'', 2002, ISBN 0-444-51082-6
* Oren M. Becker, Alexander D. Mackerell, Jr., Benoît Roux, Masakatsu Watanabe (2001) ''Computational Biochemistry and Biophysics''. Marcel Dekker. ISBN 0-8247-0455-X.
* Andrew Leach (2001) ''Molecular Modelling: Principles and Applications''. (2nd Edition) Prentice Hall. ISBN 978-0-582-38210-7.
* Tamar Schlick (2002) ''Molecular Modeling and Simulation''. Springer. ISBN 0-387-95404-X.
* [[William G Hoover|William Graham Hoover]] (1991) ''Computational Statistical Mechanics'', Elsevier, ISBN 0-444-88192-1.
* D. J. Evans and G. P. Morriss (2008) ''Statistical Mechanics of Nonequilibrium Liquids'', Second Edition, Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-85791-8.
* {{cite journal |author=Bou-Rabee, Nawaf |year=2014 |title=Time Integrators for Molecular Dynamics |url=http://www.mdpi.com/1099-4300/16/1/138 |journal=Entropy |publisher=MDPI |volume=16 |issue=1 |pages=138–162| doi=10.3390/e16010138|bibcode = 2013Entrp..16..138B }}
{{refend}}
== 関連項目 ==
* [[2体ポテンシャル]]
* [[3体ポテンシャル]]
* [[多体ポテンシャル]]
* [[多体問題]]
* [[セル多重極子展開法]]
* [[ベルレの方法|ベルレ法]]
* [[ギア法]]
* [[原子挿入法]] (EAM)
* [[量子分子動力学]]
* [[反対称化分子動力学]]
* [[計算物理学]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%AD%90%E5%8B%95%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E6%B3%95 |
3,309 | 井上瑤 | 井上 瑤(いのうえ よう、1946年12月4日 - 2003年2月28日)は、日本の女性声優、放送作家、占い師、ダンサー。東京都品川区大崎出身。
1970年代から2000年代初めまで活躍。東京都立八潮高等学校、早稲田大学卒業。
フリー、新企画、同人舎プロダクション、ピラミッド、ドゥ・コーポレーション、オフィス央、ぷろだくしょんバオバブ、大沢事務所、東京俳優生活協同組合などに所属した。
幼稚園の頃は学校の教師になることを夢を見ていたが、その頃に始めたモダンダンスに魅力に取りつかれて小学生になった頃にはステージダンサーになることを決める。
小学中学時代は成績優秀であり、生来から目立ちたがり屋だったこともあり、学芸会ではスターだった。しかし高校時代には成績が悪くなり、自分の長所、短所を知って演劇人になることを決めた。
大学時代は劇研に所属し、卒業後は早稲田小劇場に進んだが、1年で退団。アルバイトで始めたTBSの朝のテレビ番組『ヤング720』を皮切りに放送タレントの道へ。クイズ番組『ベルトクイズQ&Q』の声、『モーニングジャンボ』などTBSのテレビ番組に出演。テレビに出演後に気付いたことは、視聴者に顔を知られると、街を歩くのが不自由になることだった。その時に声の仕事オンリーで進むことに決めて、デモテープを制作して、紹介されていた十社ほどの番組製作会社に持ち込む。CM、DJの仕事が舞い込み、声優としての活動を始める。
初レギュラーは『シートン動物記 くまの子ジャッキー』のアリス役。
声優活動以外にも自分の出演番組の台本を書いていたことから、放送作家の仕事が舞い込むようになり、1980年代初めまで、『お笑い頭の体操』『相性診断ピッタンコ』などの構成台本や『クイズダービー』の問題作成の仕事を行なった。同時期には西田堯の下でモダンダンスを学び、国立劇場、日生劇場の舞台に立つ。また「レイ・ホシコ」という名の占い師という顔も持つなど、多才ぶりを発揮していた。
2000年放映開始の『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』に獏良了役でキャスティングされていたが、体調不良のため41話までで降板。同役は松本梨香が最終回まで継いだ。
2003年2月28日9時29分、東京都目黒区の病院で肺水腫のため死去、56歳没。葬儀には『機動戦士ガンダム』で井上の担当したキャラクターであるキッカ・キタモトとハロの人形が飾られた。最後の声優参加は、ニンテンドーゲームキューブ用ゲーム『機動戦士ガンダム 戦士達の軌跡』のセイラ・マスである。このゲームには、エンディングにスタッフからのメッセージが表示され、ゲーム発売前に亡くなった井上への追悼の言葉が含まれている。喪主は実弟が務めた。
井上の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
ただし、井上に限らず、他の声優陣も大幅に一新した作品や、コンセプトが違う作品についてはこの表に掲載しない。
太字はメインキャラクター。2004年以降の作品は生前の音声を引用したライブラリ出演。 | [
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] | 井上 瑤は、日本の女性声優、放送作家、占い師、ダンサー。東京都品川区大崎出身。 | {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人2003年没}}
{{声優
| 名前 = 井上 瑤
| ふりがな = いのうえ よう
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 漆川 由美(しつかわ ゆみ)<ref name="朝日新聞">[[朝日新聞]] 2003年3月6日39面「訃報 井上瑤さん」(朝日新聞縮刷版 2003年3月号p.327)[[朝日新聞社]]</ref><ref name="昭和声優列伝">{{Cite book|和書|author=勝田久|authorlink=勝田久|title=昭和声優列伝 テレビ草創期を声でささえた名優たち|chapter= file No.27 井上瑤|pages=286-292|publisher=[[駒草出版]]|isbn=978-4-905447-77-1|date= 2017-02-22}}</ref>
| 愛称 = 瑤さん
| 性別 = 女性
| 出生地 =
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]{{R|昭和声優列伝}}
| 死没地 = {{JPN}}・東京都[[目黒区]]<ref name="日刊スポーツ">{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-030228-2.html|title=井上瑤さん(声優)が肺水しゅのため死去|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2020-02-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030329175159/https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-030228-2.html|archivedate=2003-03-29}}</ref>
| 生年 = 1946
| 生月 = 12
| 生日 = 4
| 没年 = 2003
| 没月 = 2
| 没日 = 28
| 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]]([[Rh因子|RH+]]){{R|anime24}}
| 身長 =
| 職業 = [[声優]]、[[放送作家]]、[[占い師]]、[[ダンサー]]
| 事務所 = [[東京俳優生活協同組合]](最終)<ref name="声優事典 第二版">{{Cite book|和書 |chapter= 女性篇 |date=1996-03-30 |editor= 掛尾良夫 |title=声優事典 第二版 |page= 352|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn= 4-87376-160-3}}</ref>
| 配偶者 = あり(後に離婚、死別)
| 著名な家族 =
| 公式サイト =
| 公称サイズ出典 = アニメージュ編集部編「井上瑤 3つの顔を持つ"マルチ多彩人間"」『アニメ声優24時』[[徳間書店]]、1981年7月31日、171-176頁。
| ref2name = anime24
| 身長2 = 152.5
| 体重 = 39.5
| 活動期間 = [[1975年]] - [[2003年]]
| デビュー作 =
| 活動 =
}}
'''井上 瑤'''(いのうえ よう、[[1946年]][[12月4日]]{{R|昭和声優列伝}}<ref name="声優名鑑1985">{{Cite book|和書|author=|title=声優名鑑 アニメーションから洋画まで…|page=23|publisher=[[近代映画社]]|isbn=|year=1985}}</ref> - [[2003年]][[2月28日]]{{R|朝日新聞|日刊スポーツ}})は、[[日本]]の[[女性]][[声優]]、[[放送作家]]、[[占い師]]、[[ダンサー]]。[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]出身{{R|昭和声優列伝}}。{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}}
== 略歴 ==
[[1970年代]]から[[2000年代]]初めまで活躍。[[東京都立八潮高等学校]]、[[早稲田大学]]卒業{{refnest|group=注|[[早稲田大学文学部]]演劇科の受験には失敗したが、受験していた[[早稲田大学大学院教育学研究科・教育学部|早稲田大学教育学部]]心理学科には合格したという{{R|昭和声優列伝}}。}}{{R|anime24}}。
[[フリーランス|フリー]]{{R|昭和声優列伝}}、[[新企画]]<ref>{{Cite book|和書|author=|title=声優の世界-アニメーションから外国映画まで |series = [[ファンタスティックコレクション]]別冊|page=71|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=|date=1979-10-30}}</ref>、[[同人舎プロダクション]]<ref>{{Cite journal|和書|date = 1981-01|title = '80→'81総括と展望・アニメ白書 第1章―80年のアニメ界|journal = アニメージュ|issue = 1981年2月号|page = 25|pages = |publisher = [[徳間書店]]}}</ref>、[[ピラミッド]]{{R|anime24}}、ドゥ・コーポレーション<ref>{{Cite journal|和書|date = 1983-08|title = 勝田久の日本声優列伝|journal = [[マイアニメ]]|issue = 1983年9月号 |page = 164|publisher = [[秋田書店]]}}</ref>、[[オフィス央]]、[[ぷろだくしょんバオバブ]]、[[大沢事務所]]{{R|声優名鑑1985}}、[[東京俳優生活協同組合]]{{R|声優事典 第二版}}などに所属した。
=== 生い立ち ===
幼稚園の頃は学校の教師になることを夢を見ていたが、その頃に始めたモダンダンスに魅力に取りつかれて小学生になった頃にはステージダンサーになることを決める{{R|昭和声優列伝}}。
小学中学時代は成績優秀であり、生来から目立ちたがり屋だったこともあり、学芸会ではスターだった{{R|昭和声優列伝}}。しかし高校時代には成績が悪くなり、自分の長所、短所を知って演劇人になることを決めた{{R|昭和声優列伝}}。
=== キャリア ===
大学時代は劇研に所属し、卒業後は[[早稲田小劇場]]に進んだが、1年で退団{{R|anime24}}。[[アルバイト]]で始めた[[TBSテレビ|TBS]]の朝のテレビ番組『[[ヤング720]]』を皮切りに放送タレントの道へ{{R|anime24}}。[[クイズ番組]]『[[ベルトクイズQ&Q]]』の声、『[[モーニングジャンボ]]』などTBSのテレビ番組に出演{{R|昭和声優列伝}}。テレビに出演後に気付いたことは、視聴者に顔を知られると、街を歩くのが不自由になることだった{{R|昭和声優列伝}}。その時に声の仕事オンリーで進むことに決めて、デモテープを制作して、紹介されていた十社ほどの番組製作会社に持ち込む{{R|昭和声優列伝}}。CM、DJの仕事が舞い込み、声優としての活動を始める{{R|昭和声優列伝}}。
初レギュラーは『[[シートン動物記 くまの子ジャッキー]]』のアリス役{{R|昭和声優列伝}}<ref name="声優事典">{{Cite book |和書 |author=小川びい |title=こだわり声優事典'97 |publisher=[[徳間書店]] |series=ロマンアルバム |pages= 18-19|date=1997-03-10 |isbn=4-19-720012-9}}</ref>。
声優活動以外にも自分の出演番組の[[台本]]を書いていたことから、[[放送作家]]の仕事が舞い込むようになり、[[1980年代]]初めまで、『[[お笑い頭の体操]]』『[[相性診断ピッタンコ]]』などの構成台本や『[[クイズダービー]]』の問題作成の仕事を行なった{{R|anime24}}。同時期には[[西田堯]]の下で[[モダンダンス]]を学び、国立劇場、[[日生劇場]]の舞台に立つ。また「レイ・ホシコ」という名の占い師という顔も持つなど、多才ぶりを発揮していた。
=== 晩年・死去 ===
[[2000年]]放映開始の『[[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]]』に[[獏良了]]役でキャスティングされていたが、体調不良のため41話までで降板。同役は[[松本梨香]]が最終回まで継いだ。
[[2003年]][[2月28日]]9時29分、[[東京都]][[目黒区]]の病院で[[肺水腫]]のため死去、{{没年齢|1946|12|4|2003|2|28}}{{R|日刊スポーツ}}。葬儀には『[[機動戦士ガンダム]]』で井上の担当したキャラクターである[[機動戦士ガンダムの登場人物 民間人#キッカ・キタモト|キッカ・キタモト]]と[[ハロ (ガンダムシリーズ)|ハロ]]の人形が飾られた。最後の声優参加は、[[ニンテンドーゲームキューブ]]用ゲーム『[[機動戦士ガンダム 戦士達の軌跡]]』の[[セイラ・マス]]である。このゲームには、エンディングにスタッフからのメッセージが表示され、ゲーム発売前に亡くなった井上への追悼の言葉が含まれている。喪主は実弟が務めた。
== 人物・エピソード ==
* 役柄は知的な女性役とやんちゃな少年役を同時にこなしていた{{R|声優事典}}。
* 150cmほどの小柄で痩せた体つきに童顔であったため、20歳代後半になっても子供と間違われることがたびたびあったという{{R|anime24}}。夜分遅く仕事帰りに町を歩いていたら、警察に「お嬢ちゃん」と呼び止められ、既に人妻(後に離婚)であり、年齢・経歴を話しても信じてもらえなかったというエピソードが存在する。
* 明るくインテリな性格の反面、行動力には優れており、思い立つとすぐに実行するタイプであった。数々の海外旅行はその例である<ref>「南洋じゃ美人」井上瑤著より</ref>。
* 1982年頃に[[三ツ矢雄二]]と[[汀夏子]]のラジオ番組『[[月刊OUT|VAPOUT]]』にゲスト出演した際、容姿を見た汀に「[[原始人]]のよう」と言われた。
* [[1984年]]2月末から[[1985年]]5月上旬まで、1年3か月に渡って[[インド]]など6カ国へ旅行。インドには6か月半滞在した<ref>「セイラさん、おかえりなさい 井上瑤が肌で感じた日本と外国の差!1年3か月のインド旅行体験報告記」『[[アニメージュ]]』1985年10月号</ref>。この旅行のために、『うる星やつら』のラン役など当時レギュラーで出演していたキャラクターは、一旦すべて降板した。ラン役は[[小宮和枝]]が引き継いだ。この間に『[[機動戦士Ζガンダム]]』にセイラが1カット登場したが、セリフはなかった。
* 『うる星やつら』では前述のとおり、長期の海外旅行のためにラン役を降板しているが、[[1986年]]公開の『[[うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー]]』では友引町役、原作の最終エピソードを映画化した[[1988年]]公開の『[[うる星やつら 完結篇]]』では、闇の世界の住人・カルラ役で出演している。なお、帰国後もラン役には復帰していない。
* 占い師として、人気絶頂の頃の[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]を1983年頃活動を終えると予言したり([[坂本龍一]]を姓名判断した際、[[細野晴臣]]と衝突、分裂するだろうと予言)、テレビで見た人物に対して「近々、いいことがありそう」などと評して的中させたという。また『[[スネークマンショー]]』で共演した伊武雅之に「名前の最後の字を2画の字にするといい」とアドバイスし、伊武はそのアドバイスを受け入れ、現在の芸名・[[伊武雅刀]]に改名した。
* [[裁縫]]・[[料理]]ともに得意で、スタジオ内で声優仲間に手作りの食べ物をわけたり、非常にもてなしの精神に富んでいた。なお、[[古谷徹]]は彼女の作る[[カレー]]について「とても美味しかったんだけど、ものすごく辛かった」とコメントしている<ref>古谷徹「第二章 「ニュータイプな声優」---アムロを支えてくれた」『ヒーローの声 飛雄馬とアムロと僕の声優人生』[[角川書店]]、2009年7月25日、ISBN 978-4-04-715275-5、68頁。</ref>。
* [[シャア・アズナブル]]役の[[池田秀一]]によると、井上は[[セイラ・マス]]役でもミスを出さないほど、役への入れ込み・声優としての実力において優れていたという<ref name="ikeda">池田秀一「第5章 去り逝く仲間たちへ…… 愛する妹・井上瑤ちゃんへ」『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星』[[ワニブックス]]、2007年1月7日、ISBN 4-8470-1700-5、176・178-184頁。</ref>。なお、池田は井上を「アルテイシア」と呼んでいた。
* 井上がとりわけ気に入っていた作品としては、[[日本放送協会|NHK]]『[[こどもにんぎょう劇場]]』を本人が挙げている。ラジオ形式の仕方でとられるこの作品は、井上の録音後それにあわせて人形が動くため、井上の演技が問われるところとなり、本人はこどもの反応などを注意しつつ演じていた。こどもに想像力を与えるこうした作品は、井上にとって非常に大切であったという<ref>[https://www.nicovideo.jp/watch/sm12015791?via=thumb_watch 青春ラジメニア声優バケツリレー1990年10月13日放送より]</ref>。
* 『[[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]]』で共演した[[近藤孝行]]によれば、井上は収録当時に体調を崩し辛そうにしている近藤を見て、最後まで優しく背中を擦ってくれたという(その後、近藤は大病が発覚して入院することになり、一度降板した)。井上自身もこの時すでに体を壊していたかもしれないにもかかわらず、自身の体調を気にかけてくれたため、近藤は井上の人柄を「僕にとっては本当に天使の様な方でした」と述懐している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/tottorifantasy/entry-12061377478.html|title=『とっとと鳥取トリッキーボーイズ』改めての感謝の気持ち|accessdate=2021/8/13}}</ref>。
* オーストリア人の夫ピーターとは南インドで知り合い、交際後結婚。井上が母親の死により意気消沈していた頃、「インドが呼んでいる気がする」という直感のもと、インドへ旅行。その先で予感を裏付けるかのごとく、夫と知り合うことになる。その夫が先立った後[[散骨]]のため[[オーストリア]]へ渡航したが体調不良のため帰国し、癌に侵されていることが判明<ref name="ikeda"/>。その後約二年間の闘病後永眠に至った。夫と井上の遺骨は遺族により夫が一番好きだったオーストリアの田舎にある古城に散骨された。
* シャア役の池田もアムロ・レイ役の古谷徹も、井上の訃報を聞いたときは非常に悲しんだという。池田はあまりの悲しみに別れを言う辛さから葬儀には行くことが出来なかった。「大好きだったお母ちゃんとピーターのそばで幸せにね!」と言う古谷の談話は涙を誘った<ref>『[[ガンダムエース]]』{{いつ|date=2012年12月}}での古谷徹の追悼文より</ref>。
* 死後2006年に公開された『[[機動戦士Ζガンダム#劇場版|機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛-]]』にセイラが1カットだけ登場したが、その際は『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙編』での井上の音声が抜き出されて使用([[ライブラリ出演]])された。
* 趣味はモダンダンス{{R|声優名鑑1985}}。
== 後任 ==
井上の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
ただし、井上に限らず、他の声優陣も大幅に一新した作品や、コンセプトが違う作品についてはこの表に掲載しない<ref group="注">『[[おそ松さん]]』の松野おそ松(後任:[[櫻井孝宏]])など</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
|-
!後任!!役名!!概要作品!!後任の初担当作品
|-
|rowspan="2"|[[松本梨香]]||[[獏良了]]||『[[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]]』||第50話
|-
|[[ハロ (ガンダムシリーズ)#機動戦士ガンダム|ハロ]]||『[[機動戦士ガンダム]]』||『[[SDガンダム GGENERATION-F]]』
|-
|早間京子||[[マクロス7の登場人物一覧#バロータ軍|イワーノ・ゲペルニッチ]]||『[[マクロス7]]』||『[[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]]』
|-
|[[小宮和枝]]||rowspan="3"|[[うる星やつらの登場人物#ラン|ラン]]||rowspan="3"|『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』||『[[うる星やつら ザ・障害物水泳大会]]』<ref group="注">井上の生前に一度降板した際にも役を担当していた。</ref>
|-
|[[城雅子]]||『[[Pうる星やつら〜ラムのLoveSong〜]]』<ref group="注">ラム役の[[平野文]]以外の声優陣が総入れ替えされたパチンコ・パチスロ機でも城が声を担当。『Pうる星やつら〜ラムのLoveSong〜』では一部を除きテレビアニメ版準拠にキャストが戻されたが、そこでも引き続いて役を担当してる。</ref>
|-
|[[花澤香菜]]||『うる星やつら(2022年版)』
|-
|[[皆川純子]]||[[幽☆遊☆白書の登場人物一覧#幻海師範 門下生大選考会|乱童]]||『[[幽☆遊☆白書 (テレビアニメ)|幽☆遊☆白書]]』||『THE BATTLE OF 幽☆遊☆白書 〜死闘!暗黒武術会〜 120%フルパワー』
|-
|[[天野由梨]]||[[機動警察パトレイバーの登場人物#特車二課 第二小隊|香貫花・クランシー]]||『[[機動警察パトレイバー]]』||『[[スーパーロボット大戦Operation Extend]]』
|-
|[[日下ちひろ]]||rowspan="2"|松野おそ松||rowspan="2"|『[[おそ松くん#テレビ第2作|おそ松くん〈第2作〉]]』||『[[おそ松くん (パチスロ)|パチスロ版]]』
|-
|[[庄子裕衣]]||『CRおそ松くん』
|-
|[[平辻朝子]]||ナレーション||『フジパン民話テレホンサービス「とんと昔あったとさ」』||
|-
|}
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。2004年以降の作品は生前の音声を引用したライブラリ出演。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1976年 |
* [[ポールのミラクル大作戦]](チック、ストーン、生物A、ミリカ、レッド、ポッポ)
* [[ろぼっ子ビートン]](女の子)
| 1977年 |
* [[一発貫太くん]]('''戸馳七郎'''{{R|一発貫太くん}})
* [[シートン動物記 くまの子ジャッキー]](アリス{{R|シートン動物記 くまの子ジャッキー}})
* [[ヤッターマン]](チロ、ヒメ子、ケロッパ、ピノッキン、ペック)
| 1978年 |
* [[家なき子 (アニメ)|家なき子]]
* [[宇宙魔神ダイケンゴー]]('''オトケ'''{{R|ダイケンゴー}})
* [[科学忍者隊ガッチャマンII]](パイマー<ref>{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/gatcha_2.html|title=作品データベース 科学忍者隊ガッチャマンII |publisher=[[タツノコプロ]]|accessdate=2022-12-08}}</ref>、藤堂シロー、ユカリ、ベニー)
* [[無敵鋼人ダイターン3]]('''三条レイカ'''{{R|ダイターン3}})
* [[闘将ダイモス]](カイロ)
* [[未来少年コナン]](女)
| 1979年 |
* [[科学忍者隊ガッチャマンF]](アンナ、カミーラ)
* [[機動戦士ガンダム]]('''[[セイラ・マス]]'''{{R|ガンダム}}、[[機動戦士ガンダムの登場人物 民間人#キッカ・キタモト|キッカ・キタモト]]、[[ハロ (ガンダムシリーズ)|ハロ]]、ファム・ボゥ(第2話)、コーリー、ペロ、淑女A(第10話))
* [[巨人の星 (アニメ)|新・巨人の星II]](サチコ)
* [[こぐまのミーシャ]](ニャーゴ{{R|こぐまのミーシャ}})
* [[ゼンダマン]](牛若丸)
* [[闘士ゴーディアン]]('''ピーチィ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180704092845/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1087| title = 闘士ゴーディアン| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-17}}</ref>)
* [[未来ロボ ダルタニアス]](軽井学{{R|ダルタニアス}}、ミューム少将)
| 1980年 |
* [[伝説巨神イデオン]]('''フォルモッサ・シェリル'''{{R|イデオン}}、パイパー・ルウ{{R|イデオン}})
| 1981年 |
* [[ゴールドライタン]]('''ヒロ'''〈'''大海ヒロシ'''〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20190221173024/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1237| title = ゴールドライタン| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-04}}</ref>)
* [[ダッシュ勝平]](シェリー、菊池)
* [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]](火の玉小僧)
* [[ヤットデタマン]](アラジン、ジャック)
| 1982年 |
* [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]('''[[うる星やつらの登場人物#ラン|ラン]]'''〈初代〉)
* [[さすがの猿飛]](出門葉子)
* [[忍者マン一平]]('''柳生一平''')
| 1983年 |
* [[イタダキマン]](オスカー、サム)
* [[スプーンおばさん (アニメ)|スプーンおばさん]](バケット、ピー、サーラ・ベーコン)
* [[プラレス3四郎]](シーラ・ミスティ)
* [[魔法の天使クリィミーマミ]](ビーノ)
| 1984年 |
* [[特装機兵ドルバック]](コニー)
| 1985年 |
* [[ハイスクール!奇面組]]([[御女組#メンバー|天野邪子]])
| 1986年 |
* [[機動戦士ガンダムΖΖ]](セイラ・マス)
| 1987年 |
* [[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]](ボス)<!-- 1987-06-29 -->
* [[ドテラマン]](インセ鬼)
| 1988年 |
* [[おそ松くん#テレビ第2作|おそ松くん(1988年版)]]('''おそ松'''{{R|おそ松くん}})
* [[ドクター秩父山]]{{R|ドクター秩父山}}
| 1989年 |
* [[青いブリンク]](テン)
* [[ジャングル大帝|ジャングル大帝(新)]](アムジ)
* [[それいけ!アンパンマン]](てんどん母さん〈初代〉、くろべえ〈初代〉)
* [[らんま1/2]](実況アナ、輪子) - 2シリーズ{{Ras|第1期(1989年)、第2期『熱闘編』(1991年)}}
| 1990年 |
* [[機動警察パトレイバー]](香貫花・クランシー)
* [[魔法のエンジェルスイートミント]](ジュン)
* [[雲のように風のように]]('''江葉'''{{R|雲のように風のように}})
* [[たいむとらぶるトンデケマン!]](クレオパトラ)
* [[楽しいムーミン一家]](ビフスラン)
| 1992年 |
* [[ボーイフレンド (惣領冬実の漫画)|ボーイフレンド]](高刀正彦)
* [[幽☆遊☆白書 (テレビアニメ)|幽☆遊☆白書]](少林/乱童)
| 1994年 |
* [[マクロス7]](イワーノ・ゲペルニッチ{{R|マクロス7}})
| 1996年 |
* [[サンタクロースの冒険|少年サンタの大冒険!]](ザーライン女王)
| 1999年 |
* [[魔法使いTai!]](油壷亜希子)
| 2000年 |
* [[ビックリマン2000]](義理義理ッス、流感マダム)
* [[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]]([[獏良了]]〈初代〉)
| 2001年 |
* [[ARMS|PROJECT ARMS]](メアリー・カッツ)
}}
=== OVA ===
* [[リヨン伝説フレア]](1986年 - 1990年、ネリス) - 2作品{{Ras|第1作(1986年)、第2作『リヨン伝説フレア2 禁断の惑星』(1990年)}}
* [[機動警察パトレイバー]](1988年、香貫花・クランシー)
* [[機動戦士SDガンダム|機動戦士SDガンダム MARK-II]](1989年、セイラ、ハマーン、サイコガンダムMk-II)
* [[バオー来訪者]](1989年、ソフィーヌ)
* [[おそ松くん#OVA|おそ松くん イヤミはひとり風の中]](1990年、おそ松)
* [[ハロー張りネズミ|ハロー張りネズミ 〜殺意の領分〜]](1992年、ロマンのママ)
* [[赤ずきんチャチャ]](1995年、もみじ園長)
* スワン・プリンセス2/魔王の城(1997年 - 1998年、ユバータ)<!-- - 2作品 -->
* [[GUNDAM EVOLVE|GUNDAM EVOLVE 1 RX-78-2 GUNDAM]](2001年、セイラ・マス)
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1981年 |
* [[機動戦士ガンダム]](1981年 - 1982年、[[セイラ・マス]]、キッカ・キタモト) - 3作品{{Ras|第1作(1981年)、第2作『II 哀・戦士編』(1981年)、第3作『III めぐりあい宇宙編』(1982年)}}
| 1982年 |
* [[伝説巨神イデオン|THE IDEON]](フォルモッサ・シェリル、パイパー・ルウ) - 2作品{{Ras|『接触篇』(1982年)、『発動篇』(1982年)}}
| 1983年 |
* [[うる星やつら オンリー・ユー]](ラン)
| 1984年 |
* 地球物語 テレパス2500(エリダ<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180303050443/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1724| title = 地球物語 テレパス2500| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-08-18}}</ref>)
| 1986年 |
* [[ハイスクール!奇面組]](天野邪子)
* [[うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー]](友引町)
| 1988年 |
* [[うる星やつら 完結篇]](カルラ)
* [[機動戦士SDガンダム]](セイラ)
| 1989年 |
* [[おそ松くん スイカの星からこんにちはザンス!]]('''おそ松'''{{R|おそ松くん劇場版}})
* [[機動警察パトレイバー the Movie]](香貫花・クランシー)
| 1991年 |
* [[ガンバとカワウソの冒険]](キマグレ)
| 1993年 |
* [[カッパの三平]](黒磨)
* [[クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王]](ハラマキレディース、新宿のハイグレ人間、アナウンサー〈予告編〉)
| 1994年 |
* [[餓狼伝説 -THE MOTION PICTURE-]](パーニー)
| 1995年 |
* [[マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!]](ゲペルニッチ)
| 1997年 |
* [[劇場版 天地無用! 真夏のイヴ]](由厨葉)
| 2006年 |
* [[機動戦士Ζガンダム#劇場版|機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛-]](セイラ・マス)
| 2012年 |
* [[マクロスFB7 オレノウタヲキケ!]](ゲペルニッチ)
}}
=== ゲーム ===
{{dl2
| 1992年 |
* [[シェイプシフター・魔界英雄伝]](グレートマザー)
| 1993年 |
* [[機動警察パトレイバー#コンピュータゲーム版|機動警察パトレイバー 〜グリフォン篇]](香貫花・クランシー)
| 1998年 |
* [[SDガンダム GGENERATION]](1998年 - 2016年、[[セイラ・マス]]) - 9作品{{Ras|『GGENERATION』<!-- 1998-08-06 -->(1998年)、『ZERO』<!-- 1999-08-12 -->(1999年)、『F』<!-- 2000-08-03 -->(2000年)、『F.I.F』<!-- 2001-05-02 -->(2001年)、『NEO』<!-- 2002-11-28 -->(2002年)、『SEED』<!-- 2004-02-19 -->(2004年)、『SPIRITS』<!-- 2007-11-29 -->(2007年)、『3D』<!-- 2011-12-22 -->(2011年)、『GENESIS』<!-- 2016-11-22 -->(2016年)}}
* [[スーパーロボット大戦F|スーパーロボット大戦F 完結編]](セイラ・マス、フォルモッサ・シェリル、パイパー・ルウ)
| 1999年 |
* [[スーパーロボット大戦シリーズ]](1999年 - 2013年、セイラ・マス) - 5作品{{Ras|『[[スーパーロボット大戦コンプリートボックス|コンプリートボックス]]』(1999年)、『[[スーパーロボット大戦GC|GC]]』(2004年)、『[[スーパーロボット大戦XO|XO]]』(2006年)、『[[スーパーロボット大戦A|APORTABLE]]』(2008年)、『[[スーパーロボット大戦Operation Extend|Operation Extend]]』(2013年)}}
| 2000年 |
* [[機動戦士ガンダム (PlayStation 2)|機動戦士ガンダム]](セイラ・マス)
* [[スーパーロボット大戦α]](2000年 - 2001年、三条レイカ、セイラ・マス) - 2作品
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=== 吹き替え ===
==== 女優 ====
* '''[[サリー・フィールド]]'''
** [[奇跡の旅]](サシー)
** [[トランザム7000]](キャリー)※フジテレビ版
** [[ポセイドン・アドベンチャー2]](セレステ・ホイットマン)※TBS版
==== 映画 ====
* [[愛の選択 (映画)|愛の選択]](ヒラリーの母〈[[エレン・バースティン]]〉)
* [[IP5/愛を探す旅人たち]](ジョッキー)※ソフト版
* [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]](プリシー〈バタフライ・マックイーン〉)※日本テレビ新録版
* [[小公子]]
* [[大福星]](ウー:シベール・フー)
* [[ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー]](メリー・クームズ:[[スーザン・ジョージ]])※フジテレビ版
* [[トップガン (映画)|トップガン]](キャロル:[[メグ・ライアン]])※フジテレビ版
* [[永遠に美しく…]](ヘレン:[[ゴールディ・ホーン]])※ソフト版
* [[永遠のワルツ/白い犬とワルツを]](ケイト:[[クリスティーン・バランスキー]])
* [[オスカー・ワイルド (映画)|オスカー・ワイルド]](エイダ・レヴァーソン:ゾーイ・ワナメイカー)※VHS版
* [[がんばれ!ベアーズ 特訓中]](トビー・ホワイトウッド:デヴィッド・スタンボー)※テレビ朝日版
* [[チャーリー (映画)|チャーリー]](ハンナ・チャップリン:[[ジェラルディン・チャップリン]])
* [[天国の日々]](アビー:[[ブルック・アダムス (女優)|ブルック・アダムス]])
* [[裸の十字架を持つ男/エクソシストフォーエバー]](ナンシー:[[リンダ・ブレア]])
* [[バタリアン|バタリアン2]](ジェシー)
* [[バーチャル・ウォーズ]](マーニー・バーク)※VHS版
* [[秘密と嘘]](シンシア:[[ブレンダ・ブレッシン]])
* [[ブロードウェイのダニー・ローズ]](ティナ:[[ミア・ファロー]])
* [[ベイブ (映画)|ベイブ]](ネコのダッチェス〈[[ルシー・テイラー]]〉)※ソフト版
* [[ボーイズ'ン・ザ・フッド]](ベイカー夫人)
* [[マッドマックス]]
* [[ミスティック・ピザ]](ジョジョ:[[リリ・テイラー]])
* [[ミス・マープル|ミス・マープル カリブ海の秘密]]
* [[メン・イン・ブラック (映画)|メン・イン・ブラック]](ベアトリス)※日本テレビ版
* [[ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密]](ニーシー:[[シャーリー・ナイト]])
* ラスト・ドラゴン
* [[レジェンド/光と闇の伝説]](ガンプ)
* [[私が愛したグリンゴ]](ガルデュナ)
==== テレビドラマ ====
* [[新アウターリミッツ]](テレサ・ギブンズ:[[アマンダ・プラマー]])
* [[世界の料理ショー]] マリーおばさんのチャオ・イタリア(マリー・アン・エスポジート)
* [[ダーマ&グレッグ]](マーシー)
* [[名探偵ポワロ]] ※NHK版
** 「夢」(ルイーズ・ファーリー)
** 「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」(グレース)
** 「[[ポワロのクリスマス]]」(ステラ)
* [[ライオンたちとイングリッシュ]]
==== アニメ ====
* [[ピーナッツ (漫画)|がんばれスヌーピー]](サリー・ブラウン)
=== ラジオ ===
* [[スネークマンショー|それいけスネークマン]]([[TBSラジオ|TBS]])
* [[ピーナッツ (漫画)|スヌーピーとチャーリー]](サリー)
* [[お話でてこい]]([[TBSラジオ|NHK]]ラジオ第2放送)
* ラジオSFコーナー([[TBSラジオ|NHK]]ラジオ ヨコジュンのハチャハチャSFコーナー 1979:6/4・6/6・6/8・9/24・9/26・9/28)
=== CD ===
* [[スネークマンショー]]
* [[未来放浪ガルディーン|未来放浪ガルディーン 大歌劇]](シャラ=シャール・酒姫)
=== 人形劇 ===
* [[こどもにんぎょう劇場]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])
** 「[[うりこひめとあまのじゃく]]」(瓜子姫)
** 「[[おやゆび姫|おやゆびひめ]]」(親指姫以下全ての登場人物)
** 「ふたりのおかあさん」
** 「[[マッチ売りの少女|マッチうりの少女]]」
** 「およめさんもらっちゃった」
** 「[[雪女|ゆきおんな]]」
** 「[[おむすびころりん]]」
** 「おさるとホタル」
** 「[[天の羽衣|あまのはごろも]]」(ナレーション、女の子)
** 「[[雪わたり|ゆきわたり]]」
** 「ひとつのねがい」
** 「ゆうびんやさんのはなし」
** 「そのゆめ買った!」
** 「[[蜘蛛の糸|くもの糸]]」(ナレーション)
=== その他コンテンツ ===
* [[SDガンダム GGENERATION]] CM(セイラ・マス)
** SDガンダム GGENERATION-ZERO CM
* [[お話でてこい]](朗読)
* [[川の子クークー]](ポーポーの声)
* [[クイズダービー]](スタッフ = 問題作成)
* [[ごん狐|ごんぎつね]]([[新美南吉記念館]]) ※ビデオシアターで月替わりで放映されている10分ほどの作品全編のナレーションとして出演
* [[フジパン]]民話テレホンサービス『とんと昔あったとさ』(初代ナレーション(1981年 - 2003年))
* [[ベルトクイズQ&Q]](スタッフ = 番組構成に加え、性格診断コンピュータの声を担当)
* 無敵鋼人ダイターン3 ソノシート(三条レイカ、コロス)
== 著書 ==
* 井上瑶の南洋じゃ美人(1983年、[[三修社]])ISBN 978-4384037296
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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}}
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== 外部リンク ==
* [https://thetv.jp/person/0000011469/ 井上瑤のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン]<!--2021-12-07: この井上瑤さんのものに間違いないが生年に食い違い(1947年生まれとしている)。-->
* {{Oricon name|193303|name=井上瑤}}
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[[Category:2003年没]] | 2003-03-03T11:37:05Z | 2023-12-21T01:53:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E7%91%A4 |
3,311 | 鉄道車両 | 鉄道車両(てつどうしゃりょう)は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行する車両である。
鉄道車両は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両である。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。日本の法規上は、本線上を列車として走行するための車両で、所定の手続きに則った車籍を有する車両である。よって、モーターカーや貨車移動機といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多く、本線上を走行する場合は線路閉鎖の手続きを行う必要がある。。
本項目では、一般に公開されて旅客や貨物の輸送を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。
鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、自動車など他の交通機関と異なっている点である。航空機や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている。
さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの船や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している。
鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される。まず大きく分けると旅客車、機関車、貨車の3つに分類することができる。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)。また、これ以外に事業用車を分類することもある。
なお、車種以外に用途や設備により分類することができるが、これについてはそれぞれ旅客車・機関車・貨車・事業用車を参照。
旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。近年では、ハイブリッド車やEDC方式の登場により、電車と気動車双方に分類される車両も増えている。
郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。
電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によってモーターを回して走行する車両である。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する付随車が存在する。搭載している電池の電力によって走行する方式も電車であるが、架線や第三軌条など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である。一方、搭載している熱機関によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されていたが、ハイブリッド車両などの登場により電車としても気動車としても分類されるようになっている。
効率の良い発電所において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための変電所や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある。
もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に路面電車や地下鉄で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている。また、モノレール、案内軌条式鉄道(新交通システム)、トロリーバス、索道(ロープウェイ)、鋼索鉄道(ケーブルカー)、磁気浮上式鉄道なども多くは電車の範疇に含まれる。
日本では殆どの人口密集地で電車が普及している事から、気動車や客車を含めた鉄道車両のすべてを「電車」と呼ぶ風潮がある。
気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である。外燃機関である蒸気機関を動力とする車両は蒸気動車と呼ばれ、それ以外の内燃機関で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する。内燃動車において用いられる機関としてはディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどがある。現代では一般的には、大出力を容易に得られ燃費のよいディーゼルエンジンが気動車の原動機として用いられている。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ。
内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接車輪を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な変速機を使う場合を機械式、トルクコンバータを使う場合を液体式、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を電気式という。ただしガスタービン動車の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある。電気式以外の方式では、機関を稼働したまま車両の停止や惰行に対応するためのクラッチも必要となる。
気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の分割・併合を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている。
気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で、製造費と維持費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対し、エンジンと変速機の重量に加え、潤滑油、冷却水、動力に変換するための燃料自体も搭載する必要から重量が大きくなり、重量あたりの性能で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している。
客車という言葉は、広い意味では旅客車を表すこともあるが、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する発電機を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている。
客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に夜行列車などにおいて用いられる。
機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない。また動力装置以外に、客車に対する暖房用の蒸気発生装置を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする。
機関車は、その動力方式でさらに蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別できる。それ以外にも1970年代にはアメリカ(M-497)、ソビエト(高速走行実験鉄道車両(ウクライナ語版))のようなジェットエンジンによる推力を利用するターボジェット・トレインも試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない。
蒸気機関車は、蒸気機関を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車はレシプロ式で、ピストンの往復運動をクランクで車輪の回転運動に変換して走行していた。このほかに蒸気タービン式や、発電してモーターで走行するものなどがあった。
一般には燃料として石炭を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、コークス、木材、重油、泥炭などが用いられることもある。またサトウキビの生産が盛んな地方では、その絞りかすのバガスを燃料にしたり、変わったものとしてスイスにはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた。原子炉で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない。
無火機関車は、鉱山や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置したボイラーからの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである。
蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、熱効率が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、第二次世界大戦後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった。主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。
電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、蓄電池を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる。
電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、ロシア、中華人民共和国では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、北アメリカやオーストラリアなどでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている。
内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、ディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある。
ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる。
貨車は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、JR貨物M250系電車のように動力分散方式の貨車も開発されてきている。
搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、入換作業に手間が掛かるといった問題があった。
これに対して、フォークリフトのような荷役機械が開発され、第二次世界大戦後から各国でコンテナ化の動きが始まった。このためにコンテナを搭載する貨車としてコンテナ車が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている。
鉱山において鉱石を輸送する列車や、石油のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の石炭車・ホッパ車・タンク車などの貨車が開発されて使用されている。
事業用車は、鉄道事業者が所有する車両のうち、直接営業目的に用いられない鉄道車両である。保線作業や工事に用いたり、事業者内部の業務に必要とされる物品を輸送したり、試験や試作の目的で造られたりといった車両がある。日本に於いては、機関車、電車、気動車、客車、貨車のいずれかに分類される。
鉄道車両を推進する動力の配置の仕方としては、動力集中方式と動力分散方式がある。動力集中方式は、編成中の動力はすべて機関車に集中しており、それ以外の客車・貨車は機関車に牽かれて走るのみの方式である。これに対して動力分散方式では、特定の車両に動力を集中させるのではなく、編成中の各車両に分散して動力を搭載する。
図に概念を示す。図中赤く塗られてMと書かれているのが車両が動力車で、白抜きにTと書かれているのが動力のない付随車である。動力分散方式において、動力車と付随車の割合は形式によって様々である。この割合のことをMT比といい、図の例では4M2Tと表現される。
動力集中方式と動力分散方式の得失は以下のとおりである。
1970年代の日本国有鉄道(国鉄)において、こうした点の検討が詳しくなされ、1本の列車編成が長くなるほど動力集中方式が有利で、短くなると動力分散方式が有利であるとされた。具体的には直流電化区間では列車長11両から12両、交流電化区間では列車長9両から10両、非電化区間では列車長4両から5両のところに費用の分岐点があり、それより長い列車では動力集中方式が有利であるとした。つまり短い編成を頻繁に運行するような路線では動力分散方式が、長い編成を時々運行するような路線では動力集中方式が有利となる。
その後技術の発展で、可変電圧可変周波数制御(インバータ制御)が実用化されて保守の手間が少ない交流電動機が電車に用いられるようになり、また回生ブレーキが一般的になったため、より動力分散方式が有利になる傾向にある。
日本では第二次世界大戦後から、幹線の長距離列車においても動力分散方式を推進してきた。これは地盤が弱く軸重を強化しづらい上、地形が急峻かつ複雑なため勾配・曲線が必然的に多くなるという国土において高速化を図るために選択されたものである。これに対してヨーロッパなどでは長らく動力集中方式が使われてきた。しかし近年になって動力分散方式が有利になりつつあることから、ヨーロッパにおいても動力分散方式の車両が普及する傾向にある。
動力集中方式の車両においても、編成の両端に機関車を連結して、通常時は固定された編成で運用されるものがあり、この場合は運用形態の面ではかなり動力分散方式に近くなっている。
鉄道車両では、基本的な寸法と重量に規制が設けられている。
鉄道車両の幅と高さは、車両限界によって規定されている。車両限界は、車両の最大幅と最大高さを含めて、プラットホームとの関係などで複雑な形が定められている。これに対して、周辺の電柱や建物などの構造物を設置できる限界として、走行時の車両の動揺などを考慮した余裕を車両限界に加えた建築限界が定められている。国や鉄道会社により車両限界・建築限界は異なっている。車両が曲線を走行する際には、車体の中央部または端部(オーバーハング)が曲線の内側・外側にはみ出す(偏倚 へんい)ため、これを考慮して建築限界を広げるようになっている。
鉄道車両の長さは、主に曲線を走行するときに、隣の車両や建築限界に抵触しないかという観点で決定される。車両を長くすればするほど曲線での偏倚が大きくなって、あらかじめ車両限界と建築限界の間に加えてある余裕を超えて障害物に抵触してしまうため、鉄道車両を長くするのには限度がある。車体幅を細くしたり裾を絞ったりすることで、通常よりさらに車両を長くすることができ、新幹線の先頭車両が中間車両より長いのはこのためである。車両の長さとしては車体そのものの長さである車体長と、隣の車両の連結器と接触する面の間の距離である連結面間距離がある。
また、車両を支えている輪軸の間隔である軸距(ホイールベース)にも制約がある。隣接する輪軸の間があまりに狭いと走行安定性に問題があることから、軸距の下限が定められている。一方輪軸を備えて車体に対して回転する台車に関しても、その中心間の距離である台車中心間距離があまり長すぎると、曲線での車体の偏倚が大きくなるため問題がある。また信号回路の動作にも影響があるため、軸距または台車中心間距離の上限も定められている。
鉄道車両の重量は、その車両が走行する路線の設計荷重と関係する。鉄道車両の重量をその車軸の数で割った値を軸重と呼び、この値が走行することのできる路線を決定する。線路を設計する時点で、そこを通行する鉄道車両の軸重を活荷重という形で想定して建設される。線路には線路等級が定められており、重要な路線ほど重い車両を通行させることができるように建設されている。このため、通行することを想定している路線が許容する軸重に収まるように車両を設計する必要がある。
機関車では、牽引性能を発揮するためにある程度の軸重を必要としている。幹線用に造られた軸重の大きな機関車を支線用に転用する際に、重量を負担する車軸を追加して軸重を下げる改造を行うことがある。また、国鉄DD51形ディーゼル機関車は動力のない中間台車に空気ばねを装備しており、この圧力を変化させることで負担する重量を変え、動軸の軸重を上げたり下げたりすることができるようになっている。
鉄道車両の構造を上回り(車体)と下回り(走り装置)、動力機構に分けて説明する。
たいていの鉄道車両では、車体はほぼ箱状の構造をしている。なおそのうち構体は、台枠・骨組・外板などで構成され車体の強度を担う部分であり、座席などの室内設備、照明、制御機器などは含まない。床面は台枠、進行方向前後は妻構、左右は側構、上面は屋根構という。
車体は古くはすべて木造であったが、腐蝕の問題などから順次鋼製部品への移行が進められた。この時代は、車体の荷重のすべてを台枠で負担するため、トラス棒を設けたり魚腹形の側梁を用いたりした頑丈な構造の台枠を採用していた。事故発生時の木造車体の粉砕が犠牲者を多くすることが問題とされ、やがて車体全体が鋼製のものへと発展していった。鋼製車体の中でも、半鋼製ともいうべき側構や妻構のみが鋼製で屋根は木造のものから、全鋼製のものへと移り変わっている。この際に車体の基本構造は変えなかったので、台枠は相変わらず非常に頑丈な構造で設計され、車体の他の部分が金属になったことに伴う重量増加は大きな問題となった。また、溶接技術が未発達な頃の鋼製車はリベット接合であった。やがて車体全体で強度を分担して受け持つモノコック構造(張殻構造)が用いられるようになり、車体は大幅に軽量化された。
鋼製の車体は腐食の問題があり、錆が発生しないステンレス鋼を材料として使用することが検討された。まず、車体の骨組みは鋼製として外板をステンレスにしたセミステンレス車両が開発された。続いて車体すべてをステンレスで製造したオールステンレス車両が開発された。ステンレスの溶接には当初はスポット溶接、後にはレーザー溶接が用いられている。また腰板や幕板部の歪みを目立たなくするためにコルゲートのついた外板を使用するのが一般的であったが、技術の進歩によりビード加工で済ませるようになり、さらに新しいものは平滑な外板を使用するようになっている。ステンレスの外板を使用した車体は、錆を防ぐための塗装を省略することができるようになり、今日見られるような銀色の車両となった。ステンレス鋼は、鋼製車体に用いられる炭素鋼と比較して約1.5倍の引っ張り強さがあり、これに加えて鋼製車体のように腐食の進行を想定して「腐蝕しろ」(さびしろ)と呼ばれる余分の強度を持たせる必要がなくなったことから軽量化が図られた。さらに高張力ステンレス鋼の採用や構造解析による設計技術の進歩があって軽量化が進行している。
錆が発生しない材料としてはアルミニウム合金もあり、アルミニウム合金製の鉄道車両も開発された。当初は骨組に外板を貼り付ける工法であったが、やがて大形押出成形材を利用したシングルスキン構造やダブルスキン構造が開発され、ミグ溶接、摩擦攪拌接合、レーザーミグハイブリッド溶接などにより接合されている。500系新幹線ではハニカム構造により軽量化が図られている。アルミニウム製の車両はステンレス車両と同様に塗装を省略できるほか、アルミニウム自体が軽量な素材であるため、必要な強度を保つために外板を厚くしたとしても車体の軽量化を実現できる。また、アルミニウム車体はリサイクルしやすく、車体を解体して出たアルミニウムを再び鉄道車両に使用する試みが行われている。
車体の素材としては他に繊維強化プラスチック (FRP) を一部の複雑な形状の部分に用いている例がある。
台枠は、車体の一番基本となる構造である。車体全体の強度を受け持ち、台車や車軸に重量を伝える役割をしている。また連結運転の際には、隣の車両との間での力の伝達も行う。
車両の前後の端に横方向に設けられている梁のことを端梁という。連結器はこの端梁に取り付けられるため、大きな荷重に耐える強度が必要とされる。車両の左右に車体全長に渡って設けられている梁は側梁と呼ばれる。両側の側梁の間に横方向に渡されている梁は横梁で、これがいくつも並んで台枠全体としては上から見るとはしご状の構造になっている。台車や車軸の真上に当たる部分には、枕梁が置かれている。また端梁中央から車体中央方向へ枕梁の位置まで中梁が延びている。この端梁から枕梁までの範囲を端台枠と呼び、この部分だけはステンレス車両であっても鋼製の連続溶接で組み立てるのが普通である。
かつては台枠と側構でほとんどの強度を受け持ち、車体の他の部分はその部分で必要とされるだけの強度で作る方式であった。しかし軽量化のために、車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つモノコック構造(応力外皮構造)が後に主流となった。
蒸気機関車では、台枠は板台枠と棒台枠の2種類に大きく分けられ、これが車輪により支えられまたボイラーなどの上部構造を載せる仕組みとなっている。
貨車でも有蓋車や無蓋車などたいていの車両では台枠があり、重量を受け持っている。コンテナ車の場合、コンテナの重量のほとんどは側梁にかかるため、側梁が強度を主に負担しており、このために魚腹形の側梁となっている。タンク車では台枠のないフレームレス構造のものがあり、この場合タンク体全体で強度を受け持っている。
台枠の上面は床を構成し、座席やその他の車内設備を設置するとともに、旅客や貨物の荷重を負担する。床面は、単に鋼材に敷物を貼っただけの鋼板床のほか、優等車などでは遮音性に優れた、波形鋼板(キーストンプレート)の上にポリウレタンフォームやユニテックスを充填して敷物を貼りつけた構造などが使われる。また下面には、横梁に床下機器が吊り下げられる。軸受あるいは台車の心皿などの重量を支える構造は枕梁に力を伝達するようになっている。
側構は、鉄道車両の左右部分である。近代的なモノコック構造の車両では、台枠と一体となって強度を負担している。窓より下の外板を腰板、窓より上の外板を幕板という。かつては側構の窓部分の開口による強度不足を補うために、ウィンドウ・シル/ヘッダーという帯状の補強構造物が窓の上と下に取り付けられていた。ビードやコルゲートといった表面加工が見られる車両もある。
妻構は、鉄道車両の前後部分である。車体の端を垂直に切り落としたような構造の場合を切妻といい、そのうち両側を削った構造の場合を折妻といい、それ以外の場合曲面妻という。構体両端部を閉じる構造を形成して強度上重要な部分を受け持っている。
隣接車両と連結して旅客や乗務員の通り抜けが必要とされる場合には、中央部に貫通路が設けられる。また先頭車や機関車の場合は、窓を構成してフロントガラスをはめ込み運転台とする。貫通路と運転台を両立した貫通運転台構造もある。
特急用の車両の場合などは、先頭部分の形状は特に外観を重要視して設計することがあり、複雑な形状となる。高い位置に運転台を設置する高運転台構造は、視認性をよくし、踏切事故などでの運転士への危険を防ぐなどの目的がある。高速車両などでは流線形が採用されることもある。
運転台がある場合には、前部標識灯、後部標識灯、ワイパーなどが設置される。貫通路がある場合は貫通幌などが設置される。また貫通路のある中間車の場合は貫通路の両側に妻窓が設けられることがある。
屋根構は、車両の天井・屋根部分を構成している。前後方向に長桁が、左右方向には垂木が骨組みとして組み込まれている。冷房付きの車両では、室外機を屋根の上に搭載することが一般的で、これは重量が大きいため設置位置をあらかじめ検討してその重量に耐えるだけの強度構造とする。また、冷房は車内と車外を貫通して取り付けることが多いため、その場合は大きな開口部を設置することになり、この点でも強度上の配慮が必要となる。この他、車内側の天井や冷房風道、照明の灯具、車両補修の作業者が屋根の上を歩くときに使うランボード、雨水が垂れることを防ぐ雨どいなどが設置される。
機関車や電車・気動車の先頭車両などには、機関士・運転士が運転を行うための運転台(運転室)が設けられる。一般に妻面に設置されるが、機関車の中には機器の配置の都合でセンターキャブと呼ばれる車体中央付近に運転台を配置した構成も見られる。
運転台は、車両の全幅に渡って設置される場合と、半分ほどの幅になっている場合がある。運転室は運転士が乗務するだけでなく、車掌やその他の客室乗務員などが乗務するスペースともなる。貫通式の運転台と呼ばれるものは、運転台の位置が列車の先頭や末端ではなく他の車両と連結されて中間になった時に、旅客や乗務員が車両間を移動できるように中央部に貫通路を設けることができる構成になっているものである。貫通路を設置できない運転台は非貫通運転台という。
実際に運転士が座る席は、車体中央に設置される場合と、左右どちらかに偏って設置されている場合がある。自動車ではそれぞれの国の道路の進行方向に応じて、左側通行の国では右側に運転手席を配置するのが一般的であるが、鉄道の場合は進行区分との関係は必ずしもなく、左側通行が原則の日本では信号機が左側に立てられていることが多いことから、信号機を見やすい左側に席を配置することが多い。タブレット閉塞の区間ではタブレットの取り扱いに便利な側に設置したり、ワンマン運転を前提にプラットホームのある側に配置したりする例がある。
自動車のアクセルに相当するのは主幹制御器(マスター・コントローラー、マスコン、路面電車など直接制御の車両の場合は直接制御器(ダイレクトコントローラー))である。自動車と違い手で操作する。縦方向の軸を中心に水平に回転させて操作するものと、横方向の軸を中心に垂直に回転させて操作するものがある。また、ブレーキハンドルと一体化したワンハンドルマスコンもある。ワンハンドルマスコンにおいては、押して走らせるものと引いて走らせるものとの両方がある。マスコンを左手で操作するか右手で操作するかは同じ鉄道事業者の中でも統一されておらず、車種によって様々である。
ブレーキを操作するのはブレーキハンドルであり、これも手で操作する。機関車では、機関車のみに作用する単弁(単独ブレーキ弁)と列車全体に作用する自弁(自動ブレーキ弁)が別々に存在する。
このほかに、警笛を鳴らすペダル、ATSに代表される自動列車保安装置の取り扱い装置、前灯やワイパーのスイッチ、速度計、圧力計、電圧計、各種の状態表示ランプ、列車無線の送受話器、時刻表差し、車内放送のマイク、車掌スイッチなどが設置されている。最近の車両では、モニタを運転台に設置して車両の状態を表示し、またタッチパネル式の入力装置により簡単な点検作業や車内の空調温度設定など様々な作業が運転台からできるようにされている。
運転台は前面衝突の際に最初に巻き込まれる場所であるので、運転士の保護に配慮した設計がなされる。主に想定される衝突事故は踏切における障害物との衝突であり、前頭部はその衝突に耐えられるように強化されている。また運転士の座る位置を高くすることで、車体下部に障害物を巻き込んだ際の影響を抑えている。クラッシャブルゾーンを設けて衝撃を吸収する構造になっているものもある。
運転台はすべての車両に設置されているわけではない。機関車のほとんどには両端に運転台が設置されているが、センターキャブの機関車では両側へ進行するときに兼用される運転台が中央に1つ設置されている。また、主に北アメリカではBユニット(あるいはブースター)と呼ばれる運転台を持たない機関車が用いられており、これは運転台を備えているAユニットと連結してそこから制御されることを前提にしている。
電車は、その形式が長編成を組むことを前提にしている場合には、中間車として設計された車両には運転台が設けられない。これは気動車も同様であるが、長編成を組むような路線では電車が用いられることが多く、気動車が投入される路線では編成が短いこともあり、中間車として運転台を持たずに設計・製造される気動車の数は電車に比べて少ない。運転台を設けた車両を制御車、設けていない車両を中間車という。
客車は動力がないため運転台も設置されないのが普通であるが、機関車を末端に連結して列車全体を後押しする形で運転する時に、先頭部の客車に設けた運転台から運転する形態があり、その場合には運転台が設置される。そうした客車を制御客車という。
1両の車両の両端に運転台が設けられている場合を両運転台、片方にだけ設けられている場合を片運転台という。
鉄道車両の扉は、側構に設けられた外部に直接出る扉のほかに、車内を区切るために設けられた扉や、連結されている隣の車両に移るところに設けられた貫通扉などがある。
引戸は扉が横にスライドして開閉する構造であり、広く用いられている。側構の内部に戸袋を設けて、そこに引き込む形で開閉される。2枚の扉が両側に開く両開き扉と、1枚の扉が片側にだけ開く片開き扉があり、通勤列車のように短時間に多人数の乗降を必要としている車両では両開きが広く用いられる。
吊戸は側構の外部で扉を吊って、横にスライドして開閉する構造である。引戸と異なり、側構内部に戸袋を設ける必要がなく側構を薄くでき、強度上有利などの利点があるが、プラットホーム混雑時に乗客に危険があるとの懸念がある。日本では使用例が少ないが、それ以外ではかなり見られる方式である。
開戸は蝶番によって壁に取り付けられ、蝶番を支点として回転することにより開く構造である。内側に開くものと外側に開くものがあるが、外側に開くものはホームにいる旅客に扉が衝突する危険があり、あまり用いられなくなった。初期の客車ではコンパートメント式で、車外側に開く開戸が一般的であった。内側に開くものは、乗務員用の扉に広く見られる。
折戸は、2枚の扉が蝶番でつながっており、折り畳まれる形で開く扉である。2枚で構成される片開きのもののほか、これを2組設置して両側に開く4枚折戸もある。車体強度上不利な戸袋を設ける必要がなく、広い開口面積を確保できるため、一部の車両で用いられている。ただし開戸同様に扉の動作域があって乗客を巻き込む恐れがあるという問題のほか、気密性を確保しづらく寒冷地での使用が難しい。
プラグドアは、扉がいったん外側または内側に動いた後、車体と平行にスライドして開く構造で、複雑な機構のため高価であるが、外板と扉部分が平坦になり見た目がよくなるとともに、高速鉄道では空気抵抗の削減を期待できる。ヨーロッパではLRTでも広く用いられている。外側スライド式では戸袋を必要としないという長所もある。ただしプラグドアは上述したように、動作機構が複雑であるため高価であるという問題がある。
この他に、荷物車にシャッター式の上下に動かして開閉する扉が用いられた例がある。
1両の車両の片側の側面にある扉の数は、0個から6個程度である。食堂車など、外部から直接乗車することを想定していない車両では扉を設置しないことがある。一方で通勤用の車両では迅速な乗降のために扉の数を増やす傾向にある。
古い時代の鉄道車両では、そもそも扉がなくオープンデッキのスタイルのものがあった。そうしたものでも、高速化するにつれて柵を付けるようになり、やがて扉が付けられるようになった。この扉の開閉は古くは手動であったが、乗降時間の短縮や駅員・乗務員の労力軽減、安全性の向上といった目的で自動化が行われるようになった。車掌または運転士の取り扱う車掌スイッチにより一斉に開閉される。扉を開閉するのはドアエンジンにより、空気圧式のものと電気式のものがある。
車内の温度維持等の目的で、すべての車両の扉を同時に開閉させるのではなく、旅客が乗降する時に必要とされる扉のみを旅客の意思で開けられるようになっているものがある。乗客が手で開けるが、機械で一斉に閉めることができる方式を半自動式という。また乗客が手作業で扉を開閉するのではなく、扉脇に設けられた押しボタンを操作することで開閉させられるものもある。扉の数が多い通勤車両などで長時間停車時の車内温度維持の目的で、大半の扉を閉めて一部のみ開けて残す機構を備えたものもある。
自動ドアでも、事故等の非常時に旅客が避難脱出できるように手動で開けられるようにするドアコックが付いているものがある。
窓は、鉄道車両では運転台の前面、客室の両側、妻面、扉など様々な場所に付けられている。固定された構造のものと、開閉可能なものがある。
運転台の前面の窓にはフロントガラスがはめ込まれており、一般に固定された構造である。ただし側面の窓を開けられるようになっているものもある。また、乗務員用扉に取り付けられている窓は一般に開閉可能である。運転台と客室またはデッキを区切る壁にも窓が設置されていることがある。
客室では側面に窓が設置されている。固定式のもの、一段上昇式のもの、一段下降式のもの、二段に分かれていてそれぞれが上昇、あるいは下降するもの、内側に傾いて開くもの、引き違いで横にスライドして開くものなどがある。戸袋にも固定式の窓が設置されていることがある。妻面にも窓を設置することがある。また、扉自体に設置されていることもある。
窓ガラスとしては強化ガラスや合わせガラスが用いられる。2枚のガラスの間に空気層を設けた複層ガラスも用いられることがある。
また、多くの客室の側面窓にはカーテンなどの遮光装置が設置されている。上部から引き降ろして所定の位置で止められる巻上カーテン式、一般家庭のカーテンのように横から引っ張って閉める横引カーテン式、2枚のガラスの間にブラインドが設置されているベネシャンブラインド式、金属または木製のよろい戸を使うよろい戸式などがある。巻上カーテン式の場合、カーテンレールにある窪みに金具を引っ掛けて止めるものと、任意の位置で止められるフリーストップ式のものがある。
座席の配置形態としてはロングシート、クロスシート、セミクロスシートなどがある。その鉄道車両が投入を予定されている用途に応じて車内の座席の配置の仕方は異なっている。
座席の表面には難燃性モケット、ビニールレザー、平織物、皮革などが用いられている。内部にはばねを入れて、その周りにポリウレタンフォームやビニールフォーム、フェルトなどを詰め物としている。
車両の照明は、古くはオイルランプが用いられていたが、ピンチガスによる照明を経て白熱灯に変わり、現代では蛍光灯が主流となっている。また、読書灯などでLED照明が用いられることもある。一般に天井に照明器具が取り付けられ、そこに蛍光灯が取り付けられている。直接蛍光灯が露出しているタイプは通勤用車両など低コストな車両に多く、より高級な車両になると蛍光灯の周囲をカバーで覆っている。関西民鉄などでグレード感にこだわって、一般車両でもカバーを装着している例がある。一等車など特別な車両では間接照明も用いられる。
客室の直接の照明のほかに、トイレの照明や行き先表示装置の照明などもある。
客室内では多人数の旅客と乗務員が過ごすため、換気に配慮して設計が行われる。強制通風式と自然通風式がある。強制通風式では送風機を設置し、吸気と排気の両方を強制的に、あるいは吸気のみ、排気のみを強制的に行う。自然通風式ではベンチレーターを屋根の上などに設置して通風を行う。
暖房はかなり古くから多くの旅客車に装備されている。石炭や薪を車内のダルマストーブなどで焚く暖房は古くから使われていた。コンパートメント車両では温水や酢酸ナトリウムを利用した湯たんぽによる足元暖房や、車内に設置された小型ボイラーによる温水循環暖房が用いられていた。蒸気暖房は、蒸気機関車または機関車や暖房車に搭載された蒸気発生装置からの蒸気を客室内の蒸気管に通して暖めるものであるが、蒸気機関車がなくなるにつれて次第になくなっていった。電気暖房は電気式のヒーターにより車内を暖める。気動車ではエンジンの排気熱で温める温水暖房もある。また冷房が搭載されている車両ではヒートポンプ式もある。
冷房は、第二次世界大戦前から装備されている車両もあったが、普及するようになったのは第二次世界大戦後のことで、通勤車両などでは1970年代からである。電力消費が大きく、電源の確保に注意を払う必要がある。機関直結式冷房装置のようにエンジンから直接圧縮機を駆動して冷房を稼動させる形式もある。車内への冷気送り出しは天井部分に設置したダクトから行われるのが一般的である。室外機の配置の仕方により、集中式、集約分散式、分散式などがある。
長距離列車に用いられる車両などには、トイレが設置される。扉を持った個室に便器と手洗いが設置されている。洗浄用の水はタンクに貯留されていて、必要に応じて車両基地などで補給されている。かつては便器から流された汚物は線路に垂れ流されており、これによる衛生上の問題があった。汚物を粉砕し消毒してから排出する粉砕式も試みられたが、異物を巻き込んで故障する問題が絶えず、しかも汚物を車外に排出するという方式には変わらなかったこともあり、抜本的な解決策とはならなかった。汚物をタンクに貯蔵する方式は、タンクがすぐに溢れてしまう問題があり、汚物に含まれる水分を濾過・処理して便器の水洗に再利用する仕組みが考案されてから広く普及するようになった。JRグループでは2002年3月に垂れ流し式の完全廃止を達成したが、世界的に見ればまだ垂れ流し式は多い。
連結器は隣の車両と連結して編成を構成する装置である。密着連結器、自動連結器、ねじ式連結器などの各種の連結器がある。その他に、ブレーキ用の空気圧を供給するブレーキ管や、電気配線などを連結するジャンパ連結器などが車両の間で繋がれる。
貫通路は車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路である。踏み板と貫通幌、貫通扉などで構成されている。貫通幌は、蛇腹状の構造のものが一般的に使われているが、太い管状のゴムを組み合わせた例もある。貫通路に扉を設けるかは車両により、設けないことで見通しをよくし開放感を演出できるが、風が吹き抜けて冬に寒くなることや、騒音の問題、そして火災時の延焼防止などの観点から貫通扉を設置することがある。
また、高速鉄道などで騒音と空気抵抗の低減を狙って連結部車体全周に幌を取り付けたものもある。
走り装置あるいは走行装置は、鉄道車両がレール上を走行するために必要な車輪、車軸、軸受といった構造の総称である。車体と荷重を支え、レールに沿って車体を案内し、駆動装置や制動装置が発生させる駆動力・制動力を車輪と車体の間で伝達する役割を果たす。
鉄道車両では、軸受が車体に固定されていてカーブに沿って向きを変えることができないものと、台車に軸受が取り付けられていて車体に対して台車が回転することでカーブに沿って向きを変えられるようになっているものがある。前者を、1両あたりの車軸が2軸の場合を二軸車、3軸の場合を三軸車といい、後者をボギー車という。ボギー車の台車にも、2軸台車、3軸台車などがある。
ボギー車と二軸車の概念を図で示す。図の上がボギー車で、下が二軸車である。ボギー車では、台車に車軸が取り付けられているので、台車が車体に対して回転することでカーブで車輪がカーブの方向を向くことができる。一方、二軸車は車軸が車体に直接取り付けられているので回転することはない。
ボギー車では、多少の軌道の不整があっても滑らかに走行することができるという長所がある。走行性能の差から、二軸車では最高速度が低く留められており、日本では75 km/hに制限されているが、ボギー車はこれよりずっと速く走ることができる。また脱線への安全性という面で見てもボギー車の方が有利である。一方、2軸ボギー台車2つを備えた4軸の車両と二軸車では、同じ軸重での搭載量はボギー車が二軸車の2倍にできるが、車体が長くなる分車体強度を向上する必要があること、台車そのものの構造が複雑で重量がかさむことなどから、総合的な積載効率には大きな差はない。かつては、商取引の単位が小さくボギー車では輸送力が過剰であることを理由に、日本やヨーロッパの貨車は二軸車が主流であったが、輸送単位の問題はコンテナの採用で解決し、走行性能を重視して貨車でもボギー車を採用するようになってきている。
蒸気機関車では、シリンダーからコネクティングロッドで動輪を駆動する関係で、動軸は車体に固定されていて曲線に沿って回転させることができないものが普通である。曲線での走行性能を改善するために、若干の横方向の移動を許容したり、一部の車輪のフランジを削ったりしている。一方蒸気機関車でも先輪や従輪などの動力のない車輪については台車構造が標準である。
二軸車では、車軸同士の間隔のことを固定軸距(ホイールベース)という。これに対してボギー車では、台車における車軸の間隔を固定軸距といい、台車同士の距離は台車中心間距離(ボギーセンター間距離)という。固定軸距が長くし台車の回転抵抗を大きくすると直線での直進性能がよくなるが、曲線での操向性能が悪化する。このため、両者の特性の調和を図る必要がある。
二軸車のほかに三軸車というものも存在する。三軸車は曲線通過時の問題が大きく走行性能が悪いが、車両の費用や工数、消費する資材に比べて荷重を大きくできることから採用された例がある。その際には中央の軸に横動を許容するなどの対策が必要となる。またボギー車においても、ボギー台車に3つの車軸を備えた三軸台車というものが存在し、さらに四軸のものも見られる。逆に一軸台車というものもある。
通常の構造では1つの車体の下にボギー台車を2つずつ備えているが、2つの車体を連結する部分の下に台車を取り付けて車体同士の連結構造と一体化した台車もあり、連接台車と呼ばれる。曲線通過が容易になり車体の重心を下げられる、台車から車体がオーバーハングした部分がなく乗り心地がよいなどの利点があるが、車端部の構造が複雑になり1台車で支持する荷重が増大する、車両を切り離すことが容易ではないなどの問題もある。また連接車は、台車中心間隔に制約が設けられている関係で、車体長が短いものが多い。
路面電車などでは、その車体に全く車輪・車軸構造を持たずに、両側の車体によって支えられているだけの構造のものもある。これも連接車の一種とみなされる。低床式路面電車などでは、車体を下げつつ客室空間を確保する目的で、左右の車輪を車軸でつながずに独立した車輪としているものもある。
日本独自の珍しい方式としては、車体の片方にはボギー台車を装備している一方で、もう片方は固定車軸を備えている車両があり、片ボギー車(半ボギー車)と呼ばれる。
車輪と車軸を合わせて輪軸と称する。車輪と車軸は別に作られて、車軸にプレス機で400 - 500 kN程度の強い圧力を掛けて車軸より小さな取り付け穴の設けられた車輪に圧入することで車輪が車軸に固定される。車輪1枚で300 kg前後の重量があり、両側の車輪に車軸、歯車装置などを含めると1 tを超える。
ほとんどの鉄道車両の車軸には、一番外側に軸受にはめ込む軸受座があり、その内側に車輪を取り付ける輪心座がある。ただし車輪より内側部分に軸受を設置する特殊な例もある。車輪より内側には、ディスクブレーキを使用する車両ではブレーキディスクや、動力車においては駆動装置用の歯車などが設置されている。ブレーキディスクについては、車輪より外側に設置したものもある。
車輪は、一番外側のレールと接する面をリム部、車軸を差し込む部分をボス部、その間を結ぶ円盤状の部分をディスク部という。またディスク部とボス部をまとめて輪心、リム部をタイヤとも呼ぶ。輪心とタイヤを別に作り、タイヤを輪心に焼嵌めしたタイヤ付車輪と、タイヤと輪心を一体に作った一体圧延車輪がある。タイヤ付車輪は、タイヤが摩耗した時にタイヤだけ取り換えられるという利点があるが、タイヤが弛緩したり割損したりするという欠点があり、そうした心配がなく焼嵌めの熟練作業が不要で、軽量で車輪の寿命が長く、品質が安定するといった利点のある一体圧延車輪が現代の鉄道車両に広く用いられるようになっている。路面電車などでは輪心とタイヤの間にゴムなどを挟みこんで騒音低減効果を狙った弾性車輪も使用されているが、ドイツではこれを高速鉄道に使用してエシェデ事故を引き起こす大きな原因となった。車輪には一般に高炭素鋼が用いられる。
車輪の輪心にはもともとスポーク状のものが多かったが、強度を向上したディスク構造のものが増えている。ディスク状のものはそれに働く応力を考慮して、リム部が外側に、ボス部が内側になるような湾曲した形状をしていることが一般的である。これに対して電動車などでは、電動機や歯車を装荷する場所を稼ぐために逆にボス部を外側にするように湾曲した形状をしていることがあり、この場合は必要な強度を出すためにディスク部が厚くなる。両面にブレーキディスクを取り付けられるようにほぼ直線的なディスク部形状になっていることもある。また軽量化のためにディスク部を波打たせた波打車輪もある。
車輪がレールと接する面を踏面(とうめん)あるいはタイヤコンタという。踏面の形状は走行特性を決定する重要な要因である。外側に行くにつれて半径が小さくなる円錐状をしているが、実際の踏面形状はさらに複雑に定められている。車両が曲線に入ると、曲線外側の車輪はより車輪内側の半径の大きな部分がレールに接触するようになり、一方曲線内側の車輪はより車輪外側の半径の小さな部分がレールに接触するようになる。すると、曲線外側の車輪の方が曲線内側の車輪よりも1回転で進む距離が長くなり、自然に曲線内側へ曲がっていくような運動をすることになる。これにより車輪には、直線路ではレールの中央に沿って、また曲線では曲線に沿って走ろうとする力が働く。タイヤが摩耗してくると円滑な走行が阻害されるため、削正を行って正しい踏面形状に戻す保守作業が行われている。踏面形状は、脱線への耐性が高く、走行安定性に優れ、摩耗が少なく検査の手間がかからないことが求められるが、しばしば条件が相反する難しいものとなる。踏面の円錐形の傾きを踏面勾配と呼び、大きいほど曲線を通過しやすくなるが、直線において蛇行動が発生しやすくなるという問題がある。
車輪の一番内側にはフランジが設けられており、脱線を防ぐ働きをする。国際鉄道連合 (UIC) が定める標準踏面形状では、フランジの高さは27 mm、角度は59度とされている。フランジ角度を大きくするほど脱線を防ぐ効果が大きいが、摩耗時の削正量が増大し、車輪の交換間隔が短くなって不経済であるという問題がある。新幹線では脱線防止を重視して角度を70度としている。
軸受は車軸を収めて車体の荷重を車軸に伝える装置である。一般に軸箱と呼ばれる箱に組み込まれている。かつては平軸受が多く使われていたが、軸受側にも回転するコロ状の装置を取り付けたコロ軸受が一般的となった。円錐コロ軸受では、車軸が軸受に対して軸方向に移動することが全くできないが、円筒コロ軸受ではわずかに軸方向の移動を許容している。軸方向の移動は末端のスラスト受によって受け止められる。
軸箱の前後左右上下への多少の動きを許容するようにしながら、台車枠(二軸車の場合は車体)に対して支える構造のことを軸箱支持装置と呼ぶ。右図に示したのは、二軸車で多く使われている二段リンク式の懸架装置である。中央の青い箱状の構造が軸箱である。軸箱は前後左右に移動することができないように軸箱守(じくばこもり)で固定されており、図では軸箱の両側のグレーの構造が軸箱守である。これに対して上下方向へは、動揺を吸収して安定して走行し乗り心地を改善するために、ばねを設けて軸箱が動くことを許容する仕組みになっている。軸箱の上下方向の動きを許容し荷重を伝えるばねを軸ばねといい、図では黄色い板ばねになっている。
例として示したのは軸箱守式の軸箱支持装置であるが、このほかに円筒案内式、軸梁式、板ばね式、リンクアーム式、ゴム式など各種の方式がある。
台車枠は、台車全体の構造を形成している枠組みで、車体支持装置を通じて上部に車体を載せ、軸箱支持装置を通じて下部に軸受・輪軸を備えて、車体の重量を輪軸へ伝達する役割をしている。基礎ブレーキ装置を搭載してブレーキ機構を形成している。また動力台車の場合、動力に関する機構も台車枠に装荷される。
車体支持装置は、台車の回転を許容しながら車体の荷重を支えるための機構である。ボルスタつき台車の場合は、揺れ枕の機構を用いて左右方向の動揺を吸収緩和しながら、枕ばねの機構により上下動を吸収している。車体と台車の間の回転は、枕ばりと台車の間で行われる機構になっている。一方、揺れ枕の機構を廃して空気ばねにより荷重を支えながらばねの変位により回転に対処するボルスタレス台車が増加しつつある。
動力機構で発生させた動力を車輪に伝達する機構は様々なものがある。
電気車では電車でも電気機関車でも一般的にはモーターが台車に装荷されている。ただしTGVのように車体側に装荷されているものもある。吊り掛け駆動方式の場合は、台車枠と車軸の間にモーターが掛け渡されている構造になっており、一方カルダン駆動方式の場合はモーターは台車枠側に固定して装荷され、そこからカルダンジョイントを通じて車軸を駆動している。他にクイル式駆動方式、モーターの回転軸が直接車軸になっているダイレクトドライブ方式などの例もあり、また初期にはクランクを使って車輪を駆動する方式も見られた。
内燃車では動車でも機関車でも、車体側にエンジンと変速機が搭載されており、そこからドライブシャフトで台車枠に装荷された減速機を駆動して、減速機が車軸を駆動している。ただし電気式の場合は発電してその電力で電気車と同様の機構を駆動する。
蒸気機関車では、クランクで車輪を駆動する方式が大半である。しかしギアードロコのように歯車を介して車輪を駆動する方式もある。
鉄道車両のブレーキは大別して車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)で作用する粘着ブレーキと、それ以外の非粘着ブレーキがある。
粘着ブレーキの中でも機械式のものは、人力あるいは機械力によるものがある。機械力は、蒸気ブレーキ、真空ブレーキ、空気ブレーキ、油圧ブレーキなどの各種がある。いずれもブレーキシリンダーを動力源として制輪子を動かして車輪の回転を止める仕組みになっている。制輪子を当てる先が車輪の踏面のものが踏面ブレーキ、ブレーキディスクのものがディスクブレーキである。ブレーキシリンダーから制輪子を動かすまでの機構は基礎ブレーキ装置と呼ばれ、台車(固定車軸の車両は車体)に装荷されている。制輪子としては昔から鋳鉄制輪子が用いられてきたが、近年ではレジンなど合成材料を用いることもある。
これ以外の粘着ブレーキとしては、電気車では発電ブレーキや回生ブレーキなどのモーターを発電機として使用して制動力を得るものがあり、また内燃車ではエンジンブレーキのように原動機の回転力を利用したもの、変速機で発熱損失を利用して制動力を得るリターダなどがある。
非粘着ブレーキには、電磁吸着ブレーキ、渦電流式レールブレーキなどの種類がある。
車体傾斜台車は、曲線において車体を台車に対して傾ける機構を備えていて、遠心力による乗客の乗り心地への影響を低減することで、曲線の高速走行を可能にする台車である。日本の在来線ではコロ機構により車体を支えて、必要な時に回転させる振り子方式が主流で、カーブ走行時の遠心力で受動的に車体を傾ける自然振り子式と、油圧や空気圧などのアクチュエータなどを用いて強制的に車体を傾ける強制車体傾斜式がある。
自己操舵台車は、安定性を保ちながら曲線に沿って舵を取って曲がる台車で、複数の方式が研究されている。軸箱支持装置の工夫で、曲線に沿って車輪の向きを変えられるようにする技術があり、リンクで結合してステアリングを実現するシェッフェル台車や油圧により同様の動作を実現する機構などがある。
電気車では、集電装置から電力を取り入れて、制御器により所望の電圧・周波数などに変換して電動機を駆動している。
集電装置は、現代では多くがパンタグラフであり、屋根の上に装備されている。避雷器と断路器を通って車内の回路に電流が流れる。第三軌条方式では集電靴から電力を取り込む。
直流車の場合は、この電力を運転台からの指令に応じて抵抗制御、電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御、VVVFインバータ制御などの各種の制御方式により必要とされる電圧・電流・周波数に変換する。交直車は直流区間では直流車と同じで、交流区間では主変圧器で電圧を落としてから整流器を通して直流に変換し、直流時と同じ回路につなぐ。交流車ではタップ切替制御やサイリスタ位相制御などにより電圧・電流・周波数の変換を行っている。
制御器で変換された電力は電動機に供給され、電動機が車軸を駆動している。
内燃車では、搭載された内燃機関により回転力を得る。電気式ではこの回転で発電機を駆動し、得た電力により電気車と同様の制御を行っている。機械式では歯車式の変速機により、液体式ではトルクコンバータにより変速して、推進軸により台車に装荷された減速機を駆動し、減速機が車軸を駆動している。
鉄道車両は、鉱山の輸送などに用いるために考えられたトロッコが出発点となっている。その後、蒸気機関車が発明されるとともに近代的な輸送機関として発展するようになった。初期の客車は馬車の延長線であったが、やがて大型化と高速化のために台車を用いたボギー車が発達した。19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、電気を動力とする鉄道車両と、内燃機関を動力とする鉄道車両が開発されて、次第に普及していった。第二次世界大戦後には各国で蒸気機関車は電気・ディーゼル動力へ置き換えられていった。また動力分散方式が広く普及するようになり、高速鉄道も開発されるに至った。
鉄道車両には、その種類や使用目的を示すために形式が与えられる。一般的に形式は、アルファベット、カナ、数字などを組み合わせた文字列で構成されている。形式の与え方は鉄道事業者によって様々であり、統一されたものはない。さらに個別の車両には製造番号が与えられ、形式と製造番号を合わせて車両称号と呼ぶ。車両称号は、各車両に必ず表記されることになっている。
車両に与えられる称号は記号や番号に限らず、固有の名前として与えられることがある。特に初期のイギリスの鉄道などでは固有の名前だけで車両が区別されていた頃があった。やがて車両の数が増えるにつれて番号による管理が一般的となっていったが、番号とは別に固有名詞を与える例も多かった。蒸気機関車で、形式全体を表す愛称と、個別の機関車の愛称が付けられていた例もあった。
設計が多少変更されたが別形式にするほどではない場合には、番台分けが行われることがある。これは車両個別を区別するための番号について、途中を飛ばして100番からなどきりのよいところから次の番号を与えることで区別するものである。
国鉄・JRについては国鉄の車両形式・JRの車両形式で形式の与え方が説明されている。日本の私鉄についてはそれぞれの会社記事の中で説明されている。
また、編成単位に編成番号を表示している事業者もある。これは編成を構成している個別の車両の番号とは別個に、編成全体を識別するために与えられている番号である。ドイツのICEのように編成に固有名を与えている例もある。
鉄道車両は、列車として使用する際に単独ないしは2両以上組み合わせて使用される。その際の使用車両の組み合わせを編成という。1両のみで運行される場合、「1両編成」または「単行」、「単機」(機関車の場合、単行機関車の略)という。
編成を構成する際には、必要な輸送力を想定して両数を決定し、動力車の配置や電源の容量などの技術的な必要性を考慮する。サービス面では、グリーン車のような優等車の必要性、食堂車やラウンジカーなどのサービス設備の配置、トイレの数などを考慮する。
編成のうち、輸送力が最小時の必要両数で組成された部分を基本編成、輸送力増強のための増結編成を付属編成と言う。また、列車全体を単位として電源やサービス設備を設計する手法を固定編成と言う。固定編成の場合、走行に必要な機器を編成中の各車両に分散配置することが普通で、その場合単独で走行することができない車両が生じることになる。
これらを運転中に編成落とし(列車の増結、解結)をしたり、分離運転(多層建て列車)したりする。
鉄道車両の塗装は、基本的には車体の腐食防止を目的として実施される。このため本来は1色塗りで十分であり、古い時代の車両では汚れが目立たない塗装として黒や茶の1色塗りが広く用いられていた。ステンレス鋼やアルミニウム合金などの錆びることのない材料が車体に使用されるようになると、腐食防止を目的とした塗装の必要はなくなった。塗装にはそのための設備が必要とされ、年月とともに塗幕が劣化していき再塗装が必要となって経費がかかることや、塗料に有機溶剤が含まれていて作業者の健康管理上の問題があることなどから、無塗装化は鉄道会社の経営的には歓迎されるものである。
一方で、複数の色で塗り分けたり、明るく鮮烈な色を用いた塗装を施したりするのは、外観のデザイン性を意識したものである。特に優等車両では、錆びることのない材料を車体に使用していても意匠上の理由で塗装を実施することがある。また路線や列車の識別を狙って、路線ごとに異なる色を採用する(ラインカラー)例もある。ステンレス車体の車両などでは、ラインカラーのような識別を目的とした塗装の代わりに帯状のステッカーやフィルムの貼付で代えることがある。これにより、それまでの塗装では困難であった多色の使用などが可能となった。またこうした技術を利用して車体全体に広告などを実施したラッピング車両が実現された。
車両の導入には鉄道会社の資産となる購入、リース会社に費用を支払って使用するリースなどがある。過去には信託車両による導入もされていた。
公共企業体である日本国有鉄道(国鉄)の予算は、国会で予算の承認が必要である。そのため、車両導入の予算区分には独特の用語が使用されている。
鉄道車両の新規の製造のための企画は、新規の路線開業・列車の増発・電化や高速化などの輸送改善に伴う置き換え、老朽化した車両の置き換えなどの理由で行われる。鉄道車両は自動車に比べて耐用年数が長く30年から40年程度使用することも珍しくないため(帳簿上の耐用年数は電車が13年、気動車が11年であるが、製造から廃車までの間に大規模な更新工事を1 - 2回行うことで耐用年数を延長して使用することが通常である)、長期的な計画に基づいて新造計画が立てられる。
必要となる車両数は、投入を予定している路線の列車ダイヤや既存の車両の廃車の進行予定を検討しながら決定される。鉄道車両メーカーの生産能力は限られているため一度に大量生産することはできず、複数年にわたって継続的に発注が行われることが一般的である。短期間に大量に生産すると製造単価を引き下げることができるが、その車両の更新時期が一度にやってくるという問題もある。
どのような車両を製造するかは、その車両の用途、輸送改善の必要性、鉄道会社のイメージアップ、経営の合理化など様々な要素を考慮して決定される。特急列車用のような看板車両では性能とともにイメージアップの要素に注意が払われ、通勤列車用の車両ではコストダウンに重点が置かれる。特殊な設計の車両を少数導入することは新製・保守の費用の点から好ましくなく、同じ設計の車両をある程度まとまった数導入できるように考慮する必要がある。費用の削減をより推し進めるために、鉄道会社やメーカーを越えてできるだけ共通化した設計を導入する、標準化・規格化の動きもある。
どのような車両を新製するかの方針が決まると、具体的な設計が行われる。誰が設計を行うかは国や鉄道事業者に応じて、また時代によっても異なっている。
鉄道の始まった初期には車両メーカーと鉄道事業者は未分化で、鉄道事業者自体が新製車両の設計を行い部内の工場で製作していた。とくにイギリスの鉄道は、部内の工場で設計から製造まで一貫して行うことが主流であった。鉄道事業者内部で設計・製造を担当する最高責任者は多くの事業者で技師長 (Chief Mechanical Engineer)、あるいは機関車(汽車)監察方(総監督) (Locomotive Superintendant) と呼ばれ、技師長が責任を負って機関車の設計・製造を監督していた。
一方、鉄道会社とは独立した鉄道車両メーカーも存在する。この場合設計を行うのは鉄道車両メーカーである場合と、鉄道事業者である場合がある。日本やドイツなどでは、鉄道事業者が車両メーカーと共同で設計を行い発注することで、少数の形式を量産する形態を採用していた。アメリカでは、蒸気機関車の時代には鉄道会社が設計したものを車両メーカーに発注して製造させていたが、ディーゼル機関車の時代になるとメーカーが設計したラインナップから選択する形となった。イギリスやフランスなどではディーゼル機関車の時代になると、メーカーが設計したものを購入していたため、多くの形式が見られるようになった。
既に製造されている車両のマイナーチェンジ程度であれば、比較的速く設計から製造に移ることができる。全くの新形式を1から設計する場合には1年半程度の設計・試作期間を費やし、その後1年程度試作車両の試運転で問題点の洗い出しをし、さらに1年程度費やして修正設計と量産化というスケジュールが一般的である。機関車の場合で、1形式につき2,000枚を超える図面が作られる。
鉄道車両は複雑な構成をしているため、車両のすべてをメーカーで直接製造することはなく多くの部品を部品メーカーから購入して取り付ける。時には廃車・解体された車両から取り外された部品を転用することもあり、そうした車両から回収された部品のことを「廃車発生品」と呼ぶ。車両価格のおよそ半分が部品購入費である。
鉄道車両の製作に要する時間は車種によって異なり、設計が完了した後、機関車で8か月程度、電車・気動車で6か月程度、客貨車で3か月程度とされている。鉄道車両の製造は自動車のように同じ車両を量産するわけではなく、様々に仕様の異なる車両を造り分ける多品種少量生産を特徴としている。またアメリカにおけるディーゼル機関車のような例を除けば、基本的に受注生産である。こうしたこともあり製造に関する作業の自動化は容易ではなく、組み立て工程の多くは現代においても労働集約的な作業となっている。
多くの国で鉄道事業者と車両メーカー・部品メーカーは強い関係があり、技術開発や使用実績のフィードバックなどで協力関係にある。国内産業保護のために国外の車両メーカーに発注する際にも国内での最終組み立てを義務付けたり、部品の購入を義務付けたりする。
完成した鉄道車両は、メーカーの工場から実際に使用される場所(ベースとなる車両基地)まで車両輸送が行われる。車両には車輪が付いていることもあり、線路がつながっていれば機関車で牽引して輸送することがある。他に、線路を自力で走行していく事例もあれば、トレーラーや船などによる輸送も行われる。空輸された事例もある。
投入される路線に到着した新しい車両は、入念な検査と試運転が行われる。近年の車両ではインバータなどの機器から出る電磁波によって他の装置が誘導障害を起こすことがあるため、車載機器と線路側の機器の相互運用性が慎重に確認される。
並行して、その路線を担当している運転士や車掌をはじめとする乗務員の新型車両に対する訓練も行われる。
試運転や訓練が完了して使用可能になった鉄道車両は運用に投入されることで実際の営業運転での使用が開始される。
鉄道運行計画では、車両運用という形で車両の使用計画が立てられている。「A駅からC駅まで運行した後折り返しB駅まで走る」というような計画が立てられており、そうした計画に対して実際のどの編成を充当するかが決められている。車両が1日に走行する距離は、電気機関車で約400 km、電車や気動車で約500 km、新幹線のような高速鉄道で約1,200 kmとされている。
運用に就いている間、鉄道車両は定期的に検査を受けることになる。初期には劣化の進行を監視して、修理が必要になった時に取り換える方式であったが、結果的に故障してから取り換えることも多く、事後保守方式となっていた。そうした経験を積み重ねるにつれ、劣化を予測して定期的に検査を行う方式が採用されるようになり、予防保守方式となっていった。部品ごとに劣化の進行の程度と、故障した場合の重要性などを評価して検査周期を定めて実施している。保守費用は鉄道の経費に占める割合が高いために、部品の信頼性が向上するにつれて検査周期を長くする(検査回帰延伸)が実施され、経費削減に効果を上げている。
ある車両が検査に入っている間、代わりに運用に就く車両として予備車が用意されている。検査の代走だけではなく事故・故障が起きて急遽修理に回された車両の代走や、臨時列車の運行にも使用される。
大きな鉄道事業者で複数の路線・車両基地を保有している時には、路線・車両基地間で車両の転属が行われることがある。また事業者を越えて中古車両として譲渡されることもある。こうした場合には合わせて改造が行われることもある。
鉄道車両が使用されている間に、様々な改造が行われることがある。腐蝕した部品の交換や内外装のリフォーム・装備する機器類の交換、中間車を先頭車に、あるいはその逆にする改造などがある。内装の更新については、アコモデーション(accommodation 接客設備という意味)改善、略してアコモ改善と呼ばれる。台車や台枠を流用して新たな車体を作り直すということもあり、車体更新と呼ばれる。なお、この際改造の元となる車両のことを「種車」(たねしゃ、たねぐるま)と呼ぶ。→ニコイチも参照。
鉄道車両の耐用年数は車種によってまちまちであるが、事故や災害などで使用不能になるケースを除くと、おおむね在来線車両で20 - 30年程度、高速運転を行う新幹線車両は十数年程度である。
鉄道車両としての登録から削除する(車籍を抜く)ことを廃車という。
車両の耐用年数を決定する要素としては、物理的命数・経済的命数・陳腐的命数の3つがある。物理的命数は、車両を構成する重要部品が物理的に使用に耐えなくなる限界を指し、主に台枠や構体の耐用年数によって決定される。経済的命数は、老朽化に伴って故障が増え、修繕費が増加して新型車両に置き換えた方が安くなる年数を指す。陳腐的命数は、時代の変化やより新型の車両の投入などにより古い車両が時代遅れになることによる耐用年数を指す。近年では陳腐的命数による耐用年数の決定が主である。
廃車になった車両は多くの場合解体処分される。解体処分には主要機器を取り外して構体を溶断・切断していく方法と、重機などにより叩き壊して解体する方法がある。1990年代以降では車体などの金属をリサイクルして新型車両に使う例もあり、また車両廃車後のリサイクル率を高められるように設計する車両もあるなど、解体後の活用法まで踏まえた指針も多くなっている。
一部の価値が認められた車両は保存鉄道で動態保存が行われたり、公園や博物館・車両基地などで静態保存が行われることもある。
(PDF) 日本の鉄道車両はこれまで、榮久庵憲司、岡部憲明、奥山清行、川西康之、黒岩保美、島秀雄、妹島和世、星晃、水戸岡鋭治、山本寛斎、若林広幸といったデザイナーによりデザインされた車両も存在する。
世界でもっとも鉄道車両生産額が大きい企業は、中国の中国中車である。21世紀初頭時点では、カナダのボンバルディア・トランスポーテーション、フランスのアルストム、ドイツのシーメンスが三大鉄道車両メーカーと称され、この3社で全体の約半分のシェアを持っていた。しかしその後の変動により、中国の中国北車と中国南車が1位と2位を占めるようになり、両社が合併して中国中車となった。一方でシーメンスは世界7位に転落した。
2012年時点での鉄道車両新車生産額は、1位中国北車(中国)、2位中国南車(中国)、3位ボンバルディア・トランスポーテーション(カナダ・ドイツ)、4位アルストム(フランス)、5位ウラルワゴンマーシュ(ロシア)、6位シュタッドラー・レール(スイス)、7位シーメンス(ドイツ)の順であった。ボンバルディアはカナダの会社であるが、鉄道車両製造部門のボンバルディア・トランスポーテーションはドイツのベルリンに本社を置いており、ヨーロッパでの従業員や売り上げの比率が高く、実質的にヨーロッパの企業である。
2000年から2004年時点での統計では、世界市場におけるシェアは首位のボンバルディアが21%、2位のアルストムが17%、3位のシーメンスが15%で、このほかにアメリカのGEトランスポーテーション・システムが7%、同じくアメリカのゼネラルモーターズ(鉄道車両製造部門は2005年にエレクトロ・モーティブ・ディーゼル (EMD) として独立)が4%、イタリアのアンサルドブレーダが4%などであった。ただしこの数値は鉄道車両以外の鉄道システム部門の数値を含んでいる。
1999年から2000年に掛けての統計では、全世界での鉄道車両生産額は約25億ユーロであった。このうち、ヨーロッパが約60%、アジア太平洋が20%、北アメリカが18%、南アメリカが2%と、鉄道車両を購入している市場の面でもヨーロッパが過半を占めている。2001年時点で、全世界に電気機関車は約2万7000両、ディーゼル機関車は約8万6000両、旅客車は約18万両、貨車は約380万両存在している。
合併や倒産で現存していないものを含む鉄道車両メーカーの一覧については、鉄道車両の製造メーカー一覧を参照。 | [
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"text": "鉄道車両(てつどうしゃりょう)は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行する車両である。",
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"text": "鉄道車両は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両である。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。日本の法規上は、本線上を列車として走行するための車両で、所定の手続きに則った車籍を有する車両である。よって、モーターカーや貨車移動機といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多く、本線上を走行する場合は線路閉鎖の手続きを行う必要がある。。",
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"text": "本項目では、一般に公開されて旅客や貨物の輸送を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。",
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"text": "鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、自動車など他の交通機関と異なっている点である。航空機や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている。",
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"text": "さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの船や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している。",
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"text": "鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される。まず大きく分けると旅客車、機関車、貨車の3つに分類することができる。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)。また、これ以外に事業用車を分類することもある。",
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"text": "旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。近年では、ハイブリッド車やEDC方式の登場により、電車と気動車双方に分類される車両も増えている。",
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"text": "郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。",
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"text": "電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によってモーターを回して走行する車両である。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する付随車が存在する。搭載している電池の電力によって走行する方式も電車であるが、架線や第三軌条など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である。一方、搭載している熱機関によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されていたが、ハイブリッド車両などの登場により電車としても気動車としても分類されるようになっている。",
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"text": "効率の良い発電所において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための変電所や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある。",
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"text": "もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に路面電車や地下鉄で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている。また、モノレール、案内軌条式鉄道(新交通システム)、トロリーバス、索道(ロープウェイ)、鋼索鉄道(ケーブルカー)、磁気浮上式鉄道なども多くは電車の範疇に含まれる。",
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"text": "日本では殆どの人口密集地で電車が普及している事から、気動車や客車を含めた鉄道車両のすべてを「電車」と呼ぶ風潮がある。",
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"text": "気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である。外燃機関である蒸気機関を動力とする車両は蒸気動車と呼ばれ、それ以外の内燃機関で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する。内燃動車において用いられる機関としてはディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどがある。現代では一般的には、大出力を容易に得られ燃費のよいディーゼルエンジンが気動車の原動機として用いられている。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ。",
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"text": "内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接車輪を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な変速機を使う場合を機械式、トルクコンバータを使う場合を液体式、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を電気式という。ただしガスタービン動車の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある。電気式以外の方式では、機関を稼働したまま車両の停止や惰行に対応するためのクラッチも必要となる。",
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"text": "気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の分割・併合を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で、製造費と維持費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対し、エンジンと変速機の重量に加え、潤滑油、冷却水、動力に変換するための燃料自体も搭載する必要から重量が大きくなり、重量あたりの性能で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "客車という言葉は、広い意味では旅客車を表すこともあるが、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する発電機を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に夜行列車などにおいて用いられる。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない。また動力装置以外に、客車に対する暖房用の蒸気発生装置を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "機関車は、その動力方式でさらに蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別できる。それ以外にも1970年代にはアメリカ(M-497)、ソビエト(高速走行実験鉄道車両(ウクライナ語版))のようなジェットエンジンによる推力を利用するターボジェット・トレインも試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車は、蒸気機関を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車はレシプロ式で、ピストンの往復運動をクランクで車輪の回転運動に変換して走行していた。このほかに蒸気タービン式や、発電してモーターで走行するものなどがあった。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "一般には燃料として石炭を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、コークス、木材、重油、泥炭などが用いられることもある。またサトウキビの生産が盛んな地方では、その絞りかすのバガスを燃料にしたり、変わったものとしてスイスにはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた。原子炉で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "無火機関車は、鉱山や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置したボイラーからの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、熱効率が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、第二次世界大戦後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった。主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、蓄電池を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、ロシア、中華人民共和国では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、北アメリカやオーストラリアなどでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、ディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "貨車は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、JR貨物M250系電車のように動力分散方式の貨車も開発されてきている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、入換作業に手間が掛かるといった問題があった。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これに対して、フォークリフトのような荷役機械が開発され、第二次世界大戦後から各国でコンテナ化の動きが始まった。このためにコンテナを搭載する貨車としてコンテナ車が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "鉱山において鉱石を輸送する列車や、石油のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の石炭車・ホッパ車・タンク車などの貨車が開発されて使用されている。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "事業用車は、鉄道事業者が所有する車両のうち、直接営業目的に用いられない鉄道車両である。保線作業や工事に用いたり、事業者内部の業務に必要とされる物品を輸送したり、試験や試作の目的で造られたりといった車両がある。日本に於いては、機関車、電車、気動車、客車、貨車のいずれかに分類される。",
"title": "車種による分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両を推進する動力の配置の仕方としては、動力集中方式と動力分散方式がある。動力集中方式は、編成中の動力はすべて機関車に集中しており、それ以外の客車・貨車は機関車に牽かれて走るのみの方式である。これに対して動力分散方式では、特定の車両に動力を集中させるのではなく、編成中の各車両に分散して動力を搭載する。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "図に概念を示す。図中赤く塗られてMと書かれているのが車両が動力車で、白抜きにTと書かれているのが動力のない付随車である。動力分散方式において、動力車と付随車の割合は形式によって様々である。この割合のことをMT比といい、図の例では4M2Tと表現される。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "動力集中方式と動力分散方式の得失は以下のとおりである。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1970年代の日本国有鉄道(国鉄)において、こうした点の検討が詳しくなされ、1本の列車編成が長くなるほど動力集中方式が有利で、短くなると動力分散方式が有利であるとされた。具体的には直流電化区間では列車長11両から12両、交流電化区間では列車長9両から10両、非電化区間では列車長4両から5両のところに費用の分岐点があり、それより長い列車では動力集中方式が有利であるとした。つまり短い編成を頻繁に運行するような路線では動力分散方式が、長い編成を時々運行するような路線では動力集中方式が有利となる。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その後技術の発展で、可変電圧可変周波数制御(インバータ制御)が実用化されて保守の手間が少ない交流電動機が電車に用いられるようになり、また回生ブレーキが一般的になったため、より動力分散方式が有利になる傾向にある。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本では第二次世界大戦後から、幹線の長距離列車においても動力分散方式を推進してきた。これは地盤が弱く軸重を強化しづらい上、地形が急峻かつ複雑なため勾配・曲線が必然的に多くなるという国土において高速化を図るために選択されたものである。これに対してヨーロッパなどでは長らく動力集中方式が使われてきた。しかし近年になって動力分散方式が有利になりつつあることから、ヨーロッパにおいても動力分散方式の車両が普及する傾向にある。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "動力集中方式の車両においても、編成の両端に機関車を連結して、通常時は固定された編成で運用されるものがあり、この場合は運用形態の面ではかなり動力分散方式に近くなっている。",
"title": "動力集中方式と動力分散方式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両では、基本的な寸法と重量に規制が設けられている。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の幅と高さは、車両限界によって規定されている。車両限界は、車両の最大幅と最大高さを含めて、プラットホームとの関係などで複雑な形が定められている。これに対して、周辺の電柱や建物などの構造物を設置できる限界として、走行時の車両の動揺などを考慮した余裕を車両限界に加えた建築限界が定められている。国や鉄道会社により車両限界・建築限界は異なっている。車両が曲線を走行する際には、車体の中央部または端部(オーバーハング)が曲線の内側・外側にはみ出す(偏倚 へんい)ため、これを考慮して建築限界を広げるようになっている。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の長さは、主に曲線を走行するときに、隣の車両や建築限界に抵触しないかという観点で決定される。車両を長くすればするほど曲線での偏倚が大きくなって、あらかじめ車両限界と建築限界の間に加えてある余裕を超えて障害物に抵触してしまうため、鉄道車両を長くするのには限度がある。車体幅を細くしたり裾を絞ったりすることで、通常よりさらに車両を長くすることができ、新幹線の先頭車両が中間車両より長いのはこのためである。車両の長さとしては車体そのものの長さである車体長と、隣の車両の連結器と接触する面の間の距離である連結面間距離がある。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、車両を支えている輪軸の間隔である軸距(ホイールベース)にも制約がある。隣接する輪軸の間があまりに狭いと走行安定性に問題があることから、軸距の下限が定められている。一方輪軸を備えて車体に対して回転する台車に関しても、その中心間の距離である台車中心間距離があまり長すぎると、曲線での車体の偏倚が大きくなるため問題がある。また信号回路の動作にも影響があるため、軸距または台車中心間距離の上限も定められている。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の重量は、その車両が走行する路線の設計荷重と関係する。鉄道車両の重量をその車軸の数で割った値を軸重と呼び、この値が走行することのできる路線を決定する。線路を設計する時点で、そこを通行する鉄道車両の軸重を活荷重という形で想定して建設される。線路には線路等級が定められており、重要な路線ほど重い車両を通行させることができるように建設されている。このため、通行することを想定している路線が許容する軸重に収まるように車両を設計する必要がある。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "機関車では、牽引性能を発揮するためにある程度の軸重を必要としている。幹線用に造られた軸重の大きな機関車を支線用に転用する際に、重量を負担する車軸を追加して軸重を下げる改造を行うことがある。また、国鉄DD51形ディーゼル機関車は動力のない中間台車に空気ばねを装備しており、この圧力を変化させることで負担する重量を変え、動軸の軸重を上げたり下げたりすることができるようになっている。",
"title": "寸法と重量"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の構造を上回り(車体)と下回り(走り装置)、動力機構に分けて説明する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "たいていの鉄道車両では、車体はほぼ箱状の構造をしている。なおそのうち構体は、台枠・骨組・外板などで構成され車体の強度を担う部分であり、座席などの室内設備、照明、制御機器などは含まない。床面は台枠、進行方向前後は妻構、左右は側構、上面は屋根構という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "車体は古くはすべて木造であったが、腐蝕の問題などから順次鋼製部品への移行が進められた。この時代は、車体の荷重のすべてを台枠で負担するため、トラス棒を設けたり魚腹形の側梁を用いたりした頑丈な構造の台枠を採用していた。事故発生時の木造車体の粉砕が犠牲者を多くすることが問題とされ、やがて車体全体が鋼製のものへと発展していった。鋼製車体の中でも、半鋼製ともいうべき側構や妻構のみが鋼製で屋根は木造のものから、全鋼製のものへと移り変わっている。この際に車体の基本構造は変えなかったので、台枠は相変わらず非常に頑丈な構造で設計され、車体の他の部分が金属になったことに伴う重量増加は大きな問題となった。また、溶接技術が未発達な頃の鋼製車はリベット接合であった。やがて車体全体で強度を分担して受け持つモノコック構造(張殻構造)が用いられるようになり、車体は大幅に軽量化された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "鋼製の車体は腐食の問題があり、錆が発生しないステンレス鋼を材料として使用することが検討された。まず、車体の骨組みは鋼製として外板をステンレスにしたセミステンレス車両が開発された。続いて車体すべてをステンレスで製造したオールステンレス車両が開発された。ステンレスの溶接には当初はスポット溶接、後にはレーザー溶接が用いられている。また腰板や幕板部の歪みを目立たなくするためにコルゲートのついた外板を使用するのが一般的であったが、技術の進歩によりビード加工で済ませるようになり、さらに新しいものは平滑な外板を使用するようになっている。ステンレスの外板を使用した車体は、錆を防ぐための塗装を省略することができるようになり、今日見られるような銀色の車両となった。ステンレス鋼は、鋼製車体に用いられる炭素鋼と比較して約1.5倍の引っ張り強さがあり、これに加えて鋼製車体のように腐食の進行を想定して「腐蝕しろ」(さびしろ)と呼ばれる余分の強度を持たせる必要がなくなったことから軽量化が図られた。さらに高張力ステンレス鋼の採用や構造解析による設計技術の進歩があって軽量化が進行している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "錆が発生しない材料としてはアルミニウム合金もあり、アルミニウム合金製の鉄道車両も開発された。当初は骨組に外板を貼り付ける工法であったが、やがて大形押出成形材を利用したシングルスキン構造やダブルスキン構造が開発され、ミグ溶接、摩擦攪拌接合、レーザーミグハイブリッド溶接などにより接合されている。500系新幹線ではハニカム構造により軽量化が図られている。アルミニウム製の車両はステンレス車両と同様に塗装を省略できるほか、アルミニウム自体が軽量な素材であるため、必要な強度を保つために外板を厚くしたとしても車体の軽量化を実現できる。また、アルミニウム車体はリサイクルしやすく、車体を解体して出たアルミニウムを再び鉄道車両に使用する試みが行われている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "車体の素材としては他に繊維強化プラスチック (FRP) を一部の複雑な形状の部分に用いている例がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "台枠は、車体の一番基本となる構造である。車体全体の強度を受け持ち、台車や車軸に重量を伝える役割をしている。また連結運転の際には、隣の車両との間での力の伝達も行う。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "車両の前後の端に横方向に設けられている梁のことを端梁という。連結器はこの端梁に取り付けられるため、大きな荷重に耐える強度が必要とされる。車両の左右に車体全長に渡って設けられている梁は側梁と呼ばれる。両側の側梁の間に横方向に渡されている梁は横梁で、これがいくつも並んで台枠全体としては上から見るとはしご状の構造になっている。台車や車軸の真上に当たる部分には、枕梁が置かれている。また端梁中央から車体中央方向へ枕梁の位置まで中梁が延びている。この端梁から枕梁までの範囲を端台枠と呼び、この部分だけはステンレス車両であっても鋼製の連続溶接で組み立てるのが普通である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "かつては台枠と側構でほとんどの強度を受け持ち、車体の他の部分はその部分で必要とされるだけの強度で作る方式であった。しかし軽量化のために、車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つモノコック構造(応力外皮構造)が後に主流となった。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車では、台枠は板台枠と棒台枠の2種類に大きく分けられ、これが車輪により支えられまたボイラーなどの上部構造を載せる仕組みとなっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "貨車でも有蓋車や無蓋車などたいていの車両では台枠があり、重量を受け持っている。コンテナ車の場合、コンテナの重量のほとんどは側梁にかかるため、側梁が強度を主に負担しており、このために魚腹形の側梁となっている。タンク車では台枠のないフレームレス構造のものがあり、この場合タンク体全体で強度を受け持っている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "台枠の上面は床を構成し、座席やその他の車内設備を設置するとともに、旅客や貨物の荷重を負担する。床面は、単に鋼材に敷物を貼っただけの鋼板床のほか、優等車などでは遮音性に優れた、波形鋼板(キーストンプレート)の上にポリウレタンフォームやユニテックスを充填して敷物を貼りつけた構造などが使われる。また下面には、横梁に床下機器が吊り下げられる。軸受あるいは台車の心皿などの重量を支える構造は枕梁に力を伝達するようになっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "側構は、鉄道車両の左右部分である。近代的なモノコック構造の車両では、台枠と一体となって強度を負担している。窓より下の外板を腰板、窓より上の外板を幕板という。かつては側構の窓部分の開口による強度不足を補うために、ウィンドウ・シル/ヘッダーという帯状の補強構造物が窓の上と下に取り付けられていた。ビードやコルゲートといった表面加工が見られる車両もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "妻構は、鉄道車両の前後部分である。車体の端を垂直に切り落としたような構造の場合を切妻といい、そのうち両側を削った構造の場合を折妻といい、それ以外の場合曲面妻という。構体両端部を閉じる構造を形成して強度上重要な部分を受け持っている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "隣接車両と連結して旅客や乗務員の通り抜けが必要とされる場合には、中央部に貫通路が設けられる。また先頭車や機関車の場合は、窓を構成してフロントガラスをはめ込み運転台とする。貫通路と運転台を両立した貫通運転台構造もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "特急用の車両の場合などは、先頭部分の形状は特に外観を重要視して設計することがあり、複雑な形状となる。高い位置に運転台を設置する高運転台構造は、視認性をよくし、踏切事故などでの運転士への危険を防ぐなどの目的がある。高速車両などでは流線形が採用されることもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "運転台がある場合には、前部標識灯、後部標識灯、ワイパーなどが設置される。貫通路がある場合は貫通幌などが設置される。また貫通路のある中間車の場合は貫通路の両側に妻窓が設けられることがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "屋根構は、車両の天井・屋根部分を構成している。前後方向に長桁が、左右方向には垂木が骨組みとして組み込まれている。冷房付きの車両では、室外機を屋根の上に搭載することが一般的で、これは重量が大きいため設置位置をあらかじめ検討してその重量に耐えるだけの強度構造とする。また、冷房は車内と車外を貫通して取り付けることが多いため、その場合は大きな開口部を設置することになり、この点でも強度上の配慮が必要となる。この他、車内側の天井や冷房風道、照明の灯具、車両補修の作業者が屋根の上を歩くときに使うランボード、雨水が垂れることを防ぐ雨どいなどが設置される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "機関車や電車・気動車の先頭車両などには、機関士・運転士が運転を行うための運転台(運転室)が設けられる。一般に妻面に設置されるが、機関車の中には機器の配置の都合でセンターキャブと呼ばれる車体中央付近に運転台を配置した構成も見られる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "運転台は、車両の全幅に渡って設置される場合と、半分ほどの幅になっている場合がある。運転室は運転士が乗務するだけでなく、車掌やその他の客室乗務員などが乗務するスペースともなる。貫通式の運転台と呼ばれるものは、運転台の位置が列車の先頭や末端ではなく他の車両と連結されて中間になった時に、旅客や乗務員が車両間を移動できるように中央部に貫通路を設けることができる構成になっているものである。貫通路を設置できない運転台は非貫通運転台という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "実際に運転士が座る席は、車体中央に設置される場合と、左右どちらかに偏って設置されている場合がある。自動車ではそれぞれの国の道路の進行方向に応じて、左側通行の国では右側に運転手席を配置するのが一般的であるが、鉄道の場合は進行区分との関係は必ずしもなく、左側通行が原則の日本では信号機が左側に立てられていることが多いことから、信号機を見やすい左側に席を配置することが多い。タブレット閉塞の区間ではタブレットの取り扱いに便利な側に設置したり、ワンマン運転を前提にプラットホームのある側に配置したりする例がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "自動車のアクセルに相当するのは主幹制御器(マスター・コントローラー、マスコン、路面電車など直接制御の車両の場合は直接制御器(ダイレクトコントローラー))である。自動車と違い手で操作する。縦方向の軸を中心に水平に回転させて操作するものと、横方向の軸を中心に垂直に回転させて操作するものがある。また、ブレーキハンドルと一体化したワンハンドルマスコンもある。ワンハンドルマスコンにおいては、押して走らせるものと引いて走らせるものとの両方がある。マスコンを左手で操作するか右手で操作するかは同じ鉄道事業者の中でも統一されておらず、車種によって様々である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ブレーキを操作するのはブレーキハンドルであり、これも手で操作する。機関車では、機関車のみに作用する単弁(単独ブレーキ弁)と列車全体に作用する自弁(自動ブレーキ弁)が別々に存在する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "このほかに、警笛を鳴らすペダル、ATSに代表される自動列車保安装置の取り扱い装置、前灯やワイパーのスイッチ、速度計、圧力計、電圧計、各種の状態表示ランプ、列車無線の送受話器、時刻表差し、車内放送のマイク、車掌スイッチなどが設置されている。最近の車両では、モニタを運転台に設置して車両の状態を表示し、またタッチパネル式の入力装置により簡単な点検作業や車内の空調温度設定など様々な作業が運転台からできるようにされている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "運転台は前面衝突の際に最初に巻き込まれる場所であるので、運転士の保護に配慮した設計がなされる。主に想定される衝突事故は踏切における障害物との衝突であり、前頭部はその衝突に耐えられるように強化されている。また運転士の座る位置を高くすることで、車体下部に障害物を巻き込んだ際の影響を抑えている。クラッシャブルゾーンを設けて衝撃を吸収する構造になっているものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "運転台はすべての車両に設置されているわけではない。機関車のほとんどには両端に運転台が設置されているが、センターキャブの機関車では両側へ進行するときに兼用される運転台が中央に1つ設置されている。また、主に北アメリカではBユニット(あるいはブースター)と呼ばれる運転台を持たない機関車が用いられており、これは運転台を備えているAユニットと連結してそこから制御されることを前提にしている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "電車は、その形式が長編成を組むことを前提にしている場合には、中間車として設計された車両には運転台が設けられない。これは気動車も同様であるが、長編成を組むような路線では電車が用いられることが多く、気動車が投入される路線では編成が短いこともあり、中間車として運転台を持たずに設計・製造される気動車の数は電車に比べて少ない。運転台を設けた車両を制御車、設けていない車両を中間車という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "客車は動力がないため運転台も設置されないのが普通であるが、機関車を末端に連結して列車全体を後押しする形で運転する時に、先頭部の客車に設けた運転台から運転する形態があり、その場合には運転台が設置される。そうした客車を制御客車という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1両の車両の両端に運転台が設けられている場合を両運転台、片方にだけ設けられている場合を片運転台という。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の扉は、側構に設けられた外部に直接出る扉のほかに、車内を区切るために設けられた扉や、連結されている隣の車両に移るところに設けられた貫通扉などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "引戸は扉が横にスライドして開閉する構造であり、広く用いられている。側構の内部に戸袋を設けて、そこに引き込む形で開閉される。2枚の扉が両側に開く両開き扉と、1枚の扉が片側にだけ開く片開き扉があり、通勤列車のように短時間に多人数の乗降を必要としている車両では両開きが広く用いられる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "吊戸は側構の外部で扉を吊って、横にスライドして開閉する構造である。引戸と異なり、側構内部に戸袋を設ける必要がなく側構を薄くでき、強度上有利などの利点があるが、プラットホーム混雑時に乗客に危険があるとの懸念がある。日本では使用例が少ないが、それ以外ではかなり見られる方式である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "開戸は蝶番によって壁に取り付けられ、蝶番を支点として回転することにより開く構造である。内側に開くものと外側に開くものがあるが、外側に開くものはホームにいる旅客に扉が衝突する危険があり、あまり用いられなくなった。初期の客車ではコンパートメント式で、車外側に開く開戸が一般的であった。内側に開くものは、乗務員用の扉に広く見られる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "折戸は、2枚の扉が蝶番でつながっており、折り畳まれる形で開く扉である。2枚で構成される片開きのもののほか、これを2組設置して両側に開く4枚折戸もある。車体強度上不利な戸袋を設ける必要がなく、広い開口面積を確保できるため、一部の車両で用いられている。ただし開戸同様に扉の動作域があって乗客を巻き込む恐れがあるという問題のほか、気密性を確保しづらく寒冷地での使用が難しい。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "プラグドアは、扉がいったん外側または内側に動いた後、車体と平行にスライドして開く構造で、複雑な機構のため高価であるが、外板と扉部分が平坦になり見た目がよくなるとともに、高速鉄道では空気抵抗の削減を期待できる。ヨーロッパではLRTでも広く用いられている。外側スライド式では戸袋を必要としないという長所もある。ただしプラグドアは上述したように、動作機構が複雑であるため高価であるという問題がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "この他に、荷物車にシャッター式の上下に動かして開閉する扉が用いられた例がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1両の車両の片側の側面にある扉の数は、0個から6個程度である。食堂車など、外部から直接乗車することを想定していない車両では扉を設置しないことがある。一方で通勤用の車両では迅速な乗降のために扉の数を増やす傾向にある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "古い時代の鉄道車両では、そもそも扉がなくオープンデッキのスタイルのものがあった。そうしたものでも、高速化するにつれて柵を付けるようになり、やがて扉が付けられるようになった。この扉の開閉は古くは手動であったが、乗降時間の短縮や駅員・乗務員の労力軽減、安全性の向上といった目的で自動化が行われるようになった。車掌または運転士の取り扱う車掌スイッチにより一斉に開閉される。扉を開閉するのはドアエンジンにより、空気圧式のものと電気式のものがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "車内の温度維持等の目的で、すべての車両の扉を同時に開閉させるのではなく、旅客が乗降する時に必要とされる扉のみを旅客の意思で開けられるようになっているものがある。乗客が手で開けるが、機械で一斉に閉めることができる方式を半自動式という。また乗客が手作業で扉を開閉するのではなく、扉脇に設けられた押しボタンを操作することで開閉させられるものもある。扉の数が多い通勤車両などで長時間停車時の車内温度維持の目的で、大半の扉を閉めて一部のみ開けて残す機構を備えたものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "自動ドアでも、事故等の非常時に旅客が避難脱出できるように手動で開けられるようにするドアコックが付いているものがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "窓は、鉄道車両では運転台の前面、客室の両側、妻面、扉など様々な場所に付けられている。固定された構造のものと、開閉可能なものがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "運転台の前面の窓にはフロントガラスがはめ込まれており、一般に固定された構造である。ただし側面の窓を開けられるようになっているものもある。また、乗務員用扉に取り付けられている窓は一般に開閉可能である。運転台と客室またはデッキを区切る壁にも窓が設置されていることがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "客室では側面に窓が設置されている。固定式のもの、一段上昇式のもの、一段下降式のもの、二段に分かれていてそれぞれが上昇、あるいは下降するもの、内側に傾いて開くもの、引き違いで横にスライドして開くものなどがある。戸袋にも固定式の窓が設置されていることがある。妻面にも窓を設置することがある。また、扉自体に設置されていることもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "窓ガラスとしては強化ガラスや合わせガラスが用いられる。2枚のガラスの間に空気層を設けた複層ガラスも用いられることがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "また、多くの客室の側面窓にはカーテンなどの遮光装置が設置されている。上部から引き降ろして所定の位置で止められる巻上カーテン式、一般家庭のカーテンのように横から引っ張って閉める横引カーテン式、2枚のガラスの間にブラインドが設置されているベネシャンブラインド式、金属または木製のよろい戸を使うよろい戸式などがある。巻上カーテン式の場合、カーテンレールにある窪みに金具を引っ掛けて止めるものと、任意の位置で止められるフリーストップ式のものがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "座席の配置形態としてはロングシート、クロスシート、セミクロスシートなどがある。その鉄道車両が投入を予定されている用途に応じて車内の座席の配置の仕方は異なっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "座席の表面には難燃性モケット、ビニールレザー、平織物、皮革などが用いられている。内部にはばねを入れて、その周りにポリウレタンフォームやビニールフォーム、フェルトなどを詰め物としている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "車両の照明は、古くはオイルランプが用いられていたが、ピンチガスによる照明を経て白熱灯に変わり、現代では蛍光灯が主流となっている。また、読書灯などでLED照明が用いられることもある。一般に天井に照明器具が取り付けられ、そこに蛍光灯が取り付けられている。直接蛍光灯が露出しているタイプは通勤用車両など低コストな車両に多く、より高級な車両になると蛍光灯の周囲をカバーで覆っている。関西民鉄などでグレード感にこだわって、一般車両でもカバーを装着している例がある。一等車など特別な車両では間接照明も用いられる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "客室の直接の照明のほかに、トイレの照明や行き先表示装置の照明などもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "客室内では多人数の旅客と乗務員が過ごすため、換気に配慮して設計が行われる。強制通風式と自然通風式がある。強制通風式では送風機を設置し、吸気と排気の両方を強制的に、あるいは吸気のみ、排気のみを強制的に行う。自然通風式ではベンチレーターを屋根の上などに設置して通風を行う。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "暖房はかなり古くから多くの旅客車に装備されている。石炭や薪を車内のダルマストーブなどで焚く暖房は古くから使われていた。コンパートメント車両では温水や酢酸ナトリウムを利用した湯たんぽによる足元暖房や、車内に設置された小型ボイラーによる温水循環暖房が用いられていた。蒸気暖房は、蒸気機関車または機関車や暖房車に搭載された蒸気発生装置からの蒸気を客室内の蒸気管に通して暖めるものであるが、蒸気機関車がなくなるにつれて次第になくなっていった。電気暖房は電気式のヒーターにより車内を暖める。気動車ではエンジンの排気熱で温める温水暖房もある。また冷房が搭載されている車両ではヒートポンプ式もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "冷房は、第二次世界大戦前から装備されている車両もあったが、普及するようになったのは第二次世界大戦後のことで、通勤車両などでは1970年代からである。電力消費が大きく、電源の確保に注意を払う必要がある。機関直結式冷房装置のようにエンジンから直接圧縮機を駆動して冷房を稼動させる形式もある。車内への冷気送り出しは天井部分に設置したダクトから行われるのが一般的である。室外機の配置の仕方により、集中式、集約分散式、分散式などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "長距離列車に用いられる車両などには、トイレが設置される。扉を持った個室に便器と手洗いが設置されている。洗浄用の水はタンクに貯留されていて、必要に応じて車両基地などで補給されている。かつては便器から流された汚物は線路に垂れ流されており、これによる衛生上の問題があった。汚物を粉砕し消毒してから排出する粉砕式も試みられたが、異物を巻き込んで故障する問題が絶えず、しかも汚物を車外に排出するという方式には変わらなかったこともあり、抜本的な解決策とはならなかった。汚物をタンクに貯蔵する方式は、タンクがすぐに溢れてしまう問題があり、汚物に含まれる水分を濾過・処理して便器の水洗に再利用する仕組みが考案されてから広く普及するようになった。JRグループでは2002年3月に垂れ流し式の完全廃止を達成したが、世界的に見ればまだ垂れ流し式は多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "連結器は隣の車両と連結して編成を構成する装置である。密着連結器、自動連結器、ねじ式連結器などの各種の連結器がある。その他に、ブレーキ用の空気圧を供給するブレーキ管や、電気配線などを連結するジャンパ連結器などが車両の間で繋がれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "貫通路は車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路である。踏み板と貫通幌、貫通扉などで構成されている。貫通幌は、蛇腹状の構造のものが一般的に使われているが、太い管状のゴムを組み合わせた例もある。貫通路に扉を設けるかは車両により、設けないことで見通しをよくし開放感を演出できるが、風が吹き抜けて冬に寒くなることや、騒音の問題、そして火災時の延焼防止などの観点から貫通扉を設置することがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "また、高速鉄道などで騒音と空気抵抗の低減を狙って連結部車体全周に幌を取り付けたものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "走り装置あるいは走行装置は、鉄道車両がレール上を走行するために必要な車輪、車軸、軸受といった構造の総称である。車体と荷重を支え、レールに沿って車体を案内し、駆動装置や制動装置が発生させる駆動力・制動力を車輪と車体の間で伝達する役割を果たす。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両では、軸受が車体に固定されていてカーブに沿って向きを変えることができないものと、台車に軸受が取り付けられていて車体に対して台車が回転することでカーブに沿って向きを変えられるようになっているものがある。前者を、1両あたりの車軸が2軸の場合を二軸車、3軸の場合を三軸車といい、後者をボギー車という。ボギー車の台車にも、2軸台車、3軸台車などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ボギー車と二軸車の概念を図で示す。図の上がボギー車で、下が二軸車である。ボギー車では、台車に車軸が取り付けられているので、台車が車体に対して回転することでカーブで車輪がカーブの方向を向くことができる。一方、二軸車は車軸が車体に直接取り付けられているので回転することはない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "ボギー車では、多少の軌道の不整があっても滑らかに走行することができるという長所がある。走行性能の差から、二軸車では最高速度が低く留められており、日本では75 km/hに制限されているが、ボギー車はこれよりずっと速く走ることができる。また脱線への安全性という面で見てもボギー車の方が有利である。一方、2軸ボギー台車2つを備えた4軸の車両と二軸車では、同じ軸重での搭載量はボギー車が二軸車の2倍にできるが、車体が長くなる分車体強度を向上する必要があること、台車そのものの構造が複雑で重量がかさむことなどから、総合的な積載効率には大きな差はない。かつては、商取引の単位が小さくボギー車では輸送力が過剰であることを理由に、日本やヨーロッパの貨車は二軸車が主流であったが、輸送単位の問題はコンテナの採用で解決し、走行性能を重視して貨車でもボギー車を採用するようになってきている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車では、シリンダーからコネクティングロッドで動輪を駆動する関係で、動軸は車体に固定されていて曲線に沿って回転させることができないものが普通である。曲線での走行性能を改善するために、若干の横方向の移動を許容したり、一部の車輪のフランジを削ったりしている。一方蒸気機関車でも先輪や従輪などの動力のない車輪については台車構造が標準である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "二軸車では、車軸同士の間隔のことを固定軸距(ホイールベース)という。これに対してボギー車では、台車における車軸の間隔を固定軸距といい、台車同士の距離は台車中心間距離(ボギーセンター間距離)という。固定軸距が長くし台車の回転抵抗を大きくすると直線での直進性能がよくなるが、曲線での操向性能が悪化する。このため、両者の特性の調和を図る必要がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "二軸車のほかに三軸車というものも存在する。三軸車は曲線通過時の問題が大きく走行性能が悪いが、車両の費用や工数、消費する資材に比べて荷重を大きくできることから採用された例がある。その際には中央の軸に横動を許容するなどの対策が必要となる。またボギー車においても、ボギー台車に3つの車軸を備えた三軸台車というものが存在し、さらに四軸のものも見られる。逆に一軸台車というものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "通常の構造では1つの車体の下にボギー台車を2つずつ備えているが、2つの車体を連結する部分の下に台車を取り付けて車体同士の連結構造と一体化した台車もあり、連接台車と呼ばれる。曲線通過が容易になり車体の重心を下げられる、台車から車体がオーバーハングした部分がなく乗り心地がよいなどの利点があるが、車端部の構造が複雑になり1台車で支持する荷重が増大する、車両を切り離すことが容易ではないなどの問題もある。また連接車は、台車中心間隔に制約が設けられている関係で、車体長が短いものが多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "路面電車などでは、その車体に全く車輪・車軸構造を持たずに、両側の車体によって支えられているだけの構造のものもある。これも連接車の一種とみなされる。低床式路面電車などでは、車体を下げつつ客室空間を確保する目的で、左右の車輪を車軸でつながずに独立した車輪としているものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "日本独自の珍しい方式としては、車体の片方にはボギー台車を装備している一方で、もう片方は固定車軸を備えている車両があり、片ボギー車(半ボギー車)と呼ばれる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "車輪と車軸を合わせて輪軸と称する。車輪と車軸は別に作られて、車軸にプレス機で400 - 500 kN程度の強い圧力を掛けて車軸より小さな取り付け穴の設けられた車輪に圧入することで車輪が車軸に固定される。車輪1枚で300 kg前後の重量があり、両側の車輪に車軸、歯車装置などを含めると1 tを超える。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの鉄道車両の車軸には、一番外側に軸受にはめ込む軸受座があり、その内側に車輪を取り付ける輪心座がある。ただし車輪より内側部分に軸受を設置する特殊な例もある。車輪より内側には、ディスクブレーキを使用する車両ではブレーキディスクや、動力車においては駆動装置用の歯車などが設置されている。ブレーキディスクについては、車輪より外側に設置したものもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "車輪は、一番外側のレールと接する面をリム部、車軸を差し込む部分をボス部、その間を結ぶ円盤状の部分をディスク部という。またディスク部とボス部をまとめて輪心、リム部をタイヤとも呼ぶ。輪心とタイヤを別に作り、タイヤを輪心に焼嵌めしたタイヤ付車輪と、タイヤと輪心を一体に作った一体圧延車輪がある。タイヤ付車輪は、タイヤが摩耗した時にタイヤだけ取り換えられるという利点があるが、タイヤが弛緩したり割損したりするという欠点があり、そうした心配がなく焼嵌めの熟練作業が不要で、軽量で車輪の寿命が長く、品質が安定するといった利点のある一体圧延車輪が現代の鉄道車両に広く用いられるようになっている。路面電車などでは輪心とタイヤの間にゴムなどを挟みこんで騒音低減効果を狙った弾性車輪も使用されているが、ドイツではこれを高速鉄道に使用してエシェデ事故を引き起こす大きな原因となった。車輪には一般に高炭素鋼が用いられる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "車輪の輪心にはもともとスポーク状のものが多かったが、強度を向上したディスク構造のものが増えている。ディスク状のものはそれに働く応力を考慮して、リム部が外側に、ボス部が内側になるような湾曲した形状をしていることが一般的である。これに対して電動車などでは、電動機や歯車を装荷する場所を稼ぐために逆にボス部を外側にするように湾曲した形状をしていることがあり、この場合は必要な強度を出すためにディスク部が厚くなる。両面にブレーキディスクを取り付けられるようにほぼ直線的なディスク部形状になっていることもある。また軽量化のためにディスク部を波打たせた波打車輪もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "車輪がレールと接する面を踏面(とうめん)あるいはタイヤコンタという。踏面の形状は走行特性を決定する重要な要因である。外側に行くにつれて半径が小さくなる円錐状をしているが、実際の踏面形状はさらに複雑に定められている。車両が曲線に入ると、曲線外側の車輪はより車輪内側の半径の大きな部分がレールに接触するようになり、一方曲線内側の車輪はより車輪外側の半径の小さな部分がレールに接触するようになる。すると、曲線外側の車輪の方が曲線内側の車輪よりも1回転で進む距離が長くなり、自然に曲線内側へ曲がっていくような運動をすることになる。これにより車輪には、直線路ではレールの中央に沿って、また曲線では曲線に沿って走ろうとする力が働く。タイヤが摩耗してくると円滑な走行が阻害されるため、削正を行って正しい踏面形状に戻す保守作業が行われている。踏面形状は、脱線への耐性が高く、走行安定性に優れ、摩耗が少なく検査の手間がかからないことが求められるが、しばしば条件が相反する難しいものとなる。踏面の円錐形の傾きを踏面勾配と呼び、大きいほど曲線を通過しやすくなるが、直線において蛇行動が発生しやすくなるという問題がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "車輪の一番内側にはフランジが設けられており、脱線を防ぐ働きをする。国際鉄道連合 (UIC) が定める標準踏面形状では、フランジの高さは27 mm、角度は59度とされている。フランジ角度を大きくするほど脱線を防ぐ効果が大きいが、摩耗時の削正量が増大し、車輪の交換間隔が短くなって不経済であるという問題がある。新幹線では脱線防止を重視して角度を70度としている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "軸受は車軸を収めて車体の荷重を車軸に伝える装置である。一般に軸箱と呼ばれる箱に組み込まれている。かつては平軸受が多く使われていたが、軸受側にも回転するコロ状の装置を取り付けたコロ軸受が一般的となった。円錐コロ軸受では、車軸が軸受に対して軸方向に移動することが全くできないが、円筒コロ軸受ではわずかに軸方向の移動を許容している。軸方向の移動は末端のスラスト受によって受け止められる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "軸箱の前後左右上下への多少の動きを許容するようにしながら、台車枠(二軸車の場合は車体)に対して支える構造のことを軸箱支持装置と呼ぶ。右図に示したのは、二軸車で多く使われている二段リンク式の懸架装置である。中央の青い箱状の構造が軸箱である。軸箱は前後左右に移動することができないように軸箱守(じくばこもり)で固定されており、図では軸箱の両側のグレーの構造が軸箱守である。これに対して上下方向へは、動揺を吸収して安定して走行し乗り心地を改善するために、ばねを設けて軸箱が動くことを許容する仕組みになっている。軸箱の上下方向の動きを許容し荷重を伝えるばねを軸ばねといい、図では黄色い板ばねになっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "例として示したのは軸箱守式の軸箱支持装置であるが、このほかに円筒案内式、軸梁式、板ばね式、リンクアーム式、ゴム式など各種の方式がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "台車枠は、台車全体の構造を形成している枠組みで、車体支持装置を通じて上部に車体を載せ、軸箱支持装置を通じて下部に軸受・輪軸を備えて、車体の重量を輪軸へ伝達する役割をしている。基礎ブレーキ装置を搭載してブレーキ機構を形成している。また動力台車の場合、動力に関する機構も台車枠に装荷される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "車体支持装置は、台車の回転を許容しながら車体の荷重を支えるための機構である。ボルスタつき台車の場合は、揺れ枕の機構を用いて左右方向の動揺を吸収緩和しながら、枕ばねの機構により上下動を吸収している。車体と台車の間の回転は、枕ばりと台車の間で行われる機構になっている。一方、揺れ枕の機構を廃して空気ばねにより荷重を支えながらばねの変位により回転に対処するボルスタレス台車が増加しつつある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "動力機構で発生させた動力を車輪に伝達する機構は様々なものがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "電気車では電車でも電気機関車でも一般的にはモーターが台車に装荷されている。ただしTGVのように車体側に装荷されているものもある。吊り掛け駆動方式の場合は、台車枠と車軸の間にモーターが掛け渡されている構造になっており、一方カルダン駆動方式の場合はモーターは台車枠側に固定して装荷され、そこからカルダンジョイントを通じて車軸を駆動している。他にクイル式駆動方式、モーターの回転軸が直接車軸になっているダイレクトドライブ方式などの例もあり、また初期にはクランクを使って車輪を駆動する方式も見られた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "内燃車では動車でも機関車でも、車体側にエンジンと変速機が搭載されており、そこからドライブシャフトで台車枠に装荷された減速機を駆動して、減速機が車軸を駆動している。ただし電気式の場合は発電してその電力で電気車と同様の機構を駆動する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車では、クランクで車輪を駆動する方式が大半である。しかしギアードロコのように歯車を介して車輪を駆動する方式もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両のブレーキは大別して車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)で作用する粘着ブレーキと、それ以外の非粘着ブレーキがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "粘着ブレーキの中でも機械式のものは、人力あるいは機械力によるものがある。機械力は、蒸気ブレーキ、真空ブレーキ、空気ブレーキ、油圧ブレーキなどの各種がある。いずれもブレーキシリンダーを動力源として制輪子を動かして車輪の回転を止める仕組みになっている。制輪子を当てる先が車輪の踏面のものが踏面ブレーキ、ブレーキディスクのものがディスクブレーキである。ブレーキシリンダーから制輪子を動かすまでの機構は基礎ブレーキ装置と呼ばれ、台車(固定車軸の車両は車体)に装荷されている。制輪子としては昔から鋳鉄制輪子が用いられてきたが、近年ではレジンなど合成材料を用いることもある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "これ以外の粘着ブレーキとしては、電気車では発電ブレーキや回生ブレーキなどのモーターを発電機として使用して制動力を得るものがあり、また内燃車ではエンジンブレーキのように原動機の回転力を利用したもの、変速機で発熱損失を利用して制動力を得るリターダなどがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "非粘着ブレーキには、電磁吸着ブレーキ、渦電流式レールブレーキなどの種類がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "車体傾斜台車は、曲線において車体を台車に対して傾ける機構を備えていて、遠心力による乗客の乗り心地への影響を低減することで、曲線の高速走行を可能にする台車である。日本の在来線ではコロ機構により車体を支えて、必要な時に回転させる振り子方式が主流で、カーブ走行時の遠心力で受動的に車体を傾ける自然振り子式と、油圧や空気圧などのアクチュエータなどを用いて強制的に車体を傾ける強制車体傾斜式がある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "自己操舵台車は、安定性を保ちながら曲線に沿って舵を取って曲がる台車で、複数の方式が研究されている。軸箱支持装置の工夫で、曲線に沿って車輪の向きを変えられるようにする技術があり、リンクで結合してステアリングを実現するシェッフェル台車や油圧により同様の動作を実現する機構などがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "電気車では、集電装置から電力を取り入れて、制御器により所望の電圧・周波数などに変換して電動機を駆動している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "集電装置は、現代では多くがパンタグラフであり、屋根の上に装備されている。避雷器と断路器を通って車内の回路に電流が流れる。第三軌条方式では集電靴から電力を取り込む。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "直流車の場合は、この電力を運転台からの指令に応じて抵抗制御、電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御、VVVFインバータ制御などの各種の制御方式により必要とされる電圧・電流・周波数に変換する。交直車は直流区間では直流車と同じで、交流区間では主変圧器で電圧を落としてから整流器を通して直流に変換し、直流時と同じ回路につなぐ。交流車ではタップ切替制御やサイリスタ位相制御などにより電圧・電流・周波数の変換を行っている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "制御器で変換された電力は電動機に供給され、電動機が車軸を駆動している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "内燃車では、搭載された内燃機関により回転力を得る。電気式ではこの回転で発電機を駆動し、得た電力により電気車と同様の制御を行っている。機械式では歯車式の変速機により、液体式ではトルクコンバータにより変速して、推進軸により台車に装荷された減速機を駆動し、減速機が車軸を駆動している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両は、鉱山の輸送などに用いるために考えられたトロッコが出発点となっている。その後、蒸気機関車が発明されるとともに近代的な輸送機関として発展するようになった。初期の客車は馬車の延長線であったが、やがて大型化と高速化のために台車を用いたボギー車が発達した。19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、電気を動力とする鉄道車両と、内燃機関を動力とする鉄道車両が開発されて、次第に普及していった。第二次世界大戦後には各国で蒸気機関車は電気・ディーゼル動力へ置き換えられていった。また動力分散方式が広く普及するようになり、高速鉄道も開発されるに至った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両には、その種類や使用目的を示すために形式が与えられる。一般的に形式は、アルファベット、カナ、数字などを組み合わせた文字列で構成されている。形式の与え方は鉄道事業者によって様々であり、統一されたものはない。さらに個別の車両には製造番号が与えられ、形式と製造番号を合わせて車両称号と呼ぶ。車両称号は、各車両に必ず表記されることになっている。",
"title": "鉄道車両の形式・車両称号"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "車両に与えられる称号は記号や番号に限らず、固有の名前として与えられることがある。特に初期のイギリスの鉄道などでは固有の名前だけで車両が区別されていた頃があった。やがて車両の数が増えるにつれて番号による管理が一般的となっていったが、番号とは別に固有名詞を与える例も多かった。蒸気機関車で、形式全体を表す愛称と、個別の機関車の愛称が付けられていた例もあった。",
"title": "鉄道車両の形式・車両称号"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "設計が多少変更されたが別形式にするほどではない場合には、番台分けが行われることがある。これは車両個別を区別するための番号について、途中を飛ばして100番からなどきりのよいところから次の番号を与えることで区別するものである。",
"title": "鉄道車両の形式・車両称号"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "国鉄・JRについては国鉄の車両形式・JRの車両形式で形式の与え方が説明されている。日本の私鉄についてはそれぞれの会社記事の中で説明されている。",
"title": "鉄道車両の形式・車両称号"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "また、編成単位に編成番号を表示している事業者もある。これは編成を構成している個別の車両の番号とは別個に、編成全体を識別するために与えられている番号である。ドイツのICEのように編成に固有名を与えている例もある。",
"title": "鉄道車両の形式・車両称号"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両は、列車として使用する際に単独ないしは2両以上組み合わせて使用される。その際の使用車両の組み合わせを編成という。1両のみで運行される場合、「1両編成」または「単行」、「単機」(機関車の場合、単行機関車の略)という。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "編成を構成する際には、必要な輸送力を想定して両数を決定し、動力車の配置や電源の容量などの技術的な必要性を考慮する。サービス面では、グリーン車のような優等車の必要性、食堂車やラウンジカーなどのサービス設備の配置、トイレの数などを考慮する。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "編成のうち、輸送力が最小時の必要両数で組成された部分を基本編成、輸送力増強のための増結編成を付属編成と言う。また、列車全体を単位として電源やサービス設備を設計する手法を固定編成と言う。固定編成の場合、走行に必要な機器を編成中の各車両に分散配置することが普通で、その場合単独で走行することができない車両が生じることになる。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "これらを運転中に編成落とし(列車の増結、解結)をしたり、分離運転(多層建て列車)したりする。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の塗装は、基本的には車体の腐食防止を目的として実施される。このため本来は1色塗りで十分であり、古い時代の車両では汚れが目立たない塗装として黒や茶の1色塗りが広く用いられていた。ステンレス鋼やアルミニウム合金などの錆びることのない材料が車体に使用されるようになると、腐食防止を目的とした塗装の必要はなくなった。塗装にはそのための設備が必要とされ、年月とともに塗幕が劣化していき再塗装が必要となって経費がかかることや、塗料に有機溶剤が含まれていて作業者の健康管理上の問題があることなどから、無塗装化は鉄道会社の経営的には歓迎されるものである。",
"title": "塗装"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "一方で、複数の色で塗り分けたり、明るく鮮烈な色を用いた塗装を施したりするのは、外観のデザイン性を意識したものである。特に優等車両では、錆びることのない材料を車体に使用していても意匠上の理由で塗装を実施することがある。また路線や列車の識別を狙って、路線ごとに異なる色を採用する(ラインカラー)例もある。ステンレス車体の車両などでは、ラインカラーのような識別を目的とした塗装の代わりに帯状のステッカーやフィルムの貼付で代えることがある。これにより、それまでの塗装では困難であった多色の使用などが可能となった。またこうした技術を利用して車体全体に広告などを実施したラッピング車両が実現された。",
"title": "塗装"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "車両の導入には鉄道会社の資産となる購入、リース会社に費用を支払って使用するリースなどがある。過去には信託車両による導入もされていた。",
"title": "導入方法"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "公共企業体である日本国有鉄道(国鉄)の予算は、国会で予算の承認が必要である。そのため、車両導入の予算区分には独特の用語が使用されている。",
"title": "導入方法"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の新規の製造のための企画は、新規の路線開業・列車の増発・電化や高速化などの輸送改善に伴う置き換え、老朽化した車両の置き換えなどの理由で行われる。鉄道車両は自動車に比べて耐用年数が長く30年から40年程度使用することも珍しくないため(帳簿上の耐用年数は電車が13年、気動車が11年であるが、製造から廃車までの間に大規模な更新工事を1 - 2回行うことで耐用年数を延長して使用することが通常である)、長期的な計画に基づいて新造計画が立てられる。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "必要となる車両数は、投入を予定している路線の列車ダイヤや既存の車両の廃車の進行予定を検討しながら決定される。鉄道車両メーカーの生産能力は限られているため一度に大量生産することはできず、複数年にわたって継続的に発注が行われることが一般的である。短期間に大量に生産すると製造単価を引き下げることができるが、その車両の更新時期が一度にやってくるという問題もある。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "どのような車両を製造するかは、その車両の用途、輸送改善の必要性、鉄道会社のイメージアップ、経営の合理化など様々な要素を考慮して決定される。特急列車用のような看板車両では性能とともにイメージアップの要素に注意が払われ、通勤列車用の車両ではコストダウンに重点が置かれる。特殊な設計の車両を少数導入することは新製・保守の費用の点から好ましくなく、同じ設計の車両をある程度まとまった数導入できるように考慮する必要がある。費用の削減をより推し進めるために、鉄道会社やメーカーを越えてできるだけ共通化した設計を導入する、標準化・規格化の動きもある。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "どのような車両を新製するかの方針が決まると、具体的な設計が行われる。誰が設計を行うかは国や鉄道事業者に応じて、また時代によっても異なっている。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "鉄道の始まった初期には車両メーカーと鉄道事業者は未分化で、鉄道事業者自体が新製車両の設計を行い部内の工場で製作していた。とくにイギリスの鉄道は、部内の工場で設計から製造まで一貫して行うことが主流であった。鉄道事業者内部で設計・製造を担当する最高責任者は多くの事業者で技師長 (Chief Mechanical Engineer)、あるいは機関車(汽車)監察方(総監督) (Locomotive Superintendant) と呼ばれ、技師長が責任を負って機関車の設計・製造を監督していた。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "一方、鉄道会社とは独立した鉄道車両メーカーも存在する。この場合設計を行うのは鉄道車両メーカーである場合と、鉄道事業者である場合がある。日本やドイツなどでは、鉄道事業者が車両メーカーと共同で設計を行い発注することで、少数の形式を量産する形態を採用していた。アメリカでは、蒸気機関車の時代には鉄道会社が設計したものを車両メーカーに発注して製造させていたが、ディーゼル機関車の時代になるとメーカーが設計したラインナップから選択する形となった。イギリスやフランスなどではディーゼル機関車の時代になると、メーカーが設計したものを購入していたため、多くの形式が見られるようになった。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "既に製造されている車両のマイナーチェンジ程度であれば、比較的速く設計から製造に移ることができる。全くの新形式を1から設計する場合には1年半程度の設計・試作期間を費やし、その後1年程度試作車両の試運転で問題点の洗い出しをし、さらに1年程度費やして修正設計と量産化というスケジュールが一般的である。機関車の場合で、1形式につき2,000枚を超える図面が作られる。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両は複雑な構成をしているため、車両のすべてをメーカーで直接製造することはなく多くの部品を部品メーカーから購入して取り付ける。時には廃車・解体された車両から取り外された部品を転用することもあり、そうした車両から回収された部品のことを「廃車発生品」と呼ぶ。車両価格のおよそ半分が部品購入費である。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の製作に要する時間は車種によって異なり、設計が完了した後、機関車で8か月程度、電車・気動車で6か月程度、客貨車で3か月程度とされている。鉄道車両の製造は自動車のように同じ車両を量産するわけではなく、様々に仕様の異なる車両を造り分ける多品種少量生産を特徴としている。またアメリカにおけるディーゼル機関車のような例を除けば、基本的に受注生産である。こうしたこともあり製造に関する作業の自動化は容易ではなく、組み立て工程の多くは現代においても労働集約的な作業となっている。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "多くの国で鉄道事業者と車両メーカー・部品メーカーは強い関係があり、技術開発や使用実績のフィードバックなどで協力関係にある。国内産業保護のために国外の車両メーカーに発注する際にも国内での最終組み立てを義務付けたり、部品の購入を義務付けたりする。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "完成した鉄道車両は、メーカーの工場から実際に使用される場所(ベースとなる車両基地)まで車両輸送が行われる。車両には車輪が付いていることもあり、線路がつながっていれば機関車で牽引して輸送することがある。他に、線路を自力で走行していく事例もあれば、トレーラーや船などによる輸送も行われる。空輸された事例もある。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "投入される路線に到着した新しい車両は、入念な検査と試運転が行われる。近年の車両ではインバータなどの機器から出る電磁波によって他の装置が誘導障害を起こすことがあるため、車載機器と線路側の機器の相互運用性が慎重に確認される。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "並行して、その路線を担当している運転士や車掌をはじめとする乗務員の新型車両に対する訓練も行われる。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "試運転や訓練が完了して使用可能になった鉄道車両は運用に投入されることで実際の営業運転での使用が開始される。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "鉄道運行計画では、車両運用という形で車両の使用計画が立てられている。「A駅からC駅まで運行した後折り返しB駅まで走る」というような計画が立てられており、そうした計画に対して実際のどの編成を充当するかが決められている。車両が1日に走行する距離は、電気機関車で約400 km、電車や気動車で約500 km、新幹線のような高速鉄道で約1,200 kmとされている。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "運用に就いている間、鉄道車両は定期的に検査を受けることになる。初期には劣化の進行を監視して、修理が必要になった時に取り換える方式であったが、結果的に故障してから取り換えることも多く、事後保守方式となっていた。そうした経験を積み重ねるにつれ、劣化を予測して定期的に検査を行う方式が採用されるようになり、予防保守方式となっていった。部品ごとに劣化の進行の程度と、故障した場合の重要性などを評価して検査周期を定めて実施している。保守費用は鉄道の経費に占める割合が高いために、部品の信頼性が向上するにつれて検査周期を長くする(検査回帰延伸)が実施され、経費削減に効果を上げている。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "ある車両が検査に入っている間、代わりに運用に就く車両として予備車が用意されている。検査の代走だけではなく事故・故障が起きて急遽修理に回された車両の代走や、臨時列車の運行にも使用される。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "大きな鉄道事業者で複数の路線・車両基地を保有している時には、路線・車両基地間で車両の転属が行われることがある。また事業者を越えて中古車両として譲渡されることもある。こうした場合には合わせて改造が行われることもある。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両が使用されている間に、様々な改造が行われることがある。腐蝕した部品の交換や内外装のリフォーム・装備する機器類の交換、中間車を先頭車に、あるいはその逆にする改造などがある。内装の更新については、アコモデーション(accommodation 接客設備という意味)改善、略してアコモ改善と呼ばれる。台車や台枠を流用して新たな車体を作り直すということもあり、車体更新と呼ばれる。なお、この際改造の元となる車両のことを「種車」(たねしゃ、たねぐるま)と呼ぶ。→ニコイチも参照。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両の耐用年数は車種によってまちまちであるが、事故や災害などで使用不能になるケースを除くと、おおむね在来線車両で20 - 30年程度、高速運転を行う新幹線車両は十数年程度である。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両としての登録から削除する(車籍を抜く)ことを廃車という。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "車両の耐用年数を決定する要素としては、物理的命数・経済的命数・陳腐的命数の3つがある。物理的命数は、車両を構成する重要部品が物理的に使用に耐えなくなる限界を指し、主に台枠や構体の耐用年数によって決定される。経済的命数は、老朽化に伴って故障が増え、修繕費が増加して新型車両に置き換えた方が安くなる年数を指す。陳腐的命数は、時代の変化やより新型の車両の投入などにより古い車両が時代遅れになることによる耐用年数を指す。近年では陳腐的命数による耐用年数の決定が主である。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "廃車になった車両は多くの場合解体処分される。解体処分には主要機器を取り外して構体を溶断・切断していく方法と、重機などにより叩き壊して解体する方法がある。1990年代以降では車体などの金属をリサイクルして新型車両に使う例もあり、また車両廃車後のリサイクル率を高められるように設計する車両もあるなど、解体後の活用法まで踏まえた指針も多くなっている。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "一部の価値が認められた車両は保存鉄道で動態保存が行われたり、公園や博物館・車両基地などで静態保存が行われることもある。",
"title": "製造から廃車解体まで"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "(PDF) 日本の鉄道車両はこれまで、榮久庵憲司、岡部憲明、奥山清行、川西康之、黒岩保美、島秀雄、妹島和世、星晃、水戸岡鋭治、山本寛斎、若林広幸といったデザイナーによりデザインされた車両も存在する。",
"title": "鉄道車両のデザインとデザイナー"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "世界でもっとも鉄道車両生産額が大きい企業は、中国の中国中車である。21世紀初頭時点では、カナダのボンバルディア・トランスポーテーション、フランスのアルストム、ドイツのシーメンスが三大鉄道車両メーカーと称され、この3社で全体の約半分のシェアを持っていた。しかしその後の変動により、中国の中国北車と中国南車が1位と2位を占めるようになり、両社が合併して中国中車となった。一方でシーメンスは世界7位に転落した。",
"title": "鉄道工業"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "2012年時点での鉄道車両新車生産額は、1位中国北車(中国)、2位中国南車(中国)、3位ボンバルディア・トランスポーテーション(カナダ・ドイツ)、4位アルストム(フランス)、5位ウラルワゴンマーシュ(ロシア)、6位シュタッドラー・レール(スイス)、7位シーメンス(ドイツ)の順であった。ボンバルディアはカナダの会社であるが、鉄道車両製造部門のボンバルディア・トランスポーテーションはドイツのベルリンに本社を置いており、ヨーロッパでの従業員や売り上げの比率が高く、実質的にヨーロッパの企業である。",
"title": "鉄道工業"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "2000年から2004年時点での統計では、世界市場におけるシェアは首位のボンバルディアが21%、2位のアルストムが17%、3位のシーメンスが15%で、このほかにアメリカのGEトランスポーテーション・システムが7%、同じくアメリカのゼネラルモーターズ(鉄道車両製造部門は2005年にエレクトロ・モーティブ・ディーゼル (EMD) として独立)が4%、イタリアのアンサルドブレーダが4%などであった。ただしこの数値は鉄道車両以外の鉄道システム部門の数値を含んでいる。",
"title": "鉄道工業"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "1999年から2000年に掛けての統計では、全世界での鉄道車両生産額は約25億ユーロであった。このうち、ヨーロッパが約60%、アジア太平洋が20%、北アメリカが18%、南アメリカが2%と、鉄道車両を購入している市場の面でもヨーロッパが過半を占めている。2001年時点で、全世界に電気機関車は約2万7000両、ディーゼル機関車は約8万6000両、旅客車は約18万両、貨車は約380万両存在している。",
"title": "鉄道工業"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "合併や倒産で現存していないものを含む鉄道車両メーカーの一覧については、鉄道車両の製造メーカー一覧を参照。",
"title": "鉄道工業"
}
] | 鉄道車両(てつどうしゃりょう)は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行する車両である。 | {{Train topics}}
'''鉄道車両'''(てつどうしゃりょう、'''鉄道車輛''')は、[[線路 (鉄道)|線路]]またはそれに準ずる[[軌道 (鉄道)|軌道]]の上を走行する[[車両]]である。
{{TOC limit|3}}
== 定義 ==
鉄道車両は、線路またはそれに準ずる軌道の上を走行し、[[鉄道]]の[[列車]]を運行するために用いられる車両である<ref name="知りつくす_16"/>。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。[[日本法|日本の法規]]上は、[[本線]]上を[[列車]]として走行するための車両で、所定の手続きに則った車籍を有する車両である。よって、[[モーターカー]]や[[貨車移動機]]といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多く、本線上を走行する場合は[[線路閉鎖]]の手続きを行う必要がある。<ref name="鉄道法規_46-54"/>。
本項目では、一般に公開されて[[旅客]]や[[鉄道貨物|貨物]]の[[輸送]]を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。
== 特徴 ==
鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、[[自動車]]など他の交通機関と異なっている点である<ref name="知りつくす_16"/>。[[航空機]]や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている<ref name="知りつくす_16"/><ref name="鉄道のひみつ_59-60"/>。
さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、[[蒸気機関車]]や[[単端式気動車]]の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の[[推進運転]]など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの[[船]]や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している<ref name="台車技術の動向と展望"/><ref name="流線形_331"/><ref name="RP426"/><ref name="鉄道のひみつ_139-140"/><ref name="鉄道用語事典_推進運転"/>。
== 車種による分類 ==
鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される<ref name="鉄道用語事典_鉄道車両の種類"/>。まず大きく分けると[[旅客車]]、[[機関車]]、[[貨車]]の3つに分類することができる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_73-79"/>。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)<ref>{{PDFlink|[http://www.stat.go.jp/index/seido/syouhin/pdf/2cc8-46.pdf 日本商品分類中分類46-車両(軌条上を走行するもの)]}} 総務省統計局</ref>。また、これ以外に[[事業用車]]を分類することもある<ref name="戦後日本の鉄道車両"/>。
なお、車種以外に用途や設備により分類することができるが<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_73-79"/>、これについてはそれぞれ[[旅客車]]・[[機関車]]・[[貨車]]・[[事業用車]]を参照。
=== 旅客車 ===
{{Main|旅客車}}
旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。動力を有している車両と有していない車両がある<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。[[動力集中方式]]に分類される旅客車として[[客車]]が、[[動力分散方式]]に分類される旅客車として[[電車]]と[[気動車]]が存在する<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。近年では、ハイブリッド車やEDC方式の登場により、電車と気動車双方に分類される車両も増えている。
[[郵便|郵便物]]を輸送する[[郵便車]]や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送([[チッキ]])において荷物を搭載するための[[荷物車]]も、一般に旅客車として分類されている<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。
==== 電車 ====
{{Main|電車}}
[[ファイル:InterCity-Neigezug am Hauenstein.jpg|thumb|right|[[スイス国鉄RABDe500形電車]]]]
電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によって[[電動機|モーター]]を回して走行する車両である<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する[[付随車]]が存在する<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>。搭載している[[電池]]の電力によって走行する方式も電車であるが、[[架線]]や[[第三軌条方式|第三軌条]]など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である<ref name="鉄道車両ハンドブック_34-37"/>。一方、搭載している[[熱機関]]によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されていた<ref name="戦後日本の鉄道車両_85"/>が、ハイブリッド車両などの登場により電車としても気動車としても分類されるようになっている<ref name = "東洋経済20200109" />。
効率の良い[[発電所]]において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための[[変電所]]や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる<ref name="鉄道の地理学_56"/>。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある<ref name="鉄道用語事典_動力集中列車と分散列車"/>。
もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に[[路面電車]]や[[地下鉄]]で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている<ref name="鉄道用語事典_動力集中列車と分散列車"/><ref name="Yahoo電車"/>。また、[[モノレール]]、[[案内軌条式鉄道]]([[新交通システム]])、[[トロリーバス]]、[[索道]](ロープウェイ)、鋼索鉄道([[ケーブルカー]])、[[磁気浮上式鉄道]]なども多くは電車の範疇に含まれる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_80-88"/>。
日本では殆どの人口密集地で電車が普及している事から、気動車や客車を含めた鉄道車両のすべてを「電車」と呼ぶ風潮がある<ref name="鉄道のひみつ_96-97"/>。
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==== 気動車 ====
{{Main|気動車}}
[[ファイル:Class 221 Virgin Voyager approaching Bristol Parkway westbound 2006-05-03 02.jpg|thumb|right|250 px|[[イギリス鉄道221形気動車]]]]
気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である<ref name="鉄道用語事典_気動車"/>。[[外燃機関]]である[[蒸気機関]]を動力とする車両は[[蒸気動車]]と呼ばれ、それ以外の[[内燃機関]]で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する<ref name="鉄道用語事典_蒸気動車"/>。内燃動車において用いられる機関としては[[ディーゼルエンジン]]、[[ガソリンエンジン]]、[[ガスタービンエンジン]]などがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_44"/>。現代では一般的には、大出力を容易に得られ[[燃費]]のよいディーゼルエンジンが気動車の[[原動機]]として用いられている<ref name="鉄道の地理学_65-68"/>。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ<ref name="鉄道用語事典_ディーゼル動車"/><ref name="kotobankディーゼルカー"/><ref group="注釈">一部の[[鉄道ファン]]が使う「キハ」という呼称は、[[鉄道省]]が定めた「三等(座席)気動車」(現在の[[普通車 (鉄道)|普通]]気動車)に当てた用途記号に過ぎず、気動車全体や気動車列車を表すものではない。</ref>。
内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接[[車輪]]を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な[[トランスミッション|変速機]]を使う場合を[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#機械式|機械式]]、[[トルクコンバータ]]を使う場合を[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#液体式(流体式)|液体式]]、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#電気式|電気式]]という<ref name="鉄道車両ハンドブック_122-126"/>。ただし[[ガスタービン動車]]の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある<ref name="ガスタービン動車"/>。電気式以外の方式では、機関を稼働したまま車両の停止や惰行に対応するための[[クラッチ]]も必要となる。
気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の[[増解結|分割・併合]]を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている<ref name="鉄道車両ハンドブック_152-154"/>。
気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で、製造費と維持費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対し、エンジンと変速機の重量に加え、潤滑油、冷却水、動力に変換するための[[燃料]]自体も搭載する必要から重量が大きくなり、[[パワーウエイトレシオ|重量あたりの性能]]で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している<ref name="鉄道車両ハンドブック_114-115"/>。
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==== 客車 ====
{{Main|客車}}
[[ファイル:Talgo-VII Granada.jpg|thumb|right|[[レンフェ]] (スペイン国鉄) [[タルゴ]]客車]]
客車という言葉は、広い意味では旅客車を表すこともあるが<ref name="goo客車"/>、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す<ref name="kotobank客車"/>。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である<ref name="Yahoo客車"/>。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している<ref name="鉄道用語事典_ブレーキ装置の種類"/>。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある<ref name="鉄道の地理学_69-70"/>。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する[[発電機]]を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている<ref name="Yahoo客車"/>。
客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に[[夜行列車]]などにおいて用いられる<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
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=== 機関車 ===
{{Main|機関車}}
機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない<ref name="Yahoo機関車"/>。また動力装置以外に、客車に対する[[暖房]]用の[[蒸気発生装置]]を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする<ref name="Yahoo客車"/>。
機関車は、その動力方式でさらに[[蒸気機関車]]、[[電気機関車]]、内燃機関車の3つに大別できる<ref name="Yahoo機関車"/>。それ以外にも1970年代にはアメリカ([[M-497]])、ソビエト({{仮リンク|高速走行実験鉄道車両|uk|Швидкісний вагон-лабораторія}})のような[[ジェットエンジン]]による推力を利用する[[ターボジェット・トレイン]]も試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない<ref name="darkroasted"/>。
==== 蒸気機関車 ====
{{Main|蒸気機関車}}
[[ファイル:JRN-C62-SteamLoco.jpg|thumb|right|[[国鉄C62形蒸気機関車]]]]
蒸気機関車は、[[蒸気機関]]を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車は[[レシプロエンジン|レシプロ]]式で、[[ピストン]]の往復運動を[[クランク (機械要素)|クランク]]で車輪の回転運動に変換して走行していた<ref name="鉄道用語事典_蒸気機関車の仕組み"/>。このほかに[[蒸気タービン]]式や、発電してモーターで走行するものなどがあった<ref name="蒸機のすべて_37-38"/>。
一般には[[燃料]]として[[石炭]]を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、[[コークス]]、[[木材]]、[[重油]]、[[泥炭]]などが用いられることもある。また[[サトウキビ]]の生産が盛んな地方では、その絞りかすの[[バガス]]を燃料にしたり、変わったものとして[[スイス]]にはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた<ref name="howwork"/>。[[原子炉]]で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない<ref name="流線形_216-219"/>。
[[無火機関車]]は、[[鉱山]]や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置した[[ボイラー]]からの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである<ref name="howwork"/>。
蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、[[熱効率]]が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、[[第二次世界大戦]]後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった<ref name="鉄道_159-162"/><ref name="蒸機のすべて_42-43"/>。主に[[発展途上国]]を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、[[先進国]]においては[[保存鉄道]]で運行されている程度である<ref name="鉄道用語事典_蒸気機関車の仕組み"/><ref name="鉄道用語事典_保存鉄道"/>。
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==== 電気機関車 ====
{{Main|電気機関車}}
[[ファイル:SS9GandT99.JPG|thumb|right|[[中国国鉄韶山9型電気機関車]]]]
電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である<ref name="鉄道用語事典_電気機関車"/>。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、[[二次電池|蓄電池]]を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である<ref name="鉄道車両ハンドブック_34-37"/>。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている<ref name="戦後日本の鉄道車両_59-60"/>。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる<ref name="世界の鉄道69_126-127"/>。
電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、[[ロシア]]、[[中華人民共和国]]では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、[[北アメリカ]]や[[オーストラリア]]などでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている<ref name="鉄道用語事典_電気運転"/>。
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==== 内燃機関車 ====
{{Main|ディーゼル機関車|ガスタービン機関車}}
[[ファイル:NZR DX class coal.JPG|thumb|right|ニュージーランド鉄道DX形ディーゼル機関車]]
内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、[[ディーゼル機関車]]、ガソリン機関車、[[ガスタービン機関車]]などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_44-45"/>。
ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる<ref name="鉄道用語事典_ディーゼル車両"/>。
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=== 貨車 ===
{{Main|貨車}}
[[ファイル:DTTX 724681 20050529 IL Rochelle.jpg|thumb|right|北アメリカで用いられている[[ダブルスタックカー]]]]
[[貨車]]は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である<ref name="Yahoo貨車"/>。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、[[JR貨物M250系電車]]のように動力分散方式の貨車も開発されてきている<ref name="M250系"/>。
搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、[[入換 (鉄道)|入換]]作業に手間が掛かるといった問題があった<ref name="Yahoo貨車"/><ref name="Yahoo鉄道貨物"/>。
これに対して、[[フォークリフト]]のような[[荷役]]機械が開発され、第二次世界大戦後から各国で[[コンテナ化]]の動きが始まった<ref name="Yahoo荷役"/>。このために[[輸送コンテナ|コンテナ]]を搭載する貨車として[[コンテナ車]]が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている<ref name="Yahoo貨車"/>。
[[鉱山]]において[[鉱石]]を輸送する列車や、[[石油]]のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の[[石炭車]]・[[ホッパ車]]・[[タンク車]]などの貨車が開発されて使用されている<ref name="Yahoo貨車"/>。
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=== 事業用車 ===
{{Main|事業用車}}
[[ファイル:MK6 2135(1).jpg|thumb|right|[[ロシア]]の鉄道クレーン]]
事業用車は、鉄道事業者が所有する車両のうち、直接営業目的に用いられない鉄道車両である。[[保線]]作業や工事に用いたり、事業者内部の業務に必要とされる物品を輸送したり、試験や試作の目的で造られたりといった車両がある<ref name="戦後日本の鉄道車両_263-268"/>。日本に於いては、機関車、電車、気動車、客車、貨車のいずれかに分類される。
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=== 列車砲 ===
{{Main|列車砲}}
== 動力集中方式と動力分散方式 ==
鉄道車両を推進する動力の配置の仕方としては、[[動力集中方式]]と[[動力分散方式]]がある。動力集中方式は、編成中の動力はすべて機関車に集中しており、それ以外の[[客車]]・[[貨車]]は機関車に牽かれて走るのみの方式である。これに対して動力分散方式では、特定の車両に動力を集中させるのではなく、編成中の各車両に分散して動力を搭載する<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
[[ファイル:Concentrated-Distributed traction.png|center]]
図に概念を示す。図中赤く塗られてMと書かれているのが車両が[[動力車]]で、白抜きにTと書かれているのが動力のない[[付随車]]である。動力分散方式において、動力車と付随車の割合は形式によって様々である。この割合のことを[[MT比]]といい、図の例では4M2Tと表現される<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
動力集中方式と動力分散方式の得失は以下のとおりである。
; 車両製造費用
: 動力集中方式の動力車である機関車は、すべての動力機能を集中して備えているため高価である。これに対して動力分散方式の車両は、動力車と付随車で異なるが、機関車よりは安価である。動力集中方式の付随車はこれよりも安い。したがって、製造費用は動力集中方式の動力車 > 動力分散方式の車両 > 動力集中方式の付随車という式が成り立つ。同じ程度の輸送力を発揮できる編成で比較すると、12両編成の場合、動力分散方式の車両がすべて動力車 (12M) ならば動力分散方式の方が高く、6M6Tの場合で同等、4M8Tの場合は動力分散方式の方が安いという試算がなされている。ただしこの例では、動力集中方式の列車について折り返し駅での[[機回し]]を省略するために両端に機関車を繋いだ構成を考えているため、機回しを行うことを前提にすれば機関車を1両削減できて、動力集中方式により有利となる<ref name="鉄道工学ハンドブック_156-158"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
; 車両保守費用
: 動力を搭載している車両は搭載していない車両に比べて保守に手間がかかるため、動力集中方式の方が動力分散方式より有利であると以前は考えられてきた。しかし、動力集中方式の列車では多くの車両で回生ブレーキを使用できず機械ブレーキを使用することになるため、摩耗する部品の保守量が増加するという問題がある。その後、保守作業量の多い[[直流電動機]]から保守作業量を少なくできる[[交流電動機]]に移行するにつれて、機械ブレーキの保守量の問題の方が大きくなってきた。[[ドイツ鉄道]]の[[ICE|ICE1]](2M12T、623席)と[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[新幹線200系電車|200系]](12M、885席、この電車はまだ直流電動機である)の比較では、どちらも1年間ののべ保守時間が17500時間であるとする比較がある<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
; エネルギー消費
: エネルギー消費については、編成全体の合計質量が小さくなる動力集中方式の方が少なく有利であるとされる。ただし、減速時にモーターで発電して架線に電力を返す[[回生ブレーキ]]が普及しており、これは動力集中方式の列車では動力車以外で使用できず、機械式ブレーキの負担率が大きくなるという問題がある<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
; 乗り心地
: 動力分散方式の車両では床下に動力機器を搭載しているため、騒音や振動が車内に伝わりやすく、乗り心地の面では動力集中方式に比べて不利である。ただし動力分散方式でも技術の進歩により乗り心地の改善が進んでいる<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/><ref name="知りつくす_48-49"/>。
; 線路への影響
: 動力集中方式の列車は、動力の集中した機関車が特に重くなり、走行することによる線路への悪影響が大きくなる。線路の許容できる[[軸重]]が限られている区間では、重量の大きな機関車の入線が制限されるが、動力分散方式ではそのような制限が影響することはあまりない。また、線路の建設費および保守費に関しても、軸重が小さい方が有利である。これに加えて、動力集中方式では旅客が乗車できない機関車の分まで待避線の長さを余分に用意しなければならないという問題がある<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
; 機動性
: 動力分散方式の列車は、各車両に動力が分散しているため加速度・減速度がともに高く、停車駅が多くても運転時間を短縮できる。また両端に運転台があり、運転士が移動するだけで折り返すことができるので機動性に富んでいる<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/><ref name="知りつくす_48-49"/>。ただしこれについては動力集中方式でも、[[動力集中方式#プッシュプル方式|プッシュプル方式]]を用いることで解決できる<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。また動力分散方式は列車の分割・併合を容易に行える<ref name="知りつくす_48-49"/>。
; 信頼性
: 動力分散方式の列車では、一部の動力装置が故障したとしても残りの動力装置で走行が可能なので、故障時の処置が容易で、信頼性が高い<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
; 周辺環境への影響
: 動力集中方式の高速列車では、[[粘着式鉄道|粘着]]性能を維持するために[[踏面ブレーキ]]を使用しており、このために車輪の踏面が傷みやすく、車輪の転動音が大きくなって騒音が問題になっている。動力分散方式では粘着性能にこだわる必要性が薄いので[[ディスクブレーキ]]を使用しており、こうした問題はない。また振動の面でも、重量の大きな動力集中方式の方が大きな影響が出る<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
; 列車の直通運転
: 動力集中方式の列車は、電源方式・信号方式が異なる区間に入る駅(国境の駅など)で機関車を付け替えるだけで列車を直通させることができるが、動力分散方式の列車はすべての電源方式・信号方式に対応した設備を搭載していなければ直通運転をすることができない<ref name="鉄道車両ハンドブック_81-83"/>。
1970年代の[[日本国有鉄道]](国鉄)において、こうした点の検討が詳しくなされ、1本の列車編成が長くなるほど動力集中方式が有利で、短くなると動力分散方式が有利であるとされた。具体的には[[直流電化]]区間では列車長11両から12両、[[交流電化]]区間では列車長9両から10両、非電化区間では列車長4両から5両のところに費用の分岐点があり、それより長い列車では動力集中方式が有利であるとした<ref name="客車の再評価"/>。つまり短い編成を頻繁に運行するような路線では動力分散方式が、長い編成を時々運行するような路線では動力集中方式が有利となる。
その後技術の発展で、[[可変電圧可変周波数制御]](インバータ制御)が実用化されて保守の手間が少ない[[交流電動機]]が電車に用いられるようになり、また回生ブレーキが一般的になったため、より動力分散方式が有利になる傾向にある<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
日本では第二次世界大戦後から、幹線の長距離列車においても動力分散方式を推進してきた。これは地盤が弱く軸重を強化しづらい上、地形が急峻かつ複雑なため勾配・曲線が必然的に多くなるという国土において高速化を図るために選択されたものである。これに対してヨーロッパなどでは長らく動力集中方式が使われてきた。しかし近年になって動力分散方式が有利になりつつあることから、ヨーロッパにおいても動力分散方式の車両が普及する傾向にある<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
動力集中方式の車両においても、編成の両端に機関車を連結して、通常時は固定された編成で運用されるものがあり、この場合は運用形態の面ではかなり動力分散方式に近くなっている<ref name="電気鉄道ハンドブック_324-331"/>。
== 寸法と重量 ==
鉄道車両では、基本的な寸法と重量に規制が設けられている<ref name="しくみ_103-105"/><ref name="車両研究_55-57"/>。
=== 幅・高さ ===
[[ファイル:Rolling-Stock-Gauge-in-Japan.svg|thumb|right|日本の鉄道車両の車両限界]]
{{Main|車両限界|建築限界}}
鉄道車両の幅と高さは、[[車両限界]]によって規定されている。車両限界は、車両の最大幅と最大高さを含めて、プラットホームとの関係などで複雑な形が定められている。これに対して、周辺の電柱や建物などの構造物を設置できる限界として、走行時の車両の動揺などを考慮した余裕を車両限界に加えた[[建築限界]]が定められている。国や鉄道会社により車両限界・建築限界は異なっている。車両が曲線を走行する際には、車体の中央部または端部(オーバーハング)が曲線の内側・外側にはみ出す(偏倚 へんい)ため、これを考慮して建築限界を広げるようになっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_71"/><ref name="車両研究_36-38"/>。
=== 長さ ===
{{Main|車両長|ホイールベース}}
鉄道車両の長さは、主に曲線を走行するときに、隣の車両や建築限界に抵触しないかという観点で決定される。車両を長くすればするほど曲線での偏倚が大きくなって、あらかじめ車両限界と建築限界の間に加えてある余裕を超えて障害物に抵触してしまうため、鉄道車両を長くするのには限度がある。車体幅を細くしたり裾を絞ったりすることで、通常よりさらに車両を長くすることができ、[[新幹線]]の先頭車両が中間車両より長いのはこのためである。車両の長さとしては車体そのものの長さである車体長と、隣の車両の連結器と接触する面の間の距離である連結面間距離がある<ref name="しくみ_103-105"/><ref name="車両研究_36-38"/>。
また、車両を支えている[[輪軸 (鉄道車両)|輪軸]]の間隔である軸距([[ホイールベース]])にも制約がある。隣接する輪軸の間があまりに狭いと走行安定性に問題があることから、軸距の下限が定められている。一方輪軸を備えて車体に対して回転する[[鉄道車両の台車|台車]]に関しても、その中心間の距離である台車中心間距離があまり長すぎると、曲線での車体の偏倚が大きくなるため問題がある。また信号回路の動作にも影響があるため、軸距または台車中心間距離の上限も定められている<ref name="車両研究_36-38"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_22-23"/>。
=== 重量 ===
{{Main|活荷重}}
鉄道車両の重量は、その車両が走行する路線の設計荷重と関係する。鉄道車両の重量をその車軸の数で割った値を[[軸重]]と呼び、この値が走行することのできる路線を決定する。線路を設計する時点で、そこを通行する鉄道車両の軸重を[[活荷重]]という形で想定して建設される。線路には[[線路等級]]が定められており、重要な路線ほど重い車両を通行させることができるように建設されている。このため、通行することを想定している路線が許容する軸重に収まるように車両を設計する必要がある<ref name="車両研究_55-57"/><ref name="電気鉄道ハンドブック_52-53"/><ref name="路線・施設_23"/>。
機関車では、牽引性能を発揮するためにある程度の軸重を必要としている。幹線用に造られた軸重の大きな機関車を支線用に転用する際に、重量を負担する車軸を追加して軸重を下げる改造を行うことがある。また、[[国鉄DD51形ディーゼル機関車]]は動力のない中間台車に[[空気ばね]]を装備しており、この圧力を変化させることで負担する重量を変え、動軸の軸重を上げたり下げたりすることができるようになっている<ref name="車両研究_55-57"/>。
== 構造 ==
鉄道車両の構造を上回り(車体)と下回り(走り装置)、動力機構に分けて説明する。
=== 車体 ===
{{Main|構体 (鉄道車両)}}
たいていの鉄道車両では、車体はほぼ箱状の構造をしている<ref name="車両研究_30-32"/>。なおそのうち[[構体 (鉄道車両)|構体]]は、台枠・骨組・外板などで構成され車体の強度を担う部分であり、座席などの室内設備、[[照明]]、制御機器などは含まない<ref name="鉄道のひみつ_81-84"/>。床面は[[台枠]]、進行方向前後は妻構、左右は側構、上面は屋根構という<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100-102"/>。
車体は古くはすべて木造であったが、腐蝕の問題などから順次鋼製部品への移行が進められた<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_98-99"/>。この時代は、車体の荷重のすべてを台枠で負担するため、トラス棒を設けたり魚腹形の側梁を用いたりした頑丈な構造の台枠を採用していた<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。事故発生時の木造車体の粉砕が犠牲者を多くすることが問題とされ、やがて車体全体が鋼製のものへと発展していった<ref name="鉄道重大事故の歴史_48-49"/>。鋼製車体の中でも、半鋼製ともいうべき側構や妻構のみが鋼製で屋根は木造のものから、全鋼製のものへと移り変わっている<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。この際に車体の基本構造は変えなかったので、台枠は相変わらず非常に頑丈な構造で設計され、車体の他の部分が金属になったことに伴う重量増加は大きな問題となった<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。また、[[溶接]]技術が未発達な頃の鋼製車は[[リベット]]接合であった<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。やがて車体全体で強度を分担して受け持つ[[モノコック]]構造(張殻構造)が用いられるようになり、車体は大幅に軽量化された<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_98-99"/>。
鋼製の車体は腐食の問題があり、錆が発生しない[[ステンレス鋼]]を材料として使用することが検討された<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。まず、車体の骨組みは鋼製として外板をステンレスにした[[セミステンレス車両]]が開発された<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。続いて車体すべてをステンレスで製造した[[オールステンレス車両]]が開発された<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。ステンレスの溶接には当初は[[スポット溶接]]、後には[[レーザー溶接]]が用いられている<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。また腰板や幕板部の歪みを目立たなくするためにコルゲートのついた外板を使用するのが一般的であったが、技術の進歩によりビード加工で済ませるようになり、さらに新しいものは平滑な外板を使用するようになっている<ref name="車両研究_63-69"/>。ステンレスの外板を使用した車体は、錆を防ぐための[[塗装]]を省略することができるようになり<ref name="車両研究_63-69"/>、今日見られるような銀色の車両となった。ステンレス鋼は、鋼製車体に用いられる[[炭素鋼]]と比較して約1.5倍の引っ張り強さがあり<ref name="鉄道車両ハンドブック_192-193"/>、これに加えて鋼製車体のように腐食の進行を想定して「腐蝕しろ」(さびしろ)と呼ばれる余分の強度を持たせる必要がなくなったことから軽量化が図られた<ref name="電車のメカニズム_84-85"/><ref name="車両研究_63-69"/>。さらに高張力ステンレス鋼の採用や構造解析による設計技術の進歩があって軽量化が進行している<ref name="電車のメカニズム_84-85"/><ref name="車両研究_63-69"/><ref name="しくみ_100-102"/><ref name="こうして生まれる_128-129"/><ref name="電車のはなし_103-105_113-116"/>。
錆が発生しない材料としては[[アルミニウム合金]]もあり、[[アルミニウム合金製の鉄道車両]]も開発された<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。当初は骨組に外板を貼り付ける工法であったが、やがて大形[[押出成形]]材を利用した[[シングルスキン構造]]や[[ダブルスキン構造]]が開発され、[[ミグ溶接]]、[[摩擦攪拌接合]]、レーザーミグハイブリッド溶接などにより接合されている<ref name="こうして生まれる_128-129"/><ref name="しくみ_100-102"/>。[[新幹線500系電車|500系新幹線]]では[[ハニカム構造]]により軽量化が図られている<ref name="戦後日本の鉄道車両_199-200"/>。アルミニウム製の車両はステンレス車両と同様に塗装を省略できるほか、アルミニウム自体が軽量な素材であるため、必要な強度を保つために外板を厚くしたとしても車体の軽量化を実現できる<ref name="電車のはなし_105-107_185-187"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_192-193"/>。また、アルミニウム車体は[[リサイクル]]しやすく、車体を解体して出たアルミニウムを再び鉄道車両に使用する試みが行われている<ref name="こうして生まれる_128-129"/>。
車体の素材としては他に[[繊維強化プラスチック]] (FRP) を一部の複雑な形状の部分に用いている例がある<ref name="車両研究_63-69"/><ref name="こうして生まれる_128-129"/>。
==== 台枠 ====
{{Main|台枠}}
台枠は、車体の一番基本となる構造である。車体全体の強度を受け持ち、台車や車軸に重量を伝える役割をしている。また連結運転の際には、隣の車両との間での力の伝達も行う<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100"/>。
車両の前後の端に横方向に設けられている梁のことを端梁という<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。連結器はこの端梁に取り付けられるため、大きな荷重に耐える強度が必要とされる<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。車両の左右に車体全長に渡って設けられている梁は側梁と呼ばれる<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。両側の側梁の間に横方向に渡されている梁は横梁で、これがいくつも並んで台枠全体としては上から見るとはしご状の構造になっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100"/>。台車や車軸の真上に当たる部分には、枕梁が置かれている<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。また端梁中央から車体中央方向へ枕梁の位置まで中梁が延びている<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。この端梁から枕梁までの範囲を端台枠と呼び、この部分だけはステンレス車両であっても鋼製の連続溶接で組み立てるのが普通である<ref name="電車のメカニズム_88-90"/>。
かつては台枠と側構でほとんどの強度を受け持ち、車体の他の部分はその部分で必要とされるだけの強度で作る方式であった。しかし軽量化のために、車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つモノコック構造(応力外皮構造)が後に主流となった<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。
蒸気機関車では、台枠は[[板台枠]]と[[棒台枠]]の2種類に大きく分けられ、これが車輪により支えられまたボイラーなどの上部構造を載せる仕組みとなっている<ref name="蒸気機関車メカニズム図鑑_106-109"/>。
貨車でも有蓋車や無蓋車などたいていの車両では台枠があり、重量を受け持っている。コンテナ車の場合、コンテナの重量のほとんどは側梁にかかるため、側梁が強度を主に負担しており、このために魚腹形の側梁となっている。タンク車では台枠のないフレームレス構造のものがあり、この場合タンク体全体で強度を受け持っている<ref name="鉄道車両ハンドブック_220-221"/>。
台枠の上面は床を構成し、座席やその他の車内設備を設置するとともに、旅客や貨物の荷重を負担する<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100"/>。床面は、単に鋼材に敷物を貼っただけの鋼板床のほか、優等車などでは遮音性に優れた、波形鋼板(キーストンプレート)の上にポリウレタンフォームやユニテックスを充填して敷物を貼りつけた構造などが使われる<ref name="車両研究_70-71"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。また下面には、横梁に床下機器が吊り下げられる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100_103"/>。軸受あるいは台車の心皿などの重量を支える構造は枕梁に力を伝達するようになっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_100_103"/>。
==== 側構 ====
側構は、鉄道車両の左右部分である。近代的なモノコック構造の車両では、台枠と一体となって強度を負担している<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。窓より下の外板を腰板、窓より上の外板を幕板という<ref name="鉄道車両ハンドブック_190-192"/>。かつては側構の窓部分の開口による強度不足を補うために、[[ウィンドウ・シル/ヘッダー]]という帯状の補強構造物が窓の上と下に取り付けられていた<ref name="車両研究_81"/>。ビードやコルゲートといった表面加工が見られる車両もある<ref name="車両研究_63-69"/>。
==== 妻構 ====
妻構は、鉄道車両の前後部分である。車体の端を垂直に切り落としたような構造の場合を切妻といい、そのうち両側を削った構造の場合を折妻といい、それ以外の場合曲面妻という。構体両端部を閉じる構造を形成して強度上重要な部分を受け持っている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_101-102"/>。
隣接車両と連結して旅客や乗務員の通り抜けが必要とされる場合には、中央部に貫通路が設けられる。また先頭車や機関車の場合は、窓を構成してフロントガラスをはめ込み運転台とする。貫通路と運転台を両立した貫通運転台構造もある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_101-102"/>。
特急用の車両の場合などは、先頭部分の形状は特に外観を重要視して設計することがあり、複雑な形状となる<ref name="知りつくす_124"/>。高い位置に運転台を設置する高運転台構造は、視認性をよくし、踏切事故などでの運転士への危険を防ぐなどの目的がある<ref name="知りつくす_124"/>。高速車両などでは[[流線形車両|流線形]]が採用されることもある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_101-102"/>。
運転台がある場合には、前部標識灯、後部標識灯、ワイパーなどが設置される。貫通路がある場合は貫通幌などが設置される。また貫通路のある中間車の場合は貫通路の両側に妻窓が設けられることがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_101-102"/>。
==== 屋根構 ====
屋根構は、車両の天井・屋根部分を構成している。前後方向に長桁が、左右方向には垂木が骨組みとして組み込まれている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_102"/>。冷房付きの車両では、[[室外機]]を屋根の上に搭載することが一般的で、これは重量が大きいため設置位置をあらかじめ検討してその重量に耐えるだけの強度構造とする<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_102"/>。また、冷房は車内と車外を貫通して取り付けることが多いため、その場合は大きな開口部を設置することになり、この点でも強度上の配慮が必要となる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_102"/>。この他、車内側の天井や冷房風道、照明の灯具、車両補修の作業者が屋根の上を歩くときに使うランボード、雨水が垂れることを防ぐ雨どいなどが設置される<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_102"/><ref name="車両研究_78-80"/>。
==== 運転台 ====
{{Main|操縦席}}
[[ファイル:Izukyu-Series8000 Inside Driving-seat.jpg|thumb|right|電車の運転台]]
機関車や電車・気動車の先頭車両などには、機関士・運転士が運転を行うための運転台(運転室)が設けられる<ref name="鉄道用語事典_運転台"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_270-271"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_175"/>。一般に妻面に設置されるが、機関車の中には機器の配置の都合でセンターキャブと呼ばれる車体中央付近に運転台を配置した構成も見られる<ref name="鉄道車両ハンドブック_136"/>。
運転台は、車両の全幅に渡って設置される場合と、半分ほどの幅になっている場合がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_175"/><ref name="車両研究_249-252"/>。運転室は運転士が乗務するだけでなく、車掌やその他の客室乗務員などが乗務するスペースともなる<ref name="鉄道車両ハンドブック_270-271"/>。貫通式の運転台と呼ばれるものは、運転台の位置が列車の先頭や末端ではなく他の車両と連結されて中間になった時に、旅客や乗務員が車両間を移動できるように中央部に貫通路を設けることができる構成になっているものである<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_175"/><ref name="車両研究_249-252"/>。貫通路を設置できない運転台は非貫通運転台という<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_175"/><ref name="車両研究_249-252"/>。
実際に運転士が座る席は、車体中央に設置される場合と、左右どちらかに偏って設置されている場合がある<ref name="鉄道車両ハンドブック_270-271"/><ref name="車両研究_249-252"/>。自動車ではそれぞれの国の道路の進行方向に応じて、左側通行の国では右側に運転手席を配置するのが一般的であるが、鉄道の場合は進行区分との関係は必ずしもなく、左側通行が原則の日本では[[鉄道信号機|信号機]]が左側に立てられていることが多いことから、信号機を見やすい左側に席を配置することが多い<ref name="鉄道車両ハンドブック_270-271"/><ref name="車両研究_249-252"/>。[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|タブレット閉塞]]の区間ではタブレットの取り扱いに便利な側に設置したり、[[ワンマン運転]]を前提に[[プラットホーム]]のある側に配置したりする例がある<ref name="車両研究_249-252"/>。
自動車のアクセルに相当するのは主幹制御器([[マスター・コントローラー]]、マスコン、[[路面電車]]など直接制御の車両の場合は直接制御器(ダイレクトコントローラー)<ref name="鉄道車両ハンドブック_46-47"/>)である<ref name="鉄道車両ハンドブック_271-272"/><ref name="車両研究_248"/>。自動車と違い手で操作する<ref name="車両研究_248"/>。縦方向の軸を中心に水平に回転させて操作するものと、横方向の軸を中心に垂直に回転させて操作するものがある<ref name="車両研究_248"/>。また、ブレーキハンドルと一体化したワンハンドルマスコンもある<ref name="車両研究_248"/>。ワンハンドルマスコンにおいては、押して走らせるものと引いて走らせるものとの両方がある<ref name="電車のはなし_129-131"/>。マスコンを左手で操作するか右手で操作するかは同じ鉄道事業者の中でも統一されておらず、車種によって様々である<ref name="鉄道車両ハンドブック_271-272"/>。
ブレーキを操作するのはブレーキハンドルであり、これも手で操作する。機関車では、機関車のみに作用する単弁(単独ブレーキ弁)と列車全体に作用する自弁(自動ブレーキ弁)が別々に存在する<ref name="鉄道車両ハンドブック_271-272"/>。
このほかに、[[警笛]]を鳴らすペダル、[[自動列車停止装置|ATS]]に代表される[[自動列車保安装置]]の取り扱い装置、前灯やワイパーのスイッチ、速度計、圧力計、電圧計、各種の状態表示ランプ、[[列車無線]]の送受話器、時刻表差し、車内放送のマイク、[[車掌スイッチ]]などが設置されている<ref name="しくみ_108-112"/><ref name="車両研究_247"/><ref name="鉄道車両ハンドブック_272-277"/>。最近の車両では、モニタを運転台に設置して車両の状態を表示し、また[[タッチパネル]]式の[[入力機器|入力装置]]により簡単な点検作業や車内の空調温度設定など様々な作業が運転台からできるようにされている<ref name="車両研究_242-246"/>。
運転台は前面衝突の際に最初に巻き込まれる場所であるので、運転士の保護に配慮した設計がなされる。主に想定される衝突事故は[[踏切]]における障害物との衝突であり、前頭部はその衝突に耐えられるように強化されている。また運転士の座る位置を高くすることで、車体下部に障害物を巻き込んだ際の影響を抑えている<ref name="鉄道車両ハンドブック_193-194"/>。クラッシャブルゾーンを設けて衝撃を吸収する構造になっているものもある<ref name="E231系"/>。
運転台はすべての車両に設置されているわけではない。機関車のほとんどには両端に運転台が設置されているが、センターキャブの機関車では両側へ進行するときに兼用される運転台が中央に1つ設置されている。また、主に北アメリカでは[[Bユニット]](あるいはブースター)と呼ばれる運転台を持たない機関車が用いられており、これは運転台を備えている[[Aユニット]]と連結してそこから制御されることを前提にしている<ref name="鉄道車両ハンドブック_136"/>。
電車は、その形式が長編成を組むことを前提にしている場合には、中間車として設計された車両には運転台が設けられない<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_108-111"/>。これは気動車も同様であるが、長編成を組むような路線では電車が用いられることが多く、気動車が投入される路線では編成が短いこともあり、中間車として運転台を持たずに設計・製造される気動車の数は電車に比べて少ない<ref name="鉄道車両ハンドブック_150-151"/>。運転台を設けた車両を制御車、設けていない車両を中間車という<ref name="鉄道用語事典_制御車_中間電動車"/>。
客車は動力がないため運転台も設置されないのが普通であるが、機関車を末端に連結して列車全体を後押しする形で運転する時に、先頭部の客車に設けた運転台から運転する形態があり、その場合には運転台が設置される。そうした客車を制御客車という<ref name="鉄道の地理学_69-70"/>。
1両の車両の両端に運転台が設けられている場合を両運転台、片方にだけ設けられている場合を片運転台という<ref name="鉄道車両ハンドブック_150-151"/>。
{{-}}
==== 扉 ====
鉄道車両の[[扉]]は、側構に設けられた外部に直接出る扉のほかに、車内を区切るために設けられた扉や、連結されている隣の車両に移るところに設けられた[[貫通扉]]などがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
引戸は扉が横にスライドして開閉する構造であり、広く用いられている。側構の内部に[[戸袋]]を設けて、そこに引き込む形で開閉される。2枚の扉が両側に開く両開き扉と、1枚の扉が片側にだけ開く片開き扉があり、通勤列車のように短時間に多人数の乗降を必要としている車両では両開きが広く用いられる<ref name="車両研究_86-89"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
吊戸は側構の外部で扉を吊って、横にスライドして開閉する構造である。引戸と異なり、側構内部に戸袋を設ける必要がなく側構を薄くでき、強度上有利などの利点があるが、プラットホーム混雑時に乗客に危険があるとの懸念がある。日本では使用例が少ないが、それ以外ではかなり見られる方式である<ref name="車両研究_90"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
開戸は[[蝶番]]によって壁に取り付けられ、蝶番を支点として回転することにより開く構造である。内側に開くものと外側に開くものがあるが、外側に開くものはホームにいる旅客に扉が衝突する危険があり、あまり用いられなくなった。初期の客車ではコンパートメント式で、車外側に開く開戸が一般的であった。内側に開くものは、乗務員用の扉に広く見られる<ref name="車両研究_84-85"/>。
折戸は、2枚の扉が蝶番でつながっており、折り畳まれる形で開く扉である。2枚で構成される片開きのもののほか、これを2組設置して両側に開く4枚折戸もある。車体強度上不利な戸袋を設ける必要がなく、広い開口面積を確保できるため、一部の車両で用いられている。ただし開戸同様に扉の動作域があって乗客を巻き込む恐れがあるという問題のほか、気密性を確保しづらく寒冷地での使用が難しい<ref name="車両研究_93-94"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
[[プラグドア]]は、扉がいったん外側または内側に動いた後、車体と平行にスライドして開く構造で、複雑な機構のため高価であるが、外板と扉部分が平坦になり見た目がよくなるとともに、高速鉄道では空気抵抗の削減を期待できる。ヨーロッパでは[[ライトレール|LRT]]でも広く用いられている。外側スライド式では戸袋を必要としないという長所もある。ただしプラグドアは上述したように、動作機構が複雑であるため高価であるという問題がある<ref name="車両研究_90-92"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
この他に、荷物車に[[シャッター]]式の上下に動かして開閉する扉が用いられた例がある<ref name="車両ドアの分類学"/>。
1両の車両の片側の側面にある扉の数は、0個から6個程度である。[[食堂車]]など、外部から直接乗車することを想定していない車両では扉を設置しないことがある。一方で通勤用の車両では迅速な乗降のために扉の数を増やす傾向にある<ref name="車両研究_95-98"/><ref name="ドアに関する12章"/>。
古い時代の鉄道車両では、そもそも扉がなくオープンデッキのスタイルのものがあった。そうしたものでも、高速化するにつれて柵を付けるようになり、やがて扉が付けられるようになった。この扉の開閉は古くは手動であったが、乗降時間の短縮や駅員・乗務員の労力軽減、安全性の向上といった目的で自動化が行われるようになった<ref name="車両ドアの分類学"/>。車掌または運転士の取り扱う車掌スイッチにより一斉に開閉される。扉を開閉するのはドアエンジンにより、空気圧式のものと電気式のものがある<ref name="車両研究_107-111"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_118-121"/>。
車内の温度維持等の目的で、すべての車両の扉を同時に開閉させるのではなく、旅客が乗降する時に必要とされる扉のみを旅客の意思で開けられるようになっているものがある。乗客が手で開けるが、機械で一斉に閉めることができる方式を半自動式という。また乗客が手作業で扉を開閉するのではなく、扉脇に設けられた押しボタンを操作することで開閉させられるものもある。扉の数が多い通勤車両などで長時間停車時の車内温度維持の目的で、大半の扉を閉めて一部のみ開けて残す機構を備えたものもある<ref name="車両研究_107"/>。
自動ドアでも、事故等の非常時に旅客が避難脱出できるように手動で開けられるようにする[[ドアコック]]が付いているものがある<ref name="ドアに関する12章"/>。
==== 窓 ====
[[窓]]は、鉄道車両では運転台の前面、客室の両側、妻面、扉など様々な場所に付けられている。固定された構造のものと、開閉可能なものがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_122-124"/>。
運転台の前面の窓にはフロントガラスがはめ込まれており、一般に固定された構造である。ただし側面の窓を開けられるようになっているものもある。また、乗務員用扉に取り付けられている窓は一般に開閉可能である。運転台と客室またはデッキを区切る壁にも窓が設置されていることがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_122-124"/>。
客室では側面に窓が設置されている。固定式のもの、一段上昇式のもの、一段下降式のもの、二段に分かれていてそれぞれが上昇、あるいは下降するもの、内側に傾いて開くもの、引き違いで横にスライドして開くものなどがある。戸袋にも固定式の窓が設置されていることがある。妻面にも窓を設置することがある。また、扉自体に設置されていることもある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_122-124"/>。
[[窓ガラス]]としては[[強化ガラス]]や[[合わせガラス]]が用いられる。2枚のガラスの間に空気層を設けた[[複層ガラス]]も用いられることがある<ref name="電車のメカニズム_114-115"/>。
また、多くの客室の側面窓には[[カーテン]]などの遮光装置が設置されている。上部から引き降ろして所定の位置で止められる巻上カーテン式、一般家庭のカーテンのように横から引っ張って閉める横引カーテン式、2枚のガラスの間に[[ブラインド]]が設置されているベネシャンブラインド式、金属または木製のよろい戸を使うよろい戸式などがある。巻上カーテン式の場合、[[カーテンレール]]にある窪みに金具を引っ掛けて止めるものと、任意の位置で止められるフリーストップ式のものがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_126-127"/>。
==== 座席 ====
{{Main|鉄道車両の座席}}
座席の配置形態としてはロングシート、クロスシート、セミクロスシートなどがある。その鉄道車両が投入を予定されている用途に応じて車内の座席の配置の仕方は異なっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_128-133"/><ref name="車両研究_125-143"/>。
座席の表面には難燃性[[モケット]]、ビニールレザー、平織物、皮革などが用いられている。内部にはばねを入れて、その周りにポリウレタンフォームやビニールフォーム、フェルトなどを詰め物としている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_128-133"/>。
==== 照明 ====
車両の[[照明]]は、古くはオイルランプが用いられていたが、ピンチガスによる照明を経て[[白熱灯]]に変わり<ref name="蒸気機関車の興亡_140"/>、現代では[[蛍光灯]]が主流となっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_134-135"/>。また、読書灯などで[[LED照明]]が用いられることもある<ref name="車両研究_286-289"/>。一般に天井に照明器具が取り付けられ、そこに蛍光灯が取り付けられている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_134-135"/><ref name="車両研究_286-289"/>。直接蛍光灯が露出しているタイプは通勤用車両など低コストな車両に多く、より高級な車両になると蛍光灯の周囲をカバーで覆っている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_134-135"/><ref name="車両研究_286-289"/>。関西民鉄などでグレード感にこだわって、一般車両でもカバーを装着している例がある<ref name="車両研究_286-289"/>。一等車など特別な車両では[[照明#照明方式|間接照明]]も用いられる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_134-135"/><ref name="車両研究_286-289"/>。
客室の直接の照明のほかに、トイレの照明や行き先表示装置の照明などもある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_134-135"/>。
==== 空調装置 ====
客室内では多人数の旅客と乗務員が過ごすため、[[換気]]に配慮して設計が行われる。強制通風式と自然通風式がある。強制通風式では送風機を設置し、吸気と排気の両方を強制的に、あるいは吸気のみ、排気のみを強制的に行う。自然通風式では[[ベンチレーター]]を屋根の上などに設置して通風を行う<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_139"/><ref name="車両研究_256-261"/>。
[[暖房]]はかなり古くから多くの旅客車に装備されている。石炭や[[薪]]を車内の[[ダルマストーブ]]などで焚く暖房は古くから使われていた<ref name="蒸気機関車の興亡_138"/>。コンパートメント車両では温水や[[酢酸ナトリウム]]を利用した[[湯たんぽ]]による足元暖房<ref name="Jenkinson1996"/>や、車内に設置された小型ボイラーによる温水循環暖房が用いられていた<ref name="Jenkinson1996"/>。[[蒸気暖房 (鉄道)|蒸気暖房]]は、蒸気機関車または機関車や[[暖房車]]に搭載された[[蒸気発生装置]]からの蒸気を客室内の蒸気管に通して暖めるものであるが、蒸気機関車がなくなるにつれて次第になくなっていった<ref name="車両研究_263-264"/>。[[電気暖房 (鉄道)|電気暖房]]は電気式のヒーターにより車内を暖める<ref name="車両研究_262-264"/>。気動車ではエンジンの排気熱で温める温水暖房もある<ref name="車両研究_263"/>。また冷房が搭載されている車両では[[ヒートポンプ]]式もある<ref name="車両研究_262-263"/>。
[[冷房]]は、第二次世界大戦前から装備されている車両もあったが、普及するようになったのは第二次世界大戦後のことで、通勤車両などでは1970年代からである<ref name="車両研究_265"/><ref name="電車のメカニズム_255"/>。電力消費が大きく、電源の確保に注意を払う必要がある<ref name="車両研究_274-275"/>。[[機関直結式冷房装置]]のようにエンジンから直接圧縮機を駆動して冷房を稼動させる形式もある<ref name="車両研究_276"/>。車内への冷気送り出しは天井部分に設置したダクトから行われるのが一般的である<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_135-138"/><ref name="車両研究_268-271"/>。室外機の配置の仕方により、[[集中式冷房装置|集中式]]、[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]、[[分散式冷房装置|分散式]]などがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_135-138"/><ref name="車両研究_265-267"/>。
==== トイレ ====
{{Main|列車便所}}
長距離列車に用いられる車両などには、トイレが設置される。扉を持った個室に便器と手洗いが設置されている。洗浄用の水はタンクに貯留されていて、必要に応じて車両基地などで補給されている。かつては便器から流された汚物は線路に垂れ流されており、これによる衛生上の問題があった。汚物を粉砕し消毒してから排出する粉砕式も試みられたが、異物を巻き込んで故障する問題が絶えず、しかも汚物を車外に排出するという方式には変わらなかったこともあり、抜本的な解決策とはならなかった。汚物をタンクに貯蔵する方式は、タンクがすぐに溢れてしまう問題があり、汚物に含まれる水分を濾過・処理して便器の水洗に再利用する仕組みが考案されてから広く普及するようになった。JRグループでは2002年3月に垂れ流し式の完全廃止を達成したが、世界的に見ればまだ垂れ流し式は多い<ref name="列車便所物語"/><ref name="列車トイレの技術130年史"/><ref name="車両研究_290-297"/>。
==== 連結器 ====
{{Main|連結器}}
[[連結器]]は隣の車両と連結して編成を構成する装置である。[[連結器#密着連結器|密着連結器]]、[[連結器#自動連結器|自動連結器]]、[[連結器#ねじ式連結器|ねじ式連結器]]などの各種の連結器がある。その他に、ブレーキ用の空気圧を供給するブレーキ管や、電気配線などを連結する[[ジャンパ連結器]]などが車両の間で繋がれる<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_64-69"/>。
==== 貫通路 ====
{{Main|貫通扉}}
貫通路は車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路である<ref name="車両研究_115-119"/>。踏み板と貫通[[幌]]、貫通扉などで構成されている<ref name="車両研究_115-119"/>。貫通幌は、蛇腹状の構造のものが一般的に使われているが、太い管状のゴムを組み合わせた例もある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_69"/>。貫通路に扉を設けるかは車両により、設けないことで見通しをよくし開放感を演出できるが、風が吹き抜けて冬に寒くなることや、騒音の問題、そして火災時の延焼防止などの観点から貫通扉を設置することがある<ref name="車両研究_115-119"/>。
また、高速鉄道などで騒音と空気抵抗の低減を狙って連結部車体全周に幌を取り付けたものもある<ref name="N700系"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_69"/>。
=== 走り装置 ===
{{Main|鉄道車両の台車|二軸車 (鉄道)}}
走り装置あるいは走行装置は、鉄道車両がレール上を走行するために必要な車輪、車軸、軸受といった構造の総称である。車体と荷重を支え、レールに沿って車体を案内し、駆動装置や制動装置が発生させる駆動力・制動力を車輪と車体の間で伝達する役割を果たす<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_212-213"/><ref name="電気鉄道ハンドブック_305"/><ref name="鉄道工学ハンドブック_172"/><ref name="日本の貨車_267"/>。
鉄道車両では、軸受が車体に固定されていてカーブに沿って向きを変えることができないものと、[[鉄道車両の台車|台車]]に軸受が取り付けられていて車体に対して台車が回転することでカーブに沿って向きを変えられるようになっているものがある。前者を、1両あたりの車軸が2軸の場合を[[二軸車 (鉄道)|二軸車]]、3軸の場合を三軸車といい、後者を[[ボギー車]]という。ボギー車の台車にも、2軸台車、3軸台車などがある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_212-213"/>。
[[ファイル:Bogie-car.svg|center|400px]]
ボギー車と二軸車の概念を図で示す。図の上がボギー車で、下が二軸車である。ボギー車では、台車に車軸が取り付けられているので、台車が車体に対して回転することでカーブで車輪がカーブの方向を向くことができる。一方、二軸車は車軸が車体に直接取り付けられているので回転することはない<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_212-213"/>。
ボギー車では、多少の軌道の不整があっても滑らかに走行することができるという長所がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_212-213"/>。走行性能の差から、二軸車では最高速度が低く留められており、日本では75 [[キロメートル毎時|km/h]]に制限されているが、ボギー車はこれよりずっと速く走ることができる。また脱線への安全性という面で見てもボギー車の方が有利である。一方、2軸ボギー台車2つを備えた4軸の車両と二軸車では、同じ[[軸重]]での搭載量はボギー車が二軸車の2倍にできるが、車体が長くなる分車体強度を向上する必要があること、台車そのものの構造が複雑で重量がかさむことなどから、総合的な積載効率には大きな差はない。かつては、商取引の単位が小さくボギー車では輸送力が過剰であることを理由に、日本やヨーロッパの貨車は二軸車が主流であったが、輸送単位の問題はコンテナの採用で解決し、走行性能を重視して貨車でもボギー車を採用するようになってきている<ref name="鉄道車両ハンドブック_217"/>。
蒸気機関車では、シリンダーからコネクティングロッドで動輪を駆動する関係で、動軸は車体に固定されていて曲線に沿って回転させることができないものが普通である。曲線での走行性能を改善するために、若干の横方向の移動を許容したり、一部の車輪のフランジを削ったりしている。一方蒸気機関車でも先輪や従輪などの動力のない車輪については台車構造が標準である<ref name="蒸気機関車メカニズム図鑑_162_186"/>。
二軸車では、車軸同士の間隔のことを固定軸距([[ホイールベース]])という。これに対してボギー車では、台車における車軸の間隔を固定軸距といい、台車同士の距離は台車中心間距離(ボギーセンター間距離)という<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_212-213"/>。固定軸距が長くし台車の回転抵抗を大きくすると直線での直進性能がよくなるが、曲線での操向性能が悪化する。このため、両者の特性の調和を図る必要がある<ref name="鉄道車両ハンドブック_200"/><ref name="台車技術の動向と展望"/>。
二軸車のほかに三軸車というものも存在する。三軸車は曲線通過時の問題が大きく走行性能が悪いが、車両の費用や工数、消費する資材に比べて荷重を大きくできることから採用された例がある。その際には中央の軸に横動を許容するなどの対策が必要となる<ref name="日本の鉄道車輌史_150-151"/>。またボギー車においても、[[ボギー台車]]に3つの車軸を備えた三軸台車というものが存在し、さらに四軸のものも見られる。逆に[[一軸台車]]というものもある<ref name="日本の貨車_288"/><ref name="電気鉄道ハンドブック_305"/>。
[[ファイル:Jacobs bogie of EER 300.jpg|thumb|right|連接台車]]
通常の構造では1つの車体の下にボギー台車を2つずつ備えているが、2つの車体を連結する部分の下に台車を取り付けて車体同士の連結構造と一体化した台車もあり、[[連接台車]]と呼ばれる。曲線通過が容易になり車体の重心を下げられる、台車から車体がオーバーハングした部分がなく乗り心地がよいなどの利点があるが、車端部の構造が複雑になり1台車で支持する荷重が増大する、車両を切り離すことが容易ではないなどの問題もある。また連接車は、台車中心間隔に制約が設けられている関係で、車体長が短いものが多い<ref name="電気鉄道ハンドブック_305-306"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_229-230"/>。
路面電車などでは、その車体に全く車輪・車軸構造を持たずに、両側の車体によって支えられているだけの構造のものもある。これも連接車の一種とみなされる。低床式路面電車などでは、車体を下げつつ客室空間を確保する目的で、左右の車輪を車軸でつながずに独立した車輪としているものもある<ref name="低床式ライトレール車両"/>。
日本独自の珍しい方式としては、車体の片方にはボギー台車を装備している一方で、もう片方は固定車軸を備えている車両があり、[[片ボギー]]車(半ボギー車)と呼ばれる<ref name="内燃動車発達史下_38"/>。
{{-}}
==== 輪軸 ====
{{Main|輪軸 (鉄道車両)}}
[[ファイル:0 Series Shinkansen Wheel.jpg|thumb|right|[[新幹線0系電車]]の車輪]]
車輪と車軸を合わせて輪軸と称する。車輪と車軸は別に作られて、車軸にプレス機で400 - 500 [[ニュートン (単位)|kN]]程度の強い圧力を掛けて車軸より小さな取り付け穴の設けられた車輪に圧入することで車輪が車軸に固定される。車輪1枚で300 [[キログラム|kg]]前後の重量があり、両側の車輪に車軸、歯車装置などを含めると1 [[トン|t]]を超える<ref name="電車のメカニズム_62-63"/>。
ほとんどの鉄道車両の車軸には、一番外側に軸受にはめ込む軸受座があり、その内側に車輪を取り付ける輪心座がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226"/>。ただし車輪より内側部分に軸受を設置する特殊な例もある<ref name="シキ400"/>。車輪より内側には、[[ディスクブレーキ]]を使用する車両ではブレーキディスクや、動力車においては駆動装置用の歯車などが設置されている。ブレーキディスクについては、車輪より外側に設置したものもある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226"/>。
車輪は、一番外側のレールと接する面をリム部、車軸を差し込む部分をボス部、その間を結ぶ円盤状の部分をディスク部という<ref name="電車のメカニズム_60-61"/>。またディスク部とボス部をまとめて輪心、リム部をタイヤとも呼ぶ<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_225-226"/>。輪心とタイヤを別に作り、タイヤを輪心に焼嵌めしたタイヤ付車輪と、タイヤと輪心を一体に作った一体圧延車輪がある。タイヤ付車輪は、タイヤが摩耗した時にタイヤだけ取り換えられるという利点があるが、タイヤが弛緩したり割損したりするという欠点があり、そうした心配がなく焼嵌めの熟練作業が不要で、軽量で車輪の寿命が長く、品質が安定するといった利点のある一体圧延車輪が現代の鉄道車両に広く用いられるようになっている<ref name="電車のメカニズム_60-61"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_225-226"/>。路面電車などでは輪心とタイヤの間にゴムなどを挟みこんで騒音低減効果を狙った弾性車輪も使用されているが<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_225-226"/>、ドイツではこれを高速鉄道に使用して[[ICE#エシェデ鉄道事故|エシェデ事故]]を引き起こす大きな原因となった<ref name="鉄道重大事故の歴史_166"/>。車輪には一般に高[[炭素鋼]]が用いられる<ref name="鉄道車両ハンドブック_248"/>。
車輪の輪心にはもともとスポーク状のものが多かったが、強度を向上したディスク構造のものが増えている<ref name="鉄道車両ハンドブック_248"/>。ディスク状のものはそれに働く応力を考慮して、リム部が外側に、ボス部が内側になるような湾曲した形状をしていることが一般的である。これに対して電動車などでは、電動機や歯車を装荷する場所を稼ぐために逆にボス部を外側にするように湾曲した形状をしていることがあり、この場合は必要な強度を出すためにディスク部が厚くなる。両面にブレーキディスクを取り付けられるようにほぼ直線的なディスク部形状になっていることもある。また軽量化のためにディスク部を波打たせた波打車輪もある<ref name="電車のメカニズム_60-61"/>。
車輪がレールと接する面を踏面(とうめん)あるいはタイヤコンタという。踏面の形状は走行特性を決定する重要な要因である。外側に行くにつれて半径が小さくなる円錐状をしているが、実際の踏面形状はさらに複雑に定められている。車両が曲線に入ると、曲線外側の車輪はより車輪内側の半径の大きな部分がレールに接触するようになり、一方曲線内側の車輪はより車輪外側の半径の小さな部分がレールに接触するようになる。すると、曲線外側の車輪の方が曲線内側の車輪よりも1回転で進む距離が長くなり、自然に曲線内側へ曲がっていくような運動をすることになる。これにより車輪には、直線路ではレールの中央に沿って、また曲線では曲線に沿って走ろうとする力が働く。タイヤが摩耗してくると円滑な走行が阻害されるため、削正を行って正しい踏面形状に戻す保守作業が行われている。踏面形状は、脱線への耐性が高く、走行安定性に優れ、摩耗が少なく検査の手間がかからないことが求められるが、しばしば条件が相反する難しいものとなる。踏面の円錐形の傾きを踏面勾配と呼び、大きいほど曲線を通過しやすくなるが、直線において[[蛇行動]]が発生しやすくなるという問題がある<ref name="電車のメカニズム_67-76"/><ref name="鉄道用語事典_タイヤコンタ"/>。
車輪の一番内側には[[フランジ]]が設けられており、脱線を防ぐ働きをする。[[国際鉄道連合]] (UIC) が定める標準踏面形状では、フランジの高さは27 [[ミリメートル|mm]]、角度は59度とされている<ref name="鉄道用語事典_タイヤコンタ"/>。フランジ角度を大きくするほど脱線を防ぐ効果が大きいが、摩耗時の削正量が増大し、車輪の交換間隔が短くなって不経済であるという問題がある。新幹線では脱線防止を重視して角度を70度としている<ref name="鉄道車両ハンドブック_250-251"/>。
{{-}}
==== 軸受 ====
[[軸受]]は車軸を収めて車体の荷重を車軸に伝える装置である。一般に軸箱と呼ばれる箱に組み込まれている。かつては[[すべり軸受|平軸受]]が多く使われていたが、軸受側にも回転するコロ状の装置を取り付けた[[転がり軸受|コロ軸受]]が一般的となった。円錐コロ軸受では、車軸が軸受に対して軸方向に移動することが全くできないが、円筒コロ軸受ではわずかに軸方向の移動を許容している。軸方向の移動は末端のスラスト受によって受け止められる<ref name="鉄道車両ハンドブック_260-262"/><ref name="電車のメカニズム_64-65"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226"/>。
==== 軸箱支持装置 ====
[[ファイル:二段リンク 01.gif|thumb|right|軸箱と軸箱支持装置]]
軸箱の前後左右上下への多少の動きを許容するようにしながら、台車枠(二軸車の場合は車体)に対して支える構造のことを軸箱支持装置と呼ぶ。右図に示したのは、二軸車で多く使われている[[二軸車 (鉄道)#二段リンク式|二段リンク式]]の懸架装置である。中央の青い箱状の構造が軸箱である。軸箱は前後左右に移動することができないように軸箱守(じくばこもり)で固定されており、図では軸箱の両側のグレーの構造が軸箱守である。これに対して上下方向へは、動揺を吸収して安定して走行し乗り心地を改善するために、ばねを設けて軸箱が動くことを許容する仕組みになっている。軸箱の上下方向の動きを許容し荷重を伝えるばねを軸ばねといい、図では黄色い板ばねになっている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_216-219"/><ref name="電車のメカニズム_65-69"/>。
例として示したのは軸箱守式の軸箱支持装置であるが、このほかに円筒案内式、軸梁式、板ばね式、リンクアーム式、ゴム式など各種の方式がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_216-219"/><ref name="電車のメカニズム_65-69"/>。
{{-}}
==== 台車枠 ====
台車枠は、台車全体の構造を形成している枠組みで、車体支持装置を通じて上部に車体を載せ、軸箱支持装置を通じて下部に軸受・輪軸を備えて、車体の重量を輪軸へ伝達する役割をしている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_214-215"/>。基礎ブレーキ装置を搭載してブレーキ機構を形成している<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226-228"/>。また動力台車の場合、動力に関する機構も台車枠に装荷される<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_214-215"/>。
==== 車体支持装置 ====
{{Main|枕ばね|ボルスタアンカー}}
[[ファイル:Bolster track.gif|thumb|right|ダイレクトマウント台車の構成]]
車体支持装置は、台車の回転を許容しながら車体の荷重を支えるための機構である。ボルスタつき台車の場合は、揺れ枕の機構を用いて左右方向の動揺を吸収緩和しながら、[[枕ばね]]の機構により上下動を吸収している。車体と台車の間の回転は、枕ばりと台車の間で行われる機構になっている。一方、揺れ枕の機構を廃して[[空気ばね]]により荷重を支えながらばねの変位により回転に対処する[[ボルスタレス台車]]が増加しつつある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_223-225"/>。
{{-}}
==== 駆動装置 ====
動力機構で発生させた動力を車輪に伝達する機構は様々なものがある。
電気車では電車でも電気機関車でも一般的にはモーターが台車に装荷されている<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_62-63"/>。ただしTGVのように車体側に装荷されているものもある<ref name="TGV_21"/>。[[吊り掛け駆動方式]]の場合は、台車枠と車軸の間にモーターが掛け渡されている構造になっており、一方[[カルダン駆動方式]]の場合はモーターは台車枠側に固定して装荷され、そこから[[カルダンジョイント]]を通じて車軸を駆動している<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_62-63"/>。他に[[クイル式駆動方式]]、モーターの回転軸が直接車軸になっている[[ダイレクトドライブ]]方式などの例もあり、また初期にはクランクを使って車輪を駆動する方式も見られた<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_62-63"/>。
内燃車では動車でも機関車でも、車体側にエンジンと変速機が搭載されており、そこからドライブシャフトで台車枠に装荷された[[減速機]]を駆動して、減速機が車軸を駆動している<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_52-57"/>。ただし電気式の場合は発電してその電力で電気車と同様の機構を駆動する<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_45"/>。
蒸気機関車では、クランクで車輪を駆動する方式が大半である。しかし[[ギアードロコ]]のように歯車を介して車輪を駆動する方式もある<ref name="鉄道用語事典_蒸気機関車の仕組み_蒸気機関車の種類"/>。
==== 制動装置 ====
{{Main|鉄道のブレーキ}}
鉄道車両のブレーキは大別して車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)で作用する粘着ブレーキと、それ以外の非粘着ブレーキがある<ref name="鉄道車両ハンドブック_229"/>。
粘着ブレーキの中でも機械式のものは、人力あるいは機械力によるものがある。機械力は、[[蒸気ブレーキ]]、[[真空ブレーキ]]、[[空気ブレーキ]]、油圧ブレーキなどの各種がある。いずれもブレーキシリンダーを動力源として[[制輪子]]を動かして車輪の回転を止める仕組みになっている。制輪子を当てる先が車輪の踏面のものが[[踏面ブレーキ]]、ブレーキディスクのものが[[ディスクブレーキ]]である。ブレーキシリンダーから制輪子を動かすまでの機構は基礎ブレーキ装置と呼ばれ、台車(固定車軸の車両は車体)に装荷されている。制輪子としては昔から鋳鉄制輪子が用いられてきたが、近年ではレジンなど合成材料を用いることもある<ref name="鉄道車両ハンドブック_230-231"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226-228"/>。
これ以外の粘着ブレーキとしては、電気車では[[発電ブレーキ]]や[[回生ブレーキ]]などのモーターを発電機として使用して制動力を得るものがあり、また内燃車では[[エンジンブレーキ]]のように原動機の回転力を利用したもの、変速機で発熱損失を利用して制動力を得る[[リターダ]]などがある<ref name="鉄道車両ハンドブック_238-241"/>。
非粘着ブレーキには、[[電磁吸着ブレーキ]]、[[渦電流式レールブレーキ]]などの種類がある<ref name="鉄道車両ハンドブック_242"/>。
==== 特殊な台車 ====
===== 車体傾斜台車 =====
{{Main|振り子式車両}}
車体傾斜台車は、曲線において車体を台車に対して傾ける機構を備えていて、[[遠心力]]による乗客の乗り心地への影響を低減することで、曲線の高速走行を可能にする台車である。日本の在来線ではコロ機構により車体を支えて、必要な時に回転させる振り子方式が主流で、カーブ走行時の遠心力で受動的に車体を傾ける[[振り子式車両#自然振り子式|自然振り子式]]と、油圧や空気圧などのアクチュエータなどを用いて強制的に車体を傾ける[[振り子式車両#強制車体傾斜式|強制車体傾斜式]]がある<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_230-231"/>。
===== 自己操舵台車 =====
[[鉄道車両の台車#輪軸操舵機構(操舵台車)|自己操舵台車]]は、安定性を保ちながら曲線に沿って舵を取って曲がる台車で、複数の方式が研究されている。軸箱支持装置の工夫で、曲線に沿って車輪の向きを変えられるようにする技術があり、リンクで結合してステアリングを実現するシェッフェル台車や油圧により同様の動作を実現する機構などがある<ref name="台車技術の動向と展望"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_231"/>。
=== 動力機構 ===
==== 電気車 ====
{{Main|電気車の速度制御}}
電気車では、[[集電装置]]から電力を取り入れて、制御器により所望の電圧・周波数などに変換して電動機を駆動している<ref name="鉄道車両ハンドブック_36-37"/>。
集電装置は、現代では多くがパンタグラフであり、屋根の上に装備されている。避雷器と断路器を通って車内の回路に電流が流れる。第三軌条方式では集電靴から電力を取り込む<ref name="鉄道車両ハンドブック_52-54"/><ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_59"/>。
直流車の場合は、この電力を運転台からの指令に応じて[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]、[[電機子チョッパ制御]]、[[界磁チョッパ制御]]、[[界磁添加励磁制御]]、[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]などの各種の制御方式により必要とされる電圧・電流・周波数に変換する。交直車は直流区間では直流車と同じで、交流区間では主[[変圧器]]で電圧を落としてから[[整流器]]を通して直流に変換し、直流時と同じ回路につなぐ。交流車では[[電気車の速度制御#タップ制御|タップ切替制御]]や[[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]]などにより電圧・電流・周波数の変換を行っている<ref name="鉄道車両ハンドブック_42-46"/><ref name="詳解鉄道用語辞典_交直車両"/>。
制御器で変換された電力は電動機に供給され、電動機が車軸を駆動している<ref name="鉄道車両ハンドブック_36-37"/>。
==== 内燃車 ====
{{Main|気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式}}
内燃車では、搭載された内燃機関により回転力を得る。電気式ではこの回転で発電機を駆動し、得た電力により電気車と同様の制御を行っている。機械式では歯車式の[[変速機]]により、液体式では[[トルクコンバータ]]により変速して、推進軸により台車に装荷された減速機を駆動し、減速機が車軸を駆動している<ref name="鉄道車両ハンドブック_115-128"/>。
== 歴史 ==
{{Main|鉄道車両の歴史}}
鉄道車両は、鉱山の輸送などに用いるために考えられたトロッコが出発点となっている<ref name="輸送の安全からみた鉄道史_11-12"/>。その後、蒸気機関車が発明されるとともに近代的な輸送機関として発展するようになった<ref name="輸送の安全からみた鉄道史_20-42"/>。初期の客車は[[馬車]]の延長線であったが<ref name="輸送の安全からみた鉄道史_224-225"/>、やがて大型化と高速化のために台車を用いたボギー車が発達した<ref name="蒸気機関車の興亡_133-135"/>。19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、電気を動力とする鉄道車両と<ref name="鉄道の地理学_58-60"/>、内燃機関を動力とする鉄道車両が開発されて、次第に普及していった<ref name="鉄道の地理学_65-68"/>。第二次世界大戦後には各国で蒸気機関車は電気・ディーゼル動力へ置き換えられていった<ref name="蒸気機関車の興亡_308-320"/>。また動力分散方式が広く普及するようになり<ref name="鉄道の地理学_69-70"/>、高速鉄道も開発されるに至った<ref name="鉄道の地理学_368"/>。
== 鉄道車両の形式・車両称号 ==
{{Main|鉄道の車両番号|鉄道の車両愛称}}
鉄道車両には、その種類や使用目的を示すために形式が与えられる<ref name="詳解鉄道用語辞典_形式称号"/>。一般的に形式は、アルファベット、カナ、数字などを組み合わせた文字列で構成されている<ref name="RTRI車両形式"/>。形式の与え方は鉄道事業者によって様々であり、統一されたものはない<ref name="鉄道用語事典_車両の称呼・記号・番号"/>。さらに個別の車両には製造番号が与えられ、形式と製造番号を合わせて車両称号と呼ぶ。車両称号は、各車両に必ず表記されることになっている<ref name="詳解鉄道用語辞典_車両称号"/>。
車両に与えられる称号は記号や番号に限らず、固有の名前として与えられることがある。特に初期の[[イギリスの鉄道]]などでは固有の名前だけで車両が区別されていた頃があった。やがて車両の数が増えるにつれて番号による管理が一般的となっていったが、番号とは別に固有名詞を与える例も多かった。蒸気機関車で、形式全体を表す愛称と、個別の機関車の愛称が付けられていた例もあった<ref name="イギリスの鉄道_104-139"/>。
設計が多少変更されたが別形式にするほどではない場合には、番台分けが行われることがある。これは車両個別を区別するための番号について、途中を飛ばして100番からなどきりのよいところから次の番号を与えることで区別するものである<ref name="新幹線_51"/>。
国鉄・[[JR]]については[[国鉄の車両形式]]・[[JRの車両形式]]で形式の与え方が説明されている。日本の[[私鉄]]についてはそれぞれの会社記事の中で説明されている。
また、編成単位に編成番号を表示している事業者もある。これは編成を構成している個別の車両の番号とは別個に、編成全体を識別するために与えられている番号である<ref name="新幹線_67-69"/>。[[ドイツ]]の[[ICE]]のように編成に固有名を与えている例もある<ref name="ICE編成名"/>。
== 編成 ==
{{Main|編成 (鉄道)}}
鉄道車両は、列車として使用する際に単独ないしは2両以上組み合わせて使用される。その際の使用車両の組み合わせを[[編成 (鉄道)|編成]]という<ref name="車両研究_11-14"/>。1両のみで運行される場合、「1両編成」または「単行」、「単機」(機関車の場合、単行機関車の略)という<ref name="車両研究_11-14"/><ref name="詳解鉄道用語辞典_単機"/>。
編成を構成する際には、必要な輸送力を想定して両数を決定し、動力車の配置や電源の容量などの技術的な必要性を考慮する。サービス面では、[[グリーン車]]のような優等車の必要性、[[食堂車]]やラウンジカーなどのサービス設備の配置、トイレの数などを考慮する<ref name="車両研究_18-22"/><ref name="列車編成の形成事情"/>。
編成のうち、輸送力が最小時の必要両数で組成された部分を基本編成、輸送力増強のための増結編成を付属編成と言う。また、列車全体を単位として電源やサービス設備を設計する手法を固定編成と言う。固定編成の場合、走行に必要な機器を編成中の各車両に分散配置することが普通で、その場合単独で走行することができない車両が生じることになる<ref name="車両研究_15-17"/>。
これらを運転中に[[増解結|編成落とし]](列車の増結、解結)をしたり、分離運転([[多層建て列車]])したりする<ref name="車両研究_15-17"/>。
== 塗装 ==
鉄道車両の[[塗装]]は、基本的には車体の腐食防止を目的として実施される。このため本来は1色塗りで十分であり、古い時代の車両では汚れが目立たない塗装として黒や茶の1色塗りが広く用いられていた。ステンレス鋼やアルミニウム合金などの錆びることのない材料が車体に使用されるようになると、腐食防止を目的とした塗装の必要はなくなった。塗装にはそのための設備が必要とされ、年月とともに塗幕が劣化していき再塗装が必要となって経費がかかることや、塗料に[[有機溶剤]]が含まれていて作業者の健康管理上の問題があることなどから、無塗装化は鉄道会社の経営的には歓迎されるものである<ref name="車体を彩る"/>。
一方で、複数の色で塗り分けたり、明るく鮮烈な色を用いた塗装を施したりするのは、外観のデザイン性を意識したものである。特に優等車両では、錆びることのない材料を車体に使用していても意匠上の理由で塗装を実施することがある。また路線や列車の識別を狙って、路線ごとに異なる色を採用する(ラインカラー)例もある。ステンレス車体の車両などでは、ラインカラーのような識別を目的とした塗装の代わりに帯状のステッカーやフィルムの貼付で代えることがある。これにより、それまでの塗装では困難であった多色の使用などが可能となった。またこうした技術を利用して車体全体に広告などを実施した[[ラッピング車両]]が実現された<ref name="車体を彩る"/>。
== 導入方法 ==
車両の導入には鉄道会社の資産となる購入、リース会社に費用を支払って使用する[[リース]]などがある。過去には信託車両による導入もされていた。
; 信託車両
=== 国鉄時代の用語 ===
[[公共企業体]]である[[日本国有鉄道]](国鉄)の予算は、[[国会 (日本)|国会]]で予算の承認が必要である<ref name="jtoa1971-9">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1971年9月号これだけは知っておこう「車両計画について」pp.39 - 42(浪岡 貞弘 国鉄・運転局車務課補佐)</ref>。そのため、車両導入の予算区分には独特の用語が使用されている<ref name="jtoa1971-9"/>。
; 債務負担行為
* 「債務車両」と略され、翌年度の予算が決定する前の「予算の先食い」による車両導入である<ref name="jtoa1971-9"/>。すなわち、前年度予算で翌年度予算の一部として承認された予算から導入する車両である<ref name="jtoa1971-9"/>。
; [[本予算]]
* 国会で当年度の予算承認後に導入される車両である<ref name="jtoa1971-9"/>。6月頃に発注され、10月から翌年3月末までに導入される<ref name="jtoa1971-9"/>。
; 民有車両
* 借入車両とも呼ばれ、国鉄と車両メーカーとで[[賃貸借|賃貸借契約]]を結び、国鉄が車両メーカーに対して[[減価償却]]費に[[利子|金利]]を加えた賃貸借料を支払って車両を使用するものである<ref name="jtoa1971-9"/>。車両は5年以内に国鉄が購入するものとされ、購入価格は新製当初の車両価格から減価償却費を差し引いた残存価格となる<ref name="jtoa1971-9"/>。なお、国鉄が購入するまでは、正式には国鉄の財産ではない<ref name="jtoa1971-9"/>。
== 製造から廃車解体まで ==
=== 企画 ===
鉄道車両の新規の製造のための企画は、新規の路線開業・列車の増発・電化や高速化などの輸送改善に伴う置き換え、老朽化した車両の置き換えなどの理由で行われる。鉄道車両は自動車に比べて耐用年数が長く30年から40年程度使用することも珍しくないため(帳簿上の耐用年数は電車が13年、気動車が11年であるが、製造から廃車までの間に大規模な更新工事を1 - 2回行うことで耐用年数を延長して使用することが通常である)、長期的な計画に基づいて新造計画が立てられる<ref name="鉄道車両ハンドブック_297-299"/>。
必要となる車両数は、投入を予定している路線の列車ダイヤや既存の車両の廃車の進行予定を検討しながら決定される。鉄道車両メーカーの生産能力は限られているため一度に大量生産することはできず、複数年にわたって継続的に発注が行われることが一般的である<ref name="鉄道車両ハンドブック_297-299"/>。短期間に大量に生産すると製造単価を引き下げることができるが、その車両の更新時期が一度にやってくるという問題もある<ref name="車両研究_351-352"/>。
どのような車両を製造するかは、その車両の用途、輸送改善の必要性、鉄道会社のイメージアップ、経営の合理化など様々な要素を考慮して決定される。特急列車用のような看板車両では性能とともにイメージアップの要素に注意が払われ、通勤列車用の車両ではコストダウンに重点が置かれる。特殊な設計の車両を少数導入することは新製・保守の費用の点から好ましくなく、同じ設計の車両をある程度まとまった数導入できるように考慮する必要がある<ref name="車両研究_351-352"/>。費用の削減をより推し進めるために、鉄道会社やメーカーを越えてできるだけ共通化した設計を導入する、標準化・規格化の動きもある<ref name="車両研究_353-357"/>。
=== 設計 ===
どのような車両を新製するかの方針が決まると、具体的な設計が行われる。誰が設計を行うかは国や鉄道事業者に応じて、また時代によっても異なっている。
鉄道の始まった初期には車両メーカーと鉄道事業者は未分化で、鉄道事業者自体が新製車両の設計を行い部内の工場で製作していた。とくにイギリスの鉄道は、部内の工場で設計から製造まで一貫して行うことが主流であった<ref name="鉄道車両ハンドブック_299-300"/><ref name="200年史_214"/>。鉄道事業者内部で設計・製造を担当する最高責任者は多くの事業者で技師長 (Chief Mechanical Engineer)、あるいは機関車(汽車)監察方(総監督) (Locomotive Superintendant) と呼ばれ、技師長が責任を負って機関車の設計・製造を監督していた<ref name="200年史_74-76"/>。
一方、鉄道会社とは独立した鉄道車両メーカーも存在する。この場合設計を行うのは鉄道車両メーカーである場合と、鉄道事業者である場合がある。日本やドイツなどでは、鉄道事業者が車両メーカーと共同で設計を行い発注することで、少数の形式を量産する形態を採用していた。アメリカでは、蒸気機関車の時代には鉄道会社が設計したものを車両メーカーに発注して製造させていたが、ディーゼル機関車の時代になるとメーカーが設計したラインナップから選択する形となった。イギリスやフランスなどではディーゼル機関車の時代になると、メーカーが設計したものを購入していたため、多くの形式が見られるようになった<ref name="鉄道車両ハンドブック_131"/>。
既に製造されている車両のマイナーチェンジ程度であれば、比較的速く設計から製造に移ることができる。全くの新形式を1から設計する場合には1年半程度の設計・試作期間を費やし、その後1年程度[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車両]]の試運転で問題点の洗い出しをし、さらに1年程度費やして修正設計と量産化というスケジュールが一般的である<ref name="鉄道工学ハンドブック_174"/>。機関車の場合で、1形式につき2,000枚を超える図面が作られる<ref name="鉄道車両ハンドブック_299"/>。
=== 製造 ===
鉄道車両は複雑な構成をしているため、車両のすべてをメーカーで直接製造することはなく多くの部品を部品メーカーから購入して取り付ける<ref name="しくみ_199"/>。時には廃車・解体された車両から取り外された部品を転用することもあり、そうした車両から回収された部品のことを「廃車発生品」と呼ぶ<ref name="車両研究_343"/>。車両価格のおよそ半分が部品購入費である<ref name="しくみ_199"/>。
鉄道車両の製作に要する時間は車種によって異なり、設計が完了した後、機関車で8か月程度、電車・気動車で6か月程度、客貨車で3か月程度とされている<ref name="鉄道車両ハンドブック_301"/>。鉄道車両の製造は自動車のように同じ車両を量産するわけではなく、様々に仕様の異なる車両を造り分ける多品種少量生産を特徴としている。またアメリカにおけるディーゼル機関車のような例を除けば、基本的に受注生産である。こうしたこともあり製造に関する作業の自動化は容易ではなく、組み立て工程の多くは現代においても労働集約的な作業となっている<ref name="鉄道車両ハンドブック_301-302"/>。
多くの国で鉄道事業者と車両メーカー・部品メーカーは強い関係があり、技術開発や使用実績のフィードバックなどで協力関係にある。国内産業保護のために国外の車両メーカーに発注する際にも国内での最終組み立てを義務付けたり、部品の購入を義務付けたりする<ref name="鉄道工学ハンドブック_175"/>。
=== 輸送 ===
{{Main|車両輸送}}
完成した鉄道車両は、メーカーの工場から実際に使用される場所(ベースとなる[[車両基地]])まで[[車両輸送]]が行われる。車両には車輪が付いていることもあり、線路がつながっていれば機関車で牽引して輸送することがある<ref name="RJessential_甲種鉄道車両輸送"/>。他に、線路を自力で走行していく事例もあれば<ref name="こうして生まれる_83"/>、[[トレーラー]]や船などによる輸送も行われる<ref name="こうして生まれる_46-53"/>。空輸された事例もある<ref name="AFPBB"/>。
=== 試運転と訓練 ===
投入される路線に到着した新しい車両は、入念な検査と試運転が行われる<ref name="しくみ_200"/>。近年の車両では[[インバータ]]などの機器から出る[[電磁波]]によって他の装置が[[誘導障害]]を起こすことがあるため、車載機器と線路側の機器の[[相互運用性]]が慎重に確認される<ref name="電気鉄道ハンドブック_723-727"/>。
並行して、その路線を担当している運転士や車掌をはじめとする乗務員の新型車両に対する訓練も行われる<ref name="こうして生まれる_83"/>。
=== 運用 ===
{{Main|運用 (鉄道)|日本の鉄道車両検査}}
試運転や訓練が完了して使用可能になった鉄道車両は[[運用 (鉄道)|運用]]に投入されることで実際の営業運転での使用が開始される。
[[鉄道運行計画]]では、車両運用という形で車両の使用計画が立てられている。「A駅からC駅まで運行した後折り返しB駅まで走る」というような計画が立てられており、そうした計画に対して実際のどの編成を充当するかが決められている<ref name="電気鉄道ハンドブック_420-421"/>。車両が1日に走行する距離は、電気機関車で約400 km、電車や気動車で約500 km、新幹線のような高速鉄道で約1,200 kmとされている<ref name="鉄道車両ハンドブック_303"/>。
運用に就いている間、鉄道車両は定期的に[[日本の鉄道車両検査|検査]]を受けることになる。初期には劣化の進行を監視して、修理が必要になった時に取り換える方式であったが、結果的に故障してから取り換えることも多く、事後保守方式となっていた。そうした経験を積み重ねるにつれ、劣化を予測して定期的に検査を行う方式が採用されるようになり、予防保守方式となっていった。部品ごとに劣化の進行の程度と、故障した場合の重要性などを評価して検査周期を定めて実施している。保守費用は鉄道の経費に占める割合が高いために、部品の信頼性が向上するにつれて検査周期を長くする(検査回帰延伸)が実施され、経費削減に効果を上げている<ref name="電気鉄道ハンドブック_360-362"/>。
ある車両が検査に入っている間、代わりに運用に就く車両として予備車が用意されている<ref name="鉄道用語事典_予備車"/>。検査の代走だけではなく事故・故障が起きて急遽修理に回された車両の代走や、臨時列車の運行にも使用される<ref name="詳解鉄道用語辞典_予備車"/>。
=== 転属 ===
大きな鉄道事業者で複数の路線・車両基地を保有している時には、路線・車両基地間で車両の転属が行われることがある。また事業者を越えて[[中古車|中古車両]]として譲渡されることもある。こうした場合には合わせて改造が行われることもある<ref name="車両研究_369-371"/>。
=== 改造 ===
鉄道車両が使用されている間に、様々な改造が行われることがある。腐蝕した部品の交換や内外装の[[リフォーム]]・装備する機器類の交換、中間車を先頭車に、あるいはその逆にする改造などがある。内装の更新については、アコモデーション(accommodation 接客設備という意味)改善、略してアコモ改善と呼ばれる<ref name="車両研究_360-380"/>。台車や台枠を流用して新たな車体を作り直すということもあり、車体更新と呼ばれる<ref name="詳解鉄道用語辞典_車体更新"/>。なお、この際改造の元となる車両のことを「'''種車'''」(たねしゃ、たねぐるま)と呼ぶ。→[[ニコイチ]]も参照。
=== 廃車・解体 ===
鉄道車両の耐用年数は車種によってまちまちであるが、[[鉄道事故|事故]]や[[災害]]などで使用不能になるケースを除くと、おおむね在来線車両で20 - 30年程度、高速運転を行う新幹線車両は十数年程度である<ref name="鉄道車両ハンドブック_306-307"/>。
鉄道車両としての登録から削除する(車籍を抜く)ことを[[廃車 (鉄道)|廃車]]という<ref name="鉄道用語事典_廃車"/>。
車両の耐用年数を決定する要素としては、物理的命数・経済的命数・陳腐的命数の3つがある。物理的命数は、車両を構成する重要部品が物理的に使用に耐えなくなる限界を指し、主に台枠や構体の耐用年数によって決定される。経済的命数は、老朽化に伴って故障が増え、修繕費が増加して新型車両に置き換えた方が安くなる年数を指す。陳腐的命数は、時代の変化やより新型の車両の投入などにより古い車両が時代遅れになることによる耐用年数を指す。近年では陳腐的命数による耐用年数の決定が主である<ref name="鉄道車両ハンドブック_306-307"/>。
廃車になった車両は多くの場合解体処分される。解体処分には主要機器を取り外して構体を溶断・切断していく方法と、重機などにより叩き壊して解体する方法がある。[[1990年代]]以降では車体などの金属をリサイクルして新型車両に使う例もあり、また車両廃車後のリサイクル率を高められるように設計する車両もあるなど、解体後の活用法まで踏まえた指針も多くなっている<ref name="こうして生まれる_128-129"/><ref name="電気鉄道ハンドブック_378-380"/>。
一部の価値が認められた車両は[[保存鉄道]]で[[動態保存]]が行われたり、公園や博物館・車両基地などで[[静態保存]]が行われることもある<ref name="詳解鉄道用語辞典_動態保存"/><ref name="詳解鉄道用語辞典_静態保存"/>。
== 鉄道車両のデザインとデザイナー ==
{{PDFlink|[http://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/43-1-04.pdf]}}
日本の鉄道車両はこれまで、[[榮久庵憲司]]、[[岡部憲明]]、[[奥山清行]]、[[川西康之]]、[[黒岩保美]]、[[島秀雄]]、[[妹島和世]]、[[星晃]]、[[水戸岡鋭治]]、[[山本寛斎]]、[[若林広幸]]といったデザイナーによりデザインされた車両も存在する。
== 鉄道工業 ==
世界でもっとも鉄道車両生産額が大きい企業は、中国の[[中国中車]]である<ref name = "東洋経済20161011" />。21世紀初頭時点では、カナダの[[ボンバルディア・トランスポーテーション]]、フランスの[[アルストム]]、ドイツの[[シーメンス]]が三大鉄道車両メーカーと称され、この3社で全体の約半分のシェアを持っていた<ref name="ALSTOM_Analyst_Day"/>。しかしその後の変動により、中国の[[中国北車]]と[[中国南車]]が1位と2位を占めるようになり、両社が合併して中国中車となった。一方でシーメンスは世界7位に転落した<ref name = "東洋経済20161011" />。
2012年時点での鉄道車両新車生産額は、1位中国北車(中国)、2位中国南車(中国)、3位ボンバルディア・トランスポーテーション(カナダ・ドイツ)、4位アルストム(フランス)、5位ウラルワゴンマーシュ(ロシア)、6位[[シュタッドラー・レール]](スイス)、7位シーメンス(ドイツ)の順であった<ref name = "sciverkehr" />。[[ボンバルディア]]はカナダの会社であるが、鉄道車両製造部門のボンバルディア・トランスポーテーションはドイツの[[ベルリン]]に本社を置いており、ヨーロッパでの従業員や売り上げの比率が高く、実質的にヨーロッパの企業である<ref name="bonbardier"/>。
2000年から2004年時点での統計では、世界市場におけるシェアは首位のボンバルディアが21%、2位のアルストムが17%、3位のシーメンスが15%で、このほかにアメリカの[[GEトランスポーテーション・システム]]が7%、同じくアメリカの[[ゼネラルモーターズ]](鉄道車両製造部門は2005年に[[エレクトロ・モーティブ・ディーゼル]] (EMD) として独立)が4%、イタリアの[[アンサルドブレーダ]]が4%などであった。ただしこの数値は鉄道車両以外の鉄道システム部門の数値を含んでいる<ref name="ALSTOM_Analyst_Day"/>。
1999年から2000年に掛けての統計では、全世界での鉄道車両生産額は約25億ユーロであった。このうち、ヨーロッパが約60%、アジア太平洋が20%、北アメリカが18%、南アメリカが2%と、鉄道車両を購入している市場の面でもヨーロッパが過半を占めている。2001年時点で、全世界に電気機関車は約2万7000両、ディーゼル機関車は約8万6000両、旅客車は約18万両、貨車は約380万両存在している<ref name="New_Opportunities"/>。
合併や倒産で現存していないものを含む鉄道車両メーカーの一覧については、[[鉄道車両の製造メーカー一覧]]を参照。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="知りつくす_16">[[#鉄道車両を知りつくす|『鉄道車両を知りつくす』p.16]]</ref>
<ref name="知りつくす_48-49">[[#鉄道車両を知りつくす|『鉄道車両を知りつくす』pp.48 - 49]]</ref>
<ref name="知りつくす_124">[[#鉄道車両を知りつくす|『鉄道車両を知りつくす』p.124]]</ref>
<ref name="流線形_216-219">[[#流線形列車の時代|『流線形列車の時代』pp.216 - 219]]</ref>
<ref name="流線形_331">[[#流線形列車の時代|『流線形列車の時代』p.331]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_44">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』p.44]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_44-45">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.44 - 45]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_45">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』p.45]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_52-57">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.52 - 57]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_59">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』p.59]]</ref>
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<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_225-226">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.225 - 226]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』p.226]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_226-228">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.226 - 228]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_229-230">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.229 - 230]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_230-231">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』pp.230 - 231]]</ref>
<ref name="鉄道車両メカニズム図鑑_231">[[#鉄道車両メカニズム図鑑|『鉄道車両メカニズム図鑑』p.231]]</ref>
<ref name="戦後日本の鉄道車両">[[#戦後日本の鉄道車両|『戦後日本の鉄道車両』]]の分類による</ref>
<ref name="戦後日本の鉄道車両_59-60">[[#戦後日本の鉄道車両|『戦後日本の鉄道車両』pp.59 - 60]]</ref>
<ref name="戦後日本の鉄道車両_85">[[#戦後日本の鉄道車両|『戦後日本の鉄道車両』p.85]]</ref>
<ref name="戦後日本の鉄道車両_199-200">[[#戦後日本の鉄道車両|『戦後日本の鉄道車両』pp.199 - 200]]</ref>
<ref name="戦後日本の鉄道車両_263-268">[[#戦後日本の鉄道車両|『戦後日本の鉄道車両』pp.263 - 268]]</ref>
<ref name="鉄道車両ハンドブック_22-23">[[#鉄道車両ハンドブック|『鉄道車両ハンドブック』pp.22 - 23]]</ref>
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<ref name="鉄道の地理学_56">[[#鉄道の地理学|『鉄道の地理学』p.56]]</ref>
<ref name="鉄道の地理学_58-60">[[#鉄道の地理学|『鉄道の地理学』pp.58 - 60]]</ref>
<ref name="鉄道の地理学_65-68">[[#鉄道の地理学|『鉄道の地理学』pp.65 - 68]]</ref>
<ref name="鉄道の地理学_69-70">[[#鉄道の地理学|『鉄道の地理学』pp.69 - 70]]</ref>
<ref name="鉄道の地理学_368">[[#鉄道の地理学|『鉄道の地理学』p.368]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_運転台">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「運転台」の項、p.16]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_気動車">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「気動車」の項、p.53]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_車両の称呼・記号・番号">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「車両の称呼・記号・番号」の項、pp.113 - 115]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_蒸気機関車の仕組み">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「蒸気機関車の仕組み」の項、pp.125 - 127]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_蒸気機関車の仕組み_蒸気機関車の種類">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「蒸気機関車の仕組み」「蒸気機関車の種類」の項、pp.125 - 129]]</ref>
<ref name="鉄道用語事典_蒸気動車">[[#鉄道用語事典|『新版 鉄道用語事典』の「蒸気動車」の項、p.129]]</ref>
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* {{Cite book | 和書 | author = 小島英俊 | date = 2005-04-25 | title = 流線形列車の時代 -世界鉄道外史 | publisher = [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]] | edition = 初版第1刷 | language = 日本語 | isbn = 4-7571-4112-2 | ref = 流線形列車の時代}}
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* {{Cite book | 和書 | author= 久保田博|authorlink=久保田博 | title = 鉄道重大事故の歴史 | publisher = [[グランプリ出版]] | date = 2000-10-10 | edition = 2刷 | language = 日本語 | isbn = 4-87687-211-2 | ref = 鉄道重大事故の歴史}}
* {{Cite book | 和書 | editor=昭和鉄道高等学校|editor-link=昭和鉄道高等学校 | title = 図解 鉄道のしくみと走らせ方 | publisher = [[かんき出版]] | date = 2007-09-21 | edition = 第1刷 | language = 日本語 |isbn = 978-4-7612-6450-5 | ref = 鉄道のしくみと走らせ方}}
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* {{Cite book | 和書 | author = 海老原浩一 | title = 新幹線 | edition = 初版 | language = 日本語 | date = 1996-12-28 | publisher = [[成山堂書店]] | isbn = 4-425-76081-6 | ref = 新幹線}}
* {{Cite book | 和書 | author = 齋藤晃 | title = 蒸気機関車200年史 | edition = 初版第1刷 | date = 2007-04-02 | publisher = [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]] | language = 日本語 | isbn = 978-4-7571-4151-3 | ref = 200年史}}
* {{Cite book | 和書 | editor = 星川武 | date = 2007-06-01 | title = 図説 鉄道車両はこうして生まれる | publisher = [[学習研究社]] | edition = 第2刷 | language = 日本語 | isbn = 978-4-05-604648-9 | ref = こうして生まれる}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Rail vehicles}}
* [[鉄道]]
* [[車両長]](車体長)
* [[鉄道の車両番号]]
* [[鉄道の車両愛称]]
* [[鉄道車両の製造メーカー一覧]]
* [[形式称号]]
* [[日本の鉄道車両検査]]
* [[列車無線アンテナ]]
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3,313 | 三木富雄 | 三木 富雄(みき とみお、1937年(昭和12年)1月18日 - 1978年(昭和53年)2月15日)は、東京都出身の彫刻家。人間の耳をモチーフにした彫刻を多数制作したことで知られる。
東京生まれ。東京公衆衛生技術学校(現 窪田理容美容専門学校)卒。その後、中央美術学園通信教育部に入学し1958年の読売アンデパンダン展に出品、1963年の個展で最初の「耳」シリーズの作品を発表する。アルミニウムや真鍮で鋳造された人間の耳を模倣した作品で知られた。1978年、京都の友人宅にて41歳で急死した。合田佐和子は妻、その娘に合田ノブヨがいる。 | [
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] | 三木 富雄は、東京都出身の彫刻家。人間の耳をモチーフにした彫刻を多数制作したことで知られる。 | {{Infobox 芸術家
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'''三木 富雄'''(みき とみお、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[1月18日]] - [[1978年]]([[昭和]]53年)[[2月15日]])は、[[東京都]]出身の[[彫刻家]]。人間の[[耳]]をモチーフにした彫刻を多数制作したことで知られる。
== 来歴 ==
東京生まれ。東京公衆衛生技術学校(現 [[窪田理容美容専門学校]])卒。その後、中央美術学園通信教育部に入学し1958年の[[読売アンデパンダン展]]に出品、1963年の個展で最初の「耳」シリーズの作品を発表する。アルミニウムや真鍮で鋳造された人間の耳を模倣した作品で知られた。1978年、[[京都府|京都]]の友人宅にて41歳で急死した。[[合田佐和子]]は妻、その娘に合田ノブヨがいる。
== 受賞歴 ==
* [[1964年]]、「現代日本美術展」([[東京都美術館]]・コンクール賞受賞)
* [[1965年]]、「現代美術の動向」展(国立近代美術館京都分館 現:[[京都国立近代美術館]])
* [[1967年]]、パリ青年ビエンナーレ(アンドレ・シュス夫人賞受賞)
== 主な個展 ==
*個展(南画廊)1979~88年
*回顧展(79・82・88年 見嶋画廊
*ギャラリー・ところ 1980年
*「三木富雄展」(福岡市美術館)1981年
*個展 (鎌倉画廊 東京)1986年
*回顧展(東京都渋谷区立松涛美術館)1992年
== 主な写真集・図録 ==
*『The ear no.1001 : 浅岡慶子+三木富雄』(国立国際美術館、[[1992年]])
*『三木富雄 : 特別展』(渋谷区立松濤美術館、[[1992年]])
== 参考文献 ==
* 日本大百科事典(ニッポニカ) 2015年8月30日閲覧
* 日本人名大辞典 2015年8月30日閲覧
* 「画家・瑛九の世界」福富 健男
* 「現代美術への招待」 菅原 猛 評論集
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[[Category:20世紀日本の彫刻家]]
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3,315 | ドイツ文学 | ドイツ文学(ドイツぶんがく)は、ドイツ語による文学のこと。またその作品や作家を対象とする学問領域も指す。ドイツ国内で書かれた文学のみではなく、オーストリア文学やスイス文学などドイツ以外のドイツ語圏の文学も含む。広義の文学には言語芸術以外の、文筆家としての創作行為も含まれる。すなわち歴史的記述、文学史、社会学・哲学的著作、もしくは日記や往復書簡などである。
時代区分の開始年・終了年を設定するのには常に困難が伴う。ここでの時代区分はできる限り早い時期から始まるよう定義されている。そのため、時代区分の相互の重なりについてよく確認することが望ましい。
最も古い古高ドイツ語(Althochdeutsch)は、8世紀の『メルゼブルクの呪文』に見ることができる。このゲルマン的なまじないの書は、ドイツ語圏で唯一残された、キリスト教化以前という意味で異教時代の文献でもある。他にこの時代の文献としては『ヒルデブラントの歌』が残されている。羊皮紙が高価だったこともあって、読み書きは主に修道院で教えられており、これら古高ドイツ語文学にはキリスト教の影響が大きい。このような例として、ヴァイセンブルクのオトフリートによる聖福音集や、1000年ころのザンクト・ガレンの修道士ノートカーによる古典の翻訳などを挙げることができる。
これら宗教文学に続いて世俗文学も徐々に成長を見せた。最初の宮廷叙事詩として『アレクサンダーの歌』と『ローラントの歌』(『ローランの歌』の翻訳)がある。抒情詩ではミンネザングと呼ばれる恋愛詩が発展し、ハインリヒ・フォン・モールンゲン、ハルトマン・フォン・アウエ、ラインマル・フォン・ハーゲナウ、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ナイトハルト・フォン・ロイエンタールなどが活躍した。中世盛期の12、13世紀にはクレチアン・ド・トロワなどによるフランス文学を範として中高ドイツ語(Mittelhochdeutsch)による宮廷文学が隆盛を迎えた。宮廷文学として最も有名なものに、ハルトマンによる『エーレク』と『イーヴェイン』、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ『パルチヴァール』(de:Parzival)、作者不明の『ニーベルンゲンの歌』などがある。
中世末期に起こった革命的な出来事として、組み替え可能な活字による印刷が発明されたことが挙げられる。またこのころ羊皮紙は、安価な紙にとって代わられるようになった。初期近代への移行期の作品にはヨハネス・フォン・テープル(ドイツ語版)による『ボヘミアの農夫(ドイツ語版)』がある。
ルネサンス的精神である人文主義は、イタリアからドイツに伝えられた。時代の思潮は古代に向かったが、その代表者としてロッテルダムのエラスムスとロイヒリンがいる。かれらは主にラテン語で著作を著したため、知識階級以外への影響はあまり大きくなかった。一方、反権力的な詩を作ったウルリヒ・フォン・フッテンや、大きな成功を収めた『阿呆船』の作者ゼバスティアン・ブラントらは、ドイツ語で作品を制作した。
それに続いてマルティン・ルターによる宗教改革運動が始まった。ルターは、自分の思想を広めるには民衆に分かりやすいドイツ語で書くべきであることを理解していた。ルターによって1522年から1534年にかけて聖書がドイツ語に翻訳され、新高ドイツ語の発展に大きく寄与した。ドイツ出版界における16世紀最大の事件である。
人文主義や宗教改革と並んで挙げるべきは、職匠歌、謝肉祭劇や滑稽譚などである。少なくともニュルンベルクのハンス・ザックスとイェルク・ヴィクラム(Jörg Wickram; 1505年頃-1562年頃)には言及すべきだろう。ヴィクラムは 111 篇の滑稽話を集めた『道中よもやま話』(Rollwagenbüchlin; 1555年)を著わした。この作品の「本質的な特徴のひとつは、作者が登場人物を善人、悪人に二分化せず、それぞれ長所、短所をあわせもつ人間であり、短所を嘲笑せず、短所は改善可能なものとして、すなわち登場人物を自分と同じレベルにある人間として描いていることである」。さらに挙げるべき価値のある作家として、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』を翻案してGeschichtklitterung を著した、ストラスブール出身のヨーハン・フィッシャルト(Johann Fischart; 1546/47-1590/91)がいる。この作品は『冒険的で気まぐれで胡散臭い似非物語』または『奇想天外な物語』などと邦題名を与えられているが、フィッシャルトは舞台をドイツに移し、「多くの挿話や引用で拡大し、(ラブレー作品とは)まったく別の作品に仕上げている」。彼は「斬新な言葉と独特な文体で潤色に成功している」。
この時代に人気のあったジャンルとして民衆本がある。その題材は一般に流布していたもので、作者不明なのが普通である。『ヨーハン・ファウスト博士の物語』や『ティル・オイレンシュピーゲル』などが有名である。
バロック期になるとドイツ語によって文学作品を制作する傾向が強まってくる。この時代は、政治的には三十年戦争と宗教対立で特徴づけられている。バロック文学のジャンルは多様で、宮廷文学から大衆小説まで、古典を範とした擬古典的文学から個人的な体験文学まで、生の肯定から厭世的なヴァニタスのモチーフまでさまざまである。
バロック時代には、文学の促進とドイツ語の統一を目的として多くの詩人協会・国語協会が設立されたが、最も有名なのは結実結社である。マルティン・オーピツは、『ドイツ詩学の書』を著し、ギリシア語詩に由来するアレクサンドラン詩形をドイツ語の詩に当てはめたが、この詩形は長い期間にわたってドイツ詩の最も重要な詩形となった。少し遅れてペトラルカ的恋愛詩や牧歌などもドイツ文学に導入された。このオーピツ門下で有名なのはパウル・フレーミングとジーモン・ダッハである。
その他に、この時代の抒情詩の形式として重要なのはソネット・頌歌・エピグラムなどがある。これら抒情詩は主にプロテスタント的な宗教詩と世俗的な詩とに大別できる。宗教的な抒情詩作者として重要なのは、フリードリヒ・シュペー・フォン・ランゲンフェルトと、神秘主義者ヤーコプ・ベーメである。主に世俗的な詩を制作した詩人、特にソネットの形式で制作した詩人に、アンドレアス・グリューフィウスがおり、またクリスティアン・ホフマン・フォン・ホフマンスヴァルダウも挙げることができる。
バロック期の演劇もまた多岐にわたる。イエズス会劇は南部のカトリックが盛んな地域で主に上演されたが、これはラテン語で演じられたため大衆にはセリフの意味は分からなかった。しかしその分視覚的な面には注意が集中された。これは外国人、主にイギリス人による放浪劇団についても同じことが言えるだろう。この他にバロックオペラや宮廷演劇などがあり、総合芸術として珍重された。宮廷演劇には古代ギリシア演劇に定められているように、悲劇の主人公は貴族、喜劇の主人公は平民、というような身分規則があった。この分野の作者としては、ダニエル・カスパー・フォン・ローエンシュタインがいる。グリューフィウスもまた喜劇や悲劇を制作している。
バロック小説には牧人小説・国家小説・宮廷恋愛小説などのジャンルがあった。またスペインに由来する悪漢小説ではハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼンによる『阿呆物語』(『ジンプリツィシムス』)が非常に有名である。三十年戦争の時代をめぐるこのジンプリツィシムスの冒険物語はスペイン以外で最も重要な悪漢小説であり、多くの模倣作が追随した。
1687年には既に「ドイツ啓蒙主義の父」と呼ばれるクリスティアン・トマジウスがラテン語ではなくドイツ語で講義をおこなっていた。初期啓蒙主義の時代の有名な哲学者として、クリスティアン・ヴォルフとゴットフリート・ライプニッツがいる。初期啓蒙主義の重要な文学者としては、寓話を著したクリスティアン・フュルヒテゴット・ゲラートがいる。だが最も重要な文学者は、ヨーハン・クリストフ・ゴットシェートであることは確かである。ゴットシェートの文学理論書『批判的詩学の試み』(1730年)は、その後の文学に道を示したが、その一方でかれの実作した文学の方は二流のものにとどまっている。『批判的詩学の試み』は、ラシーヌなどのフランス古典演劇に範をとって詩学の規範を定めており、身分規則や三一致の法則などを固持していた。この規範性に対しては、スイスのヨハン・ヤーコプ・ボードマーやヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガーらが異を唱えて論争を展開した。
時代区分はあいまいなもので、初期啓蒙主義の文学者たちは同時に後期バロックにも分類されるが、詩人ヨーハン・クリスティアン・ギュンターやバルトルト・ハインリヒ・ブロッケスなどは、その例といえる。理性を重んずる啓蒙とならんで、感情を前面に押し出す文学的思潮も同時にあり、これらはフリードリヒ・ハーゲドルン、エーヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト、ザロモン・ゲスナーなどのロココ詩人たちによって代表されている。感傷主義に分類されるフリードリヒ・ゴットリープ・クロップシュトックの『救世主』はこの時代を代表する作品であり、その燃えるような感性と精神的態度によって一つの世代全体を代表している。また散文ではクリストフ・マルティン・ヴィーラントがロココ的要素と啓蒙主義の混ざった教養小説の元祖『アーガトン物語』を著した。
ゴットホルト・エフライム・レッシングなしでは後期啓蒙主義を語ることはできない。かれは、理論的な面では古代ギリシアの「高貴な簡潔さと静かな偉大さ」を称揚したヴィンケルマンから影響を受け、美学論文『ラオコーン』において文学の特質を造形芸術との対比を通じて明らかにした。またフリードリヒ・ニコライやモーゼス・メンデルスゾーンらと共に文学批評家として活動したり、一連の重要な戯曲を制作したりした。戯曲『賢者ナータン』は、人間の価値が民族や宗教など環境から偶然に与えられたものによって変わるものではないという啓蒙的な信条を端的に示している。
啓蒙主義のことを狭苦しくて感覚的に冷めていると感じた若者たちの反応は、短い「シュトゥルム・ウント・ドランク」(Sturm und Drang、疾風怒涛、「嵐と衝動」)の時代を作り出した。この運動のほとんどは、いかなる形の専制にも抵抗するという信念をもった若者たちによって構成されており、かれらは芸術の領域においても他からの干渉を許すべきでないと考えていた。この時代の特徴として、規範にしばられない「天才」という観念が流行し、古典よりも自分たちをとりまく「今、ここで」起こっている問題に重きを置いていたという点がある。
ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、書簡体小説『若きウェルテルの悩み』で、実る見込みのない恋の絶望のうちに自殺する感情豊かな若者を描いた。フリードリヒ・フォン・シラーは、戯曲『群盗』において自由を重んじ父と秩序に反抗する若者を描き、その作品が舞台に上るや一大センセーションを起こした。ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツは、『家庭教師』のなかで知識階級の若者が抑圧された状況を表現した。これと並んで、感情と情念を主題とした抒情詩も重要である。
「シュトゥルム・ウント・ドランク」の時代は長くは続かなかった。この運動の主役を担った若者たちは成長して別の精神的傾向に傾き、あるいは情熱のおもむく果てに若くして命を失ったのである。ゲーテとシラーは古典に回帰して次の時代を開き、レンツはかれを取り巻く環境に適応することを潔しとせずに孤独のうちに死を迎えた。
ヴァイマール古典主義の時代は、ゲーテのイタリア紀行をもって初めとする。際立った成果としてゲーテとフリードリヒ・フォン・シラーとの実り多い合作がある。この二人の主役はシュトルム・ウント・ドラングの段階を脱して、人文主義的な理念に向かったのである。古典に題材をとった作品が「擬古的」と言われることがあるが、この時代の「古典的」という表現は普通ポジティヴな意味で使用される。古典主義の時代区分としては、シラーの没した1805年が終わりとされる。
ゲーテは、戯曲『タウリスのイフィゲーニエ』で偏見の克服を描き、古典の人文主義的理想の例を示した。かれの最大の作品、悲劇『ファウスト』の第二部が完成したのはゲーテ最晩年の1832年だったが、この作品の内容は非常に幅広く、後半部分はもはや古典主義すら脱している晩年の境地が窺える。フリードリヒ・フォン・シラーは、その理論的著作『素朴文学と情感文学』においてギリシア的古典を称揚しつつ、近代に生きる人間のあるべき姿を示した。また『散策』のような抒情詩においても哲学的問題をテーマにした。またシラーは『人質』など多くのバラードとともに『ドン・カルロス』、『ジェノバのフィエスコの叛乱』、『メアリ・スチュアート』、『オルレアンの乙女』、『ヴァレンシュタイン三部作』のような一連の史劇も制作している。
その他重要な作者として、古典主義の先駆者カール・フィリップ・モーリッツ、シラーの美学的著作に感銘を受けロマン主義への道を示したフリードリヒ・ヘルダーリンがいる。モーリッツの自伝的小説『アントン・ライザー』は、ドイツ語文学最初の心理小説とも言われており、またヘルダーリンの叙情的賛歌は、この分野の到達点と賞賛されている。
広い意味では、主として風刺的な小説を書いたジャン・パウルや『ミヒャエル・コールハース』などで社会的桎梏と葛藤しそれを打破する個人の意識を描いたハインリヒ・フォン・クライストなども、古典主義に含めることができる。
ロマン主義の時代は、初期、盛期、後期、晩期の四つに一応分類できるが、時代区分も作家がどの時期に属するかもはっきりと分類するのは難しい。
初期ロマン主義は、文学的展望が最も興味深いものになった時代だといえる。交友のあった作家たち、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフリードリヒ・シュレーゲル兄弟やヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーとルートヴィヒ・ティーク、ノヴァーリスの筆名で創作活動を行ったフリードリヒ・フォン・ハルデンベルクなどの作家たちは、いくつもの共通傾向を示した。たとえば小説や詩、バラード、短い物語などを混在させるなどである。これには先行する『若きウェルテルの悩み』や『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のような大作からも影響を受けている。
フリードリヒ・シュレーゲルは、これを「発展的普遍文学」と呼んで、文学における多様なジャンルや学問分野を互いに結びつけ、自身の批評活動をもこれに含めた。このような文学状況において「イロニー」の表現は、古典主義の理論に基づく理想像が人間らしさと解離していること、そしてそのような理想像によって表現される作品はもはや信用がならないということを表明する手段として現れた。
盛期ロマン主義の代表者としてアヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが挙げられる。かれらは、『少年の魔法の角笛』というタイトルでドイツの民謡集を発表した。アルニム夫人でありブレンターノの妹であるベッティーナ・フォン・アルニムは『ゲーテとある子供との往復書簡』を編集し1835年に発表した。この作品でベッティーナは、ゲーテの人気を伝えるばかりでなくドイツの社会的政治的欠陥を幾度も指摘して話題にしている。(『貧民の書』、『この本は王に帰属する』の特に最初の部分、および『ポーランドパンフレット』)
ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムのグリム兄弟が『民話集』を収集したのもこのころであり、ティークもこの時期に分類できる。
後期ロマン主義者で最も有名なのはE.T.A.ホフマンである。『牡猫ムルの人生観』と『砂男』においてロマン的イロニーは現代のように心理的側面に向かい、観念的詩学の兆しはもはや見られない。後期ロマン主義の詩人にはヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフがいる。
ハインリヒ・ハイネはロマン主義とそのモチーフにしばしば皮肉な態度を取ったが、これによりハイネは、初期リアリズムに分類されるのが一番ふさわしいだろう。
古典主義およびロマン主義と、後述する市民的・詩的リアリズムに挟まれるこの時期の文芸思潮は、単一の概念によって分類することが出来ないため、歴史的概念を流用してビーダーマイヤーと三月前期という語が用いられている。
三月前期に分類される作家は、熱心に政治に参加し、政治的文学を隆盛させた。かれらの多くは、『若きドイツ』などのグループでゆるい連帯を持っていた。ゲオルク・ヘルヴェーク、ハインリヒ・ラーベ、カール・グッコウ、フェルディナント・フライリヒラートなどである。類似の傾向が見られるのは、『ハルツ紀行』『ドイツ冬物語』を著したハインリヒ・ハイネ、ルートヴィヒ・ベルネ、そして戯曲『ヴォイツェク』の作者で夭折したゲオルク・ビュヒナーなどである。
その他で、リアリズムに分類されない作家はビーダーマイヤーに属する。なによりも抒情詩人として有名なのがニコラウス・レーナウ、エードゥアルト・メーリケ、フリードリヒ・リュッケルト、アウグスト・フォン・プラーテンである。アーダルベルト・シュティフター、イェレミアス・ゴットヘルフ、メルヒェン詩人のヴィルヘルム・ハウフらにも触れる必要がある。
劇作家で多少なりともビーダーマイヤーに属しているのは、オーストリアのフランツ・グリルパルツァー、ヨーハン・ネポームク・ネストロイ(Johann Nepomuk Nestroy ; 1801-1862)、フェルディナント・ライムントである。グリルパルツァーはヴァイマール古典主義精神の悲劇を描き、ネストロイとライムントはウィーンで民衆演劇を製作した。
詩的・市民的リアリズムにおいて作家は、大きな社会・政治問題を避け、狭く地域的な郷土の風景と人びとに興味を向けた。全ての小説・戯曲・詩の中心は、一人一人の人間、個人である。詩的リアリズム作品の多くに見られる様式的特長は、耐え難く腹立たしい現実から距離を置くユーモアである。このユーモアによってリアリズム文学は、社会構造の個々の欠陥や弱点を告発するのだが、それが社会構造全般に対して向けられることはない。
初めのうち好まれたジャンルはノヴェレ(短・中編小説)であり、例としてスイスのコンラート・フェルディナント・マイヤーによる『首飾り』、テオドール・シュトルムの『白馬の騎士』などがある。戯曲では『マリア・マグダレーナ』などを書いたフリードリヒ・ヘッベルのみが記憶されている。のちには長編小説(ロマーン)がノヴェレよりも好まれるようになる。長編の作者としては、グスタフ・フライタークやヴィルヘルム・ラーベなどが挙げられる。
リアリズムの二巨頭は、テオドール・フォンターネと、スイスのゴットフリート・ケラーである。ケラーは、『村のロメオとユーリア』のような物語のほか、教養小説『緑のハインリヒ』などを著した。フォンターネは、ジャーナリストとして出発したが、『イェニー・トライベル夫人』や『エフィ・ブリースト』などの小説を書いている。フォンターネはその視野を主人公から広げ、社会小説の域にまで発展させた。
オーストリアでは、マリー・フォン・エプナー=エッシェンバッハやルートヴィヒ・アンツェングルーバーらの牧歌的モチーフや、時代区分の後方にはみ出しているがペーター・ロゼガーらが見られる。
自然主義は、社会の全ての領域における諸関係を容赦なくに明らかにしようとする新たな美術・文学の潮流であった。19世紀中期のリアリズム文学者たちがいまだテーマとして避けていたものが、この時期の文学における主要な対象となった。いわゆる良い趣味というものが設ける限界にも、市民的な芸術理解にもなんら顧慮することなく、現実世界の描写においてはできる限り現実とその似姿の間の差異をゼロに近づけなければならないと考えられた。様式上本質的に新しいのは、このような観点からの俗語・隠語・方言などの導入であった。自分自身の考えに従って自由に行動する主人公はもはや描かれなくなり、代わりに集団や出自、家庭環境や時代思潮に縛られた人々が物語の中心に据えられた。
ロシア文学やフランス文学とは異なり、ドイツ語圏においては重要な自然主義的長編小説が登場しなかった。アルノー・ホルツはヨハネス・シュラーフとともに抒情詩や『パパ・ハムレット』などの短い散文を制作した。ホルツの方程式『芸術=自然-X』はよく知られており、この等式においてXは限りなく0に近づいていかなければならず、したがって芸術とは現実の写し絵以上のものではないと考えられた。さらに重要なのはゲアハルト・ハウプトマンの貢献で、戯曲『織工』は国際的な賞賛を受けた。自然主義の周縁にはフランク・ヴェーデキントがおり、『春の目覚め』は思春期の性をテーマとして示し、すでに世紀末に位置している。
自然主義と象徴主義の登場をもって古典的近代と言われる時代が始まる。この時代は様々な潮流の並存と様式の混合によって特徴づけられている。「ベルリーナー・モデルネ」「ヴィエナー・モデルネ」とも呼ばれるように、この時代の中心はベルリンとウィーンであったが、これらの中心地は第一次世界大戦の勃発によって突然の解体を迎えることになる。
古典的近代には「前衛」という概念が特に重要なものになった。この時代の始まりは、19世紀終わりの、ステファヌ・マラルメやシャルル・ボードレール、アルチュール・ランボーなどの詩人が代表するフランス象徴主義に由来している。ドイツ語圏で最も重要な象徴主義の代表者としては、シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、およびライナー・マリーア・リルケなどがいる。象徴主義は、およそ時を同じくする自然主義とは全く違った綱領に従っている。象徴主義的抒情詩はエリート的で、美と様式に最高の価値を置いていたのである。世紀末として示される時代、ユーゲント・シュティールはこのような傾向を示した芸術である。
同時に、この時代(1890年から1910年頃)は印象主義の時代にも当たる。印象主義は象徴主義よりもエリート的ではないが、ホーフマンスタールとリルケは同時にこちらにも属していた。それに加えて散文作品はないがリヒャルト・デーメルや、劇作家アルトゥル・シュニッツラー、ペーター・アルテンベルク、およびデトレフ・フォン・リーリエンクローンなどがいる。象徴主義と印象主義は、ともに自然主義に対抗しているという観点から合わせて新ロマン主義と呼ばれることもあり、世紀末ウィーンがこれらの文学の中心地となった。
これらの伝統に対抗する党派的な潮流と平行して、古い形式を取り上げさらに発展させた長編小説が多数現れた。時代批判的な作品を書いたハインリヒ・マン、市民的教養と芸術家との相克を描いたトーマス・マン、市民社会における人間性をテーマとしたヘルマン・ヘッセ、歴史小説で活躍したアルノルト・ツヴァイク、都市をテーマにしたアルフレート・デーブリーンなどであり、またヘルマン・ブロッホ、ロベルト・ムージル、エルンスト・ユンガー、フランツ・カフカらは、現実社会への深い懐疑に基づきさらに現代的な長編小説を残した。
表現主義はドイツにおける最後の大きな文学的潮流だと見なされており、すでに述べた象徴主義と同じく、表現主義もまたアヴァンギャルド文学に属する。アヴァンギャルドは新式の、理論先導的な文学であり、市民文学への対抗の身振りをもって出現した。アヴァンギャルドの潮流はシュールレアリスムと未来派から影響を受けたダダイスムの出現を持って頂点を迎えるが、市民社会の教養をナンセンスな表現を用いて突き放したこれらの文学は、ナチズムの台頭した第二次大戦期には取り締まりの対象となった。
表現主義的な詩の嚆矢はヤコブ・ヴァン・ホディス作の『世の終わり』である。また薬学士としての教育を終えたばかりのゴットフリート・ベンは散文詩『モルグ』において、死体置き場や子供の出産、あるいは売春といったそれまでの文学ではほとんど見られなかった題材を取り扱いセンセーションを起こした。表現主義の作家・詩人としては他にゲオルク・トラークル、ゲオルク・ハイム、エルゼ・ラスカー=シューラーなどが挙げられる。
表現主義の後には、客観的・現実主義的な姿勢で新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる流れが起こった。劇作の分野ではベルトルト・ブレヒトが突出しており、散文作品ではエーリッヒ・ケストナー、アルノルト・ツヴァイク、アンナ・ゼーガース、エーリヒ・マリア・レマルクなどが挙げられ、彼らは戦中、戦後を通じて作品を残している。
1933年1月30日にナチスがドイツの政権を握ると、同年中から焚書が行なわれ、国家から独立して文学活動を行なうことは不可能になった。1938年の終わりにはオーストリアでも同様の事態が起こった。政府からは郷土愛と民族主義を重んじる文学が推奨され、その他にはいくらかの娯楽文学が許されただけであった。体制への著名な反対者は亡命し、さもなければヤコブ・ヴァン・ホディスやカール・フォン・オシーツキィのように死がもたらされた。ナチズムに反対しながらも国内に残ったいくらかの作家は作品の発表を諦めるか、もっぱら非政治的なテーマで書くことを強いられた。彼らは国内亡命者とも呼ばれるが、もともと非政治的な作家であったものと彼らとを見分けるのはしばしば困難である。当時国内に残っていた作家はゴットフリート・ベン、エルンスト・ユンガー、エーリッヒ・ケストナー、ゲアハルト・ハウプトマン、オトフリート・プロイスラー、ウォルフガング・ケッペンなどである。
およそ1500人もの作家が、多くの場合入り組んだ過程を経て亡命し、シュテファン・ツヴァイクなど多数の作家が亡命先で命を落とした。ドイツの亡命文学の拠点は世界各地に散らばっており、なかでもスイスは特に劇作家にとって重要な国であった。亡命した作家は多数に及ぶため、亡命文学について統一的なテーマや共通するスタイルを見出すことは困難である。亡命後も多産であり続けた作家はハインリヒ・マンとトーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、フランツ・ヴェルフェル、ヘルマン・ブロッホなどであり、一方アルフレート・デーブリーンやハインリヒ・エドゥアルト・ヤーコブ、ヨーゼフ・ロートらは執筆の継続が困難になった。終戦後は彼らの一部は亡命先に留まり、一部は祖国に戻った。エリアス・カネッティはナチスによるオーストリア併合の際にロンドンに亡命したため、ノーベル文学賞をイギリス市民として受賞している。総じて戦間期には亡命者も含め多数の作家が作品制作の断念を余儀なくされた。
二つの大戦以降は文学の「零地点」ということが話題となった。世界では「瓦礫文学」が書かれたが、すぐに戦争によって失われた文学の発展を取り戻さなくてはならないと考えられるようになった。まずその死から20年の時を経てフランツ・カフカが再発見された。ウィーン・グループは革新的な形式の詩を実践し、西ドイツに起こった47年グループのメンバーたちが戦後の文学を主導した。
国ごとにそれぞれ条件がことなるため、以下では各国の文学を分けて解説するが、しかし国ごとの違いを過大評価するべきではない。いずれにしても言語は同じであり、東ドイツを除けば経済的基盤も共通している。
1945年以降すぐに戦争の脅威と故郷への帰還を題材にした作品が書かれ、この題材に適した形式はハインリヒ・ベルが用いたように短編小説であった。1950年代に経済復興が起こると、作品の舞台は現代に集中するようになり、ジークフリート・レンツ、マルティン・ヴァルザー、ウォルフガング・ケッペンらがこのような長編小説を手がけた。ギュンター・グラスは『ブリキの太鼓』で国際的名声を得、1999年にノーベル文学賞を受賞している。
重要な詩人はギュンター・アイヒであり、彼は当時ポピュラーなジャンルであった放送劇でも活躍した。「具体詩」はヘルムート・ハイセンビュッテが開始した。またグラス、レンツ、アイヒらと同じく47年グループのメンバーであり、ユダヤ人の立場から詩を書いたパウル・ツェランが注目されたが、彼の生活の拠点はパリにあった。
一定の困難な方向へ自分の文学を進めていった作家として、ヌーヴォー・ロマンから影響を受けたロール・ウルフ、実験的な手法を好んだアルノー・シュミットなどもいる。またウォルフガング・ヒルデスハイマーは、ブレヒトの影響がいまだに根強かった演劇界にあって不条理劇を物した。
ベトナム戦争、および1968年の学生運動の起こりから、文学者にも政治性が強く求められ、詩の分野ではハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、政治劇ではペーター・ヴァイス、ロルフ・ホーホーフトなどが応じた。それに対して新主観主義と呼ばれるような、個人的な生活をテーマにしたユルゲン・テオバルディのような作家も現れた。また70年代には、ポップカルチャーから影響を受けた詩人ロルフ・ディーター・ブリンクマンが突出した活躍を見せた。ファンタジー文学の世界では、ミヒャエル・エンデが『モモ』『はてしない物語』などで国際的名声を得た。
80年代に入るとボート・シュトラウス、ウラ・ハーン、ドゥルス・グリューンバインなどの新しい作家が登場した。
東ドイツ国家は自らを「文学共同体」と名づけ、西側諸国の文学を敵視した。民主化は国家の主導のもと生産や頒布、受容すべての場に行き渡るべきだと考えられた。社会主義思想を馬鹿げたものだとするような思想は検閲によってとり締められ、社会主義リアリズムが国の目的に沿うものとして称揚された。この時期社会的リアリズムの作品を書いた作家にヘルマン・カントなどがおり、ヨハネス・ボブロウスキが散文において重要な活動を行なった。1970年代には西ドイツと同じく新主観主義と呼ばれるような作家も登場した。一方で反体制的と見なされたウーヴェ・ヨーンゾン、ヴォルフ・ビーアマン、ザラ・キルシュなどが東ドイツを後にした。
他の重要な作家はクリスタ・ヴォルフ、ハイナー・ミュラーなどであり、彼らの作品は西ドイツでも高い評価を受けた。
戦後のオーストリアではゲルハルト・リュームとH・C・アルトマンを中心としたウィーン・グループ、ならびにアルベルト・パリス・ギュータースローやハイミート・フォン・ドーデラーなどの作家が、ナチズムとオーストリア国内のファシズムによって損なわれた近代的な伝統を取り戻そうと腐心した。詩の分野においては「具体詩」と言われる視覚的な表現を追究したエルンスト・ヤンドルの他、フランツォーベル、フリードリヒ・マイレッカーなどが挙げられる。
1960年代から70年代にかけてオーストリア文学は、ペーター・ハントケ、インゲボルク・バッハマン、トーマス・ベルンハルトの登場で躍進し、ドイツ語圏の文学全体に大きな影響を及ぼした。エルフリーデ・イェリネクも彼らの影響の下に登場し、2004年にノーベル文学賞を受け取っている。
ドイツやオーストリアと違い、スイスにおけるドイツ語文学には1945年を根本的な区切りとする必然性はない。戦後スイスにおけるもっとも重要な作家はマックス・フリッシュとフリードリヒ・デュレンマットであり、どちらも小説と戯曲を執筆し、フリッシュはどちらかといえば知的に、デュレンマットはグロテスクさを強調することによって戦後の市民社会を批判的に扱った。この二人の影に隠れがちであるが、他の作家にはアドルフ・ムシュク、ペーター・ビクセル、ウルス・ヴィドメルなどがいる。最も重要な文学の集会は2002年まで存在したオルテン・グループである。
2011年現在、ドイツ語で執筆したノーベル文学賞受賞者は、英語・フランス語で執筆した受賞者についで3番目に多い。ドイツ語で執筆した受賞者は以下の通り。 | [
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"text": "ドイツ文学(ドイツぶんがく)は、ドイツ語による文学のこと。またその作品や作家を対象とする学問領域も指す。ドイツ国内で書かれた文学のみではなく、オーストリア文学やスイス文学などドイツ以外のドイツ語圏の文学も含む。広義の文学には言語芸術以外の、文筆家としての創作行為も含まれる。すなわち歴史的記述、文学史、社会学・哲学的著作、もしくは日記や往復書簡などである。",
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"text": "時代区分の開始年・終了年を設定するのには常に困難が伴う。ここでの時代区分はできる限り早い時期から始まるよう定義されている。そのため、時代区分の相互の重なりについてよく確認することが望ましい。",
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"text": "最も古い古高ドイツ語(Althochdeutsch)は、8世紀の『メルゼブルクの呪文』に見ることができる。このゲルマン的なまじないの書は、ドイツ語圏で唯一残された、キリスト教化以前という意味で異教時代の文献でもある。他にこの時代の文献としては『ヒルデブラントの歌』が残されている。羊皮紙が高価だったこともあって、読み書きは主に修道院で教えられており、これら古高ドイツ語文学にはキリスト教の影響が大きい。このような例として、ヴァイセンブルクのオトフリートによる聖福音集や、1000年ころのザンクト・ガレンの修道士ノートカーによる古典の翻訳などを挙げることができる。",
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"text": "これら宗教文学に続いて世俗文学も徐々に成長を見せた。最初の宮廷叙事詩として『アレクサンダーの歌』と『ローラントの歌』(『ローランの歌』の翻訳)がある。抒情詩ではミンネザングと呼ばれる恋愛詩が発展し、ハインリヒ・フォン・モールンゲン、ハルトマン・フォン・アウエ、ラインマル・フォン・ハーゲナウ、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ナイトハルト・フォン・ロイエンタールなどが活躍した。中世盛期の12、13世紀にはクレチアン・ド・トロワなどによるフランス文学を範として中高ドイツ語(Mittelhochdeutsch)による宮廷文学が隆盛を迎えた。宮廷文学として最も有名なものに、ハルトマンによる『エーレク』と『イーヴェイン』、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ『パルチヴァール』(de:Parzival)、作者不明の『ニーベルンゲンの歌』などがある。",
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"text": "中世末期に起こった革命的な出来事として、組み替え可能な活字による印刷が発明されたことが挙げられる。またこのころ羊皮紙は、安価な紙にとって代わられるようになった。初期近代への移行期の作品にはヨハネス・フォン・テープル(ドイツ語版)による『ボヘミアの農夫(ドイツ語版)』がある。",
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"text": "ルネサンス的精神である人文主義は、イタリアからドイツに伝えられた。時代の思潮は古代に向かったが、その代表者としてロッテルダムのエラスムスとロイヒリンがいる。かれらは主にラテン語で著作を著したため、知識階級以外への影響はあまり大きくなかった。一方、反権力的な詩を作ったウルリヒ・フォン・フッテンや、大きな成功を収めた『阿呆船』の作者ゼバスティアン・ブラントらは、ドイツ語で作品を制作した。",
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"text": "それに続いてマルティン・ルターによる宗教改革運動が始まった。ルターは、自分の思想を広めるには民衆に分かりやすいドイツ語で書くべきであることを理解していた。ルターによって1522年から1534年にかけて聖書がドイツ語に翻訳され、新高ドイツ語の発展に大きく寄与した。ドイツ出版界における16世紀最大の事件である。",
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"paragraph_id": 7,
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"text": "人文主義や宗教改革と並んで挙げるべきは、職匠歌、謝肉祭劇や滑稽譚などである。少なくともニュルンベルクのハンス・ザックスとイェルク・ヴィクラム(Jörg Wickram; 1505年頃-1562年頃)には言及すべきだろう。ヴィクラムは 111 篇の滑稽話を集めた『道中よもやま話』(Rollwagenbüchlin; 1555年)を著わした。この作品の「本質的な特徴のひとつは、作者が登場人物を善人、悪人に二分化せず、それぞれ長所、短所をあわせもつ人間であり、短所を嘲笑せず、短所は改善可能なものとして、すなわち登場人物を自分と同じレベルにある人間として描いていることである」。さらに挙げるべき価値のある作家として、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』を翻案してGeschichtklitterung を著した、ストラスブール出身のヨーハン・フィッシャルト(Johann Fischart; 1546/47-1590/91)がいる。この作品は『冒険的で気まぐれで胡散臭い似非物語』または『奇想天外な物語』などと邦題名を与えられているが、フィッシャルトは舞台をドイツに移し、「多くの挿話や引用で拡大し、(ラブレー作品とは)まったく別の作品に仕上げている」。彼は「斬新な言葉と独特な文体で潤色に成功している」。",
"title": "初期近代(人文主義と宗教改革 1450年頃 - 1600年頃)"
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"text": "この時代に人気のあったジャンルとして民衆本がある。その題材は一般に流布していたもので、作者不明なのが普通である。『ヨーハン・ファウスト博士の物語』や『ティル・オイレンシュピーゲル』などが有名である。",
"title": "初期近代(人文主義と宗教改革 1450年頃 - 1600年頃)"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "バロック期になるとドイツ語によって文学作品を制作する傾向が強まってくる。この時代は、政治的には三十年戦争と宗教対立で特徴づけられている。バロック文学のジャンルは多様で、宮廷文学から大衆小説まで、古典を範とした擬古典的文学から個人的な体験文学まで、生の肯定から厭世的なヴァニタスのモチーフまでさまざまである。",
"title": "バロック(1600年 - 1720年頃)"
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"text": "バロック時代には、文学の促進とドイツ語の統一を目的として多くの詩人協会・国語協会が設立されたが、最も有名なのは結実結社である。マルティン・オーピツは、『ドイツ詩学の書』を著し、ギリシア語詩に由来するアレクサンドラン詩形をドイツ語の詩に当てはめたが、この詩形は長い期間にわたってドイツ詩の最も重要な詩形となった。少し遅れてペトラルカ的恋愛詩や牧歌などもドイツ文学に導入された。このオーピツ門下で有名なのはパウル・フレーミングとジーモン・ダッハである。",
"title": "バロック(1600年 - 1720年頃)"
},
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"paragraph_id": 11,
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"text": "その他に、この時代の抒情詩の形式として重要なのはソネット・頌歌・エピグラムなどがある。これら抒情詩は主にプロテスタント的な宗教詩と世俗的な詩とに大別できる。宗教的な抒情詩作者として重要なのは、フリードリヒ・シュペー・フォン・ランゲンフェルトと、神秘主義者ヤーコプ・ベーメである。主に世俗的な詩を制作した詩人、特にソネットの形式で制作した詩人に、アンドレアス・グリューフィウスがおり、またクリスティアン・ホフマン・フォン・ホフマンスヴァルダウも挙げることができる。",
"title": "バロック(1600年 - 1720年頃)"
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"text": "バロック期の演劇もまた多岐にわたる。イエズス会劇は南部のカトリックが盛んな地域で主に上演されたが、これはラテン語で演じられたため大衆にはセリフの意味は分からなかった。しかしその分視覚的な面には注意が集中された。これは外国人、主にイギリス人による放浪劇団についても同じことが言えるだろう。この他にバロックオペラや宮廷演劇などがあり、総合芸術として珍重された。宮廷演劇には古代ギリシア演劇に定められているように、悲劇の主人公は貴族、喜劇の主人公は平民、というような身分規則があった。この分野の作者としては、ダニエル・カスパー・フォン・ローエンシュタインがいる。グリューフィウスもまた喜劇や悲劇を制作している。",
"title": "バロック(1600年 - 1720年頃)"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "バロック小説には牧人小説・国家小説・宮廷恋愛小説などのジャンルがあった。またスペインに由来する悪漢小説ではハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼンによる『阿呆物語』(『ジンプリツィシムス』)が非常に有名である。三十年戦争の時代をめぐるこのジンプリツィシムスの冒険物語はスペイン以外で最も重要な悪漢小説であり、多くの模倣作が追随した。",
"title": "バロック(1600年 - 1720年頃)"
},
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"text": "1687年には既に「ドイツ啓蒙主義の父」と呼ばれるクリスティアン・トマジウスがラテン語ではなくドイツ語で講義をおこなっていた。初期啓蒙主義の時代の有名な哲学者として、クリスティアン・ヴォルフとゴットフリート・ライプニッツがいる。初期啓蒙主義の重要な文学者としては、寓話を著したクリスティアン・フュルヒテゴット・ゲラートがいる。だが最も重要な文学者は、ヨーハン・クリストフ・ゴットシェートであることは確かである。ゴットシェートの文学理論書『批判的詩学の試み』(1730年)は、その後の文学に道を示したが、その一方でかれの実作した文学の方は二流のものにとどまっている。『批判的詩学の試み』は、ラシーヌなどのフランス古典演劇に範をとって詩学の規範を定めており、身分規則や三一致の法則などを固持していた。この規範性に対しては、スイスのヨハン・ヤーコプ・ボードマーやヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガーらが異を唱えて論争を展開した。",
"title": "啓蒙主義(1720年 - 1785年頃)"
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"text": "時代区分はあいまいなもので、初期啓蒙主義の文学者たちは同時に後期バロックにも分類されるが、詩人ヨーハン・クリスティアン・ギュンターやバルトルト・ハインリヒ・ブロッケスなどは、その例といえる。理性を重んずる啓蒙とならんで、感情を前面に押し出す文学的思潮も同時にあり、これらはフリードリヒ・ハーゲドルン、エーヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト、ザロモン・ゲスナーなどのロココ詩人たちによって代表されている。感傷主義に分類されるフリードリヒ・ゴットリープ・クロップシュトックの『救世主』はこの時代を代表する作品であり、その燃えるような感性と精神的態度によって一つの世代全体を代表している。また散文ではクリストフ・マルティン・ヴィーラントがロココ的要素と啓蒙主義の混ざった教養小説の元祖『アーガトン物語』を著した。",
"title": "啓蒙主義(1720年 - 1785年頃)"
},
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"text": "ゴットホルト・エフライム・レッシングなしでは後期啓蒙主義を語ることはできない。かれは、理論的な面では古代ギリシアの「高貴な簡潔さと静かな偉大さ」を称揚したヴィンケルマンから影響を受け、美学論文『ラオコーン』において文学の特質を造形芸術との対比を通じて明らかにした。またフリードリヒ・ニコライやモーゼス・メンデルスゾーンらと共に文学批評家として活動したり、一連の重要な戯曲を制作したりした。戯曲『賢者ナータン』は、人間の価値が民族や宗教など環境から偶然に与えられたものによって変わるものではないという啓蒙的な信条を端的に示している。",
"title": "啓蒙主義(1720年 - 1785年頃)"
},
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"text": "啓蒙主義のことを狭苦しくて感覚的に冷めていると感じた若者たちの反応は、短い「シュトゥルム・ウント・ドランク」(Sturm und Drang、疾風怒涛、「嵐と衝動」)の時代を作り出した。この運動のほとんどは、いかなる形の専制にも抵抗するという信念をもった若者たちによって構成されており、かれらは芸術の領域においても他からの干渉を許すべきでないと考えていた。この時代の特徴として、規範にしばられない「天才」という観念が流行し、古典よりも自分たちをとりまく「今、ここで」起こっている問題に重きを置いていたという点がある。",
"title": "シュトゥルム・ウント・ドランク(1765年 - 1785年)"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、書簡体小説『若きウェルテルの悩み』で、実る見込みのない恋の絶望のうちに自殺する感情豊かな若者を描いた。フリードリヒ・フォン・シラーは、戯曲『群盗』において自由を重んじ父と秩序に反抗する若者を描き、その作品が舞台に上るや一大センセーションを起こした。ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツは、『家庭教師』のなかで知識階級の若者が抑圧された状況を表現した。これと並んで、感情と情念を主題とした抒情詩も重要である。",
"title": "シュトゥルム・ウント・ドランク(1765年 - 1785年)"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "「シュトゥルム・ウント・ドランク」の時代は長くは続かなかった。この運動の主役を担った若者たちは成長して別の精神的傾向に傾き、あるいは情熱のおもむく果てに若くして命を失ったのである。ゲーテとシラーは古典に回帰して次の時代を開き、レンツはかれを取り巻く環境に適応することを潔しとせずに孤独のうちに死を迎えた。",
"title": "シュトゥルム・ウント・ドランク(1765年 - 1785年)"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "ヴァイマール古典主義の時代は、ゲーテのイタリア紀行をもって初めとする。際立った成果としてゲーテとフリードリヒ・フォン・シラーとの実り多い合作がある。この二人の主役はシュトルム・ウント・ドラングの段階を脱して、人文主義的な理念に向かったのである。古典に題材をとった作品が「擬古的」と言われることがあるが、この時代の「古典的」という表現は普通ポジティヴな意味で使用される。古典主義の時代区分としては、シラーの没した1805年が終わりとされる。",
"title": "ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年)"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ゲーテは、戯曲『タウリスのイフィゲーニエ』で偏見の克服を描き、古典の人文主義的理想の例を示した。かれの最大の作品、悲劇『ファウスト』の第二部が完成したのはゲーテ最晩年の1832年だったが、この作品の内容は非常に幅広く、後半部分はもはや古典主義すら脱している晩年の境地が窺える。フリードリヒ・フォン・シラーは、その理論的著作『素朴文学と情感文学』においてギリシア的古典を称揚しつつ、近代に生きる人間のあるべき姿を示した。また『散策』のような抒情詩においても哲学的問題をテーマにした。またシラーは『人質』など多くのバラードとともに『ドン・カルロス』、『ジェノバのフィエスコの叛乱』、『メアリ・スチュアート』、『オルレアンの乙女』、『ヴァレンシュタイン三部作』のような一連の史劇も制作している。",
"title": "ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年)"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "その他重要な作者として、古典主義の先駆者カール・フィリップ・モーリッツ、シラーの美学的著作に感銘を受けロマン主義への道を示したフリードリヒ・ヘルダーリンがいる。モーリッツの自伝的小説『アントン・ライザー』は、ドイツ語文学最初の心理小説とも言われており、またヘルダーリンの叙情的賛歌は、この分野の到達点と賞賛されている。",
"title": "ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年)"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "広い意味では、主として風刺的な小説を書いたジャン・パウルや『ミヒャエル・コールハース』などで社会的桎梏と葛藤しそれを打破する個人の意識を描いたハインリヒ・フォン・クライストなども、古典主義に含めることができる。",
"title": "ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年)"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ロマン主義の時代は、初期、盛期、後期、晩期の四つに一応分類できるが、時代区分も作家がどの時期に属するかもはっきりと分類するのは難しい。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "初期ロマン主義は、文学的展望が最も興味深いものになった時代だといえる。交友のあった作家たち、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフリードリヒ・シュレーゲル兄弟やヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーとルートヴィヒ・ティーク、ノヴァーリスの筆名で創作活動を行ったフリードリヒ・フォン・ハルデンベルクなどの作家たちは、いくつもの共通傾向を示した。たとえば小説や詩、バラード、短い物語などを混在させるなどである。これには先行する『若きウェルテルの悩み』や『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のような大作からも影響を受けている。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "フリードリヒ・シュレーゲルは、これを「発展的普遍文学」と呼んで、文学における多様なジャンルや学問分野を互いに結びつけ、自身の批評活動をもこれに含めた。このような文学状況において「イロニー」の表現は、古典主義の理論に基づく理想像が人間らしさと解離していること、そしてそのような理想像によって表現される作品はもはや信用がならないということを表明する手段として現れた。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "盛期ロマン主義の代表者としてアヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが挙げられる。かれらは、『少年の魔法の角笛』というタイトルでドイツの民謡集を発表した。アルニム夫人でありブレンターノの妹であるベッティーナ・フォン・アルニムは『ゲーテとある子供との往復書簡』を編集し1835年に発表した。この作品でベッティーナは、ゲーテの人気を伝えるばかりでなくドイツの社会的政治的欠陥を幾度も指摘して話題にしている。(『貧民の書』、『この本は王に帰属する』の特に最初の部分、および『ポーランドパンフレット』)",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムのグリム兄弟が『民話集』を収集したのもこのころであり、ティークもこの時期に分類できる。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "後期ロマン主義者で最も有名なのはE.T.A.ホフマンである。『牡猫ムルの人生観』と『砂男』においてロマン的イロニーは現代のように心理的側面に向かい、観念的詩学の兆しはもはや見られない。後期ロマン主義の詩人にはヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフがいる。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "ハインリヒ・ハイネはロマン主義とそのモチーフにしばしば皮肉な態度を取ったが、これによりハイネは、初期リアリズムに分類されるのが一番ふさわしいだろう。",
"title": "ロマン主義(1796年 - 1835年頃)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "古典主義およびロマン主義と、後述する市民的・詩的リアリズムに挟まれるこの時期の文芸思潮は、単一の概念によって分類することが出来ないため、歴史的概念を流用してビーダーマイヤーと三月前期という語が用いられている。",
"title": "ビーダーマイヤー(1815年 - 1848年頃)と三月前期(1830年 - 1850年頃)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "三月前期に分類される作家は、熱心に政治に参加し、政治的文学を隆盛させた。かれらの多くは、『若きドイツ』などのグループでゆるい連帯を持っていた。ゲオルク・ヘルヴェーク、ハインリヒ・ラーベ、カール・グッコウ、フェルディナント・フライリヒラートなどである。類似の傾向が見られるのは、『ハルツ紀行』『ドイツ冬物語』を著したハインリヒ・ハイネ、ルートヴィヒ・ベルネ、そして戯曲『ヴォイツェク』の作者で夭折したゲオルク・ビュヒナーなどである。",
"title": "ビーダーマイヤー(1815年 - 1848年頃)と三月前期(1830年 - 1850年頃)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "その他で、リアリズムに分類されない作家はビーダーマイヤーに属する。なによりも抒情詩人として有名なのがニコラウス・レーナウ、エードゥアルト・メーリケ、フリードリヒ・リュッケルト、アウグスト・フォン・プラーテンである。アーダルベルト・シュティフター、イェレミアス・ゴットヘルフ、メルヒェン詩人のヴィルヘルム・ハウフらにも触れる必要がある。",
"title": "ビーダーマイヤー(1815年 - 1848年頃)と三月前期(1830年 - 1850年頃)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "劇作家で多少なりともビーダーマイヤーに属しているのは、オーストリアのフランツ・グリルパルツァー、ヨーハン・ネポームク・ネストロイ(Johann Nepomuk Nestroy ; 1801-1862)、フェルディナント・ライムントである。グリルパルツァーはヴァイマール古典主義精神の悲劇を描き、ネストロイとライムントはウィーンで民衆演劇を製作した。",
"title": "ビーダーマイヤー(1815年 - 1848年頃)と三月前期(1830年 - 1850年頃)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "詩的・市民的リアリズムにおいて作家は、大きな社会・政治問題を避け、狭く地域的な郷土の風景と人びとに興味を向けた。全ての小説・戯曲・詩の中心は、一人一人の人間、個人である。詩的リアリズム作品の多くに見られる様式的特長は、耐え難く腹立たしい現実から距離を置くユーモアである。このユーモアによってリアリズム文学は、社会構造の個々の欠陥や弱点を告発するのだが、それが社会構造全般に対して向けられることはない。",
"title": "詩的リアリズム(1848年 - 1890年)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "初めのうち好まれたジャンルはノヴェレ(短・中編小説)であり、例としてスイスのコンラート・フェルディナント・マイヤーによる『首飾り』、テオドール・シュトルムの『白馬の騎士』などがある。戯曲では『マリア・マグダレーナ』などを書いたフリードリヒ・ヘッベルのみが記憶されている。のちには長編小説(ロマーン)がノヴェレよりも好まれるようになる。長編の作者としては、グスタフ・フライタークやヴィルヘルム・ラーベなどが挙げられる。",
"title": "詩的リアリズム(1848年 - 1890年)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "リアリズムの二巨頭は、テオドール・フォンターネと、スイスのゴットフリート・ケラーである。ケラーは、『村のロメオとユーリア』のような物語のほか、教養小説『緑のハインリヒ』などを著した。フォンターネは、ジャーナリストとして出発したが、『イェニー・トライベル夫人』や『エフィ・ブリースト』などの小説を書いている。フォンターネはその視野を主人公から広げ、社会小説の域にまで発展させた。",
"title": "詩的リアリズム(1848年 - 1890年)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "オーストリアでは、マリー・フォン・エプナー=エッシェンバッハやルートヴィヒ・アンツェングルーバーらの牧歌的モチーフや、時代区分の後方にはみ出しているがペーター・ロゼガーらが見られる。",
"title": "詩的リアリズム(1848年 - 1890年)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "自然主義は、社会の全ての領域における諸関係を容赦なくに明らかにしようとする新たな美術・文学の潮流であった。19世紀中期のリアリズム文学者たちがいまだテーマとして避けていたものが、この時期の文学における主要な対象となった。いわゆる良い趣味というものが設ける限界にも、市民的な芸術理解にもなんら顧慮することなく、現実世界の描写においてはできる限り現実とその似姿の間の差異をゼロに近づけなければならないと考えられた。様式上本質的に新しいのは、このような観点からの俗語・隠語・方言などの導入であった。自分自身の考えに従って自由に行動する主人公はもはや描かれなくなり、代わりに集団や出自、家庭環境や時代思潮に縛られた人々が物語の中心に据えられた。",
"title": "自然主義(1880年 - 1900年)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ロシア文学やフランス文学とは異なり、ドイツ語圏においては重要な自然主義的長編小説が登場しなかった。アルノー・ホルツはヨハネス・シュラーフとともに抒情詩や『パパ・ハムレット』などの短い散文を制作した。ホルツの方程式『芸術=自然-X』はよく知られており、この等式においてXは限りなく0に近づいていかなければならず、したがって芸術とは現実の写し絵以上のものではないと考えられた。さらに重要なのはゲアハルト・ハウプトマンの貢献で、戯曲『織工』は国際的な賞賛を受けた。自然主義の周縁にはフランク・ヴェーデキントがおり、『春の目覚め』は思春期の性をテーマとして示し、すでに世紀末に位置している。",
"title": "自然主義(1880年 - 1900年)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "自然主義と象徴主義の登場をもって古典的近代と言われる時代が始まる。この時代は様々な潮流の並存と様式の混合によって特徴づけられている。「ベルリーナー・モデルネ」「ヴィエナー・モデルネ」とも呼ばれるように、この時代の中心はベルリンとウィーンであったが、これらの中心地は第一次世界大戦の勃発によって突然の解体を迎えることになる。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "古典的近代には「前衛」という概念が特に重要なものになった。この時代の始まりは、19世紀終わりの、ステファヌ・マラルメやシャルル・ボードレール、アルチュール・ランボーなどの詩人が代表するフランス象徴主義に由来している。ドイツ語圏で最も重要な象徴主義の代表者としては、シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、およびライナー・マリーア・リルケなどがいる。象徴主義は、およそ時を同じくする自然主義とは全く違った綱領に従っている。象徴主義的抒情詩はエリート的で、美と様式に最高の価値を置いていたのである。世紀末として示される時代、ユーゲント・シュティールはこのような傾向を示した芸術である。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同時に、この時代(1890年から1910年頃)は印象主義の時代にも当たる。印象主義は象徴主義よりもエリート的ではないが、ホーフマンスタールとリルケは同時にこちらにも属していた。それに加えて散文作品はないがリヒャルト・デーメルや、劇作家アルトゥル・シュニッツラー、ペーター・アルテンベルク、およびデトレフ・フォン・リーリエンクローンなどがいる。象徴主義と印象主義は、ともに自然主義に対抗しているという観点から合わせて新ロマン主義と呼ばれることもあり、世紀末ウィーンがこれらの文学の中心地となった。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これらの伝統に対抗する党派的な潮流と平行して、古い形式を取り上げさらに発展させた長編小説が多数現れた。時代批判的な作品を書いたハインリヒ・マン、市民的教養と芸術家との相克を描いたトーマス・マン、市民社会における人間性をテーマとしたヘルマン・ヘッセ、歴史小説で活躍したアルノルト・ツヴァイク、都市をテーマにしたアルフレート・デーブリーンなどであり、またヘルマン・ブロッホ、ロベルト・ムージル、エルンスト・ユンガー、フランツ・カフカらは、現実社会への深い懐疑に基づきさらに現代的な長編小説を残した。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "表現主義はドイツにおける最後の大きな文学的潮流だと見なされており、すでに述べた象徴主義と同じく、表現主義もまたアヴァンギャルド文学に属する。アヴァンギャルドは新式の、理論先導的な文学であり、市民文学への対抗の身振りをもって出現した。アヴァンギャルドの潮流はシュールレアリスムと未来派から影響を受けたダダイスムの出現を持って頂点を迎えるが、市民社会の教養をナンセンスな表現を用いて突き放したこれらの文学は、ナチズムの台頭した第二次大戦期には取り締まりの対象となった。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "表現主義的な詩の嚆矢はヤコブ・ヴァン・ホディス作の『世の終わり』である。また薬学士としての教育を終えたばかりのゴットフリート・ベンは散文詩『モルグ』において、死体置き場や子供の出産、あるいは売春といったそれまでの文学ではほとんど見られなかった題材を取り扱いセンセーションを起こした。表現主義の作家・詩人としては他にゲオルク・トラークル、ゲオルク・ハイム、エルゼ・ラスカー=シューラーなどが挙げられる。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "表現主義の後には、客観的・現実主義的な姿勢で新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる流れが起こった。劇作の分野ではベルトルト・ブレヒトが突出しており、散文作品ではエーリッヒ・ケストナー、アルノルト・ツヴァイク、アンナ・ゼーガース、エーリヒ・マリア・レマルクなどが挙げられ、彼らは戦中、戦後を通じて作品を残している。",
"title": "古典的近代(1890年頃 - 1933年)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1933年1月30日にナチスがドイツの政権を握ると、同年中から焚書が行なわれ、国家から独立して文学活動を行なうことは不可能になった。1938年の終わりにはオーストリアでも同様の事態が起こった。政府からは郷土愛と民族主義を重んじる文学が推奨され、その他にはいくらかの娯楽文学が許されただけであった。体制への著名な反対者は亡命し、さもなければヤコブ・ヴァン・ホディスやカール・フォン・オシーツキィのように死がもたらされた。ナチズムに反対しながらも国内に残ったいくらかの作家は作品の発表を諦めるか、もっぱら非政治的なテーマで書くことを強いられた。彼らは国内亡命者とも呼ばれるが、もともと非政治的な作家であったものと彼らとを見分けるのはしばしば困難である。当時国内に残っていた作家はゴットフリート・ベン、エルンスト・ユンガー、エーリッヒ・ケストナー、ゲアハルト・ハウプトマン、オトフリート・プロイスラー、ウォルフガング・ケッペンなどである。",
"title": "ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "およそ1500人もの作家が、多くの場合入り組んだ過程を経て亡命し、シュテファン・ツヴァイクなど多数の作家が亡命先で命を落とした。ドイツの亡命文学の拠点は世界各地に散らばっており、なかでもスイスは特に劇作家にとって重要な国であった。亡命した作家は多数に及ぶため、亡命文学について統一的なテーマや共通するスタイルを見出すことは困難である。亡命後も多産であり続けた作家はハインリヒ・マンとトーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、フランツ・ヴェルフェル、ヘルマン・ブロッホなどであり、一方アルフレート・デーブリーンやハインリヒ・エドゥアルト・ヤーコブ、ヨーゼフ・ロートらは執筆の継続が困難になった。終戦後は彼らの一部は亡命先に留まり、一部は祖国に戻った。エリアス・カネッティはナチスによるオーストリア併合の際にロンドンに亡命したため、ノーベル文学賞をイギリス市民として受賞している。総じて戦間期には亡命者も含め多数の作家が作品制作の断念を余儀なくされた。",
"title": "ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年)"
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"text": "二つの大戦以降は文学の「零地点」ということが話題となった。世界では「瓦礫文学」が書かれたが、すぐに戦争によって失われた文学の発展を取り戻さなくてはならないと考えられるようになった。まずその死から20年の時を経てフランツ・カフカが再発見された。ウィーン・グループは革新的な形式の詩を実践し、西ドイツに起こった47年グループのメンバーたちが戦後の文学を主導した。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "国ごとにそれぞれ条件がことなるため、以下では各国の文学を分けて解説するが、しかし国ごとの違いを過大評価するべきではない。いずれにしても言語は同じであり、東ドイツを除けば経済的基盤も共通している。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "1945年以降すぐに戦争の脅威と故郷への帰還を題材にした作品が書かれ、この題材に適した形式はハインリヒ・ベルが用いたように短編小説であった。1950年代に経済復興が起こると、作品の舞台は現代に集中するようになり、ジークフリート・レンツ、マルティン・ヴァルザー、ウォルフガング・ケッペンらがこのような長編小説を手がけた。ギュンター・グラスは『ブリキの太鼓』で国際的名声を得、1999年にノーベル文学賞を受賞している。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "重要な詩人はギュンター・アイヒであり、彼は当時ポピュラーなジャンルであった放送劇でも活躍した。「具体詩」はヘルムート・ハイセンビュッテが開始した。またグラス、レンツ、アイヒらと同じく47年グループのメンバーであり、ユダヤ人の立場から詩を書いたパウル・ツェランが注目されたが、彼の生活の拠点はパリにあった。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "一定の困難な方向へ自分の文学を進めていった作家として、ヌーヴォー・ロマンから影響を受けたロール・ウルフ、実験的な手法を好んだアルノー・シュミットなどもいる。またウォルフガング・ヒルデスハイマーは、ブレヒトの影響がいまだに根強かった演劇界にあって不条理劇を物した。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "ベトナム戦争、および1968年の学生運動の起こりから、文学者にも政治性が強く求められ、詩の分野ではハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、政治劇ではペーター・ヴァイス、ロルフ・ホーホーフトなどが応じた。それに対して新主観主義と呼ばれるような、個人的な生活をテーマにしたユルゲン・テオバルディのような作家も現れた。また70年代には、ポップカルチャーから影響を受けた詩人ロルフ・ディーター・ブリンクマンが突出した活躍を見せた。ファンタジー文学の世界では、ミヒャエル・エンデが『モモ』『はてしない物語』などで国際的名声を得た。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "80年代に入るとボート・シュトラウス、ウラ・ハーン、ドゥルス・グリューンバインなどの新しい作家が登場した。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "東ドイツ国家は自らを「文学共同体」と名づけ、西側諸国の文学を敵視した。民主化は国家の主導のもと生産や頒布、受容すべての場に行き渡るべきだと考えられた。社会主義思想を馬鹿げたものだとするような思想は検閲によってとり締められ、社会主義リアリズムが国の目的に沿うものとして称揚された。この時期社会的リアリズムの作品を書いた作家にヘルマン・カントなどがおり、ヨハネス・ボブロウスキが散文において重要な活動を行なった。1970年代には西ドイツと同じく新主観主義と呼ばれるような作家も登場した。一方で反体制的と見なされたウーヴェ・ヨーンゾン、ヴォルフ・ビーアマン、ザラ・キルシュなどが東ドイツを後にした。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "他の重要な作家はクリスタ・ヴォルフ、ハイナー・ミュラーなどであり、彼らの作品は西ドイツでも高い評価を受けた。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "戦後のオーストリアではゲルハルト・リュームとH・C・アルトマンを中心としたウィーン・グループ、ならびにアルベルト・パリス・ギュータースローやハイミート・フォン・ドーデラーなどの作家が、ナチズムとオーストリア国内のファシズムによって損なわれた近代的な伝統を取り戻そうと腐心した。詩の分野においては「具体詩」と言われる視覚的な表現を追究したエルンスト・ヤンドルの他、フランツォーベル、フリードリヒ・マイレッカーなどが挙げられる。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "1960年代から70年代にかけてオーストリア文学は、ペーター・ハントケ、インゲボルク・バッハマン、トーマス・ベルンハルトの登場で躍進し、ドイツ語圏の文学全体に大きな影響を及ぼした。エルフリーデ・イェリネクも彼らの影響の下に登場し、2004年にノーベル文学賞を受け取っている。",
"title": "1945年以降の文学"
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"text": "ドイツやオーストリアと違い、スイスにおけるドイツ語文学には1945年を根本的な区切りとする必然性はない。戦後スイスにおけるもっとも重要な作家はマックス・フリッシュとフリードリヒ・デュレンマットであり、どちらも小説と戯曲を執筆し、フリッシュはどちらかといえば知的に、デュレンマットはグロテスクさを強調することによって戦後の市民社会を批判的に扱った。この二人の影に隠れがちであるが、他の作家にはアドルフ・ムシュク、ペーター・ビクセル、ウルス・ヴィドメルなどがいる。最も重要な文学の集会は2002年まで存在したオルテン・グループである。",
"title": "1945年以降の文学"
},
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"paragraph_id": 62,
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"text": "2011年現在、ドイツ語で執筆したノーベル文学賞受賞者は、英語・フランス語で執筆した受賞者についで3番目に多い。ドイツ語で執筆した受賞者は以下の通り。",
"title": "ドイツ文学のノーベル文学賞受賞者"
}
] | ドイツ文学(ドイツぶんがく)は、ドイツ語による文学のこと。またその作品や作家を対象とする学問領域も指す。ドイツ国内で書かれた文学のみではなく、オーストリア文学やスイス文学などドイツ以外のドイツ語圏の文学も含む。広義の文学には言語芸術以外の、文筆家としての創作行為も含まれる。すなわち歴史的記述、文学史、社会学・哲学的著作、もしくは日記や往復書簡などである。 時代区分の開始年・終了年を設定するのには常に困難が伴う。ここでの時代区分はできる限り早い時期から始まるよう定義されている。そのため、時代区分の相互の重なりについてよく確認することが望ましい。 | {{Redirect|ドイツ文学論|プロイセン王フリードリヒ2世(大王)の著作|ドイツ文学論 (フリードリヒ大王)}}
{{出典の明記|date=2011年12月39日 (金) 14:43 (UTC)}}
{{Portal|文学}}
'''ドイツ文学'''(ドイツぶんがく)は、[[ドイツ語]]による[[文学]]のこと。またその作品や作家を対象とする学問領域も指す。ドイツ国内で書かれた文学のみではなく、[[オーストリア]]文学や[[スイス]]文学など[[ドイツ]]以外のドイツ語圏の文学も含む。広義の文学には言語芸術以外の、文筆家としての創作行為も含まれる。すなわち[[歴史]]的記述、文学史、社会学・[[哲学]]的著作、もしくは日記や往復書簡などである。
時代区分の開始年・終了年を設定するのには常に困難が伴う。ここでの時代区分はできる限り早い時期から始まるよう定義されている。そのため、時代区分の相互の重なりについてよく確認することが望ましい。
== 中世(750年頃 - 1500年頃) ==
[[File:Eschenbach_copy.jpg|thumb|right|200px|[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]](大ハイデルベルク歌謡写本より)]]
最も古い[[古高ドイツ語]](Althochdeutsch)は、[[8世紀]]の『[[メルゼブルクの呪文]]』に見ることができる。このゲルマン的なまじないの書は、ドイツ語圏で唯一残された、キリスト教化以前という意味で異教時代の文献でもある。他にこの時代の文献としては『[[ヒルデブラントの歌]]』が残されている。[[羊皮紙]]が高価だったこともあって、読み書きは主に修道院で教えられており、これら古高ドイツ語文学にはキリスト教の影響が大きい。このような例として、ヴァイセンブルクのオトフリートによる聖福音集や、1000年ころの[[ザンクト・ガレン]]の修道士[[ノートカー]]による古典の翻訳などを挙げることができる。
これら宗教文学に続いて世俗文学も徐々に成長を見せた。最初の宮廷叙事詩として『アレクサンダーの歌』と『ローラントの歌』(『[[ローランの歌]]』の翻訳)がある。抒情詩では[[ミンネザング]]と呼ばれる恋愛詩が発展し、ハインリヒ・フォン・モールンゲン、[[ハルトマン・フォン・アウエ]]、ラインマル・フォン・ハーゲナウ、[[ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ]]、[[ナイトハルト・フォン・ロイエンタール]]などが活躍した。中世盛期の12、13世紀にはクレチアン・ド・トロワなどによるフランス文学を範として[[中高ドイツ語]](Mittelhochdeutsch)による宮廷文学が隆盛を迎えた。宮廷文学として最も有名なものに、ハルトマンによる『エーレク』と『イーヴェイン』、[[ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク]]『[[トリスタンとイゾルデ]]』、[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]『パルチヴァール』([[:de:Parzival]])、作者不明の『[[ニーベルンゲンの歌]]』などがある。
中世末期に起こった革命的な出来事として、組み替え可能な[[活字]]による[[印刷]]が発明されたことが挙げられる。またこのころ[[羊皮紙]]は、安価な紙にとって代わられるようになった。初期近代への移行期の作品には{{仮リンク|ヨハネス・フォン・テープル|de|Johannes von Tepl}}による『{{仮リンク|ボヘミアの農夫|de|Der Ackermann aus Böhmen}}』がある。
== 初期近代(人文主義と宗教改革 1450年頃 - 1600年頃) ==
[[ルネサンス]]的精神である[[人文主義者|人文主義]]は、[[イタリア]]からドイツに伝えられた。時代の思潮は古代に向かったが、その代表者として[[ロッテルダム]]の[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]とロイヒリンがいる。かれらは主に[[ラテン語]]で著作を著したため、知識階級以外への影響はあまり大きくなかった。一方、反権力的な詩を作った[[ウルリヒ・フォン・フッテン]]や、大きな成功を収めた『[[阿呆船]]』の作者[[ゼバスティアン・ブラント]]らは、ドイツ語で作品を制作した。
それに続いて[[マルティン・ルター]]による[[宗教改革]]運動が始まった。ルターは、自分の思想を広めるには民衆に分かりやすいドイツ語で書くべきであることを理解していた。ルターによって[[1522年]]から[[1534年]]にかけて[[聖書]]がドイツ語に翻訳され、[[新高ドイツ語]]の発展に大きく寄与した。ドイツ出版界における16世紀最大の事件である。
人文主義や宗教改革と並んで挙げるべきは、職匠歌、謝肉祭劇や滑稽譚などである。少なくともニュルンベルクの[[ハンス・ザックス]]とイェルク・ヴィクラム(Jörg Wickram; 1505年頃-1562年頃)には言及すべきだろう。ヴィクラムは 111 篇の滑稽話を集めた『道中よもやま話』(''Rollwagenbüchlin''; 1555年)を著わした。この作品の「本質的な特徴のひとつは、作者が登場人物を善人、悪人に二分化せず、それぞれ長所、短所をあわせもつ人間であり、短所を嘲笑せず、短所は改善可能なものとして、すなわち登場人物を自分と同じレベルにある人間として描いていることである」<ref>イェルク・ヴィクラム著、名古屋初期新高ドイツ語研究会(工藤康弘・精園修三・森昌弘・山田やす子)訳『道中よもやま話』、[[講談社]]( [[講談社学術文庫]] 1484)2001年(ISBN 4-06-159484-2)、引用 279頁。</ref>。さらに挙げるべき価値のある作家として、[[フランソワ・ラブレー|ラブレー]]の『[[ガルガンチュワとパンタグリュエル|ガルガンチュワ物語]]』を翻案して''Geschichtklitterung'' を著した、[[ストラスブール]]出身のヨーハン・フィッシャルト(Johann Fischart; 1546/47-1590/91)がいる。この作品は『冒険的で気まぐれで胡散臭い似非物語』または『奇想天外な物語』などと邦題名を与えられているが、フィッシャルトは舞台をドイツに移し、「多くの挿話や引用で拡大し、(ラブレー作品とは)まったく別の作品に仕上げている」。彼は「斬新な言葉と独特な文体で潤色に成功している」<ref>ヨーハン・フィッシャルト『チューリヒの幸福の船 蚤退治』(大澤峯雄・精園修三訳)、同学社、1998年(ISBN 4-8102-0120-1)、引用 301-302頁。</ref>。
この時代に人気のあったジャンルとして民衆本がある。その題材は一般に流布していたもので、作者不明なのが普通である。『ヨーハン・ファウスト博士の物語』や『[[ティル・オイレンシュピーゲル]]』などが有名である。
== バロック(1600年 - 1720年頃) ==
[[File:G-1684-0012.gif|thumb|right|240px|『[[阿呆物語]]』見返し(1684年フェルスエッカー版)]]
[[バロック]]期になるとドイツ語によって文学作品を制作する傾向が強まってくる。この時代は、政治的には[[三十年戦争]]と宗教対立で特徴づけられている。[[バロック文学]]のジャンルは多様で、宮廷文学から大衆小説まで、古典を範とした擬古典的文学から個人的な体験文学まで、生の肯定から厭世的な[[ヴァニタス]]のモチーフまでさまざまである。
バロック時代には、文学の促進とドイツ語の統一を目的として多くの詩人協会・国語協会が設立されたが、最も有名なのは結実結社である。[[マルティン・オーピツ]]は、『ドイツ詩学の書』を著し、[[ギリシア語]]詩に由来する[[アレクサンドラン]]詩形をドイツ語の詩に当てはめたが、この詩形は長い期間にわたってドイツ詩の最も重要な詩形となった。少し遅れて[[ペトラルカ]]的恋愛詩や牧歌などもドイツ文学に導入された。このオーピツ門下で有名なのはパウル・フレーミングとジーモン・ダッハである。
その他に、この時代の抒情詩の形式として重要なのは[[ソネット]]・[[頌歌]]・[[エピグラム]]などがある。これら抒情詩は主に[[プロテスタント]]的な宗教詩と世俗的な詩とに大別できる。宗教的な抒情詩作者として重要なのは、フリードリヒ・シュペー・フォン・ランゲンフェルトと、[[神秘主義]]者[[ヤーコプ・ベーメ]]である。主に世俗的な詩を制作した詩人、特にソネットの形式で制作した詩人に、[[アンドレアス・グリューフィウス]]がおり、またクリスティアン・ホフマン・フォン・ホフマンスヴァルダウも挙げることができる。
バロック期の演劇もまた多岐にわたる。[[イエズス会劇]]は南部のカトリックが盛んな地域で主に上演されたが、これはラテン語で演じられたため大衆にはセリフの意味は分からなかった。しかしその分視覚的な面には注意が集中された。これは外国人、主に[[イギリス]]人による放浪劇団についても同じことが言えるだろう。この他にバロックオペラや宮廷演劇などがあり、総合芸術として珍重された。宮廷演劇には古代ギリシア演劇に定められているように、悲劇の主人公は貴族、喜劇の主人公は平民、というような身分規則があった。この分野の作者としては、[[ダニエル・カスパー・フォン・ローエンシュタイ]]ンがいる。グリューフィウスもまた喜劇や悲劇を制作している。
バロック小説には[[牧人小説]]・国家小説・宮廷恋愛小説などのジャンルがあった。またスペインに由来する[[悪漢小説]]では[[ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼン]]による『[[阿呆物語]]』(『ジンプリツィシムス』)が非常に有名である。三十年戦争の時代をめぐるこのジンプリツィシムスの冒険物語はスペイン以外で最も重要な悪漢小説であり、多くの模倣作が追随した。
== 啓蒙主義(1720年 - 1785年頃) ==
1687年には既に「ドイツ[[啓蒙主義]]の父」と呼ばれる[[クリスティアン・トマジウス]]がラテン語ではなくドイツ語で講義をおこなっていた。初期啓蒙主義の時代の有名な哲学者として、[[クリスティアン・ヴォルフ]]と[[ゴットフリート・ライプニッツ]]がいる。初期啓蒙主義の重要な文学者としては、寓話を著した[[クリスティアン・フュルヒテゴット・ゲラート]]がいる。だが最も重要な文学者は、[[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート|ヨーハン・クリストフ・ゴットシェート]]であることは確かである。ゴットシェートの文学理論書『批判的詩学の試み』(1730年)は、その後の文学に道を示したが、その一方でかれの実作した文学の方は二流のものにとどまっている。『批判的詩学の試み』は、[[ラシーヌ]]などの[[フランス]]古典演劇に範をとって詩学の規範を定めており、身分規則や[[三一致の法則]]などを固持していた。この規範性に対しては、[[スイス]]の[[ヨハン・ヤーコプ・ボードマー]]や[[ヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガー]]らが異を唱えて論争を展開した。
時代区分はあいまいなもので、初期啓蒙主義の文学者たちは同時に後期バロックにも分類されるが、詩人ヨーハン・クリスティアン・ギュンターやバルトルト・ハインリヒ・ブロッケスなどは、その例といえる。理性を重んずる啓蒙とならんで、感情を前面に押し出す文学的思潮も同時にあり、これらはフリードリヒ・ハーゲドルン、エーヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト、ザロモン・ゲスナーなどのロココ詩人たちによって代表されている。感傷主義に分類される[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロップシュトック]]の『救世主』はこの時代を代表する作品であり、その燃えるような感性と精神的態度によって一つの世代全体を代表している。また散文では[[クリストフ・マルティン・ヴィーラント]]が[[ロココ]]的要素と啓蒙主義の混ざった[[教養小説]]の元祖『アーガトン物語』を著した。
[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]なしでは後期啓蒙主義を語ることはできない。かれは、理論的な面では古代ギリシアの「'''高貴な簡潔さと静かな偉大さ'''」を称揚したヴィンケルマンから影響を受け、美学論文『[[ラーオコオーン|ラオコーン]]』において文学の特質を造形芸術との対比を通じて明らかにした。また[[フリードリヒ・ニコライ]]や[[モーゼス・メンデルスゾーン]]らと共に文学批評家として活動したり、一連の重要な戯曲を制作したりした。戯曲『賢者ナータン』は、人間の価値が民族や宗教など環境から偶然に与えられたものによって変わるものではないという啓蒙的な信条を端的に示している。
== シュトゥルム・ウント・ドランク(1765年 - 1785年) ==
啓蒙主義のことを狭苦しくて感覚的に冷めていると感じた若者たちの反応は、短い「'''[[シュトゥルム・ウント・ドランク]]'''」(Sturm und Drang、疾風怒涛、「嵐と衝動」)の時代を作り出した。この運動のほとんどは、いかなる形の専制にも抵抗するという信念をもった若者たちによって構成されており、かれらは芸術の領域においても他からの干渉を許すべきでないと考えていた。この時代の特徴として、規範にしばられない「天才」という観念が流行し、古典よりも自分たちをとりまく「今、ここで」起こっている問題に重きを置いていたという点がある。
[[ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]は、書簡体小説『[[若きウェルテルの悩み]]』で、実る見込みのない恋の絶望のうちに自殺する感情豊かな若者を描いた。[[フリードリヒ・フォン・シラー]]は、戯曲『[[群盗]]』において自由を重んじ父と秩序に反抗する若者を描き、その作品が舞台に上るや一大センセーションを起こした。[[ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ]]は、『家庭教師』のなかで知識階級の若者が抑圧された状況を表現した。これと並んで、感情と情念を主題とした抒情詩も重要である。
「シュトゥルム・ウント・ドランク」の時代は長くは続かなかった。この運動の主役を担った若者たちは成長して別の精神的傾向に傾き、あるいは情熱のおもむく果てに若くして命を失ったのである。ゲーテとシラーは古典に回帰して次の時代を開き、レンツはかれを取り巻く環境に適応することを潔しとせずに孤独のうちに死を迎えた。
== ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年) ==
[[File:Goethe- und Schiller-Denkmal (Weimar).jpg|thumb|left|200px|ヴァイマルのシラーとゲーテの像]]
ヴァイマール[[古典主義]]の時代は、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]のイタリア紀行をもって初めとする。際立った成果としてゲーテと[[フリードリヒ・フォン・シラー]]との実り多い合作がある。この二人の主役は[[シュトルム・ウント・ドラング]]の段階を脱して、人文主義的な理念に向かったのである。古典に題材をとった作品が「擬古的」と言われることがあるが、この時代の「古典的」という表現は普通ポジティヴな意味で使用される。古典主義の時代区分としては、シラーの没した[[1805年]]が終わりとされる。
ゲーテは、戯曲『タウリスのイフィゲーニエ』で偏見の克服を描き、古典の人文主義的理想の例を示した。かれの最大の作品、悲劇『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』の第二部が完成したのはゲーテ最晩年の[[1832年]]だったが、この作品の内容は非常に幅広く、後半部分はもはや古典主義すら脱している晩年の境地が窺える。[[フリードリヒ・フォン・シラー]]は、その理論的著作『素朴文学と情感文学』においてギリシア的古典を称揚しつつ、近代に生きる人間のあるべき姿を示した。また『散策』のような抒情詩においても哲学的問題をテーマにした。またシラーは『人質』など多くのバラードとともに『ドン・カルロス』、『ジェノバのフィエスコの叛乱』、『メアリ・スチュアート』、『オルレアンの乙女』、『ヴァレンシュタイン三部作』のような一連の史劇も制作している。
その他重要な作者として、古典主義の先駆者[[カール・フィリップ・モーリッツ]]、シラーの美学的著作に感銘を受けロマン主義への道を示した[[フリードリヒ・ヘルダーリン]]がいる。モーリッツの自伝的小説『[[アントン・ライザー]]』は、ドイツ語文学最初の心理小説とも言われており、またヘルダーリンの叙情的賛歌は、この分野の到達点と賞賛されている。
広い意味では、主として風刺的な小説を書いた[[ジャン・パウル]]や『ミヒャエル・コールハース』などで社会的桎梏と葛藤しそれを打破する個人の意識を描いた[[ハインリヒ・フォン・クライスト]]なども、古典主義に含めることができる。
== ロマン主義(1796年 - 1835年頃) ==
[[File:Tieck.jpg|thumb|left|160px|[[ルートヴィヒ・ティーク]](1773-1853)]]
[[ロマン主義]]の時代は、初期、盛期、後期、晩期の四つに一応分類できるが、時代区分も作家がどの時期に属するかもはっきりと分類するのは難しい。
初期ロマン主義は、文学的展望が最も興味深いものになった時代だといえる。交友のあった作家たち、[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル]]と[[フリードリヒ・シュレーゲル]]兄弟や[[ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダー]]と[[ルートヴィヒ・ティーク]]、[[ノヴァーリス]]の筆名で創作活動を行ったフリードリヒ・フォン・ハルデンベルクなどの作家たちは、いくつもの共通傾向を示した。たとえば小説や詩、バラード、短い物語などを混在させるなどである。これには先行する『若きウェルテルの悩み』や『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]]』のような大作からも影響を受けている。
フリードリヒ・シュレーゲルは、これを「発展的普遍文学」と呼んで、文学における多様なジャンルや学問分野を互いに結びつけ、自身の批評活動をもこれに含めた。このような文学状況において「[[イロニー]]」の表現は、古典主義の理論に基づく理想像が人間らしさと解離していること、そしてそのような理想像によって表現される作品はもはや信用がならないということを表明する手段として現れた。<!--Andererseits können wir uns der vielfältigen Bedeutungen und Bedeutungsbrechungen literarischer Werke nie sicher sein und tun deshalb möglicherweise gut daran, uns auf das Wagnis der Lüge, das die Kunst eingeht, einzulassen. Das literarische Fragment ist ein weiteres, von den Romantikern geschätztes Darstellungsmittel, in dem die Kunst ihr eigenes 'Versagen' reflektiert und sich von dem „klassischen“ Konzept des harmonisch in sich abgeschlossenen Werks, in dem sich der ideale Zustand „spiegelt“, abgrenzt.--><!--なんか感想ぽい-->
盛期ロマン主義の代表者として[[アヒム・フォン・アルニム]]と[[クレメンス・ブレンターノ]]が挙げられる。かれらは、『[[少年の魔法の角笛]]』というタイトルでドイツの民謡集を発表した。アルニム夫人でありブレンターノの妹である[[ベッティーナ・フォン・アルニム]]は『ゲーテとある子供との往復書簡』を編集し1835年に発表した。この作品でベッティーナは、ゲーテの人気を伝えるばかりでなくドイツの社会的政治的欠陥を幾度も指摘して話題にしている。(『貧民の書』、『この本は王に帰属する』の特に最初の部分、および『ポーランドパンフレット』)
[[ヤーコプ・グリム]]と[[ヴィルヘルム・グリム]]のグリム兄弟が『民話集』を収集したのもこのころであり、ティークもこの時期に分類できる。
後期ロマン主義者で最も有名なのは[[E.T.A.ホフマン]]である。『[[牡猫ムルの人生観]]』と『[[砂男 (小説)|砂男]]』においてロマン的イロニーは現代のように心理的側面に向かい、観念的詩学の兆しはもはや見られない。後期ロマン主義の詩人には[[ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ]]がいる。
[[ハインリヒ・ハイネ]]はロマン主義とそのモチーフにしばしば皮肉な態度を取ったが、これによりハイネは、初期リアリズムに分類されるのが一番ふさわしいだろう。
== ビーダーマイヤー(1815年 - 1848年頃)と三月前期(1830年 - 1850年頃) ==
古典主義およびロマン主義と、後述する市民的・詩的リアリズムに挟まれるこの時期の文芸思潮は、単一の概念によって分類することが出来ないため、歴史的概念を流用して[[ビーダーマイヤー]]と[[1848年革命|三月前期]]という語が用いられている。
三月前期に分類される作家は、熱心に政治に参加し、政治的文学を隆盛させた。かれらの多くは、『若きドイツ』などのグループでゆるい連帯を持っていた。[[ゲオルク・ヘルヴェーク]]、ハインリヒ・ラーベ、[[カール・グッコウ]]、[[フェルディナント・フライリヒラート]]などである。類似の傾向が見られるのは、『ハルツ紀行』『ドイツ冬物語』を著したハインリヒ・ハイネ、[[ルートヴィヒ・ベルネ]]、そして戯曲『ヴォイツェク』の作者で夭折した[[ゲオルク・ビュヒナー]]などである。
その他で、リアリズムに分類されない作家はビーダーマイヤーに属する。なによりも抒情詩人として有名なのが[[ニコラウス・レーナウ]]、[[エードゥアルト・メーリケ]]、[[フリードリヒ・リュッケルト]]、アウグスト・フォン・プラーテンである。[[アーダルベルト・シュティフター]]、[[イェレミアス・ゴットヘルフ]]、メルヒェン詩人の[[ヴィルヘルム・ハウフ]]らにも触れる必要がある。
劇作家で多少なりともビーダーマイヤーに属しているのは、オーストリアの[[フランツ・グリルパルツァー]]、ヨーハン・ネポームク・ネストロイ(Johann Nepomuk Nestroy ; 1801-1862)<ref>『ウィーンの茶番劇』ネストロイ研究会(藤井たぎる、浜田義孝、長谷川淳基、コレル・フォルクマール、水谷泰弘、佐藤方代、塚部啓道)訳、同学社、1996年(ISBN 4-8102-0097-3)</ref>、[[フェルディナント・ライムント]]である。グリルパルツァーはヴァイマール古典主義精神の悲劇を描き、ネストロイとライムントはウィーンで民衆演劇を製作した。
== 詩的リアリズム(1848年 - 1890年) ==
詩的・市民的リアリズムにおいて作家は、大きな社会・政治問題を避け、狭く地域的な郷土の風景と人びとに興味を向けた。全ての小説・戯曲・詩の中心は、一人一人の人間、個人である。詩的リアリズム作品の多くに見られる様式的特長は、耐え難く腹立たしい現実から距離を置くユーモアである。このユーモアによってリアリズム文学は、社会構造の個々の欠陥や弱点を告発するのだが、それが社会構造全般に対して向けられることはない。
初めのうち好まれたジャンルはノヴェレ(短・中編小説)であり、例としてスイスの[[コンラート・フェルディナント・マイヤー]]による『首飾り』、[[テオドール・シュトルム]]の『[[白馬の騎士]]』などがある。戯曲では『マリア・マグダレーナ』などを書いた[[フリードリヒ・ヘッベル]]のみが記憶されている。のちには長編小説(ロマーン)がノヴェレよりも好まれるようになる。長編の作者としては、[[グスタフ・フライターク]]や[[ヴィルヘルム・ラーベ]]などが挙げられる。
リアリズムの二巨頭は、[[テオドール・フォンターネ]]と、スイスの[[ゴットフリート・ケラー]]である。ケラーは、『村のロメオとユーリア』のような物語のほか、教養小説『[[緑のハインリヒ]]』などを著した。フォンターネは、ジャーナリストとして出発したが、『イェニー・トライベル夫人』や『エフィ・ブリースト』などの小説を書いている。フォンターネはその視野を主人公から広げ、[[社会小説]]の域にまで発展させた。
オーストリアでは、マリー・フォン・エプナー=エッシェンバッハやルートヴィヒ・アンツェングルーバーらの牧歌的モチーフや、時代区分の後方にはみ出しているがペーター・ロゼガーらが見られる。
==自然主義(1880年 - 1900年)==
[[自然主義]]は、社会の全ての領域における諸関係を容赦なくに明らかにしようとする新たな美術・文学の潮流であった。19世紀中期のリアリズム文学者たちがいまだテーマとして避けていたものが、この時期の文学における主要な対象となった。いわゆる良い趣味というものが設ける限界にも、市民的な芸術理解にもなんら顧慮することなく、現実世界の描写においてはできる限り現実とその似姿の間の差異をゼロに近づけなければならないと考えられた。様式上本質的に新しいのは、このような観点からの俗語・隠語・方言などの導入であった。自分自身の考えに従って自由に行動する主人公はもはや描かれなくなり、代わりに集団や出自、家庭環境や時代思潮に縛られた人々が物語の中心に据えられた。
[[ロシア文学]]や[[フランス文学]]とは異なり、ドイツ語圏においては重要な自然主義的長編小説が登場しなかった。[[アルノー・ホルツ]]は[[ヨハネス・シュラーフ]]とともに抒情詩や『パパ・ハムレット』などの短い散文を制作した。ホルツの方程式『芸術=自然-X』はよく知られており、この等式においてXは限りなく0に近づいていかなければならず、したがって芸術とは現実の写し絵以上のものではないと考えられた。さらに重要なのは[[ゲアハルト・ハウプトマン]]の貢献で、戯曲『織工』は国際的な賞賛を受けた。自然主義の周縁には[[フランク・ヴェーデキント]]がおり、『春の目覚め』は思春期の性をテーマとして示し、すでに世紀末に位置している。
== 古典的近代(1890年頃 - 1933年ー ==
自然主義と[[象徴主義]]の登場をもって古典的近代と言われる時代が始まる。この時代は様々な潮流の並存と様式の混合によって特徴づけられている。「ベルリーナー・モデルネ」「[[世紀末ウィーン|ヴィーナー・モデルネ]]」とも呼ばれるように、この時代の中心はベルリンとウィーンであったが、これらの中心地は[[第一次世界大戦]]の勃発によって突然の解体を迎えることになる。
=== 象徴主義と印象主義 ===
古典的近代には「前衛」という概念が特に重要なものになった。この時代の始まりは、19世紀終わりの、[[ステファヌ・マラルメ]]や[[シャルル・ボードレール]]、[[アルチュール・ランボー]]などの詩人が代表するフランス[[象徴主義]]に由来している。ドイツ語圏で最も重要な象徴主義の代表者としては、[[シュテファン・ゲオルゲ]]、[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]、および[[ライナー・マリーア・リルケ]]などがいる。象徴主義は、およそ時を同じくする自然主義とは全く違った綱領に従っている。象徴主義的抒情詩はエリート的で、美と様式に最高の価値を置いていたのである。世紀末として示される時代、[[ユーゲント・シュティール]]はこのような傾向を示した芸術である。
同時に、この時代(1890年から1910年頃)は[[印象主義]]の時代にも当たる。印象主義は象徴主義よりもエリート的ではないが、ホーフマンスタールとリルケは同時にこちらにも属していた。それに加えて散文作品はないがリヒャルト・デーメルや、劇作家[[アルトゥル・シュニッツラー]]、[[ペーター・アルテンベルク]]、および[[デトレフ・フォン・リーリエンクローン]]などがいる。象徴主義と印象主義は、ともに自然主義に対抗しているという観点から合わせて[[新ロマン主義]]と呼ばれることもあり、[[世紀末ウィーン]]がこれらの文学の中心地となった。
=== 近代的な叙事文学 ===
これらの伝統に対抗する党派的な潮流と平行して、古い形式を取り上げさらに発展させた長編小説が多数現れた。時代批判的な作品を書いた[[ハインリヒ・マン]]、市民的教養と芸術家との相克を描いた[[トーマス・マン]]、市民社会における人間性をテーマとした[[ヘルマン・ヘッセ]]、歴史小説で活躍した[[アルノルト・ツヴァイク]]、都市をテーマにした[[アルフレート・デーブリーン]]などであり、また[[ヘルマン・ブロッホ]]、[[ロベルト・ムージル]]、[[エルンスト・ユンガー]]、[[フランツ・カフカ]]らは、現実社会への深い懐疑に基づきさらに現代的な長編小説を残した。
=== 表現主義とアヴァンギャルド ===
[[表現主義]]はドイツにおける最後の大きな文学的潮流だと見なされており、すでに述べた象徴主義と同じく、表現主義もまたアヴァンギャルド文学に属する。アヴァンギャルドは新式の、理論先導的な文学であり、市民文学への対抗の身振りをもって出現した。アヴァンギャルドの潮流は[[シュールレアリスム]]と[[未来派]]から影響を受けた[[ダダイスム]]の出現を持って頂点を迎えるが、市民社会の教養をナンセンスな表現を用いて突き放したこれらの文学は、[[ナチズム]]の台頭した[[第二次世界大戦|第二次大戦期]]には取り締まりの対象となった。
表現主義的な詩の嚆矢は[[ヤコブ・ヴァン・ホディス]]作の『世の終わり』である。また薬学士としての教育を終えたばかりの[[ゴットフリート・ベン]]は散文詩『モルグ』において、死体置き場や子供の出産、あるいは売春といったそれまでの文学ではほとんど見られなかった題材を取り扱いセンセーションを起こした。表現主義の作家・詩人としては他に[[ゲオルク・トラークル]]、[[ゲオルク・ハイム]]、[[エルゼ・ラスカー=シューラー]]などが挙げられる。
=== 新即物主義 ===
表現主義の後には、客観的・現実主義的な姿勢で[[新即物主義]](ノイエ・ザッハリッヒカイト)と呼ばれる流れが起こった。劇作の分野では[[ベルトルト・ブレヒト]]が突出しており、散文作品では[[エーリッヒ・ケストナー]]、[[アルノルト・ツヴァイク]]、[[アンナ・ゼーガース]]、[[エーリヒ・マリア・レマルク]]などが挙げられ、彼らは戦中、戦後を通じて作品を残している。
== ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年) ==
[[1933年]][[1月30日]]に[[ナチス]]がドイツの政権を握ると、同年中から[[ナチス・ドイツの焚書|焚書]]が行なわれ、国家から独立して文学活動を行なうことは不可能になった。[[1938年]]の終わりにはオーストリアでも同様の事態が起こった。政府からは郷土愛と民族主義を重んじる文学が推奨され、その他にはいくらかの娯楽文学が許されただけであった。体制への著名な反対者は亡命し、さもなければ[[ヤコブ・ヴァン・ホディス]]やカール・フォン・オシーツキィのように死がもたらされた。ナチズムに反対しながらも国内に残ったいくらかの作家は作品の発表を諦めるか、もっぱら非政治的なテーマで書くことを強いられた。彼らは国内亡命者とも呼ばれるが、もともと非政治的な作家であったものと彼らとを見分けるのはしばしば困難である。当時国内に残っていた作家は[[ゴットフリート・ベン]]、[[エルンスト・ユンガー]]、[[エーリッヒ・ケストナー]]、[[ゲアハルト・ハウプトマン]]、[[オトフリート・プロイスラー]]、ウォルフガング・ケッペンなどである。
およそ1500人もの作家が、多くの場合入り組んだ過程を経て亡命し、[[シュテファン・ツヴァイク]]など多数の作家が亡命先で命を落とした。ドイツの亡命文学の拠点は世界各地に散らばっており、なかでもスイスは特に劇作家にとって重要な国であった。亡命した作家は多数に及ぶため、亡命文学について統一的なテーマや共通するスタイルを見出すことは困難である。亡命後も多産であり続けた作家は[[ハインリヒ・マン]]と[[トーマス・マン]]、[[ヘルマン・ヘッセ]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]、[[アンナ・ゼーガース]]、[[フランツ・ヴェルフェル]]、[[ヘルマン・ブロッホ]]などであり、一方[[アルフレート・デーブリーン]]やハインリヒ・エドゥアルト・ヤーコブ、[[ヨーゼフ・ロート]]らは執筆の継続が困難になった。終戦後は彼らの一部は亡命先に留まり、一部は祖国に戻った。[[エリアス・カネッティ]]はナチスによる[[アンシュルス|オーストリア併合]]の際に[[ロンドン]]に亡命したため、[[ノーベル文学賞]]をイギリス市民として受賞している。総じて戦間期には亡命者も含め多数の作家が作品制作の断念を余儀なくされた。
== 1945年以降の文学 ==
二つの大戦以降は文学の「零地点」ということが話題となった。世界では「瓦礫文学」が書かれたが、すぐに戦争によって失われた文学の発展を取り戻さなくてはならないと考えられるようになった。まずその死から20年の時を経て[[フランツ・カフカ]]が再発見された。ウィーン・グループは革新的な形式の詩を実践し、西ドイツに起こった[[47年グループ]]のメンバーたちが戦後の文学を主導した。
国ごとにそれぞれ条件がことなるため、以下では各国の文学を分けて解説するが、しかし国ごとの違いを過大評価するべきではない。いずれにしても言語は同じであり、東ドイツを除けば経済的基盤も共通している。
=== 西ドイツ ===
1945年以降すぐに戦争の脅威と故郷への帰還を題材にした作品が書かれ、この題材に適した形式は[[ハインリヒ・ベル]]が用いたように短編小説であった。1950年代に経済復興が起こると、作品の舞台は現代に集中するようになり、[[ジークフリート・レンツ]]、[[マルティン・ヴァルザー]]、ウォルフガング・ケッペンらがこのような長編小説を手がけた。[[ギュンター・グラス]]は『[[ブリキの太鼓]]』で国際的名声を得、1999年にノーベル文学賞を受賞している。
重要な詩人は[[ギュンター・アイヒ]]であり、彼は当時ポピュラーなジャンルであった放送劇でも活躍した。「具体詩」はヘルムート・ハイセンビュッテが開始した。またグラス、レンツ、アイヒらと同じく47年グループのメンバーであり、ユダヤ人の立場から詩を書いた[[パウル・ツェラン]]が注目されたが、彼の生活の拠点は[[パリ]]にあった。
一定の困難な方向へ自分の文学を進めていった作家として、[[ヌーヴォー・ロマン]]から影響を受けたロール・ウルフ、実験的な手法を好んだアルノー・シュミットなどもいる。また[[ウォルフガング・ヒルデスハイマー]]は、ブレヒトの影響がいまだに根強かった演劇界にあって不条理劇を物した。
[[ベトナム戦争]]、および[[1968年]]の学生運動の起こりから、文学者にも政治性が強く求められ、詩の分野では[[ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー]]、政治劇では[[ペーター・ヴァイス]]、ロルフ・ホーホーフトなどが応じた。それに対して新主観主義と呼ばれるような、個人的な生活をテーマにしたユルゲン・テオバルディのような作家も現れた。また70年代には、[[ポップアート|ポップカルチャー]]から影響を受けた詩人ロルフ・ディーター・ブリンクマンが突出した活躍を見せた。[[ファンタジー文学]]の世界では、[[ミヒャエル・エンデ]]が『[[モモ (児童文学)|モモ]]』『[[はてしない物語]]』などで国際的名声を得た。
80年代に入ると[[ボート・シュトラウス]]、ウラ・ハーン、[[ドゥルス・グリューンバイン]]などの新しい作家が登場した。
=== 東ドイツ ===
東ドイツ国家は自らを「文学共同体」と名づけ、西側諸国の文学を敵視した。民主化は国家の主導のもと生産や頒布、受容すべての場に行き渡るべきだと考えられた。社会主義思想を馬鹿げたものだとするような思想は検閲によってとり締められ、[[社会主義リアリズム]]が国の目的に沿うものとして称揚された。この時期社会的リアリズムの作品を書いた作家に[[ヘルマン・カント]]などがおり、[[ヨハネス・ボブロウスキ]]が散文において重要な活動を行なった。1970年代には西ドイツと同じく新主観主義と呼ばれるような作家も登場した。一方で反体制的と見なされた[[ウーヴェ・ヨーンゾン]]、[[ヴォルフ・ビーアマン]]、[[ザラ・キルシュ]]などが東ドイツを後にした。
他の重要な作家は[[クリスタ・ヴォルフ]]、[[ハイナー・ミュラー]]などであり、彼らの作品は西ドイツでも高い評価を受けた。
=== オーストリア ===
戦後のオーストリアではゲルハルト・リュームとH・C・アルトマンを中心としたウィーン・グループ、ならびにアルベルト・パリス・ギュータースローや[[ハイミート・フォン・ドーデラー]]などの作家が、ナチズムとオーストリア国内のファシズムによって損なわれた近代的な伝統を取り戻そうと腐心した。詩の分野においては「具体詩」と言われる視覚的な表現を追究した[[エルンスト・ヤンドル]]の他、フランツォーベル、フリードリヒ・マイレッカーなどが挙げられる。
1960年代から70年代にかけてオーストリア文学は、[[ペーター・ハントケ]]、[[インゲボルク・バッハマン]]、[[トーマス・ベルンハルト]]の登場で躍進し、ドイツ語圏の文学全体に大きな影響を及ぼした。[[エルフリーデ・イェリネク]]も彼らの影響の下に登場し、2004年にノーベル文学賞を受け取っている。
=== スイス ===
ドイツやオーストリアと違い、スイスにおけるドイツ語文学には1945年を根本的な区切りとする必然性はない。戦後スイスにおけるもっとも重要な作家は[[マックス・フリッシュ]]と[[フリードリヒ・デュレンマット]]であり、どちらも小説と戯曲を執筆し、フリッシュはどちらかといえば知的に、デュレンマットはグロテスクさを強調することによって戦後の市民社会を批判的に扱った。この二人の影に隠れがちであるが、他の作家にはアドルフ・ムシュク、ペーター・ビクセル、ウルス・ヴィドメルなどがいる。最も重要な文学の集会は2002年まで存在したオルテン・グループである。
== ドイツ文学のノーベル文学賞受賞者 ==
[[File:Thomas Mann 1937.jpg|thumb|100px|[[トーマス・マン]]]]
[[File:Günter Grass, 2004.jpg|thumb|100px|[[ギュンター・グラス]]]]
2011年現在、ドイツ語で執筆した[[ノーベル文学賞]]受賞者は、[[英語]]・[[フランス語]]で執筆した受賞者についで3番目に多い。ドイツ語で執筆した受賞者は以下の通り。
*1902年 - [[テオドール・モムゼン]] ([[歴史家]])
*1908年 - [[ルドルフ・クリストフ・オイケン]] ([[哲学者]])
*1910年 - [[パウル・フォン・ハイゼ]]
*1912年 - [[ゲアハルト・ハウプトマン]]
*1919年 - [[カール・シュピッテラー]] ([[スイス人]])
*1929年 - [[トーマス・マン]]
*1946年 - [[ヘルマン・ヘッセ]] (受賞時[[スイス]]国籍)
*1966年 - [[ネリー・ザックス]] (受賞時[[スウェーデン]]国籍)
*1972年 - [[ハインリヒ・ベル]]
*1981年 - [[エリアス・カネッティ]] (受賞時[[イギリス]]国籍)
*1999年 - [[ギュンター・グラス]]
*2004年 - [[エルフリーデ・イェリネク]] ([[オーストリア人]])
*2009年 - [[ヘルタ・ミュラー]]([[ルーマニア]]出身)
*2019年 - [[ペーター・ハントケ]] ([[オーストリア人]])
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*岡田朝雄・リンケ珠子『ドイツ文学案内 増補改訂版』朝日出版社 2000 (ISBN 4-255-00040-9)
*手塚富雄・神品芳夫『増補 ドイツ文学案内』岩波書店 1997(44刷) (= 岩波文庫別冊3) (ISBN 4-00-350003-2)
*吉島茂・井上修一・鈴木敏夫・新井皓士・西山力也編訳『ドイツ文学 歴史と鑑賞』朝日出版社 1973
*Horst Dieter Schlosser: ''dtv-Atlas Deutsche Literatur''. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 10.Aufl. 2006 (ISBN 3-423-03219-7)
*Fritz Martini: ''Deutsche Literaturgeschichte''. Stuttgart: Kröner 14.Aufl. 1965
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Literature of Germany}}
*[[ドイツ語作家の一覧]]
*[[ドイツ語詩人の一覧]]
*[[小説家一覧#ドイツ|ドイツの小説家一覧]]
*[[小説家一覧#オーストリア|オーストリアの小説家一覧]]
*[[教養小説]]
*[[ゲーテ賞]]
*[[ゲオルク・ビュヒナー賞]]
*[[ドイツ文学者]]
*[[ナチス・ドイツの焚書]]
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3,316 | ナシ | ナシ(梨)は、バラ科ナシ属の植物、もしくは果物として食用にされるその果実のこと。
主なものとして、和なし(日本なし、Pyrus pyrifolia var. culta )、中国なし (P. bretschneideri) 、洋なし(西洋なし、P. communis )の3つがあり、食用として世界中で栽培される。日本語で単に「梨」と言うと通常はこのうちの和なしを指し、本項でもこれについて説明する。他のナシ属はそれぞれの項目を参照のこと。
ナシ(和なし、日本なし)は、中国を原産とし日本の本州、四国、九州、中国や朝鮮半島、台湾島に生育する野生種ヤマナシ(ニホンヤマナシ、P. pyrifolia var. pyrifolia )を基本種とする栽培品種群のことである。
高さ15メートルほどの落葉高木。葉は長さ12cm程の卵形で、縁に芒状の鋸歯がある。花期は4月頃で、葉の展開とともに5枚の白い花弁からなる花を付ける。8月下旬から11月頃にかけて、黄褐色または黄緑色でリンゴに似た直径10 - 18センチメートル程度の球形の果実がなり、食用とされる。果肉は白色で、甘く果汁が多い。リンゴやカキと同様、尻の方が甘みが強く、一方で芯の部分は酸味が強いためあまり美味しくない。しゃりしゃりとした独特の食感がナシの特徴だが、これは石細胞と呼ばれるものによる。石細胞とは、ペントサン(英語版)やリグニンという物質が果肉に蓄積することで細胞壁が厚くなったものである。洋なしは和なしよりも石細胞の量が少ないために、洋梨と和梨とでは食感に大きな差が生じる。
野生のもの(ヤマナシ)は直径が概ね2 - 3センチメートル程度と小さく、果肉が硬く味も酸っぱいため、あまり食用には向かない。ヤマナシは人里付近にしか自生しておらず、後述のように本来日本になかった種が、栽培されていたものが広まったと考えられている。なお、日本に原生するナシ属にはヤマナシの他にもミチノクナシ(イワテヤマナシ) (Pyrus ussuriensis var. ussuriensis) 、アオナシ(Pyrus ussuriensis var. hondoensis、和なしのうち二十世紀など果皮が黄緑色のものを総称する青梨とは異なることに注意)、マメナシ (Pyrus calleryana) がある。
ナシの語源には諸説ある。
また、ナシという名前は「無し」に通じることからこれを嫌って、家の庭に植えることを避けたり、「ありのみ(有りの実)」という呼称が用いられることがある(忌み言葉)。一方で「無し」という意味を用いて、盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何も無し」、鬼門の方角にナシを植えることで「鬼門無し」などと、縁起の良さを願う利用法も存在する。
英語圏では多くの呼び名がある。
日本でナシが食べられ始めたのは弥生時代ごろとされ、登呂遺跡などから多数食用にされたとされる根拠の種子などが見つかっている。ただし、それ以前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシ(山梨)の自生地が人里周辺のみであることなどにより、アジア大陸から人の手によって持ち込まれたと考えられている。文献に初めて登場するのは『日本書紀』であり、持統天皇の693年の詔において五穀とともに「桑、苧、梨、栗、蕪菁」の栽培を奨励する記述がある。
記録上に現れるナシには巨大なものがあり、5世紀の中国の歴史書『洛陽伽藍記』には重さ10斤(約6キログラム)のナシが登場し、『和漢三才図会』には落下した実にあたって犬が死んだ逸話のある「犬殺し」というナシが記述されている。
江戸時代には栽培技術が発達し、100を超す品種が果樹園で栽培されていた。松平定信が記した『狗日記』によれば、「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。」と記載があり、現在の市川市から船橋市にかけての江戸近郊では、江戸時代後期頃には、既に梨の栽培が盛んだった事がわかっている。
明治時代には、現在の千葉県松戸市において二十世紀が、現在の神奈川県川崎市で長十郎がそれぞれ発見され、その後、長らくナシの代表格として盛んに生産されるようになる。一時期は日本の栽培面積の8割を長十郎で占めるほどであった。また、それまでは晩生種ばかりだったのだが、多くの早生種を含む優良品種が多数発見され、盛んに品種改良が行われた。
20世紀前半は、二十世紀と長十郎が生産量の大半を占めていたが、太平洋戦争後になると1959年に幸水、1965年に新水、1972年に豊水の3品種(この3品種をまとめて「三水」と呼ぶこともある)が登場し普及した。そのため、現在では長十郎の生産はかなり少なくなっている。
ナシの種子は乾燥に弱く、播種の際には注意を要する。発芽後は植木鉢へ移して個別に栽培し、十分に生育してから圃場へ移す。定植された苗は長さ数cmにもなる棘を付けるが、これはバラ科としての形態形質の一端である。ちなみに、この棘はナシの幼若期に特有のものであり、花芽形成が始まる頃に伸びる枝には棘がない。
ナシの花弁は通常白色、5枚の離弁が基本であるが、色や花弁数には変異がある。また、おしべは約20本、花柱は5本である。ナシは本来虫媒花であるが、自家不和合性(同じ品種間では結実しない性質)が強く、栽培される場合には経済的な理由から他品種の花粉によって人工受粉が行われる。雌蕊(めしべ)の柱頭に付着した花粉は発芽し、花粉管を伸長して胚珠に到達、重複受精を行う。果実の育成は植物ホルモンの影響を受ける為、人工的にこれを添加する事も行われる。また、結実数が多すぎる(着果過多)場合には、商品となる果実の大きさを維持する為に摘果が行われる。
受粉を確実にするためマルハナバチなどを養蜂もされている。
ナシは種子植物であり、果実内には一個 - 十数個の種子が形成される。天然では鳥などにより種子が散布されるが、改良品種で種子繁殖が行われる事は稀であり、通常は接ぎ木によって増やされる。台木には和なしの他、マンシュウマメナシやチュウゴクナシ、マルバカイドウも用いられる。
また、本来ナシは高さ10メートル程になる高木だが、果樹栽培の際には台風などの風害を避けるため、十分な日照を確保するために、棚仕立て(平棚に枝を誘導し、枝を横に広げる矮性栽培方法)が用いられる。
ナシは同じ品種間で結実しない(自家不和合性)だけでなく、違う品種間でも結実しない(交配不親和性)組み合わせが多い。これらはS因子という遺伝子によるもので、S1 - S9の9種類が存在する。通常の細胞には2つのS因子があり、花粉や卵細胞はそのいずれか一方を持つ。受粉時に雌蕊のS因子の一方と花粉のS因子とが一致した場合には、S因子が一致する花粉管のRNAが分解される。これは雌蕊側のS-RNase(S因子産物)の働きによるもので、結果として花粉管が伸長せずに受精に至らず、結実しないのである。
ナシの栽培は古くからあったが、品種名が文献に現れるのは江戸幕府が行った特産品調査(1735年)である。当時既に150もの品種が記録されている。品種改良は20世紀初め頃から行われるようになった。現在では幸水、豊水、二十世紀、新高の4品種だけで、収穫量の約9割を占めているが、いずれも19世紀後半 - 20世紀前半に発見あるいは交配された品種である。
ナシの品種は、果皮の色から黄褐色の赤梨系と、淡黄緑色の青梨系に分けられる。多くの品種は赤梨系で、青梨系の品種は二十世紀、八雲、菊水、新世紀、秋麗、瑞秋(二十一世紀梨)など少数である。この色の違いは、果皮のコルク層によるもので、青梨系の果皮はクチクラ層に覆われており黄緑色となるが、赤梨系の品種では初夏にコルク層が発達し褐色となる。
和梨と洋梨を問わず、ナシの品種は、果皮の色から大きく4つに分けられる。幸水梨などの赤茶色系のラセットタイプ(Russet pear)、リンゴのように赤い赤色系のレッドタイプ(Red pear)、中国梨のように黄色い黄色系のイエロータイプ(Yellow pear)、二十世紀梨などの青色系のグリーンタイプ(Green pear)などがある。レッドタイプとイエロータイプの中間種でピンクタイプなども存在する。
幸水(こうすい)は赤梨系の早生種で、和なし生産の34%を占める最も生産量の多い品種である。なし農林3号。
農研機構(旧園芸試験場)が1941年に菊水に早生幸蔵を掛け合わせて作り、1959年に命名・発表された。早生種の中でも特に収穫時期が早く、8月中旬から下旬である。ただし、収穫時期が短い。赤梨系だが中間色(中間赤梨)と言い、若干黄緑色の地色が出る。酸味は少なく糖度が高い。果肉は柔らかく果汁も多い。早生種としては平均的な方だが、日持ちが短い。
豊水(ほうすい)は赤梨系の中生種で、和なし生産の30%を占める生産量第2位の品種である。なし農林8号。
農研機構(旧果樹試験場)によって1954年に作られ、1972年に命名された。糖度が高いが、ほどよく酸味もある濃厚な味が特徴。300 - 400 gと幸水よりやや大きめで、果汁が多い。また、日持ちも幸水よりは長い。長らくリ-14号と八雲の交配種とされていたが、2003年に農研機構のDNA型鑑定によって幸水とイ-33の交配種であると発表された。
二十世紀(にじっせいき)は青梨系の中生種で、和なし生産の13%を占める生産量第3位の品種である。また、鳥取県産なしの8割を占める。300g前後の中玉。
青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨。1888年に千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時13歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見、移植して育てた。覚之助はこれを「新太白」と名付けたが、実がなった1898年に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された。その後、1904年に北脇永治によって鳥取県に導入され、鳥取県の特産品となった。同県倉吉市には専門のミュージアム「鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館」(倉吉パークスクエア内)があり、花は鳥取県の県花に指定されている。
発祥の地は後に「二十世紀が丘梨元町」と名付けられ、覚之助の業績を記念しているが、発祥の松戸市を含む関東地方では幸水や豊水が主で、現在殆ど栽培されなくなっている。二十世紀梨の原木は1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定されたが、1947年(昭和22年)に枯死しており、原木の一部が松戸市立博物館に展示されている(松戸市指定有形文化財)。松戸市の二十世紀が丘梨元町にある二十世紀公園には二十世紀梨誕生の地の碑がある(松戸市指定文化財)。
果皮は黄緑色、甘みと酸味のバランスが良いすっきりした味わいで、果汁が多い。収穫時期が比較的遅く、(水分の多い)梨の需要が見込まれる夏・初秋に収穫できないのが欠点でもある。自家受粉が出来ない(これは二十世紀に限らず)、黒斑病に非常に弱いといった欠点を改良した品種もある(後述)。
新高(にいたか)は赤梨系の晩生種で、和なし生産の11%を占める生産量第4位の品種である。
菊地秋雄が東京府立園芸学校の玉川果樹園で天の川と長十郎を交配させて作った品種で、1927年に命名された。名前の由来は当時日本で一番高い山であった台湾の新高山(玉山)より。当時の命名基準では国内の地名を用いることになっており、優れた品種であることから、日本で一番高い山の名称を用いたという。収穫時期は、10月中旬から11月中旬。500グラム - 1キログラム程度の大型の品種で、果汁が多く、歯ごたえのある食感で、味は酸味が薄く甘い。洋なしほどではないが芳香もある。比較的日持ちが良い。
新興(しんこう)は赤梨系の晩生種で、生産量は新高に次ぐ5位。
1941年、新潟県農事試験場で二十世紀と今村秋を掛け合わせて作られた。やや大きめの品種で収穫時期は10月上旬から下旬。赤梨ながら青梨の性質を兼ね備えるのが特徴で、シャリシャリした歯ざわりがあり、遅くに収穫したものなら常温でも年を越せるなど日持ちが抜群に良い。果汁が多く、味は二十世紀の酸味を弱めた感じである。
ナシは沖縄県を除く日本各地、北海道南部(但し、北部でも栽培収穫の例がある)から鹿児島県まで広く栽培されており、31都府県で累年統計をとっている。そのため、主産県でも収穫量におけるシェアはそれほど高くなく、上位10県合計でも全体の7割弱である。産地は東日本と九州地方に集中しており、特に関東地方で半数を超える。土壌は火山灰土、砂地などが栽培適地となっているほか、風害の影響を受けやすいため、盆地や山間の扇状地に産地が発達している。
なお、主要産地の地方自治体ではナシの大敵である赤星病対策として、ビャクシン類の植栽を規制する条例を設けているところが多い。
2018年の各県の和梨収穫量は、1位から順に、千葉県、茨城県、栃木県、福島県、鳥取県、長野県だった。これらの県の収穫量はそれぞれ1万トンを超え、千葉県の収穫量は3万400トン(13%)だった。
和なし収穫量上位10県における、和梨合計と主要品種の収穫量・シェアを以下に示す。(出典:農林水産省統計情報、2006年)
ナシの主な利用法は食用で、調理加工に不向きな特性があるのでほぼ生食に限られる。旬の時期は、和梨が9 - 10月ごろ、洋梨は10 - 12月ごろとされる。一般的なナシの剥き方はリンゴに類似したもので、縦に8等分などして、皮を剥き中心部を取り除く方法である。また、シロップ漬けの缶詰にも利用されるが、ナシ単独の缶詰が売られていたり、それを食したりすることは稀であり、他の果物と混ぜてミックスフルーツとして販売・食用とされることが多い。シャリシャリとした独特の食感があり、これはリグニンやペントサンなど「石細胞」によりもたらされる。この細胞は、食物繊維と同じ働きがあり、整腸作用がある。なめらかな食感を持つ洋梨とは対照的であり、英語では、洋梨をバターペア(バターの梨)、日本梨をサンドペアー(砂の梨)と呼ぶ。
加工品としては清涼飲料水や、ゼリー、タルトなどの洋菓子に利用されているが、洋梨と比べるとそれらを見かける機会は少ない。料理に用いられることは冷麺の具として用いる以外ほぼないが、産地などでは梨カレーなどといったレシピも開発されている。
ナシはポリフェノール系化合物による褐変を起こしやすい食材であり、食塩水につけるなどの方法がとられる。フルーツサラダに加える場合は食塩水に代えて他の果物の缶詰内にある果汁を使用することもできる。
ナシはタンパク質分解酵素を持っているため、生の状態ですり下ろしたものを焼肉やプルコギなどの漬け込みだれとして利用するレシピがある。
一大産地の千葉県鎌ケ谷市、白井市では1980年代末に梨ワイン、梨ブランデーを商品化した。このほか、千葉県いすみ市、埼玉県久喜市、秋田県男鹿市でも梨ワインが生産されている。
洋梨は、果実酒(ペアサイダー)、蒸留酒(ブランデー)などに利用されているが、和なしでの梨ワイン、梨ブランデーの生産は、現在、日本のみである。
2010年代より、二十世紀梨の産地である鳥取県や隣接する兵庫県但馬地方において、「梨のスパークリングワイン」の名称で和梨のシードル(ペアサイダー)も商品化されている。千葉県鎌ケ谷市でも2012年から、豊水を原料とするスパークリングワインが商品化された(1980年代末から商品化されている梨ワインの原料は幸水)。
和梨および洋梨の発泡酒は、酒税法第3条によると、発泡性酒類のその他の発泡性酒類に分類される。
糖度は11 - 14%程度で、糖分としてはショ糖、果糖、ソルビトール、ブドウ糖(多い順)を含む。酸度は0.1%程度で、リンゴ酸やクエン酸などである。
和梨・洋梨ともに果物としてはビタミンをほとんど含まず、栄養学的な価値は高くない。果物の多くがそうであるように、ナシのほとんどは水分で可食部100 gあたり88 g含まれる。食物繊維は可食部100 gあたり0.9 g含まれる。カリウム(可食部100 gあたり140 mg)は、血液中のナトリウムイオンの増加を防ぎ、高血圧予防に良い。ソルビトールは甘く冷涼感のある糖アルコールで、便秘の予防に効果がある。洋なしではこれによって追熟が起きる。アスパラギン酸はアミノ酸の一種で、疲労回復効果がある。タンパク質分解酵素プロテアーゼの働きで消化を助けたり、肉料理において肉を柔らかくしたりする効果がある。
江戸時代に現在の岐阜県、美濃加納藩主などを務めた永井家の一族家紋として梨紋の図柄が使われた。 | [
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"text": "ナシ(梨)は、バラ科ナシ属の植物、もしくは果物として食用にされるその果実のこと。",
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"text": "主なものとして、和なし(日本なし、Pyrus pyrifolia var. culta )、中国なし (P. bretschneideri) 、洋なし(西洋なし、P. communis )の3つがあり、食用として世界中で栽培される。日本語で単に「梨」と言うと通常はこのうちの和なしを指し、本項でもこれについて説明する。他のナシ属はそれぞれの項目を参照のこと。",
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"text": "ナシ(和なし、日本なし)は、中国を原産とし日本の本州、四国、九州、中国や朝鮮半島、台湾島に生育する野生種ヤマナシ(ニホンヤマナシ、P. pyrifolia var. pyrifolia )を基本種とする栽培品種群のことである。",
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"text": "高さ15メートルほどの落葉高木。葉は長さ12cm程の卵形で、縁に芒状の鋸歯がある。花期は4月頃で、葉の展開とともに5枚の白い花弁からなる花を付ける。8月下旬から11月頃にかけて、黄褐色または黄緑色でリンゴに似た直径10 - 18センチメートル程度の球形の果実がなり、食用とされる。果肉は白色で、甘く果汁が多い。リンゴやカキと同様、尻の方が甘みが強く、一方で芯の部分は酸味が強いためあまり美味しくない。しゃりしゃりとした独特の食感がナシの特徴だが、これは石細胞と呼ばれるものによる。石細胞とは、ペントサン(英語版)やリグニンという物質が果肉に蓄積することで細胞壁が厚くなったものである。洋なしは和なしよりも石細胞の量が少ないために、洋梨と和梨とでは食感に大きな差が生じる。",
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"text": "野生のもの(ヤマナシ)は直径が概ね2 - 3センチメートル程度と小さく、果肉が硬く味も酸っぱいため、あまり食用には向かない。ヤマナシは人里付近にしか自生しておらず、後述のように本来日本になかった種が、栽培されていたものが広まったと考えられている。なお、日本に原生するナシ属にはヤマナシの他にもミチノクナシ(イワテヤマナシ) (Pyrus ussuriensis var. ussuriensis) 、アオナシ(Pyrus ussuriensis var. hondoensis、和なしのうち二十世紀など果皮が黄緑色のものを総称する青梨とは異なることに注意)、マメナシ (Pyrus calleryana) がある。",
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"text": "ナシの語源には諸説ある。",
"title": "名前"
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"text": "また、ナシという名前は「無し」に通じることからこれを嫌って、家の庭に植えることを避けたり、「ありのみ(有りの実)」という呼称が用いられることがある(忌み言葉)。一方で「無し」という意味を用いて、盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何も無し」、鬼門の方角にナシを植えることで「鬼門無し」などと、縁起の良さを願う利用法も存在する。",
"title": "名前"
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"text": "英語圏では多くの呼び名がある。",
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"text": "日本でナシが食べられ始めたのは弥生時代ごろとされ、登呂遺跡などから多数食用にされたとされる根拠の種子などが見つかっている。ただし、それ以前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシ(山梨)の自生地が人里周辺のみであることなどにより、アジア大陸から人の手によって持ち込まれたと考えられている。文献に初めて登場するのは『日本書紀』であり、持統天皇の693年の詔において五穀とともに「桑、苧、梨、栗、蕪菁」の栽培を奨励する記述がある。",
"title": "歴史"
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"text": "記録上に現れるナシには巨大なものがあり、5世紀の中国の歴史書『洛陽伽藍記』には重さ10斤(約6キログラム)のナシが登場し、『和漢三才図会』には落下した実にあたって犬が死んだ逸話のある「犬殺し」というナシが記述されている。",
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"text": "江戸時代には栽培技術が発達し、100を超す品種が果樹園で栽培されていた。松平定信が記した『狗日記』によれば、「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。」と記載があり、現在の市川市から船橋市にかけての江戸近郊では、江戸時代後期頃には、既に梨の栽培が盛んだった事がわかっている。",
"title": "歴史"
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"text": "明治時代には、現在の千葉県松戸市において二十世紀が、現在の神奈川県川崎市で長十郎がそれぞれ発見され、その後、長らくナシの代表格として盛んに生産されるようになる。一時期は日本の栽培面積の8割を長十郎で占めるほどであった。また、それまでは晩生種ばかりだったのだが、多くの早生種を含む優良品種が多数発見され、盛んに品種改良が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "20世紀前半は、二十世紀と長十郎が生産量の大半を占めていたが、太平洋戦争後になると1959年に幸水、1965年に新水、1972年に豊水の3品種(この3品種をまとめて「三水」と呼ぶこともある)が登場し普及した。そのため、現在では長十郎の生産はかなり少なくなっている。",
"title": "歴史"
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"text": "ナシの種子は乾燥に弱く、播種の際には注意を要する。発芽後は植木鉢へ移して個別に栽培し、十分に生育してから圃場へ移す。定植された苗は長さ数cmにもなる棘を付けるが、これはバラ科としての形態形質の一端である。ちなみに、この棘はナシの幼若期に特有のものであり、花芽形成が始まる頃に伸びる枝には棘がない。",
"title": "栽培"
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"text": "ナシの花弁は通常白色、5枚の離弁が基本であるが、色や花弁数には変異がある。また、おしべは約20本、花柱は5本である。ナシは本来虫媒花であるが、自家不和合性(同じ品種間では結実しない性質)が強く、栽培される場合には経済的な理由から他品種の花粉によって人工受粉が行われる。雌蕊(めしべ)の柱頭に付着した花粉は発芽し、花粉管を伸長して胚珠に到達、重複受精を行う。果実の育成は植物ホルモンの影響を受ける為、人工的にこれを添加する事も行われる。また、結実数が多すぎる(着果過多)場合には、商品となる果実の大きさを維持する為に摘果が行われる。",
"title": "栽培"
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"text": "受粉を確実にするためマルハナバチなどを養蜂もされている。",
"title": "栽培"
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"text": "ナシは種子植物であり、果実内には一個 - 十数個の種子が形成される。天然では鳥などにより種子が散布されるが、改良品種で種子繁殖が行われる事は稀であり、通常は接ぎ木によって増やされる。台木には和なしの他、マンシュウマメナシやチュウゴクナシ、マルバカイドウも用いられる。",
"title": "栽培"
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"text": "また、本来ナシは高さ10メートル程になる高木だが、果樹栽培の際には台風などの風害を避けるため、十分な日照を確保するために、棚仕立て(平棚に枝を誘導し、枝を横に広げる矮性栽培方法)が用いられる。",
"title": "栽培"
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"text": "ナシは同じ品種間で結実しない(自家不和合性)だけでなく、違う品種間でも結実しない(交配不親和性)組み合わせが多い。これらはS因子という遺伝子によるもので、S1 - S9の9種類が存在する。通常の細胞には2つのS因子があり、花粉や卵細胞はそのいずれか一方を持つ。受粉時に雌蕊のS因子の一方と花粉のS因子とが一致した場合には、S因子が一致する花粉管のRNAが分解される。これは雌蕊側のS-RNase(S因子産物)の働きによるもので、結果として花粉管が伸長せずに受精に至らず、結実しないのである。",
"title": "栽培"
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"text": "ナシの栽培は古くからあったが、品種名が文献に現れるのは江戸幕府が行った特産品調査(1735年)である。当時既に150もの品種が記録されている。品種改良は20世紀初め頃から行われるようになった。現在では幸水、豊水、二十世紀、新高の4品種だけで、収穫量の約9割を占めているが、いずれも19世紀後半 - 20世紀前半に発見あるいは交配された品種である。",
"title": "品種"
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"text": "ナシの品種は、果皮の色から黄褐色の赤梨系と、淡黄緑色の青梨系に分けられる。多くの品種は赤梨系で、青梨系の品種は二十世紀、八雲、菊水、新世紀、秋麗、瑞秋(二十一世紀梨)など少数である。この色の違いは、果皮のコルク層によるもので、青梨系の果皮はクチクラ層に覆われており黄緑色となるが、赤梨系の品種では初夏にコルク層が発達し褐色となる。",
"title": "品種"
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"text": "和梨と洋梨を問わず、ナシの品種は、果皮の色から大きく4つに分けられる。幸水梨などの赤茶色系のラセットタイプ(Russet pear)、リンゴのように赤い赤色系のレッドタイプ(Red pear)、中国梨のように黄色い黄色系のイエロータイプ(Yellow pear)、二十世紀梨などの青色系のグリーンタイプ(Green pear)などがある。レッドタイプとイエロータイプの中間種でピンクタイプなども存在する。",
"title": "品種"
},
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"text": "幸水(こうすい)は赤梨系の早生種で、和なし生産の34%を占める最も生産量の多い品種である。なし農林3号。",
"title": "品種"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "農研機構(旧園芸試験場)が1941年に菊水に早生幸蔵を掛け合わせて作り、1959年に命名・発表された。早生種の中でも特に収穫時期が早く、8月中旬から下旬である。ただし、収穫時期が短い。赤梨系だが中間色(中間赤梨)と言い、若干黄緑色の地色が出る。酸味は少なく糖度が高い。果肉は柔らかく果汁も多い。早生種としては平均的な方だが、日持ちが短い。",
"title": "品種"
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"text": "豊水(ほうすい)は赤梨系の中生種で、和なし生産の30%を占める生産量第2位の品種である。なし農林8号。",
"title": "品種"
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"text": "農研機構(旧果樹試験場)によって1954年に作られ、1972年に命名された。糖度が高いが、ほどよく酸味もある濃厚な味が特徴。300 - 400 gと幸水よりやや大きめで、果汁が多い。また、日持ちも幸水よりは長い。長らくリ-14号と八雲の交配種とされていたが、2003年に農研機構のDNA型鑑定によって幸水とイ-33の交配種であると発表された。",
"title": "品種"
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"text": "二十世紀(にじっせいき)は青梨系の中生種で、和なし生産の13%を占める生産量第3位の品種である。また、鳥取県産なしの8割を占める。300g前後の中玉。",
"title": "品種"
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"text": "青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨。1888年に千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時13歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見、移植して育てた。覚之助はこれを「新太白」と名付けたが、実がなった1898年に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された。その後、1904年に北脇永治によって鳥取県に導入され、鳥取県の特産品となった。同県倉吉市には専門のミュージアム「鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館」(倉吉パークスクエア内)があり、花は鳥取県の県花に指定されている。",
"title": "品種"
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"text": "発祥の地は後に「二十世紀が丘梨元町」と名付けられ、覚之助の業績を記念しているが、発祥の松戸市を含む関東地方では幸水や豊水が主で、現在殆ど栽培されなくなっている。二十世紀梨の原木は1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定されたが、1947年(昭和22年)に枯死しており、原木の一部が松戸市立博物館に展示されている(松戸市指定有形文化財)。松戸市の二十世紀が丘梨元町にある二十世紀公園には二十世紀梨誕生の地の碑がある(松戸市指定文化財)。",
"title": "品種"
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"text": "果皮は黄緑色、甘みと酸味のバランスが良いすっきりした味わいで、果汁が多い。収穫時期が比較的遅く、(水分の多い)梨の需要が見込まれる夏・初秋に収穫できないのが欠点でもある。自家受粉が出来ない(これは二十世紀に限らず)、黒斑病に非常に弱いといった欠点を改良した品種もある(後述)。",
"title": "品種"
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"text": "新高(にいたか)は赤梨系の晩生種で、和なし生産の11%を占める生産量第4位の品種である。",
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"text": "菊地秋雄が東京府立園芸学校の玉川果樹園で天の川と長十郎を交配させて作った品種で、1927年に命名された。名前の由来は当時日本で一番高い山であった台湾の新高山(玉山)より。当時の命名基準では国内の地名を用いることになっており、優れた品種であることから、日本で一番高い山の名称を用いたという。収穫時期は、10月中旬から11月中旬。500グラム - 1キログラム程度の大型の品種で、果汁が多く、歯ごたえのある食感で、味は酸味が薄く甘い。洋なしほどではないが芳香もある。比較的日持ちが良い。",
"title": "品種"
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"text": "新興(しんこう)は赤梨系の晩生種で、生産量は新高に次ぐ5位。",
"title": "品種"
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"text": "1941年、新潟県農事試験場で二十世紀と今村秋を掛け合わせて作られた。やや大きめの品種で収穫時期は10月上旬から下旬。赤梨ながら青梨の性質を兼ね備えるのが特徴で、シャリシャリした歯ざわりがあり、遅くに収穫したものなら常温でも年を越せるなど日持ちが抜群に良い。果汁が多く、味は二十世紀の酸味を弱めた感じである。",
"title": "品種"
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"text": "ナシは沖縄県を除く日本各地、北海道南部(但し、北部でも栽培収穫の例がある)から鹿児島県まで広く栽培されており、31都府県で累年統計をとっている。そのため、主産県でも収穫量におけるシェアはそれほど高くなく、上位10県合計でも全体の7割弱である。産地は東日本と九州地方に集中しており、特に関東地方で半数を超える。土壌は火山灰土、砂地などが栽培適地となっているほか、風害の影響を受けやすいため、盆地や山間の扇状地に産地が発達している。",
"title": "日本における産地"
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"text": "なお、主要産地の地方自治体ではナシの大敵である赤星病対策として、ビャクシン類の植栽を規制する条例を設けているところが多い。",
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"text": "2018年の各県の和梨収穫量は、1位から順に、千葉県、茨城県、栃木県、福島県、鳥取県、長野県だった。これらの県の収穫量はそれぞれ1万トンを超え、千葉県の収穫量は3万400トン(13%)だった。",
"title": "日本における産地"
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"text": "和なし収穫量上位10県における、和梨合計と主要品種の収穫量・シェアを以下に示す。(出典:農林水産省統計情報、2006年)",
"title": "日本における産地"
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"text": "ナシの主な利用法は食用で、調理加工に不向きな特性があるのでほぼ生食に限られる。旬の時期は、和梨が9 - 10月ごろ、洋梨は10 - 12月ごろとされる。一般的なナシの剥き方はリンゴに類似したもので、縦に8等分などして、皮を剥き中心部を取り除く方法である。また、シロップ漬けの缶詰にも利用されるが、ナシ単独の缶詰が売られていたり、それを食したりすることは稀であり、他の果物と混ぜてミックスフルーツとして販売・食用とされることが多い。シャリシャリとした独特の食感があり、これはリグニンやペントサンなど「石細胞」によりもたらされる。この細胞は、食物繊維と同じ働きがあり、整腸作用がある。なめらかな食感を持つ洋梨とは対照的であり、英語では、洋梨をバターペア(バターの梨)、日本梨をサンドペアー(砂の梨)と呼ぶ。",
"title": "食用"
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"text": "加工品としては清涼飲料水や、ゼリー、タルトなどの洋菓子に利用されているが、洋梨と比べるとそれらを見かける機会は少ない。料理に用いられることは冷麺の具として用いる以外ほぼないが、産地などでは梨カレーなどといったレシピも開発されている。",
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"text": "ナシはポリフェノール系化合物による褐変を起こしやすい食材であり、食塩水につけるなどの方法がとられる。フルーツサラダに加える場合は食塩水に代えて他の果物の缶詰内にある果汁を使用することもできる。",
"title": "食用"
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"text": "ナシはタンパク質分解酵素を持っているため、生の状態ですり下ろしたものを焼肉やプルコギなどの漬け込みだれとして利用するレシピがある。",
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"text": "一大産地の千葉県鎌ケ谷市、白井市では1980年代末に梨ワイン、梨ブランデーを商品化した。このほか、千葉県いすみ市、埼玉県久喜市、秋田県男鹿市でも梨ワインが生産されている。",
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"text": "2010年代より、二十世紀梨の産地である鳥取県や隣接する兵庫県但馬地方において、「梨のスパークリングワイン」の名称で和梨のシードル(ペアサイダー)も商品化されている。千葉県鎌ケ谷市でも2012年から、豊水を原料とするスパークリングワインが商品化された(1980年代末から商品化されている梨ワインの原料は幸水)。",
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"text": "和梨および洋梨の発泡酒は、酒税法第3条によると、発泡性酒類のその他の発泡性酒類に分類される。",
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"text": "和梨・洋梨ともに果物としてはビタミンをほとんど含まず、栄養学的な価値は高くない。果物の多くがそうであるように、ナシのほとんどは水分で可食部100 gあたり88 g含まれる。食物繊維は可食部100 gあたり0.9 g含まれる。カリウム(可食部100 gあたり140 mg)は、血液中のナトリウムイオンの増加を防ぎ、高血圧予防に良い。ソルビトールは甘く冷涼感のある糖アルコールで、便秘の予防に効果がある。洋なしではこれによって追熟が起きる。アスパラギン酸はアミノ酸の一種で、疲労回復効果がある。タンパク質分解酵素プロテアーゼの働きで消化を助けたり、肉料理において肉を柔らかくしたりする効果がある。",
"title": "食用"
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"text": "江戸時代に現在の岐阜県、美濃加納藩主などを務めた永井家の一族家紋として梨紋の図柄が使われた。",
"title": "図柄"
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] | ナシ(梨)は、バラ科ナシ属の植物、もしくは果物として食用にされるその果実のこと。 主なものとして、和なし、中国なし 、洋なしの3つがあり、食用として世界中で栽培される。日本語で単に「梨」と言うと通常はこのうちの和なしを指し、本項でもこれについて説明する。他のナシ属はそれぞれの項目を参照のこと。 | {{Otheruses|植物}}
{{redirect|梨|その他の「梨」|ナシ (曖昧さ回避)}}
{{生物分類表
| 色 = lightgreen
| 画像 = [[File:Pear-tree,katori-city,japan.JPG|250px]]
| 画像キャプション
= ナシの木(品種は豊水)
| 名称 = ナシ<br />''{{lang|la|Pyrus pyrifolia}}''
|分類体系 = [[APG III]]
|界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}}
|門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||angiosperms}}
|綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||eudicots}}
|下綱階級なし = [[バラ類]] {{Sname||rosids}}
|目 = [[バラ目]] {{Sname||Rosales}}
|科 = [[バラ科]] {{Sname||Rosaceae}}
|亜科 = [[サクラ亜科]] {{Sname||Amygdaloideae}}<ref name=Potter>{{cite | author=Potter, D.; Eriksson, T.; Evans, R.C.; Oh, S.H.; Smedmark, J.E.E.; Morgan, D.R.; Kerr, M.; Robertson, K.R.; Arsenault, M.P.; Dickinson, T.A.; Campbell, C.S. | year=2007 | title=Phylogeny and classification of Rosaceae | journal=Plant Systematics and Evolution | volume=266 | number=1–2 | pages=5–43 | doi=10.1007/s00606-007-0539-9 | url=http://biology.umaine.edu/Amelanchier/Rosaceae_2007.pdf }}</ref>
|属 = [[ナシ属]] {{Snamei||Pyrus}}
|種 = [[ヤマナシ]] {{Snamei||Pyrus pyrifolia|P. pyrifolia}}
|変種 = '''ナシ''' var. ''culta''
|学名 = {{Snamei||Pyrus pyrifolia}} ({{AU|Burm.f.}}) {{AU|Nakai}} var. {{Snamei|culta}} ({{AU|Makino}}) {{AU|Nakai}} {{small|(1926)}}<ref name="YList">{{YList|id=47917|taxon=Pyrus pyrifolia (Burm.f.) Nakai var. culta (Makino) Nakai ナシ(狭義)|accessdate=2023-01-27}}</ref>
|和名 = ナシ(梨)
|英名 = Nashi Pear<br>Sand Pear<br>Russet apple pear<br>Japanese pear{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=201}}
}}
'''ナシ'''('''梨''')は、[[バラ科]][[ナシ属]]の[[植物]]、もしくは[[果物]]として食用にされるその[[果実]]のこと。
主なものとして、'''和なし'''('''日本なし'''、{{lang|la|''Pyrus pyrifolia'' var. ''culta''}} )、'''[[チュウゴクナシ|中国なし]]''' (<!--''P. ussuriensis'' 和名ミチノクナシだが別名チュウゴクナシ。-->''{{lang|la|P. bretschneideri}}'') 、'''[[セイヨウナシ|洋なし]]'''('''西洋なし'''、''{{lang|la|P. communis}}'' )の3つがあり、食用として世界中で栽培される。日本語で単に「梨」と言うと通常はこのうちの'''和なし'''を指し、本項でもこれについて説明する。他のナシ属はそれぞれの項目を参照のこと。
== 概要 ==
'''ナシ'''('''和なし'''、'''日本なし''')は、[[中華人民共和国|中国]]を原産とし[[日本]]の本州、四国、九州、中国や[[朝鮮半島]]、[[台湾|台湾島]]に生育する野生種'''[[ヤマナシ]]'''(ニホンヤマナシ、{{lang|la|''P. pyrifolia'' var. ''pyrifolia''}} )を基本種とする[[栽培品種]]群のことである。
高さ15メートルほどの[[落葉樹林|落葉高木]]。葉は長さ12cm程の卵形で、縁に芒状の鋸歯がある。花期は4月頃で、葉の展開とともに5枚の白い[[花弁]]からなる[[花]]を付ける。8月下旬から11月頃にかけて、黄褐色または黄緑色で[[リンゴ]]に似た直径10 - 18センチメートル程度の球形の果実がなり、食用とされる。[[果肉]]は白色で、甘く果汁が多い。リンゴや[[カキノキ|カキ]]と同様、尻の方が甘みが強く、一方で芯の部分は酸味が強いためあまり美味しくない。しゃりしゃりとした独特の食感がナシの特徴だが、これは[[石細胞]]と呼ばれるものによる{{r|ゼクシ}}。石細胞とは、{{仮リンク|ペントサン|en|Pentosan}}や[[リグニン]]という物質が果肉に蓄積することで[[細胞壁]]が厚くなったものである{{r|ゼクシ}}。洋なしは和なしよりも石細胞の量が少ないために、洋梨と和梨とでは食感に大きな差が生じる。
野生のもの([[ヤマナシ]])は直径が概ね2 - 3センチメートル程度と小さく、果肉が硬く味も酸っぱいため、あまり食用には向かない。ヤマナシは人里付近にしか自生しておらず、後述のように本来日本になかった種が、栽培されていたものが広まったと考えられている。なお、日本に原生するナシ属にはヤマナシの他にも[[ミチノクナシ]](イワテヤマナシ) ({{lang|la|''Pyrus ussuriensis'' var. ''ussuriensis''}}) 、[[アオナシ]]({{lang|la|''Pyrus ussuriensis'' var. ''hondoensis''}}、和なしのうち二十世紀など果皮が黄緑色のものを総称する'''青梨'''とは異なることに注意)、[[マメナシ]] (''{{lang|la|Pyrus calleryana}}'') がある。
<gallery style="margin:2em auto">
File:Pyrus pyrifolia var culta2.jpg|ナシの花
File:Pyrus pyrifolia var culta4.jpg|落花後の果実
File:Futago_Tamagawanashi_06z0968s.jpg|木についた状態。{{Small|この後は日焼け防止の袋を被せられる}}
</gallery>
== 名前 ==
ナシの語源には諸説ある。
* [[江戸時代]]の学者[[新井白石]]は、中心部ほど酸味が強いことから「中酸(なす)」が転じたものと述べている。
* 果肉が白いことから「中白(なかしろ)」あるいは「色なし」
* 風があると実らないため「風なし」
* 「甘し(あまし)」
* 「性白実(ねしろみ)」
* [[漢語]]の「梨子(らいし)」の転じたもの
また、ナシという名前は「無し」に通じることからこれを嫌って、家の庭に植えることを避けたり、「ありのみ(有りの実)」という呼称が用いられることがある([[忌み言葉]])<ref>{{Cite web|和書|title=有の実って何?忌み言葉色々|url= https://mag.japaaan.com/archives/2158|accessdate=2021-3-21}}</ref>。一方で「無し」という意味を用いて、盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何も無し」、[[鬼門]]の方角にナシを植えることで「鬼門無し」などと、[[縁起]]の良さを願う利用法も存在する。
[[英語圏]]では多くの呼び名がある。
* 産地から、Asian pear, Chinese pear, Korean pear, Japanese pear
* リンゴのような形から Apple pear
* 砂のようなシャリシャリした食感から Sand pear
* [[日本語]]の「ナシ」から Nashi pear
== 歴史 ==
日本でナシが食べられ始めたのは[[弥生時代]]ごろとされ{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}、[[登呂遺跡]]などから多数食用にされたとされる根拠の[[種子]]などが見つかっている。ただし、それ以前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシ(山梨)の自生地が人里周辺のみであることなどにより、[[アジア大陸]]から人の手によって持ち込まれたと考えられている。文献に初めて登場するのは『[[日本書紀]]』であり、[[持統天皇]]の[[693年]]の[[詔]]において[[五穀]]とともに「[[クワ|桑]]、[[カラムシ|苧]]、'''梨'''、[[クリ|栗]]、[[カブ|蕪菁]]」の栽培を奨励する記述<ref>卷第卅 七年(中略)丙午勅詔令天下勸殖桑苧梨栗蕪菁等草木以助五穀</ref>がある。
記録上に現れるナシには巨大なものがあり、5世紀の中国の歴史書『[[洛陽伽藍記]]』には重さ10斤(約6キログラム)のナシが登場し、『[[和漢三才図会]]』には落下した実にあたって犬が死んだ逸話のある「犬殺し」というナシが記述されている<ref>{{Cite web|和書|url = {{NDLDC|898162/505}} |title = 和漢三才図会 巻第八十七 梨 |publisher = [[国立国会図書館]] 近代デジタルライブラリー |accessdate = 2015-05-15 }}</ref><ref>鈴木晋一 『たべもの史話』 小学館ライブラリー、1999年、pp50-54</ref>。
[[江戸時代]]には栽培技術が発達し、日本で最古の梨栽培指南書 新潟市有形文化財に指定されている阿部源太夫著「梨栄造育秘鑑」<ref> https://www.lalanet.gr.jp/sp/search/searchdtl.aspx?knd=6&ht=7&pageSiz=0&pageNum=0&&stdycd=16715</ref>では100を超す[[栽培品種|品種]]が[[果樹園]]で栽培されていたと記録がある。[[松平定信]]が記した『[[狗日記]]』によれば、「船橋のあたりいく。梨の木を、多く植えて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。かく苦しくなしては花も咲かじと思ふが、枝のびやかなければ、花も実も少しとぞ。」と記載があり、現在の[[市川市]]から[[船橋市]]にかけての[[江戸]]近郊では、江戸時代後期頃には、既に梨の栽培が盛んだった事がわかっている。
[[明治|明治時代]]には、現在の[[千葉県]][[松戸市]]において'''二十世紀'''が、現在の[[神奈川県]][[川崎市]]で'''長十郎'''がそれぞれ発見され、その後、長らくナシの代表格として盛んに生産されるようになる。一時期は日本の栽培面積の8割を長十郎で占めるほどであった。また、それまでは晩生種ばかりだったのだが、多くの早生種を含む優良品種が多数発見され、盛んに[[品種改良]]が行われた。
[[20世紀]]前半は、二十世紀と長十郎が生産量の大半を占めていたが、[[戦後|太平洋戦争後]]になると[[1959年]]に'''幸水'''、[[1965年]]に'''新水'''、[[1972年]]に'''豊水'''の3品種(この3品種をまとめて「三水」と呼ぶこともある)が登場し普及した。そのため、現在では長十郎の生産はかなり少なくなっている。
== 栽培 ==
ナシの種子は乾燥に弱く、播種の際には注意を要する。発芽後は[[植木鉢]]へ移して個別に栽培し、十分に生育してから圃場へ移す。定植された[[苗]]は長さ数cmにもなる[[棘]]を付けるが、これはバラ科としての形態形質の一端である。ちなみに、この棘はナシの幼若期に特有のものであり、花芽形成が始まる頃に伸びる枝には棘がない。
ナシの花弁は通常白色、5枚の[[離弁花類|離弁]]が基本であるが、色や花弁数には変異がある。また、[[雄蕊|おしべ]]は約20本、花柱は5本である。ナシは本来[[虫媒]]花であるが、[[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]](同じ品種間では結実しない性質)が強く、栽培される場合には経済的な理由から他品種の花粉によって人工[[受粉]]が行われる。[[雌蕊]](めしべ)の柱頭に付着した花粉は[[花粉#花粉の発芽|発芽]]し、[[花粉管]]を伸長して[[胚珠]]に到達、[[重複受精]]を行う。果実の育成は[[植物ホルモン]]の影響を受ける為、人工的にこれを添加する事も行われる。また、結実数が多すぎる(着果過多)場合には、商品となる果実の大きさを維持する為に摘果が行われる。
[[受粉]]を確実にするため[[マルハナバチ]]などを[[養蜂]]もされている。
=== 樹形と台木 ===
[[ファイル:Chuisihaitang.jpg|thumb|100px|台木として使われる[[カイドウ]]類]]
ナシは[[種子植物]]であり、果実内には一個 - 十数個の[[種子]]が形成される。天然では[[鳥類|鳥]]などにより種子が[[種子#種子の散布|散布]]されるが、改良品種で種子繁殖が行われる事は稀であり、通常は[[接ぎ木]]によって増やされる。[[台木]]には[[和なし]]の他、[[マンシュウマメナシ]]や[[チュウゴクナシ]]、[[マルバカイドウ]]も用いられる。
また、本来ナシは高さ10[[メートル]]程になる高木だが、果樹栽培の際には[[台風]]などの風害を避けるため、十分な日照を確保するために、棚仕立て(平棚に枝を誘導し、枝を横に広げる[[矮性]]栽培方法)が用いられる。
=== S因子による不親和性 ===
{| class="wikitable bordered" style="font-size: small; float:right; clear:right;"
|+ ナシの品種のS因子型
|-
! 因子型 || 品種
|-
| S<sub>1</sub>S<sub>2</sub> || 赤穂、独逸、早玉
|-
| S<sub>1</sub>S<sub>4</sub> || 八雲、翠星
|-
| S<sub>1</sub>S<sub>5</sub> || 明月、市原早生
|-
| S<sub>1</sub>S<sub>6</sub> || 今村秋
|-
| S<sub>2</sub>S<sub>3</sub> || 長十郎、青長十郎、青竜、武蔵
|-
| S<sub>2</sub>S<sub>4</sub> || 二十世紀、六月、早生長十郎、菊水、祇園、早生二十世紀
|-
| S<sub>2</sub>S<sub>5</sub> || 須磨、駒沢、愛宕
|-
| S<sub>3</sub>S<sub>4</sub> || 筑水、秋麗、なつしずく、あきづき、香麗、なつみず
|-
| S<sub>3</sub>S<sub>5</sub> || 丹沢、豊水、あけみず
|-
|S<sub>3</sub>S<sub>9</sub>
|新高
|-
| S<sub>4</sub>S<sub>5</sub> || 早生赤、太白、幸水、新水、旭、多摩、秀玉、喜水、王秋
|-
|S<sub>4</sub>S<sub>9</sub>
|新興、新星
|-
| S<sub>5</sub>S<sub>7</sub> || 晩三吉
|-
|}
ナシは同じ品種間で結実しない(自家不和合性)だけでなく、違う品種間でも結実しない(交配不親和性)組み合わせが多い。これらはS因子という[[遺伝子]]によるもので、S<sub>1</sub> - S<sub>9</sub>の9種類が存在する。通常の細胞には2つのS因子があり、[[花粉]]や[[卵細胞]]はそのいずれか一方を持つ。受粉時に[[雌蕊]]のS因子の一方と花粉のS因子とが一致した場合には、S因子が一致する花粉管の[[リボ核酸|RNA]]が分解される。これは雌蕊側のS-RNase(S因子産物)の働きによるもので、結果として花粉管が伸長せずに受精に至らず、結実しないのである。
; S因子型が完全に一致する場合
:* 二十世紀の花(S<sub>2</sub>S<sub>4</sub>)に、祇園の花粉(S<sub>2</sub>またはS<sub>4</sub>) - 交配不能
:* 祇園の花(S<sub>2</sub>S<sub>4</sub>)に、二十世紀の花粉(S<sub>2</sub>またはS<sub>4</sub>) - 交配不能
; S因子の片方が一致する場合
:* 二十世紀の花(S<sub>2</sub>S<sub>4</sub>)に、幸水の花粉(S<sub>4</sub>またはS<sub>5</sub>) - 交配可能
:* 幸水の花(S<sub>4</sub>S<sub>5</sub>)に、二十世紀の花粉(S<sub>2</sub>またはS<sub>4</sub>) - 交配可能
; S因子の両方が異なる場合
:* 二十世紀の花(S<sub>2</sub>S<sub>4</sub>)に、豊水の花粉(S<sub>3</sub>またはS<sub>5</sub>) - 交配可能
:* 豊水の花(S<sub>3</sub>S<sub>5</sub>)に、二十世紀の花粉(S<sub>2</sub>またはS<sub>4</sub>) - 交配可能
== 品種 ==
[[File:Nashi cultivar share.png|thumb|left|240px|ナシの品種ごとの栽培面積<br />(特産果樹生産動態等調査、2010年)]]
ナシの栽培は古くからあったが、品種名が文献に現れるのは[[江戸幕府]]が行った[[特産品]]調査([[1735年]])である。当時既に150もの品種が記録されている。品種改良は20世紀初め頃から行われるようになった。現在では幸水、豊水、二十世紀、新高の4品種だけで、収穫量の約9割を占めているが、いずれも19世紀後半 - 20世紀前半に発見あるいは交配された品種である。
ナシの品種は、果皮の色から黄褐色の'''赤梨系'''と、淡黄緑色の'''青梨系'''に分けられる<ref name="天気">{{cite news|title= 秋の味覚「梨」品種ごとに違う味や旬の時期を知ろう |work=ウェザーニュース|date=2020-9-26|accessdate=2021-2-20}}</ref>。多くの品種は赤梨系で、青梨系の品種は二十世紀、八雲、菊水、新世紀、秋麗、瑞秋(二十一世紀梨)など少数である。この色の違いは、果皮のコルク層によるもので、青梨系の果皮はクチクラ層に覆われており黄緑色となるが、赤梨系の品種では初夏にコルク層が発達し褐色となる。
和梨と洋梨を問わず、ナシの品種は、果皮の色から大きく4つに分けられる。幸水梨などの赤茶色系のラセットタイプ(Russet pear)、リンゴのように赤い赤色系のレッドタイプ(Red pear)、中国梨のように黄色い黄色系のイエロータイプ(Yellow pear)、二十世紀梨などの青色系のグリーンタイプ(Green pear)などがある。レッドタイプとイエロータイプの中間種でピンクタイプなども存在する。
[[File:Pear family tree.png|thumb|alt=Pear family tree s.png|left|250px|ナシの主要品種の系統図]]
=== 幸水 ===
[[File:Pyrus pyrifolia kosui.jpg|thumb|120px|幸水]]
幸水(こうすい)は赤梨系の早生種で、和なし生産の34%を占める最も生産量の多い品種である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。なし農林3号。
[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧園芸試験場)が[[1941年]]に菊水に早生幸蔵を掛け合わせて作り、[[1959年]]に命名・発表された。早生種の中でも特に収穫時期が早く、8月中旬から下旬である{{r|天気}}。ただし、収穫時期が短い。赤梨系だが中間色(中間赤梨)と言い、若干黄緑色の地色が出る。酸味は少なく糖度が高い{{r|天気}}。果肉は柔らかく果汁も多い{{r|天気}}。早生種としては平均的な方だが、日持ちが短い。
=== 豊水 ===
豊水(ほうすい)は赤梨系の中生種で、和なし生産の30%を占める生産量第2位の品種である。なし農林8号。
農研機構(旧果樹試験場)によって[[1954年]]に作られ、[[1972年]]に命名された。糖度が高いが、ほどよく酸味もある濃厚な味が特徴。300 - 400 gと幸水よりやや大きめで、果汁が多い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。また、日持ちも幸水よりは長い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。長らくリ-14号と八雲の交配種とされていたが、[[2003年]]に農研機構の[[DNA型鑑定]]によって幸水とイ-33の交配種であると発表された。
=== 二十世紀 ===
[[File:Nijusseiki nashi - Japanese pears by akira yamada.jpg|thumb|120px|二十世紀]]
二十世紀(にじっせいき)<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 2 |publisher=講談社 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=二十世紀(にじっせいき Nijisseiki) {{!}} 鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館|url=http://1174.sanin.jp/nashikinenkan/10/r166/|website=なしっこ館|accessdate=2020-09-28|language=ja}}</ref>は青梨系の中生種で、和なし生産の13%を占める生産量第3位の品種である。また、鳥取県産なしの8割を占める。300g前後の中玉{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。
青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨。[[1888年]]に千葉県大橋村(現在の[[松戸市]])で、当時13歳の[[松戸覚之助]]が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見、移植して育てた。覚之助はこれを「新太白」と名付けたが、実がなった[[1898年]]に[[渡瀬寅次郎]]によって、来たる[[新世紀]]([[20世紀]])における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された<ref name="20matsudo">[http://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/meibutsu/hoka/20seikinashihassyou.html 松戸が二十世紀梨発祥の地です まつどの観光・魅力・文化] 松戸市、2017年6月10日閲覧</ref><ref name="chiba">[https://www.pref.chiba.lg.jp/ryuhan/pbmgm/zukan/kajitsu/nashi.html 梨|旬鮮図鑑] 千葉県、2017年6月10日閲覧</ref>。その後、[[1904年]]に[[北脇永治]]によって[[鳥取県]]に導入され、鳥取県の特産品となった。同県[[倉吉市]]には専門のミュージアム「[[鳥取二十世紀梨記念館|鳥取二十世紀梨記念館 なしっこ館]]」([[倉吉パークスクエア]]内)があり、花は鳥取県の県花に指定されている。
発祥の地は後に「[[二十世紀が丘]]梨元町」と名付けられ、覚之助の業績を記念している<ref name="20matsudo" />が、発祥の松戸市を含む関東地方では幸水や豊水が主で、現在殆ど栽培されなくなっている。二十世紀梨の原木は1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定されたが、1947年(昭和22年)に枯死しており、原木の一部が[[松戸市立博物館]]に展示されている(松戸市指定有形文化財)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.matsudo-kankou.jp/nijyuseikinashinogenboku/ |title=二十世紀梨の原木【松戸市指定有形文化財】 |accessdate=2022-01-09 |work=松戸市観光協会}}</ref>。松戸市の二十世紀が丘梨元町にある二十世紀公園には二十世紀梨誕生の地の碑がある(松戸市指定文化財)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.matsudo-kankou.jp/nijyuseikinashitanjyounochi/ |title=二十世紀梨誕生の地 【松戸市指定文化財】 |accessdate=2022-01-09 |work=松戸市観光協会}}</ref>。
果皮は黄緑色、甘みと酸味のバランスが良いすっきりした味わいで、果汁が多い<ref name="chiba" />。収穫時期が比較的遅く、(水分の多い)梨の需要が見込まれる夏・初秋に収穫できないのが欠点でもある。自家受粉が出来ない(これは二十世紀に限らず)、黒斑病に非常に弱いといった欠点を改良した品種もある(後述)。
=== 新高 ===
[[File:Nashi niitaka.jpg|thumb|120px|新高]]
新高(にいたか)は赤梨系の晩生種で、和なし生産の11%を占める生産量第4位の品種である。
菊地秋雄が[[東京都立園芸高等学校|東京府立園芸学校]]の玉川果樹園で天の川と長十郎を交配させて作った品種で、[[1927年]]に命名された。名前の由来は当時日本で一番高い山であった[[台湾]]の[[玉山 (台湾)|新高山(玉山)]]より<ref>神奈川県園芸試験場桃季会:「桃季の郷に集う」創立10周年記念誌</ref>。当時の命名基準では国内の地名を用いることになっており、優れた品種であることから、日本で一番高い山の名称を用いたという<ref group="注">また、天の川に長十郎ではなく今村秋を掛け合わせたと考えられていたのが原因で、それぞれの品種の原産地である[[新潟県]](天の川)と[[高知県]](今村秋)の頭文字を取ったという俗説がある。</ref>。収穫時期は、10月中旬から11月中旬。500グラム - 1キログラム程度の大型の品種で、果汁が多く、歯ごたえのある食感で、味は酸味が薄く甘い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。洋なしほどではないが芳香もある。比較的日持ちが良い。
=== 新興 ===
新興(しんこう)は赤梨系の晩生種で、生産量は新高に次ぐ5位。
[[1941年]]、新潟県農事試験場で二十世紀と今村秋を掛け合わせて作られた。やや大きめの品種で収穫時期は10月上旬から下旬。赤梨ながら青梨の性質を兼ね備えるのが特徴で、シャリシャリした歯ざわりがあり、遅くに収穫したものなら常温でも年を越せるなど日持ちが抜群に良い。果汁が多く、味は二十世紀の酸味を弱めた感じである。
=== その他の品種(赤梨系) ===
; 南水(なんすい)
:長野県で新水と越後を掛け合わせて作られた<ref name="JA">{{Cite web|和書|url= https://www.iijan.or.jp/oishii/products/fruit/post-164.php|title=信州伊那谷生まれの梨、南水物語|publisher=JA長野県|accessdate=2021-2-20}}</ref>赤梨系の中生種。350 - 500 g程度の大玉で、糖度が15度と甘みが強い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。長野県での生産が9割ほどを占める。長野県飯田市を中心とする[[南信州地域]]では大正時代から梨栽培に取り組み、「南水」は20年近い歳月を経て誕生し、平成2年に長野県が品種登録した{{r|JA}}。名前は、「南信州の清涼さと南アルプスの崇高さ」をイメージしてつけられた{{r|JA}}。
:果皮は黄褐色。果肉は雪白色に近く、サクサクとした心地よい歯触りで果汁も多い。糖度も極めて高く、中心部の酸味も少ない。貯蔵性にすぐれ、収穫期から常温で1か月、冷蔵で3か月、氷蔵で6か月間の貯蔵が可能{{r|JA}}。
:南水の収穫は9月下旬から10月上旬。栽培が難しい品種のため、高い技術レベルが必要。
; 長十郎(ちょうじゅうろう)
: [[1893年]]に神奈川県[[橘樹郡]][[大師河原村]][[出来野]](現在の[[川崎市]][[川崎区]][[日ノ出 (川崎市)|日ノ出]])で当麻辰次郎(当麻長十郎)が発見した<ref>{{Cite web|和書|author= NPO法人かわさき歴史ガイド協会|authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.city.kawasaki.jp/250/cmsfiles/contents/0000002/2286/5-2.pdf|title= 長十郎梨のふるさと|format= pdf|doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language=jpn|archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2015-11-06}}</ref>。赤梨系の中生種。かつては和なしを代表する主要品種であったが現在はあまり生産されていない。耐寒性に強いため東北地方の青森県、宮城県、秋田県の一部に産地が残る程度である。本来は十分に甘いが、収量を上げるために糖度を下げていることが多い。肉質は硬く、やや劣る。受粉用の花粉採取のためによく使われている。
; 愛宕(あたご)
: 赤梨系の晩生種。[[岡山県]]を中心に[[大分県]]、[[愛知県]]、鳥取県など西日本で生産が盛ん。1 - 1.5キログラムと非常に大きく、日持ちが良い。
; 晩三吉(おくさんきち)
: 10月下旬から11月上旬に収穫される晩生種で、貯蔵性に優れ翌年3月頃まで出回る。平均700gほどの大玉の品種で、やや酸味が強く、さっぱりした甘味がある。全国各地で生産される。「ばんさんきち」とも呼ばれるが、「おくさんきち」が正しい呼び方。
; 多摩(たま)
: 祇園と豊水を掛け合わせて作られた、赤梨系の早生種。名前通り、「[[多摩川梨]]」の代表的な品種として[[神奈川県]]で生産が盛んであり、生産量の8割以上を神奈川県産で占める。
; 新水(しんすい)
: 君塚早生に菊水を掛け合わせた、赤梨系の早生種。農林4号。8月上旬から収穫されるが、病虫害への脆弱性や生育の悪さなどから生産量は少なく、[[石川県]]や[[兵庫県]]で少量生産される。
; あきづき
: 162-29(新高と豊水の交配種)に幸水を掛け合わせ、2001年に品種登録された赤梨系の中生種{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=201}}。農林19号。500グラム以上の大型の品種で、果肉が秘密で非常に甘い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=201}}。千葉県、福島県、茨城県、熊本県などで生産されている。
; 雲井(くもい)
: [[1939年]]に石井早生と八雲の交配により作出され、[[1955年]]に「なし農林1号」として登録された。花粉はほとんどない。果皮は中間色(緑色の地に薄く茶色がかったような色)。東京周辺では8月中旬に熟し、果実は300グラム程度と平均的な大きさである。肉質はよいものの糖度が低く、幸水と競合することなどから現在ではほとんど栽培されていない。
; 彩玉(さいぎょく)
: 埼玉県農林総合研究センター園芸研究所(現:埼玉県農業技術研究センター久喜試験場)で開発された。1984年に新高と豊水を交配して選抜を重ねて育成し、2005年2月に[[農林水産省]]に品種登録された。
: 果実が550グラム以上と大きく、糖度13度から14度の甘い品種で、品種保護のため[[埼玉県]]でしか栽培が許可されていないため、市場に流通する量は少ない<ref>{{Cite web|和書|title=埼玉ブランドの梨「彩玉(さいぎょく)」|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0904/906-20100118-60.html|website=埼玉県|accessdate=2020-08-29|language=ja}}</ref>。
; 稲城(いなぎ)
: 早生ではあるが大玉で果汁が多く、さわやかな甘みがある品種。東京都[[稲城市]]のナシ生産農家が努力を重ねて育成した品種で、稲城市、[[日野市]]、[[府中市 (東京都)|府中市]]、[[国立市]]など都下[[多摩地域]]で栽培されている。地元の直売で非常に人気が高く、市場には出回っていない。
; [[新甘泉]](しんかんせん)
: 「筑水」に「おさ二十世紀」を交配して育成されたもので、2008年に品種登録された。やや早生種で、育成地の鳥取県[[北栄町]]では8月下旬に成熟する。甘味はかなり高く、酸味は中程度で果汁が多い<ref>[http://www.hinsyu.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=16027&LANGUAGE=Japanese 品種登録ホームページ 新甘泉] 農林水産省生産局知的財産課 </ref>。
; [[にっこり梨|にっこり]]
: 栃木県農業試験場が、1984年に「新高」に「豊水」を交配して育成し1996年8月に品種登録した晩生種である<ref>[http://www.hinshu2.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=5138&LANGUAGE=Japanese にっこり] 農林水産省品種データベース、2021年2月20日閲覧</ref>。名称の由来は国際的観光地の[[日光市|日光]]と梨の音読み「リ」から。
: 約800 gと果実は大きく{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=201}}、重さが1.3 kgくらいになるものもある<ref name="栃木">{{Cite web|和書|url=http://tochigipower.com/staticpages/index.php?page=c-204nikkori|title=にっこり(梨)|accessdate=2017-04-29|work=カラダにとちぎ|publisher=一般社団法人とちぎ農産物マーケティング協会}}</ref>。果肉は柔らかく、糖度が高く、酸味が少なく、果汁が多い{{r|栃木}}。収穫時期は10月中旬から11月中旬まで{{r|栃木}}。貯蔵性が良く、涼しいところで約2か月間保存可能{{r|栃木}}。中華圏では大きく濃い黄色をした特徴が[[風水]]信仰に合致し、縁起物の贈答品として珍重されている。[[香港]]での販売名は「スマイリングピア」(微笑み梨)である<ref>[http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/2006joint/2006jointresumecommon.pdf 農産物のブランド化に対する行政の取り組み] 宇都宮大学国際学部中村祐司研究室</ref>。2010年より栃木県以外でも栽培できるようになった。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ibaraki-shokusai.net/brand/asian-pears/|title=いばらきの農林水産物 梨|accessdate=2018-11-21|publisher=茨城県営業戦略部販売流通課}}</ref>
; きらり
: [[栃木県]]農業試験場が、1994年に「おさ二十世紀」に「にっこり」を交配して育成し2007年2月に品種登録した晩生種。栃木県内のみで生産されている。県内で主に育成されている幸水(7月末から8月上旬)、豊水(8月中旬から9月下旬)、にっこり(11月)の生産連続性を高めるため、同時期に収穫されるが食味に劣る新高に変わる品種として開発された。
: 果実はやや大きく、重さが1.0kgくらいになるものもある。果肉は柔らかく、糖度がにっこりより若干弱くさわやかな甘みで、酸味が少なく、果汁が多い。収穫時期は9月下旬から10月下旬。貯蔵性は10日程度と通常の品種に準ずる<ref>[http://www.hinsyu.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM112.aspx?TOUROKU_NO=14786&LANGUAGE=Japanese 農林水産省生産局知的財産課 品種登録ホームページ きらり]</ref>。
=== その他の品種(青梨系) ===
[[ファイル:鳥取県のさまざまな青梨(夏さやか、なつしずく、真寿).jpg|thumb|right|二十世紀系の様々な新品種<br>夏さやか(上段)=八雲×おさ二十世紀<br>なつしずく(中段)=(幸水×菊水)×筑水<br>真寿(下段)=おさ二十世紀×新水]]
; ゴールド二十世紀
: 二十世紀に[[ガンマ線]]を照射して作られた改良品種で、黒斑病に強い。青梨系の中生種。[[1991年]]に作られ、「金のように価値がある」という意味で命名。
; おさ二十世紀
: 突然変異によって自家受粉が可能となった二十世紀。青梨系の中生種。鳥取県泊村の梨園で発見され、園主の名前から命名。
; おさゴールド
: おさ二十世紀の「自家受粉ができる」、ゴールド二十世紀の「黒斑病に強い」という2つの長所を持ち合わせた品種。青梨系の中生種。農林水産省と鳥取県の共同研究によりおさ二十世紀にガンマ線を照射して開発された。
; 菊水(きくすい)
: 二十世紀に太白を掛け合わせた青梨系の中生種。かつては代表的な青梨系の品種であったが、現在は少なくなった。三水(幸水、新水、豊水)などの優良品種を数多く生み出した。やや酸味はあるが糖度は高い。
; 秋麗(しゅうれい)
: 1982年に農林水産省果樹試験場(現:[[農業・食品産業技術総合研究機構]]果樹研究所)において、赤梨の幸水に赤梨の筑水の花粉を交雑して育成した、実生から選抜した中生の青梨品種である。2000年10月25日付けで農研機構から『秋麗』と命名され『なし農林21号』として、農林水産省に登録・公表された<ref>{{Cite press release|和書| url = https://www.naro.go.jp/collab/breed/0400/0415/001277.html | title = 秋麗(しゅうれい) | publisher = [[独立行政法人]][[農業・食品産業技術総合研究機構]] | accessdate = 2022-08-30 }}</ref>。
: 皮は洋なしに似て、褐色と黄緑のまだら模様があり、見た目は悪く栽培に手間がかかるため、公表された時は栽培農家が増えなかったが、香りが良く、糖度は13度前後と強い甘味があり{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=201}}、酸味はほとんど感じない。[[熊本県]]が主な生産地である<ref>{{cite news | url = https://www.nishinippon.co.jp/item/n/350452/ | title = 見かけ覆す驚きの甘さ 熊本の梨「秋麗」 | newspaper = 西日本新聞 | publisher = [[西日本新聞社]] | date = 2017-08-12 | accessdate = 2022-08-30 }}</ref>。
; [[なつひめ]]
== 日本における産地 ==
[[File:Nashi growing area.png|thumb|250px|ナシの都道府県ごとの栽培面積<br />(特産果樹生産動態等調査、2004年)]]
ナシは[[沖縄県]]を除く日本各地、[[北海道]][[道南|南部]](但し、[[道北|北部]]でも栽培収穫の例がある)から[[鹿児島県]]まで広く栽培されており、31都府県で累年統計をとっている。そのため、主産県でも収穫量におけるシェアはそれほど高くなく、上位10県合計でも全体の7割弱である。産地は東日本と九州地方に集中しており、特に関東地方で半数を超える。土壌は[[火山灰土]]、砂地などが栽培適地となっているほか、風害の影響を受けやすいため、[[盆地]]や山間の[[扇状地]]に産地が発達している。
なお、主要産地の地方自治体ではナシの大敵である[[赤星病]]対策として、[[イブキ|ビャクシン]]類の植栽を規制する[[条例]]を設けているところが多い。
=== 生産上位県 ===
2018年の各県の和梨収穫量は、1位から順に、[[千葉県]]、[[茨城県]]、[[栃木県]]、[[福島県]]、[[鳥取県]]、[[長野県]]だった<ref>{{Cite web|和書|title=作況調査(果樹):農林水産省|url=https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_kazyu/index.html|website=www.maff.go.jp|accessdate=2020-11-03}}</ref>。これらの県の収穫量はそれぞれ1万トンを超え、千葉県の収穫量は3万400トン(13%)だった。
*[[千葉県]] - 江戸時代から続く和梨産地で、古くは長十郎などを特産。また、幸水と豊水の人気が出てからは2004年より和梨生産量、収穫量、栽培面積、いずれも1位である<ref>[https://www.pref.chiba.lg.jp/ryuhan/pbmgm/zukan/kajitsu/nashi.html 教えてちばの恵み 旬鮮図鑑 梨] 千葉県、2021年11月27日閲覧</ref>。
*:主な産地:[[白井市]]<ref>[http://www.city.shiroi.chiba.jp/shisei/shokai/s02/1421731814917.html 白井市 しろいの梨]</ref>、[[市川市]]<ref>[http://www.city.ichikawa.lg.jp/eco02/1111000002.html 市川市 農水産業 市川のなしについて]</ref>、[[鎌ケ谷市]]<ref>[https://www.city.kamagaya.chiba.jp/shinogaiyou/tokusanbutsu/tokusanbutsu.html 鎌ケ谷市 特産物 鎌ヶ谷の梨]</ref>、[[船橋市]]<ref>[http://funanashi.myfuna.net/ 船橋のなし情報サイト]</ref>、[[松戸市]]<ref>[http://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/sanpo-map/nasimogi.html 松戸市 観光梨園(梨もぎ)]</ref>、[[柏市]]<ref>[https://iinemuu.com/5286.html 柏市の梨直売所情報]</ref>、[[八千代市]]<ref>[https://yachiyo-chiba.mypl.net/mp/pear_yachiyo/?sid=26305 まいぷれ八千代市 八千代市の梨のすべて]</ref>、[[市原市]]<ref>[https://www.city.ichihara.chiba.jp/kanko/nourinngyo/nourinkeikaku/tokusanhinshinko/gaiyo.html 市原市 特産品の概要 梨]</ref>、[[香取市]]<ref>[https://www.city.katori.lg.jp/smph/miryoku/katorino/suigounasi.html 香取市 カトリノ郷物語vol.16 水郷梨]</ref>、[[いすみ市]]<ref>[http://jaisumi.or.jp/farm_crops/127 JAいすみ 梨]</ref>、[[一宮町]]<ref>[http://www.ja-chosei.or.jp/toretate/brand.html JA長生 とれたて彩菜 長生ブランド]</ref>。
*[[茨城県]] - 千葉県と比較して市場出荷の比率が高い。幸水収穫量第2位、豊水収穫量1~2位。
*:主な産地:[[筑西市]]<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201708/CK2017080302000148.html 東京新聞 梨の出荷始まる 筑西のJA選果場]</ref>、[[下妻市]]<ref>[http://www.ibaraki-shokusai.net/present/p2012-08-17pr.cfm 茨城をたべよう]</ref>、[[八千代町]]、[[石岡市]]、[[小美玉市]]、[[かすみがうら市]]、[[土浦市]]。
*[[栃木県]] - 県独自ブランドの「にっこり」が知られる。
*:主な産地:[[宇都宮市]]<ref>[http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/sangyo/nougyou/tokusan/1006935.html 宇都宮市 特産物のご案内 梨]</ref>、[[芳賀町]]、[[大田原市]]、[[那須烏山市]]、[[小山市]]、[[鹿沼市]]、[[佐野市]]。
*[[福島県]] - [[福島市]]の収穫量が圧倒的に多く、ブランド梨の萱場梨が知られる。ほかに[[須賀川市]]、[[相馬市]](磯部梨)、[[郡山市]](磐梯熱海梨)、[[いわき市]](サンシャインいわき梨)などに産地がある<ref>[http://www.new-fukushima.jp/archives/50619.html ふくしま新発売。ふくしまの日本ナシ]</ref>。自治体単位では福島市が日本一の収穫量を誇り、萱場地区は日本一の梨密集産地となっている<ref>[http://www.f-ichiba.jp/?p=280 一般社団法人 福島市公設地方卸売市場協会 ナシ(梨)]</ref>。幸水、豊水のほか、「あきづき」の産地となっている。<!-- 大熊町は記述保留 -->
*:主な産地:[[福島市]]、[[須賀川市]]、[[相馬市]]、[[いわき市]]、[[郡山市]]。
*[[鳥取県]] - 2001年までは長らく第1位であった。今日では豊水や幸水などの赤梨の方が市場人気が高いのと二十世紀梨は栽培が比較的難しいため、生産農家が減少したためである。二十世紀収穫量第1位。二十世紀の全国シェアは53%。また、県内の和なし収穫量のうち79%が二十世紀だったが、幸水や豊水、県独自の品種、「[[新甘泉]]」など赤梨の比率も増加したため、今日では青梨の比率は減少している。
*:主な産地:[[湯梨浜町]]、[[鳥取市]]、[[八頭町]]、[[倉吉市]]、[[琴浦町]]、[[大山町]]。
*[[長野県]] - 青梨の生産は鳥取県に次いで多く、飯田地区で盛ん。「新水」を親に持つ県独自ブランドの「南水」が知られる。
*:主な産地:[[飯田市]]、[[松川町]]、[[高森町 (長野県)|高森町]]、[[塩尻市]]、[[下條村]]、[[豊丘村]]。
=== その他都府県 ===
==== 東北地方 ====
*[[青森県]]
**[[南部町 (青森県)|南部町]]など
*[[宮城県]] - 利府や蔵王は古くから長十郎の産地として知られる<ref>[http://www.rifukankoukyoukai.com/rifunasi.html 利府梨のルーツ] 利府町観光協会、2022年2月27日閲覧</ref><ref name=河北>{{cite news|url= https://kahoku.news/articles/20200824kho000000103000c.html|title=日野藤吉|author=石川遥一朗|website=河北新報|date=2020/8/24|accessdate=2022/02/27}}</ref>。
**[[蔵王町]]、[[利府町]]、[[角田市]]など。
*[[秋田県]]
**[[男鹿市]]、[[潟上市]]など
*[[山形県]] - [[庄内地方]]の刈屋梨が知られる<ref>[http://syokunomiyakoshounai.com/ingredient/ingre-03/013.html 食の都庄内 刈屋梨]</ref>。
**[[酒田市]]など。
==== 関東地方 ====
*[[群馬県]]
**[[高崎市]]、[[前橋市]]、[[明和町 (群馬県)|明和町]]など。[[大島梨]]も参照。
*[[埼玉県]] - 収穫量第7~11位。近代以降から主産地となり、歴史的経緯などから伝統的な産地が多い。
**主産地は[[久喜市]]、[[蓮田市]]、[[東松山市]]、[[白岡市]]、[[加須市]]、[[神川町]]、[[上里町]]、[[桶川市]]、[[鴻巣市]]など。
*[[東京都]] - [[稲城市|稲城]]の梨が知られる。古くは[[稲城市]]以外にも[[日野市]]、[[小平市]]、[[東村山市]]などに梨畑が展開しており、多摩川梨や多摩湖梨と呼ばれ、数千トンを収穫する一大産地であった。宅地化や都市化に伴う農器具の制限、他産地との競争などで規模が縮小しており、収穫量も全国中位ぐらいである。
**稲城市など。
<!-- **多摩川梨:[[稲城市]]、[[日野市]]、[[府中市 (東京都)|府中市]]、[[国立市]]、[[昭島市]]などで生産。
**多摩湖梨:[[東大和市]]、[[武蔵村山市]]、[[東村山市]]などで生産。|今日では生産量が少ないため記述保留 -->
*[[神奈川県]] - 川崎、横浜の内陸部に産地が展開するが、直売所販売、観光農園が主で、市場出荷は行っていない。川崎は「多摩川梨」、横浜は「はま梨」としてブランド化を進めている。
**[[川崎市]][[麻生区]]・[[多摩区]]、[[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]・[[青葉区 (横浜市)|青葉区]]など。
==== 中部地方 ====
*[[新潟県]] - 和梨(主に「新高」「幸水」)和梨収穫量第7~10位。
**主産地は[[新潟市]][[南区 (新潟市)|南区]]・[[江南区 (新潟市)|江南区]]、[[三条市]]、[[加茂市]]、[[燕市]]など。
*[[富山県]] - 富山市・[[呉羽丘陵]]の呉羽梨がブランド品として知られる。
**[[富山市]](呉羽梨)<ref>[http://www.shoku-toyama.jp/season/s029/ 越中とやま食の王国 富山食ブランド 呉羽梨]</ref>など。
*[[石川県]]
**[[加賀市]]、[[金沢市]]、[[白山市]]など。
*[[福井県]]
**[[あわら市]]、[[坂井市]]など。
*[[山梨県]]
**[[甲府市]]
*[[岐阜県]]
**[[美濃加茂市]]、[[大垣市]]など。
*[[静岡県]]
**[[富士市]]、[[浜松市]]など。
*[[愛知県]] - 収穫量11~12位。
**[[安城市]]、[[豊橋市]]、[[豊田市]]、[[西尾市]]、[[みよし市]]など。
==== 近畿地方 ====
*[[三重県]] - [[雲出川]]河口部にある[[香良洲町|津市香良洲町]]は全国に先駆け、ハウス梨栽培に取り組んだ産地。
**[[津市]]など。
*[[京都府]] - 京丹後市の久美浜付近の京たんご梨が名高い<ref>{{Cite web|和書|title=近畿おたから図鑑(京たんご梨)|publisher=経済産業省近畿経済産業局|accessdate=2021-2-20|url=https://www.kansai.meti.go.jp/7kikaku/kinki-otakarazukan/3_kyoutangonashi.html}}</ref>。
**[[京丹後市]]
*[[兵庫県]] - 香住は二十世紀の産地。
**[[神戸市]]、[[香美町]]など。
*[[奈良県]] - 大淀町は県下一番の二十世紀梨の出荷高を誇る<ref>[http://www.town.oyodo.lg.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=77 梨] 大淀町、2020年3月2日</ref>。
**[[大淀町]]
*[[和歌山県]]
**[[紀の川市]]
==== 中国・四国地方 ====
*[[島根県]] - 二十世紀梨が中心。
**[[安来市]]など。
*[[広島県]] - 世羅梨が知られる。<ref>[https://www.hiroshima.coop/commodity/farm_map/chugoku-shikoku/seranashi.html 生協ひろしま 世羅 幸水梨・豊水梨]</ref>
**[[世羅町]]など。
*[[山口県]] - 鳥取県、長野県に次ぐ青梨産地。
**[[下関市]]、[[美祢市]]
*[[徳島県]] - 関西への出荷が多い。
**[[鳴門市]]、[[松茂町]](阿波おど梨)など。
*[[香川県]] - 豊浜にはホーナンの梨と呼ばれる産地がある。
**[[観音寺市]]など。
*[[高知県]] - 新高発祥地。風害対策のため、梨畑には防風林が発達している。
**[[高知市]]、[[佐川町]]など。
==== 九州地方 ====
*[[福岡県]] - 和梨収穫量第7~10位。
**[[朝倉市]]、[[筑後市]]、[[八女市]]、[[うきは市]]、[[筑前町]]、[[広川町 (福岡県)|広川町]]など。
*[[佐賀県]] - 伊万里市は全国有数の産地。
**[[伊万里市]]<ref>[http://www.arao-kankou.jp/omote-nashi/ 道の駅 伊万里ふるさと村]</ref>、唐津市など。
*[[長崎県]]
**[[南島原市]]など。
*[[熊本県]] - 和梨収穫量第7~12位。県が[[台風]]の通り道に位置するため風害の影響を受けやすく、収穫量は上下しやすい。主産地は[[荒尾市]](新高で知られる)<ref>[http://www.arao-kankou.jp/omote-nashi/ 荒尾梨でおもてなしMAP]</ref>
**[[荒尾市]]、[[玉東町]]、[[熊本市]]、[[氷川町]]、[[宇城市]]、[[錦町]]、[[球磨村]]など。
*[[大分県]] - 和梨収穫量第8~12位。日田市は自治体単位で全国有数の生産高で、日田梨をブランド化している。<ref>[http://www.hitanashi.com/ 四季を通して日田の梨]</ref>
**[[日田市]]、[[由布市]]、[[中津市]]など。
=== 収穫量 ===
和なし収穫量上位10県における、和梨合計と主要品種の収穫量・シェアを以下に示す。(出典:[[農林水産省]]統計情報、[[2006年]])
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|-
! rowspan="2" |
! colspan="2" | 和なし合計
! colspan="2" | 幸水
! colspan="2" | 豊水
! colspan="2" | 二十世紀
! colspan="2" | 新高
|-
!収穫量
!シェア
!収穫量
!シェア
!収穫量
!シェア
!収穫量
!シェア
!収穫量
!シェア
|-
! 全国合計
| 290,900 t ||
| 98,300 t ||
| 87,300 t ||
| 39,000 t ||
| 32,300 t ||
|-
! [[千葉県]]
| 34,900 t || 12%
| 14,500 t || 15%
| 12,300 t || 14%
| 217 t || 1%
| 6,000 t || 19%
|-
! [[茨城県]]
| 29,200 t || 10%
| 12,600 t || 13%
| 12,600 t || 14%
| 15 t || 0%
| 3,000 t || 9%
|-
! [[鳥取県]]
| 23,400 t || 8%
| 778 t || 1%
| 1,480 t || 2%
| 18,400 t || 47%
| 360 t || 1%
|-
! [[福島県]]
| 22,300 t || 8%
| 9,000 t || 9%
| 8,390 t || 10%
| 2,620 t || 7%
| 1,220 t || 4%
|-
! [[長野県]]
| 19,400 t || 7%
| 5,410 t || 6%
| 4,500 t || 5%
| 4,970 t || 13%
| 201 t || 1%
|-
! [[栃木県]]
| 19,200 t || 7%
| 7,270 t || 7%
| 8,710 t || 10%
| 2 t || 0%
| 1,380 t || 4%
|-
! [[新潟県]]
| 15,500 t || 5%
| 3,370 t || 3%
| 2,480 t || 3%
| 2,290 t || 6%
| 3,130 t || 10%
|-
! [[埼玉県]]
| 11,900 t || 4%
| 6,600 t || 7%
| 3,620 t || 4%
| 2 t || 0%
| 1,180 t || 4%
|-
! [[熊本県]]
| 11,200 t || 4%
| 2,600 t || 3%
| 3,380 t || 4%
| 227 t || 1%
| 3,840 t || 12%
|-
! [[福岡県]]
| 10,300 t || 4%
| 4,970 t || 5%
| 3,570 t || 4%
| 303 t || 1%
| 818 t || 3%
|}
== 食用 ==
[[File:Nashi-pear,katori-city,japan.JPG|thumb|right|200px|小切りされたナシ]]
ナシの主な利用法は食用で、調理加工に不向きな特性があるのでほぼ生食に限られる。旬の時期は、和梨が9 - 10月ごろ、洋梨は10 - 12月ごろとされる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。一般的なナシの剥き方は[[リンゴ]]に類似したもので、縦に8等分などして、皮を剥き中心部を取り除く方法である。また、[[シロップ]]漬けの[[缶詰]]にも利用されるが、ナシ単独の缶詰が売られていたり、それを食したりすることは稀であり、他の果物と混ぜてミックスフルーツとして販売・食用とされることが多い。シャリシャリとした独特の食感があり、これは[[リグニン]]やペントサンなど「[[石細胞]]」によりもたらされる{{r|ゼクシ}}。この細胞は、[[食物繊維]]と同じ働きがあり、整腸作用がある{{r|ゼクシ}}。なめらかな食感を持つ[[セイヨウナシ|洋梨]]とは対照的であり、英語では、洋梨をバターペア([[バター]]の梨)、日本梨をサンドペアー(砂の梨)と呼ぶ<ref name=ゼクシ>{{Cite web|和書|title=梨にしかないシャリシャリ食感の秘密は? |url= https://getnews.jp/archives/1124700 |accessdate=2019-5-12 |author=ゼクシィキッチン}}</ref>。
加工品としては[[清涼飲料水]]や、[[ゼリー]]、[[タルト (洋菓子)|タルト]]などの洋菓子に利用されているが、[[セイヨウナシ|洋梨]]と比べるとそれらを見かける機会は少ない。料理に用いられることは[[冷麺]]の具として用いる以外ほぼないが、産地などでは梨カレーなどといった[[レシピ]]も開発されている<ref>[http://www.jan-agri.com/contents/cooking/nashi.html 梨 とれたてクッキング] JA全農とっとり、2021年11月27日閲覧</ref>。
=== 特性 ===
ナシは[[ポリフェノール]]系化合物による褐変を起こしやすい食材であり、食塩水につけるなどの方法がとられる<ref name="manual">{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/06/13/1306691_04.pdf |title=第3章 調理室における衛生管理&調理技術マニュアル |publisher=文部科学省 |accessdate=2020-06-05}}</ref>。フルーツサラダに加える場合は食塩水に代えて他の果物の缶詰内にある果汁を使用することもできる<ref name="manual" />。
ナシは[[タンパク質分解酵素]]を持っているため、生の状態ですり下ろしたものを[[焼肉]]や[[プルコギ]]などの漬け込みだれとして利用するレシピがある。
=== 酒類 ===
一大産地の千葉県鎌ケ谷市、白井市では1980年代末に梨[[ワイン]]、梨[[ブランデー]]を商品化した。このほか、千葉県いすみ市、埼玉県久喜市、秋田県男鹿市でも梨ワインが生産されている<ref group="注">ただし、[[ワイン]]とは厳密には[[ブドウ]]から作られた酒のみを表す。正確には、和梨の[[シードル]] ({{Lang-fr-short|[[:fr:cidre|cidre]]}}) 、[[ペリー (酒)|ペアサイダー]] ({{Lang-en-short|[[:en:pear cider|pear cider]]}}) 、[[ペリー (酒)|ペリー]] ({{Lang-en-short|[[:en:perry|perry]]}}) 、スパークリングペリー(梨のスパークリングワイン)、和梨の[[発泡酒]]、ポワレ({{Lang-fr-short|[[:fr:poiré|poiré]]}})などと呼ぶのが適切である。</ref>。
洋梨は、[[果実酒]]([[ペリー (酒)|ペアサイダー]])、[[蒸留酒]]([[ブランデー]])などに利用されているが、[[#品種|和なし]]での梨ワイン、梨ブランデーの生産は、現在、日本のみである。
2010年代より、二十世紀梨の産地である鳥取県や隣接する[[兵庫県]][[但馬国|但馬地方]]において、「梨の[[発泡ワイン|スパークリングワイン]]」の名称で和梨の[[シードル]](ペアサイダー)も商品化されている[http://www.a-aji.jp/products/pear_wine/index.html][http://www.hirooka-farm.com/]。千葉県鎌ケ谷市でも2012年から、豊水を原料とするスパークリングワインが商品化された(1980年代末から商品化されている梨ワインの原料は幸水)[http://www.kamata-nomoukai.com/item/460009/]。
和梨および洋梨の発泡酒は、[[酒税法]]第3条によると、発泡性酒類のその他の発泡性酒類に分類される。
=== 成分・栄養価 ===
{{栄養価 | name=日本なし 生<ref name=mext7>[[文部科学省]] 「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =180| water=88.0 g| protein=0.3 g| fat=0.1 g| satfat=(0.01) g| monofat = (0.02) g| polyfat =(0.02) g| carbs=11.3 g| starch=8.3 g| opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.2 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=0.7 g| fiber=0.9 g| potassium_mg=140| calcium_mg=2| magnesium_mg=5| phosphorus_mg=11| zinc_mg=0.1| copper_mg=0.06| Manganese_mg=0.04| vitE_mg =0.1| thiamin_mg=0.02| niacin_mg=0.2| vitB6_mg=0.02| folate_ug=6| pantothenic_mg=0.14| opt3n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt3v=0.5 µg| vitC_mg=3| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。廃棄部位: 果皮及び果しん部| right=1 }}
糖度は11 - 14%程度で、糖分としては[[スクロース|ショ糖]]、[[フルクトース|果糖]]、[[ソルビトール]]、[[グルコース|ブドウ糖]](多い順)を含む。[[酸度]]は0.1%程度で、[[リンゴ酸]]や[[クエン酸]]などである{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。
和梨・洋梨ともに[[果物]]としては[[ビタミン]]をほとんど含まず、栄養学的な価値は高くない。果物の多くがそうであるように、ナシのほとんどは[[水分]]で可食部100 gあたり88 g含まれる。[[食物繊維]]は可食部100 gあたり0.9 g含まれる。[[カリウム]](可食部100 gあたり140 mg)は、血液中のナトリウムイオンの増加を防ぎ、高血圧予防に良い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。[[ソルビトール]]は甘く冷涼感のある[[糖アルコール]]で、便秘の予防に効果がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=200}}。洋なしではこれによって[[追熟]]が起きる。[[アスパラギン酸]]は[[アミノ酸]]の一種で、疲労回復効果がある。タンパク質分解酵素[[プロテアーゼ]]の働きで消化を助けたり、肉料理において肉を柔らかくしたりする効果がある。
== 文化 ==
=== 梨に関する言葉 ===
* [[梨園]](りえん) - [[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]の故事に由来し、[[歌舞伎]]界を意味する<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1301|title=歌舞伎事典:梨園|work=文化デジタルライブラリー|accessdate=2021-2-20}}</ref>。
* 梨尻柿頭 - ナシは尻の部分が甘く、カキは頭の部分が甘いということ。
* 梨の礫(つぶて) - 便りを出しても、先方からさっぱり音沙汰のないこと<ref>{{Cite web|和書|url= https://kotobank.jp/word/梨の礫-588658|title=梨の礫|work=コトバンク|accessdate=2021-2-20}}</ref>。
* 梨花一枝、春雨(はるあめ)を帯ぶ - 美人が涙ぐむさま。
== 図柄 ==
[[江戸時代]]に現在の[[岐阜県]]、[[美濃国|美濃]][[加納藩|加納藩主]]などを務めた[[永井氏|永井家]]の一族[[家紋]]として梨紋の図柄が使われた。
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Nashi.png|丸に梨の切り口 (梨紋)
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|pages =200 - 201|ref=harv}}
{{参照方法|section=1|date=2023年1月}}
* 農文協編 『ナシ』〈果樹園芸大百科 4〉、[[農山漁村文化協会]]、2000年。
* 八尋洲東編 『植物の世界 5』〈朝日百科植物の世界〉、[[朝日新聞社]]、1997年。
* 木村陽二郎監修 植物文化研究会・雅麗編『図説花と樹の事典』[[柏書房]]、2005年。ISBN 4760126589。
* 岡田哲 『たべもの起源事典』[[東京堂出版]]、2003年。ISBN 4490106165。
* 堀田満ほか 『世界有用植物事典』[[平凡社]]、1989年。ISBN 4582115055。
* {{Cite web|和書|url=https://www.kudamononavi.com/graph/category/ca=28?fbclid=IwAR243JY3DXrrFyt6g504zn33_XhP_Djq45M2VsNBvAshonSbTpZ6zad8q00 |accessdate=2019-12-30 |title=ナシ(日本梨) |work=果物別ランキング |website=果物ナビ |ref={{SfnRef|果物ナビ}}}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|果物|[[画像:Illustration des fruits en pays Bassa.jpg|50px|Portal:果物]]}}
* [[二十世紀梨記念館]]
* [[二十世紀が丘]](千葉県松戸市の地名)
* [[しょうぶの梨100年記念園]]
* {{LoMP|16730|二十世紀 (小惑星)}} - 二十世紀梨が命名元
* [[佃祭]] - [[落語]]の演目のひとつ。袂に石を入れて身投げをする人を助けるが、実は石ではなくて梨であり、歯痛を治す為の願掛けに、梨断ちをしようと、お供えに持って行く所だったというオチ。
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|梨
| wikt = ナシ
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| commons = Pyrus
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}}
* [http://www.kudamononavi.com/zukan/jpnpear.htm 果物ナビ ナシ(日本梨)]
* [http://1174.sanin.jp/ 鳥取二十世紀梨記念館]
* [http://www.love-fruits.com/nashipage2.htm 岡山果物市場 岡山の梨]
* [http://www.f-kudamono.com/ 福島県くだもの消費拡大委員会]
* [http://www.agr.niigata-u.ac.jp/~naser/kiyokiyo/grad/nasi/nasiind.html 新潟県 梨 品種画像データベース ]
* [http://www.fruit.affrc.go.jp/kajunoheya/nashi/pears.html 果樹研究所 ニホンナシ育成品種の系統図]
* [http://www.kukinashi.jp/main2.html 久喜市梨組合ホームページ]
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3,317 | ユリウス暦 | ユリウス暦(ユリウスれき、羅: Calendarium Iulianum、伊: Calendario giuliano、英: Julian calendar)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日 から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。
ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。
なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。
平均太陽年を365.25日とする太陽暦の一種であり、1年を365日とする年と4年に1回366日とする年を設けた。
月は従来のローマ暦のものを基本的に踏襲し、月ごとの日数を調整して合計を平年の365日または閏年の366日とした。閏日が加えられる閏年は4年ごとに1回設けられ、ローマ暦時代の閏月と同じく2月に挿入された。
なお、ユリウス暦は「紀年法」ではなく、「暦法」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、4、5世紀頃、アレクサンドリアのキリスト教徒が用いたディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)、それを6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる西暦)がある。キリスト紀元は10世紀頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦における置閏法の成立は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている。
制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと。
ユリウス暦では、1年は365.25日 = 31 557 600 秒である。これに対して、実際の太陽年は、2015年時点で、31 556 925.168秒 = 約365.242 189 44日である。その差は、674.832 秒 = 11分14.832である。86 400 秒( = 1日)/674.832 秒 = 128.032 であるから、約128年で1日のずれが、約1280年で10日ものずれが生ずることになる。カエサルの活躍した古代においては格段に正確な暦ではあったが、このような時代的な限界もあった。ユリウス暦の制定後、約1500年が経過した1582年にグレゴリオ暦への改暦が行われたのはこのためである。
キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日を定める基準としても使われるようになった。 ただし、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、新約聖書において太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されている ため、復活祭の期日は、太陽暦であるユリウス暦のみでは決定できず、季節(太陽年)と月齢(太陰月)の双方に合わせる作業が必要となった。第一次ニケーア公会議は325年に、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の天文学的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。カトリック教会はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定 して改暦することとなった。これがグレゴリオ暦である。1582年2月24日、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、西ヨーロッパでも、プロテスタント地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、プロテスタント地域でも徐々に広まっていき、最後まで残ったイギリスが1752年に採用したことで、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に正教会圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。またグレゴリオ暦の記事を参照)
紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年ごとに1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した。紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。
紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元16年までの閏年の置かれ方は次のとおりである。
紀元9年以降は以下のとおり、規則正しく運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。
西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。
1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる。
現代日本語では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、古代ローマで使われていたローマ暦ではローマ神話やラテン語の数詞に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語・フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。
尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、カリグラは9月を Germanicus 、クラウディウスは3月を Claudius、ネロは4月を Neroneus 。ドミティアヌスは10月を Domitianus と改名した。9月についてはアントニヌス・ピウスが Antoninus と改名したほか、タキトゥスが Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。コンモドゥスに至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。
13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1か月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。
この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)。
そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。
8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。
現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月・5月・7月・10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである。(ローマ暦を参照)
ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。
サクロボスコの見解は3世紀のケンソリヌス(英語版)や5世紀のマクロビウスとも食い違い、またユリウス暦初期のマルクス・テレンティウス・ウァロによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う。
改暦直前のローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス暦でも踏襲した。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトのコプト暦では8月29日に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた。ビザンチン暦はインディクティオに由来して9月1日に始まる。
中世のカレンダーはローマ人がしていたようにそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として1月から12月を表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国は1月1日を「元日」と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日・3月25日、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した。
2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す。
現代の西方教会はグレゴリオ暦を使用している。例外として、東方教会に分類されるがローマ教皇の教導下にある東方典礼カトリック教会の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある。
正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく、修正ユリウス暦と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある。
20・21世紀ではユリウス暦はグレゴリオ暦より概ね13日遅れとなるため、ユリウス暦を使用する教会では、日付で固定される祭日は13日遅れで祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20・21世紀では概ねグレゴリオ暦の1月7日に相当するため、グレゴリオ暦1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる。ただし復活大祭(パスハ)の計算のみは、フィンランド正教会とエストニア正教会を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている。
前項の通り、現在でも一部ではユリウス暦を使用している。グレゴリオ暦との差は以下の表の通りである。
正確に365.25日を1年とする時間単位をユリウス年といい、天文学で広く用いられる。例えば1光年は、真空中の光が1ユリウス年に進む距離である。 | [
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"text": "現代日本語では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、古代ローマで使われていたローマ暦ではローマ神話やラテン語の数詞に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語・フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。",
"title": "月名"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、カリグラは9月を Germanicus 、クラウディウスは3月を Claudius、ネロは4月を Neroneus 。ドミティアヌスは10月を Domitianus と改名した。9月についてはアントニヌス・ピウスが Antoninus と改名したほか、タキトゥスが Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。コンモドゥスに至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。",
"title": "月名"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1か月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。",
"title": "各月の長さ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)。",
"title": "各月の長さ"
},
{
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"text": "そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。",
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},
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"text": "8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。",
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},
{
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"text": "現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月・5月・7月・10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである。(ローマ暦を参照)",
"title": "各月の長さ"
},
{
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"text": "ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。",
"title": "各月の長さ"
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{
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"text": "サクロボスコの見解は3世紀のケンソリヌス(英語版)や5世紀のマクロビウスとも食い違い、またユリウス暦初期のマルクス・テレンティウス・ウァロによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う。",
"title": "各月の長さ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "改暦直前のローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス暦でも踏襲した。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトのコプト暦では8月29日に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた。ビザンチン暦はインディクティオに由来して9月1日に始まる。",
"title": "新年初日"
},
{
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"tag": "p",
"text": "中世のカレンダーはローマ人がしていたようにそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として1月から12月を表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国は1月1日を「元日」と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日・3月25日、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した。",
"title": "新年初日"
},
{
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"text": "2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す。",
"title": "新年初日"
},
{
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"tag": "p",
"text": "現代の西方教会はグレゴリオ暦を使用している。例外として、東方教会に分類されるがローマ教皇の教導下にある東方典礼カトリック教会の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある。",
"title": "ユリウス暦を使用する正教会"
},
{
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"tag": "p",
"text": "正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく、修正ユリウス暦と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある。",
"title": "ユリウス暦を使用する正教会"
},
{
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"text": "20・21世紀ではユリウス暦はグレゴリオ暦より概ね13日遅れとなるため、ユリウス暦を使用する教会では、日付で固定される祭日は13日遅れで祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20・21世紀では概ねグレゴリオ暦の1月7日に相当するため、グレゴリオ暦1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる。ただし復活大祭(パスハ)の計算のみは、フィンランド正教会とエストニア正教会を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている。",
"title": "ユリウス暦を使用する正教会"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "前項の通り、現在でも一部ではユリウス暦を使用している。グレゴリオ暦との差は以下の表の通りである。",
"title": "グレゴリオ暦との差"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "正確に365.25日を1年とする時間単位をユリウス年といい、天文学で広く用いられる。例えば1光年は、真空中の光が1ユリウス年に進む距離である。",
"title": "ユリウス年"
}
] | ユリウス暦は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日 から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。 | {| class="wikitable plainrowheaders" style="float: right"
! 暦法 !! 今日の日付([[協定世界時]])
|-
! [[グレゴリオ暦]]
| {{#time: Y年m月d日 }}
|-
! ユリウス暦
| {{#time: Y年m月d日 |{{JULIANDAY.TIMESTAMP|{{CURRENTJULIANDAY}}-13}}}}
|}
'''ユリウス暦'''(ユリウスれき、{{Lang-la-short|Calendarium Iulianum}}、{{Lang-it-short|Calendario giuliano}}、{{Lang-en-short|Julian calendar}})は、[[共和政ローマ]]の[[最高神祇官]]・[[独裁官]]・[[執政官]][[ガイウス・ユリウス・カエサル]]により[[紀元前45年]]1月1日<ref group="注釈">循環論法となってしまうため、参考として他の暦法の期日を示す。同日は[[中国暦]]初元3年11月29日、[[ユダヤ暦]]3716年4月29日である。計算はhttp://hosi.orgによる。</ref> から実施された、1年を365.25日とする[[太陽暦]]である。もともとは共和政ローマおよび[[帝政ローマ]]の暦であるが、[[キリスト教]]の多くの宗派が採用し、[[西ローマ帝国]]滅亡後も[[ヨーロッパ]]を中心に広く使用された。
[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世]]が[[1582年]][[10月4日]]の翌日から、ユリウス暦に換えて[[太陽年]]との誤差を修正した[[グレゴリオ暦]]を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。
なお、天文学などで日数計算に用いられる[[ユリウス通日]]があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。
== 概要 ==
平均太陽年を365.25日とする[[太陽暦]]の一種であり、1年を365日とする年と4年に1回366日とする年を設けた。
365(日)+ 1/4(日) = 365.25(日) …… 1年間の平均日数(平均年)
月は従来の[[ローマ暦]]のものを基本的に踏襲し、月ごとの日数を調整して合計を平年の365日または閏年の366日とした。[[閏日]]が加えられる[[閏年]]は4年ごとに1回設けられ、ローマ暦時代の[[閏月]]と同じく2月に挿入された。
なお、ユリウス暦は「[[紀年法]]」ではなく、「[[暦法]]」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、[[4世紀|4]]、[[5世紀]]頃、[[アレクサンドリア]]の[[キリスト教徒]]が用いた[[ディオクレティアヌス紀元]](皇帝[[ディオクレティアヌス]]の即位(284年)を紀元とする)、それを[[6世紀]]の[[ローマ]]の神学者[[ディオニュシウス・エクシグウス]]が[[525年]]頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる[[西暦]])がある。キリスト紀元は[[10世紀]]頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦における置閏法の成立は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている<ref>改暦勅書の第9節</ref>。
制定の経緯については、[[ローマ暦#末期のローマ暦]]を参照のこと。
== ユリウス暦の精度 ==
ユリウス暦では、1年は365.25日 = 31 557 600 秒である。これに対して、実際の[[太陽年]]は、2015年時点で、31 556 925.168秒 = 約365.242 189 44日である。その差は、674.832 秒 = 11分14.832である。86 400 秒( = 1日)/674.832 秒 = 128.032 であるから、約128年で1日のずれが、約1280年で10日ものずれが生ずることになる。カエサルの活躍した古代においては格段に正確な暦ではあったが、このような時代的な限界もあった。ユリウス暦の制定後、約1500年が経過した1582年に[[グレゴリオ暦]]への[[改暦]]が行われたのはこのためである。
== キリスト教への採用 ==
キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日を定める基準としても使われるようになった。
ただし、[[イエス・キリスト]]の処刑と復活の記事は、[[新約聖書]]において[[太陰太陽暦]]である[[ユダヤ暦]]に基づいて記述されている<ref group="注釈">イエスの処刑は、ユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。</ref> ため、[[復活祭]]の期日は、太陽暦であるユリウス暦のみでは決定できず、季節(太陽年)と[[月齢]](太陰月)の[[コンプトゥス|双方に合わせる作業]]が必要となった。[[第1ニカイア公会議|第一次ニケーア公会議]]は[[325年]]に、「'''[[春分]]日であるユリウス暦[[3月21日]]'''の後の最初の[[満月]]の次の[[日曜日]]」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の[[天文学]]的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。[[カトリック教会]]はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定<ref group="注釈">改暦勅書(Inter gravissimas)6節および7節。"Quo igitur vernum aequinoctium, quod a patribus concilii Niaeni ad XII Kalendas Aprilis fuit constitutum, ad eamdem sedem restituatur..."いかにして(天文学的)春分をニケーア公会議で「固定」された3月21日に近づけるかが問題とされている。</ref> して改暦することとなった。これが[[グレゴリオ暦]]である。1582年2月24日<ref group="注釈">改暦勅書原文は1581年(anno Incarnationis dominicae MDLXXXI)と発布日を記す。記事で詳述するように中世以降のユリウス暦の新年は1月1日とは限らなかった。当時のローマ教皇庁自体、3月25日をユリウス暦新年とする暦法を採用していたため、2月24日は前年となる。</ref>、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、[[西ヨーロッパ]]でも、[[プロテスタント]]地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、プロテスタント地域でも徐々に広まっていき、最後まで残った[[イギリス]]が1752年に採用したことで、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に[[正教会]]圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。また[[グレゴリオ暦]]の記事を参照)
== 運用 ==
紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年ごとに1回ずつ[[閏日]]が挿入された。この誤りを修正するため、[[ローマ皇帝]][[アウグストゥス]]は、[[紀元前6年]]から[[7年|紀元後7年]]までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した<ref group="注釈">紀元前45年から紀元前5年までは40年である。したがって、4年に1度の閏年であれば、10回の閏年を入れるべきであった。しかし、誤って閏年を3年に1度置いたので、40÷3 = 13回の閏年を入れてしまった。そのため、13 - 10 = 3回分の閏年を省けばよいことになる。</ref>。[[紀元]][[8年]]からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。
紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。[[1999年]]にローマ暦と[[エジプト暦]]の両方の日付が記載された[[紀元前24年]]当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元[[16年]]までの閏年の置かれ方は次のとおりである。
:紀元前44年・紀元前41年・紀元前38年・紀元前35年・紀元前32年・紀元前29年・紀元前26年・紀元前23年・紀元前20年・紀元前17年・紀元前14年・紀元前11年・紀元前8年・(この間は閏年を置かず)・紀元8年・紀元12年・紀元16年(以後、4年ごと)。
=== 紀元9年以降 ===
紀元9年以降は以下のとおり、規則正しく運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+紀元9年以降のユリウス暦
!!!style="background-color:#ffdead"|1月!!style="background-color:#ffdead"|2月!!style="background-color:#ffdead"|3月!!style="background-color:#ffdead"|4月!!style="background-color:#ffdead"|5月!!style="background-color:#ffdead"|6月!!style="background-color:#ffdead"|7月!!style="background-color:#ffdead"|8月!!style="background-color:#ffdead"|9月!!style="background-color:#ffdead"|10月!!style="background-color:#ffdead"|11月!!style="background-color:#ffdead"|12月!!style="background-color:#FFA975"|年間
|-
|style="background-color:#FFFF75"|'''(1)平年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|28日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''365日'''
|-
|style="background-color:#FFFF75"|'''(2)平年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|28日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''365日'''
|-
|style="background-color:#FFFF75"|'''(3)平年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|28日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''365日'''
|-
|style="background-color:#DDFF75"|'''(4)閏年'''||style="text-align:right"|31日||'''29日'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#F1FFC8"|'''366日'''
|}
西暦年が4で割り切れる年を[[閏年]]とし、その年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。
1月は季節でいうと[[冬至]]を過ぎた頃になる。
== 月名 ==
[[日本語|現代日本語]]では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、[[古代ローマ]]で使われていた[[ローマ暦]]では[[ローマ神話]]やラテン語の[[数詞]]に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。[[紀元前44年]]から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり<ref>{{Cite web|title=july {{!}} Search Online Etymology Dictionary|url=https://www.etymonline.com/search?q=July|website=www.etymonline.com|accessdate=2019-12-07}}</ref>、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった<ref>{{Cite web|title=august {{!}} Origin and meaning of august by Online Etymology Dictionary|url=https://www.etymonline.com/word/august|website=www.etymonline.com|accessdate=2019-12-07|language=en}}</ref>。その名称は語形変化を被りながらも現代でも[[英語]]・[[フランス語]]などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。
尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、[[カリグラ]]は9月を Germanicus <ref group="注釈">「ゲルマニクス」はカリギュラの本名の最後の部分の名前であり、かつ自分の父([[ゲルマニクス]])の最初の部分の名前でもある。</ref>、[[クラウディウス]]は3月を Claudius、[[ネロ]]は4月を Neroneus <ref group="注釈">[[ユリウス=クラウディウス朝]]の5人の皇帝のうち、自分の人名を月の名前に付けようとしなかったのは[[ティベリウス]]だけである。</ref>。[[ドミティアヌス]]は10月を Domitianus と改名した。9月については[[アントニヌス・ピウス]]が Antoninus と改名したほか、[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]が Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。[[コンモドゥス]]に至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。
<!--要出典範囲をコメントアウト(ノート参照)
{{要出典範囲|もっとも、Julius と、Augustus が本当に人名由来なのか、異論がある。そもそも、他の6つの固有名詞が神名由来なのに、たとえ神格化された人間だとしても、この2つの月の名称だけ人名由来なのは、いかにも据わりが悪い。この2つも神名由来だと考えるのが自然である。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|「Julius」は氏族名「Jovilios」の短縮形と考えられており、この「Juvilios」氏族はローマの最高神「[[ユーピテル]]」に関連する一族、もしくは「ユーピテル」の子孫とされているのである。つまり「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとも考えられるからである。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|具体的には、次の通りとなる。
* 1月 '''Jānuārius''' (ヤーヌアーリウス、物事の初めと終わりを司る境界と時間の神ヤーヌスの月)
* 2月 '''Februārius''' (フェブルアーリウス、浄罪と贖罪の神フェブルスの月)
* 3月 '''Martius''' (マルティウス、軍神マルスの月)
* 4月 '''Aprīlis''' (アプリーリス、美の女神ウェヌスの月)
* 5月 '''Māius''' (マーイウス、豊穣の女神マイアの月)
* 6月 '''Jūnius''' (ユーニウス、結婚生活を守護する女神ユーノーの月)
* 7月 '''Julius''' (ユリウス、主神ユーピテルの月)
* 8月 '''Augustus''' (アウグストゥス、究極の神の月)
|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|「Jānuārius」(1月)の境界と時間の神「[[ヤーヌス]]」と「Februārius」(2月)の浄罪と贖罪の神「フェブルス」は、概念の上で不可分な、組となっている。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|「Martius」(3月)は軍神「[[マルス]]」=ギリシア名「[[アレース]]」を指し、「Aprīlis」(4月)は美の女神「[[ウェヌス]]」=ギリシア名「[[アプロディーテー]]」を指し、[[ギリシア神話]]では「アレース」と「アプロディーテー」は愛人関係であり、組となっている。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|であれば、「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとすれば、ユーピテルの妻「[[ユーノー]]」を指す「Jūnius」(6月)と組になり、また綴りや発音も語呂が合うことになる。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|「Augustus」(威厳者・尊厳者)も、人間「[[アウグストゥス|オクタウィアヌス・アウグストゥス]]」のことではなく、他の7柱の神々を統合(習合)した「究極の神」「未知なる神」「偉大なる神」を指す尊称とも考えられる。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|であれば、余った「Māius」(5月)こと豊穣の女神「[[マイア]]」は、「Augustus」(8月)こと究極の神「アウグストゥス」と対になる存在と考えられるわけである。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|そして、この「7柱+1」は「[[七曜]]+1」と対応関係にあると考えるのが自然である。むしろ、「七曜+1」に合わせて、「Julius」と、「Augustus」が導入されたとも考えられる。|date=2019年12月}}
{{要出典範囲|なお、古代ローマでは、一週間を8日(7日+「市の日」)とする観念があったとする説がある。|date=2019年12月}}
{|class="wikitable"
|-
!月名!!対応する神!!対応する七曜・元素
|-
|Jānuārius(1月)||ヤーヌス||日
|-
|Februārius(2月)||フェブルス||月
|-
|Martius(3月)||マルス||水
|-
|Aprīlis(4月)||ウェヌス||火
|-
|Māius(5月)||マイア||土
|-
|Jūnius(6月)||ユーノー||金
|-
|Julius(7月)||ユーピテル||木
|-
|Augustus(8月)||アウグストゥス||空
|}
{{要出典範囲|だからこそ、他の皇帝による恣意的な人名由来の名称と違って、この2つの名称だけは現在まで存続していると考えられる。そして、9月から12月までが神名や人名に拠らず、[[ラテン語]]の数詞由来である理由も、上記の4組8柱で完成形だからと考えられるのである。|date=2019年12月}}
-->
== 各月の長さ ==
=== ヨハネス・ド・サクロボスコ説 ===
[[13世紀]]の学者[[ヨハネス・ド・サクロボスコ]]によれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1か月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
!style="background-color:#ffdead"|1月!!style="background-color:#ffdead"|2月!!style="background-color:#ffdead"|3月!!style="background-color:#ffdead"|4月!!style="background-color:#ffdead"|5月!!style="background-color:#ffdead"|6月!!style="background-color:#ffdead"|7月!!style="background-color:#ffdead"|8月!!style="background-color:#ffdead"|9月!!style="background-color:#ffdead"|10月!!style="background-color:#ffdead"|11月!!style="background-color:#ffdead"|12月!!style="background-color:#FFA975"|合計
|-
|style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''354日'''
|}
この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+カエサルが制定した各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
!!!style="background-color:#ffdead"|1月!!style="background-color:#ffdead"|2月!!style="background-color:#ffdead"|3月!!style="background-color:#ffdead"|4月!!style="background-color:#ffdead"|5月!!style="background-color:#ffdead"|6月!!style="background-color:#ffdead"|7月!!style="background-color:#ffdead"|8月!!style="background-color:#ffdead"|9月!!style="background-color:#ffdead"|10月!!style="background-color:#ffdead"|11月!!style="background-color:#ffdead"|12月!!style="background-color:#FFA975"|合計
|-
|style="background-color:#FFFF75"|'''平年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''365日'''
|-
|style="background-color:#DDFF75"|'''閏年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|('''30日''')||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''366日'''
|}
そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+アウグストゥスが制定した各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
!!!style="background-color:#ffdead"|1月!!style="background-color:#ffdead"|2月!!style="background-color:#ffdead"|3月!!style="background-color:#ffdead"|4月!!style="background-color:#ffdead"|5月!!style="background-color:#ffdead"|6月!!style="background-color:#ffdead"|7月!!style="background-color:#ffdead"|8月!!style="background-color:#ffdead"|9月!!style="background-color:#ffdead"|10月!!style="background-color:#ffdead"|11月!!style="background-color:#ffdead"|12月!!style="background-color:#FFA975"|合計
|-
|style="background-color:#FFFF75"|'''平年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|28日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''365日'''
|-
|style="background-color:#DDFF75"|'''閏年'''||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|('''29日''')||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|30日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''366日'''
|}
8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。
=== 実際 ===
現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており<ref group="注釈">詳細な証拠については、[[:en:Julian calendar]]を参照</ref>、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月・5月・7月・10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである<ref group="注釈">なお、イードゥースのほかにもノーナエという特別な名で呼ばれた日付があり、これを使っても月の日数を推定できる。</ref>。([[ローマ暦]]を参照)
ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+ローマ暦末期の各月の日数
!style="background-color:#ffdead"|1月!!style="background-color:#ffdead"|2月!!style="background-color:#ffdead"|3月!!style="background-color:#ffdead"|4月!!style="background-color:#ffdead"|5月!!style="background-color:#ffdead"|6月!!style="background-color:#ffdead"|7月!!style="background-color:#ffdead"|8月!!style="background-color:#ffdead"|9月!!style="background-color:#ffdead"|10月!!style="background-color:#ffdead"|11月!!style="background-color:#ffdead"|12月!!style="background-color:#FFA975"|合計
|-
|style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|28日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|31日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right"|29日||style="text-align:right" style="background-color:#FFFFC8"|'''355日'''
|}
サクロボスコの見解は[[3世紀]]の{{仮リンク|ケンソリヌス|en|Censorinus}}や[[5世紀]]の[[マクロビウス]]とも食い違い、またユリウス暦初期の[[マルクス・テレンティウス・ウァロ]]によって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年に[[エジプト]]で発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う<ref group="注釈">[[:en:Julian calendar]]によれば、紀元前12年より前、祭事の日付による逆算ですでに2月の日数が28日であった証拠があるという。</ref>。
== 新年初日 ==
<!--
==New Year's Day==
-->
改暦直前の[[ローマ暦]]は1月1日が新年初日で、これはユリウス暦でも踏襲した。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトの[[コプト暦]]では[[8月29日]]に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日[[9月23日]]に新年を合わせた。[[世界創造紀元|ビザンチン暦]]は[[ローマ暦#インディクティオ|インディクティオ]]に由来して[[9月1日]]に始まる。
<!--
The Roman calendar began the year on [[1 January]], and this remained the start of the year after the Julian reform. However, even after local calendars were aligned to the Julian calendar, they started the new year on different dates. The [[Alexandrian calendar]] in Egypt started on [[29 August]]([[30 August]] after an Alexandrian leap year). Several calendars were aligned to start on the birthday of Augustus, [[23 September]]. The indiction caused the [[Byzantine Empire|Byzantine]] year to begin on [[1 September]], which is still used in the [[Eastern Orthodox Church]] for the beginning of the [[liturgical year]].
-->
中世のカレンダーはローマ人がしていたようにそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として1月から12月を表示し続けたため、すべての[[西ヨーロッパ]]諸国は1月1日を「[[元日]]」と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは[[12月25日]]・[[3月25日]]、あるいはフランスのように[[復活祭]]に新しい年を開始した。
<!--
During the [[Middle Ages]] [[1 January]] retained the name ''[[New Year's Day]]'' (or an equivalent name) in all [[Western Europe]]an countries(affiliated with the [[Roman Catholic Church]]), since the medieval calendar continued to display the months from January to December(in twelve columns containing 28 to 31 days each), just as the Romans had. However, most of those countries began their numbered year on [[25 December]](the Nativity of [[Jesus]]), [[25 March]](the [[Annunciation|Incarnation of Jesus]]), or even [[Easter]], as in [[France]](see the [[Liturgical year]] article for more details).
-->
2、3のイタリア[[都市国家]]を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として[[1月1日]]を採用した年を示す。
<!--
Most Western European countries, except for a few [[Italy|Italian]] states, shifted the first day of their numbered year to [[1 January]] while they were still using the Julian calendar, ''before'' they adopted the Gregorian calendar, many during the [[sixteenth century]]. The following table shows the years in which various countries adopted [[1 January]] as the start of the year.
-->
{| class="wikitable" align="center"
|-
! 国 !! [[1月1日]]を採用した年<ref>John J. Bond, [https://books.google.co.jp/books?id=F3mcB6GnOtIC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja#PPA91,M1 "Commencement of the Year"], ''Handy-book of rules and tables for verifying dates with the Christian era'', (London: 1875), 91–101.</ref><ref>Mike Spathaky ''[http://www.genfair.com/dates.htm Old Style and New Style Dates and the change to the Gregorian Calendar: A summary for genealogists]''</ref> !! 改暦した年
|-
| [[ヴェネツィア共和国]] || 1522 || 1582
|-
| [[神聖ローマ帝国]]<ref>The source has Germany, whose current area during the sixteenth century was a major part of the Holy Roman Empire, a religiously divided confederation. The source is unclear as to whether all or only parts of the country made the change. In general, Roman Catholic countries made the change a few decades before Protestant countries did.</ref>|| 1544 || 1582
|-
| [[スペイン]]、[[ポルトガル]] || 1556 || 1582
|-
| [[プロイセン]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]|| 1559 || 1700
|-
| [[スウェーデン]] || 1559 || 1753<ref>Sweden's conversion is complicated and took much of the first half of the 18th century. See [[Swedish calendar]].</ref>
|-
| [[フランス]] || 1564 || 1582
|-
|[[南ネーデルラント]] || 1576<ref>Per decree of 16 June 1575. Hermann Grotefend, "[http://www.manuscripta-mediaevalia.de/gaeste/grotefend/g_o.htm#Osteranfang Osteranfang]" (Easter beginning), ''[http://www.manuscripta-mediaevalia.de/gaeste/grotefend/grotefend.htm Zeitrechnung de Deutschen Mittelalters und der Neuzeit]'' (Chronology of the German Middle Ages and modern times) (1891–1898)</ref> || 1582
|-
| [[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]] || 1579 || 1760
|-
| [[ネーデルラント連邦共和国]]のうち<br />[[ホラント州]]、[[ゼーラント州]] || 1583 || 1582
|-
| [[ホラント州]]と[[ゼーラント州]]を除く<br />[[ネーデルラント連邦共和国]] || 1583 || 1700
|-
| [[スコットランド]] || 1600 || 1752
|-
| [[ロシア]] || 1700 <!--(not 1725)--> || 1918
|-
| [[トスカーナ州|トスカーナ]] || 1721 || 1750
|-
| スコットランドを除く<br />[[イギリス帝国|大英帝国]] || 1752 || 1752<ref>1751 in England only lasted from 25 March to 31 December. The following dates 1 January to 24 March which would have concluded 1751 became part of 1752 when the beginning of the numbered year was changed from 25 March to 1 January.</ref>
|-
| [[セルビア]] || ? || 1918
|}
== ユリウス暦を使用する正教会 ==
{{See also|修正ユリウス暦}}
現代の[[西方教会]]は[[グレゴリオ暦]]を使用している。例外として、東方教会に分類されるが[[ローマ教皇]]の教導下にある[[東方典礼カトリック教会]]の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある<ref>"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p353, ISBN 9780631232032</ref>。
[[正教会]]には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく<ref name="niko14">[http://www.geocities.jp/ynicojp2/what-nikolaido.html#14 質問: クリスマスは12月25日?ロシアでは1月7日に祝うと聞いたのですが ]</ref>、[[修正ユリウス暦]]と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある<ref name="ow">[http://orthodoxwiki.org/Revised_Julian_Calendar Revised Julian Calendar - OrthodoxWiki]</ref>。
20・21世紀ではユリウス暦はグレゴリオ暦より概ね13日遅れとなるため、ユリウス暦を使用する教会では、日付で固定される祭日は13日遅れで祝われる事になる。たとえば[[クリスマス|降誕祭(クリスマス)]]については、'''ユリウス暦'''の12月25日は20・21世紀では概ねグレゴリオ暦の1月7日に相当するため、グレゴリオ暦1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる<ref name="niko14" />。ただし[[復活大祭|復活大祭(パスハ)]]の計算のみは、[[フィンランド正教会]]と[[エストニア正教会]]を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている<ref name="ow" />。
{| class="wikitable" style="width:80%"
|-
| style="width:20%; text-align:center; background-color:#ddf" | 使用している暦
| style="width:80%; text-align:center; background-color:#ddf" | 教会
|-
| style="text-align:center" | ユリウス暦
| style="text-align:left" | [[エルサレム総主教庁]]、[[アトス山]]([[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]管掌だが、ユリウス暦を使用)、[[グルジア正教会]]、[[ロシア正教会]]、[[セルビア正教会]]、[[日本ハリストス正教会]]、[[ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)]]、各地の[[旧暦派]]正教会
|-
| style="text-align:center" | [[修正ユリウス暦]]
| style="text-align:left" | [[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]、[[アレクサンドリア総主教庁]]、[[アンティオキア総主教庁]]、[[ギリシャ正教会]]、[[キプロス正教会]]、[[ルーマニア正教会]]、[[ポーランド正教会]]、[[ブルガリア正教会]]、[[アメリカ正教会]]
|-
| style="text-align:center" | [[グレゴリオ暦]]
| style="text-align:left" | [[フィンランド正教会]]、[[エストニア正教会]]
|}
== グレゴリオ暦との差 ==
前項の通り、現在でも一部ではユリウス暦を使用している。グレゴリオ暦との差は以下の表の通りである。
{| class="wikitable" align="center"
|-
! ユリウス暦 !! グレゴリオ暦 !! 差 !! 0時([[協定世界時|協定世界時:UTC]])<ref group="注釈">[[日本標準時|日本標準時(JST)]]では同日の午前9時</ref> の<br>[[ユリウス通日]]
|-
| 1582年10月4日 || <center>-</center> || <center>-</center> || 2 299 159.5
|-
| 1582年10月5日 || 1582年10月15日 || 10日 || 2 299 160.5
|-
| 1582年10月6日〜<br>1700年2月18日 || 1582年10月16日〜<br>1700年2月28日 || 10日 || 2 299 161.5〜<br>2 342 030.5
|-
| 1700年2月19日〜<br>2月29日 ||1700年3月1日〜<br>3月11日 || <ref name="aimaisa" group="注釈">この期間は「ユリウス暦とグレゴリオ暦との差は○日」と一概には言えない。例えば、ユリウス暦1700年2月19日はグレゴリオ暦では1700年3月1日だが、1700年2月19日と1700年3月1日との差は、ユリウス暦では11日だが、グレゴリオ暦では10日である。</ref> || 2 342 031.5〜<br>2 342 041.5
|-
| 1700年3月1日〜<br>1800年2月17日 || 1700年3月12日〜<br>1800年2月28日 || 11日 || 2 342 042.5〜<br>2 378 554.5
|-
| 1800年2月18日〜<br>2月29日 ||1800年3月1日〜<br>3月12日 || <ref name="aimaisa" group="注釈" /> || 2 378 555.5〜<br>2 378 566.5
|-
| 1800年3月1日〜<br>1900年2月16日 || 1800年3月13日〜<br>1900年2月28日 || 12日 || 2 378 567.5〜<br>2 415 078.5
|-
| 1900年2月17日〜<br>2月29日 ||1900年3月1日〜<br>3月13日 || <ref name="aimaisa" group="注釈" /> || 2 415 079.5〜<br>2 415 091.5
|-
| '''1900年3月1日〜<br>2100年2月15日''' || '''1900年3月14日〜<br>2100年2月28日''' || '''13日''' || '''2 415 092.5〜<br>2 488 127.5'''
|-
| 2100年2月16日〜<br>2月29日 ||2100年3月1日〜<br>3月14日 || <ref name="aimaisa" group="注釈" /> || 2 488 128.5〜<br>2 488 141.5
|-
| 2100年3月1日〜<br>2200年2月14日 || 2100年3月15日〜<br>2200年2月28日 || 14日 || 2 488 142.5〜<br>2 524 651.5
|-
| 2200年2月15日〜<br>2月29日 ||2200年3月1日〜<br>3月15日 || <ref name="aimaisa" group="注釈" /> || 2 524 652.5〜<br>2 524 666.5
|-
| 2200年3月1日〜<br>2300年2月13日 || 2200年3月16日〜<br>2300年2月28日 || 15日 || 2 524 667.5〜<br>2 561 175.5
|}
== ユリウス年 ==
{{main|ユリウス年}}
正確に365.25日を1年とする[[時間]][[単位]]を[[ユリウス年]]といい、[[天文学]]で広く用いられる。例えば1[[光年]]は、真空中の[[光]]が1[[ユリウス年]]に進む[[距離]]である。
* 1 ユリウス年 = 365.25日 × 86 400 秒 = 31 557 600 秒
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|3|
* [[エパクト]]
* [[グレゴリオ暦]]
* [[先発グレゴリオ暦]]
* [[コンプトゥス]]
* [[修正ユリウス暦]]([[正教会]])
* [[ユリウス年]]
* [[ユリウス通日]]
* [[ローマ暦]]
* [[紀年法]]
* [[新暦#旧暦から新暦への変更に伴う日付の変更|新暦と旧暦の日付]]
}}
{{暦}}
{{Time topics}}
{{Chronology}}
{{Time measurement and standards}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆりうすれき}}
[[Category:古代ローマ]]
[[Category:太陽暦]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:ガイウス・ユリウス・カエサル]]
[[Category:教会暦]]
[[Category:エポニム]] | 2003-03-03T14:40:55Z | 2023-11-24T23:05:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6 |
3,319 | サクランボ | サクランボまたは桜桃(おうとう、英:Cherry)は、バラ科サクラ属サクラ亜属の果樹であるミザクラ(実桜)類の果実。食用され、旬は初夏の6 - 7月ごろ。サクラの果実の中でも、セイヨウミザクラ(西洋実桜)を通称サクランボとよんでいる。
木を桜桃、果実をサクランボと呼び分ける場合もある。生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボとよばれる。サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」の「の」が撥音便となり、語末が短母音化したと考えられている。
花を鑑賞する品種のサクラでは、実は大きくならない。果樹であるミザクラには東洋系とヨーロッパ系とがあり、日本で栽培される大半はヨーロッパ系である。品種数は非常に多く1000種を超えるとされている。
果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1つある核果類に分類される。品種によって黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもある。生食用にされるのは甘果桜桃の果実であり、日本で食されるサクランボもこれに属する。その他調理用には酸味が強い酸果桜桃の果実が使われる。
ほとんどの甘果桜桃は自家不和合性があり、他家受粉が必要である。受粉には最低限自家不和合性遺伝子型(S遺伝子型)が異なる必要があり、異なる品種なら何でも良いというわけではない。ごくわずかだが自家結実する品種もある。一方、酸果桜桃は全ての品種に自家和合性がある。
栄養価は、ビタミンC、カリウム、葉酸が比較的多く、リンゴ酸、クエン酸、ブドウ糖、果糖なども含んでいる。
サクランボは有史以前から食べられていた。セイヨウミザクラ(甘果桜桃、Prunus avium)はイラン北部からヨーロッパ西部にかけて自生していた。また別の種であるスミミザクラ(酸果桜桃、Prunus cerasus)の原産地はアジア西部のトルコあたりである。
原産地の推定は、1世紀の古代ローマの博物学者プリニウスが著書博物誌に書いた説明に基づく。これによると、古代ローマの執政官ルクッルスが第三次ミトリダテス戦争で黒海南岸のケラソス(Kerasos、現在のトルコギレスン (Giresun) )近くに駐屯した際、サクランボの木を見つけ、ローマに持ち帰ったという。サクランボの木が属するサクラ亜属の学名Cerasusは、ケラソスのラテン語表記である。なお、逆にサクランボにちなんで町の名が付けられた可能性もある。
ただし、イギリスで青銅器時代のサクランボの種が発掘されていることから、19世紀のスイスの植物学者アルフォンス・ド・カンドル (en) は、ルクッルスがコーカサスから持ち帰ったのは、セイヨウミザクラの一栽培品種だったとの仮説を述べている。
この2品種は黒海沿岸からヨーロッパ諸国へ伝わり、特にイギリス・フランス・ドイツで普及した。名称がノルマン人によってシェリーズ (cherise) となり、イングランドに渡ってシェリー (chery) となり、英語のcherryになったといわれている。16世紀ごろから本格的に栽培されるようになり、17世紀にはアメリカ大陸に伝えられた。
一方、中国には昔から華北・華中を中心に、カラミザクラ(シナノミザクラ、支那桜桃、 Prunus pseudocerasus)がある。口に含んで食べることから一名を含桃といい、漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦5月)の条に「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」との記述がある。江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されている。これは、材が家具、彫刻などに使われる。暖地桜桃ともよばれる。「桜桃」という名称は中国から伝えられたものである。
セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる。その後、北海道や山形県を初めとする東北地方に広がり、各地で改良が重ねられた。
大別すると果肉が白い白肉種と、赤い赤肉種がある。果肉は乳白色、クリーム色、黄色、赤色などあり、サクランボの品種によって色は異なる。日本で栽培されているサクランボは、そのほとんどが白肉種で、甘さと酸味を併せ持つ爽やかな味わいが特徴である。アメリカ合衆国やイタリアの栽培品種は赤肉種が多く、酸味は少なく甘味が強いのが特徴である。アメリカ合衆国産で日本へ輸入される大粒で色が濃いサクランボをまとめて「アメリカンチェリー」とよんでいて、「ビング」や「レーニヤ」といった品種がある。
世界の2005年のサクランボ(セイヨウミザクラ)生産量は、1,900キロトンである。その主な生産国と生産割合は次の通り。
サクランボの生産地としては山形県が全国の収穫量の7割を占めており(その中でも山形県東根市は生産量日本一)、それに次ぐ北海道・青森県・山梨県を合わせた上位県で全国の9割以上を生産しているが、2014年度統計資料によると、他にも秋田県、福島県、群馬県、長野県で年産100トン以上、その他にも小規模の産地が点在し、20以上の都道府県で収穫実績がある。なお、累年統計をとっている都道府県は2016年発表資料現在、山形県と北海道のみであり、2010年までは青森県、2006年から2010年にかけては山梨県も統計を発表していた。
(出典:農林水産省統計部:農林水産統計データ2006年版)*ただし、2006年版は隔年統計の都道府県を含んでいない。
実は食用に供される。果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。
加工品としては、実を砂糖漬け(もしくはシロップ漬け)にして水分を飛ばしたドレンチェリーがある。洋菓子に用いられる。それとは別にドライチェリーもある。
缶詰などで販売されるシロップ漬けのものは、メロンソーダ・みつまめ・冷麦・杏仁豆腐などのトッピング、弁当の付け合せにされることがある。 | [
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"text": "サクランボまたは桜桃(おうとう、英:Cherry)は、バラ科サクラ属サクラ亜属の果樹であるミザクラ(実桜)類の果実。食用され、旬は初夏の6 - 7月ごろ。サクラの果実の中でも、セイヨウミザクラ(西洋実桜)を通称サクランボとよんでいる。",
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"text": "セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる。その後、北海道や山形県を初めとする東北地方に広がり、各地で改良が重ねられた。",
"title": "歴史"
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"text": "大別すると果肉が白い白肉種と、赤い赤肉種がある。果肉は乳白色、クリーム色、黄色、赤色などあり、サクランボの品種によって色は異なる。日本で栽培されているサクランボは、そのほとんどが白肉種で、甘さと酸味を併せ持つ爽やかな味わいが特徴である。アメリカ合衆国やイタリアの栽培品種は赤肉種が多く、酸味は少なく甘味が強いのが特徴である。アメリカ合衆国産で日本へ輸入される大粒で色が濃いサクランボをまとめて「アメリカンチェリー」とよんでいて、「ビング」や「レーニヤ」といった品種がある。",
"title": "品種"
},
{
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"text": "世界の2005年のサクランボ(セイヨウミザクラ)生産量は、1,900キロトンである。その主な生産国と生産割合は次の通り。",
"title": "産地"
},
{
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"text": "サクランボの生産地としては山形県が全国の収穫量の7割を占めており(その中でも山形県東根市は生産量日本一)、それに次ぐ北海道・青森県・山梨県を合わせた上位県で全国の9割以上を生産しているが、2014年度統計資料によると、他にも秋田県、福島県、群馬県、長野県で年産100トン以上、その他にも小規模の産地が点在し、20以上の都道府県で収穫実績がある。なお、累年統計をとっている都道府県は2016年発表資料現在、山形県と北海道のみであり、2010年までは青森県、2006年から2010年にかけては山梨県も統計を発表していた。",
"title": "産地"
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"text": "(出典:農林水産省統計部:農林水産統計データ2006年版)*ただし、2006年版は隔年統計の都道府県を含んでいない。",
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"text": "実は食用に供される。果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。",
"title": "加工品"
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"text": "加工品としては、実を砂糖漬け(もしくはシロップ漬け)にして水分を飛ばしたドレンチェリーがある。洋菓子に用いられる。それとは別にドライチェリーもある。",
"title": "加工品"
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"text": "缶詰などで販売されるシロップ漬けのものは、メロンソーダ・みつまめ・冷麦・杏仁豆腐などのトッピング、弁当の付け合せにされることがある。",
"title": "加工品"
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] | サクランボまたは桜桃(おうとう、英:Cherry)は、バラ科サクラ属サクラ亜属の果樹であるミザクラ(実桜)類の果実。食用され、旬は初夏の6 - 7月ごろ。サクラの果実の中でも、セイヨウミザクラ(西洋実桜)を通称サクランボとよんでいる。 | {{Otheruses||その他|さくらんぼ}}
[[画像:W outou4051.jpg|thumb|サクランボ(桜桃)]]
'''サクランボ'''または'''桜桃'''(おうとう)は、[[バラ科]][[サクラ属]]サクラ亜属の[[果樹]]であるミザクラ(実桜)類の[[果実]]。食用され、[[旬]]は初夏の6 - 7月ごろ{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。[[サクラ]]の果実の中でも、[[セイヨウミザクラ]](西洋実桜)を通称サクランボとよんでいる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
== 概要 ==
木を桜桃、果実をサクランボと呼び分ける場合もある。生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボとよばれる。サクランボは、[[サクラ|桜]]の実という意味の「桜の坊」の「の」が[[撥音便]]となり、語末が短母音化したと考えられている。
花を鑑賞する品種のサクラでは、実は大きくならない。果樹であるミザクラには東洋系とヨーロッパ系とがあり、日本で栽培される大半はヨーロッパ系である。品種数は非常に多く1000種を超えるとされている。
果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に[[種子]]が1つある[[核果]]類に分類される。品種によって黄白色や[[葡萄]]の[[巨峰]]のように赤黒い色で紫がかったものもある。生食用にされるのは甘果桜桃の果実であり、日本で食されるサクランボもこれに属する。その他調理用には酸味が強い酸果桜桃の果実が使われる。
ほとんどの甘果桜桃は[[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]]があり、他家[[受粉]]が必要である。受粉には最低限自家不和合性遺伝子型(S遺伝子型)が異なる必要があり、異なる品種なら何でも良いというわけではない。ごくわずかだが自家結実する品種もある。一方、酸果桜桃は全ての品種に自家和合性がある。
栄養価は、[[ビタミンC]]、[[カリウム]]、[[葉酸]]が比較的多く、[[リンゴ酸]]、[[クエン酸]]、[[ブドウ糖]]、[[果糖]]なども含んでいる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
== 歴史 ==
サクランボは有史以前から食べられていた。[[セイヨウミザクラ]](甘果桜桃、''Prunus avium'')は[[イラン]]北部からヨーロッパ西部にかけて自生していた。また別の種である[[スミミザクラ]](酸果桜桃、''Prunus cerasus'')の原産地はアジア西部の[[トルコ]]あたりである。
原産地の推定は、[[1世紀]]の[[古代ローマ]]の博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]が著書[[博物誌]]に書いた説明に基づく<ref name=NH30>[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]] [[博物誌]] Book XV Section XXX.</ref>。これによると、古代ローマの執政官[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス|ルクッルス]]が[[第三次ミトリダテス戦争]]で[[黒海]]南岸のケラソス(Kerasos、現在の[[トルコ]][[ギレスン]]{{enlink|Giresun}})近くに駐屯した際、サクランボの木を見つけ、ローマに持ち帰ったという。サクランボの木が属する[[サクラ亜属]]の学名''Cerasus''は、ケラソスのラテン語表記である。なお、逆にサクランボにちなんで町の名が付けられた可能性もある<ref name="shokuno">[[21世紀研究会]]編著{{Citation|和書
| title = 食の世界地図
| page = 141
| year = 2004
| publisher = [[文藝春秋]]
| series = [[文春新書]]
| isbn = 4-16-660378-7 }}</ref>。
ただし、イギリスで[[青銅器時代]]のサクランボの種が発掘されていることから<ref>Huxley, A., ed. (1992). ''New RHS Dictionary of Gardening''. Macmillan ISBN 0-333-47494-5. </ref>、[[19世紀]]のスイスの植物学者アルフォンス・ド・カンドル{{enlink|Alphonse de Candolle|a=on}}は、ルクッルスがコーカサスから持ち帰ったのは、セイヨウミザクラの一栽培品種だったとの仮説を述べている<ref>Candolle, A. de (1882). ''Origine des plantes cultivées''. Geneva.</ref>。
この2品種は黒海沿岸から[[ヨーロッパ]]諸国へ伝わり、特に[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]で普及した。名称が[[ノルマン人]]によってシェリーズ (cherise) となり、[[イングランド]]に渡ってシェリー (chery) となり、[[英語]]のcherryになったといわれている<ref name=shokuno/>。[[16世紀]]ごろから本格的に栽培されるようになり、[[17世紀]]にはアメリカ大陸に伝えられた。
一方、[[中華人民共和国|中国]]には昔から[[華北]]・[[華中]]を中心に、[[カラミザクラ]](シナノミザクラ、支那桜桃、 ''Prunus pseudocerasus'')がある。口に含んで食べることから一名を含桃といい<ref>加納喜光, 鈴木千春、「[https://hdl.handle.net/10109/427 埤雅の研究・其十 釈木篇(2)]」 『茨城大学人文学部紀要』 人文コミュニケーション学科論集 Vol.1 p.178-194, {{hdl|10109/427}}</ref>、[[漢]]の時代に編纂された[[礼記]]『月令』の仲夏(旧暦5月)の条に「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」<ref>[http://ctext.org/zh 中國哲學書電子化計劃] [http://ctext.org/liji/yue-ling/zh 月令]</ref>との記述がある。[[江戸時代]]に[[清]]から[[日本]]に伝えられ、[[西日本]]でわずかに栽培されている<ref name=tsukuba/>。これは、材が家具、彫刻などに使われる。暖地桜桃ともよばれる。「桜桃」という名称は中国から伝えられたものである。
セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは[[明治]]初期で、[[ドイツ]]人の[[ガルトネル開墾条約事件|ガルトネル]]によって[[北海道]]に植えられたのが始まりだとされる<ref name=tsukuba>{{Cite web|和書
| authors=吉田 滋樹
| date= 2006
| title= サクランボ -- 梅雨の季節の爽やかな味わい
| journal= [http://www.tsukuba.ac.jp/public/students/backnumber.html つくばスチューデンツ]
| issue = 573
| page= 11
| publisher = [[筑波大学]]学生部
| url = http://www.tsukuba.ac.jp/public/students/2006pdf/students060615.pdf
| format = PDF
| accessdate = 2008-8-16
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120628154858/http://tsukuba.ac.jp/public/students/2006pdf/students060615.pdf
| archivedate = 2012-6-28
| deadlinkdate = 2015年5月23日
| ref = "つくばスチューデンツ"
}} </ref>。その後、北海道や[[山形県]]を初めとする[[東北地方]]に広がり、各地で改良が重ねられた。
== 品種 ==
[[画像:品種高砂.JPG|thumb|250px|高砂]]
[[画像:品種佐藤錦.JPG|thumb|250px|佐藤錦]]
[[画像:品種ナポレオン.JPG|thumb|250px|ナポレオン]]
[[画像:品種ダイアナブライト.JPG|thumb|250px|ダイアナブライト]]
大別すると[[果肉]]が白い白肉種と、赤い赤肉種がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。果肉は乳白色、クリーム色、黄色、赤色などあり、サクランボの品種によって色は異なる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。日本で栽培されているサクランボは、そのほとんどが白肉種で、甘さと酸味を併せ持つ爽やかな味わいが特徴である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。[[アメリカ合衆国]]や[[イタリア]]の栽培品種は赤肉種が多く、酸味は少なく甘味が強いのが特徴である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。アメリカ合衆国産で日本へ輸入される大粒で色が濃いサクランボをまとめて「[[アメリカンチェリー]]」とよんでいて、「ビング」や「レーニヤ」といった品種がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
=== 早生種 ===
; 高砂(たかさご)
: アメリカ原産。収穫時期は6月中旬。元名はロックポートピカロー。受粉樹として栽培される。
; ジャボレー
: フランス原産。酸味が強く糖度が低い。ジャム、[[果実酒]]等の加工用。
; 紅さやか
: 山形県園芸試験場において昭和54年に佐藤錦とセネカ(1924年にニューヨーク州立農業試験場で育成された品種)の交雑により育成した品種。平成3年に品種登録された。ジャムやワイン等の加工用にも用いられる。
; 香夏錦
: 「佐藤錦」と「高砂」交配種。
; 正光錦(せいこうにしき)
: [[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]の佐藤正光氏が「香夏錦(こうかにしき)」の自然交雑実生を発見して育成した。品種登録されたのは[[1987年]](昭和63年)。登録は株式会社福島天香園によって行われている。
; 日の出
; 甲斐ルビー
: 山梨県のオリジナル品種で、「紅てまり」と極早生品種の「豊錦」を掛け合わせ生まれた。2015年に品種登録されたばかりの新しい極早生の品種<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ja-minami-alps-city.or.jp/products/cherry/|title=サクランボ|publisher=JA南アルプス市|accessdate=2020-7-30}}</ref>。
=== 中生種 ===
; 佐藤錦(さとうにしき)
: 国内で最も多く生産されている品種。[[1912年]]([[大正]]元年)から16年かけ、ナポレオンと黄玉を交配してできた。名前は交配育成した山形県[[東根市]]の[[佐藤栄助 (園芸家)|佐藤栄助]]にちなんで[[1928年]]([[昭和]]3年)に命名された。大粒で果汁が多く、果肉は乳白色で、甘味と酸味のバランスが良い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
; 北光(水門)
: 明治時代に[[北海道]][[小樽市]]の農園で偶発実生として発見された。当初は農園主の名前から「藤野」と名付けられたが、のちに「北光」と命名された。
; 夕紅錦
;レーニヤ(レイニヤ)
:6月から7月ごろに旬を迎えるアメリカンチェリーの1品種で、アメリカンチェリーのほかの品種よりも果皮は明るい赤色をしている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
=== 晩生種 ===
; ナポレオン
: ヨーロッパ各国で栽培されている品種。名前は[[ナポレオン・ボナパルト]]に由来し、彼の死後にベルギー王が命名したという。収穫時期は6月下旬。佐藤錦の受粉木として一緒に栽培されることが多い。完熟した果実は通好みとされ、非常に美味しい。海外ではロイヤル・アンの名称で呼ばれる。
; 紅秀峰(べにしゅうほう)
: 収穫時期は7月上旬。果実は大きくて皮の色が濃く、果肉はクリーム色でややかため{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。糖度は高くて甘く、豊産性で非常に優秀な品種。「佐藤錦」を種子親、「天香錦」を花粉親にして交配しており、[[1991年]]に品種登録された<ref>{{Cite news|url=https://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201905/20190505_53029.html|title=<平成-令和・次代へつなぐ>赤い宝石 より進化 |newspaper=河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS|publisher=|date=2019-05-05|accessdate=2019-08-06}}</ref>。
; 紅ゆたか
: 山形県園芸試験場において、1980年にビックと佐藤錦の交雑によって育成した品種。2000年に品種登録された。果実は極めて大きく、硬く、日持ちが良い。糖度は20度以上で甘く、果汁も多い。
; 天香錦
: 1960年に発見された偶発実生から育成された品種。果実の日持ちが非常に良く、果肉は硬い。1965年に命名<ref>{{Cite Kotobank|word=天香錦|encyclopedia=デジタル大辞泉プラス|accessdate=2021-01-03}}</ref>。
; 紅てまり
; 南陽
: 収穫時期は7月上旬。(北海道は中旬以降)ハート形の断面の大型の果実で食味も優れる。他品種との開花が揃い、受粉環境の向く北海道で多く生産される。
; 大将錦
: 収穫時期は7月上旬。偶然発見された[[交雑種]]{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。果肉はかためで酸味が少ない{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=196}}。
; 月山錦(がっさんにしき)
: 収穫時期は6月中旬から7月下旬。元々は[[中華人民共和国|中国]]の[[大連]]で育成され、日本に持ち込まれた品種。色は黄色でとても甘いが、栽培が難しく、市場への流通はきわめて少ない<ref>[http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/cherry-Gassan.htm 黄色いさくらんぼの品種、月山錦(がっさんにしき)] - 旬の食材百科HP</ref>。
== 産地 ==
=== 世界 ===
世界の2005年のサクランボ(セイヨウミザクラ)生産量は、1,900[[キロ]][[トン]]である。その主な[[生産国]]と生産割合は次の通り<ref>[http://www.asoex.cl/AsoexWeb/ Asociacion de Exportadores de Chile A.G.]{{リンク切れ|date=2018年1月}} World Sweet Cherry Review 2006 Edition (PDF 898K)</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align: right"
|-
!順位
!生産国
!生産量
|-
|1
| style="text-align: left" | [[トルコ]]
|260,000 t
|-
|2
| style="text-align: left" | [[アメリカ合衆国]]
|250,000 t
|-
|3
| style="text-align: left" | [[イラン]]
|224,000 t
|-
|20
| style="text-align: left" | 日本
|18,400 t
|}
=== 日本 ===
サクランボの生産地としては山形県が全国の収穫量の7割を占めており(その中でも山形県[[東根市]]は生産量日本一)、それに次ぐ北海道・青森県・山梨県を合わせた上位県で全国の9割以上を生産しているが、2014年度統計資料によると、他にも秋田県、福島県、群馬県、長野県で年産100トン以上、その他にも小規模の産地が点在し、20以上の都道府県で収穫実績がある。なお、累年統計をとっている都道府県は2016年発表資料現在、山形県と北海道のみであり、2010年までは青森県、2006年から2010年にかけては山梨県も統計を発表していた。
{| class="wikitable" style="text-align: right"
|-
! rowspan="2" |
! colspan="2" | 佐藤錦
! colspan="2" | 高砂
! colspan="2" | サクランボ合計
|-
! 収穫量
! シェア
! 収穫量
! シェア
! 収穫量
! シェア
|-
| style="text-align: left" | '''山形県'''
| 12,100 t
| 78%
| 261 t
| 33%
| 14,900 t
| 72%
|-
| style="text-align: left" | '''青森県'''
| 1,140 t
| 7%
| 5 t
| 1%
| 1,630 t
| 8%
|-
| style="text-align: left" | '''山梨県'''
| 752 t
| 5%
| 448 t
| 57%
| 1,350 t
| 6%
|-
! style="text-align: left" | 全国合計
! style="text-align: right"| 15,500 t
!
! style="text-align: right"| 783 t
!
! style="text-align: right"| 20,800 t
!
|}
(出典:[[農林水産省]]統計部:農林水産統計データ2006年版)*ただし、2006年版は隔年統計の都道府県を含んでいない。
=== 主な産地 ===
* 北海道
** [[小樽市]]・[[余市郡]]([[余市町]]・[[仁木町]])
* 青森県
** [[南部町 (青森県)|南部町]](旧名川町)
* 秋田県
** [[湯沢市]]
* 山形県
** [[東根市]]・[[寒河江市]]・[[天童市]]・[[南陽市]]・[[村山市]]・[[山形市]]・[[上山市]]
* 福島県
** [[福島市]]など
* 山梨県
** [[南アルプス市]]・[[山梨市]]
* 長野県
**[[松川町]]・[[飯田市]]・[[高森町 (長野県)]]
== 加工品 ==
[[画像:Melon soda 02.jpg|thumb|120px|メロンソーダ(緑と赤の[[補色]])]]
実は食用に供される。果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。
加工品としては、実を[[砂糖]]漬け(もしくはシロップ漬け)にして水分を飛ばした'''ドレンチェリー'''がある。[[洋菓子]]に用いられる。それとは別に[[ドライチェリー]]もある。
[[缶詰]]などで販売されるシロップ漬けのものは、[[メロンソーダ]]・[[みつまめ]]・[[冷麦]]・[[杏仁豆腐]]などのトッピング、弁当の付け合せにされることがある。
== シンボル ==
* 県の木
** 山形県(1982年(昭和57年)3月31日告示)。
* 市町村の木
** 北海道[[余市郡]][[仁木町]]
** 山形県[[寒河江市]]
* 市町村の花
** 山形県[[東根市]]
*文学
** [[太宰治]]の遺体発見日である6月19日を「桜桃忌」と呼ぶ<ref>[https://www.city.mitaka.lg.jp/dazai/dazaitomitaka/outouki.html 太宰が生きたまち・三鷹]三鷹市 2020年2月1日閲覧 (参考文献:桂英澄)</ref>。
== サクランボを題材にした楽曲 ==
*[[黄色いさくらんぼ]] - [[スリー・キャッツ]]、[[ゴールデン・ハーフ]]によるカバー他
*[[さくらんぼの実る頃]] - [[イヴ・モンタン]]、[[加藤登紀子]]他
*[[さくらんぼ (曲)|さくらんぼ]] - [[大塚愛]]
*[[さくらんぼキッス 〜爆発だも〜ん〜]] - [[KOTOKO]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|page =196|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{wiktionary|さくらんぼ}}
* [[チェリー]]
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* [[チェリン]]
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3,321 | 漁業 | 漁業(ぎょぎょう)とは、営利目的で魚介類を捕獲したり養殖する産業。
漁業とは、営利を目的として魚介類を捕獲したり養殖する産業のことで、別の言い方では、営利目的で水産動物・水産植物を採ったり養殖する事業のこと。 水産加工業などとともに水産業の一種である。
漁業にはさまざまな人々が関わっているが、漁撈活動に専業として携わる者のことは漁師という。
漁業は農業などと同じく第一次産業だが、公共の場を利用して行われる点で農業と大きく異なる。そのため法令により多くの制限を受ける。
分類方法は多様で、漁場による分類(統計調査による分類)、漁具・漁法による分類、漁獲物の種類による分類、漁業法規による分類(漁業制度による分類)、経営形態による分類などがある。漁獲物の種類による分類では、「マグロ漁」「イカ漁」「タコ漁」「ホタテ漁」... 等々となる。
漁場による分類としては、淡水漁業、沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業、深海漁業などに分けられることがある。
日本標準産業分類では漁業(海面漁業・内水面漁業)と水産養殖業(海水面養殖・内水面養殖)に大別される。
農林水産省の漁業・養殖業生産統計では海面漁業・養殖業と内水面漁業・養殖業に分類され、前者のうち海面漁業部門は遠洋、沖合、沿岸に区分されており、海面養殖業と区別される。
なお、栽培漁業(後述)という概念もあるが養殖漁業とは異なる。
漁法による分類では網漁業・釣漁業・雑漁業の3種に分けられる。釣漁業、網漁業、養殖漁業、採取漁業などに分類されることもある。
日本の場合、漁業権漁業、許可漁業、大臣届出漁業、自由漁業の4種がある。
魚獲りは人類の発生とともに行われてきたが、世界で産業と呼べる規模の漁業が行われ始めたのは、16世紀のオランダによる北海ニシン船団が初めてと言われる。ニシン船団は80-100トンのビュスと呼ばれる帆船で構成され、17世紀には2000隻のビュスが活動していた。流し網でニシンを獲り、船上で内臓を取り塩漬け保存され、船倉が一杯になるまで続けられた。オランダのニシン輸出量は1614年の1年だけで15万トンに及び、17世紀には総人口の5分の1がニシン関連の仕事に就いていた。ニシン漁はその後スコットランド、ノルウェー、アイスランド、ドイツなどで産業化した。
16世紀中頃にはタラ漁が産業化し始める。ニューファンドランド島沖のタラの豊かな漁場グランド・バンクスは、以前からバスク人漁師には知られていたが、ジョン・カボットの探検行により他のヨーロッパ諸国にも知られるようになった。1550年代にフランス、ポルトガル、スペインの船団が漁を始め、ヨーロッパや西インド諸島に輸出された。その後、北アメリカの入植が進むとともにニューイングランドやカナダ沿岸の船団も加わった。グランド・バンクスのタラ漁はスクーナー船による延縄漁が長く行われ、20世紀になってトロール船に取って替わられた。
1596年にスピッツベルゲン諸島が発見されるとともに、北氷洋で商業捕鯨が始まった。オランダとイギリスは定期的に捕鯨船団を送り、ホッキョククジラを捕獲した。オランダの捕鯨船団は1675年から1721年のまでのあいだに3万3000頭のホッキョククジラを捕獲している。18世紀にはイギリスが、19世紀半ば以降ははノルウェーが北氷洋捕鯨のトップとなった。また、18世紀にはナンタケット島でマッコウクジラが捕獲され、鯨油を目当てにしたマッコウクジラ漁が産業化した。1842年にはアメリカだけで600隻近い捕鯨船が活動していた。
蒸気船による漁が始まったのは1860年代以降であり、最初はトロール船を牽引するために使われた。蒸気トロール船は急速に発達し、1941年には欧米の漁船団の標準船となっていた。技術が発達しトロール船とともに工船も巨大化し、漁獲量は劇的に上昇したが、操業権と漁業資源の確保は漁業国にとっての死活問題となり、タラ戦争のような深刻な事態へと発展した。1982年になって排他的経済水域を明確にする国連海洋法条約が定められた。
沿海部における日本漁業の歴史は古く、縄文時代の遺跡からは釣針や銛、漁網の錘として用いられた土器片錘や丸木舟などの漁具が出土しており、漁や採集によって魚介類を収獲していたと考えられる。
縄文晩期の関東地方では大型貝塚の数が減少し、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労は消滅するに至る。弥生時代には大阪湾岸など縄文晩期から弥生中期に至るまで縄文型漁労が継続した地域も存在するが、東京湾では新たに内湾干潟の貝類を主体とするタイプの貝塚が形成されるが、遺跡から出土する魚骨は少なく、全国的に漁労は低調であったと評価される。一方で、大陸から伝来した管状土錘を用いた網漁やイイダコの蛸壺漁など、新たな漁法を用いた弥生漁労も開始された。また、三浦半島など外洋沿岸地域では外洋漁労が行われた。
弥生時代には稲作農耕が普及するが、水田と貝塚の双方を持つ弥生集落では農繁期の夏季に漁期を持つカツオなどの魚類が出土しており、銛漁・釣漁など専門性の高い漁法が用いられていることから、農耕民とは別に漁労を専門とする技術集団がいたと考えられている。また、稲作農耕の開始により水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産の魚類・貝類を対象とした漁労も開始された。
なお、北海道では稲作農耕が普及しなかったため、縄文以来の狩猟や漁労が継続された。
鎌倉時代には漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、市の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。
江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また、上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。消費地である江戸近郊で消費需要が高まり、江戸市中の遺跡からはマダイ、キダイ(レンコダイ)、アマダイ、タラ、サンマ、サケ、ナマズなど「江戸前」と呼ばれた東京湾産出の魚種をはじめ、流通網の成立や保存技術の進歩により遠方から運ばれた多様な魚類が出土している。また、西日本からの魚食文化の流入としてナマズやスッポンが挙げられる。
江戸市中の遺跡から出土する貝類ではアワビ、サザエ、ハマグリが多く消費され、アサリ・シジミは近世前期には少ない。底曳漁業の導入に伴い深場に生息するアカガイの消費も増加し、新たにタイラギやトリガイも出現する。一方で、中世と比較してツメタガイ、アカニシが減少する。底曳漁業の導入は関西からその技術を持った魚民が移住したとも考えられている。アサリなど貝類はむき身の形で販売されており、東京都港区の芝雑魚場跡ではバカガイの貝層が出土し、バカガイがむき身の形で流通していたと考えられている。
一方で、文献史料によれば東京湾岸の漁業は幕府により特権を与えられた特定の漁村のみで行われたとされる。考古学的にも東京湾岸の漁業は中世と同様であることが指摘され、中小規模の貝塚が営まれ、管状土錘を用いた網漁が行われている。貝塚の規模、貝類の組成や出土する魚骨、漁具の種類も中世と同様で、引き続き零細な半農半漁の漁業が継続した様相を示している。
近世には大都市の影響による湾岸の富栄養化など環境改変も発生している。
延宝8年(1680年)に将軍となった徳川綱吉は「生類憐れみの令」と総称される一連の法令を発布する。生類憐れみの令では犬をはじめとする動物愛護のみならず、牛・馬の保護や食用規制、鷹狩に用いる鷹の放鳥、鷹匠の削減など動物をめぐる総合的な政策が実施された。
生類憐れみの令では鉄砲を用いた一般庶民の狩猟も規制され、家禽を除く鳥類や観賞用の昆虫の飼育なども規制された。川の多い江戸は釣り場が多く一般庶民が釣りを行い魚を食用にしていることがあったが、生類憐れみの令では魚釣りも禁止された。ただし、生業として漁業を行う漁師の活動は制限されず、また漁獲され流通した魚の購入に関しては自由であった。宝永6年1月10日に将軍綱吉は死去し、綱吉の養子となっていた甲府徳川家の綱豊(家宣)が新将軍になると生類憐れみの令は撤廃された。
戦後の日本経済の成長とともに水揚げ量は増加。特に1972年から近海でマイワシの豊漁が続いたことから日本の漁獲量は1991年まで世界第1位となった。 その間、漁業を牽引し続けてきた遠洋漁業・沖合漁業が1973年(昭和48年)の石油ショックによって漁船のコスト高の影響を受けたこと、また1970年代後半から世界の漁業国が200海里規制を取るようなると、遠洋漁業・沖合漁業の水揚げ量は減少した。
さらに1985年(昭和60年)のプラザ合意以降、円高が進んだために水産物の輸入が増加した。1980年代半ば以降、遠洋漁業・沖合漁業・沿岸漁業などの海面漁業は漁獲量の下落傾向が続き、2000年(平成12年)には水産物の輸入量が生産量を上回った。
このように漁業資源をめぐる国際競争は激化し、今日の日本の漁業は国際化の波にもさらされる一方で、近年は、そうした「とる漁業」から、採卵、人工孵化、放流などによる「育てる漁業」(栽培漁業・養殖漁業)への転換をはかる努力が続けられている。
近畿大学水産研究所では、2002年6月に世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功した。近大は、完全養殖に成功したクロマグロを近大マグロと呼称し、同大のマグロ料理を提供する専門店を銀座にオープンした。
2017年8月、双日は、子会社の双日ツナファーム鷹島がNTTドコモと電通国際情報サービスとともに、IoT技術やディープラーニングを活用した画像認識技術を活用した水産養殖事業の効率性を向上させるシステムを構築し、水産養殖業の高度化を行う実証実験を開始したとアナウンスした。
生物資源の枯渇の問題や安定供給上の要請から、放流(栽培漁業)、養殖が盛んに行われており、放流魚の生態研究、養殖される魚種の開発などには、日本の場合、各自治体や大学などの研究機関も積極的に関与し、「とる漁業」から「育てる漁業」への転換をはかる努力が続けられている。
漁業の存続自体は自然環境の再生産に負うところが大きく、旧来の伝統的な漁具・漁法による漁撈活動では生産性は低かったものの、水産資源の再生産の限度を下回るものであった。その後の漁具の改良・開発や、流通網の整備、冷凍保存技術の発達などにともない、生産量は増大し、漁場もまた地球規模に拡大した。その一方で、世界の海洋資源の34%が乱獲されており、混獲により、捕獲された魚の約10%にあたる860万トンが世界中で廃棄されるなどの問題が起こっている。現代の商業漁船は 1950 年代に比べて2 倍の距離を移動しているが、1 キロメートルあたりの収穫量は以前の 3 分の 1 未満となっている。
2022年、WTO の 164 の加盟国は、海洋生物を激減させている漁業への補助金を削減することに合意した。
東南アジアでは、強制的に漁船に乗せられる、奴隷労働が問題となっているが、日本は、漁業での奴隷労働が横行していると言われるタイから水産物を輸入する世界第2位の国である。また、漁業補助金の観点からいうと、日本の漁業補助金は世界一にもかかわらず漁業自体は衰退しているという実態がある。
毎年約800万トン(ジャンボジェット機にして5万機相当)に及ぶプラスチックゴミが海洋に新たに流れ出ていると推定されているが、英国の研究グループは北大西洋でのプラスチックごみのトラブルが2000年以降に10倍に増えたと指摘し、ごみのうち半分は網など漁業由来だったと分析した。さらに、海底を根こそぎ浚う底引き網漁(トロール漁)では、炭素を貯蔵するサンゴ礁や海洋堆積物を破壊することから、最大 1 ギガトンの炭素(世界の温室効果ガス排出量の 3% 相当)を放出する可能性があると報告される。また漁業廃棄物は、海鳥の50%、海洋動物の66%、すべてのウミガメの種に、絡まりや閉じ込めの脅威にさらしている。
国連環境計画(UNEP)は、地球温暖化や海洋汚染、乱獲などの影響で2050年頃には海の生態系の変化が顕著になり、世界のほぼすべての海域で漁獲量が減少し、小さい魚しかいなくなると予測している。
養殖漁業では、動物福祉規則を導入する国があるが、天然漁業においては、国内外問わず、動物福祉規則は導入されていない。そのため世界中で、毎年7,870 億から 2.3 兆匹の天然魚が、生きたまま内臓を抜かれたり、生きたまま氷漬けにされるなど、深刻なストレスにさらされている。 | [
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"text": "漁業の存続自体は自然環境の再生産に負うところが大きく、旧来の伝統的な漁具・漁法による漁撈活動では生産性は低かったものの、水産資源の再生産の限度を下回るものであった。その後の漁具の改良・開発や、流通網の整備、冷凍保存技術の発達などにともない、生産量は増大し、漁場もまた地球規模に拡大した。その一方で、世界の海洋資源の34%が乱獲されており、混獲により、捕獲された魚の約10%にあたる860万トンが世界中で廃棄されるなどの問題が起こっている。現代の商業漁船は 1950 年代に比べて2 倍の距離を移動しているが、1 キロメートルあたりの収穫量は以前の 3 分の 1 未満となっている。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2022年、WTO の 164 の加盟国は、海洋生物を激減させている漁業への補助金を削減することに合意した。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "東南アジアでは、強制的に漁船に乗せられる、奴隷労働が問題となっているが、日本は、漁業での奴隷労働が横行していると言われるタイから水産物を輸入する世界第2位の国である。また、漁業補助金の観点からいうと、日本の漁業補助金は世界一にもかかわらず漁業自体は衰退しているという実態がある。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "毎年約800万トン(ジャンボジェット機にして5万機相当)に及ぶプラスチックゴミが海洋に新たに流れ出ていると推定されているが、英国の研究グループは北大西洋でのプラスチックごみのトラブルが2000年以降に10倍に増えたと指摘し、ごみのうち半分は網など漁業由来だったと分析した。さらに、海底を根こそぎ浚う底引き網漁(トロール漁)では、炭素を貯蔵するサンゴ礁や海洋堆積物を破壊することから、最大 1 ギガトンの炭素(世界の温室効果ガス排出量の 3% 相当)を放出する可能性があると報告される。また漁業廃棄物は、海鳥の50%、海洋動物の66%、すべてのウミガメの種に、絡まりや閉じ込めの脅威にさらしている。",
"title": "課題"
},
{
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"text": "国連環境計画(UNEP)は、地球温暖化や海洋汚染、乱獲などの影響で2050年頃には海の生態系の変化が顕著になり、世界のほぼすべての海域で漁獲量が減少し、小さい魚しかいなくなると予測している。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "養殖漁業では、動物福祉規則を導入する国があるが、天然漁業においては、国内外問わず、動物福祉規則は導入されていない。そのため世界中で、毎年7,870 億から 2.3 兆匹の天然魚が、生きたまま内臓を抜かれたり、生きたまま氷漬けにされるなど、深刻なストレスにさらされている。",
"title": "課題"
}
] | 漁業(ぎょぎょう)とは、営利目的で魚介類を捕獲したり養殖する産業。 | {{漁業}}
'''漁業'''(ぎょぎょう、Fishery)とは、[[営利]]目的で[[魚介類]]を捕獲したり[[養殖]]する[[産業]]<ref name="britanica">ブリタニカ国際百科事典【漁業】</ref>。
== 概説 ==
漁業とは、[[営利]]を[[目的]]として魚介類を捕獲したり[[養殖]]する[[産業]]のことで<ref name="britanica" />、別の言い方では、営利目的で水産動物・水産植物を採ったり養殖する[[事業]]のこと<ref name="koujien">広辞苑 第六版 【漁業】</ref>。
[[水産加工業]]などとともに[[水産業]]の一種である。
漁業にはさまざまな人々が関わっているが、[[漁撈]]活動に専業として携わる者のことは[[漁師]]という。
漁業は[[農業]]などと同じく[[第一次産業]]だが、公共の場を利用して行われる点で農業と大きく異なる<ref>亀井まさのり『あぁ、そういうことか!漁業のしくみ』恒星社厚生閣、2013年、ISBN 9784769912965 pp.1-5.</ref>。そのため[[法令]]により多くの制限を受ける。
== 漁業の分類 ==
分類方法は多様で、漁場による分類(統計調査による分類)、漁具・漁法による分類、漁獲物の種類による分類、漁業法規による分類(漁業制度による分類)、経営形態による分類などがある<ref name="britanica" /><ref name="rioe" />。漁獲物の種類による分類では、「マグロ漁」「イカ漁」「タコ漁」「ホタテ漁」... 等々となる。
=== 漁場による分類 ===
漁場による分類としては、淡水漁業、[[沿岸漁業]]、[[沖合漁業]]、[[遠洋漁業]]、深海漁業などに分けられることがある<ref name="britanica" />。
[[日本標準産業分類]]では漁業(海面漁業・内水面漁業)と水産養殖業(海水面養殖・内水面養殖)に大別される<ref name="rioe" />。
[[農林水産省]]の漁業・養殖業生産統計では海面漁業・養殖業と内水面漁業・養殖業に分類され、前者のうち海面漁業部門は遠洋、沖合、沿岸に区分されており、海面養殖業と区別される<ref name=":0">[https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/kaimen_gyosei/pdf/gyogyou_seisan_15_1.pdf 平成27年漁業・養殖業生産統計] - 農林水産省大臣官房統計部</ref>。
* 海面漁業・養殖業
** 海面漁業
*** [[沖合漁業]]
*** [[遠洋漁業]]
*** [[沿岸漁業]]
** 海面養殖業
* 内水面漁業・養殖業
** [[内水面漁業]]
** 内水面養殖業
なお、[[栽培漁業]](後述)という概念もあるが養殖漁業とは異なる<ref>[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0306/04.html 「栽培漁業(さいばいぎょぎょう)と養殖漁業(ようしょくぎょぎょう)の違(ちが)いについておしえてほしい。」](こどもそうだん) - 農林水産省</ref>。
=== 漁法による分類 ===
[[File:BD-fishermen.jpg|thumb|[[バングラデシュ]]の網漁]]
漁法による分類では[[網]]漁業・[[釣り|釣]]漁業・雑漁業の3種に分けられる<ref name="rioe">{{Cite web|和書|url=https://www.rioe.or.jp/pdf23/03rioe_.pdf |title=洋上風力発電等における漁業協調の在り方に関する提言|publisher=社団法人海洋産業研究会 |accessdate=2020-06-27}}</ref>。釣漁業、網漁業、[[養殖]]漁業、採取漁業などに分類されることもある<ref name="britanica" />。
* 網漁業:[[底引網|底曳網]]、船曳網、[[地引網|地曳網]]、巻網、[[刺網]]、[[定置網]]などがある<ref name="rioe" />。
* 釣漁業:手釣、竿釣、機械釣、曳縄釣、立縄釣、[[延縄]]がある<ref name="rioe" />。
* 雑漁業:[[やな]]、[[筌]]、潜水器漁業などがある<ref name="rioe" />。
=== 漁業制度による分類 ===
日本の場合、漁業権漁業、許可漁業、大臣届出漁業、自由漁業の4種がある<ref name="rioe" />。
{{See also|漁業権}}
== 歴史 ==
[[File:Egyptian fishery3.jpg|thumb|right|240px|[[古代エジプト]]の[[壁画]]に刻まれた漁業従事者たち]]
[[File:36-pesca,Taccuino Sanitatis, Casanatense 4182..jpg|thumb|right|240px|[[11世紀]]に[[バグダード]]で医学を学んだ東方系[[キリスト教徒]]である[[イブン・ブトラーン]] の書籍『[[健康全書]] ([[:en:Tacuinum Sanitatis|''Tacuinum Sanitatis'']])』([[14世紀]][[写本]])に著された網漁の風景。]]
[[File:Long liner in Cook Strait, New Zealand 1988.jpg|thumb|right|200px|[[遠洋漁業]]を行う日本の[[イカ]]釣り漁船<br />[[ニュージーランド]]の[[クック海峡]]にて、[[2005年]]撮影。]]
=== ヨーロッパ・アメリカの漁業史 ===
魚獲りは人類の発生とともに行われてきたが、世界で産業と呼べる規模の漁業が行われ始めたのは、16世紀の[[オランダ]]による北海[[ニシン]]船団が初めてと言われる<ref name="Lavery">ブライアン・レイヴァリ著、増田義郎、武井摩利訳『船の歴史文化図鑑:船と航海の世界史』悠書館、2007年。ISBN 9784903487021、pp.246-259,384-385.</ref>。ニシン船団は80-100トンのビュスと呼ばれる帆船で構成され、17世紀には2000隻のビュスが活動していた。[[流し網]]でニシンを獲り、船上で内臓を取り塩漬け保存され、船倉が一杯になるまで続けられた。オランダのニシン輸出量は1614年の1年だけで15万トンに及び、17世紀には総人口の5分の1がニシン関連の仕事に就いていた。ニシン漁はその後[[スコットランド]]、[[ノルウェー]]、[[アイスランド]]、[[ドイツ]]などで産業化した。
16世紀中頃には[[タラ]]漁が産業化し始める。[[ニューファンドランド島]]沖のタラの豊かな漁場[[グランドバンク|グランド・バンクス]]は、以前から[[バスク人]]漁師には知られていたが、[[ジョン・カボット]]の探検行により他のヨーロッパ諸国にも知られるようになった<ref name="Lavery"/>。1550年代に[[フランス]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]の船団が漁を始め、ヨーロッパや西インド諸島に輸出された。その後、北アメリカの入植が進むとともに[[ニューイングランド]]や[[カナダ]]沿岸の船団も加わった。グランド・バンクスのタラ漁は[[スクーナー船]]による[[延縄]]漁が長く行われ、20世紀になって[[トロール船]]に取って替わられた。
1596年に[[スピッツベルゲン諸島]]が発見されるとともに、[[北氷洋]]で[[商業捕鯨]]が始まった<ref name="Lavery"/>。オランダとイギリスは定期的に捕鯨船団を送り、[[ホッキョククジラ]]を捕獲した。オランダの捕鯨船団は1675年から1721年のまでのあいだに3万3000頭のホッキョククジラを捕獲している。18世紀にはイギリスが、19世紀半ば以降ははノルウェーが北氷洋捕鯨のトップとなった。また、18世紀には[[ナンタケット島]]で[[マッコウクジラ]]が捕獲され、[[鯨油]]を目当てにしたマッコウクジラ漁が産業化した。1842年にはアメリカだけで600隻近い捕鯨船が活動していた。
[[蒸気船]]による漁が始まったのは1860年代以降であり、最初はトロール船を牽引するために使われた。蒸気トロール船は急速に発達し、1941年には欧米の漁船団の標準船となっていた。技術が発達しトロール船とともに[[工船]]も巨大化し、漁獲量は劇的に上昇したが、操業権と漁業資源の確保は漁業国にとっての死活問題となり、[[タラ戦争]]のような深刻な事態へと発展した<ref name="Lavery"/>。1982年になって[[排他的経済水域]]を明確にする[[海洋法に関する国際連合条約|国連海洋法条約]]が定められた。
=== 日本の漁業史 ===
==== 縄文・弥生時代の漁業 ====
沿海部における日本漁業の歴史は古く、[[縄文時代]]の遺跡からは[[釣針]]や[[銛]]、[[漁網]]の錘として用いられた[[土器片錘]]や[[丸木舟]]などの[[漁具]]が出土しており、[[漁]]や[[採集]]によって[[魚介類]]を収獲していたと考えられる。
縄文晩期の[[関東地方]]では大型[[貝塚]]の数が減少し、[[クロダイ]]・[[スズキ (魚)|スズキ]]漁を中心とする縄文型内湾漁労は消滅するに至る{{Sfn|樋泉|2008|p=126}}。[[弥生時代]]には[[大阪湾]]岸など縄文晩期から弥生中期に至るまで縄文型漁労が継続した地域も存在するが{{Sfn|樋泉|2008|p=126}}、[[東京湾]]では新たに内湾[[干潟]]の[[貝類]]を主体とするタイプの貝塚が形成されるが、遺跡から出土する魚骨は少なく、全国的に漁労は低調であったと評価される{{Sfn|樋泉|2008|p=126}}。一方で、大陸から伝来した管状土錘を用いた網漁や[[イイダコ]]の[[蛸壺|蛸壺漁]]など、新たな[[漁法]]を用いた弥生漁労も開始された{{Sfn|樋泉|2008|p=126}}。また、[[三浦半島]]など外洋沿岸地域では外洋漁労が行われた{{Sfn|樋泉|2008|p=127}}。
弥生時代には[[稲作]]農耕が普及するが、[[水田]]と貝塚の双方を持つ弥生集落では農繁期の夏季に[[漁期]]を持つ[[カツオ]]などの魚類が出土しており、銛漁・釣漁など専門性の高い漁法が用いられていることから、農耕民とは別に漁労を専門とする技術集団がいたと考えられている{{Sfn|樋泉|2008|p=128}}。また、稲作農耕の開始により水田や[[用水路]]など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産の魚類・貝類を対象とした漁労も開始された{{Sfn|樋泉|2008|p=130}}。
なお、[[北海道]]では稲作農耕が普及しなかったため、縄文以来の狩猟や漁労が継続された{{Sfn|樋泉|2008|p=131}}。
==== 古代・中世の漁業 ====
{{Wikisource|北条五代記/巻第七#七-四|北条五代記|原文「東海︀にて魚貝取盡す事付人魚の事」}}
[[鎌倉時代]]には漁を専門とする[[村落|漁村]]があらわれ、[[魚類|魚]]・[[海藻]]・[[塩]]・[[貝類|貝]]などを[[年貢]]として納めるようになった。[[室町時代]]にはさらに漁業の専門化がすすみ、[[沖合漁業]]がおこなわれるようになり、[[市場|市]]の発達や交通網の整備、[[貨幣]]の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。
==== 近世の漁業 ====
===== 動物考古学から見た近世の漁業 =====
[[江戸時代]]には[[遠洋漁業]]がおこなわれ、また、[[上方]]で発達した[[魚網|地曳網]]による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。消費地である[[江戸]]近郊で消費需要が高まり、江戸市中の遺跡からは[[マダイ]]、[[キダイ]](レンコダイ)、[[アマダイ]]、[[タラ]]、[[サンマ]]、[[サケ]]、[[ナマズ]]など「江戸前」と呼ばれた[[東京湾]]産出の魚種をはじめ、流通網の成立や保存技術の進歩により遠方から運ばれた多様な魚類が出土している{{Sfn|樋泉|2008|pp=140-142}}。また、西日本からの魚食文化の流入としてナマズや[[スッポン]]が挙げられる{{Sfn|樋泉|2008|p=143}}。
江戸市中の遺跡から出土する貝類では[[アワビ]]、[[サザエ]]、[[ハマグリ]]が多く消費され、[[アサリ]]・[[シジミ]]は近世前期には少ない{{Sfn|樋泉|2008|p=141}}。底曳漁業の導入に伴い深場に生息する[[アカガイ]]の消費も増加し、新たに[[タイラギ]]や[[トリガイ]]も出現する{{Sfn|樋泉|2008|p=141}}。一方で、中世と比較して[[ツメタガイ]]、[[アカニシ]]が減少する。底曳漁業の導入は関西からその技術を持った魚民が移住したとも考えられている。アサリなど貝類はむき身の形で販売されており、東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[芝雑魚場跡]]では[[バカガイ]]の[[貝層]]が出土し、バカガイがむき身の形で流通していたと考えられている{{Sfn|樋泉|2008|pp=141-142}}。
一方で、文献史料によれば東京湾岸の漁業は幕府により特権を与えられた特定の漁村のみで行われたとされる{{Sfn|樋泉|2008|p=140}}。考古学的にも東京湾岸の漁業は中世と同様であることが指摘され、中小規模の貝塚が営まれ、管状土錘を用いた網漁が行われている{{Sfn|樋泉|2008|p=140}}。貝塚の規模、貝類の組成や出土する魚骨、漁具の種類も中世と同様で、引き続き零細な半農半漁の漁業が継続した様相を示している{{Sfn|樋泉|2008|p=140}}。
近世には大都市の影響による湾岸の[[富栄養化]]など環境改変も発生している{{Sfn|樋泉|2008|pp=144-146}}。
===== 生類憐れみの令と漁業 =====
[[File:Kuniyoshi Utagawa, View of Mt Fuji 2.jpg|thumb|right|240px|一勇斎国芳([[歌川国芳]])の[[名所絵]][[揃物]]『東都富士見三十六景』の内「佃沖 晴天の[[富士山|不二]]」<br />[[江戸時代]]末期、[[江戸前]]の[[佃 (東京都中央区)|佃島]]沖にて漁師が行う網漁の様子を描いた一図。]]
[[延宝]]8年([[1680年]])に将軍となった[[徳川綱吉]]は「[[生類憐れみの令]]」と総称される一連の法令を発布する。生類憐れみの令では[[犬]]をはじめとする[[動物愛護]]のみならず、[[牛]]・[[馬]]の保護や食用規制、[[鷹狩]]に用いる[[鷹]]の[[放鳥]]、[[鷹匠]]の削減など動物をめぐる総合的な政策が実施された{{Sfn|岡崎|2009|p=72}}。
生類憐れみの令では[[鉄砲]]を用いた一般庶民の[[狩猟]]も規制され、[[家禽]]を除く[[鳥類]]や観賞用の[[昆虫]]の[[飼育]]なども規制された{{Sfn|岡崎|2009|pp=86-87}}。川の多い江戸は釣り場が多く一般庶民が[[釣り]]を行い魚を食用にしていることがあったが、生類憐れみの令では魚釣りも禁止された。ただし、生業として漁業を行う漁師の活動は制限されず、また漁獲され流通した魚の購入に関しては自由であった{{Sfn|岡崎|2009|pp=86-87}}。宝永6年1月10日に将軍綱吉は死去し、綱吉の養子となっていた[[甲府徳川家]]の[[徳川家宣|綱豊]](家宣)が新将軍になると生類憐れみの令は撤廃された{{Sfn|岡崎|2009|pp=88-89}}。
==== 近現代の漁業 ====
戦後の日本経済の成長とともに水揚げ量は増加。特に[[1972年]]から近海でマイワシの豊漁が続いたことから日本の漁獲量は[[1991年]]まで世界第1位となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nippon.com/ja/currents/d00455/ |title=水産資源管理が左右する日本漁業の未来 |publisher=nippon.com |date=2019-01-11 |accessdate=2022-01-08}}</ref>。
その間、漁業を牽引し続けてきた[[遠洋漁業]]・[[沖合漁業]]が[[1973年]]([[昭和]]48年)の[[オイルショック|石油ショック]]によって漁船のコスト高の影響を受けたこと、また[[1970年代]]後半から世界の漁業国が[[排他的経済水域|200海里]]規制を取るようなると、遠洋漁業・沖合漁業の水揚げ量は減少した。
さらに[[1985年]](昭和60年)の[[プラザ合意]]以降、[[円高]]が進んだために水産物の[[輸入]]が増加した。[[1980年代]]半ば以降、[[遠洋漁業]]・[[沖合漁業]]・[[沿岸漁業]]などの[[海面]]漁業は漁獲量の下落傾向が続き、[[2000年]]([[平成]]12年)には水産物の[[輸入]]量が生産量を上回った。
このように漁業資源をめぐる国際競争は激化し、今日の日本の漁業は国際化の波にもさらされる一方で、近年は、そうした「とる漁業」から、[[採卵]]、人工[[孵化]]、[[放流]]などによる「育てる漁業」([[栽培漁業]]・[[養殖漁業]])への転換をはかる努力が続けられている。
[[近畿大学]]水産研究所では、2002年6月に世界で初めて[[クロマグロ]]の完全養殖に成功した<ref>日本経済新聞2002年8月2日朝刊</ref>。近大は、完全養殖に成功したクロマグロを[[近大マグロ]]と呼称し、同大のマグロ料理を提供する専門店を銀座にオープンした<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK06016_W4A200C1000000?channel=DF130120166138&style=1 養殖マグロ、食卓へ 「近大マグロ」の店が銀座進出 ] NIKKEI Style 2014年3月1日</ref>。
2017年8月、[[双日]]は、子会社の双日ツナファーム鷹島が[[NTTドコモ]]と[[電通国際情報サービス]]とともに、[[IoT]]技術や[[ディープラーニング]]を活用した画像認識技術を活用した水産養殖事業の効率性を向上させるシステムを構築し、水産養殖業の高度化を行う実証実験を開始したとアナウンスした<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLRSP453664_Y7A800C1000000/ 双日、NTTドコモ・ISIDとマグロ養殖事業におけるIoT・AI実証実験を実施 ] 日本経済新聞 2017年8月8日</ref>。
== 水産業・漁業用語 ==
; {{Anchors|水揚げ}}水揚げ
: [[水産業]]で言うところの「[[水揚げ]]」は、漁業([[漁撈]])や[[養殖業|養殖漁業]]によって得られる、取り扱い水産資源全般を指す語である。
; {{Anchors|水揚げ量と水揚げ高}}水揚げ量と水揚げ高
: 「水揚げ量」および「水揚げ高」という[[専門用語|用語]]は、前者が重さを、後者が取引金額を表すためのものであり、例えば、「水揚げ量は3,000[[トン]]。水揚げ高は25億円に達した」などという用い方をする。数値は前者が物理的であるのに対して後者は経済的であるため、水揚げ量の多い[[漁港]]と水揚げ高の多い漁港が一致することは、双方が同一[[経済圏]]に属しているか、何らかの経済協定で同一条件下にない限り、あり得ない。さらには、同一経済圏に属していても、[[ブランド]]力の有無・優劣によって差異が生じる場合も多い(事例:[[大間町|大間]][[クロマグロ|のマグロ]]とその他の同種)。
;商業的に重要な魚種・未利用魚・低利用魚
:{{ill2|商業的に重要な魚種のリスト|en|List of commercially important fish species}}では70種程度、他の魚種は未利用魚・低利用魚である。商業的に利用される魚でも形や大きさ傷などによって廃棄される。FAO(国際連合食糧農業機関)が2020年に公開したデータでは、全漁獲量の30-35%が廃棄されているとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0019/topic077.html |title=未利用魚とは 行き場のない魚をサブスクで有効活用 |access-date=2022-09-17 |last=日本放送協会 |website=NHK みんなでプラス - みんなの声で社会をプラスに変える |publisher=NHK |language=ja}}</ref>。
:[[未利用魚]]・低利用になる理由としては、毒がある、サイズが小型・規格外、棘・骨が多くて加工しにくい、鮮度の低下が早く腐りやすい、季節が限定的、匂いやクサミがあるなどである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4682/ |title=“もったいない魚”未利用魚で食卓を豊かに!安くてうまい簡単レシピも! |access-date=2022-09-17 |last=日本放送協会 |website=NHK クローズアップ現代 全記録 |publisher=NHK}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://osakana.suisankai.or.jp/s-other/5472 |title=未利用魚・低利用魚とは? 海の資源を上手に食べよう! | 魚食普及推進センター(一般社団法人 大日本水産会) |access-date=2022-09-17 |date=2021-11-02 |website=魚食普及推進センター(一般社団法人 大日本水産会) |}}</ref>。例として、[[バラムツ]]、[[アブラソコムツ]]などの深海魚の多くは、消化ができない油を含み下痢などを起こし最悪昏睡状態になるので、食品衛生法で販売が禁止されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://oudan.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/ref/M2019100412091608069 |title=デジタル岡山大百科 | レファレンスデータベース |access-date=2022-09-18 |last=岡山県立図書館 |website=デジタル岡山大百科}}</ref>。前述の様な食用として重篤な要因を除去できない未利用魚以外は、[[持続可能性]]の観点から活用法が研究されている。
;漁業系廃棄物
:漁網、フロートなどのプラスチック類、金属くず、木くずの他、貝殻や内臓・頭等の魚介類残渣がある。廃プラスチック類や金属くず等は「産業廃棄物」、紙くずや魚介類残渣等は「一般廃棄物」に分類され、事業者が責任をもって破棄することとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/recycle/misc/guideline/gyogyokei/post_55.html |title=漁業系廃棄物処理ガイドライン |access-date=2022-09-17 |website=環境省 |language=ja}}</ref>。
== データ・研究 ==
[[File:Global total fish harvest.svg|thumb|300px| 世界の水産物生産量の推移<ref name="faostat">Based on data sourced from the [http://faostat.fao.org/site/629/default.aspx FishStat database]</ref> 緑(養殖)、青(天然)]]
=== 水揚げ量上位10漁港 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
! 順位
! 漁港名
! 水揚げ量(t)
|-
| style="text-align:right;"|1
| style="text-align:left;"|[[銚子港]]
| style="text-align:right;"|219,261
|-
| style="text-align:right;"|2
| style="text-align:left;"|[[焼津港]]
| style="text-align:right;"|156,224
|-
| style="text-align:right;"|3
| style="text-align:left;"|[[境漁港|境港]]
| style="text-align:right;"|126,217
|-
| style="text-align:right;"|4
| style="text-align:left;"|[[長崎港]]
| style="text-align:right;"|118,869
|-
| style="text-align:right;"|5
| style="text-align:left;"|松浦港
| style="text-align:right;"|116,959
|-
| style="text-align:right;"|6
| style="text-align:left;"|[[釧路港]]
| style="text-align:right;"|114,977
|-
| style="text-align:right;"|7
| style="text-align:left;"|[[八戸港]]
| style="text-align:right;"|113,359
|-
| style="text-align:right;"|8
| style="text-align:left;"|[[石巻港]]
| style="text-align:right;"|103,905
|-
| style="text-align:right;"|9
| style="text-align:left;"|[[枕崎漁港|枕崎港]]
| style="text-align:right;"|97,880
|-
| style="text-align:right;"|10
| style="text-align:left;"|[[博多漁港|福岡港]]
| style="text-align:right;"|82,297
|}
* 時事通信社調べ(2015年)<ref name="mizuage">{{PDFlink|[https://www.city.sakaiminato.lg.jp/upload/user/00003912-GnZbNd.pdf 全国主要32漁港取扱高(時事通信社調べ)]}}</ref>
=== 水揚げ高上位10漁港 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
! 順位
! 漁港名
! 水揚げ高(百万円)
|-
| style="text-align:right;"|1
| style="text-align:left;"|[[博多漁港|福岡港]]
| style="text-align:right;"|47,891
|-
| style="text-align:right;"|2
| style="text-align:left;"|[[焼津港]]
| style="text-align:right;"|42,481
|-
| style="text-align:right;"|3
| style="text-align:left;"|[[長崎港]]
| style="text-align:right;"|34,953
|-
| style="text-align:right;"|4
| style="text-align:left;"|[[根室港]]
| style="text-align:right;"|27,521
|-
| style="text-align:right;"|5
| style="text-align:left;"|[[銚子港]]
| style="text-align:right;"|23,455
|-
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|-
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| style="text-align:left;"|[[下関漁港]]
| style="text-align:right;"|19,551
|}
* 時事通信社調べ(2015年)<ref name="mizuage"/>
;技術
* [[アクアポニックス]] - 水棲生物の糞尿や残餌を農業の肥料にする取り組み。
* 魚かす - 加工などで出た残渣を農業の肥料にする。
* [[魚油]] - 産業廃棄物になる部位などからバイオ燃料として利用する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFC2800J_Y1A121C1L41000/ |title=魚アラからボイラー燃料 日高ミールなど、重油に3割配合も |access-date=2022-09-18 |date=2011-11-29 |website=日本経済新聞 |language=ja}}</ref>。
== 栽培漁業 ==
生物資源の枯渇の問題や安定供給上の要請から、[[放流]](栽培漁業)、[[養殖業|養殖]]が盛んに行われており、放流魚の生態研究、養殖される魚種の開発などには、[[日本]]の場合、各[[地方公共団体|自治体]]や[[大学]]などの研究機関も積極的に関与し、「とる漁業」から「育てる漁業」への転換をはかる努力が続けられている。
== 課題 ==
漁業の存続自体は自然環境の[[再生産]]に負うところが大きく、旧来の伝統的な[[漁具]]・[[漁法]]による漁撈活動では生産性は低かったものの、[[水産資源]]の再生産の限度を下回るものであった。その後の[[漁具]]の改良・開発や、[[流通|流通網]]の整備、[[冷凍工学|冷凍保存技術]]の発達などにともない、生産量は増大し、[[漁場]]もまた地球規模に拡大した。その一方で、世界の海洋資源の34%が乱獲されており、混獲により、捕獲された魚の約10%にあたる860万トンが世界中で廃棄されるなどの問題が起こっている。<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/environment/2022/may/09/millions-of-tonnes-of-dead-animals-the-growing-scandal-of-fish-waste |title=Millions of tonnes of dead animals: the growing scandal of fish waste |access-date=20220514}}</ref>現代の商業漁船は 1950 年代に比べて2 倍の距離を移動しているが、1 キロメートルあたりの収穫量は以前の 3 分の 1 未満となっている<ref name=":0" />。
2022年、[[世界貿易機関|WTO]] の 164 の加盟国は、海洋生物を激減させている漁業への補助金を削減することに合意した<ref>{{Cite web |url=https://foreignpolicy.com/2022/06/17/wto-ocean-conservation-fisheries-subsidies/ |title=WTO Clinches Deal Aimed at Reducing Global Overfishing |access-date=20230424}}</ref>。
=== 日本 ===
東南アジアでは、強制的に漁船に乗せられる、奴隷労働が問題となっているが、日本は、漁業での奴隷労働が横行していると言われるタイから水産物を輸入する世界第2位の国である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/ghost-fleet_jp_628ec3d8e4b0933e736edb9f |title=「労働者の命は魚より価値がない」。シーフードの裏にある「海の奴隷」の現実に私たちができることは |access-date=20220603}}</ref>。また、漁業補助金の観点からいうと、日本の漁業補助金は世界一にもかかわらず漁業自体は衰退しているという実態がある<ref>{{Cite web|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0308597X16000026?via%3Dihub|title=Global fisheries subsidies: An updated estimate|accessdate=20211008|publisher=ScienceDirect|date=2016年7月}}</ref>。
=== 環境への影響 ===
毎年約800万トン(ジャンボジェット機にして5万機相当)に及ぶプラスチックゴミが海洋に新たに流れ出ていると推定されているが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2020/43293 |title=【増え続ける海洋ごみ】今さら聞けない海洋ごみ問題。私たちに何ができる? |accessdate=20220130}}</ref>、英国の研究グループは北大西洋でのプラスチックごみのトラブルが2000年以降に10倍に増えたと指摘し、ごみのうち半分は網など漁業由来だったと分析した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45155210T20C19A5MM0000/ |title=海洋プラごみ、漁業や観光も排出源に |accessdate=20220130}}</ref>。さらに、海底を根こそぎ浚う[[底引網|底引き網漁]]([[トロール漁]])では、炭素を貯蔵するサンゴ礁や海洋堆積物を破壊することから、最大 1 ギガトンの炭素(世界の温室効果ガス排出量の 3% 相当)を放出する可能性があると報告される<ref>{{Cite web |url=https://www.fairr.org/article/ocean-trawling-an-overlooked-climate-nature-risk/ |title=Ocean Trawling: An Overlooked Climate and Nature Risk? |access-date=20221217}}</ref>。また漁業廃棄物は、海鳥の50%、海洋動物の66%、すべてのウミガメの種に、絡まりや閉じ込めの脅威にさらしている<ref>{{Cite web |url=https://sdg.iisd.org/commentary/guest-articles/ghost-gear-the-hidden-face-of-plastic-pollution/ |title=Ghost Gear: The Hidden Face of Plastic Pollution |access-date=20230613}}</ref>。
[[国連環境計画]](UNEP)は、地球温暖化や海洋汚染、乱獲などの影響で2050年頃には海の生態系の変化が顕著になり、世界のほぼすべての海域で漁獲量が減少し、小さい魚しかいなくなると予測している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102101000076.html |title=温暖化・海洋汚染などで魚体縮小 国連報告、漁獲も減少 |accessdate=20220130 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140310213848/https://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102101000076.html |deadlinkdate=20111208 |archivedate=20111208}}</ref>。
=== 動物福祉 ===
養殖漁業では、動物福祉規則を導入する国があるが、天然漁業においては、国内外問わず、動物福祉規則は導入されていない。そのため世界中で、毎年7,870 億から 2.3 兆匹の天然魚が、生きたまま内臓を抜かれたり、生きたまま氷漬けにされるなど、深刻なストレスにさらされている<ref>{{Cite web |url=https://sentientmedia.org/wild-fish-welfare/ |title=Wild Fish Feel Pain — But They Have No Welfare Protections |access-date=20230117}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 財団法人[[矢野恒太]]記念会 『[[日本国勢図会]]』各年度版、同会刊
* 同 『表とグラフで見る日本のすがた 日本をもっと知るための社会科資料集』各年度版、同会刊
<!--以下刊行年順-->
* [[桜田勝徳]] 『漁撈の伝統』、[[岩崎美術社]]<民俗民芸双書>、[[1977年]]
* [[大林太良]]編 『日本民俗文化大系5 山民と海人 非平地民の生活と伝承』、[[小学館]]、[[1995年]](普及版) ISBN 4-09-373105-5
* [[森浩一]]編 『日本民俗文化大系13 技術と民俗(上)海と山の生活技術誌』、[[小学館]]、1995年(普及版) ISBN 4-09-373113-6
* [[野本寛一]]・[[香月洋一郎]]編 『講座 日本の民俗学5 生業の民俗』、[[雄山閣]]、[[1997年]] ISBN 4-639-01472-4
* 地域漁業学会編 『漁業考現学 21世紀への発信』、[[農林統計協会]]、[[1998年]] ISBN 4-541-02422-5
* 井田徹治 『サバがトロより高くなる日 危機に立つ世界の漁業資源』、[[講談社]]<講談社現代新書>、[[2005年]] ISBN 4-06-149804-5
* {{Citation |和書 |last=樋泉 |first=岳二 |contribution= 漁撈活動の変遷 |editor= 西本豊弘 |title= 人と動物の日本史1 動物の考古学 |publisher= 吉川弘文館 |publication-date= 2008 |ref=harv}}
* {{Citation |和書 |last=岡崎 |first=寛徳 |contribution= 生類憐れみの令とその後 |editor= 中澤克昭 |title= 人と動物の日本史2 歴史の中野動物たち |publisher= 吉川弘文館 |publication-date= 2009 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
*[[狩猟]]・[[漁師]]・[[漁]]・[[釣り]]
* [[日本の排他的経済水域]]
* [[捕鯨問題]]、[[日本の捕鯨]]
* [[レジームシフト]]
* [[人工漁礁]]
* [[漁業経済学会]]
* [[北日本漁業経済学会]]
* 漁業に被害をもたらす現象:[[赤潮]]、[[デッドゾーン (エコロジー)|デッドゾーン]]([[貧酸素水塊]])、[[公害]]、[[流氷]]、{{ill2|気候変動と漁業|en|Climate change and fisheries}}
* {{ill2|最大持続生産量|en|Maximum sustainable yield}}(MSY)、{{ill2|最適持続生産量|en|Optimum sustainable yield}}、[[漁獲可能量]]
* [[個体群動態論]]
* {{ill2|漁業が環境へ与える影響|en|Environmental impact of fishing}}、{{ill2|漁業による魚の進化|en|Fisheries-induced evolution}}、{{ill2|海洋保護区|en|Marine protected area}}
* {{ill2|IUU漁業|en|Illegal, unreported and unregulated fishing}} - 違法(Illegal)、無報告(unreported)、無規制(unregulated)な漁業。
* {{ill2|万国漁業博覧会|en|International Fisheries Exhibition}}(International Fisheries Exhibition) - ノルウェー・[[ベルゲン]](1865年)、イギリス・ロンドン(1878)、ドイツ・ベルリン(1880)、イギリス・エジンバラ(1882)、イギリス・サウス・ケンジントン(1883)、ロシア・サンクトペテルブルク(1902)で行われた。
== 外部リンク ==
* [http://www.jf-net.ne.jp/ JF全漁連]
* [https://www.jafic.or.jp/ 社団法人漁業情報サービスセンター]
* [http://www.jasfa.or.jp/ 独立行政法人水産総合研究センター 栽培漁業センター]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fishery/ 外務省・分野別外交政策-漁業]
* [https://www.jfa.maff.go.jp/ 水産庁]
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[[en:Fishery]] | 2003-03-03T15:57:35Z | 2023-12-22T02:21:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%81%E6%A5%AD |
3,322 | 林業 | 林業(りんぎょう、英:forestry)とは、山林で経済的利用を目的として樹木を伐採し木材(林産物)を生産する産業である。また、林木を植林、育成、管理し林産物を生産する産業である。第一次産業の一つ。
林業とは、経済的利用を目的として樹木を伐採し林産物を生産する産業である。木材を生産するために植林や間伐、枝打ち、下草刈りなど林木の育成、管理を行う。管理されていない場所の広葉樹の森林などでも樹木を伐採し林産物を生産する。
また広い意味で理解すると、その産業活動に付随して、森林の造成、保全、利用に関わる活動全般、森林の林産物生産育成を始めとして、 国土の保全、水源かん養、生物多様性維持などの森林の持つ公益的機能を保持する役割など、森林樹木の利用及び維持のための仕事などが広い意味で林業と呼ばれることもある。
木材等の林産物のほか、薪、木炭、漆、竹、きのこ類などの特用林産物の生産なども林業に含まれる。
世界農林業センサスの定義によると、1ヘクタール以上を所有する世帯を「林家(りんか)」と呼び、それ以外の「林業経営体」、林業事業体として、会社、社寺、共同、各種団体・組合、財産区、慣行共有、市区町村、地方公共団体の組合、都道府県、国及び特殊法人がある。林業事業体が必ずしも施業を行っているとは限らない(森林組合に作業を委託するなど)。
2020年の世界の森林蓄積量は約5570億立方m、2017年の日本の森林蓄積量は約52.4億立方mである。日本の森林蓄積量はこの50年で約3倍に増加している。
古くから人間は林産資源や動物資源を求めて森林を利用してきたが、継続的に管理し利用するようになったのは12世紀頃からであると考えられている。
日本では古代から木造建築をはじめ日用品の隅々に到るまで木製品が使われており、必要な用材を確保するため林業は古くから行われていたと考えられているが、中世には寺社造営などに際して木材伐採を命じた文書が存在し、当該期には確実に山林資源の管理が行われていたと考えられている。
戦国期には戦国大名の大名領国の成立に伴い材木伐採や林産資源の採取、炭焼きや漆の採取、鉱山経営、狩猟など山における諸職人が領主権力に掌握され組織化し、戦国大名の本拠では居館を中心に城下町が形成され、城郭の普請や寺社の造営などこの時期には木材需要が増加し、山の民は領主権力から用益権を保証され、領主の必要とする資源や技術を提供した。なお、材木伐採や製材に関わる職人の呼称は「山造」など地域によって様々なものがある。
現在の鳥取県八頭郡智頭町には慶長年間(1596年〜1615年)に造林されたというスギの人工林が存在する。
江戸時代に入ると、江戸幕府や藩によって御林が設定された。御林は明治維新後に新政府に引き継がれ、現在の国有林の原型となった。
戦時中には乱伐により山林が荒廃し、戦後は復旧造林が行われた。昭和30年代には高度経済成長に伴い林業が振興され、燃料消費構造の変革により利用価値の小さくなった薪炭林や老齢過熟の天然林が生産性の高いスギ・ヒノキなどの人工林に転換される拡大造林や、奥地林の開発が行われた。1956年(昭和31年)には森林開発公団が発足し、1964年(昭和39年)には林業生産の増大を定めた森林・林業基本法が制定されている。
また、チェーンソーや集運材機など高性能な林業機械、林地除草剤の普及による技術革新で伐採や集材、地ごしらえや下草刈りなどの省力化が図られ素材生産量は飛躍的に増大し、優良樹を選別して育成する品種改良も行われた。1950年代には燃料消費の変化で木炭消費量が減少し、原木から製炭を行う山村の過疎化を招いたが、一方で同じ原木から生産するきのこ栽培が普及した。
外材の輸入はそれまで国産材の不足分を補うための位置づけであったが、昭和40年代には石油に次ぐ輸入量となり、安い外材の増加による木材価格の低迷に加え、山村の過疎・高齢化、労賃の高騰などの影響を受け、日本の林業は打撃を受け衰退の一途をたどった。一方で昭和40年代には都市環境の過密化や公害問題の発生から森林の公益的機能への関心が高まり、環境保全運動が高まった。昭和40年代後半には土地ブームでゴルフ場開発なども多発し、自然保護団体の反対運動なども行われた。
日本の林業は1980年代から1990年代にかけて非常に衰退し、建築基準法の改定などに対応した品質の製材品を供給できないことから国産材は住宅メーカーに敬遠されるようになり、日本の住宅の多くが北欧などの輸入材で建てられるようになった。山には拡大造林政策により植えられた大量のスギ・ヒノキが取り残され、スギ花粉症の原因として林業が槍玉に上がった。
平成9年度から13年度まで、農林水産省は農林家経営動向調査を実施した。「農林統計に用いる地域区分」の「中間農業地域」及び「山間農業地域」に所在する販売農家(経営耕地面積30a以上または農産物販売金額50万円以上の農家。)及び保有山林面積20ha以上の林家を対象とした。平成12年度には中山間地域等直接支払制度が創設された。
林業で行われる森林の育成や管理は施業(せぎょう)とよばれ、経営と森林に対する行為とが一体のものとして扱われる。これは、森林に対する伐採や植栽などの行為を、いつ、どれだけ、どのように行うかにより、将来収穫される木材の量や質(=収入)が決定されることに由来する。
日本の林業は国際競争の激化による木材価格の低下、そして時代に対応した製材品を供給するための投資を怠ったことから競争力を失い、森林の手入れも充分ではなくなっているために、森林の保全が叫ばれている。日本森林の荒廃は、水源涵養機能や表面侵食防止機能などの公益的機能を低下させ、その損害は周辺の住民全体が被ることになる。
日本の木材自給率は2020年で41.8%と、森林の豊富な国としては低い。主因は、日本の木材生産の多くが急峻な斜面で行われていることによるコストの高さ、過疎化や3Kといった理由による後継者不足により、日本の林業が不振であることによる。ただし、環境規制の強化や需給逼迫により国際的な木材価格は高騰しており、自給率は2002年の18.8%から上昇傾向にある。既に国産材の価格は高品質な北欧材・北米材の価格を大きく下回っており、合板用材に占める国産材の割合が急増している(製材品は高品質が求められるため、北欧材などに比べ低品質な国産材の需要はなかなか回復していない)。
特用林産物は日本では林業産出額の約5割を占め農林家の収入源として大きな役割を果たしている。そしてその約95%を栽培きのこ類が占める。
国勢調査によれば、1985年に12万6343人いた林業従事者は、2020年には4万3710人まで減少し続けている。ただ、2003年から始まった緑の雇用事業により、新規就業者数が増加し、現在は年3千人前後で推移している。
保有山林面積1ヘクタール以上の世帯を林家(りんか)と呼ぶ。 2020年の世帯数は約69万戸で保有山林面積の合計は約459万haとなっている。 5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ世帯数は約14万戸、面積は約58万ha減っている。
「林業経営体」とは、自己又は他人の保有する森林において、事業主自身または直接雇用している作業職員又は他者への委託により造林、育成、生産等の林業生産活動を行っている経営体で、以下のいずれかに該当する者である。
林業経営体の数は、2020年で約3.4万経営体、保有山林面積約332万haである。このうち、家族で経営を行い法人化していない「個人経営体」の数は約2.8万経営体で、林業経営体の約8割を占め、残りを「組織経営体」である森林組合、民間事業体(林業事業体)などが占めている。 森林組合と民間事業体は、主に森林所有者等からの受託若しくは立木買いによって造林や伐採等の作業を担っているが、5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ経営体は約5.3万経営体、面積は約105万haと大幅に減っている。
林野庁が実施した「緑の雇用」アンケートによると、年収は林業経験年数と賃金の水準を比較すると、林業経験年数が10年以下の者では年収(手取り)250から300万円がおよそ3割で最も多く、11年以上の者では350から400万円がおよそ3割となっている。
林産物とは山林で生産される生産物のこと。
特用林産物とは、森林や原野から得られる産物のうち一般木材を除いたものの総称。昔は「林野副産物」や「特殊林産物」、「樹芸」 などとも呼ばれていた。
林野庁中部森林管理局長の新島俊哉は以下の主張をしている。
2017年7月時点では、樹齢の分布が10齢級を頂点とする釣り鐘形である。このままでは林業技術が伝承できないばかりか、進歩も止まる。100年はかかるであろう、植え付けから伐採まで毎年一定量の事業がある姿にしていくのが望ましい。その際、3つの点が重要である。まず森林所有者の意識を変える必要がある。所有者の特定が困難な森林が多数存在するとともに、森林からもうけが出ないため、森林を資産と考えない所有者も多い。例えば国有林が、木が高く売れ再造林する価値があるという成功例を示すことなどにより、森林所有者の意識を変えていく必要がある。第二に森林は木材という経済財であるとともに環境財でもあるという認識を持たなければならない。1945年の枕崎台風や1959年の伊勢湾台風など水害で数千人の死者・行方不明者が出たのは、森林が育っていない時期に当たる。主伐をして再造林されなければ裸地が増加し、同様な惨事を繰り返すことになる。それには都市住民に上流域の木をしっかり使うという意識を持ってもらうことが重要である。第三に林業が「業」として成り立つには徹底したコスト縮減が必要ということだ。従来は伐採から植林まで3年かけていたが、最近は1年で完了する伐採・造林一貫作業が広がってきた。さらに木材産業と連携し消費者までのサプライチェーンを築くべきである。国産材は安い外国材に苦戦しているといわれるが、2017年7月時点では国産スギよりも競合する外国のホワイトウッドの方が高い。主伐が増えサプライチェーンが構築できれば、国産材の需要も高まり評価も上がる。要するに、山にお金が戻る仕組みを確立し伐採から再造林への循環を作ることが求められる。
一般社団法人日本森林学会が日本林業史の顕彰目的で、2013年に林業遺産選定事業を開始した。
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"text": "日本の林業は1980年代から1990年代にかけて非常に衰退し、建築基準法の改定などに対応した品質の製材品を供給できないことから国産材は住宅メーカーに敬遠されるようになり、日本の住宅の多くが北欧などの輸入材で建てられるようになった。山には拡大造林政策により植えられた大量のスギ・ヒノキが取り残され、スギ花粉症の原因として林業が槍玉に上がった。",
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"text": "平成9年度から13年度まで、農林水産省は農林家経営動向調査を実施した。「農林統計に用いる地域区分」の「中間農業地域」及び「山間農業地域」に所在する販売農家(経営耕地面積30a以上または農産物販売金額50万円以上の農家。)及び保有山林面積20ha以上の林家を対象とした。平成12年度には中山間地域等直接支払制度が創設された。",
"title": "歴史"
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"text": "林業で行われる森林の育成や管理は施業(せぎょう)とよばれ、経営と森林に対する行為とが一体のものとして扱われる。これは、森林に対する伐採や植栽などの行為を、いつ、どれだけ、どのように行うかにより、将来収穫される木材の量や質(=収入)が決定されることに由来する。",
"title": "日本の林業"
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"text": "日本の林業は国際競争の激化による木材価格の低下、そして時代に対応した製材品を供給するための投資を怠ったことから競争力を失い、森林の手入れも充分ではなくなっているために、森林の保全が叫ばれている。日本森林の荒廃は、水源涵養機能や表面侵食防止機能などの公益的機能を低下させ、その損害は周辺の住民全体が被ることになる。",
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"text": "日本の木材自給率は2020年で41.8%と、森林の豊富な国としては低い。主因は、日本の木材生産の多くが急峻な斜面で行われていることによるコストの高さ、過疎化や3Kといった理由による後継者不足により、日本の林業が不振であることによる。ただし、環境規制の強化や需給逼迫により国際的な木材価格は高騰しており、自給率は2002年の18.8%から上昇傾向にある。既に国産材の価格は高品質な北欧材・北米材の価格を大きく下回っており、合板用材に占める国産材の割合が急増している(製材品は高品質が求められるため、北欧材などに比べ低品質な国産材の需要はなかなか回復していない)。",
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"text": "特用林産物は日本では林業産出額の約5割を占め農林家の収入源として大きな役割を果たしている。そしてその約95%を栽培きのこ類が占める。",
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"text": "国勢調査によれば、1985年に12万6343人いた林業従事者は、2020年には4万3710人まで減少し続けている。ただ、2003年から始まった緑の雇用事業により、新規就業者数が増加し、現在は年3千人前後で推移している。",
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"text": "保有山林面積1ヘクタール以上の世帯を林家(りんか)と呼ぶ。 2020年の世帯数は約69万戸で保有山林面積の合計は約459万haとなっている。 5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ世帯数は約14万戸、面積は約58万ha減っている。",
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"text": "「林業経営体」とは、自己又は他人の保有する森林において、事業主自身または直接雇用している作業職員又は他者への委託により造林、育成、生産等の林業生産活動を行っている経営体で、以下のいずれかに該当する者である。",
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"text": "林業経営体の数は、2020年で約3.4万経営体、保有山林面積約332万haである。このうち、家族で経営を行い法人化していない「個人経営体」の数は約2.8万経営体で、林業経営体の約8割を占め、残りを「組織経営体」である森林組合、民間事業体(林業事業体)などが占めている。 森林組合と民間事業体は、主に森林所有者等からの受託若しくは立木買いによって造林や伐採等の作業を担っているが、5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ経営体は約5.3万経営体、面積は約105万haと大幅に減っている。",
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"text": "林野庁が実施した「緑の雇用」アンケートによると、年収は林業経験年数と賃金の水準を比較すると、林業経験年数が10年以下の者では年収(手取り)250から300万円がおよそ3割で最も多く、11年以上の者では350から400万円がおよそ3割となっている。",
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"text": "林産物とは山林で生産される生産物のこと。",
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"text": "特用林産物とは、森林や原野から得られる産物のうち一般木材を除いたものの総称。昔は「林野副産物」や「特殊林産物」、「樹芸」 などとも呼ばれていた。",
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"text": "林野庁中部森林管理局長の新島俊哉は以下の主張をしている。",
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"text": "2017年7月時点では、樹齢の分布が10齢級を頂点とする釣り鐘形である。このままでは林業技術が伝承できないばかりか、進歩も止まる。100年はかかるであろう、植え付けから伐採まで毎年一定量の事業がある姿にしていくのが望ましい。その際、3つの点が重要である。まず森林所有者の意識を変える必要がある。所有者の特定が困難な森林が多数存在するとともに、森林からもうけが出ないため、森林を資産と考えない所有者も多い。例えば国有林が、木が高く売れ再造林する価値があるという成功例を示すことなどにより、森林所有者の意識を変えていく必要がある。第二に森林は木材という経済財であるとともに環境財でもあるという認識を持たなければならない。1945年の枕崎台風や1959年の伊勢湾台風など水害で数千人の死者・行方不明者が出たのは、森林が育っていない時期に当たる。主伐をして再造林されなければ裸地が増加し、同様な惨事を繰り返すことになる。それには都市住民に上流域の木をしっかり使うという意識を持ってもらうことが重要である。第三に林業が「業」として成り立つには徹底したコスト縮減が必要ということだ。従来は伐採から植林まで3年かけていたが、最近は1年で完了する伐採・造林一貫作業が広がってきた。さらに木材産業と連携し消費者までのサプライチェーンを築くべきである。国産材は安い外国材に苦戦しているといわれるが、2017年7月時点では国産スギよりも競合する外国のホワイトウッドの方が高い。主伐が増えサプライチェーンが構築できれば、国産材の需要も高まり評価も上がる。要するに、山にお金が戻る仕組みを確立し伐採から再造林への循環を作ることが求められる。",
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"text": "一般社団法人日本森林学会が日本林業史の顕彰目的で、2013年に林業遺産選定事業を開始した。",
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"text": "材木の移動などに馬などが利用され、内燃機関の発展によってチェンソーなどが発明されたが、それらの作業を複数同時に行える高性能林業機械が発明されるようになった。",
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] | 林業とは、山林で経済的利用を目的として樹木を伐採し木材(林産物)を生産する産業である。また、林木を植林、育成、管理し林産物を生産する産業である。第一次産業の一つ。 | [[File:TJ harvesteri.jpg|thumb|240px|伐採した木をハーベスターで処理する様子]]
'''林業'''(りんぎょう、[[英語|英]]:forestry)とは、[[山林]]で経済的利用を目的として樹木を[[伐採]]し[[木材]]([[林業#林産物|林産物]])を生産する[[産業]]である。また、林木を[[植林]]、育成、管理し[[林業#林産物|林産物]]を生産する産業である。[[第一次産業]]の一つ。
== 概要 ==
林業とは、経済的利用を目的として樹木を伐採し林産物を生産する産業である。木材を生産するために植林や間伐、[[枝打ち]]、下草刈りなど林木の育成、管理を行う。管理されていない場所の[[広葉樹]]の森林などでも樹木を伐採し林産物を生産する。
また広い意味で理解すると、その産業活動に付随して、森林の造成、保全、利用に関わる活動全般、森林の林産物生産育成を始めとして、
国土の保全、水源かん養、[[生物多様性]]維持などの森林の持つ公益的機能を保持する役割など、森林樹木の利用及び維持のための仕事などが広い意味で林業と呼ばれることもある<ref>{{Cite report | author = 林野庁 | authorlink = 林野庁 | title = 平成 24 年度森林及び林業の動向 | date = 2012 | url = https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/24hakusyo/pdf/14hon4-1.pdf}}</ref>。
木材等の林産物のほか、薪、木炭、漆、竹、きのこ類などの[[林業#林産物|特用林産物]]の生産なども林業に含まれる。
[[世界農林業センサス]]の定義によると、1[[ヘクタール]]以上を所有する世帯を「[[林業#林家|林家]](りんか)」と呼び、それ以外の「[[林業#林業経営体|林業経営体]]」<ref name=":0" />、林業事業体として、会社、社寺、共同、各種団体・組合、財産区、慣行共有、市区町村、地方公共団体の組合、都道府県、国及び特殊法人がある。林業事業体が必ずしも施業を行っているとは限らない(森林組合に作業を委託するなど)。
2020年の世界の森林蓄積量は約5570億立方m<ref>[https://www.rinya.maff.go.jp/j/kaigai/attach/pdf/index-4.pdf 世界森林資源評価2020 Key findings (仮訳) ] 林野庁</ref>、2017年の日本の森林蓄積量は約52.4億立方mである。日本の森林蓄積量はこの50年で約3倍に増加している<ref name=":0" />。
== 歴史 ==
古くから人間は林産資源や動物資源を求めて森林を利用してきたが、継続的に管理し利用するようになったのは12世紀頃からであると考えられている。
=== 日本の林業史 ===
日本では古代から木造建築をはじめ日用品の隅々に到るまで木製品が使われており、必要な用材を確保するため林業は古くから行われていたと考えられているが、中世には寺社造営などに際して木材伐採を命じた文書が存在し、当該期には確実に山林資源の管理が行われていたと考えられている。
[[戦国時代 (日本)|戦国期]]には[[戦国大名]]の大名領国の成立に伴い材木伐採や林産資源の採取、[[炭焼き]]や[[漆]]の採取、[[鉱山]]経営、[[狩猟]]など山における諸[[職人]]が領主権力に掌握され組織化し、戦国大名の本拠では[[居館]]を中心に[[城下町]]が形成され、城郭の普請や寺社の造営などこの時期には木材需要が増加し、山の民は領主権力から用益権を保証され、領主の必要とする資源や技術を提供した。なお、材木伐採や製材に関わる職人の呼称は「[[山造]]」など地域によって様々なものがある。
現在の[[鳥取県]][[八頭郡]][[智頭町]]には[[慶長]]年間(1596年〜1615年)に造林されたという[[スギ]]の[[人工林]]が存在する。
[[江戸時代]]に入ると、[[江戸幕府]]や[[藩]]によって[[御林]]が設定された。御林は[[明治維新]]後に新政府に引き継がれ、現在の国有林の原型となった。
戦時中には[[乱伐]]により山林が荒廃し、戦後は復旧造林が行われた。[[昭和]]30年代には[[高度経済成長]]に伴い林業が振興され、燃料消費構造の変革により利用価値の小さくなった薪炭林や老齢過熟の[[天然林]]が生産性の高い[[スギ]]・[[ヒノキ]]などの[[人工林]]に転換される拡大造林や、[[奥地林]]の開発が行われた。[[1956年]](昭和31年)には[[森林開発公団]]が発足し、[[1964年]](昭和39年)には林業生産の増大を定めた[[森林・林業基本法]]が制定されている。
また、[[チェーンソー]]や集運材機など高性能な[[林業機械]]、林地[[除草剤]]の普及による[[技術革新]]で[[伐採]]や[[集材]]、地ごしらえや下草刈りなどの省力化が図られ素材生産量は飛躍的に増大し、優良樹を選別して育成する[[品種改良]]も行われた。1950年代には燃料消費の変化で木炭消費量が減少し、原木から製炭を行う山村の[[過疎]]化を招いたが、一方で同じ原木から生産する[[きのこ]]栽培が普及した。
[[外材]]の輸入はそれまで国産材の不足分を補うための位置づけであったが、昭和40年代には[[石油]]に次ぐ輸入量となり、安い外材の増加による木材価格の低迷に加え、山村の[[過疎]]・高齢化、労賃の高騰などの影響を受け、日本の林業は打撃を受け衰退の一途をたどった。一方で昭和40年代には都市環境の過密化や[[公害]]問題の発生から森林の公益的機能への関心が高まり、環境保全運動が高まった。昭和40年代後半には土地ブームで[[ゴルフ場]]開発なども多発し、[[自然保護団体]]の反対運動なども行われた。
日本の林業は1980年代から1990年代にかけて非常に衰退し、[[建築基準法]]の改定などに対応した品質の製材品を供給できないことから国産材は[[住宅メーカー]]に敬遠されるようになり、[[日本の住宅]]の多くが北欧などの輸入材で建てられるようになった。山には拡大造林政策により植えられた大量の[[スギ]]・[[ヒノキ]]が取り残され、[[スギ花粉症]]の原因として林業が槍玉に上がった。
平成9年度から13年度まで、農林水産省は農林家経営動向調査を実施した。「農林統計に用いる地域区分」の「中間農業地域」及び「山間農業地域」に所在する販売農家(経営耕地面積30a以上または農産物販売金額50万円以上の農家。)及び保有山林面積20ha以上の林家を対象とした。平成12年度には中山間地域等直接支払制度が創設された<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/norinka_keiei/gaiyou/index.html#10 | title = 農林家経営動向調査の概要 | publisher = 農林水産省 | accessdate = 2020-09-15 }}</ref>。
== 日本の林業 ==
林業で行われる森林の育成や管理は施業(せぎょう)とよばれ、経営と森林に対する行為とが一体のものとして扱われる。これは、森林に対する[[伐採]]や植栽などの行為を、いつ、どれだけ、どのように行うかにより、将来収穫される木材の量や質(=収入)が決定されることに由来する。
日本の林業は国際競争の激化による木材価格の低下、そして時代に対応した製材品を供給するための投資を怠ったことから競争力を失い、森林の手入れも充分ではなくなっているために、森林の保全が叫ばれている。日本森林の荒廃は、水源涵養機能や表面侵食防止機能などの公益的機能を低下させ、その損害は周辺の住民全体が被ることになる。
日本の木材自給率は2020年で41.8%<ref name=":0" />と、森林の豊富な国としては低い。主因は、日本の木材生産の多くが急峻な斜面で行われていることによるコストの高さ、過疎化や[[ブルーカラー#3K問題|3K]]といった理由による後継者不足により、日本の林業が不振であることによる。ただし、環境規制の強化や需給逼迫により国際的な木材価格は高騰しており、自給率は2002年の18.8%から上昇傾向にある。既に国産材の価格は高品質な北欧材・北米材の価格を大きく下回っており、合板用材に占める国産材の割合が急増している(製材品は高品質が求められるため、北欧材などに比べ低品質な国産材の需要はなかなか回復していない)。
特用林産物は日本では林業産出額の約5割を占め農林家の収入源として大きな役割を果たしている。そしてその約95%を栽培きのこ類が占める<ref name=":0">{{Cite web|和書| url = https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/index.html | title = 森林・林業白書 | publisher = 林野庁 | accessdate = 2022-06-09 }}</ref>。
=== 林業労働力 ===
国勢調査によれば、1985年に12万6343人いた林業従事者は、2020年には4万3710人まで減少し続けている。ただ、2003年から始まった緑の雇用事業により、新規就業者数が増加し、現在は年3千人前後で推移している。
=== 林家 ===
保有山林面積1ヘクタール以上の世帯を林家(りんか)と呼ぶ。
2020年の世帯数は約69万戸で保有山林面積の合計は約459万haとなっている。
5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ世帯数は約14万戸、面積は約58万ha減っている<ref name=":0" />。
=== 林業経営体 ===
「林業経営体」とは、自己又は他人の保有する森林において、事業主自身または直接雇用している作業職員又は他者への委託により造林、育成、生産等の林業生産活動を行っている経営体で、以下のいずれかに該当する者である。
# 保有山林面積が3ha以上かつ過去5年間に林業作業を行うか森林経営計画又は森林施業計画を作成している、
# 委託を受けて育林を行っている、
# 委託や立木の購入により過去1年間に200㎥以上の素材生産を行っている。
林業経営体の数は、2020年で約3.4万経営体、保有山林面積約332万haである。このうち、家族で経営を行い法人化していない「個人経営体」の数は約2.8万経営体で、林業経営体の約8割を占め、残りを「組織経営体」である森林組合、民間事業体(林業事業体)などが占めている。
[[森林組合]]と民間事業体は、主に森林所有者等からの受託若しくは立木買いによって造林や伐採等の作業を担っているが、5年ごとに行う「2015年世界農林業センサス」の調査時に比べ経営体は約5.3万経営体、面積は約105万haと大幅に減っている<ref name=":0" />。
林野庁が実施した「緑の雇用」アンケートによると、年収は林業経験年数と賃金の水準を比較すると、林業経験年数が10年以下の者では年収(手取り)250から300万円がおよそ3割で最も多く、11年以上の者では350から400万円がおよそ3割となっている<ref>[https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/30hakusyo_h/all/chap1_3_3.html#:~:text=%E3%80%8C%E7%B7%91%E3%81%AE%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%80%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E6%9E%97%E6%A5%AD%E7%B5%8C%E9%A8%93%E5%B9%B4%E6%95%B0,%EF%BC%88%E8%B3%87%E6%96%991%EF%BC%8D16%EF%BC%89%E3%80%82 第1部 第1章 第3節 林業従事者の動向(3)] - 林野庁</ref>。
=== 林産物 ===
林産物とは山林で生産される生産物のこと。
{{hidden begin|title = 山林で生産される主要樹種の種類|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable"
|+
! colspan="3" |国産材・針葉樹
|-
|スギ科
|スギ属
|スギ
|-
|ヒノキ科
|アスナロ属
|ヒノキ、サワラ
|-
|
|ネズコ属
|ネズコ
|-
|
|ヒノキ属
|アスナロ、ヒノキアスナロ、ヒバ
|-
|マツ科
|カラマツ属
|カラマツ
|-
|
|ツガ属
|ツガ
|-
|
|トウヒ属
|トヒ、エゾマツ
|-
|
|トガサワラ属
|トガサワラ
|-
|
|マツ属
|アカマツ、クロマツ、ヒメコマツ
|-
|
|モミ属
|モミ、トドマツ
|-
! colspan="3" |国産材・広葉樹
|-
|ウコギ科
|ハリギリ属
|ハリギリ、セン
|-
|カエデ科
|カエデ属
|イタヤカエデ
|-
|カツラ科
|カツラ属
|カツラ
|-
|カバノキ科
|カバノキ属
|ミズメ、マカンバ
|-
|クスノキ科
|クスノキ属
|クスノキ
|-
|くるみ科
|クルミ属
|オニグルミ
|-
|ゴマノクサ科
|キリ属
|キリ
|-
|シナノキ科
|シナノキ属
|シナノキ
|-
|ニレ科
|ケヤキ属
|ケヤキ
|-
|ブナ科
|クリ属
|クリ
|-
|
|コナラ属
|アカガシ、シラカシ、クヌギ、ミズナラ
|-
|
|シイノキ属
|シイノキ、スダジイ、コジイ
|-
|
|ブナ属
|ブナ、イヌブナ
|-
|バラ科
|サクラ属
|ヤマザクラ
|-
|マメ科
|イヌエンジュ属
|イヌエンジュ
|-
|モクセイ科
|トネリコ属
|トネリコ、ヤチダモ、シオジ
|-
|モクレン科
|モクレン属
|ホウノキ
|}
{{hidden end}}
特用林産物とは、森林や原野から得られる産物のうち一般木材を除いたものの総称。昔は「林野副産物」や「特殊林産物」<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.pref.yamanashi.jp/ringyo/tokuyourinsantop.html | title = 特用林産物とは | publisher = 山梨県森林環境部林業振興課 | accessdate = 2020-09-15 }}</ref>、「[[樹芸]]」<ref>{{Cite |和書 | url = http://www.jafta-library.com/pdf/mri486.pdf | author = 小山五十三 | title = 主な特用勵需要と栽培動向 | journal = 林業技術 | date = 1982 | publisher = 日本林業技術協会 }}</ref>
などとも呼ばれていた。
{{hidden begin|title = 代表的特用林産物<ref>{{Cite web|和書| url = https://nittokusin.jp/ | title = 主な特用林産物 | publisher = 日本特用林産振興会 | accessdate = 2020-09-15 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/rrm/tokusan/index.htm | title = 北海道の特用林産物について | publisher = 北海道水産林務部林務局林業木材課流通加工グループ | accessdate = 2020-09-15 }}</ref>|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable"
|+
|きのこ類
|しいたけ、えのきたけ、ひらたけ、ぶなしめじ、まつたけ、きくらげ、まいたけ、エリンギなど
|-
|特用樹類
|桐材、こうぞ・みつまた、けやき、山桜(葉、樹皮)、しきみ、さかき、花木等
|-
|山菜類
|たけのこ、わらび、ぜんまい、わさび、あけび、くず、さんしょう、うるい、うど、みつばなどの山菜、山野草 など
|-
|薬用植物類
|がじゅつ、いちょう(葉)、きはだ(樹皮)、おうれん、マンネンタケ、メシマコブ、アガリクス(ヒメマツタケ)その他薬用植物
|-
|樹実類
|くり、くるみ、ぎんなん、やまもも、とちの実、山ぶどうなど
|-
|樹脂類
|うるし、はぜの実(木ろう)、つばき油、松脂、ひのき精油など
|-
|竹類
|竹材(もうそうちく、まだけ、めだけ、くろちく、ほていちく など)、竹皮
|-
|木炭等
|薪、木炭、竹炭、菊炭(茶の湯炭)、木質成型燃料(オガライト、オガ炭など)、加工炭、木酢液、竹酢液など
|}
{{hidden end}}
=== 林業論 ===
[[林野庁]]中部森林管理局長の新島俊哉は以下の主張をしている。
<blockquote>2017年7月時点では、樹齢の分布が10齢級を頂点とする釣り鐘形である。このままでは林業技術が伝承できないばかりか、進歩も止まる。100年はかかるであろう、植え付けから伐採まで毎年一定量の事業がある姿にしていくのが望ましい。その際、3つの点が重要である。まず森林所有者の意識を変える必要がある。所有者の特定が困難な森林が多数存在するとともに、森林からもうけが出ないため、森林を資産と考えない所有者も多い。例えば国有林が、木が高く売れ再造林する価値があるという成功例を示すことなどにより、森林所有者の意識を変えていく必要がある。第二に森林は木材という経済財であるとともに環境財でもあるという認識を持たなければならない。1945年の枕崎台風や1959年の伊勢湾台風など水害で数千人の死者・行方不明者が出たのは、森林が育っていない時期に当たる。主伐をして再造林されなければ裸地が増加し、同様な惨事を繰り返すことになる。それには都市住民に上流域の木をしっかり使うという意識を持ってもらうことが重要である。第三に林業が「業」として成り立つには徹底したコスト縮減が必要ということだ。従来は伐採から植林まで3年かけていたが、最近は1年で完了する伐採・造林一貫作業が広がってきた。さらに木材産業と連携し消費者までのサプライチェーンを築くべきである。国産材は安い外国材に苦戦しているといわれるが、2017年7月時点では国産スギよりも競合する外国のホワイトウッドの方が高い。主伐が増えサプライチェーンが構築できれば、国産材の需要も高まり評価も上がる。要するに、山にお金が戻る仕組みを確立し伐採から再造林への循環を作ることが求められる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO18323340Q7A630C1SHE000/ 林業の循環 100年の計必要 新島俊哉氏] 日本経済新聞 電子版 2017/7/3 2:30</ref>。</blockquote>
=== 林業遺産 ===
一般社団法人日本森林学会が日本林業史の顕彰目的で、2013年に[[林業遺産]]選定事業を開始した<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.forestry.jp/activity/forestrylegacy/
| title = 林業遺産
| publisher = 日本森林学会
| accessdate = 2019-06-05
}}</ref>。
=== 林業に関する人物 ===
{{Columns-list|colwidth=11em|
* [[石谷源蔵]]
* [[石谷憲男]]
* [[石谷伝四郎]]
* [[内山安兵衛]]
* [[大西孝典]]
* [[大呂甚衛]]
* [[木下伊平]]
* [[北村宗四郎]]
* [[北村謹次郎]]
* [[北村又左衛門]]
* [[田部長右衛門 (23代)|田部長右衛門]]
* [[土井八郎兵衛]]
* [[土倉庄三郎]]
* [[布施丑雄]]
* [[布施丑造]]
* [[堀江正夫]]
* [[前登志夫]]
* [[諸戸清六 (初代)|初代諸戸清六]]
* [[諸戸清六 (2代目)|二代目諸戸清六]]
* [[米原章三]]
}}
== 作業・道具 ==
; 伐倒
:古来は三ツ紐伐り(三ツ緒伐り)と呼ばれる方法が使われていたが、チェンソーの導入でほぼ使われなくなった<ref name=mitu>{{Cite web|和書|url=https://www.forest.ac.jp/academy-archives/mitsuogiri2022/ |title=チェンソーではなく斧で木を倒す!岐阜県伝統の三ツ緒伐り! |access-date=2022-10-30 |website=[[岐阜県立森林文化アカデミー]] |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/kiso/morigatari/unzaihou.html |title=木曽式伐木運材法:中部森林管理局 |access-date=2022-10-25 |website=www.rinya.maff.go.jp}}</ref>。神社などに用いる木材には三ツ紐伐りが使用される場合もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.forest.ac.jp/academy-archives/felling/ |title=三ツ紐伐りで建築用材伐採 |access-date=2022-10-30 |website=岐阜県立森林文化アカデミー |language=ja}}</ref>。
* 斧、鉞
* 楔(ヤ)
* [[手斧]]
* のこぎり(二人両手挽鋸、玉切り用鋸、[[チェンソー]])
* 鉈
; 集材
* 切り出した木を馬で運ぶことを馬搬(ばはん)、地駄曳き、地駄引き(じだひき)と呼ぶ<ref>https://www.sankei.com/photo/story/news/180406/sty1804060001-n1.html</ref><ref>[https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/sidou/attach/pdf/h28_happyoushuu-34.pdf 日本における馬搬作業の現状] 林野庁</ref>。
* 川や水の流れを利用する方法として、[[木材流送]]、[[鉄砲堰]]、{{ill2|Timber slide|en|Timber slide}}、{{ill2|Log flume|en|Log flume}}がある。
* [[てこ]]や[[コロ]]を使って運ぶ方法もあり、障害物が前方にある場合は、挟み梃子と呼ばれる技術を使って乗り越える<ref>https://www.shinmai.co.jp/feature/onbasira/2016/05/post-525.html</ref>。
* [[鳶口]]、{{ill2|Cant hook|en|Cant hook}}、ガンタ(木廻し)
* 鎹(トチ)
* 木馬(キンマ、キウマ) - [[木馬道]]を移動させるための橇
* [[修羅 (林業)|修羅]](土修羅、{{ill2|Go-devil|en|Go-devil}})
* {{ill2|Michigan logging wheels|en|Michigan logging wheels}}
; マーカー
: 間伐する木の選定用
* {{ill2|マーキングアックス|en|Marking axe}}
* 蛍光テープ
; 輸送
:[[木材流送]]などの水の流れを利用して送り出された。
== 機械化 ==
材木の移動などに馬などが利用され、内燃機関の発展によってチェンソーなどが発明されたが、それらの作業を複数同時に行える高性能林業機械が発明されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/j/kaihatu/kikai/kikai.html |title=高性能林業機械とは:林野庁 |access-date=2022-10-25 |website=www.rinya.maff.go.jp}}</ref>。
* {{ill2|フェラーバンチャ|en|Feller buncher}}
* {{ill2|ハーベスタ (林業)|en|Harvester (forestry)}}(伐倒造材機)
* プロセッサ(造材機)
* 動力式枝打機
* {{ill2|スタンプグラインダー|en|Stump grinder}}
* {{ill2|ウッドチッパー|en|Woodchipper}} - 枝などを[[ウッドチップ]]にする
; 集材
* {{ill2|スキッダ|en|Skidder}}(集材機)
* {{ill2|ヤーダー|en|Yarder}}(タワーヤーダー)
* {{ill2|スウィングヤーダー|en|Swing yarder}}
* {{ill2|スチームドンキー|en|Steam donkey}}
* [[フォワーダ]]
* {{ill2|木材運搬車|en|Logging truck}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[森林]]
* [[森林率]]
* [[人工林]]
* [[枝打ち]]
* [[伐採]]
** [[皆伐]]
* [[製材]]
* [[植林活動|植林・植林活動]]
* [[森林破壊]]
* [[野焼き]]
* [[林学]]
* [[森林鉄道]]
* [[限界集落]] - [[大野晃]]が林業の衰退と再生を研究する途上で提唱
* [[林業労働力の確保の促進に関する法律]]
* [[木材産業]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| n = no
}}
* [https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/ 森林・林業白書]([[林野庁]])
* {{Kotobank}}
{{林業}}
{{主要産業}}
{{森林破壊}}
{{企業の社会的責任|plain}}
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[[Category:林業|*]]
[[Category:森林]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%A5%AD |
3,324 | クラッカー (コンピュータセキュリティ) | クラッカー (Cracker) とは、コンピュータネットワークに不正に侵入したり、破壊・改竄などの悪意を持った行為、すなわちクラッキング(悪意を持ったハッキング)を行う者のこと。最近はセキュリティ・ハッカーと呼ばれることが多い。
クラッカーの多くはアマチュアであり、往々にして愉快犯的にコンピュータにダメージを与えて喜ぶ稚拙な精神性がうかがえるが、ある種のフラストレーション発散の発露であるケースも散見される。特に技術程度の低い向きには、他のクラッカーが製作した攻撃用のプログラムやスクリプトを利用して興味本位でクラッキングを行う者もあるが、これらはさらに軽蔑され得る対象として、スクリプトキディ(ソフトやスクリプト使いのお子様)という呼び方もある。
現在では企業のコンピュータシステムのセキュリティを検査するため、依頼されて意図的にシステム侵入を試みるプロフェッショナルのクラッカーも存在するとも言われるが、これらは後述の通り、ハッカーの範疇に含まれると考えられている。
なお、行為としてのクラッキングに関しては通信機器やコンピュータ製品のメーカーが自社製品の安全性をアピールする意味で、懸賞金付きまたは技術的競技としてクラッキング・コンテストが開催されることもある。
クラッカーは「コンピュータ技術に長けている者」という意味で混同されやすいが、その技術を生産(善意)的なことに利用するハッカーとは区別される。しかしマスコミではクラッカーのことを「ハッカー」と呼んでおり、「ハッカー」=「悪」というイメージが刷り込まれているのが現状といえる。
正しい意味でのハッカーをホワイトハット・ハッカー、クラッカーをブラックハット・ハッカーと呼ぶこともある。
一般的なクラッカーのイメージとは別に、主にロシアやハンガリーといった旧共産圏において、大学(院)において情報系を専攻したものの、自国に十分な職の受け皿がなく、就職するまでの繋ぎ・あるいは本職としてクラッキングを行うプロのクラッカーが存在する。主な仕事として銀行から情報を盗み出したり、クライアントの敵会社から機密情報を持ち出すといった非合法な活動であることが多い。
彼らの技術力は極めて高度であると言われ、稚拙なスクリプトキディとは一線を画している。その技術力が買われ、警察に逮捕されたりクラッカーを卒業した後、アンチウイルスソフトウェアを扱う会社や国家の情報局などに勤めることが多い。
プロクラッカーの一部は、IRCや会員制のウェブサイトなどでお互いに情報を交換しておりそういった場所から流出した一部のツールや情報がスクリプトキディに利用されている。上記のロシアでは、クラッキングを学ぶ専門学校まで存在している(表向きはセキュリティを学ぶ学校)。
フィクション上では、「ハッカー」と呼ばれる事が多い。
あくまでもフィクションの中での悪役側のクラッキングは現実同様、犯罪行為として扱われるが物語の主役や主役の協力者がクラッカーである場合、犯罪者やテロリストが所有するコンピューターへのクラッキングが中心となる者や、不正を働く体制側のコンピューターをクラッキングする者など、アンチヒーローとして扱われることもある。 | [
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] | クラッカー (Cracker) とは、コンピュータネットワークに不正に侵入したり、破壊・改竄などの悪意を持った行為、すなわちクラッキング(悪意を持ったハッキング)を行う者のこと。最近はセキュリティ・ハッカーと呼ばれることが多い。 | {{複数の問題
|言葉を濁さない=2010年7月
|出典の明記= 2011-4
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'''クラッカー''' (cracker) とは、[[コンピュータネットワーク]]に不正に侵入したり、破壊・改竄などの悪意を持った行為、すなわち'''[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]'''(悪意を持ったハッキング)を行う者のこと。最近はセキュリティ・ハッカーと呼ばれることが多い。
==概要==
クラッカーの多くはアマチュアであり、往々にして[[愉快犯]]的に[[コンピュータ]]にダメージを与えて喜ぶ稚拙な精神性がうかがえるが、ある種の[[フラストレーション]]発散の発露であるケースも散見される。特に技術程度の低い向きには、他のクラッカーが製作した攻撃用の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]や[[スクリプト言語|スクリプト]]を利用して興味本位でクラッキングを行う者もあるが、これらはさらに軽蔑され得る対象として、'''[[スクリプトキディ]]'''(ソフトやスクリプト使いのお子様)という呼び方もある。
現在では[[企業]]のコンピュータシステムの[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]を検査するため、依頼されて意図的にシステム侵入を試みるプロフェッショナルのクラッカーも存在するとも言われるが、これらは後述の通り、ハッカーの範疇に含まれると考えられている。
なお、行為としてのクラッキングに関しては通信機器やコンピュータ製品のメーカーが自社製品の安全性をアピールする意味で、懸賞金付きまたは技術的競技として[[クラッキング・コンテスト]]が開催されることもある。
==ハッカーとの区別==
クラッカーは「コンピュータ技術に長けている者」という意味で混同されやすいが、その技術を生産(善意)的なことに利用する[[ハッカー]]とは区別される。しかしマスコミではクラッカーのことを「ハッカー」と呼んでおり、「ハッカー」=「悪」というイメージが刷り込まれているのが現状といえる。
正しい意味でのハッカーを'''ホワイトハット・ハッカー'''、クラッカーを'''ブラックハット・ハッカー'''と呼ぶこともある。
==プロクラッカー==
一般的なクラッカーのイメージとは別に、主にロシアやハンガリーといった旧共産圏において、大学(院)において情報系を専攻したものの、自国に十分な職の受け皿がなく、就職するまでの繋ぎ・あるいは本職としてクラッキングを行うプロのクラッカーが存在する。主な仕事として銀行から情報を盗み出したり、[[顧客|クライアント]]の敵会社から機密情報を持ち出すといった非合法な活動であることが多い。
彼らの技術力は極めて高度であると言われ、稚拙なスクリプトキディとは一線を画している。その技術力が買われ、警察に逮捕されたりクラッカーを卒業した後、[[アンチウイルスソフトウェア]]を扱う会社や国家の情報局などに勤めることが多い。
プロクラッカーの一部は、IRCや会員制のウェブサイトなどでお互いに情報を交換しておりそういった場所から流出した一部のツールや情報がスクリプトキディに利用されている。上記のロシアでは、クラッキングを学ぶ専門学校まで存在している(表向きはセキュリティを学ぶ学校)。
===国家による認定、訴追===
*[[2018年]][[12月20日]]、[[アメリカ司法省]]は[[日本]]を含む12か国の45の企業・政府機関を標的に[[サイバーテロ]]を仕掛けた疑いで、中国[[天津市]]国家安全局に勤務していた2人を起訴した。<ref>{{Cite web |date=2018-12-20 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3203517 |title=米、中国政府のハッカー2人を起訴 日本含む12か国でサイバー攻撃 |publisher=AFP |accessdate=2018-12-20}}</ref>
== クラッカーの一覧 ==
{{main|ハッカーの一覧}}
===フィクションに登場するクラッカー===
フィクション上では、「[[ハッカー]]」と呼ばれる事が多い。
あくまでもフィクションの中での悪役側のクラッキングは現実同様、犯罪行為として扱われるが物語の主役や主役の協力者がクラッカーである場合、犯罪者やテロリストが所有するコンピューターへのクラッキングが中心となる者や、不正を働く体制側のコンピューターをクラッキングする者など、[[アンチヒーロー]]として扱われることもある。
===過去にクラッカーであった著名人===
<!--*'''[[下村努]]'''
ケビンミトニックと対決したことで有名な日本人クラッカー。書籍も出している。おそらく歴代の日本人ハッカーの中で一番有名。下村努がモデルの映画も公開された。-->
<!--*'''[[リチャード・ストールマン]]'''-->
*[[ケビン・ミトニック]]
*[[ロバート・T・モリス]]
*[[ジョン・T・ドレーパー|ジョン・ドレーパー(キャプテン・クランチ)]]
*[[ケビン・ポールセン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連項目 ==
* [[不正アクセス行為の禁止等に関する法律|不正アクセス禁止法]]
* [[個人情報漏洩]]
* [[コンピュータセキュリティ]]
* [[ハニーポット]]
* [[ハッカー文化]] - [[ハッカー]]に憧れて、ハッカー文化に傾倒するクラッカーは多い。
* [[電磁波盗聴]]
* [[ナード]]
* [[ケビン・ミトニック]]
* [[ゲイリー・マッキノン]]
* [[中国紅客連盟]]
* [[アノニマス (集団)|アノニマス]]
* [[VANK]]
{{ハッキング}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらつかあ}}
[[Category:コンピュータ・ネットワーク・セキュリティ]]
[[Category:インターネット犯罪]] | 2003-03-03T19:35:59Z | 2023-09-30T17:08:11Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
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"Template:複数の問題",
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3) |
3,325 | ハッカー | ハッカー (hacker) またはクラッカーとは主にコンピュータや電気回路一般について常人より深く高度な技術的知識を持ち、その知識を利用して技術的な課題をクリアする人々のこと。
HACK とは、『ハッカー英語辞典(hhe HACKER'S DICTIONARY)』によれば、「必要なものを、それほど手際よくではないが、何とかでっちあげるためのやっつけ仕事」とある。また、同書によると HACKER とは「コンピュータシステムの細部や、その能力の伸ばし方を楽しむ人。必要最低限しか勉強したがらない大多数のコンピュータ・ユーザと対照的である。」と述べられている。 日本産業規格 JIS X 0001-1994 においては、「高度な技術をもった計算機のマニア。」(01.07.03) と「高度の技術をもった計算機のマニアであって、知識と手段を活用して、保護された資源に権限をもたずにアクセスする人。」(01.07.04) という2種類の定義を行っている。定義が分かれている理由は、使用されている年代によってその意味が異なるからである。古くはコンピュータが普及していなかった1960年代から使用されてきた。『HACKERS』(スティーブン・レビー(英語版)著)などによると、一説には hacker という言葉が現在と近い意味で使われはじめたのは、1960年代にマサチューセッツ工科大学の鉄道模型クラブにおいてであると言われている。現在ではコンピュータ技術に長けた人物のことを指す用法がほとんどだが、元々この単語には本来「雑だが巧く動く間に合わせの仕事をする」、「斧ひとつだけで家具を作る能力のある職人」、「冷蔵庫の余り物で手早く料理を作る」というニュアンスで日常生活でも一般に使われるものだった。
このハッカーの語源としての hack は「石橋を叩いて渡るような堅実な仕事ぶり」とは対極に位置していて、機転が利いてちょっとした仕事を得意とする人物を hacker と呼ぶ。したがって、この言葉は、大規模な開発プロジェクトを何年にもわたって指揮してきた優秀なソフトウェア技術者に対して使用されるものではない。ハッカーとは極めて個人的な属性に基づいた呼称であり、その人物の「間に合わせのアイデア」や「閃き」を重視した言葉である。スティーブン・レビーは、この「ハックする」が、マサチューセッツ工科大学の鉄道模型クラブにおいて、ちょっとした微笑をもたらすいたずらとして使用されているうちに、コンピューターの内部を覗いたり、応急処置で技術対応する人間をいつしか、ハッカーと呼ぶように変化していったさまを述べている。
ネットワークでは、ペネトレーションテストによってセキュリティを突破することが行われ、セキュリティホールを発見する専門家がいる。また、セキュリティを突破し、侵入した証拠を残すなどの方法で相手にセキュリティホールを知らせるなど、義賊的な互助精神的文化が存在していた。
しかし、情報化社会の急速な進展に伴って、悪意のためにそれらの行為を行う者が増え、社会的に問題とされるに至った今日では、コンピュータウイルスなどのマルウェアを作成したりすることも含まれるようになり、このような行為をする者を「ハッカー」と呼ぶようになった。こうした誤用は近年では問題視され、コンピュータを使って悪事をはたらく者をクラッカー (cracker) あるいはシーフ(盗人、泥棒)と呼んで区別することで、「ハッカー」という呼称を中立的な意味で再定義しようとする試みが盛んになった。しかし、クラッカーと呼ぶにふさわしいネットワーク犯罪者が、新聞などマスメディアにおいてカタカナ語で「ハッカー」と表記されている。また、このような試みを行う者自身がハッカーではなく、さらにそれらの人々が自分の主観だけでハッカー像を語ることが多いので、再定義に成功しているとはいえない。アメリカでは報道において cracker が使われることは非常に稀であって hacker が一般的であり、中国においては意味と英語の音声を訳したもの黒客(読みはヘイクー)という漢字が一般的に使われている。
ハッキングの元祖は、1970年代にアメリカの公衆電話回線網の内部保守システムに介入する方法を発見した「キャプテン・クランチ」ことジョン・T・ドレーパーであると言われているが、正確にはコンピュータへのハッキングではない。しかし、所有者である電話会社に無断で電話通話料を払わずに公衆電話回線を利用することは、セキュリティの意識が低い所有者自身にも問題があるとはいえ、このようなハッキング行為自体は違法であるとの解釈もある。
「How To Become A Hacker」を執筆したエリック・レイモンドは、英語が母語であるか否かは関係なく、ハッカーとして活動する上での前提条件として、誤りの少ない整った文章が書ける程度の英語能力が必要であるとしている。一定の英語能力が必要な理由として、一般的なハッカーは「英語がハッカー文化やインターネットでの作業用言語であり、誤りの多い文章しか書けない者は相手をする価値がないヘボい思考の持ち主であることが多い。」と考えているため、としている。
ハッカーの本来の意味についてはしばしば議論が起こる。
ハッカーたちにとって、「ハッカー」という言葉の本来の意味は、「プログラム可能なシステムの細かい部分を探ったり、その機能を拡張する方法を探究したりすることに喜びを感じる人」、「熱中してプログラミングする人、プログラミングを楽しむ人」、「ハック価値en:Hack valueを認識できる人」、「手早くプログラミングするのが得意な人」、「ある特定のプログラムのエキスパート、または頻繁にそれを使って仕事をする人」、「任意の種類のエキスパートまたは熱狂的なファン」、「創意工夫を発揮して制約を打破したり回避したりすることを知的な難問として楽しむ人」などであり、「あちこち調べまわって機密情報を探り出そうとする悪意の詮索好き」という定義は誤用であるとされる。1985年には、本来のハッカーという言葉の意味を、マスコミの誤った使い方から守ろうと、「クラッカー(cracker)」という言葉が作られた。
また、「How To Become A Hacker」(ハッカーになるための方法)の著作者であるエリック・レイモンドによると、「ハッカー」とは何かを創造するものであり、クラッカーとは何かを破壊するものであるとのこと。また、「ハッカー」であることを声高に名乗るものほど「クラッカー」である可能性が高いとも語っている。
とはいえ英語圏でハッキング被害などが報道される際は、メジャーなメディア、マイナーなメディアを問わず、ほぼ全てにおいてhackerあるいはhackという単語が使用されており、逆にcrackerという言葉が使われるケースはまずない。crackという単語に関しては特定の防壁やプロテクトシステムを破るようなケースに限定して使われることは比較的多いが、「侵入する」という意味で使われることは英語圏では非常に少なく、その場合はやはりhackが常用されている。
昔は「ハッカー」という言葉はほぼ「クラッカー」の意味で使われていると考えられていた。しかし現在は「ハッカー」と「クラッカー」は別なものであると考えられている。
狭義のハッキング(クラッキング)をするキャラクターは、「クラッカー_(コンピュータセキュリティ)#フィクションに登場するクラッカー」を参照。 | [
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"title": "概要"
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"text": "ネットワークでは、ペネトレーションテストによってセキュリティを突破することが行われ、セキュリティホールを発見する専門家がいる。また、セキュリティを突破し、侵入した証拠を残すなどの方法で相手にセキュリティホールを知らせるなど、義賊的な互助精神的文化が存在していた。",
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"text": "「How To Become A Hacker」を執筆したエリック・レイモンドは、英語が母語であるか否かは関係なく、ハッカーとして活動する上での前提条件として、誤りの少ない整った文章が書ける程度の英語能力が必要であるとしている。一定の英語能力が必要な理由として、一般的なハッカーは「英語がハッカー文化やインターネットでの作業用言語であり、誤りの多い文章しか書けない者は相手をする価値がないヘボい思考の持ち主であることが多い。」と考えているため、としている。",
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] | ハッカー (hacker) またはクラッカーとは主にコンピュータや電気回路一般について常人より深く高度な技術的知識を持ち、その知識を利用して技術的な課題をクリアする人々のこと。 | {{Otheruses}}
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'''ハッカー''' (hacker) {{Efn|日英米ではハッカー、その他の国々ではしばしばヘイカー、ハーケル、ヘイケルと発音。}}またはクラッカーとは主に[[コンピュータ]]や[[電気回路]]一般について常人より深く高度な技術的知識を持ち、その知識を利用して技術的な課題をクリアする人々のこと<ref>ガイ・L・スティール・ジュニア、ドナルド・R・ウッズ、ラファエル・A・フィンケル、マーク・R・クリスピン、リチャード・M・ストールマン、ジョフリー・S・グッドフェロー共著/犬伏茂之訳『ハッカー英語辞典』(原題は『the HACKER'S DICTIONARY』。自然社ペーパーバックス)</ref>。
== 概要 ==
HACK とは、『ハッカー英語辞典(hhe HACKER'S DICTIONARY)』によれば、「必要なものを、それほど手際よくではないが、何とかでっちあげるためのやっつけ仕事」とある。また、同書によると HACKER とは「コンピュータシステムの細部や、その能力の伸ばし方を楽しむ人。必要最低限しか勉強したがらない大多数のコンピュータ・ユーザと対照的である。」と述べられている。
[[日本産業規格]] JIS X 0001<small>-1994</small> においては、「高度な技術をもった計算機のマニア。」(01.07.03) と「高度の技術をもった計算機のマニアであって、知識と手段を活用して、保護された資源に権限をもたずにアクセスする人。」(01.07.04) という2種類の定義を行っている<ref>{{Cite web|url=https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrJISNumberNameSearchList?show&jisStdNo=X0001 |title=JIS X 0001 |publisher=経済産業省審議会 日本産業標準調査会 |accessdate=2015-03-08}}{{要登録}}。(代替サイトの [http://kikakurui.com/x0/X0001-1994-01.html JIS X 0001]、kikakurui.com)</ref>。定義が分かれている理由は、使用されている年代によってその意味が異なる<ref name="FaiF">{{Cite book|author=Sam Williams |title=Free as in Freedom |year=2002 |publisher=O’Reilly Media |chapter=Appendix B: Hack, Hackers, and Hacking |language=en |url=https://www.oreilly.com/openbook/freedom/ |accessdate=2021-12-28}}</ref>からである。古くはコンピュータが普及していなかった1960年代から使用されてきた{{R|FaiF}}。『HACKERS』({{仮リンク|スティーブン・レビー|en|Steven Levy}}著)などによると、一説には '''hacker''' という言葉が現在と近い意味で使われはじめたのは、1960年代に[[マサチューセッツ工科大学]]の[[鉄道模型]]クラブにおいてであると言われている。現在ではコンピュータ技術に長けた人物のことを指す用法がほとんどだが、元々この単語には本来「雑だが巧く動く間に合わせの仕事をする」、「斧ひとつだけで家具を作る能力のある職人」、「冷蔵庫の余り物で手早く料理を作る」というニュアンスで日常生活でも一般に使われるものだった。
このハッカーの語源としての hack は「石橋を叩いて渡るような堅実な仕事ぶり」とは対極に位置していて、機転が利いてちょっとした仕事を得意とする人物を '''hacker''' と呼ぶ。したがって、この言葉は、大規模な開発プロジェクトを何年にもわたって指揮してきた優秀なソフトウェア技術者に対して使用されるものではない。ハッカーとは極めて個人的な属性に基づいた呼称であり、その人物の「間に合わせのアイデア」や「閃き」を重視した言葉である。スティーブン・レビーは、この「ハックする」が、マサチューセッツ工科大学の鉄道模型クラブにおいて、ちょっとした微笑をもたらすいたずらとして使用されているうちに、コンピューターの内部を覗いたり、応急処置で技術対応する人間をいつしか、ハッカーと呼ぶように変化していったさまを述べている。
== 用法の二極化 ==
ネットワークでは、[[ペネトレーションテスト]]によって[[情報セキュリティ|セキュリティ]]を突破することが行われ、[[セキュリティホール]]を発見する専門家がいる。また、[[情報セキュリティ|セキュリティ]]を突破し、侵入した証拠を残すなどの方法で相手にセキュリティホールを知らせるなど、義賊的な互助精神的文化が存在していた。
しかし、[[情報化社会]]の急速な進展に伴って、悪意のためにそれらの行為を行う者が増え、社会的に問題とされるに至った今日では、[[コンピュータウイルス]]などの[[マルウェア]]を作成したりすることも含まれるようになり、このような行為をする者を「ハッカー」と呼ぶようになった。こうした誤用は近年では問題視され、コンピュータを使って悪事をはたらく者を[[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]] (cracker) あるいは[[シーフ]](盗人、泥棒)と呼んで区別することで、「ハッカー」という呼称を中立的な意味で再定義しようとする試みが盛んになった。しかし、クラッカーと呼ぶにふさわしいネットワーク[[犯罪者]]が、[[新聞]]など[[マスメディア]]において[[カタカナ語]]で「ハッカー」と表記されている<ref>{{Cite book|和書
| author = 祐安 重夫
| title= 読書するプログラマ
| year=1988
| date=1988-10-31
| page= 67
| publisher=翔泳社|isbn = 4-915673-18-9}}の中でマスコミ関係者は Guy L, Steel Jr, et al, (eds.), The Hacker's Dictionary, Harper & Low.1983 を読んで、よく勉強してもらいたいと書かれている。</ref>。また、このような試みを行う者自身がハッカーではなく、さらにそれらの人々が自分の主観だけでハッカー像を語ることが多いので、再定義に成功しているとはいえない。アメリカでは報道において cracker が使われることは非常に稀であって hacker が一般的であり、中国においては意味と英語の音声を訳したもの黒客(読みはヘイクー)という漢字が一般的に使われている。
ハッキングの元祖は、[[1970年代]]にアメリカの公衆電話回線網の内部保守システムに介入する方法を発見した「キャプテン・クランチ」こと[[ジョン・T・ドレーパー]]であると言われているが、正確にはコンピュータへのハッキングではない。しかし、所有者である電話会社に無断で電話通話料を払わずに公衆電話回線を利用することは、セキュリティの意識が低い所有者自身にも問題があるとはいえ、このようなハッキング行為自体は違法であるとの解釈もある。
「How To Become A Hacker」を執筆した[[エリック・レイモンド]]は、[[英語]]が母語であるか否かは関係なく、ハッカーとして活動する上での前提条件として、誤りの少ない整った文章が書ける程度の[[英語]]能力が必要であるとしている。一定の[[英語]]能力が必要な理由として、一般的なハッカーは「[[英語]]がハッカー文化や[[インターネット]]での作業用言語であり、誤りの多い文章しか書けない者は相手をする価値がないヘボい思考の持ち主であることが多い。」と考えているため、としている<ref>{{Cite web |title=How To Become A Hacker |url=http://www.catb.org/~esr/faqs/hacker-howto.html#skills4 |website=www.catb.org |access-date=2023-06-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=How To Become A Hacker: Japanese |url=https://cruel.org/freeware/hacker.html#skills4 |website=cruel.org |access-date=2023-06-20}}</ref>。
==ハッカーの本来の意味==
ハッカーの本来の意味についてはしばしば議論が起こる。
ハッカーたちにとって、「ハッカー」という言葉の本来の意味は、「プログラム可能なシステムの細かい部分を探ったり、その機能を拡張する方法を探究したりすることに喜びを感じる人」、「熱中してプログラミングする人、プログラミングを楽しむ人」、「ハック価値[[:en:Hack value]]を認識できる人」、「手早くプログラミングするのが得意な人」、「ある特定のプログラムのエキスパート、または頻繁にそれを使って仕事をする人」、「任意の種類のエキスパートまたは熱狂的なファン」、「創意工夫を発揮して制約を打破したり回避したりすることを知的な難問として楽しむ人」などであり、「あちこち調べまわって機密情報を探り出そうとする悪意の詮索好き」という定義は誤用であるとされる<ref>{{Cite book|和書|editor=Eric S. Raymond |translator=福崎俊博 |title=[[ハッカーズ大辞典 改定新版]] |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |year=2002 |page=303}}</ref>。1985年には、本来のハッカーという言葉の意味を、マスコミの誤った使い方から守ろうと、「クラッカー(cracker)」という言葉が作られた<ref>{{Cite book|和書|editor=Eric S. Raymond |translator=福崎俊博 |title=[[ハッカーズ大辞典 改定新版]] |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |year=2002 |page=176}}</ref>。
また、「How To Become A Hacker」(ハッカーになるための方法)の著作者である[[エリック・レイモンド]]によると、「ハッカー」とは何かを創造するものであり、クラッカーとは何かを破壊するものであるとのこと。また、「ハッカー」であることを声高に名乗るものほど「クラッカー」である可能性が高いとも語っている<ref>{{Citation|url=https://cruel.org/freeware/hacker.html |title=ハッカーになろう (How To Become A Hacker) |author=Eric S. Raymond |translator=山形浩生, 村川泰, Takachin |accessdate=2008-09-09}}</ref>。
とはいえ英語圏でハッキング被害などが報道される際は、メジャーなメディア、マイナーなメディアを問わず、ほぼ全てにおいてhackerあるいはhackという単語が使用されており、逆にcrackerという言葉が使われるケースはまずない。crackという単語に関しては特定の防壁やプロテクトシステムを破るようなケースに限定して使われることは比較的多いが、「侵入する」という意味で使われることは英語圏では非常に少なく、その場合はやはりhackが常用されている。
昔は「ハッカー」という言葉はほぼ「クラッカー」の意味で使われていると考えられていた。しかし現在は「ハッカー」と「クラッカー」は別なものであると考えられている。
==類語==
;ハッカー hacker
:オールマイティにさまざまなコンピュータ技術に通じる人々の総称。映画などの影響もあり、しばしばネットワークに侵入したり、ウイルス作成などを行う人物全般をさす場合もある。これをクラッカーと使い分けるべきという意見も特に日本では比較的多く見られるが、実際にはアメリカの大手セキュリティ企業を初め、米国主要メディア各社の報道でもハッカーという単語が常用されているのが現実で、映画のようなイメージのハッキング行為を行う人物をハッカーと呼ぶことは決して誤用ではない。ハッカーは単にネットワークの知識だけに秀でている人物を指す言葉であると誤解する人も多いが、ソフトウェア設定(レジストリや応用ソフトの設定ファイル・隠し機能など)やプログラミングなど他の分野で非常に高い知識を有している人物もハッカーと呼ばれるケースがある。また、[[リバースエンジニアリング]]などソースコード解析などもハッキングの範疇である。稀にハッカー以上の技術者を ウィザード '''wizard''' や グル '''guru''' と呼称することもある(例えばLinuxカーネルの開発者 [[リーナス・トーバルズ]]は、しばしばグルと呼ばれる)。セキュリティコンテストなどでは生産的な(善意的な)ハッカーを[[ホワイトハットハッカー]]{{enlink|White_hat_(computer_security)}}といい犯罪者気質のハッカーをブラックハットハッカーなどと区別し、ホワイトハットハッカーを育てようという活動も各国に見られる。
;クラッカー cracker、kracker
:情報の破壊や不当な複製、アクセス制御の突破など、不正な利用を行う者に対する総称。主に[[コンピュータウイルス]]のような不正行為を目的とするアプリケーションを作成したり、リバースエンジニアリングを悪用する場合は、クラッカーに含まれる。なお、リバースエンジニアリングを悪用する者を「kのクラッカー」として区別する場合がある。
;アタッカー attacker:アクセス制限の突破やその制御機能の破壊を特に好むクラッカー。インターネット上のサーバ等のバグを不正目的において探す者、[[DoS攻撃]]などの物量攻撃を行う者などを指す。
;ヴァンダル vandal
:アタッカーのうち、広義の[[荒らし]]([[ヴァンダリズム]]、vandal、vandalism)をする者をこう呼ぶことがある。インターネットなどのネットワークを主な標的とし、機能そのものを直接的に破壊するのではなく機能(含まれる欠陥を含む)をそのまま使って情報のやり取りを阻害する者。[[DoS攻撃]]やメールボム、スパム投稿などを行う。後述するスクリプトキディであることも多い。
;フリーカー phreaker:電話回線に精通するクラッカー。送話器から一定の周波数を送信したりクレジットカードを悪用したりして不正な通話を行う者などを指す。
;[[スクリプトキディ]] script kiddy :不正行為において、他者の真似事を好むクラッカーの総称。不正目的に作成されたアプリケーションの利用者、不正に複製された商用アプリケーションの複製者及び配布者など。マスコミで報道される多くの事件においての首謀者は、往々にしてスクリプトキディであることが多く、後述するワナビであることも多い。
;ワナビ wannabe
:コンピュータのうち、特にパーソナルコンピュータにおいてのハイレベルユーザーであるとともに、不正行為にある程度興味を持つ人物、もしくは知ったかぶりをするような人物。元は、「ハッカーになりたがる馬鹿」("I wanna be a hacker")から。日本語における[[俗語]]の「[[厨房 (ネット用語)|厨房]]」に近い意味合いで使われることも多い(この場合は、より蔑称的なヌーブ '''noob''' が使われることが多い)。不正に複製されたアプリケーション等の利用者、匿名コミュニティにて活動する自称ハッカーなど。
;[[ニュービー]] newbie
:コンピュータ技術に興味を持ち始めた素人・学習者。「ワナビになったばかりの馬鹿」( '''new wannabe''' )もしくは「新米」( '''new boy''' )から転じた。さらに転じて'''newb''','''noob'''とも呼ばれる。ニュービーの中には好奇心からハッカーコミュニティで取るに足らない質問を連発する人がいる。これに対する対応はハッカーによって異なり、無視したり軽蔑したりする人もいれば、時間をかけて質問につきあう人もいる。その末路もさまざまであり、中途半端な知識の習得で満足してワナビと呼ばれるようになる人もいれば、きちんと知識を習得して正真正銘のハッカーになる人もいる。
;ブラックハッカー black hat hacker<ref name="itmedia/news064_2">{{Cite web|和書|title=IT用語から差別や偏見一掃へ、業界で進む言い換え ホワイトハッカーもダメ? いやそれってそもそも|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2104/26/news064_2.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-04-26|language=ja}}</ref>
:悪意を持ち、[[サイバー攻撃]]などを行うハッカー。hatを省略するのは日本特有の表記であるとされる<ref name="itmedia/news064_2" />。:「攻撃者(attacker)」への言い換えが提案されている<ref name="itmedia/news064_2" />。
;{{Visible anchor|ホワイトハッカー|itmedia/news064_2}}、善玉ハッカー white hat hacker<ref name="itmedia/news064_2" />:善意を持ち、技術を善良な目的に利用するハッカー。hatを省略するのは日本特有の表記であるとされる<ref name="itmedia/news064_2" />。:「攻撃的なセキュリティ研究者(offensive security researcher)」への言い換えが提案されている<ref name="itmedia/news064_2" />。
== ハッカーの一覧 ==
{{main|ハッカーの一覧}}
===フィクションの中のハッカー===
狭義のハッキング(クラッキング)をするキャラクターは、「[[クラッカー_(コンピュータセキュリティ)#フィクションに登場するクラッカー]]」を参照。
== 関連書籍 ==
* 『the HACKER'S DICTIONARY ― A GUIDE TO THE Computer Wizarda』(HARPER & ROW, PUBLIHSERS,1983)
* ガイ・L・スティール・ジュニア、ドナルド・R・ウッズ、ラファエル・A・フィンケル、マーク・R・クリスピン、[[リチャード・ストールマン|リチャード・M・ストールマン]]、ジョフリー・S・グッドフェロー共著/犬伏茂之訳『ハッカー英語辞典』(原題は『the HACKER'S DICTIONARY』。自然社ペーパーバックス)[[ジャーゴンファイル]]も参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ハッキング]]
* [[ハッカー文化]]
* {{仮リンク|セキュリティハッカー|en|Security hacker}}
* [[ライフハック]]
* [[ブリコラージュ]]
* [[ハッカソン]]
== 外部リンク ==
* [http://hacks.mit.edu/Hacks/Gallery.html Interesting Hacks To Fascinate People: The MIT Gallery of Hacks](英語)
* [http://linuxjf.osdn.jp/JFdocs/history.html ハッカーの国小史] ([http://linuxjf.osdn.jp/JFdocs/history.txt テキスト形式])
* [http://thireus.geeks.li/ Challenges to entertain your mind and progress in the computer security (Hacker-Challenge)]{{リンク切れ|date=2020年3月}}
{{ハッキング}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はつか}}
[[Category:ハッカー文化 (サブカルチャー)]] | 2003-03-03T19:37:14Z | 2023-10-23T00:10:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC |
3,326 | バッファオーバーフロー | バッファオーバーフロー(英: buffer overflow)またはバッファオーバーラン(英: buffer overrun)は、コンピュータのプログラムにおけるバグのひとつ、またはそれにより引き起こされる現象で、プログラムがバッファに割り当てられた空間よりも大きなデータを書き込むことで、データがバッファ境界からあふれ、バッファの範囲外のメモリを上書きし、元々そのメモリにあったデータを破壊してしまうことを指す。
バッファオーバーフローは、上書きされるメモリ領域がスタック領域なのかヒープ領域なのかに応じてそれぞれスタックベースのバッファオーバーフロー、ヒープベースのバッファオーバーフローと呼ばれる。なお、名称が似ているスタックオーバーフローとは別の現象である。
サイバーセキュリティ・情報セキュリティの分野では、バッファオーバーフローはメモリ破壊系の脆弱性の一つとして知られ、攻撃者がバッファオーバーフロー脆弱性のあるプログラムに意図的に悪意のあるデータ(コード)を与えることにより、コンピュータの制御を乗っ取ってしまうことを可能にする。バッファオーバーフロー脆弱性を悪用した攻撃をバッファオーバーフロー攻撃という。
以下の例では、プログラム中の隣接したアドレスに2つのデータ項目が定義されている。一つは 8 バイトの文字列バッファ A、もう一つは 2 バイトの整数 B である。初期状態では、A は 0 で初期化されており可読な文字は入っていない。また、B には整数 1,979 が格納されている。文字のバイト幅は 1 バイトとする。また、エンディアンはビッグエンディアンとする。
ここで、プログラムがバッファ A にヌル終端文字列「excessive」を書きこもうとした場合を考える。文字列の長さチェックが行われていないと、この処理で B の値が上書きされてしまう。
プログラマとしては B を変更する意図はなかったが、B の値は文字列の一部で置き換えられてしまった。この例ではビッグエンディアンとASCIIコードを仮定しているため、文字「e」とゼロというバイト列は整数 25,856 として解釈される。ここで、仮にプログラム中で A と B 以外にデータ項目変数が定義されていないとものすると、さらに長い文字列を書き込んで B の終端を超えた場合にはセグメンテーション違反などのエラーが発生してプロセスが終了する。
コンピュータプログラムを作るとき、固定長のバッファとよばれる領域を確保してそこにデータを保存するという手法がよく使われる。
たとえば、電子メールアドレスは200文字を超えないだろうと予想して
これがバッファオーバーフローである。仮にはみ出した部分にプログラムの動作上意味を持つデータがあれば、これを上書きして破壊することにより、プログラムはユーザの意図しない挙動を示すであろう。
このようにバッファオーバーフローは、プログラムが用意したバッファの大きさを超えてデータを書き込んでしまうバグである。
C言語の標準入出力関数であるgets関数はバッファ長のチェックを行わないで標準入力をバッファに書き込むので、この関数を使う全てのプログラムには、バッファオーバーフローによる不正動作の危険性がある。また使い方が分かりやすいという理由でC言語初心者向けの入門プログラミングでしばしば用いられるscanf関数も書式指定を誤った場合は同じ危険性を持っている。これらの関数を実用的なプログラムで用いる場合には注意が必要である。
次のプログラムはgets関数を用いた例である(セキュリティ上、gets関数はそれ自体をテストする以外の目的で使用されるべきではない。Linux Programmer's Manualには「gets()は絶対に使用してはならない」と書かれている)。バッファ長として200バイト確保されている。gets関数はバッファの長さについては関知しないため、200バイトを超えても改行文字かEOFが現れなければバッファオーバーフローが発生する。
gets関数の代わりにfgets関数を用いることで、この問題を回避できる(fgets#getsを置き換える例等を参照)。fgets関数にはバッファのサイズを渡すことができ、このバイト数を超えてバッファに書き込みを行わない。したがってバッファサイズが正しく設定されていれば、fgets関数においてバッファオーバーフローは起こり得ない。
これ以外のC言語の標準文字列処理関数の多くにも同様の問題(脆弱性)がある。
情報セキュリティ・サイバーセキュリティにおいてバッファオーバーフロー攻撃は、バッファオーバーフローの脆弱性を利用した攻撃である。バッファオーバーフローの脆弱性は整数オーバーフロー、書式文字列バグ、Use-After-Freeなどと同様、メモリ破壊系の脆弱性に相当する。
共通脆弱性タイプCWEには、
などが登録されており、これら3つはいずれも「CWE-119: メモリバッファの境界内における操作の不適切な制限」に属している。
これら3つのバッファオーバーフロー脆弱性が頻繁に生じるのはC言語やC++であり、古典的バッファオーバーフローはアセンブリ言語でも生じる。
これら3種類のバッファオーバーフローはセキュリティポリシーの外側で任意のコードを攻撃者に実行可能にする事が頻繁にある。さらに任意のコードの実行により他のセキュリティサービス機構を破壊する事も可能になる。またこれら3種類のバッファオーバーフローはクラッシュの原因にもなるので、意図的にクラッシュさせる攻撃が可能になる。
CWEでは「CWE-193: Off-by-oneエラー」がバッファオーバーフローの原因になると述べられており、整数オーバーフローもバッファオーバーフローの原因になる事が述べられている。
バッファAの値を他のバッファBにコピーするとき、BのバッファサイズがAのバッファサイズよりも大きいことをチェックしない場合に生じる脆弱性である。この脆弱性は、プログラマーがこのようなチェックの実装を怠った事により生じる。これはプログラマーが最低限のセキュリティチェックすらしていないことを強く示唆する。
脆弱性の具体例としては、例えばC言語やC++において、配列サイズをチェックする事なく、配列にstrcpyやscanfで文字列等をコピーするといったものがある。攻撃者は意図的に大きな入力をstrcpy、scanf、getsに与えることで、古典的バッファオーバーフローを不正に生じさせる事ができる。
例えば攻撃者がバッファAをバッファオーバーフローさせる事により、Aの隣りにある変数xを不正に変更できた場合、xがセキュリティ上重要なデータ(例えば管理者権限を持っているか否かを判定するビットを保持している)であれば、セキュリティ上重要な問題が生じる。
スタックベースのバッファオーバーフローは「上書きされるバッファがスタック(すなわち、局所変数や、まれに関数のパラメータ)にアロケートされる」事が可能な場合に生じる脆弱性である。このような脆弱性はファジングを使用して発見されることが多い。
スタックベースのバッファオーバーフローについて説明するためにプロセスのメモリ利用方法を復習する。オペレーティングシステム (OS) は各ユーザプロセスに仮想アドレス空間を割り振り、WindowsやLinuxなどのOSでは上位のアドレスをカーネルが使うカーネル空間とし、残りをユーザプロセス自身が用いるユーザ空間とする。カーネル空間はユーザプロセスがアクセスする事はできず、通常のプログラミングでは意識する事はない。
C言語やC++で書かれたプログラムの場合、ユーザ空間をさらに分割する。これらの言語で書かれたプログラムでは、仮想アドレスの最低位の箇所から順にプログラムの実行コードを置くコード領域(テキスト領域とも)、初期化された静的変数・大域変数を置くデータ領域、初期化されていない静的変数・大域変数を置くbss領域、malloc等で動的に確保されたメモリを置く(可変サイズの)ヒープ領域を確保する。
一方、ユーザ空間における仮想アドレスの最高位の箇所は関数のコールスタックを保存する(可変サイズの)スタック領域として用いられる。
スタック領域はプロセス中で呼ばれる関数のコールスタックを格納する領域で、コールスタック中の各関数のデータ(スタックフレームという)を並べて格納している。プロセス中で関数fが関数gを呼び出した場合、コールスタックは以下のようになる:
プロセスで現在実行中の関数のスタックフレームの位置を覚えるためにプロセッサによって用いられるのがフレームポインタで、具体的には(現在実行中の関数がgであれば)gのSFPのアドレスを指している。SFPは関数呼び出し時に呼び出し元の関数のフレームポインタのアドレスを覚えるための領域で、fがgを呼び出した際、スタックフレームの値(=fのSFPのアドレス)をgのSFPに格納する。なお、SFPは「Saved Frame Pointer」の略で、日本語訳は「退避されたフレームポインタ」である。
一方gのリターンアドレスは呼び出し元関数fのプログラムカウンタのアドレスを格納する。
今例えば、関数gはユーザから(ASCIIコードの)文字列を入力を受け取り、入力された文字列を配列char A[10]に格納するとする。Aのサイズは10であるので、関数gのプログラマはユーザから受け取った文字列をAに格納する前に、その文字列が本当に10文字以下なのかをチェックする機構をgに実装しておかねばならない。このようなチェック機構を実装するのを忘れていた場合、悪意のあるユーザ(以下、「攻撃者」と呼ぶ)によりスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃を受けてしまう危険がある。
具体的には、攻撃者は以下のような文字列をgに入力する:
(シェルコード)...(シェルコードの仮想アドレス)
ここでシェルコードとは、何らかの悪意のある短いプログラムで、例えば攻撃者のためにバックドアを開けたり、マルウェアのダウンロードを行ったりする。
この文字列が配列Aの先頭から順に書き込まれていくと、A[i]のアドレスはiが大きいほど大きくなるので、攻撃者が入力文字列の長さを適切に選べば、アドレス空間には以下のようにデータが書き込まれ、gのリターンアドレスがシェルコードの仮想アドレスに上書きされる:
よって関数gが終了したとき、gのリターンアドレス(の箇所に上書きされたシェルコードの仮想アドレス)が読み込まれるので、プログラムカウンタはシェルコードの位置にジャンプし、攻撃者の狙い通り、シェルコードが実行される事になる。
上で述べた攻撃のアイデアが実行可能であるためには、攻撃者がリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスを正確に知り、それを関数gに入力する必要があるが、スタックは動的に変化するため、これは容易ではない。そこで本節ではリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスの「おおよその値」さえ分かれば攻撃が可能になるテクニック(NOPスレッド)を述べる。
NOPとは「何も行わない」事を意味するアセンブリ命令で、本来はタイミングを合わせるなどの動機により何もせずにCPU時間を消費するために用いられる。NOPスレッド(sled、そり)とはこのNOP命令を複数個並べたもので、これを利用する事により攻撃対象の関数をシェルコードの位置まで滑走させる。
具体的には攻撃者は下記のような文字列を攻撃対象の関数gに入力する:
NOP ... NOP (シェルコード)(戻りアドレス)...(戻りアドレス)
最初の「NOP ... NOP」の部分がNOPスレッドである。攻撃者がNOPスレッドの長さや戻りアドレスの繰り返し回数を適切に選んでgに入力すると、スタック領域は例えば以下のようになる(攻撃に関係する部分だけ抜書き):
これでgのリターンアドレスは「戻りアドレス」にセットされるので、攻撃者が「戻りアドレス」としてNOPスレッド部分のアドレスを指定する事に事前に成功していれば、gの終了時にNOPスレッドへとプログラムカウンタが移動する。するとプログラムはNOPを順に実行して右へ右へと移動し、シェルコードの位置にたどり着いてシェルコードが実行されるので、攻撃成功となる。戻りアドレスがNOPスレッドのどこかに落ちさえすればよいので、前節で述べた攻撃違い、リターンアドレスにセットする値を完璧に制御する必要はなく、NOPスレッドの長さ分の誤差が発生しても攻撃が成功する事になる。
NOPスレッドは頻繁に使用されるため、多くの侵入防止システムベンダーでシェルコードの判定に使用されている。このため、エクスプロイトの作成者側では、シェルコードの実行に影響を及ぼさない(NOP以外の)任意の命令をランダムに選んでスレッドを構成することが常套手段となっている。
攻撃を実行するには、あとは「戻りアドレス」として具体的にどの程度の値を代入すればよいかを知ればよい。しかし攻撃の標的となる組織の環境で戻りアドレスの絶対アドレスがいくつ程度の値になるのかを事前に知る事は難しい。そこで相対アドレスを利用して戻りアドレスを適切に選ぶ攻撃テクニックを紹介する。この攻撃のシナリオでは、攻撃者はシェルコードを含んだ攻撃用のプログラムh(をコンパイルして作った実行コード)を攻撃の標的となる組織に送りつけ、hのサブルーチンとしてgを呼び出す事で攻撃を行う。
この攻撃用プログラムhでは、変数xを宣言が宣言されているものとする。hが標的の環境でgを呼び出したとき、gのスタックフレームはスタック領域上でhのスタックフレームのすぐ隣に配置される事から、攻撃用文字列を入れ込むgの変数の絶対アドレスvar_addは
var_add = &x - (小さな値)
になるはずである。ここで「&x」はxのアドレスを表す。既に述べたようにNOPスレッドを使った攻撃では戻りアドレスとしてvar_add近辺の値を選べば成功するので、攻撃者はこの「小さな値」を決定しさえすればよい。
よって攻撃者は関数gの実行コードを事前に入手し、(シェルスクリプト等を使って)NOPスレッドの長さや戻りアドレスを変えながら攻撃対象のプログラムを何度も実行することで適切な「小さな値」を選び、その「小さな値」を攻撃用プログラムhに書き込んでおけばよい。
関数gに埋め込む攻撃用の文字列は「NOPスレッド+シェルコード+戻りアドレスの繰り返し」という形をしており、gのリターンアドレスが「戻りアドレスの繰り返し」の部分に落ちない限り攻撃は成功しないので、関数gに攻撃用文字列を埋め込む箇所とgのリターンアドレスとが(仮想アドレス空間上で)あまりに近い場合は、攻撃に必要な長さのシェルコードを埋め込めないという問題が攻撃者に生じる。
しかし攻撃者が攻撃の標的となるマシンの環境変数を設定できる状況下では、攻撃者はこの問題を回避した攻撃が可能である。標的マシンでプロセスが実行される際には、そのプロセスの仮想アドレス空間に環境変数が読み込まれるので、攻撃者が事前に標的マシンの環境変数に「NOPスレッド+シェルコード」を書き込んでおけば、プロセスの仮想アドレスに「NOPスレッド+シェルコード」ができあがる事になる。プロセス中で関数gが実行された際、攻撃者は攻撃用文字列をgに入力して、リターンアドレスをそのNOPスレッドに書き換えれば攻撃が成功する事になる。
より確実な攻撃方法として、攻撃プログラムhの中に環境変数を読み込む関数(getenv()等)を用いるものもある。
NOPスレッドを長くしすぎると、gのリターンアドレスの位置にすらNOPが書き込まれてしまって攻撃に失敗する為、NOPスレッドを長くして攻撃成功率を上げる手法には限界がある。しかし攻撃者がプロセスのヒープ領域の値をも自由に操れるという条件下では、攻撃者はヒープスプレーというテクニックを用いる事により、この限界を突破した攻撃を行う事が可能になる。
ヒープスプレーでは、NOPスレッドとシェルコードを、スレッド領域ではなくヒープ領域に埋め込み、戻りアドレスとしてヒープ領域中のNOPスレッドを指定する。ヒープ領域上のNOPスレッドにはスレッド領域のNOPスレッドと違い前述した長さの上限が存在しないため、「長いNOPスレッド+シェルコード」の組み合わせを大量にヒープ中に書き込むことで攻撃成功率を上げる。
ウェブブラウザではJavaScriptなどのクライアントサイドスクリプトにより任意の長さのヒープを作成できるので、ブラウザを対象にしたドライブバイダウンロード攻撃ではヒープスプレーが使われる事が多い。
攻撃者の入力したデータ(エクスプロイトなど)のアドレスは未知であるが、そのデータのアドレスがレジスタに格納されていることは分かっているという場合には、トランポリン(trampolining)と呼ばれる手法が利用される。この手法では、攻撃者の入力したデータにジャンプするオペコードのアドレスをリターンアドレスへ上書きする。例えばアドレスがレジスタRに格納されている場合、jump R(あるいはcall Rなど)というオペコードが格納されているアドレスにジャンプさせることでユーザの入力したデータを実行させる。この手法で使用するオペコードはDLLや実行ファイルの中のものを利用する。ただし、一般的にオペコードのアドレスにヌル文字が含まれていてはならず、また処理に使用するオペコードのアドレスはアプリケーションやオペレーティングシステムのバージョンによって異なる。Metasploitプロジェクトはこのような目的に適したオペコードのデータベースの一つであり、Windowsで使用できるオペコードが記載されている。
mallocなどでヒープ領域に動的にメモリを確保する関数に対するオーバーフロー攻撃である。基本的な攻撃手法としては、関数がヒープに確保したメモリ領域が2つあるとき、そのうち一方の領域に対して確保済みのメモリサイズより大きなデータを入力する事でオーバーフローを起こし、もう一方のメモリ領域を書き換えるというものである。mallocは複雑な方法でメモリ確保の場所を決定しているものの、連続して2度mallocを実行した場合、その結果として確保される2つのメモリ領域は(仮想アドレス空間上で)近くに配置されている傾向があるため、上述のようなバッファオーバーフロー攻撃が可能になる。
より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃手法を説明する為の準備として、mallocのメモリ管理方法を説明する。なおメモリ管理方法の詳細はmallocの実装に依存するため、実行環境によって細かなところは下記の説明と異なる部分があるので注意されたい。
mallocは未使用なヒープ領域(の一部)をメモリプールとして管理しており、メモリプールは複数のchunkと呼ばれる単位からなっている。プログラム中でmallocが実行されるたびに、管理しているchunkの中から適切なサイズのものをプログラムに返す。適切なサイズのchunkがない場合は、システムコールにより新たなchunkを確保してプログラムに返す。mallocはchunkを(サイズ毎に異なる複数の)連結リストとして管理しており、chunkをプログラムに渡す際にこの連結リストからchunkを削除し、プログラムがメモリ領域をfreeすると、freeされたchunkが連結リストに加わる。
chunkは連結リストとして管理されているので、各chunkには「次のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「flink」、linuxでは「fd」)や「前のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「blink」、linuxでは「bk」)がある。
未使用chunkと隣接するメモリ領域が解放された場合は、解放されたメモリ領域と未使用chunkとを連結 (coalesce) する事で1つの大きなchunkを作って管理する。
より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃として、mallocがメモリ管理に使うメタデータを書き換える手法がある。例えばWindows XP SP1またはそれ以前のWindowsでは、mallocしたメモリ領域をオーバーフローさせる事で、そのメモリ領域の(仮想アドレス空間で)隣りにある未使用chunkのflinkやblinkを任意のアドレスに書き換えるという攻撃手法が可能であった。flinkやblinkはcoalesceのタイミングでmallocにより参照されるので攻撃が成功する。
バッファオーバーフロー攻撃の結果として、write-what-where状態("write-what-where condition"、CWE-123。任意の場所に任意の値を書き込むことができる状態)になる危険がある。
write-what-where状態になると、セキュリティポリシーのスコープ外にメモリのデータを書き込むことができる。セキュリティポリシーのスコープ外にコードを置くことで、攻撃者はほぼ確実に任意のコードを実行できるようになる。管理者権限を制御しているフラグ等が書き換えられる場合も、攻撃者は任意のコードが実行可能になる。
攻撃者は意図的にバッファオーバーフローを起こすによりプログラムをクラッシュさせたり、処理を書き換えて無限ループに追い込むことでプログラムをフリーズさせてたりする事でプログラムの可用性を侵害できる。
古典的バッファオーバーフローやヒープオーバーフローなどの結果として、関数ポインタの書き換えが可能になるケースがある。攻撃者はnmコマンドを用いる事でプログラム中で用いられている様々な関数のアドレスを知る事ができるので、nmの結果を参照して攻撃に利用可能な関数に関数ポインタの値を書き換えられる。
バッファオーバーフローを検出するコードをコンパイル時に実行コードに挿入する手法がある。典型的手法としては、ローカル変数とSFPの間に、カナリア(canary)もしくはクッキーと呼ばれる領域を挿入する方法である。プログラムは実行中カナリアを監視し続け、バッファオーバーフローによりカナリアが書き換わったらプログラムを停止する。
標準Cライブラリ等にはバッファオーバーフロー検知機能が施されていない関数が収録されているので、これを検知機能を持った関数に置き換えたライブラリを標準Cライブラリの代わりに使う事で攻撃を検知できる。例えばLibsafeは標準Cライブラリのstrcpy(*dest,*src)をより安全な関数に置き換えており、入力srcのサイズがコピー先のdestのサイズが大きいか否かを検知できる。
典型的なスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき領域にシェルコードやNOP命令のような実行コードを置き、これをプログラムに実行させる事で攻撃が成立する。そこでこのような攻撃を防ぐため、データを格納すべき領域では実行不可にする、Write XOR eXecute(W ⊕ {\displaystyle {\boldsymbol {\oplus }}} XもしくはW^Xと略す)という対策手法が知られている。W ⊕ {\displaystyle \oplus } XのWindowsにおける実装はDEP(英: data execution prevention、データ実行防止)と呼ばれる。またDEPではSEH例外ハンドラへのポインタが上書きされないように明示的に保護を行う。 一部のUNIX(OpenBSDやmacOSなど)はW ⊕ {\displaystyle \oplus } Xなどの実行保護が有効になった状態で出荷されている。それ以外のオプショナルなパッケージとしては以下のものが挙げられる。
また、プロプライエタリなアドオンとしては以下のものがある。
なお、2018年現在広く使われているx64アーキテクチャのプロセッサでは、W ⊕ {\displaystyle \oplus } Xを実現する為にデータ領域である事を識別するNXビットという仕組みがハードウェアレベルでサポートされている(インテルではNXビットのことをXDビットと呼んでいるが同一のものである)。
バッファオーバーフロー攻撃を含めたメモリ破壊攻撃全般を緩和する技術としてASLR(Address Space Layout Randomization、アドレス空間配置のランダム化)がある。これは仮想メモリ空間におけるスタック領域やコード領域の位置、読み込まれるDLLの位置等を(プログラム起動時もしくはOS自身の起動時に)ランダムに変える技術で、これにより攻撃者が攻撃に有効な実行コードの特定箇所を指定してメモリ改ざんを行うのを困難にする。
ASLRはバッファオーバーフロー攻撃の発展形であるReturn-to-libc攻撃(後述)を緩和できるが、さらにその発展形であるReturn-oriented programmingには対抗できない。
カーネル空間のASLRをKASLR(kernel address space layout randomization)といい、linuxカーネル(バージョン3.14以降)、iOS(バージョン6以降)などで実装されている。またKASLRをバイパスしようとする攻撃に対抗する為の機構としてKernel page-table isolationがある。
gccとg++でコンパイルとスタック領域とヒープ領域に対してはASLRを用いるが、コード領域にASLRを用いるにはオプション「-pie」を使わねばならない。また共有ライブラリにASLRを用いるにはオプション「-fPIC」を指定する。
C言語やC++以外の言語ではバッファオーバーフローが発生しないよう対策が取られているものも多く、コンパイル時にバッファオーバーフローのチェックを行ったり、実行時にバッファオーバーフローに対する警告や例外を上げたりするものもある(Ada、Eiffel、LISP、Modula-2、Smalltalk、OCaml、およびC言語から派生したCycloneやD言語など)。
Javaプラットフォームや.NET Frameworkでは全ての配列に対して境界チェックが必須とされる。ほぼすべてのインタプリタ言語ではバッファオーバーフローへの対策が行われており、エラー発生時にはその状態が明確に伝えられる。境界チェックを行うのに十分な型情報を保持しているようなプログラミング言語では、境界チェックの有効・無効を切り替えるためのオプションが提供されていることもある。
バッファオーバーフロー攻撃は主にC言語やC++を対象としたものなので、以下ではプログラミング言語としてC言語かC++を選んだ場合に対しての対策を述べる。
バッファオーバーフロー攻撃を防ぐには、領域長とデータ長を意識したプログラミングを行う事が重要である:
標準Cライブラリを使う代わりに、バッファあふれを未然に防いだりエラーとして検出してくれたりするセキュアなライブラリを使う事も重要である。このようなライブラリとして以下のようなものがある。
またBSD libcなど、Cライブラリの実装によってはstrlcpyやstrlcatといった、より安全に配慮した文字列用関数が用意されている。
静的コード解析の際、前述した領域長とデータ長を意識したプログラミングが行われているか再確認し、strcpy, sprintf 等のデータ領域長を意識しないライブラリ関数が使用されていないか、使用されているならその入力長の計算が間違っていないかを確認する。またヒープオーバーフロー対策としてmalloc/freeやnew/deleteの多用に注意し、関数ポインタの書き換えを防ぐために関数ポインタが多用に注意し、攻撃パターンを見逃す事がないようデータの一部を切り捨てている関数に注意する。
strcpy等のバッファオーバーフローが起こりやすい関数の使用に対して警告を出してくれる関数名照合型検査ツールや、各種ソースコード検査ツールを使用してバッファオーバーフロー対策を行う。開発環境の中にはソースコード検査ツールをオプションとして備えているものもあるので、それを利用する事もできる。
またソースコードが手に入らない製品等を利用する場合は、ファジングツールでブラックボックス解析する。
既に述べたように、典型的なスタックベースのオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき箇所にシェルコードやNOP命令のようなコードを置き、リターンアドレスを書き換えてこれらのコードにジャンプして、これらのコードを実行する必要があった。しかしW ⊕ {\displaystyle \oplus } Xが実装された実行環境ではデータを格納すべき箇所におけるコード実行を不許可としているので、こうしたオーバーフロー攻撃を仕掛ける事はできない。
そこでW ⊕ {\displaystyle \oplus } Xを回避する為に考案されたのがReturn-to-libc攻撃である。この攻撃では、リターンアドレスのジャンプ先をデータ格納箇所に書き換えるのではなく、標準Cライブラリ(libc)のような共有ライブラリ・DLLにジャンプするよう書き換える。こうしたライブラリはデータ格納箇所以外に置かれているので(W ⊕ {\displaystyle \oplus } Xが実装された環境においても)実行許可がある。そこで攻撃者はライブラリ内の関数を悪用して、攻撃を仕掛ける事ができる。
実行環境がASLRを実装していれば、libc等のライブラリの仮想アドレスはランダムに変わるので、攻撃者がジャンプ先をライブラリに落ちるようリターンアドレスを書き換えるのは困難になる。
Return-to-Register攻撃とは「ret命令実行後にレジスタが指しているアドレスに不正な命令コードを挿入し、その上で”そのレジスタ値に実行を移す命令群が格納されているアドレス”でリターンアドレスを書き換える攻撃」のことである。
例えばレジスタAがバッファの先頭へのポインタを格納しているとすると、そのときレジスタAをオペランドにとる任意のjumpまたはcall命令が実行フローの支配権を得るのに使用できる。
ret2esp(Return to esp)攻撃は、2017年現在のASLRの実装のデフォルトではコード領域(.textセクション)をランダマイズしない事を利用してASLRを回避する攻撃手法である。ここでespはx86におけるスタックポインタである。この攻撃は.textセクション内に「jmp esp」のような命令がある場合に成立する。攻撃者はバッファオーバーフローを利用してespの(仮想アドレス空間上の)下にシェルコードを配置した上で、リターンアドレスを「jmp esp」の箇所に書き換える。するとまずリターンアドレスの書き換えにより「jmp esp」のところにジャンプし、次に「jmp esp」が実行されてespの箇所にジャンプするので、その下に配置したシェルコードが実行される事になる。
バッファオーバーフローがある程度公に文書化されたのは1972年の初めで、Anderson 1972 で以下のように説明されている。
Anderson 1972, p. 61: The code performing this function does not check the source and destination addresses properly, permitting portions of the monitor to be overlaid by the user. This can be used to inject code into the monitor that will permit the user to seize control of the machine.
この処理を実行するコードは読み込み元と書き込み先のアドレスに対するチェックを適切に行なっておらず、モニターの一部に対しユーザによる上書きを許すことになっている。これはモニターにコードを挿入するのに利用される可能性があり、結果としてユーザがマシンの制御を掌握する可能性がある。
モニターとは、現在カーネルと呼ばれているのと同じものである。
バッファオーバーフローを利用した悪意のあるエクスプロイトで最初に文書化されたのは、1988年に書かれたMorris wormがインターネット上で増殖するのに利用していたエクスプロイトのうちの一つである。攻撃対象のプログラムはUNIXのサービスであるfingerであった。 1995年、Thomas Lopaticはそれとは独立にバッファオーバーフローを発見し、セキュリティに関するメーリングリストBugtraqへ投稿した。 1996年、エリアス・レヴィ(ハンドルネームAleph one)はオンラインマガジンPhrackで記事"Smashing the Stack for Fun and Profit"を発表した。 これはスタックベースのバッファオーバーフローを使用したエクスプロイトを手順を追って説明していく内容である。
これ以降、少なくとも2つの有名なインターネットワームがバッファオーバーフローを利用したエクスプロイトで多くのシステムに被害を与えている。2001年にはCode RedがマイクロソフトのInternet Information Services (IIS) 5.0のバッファオーバーフローを利用している。 また2003年にはSQL SlammerがMicrosoft SQL Server 2000の動作するマシンに被害を与えている。
2003年には、市販のXboxのゲームに含まれるバッファオーバーフローが利用され、無認可のソフトウェア(例えばHomebrewのゲームなど)をModチップなどのハードウェアの改造なしに動作させるのに利用された。 PlayStation 2では同じ目的のためにPS2 Independence Exploitが使用される。またWiiではHomebrewが利用されるが、これはゼルダの伝説 トワイライトプリンセスに存在するバッファオーバーフローを利用している。 | [
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"text": "バッファオーバーフロー(英: buffer overflow)またはバッファオーバーラン(英: buffer overrun)は、コンピュータのプログラムにおけるバグのひとつ、またはそれにより引き起こされる現象で、プログラムがバッファに割り当てられた空間よりも大きなデータを書き込むことで、データがバッファ境界からあふれ、バッファの範囲外のメモリを上書きし、元々そのメモリにあったデータを破壊してしまうことを指す。",
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"text": "バッファオーバーフローは、上書きされるメモリ領域がスタック領域なのかヒープ領域なのかに応じてそれぞれスタックベースのバッファオーバーフロー、ヒープベースのバッファオーバーフローと呼ばれる。なお、名称が似ているスタックオーバーフローとは別の現象である。",
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"text": "サイバーセキュリティ・情報セキュリティの分野では、バッファオーバーフローはメモリ破壊系の脆弱性の一つとして知られ、攻撃者がバッファオーバーフロー脆弱性のあるプログラムに意図的に悪意のあるデータ(コード)を与えることにより、コンピュータの制御を乗っ取ってしまうことを可能にする。バッファオーバーフロー脆弱性を悪用した攻撃をバッファオーバーフロー攻撃という。",
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"text": "以下の例では、プログラム中の隣接したアドレスに2つのデータ項目が定義されている。一つは 8 バイトの文字列バッファ A、もう一つは 2 バイトの整数 B である。初期状態では、A は 0 で初期化されており可読な文字は入っていない。また、B には整数 1,979 が格納されている。文字のバイト幅は 1 バイトとする。また、エンディアンはビッグエンディアンとする。",
"title": "バッファオーバーフローの具体例"
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"text": "ここで、プログラムがバッファ A にヌル終端文字列「excessive」を書きこもうとした場合を考える。文字列の長さチェックが行われていないと、この処理で B の値が上書きされてしまう。",
"title": "バッファオーバーフローの具体例"
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"text": "プログラマとしては B を変更する意図はなかったが、B の値は文字列の一部で置き換えられてしまった。この例ではビッグエンディアンとASCIIコードを仮定しているため、文字「e」とゼロというバイト列は整数 25,856 として解釈される。ここで、仮にプログラム中で A と B 以外にデータ項目変数が定義されていないとものすると、さらに長い文字列を書き込んで B の終端を超えた場合にはセグメンテーション違反などのエラーが発生してプロセスが終了する。",
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"text": "コンピュータプログラムを作るとき、固定長のバッファとよばれる領域を確保してそこにデータを保存するという手法がよく使われる。",
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"text": "たとえば、電子メールアドレスは200文字を超えないだろうと予想して",
"title": "バッファオーバーフローの具体例"
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"text": "これがバッファオーバーフローである。仮にはみ出した部分にプログラムの動作上意味を持つデータがあれば、これを上書きして破壊することにより、プログラムはユーザの意図しない挙動を示すであろう。",
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"text": "このようにバッファオーバーフローは、プログラムが用意したバッファの大きさを超えてデータを書き込んでしまうバグである。",
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"text": "C言語の標準入出力関数であるgets関数はバッファ長のチェックを行わないで標準入力をバッファに書き込むので、この関数を使う全てのプログラムには、バッファオーバーフローによる不正動作の危険性がある。また使い方が分かりやすいという理由でC言語初心者向けの入門プログラミングでしばしば用いられるscanf関数も書式指定を誤った場合は同じ危険性を持っている。これらの関数を実用的なプログラムで用いる場合には注意が必要である。",
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"text": "次のプログラムはgets関数を用いた例である(セキュリティ上、gets関数はそれ自体をテストする以外の目的で使用されるべきではない。Linux Programmer's Manualには「gets()は絶対に使用してはならない」と書かれている)。バッファ長として200バイト確保されている。gets関数はバッファの長さについては関知しないため、200バイトを超えても改行文字かEOFが現れなければバッファオーバーフローが発生する。",
"title": "バッファオーバーフローの具体例"
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"text": "gets関数の代わりにfgets関数を用いることで、この問題を回避できる(fgets#getsを置き換える例等を参照)。fgets関数にはバッファのサイズを渡すことができ、このバイト数を超えてバッファに書き込みを行わない。したがってバッファサイズが正しく設定されていれば、fgets関数においてバッファオーバーフローは起こり得ない。",
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"text": "これ以外のC言語の標準文字列処理関数の多くにも同様の問題(脆弱性)がある。",
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"text": "情報セキュリティ・サイバーセキュリティにおいてバッファオーバーフロー攻撃は、バッファオーバーフローの脆弱性を利用した攻撃である。バッファオーバーフローの脆弱性は整数オーバーフロー、書式文字列バグ、Use-After-Freeなどと同様、メモリ破壊系の脆弱性に相当する。",
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"text": "共通脆弱性タイプCWEには、",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "などが登録されており、これら3つはいずれも「CWE-119: メモリバッファの境界内における操作の不適切な制限」に属している。",
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"text": "これら3つのバッファオーバーフロー脆弱性が頻繁に生じるのはC言語やC++であり、古典的バッファオーバーフローはアセンブリ言語でも生じる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "これら3種類のバッファオーバーフローはセキュリティポリシーの外側で任意のコードを攻撃者に実行可能にする事が頻繁にある。さらに任意のコードの実行により他のセキュリティサービス機構を破壊する事も可能になる。またこれら3種類のバッファオーバーフローはクラッシュの原因にもなるので、意図的にクラッシュさせる攻撃が可能になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "CWEでは「CWE-193: Off-by-oneエラー」がバッファオーバーフローの原因になると述べられており、整数オーバーフローもバッファオーバーフローの原因になる事が述べられている。",
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"text": "バッファAの値を他のバッファBにコピーするとき、BのバッファサイズがAのバッファサイズよりも大きいことをチェックしない場合に生じる脆弱性である。この脆弱性は、プログラマーがこのようなチェックの実装を怠った事により生じる。これはプログラマーが最低限のセキュリティチェックすらしていないことを強く示唆する。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "脆弱性の具体例としては、例えばC言語やC++において、配列サイズをチェックする事なく、配列にstrcpyやscanfで文字列等をコピーするといったものがある。攻撃者は意図的に大きな入力をstrcpy、scanf、getsに与えることで、古典的バッファオーバーフローを不正に生じさせる事ができる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "例えば攻撃者がバッファAをバッファオーバーフローさせる事により、Aの隣りにある変数xを不正に変更できた場合、xがセキュリティ上重要なデータ(例えば管理者権限を持っているか否かを判定するビットを保持している)であれば、セキュリティ上重要な問題が生じる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "スタックベースのバッファオーバーフローは「上書きされるバッファがスタック(すなわち、局所変数や、まれに関数のパラメータ)にアロケートされる」事が可能な場合に生じる脆弱性である。このような脆弱性はファジングを使用して発見されることが多い。",
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"text": "スタックベースのバッファオーバーフローについて説明するためにプロセスのメモリ利用方法を復習する。オペレーティングシステム (OS) は各ユーザプロセスに仮想アドレス空間を割り振り、WindowsやLinuxなどのOSでは上位のアドレスをカーネルが使うカーネル空間とし、残りをユーザプロセス自身が用いるユーザ空間とする。カーネル空間はユーザプロセスがアクセスする事はできず、通常のプログラミングでは意識する事はない。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "C言語やC++で書かれたプログラムの場合、ユーザ空間をさらに分割する。これらの言語で書かれたプログラムでは、仮想アドレスの最低位の箇所から順にプログラムの実行コードを置くコード領域(テキスト領域とも)、初期化された静的変数・大域変数を置くデータ領域、初期化されていない静的変数・大域変数を置くbss領域、malloc等で動的に確保されたメモリを置く(可変サイズの)ヒープ領域を確保する。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
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"text": "一方、ユーザ空間における仮想アドレスの最高位の箇所は関数のコールスタックを保存する(可変サイズの)スタック領域として用いられる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "スタック領域はプロセス中で呼ばれる関数のコールスタックを格納する領域で、コールスタック中の各関数のデータ(スタックフレームという)を並べて格納している。プロセス中で関数fが関数gを呼び出した場合、コールスタックは以下のようになる:",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "プロセスで現在実行中の関数のスタックフレームの位置を覚えるためにプロセッサによって用いられるのがフレームポインタで、具体的には(現在実行中の関数がgであれば)gのSFPのアドレスを指している。SFPは関数呼び出し時に呼び出し元の関数のフレームポインタのアドレスを覚えるための領域で、fがgを呼び出した際、スタックフレームの値(=fのSFPのアドレス)をgのSFPに格納する。なお、SFPは「Saved Frame Pointer」の略で、日本語訳は「退避されたフレームポインタ」である。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "一方gのリターンアドレスは呼び出し元関数fのプログラムカウンタのアドレスを格納する。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
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"text": "今例えば、関数gはユーザから(ASCIIコードの)文字列を入力を受け取り、入力された文字列を配列char A[10]に格納するとする。Aのサイズは10であるので、関数gのプログラマはユーザから受け取った文字列をAに格納する前に、その文字列が本当に10文字以下なのかをチェックする機構をgに実装しておかねばならない。このようなチェック機構を実装するのを忘れていた場合、悪意のあるユーザ(以下、「攻撃者」と呼ぶ)によりスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃を受けてしまう危険がある。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
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"text": "具体的には、攻撃者は以下のような文字列をgに入力する:",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
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"text": "(シェルコード)...(シェルコードの仮想アドレス)",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ここでシェルコードとは、何らかの悪意のある短いプログラムで、例えば攻撃者のためにバックドアを開けたり、マルウェアのダウンロードを行ったりする。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "この文字列が配列Aの先頭から順に書き込まれていくと、A[i]のアドレスはiが大きいほど大きくなるので、攻撃者が入力文字列の長さを適切に選べば、アドレス空間には以下のようにデータが書き込まれ、gのリターンアドレスがシェルコードの仮想アドレスに上書きされる:",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "よって関数gが終了したとき、gのリターンアドレス(の箇所に上書きされたシェルコードの仮想アドレス)が読み込まれるので、プログラムカウンタはシェルコードの位置にジャンプし、攻撃者の狙い通り、シェルコードが実行される事になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "上で述べた攻撃のアイデアが実行可能であるためには、攻撃者がリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスを正確に知り、それを関数gに入力する必要があるが、スタックは動的に変化するため、これは容易ではない。そこで本節ではリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスの「おおよその値」さえ分かれば攻撃が可能になるテクニック(NOPスレッド)を述べる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "NOPとは「何も行わない」事を意味するアセンブリ命令で、本来はタイミングを合わせるなどの動機により何もせずにCPU時間を消費するために用いられる。NOPスレッド(sled、そり)とはこのNOP命令を複数個並べたもので、これを利用する事により攻撃対象の関数をシェルコードの位置まで滑走させる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "具体的には攻撃者は下記のような文字列を攻撃対象の関数gに入力する:",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "NOP ... NOP (シェルコード)(戻りアドレス)...(戻りアドレス)",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "最初の「NOP ... NOP」の部分がNOPスレッドである。攻撃者がNOPスレッドの長さや戻りアドレスの繰り返し回数を適切に選んでgに入力すると、スタック領域は例えば以下のようになる(攻撃に関係する部分だけ抜書き):",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "これでgのリターンアドレスは「戻りアドレス」にセットされるので、攻撃者が「戻りアドレス」としてNOPスレッド部分のアドレスを指定する事に事前に成功していれば、gの終了時にNOPスレッドへとプログラムカウンタが移動する。するとプログラムはNOPを順に実行して右へ右へと移動し、シェルコードの位置にたどり着いてシェルコードが実行されるので、攻撃成功となる。戻りアドレスがNOPスレッドのどこかに落ちさえすればよいので、前節で述べた攻撃違い、リターンアドレスにセットする値を完璧に制御する必要はなく、NOPスレッドの長さ分の誤差が発生しても攻撃が成功する事になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "NOPスレッドは頻繁に使用されるため、多くの侵入防止システムベンダーでシェルコードの判定に使用されている。このため、エクスプロイトの作成者側では、シェルコードの実行に影響を及ぼさない(NOP以外の)任意の命令をランダムに選んでスレッドを構成することが常套手段となっている。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "攻撃を実行するには、あとは「戻りアドレス」として具体的にどの程度の値を代入すればよいかを知ればよい。しかし攻撃の標的となる組織の環境で戻りアドレスの絶対アドレスがいくつ程度の値になるのかを事前に知る事は難しい。そこで相対アドレスを利用して戻りアドレスを適切に選ぶ攻撃テクニックを紹介する。この攻撃のシナリオでは、攻撃者はシェルコードを含んだ攻撃用のプログラムh(をコンパイルして作った実行コード)を攻撃の標的となる組織に送りつけ、hのサブルーチンとしてgを呼び出す事で攻撃を行う。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この攻撃用プログラムhでは、変数xを宣言が宣言されているものとする。hが標的の環境でgを呼び出したとき、gのスタックフレームはスタック領域上でhのスタックフレームのすぐ隣に配置される事から、攻撃用文字列を入れ込むgの変数の絶対アドレスvar_addは",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "var_add = &x - (小さな値)",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "になるはずである。ここで「&x」はxのアドレスを表す。既に述べたようにNOPスレッドを使った攻撃では戻りアドレスとしてvar_add近辺の値を選べば成功するので、攻撃者はこの「小さな値」を決定しさえすればよい。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "よって攻撃者は関数gの実行コードを事前に入手し、(シェルスクリプト等を使って)NOPスレッドの長さや戻りアドレスを変えながら攻撃対象のプログラムを何度も実行することで適切な「小さな値」を選び、その「小さな値」を攻撃用プログラムhに書き込んでおけばよい。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "関数gに埋め込む攻撃用の文字列は「NOPスレッド+シェルコード+戻りアドレスの繰り返し」という形をしており、gのリターンアドレスが「戻りアドレスの繰り返し」の部分に落ちない限り攻撃は成功しないので、関数gに攻撃用文字列を埋め込む箇所とgのリターンアドレスとが(仮想アドレス空間上で)あまりに近い場合は、攻撃に必要な長さのシェルコードを埋め込めないという問題が攻撃者に生じる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし攻撃者が攻撃の標的となるマシンの環境変数を設定できる状況下では、攻撃者はこの問題を回避した攻撃が可能である。標的マシンでプロセスが実行される際には、そのプロセスの仮想アドレス空間に環境変数が読み込まれるので、攻撃者が事前に標的マシンの環境変数に「NOPスレッド+シェルコード」を書き込んでおけば、プロセスの仮想アドレスに「NOPスレッド+シェルコード」ができあがる事になる。プロセス中で関数gが実行された際、攻撃者は攻撃用文字列をgに入力して、リターンアドレスをそのNOPスレッドに書き換えれば攻撃が成功する事になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "より確実な攻撃方法として、攻撃プログラムhの中に環境変数を読み込む関数(getenv()等)を用いるものもある。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "NOPスレッドを長くしすぎると、gのリターンアドレスの位置にすらNOPが書き込まれてしまって攻撃に失敗する為、NOPスレッドを長くして攻撃成功率を上げる手法には限界がある。しかし攻撃者がプロセスのヒープ領域の値をも自由に操れるという条件下では、攻撃者はヒープスプレーというテクニックを用いる事により、この限界を突破した攻撃を行う事が可能になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ヒープスプレーでは、NOPスレッドとシェルコードを、スレッド領域ではなくヒープ領域に埋め込み、戻りアドレスとしてヒープ領域中のNOPスレッドを指定する。ヒープ領域上のNOPスレッドにはスレッド領域のNOPスレッドと違い前述した長さの上限が存在しないため、「長いNOPスレッド+シェルコード」の組み合わせを大量にヒープ中に書き込むことで攻撃成功率を上げる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ウェブブラウザではJavaScriptなどのクライアントサイドスクリプトにより任意の長さのヒープを作成できるので、ブラウザを対象にしたドライブバイダウンロード攻撃ではヒープスプレーが使われる事が多い。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "攻撃者の入力したデータ(エクスプロイトなど)のアドレスは未知であるが、そのデータのアドレスがレジスタに格納されていることは分かっているという場合には、トランポリン(trampolining)と呼ばれる手法が利用される。この手法では、攻撃者の入力したデータにジャンプするオペコードのアドレスをリターンアドレスへ上書きする。例えばアドレスがレジスタRに格納されている場合、jump R(あるいはcall Rなど)というオペコードが格納されているアドレスにジャンプさせることでユーザの入力したデータを実行させる。この手法で使用するオペコードはDLLや実行ファイルの中のものを利用する。ただし、一般的にオペコードのアドレスにヌル文字が含まれていてはならず、また処理に使用するオペコードのアドレスはアプリケーションやオペレーティングシステムのバージョンによって異なる。Metasploitプロジェクトはこのような目的に適したオペコードのデータベースの一つであり、Windowsで使用できるオペコードが記載されている。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "mallocなどでヒープ領域に動的にメモリを確保する関数に対するオーバーフロー攻撃である。基本的な攻撃手法としては、関数がヒープに確保したメモリ領域が2つあるとき、そのうち一方の領域に対して確保済みのメモリサイズより大きなデータを入力する事でオーバーフローを起こし、もう一方のメモリ領域を書き換えるというものである。mallocは複雑な方法でメモリ確保の場所を決定しているものの、連続して2度mallocを実行した場合、その結果として確保される2つのメモリ領域は(仮想アドレス空間上で)近くに配置されている傾向があるため、上述のようなバッファオーバーフロー攻撃が可能になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃手法を説明する為の準備として、mallocのメモリ管理方法を説明する。なおメモリ管理方法の詳細はmallocの実装に依存するため、実行環境によって細かなところは下記の説明と異なる部分があるので注意されたい。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "mallocは未使用なヒープ領域(の一部)をメモリプールとして管理しており、メモリプールは複数のchunkと呼ばれる単位からなっている。プログラム中でmallocが実行されるたびに、管理しているchunkの中から適切なサイズのものをプログラムに返す。適切なサイズのchunkがない場合は、システムコールにより新たなchunkを確保してプログラムに返す。mallocはchunkを(サイズ毎に異なる複数の)連結リストとして管理しており、chunkをプログラムに渡す際にこの連結リストからchunkを削除し、プログラムがメモリ領域をfreeすると、freeされたchunkが連結リストに加わる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "chunkは連結リストとして管理されているので、各chunkには「次のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「flink」、linuxでは「fd」)や「前のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「blink」、linuxでは「bk」)がある。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "未使用chunkと隣接するメモリ領域が解放された場合は、解放されたメモリ領域と未使用chunkとを連結 (coalesce) する事で1つの大きなchunkを作って管理する。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃として、mallocがメモリ管理に使うメタデータを書き換える手法がある。例えばWindows XP SP1またはそれ以前のWindowsでは、mallocしたメモリ領域をオーバーフローさせる事で、そのメモリ領域の(仮想アドレス空間で)隣りにある未使用chunkのflinkやblinkを任意のアドレスに書き換えるという攻撃手法が可能であった。flinkやblinkはcoalesceのタイミングでmallocにより参照されるので攻撃が成功する。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフロー攻撃の結果として、write-what-where状態(\"write-what-where condition\"、CWE-123。任意の場所に任意の値を書き込むことができる状態)になる危険がある。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "write-what-where状態になると、セキュリティポリシーのスコープ外にメモリのデータを書き込むことができる。セキュリティポリシーのスコープ外にコードを置くことで、攻撃者はほぼ確実に任意のコードを実行できるようになる。管理者権限を制御しているフラグ等が書き換えられる場合も、攻撃者は任意のコードが実行可能になる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "攻撃者は意図的にバッファオーバーフローを起こすによりプログラムをクラッシュさせたり、処理を書き換えて無限ループに追い込むことでプログラムをフリーズさせてたりする事でプログラムの可用性を侵害できる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "古典的バッファオーバーフローやヒープオーバーフローなどの結果として、関数ポインタの書き換えが可能になるケースがある。攻撃者はnmコマンドを用いる事でプログラム中で用いられている様々な関数のアドレスを知る事ができるので、nmの結果を参照して攻撃に利用可能な関数に関数ポインタの値を書き換えられる。",
"title": "バッファオーバーフロー攻撃"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフローを検出するコードをコンパイル時に実行コードに挿入する手法がある。典型的手法としては、ローカル変数とSFPの間に、カナリア(canary)もしくはクッキーと呼ばれる領域を挿入する方法である。プログラムは実行中カナリアを監視し続け、バッファオーバーフローによりカナリアが書き換わったらプログラムを停止する。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "標準Cライブラリ等にはバッファオーバーフロー検知機能が施されていない関数が収録されているので、これを検知機能を持った関数に置き換えたライブラリを標準Cライブラリの代わりに使う事で攻撃を検知できる。例えばLibsafeは標準Cライブラリのstrcpy(*dest,*src)をより安全な関数に置き換えており、入力srcのサイズがコピー先のdestのサイズが大きいか否かを検知できる。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "典型的なスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき領域にシェルコードやNOP命令のような実行コードを置き、これをプログラムに実行させる事で攻撃が成立する。そこでこのような攻撃を防ぐため、データを格納すべき領域では実行不可にする、Write XOR eXecute(W ⊕ {\\displaystyle {\\boldsymbol {\\oplus }}} XもしくはW^Xと略す)という対策手法が知られている。W ⊕ {\\displaystyle \\oplus } XのWindowsにおける実装はDEP(英: data execution prevention、データ実行防止)と呼ばれる。またDEPではSEH例外ハンドラへのポインタが上書きされないように明示的に保護を行う。 一部のUNIX(OpenBSDやmacOSなど)はW ⊕ {\\displaystyle \\oplus } Xなどの実行保護が有効になった状態で出荷されている。それ以外のオプショナルなパッケージとしては以下のものが挙げられる。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、プロプライエタリなアドオンとしては以下のものがある。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "なお、2018年現在広く使われているx64アーキテクチャのプロセッサでは、W ⊕ {\\displaystyle \\oplus } Xを実現する為にデータ領域である事を識別するNXビットという仕組みがハードウェアレベルでサポートされている(インテルではNXビットのことをXDビットと呼んでいるが同一のものである)。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフロー攻撃を含めたメモリ破壊攻撃全般を緩和する技術としてASLR(Address Space Layout Randomization、アドレス空間配置のランダム化)がある。これは仮想メモリ空間におけるスタック領域やコード領域の位置、読み込まれるDLLの位置等を(プログラム起動時もしくはOS自身の起動時に)ランダムに変える技術で、これにより攻撃者が攻撃に有効な実行コードの特定箇所を指定してメモリ改ざんを行うのを困難にする。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ASLRはバッファオーバーフロー攻撃の発展形であるReturn-to-libc攻撃(後述)を緩和できるが、さらにその発展形であるReturn-oriented programmingには対抗できない。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "カーネル空間のASLRをKASLR(kernel address space layout randomization)といい、linuxカーネル(バージョン3.14以降)、iOS(バージョン6以降)などで実装されている。またKASLRをバイパスしようとする攻撃に対抗する為の機構としてKernel page-table isolationがある。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "gccとg++でコンパイルとスタック領域とヒープ領域に対してはASLRを用いるが、コード領域にASLRを用いるにはオプション「-pie」を使わねばならない。また共有ライブラリにASLRを用いるにはオプション「-fPIC」を指定する。",
"title": "技術的対策"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "C言語やC++以外の言語ではバッファオーバーフローが発生しないよう対策が取られているものも多く、コンパイル時にバッファオーバーフローのチェックを行ったり、実行時にバッファオーバーフローに対する警告や例外を上げたりするものもある(Ada、Eiffel、LISP、Modula-2、Smalltalk、OCaml、およびC言語から派生したCycloneやD言語など)。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "Javaプラットフォームや.NET Frameworkでは全ての配列に対して境界チェックが必須とされる。ほぼすべてのインタプリタ言語ではバッファオーバーフローへの対策が行われており、エラー発生時にはその状態が明確に伝えられる。境界チェックを行うのに十分な型情報を保持しているようなプログラミング言語では、境界チェックの有効・無効を切り替えるためのオプションが提供されていることもある。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフロー攻撃は主にC言語やC++を対象としたものなので、以下ではプログラミング言語としてC言語かC++を選んだ場合に対しての対策を述べる。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフロー攻撃を防ぐには、領域長とデータ長を意識したプログラミングを行う事が重要である:",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "標準Cライブラリを使う代わりに、バッファあふれを未然に防いだりエラーとして検出してくれたりするセキュアなライブラリを使う事も重要である。このようなライブラリとして以下のようなものがある。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "またBSD libcなど、Cライブラリの実装によってはstrlcpyやstrlcatといった、より安全に配慮した文字列用関数が用意されている。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "静的コード解析の際、前述した領域長とデータ長を意識したプログラミングが行われているか再確認し、strcpy, sprintf 等のデータ領域長を意識しないライブラリ関数が使用されていないか、使用されているならその入力長の計算が間違っていないかを確認する。またヒープオーバーフロー対策としてmalloc/freeやnew/deleteの多用に注意し、関数ポインタの書き換えを防ぐために関数ポインタが多用に注意し、攻撃パターンを見逃す事がないようデータの一部を切り捨てている関数に注意する。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "strcpy等のバッファオーバーフローが起こりやすい関数の使用に対して警告を出してくれる関数名照合型検査ツールや、各種ソースコード検査ツールを使用してバッファオーバーフロー対策を行う。開発環境の中にはソースコード検査ツールをオプションとして備えているものもあるので、それを利用する事もできる。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "またソースコードが手に入らない製品等を利用する場合は、ファジングツールでブラックボックス解析する。",
"title": "開発時の対策"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "既に述べたように、典型的なスタックベースのオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき箇所にシェルコードやNOP命令のようなコードを置き、リターンアドレスを書き換えてこれらのコードにジャンプして、これらのコードを実行する必要があった。しかしW ⊕ {\\displaystyle \\oplus } Xが実装された実行環境ではデータを格納すべき箇所におけるコード実行を不許可としているので、こうしたオーバーフロー攻撃を仕掛ける事はできない。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "そこでW ⊕ {\\displaystyle \\oplus } Xを回避する為に考案されたのがReturn-to-libc攻撃である。この攻撃では、リターンアドレスのジャンプ先をデータ格納箇所に書き換えるのではなく、標準Cライブラリ(libc)のような共有ライブラリ・DLLにジャンプするよう書き換える。こうしたライブラリはデータ格納箇所以外に置かれているので(W ⊕ {\\displaystyle \\oplus } Xが実装された環境においても)実行許可がある。そこで攻撃者はライブラリ内の関数を悪用して、攻撃を仕掛ける事ができる。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "実行環境がASLRを実装していれば、libc等のライブラリの仮想アドレスはランダムに変わるので、攻撃者がジャンプ先をライブラリに落ちるようリターンアドレスを書き換えるのは困難になる。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "Return-to-Register攻撃とは「ret命令実行後にレジスタが指しているアドレスに不正な命令コードを挿入し、その上で”そのレジスタ値に実行を移す命令群が格納されているアドレス”でリターンアドレスを書き換える攻撃」のことである。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "例えばレジスタAがバッファの先頭へのポインタを格納しているとすると、そのときレジスタAをオペランドにとる任意のjumpまたはcall命令が実行フローの支配権を得るのに使用できる。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ret2esp(Return to esp)攻撃は、2017年現在のASLRの実装のデフォルトではコード領域(.textセクション)をランダマイズしない事を利用してASLRを回避する攻撃手法である。ここでespはx86におけるスタックポインタである。この攻撃は.textセクション内に「jmp esp」のような命令がある場合に成立する。攻撃者はバッファオーバーフローを利用してespの(仮想アドレス空間上の)下にシェルコードを配置した上で、リターンアドレスを「jmp esp」の箇所に書き換える。するとまずリターンアドレスの書き換えにより「jmp esp」のところにジャンプし、次に「jmp esp」が実行されてespの箇所にジャンプするので、その下に配置したシェルコードが実行される事になる。",
"title": "発展的な攻撃"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフローがある程度公に文書化されたのは1972年の初めで、Anderson 1972 で以下のように説明されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "Anderson 1972, p. 61: The code performing this function does not check the source and destination addresses properly, permitting portions of the monitor to be overlaid by the user. This can be used to inject code into the monitor that will permit the user to seize control of the machine.",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "この処理を実行するコードは読み込み元と書き込み先のアドレスに対するチェックを適切に行なっておらず、モニターの一部に対しユーザによる上書きを許すことになっている。これはモニターにコードを挿入するのに利用される可能性があり、結果としてユーザがマシンの制御を掌握する可能性がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "モニターとは、現在カーネルと呼ばれているのと同じものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "バッファオーバーフローを利用した悪意のあるエクスプロイトで最初に文書化されたのは、1988年に書かれたMorris wormがインターネット上で増殖するのに利用していたエクスプロイトのうちの一つである。攻撃対象のプログラムはUNIXのサービスであるfingerであった。 1995年、Thomas Lopaticはそれとは独立にバッファオーバーフローを発見し、セキュリティに関するメーリングリストBugtraqへ投稿した。 1996年、エリアス・レヴィ(ハンドルネームAleph one)はオンラインマガジンPhrackで記事\"Smashing the Stack for Fun and Profit\"を発表した。 これはスタックベースのバッファオーバーフローを使用したエクスプロイトを手順を追って説明していく内容である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "これ以降、少なくとも2つの有名なインターネットワームがバッファオーバーフローを利用したエクスプロイトで多くのシステムに被害を与えている。2001年にはCode RedがマイクロソフトのInternet Information Services (IIS) 5.0のバッファオーバーフローを利用している。 また2003年にはSQL SlammerがMicrosoft SQL Server 2000の動作するマシンに被害を与えている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2003年には、市販のXboxのゲームに含まれるバッファオーバーフローが利用され、無認可のソフトウェア(例えばHomebrewのゲームなど)をModチップなどのハードウェアの改造なしに動作させるのに利用された。 PlayStation 2では同じ目的のためにPS2 Independence Exploitが使用される。またWiiではHomebrewが利用されるが、これはゼルダの伝説 トワイライトプリンセスに存在するバッファオーバーフローを利用している。",
"title": "歴史"
}
] | バッファオーバーフローまたはバッファオーバーランは、コンピュータのプログラムにおけるバグのひとつ、またはそれにより引き起こされる現象で、プログラムがバッファに割り当てられた空間よりも大きなデータを書き込むことで、データがバッファ境界からあふれ、バッファの範囲外のメモリを上書きし、元々そのメモリにあったデータを破壊してしまうことを指す。 バッファオーバーフローは、上書きされるメモリ領域がスタック領域なのかヒープ領域なのかに応じてそれぞれスタックベースのバッファオーバーフロー、ヒープベースのバッファオーバーフローと呼ばれる。なお、名称が似ているスタックオーバーフローとは別の現象である。 サイバーセキュリティ・情報セキュリティの分野では、バッファオーバーフローはメモリ破壊系の脆弱性の一つとして知られ、攻撃者がバッファオーバーフロー脆弱性のあるプログラムに意図的に悪意のあるデータ(コード)を与えることにより、コンピュータの制御を乗っ取ってしまうことを可能にする。バッファオーバーフロー脆弱性を悪用した攻撃をバッファオーバーフロー攻撃という。 | '''バッファオーバーフロー'''({{lang-en-short|buffer overflow}})または'''バッファオーバーラン'''({{lang-en-short|buffer overrun}})は、[[コンピュータ]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]における[[バグ]]のひとつ、またはそれにより引き起こされる現象で、プログラムが[[バッファ]]に割り当てられた空間よりも大きなデータを書き込むことで、データがバッファ境界からあふれ、バッファの範囲外のメモリを上書きし、元々そのメモリにあったデータを破壊してしまうことを指す。
バッファオーバーフローは、上書きされるメモリ領域がスタック領域なのかヒープ領域なのかに応じてそれぞれ'''スタックベースのバッファオーバーフロー'''、'''ヒープベースのバッファオーバーフロー'''と呼ばれる。なお、名称が似ている[[スタックオーバーフロー]]とは別の現象である。
[[サイバーセキュリティ]]・[[情報セキュリティ]]の分野では、バッファオーバーフローはメモリ破壊系の[[脆弱性]]の一つとして知られ{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|p=59}}、攻撃者がバッファオーバーフロー脆弱性のあるプログラムに意図的に悪意のあるデータ(コード)を与えることにより、コンピュータの制御を乗っ取ってしまうことを可能にする。バッファオーバーフロー脆弱性を悪用した攻撃を'''バッファオーバーフロー攻撃'''という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ipa.go.jp/security/awareness/vendor/programmingv2/contents/c901.html|title=第10章 著名な脆弱性対策バッファオーバーフロー: #1 概要|accessdate=2018-12-14|work=セキュアプログラミング講座 C/C++言語編 旧2007年公開版|publisher=情報処理推進機構}}</ref>。
== バッファオーバーフローの具体例 ==
=== 簡単な例 ===
以下の例では、プログラム中の隣接したアドレスに2つのデータ項目が定義されている。一つは 8 バイトの文字列バッファ <code>A</code>、もう一つは 2 バイトの整数 <code>B</code> である。初期状態では、<code>A</code> は 0 で初期化されており可読な文字は入っていない。また、<code>B</code> には整数 1,979 が格納されている。文字のバイト幅は 1 バイトとする。また、[[エンディアン]]はビッグエンディアンとする。
{|class=wikitable style="width:30em;text-align:center"
!style="white-space:nowrap"|変数名
!colspan=8 style="background:#DDF"|<code>A</code>
!colspan=2 style="background:#FDD"|<code>B</code>
|- style="background:#ddf;"
! |値
|NUL||NUL||NUL||NUL||NUL||NUL||NUL||NUL
|colspan=2 style="background:#fdd"| 1979
|- style="background:#ddf;"
! |16進数値
|00||00||00||00||00||00||00||00
|style="background:#FDD"|07||style="background:#FDD"|BB
|}
ここで、プログラムがバッファ <code>A</code> に[[ヌル終端文字列]]「excessive」を書きこもうとした場合を考える。文字列の長さチェックが行われていないと、この処理で <code>B</code> の値が上書きされてしまう。
{|class=wikitable style="width:30em;text-align:center"
!style="white-space:nowrap"|変数名
!colspan=8 style="background:#DDF"|<code>A</code>
!colspan=2 style="background:#FDD"|<code>B</code>
|- style="background:#ddf;"
! |値
|「e」||「x」||「c」||「e」||「s」||「s」||「i」||「v」
|colspan=2 style="background:#DBD"|25856
|- style="background:#DDF"
! |16進数値
|65||78||63||65||73||73||69||76
|style="background:#DBD"|65||style="background:#DBD"|00
|}
プログラマとしては <code>B</code> を変更する意図はなかったが、<code>B</code> の値は文字列の一部で置き換えられてしまった。この例ではビッグエンディアンと{{lang|en|[[ASCII]]}}コードを仮定しているため、文字「e」とゼロというバイト列は整数 25,856 として解釈される。ここで、仮にプログラム中で <code>A</code> と <code>B</code> 以外にデータ項目変数が定義されていないとものすると、さらに長い文字列を書き込んで <code>B</code> の終端を超えた場合には[[セグメンテーション違反]]などのエラーが発生してプロセスが終了する。
=== 電子メールアドレスを題材にした例 ===
コンピュータプログラムを作るとき、固定長の[[バッファ]]とよばれる領域を確保してそこに[[データ]]を保存するという手法がよく使われる。
たとえば、[[電子メール]][[メールアドレス|アドレス]]は200文字を超えないだろうと予想して
#200文字分の領域をバッファとして用意する。
#ユーザが200文字より長い[[メールアドレス]]を入力する。
#プログラムがバッファの大きさをチェックせずに入力データを書き込む。
#バッファとして確保した領域をはみだしてデータが書き込まれてしまう。
これがバッファオーバーフローである。仮にはみ出した部分にプログラムの動作上意味を持つデータがあれば、これを上書きして破壊することにより、プログラムはユーザの意図しない挙動を示すであろう。
このようにバッファオーバーフローは、プログラムが用意したバッファの大きさを超えてデータを書き込んでしまうバグである。
=== C言語特有の例 ===
[[C言語]]の標準入出力関数である[[gets]]関数はバッファ長のチェックを行わないで標準入力をバッファに書き込むので、この関数を使う全てのプログラムには、バッファオーバーフローによる不正動作の危険性がある。また使い方が分かりやすいという理由でC言語初心者向けの入門プログラミングでしばしば用いられる[[scanf]]関数も書式指定を誤った場合は同じ危険性を持っている<ref>
{{Cite web|和書
|url=http://www.kijineko.co.jp/tech/superstitions/buffer-overrun-of-scanf.html
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124083110/http://www.kijineko.co.jp/tech/superstitions/buffer-overrun-of-scanf.html
|archivedate=2020-01-12
|title=<nowiki>[迷信] scanf ではバッファオーバーランを防げない</nowiki>
|work=C/C++迷信集
|publisher=株式会社きじねこ
|language=日本語
|accessdate=2010-02-28
|quote=書式指定が不適切なために発生する脆弱性であって、scanf の問題ではありません。
}}</ref>。これらの関数を実用的なプログラムで用いる場合には注意が必要である。
次のプログラムはgets関数を用いた例である(セキュリティ上、gets関数はそれ自体をテストする以外の目的で使用されるべきではない。Linux Programmer's Manualには「gets()は絶対に使用してはならない」と書かれている)。バッファ長として200[[バイト (情報)|バイト]]確保されている。gets関数はバッファの長さについては関知しないため、200バイトを超えても改行文字かEOFが現れなければバッファオーバーフローが発生する。
<syntaxhighlight lang="c">
#include <stdio.h>
int main(int argc, char *argv[])
{
char buf[200];
gets(buf);
....
}
</syntaxhighlight>
gets関数の代わりに[[fgets]]関数を用いることで、この問題を回避できる([[fgets#getsを置き換える例]]等を参照)。fgets関数にはバッファのサイズを渡すことができ、このバイト数を超えてバッファに書き込みを行わない。したがってバッファサイズが正しく設定されていれば、fgets関数においてバッファオーバーフローは起こり得ない。
これ以外のC言語の標準文字列処理関数の多くにも同様の問題([[脆弱性]])がある。
== バッファオーバーフロー攻撃 ==
情報セキュリティ・サイバーセキュリティにおいて'''バッファオーバーフロー攻撃'''は、バッファオーバーフローの[[脆弱性]]を利用した攻撃である。バッファオーバーフローの脆弱性は[[算術オーバーフロー|整数オーバーフロー]]、[[書式文字列攻撃|書式文字列バグ]]、[[:en:Dangling pointer#Manual_deallocation_without_dangling_reference|Use-After-Free]]などと同様、メモリ破壊系の脆弱性に相当する{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|p=59}}。
共通脆弱性タイプ[[Security Content Automation Protocol|CWE]]には、
{| class="wikitable"
|+
!番号
!名称
|-
|CWE-120
|入力サイズをチェックしないバッファのコピー(古典的バッファオーバーフロー)<ref name=":1">{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/120.html|title=CWE-120: Buffer Copy without Checking Size of Input ('Classic Buffer Overflow')|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>
|-
|CWE-121
|スタックベースのバッファオーバーフロー<ref name=":2">{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/121.html|title=CWE-121: Stack-based Buffer Overflow|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>
|-
|CWE-122
|ヒープベースのバッファオーバーフロー<ref name=":3">{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/122.html|title=CWE-122: Heap-based Buffer Overflow|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>
|}
などが登録されており、これら3つはいずれも「CWE-119: メモリバッファの境界内における操作の不適切な制限」<ref name=":4">{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/119.html|title=CWE-119: Improper Restriction of Operations within the Bounds of a Memory Buffer|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>に属している<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/787.html|title=CWE-787: Out-of-bounds Write|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>。
これら3つのバッファオーバーフロー脆弱性が頻繁に生じるのは[[C言語]]や[[C++]]であり<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />、古典的バッファオーバーフローは[[アセンブリ言語]]でも生じる<ref name=":1" />。
これら3種類のバッファオーバーフローはセキュリティポリシーの外側で任意のコードを攻撃者に実行可能にする事が頻繁にある<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。さらに任意のコードの実行により他のセキュリティサービス機構を破壊する事も可能になる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。またこれら3種類のバッファオーバーフローはクラッシュの原因にもなるので<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />、意図的にクラッシュさせる攻撃が可能になる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。
CWEでは「CWE-193: [[Off-by-oneエラー]]」<ref>{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/193.html|title=CWE-193: Off-by-one Error|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>がバッファオーバーフローの原因になると述べられており<ref>{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/131.html|title=CWE-131: Incorrect Calculation of Buffer Size|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>、整数オーバーフローもバッファオーバーフローの原因になる事が述べられている<ref>{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/680.html|title=CWE-680: Integer Overflow to Buffer Overflow|accessdate=2018-12-18|publisher=Mitre}}</ref>。
=== 古典的バッファオーバーフロー攻撃 ===
バッファAの値を他のバッファBにコピーするとき、BのバッファサイズがAのバッファサイズよりも大きいことをチェックしない場合に生じる脆弱性である<ref name=":1" />。この脆弱性は、プログラマーがこのようなチェックの実装を怠った事により生じる<ref name=":1" />。これはプログラマーが最低限のセキュリティチェックすらしていないことを強く示唆する<ref name=":1" />。
脆弱性の具体例としては、例えば[[C言語]]や[[C++]]において、配列サイズをチェックする事なく、配列に[[strcpy]]や[[scanf]]で文字列等をコピーするといったものがある<ref name=":1" />。攻撃者は意図的に大きな入力を[[strcpy]]、[[scanf]]、[[gets]]に与えることで、古典的バッファオーバーフローを不正に生じさせる事ができる<ref name=":1" />。
例えば攻撃者がバッファAをバッファオーバーフローさせる事により、Aの隣りにある変数xを不正に変更できた場合、xがセキュリティ上重要なデータ(例えば管理者権限を持っているか否かを判定するビットを保持している)であれば、セキュリティ上重要な問題が生じる。
=== スタックベースのバッファオーバーフロー攻撃 ===
スタックベースのバッファオーバーフローは「上書きされるバッファがスタック(すなわち、局所変数や、まれに関数のパラメータ)にアロケートされる」<ref name=":2" />事が可能な場合に生じる脆弱性である。このような脆弱性は[[ファジング]]を使用して発見されることが多い<ref>{{cite web|url=http://raykoid666.wordpress.com|title=The Exploitant - Security info and tutorials|accessdate=2009-11-29}}</ref>。
==== C言語・C++におけるメモリ領域 ====
スタックベースのバッファオーバーフローについて説明するためにプロセスのメモリ利用方法を復習する。[[オペレーティングシステム]] (OS) は各ユーザプロセスに[[仮想記憶|'''仮想アドレス空間''']]を割り振り、[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Linux]]などのOSでは上位のアドレスをカーネルが使う'''カーネル空間'''とし、残りをユーザプロセス自身が用いる'''ユーザ空間'''とする{{efn|i386の場合、Windowsであれば仮想空間の上位2 GB、Linuxであれば仮想空間の上位1 GBがカーネル空間になる。なお本節で書いたメモリ箇所はいずれも後述するセキュリティ技術[[アドレス空間配置のランダム化]] (ASLR) を用いていない場合の話である。}}。カーネル空間はユーザプロセスがアクセスする事はできず、通常のプログラミングでは意識する事はない。
[[C言語]]や[[C++]]で書かれたプログラムの場合、ユーザ空間をさらに分割する。これらの言語で書かれたプログラムでは、仮想アドレスの最低位の箇所から順にプログラムの実行コードを置く'''コード領域(テキスト領域とも)'''、初期化された静的変数・大域変数を置く'''データ領域'''、初期化されていない静的変数・大域変数を置く[[.bss|'''bss領域''']]{{efn|'''Block Started by Symbol'''という[[アセンブラ]]の疑似命令に由来する。}}{{efn|なお、データ領域とbss領域を合わせて'''静的領域'''という。}}、[[malloc]]等で動的に確保されたメモリを置く(可変サイズの)'''ヒープ領域'''を確保する{{Sfn|Erickson|2011|pp=87–88}}。
一方、ユーザ空間における仮想アドレスの最高位の箇所は関数の[[コールスタック]]を保存する(可変サイズの)'''スタック領域'''として用いられる{{Sfn|Erickson|2011|pp=87–88}}。
{| class="wikitable"
|+
|最低位
| colspan="4", style="text-align:center" |…
| style="text-align:right" |最高位
|-
| rowspan="2" |コード領域
| colspan="2" |静的領域
| rowspan="2" |ヒープ領域
(高位に向かって成長→)
| rowspan="2" |…
| rowspan="2" |スタック領域
(←低位に向かって成長)
|-
|データ領域
|bss領域
|}
スタック領域はプロセス中で呼ばれる関数のコールスタックを格納する領域で、コールスタック中の各関数のデータ('''スタックフレーム'''という)を並べて格納している{{Sfn|Erickson|2011|p=84}}。プロセス中で関数fが関数gを呼び出した場合、コールスタックは以下のようになる{{Sfn|Erickson|2011|p=84}}{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=60–61}}:
{| class="wikitable"
|+
|低位アドレス
| colspan="7", style="text-align:center" |…
| style="text-align:right" |高位アドレス
|-
|…
| colspan="4" |gのスタックフレーム
| colspan="3" |fのスタックフレーム
|…
|-
|…
|gの処理に必要な一時的な情報
|gの局所変数
|gのSFP
|gのリターンアドレス
|gの引数の値
|fの処理に必要な一時的な情報
|…
|…
|}
プロセスで現在実行中の関数のスタックフレームの位置を覚えるためにプロセッサによって用いられるのが'''フレームポインタ'''{{efn|[[x86]]ではebpレジスタ (Stack Base Pointer Register)。}}で、具体的には(現在実行中の関数がgであれば)gのSFPのアドレスを指している。'''SFP'''は関数呼び出し時に呼び出し元の関数のフレームポインタのアドレスを覚えるための領域で、fがgを呼び出した際、スタックフレームの値(=fのSFPのアドレス)をgのSFPに格納する。なお、SFPは「Saved Frame Pointer」の略で、日本語訳は「'''退避されたフレームポインタ'''」である{{Sfn|Erickson|2011|p=84}}。
一方gの'''リターンアドレス'''は呼び出し元関数fの'''プログラムカウンタ'''{{efn|'''命令ポインタ'''とも。x86ではeipレジスタ (Extended Instruction Pointer)。}}のアドレスを格納する{{Sfn|Erickson|2011|p=84}}。
==== 攻撃の基本的アイデア ====
今例えば、関数gはユーザから([[ASCII]]コードの)文字列を入力を受け取り、入力された文字列を配列char A[10]に格納するとする。Aのサイズは10であるので、関数gのプログラマはユーザから受け取った文字列をAに格納する前に、その文字列が本当に10文字以下なのかをチェックする機構をgに実装しておかねばならない。このようなチェック機構を実装するのを忘れていた場合、悪意のあるユーザ(以下、「攻撃者」と呼ぶ)によりスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃を受けてしまう危険がある。
具体的には、攻撃者は以下のような文字列をgに入力する:<blockquote>('''シェルコード''')…('''シェルコードの仮想アドレス''')</blockquote>ここで'''シェルコード'''とは、何らかの悪意のある短いプログラムで、例えば攻撃者のためにバックドアを開けたり、マルウェアのダウンロードを行ったりする{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=60–61}}。
この文字列が配列Aの先頭から順に書き込まれていくと、'''A[i]のアドレスはiが大きいほど大きくなるので'''、攻撃者が入力文字列の長さを適切に選べば、アドレス空間には以下のようにデータが書き込まれ、'''gのリターンアドレスがシェルコードの仮想アドレスに上書きされる'''{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=60–61}}:
{| class="wikitable"
|+
|低位アドレス
| colspan="7", style="text-align:center" |…
| style="text-align:right" |高位アドレス
|-
|…
| colspan="4" |gのスタックフレーム
| colspan="3" |fのスタックフレーム
|…
|-
|…
|gの処理に必要な一時的な情報
|gの局所変数
|gのSFP
|gのリターンアドレス
|gの引数の値
|fの処理に必要な一時的な情報
|…
|…
|-
|
|
|'''(シェルコード)…'''
|…
|'''(シェルコードの仮想アドレス)'''
|
|
|
|
|}
よって関数gが終了したとき、gのリターンアドレス(の箇所に上書きされたシェルコードの仮想アドレス)が読み込まれるので、プログラムカウンタはシェルコードの位置にジャンプし、攻撃者の狙い通り、シェルコードが実行される事になる{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=60–61}}。
==== NOPスレッド ====
上で述べた攻撃のアイデアが実行可能であるためには、攻撃者がリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスを正確に知り、それを関数gに入力する必要があるが、スタックは動的に変化するため、これは容易ではない{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}。そこで本節ではリターンアドレスに上書きすべき仮想アドレスの「おおよその値」さえ分かれば攻撃が可能になるテクニック('''NOPスレッド''')を述べる。
'''NOP'''とは「何も行わない」事を意味するアセンブリ命令で{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}、本来はタイミングを合わせるなどの動機により何もせずにCPU時間を消費するために用いられる{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}。NOPスレッド(sled、[[そり]]){{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}とはこのNOP命令を複数個並べたもので、これを利用する事により攻撃対象の関数をシェルコードの位置まで滑走させる。
具体的には攻撃者は下記のような文字列を攻撃対象の関数gに入力する:<blockquote>'''NOP … NOP''' ('''シェルコード''')('''戻りアドレス''')…('''戻りアドレス''')</blockquote>
最初の「NOP … NOP」の部分がNOPスレッドである。攻撃者がNOPスレッドの長さや戻りアドレスの繰り返し回数を適切に選んでgに入力すると、スタック領域は例えば以下のようになる(攻撃に関係する部分だけ抜書き):
{| class="wikitable"
|+
| colspan="4" |gのスタックフレーム
|fのスタックフレーム
|-
|…
|gの局所変数
|gのSFP
|gのリターンアドレス
|…
|-
|…
|'''NOP…''' '''NOP''' …
|'''NOP''' …'''NOP (シェルコード)…(戻りアドレス)…(戻りアドレス)'''
|'''(戻りアドレス)'''
|'''(戻りアドレス)…'''
|}
これでgのリターンアドレスは「戻りアドレス」にセットされるので、攻撃者が「戻りアドレス」としてNOPスレッド部分のアドレスを指定する事に事前に成功していれば、gの終了時にNOPスレッドへとプログラムカウンタが移動する。するとプログラムはNOPを順に実行して右へ右へと移動し、シェルコードの位置にたどり着いてシェルコードが実行されるので、攻撃成功となる{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|p=64}}。戻りアドレスがNOPスレッドのどこかに落ちさえすればよいので、前節で述べた攻撃違い、リターンアドレスにセットする値を完璧に制御する必要はなく、NOPスレッドの長さ分の誤差が発生しても攻撃が成功する事になる。
NOPスレッドは頻繁に使用されるため、多くの[[侵入防止システム]]ベンダーでシェルコードの判定に使用されている。このため、エクスプロイトの作成者側では、シェルコードの実行に影響を及ぼさない(NOP以外の)任意の命令をランダムに選んでスレッドを構成することが常套手段となっている<ref name="Akritidis1">{{cite conference|last=Akritidis|first=P.|first2=Evangelos P. |last2=Markatos |first3=M. |last3=Polychronakis |first4=Kostas D. |last4=Anagnostakis|year=2005|booktitle=Proceedings of the 20th IFIP International Information Security Conference (IFIP/SEC 2005)|url=http://dcs.ics.forth.gr/Activities/papers/stride-IFIP-SEC05.pdf|title=STRIDE: Polymorphic Sled Detection through Instruction Sequence Analysis.|publisher=IFIP International Information Security Conference|format=PDF}}</ref>。
==== 戻りアドレスの値の予想 ====
攻撃を実行するには、あとは「戻りアドレス」として具体的にどの程度の値を代入すればよいかを知ればよい。しかし攻撃の標的となる組織の環境で戻りアドレスの絶対アドレスがいくつ程度の値になるのかを事前に知る事は難しい。そこで相対アドレスを利用して戻りアドレスを適切に選ぶ攻撃テクニックを紹介する。この攻撃のシナリオでは、攻撃者はシェルコードを含んだ攻撃用のプログラムh(をコンパイルして作った実行コード)を攻撃の標的となる組織に送りつけ、hのサブルーチンとしてgを呼び出す事で攻撃を行う。
この攻撃用プログラムhでは、変数xを宣言が宣言されているものとする。hが標的の環境でgを呼び出したとき、gのスタックフレームはスタック領域上でhのスタックフレームのすぐ隣に配置される事から、攻撃用文字列を入れ込むgの変数の絶対アドレスvar_addは<blockquote>var_add = &x - (小さな値)</blockquote>になるはずである{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}。ここで「&x」はxのアドレスを表す。既に述べたようにNOPスレッドを使った攻撃では戻りアドレスとしてvar_add近辺の値を選べば成功するので、攻撃者はこの「小さな値」を決定しさえすればよい。
よって攻撃者は関数gの実行コードを事前に入手し、([[シェルスクリプト]]等を使って)NOPスレッドの長さや戻りアドレスを変えながら攻撃対象のプログラムを何度も実行することで適切な「小さな値」を選び、その「小さな値」を攻撃用プログラムhに書き込んでおけばよい{{Sfn|Erickson|2011|pp=161–164}}。
==== 埋め込めるコード量が小さい場合の対処 ====
関数gに埋め込む攻撃用の文字列は「NOPスレッド+シェルコード+戻りアドレスの繰り返し」という形をしており、gのリターンアドレスが「戻りアドレスの繰り返し」の部分に落ちない限り攻撃は成功しないので、関数gに攻撃用文字列を埋め込む箇所とgのリターンアドレスとが(仮想アドレス空間上で)あまりに近い場合は、攻撃に必要な長さのシェルコードを埋め込めないという問題が攻撃者に生じる。
しかし攻撃者が攻撃の標的となるマシンの[[環境変数]]を設定できる状況下では、攻撃者はこの問題を回避した攻撃が可能である。標的マシンでプロセスが実行される際には、そのプロセスの仮想アドレス空間に環境変数が読み込まれるので、攻撃者が事前に標的マシンの環境変数に「NOPスレッド+シェルコード」を書き込んでおけば、プロセスの仮想アドレスに「NOPスレッド+シェルコード」ができあがる事になる。プロセス中で関数gが実行された際、攻撃者は攻撃用文字列をgに入力して、リターンアドレスをそのNOPスレッドに書き換えれば攻撃が成功する事になる{{Sfn|Erickson|2011|pp=164–168}}。
より確実な攻撃方法として、攻撃プログラムhの中に環境変数を読み込む関数(getenv()等)を用いるものもある{{Sfn|Erickson|2011|pp=168–173}}。
==== ヒープスプレー ====
{{Main|{{Ill|ヒープスプレー|en|Heap spraying}}}}
NOPスレッドを長くしすぎると、gのリターンアドレスの位置にすらNOPが書き込まれてしまって攻撃に失敗する為、NOPスレッドを長くして攻撃成功率を上げる手法には限界がある。しかし攻撃者がプロセスのヒープ領域の値をも自由に操れるという条件下では、攻撃者は'''ヒープスプレー'''というテクニックを用いる事により、この限界を突破した攻撃を行う事が可能になる{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=65–67}}。
ヒープスプレーでは、NOPスレッドとシェルコードを、スレッド領域ではなくヒープ領域に埋め込み、戻りアドレスとしてヒープ領域中のNOPスレッドを指定する。ヒープ領域上のNOPスレッドにはスレッド領域のNOPスレッドと違い前述した長さの上限が存在しないため、「長いNOPスレッド+シェルコード」の組み合わせを大量にヒープ中に書き込むことで攻撃成功率を上げる{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=65–67}}。
[[ウェブブラウザ]]では[[JavaScript]]などのクライアントサイドスクリプトにより任意の長さのヒープを作成できるので、ブラウザを対象にした[[ドライブバイダウンロード]]攻撃ではヒープスプレーが使われる事が多い{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=65–67}}。
==== トランポリング ====
攻撃者の入力したデータ(エクスプロイトなど)のアドレスは未知であるが、そのデータのアドレスがレジスタに格納されていることは分かっているという場合には、''トランポリン''(trampolining)と呼ばれる手法が利用される。この手法では、攻撃者の入力したデータにジャンプする[[オペコード]]のアドレスをリターンアドレスへ上書きする。例えばアドレスがレジスタRに格納されている場合、jump R(あるいはcall Rなど)というオペコードが格納されているアドレスにジャンプさせることでユーザの入力したデータを実行させる。この手法で使用するオペコードは[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]や実行ファイルの中のものを利用する。ただし、一般的にオペコードのアドレスに[[ヌル文字]]が含まれていてはならず、また処理に使用するオペコードのアドレスはアプリケーションやオペレーティングシステムのバージョンによって異なる。[[Metasploit]]プロジェクトはこのような目的に適したオペコードのデータベースの一つであり、Windowsで使用できるオペコードが記載されている<ref>{{cite web
|url = http://metasploit.com/users/opcode/msfopcode.cgi
|title = The Metasploit Opcode Database
|accessdate = 2007-05-15
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070512195939/http://www.metasploit.com/users/opcode/msfopcode.cgi
|archivedate = 2007-05-12
|deadlinkdate = 2017-09
}}</ref>。
=== ヒープベースのバッファオーバーフロー ===
[[malloc]]などでヒープ領域に[[動的メモリ確保|動的にメモリを確保する]]関数に対するオーバーフロー攻撃である<ref name=":3" />。基本的な攻撃手法としては、関数がヒープに確保したメモリ領域が2つあるとき、そのうち一方の領域に対して確保済みのメモリサイズより大きなデータを入力する事でオーバーフローを起こし、もう一方のメモリ領域を書き換えるというものである{{Sfn|Erickson|2011|pp=173–179}}。mallocは複雑な方法でメモリ確保の場所を決定しているものの、連続して2度mallocを実行した場合、その結果として確保される2つのメモリ領域は(仮想アドレス空間上で)近くに配置されている傾向があるため、上述のようなバッファオーバーフロー攻撃が可能になる。
==== mallocのメモリ管理 ====
より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃手法を説明する為の準備として、mallocのメモリ管理方法を説明する。なおメモリ管理方法の詳細はmallocの実装に依存するため、実行環境によって細かなところは下記の説明と異なる部分があるので注意されたい。
mallocは未使用なヒープ領域(の一部)をメモリプールとして管理しており、メモリプールは複数のchunkと呼ばれる単位からなっている<ref name=":10">{{Cite web|和書|url=https://www.valinux.co.jp/technologylibrary/document/linux/malloc0001/|title=malloc(3)のメモリ管理構造|accessdate=2018-12-26|author=角馬 文彦(技術本部 クラウド基盤エキスパート)|date=2007-11-30|publisher=VA Linux Systems Japan}}</ref>。プログラム中でmallocが実行されるたびに、管理しているchunkの中から適切なサイズのものをプログラムに返す<ref name=":10" />。適切なサイズのchunkがない場合は、[[システムコール]]により新たなchunkを確保してプログラムに返す<ref name=":10" />。mallocはchunkを(サイズ毎に異なる複数の<ref>{{Cite web|url=http://g.oswego.edu/dl/html/malloc.html|title=A Memory Allocator|accessdate=2018-12-26|author=Doug Lea|publisher=}}</ref>)[[連結リスト]]として管理しており<ref name=":10" />、chunkをプログラムに渡す際にこの連結リストからchunkを削除し、プログラムがメモリ領域をfreeすると、freeされたchunkが連結リストに加わる<ref name=":10" />。
chunkは連結リストとして管理されているので、各chunkには「次のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「flink」{{Sfn|FFRI|2013|p=7}}、linuxでは「fd」<ref name=":10" />)や「前のchunk」を指定するポインタ(Windowsでは「blink」{{Sfn|FFRI|2013|p=7}}、linuxでは「bk」<ref name=":10" />)がある。
未使用chunkと隣接するメモリ領域が解放された場合は、解放されたメモリ領域と未使用chunkとを連結 (coalesce) する事で1つの大きなchunkを作って管理する{{Sfn|FFRI|2013|p=7}}。
==== mallocのメタデータの書き換え ====
より高度なヒープベースバッファオーバーフロー攻撃として、mallocがメモリ管理に使うメタデータを書き換える手法がある。例えば[[Microsoft Windows XP|Windows XP]] SP1またはそれ以前のWindowsでは、mallocしたメモリ領域をオーバーフローさせる事で、そのメモリ領域の(仮想アドレス空間で)隣りにある未使用chunkのflinkやblinkを任意のアドレスに書き換えるという攻撃手法が可能であった{{Sfn|FFRI|2013|p=8}}。flinkやblinkはcoalesceのタイミングでmallocにより参照されるので攻撃が成功する{{Sfn|FFRI|2013|p=8}}。
=== バッファオーバーフローの結果 ===
==== write-what-where状態 ====
バッファオーバーフロー攻撃の結果として、'''write-what-where状態'''("write-what-where condition"<ref name=":13">{{Cite web|url=https://cwe.mitre.org/data/definitions/123.html|title=CWE-123: Write-what-where Condition|accessdate=2018-12-26|publisher=Mitre}}</ref>、CWE-123<ref name=":13" />。任意の場所に任意の値を書き込むことができる状態<ref>{{Cite web|和書|url=https://jvndb.jvn.jp/ja/contents/2015/JVNDB-2015-004721.html|title=JVNDB-2015-004721 Silicon Integrated Systems WindowsXP Display Manager における権限を取得される脆弱性|accessdate=2018-12-26|website=JVN iPedia|publisher=}}</ref>)になる危険がある<ref name=":13" />。
write-what-where状態になると、セキュリティポリシーのスコープ外にメモリのデータを書き込むことができる<ref name=":13" />。セキュリティポリシーのスコープ外にコードを置くことで、攻撃者はほぼ確実に任意のコードを実行できるようになる<ref name=":13" />。管理者権限を制御しているフラグ等が書き換えられる場合も、攻撃者は任意のコードが実行可能になる<ref name=":13" />。
==== プログラムのフリーズ・クラッシュ ====
攻撃者は意図的にバッファオーバーフローを起こすによりプログラムをクラッシュさせたり<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />、処理を書き換えて無限ループに追い込むことでプログラムをフリーズさせてたり<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />する事でプログラムの[[可用性]]を侵害できる。
==== 関数ポインタの書き換え ====
古典的バッファオーバーフロー{{Sfn|Erickson|2011|pp=179–192}}やヒープオーバーフロー<ref name=":3" />などの結果として、関数ポインタの書き換えが可能になるケースがある。攻撃者は[[Nm (UNIX)|nm]]コマンドを用いる事でプログラム中で用いられている様々な関数のアドレスを知る事ができるので{{Sfn|Erickson|2011|pp=179–192}}、nmの結果を参照して攻撃に利用可能な関数に関数ポインタの値を書き換えられる。
== 技術的対策 ==
=== コンパイラやライブラリによる対策 ===
==== カナリア ====
バッファオーバーフローを検出するコードをコンパイル時に実行コードに挿入する手法がある。典型的手法としては、ローカル変数とSFPの間に、'''カナリア'''(canary)<ref>{{Cite web|和書|url=https://thinkit.co.jp/cert/article/0603/5/14/2.htm|title=第14回: バッファオーバーフローとサーバ側のセキュリティ対策を考える|page=2|accessdate=2019-01-01|author=芝国雄|date=2006-09-05|website=ThinkIT|work=オープンソースの適用可能性を示す|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ibm.com/developerworks/jp/linux/library/l-sp4/index.html|title=セキュアなプログラマー バッファー・オーバーフローに対抗する 今日最大の脆弱性を防止する|accessdate=2019-01-01|author=David Wheeler|date=2004-01-27|publisher=IBM}}</ref>もしくは'''クッキー'''{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=69–70}}と呼ばれる領域を挿入する方法である。プログラムは実行中カナリアを監視し続け、バッファオーバーフローによりカナリアが書き換わったらプログラムを停止する。
* [[StackGuard]]{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=69–70}}<ref>{{cite web|url=https://www.usenix.org/publications/library/proceedings/sec98/full_papers/cowan/cowan.pdf|title=StackGuard: Automatic Adaptive Detection and Prevention of Buffer-Overflow Attacks by Cowan et al.|accessdate=2012-02-09|format=PDF}}</ref>
* [[Microsoft Visual C++]]のGSオプション{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=69–70}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/cpp/build/reference/gs-buffer-security-check?view=vs-2017|title=/GS (バッファーのセキュリティ チェック)|accessdate=2012-02-09|date=2016-11-04}}</ref>
==== 安全なライブラリへの置き換え ====
標準Cライブラリ等にはバッファオーバーフロー検知機能が施されていない関数が収録されているので、これを検知機能を持った関数に置き換えたライブラリを標準Cライブラリの代わりに使う事で攻撃を検知できる。例えばLibsafe<ref>{{cite web|url=http://directory.fsf.org/libsafe.html|title=Libsafe - Free Software Directory|accessdate=2012-02-09}}</ref>は標準Cライブラリのstrcpy(*dest,*src)をより安全な関数に置き換えており、入力srcのサイズがコピー先のdestのサイズが大きいか否かを検知できる{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=71–73}}。
=== 実行環境での対策 ===
==== Write XOR eXecute ====
典型的なスタックベースのバッファオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき領域にシェルコードやNOP命令のような実行コードを置き、これをプログラムに実行させる事で攻撃が成立する。そこでこのような攻撃を防ぐため、データを格納すべき領域では実行不可にする、'''[[:en:W^X|Write XOR eXecute]]'''{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=71–73}}('''W<math>\boldsymbol{\oplus}</math>X'''{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=71–73}}もしくは'''W^X'''と略す)という対策手法が知られている{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=71–73}}。W<math>\oplus</math>XのWindowsにおける実装は[[データ実行防止|'''DEP''']]({{lang-en-short|data execution prevention}}、データ実行防止)と呼ばれる{{Sfn|八木|村山|秋山|2015|pp=71–73}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://support.microsoft.com/kb/875352/ja|title=Windows XP Service Pack 2、Windows XP Tablet PC Edition 2005、および Windows Server 2003 のデータ実行防止 (DEP) 機能の詳細|accessdate=2012-02-17}}</ref>。またDEPではSEH例外ハンドラへのポインタが上書きされないように明示的に保護を行う<ref>{{cite web|url=http://www.uninformed.org/?v=2&a=4&t=txt|title=Bypassing Windows Hardware-enforced Data Execution Prevention|accessdate=2007-05-20}}</ref>。
一部のUNIX([[OpenBSD]]や[[macOS]]など)はW<math>\oplus</math>Xなどの実行保護が有効になった状態で出荷されている。それ以外のオプショナルなパッケージとしては以下のものが挙げられる。
*[[PaX]]<ref>{{cite web|url=http://pax.grsecurity.net|title=PaX: Homepage of the PaX team|accessdate=2012-02-17}}</ref>
*[[Exec Shield]]<ref>{{cite web|url=http://kerneltrap.org/node/644|title=KernelTrap.Org|accessdate=2012-02-17|archiveurl=https://archive.is/20120529183334/http://kerneltrap.org/node/644|archivedate=2012-05-29|deadlinkdate=2017-09}}</ref>
*[[Openwall]]<ref>{{cite web|url=http://linux.softpedia.com/get/System/Operating-Systems/Kernels/Openwall-Linux-kernel-patch-16454.shtml|title=Openwall Linux kernel patch 2.4.34-ow1|accessdate=2012-02-17}}</ref>
また、[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なアドオンとしては以下のものがある。
* BufferShield<ref>{{cite web|url=http://www.sys-manage.com/english/products/products_BufferShield.html|title=BufferShield: Prevention of Buffer Overflow Exploitation for Windows|accessdate=2012-02-17}}</ref>
* StackDefender<ref>{{cite web|url=http://www.ngsec.com/ngproducts/stackdefender/|title=NGSec Stack Defender|accessdate=2012-02-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070513235539/http://www.ngsec.com/ngproducts/stackdefender/|archivedate=2007-05-13|deadlinkdate=2017-09}}</ref>
なお、2018年現在広く使われている[[x64]]アーキテクチャのプロセッサでは、W<math>\oplus</math>Xを実現する為にデータ領域である事を識別する'''[[NXビット]]'''という仕組みがハードウェアレベルでサポートされている<ref name=":18">{{Cite web|和書|url=http://e-words.jp/w/NX%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88.html|title=NXビット|accessdate=2019-01-01|website=IT用語辞典e-Words|publisher=}}</ref>(インテルではNXビットのことをXDビットと呼んでいるが同一のものである<ref name=":18" />)。
==== ASLR ====
バッファオーバーフロー攻撃を含めたメモリ破壊攻撃全般を緩和する技術として[[アドレス空間配置のランダム化|'''ASLR''']](Address Space Layout Randomization、アドレス空間配置のランダム化)がある。これは仮想メモリ空間におけるスタック領域やコード領域の位置、読み込まれるDLLの位置等を(プログラム起動時もしくはOS自身の起動時に)ランダムに変える技術で、これにより攻撃者が攻撃に有効な実行コードの特定箇所を指定してメモリ改ざんを行うのを困難にする。
ASLRはバッファオーバーフロー攻撃の発展形である[[Return-to-libc攻撃]](後述)を緩和できるが、さらにその発展形である[[Return-oriented programming]]には対抗できない。
カーネル空間のASLRを'''KASLR'''(kernel address space layout randomization)といい、linuxカーネル(バージョン3.14以降)<ref>{{cite web|url=http://kernelnewbies.org/Linux_3.14#head-192cae48200fccde67b36c75cdb6c6d8214cccb3|title=Linux kernel 3.14, Section 1.7. Kernel address space randomization|accessdate=2014-04-02|date=2014-03-30|website=kernelnewbies.org}}</ref>、iOS(バージョン6以降)<ref>{{cite web|url=https://www.slideshare.net/i0n1c/csw2013-stefan-esserios6exploitation280dayslater/19-KASLR_iOS_6_introduces_KASLR|title=iOS 6 Exploitation 280 Days Later|accessdate=2019-01-01|author=Stefan Esser|publisher=|at=Slide 19, "iOS 6 introduces KASLR"}}</ref>などで実装されている。またKASLRをバイパスしようとする攻撃に対抗する為の機構として[[:en:Kernel page-table isolation|Kernel page-table isolation]]がある。
[[GNUコンパイラコレクション|gccとg++]]でコンパイルとスタック領域とヒープ領域に対してはASLRを用いるが、コード領域にASLRを用いるにはオプション「-pie」を使わねばならない<ref name=":20">{{Cite web|url=https://wiki.debian.org/Hardening|title=Hardening|accessdate=2019-01-01|publisher=Devian}}</ref>。また共有ライブラリにASLRを用いるにはオプション「-fPIC」を指定する<ref name=":20" />。
== 開発時の対策 ==
=== プログラミング言語・プログラミング環境の選択 ===
C言語やC++以外の言語ではバッファオーバーフローが発生しないよう対策が取られているものも多く、コンパイル時にバッファオーバーフローのチェックを行ったり、実行時にバッファオーバーフローに対する警告や[[例外処理|例外]]を上げたりするものもある([[Ada]]、[[Eiffel]]、[[LISP]]、[[Modula-2]]、[[Smalltalk]]、[[OCaml]]、およびC言語から派生した[[Cyclone]]や[[D言語]]など)。
[[Javaプラットフォーム]]や[[.NET Framework]]では全ての配列に対して境界チェックが必須とされる。ほぼすべての[[インタプリタ|インタプリタ言語]]ではバッファオーバーフローへの対策が行われており、エラー発生時にはその状態が明確に伝えられる。境界チェックを行うのに十分な型情報を保持しているようなプログラミング言語では、境界チェックの有効・無効を切り替えるためのオプションが提供されていることもある{{efn|例えば[[Delphi]]では<code>$RangeChecks</code>ディレクティブで境界チェックの有効・無効を切り替えられる<ref>{{cite web|url=http://www.delphibasics.co.uk/RTL.asp?Name=$RangeChecks|title=Delphi Basics : $RangeChecks command|accessdate=2012-02-03|author=Neil Moffatt}}</ref><ref>[https://docwiki.embarcadero.com/RADStudio/Alexandria/ja/%E7%AF%84%E5%9B%B2%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF 範囲チェック - RAD Studio]</ref>。}}。
=== ソースコード記述時の対策 ===
バッファオーバーフロー攻撃は主にC言語やC++を対象としたものなので、以下ではプログラミング言語としてC言語かC++を選んだ場合に対しての対策を述べる。
==== 人手による対策 ====
バッファオーバーフロー攻撃を防ぐには、領域長とデータ長を意識したプログラミングを行う事が重要である<ref name=":15">{{Cite web|和書|url=https://www.ipa.go.jp/security/awareness/vendor/programmingv2/contents/c902.html|title=第10章 著名な脆弱性対策 バッファオーバーフロー: #2 ソースコード記述時の対策|accessdate=2018-12-27|work=セキュアプログラミング講座(2007年公開版)|publisher=情報処理推進機構}}</ref>:
* データをバッファに挿入する際には、データ長がバッファ長を超えない事を調べる検査ロジックをプログラムに書き加えておく<ref name=":15" />
* データが文字列の場合は文字列長を数え間違えないよう、文字列の終端にあるナル文字も数える<ref name=":15" />
* データ長に依存したループを書くときに間違ってループを回しすぎる([[Off-by-oneエラー]])事が無いようにする<ref name=":15" />
* 事前にデータ長の上限がわからない場合は、バッファをmalloc等で動的に確保し、不要になったら確実にfreeする<ref name=":15" />
==== 安全なライブラリの使用 ====
[[標準Cライブラリ]]を使う代わりに、バッファあふれを未然に防いだりエラーとして検出してくれたりするセキュアなライブラリを使う事も重要である。このようなライブラリとして以下のようなものがある。
* Managed String(Linux環境)<ref name=":15" />
* [[C11 (C言語)|ISO/IEC 9899:2011]] Annex K(Windows環境)<ref name=":15" />
* SafeStr(Linux環境、Windows環境)<ref name=":15" />
* "The Better String Library"<ref>{{cite web|url=http://bstring.sf.net/|title=The Better String Library|accessdate=2012-02-08}}</ref>
* Vstr<ref>{{cite web|url=http://www.and.org/vstr/|title=The Vstr Homepage|accessdate=2012-02-08}}</ref>
* Erwin<ref>{{cite web|url=http://www.theiling.de/projects/erwin.html|title=The Erwin Homepage|accessdate=2012-02-08}}</ref>
また[[BSD libc]]など、Cライブラリの実装によっては[[strlcpy]]や[[strlcat]]といった、より安全に配慮した文字列用関数が用意されている。
=== 静的コード解析時における対策 ===
==== 人手による静的コード解析 ====
静的コード解析の際、前述した領域長とデータ長を意識したプログラミングが行われているか再確認し、strcpy, sprintf 等のデータ領域長を意識しないライブラリ関数が使用されていないか、使用されているならその入力長の計算が間違っていないかを確認する<ref name=":16">{{Cite web|和書|url=https://www.ipa.go.jp/security/awareness/vendor/programmingv2/contents/c903.html|title=第10章 著名な脆弱性対策 バッファオーバーフロー: #3 ソースコードの静的検査|accessdate=2018-12-27|work=セキュアプログラミング講座(2007年公開版)|publisher=情報処理推進機構}}</ref>。またヒープオーバーフロー対策としてmalloc/freeやnew/deleteの多用に注意し、関数ポインタの書き換えを防ぐために関数ポインタが多用に注意し<ref name=":16" />、攻撃パターンを見逃す事がないようデータの一部を切り捨てている関数に注意する<ref name=":16" />。
==== 自動化された静的コード解析 ====
strcpy等のバッファオーバーフローが起こりやすい関数の使用に対して警告を出してくれる関数名照合型検査ツール<ref name=":16" />や、各種ソースコード検査ツール<ref name=":16" />を使用してバッファオーバーフロー対策を行う。開発環境の中にはソースコード検査ツールをオプションとして備えているものもあるので、それを利用する事もできる<ref name=":16" />。
またソースコードが手に入らない製品等を利用する場合は、[[ファジング]]ツールでブラックボックス解析する。
== 発展的な攻撃 ==
=== Return-to-libc攻撃 ===
{{Main|Return-to-libc攻撃}}
既に述べたように、典型的なスタックベースのオーバーフロー攻撃では、本来データを格納すべき箇所にシェルコードやNOP命令のようなコードを置き、リターンアドレスを書き換えてこれらのコードにジャンプして、これらのコードを実行する必要があった。しかしW<math>\oplus</math>Xが実装された実行環境ではデータを格納すべき箇所におけるコード実行を不許可としているので、こうしたオーバーフロー攻撃を仕掛ける事はできない。
そこでW<math>\oplus</math>Xを回避する為に考案されたのが'''Return-to-libc攻撃'''である。この攻撃では、リターンアドレスのジャンプ先をデータ格納箇所に書き換えるのではなく、標準Cライブラリ(libc)のような共有ライブラリ・DLLにジャンプするよう書き換える。こうしたライブラリはデータ格納箇所以外に置かれているので(W<math>\oplus</math>Xが実装された環境においても)実行許可がある。そこで攻撃者はライブラリ内の関数を悪用して、攻撃を仕掛ける事ができる。
実行環境がASLRを実装していれば、libc等のライブラリの仮想アドレスはランダムに変わるので、攻撃者がジャンプ先をライブラリに落ちるようリターンアドレスを書き換えるのは困難になる。
=== Return-to-Register攻撃 ===
Return-to-Register攻撃とは「ret命令実行後にレジスタが指しているアドレスに不正な命令コードを挿入し、その上で”そのレジスタ値に実行を移す命令群が格納されているアドレス”でリターンアドレスを書き換える攻撃」{{Sfn|メモリ破損脆弱性に対する攻撃の調査と分類|2014|p=769}}のことである。
例えばレジスタAがバッファの先頭へのポインタを格納しているとすると、そのときレジスタAをオペランドにとる任意のjumpまたはcall命令が実行フローの支配権を得るのに使用できる<ref name="shah">{{cite conference|last=Shah|first=Saumil|year=2006|booktitle=Hack In The Box|url=http://conference.hitb.org/hitbsecconf2006kl/materials/DAY 1 - Saumil Shah - Writing Metasploit Plugins.pdf|title=Writing Metasploit Plugins: from vulnerability to exploit|location=Kuala Lumpur|format=PDF}}</ref>。
==== ret2esp攻撃 ====
ret2esp(Return to esp)攻撃は、2017年現在のASLRの実装のデフォルトではコード領域(.textセクション)をランダマイズしない事を利用してASLRを回避する攻撃手法である<ref name=":19">{{Cite web|和書|url=http://www.intellilink.co.jp/article/column/ctf01.html|title=CTFで学ぶ脆弱性(スタックバッファオーバーフロー編・その1)|accessdate=2019-01-01|publisher=NTTデータ先端技術株式会社}}</ref>。ここでespは[[x86]]における[[スタックポインタ]]である。この攻撃は.textセクション内に「jmp esp」のような命令がある場合に成立する<ref name=":19" />。攻撃者はバッファオーバーフローを利用してespの(仮想アドレス空間上の)下にシェルコードを配置した上で、リターンアドレスを「jmp esp」の箇所に書き換える。するとまずリターンアドレスの書き換えにより「jmp esp」のところにジャンプし、次に「jmp esp」が実行されてespの箇所にジャンプするので、その下に配置したシェルコードが実行される事になる<ref name=":19" />。
== 歴史 ==
{{独自研究範囲|バッファオーバーフローがある程度公に文書化されたのは1972年の初めで|date=2023年1月}}、{{Harvnb|Anderson|1972}} で以下のように説明されている。
<blockquote>
{{Harvnb|Anderson|1972|p=[https://csrc.nist.gov/csrc/media/publications/conference-paper/1998/10/08/proceedings-of-the-21st-nissc-1998/documents/early-cs-papers/ande72.pdf#page=69 61]}}: The code performing this function does not check the source and destination addresses properly, permitting portions of the monitor to be overlaid by the user. This can be used to inject code into the monitor that will permit the user to seize control of the machine.
</blockquote>
<blockquote>
この処理を実行するコードは読み込み元と書き込み先のアドレスに対するチェックを適切に行なっておらず、モニターの一部に対しユーザによる上書きを許すことになっている。これはモニターにコードを挿入するのに利用される可能性があり、結果としてユーザがマシンの制御を掌握する可能性がある。
</blockquote>
''モニター''とは、現在カーネルと呼ばれているのと同じものである。
バッファオーバーフローを利用した悪意のあるエクスプロイトで最初に文書化されたのは、1988年に書かれた[[Morris worm]]がインターネット上で増殖するのに利用していたエクスプロイトのうちの一つである。攻撃対象のプログラムは[[UNIX]]の[[サービス (コンピュータ)|サービス]]である[[Fingerプロトコル|finger]]であった<ref>{{cite web
|title = "A Tour of The Worm" by Donn Seeley, University of Utah
|url = http://world.std.com/~franl/worm.html
|accessdate = 2007-06-03
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070520233435/http://world.std.com/~franl/worm.html
|archivedate = 2007-05-20
|deadlinkdate = 2017-09
}}</ref>。
1995年、Thomas Lopaticはそれとは独立にバッファオーバーフローを発見し、セキュリティに関するメーリングリスト[[Bugtraq]]へ投稿した<ref>{{cite web
|title = Bugtraq security mailing list archive
|url = http://www.security-express.com/archives/bugtraq/1995_1/0403.html
|accessdate = 2007-06-03
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070901222723/http://www.security-express.com/archives/bugtraq/1995_1/0403.html
|archivedate = 2007-09-01
|deadlinkdate = 2017-09
}}</ref>。
1996年、[[エリアス・レヴィ]](ハンドルネームAleph one)はオンラインマガジン[[Phrack]]で記事"Smashing the Stack for Fun and Profit"を発表した<ref>{{cite web
| title=Smashing the Stack for Fun and Profit
| url=http://www.phrack.org/issues.html?issue=49&id=14
| accessdate=2007-06-03}}</ref>。
これはスタックベースのバッファオーバーフローを使用したエクスプロイトを手順を追って説明していく内容である。
これ以降、少なくとも2つの有名なインターネットワームがバッファオーバーフローを利用したエクスプロイトで多くのシステムに被害を与えている。2001年には[[Code Red]]がマイクロソフトの[[Internet Information Services]] (IIS) 5.0のバッファオーバーフローを利用している<ref>{{cite web
| title=eEye Digital Security
| url=http://research.eeye.com/html/advisories/published/AL20010717.html
| accessdate=2007-06-03}}</ref>。
また2003年には[[SQL Slammer]]が[[Microsoft SQL Server|Microsoft SQL Server 2000]]の動作するマシンに被害を与えている<ref>{{cite web
| title=Microsoft Technet Security Bulletin MS02-039
| url=http://www.microsoft.com/technet/security/bulletin/ms02-039.mspx
| accessdate=2007-06-03}}</ref>。
2003年には、市販の[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]のゲームに含まれるバッファオーバーフローが利用され、無認可のソフトウェア(例えばHomebrewのゲームなど)を[[Modチップ]]などのハードウェアの改造なしに動作させるのに利用された<ref>{{cite web
|url = http://www.gamesindustry.biz/content_page.php?aid=1461
|title = Hacker breaks Xbox protection without mod-chip
|accessdate = 2007-06-03
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070927210513/http://www.gamesindustry.biz/content_page.php?aid=1461
|archivedate = 2007-09-27
|deadlinkdate = 2017-09
}}</ref>。
[[PlayStation 2]]では同じ目的のために[[PS2 Independence Exploit]]が使用される。また[[Wii]]ではHomebrewが利用されるが、これは[[ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス]]に存在するバッファオーバーフローを利用している。
== 参考文献 ==
* {{Cite book|ref={{Sfnref|八木|村山|秋山|2015}}|author=八木毅|title=コンピュータネットワークセキュリティ|date=2015-03-17|year=|accessdate=|publisher=コロナ社|isbn=978-4339024951|author2=村山純一|author3=秋山満昭}}
*{{Cite book|ref=harv|first=Jon|last=Erickson|title=Hacking: 美しき策謀 第2版 ―脆弱性攻撃の理論と実際|date=2011-10-22|year=|accessdate=|publisher=オライリージャパン|isbn=978-4873115146|translator=村上雅章|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.ipa.go.jp/security/awareness/vendor/programmingv2/clanguage.html|title=セキュア・プログラミング講座 C/C++言語編|accessdate=2018-12-14|publisher=情報処理推進機構}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.intellilink.co.jp/article/column/ctf01.html|title=CTFで学ぶ脆弱性(スタックバッファオーバーフロー編・その1)|accessdate=2018-12-14|publisher=NTTデータ先端技術株式会社}}
*ヒープベースのバッファオーバーフロー攻撃
**{{Cite web|url=http://security.cs.rpi.edu/courses/binexp-spring2015/lectures/17/10_lecture.pdf|title=Heap Exploitation Modern Binary Exploitation CSCI 4968 - Spring 2015|accessdate=2018-12-18|author=Markus Gaasedelen|format=pdf|publisher=CyberSecurity group, Department of Computer Science, [[レンセラー工科大学|Rensselaer Polytechnic Institute (RPI)]]}}
**{{Cite web|和書|url=https://www.ffri.jp/blog/2013/12/2013-12-27-2.htm|title=2013-12-27 Monthly Research 「Heap Exploitのこれまでと現状」|accessdate=2018-12-26|publisher=FFRI}}
***{{Cite web|和書|url=https://www.ffri.jp/assets/files/monthly_research/MR201312_History_and_Current_State_of_Heap_Exploit_JPN.pdf|title=Monthly Research Heap Exploitのこれまでと現状|accessdate=2018-12-18|publisher=FFRI|format=pdf|date=2013-12-27|ref={{Sfnref|FFRI|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00106599/ |title=メモリ破損脆弱性に対する攻撃の調査と分類 |accessdate=2021-12-02 |author=鈴木舞音, 上原崇史, 金子洋平, 堀洋輔, 馬場隆彰, 齋藤孝道 |journal=コンピュータセキュリティシンポジウム2014論文集 |year=2014 |month=oct |volume=2014 |issue=2 |pages=767-774 |naid=170000087342 |ref={{Sfnref|メモリ破損脆弱性に対する攻撃の調査と分類|2014}}}}
*[http://raykoid666.wordpress.com/2009/11/28/remote-buffer-overflow-from-vulnerability-to-exploit-part-1/ "Discovering and exploiting a remote buffer overflow vulnerability in an FTP server"] by Raykoid666
*[http://www.phrack.org/issues/49/14.html#article "Smashing the Stack for Fun and Profit"] by Aleph One
*[http://iac.dtic.mil/iatac/download/Vol7_No4.pdf An Overview and Example of the Buffer-Overflow Exploit. pps. 16-21.]
*[https://www.securecoding.cert.org CERT Secure Coding Standards]
*[http://www.cert.org/secure-coding CERT Secure Coding Initiative]
*[http://www.cert.org/books/secure-coding Secure Coding in C and C++]
*[http://www.sans.org/reading_room/whitepapers/securecode/386.php SANS: inside the buffer overflow attack]
*[https://web.archive.org/web/20130126024851/http://www.awarenetwork.org/etc/alpha/?x=5 "Advances in adjacent memory overflows"] by Nomenumbra
*[http://www.blackhat.com/presentations/bh-usa-04/bh-us-04-silberman/bh-us-04-silberman-paper.pdf A Comparison of Buffer Overflow Prevention Implementations and Weaknesses]
*[https://web.archive.org/web/20090817230359/http://doc.bughunter.net/buffer-overflow/ More Security Whitepapers about Buffer Overflows]
*[http://www.syngress.com/book_catalog/327_SSPC/sample.pdf Chapter 12: Writing Exploits III] from ''Sockets, Shellcode, Porting & Coding: Reverse Engineering Exploits and Tool Coding for Security Professionals'' by James C. Foster (ISBN 1-59749-005-9). Detailed explanation of how to use Metasploit to develop a buffer overflow exploit from scratch.
*{{cite web|last=Anderson|first=James P.|title=Computer Security Technology Planning Study|url=https://csrc.nist.gov/csrc/media/publications/conference-paper/1998/10/08/proceedings-of-the-21st-nissc-1998/documents/early-cs-papers/ande72.pdf|format=PDF|year=1972|accessdate=2023-01-24|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[Phrack]]
* [[Exec Shield]]
* [[バッファアンダーラン]]
* [[Billion laughs]]
* [[Computer insecurity]]
* [[End Of File]]
* [[書式文字列攻撃]]
* [[ヒープオーバーフロー]]
* [[Ping of death]]
* [[ポートスキャン]]
* [[Security focused operating systems]]
* [[自己書き換えコード]]
* [[シェルコード]]
* [[スタックバッファオーバーフロー]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{エクスプロイト}}
{{ハッキング}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はつふあおおはあふろお}}
[[Category:コンピュータセキュリティ]]
[[Category:バグ]] | 2003-03-03T19:54:00Z | 2023-10-23T09:53:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC |
3,327 | フェルミ面 | フェルミ面(フェルミめん英: Fermi surface)とは、E(k)=EF で定義される波数空間上の曲面のことである。ここで、EF はフェルミエネルギー、E(k) は粒子の分散関係である。自由粒子など、分散関係が線形となる場合には球面となるので、特にフェルミ球(フェルミきゅう Fermi sphere)と呼び、その半径をフェルミ波数と呼ぶ。
定義から分かるように、固体中の電子のバンド構造においてフェルミ面を持つのは金属(半金属も含む)のみで、バンドギャップ中にフェルミエネルギーが存在する半導体や絶縁体にはフェルミ面は存在しない。
三次元空間における自由電子のフェルミ面は球形である。比較的自由電子に近いs軌道が価電子となっているアルカリ金属などのフェルミ面には、球形に近いものがある。
フェルミ面の形はフェルミエネルギー近傍のバンド構造に依存し、遷移金属や複雑な金属間化合物などでは非常に複雑なフェルミ面となることがある。
実験的にはサイクロトロン共鳴実験、ドハース・ファンアルフェン効果を使った実験、電子-陽電子消滅実験やコンプトン散乱実験によって求まる運動量密度(運動量分布→電荷密度参照)などからフェルミ面に関する情報が得られる。また、角度分解光電子分光により直接フェルミ面を観測することも可能となっている。
フェルミ面上での電子の群速度のことをフェルミ速度と言う。フェルミ速度 vF は以下の式で定義される。kF はフェルミ波数。
自由電子の場合のフェルミ速度は、自由電子の質量をmとして、
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] | フェルミ面とは、E(k)=EF で定義される波数空間上の曲面のことである。ここで、EF はフェルミエネルギー、E(k) は粒子の分散関係である。自由粒子など、分散関係が線形となる場合には球面となるので、特にフェルミ球と呼び、その半径をフェルミ波数と呼ぶ。 定義から分かるように、固体中の電子のバンド構造においてフェルミ面を持つのは金属(半金属も含む)のみで、バンドギャップ中にフェルミエネルギーが存在する半導体や絶縁体にはフェルミ面は存在しない。 三次元空間における自由電子のフェルミ面は球形である。比較的自由電子に近いs軌道が価電子となっているアルカリ金属などのフェルミ面には、球形に近いものがある。 フェルミ面の形はフェルミエネルギー近傍のバンド構造に依存し、遷移金属や複雑な金属間化合物などでは非常に複雑なフェルミ面となることがある。 実験的にはサイクロトロン共鳴実験、ドハース・ファンアルフェン効果を使った実験、電子-陽電子消滅実験やコンプトン散乱実験によって求まる運動量密度(運動量分布→電荷密度参照)などからフェルミ面に関する情報が得られる。また、角度分解光電子分光により直接フェルミ面を観測することも可能となっている。 | {{出典の明記|date=2016年4月}}
'''フェルミ面'''(フェルミめん{{Lang-en-short|Fermi surface}})とは、{{Math|1=''E''('''''k''''')=''E''<sub>F</sub>}} で定義される[[逆格子空間|波数空間]]上の曲面のことである。ここで、{{Math|''E''<SUB>F</SUB>}} は[[フェルミエネルギー]]、{{Math|''E''('''''k''''')}} は粒子の[[分散関係]]である。自由粒子など、[[分散関係]]が線形となる場合には[[球面]]となるので、特に'''フェルミ球'''(フェルミきゅう {{Lang|en|Fermi sphere}})と呼び、その半径を'''フェルミ波数'''と呼ぶ。
定義から分かるように、[[固体]]中の[[電子]]の[[バンド構造]]においてフェルミ面を持つのは[[金属]]([[半金属 (バンド理論)|半金属]]も含む)のみで、[[バンドギャップ]]中にフェルミエネルギーが存在する[[半導体]]や[[絶縁体]]にはフェルミ面は存在しない。
三次元空間における[[自由電子]]のフェルミ面は球形である。比較的自由電子に近いs軌道が[[価電子]]となっている[[アルカリ金属]]などのフェルミ面には、球形に近いものがある。
フェルミ面の形はフェルミエネルギー近傍のバンド構造に依存し、遷移金属や複雑な金属間化合物などでは非常に複雑なフェルミ面となることがある。
実験的には[[加速器|サイクロトロン]]共鳴実験、[[ドハース・ファンアルフェン効果]]を使った実験、電子-陽電子消滅実験や[[コンプトン効果|コンプトン散乱]]実験によって求まる運動量密度(運動量分布→[[電荷密度]]参照)などからフェルミ面に関する情報が得られる。また、[[光電子分光|角度分解光電子分光]]により直接フェルミ面を観測することも可能となっている。
== フェルミ速度 ==
フェルミ面上での電子の[[群速度]]のことを'''フェルミ速度'''と言う。フェルミ速度 {{Math|'''''v'''''<SUB>F</SUB>}} は以下の式で定義される。{{Math|''k''<SUB>F</SUB>}} はフェルミ波数。
:<math> \boldsymbol{v}_\mathrm F (k_\mathrm F) = {1 \over {\hbar}} \nabla_{\boldsymbol{k}} E(\boldsymbol{k}) \bigg|_{k = k_\mathrm F} </math>
自由電子の場合のフェルミ速度は、自由電子の質量を''m''として、
:<math> \boldsymbol{v}_\mathrm F (k_\mathrm F) = { \hbar \boldsymbol{k}_\mathrm F \over {m} } </math>
となる。
==関連記事==
*[[物性物理学]]
*[[第一原理バンド計算]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ふえるみめん}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:エンリコ・フェルミ]]
[[Category:物理学のエポニム]] | null | 2023-03-04T17:03:20Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
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"Template:Lang",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E9%9D%A2 |
3,328 | 構造定数 (バンド計算) | バンド計算における構造定数(こうぞうていすう、Structure factor、構造因子とも言う)は以下の式で定義される:
電荷密度をフーリエ変換したものを構造因子と言う場合がある。KKR法やLMTO法における行列要素において、系の構造にのみ依存する部分(項)のことも構造定数(または構造因子)と言う。 | [
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] | バンド計算における構造定数は以下の式で定義される: 電荷密度をフーリエ変換したものを構造因子と言う場合がある。KKR法やLMTO法における行列要素において、系の構造にのみ依存する部分(項)のことも構造定数(または構造因子)と言う。 | {{Expand English|date=2022年10月}}
[[バンド計算]]における'''構造定数'''(こうぞうていすう、Structure factor、'''構造因子'''とも言う)は以下の式で定義される:
:<math>S(\vec{q})=\sum_{i} \exp(i\vec{q}\cdot\vec{r}_i).</math>
::<math>\vec{q}</math>:[[逆格子ベクトル]]
::<math>\vec{r}_i</math>:[[単位胞]]内の原子(イオン芯)の座標の[[位置ベクトル]]
[[電荷密度]]をフーリエ変換したものを構造因子と言う場合がある。[[KKR法]]や[[LMTO]]法における[[行列要素]]において、系の構造にのみ依存する部分(項)のことも構造定数(または構造因子)と言う。
== 関連項目 ==
*[[物性物理学]]
*[[第一原理バンド計算]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうそうていすう}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2022-10-07T12:03:47Z | false | false | false | [
"Template:Expand English",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%AE%9A%E6%95%B0_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E8%A8%88%E7%AE%97) |
3,329 | ソーシャル・エンジニアリング | ソーシャル・エンジニアリング(英: social engineering)とは、人間の心理的な隙や、行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する犯罪を指す。社会工学(英: social engineering)の分野では、プライベートな集団や政府といった大規模な集団における、大衆の姿勢や社会的なふるまいの影響への働きかけを研究することを言う。フィッシングやスキミングは、行為自体はコンピュータ内で閉じているが、人間心理的な隙をついている点では同様である。
元来は、コンピュータ用語で、コンピュータウイルスやスパイウェアなどを用いない(つまりコンピュータ本体に被害を加えない方法)で、パスワードを入手し不正に侵入(クラッキング)するのが目的。この意味で使用される場合はソーシャルハッキング(ソーシャルハック)、ソーシャルクラッキングとも言う。
ソーシャル・エンジニアリングには以下のような方法が、よく用いられる。
コンピュータのパスワードを入手するだけでなく、クレジットカードやキャッシュカードについて暗証番号を聞き出し、盗難カードや偽造カードで不正出金を行う手口にも用いられる。電話で連絡を取り、
暗証番号は、カードの会社・金融機関等が用意した端末以外に入力するべきではない。カードの会社等の担当者ですら、聞く事はあり得ないと言ってよい(暗号化されており解析不可能。正当な顧客からの問い合わせに対しても再登録するよう指示がされる)。
また、直接暗証番号を尋ねずに、生年月日等の個人情報を尋ねて預金の不正引出に及んだ例もある。これは生年月日を暗証番号として設定していた事例である。
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] | ソーシャル・エンジニアリングとは、人間の心理的な隙や、行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する犯罪を指す。社会工学の分野では、プライベートな集団や政府といった大規模な集団における、大衆の姿勢や社会的なふるまいの影響への働きかけを研究することを言う。フィッシングやスキミングは、行為自体はコンピュータ内で閉じているが、人間心理的な隙をついている点では同様である。 | {{Otheruses|[[セキュリティ]]、[[情報セキュリティ]]|政治的、学問的な社会工学|社会工学}}
{{出典の明記|date=2018年5月}}
'''ソーシャル・エンジニアリング'''({{lang-en-short|social engineering}})とは、人間の心理的な隙や、行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する犯罪を指す<ref>[https://cybersecurity-jp.com/cyber-terrorism/14431 ソーシャルエンジニアリングとは?具体的な手法から対策を考える サイバーセキュリティ.com]</ref>。[[社会工学]]({{lang-en-short|social engineering}})の分野では、プライベートな集団や政府といった大規模な集団における、大衆の姿勢や社会的なふるまいの影響への働きかけを研究することを言う。[[フィッシング (詐欺)|フィッシング]]や[[スキミング]]は、行為自体はコンピュータ内で閉じているが、人間心理的な隙をついている点では同様である。
== 概要 ==
元来は、[[コンピュータ用語一覧|コンピュータ用語]]で、[[コンピュータウイルス]]や[[スパイウェア]]などを用いない(つまりコンピュータ本体に被害を加えない方法)で、パスワードを入手し不正に侵入([[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]])するのが目的。この意味で使用される場合は'''ソーシャルハッキング'''('''ソーシャルハック''')、'''ソーシャルクラッキング'''とも言う。
ソーシャル・エンジニアリングには以下のような方法が、よく用いられる。
*重役や上司(直属でない・あまり親しくない)、重要顧客、システム管理者などと身分を詐称して電話をかけ、パスワードや重要情報を聞きだす。
*[[現金自動預け払い機]] (ATM) などで端末本体を操作する人の後ろに立ち、[[パスワード]]入力の際の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](もしくは画面)を短時間だけ凝視し、暗記する({{仮リンク|ショルダーサーフィン|en|Shoulder surfing (computer security)}}、もしくはショルダーハッキング<ref>[http://e-words.jp/w/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AF.html ショルダーハック]</ref>という)。
:ATMの操作時に後方や隣に不審者がいないかを確認するため[[凸面鏡]]、覗かれないよう[[パーティション]]を設置したり、[[静脈]]による[[生体認証]]を取り入れるなど対策が強化されている。スマートフォンを利用するときには、スクリーンにのぞき見防止フィルムを貼るのも有効である。
<!---*コンピュータに、キーボードの入力を記憶する不正なソフトウェア([[キーロガー]])を密かにインストールし、記録からパスワードを推測する。--->
*IDやパスワードが書かれた紙([[付箋紙]]など)を瞬間的に見て暗記し、メモする。ディスプレイ周辺やデスクマットに貼り付けられていることが多い。
*特定のパスワードに変更することで特典が受けられるなどの偽の情報を流し、パスワードを変更させる(日本において、この手法でパスワードを不正入手した人物が2007年3月に書類送検されている)。
== カード詐欺 ==
コンピュータの[[パスワード]]を入手するだけでなく、[[クレジットカード]]や<!--などの暗証番号を盗むんだり、家族に詐称して金を振り込ませる([[特殊詐欺|振り込め詐欺]])など[[詐欺]]の手口にも使われる。-->[[キャッシュカード]]について暗証番号を聞き出し、盗難カードや偽造カードで不正出金を行う手口にも用いられる。電話で連絡を取り、
*警察を名乗り、逮捕した不審者が持っていたカードの確認を行うために暗証番号を聞き出す
*信販会社を名乗り、手違いで余分に引き落とした決済金を口座に返金するために暗証番号を聞き出す
暗証番号は、カードの会社・金融機関等が用意した端末以外に入力するべきではない。カードの会社等の担当者ですら、聞く事はあり得ないと言ってよい(暗号化されており解析不可能。正当な顧客からの問い合わせに対しても再登録するよう指示がされる)。
また、直接暗証番号を尋ねずに、生年月日等の個人情報を尋ねて[[過誤払い|預金の不正引出]]に及んだ例もある{{要出典|date=2013年5月}}。これは生年月日を暗証番号として設定していた事例である。
== 手口の一例 ==
[[個人情報]]を聞き出す為にも用いられる。電話で連絡を取り、
* 学校の同級生の親族や警察を名乗り、本人や他の同級生の住所や電話番号を聞き出す
* [[宅配便]]を名乗り、住所が良く判らないという口実で正確な住所を聞き出す
* [[探偵|興信所]]を名乗り、本人に縁談があるという口実で素行などを聞き出す
* [[警察]]や[[公安委員会]]、[[裁判所]]を名乗り、住所や電話番号、家族構成、勤務先、通学先などを聞き出す
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[コンピュータセキュリティ]]
* [[ドナルド・クレッシー|不正のトライアングル]] - 米国の犯罪学者が導き出した、不正行為をする人物の3つの要素
* [[パスワード]]
* [[フィッシング (詐欺)|フィッシング]] (''Phishing fraud'')
* [[特殊詐欺]]
* [[ケビン・ミトニック]]
{{DEFAULTSORT:そうしやるえんじにありんく}}
[[Category:経済犯罪]]
[[Category:インターネット犯罪]]
[[Category:セキュリティ技術]]
[[Category:エンジニアリング]] | null | 2022-11-24T18:21:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0 |
3,330 | クラッキング (コンピュータ) | クラッキング(英: cracking)、クラックとは、コンピュータネットワークに繋がれたシステムへ不正に侵入したり、コンピュータシステムを破壊・改竄するなど、コンピュータを不正に利用すること。
オンライン登録やシリアルチェックをスキップして使用するなど、悪用の目的でアプリケーションソフトウェアを改変する行為もクラッキングと呼ぶ。
また、悪用の目的ではなく、単にシステムシーケンス等の裏側に侵入し、情報を閲覧、問題点を確認することもクラッキングと呼ぶが、情報セキュリティマネジメント等の資格保持者等(ホワイトハッカー)は一般に特殊事業を行っており、改竄等がされない限り問題視されない。
コンピュータやソフトウェアの仕組みを研究、調査する行為をハッキングという。ハッキングそのものは「高い技術レベルを必要とするコンピュータ利用」といった意味合いであり、善悪の要素を持たない。そのうち、破壊などを伴い他者に迷惑をかけるものや、秘匿されたデータに不正にアクセスするなど、悪意や害意を伴うものをクラッキングと呼び、これには明確な否定的な意味合いがある。
語源などについての知識を持たない者やメディアは、クラッキングとハッキングを同一視する場合がある。前述のように、ハッキングという言葉には善悪の要素はなく、本来は否定的な意味合いを持たないため、「ハッキングという言葉をクラッキングの意味で用いるのは誤用である」と強く主張する者もいる。「クラッキング」という言葉は、そういった指摘を踏まえて、「悪意・害意を伴うハッキング」を単なる「ハッキング」と区別するために用いられるようになり、一般化した。
日本では電子計算機損壊等業務妨害罪や不正アクセス行為の禁止等に関する法律(不正アクセス禁止法)に抵触し、刑事罰の対象となる。
"Cracking"は"Crack"の動名詞形であり、英語で「割る」、「ヒビが入る」などの意味がある。要するに、物体を当初意図した状態よりも悪い状態にし、もとの用途では使用が難しい状態にしてしまうことである。これをコンピュータのプログラムやデータにあてはめ「もとに戻す気もなく、なかばシステムを破壊しながら無理矢理使用する」という意味で使われる様になった。
対して "Hacking" は "Hack" の動名詞形であり、英語で「鋭く細かく割砕く」という意味があり、薪割りなどのイメージがある。物体を当初の状態から細々に切り刻んでとりあえず使える状態にすることであり、例えば、ありあわせのもので酒の肴を作るようなことを指す。これをプログラムにあてはめ「その場しのぎの方法により意図通りの動きをさせておく」という意味で使われるようになった。実際、オープンソースプログラムのソースコードに「とってもハック的だけど、一応動くから。」( "It's quite hackish but it still works." ) という趣旨のコメントが書かれていることがある。これは、いうなれば、ありあわせで作った肴で見栄えはよくないかもしれないが味は保証する、と述べているのである。
つまり、ハッキングでないクラッキングもあれば、クラッキングでないハッキングもある。しかし、一般に、クラックをするときには、抜け穴を攻撃するためだけにその場しのぎの道具をちょいちょいと作ったり使ったりしてクラッカーの思い通りの動作をさせることが多く、これはハッキングにあたる。このため、誤用されるようになったと考えられる。
クラッキングには様々な方法や種類があるが、技術者の観点から見ればいくつかのカテゴリに分類ができる。また、法的な観点から言えば、情報を扱うプライバシー法や他人の所有物の盗難・破損・破壊などいくつかのカテゴリに分類できる。
ルートクラックは、UNIX系やLinuxのOSにおけるコンピュータの最上特権ユーザーであるルート (root) という名前のスーパーユーザーのアカウントで侵入し、情報ファイルの改ざん、盗難、破壊を行ったり、コンピュータの持ち主が予期しない動作を起こさせるコンピュータウイルスやその他ソフトウェアをインストールする方法である。
ルートユーザーはコンピュータシステム上のすべての行為(書き込み・読み出し・削除・アプリケーションの行使)が行えるので、ルートクラックをされたマシンは再起動すらできなくなる場合もある。ルートは一番強固に守るべきシステムアカウントである。
ルート(特権ユーザー)の権利を手にいれるためのツールの1つにはルートキット (rootkit) がある。chkrootkit(外部サイト)は、各種ルートキットがシステムに仕掛けられているかどうかをチェックするツール(Unix系のプログラム)。 | [
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"text": "クラッキングには様々な方法や種類があるが、技術者の観点から見ればいくつかのカテゴリに分類ができる。また、法的な観点から言えば、情報を扱うプライバシー法や他人の所有物の盗難・破損・破壊などいくつかのカテゴリに分類できる。",
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] | クラッキング、クラックとは、コンピュータネットワークに繋がれたシステムへ不正に侵入したり、コンピュータシステムを破壊・改竄するなど、コンピュータを不正に利用すること。 オンライン登録やシリアルチェックをスキップして使用するなど、悪用の目的でアプリケーションソフトウェアを改変する行為もクラッキングと呼ぶ。 また、悪用の目的ではなく、単にシステムシーケンス等の裏側に侵入し、情報を閲覧、問題点を確認することもクラッキングと呼ぶが、情報セキュリティマネジメント等の資格保持者等(ホワイトハッカー)は一般に特殊事業を行っており、改竄等がされない限り問題視されない。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年1月
| 更新 = 2021年3月
}}
'''クラッキング'''({{lang-en-short|cracking}})、'''クラック'''とは、[[コンピュータネットワーク]]に繋がれた[[コンピュータシステム|システム]]へ不正に侵入したり、コンピュータシステムを破壊・[[改竄]]するなど、[[コンピュータ]]を不正に利用すること。
オンライン登録やシリアルチェックをスキップして使用するなど、悪用の目的で[[アプリケーションソフトウェア]]を改変する行為もクラッキングと呼ぶ。
また、悪用の目的ではなく、単にシステムシーケンス等の裏側に侵入し、情報を閲覧、問題点を確認することもクラッキングと呼ぶが、情報セキュリティマネジメント等の資格保持者等(ホワイトハッカー)は一般に特殊事業を行っており、改竄等がされない限り問題視されない。
== 概要 ==
コンピュータや[[ソフトウェア]]の仕組みを研究、調査する行為を'''[[ハッキング]]'''という。ハッキングそのものは「高い技術レベルを必要とするコンピュータ利用」といった意味合いであり、善悪の要素を持たない。そのうち、破壊などを伴い他者に迷惑をかけるものや、秘匿されたデータに不正にアクセスするなど、悪意や害意を伴うものをクラッキングと呼び、これには明確な否定的な意味合いがある。
語源などについての知識を持たない者やメディアは、クラッキングとハッキングを同一視する場合がある。前述のように、ハッキングという言葉には善悪の要素はなく、本来は否定的な意味合いを持たないため、「ハッキングという言葉をクラッキングの意味で用いるのは[[誤用]]である」と強く主張する者もいる。「クラッキング」という言葉は、そういった指摘を踏まえて、「悪意・害意を伴うハッキング」を単なる「ハッキング」と区別するために用いられるようになり、一般化した。
日本では[[信用毀損罪・業務妨害罪#電子計算機損壊等業務妨害罪|電子計算機損壊等業務妨害罪]]や[[不正アクセス行為の禁止等に関する法律]](不正アクセス禁止法)に抵触し、[[刑事罰]]の対象となる。
== 語源 ==
{{独自研究|section=1|date=2017年5月}}
"Cracking"は"Crack"の動名詞形であり、英語で「割る」、「ヒビが入る」などの意味がある。要するに、物体を当初意図した状態よりも悪い状態にし、もとの用途では使用が難しい状態にしてしまうことである。これをコンピュータの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]や[[データ]]にあてはめ「もとに戻す気もなく、なかばシステムを破壊しながら無理矢理使用する」という意味で使われる様になった。
対して "Hacking" は "Hack" の動名詞形であり、英語で「鋭く細かく割砕く」という意味があり、薪割りなどのイメージがある。物体を当初の状態から細々に切り刻んでとりあえず使える状態にすることであり、例えば、ありあわせのもので酒の肴を作るようなことを指す。これをプログラムにあてはめ「その場しのぎの方法により意図通りの動きをさせておく」という意味で使われるようになった。実際、[[オープンソース]]プログラムの[[ソースコード]]に「とってもハック的だけど、一応動くから。」( "It's quite hackish but it still works." ) という趣旨のコメントが書かれていることがある。これは、いうなれば、ありあわせで作った肴で見栄えはよくないかもしれないが味は保証する、と述べているのである。
つまり、ハッキングでないクラッキングもあれば、クラッキングでないハッキングもある。しかし、一般に、クラックをするときには、抜け穴を攻撃するためだけにその場しのぎの道具をちょいちょいと作ったり使ったりしてクラッカーの思い通りの動作をさせることが多く、これはハッキングにあたる。このため、誤用されるようになったと考えられる。
== クラッキングの用途 ==
クラッキングには様々な方法や種類があるが、技術者の観点から見ればいくつかのカテゴリに分類ができる。また、法的な観点から言えば、情報を扱うプライバシー法や他人の所有物の盗難・破損・破壊などいくつかのカテゴリに分類できる。
*コンピュータ上のアカウントへの侵入
**ルートクラック (<code>root</code>)
**システムユーザー (<code>admin</code>、<code>postmaster</code>、<code>webmaster</code>)
**一般ユーザー
*インターネットサービスの乗っ取り
**FTPスペースでっち上げ
**IRCサーバでっち上げ
**電子メールサーバ乗っ取りでジャンクメールのリレー
**プロキシー・サーバをでっち上げで匿名アクセス
*データへの侵入
**観覧(パスワードやクレジットカード情報)
**改竄
**破壊
=== ルートクラック ===
ルートクラックは、[[UNIX]]系や[[Linux]]の[[オペレーティングシステム|OS]]におけるコンピュータの最上特権ユーザーであるルート (root) という名前の[[スーパーユーザー]]のアカウントで侵入し、情報ファイルの改ざん、盗難、破壊を行ったり、コンピュータの持ち主が予期しない動作を起こさせる[[コンピュータウイルス]]やその他ソフトウェアを[[インストール]]する方法である。
ルートユーザーはコンピュータシステム上のすべての行為(書き込み・読み出し・削除・アプリケーションの行使)が行えるので、ルートクラックをされたマシンは再起動すらできなくなる場合もある。ルートは一番強固に守るべきシステムアカウントである。
ルート(特権ユーザー)の権利を手にいれるためのツールの1つには[[ルートキット]] (rootkit) がある。chkrootkit([http://www.chkrootkit.org/ 外部サイト])は、各種ルートキットがシステムに仕掛けられているかどうかをチェックするツール([[Unix系]]のプログラム)。
== クラッキングを題材にした作品 ==
* 『The Art of Intrusion ハッカーズ その侵入の手口 奴らは常識の斜め上を行く』
* 『[[ブラッディ・マンデイ]]』
* 『[[踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!]]』
== 関連項目 ==
* [[コンピュータセキュリティ]]
* [[クラッカー (コンピュータセキュリティ)]]
* [[ソーシャル・エンジニアリング]]
* [[ハッキング]]
* [[ハニーポット]]
* [[ポートスキャン]]
* [[暗号の攻撃法]]
* [[ルートキット]]
* [[個人情報漏洩]]
* [[Warez]]
{{ハッキング}}
{{エクスプロイト}}
{{嫌がらせ}}
{{Computer-stub}}
{{DEFAULTSORT:くらつきんく}}
[[Category:コンピュータ・ネットワーク・セキュリティ]]
[[Category:インターネット犯罪]] | null | 2022-12-07T04:24:01Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:独自研究",
"Template:ハッキング",
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"Template:嫌がらせ",
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"Template:複数の問題"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF) |
3,331 | 計算機 | 計算機(けいさんき)は、計算を機械的に、さらには自動的に行う装置である。人間が行う計算を援助するのみのものや、手動操作で自動的ではないものなどは計算器という文字表現をすることがある。
「長さ」「力」「電圧」などといった、連続的な物理量を、実数値であらわすものとして、アナログ量のまま利用する計算機がアナログ計算機である。
計数型計算機とも言う。計算の対象を、整数のような区切られた離散値(digital value)を取るもの(ディジタル)として計算する計算機である。
そろばんのあった日本ではほとんど使われなかったが、海外の計算器具などがある。
現在の日本では、法律などでは、「コンピュータ」の訳語としては「電子計算機」という言葉が広く浸透し、用いられている。法的には(電卓なども指す)「計算機」は区別されており、国税庁の通達では、『電子計算機のうち検査ビット(パリティビット)を除く記憶容量が12万ビット未満のもの』は「計算機」として扱うことができる、と定義している。
また「電算機」という語がある。派生してコンピュータを配置した部屋を電算室、電算機室と呼ぶこともある。メインフレーム時代に多用された語であるが、誕生はもっと古く、「電子」でないリレー式計算機だった最初期の富士通コンピュータFACOMによる計算サービスにおいて「電子ではないけれど」といったニュアンスで使い始めた語だ、としている文献がある。コンピュータの利用形態の変化にともない、近年はサーバ室やデータセンターの語がある。
計算機科学(コンピュータ科学、Computer Science)をはじめとして、周辺の学術分野ではComputer (コンピュータ) の訳語として「計算機」が使われることが多いが、専門用語・学術用語というよりジャーゴン的である。なお、コンピュータ科学の専門用語・学術用語として、コンピュータという語が指すよりもより広く計算する機械を指す言葉に、「計算機械」がある。
英単語との対応としては、computer(computing machine)の他、calculator(calculating machine)に対応する。 | [
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] | 計算機(けいさんき)は、計算を機械的に、さらには自動的に行う装置である。人間が行う計算を援助するのみのものや、手動操作で自動的ではないものなどは計算器という文字表現をすることがある。 | '''計算機'''(けいさんき)は、[[計算]]を機械的に、さらには自動的に行う装置である。人間が行う計算を援助するのみのものや、手動操作で自動的ではないものなどは'''計算器'''という文字表現をすることがある。
== アナログ計算機 ==
{{Main|アナログ計算機}}
「長さ」「力」「電圧」などといった、連続的な[[物理量]]を、[[実数]]値であらわすものとして、[[アナログ量]]のまま利用する計算機がアナログ計算機である。
== ディジタル計算機 ==
[[File:Addiator.jpg|thumb|upright|計算器(の一例)]]
{{Main|コンピュータ|電卓|機械式計算機}}
計数型計算機とも言う。計算の対象を、[[整数]]のような区切られた離散値(digital value)を取るもの([[ディジタル]])として計算する計算機である。
[[そろばん]]のあった日本ではほとんど使われなかったが、海外の計算器具などがある。
== 日本における用語 ==
現在の日本では、法律などでは、「コンピュータ」の訳語としては「電子計算機」という言葉が広く浸透し、用いられている。法的には([[電卓]]なども指す)「計算機」は区別されており、[[国税庁]]の通達では、『電子計算機のうち検査ビット([[パリティビット]])を除く記憶容量が12万ビット未満のもの』は「計算機」として扱うことができる、と定義している。
また「電算機」という語がある。派生してコンピュータを配置した部屋を電算室、電算機室と呼ぶこともある。[[メインフレーム]]時代に多用された語であるが、誕生はもっと古く、「電子」でないリレー式計算機だった最初期の富士通コンピュータ[[FACOM]]による計算サービスにおいて「電子ではないけれど」といったニュアンスで使い始めた語だ、としている文献がある<ref>[http://id.nii.ac.jp/1001/00007284/ 日本における計算機の歴史:富士通における計算機開発の歴史]</ref>。コンピュータの利用形態の変化にともない、近年はサーバ室や[[データセンター]]の語がある。
=== 学術用語 ===
[[計算機科学]]([[コンピュータ科学]]、Computer Science)をはじめとして、周辺の学術分野ではComputer (コンピュータ) の訳語として「計算機」が使われることが多いが、専門用語・学術用語というよりジャーゴン的である。なお、コンピュータ科学の専門用語・学術用語として、コンピュータという語が指すよりもより広く計算する機械を指す言葉に、「計算機械」がある。
英単語との対応としては、computer(computing machine)の他、calculator(calculating machine)に対応する。
== 注 ==
<references/>
==外部リンク==
* [[s:en:1911 Encyclopædia Britannica/Calculating Machines|1911 Encyclopædia Britannica/Calculating Machines]]{{en icon}}
{{Computer sizes}}
{{デフォルトソート:けいさんき}}
[[Category:計算機|*]]
[[Category:コンピュータ史]]
[[Category:情報技術史]] | null | 2022-07-22T10:36:50Z | false | false | false | [
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"Template:Main"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%A9%9F |
3,332 | ブロッホの定理 | 量子力学や物性物理学におけるブロッホの定理(ブロッホのていり、英: Bloch's theorem)とは、ハミルトニアンが空間的な周期性(並進対称性)をもつ場合に、その固有関数が満たす性質を表した定理のこと。1928年に、フェリックス・ブロッホによって導出された。
結晶は基本格子ベクトルだけ並進すると自分自身と重なり合うため、並進対称性を持つ。よって結晶のエネルギーバンドを計算する際にブロッホの定理は重要となる。
周期ポテンシャル V ( r ) = V ( r + R ) {\displaystyle V({\boldsymbol {r}})=V({\boldsymbol {r}}+{\boldsymbol {R}})} 中の一電子の量子力学的なハミルトニアン演算子を H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} とする。すなわち、
このとき、格子が3方向に基本格子ベクトル a 1 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{1}} , a 2 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{2}} , a 3 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{3}} を持ち、格子ベクトル R {\displaystyle {\boldsymbol {R}}} を
とすると、 H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} の固有関数として次のような形の関数を選ぶことができる。
これがブロッホの定理である。
また、ブロッホの定理を満たす関数をブロッホ関数(またはブロッホ波、ブロッホ状態)といい、結晶中の電子の一電子状態を表すために用いられる。ブロッホ関数の一般形は、 u k ( r ) {\displaystyle u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}})} を格子の周期性を持つ関数 u k ( r + R ) = u k ( r ) {\displaystyle u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}}+{\boldsymbol {R}})=u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}})} として、
と表される。
簡単のため1次元で考える。原子間の距離 a {\displaystyle a} で規則正しく並んだ1次元の結晶を考えると、結晶中の電子が感じるポテンシャルは次のような周期性を持つ。
結晶中の電子を表すハミルトニアンは、次のように位置に依存する演算子である。
ポテンシャルと同様に、このハミルトニアンも原子間の距離 a {\displaystyle a} だけの周期性を持つ。
ここで原子間の距離 a {\displaystyle a} だけの並進を行う操作を表す並進演算子を T a ^ {\displaystyle {\hat {T_{a}}}} とすると、
すなわち T a ^ {\displaystyle {\hat {T_{a}}}} と H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} は互いに交換し、同時固有関数を持つ。
ここで E {\displaystyle E} , C a {\displaystyle C_{a}} は H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} , T a ^ {\displaystyle {\hat {T_{a}}}} の固有値である。
ここで、この固有関数について周期を N a {\displaystyle Na} とする周期境界条件(ボルン=フォン・カルマン境界条件)を課す。
(1)式より、
ここで(2)式と(3)式を比べると、
ここで
と定義すると、(4)式は、
となる。よって、 C a {\displaystyle C_{a}} の値を(1)式に代入すると、
となる。
3次元の場合も同様に、格子が3方向に基本格子ベクトル a 1 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{1}} , a 2 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{2}} , a 3 {\displaystyle {\boldsymbol {a}}_{3}} を持ち、格子ベクトル R {\displaystyle {\boldsymbol {R}}} を
とすると、並進演算子 T R ^ {\displaystyle {\hat {T_{\boldsymbol {R}}}}} を用いて3次元でのブロッホの定理が証明される。
また、
によって定義した関数 u k ( r ) {\displaystyle u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}})} は、(5)式より、
となり、格子の周期性を持つ関数であることが示される。 このことより、ブロッホ関数の一般形は、 u k ( r ) {\displaystyle u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}})} を格子の周期性を持つ関数 u k ( r + R ) = u k ( r ) {\displaystyle u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}}+{\boldsymbol {R}})=u_{\boldsymbol {k}}({\boldsymbol {r}})} として、
と表されることが証明された。
バンド構造は、波数を変数としたときに、ある波数を持つ電子がどのようなエネルギー準位を持っているかを示すものである。とびとびの番号の指標 n {\displaystyle n} で指定されるエネルギー準位 E n ( k ) {\displaystyle E_{n}({\boldsymbol {k}})} は、波数ベクトル k {\displaystyle {\boldsymbol {k}}} に応じて連続的に変化し、そのとりうる値の領域をエネルギーバンドと呼ぶ。原子配列のようにポテンシャルが規則正しく周期的に変化する結晶では、エネルギーバンドが存在する。
周期ポテンシャル内の電子が持つ結晶運動量は運動量に似た性質を持つ量で、ブロッホ関数の波数ベクトル k {\displaystyle {\boldsymbol {k}}} に換算プランク定数 ħ {\displaystyle \hbar } をかけたもので定義される。
結晶中に多数ある電子を考えるときに1電子の波動関数を用いる有効性については、密度汎関数理論によって保障されている。 | [
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] | 量子力学や物性物理学におけるブロッホの定理とは、ハミルトニアンが空間的な周期性(並進対称性)をもつ場合に、その固有関数が満たす性質を表した定理のこと。1928年に、フェリックス・ブロッホによって導出された。 結晶は基本格子ベクトルだけ並進すると自分自身と重なり合うため、並進対称性を持つ。よって結晶のエネルギーバンドを計算する際にブロッホの定理は重要となる。 | {{混同|ブロッホ=ドミニシスの定理}}
[[量子力学]]や[[物性物理学]]における'''ブロッホの定理'''(ブロッホのていり、{{lang-en-short|Bloch's theorem}})とは、[[ハミルトニアン]]が空間的な周期性([[並進対称性]])をもつ場合に、その[[固有関数]]が満たす性質を表した定理のこと。[[1928年]]に、[[フェリックス・ブロッホ]]によって導出された。
[[結晶]]は[[基本並進ベクトル|基本格子ベクトル]]だけ並進すると自分自身と重なり合うため、並進対称性を持つ。よって結晶の[[エネルギーバンド]]を計算する際にブロッホの定理は重要となる。
== 定理の内容 ==
[[周期関数|周期]]ポテンシャル<math>V(\boldsymbol{r}) = V(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})</math> 中の一電子の[[量子力学]]的な[[ハミルトニアン]]演算子を<math>\hat{H}</math>とする。すなわち、
:<math>\hat{H}=-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2+V(\boldsymbol{r})</math>
このとき、格子が3方向に基本格子ベクトル<math> \boldsymbol{a}_1 </math>, <math> \boldsymbol{a}_2 </math>, <math> \boldsymbol{a}_3 </math>を持ち、格子ベクトル<math> \boldsymbol{R} </math> を
:<math> \boldsymbol{R}=n_1\boldsymbol{a}_1+n_2\boldsymbol{a}_2+n_3\boldsymbol{a}_3 </math> (<math> n_1 </math>, <math> n_2 </math>, <math> n_3 </math>:整数)
とすると、<math>\hat{H}</math> の[[固有関数]]として次のような形の関数を選ぶことができる。
:<math> \psi(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})=e^{i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{R}}\psi(\boldsymbol{r}) </math>
これがブロッホの定理である。
=== ブロッホ関数 ===
また、ブロッホの定理を満たす関数を'''ブロッホ関数'''(または'''ブロッホ波'''、'''ブロッホ状態''')といい、結晶中の電子の[[一電子状態]]を表すために用いられる。ブロッホ関数の一般形は、<math> u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math> を格子の周期性を持つ関数<math> u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})=u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math> として、
:<math> \psi_\boldsymbol{k}(\boldsymbol{r})=e^{i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}}u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math>
と表される。
== 定理の証明 ==
簡単のため1次元で考える。原子間の距離<math> a </math> で規則正しく並んだ1次元の結晶を考えると、結晶中の電子が感じる[[ポテンシャル]]は次のような周期性を持つ。
:<math>\dotsb = V(x-2a) = V(x-a) = V(x) = V(x+a) = V(x+2a) = \dotsb</math>
結晶中の電子を表す[[ハミルトニアン]]は、次のように位置に依存する演算子である。
:<math>\hat{H}(x)=\frac{\hat{p}^2}{2m}+V(x)</math>
ポテンシャルと同様に、このハミルトニアンも原子間の距離 <math> a</math> だけの周期性を持つ。
:<math>\dotsb = \hat{H}(x-2a) = \hat{H}(x-a) = \hat{H}(x) = \hat{H}(x+a) = \hat{H}(x+2a) = \dotsb</math>
ここで原子間の距離 <math> a </math> だけの並進を行う操作を表す[[並進演算子]]を<math>\hat{T_a}</math> とすると、
:<math>
\begin{align}
\hat{T_a}\left\{\hat{H}(x)\psi(x)\right\} & = \hat{H}(x+a)\psi(x+a) \\
& = \hat{H}(x)\psi(x+a) \\
& = \hat{H}(x)\left\{\hat{T_a}\psi(x)\right\}
\end{align}
</math>
:<math> \therefore\hat{T_a}\hat{H}=\hat{H}\hat{T_a} </math>
すなわち<math>\hat{T_a}</math> と<math>\hat{H}</math> は互いに交換し、[[同時固有関数]]を持つ。
:<math> \hat{H}\psi(x)=E\psi(x) </math>
:<math> \hat{T_a}\psi(x)=C_a\psi(x) </math> ― (1)
ここで<math> E </math>, <math> C_a </math> は<math>\hat{H}</math>, <math>\hat{T_a}</math> の固有値である。
ここで、この固有関数について周期を <math> Na </math> とする[[周期境界条件]]([[ボルン=フォン・カルマン境界条件]])を課す。
:<math> \psi(x+Na)=\psi(x) </math> ― (2)
(1)式より、
:<math>
\begin{align}
\hat{T_a}\psi = \psi(x+a) & = C_a\psi(x) \\
\psi(x+2a) & = C_a^2\psi(x) \\
& \vdots \\
\psi(x+Na) & = C_a^N\psi(x)
\end{align}
</math> ― (3)
ここで(2)式と(3)式を比べると、
:<math> C_a^N=1=e^{i2\pi n} </math> (<math> n </math>:整数)
:<math> \therefore C_a=e^{i2\pi n/N}</math> ― (4)
ここで
:<math> k\equiv\frac{2\pi{}n}{Na} </math>
と定義すると、(4)式は、
:<math> C_a=e^{ika} </math>
となる。よって、<math> C_a </math> の値を(1)式に代入すると、
:<math> \psi(x+a)=e^{ika}\psi(x) </math>
となる。
3次元の場合も同様に、格子が3方向に基本格子ベクトル<math> \boldsymbol{a}_1 </math>, <math> \boldsymbol{a}_2 </math>, <math> \boldsymbol{a}_3 </math>を持ち、格子ベクトル<math> \boldsymbol{R} </math> を
:<math> \boldsymbol{R}=n_1\boldsymbol{a}_1+n_2\boldsymbol{a}_2+n_3\boldsymbol{a}_3 </math> (<math> n_1 </math>, <math> n_2 </math>, <math> n_3 </math>:整数)
とすると、並進演算子<math>\hat{T_\boldsymbol{R}}</math>を用いて3次元でのブロッホの定理が証明される。
:<math> \psi(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})=e^{i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{R}}\psi(\boldsymbol{r}) </math> ― (5)
また、
:<math> u_\boldsymbol{k}(\boldsymbol{r}) \equiv e^{-i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}}\psi_\boldsymbol{k}(\boldsymbol{r}) </math>
によって定義した関数<math> u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math> は、(5)式より、
:<math>
\begin{align}
u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R}) & =e^{-i\boldsymbol{k}\cdot(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})}\psi_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R}) \\
& = e^{-i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}}\psi_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) \\
& = u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r})
\end{align}
</math>
となり、格子の周期性を持つ関数であることが示される。
このことより、ブロッホ関数の一般形は、<math> u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math> を格子の周期性を持つ関数<math> u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}+\boldsymbol{R})=u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math> として、
:<math> \psi_\boldsymbol{k}(\boldsymbol{r})=e^{i\boldsymbol{k}\cdot\boldsymbol{r}}u_{\boldsymbol{k}}(\boldsymbol{r}) </math>
と表されることが証明された。
==バンド構造との関連性==
[[バンド構造]]は、波数を変数としたときに、ある波数を持つ電子がどのようなエネルギー準位を持っているかを示すものである。とびとびの番号の[[指標]]<math> n </math> で指定されるエネルギー準位<math> E_n(\boldsymbol{k}) </math> は、波数ベクトル<math> \boldsymbol{k} </math> に応じて連続的に変化し、そのとりうる値の[[領域]]をエネルギーバンドと呼ぶ。原子配列のようにポテンシャルが規則正しく周期的に変化する結晶では、エネルギーバンドが存在する。
周期ポテンシャル内の電子が持つ[[結晶運動量]]は運動量に似た性質を持つ量で、ブロッホ関数の波数ベクトル<math> \boldsymbol{k} </math> に[[換算プランク定数]] <math> \hbar</math> をかけたもので定義される。
結晶中に多数ある電子を考えるときに1電子の波動関数を用いる有効性については、[[密度汎関数理論]]によって保障されている。
==関連項目==
*[[物性物理学]]
*[[バンド計算]]
*[[クローニッヒ・ペニーモデル]]
==参考文献==
* {{cite|和書|author=家泰弘|title=物性物理|publisher=産業図書|year=1997}}
* {{cite|和書|author=齋藤理一郎|authorlink=齋藤理一郎|title=基礎固体物性|publisher=朝倉書店|year=2009}}
{{DEFAULTSORT:ふろつほのていり}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:物理学の定理]]
[[Category:物理学のエポニム]] | null | 2022-08-30T11:46:51Z | false | false | false | [
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"Template:Cite",
"Template:混同"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86 |
3,333 | 基底状態 | 基底状態(きていじょうたい、英: ground state)とは、量子力学において、系の固有状態のうち最もエネルギーの低い状態をいう。
一方で、基底状態よりも高いエネルギーの固有状態は、励起状態と呼ぶ。
分子のような少数多体系であれば、基底状態は絶対零度の波動関数を意味する。しかし固体物理学では、有限温度での状態に対しても、素励起がなく、量子統計力学で記述される熱平衡状態をもって基底状態ということがある。これらは厳密には区別すべきものである。
場の理論では基底状態は粒子の消滅演算子を用いて
a | ψ ⟩ = 0 {\displaystyle a|\psi \rangle =0}
が成り立つとき、 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } を基底状態と定義される。 N粒子系ではN粒子系の基底状態、粒子が存在しない時は真空の定義である。 | [
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] | 基底状態とは、量子力学において、系の固有状態のうち最もエネルギーの低い状態をいう。 一方で、基底状態よりも高いエネルギーの固有状態は、励起状態と呼ぶ。 分子のような少数多体系であれば、基底状態は絶対零度の波動関数を意味する。しかし固体物理学では、有限温度での状態に対しても、素励起がなく、量子統計力学で記述される熱平衡状態をもって基底状態ということがある。これらは厳密には区別すべきものである。 | {{出典の明記|date=2015年7月}}
'''基底状態'''(きていじょうたい、{{Lang-en-short|ground state}})とは、[[量子力学]]において、系の[[固有状態]]のうち最も[[エネルギー]]の低い状態をいう。
一方で、基底状態よりも高いエネルギーの固有状態は、[[励起状態]]と呼ぶ。
分子のような少数多体系であれば、基底状態は[[絶対零度]]の[[波動関数]]を意味する。しかし[[固体物理学]]では、有限温度での状態に対しても、[[素励起]]がなく、[[量子統計力学]]で記述される[[熱平衡状態]]をもって基底状態ということがある。これらは厳密には区別すべきものである。
== 場の理論における基底状態の定義 ==
[[場の理論]]では基底状態は粒子の[[消滅演算子]]を用いて
<math>a|\psi\rangle=0</math>
が成り立つとき、<math>|\psi\rangle</math> を基底状態と定義される。
N粒子系ではN粒子系の基底状態、粒子が存在しない時は真空の定義である。
==関連項目==
* [[統計力学]]
* [[物性物理学]]
* [[原子核物理学]]
* [[零点エネルギー]]
* [[零点振動]]
{{DEFAULTSORT:きていしようたい}}
{{sci-stub}}
[[Category:量子力学]]
[[de:Stationärer Zustand]] | null | 2020-05-28T01:38:00Z | false | false | false | [
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"Template:Sci-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E5%BA%95%E7%8A%B6%E6%85%8B |
3,334 | 励起状態 | 量子力学において、励起状態(れいきじょうたい、英: Excited state)は、(原子、分子、あるいは原子核といった)系のハミルトニアンの固有状態のうち、基底状態より高いエネルギーの全ての固有状態(量子状態)を指す。励起(Excitation)は、光、熱、電場、磁場などの外場によって引き起こされる。励起により、基底状態にあった固有状態は励起状態へ、励起状態にあった固有状態はより高いエネルギーを持った励起状態へ移る。
励起を引き起こすものは、上記以外にも電子や陽子、中性子、分子、イオンの入射、衝突や、フォノンなどによる励起もある。
密度汎関数法に基づくバンド計算では、励起状態が正しく求まる保証がない(→密度汎関数法参照)。
この概念の単純な例として水素原子について考える。
水素原子の基底状態は、原子の単一の電子が可能な最低オービタル(すなわち、球対称な "1s" 波動関数。これは可能な最も低い量子数の組み合わせを持つ)にあることに相当する。原子に追加のエネルギーを(例えば、適切なエネルギーのフォトンの吸収によって)与えることで、電子は励起状態(1つ以上の量子数が基底状態よりも大きい状態)に移ることができる。フォトンが過大なエネルギー(水素原子のイオン化エネルギー以上のエネルギー)を持つとすると、電子は原子に束縛されなくなり、原子はイオン化する。
励起後、原子は特徴的なエネルギーを持つフォトンを放出することによって基底状態あるいはより低い励起状態に戻る。様々な励起状態にある原子からのフォトンの放出によって一連の特徴的な輝線(水素原子の場合は、ライマン系列、バルマー系列、パッシェン系列、ブラケット系列など)を示す電磁スペクトルがもたらされる。
高励起状態にある原子はリュードベリ原子と呼ばれる。高度に励起された原子の系は寿命の長い凝集励起状態(例えば、完全に励起原子から構成される凝集相: リュードベリ物質)を形成できる。水素は熱または電気によっても励起されうる。
励起状態は結合クラスター法、メラー=プレセット摂動理論、多配置自己無撞着場、配置間相互作用、多参照配置間相互作用法、時間依存密度汎関数法を使って計算されることが多い。
励起状態の形成の帰結として、励起状態にある原子または分子の反応が起こりうる。 | [
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] | 量子力学において、励起状態は、(原子、分子、あるいは原子核といった)系のハミルトニアンの固有状態のうち、基底状態より高いエネルギーの全ての固有状態(量子状態)を指す。励起(Excitation)は、光、熱、電場、磁場などの外場によって引き起こされる。励起により、基底状態にあった固有状態は励起状態へ、励起状態にあった固有状態はより高いエネルギーを持った励起状態へ移る。 励起を引き起こすものは、上記以外にも電子や陽子、中性子、分子、イオンの入射、衝突や、フォノンなどによる励起もある。 密度汎関数法に基づくバンド計算では、励起状態が正しく求まる保証がない(→密度汎関数法参照)。 | {{出典の明記|date=2017年5月}}
[[量子力学]]において、'''励起状態'''(れいきじょうたい、{{lang-en-short|Excited state}})は、([[原子]]、[[分子]]、あるいは[[原子核]]といった)系の[[ハミルトニアン]]の[[量子状態|固有状態]]のうち、[[基底状態]]より高いエネルギーの全ての固有状態(量子状態)を指す。'''励起'''(Excitation)は、[[光]]、[[熱]]、[[電場]]、[[磁場]]などの外場によって引き起こされる。励起により、基底状態にあった固有状態は励起状態へ、励起状態にあった固有状態はより高いエネルギーを持った励起状態へ移る。
励起を引き起こすものは、上記以外にも[[電子]]や[[陽子]]、[[中性子]]、[[分子]]、[[イオン]]の入射、衝突や、[[フォノン]]などによる励起もある。
密度汎関数法に基づく[[バンド計算]]では、励起状態が正しく求まる保証がない(→[[密度汎関数法]]参照)。
== 原子の励起 ==
この概念の単純な例として[[水素原子]]について考える。
水素原子の基底状態は、原子の単一の[[電子]]が可能な最低[[原子軌道|オービタル]](すなわち、球対称な "1s" 波動関数。これは可能な最も低い[[量子数]]の組み合わせを持つ)にあることに相当する。原子に追加のエネルギーを(例えば、適切なエネルギーの[[フォトン]]の吸収によって)与えることで、電子は励起状態(1つ以上の量子数が基底状態よりも大きい状態)に移ることができる。フォトンが過大なエネルギー(水素原子の[[イオン化エネルギー]]以上のエネルギー)を持つとすると、電子は原子に[[束縛状態|束縛]]されなくなり、原子は[[イオン化]]する。
励起後、原子は特徴的なエネルギーを持つフォトンを放出することによって基底状態あるいはより低い励起状態に戻る。様々な励起状態にある原子からのフォトンの放出によって一連の特徴的な[[スペクトル線|輝線]](水素原子の場合は、[[水素スペクトル系列|ライマン系列、バルマー系列、パッシェン系列、ブラケット系列]]など)を示す[[電磁スペクトル]]がもたらされる。
高励起状態にある原子は[[リュードベリ原子]]と呼ばれる。高度に励起された原子の系は寿命の長い凝集励起状態(例えば、完全に励起原子から構成される凝集相: [[リュードベリ物質]])を形成できる。水素は熱または電気によっても励起されうる。
== 励起状態の計算 ==
励起状態は[[結合クラスター法]]、[[メラー=プレセット法|メラー=プレセット摂動理論]]、[[多配置自己無撞着場]]、[[配置間相互作用]]<ref>{{cite book | last = Hehre | first = Warren J. | title = A Guide to Molecular Mechanics and Quantum Chemical Calculations | publisher = Wavefunction, Inc. | year = 2003 | location = Irvine, California | isbn = 1-890661-06-6|url =http://www.wavefun.com/support/AGuidetoMM.pdf }}</ref>、[[多参照配置間相互作用法]]、[[時間依存密度汎関数法]]<ref>{{ cite journal | doi = 10.1021/jp101761d
| pmid = 20540550 | year = 2010
| title = EOMCC, MRPT, and TDDFT Studies of Charge Transfer Processes in Mixed-Valence Compounds: Application to the Spiro Molecule | pages = 8764–8771
| journal = The Journal of Physical Chemistry A
| volume = 114
| issue = 33
| first1= Kurt R. | last1 = Glaesemann | first2 = Niranjan | last2 = Govind | first3 = Sriram| last3 = Krishnamoorthy| first4= Karol | last4 = Kowalski | bibcode = 2010JPCA..114.8764G
}}</ref><ref>{{cite journal| last1 = Dreuw| first1 = Andreas| last2 = Head-Gordon| first2 = Martin| title = Single-Reference ab Initio Methods for the Calculation of Excited States of Large Molecules| journal = Chemical Reviews| volume = 105| issue = 11| pages = 4009–37| year = 2005| pmid = 16277369| doi = 10.1021/cr0505627}}</ref><ref>{{cite journal| last1 = Knowles| first1 = Peter J.| last2 = Werner| first2 = Hans-Joachim| title = Internally contracted multiconfiguration-reference configuration interaction calculations for excited states| journal = Theoretica Chimica Acta| volume = 84| pages = 95| year = 1992| doi = 10.1007/BF01117405}}</ref><ref>{{cite journal| last1 =Foresman| first1 =James B.| last2 =Head-Gordon| first2 =Martin| last3 =Pople| first3 =John A.| last4 =Frisch| first4 =Michael J.| title =Toward a systematic molecular orbital theory for excited states| journal =The Journal of Physical Chemistry| volume =96| pages =135| year =1992| doi =10.1021/j100180a030}}</ref><ref>{{ cite journal | doi = 10.1039/a808518h | title = A study of FeCO<sup>+</sup> with correlated wavefunctions | year = 1999 | last1 = Glaesemann | first1 = Kurt R. | last2 = Gordon | first2 = Mark S. | last3 = Nakano | first3 = Haruyuki | journal = Physical Chemistry Chemical Physics | volume = 1 | pages = 967–975 | issue=6|bibcode = 1999PCCP....1..967G }}</ref>を使って計算されることが多い。
==反応==
{{main|光化学}}
励起状態の形成の帰結として、励起状態にある原子または分子の反応が起こりうる。
== 基本的励起状態 ==
* [[電子]]
* [[光子|フォトン]] - 電磁波
* [[フォノン]] - 弾性波
** [[光学フォノン]] - 光学弾性波
** [[音響フォノン]] - 音響弾性波
* [[励起子]] - 分極波
* [[プラズモン]] - プラズマ振動波
* [[マグノン]] - スピン波
== 励起の混合状態 ==
* [[ポラリトン|フォノン-ポラリトン]] - フォノン・フォトン間の相互作用
* [[ポラリトン|励起子ポラリトン]] - 励起子・フォトン間の相互作用
* [[プラズモン-フォノン混合状態]] - プラズモン・光学フォノン間の相互作用
* [[ポーラロン]] - 電子・光学フォノン間の相互作用
* [[磁気ポーラロン]] - 電子スピン・光学フォノン間の相互作用
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
==関連項目==
*[[素励起]]
*[[統計力学]]
*[[量子力学]]
*[[物性物理学]]
*[[リュードベリ状態]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れいきしようたい}}
[[Category:量子力学]] | null | 2022-01-14T21:15:17Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B1%E8%B5%B7%E7%8A%B6%E6%85%8B |
3,335 | 量子力学の数学的基礎 | 『量子力学の数学的基礎』(りょうしりきがくのすうがくてききそ、独: Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik)は、ジョン・フォン・ノイマンが1932年に刊行した書籍である。ノイマンはこの著書で量子力学で扱う物理量や状態といった概念の基礎付け(形式化)を行った。
これにより、ハイゼンベルク-ボルン-ヨルダンによる行列力学とシュレディンガーによる波動力学が抽象ヒルベルト空間のクラスに帰属する理論として統一された。
ノイマンはこの著書で量子力学を、ヒルベルト空間とその上の線型有界作用素や非有界な自己共役作用素などを用いて数学的に基礎づけた。この本では抽象ヒルベルト空間の一般論、量子力学の統計、理論の演繹的構成、熱力学的考察、測定の過程が扱われる。 この書籍の英語版は1955年に出版され、日本語版は1957年に出版された。
ノイマンがこの著書で示した測定の理論は、その後に発展した量子測定理論の基礎となった。この書籍で示された測定理論や、隠れた変数の不可能性の証明は、量子力学の解釈の哲学的な側面にも影響を与えた。 | [
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] | 『量子力学の数学的基礎』は、ジョン・フォン・ノイマンが1932年に刊行した書籍である。ノイマンはこの著書で量子力学で扱う物理量や状態といった概念の基礎付け(形式化)を行った。 これにより、ハイゼンベルク-ボルン-ヨルダンによる行列力学とシュレディンガーによる波動力学が抽象ヒルベルト空間のクラスに帰属する理論として統一された。 | {{Otheruses|[[ジョン・フォン・ノイマン]]の書籍|量子力学の数学的に厳密な定式化|量子力学の数学的定式化}}
『'''量子力学の数学的基礎'''』(りょうしりきがくのすうがくてききそ、{{lang-de-short|Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik}})は、[[ジョン・フォン・ノイマン]]が1932年に刊行した書籍である。ノイマンはこの著書で[[量子力学]]で扱う物理量や状態といった概念の基礎付け([[形式主義 (数学)|形式化]])を行った。
これにより、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク|ハイゼンベルク]]-[[マックス・ボルン|ボルン]]-[[パスクアル・ヨルダン|ヨルダン]]による行列力学と[[エルヴィン・シュレーディンガー|シュレディンガー]]による波動力学が抽象[[ヒルベルト空間]]のクラスに帰属する理論として統一された。
== 概要 ==
ノイマンはこの著書で量子力学を、[[ヒルベルト空間]]とその上の[[線型有界作用素]]や[[非有界作用素|非有界]]な[[自己共役作用素]]などを用いて数学的に基礎づけた。この本では抽象ヒルベルト空間の一般論、量子力学の統計、理論の演繹的構成、熱力学的考察、測定の過程が扱われる<ref> 『量子力学の数学的基礎』目次</ref>。
この書籍の英語版は1955年に出版され、日本語版は1957年に出版された。
ノイマンがこの著書で示した測定の理論は、その後に発展した[[量子測定理論]]の基礎となった。この書籍で示された測定理論や、[[隠れた変数]]の不可能性の証明は、量子力学の解釈の哲学的な側面にも影響を与えた。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[数学基礎論]]
== 参考文献 ==
* {{cite book |和書| author=フォン・ノイマン|authorlink=ジョン・フォン・ノイマン|translator=井上健・広重徹・恒藤敏彦|title=量子力学の数学的基礎|publisher=みすず書房|location=東京|year=1957|isbn=4-622-02509-4}}
*John von Neumann (2018). Nicholas A. Wheeler (ed.). ''Mathematical Foundations of Quantum Mechanics. New Edition''. Translated by Robert T. Beyer. Princeton University Press. ISBN <bdi>9781400889921</bdi>.
* 「フォン・ノイマンと量子力学の数学的基礎」([[小澤正直]])『現代思想』第41巻第10号(2013年8月臨時増刊号)
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3,336 | 中波 | 中波(ちゅうは、MF(Medium Frequency)またはMW(Mediumwave, Medium Wave))とは、300kHz - 3MHzの周波数の電波をいう。波長は100m - 1km、ヘクトメートル波とも呼ばれる。
伝播の特徴として、電離層D層のあらわれる昼間は、D層に吸収されるという性質がある。このため、昼間は地表波のみ有効で比較的近距離(ただし、超短波などに比べれば伝播距離は長い)しか届かないが、夜間は、D層が消滅しE層で反射するため電離層反射波により遠距離まで到達する。そのため、夜間は昼間より遠方に届くのが利点となるが、混信が問題という欠点ともなる。
中波放送・路側帯ラジオ・船舶無線・航空無線航行・アマチュア無線などに利用される。
国際電気通信連合(ITU)は、無線通信規則(RR)に放送用として526.5 - 1606.5kHzを分配している。第1地域(アフリカ・ヨーロッパ)、第3地域(アジア・オセアニア<アメリカ合衆国構成州のハワイは除く>)の中波放送は531 - 1602kHz、搬送波間隔9kHz。第2地域(アメリカ大陸=北アメリカ・南アメリカとハワイ州)は530 - 1600kHz、搬送波間隔10kHzである。また、地域により差異はあるが2300 - 2498kHzの中から放送用にも分配できるものとしている。熱帯地方の低周波数には空電による雑音が多いためで、搬送波間隔5kHzで国内放送に用いられる。
日本などのアジア・オセアニア・アフリカ・ヨーロッパの各国は1978年11月23日国際協定時0時01分(日本時間同日9時01分)までは10kHz間隔だったが、1974年に行われた国際電気通信連合(ITU)の第1・3地域主管会議において、9kHz間隔にするよう定められた。
アマチュア業務にITUの無線規則(RR)により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
どちらも電信とデータ通信(ただし占有帯域幅200Hz以下)専用の周波数である。日本での割当てはアマチュア無線の周波数帯を参照。 | [
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] | 中波(ちゅうは、MFまたはMW)とは、300kHz - 3MHzの周波数の電波をいう。波長は100m - 1km、ヘクトメートル波とも呼ばれる。 | '''中波'''(ちゅうは、MF(Medium Frequency)またはMW(Mediumwave, Medium Wave))とは、300[[キロヘルツ|kHz]] - 3[[メガヘルツ|MHz]]の[[電波の周波数による分類|周波数]]の[[電波]]をいう<ref>{{Cite web|url=https://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/v/R-REC-V.431-8-201508-I!!PDF-E.pdf |title=Nomenclature of the frequency and wavelengh bands used in telecommunications |author=国際電気通信連合(ITU) |date=2015-08 |work= |publisher= |accessdate= 2016-07-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h25/pdf/n4700000.pdf |title=平成25年情報通信白書>第2部 情報通信の現況・政策の動向>第7節 電波利用 |author= |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-07-03 }}</ref>。[[波長]]は100[[メートル|m]] - 1[[キロメートル|km]]、ヘクトメートル波<ref>[[電波法]]施行規則 第四条の三(周波数の表示)</ref>とも呼ばれる。
== 概要 ==
伝播の特徴として、[[電離層]]D層のあらわれる昼間は、D層に吸収されるという性質がある。このため、昼間は地表波のみ有効で比較的近距離(ただし、[[超短波]]などに比べれば伝播距離は長い)しか届かないが、夜間は、D層が消滅しE層で反射するため電離層反射波により遠距離まで到達する。そのため、夜間は昼間より遠方に届く<ref>電離層反射波のため[[フェージング]]など品質は悪い。</ref>のが利点となるが、[[混信]]が問題<ref>[[大韓民国|韓国]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のラジオ局では500kwや1000kwといった強力な出力で電波を送信する(それぞれ互いの国民にも届くよう、わざと出力を高めている)ため、特にこれらの放送局と周波数が近い放送局では夜間は混信が発生する。</ref>という欠点ともなる。
[[中波放送]]・路側帯ラジオ・[[船舶無線]]・航空無線航行・[[アマチュア無線]]などに利用される。
== 中波放送 ==
[[国際電気通信連合]](ITU)は、[[無線通信規則]](RR)に放送用として526.5 - 1606.5kHzを分配<ref name="assign">総務省告示[[周波数割当計画]] 第2周波数割当表 第1表9kHz―27500kHz</ref>している。[[ITU地域|第1地域]]([[アフリカ]]・[[ヨーロッパ]])、第3地域([[アジア]]・[[オセアニア]]<[[アメリカ合衆国]]構成州の[[ハワイ州|ハワイ]]は除く>)の中波放送は531 - 1602kHz、搬送波間隔9kHz。第2地域([[アメリカ大陸]]=[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]と[[ハワイ州]])は530 - 1600kHz、搬送波間隔10kHzである。また、地域により差異はあるが2300 - 2498kHzの中から放送用にも分配できるもの<ref name="assign" />としている。熱帯地方の低周波数には[[空電現象|空電]]による雑音が多いためで、搬送波間隔5kHzで[[国内放送]]に用いられる。
日本などのアジア・オセアニア・アフリカ・ヨーロッパの各国は[[1978年]][[11月23日]][[国際協定時]]0時01分([[日本時間]]同日9時01分)<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/itej1954/30/5/30_5_385/_pdf 中波放送 再編成の話題 郵政省電波監理局 出中真三郎・立野敏](雑誌・テレビジョン第30巻 第5号(1976))</ref>までは10kHz間隔だったが、[[1974年]]に行われた[[国際電気通信連合]](ITU)の第1・3地域主管会議において、9kHz間隔にするよう定められた<ref>[https://www.jushin-s.co.jp/michi/download/63_o12.pdf ラジオ放送の周波数のはなし](放送サービス株式会社)</ref>。
== アマチュア無線 ==
アマチュア業務にITUの無線規則(RR)により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国で[[アマチュア無線]]にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!バンド!!第1地域!!第2地域!!第3地域
|-
|[[:en:600-meter band|600m]]||colspan="3"|472 - 479kHz
|-
|[[:en:160-meter band|160m]]||1.81 - 1.85MHz||colspan="2"|1.8 - 2MHz
|}
どちらも[[電信]]と[[データ通信]](ただし占有帯域幅200Hz以下)専用の周波数である。日本での割当ては[[アマチュア無線の周波数帯]]を参照。
== 中波を使用する施設 ==
* [[無指向性無線標識]]( - 1750kHz)
* [[グローバル・ポジショニング・システム#測位法|DGPS]]局( - 321kHz)
* [[路側放送]](1620kHz、1629kHz)
* 海上交通情報([[海上交通センター]]を参照)(1651kHz、1665kHz、2019kHz)
* [[船舶気象通報]](1670.5kHz)(2016年9月30日正午を以って廃止)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[中波帯]]
* [[中短波帯]]
* [[中波放送]]
{{電波の周波数による分類}}
{{電磁波}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうは}}
[[Category:周波数帯]] | 2003-03-04T00:37:50Z | 2023-12-13T00:00:56Z | false | false | false | [
"Template:電磁波",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:電波の周波数による分類"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B3%A2 |
3,337 | 短波 | 短波(たんぱ、HF(High Frequency)またはSW(Shortwave, Short Wave))とは、3 - 30MHzの周波数の電波をいう。波長は10 - 100m、デカメートル波とも呼ばれる。
伝播の特徴は、地上から約200km~400kmの上空にある電離層F層で反射された電離層反射波(上空波ともいう)が地球上の遠方まで到達するため、適切な設備と周波数を使えば世界中との通信が可能である。逆に、地表面からの電波が上空にある電離層F層で反射されるために宇宙空間への通信には全く向かない。もっぱら、電離層反射波(上空波)で地球上の地表面同士での遠距離通信に利用される。
太陽黒点活動の影響を非常に強く受けるため、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって電離層の状態が変化する。太陽黒点数は約11年周期で増減する。太陽黒点数が増える時期になると高い周波数が良好に届き、太陽黒点数が少ない時期になると低い周波数が良好になる。電離層F層は、昼間はF1層及びF2層に分裂するが、夜間は一つのF層になる。電離層F層での反射の影響により周期的な信号強度の変化であるフェージングが起こりやすく電波が不安定になりやすい。周波数の波長において電波伝播の特性が変わるため、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)に応じて、周波数を変更したり複数の周波数を同時に利用することで安定した通信を確保する。
使用している周波数帯は3MHz~30MHzと、21世紀現在の大容量・広帯域の電気通信を賄うには狭く、もっぱら古くからある比較的シンプルな通信方式が用いられている。例えばモールス符号による電信、振幅変調(AM)およびその応用である抑圧搬送波単側波帯(SSB)を利用した単信無線電話や国際放送、低ボーレートのデジタル通信の一種であるRTTYなどが代表例である。また25MHz以上では超短波(VHF)の特徴も併せ持つため、真夏の昼間等に局地的に発生するスポラディックE層を利用して遠距離通信を行う場合もあり、周波数変調(FM)も利用される場合がある。いずれも、限られた周波数帯域を効率良く利用する為に様々な技術開発が行われ、20世紀の移動体通信における重要な技術であった。
21世紀になり、衛星放送(BS放送)や衛星通信(CS放送)やインターネットなどの通信のイノベーション(技術革新)により重要度は低下しているが、地球表面上の任意の二点間の遠距離通信において、その中間に中継設備等のインフラを必要とせず、地球の裏側までの通信が可能であり、この特性を生かした利用がされている。
他
アマチュア業務に国際電気通信連合の無線通信規則(RR)により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数及び分配された以外で他の業務に影響を与えない範囲で各国の主管庁が割り当てた周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
日本での割当てはアマチュア無線の周波数帯を参照。
短波は、地上から上空200km~400km付近にある電離層F層に反射されて遠くまで伝わるという電波の特性から、条件が良ければ地球の裏側にも届くために遠距離用通信に短波放送が古くから利用されてきた。国内放送(日本ではラジオNIKKEI)や国際放送(日本ではNHKワールド・ラジオ日本)などに利用されている。短波放送は、太陽黒点活動からの影響を受けて電離層の状態が変化する。また、電離層からの反射の影響によりフェージングが起きるなど受信状態が不安定になりやすい。このため季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって電離層の状態が変化するために、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって使用する周波数を変更したり、複数の周波数を同時に使用して放送しなければならない。
短波放送を受信するために各種メーカーから短波ラジオが製造・販売されている。短波放送を受信する趣味の人を「SWL(Short Wave Listener)」や「BCL(Broadcast Listening) 」という。
電力線を通信回線として利用する電力線搬送通信(PLC)について、短波の利用に影響をきたす可能性が考えられるとの理由から許可取消しなどを求める反対運動が起こっている。 | [
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"text": "短波放送を受信するために各種メーカーから短波ラジオが製造・販売されている。短波放送を受信する趣味の人を「SWL(Short Wave Listener)」や「BCL(Broadcast Listening) 」という。",
"title": "短波放送"
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"text": "電力線を通信回線として利用する電力線搬送通信(PLC)について、短波の利用に影響をきたす可能性が考えられるとの理由から許可取消しなどを求める反対運動が起こっている。",
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] | 短波(たんぱ、HFまたはSW)とは、3 - 30MHzの周波数の電波をいう。波長は10 - 100m、デカメートル波とも呼ばれる。 | '''短波'''(たんぱ、HF(High Frequency)またはSW(Shortwave, Short Wave))とは、3 - 30[[メガヘルツ|MHz]]の[[電波の周波数による分類|周波数]]の[[電波]]をいう<ref>{{Cite web|url=https://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/v/R-REC-V.431-8-201508-I!!PDF-E.pdf |title=Nomenclature of the frequency and wavelengh bands used in telecommunications |author=国際電気通信連合(ITU) |date=2015-08 |work= |publisher= |accessdate= 2016-07-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h25/pdf/n4700000.pdf |title=平成25年情報通信白書>第2部 情報通信の現況・政策の動向>第7節 電波利用 |author= |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-07-03 }}</ref>。[[波長]]は10 - 100[[メートル|m]]、デカメートル波<ref>[[電波法]]施行規則 第四条の三(周波数の表示)</ref>とも呼ばれる。
== 概要 ==
伝播の特徴は、地上から約200km~400kmの上空にある[[電離層]]F層で反射された電離層反射波(上空波ともいう)が地球上の遠方まで到達するため、適切な設備と周波数を使えば世界中との通信が可能である。逆に、地表面からの電波が上空にある電離層F層で反射されるために宇宙空間への通信には全く向かない。もっぱら、電離層反射波(上空波)で地球上の地表面同士での遠距離通信に利用される。
[[太陽黒点]]活動の影響を非常に強く受けるため、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって電離層の状態が変化する。太陽黒点数は約11年周期で増減する。太陽黒点数が増える時期になると高い周波数が良好に届き、太陽黒点数が少ない時期になると低い周波数が良好になる。電離層F層は、昼間はF1層及びF2層に分裂するが、夜間は一つのF層になる。電離層F層での反射の影響により周期的な信号強度の変化である[[フェージング]]が起こりやすく電波が不安定になりやすい。周波数の波長において[[電波伝播]]の特性が変わるため、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)に応じて、周波数を変更したり複数の周波数を同時に利用することで安定した[[通信]]を確保する。
使用している周波数帯は3MHz~30MHzと、21世紀現在の大容量・広帯域の電気通信を賄うには狭く、もっぱら古くからある比較的シンプルな通信方式が用いられている。例えば[[モールス符号]]による[[電信]]、[[振幅変調]](AM)およびその応用である[[振幅変調|抑圧搬送波単側波帯]](SSB)を利用した単信[[無線電話]]や[[国際放送]]、低ボーレートのデジタル通信の一種である[[ラジオテレタイプ|RTTY]]などが代表例である。また25MHz以上では[[超短波]](VHF)の特徴も併せ持つため、真夏の昼間等に局地的に発生する[[スポラディックE層]]を利用して遠距離通信を行う場合もあり、[[周波数変調]](FM)も利用される場合がある。いずれも、限られた周波数帯域を効率良く利用する為に様々な技術開発が行われ、20世紀の移動体通信における重要な技術であった。
21世紀になり、[[衛星放送]](BS放送)や[[衛星通信]](CS放送)や[[インターネット]]などの通信の[[イノベーション]](技術革新)により重要度は低下しているが、地球表面上の任意の二点間の遠距離通信において、その中間に中継設備等の[[インフラストラクチャー|インフラ]]を必要とせず、地球の裏側までの通信が可能であり、この特性を生かした利用がされている。
== 用途 ==
* [[短波放送]]
** [[国際放送]](日本では[[NHKワールド・ラジオ日本]])
** 広域[[国内放送]]([[全国放送]])(日本では[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]])
* [[航空交通管制|洋上航空無線]]
* [[船舶無線]]
* 軍用無線
* [[アマチュア無線]]
* 非常通信
他
== アマチュア無線 ==
アマチュア業務に[[国際電気通信連合]]の[[無線通信規則]](RR)により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数及び分配された以外で他の業務に影響を与えない範囲で各国の主管庁が割り当てた周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
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!バンド!![[ITU地域|第1地域]]<br>[[アフリカ]]・[[ヨーロッパ]]!!第2地域<br>[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]・[[ハワイ]]!!第3地域<br>[[アジア]]・[[オセアニア]](ハワイは除く)
|-
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|-
|style="background-color:lightgreen"|[[:en:60-meter band|60m]]||bgcolor="lightgreen" colspan="3"|5.25 - 5.45MHz
|-
|[[:en:40-meter band|40m]]||7 - 7.2MHz||7 - 7.3MHz||7 - 7.2MHz
|-
|[[:en:30-meter band|30m]]||colspan="3"|10.1 - 10.15MHz
|-
|[[:en:20-meter band|20m]]||colspan="3"|14 - 14.35MHz
|-
|[[:en:17-meter band|17m]]||colspan="3"|18.068 - 18.168MHz
|-
|[[:en:15-meter band|15m]]||colspan="3"|21 - 21.45MHz
|-
|[[:en:12-meter band|12m]]||colspan="3"|24.89 - 24.99MHz
|-
|[[:en:10-meter band|10m]]||colspan="3"|28 - 29.7MHz
|-
|colspan="4" style="text-align:left"|{{Color|lightgreen|■}}はRRによる分配によらない。
|}
日本での割当ては[[アマチュア無線の周波数帯]]を参照。
== 短波放送 ==
{{See also|短波放送|BCL}}
短波は、地上から上空200km~400km付近にある[[電離層]]F層に反射されて遠くまで伝わるという電波の特性から、条件が良ければ地球の裏側にも届くために遠距離用通信に短波放送が古くから利用されてきた。国内放送(日本ではラジオNIKKEI)や国際放送(日本ではNHKワールド・ラジオ日本)などに利用されている。短波放送は、[[太陽黒点]]活動からの影響を受けて電離層の状態が変化する。また、電離層からの反射の影響により[[フェージング]]が起きるなど受信状態が不安定になりやすい。このため季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって電離層の状態が変化するために、季節(夏季と冬季)や時刻(昼間と夜間)によって使用する[[周波数]]を変更したり、複数の周波数を同時に使用して放送しなければならない。
短波放送を受信するために各種メーカーから[[短波ラジオ]]が製造・販売されている。短波放送を受信する趣味の人を「SWL(Short Wave Listener)」や「BCL(Broadcast Listening) 」という。
== 電力線搬送通信反対運動 ==
{{See also|電力線搬送通信}}
[[電力]]線を通信回線として利用する[[電力線搬送通信]](PLC)について、短波の利用に影響をきたす可能性が考えられるとの理由から許可取消しなどを求める反対運動が起こっている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[電離層]]
* [[デリンジャー現象]]
* [[スポラディックE層]]
* [[中短波帯]]
* [[短波帯]]
* [[短波放送]]
* [[BCL]]
== 外部リンク ==
* 『[http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/56/ 太陽と電波]』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより
: [[1957年]]、[[国際電信電話]](現・[[KDDI]])の企画の下で東京シネマが制作した短編映画《現在、上記サイト内に於いて無料公開中》。[[太陽]]活動に伴って生成・変化する[[電離層]]と短波通信の関係に触れると共に、それを通して当時の国際通信事情についての紹介もしている。
{{電波の周波数による分類}}
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[[Category:周波数帯]] | 2003-03-04T00:49:33Z | 2023-11-29T03:40:25Z | false | false | false | [
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3,338 | 超短波 | 超短波(ちょうたんぱ)とは、VHF (Very High Frequency) とも呼ばれ、30 - 300MHzの周波数の電波をいう。波長は1 - 10m、メートル波とも呼ばれる。
頭に「超」が付くのは、20世紀初頭までは短波が最も波長が短い電波であるとされていたためである。その後もさらに短い波長の高周波が確認され「極超短波 (UHF)」「超高周波」などと命名されている。
伝播の特徴としては電離層では普通反射せず地表波は減衰が大きく利用しにくいため、空間波による見通し範囲の通信が基本となる。また、スポラディックE層やラジオダクトによる異常伝播による妨害を受けることもある。
業務用移動通信・計器着陸装置 (ILS)・超短波全方向式無線標識 (VOR)・航空無線・国際VHF・同報無線・FM放送・マルチメディア放送・アマチュア無線で利用される。
日本では、90 - 108MHz(チャンネルは1ch - 3ch)および170 - 222MHz(チャンネルは4ch - 12ch)がアナログテレビジョン放送に利用されていたが、2012年3月31日に全廃された。一方、2012年4月から2016年6月30日までサービスを行っていたマルチメディア放送「NOTTV」は、11ch相当の周波数を利用していた。中波放送でも混信回避、難聴取解消の目的からFM放送で送信する事例(FM補完中継局を参照)がある。
明確な定義は無いが、FM放送の下限76MHzよりも低い周波数をローVHF(Low VHF)という。主に軍用の移動通信に使用されている。日本では主に防衛無線(自衛隊無線)や市町村防災行政無線(同報系)に使用されている。ノイズが多く、異常伝播による混信を受けやすい。アンテナは1/4λアンテナの場合1 - 2.5mと長いため、車載用途や携帯用途には使いづらい。これは、V-Low帯と呼ばれる90 - 108MHz(かつてのテレビ1ch - 3ch)とは異なる。
アマチュア業務に国際電気通信連合の無線通信規則 (RR) により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数および分配された以外で他の業務に影響を与えない範囲で各国の主管庁が割り当てた周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
日本での割当てはアマチュア無線の周波数帯を参照。
短波 (3 - 30MHz) のうち25MHz付近より高い周波数の電波は、超短波のように利用される場合が多い。この周波数には、電離層伝播による遠距離通信用としての割当てもあるが、27MHz帯の船舶無線や市民ラジオなど地上波による通信を前提とした割当てのほうが多い。 またアマチュア無線の28MHz帯では、電離層反射波による外国との交信と共に、モバイル(移動体)のFM通信やアマチュア衛星通信も楽しまれている(アマチュア無線の周波数帯を参照)。 ちなみに総務省令無線局運用規則では、4000kHzから26.175MHzまでの周波数帯を短波帯と定義している。
無線従事者の操作範囲も、この付近より高い周波数はVHFとして扱われる場合が多い。簡易な無線従事者資格である特殊無線技士は、レーダーや無線電信という限定された無線設備を操作するレーダー級海上特殊無線技士と国内電信級陸上特殊無線技士を除き、基本的に25.01MHz以上の無線設備が操作できるものとしている。海上特殊無線技士#操作範囲、航空特殊無線技士#操作範囲、陸上特殊無線技士#操作範囲を参照。
超短波と超音波はよく似た名称だが、異なる物理現象である。超音波は音波であり、真空中を伝播できず、また伝播速度も遅い。 | [
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== 概要 ==
頭に「[[超]]」が付くのは、[[20世紀]]初頭までは[[短波]]が最も波長が短い電波であるとされていたためである。その後もさらに短い波長の高周波が確認され「[[極超短波]] (UHF)」「超高周波」などと命名されている。
伝播の特徴としては[[電離層]]では普通反射せず地表波は減衰が大きく利用しにくいため、空間波による見通し範囲の通信が基本となる。また、[[スポラディックE層]]やラジオダクトによる異常伝播による妨害を受けることもある。
== 用途 ==
[[業務用移動通信]]・[[計器着陸装置]] (ILS)・[[超短波全方向式無線標識]] (VOR)・[[航空無線]]・[[国際VHF]]・[[同報無線]]・[[周波数変調#FM放送|FM放送]]・[[マルチメディア放送]]・[[アマチュア無線]]で利用される。
日本では、90 - 108MHz([[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]は1ch - 3ch)および170 - 222MHz(チャンネルは4ch - 12ch)が[[NTSC|アナログテレビジョン放送]]に利用されていたが、[[2012年]]3月31日に全廃された。一方、2012年4月から[[2016年]]6月30日までサービスを行っていた[[マルチメディア放送]]「[[NOTTV]]」は、11ch相当の周波数を利用していた。[[中波放送]]でも[[混信]]回避、難聴取解消の目的からFM放送で送信する事例([[FM補完中継局]]を参照)がある。
== ローVHF ==
明確な定義は無いが、FM放送の下限76MHzよりも低い周波数を[[ローVHF]](Low VHF)という。主に軍用の移動通信に使用されている。日本では主に[[防衛無線]]([[自衛隊]]無線)や[[市町村防災行政無線]](同報系)に使用されている。ノイズが多く、異常伝播による混信を受けやすい。アンテナは1/4λアンテナの場合1 - 2.5mと長いため、車載用途や携帯用途には使いづらい。これは、[[テレビ周波数チャンネル#地上波アナログ放送|V-Low]]帯と呼ばれる90 - 108MHz(かつてのテレビ1ch - 3ch)とは異なる。
==アマチュア無線==
アマチュア業務に[[国際電気通信連合]]の[[無線通信規則]] (RR) により他の業務と共用するものを含めて分配された周波数および分配された以外で他の業務に影響を与えない範囲で各国の主管庁が割り当てた周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!バンド!![[ITU地域|第1地域]]<br>[[アフリカ]]・[[ヨーロッパ]]!!第2地域<br>[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]・[[ハワイ]]!!第3地域<br>[[アジア]]・[[オセアニア]](ハワイは除く)
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日本での割当ては[[アマチュア無線の周波数帯]]を参照。
== 電波行政における超短波と短波の区分 ==
[[短波]] (3 - 30MHz) のうち25MHz付近より高い周波数の電波は、超短波のように利用される場合が多い。この周波数には、電離層伝播による遠距離通信用としての割当てもあるが、27MHz帯の[[船舶無線]]や[[市民ラジオ]]など[[電波伝播#地上波|地上波]]による通信を前提とした割当てのほうが多い<ref>前述のように電離層伝播することがあるので、遠方で同じ周波数を使う際に、[[運用許容時間]]や[[空中線電力]]などの指定に留意が必要な場合がある。</ref>。 またアマチュア無線の28MHz帯では、[[電波伝播#上空波(電離層反射波)|電離層反射波]]による外国との交信と共に、モバイル(移動体)の[[周波数変調|FM]]通信や[[アマチュア衛星]]通信も楽しまれている([[アマチュア無線の周波数帯]]を参照)。 ちなみに[[総務省|総務]][[省令]][[無線局運用規則]]では、4000kHzから26.175MHzまでの周波数帯を'''[[短波帯]]'''と定義している。
[[無線従事者]]の操作範囲も、この付近より高い周波数はVHFとして扱われる場合が多い。簡易な無線従事者資格である[[特殊無線技士]]は、[[レーダー]]や[[無線電信]]という限定された[[無線設備]]を操作するレーダー級[[海上特殊無線技士]]と国内電信級[[陸上特殊無線技士]]を除き、基本的に25.01MHz以上の無線設備が操作できるものとしている。'''[[海上特殊無線技士#操作範囲]]'''、'''[[航空特殊無線技士#操作範囲]]'''、'''[[陸上特殊無線技士#操作範囲]]'''を参照。
== 超短波と超音波 ==
超短波と[[超音波]]はよく似た名称だが、異なる物理現象である。超音波は[[音波]]であり、[[真空]]中を伝播できず、また伝播速度も遅い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[スポラディックE層]]
* [[超短波放送]]
* [[八木・宇田アンテナ]]
{{電波の周波数による分類}}
{{電磁波}}
{{Normdaten}}
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[[Category:周波数帯]] | 2003-03-04T00:50:30Z | 2023-12-02T21:48:39Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E7%9F%AD%E6%B3%A2 |
3,339 | 長波 | 長波(ちょうは、LF(Low Frequency)またはLW(Longwave, Long Wave))とは、30 - 300kHzの周波数の電波をいう。波長は1 - 10km、キロメートル波とも呼ばれる。
伝搬の特徴としては特に高緯度地域で地表波が安定して利用でき、また大電力の送信機が比較的簡単に製作できる。
対潜水艦通信・ラジオ放送・誘導無線・標準電波・LORAN-C無線航行・アマチュア無線などに用いられる。
国際電気通信連合(ITU)は、無線通信規則(RR)により第1地域(アフリカ・ヨーロッパ)に放送用として148.5 - 283.5kHz(155 - 283.5kHzは航空無線航行と共用)を分配している。地域内の欧州・トルコ・アフリカ・ロシア・モンゴルが振幅変調(AM:Amplitude Modulation)により実施している。日本では秋 - 春の夜間を中心にロシア沿海州、モンゴル、深夜にはタジキスタンなど遠距離の放送も受信可能である。
近年では長波放送を廃止する局が多く、2022年現在で日本周辺で受信できる長波放送局はモンゴル国営放送のみとなっている。
アマチュア業務にRRにより他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
電信とデータ通信(ただし占有帯域幅200Hz以下)専用の周波数である。日本での割当てはアマチュア無線の周波数帯を参照。
日本での例を示す。 | [
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"text": "日本での例を示す。",
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] | 長波(ちょうは、LFまたはLW)とは、30 - 300kHzの周波数の電波をいう。波長は1 - 10km、キロメートル波とも呼ばれる。 | {{otheruses||日本の駆逐艦|長波 (駆逐艦)}}
'''長波'''(ちょうは、LF(Low Frequency)またはLW([[:en:Longwave|Longwave]], Long Wave))とは、30 - 300[[キロヘルツ|kHz]]の[[電波の周波数による分類|周波数]]の[[電波]]をいう<ref>{{Cite web|url=https://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/v/R-REC-V.431-8-201508-I!!PDF-E.pdf |title=Nomenclature of the frequency and wavelengh bands used in telecommunications |author=国際電気通信連合(ITU) |date=2015-08 |work= |publisher= |accessdate= 2016-07-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h25/pdf/n4700000.pdf |title=平成25年情報通信白書>第2部 情報通信の現況・政策の動向>第7節 電波利用 |author= |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-07-03 }}</ref>。[[波長]]は1 - 10[[キロメートル|km]]、キロメートル波<ref>[[電波法]]施行規則 第四条の三(周波数の表示)</ref>とも呼ばれる。
== 概要 ==
伝搬の特徴としては特に高[[緯度]]地域で地表波が安定して利用でき、また大[[空中線電力|電力]]の送信機が比較的簡単に製作できる。
対[[潜水艦]]通信・[[ラジオ放送]]・[[誘導無線]]・[[標準電波]]・[[LORAN]]-C無線航行・[[アマチュア無線]]などに用いられる。
== 長波放送 ==
[[国際電気通信連合]](ITU)は、[[無線通信規則]](RR)により第1地域([[アフリカ]]・[[ヨーロッパ]])に放送用として148.5 - 283.5kHz(155 - 283.5kHzは航空無線航行と共用)を分配<ref name="assign">[[総務省]][[告示]][[周波数割当計画]] 第2周波数割当表 第1表9kHz―27500kHz</ref>している。地域内の[[ヨーロッパ|欧州]]・[[トルコ]]・[[アフリカ]]・[[ロシア]]・[[モンゴル]]が[[振幅変調]]('''AM''':Amplitude Modulation)により実施している。[[日本]]では秋 - 春の夜間を中心にロシア[[沿海州]]、モンゴル、深夜には[[タジキスタン]]など遠距離の放送も受信可能である。
近年では長波放送を廃止する局が多く、2022年現在で日本周辺で受信できる長波放送局は[[モンゴル国営放送]]のみとなっている。
== アマチュア無線 ==
アマチュア業務にRRにより他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!バンド!![[ITU地域|第1地域]]!!第2地域!!第3地域
|-
|[[135kHz帯|2200m]]||colspan="3"|135.7kHz - 137.8kHz
|}
[[電信]]と[[データ通信]](ただし占有帯域幅200Hz以下)専用の周波数である。日本での割当ては[[アマチュア無線の周波数帯]]を参照。
== 長波を使用する施設 ==
日本での例を示す。
* [[JJY]](40/60kHz)
* [[無指向性無線標識]](190kHz - )
* [[グローバル・ポジショニング・システム#測位法|DGPS]]局(288kHz - )
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{電波の周波数による分類}}
{{電磁波}}
{{DEFAULTSORT:ちようは}}
[[Category:周波数帯]] | 2003-03-04T00:51:36Z | 2023-12-04T02:47:00Z | false | false | false | [
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3,340 | 西高東低 | 西高東低(せいこうとうてい)とは、地域の東に低気圧、西に高気圧が存在している気圧配置を指す。極地側の寒冷地帯からの風が吹き込みやすくなり、北半球ではこの場合、北よりの風(北西風)が吹き込む。
本項では注記しない限り日本列島に対する気圧配置について記述する。
天気図上では、東の低気圧と西の高気圧に挟まれて、等圧線が幾重にも南北に走っている特徴的な図になる。
気象以外の分野では、統計結果などの分布について東日本と西日本、あるいはある地域の東部と西部に明示的な差が現れたときに、この言葉を流用したりあるいは逆に「東高西低」などと言う。
一般に「西高東低」は気象条件を表すのに用いられる言葉だが、世の中の情勢を表す表現として使用されることもある。
公営競技においては、上位ランクの選手・競走馬などの層の厚さや高額賞金競走の優勝者の本拠地の勢力図において、西日本側が優勢になっている状況を指して専門紙などのマスコミなどが「西高東低」と表現することがある。
中央競馬においては、人馬の拠点が東日本は茨城県の美浦トレーニングセンター、西日本は滋賀県の栗東トレーニングセンターの2箇所に集約管理されており、所属馬はそれぞれ「関東馬」「関西馬」と呼ばれる。ここ20年ほどは東西を比較すると、重賞勝利数・獲得賞金額・G1タイトル数などの成績面で関西馬が関東馬を圧倒する状況が続いており、この事を指して、「西高東低」という表現が用いられることがある(詳細については美浦トレーニングセンターを参照)。過去、1980年代前半までは逆に関東が成績が良かった時代もあり、「東高西低」という表現がされたこともある。
また、競艇でも2000年代後半以降、西日本の選手が大きなタイトル戦において優勢となり、準優勝戦や優勝戦の枠の多くを占める状況が続いており、競馬と同様に「西高東低」という文言がスポーツ新聞や競艇専門紙において記事やコラムで使用される事が見られる。
九州の交通網の整備は、九州自動車道や九州新幹線が着々と整備されているのに対し、日豊本線(佐伯以南延岡以北、宮崎以南)は手付かずで、将来的な施策の予定も立てられていない。これについて宮崎県の経済界などからは、「西高東低である」との指摘がある。なお、建設および計画の進捗が遅れていた東九州自動車道は、2016年に北九州JCT-清武JCT間が全線開通しており、清武JCT以南も建設中である。
愛知県においての西高東低とは、県東部の三河地方より県西部の名古屋・尾張地方に政策や投資が偏ることをいう。
一方で県庁所在地である名古屋市は、市中心部を流れる堀川を境に西側は低地が多く、東側は台地や丘陵地帯が多いことから、市域の地形は「東高西低」であると評されている。また名古屋市内では戦後、市西部(中川区・港区など)より市東部(名東区・天白区など)の方が都市発展が著しかったことや、「人口重心」が市中心部から東進していく傾向が見られたことから、都市構造および都市発展の様子も「東高西低」であると評されている。
ヒップホップミュージックにおける1990年代は、アメリカ西海岸(ロサンゼルスなど)から発せられるサウンドが、発祥地であったアメリカ東海岸(ニューヨーク)を凌駕するほど人気を博していたことから、こう例えられる。
中国大陸、東アジアの地勢は西に山脈が多く、東に平地が広がることから、『西高東低の地形』と表現される。また、南北・両アメリカ大陸も同地形に該当する。南アメリカ大陸はアンデス山脈、北アメリカ大陸はロッキー山脈を中心に、『西高東低の地形』を形成している。
日本の都道府県別の合計特殊出生率は、おおむね西日本が高く、東日本が低い状況にあり「西高東低」と言われる。
2000年代前半以前には、このような明確な東西の差はみられなかった。しかし、日本全体の合計特殊出生率が史上最低の1.26を記録した2005年以降、大幅に回復する西日本各県と小幅回復にとどまる東日本各県という形で差が開き始めた。2021年の合計特殊出生率は、上位10県のうち7県を九州沖縄地方が占め、中四国からも3県が10位以内に入っており、九州中四国地方で最も低い福岡県でも1.37(27位)となっている。一方で、関東以東は全ての都府県が福岡県を下回る状況であり、最も高い福島県でも1.36(28位)に過ぎない。
過去の粗出生率を概ね反映する年少人口比率も同様の傾向で、上位10県が九州沖縄7県、滋賀県、愛知県、広島県となっている。一方で関東以東の都道県は全て全国平均以下と偏りが大きい。 | [
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] | 西高東低(せいこうとうてい)とは、地域の東に低気圧、西に高気圧が存在している気圧配置を指す。極地側の寒冷地帯からの風が吹き込みやすくなり、北半球ではこの場合、北よりの風(北西風)が吹き込む。 本項では注記しない限り日本列島に対する気圧配置について記述する。 | [[File:西高東低の天気図.png|thumb|西高東低の天気図。出典:https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/]]
[[Image:Weathermap eastasia 1.png|thumb|right|240px|西高東低の気圧配置の例]]
'''西高東低'''(せいこうとうてい)とは、地域の東に[[低気圧]]、西に[[高気圧]]が存在している[[気圧配置]]を指す。[[極地]]側の寒冷地帯からの[[風]]が吹き込みやすくなり、[[北半球]]ではこの場合、北よりの風(北西風)が吹き込む。
本項では注記しない限り[[日本列島]]に対する気圧配置について記述する。
== 概要 ==
[[天気図]]上では、東の低気圧と西の高気圧に挟まれて、[[等圧線]]が幾重にも南北に走っている特徴的な図になる。
* 特に[[日本]]の一帯においては、北方に'''シベリア寒気団'''(→[[シベリア高気圧]])を控えているため、冬には強い寒気が押し寄せる状態になる。この高気圧は、大陸性の高気圧のため乾燥しているので日本の冬は乾燥することになる。そのため日本では、'''西高東低'''の気圧配置を「冬型の気圧配置」と呼び、専ら冬の天候を説明する際に用いる。
* 典型的にこの季節の気候は、[[日本海]]側では大雪(時に[[豪雪]]や[[風雪]])、[[瀬戸内海]]側と[[太平洋]]側では降水のない日が続く。
* '''西高東低'''の気圧配置になると日本では、厳しい冷え込みが訪れるとともに、[[日本海]]を渡ってきた[[中国大陸|大陸]]からの風が海上で水蒸気を蓄えて山脈にぶつかるため、[[日本海側気候]]の地域(北日本日本海側 - [[山陰地方]])では[[雨]](地上の気温が0℃未満または地上の気温が0℃以上であっても、850hPa天気図(目安として上空1500mの気温などを表す天気図)で-6℃未満,または500hPa天気図(目安として上空5500mの気温などを表す天気図)で-30℃未満で[[雪]]、同じく-36℃未満で大雪、同じく-42℃未満で[[豪雪]])となり、[[太平洋側気候]]・[[瀬戸内海式気候]]・[[中央高地式気候]]の3地域では山を越えて乾燥した吹き下ろしの風([[からっ風]]など)が強くなる([[風向]]・[[風速]]によっては山脈を越えて3地域でも降水がある)。このため3地域では冬になると空気が乾燥し[[火災]]が起きやすくなる。また[[南西諸島]]では降水日数(1mm以上の降水が観測される日)がやや多くなり、[[山口県]]北部 - [[九州]]北部の日本海側 - [[東シナ海]]側にかけても降水日数がやや多くなる。
* 西高東低型のうち、等圧線が日本付近で南北に何本も走るパターンを「山雪型」と言い、山間部で大雪が降りやすくなる。これに対し、等圧線が日本海で袋状に湾曲するパターンは「里雪型」と呼ばれ、平野部で大雪となりやすい。また中上層に強い寒気が流れ込むと日本海(特に[[日本海寒帯気団収束帯|JPCZ]]や秋田沖付近)で非常に不安定で寒冷な[[極低気圧]]が発生することがある。この低気圧は活発な[[積乱雲]]を伴っており、この低気圧が陸地に上陸すると平地でも多大な降雪をもたらし、時として雷や霰を伴うこともある。
* また、西高東低型のうち,シベリア高気圧の勢力が強いため相対的に等圧線の間隔が狭まり、高気圧から押し出されるように季節風が吹く場合を「押しの季節風」型。逆に日本東海上の低気圧が発達しこの場合も相対的に等圧線が狭まり、低気圧に引き込まれるような形で季節風が吹く場合を「引きの季節風型」。さらに、高気圧・低気圧双方とも強まって季節風が吹く場合の「押しの季節風と引きの季節風の混合型」という<ref>大塚龍蔵『天気図の見方手引 <small>やさしい天気図教室</small>』(クライム、2006年新改訂版) ISBN 4-907664-58-3</ref>。現在では「押しの季節風型」を「持続型」、「引きの季節風型」を「瞬発型」と呼ぶ事もある。「瞬発型」の場合、低気圧が発達しながら日本付近を足早に通過する場合が多く、各地に暴風や大雪(雨)をもたらし,東北地方太平洋側・[[中京圏]]・[[京阪神]] - [[山陽地方]]・[[北四国|四国北部]]地方などでも降雪(雨)をもたらす可能性もある反面、「持続型」に比べると暴風などの荒天が一時的である事が名前の由来となっている。
[[気象]]以外の分野では、[[統計]]結果などの分布について[[東日本]]と[[西日本]]、あるいはある地域の東部と西部に明示的な差が現れたときに、この言葉を流用したりあるいは逆に「'''[[東高西低]]'''」<ref>[[連続テレビ小説|NHK連続テレビ小説(朝ドラ)]]では、年度前半の東京本部制作の場合、東京([[AK]])の方が大阪([[BK]])より視聴率が高いことから、比喩として「東高西低」という言葉が用いられているが、年度後半の大阪制作の場合は、東京より大阪の方が視聴率が高いため、「西高東低」となる。</ref>などと言う。
== 気象以外で使用される表現 ==
[[Image:China 100.78713E 35.63718N.jpg|thumb|right|240px|'''中国大陸'''の衛星地図]]
[[Image:South America satellite orthographic.jpg|thumb|right|180px|'''南アメリカ大陸'''の衛星地図]]
一般に「西高東低」は気象条件を表すのに用いられる言葉だが、世の中の情勢を表す表現として使用されることもある。
=== 公営競技 ===
[[公営競技]]においては、上位ランクの選手・競走馬などの層の厚さや高額賞金競走の優勝者の本拠地の勢力図において、西日本側が優勢になっている状況を指して専門紙などのマスコミなどが「西高東低」と表現することがある。
[[中央競馬]]においては、人馬の拠点が東日本は[[茨城県]]の[[美浦トレーニングセンター]]、西日本は[[滋賀県]]の[[栗東トレーニングセンター]]の2箇所に集約管理されており、所属馬はそれぞれ「関東馬」「関西馬」と呼ばれる。ここ20年ほどは東西を比較すると、重賞勝利数・獲得賞金額・G1タイトル数などの成績面で関西馬が関東馬を圧倒する状況が続いており、この事を指して、「西高東低」という表現が用いられることがある('''詳細については[[美浦トレーニングセンター#美浦トレセンと関東馬の長期低迷|美浦トレーニングセンター]]を参照''')。過去、1980年代前半までは逆に関東が成績が良かった時代もあり、「'''東高西低'''」という表現がされたこともある。
また、[[競艇]]でも2000年代後半以降、西日本の選手が大きなタイトル戦において優勢となり、準優勝戦や優勝戦の枠の多くを占める状況が続いており、競馬と同様に「西高東低」という文言がスポーツ新聞や競艇専門紙において記事やコラムで使用される事が見られる<ref>[https://web.archive.org/web/20111129155458/http://www.nikkansports.com/race/kka/derby/2009/news/p-rc-tp1-20091013-554893.html 関東勢敗退、西高東低の壁厚く…/競艇 - SG 第56回全日本選手権] ([[日刊スポーツ]] 2009年10月13日付)</ref>。
=== 九州 ===
[[九州]]の交通網の整備は、[[九州自動車道]]や[[九州新幹線]]が着々と整備されているのに対し、[[日豊本線]]([[佐伯駅|佐伯]]以南[[延岡駅|延岡]]以北、[[宮崎駅|宮崎]]以南)は手付かずで、将来的な施策の予定も立てられていない。これについて宮崎県の経済界などからは、「西高東低である」との指摘がある<ref>[http://www.b-post.com/news/times_news/20050531.html 新直轄方式と料金収集で建設促進] (南日本産業タイムズ、2005年5月28日付)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070930020708/http://www.shinkokudo.gr.jp/toyama/past/12top.html 新国土形成研究会トップ懇談会記録] (2000年8月2日)</ref>。なお、建設および計画の進捗が遅れていた[[東九州自動車道]]は、[[2016年]]に[[北九州JCT]]-[[清武ジャンクション|清武JCT]]間が全線開通しており、清武JCT以南も建設中である。
=== 愛知県 ===
[[愛知県]]においての西高東低とは、県東部の[[三河国|三河地方]]より県西部の[[名古屋市|名古屋]]・[[尾張国|尾張地方]]に政策や投資が偏ることをいう<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.chunichi.co.jp/article/senkyo/aichi-chiji2015/news/CK2015011702000221.html |title= 東三河の有権者冷ややか「争点なし」「選択肢なし」 |publisher= 中日新聞 |accessdate= 2016-01-20|archiveurl=https://archive.md/1Qe5F|archivedate=2016-01-20}}</ref>。
一方で[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[名古屋市]]は、市中心部を流れる[[堀川 (名古屋市)|堀川]]を境に西側は低地が多く、東側は台地や丘陵地帯が多いことから、市域の地形は「[[東高西低]]」であると評されている<ref>{{Cite web |url=https://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/cmsfiles/contents/0000058/58866/1-1.pdf#page=2 |title=都市計画概要2013 第1編 総論 第1章 市勢 |access-date=2023-12-20 |publisher=名古屋市住宅都市局 |date=2013-10-01 |format=PDF |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20231220134501/https://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/cmsfiles/contents/0000058/58866/1-1.pdf#page=2 |archive-date=2023-12-20 |url-status=live}}</ref>。また名古屋市内では戦後、市西部([[中川区]]・[[港区 (名古屋市)|港区]]など)より市東部([[名東区]]・[[天白区]]など)の方が都市発展が著しかったことや、「[[人口重心]]」が市中心部から東進していく傾向が見られたことから、都市構造および都市発展の様子も「東高西低」であると評されている<ref>『[[中日新聞]]』1988年2月1日朝刊一面1頁「「健康とスポーツの里」建設 名古屋の戸田川一帯 60ヘクタール、緑地など整備 新基本計画素案」([[中日新聞社]])</ref><ref>『中日新聞』1988年7月28日朝刊市民版16頁「「人口重心」名古屋のヘソは鶴舞4丁目 市発展「東高西低」を反映 統計課まとめ」(中日新聞社)</ref>。
{{See also|東高西低#名古屋市}}
=== ヒップホップ ===
[[ヒップホップ]]ミュージックにおける[[1990年代]]は、[[ウエスト・サイド|アメリカ西海岸]]([[ロサンゼルス]]など)から発せられるサウンドが、発祥地であった[[アメリカ合衆国東海岸|アメリカ東海岸]]([[ニューヨーク]])を凌駕するほど人気を博していたことから、こう例えられる。
=== 地形 ===
[[中国大陸]]、[[東アジア]]の地勢は西に山脈が多く、東に平地が広がることから、『西高東低の地形』と表現される。また、南北・両[[アメリカ大陸]]も同地形に該当する。[[南アメリカ大陸]]は[[アンデス山脈]]、[[北アメリカ大陸]]は[[ロッキー山脈]]を中心に、『西高東低の地形』を形成している。
=== 出生率 ===
[[File:Map of East Asia by TFR in 2021.png|thumb|東アジアの合計特殊出生率(2021年)。色の濃い(出生率の高い)地域が九州中四国地方に、色の薄い(出生率の低い)地域が東日本を中心に広がる。|250px]]
日本の都道府県別の[[合計特殊出生率]]は、おおむね西日本が高く、東日本が低い状況にあり「西高東低」と言われる<ref name="A">[https://web.archive.org/web/20130602101822/http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi/watching/wt1207.pdf 令和元年(2019)人口動態統計(確定数)の概況]</ref><ref name="B">[https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2012/24webgaiyoh/html/gc_3.html 都市と地方における子育て環境に関する調査等について]</ref>。
2000年代前半以前には、このような明確な東西の差はみられなかった。しかし、日本全体の合計特殊出生率が史上最低の1.26を記録した2005年以降、大幅に回復する西日本各県と小幅回復にとどまる東日本各県という形で差が開き始めた<ref name="A"/><ref name="B"/>。2021年の合計特殊出生率は、上位10県のうち7県を九州沖縄地方が占め、中四国からも3県が10位以内に入っており、九州中四国地方で最も低い福岡県でも1.37(27位)となっている。一方で、関東以東は全ての都府県が福岡県を下回る状況であり、最も高い福島県でも1.36(28位)に過ぎない<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei19/dl/07_h3-2.pdf 令和元年(2019)人口動態統計(確定数)の概況]</ref>。
過去の粗出生率を概ね反映する年少人口比率も同様の傾向で、上位10県が九州沖縄7県、滋賀県、愛知県、広島県となっている。一方で関東以東の都道県は全て全国平均以下と偏りが大きい。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|気象学}}
{{ウィキポータルリンク|気象と気候}}
* [[気圧配置]]
* [[日本海寒帯気団収束帯]]
* [[南北問題]]
{{気象現象}}
{{雪害}}
{{DEFAULTSORT:せいこうとうてい}}
[[Category:天気図]]
[[Category:日本の気候]]
[[Category:冬]] | 2003-03-04T01:03:47Z | 2023-12-20T14:02:55Z | false | false | false | [
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:気象現象",
"Template:雪害",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Wikibooks"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%AB%98%E6%9D%B1%E4%BD%8E |
3,341 | 冬型 | 冬型(ふゆがた) | [
{
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"text": "冬型(ふゆがた)",
"title": null
}
] | 冬型(ふゆがた) 日本において、冬の寒さが特に厳しくなる西高東低の気圧配置のこと。日本海側では雪になり、太平洋側では乾いた晴天になることが多い。
昆虫などが、同種であるが冬の場合に他の季節と見た目が異なること。季節型。 | '''冬型'''(ふゆがた)
<!-- ↓不要では。
* 冬、冬の生活、冬のスポーツ、などが好きな人のこと。冬型人間。
-->
* [[日本]]において、冬の寒さが特に厳しくなる[[西高東低]]の[[気圧]]配置のこと。日本海側では雪になり、太平洋側では乾いた晴天になることが多い。
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3,342 | 風 | 風(かぜ)とは、空気の流れのこと、流れる空気自体のこと、またはそれによる現象(ビル風など)のことである。
現代では「気流」が類義語にあたる。「風」に対して、風が全くない無風状態のことを「凪(なぎ)」という。
また、古来、風という言葉は眼に見えないものを象徴するためにも使われる。日本語でも意味深い言葉であるが、日本語以外では例えばヘブライ語で風に相当し、龍の発音に似る「Ru(巻き舌)ah」という言葉は深い意味を持っている。(→聖霊、霊性の項に説明あり)
空気全体の動きということで、全体的な雰囲気の方向のような意味で「風」という言葉が使われる例が多い。選挙において「無党派の風が吹いた」とか、「逆風が強かった」などという。また、芸術やファッションなどにおいて○○風(ふう)というのもこれに近い。
現代の気象学においては「風」とは、地球上の大気の流れを意味している。厳密には、地面に対して水平方向の流れ(水平風)のみを指し、垂直方向の流れ(鉛直風)は上昇気流または下降気流というが、一般的には分けないことが多い。ただ、日常において風は水平方向に吹くことが多いため、風といえば普通は水平方向の風を指す。
風は、風向と風速の2つの要素に分解してとらえることが可能である。
風向は、0度から360度までの方位で表されるが、通常は16方位で表す。風向に関してはしばしば勘違いが起こるが、風が吹いてくる方向のことを指す。たとえば「北東の風」は北東から吹いてくる風のことで、観測者を中心に見ると北東から南西に向かって吹く風を示す。
風速は、日本では秒速 (m/s) で表すのが普通であるが、国際的にはしばしばノット (kt) がよく用いられる。また、風速はビューフォート風力階級によって0から12の13段階に分類された「風力」として表現されることがある。風向や風速は風向風速計によって観測する。風速計には風杯型や風車型などいくつかの型が存在する。
気象学上風を物理量として扱わなければならない場合は、この2要素を用いる。ただ、これは風が水平方向にしか吹かないと仮定した場合の表現であり、垂直方向の風は表現できない。垂直方向の風を表現する際は、鉛直p速度というものを用いる。
物理学的には、場所による気圧の不均一を解消しようとして発生するのが風だと解釈できる。気象学では、「風は気圧傾度力によって発生する」と表現する。
気圧の不均一や気圧傾度力が生まれる根本的な原因は、地球上において、場所によって太陽エネルギーの分布(≒温度)が異なるためである。日光の当たり具合や地表の温まりやすさの違いが、島や大陸といった巨大なスケールで存在すると、気圧が不均一になり、数千km規模の高気圧・低気圧が生まれる。高気圧からは風が吹き出し、低気圧には風が吹き込む。高気圧から低気圧へと流れる空気が、「風」の主因となる。
気圧の不均一・気圧傾度力が大きいほど、風は強くなる。天気図で言うと、等圧線の間隔が狭いほど風は強い。ただ、高気圧・低気圧の風は長い距離を流れるため、コリオリの力や遠心力を受けて回転を伴う風となる。これを地衡風、傾度風という。風の回転を物理量として表現する際には、風向・風速では不十分なので渦度を用いる。
気圧傾度力以外で、風に作用する力には以下のようなものがある。その場所その時の風によって、働く力や大きさは異なる。
風は常に変化しているが、変化の周期には傾向がある。地域差も大きいが、一般的には低気圧・高気圧の通過といった総観スケール気象による変化(約4日周期)が最も大きく、次に季節変化によるもの(1年周期)が大きい。またこれと並んで、「風の息」と呼ばれる小刻みな風向風速の変化によるもの(約1秒単位)も卓越する。海陸風の影響を受ける地域では、約12時間周期の変化も卓越する。
一般的に、「強風」と呼ばれる風は、数十分 - 数日間程度連続する風速の大きい風を指す。強風の大きさを表す数値としては最大風速が適している。
一方、「突風」と呼ばれる風は、数秒 - 数分程度の短時間吹く風速の大きい風を指す。このような風は、強風の期間中において、気流の乱れつまり風の息によって突発的に生じるものがほとんどである。例外的に、単発的なものとして竜巻やダウンバースト、積乱雲などのメソスケール気象(いわゆる局地現象)が主因となって起こる突風もある。突風の大きさを表す数値としては最大瞬間風速が適している。
最大風速に対する最大瞬間風速の比を突風率といい、場所ごとに固有の値をとる。普通は1.5から2.0前後となる。天気予報では、強風被害が考えられる場合でも主に最大風速が予想されるので、これに突風率をかけた値の最大瞬間風速が吹きうると考えて、強風対策に役立てる。突風率が場所ごとに固有の値をとるのは、建物や樹木、地形の影響 により風の息が異なるためである。
風は気候に大きな影響を与えており、風系を基本としたフローンの気候区分という気候区分も存在する。ある地域で特定の期間にもっとも頻度の高い風向の風を卓越風という。
地球上の風系は南北半球ともに3つの区分に分かれ、大気大循環によって低緯度の熱を高緯度へと輸送する役割を持っている。
赤道から緯度30度付近にかけての循環はハドレー循環と呼ばれ、赤道付近の熱帯収束帯で空気が温められて上昇し、高緯度に向けて移動したのち、緯度20度から30度付近の亜熱帯高圧帯で冷却されて下降し赤道付近に向けて移動する。この地上近くでの風は常に東から吹く偏東風となっており、貿易風と呼ばれている。この循環によって、常に上昇気流が発生する赤道地方は一年中大量の降雨がある熱帯雨林気候となり、一方で常に下降気流の発生する亜熱帯高圧帯の地域は年間の降雨がほとんどない砂漠気候となっている。熱帯収束帯・亜熱帯高圧帯はともに太陽の移動に応じて南北に移動するため、上記の2地区の中間の地域に季節によって降雨をもたらし、この地域にサバナ気候およびステップ気候を形成する。
緯度30度から60度にかけての中緯度地方では、今度は亜熱帯高圧帯で下降した空気が北上し、北緯60度付近の亜寒帯低圧帯で上昇して低緯度へと向かう。この循環はフェレル循環と呼ばれ、地上付近で高緯度へ向かう風は常に西から吹くため偏西風と呼ばれる。中緯度地帯の対流圏上層には非常に速い偏西風の気流が存在し、これをジェット気流と呼ぶ。ジェット気流は北緯30度付近を中心に吹く亜熱帯ジェット気流と北緯40度付近に吹く寒帯ジェット気流の2本が存在し、それぞれ前者がハドレー循環とフェレル循環、後者がフェレル循環と極循環の境界に吹くが、特に寒帯ジェット気流は蛇行しやすく、冬の日本上空や北アメリカ大陸東部上空では両者が合流して吹くため、とりわけ強い気流となる。日本上空にはほとんど常に偏西風が吹いているため、気団もこの流れに乗って移動し、日本の天気はほぼ西から東へと変化することとなる。
緯度60度から極点にかけては、極点付近の極高圧帯で冷却され下降した空気が低緯度へ向かい、亜寒帯低圧帯で上昇して極点へと向かう。この循環は極循環と呼ばれ、地上では東からの極偏東風が吹く。南極においては南極大陸の巨大な氷床が存在するため寒気が強く、さらに南極海には北半球と違って巨大な陸地が存在しないため風が和らげられず、南極海北部は絶叫する60度と呼ばれるほどの猛烈な嵐に見舞われることが多い。なお、この寒気は南極海以北にも影響を与え、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を作り出す。
このほか、決まった季節になると吹く季節風(モンスーン)も気候に大きな影響を与える。大規模な季節風は熱しやすく冷めやすい大陸と、熱しにくく冷めにくい大洋との気圧差によって生じるため、夏は大洋から大陸に、冬は大陸から海洋に向けて吹き込む。世界で最も大規模なモンスーンはアジアモンスーンと呼ばれ、インド洋から日本にかけての広い範囲に影響を及ぼし、特に夏の酷暑と湿潤をもたらす。長期間一定方向に吹く風によって海面に海流が生じることもあり、これを吹送流と呼ぶ。インド洋北部海域においては季節風が非常に強いため、季節によって海流の流れが異なり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。
また、緯度5度から25度付近の海上においては強力な低気圧が発達することがあり、これを熱帯低気圧と呼ぶ。熱帯低気圧は発生地によって名称が異なっており、北太平洋で発生したものを台風、北大西洋やカリブ海周辺で発生したものをハリケーン、インド洋や南太平洋で発生したものをサイクロンと呼ぶ。熱帯低気圧は自ら動く力を持たず、周囲を吹く風に乗って移動するため、しばしば中緯度地帯にまでやってくることがある。日本周辺においては赤道付近の偏東風と太平洋高気圧の関係により、主に7月から9月にかけて到来し、強風と豪雨によって居住地域に大きな被害をもたらす。
各地方にはそれぞれ特徴的な風が存在し、これを地方風という。
海岸付近では、日中と夜間で風向が逆転することが多く、これを海陸風という。これは、日中は暖まりやすい陸地において上昇気流が発生し、涼しい海から海風が吹き込むのに対し、夜間は熱を保った海に冷えた陸地から陸風が吹き込むために発生する。同様に、山と谷の間でも風向が逆転することがあり、これを山谷風という。山谷風の発生メカニズムも海陸風とほぼ同じで、日中は熱せられた谷の斜面から谷風が頂上へと昇るのに対し、夜間は頂上付近の冷気が谷へと下っていくことにより発生する。
湿った風が山を越え反対側に吹き下ろす場合、山を越える際に水蒸気が雲となるため潜熱が発生し、さらに雨も降るため、山脈の反対側においては乾燥した高温の風となり、山麓に猛暑をもたらすことがある。これはアルプス山脈での呼び名を取ってフェーン現象と呼ばれるが、アルプスだけでなく全世界的に発生し、日本でもこれによる高温はしばしば発生する。北アメリカ大陸においてはロッキー山脈から吹き下ろすチヌークがこれにあたる。これとは逆に、山中の盆地から寒気が山脈を越え吹き下ろす場合、山越えによっても温度が上昇しきらず、冷たく乾燥した強風となって山麓に吹くことがあり、アドリア海東岸の地方風の名を取ってボーラと呼ばれる。日本においてはこの現象は颪と呼ばれ、六甲山から吹く六甲颪などが著名である。
代表的な地方風としては上記のもののほか、日本ではからっ風、春一番、木枯らし、やませ、海外ではミストラル、エテジアン、シロッコ、ハブーブ、滑降風(カタバ風)、ブリザードなどがそれにあたる。大規模なビルの間では強い風が吹くことがあり、これをビル風という。また、風の吹いてくる方向によってそれぞれ北風、南風、東風、西風と言う呼び方が広く使われる。こうした風向別の呼称は、単に方角を付けただけではなく、その風のイメージが付加されることが多い。日本では、北風は冷たい冬の風、南風は暖かい夏の風として認識されている。
一般的に、地表は地形の影響を受けて風速が弱まり、風向も乱れが多い。上空に行くほど風速は速くなり、風向も規則的に並ぶようになる。また地表においても、遮蔽物のない海上では風は強く、摩擦の大きい陸上に入ると風は弱まる。
飛行する動物や滑空、バルーニングするものは当然風の影響が大きい。動物の場合は鳥をはじめとして、翼を利用して飛行や滑空を行うものがほとんどである。翼は風向に対して水平によけるようにして広げ、揚力を得る機構である。風のない場合でも、翼を広げて下降すれば実質的に「風」を受けて揚力を得ることができる。強い風は生物の散布に大きな影響を与えることもある。例えば日本では夏以降にカバマダラなど熱帯産のチョウが迷蝶として出現する例があるが、これは台風の風に乗って運ばれてくると言われる。植物の生殖において、風は大きな役割を果たしている。コケ植物やシダ植物は胞子を風や水で移動させ増殖する。また種子植物が花粉を媒介する方法としては風媒が最も古く、動物媒の登場後も冷帯においては単一樹種による樹林が多いことや媒介者となる動物の不足から、かなりの樹木が風媒花となっている。タンポポなどのように、風による種子散布を行うものもある。
しかし、風そのものが生物に直接に危害を与えることがある。特に寒冷地や高山では風の影響が大きい。動物は、体表に沿って体を包み込むようにまとった空気が熱を帯びて体温を保持しており、風が吹くと、その薄い空気をはがしてしまう。体温より低い風は体温を下げる働きをする。体感温度はおおよそ風速1mごとに1°C低くなると言われ、低温ではさらにその影響が大きい。
高山の尾根筋などでは非常に強く風当たりがあるので、風によって生物群集が規定される。そのような場所は風衝地と呼ばれ、そこに成立する群落を風衝群落という。そのような群落は、普通背が低く、群落の上面には葉が密生した層を作り、そこから突出する枝葉はほとんど無い。同様の森林は、海岸の風当たりの強い場所にもあり、やや背は低いが、見かけは似ている。この場合、風がもたらす線分が低温と同様の効果を与えているものである。また、樹木が伸びられる場所であっても、尾根筋などの風の強い場所では、その枝が片方だけに伸びたものが見られることがある。これは、風下にだけ枝が伸びたことによる。
風は土壌や地形そのものにも影響を及ぼす。風による土壌侵食は風食と呼ばれ、風により土壌表面の砂や土を吹き飛ばすものと、風によって飛ばされた砂の粒子が岩石を研磨するものの2つのタイプがある。砂漠地帯では特に風食が強く進み、三稜石などの風食による礫も多く存在する。こうして浮遊した粒子は風によって運搬され、やがて堆積して風成層と呼ばれる地層を形成する。風成層は風によって飛ばされてきた粒子が形成するため微細な粒子のものが多く、火山灰や黄土、砂などによるものが多い。黄土高原や関東ローム層などが主な風成層である。風によって運搬される砂塵の量は膨大なもので、例えばサハラ砂漠においては巻き上げられる砂塵の量は年間20億から30億トンにもなり、2月から4月にかけてはカリブ海や南アメリカ大陸に、6月から10月にかけてはフロリダ州などに降り注ぐ。同様に、東アジアにおいては春になるとゴビ砂漠や黄土地帯から巻き上げられた砂塵が偏西風に乗り、朝鮮半島や日本に黄砂を降らせる。
住居へ吹きこむ風を和らげる工夫として、生垣や石垣などがある。風の強い海岸地域や農村地域などでは、屋敷林や防風林を設けて風を防ぐこともある。また、冷たい強風ボーラが吹きつけるイタリアのトリエステでは、外での強風対策として手すりやロープが多数設けられている。
一方、気温が高い場合には、風をうまく利用して高温による悪影響を軽減する。人工的に風を発生させて体温を下げる扇風機や団扇・扇子などが代表的なものである。エアコンなどの空気調和設備では、気温や湿度だけではなく風(気流)の制御も重要である。室内に風を取り込み空気の流れを作って効率よく換気することで、よどんだ空気や病原菌などのリスクを下げることができる。
風車は風のエネルギーを羽根で受けて軸や歯車の機械的な回転へと変換するものであり、揚水や、小麦粉などの製粉に用いられてきた。この原理は古くから知られており、950年頃にイランの東部において製粉用の垂直軸の風車が登場した。一方、おそらくこれとは独自に、1150年頃にはヨーロッパにおいても水平軸の風車が現れた。この風車はオランダへと伝わって1407年頃に低湿地の排水に用いられるようになり、その後改良が進められてポルダーの干拓に威力を発揮した。蒸気機関の登場とともに風の動力利用は減少していったものの、エネルギーの使用量が増えてきた現代では、風力原動機を用いて風力を利用する動きが活発化している。風力発電は出力が小さく大規模発電に向かないことや、定常的な利用が難しいなどの欠点があるものの再生可能エネルギーの1つとして挙げられており、主に地球温暖化防止の観点から利用が進められている。
海上においては、風は何よりもまず移動手段に使用された。帆が風を受けて進む帆船ははるかな古代から海上交通の主役であり、すでにメソポタミア文明とインダス文明の間において帆船による海上交易は行われていた。一方、オセアニアにおいては紀元前13世紀ごろからポリネシア人が帆船外洋航海によって島々の植民を進め、6世紀頃にはポリネシア東端のイースター島にまで植民している。ヨーロッパにおいても帆船の改良が進み、15世紀に入ると遠洋航海に適したキャラック船が開発されて、同時期の航海術の発展とともに15世紀末からの大航海時代へとつながっていった。その後も帆船は発展をつづけ、19世紀に入り蒸気船が出現してもしばらくの間は蒸気船をしのぐ性能を誇り、1860年代にはクリッパー(快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達した。その後は蒸気船の性能向上によって帆船は姿を消していったが、現在では純帆船はほとんど使用されていないものの、ヨットなどの小型・スポーツ用船舶においては今なお使用されている。
風を使って人はスポーツをしたり、遊んだりする。あまり一般的ではないが風を利用したスポーツを「ウインドスポーツ(windsport)」という。ウインドスポーツには、セーリング(ヨット)、ウィンドサーフィン、カイトサーフィン、ハンググライダー、パラグライダー、スポーツカイト、凧(凧上げ)、ランドセーリング、アイスヨット(ice yachting)、スノーカイト、カイトバギー(kite buggy)、パラセーリング(parasailing)、気球(熱気球)などがある。ウインドスポーツは空を飛ぶもの(気球、パラグライダー、ハンググライダー、凧など)と海の上を進むもの(ヨット、ウィンドサーフィンなど)が多い。こうしたウインドスポーツの器具は自前の推進力を持たず、風を利用することではじめて行うことができる。熱気球は下からバーナーで空気を熱することによって浮揚することはできるが、推進力を持たないために上昇と降下しかできず、そのため高度を調節して風を捕まえることではじめて水平方向に移動することができる。
ウインドスポーツに含めることは少ないが、軽飛行機も風を利用した部分がある。超軽量動力機など軽量のものはなおさらである。
それ以外のスポーツにおいても、風は当然影響を与える。特に球技や投擲種目は風の影響を受けやすい。特に卓球やバドミントンは風の影響が大きすぎるため、屋内で行われる。それ以外の種目では、風にどう対処するかも技術のうちである。また、前半と後半でコートチェンジを行うのも、それに対しての公平性を求めての対処の意味が含まれる。陸上競技のうち短距離や跳躍競技においては、追い風が秒速2.0mを超える場合の記録は追い風参考として別に扱われる。
風による災害は風害と総称される。低気圧によるものが多いため水害と併発することも多く、まとめて風水害と呼ばれることがある。
風害の最も大きな原因は低気圧による強風であり、なかでも台風に代表される熱帯低気圧は非常に強い風を引き起こす。こうした強力な低気圧は海にも影響を及ぼし、海面の吸い上げによって高潮を引き起こす。海水面が高くなる高潮と異なり、高波はその名の通り波が高くなることで、低気圧による強風によって発生する。こうした高潮・高波は堤防や港湾の破壊、侵食、浸水、船の座礁を引き起こす。このほか、ダウンバーストや竜巻なども大きな被害をもたらす。竜巻は持続時間こそせいぜい1時間程度と短く被害範囲も狭いが、時速は50km程度と速い上風速は時速400kmにも達するため、進路上にある地域に甚大な被害を与える。竜巻の発生が特に多いのは北アメリカ大陸であるが、それ以外の世界各地でも発生している。
寒冷地では冬季に吹雪が吹くことがあり、視程障害(ホワイトアウト)によって交通障害などを引き起こす。砂漠における砂嵐も同様に、視程障害や呼吸困難などをもたらす。また、東北地方の太平洋側で夏に北東から吹き込むやませのように、風が冷気を呼び込んでその地方に低温と冷害をもたらすような場合もある。
他の自然災害と同様、風害の発生が予測される場合、いくつかの国では政府が警報を発表し警戒を促す。日本ではこの業務は気象庁が担当しており、警戒水準によって強風注意報、暴風警報、そして暴風特別警報の3段階が存在する。また吹雪の場合は風雪注意報と暴風雪警報が、高波の場合は波浪注意報と警報が発令される。
風は自然現象の代表的なものの1つであり、伝承や信仰において神格化されることがある。日本においては風神が例である。インド神話ではヴァーユが風の神であり、この影響を受けた仏教では天部の1人として風天が存在する。ギリシア神話ではボレアース、ノトス、ゼピュロス、エウロス(4人の総称がアネモイ)が風の神である。日本各地で伝承として伝えられている現象(妖怪)として、鎌鼬(かまいたち)がある。 | [
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"text": "緯度30度から60度にかけての中緯度地方では、今度は亜熱帯高圧帯で下降した空気が北上し、北緯60度付近の亜寒帯低圧帯で上昇して低緯度へと向かう。この循環はフェレル循環と呼ばれ、地上付近で高緯度へ向かう風は常に西から吹くため偏西風と呼ばれる。中緯度地帯の対流圏上層には非常に速い偏西風の気流が存在し、これをジェット気流と呼ぶ。ジェット気流は北緯30度付近を中心に吹く亜熱帯ジェット気流と北緯40度付近に吹く寒帯ジェット気流の2本が存在し、それぞれ前者がハドレー循環とフェレル循環、後者がフェレル循環と極循環の境界に吹くが、特に寒帯ジェット気流は蛇行しやすく、冬の日本上空や北アメリカ大陸東部上空では両者が合流して吹くため、とりわけ強い気流となる。日本上空にはほとんど常に偏西風が吹いているため、気団もこの流れに乗って移動し、日本の天気はほぼ西から東へと変化することとなる。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "緯度60度から極点にかけては、極点付近の極高圧帯で冷却され下降した空気が低緯度へ向かい、亜寒帯低圧帯で上昇して極点へと向かう。この循環は極循環と呼ばれ、地上では東からの極偏東風が吹く。南極においては南極大陸の巨大な氷床が存在するため寒気が強く、さらに南極海には北半球と違って巨大な陸地が存在しないため風が和らげられず、南極海北部は絶叫する60度と呼ばれるほどの猛烈な嵐に見舞われることが多い。なお、この寒気は南極海以北にも影響を与え、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を作り出す。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このほか、決まった季節になると吹く季節風(モンスーン)も気候に大きな影響を与える。大規模な季節風は熱しやすく冷めやすい大陸と、熱しにくく冷めにくい大洋との気圧差によって生じるため、夏は大洋から大陸に、冬は大陸から海洋に向けて吹き込む。世界で最も大規模なモンスーンはアジアモンスーンと呼ばれ、インド洋から日本にかけての広い範囲に影響を及ぼし、特に夏の酷暑と湿潤をもたらす。長期間一定方向に吹く風によって海面に海流が生じることもあり、これを吹送流と呼ぶ。インド洋北部海域においては季節風が非常に強いため、季節によって海流の流れが異なり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、緯度5度から25度付近の海上においては強力な低気圧が発達することがあり、これを熱帯低気圧と呼ぶ。熱帯低気圧は発生地によって名称が異なっており、北太平洋で発生したものを台風、北大西洋やカリブ海周辺で発生したものをハリケーン、インド洋や南太平洋で発生したものをサイクロンと呼ぶ。熱帯低気圧は自ら動く力を持たず、周囲を吹く風に乗って移動するため、しばしば中緯度地帯にまでやってくることがある。日本周辺においては赤道付近の偏東風と太平洋高気圧の関係により、主に7月から9月にかけて到来し、強風と豪雨によって居住地域に大きな被害をもたらす。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "各地方にはそれぞれ特徴的な風が存在し、これを地方風という。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "海岸付近では、日中と夜間で風向が逆転することが多く、これを海陸風という。これは、日中は暖まりやすい陸地において上昇気流が発生し、涼しい海から海風が吹き込むのに対し、夜間は熱を保った海に冷えた陸地から陸風が吹き込むために発生する。同様に、山と谷の間でも風向が逆転することがあり、これを山谷風という。山谷風の発生メカニズムも海陸風とほぼ同じで、日中は熱せられた谷の斜面から谷風が頂上へと昇るのに対し、夜間は頂上付近の冷気が谷へと下っていくことにより発生する。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "湿った風が山を越え反対側に吹き下ろす場合、山を越える際に水蒸気が雲となるため潜熱が発生し、さらに雨も降るため、山脈の反対側においては乾燥した高温の風となり、山麓に猛暑をもたらすことがある。これはアルプス山脈での呼び名を取ってフェーン現象と呼ばれるが、アルプスだけでなく全世界的に発生し、日本でもこれによる高温はしばしば発生する。北アメリカ大陸においてはロッキー山脈から吹き下ろすチヌークがこれにあたる。これとは逆に、山中の盆地から寒気が山脈を越え吹き下ろす場合、山越えによっても温度が上昇しきらず、冷たく乾燥した強風となって山麓に吹くことがあり、アドリア海東岸の地方風の名を取ってボーラと呼ばれる。日本においてはこの現象は颪と呼ばれ、六甲山から吹く六甲颪などが著名である。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "代表的な地方風としては上記のもののほか、日本ではからっ風、春一番、木枯らし、やませ、海外ではミストラル、エテジアン、シロッコ、ハブーブ、滑降風(カタバ風)、ブリザードなどがそれにあたる。大規模なビルの間では強い風が吹くことがあり、これをビル風という。また、風の吹いてくる方向によってそれぞれ北風、南風、東風、西風と言う呼び方が広く使われる。こうした風向別の呼称は、単に方角を付けただけではなく、その風のイメージが付加されることが多い。日本では、北風は冷たい冬の風、南風は暖かい夏の風として認識されている。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一般的に、地表は地形の影響を受けて風速が弱まり、風向も乱れが多い。上空に行くほど風速は速くなり、風向も規則的に並ぶようになる。また地表においても、遮蔽物のない海上では風は強く、摩擦の大きい陸上に入ると風は弱まる。",
"title": "風と気候"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "飛行する動物や滑空、バルーニングするものは当然風の影響が大きい。動物の場合は鳥をはじめとして、翼を利用して飛行や滑空を行うものがほとんどである。翼は風向に対して水平によけるようにして広げ、揚力を得る機構である。風のない場合でも、翼を広げて下降すれば実質的に「風」を受けて揚力を得ることができる。強い風は生物の散布に大きな影響を与えることもある。例えば日本では夏以降にカバマダラなど熱帯産のチョウが迷蝶として出現する例があるが、これは台風の風に乗って運ばれてくると言われる。植物の生殖において、風は大きな役割を果たしている。コケ植物やシダ植物は胞子を風や水で移動させ増殖する。また種子植物が花粉を媒介する方法としては風媒が最も古く、動物媒の登場後も冷帯においては単一樹種による樹林が多いことや媒介者となる動物の不足から、かなりの樹木が風媒花となっている。タンポポなどのように、風による種子散布を行うものもある。",
"title": "自然界への影響"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかし、風そのものが生物に直接に危害を与えることがある。特に寒冷地や高山では風の影響が大きい。動物は、体表に沿って体を包み込むようにまとった空気が熱を帯びて体温を保持しており、風が吹くと、その薄い空気をはがしてしまう。体温より低い風は体温を下げる働きをする。体感温度はおおよそ風速1mごとに1°C低くなると言われ、低温ではさらにその影響が大きい。",
"title": "自然界への影響"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "高山の尾根筋などでは非常に強く風当たりがあるので、風によって生物群集が規定される。そのような場所は風衝地と呼ばれ、そこに成立する群落を風衝群落という。そのような群落は、普通背が低く、群落の上面には葉が密生した層を作り、そこから突出する枝葉はほとんど無い。同様の森林は、海岸の風当たりの強い場所にもあり、やや背は低いが、見かけは似ている。この場合、風がもたらす線分が低温と同様の効果を与えているものである。また、樹木が伸びられる場所であっても、尾根筋などの風の強い場所では、その枝が片方だけに伸びたものが見られることがある。これは、風下にだけ枝が伸びたことによる。",
"title": "自然界への影響"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "風は土壌や地形そのものにも影響を及ぼす。風による土壌侵食は風食と呼ばれ、風により土壌表面の砂や土を吹き飛ばすものと、風によって飛ばされた砂の粒子が岩石を研磨するものの2つのタイプがある。砂漠地帯では特に風食が強く進み、三稜石などの風食による礫も多く存在する。こうして浮遊した粒子は風によって運搬され、やがて堆積して風成層と呼ばれる地層を形成する。風成層は風によって飛ばされてきた粒子が形成するため微細な粒子のものが多く、火山灰や黄土、砂などによるものが多い。黄土高原や関東ローム層などが主な風成層である。風によって運搬される砂塵の量は膨大なもので、例えばサハラ砂漠においては巻き上げられる砂塵の量は年間20億から30億トンにもなり、2月から4月にかけてはカリブ海や南アメリカ大陸に、6月から10月にかけてはフロリダ州などに降り注ぐ。同様に、東アジアにおいては春になるとゴビ砂漠や黄土地帯から巻き上げられた砂塵が偏西風に乗り、朝鮮半島や日本に黄砂を降らせる。",
"title": "自然界への影響"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "住居へ吹きこむ風を和らげる工夫として、生垣や石垣などがある。風の強い海岸地域や農村地域などでは、屋敷林や防風林を設けて風を防ぐこともある。また、冷たい強風ボーラが吹きつけるイタリアのトリエステでは、外での強風対策として手すりやロープが多数設けられている。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一方、気温が高い場合には、風をうまく利用して高温による悪影響を軽減する。人工的に風を発生させて体温を下げる扇風機や団扇・扇子などが代表的なものである。エアコンなどの空気調和設備では、気温や湿度だけではなく風(気流)の制御も重要である。室内に風を取り込み空気の流れを作って効率よく換気することで、よどんだ空気や病原菌などのリスクを下げることができる。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "風車は風のエネルギーを羽根で受けて軸や歯車の機械的な回転へと変換するものであり、揚水や、小麦粉などの製粉に用いられてきた。この原理は古くから知られており、950年頃にイランの東部において製粉用の垂直軸の風車が登場した。一方、おそらくこれとは独自に、1150年頃にはヨーロッパにおいても水平軸の風車が現れた。この風車はオランダへと伝わって1407年頃に低湿地の排水に用いられるようになり、その後改良が進められてポルダーの干拓に威力を発揮した。蒸気機関の登場とともに風の動力利用は減少していったものの、エネルギーの使用量が増えてきた現代では、風力原動機を用いて風力を利用する動きが活発化している。風力発電は出力が小さく大規模発電に向かないことや、定常的な利用が難しいなどの欠点があるものの再生可能エネルギーの1つとして挙げられており、主に地球温暖化防止の観点から利用が進められている。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "海上においては、風は何よりもまず移動手段に使用された。帆が風を受けて進む帆船ははるかな古代から海上交通の主役であり、すでにメソポタミア文明とインダス文明の間において帆船による海上交易は行われていた。一方、オセアニアにおいては紀元前13世紀ごろからポリネシア人が帆船外洋航海によって島々の植民を進め、6世紀頃にはポリネシア東端のイースター島にまで植民している。ヨーロッパにおいても帆船の改良が進み、15世紀に入ると遠洋航海に適したキャラック船が開発されて、同時期の航海術の発展とともに15世紀末からの大航海時代へとつながっていった。その後も帆船は発展をつづけ、19世紀に入り蒸気船が出現してもしばらくの間は蒸気船をしのぐ性能を誇り、1860年代にはクリッパー(快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達した。その後は蒸気船の性能向上によって帆船は姿を消していったが、現在では純帆船はほとんど使用されていないものの、ヨットなどの小型・スポーツ用船舶においては今なお使用されている。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "風を使って人はスポーツをしたり、遊んだりする。あまり一般的ではないが風を利用したスポーツを「ウインドスポーツ(windsport)」という。ウインドスポーツには、セーリング(ヨット)、ウィンドサーフィン、カイトサーフィン、ハンググライダー、パラグライダー、スポーツカイト、凧(凧上げ)、ランドセーリング、アイスヨット(ice yachting)、スノーカイト、カイトバギー(kite buggy)、パラセーリング(parasailing)、気球(熱気球)などがある。ウインドスポーツは空を飛ぶもの(気球、パラグライダー、ハンググライダー、凧など)と海の上を進むもの(ヨット、ウィンドサーフィンなど)が多い。こうしたウインドスポーツの器具は自前の推進力を持たず、風を利用することではじめて行うことができる。熱気球は下からバーナーで空気を熱することによって浮揚することはできるが、推進力を持たないために上昇と降下しかできず、そのため高度を調節して風を捕まえることではじめて水平方向に移動することができる。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ウインドスポーツに含めることは少ないが、軽飛行機も風を利用した部分がある。超軽量動力機など軽量のものはなおさらである。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "それ以外のスポーツにおいても、風は当然影響を与える。特に球技や投擲種目は風の影響を受けやすい。特に卓球やバドミントンは風の影響が大きすぎるため、屋内で行われる。それ以外の種目では、風にどう対処するかも技術のうちである。また、前半と後半でコートチェンジを行うのも、それに対しての公平性を求めての対処の意味が含まれる。陸上競技のうち短距離や跳躍競技においては、追い風が秒速2.0mを超える場合の記録は追い風参考として別に扱われる。",
"title": "風の利用と制御"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "風による災害は風害と総称される。低気圧によるものが多いため水害と併発することも多く、まとめて風水害と呼ばれることがある。",
"title": "風害"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "風害の最も大きな原因は低気圧による強風であり、なかでも台風に代表される熱帯低気圧は非常に強い風を引き起こす。こうした強力な低気圧は海にも影響を及ぼし、海面の吸い上げによって高潮を引き起こす。海水面が高くなる高潮と異なり、高波はその名の通り波が高くなることで、低気圧による強風によって発生する。こうした高潮・高波は堤防や港湾の破壊、侵食、浸水、船の座礁を引き起こす。このほか、ダウンバーストや竜巻なども大きな被害をもたらす。竜巻は持続時間こそせいぜい1時間程度と短く被害範囲も狭いが、時速は50km程度と速い上風速は時速400kmにも達するため、進路上にある地域に甚大な被害を与える。竜巻の発生が特に多いのは北アメリカ大陸であるが、それ以外の世界各地でも発生している。",
"title": "風害"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "寒冷地では冬季に吹雪が吹くことがあり、視程障害(ホワイトアウト)によって交通障害などを引き起こす。砂漠における砂嵐も同様に、視程障害や呼吸困難などをもたらす。また、東北地方の太平洋側で夏に北東から吹き込むやませのように、風が冷気を呼び込んでその地方に低温と冷害をもたらすような場合もある。",
"title": "風害"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "他の自然災害と同様、風害の発生が予測される場合、いくつかの国では政府が警報を発表し警戒を促す。日本ではこの業務は気象庁が担当しており、警戒水準によって強風注意報、暴風警報、そして暴風特別警報の3段階が存在する。また吹雪の場合は風雪注意報と暴風雪警報が、高波の場合は波浪注意報と警報が発令される。",
"title": "風害"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "風は自然現象の代表的なものの1つであり、伝承や信仰において神格化されることがある。日本においては風神が例である。インド神話ではヴァーユが風の神であり、この影響を受けた仏教では天部の1人として風天が存在する。ギリシア神話ではボレアース、ノトス、ゼピュロス、エウロス(4人の総称がアネモイ)が風の神である。日本各地で伝承として伝えられている現象(妖怪)として、鎌鼬(かまいたち)がある。",
"title": "神話と風"
}
] | 風(かぜ)とは、空気の流れのこと、流れる空気自体のこと、またはそれによる現象(ビル風など)のことである。 | {{Otheruses}}
{{出典の明記|date=2018年8月}}
[[ファイル:Tuuli.jpeg|thumb|300px|風になびく樹木]]
[[ファイル:Lake Manapouri 01.jpg|thumb|200px]]
'''風'''(かぜ)とは、[[空気]]の[[流れ]]のこと、流れる空気自体のこと、またはそれによる[[現象]]([[ビル風]]など)のことである。
== 「風」という言葉の意味 ==
現代では「[[気流]]」が[[類義語]]にあたる<ref>出典:[[広辞苑]]</ref>。「風」に対して、風が全くない無風状態のことを「[[凪]](なぎ)」という。
また、古来、風という言葉は眼に見えないものを象徴するためにも使われる。[[日本語]]でも意味深い言葉であるが、日本語以外では例えば[[ヘブライ語]]で風に相当し、[[龍]]の発音に似る「Ru(巻き舌)ah」という言葉は深い意味を持っている。(→[[聖霊]]、[[霊性]]の項に説明あり)
空気全体の動きということで、全体的な雰囲気の方向のような意味で「風」という言葉が使われる例が多い。[[選挙]]において「[[無党派]]の風が吹いた」とか、「[[逆風]]が強かった」などという。また、[[芸術]]や[[ファッション]]などにおいて○○風(ふう)というのもこれに近い。
== 気象学的説明 ==
[[ファイル:Anemometer.jpg|thumb|160px|風杯型風速計]]
[[ファイル:Santa Ana winds - satellite image.jpg|thumb|160px|風を受けて流される森林火災の煙、アメリカカリフォルニア州]]
[[ファイル:Anemoscopi.JPG|thumb|160px|[[吹流し]]。風の吹いていく方向に流れている。]]
現代の[[気象学]]においては「風」とは、地球上の[[大気]]の流れを意味している。厳密には、地面に対して水平方向の流れ(水平風)のみを指し、垂直方向の流れ(鉛直風)は[[上昇気流]]または[[下降気流]]というが<ref name="ReferenceA">「百万人の天気教室 5訂版」p13 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>、一般的には分けないことが多い。ただ、日常において風は水平方向に吹くことが多いため、風といえば普通は水平方向の風を指す。
=== 風の要素 ===
風は、[[風向]]と[[風速]]の2つの要素に分解してとらえることが可能である<ref name="ReferenceA"/>。
風向は、0度から360度までの[[方位]]で表されるが、通常は16方位で表す<ref name="ReferenceA"/>。風向に関してはしばしば勘違いが起こるが、風が吹いてくる方向のことを指す<ref name="ReferenceA"/>。たとえば「北東の風」は北東から吹いてくる風のことで、観測者を中心に見ると北東から南西に向かって吹く風を示す。
風速は、日本では秒速 ([[メートル毎秒|m/s]]) で表すのが普通であるが、国際的にはしばしば[[ノット]] (kt) がよく用いられる。また、風速は[[ビューフォート風力階級]]によって0から12の13段階に分類された「[[風力]]」として表現されることがある<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p54-56 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。風向や風速は[[風速計|風向風速計]]によって観測する。風速計には風杯型や風車型などいくつかの型が存在する<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p53 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。
気象学上風を[[物理量]]として扱わなければならない場合は、この2要素を用いる。ただ、これは風が水平方向にしか吹かないと仮定した場合の表現であり、垂直方向の風は表現できない。垂直方向の風を表現する際は、[[プリミティブ方程式#プリミティブ方程式の変数|鉛直p速度]]というものを用いる。
=== 原因 ===
[[物理学]]的には、場所による[[気圧]]の不均一を解消しようとして発生するのが風だと解釈できる<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p21-22 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。気象学では、「風は'''[[気圧傾度力]]'''によって発生する」と表現する<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p15 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。
気圧の不均一や気圧傾度力が生まれる根本的な原因は、地球上において、場所によって[[太陽]]エネルギーの分布(≒温度)が異なるためである<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p411-412 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。日光の当たり具合や地表の温まりやすさの違いが、島や大陸といった巨大なスケールで存在すると、気圧が不均一になり、数千km規模の[[高気圧]]・[[低気圧]]が生まれる。高気圧からは風が吹き出し、低気圧には風が吹き込む<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p19-20 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。高気圧から低気圧へと流れる空気が、「風」の主因となる。
気圧の不均一・気圧傾度力が大きいほど、風は強くなる。[[天気図]]で言うと、[[等圧線]]の間隔が狭いほど風は強い。ただ、高気圧・低気圧の風は長い距離を流れるため、[[コリオリの力]]や[[遠心力]]を受けて[[回転]]を伴う風となる。これを[[地衡風]]、[[傾度風]]という<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p17-19 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。風の回転を物理量として表現する際には、風向・風速では不十分なので[[渦度]]を用いる。
=== 風に作用する力 ===
[[気圧傾度力]]以外で、風に[[作用]]する力には以下のようなものがある。その場所その時の風によって、働く力や大きさは異なる。
*[[コリオリの力]](転向力) - 水平方向の大きさが数百 - 数千kmと大きな風(低気圧や高気圧に伴う風)に働く。風の方向を大きく変えるものの、風速には作用しない<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p17 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。
*地表との[[摩擦力]] - 地表付近の[[大気境界層]]を流れる風に働く。上空に行くほど小さくなり、高度約1km以上ではほとんど無視して考えてよい。([[自由大気]]層)。このため、地表面付近の風は弱く、地表からの影響が弱くなる上空の方が風速は早くなる<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p412 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。地表でも海面上では影響が弱く、陸上ではやや影響が強まり、鬱蒼とした森林の中や建物が密集したところでは強く働き、風の様子を大きく変える<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p414 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。
*風自身の回転による[[遠心力]] - [[竜巻]]や[[台風]]の中心などの場合はこの力が大きくなる。[[台風の目]]は風に働く遠心力が大き過ぎると気圧傾度力と釣り合ったところで、それ以上内側に風が入り込めなくなり、強い[[上昇気流]]となり境界をつくる現象である(一方で目の中は[[下降気流]]となっている)。
*地球の[[引力]](重力) - 重力は、[[密度]]が高く[[温度]]が低い空気ほど大きく働く。上昇気流・下降気流に関しては大きな影響力がある。水平風でも、[[重力波 (流体力学)|重力波]]の風などには大きな影響を及ぼす。重力は、裏を返せば密度の低い空気に働く[[浮力]]と考えることもできる。
=== 風の変化 ===
[[ファイル:SpectreVanDerHoven.png|thumb|left|300px|風の変化する周期をグラフ化したもの]]
風は常に変化しているが、変化の周期には傾向がある。地域差も大きいが、一般的には低気圧・高気圧の通過といった[[総観スケール]]気象による変化(約4日周期)が最も大きく、次に季節変化によるもの(1年周期)が大きい。またこれと並んで、「風の息」と呼ばれる小刻みな風向風速の変化によるもの(約1秒単位)も卓越する<ref>白木正規『百万人の天気教室 5訂版』成山堂書店、平成10年5月8日5訂版発行、53-54頁。</ref>。海陸風の影響を受ける地域では、約12時間周期の変化も卓越する。
一般的に、「強風」と呼ばれる風は、数十[[分]] - 数[[日]]間程度連続する風速の大きい風を指す。強風の大きさを表す数値としては[[最大風速]]が適している。
一方、「突風」と呼ばれる風は、数[[秒]] - 数分程度の短時間吹く風速の大きい風を指す。このような風は、強風の期間中において、気流の乱れつまり風の息によって突発的に生じるものがほとんどである。例外的に、単発的なものとして[[竜巻]]や[[ダウンバースト]]、[[積乱雲]]などの[[メソスケール]]気象(いわゆる[[局地現象]])が主因となって起こる突風もある。突風の大きさを表す数値としては[[最大瞬間風速]]が適している。
最大風速に対する最大瞬間風速の比を突風率といい、場所ごとに固有の値をとる。普通は1.5から2.0前後となる。天気予報では、強風被害が考えられる場合でも主に最大風速が予想されるので、これに突風率をかけた値の最大瞬間風速が吹きうると考えて、強風対策に役立てる。突風率が場所ごとに固有の値をとるのは、建物や樹木、地形の影響<ref>地形等の影響とは、風の中に物体があると[[カルマン渦]]という乱流が生じるが、不特定多数の障害物によって複雑な乱流が生じて、突発的に風速が増すことである。</ref> により風の息が異なるためである。
== 風と気候 ==
[[File:Atmospheric circulation ja.png|thumb|240px|地球の大気循環のモデル]]
風は気候に大きな影響を与えており、風系を基本とした[[フローンの気候区分]]という[[気候区分]]も存在する。ある地域で特定の期間にもっとも頻度の高い風向の風を[[卓越風]]という。
地球上の風系は南北半球ともに3つの区分に分かれ、[[大気大循環]]によって低緯度の熱を高緯度へと輸送する役割を持っている。
赤道から緯度30度付近にかけての循環は[[ハドレー循環]]と呼ばれ、[[赤道]]付近の[[熱帯収束帯]]で空気が温められて上昇し、高緯度に向けて移動したのち、緯度20度から30度付近の[[亜熱帯高圧帯]]で冷却されて下降し[[赤道]]付近に向けて移動する。この地上近くでの風は常に東から吹く[[偏東風]]となっており、[[貿易風]]と呼ばれている<ref>「海の気象がよくわかる本」p100-101 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。この循環によって、常に上昇気流が発生する赤道地方は一年中大量の降雨がある[[熱帯雨林気候]]となり、一方で常に下降気流の発生する亜熱帯高圧帯の地域は年間の降雨がほとんどない砂漠気候となっている。熱帯収束帯・亜熱帯高圧帯はともに太陽の移動に応じて南北に移動するため、上記の2地区の中間の地域に季節によって降雨をもたらし、この地域に[[サバナ気候]]および[[ステップ気候]]を形成する<ref>「気候変動で読む地球史 限界地帯の自然と植生から」p225-227 水野一晴 NHK出版 2016年8月25日第1刷</ref>。
緯度30度から60度にかけての中緯度地方では、今度は亜熱帯高圧帯で下降した空気が北上し、北緯60度付近の[[亜寒帯低圧帯]]で上昇して低緯度へと向かう。この循環は[[フェレル循環]]と呼ばれ、地上付近で高緯度へ向かう風は常に西から吹くため[[偏西風]]と呼ばれる。中緯度地帯の[[対流圏]]上層には非常に速い偏西風の気流が存在し、これを[[ジェット気流]]と呼ぶ。ジェット気流は北緯30度付近を中心に吹く亜熱帯ジェット気流と北緯40度付近に吹く寒帯ジェット気流の2本が存在し、それぞれ前者がハドレー循環とフェレル循環、後者がフェレル循環と極循環の境界に吹くが<ref>「図解 異常気象のしくみと自然災害対策術」p12 ゲリー・マッコール著 内藤典子訳 原書房 2019年7月31日第1刷</ref>、特に寒帯ジェット気流は蛇行しやすく、冬の日本上空や北アメリカ大陸東部上空では両者が合流して吹くため、とりわけ強い気流となる<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p80-82 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。日本上空にはほとんど常に偏西風が吹いているため、[[気団]]もこの流れに乗って移動し、日本の天気はほぼ西から東へと変化することとなる<ref>「海の気象がよくわかる本」p152-153 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
緯度60度から極点にかけては、極点付近の[[極高圧帯]]で冷却され下降した空気が低緯度へ向かい、亜寒帯低圧帯で上昇して極点へと向かう。この循環は[[極循環]]と呼ばれ、地上では東からの[[極偏東風]]が吹く<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p77-78 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。[[南極]]においては[[南極大陸]]の巨大な[[氷床]]が存在するため寒気が強く、さらに[[南極海]]には[[北半球]]と違って巨大な陸地が存在しないため風が和らげられず、南極海北部は[[絶叫する60度]]と呼ばれるほどの猛烈な嵐に見舞われることが多い。なお、この寒気は南極海以北にも影響を与え、[[狂う50度]]や[[吠える40度]]と呼ばれる暴風圏を作り出す<ref>「世界地理12 両極・海洋」p50 [[福井英一郎]]編 朝倉書店 昭和58年9月10日</ref>。
このほか、決まった季節になると吹く[[季節風]](モンスーン)も気候に大きな影響を与える。大規模な季節風は熱しやすく冷めやすい大陸と、熱しにくく冷めにくい大洋との気圧差によって生じるため、夏は大洋から大陸に、冬は大陸から海洋に向けて吹き込む。世界で最も大規模なモンスーンはアジアモンスーンと呼ばれ、インド洋から日本にかけての広い範囲に影響を及ぼし、特に夏の酷暑と湿潤をもたらす<ref>「海の気象がよくわかる本」p134-135 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。長期間一定方向に吹く風によって海面に[[海流]]が生じることもあり、これを吹送流と呼ぶ。インド洋北部海域においては季節風が非常に強いため、季節によって海流の流れが異なり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に[[季節風海流]]が流れる<ref>「世界地理12 両極・海洋」p267 [[福井英一郎]]編 朝倉書店 昭和58年9月10日</ref>。
また、緯度5度から25度付近の海上においては強力な低気圧が発達することがあり、これを[[熱帯低気圧]]と呼ぶ<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p106-107 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。熱帯低気圧は発生地によって名称が異なっており、北太平洋で発生したものを[[台風]]、北大西洋や[[カリブ]]海周辺で発生したものを[[ハリケーン]]、インド洋や南太平洋で発生したものを[[サイクロン]]と呼ぶ。熱帯低気圧は自ら動く力を持たず、周囲を吹く風に乗って移動するため、しばしば中緯度地帯にまでやってくることがある。日本周辺においては赤道付近の偏東風と[[太平洋高気圧]]の関係により、主に7月から9月にかけて到来し、強風と豪雨によって居住地域に大きな被害をもたらす<ref>「海の気象がよくわかる本」p120-121 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
=== それぞれの地域の風 ===
各地方にはそれぞれ特徴的な風が存在し、これを[[地方風]]という。
海岸付近では、日中と夜間で風向が逆転することが多く、これを[[海陸風]]という。これは、日中は暖まりやすい陸地において上昇気流が発生し、涼しい海から[[海風]]が吹き込むのに対し、夜間は熱を保った海に冷えた陸地から[[陸風]]が吹き込むために発生する<ref>「海の気象がよくわかる本」p128-129 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。同様に、山と谷の間でも風向が逆転することがあり、これを[[山谷風]]という。山谷風の発生メカニズムも海陸風とほぼ同じで、日中は熱せられた谷の斜面から谷風が頂上へと昇るのに対し、夜間は頂上付近の冷気が谷へと下っていくことにより発生する<ref>「海の気象がよくわかる本」p130-131 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
湿った風が山を越え反対側に吹き下ろす場合、山を越える際に水蒸気が雲となるため[[潜熱]]が発生し、さらに雨も降るため、山脈の反対側においては乾燥した高温の風となり、山麓に猛暑をもたらすことがある。これは[[アルプス山脈]]での呼び名を取って[[フェーン現象]]と呼ばれるが、アルプスだけでなく全世界的に発生し、日本でもこれによる高温はしばしば発生する<ref>「海の気象がよくわかる本」p140-141 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。北アメリカ大陸においては[[ロッキー山脈]]から吹き下ろす[[チヌーク]]がこれにあたる。これとは逆に、山中の[[盆地]]から寒気が山脈を越え吹き下ろす場合、山越えによっても温度が上昇しきらず、冷たく乾燥した強風となって山麓に吹くことがあり、[[アドリア海]]東岸の地方風の名を取って[[ボーラ]]と呼ばれる。日本においてはこの現象は[[颪]]と呼ばれ、[[六甲山]]から吹く[[六甲颪]]などが著名である<ref>「百万人の天気教室 5訂版」p121 白木正規 成山堂書店 平成10年5月8日5訂版発行</ref>。
代表的な地方風としては上記のもののほか、日本では[[からっ風]]、[[春一番]]、[[木枯らし]]、[[やませ]]、海外では[[ミストラル]]、[[エテジアン]]、[[シロッコ]]、[[ハブーブ]]、[[滑降風]](カタバ風)、[[ブリザード]]などがそれにあたる。大規模なビルの間では強い風が吹くことがあり、これを[[ビル風]]という。また、風の吹いてくる方向によってそれぞれ[[北風]]、[[南風]]、[[東風]]、[[西風]]と言う呼び方が広く使われる。こうした風向別の呼称は、単に方角を付けただけではなく、その風のイメージが付加されることが多い。日本では、北風は冷たい冬の風、南風は暖かい夏の風として認識されている。
一般的に、地表は地形の影響を受けて風速が弱まり、風向も乱れが多い。上空に行くほど風速は速くなり、風向も規則的に並ぶようになる<ref>「海の気象がよくわかる本」p124 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。また地表においても、遮蔽物のない海上では風は強く、摩擦の大きい陸上に入ると風は弱まる<ref>「海の気象がよくわかる本」p126-127 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
== 自然界への影響 ==
[[ファイル:Wind-blown tree Ka Lae Hawaii.jpg|thumb|left|200px|強風にさらされ続けて風下に偏って成長した木、ハワイ Ka Laeにて]]
[[ファイル:Fallen tree in Gandia, Spain.jpg|thumb|200px|強風の被害]]
[[飛行]]する動物や[[滑空]]、[[バルーニング]]するものは当然風の影響が大きい。動物の場合は[[鳥類|鳥]]をはじめとして、[[翼]]を利用して飛行や滑空を行うものがほとんどである。翼は風向に対して水平によけるようにして広げ、[[揚力]]を得る機構である。風のない場合でも、翼を広げて下降すれば実質的に「風」を受けて揚力を得ることができる。強い風は生物の散布に大きな影響を与えることもある。例えば日本では夏以降に[[カバマダラ]]など熱帯産のチョウが[[迷蝶]]として出現する例があるが、これは[[台風]]の風に乗って運ばれてくると言われる。[[植物]]の生殖において、風は大きな役割を果たしている。[[コケ植物]]や[[シダ植物]]は[[胞子]]を風や水で移動させ増殖する。また[[種子植物]]が[[花粉]]を媒介する方法としては風媒が最も古く、動物媒の登場後も[[亜寒帯|冷帯]]においては単一樹種による樹林が多いことや媒介者となる動物の不足から、かなりの樹木が[[風媒花]]となっている<ref>「樹木学」p117 ピーター・トーマス 築地書館 2001年7月30日初版発行</ref>。[[タンポポ]]などのように、風による[[種子散布]]を行うものもある。
しかし、風そのものが生物に直接に危害を与えることがある。特に[[寒冷地]]や高[[山]]では風の影響が大きい。動物は、体表に沿って体を包み込むようにまとった空気が熱を帯びて[[体温]]を保持しており、風が吹くと、その薄い空気をはがしてしまう。体温より低い風は体温を下げる働きをする。[[体感温度]]はおおよそ風速1mごとに1℃低くなると言われ<ref>{{Cite web|和書
| url = http://weathernews.jp/s/topics/201610/210065/
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20170913230805/http://weathernews.jp/s/topics/201610/210065/
| title = これからの時期は特に注意!風と寒さの関係
| publisher = [[ウェザーニューズ]]
| date = 2016-11-9
| accessdate = 2017-9-13
| archivedate = 2017-9-13
| deadlinkdate = 2019-6-30
}}</ref>、低温ではさらにその影響が大きい。
[[高山]]の[[尾根]]筋などでは非常に強く風当たりがあるので、風によって[[生物群集]]が規定される。そのような場所は[[風衝地]]と呼ばれ、そこに成立する群落を風衝群落という。そのような群落は、普通背が低く、群落の上面には[[葉]]が密生した層を作り、そこから突出する[[枝]]葉はほとんど無い。同様の[[森林]]は、[[海岸]]の風当たりの強い場所にもあり、やや背は低いが、見かけは似ている。この場合、風がもたらす線分が低温と同様の効果を与えているものである。また、[[樹木]]が伸びられる場所であっても、尾根筋などの風の強い場所では、その枝が片方だけに伸びたものが見られることがある。これは、風下にだけ枝が伸びたことによる。
風は土壌や地形そのものにも影響を及ぼす。風による[[土壌侵食]]は[[風食]]と呼ばれ、風により土壌表面の砂や土を吹き飛ばすものと、風によって飛ばされた砂の粒子が岩石を研磨するものの2つのタイプがある<ref>「基礎地球科学 第2版」p126 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。[[砂漠]]地帯では特に風食が強く進み、[[三稜石]]などの風食による礫も多く存在する<ref>「乾燥地の自然」(乾燥地科学シリーズ2)p49 古今書院 篠田雅人編 2009年3月31日初版第1刷</ref>。こうして浮遊した粒子は風によって運搬され、やがて堆積して風成層と呼ばれる[[地層]]を形成する。風成層は風によって飛ばされてきた粒子が形成するため微細な粒子のものが多く、[[火山灰]]や[[黄土]]、砂などによるものが多い<ref>「基礎地球科学 第2版」p128 西村祐二郞編著 朝倉書店 2010年11月30日第2版第1刷</ref>。[[黄土高原]]や[[関東ローム層]]などが主な風成層である。風によって運搬される砂塵の量は膨大なもので、例えば[[サハラ砂漠]]においては巻き上げられる砂塵の量は年間20億から30億トンにもなり、2月から4月にかけては[[カリブ海]]や[[南アメリカ大陸]]に、6月から10月にかけては[[フロリダ州]]などに降り注ぐ<ref>「キリマンジャロの雪が消えていく―アフリカ環境報告」p158 [[石弘之]](岩波新書、2009)</ref>。同様に、東アジアにおいては春になると[[ゴビ砂漠]]や黄土地帯から巻き上げられた[[風塵|砂塵]]が偏西風に乗り、朝鮮半島や日本に[[黄砂]]を降らせる<ref>「海の気象がよくわかる本」p204-205 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
== 風の利用と制御 ==
[[ファイル:Bredevoort 003.jpg|thumb|200px|風車。伝統的な[[オランダ]]の風車は有名。]]
[[ファイル:Tauernwindpark.jpg|thumb|200px|風力発電]]
[[ファイル:Freiheitu.jpg|thumb|200px|風をとらえて進む[[ヨット]]]]
=== 生活 ===
[[住居]]へ吹きこむ風を和らげる工夫として、[[生垣]]や[[石垣]]などがある。風の強い海岸地域や農村地域などでは、[[屋敷林]]や[[防風林]]を設けて風を防ぐこともある<ref>「植物気候学」p15-23 福岡義隆編 古今書院 2010年3月10日初版第1刷発行</ref>。また、冷たい強風[[ボーラ]]が吹きつける[[イタリア]]の[[トリエステ]]では、外での強風対策として[[手すり]]や[[ロープ]]が多数設けられている。
一方、気温が高い場合には、風をうまく利用して高温による悪影響を軽減する。人工的に風を発生させて体温を下げる[[扇風機]]や[[団扇]]・[[扇子]]などが代表的なものである。[[エアコン]]などの[[空気調和設備]]では、[[気温]]や[[湿度]]だけではなく風(気流)の制御も重要である。室内に風を取り込み空気の流れを作って効率よく[[換気]]することで、よどんだ空気や病原菌などのリスクを下げることができる<ref>https://www.ykkap.co.jp/info/ventilation/ 「窓がポイント! 住まいのじょうずな換気方法」YKKAP 2020年8月11日閲覧</ref>。
=== 動力 ===
[[風車]]は風のエネルギーを[[羽根]]で受けて[[軸]]や[[歯車]]の[[機械]]的な回転へと変換するものであり、揚水や、[[小麦粉]]などの[[製粉]]に用いられてきた。この原理は古くから知られており、950年頃に[[イラン]]の東部において製粉用の垂直軸の風車が登場した<ref>『世界文明における技術の千年史 「生存の技術」との対話に向けて』p34 アーノルド・パーシー 林武監訳、東玲子訳、新評論、2001年6月。ISBN 978-4-7948-0522-5</ref>。一方、おそらくこれとは独自に、1150年頃にはヨーロッパにおいても水平軸の風車が現れた<ref>『世界文明における技術の千年史 「生存の技術」との対話に向けて』p88 アーノルド・パーシー 林武監訳、東玲子訳、新評論、2001年6月。ISBN 978-4-7948-0522-5</ref>。この風車は[[オランダ]]へと伝わって1407年頃に低湿地の排水に用いられるようになり<ref>『図説 オランダの歴史』p12 佐藤弘幸 河出書房新社、2012年4月30日初版発行</ref>、その後改良が進められて[[ポルダー]]の[[干拓]]に威力を発揮した<ref>『図説 オランダの歴史』p12-15 佐藤弘幸 河出書房新社、2012年4月30日初版発行</ref>。[[蒸気機関]]の登場とともに風の動力利用は減少していったものの<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p420 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>、[[エネルギー]]の使用量が増えてきた現代では、[[風力原動機]]を用いて[[風力]]を利用する動きが活発化している。[[風力発電]]は出力が小さく大規模発電に向かないことや、定常的な利用が難しいなどの欠点があるものの[[再生可能エネルギー]]の1つとして挙げられており、主に[[地球温暖化]]防止の観点から利用が進められている<ref>「トコトンやさしいエネルギーの本 第2版」(今日からモノ知りシリーズ)p78 山﨑耕造 日刊工業新聞社 2016年4月25日第2版第1刷</ref>。
=== 交通 ===
海上においては、風は何よりもまず移動手段に使用された。[[帆]]が風を受けて進む[[帆船]]ははるかな古代から海上交通の主役であり、すでに[[メソポタミア文明]]と[[インダス文明]]の間において帆船による海上交易は行われていた<ref>「海を渡った人類の遙かな歴史 古代海洋民の航海」p222 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出文庫 2018年2月20日初版</ref>。一方、[[オセアニア]]においては紀元前13世紀ごろから[[ポリネシア人]]が帆船外洋航海によって島々の植民を進め、6世紀頃には[[ポリネシア]]東端の[[イースター島]]にまで植民している<ref>「南太平洋を知るための58章 メラネシア ポリネシア」p52-54 吉岡政徳・石森大知編著 明石書店 2010年9月25日初版第1刷</ref>。ヨーロッパにおいても帆船の改良が進み、15世紀に入ると遠洋航海に適した[[キャラック船]]が開発されて<ref>「大帆船時代 快速帆船クリッパー物語」p203 杉浦昭典 中公新書 昭和54年6月25日発行</ref>、同時期の[[航海術]]の発展とともに15世紀末からの[[大航海時代]]へとつながっていった。その後も帆船は発展をつづけ、[[19世紀]]に入り[[蒸気船]]が出現してもしばらくの間は蒸気船をしのぐ性能を誇り、1860年代には[[クリッパー (船)|クリッパー]](快速帆船)によって帆船の発展は頂点に達した<ref>「大帆船時代 快速帆船クリッパー物語」p4 杉浦昭典 中公新書 昭和54年6月25日発行</ref>。その後は蒸気船の性能向上によって帆船は姿を消していったが、現在では純帆船はほとんど使用されていないものの、[[ヨット]]などの小型・スポーツ用船舶においては今なお使用されている。
=== 風を利用したスポーツ ===
風を使って人はスポーツをしたり、遊んだりする。あまり一般的ではないが風を利用したスポーツを「[[ウインドスポーツ]]([[:en:windsport|windsport]])」という。ウインドスポーツには、[[セーリング]]([[ヨット]])、[[ウィンドサーフィン]]、[[カイトサーフィン]]、[[ハンググライダー]]、[[パラグライダー]]、[[スポーツカイト]]、[[凧]](凧上げ)、[[ランドセーリング]]、[[アイスヨット]]([[:en:ice yachting|ice yachting]])、[[スノーカイト]]、[[カイトバギー]]([[:en:kite buggy|kite buggy]])、[[パラセーリング]]([[:en:parasailing|parasailing]])、[[気球]]([[熱気球]])などがある。ウインドスポーツは空を飛ぶもの(気球、パラグライダー、ハンググライダー、凧など)と海の上を進むもの(ヨット、ウィンドサーフィンなど)が多い。こうしたウインドスポーツの器具は自前の推進力を持たず、風を利用することではじめて行うことができる。熱気球は下から[[バーナー]]で空気を熱することによって浮揚することはできるが、推進力を持たないために上昇と降下しかできず、そのため高度を調節して風を捕まえることではじめて水平方向に移動することができる<ref>http://www.jballoon.jp/faq.html#_02 「おしえて!バルーンQ&A」一般社団法人日本気球連盟 2008年 2020年3月31日閲覧</ref>。
ウインドスポーツに含めることは少ないが、[[軽飛行機]]も風を利用した部分がある。[[超軽量動力機]]など軽量のものはなおさらである。
それ以外のスポーツにおいても、風は当然影響を与える。特に[[球技]]や[[投擲種目]]は風の影響を受けやすい。特に[[卓球]]や[[バドミントン]]は風の影響が大きすぎるため、屋内で行われる。それ以外の種目では、風にどう対処するかも技術のうちである。また、前半と後半で[[コートチェンジ]]を行うのも、それに対しての公平性を求めての対処の意味が含まれる。[[陸上競技]]のうち短距離や跳躍競技においては、追い風が秒速2.0mを超える場合の記録は[[追い風参考]]として別に扱われる<ref>https://www.jaaf.or.jp/guide/ 「陸上競技ガイド」日本陸上競技連盟公式サイト 2020年3月31日閲覧</ref>。
== 風害 ==
風による災害は[[風害]]と総称される。低気圧によるものが多いため[[水害]]と併発することも多く、まとめて[[風水害]]と呼ばれることがある。
風害の最も大きな原因は低気圧による強風であり、なかでも[[台風]]に代表される[[熱帯低気圧]]は非常に強い風を引き起こす。こうした強力な低気圧は海にも影響を及ぼし、海面の吸い上げによって[[高潮]]を引き起こす。海水面が高くなる高潮と異なり、高波はその名の通り[[波]]が高くなることで、低気圧による強風によって発生する<ref>https://www.kodomonokagaku.com/hatena/?989d10945af54bad03babf0b28945a40 「高波、津波、高潮はどう違う?」子供の科学 誠文堂新光社 2020年3月27日閲覧</ref>。こうした高潮・高波は[[堤防]]や[[港湾]]の破壊、[[侵食]]、[[水害|浸水]]、船の[[座礁]]を引き起こす<ref>https://www.mlit.go.jp/river/kaigan/main/kaigandukuri/takashiobousai/02/index.html 「高潮は恐ろしいの?」日本国国土交通省 2020年3月23日閲覧</ref>。このほか、[[ダウンバースト]]や[[竜巻]]なども大きな被害をもたらす。竜巻は持続時間こそせいぜい1時間程度と短く被害範囲も狭いが、時速は50km程度と速い上風速は時速400kmにも達するため、進路上にある地域に甚大な被害を与える<ref>「図解 異常気象のしくみと自然災害対策術」p89 ゲリー・マッコール著 内藤典子訳 原書房 2019年7月31日第1刷</ref>。竜巻の発生が特に多いのは[[北アメリカ大陸]]であるが、それ以外の世界各地でも発生している。
寒冷地では冬季に[[吹雪]]が吹くことがあり、視程障害([[ホワイトアウト]])によって交通障害などを引き起こす<ref>https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h27/81/special_01.html 「特集 大雪への備え~雪害では、どのような災害が起こるのか」(平成27年度 広報誌「ぼうさい」冬号(第81号))日本国内閣府 2020年3月31日閲覧</ref>。砂漠における[[砂嵐]]も同様に、視程障害や呼吸困難などをもたらす。また、[[東北地方]]の太平洋側で夏に北東から吹き込む[[やませ]]のように、風が冷気を呼び込んでその地方に低温と[[冷害]]をもたらすような場合もある。
他の自然災害と同様、風害の発生が予測される場合、いくつかの国では政府が[[警報]]を発表し警戒を促す。日本ではこの業務は[[気象庁]]が担当しており、警戒水準によって強風[[注意報]]、暴風[[警報]]、そして暴風[[特別警報]]の3段階が存在する。また吹雪の場合は風雪注意報と暴風雪警報が、高波の場合は波浪注意報と警報が発令される<ref>「海の気象がよくわかる本」p192-193 森朗 枻出版社 2012年3月30日第一版第一刷</ref>。
== 神話と風 ==
[[ファイル:Wind-God-Fujin-by-Ogata-Korin.jpg|thumb|160px|[[風神]]]]
風は自然現象の代表的なものの1つであり、伝承や信仰において神格化されることがある。日本においては[[風神]]が例である。[[インド神話]]では[[ヴァーユ]]が風の神であり、この影響を受けた[[仏教]]では[[天部]]の1人として[[風天]]が存在する。[[ギリシア神話]]ではボレアース、ノトス、ゼピュロス、エウロス(4人の総称が[[アネモイ]])が風の神である。日本各地で伝承として伝えられている現象([[妖怪]])として、[[鎌鼬]](かまいたち)がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書
| url = http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/c1.htm
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20100127142928/http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/c1.htm
| title = 風向風速計/観測の原理
| publisher = [[気象庁]]
| accessdate = 2010-2-25
| archivedate = 2010-1-27
| deadlinkdate = 2019-6-30 }}
== 関連項目 ==
*[[ビューフォート風力階級]]
*[[塵旋風]](つむじ風・旋風)、[[乱気流]]、[[風塵]]、[[砂塵嵐]](砂嵐)
*[[爆風]]
*博物館
**[[風の館]] ([[北海道]]、[[襟裳岬]])
*人工的に風を起こす物
**[[扇風機]]、[[送風機]]、[[サーキュレーター]]、[[換気扇]]
**[[うちわ]]、[[扇子]]
**[[風洞]]
*風にちなむもの
**[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]] ([[大日本帝国陸軍]]の[[戦闘機]]の愛称)
**[[強風 (航空機)|強風]] ([[大日本帝国海軍]]の[[水上戦闘機]])
**[[風の谷のナウシカ]]
**[[キアヌ・リーブス]] (風にちなむ名の俳優)
**[[爆風スランプ]]
*[[空気力学]]、[[流体力学]]
*[[風上と風下]]
*[[風部]] - 漢字の部首
*[[風が吹けば桶屋が儲かる]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| wikt = かぜ
}}
* [http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kaze/jiten.htm 風の辞典]
* [https://www.town.erimo.lg.jp/kaze/ 風の館]([[襟裳岬]])
* {{EoE|Wind|Wind}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:風|*]] | 2003-03-04T01:13:29Z | 2023-12-04T21:57:38Z | false | false | false | [
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3,343 | 勝新太郎 | 勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。
本名:奥村 利夫(おくむら としお)。身長170cm。血液型O型。市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。
勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された。2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている。
長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県で生まれる。生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。若山富三郎は二歳上の兄。宇津井健は幼馴染。旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。十代のころは長唄と三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。長唄の名取は二代目 杵屋勝丸。1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。
23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった。同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる。
1961年、二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、勝新太郎と市川雷蔵は大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。
1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。
勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次・安田公義・森一生・増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、勅使河原宏・五社英雄・斎藤耕一・黒木和雄ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演した。また、一方では『男一匹ガキ大将』や実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』などマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。
特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品と評された。
またデビューして2年の俳優だった松平健を自らの弟子とし、勝自身が製作・主演したテレビドラマ『座頭市物語』に出演させて徹底的に鍛え上げ、1978年に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げた。1980年には勝プロダクションは松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』を製作している。
歌手としても、1967年に大映レコードの新譜第一号として発売した「座頭市」(別題「座頭市の唄」)がヒットした。
1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、活動は軌道に乗っているように見えたが、この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検される。1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるが、監督の黒澤明と衝突し降板。
1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなどした。この影響を受けて勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて経営が立ち行かなくなり、1981年に12億円の負債を残し倒産。この時の記者会見で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立するが、1983年には義父・二代目中村鴈治郎が死去するなど不幸が相次いだ。
1978年5月10日、マネージャーと弟子で俳優の酒井修が、阿片(アヘン)所持で逮捕される。勝はアヘン26グラム(当時の末端価格で260万円)と吸煙器を処分するよう頼んだ疑いで書類送検される。5月26日の釈明会見では「イランの貴族から贈られ、社長室に置いていたが、芸能人の大麻事件が相次いだので処分を依頼しただけ」と帝国ホテルの記者会見で語った。
1989年、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・雄大(この頃、本名で俳優デビューした)が殺陣の撮影中、斬られ役の役者を誤って真剣で斬りつけ死亡させてしまう。結局これが勝製作の最後の映画となった。勝の出演作品としては1990年、黒木和雄の監督映画『浪人街』が最後となった。
1990年1月16日、勝はアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕される。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」と述べ、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはなかった。帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受ける。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。この事件以後、俳優活動の場を舞台に移す。
1996年7月に下咽頭癌を発病。手術はせず、抗癌剤と放射線の治療を行なった。入院中も外出を繰り返して寿司や酒を楽しみ、平然と煙草をふかした。約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せた。しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだった(煙を肺まで吸い込まず、口元でふかしているだけ)、と中村玉緒や鴈龍は後に振り返っている。
死の前年である1996年4月23日には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」に出演した。最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。
1997年6月21日午前5時54分、入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去。65歳没。
葬儀は1997年6月24日、東京都中央区築地の築地本願寺で行われ、約11000人が参列した。法号は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。現在は若山富三郎と共に港区三田の蓮乗寺に眠っている。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位になった。
2021年9月13日に放送されたNHK Eテレ『ワルイコあつまれ』の「芸能界むかしばなし」にて、勝の半生の絵本風読み聞かせが、稲垣吾郎によって行われた。
入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであったが、雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。
1960年代後半に入ると、大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田雅一社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのためストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため、勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」ことを勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映No.1となった、と勝は語る。しかし、すぐに雷蔵のギャラと並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は、「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。
好物はオムライス。豪放磊落といわれた自身のイメージに合わないため、大映京都撮影所近くの飲食店では、店の奥でファンに見つからぬよう隠れて食べていた。
十代の頃から師匠をしていた三味線はその後も衰えなかったと伝えられている。
映画『人斬り』で最初に三島由紀夫に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった(詳細は人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫を参照)。また勝は、三島の『午後の曳航』の映画化の希望を抱いていたという。
勝のテレビ初主演作である『悪一代』(1969年、朝日放送制作、TBS系放映)全13話のうち、最終回放送分のテープが現存しており、横浜情報文化センター内の放送ライブラリーで閲覧する事が出来る。この作品は、勝の出世作である映画『不知火検校』(宇野信夫原作)をベースに作られており、テレビドラマの演出手法の常識を破った画面構成なども話題になった。ちなみに、全13話放送分のうち、最終回1話分のテープしか現存していないのは、当時の番組は2インチVTRで制作されており、機器・テープともに高価であったため、収録されたテープのほとんどが他の番組への収録で使い回されて上書き・消去されてしまったためである。
1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で演じた豊臣秀吉は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公伊達政宗が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「渡辺謙(政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという。
洋楽ではカーペンターズの曲をよく聴いていた。そのため、中村玉緒が『トリビアの泉』(フジテレビ系)にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて...」と言っていた。
ブレイク前のMr.マリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。
晩年の住居は東京タワーが見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている。
テレビインタビューで鴈龍の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる細谷新吾(日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った。
「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服と豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。結局、妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに、1978年に42歳で早世した歌手の水原弘は、1960年代に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、奔放な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。
勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後九州朝日放送の社長から「勝とスティービー・ワンダーの対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている。
舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役を演じた際、あまりの填(はま)りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次が飛んだ。 また、舞台『東男京女』では、ポスターで共演した妻の玉緒に馬乗りにされ、実際の芝居の中でも馬乗りにされる場面があるが、これは勝のアイデアであり、苦労させられた勝に逆襲するようで観客にウケていたと玉緒は語っている。
石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ。
1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言をする。しかし、玉緒に相手にされなかったため、離婚は成立しなかった。1990年、麻薬所持で逮捕されたため、5億円もの費用をかけて制作したキリンビール「ラ党の人々」のCMがたった1日で放送打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償請求の民事訴訟を起こされた。
上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには1996年2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から添い寝をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ(骨噛み)、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。
妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば...」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている。
晩年、漫画家根本敬と、舞台演出等仕事上の交遊があり、雑誌『cube(キューブ)』誌上で、勝のワンマンな人生をパロディー化した漫画、交響曲『勝(カツ)』(勝の人生を壮大かつ自己陶酔的な交響曲に喩え、彼の人生で関与した俳優、映画監督全てがオーケストラの団員として勝の人生を礼賛する内容。落語「頭山」を例に自己陶酔的な勝を揶揄。漫画作画・根本敬)のアイデアが披露された。また、根本が自身の著書の題名にし、後にクレイジーケンバンドの楽曲名にも使われた言葉「電気菩薩」は、根本との会話中で勝が発言したキーワードである。その根本の著書『特殊まんが 前衛への道』によると、1990年代にプリンスから「座頭市の姿でPVに出演して欲しい」との打診があったが、諸事情により実現しなかったという。
晩年、デニス・ホッパーとの親交は広く知られており、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーは非常に親近感を持っていた。
勝の臨終間際の前には、ちょうど巨大な台風が接近しており、台風一過と共に亡くなったという。玉緒によると、「亀岡(京都府亀岡市)にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという(朝日新聞京都、2007年12月26日)。死後、莫大な借金が残されたが、香典代わりに債権放棄した債権者もいたという。 | [
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"text": "勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。",
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"text": "葬儀は1997年6月24日、東京都中央区築地の築地本願寺で行われ、約11000人が参列した。法号は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。現在は若山富三郎と共に港区三田の蓮乗寺に眠っている。",
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"text": "2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位になった。",
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"text": "2021年9月13日に放送されたNHK Eテレ『ワルイコあつまれ』の「芸能界むかしばなし」にて、勝の半生の絵本風読み聞かせが、稲垣吾郎によって行われた。",
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"text": "入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであったが、雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。",
"title": "逸話"
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"text": "1960年代後半に入ると、大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田雅一社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのためストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため、勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」ことを勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映No.1となった、と勝は語る。しかし、すぐに雷蔵のギャラと並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次監督は、「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。",
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"text": "好物はオムライス。豪放磊落といわれた自身のイメージに合わないため、大映京都撮影所近くの飲食店では、店の奥でファンに見つからぬよう隠れて食べていた。",
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"text": "十代の頃から師匠をしていた三味線はその後も衰えなかったと伝えられている。",
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"text": "映画『人斬り』で最初に三島由紀夫に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった(詳細は人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫を参照)。また勝は、三島の『午後の曳航』の映画化の希望を抱いていたという。",
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"text": "勝のテレビ初主演作である『悪一代』(1969年、朝日放送制作、TBS系放映)全13話のうち、最終回放送分のテープが現存しており、横浜情報文化センター内の放送ライブラリーで閲覧する事が出来る。この作品は、勝の出世作である映画『不知火検校』(宇野信夫原作)をベースに作られており、テレビドラマの演出手法の常識を破った画面構成なども話題になった。ちなみに、全13話放送分のうち、最終回1話分のテープしか現存していないのは、当時の番組は2インチVTRで制作されており、機器・テープともに高価であったため、収録されたテープのほとんどが他の番組への収録で使い回されて上書き・消去されてしまったためである。",
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"text": "1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で演じた豊臣秀吉は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公伊達政宗が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「渡辺謙(政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという。",
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"text": "洋楽ではカーペンターズの曲をよく聴いていた。そのため、中村玉緒が『トリビアの泉』(フジテレビ系)にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて...」と言っていた。",
"title": "逸話"
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"text": "ブレイク前のMr.マリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。",
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"text": "晩年の住居は東京タワーが見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている。",
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"text": "テレビインタビューで鴈龍の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる細谷新吾(日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った。",
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"text": "「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服と豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。結局、妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに、1978年に42歳で早世した歌手の水原弘は、1960年代に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、奔放な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。",
"title": "逸話"
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"text": "勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後九州朝日放送の社長から「勝とスティービー・ワンダーの対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている。",
"title": "逸話"
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"text": "舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役を演じた際、あまりの填(はま)りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次が飛んだ。 また、舞台『東男京女』では、ポスターで共演した妻の玉緒に馬乗りにされ、実際の芝居の中でも馬乗りにされる場面があるが、これは勝のアイデアであり、苦労させられた勝に逆襲するようで観客にウケていたと玉緒は語っている。",
"title": "逸話"
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"text": "石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ。",
"title": "逸話"
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"text": "1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言をする。しかし、玉緒に相手にされなかったため、離婚は成立しなかった。1990年、麻薬所持で逮捕されたため、5億円もの費用をかけて制作したキリンビール「ラ党の人々」のCMがたった1日で放送打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償請求の民事訴訟を起こされた。",
"title": "逸話"
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"text": "上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには1996年2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から添い寝をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ(骨噛み)、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。",
"title": "逸話"
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"text": "妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば...」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている。",
"title": "逸話"
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"text": "晩年、漫画家根本敬と、舞台演出等仕事上の交遊があり、雑誌『cube(キューブ)』誌上で、勝のワンマンな人生をパロディー化した漫画、交響曲『勝(カツ)』(勝の人生を壮大かつ自己陶酔的な交響曲に喩え、彼の人生で関与した俳優、映画監督全てがオーケストラの団員として勝の人生を礼賛する内容。落語「頭山」を例に自己陶酔的な勝を揶揄。漫画作画・根本敬)のアイデアが披露された。また、根本が自身の著書の題名にし、後にクレイジーケンバンドの楽曲名にも使われた言葉「電気菩薩」は、根本との会話中で勝が発言したキーワードである。その根本の著書『特殊まんが 前衛への道』によると、1990年代にプリンスから「座頭市の姿でPVに出演して欲しい」との打診があったが、諸事情により実現しなかったという。",
"title": "逸話"
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"text": "晩年、デニス・ホッパーとの親交は広く知られており、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーは非常に親近感を持っていた。",
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},
{
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"text": "勝の臨終間際の前には、ちょうど巨大な台風が接近しており、台風一過と共に亡くなったという。玉緒によると、「亀岡(京都府亀岡市)にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという(朝日新聞京都、2007年12月26日)。死後、莫大な借金が残されたが、香典代わりに債権放棄した債権者もいたという。",
"title": "逸話"
}
] | 勝 新太郎は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。 本名:奥村 利夫。身長170cm。血液型O型。市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。 勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された。2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている。 | {{脚注の不足|date=2017年5月}}
{{ActorActress
| 芸名 = 勝 新太郎
| ふりがな = かつ しんたろう
| 画像ファイル = Kinema-Junpo-1964-February-Special-1.jpg
| 画像サイズ =180px
| 画像コメント = <small>『キネマ旬報』1964年2月決算特別号より</small>
| 本名 = 奥村 利夫<small>(おくむら としお)</small>
| 別名義 = 二代目杵屋勝丸
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京市]][[深川区]](現・[[東京都]][[江東区]])
| 死没地 = {{JPN}}・[[千葉県]][[柏市]]([[国立がん研究センター|国立がんセンター]]東病院)<ref name="zakzak">{{Cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n_June97/nws958.html|title=勝新太郎さんがんで死去|publisher=ZAKZAK|date=1997-06-21|accessdate=2019-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040806210835/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_June97/nws958.html|archivedate =2004-08-06}}</ref>
| 国籍 = {{JPN}}
| 民族 =
| 身長 = 170 [[センチメートル|cm]]
| 生年 = 1931
| 生月 = 11
| 生日 = 29
| 没年 = 1997
| 没月 = 6
| 没日 = 21
| 職業 = [[俳優]]・[[歌手]]・[[脚本家]]・[[映画監督]]<br />[[映画プロデューサー]]・[[三味線]][[師範]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]
| 活動期間 =[[1954年]] - [[1997年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[中村玉緒]]
| 著名な家族 = [[杵屋勝東治]](父)<br />[[若山富三郎]](兄)<br />[[鴈龍]](長男)<br />[[奥村真粧美]](長女)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[不知火検校]]』/『[[悪名]]』シリーズ<br />『[[座頭市]]』シリーズ /『[[兵隊やくざ]]』シリーズ<br />『[[にせ刑事]]』/『[[燃えつきた地図#映画|燃えつきた地図]]』/『[[人斬り (映画)|人斬り]]』/『[[やくざ絶唱]]』/『[[顔役 (1971年の映画)|顔役]]』/『[[御用牙]]』シリーズ / 『[[海軍横須賀刑務所]]』 / 『[[無宿 (映画)|無宿]]』/ 『[[迷走地図#映画|迷走地図]]』 / 『[[帝都物語]]』/『[[浪人街 (1990年の映画)|浪人街]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[座頭市物語 (テレビドラマ)|座頭市物語]]』/『[[痛快!河内山宗俊]]』<br />『[[新・座頭市]]』シリーズ /『[[警視-K]]』<br />『[[下町物語]]』/『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』
| 日本アカデミー賞 = 会長特別賞(第21回)
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 =
| その他の賞 ='''[[キネマ旬報賞]]'''<br />'''男優賞'''<br />[[1963年]]『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''男優演技賞 / 男優主演賞'''<br />[[1971年]]『顔役』他
| 備考 =
}}
'''勝 新太郎'''(かつ しんたろう、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[11月29日]] - [[1997年]]〈[[平成]]9年〉[[6月21日]])は、[[日本]]の[[俳優]]・[[歌手]]・[[脚本家]]・[[映画監督]]・[[映画プロデューサー]]・[[三味線]][[師範]]。
本名:奥村 利夫(おくむら としお)。[[身長]]170[[センチメートル|cm]]<ref>1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」</ref>。[[血液型]]O型<ref>[https://thetv.jp/person/0000011061/ スタ☆スケ] ザ・テレビジョン</ref>。[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]とともに[[大映]](現・[[角川映画 (企業)|角川映画]])の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。
'''勝新'''(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、数多くの不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された<ref name="rank">「私の好きな日本映画男優 アンケート結果ランキング」({{Harvnb|男優|2014|pp=38-40}})</ref><ref name="katsup">「私の好きな日本映画男優プロフィール――勝新太郎」({{Harvnb|男優|2014|p=123}})</ref>。2014年に映画関係者や文化人を対象にした[[キネマ旬報]]のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている<ref name="rank"/>。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[長唄]][[三味線]]方の[[杵屋勝東治]]と妻・八重子の次男として、母方の実家のある[[千葉県]]で生まれる。生家は[[東京市]][[深川区]](現在の[[東京都]][[江東区]])。[[若山富三郎]]は二歳上の兄。[[宇津井健]]は[[幼馴染]]。旧制法政中学校(現在の[[法政大学中学高等学校]])中退。十代のころは[[長唄]]と[[三味線]]の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。長唄の[[名取]]は'''二代目 [[杵屋勝丸]]'''。[[1954年]]のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介された[[ジェームズ・ディーン]]に感化されて映画俳優になることを決意する。
=== 大映時代 ===
[[File:Shintaro Katsu 1956 Scan10005.jpg|thumb|200px|1956年]]
23歳の時に[[大映京都撮影所]]と契約、[[1954年]]の『[[花の白虎隊]]』で[[デビュー]]。[[大映]]社長の[[永田雅一]]は勝を可愛がり、白塗りの[[二枚目]]として[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった<ref name=kuni>{{Cite web|和書|url=http://www.eiganokuni.com/kimata/60-1.html|title=日本映画の玉(ギョク)』 座頭市・その魅力【その1】 勝新太郎と『不知火検校』|publisher=映画の圀|access-date=2022-8-28}}</ref>。同年代の雷蔵・[[山本富士子]]・[[若尾文子]]が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの[[長谷川一夫]]そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに[[映画館]]の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」、「勝の主演ではヒットしない」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが<ref name=kuni/>、[[1960年]]の『[[不知火検校]]』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる<ref name="yomo8">「第8章 騒がしくも、ゆるやかな下降 1961-70――大映のスター路線」({{Harvnb|四方田|2014|pp=170-171}})</ref>。
[[1961年]]、[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]]の長女で同じ大映に在籍していた女優の[[中村玉緒]]と婚約。玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『[[悪名 (1961年の映画)|悪名]]』([[田中徳三]]監督、[[今東光]]原作、[[依田義賢]]脚本、[[田宮二郎]]共演)などで共演している<ref group="注釈">『悪名』の中ではすき焼き屋の女中・お絹役の玉緒に朝吉が「きっと妻にします」と一札を入れるシーンがある。</ref>。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。続く『[[座頭市物語]]』、『[[兵隊やくざ]]』で不動の人気を獲得<ref name="prog">{{Harvnb|再上映|1985}}</ref>。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、[[1969年]][[7月17日]]に雷蔵が死去するまで、'''勝'''新太郎と市川'''雷'''蔵は大映の2枚看板として「'''カツライス'''」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の[[座頭市|座頭市シリーズ]]はアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている<ref name="yomo8"/><ref name="prog"/>。
[[File:Katsu-Shintaro-1.jpg|thumb|180px|『映画情報』1965年4月号([[:ja:国際情報社|国際情報社]])より]]
[[File:Zatoichi and the Chess Expert.jpg|thumb|200px|[[キネマ旬報]]社『キネマ旬報』第406号(1966)より映画『[[座頭市地獄旅]]』ロケ。中心下が勝新太郎。右上が監督の[[三隅研次]]。]]
=== 勝プロ時代 ===
[[1967年]]に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す<ref name="prog"/>。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・[[五社協定]]崩壊の中、[[三船敏郎]]の[[三船プロ]]、[[石原裕次郎]]の[[石原プロモーション|石原プロ]]、[[萬屋錦之介|中村錦之助]]の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた<ref name="kai80">「昭和44年」({{Harvnb|80回史|2007|pp=176-183}})</ref><ref name="kai85">「昭和44年」({{Harvnb|85回史|2012|pp=260-268}})</ref>。
勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、[[三隅研次]]・[[安田公義]]・[[森一生]]・[[増村保造]]ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、[[勅使河原宏]]・[[五社英雄]]・[[斎藤耕一]]・[[黒木和雄]]ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『[[燃えつきた地図]]』、『[[人斬り (映画)|人斬り]]』などを製作・主演した。また、一方では『[[男一匹ガキ大将#映画版|男一匹ガキ大将]]』や実兄・[[若山富三郎]]主演の『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼]]』、自身も主演した『[[御用牙]]』などマンガ・劇画の映画化や[[テレビドラマ]]製作にも進出した。
[[File:あゆみの箱(歓迎会).tif|thumb|200px|[[サンパウロ日伯援護協会#あゆみの箱チャリティショウ|サンパウロ日伯援護協会]]の[[あゆみの箱]][[チャリティ]]ショウ。左から[[森繁久彌]]、中沢源一郎、[[伴淳三郎]]、[[志摩夕起夫]]、勝新太郎、[[渡辺はま子]](1971年8月撮影)]]
特に[[1971年]]、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『[[顔役 (1971年の映画)|顔役]]』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品と評された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10005188_0001.html|title=放送作品一覧 / 顔役|publisher=日本映画専門チャンネル|date=|accessdate=2013-03-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130305110942/http://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10005188_0001.html |archivedate=2013-03-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://neco.weblogs.jp/necomimi/2012/04/neco16-400a.html|title=ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第16弾! / 勝新の監督デビュー作について語る!|publisher=チャンネルNECO耳より情報(Archive.isによるキャッシュ)|date=2012-04-20|accessdate=2013-12-20|archiveurl=https://archive.is/20131220123617/http://neco.weblogs.jp/necomimi/2012/04/neco16-400a.html|archivedate=2013年12月20日}}</ref>。
またデビューして2年の俳優だった[[松平健]]を自らの弟子とし、勝自身が製作・主演したテレビドラマ『[[座頭市物語 (テレビドラマ)|座頭市物語]]』に出演させて徹底的に鍛え上げ、1978年に『[[暴れん坊将軍]]』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げた。1980年には勝プロダクションは松平主演のテレビドラマ『[[走れ!熱血刑事]]』を製作している。
歌手としても、1967年に[[大映レコード]]の新譜第一号として発売した「座頭市」(別題「座頭市の唄」)がヒットした<ref>「[https://hojishinbun.hoover.org/ja/newspapers/tht19671220-01.1.5 スケッチ]」『布哇タイムス』1967年12月20日付、4面。(スタンフォード大学フーヴァー研究所の「邦字新聞デジタル・コレクション」)</ref>。
[[1974年]]から[[1979年]]にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、活動は軌道に乗っているように見えたが、この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、[[1978年]]には[[アヘン]]の不法所持で書類送検される。1979年には映画『[[影武者 (映画)#キャストとスタッフ|影武者]]』の主役に抜擢されるが、監督の[[黒澤明]]と衝突し降板。
[[1980年]]に製作したテレビドラマ『[[警視-K]]』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなどした。この影響を受けて勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて経営が立ち行かなくなり、[[1981年]]に12億円の負債を残し倒産。この時の[[記者会見]]で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立するが、[[1983年]]には義父・二代目中村鴈治郎が死去するなど不幸が相次いだ。
=== 多難な晩年 ===
[[1978年]]5月10日、マネージャーと弟子で俳優の酒井修が、阿片(アヘン)所持で逮捕される。勝はアヘン26グラム(当時の末端価格で260万円)と吸煙器を処分するよう頼んだ疑いで書類送検される。5月26日の釈明会見では「イランの貴族から贈られ、社長室に置いていたが、芸能人の大麻事件が相次いだので処分を依頼しただけ」と[[帝国ホテル]]の記者会見で語った。
[[1989年]]、自らの製作・監督・脚本・主演により『[[座頭市 (1989年の映画)|座頭市]]』を完成させたが、長男・雄大(この頃、本名で俳優デビューした)が[[殺陣]]の撮影中、斬られ役の役者を誤って[[真剣]]で斬りつけ死亡させてしまう。結局これが勝製作の最後の映画となった。勝の出演作品としては[[1990年]]、黒木和雄の監督映画『[[浪人街 (1990年の映画)|浪人街]]』が最後となった。
[[1990年]][[1月16日]]、勝は[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]]の[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル国際空港]]で下着に[[マリファナ]]と[[コカイン]]を入れていたとして現行犯逮捕される。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」と述べ、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはなかった。帰国した翌年に日本でも[[麻薬及び向精神薬取締法]]違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受ける。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。この事件以後、俳優活動の場を舞台に移す。
[[1996年]]7月に[[咽頭#下咽頭|下咽頭]][[癌]]を発病。[[手術]]はせず、[[抗癌剤]]と[[放射線]]の[[治療]]を行なった。入院中も外出を繰り返して[[寿司]]や[[酒]]を楽しみ、平然と[[煙草]]をふかした。約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と[[喫煙]]する様を見せた。しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだった(煙を肺まで吸い込まず、口元でふかしているだけ)、と中村玉緒や鴈龍は後に振り返っている<ref>[[吉本浩二]]『カツシン さみしがりやの天才(スター)』([[新潮社]])1巻、第二話「夫と妻」の話中</ref>。
死の前年である1996年4月23日には『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)の「[[テレフォンショッキング]]」に出演した。最後の舞台は[[新歌舞伎座 (大阪)|大阪新歌舞伎座]]で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。
[[1997年]][[6月21日]]午前5時54分、入院先の[[千葉県]][[柏市]]の[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]東病院において下咽頭癌で死去<ref name="zakzak" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2021-02-05}}</ref>。{{没年齢|1931|11|29|1997|6|21}}。
=== 没後 ===
[[File:Wakayama katsu20120106.jpg|thumb|right|200px|東京都[[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]の蓮乗寺にある勝の墓。兄の[[若山富三郎]]と共に眠る。<br />(※:写真は2012年1月)]]
葬儀は[[1997年]][[6月24日]]、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[築地]]の[[築地本願寺]]で行われ、約11000人が参列した。[[法号]]は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は[[渋谷区]]の[[代々幡斎場]]で[[荼毘]]に付された。現在は若山富三郎と共に[[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]の蓮乗寺に眠っている。
[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」では日本男優の7位になった。
[[2021年]][[9月13日]]に放送された[[NHK Eテレ]]『[[ワルイコあつまれ]]』の「芸能界むかしばなし」にて、勝の半生の絵本風読み聞かせが、[[稲垣吾郎]]によって行われた<ref>{{Cite news|title=「慎吾ママ」トレンド1位に! “事前予告なし”新番組で徳川慶喜(草なぎ)と自由気ままにトーク|newspaper=ORICON NEWS|date=2021-09-13|url=https://www.oricon.co.jp/news/2206769/full/|accessdate=2021-09-13}}</ref>。
== 逸話 ==
入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+[[ハイヤー]]の送迎付きであったが、雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。
1960年代後半に入ると、大映で雷蔵、[[京マチ子]]、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、[[永田雅一]]社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。そのため[[ストライキ]]を敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため、勝は驚いた。何故なら、「20万円上げて欲しかった」ことを勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映No.1となった、と勝は語る。しかし、すぐに雷蔵のギャラと並んだ。全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。[[三隅研次]]監督は、「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。
好物は[[オムライス]]。豪放磊落といわれた自身のイメージに合わないため、[[大映京都撮影所]]近くの飲食店では、店の奥でファンに見つからぬよう隠れて食べていた。
十代の頃から師匠をしていた三味線はその後も衰えなかったと伝えられている<ref>[https://www.sankei.com/article/20131011-KD65RYGOFNOABPKD3WZU3TDZEU/2/ 【話の肖像画】映画監督 フランシス・フォード・コッポラ(74)(5) 忘れられない黒澤監督と勝さん(2/2ページ) - 産経ニュース]</ref>。
映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』で最初に[[三島由紀夫]]に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという<ref name="kakomi">[[藤井浩明]]「原作から主演・監督まで――プロデューサー藤井浩明氏を囲んで(聞き手:[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]・[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]・[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]・[[山中剛史]])」({{Harvnb|研究2|2006|pp=4-38}})。「映画製作の現場から」として{{Harvnb|同時代|2011|pp=209-262}}に所収</ref>。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった<ref name="kakomi"/><ref name="yama">「第十一章 映画『人斬り』と昭和四十年代」({{Harvnb|山内・左|2012|pp=294-318}})</ref>(詳細は[[人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫]]を参照)。また勝は、三島の『[[午後の曳航]]』の映画化の希望を抱いていたという<ref name="suzu">[[鈴木晰成]]「大映どんでんがえ史」({{Harvnb|室岡|1993|pp=375-399}})</ref>。
勝のテレビ初主演作である『悪一代』([[1969年]]、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作、[[TBSテレビ|TBS]]系放映)全13話のうち、最終回放送分のテープが現存しており、[[横浜情報文化センター]]内の[[放送ライブラリー]]で閲覧する事が出来る。この作品は、勝の出世作である映画『不知火検校』(宇野信夫原作)をベースに作られており、テレビドラマの演出手法の常識を破った画面構成なども話題になった。ちなみに、全13話放送分のうち、最終回1話分のテープしか現存していないのは、当時の番組は[[2インチVTR]]で制作されており、機器・テープともに高価であったため、収録されたテープのほとんどが他の番組への収録で使い回されて上書き・消去されてしまったためである<ref group="注釈">これは1970年代初期までに制作された朝日放送の他作品でも同様で、「助左衛門四代記」や「月火水木金金金」、「[[豆腐屋の四季]]」、「[[お荷物小荷物]]」はいずれも最終回放送分のテープしか現存していないが、これらの作品はいずれも前述の放送ライブラリーでの鑑賞可能である(但し「[[新十郎捕物帖・快刀乱麻]]」など、一部の作品は試聴不可となっている)</ref>。
1987年のNHK大河ドラマ『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』で演じた[[豊臣秀吉]]は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公[[伊達政宗]]が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「[[渡辺謙]](政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという<ref>{{Cite book/和書|author=春日太一|authorlink=春日太一|title=天才 勝新太郎|publisher=文藝春秋社|ISBN=978-4-16-660735-8}}</ref>。
洋楽では[[カーペンターズ]]の曲をよく聴いていた。そのため、中村玉緒が『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]』(フジテレビ系)にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて…」と言っていた。
ブレイク前の[[Mr.マリック]]のショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。
晩年の住居は[[東京タワー]]が見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた<ref>{{Cite web|和書|title=ド派手に送り出された勝新太郎 玉緒はもう一度結婚したい |url=https://www.news-postseven.com/archives/20200909_1593606.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |access-date=2022-11-08 |date=2020.09.09}}</ref>。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている<ref group="注釈">旧・勝プロが設立、運営していた演劇学校「勝アカデミー」出身の[[小堺一機]]や[[ルー大柴]]等</ref>。
テレビインタビューで[[鴈龍]]の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる[[日高晤郎|細谷新吾]](日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った<ref>「日高晤郎名言集 言葉のビタミン」(中西出版)p50 ISBN 9784891151256</ref>。
「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、[[芸者]]達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服と豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。結局、妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに、[[1978年]]に42歳で早世した歌手の[[水原弘]]は、[[1960年代]]に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、奔放な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。
勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後[[九州朝日放送]]の社長から「勝と[[スティービー・ワンダー]]の対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている<ref>[https://www.jprime.jp/articles/-/10327 勝新太郎の元マネージャーが赤裸々に綴った、豪快すぎる“勝新秘録”が話題(1/2ページ)] 週刊女性PRIME.週刊女性2017年8月15日号 2017/8/9 (主婦と生活社)(2017年8月22日)</ref><ref>[https://www.jprime.jp/articles/-/10327?page=2 勝新太郎の元マネージャーが赤裸々に綴った、豪快すぎる“勝新秘録”が話題(2/2ページ)] 週刊女性PRIME.週刊女性2017年8月15日号 2017/8/9 (主婦と生活社)(2017年8月22日)</ref>。
舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役を演じた際、あまりの填(はま)りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次が飛んだ。
また、舞台『東男京女』では、ポスターで共演した妻の玉緒に馬乗りにされ、実際の芝居の中でも馬乗りにされる場面があるが、これは勝のアイデアであり、苦労させられた勝に逆襲するようで観客にウケていたと玉緒は語っている。
[[石原裕次郎]]とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090603_79677.html|title=「兄弟」勝新、最後の晩餐|publisher=nikkansports.com|date=2009-06-03|accessdate=2012-11-27}}</ref>。
1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言をする。しかし、玉緒に相手にされなかったため、離婚は成立しなかった。1990年、麻薬所持で逮捕されたため、5億円もの費用をかけて制作した[[キリンビール]]「[[ラ党の人々]]」のCMがたった1日で放送打ち切りとなり、CMの制作会社から[[損害賠償]]請求の[[民事訴訟]]を起こされた。
上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。[[1982年]]に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。[[1992年]]4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには[[1996年]]2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から[[添い寝]]をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ([[カニバリズム#骨噛み|骨噛み]])、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。
妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば…」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな[[渡哲也]]の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『[[くちなしの花]]』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている<ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/ss/233/special/top.html SmaSTATION! 勝新太郎 豪快破天荒伝説]</ref><ref>[http://news.mynavi.jp/news/2014/04/22/143/ 故勝新太郎さん 生前中村玉緒に残していたラブレターの内容]</ref>。
晩年、漫画家[[根本敬]]と、舞台演出等仕事上の交遊があり、雑誌『cube(キューブ)』誌上で、勝のワンマンな人生をパロディー化した漫画、交響曲『勝(カツ)』(勝の人生を壮大かつ自己陶酔的な交響曲に喩え、彼の人生で関与した俳優、映画監督全てがオーケストラの団員として勝の人生を礼賛する内容。落語「[[頭山]]」を例に自己陶酔的な勝を揶揄。漫画作画・根本敬)のアイデアが披露された。また、根本が自身の著書の題名にし、後に[[クレイジーケンバンド]]の楽曲名にも使われた言葉「'''電気菩薩'''」は、根本との会話中で勝が発言したキーワードである。その根本の著書『特殊まんが 前衛への道』によると、1990年代に[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]から「座頭市の姿でPVに出演して欲しい」との打診があったが、諸事情により実現しなかったという。
晩年、[[デニス・ホッパー]]との親交は広く知られており、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーは非常に親近感を持っていた。
勝の臨終間際の前には、ちょうど巨大な[[台風]]が接近しており、台風一過と共に亡くなったという。玉緒によると、「亀岡([[京都府]][[亀岡市]])にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという([[朝日新聞]]京都、2007年12月26日)。死後、莫大な借金が残されたが、香典代わりに債権放棄した債権者もいたという。
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== モデル・オマージュ ==
* '''[[尾田栄一郎]]'''著『'''[[ONE PIECE]]'''』第71巻第701話「愛と情熱とオモチャの国の冒険」で主人公である海賊・ルフィを追う海軍本部大将・'''イッショウ'''(通称「'''藤虎'''(ふじトラ)」、'''勝新太郎'''がモデル)が登場し、仕込み杖を抱えた盲目の剣客で重力を操る悪魔の実の能力者である。<br/> 曲がった事は嫌いな性格であり、誰であろうと仁義を重んじる男で「'''……見えねェ事もまた一興'''」「'''――この人の世にゃあ 見たくもねェウス汚ェモンも…たくさんありましょう……'''」が口癖であったが、その両目は「見たくないもの」を散々見てきたことに絶望し、自ら潰したものであるというがルフィと出会った事で「'''目ェ…閉じなきゃよかったな。あんたの顔――見てみたい…'''」と語っている。
* '''[[島崎譲]]'''著『'''[[THE STAR(漫画)|THE STAR]]'''』 第3巻では、自らプロダクションを持ち優秀な役者を多数抱えもつ映画界のドンである!!“'''勝竜'''”の呼び名も高き大俳優・'''勝竜太郎'''(かつ りゅうたろう、'''勝新太郎'''がモデル)が登場し、主人公である長瀬優也主演のデビュー作『俺の宝石』の試写に招待され、仕方なく見るも鑑賞後に長瀬に「'''まだまだだ!!のぼせ上がるなよ、ひよっこが!!'''」と勝流の激励の言葉をかける。<br/> その後も長瀬が役者として成長していくのを見て「'''演技のためにはその身を犠牲にすることもいとわない男!!こんな役者を見たのは久々だ!!'''」と太鼓判を押し、第5巻では、第1回テレビ放送大賞でもテレビ界の黒幕といわれているGRテレビ会長・本間権三の威光のチラつく賞レースに異議を唱え、長瀬優也こそ大賞に相応しい事を強く推奨している場面が描かれている。
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== 勝が絶賛している名作映画 ==
{{内容過剰|section=1|date=2018年7月}}
*[[時代劇]][[研究科]]の[[春日太一]]の勝に関しての著書によれば、勝は黒澤明『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』や『[[七人の侍]]』『[[用心棒]]』、[[ジャン・ギャバン]]主演の名作や[[ヌーヴェル・ヴァーグ]]の名作の[[フランソワ・トリュフォー]]作品や[[ルイ・マル]]『[[死刑台のエレベーター]]』、[[ジャン=リュック・ゴダール]]『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』に[[パトリス・ルコント]]『[[他人のそら似 (映画)|他人のそら似]]』などの[[フランス映画]]の名作、[[クラーク・ゲーブル]]や[[タイロン・パワー]]、[[シャルル・ボワイエ]]、[[長谷川一夫]]、[[上原謙]]、『[[エデンの東 (映画)|エデンの東]]』『[[理由なき反抗]]』『[[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]]』の[[ジェームズ・ディーン]]などの各国の二枚目スター主演の名作、[[溝口健二]]『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』、[[市川崑|市川昆]]『[[炎上 (映画)|炎上]]』『[[ぼんち (小説)|ぼんち]]』、[[吉村公三郎]]『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』『[[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]]』、[[衣笠貞之助]]作品、[[斎藤耕一]]『[[津軽じょんがら節 (映画)|津軽じょんがら節]]』、[[三隅研次]]作品や[[森一生]]作品、[[工藤栄一]]作品、[[井上昭]]作品、[[近衛十四郎]]作品、[[山本薩夫]]『[[忍びの者]]』、[[勅使河原宏]]『[[砂の女]]』、[[五社英雄]]『[[三匹の侍]]』『[[御用金]]』、[[岡本喜八]]『[[独立愚連隊]]』シリーズや『[[侍 (映画)|侍]]』『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』、[[新藤兼人]]作品、『[[影の車]]』や『[[砂の器]]』の[[野村芳太郎]]作品、[[増村保造]]『[[大地の子守歌]]』、[[長谷川和彦]]『[[青春の殺人者]]』、[[ウィリアム・フリードキン]]『[[フレンチ・コネクション]]』、[[サム・ペキンパー]]『[[ゲッタウェイ]]』を絶賛している<ref>[[春日太一]]『天才 勝新太郎』文春新書、2010年1月。13p、37p-38p、42p-43p、47p-48p、57p、71p、75p、87p、90p、96p-97p、104p、113p-114p、136p-137p、140p、175p、222p、233p、246p、261p、284p</ref>。
== 勝ファンのクリエイターや役者たち ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2018年7月}}
*香港の世界的アクションスター[[ブルース・リー]]は勝を尊敬しており、共演予定もあった<ref>大人が選ぶ映画ヒーローベスト30:[https://www.tv-asahi.co.jp/ss/260/special/top.html SmaSTATION!!]</ref>。
*[[ビートたけし]]こと[[映画監督]]の[[北野武]]の作品は、勝の主演作品・監督作品に大きな影響を受けていることで知られ、とりわけ北野の初監督作品『[[その男、凶暴につき]]』は、勝が監督主演した『[[顔役 (1971年の映画)|顔役]]』の絶大な影響がある<ref>[[樋口毅宏]]『タモリ論』(2013年 新潮新書)。</ref><ref>『完全版アナーキー日本映画史1959-2016』,[[洋泉社]],2016/11/04,ISBN 9784800310774,同書の[[町山智浩]]による『[[その男、凶暴につき]]』の評より</ref>。
*[[クエンティン・タランティーノ]]は勝が主演した『座頭市』シリーズや勝が制作した『[[子連れ狼]]』シリーズのファンであり、『[[パルプ・フィクション]]』日本公開時に来日した際に勝に会い大喜びし、勝もパルプを絶賛した<ref>[[関根勤]]「関根勤のサブミッション映画館」1995年11月発売[[社会思想社]]</ref>。[[キルビル]]のチャンバラシーンは、特に勝制作の『[[子連れ狼 三途の川の乳母車]]』のオマージュである<ref>『オタク・イン・USA―愛と誤解のAnime輸入史』[単行本](町山智浩編・訳、[[太田出版]]、2006年)。文庫は『オタク・イン・USA―愛と誤解のAnime輸入史』(町山智浩編・訳、[[ちくま文庫]]、2013年)</ref>。
*[[映画評論家]]としても活動している[[コラムニスト]]・[[小説家]]の[[小林信彦]]は、[[週刊文春]]に発表した自身の「映画ベスト200(外国映画100と日本映画100)」に勝が主演した[[森一生]]『薄桜記』と[[三隅研次]]『[[座頭市物語]]』を入れている<ref>このランキングは「2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト20」 文藝春秋、にも収録されている。(2000年)※のち『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』と改題して文庫</ref>。
*『[[映画秘宝]]』のインタビュー本で、アニメ監督の[[渡辺信一郎 (アニメ監督)|渡辺信一郎]]は[[ドン・シーゲル]]『[[ダーティハリー]]』と[[ロバート・クローズ]]『[[燃えよドラゴン]]』を別格の2本とした上で、自身のベスト10(「禍々しい映画」10本)に勝の『顔役』を選んでいる<ref>『[[映画秘宝]]ex&[[オトナアニメ]]ex アニメクリエイターの選んだ至高の映画』62p-71pで、その他の作品は[[ジャン=リュック・ゴダール]]『[[気狂いピエロ]]』[[ルネ・クレマン]]『[[狼は天使の匂い]]』[[村川透]]『[[野獣死すべし]]』[[ジャン=ピエール・メルヴィル]]『[[仁義 (映画)|仁義]]』[[鈴木清順]]『[[殺しの烙印]]』[[ロバート・アルトマン]]『[[ロング・グッドバイ]]』[[長谷川和彦]]『[[太陽を盗んだ男]]』[[アレックス・コックス]]『[[レポマン]]』[[サム・ペキンパー]]『[[ガルシアの首]]』を選び、[[フランシス・フォード・コッポラ]]『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』[[マーティン・スコセッシ]]『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』も好きな映画に挙げている</ref>。
*俳優の[[高橋克実]]は「芸能界一の勝新マニア」を名乗り、[[TBS]]の[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]]&[[カズレーザー]]司会の番組で勝新を語ったことがある<ref>[[オー!!マイ神様!!]]:[https://www.tbs.co.jp/omk_tbs/archive/20180319.html これまでの“マイ神”|TBSテレビ:オー!!マイ神様!!]</ref>。
== 出演作品 ==
[[File:Shintarō Katsu in Hatsu-haru Tanuki Goten 1959.jpg|180px|thumb|『[[初春狸御殿]]』(大映、[[1959年]])]]
[[File:Kinema-Junpo-1962-April-late-1.jpg|thumb|240px|『[[座頭市物語]]』(1962年)]]
=== 映画 ===
==== シリーズ ====
* [[悪名]]シリーズ 全16作
** [[悪名 (1961年の映画)|悪名]](1961年)
** [[続悪名]](1961年)
** [[新悪名]](1962年)
** [[続新悪名]](1962年)
** [[第三の悪名]](1963年)
** [[悪名市場]](1963年)
** [[悪名波止場]](1963年)
** [[悪名一番]](1963年)
** [[悪名太鼓]](1964年)
** [[悪名幟]](1965年)
** [[悪名無敵]](1965年)
** [[悪名桜]](1966年)
** [[悪名一代]](1967年)
** [[悪名十八番]](1968年)
** [[悪名一番勝負]](1969年) - シリーズ最終作
** [[悪名縄張荒らし]](1974年) - 勝プロ製作、東宝配給。「続・悪名」のリメイク作品
*[[座頭市]]シリーズ
** [[座頭市物語]](1962年)
** [[続・座頭市物語]](1962年)
** [[新・座頭市物語]](1963年)
** [[座頭市兇状旅]](1963年)
** [[座頭市喧嘩旅]](1963年)
** [[座頭市千両首]](1964年)
** [[座頭市あばれ凧]](1964年)
** [[座頭市血笑旅]](1964年)
** [[座頭市関所破り]](1964年)
** [[座頭市二段斬り]](1965年)
** [[座頭市逆手斬り]](1965年)
** [[座頭市地獄旅]](1965年)
** [[座頭市の歌が聞える]](1966年)
** [[座頭市海を渡る]](1966年)
** [[座頭市鉄火旅]](1967年)
** [[座頭市牢破り]](1967年)- 独立(勝プロダクション設立)後、初の座頭市作品
** [[座頭市血煙り街道]](1967年)
** [[座頭市果たし状]](1968年)
** [[座頭市喧嘩太鼓]](1968年)
** [[座頭市と用心棒]](1970年)
** [[座頭市あばれ火祭り]](1970年)
** [[新座頭市・破れ!唐人剣]](1971年) - 勝プロダクション製作、ダイニチ映配配給
** [[座頭市御用旅]](1972年) - 以下3作は、勝プロダクション製作、東宝配給
** [[新座頭市物語 折れた杖]](1972年)
** [[新座頭市物語 笠間の血祭り]](1973年)
** [[座頭市 (1989年の映画)|座頭市]](1989年) - 勝プロモーション・三倶製作、松竹配給
* ど根性シリーズ 全3作
** [[ど根性一代]] (1963年)
** [[ど根性物語 図太い奴]] (1964年)
** [[ど根性物語 銭の踊り]] (1964年)
* [[駿河遊侠伝]]シリーズ 全3作
** [[駿河遊侠伝 賭場荒し]](1964年)
** [[駿河遊侠伝 破れ鉄火]](1964年)
** [[駿河遊侠伝 度胸がらす]](1965年)
* [[兵隊やくざ]]シリーズ 全9作
** [[兵隊やくざ]](1965年)
** [[続・兵隊やくざ]](1965年)
** [[新・兵隊やくざ]](1966年)
** [[兵隊やくざ 脱獄]](1966年)
** [[兵隊やくざ 大脱走]](1966年)
** [[兵隊やくざ 俺にまかせろ]](1967年)
** [[兵隊やくざ 殴り込み]](1967年)
** [[兵隊やくざ 強奪]](1968年)
** [[新兵隊やくざ 火線]](1972年) - 勝プロ製作、東宝配給
* 酔いどれシリーズ 全3作
** [[酔いどれ博士]](1966年) - 大松伝次郎
** [[続・酔いどれ博士]](1966年) - 大松伝次郎
** [[酔いどれ波止場]](1966年) - 大松伝次郎
* やくざ坊主シリーズ 全2作
** [[やくざ坊主]](1967年)
** [[続やくざ坊主]](1968年)
* [[御用牙]]シリーズ 全3作
** [[御用牙]](1972年)
** [[御用牙かみそり半蔵地獄責め]](1973年)
** [[御用牙鬼の半蔵やわ肌小判]](1974年)
==== その他 ====
* [[花の白虎隊]](1954年) - 小林八十次郎
* お富さん(1954年) - 与三郎
* 怪猫逢魔が辻(1954年) - 桝田屋友之助
* 天下を狙う美少年(1955年) - [[天一坊]]
* かんかん虫は唄う(1955年) - 清水富彦
* 怪盗と判官(1955年) - [[鼠小僧次郎吉]]
*[[踊り子行状記]](1955年)- 武智十郎太
* [[柳生連也斎 秘伝月影抄]](1956年) - 鈴木綱四郎
* 花の渡り鳥(1956年) - 蜩の半次
* [[怪猫五十三次 (1956年の映画)|怪猫五十三次]](1956年) - 南三次郎
* 花頭巾(1956年) - 久米寺舜馬
* [[月形半平太]] 花の巻/嵐の巻(1956年) - 宇津木周作
* [[新・平家物語 静と義経]](1956年) - [[那須与一]]
* 続花頭巾(1956年) - 久米寺舜馬
* [[まらそん侍]](1956年) - 海保数馬
* スタジオはてんやわんや(1957年)
* 信号は赤だ(1957年) - 相川三郎
* {{ill2|怪猫夜泣き沼|en|Ghost Cat of Yonaki Swamp}}(1957年) - 小森一馬
* [[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]](1957年) - 市之助
* 森の石松(1957年)- 石松
* {{ill2|怪猫呪いの壁|en|Ghost-Cat Wall of Hatred}}(1958年)
* [[日蓮と蒙古大襲来]](1958年) - [[四条金吾]]
* 陽気な仲間(1958年) - 菊太郎
* [[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]](1958年) - [[赤埴重賢|赤垣源蔵]]
* [[弁天小僧 (1958年の映画)|弁天小僧]](1958年) - [[遠山景元]]
* 水戸黄門漫遊記(1958年)- 捨吉
* 情炎(1959年) - 仙枝
* [[薄桜記#薄桜記(1959年)|薄桜記]](1959年) - 中山安兵衛
* [[千代田城炎上 (映画)|千代田城炎上]] (1959年)
* 関の弥太っぺ(1959年)- 箱田の森介
* [[初春狸御殿]](1959年) - 栗助
* 二人の武蔵(1960年) - [[佐々木小次郎]]
* [[大江山酒天童子]](1960年) - [[渡辺綱]]
* 三人の顔役(1960年) - 高林
* [[不知火検校]](1960年) - 杉の市
* [[花くらべ狸道中]](1961年)- 新助狸
* [[ドドンパ酔虎伝]] (1961年)
* 飛び出した女大名(1961年)- 鯖江半太郎
* [[風と雲と砦 (映画)|風と雲と砦]](1961年) - 左近八郎
* みだれ髪(1961年) - 愛吉
* [[水戸黄門海を渡る]](1961年) - [[渥美格之進]]
* [[釈迦 (映画)|釈迦]](1961年) - [[ダイバダッタ]]
* 化身(1962年) - 梵仙
* 鉄砲安の生涯(1962年) - 北ヶ市安五郎
* 仲良し音頭 日本一だよ(1962年) - 勝新太郎
* [[鯨神]](1962年) - 紀州
* [[長脇差忠臣蔵]](1962年) - [[前田山英五郎]]
* [[秦・始皇帝]](1962年) - [[始皇帝]]
* [[雪之丞変化#雪之丞変化(1963年)|雪之丞変化]](1963年) - 島抜け法師
* 破れ傘長庵(1963年)- 長蔵
* 雑兵物語(1963年) - 茂平
* ど根性一代(1963年) - 越智平助
* [[乞食大将]](1964年) - [[後藤基次|後藤又兵衛]]
* [[幸せなら手をたたこう (映画)|幸せなら手をたたこう]](1964年) - 特別出演
* [[無法松の一生]](1965年) - 富島松五郎
* [[泥棒番付]] (1966年)
* [[にせ刑事]](1967年) - 千田寅松
* [[とむらい師たち (映画)|とむらい師たち]](1968年) - ガンめん
* [[燃えつきた地図#映画|燃えつきた地図]](1968年) - 男(探偵)
* [[手錠無用]](1969年) - 香車弾五郎
* [[関東おんな悪名]] (1969年)
* [[尻啖え孫市]](1969年) - [[織田信長]]
* [[鬼の棲む館]](1969年) - 無明の太郎
* [[人斬り (映画)|人斬り]](1969年) - [[岡田以蔵]]
* 玄海遊侠伝 破れかぶれ (1970年)- 吉田磯吉
* [[やくざ絶唱]](1970年) - 立松実
* [[待ち伏せ (映画)|待ち伏せ]](1970年) - 玄哲
* 喧嘩屋一代どでかい奴(1970年) - 青木吾朗
* [[富士山頂 (小説)#映画|富士山頂]](1970年) - 村上朝吉
* あぶく銭(1970年) - 大寺松五郎(ヒゲ松)
* [[男一匹ガキ大将]](1971年) - 坊谷津光五郎
* [[顔役 (1971年の映画)|顔役]](1971年) - 立花良太 ※製作、監督、脚本も担当
* 狐のくれた赤ん坊(1971年) - 張り子の寅八
* [[いのちぼうにふろう]](1971年) - 男
* [[王将 (1973年の映画)|王将]](1973年) - [[坂田三吉]]
* [[海軍横須賀刑務所]](1973年) - 志村兼次郎
* [[無宿 (映画)|無宿]](1974年) - 穴吹錠吉
* [[迷走地図#映画|迷走地図]](1983年) - 寺西正毅
* [[帝都物語]](1988年) - [[渋沢栄一]]
* [[孔雀王|孔雀王アシュラ伝説]](1990年) - 慈空
* [[浪人街 (1990年の映画)|浪人街]](1990年) - 赤牛弥五右衛門
=== テレビドラマ ===
* 悪一代(1969年4月5日 - 6月27日、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) - 徳の市
* [[大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]](1971年10月19日、[[テレビ朝日|NET]]) - [[赤穂事件|俵星玄蕃]]([[特別出演]])
* [[長谷川伸シリーズ]]「一本刀土俵入り」(1972年、NET) - 駒形茂兵衛
* [[狼・無頼控]] 第9話(1973年、[[毎日放送]]) - 浜田屋藤十郎 / 闇の魔王
* [[唖侍鬼一法眼]](1973年10月7日 - 1974年3月31日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])- 卍 / 相良筑後守
* [[座頭市|座頭市シリーズ]](フジテレビ) - [[座頭市]]
** [[座頭市物語 (テレビドラマ)|座頭市物語]](1974年10月3日 - 1975年4月17日)
** [[新・座頭市]]
*** 新・座頭市 第1シリーズ(1976年10月4日 - 1977年4月25日)
*** 新・座頭市 第2シリーズ(1978年1月9日 - 5月22日)
*** 新・座頭市 第3シリーズ(1979年4月16日 - 11月19日)
* [[痛快!河内山宗俊]](1975年10月6日 - 1976年3月29日、フジテレビ) - [[河内山宗俊]]
* [[警視-K]](1980年10月7日 - 12月30日、日本テレビ) - 賀津勝利
* [[木曜ゴールデンドラマ]]「下町物語」(1983年10月6日、[[讀賣テレビ放送|YTV]]) - 元太郎
* [[女たちの大坂城]](1983年11月3日、日本テレビ) - 織田信長
* [[西部警察 PART-III|西部警察 PART-III スペシャル「燃える勇者たち」]](1984年1月1日、テレビ朝日) - ジミー東郷
* [[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]](1987年1月4日 - 12月13日、[[日本放送協会|NHK]]) - [[豊臣秀吉]]
* [[忠臣蔵・女たち・愛]](1987年12月28日・12月29日、[[TBSテレビ|TBS]]) - [[徳川綱吉]]
=== 舞台 ===
* 旅のかげろう、三味線やくざ、[[森の石松]]、上州土産百両首(1960年10月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
* 殺し屋一代、女夫渡り鳥、因果小僧六之助、元禄ドロンパ屋敷(1961年8月)
* 別れ囃子、[[悪名]]、[[座頭市物語]]、雲の別れ路(1962年11月)
* (勝新太郎・朝丘雪路特別公演) 風流深川唄、座頭市物語(1968年9月1日 - 25日、名古屋・御園座)
* 好食の草紙、座頭市喧嘩ばやし、風流深川唄、座頭市物語 (1972年9月1日 - 25日、東京・明治座)
* 不知火検校(1994年)
* (勝新太郎特別公演)夫婦善哉東男京女(1996年)
=== バラエティ ===
* [[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグショー]] 勝新太郎たまには歌う夜もある(1978年3月12日、NHK)
* [[題名のない音楽会|題名のない音楽会「勝新太郎マイウェイ」]](1982年1月10日、テレビ朝日)※没後の1997年7月27日に「音楽家勝新太郎を偲んで」のタイトルで追悼放送
* [[この人○○ショー]]この人勝新太郎・中村玉緒ショー(1983年1月20日、NHK)
* [[おもしろ人間ウォンテッド!!]](1985年10月 - 12月、日本テレビ) ※レギュラー解答者
=== CM ===
*[[大塚製薬]] - ウメビタ
*[[武田薬品工業]] - フローミンエース
*[[麒麟麦酒]] - [[ラ党の人々。]](1990年)※前年、「キリンビール」より改称した主力商品「キリン[[ラガー (ビール)|ラガー]]ビール」の宣伝を目的に、成人若年層の「ビール離れ」「ドラマ離れ」「CM離れ」に歯止めをかけるのを目標に、1年間毎日新作を放送するドラマ仕立てのCMとして制作された。作・演出に[[つかこうへい]]、キャストに勝(父親)、[[松坂慶子]](後妻)、安藤輝彦<ref group="注釈">[[博報堂]]の広告マンとして同CMを担当。現・[[大広]]副社長。</ref>(長男)、[[手塚理美]](長女)、[[国広富之]](長女の夫)、[[富田靖子]](二女)、[[藤井尚之]](二女の夫)を起用。大々的にキャンペーンも行われたが、オンエアー初日に勝が麻薬所持容疑で逮捕されたため、わずか1日で放送中止<ref>{{Cite journal|和書|title=今月の広告批評 / S ; Y|journal=[[広告批評]]|issue=125|publisher=マドラ出版|date=1990-02-01|pages=101|id={{NDLJP|1853091/53}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=広告の風景一九九〇|journal=[[広告批評]]|issue=134|publisher=マドラ出版|date=1990-12-01|pages=8|id={{NDLJP|1853100/6}}}}</ref>。
== プロデュース ==
* [[座頭市と用心棒]](1970年)
* [[座頭市あばれ火祭り]]
* [[新座頭市 破れ!唐人剣]](1971年)
* 男一匹ガキ大将
* [[顔役]]
* 片足のエース
* [[子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる]](1972年)
* [[座頭市御用旅]]
* [[子連れ狼 三途の川の乳母車]]
* 新兵隊やくざ 火線
* [[新座頭市物語 折れた杖]]
* [[子連れ狼 死に風に向う乳母車]]
* [[御用牙]]
* [[新座頭市物語 笠間の血祭り]](1973年)
* 御用牙 かみそり半蔵地獄責め
* 御用牙 鬼の半蔵やわ肌小判 (1974年)
* 悪名 縄張荒らし
* モハメッド・アリ 黒い魂 STAND UP LIKE A MAN
* [[無宿]]
* [[座頭市]](1989年)
== 監督作品 ==
=== 映画 ===
* 顔役
* 新座頭市物語 折れた杖
* 座頭市(1989年)
=== テレビドラマ ===
* 唖侍鬼一法眼 第1話
* 座頭市シリーズ
** 座頭市物語 第3・8・9・14・16・23話
** 新・座頭市
*** 新・座頭市 第1シリーズ 第1・7・14・15・21・27話
*** 新・座頭市 第2シリーズ 第3・5・7・10話
*** 新・座頭市 第3シリーズ 第4・6・9・21~23話
* 痛快!河内山宗俊 第15・23・25話
* [[夫婦旅日記 さらば浪人]](1976年、CX / 勝プロ)第13話
* 警視-K 第1~4・7・9・11・13話
== 音楽 ==
=== シングル ===
{| class="wikitable"
!発売日
!規格品番
!面
!タイトル
!作詞
!作曲
!編曲
|-
! colspan="7" |[[テイチクエンタテインメント|'''テイチクレコード''']]
|-
| rowspan="2" |1955年9月
| rowspan="2" |BL-5003
|A
|'''かんかん蟲は唄う'''<ref group="注釈">大映映画「かんかん蟲は唄う」主題歌。</ref>
|[[萩原四朗]]
| colspan="2" rowspan="3" |[[大久保徳二郎]]
|-
|B
|静かな雨のロマンス
|[[大高ひさを]]
|-
| rowspan="2" |1955年11月
| rowspan="2" |BL-5010
|A
|'''役者道中'''
|萩原四朗
|-
|B
|峠越すのは
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1956年1月
| rowspan="2" |
|A
|'''次郎吉笠'''
|
|
|
|-
|B
|おもかげ峠<ref group="注釈">歌:鶴美幸。</ref>
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1956年
| rowspan="2" |C-102
|A
|'''街の影法師'''
|前田よしえ
| colspan="2" |大久保徳二郎
|-
|B
|今宵かぎりのボレロ<ref group="注釈">歌:矢島ひろ子。</ref>
| rowspan="2" |大高ひさを
|[[上原賢六]]
|
|-
| rowspan="2" |1956年
| rowspan="2" |C-104
|A
|'''静かな雨のロマンス'''
| colspan="2" |大久保徳二郎
|-
|B
|青いドレスの女
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1956年5月
| rowspan="2" |
|A
|'''青いドレスの女'''
|
|
|
|-
|B
|静かな雨のブルース
|
|
|
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |C-3958
|A
|'''三ン下月夜唄'''
|
|
|
|-
|B
|お別れかいな<ref group="注釈">歌:浅野靖子。</ref>
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1956年5月
| rowspan="2" |C-4018
|A
|'''元気でいろよ達者でね'''
|大高ひさを
|上条たけし
|宮脇春夫
|-
|B
|上海から来た男
| rowspan="2" |[[清水みのる]]
| colspan="2" rowspan="2" |大久保徳二郎
|-
| rowspan="2" |1956年11月
| rowspan="2" |C-4036
|A
|'''アドマン・ブルース'''
|-
|B
|元気でいろよ達者でね
|大高ひさを
|上条たけし
|宮脇春夫
|-
| rowspan="2" |1957年
| rowspan="2" |A-2737
|A
|'''春雨じゃ濡れて行こう'''
|
|
|
|-
|B
|よみ売り三味線
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1957年12月
| rowspan="2" |A-2927
|A
|'''おとぼけ仁義'''<ref group="注釈">大映映画「清水港喧嘩旅」主題歌。</ref>
|
|
|
|-
|B
|追っかけ笠<ref group="注釈">歌:伊丹章子。</ref>
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1958年8月
| rowspan="2" |C-4203
|A
|'''東海道の野郎ども'''<ref group="注釈">大映映画「東海道の野郎ども」主題歌。</ref>
|
|
|
|-
|B
|惚れたのヨ<ref group="注釈">歌:木下雅子。</ref>
|
|
|
|-
! colspan="7" |'''[[EMIミュージック・ジャパン|東芝音楽工業]]'''
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |JP-1120
|A
|'''これが未練という奴か'''
|
|
|
|-
|B
|男の泣き場所
|
|
|
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |JP-1126
|A
|'''深夜の銀座裏'''
|
|
|
|-
|B
|恋なんか御免だ
|
|
|
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |JP-1199
|A
|'''今夜はわかった'''
| rowspan="2" |藤間屮雄
| colspan="2" |増田幸造
|-
|B
|だからお前が可愛いのさ
| colspan="2" |[[大沢浄二]]
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |JP-1339
|A
|'''今宵限りの三度笠'''
|
|
|
|-
|B
|夢でござんす
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1964年11月
| rowspan="2" |TP-1001
|A
|'''ど根性一代'''<ref group="注釈">唄:勝新太郎・水原弘。</ref>
|勝新太郎
[[十二村哲]]
| colspan="2" rowspan="2" |大久保徳二郎
|-
|B
|男の人生<ref group="注釈">唄:水原弘。</ref>
|[[島田磬也]]
|-
! colspan="7" |'''[[大映レコード]]'''
|-
| rowspan="2" |1967年8月
| rowspan="2" |D-1
|A
|'''座頭市'''<ref group="注釈" name="座頭市シリーズ">大映映画「座頭市シリーズ」主題歌。</ref>
| rowspan="4" |[[川内康範]]
| colspan="2" rowspan="5" |[[曽根幸明]]
|-
|B
|座頭市ひとり旅<ref group="注釈" name="座頭市シリーズ"></ref>
|-
| rowspan="2" |1967年11月
| rowspan="2" |D-9
|A
|'''あき子'''
|-
|B
|あれっきり
|-
| rowspan="2" |1968年3月
| rowspan="2" |D-20
|A
|'''恋は気まま'''
| rowspan="2" |[[水島哲]]
|-
|B
|いつかどこかで
|曽根幸明
|[[池田孝]]
|-
| rowspan="2" |1968年9月
| rowspan="2" |D-57
|A
|'''座頭市子守唄'''<ref group="注釈">大映映画「座頭市果し状」主題歌。</ref>
| rowspan="2" |川内康範
| colspan="2" |曽根幸明
|-
|B
|どんとやれ
| rowspan="2" |曽根幸明
| rowspan="2" |池田孝
|-
| rowspan="2" |1968年11月
| rowspan="2" |D-62
|A
|'''シーサイド横浜'''
|[[西川ひとみ]]
|-
|B
|さよならしようぜ
|大給櫻子
| colspan="2" |池田孝
|-
| rowspan="2" |1968年12月
| rowspan="2" |D-66
|A
|'''悪名(河内音頭)'''<ref group="注釈">大映映画「悪名シリーズ」主題歌。</ref>
| colspan="2" |[[鉄砲光三郎]]
|
|-
|B
|悪名のテーマ(セリフ入り)
|
|
|
|-
| rowspan="2" |1969年6月
| rowspan="2" |D-86
|A
|'''ごめんね坊や'''
| rowspan="2" |水島哲
| rowspan="2" |曽根幸明
|
|-
|B
|涙はあれに
|池田孝
|-
| rowspan="2" |1970年5月
| rowspan="2" |D-108
|A
|'''いつかどこかで'''
|水島哲
| colspan="2" |曽根幸明
|-
|B
|Sunny = サニー
|Bobby Hebb
訳:曽根幸明
|Bobby Hebb
|池田孝
|-
| rowspan="2" |1970年8月
| rowspan="2" |G-1
|A
|'''座頭市の唄'''
|川内康範
| colspan="2" |曽根幸明
|-
|B
|座頭市子守唄
|いわせひろし
| rowspan="3" |曽根幸明
| rowspan="3" |池田孝
|-
| rowspan="2" |1970年11月
| rowspan="2" |G-4
|A
|'''夜と恋の終り'''
|[[川島朗]]
|-
|B
|おまえは何処に
| rowspan="3" |水島哲
|-
| rowspan="2" |1971年5月
| rowspan="2" |G-22
|A
|'''いつかどこかで'''
| colspan="2" |曽根幸明
|-
|B
|涙はおれに
|曽根幸明
|池田孝
|-
! colspan="7" |[[日本コロムビア]]
|-
| rowspan="2" |1972年4月
| rowspan="2" |SAS-1615
|A
|'''兵隊やくざ'''
|[[石本美由起]]
| colspan="2" |山路進一
|-
|B
|男と男
|美沢香
|[[村井邦彦]]
|[[馬飼野俊一]]
|-
! colspan="7" |'''[[テイチクエンタテインメント|ユニオンレコード]]'''
|-
| rowspan="2" |1973年4月
| rowspan="2" |US-778
|A
|'''橋ぐれる'''
| rowspan="2" |[[小池一夫]]
| rowspan="2" |[[猪俣公章]]
| rowspan="2" |[[池多孝春]]
|-
|B
|別れ手錠
|-
! colspan="7" |'''[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]'''
|-
| rowspan="2" |1973年
| rowspan="2" |TP-2954
|A
|'''孤独におわれて'''<ref group="注釈">時代劇「[[唖侍鬼一法眼|唖侍 鬼一法眼]]」主題歌。</ref>
|[[安井かずみ]]
| colspan="2" |[[冨田勲]]
|-
|B
|ひとの出逢い
|[[有馬三恵子]]
| colspan="2" |[[竜崎孝路]]
|-
| rowspan="2" |1974年
| rowspan="2" |TP-20055
|A
|'''おてんとさん'''<ref group="注釈">テレビ映画「[[座頭市物語]]」主題歌。</ref>
| rowspan="2" |[[阿里あさみ]]
| colspan="2" |冨田勲
|-
|B
|座頭市ブルース<ref group="注釈">テレビ映画「[[座頭市物語]]」挿入歌。</ref>
| colspan="2" |[[小谷充]]
|-
! colspan="7" |[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]
|-
| rowspan="2" |1977年
| rowspan="2" |SV-6258
|A
|'''座頭市子守唄'''<ref group="注釈">フジテレビ「[[新・座頭市]]」主題歌。</ref>
|いわせひろし
| colspan="2" |曽根幸明
|-
|B
|いつかどこかで
|水島哲
|曽根幸明
|馬飼野俊一
|-
! colspan="7" |[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]
|-
| rowspan="2" |
| rowspan="2" |L-1138P
|A
|'''さすらいの旅'''
|[[山口あかり]]
| rowspan="2" |平尾昌晃
| rowspan="2" |竜崎孝路
|-
|B
|波止場町・ふたり町
|[[ちあき哲也]]
|-
! colspan="7" |'''[[日本クラウン|クラウンレコード]]'''
|-
| rowspan="2" |1980年
| rowspan="2" |CWA-21
|A
|'''にごり水'''
|[[山田孝雄 (作詞家)|山田孝雄]]
|[[叶弦大]]
|[[伊藤雪彦]]
|-
|B
|男心
|
|
|
|-
! colspan="7" |'''[[日本フォノグラム]]'''
|-
| rowspan="2" |1982年
| rowspan="2" |7PL-75
|A
|'''夜はくりかえす'''
|[[岩谷時子]]
|[[三木たかし]]
|[[田辺信一]]
|-
|B
|Love You Again
|[[荒木とよひさ]]
| colspan="2" |三木たかし
|-
| rowspan="2" |1982年
| rowspan="2" |7PL-78
|A
|'''浮遊の夏'''
|[[島武実]]
|[[宇崎竜童]]
|[[若草恵]]
|-
|B
|ぬくもり
|荒木とよひさ
| colspan="2" |三木たかし
|-
! colspan="7" |'''[[センチュリーレコード]]、[[ポニー・キャニオン]]'''
|-
| rowspan="2" |1994年5月20日
| rowspan="2" |
|1
|'''泣くなよ'''
|補:[[武藤けんじ]]
| colspan="2" rowspan="2" |曽根幸明
|-
|2
|ごめんね坊や
|水島哲
|-
! colspan="7" |[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]
|-
| rowspan="2" |2015年11月3日
| rowspan="2" |TJKA-10005
|1
|'''Sunny = サニー'''
|
|
|
|-
|2
|Summer Time = サマー・タイム
|
|
|
|}
=== アルバム ===
* 夜を歌う([[大映レコード]])※現行CDでは、8曲のボーナストラックが追加され、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]より発売されている。
* 人生劇場 勝新太郎・古賀メロディーを唄う(1970年、[[日本コロムビア]])
* 座頭市子守唄(1977年9月25日、[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]])※未CD化
* THE MAN NEVER GIVE UP(1982年、[[ユニバーサルミュージック (日本)|日本フォノグラム]])
* 遊びばなし うたとはなしと三味線と(1995年、Sony Records)
* 歌いまくる勝新太郎(1997年、[[Pヴァイン]])大映レコード時代の編集盤
* もういちど、遊びばなし(1998年、Sony Records)
* 歌いまくる大映スター(大映レコード)
** 2007年に紙ジャケット仕様でPヴァインより再発。1968年の大映レコードのイベントでの模様を収録したライブ盤で、勝新太郎も参加。『座頭市』、『シーサイド横浜』、『座頭市子守唄』の、このアルバムでしか聴けないライヴ・バージョンが収録されている。
== 著作 ==
* プレイボーイ特別編集 写真集「勝vs美枝子」([[集英社]]、1980年)
*『俺・勝新太郎 劇薬の書』([[廣済堂出版]]、1992年/廣済堂文庫、1998年、改訂版2008年)- 新版解説[[吉田豪]]
*『裸舞(Love) - [[三浦綺音]]写真集』撮影([[ワニブックス]]、1994年)
*『泥水のみのみ浮き沈み―勝新太郎対談集』([[文藝春秋]]、1994年/[[文春文庫]]、2017年) - 8名との対談
== 関連項目 ==
* [[並木輝男]]
* [[水原弘]]
* [[バルテュス]]
* [[ジミー・ウォング]]
* [[小堺一機]]、[[ルー大柴]] - 「勝アカデミー」門下生。
* [[松平健]] - 弟子
* [[負古太郎]]
* [[吉本浩二]] - 勝の家族や周囲の人々に取材をして、その生涯を描いた[[実録漫画]]作品『カツシン』を「[[月刊コミック@バンチ]]」で連載した<ref>[https://web.archive.org/web/20160402120812/http://comicbunch.com/comicinfo/katsushin/ 月刊コミック@バンチ 『カツシン』紹介ページ]</ref>。
* [[日高晤郎]] - 弟子
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 市山隆一『私論・勝新太郎―「勝新語録」とその背景』(1998年5月、[[講談社]])ISBN 978-4062090896
* 『勝新太郎 別冊太陽』(1998年6月、[[平凡社]])ISBN 978-4582943139
* [[川勝正幸]]『勝新図鑑―絵になる男・勝新太郎のすべて』(2003年12月、[[ピエブックス]])ISBN 978-4894443037
* [[春日太一]]『天才 勝新太郎』(2010年1月、[[文春新書]])ISBN 978-4166607358
* 田崎健太『偶然完全 勝新太郎伝』(2011年12月3日、講談社)ISBN 978-4062174749
* [[大和和紀]]『[[紅匂ふ]]』講談社コミック
*{{Citation|和書|editor1=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor2=[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]|editor3=[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]|date=2006-06|title=三島由紀夫と映画|series=三島由紀夫研究2|publisher=[[鼎書房]]|isbn=978-4907846435|ref={{Harvid|研究2|2006}}}}
*{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|date=2011-05|title=同時代の証言 三島由紀夫|publisher=鼎書房|isbn=978-4907846770|ref={{Harvid|同時代|2011}}}}
*{{Citation|和書|author=[[室岡まさる]]|date=1993-07|title=[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]とその時代|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4195552377|ref={{Harvid|室岡|1993}}}}
*{{Citation|和書|author=[[山内由紀人]]|date=2012-11|title=三島由紀夫 左手に映画|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309021447|ref={{Harvid|山内・左|2012}}}}
*{{Citation|和書|author=[[四方田犬彦]]|date=2014-08|title=日本映画史110年|publisher=[[集英社]]|edition=増補改訂|isbn=978-4087207521|ref={{Harvid|四方田|2014}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[松竹株式会社]]事業部|date=1985-11|title=人斬り|publisher=松竹株式会社|isbn=|ref={{Harvid|再上映|1985}}}} - 再上映パンフレット
*{{Citation|和書|editor=|date=2007-07|title=キネマ旬報ベスト・テン80回全史 1924-2006|series=[[キネマ旬報]]ムック|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873766560|ref={{Harvid|80回史|2007}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873767550|ref={{Harvid|85回史|2012}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2014-12|title=オールタイム・ベスト映画遺産 日本映画男優・女優100|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873768038|ref={{Harvid|男優|2014}}}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Portal 映画}}
* {{jmdb name |0170060 }}
* {{allcinema name |49308 }}
* {{kinejun name |77448 }}
* {{imdb name |id=0441526 |name=勝新太郎 }}
* {{NHK人物録|D0009071176_00000}}
* [http://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=121421 公益財団法人 放送番組センター 放送ライブラリー / 悪一代〔13・完〕 長いものには巻かれるな]
{{キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞}}
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[[Category:勝新太郎|*]]
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[[Category:1931年生]]
[[Category:1997年没]] | 2003-03-04T01:21:00Z | 2023-12-29T19:21:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E |
3,344 | 節句 | 節句(せっく)は、古代中国の陰陽五行説を由来として日本に定着した暦。伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。
この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句である。
明治維新後もしばらくは実施されていたが、改暦の年である1873年(明治6年)1月4日太政官第1号布告「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」によって廃止となった。その後、1948年(昭和23年)7月20日公布・施行の「国民の祝日に関する法律」によって、2021年現在においては端午の節句のみ「こどもの日」の名称で祝日となっている。
「御節供」と呼ばれた節句料理はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。そして、今日では「おせち」として、正月三が日もしくは七日にかけての松の内の期間において食べるものを指すようになっている。ただ、今日でも人日の節句の七草粥など「節句料理」として残っているものがある。
節句に飾られる人形(雛人形、五月人形など)は、節句人形(せっくにんぎょう)とも称される。
なお、新暦では3月3日・5月5日・7月7日は同じ曜日となる。 | [
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] | 節句(せっく)は、古代中国の陰陽五行説を由来として日本に定着した暦。伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。 | {{redirect|節句料理|「御節供」から発展した正月料理}}
[[File:Gosekku-zu by Kakizaki Hakyo (Hakodate City Museum).jpg|thumb|right|200px|絹本着色五節句図 [[蠣崎波響]]筆 ([[市立函館博物館]]蔵)]]
'''節句'''(せっく)は、古代[[中国]]の[[陰陽五行思想|陰陽五行説]]を由来として日本に定着した[[暦]]{{要出典|date=2021年1月}}。伝統的な[[年中行事]]を行う季節の節目(ふしめ)となる[[日]]。'''節供'''(せっく)、古くは'''節日'''(せちにち)とも<ref>{{Cite web|和書|author=神永曉|website=[[ジャパンナレッジ]]|date=2017年01月30日|url=https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=365|title=「節句」と「節供」|accessdate=2021-01-07|publisher=[[ネットアドバンス]]|work=日本語、どうでしょう?}}</ref>。
== 概要 ==
この日には、日本の宮廷において'''[[節会]]'''(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=土屋京子|year=2010|title=節句と節句料理についての一考察|url=http://id.nii.ac.jp/1653/00010311/|journal=東京家政大学博物館紀要|volume=15|page=79|publisher=東京家政大学博物館|ISSN=13433709|naid=110007535653}}</ref>。年間にわたり様々な節句が存在しており{{要出典|date=2021年1月}}、そのうちの5つを[[江戸幕府]]が公的な行事・[[祝日]]として定めた<ref name=":1">{{Cite journal|和書 |author=是澤博昭 |title=節句に見る子供――近代からみる江戸の子育て |url=https://doi.org/10.20658/youjikyoikushi.12.0_59 |journal=幼児教育史研究 |issn=1881-5049 |publisher=幼児教育史学会 |year=2017 |volume=12 |issue=0 |pages=59-62 |naid=130006565871 |doi=10.20658/youjikyoikushi.12.0_59}}</ref>。それが[[人日]]、[[上巳]]、[[端午]]、[[七夕]]、[[重陽]]の五節句である<ref name=":1" />。
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
|+五節句
!漢名!!日付!!和名!!節句料理
|-
!人日(じんじつ)
|style="white-space:nowrap"|[[1月7日]]||style="white-space:nowrap"|[[七草]]の節句||[[七草粥]]<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317"/>。
|-
!上巳(じょうし)
|[[3月3日]]||桃の節句・[[雛祭]]||[[菱餅]]や[[白酒 (日本酒)|白酒]]など<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317"/>。
|-
!端午(たんご)
|[[5月5日]]||菖蒲の節句||菖蒲酒。[[菖蒲湯]]の習俗あり。関東では[[柏餅]]、中国や関西では[[ちまき]]<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317"/>。
|-
!style="white-space:nowrap"|七夕(しちせき)
|[[7月7日]]||笹の節句・七夕(たなばた)||裁縫の上達を願い[[素麺]]<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317"/>が食される([[織姫]]も参照)。
|-
!重陽(ちょうよう)
|[[9月9日]]||菊の節句||[[キク|菊]]を浮かべた酒など<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317"/>([[菊酒]]も参照)。
|}
[[明治維新]]後もしばらくは実施されていた{{Refnest|1870年2月27日(明治3年1月27日)太政官第57号布告「[[s:郵船商船規則|郵船商船規則]]」には、祝日として人日以外の四節句が記載されている<ref name="手塚1995" />。|group=註}}が、[[改暦]]の年である[[1873年]]([[明治]]6年)[[1月4日]][[太政官]]第1号布告「[[:s:五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム|五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム]]」によって廃止となった<ref name="手塚1995">{{Cite journal|和書 |author=手塚和男 |year=1995 |title=祝日考 |url=https://hdl.handle.net/10076/5422 |journal=三重大学教育学部研究紀要 人文・社会科学 |issue=46 |pages=33-48 |publisher=三重大学教育学部 |issn=03899233 |naid=110000503920 |accessdate=2021-04-30}}</ref>。その後、[[1948年]]([[昭和]]23年)[[7月20日]]公布・施行の「[[国民の祝日に関する法律]]」によって、2021年現在においては端午の節句のみ「[[こどもの日]]」の名称で祝日となっている<ref>{{Cite web|和書|author=|website=[[内閣府]]|date=|url=https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html|title=国民の祝日について|accessdate=2021-01-07|publisher=}}</ref>。
「御節供」と呼ばれた'''節句料理'''はもともと五節句の祝儀料理すべてをいっていたが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった<ref name=":0" /><ref name="nipponnoshikitari_p58">武光誠編著『日本のしきたり-開運の手引き』 [[講談社]] p.58 [[1994年]]</ref>。そして、今日では「[[御節料理|おせち]]」として、[[正月三が日]]もしくは七日にかけての松の内の期間において食べるものを指すようになっている<ref name="kankonsousainosahou_p342">グラフ社著『冠婚葬祭の作法―規律としてのルールとマナー 改訂版』 グラフ社 p.342 [[2003年]]</ref>。ただ、今日でも人日の節句の[[七草粥]]など「節句料理」として残っているものがある<ref name="syokuryounohyakkajiten_p317">『食料の百科事典』 丸善 p.317 [[2001年]]</ref>。
節句に飾られる[[人形]]([[雛人形]]、[[五月人形]]など)は、'''節句人形'''(せっくにんぎょう)とも称される<ref>{{Cite web|和書|author=|website=一般社団法人[[日本人形協会]]|date=|url=https://ningyo-kyokai.or.jp/sekku/index.html|title=節句人形とは|accessdate=2021-01-07|publisher=}}</ref>。
なお、新暦では3月3日・5月5日・7月7日は同じ曜日となる<ref>{{Cite web|和書|author=NEWS ONLINE 編集部|website=[[ニッポン放送]] NEWS ONLINE|date=2018-06-29|url=https://news.1242.com/article/148082#:~:text=%E5%90%8C%E3%81%98%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E2%80%9C%E5%A5%87%E6%95%B0%E3%81%8C,%E3%81%A7%E5%89%B2%E3%82%8A%E5%88%87%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%95%B0%E5%AD%97%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82|title=曜日の雑学 偶数でゾロ目になる日はだいたい同じ曜日になる|accessdate=2021-01-07|publisher=}}</ref>。
== ことわざ ==
; 六日の菖蒲、十日の菊(むいかのあやめ/しょうぶ、とおかのきく)
:5月5日(菖蒲の節句)までの菖蒲、9月9日(菊の節句)までの菊は価値があるが、その日を過ぎると一気に価値がなくなる意味<ref name=":2">{{CRD|1000217326|「六日の菖蒲、十日の菊」の意味を知りたい。}}</ref>。転じて、時機を逸して価値のなくなった状態を指す<ref name=":2" />。例えば、[[2月14日]]を過ぎた[[バレンタインデー|バレンタイン]][[チョコレート|チョコ]]、[[12月25日]]を過ぎた[[クリスマス]][[ケーキ]]が投げ売りされることと同様の意味合いである{{要出典|date=2021年1月}}。
; 怠け者の節句働き(なまけもののせっくばたらき)
:普段働かないで怠けている者が、みんなが休む節句に働くこと<ref>{{Cite web|和書|author=|website=[[Weblio]]辞書|date=|url=https://www.weblio.jp/content/%E6%80%A0%E3%81%91%E8%80%85%E3%81%AE%E7%AF%80%E5%8F%A5%E5%83%8D%E3%81%8D#:~:text=%E6%99%AE%E6%AE%B5%E6%80%A0%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E8%80%85,%E3%81%84%E3%82%8B%E8%80%85%E3%82%92%E5%98%B2%E3%82%8B%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%80%82|title=「怠け者の節句働き(なまけもののせっくばたらき)」の意味や使い方|accessdate=2021-01-07|publisher=}}</ref>。
== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist|group=註}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の暦]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Sekku}}
* [https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/gyouji/sekku/ 節句] - [[神社本庁]]
{{Normdaten}}
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[[Category:節句|*]]
[[Category:日本の年中行事]]
[[Category:日本の文化]]
[[Category:日本の民間信仰]] | 2003-03-04T02:04:57Z | 2023-11-30T11:59:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%8F%A5 |
3,346 | 行政 | 行政(ぎょうせい、英: Executive /Administration)とは、国家の統治作用のうち、立法・司法以外のものの総称。法律に従って国を治めること。国の機関または地方公共団体が法律・政令の範囲内で行う政務。
法律学においては立法や司法と並ぶ一つの国家作用である。立法権、司法権と並び、統治権の一つとして、行政を行う権能を行政権という。
国家作用が作用自体の性質という点に着目して立法、司法、行政に三分類されるとき、これらはそれぞれ実質的意義の立法、実質的意義の司法、実質的意義の行政と概念づけられる。
実質的意義の行政とは何かという点については、現代の行政は複雑で多岐な内容にわたっており、これに必要かつ十分な定義を与えるのは、容易でない。そのため、行政の定義については、内容的に定義することを放棄し、消極的に定義するにとどまる控除説(消極説)と、なんとか行政の内容を積極的に定義してその内容を明らかにしようと努める積極説が対立する。
実質的意義の行政を主たる任務とする機関を行政機関というが、実質的意義の行政は、行政機関のみならず、立法機関や司法機関にも存在する。
行政府に属する一切の作用の総称をいう。
国家作用は作用自体の性質という点に着目すると実質的意義の立法、実質的意義の司法、実質的意義の行政とそれぞれ概念づけられるが、個々の国家作用が現実にいずれの機関に配当されるかは憲法の体制・個別の法律により異なる。そこで、現実に配当されている機関という点に着目して国家作用を分類したものが形式的作用である。
日本の場合、政令の制定は実質的意義においては立法作用であり、また、恩赦の決定や行政審判は実質的意義においては司法作用であるが、行政府に属する権限とされるため、形式的意義においては行政に含まれることになる。
「政治体系において権威を有する意思決定者によって行われた公共政策の決定を実行することに関連する活動」などと定義される。
行政法は、行政の組織・機構に関する行政組織法、行政の手続に関する行政作用法、違法な行政活動によって不利益を被った国民の救済に関する行政救済法の3部門に大別される。
行政主体とは「行政という国家作用を担当する行政機関が帰属する法主体」と定義され、また、これと対をなす行政客体とは「行政主体の行う行政の相手方となる法主体」と定義される。行政主体の代表例は国(中央政府)と地方公共団体(地方政府)である。
近代統一国家の下では立法・行政・司法などすべての国家権力は国に集中するが、地方分権主義が進むにつれ地方公共団体が国と並ぶ重要な行政主体となるに至っている。
行政主体が行政機関を通じて私人に対して行う行政活動をめぐって生ずる権利義務関係を規律する法であり、行政救済法を除く「行政外部の法」を意味する。行政作用法は行政機関による「立法」作用(いわゆる行政立法)をも「行政作用法」の対象としてきており、行政作用法の対象となる「行政作用」は、行政立法をも含む広義の形式的意味をしている。
行政組織法や行政救済法と異なり、行政作用の領域には、まとまった統一的な法律が少ない。
法治国家ないし行政の原則の下においては、法に従ってなされることが要求される。
行政法において、市民の権利が行政によって違法か適法かを問わず侵害された場合、その権利を救済する。
行政の統一をはかるために、上級機関が下級機関に対して有する権限。具体的には以下のものが挙げられる。
日本では、憲法第65条で、行政権は内閣に属すると定めている。これは、一般的には行政権が内閣総理大臣一人に属しているのではなく、内閣総理大臣と国務大臣の合議体からなる内閣に帰属していることを意味すると解釈されている(憲法第66条第1項・内閣法第2条第1項参照)。ただし、例えば内閣総理大臣が自己の任命式を終えた後、人事熟考のために時間をかけて組閣を行う場合、全会一致を要する閣議において閣議決定・閣議了解の採択にすべての国務大臣が反対した場合に全閣僚を罷免して自身が兼務することで閣内意思の一致を図るなどの場合において、内閣総理大臣のみをもって内閣が組織されることがありうる(いわゆる一人内閣。憲法第68条・第71条参照)。
都道府県と市町村がある。
行政組織の人的要素である。
行政組織の物的要素である。
行政契約とは、行政目的を達成するための契約。
行政指導とは、指導・勧告・助言等で処分に該当しない行為。
行政目的の達成のために、行政権が国民の身体・財産等に実力をくわえ、行政上必要な状態を実現させる作用といわれる。
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] | 行政とは、国家の統治作用のうち、立法・司法以外のものの総称。法律に従って国を治めること。国の機関または地方公共団体が法律・政令の範囲内で行う政務。 | {{政治}}
'''行政'''(ぎょうせい、{{lang-en-short|[[:en:wikt:executive|Executive]] /[[wikt:administration|Administration]]}})とは、[[国家]]の統治作用のうち、[[立法]]・[[司法]]を除いた作用の総称であり、以下を指す<ref>{{Cite web|和書|title=行政とは|url=https://kotobank.jp/word/行政-52748|website=コトバンク|accessdate=2021-08-17|language=ja|first= 日本国語大辞典,デジタル大辞泉|last=精選版}}</ref>。
1. [[法律]]に従って[[国]]を治めること。
2. 国の[[機関 (法)|機関]]または[[地方公共団体]]が法律・[[政令]]の範囲内で行う[[政務]]。
== 概説 ==
=== 行政法学上の定義 ===
法律学においては[[立法]]や[[司法]]と並ぶ一つの国家作用である<ref name=shiono2>塩野『行政法1 第4版 行政法総論』2頁</ref>。[[立法|立法権]]、[[司法|司法権]]と並び、[[統治権]]の一つとして、行政を行う権能を'''行政権'''という。
==== 実質的意義の行政 ====
国家作用が作用自体の性質という点に着目して立法、司法、行政に三分類されるとき、これらはそれぞれ実質的意義の立法、実質的意義の司法、実質的意義の行政と概念づけられる<ref name=shiono6>塩野『行政法1 第4版 行政法総論』6頁</ref>。
実質的意義の行政とは何かという点については、現代の行政は複雑で多岐な内容にわたっており、これに必要かつ十分な定義を与えるのは、容易でない。そのため、行政の定義については、内容的に定義することを放棄し、消極的に定義するにとどまる'''控除説'''('''消極説''')と、なんとか行政の内容を積極的に定義してその内容を明らかにしようと努める'''積極説'''が対立する。
;控除説(消極説)
:日本の[[公法|公法学]]上は、国家作用のうち、[[立法]]作用と[[司法]]([[裁判]])作用を控除した残余の作用を指すとする見解('''控除説'''、消極説)が支配的である。
:このような控除説による説明は、内容的な定義づけを放棄しており、意味がないようにも見える。しかし、君主が有していた包括的な国家権能のうちまず立法権が[[議会]]に移譲され、その残りである執行権のうち司法権がさらに分化され、[[君主]]に残された権能が行政とされたという沿革に対応している。さらに、現実問題としても、行政と観念される作用には様々なものがあり、それらを漏れなく包括する必要もある。したがって、控除説は一般的に支持されている。
;積極説
:控除説のような消極的な定義づけに満足せず、積極的な定義づけをする試みもある。代表的な見解は[[田中二郎]]によるものであり、「法の下に法の規制を受けながら、現実に国家目的の積極的実現をめざしておこなわれる全体として統一性をもった継続的な形成的国家活動」とするものである。だが、行政の特徴等を大まかにイメージしたものに過ぎないという批判もある。
実質的意義の行政を主たる任務とする機関を行政機関というが、実質的意義の行政は、行政機関のみならず、立法機関や司法機関にも存在する。
==== 形式的意義の行政 ====
行政府に属する一切の作用の総称をいう。
国家作用は作用自体の性質という点に着目すると実質的意義の立法、実質的意義の司法、実質的意義の行政とそれぞれ概念づけられるが、個々の国家作用が現実にいずれの機関に配当されるかは憲法の体制・個別の法律により異なる<ref name=shiono6/>。そこで、現実に配当されている機関という点に着目して国家作用を分類したものが形式的作用である<ref name=shiono6/>。
日本の場合、政令の制定は実質的意義においては立法作用であり、また、恩赦の決定や[[行政審判]]は実質的意義においては司法作用であるが、行政府に属する権限とされるため、形式的意義においては行政に含まれることになる<ref>[[伊藤正己]]『憲法 新版』弘文堂、1990年、504頁、ISBN 4-335-30036-0 </ref>。
=== 行政学上の定義 ===
「政治体系において権威を有する意思決定者によって行われた[[公共政策]]の決定を実行することに関連する活動」<ref name=takeo5>竹尾『現代行政学理論』5頁</ref>などと定義される。
== 行政法 ==
行政法は、行政の組織・機構に関する'''行政組織法'''、行政の手続に関する'''行政作用法'''、違法な行政活動によって不利益を被った国民の救済に関する'''行政救済法'''の3部門に大別される<ref name=harada14>原田『行政法要論 全訂7版』14頁</ref>。
=== 行政組織法 ===
'''行政主体'''とは「行政という国家作用を担当する行政機関が帰属する法主体」<ref name=shiono328>塩野『行政法1 第4版 行政法総論』328頁</ref>と定義され、また、これと対をなす'''行政客体'''とは「行政主体の行う行政の相手方となる法主体」<ref name=shiono328/>と定義される。行政主体の代表例は国(中央政府)と地方公共団体(地方政府)である。
近代統一国家の下では立法・行政・司法などすべての国家権力は国に集中するが、地方分権主義が進むにつれ地方公共団体が国と並ぶ重要な行政主体となるに至っている<ref name=harada45>原田『行政法要論 全訂7版』45頁</ref>。
=== 行政作用法 ===
行政主体が行政機関を通じて私人に対して行う行政活動をめぐって生ずる[[義務#法的義務(実定法上の義務)|権利義務]]関係を規律する法であり、行政救済法を除く「行政外部の法」を意味する<ref name=Inaba・Hitomi・Murakami・Maeda20>稲葉・人見・村上・前田『行政法 第4版』20頁</ref>。行政作用法は行政機関による「立法」作用(いわゆる[[行政立法]])をも「行政作用法」の対象としてきており、行政作用法の対象となる「行政作用」は、行政立法をも含む広義の形式的意味をしている<ref name=Inaba・Hitomi・Murakami・Maeda21>稲葉・人見・村上・前田『行政法 第4版』21頁</ref>。
行政組織法や行政救済法と異なり、行政作用の領域には、まとまった統一的な法律が少ない<ref name=Inaba・Hitomi・Murakami・Maeda51>稲葉・人見・村上・前田『行政法 第4版』51頁</ref>。
法治国家ないし行政の原則の下においては、法に従ってなされることが要求される<ref name=harada82>原田『行政法要論 全訂7版』82頁</ref>。
=== 行政救済法 ===
{{節スタブ}}
行政法において、市民の権利が行政によって違法か適法かを問わず侵害された場合、その権利を救済する。
== 日本の行政法 ==
{{Law|section=1}}{{出典の明記|section=1|date=2011-12}}
{{日本の統治機構}}
{{ウィキプロジェクトリンク|日本の行政機関}}
=== 行政組織法 ===
==== 行政機関 ====
:[[行政機関]]とは、行政主体のために行政を実施する機関をいう。[[権限]]の帰属で捉えた機関概念である。
*意思決定機関
**行政庁:意思を決定し、これを外部に表示する権限を有する。
***[[独任制]]-[[主任の大臣|各省大臣]]・[[首長|地方自治体の長]]
***[[合議制]]-[[公正取引委員会]] [[行政委員会]]
***法令の適用による法人またはその機関
**:例:[[弁護士]]等への懲戒を行う[[弁護士会]]・[[日本弁護士連合会]]
*諮問機関:行政庁から諮問を受け意見を申し述べる。諮問機関の意見に法的拘束力はない。
*:[[法制審議会]]、各種審議会、中央社会保険医療協議会
*参与機関:意思決定権限はないが、議決に基づき行政庁の意思決定がなされる。参与機関の意見には法的拘束力がある。
*:[[電波監理審議会]]、[[検察官適格審査会]]
*監査機関:行政機関の事務処理について監査する。
**[[会計検査院]]、[[監査委員]]
*執行機関:行政目的達成のために、行政庁の命を受けて必要な実力行使をする機関をいう。
*:[[日本の警察官|警察官]]、[[消防職員]]
*補助機関:行政庁その他の行政機関の職務を補助するため、日常的な事務を遂行する機関をいう。
*:[[副大臣]]、[[大臣政務官]]、局長
===== 指揮監督権 =====
行政の統一をはかるために、上級機関が下級機関に対して有する権限。具体的には以下のものが挙げられる<ref name=":1">{{Cite Kotobank |word=指揮監督権 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-05-05}}</ref><ref name=":2">{{Cite Kotobank |word=指揮監督権 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 |accessdate=2022-05-05}}</ref>。
*監視権{{Efn|実地視察等<ref name=":1" />。}}<ref name=":1" /><ref name=":2" />
*許認可権<ref name=":1" /><ref name=":2" />
*[[訓令]]権<ref name=":1" /><ref name=":2" />
*[[取消]]・[[停止]]権{{Efn|事後的に違法・不当な行為の取消または停止を命じる<ref name=":2" />。}}<ref name=":1" /><ref name=":2" />
*権限争議の決定権{{Efn|権限を巡る下級行政庁同士の争いの裁定<ref name=":2" />。}}<ref name=":2" />
===== 権限の代行 =====
{{main|権限#権限の代行}}
*権限の[[委任]](権限の所在を変更)
*:事務の委任ともいう。
*:法令の根拠が、必要である。
*権限の[[代理]](権限の所在を変更しない)
**法定代理(権限の全てに及ぶ)
***狭義の法定代理
***指定代理
**授権代理(権限の一部について行われる)
**:委任代理ともいう
===== 国家行政組織 =====
*[[日本国憲法]]
**[[内閣 (日本)|内閣]]
*:行政権は、[[内閣 (日本)|内閣]]に属する([[日本国憲法第65条|第65条]])。
*:内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する([[日本国憲法第66条|第66条]])。
**[[会計検査院]] - 行政機関であるが、憲法および[[会計検査院法]]により内閣からの独立が保障されている([[日本国憲法第90条|第90条]]第2項・会計検査院法第1条)。
*[[内閣法]]
:[[s:内閣法#2|第2条]]第1項
::内閣は、国会の指名に基づいて任命された首長たる内閣総理大臣及び内閣総理大臣により任命された国務大臣をもつて、これを組織する。
:[[s:内閣法#4|第4条]]第1項
:: 内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする。
*[[内閣府設置法]]・各省(庁・委員会)設置法等
日本では、憲法第65条で、行政権は[[内閣 (日本)|内閣]]に属すると定めている。これは、一般的には行政権が[[内閣総理大臣]]一人に属しているのではなく、内閣総理大臣と[[国務大臣]]の合議体からなる内閣に帰属していることを意味すると解釈されている(憲法第66条第1項・内閣法第2条第1項参照)。ただし、例えば内閣総理大臣が自己の任命式を終えた後、人事熟考のために時間をかけて[[組閣]]を行う場合、[[全会一致]]を要する[[閣議 (日本)|閣議]]において閣議決定・閣議了解の採択にすべての国務大臣が反対した場合に全閣僚を罷免して自身が兼務することで閣内意思の一致を図るなどの場合において、内閣総理大臣のみをもって内閣が組織されることがありうる(いわゆる[[一人内閣]]。憲法第68条・第71条参照)。
===== 地方行政組織 =====
[[都道府県]]と[[市町村]]がある。
{{see also|地方公共団体}}
==== 公務員 ====
行政組織の人的要素である。
{{see also|日本の公務員}}
==== 公物 ====
行政組織の物的要素である。
{{see also|公物}}
=== 行政作用法 ===
==== 行為形式 ====
===== 行政立法 =====
:[[行政立法]]は、行政機関によって定立された一般規範またはその立法行為である。
*実質による種類
**法規命令
**:国民の権利義務にかかわる法規たる性質を有するもの
**:(例)政令、内閣府令、省令、会計検査院規則、人事院規則、地方公共団体の長や教育委員会等の規則
***執行命令
***:憲法・法律等上級の法令を実施するための具体的細目・手続事項
***:(例)政令・府令・省令・府や省の外局である委員会の規則・会計検査院規則・人事院規則などの命令。
***委任命令
***:法律等上級の法令に基づき発せられる。
***:(例)政令の委任に基づく省令、委員会規則
**行政規則
***[[法令#日本の法令ではないが参照されるもの|訓令]]
***[[通達]]
***[[告示]]
*形式による種類
**[[政令]]
**府省令
**外局規則
**独立機関規則
**行政規則
===== 行政行為 =====
{{main|行政行為}}
*法律行為的行政行為
**命令的行為
***下命、[[許可]]、[[免除]]
**形成的行為
***[[特許]]、[[認可]]、[[代理]]
*準法律行為的行政行為
**確認、公証、通知、受理
*附款
===== 行政契約 =====
[[行政契約]]とは、行政目的を達成するための[[契約]]。
===== 行政指導 =====
[[行政指導]]とは、指導・勧告・助言等で処分に該当しない行為。
===== 行政計画 =====
{{see also|行政計画}}
==== 強制措置 ====
===== 行政強制 =====
行政目的の達成のために、行政権が国民の身体・財産等に実力をくわえ、行政上必要な状態を実現させる作用といわれる<ref>{{Cite Kotobank |word=行政強制 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 |accessdate=2022-03-27}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=須藤陽子|year=2007|title=「即時強制」の系譜|url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/07-4/2007-4.htm|journal=立命館法學|issue=4}}</ref><ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=即時強制 |accessdate=2022-03-27}}</ref>。
*'''[[行政上の強制執行]]'''
*:義務上の不履行を前提とし実力行使により、行政上必要な状態を実現させることで、法律の根拠が必要である。
**[[直接強制]]
**:義務の不履行があった場合、直接に義務者の身体や財産に実力を加えること。
**:例外的に個々の法例で認められる。
***[[成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法|成田新法]]<!--「成田特別法」だと、成田財特法=「成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置法」と紛らわしい-->(破壊活動家の集合などに使用される工作物の使用禁止命令)
***[[感染症予防法]]第17条(健康診断受診勧告)
**[[行政代執行]]
**:代替的作為義務に関する強制執行手続き。
***[[執行罰]]と[[砂防法]]のみが、現行法令である。
**[[自力救済|強制徴収]]
**:公法上の金銭債権を滞納処分の手続きにより自ら強制的に取立てること。
***[[国税徴収法]]
*'''即時強制'''
*:差し迫った事態の解決に、直接実力を加え行政目的を実現させる方法。義務の存在を前提としないのが行政上の強制執行との違いである<ref name=":0" />。
*:法律の根拠が必要である<ref name=":0" />。
*:行政上の強制執行ではないので条例を根拠にすることも可能である。
**[[警察官職務執行法]]
**[[消防法]]
**[[道路交通法]]
**[[結核予防法]]
**[[精神保健法]]
**[[出入国管理及び難民認定法]]
===== 義務違反に対する制裁 =====
====== 行政罰 ======
{{main|行政罰}}
* 行政刑罰
*: 刑法上の刑罰を科す
* [[秩序罰]]
*: 制裁として過料を科す
====== その他の手段 ======
*許認可処分の停止・取消
*経済的負担
*違反事実の公表
*給付拒否
==== 行政手続 ====
*[[行政手続法]]
*[[情報通信技術を活用した行政の推進等に関する法律]](デジタル手続法)
==== 行政調査 ====
[[行政調査]]は、行政機関が行政作用を公正に行うために、身体・財産を半強制的に調査し情報を収集すること。
==== 行政情報 ====
{{see also|情報公開}}
{{see also|プライバシー}}
{{節スタブ}}
=== 行政救済法 ===
*行政争訟
**[[行政不服審査法]]
**[[行政審判]]
**[[苦情処理]]
**[[オンブズマン]]
*[[行政事件訴訟法]]
*[[国家賠償法]]
*仮の救済
**[[執行停止]]
**[[内閣総理大臣の異議]]
**仮処分の排除
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*[[芦部信喜]]著[[高橋和之 (憲法学者)|高橋和之]]補訂『[[憲法]] 第六版』[[岩波書店]]、2015年。
*[[野田良之]]ほか訳『[[法の精神]]』[[岩波文庫]]、1989年。
*[[新村出]]編『[[広辞苑]] 第六版』岩波書店、2008年。
*[[塩野宏]]『行政法1 第4版 行政法総論』有斐閣、2005年。
*[[原田尚彦]]『行政法要論 全訂第7版』学陽書房、2010年。
*[[竹尾隆]]『現代行政学理論』嵯峨野書院、1995年。
== 関連項目 ==
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*[[行政機関]]
*[[行政法]]
*[[行政区画]]
*[[行政改革]]
*[[行政行為]]
*[[行政書士]]
*[[行政不服審査法]]
*[[行政委員会]]
*[[行政区]]
*[[行政指導]]
*[[行政手続法]]
*[[行政訴訟]]
*[[行政処分]]
*[[行政事件訴訟法]]
*[[行政罰]]
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== 外部リンク ==
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3,356 | ガスタービンエンジン | ガスタービンエンジン(ガスターバインとも)は、原動機の一種であり、燃料の燃焼等で生成された高温のガスでタービンを回して回転運動エネルギーを得る内燃機関である。
重量や体積の割に高出力が得られることから、現在ではヘリコプターを含むほとんどの航空機に動力源として用いられている。また、始動時間が短く冷却水が不要なことから非常用発電設備として、さらに1990年代から大規模火力発電所においてガスタービン・蒸気タービンの高効率複合サイクル発電(コンバインドサイクル発電)として用いられている。
ガスタービンは遠心式又は軸流式の回転式圧縮機で燃焼用空気を圧縮して燃焼器に送り込み、燃料を燃焼器に吹き込んで燃焼させる。その際に発生した高温高圧の燃焼ガスが遠心式もしくは軸流式タービンを回転させる。タービン軸は通常、圧縮機と直結しており、圧縮機に圧縮動力を伝え、持続運転する。燃焼ガスのエネルギーをタービンでできる限り回収して軸出力を取り出し、排気に仕事をさせない場合と、軸出力は圧縮機の動力としてのみ用いて燃焼ガスの後方噴出によって得る推力を出力の主体とする場合(ジェットエンジン)がある。自動車、レシプロ機関を持つ航空機等に用いられるターボチャージャーも、エンジンを燃焼器とし出力軸を持たない一種のガスタービンに分類できるが、後述の燃焼器(加熱器)代わりのレシプロエンジンの前後で大きく圧力が変わり得る点が通常のガスタービンと異なる。液体燃料ロケット用ターボポンプなど、液体燃料+液体酸化剤などを燃焼室で燃やし、作動流体圧縮機を省略する(但し燃料・酸化剤注入ポンプが使われる場合はある)方式もある。
ガスタービンエンジンは連続的に圧縮・燃焼・膨張・排気する「部位」があるため、レシプロエンジン(ピストンエンジン)と異なりそれぞれの「行程」はない。燃焼は一定圧力のもとで行われ、理論サイクルはブレイトンサイクルで近似される。
この他、作動流体で化学燃焼させず、熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却、又は作動流体を排気する事により稼働する、外燃式ガスタービンも理論上存在し、一部研究試作された。また大気から空気等を吸い込みタービンを回した後再び大気に排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと呼ぶ。
西暦150年、ヘロンが蒸気機関(アイオロスの球)を考案するが、玩具的にしか扱われず、その潜在的能力が認識されるのは何世紀もたってからである。
1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチが暖炉で調理中のあぶり肉を回転させるためのスモークジャックの図を描いている。これは火から上昇する熱い空気の流れで羽根車を回し、その力であぶり肉を刺した棒を回すものである。1551年、タキ=アルジンがスモークジャックと同じ用途の蒸気タービンを発明した。ジョバンニ・ブランカは1629年、蒸気タービンを使った砕鉱機を開発した。フェルディナント・フェルビーストは1678年、蒸気ジェットの力で動く車を開発した。
1791年、イギリスの技術者ジョン・バーバーが世界初の真のガスタービンの特許を取得した。その発明の構成は今日のガスタービンと基本的に変わらない。バーバーはこれを車の動力にしようとしたが、当時の技術では完全に動作するものを製作できなかった。
1894年(明治27年)、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズは蒸気タービン船のアイデアで特許をとり、タービニアという実験艇を作った。1895年(明治28年)にはパーソンズの蒸気タービンを使った発電機がケンブリッジ発電所に設置され、街灯への電力供給を行った。1903年(明治36年)、ノルウェーのエギディアス・エリングが入力よりも出力が大きい世界初のガスタービンを完成させた(11馬力)。1913年、ニコラ・テスラが境界層効果を利用したテスラタービンの特許を取得。1918年(大正7年)、今日もガスタービン製造で知られているゼネラル・エレクトリックがガスタービン部門を創設した。1920年(大正9年)、これまでの経験則的な理論から一歩進んで A. A. Griffith が翼とガス流についての理論を構築した。
1930年(昭和5年)、フランク・ホイットルがジェット推進用ガスタービンの設計で特許を取得。日本ガスタービン学会誌19(73)では「エリングの業績を知っていたか」と問われたホイットルは「知らなかった。知っていたら開発は10年早く出来ただろう」と答えたとされている。実際にジェットエンジンが動作したのは1937年(昭和12年)4月のことである。1934年(昭和9年)、ラウル・パテラス・ペスカラはガスタービン用ガス発生器として使える自由ピストンエンジンの特許を取得した。1936年(昭和11年)、ハンス・フォン・オハインとマックス・ハーンがフランク・ホイットルとは別方式のジェットエンジンの開発に成功した。
同出力のレシプロエンジン(代表例:ガソリンエンジン・ディーゼルエンジン)などと比べ、以下のような特徴を持つ。
航空機用の高性能エンジンは厳選されたジェット燃料(高度に精製された灯油)を使用する。アームストロング・シドレー マンバのように軽油を使用できるエンジンも存在する。
陸上設置型や舶用では軽油を使用する。A重油を除き、安価な重油は使用できない。発電用ガスタービンでは天然ガスや石炭をガス化して燃焼する機種もある。外燃式ガスタービンや密閉サイクルガスタービンでは蒸気機関と同様に、安価な重油や石炭や原子力や電熱等、内燃式ガスタービンで使用困難な燃料も使用可能になる。
アメリカ軍では航空機用のJP-8をガスタービンやディーゼルエンジンを搭載した車両の燃料として共通化している。
ガスタービンエンジンは航空機に搭載される軽量型と、主に地上に設置して発電などに使用される重量のある重構造型とに大別できる。船舶や車両といった移動体や地上固定式でも小型のものでは、航空機用のジェットエンジンの設計に基づく軽量のものが製造されており、軽量型に分類される。また、これらとは別にかなり小型のガスタービンエンジンも存在する。
分散型発電機用としてマイクロガスタービンが開発され、コジェネレーションや再生器を使用して総合的な熱効率を高めるようになっている。小型で低価格にすることで事務所や商店等での利用が想定され、潤滑油を廃して空気軸受が使用されるなど、保守の手間を省くよう考慮されている。
特殊なものとしては、直径12mm、厚さ3mmの円盤状で重さ1gの超マイクロガスタービンが、電気出力10-20W程度の発電用途に開発されている。
作動流体で燃料を化学燃焼させ熱源とする一般的な内燃式ガスタービンと、作動流体で化学燃焼させず熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却又は作動流体を排気する事により稼働する外燃式ガスタービンに、熱の動きで分類される。質量制限の緩い艦船用・発電用内燃式ガスタービンにも、排気からの熱を燃焼前の作動流体に移す熱交換器が装備され、外燃式ガスタービン的要素を帯びる場合も多い。
機関外から空気等の作動流体を吸い込みタービンを回した後機関外に全て排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し給排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと、作動流体の流れで分類され、両者の中間には、作動流体の一部(成分)を追加供給する物や、作動流体の一部(成分)を排出する物がある。
航空機用、船舶用、陸上車両用、陸上設置型の発電用のそれぞれでエンジンとして使用される。乗り物(ビークル)においては、概して高性能だが高コストという定性上、民生よりも軍事での利用が多い。
特に航空用エンジンとしては高速の運転条件と相性がよく大重量の減速機が不要、機関の小型軽量高出力のメリットを減じる吸排気系の処理を考える必要がなく、回転軸出力を主に用いるものでも排気を推進力に利用でき、最も適合する。航空機用のガスタービンは、高温・高圧の排気ガスを後方に勢いよく噴射しその反作用で推進力を得るものから始まった歴史的経緯から、「ジェットエンジン」と通称される。2016年現在、実用化された有人航空機のジェットエンジンは全てがガスタービンエンジンであるが、ジェットエンジン=ガスタービンエンジン、ではない。ジェットエンジンの定義は、気流を後方に噴射・或は前方から気流を吸入し、その反作用で推進力を得る事であり、タービンを備える事ではないからだ。ミサイル等無人機ではパルスジェットエンジンやラムジェットエンジンなどのタービンを備えないジェットエンジンが実用化されている。またレシプロエンジン・ガスタービンエンジンであっても高速で移動する場合は吸気吸入の際ラム圧を利用出来、超音速機ではそれによる推力が過半を占める。
一方で、航空機以外の用途に用いられるエンジンは、回転運動を取り出す目的で用いられるために「ジェットエンジン」とは呼ばず、ガスタービンエンジンと呼称するのが通例となっている。
なお、航空機でもプロペラやローターを備えるもののエンジンは、回転運動の取り出しと排気噴射の反作用の双方を用いる。こちらは「ターボプロップエンジン」もしくは「ターボシャフトエンジン」と固有の形式名で呼称され、ジェットエンジンないしガスタービンエンジンといった総称的な呼称で呼ぶ事は稀である。なお例外的であるが、レース用の自動車においては、回転運動のみならず排気噴射の反作用をも用いるものがある。さらに例外的であるが、自動車・鉄道・船舶で、高速実験や速度記録を作る目的で排気噴射の反作用を用いるエンジンを搭載した例があるが、そのエンジンはジェットエンジンと呼称された。
中型・大型旅客機などの後部には、小型のガスタービンで駆動するAPU(Auxiliary Power Unit:補助動力装置)が、推進用のジェットエンジンとは別に搭載されている場合が多い。これは空港に駐機中、機内で必要な電源や油圧を確保したり、ジェットエンジン本体の始動に必要な圧縮空気を発生させたりする際に使用されるものである。尚、APU本体の始動にはバッテリー駆動のモータを使用するか、アキュムレーターによる蓄圧エネルギーを始動回転に用いる。燃料はジェット燃料が使用される。航空機の尾部に見られる小さな排気孔は、この排気用である。
航空機の操縦士や整備士の資格では、圧縮にタービンで駆動する圧縮機の回転を使うもの(ターボジェットエンジン、ターボファンエンジン、ターボプロップエンジン、ターボシャフトエンジン 但しピストンエンジンのターボチャージャーは除く)は『タービン』に分類される。
船舶用のガスタービンエンジンは、主機関に使用する他に船内発電用として、また、船に限らず地上のものと同様に非常用発電機のエンジンとして使用される。主機関として使用される場合には、一般的な減速ギヤー経由でプロペラシャフトへと接続されるものと、発電機で発電した電力で電動機を駆動するターボ・エレクトリック方式がある。減速ギヤーを使用するものでは、逆転用の歯車を組み合わせるものは少なく、可変ピッチプロペラによって逆進を行なうものが多い。
航空機用ガスタービンエンジンから作られた軽量型のものは1基では出力に限界があり、大型船では複数のガスタービンエンジンを備える必要がある。同時に出力調整が苦手という欠点を、低速時には一部機関を停止させることで補う。大量の吸排気が必要となりこれらの大きなエアダクトが船体中央部を船底から煙突や船体上部まで貫くが、ガスタービンエンジンの定期保守にはエンジンそのものを陸上に上げる必要があり、保守利便性と空間の有効利用は矛盾するため、設計時に困難が伴う。
海での使用では塩害対策が求められ、燃焼器ライナーと圧縮機の翼に耐蝕コーティングが施されている。
軍艦に於けるガスタービンエンジンは、航空用エンジンを舶用に転用したエンジンの採用が艦艇を中心に広まり、近年では高速性を重視する艦艇にも採用が進みつつある。船舶用は中間冷却機を備える事で熱効率を上げている。
軽量大出力の艦艇用機関としてガスタービンエンジンを最初に採用したのはイギリス海軍で、1958年に進水したブレイヴ級高速哨戒艇(英語版)にブリストル・シドレイ社 (Bristol Siddeley) のプロテュース(英語版) (Proteus) が採用されている。大型艦艇での採用は旧ソ連海軍とイギリス海軍が先鞭をつけた。
1962年から建造が始まった旧ソ連海軍の満載排水量 4,510 トンの61型大型対潜艦(カシン型駆逐艦)は世界初のガスタービン推進の大型艦となった。
イギリス海軍は1966年に14型フリゲート「HMS エクスマス (F84)(英語版)」をロールス・ロイス社のオリンパスTM1AとプロテュースによるCOGOG推進に改造して試験に供した。以後のイギリス海軍では81型フリゲートやカウンティ級駆逐艦、82型駆逐艦「ブリストル」におけるガスタービンと蒸気タービンとの組み合わせによるCOSAG 推進を経て、1973年の21型フリゲートや1975年の42型駆逐艦でオール・ガスタービン化されている。1980年に竣工した満載排水量 20,500 トンのインヴィンシブル級航空母艦はオリンパス TM1B を4基用いたCOGAG推進艦で世界最大のガスタービン推進艦となった。
これらの国々に続いてアメリカ海軍では1973年に竣工したスプルーアンス級駆逐艦や1976年に竣工したオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートがジェネラル・エレクトリック社製の航空エンジンである CF6-50 を舶用に転用した LM2500 ガスタービンによる COGAG 推進を採用している。
海上自衛隊では、11号型魚雷艇などに航空用エンジンを転用したガスタービンを搭載するとともに、昭和29年度計画乙型駆潜艇「はやぶさ」に防衛庁技術研究本部と三菱重工業長崎造船所が共同で開発・製造した MUK501(運輸省の練習船「北斗丸」に搭載されたものと同機種)がディーゼルと組み合わされ (CODAG) 試験的に搭載された。しかし本機の運用実績は芳しくなく、1970年(昭和45年)にガスタービン用の中央軸を損傷したのを機に撤去された。その後しばらく、護衛艦の主機にガスタービンを推すことを躊躇う風潮が生じ、蒸気タービンとディーゼルが主機に採用され続けたが、1974年(昭和49年)度計画でやまぐも型護衛艦の発展型として、ロールス・ロイス オリンパスTM3BによるCODOG機関を搭載した2500トン型護衛艦の建造が計画された。この計画はオイルショックの影響で中止されたが、3年後の1977年(昭和52年)度計画で、DEである「いしかり」が CODOG推進艦として、DDであるはつゆき型がCOGOG推進艦(巡航用にタイン RM1C を 2 基、高速用にオリンパス TM3B を 2 基使用する)として建造されることとなった。続く1988年のあさぎり型ではスペイ SM1A を 4 基組み合わせた COGAG 推進が採用された。エンジンは川崎重工業がライセンスをうけて生産した。1996年に一番艦が竣工したむらさめ型とその改良型であるたかなみ型はロールス・ロイス社のスペイ SM1C とジェネラル・エレクトリック社の LM2500 を採用した世界的にも珍しいメーカーの異なるガスタービンエンジンの組み合わせによる COGAG 推進艦である。このように現代の艦艇ではガスタービン主機が主流となっている。
前述の例群に先行して、類似技術のヴァルター機関が潜水艦や魚雷向けに試作・実用化され、魚雷用としては非ヴァルタータービン式ガスタービンが、後のスピアフィッシュ魚雷等に採用されている。
旧ソ連海軍やイギリス海軍ではいずれも軽量大出力であること、従来の艦艇用主機に比べて整備性が良いこと、出力の増減が迅速に行える点が評価された。一方で、ガスタービンとスクリューではその回転数が極端に異なるため巨大な減速ギアボックスが必要なこと、およびガスタービン主機は燃費が悪く、運転条件によっては多量の燃料を消費するなどのマイナス面もある。過去にカシン型は日本海で燃料切れを起こして立ち往生する事故を起こしている。またガスタービンエンジン搭載艦は従来の蒸気タービン、ディーゼルエンジン搭載艦と比べると大量の給排気、高温の排気、小型軽量であるがゆえの重心上昇などの点を、艦艇の設計にあたって留意する必要があり艦容に大きな影響を与える。
アメリカ海軍では下部が軽くなった分を下部構造を強化して重くし上部構造を軽合金で製作するなどして補正した。ただし軽合金製上部構造はフォークランド紛争やアメリカ海軍の火災事故などでの被害拡大の要因となったとされ、護衛艦では鋼製に戻されている。大量の給排気は煙突と給気筒を大きくすることで対応する。このためガスタービン搭載艦の煙突は太く短い物が多い。高温の排気については煙突からの排気の下流に物を置かないなどの対処がとられる。また蒸気タービン搭載艦などに流行したマック(マスト+スタック(煙突)の造語。両者の機能を併せ持つ構造物)はガスタービン搭載艦では見られなくなっている。
民間船舶の多くには熱効率が非常に優れた低速回転ディーゼルエンジンが用いられている。高速フェリーなどでの軽量化のためや、排気ガス中に含まれる窒素酸化物の排出が少ない事もあり、ガスタービンエンジンも徐々に使用され始めている。
特に水中翼船、ホバークラフトなどでは主流となっている。また従来の舶用機関に比べてガスタービンエンジンの運転時の騒音が、特に低周波成分が少ない点を評価し、大型客船用のターボ・エレクトリック方式の推進機関の主機として採用された例がある。
1990年代半ばの日本では、モーダルシフトに関連して内航船の速度向上をめざす二隻のテクノスーパーライナー (TSL) 実験船が建造された。三井造船の空気圧力式複合支持船型(エアクッション艇)「飛翔(ひしょう)」、及び川崎重工業の揚力式複合支持船型(水中翼船)「疾風(はやて)」は、いずれもガスタービンエンジン主機によるウォータージェット推進の高速船であった。
燃費が圧倒的に悪く、エンジンそれ自体の価格と保守にかかるコストもディーゼルエンジンより高額となり、整備のために取り外さなければならないため船内配置が制約されるなど、ガスタービンエンジンは舶用主機関としては不利な点が多いため、軽量である利点が生かせる用途にのみ使用される。
第二次世界大戦末期にドイツがGT 101ガスタービンをV号戦車パンターに試験的に搭載した。
最初に戦車へガスタービンエンジンを採用したスウェーデンのStrv.103ではディーゼルエンジンを混載し、ガスタービンエンジンはダッシュ時のみに使用されていた。旧ソ連のT-80はガスタービンエンジンのみを搭載したが、トラブルが続出したためT-80Uで改良が加えられたが、燃費のよいディーゼルエンジンを搭載したT-72、T-80UD、T-90、T-14を併行して生産配備している。アメリカのM1エイブラムスもT-80同様にガスタービンエンジンのみを搭載したが、燃費の悪さのために湾岸戦争時には大量の燃料の輸送が行われ、この戦訓から停車時の電力供給を目的にM1へAPUを設置した。フランスのルクレールはガスタービンエンジンを補助動力としても使用できる複合動力装置として搭載している。しかし複雑なシステムゆえにフランス本国以外での修繕は不可能とされ、UAE輸出型は動力部をユーロパワーパックに換装した仕様となっている。
現在、高容量電気二重層キャパシタと組み合わせたガスタービン-電気ハイブリッド式の開発が各国で進められている。現在3種の戦車にガスタービンエンジンが用いられている。小型大出力のエンジンとして評価され、瞬間的なダッシュ力には一定の評価があるが、低速/停車時の燃費の悪さから、主力戦闘車輌としてはこれらに続く採用事例はない。
鉄道車両へのガスタービンエンジン搭載も様々な方法で模索されてきたが、実用化された例は少なく、ランニングコスト等の理由から早々と営業運転を終了した車両も多い。前述した通り、細かなエンジン回転数の調整が困難な事・低負荷の状態では燃費効率が悪化する・騒音が大きいなどが理由として挙げられる。
鉄道車両への搭載例は、1941年にスイス連邦鉄道が導入した、ブラウン・ボベリ製ガスタービンエンジンと発電機を搭載したAm4/6形が最初の事例とされており、1966年 ユナイテッド・エアクラフト社(後のユナイテッド・テクノロジーズ)によるUAC ターボトレインがあり、長期試験の後1968年から米ニューヘブン鉄道で、1973年からカナダ国鉄・モントリオール-トロント間で特急「TURBO」として営業運転を行なっていた。試験車両としては旧国鉄が開発した国鉄キハ07形気動車改造車(キハ07 901)と、その結果を元に試作されたキハ391系がある。これらは非電化区間のスピードアップを図るために開発されたが、第一次オイルショックを機に実用・量産化が断念されている。フランス国鉄が運行するTGVも、初期にはガスタービン駆動の発電機で発電し電動機を駆動する電気式ガスタービン機関車が計画され試作車両が作られたが、同様にオイルショックのため電気機関車方式に変更された。ただし、実用・量産化の失敗の原因は当時の技術不足の一面も大きく、発電機・電動機の小型化が進んだ現在ならガスタービンエンジンの持ち味を生かせる可能性もあるとも考えられ、現在でもガスタービンで発電機を回して電動機を駆動する「電気式ターボトレイン」の研究が続いており、特にアメリカでは膨大な軍事技術を投入したハイブリッド仕様のターボトレインを研究中で、回生制御の肝となるフライホイールの開発如何によっては非電化高速鉄道の切り札になるといわれている。
その他にも1960年代から1970年代にかけてイギリスやドイツ、チェコスロバキア、スイス、ドイツ、ソ連などで開発が進められたが第一次オイルショックの後、開発は下火になった。その後、ロシアでは圧縮天然ガスを燃料とするGT1が開発され、試験運用されている。
なおフランス製のターボトレインはエジプトやイランなどへも輸出され、特にエジプトでは1983年の就役以来、カイロ〜アレクサンドリア間の特急列車として活躍している。
工事用などの産業用機関車では、蓄電池機関車にマイクロガスタービン発電機を搭載した機関車が実用化されており、現場の条件で充電や電池交換が困難な用途向けに使用されている。
さらに、本来の用途ではないが、雪かき車としてジェット噴射で除雪する車両が実用化されている。ヘリコプター用の小型ガスタービンを保線用車両に取り付け、排気をダクトで線路面に平行に前方に噴射し雪を吹き飛ばすタイプの除雪車両が、操車場などのポイントの融雪・氷塊除去に使用される。実際、ユニオンパシフィック鉄道のソルトレイクシティ駅で使用されていた。
個々の車両などはCategory:ガスタービン機関車も参照のこと。
1950年代から1960年代にかけて、小型で高出力のガスタービンは次世代エンジンとして注目され、ガスタービン自動車の実用化に向けて様々な研究がされてきたが、量産車として成功した例は少ない。
1963年にクライスラーは自動車用ガスタービンエンジンを独自に開発してクライスラー・ターバインを開発し、一般ユーザー向けに試験販売も行われた。クライスラーでは1993年にもクライスラーパトリオットを開発している。日本車ではトヨタ自動車がGTV(1987年第27回東京モーターショー出品) を開発した例がある。
自動車レースの世界では、イギリスのローバーが1963年と1965年にガスタービン搭載車をル・マン24時間レースに出場させた例や、アメリカのSTPが、プラット・アンド・ホイットニー製のエンジンを搭載した車両を1967年と1968年のインディ500に出場させていた例などがある。
ハイブリッドカーの動力源としてガスタービンを使用する事例もあり、1992年のパリサロンではボルボ・ECCが出品されたほか、ゼネラルモーターズは1990年代半ばにGM・EV1電気自動車にウィリアムズ・インターナショナルで開発されたガスタービンを搭載したハイブリッドカーを開発した。単段式、単軸で熱交換器を備えたガスタービンにより永久磁石式交流発電機を駆動した。ガスタービンの重量は220 lb (99.8 kg)、直径20 inches (50.8 cm)、全長22 inches (55.9 cm)、回転数は100,000 から 140,000 rpmだった。タービンはハイオクタン価の代替燃料や圧縮天然ガスが使用された。蓄電池の容量が40%以下になると自動的にガスタービン発電機が作動して40 kWの電力を供給して充電する仕様だった。最高速度は80 mph (128.8 km/h)に達した。日本車でもトヨタがセンチュリーにガスタービンを搭載した「トヨタセンチュリー・ガスタービン・ハイブリッド」(1975年第21回東京モーターショー出品) や、スポーツ800にガスタービンエンジンとモーターを搭載したハイブリッドカー(1977年第22回東京モーターショー出品)を開発している。2019年には三菱自動車がガスタービンエンジンを搭載するプラグインハイブリッドカーの「MI-TECH CONCEPT」を発表した。
また2006年現在では、アメリカのマリン・タービン・テクノロジー社が、ガスタービンエンジン搭載のオートバイを市販している。
他にもマイクロガスタービン発電機をハイブリッド車の電源に採用した車両がアメリカやニュージーランドなどで見られ、日本では日の丸自動車興業が東京駅周辺で運行している2つの無料循環バス:丸の内シャトルとメトロリンク日本橋に採用されている。
2010年に開催されたパリモーターショーで発表されたジャガー75周年記念コンセプトモデルCX-75はレンジエクステンデッド(航続距離延長型)電気自動車エンジンとして発電用マイクロガスタービンを2個搭載し、合計70kWの出力を発生する。フル充電してさらにガスタービンを使用した場合900kmの航続距離を実現している。
ガスタービンエンジンは、汽力発電などに用いられる蒸気タービンに比べて起動時間が短いため、ピーク時用内燃力発電として1950年代から用いられていた。また、ディーゼルエンジンと比較して、小型軽量で冷却水が不要なため、非常用発電機に用いられる。さらに、高圧部が無いことから設置に際し規制が緩やかで、2000年代に入り電気工作物としての規制も緩和されたため、都市ガスを燃料とする超小型ガスタービンエンジンを用いた店舗用小規模自家発電装置なども普及している。振動が少なく、軽量なため、従来のディーゼル式発電機では不可能だった高層ビルの屋上に設置される例もある。
ガスタービンエンジンは高温で動作するため、その排気もまた十分に高温であり、吸収式冷凍機や廃熱回収ボイラーと組み合わせて、電気の他、蒸気、温水をも供給する熱電併給システム(コジェネレーション)や、さらに蒸気タービンによる発電を組み合わせて複合火力発電(コンバインドサイクル発電)とし、総合的な熱効率を大幅に高めることがなされている。
ムーンライト計画では中間冷却器、熱再生器を搭載した世界最高水準の高効率のガスタービンが開発された。現在は日本工業大学付属工業技術博物館に国産のターボファンエンジンであるFJR710と供に保存、展示されている。
2005年現在、ドイツなどでは、燃焼用の圧縮空気を夜間などの電力需要の小さい時間に岩塩を取り出した跡の岩盤内に蓄え昼間に使用することで圧縮機の必要動力を軽減し、発電量を増加させるものが実証試験中である。
2011年に起こった東日本大震災とそれに付随する福島第一原子力発電所事故により東北電力・東京電力管内の供給能力が急減し、この減少分を補うためにLNGを燃料とするガスタービン発電機が既存の火力発電所内に急遽設置されることとなった。
ロケット等において推進剤をエンジンに供給する為に使用される。高速で回転する為、キャビテーションが発生しないように細心の注意が払われる。ターボポンプの成否が新型エンジンの成功の成否に懸かっているといっても過言ではないくらいでターボポンプの開発は難航する場合がある。
発電用ではない定置式ガスタービンエンジンの例としては、河川の排水ポンプがある。大雨等で水かさが増した河川の水をポンプ汲み上げて排水する時に使用される大型ポンプの動力としてガスタービンエンジンの採用事例がある。小型大出力、起動時間の短さ、整備性の良さ等が評価された結果である。 | [
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"text": "ガスタービンエンジン(ガスターバインとも)は、原動機の一種であり、燃料の燃焼等で生成された高温のガスでタービンを回して回転運動エネルギーを得る内燃機関である。",
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"text": "重量や体積の割に高出力が得られることから、現在ではヘリコプターを含むほとんどの航空機に動力源として用いられている。また、始動時間が短く冷却水が不要なことから非常用発電設備として、さらに1990年代から大規模火力発電所においてガスタービン・蒸気タービンの高効率複合サイクル発電(コンバインドサイクル発電)として用いられている。",
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"text": "ガスタービンは遠心式又は軸流式の回転式圧縮機で燃焼用空気を圧縮して燃焼器に送り込み、燃料を燃焼器に吹き込んで燃焼させる。その際に発生した高温高圧の燃焼ガスが遠心式もしくは軸流式タービンを回転させる。タービン軸は通常、圧縮機と直結しており、圧縮機に圧縮動力を伝え、持続運転する。燃焼ガスのエネルギーをタービンでできる限り回収して軸出力を取り出し、排気に仕事をさせない場合と、軸出力は圧縮機の動力としてのみ用いて燃焼ガスの後方噴出によって得る推力を出力の主体とする場合(ジェットエンジン)がある。自動車、レシプロ機関を持つ航空機等に用いられるターボチャージャーも、エンジンを燃焼器とし出力軸を持たない一種のガスタービンに分類できるが、後述の燃焼器(加熱器)代わりのレシプロエンジンの前後で大きく圧力が変わり得る点が通常のガスタービンと異なる。液体燃料ロケット用ターボポンプなど、液体燃料+液体酸化剤などを燃焼室で燃やし、作動流体圧縮機を省略する(但し燃料・酸化剤注入ポンプが使われる場合はある)方式もある。",
"title": "作動原理"
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"text": "ガスタービンエンジンは連続的に圧縮・燃焼・膨張・排気する「部位」があるため、レシプロエンジン(ピストンエンジン)と異なりそれぞれの「行程」はない。燃焼は一定圧力のもとで行われ、理論サイクルはブレイトンサイクルで近似される。",
"title": "作動原理"
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"text": "この他、作動流体で化学燃焼させず、熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却、又は作動流体を排気する事により稼働する、外燃式ガスタービンも理論上存在し、一部研究試作された。また大気から空気等を吸い込みタービンを回した後再び大気に排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと呼ぶ。",
"title": "作動原理"
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"text": "西暦150年、ヘロンが蒸気機関(アイオロスの球)を考案するが、玩具的にしか扱われず、その潜在的能力が認識されるのは何世紀もたってからである。",
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"text": "1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチが暖炉で調理中のあぶり肉を回転させるためのスモークジャックの図を描いている。これは火から上昇する熱い空気の流れで羽根車を回し、その力であぶり肉を刺した棒を回すものである。1551年、タキ=アルジンがスモークジャックと同じ用途の蒸気タービンを発明した。ジョバンニ・ブランカは1629年、蒸気タービンを使った砕鉱機を開発した。フェルディナント・フェルビーストは1678年、蒸気ジェットの力で動く車を開発した。",
"title": "歴史"
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"text": "1791年、イギリスの技術者ジョン・バーバーが世界初の真のガスタービンの特許を取得した。その発明の構成は今日のガスタービンと基本的に変わらない。バーバーはこれを車の動力にしようとしたが、当時の技術では完全に動作するものを製作できなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1894年(明治27年)、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズは蒸気タービン船のアイデアで特許をとり、タービニアという実験艇を作った。1895年(明治28年)にはパーソンズの蒸気タービンを使った発電機がケンブリッジ発電所に設置され、街灯への電力供給を行った。1903年(明治36年)、ノルウェーのエギディアス・エリングが入力よりも出力が大きい世界初のガスタービンを完成させた(11馬力)。1913年、ニコラ・テスラが境界層効果を利用したテスラタービンの特許を取得。1918年(大正7年)、今日もガスタービン製造で知られているゼネラル・エレクトリックがガスタービン部門を創設した。1920年(大正9年)、これまでの経験則的な理論から一歩進んで A. A. Griffith が翼とガス流についての理論を構築した。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年(昭和5年)、フランク・ホイットルがジェット推進用ガスタービンの設計で特許を取得。日本ガスタービン学会誌19(73)では「エリングの業績を知っていたか」と問われたホイットルは「知らなかった。知っていたら開発は10年早く出来ただろう」と答えたとされている。実際にジェットエンジンが動作したのは1937年(昭和12年)4月のことである。1934年(昭和9年)、ラウル・パテラス・ペスカラはガスタービン用ガス発生器として使える自由ピストンエンジンの特許を取得した。1936年(昭和11年)、ハンス・フォン・オハインとマックス・ハーンがフランク・ホイットルとは別方式のジェットエンジンの開発に成功した。",
"title": "歴史"
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"text": "同出力のレシプロエンジン(代表例:ガソリンエンジン・ディーゼルエンジン)などと比べ、以下のような特徴を持つ。",
"title": "特徴"
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"text": "航空機用の高性能エンジンは厳選されたジェット燃料(高度に精製された灯油)を使用する。アームストロング・シドレー マンバのように軽油を使用できるエンジンも存在する。",
"title": "燃料"
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"tag": "p",
"text": "陸上設置型や舶用では軽油を使用する。A重油を除き、安価な重油は使用できない。発電用ガスタービンでは天然ガスや石炭をガス化して燃焼する機種もある。外燃式ガスタービンや密閉サイクルガスタービンでは蒸気機関と同様に、安価な重油や石炭や原子力や電熱等、内燃式ガスタービンで使用困難な燃料も使用可能になる。",
"title": "燃料"
},
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"text": "アメリカ軍では航空機用のJP-8をガスタービンやディーゼルエンジンを搭載した車両の燃料として共通化している。",
"title": "燃料"
},
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"text": "ガスタービンエンジンは航空機に搭載される軽量型と、主に地上に設置して発電などに使用される重量のある重構造型とに大別できる。船舶や車両といった移動体や地上固定式でも小型のものでは、航空機用のジェットエンジンの設計に基づく軽量のものが製造されており、軽量型に分類される。また、これらとは別にかなり小型のガスタービンエンジンも存在する。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "分散型発電機用としてマイクロガスタービンが開発され、コジェネレーションや再生器を使用して総合的な熱効率を高めるようになっている。小型で低価格にすることで事務所や商店等での利用が想定され、潤滑油を廃して空気軸受が使用されるなど、保守の手間を省くよう考慮されている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "特殊なものとしては、直径12mm、厚さ3mmの円盤状で重さ1gの超マイクロガスタービンが、電気出力10-20W程度の発電用途に開発されている。",
"title": "分類"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "作動流体で燃料を化学燃焼させ熱源とする一般的な内燃式ガスタービンと、作動流体で化学燃焼させず熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却又は作動流体を排気する事により稼働する外燃式ガスタービンに、熱の動きで分類される。質量制限の緩い艦船用・発電用内燃式ガスタービンにも、排気からの熱を燃焼前の作動流体に移す熱交換器が装備され、外燃式ガスタービン的要素を帯びる場合も多い。",
"title": "分類"
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"text": "機関外から空気等の作動流体を吸い込みタービンを回した後機関外に全て排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し給排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと、作動流体の流れで分類され、両者の中間には、作動流体の一部(成分)を追加供給する物や、作動流体の一部(成分)を排出する物がある。",
"title": "分類"
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"text": "航空機用、船舶用、陸上車両用、陸上設置型の発電用のそれぞれでエンジンとして使用される。乗り物(ビークル)においては、概して高性能だが高コストという定性上、民生よりも軍事での利用が多い。",
"title": "用途"
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"text": "特に航空用エンジンとしては高速の運転条件と相性がよく大重量の減速機が不要、機関の小型軽量高出力のメリットを減じる吸排気系の処理を考える必要がなく、回転軸出力を主に用いるものでも排気を推進力に利用でき、最も適合する。航空機用のガスタービンは、高温・高圧の排気ガスを後方に勢いよく噴射しその反作用で推進力を得るものから始まった歴史的経緯から、「ジェットエンジン」と通称される。2016年現在、実用化された有人航空機のジェットエンジンは全てがガスタービンエンジンであるが、ジェットエンジン=ガスタービンエンジン、ではない。ジェットエンジンの定義は、気流を後方に噴射・或は前方から気流を吸入し、その反作用で推進力を得る事であり、タービンを備える事ではないからだ。ミサイル等無人機ではパルスジェットエンジンやラムジェットエンジンなどのタービンを備えないジェットエンジンが実用化されている。またレシプロエンジン・ガスタービンエンジンであっても高速で移動する場合は吸気吸入の際ラム圧を利用出来、超音速機ではそれによる推力が過半を占める。",
"title": "用途"
},
{
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"text": "一方で、航空機以外の用途に用いられるエンジンは、回転運動を取り出す目的で用いられるために「ジェットエンジン」とは呼ばず、ガスタービンエンジンと呼称するのが通例となっている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、航空機でもプロペラやローターを備えるもののエンジンは、回転運動の取り出しと排気噴射の反作用の双方を用いる。こちらは「ターボプロップエンジン」もしくは「ターボシャフトエンジン」と固有の形式名で呼称され、ジェットエンジンないしガスタービンエンジンといった総称的な呼称で呼ぶ事は稀である。なお例外的であるが、レース用の自動車においては、回転運動のみならず排気噴射の反作用をも用いるものがある。さらに例外的であるが、自動車・鉄道・船舶で、高速実験や速度記録を作る目的で排気噴射の反作用を用いるエンジンを搭載した例があるが、そのエンジンはジェットエンジンと呼称された。",
"title": "用途"
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"text": "中型・大型旅客機などの後部には、小型のガスタービンで駆動するAPU(Auxiliary Power Unit:補助動力装置)が、推進用のジェットエンジンとは別に搭載されている場合が多い。これは空港に駐機中、機内で必要な電源や油圧を確保したり、ジェットエンジン本体の始動に必要な圧縮空気を発生させたりする際に使用されるものである。尚、APU本体の始動にはバッテリー駆動のモータを使用するか、アキュムレーターによる蓄圧エネルギーを始動回転に用いる。燃料はジェット燃料が使用される。航空機の尾部に見られる小さな排気孔は、この排気用である。",
"title": "用途"
},
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"text": "航空機の操縦士や整備士の資格では、圧縮にタービンで駆動する圧縮機の回転を使うもの(ターボジェットエンジン、ターボファンエンジン、ターボプロップエンジン、ターボシャフトエンジン 但しピストンエンジンのターボチャージャーは除く)は『タービン』に分類される。",
"title": "用途"
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"text": "船舶用のガスタービンエンジンは、主機関に使用する他に船内発電用として、また、船に限らず地上のものと同様に非常用発電機のエンジンとして使用される。主機関として使用される場合には、一般的な減速ギヤー経由でプロペラシャフトへと接続されるものと、発電機で発電した電力で電動機を駆動するターボ・エレクトリック方式がある。減速ギヤーを使用するものでは、逆転用の歯車を組み合わせるものは少なく、可変ピッチプロペラによって逆進を行なうものが多い。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "航空機用ガスタービンエンジンから作られた軽量型のものは1基では出力に限界があり、大型船では複数のガスタービンエンジンを備える必要がある。同時に出力調整が苦手という欠点を、低速時には一部機関を停止させることで補う。大量の吸排気が必要となりこれらの大きなエアダクトが船体中央部を船底から煙突や船体上部まで貫くが、ガスタービンエンジンの定期保守にはエンジンそのものを陸上に上げる必要があり、保守利便性と空間の有効利用は矛盾するため、設計時に困難が伴う。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "海での使用では塩害対策が求められ、燃焼器ライナーと圧縮機の翼に耐蝕コーティングが施されている。",
"title": "用途"
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"text": "軍艦に於けるガスタービンエンジンは、航空用エンジンを舶用に転用したエンジンの採用が艦艇を中心に広まり、近年では高速性を重視する艦艇にも採用が進みつつある。船舶用は中間冷却機を備える事で熱効率を上げている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "軽量大出力の艦艇用機関としてガスタービンエンジンを最初に採用したのはイギリス海軍で、1958年に進水したブレイヴ級高速哨戒艇(英語版)にブリストル・シドレイ社 (Bristol Siddeley) のプロテュース(英語版) (Proteus) が採用されている。大型艦艇での採用は旧ソ連海軍とイギリス海軍が先鞭をつけた。",
"title": "用途"
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"text": "1962年から建造が始まった旧ソ連海軍の満載排水量 4,510 トンの61型大型対潜艦(カシン型駆逐艦)は世界初のガスタービン推進の大型艦となった。",
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"tag": "p",
"text": "イギリス海軍は1966年に14型フリゲート「HMS エクスマス (F84)(英語版)」をロールス・ロイス社のオリンパスTM1AとプロテュースによるCOGOG推進に改造して試験に供した。以後のイギリス海軍では81型フリゲートやカウンティ級駆逐艦、82型駆逐艦「ブリストル」におけるガスタービンと蒸気タービンとの組み合わせによるCOSAG 推進を経て、1973年の21型フリゲートや1975年の42型駆逐艦でオール・ガスタービン化されている。1980年に竣工した満載排水量 20,500 トンのインヴィンシブル級航空母艦はオリンパス TM1B を4基用いたCOGAG推進艦で世界最大のガスタービン推進艦となった。",
"title": "用途"
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"text": "これらの国々に続いてアメリカ海軍では1973年に竣工したスプルーアンス級駆逐艦や1976年に竣工したオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートがジェネラル・エレクトリック社製の航空エンジンである CF6-50 を舶用に転用した LM2500 ガスタービンによる COGAG 推進を採用している。",
"title": "用途"
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"text": "海上自衛隊では、11号型魚雷艇などに航空用エンジンを転用したガスタービンを搭載するとともに、昭和29年度計画乙型駆潜艇「はやぶさ」に防衛庁技術研究本部と三菱重工業長崎造船所が共同で開発・製造した MUK501(運輸省の練習船「北斗丸」に搭載されたものと同機種)がディーゼルと組み合わされ (CODAG) 試験的に搭載された。しかし本機の運用実績は芳しくなく、1970年(昭和45年)にガスタービン用の中央軸を損傷したのを機に撤去された。その後しばらく、護衛艦の主機にガスタービンを推すことを躊躇う風潮が生じ、蒸気タービンとディーゼルが主機に採用され続けたが、1974年(昭和49年)度計画でやまぐも型護衛艦の発展型として、ロールス・ロイス オリンパスTM3BによるCODOG機関を搭載した2500トン型護衛艦の建造が計画された。この計画はオイルショックの影響で中止されたが、3年後の1977年(昭和52年)度計画で、DEである「いしかり」が CODOG推進艦として、DDであるはつゆき型がCOGOG推進艦(巡航用にタイン RM1C を 2 基、高速用にオリンパス TM3B を 2 基使用する)として建造されることとなった。続く1988年のあさぎり型ではスペイ SM1A を 4 基組み合わせた COGAG 推進が採用された。エンジンは川崎重工業がライセンスをうけて生産した。1996年に一番艦が竣工したむらさめ型とその改良型であるたかなみ型はロールス・ロイス社のスペイ SM1C とジェネラル・エレクトリック社の LM2500 を採用した世界的にも珍しいメーカーの異なるガスタービンエンジンの組み合わせによる COGAG 推進艦である。このように現代の艦艇ではガスタービン主機が主流となっている。",
"title": "用途"
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"text": "前述の例群に先行して、類似技術のヴァルター機関が潜水艦や魚雷向けに試作・実用化され、魚雷用としては非ヴァルタータービン式ガスタービンが、後のスピアフィッシュ魚雷等に採用されている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "旧ソ連海軍やイギリス海軍ではいずれも軽量大出力であること、従来の艦艇用主機に比べて整備性が良いこと、出力の増減が迅速に行える点が評価された。一方で、ガスタービンとスクリューではその回転数が極端に異なるため巨大な減速ギアボックスが必要なこと、およびガスタービン主機は燃費が悪く、運転条件によっては多量の燃料を消費するなどのマイナス面もある。過去にカシン型は日本海で燃料切れを起こして立ち往生する事故を起こしている。またガスタービンエンジン搭載艦は従来の蒸気タービン、ディーゼルエンジン搭載艦と比べると大量の給排気、高温の排気、小型軽量であるがゆえの重心上昇などの点を、艦艇の設計にあたって留意する必要があり艦容に大きな影響を与える。",
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"text": "アメリカ海軍では下部が軽くなった分を下部構造を強化して重くし上部構造を軽合金で製作するなどして補正した。ただし軽合金製上部構造はフォークランド紛争やアメリカ海軍の火災事故などでの被害拡大の要因となったとされ、護衛艦では鋼製に戻されている。大量の給排気は煙突と給気筒を大きくすることで対応する。このためガスタービン搭載艦の煙突は太く短い物が多い。高温の排気については煙突からの排気の下流に物を置かないなどの対処がとられる。また蒸気タービン搭載艦などに流行したマック(マスト+スタック(煙突)の造語。両者の機能を併せ持つ構造物)はガスタービン搭載艦では見られなくなっている。",
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"text": "民間船舶の多くには熱効率が非常に優れた低速回転ディーゼルエンジンが用いられている。高速フェリーなどでの軽量化のためや、排気ガス中に含まれる窒素酸化物の排出が少ない事もあり、ガスタービンエンジンも徐々に使用され始めている。",
"title": "用途"
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"text": "特に水中翼船、ホバークラフトなどでは主流となっている。また従来の舶用機関に比べてガスタービンエンジンの運転時の騒音が、特に低周波成分が少ない点を評価し、大型客船用のターボ・エレクトリック方式の推進機関の主機として採用された例がある。",
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"text": "1990年代半ばの日本では、モーダルシフトに関連して内航船の速度向上をめざす二隻のテクノスーパーライナー (TSL) 実験船が建造された。三井造船の空気圧力式複合支持船型(エアクッション艇)「飛翔(ひしょう)」、及び川崎重工業の揚力式複合支持船型(水中翼船)「疾風(はやて)」は、いずれもガスタービンエンジン主機によるウォータージェット推進の高速船であった。",
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"text": "燃費が圧倒的に悪く、エンジンそれ自体の価格と保守にかかるコストもディーゼルエンジンより高額となり、整備のために取り外さなければならないため船内配置が制約されるなど、ガスタービンエンジンは舶用主機関としては不利な点が多いため、軽量である利点が生かせる用途にのみ使用される。",
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"text": "第二次世界大戦末期にドイツがGT 101ガスタービンをV号戦車パンターに試験的に搭載した。",
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"text": "最初に戦車へガスタービンエンジンを採用したスウェーデンのStrv.103ではディーゼルエンジンを混載し、ガスタービンエンジンはダッシュ時のみに使用されていた。旧ソ連のT-80はガスタービンエンジンのみを搭載したが、トラブルが続出したためT-80Uで改良が加えられたが、燃費のよいディーゼルエンジンを搭載したT-72、T-80UD、T-90、T-14を併行して生産配備している。アメリカのM1エイブラムスもT-80同様にガスタービンエンジンのみを搭載したが、燃費の悪さのために湾岸戦争時には大量の燃料の輸送が行われ、この戦訓から停車時の電力供給を目的にM1へAPUを設置した。フランスのルクレールはガスタービンエンジンを補助動力としても使用できる複合動力装置として搭載している。しかし複雑なシステムゆえにフランス本国以外での修繕は不可能とされ、UAE輸出型は動力部をユーロパワーパックに換装した仕様となっている。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "現在、高容量電気二重層キャパシタと組み合わせたガスタービン-電気ハイブリッド式の開発が各国で進められている。現在3種の戦車にガスタービンエンジンが用いられている。小型大出力のエンジンとして評価され、瞬間的なダッシュ力には一定の評価があるが、低速/停車時の燃費の悪さから、主力戦闘車輌としてはこれらに続く採用事例はない。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両へのガスタービンエンジン搭載も様々な方法で模索されてきたが、実用化された例は少なく、ランニングコスト等の理由から早々と営業運転を終了した車両も多い。前述した通り、細かなエンジン回転数の調整が困難な事・低負荷の状態では燃費効率が悪化する・騒音が大きいなどが理由として挙げられる。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両への搭載例は、1941年にスイス連邦鉄道が導入した、ブラウン・ボベリ製ガスタービンエンジンと発電機を搭載したAm4/6形が最初の事例とされており、1966年 ユナイテッド・エアクラフト社(後のユナイテッド・テクノロジーズ)によるUAC ターボトレインがあり、長期試験の後1968年から米ニューヘブン鉄道で、1973年からカナダ国鉄・モントリオール-トロント間で特急「TURBO」として営業運転を行なっていた。試験車両としては旧国鉄が開発した国鉄キハ07形気動車改造車(キハ07 901)と、その結果を元に試作されたキハ391系がある。これらは非電化区間のスピードアップを図るために開発されたが、第一次オイルショックを機に実用・量産化が断念されている。フランス国鉄が運行するTGVも、初期にはガスタービン駆動の発電機で発電し電動機を駆動する電気式ガスタービン機関車が計画され試作車両が作られたが、同様にオイルショックのため電気機関車方式に変更された。ただし、実用・量産化の失敗の原因は当時の技術不足の一面も大きく、発電機・電動機の小型化が進んだ現在ならガスタービンエンジンの持ち味を生かせる可能性もあるとも考えられ、現在でもガスタービンで発電機を回して電動機を駆動する「電気式ターボトレイン」の研究が続いており、特にアメリカでは膨大な軍事技術を投入したハイブリッド仕様のターボトレインを研究中で、回生制御の肝となるフライホイールの開発如何によっては非電化高速鉄道の切り札になるといわれている。",
"title": "用途"
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"text": "その他にも1960年代から1970年代にかけてイギリスやドイツ、チェコスロバキア、スイス、ドイツ、ソ連などで開発が進められたが第一次オイルショックの後、開発は下火になった。その後、ロシアでは圧縮天然ガスを燃料とするGT1が開発され、試験運用されている。",
"title": "用途"
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"text": "なおフランス製のターボトレインはエジプトやイランなどへも輸出され、特にエジプトでは1983年の就役以来、カイロ〜アレクサンドリア間の特急列車として活躍している。",
"title": "用途"
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"text": "工事用などの産業用機関車では、蓄電池機関車にマイクロガスタービン発電機を搭載した機関車が実用化されており、現場の条件で充電や電池交換が困難な用途向けに使用されている。",
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"text": "さらに、本来の用途ではないが、雪かき車としてジェット噴射で除雪する車両が実用化されている。ヘリコプター用の小型ガスタービンを保線用車両に取り付け、排気をダクトで線路面に平行に前方に噴射し雪を吹き飛ばすタイプの除雪車両が、操車場などのポイントの融雪・氷塊除去に使用される。実際、ユニオンパシフィック鉄道のソルトレイクシティ駅で使用されていた。",
"title": "用途"
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"text": "個々の車両などはCategory:ガスタービン機関車も参照のこと。",
"title": "用途"
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"tag": "p",
"text": "1950年代から1960年代にかけて、小型で高出力のガスタービンは次世代エンジンとして注目され、ガスタービン自動車の実用化に向けて様々な研究がされてきたが、量産車として成功した例は少ない。",
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"text": "1963年にクライスラーは自動車用ガスタービンエンジンを独自に開発してクライスラー・ターバインを開発し、一般ユーザー向けに試験販売も行われた。クライスラーでは1993年にもクライスラーパトリオットを開発している。日本車ではトヨタ自動車がGTV(1987年第27回東京モーターショー出品) を開発した例がある。",
"title": "用途"
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"text": "自動車レースの世界では、イギリスのローバーが1963年と1965年にガスタービン搭載車をル・マン24時間レースに出場させた例や、アメリカのSTPが、プラット・アンド・ホイットニー製のエンジンを搭載した車両を1967年と1968年のインディ500に出場させていた例などがある。",
"title": "用途"
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"text": "ハイブリッドカーの動力源としてガスタービンを使用する事例もあり、1992年のパリサロンではボルボ・ECCが出品されたほか、ゼネラルモーターズは1990年代半ばにGM・EV1電気自動車にウィリアムズ・インターナショナルで開発されたガスタービンを搭載したハイブリッドカーを開発した。単段式、単軸で熱交換器を備えたガスタービンにより永久磁石式交流発電機を駆動した。ガスタービンの重量は220 lb (99.8 kg)、直径20 inches (50.8 cm)、全長22 inches (55.9 cm)、回転数は100,000 から 140,000 rpmだった。タービンはハイオクタン価の代替燃料や圧縮天然ガスが使用された。蓄電池の容量が40%以下になると自動的にガスタービン発電機が作動して40 kWの電力を供給して充電する仕様だった。最高速度は80 mph (128.8 km/h)に達した。日本車でもトヨタがセンチュリーにガスタービンを搭載した「トヨタセンチュリー・ガスタービン・ハイブリッド」(1975年第21回東京モーターショー出品) や、スポーツ800にガスタービンエンジンとモーターを搭載したハイブリッドカー(1977年第22回東京モーターショー出品)を開発している。2019年には三菱自動車がガスタービンエンジンを搭載するプラグインハイブリッドカーの「MI-TECH CONCEPT」を発表した。",
"title": "用途"
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"text": "また2006年現在では、アメリカのマリン・タービン・テクノロジー社が、ガスタービンエンジン搭載のオートバイを市販している。",
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"text": "他にもマイクロガスタービン発電機をハイブリッド車の電源に採用した車両がアメリカやニュージーランドなどで見られ、日本では日の丸自動車興業が東京駅周辺で運行している2つの無料循環バス:丸の内シャトルとメトロリンク日本橋に採用されている。",
"title": "用途"
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"text": "2010年に開催されたパリモーターショーで発表されたジャガー75周年記念コンセプトモデルCX-75はレンジエクステンデッド(航続距離延長型)電気自動車エンジンとして発電用マイクロガスタービンを2個搭載し、合計70kWの出力を発生する。フル充電してさらにガスタービンを使用した場合900kmの航続距離を実現している。",
"title": "用途"
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"tag": "p",
"text": "ガスタービンエンジンは、汽力発電などに用いられる蒸気タービンに比べて起動時間が短いため、ピーク時用内燃力発電として1950年代から用いられていた。また、ディーゼルエンジンと比較して、小型軽量で冷却水が不要なため、非常用発電機に用いられる。さらに、高圧部が無いことから設置に際し規制が緩やかで、2000年代に入り電気工作物としての規制も緩和されたため、都市ガスを燃料とする超小型ガスタービンエンジンを用いた店舗用小規模自家発電装置なども普及している。振動が少なく、軽量なため、従来のディーゼル式発電機では不可能だった高層ビルの屋上に設置される例もある。",
"title": "用途"
},
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"text": "ガスタービンエンジンは高温で動作するため、その排気もまた十分に高温であり、吸収式冷凍機や廃熱回収ボイラーと組み合わせて、電気の他、蒸気、温水をも供給する熱電併給システム(コジェネレーション)や、さらに蒸気タービンによる発電を組み合わせて複合火力発電(コンバインドサイクル発電)とし、総合的な熱効率を大幅に高めることがなされている。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "ムーンライト計画では中間冷却器、熱再生器を搭載した世界最高水準の高効率のガスタービンが開発された。現在は日本工業大学付属工業技術博物館に国産のターボファンエンジンであるFJR710と供に保存、展示されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "2005年現在、ドイツなどでは、燃焼用の圧縮空気を夜間などの電力需要の小さい時間に岩塩を取り出した跡の岩盤内に蓄え昼間に使用することで圧縮機の必要動力を軽減し、発電量を増加させるものが実証試験中である。",
"title": "用途"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "2011年に起こった東日本大震災とそれに付随する福島第一原子力発電所事故により東北電力・東京電力管内の供給能力が急減し、この減少分を補うためにLNGを燃料とするガスタービン発電機が既存の火力発電所内に急遽設置されることとなった。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "ロケット等において推進剤をエンジンに供給する為に使用される。高速で回転する為、キャビテーションが発生しないように細心の注意が払われる。ターボポンプの成否が新型エンジンの成功の成否に懸かっているといっても過言ではないくらいでターボポンプの開発は難航する場合がある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "発電用ではない定置式ガスタービンエンジンの例としては、河川の排水ポンプがある。大雨等で水かさが増した河川の水をポンプ汲み上げて排水する時に使用される大型ポンプの動力としてガスタービンエンジンの採用事例がある。小型大出力、起動時間の短さ、整備性の良さ等が評価された結果である。",
"title": "用途"
}
] | ガスタービンエンジン(ガスターバインとも)は、原動機の一種であり、燃料の燃焼等で生成された高温のガスでタービンを回して回転運動エネルギーを得る内燃機関である。 重量や体積の割に高出力が得られることから、現在ではヘリコプターを含むほとんどの航空機に動力源として用いられている。また、始動時間が短く冷却水が不要なことから非常用発電設備として、さらに1990年代から大規模火力発電所においてガスタービン・蒸気タービンの高効率複合サイクル発電(コンバインドサイクル発電)として用いられている。 | {{混同|カスタービン|x1=[[トウゴマ]]の別名の}}
{{Pathnav|熱機関 |内燃機関|frame=1}}
{{複数の問題|脚注の不足=2021年7月|独自研究=2021年7月}}
[[Image:GE H series Gas Turbine.jpg|thumb|300px|GE Hシリーズのガスタービンエンジン]]
'''ガスタービンエンジン'''(ガスターバインとも)は、[[原動機]]の一種であり、燃料の燃焼等で生成された高温のガスで[[タービン]]を回して[[運動エネルギー|回転運動エネルギー]]を得る[[内燃機関]]である。<ref>A Dictionary of Aviation, David W. Wragg. ISBN 0850451639 / ISBN 9780850451634, 1st Edition Published by Osprey, 1973 / Published by Frederick Fell, Inc., NY, 1974 (1st American Edition.), Page 141.</ref>
重量や体積の割に高出力が得られることから、現在では[[ヘリコプター]]を含むほとんどの[[航空機]]に動力源として用いられている。また、始動時間が短く[[冷却水]]が不要なことから非常用[[発電]]設備として、さらに[[1990年代]]から大規模[[火力発電所]]においてガスタービン・[[蒸気タービン]]の高効率複合サイクル発電([[コンバインドサイクル発電]])として用いられている。
== 作動原理 ==
{{Main|ジェットエンジン}}
'''ガスタービン'''は[[遠心式圧縮機|遠心式]]又は[[軸流式圧縮機|軸流式]]の回転式[[圧縮機]]で[[燃焼]]用[[空気]]を圧縮して燃焼器に送り込み、[[燃料]]を燃焼器に吹き込んで燃焼させる。その際に発生した高温高圧の燃焼ガスが遠心式もしくは軸流式[[タービン]]を回転させる。タービン軸は通常、圧縮機と直結しており、圧縮機に圧縮動力を伝え、持続運転する。[[燃焼ガス]]のエネルギーをタービンでできる限り回収して[[軸]][[出力]]を取り出し、排気に仕事をさせない場合と、軸出力は圧縮機の動力としてのみ用いて燃焼ガスの後方噴出によって得る[[推力]]を出力の主体とする場合([[ジェットエンジン]])がある。{{疑問点範囲|title=レシプロエンジン抜きには作動しない補助的な装置であって、エンジンと同列にはできないのでは|date=2023-12|[[自動車]]、[[レシプロエンジン|レシプロ機関]]を持つ[[航空機]]等に用いられる[[ターボチャージャー]]も、エンジンを燃焼器とし出力軸を持たない一種のガスタービンに分類できるが、後述の燃焼器(加熱器)代わりのレシプロエンジンの前後で大きく圧力が変わり得る点が通常のガスタービンと異なる}}。液体燃料ロケット用ターボポンプなど、液体燃料+液体酸化剤などを燃焼室で燃やし、作動流体圧縮機を省略する(但し燃料・酸化剤注入ポンプが使われる場合はある)方式もある。
ガスタービンエンジンは連続的に圧縮・燃焼・膨張・[[排気]]する「部位」があるため、レシプロエンジン(ピストンエンジン)と異なりそれぞれの「行程」はない。燃焼は一定圧力のもとで行われ、理論サイクルは[[ブレイトンサイクル]]で近似される。
この他、作動流体で化学燃焼させず、熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却、又は作動流体を排気する事により稼働する、外燃式ガスタービンも理論上存在し、一部研究試作された。また大気から空気等を吸い込みタービンを回した後再び大気に排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと呼ぶ。
== 歴史 ==
西暦[[150年]]、[[アレクサンドリアのヘロン|ヘロン]]が[[蒸気機関]]([[アイオロスの球]])を考案するが、[[玩具]]的にしか扱われず、その潜在的能力が認識されるのは何世紀もたってからである。
[[1500年]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が暖炉で調理中のあぶり肉を回転させるための[[スモークジャック]]の図を描いている。これは火から上昇する熱い空気の流れで羽根車を回し、その力であぶり肉を刺した棒を回すものである。[[1551年]]、[[タキ=アルジン]]がスモークジャックと同じ用途の[[蒸気タービン]]を発明した<ref name=Hassan>{{cite web |url= http://www.history-science-technology.com/Notes/Notes%201.htm |title=Taqi al-Din and the First Steam Turbine |accessdate=2008-03-29|last=Hassan |first=Ahmad Y |authorlink= |work=History of Science and Technology in Islam}}</ref>。[[ジョバンニ・ブランカ]]は[[1629年]]、蒸気タービンを使った[[砕鉱機]]を開発した。[[フェルディナント・フェルビースト]]は[[1678年]]、[[フェルビーストの蒸気車|蒸気ジェットの力で動く車]]を開発した。
[[1791年]]、イギリスの技術者[[ジョン・バーバー]]が世界初の真のガスタービンの特許を取得した。その発明の構成は今日のガスタービンと基本的に変わらない。バーバーはこれを車の動力にしようとしたが、当時の技術では完全に動作するものを製作できなかった。
[[1894年]]([[明治]]27年)、[[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]]は蒸気タービン船のアイデアで特許をとり、[[タービニア]]という[[プロトタイプ|実験艇]]を作った。[[1895年]](明治28年)にはパーソンズの蒸気タービンを使った[[発電機]]が[[ケンブリッジ]][[発電所]]に設置され、[[街灯]]への[[電力]]供給を行った。[[1903年]](明治36年)、ノルウェーの[[エギディアス・エリング]]が入力よりも出力が大きい世界初のガスタービンを完成させた(11馬力)。1913年、[[ニコラ・テスラ]]が[[境界層]]効果を利用した[[テスラタービン]]の特許を取得。[[1918年]](大正7年)、今日もガスタービン製造で知られている[[ゼネラル・エレクトリック]]がガスタービン部門を創設した。[[1920年]](大正9年)、これまでの経験則的な理論から一歩進んで [[:en:Alan Arnold Griffith|A. A. Griffith]] が翼とガス流についての理論を構築した。
[[1930年]](昭和5年)、[[フランク・ホイットル]]が[[ジェットエンジン|ジェット推進]]用ガスタービンの設計で特許を取得。日本ガスタービン学会誌19(73)では「エリングの業績を知っていたか」と問われたホイットルは「知らなかった。知っていたら開発は10年早く出来ただろう」と答えたとされている。実際にジェットエンジンが動作したのは[[1937年]](昭和12年)4月のことである。[[1934年]](昭和9年)、[[ラウル・パテラス・ペスカラ]]はガスタービン用ガス発生器として使える自由ピストンエンジンの特許を取得した。[[1936年]](昭和11年)、[[ハンス・フォン・オハイン]]とマックス・ハーンがフランク・ホイットルとは別方式のジェットエンジンの開発に成功した。
== 特徴 ==
[[File:Marunouchi Shuttle 2003.jpg|thumb|250px|[[丸の内シャトル]]に導入された[[デザインライン#タービン電気バス|デザインラインのタービン電気バス]]]]
同出力の[[レシプロエンジン]](代表例:[[ガソリンエンジン]]・[[ディーゼルエンジン]])などと比べ、以下のような特徴を持つ。
* 軽量で比較的小さな[[体積]]で高出力が得られ、レシプロエンジンと比べて[[パワーウェイトレシオ]]が優れている。
* [[低周波]]の[[振動]]が少なく、[[高周波|高めの周波数]]の[[騒音]]対策だけで済む。
* レシプロエンジンと比べて、低速回転時と高速回転時の[[燃料消費率]]の差が少ない。
** そのため、低速回転域での[[燃費]]はディーゼルエンジン等のレシプロエンジンに比べ完全に劣る。
* 燃焼効率は比較的高いが、回転数を頻繁に変える用途での燃費が劣る。
* 常用回転数が高いため[[出力]]は大きいが[[トルク]]は小さいので、大トルクを要する用途では[[減速機]]が必要である。
* 「大量の空気を膨張させる」と言う条件をクリア出来れば燃料に対する要求が少なく、原理上は多種多様な燃料を使用できる。
** [[メタン]]等のそれほど高価ではない燃料も使用可能であるが、特に航空機の場合、厳密に調合された[[ジェット燃料]]が指定されている。
* [[水冷|冷却水]]が不要である反面、[[耐熱性]]に優れた[[素材]]で製造する必要があり、素材の関係から[[メンテナンス|整備]]に専門的知識を伴った特殊な[[技術]]を要する。
* 機関本体は出力の割に小型。
**ただし出力の割に吸排気量が大きいため、航空機以外では大量の高温排気の処理や、吸気から塵を除くフィルター装置が大掛かりになる。艦船用や艦載機等では塩気対策も重要になる。
** 用途によっては、高い排気温度を利用して排熱[[ボイラー]]で高温の[[蒸気]]を発生させて[[蒸気タービン]]で熱回収するという対策([[コンバインドサイクル]])もある。
* 定期的な[[保守]]時の[[作業]]量がレシプロエンジンと比べて多く、時間とコストがかかる。
** この様な都合もあり、保守の利便性を考え、全てをユニットとして取り外せる様に([[ASSY]]交換)するため、設置位置に制約が付く事がある。
* 一定の回転数で動作させることは容易だが、回転数を細かく調整することは困難なため、回転数が頻繁に変わる用途には不向きである。
** レスポンスがレシプロエンジンと比較して劣る。
** 条件による違いはあるものの、同単価の燃料を使い出力を直接動力とする場合の燃費は、レシプロ内燃機関よりは悪く、移動体用の簡素な[[蒸気タービン]]よりは良好である。但し船舶用大型ディーゼルエンジンでは燃料油清浄処理を前提に(内燃式)ガスタービンでの使用に耐えない低熱量単価のC重油が使用でき、蒸気タービンに至ると更に低熱量単価の石炭・核燃料・太陽熱・地熱・ゴミ焼却熱などが使え、加えて発電所などでは移動体用より複雑なガスタービンと同等以上の熱効率の蒸気タービンが用いられている事が多い。
* 始動性は良いが、始動時の消費エネルギーが大きいため、頻繁にエンジンを停止する用途には不向きである。
* [[窒素酸化物]]や[[炭化水素]]の排出が少ない{{要出典|date=2018年3月|title=窒素酸化物排出は少なくはないのでは?}}が、単体の熱効率はやや劣る。
** [[軍艦|軍用船舶]]では[[赤外線捜索追尾システム|赤外線探知]]されない様、上記の方法等の対策が必要である。
* 出力特性や燃費の欠点を補う為、電気式[[ハイブリッド]]の動力の一つとして用いられる例が多い([[ハイブリッドカー#シリーズ方式|シリーズハイブリッド]]の発電用など。)。
== 燃料 ==
航空機用の高性能エンジンは厳選された[[ジェット燃料]](高度に精製された[[灯油]])を使用する。[[アームストロング・シドレー マンバ]]のように[[軽油]]を使用できるエンジンも存在する。
陸上設置型や舶用では[[軽油]]を使用する。[[A重油]]を除き、安価な[[重油]]は使用できない<ref name="船のしくみ">池田吉穂著 「[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 船のしくみ」 [[ナツメ社]] 2006年5月10日初版発行 ISBN 4-8163-4090-4</ref>。発電用ガスタービンでは[[天然ガス]]や[[石炭ガス化複合発電|石炭をガス化]]して燃焼する機種もある。外燃式ガスタービンや密閉サイクルガスタービンでは[[蒸気機関]]と同様に、安価な重油や石炭や原子力や電熱等、内燃式ガスタービンで使用困難な燃料も使用可能になる。
アメリカ軍では航空機用の[[JP-8]]をガスタービンやディーゼルエンジンを搭載した車両の燃料として共通化している{{要出典|date=2021年10月}}。
== 分類 ==
=== 軽量型と重構造型 ===
ガスタービンエンジンは航空機に搭載される軽量型と、主に地上に設置して発電などに使用される重量のある重構造型とに大別できる。船舶や車両といった移動体や地上固定式でも小型のものでは、航空機用の[[ジェットエンジン]]の設計に基づく軽量のものが製造されており、軽量型に分類される。また、これらとは別にかなり小型のガスタービンエンジンも存在する。
; 軽量型(航空エンジン転用型)
:ジェット機に使用されるジェットエンジンは軽量型である。この固定翼機用のジェットエンジンやヘリコプター用として開発されたターボシャフトエンジンを他の移動体用や小型の地上固定用途で製造・使用されている。ターボファンジェットエンジンではファンの代わりに出力軸を取り付ける必要があり、バイパス比の低いターボジェットエンジンでは排気側にフリータービンを取り付けて出力軸とするなどの変更が必要となるが、ターボシャフトエンジンや[[ターボプロップエンジン]]ではそのまま出力軸を使用することで他用途での利用が可能である。
:軽量型は[[航空用エンジン]]の特徴を備え、軽量化のためにケーシングや回転軸などが肉薄になっている。重量が軽く容積が小さい。圧縮機・燃焼器・タービン部が輪切り状に分割出来るようになっている。(モジュラー構造)1軸から3軸と構成に幅がある。柔構造であり熱衝撃に強く、主要軸受けには転がり軸受けを、[[潤滑油]]には合成油を使用している。燃料は航空機用途は航空燃料が使用され、船舶や地上固定用途では軽油、天然ガス、LPガス等が使用される。始動時間が1-3分と素早く始動する。出力は比較的小さく最大でも40MW程である。補機類がケーシングの近くに付けられることが一般的である。
:船舶用エンジンとしてはもともと重構造型が使われていたが、1960年代後半から航空機用ジェットエンジンの転用が始まり、21世紀現在では船舶用でも軽量型のものが主体となっている。
; 重構造型
:[[Image:Gasturbine Montage01.jpg|thumb|250px|独[[シーメンス]]社製のガスタービンエンジンの内部]]
:産業型や重量型とも呼ばれる重構造型は火力発電での蒸気タービンから発展してきたため、重量が重く容積が大きい。軽量化は不要であり、ケーシングや回転軸などが肉厚になっている。保守の利便の為に圧縮機・燃焼器・タービン部のケーシングが個別に上下2分割出来るが回転体は一体となっているものが多い。
:1軸の構成が多い。剛構造であり変形には強いが熱衝撃に弱い。主要軸受けにはすべり軸受けを、潤滑油には鉱物油を使用している。燃料は灯油、軽油、[[A重油]]、[[天然ガス]]、[[LPガス]]が使用される。始動時間が5-15分と少し遅い。出力は大きく最大350MW程である。補機類がケーシングとは別に設置されることが一般的である。再生サイクル、中間冷却サイクル、吸気加湿冷却システム、コンバインド発電、蒸気噴射システムなどを使って総熱効率を高める工夫が行なわれる<ref name = "マイクロガスタービンの本"/>。
{{clear}}
=== マイクロガスタービン ===
[[Image:GasTurbine.svg|thumb|250px|マイクロガスタービンの例(1)]]
分散型発電機用としてマイクロガスタービンが開発され、[[コジェネレーション]]や再生器を使用して総合的な熱効率を高めるようになっている。小型で低価格にすることで事務所や商店等での利用が想定され、潤滑油を廃して[[空気軸受]]が使用されるなど、保守の手間を省くよう考慮されている。
特殊なものとしては、直径12mm、厚さ3mmの円盤状で重さ1gの超マイクロガスタービンが、電気出力10-20W程度の発電用途に開発されている<ref name="マイクロガスタービンの本">佐藤幸徳著 『マイクロガスタービンの本』 日刊工業新聞社 2003年12月28日初版1刷発行 ISBN 4526052132</ref>。
{{clear}}
=== 内燃式と外燃式、開放サイクルと密閉サイクル ===
作動流体で燃料を化学燃焼させ熱源とする一般的な内燃式ガスタービンと、作動流体で化学燃焼させず熱交換機・原子炉・電熱等で作動流体を加熱し、熱交換機等で作動流体を冷却又は作動流体を排気する事により稼働する外燃式ガスタービンに、熱の動きで分類される。質量制限の緩い艦船用・発電用内燃式ガスタービンにも、排気からの熱を燃焼前の作動流体に移す熱交換器が装備され、外燃式ガスタービン的要素を帯びる場合も多い。
機関外から空気等の作動流体を吸い込みタービンを回した後機関外に全て排出する形式のものを開放サイクルガスタービンと呼び、作動流体を閉じた流路に流し給排気しない形式のものを密閉サイクルガスタービンと、作動流体の流れで分類され、両者の中間には、作動流体の一部(成分)を追加供給する物や、作動流体の一部(成分)を排出する物がある。
== 用途 ==
航空機用、[[船舶]]用、陸上車両用、陸上設置型の[[発電]]用のそれぞれでエンジンとして使用される。乗り物(ビークル)においては、概して高性能だが高コストという定性上、民生よりも軍事での利用が多い。
特に[[航空用エンジン]]としては高速の運転条件と相性がよく大重量の減速機が不要、機関の小型軽量高出力のメリットを減じる吸排気系の処理を考える必要がなく、回転軸出力を主に用いるものでも排気を推進力に利用でき、最も適合する。航空機用のガスタービンは、高温・高圧の[[排気ガス]]を後方に勢いよく噴射しその反作用で推進力を得るものから始まった歴史的経緯から、「[[ジェットエンジン]]」と通称される。2016年現在、実用化された有人[[航空機]]のジェットエンジンは全てがガスタービンエンジンであるが、ジェットエンジン=ガスタービンエンジン、ではない。ジェットエンジンの定義は、気流を後方に噴射・或は前方から気流を吸入し、その反作用で推進力を得る事であり、タービンを備える事ではないからだ。[[ミサイル]]等[[無人機]]では[[パルスジェットエンジン]]や[[ラムジェットエンジン]]などのタービンを備えないジェットエンジンが実用化されている。またレシプロエンジン・ガスタービンエンジンであっても高速で移動する場合は吸気吸入の際[[ラム圧]]を利用出来、[[超音速機]]ではそれによる推力が過半を占める。
一方で、航空機以外の用途に用いられるエンジンは、回転運動を取り出す目的で用いられるために「ジェットエンジン」とは呼ばず、ガスタービンエンジンと呼称するのが通例となっている。
なお、航空機でも[[プロペラ]]や[[ローター]]を備えるもののエンジンは、回転運動の取り出しと排気噴射の反作用の双方を用いる。こちらは「[[ターボプロップエンジン]]」もしくは「[[ターボシャフトエンジン]]」と固有の形式名で呼称され、ジェットエンジンないしガスタービンエンジンといった総称的な呼称で呼ぶ事は稀である。なお例外的であるが、レース用の自動車においては、回転運動のみならず排気噴射の反作用をも用いるものがある。さらに例外的であるが、自動車・鉄道・船舶で、高速実験や速度記録を作る目的で排気噴射の反作用を用いるエンジンを搭載した例があるが、そのエンジンはジェットエンジンと呼称された。
=== 航空機 ===
[[File:Turboprop T-53.jpg|thumb|250px|[[ライカミング T53]] [[ターボシャフトエンジン]]の内部カットモデル]]
* 1940年代迄に開発された[[亜音速]][[戦闘機]]、1950年代迄に開発された亜音速[[爆撃機]]や初期の[[ジェット旅客機]]には、最も基本的な[[アフターバーナー]]無しの[[ターボジェットエンジン]]が用いられた。
* 1950年代に開発された[[超音速]]戦闘機・爆撃機や[[超音速輸送機]](SST)の[[コンコルド]]には、アフターバーナー付きの[[ターボジェットエンジン]]が用いられた。
* [[YS-11]]や[[C-130]]を初めとする、中低速で飛行する中短距離用の中小型旅客機・軍用輸送機は、主に[[ターボプロップエンジン]]が用いられている。
* 近年の[[ヘリコプター]]の多くは[[ターボシャフトエンジン]]を用いており、排気の反作用よりもエンジンの回転軸出力を用いている。
* 1960年代以降に開発された超音速戦闘機・爆撃機、民間機では[[Tu-144 (航空機)|Tu-144]]などの機体は[[アフターバーナー]]装備の低バイパス比型ターボファンエンジンを使用する。
* 亜音速・遷音速で飛行する一般的な[[旅客機]]や大型[[輸送機]]では、[[燃費]]が良く[[騒音|低騒音]]の高バイパス比型[[ターボファンエンジン]]が主に使用されている。
* 航空機用の[[ジェットエンジン#タービン|タービンブレード]]は、内部に冷却用の空気を流す穴があけてあり非常に複雑な構造となっている。1200℃の温度に耐え、1万時間以上の寿命を持つ。価格は1枚70万円程度し、1セットで200枚程度あるとすると、全部交換して1億円以上かかる計算となる。現在の技術では、燃焼ガスに含まれる[[硫黄]]分により[[硫化]]しやすく、硫黄分が冷却穴を塞いでしまうので熱を溜め込み破断のうえエンジン停止をもたらす事故をしばしば起こしている。日本でも2005年秋に[[全日本空輸]]のボーイング777が立て続けに2件タービンブレードの破断による事故にあっている<ref group="注">[[ボーイング777#事故・インシデント]]を参照のこと。</ref><ref>https://xtech.nikkei.com/dm/article/HONSHI/20060301/113800/</ref>。
中型・大型旅客機などの後部には、小型のガスタービンで駆動する'''APU'''(Auxiliary Power Unit:[[補助動力装置]])が、推進用のジェットエンジンとは別に搭載されている場合が多い。これは空港に駐機中、機内で必要な電源や油圧を確保したり、ジェットエンジン本体の始動に必要な圧縮空気を発生させたりする際に使用されるものである。尚、APU本体の始動には[[鉛蓄電池|バッテリー]]駆動のモータを使用するか、[[アキュムレーター]]による蓄圧エネルギーを始動回転に用いる。[[燃料]]は[[ケロシン#ジェット燃料|ジェット燃料]]が使用される。航空機の尾部に見られる小さな排気孔は、この排気用である。
航空機の操縦士や整備士の資格では、圧縮にタービンで駆動する圧縮機の回転を使うもの(ターボジェットエンジン、ターボファンエンジン、ターボプロップエンジン、ターボシャフトエンジン 但しピストンエンジンのターボチャージャーは除く)は『'''タービン'''』に分類される。
=== 船舶 ===
船舶用のガスタービンエンジンは、主機関に使用する他に船内発電用として、また、船に限らず地上のものと同様に非常用発電機のエンジンとして使用される。主機関として使用される場合には、一般的な減速ギヤー経由でプロペラシャフトへと接続されるものと、発電機で発電した電力で電動機を駆動する[[ターボ・エレクトリック方式]]がある。減速ギヤーを使用するものでは、逆転用の歯車を組み合わせるものは少なく、可変ピッチプロペラによって逆進を行なうものが多い。
航空機用ガスタービンエンジンから作られた軽量型のものは1基では出力に限界があり、大型船では複数のガスタービンエンジンを備える必要がある。同時に出力調整が苦手という欠点を、低速時には一部機関を停止させることで補う。大量の吸排気が必要となりこれらの大きなエアダクトが船体中央部を船底から煙突や船体上部まで貫くが、ガスタービンエンジンの定期保守にはエンジンそのものを陸上に上げる必要があり、保守利便性と空間の有効利用は矛盾するため、設計時に困難が伴う。
海での使用では[[塩害]]対策が求められ、燃焼器ライナーと圧縮機の翼に耐蝕コーティングが施されている<ref name = "マイクロガスタービンの本"/>。
==== 軍用艦艇 ====
軍艦に於けるガスタービンエンジンは、航空用エンジンを舶用に転用したエンジンの採用が艦艇を中心に広まり、近年では高速性を重視する艦艇にも採用が進みつつある。船舶用は[[インタークーラー|中間冷却機]]を備える事で熱効率を上げている。
軽量大出力の艦艇用機関としてガスタービンエンジンを最初に採用したのは[[イギリス海軍]]で、[[1958年]]に進水した{{仮リンク|ブレイヴ級高速哨戒艇|en|Brave-class fast patrol boat}}に[[ブリストル・シドレー|ブリストル・シドレイ]]社 (Bristol Siddeley) の{{仮リンク|ブリストル プロテュース|en|Bristol Proteus|label=プロテュース}} (Proteus) が採用されている。大型艦艇での採用は[[ロシア海軍|旧ソ連海軍]]とイギリス海軍が先鞭をつけた。
[[1962年]]から建造が始まった旧ソ連海軍の満載排水量 4,510 トンの[[カシン型駆逐艦|61型大型対潜艦(カシン型駆逐艦)]]は世界初のガスタービン推進の大型艦となった。
イギリス海軍は[[1966年]]に[[14型フリゲート]]「{{仮リンク|エクスマス (フリゲート)|label=HMS エクスマス (F84)|en|HMS Exmouth (F84)}}」を[[ロールス・ロイス]]社の[[ロールス・ロイス オリンパス|オリンパス]]TM1Aとプロテュースによる[[COGOG]]推進に改造して試験に供した。以後のイギリス海軍では[[81型フリゲート]]や[[カウンティ級駆逐艦]]、82型駆逐艦「[[ブリストル (82型駆逐艦)|ブリストル]]」におけるガスタービンと蒸気タービンとの組み合わせによる[[COSAG]] 推進を経て、[[1973年]]の[[21型フリゲート]]や[[1975年]]の[[42型駆逐艦]]でオール・ガスタービン化されている。[[1980年]]に竣工した満載排水量 20,500 トンの[[インヴィンシブル級航空母艦]]はオリンパス TM1B を4基用いた[[COGAG]]推進艦で世界最大のガスタービン推進艦となった。
これらの国々に続いて[[アメリカ海軍]]では[[1973年]]に竣工した[[スプルーアンス級駆逐艦]]や[[1976年]]に竣工した[[オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート]]が[[ゼネラル・エレクトリック|ジェネラル・エレクトリック社]]製の航空エンジンである [[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6]]-50 を舶用に転用した [[ゼネラル・エレクトリック LM2500|LM2500]] ガスタービンによる [[COGAG]] 推進を採用している。
[[海上自衛隊]]では、[[11号型魚雷艇]]などに航空用エンジンを転用したガスタービンを搭載するとともに、昭和29年度計画乙型駆潜艇[[はやぶさ (駆潜艇)|「はやぶさ」]]に[[防衛省|防衛庁]][[技術研究本部]]と[[三菱重工業長崎造船所]]が共同で開発・製造した MUK501(運輸省の練習船「北斗丸」に搭載されたものと同機種)がディーゼルと組み合わされ ([[CODAG]]) 試験的に搭載された。しかし本機の運用実績は芳しくなく、[[1970年]](昭和45年)にガスタービン用の中央軸を損傷したのを機に撤去された。その後しばらく、護衛艦の主機にガスタービンを推すことを躊躇う風潮が生じ、蒸気タービンとディーゼルが主機に採用され続けたが、[[1974年]](昭和49年)度計画で[[やまぐも型護衛艦]]の発展型として、[[ロールス・ロイス オリンパス#ロールス・ロイス オリンパス TM3B 船舶用ガスタービン|ロールス・ロイス オリンパスTM3B]]による[[CODOG]]機関を搭載した[[2500トン型護衛艦]]の建造が計画された<ref>{{Cite journal|和書|year=1994|month=4|title=幻に終わった4次防のガスタービンDDK|journal=[[世界の艦船]]|issue=479|pages=102-108|publisher=海人社}}</ref>。この計画は[[オイルショック]]の影響で中止されたが、3年後の[[1977年]](昭和52年)度計画で、DEである[[いしかり (護衛艦)|「いしかり」]]が [[CODOG]]推進艦として、DDである[[はつゆき型護衛艦|はつゆき型]]が[[COGOG]]推進艦(巡航用に[[ロールス・ロイス タイン|タイン]] RM1C を 2 基、高速用にオリンパス TM3B を 2 基使用する)として建造されることとなった。続く[[1988年]]の[[あさぎり型護衛艦|あさぎり型]]では[[ロールス・ロイス スペイ|スペイ]] SM1A を 4 基組み合わせた COGAG 推進が採用された。エンジンは川崎重工業がライセンスをうけて生産した。[[1996年]]に一番艦が竣工した[[むらさめ型護衛艦|むらさめ型]]とその改良型である[[たかなみ型護衛艦|たかなみ型]]はロールス・ロイス社のスペイ SM1C とジェネラル・エレクトリック社の LM2500 を採用した世界的にも珍しいメーカーの異なるガスタービンエンジンの組み合わせによる COGAG 推進艦である。このように現代の艦艇ではガスタービン主機が主流となっている。
前述の例群に先行して、類似技術の[[ヴァルター機関]]が[[潜水艦]]や[[魚雷]]向けに試作・実用化され、魚雷用としては非ヴァルタータービン式ガスタービンが、後の[[スピアフィッシュ (魚雷)|スピアフィッシュ魚雷]]等に採用されている。
旧ソ連海軍やイギリス海軍ではいずれも軽量大出力であること、従来の艦艇用主機に比べて整備性が良いこと、出力の増減が迅速に行える点が評価された。一方で、ガスタービンと[[スクリュー]]ではその回転数が極端に異なるため巨大な[[減速機|減速ギアボックス]]が必要なこと<ref group="注">[[ターボ・エレクトリック方式]]では省略・小規模化が可能。</ref>、およびガスタービン主機は燃費が悪く、運転条件によっては多量の燃料を消費するなどのマイナス面もある。過去にカシン型は[[日本海]]で燃料切れを起こして立ち往生する事故を起こしている。またガスタービンエンジン搭載艦は従来の蒸気タービン、ディーゼルエンジン搭載艦と比べると大量の給排気、高温の排気、小型軽量であるがゆえの重心上昇などの点を、艦艇の設計にあたって留意する必要があり艦容に大きな影響を与える。
アメリカ海軍では下部が軽くなった分を下部構造を強化して重くし上部構造を軽合金で製作するなどして補正した。ただし[[軽合金]]製上部構造は[[フォークランド紛争]]やアメリカ海軍の火災事故などでの被害拡大の要因となったとされ、[[護衛艦]]では鋼製に戻されている。大量の給排気は煙突と給気筒を大きくすることで対応する。このためガスタービン搭載艦の煙突は太く短い物が多い。高温の排気については煙突からの排気の下流に物を置かないなどの対処がとられる。また蒸気タービン搭載艦などに流行した[[マック (船)|マック]](マスト+スタック(煙突)の造語。両者の機能を併せ持つ構造物)はガスタービン搭載艦では見られなくなっている。
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ファイル:The Russian Navy Udaloy-class destroyer RFS Admiral Panteleyev arrives at Joint Base Pearl Harbor-Hickam to participate in the Rim of the Pacific exercise 2012. (7487834270).jpg|[[ウダロイ級駆逐艦]]
ファイル:HMS Queen Elizabeth in Gibraltar - 2018 (28386226189).jpg|[[クイーン・エリザベス級航空母艦]]
ファイル:US Navy 100921-N-6764G-033 The Arleigh Burke-class destroyer USS Stout (DDG 55) departs Naval Station Norfolk to participate in Joint Warrior 2010.jpg|[[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦]]
ファイル:Joint Warrior 17-2 (37192869290).jpg|[[カルロ・ベルガミーニ級フリゲート (2代)]]
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==== 民間船舶 ====
民間船舶の多くには[[熱効率]]が非常に優れた低速回転[[ディーゼルエンジン]]が用いられている。高速[[フェリー]]などでの軽量化のためや、排気ガス中に含まれる窒素酸化物の排出が少ない事もあり、ガスタービンエンジンも徐々に使用され始めている。
特に[[水中翼船]]、[[ホバークラフト]]などでは主流となっている。また従来の舶用機関に比べてガスタービンエンジンの運転時の騒音が、特に低周波成分が少ない点を評価し、大型客船用の[[ターボ・エレクトリック方式]]の推進機関の主機として採用された例がある。
1990年代半ばの日本では、[[モーダルシフト]]に関連して内航船の速度向上をめざす二隻の[[テクノスーパーライナー]] (TSL) 実験船が建造された。<!--http://www.mlit.go.jp/kaiji/tsl/development.htm-->[[三井造船]]の空気圧力式複合支持船型(エアクッション艇)「飛翔(ひしょう)」、及び[[川崎重工業]]の揚力式複合支持船型(水中翼船)「疾風(はやて)」は、いずれもガスタービンエンジン主機による[[ウォータージェット推進]]の高速船であった<ref group="注">いずれも経済性等の理由により運行されていない。</ref>。
燃費が圧倒的に悪く、エンジンそれ自体の価格と保守にかかるコストもディーゼルエンジンより高額となり、整備のために取り外さなければならないため船内配置が制約されるなど、ガスタービンエンジンは舶用主機関としては不利な点が多いため、軽量である利点が生かせる用途にのみ使用される<ref name = "船のしくみ"/>。
=== 戦車 ===
[[第二次世界大戦]]末期に[[ドイツ]]が[[GT 101]]ガスタービンを[[V号戦車パンター]]に試験的に搭載した。
最初に戦車へガスタービンエンジンを採用した[[スウェーデン]]の[[Strv.103]]ではディーゼルエンジンを混載し、ガスタービンエンジンはダッシュ時のみに使用されていた。[[ソビエト連邦|旧ソ連]]の[[T-80]]はガスタービンエンジンのみを搭載したが、トラブルが続出したため[[T-80U]]で改良が加えられたが、燃費のよいディーゼルエンジンを搭載した[[T-72]]、[[T-80UD]]、[[T-90]]、[[T-14 (戦車)|T-14]]を併行して生産配備している。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[M1エイブラムス]]もT-80同様にガスタービンエンジンのみを搭載したが、燃費の悪さのために[[湾岸戦争]]時には大量の燃料の輸送が行われ、この戦訓から停車時の電力供給を目的にM1へ[[補助動力装置|APU]]を設置した。[[フランス]]の[[ルクレール]]はガスタービンエンジンを補助動力としても使用できる複合動力装置として搭載している。しかし複雑なシステムゆえにフランス本国以外での修繕は不可能とされ、UAE輸出型は動力部を[[ユーロパワーパック]]に換装した仕様となっている。
現在、高容量[[電気二重層キャパシタ]]と組み合わせたガスタービン-電気ハイブリッド式の開発が各国で進められている。現在3種の[[戦車]]にガスタービンエンジンが用いられている。小型大出力のエンジンとして評価され、瞬間的なダッシュ力には一定の評価があるが、低速/停車時の燃費の悪さから、主力戦闘車輌としてはこれらに続く採用事例はない。
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ファイル:M1a2sepv3.jpg|M1エイブラムス
ファイル:Leclerc-openphotonet PICT5993.JPG|ルクレール
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=== 鉄道車両 ===
[[鉄道車両]]へのガスタービンエンジン搭載も様々な方法で模索されてきたが、実用化された例は少なく、ランニングコスト等の理由から早々と営業運転を終了した車両も多い。前述した通り、細かなエンジン回転数の調整が困難な事・低負荷の状態では燃費効率が悪化する・騒音が大きいなどが理由として挙げられる。
鉄道車両への搭載例は、[[1941年]]に[[スイス連邦鉄道]]が導入した、[[ブラウン・ボベリ]]製ガスタービンエンジンと発電機を搭載した[[スイス国鉄Am4/6形ガスタービン機関車|Am4/6形]]が最初の事例とされており、[[1966年]] ユナイテッド・エアクラフト社(後の[[ユナイテッド・テクノロジーズ]])による[[UAC ターボトレイン]]があり、長期試験の後[[1968年]]から米[[ニューヘブン鉄道]]で、[[1973年]]から[[カナダ国鉄]]・[[モントリオール]]-[[トロント]]間で特急「TURBO」として営業運転を行なっていた。試験車両としては旧[[日本国有鉄道|国鉄]]が開発した[[国鉄キハ07形気動車]]改造車(キハ07 901)と、その結果を元に試作された[[国鉄キハ391系気動車|キハ391系]]がある。これらは非電化区間のスピードアップを図るために開発されたが、第一次[[オイルショック]]を機に実用・量産化が断念されている。フランス国鉄が運行する[[TGV]]も、初期にはガスタービン駆動の発電機で発電し電動機を駆動する[[電気式ガスタービン機関車]]が計画され試作車両が作られたが、同様に[[オイルショック]]のため電気機関車方式に変更された。ただし、実用・量産化の失敗の原因は当時の技術不足の一面も大きく、発電機・電動機の小型化が進んだ現在ならガスタービンエンジンの持ち味を生かせる可能性もあるとも考えられ、現在でもガスタービンで発電機を回して電動機を駆動する「[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#電気式|電気式]]ターボトレイン」の研究が続いており、特に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では膨大な軍事技術を投入した[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]仕様の[[ターボトレイン]]を研究中で、[[回生ブレーキ|回生制御]]の肝となる[[フライホイール]]の開発如何によっては非電化高速鉄道の切り札になるといわれている。
その他にも1960年代から1970年代にかけて[[イギリス]]や[[ドイツ]]、[[チェコスロバキア]]、[[スイス]]、[[ドイツ]]、[[ソ連]]などで開発が進められたが第一次オイルショックの後、開発は下火になった。その後、[[ロシア]]では[[圧縮天然ガス]]を燃料とする[[:ru:Газотурбовоз ГТ1|GT1]]が開発され、試験運用されている。
;ガスタービンの動力を変速機を介して車輪を駆動
* イギリス - イギリス国鉄 [[:en:British Rail GT3|GT3]]
* フランス - [[フランス国鉄TGS気動車]]、[[ターボトレイン (フランス)|ターボトレイン]]、[[:en:SNCF Class T 2000|T 2000(RTG)]]、[[:fr:Élément à turbine à gaz|ETG]]、[[:fr:CC 80000|CC 80000]]
* ドイツ - [[西ドイツ国鉄210形ディーゼル機関車|西ドイツ国鉄210形]]、[[:de:DB-Baureihe 602|西ドイツ国鉄BR602]]、[[西ドイツ国鉄V169形ディーゼル機関車|西ドイツ国鉄V169形]]
* ソ連 - [[G1-01]]、[[:ru:Газотурбовоз ГТ101|GT101]]、[[:ru:Газотурбовоз ГТ1|GT1]]
* チェコスロバキア - [[:de:Škoda TL 659.001 und TL 659.002|TL 659.001 と TL 659.002]]
* [[カナダ]] - [[UAC ターボトレイン]]
* [[日本]] - [[国鉄キハ07形気動車#キハ07 901|キハ07 901]]、[[国鉄キハ391系気動車|キハ391系]]
なおフランス製のターボトレインは[[エジプト]]や[[イラン]]などへも輸出され、特にエジプトでは[[1983年]]の就役以来、[[カイロ]]〜[[アレクサンドリア]]間の特急列車として活躍している。
;ガスタービンで発電して電動機で車輪を駆動
* スイス - [[:en:SBB-CFF-FFS Am 4/6 1101|スイス連邦鉄道Am4/6形]]
* イギリス - イギリス国鉄[[:en:British Rail 18000|18000号機]]、[[イギリス国鉄APT-E]]
* フランス - [[TGV 001]]
* ロシア - [[:ru:Газотурбовоз ГТ1|GT1]]
* アメリカ - [[ユニオン・パシフィック鉄道の電気式ガスタービン機関車]]
* [[カナダ]] - [[ジェットトレイン]]
* [[日本]] - [http://www.s-tomoedenki.co.jp/products/building/A06.html ターボロコ]
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ファイル:UAC Turbo train at Kingston.jpg|UAC ターボトレイン
ファイル:Union Pacific 18.jpg|イリノイ鉄道博物館に保存されているUP 18機関車
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;ジェットエンジンの反動で推進([[ターボジェット・トレイン]])
* アメリカ-[[M-497]]上部に[[:en:General Electric J47|J47-19]]ターボジェットエンジンを備えて噴射して走行した。
* ソビエト-{{仮リンク|高速走行実験鉄道車両|uk|Швидкісний вагон-лабораторія}}
工事用などの産業用機関車では、[[電気機関車#蓄電池機関車|蓄電池機関車]]にマイクロガスタービン発電機を搭載した機関車が実用化されており、現場の条件で充電や電池交換が困難な用途向けに使用されている<ref>メーカー・製品の例([[新トモエ電機工業]][http://www.s-tomoedenki.co.jp/products/building/A06.html 「ターボロコ」])</ref>。
さらに、本来の用途ではないが、[[雪かき車]]としてジェット噴射で除雪する車両が実用化されている。ヘリコプター用の小型ガスタービンを保線用車両に取り付け、排気をダクトで線路面に平行に前方に噴射し雪を吹き飛ばすタイプの除雪車両が、操車場などのポイントの融雪・氷塊除去に使用される。実際、[[ユニオンパシフィック鉄道]]の[[ソルトレイクシティ]]駅で使用されていた。
個々の車両などは[[:Category:ガスタービン機関車]]も参照のこと。
=== 自動車など ===
[[1950年]]代から[[1960年]]代にかけて、小型で高出力のガスタービンは次世代エンジンとして注目され、[[ガスタービン自動車]]の実用化に向けて様々な研究がされてきたが、量産車として成功した例は少ない。
1963年に[[クライスラー]]は[[クライスラーのタービンエンジン|自動車用ガスタービンエンジン]]を独自に開発して[[クライスラー・ターバイン]]を開発し、一般ユーザー向けに試験販売も行われた。クライスラーでは1993年にも[[:en:Chrysler Patriot|クライスラーパトリオット]]を開発している。日本車では[[トヨタ自動車]]がGTV(1987年第27回東京モーターショー出品)<ref>[http://www.car-net.jp/car_spec/toyota/concept_car/000443.html トヨタGTV]</ref> を開発した例がある。
自動車レースの世界では、[[イギリス]]の[[ローバー (自動車)|ローバー]]が[[1963年]]と[[1965年]]にガスタービン搭載車を[[ル・マン24時間レース]]に出場させた例や、アメリカの[[STP]]が、[[プラット・アンド・ホイットニー]]製のエンジンを搭載した車両を[[1967年]]と[[1968年]]の[[インディ500]]に出場させていた例などがある。
[[ハイブリッドカー]]の動力源としてガスタービンを使用する事例もあり、1992年の[[モンディアル・ド・ロトモビル|パリサロン]]では[[ボルボ・ECC]]が出品されたほか、[[ゼネラルモーターズ]]は1990年代半ばに[[GM・EV1]]電気自動車に[[ウィリアムズ・インターナショナル]]で開発されたガスタービンを搭載した[[ハイブリッドカー]]を開発した<ref>{{cite web | title = AutoWorld EV1 Electric: Series Hybrid | url = http://www.autoworld.com/news/GMC/Series_Hybrid.htm |accessdate = 2011-07-25}}</ref>。単段式、単軸で熱交換器を備えたガスタービンにより永久磁石式交流発電機を駆動した。ガスタービンの重量は220 lb (99.8 kg)、直径20 inches (50.8 cm)、全長22 inches (55.9 cm)、回転数は100,000 から 140,000 rpmだった。タービンはハイオクタン価の[[代替燃料]]や[[圧縮天然ガス]]が使用された。蓄電池の容量が40%以下になると自動的にガスタービン発電機が作動して40 kWの電力を供給して充電する仕様だった。最高速度は80 mph (128.8 km/h)に達した。日本車でもトヨタが[[トヨタ・センチュリー|センチュリー]]にガスタービンを搭載した「トヨタセンチュリー・ガスタービン・ハイブリッド」(1975年第21回東京モーターショー出品)<ref>CAR GRAPHIC '76-1 P28</ref> や、[[トヨタ・スポーツ800|スポーツ800]]にガスタービンエンジンとモーターを搭載したハイブリッドカー(1977年第22回東京モーターショー出品)を開発している。2019年には[[三菱自動車]]がガスタービンエンジンを搭載する[[プラグインハイブリッドカー]]の「MI-TECH CONCEPT」を発表した<ref>[https://response.jp/article/2019/10/25/328029.html ガスタービンエンジン搭載のPHEV! 三菱『MI-TECHコンセプト』…東京モーターショー2019] レスポンス 2019年10月25日</ref>。
また[[2006年]]現在では、アメリカのマリン・タービン・テクノロジー社が、[[MTT・タービン・スーパーバイク|ガスタービンエンジン搭載のオートバイ]]を市販している<ref>[http://www.marineturbine.com/motorcycles.asp Marine Turbine Technology Motorcycle]</ref>。
他にもマイクロガスタービン発電機をハイブリッド車の電源に採用した車両がアメリカやニュージーランドなどで見られ、日本では[[日の丸自動車興業]]が[[東京駅]]周辺で運行している2つの無料循環バス:[[丸の内シャトル]]と[[メトロリンク日本橋]]に採用されている。
[[2010年]]に開催されたパリモーターショーで発表されたジャガー75周年記念コンセプトモデル[[:en:Jaguar C-X75|CX-75]]はレンジエクステンデッド(航続距離延長型)電気自動車エンジンとして発電用マイクロガスタービンを2個搭載し、合計70kWの出力を発生する。フル充電してさらにガスタービンを使用した場合900kmの航続距離を実現している。
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ファイル:VolvoECC .jpg|ボルボ・ECC
ファイル:GMEV1serieshybrid.jpg|[[GM・EV1|EV1 ガスタービンハイブリッド試作車]]
ファイル:Silver jaguar c-x75.jpg|[[:en:Jaguar C-X75|ジャガー C-X75.]]
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=== 定置型発電 ===
ガスタービンエンジンは、[[汽力発電]]などに用いられる[[蒸気タービン]]に比べて起動時間が短いため、ピーク時用[[内燃力発電]]として[[1950年代]]から用いられていた。また、[[ディーゼルエンジン]]と比較して、小型軽量で冷却水が不要なため、非常用[[発電機]]に用いられる。さらに、高圧部が無いことから設置に際し規制が緩やかで、[[2000年代]]に入り[[電気工作物]]としての規制も緩和されたため、[[都市ガス]]を燃料とする超小型ガスタービンエンジンを用いた店舗用小規模自家発電装置なども普及している。振動が少なく、軽量なため、従来のディーゼル式発電機では不可能だった高層ビルの屋上に設置される例もある。
ガスタービンエンジンは高温で動作するため、その排気もまた十分に高温であり、[[吸収式冷凍機]]や廃熱回収[[ボイラー]]と組み合わせて、電気の他、蒸気、温水をも供給する熱電併給システム([[コジェネレーション]])や、さらに[[蒸気タービン]]による発電を組み合わせて複合火力発電([[コンバインドサイクル発電]])とし、総合的な熱効率を大幅に高めることがなされている<ref>[http://www.fepc.or.jp/enterprise/hatsuden/fire/gas_turbine/index.html ガスタービン発電,電気事業連合会]</ref>。
[[ムーンライト計画]]では[[中間冷却器]]、[[熱再生器]]を搭載した世界最高水準の高効率のガスタービンが開発された。現在は[[日本工業大学]]付属工業技術博物館に国産の[[ターボファンエンジン]]である[[FJR710]]と供に保存、展示されている。
[[2005年]]現在、ドイツなどでは、燃焼用の圧縮空気を夜間などの電力需要の小さい時間に[[岩塩]]を取り出した跡の岩盤内に蓄え昼間に使用することで[[圧縮機]]の必要動力を軽減し、発電量を増加させるものが実証試験中である。
[[2011年]]に起こった[[東日本大震災]]とそれに付随する[[福島第一原子力発電所事故]]により[[東北電力]]・[[東京電力]]管内の供給能力が急減し、この減少分を補うためにLNGを燃料とするガスタービン発電機が既存の火力発電所内に急遽設置されることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tohoku-epco.co.jp/news/normal/1183286_1049.html|title=供給力確保に向けた緊急設置電源の新設について|publisher=東北電力|accessdate=2011-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tepco.co.jp/cc/press/11051603-j.html|title=供給力確保に向けた緊急設置電源の新設について〜茨城県の当社常陸那珂火力発電所敷地内に新設〜|publisher=東京電力|accessdate=2011-05-26}}</ref>。
=== ターボポンプ ===
[[ロケット]]等において推進剤をエンジンに供給する為に使用される。高速で回転する為、[[キャビテーション]]が発生しないように細心の注意が払われる。ターボポンプの成否が新型エンジンの成功の成否に懸かっているといっても過言ではないくらいでターボポンプの開発は難航する場合がある。
=== その他 ===
発電用ではない定置式ガスタービンエンジンの例としては、河川の排水ポンプがある。大雨等で水かさが増した[[河川]]の水をポンプ汲み上げて排水する時に使用される大型ポンプの動力としてガスタービンエンジンの採用事例がある。小型大出力、起動時間の短さ、整備性の良さ等が評価された結果である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年7月|section=1}}
* [http://articles.compressionjobs.com/articles/oilfield-101/168-gas-turbines-principles-lube-control-systems-overspeed Stationary Combustion Gas Turbines including Oil & Over-Speed Control System description]
* "Aircraft Gas Turbine Technology" by Irwin E. Treager, Professor Emeritus Purdue University, McGraw-Hill, Glencoe Division, 1979, ISBN 0-07-065158-2.
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== 関連項目 ==
* [[ジェットエンジン]] - [[軸流式圧縮機]]
* [[ブレイトンサイクル]] - [[熱力学サイクル]] - [[ベッツの法則]]
* [[テスラタービン]] - [[境界層効果]]によって駆動するタービン
* [[ボイラー・タービン主任技術者]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Gas turbines}}
{{参照方法|date=2021年7月|section=1}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.com/Tokyo/Gulf/4306/ |title=ターボトレインのサイト |date=19991004234255}} フライホイールを利用した電気式ターボトレインの説明
* [http://www.jal.co.jp/jiten/dict/p217.html 航空実用事典 エンジンと動力装置 engine & powerplant(日本航空)]
* {{Curlie|/Science/Technology/Energy/Devices/Internal_Combustion_Engines/Gas_Turbine/}}
* [https://books.google.co.jp/books?id=WCwDAAAAMBAJ&pg=PA81&dq=Popular+Science+1932+plane&hl=en&ei=Vk1STb-0AYO6tgfLh624CQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=true "New Era In Power To Turn Wheels"] ''Popular Science'', December 1939, early article on operations of gas turbine power plants, cutaway drawings
* [http://www.techzoom.net/papers/innovation_in_civil_jet_aviation_2006.pdf Technology Speed of Civil Jet Engines]
* [http://web.mit.edu/aeroastro/faculty/labs.html MIT Gas Turbine Laboratory]
* [http://www.memagazine.org/backissues/membersonly/october97/features/turbdime/turbdime.html MIT Microturbine research]
* [http://www.energy.ca.gov/distgen/equipment/microturbines/microturbines.html California Distributed Energy Resource guide - Microturbine generators]
* [http://travel.howstuffworks.com/turbine.htm Introduction to how a gas turbine works from "how stuff works.com"]
* [http://www.soton.ac.uk/~ge102/Jet.html Aircraft gas turbine simulator for interactive learning"]
{{航空機用ガスタービンエンジンの構成要素}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ガスタービンエンジン|*]]
[[Category:自動車エンジン技術]]
[[Category:流体機械]]
[[Category:空気力学]] | 2003-03-04T05:31:12Z | 2023-12-10T01:05:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3 |
3,357 | マイコン | マイコン | [
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] | マイコン マイクロコンピュータ、マイ・コンピュータ - 1970年代末期から1980年代にかけて普及したミニコンピュータより小型のホビーパソコン
月刊マイコン - かつて電波新聞社が発行していたパソコン雑誌
マイクロコントローラ、マイクロプロセッサ - 集積回路に実装されたコンピュータシステムあるいはプロセッサで、組み込みシステムに使われる。少なくとも2000年代以降はこちらが一般的。また、マイクロプロセッサを指してマイクロコンピュータと呼ぶことも多い。 マイコン・ダグラス・シセナンド - ブラジル出身で、アヴァイFC所属のサッカー選手。
マイコン・ペレイラ・ロケ - ブラジル出身で、ガラタサライSK所属のサッカー選手。
マイコン・マルケス・ビテンコウト - ブラジル出身で、アンタルヤスポル所属のサッカー選手。
マイコン・ペレイラ・デ・オリベイラ - ブラジル出身で、2014年に交通事故で死亡したサッカー選手。
マイコン・チアゴ・ペレイラ・ジ・ソウザ - ブラジル出身で、グレミオFBPA所属のサッカー選手。
日本のテレビドラマ『太陽にほえろ!』の登場人物、「水木悠」(演・石原良純)のニックネーム。上述のマイクロコンピューターに由来。 毎日新聞主催の「日本音楽コンクール」の通称
悪徳商法・霊感商法などにおける「マインド・コントロール」詐術の隠語 | '''マイコン'''
;コンピュータ関係の略語
* [[マイクロコンピュータ]]、マイ・コンピュータ<ref>{{Cite book |和書 |author=安田寿明|authorlink=安田寿明 |title=マイ・コンピュータ入門―コンピュータはあなたにもつくれる |publisher=[[講談社]] |series=ブルーバックス |year=1977}}
{{Cite book |和書 |author=安田寿明|authorlink=安田寿明 |title=マイ・コンピュータをつくる―組み立てのテクニック |publisher=[[講談社]] |series=ブルーバックス |year=1977}}<br>
{{Cite book |和書 |author=安田寿明|authorlink=安田寿明 |title=マイコンピュータをつかう―周辺機器と活用の実際 |publisher=[[講談社]] |series=ブルーバックス |year=1978}}</ref> - 1970年代末期から1980年代にかけて普及した[[ミニコンピュータ]]より小型の[[ホビーパソコン]]
* [[月刊マイコン]] - かつて[[電波新聞社]]が発行していた[[パソコン雑誌]]
* [[マイクロコントローラ]]、[[マイクロプロセッサ]] - [[集積回路]]に実装された[[コンピュータ]]システムあるいは[[プロセッサ]]で、[[組み込みシステム]]に使われる。少なくとも2000年代以降はこちらが一般的。また、マイクロプロセッサを指してマイクロコンピュータと呼ぶことも多い。
; 人物名
* [[マイコン・ダグラス・シセナンド]] - ブラジル出身で、[[アヴァイFC]]所属のサッカー選手。
* [[マイコン・ペレイラ・ロケ]] - ブラジル出身で、[[ガラタサライSK]]所属のサッカー選手。
* [[マイコン・マルケス・ビテンコウト]] - ブラジル出身で、[[アンタルヤスポル]]所属のサッカー選手。
* [[マイコン・ペレイラ・デ・オリベイラ]] - ブラジル出身で、2014年に交通事故で死亡したサッカー選手。
* [[マイコン・チアゴ・ペレイラ・ジ・ソウザ]] - ブラジル出身で、[[グレミオFBPA]]所属のサッカー選手。
* 日本のテレビドラマ『[[太陽にほえろ!]]』の登場人物、「'''水木悠'''」(演・[[石原良純]])のニックネーム。上述のマイクロコンピューターに由来。
;その他
* [[毎日新聞]]主催の「[[日本音楽コンクール]]」の通称
* [[悪徳商法]]・[[霊感商法]]などにおける「[[マインド・コントロール]]」詐術の[[隠語]]
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3 |
3,358 | マイクロコンピュータ | マイクロコンピュータ(英語:microcomputer)、略してマイコンはCPUとしてマイクロプロセッサを使用したコンピュータである。マイクロコンピュータは当時のメインフレームやミニコンピュータと比較して物理的に小さかった。入出力のためのキーボードとスクリーンを装備した多くのマイクロコンピュータは、現代の一般的な感覚におけるパーソナルコンピュータに近い。
なおマイコンという呼び方は1970年代から1980年代にかけて一般的であったが、同様な製品を現在はパソコンと呼ぶ。
1956年7月に出版されたファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション誌にあるアイザック・アシモフの短編小説"The Dying Night"(やがて明ける夜)の中でマイクロコンピュータという用語が見られる。「マイクロ」という語が使われるようになったのは、集積回路によるいわゆるマイクロプロセッサ(それ自体を指してマイクロコンピュータと言うこともある)の登場によるところが大きい(登場当初の頃、チップ1個に集積できたのはコンピュータのCPUの機能だけだったこともあり、「コンピュータと呼ぶのは誇大だ。プロセッサと呼ぶべきだ」というような議論もあったが、大量生産による急激な一般化による「革命」とも言われたブーム(en:Microcomputer revolution)と、実際にコンピュータの全機能を詰め込んだワンチップマイコンの登場により、無意味な議論となった)。
最初期のモデルはユーザが組み立てるキットとして販売されることが多く、自作もされた。最初期のありがちなスペックでは、たった256バイトのRAMしか持たず、入出力装置はインジケータライトとスイッチのみであった。ワンボードマイコンのような基板1枚のものもある。しかし、マイクロコンピュータと半導体メモリが1970年代前~中期に安くなっていくにつれて、マイクロコンピュータはどんどんより速く、より安価になって行った。結果、1970年代末期と1980年代初め、爆発的な人気を得た。
多くのコンピュータメーカーは中小企業向けのマイクロコンピュータを開発した。1979年には、クロメンコ、プロセッサ・テクノロジー、IMSAI、ノーススター・コンピューターズ、SWTPC、オハイオ・サイエンティフィック、アルト、モロー・デザインズなどの多くの企業が、工夫に富むユーザー、または中小企業に会計、データベース管理、文書作成などのビジネスシステムを提供するコンサルティングファームのためにデザインされたシステムを生産していた。これは、ミニコンピュータのリースの負担、もしくはタイムシェアリングサービスの利用ができないような会社が、(一般的には)コンピュータを操作するフルタイムのスタッフを雇わずに、仕事を自動化することができるようになった。この時代の代表的なシステムはS100バス、Intel 8080やZ80などの8ビットプロセッサ、CP/MとMP/Mのどちらかのオペレーティングシステムであった。
個人使用のためのデスクトップパソコンが入手できるようになり、性能が向上したことは、より多くのソフトウェア開発者の注意をひきつけた。時間がたち、産業が成熟し、パーソナルコンピュータの市場は、大方MS-DOS(後にはMicrosoft Windows)が動作するPC/AT互換機として規格化された。
現代のデスクトップ、ゲーム機、ノートパソコン、タブレットPC、携帯電話や電卓などのハンドヘルド機器、組み込みシステムは、上記の定義によりすべてマイクロコンピュータの例と考えられるかもしれない。
入出力が揃ったコンピュータ一式を指しての「マイクロコンピュータ」という呼称、特に「マイクロ」や「マイコン」という短縮形は、1980年代中ごろから顕著に減少し、現在では一般的ではない。現在では、マイクロコントローラとも呼ばれる、周辺回路や小規模のメモリをワンチップに組込んだ(ワンチップマイコンという語もある)組込みシステムに使われるマイクロプロセッサを指して使われるのが専らである。
「マイコン」という呼称は、最も一般的にはオールインワンの8ビットパソコンないしホビーパソコンと第一世代の中小企業用マイクロコンピュータ(Apple II、コモドール64、BBC Micro、TRS-80など)と関連付けて使用された。現代のマイクロプロセッサベースの多様な製品は「マイクロコンピュータ」の定義には合うが、そのような製品はもはや通常は「マイクロコンピュータ」とは呼ばれていない。なお、「マイコン」という単語は日本で流行し、テレビドラマ『太陽にほえろ!』では石原良純がマイコン刑事というキャラクターを演じた。
一般的には、「マイクロコンピュータ」という用語は、(一度に)1人の人間が使用するようにデザインされたことを意味するパーソナルコンピュータまたはPCという用語に置き換えられた。IBMは最初、他のホームコンピュータと呼ばれていたマイクロコンピュータや、IBM自身のメインフレームやミニコンピュータと区別するために、「パーソナルコンピュータ」という用語の普及を促した。不幸にも、その用語同様、「パーソナルコンピュータ」と呼ばれたマイクロコンピュータそのものが広く模倣された。IBM PCの構成部品は他メーカーも使用可能な一般的なものであり、PC のソフトウェアであるBIOSもクリーンルーム設計を通じて他の企業にリバースエンジニアリングされることで、同等のものが作られた。IBM PC の「クローン(互換機)」が一般的なものになり、また「パーソナルコンピュータ」や「PC」という用語が世界的に一般化した。
モニタ、キーボード、などの入出力のため装置は、本体と一体化している場合も、分離している場合もあった。RAMと、少なくとも1種類の不揮発性のメモリ装置が、一つのユニットとしてのCPUとフロントサイドバス上で結合されていた。マイクロコンピュータシステム全体は、バッテリー、電源回路ユニット、キーボード、および操作者と情報のやり取りをするさまざまな入出力機器(プリンター、ディスプレイ、ヒューマン・インタフェース・デバイス)などで構成される。マイクロコンピュータは1度に1人のユーザが使用するように設計されたが、ハードウェアまたはソフトウェアを修正することで複数のユーザが使用できるようにしたものも多かった。マイクロコンピュータはユーザが容易にアクセスできるように、机やテーブルの上または下に設置された。当時のミニコンピュータ、メインフレーム、スーパーコンピュータなどのより大きなコンピュータは大きなラックや専用の部屋が必要であった。
マイクロコンピュータは、少なくとも一種類の記憶装置(通常はRAM)を装備している。いくつかのマイクロコンピュータ(特に早期の8ビットホームマイクロコンピュータ)はRAMのみを用いて処理を行うが、通常は何らかの補助記憶装置の使用が望ましい。家庭用マイクロコンピュータの初期にはこれはしばしば(外部ユニットとしての)カセットデッキであった。のちに、二次記憶装置(特にフロッピーディスクドライブとハードディスクドライブ)がマイクロコンピュータ自身に組み込まれた。
1968年ごろに発売されたヒューレット・パッカードの計算機は、マイクロプロセッサを使用せず、TTLを用いて設計されていたが、マイクロコンピュータと呼べるほどのさまざまなプログラム能力の水準を含んでいた。HP9100B(1968年)は基本的な条件ステートメント(IF)、ステートメントの行番号、ジャンプステートメント(goto文)、変数として使用することの出来るレジスタ、および原始的なサブルーチン機能を持っていた。プログラム言語はさまざまな面でアセンブリ言語と類似していた。後のモデルはよりBASIC言語(1971年のHP9830A)を含む多くの機能を追加した。いくつかのモデルはテープストレージと小さなプリンタを持っていた。しかしディスプレイは1行に制限されていた。HP 9100Aは1968年にサイエンス誌内での広告で「パーソナル・コンピュータ」と称されたが、この広告はすぐに取りやめられた 。
1970年にCTCが開発したDatapoint 2200は、おそらく「最初のマイクロコンピュータ」の最もよい候補である。これはマイクロプロセッサを含まないものの、Intel 4004のプログラム命令セットと、Intel 8008を基にしたカスタムTTLロジックを使用し、実用的な目的のためにシステムはおおよそ8008を含んでいるかのように動作する。これはインテルがデータポイントのCPUを開発することを担当していたが、20個のサポートチップが必要であったので、CTCが8008によるデザインを拒否したためである 。
別の初期のシステムKenbak-1は1971年にリリースされた。Datapoint 2200のように、マイクロプロセッサの代わりに、統合していないTransistor-transistor logicを用いたが、ほとんどの場合マイクロコンピュータのように機能した。教育用、趣味用のツールとしてマーケティングされたが、商業的には成功せず、発表後すぐに生産が中止された。注目に値する別のシステムは、Micralである。これは1973年にフランスの会社から発表され、8008で動作していた。これはキットではなく、完成品として販売された最初のマイクロコンピュータであった。
初期のマイクロコンピュータはほぼすべて、基本的に、ワンボードマイコンか、ライトとスイッチを持つ箱であった。使用者は、プログラムを作ったり使用したりするために2進数と機械語を理解する必要があった(ただしDatapoint 2200はモニタ、キーボード、テープ・ディスクドライブに基づいた近代的なデザインを持っており、著しく例外的であった)。これらの「スイッチの箱」形式のマイクロコンピュータの中で、MITSのAltair 8800(1975年)は間違いなく最も有名であった。初期の簡潔なマイクロコンピュータのほとんどは電子キット(システムが使えるようになるまではんだ付けする必要があるコンポーネントで詰められたバッグ)として販売された。
およそ1971年から1976年までの期間を、マイクロコンピュータの第一世代と呼ぶことがある。これらのコンピュータは技術開発と趣味人の個人使用のためであった。1975年、プロセッサテクノロジーのen:SOL-20がデザインされた。これはコンピュータシステムの全ての部品を含んだひとつのパーツから構成された。SOL-20はスイッチとライトの列をエミュレートする内蔵のEPROMソフトウェアを持っていた。趣味でコンピュータを扱う人の興味を喚起するということについて、Altair 8800は重要な役割を果たしたと言われる。このことは最終的にマイクロソフトやAppleのような多くのよく知られたパーソナルコンピュータのハードウェアとソフトウェアの会社の設立と成功に至った。Altair自身は商業的にそこそこ成功しただけであったが、のちに巨大な産業の引き金となった。
1977年にはホームコンピュータとして知られている第二世代のマイクロコンピュータが登場した。これらは、しばしば実用的なエレクトロニクスに対する深い知識を必要とした第一世代のものよりはるかに使いやすかった。モニタ(スクリーン)やテレビと接続することができ、文字や数字をビジュアルに操作できるようになった。プログラム機能は、前世代の機械語そのものより学習と使用が容易であったBASICプログラム言語が標準搭載されるようになった。これらの機能は、当時多くの愛好家やメーカーが慣れ親しんでいたミニコンピュータではすでに一般的だった。
1979年、最初にマイクロコンピュータをコンピュータ愛好家の趣味からビジネスのツールに変えた表計算ソフトであるVisiCalc(最初はApple II用だった)が登場した。IBM PCが1981年にリリースされた後、パーソナルコンピュータという用語は一般的にIBM PCのアーキテクチャと互換のマイクロコンピュータ(PC/AT互換機)のために使用された。 | [
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] | マイクロコンピュータ(英語:microcomputer)、略してマイコンはCPUとしてマイクロプロセッサを使用したコンピュータである。マイクロコンピュータは当時のメインフレームやミニコンピュータと比較して物理的に小さかった。入出力のためのキーボードとスクリーンを装備した多くのマイクロコンピュータは、現代の一般的な感覚におけるパーソナルコンピュータに近い。 なおマイコンという呼び方は1970年代から1980年代にかけて一般的であったが、同様な製品を現在はパソコンと呼ぶ。 | {{脚注の不足|date=2018年11月10日 (土) 04:04 (UTC)}}
{{dablink|この項目では[[1960年代]]ごろに普及した[[コンピュータ]]について記述しています。
* 小型の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]については、「[[Template:Computer sizes|コンピュータのサイズ]]」より適切な記事をお選びください。
* [[組み込みシステム]]に用いられるマイクロコンピュータについては「[[マイクロコントローラ]]」、「[[マイクロプロセッサ]]」をご覧ください。
* その他の用法については「[[マイコン]]」をご覧ください。}}
[[Image:Commodore-64-Computer-FL.png|thumb|300px|[[コモドール64]]はその時代最も人気のあったマイクロ[[コンピュータ]]のひとつであり、歴史上最も売れた[[ホビーパソコン]]である。]]
'''マイクロコンピュータ'''([[英語]]:'''microcomputer''')、略して'''マイコン'''は[[CPU]]として[[マイクロプロセッサ]]を使用した[[コンピュータ]]である。<!--それらのコンピュータの一般的なほかの特徴は、-->マイクロコンピュータは当時の[[メインフレーム]]や[[ミニコンピュータ]]と比較して物理的に小さかった。入出力のためのキーボードとスクリーンを装備した多くのマイクロコンピュータは、現代の一般的な感覚における[[パーソナルコンピュータ]]に近い。
なお'''マイコン'''という呼び方は[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて一般的であったが、同様な製品を現在は'''パソコン'''と呼ぶ。
==起源==
1956年7月に出版された[[ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション]]誌にある[[アイザック・アシモフ]]の短編小説"The Dying Night"(''やがて明ける夜'')の中でマイクロコンピュータという用語が見られる。<!--、後に[[ミニコンピュータ]]が社会的に普及した後、現実のものとなった。-->「マイクロ」という語が使われるようになったのは、[[集積回路]]によるいわゆる[[マイクロプロセッサ]](それ自体を指してマイクロコンピュータと言うこともある)の登場によるところが大きい(登場当初の頃、チップ1個に集積できたのはコンピュータの[[CPU]]の機能だけだったこともあり、「コンピュータと呼ぶのは誇大だ。プロセッサと呼ぶべきだ」というような議論もあったが、大量生産による急激な一般化による「革命」とも言われたブーム([[:en:Microcomputer revolution]])と、実際にコンピュータの全機能を詰め込んだ[[マイクロコントローラ|ワンチップマイコン]]の登場により、無意味な議論となった)。
最初期のモデルはユーザが組み立てるキットとして販売されることが多く、自作もされた。最初期のありがちなスペックでは、たった256[[バイト (情報)|バイト]]の[[Random Access Memory|RAM]]しか持たず、[[入出力]]装置はインジケータライトとスイッチのみであった。[[ワンボードマイコン]]のような基板1枚のものもある。しかし、マイクロコンピュータと[[半導体メモリ]]が1970年代前~中期に安くなっていくにつれて、マイクロコンピュータはどんどんより速く、より安価になって行った。結果、1970年代末期と1980年代初め、爆発的な人気を得た。
多くのコンピュータメーカーは中小企業向けのマイクロコンピュータを開発した。1979年には、[[クロメンコ]]、[[プロセッサ・テクノロジー]]、[[IMSAI]]、[[ノーススター・コンピューターズ]]、[[SWTPC]]、[[オハイオ・サイエンティフィック]]、[[アルト (企業)|アルト]]、[[モロー・デザインズ]]などの多くの企業が、工夫に富むユーザー、または中小企業に会計、データベース管理、文書作成などのビジネスシステムを提供するコンサルティングファームのためにデザインされたシステムを生産していた。これは、ミニコンピュータのリースの負担、もしくはタイムシェアリングサービスの利用ができないような会社が、(一般的には)コンピュータを操作するフルタイムのスタッフを雇わずに、仕事を自動化することができるようになった。この時代の代表的なシステムは[[S100バス]]、[[Intel 8080]]や[[Z80]]などの8ビットプロセッサ、[[CP/M]]と[[MP/M]]のどちらかのオペレーティングシステムであった。
個人使用のための[[デスクトップパソコン]]が入手できるようになり、性能が向上したことは、より多くのソフトウェア開発者の注意をひきつけた。時間がたち、産業が成熟し、[[パーソナルコンピュータ]]の市場は、大方[[MS-DOS]](後には[[Microsoft Windows]])が動作する[[PC/AT互換機]]として規格化された。
現代の[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]、[[ゲーム機]]、[[ノートパソコン]]、[[タブレットPC]]、[[携帯電話]]や[[電卓]]などの[[ハンドヘルド機器]]、[[組み込みシステム]]は、上記の定義によりすべてマイクロコンピュータの例と考えられるかもしれない。
==この用語の使用==
入出力が揃ったコンピュータ一式を指しての「マイクロコンピュータ」という呼称、特に「マイクロ」や「マイコン」という短縮形は、[[1980年代]]中ごろから顕著に減少し、現在では一般的ではない。現在では、[[マイクロコントローラ]]とも呼ばれる、周辺回路や小規模のメモリをワンチップに組込んだ(ワンチップマイコンという語もある)組込みシステムに使われるマイクロプロセッサを指して使われるのが専らである。
「マイコン」という呼称は、最も一般的にはオールインワンの[[8ビットパソコン]]ないし[[ホビーパソコン]]と第一世代の中小企業用マイクロコンピュータ([[Apple II]]、[[コモドール64]]、[[BBC Micro]]、[[TRS-80]]など)と関連付けて使用された。現代のマイクロプロセッサベースの多様な製品は「マイクロコンピュータ」の定義には合うが、そのような製品はもはや通常は「マイクロコンピュータ」とは呼ばれていない。なお、「マイコン」という単語は日本で流行し、テレビドラマ『太陽にほえろ!』では[[石原良純]]がマイコン刑事というキャラクターを演じた<ref>川添愛「情報技術とAIから、ゆるく平成を振り返る」『平成遺産』淡交社、86ページ。</ref>。
一般的には、「マイクロコンピュータ」という用語は、(一度に)1人の人間が使用するようにデザインされたことを意味する[[パーソナルコンピュータ]]またはPCという用語に置き換えられた。IBMは最初、他の[[ホームコンピュータ]]と呼ばれていたマイクロコンピュータや、IBM自身の[[メインフレーム]]や[[ミニコンピュータ]]と区別するために、「パーソナルコンピュータ」という用語の普及を促した。不幸にも、その用語同様、「パーソナルコンピュータ」と呼ばれたマイクロコンピュータそのものが広く模倣された。[[IBM PC]]の構成部品は他メーカーも使用可能な一般的なものであり、PC のソフトウェアである[[Basic Input/Output System|BIOS]]も[[クリーンルーム設計]]を通じて他の企業に[[リバースエンジニアリング]]されることで、同等のものが作られた。IBM PC の「[[PC/AT互換機|クローン(互換機)]]」が一般的なものになり、また「パーソナルコンピュータ」や「PC」という用語が世界的に一般化した。
==説明==
モニタ、キーボード、などの入出力のため装置は、本体と一体化している場合も、分離している場合もあった。[[Random Access Memory|RAM]]と、少なくとも1種類の不揮発性のメモリ装置が、一つのユニットとしてのCPUと[[フロントサイドバス]]上で結合されていた。マイクロコンピュータシステム全体は、バッテリー、[[電源回路]]ユニット、キーボード、および操作者と情報のやり取りをするさまざまな入出力機器([[プリンター]]、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]、[[ヒューマン・インタフェース・デバイス]])などで構成される。マイクロコンピュータは1度に1人のユーザが使用するように設計されたが、ハードウェアまたはソフトウェアを修正することで複数のユーザが使用できるようにしたものも多かった。マイクロコンピュータはユーザが容易にアクセスできるように、机やテーブルの上または下に設置された。当時の[[ミニコンピュータ]]、[[メインフレーム]]、[[スーパーコンピュータ]]などのより大きなコンピュータは大きな[[ラック]]や専用の部屋が必要であった。
マイクロコンピュータは、少なくとも一種類の記憶装置(通常は[[Random Access Memory|RAM]])を装備している。いくつかのマイクロコンピュータ(特に早期の8ビットホームマイクロコンピュータ)はRAMのみを用いて処理を行うが、通常は何らかの[[補助記憶装置]]の使用が望ましい。家庭用マイクロコンピュータの初期にはこれはしばしば(外部ユニットとしての)[[カセットデッキ]]であった。のちに、二次記憶装置(特に[[フロッピーディスク]]ドライブと[[ハードディスクドライブ]])がマイクロコンピュータ自身に組み込まれた。
==歴史==
[[Image:Early Personal Computers.jpg|thumb|320px|right|マイクロコンピュータのコレクション。[[プロセッサ・テクノロジー]]の[[Sol-20]](最上段の右)、[[Micro Instrumentation and Telemetry Systems|MITS]]の[[Altair 8800]](上から二段目の左)、[[TVタイプライター]](上から三段目の中央)、[[Apple I]](棚から外れた右)]]
1968年ごろに発売された[[ヒューレット・パッカード]]の計算機は、マイクロプロセッサを使用せず、[[Transistor-transistor logic|TTL]]を用いて設計されていたが、マイクロコンピュータと呼べるほどのさまざまなプログラム能力の水準を含んでいた。HP9100B(1968年)は基本的な条件ステートメント(IF)、ステートメントの行番号、ジャンプステートメント([[goto文]])、変数として使用することの出来るレジスタ、および原始的なサブルーチン機能を持っていた。プログラム言語はさまざまな面で[[アセンブリ言語]]と類似していた。後のモデルはより[[BASIC]]言語(1971年のHP9830A)を含む多くの機能を追加した。いくつかのモデルはテープストレージと小さなプリンタを持っていた。しかしディスプレイは1行に制限されていた<ref>http://www.hpmuseum.org/</ref>。[[HP 9100A]]は1968年に[[サイエンス]]誌内での広告で「パーソナル・コンピュータ」と称された<ref>http://www.hp.com/hpinfo/abouthp/histnfacts/museum/personalsystems/0021/other/0021ad.pdf</ref>が、この広告はすぐに取りやめられた<ref>http://www.sciencemag.org/cgi/issue_pdf/frontmatter_pdf/162/3852.pdf</ref> 。
1970年に[[データポイント|CTC]]が開発した[[Datapoint 2200]]は、おそらく「最初のマイクロコンピュータ」の最もよい候補である。これはマイクロプロセッサを含まないものの、[[Intel 4004]]のプログラム[[命令セット]]と、[[Intel 8008]]を基にしたカスタムTTLロジックを使用し、実用的な目的のためにシステムはおおよそ8008を含んでいるかのように動作する。これはインテルがデータポイントのCPUを開発することを担当していたが、20個のサポートチップが必要であったので、CTCが8008によるデザインを拒否したためである<ref>[http://www.computermuseum.li/Testpage/MicroprocessorHistory.htm MicroprocessorHistory<!-- Bot generated title -->]</ref>
。
別の初期のシステム[[Kenbak-1]]は1971年にリリースされた。Datapoint 2200のように、マイクロプロセッサの代わりに、統合していない[[Transistor-transistor logic]]を用いたが、ほとんどの場合マイクロコンピュータのように機能した。教育用、趣味用のツールとしてマーケティングされたが、商業的には成功せず、発表後すぐに生産が中止された。注目に値する別のシステムは、[[Micral]]である。これは1973年にフランスの会社から発表され、8008で動作していた。これはキットではなく、完成品として販売された最初のマイクロコンピュータであった。
初期のマイクロコンピュータはほぼすべて、基本的に、[[ワンボードマイコン]]か、ライトとスイッチを持つ箱であった。使用者は、プログラムを作ったり使用したりするために2進数と機械語を理解する必要があった(ただしDatapoint 2200はモニタ、キーボード、テープ・ディスクドライブに基づいた近代的なデザインを持っており、著しく例外的であった)。これらの「スイッチの箱」形式のマイクロコンピュータの中で、[[Micro Instrumentation and Telemetry Systems|MITS]]の[[Altair 8800]](1975年)は間違いなく最も有名であった。初期の簡潔なマイクロコンピュータのほとんどは[[電子キット]](システムが使えるようになるまではんだ付けする必要があるコンポーネントで詰められたバッグ)として販売された<ref>{{cite journal |last=A.G. |first=バクロウ |authorlink= |coauthors= |year=|date=1975年7月 |month= |title=マイクロコンピュータ |journal=[[日経サイエンス|サイエンス]] |volume= |issue= |pages=70 |id= |url= |accessdate= |quote= }}</ref>。
およそ1971年から1976年までの期間を、マイクロコンピュータの第一世代と呼ぶことがある。これらのコンピュータは技術開発と趣味人の個人使用のためであった。1975年、[[プロセッサテクノロジー]]の[[:en:SOL-20]]がデザインされた。これはコンピュータシステムの全ての部品を含んだひとつのパーツから構成された。SOL-20はスイッチとライトの列をエミュレートする内蔵のEPROMソフトウェアを持っていた。趣味でコンピュータを扱う人の興味を喚起するということについて、[[Altair 8800]]は重要な役割を果たしたと言われる。このことは最終的に[[マイクロソフト]]や[[Apple]]のような多くのよく知られた[[パーソナルコンピュータ]]のハードウェアとソフトウェアの会社の設立と成功に至った。Altair自身は商業的にそこそこ成功しただけであったが、のちに巨大な産業の引き金となった。
1977年には[[ホームコンピュータ]]として知られている第二世代のマイクロコンピュータが登場した。これらは、しばしば実用的なエレクトロニクスに対する深い知識を必要とした第一世代のものよりはるかに使いやすかった。モニタ(スクリーン)やテレビと接続することができ、文字や数字をビジュアルに操作できるようになった。プログラム機能は、前世代の機械語そのものより学習と使用が容易であった[[BASIC]]プログラム言語が標準搭載されるようになった。これらの機能は、当時多くの愛好家やメーカーが慣れ親しんでいた[[ミニコンピュータ]]ではすでに一般的だった。
1979年、最初にマイクロコンピュータをコンピュータ愛好家の趣味からビジネスのツールに変えた[[表計算ソフト]]である[[VisiCalc]](最初は[[Apple II]]用だった)が登場した。[[IBM PC]]が1981年にリリースされた後、[[パーソナルコンピュータ]]という用語は一般的にIBM PCのアーキテクチャと互換のマイクロコンピュータ([[PC/AT互換機]])のために使用された。
==参考文献==
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[[Category:コンピュータの形態]] | 2003-03-04T05:38:56Z | 2023-12-02T05:20:11Z | false | false | false | [
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3,359 | ジョン・フォン・ノイマン | ジョン・フォン・ノイマン(英: John von Neumann、 1903年12月28日 - 1957年2月8日)は、ハンガリー出身のアメリカ合衆国の数学者。ハンガリー語名は Neumann János Lajos(発音 [ˈnɒjmɒn ˈjaːnoʃ ˈlɒjoʃ])。ドイツ語名は Johann Ludwig von Neumann(ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・ノイマン)。
数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・ゲーム理論・気象学・心理学・政治学に影響を与えた20世紀科学史における最重要人物の一人とされ、特に原子爆弾やコンピュータの開発への関与でも知られる。
1903年にブダペストにて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人だった。
幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い、父親と古代ギリシャ語でジョークを言えた。8歳で微分積分をものにした。興味は数学にとどまらず、家の一室にあったヴィルヘルム・オンケン(英語版)の44巻本の歴史書『世界史』を読了した。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテ、ディケンズの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった。
1910年ごろには父親がフェンシングの先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ノイマンはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノやチェロを習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した。
1913年に父親が貴族の称号を購入した(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン(Johann von Neumann)に変わることになる。
1914年にはブダペストにあるルーテル・ギムナジウム「アウグスト信仰の福音学校」へ入学。ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーとはルーテル校で学友だった。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ(en:László Rátz)がノイマンの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツはブダペスト大学の数学者にノイマンを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク教授がセゲー・ガーボル講師にノイマンの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をノイマンがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している。
1915年から1916年にセゲーはノイマンの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテとリポート・フェイエールが最もよく付き合った。
1920年に17歳のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される。
1921年にラーツは父親との約束を守り、ノイマンが数学以外の科目を勉強するように指導した。ノイマンはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた。同窓生のウィルヘルム・フェルナーやウィグナーによると、ノイマンはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字・体育・音楽の成績は落第すれすれの「可」であった。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞にも合格した。
1921年から1926年にかけてブダペスト大学 (Eötvös Loránd Tudományegyetem) の大学院で数学を学んだ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親は友人のセオドア・フォン・カルマンに相談し、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学 (chemical engineering) を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。1926年、論文がドイツのダフィット・ヒルベルトにいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事した。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となり、1927年から1930年に最年少でベルリン大学の私講師 (Privatdozent) を務めた。しかし、1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした。
1930年にプリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルであった)。1933年以降、この研究所で数学の教授を務めた。ノイマンは、1937年にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には数値解析が必要であると考えた。そこで、アメリカ合衆国陸軍に自ら志願するが、不採用になった(当時の弾道研究所の責任者をしていたのはカルマンであり、彼は、ノイマンに化学の道を開いた張本人であったため、ノイマンが応用数学の領域に進むのを阻止したかったからであると言われている)。しかし、程なくして爆発物の分野での第一人者となり、アメリカ合衆国海軍に対するコンサルティングの仕事をした。また、ロスアラモス国立研究所でアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた。さらに弾道研究所が担当していたENIACのプロジェクト開始から1年後、マンハッタン計画に従事していたノイマンもこの電子計算機のプロジェクトに気付いて関わることとなった。
1950年代にはアメリカ合衆国国防総省、中央情報局(CIA)、IBM、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイルなど大企業や政府の顧問などさまざまな仕事を引き受け、特にアメリカ合衆国空軍へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された。しかし、太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍あるいはすい臓がんと診断された(同僚のエンリコ・フェルミも1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。アメリカ原子力委員会初代委員長ルイス・ストローズ(英語版)の回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった...。移民だった彼のベッドはいまや国防長官、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。
1956年1月にワシントンD.C.のウォルター・リード病院(英語版)に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、1度目の結婚の際に改宗したカトリック教会の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。1957年2月に53歳で死去。ニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬されている。
兵器である砲弾や爆弾は、爆発さえすれば目標になんらかの影響を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。
フォン・ノイマンは、1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持った。彼は1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは国防研究委員会(NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した。この炸薬を漏斗状に成形すると爆発力が中心の空間に集中して厚い装甲板を貫通する効果は、ノイマン効果とも呼ばれている。これらの成果は、第二次世界大戦において、対戦車砲弾や魚雷の爆発に応用された。
また、爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要があり、この必要性が彼が電子計算機に関わるきっかけの一つとなった。
1944年8月に、フォン・ノイマンは数学者ハーマン・ゴールドシュタインと偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータENIACのことを聞いた。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができ、そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを知り抜いていた。フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに次に計画されていた計算機EDVACの性能を格段に上げるため新しい発想を練り上げた。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる案を作り上げた。
1945年にはプリンストン高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project)を立ち上げた。この膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのためのわかりやすい目的が必要だった。彼は1945年頃にシカゴ大学の気象・海洋学者であるカール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)から、気象予測が主観的な職人芸となっていることを知った。電子コンピュータによる気象予測やその結果を用いた気象改変は人々にとってわかりやすい目的だった。彼は気象予測のための非線形偏微分方程式(プリミティブ方程式)を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報(数値予報)ができると考え、電子コンピュータプロジェクトの一つに数値予報の開発を加えた。
ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト(Meteorology Project)」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いて、気象学者たちをまとめた。これによってプロジェクトは実現へと踏み出した。しかし、数値予報はイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗しており、単に偏微分方程式を差分形にして電子コンピュータで計算するだけではうまくいかないことははっきりしていた。その打開のために、1948年にアメリカの気象学者ジュール・チャーニー(Jule Charney)が気象プロジェクトに招かれた。チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった。
数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシンの開発が遅れたため、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡易化された気象予報モデルで予報の再現実験が行われた。この際に、モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。この結果は1950年に発表され、数値予報が実現可能であることを実証した記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている。
フォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ(IASマシン)が1951年に完成した。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、複雑な傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。これを受けて、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカに「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」が設立された。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター(National Center for Environmental Prediction: NCEP)となっていった。
一方で、1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips)が、大気大循環モデルの計算実験を行って、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のための会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまった。しかし、気象プロジェクトから始まった数値予報モデルと大循環モデル(気候モデル)は、現在日々の天気予報やIPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測に欠かせないものである。
気象予測モデルは、観測結果の入力から予測の計算結果の導出までにかかる時間が、気象の発現時刻(予測時間)より速くないと意味がない(予測に使えない)という特殊事情がある。フォン・ノイマンは自身でコンピュータを改善して(プログラム内蔵などにして)数値予報が実用化できるほどにコンピュータを高速化しただけでなく、コンピュータ開発のために気象プロジェクトを立ち上げて主導した。彼は電子コンピュータと非線形流体力学方程式の両方に詳しかったからこそ、電子コンピュータの開発のために数値予報に目を付けることができたと考えられる。当時の気象学の分野は小さかったうえに、ほとんどの気象学者は電子コンピュータを扱えなかった。もしフォン・ノイマンがいなければ、電子コンピュータを用いた数値予報開発のために、大規模に人と資金を集めたプロジェクトを立ち上げることは困難だったと思われる。 | [
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"text": "1913年に父親が貴族の称号を購入した(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン(Johann von Neumann)に変わることになる。",
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"text": "1914年にはブダペストにあるルーテル・ギムナジウム「アウグスト信仰の福音学校」へ入学。ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーとはルーテル校で学友だった。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ(en:László Rátz)がノイマンの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツはブダペスト大学の数学者にノイマンを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク教授がセゲー・ガーボル講師にノイマンの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をノイマンがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している。",
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"text": "1915年から1916年にセゲーはノイマンの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテとリポート・フェイエールが最もよく付き合った。",
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"text": "1920年に17歳のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される。",
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"text": "1921年にラーツは父親との約束を守り、ノイマンが数学以外の科目を勉強するように指導した。ノイマンはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた。同窓生のウィルヘルム・フェルナーやウィグナーによると、ノイマンはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字・体育・音楽の成績は落第すれすれの「可」であった。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞にも合格した。",
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"text": "1921年から1926年にかけてブダペスト大学 (Eötvös Loránd Tudományegyetem) の大学院で数学を学んだ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親は友人のセオドア・フォン・カルマンに相談し、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学 (chemical engineering) を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。1926年、論文がドイツのダフィット・ヒルベルトにいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事した。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となり、1927年から1930年に最年少でベルリン大学の私講師 (Privatdozent) を務めた。しかし、1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした。",
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"text": "1930年にプリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルであった)。1933年以降、この研究所で数学の教授を務めた。ノイマンは、1937年にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には数値解析が必要であると考えた。そこで、アメリカ合衆国陸軍に自ら志願するが、不採用になった(当時の弾道研究所の責任者をしていたのはカルマンであり、彼は、ノイマンに化学の道を開いた張本人であったため、ノイマンが応用数学の領域に進むのを阻止したかったからであると言われている)。しかし、程なくして爆発物の分野での第一人者となり、アメリカ合衆国海軍に対するコンサルティングの仕事をした。また、ロスアラモス国立研究所でアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた。さらに弾道研究所が担当していたENIACのプロジェクト開始から1年後、マンハッタン計画に従事していたノイマンもこの電子計算機のプロジェクトに気付いて関わることとなった。",
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"text": "1950年代にはアメリカ合衆国国防総省、中央情報局(CIA)、IBM、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイルなど大企業や政府の顧問などさまざまな仕事を引き受け、特にアメリカ合衆国空軍へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された。しかし、太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍あるいはすい臓がんと診断された(同僚のエンリコ・フェルミも1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。アメリカ原子力委員会初代委員長ルイス・ストローズ(英語版)の回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった...。移民だった彼のベッドはいまや国防長官、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。",
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"text": "1956年1月にワシントンD.C.のウォルター・リード病院(英語版)に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、1度目の結婚の際に改宗したカトリック教会の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。1957年2月に53歳で死去。ニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬されている。",
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"text": "兵器である砲弾や爆弾は、爆発さえすれば目標になんらかの影響を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。",
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"text": "フォン・ノイマンは、1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持った。彼は1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは国防研究委員会(NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した。この炸薬を漏斗状に成形すると爆発力が中心の空間に集中して厚い装甲板を貫通する効果は、ノイマン効果とも呼ばれている。これらの成果は、第二次世界大戦において、対戦車砲弾や魚雷の爆発に応用された。",
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"text": "また、爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要があり、この必要性が彼が電子計算機に関わるきっかけの一つとなった。",
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"text": "1944年8月に、フォン・ノイマンは数学者ハーマン・ゴールドシュタインと偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータENIACのことを聞いた。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができ、そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを知り抜いていた。フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに次に計画されていた計算機EDVACの性能を格段に上げるため新しい発想を練り上げた。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる案を作り上げた。",
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"text": "1945年にはプリンストン高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project)を立ち上げた。この膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのためのわかりやすい目的が必要だった。彼は1945年頃にシカゴ大学の気象・海洋学者であるカール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)から、気象予測が主観的な職人芸となっていることを知った。電子コンピュータによる気象予測やその結果を用いた気象改変は人々にとってわかりやすい目的だった。彼は気象予測のための非線形偏微分方程式(プリミティブ方程式)を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報(数値予報)ができると考え、電子コンピュータプロジェクトの一つに数値予報の開発を加えた。",
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"text": "ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト(Meteorology Project)」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いて、気象学者たちをまとめた。これによってプロジェクトは実現へと踏み出した。しかし、数値予報はイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗しており、単に偏微分方程式を差分形にして電子コンピュータで計算するだけではうまくいかないことははっきりしていた。その打開のために、1948年にアメリカの気象学者ジュール・チャーニー(Jule Charney)が気象プロジェクトに招かれた。チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった。",
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"text": "数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシンの開発が遅れたため、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡易化された気象予報モデルで予報の再現実験が行われた。この際に、モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。この結果は1950年に発表され、数値予報が実現可能であることを実証した記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている。",
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"text": "フォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ(IASマシン)が1951年に完成した。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、複雑な傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。これを受けて、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカに「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」が設立された。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター(National Center for Environmental Prediction: NCEP)となっていった。",
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"text": "一方で、1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips)が、大気大循環モデルの計算実験を行って、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のための会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまった。しかし、気象プロジェクトから始まった数値予報モデルと大循環モデル(気候モデル)は、現在日々の天気予報やIPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測に欠かせないものである。",
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"text": "気象予測モデルは、観測結果の入力から予測の計算結果の導出までにかかる時間が、気象の発現時刻(予測時間)より速くないと意味がない(予測に使えない)という特殊事情がある。フォン・ノイマンは自身でコンピュータを改善して(プログラム内蔵などにして)数値予報が実用化できるほどにコンピュータを高速化しただけでなく、コンピュータ開発のために気象プロジェクトを立ち上げて主導した。彼は電子コンピュータと非線形流体力学方程式の両方に詳しかったからこそ、電子コンピュータの開発のために数値予報に目を付けることができたと考えられる。当時の気象学の分野は小さかったうえに、ほとんどの気象学者は電子コンピュータを扱えなかった。もしフォン・ノイマンがいなければ、電子コンピュータを用いた数値予報開発のために、大規模に人と資金を集めたプロジェクトを立ち上げることは困難だったと思われる。",
"title": "活動"
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] | ジョン・フォン・ノイマンは、ハンガリー出身のアメリカ合衆国の数学者。ハンガリー語名は Neumann János Lajos()。ドイツ語名は Johann Ludwig von Neumann(ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・ノイマン)。 数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・ゲーム理論・気象学・心理学・政治学に影響を与えた20世紀科学史における最重要人物の一人とされ、特に原子爆弾やコンピュータの開発への関与でも知られる。 | {{Infobox scientist
| name = ジョン・フォン・ノイマン<br>John von Neumann
| image = JohnvonNeumann-LosAlamos.gif
| image_size =
| birth_name = Neumann János Lajos
| caption = 1940年頃
| birth_date = {{birth date|mf=yes|1903|12|28}}
| birth_place = {{AUT1867}} [[ブダペスト]]
| death_date = {{death date and age|mf=yes|1957|2|8|1903|12|28}}
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| nationality = {{HUN}}<br/>{{USA}}
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| fields = [[数学]]、[[コンピューター科学]]
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| doctoral_advisor = [[フェイェール・リポート]]
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| doctoral_students = [[ドナルド・ギリース]]<br />{{仮リンク|イスラエル・ハルペリン|en|Israel Halperin}}
| notable_students = [[ポール・ハルモス]]<br />{{仮リンク|クリフォード・ドウカー|en|Clifford Hugh Dowker}}
| known_for = 英文の[[:en:John von Neumann|ジョン・フォン・ノイマン]]参照
| author_abbrev_bot =
| author_abbrev_zoo =
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| influenced =
| prizes = [[ボッチャー記念賞]](1938年)<br />[[エンリコ・フェルミ賞]](1956年)
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| 身長 = 175cm
}}
'''ジョン・フォン・ノイマン'''({{lang-en-short|John von Neumann|links=no}}、 [[1903年]][[12月28日]] - [[1957年]][[2月8日]])は、[[ハンガリー]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[数学者]]。ハンガリー語名は {{lang|hu|Neumann János Lajos}}({{IPA-hu|ˈnɒjmɒn ˈjaːnoʃ ˈlɒjoʃ|pron}})。ドイツ語名は {{lang|de|Johann Ludwig von Neumann}}<ref>{{Cite web|和書|title=著者・訳者から探す:J・v・ノイマン|url=https://www.msz.co.jp/book/author/na/14835/|website=[[みすず書房]]公式サイト|accessdate=2021-08-13|language=ja-JP|archiveurl=https://megalodon.jp/2021-0813-1651-49/https://www.msz.co.jp:443/book/author/na/14835/|archivedate=2021-8-13}}</ref>(ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・ノイマン)。
[[数学]]・[[物理学]]・[[工学]]・[[計算機科学]]・[[経済学]]・[[ゲーム理論]]・[[気象学]]・[[心理学]]・[[政治学]]に影響を与えた[[20世紀]]科学史における最重要人物の一人とされ、特に[[原子爆弾]]や[[コンピュータ]]の開発への関与でも知られる。
== 生い立ち ==
[[1903年]]に[[ブダペスト]]にて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住した[[ユダヤ系ドイツ人]]だった<ref name=":0">[[ジョン・フォン・ノイマン#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p.11</ref>。
幼い頃より英才教育を受け、[[ラテン語]]と[[ギリシャ語]]の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 66</ref>、父親と[[古代ギリシャ語]]でジョークを言えた<ref name="macrae1998.51">[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 51</ref>。{{要出典範囲|8歳で微分積分をものにした。|date=2012年1月}}興味は数学にとどまらず、家の一室にあった{{仮リンク|ヴィルヘルム・オンケン|en|Wilhelm Oncken}}の44巻本の歴史書『世界史』を読了した<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 55</ref>。好んで読んだもの、特に『世界史』や[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]の小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった<ref name="macrae1998.51"/>。
[[1910年]]ごろには父親が[[フェンシング]]の先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ノイマンはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生に[[ピアノ]]や[[チェロ]]を習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した<ref name="macrae1998.51"/>。
[[1913年]]に父親が貴族の称号を購入した([[オーストリア]]の[[ユンカー]]に相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「'''[[フォン (前置詞)|フォン]]'''・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン(Johann von Neumann)に変わることになる<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 59f.</ref>。
[[1914年]]には[[ブダペスト]]にある[[ルーテル教会|ルーテル]]・[[ギムナジウム]]「アウグスト信仰の福音学校」へ入学<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp.66-68</ref>。[[ノーベル物理学賞]]受賞者[[ユージン・ウィグナー]]とはルーテル校で学友だった<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 26, 34, 70–71, 73–77</ref>。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ([[:en:László Rátz]])がノイマンの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツは[[ブダペスト大学]]の数学者にノイマンを引き合わせた。その数学者のひとりである[[ヨージェフ・キルシャーク]]教授が[[セゲー・ガーボル]]講師にノイマンの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をノイマンがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 71–73</ref>。
[[1915年]]から[[1916年]]にセゲーはノイマンの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちの[[ミヒャエル・フェケテ]]と[[リポート・フェイエール]]が最もよく付き合った<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 72</ref>。
[[1920年]]に17歳のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は[[1922年]]にドイツ数学会雑誌に掲載される<ref name="macrae1998.73">[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 73</ref>。
[[1921年]]にラーツは父親との約束を守り、ノイマンが数学以外の科目を勉強するように指導した。ノイマンはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた<ref name="macrae1998.73"/>。同窓生の[[ウィルヘルム・フェルナー]]やウィグナーによると、ノイマンはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 74–75</ref>。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に[[習字]]・[[体育]]・[[音楽]]の成績は落第すれすれの「可」であった<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 78</ref>。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらに[[エトヴェシュ賞]]にも合格した<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 85f.</ref>。
[[1921年]]から[[1926年]]にかけて[[ブダペスト大学]] ({{lang|hu|Eötvös Loránd Tudományegyetem}}) の大学院で[[数学]]を学んだ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親は友人の[[セオドア・フォン・カルマン]]に相談し<ref>von Kármán, T., & Edson, L. (1967). The wind and beyond. Little, Brown & Company.</ref>、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]と[[チューリッヒ工科大学]]を掛け持ちして[[化学工学]] ({{lang|en|chemical engineering}}) を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。[[1926年]]、論文が[[ドイツ]]の[[ダフィット・ヒルベルト]]にいたく気に入られ、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]でヒルベルトに師事した。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となり、[[1927年]]から[[1930年]]に最年少でベルリン大学の私講師 (''Privatdozent'') を務めた。しかし、[[1930年代]]は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権を避けて、ノイマン一家は[[アメリカ合衆国]]に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 60</ref>。
[[1930年]]にプリンストンに招かれ、[[プリンストン高等研究所]]の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人は[[アルベルト・アインシュタイン]]と[[ヘルマン・ワイル]]であった)。[[1933年]]以降、この研究所で数学の教授を務めた。ノイマンは、[[1937年]]にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には[[数値解析]]が必要であると考えた。そこで、[[アメリカ合衆国陸軍]]に自ら志願するが、不採用になった(当時の[[弾道研究所]]の責任者をしていたのはカルマンであり、彼は、ノイマンに化学の道を開いた張本人であったため、ノイマンが応用数学の領域に進むのを阻止したかったからであると言われている{{誰2|date=2021年3月}})。しかし、程なくして爆発物の分野での第一人者となり、[[アメリカ合衆国海軍]]に対するコンサルティングの仕事をした。また、[[ロスアラモス国立研究所]]でアメリカ合衆国による原子爆弾開発のための[[マンハッタン計画]]に参加していた。さらに弾道研究所が担当していた[[ENIAC]]のプロジェクト開始から1年後、マンハッタン計画に従事していたノイマンもこの電子計算機のプロジェクトに気付いて関わることとなった<ref>Goldstine, Herman H. (1972). The Computer: from Pascal to von Neumann. Princeton, New Jersey: Princeton University Press. ISBN 0-691-02367-0. p.182</ref>。
[[1950年代]]には[[アメリカ合衆国国防総省]]、[[CIA|中央情報局]](CIA)、[[IBM]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[スタンダード・オイル]]など大企業や政府の顧問などさまざまな仕事を引き受け<ref>Macrae 1992, pp. 350–351.</ref><ref>"Weapons' Values to be Appraised". Spokane Daily Chronicle. December 15, 1948.</ref><ref>Oral History Interview with Cuthbert C. Hurd(1981年1月20日)</ref>、特に[[アメリカ合衆国空軍]]へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 342–358</ref>。しかし、太平洋での核爆弾実験の観測や[[ロスアラモス国立研究所]]での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に[[骨腫瘍]]あるいは[[すい臓がん]]と診断された(同僚の[[エンリコ・フェルミ]]も1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。[[アメリカ原子力委員会]]初代委員長{{仮リンク|ルイス・ストローズ|en|Lewis Strauss}}の回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった…。移民だった彼のベッドはいまや[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。
1956年1月にワシントンD.C.の{{仮リンク|ウォルター・リード陸軍医療センター|label=ウォルター・リード病院|en|Walter Reed Army Medical Center}}に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、1度目の結婚の際に改宗した[[カトリック教会]]の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。1957年2月に53歳で死去。ニュージャージー州の[[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]墓地に埋葬されている<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 366–373</ref>。
== 活動 ==
{{出典の明記| date = 2022年1月| section = 1}}
=== 数学 ===
*純粋数学では、[[数学基礎論]]、[[集合論]]や[[測度論]]、[[作用素環論]]、[[エルゴード理論]]などを研究した。
*[[ゲーム理論]]の成立に貢献。特に[[ミニマックス法|ミニマックス定理]]の証明は数学の分野だけでなく、企業経営における戦略の理論や、軍事戦略の基礎理論([[オペレーションズ・リサーチ]])、[[ゼロ和|ゼロサムゲーム]]における戦略(将棋やチェスなどのコンピュータプログラムを含む)などに指針を与え社会に大きな影響を与えた。
*[[数学基礎論]]ではゲーデルとは独立に、[[ゲーデルの不完全性定理|第二不完全性定理]]を発見している。[[公理的集合論]]における[[正則性公理]]を提唱した。
*[[モンテカルロ法]]を考案したうちの一人で、名付け親だとされている。
*[[擬似乱数]]生成器の開発にも貢献している<ref>von Neumann, John (1951). "Various techniques used in connection with random digits". National Bureau of Standards Applied Math Series 12: 36.</ref>。
=== 物理学 ===
*物理では[[量子力学]]を形式的に完成させた『[[量子力学の数学的基礎]]』で知られる(詳細はリンク先記事を参照)。
==== 戦争への協力 ====
兵器である砲弾や爆弾は、爆発さえすれば目標になんらかの影響を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。
フォン・ノイマンは、1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持った。彼は1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは[[国防研究委員会]](NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した<ref>{{Cite book|title=フォン・ノイマンの生涯|date=|year=1998|publisher=朝日選書|last=ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳}}</ref>。この炸薬を漏斗状に成形すると爆発力が中心の空間に集中して厚い装甲板を貫通する効果は、ノイマン効果とも呼ばれている。これらの成果は、第二次世界大戦において、対戦車砲弾や魚雷の爆発に応用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://korechi1.blogspot.com/2020/01/5.html|title=フォン・ノイマンについて(5) 戦争への協力|accessdate=2020/10/30|publisher=堤 之智}}</ref>。
また、爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要があり、この必要性が彼が電子計算機に関わるきっかけの一つとなった。
=== 気象学 ===
*[[ジュール・グレゴリー・チャーニー]]、[[フョルトフト]]とともに[[地球流体力学|気象力学]]の草分けの一人。[[気象学]]や[[気象予報]]において[[数理モデル]]とコンピュータを使う斬新な手法を持ち込み([[数値予報]])、天気を操るアイディアも提案し<ref>Norman MacRae (1992). John Von Neumann: The Scientific Genius Who Pioneered the Modern Computer, Game Theory, Nuclear Deterrence, and Much More (2 ed.). American Mathematical Soc. p. 332. ISBN 9780821826768.</ref><ref>Heims, Steve J. (1980). John von Neumann and Norbert Wiener, from Mathematics to the Technologies of Life and Death. pp. 236–247, Cambridge, Massachusetts: MIT Press. ISBN 0-262-08105-9.</ref>、[[地球温暖化]]も予測した<ref>Engineering: Its Role and Function in Human Society edited by William H. Davenport, Daniel I. Rosenthal (Elsevier 2016), page 266</ref><ref>Heims, Steve J. (1980). John von Neumann and Norbert Wiener, from Mathematics to the Technologies of Life and Death. Cambridge, Massachusetts: MIT Press. ISBN 978-0-262-08105-4. pp. 236–247.</ref>。
==== 背景と数値予報に関わるまでの経緯 ====
1944年8月に、フォン・ノイマンは数学者[[ハーマン・ゴールドスタイン|ハーマン・ゴールドシュタイン]]と偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータ[[ENIAC]]のことを聞いた。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができ、そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを知り抜いていた。フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに次に計画されていた計算機[[EDVAC]]の性能を格段に上げるため[[EDVACに関する報告書の第一草稿|新しい発想を練り上げた]]。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる[[EDVACに関する報告書の第一草稿|案]]を作り上げた<ref>{{Cite web|和書|title=気象学と気象予報の発達史: フォン・ノイマンについて(7) 電子コンピュータの開発|url=https://korechi1.blogspot.com/2020/01/7.html|website=気象学と気象予報の発達史|date=2020-01-28|accessdate=2020-10-12}}</ref>。
1945年にはプリンストン高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project)を立ち上げた。この膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのためのわかりやすい目的が必要だった。彼は1945年頃にシカゴ大学の気象・海洋学者である[[カール=グスタフ・ロスビー|カール=グスタフ・ロスビー]](Carl-Gustaf Rossby)から、気象予測が主観的な職人芸となっていることを知った。電子コンピュータによる気象予測やその結果を用いた気象改変は人々にとってわかりやすい目的だった。彼は気象予測のための非線形偏微分方程式([[プリミティブ方程式]])を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報(数値予報)ができると考え<ref>{{Cite web|和書|title=気象学と気象予報の発達史: フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1|url=https://korechi1.blogspot.com/2020/02/91.html|website=気象学と気象予報の発達史|date=2020-02-10|accessdate=2020-10-12}}</ref>、電子コンピュータプロジェクトの一つに数値予報の開発を加えた。
==== 気象プロジェクト ====
ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト(Meteorology Project)」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いて、気象学者たちをまとめた。これによってプロジェクトは実現へと踏み出した<ref>{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史 数値予報への胎動|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957|publisher=丸善出版|date=2018.10|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1076897828|others=堤 之智|year=}}</ref>。しかし、数値予報はイギリスの気象学者[[ルイス・フライ・リチャードソン|ルイス・リチャードソン]](Lewis Richardson)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗しており、単に偏微分方程式を差分形にして電子コンピュータで計算するだけではうまくいかないことははっきりしていた。その打開のために、1948年にアメリカの気象学者[[ジュール・グレゴリー・チャーニー|ジュール・チャーニー]](Jule Charney)が気象プロジェクトに招かれた。チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった<ref>{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史 傾圧不安定理論と準地衡風モデル|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957|publisher=丸善出版|date=2018.10|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1076897828|others=堤 之智|year=}}</ref>。
数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシンの開発が遅れたため、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡易化された気象予報モデルで予報の再現実験が行われた。この際に、モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。この結果は1950年に発表され、数値予報が実現可能であることを実証した記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている<ref>{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史 実験的な数値予測の成功|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957|publisher=丸善出版|date=2018.10|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1076897828|others=堤 之智|year=}}</ref>。
==== 実験的な数値予報の成功 ====
フォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ([[IASマシン]])が1951年に完成した。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、複雑な傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。これを受けて、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカに「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」が設立された。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター([https://www.ncep.noaa.gov/ National Center for Environmental Prediction]: NCEP)となっていった。
一方で、1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス([[:en:Norman A. Phillips|Norman Phillips]])が、大気大循環モデルの計算実験を行って、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のための会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまった。しかし、気象プロジェクトから始まった数値予報モデルと大循環モデル(気候モデル)は、現在日々の天気予報やIPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測に欠かせないものである<ref>{{Cite book|title=気象学と気象予報の発達史 大循環モデルの発明|url=https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957|publisher=丸善出版|date=2018.10|isbn=978-4-621-30335-1|oclc=1076897828|others=堤 之智|year=}}</ref>。
==== まとめ ====
気象予測モデルは、観測結果の入力から予測の計算結果の導出までにかかる時間が、気象の発現時刻(予測時間)より速くないと意味がない(予測に使えない)という特殊事情がある。フォン・ノイマンは自身でコンピュータを改善して(プログラム内蔵などにして)数値予報が実用化できるほどにコンピュータを高速化しただけでなく、コンピュータ開発のために気象プロジェクトを立ち上げて主導した。彼は電子コンピュータと非線形流体力学方程式の両方に詳しかったからこそ、電子コンピュータの開発のために数値予報に目を付けることができたと考えられる。当時の気象学の分野は小さかったうえに、ほとんどの気象学者は電子コンピュータを扱えなかった。もしフォン・ノイマンがいなければ、電子コンピュータを用いた数値予報開発のために、大規模に人と資金を集めたプロジェクトを立ち上げることは困難だったと思われる<ref>{{Cite web|和書|title=気象学と気象予報の発達史: フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2|url=https://korechi1.blogspot.com/2020/02/102.html|website=気象学と気象予報の発達史|date=2020-02-17|accessdate=2020-10-12}}</ref>。
=== 経済学 ===
*フォン・ノイマン多部門成長モデルによる[[経済成長理論]]への貢献。
*[[生産集合]]・[[再生産]]の生産システム概念の導入。
*[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー|ブラウワー]]の[[不動点|不動点定理]]を使い[[均衡]]の存在を証明。
*経済学での最も大きな貢献として、[[オスカー・モルゲンシュテルン]]と共に経済学に[[ゲーム理論]]を持ち込んだことが挙げられる。この応用がゲーム理論の本格的な幕開けとされ、現在、経済学では[[ミクロ経済学]]・[[マクロ経済学]]と並ぶ重要な分野として確立している。
=== 計算機科学 ===
[[File:Oppenheimer & Neumann.jpg|thumb|[[IASマシン]]の前で並ぶノイマンと[[ロバート・オッペンハイマー]](左)]]
*[[EDVAC]]開発に参加した際、[[プログラム内蔵方式]]に関して書いた文書([[EDVACに関する報告書の第一草稿]])にフォン・ノイマンの名前しか書かれていなかったため、[[プログラム内蔵方式|ストアードプログラム方式]]の考案者であると言われていた。その方式は「'''[[ノイマン型|ノイマン型コンピュータ]]'''」とも言われ、現在のほとんどの[[コンピュータ]]の動作原理である。[[アラン・チューリング]]、[[クロード・シャノン]]らとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者とされている。[[EDVAC]]開発チームの[[ジョン・プレスパー・エッカート]]と[[ジョン・モークリー]]が技術面を担当し、ノイマンが理論面を担当したと言われている。[[ノーマン・マクレイ]]はプログラム内蔵方式に関して[[クルト・ゲーデル]]が[[不完全性定理]]の証明で用いた[[ゲーデル数化]]のアイデアを応用したものと説明している<ref>「論理文を数で符号化したゲーデルに習い、ジョニーは数をつかってコンピュータに入れる命令を符号化した。」[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 127</ref>。
*'''[[セル・オートマトン]]'''の分野を[[スタニスワフ・ウラム]]と創出し、(当初はろくにコンピュータもなかったにもかかわらず)実に方眼紙とペンだけで、自己増殖の概念を証明してみせた。ここでユニバーサル・コンストラクタの概念が考え出された。この分野については、彼の死後『'''自己増殖[[オートマトン]]の理論'''』''Theory of Self Reproducing Automata''が出版されている。この自己増殖マシンは[[DNA]]の自己複製の発見や[[コンピュータウイルス]]の先駆けであるとされる<ref>Éric Filiol, Computer viruses: from theory to applications, Volume 1, Birkhäuser, 2005, pp. 19–38 ISBN 2287239391.</ref><ref>Rocha, L.M. "Von Neumann and Natural Selection.". "Lecture Notes of I-585-Biologically Inspired Computing Course, Indiana University".</ref>。この貢献によりノイマン没後30年後に立ち上がった「[[人工生命]]」と呼ばれる分野の父とも呼ばれている<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/4022569573/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_nYv9zbCA69YQM 人工生命―デジタル生物の創造者たち], Steven Levy, p. 24 ISBN 4022569573</ref>。また、[[カリフォルニア工科大学]]でノイマンが行ったオートマトンに関する講演は計算機科学者の[[ジョン・マッカーシー]]に影響を与え、マッカーシーはノイマンから研究の助言を受けた<ref>{{cite web|url=https://ethw.org/Oral-History:John_McCarthy|title=Oral-History:John McCarthy|publisher=Indiana University and IEEE History Center|accessdate=2019-03-24}}</ref>。1956年に[[ダートマス会議]]で「[[人工知能]]」を確立したマッカーシーはノイマンも招くことを計画していたが、既にノイマンは故人となっていた。ノイマンは「{{仮リンク|コンピュータと脳|en|The Computer and the Brain}}」と題した著書で人間の頭脳とコンピュータを比較する試みを行っていた。
*[[アルゴリズム]]の研究にも貢献。[[ドナルド・クヌース]]は、ノイマンが'''[[マージソート]]'''の発明者であると指摘している。
*クヌースは[[数値流体力学]]の分野にも挑戦したことも指摘している。R.D.Ritchmyerとともに、"[[人工粘性]]"''artificial viscosity''を決定するアルゴリズムを開発し、その成果により人類の[[衝撃波]]についての理解が進歩することになった。その後の[[天体物理学]]の分野の進歩や、高度な[[ジェットエンジン]]や[[ロケットエンジン]]の開発に、この研究は大いに貢献している。流体力学・空気力学の問題をコンピュータで計算するときには、計算すべき格子点(グリッド)が多くなりすぎるという問題があるのだが、この"人工粘性"という数学的な道具を用いることで、基本的な物理学特性を損なわずに、衝撃の伝播をコンピュータで計算しやすい形で表現することができるようになったのである。
=== 核兵器開発への加担 ===
[[ファイル:John von Neumann ID badge.png|thumb|left|150px|[[原子爆弾]]開発に参加したころのIDバッジ写真]]
{{See also|原子爆弾|広島市への原子爆弾投下|長崎市への原子爆弾投下}}
*この分野での彼の主要な業績には、「大きな爆弾による被害は、爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」というものがある。この理論は、広島と長崎に落とされた[[原子爆弾]]にも利用された。
*長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾[[ファット・マン]]のための[[爆縮レンズ]]の開発を担当し、1940年代に爆轟波面の構造に関する[[ZND理論]]を確立した。この理論を元に10か月にわたる数値解析によって、爆薬を[[切頂二十面体|32面体]]に配置することによって、[[原子爆弾]]が実際に実現できることを示した。
*ソ連のスパイだった[[クラウス・フックス]]と[[水素爆弾]]を共同で開発していた。
*日本に対して原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、[[京都]]への投下を進言した。このような側面を持つノイマンは、[[スタンリー・キューブリック]]による映画『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。
== 逸話 ==
*その驚異的な計算能力<ref>"Fly Puzzle (Two Trains Puzzle)". Mathworld.wolfram.com. 2014-02-15. Retrieved 2014-02-25.</ref>と[[映像記憶]]力<ref>Blair, Clay, Jr. Passing of a Great Mind, Life Magazine, 25 February 1957, pp. 89–104.</ref><ref>Goldstine, Herman The Computer from Pascal to von Neumann, p. 167, Princeton University Press, 1980, ISBN 0691023670.</ref>、特異な思考様式、極めて広い活躍領域から「悪魔の頭脳」「火星人」「1,000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」<ref>Eugene Wigner, Historical and Biographical Reflections and Syntheses, Springer 2002, p. 129 ISBN 3540572945.</ref>と評された。
*圧倒的な計算能力については数々の逸話が残っている。
**子供の頃、電話帳の適当に開いたページをさっと眺めて、番号の総和を言って遊んでいた。
**八桁と八桁のかけ算及び割り算を暗算で行う。
**座ってぶつぶつ独り言を言いながら放心したように天井を見つめて暗算し、数分間目を泳がせた後おもむろに口を開き、それを解くことは不可能だと主張する研究者の目の前でスラスラと問題を解いてみせた。
**頭にめぼしい定数や方程式をどっさり覚えていて、それらを総動員して電光石火で問題を解き、他人の着想をみるみる膨らませていった。「誰かが一つ提案しようものなら、ひっつかんで、あっという間に五ブロック先まで行ってしまう」、「自転車で特急を追いかける気分でした」と言わしめた<ref name=":0" />。
**プリンストンの高等研究所内に完成したコンピュータの性能をテストする為に適当な問題をやらせてみることにした。答え合わせの正しい解答が必要だったので、そこで即席の力くらべとしてフォン・ノイマンが機械と競争することになった。当時のこのコンピュータは1秒間にわずか乗算2000回の処理能力しかなかったとはいえ、先に答えを出したのはフォン・ノイマンだった<ref>{{Cite book|和書|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|year=1995|publisher=青土社|pages=107}}</ref>。
**コンピュータ・プログラム(50行のアセンブリ言語)を頭の中で作成したり修正したりする<ref>{{Cite book|和書|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|publisher=青土社|pages=53}}</ref>。
**[[ロスアラモス]]にて科学者たちからいわゆる御神託と目されていたフォン・ノイマンと[[エンリコ・フェルミ]]だが、ある時二人は流体力学に関してちょっと変わった競争形式の議論を行っていて、それはめいめいが問題となっている事柄を一番速く解こうとするものであった。しかしフォン・ノイマンの稲妻のような分析能力に太刀打ちできる者はやはりなく、彼が常に勝ちを収め、かの天才フェルミであってもそれは例外ではなかった<ref>{{Cite book|title=エンリコ・フェルミ伝 原子の火を点じた人|date=|year=|publisher=みすず書房 p.221}}</ref>。
**さる抜群の実験物理学者と[[エミリオ・セグレ]]が、ある積分によって定まる問題のことで悪戦苦闘していたところ、部屋の開きっ放しになったドアからフォン・ノイマンが廊下を歩いてくるのが見えた。二人が助けを求めると彼はドアのところまで来て黒板をチラリと眺め、その場でいきなり答えを書き取らせて彼らを仰天させた。このような例が1ダースではきかなかったという<ref>{{Cite book|title=エンリコ・フェルミ伝 原子の火を点じた人|date=|year=|publisher=みすず書房 p.222}}</ref>。
*語学にも非常に優れていた。
** 幼少期に家庭教師たちに仕込まれたドイツ語、英語、フランス語、イタリア語の他、父マックスとギムナジウムの授業からラテン語とギリシャ語を身につけ、こうして母語のハンガリー語と合わせて7つの言語を扱うことが出来た。また、これらの内のどの言語で話しても、一つの言語しか話せない人よりも速く話せたと言われている<ref>{{Cite book|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|date=|year=|publisher=青土社 p.38}}</ref>。
**3ヵ国語で同時にジョークや猥談を行う。
** しかし、手紙の英語のスペルはよく間違えていた。
**たびたびドイツ語の語句に対応する英語の語句を尋ねていたようで、アメリカ移住後もアイデアはドイツ語で思い付き、それを英語に素早く翻訳していたようである<ref>{{Cite book|洋書|title=The Computer‐from Pascal to von Neumann|publisher=PRINCETON PAPERBACKS|pages=167}}</ref>。
*オンケンの『世界史』全44巻を読み終え、10歳にして、現在の出来事と歴史上の出来事との間の類似点を指摘したり、両者を軍事戦略や政治戦略の理論と関連付けて論じることが出来た<ref>{{Cite book|和書|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|publisher=青土社|pages=26}}</ref>。
*ある時、[[ハーマン・ゴールドスタイン]]がフォン・ノイマンの能力を試してみようと、ディケンズの『二都物語』の冒頭部分を言ってみてくれと頼んだところ、一瞬もためらうことなく第一章を暗唱し始め、もういいと言うまで10分か15分間暗唱し続けた<ref>{{Cite book|和書|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|publisher=青土社|pages=52}}</ref>。
*幼少時代、深い思考に入るときに部屋の隅へ行き壁と壁の継ぎ目を凝視するクセがあった<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], p. 75</ref>。
*入院後は、車椅子で[[救急車]]に乗ってまで、[[アメリカ原子力委員会]]の会合に出席したりした<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 366–370</ref>。
*後にノーベル経済学賞を受賞する[[ジョン・ナッシュ]]は、学生時代にノイマンに[[ナッシュ均衡]]に関する考えを紹介している。この時、ノイマンは理論の結論を聞く前に「それは注目に値するほどのことかね、要は不動点定理を適用しているだけじゃないか」と一蹴した。なお、ナッシュ均衡に関してはナッシュ自身も「私の業績の中でも特に目立たぬもの」と評している<ref>"[http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/ A Brilliant Madness]" — a [[Public Broadcasting Service|PBS]] ''American Experience'' documentary</ref>。
*[[1930年]][[9月7日]]に[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]で開催されていた「厳密科学における認識論」についての第2回会議において[[クルト・ゲーデル]]が[[ゲーデルの不完全性定理|第一不完全性定理]]を発表すると、発表の後にノイマンはゲーデルと個人的に会話を行い、定理の内容を直ちに理解した。その会議の後、ゲーデルは[[ゲーデルの不完全性定理|第二不完全性定理]]を得て論文にまとめ、論文は[[11月17日]]に受理された。いっぽう、ノイマンは独力で第二不完全性定理を導き、その結果を[[11月20日]]付けの手紙でゲーデルに知らせた。ゲーデルはすぐに返答の手紙を書き、論文の[[別刷]]を添えて返送した<ref>[[#ワン1995|ワン 1995]], pp. 131–133</ref><ref>[[#高橋1999|高橋 1999]], pp. 125–128</ref>。この分野で自分に先んじたゲーデルのことは例外的に尊敬しており、生涯高く評価し続けた<ref>[[#高橋1999|高橋 1999]], pp. 4f., 180</ref>。
*何十年も居住している家の棚の食器の位置すら覚えられなかったほか、1日前に会った有名人の名前すら浮かばなかったことも。興味がないものに対しては全く無関心であると評された。またこれらの事は、ノイマンが事柄の記憶にひきかえ、意外にも画像の記憶が不得手であったことに由来しているとも言われる。親友であった[[スタニスワフ・ウラム]]の自伝にも、そのことを表す記述が見られる。「ジョニーは与えられた物理的状態の下でどんなことが起こっているかを推測する直観的常識や、十分な感覚あるいは趣味を、ほとんど持ち合わせていなかった。彼の記憶は主に耳からのもので、目からのものではなかった」<ref>{{Cite book|title=数学のスーパースターたち ウラムの自伝的回想|date=|year=|publisher=東京図書 p.131}}</ref>。
*政治での立場は[[タカ派]]であった。
**青年期に経験した[[ハンガリー革命 (1919年)|ハンガリー革命]]、[[アーサー・ケストラー]]の『[[真昼の暗黒 (小説)|真昼の暗黒]]』や[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]政権下の[[ソビエト連邦]]への短い旅行などを通じて、ナチズムと共産主義を「左右の全体主義」と嫌っていた<ref name="whitman">{{cite web|url=http://256.com/gray/docs/misc/conversation_with_marina_whitman.shtml|title=Conversation with Marina Whitman|publisher=Gray Watson (256.com)|accessdate=2011-01-30|ref=whiteman}}</ref>。ソ連への[[先制攻撃]]を強く主張し、後に『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌が掲載した死亡記事によれば<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=rEEEAAAAMBAJ&pg=PA96&redir_esc=y&hl=ja LIFE - Google ブックス] ''Life'' 1957年2月25日号 p. 96</ref>、1950年に「明日彼らを爆撃しようではないかと言われたら、なぜ今日爆撃しないのかと言う。今日の5時にと言うなら、なぜ1時にしないのかと言う。」("If you say why not bomb them tomorrow, I say why not bomb them today? If you say today at 5 o'clock, I say why not 1 o'clock?") という発言をしたとされる。
**[[ハト派]]だった[[ノーバート・ウィーナー]]とは性格から政治信条まで好対照だったため、比較に出されることが多い<ref>[[#ハイムズ1985|ハイムズ 1985]]</ref>。ウィーナーとは1945年以降に[[サイバネティックス]]の分野で共同研究をした。1940年代後半にノイマンが生物学の研究のためには[[細胞]]を研究すべきだという手紙をウィーナーに出した結果、ウィーナーの怒りを買い、共同研究は終わりを迎えた<ref>[[#マクレイ1998|マクレイ 1998]], pp. 108f. 1956 </ref>。
*ウラムによれば、フォン・ノイマンは極めて広範囲の科学に興味を抱き、数学者として複雑な推論に由来する妙技や抜群の洞察力がある一方で、絶対的自信に欠けるところがあったという。最高水準にある新しい真理を直感的に予知する力、新定理の証明や定理化に一見不合理なところがあることを知覚する特殊才能に欠けると感じていたようである<ref>{{Cite book|和書|title=数学のスーパースターたち -ウラムの自伝的回想-|year=1979|publisher=東京図書|pages=67}}</ref>。
*マンハッタン計画において原爆開発に関わっている科学者はロスアラモスに居住すべしとする規則があったが、フォン・ノイマンはこれを免れた数少ない者の1人であった<ref>{{Cite book|和書|title=囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論|publisher=青土社|pages=93}}</ref>。
*チューリッヒにいた頃、親友の[[ユージン・ウィグナー]]と共にビリヤードを覚えようと思い立ち、ビリヤードのある喫茶店へ出かけ、老練なウェイターにビリヤードを教えてくれるように頼んだ。するとそのウェイターは「君たちは勉強が好きかい。女の子に興味があるかい。本当にビリヤードを習いたいんなら、どっちもやめてしまいなよ」と言った。二人はちょっと相談して、どちらか一方はやめてもよいが両方はやめられないということになり、ビリヤードを習うのをやめたという。 <ref>{{Cite book|和書|title=数学のスーパースターたち -ウラムの自伝的回想-|year=1979|publisher=東京図書|pages=99}}</ref>
*[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の心には、最も優れた人や有名な人も含め他の物理学者に対して一種の軽蔑が育まれてしまったのではないか、あまりに神格化されもてはやされ過ぎてしまったと思わないかどうかとウラムに尋ねられた際、「君の言っていることは正しい。彼は、この物理学の歴史において他の人々が自分の競争相手となるものであるという考えが、あまりにもなさ過ぎる」と同意した。 <ref>{{Cite book|和書|title=数学のスーパースターたち -ウラムの自伝的回想-|year=1979|publisher=東京図書|pages=72}}</ref>
*[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]の常習犯で、秘書のスカートの中を覗くのが趣味だった。また[[下ネタ|下品なジョーク]]や会話で周囲の顰蹙を買う事も多かった<ref>{{Cite web |title=アインシュタインが天才と崇めた男、ジョン・フォン・ノイマンは天才の中の天才だった! | ガジェット通信 GetNews |url=https://getnews.jp/archives/3387856 |website=ガジェット通信 GetNews |date=2023-03-02 |access-date=2023-12-07 |language=ja}}</ref>。
*雨中のドライブで交通渋滞にあった時、「この頃は、車は交通機関としてはだめだね。しかし素晴らしい傘になるよ」と言った。車はずっと好きであった。
== 日本語訳 ==
*『ゲームの理論と経済行動』[[銀林浩]]ほか訳([[ちくま学芸文庫]] 全3巻/旧版は[[東京図書]] 全5巻)- [[オスカー・モルゲンシュテルン]]との共著
*#{{Cite book|和書
|others=[[阿部修一]]・銀林浩・[[橋本和美]]・[[宮本敏雄 (数学者)|宮本敏雄]]訳
|year=2009
|month=5
|title=ゲームの理論と経済行動 1
|publisher=[[筑摩書房]]
|series=ちくま学芸文庫
|isbn=978-4-480-09211-3
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|ref={{Harvid|ノイマン|2009a}}
}}
*#{{Cite book|和書
|others=銀林浩・[[下島英忠]]・橋本和美・宮本敏雄訳
|year=2009
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|title=ゲームの理論と経済行動 2
|publisher=筑摩書房
|series=ちくま学芸文庫
|isbn=978-4-480-09212-0
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}}
*#{{Cite book|和書
|others=銀林浩・橋本和美・宮本敏雄訳
|year=2009
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|title=ゲームの理論と経済行動 3
|publisher=筑摩書房
|series=ちくま学芸文庫
|isbn=978-4-480-09213-7
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|ref={{Harvid|ノイマン|2009c}}
}}
*『ゲーム理論と経済行動』 [[武藤滋夫]]訳、[[中山幹夫]]翻訳協力、[[勁草書房]]、2014年6月。刊行60周年記念版
*{{Cite book|和書
|others=[[井上健 (物理学者)|井上健]]・[[広重徹]]・[[恒藤敏彦]]訳
|year=1957
|month=11
|title=量子力学の数学的基礎
|publisher=みすず書房
|isbn=4-622-09025-2
|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/02509/
|ref={{Harvid|ノイマン|1957}}
}}新版2021年ほか
*{{Cite book|和書
|editor=
|others=A・W・バークス編補、[[高橋秀俊]]監訳
|year=1975
|month=7
|title=自己増殖オートマトンの理論
|publisher=岩波書店
|isbn=4-00-005427-9
|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/9/0054270.html
|ref={{Harvid|ノイマン|1975}}
}}オンデマンド版2015年
*{{Cite book|和書
|date=1970-06
|others=[[品川嘉也]]・[[品川泰子]]訳
|title=[[世界の名著]] 第66巻 現代の科学Ⅱ
|chapter=人工頭脳と自己増殖――オートマトンの論理学概論
|publisher=中央公論社
|pages=409-457
|isbn=978-4-12-400146-4
|ref={{Harvid|ノイマン|1970}}
}}
**{{Cite book|和書
|date=1978-11
|others=品川嘉也・品川泰子訳
|title=世界の名著 第80巻 現代の科学Ⅱ
|chapter=人工頭脳と自己増殖
|series=中公バックス
|publisher=中央公論社
|isbn=978-4-12-400690-2
|ref={{Harvid|ノイマン|1978}}
}}新装普及版
*{{Cite book|和書
|others=[[飯島泰蔵]]・猪股修二・熊田衛訳
|year=1964
|title=電子計算機と頭脳
|publisher=ラテイス
|ref={{Harvid|ノイマン|1964}}
}}
*{{Cite book|和書|others=[[柴田裕之 (翻訳家)|柴田裕之]]訳、[[野崎昭弘]]解説|date=2011-11|title=計算機と脳|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|isbn=978-4480094131|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094131/|ref={{Harvid|ノイマン|2011}}}}
*{{Cite book|和書
|editor=
|others=伊東恵一 編訳・[[新井朝雄]]・一瀬孝・岡本久・高橋広治・山田道夫 訳
|date=2013-12
|title=ノイマン・コレクション 数理物理学の方法
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|ref={{Harvid|ノイマン|2013}}
}}
*『[https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095725 ノイマン・コレクション 作用素環の数理]』長田まりゑ 編訳・岡安類・片山良一・長田尚訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2015年1月。ISBN 978-4480095725
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=高橋昌一郎|authorlink=高橋昌一郎|date=1999-08-20|title=ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論|series=[[講談社現代新書]] 1466|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-149466-X|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000146927|ref=高橋1999}}
*{{Cite book|和書|author=スティーブ・J・ハイムズ|authorlink=スティーブ・J・ハイムズ|others=高井信勝監訳|year=1985|month=9|title=フォン・ノイマンとウィーナー 2人の天才の生涯|publisher=[[工学社]]|isbn=4-87593-063-1|ref=ハイムズ1985}}
*{{Cite book|和書|author=ノーマン・マクレイ|authorlink=ノーマン・マクレイ|date=1998-09-25|title=フォン・ノイマンの生涯|series=[[朝日選書]] 610|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-259710-0|ref=マクレイ1998}}
*{{Cite book|和書|author=ハオ・ワン|authorlink=ハオ・ワン|others=[[土屋俊]]・[[戸田山和久]]訳|date=1995-09-25|title=ゲーデル再考――人と哲学――|publisher=産業図書|isbn=4-7828-0096-7|ref=ワン1995}}
== 伝記研究 ==
*ノーマン・マクレイ『フォン・ノイマンの生涯』渡辺正・芦田みどり訳、[[ちくま学芸文庫]]、2021年。ISBN 4-480-51043-5。上記の新版
*高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』[[講談社現代新書]]、2021年。ISBN 4-06-522440-3
*アナニヨ・バッタチャリヤ『未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン』松井信彦訳、[[みすず書房]]、2023年。ISBN 4-622-09642-0
*廣島文生『知の巨人と数理の黎明 フォン・ノイマン1』「双書・大数学者の数学」現代数学社、2021年。ISBN 4-7687-0556-1
*ウィリアム・パウンドストーン『囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論』松浦俊輔ほか訳、[[青土社]]、1995年。ISBN 4-7917-5360-7
*『現代思想 総特集フォン・ノイマン』青土社、2013年8月臨時増刊。ISBN 4-7917-1265-X
== 関連項目 ==
{{Commons|János Lajos Neumann}}
{{Div col|2}}
*[[技術的特異点]]
*[[数学者]]
*[[マックス・ニューマン]] - ノイマンと同様に数学者の立場からプログラム内蔵方式コンピュータの開発に貢献した人物
*[[マリーナ・フォン・ノイマン・ホイットマン]] - 最初の妻との間の子
*[[クララ・ダン・フォン・ノイマン]] - 2人目の妻
*[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか]] - 主人公ストレンジラブのモデルの一人とされる
*[[フィラデルフィア実験]]
*[[フォン・ノイマンメダル]]
*[[ジョン・フォン・ノイマン賞]]
*[[ジョン・フォン・ノイマン理論賞]]
*{{仮リンク|フォン・ノイマン・クレーター|en|Von Neumann (crater)}}
*[[マッドサイエンティスト]]
*[[ハンガリー人宇宙人説]]
*[[フォン・ノイマン環]]
*[[フォン・ノイマン正則環]]
*[[フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論]]
*[[フォン・ノイマン宇宙]]
*[[フォン・ノイマンの不等式]]
*[[フォン・ノイマンの安定性解析]]
*[[フォン・ノイマン・ボトルネック]]
*[[フォン・ノイマンエントロピー]]
*[[フォン・ノイマン=ウィグナー解釈]]
*[[量子論理]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
*[https://cruel.org/econthought/profiles/neumann.html ジョン・フォン=ノイマン (John von Neumann)] [https://www.hetwebsite.net/het/ The History of Economic Thought Website] の邦訳サイト
*{{Kotobank|ノイマン(Johann Ludwig von Neumann)|2=常盤野和男}}
*{{MacTutor Biography|id=Von_Neumann}}
*ブログ「気象学と気象予報の発達史」[https://korechi1.blogspot.com/2019/12/1.html フォン・ノイマンについて(1)]~(12)
{{経済学}}
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[[Category:ジョン・フォン・ノイマン|*]]
[[Category:アメリカ合衆国のオペレーションズ・リサーチャー]]
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[[Category:1957年没]] | 2003-03-04T06:07:10Z | 2023-12-07T23:47:21Z | false | false | false | [
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3,361 | WYSIWYG | WYSIWYG(アクロニム: ウィジウィグ)とは、コンピュータのユーザインタフェースに関する用語で、ディスプレイに現れるものと処理内容(特に印刷結果)が一致するように表現する技術。What You See Is What You Get(見たままが得られる)の頭文字をとったものであり、「is」を外したWYSWYG(ウィズウィグ)と呼ばれることもある。
近年では、コンテンツ管理システムでも使われるようになり、この場合は、入力画面と出力画面が一致するよう表現する技術を指す。
元来の意味は、文書作成プログラムを使った時にコンピュータのディスプレイで見たままに、同じサイズで印刷結果が得られることを指す言葉であった。文字の大きさや装飾などが印刷前に画面上でも確認でき、画像やグラフなどの文字以外の要素がある場合にはその配置状態も画面で確認できる。また、禁則処理や字詰めなどが画面と印刷でまったく一致するということも含まれる。
だが現実には多くの場合において、印刷結果が画面で見ていたものと完全に一致することは無い。これは、多くの場合に画面と印刷物では解像度や縦横比が異なることや、画面で見る場合にはスクロールバーなどのインタラクティブな要素が入ってくることが多いことに起因する。また、ソフトウェアによっては、これらの要因などにより画面描画時と印刷時にまったく同じアルゴリズムのプログラムを用いることができず、結果が異なることも多くある。さらに、色が関係する場合にはデバイスの特性の違いのため、まったく同じ結果を得ることが不可能であるということもある。
AppleのMacintoshは、当初は完全なWYSIWYGを目指して設計され、画面表示と印刷出力の両方でQuickDrawを開発して利用した。そのとき、文字のサイズの単位であるポイントがほぼ1/72インチであることに着目し、画面解像度が72dpiに近いディスプレイが標準で採用され、「1ポイント=1ドット=1ピクセル」という原則が打ち立てられた。プリンターも72の整数倍である144dpi、216dpiの解像度のものが用意されていたうえ、表示用の2倍、3倍の解像度の印刷フォントも搭載されていたため、画面に表示されたのとまったく同じ印刷出力を得ることが可能であった。グラフィックは印刷においても画面と同じ72dpiそのままでジャギーが目立ったが、当時はさほど支障とはならなかった。QuickDrawをストレートに実装したアプリケーションにMacPaintと MacDrawがあり、MacintoshのユーザはそれらによってWYSIWYGを体感できたのである。
その後はMacintoshでもモニタ解像度が任意となり、画面サイズと印刷出力のサイズが必ずしも一致しなくなった。
現在ではレイアウトやカラーマネジメントにおいて、編集中もしくはプレビュー時に画面に表示されるものとほとんど同じものが、最終結果(印刷結果に限らず、HTMLによる文書なども含む)として得られるようなアプリケーションや、その編集方法を指す場合も多い。また、画面上で文字などのオブジェクトを選択し、レイアウトや色彩などその属性を変更すると、即座に画面に変更結果が表示されるというユーザインタフェースのことを指す場合もある。つまり、ユーザのイメージがすぐ実現するということを重視するのである。さらには、コンピュータディスプレイ上で図形などを用いて表現される事物に対する操作が、実際の動作とできるだけ一致するように工夫されたユーザインタフェースのことを指す言葉としても用いられることさえある。具体的には、「ファイルはフォルダの中に入っているものなので、画面上でフォルダを開く操作をすると中のファイルを取り出すことができる」とか「ファイルを印刷機に入れる操作(ファイルアイコンを印刷機アイコンに重ね合わせる)によって印刷を実行できる」などという操作環境のことである。これらは一般にはデスクトップ・メタファと言われるものであるが、こういった概念も元来は無関係のWYSIWYGに含めて混同して考えるということもしばしば行なわれる。
なお、NEXTSTEPは画面出力にDisplay PostScript、印刷出力にPostScriptを採用し、画面・プリント出力とも同じ結果を得ることができた。NEXTSTEP/OPENSTEPとClassic Mac OSの後継であるmacOSでは、PDFベースのQuartzにより、解像度に依存しないWYSIWYGを実現している。
この言葉をこの意味で最初に使ったのは、ゼロックスのパロアルト研究所 (PARC) で文書作成プログラム"Bravo"を作成したチャールズ・シモニー (Charles Simonyi)である。Bravoは最初からWYSIWYGなプログラムであったが、当初はこの用語は存在しなかった。あるときシモニーがBravoのデモンストレーションとして、ゼロックスのロゴタイプが含まれた文書をシティバンクの人に印刷してみせた。このとき、透明な用紙に印刷をして画面と印刷がほとんど変わらないということを重ね合わせて見せた所、それを見た人がその当時テレビで流行っていたフリップ・ウィルソンの口癖 "What you see is what you get."を口にした。以降、シモニーをはじめとするPARCの人たちが好んでこの言葉を使うようになり、さらには計算機科学者らに広まっていった。ディスプレイ表示と印刷結果がイコールというWYSIWYGの基本アイデアが、複写機メーカーであるゼロックス社の研究所で誕生したのは決して偶然ではなく、ドキュメンテーション技術におけるリーディングカンパニーとして、むしろ必然であったと言える。現代のワードプロセッサは、WYSIWYGであるだけでなくモードレスであり、Bravoと同時期に少し遅れて同じくPARCで作られたGypsyが最初のものである。PARCの研究成果がその後DTPというひとつの文化の萌芽となったことは間違いない。
利便性を求めて開発されたWYSIWYGであるが、一方で次のような非難も根強く存在する。
近年、コンテンツに対するアクセシビリティが提唱されるようになってきており、特にウェブコンテンツに対するガイドラインとして、World Wide Web Consortium (W3C) が提唱するWeb Content Accessibility Guidelines (WCAG) というガイドラインが提唱されるようになった。つまり、「多くの人」が「多くの環境」で情報を取得できるように、コンテンツである「文章そのもの」と、文字の大きさや色などの「装飾要素」を分けるべきという考えである。
これにより、ひとつの文章を、印刷物や、ウェブサイト、ソフトウェア、テレビ番組、ラジオ番組などの多くのメディアにおいて、それぞれの装飾方法で情報公開することができるようになる。この概念は、「ワンソース・マルチユース」とも呼ばれ、現在におけるXMLによるコンテンツ管理技術へと発展している。 現在では、ウェブページにおけるXHTML言語や、地上デジタル放送などにおけるBML言語などにも広く応用されるようになった。
しかし、WYSIWYGなワープロソフト等では、文章の論理的な内容(章立て・見出しなどアウトライン)と外見のデザイン(文字の大きさ・色)が、必ずしも明確に分離されていない点が指摘される。具体的にはユーザーが好き勝手に強調したい文字を大きく見せたりすることが簡単にでき、デザイン的な自由度は高いが、論理性は二の次となる。
一定のデザインを多くの文書に適用したり、一つの文書に対し適用するデザインを切り替えて多様な出力を得ること(ワンソース・マルチユース)も難しくなる。
多くのワープロソフト等では、アウトラインプロセッサなど文書の論理構成とデザインを分離する機能を備えているが、正しく使いこなすには多くのスキルを必要とする。また内容と外見の分離の必要性を感じない人も多く、広く利用されているとは言い難い。正しく作成された文書も、熟練していない者が加筆すると章立てや見出しの設定が破壊され台無しになることもある。多くのユーザーは論理的に見出しのレベルを選択すべきケースで、単純に文字の大きさを選択してしまう。
特に数学や情報工学の分野において、上のような非難をする人が多く見られる。このため、TeXやDocBookを愛用する者や、HTMLやCSSを直接編集してWebページを作成する者も多い。コンピュータの専門家であるのに、Microsoft Wordの操作方法を全く知らず、一般人に驚かれるという話も聞かれる。このように1枚の文書をマルチユースを前提とした論文のようにとらえるか、読み捨てのチラシのようにとらえるかの差は大きい。
ひとつのスタイルとして、内容と外見を分離するため、文章編集は専らテキストエディタで行い、印刷時にのみワープロソフトで整形する者もいる。よく似た慣行として印刷や出版業界では、最初から執筆者に整形しないテキストのみの提出を求めるケースが多い。一方でインデザインなどDTPソフトを指定して、熟練した執筆者にページ丸ごと編集をまかせるケースもある。
なお、Wikipediaの編集画面もWYSIWYGではないため、見出し以外の文字を故意に大きく見せるようなことはできない。そのため内容と外見が分離され不特定多数が編集してもデザインの統一性が保たれている。これは非WYSIWYG環境の有効性を証明する好例と言えよう。
WYSIWYGなソフトウェアは、逐次画面に最終的な出力結果を更新表示する必要があり、CPUやメモリに多くの負荷をかける。しかし近年のコンピュータの高性能化により、これを理由にWYSIWYGを敬遠する人は、かなり減少した。
近年の多機能化したソフトウェアでは、WYSIWYGの前提である視覚的なメニューやボタンが膨大な数となり、必要な機能が探し出せないという問題が顕著になった。このため、対話式のヘルプや、使用頻度の低いメニューを自動的に隠す機能が提案されたが、かならずしも広く支持を得ているとはいえない。Microsoft Office 2007では、複雑なメニューを一掃し、ソフトウェアが機能を提示するアプローチ (What You Get Is What You See: 仕上がりは御覧の通り、などと呼ばれる)を採用したが、現状では評価は定まっていない。
WYSIWYGは様々にもじられて使われることがある。 | [
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"text": "利便性を求めて開発されたWYSIWYGであるが、一方で次のような非難も根強く存在する。",
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"text": "しかし、WYSIWYGなワープロソフト等では、文章の論理的な内容(章立て・見出しなどアウトライン)と外見のデザイン(文字の大きさ・色)が、必ずしも明確に分離されていない点が指摘される。具体的にはユーザーが好き勝手に強調したい文字を大きく見せたりすることが簡単にでき、デザイン的な自由度は高いが、論理性は二の次となる。",
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"text": "一定のデザインを多くの文書に適用したり、一つの文書に対し適用するデザインを切り替えて多様な出力を得ること(ワンソース・マルチユース)も難しくなる。",
"title": "WYSIWYGに対する非難"
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"text": "多くのワープロソフト等では、アウトラインプロセッサなど文書の論理構成とデザインを分離する機能を備えているが、正しく使いこなすには多くのスキルを必要とする。また内容と外見の分離の必要性を感じない人も多く、広く利用されているとは言い難い。正しく作成された文書も、熟練していない者が加筆すると章立てや見出しの設定が破壊され台無しになることもある。多くのユーザーは論理的に見出しのレベルを選択すべきケースで、単純に文字の大きさを選択してしまう。",
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] | WYSIWYGとは、コンピュータのユーザインタフェースに関する用語で、ディスプレイに現れるものと処理内容(特に印刷結果)が一致するように表現する技術。What You See Is What You Get(見たままが得られる)の頭文字をとったものであり、「is」を外したWYSWYG(ウィズウィグ)と呼ばれることもある。 近年では、コンテンツ管理システムでも使われるようになり、この場合は、入力画面と出力画面が一致するよう表現する技術を指す。 | {{出典の明記|date=2011年9月}}
[[File:Lorem_Ipsum_-_WYSIWYG_en_Latex_-_tekst_als_paden.svg|サムネイル|左側のプログラムは、WYSIWYGエディターを使用して[[Lorem ipsum|Lorem Ipsum]]文書を生成している。右側のプログラムには[[LaTeX]]コードが含まれており、コンパイルすると左側の文書と非常によく似た文書が生成される。フォーマットコードのコンパイルは、WYSIWYGプロセスではない。]]
'''WYSIWYG'''([[アクロニム]]: ウィジウィグ)とは、[[コンピュータ]]の[[ユーザインタフェース]]に関する用語で、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に現れるものと処理内容(特に[[印刷]]結果)が一致するように表現する技術<ref name=ウェブマイスター>{{Cite web |url=https://www.web-meister.jp/guide/glossary/glossary_a/wysiwyg_editor.html |title=WYSIWYGエディター - CMS用語集 | CMS - Web Meister(ウェブマイスター) 静的コンテンツマーケティングシステム |accessdate=2023-9-12}}</ref>。'''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee '''I'''s '''W'''hat '''Y'''ou '''G'''et(見たままが得られる)の[[頭字語|頭文字]]をとったものであり、「is」を外した'''WYSWYG'''(ウィズウィグ)と呼ばれることもある<ref name=ウェブマイスター/>。
近年では、[[コンテンツ管理システム]]でも使われるようになり、この場合は、入力画面と出力画面が一致するよう表現する技術を指す。
== 意味 ==
元来の意味は、文書作成プログラムを使った時にコンピュータのディスプレイで見たままに、同じサイズで[[印刷]]結果が得られることを指す言葉であった。<ref name="example">DTPは印刷を変えた(1)- [https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/5007.html 印刷100年の変革 JAGAT 日本印刷技術協会アーカイブ] </ref>文字の大きさや装飾などが印刷前に画面上でも確認でき、画像やグラフなどの文字以外の要素がある場合にはその配置状態も画面で確認できる。また、[[禁則処理]]や[[カーニング#写植・DTP・コンピュータ|字詰め]]などが画面と印刷でまったく一致するということも含まれる。
だが現実には多くの場合において、印刷結果が画面で見ていたものと完全に一致することは無い。これは、多くの場合に画面と印刷物では[[解像度]]や[[アスペクト比|縦横比]]が異なることや、画面で見る場合には[[スクロールバー]]などのインタラクティブな要素が入ってくることが多いことに起因する。また、[[ソフトウェア]]によっては、これらの要因などにより画面描画時と印刷時にまったく同じ[[アルゴリズム]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を用いることができず、結果が異なることも多くある。さらに、色が関係する場合にはデバイスの特性の違いのため、まったく同じ結果を得ることが不可能であるということもある。
[[Apple]]の[[Macintosh]]は、当初は完全なWYSIWYGを目指して設計され、画面表示と印刷出力の両方で[[QuickDraw]]を開発して利用した。そのとき、文字のサイズの単位である[[ポイント (活字の単位)|ポイント]]がほぼ1/72インチであることに着目し、[[画面解像度]]が72[[dpi]]に近いディスプレイが標準で採用され、「1ポイント=1ドット=1ピクセル」という原則が打ち立てられた。[[プリンター]]も72の整数倍である144dpi、216dpiの解像度のものが用意されていたうえ、表示用の2倍、3倍の解像度の印刷[[フォント]]も搭載されていたため、画面に表示されたのとまったく同じ印刷出力を得ることが可能であった。グラフィックは印刷においても画面と同じ72dpiそのままで[[ジャギー]]が目立ったが、当時はさほど支障とはならなかった。QuickDrawをストレートに実装した[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]に[[MacPaint]]と [[MacDraw]]があり、MacintoshのユーザはそれらによってWYSIWYGを体感できたのである。
その後はMacintoshでもモニタ解像度が任意となり、画面サイズと印刷出力のサイズが必ずしも一致しなくなった。
現在では[[レイアウト]]や[[カラーマネジメント]]において、編集中もしくは[[プレビュー]]時に画面に表示されるものとほとんど同じものが、最終結果(印刷結果に限らず、[[HyperText Markup Language|HTML]]による文書なども含む)として得られるようなアプリケーションや、その編集方法を指す場合も多い。また、画面上で文字などのオブジェクトを選択し、レイアウトや色彩などその属性を変更すると、即座に画面に変更結果が表示されるというユーザインタフェースのことを指す場合もある。つまり、ユーザのイメージがすぐ実現するということを重視するのである。さらには、コンピュータディスプレイ上で図形などを用いて表現される事物に対する操作が、実際の動作とできるだけ一致するように工夫されたユーザインタフェースのことを指す言葉としても用いられることさえある。具体的には、「[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]は[[ディレクトリ|フォルダ]]の中に入っているものなので、画面上でフォルダを開く操作をすると中のファイルを取り出すことができる」とか「ファイルを印刷機に入れる操作(ファイル[[アイコン]]を印刷機アイコンに重ね合わせる)によって印刷を実行できる」などという操作環境のことである。これらは一般には[[デスクトップ・メタファー|デスクトップ・メタファ]]と言われるものであるが、こういった概念も元来は無関係のWYSIWYGに含めて混同して考えるということもしばしば行なわれる。
なお、[[NEXTSTEP]]は画面出力に[[Display PostScript]]、印刷出力に[[PostScript]]を採用し、画面・プリント出力とも同じ結果を得ることができた。NEXTSTEP/[[OPENSTEP]]と[[Classic Mac OS]]の後継である[[macOS]]では、[[Portable Document Format|PDF]]ベースの[[Quartz]]により、解像度に依存しないWYSIWYGを実現している。
== 歴史 ==
この言葉をこの意味で最初に使ったのは、[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]] (PARC) で文書作成プログラム"Bravo"を作成した[[チャールズ・シモニー]] (''Charles Simonyi'')である。Bravoは最初からWYSIWYGなプログラムであったが、当初はこの用語は存在しなかった。あるときシモニーがBravoのデモンストレーションとして、ゼロックスの[[ロゴタイプ]]が含まれた文書を[[シティバンク]]の人に印刷してみせた。このとき、透明な用紙に印刷をして画面と印刷がほとんど変わらないということを重ね合わせて見せた所、それを見た人がその当時[[テレビ]]で流行っていた[[フリップ・ウィルソン]]の口癖 "What you see is what you get."を口にした。以降、シモニーをはじめとするPARCの人たちが好んでこの言葉を使うようになり、さらには計算機科学者らに広まっていった。ディスプレイ表示と印刷結果がイコールというWYSIWYGの基本アイデアが、複写機メーカーであるゼロックス社の研究所で誕生したのは決して偶然ではなく、ドキュメンテーション技術におけるリーディングカンパニーとして、むしろ必然であったと言える。現代のワードプロセッサは、WYSIWYGであるだけでなくモードレスであり、Bravoと同時期に少し遅れて同じくPARCで作られた[[Gypsy (ソフトウェア)|Gypsy]]が最初のものである。PARCの研究成果がその後[[DTP]]というひとつの文化の萌芽となったことは間違いない。
== WYSIWYGに対する非難 ==
{{出典の明記|date=2013年3月|section=1}}
利便性を求めて開発されたWYSIWYGであるが、一方で次のような非難も根強く存在する。
=== 内容(文章)と外見(装飾要素)の混在に対する非難 ===
近年、コンテンツに対する[[アクセシビリティ]]が提唱されるようになってきており、特にウェブコンテンツに対するガイドラインとして、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) が提唱する[[Web Content Accessibility Guidelines]] (WCAG) というガイドラインが提唱されるようになった。つまり、「多くの人」が「多くの環境」で情報を取得できるように、コンテンツである「文章そのもの」と、文字の大きさや色などの「装飾要素」を分けるべきという考えである。
これにより、ひとつの文章を、印刷物や、ウェブサイト、ソフトウェア、テレビ番組、ラジオ番組などの多くのメディアにおいて、それぞれの装飾方法で情報公開することができるようになる。この概念は、「[[ワンソース・マルチユース]]」とも呼ばれ、現在における[[Extensible Markup Language|XML]]によるコンテンツ管理技術へと発展している。
現在では、ウェブページにおける[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]言語や、地上デジタル放送などにおける[[Broadcast Markup Language|BML]]言語などにも広く応用されるようになった。
しかし、WYSIWYGなワープロソフト等では、文章の論理的な内容(章立て・見出しなどアウトライン)と外見のデザイン(文字の大きさ・色)が、必ずしも明確に分離されていない点が指摘される。具体的にはユーザーが好き勝手に強調したい文字を大きく見せたりすることが簡単にでき、デザイン的な自由度は高いが、論理性は二の次となる。
一定のデザインを多くの文書に適用したり、一つの文書に対し適用するデザインを切り替えて多様な出力を得ること(ワンソース・マルチユース)も難しくなる。
多くの[[ワープロソフト]]等では、[[アウトラインプロセッサ]]など文書の論理構成とデザインを分離する機能を備えているが、正しく使いこなすには多くのスキルを必要とする。また内容と外見の分離の必要性を感じない人も多く、広く利用されているとは言い難い。正しく作成された文書も、熟練していない者が加筆すると章立てや見出しの設定が破壊され台無しになることもある。多くのユーザーは論理的に見出しのレベルを選択すべきケースで、単純に文字の大きさを選択してしまう。
特に[[数学]]や[[情報工学]]の分野において、上のような非難をする人が多く見られる。このため、[[TeX]]や[[DocBook]]を愛用する者や、HTMLや[[Cascading Style Sheets|CSS]]を直接編集してWebページを作成する者も多い。コンピュータの専門家であるのに、Microsoft Wordの操作方法を全く知らず、一般人に驚かれるという話も聞かれる。このように1枚の文書をマルチユースを前提とした'''論文'''のようにとらえるか、読み捨ての'''チラシ'''のようにとらえるかの差は大きい。
ひとつのスタイルとして、内容と外見を分離するため、文章編集は専ら[[テキストエディタ]]で行い、印刷時にのみワープロソフトで整形する者もいる。よく似た慣行として印刷や出版業界では、最初から執筆者に整形しないテキストのみの提出を求めるケースが多い。一方で[[Adobe InDesign|インデザイン]]など[[DTP]]ソフトを指定して、熟練した執筆者にページ丸ごと編集をまかせるケースもある。
なお、Wikipediaの編集画面もWYSIWYGではないため、見出し以外の文字を故意に大きく見せるようなことはできない。そのため内容と外見が分離され不特定多数が編集してもデザインの統一性が保たれている。これは非WYSIWYG環境の有効性を証明する好例と言えよう。
=== コンピュータの負荷に対する非難 ===
WYSIWYGなソフトウェアは、逐次画面に最終的な出力結果を更新表示する必要があり、[[CPU]]や[[記憶装置|メモリ]]に多くの負荷をかける。しかし近年のコンピュータの高性能化により、これを理由にWYSIWYGを敬遠する人は、かなり減少した。
=== インターフェイスの複雑化に対する非難 ===
近年の多機能化したソフトウェアでは、WYSIWYGの前提である視覚的なメニューやボタンが膨大な数となり、必要な機能が探し出せないという問題が顕著になった。このため、対話式のヘルプや、使用頻度の低いメニューを自動的に隠す機能が提案されたが、かならずしも広く支持を得ているとはいえない。[[Microsoft Office 2007]]では、複雑なメニューを一掃し、ソフトウェアが機能を提示するアプローチ ('''W'''hat '''Y'''ou '''G'''et '''I'''s '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee: 仕上がりは御覧の通り、などと呼ばれる)を採用したが、現状では評価は定まっていない。
== WYSIWYG なソフトウェア ==
*[[Adobe InDesign]]
*[[Adobe Illustrator]]
*[[QuarkXPress]]
*[[EGWORD|egword Universal]]
*[[Pages]]
*[[Webオーサリングツール]]
*FreeCode CMSサイトシステム
*[http://office.microsoft.com/ja-jp/infopath/default.aspx Microsoft Office InfoPath ウェブサイト]{{リンク切れ|date=2023年6月}}
*[[BlueGriffon]] プラットフォーム:Microsoft Windows、macOS、GNU/Linux [http://bluegriffon.org/ 公式サイト]
*[[KompoZer]] プラットフォーム:Microsoft Windows、macOS、GNU/Linux [http://kompozer-web.de/en 公式サイト]
*[[LibreOffice Draw]] 簡易DTPソフトウェア(無償)
*[[PDF-XChange]] Editor PDF編集ソフト(有償版でのみ使用できる機能あり)
== スクリプト ==
*[[Ekit]]
*CKEditor([[FCKeditor]])
*[[htmleditor swf]]
*[[NicEdit]]
*[[Obout Editor for ASP.NET]]
*[[openWYSIWYG]]
*[[prototype.js WYSIWIG]]
*[[TextEditor swf]]
*[[TinyMCE]]
*[[Whizzywig]]
*[[widgEditor]]
*[[WYMeditor]]
*[[WYSIWYG-Text-Formating for any Textarea]]
*[[YUI Sample WYSIWYG]]
== 派生語 ==
WYSIWYGは様々にもじられて使われることがある。
;<span style="font-weight:normal;">'''WYSIWYS''' - '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee '''I'''s '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee</span>
:印刷する手段(プリンタ)の無い環境のこと
;<span style="font-weight:normal;">'''WYSIWIS''' - '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee '''I'''s '''W'''hat '''I''' '''S'''ee</span>
:分散協調作業環境で、離れた場所にある端末に同一の内容が表示できること
;<span style="font-weight:normal;">'''WYSIAYG''' - '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee '''I'''s '''A'''ll '''Y'''ou '''G'''et</span>
:画面に表示されていることしかできないユーザインタフェースを(しばしば揶揄する意味で)指す
;<span style="font-weight:normal;">'''WYCIWYG''' - '''W'''hat '''Y'''ou '''C'''ache '''I'''s '''W'''hat '''Y'''ou '''G'''et</span>
:[[Mozilla Application Suite|Mozilla]]などの[[Gecko]]を使用する[[ウェブブラウザ|ブラウザ]]ソフトで、[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]内容にアクセスすることを指示する言葉
;<span style="font-weight:normal;">'''WYSIWYM''' - '''W'''hat '''Y'''ou '''S'''ee '''I'''s '''W'''hat '''Y'''ou '''M'''ean</span>
:[[Extensible Markup Language|XML]]など文書構造が理解しやすい形式で表示できること
== 出典 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[DTP]]
*[[ポイント (活字の単位)|ポイント]]
*[[クロスサイトスクリプティング]]
*[[キャラクタユーザインタフェース]]
*[[テキストユーザインタフェース]]
*[[グラフィカルユーザインタフェース|グラフィカルユーザインターフェース]]
* [[ウィジェット (GUI)]]
* [[ユーザインタフェース設計]]
== 外部リンク ==
*[http://www.edge.org/digerati/simonyi/simonyi_p1.html チャールズ・シモニーの対談記事]
[[Category:グラフィカルユーザインタフェース]] | 2003-03-04T07:18:12Z | 2023-09-24T01:23:19Z | false | false | false | [
"Template:リンク切れ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/WYSIWYG |
3,364 | 極超短波 | 極超短波(ごくちょうたんぱ)とは、UHF (Ultra High Frequency) とも、言われ、300MHz - 3GHzの周波数の電波をいう。波長は10cm - 1m、デシメートル波とも呼ばれる。
伝播の特徴としては電離層で反射せず地表波の減衰が激しいため、直進する空間波による短距離通信に利用される。また、波長が短くアンテナが小形化できるので移動通信に適する。
などで利用される。
470 - 770MHz(チャンネルは13ch - 62ch)が割り当てられ、UHFを使用したアナログ放送は1960年に実験局が作られ、1963年に本放送を開始した。2003年からデジタル放送が開始された。アナログ放送は2012年3月31日(東北3県以外は2011年7月24日)をもって全廃され、デジタル放送は2012年7月24日までに470 - 710MHz (13ch - 52ch) に集約された。710 - 770MHz (53ch - 62ch) は携帯電話などテレビ以外の用途に転用される。旧式のブースターを使用している場合、転用に伴いテレビ放送の受信に障害が発生する恐れがあるため、注意を呼びかけている。
UHFアンテナは電波の性質上横幅が小さいので小型化しやすく、テレビ放送が完全デジタル化され、アンテナ工事はアナログ時代より大幅に簡略化された。横幅が大きく小型化が難しいVHFまたはVU共用アンテナが無くなる分、アンテナ工事費及び部品代はアナログ時代より大幅に削減された。UHF放送初期はUHFチューナーを持たないテレビも数多く存在したため、UHFコンバーターが用いられていた。
関東・中京・近畿地方では全国独立放送協議会加盟の独立放送局をUHFもしくは独立U局と呼ぶことがあった。また、かつてUHF波の民放テレビ局が1局だった地域ではその局をUHFと呼ぶことがあり、テレビ静岡 (SUT)、テレビ高知 (KUTV)、テレビ宮崎 (UMK) のように欧文略称にその名残がある民放局もある。
かつてテレビ神奈川 (tvk) では、「We are coming to you by Ultra-Hi-Frequency」とDJ風にアナウンスする自局のキャッチコピーCMが存在した。
極超短波の周波数のうち、1 - 3GHzの周波数を準マイクロ波帯、略して準マイクロ波または準マイクロとも言う。1980年代後半に800MHz帯が逼迫してきたため、官民共同で準マイクロ波帯実験実施連絡会を組織し新たな移動体通信用の周波数帯として開発された。この結果、1.5GHz帯が実用化されMCAや携帯電話に使われるようになった。その後も続々と移動体用を中心に開発が行われているが、最近は特に準マイクロ波帯と呼ばれることは無い。
アマチュア業務に国際電気通信連合 (ITU) の無線通信規則 (RR) によりISMバンドや他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
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] | 極超短波(ごくちょうたんぱ)とは、UHF とも、言われ、300MHz - 3GHzの周波数の電波をいう。波長は10cm - 1m、デシメートル波とも呼ばれる。 | '''極超短波'''(ごくちょうたんぱ)とは、'''UHF''' (Ultra High Frequency) とも、言われ、300[[メガヘルツ|MHz]] - 3[[ギガヘルツ|GHz]]の[[電波の周波数による分類|周波数]]の[[電波]]をいう<ref>{{Cite web|url=https://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/v/R-REC-V.431-8-201508-I!!PDF-E.pdf |title=Nomenclature of the frequency and wavelengh bands used in telecommunications |author=国際電気通信連合 (ITU) |date=2015-08 |work= |publisher= |accessdate= 2016-07-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h25/pdf/n4700000.pdf |title=平成25年情報通信白書>第2部 情報通信の現況・政策の動向>第7節 電波利用 |author= |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-07-03 }}</ref>。[[波長]]は10[[センチメートル|cm]] - 1[[メートル|m]]、デシメートル波<ref>[[電波法]]施行規則 第4条の3(周波数の表示)</ref>とも呼ばれる。
== 概要 ==
伝播の特徴としては[[電離層]]で反射せず地表波の減衰が激しいため、直進する空間波による短距離通信に利用される。また、波長が短く[[アンテナ]]が小形化できるので移動通信に適する。
* 業務用移動通信
* [[地上波]][[テレビジョン放送]]([[UHFテレビ放送]])
* 軍用[[航空無線]]
* [[無線航法]]
* [[携帯電話]]([[800MHz帯]]、1.5GHz帯、[[1.7GHz帯]]、[[2GHz帯]])
* [[PHS]](1.8GHz帯、1.9GHz帯)
* [[無線LAN]](2.4GHz帯)
* [[XGP]]、[[モバイルWiMAX]](2.5GHz帯)
* [[アマチュア無線]]
* [[RFID]]
* デジタル[[簡易無線]](400MHz帯)
などで利用される。
== 日本での地上波テレビジョン放送 ==
470 - 770MHz([[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]は13ch - 62ch)が割り当てられ、UHFを使用した[[NTSC|アナログ放送]]は1960年に[[NHK UHFテレビ実験局|実験局]]が作られ、1963年に本放送を開始した。2003年から[[日本の地上デジタルテレビ放送|デジタル放送]]が開始された。アナログ放送は2012年3月31日(東北3県以外は2011年7月24日)をもって全廃され、デジタル放送は2012年7月24日までに470 - 710MHz (13ch - 52ch) に集約された。710 - 770MHz (53ch - 62ch) は[[日本の携帯電話|携帯電話]]などテレビ以外の用途に転用される<ref>{{Cite press release | 和書 | title=アナログ放送終了後のデジタルチャンネルの再編について | publisher=総務省 |date=2009-04-03 | url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/090403_02.html |accessdate =2019-02-05}}</ref>。旧式のブースターを使用している場合、転用に伴いテレビ放送の受信に障害が発生する恐れがあるため、注意を呼びかけている<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.700afp.jp/tv/ | title=テレビの「受信障害」対策がはじまっています |publisher =一般社団法人 700MHz利用推進協会|accessdate =2019-02-05 }}</ref>。
UHFアンテナは電波の性質上横幅が小さいので小型化しやすく、テレビ放送が完全デジタル化され、アンテナ工事はアナログ時代より大幅に簡略化された。横幅が大きく小型化が難しい[[超短波|VHF]]またはVU共用アンテナが無くなる分、アンテナ工事費及び部品代はアナログ時代より大幅に削減された。[[UHF放送]]初期は[[TVチューナー|UHFチューナー]]を持たないテレビも数多く存在したため、[[TVチューナー#UHFコンバータ|UHFコンバーター]]が用いられていた。
関東・中京・近畿地方では[[全国独立放送協議会]]加盟の[[独立放送局]]をUHFもしくは独立U局と呼ぶことがあった。また、かつてUHF波の民放テレビ局が1局だった地域ではその局をUHFと呼ぶこと<ref>チャンネル切り替え装置がつまみ式だった時代は、『Uチャンネル』と呼ぶ事もあった。</ref>があり、[[テレビ静岡]] (SUT)、[[テレビ高知]] (KUTV)、[[テレビ宮崎]] (UMK) のように欧文略称にその名残がある民放局もある。
かつて[[テレビ神奈川]] (tvk) では、「We are coming to you by Ultra-Hi-Frequency」とDJ風にアナウンスする自局のキャッチコピーCMが存在した。
== 準マイクロ波帯 ==
極超短波の周波数のうち、1 - 3GHzの周波数を準マイクロ波帯、略して'''準マイクロ波'''または'''準マイクロ'''とも言う。[[1980年代]]後半に800MHz帯が逼迫してきたため、官民共同で'''準マイクロ波帯実験実施連絡会'''を組織し新たな移動体通信用の周波数帯として開発された。この結果、1.5GHz帯が実用化されMCAや携帯電話に使われるようになった。その後も続々と移動体用を中心に開発が行われているが、最近は特に準マイクロ波帯と呼ばれることは無い。
== アマチュア無線 ==
アマチュア業務に[[国際電気通信連合]] (ITU) の[[無線通信規則]] (RR) により[[ISMバンド]]や他の業務と共用するものを含めて分配された周波数を下表に示す。各国でアマチュア無線にこの表の周波数がすべて割り当てられているという意味ではない。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!バンド!![[ITU地域|第1地域]]<br>[[アフリカ]]・[[ヨーロッパ]]!!第2地域<br>[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]・[[ハワイ]]!!第3地域<br>[[アジア]]・[[オセアニア]](ハワイは除く)
|-
|[[:en:70-centimeter band|70cm]]||430 - 440MHz||colspan="2"|420 - 450MHz
|-
|[[:en:33-centimeter band|33cm]]||style="background-color:gray"| ||902 - 928MHz||style="background-color:gray"|
|-
|[[:en:23-centimeter band|23cm]]||colspan="3"|1.24 - 1.3GHz
|-
|[[:en:13-centimeter band|13cm]]||colspan="3"|2.3 - 2.45GHz
|-
|colspan="4" style="text-align:left"|{{Color|gray|■}}は分配なし。
|}
日本での割当ては[[アマチュア無線の周波数帯]]を参照。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アンテナ]]
** [[八木・宇田アンテナ]]
* [[日本の地上デジタルテレビ放送]]
{{電波の周波数による分類}}
{{電磁波}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こくちようたんは}}
[[Category:マイクロ波の周波数帯]]
[[Category:テレビ技術]] | 2003-03-04T09:10:08Z | 2023-11-25T22:19:44Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
"Template:Cite press release",
"Template:電波の周波数による分類",
"Template:電磁波",
"Template:Normdaten",
"Template:Color",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E8%B6%85%E7%9F%AD%E6%B3%A2 |
3,366 | 電話 (電波型式) | 電話(でんわ)は電波型式のひとつで、電波を音声・音楽のような音響信号で変調したものである。
電話用の送信機に、モデムで音響信号に変換したデジタルデータやファクシミリ信号などを入力した場合は、電波法上はそれぞれの電波型式とみなされる。
ナローバンドは、0.3~3.1または3.4kHzの音響信号を伝送できるものである。会話のための音声伝送として、移動体通信・電話網の多重伝送・業務無線などに用いられている。無線局の増加・多チャネル化対応のため、周波数帯域幅の縮小・デジタル変調化が行われてきている。
振幅変調(AM)は、占有周波数帯域が狭いため、低い周波数で用いられている。 航空無線機においては、欧州を中心に25kHzから8.33kHz(25kHzを3等分)への狭帯域化が進められている。
周波数変調(FM)は、超短波・極超短波において、アマチュア無線、業務無線、コードレス電話などに用いられている。
狭帯域化をナロー化ということがある。移行期間において、ナロー化システムとワイドシステムの共存をはかるために、送信のみナローで受信はワイドと言う無線機で運用されることがあり、擬似ナローと呼ばれる。なお、かつて存在したアナログ携帯電話(大容量方式)のチャネルステップは6.25kHzであったが、これは12.5kHz仕様のままでチャネルステップのみとしたものであり、この場合はナローとは呼ばずインターリーブと呼ぶ。
日本におけるチャネル間隔縮小の歴史
デジタル変調は、超短波・極超短波において、携帯電話・PHS・衛星電話などの移動体通信や業務無線に用いられている。秘話性の向上やデータ通信の高速化を可能にする効果がある。2002年頃から、12.5kHzの次のナロー化である6.25kHzがデジタル方式(ARIB STD-T61)により進められている。
ワイドバンドは、音楽放送など広帯域の音響信号を伝送できるものである。
AMラジオ放送では0.3~7kHz、FMラジオ放送では0.05~15kHzの帯域が伝送可能である。デジタル放送では、さらに広帯域のものも存在する。
狭帯域専用の受信機で広帯域AMの低域部分の受信可能であるが、狭帯域FM専用の受信機で広帯域FMを受信すると音声のひずみが大きく実用にならない。これは、広帯域FMの場合、周波数偏移も非常に大きいのが普通であるため、IFフィルタやディスクリミネータが周波数軸上で飽和するためである。仮に、最大周波数偏移を狭帯域FMと同等とすれば、問題なく受信可能である。
日本では、FM補完中継局に対応するものを、ワイドFM受信機という場合があるが、この「ワイド」は従来の狭い範囲(超短波放送、76MHzから90MHzまで)に対する拡張という意味があり、本節のワイドバンドとは全く異なる。 | [
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] | 電話(でんわ)は電波型式のひとつで、電波を音声・音楽のような音響信号で変調したものである。 電話用の送信機に、モデムで音響信号に変換したデジタルデータやファクシミリ信号などを入力した場合は、電波法上はそれぞれの電波型式とみなされる。 | {{出典の明記|date=2021年2月}}
{{変調方式}}
'''電話'''(でんわ)は[[電波型式の表記法|電波型式]]のひとつで、[[電波]]を[[音]]声・[[音楽]]のような音響信号で変調したものである。
電話用の[[送信機]]に、[[モデム]]で音響信号に変換した[[デジタル]]データや[[ファクシミリ]]信号などを入力した場合は、[[電波法]]上はそれぞれの[[電波]]型式とみなされる。
==ナローバンド==
'''ナローバンド'''は、0.3~3.1または3.4[[キロヘルツ|kHz]]の音響信号を伝送できるものである。会話のための音声伝送として、[[移動体通信]]・[[電話網]]の[[多重化|多重]]伝送・[[業務無線]]などに用いられている。[[無線局]]の増加・多チャネル化対応のため、[[周波数]][[帯域幅]]の縮小・[[デジタル変調]]化が行われてきている。
===振幅変調===
[[振幅変調]](AM)は、占有周波数帯域が狭いため、低い周波数で用いられている。
[[航空無線機]]においては、[[ヨーロッパ|欧州]]を中心に25kHzから8.33kHz(25kHzを3等分)への狭帯域化が進められている。
{| class="wikitable" width="100%" summary="振幅変調の種類と用途">
|+振幅変調の種類と用途
|-align=center
! width="10%" |[[日本語]]
! width="5%" |[[英語]]
! width="5%" |[[電波の周波数による分類|周波数帯]]
!用途
!特徴
|-
!単側波帯
|SSB: Single Sideband
|[[中波|MW]] [[短波|SW]]
|[[船舶]]・[[航空機]]向けの洋上通信
|最も狭帯域
|-
! rowspan="2" |両側波帯
| rowspan="2" |DSB: Double Sideband
|[[超短波|VHF]]
|民間航空機
| rowspan="2" |複数の[[無線局]]が存在する場合に、緊急時の割り込み通信が可能
|-
|[[極超短波|UHF]]
|[[軍用機]]
|-
!実数零点単側波帯
|RZ SSB: Real Zero -
|VHF UHF
|放送事業用連絡無線の標準の一つ
|狭帯域でデジタル変調と比較して遅延時間が少ない
|}
===周波数変調===
[[周波数変調]](FM)は、[[超短波]]・[[極超短波]]において、[[アマチュア無線]]、業務無線、コードレス電話などに用いられている。
狭帯域化を'''ナロー化'''ということがある。移行期間において、ナロー化システムとワイドシステムの共存をはかるために、送信のみナローで受信はワイドと言う無線機で運用されることがあり、'''擬似ナロー'''と呼ばれる。なお、かつて存在したアナログ携帯電話(大容量方式)のチャネルステップは6.25kHzであったが、これは12.5kHz仕様のままでチャネルステップのみとしたものであり、この場合はナローとは呼ばず'''[[インターリーブ]]'''と呼ぶ。
[[日本]]におけるチャネル間隔縮小の歴史
*60[[メガヘルツ|MHz]]帯 : [[1967年]]に30→15[[キロヘルツ|kHz]]
*[[150MHz帯]] : [[1967年]]に40→20kHz
*400MHz帯 : [[1969年]]に50→25kHz、[[1982年]]に25→12.5kHz
*[[800MHz帯]] : [[1987年]]に25→12.5kHz (6.25kHzインターリーブ)
===デジタル変調===
[[デジタル変調]]は、[[超短波]]・[[極超短波]]において、[[携帯電話]]・[[PHS]]・[[衛星電話]]などの[[移動体通信]]や[[業務無線]]に用いられている。秘話性の向上や[[データ通信]]の高速化を可能にする効果がある。2002年頃から、12.5kHzの次のナロー化である6.25kHzがデジタル方式(ARIB STD-T61)により進められている。
{| class="wikitable" width="100%" summary="狭帯域デジタル変調の例">
|+狭帯域デジタル変調の例
|-align=center
! width="5%" |[[搬送波]]間隔([[キロヘルツ|kHz]])
! width="5%" |ロールオフ率
! width="5%" |[[変調方式]]
! width="5%" |チャネル当たり伝送速度(k[[ビット毎秒|b/s]])
! width="5%" |多重数
! width="5%" |通信方式
!用途
|-
|6.25
|0.2
|π/4 QPSK
|9.6
|1
|半複信
|[[業務無線]]
|-
|6.25
|0.2
|M16 QAM
|8
|1×2
|[[時分割複信|TDD]]
|
|-
|15
|0.2
|M16 QAM
|7.5
|6
|[[時分割多元接続|TDMA]]-TDD
|[[市町村防災行政無線]](同報・固定系)
|-
|25
|0.5
|π/4 QPSK
|8
|4
|TDMA
|[[第三者無線]](800[[メガヘルツ|MHz]])
|-
|25
|0.5
|M16 QAM
|8
|6
|TDMA
|第三者無線(1.5[[ギガヘルツ|GHz]])
|}
==ワイドバンド==
'''ワイドバンド'''は、[[音楽]][[放送]]など広帯域の音響信号を伝送できるものである。
AM[[ラジオ]]放送では0.3~7kHz、FMラジオ放送では0.05~15kHzの帯域が伝送可能である。[[デジタル放送の一覧|デジタル放送]]では、さらに広帯域のものも存在する。
狭帯域専用の[[受信機]]で広帯域AMの低域部分の受信可能であるが、狭帯域FM専用の受信機で広帯域FMを受信すると音声のひずみが大きく実用にならない。これは、広帯域FMの場合、周波数偏移も非常に大きいのが普通であるため、IFフィルタやディスクリミネータが周波数軸上で飽和するためである。仮に、最大周波数偏移を狭帯域FMと同等とすれば、問題なく受信可能である。
[[日本]]では、[[FM補完中継局]]に対応するものを、ワイドFM受信機という場合があるが、この「ワイド」は従来の狭い範囲([[超短波放送]]、76MHzから90MHzまで)に対する'''拡張'''という意味があり、本節のワイドバンドとは全く異なる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==関連項目==
*[[無線電話]]
*通信手段としての[[電話]]
*無線[[電信]]
{{多元接続}}
[[Category:電波法|てんわ]] | null | 2021-02-24T13:15:56Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:多元接続",
"Template:出典の明記",
"Template:変調方式",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1_(%E9%9B%BB%E6%B3%A2%E5%9E%8B%E5%BC%8F) |
3,368 | Bit Block Transfer | ビットブロック転送(英: Bit Block Transfer、ビット・ブロック・トランスファー)は、コンピュータグラフィックスにおける画像データ(ビットマップ)操作およびそれに関連するハードウェア機能のひとつである。ビットブロック転送の操作には少なくとも2つのビットマップを必要とし、転送の際にビット単位の論理演算(ラスターオペレーション)を伴うこともある。
BitBlt (読みは「ビットブリット」) と略されるが、これをデバイスドライバやゲームの設定ファイルなどでBitBit(lではなくてi)と表現してしまう間違いも多く見られる。
CPUからVRAMに対する直接アクセスはCRTCからのアクセスの干渉などハードウェア的な制約が多いため、メインメモリに対するアクセスよりも低速であることが多い。このため、画像操作の度にVRAMにアクセスを行うことは描画速度を低下させるばかりか、描画途中で画面のフレームが切り替わってしまう状況を生じやすく、ちらつき(フリッカー)、テアリング、カクつき(スタッタリング)を発生させる原因となる。これらの問題の解決方法の一つとして、モニターに表示するための表画面となる画像データ領域をVRAMに、そして裏画面となる同サイズのデータ領域をメインメモリに確保しておき、画像操作は裏画面にて行ない、最終的に裏画面のデータを表画面に一括転送するというダブルバッファリング手法がある。この転送時にビットブロック転送が利用される。Windows API(GDI)におけるBitBlt関数のように、グラフィックスデバイス(グラフィックスチップ、GPU)によるハードウェアアクセラレーション機能を備えるものもある。CPUの代わりにDMAコントローラを用いてメインメモリからVRAMにビットマップを転送するアーキテクチャも存在する。Macintoshでは「オフスクリーン描画」と呼ぶのが普通で、"Bit Block Transfer"や"BitBlt"という語句はめったに出てこない。
ダブルバッファリングの裏画面用に確保したメモリ領域はオフスクリーン、オフスクリーンバッファあるいはバックバッファと呼ぶ。またわかりやすく仮想画面と呼ぶこともある。
Direct3DやOpenGLなどのグラフィックスハードウェアアクセラレーションに対応したAPIを利用してGPU上で画像処理を行なう場合は、メインメモリを介することなくVRAM上で直接画像データを高速に操作できるが、表画面に対する直接操作は依然としてちらつきの問題を生じるため、VRAM上に裏画面を用意しておき、フリップ(スワップ)機能を用いてダブルバッファリングを行なうのが通例である。同様に、メインメモリの一部をVRAMとしてGPUと共用するオンボードグラフィックスなどの環境であっても、ダブルバッファリングが必要である。
当初は、PARCで開発されたAlto向けに開発されたSmalltalkシステムで、ポップアップするメニューやオーバーラップするウインドウを有するGUIの効率化を図るためにダン・インガルスらにより考案・実装されたものだが、後にマイクロコード化され、Altoの組み込みの機能としてSmalltalk以外のGUIシステムでも広く利用されるようになった。Smalltalkシステムでは、GUIウィジェットの通常描画の他にも、タートルグラフィックス、フォントの複数のスタイル(ボールド、イタリック、アンダーライン、取り消し線)の自動生成、あるいは、描画ツールでドット単位の部分編集を可能にする拡大表示、図形の回転処理などを行なう際などに活用された。なお、1979年時点でのSmalltalkでは隠れたウインドウの見える部分だけの描画更新処理は行なっていなかったのだが、おそらく前述マイクロコード化などのハードウェア支援も手伝って比較的高速にウインドウ処理をこなすSmalltalkシステムのデモを見たビル・アトキンソンが思い込みで、不定形領域を対象にでき、しかもソフトウェアのみで部分的な再描画を行なっているものと誤解。その認識のまま、後にApple製LisaやMacintoshでGUI描画の中核を担う、“リージョン”の扱いと比較的高速な描画が可能なQuickDrawとして、ついに完成させてしまったという逸話がある。 | [
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"title": "逸話"
}
] | ビットブロック転送は、コンピュータグラフィックスにおける画像データ(ビットマップ)操作およびそれに関連するハードウェア機能のひとつである。ビットブロック転送の操作には少なくとも2つのビットマップを必要とし、転送の際にビット単位の論理演算(ラスターオペレーション)を伴うこともある。 BitBlt (読みは「ビットブリット」) と略されるが、これをデバイスドライバやゲームの設定ファイルなどでBitBit(lではなくてi)と表現してしまう間違いも多く見られる。 | {{出典の明記|date=2016年12月}}
'''ビットブロック転送'''({{lang-en-short|Bit Block Transfer}}、ビット・ブロック・トランスファー)は、[[コンピュータグラフィックス]]における[[画像]]データ([[ビットマップ画像|ビットマップ]])操作およびそれに関連するハードウェア機能のひとつである。ビットブロック転送の操作には少なくとも2つのビットマップを必要とし、転送の際にビット単位の[[論理演算]](ラスターオペレーション)を伴うこともある<!-- BitBltの主目的はむしろラスターオペレーションにあり、転送元/転送先はメインメモリ/VRAMの組み合わせだけとは限らないことに注意。メインメモリ間、VRAM間での転送もありうる。 -->。
'''BitBlt''' (読みは「'''ビットブリット'''」) と略されるが、これを[[デバイスドライバ]]やゲームの設定ファイルなどでBitB'''i'''t(lではなくてi)と表現してしまう間違いも{{要出典範囲|多く見られる|date=2016年12月}}。
== 概要 ==
{{main|[[:en:Bit blit]]}}
{{節スタブ}}
== ダブルバッファリング ==
{{see also|[[:en:Multiple buffering]]}}
[[CPU]]から[[VRAM]]に対する直接アクセスは[[CRTC (LSI)|CRTC]]からのアクセスの干渉などハードウェア的な制約が多いため、[[主記憶装置|メインメモリ]]に対するアクセスよりも低速であることが多い。{{疑問点範囲|このため|date=2016年12月}}<!-- CPUからVRAMへ直接アクセスしてしまうと描画速度が低下するというのは正しいが、ちらつきの原因に関しては、VRAMへのアクセス速度というよりはむしろ、モニター表示用の表画面を(リフレッシュレートを無視して)直接操作することにあるはず。後述する、GPUによるVRAMアクセスや、オンボードグラフィックス環境下でもダブルバッファリングが依然として利用されていることがその証拠。 -->、画像操作の度に[[VRAM]]にアクセスを行うことは描画速度を低下させるばかりか、描画途中で画面の[[コマ (映画・漫画)|フレーム]]が切り替わってしまう状況を生じやすく、[[ちらつき]]([[フリッカー]])、[[テアリング]]、カクつき([[スタッタリング]])を発生させる原因となる。これらの問題の解決方法の一つとして、モニターに表示するための表画面となる画像データ領域をVRAMに、そして裏画面となる同サイズのデータ領域をメインメモリに確保しておき、画像操作は裏画面にて行ない、最終的に裏画面のデータを表画面に一括転送するという[[ダブルバッファリング]]手法がある。この転送時にビットブロック転送が利用される。[[Windows API]]([[Graphics Device Interface|GDI]])におけるBitBlt関数のように、グラフィックスデバイス(グラフィックスチップ、[[Graphics Processing Unit|GPU]])による[[ハードウェアアクセラレーション]]機能を備えるものもある。[[CPU]]の代わりに[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラを用いてメインメモリから[[VRAM]]に[[ビットマップ画像|ビットマップ]]を転送するアーキテクチャ{{要説明|date=2016年12月}}<!-- 具体的には? GPUによるWindows GDIのBitBltアクセラレーションなどが該当する? -->も存在する。[[Macintosh]]では「オフスクリーン描画」と呼ぶのが普通で、"Bit Block Transfer"や"BitBlt"という語句はめったに出てこない。
ダブルバッファリングの裏画面用に確保したメモリ領域は'''オフスクリーン'''、'''オフスクリーンバッファ'''あるいは'''バックバッファ'''と呼ぶ。またわかりやすく'''仮想画面'''と呼ぶこともある。
[[Direct3D]]や[[OpenGL]]などのグラフィックスハードウェアアクセラレーションに対応したAPIを利用してGPU上で画像処理を行なう場合は、メインメモリを介することなくVRAM上で直接画像データを高速に操作できるが、表画面に対する直接操作は依然としてちらつきの問題を生じるため、VRAM上に裏画面を用意しておき、フリップ(スワップ)機能を用いてダブルバッファリングを行なうのが通例である。同様に、メインメモリの一部をVRAMとしてGPUと共用する[[オンボードグラフィック|オンボードグラフィックス]]などの環境であっても、ダブルバッファリングが必要である。
== 逸話 ==
[[ファイル:Smalltalk-76 (2).png|サムネイル|右|1970年代半ば頃、BitBltを活用して構築された暫定Dynabook環境(Altoで動作するSmalltalk-76)のGUI]]当初は、[[PARC]]で開発された[[Alto]]向けに開発された[[Smalltalk]]システムで、ポップアップするメニューやオーバーラップするウインドウを有する[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]の効率化を図るためにダン・インガルスらにより考案・実装されたものだが、後にマイクロコード化され、Altoの組み込みの機能としてSmalltalk以外のGUIシステムでも広く利用されるようになった。Smalltalkシステムでは、GUIウィジェットの通常描画の他にも、タートルグラフィックス、フォントの複数のスタイル(ボールド、イタリック、アンダーライン、取り消し線)の自動生成、あるいは、描画ツールでドット単位の部分編集を可能にする拡大表示、図形の回転処理などを行なう際などに活用された。なお、1979年時点でのSmalltalkでは隠れたウインドウの見える部分だけの描画更新処理は行なっていなかったのだが、おそらく前述マイクロコード化などのハードウェア支援も手伝って比較的高速にウインドウ処理をこなすSmalltalkシステムのデモを見た[[ビル・アトキンソン]]が思い込みで、不定形領域を対象にでき、しかもソフトウェアのみで部分的な再描画を行なっているものと誤解。その認識のまま、後に[[Apple]]製[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]や[[Macintosh]]でGUI描画の中核を担う、“リージョン”の扱いと比較的高速な描画が可能な[[QuickDraw]]として、ついに完成させてしまったという逸話がある。
== 関連項目 ==
* [[ダブルバッファリング]]
* [[スプライト (映像技術)|スプライト]]
* [[Direct Memory Access]]
* [[Blit]]
* [[コンポジット型ウィンドウマネージャ]]
* [[:en:Bit blit]]
* [[:en:Multiple buffering]]
{{DEFAULTSORT:BIT BLOCK TRANSFER}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Bit_Block_Transfer |
3,369 | デジタル | デジタル(英: digital, 英語発音: [ˈdiʤətl])は、以下のような意味の単語。
なお日本産業規格 (JIS X 0001, JIS X 0005) では「ディジタル」という表記が採用されており、そちらの表記も使われることがある。なお広辞苑第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっており、逆になったのは1998年の第五版であった(→#片仮名表記)。当記事の表記としては「デジタル」のほうを採用して以下の説明を行う
英語のdigitalは形容詞で、語源はラテン語の「digitus」(ディジトゥス、「指」の意)であり、それがラテン語の中で「digitalis」(ディジタリス)という形に変化し、それが15世紀なかばに英語に入り「digital」となり「10より小さい数を指に関連付ける(指に関連づけて数える)」という意味になり、1650年代に「指に関連づける(指に関連づけて数える)」という意味になった。「digital」が「『(10より小さい)数』を使っている〜」という意味の形容詞として使われるようになったのは1938年以降のことであり、特に、1945年以降に現れた、(それまでのアナログコンピュータと対比されるような)digit(※)方式 の(十進以外、典型的には二進方式の)コンピュータのことを形容するために使われ始めた
今日ではデジタル方式と呼ばれている装置は、1940年代前半では、まだ研究が始まって日が浅く、アナログ方式と対比しつつも「パルス(式)」という表現で形容されていた。だがエンジニアのジョージ・スティビッツが「パルス(式)」ではこの装置の動作プロセスが適切に表現されていないと感じ、「デジタル」と表現したほうがよいと(1942年4月に開催された科学研究開発局(OSRD)の部門会議に出席した後に)指摘した。こうして、「デジタル」という用語・表現が非アナログ方式のコンピュータを指すために使われるようになっていった。(なおスティビッツは電気機械式リレーをスイッチ素子として使ったブール論理デジタル回路の開発を1930年代から1940年代にかけて行った人物であり、「デジタルコンピュータの父」と呼ばれることもある人物である。)
コンピュータがデジタル方式だということは、コンピュータのCPU内(の核心部分。演算装置やレジスタ類)での数の表現が二進方式になっていることを意味しており、1か0という値をとるビットが有限個(※)並んだもの(ビット列)で数が表現されている。
二進数のそれぞれの桁はビットと呼ばれ 0 または 1 の数字で表される。
デジタルコンピュータでなぜ二進法が採用されるのかという理由について、情報処理技術者の教科書に次のように説明されている。ビット列の各ビットを反転することで《1の補数》が得られ、それに1を足すと《2の補数》が得られる。ある数と、(その数の)2の補数との加算を行うと、紙の上の計算では最上位の桁から桁上がりが起きるが、有限の桁しかない加算器では最上位の桁の桁上がりが無視される仕組みになっているので演算結果が0になる、という注目すべき性質がある。デジタルコンピュータのCPUの演算器では、もとの数の2の補数は「0 - もとの数 = - もとの数」を意味することになる。この性質を利用してCPU内の演算では減算 A-Bを 「A+ (-B)」と書き換えることができ、さらに「A+ (Bの2の補数)」と書き換えることができる。つまり負数に2の補数を使うことで、減算という作業を加算と同様に処理できることになり、演算回路を単純なもので済ますことができる。
二進数方式でCPUが動いているデジタルコンピュータは(最初から二進数で入力し、演算し、二進数を出力することもできるが)十進法の数を扱う場合は、一旦、その十進数を二進数へと変換する基数変換を行っている。これらの基数変換は例えば、キーボードから数値を入力する際や、人間のために計算結果を十進で表示する際に行われる。
有限の長さのビット列を扱う場合、算術演算の結果がそのビット列の長さに収まらないことがある(算術オーバーフロー)。
アナログ方式と比べて、デジタルデータはノイズの影響を受けにくい、という特徴がある。
デジタルデータの伝送や記録・再生などを行う場合、デジタル量もアナログ量と同様に電圧・電流などの電気信号に置き換えて取り扱われるが、外乱が生じて信号にノイズが混入した場合、アナログ処理では特別な処理を行わない限り信号に混じったノイズを取り除くことが困難であるが、これに対し、デジタル処理では、数値は飛び飛びで離散しており、中間値をもたないので、ノイズによって生じた誤差が一定量以下ならばそれを無視することで、元のデータが保たれる。この数値は、六進数や十進数のような「素因数が複数」の記数法でも適用でき、データが整数表現の場合、1がノイズによって0.8(10)(=4/5)や0.4(6)(=2/3)や1.2(十進数だと6/5、六進数だと4/3)に変化しても1と扱う回路を用意しておけば良い。
実際の記録・伝送などでは上述の範囲を越えるノイズが混入する場合がある(例えば、1が0.4(10)(=2/5)や0.2(6)(=1/3)、または1.6(10)(=8/5)や1.4(6)(=5/3)に変化すると、異なる値0または2となる)が、デジタルコンピュータでは、そのような場合でも誤りを検出する手法が発明されており、データを予め誤り訂正符号などを使って冗長化しておくと、それを使い逆算して補正したり、補正出来ない場合は無視したり、誤りの発生を検出して再送を要求したりすることができ、信頼性の高い伝送や再生を行うことができる。
なお「デジタルコンピュータなら、いつでも計算が正確」と思うのは幻想でしかない。特に浮動小数点方式で演算する場合は誤差が生じるということには注意を払う必要があり、数値が表現可能な数値範囲を超えてしまう可能性にも十分に用心する必要がある。分かりやすい出来事を紹介すると、たとえば1991年、アメリカ軍のパトリオットミサイルは時間計算の誤差が原因で誤作動して死者が出てしまったし、欧州宇宙機構のアリアン5型ロケットなどは1996年の打ち上げ時にわずか40秒で爆発し、このロケットのために費やした10年の歳月および70億ドルの開発費および搭載した5億ドル相当の装置が失われてしまった。アリアン5型の爆発の直接の原因は、慣性基準装置(IRS)のソフトウェアが水平方向の速度を表現する64ビット浮動小数点数を16ビット整数に変換したため、16ビット整数の最大値である32768を越えてしまい変換に失敗したことであった。
特に浮動小数点方式で非常に近い2つの実数の引き算を行うと、有効桁がひどく損なわれて非常に大きい誤差が発生することがある。たとえば32ビット(単精度)の状態で2つの近い実数の引き算をさせると、数学的に正しい値とは約20%も計算値がズレることがある。
また最小値に近い数値を扱っていないかどうかにも注意を払う必要がある。
デジタル処理では、定義された最大値を超えた場合には桁溢れ(オーバーフロー)となり、以後の演算処理の結果は保証されない。また、最小値に近い数値では量子化誤差が無視できず、S/N比の劣化として現れることがある。
デジタルコンピュータで小数点数(小数点がついているような数)を表現する方法としては、固定小数点表示 / 浮動小数点表示 という2つの方法がある。
固定小数点方式では、数値の整数部と小数部をそれぞれビット列の一部で表す。整数部および小数部のビット列の長さは固定されているため、小数点が固定された数値表現といえる。浮動小数点方式は、数値を仮数部と指数部に分けて表す。浮動小数点方式では、小数点の位置は指数部の値によって変わる。
固定小数点方式は、浮動小数点方式と比較して、大きな数値や小さな数値の表現には向かず算術オーバーフローも生じやすいという欠点がある。その一方で、情報落ちによる誤差は発生しにくい、演算が浮動小数点よりも高速という利点がある。
浮動小数点方式は、固定小数点方式と比較して、大きな数値や小さな数値も表現できる。他方、桁落ちによる誤差が発生する欠点がある。(浮動小数点方式で計算すると20%もの誤差を生じることがあり、深刻な事故の原因にもなることは#特徴の節で説明した。)
音声や画像のような本来連続的な対象をデジタルコンピュータで扱う場合、入力信号に対して標本化および量子化と呼ばれる処理を行い、その特徴量を数値化する。入力データを適当な区分に分割し、各区分の代表点を取る操作を標本化という。標本化によって得られる代表点は連続的な値をとるため、代表点の値が収まるような区間で離散化する必要がある。代表点の値を離散的な数値に対応する操作を量子化という。
原信号に対する忠実度は標本化のサンプリングレートと量子化のステップ幅およびステップ数に依存する。デジタル化された信号は、サンプリングレートが高いほど、またステップ幅が小さいほど原信号に対して忠実である。一方、データ圧縮の観点では、必要最低限の忠実さを保ちつつより低いサンプリングレート、より少ないステップ数で符号化することが求められる。
マイクロコントローラの中には外部からのアナログ入力(電圧の連続的な変化)を受け付ける入力ピンをいくつか備えているものもあり、それだとアナログ値をデジタル値に変換することができる。またデジタルシグナルプロセッサもアナログ信号をデジタル信号に変換する役割を担う。
アナログデータをデジタルデータに変換することを「デジタル化する」、「デジタイズする」などという。
デジタルデータをそのまま扱う場合(単純なリニアサンプリング)について述べる。
実際のデジタル処理では、二進数1桁をビットとし、8ビットなどのまとまった単位をオクテットまたはバイトとして取り扱い、さらにそのまとまりをワードという単位として取り扱うことが多い。これは処理装置や記憶装置の語長に合わせて効率よく使えるようにするためである。
英単語 digital の音写として一般に「デジタル」と「ディジタル」の二通りの表記が用いられる。
例えば日本産業規格 (JIS X 0001, JIS X 0005) などでは「ディジタル」という表記が用いられている(「ディジタル計算機」「ディジタル化する」「ディジタルデータ」など)。
「ディジタル」や「デジタル」の間で表記が揺れた要因として、1955年に文部省が発行した『国語シリーズ27 外来語の表記 資料集』の影響が考えられる。同資料ででは次のように説明していた。
11.原音における「ティ」「ディ」の音は、なるべく「チ」「ジ」と書く。 例 (中略)... ラジオ(radio) ジレンマ(dilemma) ただし、原音の意識がなお残っているものは、「ティ」「ディ」と書いてもよい。
この資料集は実際には規則ではなくあくまで現状整理という位置付けだったようだが同年版の『記者ハンドブック』(共同通信社)の外来語の書き方の欄などメディア関係者が参照する資料に文部省資料集の主要な記述がそのまま転載され、事実上のガイドラインとなっていた。
時代が下って1980年代に入るころには洋楽視聴などさまざまな経路を通じて日本人が外国語の発音を直接耳にする機会が増えた影響か、1981年の『記者ハンドブック』第4版では「原音のティ、ディ、テュ、デュで慣用が定まっている場合はチ、ジ、チュ、ジュで書く」となっているのは、逆に言うと、新しく使われるようになった外来語では「ティ」や「ディ」などと原音に沿った書き方をするのが主流だと認めているということでもある。
1960年代から1970年代の専門書ではディジタル表記が圧倒的に使われていた。1960年代の一般紙では最先端の技術だった電子計算機は「ディジタル型」「ディジタル電子計算機」と書かれ、事実上のガイドラインがあっても1つの表記以外をあまり確認できなければ新聞も倣ったとみられる。
だが、一般人が使う慣用的表記としては「デジタル」が1970年代末までに定まり、現在ではそちらが使われ続けている。 「デジタル」という表記が広まった理由の1つは時計の広告であり、1965年の東京時計製造のパタパタ時計の新聞広告には「東京デジタル」とあり、1968年にソニーが「デジタル24」という名称のパタパタ時計式の時計ラジオ一体型製品を発売。どうやらメディアで広く宣伝するために1955年の文部省資料のガイドラインに沿った表記にしたと見られる。1970年代後半にはデジタル腕時計のブームで広告には「デジタル」の文字が踊り、1978年にカシオ計算機が山口百恵を起用したCMで山口が歌う「デジタルはカシオ」のフレーズが流行し、この結果、学術分野以外ではデジタルの語で急速に固まった。
広辞苑第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっていたが、逆になったのは1998年の第五版であった。
なお、上述の複雑な経緯により「デジタルネイティブ」のような異なる時期の表記法が同居している複合的な外来語も出てきた。(「デジタル」のほうは原音から離れた表記だが、「ネイティブ」のほうは1980年代以降に1955年版資料のガイドラインの影響を受けずに原音に沿った音で広まった外来語である) | [
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"text": "1960年代から1970年代の専門書ではディジタル表記が圧倒的に使われていた。1960年代の一般紙では最先端の技術だった電子計算機は「ディジタル型」「ディジタル電子計算機」と書かれ、事実上のガイドラインがあっても1つの表記以外をあまり確認できなければ新聞も倣ったとみられる。",
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"text": "だが、一般人が使う慣用的表記としては「デジタル」が1970年代末までに定まり、現在ではそちらが使われ続けている。 「デジタル」という表記が広まった理由の1つは時計の広告であり、1965年の東京時計製造のパタパタ時計の新聞広告には「東京デジタル」とあり、1968年にソニーが「デジタル24」という名称のパタパタ時計式の時計ラジオ一体型製品を発売。どうやらメディアで広く宣伝するために1955年の文部省資料のガイドラインに沿った表記にしたと見られる。1970年代後半にはデジタル腕時計のブームで広告には「デジタル」の文字が踊り、1978年にカシオ計算機が山口百恵を起用したCMで山口が歌う「デジタルはカシオ」のフレーズが流行し、この結果、学術分野以外ではデジタルの語で急速に固まった。",
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"text": "広辞苑第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっていたが、逆になったのは1998年の第五版であった。",
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"text": "なお、上述の複雑な経緯により「デジタルネイティブ」のような異なる時期の表記法が同居している複合的な外来語も出てきた。(「デジタル」のほうは原音から離れた表記だが、「ネイティブ」のほうは1980年代以降に1955年版資料のガイドラインの影響を受けずに原音に沿った音で広まった外来語である)",
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] | デジタルは、以下のような意味の単語。 量を "段階的に区切って" 数字で表すことや、情報を "離散的な値"のあつまりとして表現し " 段階的な "物理量に対応させて記憶・伝送する方式や、データを "有限桁の数値" で表現する方法(を表現するための形容詞)であり、たとえば 0と1だけを有限個使って情報を伝えることである。対義語はアナログという形容詞であり、そちらは情報を連続した(物理)量で表現する方式である。
特に二進数で表現されたデータで構成されているもの。
「指を使って行った〜」という意味の形容詞。 なお日本産業規格 では「ディジタル」という表記が採用されており、そちらの表記も使われることがある。なお広辞苑第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっており、逆になったのは1998年の第五版であった(→#片仮名表記)。当記事の表記としては「デジタル」のほうを採用して以下の説明を行う | {{Otheruses|主に[[計算機工学|コンピュータ工学]]的な内容}}
'''デジタル'''({{lang-en-short|digital}}, {{IPA-en|ˈdiʤətl}})は、以下のような意味の単語。
#[[量]]を "段階的に区切って" [[数字]]で表すこと<ref>デジタル大辞泉【デジタル】</ref>や、[[情報]]を "離散的な[[値]]"<ref name="Miyake">三宅真『Q&Aで読み解く情報通信技術の進化』2019, p.14「デジタル通信とアナログ通信、デジタルとアナログ」</ref><ref name="e-word">IT用語辞典e-word【デジタル】</ref>({{Lang-en-short|discrete value}}<ref name="Miyake" />つまり "飛び飛び" の値<ref>日本商工会議所 EC実践能力検定試験 2級 公式テキスト, p.164 「アナログとデジタルの違い」</ref>)のあつまりとして表現し " 段階的な "<ref>工藤利夫『図解電子用語の基礎解說』枝術評論社、1982 p.158</ref><ref name="e-word" />[[物理量]]に対応させて[[記憶]]・[[伝送]]する方式<ref name="e-word" />や、[[データ]]を "[[有限]][[桁]]の[[数#コンピュータにおける数値|数値]]" で表現する方法<ref name="SEISEN">精選版 日本国語大辞典【デジタル】</ref>(を表現するための[[形容詞]])であり、たとえば 0と1だけを[[有限]]個使って情報を伝えることである<ref name="Miyake" />。[[対義語]]は[[アナログ]]という形容詞であり<ref name="KOJIEN">広辞苑第六版【デジタル】</ref><ref name="SEISEN" /><ref name="Merriam_Webster_digital">Merriam Webster【digital】[https://www.merriam-webster.com/dictionary/digital]</ref><ref name="e-word" />、そちらは情報を連続した(物理)量で表現する方式である<ref name="SEISEN">精選版 日本国語大辞典【デジタル】</ref><ref name="e-word" /><ref name="Merriam_Webster_analog">Merriam Webster【analog】[https://www.merriam-webster.com/dictionary/analog]</ref>。
#特に[[二進数]]で表現されたデータで構成されているもの<ref name="Merriam_Webster_digital" />。
#「指を使って行った〜<ref name="Merriam_Webster_digital" />」という意味の形容詞。
<!--{{要出典範囲[[工業]]・[[工学]]的には、[[量]]を[[量子化]]、離散化して処理(取得、蓄積、加工、伝送など)を行う方式のことである。|date=2023年3月}}-->
なお日本産業規格 (JIS X 0001, JIS X 0005) では「'''ディジタル'''」という表記が採用されており、そちらの表記も使われることがある{{Efn|たとえば書籍名でいえば、亀山充隆『ディジタルコンピューティングシステム』朝倉書店、2014年 / 鈴木博 『ディジタル通信の基礎』数理工学社 2012 / 伊原充博, 若海弘夫, 吉沢昌純『ディジタル回路』コロナ社、1999年 等々。他にもコンピュータ用語辞典や通信用語辞典の類の巻末の[[索引]]を見ると、「ディジタル・○○○○」などという用語がいくつも並ぶ。 }}。なお広辞苑第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっており、逆になったのは1998年の第五版であった(→[[#片仮名表記]])。当記事の表記としては「デジタル」のほうを採用して以下の説明を行う{{Efn|「デジタル」という表記のほうが今の日本で優勢であり、一般向けの百科事典の表記法として妥当であり、また技術者も「デジタル」と表記されることに慣れており特別な違和感などは感じず文章を読めるため。}}
== 概要 ==
英語のdigitalは[[形容詞]]で、[[語源]]は[[ラテン語]]の「digitus」(ディジトゥス、「[[指]]」の意)であり、それがラテン語の中で「digitalis」(ディジタリス)という形に変化し、それが[[15世紀]]なかばに英語に入り「digital」となり「10より小さい数を指に関連付ける(指に関連づけて数える)」という意味になり、1650年代に「指に関連づける(指に関連づけて数える)」という意味になった<ref name="etymoline">[https://www.etymonline.com/word/digital]</ref>。「digital」が「『(10より小さい)数』を使っている〜」という意味の形容詞として使われるようになったのは[[1938年]]以降のことであり、特に、1945年以降に現れた、(それまでの[[アナログコンピュータ]]と対比されるような)digit(※)方式 の(十進以外、典型的には二進方式の)コンピュータのことを形容するために使われ始めた<ref name="etymoline" />
::(※)英語の「digit」には「十進法以外、特に[[二進法]]で表現された要素」という意味がある<ref>Merriam Webster, 【digital】[https://www.merriam-webster.com/dictionary/digital]</ref>。
今日ではデジタル方式と呼ばれている装置は、1940年代前半では、まだ研究が始まって日が浅く、アナログ方式と対比しつつも「パルス(式)」という表現で形容されていた。だがエンジニアの[[ジョージ・スティビッツ]]が「パルス(式)」ではこの装置の動作プロセスが適切に表現されていないと感じ、「デジタル」と表現したほうがよいと(1942年4月に開催された科学研究開発局([[OSRD]])の部門会議に出席した後に)指摘した。こうして、「デジタル」という用語・表現が非アナログ方式のコンピュータを指すために使われるようになっていった。(なおスティビッツは電気機械式リレーをスイッチ素子として使ったブール論理デジタル回路の開発を1930年代から1940年代にかけて行った人物であり、「デジタルコンピュータの父」と呼ばれることもある人物である。)
コンピュータがデジタル方式だということは、コンピュータの[[CPU]]内(の核心部分。[[演算装置]]や[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]類)での数の表現が二進方式になっていることを意味しており<ref group="注釈">デジタルコンピュータも、種類によっては、たとえば音響処理用のコンピュータなどでは、回路群の一部に[[DSP]]などアナログ信号処理の回路を持つ場合があるので、コンピュータ内の全回路すべてがデジタル方式だけとは限らないが、一般にCPUの演算器やレジスタがデジタル方式になっていれば、たとえ一部にアナログ信号処理用のチップが含まれていても、デジタルコンピュータと呼ばれる。</ref>、1か0という値をとる[[ビット]]が有限個(※)並んだもの(ビット列)で数が表現されている。
::(※)あくまで有限個である。よくある個数は8/16/32/64のいずれかである。{{Efn|つまり8ビットコンピュータ/16ビットコンピュータ/32ビットコンピュータ/64ビットコンピュータである。デジタルコンピュータのCPUの内部では、限られた桁数でしか数を表現できない。つまり無限の桁があるような実数はCPUの内部では表現できない。無限の桁の実数を扱えないのでしかたなく代用で使う《浮動小数点》という手法や、そのデメリットについては後述。}}
<!--デジタル方式の計算機について、計算機内部での数値表現によっても分類できる。--><!--Glayhoursが書き込んだ表現「計算機の状態」は、意味不明な、ここでは不適切な表現。{{要出典範囲|一般に用いられる方式は、計算機の状態????を[[二進法|二進数]]で符号化するものである。|date=2023年6月}}-->二進数のそれぞれの桁は[[ビット]]と呼ばれ 0 または 1 の数字で表される。<!--コンピュータの[[CPU]]において、数値は有限の長さ{{efn|あるビット列が持つビットの個数を、そのビット列の「長さ」と呼ぶ。}}のビットの列として表される。-->
:{{Seealso|コンピュータの数値表現}}
デジタルコンピュータでなぜ二進法が採用されるのかという理由について、情報処理技術者の教科書に次のように説明されている。ビット列の各ビットを反転することで《1の補数》が得られ、それに1を足すと《[[2の補数]]》が得られる<ref name="Jouhou_Kihon" />。ある数と、(その数の)2の補数との加算を行うと、紙の上の計算では最上位の桁から桁上がりが起きるが、'''有限の桁しかない加算器では最上位の桁の桁上がりが無視される仕組みになっているので演算結果が0になる、という注目すべき性質がある'''<ref name="Jouhou_Kihon" />。デジタルコンピュータのCPUの演算器では、もとの数の2の補数は「0 - もとの数 = - もとの数」を意味することになる<ref name="Jouhou_Kihon" />。この性質を利用してCPU内の演算では減算 A-Bを 「A+ (-B)」と書き換えることができ、さらに「A+ (Bの2の補数)」と書き換えることができる。つまり'''負数に2の補数を使うことで、減算という作業を加算と同様に処理できることになり、演算回路を単純なもので済ますことができる'''<ref name="Jouhou_Kihon" />。
二進数方式でCPUが動いているデジタルコンピュータは(最初から二進数で入力し、演算し、二進数を出力することもできるが)十進法の数を扱う場合は、一旦、その十進数を二進数へと変換する基数変換を行っている<ref name="Jouhou_Kihon">『基本情報技術者 標準教科書』オーム社、第1章「基礎理論」</ref>。これらの基数変換は例えば、[[キーボード]]から数値を入力する際や、人間のために計算結果を十進で表示する際に行われる。
有限の長さのビット列を扱う場合、算術演算の結果がそのビット列の長さに収まらないことがある([[算術オーバーフロー]])。
<!--
=== 補数による負数の表示 ===
{{see also|補数|2の補数|1の補数|符号付数値表現}}
{{要出典範囲|各ビットを二進数の位の値と見た場合、ビット列は非負の数に対応づけられる。しかし一般的な算術演算においては例えば[[減法|減算]]を実行するために負の数の表現が必要となる。負の数を表現する方法は複数提案されているが、一般的に用いられている方法は[[2の補数|2の補数表現]]である。([[算術オーバーフロー]]の扱いを考慮しなければ)有限個のビット列同士の算術は[[合同算術]]として扱える。そのため、[[補数]]を用いて負の数を表すことが可能である。2の[[冪乗|冪]]に対する補数を[[2の補数]]という。2の補数の二進表示は元の数値を表すビット列を反転(ビット毎の否定演算)して 1 を足したものとして得られる。|date=2023年6月}}
{{要出典範囲|
補数表現において、減算 {{math2|''x'' − ''y''}} は補数計算 {{math2|−''y''}} と[[加法|加算]] {{math2|''x'' + (− ''y'')}} の一連の処理として扱える。加算の結果が補数表現になっているためには、2の補数表現の場合、(ビット列の長さを {{mvar|n}} として)結果を {{math2|2{{sup|''n''}}}} で割った余りを求める必要がある。これは結局、[[最上位ビット]]からのキャリーを無視することで行える。一方、[[1の補数|1の補数表現]]の場合、{{math2|2{{sup|''n''}} − 1}} の剰余を求める必要がある。これは結局、最上位ビットからのキャリーを最下位ビットに足すことで行える。従って、2の補数表現の算術は符号なしの算術と同様に行えるが、1の補数表現では最上位ビットからのキャリーに関して符号なしの算術と扱いが異なる。回路設計の観点では、2の補数表現を用いれば、符号なしと符号付きの算術で同じ[[加算器]]を使うことができ回路を単純化できるという利点がある。|date=2023年6月}}
-->
<!--
語義ではなく、概念そのものであり、肝心のことなので、概要の出だしで説明すべき。
== 語義 ==
[[英語]]の[[形容詞]] {{en|digital}} あるいは {{en|digitalle}} は、[[語源]]は(手足の)[[指]]を意味する[[ラテン語]] {{la|digitus}} の形容詞形 {{la|digitālis}} である。英語において {{en|digital}} という語は、[[15世紀]]半ばに「10未満の整数に関する」という意味で使われ始め、1650年代には「手指に関する」という意味でも使われるようになった<ref name="etymoline">[https://www.etymonline.com/word/digital]</ref><ref>Merriam Webster, 【digital】[https://www.merriam-webster.com/dictionary/digital]</ref>。
また {{en|digital}} は1938年頃から「数値を用いた」という意味で用いられるようになり、1945年前後には([[アナログ計算機]]に対比して)数値化されたデータを扱う[[計算機]](デジタルコンピュータ)に関することの形容に用いられるようになった<ref name="etymoline" />。
-->
== 特徴 ==
;ノイズの影響を受けにくい
アナログ方式と比べて、デジタルデータは[[ノイズ]]の影響を受けにくい、という特徴がある<ref>増井敏克『エンジニアが生き残るためのテクノロジーの授業 変化に強い人材になれる技術と考え方』2016、p.87</ref><ref>[https://www.aps-web.jp/blog/85040/]</ref>。
デジタルデータの伝送や記録・再生などを行う場合、デジタル量もアナログ量と同様に[[電圧]]・[[電流]]などの[[電気信号]]に置き換えて取り扱われるが、外乱が生じて信号に[[ノイズ (電子工学)|ノイズ]]が混入した場合、アナログ処理では特別な処理を行わない限り信号に混じったノイズを取り除くことが困難であるが、これに対し、デジタル処理では、数値は飛び飛びで離散しており、中間値をもたないので、ノイズによって生じた誤差が一定量以下ならばそれを無視することで、元のデータが保たれる。この数値は、[[六進法|六進数]]や[[十進法|十進数]]のような「[[素因数]]が複数」の記数法でも適用でき、データが整数表現の場合、1がノイズによって0.8<sub>(10)</sub>(=[[4/5]])や0.4<sub>(6)</sub>(=[[2/3]])や1.2(十進数だと6/[[5]]、六進数だと4/[[3]])に変化しても1と扱う回路を用意しておけば良い。
実際の記録・伝送などでは上述の範囲を越えるノイズが混入する場合がある(例えば、1が0.4<sub>(10)</sub>(=[[2/5]])や0.2<sub>(6)</sub>(=[[1/3]])、または1.6<sub>(10)</sub>(=8/5)や1.4<sub>(6)</sub>(=5/3)に変化すると、異なる値0または2となる)が、デジタルコンピュータでは、そのような場合でも誤りを検出する手法が発明されており、データを予め[[誤り訂正|誤り訂正符号]]などを使って[[冗長化]]しておくと、それを使い逆算して補正したり、補正出来ない場合は無視したり、誤りの発生を検出して再送を要求したりすることができ、信頼性の高い伝送や再生を行うことができる。
;誤差
なお「デジタルコンピュータなら、いつでも計算が正確」と思うのは幻想でしかない<ref name="Kyokasho_Gosa">『2020年版 基本情報技術者 標準教科書』(オーム社)pp.024-025,「誤差」の章</ref><ref name="code_na_hanashi">[[まつもとゆきひろ]]著『まつもとゆきひろ コードの世界』日経BP、2009年。p.241</ref>{{Efn|出典の「まつもとゆきひろ」氏が指摘していることは、情報技術者の教科書の第一章の「誤差」の章に書かれていることと基本的に同じである。つまり、コンピュータで計算を行おうとする人なら誰でも当然知っておくべき知識、誰でも注意すべきことを説明している。「まつもとゆきひろ」氏の経歴は筑波大学第三学群情報学類卒業。1993年にオブジェクト指向スクリプト言語Rubyの開発に着手し1995年に公開。その後、ネットワーク応用通信研究所のフェロー、'''楽天技術研究所のフェロー'''。「まつもとゆきひろ」氏は、世界的に有名なプログラミング言語[[Ruby]]の開発者である。Ruby自体を開発した人である。(くれぐれも、「Rubyを使うプログラマ」や「Rubyでありきたりのプログラムを書いている人」という意味ではない。)プログラミング言語が内部で行っている処理(数値演算も含む)について、高度な知識、詳細な知識を持っている人物である。}}。特に[[浮動小数点]]方式で演算する場合は誤差が生じるということには注意を払う必要があり、数値が表現可能な数値範囲を超えてしまう可能性にも十分に用心する必要がある<ref name="code_na_hanashi" />。分かりやすい出来事を紹介すると、たとえば1991年、アメリカ軍の[[パトリオットミサイル]]は時間計算の誤差が原因で誤作動して死者が出てしまったし<ref name="code_na_hanashi" />、欧州宇宙機構の[[アリアン5|アリアン5型]]ロケットなどは1996年の打ち上げ時にわずか40秒で爆発し、このロケットのために費やした10年の歳月および70億ドルの開発費および搭載した5億ドル相当の装置が失われてしまった<ref name="code_na_hanashi" />。アリアン5型の爆発の直接の原因は、慣性基準装置(IRS)のソフトウェアが水平方向の速度を表現する64ビット浮動小数点数を16ビット整数に変換したため、16ビット整数の最大値である32768を越えてしまい変換に失敗したことであった<ref name="code_na_hanashi" />。
特に浮動小数点方式で非常に近い2つの実数の引き算を行うと、有効桁がひどく損なわれて非常に大きい誤差が発生することがある<ref name="TMU_kougaku">[https://www.comp.tmu.ac.jp/shintani/classes/information_processing_2/integration_1/errors.html 首都大学東京(東京都立大学)、海岸・海洋工学研究室、新谷「数値計算における誤差」] 「桁落ち」の節を参照のこと。</ref>。たとえば32ビット(単精度)の状態で2つの近い実数の引き算をさせると、数学的に正しい値とは'''約20%も計算値がズレることがある'''<ref name="TMU_kougaku" />。{{Efn|しばしば、公式など普通の数式に書かれている普通の順に計算すると桁落ちが生じ、有効桁数が著しく減少する。[[プログラミング]]<!--(コーディング)-->の段階で常に注意深く、桁落ちが起きる、桁落ちが起きる、と意識しつづけて、計算の順番を不自然なまでに入れ替えないと防げない。}}
また最小値に近い数値を扱っていないかどうかにも注意を払う必要がある。
デジタル処理では、定義された最大値を超えた場合には[[算術オーバーフロー|桁溢れ]](オーバーフロー)となり、以後の演算処理の結果は保証されない。また、最小値に近い数値では[[量子化誤差]]が無視できず、S/N比の劣化として現れることがある。{{Efn|一方、アナログ処理の媒体(磁気テープ、供給電圧や電線など)は材料のバラツキや製造上の品質管理の都合上、仕様より高めの限界値で製造される(例えば全ての部品のばらつきが低い方向に振れても仕様を満たす設計の場合、同じ条件で高い方向に振れた場合は仕様より高めの限界値となる。)。また、電線などの伝送路も汎用品を使った場合は過剰に仕様より高い限界値を持っている。このため、入力が仕様より超過した場合、少しの超過では影響が少なく、媒体の真の限界値を超えると過大な影響がある。}}
<!--
{{要出典範囲|同じ情報を圧縮せずに送る場合、アナログに比べデジタルの方が帯域幅を必要とする。ただし、デジタル処理の場合は圧縮や多重化が効率よく行われるため、実用する場合はアナログより必要な帯域幅が狭い。|date=2023年3月}} -->
:{{Seealso|コンピュータの数値表現#誤差}}
== 固定小数点数と浮動小数点数 ==
{{main|固定小数点数|浮動小数点数}}
デジタルコンピュータで小数点数([[小数点]]がついているような数)を表現する方法としては、[[固定小数点|固定小数点表示]] / [[不動小数点|浮動小数点表示]] という2つの方法がある<ref name="Jouhou_Kihon" />。
固定小数点方式では、数値の整数部と小数部をそれぞれビット列の一部で表す。整数部および小数部のビット列の長さは固定されているため、[[小数点]]が固定された数値表現といえる。浮動小数点方式は、数値を仮数部と指数部に分けて表す。浮動小数点方式では、小数点の位置は指数部の値によって変わる。
固定小数点方式は、浮動小数点方式と比較して、大きな数値や小さな数値の表現には向かず[[算術オーバーフロー]]も生じやすいという欠点がある。その一方で、情報落ちによる誤差は発生しにくい、演算が浮動小数点よりも高速という利点がある<ref name="Jouhou_Kihon" />。
浮動小数点方式は、固定小数点方式と比較して、大きな数値や小さな数値も表現できる。他方、桁落ちによる誤差が発生する欠点がある<ref name="Jouhou_Kihon" />。(浮動小数点方式で計算すると20%もの誤差を生じることがあり、深刻な事故の原因にもなることは[[#特徴]]の節で説明した。)
== デジタルデータへの変換 ==
音声や画像のような本来連続的な対象をデジタルコンピュータで扱う場合、入力信号に対して[[標本化]]および量子化<!-- [[量子化]] は曖昧さ回避ページ -->と呼ばれる処理を行い、その特徴量を数値化する。入力データを適当な区分に分割し、各区分の代表点を取る操作を標本化という。標本化によって得られる代表点は連続的な値をとるため、代表点の値が収まるような区間で離散化する必要がある。代表点の値を離散的な数値に対応する操作を量子化という。
原信号に対する忠実度は標本化のサンプリングレートと量子化のステップ幅およびステップ数に依存する。デジタル化された信号は、サンプリングレートが高いほど、またステップ幅が小さいほど原信号に対して忠実である。一方、[[データ圧縮]]の観点では、必要最低限の忠実さを保ちつつより低いサンプリングレート、より少ないステップ数で符号化することが求められる。
[[マイクロコントローラ]]の中には外部からのアナログ入力(電圧の連続的な変化)を受け付ける入力ピンをいくつか備えているものもあり、それだとアナログ値をデジタル値に変換することができる。また[[デジタルシグナルプロセッサ]]もアナログ信号をデジタル信号に変換する役割を担う。
== デジタル処理 ==
=== デジタル化処理 ===
{{Main|デジタイズ}}アナログデータをデジタルデータに変換することを「デジタル化する」、「デジタイズする」などという。
=== デジタル処理 ===
デジタルデータをそのまま扱う場合(単純なリニアサンプリング)について述べる。
実際のデジタル処理では、[[二進法|二進数]]1桁を[[ビット]]とし、8ビットなどのまとまった単位を[[8ビット|オクテット]]または[[バイト (情報)|バイト]]として取り扱い、さらにそのまとまりを[[ワード]]という単位として取り扱うことが多い。これは処理装置や記憶装置の語長に合わせて効率よく使えるようにするためである。
== 片仮名表記 ==
英単語 {{en|digital}} の[[音写]]として一般に「デジタル」と「ディジタル」の二通りの表記が用いられる。
例えば[[日本産業規格]] (JIS X 0001, JIS X 0005) などでは「ディジタル」という表記が用いられている(「ディジタル計算機」「ディジタル化する」「ディジタルデータ」など)。
「ディジタル」や「デジタル」の間で表記が揺れた要因として、[[1955年]]に[[文部省]]が発行した『国語シリーズ27 外来語の表記 資料集』の影響が考えられる。同資料ででは次のように説明していた。
{{Quotation|
11.原音における「ティ」「ディ」の音は、なるべく「チ」「ジ」と書く。<br />
例 (中略)... <!-- チーム(team) チンキ(tinc[tuur])--> ラジオ(radio) ジレンマ(dilemma)<br />
ただし、原音の意識がなお残っているものは、「ティ」「ディ」と書いてもよい。
}}
この資料集は実際には規則ではなくあくまで現状整理という位置付けだったようだが同年版の『記者ハンドブック』([[共同通信社]])の外来語の書き方の欄などメディア関係者が参照する資料に文部省資料集の主要な記述がそのまま転載され、事実上のガイドラインとなっていた<ref name="denfami">{{Cite news|date=2020-10-08|title=「ゲーム」はいつから当たり前に「テレビゲーム」などを指すようになった? 「デジタルゲーム」という言葉の歴史から調べてみた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/201008a |accessdate=2020-10-30 }}</ref>。
時代が下って1980年代に入るころには[[洋楽]]視聴などさまざまな経路を通じて日本人が外国語の発音を直接耳にする機会が増えた影響か、1981年の『記者ハンドブック』第4版では「原音のティ、ディ、テュ、デュで慣用が定まっている場合はチ、ジ、チュ、ジュで書く」となっているのは、逆に言うと、新しく使われるようになった外来語では「ティ」や「ディ」などと原音に沿った書き方をするのが主流だと認めているということでもある<ref name="denfami" />。
<!--学術分野では1955年版の文部省資料のガイドラインのほうの影響はあまり強くなく、-->1960年代から1970年代の専門書ではディジタル表記が圧倒的に使われていた。1960年代の一般紙では最先端の技術だった電子計算機は「ディジタル型」「ディジタル電子計算機」と書かれ、事実上のガイドラインがあっても1つの表記以外をあまり確認できなければ新聞も倣ったとみられる<ref name="denfami" />。
だが、一般人が使う慣用的表記としては「デジタル」が1970年代末までに定まり、現在ではそちらが使われ続けている<ref name="denfami" />。
「デジタル」という表記が広まった理由の1つは時計の[[広告]]であり、1965年の[[東京時計製造]]の[[パタパタ時計]]の新聞広告には「東京デジタル」とあり、1968年に[[ソニー]]が「デジタル24」という名称のパタパタ時計式の時計ラジオ一体型製品を発売。どうやらメディアで広く宣伝するために1955年の文部省資料のガイドラインに沿った表記にしたと見られる<ref name="denfami" />。1970年代後半にはデジタル腕時計のブームで広告には「デジタル」の文字が踊り、1978年に[[カシオ計算機]]が[[山口百恵]]を起用したCMで山口が歌う「デジタルはカシオ」のフレーズが流行し、この結果、学術分野以外ではデジタルの語で急速に固まった<ref name="denfami" />。
[[広辞苑]]第三版(1983年)及び第四版(1991年)はデジタルがディジタルを参照させるようになっていたが、逆になったのは1998年の第五版であった<ref name="denfami" />。
なお、上述の複雑な経緯により「[[デジタルネイティブ]]」のような異なる時期の表記法が同居している複合的な外来語も出てきた<ref name="denfami" />。(「デジタル」のほうは原音から離れた表記だが、「ネイティブ」のほうは1980年代以降に1955年版資料のガイドラインの影響を受けずに原音に沿った音で広まった外来語である<ref name="denfami" />)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[アナログ]]
*[[信号処理]]
*[[データ]]
*[[符号化方式]]
*[[情報理論]]
*[[誤差]]
*[[誤り訂正]]
*[[デジタル技術検定]]
*[[デジタルアート]]
*[[デジタイズ]]
*[[デジタル制御]]
*[[デジタルジレンマ]]
*[[デジタル (麻雀)]]
{{DEFAULTSORT:てしたる}}
[[Category:デジタル技術|*]]
[[Category:計算機工学]]
[[Category:情報技術]]
[[Category:符号理論]]
[[Category:信号処理]]
[[Category:電子媒体]] | 2003-03-04T09:36:40Z | 2023-11-02T12:04:36Z | false | false | false | [
"Template:Copyrights",
"Template:Lang-en-short",
"Template:En",
"Template:Sakujo/本体",
"Template:Otheruses",
"Template:IPA-en",
"Template:Efn",
"Template:Seealso",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
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"Template:Cite news"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB |
3,370 | 周期的境界条件 | 周期的境界条件(しゅうきてききょうかいじょうけん、英語: periodic boundary condition, PBC)は、境界条件の一つ。周期境界条件とも言う。
1次元の場合、定義域の幅 L {\displaystyle L} の関数 f {\displaystyle f} が周期的境界条件を持っているならば、
である。
周期的境界条件はしばしば並進対称性をもつ系を考察する場合に用いられる。
例えば単位胞の大きさが a {\displaystyle a} 、系の大きさが L {\displaystyle L} である1次元の結晶を考える場合に、波動関数 Ψ {\displaystyle \Psi } に対して次のような境界条件が課せられる。
この時 L {\displaystyle L} は a {\displaystyle a} の整数倍で無くてはならない。これをボルン=フォン・カルマン境界条件という。
周期的境界条件を課すことで、波動関数を L {\displaystyle L} の間で自乗可積分にすることができるため規格化できるようになる。
このような人工的な境界条件の設定は表面での関数に対する拘束が、考察の対象である関数の大域的な性質に寄与しないであろうと考えられる場合によく用いられる。 そのような仮定は L → ∞ {\displaystyle L\rightarrow \infty } の極限の考察と組み合わせられることが多い。
一般の次元Nに対しては、線形独立なN個のベクトル L 1 , L 2 , ... , L N {\displaystyle {\boldsymbol {L}}_{1},{\boldsymbol {L}}_{2},\dots ,{\boldsymbol {L}}_{N}} を用いて、 L 1 , L 2 , ... , L N {\displaystyle {\boldsymbol {L}}_{1},{\boldsymbol {L}}_{2},\dots ,{\boldsymbol {L}}_{N}} がなす胞を定義域とする関数 g ( x ) {\displaystyle g({\boldsymbol {x}})} に対する周期境界条件は
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] | 周期的境界条件は、境界条件の一つ。周期境界条件とも言う。 | {{出典の明記|date=2014年12月}}
'''周期的境界条件'''(しゅうきてききょうかいじょうけん、{{lang-en|periodic boundary condition, PBC}})は、[[境界条件]]の一つ。'''周期境界条件'''とも言う。
== 1次元の場合 ==
1次元の場合、定義域の幅<math>L</math>の関数<math>f</math>が周期的境界条件を持っているならば、
:<math>f(x)=f(x+L)</math>
である。
=== 結晶の例 ===
周期的境界条件はしばしば並進対称性をもつ系を考察する場合に用いられる。
例えば単位胞の大きさが<math>a</math>、系の大きさが<math>L</math>である1次元の結晶を考える場合に、波動関数<math>\Psi</math>に対して次のような境界条件が課せられる。
:<math>\Psi(x)=\Psi(x+L)</math>
この時<math>L</math>は<math>a</math>の整数倍で無くてはならない。これを[[ボルン=フォン・カルマン境界条件]]という。
:<math>L=na\quad(n=1,2,\dots)</math>
周期的境界条件を課すことで、波動関数を<math>L</math>の間で[[自乗可積分]]にすることができるため[[規格化]]できるようになることがある。
このような人工的な境界条件の設定は表面での関数に対する拘束が、考察の対象である関数の大域的な性質に寄与しないであろうと考えられる場合によく用いられる。
そのような仮定は<math>L\rightarrow \infty</math>の極限の考察と組み合わせられることが多い。
== N次元の場合 ==
一般の次元Nに対しては、線形独立なN個のベクトル<math>\boldsymbol{L}_1, \boldsymbol{L}_2, \dots, \boldsymbol{L}_N</math>を用いて、
<math>\boldsymbol{L}_1, \boldsymbol{L}_2, \dots, \boldsymbol{L}_N</math>がなす胞を定義域とする関数<math>g(\boldsymbol{x})</math>に対する周期境界条件は
:<math>g(\boldsymbol{x})=g(\boldsymbol{x}+\boldsymbol{L}_1)=g(\boldsymbol{x}+\boldsymbol{L}_2)=\dotsb=g(\boldsymbol{x}+\boldsymbol{L}_N)</math>
のように表される。
この場合も基本並進ベクトルを<math>\boldsymbol{a}_1,\boldsymbol{a}_2,\dots,\boldsymbol{a}_N</math>もつ結晶を考えるのであれば、
<math>\boldsymbol{L}_1, \boldsymbol{L}_2, \dots, \boldsymbol{L}_N</math>がなす胞は
基本並進ベクトルがなす単位胞を敷き詰めることが出来なくてはならない。
==周期的境界条件が重要な計算手法==
*[[分子動力学法]]
*[[第一原理バンド計算]]
==関連用語==
*[[並進対称性]]
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[[Category:計算物理学]]
[[Category:分子動力学]]
[[Category:境界条件]] | 2003-03-04T10:12:52Z | 2023-12-19T06:10:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%9C%9F%E7%9A%84%E5%A2%83%E7%95%8C%E6%9D%A1%E4%BB%B6 |
3,372 | 音楽理論 | 音楽理論(おんがくりろん、英語:music theory)とは、音楽学の一分野で、音楽の構造や手法を理論立てて説明するもの、またその論。
西洋音楽の音楽理論のうち一般的な事柄をまとめたものを音楽通論といい、楽譜の読み書きに用いる規則をまとめたものを楽典という。
古代から中世にかけてのヨーロッパでは、音楽は自由七科の一科目として取り上げられ、文法学・修辞学・論理学などと同じように数学的・哲学的に理論立てられ説かれてきた。
歴史的に知られた音楽理論家には、音の協和を説いたピタゴラス学派や逍遙学派アリストクセノス、古代音楽理論を編纂し中世ヨーロッパにもたらしたボエティウス、旋法を説いたフクバルド(英語版)やグラレアヌス、譜表による記譜法を編み出したグイード・ダレッツォ、対位法を説いたジョゼッフォ・ツァルリーノやヨハン・ヨーゼフ・フックス、平均律を数学的に示したマラン・メルセンヌがいる。近代には機能和声を説いたジャン=フィリップ・ラモー、管弦楽法を説いたエクトル・ベルリオーズがいる。 | [
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] | 音楽理論とは、音楽学の一分野で、音楽の構造や手法を理論立てて説明するもの、またその論。 西洋音楽の音楽理論のうち一般的な事柄をまとめたものを音楽通論といい、楽譜の読み書きに用いる規則をまとめたものを楽典という。 古代から中世にかけてのヨーロッパでは、音楽は自由七科の一科目として取り上げられ、文法学・修辞学・論理学などと同じように数学的・哲学的に理論立てられ説かれてきた。 歴史的に知られた音楽理論家には、音の協和を説いたピタゴラス学派や逍遙学派アリストクセノス、古代音楽理論を編纂し中世ヨーロッパにもたらしたボエティウス、旋法を説いたフクバルドやグラレアヌス、譜表による記譜法を編み出したグイード・ダレッツォ、対位法を説いたジョゼッフォ・ツァルリーノやヨハン・ヨーゼフ・フックス、平均律を数学的に示したマラン・メルセンヌがいる。近代には機能和声を説いたジャン=フィリップ・ラモー、管弦楽法を説いたエクトル・ベルリオーズがいる。 | {{出典の明記|date=2011年12月}}
'''音楽理論'''(おんがくりろん、[[英語]]:music theory)とは、[[音楽学]]の一分野で、[[音楽]]の構造や手法を理論立てて説明するもの、またその論。
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古代から中世にかけてのヨーロッパでは、音楽は[[リベラル・アーツ|自由七科]]の一科目として取り上げられ、文法学・修辞学・論理学などと同じように数学的・哲学的に理論立てられ説かれてきた。
歴史的に知られた音楽理論家には、音の協和を説いた[[ピタゴラス教団|ピタゴラス学派]]や[[逍遙学派]][[アリストクセノス]]、古代音楽理論を編纂し中世ヨーロッパにもたらした[[ボエティウス]]、[[旋法]]を説いた{{仮リンク|フクバルド|en|Hucbald}}や[[グラレアヌス]]、譜表による[[記譜法]]を編み出した[[グイード・ダレッツォ]]、[[対位法]]を説いた[[ジョゼッフォ・ツァルリーノ]]や[[ヨハン・ヨーゼフ・フックス]]、[[平均律]]を数学的に示した[[マラン・メルセンヌ]]がいる。近代には機能[[和声]]を説いた[[ジャン=フィリップ・ラモー]]、[[管弦楽法]]を説いた[[エクトル・ベルリオーズ]]がいる。
== 出典 ==
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<references />
== 関連項目 ==
* [[:Category:音楽理論家]]
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[[Category:音楽理論|*]] | 2003-03-04T10:19:17Z | 2023-12-04T20:26:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%90%86%E8%AB%96 |
3,373 | プリンター | プリンター(英: printer)とは、印刷用の機械の総称である。印刷機(いんさつき)などの名称でも呼ばれる。
本項では特に、コンピュータからの情報出力に用いる周辺機器としてのプリンターについて説明する。その他の印刷機械については、印刷機を参照。
プリンターは、コンピュータやワードプロセッサなどからの情報出力装置として使用される。時代や用途に応じて多種多様な方式がある。
コンピュータが登場するまでは、通信にはテレタイプが使われていた。1946年にENIACがペンシルベニア大学で制作された。演算結果を出力する必要が生じ、1947年にテレタイプを原型とした活字方式のコンピュータ用プリンターが登場し、米軍でも使用されるようになった。
1950年代から1970年代までは、活字プリンターやIBMのセレクトリックプリンター(下記)、グラフや図形を描きたい場合はプロッタなどが主に用いられていた。1970年代から1980年代半ばまでは、活字方式よりも多種類の文字を印字できるドットインパクトプリンターが主流となった。この時期のドットインパクト方式のプリンターは作動音が大きく、プリンタをまるごと覆う防音ケースなども販売されていた。また熱転写方式(感熱紙)を用いるサーマルプリンターも普及した。
1980年代半ばからは、企業向けにゼロックス社の複写機と同じ原理で細部まで印字され、音も静かなレーザープリンターが普及した。
1990年頃からインクジェットプリンターが台頭した。家庭向けには十分な性能で比較的安価であったため普及し、年賀状やグリーティングカードの印刷などに使われるようになった。当初は印字の品質や速度が低かったため企業向けとしてはさほど普及しなかったが、その後は技術の向上によりそうした欠点は改善され、2008年頃にはパソコン用プリンター出荷台数の3分の2をインクジェットプリンターが占めるまでになった。
2000年代初頭には、企業向けにはレーザープリンター、家庭向けおよび小規模オフィスではインクジェットプリンター、と棲み分けられる傾向が強まった。その後は個人向けの安価なレーザープリンターも普及した。またインクジェットプリンターは急速に低価格化が進み、2005年頃からはコピーやファクシミリ機能が搭載された複合機タイプが主流となった。
企業向けレーザープリンターは、モノクロ単機能タイプ(超高速大量印刷用や超安価印刷用など)から高機能複合機タイプまで用途に合わせた様々なタイプが販売されており、また伝票印刷ではドットインパクトプリンターも根強い需要がある。
タイプライターのように、文字ごとの字母の活字を紙に打ち付ける方式である。一般的なタイプライター同様の腕の先端に活字を植えたものや、球面に活字を植えた「IBMセレクトリックタイプライタ(英語版)方式」と呼ばれるもの、円盤に放射状に活字の植えられた腕を配置したデイジーホイールプリンター、活字を環状一列にしたベルト状のもの、円柱形のASR-33など各種の方式がある。英数字のみの文書、プログラムリストの印刷などに用いられた時期があるが、印字音が大きいという欠点があり、他のプリンターの印字品質の向上と共に使われなくなった。方式にもよるが多くの場合、活字群のセットの英数字にさらにカタカナを加えると文字数が多くなり収まらず、日本語のひらがな、カタカナさらに漢字の印字はドットインパクト方式の出現を待たなければならなかった。
活字プリンターの歴史は古く第二次大戦前からモールス符号を一旦鑽孔テープに採りそれを紙テープに印字するものから、テレックス通信(5単位ボー符号)での印刷電信としては既に第二次大戦前の1921年頃のMorkrum、テレタイプ、シーメンス、ホイートストンなどからテープ式、ページ式活字プリンターが作られた。特に1930年からのテレタイプ社製15型機はタイプバー式ページ印刷方式のもので、第二次大戦中に米軍が使用し、約20万台製造された。15型と併用された1925年からの14型機は鑽孔テープに印字もするもので 自動テープ送信のため使用され、両者が合体したものが1942年からのASR-19である(占領下GHQで最初に見られたのは1949年)。その後1951年に信頼性の高い28型機 (ASR、KSR、RO) が出現し、日本でも新聞社や放送局や商社で数台から十数台が24時間新聞電報を打ち出していた。
7単位ASCII符号を用いる1963年頃に出現したASR-33がテレタイプ社から出てからは、5単位ボー符号機は印字文字の種類の少なさから次第に使われなくなり、ASR-32とKSR-32が5単位符号機としては最後のものとされた。ASR-33はプラスチックカバーで覆われるなど、金属カバーの重厚な5単位ボー符号28型機と比較して劣るとされたが、ASCII符号のページプリンターとしては以後標準的存在であった。
プロッタあるいはプロッター(英: plotter)は、点や線を描くことを目的とした装置である。プロッタ内部で、点や線を描くべき位置を具体的にXとYの座標を算出しつつ描くため「X-Yプロッタ」とも言う。グラフや簡単な線状図形を描くのに用いられてきた歴史があり、設計図を描くためにも盛んに用いられてきた。当初は様々な制御方式があったが、次第にHP-GLのような図形処理言語を用いて制御するようになった。
プロッタ以外には活字プリンターやドットマトリクスプリンタしかなかった時代には、プロッタは綺麗な線を描画できるほとんど唯一の機器であり、図面出力用機器の標準として使用されていたが、1990年代後半頃からは次第に大型インクジェットプリンターなどに置き換えられ、現在では特殊な用途以外は使われなくなっている。
描画にボールペンやインクペン、シャープペンシルなどを記録紙に相対的に移動して作図するものを「ペンプロッタ」と呼び、ペンを使わずラスター描画するものを「ペンレスプロッタ」と呼ぶ。
ペンプロッタには、記録紙を平らな台に固定し、ペンを縦横に移動する「フラットベッド型」の他に、両端に連続穴の開いた記録紙をスプロケットの付いたドラムで移動する「ドラム型」、記録紙を上下からローラーに挟み、摩擦で移動する「ペーパームービング型」といった形式がある。いずれもペンを上下させながら記録紙に対して物理的に相対移動して作図するので、時間がかかる、動作音が大きい、使用するペンの種類によってはペン先が磨耗して線幅が安定しない、といった欠点があった。
ペンレスプロッタには、「インクジェットプロッタ」、「感熱式プロッタ」、「静電プロッタ」、「レーザープロッタ」、「LEDプロッタ」がある。ペンレスプロッタは、ペンプロッタの置き換え用として開発されてきたが、印刷機構的には通常のプリンターと全く同じであり、HP-GLなどペンプロッタと共通の制御コマンドを使用できることによって通常のプリンターとの差別化がされていた。Windowsの普及やプリンタードライバの進歩によって、図面出力において制御コマンドを意識する必要がなくなり、ペンレスプロッタという分類自体ほぼ消滅した。
なお、プロッタの基本構造はそのままに、ペンの部分をカッター(刃物)に置き換えた、「カッティングプロッタ」がある。カッティングプロッタは「印刷機」というよりもむしろ「加工機」に分類される機械であり、主にカッティングシート等を切り抜くことを目的として用いられ、看板や自動車やバイクのボディーに貼る文字や図形の作成や、衣料用型紙の作成など、業務用分野で今も盛んに使用されている。またメイカームーブメントが盛り上がるとともに、DIYや自作のための道具、シート状のものを加工するための道具として、3Dプリンタと同様に2010年代に個人にも再注目されるようになった。
テープに塗布されたインクを熱によって対象物に転写する方式で、主に熱溶融形と昇華型とに大別される。
テープに塗布されたインクを熱で融かし、紙などの対象物に転写する。一般家庭にパーソナルコンピュータが入り始めた時代には安価な家庭用プリンターとして使われた。その後、ワープロ専用機、小型ファクシミリ (FAX)、ラベルプリンター、航空チケット印刷などに使われている。また。デカールの印刷によく使われる。
日本では、マルスシステムによる切符類や(国内)航空システムにおけるチケット発行プリンターに長らく使用されていたが、前者は2色感熱紙の開発および低コスト化、後者はシステムの省スペース・省コスト化などの理由から感熱式に移行されてつつある。
顔料インクを用いるため、耐水性および耐候性に優れるが、カラー印刷の場合色の数だけ同じ手順を繰り返す必要があり色数が増す毎に印刷に要する時間が長くなり、複数回の紙送りを繰り返すため色ズレが発生しやすいという短所がある。インクリボンを装着せずに感熱式プリンターとして感熱紙に印刷できるものもある。
インクリボンを使うタイプでは、インクリボンに印刷した内容が残るため、印刷した証拠(ジャーナル)として活用できる反面、情報漏洩の原因になることもある。
インクに熱を加えて昇華させる方式で、熱量を細かく制御することでインク量の調節ができるため、写真に近い画質を得ることが可能である。DTP用や、フォトプリンター、ビデオプリンターがある。原理上染料インクが使われるために熱溶融形よりも耐水性、耐光性において劣るが、近年の昇華型インクにはラミネーションを施すことにより耐水性・耐光性を高めたものが主流となっている。
加熱で変色する特殊な用紙(感熱紙)に印刷するための装置で、かつてはファクシミリの出力用に感熱ロール紙として広く使われていた。現在でも家庭用FAXやレシートに多いが、耐薬品性に乏しく、また、時間の経過により自然に変色や褪色を起こすという感熱紙の性質のために、長期保存に向かない。
顕色剤を内包した感熱性マイクロカプセルを使用する感熱紙もあり、サーマルヘッドの熱量に応じた濃度の顕色剤を放出し、紫外線でジアゾニウム塩を分解することにより定着する。フルカラーの可能なサーモオートクロームやZINKがある。
導電性の加工を施した専用紙(放電破壊紙)の表層を放電で破壊することで印刷する方式である。
サイカラーが開発した方式で光重合樹脂で出来たマイクロカプセルの内部に顕色剤が入っており、露光することにより硬化し、加圧する事で未露光部の内部の顕色剤が放出され発色する。感光波長の異なる光重合樹脂をYMCにそれぞれ使用することでフルカラーの表示ができる。
縦横に並べたドットに対応する細いピン(=針状金属)を、紙の上に配置されたインクリボン(=インクを吸わせた帯)に叩き付けて(インパクトして)印刷する仕組みである。この方式は、複写用紙への重ね印刷が可能なほぼ唯一の方式であり、完全に同一の文章を一度に打ち出すことができる。印字するインクリボンの色を切り替える機構を持つことで多色印字が可能な機種も登場した。
この方式が登場して数十年間ずっと「ドットマトリクス・プリンター」と呼ばれていたが、1990年代にインクジェット方式が登場・普及し、その方式もやはり「点のマトリクス」で文字を表現していたので、「ドットマトリクス」の呼称が正確でなくなり、旧来のインパクト式ドットマトリクス式プリンターを区別して呼ぶため、レトロニムとして「ドットインパクト式プリンタ」「ドットマトリクス・インパクト・プリンタ」などと呼ばれるようになった。
打撃に用いるワイヤピンは、磁気アクチュエータにより高速で駆動される。ワイヤピンは極力平坦な切断面でなければならないため、高出力レーザーによる切断加工が施されている。このプリントヘッドには、釈放型と吸引型がある。
初期のものでは1文字あたり8ピン (48 dpi (dots per inch)、最大では48ピン (360 dpi) 程度のものまであった。PC-8822などの16ピン仕様の製品が登場してからは、漢字の印刷が現実的となった。PC-8801からPC-8822へ漢字の「漢字」という文字の印刷は、BASICコマンドにおいてLPRINT chr$(27)+"K" +chr$(&H34)+chr$(&H41) +chr$(&H3b)+chr$(&H7a) +chr$(27)+"H"<改行>とすることで印刷することができた。現在は24ピン (180 dpi) がほとんどである。
かつては事務用から家庭用まで広く使われた。だがドットを構成するピンを叩きつける構造のため作動音が大きく、高精細化にも限界があり、ほとんどの用途で他の方式(主に家庭用はインクジェットプリンター、業務用はレーザープリンター)に置き換えられた。その後はプリンターとしては、ATMなどでの記帳や複写用紙(ノーカーボン紙等)への重ね印刷に用いられる用途がほとんどである。
しかし、他の方式のプリンターと比較して電力消費が少なく、またこの方式に用いるインクリボンは乾燥に強いという利点がある。そのため待機時間を含めた長時間作動での維持負担が少ないという利点があり、アラーム記録(これは連続紙を利用するという点も大きい)、アナログ式のタイムレコーダーや各種測定器など、時間計測に用いる場合は重宝される。
一般的には「レーザープリンター」として知られる。帯電させた感光体にレーザー光などを照射し顔料粉末(トナー)を付着させ、用紙に転写した上で熱や圧力をかけて定着させる方式であり、これは「静電写真」や「ゼログラフィー」とも呼ばれる。
原理としては乾式の複写機とほぼ同じである。感光体は通常、ドラム状で、この表面を光で走査しつつ回転させ印刷を行う。感光体への書き込み光源としては、レーザー光源だけでなく、発光ダイオード (LED) を用いることも可能であり、この場合には「LEDプリンター」と呼ばれる。
消耗品である感光ドラムの耐久性を、トナーの補充頻度に見合う程度にまで下げ、ドラムとトナーとを一体の部品として交換する方式が主流である。その一方で、ドラムの耐久性を高め、トナー容器のみの交換が可能な設計とすることで運用経費の低減を図る動きも見られる。
用途としては、主に業務用で利用される。業務用の複合機(複写機+プリンター+ファクシミリ+イメージスキャナ)は、この方式が多い。
この方式のプリンターは他の方式と比べて構造が複雑で、部品にもより高い品質が要求されるため、製造コストが高くつく。そのためかつては高価な製品であったが、急速に価格の低廉化が進んでおり、個人用としても普及している。
この仕組みによるフルカラー印刷には、タンデム方式と4サイクル方式がある。
インクジェット方式とは、主に液状、時に固体のインクを微粒子化し、加圧や加熱などにより微細孔から射出させる方式で、近年、噴射孔の極微細化が著しく、このために高精細な印刷結果が得られるようになっている。また、他の方式と比して多色化が容易で、多いものでは12種類のインキを使用し、微細噴射孔とも相俟って銀塩写真並みの高画質が実現されている。現在の一般家庭向けカラープリンターの主流となっている。
小型のものは、家庭用や小規模なオフィス用として利用される。家庭あるいは小規模なオフィス用の廉価版複合機(複写機+プリンター+ファクシミリ+イメージスキャナ)も、この方式が多い。また、大型のものでは、1,000ミリメートル幅を超える大判用紙への印刷のできるものまであり、XYプロッタからの置き換えや、巨大なグラフィック・アート作成への応用などが進んでいる。
ほとんどの機種で使用するインクは水性インキであり、一般論としては耐水性に乏しい。技術的には染料系、顔料系どちらのインキも可能であるが、全般的には染料系インキが多い。一般的に染料系は演色性に優れ、顔料系は耐光性に優れるといわれるが、近年ではその差は僅かなものとされている。また、顔料系の方が紙表面でインキがにじみにくいので、特にモノクロ印刷では高精細化に向くといわれる。業務用としては、耐候性に優れた溶剤系のインキを使用する機種も存在する。
点字プリンターとは、様々な方式により点字を紙(点字用の専用紙である場合が多い)に出力することができるプリンターのことである。
従来、点字器などを使用して、点字を1文字(6つの点で一組)ずつ紙に作り出していた作業(点字を専用紙に点筆(鉄筆状の器具)で打つ。表に出っ張った点がでる)を、コンピューターを使用することで手軽に点字訳および点字書籍を作れるようになった。具体的には、ワープロで作ったテキスト文を点訳ソフトで変換し、点字プリンターへ出力と言う流れであるが、従来より極めて短時間で紙へ出力できるようになった。
印刷方式は、ハンマードット方式と呼ばれる方式や、特殊インク(印字すると点字の凸の形にインクが膨らむ)を使用するものや、3Dプリンターの技術を応用したものなど様々な方式が有る、一番一般的なハンマードット方式の場合、ドットインパクトプリンターのようにピンで専用用紙を叩いて凸をつけて点字を作る。
また、用紙の種類も連続用紙に点字を打っていくものと、単票ずつ印字していくものがあり、一般には片面印字のみのものが多いが、両面印刷ができるものもあり、両面印字の方式には表頁の行間の裏面に打っていくものと、表面の点字の文字間に裏面の点字が打たれていくものなど、さまざまなものが発売されている。
叩いて打っていく方式のため、印字時の騒音が激しく、防音室や防音ボックスが必要なほどの製品も存在する。
1文字の印字指令が来るたびに現在の印字ヘッド位置に印刷する方式。
一般的には、「改行(または復帰改行)指令を受信するまで印字バッファーに蓄積し、行単位で印刷を行うことにより印字を高速化する」#インパクトプリンターを用いた方式。メカニズム的には、「ドットインパクトプリンターやインクジェットプリンターも、シリアルプリンター方式である」と言える。ASR-33など、活字方式プリンターをキーボードと組み合わせた端末で一般的な方式。
技術開発により、
などの機能が追加されている。
左右に高速移動するピンを数十個配置し、インパクトにより、同時に多くの文字を印刷する方式。
1行文字数分の印字ヘッドを並列に備え、一回の印字動作で1行分を同時に印字できるインパクトプリンターのことを指す。
印字ヘッドを高速で循環させて適切な字母が、適切な行位置を通過する際にハンマーで叩くことで印字する。ピン全体(ハンマバンクと称される)が左右に移動することにより文字が形成されていく。そのため、毎分数百行の印字が可能である。複写を要する物で、大量に印刷を行う際などに使用される。
字母の数に制限があり、開発当初は事実上ASCII文字とカナ文字程度しか印字できなかった。(もっとも、現在では改良され漢字印刷に耐える機種もある。詳しくは下記「日本語ラインプリンター」を参照。)
印字時に「ガシャガシャ」とハンマー音がする機種が多い。また、この騒音が比較的大きい。これを防ぐため、設計上、装置全体が箱で囲まれたような構造になっていたり、防音カバーを備えているのが一般的。
印刷ヘッドが高速で往復するインクジェットプリンターも、動作の上ではラインプリンターの一種である。
ラインプリンターと比較し、漢字が印字できることから「漢字ラインプリンター (KLP) 」とも呼ばれる。
ページプリンターは1ページ単位をまとめて印刷するプリンター。一般に乾式コピー技術を用い、光源にレーザーが使われることが多かったため、レーザープリンターと呼ばれている。
連続帳票を用いることができず、単票のみ印刷可能なプリンターは皆ページプリンター方式と呼ばれている。高速で静かな動作音であるが、装置やメンテナンス費用はやや高価。カラーページプリンターもある。
印字速度は、プリンター内部でのイメージ展開の性能に依存する割合が大きい。文字中心であれば短時間で出力されるが、イメージ画像を出力する場合は多くの時間がかかる。値段の高いものではイメージ展開を行うマイコンチップを高性能化して、高速で出力できるようになっている。その他、定着機構の性能も印字速度に影響する。
一般に、高速に印字しようとすると用紙の定着器通過時間が短くなるため、定着器をより高い温度に維持する必要があり、きめ細かな制御が必要となる。
連続したネガフィルムまたはポジフィルムに直接、レーザー光を当てて印字する物。レーザー光で感光した後は現像作業が必要になる。主に新聞社で使用されている。また、輪転機用の版の作成にも使用される。
ユニバーサル・シリアル・バス (USB)、セントロニクス仕様(IEEE 1284 - パラレルポート)、シリアルポート (RS-232C, RS-422)、GP-IB、IEEE 1394などがある。従来はパラレルポートや、マッキントッシュではRS-422が主に使われていたが、現在はUSB接続が主流。最近は一部メーカーでは無線LANに対応した機種も存在する。
ただし業務用(オフィス環境)では、内蔵プリントサーバ機能によるネットワーク接続(TCP/IPなど)が主流となっており、共有プリンター以外でのローカル接続(PCとプリンターを1:1で直結させる方法)はあまり見られない。
また単純なネットワーク接続(TCP/IP接続)ではなく、共有プリンター形式での接続も多く用いられる。これを行うことにより、プリンターを接続したサーバPCに各種OSのドライバを一括して保持させることが可能になる。クライアントとなる他のPCはサーバPCが保持しているドライバをインストールでき、個々のPCにドライバCDを渡す必要がなくなる。つまり、ドライバ管理が非常に容易になるという利点がある。 | [
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"text": "プリンター(英: printer)とは、印刷用の機械の総称である。印刷機(いんさつき)などの名称でも呼ばれる。",
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"text": "本項では特に、コンピュータからの情報出力に用いる周辺機器としてのプリンターについて説明する。その他の印刷機械については、印刷機を参照。",
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"text": "プリンターは、コンピュータやワードプロセッサなどからの情報出力装置として使用される。時代や用途に応じて多種多様な方式がある。",
"title": "概要"
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"text": "コンピュータが登場するまでは、通信にはテレタイプが使われていた。1946年にENIACがペンシルベニア大学で制作された。演算結果を出力する必要が生じ、1947年にテレタイプを原型とした活字方式のコンピュータ用プリンターが登場し、米軍でも使用されるようになった。",
"title": "概要"
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"text": "1950年代から1970年代までは、活字プリンターやIBMのセレクトリックプリンター(下記)、グラフや図形を描きたい場合はプロッタなどが主に用いられていた。1970年代から1980年代半ばまでは、活字方式よりも多種類の文字を印字できるドットインパクトプリンターが主流となった。この時期のドットインパクト方式のプリンターは作動音が大きく、プリンタをまるごと覆う防音ケースなども販売されていた。また熱転写方式(感熱紙)を用いるサーマルプリンターも普及した。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "1980年代半ばからは、企業向けにゼロックス社の複写機と同じ原理で細部まで印字され、音も静かなレーザープリンターが普及した。",
"title": "概要"
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"text": "1990年頃からインクジェットプリンターが台頭した。家庭向けには十分な性能で比較的安価であったため普及し、年賀状やグリーティングカードの印刷などに使われるようになった。当初は印字の品質や速度が低かったため企業向けとしてはさほど普及しなかったが、その後は技術の向上によりそうした欠点は改善され、2008年頃にはパソコン用プリンター出荷台数の3分の2をインクジェットプリンターが占めるまでになった。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "2000年代初頭には、企業向けにはレーザープリンター、家庭向けおよび小規模オフィスではインクジェットプリンター、と棲み分けられる傾向が強まった。その後は個人向けの安価なレーザープリンターも普及した。またインクジェットプリンターは急速に低価格化が進み、2005年頃からはコピーやファクシミリ機能が搭載された複合機タイプが主流となった。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "企業向けレーザープリンターは、モノクロ単機能タイプ(超高速大量印刷用や超安価印刷用など)から高機能複合機タイプまで用途に合わせた様々なタイプが販売されており、また伝票印刷ではドットインパクトプリンターも根強い需要がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "タイプライターのように、文字ごとの字母の活字を紙に打ち付ける方式である。一般的なタイプライター同様の腕の先端に活字を植えたものや、球面に活字を植えた「IBMセレクトリックタイプライタ(英語版)方式」と呼ばれるもの、円盤に放射状に活字の植えられた腕を配置したデイジーホイールプリンター、活字を環状一列にしたベルト状のもの、円柱形のASR-33など各種の方式がある。英数字のみの文書、プログラムリストの印刷などに用いられた時期があるが、印字音が大きいという欠点があり、他のプリンターの印字品質の向上と共に使われなくなった。方式にもよるが多くの場合、活字群のセットの英数字にさらにカタカナを加えると文字数が多くなり収まらず、日本語のひらがな、カタカナさらに漢字の印字はドットインパクト方式の出現を待たなければならなかった。",
"title": "印字方式による区分"
},
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"text": "活字プリンターの歴史は古く第二次大戦前からモールス符号を一旦鑽孔テープに採りそれを紙テープに印字するものから、テレックス通信(5単位ボー符号)での印刷電信としては既に第二次大戦前の1921年頃のMorkrum、テレタイプ、シーメンス、ホイートストンなどからテープ式、ページ式活字プリンターが作られた。特に1930年からのテレタイプ社製15型機はタイプバー式ページ印刷方式のもので、第二次大戦中に米軍が使用し、約20万台製造された。15型と併用された1925年からの14型機は鑽孔テープに印字もするもので 自動テープ送信のため使用され、両者が合体したものが1942年からのASR-19である(占領下GHQで最初に見られたのは1949年)。その後1951年に信頼性の高い28型機 (ASR、KSR、RO) が出現し、日本でも新聞社や放送局や商社で数台から十数台が24時間新聞電報を打ち出していた。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"text": "7単位ASCII符号を用いる1963年頃に出現したASR-33がテレタイプ社から出てからは、5単位ボー符号機は印字文字の種類の少なさから次第に使われなくなり、ASR-32とKSR-32が5単位符号機としては最後のものとされた。ASR-33はプラスチックカバーで覆われるなど、金属カバーの重厚な5単位ボー符号28型機と比較して劣るとされたが、ASCII符号のページプリンターとしては以後標準的存在であった。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"tag": "p",
"text": "プロッタあるいはプロッター(英: plotter)は、点や線を描くことを目的とした装置である。プロッタ内部で、点や線を描くべき位置を具体的にXとYの座標を算出しつつ描くため「X-Yプロッタ」とも言う。グラフや簡単な線状図形を描くのに用いられてきた歴史があり、設計図を描くためにも盛んに用いられてきた。当初は様々な制御方式があったが、次第にHP-GLのような図形処理言語を用いて制御するようになった。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"text": "プロッタ以外には活字プリンターやドットマトリクスプリンタしかなかった時代には、プロッタは綺麗な線を描画できるほとんど唯一の機器であり、図面出力用機器の標準として使用されていたが、1990年代後半頃からは次第に大型インクジェットプリンターなどに置き換えられ、現在では特殊な用途以外は使われなくなっている。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"tag": "p",
"text": "描画にボールペンやインクペン、シャープペンシルなどを記録紙に相対的に移動して作図するものを「ペンプロッタ」と呼び、ペンを使わずラスター描画するものを「ペンレスプロッタ」と呼ぶ。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ペンプロッタには、記録紙を平らな台に固定し、ペンを縦横に移動する「フラットベッド型」の他に、両端に連続穴の開いた記録紙をスプロケットの付いたドラムで移動する「ドラム型」、記録紙を上下からローラーに挟み、摩擦で移動する「ペーパームービング型」といった形式がある。いずれもペンを上下させながら記録紙に対して物理的に相対移動して作図するので、時間がかかる、動作音が大きい、使用するペンの種類によってはペン先が磨耗して線幅が安定しない、といった欠点があった。",
"title": "印字方式による区分"
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{
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"text": "ペンレスプロッタには、「インクジェットプロッタ」、「感熱式プロッタ」、「静電プロッタ」、「レーザープロッタ」、「LEDプロッタ」がある。ペンレスプロッタは、ペンプロッタの置き換え用として開発されてきたが、印刷機構的には通常のプリンターと全く同じであり、HP-GLなどペンプロッタと共通の制御コマンドを使用できることによって通常のプリンターとの差別化がされていた。Windowsの普及やプリンタードライバの進歩によって、図面出力において制御コマンドを意識する必要がなくなり、ペンレスプロッタという分類自体ほぼ消滅した。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"text": "なお、プロッタの基本構造はそのままに、ペンの部分をカッター(刃物)に置き換えた、「カッティングプロッタ」がある。カッティングプロッタは「印刷機」というよりもむしろ「加工機」に分類される機械であり、主にカッティングシート等を切り抜くことを目的として用いられ、看板や自動車やバイクのボディーに貼る文字や図形の作成や、衣料用型紙の作成など、業務用分野で今も盛んに使用されている。またメイカームーブメントが盛り上がるとともに、DIYや自作のための道具、シート状のものを加工するための道具として、3Dプリンタと同様に2010年代に個人にも再注目されるようになった。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
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"text": "テープに塗布されたインクを熱によって対象物に転写する方式で、主に熱溶融形と昇華型とに大別される。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "テープに塗布されたインクを熱で融かし、紙などの対象物に転写する。一般家庭にパーソナルコンピュータが入り始めた時代には安価な家庭用プリンターとして使われた。その後、ワープロ専用機、小型ファクシミリ (FAX)、ラベルプリンター、航空チケット印刷などに使われている。また。デカールの印刷によく使われる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本では、マルスシステムによる切符類や(国内)航空システムにおけるチケット発行プリンターに長らく使用されていたが、前者は2色感熱紙の開発および低コスト化、後者はシステムの省スペース・省コスト化などの理由から感熱式に移行されてつつある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "顔料インクを用いるため、耐水性および耐候性に優れるが、カラー印刷の場合色の数だけ同じ手順を繰り返す必要があり色数が増す毎に印刷に要する時間が長くなり、複数回の紙送りを繰り返すため色ズレが発生しやすいという短所がある。インクリボンを装着せずに感熱式プリンターとして感熱紙に印刷できるものもある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "インクリボンを使うタイプでは、インクリボンに印刷した内容が残るため、印刷した証拠(ジャーナル)として活用できる反面、情報漏洩の原因になることもある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "インクに熱を加えて昇華させる方式で、熱量を細かく制御することでインク量の調節ができるため、写真に近い画質を得ることが可能である。DTP用や、フォトプリンター、ビデオプリンターがある。原理上染料インクが使われるために熱溶融形よりも耐水性、耐光性において劣るが、近年の昇華型インクにはラミネーションを施すことにより耐水性・耐光性を高めたものが主流となっている。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "加熱で変色する特殊な用紙(感熱紙)に印刷するための装置で、かつてはファクシミリの出力用に感熱ロール紙として広く使われていた。現在でも家庭用FAXやレシートに多いが、耐薬品性に乏しく、また、時間の経過により自然に変色や褪色を起こすという感熱紙の性質のために、長期保存に向かない。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "顕色剤を内包した感熱性マイクロカプセルを使用する感熱紙もあり、サーマルヘッドの熱量に応じた濃度の顕色剤を放出し、紫外線でジアゾニウム塩を分解することにより定着する。フルカラーの可能なサーモオートクロームやZINKがある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "導電性の加工を施した専用紙(放電破壊紙)の表層を放電で破壊することで印刷する方式である。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "サイカラーが開発した方式で光重合樹脂で出来たマイクロカプセルの内部に顕色剤が入っており、露光することにより硬化し、加圧する事で未露光部の内部の顕色剤が放出され発色する。感光波長の異なる光重合樹脂をYMCにそれぞれ使用することでフルカラーの表示ができる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "縦横に並べたドットに対応する細いピン(=針状金属)を、紙の上に配置されたインクリボン(=インクを吸わせた帯)に叩き付けて(インパクトして)印刷する仕組みである。この方式は、複写用紙への重ね印刷が可能なほぼ唯一の方式であり、完全に同一の文章を一度に打ち出すことができる。印字するインクリボンの色を切り替える機構を持つことで多色印字が可能な機種も登場した。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この方式が登場して数十年間ずっと「ドットマトリクス・プリンター」と呼ばれていたが、1990年代にインクジェット方式が登場・普及し、その方式もやはり「点のマトリクス」で文字を表現していたので、「ドットマトリクス」の呼称が正確でなくなり、旧来のインパクト式ドットマトリクス式プリンターを区別して呼ぶため、レトロニムとして「ドットインパクト式プリンタ」「ドットマトリクス・インパクト・プリンタ」などと呼ばれるようになった。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "打撃に用いるワイヤピンは、磁気アクチュエータにより高速で駆動される。ワイヤピンは極力平坦な切断面でなければならないため、高出力レーザーによる切断加工が施されている。このプリントヘッドには、釈放型と吸引型がある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "初期のものでは1文字あたり8ピン (48 dpi (dots per inch)、最大では48ピン (360 dpi) 程度のものまであった。PC-8822などの16ピン仕様の製品が登場してからは、漢字の印刷が現実的となった。PC-8801からPC-8822へ漢字の「漢字」という文字の印刷は、BASICコマンドにおいてLPRINT chr$(27)+\"K\" +chr$(&H34)+chr$(&H41) +chr$(&H3b)+chr$(&H7a) +chr$(27)+\"H\"<改行>とすることで印刷することができた。現在は24ピン (180 dpi) がほとんどである。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "かつては事務用から家庭用まで広く使われた。だがドットを構成するピンを叩きつける構造のため作動音が大きく、高精細化にも限界があり、ほとんどの用途で他の方式(主に家庭用はインクジェットプリンター、業務用はレーザープリンター)に置き換えられた。その後はプリンターとしては、ATMなどでの記帳や複写用紙(ノーカーボン紙等)への重ね印刷に用いられる用途がほとんどである。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかし、他の方式のプリンターと比較して電力消費が少なく、またこの方式に用いるインクリボンは乾燥に強いという利点がある。そのため待機時間を含めた長時間作動での維持負担が少ないという利点があり、アラーム記録(これは連続紙を利用するという点も大きい)、アナログ式のタイムレコーダーや各種測定器など、時間計測に用いる場合は重宝される。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一般的には「レーザープリンター」として知られる。帯電させた感光体にレーザー光などを照射し顔料粉末(トナー)を付着させ、用紙に転写した上で熱や圧力をかけて定着させる方式であり、これは「静電写真」や「ゼログラフィー」とも呼ばれる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "原理としては乾式の複写機とほぼ同じである。感光体は通常、ドラム状で、この表面を光で走査しつつ回転させ印刷を行う。感光体への書き込み光源としては、レーザー光源だけでなく、発光ダイオード (LED) を用いることも可能であり、この場合には「LEDプリンター」と呼ばれる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "消耗品である感光ドラムの耐久性を、トナーの補充頻度に見合う程度にまで下げ、ドラムとトナーとを一体の部品として交換する方式が主流である。その一方で、ドラムの耐久性を高め、トナー容器のみの交換が可能な設計とすることで運用経費の低減を図る動きも見られる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "用途としては、主に業務用で利用される。業務用の複合機(複写機+プリンター+ファクシミリ+イメージスキャナ)は、この方式が多い。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この方式のプリンターは他の方式と比べて構造が複雑で、部品にもより高い品質が要求されるため、製造コストが高くつく。そのためかつては高価な製品であったが、急速に価格の低廉化が進んでおり、個人用としても普及している。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この仕組みによるフルカラー印刷には、タンデム方式と4サイクル方式がある。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "インクジェット方式とは、主に液状、時に固体のインクを微粒子化し、加圧や加熱などにより微細孔から射出させる方式で、近年、噴射孔の極微細化が著しく、このために高精細な印刷結果が得られるようになっている。また、他の方式と比して多色化が容易で、多いものでは12種類のインキを使用し、微細噴射孔とも相俟って銀塩写真並みの高画質が実現されている。現在の一般家庭向けカラープリンターの主流となっている。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "小型のものは、家庭用や小規模なオフィス用として利用される。家庭あるいは小規模なオフィス用の廉価版複合機(複写機+プリンター+ファクシミリ+イメージスキャナ)も、この方式が多い。また、大型のものでは、1,000ミリメートル幅を超える大判用紙への印刷のできるものまであり、XYプロッタからの置き換えや、巨大なグラフィック・アート作成への応用などが進んでいる。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの機種で使用するインクは水性インキであり、一般論としては耐水性に乏しい。技術的には染料系、顔料系どちらのインキも可能であるが、全般的には染料系インキが多い。一般的に染料系は演色性に優れ、顔料系は耐光性に優れるといわれるが、近年ではその差は僅かなものとされている。また、顔料系の方が紙表面でインキがにじみにくいので、特にモノクロ印刷では高精細化に向くといわれる。業務用としては、耐候性に優れた溶剤系のインキを使用する機種も存在する。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "点字プリンターとは、様々な方式により点字を紙(点字用の専用紙である場合が多い)に出力することができるプリンターのことである。",
"title": "印字方式による区分"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "従来、点字器などを使用して、点字を1文字(6つの点で一組)ずつ紙に作り出していた作業(点字を専用紙に点筆(鉄筆状の器具)で打つ。表に出っ張った点がでる)を、コンピューターを使用することで手軽に点字訳および点字書籍を作れるようになった。具体的には、ワープロで作ったテキスト文を点訳ソフトで変換し、点字プリンターへ出力と言う流れであるが、従来より極めて短時間で紙へ出力できるようになった。",
"title": "印字方式による区分"
},
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "印刷方式は、ハンマードット方式と呼ばれる方式や、特殊インク(印字すると点字の凸の形にインクが膨らむ)を使用するものや、3Dプリンターの技術を応用したものなど様々な方式が有る、一番一般的なハンマードット方式の場合、ドットインパクトプリンターのようにピンで専用用紙を叩いて凸をつけて点字を作る。",
"title": "印字方式による区分"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、用紙の種類も連続用紙に点字を打っていくものと、単票ずつ印字していくものがあり、一般には片面印字のみのものが多いが、両面印刷ができるものもあり、両面印字の方式には表頁の行間の裏面に打っていくものと、表面の点字の文字間に裏面の点字が打たれていくものなど、さまざまなものが発売されている。",
"title": "印字方式による区分"
},
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "叩いて打っていく方式のため、印字時の騒音が激しく、防音室や防音ボックスが必要なほどの製品も存在する。",
"title": "印字方式による区分"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1文字の印字指令が来るたびに現在の印字ヘッド位置に印刷する方式。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
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"text": "一般的には、「改行(または復帰改行)指令を受信するまで印字バッファーに蓄積し、行単位で印刷を行うことにより印字を高速化する」#インパクトプリンターを用いた方式。メカニズム的には、「ドットインパクトプリンターやインクジェットプリンターも、シリアルプリンター方式である」と言える。ASR-33など、活字方式プリンターをキーボードと組み合わせた端末で一般的な方式。",
"title": "印字動作による区分"
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"text": "技術開発により、",
"title": "印字動作による区分"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "などの機能が追加されている。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "左右に高速移動するピンを数十個配置し、インパクトにより、同時に多くの文字を印刷する方式。",
"title": "印字動作による区分"
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"tag": "p",
"text": "1行文字数分の印字ヘッドを並列に備え、一回の印字動作で1行分を同時に印字できるインパクトプリンターのことを指す。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "印字ヘッドを高速で循環させて適切な字母が、適切な行位置を通過する際にハンマーで叩くことで印字する。ピン全体(ハンマバンクと称される)が左右に移動することにより文字が形成されていく。そのため、毎分数百行の印字が可能である。複写を要する物で、大量に印刷を行う際などに使用される。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "字母の数に制限があり、開発当初は事実上ASCII文字とカナ文字程度しか印字できなかった。(もっとも、現在では改良され漢字印刷に耐える機種もある。詳しくは下記「日本語ラインプリンター」を参照。)",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "印字時に「ガシャガシャ」とハンマー音がする機種が多い。また、この騒音が比較的大きい。これを防ぐため、設計上、装置全体が箱で囲まれたような構造になっていたり、防音カバーを備えているのが一般的。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "印刷ヘッドが高速で往復するインクジェットプリンターも、動作の上ではラインプリンターの一種である。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ラインプリンターと比較し、漢字が印字できることから「漢字ラインプリンター (KLP) 」とも呼ばれる。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ページプリンターは1ページ単位をまとめて印刷するプリンター。一般に乾式コピー技術を用い、光源にレーザーが使われることが多かったため、レーザープリンターと呼ばれている。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "連続帳票を用いることができず、単票のみ印刷可能なプリンターは皆ページプリンター方式と呼ばれている。高速で静かな動作音であるが、装置やメンテナンス費用はやや高価。カラーページプリンターもある。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "印字速度は、プリンター内部でのイメージ展開の性能に依存する割合が大きい。文字中心であれば短時間で出力されるが、イメージ画像を出力する場合は多くの時間がかかる。値段の高いものではイメージ展開を行うマイコンチップを高性能化して、高速で出力できるようになっている。その他、定着機構の性能も印字速度に影響する。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "一般に、高速に印字しようとすると用紙の定着器通過時間が短くなるため、定着器をより高い温度に維持する必要があり、きめ細かな制御が必要となる。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "連続したネガフィルムまたはポジフィルムに直接、レーザー光を当てて印字する物。レーザー光で感光した後は現像作業が必要になる。主に新聞社で使用されている。また、輪転機用の版の作成にも使用される。",
"title": "印字動作による区分"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ユニバーサル・シリアル・バス (USB)、セントロニクス仕様(IEEE 1284 - パラレルポート)、シリアルポート (RS-232C, RS-422)、GP-IB、IEEE 1394などがある。従来はパラレルポートや、マッキントッシュではRS-422が主に使われていたが、現在はUSB接続が主流。最近は一部メーカーでは無線LANに対応した機種も存在する。",
"title": "接続方式"
},
{
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"text": "ただし業務用(オフィス環境)では、内蔵プリントサーバ機能によるネットワーク接続(TCP/IPなど)が主流となっており、共有プリンター以外でのローカル接続(PCとプリンターを1:1で直結させる方法)はあまり見られない。",
"title": "接続方式"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また単純なネットワーク接続(TCP/IP接続)ではなく、共有プリンター形式での接続も多く用いられる。これを行うことにより、プリンターを接続したサーバPCに各種OSのドライバを一括して保持させることが可能になる。クライアントとなる他のPCはサーバPCが保持しているドライバをインストールでき、個々のPCにドライバCDを渡す必要がなくなる。つまり、ドライバ管理が非常に容易になるという利点がある。",
"title": "接続方式"
}
] | プリンターとは、印刷用の機械の総称である。印刷機(いんさつき)などの名称でも呼ばれる。 本項では特に、コンピュータからの情報出力に用いる周辺機器としてのプリンターについて説明する。その他の印刷機械については、印刷機を参照。 | {{Otheruses|コンピュータのプリンター|その他の印刷機械|印刷機}}
{{複数の問題
|出典の明記=2022-11
|独自研究=2022-11
|正確性=2022-11
|更新=2022-11
}}
[[File:Hp-laserjet-printer.png|thumb|right|300px|1980年代後半から普及したオフィス用レーザープリンターの一例<br />[[ヒューレットパッカード]]社「HP LaserJet 4100TN」]]
[[ファイル:Epson PM-700C.jpg|thumb|300px|1990年代の家庭向けインクジェットプリンターの一例<br />[[セイコーエプソン|エプソン]]「PM-700C」<br />[[1996年]]11月発売]]
[[File:Fujitsu DL3300 dot matrix printer.JPG|thumb|300px|ドットインパクト式プリンタの一例<br />[[富士通]]「DL3300」]]
{{印刷の歴史}}
'''プリンター'''({{Lang-en-short|printer}})とは、印刷用の[[機械]]の総称である。'''印刷機'''(いんさつき)などの名称でも呼ばれる。
本項では特に、[[コンピュータ]]からの情報[[出力]]に用いる[[周辺機器]]としてのプリンターについて説明する。その他の印刷機械については、'''[[印刷機]]'''を参照。
== 概要 ==
プリンターは、[[コンピュータ]]や[[ワードプロセッサ]]などからの情報出力装置として使用される。時代や用途に応じて多種多様な方式がある。
コンピュータが登場するまでは、[[通信]]には[[テレタイプ端末|テレタイプ]]が使われていた。[[1946年]]に[[ENIAC]]がペンシルベニア大学で制作された。[[演算]]結果を出力する必要が生じ、[[1947年]]にテレタイプを原型とした[[活字]]方式のコンピュータ用プリンターが登場し、[[アメリカ軍|米軍]]でも使用されるようになった。
[[1950年代]]から[[1970年代]]までは、活字プリンターや[[IBM]]のセレクトリックプリンター(下記)、[[グラフ]]や[[図形]]を描きたい場合は[[プロッタ]]などが主に用いられていた。1970年代から[[1980年代]]半ばまでは、活字方式よりも多種類の文字を印字できる[[#ドットインパクト方式|ドットインパクトプリンター]]が主流となった。この時期のドットインパクト方式のプリンターは作動音が大きく、プリンタをまるごと覆う防音ケースなども販売されていた。また熱転写方式([[感熱紙]])を用いる[[サーマルプリンター]]も普及した。
[[1980年代]]半ばからは、企業向けに[[ゼロックス]]社の[[複写機]]と同じ原理で細部まで印字され、音も静かな[[#乾式電子写真方式|レーザープリンター]]が普及した。
[[1990年]]頃から[[#インクジェット方式|インクジェットプリンター]]が台頭した。家庭向けには十分な性能で比較的安価であったため普及し、[[年賀状]]や[[グリーティングカード]]の印刷などに使われるようになった。当初は印字の品質や速度が低かったため企業向けとしてはさほど普及しなかったが、その後は技術の向上によりそうした欠点は改善され、[[2008年]]頃には[[パソコン]]用プリンター出荷台数の3分の2をインクジェットプリンターが占めるまでになった。
[[2000年代]]初頭には、企業向けにはレーザープリンター、家庭向けおよび小規模オフィスではインクジェットプリンター、と棲み分けられる傾向が強まった。その後は個人向けの安価なレーザープリンターも普及した。またインクジェットプリンターは急速に低価格化が進み、[[2005年]]頃からは[[コピー]]や[[ファクシミリ]]機能が搭載された[[複合機]]タイプが主流となった。
企業向けレーザープリンターは、[[モノクロ]]単機能タイプ(超高速大量印刷用や超安価印刷用など)から高機能複合機タイプまで用途に合わせた様々なタイプが販売されており、また[[伝票]]印刷ではドットインパクトプリンターも根強い需要がある。
== 印字方式による区分 ==
=== 活字プリンター ===
[[ファイル:Silver-Reed Daisywheel Wiki.jpg|thumb|170px|デイジーホイール<br />先端に活字が植えられている。]]
[[ファイル:IBM Selectric Globe Wiki.jpg|thumb|170px|球面に[[活字]]を刻んだ「[[IBM]]セレクトリックタイプライタ方式」の活字セットの球。[[フォント]]などの変更は違った球体セットを付け替えて行われた。[[通称]][[ゴルフ]]ボールとも呼ばれた。<br />2[[ユーロ硬貨]]は大きさの比較として置いたもの。]]
[[タイプライター]]のように、文字ごとの字母の活字を紙に打ち付ける方式である。一般的なタイプライター同様の腕の先端に活字を植えたものや、球面に活字を植えた「{{仮リンク|IBMセレクトリックタイプライタ|en|IBM Selectric typewriter}}方式」と呼ばれるもの、円盤に放射状に活字の植えられた腕を配置した[[デイジーホイールプリンター]]、活字を環状一列にしたベルト状のもの<ref group="注">参考英文版カタログ;
{{PDFlink|[http://archive.computerhistory.org/resources/text/GE/GE.TermiNet300.1971.102646207.pdf 活字をベルト状に一列環状にしたもの]}}米国製[[ゼネラル・エレクトリック|GE]] TermiNet300プリンター;日本でもGEの[[タイムシェアリングシステム]]で相当数稼働した。インパクト音も比較的静な方式もの。</ref>、[[円柱 (数学)|円柱]]形の[[ASR-33]]など各種の方式がある。英数字のみの文書、プログラムリストの印刷などに用いられた時期があるが、印字音が大きいという欠点があり、他のプリンターの印字品質の向上と共に使われなくなった。方式にもよるが多くの場合、活字群のセットの英数字にさらに[[片仮名|カタカナ]]を加えると文字数が多くなり収まらず、日本語の[[平仮名|ひらがな]]、カタカナさらに[[漢字]]の印字は'''ドットインパクト方式'''の出現を待たなければならなかった。
==== 活字プリンタの歴史 ====
{{単一の出典|date=2022-11|section=1}}
<!-- これ以降は「2009年8月28日 (金) 13:44時点加筆部分」に出典を付した推敲-->活字プリンターの歴史は古く[[第二次世界大戦|第二次大戦]]前から[[モールス符号]]を一旦[[鑽孔テープ]]に採りそれを[[紙テープ]]に印字するものから{{要出典|date=2009年8月}}、[[テレックス]]通信(5単位[[Baudot Code|ボー符号]])での印刷電信としては既に第二次大戦前の1921年頃のMorkrum<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.baudot.net/teletype/M11.htm |title=MORKUM MODEL 11 TAPE PRINTER、タイプホイールによるテープ印刷型電信機 1921年製 |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref>、[[テレタイプ (企業)|テレタイプ]]、[[シーメンス]]、[[チャールズ・ホイートストン|ホイートストン]]などからテープ式、ページ式活字プリンターが作られた。特に1930年からのテレタイプ社製15型機はタイプバー式ページ印刷方式のもので、第二次大戦中に米軍が使用し、約20万台製造された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.baudot.net/teletype/M15.htm#M15-KSR |title=Model 15-KSR Type-Bar Page Printer、キーボード付きページ印刷電信機 |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref>。15型と併用された1925年からの14型機は鑽孔テープに印字もするもので<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.baudot.net/teletype/M14.htm#M14-TD |title=Model 14-TD (aka M14-XD) Transmitter-Distributor、穿孔テープ媒体の送受信機 |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref> 自動テープ送信のため使用され、両者が合体したものが1942年からのASR-19である(占領下[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]で最初に見られたのは1949年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.baudot.net/teletype/M19.htm |title=TELETYPE MODEL 19 SET、テープ印刷型電信機とキーボード付きページ印刷電信機のセット |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref>。その後1951年に信頼性の高い28型機 (ASR、KSR、RO) が出現し<ref>{{Cite web |url=http://www.baudot.net/teletype/M28.htm#M28-ASR |title=TELETYPE MODEL 28 PAGE PRINTER |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref>、日本でも新聞社や放送局や[[商社]]で数台から十数台が24時間新聞電報を打ち出していた。
7単位[[ASCII]]符号を用いる1963年頃に出現した[[ASR-33]]がテレタイプ社から出てからは、5単位ボー符号機は印字文字の種類の少なさから次第に使われなくなり、ASR-32とKSR-32が5単位符号機としては最後のものとされた<ref>{{Cite web |url=http://www.baudot.net/teletype/M32.htm |title=TELETYPE MODEL 32 PAGE PRINTER |publisher=www.baudot.net |language=en |accessdate=2010-01-05 }}</ref>。ASR-33はプラスチックカバーで覆われるなど、金属カバーの重厚な5単位ボー符号28型機と比較して劣るとされたが、ASCII符号のページプリンターとしては以後標準的存在であった<!-- 以上、「2009年8月28日 (金) 13:44時点加筆部分」に出典を付した推敲-->。
{{see also|テレタイプ端末}}
=== プロッタ ===
{{Main|プロッタ}}
[[File:Apple Color Plotter crop (7154380074).jpg|thumb|right|180px|プロッターの一例。[[:en:Apple 410 Color Plotter|Apple 410 Color Plotter]]とその出力結果。]]
プロッタあるいはプロッター({{Lang-en-short|plotter}})は、点や線を描くことを目的とした装置である。プロッタ内部で、点や線を描くべき位置を具体的にXとYの[[座標]]を算出しつつ描くため「X-Yプロッタ」とも言う。[[グラフ]]や簡単な線状[[図形]]を描くのに用いられてきた歴史があり、[[設計図]]を描くためにも盛んに用いられてきた。当初は様々な制御方式があったが、次第に[[HP-GL]]のような図形処理言語を用いて制御するようになった。
プロッタ以外には活字プリンターやドットマトリクスプリンタしかなかった時代には、プロッタは綺麗な線を描画できるほとんど唯一の機器であり、図面出力用機器の標準として使用されていたが、[[1990年代]]後半頃からは次第に大型インクジェットプリンターなどに置き換えられ、現在では特殊な用途以外は使われなくなっている。
描画に[[ボールペン]]やインクペン、[[シャープペンシル]]などを記録紙に相対的に移動して作図するものを「ペンプロッタ」と呼び、[[ペン]]を使わず[[ラスタースキャン|ラスター]]描画するものを「ペンレスプロッタ」と呼ぶ。
ペンプロッタには、記録紙を平らな台に固定し、ペンを縦横に移動する「フラットベッド型」の他に、両端に連続穴の開いた記録紙を[[スプロケット]]の付いたドラムで移動する「ドラム型」、記録紙を上下からローラーに挟み、摩擦で移動する「ペーパームービング型」といった形式がある。いずれもペンを上下させながら記録紙に対して物理的に相対移動して作図するので、時間がかかる、動作音が大きい、使用するペンの種類によってはペン先が磨耗して線幅が安定しない、といった欠点があった。
ペンレスプロッタには、「[[#インクジェット方式|インクジェットプロッタ]]」、「感熱式プロッタ」、「静電プロッタ」、「レーザープロッタ」、「LEDプロッタ」がある。ペンレスプロッタは、ペンプロッタの置き換え用として開発されてきたが、印刷機構的には通常のプリンターと全く同じであり、HP-GLなどペンプロッタと共通の制御コマンドを使用できることによって通常のプリンターとの差別化がされていた。[[Microsoft Windows|Windows]]の普及やプリンター[[デバイスドライバ|ドライバ]]の進歩によって、図面出力において制御コマンドを意識する必要がなくなり、ペンレスプロッタという分類自体ほぼ消滅した。
なお、プロッタの基本構造はそのままに、ペンの部分をカッター(刃物)に置き換えた、「[[カッティングプロッタ]]」がある。カッティングプロッタは「印刷機」というよりもむしろ「加工機」に分類される機械であり、主に[[カッティングシート]]等を切り抜くことを目的として用いられ、看板や自動車やバイクのボディーに貼る文字や図形の作成や、衣料用[[型紙]]の作成など、業務用分野で今も盛んに使用されている。また[[メイカームーブメント]]が盛り上がるとともに、[[DIY]]や[[自作]]のための道具、シート状のものを加工するための道具として、[[3Dプリンタ]]と同様に2010年代に個人にも再注目されるようになった。
=== 熱転写方式 ===
{{main|サーマルプリンター}}
[[テープ]]に塗布された[[インク]]を熱によって対象物に転写する方式で、主に[[#熱溶融形|熱溶融形]]と[[#昇華型|昇華型]]とに大別される。
==== 熱溶融形 ====
{{main|溶融型熱転写印刷}}
テープに塗布された[[インク]]を熱で融かし、[[紙]]などの対象物に転写する。一般家庭に[[パーソナルコンピュータ]]が入り始めた時代には安価な家庭用プリンターとして使われた。その後、[[ワードプロセッサ|ワープロ専用機]]、小型[[ファクシミリ]] (FAX)、ラベルプリンター、航空チケット印刷などに使われている。また。[[デカール]]の印刷によく使われる。
日本では、[[マルス (システム)|マルスシステム]]による[[切符]]類や(国内)航空システムにおけるチケット発行プリンターに長らく使用されていたが、前者は2色感熱紙の開発および低コスト化、後者はシステムの省スペース・省コスト化などの理由から感熱式に移行されてつつある。
[[顔料]]インクを用いるため、耐水性および[[耐候性]]に優れるが、カラー印刷の場合色の数だけ同じ手順を繰り返す必要があり色数が増す毎に印刷に要する時間が長くなり、複数回の紙送りを繰り返すため色ズレが発生しやすいという短所がある。[[インクリボン]]を装着せずに感熱式プリンターとして[[感熱紙]]に印刷できるものもある。
インクリボンを使うタイプでは、インクリボンに印刷した内容が残るため、印刷した証拠(ジャーナル)として活用できる反面、情報漏洩の原因になることもある。
==== 昇華型 ====
{{main|染料昇華印刷}}
[[インク]]に熱を加えて[[昇華 (化学)|昇華]]させる方式で、熱量を細かく制御することでインク量の調節ができるため、[[写真]]に近い画質を得ることが可能である。DTP用や、フォトプリンター、[[ビデオプリンター]]がある。原理上染料インクが使われるために熱溶融形よりも耐水性、耐光性において劣るが、近年の昇華型インクにはラミネーションを施すことにより耐水性・耐光性を高めたものが主流となっている。
{{clear}}
=== 感熱式 ===
{{main|サーマルプリンター|直接感熱記録印刷}}
加熱で変色する特殊な用紙([[感熱紙]])に印刷するための装置で、かつては[[ファクシミリ]]の出力用に感熱ロール紙として広く使われていた。現在でも家庭用FAXや[[レシート]]に多いが、耐薬品性に乏しく、また、時間の経過により自然に変色や褪色を起こすという感熱紙の性質のために、長期保存に向かない。
顕色剤を内包した感熱性マイクロカプセルを使用する感熱紙もあり、サーマルヘッドの熱量に応じた濃度の顕色剤を放出し、紫外線でジアゾニウム塩を分解することにより定着する。フルカラーの可能な[[直接感熱記録印刷#サーモオートクローム方式|サーモオートクローム]]や[[直接感熱記録印刷#ZINK_Zero_Ink方式|ZINK]]がある。
=== 放電破壊式 ===
{{main|放電破壊プリンタ}}
[[導電性]]の加工を施した専用紙(放電破壊紙)の表層を放電で破壊することで印刷する方式である。
=== 光露光加圧定着式 ===
[[サイカラー]]が開発した方式で[[光重合樹脂]]で出来た[[マイクロカプセル]]の内部に顕色剤が入っており、露光することにより硬化し、加圧する事で未露光部の内部の顕色剤が放出され発色する<ref>{{PDFlink|[http://www.freepatentsonline.com/5208609.pdf アメリカ合衆国特許5208609号]}}</ref>。感光波長の異なる光重合樹脂をYMCにそれぞれ使用することでフルカラーの表示ができる。
=== ドットインパクト方式 ===
[[ファイル:Dot matrix example text.png|thumb|350px|印字の例。多数の点の集まりで、文字を表現。]]
[[ファイル:Printer dot matrix EPSON VP-500.jpg|thumb|250px|[[セイコーエプソン|エプソン]] VP-500プリンター(カバーを外して撮影)]]
[[ファイル:Tandy1000HX tweaked.jpg|thumb|250px|ドットインパクト・プリンターTandy DMP-133(右上)]]
[[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F079071-0007, Bonn, Nachrichtenagentur Reuters.jpg|サムネイル|229x229px|連続用紙を使用したドットプリンタの使用例(ロイター通信(ボン 1988))]]
縦横に並べた[[ドット]]に対応する細いピン(=針状金属)を、紙の上に配置された[[インクリボン]](=インクを吸わせた帯)に叩き付けて(インパクトして)印刷する仕組みである。この方式は、複写用紙への重ね印刷が可能なほぼ唯一の方式であり、完全に同一の文章を一度に打ち出すことができる。印字するインクリボンの色を切り替える機構を持つことで多色印字が可能な機種も登場した。
この方式が登場して数十年間ずっと「ドットマトリクス・プリンター」と呼ばれていたが、1990年代にインクジェット方式が登場・普及し、その方式もやはり「点のマトリクス」で文字を表現していたので、「ドットマトリクス」の呼称が正確でなくなり、旧来のインパクト式ドットマトリクス式プリンターを区別して呼ぶため、[[レトロニム]]として「ドットインパクト式プリンタ」「ドットマトリクス・インパクト・プリンタ」などと呼ばれるようになった。
打撃に用いるワイヤピンは、[[磁気]][[アクチュエータ]]により高速で駆動される。ワイヤピンは極力平坦な切断面でなければならないため、高出力レーザーによる切断加工が施されている。このプリントヘッドには、釈放型と吸引型がある。
* 吸引型 - 印字する瞬間にワイヤピンが接合されたアクチュエータを電磁石で吸引してワイヤピンを押し出す方式る。印字後はアクチュエータの弾性により元の位置に戻る。
* 釈放型 - 印字する瞬間に電磁石に電流を流して、アクチュエータを保持していた磁力を打ち消し、アクチュエータのバネ性でワイヤピンを押し出す方式。小型で安価。
* 水平型 - 小型で8枚まで複写が可能。
* ライン型 - 業務用の大型で高価な機種。
初期のものでは1文字あたり8ピン (48 [[dpi]] (dots per inch)、最大では48ピン (360 dpi) 程度のものまであった。[[PC-8800シリーズ#周辺機器|PC-8822]]などの16ピン仕様の製品が登場してからは、[[漢字]]の印刷が現実的となった。PC-8801からPC-8822へ[[漢字]]の「漢字」という文字の印刷は、BASICコマンドにおいてLPRINT chr$(27)+"K" +chr$(&H34)+chr$(&H41) +chr$(&H3b)+chr$(&H7a) +chr$(27)+"H"<改行>とすることで印刷することができた<ref name="archive-unix-tool">{{Cite journal|和書 | author= | title= 特集 UNIXツール |journal=[[インターフェース (雑誌)|インターフェース]]増刊 archive No.4 | year=1987 | date=1987-03-01 |page= 19 | publisher=[[CQ出版社]]|isbn = }}</ref>。{{いつ範囲|現在は|date=2022-11}}24ピン (180 dpi) がほとんどである。
かつては事務用から家庭用まで広く使われた。だがドットを構成するピンを叩きつける構造のため作動音が大きく、高精細化にも限界があり、ほとんどの用途で他の方式(主に家庭用は[[インクジェットプリンター]]、業務用は[[レーザープリンター]])に置き換えられた。その後はプリンターとしては、[[現金自動預け払い機|ATM]]などでの記帳や複写用紙([[ノーカーボン紙]]等)への重ね印刷に用いられる用途がほとんどである。
しかし、他の方式のプリンターと比較して電力消費が少なく、またこの方式に用いる[[インクリボン]]は乾燥に強いという利点がある。そのため待機時間を含めた長時間作動での維持負担が少ないという利点があり、アラーム記録(これは連続紙を利用するという点も大きい)、アナログ式の[[タイムレコーダー]]や各種測定器など、時間計測に用いる場合は重宝される。
{{clear}}
=== 乾式電子写真方式 ===
[[ファイル:Apple LaserWriter Pro 630.jpg|thumb|200px|[[Apple]][[レーザープリンター]][[LaserWriter]] Pro 630]]
{{main|レーザープリンター}}
一般的には「[[レーザープリンター]]」として知られる。帯電させた感光体に[[レーザー]][[光]]などを照射し顔料粉末([[トナー]])を付着させ、用紙に転写した上で熱や圧力をかけて[[定着]]させる方式であり、これは「[[静電気|静電]]写真」や「[[ゼログラフィー]]」とも呼ばれる。
原理としては乾式の[[複写機]]とほぼ同じである。感光体は通常、ドラム状で、この表面を光で走査しつつ回転させ印刷を行う。感光体への書き込み光源としては、レーザー光源だけでなく、[[発光ダイオード]] (LED) を用いることも可能であり、この場合には「[[LEDプリンター]]」と呼ばれる。
消耗品である感光ドラムの耐久性を、トナーの補充頻度に見合う程度にまで下げ、ドラムとトナーとを一体の部品として交換する方式が主流である。その一方で、ドラムの耐久性を高め、トナー容器のみの交換が可能な設計とすることで運用経費の低減を図る動きも見られる。
用途としては、主に業務用で利用される。業務用の複合機(複写機+プリンター+ファクシミリ+イメージスキャナ)は、この方式が多い。
この方式のプリンターは他の方式と比べて構造が複雑で、部品にもより高い品質が要求されるため、製造コストが高くつく。そのためかつては高価な製品であったが、急速に価格の低廉化が進んでおり、個人用としても普及している。
==== フルカラー印刷 ====
この仕組みによるフルカラー印刷には、タンデム方式と4サイクル方式がある。
* タンデム方式 - ドラムを連装し、一回の手順の中で各色(減法混合の[[原色|三原色]]である[[シアン (色)|シアン]](藍)・[[マゼンタ]](紅)・[[黄色|イエロー]](黄)に[[黒]]を加えた[[CMYK]]方式)を順次転写するもので、単色印刷とほぼ同じ時間で印刷物を完成させることができる。
* 4サイクル方式 - 1つのドラム上に各色の現像機を配置し、各単色の転写を繰り返すため、単色印刷に対しおおむね4倍の時間を要する。
{{clear}}
=== インクジェット方式 ===
[[ファイル:Canon S520 ink jet printer.jpg|thumb|200px|インクジェット・プリンターの例<br />[[キヤノン]]・BJ S520<br />(共通設計の日本国内向けBJ S500は2001年10月、BJ S530は2002年5月発売)]]
{{main|インクジェットプリンター}}
インクジェット方式とは、主に液状、時に固体のインクを微粒子化し、加圧や加熱などにより微細孔から射出させる方式で、近年、噴射孔の極微細化が著しく、このために高精細な印刷結果が得られるようになっている。また、他の方式と比して多色化が容易で、多いものでは12種類のインキを使用し、微細噴射孔とも相俟って[[銀塩写真]]並みの高画質が実現されている。現在の一般家庭向けカラープリンターの主流となっている。
小型のものは、家庭用や小規模なオフィス用として利用される。家庭あるいは[[Small Office/Home Office|小規模なオフィス]]用の廉価版[[複合機]](複写機+プリンター+[[ファクシミリ]]+[[イメージスキャナ]])も、この方式が多い。また、大型のものでは、1,000ミリメートル幅を超える大判用紙への印刷のできるものまであり、[[プロッタ|XYプロッタ]]からの置き換えや、巨大な[[グラフィック・アート]]作成への応用などが進んでいる。
ほとんどの機種で使用するインクは水性インキであり、一般論としては耐水性に乏しい。技術的には[[染料]]系、[[顔料]]系どちらのインキも可能であるが、全般的には染料系インキが多い。一般的に染料系は[[演色性]]に優れ、顔料系は耐光性に優れるといわれるが、近年ではその差は僅かなものとされている。また、顔料系の方が紙表面でインキがにじみにくいので、特にモノクロ印刷では高精細化に向くといわれる。業務用としては、耐候性に優れた[[溶剤]]系のインキを使用する機種も存在する。
{{clear}}
=== 点字プリンター ===
点字プリンターとは、様々な方式により[[点字]]を紙([[点字#点字用紙|点字用の専用紙]]である場合が多い)に出力することができるプリンターのことである。
従来、[[点字#点字器|点字器]]などを使用して、点字を1文字(6つの点で一組)ずつ紙に作り出していた作業(点字を専用紙に点筆(鉄筆状の器具)で打つ。表に出っ張った点がでる)を、コンピューターを使用することで手軽に点字訳および点字書籍を作れるようになった。具体的には、ワープロで作ったテキスト文を点訳ソフトで変換し、点字プリンターへ出力と言う流れであるが、従来より極めて短時間で紙へ出力できるようになった。
印刷方式は、ハンマードット方式と呼ばれる方式や、特殊インク(印字すると点字の凸の形にインクが膨らむ)を使用するものや、[[3Dプリンター]]の技術を応用したものなど様々な方式が有る、一番一般的なハンマードット方式の場合、[[#ドットインパクト方式|ドットインパクトプリンター]]のようにピンで専用用紙を叩いて凸をつけて点字を作る。
また、用紙の種類も連続用紙に点字を打っていくものと、単票ずつ印字していくものがあり、一般には片面印字のみのものが多いが、両面印刷ができるものもあり、両面印字の方式には表頁の行間の裏面に打っていくものと、表面の点字の文字間に裏面の点字が打たれていくものなど、さまざまなものが発売されている。
叩いて打っていく方式のため、印字時の騒音が激しく、防音室や防音ボックスが必要なほどの製品も存在する。
== 印字動作による区分 ==
=== シリアルプリンター ===
1文字の印字指令が来るたびに現在の印字ヘッド位置に印刷する方式。
一般的には、「改行(または復帰改行)指令を受信するまで印字バッファーに蓄積し、行単位で印刷を行うことにより印字を高速化する」[[#インパクトプリンター]]を用いた方式。[[メカニズム]]的には、「[[#ドットインパクト方式|ドットインパクトプリンター]]や[[#インクジェット方式|インクジェットプリンター]]も、''シリアルプリンター方式''である」と言える。[[ASR-33]]など、活字方式プリンターをキーボードと組み合わせた端末で一般的な方式。
技術開発により、
* 「高速印字のための行単位で印刷する方式」(→下記[[#ラインプリンター|ラインプリンター]]を参照。)
* 「[[スペース]]・[[タブキー|タブ]]などの空白文字に相当する部分を高速で移動する」
などの機能が追加されている。
=== ラインプリンター ===
{{main|ラインプリンター}}
左右に高速移動するピンを数十個配置し、インパクトにより、同時に多くの文字を印刷する方式。
1行文字数分の印字ヘッドを並列に備え、一回の印字動作で1行分を同時に印字できる[[#インパクトプリンター|インパクトプリンター]]のことを指す。
印字ヘッドを高速で循環させて適切な[[字母]]が、適切な行位置を通過する際にハンマーで叩くことで印字する。ピン全体(ハンマバンクと称される)が左右に移動することにより文字が形成されていく。そのため、毎分数百行の印字が可能である。複写を要する物で、大量に印刷を行う際などに使用される。
字母の数に制限があり、開発当初は事実上[[ASCII]]文字と[[仮名 (文字)|カナ]]文字程度しか印字できなかった。(もっとも、現在では改良され[[漢字]]印刷に耐える機種もある。詳しくは下記「[[#日本語ラインプリンター|日本語ラインプリンター]]」を参照。)
印字時に「ガシャガシャ」とハンマー音がする機種が多い。また、この騒音が比較的大きい。これを防ぐため、設計上、装置全体が箱で囲まれたような構造になっていたり、防音カバーを備えているのが一般的。
印刷ヘッドが高速で往復するインクジェットプリンターも、動作の上ではラインプリンターの一種である。
==== 日本語ラインプリンター ====
ラインプリンターと比較し、漢字が印字できることから「漢字ラインプリンター (KLP) 」とも呼ばれる<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/device/printer/0010.html 日本のコンピュータ - 【富士通】 FACOM 6715D 日本語ラインプリンタ装置] IPSJ コンピュータ博物館、[[情報処理学会]]</ref>。
=== ページプリンター ===
'''ページプリンター'''は1ページ単位をまとめて印刷するプリンター。一般に[[#乾式電子写真方式|'''乾式コピー技術''']]を用い、光源にレーザーが使われることが多かったため、[[レーザープリンター]]と呼ばれている。
連続帳票を用いることができず、単票のみ印刷可能なプリンターは皆'''ページプリンター方式'''と呼ばれている。高速で静かな動作音であるが、装置やメンテナンス費用はやや高価。カラーページプリンターもある。
印字速度は、プリンター内部でのイメージ展開の性能に依存する割合が大きい。文字中心であれば短時間で出力されるが、イメージ画像を出力する場合は多くの時間がかかる。値段の高いものではイメージ展開を行うマイコンチップを高性能化して、高速で出力できるようになっている。その他、定着機構の性能も印字速度に影響する。
一般に、高速に印字しようとすると用紙の定着器通過時間が短くなるため、定着器をより高い温度に維持する必要があり、きめ細かな制御が必要となる。
=== フィルムプリンター ===
連続した[[ネガフィルム]]または[[ポジフィルム]]に直接、レーザー光を当てて印字する物。レーザー光で感光した後は[[現像]]作業が必要になる。主に[[新聞社]]で使用されている。また、[[輪転機]]用の版の作成にも使用される。
== 制御方式 ==
; [[ESC/P]] (Epson Standard Code for Printers)
: [[1985年]]頃に[[セイコーエプソン]]の開発した制御方式。仕様が公開されたため、他社のプリンターにも採用され、また[[AX]]や[[DOS/V]]ではプリンターの標準方式となっている。レーザー(ページ)プリンター用として ESC/Page がある。セイコーエプソン製プリンターの「ESC/Pスーパー」では、201PLのエミュレーションモードもある。
; [[LIPS]]
: [[キヤノン]]の開発した、レーザープリンターの制御方式。最新バージョンはLIPS Vである。
; [[PostScript]]
: [[アドビ]]の開発したレーザープリンターの制御方式。[[Macintosh|マッキントッシュ]]や[[Linux]]の標準方式であるが、アドビとのライセンス料の関係からか、この方式のプリンターは非常に高価(数十万 - 100万円以上)である。そのため、[[リコー]]などによる互換方式も広く使われている。
; [[Windows Printing System]] (WPS)
: [[マイクロソフト]]が開発した制御方式で、印刷イメージ展開などの主な処理を[[Microsoft Windows|Windows]]の機能を用いてパソコン側で行うことで、プリンターの製造コストを下げようとしたもの。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の全盛期であった[[1996年]] - [[1997年]]頃に発売された低価格のレーザープリンターに多く採用されたが、マイクロソフトとのライセンスの関係などで短命に終わり、また後継OSの[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]や[[Microsoft Windows XP|XP]]、[[Microsoft Windows Vista|Vista]]ではドライバの提供などのサポートが中止された。
; [[HP-GL]] (Hewlett Packard Graphics Language)
: [[ヒューレット・パッカード]]社が開発したプロッタの制御言語(方式)。
; 201PL
: [[日本電気]] (NEC) [[PC-9800シリーズ]]用純正プリンター「PC-PR201」「PC-PR101」シリーズ用の制御方式。セイコーエプソンの「ESC/Pスーパー」や、1990年代までに製造された各社レーザープリンターの多くがこの201PL[[互換モード]]を持っている。NECの純正プリンターには、「PC-PR」シリーズとは別に「NMシリーズ」もあった。ちなみに、PC-9800シリーズでは動作しないWindows XPでも、標準で「PC-PR201」「PC-PR101」「NM」シリーズ用のドライバが収録されているため、USB変換やプリントサーバで認識できれば利用可能である。[http://121ware.com/qasearch/1007/app/nec.jsp?006021]
: 他の方式はコマンドを組み合わせることにより相互に互いをエミュレートできるのに対して、201PLは印刷文字幅に応じてヘッド移動速度が変化するという特性があり(さらに印刷中に文字幅が変わるとライトマージンが変更前、レフトマージンが変更後という非常に扱いづらい境界値にヘッドが移動する)、201PLではいったん最大解像度であらかじめレンダリングした物を出力するか、文字幅に応じて分割して出力しなければならない。この制約が存在することが逆に201PL方式の延命をもたらし、他のシリアルプリンター方式が衰退した現在でも実装されている。
== 接続方式 ==
[[ユニバーサル・シリアル・バス]] (USB)、セントロニクス仕様([[IEEE 1284]] - [[パラレルポート]])、[[シリアルポート]] ([[RS-232|RS-232C]], [[EIA-422|RS-422]])、[[GP-IB]]、[[IEEE 1394]]などがある。従来はパラレルポートや、マッキントッシュではRS-422が主に使われていたが、現在はUSB接続が主流。最近は一部メーカーでは[[無線LAN]]に対応した機種も存在する。
ただし業務用(オフィス環境)では、内蔵[[プリントサーバ]]機能によるネットワーク接続([[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]など)が主流となっており、共有プリンター以外でのローカル接続(PCとプリンターを1:1で直結させる方法)はあまり見られない。
また単純なネットワーク接続(TCP/IP接続)ではなく、共有プリンター形式での接続も多く用いられる。これを行うことにより、プリンターを接続したサーバPCに各種OSのドライバを一括して保持させることが可能になる。クライアントとなる他のPCはサーバPCが保持しているドライバをインストールでき、個々のPCにドライバCDを渡す必要がなくなる。つまり、ドライバ管理が非常に容易になるという利点がある。
== 主なメーカー ==
* [[セイコーエプソン]] (EPSON)
* [[キヤノン]] (CANON)
* [[ヒューレット・パッカード]] (HP)
* [[ブラザー工業]] (brother)
* [[リコー]] (RICOH)
* [[コニカミノルタ]] (Konica Minolta)
* [[京セラドキュメントソリューションズ]]
* [[富士フイルムビジネスイノベーション]] (FUJIFILM Business Innovation)
* [[カシオ計算機]] (CASIO)
* [[沖データ]] (OKI)
* [[JBアドバンスト・テクノロジー]] JBAT。旧アプティ(APTi)
* [[富士フイルム]]
* [[レックスマーク]] (Lexmark)
* [[理想科学工業]] (RISO)
* [[日立製作所]]
* [[日本電気]]
* [[シーメンス]]
* [[富士通]]
* [[アルプスアルパイン]]
* [[三菱電機]]
* [[神鋼電機]]
* [[MUTOHホールディングス|武藤工業]] (MUTOH)
* [[ローランド ディー. ジー.]] (RolandDG)
* [[桂川電機]] (KIP)
* [[セイコーアイ・インフォテック]] (SIIT)
* [[ミマキエンジニアリング]] (Mimaki)
* [[ジェテック]]
* [[グラフテック]]
* [[RICOH/IBM Info Print Solitions Company]] (IPS)
* [[オセ (企業)|オセ]] (Océ)
* [[スター精密]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Printers}}
* [[印刷]]
** [[モールス符号]] - [[テレタイプ端末]] - プリンターの歴史
* [[プリントサーバ]]
* [[スプーリング]]
* [[複合機]](プリンター複合機)
** [[複写機]] / [[ファクシミリ]] / [[スキャナ]]
* [[インクリボン]] / [[インクカートリッジ]]
* [[ラスターイメージプロセッサ]]
* [[ドットマトリクス]]
* [[裏紙]]
* [[3Dプリンター]]
{{Computer-stub}}
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{{デフォルトソート:ふりんたあ}}
[[Category:プリンター|*]]
[[Category:パソコンの周辺機器]]
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[[Category:印刷]] | 2003-03-04T10:28:28Z | 2023-10-29T08:03:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC |
3,374 | イタリア | イタリア共和国(イタリアきょうわこく、イタリア語: Repubblica Italiana)、通称イタリア(伊: Italia)は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアと海上境界線(英語版)を共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。
イタリアはヨーロッパにおける古代文化の発祥地の一つとして知られ、同時に世界的な文化大国の一国に数えられている。文化・学問・宗教で歴史的に影響力を発揮しており、バチカン市国を首都ローマの領域内に事実上保護し、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオ、ミケランジェロ、コロンブス、マキャヴェリといった偉人たちの故国でもある。かつてのローマ帝国の中枢となる地域であり、またルネサンスやリソルジメントなどの幾つかの世界史的事象の主要な舞台となった。
また、高い人間開発指数を持つイタリアは文化・経済ともに先進国であり、名目GDPでは世界第8位かつそれを購買力平価で補正したものは世界第12位、ユーロ圏ではドイツとフランスに次ぐ第3位の経済規模を持つ経済大国である。
国際連合、北大西洋条約機構、G7、G20、OECD、欧州評議会、地中海連合、パリクラブの一員であり、ヨーロッパにおける四大国「ビッグ4」や、文化的・経済的・政治的に大きな影響を及ぼす列強の一角に数えられる。また、コンセンサス連合の参加国であると同時に主導国である。軍事面では、世界第8位の軍事力を有している。
総面積は30万1338 km(平方キロメートル)で、ロ・スティヴァレ(伊: lo Stivale=ブーツ)と称される地中海に突き出たイタリア半島を中心に、地中海に浮かぶシチリア島とサルディーニャ島を主要な領土としており、いくつかの小島も領有している。北部にはアルプス山脈が、半島に沿ってアペニン山脈が走っており、平野はその間にあるポー平原などに限られ、国土の40%が山岳地帯である。気候は各地ともに温暖で、北部を除き国土の大部分は温帯の地中海性気候に属し、これは農業と歴史に大きな影響を与えてきた。西に港へ適したリグリア海、東には大陸棚が海の幸を豊富にもたらすアドリア海、南東部にはバルカン半島へと繋がるイオニア海があり、地理的に恵まれている。南にはティレニア海があり周辺にはストロンボリ火山やヴェスヴィオ山、エトナ山などの火山が集まっていて、世界有数の地震地帯である。
正式名称はイタリア語で、Repubblica Italiana(レプッブリカ・イタリャーナ)。通称、Italia([iˈtaːlja] ( 音声ファイル) イターリャ)。
公式の英語表記は、Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称、Italy([ˈɪtəli] ( 音声ファイル) イタリ)。
日本語の表記は、イタリア共和国。通称はイタリアであるが、イタリヤと表記されることもある。古くはイタリーとも表記された(発音は英語のItaly、フランス語のItalieに近い)。また、漢字による当て字で、伊太利亜、伊太利、以太利などと表記することもあり、伊と略されることもある。
国名の由来には定説はない。一般的な説として、紀元前6世紀ごろに南イタリアのカラブリア地方で子ウシ(ビタリ)をトーテム像として崇拝していた原住民に由来するといわれる。彼らはビタリ人と呼ばれていたが、その後ビタリがイタリアに変化し、その呼称がローマ人に受け継がれ、現在のイタリア半島に住む人々を指すようになった。中世に「イタリア伯爵領」「イタリア公爵領」と呼ばれるものが存在したが、それは統一的国家をなすものではなかった。政治的に統一された国家として最初にイタリアの名が使用されたのは、ナポレオン支配時代のイタリア共和国 (1802年-1805年) (1803年からイタリアの国名を使用)であり、これが改編されてイタリア王国 (1805年-1814年) となった。1861年のサボイア家による統一によって、ほぼ現在の地理的範囲をもつイタリア国が成立した。
ギリシア時代から都市国家が成立。なお、伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。伝承によれば、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制を開始した。サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、286年にディオクレティアヌスが帝国の統治機構および皇帝位を東西に分割すると、イタリアは西の皇帝権(西方正帝)の管轄となった。5世紀末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝ゼノンによってオドアケルがローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。
オドアケルが493年に東ローマ帝国に滅ぼされたあと、ローマ皇帝アナスタシウス1世によりテオドリックにイタリア王位が授けられて東ゴート王国が設立されたが、その東ゴート王国も東ローマ帝国によって滅ぼされ、553年にイタリアは80年ぶりのローマ皇帝領となった。しかし、帝国にとってもはやイタリアは一属州にすぎず、さらにランゴバルド人の侵入により、ローマのイタリアに対する支配力は大きく低下した。なお、イタリアに常駐した最後のローマ皇帝は7世紀のコンスタンス2世である。彼は南イタリアとアフリカを中心に帝国を再編成しようと意図したが、失敗に終わった。8世紀には、東ローマ帝国の勢力はイタリア半島の南端部にまで後退した。その後は南端部の東ローマ帝国、シチリア島のイスラム教徒、ローマを中心としたローマ教皇領、北部には神聖ローマ皇帝といった勢力が割拠した。このほか多数の都市国家が発展、11世紀になると東ローマに代わりノルマン人が侵入した。これらの中にはイタリアの統一を試みる者もいたが、ローマ教皇庁の思惑もあって分裂状態が続いた。
18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年にナポレオンが失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。
1861年2月、ジュゼッペ・ガリバルディらの戦果を継承したサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一し、1861年3月17日にイタリア王国を樹立した。王名が新生イタリアで1世に戻らないのは、ガリバルディらがナショナリズムを掲げたにもかかわらず、統一イタリアはサルデーニャ王国の版図そのものということにされたからである。1866年8月25日、不平等条約である日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立した。1873年には岩倉使節団がイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアを歴訪しており、当時の様子が『米欧回覧実記』に一部イラストつきで詳しく記されている。
1922年、ローマ進軍クーデターによりファシスト党のベニート・ムッソリーニが首相となる。ムッソリーニは権力の集中を進め、ファシズムによる独裁体制を確立させた。1929年にはローマ教皇庁との間にラテラノ条約を結び、関係を修復する。ムッソリーニ首相とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の指導のもと、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、1935年にはエチオピアを再度植民地化すべく第二次エチオピア戦争によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策をとる。さらに1937年には日本とドイツとともに日独伊防共協定を結び、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には1940年6月に参戦。同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツとともに対米宣戦布告を行った。しかし1943年7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国が北イタリアを支配する状況になる。しかし、1945年5月8日にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。
王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押しした形のサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、大戦終結後の1946年6月2日に行われた共和制への移行を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定された。ウンベルト2世は廃位、サヴォイア家による君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。1948年に、初代大統領にエンリコ・デ・ニコラが就任。その後の冷戦では、社会主義勢力の影響を受けながらも、アメリカ合衆国や西ドイツなどとともに西側諸国の1国として東側諸国と対峙した。主要国首脳会議の参加国であり、現在も政治や経済だけでなく、文化的な側面においても世界的に重要な位置を占める。
国家元首は共和国大統領。選出方法は間接選挙制で、就任条件は50歳以上、任期は7年で再選制限はない。
通常は、内閣や議会の決定に基づく形式的な権限を行使するにすぎないが、首相任命権や議会解散権などを通じて実権を発動する可能性を秘めている。行政は首相率いる内閣が統轄する。首相は大統領が指名し、議会が承認する。各省の大臣は首相の指名に基づき、大統領が任命する。議院内閣制を採用しており、内閣は議会の信任を得なければならない。
「おはよう、今日の首相は誰?」というジョークが広められるほど、首相の交代が頻繁な国として名高く、今もその傾向はおさまっていないが、1990年1月 - 2013年4月の間での首相は9人(延べ13人)と、日本の15人(延べ16人)に抜かれている。ちなみに、同じ議院内閣制の先進国での同期間における就任人数は、ドイツが3人、イギリスとカナダが5人である。
イタリア議会は元老院(上院)と代議院(下院)で構成される両院制(二院制)である。元老院は、任期5年の民選議員(200議席)、および終身議員とで構成される。
終身議員には大統領経験者のほか、科学や芸術などの分野で国の名誉を高めた功労者の中から、大統領が指名した者が就任する。一方、代議院は全て民選の全400議席で、任期5年である。
また日本では衆議院の優越が認められているが、イタリアでは両院の権能は完全対等であり、双方とも大統領によって解散されうる。
2006年6月25 - 26日、憲法改革案を問う国民投票が行われ、開票の結果60%を超す反対で否決された。改革案は、退陣したベルルスコーニ右派連立政権が2005年末、野党・中道左派勢力の反対を押し切って議会を通過させたものである。改革案の中身は、議会の解散権を大統領から首相に移し、保健や教育、警察などの権限を国から州 (regione) に委譲するというものであった。開票結果は、反対が61.7%。そのうち、南部で74.8%、中部で67.7%、北部で52.6%の多数を占めた。投票率は53.6%であった。
2010年7月15日、上院は、ベルルスコーニ政権が提出していた緊急財政法案を賛成170、反対136、棄権0で可決した。政府は、月内にも下院を通過させて法案の成立を目指す。しかし、最大野党の民主党は、16、17日の両日、全国規模の抗議行動を計画している。本法案は5月に提案され、公務員給与増の凍結、省庁予算の削減、地方自治体への交付金削減などの実行によって、今後2年間に財政赤字比率を国内総生産(GDP)比3%以内に下げると発表している。
イタリアの刑事司法は市民6人と裁判官2人が一緒に審理する参審裁判と裁判官だけによる裁判がある。参審裁判は殺人など重大事件が対象で、重罪院で審理される。重罪院の控訴審は重罪控訴院で、参審裁判による。上告審は日本の最高裁にあたる破棄院が担当するが、憲法判断が必要なケースは憲法裁判所に移送される。参審員はイタリア語で「市民裁判官」と呼ばれ、35歳以上60歳以下で一審は中卒以上、控訴審は高卒以上。くじ引きで選んだ市民に希望者を加えた名簿から、3か月ごとに再びくじ引きで選出し、その期間中に起訴された事件を担当する。
2007年現在現役兵約11万人、予備役約3万3,500人が所属。
冷戦期においては、ソ連の黒海艦隊を仮想敵対目標として地中海地域での戦闘行為のため大規模な海軍戦力を擁していた。今日でも海軍重視の傾向は変わらず、法改正によって保有が可能となった軽空母「ジュゼッペ・ガリバルディ」に次いで軽空母「カヴール」が戦列に加わるなど、予算削減で新型戦車の配備が滞りがちな陸軍に比べて一層の強化が進められている。日本の海上自衛隊とは装備面でも共通点が多く、海軍国としての役割も類似している。また、カヴールと入れ替わる形で旧式化しつつあったガリバルディは大規模改修を受けてヘリコプター揚陸艦としての運用が開始されたほか、ガリバルディの後継艦として3万トン級強襲揚陸艦「トリエステ」が現在艤装中である。
4万5,879名の要員からなり、F-16・タイフーンなど一線級の空軍機を保有している。航空機の国産化にも熱心で、アエリタリア(旧フィアット社航空機部門)が開発したG.91軽戦闘機は戦後復興からまもない時期(1956年)でありながら高い性能を誇り、同じく国産にこだわるイギリスやフランスは拒んだものの、ドイツ空軍やポルトガル空軍への採用が決定し、「ジーナ」の愛称で20年ほど前まで長らく愛用されていた。KC-767などのように、世界でイタリアと日本のみが保有する機種もあり、組織間交流も盛んである。
近年はタイフーンに見られるような欧米での共同開発機に意欲を見せ、空母を増産した海軍の意向もあってか、オランダとともにF-35の開発計画でイギリスに次ぐ協力を示している。
正式名称はカラビニエリ (Carabinieri) で、国家憲兵である。日本では、そのままカラビニエリと称するほか、「国家憲兵」「憲兵隊」「国家警察」「国防省警察」「軍警察」などさまざまに訳されている。
平時は各種の警察活動として、警備や事件・事故対応、マフィアや反政府グループなどの犯罪組織の摘発などを担当しており、戦時には戦地での警察・憲兵活動を行う。またテロ対策・要人警護・人質救出などを担当する独自の特殊部隊(国家憲兵隊特殊介入部隊)を保持しており、同部隊はイラク戦争など海外戦争においても戦歴を重ねている。
イタリアは地中海に突き出した長靴型イタリア半島、および周辺の島(サルデーニャ島、シチリア島など。コルシカ島はフランス領)から構成されている。東はアドリア海、西でティレニア海とリグリア海、南でイオニア海と地中海に面している。国境を接する国としては、大陸部では西側をフランス、北側をスイスとオーストリア、東側をスロヴェニア。アドリア海を挟んで、クロアチア、アルバニア、ギリシアなどとも地理、歴史的に結びつきが強い。キリスト教・カトリック教会の治めるバチカン市国があるが、これはイタリアの首都ローマが周囲を囲んでいる。ほかにもアドリア海近くのサンマリノ共和国を包み込むように接する。さらに、スイス領内には飛び地として面積1.7kmほどのカンピョーネ・ディターリアを持つ。
領土内北部ではアルプス山脈が東西に弧を描き、国境をなしている。国境にはマッターホルンや、モンテローザ、モンブランのような高峰があり、イタリアの最高点はフランスとの国境線上のモンブラン頂上付近にある。アルプスは北西部で分岐し、イタリア半島を縦断するアペニン山脈を形成する。アペニン山脈を境に、イタリア半島の気候は、アドリア海側とティレニア海側とでは非常に異なっている。特にアドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつける。
火山国でもあり、特に中部(アブルッツォ州、ラツィオ州)と南部ではしばしば地震が起こる。エトナ山、ヴェスヴィオ山などが有名である。エトナ山はヨーロッパ最大の活火山であり、頻繁に噴火している。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とはみなされておらず数千人が斜面と麓に居住している。イタリアには多くの川があるが、ポー川、アディジェ川、テヴェレ川が上位3位の長さを持つ。テヴェレ川はアルノ川源流近くに源を発し、ローマ市内を抜けて流れることで有名である。
イタリアの地方行政区分の最上単位は、20の州 (regione) である。各州はさらに、110の県 (provincia) に分かれる。各県にはさらに、コムーネ(comune)(市町村と似た行政区分)が存在する。ローマにはさらに、ローマのムニチーピオ(イタリア語版)が存在する。
イタリア国内は気候、土壌、高度が地域差に富んでいるため、旧来さまざまな農作物の栽培が可能である。ポー平原を中心に半島全体で冬小麦を産する。半島南部沿岸で野菜と果物が採れる。イタリアは世界有数のワイン生産国であり、オリーブとオリーブ・オイルの生産量も多い。酪農も主要な産業であり、ゴルゴンゾーラ、パルミジャーノ・レッジャーノをはじめ約50種類のチーズが生産される。
第二次世界大戦以降、工業が急速に発展し、農業国から転換した。重要な工業に、繊維工業と、硫酸、アンモニア、水酸化ナトリウムの製造などの化学工業がある。そのほか自動車、鉄鋼、ゴム、重機械、航空機、家電製品、パスタなどの食料品の製造業が盛ん。工業の中心地はジェノヴァ、ミラノ、ローマ、トリノである。
1958年から1963年にかけてイタリアはGDP年率+6.3%のめざましい経済発展を遂げ、1959年5月25日にイギリスの日刊紙がイタリアの経済復興のめざましさを指して「奇跡の経済」と名付けた。1960年代後半から圧迫されてきた膨大な財政赤字を立て直した。しかしモンテディソンをめぐるスキャンダルをはじめとして、イタリアの政治経済は混乱していった。
1980年代初頭にはバブル経済を経験し、GDPでECの牽引役を担う存在であり、巨大な植民地大国だったイギリスを抜き世界第5位となったものの、1990年にはまた戻っている。1990年、イタリアの銀行制度は欧州共同体に同調し大幅に変更され、公営銀行の削減、外国資本に対する規制緩和が行われた。以後政府は輸出を活性化させ、研究開発の促進よりも為替相場をリラ安に誘導することを選択した。EMU(経済通貨統合)への第1陣参加を実現するため、1993年から政府は大規模な歳出削減策を継続して実施した。その結果、財政赤字のGDP比は94年の9.5%から99年には1.9%にまで改善され、目標としていたEUの財政基準(3.0%以内)を達成することができた。1990年代半ばには産業復興公社(IRI)が分解され、多くの企業が民営化した。1998年12月31日に1ユーロ=1,936.27リラという交換レートが固定された。法定通貨として長年「リラ」が使われてきたが、2002年1月1日からEUの単一通貨ユーロ(EURO、エウロ)の紙幣や硬貨が流通し、リラは2月末をもって法的効力を失った。
2010年欧州ソブリン危機により、EU各国は財政赤字を対GDP比3.0%以内に抑える基準の達成を迫られた。2014年5月、イタリアは財政赤字のGDP比率を低下させる裏技として、麻薬取引や売春、密輸などの地下経済に着目し、これらを2015年からGDP統計に加算すると発表した。2011年のイタリア銀行による推計では、イタリアの地下経済の規模はGDPの10.9%を占める規模とされている。
IMFによると、2018年のイタリアのGDPは2兆722億ドルである。世界8位であり、EU加盟国ではドイツ、フランスに次ぐ3位である。また、同年の1人あたりのGDPは3万2,747ドルである。
イタリアの森林業資源は乏しく、FAOの2017年の統計によれば、森林率は31.97%であり、木材の多くを輸入に頼っている。森林はまず古代ローマ人によって、その後19世紀に大部分が伐採されてしまった。それぞれの目的はマラリア防止と近代化であった。その結果土壌の浸食が進み、林業の発展の障害となってはいたが、近年は状況の好転がみられる。
1970 - 1980年代にヨーロッパ共同体(現・EU)加盟国との貿易が増加したが、イタリアは石炭や石油などの原材料を輸入に依存しているため、貿易赤字が続いていた。しかし90年代初頭、リラ切り下げで、外国市場にとってイタリア製品の価格が低下したため、輸出が増加した。貿易相手国の5分の3近くはEU加盟国で、おもな輸出相手国はドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、スペイン、輸入相手国はドイツ、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ合衆国、スペインなどである。イタリアはヨーロッパの輸出大国の中で、ドイツに伍して輸出が成長している唯一の国である。2008年より過去7年間、ドイツは7.8%、イタリアは7.6%の割合で輸出が成長している。輸出先で成長が著しいのは、南アメリカ(+79.3%)、トルコ(+35%)、OPEC諸国、ロシア、中国である。
イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭を用いた火力発電が生み出しており、13%が水力発電によるものである。イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながら1986年のチェルノブイリ原発事故などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定し、運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。
石油・ガス会社のEni (Eni S.p.A.) はイタリアでもっとも売り上げと利益の多い企業であり、スーパーメジャーの一角を占めている。もとは公営電力会社であったENELはヨーロッパにおける大手電力会社で、地熱発電技術では100年の経験蓄積がある。
戦前からミラノとローマがイタリア金融の中心である。主要銀行としてはEU圏1位の資本を持つウニクレディトなどがある。
イタリア経済が依然として抱える課題は、南部の工業化の遅れである。ミラノやトリノなどの北部は工業化が進んでいるが、南部やサルデーニャなどの島嶼部は農業や観光業や軽工業中心で南北格差が大きい。中心工業地帯はジェノヴァなどで、工業化が遅れている南部のターラントには半官半民の製鉄所があり、第三のイタリアが新たな経済の牽引役となっている。政府による工業化育成の努力も、労働力の問題や、多くの産業がマフィアとの結びつきによって成り立っているため大企業の南部進出が阻まれるといった複雑な現実に直面している。多くの労働者が職を求めて南部から北部へ移住しており(国内移民)、南部で耕作が放棄されるなどして一時期は大きな社会問題となった。
国内移民はルーマニアやポーランドなど、ほかのEU諸国からの移民や中東系の外国人移民が増加した現在では言及されることが少なくなった。しかし依然として北部・中部に比べて産業が乏しい南部・島嶼部という経済格差がある。北部の7州2自治州(ピエモンテ州、リグーリア州、ロンバルディア州、ヴェネト州、エミリア=ロマーニャ州、ヴァッレ・ダオスタ自治州、トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州)、中部4州(トスカーナ州、ウンブリア州、マルケ州、ラツィオ州)はフランスのパリ周辺やドイツ西部の工業地帯に匹敵する経済力を有している。
対する南部5州(アブルッツォ州、カンパニア州、バジリカータ州、プーリア州、カラブリア州)は、戦後復興で著しい経済成長を遂げたアブルッツォ州を除いてポルトガルやギリシャなど欧州後進地域と同程度の経済水準から抜け出せていない。島嶼部2自治州(サルデーニャ自治州、シチリア自治州)では資源豊かな島という似た歴史を持ちながら明暗がはっきり分かれており、情報産業が発展したサルデーニャ島に対してシチリア島は農業中心で犯罪組織による経済への悪影響もいまだ根強い。
イタリアの経済に占める自動車産業の割合は、国内総生産の8.5%にものぼる。国内ではコンパクトカー、エコノミーカーが上位を占め、エコロジカルな自動車の売れ行きが伸びている。輸出車の売上高は800億ユーロ(約10兆4,000億円)規模である。南北格差が要因となり輸出が伸び悩んでいる。フィアットがドイツのクライスラーやアメリカのゼネラルモーターズと提携している。北部の都市モデナにはフェラーリやランボルギーニ、アルファロメオがある。なお、フィアット・パンダは欧州における新車登録台数3万3,593台(2009年3月)でEUトップとなっている。2位はフォルクスワーゲン・ポロ。
19世紀ごろから近代服飾・装飾産業が発展し、20世紀から現在にかけては、服飾ブランドのベネトンやプラダ、グッチ、ジョルジオ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレ、バレンチノ、靴のサルヴァトーレ・フェラガモやトッズ、宝飾品のブルガリなどが世界各国に輸出されている。
イタリアは幼稚園の先端的教育方法でアトリエリスタと呼ばれる芸術的、工芸的活動の専門家を配置し、人間を育成している。ヴァイオリンなどの楽器、ガラス細工や工芸美術品もおもな産業となっている。
ほかにも伝統的に映画産業や観光産業が盛んである。イタリア映画のみならず、イタリアを舞台にした映画が世界中で作られ公開されており、それらの映画が観光産業を後押ししていると評価されている。
世界観光機関によると、2015年イタリアの国際観光客到着数は5位であり、世界経済フォーラムの2017年旅行・観光競争力レポートによるとイタリアの競争力は136か国中8位である。
古くから地中海域の交通の要衝として栄えた。古代ローマのころには歴代執政官によって街道が整備され、それはアッピア街道のように史跡として残っているのみならず「執政官街道」と呼ばれ、現在も使用されている。ローマ帝国時代のローマは、「すべての道はローマに通ず」とさえ呼ばれた。新世界発見後は帝国郵便が整備された。
ムッソリーニ時代よりアウトストラーダ (Autostrada) と呼ばれる有料高速道路網が整備されはじめた。さらに、フィアット社のバックアップもあり高速道路網が全土に敷き詰められている。ただし車が便利と言い切れない。在ミラノ日本国総領事館は、「イタリアにおける運転手のマナーはほかの国と変わらず自己中心的で交通ルールはあってないようなもの、交通事故の危険性も日本に比較してはるかに高い」と説明している。
フェッロヴィーエ・デッロ・スタートのグループ会社であるトレニタリアと呼ばれる旧国鉄 (Ferrovie dello Stato) の業務を引き継ぐ民営鉄道会社が全土を網羅し、ローマ-フィレンツェ間の高速新線(ディレティッシマ)を中心にユーロスター・イタリアと呼ばれる高速列車も多数運転されている。旧国鉄以外ではヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリ(NTV)、チルクムヴェスヴィアーナ鉄道やスッド・エスト鉄道などがある。
また、ローマ、ミラノ、ナポリなどの主要都市には地下鉄が整備されている。一部の都市では路面電車やケーブルカーが走っており、市民の足となっている。
ローマ帝国時代前から地中海海域の海運の要所として重要な地であったこともあり、海運が古くから盛んである。現在も地中海クルーズの拠点とされることも多く、有名な港としてはナポリやヴェネツィア、ジェノヴァ、ブリンディジなどがある。
政府が主要株主のアリタリア航空が、イタリアのフラッグキャリアとして国内線と域内および中長距離国際線を運航するほか、イタリアを本拠地として運航を行う航空会社として、メリディアーナ航空や、エア・ドロミティなどの航空会社があり、それぞれが国内線や域内国際線を運航している。
現在、日本との間にはアリタリア航空が成田国際空港とローマおよびミラノの間に直行便を運航させている。
また、パリやアムステルダム、チューリッヒなどのヨーロッパの主要都市や、バンコクや香港、ドバイなどのアジアの主要都市経由で行くこともできる。
イタリアにおける科学と技術の歴史は古く、その起源と発祥は古代ローマ時代にまで遡ることが出来る。イタリアは何世紀にも亘って、生物学や物理学、化学や数学、天文学ならびにその他の科学技術において多くの重要な発明と発見を生み出しており、科学界を自国のみならず国際的に発展させて来ている。
少子高齢化が進み、1人の高齢者を2.9人で支える高齢社会に突入しており(2012年)、OECD各国では日本、ドイツの次に少子高齢化が進行している。
民族構成(イタリア)
古代ローマ人を祖先とするイタリア民族が国民の主流を占める。国家公用語のイタリア語がロマンス諸語に属することや、ローマ人がラテン人を中心とした勢力であったことから一般的にラテン系と考えられることが多い。しかし、ほかの欧州諸国と同じく単純化できるものではなく、ラテン人以外のイタリック人、エトルリア人、フェニキア人、古代ギリシャ人、ケルト系、ゲルマン系など多様な祖先が民族の形成に影響を与えている。また近世・近代におけるフランス系、オーストリア系、スペイン系との関わりもある。
イタリア統一後、標準語の制定、方言や地方言語の廃止、徴兵制や初等教育の普及によって国民の均一化を進め、段階的に民族意識の浸透が進んだ。イタリア民族主義(英語版)の高まりは未回収のイタリアを求める戦争を生み、民族の完全統合を目指す民族統一主義(イレデンティズム)の語源ともなった。イタリアにおけるナショナリズムがもっとも大きく高まったのは第一次世界大戦であり、国粋主義や民族運動が高揚した。こうした流れは最終的に20年以上にわたって続くファシズム政権を生み出し、全体主義体制によってイタリア化(英語版)と呼ばれる民族浄化政策が推進された。
イタリア国内における少数民族としては南チロルのチロル人などが挙げられる。かつてイストリア半島などではスラブ系の住民も存在したが、上記の通りファシズム体制下で徹底した弾圧を受けた。ファシズム政権後の現代では一定の自治権を認められつつあるが、統一以来の集権政策も継続されている。近年は地中海やアドリア海に面しているという要素から移民や難民の流入が続き、失業や貧困、治安問題、生活習慣や宗教上の軋轢など大きな社会問題を引き起こしている。
移民大国のフランスやドイツには及ばないものの、2016年における外国人人口は502万6,153名を数え、イタリア国民の1割近くに達しつつあり、移民2世・3世の定着も進んでいる。移民グループでもっとも多いのは同じローマ人を祖先とするルーマニア人で、2014年時点で100万名以上が移民しており、国内で批判の対象とされることも多い。次いで地中海やアドリア海を越えて訪れるモロッコ人とアルバニア人が挙げられる。アジア系では中国系移民(華人)がトップを占め、数年で倍近く増加している。
対テロ戦争、アラブの春、シリア内戦、イスラム国の台頭などで中東が混乱してからは、海路でイタリアに不法上陸する者が急増した。2013年10月には、ソマリア人とエリトリア人をおもに載せた船が沈没、368人が死亡する事件があり、それ以降、イタリア海軍は不法移民を救助する活動に力を入れているが、国民の間では難民への反感も高まっている。
公用語はイタリア語。エスノローグによる調査では、イタリア国民のうち約5,700万名がイタリア語を使用している。欧州連合による調査では、イタリア語を母国語としているのはEU圏内で約6,500万名になっている。
等語線のラ・スペツィア=リミニ線があり、この線の北西の北イタリア(西ロマニアの側)と、南東にあたる中南部のイタリア(東ロマニアの側)では言葉が異なる。東ロマニアに分類される中部イタリアのトスカーナ州の言葉を中心に標準語が形成されている。北イタリアではフランス語などに近い西ロマニアの言葉であるガロ・イタリア語を使用する。
イタリアは歴史的に別の国に分かれていた期間が長いため方言の差が激しいとされているが、そもそも言語成立の過程にも複雑な事情が絡んでいる。古代ローマで話されていた言葉(ラテン語)の俗語形である「俗ラテン語」が、ローマ消滅以降にかつての統治領(イタリア・フランス・スペインなど)ごとに統一性を失って方言化した際、イタリア各地のラテン語方言がイタリア地方特有の変化を遂げたと判断した人々が、近世になってこれらをひとつの言語体系(イタリア語)と定めたことに起因する。
言語と言語の違いを研究する作業は古くから言語学の分野で行われていたが、どの程度の類似性をもって「同じ系統の言語」(方言)とするのか、あるいは「異なる系統の言語」とするのかの客観的判断はほとんど不可能で、結局は個々人の価値観に頼るしかなく、民族問題や領土主張との兼ね合いもあって政治的判断が下されるケースが多い(「言語とは軍に守られし方言である」という皮肉も存在する)。よってイタリア語も方言の集合体とするか、無数の独立言語とするかは政治的に決定され、当時の民族主義政策に基づいて方言であるとされた。近年はEU統合の流れから欧州各国で方言を地域言語と認める動きが芽生え始めており、イタリアでも方言を地域言語として承認するべきかどうか盛んに意見が重ねられている。こうした現象はイタリアだけでなく、同じ経緯を持つほかのロマンス諸語でも発生しているほか、ゲルマン語派のドイツ語でも方言の尊重と権利拡大が進められている。
現在、エスノローグはイタリア共和国内に以下の少数言語の存在を認めている。
一部の特別自治州、ヴァッレ・ダオスタ州でフランス語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ではドイツ語も使用する。フリウリ地方ではフリウリ語、南ティロルではラディン語という、イタリア語よりラテン語に近いレト・ロマンス語系の言葉を母語とする住民もいる。また、最南部のカラブリア州には東ローマ帝国統治下(マグナ・グラエキア)の影響を残すギリシャ語系のグリコ語の話者も存在する。さらに、オスマン帝国時代のアルバニアからイタリア南部に定着した人々の子孫はアルバニア語の方言を母語とする。サルデーニャ島では、イタリア語系のサルデーニャ語(イタリア語の一方言とする説もある)が話される。アルゲーロではアラゴン=カタルーニャ連合王国支配の影響からカタルーニャ語の方言が話される。
婚姻においては基本的に夫婦別姓となっているが、結合姓も認められている。
子の姓に関しては、伝統的には父親の姓としていたが、父親の姓としなければならないという法律は存在しないとの理由で、母親の姓を子の姓としてよいことが裁判を通し2012年に認められた。
また、イタリアはきわめて離婚が少ない国として知られている。
2014年の推定では、キリスト教のカトリック教会が75.2%と最大で、残りの大半が無宗教または無神論者で、数%のムスリムのほか、その他宗教が1%未満となっていた。
4分の3と最大多数のカトリックであるが、信条はリベラルであり、カトリック教会の教義に反して同棲・離婚・妊娠中絶などについては大多数が肯定的であるとの報告も出ている。
プロテスタントは少数で、アラブ系移民の増加により、イスラム教は近年増加傾向にある。
イタリアの医療は、1978年より税金を原資とするユニバーサルヘルスケアが施行されており、公営・民営の混合制度となっている。公営制度はServizio Sanitario Nazionaleと呼ばれる公費負担医療であり、保健省が方針を定め、現場は地方自治体が運営している。保健支出は2008年にはGDPの9.0%ほどであり、OECD各国平均の8.9%より若干上であった。2000年にはWHOより、医療制度の効率性は世界2位、市民の保健状態については世界3位と評されている。
平均余命は82.7歳、2013年には世界8位であった。健康上のリスクとしては、イタリアはほかの西欧各国と同様に肥満者が増えており、人口の34.2%が太りすぎと自己申告、また9.8%が肥満だと自己申告している。日常的な喫煙者は2008年では人口の22%であり、2005年からは公共のバー、レストラン、ナイトクラブにおいては隔離された喫煙室が設けられるようになった。
イタリアの治安は、ヨーロッパ諸国の中で最も不安定さが顕著な状態となっている。イタリア政府は犯罪組織(マフィア)の取締りの強化ならびに不法移民問題の解消などを中心とした総合的な治安対策に取り組んでおり、その甲斐もあって効果が現れて来ている。
2016年のイタリア内務省の統計によると、犯罪認知件数は約250万件で前年と比較すると7.99%減少している。しかし、それに反してスリが約16万件(前年比6.39%減)、ひったくりが約1.7万件(前年比6.22%減)と多数発生していることから、イタリアに滞在中はこれらの犯罪に対して用心と予防が必要となって来る。
また、外国人観光客の犯罪被害報告が多く寄せられており、都市部ではローマやミラノ、フィレンツェ、ナポリなどの観光地に被害が集中している。これらの観光地における日本人観光客などの犯罪被害は依然として多く、窃盗(車上荒らしや置き引きやひったくり、スリ)をはじめとして強盗(睡眠薬強盗など)や押し売り、バーのぼったくり行為が発生しており、さらには警察官になりすました外国人犯罪者が偽札や違法薬物の捜査などと称し、所持品検査を装って現金やクレジットカードを窃取する事件なども相次いで発生していることから滞在中の外出や散策は常に警戒を強める姿勢が求められている。
イタリアにおける法執行は国家レベルで集中化されている面が強く、複数の警察組織やその他の公的機関が様々な公務や任務に参与している。また、法執行制度も複雑であると捉えられており、実際に少数の限定された地方機関からの助力を得たり、複数の省庁によって執行を実施されていることが多い。
イタリアにおける法執行機関・警察機構は、複合であり、国家レベルの組織のみでも5つある。その他に、地方自治体の警察組織として、県レベルの地方警察 (Polizia Provinciale)、コムーネレベルの自治体警察 (Polizia Municipale) がある。
国家レベルの警察組織は以下のものである。
このほか、イタリア沿岸警備隊がイタリア海軍の傘下にあり、海上交通整理、捜索救難、漁業監視、不法移民に対する海上監視などを行っている。
歴史が示すように、マフィアはイタリアの経済と社会に多大な影響力を持っている。マフィアとは元来 中世後期にシチリアで生まれた秘密結社で、親族組織からなり、冷酷な暴力とオメルタという厳しい掟で知られる。
19世紀後半にはシチリアの田園地帯を支配し、地方当局への介入、ゆすり、市民に対するテロ活動を行っていた。戦間期はムッソリーニがマフィアを弾圧したため、彼らは移民に混じって北米に渡った。この時代を除いて、マフィアはイタリア南部を中心に合法・非合法活動を展開した。合衆国で服役中のラッキー・ルチアーノが第二次世界大戦のハスキー作戦に協力してから、マフィアは戦後の国際政治にまで関係するようになった。そして1970年代までに世界の代表的な麻薬のヘロイン取り引きの大部分がマフィアの支配下に入った。Confesercentiの報告書で、マフィアの総売上高は900億ユーロに相当するという。この犯罪収益は資金洗浄の対象である。
北イタリアのトスカーナ地方はルネサンス発祥の地であり、またその中心地でもあった。この影響下で数多くの芸術家が輩出され、同時に作品も制作された。詳しくはルネサンスの項を参照されたい。
また、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』などオペラや音楽なども多く知られる。民衆音楽ではカンツォーネと呼ばれるナポリの歌謡曲が有名である。バレエの発祥の地ともされる。現代においてもノーベル賞作家を輩出し、映画においても絶えず世界的な作品を送り出している。
イタリア料理は地方色が強く各地方料理の集合体のようなものであり、北部はバターやチーズを多く使い、南部はトマトやオリーブオイルを多用する傾向がある。また沿岸部は魚を食べるが、内陸部はほとんど食べない、シチリア島はマグリブの食文化の影響があり、北東部はオーストリア料理やハンガリー料理など中欧に近い食文化があるなど地域色豊かである。
おもにパスタやパンを主食とし、北部のポー川流域では米をよく食べる。北部の一部地域にはパンの代用としてトウモロコシの粉でできたポレンタを食べる地域もある。イタリア料理のピザなどもある。
食事にワインを合わせる習慣があり、基本的にはその土地のワインを飲む。また、サラミ、ハムなどの肉製品、チーズの種類の豊富なことも特徴である。コーヒーの消費も多く、イタリア式のいれ方にはエスプレッソ、カプチーノ、カフェ・ラッテが有名。一方、ヨーロッパの国としては珍しくタコも食べる。
近代イタリア語の基礎はフィレンツェの詩人ダンテ・アリギエーリによって創設され、彼の偉大な作品『神曲』は中世ヨーロッパで最高の文学作品だと考えられている。イタリアはそれ以外にも祝福された文学者に不足しなかった。例を挙げるならジョヴァンニ・ボッカチオ、ジャコモ・レオパルディ、アレッサンドロ・マンゾーニ、トルクァート・タッソ、ルドヴィーコ・アリオスト、フランチェスコ・ペトラルカのような人物の名が挙げられ、彼らのもっとも知られた表現の媒体は彼らがイタリアで生んだソネットだった。近代の文学者であり、ノーベル文学賞受賞者には、1906年受賞の国民主義詩人ジョズエ・カルドゥッチ、1926年受賞の写実主義作家のグラツィア・デレッダ、1934年受賞の近代劇作家ルイージ・ピランデッロ、1959年受賞の詩人サルヴァトーレ・クァジモド、1975年受賞のエウジェーニオ・モンターレ、1997年受賞の風刺家かつ劇作家ダリオ・フォの名が挙げられる。
ルネサンスの時代には、ジョルダーノ・ブルーノやマルシリオ・フィチーノ、ニッコロ・マキャベリ、ジャンバティスタ・ヴィコのような傑出した哲学者が現れた。
20世紀前半において、イタリアではベネデット・クローチェやジョヴァンニ・ジェンティーレによって新ヘーゲル主義が新観念論に昇華した。ジェンティーレの哲学はファシズムの理論的支柱となった。そのほかにも特筆されるべき哲学者として、マルクス主義の新たな読み方を発見し、サバルタンやヘゲモニーといった概念につながる思想を生み出したアントニオ・グラムシや、市民社会論的にヘーゲルを読み直したジョエーレ・ソラーリが挙げられる。
20世紀後半においてはマルチチュードを新たな概念として昇華したマルチチュード学派のアントニオ・ネグリや、ホモ・サケル論で知られるジョルジョ・アガンベンなどが活躍している。
現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることからもわかるように、イタリアはルネサンス音楽の後期からバロック音楽、古典派音楽の時代において西洋音楽の中心地であった。ルネサンス音楽ではジョヴァンニ・ダ・パレストリーナが知られている。
バロック音楽初期ではクラウディオ・モンテヴェルディ、中期ではアレッサンドロ・スカルラッティ、アルカンジェロ・コレッリ、後期ではアントニオ・ヴィヴァルディが名高い。
古典派音楽時代も当時としてはイタリアが音楽の中心地であったが、現代の視点から見れば、18世紀終盤からウィーン古典派の台頭、続くヨハン・ゼバスティアン・バッハの復権などによって主導権はドイツ・オーストリ圏に移った。古典派音楽時代のイタリアの作曲家にはドメニコ・チマローザ、ルイジ・ボッケリーニなどがいるが、ウィーン古典派に比べ、現代では演奏機会は比較的少ない。
ロマン派音楽時代もオペラに関してはイタリア音楽は人気を集め、前期においてはジョアッキーノ・ロッシーニ、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ、ガエターノ・ドニゼッティらが活躍した。中期においてはジュゼッペ・ヴェルディ、後期にはジャコモ・プッチーニらの作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、長年の財政難からカンパニーを維持できない歌劇場が多く、現在では上演数に関してはドイツに3倍の差をつけられてしまった。首都のローマ歌劇場すら今世紀に入って管弦楽団と合唱団の全員解雇が宣告されたことがある)。
一方で、交響曲など器楽曲分野では19世紀以降は発展が滞り、20世紀初頭の近代音楽の時代に入ってオットリーノ・レスピーギやジャン・フランチェスコ・マリピエロらが魅力的な作品を発表したが、既に音楽発展の中心地ではなくなっていた。
現代音楽においてはルイジ・ノーノやルチアーノ・ベリオが名高い。
ルネサンス後期のイタリア美術をマニエリスムという。それ以降、イタリア独自性は作品から消えてしまった。
19世紀後半、色彩豊かなマッキア派が登場した。20世紀はじめに未来派という好戦的なモードが生まれた。1910年代は形而上絵画という抽象画の量産が社会不安を象徴した。イタリアらしさは外圧に原像をかき消されて表現できなくなっていった。
第二次世界大戦後にアルテ・ポーヴェラやトランスアバンギャルドといった美術運動がみられた。
イタリア映画の歴史はリュミエール兄弟が活動写真の公開を始めてからわずか数か月後に始まった。最初のイタリア映画は、教皇レオ13世がカメラに祝福して見せた数秒間のものだった。イタリアの映画産業は1903年から1908年の間に3つの映画会社とともに生まれた。ローマのチネス、トリノのアンブロシオ、イタラ・フィルム社がそれである。ほかの会社はすぐにミラノやナポリに設立された。まもなくこれら最初の会社は公正な制作力に達し、作品はすぐに外国に売られていった。映画はのちにベニート・ムッソリーニによって第二次世界大戦までプロパガンダのために使われた。
戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年ごろの芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、セルジオ・レオーネ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ダリオ・アルジェントなどの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。お国柄を生かした歴史劇や、日本での紹介は少ないが喜劇の伝統も厚い。世界の映画史に残る作品としては、『甘い生活』『続・夕陽のガンマン』『自転車泥棒』などが挙げられる。
音楽
文学
映画
漫画
イタリアのファッションは、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、日本のファッションと並ぶ、世界で最も重要な服飾文化の1つと見なされている。
イタリアは歴史上、非常に多様かつ幅広い建築様式を持っており、その起源は紀元前のローマ帝国時代にまで遡ることが出来る。
また、1861年まで同国地域が小国の設立など様々な形で分割されていたため、時代や地域で分類することは簡単に出来ないものとなっており、ヨーロッパにおける建築のカテゴリーでも複雑化した状態となっている。
イタリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が45件、自然遺産が4件存在している(2013年現在)。2014年時点で、世界遺産がもっとも多い国である。
この他には、各州に「州の記念日」と呼ばれる祝日が存在している。なお、それらの祝日は必ずしも休日として扱われているわけではないことを留意する必要がある。
イタリアでは伝統的にサッカー(カルチョ)が最も人気のスポーツであり、その他にもF1やミッレミリアなどのモータースポーツも人気である。さらに自転車競技やマリンスポーツ、プロリーグもあるバレーボールなども盛んである。また、北部山岳地域にコルティーナ・ダンペッツォなどのスキーのリゾートが多数あることから、ウィンタースポーツも人気である。中部にはアペニン山脈があり、登山も盛んとなっている。近年、シックス・ネイションズに加わった影響もありラグビーも人気が高まっている。バスケットボールなどのアメリカ発祥のスポーツも、他のヨーロッパ諸国に比べると盛んである。
カルチョと呼ばれる16世紀のイタリアに起源を持つフィレンツェ古代サッカー発祥の地として知られ、イングランドのフットボールと双璧の存在となっている。イタリアは数多くのスター選手を輩出してきた強豪国であり、FIFAワールドカップにはこれまで全22回中18回出場し4度の優勝を達成しており、準優勝にも2度輝いている。さらにUEFA欧州選手権でも、2度の優勝と2度の準優勝の実績を誇る。
イタリアサッカー連盟(FIGC)によって編成されるサッカーイタリア代表は、ユニフォームの青い色からアズーリと呼ばれている。イタリア語で「鍵をかける」という意味の、カテナチオと呼ばれる鉄壁の守備をベースとして現在に至る。しかし近年は攻撃陣のタレントも豊富で、かつての守備だけのチームではなくポゼッションを重視したチームになりつつある。また、伝統的に綿密な戦術を重んじる傾向があり、アリゴ・サッキやジョバンニ・トラパットーニなどの名将が、現代サッカーにおけるフォーメーションを考案してきた。
1898年に創設されたセリエAは世界最高峰のサッカーリーグの一つであり、UEFAチャンピオンズリーグではACミランが7度、インテル・ミラノが3度、ユヴェントスが2度の優勝を果たしている。コッパ・イタリアと呼ばれる国内のカップ戦も行われている。また、日本人選手でセリエAのビッグクラブに在籍した事があるのは、中田英寿、長友佑都、本田圭佑の3名である。
イタリア国内には欧州屈指の強豪リーグである、レガ・バスケット・セリエAと呼ばれるプロバスケットボールリーグが存在している。2006年にNBAドラフト1位指名されたアンドレア・バルニャーニは、NBAの外国人としては史上2人目、ヨーロッパ人としては史上初となった。イタリアバスケットボール連盟により派遣されるバスケットボールイタリア代表は、これまでオリンピックに13回、ワールドカップ(旧:世界選手権)に9回出場している。2004年のアテネ五輪では、アメリカの銅メダルを上回る「銀メダル」を獲得した。さらにユーロバスケットでは、1997年大会で銀メダル、1999年大会で金メダル、2003年大会では銅メダルを獲得している。
多数の自動車・バイクメーカーを持つイタリアは、モータースポーツの創成期から多くのコンストラクターとレーシングドライバーを輩出してきた。また、AGVやアルパインスターズといった装備品メーカーも多くイタリアに存在している。F1にはアルファロメオ、マセラティ、フェラーリが1950年の開幕年から参戦。スクーデリア・フェラーリの創業者であるエンツォ・フェラーリは、エミリア=ロマーニャ州・モデナ近郊のマラネッロに拠点を構え、「北の教皇」の異名をとった。1950年代でアルファロメオ・マセラティは撤退してフェラーリのみが残り、現在まで唯一開幕から撤退せず参戦しているメーカーとして名を馳せている。
フェラーリは2000年代前半に黄金時代を築いた「皇帝」ミハエル・シューマッハなど、多くのワールドチャンピオンを輩出している。アルファロメオは2019年にザウバーを買収して復活した。またアルファタウリ(旧:トロ・ロッソ)は、ミナルディを買収して成立した経緯から、非イタリア系でありながらイタリアを拠点としている珍しいF1チームである。また、レーシングコンストラクターのダラーラは、インディカーやスーパーフォーミュラ含む現在世界各地域のワンメイクフォーミュラのシャシー供給を独占している。
WRCではフィアットとランチアが活躍(ランチアの実働部隊はアバルトであった)。特にランチアはラリー037、デルタ・インテグラーレといった名車を多く世に送り出し、現在でも破られていないマニュファクチャラーズ選手権6連覇という偉業をなしとげた。しかしグループA規定を最後に撤退し、以降はアバルトがスーパー2000やグループR-GTにプライベーター向けマシンを細々と供給しているのに留まっている。スポーツカーレースではフェラーリ、ランチア、ランボルギーニが活躍。フェラーリは1940年代~1960年代に何度かル・マン24時間レースで総合優勝を経験し、以降も現在までGTマシンによるプライベーター(ワークス支援含む)の参戦が続いている。
また、2021年からハイパーカーでル・マンに参戦するアメリカのスクーデリア・キャメロン・グリッケンハウスは、イタリアのチームが主体となってマシン製作やチームオペレーションを行っている。なお、日本人ドライバーでイタリアのワークス・チーム入りを果たしたのは、2013年の小林可夢偉が唯一の例である。
2輪ロードレースの世界ではドゥカティ、アプリリア、MVアグスタなどが知られる。MVアグスタは黎明期のロードレース世界選手権(現MotoGP、旧称WGP)において活躍し、空前絶後のライダースタイトル17連覇を達成している。その後MVアグスタは消滅したため、長らく日本メーカーの支配が続いているが、それでも2007年と2020年にドゥカティがコンストラクターズタイトルを獲得している。またヤマハのMotoGPチームは本拠地をイタリアに構えている。
スーパーバイク世界選手権では、ドゥカティのVツイン(V型2気筒)エンジンが規則の優遇も利用して一時期黄金時代を築いた。しかし規則が見直されて4気筒が頭角を表して以降は徐々にタイトルから遠ざかっている。ライダーとしてはジャコモ・アゴスチーニがMVアグスタでWGP500ccクラスと350ccクラスの7連覇という偉業を達成している(このうち5連覇は500ccと350cc同時であった)。MotoGPに改称後はバレンティーノ・ロッシが5年連続ワールドチャンピオンとなった。ほかにもフランコ・ウンチーニ、マルコ・ルッキネリ、リベロ・リベラッティ、ウンベルト・マセッティといった最高クラスでの王者がいる。
ロードレースでは、三大グランツールの一つであるジロ・デ・イタリア、モニュメンツのミラノ〜サンレモ、イル・ロンバルディアが開催されるなど人気は高い。20世紀前半にはアルフレッド・ビンダ、ジーノ・バルタリ、ファウスト・コッピなどが活躍した。20世紀終盤から21世紀にかけては、総合系ではマルコ・パンターニ、ジルベルト・シモーニ、イヴァン・バッソ、ヴィンチェンツォ・ニバリ、スプリンターではマリオ・チポッリーニ、アレッサンドロ・ペタッキ、エリア・ヴィヴィアーニ、ジャコモ・ニッツォーロといった強豪選手を次々と輩出している。
イタリアも競馬が盛んな国のひとつであったが、21世紀のユーロ危機以降は賞金不払い問題など危機的な状況に陥っており、サラブレッド生産頭数が4分の1に落ち込んでいる。歴史のあるミラノ大賞典や伊ダービーといった大競走もG1の格付けを維持できていない。平地競走より人気のあった繋駕速歩競走も状況は悪く、スタンダードブレッドの生産頭数も半減している。以後イタリア競馬は崩壊しているものの、かつてその規模に似つかわしくないほど強力な競走馬を輩出した歴史を持つ。20世紀世界最強馬の候補として常に言及されるリボー、非常に人気のあった競走馬であるヴァレンヌの2頭は世界の競馬関係者に記憶される存在である。また、14戦不敗のネアルコは競走馬としてはリボーほどの評価は得ていないが、その子孫は強力に繁栄してその血を持たないサラブレッドはほとんどいない状況となっている。
イタリアはバレーボールも盛んで、特にトップリーグであるセリエAは世界的に見ても非常に珍しい「バレーボールのプロリーグ」である。この他にも、カップ戦であるコッパ・イタリアなど多くの大会が行われている。かつては日本からも、大林素子や吉原知子などといったトップ選手がイタリアに渡りプレーしていたことがある。イタリア代表も、男子チーム・女子チーム共に世界選手権や欧州選手権の優勝経験があり、欧州の強豪チームの一角を占める。
イタリアは野球も強豪であり、過去5回のwbcの全ての本戦に出場している。2023年は初のベスト8入りを果たした。国内にも野球セリエ・Aが行われており、欧州選手権やチャンピオンシップにも多く出場している。
また、北にはアルプス山脈、本島にはアペニン山脈、その他エトナ山などイタリアは様々な山岳地域に恵まれているので登山も盛んである。モンブラン初登頂をし、近代登山を築いたJ・バルマやM・G・パカールなどをはじめ、ラインホルト・メスナーやスキー登山家でもあるマッテォ・ペドリアーナ、グイド・ジャコメッリなどが有名である。さらに、日本ではマイナーな山スキーの大会が冬頻繁に行われており、南チロルやアオスタを中心に上記の山脈に近い地域では山スキーのメッカである。上記のペドリアーナ、ジャコメッリもその中の一人である。 | [
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"text": "イタリア共和国(イタリアきょうわこく、イタリア語: Repubblica Italiana)、通称イタリア(伊: Italia)は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアと海上境界線(英語版)を共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。",
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"text": "イタリアはヨーロッパにおける古代文化の発祥地の一つとして知られ、同時に世界的な文化大国の一国に数えられている。文化・学問・宗教で歴史的に影響力を発揮しており、バチカン市国を首都ローマの領域内に事実上保護し、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオ、ミケランジェロ、コロンブス、マキャヴェリといった偉人たちの故国でもある。かつてのローマ帝国の中枢となる地域であり、またルネサンスやリソルジメントなどの幾つかの世界史的事象の主要な舞台となった。",
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"text": "また、高い人間開発指数を持つイタリアは文化・経済ともに先進国であり、名目GDPでは世界第8位かつそれを購買力平価で補正したものは世界第12位、ユーロ圏ではドイツとフランスに次ぐ第3位の経済規模を持つ経済大国である。",
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"text": "国際連合、北大西洋条約機構、G7、G20、OECD、欧州評議会、地中海連合、パリクラブの一員であり、ヨーロッパにおける四大国「ビッグ4」や、文化的・経済的・政治的に大きな影響を及ぼす列強の一角に数えられる。また、コンセンサス連合の参加国であると同時に主導国である。軍事面では、世界第8位の軍事力を有している。",
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"text": "総面積は30万1338 km(平方キロメートル)で、ロ・スティヴァレ(伊: lo Stivale=ブーツ)と称される地中海に突き出たイタリア半島を中心に、地中海に浮かぶシチリア島とサルディーニャ島を主要な領土としており、いくつかの小島も領有している。北部にはアルプス山脈が、半島に沿ってアペニン山脈が走っており、平野はその間にあるポー平原などに限られ、国土の40%が山岳地帯である。気候は各地ともに温暖で、北部を除き国土の大部分は温帯の地中海性気候に属し、これは農業と歴史に大きな影響を与えてきた。西に港へ適したリグリア海、東には大陸棚が海の幸を豊富にもたらすアドリア海、南東部にはバルカン半島へと繋がるイオニア海があり、地理的に恵まれている。南にはティレニア海があり周辺にはストロンボリ火山やヴェスヴィオ山、エトナ山などの火山が集まっていて、世界有数の地震地帯である。",
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"text": "正式名称はイタリア語で、Repubblica Italiana(レプッブリカ・イタリャーナ)。通称、Italia([iˈtaːlja] ( 音声ファイル) イターリャ)。",
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"text": "公式の英語表記は、Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称、Italy([ˈɪtəli] ( 音声ファイル) イタリ)。",
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"text": "日本語の表記は、イタリア共和国。通称はイタリアであるが、イタリヤと表記されることもある。古くはイタリーとも表記された(発音は英語のItaly、フランス語のItalieに近い)。また、漢字による当て字で、伊太利亜、伊太利、以太利などと表記することもあり、伊と略されることもある。",
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"text": "国名の由来には定説はない。一般的な説として、紀元前6世紀ごろに南イタリアのカラブリア地方で子ウシ(ビタリ)をトーテム像として崇拝していた原住民に由来するといわれる。彼らはビタリ人と呼ばれていたが、その後ビタリがイタリアに変化し、その呼称がローマ人に受け継がれ、現在のイタリア半島に住む人々を指すようになった。中世に「イタリア伯爵領」「イタリア公爵領」と呼ばれるものが存在したが、それは統一的国家をなすものではなかった。政治的に統一された国家として最初にイタリアの名が使用されたのは、ナポレオン支配時代のイタリア共和国 (1802年-1805年) (1803年からイタリアの国名を使用)であり、これが改編されてイタリア王国 (1805年-1814年) となった。1861年のサボイア家による統一によって、ほぼ現在の地理的範囲をもつイタリア国が成立した。",
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"text": "ギリシア時代から都市国家が成立。なお、伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。伝承によれば、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制を開始した。サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、286年にディオクレティアヌスが帝国の統治機構および皇帝位を東西に分割すると、イタリアは西の皇帝権(西方正帝)の管轄となった。5世紀末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝ゼノンによってオドアケルがローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。",
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"text": "オドアケルが493年に東ローマ帝国に滅ぼされたあと、ローマ皇帝アナスタシウス1世によりテオドリックにイタリア王位が授けられて東ゴート王国が設立されたが、その東ゴート王国も東ローマ帝国によって滅ぼされ、553年にイタリアは80年ぶりのローマ皇帝領となった。しかし、帝国にとってもはやイタリアは一属州にすぎず、さらにランゴバルド人の侵入により、ローマのイタリアに対する支配力は大きく低下した。なお、イタリアに常駐した最後のローマ皇帝は7世紀のコンスタンス2世である。彼は南イタリアとアフリカを中心に帝国を再編成しようと意図したが、失敗に終わった。8世紀には、東ローマ帝国の勢力はイタリア半島の南端部にまで後退した。その後は南端部の東ローマ帝国、シチリア島のイスラム教徒、ローマを中心としたローマ教皇領、北部には神聖ローマ皇帝といった勢力が割拠した。このほか多数の都市国家が発展、11世紀になると東ローマに代わりノルマン人が侵入した。これらの中にはイタリアの統一を試みる者もいたが、ローマ教皇庁の思惑もあって分裂状態が続いた。",
"title": "歴史"
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"text": "18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年にナポレオンが失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。",
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"text": "1861年2月、ジュゼッペ・ガリバルディらの戦果を継承したサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一し、1861年3月17日にイタリア王国を樹立した。王名が新生イタリアで1世に戻らないのは、ガリバルディらがナショナリズムを掲げたにもかかわらず、統一イタリアはサルデーニャ王国の版図そのものということにされたからである。1866年8月25日、不平等条約である日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立した。1873年には岩倉使節団がイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアを歴訪しており、当時の様子が『米欧回覧実記』に一部イラストつきで詳しく記されている。",
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"text": "1922年、ローマ進軍クーデターによりファシスト党のベニート・ムッソリーニが首相となる。ムッソリーニは権力の集中を進め、ファシズムによる独裁体制を確立させた。1929年にはローマ教皇庁との間にラテラノ条約を結び、関係を修復する。ムッソリーニ首相とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の指導のもと、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、1935年にはエチオピアを再度植民地化すべく第二次エチオピア戦争によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策をとる。さらに1937年には日本とドイツとともに日独伊防共協定を結び、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には1940年6月に参戦。同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツとともに対米宣戦布告を行った。しかし1943年7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国が北イタリアを支配する状況になる。しかし、1945年5月8日にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。",
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"text": "王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押しした形のサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、大戦終結後の1946年6月2日に行われた共和制への移行を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定された。ウンベルト2世は廃位、サヴォイア家による君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。1948年に、初代大統領にエンリコ・デ・ニコラが就任。その後の冷戦では、社会主義勢力の影響を受けながらも、アメリカ合衆国や西ドイツなどとともに西側諸国の1国として東側諸国と対峙した。主要国首脳会議の参加国であり、現在も政治や経済だけでなく、文化的な側面においても世界的に重要な位置を占める。",
"title": "歴史"
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"text": "国家元首は共和国大統領。選出方法は間接選挙制で、就任条件は50歳以上、任期は7年で再選制限はない。",
"title": "政治"
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"text": "通常は、内閣や議会の決定に基づく形式的な権限を行使するにすぎないが、首相任命権や議会解散権などを通じて実権を発動する可能性を秘めている。行政は首相率いる内閣が統轄する。首相は大統領が指名し、議会が承認する。各省の大臣は首相の指名に基づき、大統領が任命する。議院内閣制を採用しており、内閣は議会の信任を得なければならない。",
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"text": "「おはよう、今日の首相は誰?」というジョークが広められるほど、首相の交代が頻繁な国として名高く、今もその傾向はおさまっていないが、1990年1月 - 2013年4月の間での首相は9人(延べ13人)と、日本の15人(延べ16人)に抜かれている。ちなみに、同じ議院内閣制の先進国での同期間における就任人数は、ドイツが3人、イギリスとカナダが5人である。",
"title": "政治"
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"text": "イタリア議会は元老院(上院)と代議院(下院)で構成される両院制(二院制)である。元老院は、任期5年の民選議員(200議席)、および終身議員とで構成される。",
"title": "政治"
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"text": "終身議員には大統領経験者のほか、科学や芸術などの分野で国の名誉を高めた功労者の中から、大統領が指名した者が就任する。一方、代議院は全て民選の全400議席で、任期5年である。",
"title": "政治"
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"text": "また日本では衆議院の優越が認められているが、イタリアでは両院の権能は完全対等であり、双方とも大統領によって解散されうる。",
"title": "政治"
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"text": "2006年6月25 - 26日、憲法改革案を問う国民投票が行われ、開票の結果60%を超す反対で否決された。改革案は、退陣したベルルスコーニ右派連立政権が2005年末、野党・中道左派勢力の反対を押し切って議会を通過させたものである。改革案の中身は、議会の解散権を大統領から首相に移し、保健や教育、警察などの権限を国から州 (regione) に委譲するというものであった。開票結果は、反対が61.7%。そのうち、南部で74.8%、中部で67.7%、北部で52.6%の多数を占めた。投票率は53.6%であった。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "2010年7月15日、上院は、ベルルスコーニ政権が提出していた緊急財政法案を賛成170、反対136、棄権0で可決した。政府は、月内にも下院を通過させて法案の成立を目指す。しかし、最大野党の民主党は、16、17日の両日、全国規模の抗議行動を計画している。本法案は5月に提案され、公務員給与増の凍結、省庁予算の削減、地方自治体への交付金削減などの実行によって、今後2年間に財政赤字比率を国内総生産(GDP)比3%以内に下げると発表している。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "イタリアの刑事司法は市民6人と裁判官2人が一緒に審理する参審裁判と裁判官だけによる裁判がある。参審裁判は殺人など重大事件が対象で、重罪院で審理される。重罪院の控訴審は重罪控訴院で、参審裁判による。上告審は日本の最高裁にあたる破棄院が担当するが、憲法判断が必要なケースは憲法裁判所に移送される。参審員はイタリア語で「市民裁判官」と呼ばれ、35歳以上60歳以下で一審は中卒以上、控訴審は高卒以上。くじ引きで選んだ市民に希望者を加えた名簿から、3か月ごとに再びくじ引きで選出し、その期間中に起訴された事件を担当する。",
"title": "政治"
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"text": "2007年現在現役兵約11万人、予備役約3万3,500人が所属。",
"title": "軍事"
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"text": "冷戦期においては、ソ連の黒海艦隊を仮想敵対目標として地中海地域での戦闘行為のため大規模な海軍戦力を擁していた。今日でも海軍重視の傾向は変わらず、法改正によって保有が可能となった軽空母「ジュゼッペ・ガリバルディ」に次いで軽空母「カヴール」が戦列に加わるなど、予算削減で新型戦車の配備が滞りがちな陸軍に比べて一層の強化が進められている。日本の海上自衛隊とは装備面でも共通点が多く、海軍国としての役割も類似している。また、カヴールと入れ替わる形で旧式化しつつあったガリバルディは大規模改修を受けてヘリコプター揚陸艦としての運用が開始されたほか、ガリバルディの後継艦として3万トン級強襲揚陸艦「トリエステ」が現在艤装中である。",
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"text": "4万5,879名の要員からなり、F-16・タイフーンなど一線級の空軍機を保有している。航空機の国産化にも熱心で、アエリタリア(旧フィアット社航空機部門)が開発したG.91軽戦闘機は戦後復興からまもない時期(1956年)でありながら高い性能を誇り、同じく国産にこだわるイギリスやフランスは拒んだものの、ドイツ空軍やポルトガル空軍への採用が決定し、「ジーナ」の愛称で20年ほど前まで長らく愛用されていた。KC-767などのように、世界でイタリアと日本のみが保有する機種もあり、組織間交流も盛んである。",
"title": "軍事"
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"text": "近年はタイフーンに見られるような欧米での共同開発機に意欲を見せ、空母を増産した海軍の意向もあってか、オランダとともにF-35の開発計画でイギリスに次ぐ協力を示している。",
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"text": "正式名称はカラビニエリ (Carabinieri) で、国家憲兵である。日本では、そのままカラビニエリと称するほか、「国家憲兵」「憲兵隊」「国家警察」「国防省警察」「軍警察」などさまざまに訳されている。",
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"text": "平時は各種の警察活動として、警備や事件・事故対応、マフィアや反政府グループなどの犯罪組織の摘発などを担当しており、戦時には戦地での警察・憲兵活動を行う。またテロ対策・要人警護・人質救出などを担当する独自の特殊部隊(国家憲兵隊特殊介入部隊)を保持しており、同部隊はイラク戦争など海外戦争においても戦歴を重ねている。",
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"text": "イタリアは地中海に突き出した長靴型イタリア半島、および周辺の島(サルデーニャ島、シチリア島など。コルシカ島はフランス領)から構成されている。東はアドリア海、西でティレニア海とリグリア海、南でイオニア海と地中海に面している。国境を接する国としては、大陸部では西側をフランス、北側をスイスとオーストリア、東側をスロヴェニア。アドリア海を挟んで、クロアチア、アルバニア、ギリシアなどとも地理、歴史的に結びつきが強い。キリスト教・カトリック教会の治めるバチカン市国があるが、これはイタリアの首都ローマが周囲を囲んでいる。ほかにもアドリア海近くのサンマリノ共和国を包み込むように接する。さらに、スイス領内には飛び地として面積1.7kmほどのカンピョーネ・ディターリアを持つ。",
"title": "地理"
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"text": "領土内北部ではアルプス山脈が東西に弧を描き、国境をなしている。国境にはマッターホルンや、モンテローザ、モンブランのような高峰があり、イタリアの最高点はフランスとの国境線上のモンブラン頂上付近にある。アルプスは北西部で分岐し、イタリア半島を縦断するアペニン山脈を形成する。アペニン山脈を境に、イタリア半島の気候は、アドリア海側とティレニア海側とでは非常に異なっている。特にアドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつける。",
"title": "地理"
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"text": "火山国でもあり、特に中部(アブルッツォ州、ラツィオ州)と南部ではしばしば地震が起こる。エトナ山、ヴェスヴィオ山などが有名である。エトナ山はヨーロッパ最大の活火山であり、頻繁に噴火している。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とはみなされておらず数千人が斜面と麓に居住している。イタリアには多くの川があるが、ポー川、アディジェ川、テヴェレ川が上位3位の長さを持つ。テヴェレ川はアルノ川源流近くに源を発し、ローマ市内を抜けて流れることで有名である。",
"title": "地理"
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"text": "イタリアの地方行政区分の最上単位は、20の州 (regione) である。各州はさらに、110の県 (provincia) に分かれる。各県にはさらに、コムーネ(comune)(市町村と似た行政区分)が存在する。ローマにはさらに、ローマのムニチーピオ(イタリア語版)が存在する。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "イタリア国内は気候、土壌、高度が地域差に富んでいるため、旧来さまざまな農作物の栽培が可能である。ポー平原を中心に半島全体で冬小麦を産する。半島南部沿岸で野菜と果物が採れる。イタリアは世界有数のワイン生産国であり、オリーブとオリーブ・オイルの生産量も多い。酪農も主要な産業であり、ゴルゴンゾーラ、パルミジャーノ・レッジャーノをはじめ約50種類のチーズが生産される。",
"title": "経済"
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"text": "第二次世界大戦以降、工業が急速に発展し、農業国から転換した。重要な工業に、繊維工業と、硫酸、アンモニア、水酸化ナトリウムの製造などの化学工業がある。そのほか自動車、鉄鋼、ゴム、重機械、航空機、家電製品、パスタなどの食料品の製造業が盛ん。工業の中心地はジェノヴァ、ミラノ、ローマ、トリノである。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1958年から1963年にかけてイタリアはGDP年率+6.3%のめざましい経済発展を遂げ、1959年5月25日にイギリスの日刊紙がイタリアの経済復興のめざましさを指して「奇跡の経済」と名付けた。1960年代後半から圧迫されてきた膨大な財政赤字を立て直した。しかしモンテディソンをめぐるスキャンダルをはじめとして、イタリアの政治経済は混乱していった。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1980年代初頭にはバブル経済を経験し、GDPでECの牽引役を担う存在であり、巨大な植民地大国だったイギリスを抜き世界第5位となったものの、1990年にはまた戻っている。1990年、イタリアの銀行制度は欧州共同体に同調し大幅に変更され、公営銀行の削減、外国資本に対する規制緩和が行われた。以後政府は輸出を活性化させ、研究開発の促進よりも為替相場をリラ安に誘導することを選択した。EMU(経済通貨統合)への第1陣参加を実現するため、1993年から政府は大規模な歳出削減策を継続して実施した。その結果、財政赤字のGDP比は94年の9.5%から99年には1.9%にまで改善され、目標としていたEUの財政基準(3.0%以内)を達成することができた。1990年代半ばには産業復興公社(IRI)が分解され、多くの企業が民営化した。1998年12月31日に1ユーロ=1,936.27リラという交換レートが固定された。法定通貨として長年「リラ」が使われてきたが、2002年1月1日からEUの単一通貨ユーロ(EURO、エウロ)の紙幣や硬貨が流通し、リラは2月末をもって法的効力を失った。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2010年欧州ソブリン危機により、EU各国は財政赤字を対GDP比3.0%以内に抑える基準の達成を迫られた。2014年5月、イタリアは財政赤字のGDP比率を低下させる裏技として、麻薬取引や売春、密輸などの地下経済に着目し、これらを2015年からGDP統計に加算すると発表した。2011年のイタリア銀行による推計では、イタリアの地下経済の規模はGDPの10.9%を占める規模とされている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "IMFによると、2018年のイタリアのGDPは2兆722億ドルである。世界8位であり、EU加盟国ではドイツ、フランスに次ぐ3位である。また、同年の1人あたりのGDPは3万2,747ドルである。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "イタリアの森林業資源は乏しく、FAOの2017年の統計によれば、森林率は31.97%であり、木材の多くを輸入に頼っている。森林はまず古代ローマ人によって、その後19世紀に大部分が伐採されてしまった。それぞれの目的はマラリア防止と近代化であった。その結果土壌の浸食が進み、林業の発展の障害となってはいたが、近年は状況の好転がみられる。",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "1970 - 1980年代にヨーロッパ共同体(現・EU)加盟国との貿易が増加したが、イタリアは石炭や石油などの原材料を輸入に依存しているため、貿易赤字が続いていた。しかし90年代初頭、リラ切り下げで、外国市場にとってイタリア製品の価格が低下したため、輸出が増加した。貿易相手国の5分の3近くはEU加盟国で、おもな輸出相手国はドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、スペイン、輸入相手国はドイツ、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ合衆国、スペインなどである。イタリアはヨーロッパの輸出大国の中で、ドイツに伍して輸出が成長している唯一の国である。2008年より過去7年間、ドイツは7.8%、イタリアは7.6%の割合で輸出が成長している。輸出先で成長が著しいのは、南アメリカ(+79.3%)、トルコ(+35%)、OPEC諸国、ロシア、中国である。",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭を用いた火力発電が生み出しており、13%が水力発電によるものである。イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながら1986年のチェルノブイリ原発事故などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定し、運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "石油・ガス会社のEni (Eni S.p.A.) はイタリアでもっとも売り上げと利益の多い企業であり、スーパーメジャーの一角を占めている。もとは公営電力会社であったENELはヨーロッパにおける大手電力会社で、地熱発電技術では100年の経験蓄積がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "戦前からミラノとローマがイタリア金融の中心である。主要銀行としてはEU圏1位の資本を持つウニクレディトなどがある。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "イタリア経済が依然として抱える課題は、南部の工業化の遅れである。ミラノやトリノなどの北部は工業化が進んでいるが、南部やサルデーニャなどの島嶼部は農業や観光業や軽工業中心で南北格差が大きい。中心工業地帯はジェノヴァなどで、工業化が遅れている南部のターラントには半官半民の製鉄所があり、第三のイタリアが新たな経済の牽引役となっている。政府による工業化育成の努力も、労働力の問題や、多くの産業がマフィアとの結びつきによって成り立っているため大企業の南部進出が阻まれるといった複雑な現実に直面している。多くの労働者が職を求めて南部から北部へ移住しており(国内移民)、南部で耕作が放棄されるなどして一時期は大きな社会問題となった。",
"title": "経済"
},
{
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"tag": "p",
"text": "国内移民はルーマニアやポーランドなど、ほかのEU諸国からの移民や中東系の外国人移民が増加した現在では言及されることが少なくなった。しかし依然として北部・中部に比べて産業が乏しい南部・島嶼部という経済格差がある。北部の7州2自治州(ピエモンテ州、リグーリア州、ロンバルディア州、ヴェネト州、エミリア=ロマーニャ州、ヴァッレ・ダオスタ自治州、トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州)、中部4州(トスカーナ州、ウンブリア州、マルケ州、ラツィオ州)はフランスのパリ周辺やドイツ西部の工業地帯に匹敵する経済力を有している。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "対する南部5州(アブルッツォ州、カンパニア州、バジリカータ州、プーリア州、カラブリア州)は、戦後復興で著しい経済成長を遂げたアブルッツォ州を除いてポルトガルやギリシャなど欧州後進地域と同程度の経済水準から抜け出せていない。島嶼部2自治州(サルデーニャ自治州、シチリア自治州)では資源豊かな島という似た歴史を持ちながら明暗がはっきり分かれており、情報産業が発展したサルデーニャ島に対してシチリア島は農業中心で犯罪組織による経済への悪影響もいまだ根強い。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "イタリアの経済に占める自動車産業の割合は、国内総生産の8.5%にものぼる。国内ではコンパクトカー、エコノミーカーが上位を占め、エコロジカルな自動車の売れ行きが伸びている。輸出車の売上高は800億ユーロ(約10兆4,000億円)規模である。南北格差が要因となり輸出が伸び悩んでいる。フィアットがドイツのクライスラーやアメリカのゼネラルモーターズと提携している。北部の都市モデナにはフェラーリやランボルギーニ、アルファロメオがある。なお、フィアット・パンダは欧州における新車登録台数3万3,593台(2009年3月)でEUトップとなっている。2位はフォルクスワーゲン・ポロ。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "19世紀ごろから近代服飾・装飾産業が発展し、20世紀から現在にかけては、服飾ブランドのベネトンやプラダ、グッチ、ジョルジオ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレ、バレンチノ、靴のサルヴァトーレ・フェラガモやトッズ、宝飾品のブルガリなどが世界各国に輸出されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "イタリアは幼稚園の先端的教育方法でアトリエリスタと呼ばれる芸術的、工芸的活動の専門家を配置し、人間を育成している。ヴァイオリンなどの楽器、ガラス細工や工芸美術品もおもな産業となっている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ほかにも伝統的に映画産業や観光産業が盛んである。イタリア映画のみならず、イタリアを舞台にした映画が世界中で作られ公開されており、それらの映画が観光産業を後押ししていると評価されている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "世界観光機関によると、2015年イタリアの国際観光客到着数は5位であり、世界経済フォーラムの2017年旅行・観光競争力レポートによるとイタリアの競争力は136か国中8位である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "古くから地中海域の交通の要衝として栄えた。古代ローマのころには歴代執政官によって街道が整備され、それはアッピア街道のように史跡として残っているのみならず「執政官街道」と呼ばれ、現在も使用されている。ローマ帝国時代のローマは、「すべての道はローマに通ず」とさえ呼ばれた。新世界発見後は帝国郵便が整備された。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ムッソリーニ時代よりアウトストラーダ (Autostrada) と呼ばれる有料高速道路網が整備されはじめた。さらに、フィアット社のバックアップもあり高速道路網が全土に敷き詰められている。ただし車が便利と言い切れない。在ミラノ日本国総領事館は、「イタリアにおける運転手のマナーはほかの国と変わらず自己中心的で交通ルールはあってないようなもの、交通事故の危険性も日本に比較してはるかに高い」と説明している。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "フェッロヴィーエ・デッロ・スタートのグループ会社であるトレニタリアと呼ばれる旧国鉄 (Ferrovie dello Stato) の業務を引き継ぐ民営鉄道会社が全土を網羅し、ローマ-フィレンツェ間の高速新線(ディレティッシマ)を中心にユーロスター・イタリアと呼ばれる高速列車も多数運転されている。旧国鉄以外ではヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリ(NTV)、チルクムヴェスヴィアーナ鉄道やスッド・エスト鉄道などがある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、ローマ、ミラノ、ナポリなどの主要都市には地下鉄が整備されている。一部の都市では路面電車やケーブルカーが走っており、市民の足となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ローマ帝国時代前から地中海海域の海運の要所として重要な地であったこともあり、海運が古くから盛んである。現在も地中海クルーズの拠点とされることも多く、有名な港としてはナポリやヴェネツィア、ジェノヴァ、ブリンディジなどがある。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "政府が主要株主のアリタリア航空が、イタリアのフラッグキャリアとして国内線と域内および中長距離国際線を運航するほか、イタリアを本拠地として運航を行う航空会社として、メリディアーナ航空や、エア・ドロミティなどの航空会社があり、それぞれが国内線や域内国際線を運航している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現在、日本との間にはアリタリア航空が成田国際空港とローマおよびミラノの間に直行便を運航させている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、パリやアムステルダム、チューリッヒなどのヨーロッパの主要都市や、バンコクや香港、ドバイなどのアジアの主要都市経由で行くこともできる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "イタリアにおける科学と技術の歴史は古く、その起源と発祥は古代ローマ時代にまで遡ることが出来る。イタリアは何世紀にも亘って、生物学や物理学、化学や数学、天文学ならびにその他の科学技術において多くの重要な発明と発見を生み出しており、科学界を自国のみならず国際的に発展させて来ている。",
"title": "科学技術"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "少子高齢化が進み、1人の高齢者を2.9人で支える高齢社会に突入しており(2012年)、OECD各国では日本、ドイツの次に少子高齢化が進行している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "民族構成(イタリア)",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "古代ローマ人を祖先とするイタリア民族が国民の主流を占める。国家公用語のイタリア語がロマンス諸語に属することや、ローマ人がラテン人を中心とした勢力であったことから一般的にラテン系と考えられることが多い。しかし、ほかの欧州諸国と同じく単純化できるものではなく、ラテン人以外のイタリック人、エトルリア人、フェニキア人、古代ギリシャ人、ケルト系、ゲルマン系など多様な祖先が民族の形成に影響を与えている。また近世・近代におけるフランス系、オーストリア系、スペイン系との関わりもある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "イタリア統一後、標準語の制定、方言や地方言語の廃止、徴兵制や初等教育の普及によって国民の均一化を進め、段階的に民族意識の浸透が進んだ。イタリア民族主義(英語版)の高まりは未回収のイタリアを求める戦争を生み、民族の完全統合を目指す民族統一主義(イレデンティズム)の語源ともなった。イタリアにおけるナショナリズムがもっとも大きく高まったのは第一次世界大戦であり、国粋主義や民族運動が高揚した。こうした流れは最終的に20年以上にわたって続くファシズム政権を生み出し、全体主義体制によってイタリア化(英語版)と呼ばれる民族浄化政策が推進された。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "イタリア国内における少数民族としては南チロルのチロル人などが挙げられる。かつてイストリア半島などではスラブ系の住民も存在したが、上記の通りファシズム体制下で徹底した弾圧を受けた。ファシズム政権後の現代では一定の自治権を認められつつあるが、統一以来の集権政策も継続されている。近年は地中海やアドリア海に面しているという要素から移民や難民の流入が続き、失業や貧困、治安問題、生活習慣や宗教上の軋轢など大きな社会問題を引き起こしている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "移民大国のフランスやドイツには及ばないものの、2016年における外国人人口は502万6,153名を数え、イタリア国民の1割近くに達しつつあり、移民2世・3世の定着も進んでいる。移民グループでもっとも多いのは同じローマ人を祖先とするルーマニア人で、2014年時点で100万名以上が移民しており、国内で批判の対象とされることも多い。次いで地中海やアドリア海を越えて訪れるモロッコ人とアルバニア人が挙げられる。アジア系では中国系移民(華人)がトップを占め、数年で倍近く増加している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "対テロ戦争、アラブの春、シリア内戦、イスラム国の台頭などで中東が混乱してからは、海路でイタリアに不法上陸する者が急増した。2013年10月には、ソマリア人とエリトリア人をおもに載せた船が沈没、368人が死亡する事件があり、それ以降、イタリア海軍は不法移民を救助する活動に力を入れているが、国民の間では難民への反感も高まっている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "公用語はイタリア語。エスノローグによる調査では、イタリア国民のうち約5,700万名がイタリア語を使用している。欧州連合による調査では、イタリア語を母国語としているのはEU圏内で約6,500万名になっている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "等語線のラ・スペツィア=リミニ線があり、この線の北西の北イタリア(西ロマニアの側)と、南東にあたる中南部のイタリア(東ロマニアの側)では言葉が異なる。東ロマニアに分類される中部イタリアのトスカーナ州の言葉を中心に標準語が形成されている。北イタリアではフランス語などに近い西ロマニアの言葉であるガロ・イタリア語を使用する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "イタリアは歴史的に別の国に分かれていた期間が長いため方言の差が激しいとされているが、そもそも言語成立の過程にも複雑な事情が絡んでいる。古代ローマで話されていた言葉(ラテン語)の俗語形である「俗ラテン語」が、ローマ消滅以降にかつての統治領(イタリア・フランス・スペインなど)ごとに統一性を失って方言化した際、イタリア各地のラテン語方言がイタリア地方特有の変化を遂げたと判断した人々が、近世になってこれらをひとつの言語体系(イタリア語)と定めたことに起因する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "言語と言語の違いを研究する作業は古くから言語学の分野で行われていたが、どの程度の類似性をもって「同じ系統の言語」(方言)とするのか、あるいは「異なる系統の言語」とするのかの客観的判断はほとんど不可能で、結局は個々人の価値観に頼るしかなく、民族問題や領土主張との兼ね合いもあって政治的判断が下されるケースが多い(「言語とは軍に守られし方言である」という皮肉も存在する)。よってイタリア語も方言の集合体とするか、無数の独立言語とするかは政治的に決定され、当時の民族主義政策に基づいて方言であるとされた。近年はEU統合の流れから欧州各国で方言を地域言語と認める動きが芽生え始めており、イタリアでも方言を地域言語として承認するべきかどうか盛んに意見が重ねられている。こうした現象はイタリアだけでなく、同じ経緯を持つほかのロマンス諸語でも発生しているほか、ゲルマン語派のドイツ語でも方言の尊重と権利拡大が進められている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "現在、エスノローグはイタリア共和国内に以下の少数言語の存在を認めている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "一部の特別自治州、ヴァッレ・ダオスタ州でフランス語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ではドイツ語も使用する。フリウリ地方ではフリウリ語、南ティロルではラディン語という、イタリア語よりラテン語に近いレト・ロマンス語系の言葉を母語とする住民もいる。また、最南部のカラブリア州には東ローマ帝国統治下(マグナ・グラエキア)の影響を残すギリシャ語系のグリコ語の話者も存在する。さらに、オスマン帝国時代のアルバニアからイタリア南部に定着した人々の子孫はアルバニア語の方言を母語とする。サルデーニャ島では、イタリア語系のサルデーニャ語(イタリア語の一方言とする説もある)が話される。アルゲーロではアラゴン=カタルーニャ連合王国支配の影響からカタルーニャ語の方言が話される。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "婚姻においては基本的に夫婦別姓となっているが、結合姓も認められている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "子の姓に関しては、伝統的には父親の姓としていたが、父親の姓としなければならないという法律は存在しないとの理由で、母親の姓を子の姓としてよいことが裁判を通し2012年に認められた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、イタリアはきわめて離婚が少ない国として知られている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2014年の推定では、キリスト教のカトリック教会が75.2%と最大で、残りの大半が無宗教または無神論者で、数%のムスリムのほか、その他宗教が1%未満となっていた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "4分の3と最大多数のカトリックであるが、信条はリベラルであり、カトリック教会の教義に反して同棲・離婚・妊娠中絶などについては大多数が肯定的であるとの報告も出ている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "プロテスタントは少数で、アラブ系移民の増加により、イスラム教は近年増加傾向にある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "イタリアの医療は、1978年より税金を原資とするユニバーサルヘルスケアが施行されており、公営・民営の混合制度となっている。公営制度はServizio Sanitario Nazionaleと呼ばれる公費負担医療であり、保健省が方針を定め、現場は地方自治体が運営している。保健支出は2008年にはGDPの9.0%ほどであり、OECD各国平均の8.9%より若干上であった。2000年にはWHOより、医療制度の効率性は世界2位、市民の保健状態については世界3位と評されている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "平均余命は82.7歳、2013年には世界8位であった。健康上のリスクとしては、イタリアはほかの西欧各国と同様に肥満者が増えており、人口の34.2%が太りすぎと自己申告、また9.8%が肥満だと自己申告している。日常的な喫煙者は2008年では人口の22%であり、2005年からは公共のバー、レストラン、ナイトクラブにおいては隔離された喫煙室が設けられるようになった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "イタリアの治安は、ヨーロッパ諸国の中で最も不安定さが顕著な状態となっている。イタリア政府は犯罪組織(マフィア)の取締りの強化ならびに不法移民問題の解消などを中心とした総合的な治安対策に取り組んでおり、その甲斐もあって効果が現れて来ている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2016年のイタリア内務省の統計によると、犯罪認知件数は約250万件で前年と比較すると7.99%減少している。しかし、それに反してスリが約16万件(前年比6.39%減)、ひったくりが約1.7万件(前年比6.22%減)と多数発生していることから、イタリアに滞在中はこれらの犯罪に対して用心と予防が必要となって来る。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、外国人観光客の犯罪被害報告が多く寄せられており、都市部ではローマやミラノ、フィレンツェ、ナポリなどの観光地に被害が集中している。これらの観光地における日本人観光客などの犯罪被害は依然として多く、窃盗(車上荒らしや置き引きやひったくり、スリ)をはじめとして強盗(睡眠薬強盗など)や押し売り、バーのぼったくり行為が発生しており、さらには警察官になりすました外国人犯罪者が偽札や違法薬物の捜査などと称し、所持品検査を装って現金やクレジットカードを窃取する事件なども相次いで発生していることから滞在中の外出や散策は常に警戒を強める姿勢が求められている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "イタリアにおける法執行は国家レベルで集中化されている面が強く、複数の警察組織やその他の公的機関が様々な公務や任務に参与している。また、法執行制度も複雑であると捉えられており、実際に少数の限定された地方機関からの助力を得たり、複数の省庁によって執行を実施されていることが多い。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "イタリアにおける法執行機関・警察機構は、複合であり、国家レベルの組織のみでも5つある。その他に、地方自治体の警察組織として、県レベルの地方警察 (Polizia Provinciale)、コムーネレベルの自治体警察 (Polizia Municipale) がある。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "国家レベルの警察組織は以下のものである。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "このほか、イタリア沿岸警備隊がイタリア海軍の傘下にあり、海上交通整理、捜索救難、漁業監視、不法移民に対する海上監視などを行っている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "歴史が示すように、マフィアはイタリアの経済と社会に多大な影響力を持っている。マフィアとは元来 中世後期にシチリアで生まれた秘密結社で、親族組織からなり、冷酷な暴力とオメルタという厳しい掟で知られる。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "19世紀後半にはシチリアの田園地帯を支配し、地方当局への介入、ゆすり、市民に対するテロ活動を行っていた。戦間期はムッソリーニがマフィアを弾圧したため、彼らは移民に混じって北米に渡った。この時代を除いて、マフィアはイタリア南部を中心に合法・非合法活動を展開した。合衆国で服役中のラッキー・ルチアーノが第二次世界大戦のハスキー作戦に協力してから、マフィアは戦後の国際政治にまで関係するようになった。そして1970年代までに世界の代表的な麻薬のヘロイン取り引きの大部分がマフィアの支配下に入った。Confesercentiの報告書で、マフィアの総売上高は900億ユーロに相当するという。この犯罪収益は資金洗浄の対象である。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "北イタリアのトスカーナ地方はルネサンス発祥の地であり、またその中心地でもあった。この影響下で数多くの芸術家が輩出され、同時に作品も制作された。詳しくはルネサンスの項を参照されたい。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "また、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』などオペラや音楽なども多く知られる。民衆音楽ではカンツォーネと呼ばれるナポリの歌謡曲が有名である。バレエの発祥の地ともされる。現代においてもノーベル賞作家を輩出し、映画においても絶えず世界的な作品を送り出している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "イタリア料理は地方色が強く各地方料理の集合体のようなものであり、北部はバターやチーズを多く使い、南部はトマトやオリーブオイルを多用する傾向がある。また沿岸部は魚を食べるが、内陸部はほとんど食べない、シチリア島はマグリブの食文化の影響があり、北東部はオーストリア料理やハンガリー料理など中欧に近い食文化があるなど地域色豊かである。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "おもにパスタやパンを主食とし、北部のポー川流域では米をよく食べる。北部の一部地域にはパンの代用としてトウモロコシの粉でできたポレンタを食べる地域もある。イタリア料理のピザなどもある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "食事にワインを合わせる習慣があり、基本的にはその土地のワインを飲む。また、サラミ、ハムなどの肉製品、チーズの種類の豊富なことも特徴である。コーヒーの消費も多く、イタリア式のいれ方にはエスプレッソ、カプチーノ、カフェ・ラッテが有名。一方、ヨーロッパの国としては珍しくタコも食べる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 97,
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"text": "近代イタリア語の基礎はフィレンツェの詩人ダンテ・アリギエーリによって創設され、彼の偉大な作品『神曲』は中世ヨーロッパで最高の文学作品だと考えられている。イタリアはそれ以外にも祝福された文学者に不足しなかった。例を挙げるならジョヴァンニ・ボッカチオ、ジャコモ・レオパルディ、アレッサンドロ・マンゾーニ、トルクァート・タッソ、ルドヴィーコ・アリオスト、フランチェスコ・ペトラルカのような人物の名が挙げられ、彼らのもっとも知られた表現の媒体は彼らがイタリアで生んだソネットだった。近代の文学者であり、ノーベル文学賞受賞者には、1906年受賞の国民主義詩人ジョズエ・カルドゥッチ、1926年受賞の写実主義作家のグラツィア・デレッダ、1934年受賞の近代劇作家ルイージ・ピランデッロ、1959年受賞の詩人サルヴァトーレ・クァジモド、1975年受賞のエウジェーニオ・モンターレ、1997年受賞の風刺家かつ劇作家ダリオ・フォの名が挙げられる。",
"title": "文化"
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"text": "ルネサンスの時代には、ジョルダーノ・ブルーノやマルシリオ・フィチーノ、ニッコロ・マキャベリ、ジャンバティスタ・ヴィコのような傑出した哲学者が現れた。",
"title": "文化"
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"text": "20世紀前半において、イタリアではベネデット・クローチェやジョヴァンニ・ジェンティーレによって新ヘーゲル主義が新観念論に昇華した。ジェンティーレの哲学はファシズムの理論的支柱となった。そのほかにも特筆されるべき哲学者として、マルクス主義の新たな読み方を発見し、サバルタンやヘゲモニーといった概念につながる思想を生み出したアントニオ・グラムシや、市民社会論的にヘーゲルを読み直したジョエーレ・ソラーリが挙げられる。",
"title": "文化"
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"text": "20世紀後半においてはマルチチュードを新たな概念として昇華したマルチチュード学派のアントニオ・ネグリや、ホモ・サケル論で知られるジョルジョ・アガンベンなどが活躍している。",
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"text": "現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることからもわかるように、イタリアはルネサンス音楽の後期からバロック音楽、古典派音楽の時代において西洋音楽の中心地であった。ルネサンス音楽ではジョヴァンニ・ダ・パレストリーナが知られている。",
"title": "文化"
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"text": "バロック音楽初期ではクラウディオ・モンテヴェルディ、中期ではアレッサンドロ・スカルラッティ、アルカンジェロ・コレッリ、後期ではアントニオ・ヴィヴァルディが名高い。",
"title": "文化"
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"text": "古典派音楽時代も当時としてはイタリアが音楽の中心地であったが、現代の視点から見れば、18世紀終盤からウィーン古典派の台頭、続くヨハン・ゼバスティアン・バッハの復権などによって主導権はドイツ・オーストリ圏に移った。古典派音楽時代のイタリアの作曲家にはドメニコ・チマローザ、ルイジ・ボッケリーニなどがいるが、ウィーン古典派に比べ、現代では演奏機会は比較的少ない。",
"title": "文化"
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"text": "ロマン派音楽時代もオペラに関してはイタリア音楽は人気を集め、前期においてはジョアッキーノ・ロッシーニ、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ、ガエターノ・ドニゼッティらが活躍した。中期においてはジュゼッペ・ヴェルディ、後期にはジャコモ・プッチーニらの作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、長年の財政難からカンパニーを維持できない歌劇場が多く、現在では上演数に関してはドイツに3倍の差をつけられてしまった。首都のローマ歌劇場すら今世紀に入って管弦楽団と合唱団の全員解雇が宣告されたことがある)。",
"title": "文化"
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"text": "一方で、交響曲など器楽曲分野では19世紀以降は発展が滞り、20世紀初頭の近代音楽の時代に入ってオットリーノ・レスピーギやジャン・フランチェスコ・マリピエロらが魅力的な作品を発表したが、既に音楽発展の中心地ではなくなっていた。",
"title": "文化"
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"text": "現代音楽においてはルイジ・ノーノやルチアーノ・ベリオが名高い。",
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"text": "ルネサンス後期のイタリア美術をマニエリスムという。それ以降、イタリア独自性は作品から消えてしまった。",
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"text": "19世紀後半、色彩豊かなマッキア派が登場した。20世紀はじめに未来派という好戦的なモードが生まれた。1910年代は形而上絵画という抽象画の量産が社会不安を象徴した。イタリアらしさは外圧に原像をかき消されて表現できなくなっていった。",
"title": "文化"
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"text": "第二次世界大戦後にアルテ・ポーヴェラやトランスアバンギャルドといった美術運動がみられた。",
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"text": "イタリア映画の歴史はリュミエール兄弟が活動写真の公開を始めてからわずか数か月後に始まった。最初のイタリア映画は、教皇レオ13世がカメラに祝福して見せた数秒間のものだった。イタリアの映画産業は1903年から1908年の間に3つの映画会社とともに生まれた。ローマのチネス、トリノのアンブロシオ、イタラ・フィルム社がそれである。ほかの会社はすぐにミラノやナポリに設立された。まもなくこれら最初の会社は公正な制作力に達し、作品はすぐに外国に売られていった。映画はのちにベニート・ムッソリーニによって第二次世界大戦までプロパガンダのために使われた。",
"title": "文化"
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"text": "戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年ごろの芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、セルジオ・レオーネ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ダリオ・アルジェントなどの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。お国柄を生かした歴史劇や、日本での紹介は少ないが喜劇の伝統も厚い。世界の映画史に残る作品としては、『甘い生活』『続・夕陽のガンマン』『自転車泥棒』などが挙げられる。",
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"text": "音楽",
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"text": "文学",
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"text": "映画",
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"text": "漫画",
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"text": "イタリアのファッションは、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、日本のファッションと並ぶ、世界で最も重要な服飾文化の1つと見なされている。",
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"text": "イタリアは歴史上、非常に多様かつ幅広い建築様式を持っており、その起源は紀元前のローマ帝国時代にまで遡ることが出来る。",
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"text": "また、1861年まで同国地域が小国の設立など様々な形で分割されていたため、時代や地域で分類することは簡単に出来ないものとなっており、ヨーロッパにおける建築のカテゴリーでも複雑化した状態となっている。",
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"paragraph_id": 119,
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"text": "イタリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が45件、自然遺産が4件存在している(2013年現在)。2014年時点で、世界遺産がもっとも多い国である。",
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"text": "この他には、各州に「州の記念日」と呼ばれる祝日が存在している。なお、それらの祝日は必ずしも休日として扱われているわけではないことを留意する必要がある。",
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"text": "イタリアでは伝統的にサッカー(カルチョ)が最も人気のスポーツであり、その他にもF1やミッレミリアなどのモータースポーツも人気である。さらに自転車競技やマリンスポーツ、プロリーグもあるバレーボールなども盛んである。また、北部山岳地域にコルティーナ・ダンペッツォなどのスキーのリゾートが多数あることから、ウィンタースポーツも人気である。中部にはアペニン山脈があり、登山も盛んとなっている。近年、シックス・ネイションズに加わった影響もありラグビーも人気が高まっている。バスケットボールなどのアメリカ発祥のスポーツも、他のヨーロッパ諸国に比べると盛んである。",
"title": "スポーツ"
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"text": "カルチョと呼ばれる16世紀のイタリアに起源を持つフィレンツェ古代サッカー発祥の地として知られ、イングランドのフットボールと双璧の存在となっている。イタリアは数多くのスター選手を輩出してきた強豪国であり、FIFAワールドカップにはこれまで全22回中18回出場し4度の優勝を達成しており、準優勝にも2度輝いている。さらにUEFA欧州選手権でも、2度の優勝と2度の準優勝の実績を誇る。",
"title": "スポーツ"
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"text": "イタリアサッカー連盟(FIGC)によって編成されるサッカーイタリア代表は、ユニフォームの青い色からアズーリと呼ばれている。イタリア語で「鍵をかける」という意味の、カテナチオと呼ばれる鉄壁の守備をベースとして現在に至る。しかし近年は攻撃陣のタレントも豊富で、かつての守備だけのチームではなくポゼッションを重視したチームになりつつある。また、伝統的に綿密な戦術を重んじる傾向があり、アリゴ・サッキやジョバンニ・トラパットーニなどの名将が、現代サッカーにおけるフォーメーションを考案してきた。",
"title": "スポーツ"
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"text": "1898年に創設されたセリエAは世界最高峰のサッカーリーグの一つであり、UEFAチャンピオンズリーグではACミランが7度、インテル・ミラノが3度、ユヴェントスが2度の優勝を果たしている。コッパ・イタリアと呼ばれる国内のカップ戦も行われている。また、日本人選手でセリエAのビッグクラブに在籍した事があるのは、中田英寿、長友佑都、本田圭佑の3名である。",
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"text": "イタリア国内には欧州屈指の強豪リーグである、レガ・バスケット・セリエAと呼ばれるプロバスケットボールリーグが存在している。2006年にNBAドラフト1位指名されたアンドレア・バルニャーニは、NBAの外国人としては史上2人目、ヨーロッパ人としては史上初となった。イタリアバスケットボール連盟により派遣されるバスケットボールイタリア代表は、これまでオリンピックに13回、ワールドカップ(旧:世界選手権)に9回出場している。2004年のアテネ五輪では、アメリカの銅メダルを上回る「銀メダル」を獲得した。さらにユーロバスケットでは、1997年大会で銀メダル、1999年大会で金メダル、2003年大会では銅メダルを獲得している。",
"title": "スポーツ"
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"text": "多数の自動車・バイクメーカーを持つイタリアは、モータースポーツの創成期から多くのコンストラクターとレーシングドライバーを輩出してきた。また、AGVやアルパインスターズといった装備品メーカーも多くイタリアに存在している。F1にはアルファロメオ、マセラティ、フェラーリが1950年の開幕年から参戦。スクーデリア・フェラーリの創業者であるエンツォ・フェラーリは、エミリア=ロマーニャ州・モデナ近郊のマラネッロに拠点を構え、「北の教皇」の異名をとった。1950年代でアルファロメオ・マセラティは撤退してフェラーリのみが残り、現在まで唯一開幕から撤退せず参戦しているメーカーとして名を馳せている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "フェラーリは2000年代前半に黄金時代を築いた「皇帝」ミハエル・シューマッハなど、多くのワールドチャンピオンを輩出している。アルファロメオは2019年にザウバーを買収して復活した。またアルファタウリ(旧:トロ・ロッソ)は、ミナルディを買収して成立した経緯から、非イタリア系でありながらイタリアを拠点としている珍しいF1チームである。また、レーシングコンストラクターのダラーラは、インディカーやスーパーフォーミュラ含む現在世界各地域のワンメイクフォーミュラのシャシー供給を独占している。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 128,
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"text": "WRCではフィアットとランチアが活躍(ランチアの実働部隊はアバルトであった)。特にランチアはラリー037、デルタ・インテグラーレといった名車を多く世に送り出し、現在でも破られていないマニュファクチャラーズ選手権6連覇という偉業をなしとげた。しかしグループA規定を最後に撤退し、以降はアバルトがスーパー2000やグループR-GTにプライベーター向けマシンを細々と供給しているのに留まっている。スポーツカーレースではフェラーリ、ランチア、ランボルギーニが活躍。フェラーリは1940年代~1960年代に何度かル・マン24時間レースで総合優勝を経験し、以降も現在までGTマシンによるプライベーター(ワークス支援含む)の参戦が続いている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "また、2021年からハイパーカーでル・マンに参戦するアメリカのスクーデリア・キャメロン・グリッケンハウスは、イタリアのチームが主体となってマシン製作やチームオペレーションを行っている。なお、日本人ドライバーでイタリアのワークス・チーム入りを果たしたのは、2013年の小林可夢偉が唯一の例である。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "2輪ロードレースの世界ではドゥカティ、アプリリア、MVアグスタなどが知られる。MVアグスタは黎明期のロードレース世界選手権(現MotoGP、旧称WGP)において活躍し、空前絶後のライダースタイトル17連覇を達成している。その後MVアグスタは消滅したため、長らく日本メーカーの支配が続いているが、それでも2007年と2020年にドゥカティがコンストラクターズタイトルを獲得している。またヤマハのMotoGPチームは本拠地をイタリアに構えている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "スーパーバイク世界選手権では、ドゥカティのVツイン(V型2気筒)エンジンが規則の優遇も利用して一時期黄金時代を築いた。しかし規則が見直されて4気筒が頭角を表して以降は徐々にタイトルから遠ざかっている。ライダーとしてはジャコモ・アゴスチーニがMVアグスタでWGP500ccクラスと350ccクラスの7連覇という偉業を達成している(このうち5連覇は500ccと350cc同時であった)。MotoGPに改称後はバレンティーノ・ロッシが5年連続ワールドチャンピオンとなった。ほかにもフランコ・ウンチーニ、マルコ・ルッキネリ、リベロ・リベラッティ、ウンベルト・マセッティといった最高クラスでの王者がいる。",
"title": "スポーツ"
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"text": "ロードレースでは、三大グランツールの一つであるジロ・デ・イタリア、モニュメンツのミラノ〜サンレモ、イル・ロンバルディアが開催されるなど人気は高い。20世紀前半にはアルフレッド・ビンダ、ジーノ・バルタリ、ファウスト・コッピなどが活躍した。20世紀終盤から21世紀にかけては、総合系ではマルコ・パンターニ、ジルベルト・シモーニ、イヴァン・バッソ、ヴィンチェンツォ・ニバリ、スプリンターではマリオ・チポッリーニ、アレッサンドロ・ペタッキ、エリア・ヴィヴィアーニ、ジャコモ・ニッツォーロといった強豪選手を次々と輩出している。",
"title": "スポーツ"
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"text": "イタリアも競馬が盛んな国のひとつであったが、21世紀のユーロ危機以降は賞金不払い問題など危機的な状況に陥っており、サラブレッド生産頭数が4分の1に落ち込んでいる。歴史のあるミラノ大賞典や伊ダービーといった大競走もG1の格付けを維持できていない。平地競走より人気のあった繋駕速歩競走も状況は悪く、スタンダードブレッドの生産頭数も半減している。以後イタリア競馬は崩壊しているものの、かつてその規模に似つかわしくないほど強力な競走馬を輩出した歴史を持つ。20世紀世界最強馬の候補として常に言及されるリボー、非常に人気のあった競走馬であるヴァレンヌの2頭は世界の競馬関係者に記憶される存在である。また、14戦不敗のネアルコは競走馬としてはリボーほどの評価は得ていないが、その子孫は強力に繁栄してその血を持たないサラブレッドはほとんどいない状況となっている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "イタリアはバレーボールも盛んで、特にトップリーグであるセリエAは世界的に見ても非常に珍しい「バレーボールのプロリーグ」である。この他にも、カップ戦であるコッパ・イタリアなど多くの大会が行われている。かつては日本からも、大林素子や吉原知子などといったトップ選手がイタリアに渡りプレーしていたことがある。イタリア代表も、男子チーム・女子チーム共に世界選手権や欧州選手権の優勝経験があり、欧州の強豪チームの一角を占める。",
"title": "スポーツ"
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"text": "イタリアは野球も強豪であり、過去5回のwbcの全ての本戦に出場している。2023年は初のベスト8入りを果たした。国内にも野球セリエ・Aが行われており、欧州選手権やチャンピオンシップにも多く出場している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "また、北にはアルプス山脈、本島にはアペニン山脈、その他エトナ山などイタリアは様々な山岳地域に恵まれているので登山も盛んである。モンブラン初登頂をし、近代登山を築いたJ・バルマやM・G・パカールなどをはじめ、ラインホルト・メスナーやスキー登山家でもあるマッテォ・ペドリアーナ、グイド・ジャコメッリなどが有名である。さらに、日本ではマイナーな山スキーの大会が冬頻繁に行われており、南チロルやアオスタを中心に上記の山脈に近い地域では山スキーのメッカである。上記のペドリアーナ、ジャコメッリもその中の一人である。",
"title": "スポーツ"
}
] | イタリア共和国、通称イタリアは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアと海上境界線を共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。 | {{Otheruses|1946年以後のイタリア|19世紀に存在した共和国など他のイタリア半島の国家|イタリア (曖昧さ回避)}}
{{基礎情報 国
|略名 = イタリア
|日本語国名 = イタリア共和国
|公式国名 = '''{{Lang|it|Repubblica Italiana}}'''
|国旗画像 = Flag of Italy.svg
|国章画像 = [[ファイル:Italy-Emblem.svg|100px|イタリアの国章]]
|国章リンク = ([[イタリアの国章|国章]])
|標語 = 特になし
|国歌 = [[マメーリの賛歌|{{lang|it|Il Canto degli Italiani}}]]{{it icon}}<br/>''マメーリの賛歌''<br/>{{center|[[ファイル:National anthem of Italy - U.S. Navy Band (long version).ogg]]}}
|位置画像 = EU-Italy.svg
|公用語 = [[イタリア語]]<ref group="注釈">[[南ティロル]]では[[ドイツ語]]と[[ラディン語]]、[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州|フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア]]では[[スロヴェニア語]]、[[ヴァッレ・ダオスタ州|ヴァッレ・ダオスタ]]では[[フランス語]]。</ref>
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|人口順位 = 23
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|人口値 = 60,462,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/it.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-26 }}</ref>
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|GDP値元 = 1兆7909億4200万<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=136,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook , October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|date = 2021-10|accessdate=2021-10-26}}</ref>
|GDP統計年MER = 2019
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|通貨追記 = <ref group="注釈">[[1999年]]以前の通貨は[[イタリア・リラ]]。</ref><ref group="注釈">[[イタリアのユーロ硬貨]]も参照。</ref>
|時間帯 = +1
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|ISO 3166-1 = IT / ITA
|ccTLD = [[.it]]
|国際電話番号 = 39
|注記 = <references />
}}
'''イタリア共和国'''(イタリアきょうわこく、{{Lang-it|Repubblica Italiana}})、通称'''イタリア'''({{Lang-it-short|Italia|links=no}})は、[[南ヨーロッパ]]に位置する[[共和国|共和制国家]]。首都は[[ローマ]]。 北は[[スイス]]と[[オーストリア]]、西は[[フランス]]、 東は[[スロベニア]]と[[国境]]を接している。南は[[地中海]]が位置しており、[[アルバニア]]、[[アルジェリア]]、[[クロアチア]]、[[ギリシャ]]、[[リビア]]、[[マルタ]]、[[モンテネグロ]]、[[スペイン]]、[[チュニジア]]と{{仮リンク|海上境界線|en|Maritime boundary}}を共有している。また、[[国土]]には[[独立国]]である[[バチカン]]と[[サンマリノ]]が存在している。
{{TOC limit}}
== 概要 ==
<!--
[[ファイル:Cathedral and Campanary - Pisa 2014 (2).JPG|200px|left|thumb|ピサ]]
[[ファイル:Colosseum in Rome, Italy - April 2007.jpg|thumb|200px|[[ローマ帝国|ローマ帝政期]]に造られた[[円形闘技場]]、[[コロッセオ]]]]
[[ファイル:Constitutional.court.of.italy.in.rome.2.arp.jpg|200px|thumb|Palazzo della consulta]]
[[ファイル:Giuseppe Garibaldi (1866).jpg|200px|thumb|[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-09844, Mussolini in Mailand.jpg|200px|thumb|[[ベニート・ムッソリーニ]]]]
-->
[[ファイル:Satellite image of Italy in March 2003.jpg|thumb|300px|イタリア上空からの衛星画像。]]
イタリアはヨーロッパにおける古代文化の発祥地の一つとして知られ、同時に世界的な文化大国の一国に数えられている。文化・学問・宗教で歴史的に影響力を発揮しており、[[バチカン|バチカン市国]]を首都ローマの領域内に事実上保護し、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェリ]]といった偉人たちの故国でもある。かつての[[ローマ帝国]]の中枢となる地域であり、また[[ルネサンス]]や[[イタリア統一運動|リソルジメント]]などの幾つかの世界史的事象の主要な舞台となった。
また、高い[[人間開発指数による国順リスト|人間開発指数]]を持つイタリアは文化・経済ともに[[先進国]]であり<ref name="UNDP2014">{{cite web|url=http://hdr.undp.org/en/content/human-development-report-2014 |title= Human Development Report 2014 – "Sustaining Human Progress: Reducing Vulnerabilities and Building Resilience"|publisher=[[Human Development Report|HDRO (Human Development Report Office)]] [[United Nations Development Programme]]|accessdate=25 July 2014}}</ref>、[[国の国内総生産順リスト (為替レート)|名目GDP]]では世界第8位かつ[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|それを購買力平価で補正したもの]]は世界第12位、[[ユーロ圏]]ではドイツとフランスに次ぐ第3位の経済規模を持つ[[経済大国]]である<ref name="IMF2014">[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?pr.x=68&pr.y=15&sy=2010&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512%2C446%2C914%2C666%2C612%2C668%2C614%2C672%2C311%2C946%2C213%2C137%2C911%2C962%2C193%2C674%2C122%2C676%2C912%2C548%2C313%2C556%2C419%2C678%2C513%2C181%2C316%2C682%2C913%2C684%2C124%2C273%2C339%2C921%2C638%2C948%2C514%2C943%2C218%2C686%2C963%2C688%2C616%2C518%2C223%2C728%2C516%2C558%2C918%2C138%2C748%2C196%2C618%2C278%2C522%2C692%2C622%2C694%2C156%2C142%2C624%2C449%2C626%2C564%2C628%2C283%2C228%2C853%2C924%2C288%2C233%2C293%2C632%2C566%2C636%2C964%2C634%2C182%2C238%2C453%2C662%2C968%2C960%2C922%2C423%2C714%2C935%2C862%2C128%2C135%2C611%2C716%2C321%2C456%2C243%2C722%2C248%2C942%2C469%2C718%2C253%2C724%2C642%2C576%2C643%2C936%2C939%2C961%2C644%2C813%2C819%2C199%2C172%2C733%2C132%2C184%2C646%2C524%2C648%2C361%2C915%2C362%2C134%2C364%2C652%2C732%2C174%2C366%2C328%2C734%2C258%2C144%2C656%2C146%2C654%2C463%2C336%2C528%2C263%2C923%2C268%2C738%2C532%2C578%2C944%2C537%2C176%2C742%2C534%2C866%2C536%2C369%2C429%2C744%2C433%2C186%2C178%2C925%2C436%2C869%2C136%2C746%2C343%2C926%2C158%2C466%2C439%2C112%2C916%2C111%2C664%2C298%2C826%2C927%2C542%2C846%2C967%2C299%2C443%2C582%2C917%2C474%2C544%2C754%2C941%2C698&s=NGDPD&grp=0&a= International Monetary Fund (IMF), World Economic Outlook (WEO) Database- GDP Nominal 2010 to 2019], imf.org, October 2014 Edition</ref>。
[[国際連合]]、[[北大西洋条約機構]]、[[G7]]、[[G20]]、[[経済協力開発機構|OECD]]、[[欧州評議会]]、[[地中海連合]]、[[パリクラブ]]の一員であり、ヨーロッパにおける四大国「[[ビッグ4 (ヨーロッパ)|ビッグ4]]」や、文化的・経済的・政治的に大きな影響を及ぼす[[列強]]の一角に数えられる<ref>POLITICO,MallinderoMallinder, Lorraine (30 January 2008)[https://www.politico.eu/article/eus-big-four-speak-as-one-ahead-of-g7-in-tokyo/ EU’s ‘big four’ speak as one ahead of G7 in Tokyo]</ref><ref>Sterio, Milena (2013). [https://books.google.co.uk/books?id=-QuI6n_OVMYC&printsec=frontcover&dq=The+Right+to+Self-determination+Under+International+Law:+%22selfistans%22,+Secession+and+the+Rule+of+the+Great+Powers&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwi55M-kyqXNAhWpK8AKHe2sCPUQ6AEIHDAA#v=onepage&q=The%20Right%20to%20Self-determination%20Under%20International%20Law%3A%20%22selfistans%22%2C%20Secession%20and%20the%20Rule%20of%20the%20Great%20Powers&f=false The right to self-determination under international law : "selfistans", secession and the rule of the great powers.] Milton Park, Abingdon, Oxon: Routledge. p. xii (preface)</ref>。また、[[コンセンサス連合]]の参加国であると同時に主導国である。軍事面では、[[軍隊|世界第8位の軍事力]]を有している<ref>O’Sullivan, Michael; Subramanian, Krithika (2015-10-17). [https://web.archive.org/web/20180215235711/http://publications.credit-suisse.com/tasks/render/file/index.cfm?fileid=EE7A6A5D-D9D5-6204-E9E6BB426B47D054 The End of Globalization or a more Multipolar World?] (Report). Credit Suisse AG.</ref>。
総面積は30万1338 km<sup>2</sup>([[平方キロメートル]])で、ロ・スティヴァレ({{lang-it-short|lo Stivale}}=[[ブーツ]])と称される[[地中海]]に突き出た[[イタリア半島]]を中心に、[[地中海]]に浮かぶ[[シチリア|シチリア島]]と[[サルデーニャ|サルディーニャ島]]を主要な領土としており、いくつかの小島も領有している。北部には[[アルプス山脈]]が、半島に沿って[[アペニン山脈]]が走っており、平野はその間にある[[ポー平原]]などに限られ、国土の40%が山岳地帯である<ref name="Enciclopedia universale Garzanti">Riganti, dir. da Alberto (1991). Enciclopedia universale Garzanti (Nuova ed. aggiornata e ampliata. ed.). Milano: Garzanti.</ref>。気候は各地ともに温暖で、北部を除き国土の大部分は[[温帯]]の[[地中海性気候]]に属し、これは農業と歴史に大きな影響を与えてきた<ref name="teikoku">帝国書院編集部、2017、『新詳高等地図』、帝国書院 平成29年度版</ref>。西に港へ適した[[リグリア海]]、東には大陸棚が海の幸を豊富にもたらす[[アドリア海]]、南東部には[[バルカン半島]]へと繋がる[[イオニア海]]があり、地理的に恵まれている。南には[[ティレニア海]]があり周辺には[[ストロンボリ島|ストロンボリ火山]]や[[ヴェスヴィオ山]]、[[エトナ山]]などの火山が集まっていて、世界有数の地震地帯である<ref name="Enciclopedia universale Garzanti" />。
== 国名 ==
正式名称は[[イタリア語]]で、'''{{Lang|it|Repubblica Italiana}}'''(レプッブリカ・イタリャーナ)。通称、'''{{Lang|it|Italia}}'''({{IPA-it|iˈtaːlja||It-Italia.ogg}} イターリャ)。
公式の英語表記は、'''{{Lang|en|Italian Republic}}'''(イタリャン・リパブリク)。通称、'''{{Lang|en|Italy}}'''({{IPA-en|ˈɪtəli||en-us-Italy.ogg|}} イタリ)。
日本語の表記は、'''イタリア共和国'''。通称は'''イタリア'''であるが、'''イタリヤ'''と表記されることもある。古くは'''イタリー'''とも表記された(発音は英語のItaly、フランス語のItalieに近い)。また、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]で、'''伊太利亜'''、'''伊太利'''、'''以太利'''<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、252頁</ref>などと表記することもあり、'''伊'''と略されることもある。
国名の由来には定説はない。一般的な説として、紀元前6世紀ごろに[[南イタリア]]のカラブリア地方で子ウシ(ビタリ)をトーテム像として崇拝していた原住民に由来するといわれる。彼らはビタリ人と呼ばれていたが、その後ビタリがイタリアに変化し、その呼称がローマ人に受け継がれ、現在のイタリア半島に住む人々を指すようになった。中世に「イタリア伯爵領」「イタリア公爵領」と呼ばれるものが存在したが、それは統一的国家をなすものではなかった。政治的に統一された国家として最初にイタリアの名が使用されたのは、ナポレオン支配時代の[[イタリア共和国 (1802年-1805年) ]]([[1803年]]からイタリアの国名を使用)であり、これが改編されて[[イタリア王国 (1805年-1814年)]] となった。[[1861年]]の[[サボイア家]]による統一によって、ほぼ現在の地理的範囲をもつイタリア国が成立した<ref>{{Cite book|和書|author=|editor=相賀徹夫|title=日本大百科全書|date=|year=1985|accessdate=2019-1-30|publisher=小学館|page=355|volume=2|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|イタリアの歴史}}{{イタリアの歴史}}
=== ローマ以前-ローマ期 ===
<!--[[ファイル:Meyers b9 s0067b.jpg|サムネイル]]--><!--日本語で凡例が付されるまでコメントアウト-->
[[ギリシャ|ギリシア]]時代から[[都市国家]]が成立。なお、[[伝説]]では[[紀元前753年]]にローマ建国 [[エトルリア人]]も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。[[伝承]]によれば、[[紀元前509年]]にローマ人[[パトリキ]](貴族)が[[エトルリア]]人の王を追放し共和制を開始した。[[サムニウム戦争]]([[紀元前343年]] - [[紀元前290年]])などにより[[紀元前272年]]にイタリア半島を制圧。[[フェニキア]]人の植民国家[[カルタゴ]]との戦争([[ポエニ戦争]])([[紀元前264年]] - [[紀元前146年]])によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアは[[ローマ帝国]]の中心地域として栄えたが、[[286年]]に[[ディオクレティアヌス]]が帝国の統治機構および皇帝位を東西に[[テトラルキア|分割]]すると<ref group=注釈>二つの国に分裂したという意味ではなく、一つの国の東西を二つの政府・皇帝で分権したという程度に過ぎない。</ref>、イタリアは西の皇帝権([[西ローマ帝国|西方正帝]])の管轄となった。[[5世紀]]末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]によって[[オドアケル]]がローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。
[[File:RomanEmpire 117 it.svg|thumb|紀元117年の帝国最大版図 (茶・緑)]]
=== ローマ帝国分割以降 ===
オドアケルが[[493年]]に[[東ローマ帝国]]に滅ぼされたあと、ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]により[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]に[[イタリア王]]位が授けられて[[東ゴート王国]]が設立されたが、その東ゴート王国も[[東ローマ帝国]]によって滅ぼされ、[[553年]]にイタリアは80年ぶりのローマ皇帝領となった。しかし、帝国にとってもはやイタリアは一[[属州]]にすぎず、さらに[[ランゴバルド人]]の侵入により、ローマのイタリアに対する支配力は大きく低下した。なお、イタリアに常駐した最後のローマ皇帝は7世紀の[[コンスタンス2世]]である。彼は南イタリアと[[アフリカ]]を中心に帝国を再編成しようと意図したが、失敗に終わった。8世紀には、東ローマ帝国の勢力はイタリア半島の南端部にまで後退した。その後は南端部の東ローマ帝国、シチリア島の[[イスラム]]教徒、ローマを中心とした[[ローマ教皇領]]、北部には[[神聖ローマ皇帝]]といった勢力が割拠した。このほか多数の都市国家が発展、11世紀になると東ローマに代わり[[ノルマン人]]が侵入した。これらの中にはイタリアの統一を試みる者もいたが、[[ローマ教皇庁]]の思惑もあって分裂状態が続いた。
=== 近現代 ===
<!--[[ファイル:Evolution of Franco-Italian border.jpg|サムネイル|1860年以来のイタリアのフランス植民地化]]--><!--凡例が日本語で付されるまでコメントアウト-->
[[18世紀]]末にイタリアに侵攻したフランスの[[ナポレオン・ボナパルト]]は全イタリアを手中に納めたが、[[1815年]]にナポレオンが失脚すると[[ヴェネツィア]]と[[ジェノヴァ]]の共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。
[[File:Giuseppe Garibaldi (1866).jpg|thumb|left|150px|[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]]]
=== イタリア王国 ===
[[1861年]]2月、[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]らの戦果を継承した[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]が統一し、1861年[[3月17日]]に[[イタリア王国]]を樹立した。王名が新生イタリアで1世に戻らないのは、ガリバルディらがナショナリズムを掲げたにもかかわらず、統一イタリアはサルデーニャ王国の版図そのものということにされたからである。1866年8月25日、[[不平等条約]]である日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立した<ref group=注釈>イタリア在日大使館の説明では、日本側全権が[[柴田剛中]]・[[朝比奈昌広]]・[[牛込重忝]]の三名で、イタリア全権は海軍軍人であり国王使節のヴィットリオ・アルミニヨン([[:en:Vittorio Arminjon|Vittorio F. Arminjon]])であった。翌年元旦に発効、蚕卵紙が輸出されるようになった。これは試験的なもので、イタリアなどのヨーロッパ各国は[[オスマン帝国]]の蚕卵紙を改良して用いた。[[ルイ・パスツール]]が微粒子病の防止策を考案してからも西欧の養蚕は用地を工業から取り返すことができず、トルコからの逆輸入がおこった。</ref>。[[1873年]]には[[岩倉使節団]]がイタリアの[[フィレンツェ]]、ローマ、ヴェネツィアを歴訪しており、当時の様子が『[[米欧回覧実記]]』に一部イラストつきで詳しく記されている<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、252~357頁</ref>。
[[1922年]]、[[ローマ進軍]]クーデターにより[[ファシスト党]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]が[[首相]]となる。ムッソリーニは権力の集中を進め、[[ファシズム]]による独裁体制を確立させた。[[1929年]]にはローマ教皇庁との間に[[ラテラノ条約]]を結び、関係を修復する。ムッソリーニ首相と[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]国王の指導のもと、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、[[1935年]]にはエチオピアを再度植民地化すべく[[第二次エチオピア戦争]]によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策をとる。さらに[[1937年]]には[[日本]]と[[ドイツ]]とともに[[日独伊防共協定]]を結び、[[1939年]]9月に勃発した[[第二次世界大戦]]には[[1940年]]6月に参戦。同年9月には[[日独伊三国同盟]]を締結、1941年12月にはドイツとともに対米宣戦布告を行った。しかし[[1943年]]7月、敗色が濃い中ムッソリーニは失脚し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの[[傀儡政権]]である[[イタリア社会共和国]]が北イタリアを支配する状況になる。しかし、[[1945年]][[5月8日]]にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。
=== イタリア共和国 ===
王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押しした形のサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い[[南イタリア]]では王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、大戦終結後の1946年6月2日に行われた[[1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票|共和制への移行を問う国民投票]]では賛成54%の僅差で王政廃止が決定された。[[ウンベルト2世]]は廃位、[[サヴォイア家]]による[[君主制]]は廃止され、現在の[[イタリア共和国]]が成立した。[[1948年]]に、初代[[大統領]]に[[エンリコ・デ・ニコラ]]が就任。その後の[[冷戦]]では、[[社会主義]]勢力の影響を受けながらも、[[アメリカ合衆国]]や[[西ドイツ]]などとともに[[西側諸国]]の1国として[[東側諸国]]と対峙した。[[主要国首脳会議]]の参加国であり、現在も政治や経済だけでなく、文化的な側面においても世界的に重要な位置を占める。
== 政治 ==
[[ファイル:Sergio Mattarella Presidente della Repubblica Italiana.jpg|thumb|150px|大統領 [[セルジョ・マッタレッラ]]]]
[[File:Giorgia Meloni Official 2022 (cropped).jpg|thumb|150px|閣僚評議会議長(首相)[[ジョルジャ・メローニ]]]]
{{Main|イタリアの政治}}
=== 行政 ===
国家[[元首]]は共和国大統領。選出方法は[[間接選挙制]]で、就任条件は50歳以上、任期は7年で再選制限はない。
通常は、内閣や議会の決定に基づく形式的な権限を行使するにすぎないが、首相任命権や議会解散権などを通じて実権を発動する可能性を秘めている。行政は首相率いる[[内閣]]が統轄する。首相は大統領が指名し、議会が承認する。各省の大臣は首相の指名に基づき、大統領が任命する。[[議院内閣制]]を採用しており、内閣は議会の信任を得なければならない。
{{See also|イタリアの大統領|イタリアの首相}}
「おはよう、今日の首相は誰?」というジョークが広められるほど、首相の交代が頻繁な国として名高く、今もその傾向はおさまっていないが、1990年1月 - 2013年4月の間での首相は9人(延べ13人)と、日本の15人(延べ16人)に抜かれている。ちなみに、同じ議院内閣制の先進国での同期間における就任人数は、ドイツが3人、[[イギリス]]と[[カナダ]]が5人である。
=== 立法 ===
[[ファイル:Camera dei deputati Aula Palazzo Montecitorio Roma.jpg|thumb|イタリア議会 (Parlamento Italiano)]]
[[イタリア議会]]は[[元老院 (イタリア)|元老院]](上院)と[[代議院 (イタリア)|代議院]](下院)で構成される[[両院制]](二院制)である。元老院は、任期5年の民選議員(200議席)、および終身議員とで構成される。
終身議員には大統領経験者のほか、科学や芸術などの分野で国の名誉を高めた功労者の中から、大統領が指名した者が就任する。一方、代議院は全て民選の全400議席で、任期5年である。
また日本では[[衆議院の優越]]が認められているが、イタリアでは両院の権能は完全対等であり、双方とも大統領によって解散されうる。
==== 憲法改革案を否決 ====
2006年6月25 - 26日、憲法改革案を問う国民投票が行われ、開票の結果60%を超す反対で否決された。改革案は、退陣した[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]]右派連立政権が2005年末、野党・中道左派勢力の反対を押し切って議会を通過させたものである。改革案の中身は、議会の解散権を大統領から首相に移し、保健や教育、警察などの権限を国から州{{enlink|Regions of Italy|regione}}に委譲するというものであった。開票結果は、反対が61.7%。そのうち、南部で74.8%、中部で67.7%、北部で52.6%の多数を占めた。投票率は53.6%であった。
==== 緊急財政法案可決 ====
[[2010年]][[7月15日]]、上院は、ベルルスコーニ政権が提出していた緊急財政法案を賛成170、反対136、棄権0で可決した。政府は、月内にも下院を通過させて法案の成立を目指す。しかし、最大野党の民主党は、16、17日の両日、全国規模の抗議行動を計画している。本法案は5月に提案され、公務員給与増の凍結、省庁予算の削減、地方自治体への交付金削減などの実行によって、今後2年間に財政赤字比率を[[国内総生産]](GDP)比3%以内に下げると発表している。
=== 政党 ===
{{Main|イタリアの政党}}
{{節スタブ}}
=== 司法 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの法律|en|Law of Italy}}}}
イタリアの刑事司法は市民6人と裁判官2人が一緒に審理する[[参審制|参審裁判]]と裁判官だけによる裁判がある。参審裁判は殺人など重大事件が対象で、重罪院で審理される。重罪院の控訴審は重罪控訴院で、参審裁判による。上告審は日本の最高裁にあたる破棄院が担当するが、憲法判断が必要なケースは憲法裁判所に移送される。参審員はイタリア語で「市民裁判官」と呼ばれ、35歳以上60歳以下で一審は中卒以上、控訴審は高卒以上。くじ引きで選んだ市民に希望者を加えた名簿から、3か月ごとに再びくじ引きで選出し、その期間中に起訴された事件を担当する。
{{節スタブ}}
== 国際関係 ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアの国際関係|en|Foreign relations of Italy}}}}
{{節スタブ}}
=== 日本との関係 ===
{{main|日伊関係}}
== 軍事 ==
[[ファイル:Alpini_ISAF.jpg|thumb|[[国際治安支援部隊|ISAF]]としてアフガニスタンに従軍する陸軍部隊([[アルピーニ]]兵)。イタリア陸軍は西部地区の軍指揮も委ねられている]]
[[ファイル:Cavour (550).jpg|thumb|イタリア海軍の軽空母「[[カヴール (空母)|カヴール]]」]]
[[ファイル:Frecce Tricolori Kecskemet.jpg|thumb|イタリア空軍の[[フレッチェ・トリコローリ]]]]
[[ファイル:Firenze.Carabinieri01.JPG|thumb|カラビニエリ]]
{{Main|イタリア軍}}
*[[2004年]]末に[[徴兵制]]が廃止され、[[2005年]]より[[志願制度|志願制]]。任期は、1年から4年の期限つきと終身の2種。
**最年少の兵士は18歳。
*軍事費は268億ドル<ref name=SIPRI-2019/>。GDP比は1.4%<ref name=SIPRI-2019>{{cite web | url=https://www.sipri.org/sites/default/files/2020-04/fs_2020_04_milex_0_0.pdf |title=Trends in World Military Expenditure, 2019 |publisher=[[ストックホルム国際平和研究所|Stockholm International Peace Research Institute]] |first1=Nan |last1=Tian |first2=Aude |last2=Fleurant |first3=Alexandra |last3=Kuimova |first4=Pieter D. |last4=Wezeman |first5=Siemon T. |last5=Wezeman |date=27 April 2020 |access-date=27 April 2020}}</ref>。
*[[フィアット]]や[[アレーニア・アエルマッキ|アエルマッキ]]などの軍事企業が国産の[[戦闘機]]や[[戦闘車両]]を生産し、[[中近東]]や[[アジア]]諸国に輸出している。
*独自の[[核兵器|核]]戦力は保持していないが、[[アメリカ合衆国]]と[[ニュークリア・シェアリング]]を行っているため[[核抑止]]を可能としている。
=== 陸軍 ===
{{Main|イタリア陸軍}}
2007年現在現役兵約11万人、予備役約3万3,500人が所属。
=== 海軍 ===
{{Main|イタリア海軍}}
冷戦期においては、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[黒海艦隊]]を仮想敵対目標として地中海地域での戦闘行為のため大規模な海軍戦力を擁していた。今日でも海軍重視の傾向は変わらず、法改正によって保有が可能となった[[軽空母]]「[[ジュゼッペ・ガリバルディ (空母)|ジュゼッペ・ガリバルディ]]」に次いで軽空母「[[カヴール (空母)|カヴール]]」が戦列に加わるなど、予算削減で新型[[戦車]]の配備が滞りがちな陸軍に比べて一層の強化が進められている。[[日本]]の[[海上自衛隊]]とは装備面でも共通点が多く、海軍国としての役割も類似している。また、カヴールと入れ替わる形で旧式化しつつあったガリバルディは大規模改修を受けて[[ヘリコプター揚陸艦]]としての運用が開始されたほか、ガリバルディの後継艦として3万トン級[[強襲揚陸艦]]「[[トリエステ (強襲揚陸艦)|トリエステ]]」が現在艤装中である。
=== 空軍 ===
{{Main|イタリア空軍}}
4万5,879名の要員からなり、[[F-16 (戦闘機)|F-16]]・[[ユーロファイター タイフーン|タイフーン]]など一線級の空軍機を保有している。航空機の国産化にも熱心で、[[アエリタリア]](旧[[フィアット社]]航空機部門)が開発した[[G.91]]軽戦闘機は戦後復興からまもない時期(1956年)でありながら高い性能を誇り、同じく国産にこだわるイギリスやフランスは拒んだものの、[[ドイツ空軍]]や[[ポルトガル空軍]]への採用が決定し、「ジーナ」の愛称で20年ほど前まで長らく愛用されていた。[[KC-767]]などのように、世界でイタリアと日本のみが保有する機種もあり、組織間交流も盛んである。
近年はタイフーンに見られるような欧米での共同開発機に意欲を見せ、[[空母]]を増産した海軍の意向もあってか、[[オランダ]]とともに[[F-35 (戦闘機)|F-35]]の開発計画でイギリスに次ぐ協力を示している。
=== カラビニエリ ===
{{Main|カラビニエリ}}{{See also|イタリアの警察}}
正式名称はカラビニエリ (Carabinieri) で、[[国家憲兵]]である。日本では、そのままカラビニエリと称するほか、「国家憲兵」「憲兵隊」「国家警察」「国防省警察」「軍警察」などさまざまに訳されている。
平時は各種の[[警察]]活動として、[[警備]]や事件・事故対応、[[マフィア]]や反政府グループなどの犯罪組織の摘発などを担当しており、戦時には戦地での警察・[[憲兵]]活動を行う。また[[テロリズム|テロ]]対策・[[要人警護]]・[[人質救出作戦|人質救出]]などを担当する独自の[[特殊部隊]](国家憲兵隊[[特殊介入部隊 (カラビニエリ)|特殊介入部隊]])を保持しており、同部隊は[[イラク戦争]]など海外戦争においても戦歴を重ねている。
== 情報機関 ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアの情報機関|label=イタリアの諜報機関|en|Italian intelligence agencies}}}}
<!--2006年、テレコムスキャンダルが起きた([[:it:Scandalo Telecom-Sismi|Scandalo Telecom-Sismi]])<ref>『イタリア史』 544頁</ref>。-->
== 地理 ==
[[File:Italy topographic map-blank.svg|thumb|right|地形図]]
[[File:Mont Blanc from Punta Helbronner, 2010 July.JPG|thumb|最高峰モンテ・ビアンコ(仏名:モンブラン)]]
{{main|イタリアの地理|[[イタリアの気候]]}}
イタリアは地中海に突き出した長靴型イタリア半島、および周辺の島(サルデーニャ島、シチリア島など。[[コルシカ島]]はフランス領)から構成されている。東は[[アドリア海]]、西で[[ティレニア海]]と[[リグリア海]]、南で[[イオニア海]]と地中海に面している。国境を接する国としては、大陸部では西側をフランス、北側をスイスとオーストリア、東側を[[スロヴェニア]]。アドリア海を挟んで、[[クロアチア]]、[[アルバニア]]、ギリシアなどとも地理、歴史的に結びつきが強い<ref>バリシア・クレキッチ著 田中一生訳 『中世都市ドゥブロヴニク アドリア海の東西交易』 1990年 彩流社</ref>。[[キリスト教]]・[[カトリック教会]]の治めるバチカン市国があるが、これはイタリアの首都ローマが周囲を囲んでいる。ほかにもアドリア海近くの[[サンマリノ共和国]]を包み込むように接する。さらに、スイス領内には[[飛び地]]として面積1.7km<sup>2</sup>ほどの[[カンピョーネ・ディターリア]]を持つ。
領土内北部ではアルプス山脈が東西に弧を描き、国境をなしている。国境には[[マッターホルン]]や、[[モンテ・ローザ|モンテローザ]]、[[モンブラン]]のような高峰があり、イタリアの最高点はフランスとの国境線上のモンブラン頂上付近にある。アルプスは北西部で分岐し、イタリア半島を縦断する[[アペニン山脈]]を形成する。アペニン山脈を境に、イタリア半島の気候は、アドリア海側とティレニア海側とでは非常に異なっている。特にアドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつける。
[[火山]]国でもあり、特に中部([[アブルッツォ州]]、[[ラツィオ州]])と南部ではしばしば[[地震]]が起こる。[[エトナ山]]、[[ヴェスヴィオ|ヴェスヴィオ山]]などが有名である。エトナ山はヨーロッパ最大の活火山であり、頻繁に[[噴火]]している。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とはみなされておらず数千人が斜面と麓に居住している。イタリアには多くの川があるが、[[ポー川]]、[[アディジェ川]]、[[テヴェレ川]]が上位3位の長さを持つ。テヴェレ川は[[アルノ川]]源流近くに源を発し、ローマ市内を抜けて流れることで有名である。
== 地方行政区分 ==
[[ファイル:Regionen in Italien beschriftet.png|500px|right|thumb|イタリアの州]]
{{Main|イタリアの地方行政区画|イタリアの県の一覧|コムーネ一覧|イタリアの郵便番号}}
イタリアの地方行政区分の最上単位は、20の'''州''' (regione) である。各州はさらに、110の'''県''' (provincia) に分かれる。各県にはさらに、'''コムーネ'''(comune)(市町村と似た行政区分)が存在する。ローマにはさらに、{{仮リンク|ローマのムニチーピオ|it|Municipi di Roma}}が存在する。{{-}}
{{地域区分表|CONTENTS=
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ピエモンテ州]]
|NAMEL=[[:it:Piemonte|Piemonte]]
|POP=4,394,580
|CAPJ=[[トリノ]]([[トリノ県]])
|CAPL=[[:it:Torino|Torino]]
|ETC=1
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ヴァッレ・ダオスタ州]](特別自治州)
|NAMEL=[[:it:Valle d'Aosta|Valle d'Aosta]]
|POP=126,732
|CAPJ=[[アオスタ]](州と県が同じ)
|CAPL=[[:it:Aosta|Aosta]]
|ETC=2
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[リグーリア州]]
|NAMEL=[[:it:Liguria|Liguria]]
|POP=1,565,566
|CAPJ=[[ジェノヴァ]]([[ジェノヴァ県]])
|CAPL=[[:it:Genova|Genova]]
|ETC=3
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ロンバルディア州]]
|NAMEL=[[:it:Lombardia|Lombardia]]
|POP=10,001,304
|CAPJ=[[ミラノ]]([[ミラノ県]])
|CAPL=[[:it:Milano|Milano]]
|ETC=4
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[トレンティーノ=アルト・アディジェ州]](特別自治州)
|NAMEL=[[:it:Trentino-Alto Adige|Trentino-Alto Adige]]
|POP=1,061,318
|CAPJ=[[トレント (イタリア)|トレント]]([[トレント自治県]])
|CAPL=[[:it:Trento|Trento]]
|ETC=5
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ヴェネト州]]
|NAMEL=[[:it:Veneto|Veneto]]
|POP=4,907,284
|CAPJ=[[ヴェネツィア]]([[ヴェネツィア県]])
|CAPL=[[:it:Venezia|Venezia]]
|ETC=6
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州]](特別自治州)
|NAMEL=[[:it:Friuli-Venezia Giulia|Friuli-Venezia Giulia]]
|POP=1,218,068
|CAPJ=[[トリエステ]]([[トリエステ県]])
|CAPL=[[:it:Trieste|Trieste]]
|ETC=7
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[エミリア=ロマーニャ州]]
|NAMEL=[[:it:Emilia-Romagna|Emilia-Romagna]]
|POP=4,447,580
|CAPJ=[[ボローニャ]]([[ボローニャ県]])
|CAPL=[[:it:Bologna|Bologna]]
|ETC=8
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[トスカーナ州]]
|NAMEL=[[:it:Toscana|Toscana]]
|POP=3,743,370
|CAPJ=[[フィレンツェ]]([[フィレンツェ県]])
|CAPL=[[:it:Firenze|Firenze]]
|ETC=9
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ウンブリア州]]
|NAMEL=[[:it:Umbria|Umbria]]
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|CAPJ=[[ペルージャ]]([[ペルージャ県]])
|CAPL=[[:it:Perugia|Perugia]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[マルケ州]]
|NAMEL=[[:it:Marche|Marche]]
|POP=1,539,316
|CAPJ=[[アンコーナ]]([[アンコーナ県]])
|CAPL=[[:it:Ancona|Ancona]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[ラツィオ州]]
|NAMEL=[[:it:Lazio|Lazio]]
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|CAPJ=[[ローマ]]([[ローマ県]])
|CAPL=[[:it:Roma|Roma]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[アブルッツォ州]]
|NAMEL=[[:it:Abruzzo|Abruzzo]]
|POP=1,322,585
|CAPJ=[[ラクイラ]]([[ラクイラ県]])
|CAPL=[[:it:L'Aquila|L'Aquila]]
|ETC=13
}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[モリーゼ州]]
|NAMEL=[[:it:Molise|Molise]]
|POP=310,685
|CAPJ=[[カンポバッソ]]([[カンポバッソ県]])
|CAPL=[[:it:Campobasso|Campobasso]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[カンパニア州]]
|NAMEL=[[:it:Campania|Campania]]
|POP=5,840,219
|CAPJ=[[ナポリ]]([[ナポリ県]])
|CAPL=[[:it:Napoli|Napoli]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[プッリャ州]]
|NAMEL=[[:it:Puglia|Puglia]]
|POP=4,066,819
|CAPJ=[[バーリ]]([[バーリ県]])
|CAPL=[[:it:Bari|Bari]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[バジリカータ州]]
|NAMEL=[[:it:Basilicata|Basilicata]]
|POP=571,133
|CAPJ=[[ポテンツァ]]([[ポテンツァ県]])
|CAPL=[[:it:Potenza|Potenza]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[カラブリア州]]
|NAMEL=[[:it:Calabria|Calabria]]
|POP=1,966,819
|CAPJ=[[カタンザーロ]]([[カタンザーロ県]])
|CAPL=[[:it:Catanzaro|Catanzaro]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[シチリア州]](特別自治州)
|NAMEL=[[:it:Sicilia|Sicilia]]
|POP=5,055,838
|CAPJ=[[パレルモ]]([[パレルモ県]])
|CAPL=[[:it:Palermo|Palermo]]
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}}
{{地域区分表列
|NAMEJ=[[サルデーニャ州]](特別自治州)
|NAMEL=[[:it:Sardegna|Sardegna]]
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|CAPJ=[[カリャリ]]([[カリャリ県]])
|CAPL=[[:it:Cagliari|Cagliari]]
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}}
}}
=== 主要都市 ===
{{Main|イタリアの都市の一覧}}
{| class="wikitable" style="text-align:center; line-height:1.4em"
|-
!順位
!都市
![[イタリアの地方行政区画|行政区分]]
! style="border-right:double #aaaaaa;" |人口(人)
!
!都市
!行政区分
! style="border-right:double #aaaaaa;" |人口(人)
|-
!1
|align="left"|'''[[ローマ]]''' {{Nowrap|(ローマ県)}}
|align="left"|ラツィオ州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |2,895,206
|11
|align="left"|'''[[ヴェネツィア]]''' {{Nowrap|(ヴェネツィア県)}}
|align="left"|ヴェネト州
| style="text-align:right;" |258,600
|-
!2
|align="left"|'''[[ミラノ]]''' {{Nowrap|(ミラノ県)}}
|align="left"|ロンバルディア州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |1,437,436
|12
|align="left"|'''[[ヴェローナ]]''' {{Nowrap|([[ヴェローナ県]])}}
|align="left"|ヴェネト州
| style="text-align:right;" |261,411
|-
!3
|align="left"|'''[[ナポリ]]''' {{Nowrap|(ナポリ県)}}
|align="left"|カンパニア州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |962,736
|13
|align="left"|'''[[メッシーナ]]''' {{Nowrap|([[メッシーナ県]])}}
|align="left"|[[シチリア州]]
| style="text-align:right;" |226,263
|-
!4
|align="left"|'''[[トリノ]]''' {{Nowrap|(トリノ県)}}
|align="left"|ピエモンテ州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |870,599
|14
|align="left"|'''[[パドヴァ]]''' {{Nowrap|([[パドヴァ県]])}}
|align="left"|ヴェネト州
| style="text-align:right;" |213,975
|-
!5
|align="left"|'''[[パレルモ]]''' {{Nowrap|(パレルモ県)}}
|align="left"|シチリア州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |658,037
|15
|align="left"|'''[[トリエステ]]''' {{Nowrap|(トリエステ県)}}
|align="left"|フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州
| style="text-align:right;" |203,513
|-
!6
|align="left"|'''[[ジェノヴァ]]''' {{Nowrap|(ジェノヴァ県)}}
|align="left"|リグーリア州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |571,107
|16
|align="left"|'''[[ターラント]]''' {{Nowrap|([[ターラント県]])}}
|align="left"|プッリャ州
| style="text-align:right;" |194,014
|-
!7
|align="left"|'''[[ボローニャ]]''' {{Nowrap|(ボローニャ県)}}
| style="white-space:nowrap;" align="left"|エミリア=ロマーニャ州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |395,602
|17
|align="left"|'''[[ブレシア]]''' {{Nowrap|([[ブレシア県]])}}
|align="left"|ロンバルディア州
| style="text-align:right;" |202,074
|-
!8
|align="left"|'''[[フィレンツェ]]''' {{Nowrap|(フィレンツェ県)}}
|align="left"|トスカーナ州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |375,612
|18
|align="left"|'''[[プラート]]''' {{Nowrap|([[プラート県]])}}
|align="left"|トスカーナ州
| style="text-align:right;" |197,352
|-
!9
|align="left"|'''[[バーリ]]''' {{Nowrap|(バーリ県)}}
|align="left"|プッリャ州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |323,932
|19
|align="left"|'''[[レッジョ・ディ・カラブリア]]''' {{Nowrap|([[レッジョ・カラブリア県]])}}
|align="left"|カラブリア州
| style="text-align:right;" |178,249
|-
!10
|align="left"|'''[[カターニア]]''' {{Nowrap|([[カターニア県]])}}
|align="left"|シチリア州
| style="text-align:right; border-right:double #aaaaaa;" |315,937
|20
|align="left"|'''[[モデナ]]''' {{Nowrap|([[モデナ県]])}}
| style="white-space:nowrap;" align="left"|エミリア=ロマーニャ州
| style="text-align:right;" |188,801
|-
| colspan="11" style="background:#f5f5f5;" |2021年国勢調査
|-
|}
<gallery>
File:Veduta Aerea EUR 1.jpg|01.[[ローマ]]
File:Vue Ville depuis Cathédrale Santa Maria Nascente - Milan (IT25) - 2022-09-03 - 2.jpg|02.[[ミラノ]]
File:Panorama dopo il tramonto Torino.jpg|04.[[トリノ]]
File:Palermo BW 2012-10-09 16-10-02.JPG|05.[[パレルモ]]
</gallery>
{{-}}
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|イタリアの経済|en|Economy of Italy}}}}{{See also|イタリアの企業一覧}}
[[ファイル:Flag of Europe.svg|thumb|イタリアは[[欧州連合]](EU)加盟国であり、その[[単一市場]]の構成国である]]
=== 戦後の経済史 ===
イタリア国内は気候、土壌、高度が地域差に富んでいるため、旧来さまざまな農作物の栽培が可能である。[[ポー平原]]を中心に半島全体で冬小麦を産する。半島南部沿岸で野菜と果物が採れる。イタリアは世界有数の[[ワイン]]生産国であり、[[オリーブ]]と[[オリーブ・オイル]]の生産量も多い。酪農も主要な産業であり、[[ゴルゴンゾーラ]]、[[パルミジャーノ・レッジャーノ]]をはじめ約50種類の[[チーズ]]が生産される。
第二次世界大戦以降、工業が急速に発展し、農業国から転換した。重要な工業に、繊維工業と、硫酸、アンモニア、水酸化ナトリウムの製造などの化学工業がある。そのほか[[自動車]]、[[鉄鋼]]、ゴム、重機械、[[航空機]]、家電製品、[[パスタ]]などの食料品の製造業が盛ん。工業の中心地はジェノヴァ、ミラノ、ローマ、トリノである。
1958年から1963年にかけてイタリアはGDP年率+6.3%のめざましい経済発展を遂げ、1959年5月25日にイギリスの日刊紙がイタリアの経済復興のめざましさを指して「奇跡の経済」と名付けた。1960年代後半から圧迫されてきた膨大な財政赤字を立て直した。しかしモンテディソンをめぐるスキャンダルをはじめとして、イタリアの政治経済は混乱していった。
1980年代初頭には[[バブル経済]]を経験し、GDPでECの牽引役を担う存在であり、巨大な植民地大国だったイギリスを抜き世界第5位となったものの、1990年にはまた戻っている。1990年、イタリアの銀行制度は欧州共同体に同調し大幅に変更され、公営銀行の削減、外国資本に対する規制緩和が行われた。以後政府は輸出を活性化させ、研究開発の促進よりも為替相場をリラ安に誘導することを選択した。[[経済通貨同盟|EMU]](経済通貨統合)への第1陣参加を実現するため、1993年から政府は大規模な歳出削減策を継続して実施した。その結果、財政赤字のGDP比は94年の9.5%から99年には1.9%にまで改善され、目標としていたEUの財政基準(3.0%以内)を達成することができた。1990年代半ばには産業復興公社(IRI)が分解され、多くの企業が民営化した。[[1998年]]12月31日に1ユーロ=1,936.27リラという交換レートが固定された。法定通貨として長年「[[イタリア・リラ|リラ]]」が使われてきたが、2002年1月1日から[[欧州連合|EU]]の単一通貨[[ユーロ]](EURO、'''エウロ''')の紙幣や硬貨が流通し<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/eu/euro_gaiyou.html|title=EUにおける通貨統合|date=2008-4|accessdate=2020-5-6|publisher=外務省}}</ref>、リラは2月末をもって法的効力を失った。
[[2010年欧州ソブリン危機]]により、[[欧州連合|EU]]各国は財政赤字を対GDP比3.0%以内に抑える基準の達成を迫られた。2014年5月、イタリアは財政赤字のGDP比率を低下させる裏技として、[[麻薬]]取引や[[売春]]、[[密輸]]などの[[地下経済]]に着目し、これらを2015年からGDP統計に加算すると発表した。2011年の[[イタリア銀行]]による推計では、イタリアの地下経済の規模はGDPの10.9%を占める規模とされている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3018753?ctm_campaign=nowon|title=麻薬、売春など地下経済をGDPに加算へ、英伊で動き|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2014-06-25|accessdate=2014-06-25}}</ref>。
[[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2018年]]のイタリアの[[国内総生産|GDP]]は2兆722億ドルである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-1409.html|title=世界の名目GDP 国別ランキング・推移|accessdate=2020-5-6|publisher=Global Note}}</ref>。世界8位であり、[[欧州連合|EU]]加盟国では[[ドイツ]]、[[フランス]]に次ぐ3位である。また、同年の1人あたりのGDPは3万2,747ドルである。
=== 貿易とエネルギー ===
イタリアの森林業資源は乏しく、[[FAO]]の2017年の統計によれば、森林率は31.97%であり<ref>{{Cite web|和書|title=世界の森林率 国別ランキング・推移|url= https://www.globalnote.jp/post-1716.html|accessdate=2020-5-6|publisher=Global Note}}</ref>、木材の多くを輸入に頼っている。森林はまず古代ローマ人によって、その後19世紀に大部分が伐採されてしまった。それぞれの目的は[[マラリア]]防止と近代化であった。その結果土壌の浸食が進み、林業の発展の障害となってはいたが、近年は状況の好転がみられる。
1970 - 1980年代に[[ヨーロッパ共同体]](現・EU)加盟国との貿易が増加したが、イタリアは石炭や石油などの原材料を輸入に依存しているため、貿易赤字が続いていた。しかし90年代初頭、リラ切り下げで、外国市場にとってイタリア製品の価格が低下したため、輸出が増加した。貿易相手国の5分の3近くはEU加盟国で、おもな輸出相手国はドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、スペイン、輸入相手国はドイツ、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ合衆国、スペインなどである。イタリアはヨーロッパの輸出大国の中で、ドイツに伍して輸出が成長している唯一の国である。2008年より過去7年間、ドイツは7.8%、イタリアは7.6%の割合で輸出が成長している。輸出先で成長が著しいのは、南アメリカ(+79.3%)、トルコ(+35%)、OPEC諸国、ロシア、中国である。
イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭を用いた[[火力発電]]が生み出しており、13%が[[水力発電]]によるものである。イタリアは1950年代後半から[[原子力発電]]の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながら1986年の[[チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノブイリ原発事故]]などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定し、運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。
石油・ガス会社の[[Eni]] (Eni S.p.A.) はイタリアでもっとも売り上げと利益の多い企業であり、[[スーパーメジャー]]の一角を占めている。もとは公営電力会社であった[[ENEL]]はヨーロッパにおける大手電力会社で、[[地熱発電]]技術では100年の経験蓄積がある。
=== 南北格差 ===
<!--[[File:Gross domestic product (GDP) per inhabitant, in purchasing power standard (PPS), by NUTS 2 regions, 2010 (1) (% of the EU-27 average, EU-27 = 100).png|thumb|right|300px|ヨーロッパにおける1人当たりGDP(2010年)]]-->
[[ファイル:Lire 10000 (Alessandro Volta).JPG|thumb|right|1万リラ紙幣]]
{{main|{{仮リンク|南北経済格差|en|en:Economy of Italy#North–South divide}}}}
戦前からミラノとローマがイタリア金融の中心である。主要銀行としてはEU圏1位の資本を持つ[[ウニクレディト]]などがある。
イタリア経済が依然として抱える課題は、南部の工業化の遅れである。[[ミラノ]]や[[トリノ]]などの北部は工業化が進んでいるが、南部や[[サルデーニャ]]などの島嶼部は農業や観光業や軽工業中心で南北格差が大きい。中心工業地帯は[[ジェノヴァ]]などで、工業化が遅れている南部のターラントには半官半民の製鉄所があり、[[第三のイタリア]]が新たな経済の牽引役となっている。政府による工業化育成の努力も、労働力の問題や、多くの産業がマフィアとの結びつきによって成り立っているため大企業の南部進出が阻まれるといった複雑な現実に直面している。多くの労働者が職を求めて南部から北部へ移住しており(国内移民)、南部で耕作が放棄されるなどして一時期は大きな社会問題となった。
国内移民はルーマニアやポーランドなど、ほかのEU諸国からの移民や中東系の外国人移民が増加した現在では言及されることが少なくなった。しかし依然として北部・中部に比べて産業が乏しい南部・島嶼部という経済格差がある。北部の7州2自治州([[ピエモンテ州]]、[[リグーリア州]]、[[ロンバルディア州]]、[[ヴェネト州]]、[[エミリア=ロマーニャ州]]、[[ヴァッレ・ダオスタ州|ヴァッレ・ダオスタ自治州]]、[[トレンティーノ=アルト・アディジェ州|トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州]]、[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州|フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州]])、中部4州([[トスカーナ州]]、[[ウンブリア州]]、[[マルケ州]]、[[ラツィオ州]])はフランスのパリ周辺やドイツ西部の工業地帯に匹敵する経済力を有している。
対する南部5州([[アブルッツォ州]]、[[カンパニア州]]、[[バジリカータ州]]、[[プーリア州]]、[[カラブリア州]])は、戦後復興で著しい経済成長を遂げたアブルッツォ州を除いてポルトガルやギリシャなど欧州後進地域と同程度の経済水準から抜け出せていない。島嶼部2自治州([[サルデーニャ州|サルデーニャ自治州]]、[[シチリア州|シチリア自治州]])では資源豊かな島という似た歴史を持ちながら明暗がはっきり分かれており、情報産業が発展したサルデーニャ島に対してシチリア島は農業中心で犯罪組織による経済への悪影響もいまだ根強い。
=== 花形産業 ===
[[ファイル:2014-03-04 Geneva Motor Show 0756.JPG|left|thumb|フィアット・500]]
イタリアの経済に占める自動車産業の割合は、国内総生産の8.5%にものぼる。国内ではコンパクトカー、エコノミーカーが上位を占め、[[再生可能エネルギー|エコロジカル]]な自動車の売れ行きが伸びている。輸出車の売上高は800億ユーロ(約10兆4,000億円)規模である。南北格差が要因となり輸出が伸び悩んでいる。[[フィアット]]がドイツの[[クライスラー]]やアメリカの[[ゼネラルモーターズ]]と提携している。北部の都市モデナには[[フェラーリ]]や[[ランボルギーニ]]、[[アルファロメオ]]がある。なお、[[フィアット・パンダ]]は欧州における新車登録台数3万3,593台(2009年3月)でEUトップとなっている。2位は[[フォルクスワーゲン・ポロ]]。
[[ファイル:GiorgioArmani.jpg|right|thumb|125px|[[ジョルジオ・アルマーニ]]]]
19世紀ごろから近代服飾・装飾産業が発展し、20世紀から現在にかけては、服飾[[ブランド]]の[[ベネトン]]や[[プラダ]]、[[グッチ]]、[[ジョルジオ・アルマーニ]]や[[ジャンニ・ヴェルサーチ]]、[[ジャンフランコ・フェレ]]、[[バレンチノ]]、靴の[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]や[[トッズ]]、宝飾品の[[ブルガリ]]などが世界各国に輸出されている。
イタリアは幼稚園の先端的教育方法でアトリエリスタと呼ばれる芸術的、工芸的活動の専門家を配置し、人間を育成している。[[ヴァイオリン]]などの[[楽器]]、[[ガラス細工]]や工芸美術品もおもな産業となっている。
ほかにも伝統的に[[映画産業]]や[[観光産業]]が盛んである。イタリア映画のみならず、イタリアを舞台にした映画が世界中で作られ公開されており、それらの映画が観光産業を後押ししていると評価されている。
[[世界観光機関]]によると、2015年イタリアの[[国際観光客到着数]]は5位であり、[[世界経済フォーラム]]の2017年[[旅行・観光競争力レポート]]によるとイタリアの競争力は136か国中8位である。
{{See also|{{仮リンク|イタリアの観光|en|Tourism in Italy}}}}
== 交通 ==
{{Main|イタリアの交通}}
=== 道路 ===
[[ファイル:Via appia.jpg|thumb|220px|[[アッピア街道]]]]
[[ファイル:Rete autostradale italiana-labeled.svg|thumb|220px|[[アウトストラーダ]](イタリアの[[高速道路]])の図]]
{{See also|アウトストラーダ一覧}}
古くから地中海域の交通の要衝として栄えた。[[古代ローマ]]のころには歴代執政官によって街道が整備され、それは[[アッピア街道]]のように史跡として残っているのみならず「[[執政官街道]]」と呼ばれ、現在も使用されている。ローマ帝国時代のローマは、「すべての道はローマに通ず」とさえ呼ばれた。[[新世界]]発見後は[[帝国郵便]]が整備された。
ムッソリーニ時代より'''[[アウトストラーダ]]''' (Autostrada) と呼ばれる有料[[高速道路]]網が整備されはじめた。さらに、フィアット社のバックアップもあり高速道路網が全土に敷き詰められている。ただし車が便利と言い切れない。在ミラノ日本国総領事館は、「イタリアにおける運転手のマナーはほかの国と変わらず自己中心的で交通ルールはあってないようなもの、交通事故の危険性も日本に比較してはるかに高い」と説明している<ref>{{Cite web|和書|title=安全運転のために - 在ミラノ日本国総領事館|url=https://www.milano.it.emb-japan.go.jp/northitalian_life/sicurezza.html|website=www.milano.it.emb-japan.go.jp|accessdate=2021-01-03}}</ref>。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:High-speed train at platform in Milano Stazione Centrale.jpg|thumb|220px|[[ユーロスター・イタリア]]]]
{{Main|イタリアの鉄道}}
[[フェッロヴィーエ・デッロ・スタート]]のグループ会社である[[トレニタリア]]と呼ばれる旧国鉄 (Ferrovie dello Stato) の業務を引き継ぐ民営鉄道会社が全土を網羅し、ローマ-フィレンツェ間の高速新線(ディレティッシマ)を中心に[[ユーロスター・イタリア]]と呼ばれる[[高速列車]]も多数運転されている。旧国鉄以外では[[ヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリ]](NTV)、[[チルクムヴェスヴィアーナ鉄道]]や[[スッド・エスト鉄道]]などがある。
また、ローマ、ミラノ、ナポリなどの主要都市には[[地下鉄]]が整備されている。一部の都市では路面電車や[[ケーブルカー]]が走っており、市民の足となっている。
=== 海運 ===
ローマ帝国時代前から地中海海域の海運の要所として重要な地であったこともあり、海運が古くから盛んである。現在も地中海クルーズの拠点とされることも多く、有名な港としてはナポリやヴェネツィア、ジェノヴァ、ブリンディジなどがある。
=== 空運 ===
[[ファイル:EI-EJI FCO (24869064081).jpg|thumb|left|220px|[[アリタリア航空]]のA330-200型機]]
{{See also|イタリアの空港の一覧}}
政府が主要株主の[[アリタリア航空]]が、イタリアの[[フラッグキャリア]]として国内線と域内および中長距離国際線を運航するほか、イタリアを本拠地として運航を行う航空会社として、メリディアーナ航空や、[[エア・ドロミティ]]などの航空会社があり、それぞれが国内線や域内国際線を運航している。
現在、日本との間にはアリタリア航空が[[成田国際空港]]とローマおよびミラノの間に直行便を運航させている。
また、[[パリ]]や[[アムステルダム]]、[[チューリッヒ]]などのヨーロッパの主要都市や、[[バンコク]]や[[香港]]、[[ドバイ]]などのアジアの主要都市経由で行くこともできる。{{-}}
== 科学技術 ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアの科学技術|en|Science and technology in Italy}}}}
イタリアにおける科学と技術の歴史は古く、その起源と発祥は古代ローマ時代にまで遡ることが出来る。イタリアは何世紀にも亘って、[[生物学]]や[[物理学]]、[[化学]]や[[数学]]、[[天文学]]ならびにその他の科学技術において多くの重要な発明と発見を生み出しており、科学界を自国のみならず国際的に発展させて来ている。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|イタリア工科大学|it|Istituto italiano di tecnologia}}}}
== 国民 ==
{{main|[[イタリアの人口統計]]}}
[[少子高齢化]]が進み、1人の高齢者を2.9人で支える高齢社会に突入しており(2012年)、OECD各国では[[日本]]、[[ドイツ]]の次に少子高齢化が進行している{{Sfn|OECD|2014|loc=Chapt.3.11}}。
=== 主要民族 ===
{{main|イタリア人}}
{{Pie chart
| caption = 民族構成(イタリア)
| label1 =[[イタリア人]]
| value1 =93
| color1 =blue
| label2 =その他
| value2 =7
| color2 =red
}}
[[ファイル:Pyramide Italie.PNG|thumb|right|200px|イタリアの[[人口ピラミッド]]]]
古代[[ローマ人]]を祖先とする[[イタリア人|イタリア民族]]が国民の主流を占める。国家公用語の[[イタリア語]]が[[ロマンス諸語]]に属することや、[[ローマ人]]が[[ラテン人]]を中心とした勢力であったことから一般的に[[ラテン系]]と考えられることが多い。しかし、ほかの欧州諸国と同じく単純化できるものではなく、ラテン人以外の[[イタリック人]]、[[エトルリア人]]、[[フェニキア人]]、古代ギリシャ人、[[ケルト系]]、[[ゲルマン系]]など多様な祖先が民族の形成に影響を与えている。また近世・近代における[[フランス人|フランス系]]、[[オーストリア人|オーストリア系]]、[[スペイン人|スペイン系]]との関わりもある。
イタリア統一後、標準語の制定、方言や地方言語の廃止、徴兵制や初等教育の普及によって国民の均一化を進め、段階的に民族意識の浸透が進んだ。{{仮リンク|イタリア民族主義|en|Italian nationalism}}の高まりは[[未回収のイタリア]]を求める[[戦争]]を生み、[[民族]]の完全統合を目指す[[民族統一主義]](イレデンティズム)の語源ともなった。イタリアにおけるナショナリズムがもっとも大きく高まったのは[[第一次世界大戦]]であり、[[国粋主義]]や民族運動が高揚した。こうした流れは最終的に20年以上にわたって続く[[ファシズム]]政権を生み出し、[[全体主義]]体制によって{{仮リンク|イタリア化|en|Italianization}}と呼ばれる[[民族浄化]]政策が推進された。
==== 少数民族・難民 ====
{{main|{{仮リンク|イタリアの移民|en|Immigration to Italy}}}}
イタリア国内における少数民族としては[[南チロル]]の[[チロル人]]などが挙げられる。かつてイストリア半島などではスラブ系の住民も存在したが、上記の通りファシズム体制下で徹底した弾圧を受けた。ファシズム政権後の現代では一定の自治権を認められつつあるが、統一以来の集権政策も継続されている。近年は[[地中海]]や[[アドリア海]]に面しているという要素から移民や難民の流入が続き、失業や貧困、治安問題、生活習慣や宗教上の軋轢など大きな社会問題を引き起こしている。
移民大国のフランスやドイツには及ばないものの、2016年における外国人人口は502万6,153名を数え<ref>[http://demo.istat.it/str2015/index.html (映らない)]</ref>、イタリア国民の1割近くに達しつつあり、移民2世・3世の定着も進んでいる。移民グループでもっとも多いのは同じ[[ローマ人]]を祖先とする[[ルーマニア人]]で、2014年時点で100万名以上が移民しており、国内で批判の対象とされることも多い。次いで地中海やアドリア海を越えて訪れる[[モロッコ人]]と[[アルバニア人]]が挙げられる。アジア系では中国系移民([[華人]])がトップを占め、数年で倍近く増加している。
[[対テロ戦争]]、[[アラブの春]]、[[シリア内戦]]、[[イスラム国]]の台頭などで中東が混乱してからは、海路でイタリアに不法上陸する者が急増した。2013年10月には、[[ソマリア]]人と[[エリトリア]]人をおもに載せた船が沈没、368人が死亡する事件があり、それ以降、[[イタリア海軍]]は不法移民を救助する活動に力を入れているが<ref>{{cite news |title=地中海で相次ぐ難民船の沈没事故とEUの責任 もっと受け入れたい気持ちはあっても空回り |author=川口マーン惠美 |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2013-10-16 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38911|accessdate=2014-8-23 }}</ref><ref>{{cite news |title=欧州への不法移民:海から押し寄せる大波 |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2014-8-21 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41532 |accessdate=2014-8-23 }}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>、国民の間では難民への反感も高まっている。
=== 言語 ===
{{main|{{仮リンク|イタリアの言語|en|Languages of Italy}}}}
公用語はイタリア語。[[エスノローグ]]による調査では、イタリア国民のうち約5,700万名が[[イタリア語]]を使用している<ref name="ethnologue2012">[http://www.ethnologue.com/18/language/ita/ Italian]</ref>。欧州連合による調査では、イタリア語を母国語としているのはEU圏内で約6,500万名になっている<ref name="europa2006">{{PDFlink|[http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_243_sum_en.pdf Eurobarometer – Europeans and their languages]|485 KB}}, February 2006</ref>。
==== 方言・地方言語 ====
[[等語線]]の[[ラ・スペツィア=リミニ線]]があり、この線の北西の[[北イタリア]](西ロマニアの側)と、南東にあたる中南部のイタリア(東ロマニアの側)では言葉が異なる。東ロマニアに分類される中部イタリアのトスカーナ州の言葉を中心に標準語が形成されている。北イタリアではフランス語などに近い西ロマニアの言葉である[[ガロ・イタリア語]]を使用する<ref group=注釈>この中でもロンバルディア州の言葉は[[ロンバルド語]]という。</ref>。
イタリアは歴史的に別の国に分かれていた期間が長いため方言の差が激しいとされているが、そもそも言語成立の過程にも複雑な事情が絡んでいる。古代ローマで話されていた言葉(ラテン語)の俗語形である「[[俗ラテン語]]」が、ローマ消滅以降にかつての統治領(イタリア・フランス・スペインなど)ごとに統一性を失って方言化した際、イタリア各地のラテン語方言がイタリア地方特有の変化を遂げたと判断した人々が、[[近世]]になってこれらをひとつの言語体系(イタリア語)と定めたことに起因する。
言語と言語の違いを研究する作業は古くから[[言語学]]の分野で行われていたが、どの程度の類似性をもって「同じ系統の言語」([[方言]])とするのか、あるいは「異なる系統の言語」とするのかの客観的判断はほとんど不可能で、結局は個々人の価値観に頼るしかなく、[[民族]]問題や領土主張との兼ね合いもあって政治的判断が下されるケースが多い(「言語とは軍に守られし方言である」という皮肉も存在する)。よってイタリア語も方言の集合体とするか、無数の独立言語とするかは政治的に決定され、当時の[[民族主義]]政策に基づいて方言であるとされた。近年はEU統合の流れから欧州各国で方言を地域言語と認める動きが芽生え始めており、イタリアでも方言を地域言語として承認するべきかどうか盛んに意見が重ねられている。こうした現象はイタリアだけでなく、同じ経緯を持つほかの[[ロマンス諸語]]でも発生しているほか、[[ゲルマン語派]]のドイツ語でも方言の尊重と権利拡大が進められている。
現在、[[エスノローグ]]はイタリア共和国内に以下の少数言語の存在を認めている。
*イタリア語(国家公用語)
*ガロ・イタリア語(ヴェネト州以外の北イタリア)
*[[ヴェネト語]](ヴェネト州)
*[[ナポリ語|ナポリ・カラブリア語]]([[南イタリア]])
*[[シチリア語]](シチリア州と南部の一部)
*サルデーニャ語([[サルデーニャ州]])
==== 外国語 ====
一部の特別自治州、ヴァッレ・ダオスタ州でフランス語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ではドイツ語も使用する。フリウリ地方では[[フリウリ語]]、南ティロルではラディン語という、イタリア語より[[ラテン語]]に近い[[レト・ロマンス語群|レト・ロマンス語系]]の言葉を母語とする住民もいる。また、最南部のカラブリア州には[[東ローマ帝国]]統治下([[マグナ・グラエキア]])の影響を残す[[ギリシャ語]]系のグリコ語の話者も存在する。さらに、オスマン帝国時代のアルバニアからイタリア南部に定着した人々の子孫は[[アルバニア語]]の方言を母語とする。サルデーニャ島では、イタリア語系の[[サルデーニャ語]](イタリア語の一方言とする説もある)が話される。[[アルゲーロ]]では[[アラゴン連合王国|アラゴン=カタルーニャ連合王国]]支配の影響から[[カタルーニャ語]]の方言が話される。
=== 婚姻 ===
婚姻においては基本的に[[夫婦別姓]]となっているが、結合姓も認められている。
子の姓に関しては、伝統的には父親の姓としていたが、父親の姓としなければならないという法律は存在しないとの理由で、母親の姓を子の姓としてよいことが裁判を通し2012年に認められた<ref>[http://www.thejournal.ie/italian-couple-bring-case-to-the-echr-over-surname-of-baby-1252720-Jan2014/ "Italy told: No law says baby has to have dad’s surname", the journal.ie, Jan 8th 2014.]</ref>。
また、イタリアはきわめて離婚が少ない国として知られている<ref>[http://unstats.un.org/unsd/demographic/products/dyb/dyb2013/Table25.pdf Demographic Yearbook 2013, United Nations]</ref>。
=== 宗教 ===
[[ファイル:Basilica Sancti Petri blue hour.jpg|thumb|right|[[バチカン市国]]南東端にあるカトリック教会の総本山、[[サン・ピエトロ大聖堂]]]]
{{main |イタリアの宗教}}
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 70%"
|+ style="font-size:100%" |イタリアの宗教 (2018年12月)<ref name=EB2018>{{cite book|title=Eurobarometer 90.4: Attitudes of Europeans towards Biodiversity, Awareness and Perceptions of EU customs, and Perceptions of Antisemitism|publisher=European Commission|url=http://zacat.gesis.org/webview/index.jsp?headers=http%3A%2F%2F193.175.238.79%3A80%2Fobj%2FfVariable%2FZA7556_V11&V162slice=1&stubs=http%3A%2F%2F193.175.238.79%3A80%2Fobj%2FfVariable%2FZA7556_V162&previousmode=table&V162subset=1+-+14&study=http%3A%2F%2F193.175.238.79%3A80%2Fobj%2FfStudy%2FZA7556&charttype=null&V11subset=5&mode=table&v=2&weights=http%3A%2F%2F193.175.238.79%3A80%2Fobj%2FfVariable%2FZA7556_V370&analysismode=table&gs=7&V11slice=5&top=yes|accessdate=2 August 2019|via=[[GESIS – Leibniz Institute for the Social Sciences|GESIS]]}}</ref>
! 宗教
! colspan="2"|%
|-
| '''[[キリスト教]]'''
|align=right| '''{{bartable|86||3||background:#2243B6}}
|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''[[カトリック教会]]''
|align=right| '''{{bartable|79||3||background:#4997D0}}
|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''[[東方正教会|東方]]/[[オリエント正教]]''
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|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''[[プロテスタント]]''
|align=right| '''{{bartable|1||3||background:#4997D0}}
|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''他のキリスト教諸派''
|align=right| '''{{bartable|1||3||background:#4997D0}}
|-
| '''その他の宗教'''
|align=right| '''{{bartable|3||3||background:#006B3C}}
|-
| '''[[無宗教]]'''
|align=right| '''{{bartable|11||3||background:#A57164}}
|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''[[無神論]]''
|align=right| '''{{bartable|7||3||background:#9F8170}}
|-
| style="text-align:left; text-indent:15px;"| ''[[不可知論]]''
|align=right| '''{{bartable|4||3||background:#9F8170}}
|-
| '''合計''' || '''{{bartable|100||3||background:lightgrey}}'''
|}
2014年の推定では、[[キリスト教]]の[[カトリック教会]]が75.2%<ref group=注釈>カトリック75.2%の内訳は、33.1%が「信仰を実践している」、42.1%が「実践していない」であった。また全カトリックの28.8%が「毎週教会に行く」と回答した。</ref>と最大で、残りの大半が[[無宗教]]または[[無神論者]]で、数%の[[ムスリム]]のほか、その他宗教が1%未満となっていた<ref>EURISPES [http://www.eurispes.eu/content/comunicato-stampa-rapporto-italia-2014 Report Italy 2014]</ref><ref>[[ピュー研究所]](Pew Research Center) [http://www.pewforum.org/files/2014/01/global-religion-full.pdf The Global Religious Landscape]</ref>。
4分の3と最大多数のカトリックであるが、信条はリベラルであり、カトリック教会の[[教義]]に反して[[同棲]]・[[離婚]]・[[妊娠中絶]]などについては大多数が肯定的であるとの報告も出ている<ref>[[:it:CORRIERE DELLA SERA]] [http://www.corriere.it/Primo_Piano/Cronache/2006/01_Gennaio/17/cattolici.shtml Italia, quasi l’88% si proclama cattolico]</ref>。
[[プロテスタント]]は少数で、[[アラブ系]][[移民]]の増加により、[[イスラム教]]は近年増加傾向にある。
{{See also|{{仮リンク|イタリアにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Italy}}}}
=== 教育 ===
{{Main|イタリアの教育}}
{{節スタブ}}
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの保健|en|Health in Italy}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{Main|イタリアの医療|イタリアの福祉}}
イタリアの医療は、1978年より税金を原資とする[[ユニバーサルヘルスケア]]が施行されており<ref name="dev.prenhall_a">{{cite web|url=http://dev.prenhall.com/divisions/hss/worldreference/IT/health.html |title=Italy – Health |publisher=Dev.prenhall.com |accessdate=2 August 2010}}{{dead link|date=January 2014}}</ref>、公営・民営の混合制度となっている。公営制度は''Servizio Sanitario Nazionale''と呼ばれる[[公費負担医療]]であり、保健省が方針を定め、現場は地方自治体が運営している。保健支出は2008年にはGDPの9.0%ほどであり、OECD各国平均の8.9%より若干上であった。2000年にはWHOより、医療制度の効率性は世界2位、市民の保健状態については世界3位と評されている<ref>{{Cite | editor-last = Haden | editor-first = Angela | editor2-last = Campanini | editor2-first = Barbara | title = The world health report 2000 - Health systems: improving performance | date = 2000 | publisher = [[世界保健機関]] | url = http://www.who.int/whr/2000/en/whr00_en.pdf |isbn = 92-4-156198-X |page=153 }}</ref>。
平均余命は82.7歳{{Sfn|OECD|2014|loc=Chapt.6.1}}、2013年には世界8位であった<ref>{{cite web|url=http://apps.who.int/gho/data/node.main.688?lang=en |title=WHO Life expectancy | publisher=WHO | accessdate=1 June 2013}}</ref>。健康上のリスクとしては、イタリアはほかの西欧各国と同様に[[肥満]]者が増えており、人口の34.2%が太りすぎと自己申告、また9.8%が肥満だと自己申告している<ref name=IOTF2008>{{cite web |url=http://www.iotf.org/database/documents/GlobalPrevalenceofAdultObesity16thDecember08.pdf |archiveurl=https://webcitation.org/5lwMsu50m |archivedate=11 December 2009 |title=Global Prevalence of Adult Obesity |format=PDF |work=[[:en:International Obesity Taskforce|International Obesity Taskforce]] |accessdate=2008-01-29}}</ref>。日常的な喫煙者は2008年では人口の22%であり<ref name="MPOWER 2008 pp=267–288">{{Cite book |last=World Health Organization |url=http://www.who.int/entity/tobacco/mpower/mpower_report_full_2008.pdf |format=PDF |title=WHO Report on the Global Tobacco Epidemic, 2008: the MPOWER package |accessdate=1 January 2008 |date=2008 |isbn=978-92-4-159628-2 |publisher=[[World Health Organization]] |pages=267–288}}</ref>、2005年からは公共のバー、レストラン、ナイトクラブにおいては隔離された喫煙室が設けられるようになった<ref name="Deutsche Welle 10 01">{{cite news| url= http://www.dw-world.de/dw/article/0,,1453590,00.html| title= Smoking Ban Begins in Italy| publisher= [[Deutsche Welle]]| date= 10 January 2005| accessdate=2010-10-01}}</ref>。
== 治安 ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアにおける犯罪|en|Crime in Italy}}}}
イタリアの治安は、ヨーロッパ諸国の中で最も不安定さが顕著な状態となっている。イタリア政府は犯罪組織([[マフィア]])の取締りの強化ならびに不法移民問題の解消などを中心とした総合的な治安対策に取り組んでおり、その甲斐もあって効果が現れて来ている。
2016年のイタリア内務省の統計によると、犯罪認知件数は約250万件で前年と比較すると7.99%減少している。しかし、それに反して[[スリ]]が約16万件(前年比6.39%減)、[[ひったくり]]が約1.7万件(前年比6.22%減)と多数発生していることから、イタリアに滞在中はこれらの犯罪に対して用心と予防が必要となって来る。
また、外国人観光客の犯罪被害報告が多く寄せられており、都市部ではローマやミラノ、フィレンツェ、ナポリなどの観光地に被害が集中している。これらの観光地における日本人観光客などの犯罪被害は依然として多く、[[窃盗]]([[車上荒らし]]や[[置き引き]]やひったくり、スリ)をはじめとして強盗([[睡眠薬]]強盗など)や[[押し売り]]、[[バー (酒場)|バー]]の[[ぼったくり]]行為が発生しており、さらには警察官になりすました外国人犯罪者が[[偽札]]や[[麻薬|違法薬物]]の捜査などと称し、所持品検査を装って現金や[[クレジットカード]]を窃取する事件なども相次いで発生していることから滞在中の外出や散策は常に警戒を強める姿勢が求められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_153.html|title=イタリア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-10-10|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|イタリアの組織犯罪|en|Organized crime in Italy}}}}
=== 法執行機関 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの法執行機関|en|Law enforcement in Italy}}}}
イタリアにおける法執行は国家レベルで集中化されている面が強く、複数の警察組織やその他の公的機関が様々な公務や任務に参与している。また、法執行制度も複雑であると捉えられており、実際に少数の限定された地方機関からの助力を得たり、複数の省庁によって執行を実施されていることが多い<ref name=Walters>{{cite encyclopedia |author=Reece Walters |title=Crime, Justice and Social Democracy |chapter=Eco Mafia and Environmental Crime |work=Crime, Justice and Social Democracy: International Perspectives |editor1=Kerry Carrington |editor2=Matthew Ball |editor3=Erin O'Brien |editor4=Juan Tauri |publisher=Palgrave Macmillan |date=2013 |page=286 |doi=10.1057/9781137008695_19 |isbn=978-1-349-43575-3}}</ref>。
{{節スタブ}}
==== 警察 ====
{{Main|イタリアの警察}}
イタリアにおける法執行機関・警察機構は、複合であり、国家レベルの組織のみでも5つある。その他に、地方自治体の警察組織として、県レベルの地方警察 (Polizia Provinciale)、[[コムーネ]]レベルの自治体警察 (Polizia Municipale) がある。
国家レベルの警察組織は以下のものである。
*[[カラビニエリ]] (Carabinieri) - [[国家憲兵]]。国防省所属、警察業務は内務省の指揮を受ける。おもに重大事件などの警察業務を扱う。
*[[国家警察 (イタリア)|国家警察]] ([[:it:Polizia di Stato|Polizia di Stato]]) - 内務省所属。おもに軽犯罪や交通事案を取り扱う。
*[[財務警察 (イタリア)|財務警察]] ([[:it:Guardia di Finanza|Guardia di Finanza]]) - 経済財務省所属。経済犯罪、脱税事案、知的財産権事案、組織犯罪、税関任務、国境警備、不法移民事案を行う。[[国境警備隊]]・[[沿岸警備隊]]としての側面もあり、[[準軍事組織]]となっている。
*[[刑務警察]] ([[:it:Corpo di polizia penitenziaria|Polizia penitenziaria]]) - 司法省所属。刑務所の警備・管理・運営。
このほか、[[イタリア沿岸警備隊]]が[[イタリア海軍]]の傘下にあり、海上交通整理、捜索救難、漁業監視、不法移民に対する海上監視などを行っている。
=== マフィア ===
歴史が示すように、[[マフィア]]はイタリアの経済と社会に多大な影響力を持っている。マフィアとは元来 中世後期にシチリアで生まれた秘密結社で、親族組織からなり、冷酷な暴力と[[オメルタ]]という厳しい掟で知られる<ref group="注釈">マフィア類似の犯罪組織として、コルシカ島のユニオン・コルス(コルシカ・ユニオン)に代表される「[[ミリュー]]」、ナポリの「[[カモッラ]] (Camorra)」、[[カラブリア州|カラブリア]]の「[[ンドランゲタ]] (Ndrangheta)」、[[プッリャ州|プッリャ]]の「[[サークラ・コローナ・ウニータ]] ([[:it:Sacra Corona Unita]])」、ローマの「シカーリ」などがある。</ref>。
19世紀後半にはシチリアの田園地帯を支配し、地方当局への介入、[[ゆすり]]、市民に対するテロ活動を行っていた。戦間期はムッソリーニがマフィアを弾圧したため、彼らは移民に混じって北米に渡った。この時代を除いて、マフィアはイタリア南部を中心に合法・非合法活動を展開した。合衆国で服役中の[[ラッキー・ルチアーノ]]が第二次世界大戦の[[ハスキー作戦]]に協力してから、マフィアは戦後の国際政治にまで関係するようになった。そして[[1970年代]]までに世界の代表的な[[麻薬]]の[[ヘロイン]]取り引きの大部分がマフィアの支配下に入った。Confesercentiの報告書で、マフィアの総売上高は900億ユーロに相当するという。この犯罪収益は[[資金洗浄]]の対象である。
=== 人権 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアにおける人権|en|Human rights in Italy}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|ハーグ条約}}
== マスコミ ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアのメディア|en|Mass media in Italy}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|イタリアの通信|en|Telecommunications in Italy}}|{{仮リンク|イタリアのインターネット|en|Internet in Italy}}|{{仮リンク|イタリアにおける検閲|en|Censorship in Italy}}}}
== 文化 ==
{{Main|{{仮リンク|イタリアの文化|en|Culture of Italy}}}}
北イタリアの[[トスカーナ]]地方は[[ルネサンス]]発祥の地であり、またその中心地でもあった。この影響下で数多くの芸術家が輩出され、同時に作品も制作された。詳しくはルネサンスの項を参照されたい。
{{See also|{{仮リンク|イタリアの伝統|en|Traditions of Italy}}}}
また、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の『[[アイーダ]]』など[[オペラ]]や音楽なども多く知られる。民衆音楽では[[カンツォーネ]]と呼ばれるナポリの歌謡曲が有名である。[[バレエ]]の発祥の地ともされる。現代においても[[ノーベル文学賞|ノーベル賞]]作家を輩出し、映画においても絶えず世界的な作品を送り出している。
=== 食文化 ===
[[File:Italian food.JPG|thumb|イタリアを代表する有名な料理の一部。 <br> 時計回りに[[マルゲリータ (ピッツァ)|ピッツア・マルゲリータ]]、[[カルボナーラ|スパゲッティ・カルボナーラ]]、[[エスプレッソ]]、[[ジェラート]]]]
{{Main|イタリア料理}}
イタリア料理は地方色が強く各地方料理の集合体のようなものであり、北部は[[バター]]や[[チーズ]]を多く使い、南部は[[トマト]]や[[オリーブオイル]]を多用する傾向がある。また沿岸部は[[魚]]を食べるが、内陸部はほとんど食べない、シチリア島は[[マグリブ]]の食文化の影響があり、北東部は[[オーストリア料理]]や[[ハンガリー料理]]など中欧に近い食文化があるなど地域色豊かである。
おもに[[パスタ]]や[[パン]]を主食とし、北部のポー川流域では[[米]]をよく食べる。北部の一部地域にはパンの代用として[[トウモロコシ]]の粉でできた[[ポレンタ]]を食べる地域もある。イタリア料理の[[ピザ]]などもある。
食事に[[ワイン]]を合わせる習慣があり、基本的にはその土地のワインを飲む。また、[[サラミ]]、[[ハム]]などの[[食肉|肉]]製品、チーズの種類の豊富なことも特徴である。[[コーヒー]]の消費も多く、イタリア式のいれ方には[[エスプレッソ]]、[[カプチーノ]]、[[カフェ・ラッテ]]が有名。一方、ヨーロッパの国としては珍しく[[タコ]]も食べる<ref group=注釈>タコを食す文化の存在はギリシャやマルタ、ポルトガル、スペインといった国に限定されている。</ref>。
=== 文学 ===
[[ファイル:Portrait de Dante.jpg|thumb|upright|[[ダンテ・アリギエーリ]]<br>[[サンドロ・ボッティチェッリ]]作]]
{{Main|イタリア文学}}
近代イタリア語の基礎はフィレンツェの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]によって創設され、彼の偉大な作品『[[神曲]]』は[[中世]]ヨーロッパで最高の文学作品だと考えられている。イタリアはそれ以外にも祝福された文学者に不足しなかった。例を挙げるなら[[ジョヴァンニ・ボッカチオ]]、[[ジャコモ・レオパルディ]]、[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]、[[トルクァート・タッソ]]、[[ルドヴィーコ・アリオスト]]、[[フランチェスコ・ペトラルカ]]のような人物の名が挙げられ、彼らのもっとも知られた表現の媒体は彼らがイタリアで生んだ[[ソネット]]だった。近代の文学者であり、ノーベル文学賞受賞者には、1906年受賞の国民主義詩人[[ジョズエ・カルドゥッチ]]、1926年受賞の写実主義作家の[[グラツィア・デレッダ]]、1934年受賞の近代劇作家[[ルイージ・ピランデッロ]]、1959年受賞の詩人[[サルヴァトーレ・クァジモド]]、1975年受賞の[[エウジェーニオ・モンターレ]]、1997年受賞の風刺家かつ劇作家[[ダリオ・フォ]]の名が挙げられる<ref>[https://www.nobelprize.org/prizes/lists/all-nobel-prizes-in-literature/ All Nobel Laureates in Literature]</ref>。
=== 哲学 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリア哲学|en|Italian philosophy}}}}
{{See also|イタリア現代思想}}
ルネサンスの時代には、[[ジョルダーノ・ブルーノ]]や[[マルシリオ・フィチーノ]]、[[ニッコロ・マキャベリ]]、[[ジャンバティスタ・ヴィコ]]のような傑出した哲学者が現れた。
20世紀前半において、イタリアでは[[ベネデット・クローチェ]]や[[ジョヴァンニ・ジェンティーレ]]によって[[新ヘーゲル主義]]が[[新観念論]]に昇華した。ジェンティーレの哲学は[[ファシズム]]の理論的支柱となった。そのほかにも特筆されるべき哲学者として、[[マルクス主義]]の新たな読み方を発見し、[[サバルタン]]や[[ヘゲモニー]]といった概念につながる思想を生み出した[[アントニオ・グラムシ]]や、市民社会論的にヘーゲルを読み直した[[ジョエーレ・ソラーリ]]が挙げられる。
20世紀後半においては[[マルチチュード]]を新たな概念として昇華した[[マルチチュード学派]]の[[アントニオ・ネグリ]]や、[[ホモ・サケル]]論で知られる[[ジョルジョ・アガンベン]]などが活躍している。
=== 音楽 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの音楽|en|Music of Italy|preserve=1}}}}
{{節スタブ}}
====クラシック音楽====
現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることからもわかるように、イタリアは[[ルネサンス音楽]]の後期から[[バロック音楽]]、[[古典派音楽]]の時代において西洋音楽の中心地であった。ルネサンス音楽では[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ]]が知られている。
バロック音楽初期では[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]、中期では[[アレッサンドロ・スカルラッティ]]、[[アルカンジェロ・コレッリ]]、後期では[[アントニオ・ヴィヴァルディ]]が名高い。
古典派音楽時代も当時としてはイタリアが音楽の中心地であったが、現代の視点から見れば、18世紀終盤から[[ウィーン古典派]]の台頭、続く[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の復権などによって主導権はドイツ・オーストリ圏に移った。古典派音楽時代のイタリアの作曲家には[[ドメニコ・チマローザ]]、[[ルイジ・ボッケリーニ]]などがいるが、ウィーン古典派に比べ、現代では演奏機会は比較的少ない。
[[ロマン派音楽]]時代もオペラに関してはイタリア音楽は人気を集め、前期においては[[ジョアッキーノ・ロッシーニ]]、[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]、[[ガエターノ・ドニゼッティ]]らが活躍した。中期においては[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]、後期には[[ジャコモ・プッチーニ]]らの作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、長年の財政難からカンパニーを維持できない歌劇場が多く、現在では上演数に関してはドイツに3倍の差をつけられてしまった。首都のローマ歌劇場すら今世紀に入って管弦楽団と合唱団の全員解雇が宣告されたことがある)。
一方で、交響曲など器楽曲分野では19世紀以降は発展が滞り、20世紀初頭の[[近代音楽]]の時代に入って[[オットリーノ・レスピーギ]]や[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]らが魅力的な作品を発表したが、既に音楽発展の中心地ではなくなっていた。
[[現代音楽]]においては[[ルイジ・ノーノ]]や[[ルチアーノ・ベリオ]]が名高い。
====ポピュラー音楽====
{{節スタブ}}
=== 美術 ===
[[File:Teresabernini.JPG|thumb|[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]作『[[聖テレジアの法悦]]』]]
{{Main|イタリア美術}}
ルネサンス後期のイタリア美術を[[マニエリスム]]という。それ以降、イタリア独自性は作品から消えてしまった。
19世紀後半、色彩豊かな[[マッキア派]]が登場した。20世紀はじめに[[未来派]]という好戦的なモードが生まれた。1910年代は[[形而上絵画]]という抽象画の量産が社会不安を象徴した。イタリアらしさは外圧に原像をかき消されて表現できなくなっていった。
第二次世界大戦後に[[アルテ・ポーヴェラ]]や[[トランスアバンギャルド]]といった美術運動がみられた。
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
[[ファイル:Federico Fellini.jpg|thumb|right|[[フェデリコ・フェリーニ]]]]
{{Main|イタリア映画}}
イタリア映画の歴史は[[リュミエール兄弟]]が活動写真の公開を始めてからわずか数か月後に始まった。最初のイタリア映画は、教皇レオ13世がカメラに祝福して見せた数秒間のものだった。イタリアの映画産業は1903年から1908年の間に3つの映画会社とともに生まれた。ローマのチネス、トリノのアンブロシオ、イタラ・フィルム社がそれである。ほかの会社はすぐにミラノやナポリに設立された。まもなくこれら最初の会社は公正な制作力に達し、作品はすぐに外国に売られていった。映画はのちにベニート・ムッソリーニによって第二次世界大戦まで[[プロパガンダ]]のために使われた。
戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年ごろの芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]、[[セルジオ・レオーネ]]、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]、[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]、[[ダリオ・アルジェント]]などの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。お国柄を生かした歴史劇や、日本での紹介は少ないが喜劇の伝統も厚い。世界の映画史に残る作品としては、『[[甘い生活 (映画)|甘い生活]]』『[[続・夕陽のガンマン]]』『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』などが挙げられる。
=== イタリアに関する芸術作品 ===
音楽
*[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]作曲 『[[イタリア協奏曲]]』
*[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]作曲 [[交響曲第4番 (メンデルスゾーン)|交響曲第4番 イ長調『イタリア』]]
*[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作曲 『[[イタリア奇想曲]]』
*[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]作曲 [[イタリアのハロルド|交響曲『イタリアのハロルド』]]
*[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]作曲 交響詩『[[ローマの噴水]]』『[[ローマの松]]』『[[ローマの祭]]』
文学
*[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]著 『イタリア紀行』
*[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]著 『[[即興詩人]]』
映画
*ルキノ・ヴィスコンティ 『白夜』
*フェデリコ・フェリーニ 『甘い生活』
*ヴィットリオ・デ・シーカ 『昨日・今日・明日』
*[[宮崎駿]] 『[[紅の豚]]』
*[[オードリー・ウェルズ]] 『トスカーナの休日』
漫画
*[[天野こずえ]] 『[[アクア (ARIA)]]』『[[ARIA (漫画)]]』
*[[荒木飛呂彦]] 『[[ジョジョの奇妙な冒険]] [[黄金の風|Part5 黄金の風]]』
*[[相田裕]] 『[[GUNSLINGER GIRL]]』
*[[天野明]] 『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』
*[[大河原遁]]『[[王様の仕立て屋~サルト・フィニート~]]』
=== 被服・ファッション ===
[[File:Milan Fashion Week 1.jpg|300px|thumb|[[ミラノ・コレクション]](2010年)]]
{{Main|{{仮リンク|イタリアのファッション|it|Moda italiana}}}}
イタリアの[[ファッション]]は、フランス、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[日本]]のファッションと並ぶ、世界で最も重要な服飾文化の1つと見なされている。
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの建築|it|Architettura italiana|en|Architecture of Italy}}}}
イタリアは歴史上、非常に多様かつ幅広い建築様式を持っており、その起源は紀元前のローマ帝国時代にまで遡ることが出来る。
また、1861年まで同国地域が小国の設立など様々な形で分割されていたため、時代や地域で分類することは簡単に出来ないものとなっており、ヨーロッパにおける建築のカテゴリーでも複雑化した状態となっている。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|イタリア建築における時系列|en|Timeline of Italian architecture}}}}
=== 世界遺産 ===
{{Main|イタリアの世界遺産}}
イタリア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が45件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が4件存在している(2013年現在)。2014年時点で、世界遺産がもっとも多い国である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/isan.html |title=世界遺産の多い国 |publisher=外務省 |accessdate=2016-01-28}}</ref>。
=== 祝祭日 ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアの祝日|en|Public holidays in Italy}}}}
{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small; margin-left:1em"
|+イタリアの祝祭日
|-
! 日付 !! 日本語表記 !! イタリア語表記 !! 備考
|-
|[[1月1日]]||[[元日]]||''[[:it:Capodanno|Capodanno]]''||
|-
|[[1月6日]]||[[エピファニー|主の公現]]||''[[:it:Epifania|Epifania]]''||Befana
|-
|移動祭日||[[復活祭]]||''[[:it:Pasqua cristiana|Pasqua]]''||
|-
|移動祭日||復活祭後の月曜||''[[:it:Lunedì dell'Angelo|Lunedì dell'Angelo]]''||Lunedì di Pasqua, Pasquetta
|-
|[[4月25日]]||解放記念日||''[[:it:Resistenza italiana|Festa della Liberazione]]''||1945年
|-
|[[5月1日]]||労働祭||''[[:it:Festa dei lavoratori|Festa dei lavoratori]]''||
|-
|6月2日||共和国祭||''[[:it:Festa della Repubblica Italiana|Festa della Repubblica]]''||1946年
|-
|[[8月15日]]||[[聖母の被昇天|聖母被昇天祭]]||''[[:it:Ferragosto|Ferragosto]]''||Assunzione
|-
|[[11月1日]]||[[諸聖人の日]]||''[[:it:Ognissanti|Ognissanti]]''||
|-
|[[12月8日]]||聖母の[[無原罪の御宿り]]の祭日||''[[:it:Immacolata Concezione|Immacolata Concezione]]''||
|-
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||''[[:it:Natale|Natale]]'' ||詳細は{{仮リンク|イタリアのクリスマス|en|Christmas in Italy}}を参照
|-
|[[12月26日]]||[[聖ステファノの日|聖ステファノの祝日]]||''[[:it:Santo Stefano (martire)|Santo Stefano]]''||
|}
この他には、各州に「州の記念日」と呼ばれる祝日が存在している。なお、それらの祝日は必ずしも休日として扱われているわけではないことを留意する必要がある。
== スポーツ ==
{{Main|イタリアのスポーツ}}
イタリアでは伝統的に[[サッカー]](カルチョ)が最も人気のスポーツであり、その他にも[[フォーミュラ1|F1]]や[[ミッレミリア]]などの[[モータースポーツ]]も人気である。さらに[[自転車競技]]や[[マリンスポーツ]]、[[セリエA (バレーボール)|プロリーグ]]もある[[バレーボール]]なども盛んである。また、北部山岳地域に[[コルティーナ・ダンペッツォ]]などの[[スキー]]の[[リゾート]]が多数あることから、[[ウィンタースポーツ]]も人気である。中部には[[アペニン山脈]]があり、登山も盛んとなっている。近年、[[シックス・ネイションズ]]に加わった影響もあり[[ラグビーユニオン|ラグビー]]も人気が高まっている。[[バスケットボール]]などの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]発祥のスポーツも、他のヨーロッパ諸国に比べると盛んである。
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|イタリアのサッカー|en|Football in Italy}}}}
[[ファイル:Scudo2009.jpg|thumb|300px|[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ]]]]
'''[[カルチョ・フィオレンティノ|カルチョ]]'''と呼ばれる[[16世紀]]のイタリアに起源を持つ[[フィレンツェ]]古代サッカー発祥の地として知られ、[[イングランド]]の[[フットボール]]と双璧の存在となっている。イタリアは数多くのスター選手を輩出してきた強豪国であり、[[FIFAワールドカップ]]にはこれまで全22回中18回出場し4度の優勝を達成しており<ref group=注釈>通算5度優勝の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]に次いで2番目に多く</ref>、準優勝にも2度輝いている。さらに[[UEFA欧州選手権]]でも、2度の優勝と2度の準優勝の実績を誇る。
[[イタリアサッカー連盟]](FIGC)によって編成される[[サッカーイタリア代表]]は、ユニフォームの青い色から'''[[アズーリ]]'''と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=驚きの珍理由も!「チームカラーの決め方が意外だった」ユニフォーム7選|url=https://qoly.jp/2020/05/03/football-jersey-color-roots-lfb-1?part=4|website=Qoly|accessdate=2020-05-05}}</ref>。[[イタリア語]]で「鍵をかける」という意味の、'''[[カテナチオ]]'''と呼ばれる鉄壁の守備をベースとして現在に至る。しかし近年は攻撃陣のタレントも豊富で、かつての守備だけのチームではなくポゼッションを重視したチームになりつつある。また、伝統的に綿密な戦術を重んじる傾向があり、[[アリゴ・サッキ]]や[[ジョバンニ・トラパットーニ]]などの名将が、現代サッカーにおけるフォーメーションを考案してきた。
{{See also|ミラノダービー|イタリアダービー}}
[[1898年]]に創設された[[セリエA (サッカー)|セリエA]]は世界最高峰のサッカーリーグの一つであり、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では[[ACミラン]]が7度、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]が3度、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]が2度の優勝を果たしている。[[コッパ・イタリア]]と呼ばれる国内の[[カップ戦]]も行われている。また、日本人選手でセリエAの[[ビッグクラブ]]に在籍した事があるのは、[[中田英寿]]、[[長友佑都]]、[[本田圭佑]]の3名である<ref>{{Cite web|和書|url =https://www.sanspo.com/article/20141125-2B6L2H4UWBLSNDQ5LIDMI4CXJA/|title=本田、ミラノ・ダービーで長友と日本人初対決! | publisher=サンケイスポーツ|accessdate=2014-11-25}}</ref>。
=== バスケットボール ===
{{main|{{仮リンク|イタリアのバスケットボール|en|Basketball in Italy}}}}
イタリア国内には欧州屈指の強豪リーグである、[[レガ・バスケット・セリエA]]と呼ばれるプロ[[バスケットボール]]リーグが存在している。2006年に[[NBAドラフト]]1位指名された[[アンドレア・バルニャーニ]]は、[[NBA]]の外国人としては史上2人目、ヨーロッパ人としては史上初となった。[[イタリアバスケットボール連盟]]により派遣される[[バスケットボールイタリア代表]]は、これまで[[オリンピックのバスケットボール競技|オリンピック]]に13回、[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ|ワールドカップ]](旧:世界選手権)に9回出場している。2004年の[[2004年アテネオリンピックのバスケットボール競技|アテネ五輪]]では、[[バスケットボール女子アメリカ合衆国代表|アメリカ]]の銅メダルを上回る「銀メダル」を獲得した。さらに[[バスケットボール欧州選手権|ユーロバスケット]]では、[[1997年バスケットボール男子欧州選手権|1997年大会]]で銀メダル、[[1999年バスケットボール男子欧州選手権|1999年大会]]で金メダル、[[2003年バスケットボール男子欧州選手権|2003年大会]]では銅メダルを獲得している。
=== モータースポーツ ===
==== 四輪 ====
[[ファイル:Formula One Test Days 2019 - Ferrari SF90 - Sebastian Vettel.jpeg|thumb|200px|[[フェラーリ]]のF1マシン]]
多数の自動車・バイクメーカーを持つイタリアは、[[モータースポーツ]]の創成期から多くのコンストラクターと[[レーシングドライバー]]を輩出してきた。また、[[AGV (ヘルメットメーカー)|AGV]]や[[アルパインスターズ]]といった装備品メーカーも多くイタリアに存在している。[[フォーミュラ1|F1]]には[[アルファロメオ]]、[[マセラティ]]、[[フェラーリ]]が1950年の開幕年から参戦。[[スクーデリア・フェラーリ]]の創業者である[[エンツォ・フェラーリ]]は、[[エミリア=ロマーニャ州]]・[[モデナ]]近郊の[[マラネッロ]]に拠点を構え、「北の教皇」の異名をとった。1950年代でアルファロメオ・マセラティは撤退してフェラーリのみが残り、現在まで唯一開幕から撤退せず参戦しているメーカーとして名を馳せている。
フェラーリは2000年代前半に黄金時代を築いた「皇帝」[[ミハエル・シューマッハ]]など、多くのワールドチャンピオンを輩出している。アルファロメオは2019年に[[ザウバー]]を買収して復活した。またアルファタウリ(旧:[[スクーデリア・トロ・ロッソ|トロ・ロッソ]])は、[[ミナルディ]]を買収して成立した経緯から、非イタリア系でありながらイタリアを拠点としている珍しいF1チームである。また、レーシングコンストラクターの[[ダラーラ]]は、インディカーや[[スーパーフォーミュラ]]含む現在世界各地域のワンメイクフォーミュラのシャシー供給を独占している。
[[世界ラリー選手権|WRC]]ではフィアットと[[ランチア]]が活躍(ランチアの実働部隊は[[アバルト]]であった)。特にランチアはラリー037、デルタ・インテグラーレといった名車を多く世に送り出し、現在でも破られていないマニュファクチャラーズ選手権6連覇という偉業をなしとげた。しかし[[グループA]]規定を最後に撤退し、以降は[[アバルト]]が[[スーパー2000]]や[[グループR-GT]]にプライベーター向けマシンを細々と供給しているのに留まっている。[[スポーツカーレース]]ではフェラーリ、ランチア、[[ランボルギーニ]]が活躍。フェラーリは1940年代~1960年代に何度かル・マン24時間レースで総合優勝を経験し、以降も現在までGTマシンによるプライベーター(ワークス支援含む)の参戦が続いている。
また、2021年から[[ハイパーカー]]でル・マンに参戦するアメリカの[[スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス]]は、イタリアのチームが主体となってマシン製作やチームオペレーションを行っている。なお、日本人ドライバーでイタリアのワークス・チーム入りを果たしたのは、2013年の[[小林可夢偉]]が唯一の例である。
==== 二輪 ====
2輪ロードレースの世界では[[ドゥカティ]]、[[アプリリア (会社)|アプリリア]]、[[MVアグスタ]]などが知られる。MVアグスタは黎明期の[[ロードレース世界選手権]](現MotoGP、旧称WGP)において活躍し、空前絶後のライダースタイトル17連覇を達成している。その後MVアグスタは消滅したため、長らく日本メーカーの支配が続いているが、それでも2007年と2020年にドゥカティがコンストラクターズタイトルを獲得している。またヤマハのMotoGPチームは本拠地をイタリアに構えている。
[[スーパーバイク世界選手権]]では、ドゥカティのVツイン([[V型2気筒]])エンジンが規則の優遇も利用して一時期黄金時代を築いた。しかし規則が見直されて4気筒が頭角を表して以降は徐々にタイトルから遠ざかっている。ライダーとしては[[ジャコモ・アゴスチーニ]]がMVアグスタでWGP500ccクラスと350ccクラスの7連覇という偉業を達成している(このうち5連覇は500ccと350cc同時であった)。MotoGPに改称後は[[バレンティーノ・ロッシ]]が5年連続ワールドチャンピオンとなった。ほかにも[[フランコ・ウンチーニ]]、[[マルコ・ルッキネリ]]、[[リベロ・リベラッティ]]、[[ウンベルト・マセッティ]]といった最高クラスでの王者がいる。
=== 自転車競技 ===
[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]では、三大[[グランツール]]の一つである[[ジロ・デ・イタリア]]、[[クラシック (ロードレース)#モニュメント|モニュメンツ]]の[[ミラノ〜サンレモ]]、[[イル・ロンバルディア]]が開催されるなど人気は高い。20世紀前半には[[アルフレッド・ビンダ]]、[[ジーノ・バルタリ]]、[[ファウスト・コッピ]]などが活躍した。20世紀終盤から21世紀にかけては、総合系では[[マルコ・パンターニ]]、[[ジルベルト・シモーニ]]、[[イヴァン・バッソ]]、[[ヴィンチェンツォ・ニバリ]]、[[スプリンター (自転車競技)|スプリンター]]では[[マリオ・チポッリーニ]]、[[アレッサンドロ・ペタッキ]]、[[エリア・ヴィヴィアーニ]]、[[ジャコモ・ニッツォーロ]]といった強豪選手を次々と輩出している。
=== 競馬 ===
{{main|イタリアの競馬}}
イタリアも競馬が盛んな国のひとつであったが、21世紀の[[2010年欧州ソブリン危機|ユーロ危機]]以降は賞金不払い問題など危機的な状況に陥っており、サラブレッド生産頭数が4分の1に落ち込んでいる。歴史のある[[ミラノ大賞典]]や[[伊ダービー]]といった大競走もG1の格付けを維持できていない。[[平地競走]]より人気のあった[[繋駕速歩競走]]も状況は悪く、[[スタンダードブレッド]]の生産頭数も半減している。以後[[イタリアの競馬|イタリア競馬]]は崩壊しているものの、かつてその規模に似つかわしくないほど強力な競走馬を輩出した歴史を持つ。20世紀世界最強馬の候補として常に言及される[[リボー]]、非常に人気のあった競走馬である[[ヴァレンヌ (競走馬)|ヴァレンヌ]]の2頭は世界の競馬関係者に記憶される存在である<ref>"[http://www.gazzetta.it/Sport_Vari/Altri_Sport/Ippica/30-04-2012/ribot-lezione-mai-imparata-911084825078.shtml Ribot, 40 anni fa moriva il Mito Una lezione mai imparata]", ALTRI SPORT, 30 aprile 2012.</ref>。また、14戦不敗の[[ネアルコ]]は競走馬としてはリボーほどの評価は得ていないが、その子孫は強力に繁栄してその血を持たないサラブレッドはほとんどいない状況となっている。
=== その他の競技 ===
{{See also|オリンピックのイタリア選手団}}
イタリアは[[バレーボール]]も盛んで、特にトップリーグである[[セリエA (バレーボール)|セリエA]]は世界的に見ても非常に珍しい「バレーボールのプロリーグ」である。この他にも、[[カップ戦]]である[[コッパ・イタリア (バレーボール)|コッパ・イタリア]]など多くの大会が行われている<ref>{{Cite web|url=http://www.legavolley.it/VediPagina.asp?Albo=si&ContentId=51060|title=Albo d'Oro Coppa Italia A1|publisher=Legavolley|accessdate=2015-02-13|quote=男子}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.legavolleyfemminile.it/VediPagina.asp?Albo=si&ContentId=135481|title=Albo d'Oro Coppa Italia A1|publisher=Legavolley femminile|accessdate=2015-02-13|quote=女子}}</ref>。かつては日本からも、[[大林素子]]や[[吉原知子]]などといったトップ選手がイタリアに渡りプレーしていたことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/volleyball/223|title=夢と感動と愛を与えた日本バレー界の偉人5人|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2016-07-23|accessdate=2020-11-19}}</ref>。イタリア代表も、[[バレーボールイタリア男子代表|男子チーム]]・[[バレーボールイタリア女子代表|女子チーム]]共に[[バレーボール世界選手権|世界選手権]]や[[バレーボール欧州選手権|欧州選手権]]の優勝経験があり、欧州の強豪チームの一角を占める。
[[イタリア野球・ソフトボール連盟|イタリアは野球]]も強豪であり、過去5回の[[ワールド・ベースボール・クラシック|wbc]]の全ての本戦に出場している。2023年は初のベスト8入りを果たした。国内にも[[セリエA (野球)|野球セリエ・A]]が行われており、[[ヨーロッパ野球選手権大会|欧州選手権]]や[[欧州チャンピオンズカップ (野球)|チャンピオンシップ]]にも多く出場している。
また、北には[[アルプス山脈]]、本島には[[アペニン山脈]]、その他エトナ山などイタリアは様々な山岳地域に恵まれているので[[登山]]も盛んである。[[モンブラン]]初登頂をし、近代登山を築いたJ・バルマやM・G・パカールなどをはじめ、[[ラインホルト・メスナー]]やスキー登山家でもあるマッテォ・ペドリアーナ、グイド・ジャコメッリなどが有名である。さらに、日本ではマイナーな[[山スキー]]の大会が冬頻繁に行われており、[[南チロル]]や[[アオスタ]]を中心に上記の山脈に近い地域では山スキーのメッカである。上記のペドリアーナ、ジャコメッリもその中の一人である。
== 著名な出身者 ==
{{Main|イタリア人の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite report|title=OECD Society at a glance 2014 |publisher=OECD |date=2014 |doi=10.1787/soc_glance-2014-en |ref={{SfnRef|OECD|2014}} }}
* パンフィロ・ジェンティーレ/野上素一訳 『イタリア現代史』 世界思想社 1967年
* 北原敦編 『イタリア史』 山川出版社 2008年
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{ウィキプロジェクトリンク|イタリア}}
{{ウィキポータルリンク|イタリア}}
*[[イタリア関係記事の一覧]]
*[[イタリアの世界遺産]]
*[[イタリア式庭園]]
*[[オペラ]]
*[[:Category:イタリアの企業|イタリアの企業]]
*[[イタリア百科事典]]
*[[:Category:イタリアの都市|イタリアの都市リスト]]
<!--
*[[イタリアの通信]]
*[[イタリアの交通]]
*[[イタリアの軍事]]
*[[イタリアの国際関係]]
-->
*[[イタリアーノ]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|commons=Italia|commonscat=Italia|s=Category:イタリア|n=Category:イタリア|voy=ja:イタリア}}
;政府
*[http://www.governo.it/ イタリア共和国政府] {{it icon}}
*[https://www.quirinale.it/ イタリア大統領府] {{it icon}}{{en icon}}
*[http://www.palazzochigi.it/ イタリア首相府] {{it icon}}
*[https://ambtokyo.esteri.it/ambasciata_tokyo/it/ 在日イタリア大使館] {{ja icon}}
*{{Twitter|ItalyinJPN|Italy in Japan}}{{Ja icon}}{{It icon}}
;日本政府
*[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/italy/ 日本外務省 - イタリア] {{ja icon}}
*[https://www.it.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在イタリア日本国大使館] {{ja icon}}
;観光
*[http://tokyo.enit.it/ イタリア政府観光局 東京支局] {{ja icon}}
*[[comune:s:foto/regioni.html|イタリア写真]] {{it icon}}
;その他
*[http://www.oecdbetterlifeindex.org/countries/italy/ Italy BetterLife Index] - OECD
*[https://www.jetro.go.jp/world/europe/it/ JETRO - イタリア]
*[https://www.meti.go.jp/policy/exhibition/milano2015.html 2015年ミラノ国際博覧会]
* {{Kotobank}}
*{{Wikiatlas|Italy}} {{en icon}}
*{{Osmrelation|365331}}
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{{デフォルトソート:いたりあ}}
[[Category:イタリア|*]]
[[Category:ヨーロッパの国]]
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[[Category:先進国]]
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[[Category:国際連合加盟国]]
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[[Category:経済協力開発機構加盟国]]
[[Category:イタリア語圏]] | 2003-03-04T11:00:20Z | 2023-12-14T05:18:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2 |
3,377 | 英語 | 英語(えいご、英: English 発音: ['ɪŋɡlɪʃ] イングリッシュ、羅: anglica)とは、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派の西ゲルマン語群・アングロ・フリジア語群に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。
当該言語の日本語における名前である「英語」の「英」はイギリスの漢字表記「英吉利」に由来する。古くには「英吉利語」という呼称もあったが、すでに廃れており「英語」という呼称のみが普及している。また、アメリカ合衆国で話されるアメリカ英語は米語(べいご)とも呼ばれる。同様に他言語にも「仏語」、「独語」、「西語」などの漢字2文字の呼称があるが、現代日本では「フランス語」、「ドイツ語」、「スペイン語」といった呼称の方が普及しており、漢字2文字の名前はもっぱら略語としてのみ用いられる。
その一方、英語そのもので英語を意味するEnglishはイングランド(England)の形容詞形であり、「イングランド語」を意味する。
英語は通常ラテン文字によって記述され、以下の26文字を用いる。
ヨーロッパの他の多くの言語と異なり、外来語(およびその転写)を除いてダイアクリティカルマークはほとんど用いない。
手書き時はアルファベットが連なる筆記体が以前は主流だったが、現在は署名(サイン)など独自性を追求される場合を除いて、読みやすさなどの観点からブロック体が主流である。
英語においては多くの文字が複数の発音を持っている。また綴りと実際の発音の食い違いも大きく、発音されない黙字が存在したり、また一つの発音が幾通りもの綴りで表記される場合もある。
英語は複数中心地言語であり、明確な標準語は存在しない。ただし、最も早くイングランドに植民地化されたアメリカでも17世紀初頭、それ以外は18世紀末から19世紀末にかけての植民地化によって英語圏となったため言語が分化する時間が短く、さらに英語圏諸国は密接な関係を維持しているために言語の断絶も少なくなっており、意思疎通ができなくなるほどの言語分化は起こっておらず、一体性を持った言語として存続している。英語の系統としては、アメリカ大陸への植民によってアメリカ英語とイギリス英語の系統に分かれており、アメリカ英語系統はカナダ英語とアメリカ合衆国英語とに分かれ、合衆国英語は植民地化したフィリピン英語の元となった。これに対し、イギリスは18世紀末以降の積極的な植民によって世界各地に英語圏を広げていき、オーストラリア英語やニュージーランド英語、西インド諸島英語やインド英語など、カナダを除く旧イギリス領諸国の英語は全てイギリス英語の系譜へと連なっている。
一方、英語圏の辺縁においては、言葉の通じないもの同士が簡単なコミュニケーションを取るためのピジン言語が各地で成立した。特にカリブ海地域においては、奴隷貿易によって連れてこられたものたちの間で多様なピジン言語が成立し、さらに次の世代には母語話者を得て文法・語彙が整備され、ジャマイカ・クレオール語に代表される英語系のクレオール言語が多数成立した。このクレオール言語は解放奴隷によって西アフリカへと持ち込まれ、クリオ語などの英語系クレオール言語がさらに成立した。英領の太平洋諸島においてもこの過程は存在し、パプアニューギニアのトク・ピシンなどの英語系クレオール言語が成立している。英国が世界各地に植民地を建設した関係上、英語を起源とするピジン言語・クレオール言語は非常に数が多く、全世界のピジン・クレオール言語の約40%は英語を起源とすると考えられている。
もともとイギリス諸島の先住民はケルト人系であり、ケルト語系の言語が使用されていた。やがて1世紀からローマ人がブリテン島に駐留するようになったが、そのローマ人が西暦410年に本国に引き上げると、5世紀半ばから6世紀にかけて、ジュート人・アングル人・サクソン人といったゲルマン系の人々が大陸からブリテン島に渡来して、先住のケルト人を支配するようになり、イギリス諸島においてゲルマン系の言語が定着した。ここから英語の歴史が始まる。彼らの話していた言語はゲルマン語派のうちの西ゲルマン語群に属しており、ドイツ語やオランダ語と近い関係を持っていた。なかでもオランダのフリースラント州で話されていたフリジア語とは極めて近い関係にあり、アングロ・フリジア語群として同一語群の中に含まれている。
以後の英語の歴史はふつう、450年から1100年頃にかけての古英語、1100年頃から1500年頃にかけての中英語、それ以降の近代英語の3期に大別される。中英語と近代英語の間は初期近代英語と分類でき、また20世紀以降の近代英語は現代英語と分類される。
古英語は渡来者たちの方言差を引き継ぐ形で方言を持っていたが、10世紀前半に陸地王国が統一されると徐々に標準語の需要が高まっていき、10世紀末にはウェストサクソン方言が標準書記言語としての地位を確立した。しかし11世紀のノルマン・コンクエストによってフランスから来た貴族階級が話していたロマンス諸語のオイル語系のノルマン語が公用語として14世紀まで使われ、英語は公的部門で使用されなくなり、確立した標準語も消失した。このことにより、中英語ではロマンス諸語、特にフランス語からの借用語の増大と、庶民の間での英語の簡素化がすすみ、形態変化の単純化、名詞の性別の消失などを引き起こした。ただし中英語の変化のどこまでが言語接触の影響によるものかは議論がある。その後、1362年には公的な場面で英語が使用されるようになり、15世紀初頭には公文書にも使用されるようになった。これに伴い、公文書体に準拠した書き言葉の整備が進んだ。一方、15世紀初頭には大母音推移と呼ばれる発音の変化がはじまり、近代英語初期である17世紀初頭まで続いたことで、英語の発音は以前と比べ大きく変化したものの、書き言葉の綴りは伝統的な発音に基づいて整備されることが多く、さらに活版印刷の普及などによってこの綴りが固定化したため、単語の発音と綴りの間にずれが生じるようになった。
英語話者の分類としては、1970年代に提唱された3タイプによる分類法が広く使用されている。すなわち、母語としての英語(English as a Native language、ENL)、第二言語としての英語(English as a second language=ESL)、外国語としての英語(English as a foreign language=EFL)である。また、ブラジ・カチュルは上記の分類法を元に、英語の使用状況を、母語使用圏からなる内円・第二言語使用圏からなる外円・外国語としての使用圏からなる拡大円の3つの円を使ってモデル化した。
英語を母語とする人々が多数を占めたり、あるいは国語や公用語に英語が指定されている地域は英語圏と総称される。2007年時点では、全世界192カ国のうち英語を公用語としている国は55カ国にのぼっていた。英語を母語としている人は世界人口の4.68%で、第1位の中国語(13.22%)と比べかなり少ない。しかし公用語人口としては英語が世界一である。
現在、イギリス(UK)全体としては圧倒的に英語話者が多数を占めているものの、英語が法的に国家の公用語とされているわけではない。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドをはじめとして数十の国または地域では公用語もしくは事実上の公用語となっている。アメリカ合衆国は、全人口の約8割が英語を話し最大の英語話者数を抱えているが、国としての公用語は指定していない。一方で州単位で公用語を決める動きが1980年代以降活発化し、2006年時点ではカリフォルニア州、フロリダ州、イリノイ州など50州の内28州で英語のみが公用語に指定されている。詳しくはen:Template:Official_languages_of_U.S._states_and_territoriesを参照。
第二言語としての英語圏の多くは、イギリス帝国の植民地に由来する。イギリス統治期、現地エリート層のほとんどは英語で教育を受け、植民地行政でも英語が公用語とされたため、独立後も多くの国でこの状態が引き継がれ、政治・経済・教育といった公的分野で英語が使用されていることが多く、また国内言語が統一されていない国家においては、エリート層の共通語として英語が機能していることもある。ただしこうした国家において英語話者は多数派ではないことがほとんどである。
意思の疎通が可能な国や地域を考慮すると、英語は世界でもっとも広く通用する言語と考えられている。英米の影響などで英語が国際共通語として使われるようになったため、外国語として英語を学習・使用する人も多い。そのため、世界各国でイギリス(イングランド)方言・アメリカ方言などの英語の枠組みを超えた「新英語」が出現するようになった。
英語は国際連合の公用語の一つであるほか、多くの国際機関において公用語としての地位を確立している。石油輸出国機構のように、英語を第一言語とする国家が加盟していないのにもかかわらず英語を公用語とする国際機関すら存在する。また、2007年時点においてインターネット上で最も使用される言語は英語であり、英語圏以外の国のマスメディアも多くの場合英語放送や英語版の発行を行っている。航空交通管制は英語での交信が原則となっている。学術分野でも英語は共通語となりつつあり、文化面でも映画や音楽などは英語使用が主流となっている。翻訳においては、英語以外の言語間で翻訳を行う場合すら、直接翻訳ができない場合はいったん原語から英語へと変換し、またそこから他言語へ変換することが珍しくない。このように経済、社会、文化など様々な分野でグローバル化に伴う英語の普及が進み、「国際共通語」としての英語の重要性は高まる一方である。こうしたことから各国でも盛んに英語教育が行われるようになり、欧州連合(EU)では、学校でもっとも学ばれている外国語となっている。
英語が国際共通語として使用されるようになったのはそれほど古くはなく、19世紀まではフランス語が外交用語や国際共通語としての地位を占めていたが、第一次世界大戦後から英語はフランス語と並ぶ国際語としての地位を徐々に築いていった。第二次世界大戦後イギリスは徐々に国際政治での影響力を弱めていくが、同じ英語を使用する国であるアメリカ合衆国が強い影響力を持つようになり、さらにイギリスから独立した国家群のほとんどは独立後も英語利用を続けることが多かったため、結果として英語が有用な外国語として世界に広く普及することになった。
この現況に対して、英語の影響力強化を懸念する立場からは英語が他言語を圧迫し言語帝国主義に陥っている、すなわち英語帝国主義であるとの批判も見られる。
イギリス、とくに英語発祥の地であるイングランドには、多数の英語方言がある。特に社会階層による方言の分化が著しく、社会の上層で使用される「容認発音(received pronunciation/RP, BBC English, Queen's English など様々な呼称がある)」や下層で使用されるコックニーといった社会方言が存在する。容認発音は話者こそ少ないものの、伝統的に訛りのない標準発音とされており、BBC英語とも呼ばれるように公的な場面や放送などで主に用いられてきた。しかし1980年代以降、容認発音に代わりロンドン付近の社会中層が主に用いてきた「河口域英語 (Estuary English)」の使用が増えつつある。なお、これ以外に地域方言もイングランド各地に存在する。
イングランド以外のブリテン諸島は本来ケルト語派圏であり、古くはスコットランド・ゲール語やアイルランド・ゲール語、ウェールズ語といったケルト語系の言語が使用されていた。しかしイングランドからの影響によって英語の使用が広まり、スコットランドでは中英語から分離した英語系のスコットランド語が早くも14世紀末には一般的に使用されるようになった。1707年にスコットランドとイングランドが合同すると影響はさらに強まり、スコットランド語に代わって完全に英語の一方言であるスコットランド英語が主に使用されるようになった。この傾向は他地域でも同様であり、ウェールズでも19世紀後半にはウェールズ英語の使用が主流となり、アイルランドでもこの時期にアイルランド英語使用が一般的となった。アイルランドが独立するとアイルランド・ゲール語は英語とともに公用語に指定されたものの、ゲール語の母語話者は減少を続けており、同国国民の9割以上はアイルランド英語を母語とするようになっている。
アメリカ合衆国には、国家の公用語に関する法的な文章が存在しない。ただし、州レベルでは、英語を公用語とする州や英語とスペイン語(アメリカ合衆国のスペイン語)を公用語と明文的に定める州もある。初期の頃は、西ヨーロッパ系(特にゲルマン人)の移民が多く、英語優位の状況が確保されていたが、次第に東ヨーロッパ・南ヨーロッパ系が増えてきた。さらにアジア・ラテンアメリカ(ヒスパニック・ラテン系アメリカ人問題を参照のこと)からの移民(アメリカ合衆国への移民)が大量に押し寄せ、彼らが高い出生率を維持すると、英語の地位が揺るぎかねないといった風潮が英語話者(アングロ・サクソン人系、WASP)の間で生まれてくる(イングリッシュ・オンリー運動)。いずれにしても英語が国家の言語(国語)として通用しているのは事実で、教育の分野においては「バイリンガル教育かモノリンガル教育か」といった趣旨の問題がたびたび持ち出される。
アメリカ英語の地域差はさほど大きくないが、おおまかには北東部のニューイングランド英語(New England English)、アメリカ南部一帯で話される南部アメリカ英語、そしてその他の地域の一般アメリカ英語の3地域に区分される。
カナダはイギリス連邦および英連邦王国を構成する一国であり、元英領植民地(Crown colony)であった地域だが、その英領植民地にそれ以前はヌーベルフランスであり、今でもフランス語が使われ続けているケベック州があることから、カナダ全体の公用語として英語(カナダ英語)とフランス語(カナダフランス語)の両方が制定されており、連邦政府のサイトや企業の商品説明などは全て英仏両言語で行われている。旧英領の国としては、全人口の内、英語を母語とする人の割合は58%と低く、フランス語が22%を占める。これは、移民が非常に多いため第二言語として英語を使用している人口が非常に多いからである。また、北米でアメリカ合衆国が隣に位置していることから、旧英領であるとはいえ、オーストラリアやインドなどほかの旧英領植民地とは違い、比べるとカナダの英語発音はイギリス英語よりもアメリカ英語に近いが、単語の綴りとしてはイギリス英語式とアメリカ英語式が混在している。ケベック州ではフランス語が公用語であることから、英語を母語とせず英語運用能力が高くない人も少なくないが、ケベック州とニューブランズウィック州、オンタリオ州以外ではほとんどフランス語が使われないこともあり、カナダ英語におけるフランス語の影響は皆無に近い。
現在、オーストラリアで話されている英語は、イギリス英語が訛ったものである。訛りは比較的強いが、アメリカ英語ほど変化は激しくなく、オーストラリアの映画などは他の英語圏でもイギリス英語を理解できるものなら分かる。地域間の言語差異は非常に小さい一方で、社会階層により「洗練された」(Cultivated)、「一般的な」(General)、「訛りの強い」(Broad)の3種の社会方言が存在する。かつては容認発音に近いとされるCultivated方言が標準語とされて社会上層や放送などで使用されていたが、20世紀末以降使用が激減し、General方言が標準語としての地位を確立した。Broad方言は地方や労働者階級などで使用者が多いが、こちらの話者も20世紀末以降減少が続き、General方言への一本化が進みつつある。
ニュージーランドで使用される英語は、オーストラリア英語とほぼ類似しており、綴りや発音もイギリス英語の傾向だが、同国のもう1つの公用語であるマオリ語(先住民族マオリの言語)の影響も受けている。オーストラリアと同様、地域差が非常に少ない一方でCultivated、General、Broadの3方言が存在する。
南アフリカは大きな英語母語話者の集団が存在するものの多数派ではなく、2011年時点で英語母語話者人口は総人口の約9.6%を占めるに過ぎず、ズールー語・コサ語・アフリカーンス語に次ぐ規模にとどまっている。公用語としても唯一のものではなく、11ある公用語のうちの一つに過ぎない。一方で第二・第三言語として英語を使用する人口は非常に多く、事実上国内の共通語となっている。もともとアパルトヘイト期においては白人系の言語であるアフリカーンス語と英語の2言語のみが公用語となっており、なかでも政府や社会の主導権を握るアフリカーナーの言語であるアフリカーンス語の利用が積極的に進められたものの、この政策は差別される側である黒人の強い反発を招き、その反動からアパルトヘイト撤廃後は英語の共通語化が急速に進んだ。
インドでは英語はヒンディー語と並んで公用語の地位にあるが、現状に至るまでには紆余曲折が存在した。インドには英語の母語話者がほぼ存在せず、一方で北部を中心にヒンディー語が広大な共通言語圏を形成していたため、憲法制定時にはヒンディー語の単独公用語化が目指され、英語は「1965年までは公用語として併用される」との規定が定められていた。しかしまったく言語圏の違う南部のドラヴィダ諸語圏からの反発が非常に強く、1965年に憲法における英語併用期限が切れると同時に激しい反対運動が巻き起こり、2週間後には事実上公用語2言語制の継続が決定した。一方で、ヒンディー語話者を中心に英語公用語化への反発も存在する。
日本では、学校教育の場合、文部科学省が定める学習指導要領により、義務教育である中学校3年間と小学校5・6年生で英語が必修教科となっているが、「受験英語」という言葉があるように読解力が特に重視されていて、会話(英会話)があまり教えられていないため、受験(入学試験)が終わると英語に接する機会が少なく、非英語圏の先進国やアジア域内諸国と比べても通用度は低い(全く話せず、聞き取れず、という人がほとんど)。
江戸時代末期にアメリカやイギリスからの使節と交渉する必要が生じ、日本での英語の歴史が始まった。ジョン万次郎が著した日本最初の英会話教本には、(日本語とは語順の違う)英文の意味を取りやすいよう、漢文のような返り点が打たれていた。英国外交官のミットフォードは1866年から4年間日本に滞在し貝原好古の『諺艸』など和書の一部を英訳して本国で紹介しており、初めて英訳された日本の文書はこれであろうと述べている。
島村盛助など英文学者らが和英辞書を編纂したが、英語は第二次世界大戦中は、敵性語として排斥されていた時期もあった。今日、日本における英語は依然第一外国語であり、科学技術や諸制度の吸収のための手段や通商の道具(商業英語)という位置付けである。
高校受験・大学受験、各種学校の必修・選択単位取得においては、英語を読解する能力が重視され、英文和訳を中心とした授業(いわゆる受験英語の学習)が行われている。日本語での出版活動が盛んで、多くの英語の書籍が日本語へ翻訳されることから、日常生活で英語の読解に迫られることはあまりないが、職種によっては英文文献の読解が必要となることは少なくない。そのため、専門分野の英文の理解はできるが、日常会話の経験はなく、英会話に苦手意識を持っている日本人は多い。
日本では、非都市部を中心に英語会話能力を特殊技能と見なす傾向が認められる。日本では大学の講義を英語ではなく日本語で受けることができること、すなわち日本の高等教育は母語だけで十分に享受できるということ、英語を母語とする人が1%未満であり日本語だけで日常生活に支障をきたさないことなど複合的な要素によって、日本国内では特定の業界や職種を除き、英会話の必要性が乏しいためである。一方、東京・大阪・神戸・名古屋・福岡などの都市圏では英語話者のコミュニティが形成されている他、英語放送局も存在する。日本の案内標識は英文併記が多い。 | [
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "イングランド以外のブリテン諸島は本来ケルト語派圏であり、古くはスコットランド・ゲール語やアイルランド・ゲール語、ウェールズ語といったケルト語系の言語が使用されていた。しかしイングランドからの影響によって英語の使用が広まり、スコットランドでは中英語から分離した英語系のスコットランド語が早くも14世紀末には一般的に使用されるようになった。1707年にスコットランドとイングランドが合同すると影響はさらに強まり、スコットランド語に代わって完全に英語の一方言であるスコットランド英語が主に使用されるようになった。この傾向は他地域でも同様であり、ウェールズでも19世紀後半にはウェールズ英語の使用が主流となり、アイルランドでもこの時期にアイルランド英語使用が一般的となった。アイルランドが独立するとアイルランド・ゲール語は英語とともに公用語に指定されたものの、ゲール語の母語話者は減少を続けており、同国国民の9割以上はアイルランド英語を母語とするようになっている。",
"title": "母語圏の英語事情"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "アメリカ合衆国には、国家の公用語に関する法的な文章が存在しない。ただし、州レベルでは、英語を公用語とする州や英語とスペイン語(アメリカ合衆国のスペイン語)を公用語と明文的に定める州もある。初期の頃は、西ヨーロッパ系(特にゲルマン人)の移民が多く、英語優位の状況が確保されていたが、次第に東ヨーロッパ・南ヨーロッパ系が増えてきた。さらにアジア・ラテンアメリカ(ヒスパニック・ラテン系アメリカ人問題を参照のこと)からの移民(アメリカ合衆国への移民)が大量に押し寄せ、彼らが高い出生率を維持すると、英語の地位が揺るぎかねないといった風潮が英語話者(アングロ・サクソン人系、WASP)の間で生まれてくる(イングリッシュ・オンリー運動)。いずれにしても英語が国家の言語(国語)として通用しているのは事実で、教育の分野においては「バイリンガル教育かモノリンガル教育か」といった趣旨の問題がたびたび持ち出される。",
"title": "母語圏の英語事情"
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"text": "アメリカ英語の地域差はさほど大きくないが、おおまかには北東部のニューイングランド英語(New England English)、アメリカ南部一帯で話される南部アメリカ英語、そしてその他の地域の一般アメリカ英語の3地域に区分される。",
"title": "母語圏の英語事情"
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"text": "カナダはイギリス連邦および英連邦王国を構成する一国であり、元英領植民地(Crown colony)であった地域だが、その英領植民地にそれ以前はヌーベルフランスであり、今でもフランス語が使われ続けているケベック州があることから、カナダ全体の公用語として英語(カナダ英語)とフランス語(カナダフランス語)の両方が制定されており、連邦政府のサイトや企業の商品説明などは全て英仏両言語で行われている。旧英領の国としては、全人口の内、英語を母語とする人の割合は58%と低く、フランス語が22%を占める。これは、移民が非常に多いため第二言語として英語を使用している人口が非常に多いからである。また、北米でアメリカ合衆国が隣に位置していることから、旧英領であるとはいえ、オーストラリアやインドなどほかの旧英領植民地とは違い、比べるとカナダの英語発音はイギリス英語よりもアメリカ英語に近いが、単語の綴りとしてはイギリス英語式とアメリカ英語式が混在している。ケベック州ではフランス語が公用語であることから、英語を母語とせず英語運用能力が高くない人も少なくないが、ケベック州とニューブランズウィック州、オンタリオ州以外ではほとんどフランス語が使われないこともあり、カナダ英語におけるフランス語の影響は皆無に近い。",
"title": "母語圏の英語事情"
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"text": "現在、オーストラリアで話されている英語は、イギリス英語が訛ったものである。訛りは比較的強いが、アメリカ英語ほど変化は激しくなく、オーストラリアの映画などは他の英語圏でもイギリス英語を理解できるものなら分かる。地域間の言語差異は非常に小さい一方で、社会階層により「洗練された」(Cultivated)、「一般的な」(General)、「訛りの強い」(Broad)の3種の社会方言が存在する。かつては容認発音に近いとされるCultivated方言が標準語とされて社会上層や放送などで使用されていたが、20世紀末以降使用が激減し、General方言が標準語としての地位を確立した。Broad方言は地方や労働者階級などで使用者が多いが、こちらの話者も20世紀末以降減少が続き、General方言への一本化が進みつつある。",
"title": "母語圏の英語事情"
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{
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"text": "ニュージーランドで使用される英語は、オーストラリア英語とほぼ類似しており、綴りや発音もイギリス英語の傾向だが、同国のもう1つの公用語であるマオリ語(先住民族マオリの言語)の影響も受けている。オーストラリアと同様、地域差が非常に少ない一方でCultivated、General、Broadの3方言が存在する。",
"title": "母語圏の英語事情"
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"text": "南アフリカは大きな英語母語話者の集団が存在するものの多数派ではなく、2011年時点で英語母語話者人口は総人口の約9.6%を占めるに過ぎず、ズールー語・コサ語・アフリカーンス語に次ぐ規模にとどまっている。公用語としても唯一のものではなく、11ある公用語のうちの一つに過ぎない。一方で第二・第三言語として英語を使用する人口は非常に多く、事実上国内の共通語となっている。もともとアパルトヘイト期においては白人系の言語であるアフリカーンス語と英語の2言語のみが公用語となっており、なかでも政府や社会の主導権を握るアフリカーナーの言語であるアフリカーンス語の利用が積極的に進められたものの、この政策は差別される側である黒人の強い反発を招き、その反動からアパルトヘイト撤廃後は英語の共通語化が急速に進んだ。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
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{
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"text": "インドでは英語はヒンディー語と並んで公用語の地位にあるが、現状に至るまでには紆余曲折が存在した。インドには英語の母語話者がほぼ存在せず、一方で北部を中心にヒンディー語が広大な共通言語圏を形成していたため、憲法制定時にはヒンディー語の単独公用語化が目指され、英語は「1965年までは公用語として併用される」との規定が定められていた。しかしまったく言語圏の違う南部のドラヴィダ諸語圏からの反発が非常に強く、1965年に憲法における英語併用期限が切れると同時に激しい反対運動が巻き起こり、2週間後には事実上公用語2言語制の継続が決定した。一方で、ヒンディー語話者を中心に英語公用語化への反発も存在する。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
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"text": "日本では、学校教育の場合、文部科学省が定める学習指導要領により、義務教育である中学校3年間と小学校5・6年生で英語が必修教科となっているが、「受験英語」という言葉があるように読解力が特に重視されていて、会話(英会話)があまり教えられていないため、受験(入学試験)が終わると英語に接する機会が少なく、非英語圏の先進国やアジア域内諸国と比べても通用度は低い(全く話せず、聞き取れず、という人がほとんど)。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
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"text": "江戸時代末期にアメリカやイギリスからの使節と交渉する必要が生じ、日本での英語の歴史が始まった。ジョン万次郎が著した日本最初の英会話教本には、(日本語とは語順の違う)英文の意味を取りやすいよう、漢文のような返り点が打たれていた。英国外交官のミットフォードは1866年から4年間日本に滞在し貝原好古の『諺艸』など和書の一部を英訳して本国で紹介しており、初めて英訳された日本の文書はこれであろうと述べている。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
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"text": "島村盛助など英文学者らが和英辞書を編纂したが、英語は第二次世界大戦中は、敵性語として排斥されていた時期もあった。今日、日本における英語は依然第一外国語であり、科学技術や諸制度の吸収のための手段や通商の道具(商業英語)という位置付けである。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
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"text": "高校受験・大学受験、各種学校の必修・選択単位取得においては、英語を読解する能力が重視され、英文和訳を中心とした授業(いわゆる受験英語の学習)が行われている。日本語での出版活動が盛んで、多くの英語の書籍が日本語へ翻訳されることから、日常生活で英語の読解に迫られることはあまりないが、職種によっては英文文献の読解が必要となることは少なくない。そのため、専門分野の英文の理解はできるが、日常会話の経験はなく、英会話に苦手意識を持っている日本人は多い。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
},
{
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"text": "日本では、非都市部を中心に英語会話能力を特殊技能と見なす傾向が認められる。日本では大学の講義を英語ではなく日本語で受けることができること、すなわち日本の高等教育は母語だけで十分に享受できるということ、英語を母語とする人が1%未満であり日本語だけで日常生活に支障をきたさないことなど複合的な要素によって、日本国内では特定の業界や職種を除き、英会話の必要性が乏しいためである。一方、東京・大阪・神戸・名古屋・福岡などの都市圏では英語話者のコミュニティが形成されている他、英語放送局も存在する。日本の案内標識は英文併記が多い。",
"title": "母語圏以外の英語事情"
}
] | 英語とは、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派の西ゲルマン語群・アングロ・フリジア語群に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。 | {{Expand English|date=2023年4月}}
{{Redirect|イギリス語|イギリスで主に話されている言語である英語の種類|イギリス英語}}
{{色}}
{{Infobox Language
|name=英語
|nativename={{en|English}}
|pronunciation={{IPA|'ɪŋɡlɪʃ}}
|familycolor=インド・ヨーロッパ
|states=[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[アイルランド]]、[[南アフリカ共和国]]、[[フィリピン]]、[[シンガポール]]、[[香港]]など多数(約80の国・地域)
|region=主として[[西ヨーロッパ]]、[[北ヨーロッパ]]、[[東南アジア]]、[[北アメリカ]]、[[オセアニア]]、[[西インド諸島]]の一部など
|speakers=10億以上<ref>{{cite web|url=https://www.ethnologue.com/language/eng|title=English|publisher=[[エスノローグ]]26版|year=2023|accessdate=2023-11-29}}</ref>
|rank=2-3(第二公用語含む、基準によって順位は異なる)
|fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]]
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|nation=[[英語圏]]を参照
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|map=[[File:Anglospeak (subnational version).svg|300px]]
|mapcaption = {{legend|#346699|公用語が英語で、母語も英語である割合が最も高い地域}}
{{legend|#99ccff|公用語が英語であるが、母語は英語以外である割合が最も高い地域}}
|script=[[ラテン文字|ラテン]]([[英語アルファベット]])}}
{{Wikiversity}}
'''英語'''(えいご、{{Lang-en-short|English|links=no}} {{IPA-en|'ɪŋɡlɪʃ|pron}} {{Smaller|イングリッシュ}}、{{lang-la-short|anglica}})とは、[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[ゲルマン語派]]の[[西ゲルマン語群]]・[[アングロ・フリジア語群]]に属し、[[イギリス]]・[[イングランド]]地方を[[発祥]]とする[[言語]]である。
==「英語」という呼称==
当該[[言語]]の[[日本語]]における名前である「英語」の「英」はイギリスの漢字表記「'''英吉利'''」に由来する。古くには「英吉利語」<ref>例えば、青木輔清 編『[[英吉利]]語学便覧 初編』([[明治5年]]刊)など。</ref>という呼称もあったが、すでに廃れており「英語」という呼称のみが普及している。また、[[アメリカ合衆国]]で話される[[アメリカ英語]]は米語(べいご)とも呼ばれる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E8%AA%9E-623957 kotobank「米語」]([[kotobank]]) </ref>。同様に他言語にも「[[フランス語|仏語]]」、「[[ドイツ語|独語]]」、「[[スペイン語|西語]]」などの漢字2文字の呼称があるが、現代日本では「[[フランス]]語」、「[[ドイツ]]語」、「[[スペイン]]語」といった呼称の方が普及しており、漢字2文字の名前はもっぱら[[略語]]としてのみ用いられる。
その一方、英語そのもので英語を意味するEnglishはイングランド(England)の[[形容詞]]形であり、「イングランド語」を意味する。
==文字==
{{main|英語アルファベット}}
英語は通常[[ラテン文字]]によって記述され、以下の26文字を用いる。
{|class="wikitable" border="1" style="font-size:150%;text-align:center;"
|-
|[[A]]||[[B]]||[[C]]||[[D]]||[[E]]||[[F]]||[[G]]||[[H]]||[[I]]||[[J]]||[[K]]||[[L]]||[[M]]
|[[N]]||[[O]]||[[P]]||[[Q]]||[[R]]||[[S]]||[[T]]||[[U]]||[[V]]||[[W]]||[[X]]||[[Y]]||[[Z]]
|-
|[[a]]||[[b]]||[[c]]||[[d]]||[[e]]||[[f]]||[[g]]||[[h]]||[[i]]||[[j]]||[[k]]||[[l]]||[[m]]
|[[n]]||[[o]]||[[p]]||[[q]]||[[r]]||[[s]]||[[t]]||[[u]]||[[v]]||[[w]]||[[x]]||[[y]]||[[z]]
|}
ヨーロッパの他の多くの言語と異なり、外来語(およびその転写)を除いて[[ダイアクリティカルマーク]]はほとんど用いない。
手書き時は[[アルファベット]]が連なる[[筆記体]]が以前は主流だったが、現在は署名(サイン)など独自性を追求される場合を除いて、読みやすさなどの観点からブロック体が主流である。
英語においては多くの文字が複数の発音を持っている。また綴りと実際の発音の食い違いも大きく、発音されない[[黙字]]が存在したり、また一つの発音が幾通りもの綴りで表記される場合もある<ref>「英語の歴史」p97-100 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
==発音==
{{main|英語学#音声・音韻学}}
==文法==
{{main|英語の文法}}
== 方言と変種 ==
英語は[[複数中心地言語]]であり、明確な標準語は存在しない。ただし、最も早くイングランドに植民地化されたアメリカでも17世紀初頭、それ以外は18世紀末から19世紀末にかけての植民地化によって英語圏となったため言語が分化する時間が短く、さらに英語圏諸国は密接な関係を維持しているために言語の断絶も少なくなっており、意思疎通ができなくなるほどの言語分化は起こっておらず、一体性を持った言語として存続している<ref>「言語世界地図」p197-199 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。英語の系統としては、アメリカ大陸への植民によってアメリカ英語とイギリス英語の系統に分かれており、アメリカ英語系統はカナダ英語とアメリカ合衆国英語とに分かれ、合衆国英語は植民地化した[[フィリピン英語]]の元となった。これに対し、イギリスは18世紀末以降の積極的な植民によって世界各地に英語圏を広げていき、オーストラリア英語やニュージーランド英語、西インド諸島英語やインド英語など、カナダを除く旧イギリス領諸国の英語は全てイギリス英語の系譜へと連なっている<ref>「英語の歴史」p137 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
一方、英語圏の辺縁においては、言葉の通じないもの同士が簡単なコミュニケーションを取るための[[ピジン言語]]が各地で成立した。特に[[カリブ海]]地域においては、[[奴隷貿易]]によって連れてこられたものたちの間で多様なピジン言語が成立し、さらに次の世代には母語話者を得て文法・語彙が整備され、[[ジャマイカ・クレオール語]]に代表される英語系の[[クレオール言語]]が多数成立した<ref>「世界の英語ができるまで」p239-241 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。このクレオール言語は[[解放奴隷]]によって[[西アフリカ]]へと持ち込まれ、[[クリオ語]]などの英語系クレオール言語がさらに成立した<ref>「世界の英語ができるまで」p247-249 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。英領の太平洋諸島においてもこの過程は存在し、[[パプアニューギニア]]の[[トク・ピシン]]などの英語系クレオール言語が成立している<ref>「英語の歴史」p146 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。英国が世界各地に植民地を建設した関係上、英語を起源とするピジン言語・クレオール言語は非常に数が多く、全世界のピジン・クレオール言語の約40%は英語を起源とすると考えられている<ref>「よくわかる社会言語学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p81 田中春美・田中幸子編著 ミネルヴァ書房 2015年9月20日初版第1刷発行</ref>。
=== 方言 ===
*[[イギリス英語]]
**[[容認発音]](RP、BBC英語、クイーンズイングリッシュ[米国で使うことの多い呼び名])
**[[コックニー]](ロンドン下町英語)
**[[河口域英語]]
**[[スコットランド英語]]
**[[スカウス]]([[リヴァプール]]英語 / [[マージーサイド]]英語)
**[[ジョーディー]]([[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]周辺地域の方言)
**[[ヨークシャーアクセント]]
**{{仮リンク|ウェストカントリー|en|West Country English}}
***グロスターシャー、ドーセット、サマセット、デボン、コーンウォール地域とその周辺で主に話され、ゲルマン語に由来したアングロサクソンの古英語に最も近い英語。
**[[ブラミー]]([[バーミンガム]]周辺地域の方言)
**[[エセックス英語]]
*[[アイルランド英語]]
*[[ウェールズ英語]]
*[[オーストラリア英語]]
**Cultivated カルティヴェイテッド(上層)
**General ジェネラル(中級層)
**Broad ブロード(下層)
*[[ニュージーランド英語]]
*[[カナダ英語]]
*[[アメリカ英語]](米語)
**[[アメリカ中西部アクセント]](標準アメリカ英語、GA、CNN英語)
**[[テキサンアクセント]]
**[[ニューイングランドアクセント]]
***[[ボストンアクセント]]
**[[ニューヨークアクセント]]
**{{仮リンク|フィラデルフィアアクセント|en|Philadelphia_English}}
**[[フロリダアクセント]]
**[[北カロライナアクセント]]
**[[南カロライナアクセント]]
**[[アメリカ中北部英語]]
**[[アメリカ西部英語]]
***[[カリフォルニアンアクセント]]
***カリフォルニアンアクセントとは別だが、カリフォルニア発祥の方言として[[Valley girl accent]](日本で言うところの[[ギャル語]]、もしくは[[オネエ言葉]]に相当する)も存在する。現在ではカリフォルニアの女子の若年層以外にも世界中の英語圏の国々に広まっている。
**[[南部アメリカ英語]]
**[[間大西洋アクセント]]
***第二次世界大戦後あたりまでアメリカ上流層で流行っていた人工方言。主に政治家や俳優など人前で話すときに使われた。第一次世界大戦前あたりから使用され、ラジオを通したBBC英語にとても影響されていると思われる。
**[[フィリピン英語]]
*[[ジャマイカ英語]]
*[[インド英語]]
*[[南アフリカ英語]]
*[[コングリッシュ]]
*[[シングリッシュ]]
*[[香港英語]]
=== 職業変種 ===
* [[航空英語]]
* [[軍人米語]]
=== 民族変種 ===
* [[黒人英語]]
=== その他の変種 ===
*[[ベーシック英語]]
*[[スペシャル・イングリッシュ]]
*[[グロービッシュ]]
*[[プレイン・イングリッシュ]]
*[[アングリッシュ]]
*[[ピッグ・ラテン]]
=== 英語系クレオール言語 ===
* [[クリオ語]]
* [[ジャマイカ・クレオール語]]
* [[スパングリッシュ]]
* [[トク・ピシン]]
* [[ナイジェリア・ピジン]]
* [[ノーフォーク語]]
* [[ハワイ・クレオール英語]]
* [[ピジン語]]
* [[ビスラマ語]]
* [[ピトケアン語]]
=== 混合言語 ===
* [[シェルタ語]]
==歴史==
{{出典の明記|date=2016年1月24日 (日) 02:04 (UTC)|section=1}}
{{main|英語史}}
[[File:Britain.Anglo.Saxon.homelands.settlements.400.500.jpg|thumb|西暦400年代の[[ユトランド半島]]から[[ブリテン諸島]]への移住。<br>{{font color||LightSkyBlue|Jutes}}: [[ジュート人]]<br>{{font color||salmon|Angles}}:[[アングル人]]<br>{{font color||YellowGreen|Saxons}}: [[サクソン人]]]]
もともとイギリス諸島の先住民は[[ケルト人]]系であり、ケルト語系の言語が使用されていた。やがて1世紀から[[ローマ人]]がブリテン島に駐留するようになったが、そのローマ人が西暦410年に本国に引き上げると、5世紀半ばから6世紀にかけて、[[ジュート人]]・[[アングル人]]・[[サクソン人]]といったゲルマン系の人々が大陸からブリテン島に渡来して、先住のケルト人を支配するようになり、イギリス諸島においてゲルマン系の言語が定着した。ここから英語の歴史が始まる。彼らの話していた言語は[[ゲルマン語派]]のうちの[[西ゲルマン語群]]に属しており、[[ドイツ語]]や[[オランダ語]]と近い関係を持っていた。なかでもオランダの[[フリースラント州]]で話されていた[[フリジア語]]とは極めて近い関係にあり、[[アングロ・フリジア語群]]として同一語群の中に含まれている<ref>「英語の歴史」p24-25 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
以後の英語の[[歴史]]はふつう、450年から1100年頃にかけての[[古英語]]、1100年頃から1500年頃にかけての[[中英語]]、それ以降の[[近代英語]]の3期に大別される。中英語と近代英語の間は[[初期近代英語]]と分類でき、また20世紀以降の近代英語は現代英語と分類される<ref>「英語の歴史」p38 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
古英語は渡来者たちの方言差を引き継ぐ形で方言を持っていたが、10世紀前半に陸地王国が統一されると徐々に標準語の需要が高まっていき、10世紀末にはウェストサクソン方言が標準書記言語としての地位を確立した<ref>「世界の英語ができるまで」p20-21 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。しかし11世紀の[[ノルマン・コンクエスト]]によって[[フランス]]から来た[[貴族]]階級が話していた[[ロマンス諸語]]の[[オイル語]]系の[[ノルマン語]]が公用語として14世紀まで使われ、英語は公的部門で使用されなくなり、確立した標準語も消失した。このことにより、中英語では[[ロマンス諸語]]、特にフランス語からの借用語の増大と、庶民の間での英語の簡素化がすすみ、形態変化の単純化、名詞の性別の消失などを引き起こした<ref>「世界の英語ができるまで」p24-26 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。ただし中英語の変化のどこまでが言語接触の影響によるものかは議論がある。その後、1362年には公的な場面で英語が使用されるようになり、15世紀初頭には公文書にも使用されるようになった。これに伴い、公文書体に準拠した書き言葉の整備が進んだ<ref>「世界の英語ができるまで」p36-38 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。一方、15世紀初頭には[[大母音推移]]と呼ばれる発音の変化がはじまり、[[近代英語]]初期である17世紀初頭まで続いたことで、英語の発音は以前と比べ大きく変化したものの、書き言葉の綴りは伝統的な発音に基づいて整備されることが多く、さらに[[活版印刷]]の普及などによってこの綴りが固定化したため、単語の発音と綴りの間にずれが生じるようになった<ref>「世界の英語ができるまで」p42-44 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
==現況==
[[File:Kachru's three circles of English.svg |thumb|ブラジ・カチュルによる英語使用状況モデル。内円にイギリスやアメリカなどの母語使用圏、外円にインドやナイジェリアなどの第二言語使用圏、拡大円に中国やロシア、ブラジルといった外国語としての使用圏が配されている]]
英語話者の分類としては、1970年代に提唱された3タイプによる分類法が広く使用されている。すなわち、母語としての英語(English as a Native language、ENL)、第二言語としての英語({{interlang|en|English as a second language}}=ESL)、[[外国語]]としての英語({{interlang|en|English as a foreign language}}=EFL)である<ref>「英語系諸言語」p88-89 トム・マッカーサー著 牧野武彦監訳 山田茂・中本恭平訳 三省堂 2009年9月15日第1刷発行</ref>。また、[[ブラジ・カチュル]]は上記の分類法を元に、英語の使用状況を、母語使用圏からなる内円・第二言語使用圏からなる外円・外国語としての使用圏からなる拡大円の3つの円を使ってモデル化した<ref>「英語系諸言語」p117-118 トム・マッカーサー著 牧野武彦監訳 山田茂・中本恭平訳 三省堂 2009年9月15日第1刷発行</ref>。
=== 英語圏 ===
{{See also|国別英語話者数ランキング|英語を公用語としている国の一覧|英語圏}}
[[File:English dialects1997.png|250px|right|thumb|'''国別の英語話者人口''' 2/3をアメリカ合衆国一国が占める]]
[[File:Percentage of English speakers by country and dependency as of 2014.svg|upright=1.2|thumb|420px
|2014年時点での人口に占める英語話者の割合{{Multicol}}{{legend|#225500|80–100%}}{{legend|#44aa00|60–80%}}{{Multicol-break}}{{legend|#66ff00|40–60%}}{{legend|#99ff55|20–40%}}{{Multicol-break}}{{legend|#ccffaa|0.1–20%}}{{legend|#c0c0c0|データなし}}{{Multicol-end}}]]
[[File:Map of English native speakers.png|upright=1.2|thumb|300px|英語母語話者の人口に占める割合]]
英語を母語とする人々が多数を占めたり、あるいは国語や公用語に英語が指定されている地域は[[英語圏]]と総称される。2007年時点では、全世界192カ国のうち英語を公用語としている国は55カ国にのぼっていた<ref>「言語世界地図」p194 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。英語を[[母語]]としている人は[[世界人口]]の4.68%で、第1位の中国語(13.22%)と比べかなり少ない<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2098.html|author=CIA|title=The World Factbook -Field Listing ::Languages|language=英語|accessdate=2009年11月26日}}</ref>。しかし公用語人口としては英語が世界一である<ref>{{cite book|和書|title=なるほど知図帳世界2009|publisher=昭文社|year=2008|isbn=978-4398200396}}</ref>。
現在、イギリス(UK)全体としては圧倒的に英語話者が多数を占めているものの、英語が法的に国家の公用語とされているわけではない<ref>「よくわかる社会言語学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p147 田中春美・田中幸子編著 ミネルヴァ書房 2015年9月20日初版第1刷発行</ref>。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドをはじめとして数十の国または地域では公用語もしくは事実上の公用語となっている。[[アメリカ合衆国]]は、全人口の約8割が英語を話し最大の英語話者数を抱えているが、国としての公用語は指定していない。一方で州単位で公用語を決める動きが1980年代以降活発化し、2006年時点では[[カリフォルニア州]]、[[フロリダ州]]、[[イリノイ州]]など50州の内28州で英語のみが公用語に指定されている<ref>「アメリカ」(世界地誌シリーズ4)p82-83 矢ヶ﨑典隆編 朝倉書店 2011年4月25日初版第1刷</ref>。詳しくは[[:en:Template:Official_languages_of_U.S._states_and_territories]]を参照。
第二言語としての英語圏の多くは、[[イギリス帝国]]の植民地に由来する。イギリス統治期、現地[[エリート]]層のほとんどは英語で教育を受け、植民地行政でも英語が公用語とされたため、[[独立]]後も多くの国でこの状態が引き継がれ、[[政治]]・[[経済]]・教育といった公的分野で英語が使用されていることが多く、また国内言語が統一されていない国家においては、エリート層の共通語として英語が機能していることもある。ただしこうした国家において英語話者は多数派ではないことがほとんどである<ref>「よくわかる社会言語学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p88-89 田中春美・田中幸子編著 ミネルヴァ書房 2015年9月20日初版第1刷発行</ref>。
=== 国際共通語としての英語 ===
意思の疎通が可能な国や地域を考慮すると、英語は世界でもっとも広く通用する言語と考えられている<ref>[[:en:List_of_languages_by_number_of_native_speakers]]</ref>。英米の影響などで英語が国際[[共通語]]として使われるようになったため、[[外国語]]として英語を学習・使用する人も多い。そのため、世界各国でイギリス(イングランド)方言・アメリカ方言などの英語の枠組みを超えた「新英語」が出現するようになった<ref>「英語の歴史」p143 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
英語は[[国際連合]]の公用語の一つであるほか、多くの[[国際機関]]において公用語としての地位を確立している。[[石油輸出国機構]]のように、英語を第一言語とする国家が加盟していないのにもかかわらず英語を公用語とする国際機関すら存在する。また、2007年時点においてインターネット上で最も使用される言語は英語であり、英語圏以外の国の[[マスメディア]]も多くの場合英語放送や英語版の発行を行っている。[[航空交通管制]]は英語での交信が原則となっている。学術分野でも英語は共通語となりつつあり、文化面でも[[映画]]や[[音楽]]などは英語使用が主流となっている<ref>「英語の歴史」p5-10 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。[[翻訳]]においては、英語以外の言語間で翻訳を行う場合すら、直接翻訳ができない場合はいったん原語から英語へと変換し、またそこから他言語へ変換することが珍しくない<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p69 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。このように経済、[[社会]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]など様々な分野でグローバル化に伴う英語の普及が進み、「国際共通語」としての英語の重要性は高まる一方である。こうしたことから各国でも盛んに[[英語教育]]が行われるようになり、[[欧州連合]](EU)では、学校でもっとも学ばれている外国語となっている<ref name="srv06">{{cite web|url=http://ec.europa.eu/education/languages/pdf/doc631_en.pdf|format=PDF|date=2006-02|title=Europeans and their Languages|author=Eurobarometer|language=英語|accessdate=2009年11月26日}}</ref>。
英語が国際共通語として使用されるようになったのはそれほど古くはなく、19世紀まではフランス語が外交用語や国際共通語としての地位を占めていたが、[[第一次世界大戦]]後から英語はフランス語と並ぶ国際語としての地位を徐々に築いていった<ref>「言語世界地図」p196 町田健 新潮新書 2008年5月20日発行</ref>。[[第二次世界大戦]]後イギリスは徐々に国際政治での影響力を弱めていくが、同じ英語を使用する国であるアメリカ合衆国が強い影響力を持つようになり、さらにイギリスから独立した国家群のほとんどは独立後も英語利用を続けることが多かったため、結果として英語が有用な外国語として世界に広く普及することになった<ref>「変容する英語」p160 菅山謙正編 世界思想社 2005年8月10日第1刷発行</ref>。
この現況に対して、英語の影響力強化を懸念する立場からは英語が他言語を圧迫し[[言語帝国主義]]に陥っている、すなわち[[英語帝国主義]]であるとの批判も見られる<ref>「よくわかる社会言語学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p94-95 田中春美・田中幸子編著 ミネルヴァ書房 2015年9月20日初版第1刷発行</ref>。
==母語圏の英語事情==
===イギリス・アイルランドの英語事情===
{{main|イギリス英語}}
イギリス、とくに英語発祥の地であるイングランドには、多数の英語方言がある。特に社会階層による方言の分化が著しく、社会の上層で使用される「[[容認発音]]({{en|received pronunciation/RP, [[英国放送協会|BBC]] English, Queen's English}} など様々な呼称がある)」や下層で使用される[[コックニー]]といった[[社会方言]]が存在する。容認発音は話者こそ少ないものの、伝統的に訛りのない標準発音とされており、BBC英語とも呼ばれるように公的な場面や放送などで主に用いられてきた<ref>「世界の英語ができるまで」p86-87 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。しかし1980年代以降、容認発音に代わりロンドン付近の社会中層が主に用いてきた「[[河口域英語]] ({{en|Estuary English}})」の使用が増えつつある<ref>「世界の英語ができるまで」p97 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref><ref>「英語の歴史」p113 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。なお、これ以外に地域方言もイングランド各地に存在する<ref>「世界の英語ができるまで」p98-99 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
イングランド以外の[[ブリテン諸島]]は本来[[ケルト語派]]圏であり、古くは[[スコットランド・ゲール語]]や[[アイルランド・ゲール語]]、[[ウェールズ語]]といったケルト語系の言語が使用されていた。しかしイングランドからの影響によって英語の使用が広まり、[[スコットランド]]では中英語から分離した英語系の[[スコットランド語]]が早くも14世紀末には一般的に使用されるようになった<ref>「世界の英語ができるまで」p105-106 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。1707年にスコットランドとイングランドが合同すると影響はさらに強まり、スコットランド語に代わって完全に英語の一方言である[[スコットランド英語]]が主に使用されるようになった<ref>「世界の英語ができるまで」p108-109 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。この傾向は他地域でも同様であり、[[ウェールズ]]でも19世紀後半にはウェールズ英語の使用が主流となり<ref>「世界の英語ができるまで」p124-125 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>、[[アイルランド]]でもこの時期に[[アイルランド英語]]使用が一般的となった<ref>「世界の英語ができるまで」p117 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。アイルランドが独立するとアイルランド・ゲール語は英語とともに公用語に指定されたものの、ゲール語の母語話者は減少を続けており、同国国民の9割以上はアイルランド英語を母語とするようになっている<ref>「世界の英語ができるまで」p114-115 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
===アメリカ合衆国の英語事情===
{{main|アメリカ英語}}
[[アメリカ合衆国]]には、国家の[[公用語]]に関する法的な文章が存在しない。ただし、州レベルでは、英語を公用語とする州や英語と[[スペイン語]]([[:en:Spanish language in the United States|アメリカ合衆国のスペイン語]])を公用語と明文的に定める州もある。初期の頃は、[[西ヨーロッパ]]系(特に[[ゲルマン人]])の[[移民]]が多く、英語優位の状況が確保されていたが、次第に[[東ヨーロッパ]]・[[南ヨーロッパ]]系が増えてきた。さらに[[アジア]]・[[ラテンアメリカ]]([[ヒスパニック]]・[[ラテン系アメリカ人]]問題を参照のこと)からの移民([[:en:Immigration to the United States|アメリカ合衆国への移民]])が大量に押し寄せ、彼らが高い出生率を維持すると、英語の地位が揺るぎかねないといった風潮が英語話者([[アングロ・サクソン人]]系、[[WASP]])の間で生まれてくる([[:en:English-only movement|イングリッシュ・オンリー運動]])。いずれにしても英語が[[国家]]の言語([[国語]])として通用しているのは事実で、教育の分野においては「バイリンガル教育か[[モノリンガル]]教育か」といった趣旨の問題がたびたび持ち出される。
アメリカ英語の地域差はさほど大きくないが、おおまかには北東部の[[ニューイングランド]]英語([[:en:New England English|New England English]])、アメリカ南部一帯で話される[[南部アメリカ英語]]、そしてその他の地域の一般アメリカ英語の3地域に区分される<ref>「世界の英語ができるまで」p167-170 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
===カナダの英語事情===
{{main|カナダ英語}}
[[カナダ]]は[[イギリス連邦]]および[[英連邦王国]]を構成する一国であり、元英領植民地([[:en:Crown colony|Crown colony]])であった地域だが、その英領植民地にそれ以前は[[ヌーベルフランス]]であり、今でも[[フランス語]]が使われ続けている[[ケベック州]]があることから、カナダ全体の[[公用語]]として英語([[カナダ英語]])とフランス語([[カナダ・フランス語|カナダフランス語]])の両方が制定されており、[[カナダ政府|連邦政府]]のサイトや企業の商品説明などは全て英仏両言語で行われている。旧英領の国としては、全人口の内、英語を母語とする人の割合は58%と低く、フランス語が22%を占める。これは、移民が非常に多いため[[第二言語]]として英語を使用している人口が非常に多いからである。また、[[北アメリカ|北米]]で[[アメリカ合衆国]]が隣に位置していることから、旧英領であるとはいえ、[[オーストラリア]]や[[インド]]などほかの旧英領植民地とは違い、比べるとカナダの英語発音は[[イギリス英語]]よりも[[アメリカ英語]]に近いが、単語の綴りとしてはイギリス英語式とアメリカ英語式が混在している<ref>「世界の英語ができるまで」p190-191 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。ケベック州ではフランス語が公用語であることから、英語を母語とせず英語運用能力が高くない人も少なくないが、[[ケベック州]]と[[ニューブランズウィック州]]、[[オンタリオ州]]以外ではほとんどフランス語が使われないこともあり、カナダ英語におけるフランス語の影響は皆無に近い<ref>「世界の英語ができるまで」p186 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
===オーストラリア・ニュージーランドの英語事情===
{{main|オーストラリア英語|ニュージーランド英語}}
現在、[[オーストラリア]]で話されている英語は、[[イギリス英語]]が訛ったものである。訛りは比較的強いが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ne.jp/asahi/oz/info/begin/ozenglish.html|title=オーストラリアの言葉|author=オーストラリア政府観光局認定のオーストラリア・トラベル・アドバイザーによる解説|language=日本語|accessdate=2010年10月27日}}</ref>、アメリカ英語ほど変化は激しくなく、[[オーストラリアの映画]]などは他の[[英語圏]]でも[[イギリス英語]]を理解できるものなら分かる。地域間の言語差異は非常に小さい一方で、社会階層により「洗練された」(Cultivated)、「一般的な」(General)、「訛りの強い」(Broad)の3種の社会方言が存在する。かつては容認発音に近いとされるCultivated方言が標準語とされて社会上層や放送などで使用されていたが、20世紀末以降使用が激減し、General方言が標準語としての地位を確立した。Broad方言は地方や労働者階級などで使用者が多いが、こちらの話者も20世紀末以降減少が続き、General方言への一本化が進みつつある<ref>「世界の英語ができるまで」p198-200 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
[[ニュージーランド]]で使用される英語は、オーストラリア英語とほぼ類似しており、綴りや発音も[[イギリス英語]]の傾向だが、同国のもう1つの公用語である[[マオリ語]](先住民族[[マオリ]]の言語)の影響も受けている。オーストラリアと同様、地域差が非常に少ない一方でCultivated、General、Broadの3方言が存在する<ref>「世界の英語ができるまで」p212-216 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
==母語圏以外の英語事情==
===南アフリカの英語事情===
{{main|南アフリカ英語}}
南アフリカは大きな英語母語話者の集団が存在するものの多数派ではなく、2011年時点で英語母語話者人口は総人口の約9.6%を占めるに過ぎず、[[ズールー語]]・[[コサ語]]・[[アフリカーンス語]]に次ぐ規模にとどまっている。公用語としても唯一のものではなく、11ある公用語のうちの一つに過ぎない。一方で第二・第三言語として英語を使用する人口は非常に多く、事実上国内の共通語となっている。もともと[[アパルトヘイト]]期においては白人系の言語であるアフリカーンス語と英語の2言語のみが公用語となっており、なかでも政府や社会の主導権を握る[[アフリカーナー]]の言語であるアフリカーンス語の利用が積極的に進められたものの、この政策は差別される側である黒人の強い反発を招き、その反動からアパルトヘイト撤廃後は英語の共通語化が急速に進んだ<ref>「世界の英語ができるまで」p221-224 唐澤一友 亜紀書房 2016年4月5日第1版第1刷発行</ref>。
===インドの英語事情===
{{main|インド英語}}
[[インド]]では英語は[[ヒンディー語]]と並んで公用語の地位にあるが、現状に至るまでには紆余曲折が存在した。インドには英語の母語話者がほぼ存在せず、一方で北部を中心にヒンディー語が広大な共通言語圏を形成していたため、憲法制定時にはヒンディー語の単独公用語化が目指され、英語は「1965年までは公用語として併用される」との規定が定められていた<ref>「インド現代史1947-2007 上巻」p194-199 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。しかしまったく言語圏の違う南部の[[ドラヴィダ語|ドラヴィダ諸語]]圏からの反発が非常に強く、1965年に憲法における英語併用期限が切れると同時に激しい反対運動が巻き起こり、2週間後には事実上公用語2言語制の継続が決定した<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p16-21 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。一方で、ヒンディー語話者を中心に英語公用語化への反発も存在する<ref>「英語の歴史」p190-191 寺沢盾 中公新書 2008年10月25日発行</ref>。
=== 日本の英語事情 ===
{{See also|日本における英語}}
日本では、学校教育の場合、[[文部科学省]]が定める[[学習指導要領]]により、[[義務教育]]である[[中学校]]3年間と[[小学校]]5・6年生で英語が[[必修教科]]となっているが、「[[受験英語]]」という言葉があるように[[読解]]力が特に重視されていて、会話([[英会話]])があまり教えられていないため、受験([[入学試験]])が終わると英語に接する機会が少なく、非英語圏の[[先進国]]や[[アジア]]域内諸国と比べても通用度は低い(全く話せず、聞き取れず、という人がほとんど)。
[[江戸時代]]末期に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]からの使節と交渉する必要が生じ、日本での英語の歴史が始まった。[[ジョン万次郎]]が著した日本最初の英会話教本には、(日本語とは語順の違う)英文の意味を取りやすいよう、[[漢文]]のような返り点が打たれていた。英国[[外交官]]の[[アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード_(初代リーズデイル男爵)|ミットフォード]]は1866年から4年間日本に滞在し[[貝原好古]]の『[[諺艸]]』など和書の一部を英訳して本国で紹介しており、初めて英訳された日本の文書はこれであろうと述べている{{sfn|貝原好古他|1910}}{{efn|[[アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード_(初代リーズデイル男爵)|ミットフォード]]は[[貝原好古]]『[[諺艸]]』の他、[[佐倉惣五郎]]を描いた悲劇『[[東山桜荘子]]』なども英訳した。}}。
[[島村盛助]]など英文学者らが和英辞書を編纂したが、英語は[[第二次世界大戦]]中は、[[敵性語]]として排斥されていた時期もあった。今日、日本における英語は依然第一外国語であり、科学技術や諸[[制度]]の吸収のための手段や通商の道具([[商業]]英語)という位置付けである。
[[高校受験]]・[[大学受験]]、[[各種学校]]の必修・選択単位取得においては、英語を読解する能力が重視され、英文和訳を中心とした授業(いわゆる[[受験英語]]の学習)が行われている。[[日本語]]での出版活動が盛んで、多くの英語の書籍が日本語へ[[翻訳]]されることから、日常生活で英語の読解に迫られることはあまりないが、職種によっては英文文献の読解が必要となることは少なくない。そのため、専門分野の英文の理解はできるが、日常会話の経験はなく、英会話に苦手意識を持っている日本人は多い。
日本では、非[[都市]]部を中心に英語会話能力を特殊技能と見なす傾向が認められる。日本では[[大学]]の講義を英語ではなく日本語で受けることができること、すなわち[[日本の高等教育]]は母語だけで十分に享受できるということ、英語を母語とする人が1%未満であり日本語だけで日常生活に支障をきたさないことなど複合的な要素によって、日本国内では特定の業界や職種を除き、英会話の必要性が乏しいためである。一方、東京・大阪・神戸・名古屋・福岡などの[[都市圏]]では英語話者のコミュニティが形成されている他、英語放送局も存在する。日本の案内標識は英文併記が多い。
==英語に関する資格試験==
{{main|英語検定}}
* [[実用英語技能検定]]
* [[国際コミュニケーション英語能力テスト]]
* [[TOEFL]]
* [[IELTS]]
* [[ケンブリッジ英語検定試験]]
== 英語に関する辞典 ==
*[[英英辞典]] - [[オックスフォード英語辞典]]
*[[英和辞典]]
*[[和英辞典]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}<!--{{efn|xxx}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book| 和書| editor=| translator=[[アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード_(初代リーズデイル男爵)|ミットフォード]]| author=貝原好古他| year=1910| origyear=1971| title=[https://www.gutenberg.org/ebooks/13015 Tales of Old Japan]| publisher=| location = [[ロンドン]]| page=|section=| quote=Book on etymology and proverbial lore, called the Kotowazagusa| isbn=| ref=harv}}
==関連項目==
{{Wikipedia|en}}
{{Wikipedia|simple}}
{{sisterlinks|commons=category:English language}}
===他の言語===
*[[スコットランド語]]
*[[古ノルド語]] - [[古ノルド語から英語への借用]]
*[[フランス語]] - [[フランス語から英語への借用]] - [[フラングレ]]
*[[ラテン語]]
*[[ギリシア語]]
*[[ドイツ語]] - [[ドイツ語から英語への借用]] - [[デングリッシュ]]
*[[日本語]] - [[日本語から英語への借用]] - [[和製英語]]
*[[ネイティブスピーカーの数が多い言語の一覧]]
===英語による各国文学===
*[[イギリス文学]]
*[[アメリカ文学]]
*[[カナダ文学]]
*[[オーストラリア文学]]
*[[ニュージーランド文学]]
===教育===
*[[英会話]] - [[英会話教室]]
*[[英語教育]] - [[英語 (教科)]]
*[[受験英語]]
*[[フォニックス]]
===個別言語学===
*[[英語学]]
*[[英語史]]
*[[国際英語論]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{アフリカ連合の言語}}
{{国際連合公用語}}
{{ゲルマン語派}}
{{英語}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えいこ}}
[[Category:英語|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の言語]]
[[Category:イギリスの言語]]
[[Category:カナダの言語]]
[[Category:オーストラリアの言語]]
[[Category:ニュージーランドの言語]]
[[Category:アイルランドの言語]]
[[Category:南アフリカ共和国の言語]]
[[Category:ナミビアの言語]]
[[Category:マルタの言語]] | 2003-03-04T11:22:56Z | 2023-12-30T06:46:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%AA%9E |
3,378 | ローマ | ローマ(伊/羅: Roma、英/仏: Rome)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都。
イタリアの首都で政治、経済、文化、宗教の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団の本部、マルタ宮殿がコンドッティ通り68にあり、治外法権が認められている。
2019年現在の人口は約286万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年の都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である。 かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。
2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス、人材、文化、政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった。
観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた。後述の「観光」、「聖地として」も参照。
ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。
今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスやタクシー、マンホールの蓋にも紋章が入れられている。
ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノ、アヴェンティーノ、カピトリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、チェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。
ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は高温で乾燥しており、冬に降水が集中する。2023年7月18日に最高気温42.9°Cを記録した。
ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。
行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。
ローマに初めて行政区を創設したのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスで、紀元前7年のことである。それまで首都の境界線(ポメリウム)の内外程度しか区分けがなかったものを、14の行政区に分割し行政上の責任を明確にしようとした。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば74年時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期のディオクレティアヌス帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた。
ムニチーピオ(it)は、19の行政区に分けられる。
リオーネ(it)は、以下の22の行政区に分けられる。
クアルティエーレ(it)は、以下の35に分けられる。
隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。
現在ローマの人口はおよそ280万人で、イタリア最大の都市であり、ベルリンとマドリードに続く欧州連合で第3の都市。ローマには7万を超える大きななルーマニア人コミュニティがあり、ルーマニア外で一番最大のルーマニア人になる。その他にもアジア系(おもにフィリピン人、バングラデシュ人、中国人)が多い。ローマの人口は1907年に50万を超え、1934年に100万、1957年に200万を超えた。
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスとレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。
紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。
王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。
共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。
ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。
286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノやラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケルや東ゴート王の支配下に入った。
6世紀中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。
しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス2世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族のピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。
この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。
ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。
その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。
1943年6月5日、ローマに戦火が及ぶことを避けるため首都防衛を担ってきたドイツ軍がローマ郊外へ撤収。同年7月、ムッソリーニ政権が倒れてバドリオ政権が誕生すると、秘密裏に連合国軍との間で停戦協定の交渉が始まった。その中でローマは無防備地域を宣言するものの連合国側には無視され、ローマは空爆された(ローマ爆撃)。同年9月8日、連合国軍側がイタリアとの休戦を発表。ローマはファシストが徹底抗戦を図るために建国したイタリア社会共和国の首都となった。
第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアやアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初期に文化の中心都市がミラノへ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。
現在はパリやアテネなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治や経済、文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。一方で公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻になっている。
2008年におけるローマの都市GDPは1440億ドルであり、世界第43位である。 アメリカのダウ・ジョーンズらの2017年の調査によると、世界74位の金融センターと評価されており、イタリアではミラノに次ぐ2位である。
イタリアの首都であることから、政治の中心地であるが、ローマの経済は基本的に行政と観光によっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス業(第三次産業)に従事している。ローマには、イタリアの大企業本社や多国籍企業の本拠地、国営放送局 (RAI)、大手新聞社などのマスコミの本社、在外公館が集中し、また国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際農業開発基金 (IFAD)、国際連合世界食糧計画 (WFP) の本部がおかれている。またアパレル産業では、ブルガリ、フェンディ、ヴァレンティノ等の創業地になる。ヴァレンティノは1971年にミラノに本店及び本社機能を移転した。
市内には古代遺跡や美術館などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特にヴェネト通りやスペイン広場周辺には高級ホテルやレストラン、ブティックが立ち並び一年中賑わいを見せている。
郊外には独裁者ベニート・ムッソリーニが作った世界的に著名な映画撮影所「チネチッタ」があり、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』や『インテルビスタ』など多数の名作が撮影された。イタリアの映画産業のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」 (邦題は『フェリーニのローマ』)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には『カサブランカ (映画)|』『シカゴ』など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、キネマ旬報ベストテン2位など名作映画として評価されている。
イタリア鉄道(トレニタリア Trenitalia)が市内と郊外を結ぶローマ近郊鉄道(FL線)を8路線運行している。イタリア鉄道の路線網は市内中心部のローマ・テルミニ駅やローマ・ティブルティーナ駅と旧市街外周部のローマ・オスティエンセ駅など複数駅の分散ターミナル方式である。また、ATACも都市鉄道を3路線運行し、オスティアなどの郊外との間を結んでいる。市内の交通はATACが運営するローマ地下鉄、トラム、バス網が中心である。他にもタクシーが安価な交通手段として多用されている。なお、バスやトラムは信用乗車方式であるため、駅の券売機やキオスク等で事前に切符を購入しておく必要がある。
長距離交通は、ローマ・テルミニ駅を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア(ES*)やItaloなどの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バスなどで結ばれている。
日本を含む長距離国際線とEU内国際線、国内線はフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用するほか、EU内国際線と国内線はチャンピーノ空港(ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)も使われる。フィウミチーノ空港まではテルミニ駅から直通列車「レオナルド・エクスプレス」が運航され、所要時間は30分ほどである。
日本への就航都市
ローマの七丘とは、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のこと。
ローマの宗教 (2017年)
ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつであるバチカン市国があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特にサン・ピエトロ広場は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている。
ローマは、北イタリアの諸都市に比べると意外なほどオペラは盛んではなく、ローマ歌劇場は2014年にいったん全従業員解雇が発表されたことがある(その後労使の妥協により撤回)。むしろイタリアには数少ないコンサートオーケストラの名門として、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団が特筆すべき存在である。また、イ・ムジチ合奏団も同地が拠点である。
ローマは1960年のローマオリンピック開催地であり、同年には第1回パラリンピックが開催された。また、2009年の世界水泳選手権もローマで開催された。さらに1987年の世界陸上の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマが会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロにより1980年に創設され、2010年以降はIAAFダイヤモンドリーグの1大会に加わった陸上競技会、ゴールデンガラもオリンピコを会場として行われている。
ローマで圧倒的に人気のあるスポーツはサッカーである。スタディオ・オリンピコでは1990 FIFAワールドカップ決勝戦が行われ、現在はセリエA屈指の強豪ASローマおよびSSラツィオのホームスタジアムとして使用されている。ローマとラツィオ間には猛烈なライバル意識が存在しており、地元民からはローマ・ダービーは「試合以上の存在」と言われている。
また、ローマのみならずイタリアを代表するアスリートとして、フランチェスコ・トッティ、アレッサンドロ・ネスタ、ダニエレ・デ・ロッシ、アレッサンドロ・フロレンツィなどの有名な選手を輩出している。その中でもトッティは、およそ25年間にもわたってASローマ一筋でプレーしたワン・クラブ・マンであり、同クラブの歴代最多得点(316得点)および歴代最多出場(786試合)の記録をもつ。 | [
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"text": "ローマ(伊/羅: Roma、英/仏: Rome)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都。",
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"text": "イタリアの首都で政治、経済、文化、宗教の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団の本部、マルタ宮殿がコンドッティ通り68にあり、治外法権が認められている。",
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"text": "2019年現在の人口は約286万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年の都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である。 かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。",
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"text": "2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス、人材、文化、政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった。",
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"text": "観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた。後述の「観光」、「聖地として」も参照。",
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"text": "ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。",
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"text": "今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスやタクシー、マンホールの蓋にも紋章が入れられている。",
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"text": "ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノ、アヴェンティーノ、カピトリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、チェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。",
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"text": "ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は高温で乾燥しており、冬に降水が集中する。2023年7月18日に最高気温42.9°Cを記録した。",
"title": "地理"
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"text": "ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。",
"title": "地理"
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"text": "行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。",
"title": "地理"
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"text": "ローマに初めて行政区を創設したのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスで、紀元前7年のことである。それまで首都の境界線(ポメリウム)の内外程度しか区分けがなかったものを、14の行政区に分割し行政上の責任を明確にしようとした。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば74年時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期のディオクレティアヌス帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた。",
"title": "地理"
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"text": "ムニチーピオ(it)は、19の行政区に分けられる。",
"title": "地理"
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"text": "リオーネ(it)は、以下の22の行政区に分けられる。",
"title": "地理"
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"text": "クアルティエーレ(it)は、以下の35に分けられる。",
"title": "地理"
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"text": "隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。",
"title": "地理"
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"text": "現在ローマの人口はおよそ280万人で、イタリア最大の都市であり、ベルリンとマドリードに続く欧州連合で第3の都市。ローマには7万を超える大きななルーマニア人コミュニティがあり、ルーマニア外で一番最大のルーマニア人になる。その他にもアジア系(おもにフィリピン人、バングラデシュ人、中国人)が多い。ローマの人口は1907年に50万を超え、1934年に100万、1957年に200万を超えた。",
"title": "人口統計"
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"text": "伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスとレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。",
"title": "歴史"
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"text": "他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。",
"title": "歴史"
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"text": "紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる。",
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"text": "王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。",
"title": "歴史"
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"text": "共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。",
"title": "歴史"
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"text": "ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。",
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"text": "イタリア鉄道(トレニタリア Trenitalia)が市内と郊外を結ぶローマ近郊鉄道(FL線)を8路線運行している。イタリア鉄道の路線網は市内中心部のローマ・テルミニ駅やローマ・ティブルティーナ駅と旧市街外周部のローマ・オスティエンセ駅など複数駅の分散ターミナル方式である。また、ATACも都市鉄道を3路線運行し、オスティアなどの郊外との間を結んでいる。市内の交通はATACが運営するローマ地下鉄、トラム、バス網が中心である。他にもタクシーが安価な交通手段として多用されている。なお、バスやトラムは信用乗車方式であるため、駅の券売機やキオスク等で事前に切符を購入しておく必要がある。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "長距離交通は、ローマ・テルミニ駅を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア(ES*)やItaloなどの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バスなどで結ばれている。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "日本を含む長距離国際線とEU内国際線、国内線はフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用するほか、EU内国際線と国内線はチャンピーノ空港(ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)も使われる。フィウミチーノ空港まではテルミニ駅から直通列車「レオナルド・エクスプレス」が運航され、所要時間は30分ほどである。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "日本への就航都市",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "ローマの七丘とは、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のこと。",
"title": "観光"
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"text": "ローマの宗教 (2017年)",
"title": "文化"
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"text": "ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつであるバチカン市国があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特にサン・ピエトロ広場は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている。",
"title": "文化"
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"text": "ローマは、北イタリアの諸都市に比べると意外なほどオペラは盛んではなく、ローマ歌劇場は2014年にいったん全従業員解雇が発表されたことがある(その後労使の妥協により撤回)。むしろイタリアには数少ないコンサートオーケストラの名門として、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団が特筆すべき存在である。また、イ・ムジチ合奏団も同地が拠点である。",
"title": "文化"
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"text": "ローマは1960年のローマオリンピック開催地であり、同年には第1回パラリンピックが開催された。また、2009年の世界水泳選手権もローマで開催された。さらに1987年の世界陸上の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマが会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロにより1980年に創設され、2010年以降はIAAFダイヤモンドリーグの1大会に加わった陸上競技会、ゴールデンガラもオリンピコを会場として行われている。",
"title": "文化"
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"text": "ローマで圧倒的に人気のあるスポーツはサッカーである。スタディオ・オリンピコでは1990 FIFAワールドカップ決勝戦が行われ、現在はセリエA屈指の強豪ASローマおよびSSラツィオのホームスタジアムとして使用されている。ローマとラツィオ間には猛烈なライバル意識が存在しており、地元民からはローマ・ダービーは「試合以上の存在」と言われている。",
"title": "文化"
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"text": "また、ローマのみならずイタリアを代表するアスリートとして、フランチェスコ・トッティ、アレッサンドロ・ネスタ、ダニエレ・デ・ロッシ、アレッサンドロ・フロレンツィなどの有名な選手を輩出している。その中でもトッティは、およそ25年間にもわたってASローマ一筋でプレーしたワン・クラブ・マンであり、同クラブの歴代最多得点(316得点)および歴代最多出場(786試合)の記録をもつ。",
"title": "文化"
}
] | ローマは、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都。 | {{Otheruses}}
{{コムーネ
|nomeComune_ja = ローマ
|nomeComune = Roma<br/>{{flagicon|ITA}}
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|altitudine = 20 (0 - 377) <ref name="istat2001">{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://dawinci.istat.it/daWinci/jsp/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0GG0c0I0&a2=mG0Y8048f8&n=1UH90T07S25&v=1UH07B07SS50000|title=Tavola: Popolazione residente - Roma(dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2013-11-25}}</ref>
|superficie = 1,285.30 <ref name="kmq">{{Cite web|author=国立統計研究所(ISTAT)|url=http://dawinci.istat.it/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0I040WI0&a2=mG0y8048f8&n=1UH90007S04&v=1UH0D807SS40000|title=Tavola: Superficie territoriale(Kmq) - Roma(dettaglio comunale) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2013-11-25}}</ref>
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|anno = 2019-01-01
|densita = {{formatnum:{{#expr:2856133/1285.30 round 1}}}}
|frazioni = [[オスティア|Ostia]], [[オスティア・アンティカ|Ostia antica]], [[:it:Acilia|Acilia]], [[:it:Vitinia|Vitinia]], [[:it: Infernetto|Infernetto]], Trigoria, Piana del sole, Casal palocco, castel di leva, Villaggio prenestino, Castelverde, Corcolle, La storta-olgiata, Massimina, valle santa.
|comuniLimitrofi = [[#隣接コムーネ]]参照
|cap = 00118~00199
|prefisso = 06
|istat = 058091
|fiscale = H501
|zonaSismica = 3
|nomeAbitanti = Romani
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|festivo = [[6月29日]]
|gradiGiorno = 1415
|sito = http://www.comune.roma.it/
|Mappa = Map of comune of Rome (metropolitan city of Capital Rome, region Lazio, Italy).svg
|Didascalia mappa= ローマ県におけるコムーネの領域
}}
'''ローマ'''([[イタリア語|伊]]/{{lang-la-short|Roma}}、[[英語|英]]/{{lang-fr-short|Rome}})は、[[イタリア]]の[[首都]]。[[欧州]]有数の[[世界都市]]であり、[[ラツィオ州]]の[[州都]]。
== 概説 ==
イタリアの[[首都]]で政治、経済、文化、宗教の中心地である。当市に囲まれるように[[ローマ教皇]]の居住する[[バチカン|バチカン市国]]があり、そこは全世界の[[カトリック教会|カトリック]]教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たない[[マルタ騎士団]]の本部、[[マルタ宮殿]]がコンドッティ通り68にあり、[[治外法権]]が認められている。
[[2019年]]現在の人口は約286万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。[[2010年]]の[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域の人口]]では271万人であり、世界128位である<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。
かつての[[ローマ帝国]]の首都であったため[[西洋]]文明圏を代表する都市のひとつであり、[[カトリック教会]]の中枢であり、そしてまたその美しさから『'''永遠の都'''』と称される。
[[2014年]]、アメリカの[[シンクタンク]]が公表した[[ビジネス]]、[[人材]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]、[[政治]]などを対象とした総合的な[[世界都市|世界都市ランキング]]において、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>。
{{Anchors|概要-観光}}観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた<ref>2枚目(PDFのページ表記では1ページ)にある『Chart 1.』の12位。{{cite web
| url =http://newsroom.mastercard.com/wp-content/uploads/2012/06/MasterCard_Global_Destination_Cities_Index_2012.pdf
| format = PDF
| date =2012
| title = MasterCard Global Destination Cities Index
| page = 2
| quote= Rome 7.8mn
| publisher = MasterCard
| accessdate=2013年2月16日
}}</ref>。後述の「[[#観光|観光]]」、「[[#聖地|聖地として]]」も参照。
<!-- 大量に空白が開くのでギャラリーにします date=2023-4 -->
<gallery>
Sede Regione Lazio.jpg|[[ラツィオ州]]政府(Via Rosa Raimondi Garibaldi, 7)
Rome Skyline (8012016319).jpg|ローマの[[旧市街]]
Roma EUR Laghetto vista dal basso.jpg|ローマの[[都心|新都心]]である[[エウローパ]]
</gallery>
===紋章===
ローマ市の盾形の[[紋章]]に書いてある「[[SPQR]]」の文字は、[[ラテン語]]で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。
今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走る[[バス (交通機関)|バス]]や[[タクシー]]、[[マンホール]]の蓋にも紋章が入れられている。
== 地理 ==
===地勢===
[[ティレニア海]]にそそぐ[[テヴェレ川]]河口から25kmほどさかのぼった位置にある[[イタリア]]の首都で、[[ラツィオ州]]の州都であり[[ローマ県]]の県都。伝説によれば、ローマは[[紀元前753年]]、テヴェレ川東岸の「[[ローマの七丘]]」のひとつ、[[パラティーノの丘]]に建設されたという。七丘とは、[[パラティーノ]]、[[アヴェンティーノ]]、[[カピトリーノ]]、[[クイリナーレ]]、[[ヴィミナーレ]]、[[エスクイリーノ]]、[[チェリオ (イタリア)|チェリオ]]の丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。
{{-}}
===気候===
[[ケッペンの気候区分]]では[[地中海性気候]]に属し、夏は高温で乾燥しており、冬に降水が集中する。2023年7月18日に最高気温42.9℃を記録した<ref>{{Cite web|和書|author=[[森さやか]] |date=2023-07-19 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4de8f039602f168713ce52dc8839493676ea3fd6 |title=ローマで史上最高気温も 地球は過去もっとも暑い2週間 |website=news.yahoo.co.jp |publisher= |accessdate=2023-07-24}}</ref>。
{{Weather box
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|date=2022年7月|Jan record high C=22.1|Feb record high C=22.1|Mar record high C=25.0|Apr record high C=29.8|May record high C=33.1|Jun record high C=36.6|Jul record high C=38.1|Aug record high C=39.0|Sep record high C=37.0|Oct record high C=31.0|Nov record high C=26.5|Dec record high C=22.3|Jan mean C=8.4|Feb mean C=8.8|Mar mean C=11.1|Apr mean C=13.8|May mean C=17.8|Jun mean C=21.9|Jul mean C=24.5|Aug mean C=24.9|Sep mean C=21.2|Oct mean C=17.4|Nov mean C=13.2|Dec mean C=9.4|Jan record low C=-7.4|Feb record low C=-6.9|Mar record low C=-6.5|Apr record low C=-2.4|May record low C=1.8|Jun record low C=5.6|Jul record low C=9.9|Aug record low C=9.3|Sep record low C=4.0|Oct record low C=0.0|Nov record low C=-4.8|Dec record low C=-5.6}}
===地域===
[[file:Roma - Municipi numerata (2001-2013).png|thumb|right|300px|ローマのムニチーピオ]]
[[File:Roma rioni mappa.png|right|300px|thumb|ローマのリオーネ(黄色)<br>ローマのクアルティエーレ(黄色の外側)]]
[[ファイル:Plan Rome- Aureliaanse Muur.png|right|300px|thumb|[[アウグストゥス帝によるローマの14行政区]](赤文字)とアウレリアヌス城壁(赤色線)]]
ローマはイタリア全土にある[[コムーネ]]のうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地である[[カンピドリオ]]に市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。
====行政区画====
行政区分では19の[[ムニチーピオ]]という地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、[[リオーネ]]は22の区域に分割され、一部を除いて[[アウレリアヌス城壁]]内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。
;歴史
ローマに初めて行政区を創設したのは[[ローマ帝国]]初代皇帝[[アウグストゥス]]で、[[紀元前7年]]のことである。それまで首都の境界線([[ポメリウム]])の内外程度しか区分けがなかったものを、[[アウグストゥス帝によるローマの14行政区|14の行政区]]に分割し行政上の責任を明確にしようとした<ref name="青木正規">青木正規著 皇帝たちの都ローマ ISBN 4-12-101100-7 1992年発行第1版 p162-p164</ref>。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば[[74年]]時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期の[[ディオクレティアヌス]]帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた<ref name="青木正規" />。
;ローマのムニチーピオ
[[ムニチーピオ]]([[:it:Municipio|it]])は、19の行政区に分けられる。
{{See also|[[ローマのムニチーピオ]]([[:it:Municipi di Roma|Municipi di Roma]])}}
{{See also|Suddivisioni di Roma([[:it:Suddivisioni di Roma|Suddivisioni di Roma]])}}
{{colbegin|3}}
*[[:it:Municipio Roma I|Municipio Roma I]](1) ([[:it:Centro Storico|Centro Storico]])
*[[:it:Municipio Roma II|Municipio Roma II]](2) ([[:it:Parioli|Parioli]])
*[[:it:Municipio Roma III|Municipio Roma III]](3) ([[:it:Nomentano|Nomentano]] - [[:it:San Lorenzo (zona di Roma)|San Lorenzo]])
*[[:it:Municipio Roma IV|Municipio Roma IV]](4) ([[:it:Montesacro|Monte Sacro]])
*[[:it:Municipio Roma V|Municipio Roma V]](5) (Tiburtina)
*[[:it:Municipio Roma VI|Municipio Roma VI]](6) (Prenestino)
*[[:it:Municipio Roma VII|Municipio Roma VII]](7) ([[:it:Centocelle|Centocelle]])
*[[:it:Municipio Roma VIII|Municipio Roma VIII]](8) (delle Torri)
*[[:it:Municipio Roma IX|Municipio Roma IX]](9) (San Giovanni)
*[[:it:Municipio Roma X|Municipio Roma X]](10) (Cinecittà)
*[[:it:Municipio Roma XI|Municipio Roma XI]](11) (Appia Antica)
*[[:it:Municipio Roma XII|Municipio Roma XII]](12) ([[:it:Eur (zona di Roma)|EUR]])
*[[:it:Municipio Roma XIII|Municipio Roma XIII]](13) (Ostia)
*[[:it:Municipio Roma XV|Municipio Roma XV]](14) (Arvalia Portuense)
*[[:it:Municipio Roma XVI|Municipio Roma XVI]](15) (Monte Verde)
*[[:it:Municipio Roma XVII|Municipio Roma XVII]](16) ([[:it:Prati (rione di Roma)|Prati]])
*[[:it:Municipio Roma XVIII|Municipio Roma XVIII]](17) (Aurelia)
*[[:it:Municipio Roma XIX|Municipio Roma XIX]](18) (Monte Mario)
*[[:it:Municipio Roma XX|Municipio Roma XX]](19) (Cassia Flaminia)
{{colend}}
;ローマのリオーネ
[[リオーネ]]([[:it:Rione|it]])は、以下の22の行政区に分けられる。
{{See also|[[ローマのリオーネ]]([[:it:Rioni di Roma|Rioni di Roma]])}}
{{colbegin|3}}
*R.I(1)[[モンティ (ローマ)|モンティ]]([[:it:Monti (rione di Roma)|Monti]])
*R.II(2)[[トレヴィ (ローマ)|トレヴィ]] ([[:it:Trevi (rione di Roma)|Trevi]])
*R.III(3)[[コロンナ (ローマ)|コロンナ]] ([[:it:Colonna (rione di Roma)|Colonna]])
*R.IV(4)[[カンポ・マルツィオ]] ([[:it:Campo Marzio|Campo Marzio]])
*R.V(5)[[ポンテ (ローマ)|ポンテ]] ([[:it:Ponte (rione di Roma)|Ponte]])
*R.VI(6)[[パリオネ]] ([[:it:Parione|Parione]])
*R.VII(7)[[レーゴラ]] ([[:it:Regola (rione di Roma)|Regola]])
*R.VIII(8)[[サンテウスタキオ]] ([[:it:Sant'Eustachio (rione di Roma)|Sant'Eustachio]])
*R.IX(9)[[ピニャ (ローマ)|ピニャ]] ([[:it:Pigna (rione di Roma)|Pigna]])
*R.X(10)[[カンピテッリ]] ([[:it:Campitelli|Campitelli]])
*R.XI(11)[[サンタンジェロ]] ([[:it:Sant'Angelo (rione di Roma)|Sant'Angelo]])
*R.XII(12)[[リパ (ローマ)|リパ]] ([[:it:Ripa|Ripa]])
*R.XIII(13)[[トラステヴェレ]] ([[:it:Trastevere|Trastevere]])
*R.XIV(14)[[ボルゴ]] ([[:it:Borgo (rione di Roma)|Borgo]])
*R.XV(15)[[エスクイリーノ (ローマ)]] ([[:it:Esquilino (rione di Roma)|Esquilino]])
*R.XVI(16)[[ルドヴィージ]] ([[:it:Ludovisi|Ludovisi]])
*R.XVII(17)[[サッルスティアーノ]] ([[:it:Sallustiano|Sallustiano]])
*R.XVIII(18)[[カストロ・プレトーリオ]] ([[:it:Castro Pretorio|Castro Pretorio]])
*R.XIX(19)[[チェリオ (ローマ)|チェリオ]] ([[:it:Celio (rione di Roma)|Celio]])
*R.XX(20)[[テスタッチョ]] ([[:it:Testaccio|Testaccio]])
*R.XXI(21)[[サン・サバ]] ([[:it:San Saba (rione di Roma)|San Saba]])
*R.XXII(22)[[プラティ (ローマ)|プラティ]] ([[:it:Prati (rione di Roma)|Prati]])
{{colend}}
;ローマのクアルティエーレ(近隣住区)
[[クアルティエーレ]]([[:it:Quartiere|it]])は、以下の35に分けられる。
{{See also|ローマのクアルティエーレ}}
{{colbegin|3}}
*Q.I(1)[[フラミーニオ]] ([[:it:Flaminio (quartiere di Roma)|Flaminio]])
*Q.II(2)[[パリオーリ]] ([[:it:Parioli|Parioli]])
*Q.III(3)[[ピンチャーノ]] ([[:it:Pinciano|Pinciano]])
*Q.IV(4)[[サラーリオ]] ([[:it:Salario (quartiere di Roma)|Salario]])
*Q.V(5)[[ノメンターノ]] ([[:it:Nomentano|Nomentano]])
*Q.VI(6)[[ティブルティーノ]] ([[:it:Tiburtino|Tiburtino]])
*Q.VII(7)[[プレネスティーノ=ラビカーノ]] ([[:it:Prenestino-Labicano|Prenestino-Labicano]])
*Q.VIII(8)[[トゥスコラーノ]] ([[:it:Tuscolano|Tuscolano]])
*Q.IX(9)[[アッピオ・ラティーノ]] ([[:it:Appio Latino|Appio Latino]])
*Q.X(10)[[オスティエンセ]] ([[:it:Ostiense|Ostiense]])
*Q.XI(11)[[ポルトゥエンセ]] ([[:it:Portuense|Portuense]])
*Q.XII(12)[[ジャニコレンセ]] ([[:it:Gianicolense|Gianicolense]])
*Q.XIII(13)[[アウレーリオ]] ([[:it:Aurelio (quartiere di Roma)|Aurelio]])
*Q.XIV(14)[[トリオンファーレ]] ([[:it:TrionfaleTrionfale|TrionfaleTrionfale]])
*Q.XV(15)[[デッラ・ヴィットーリア]] ([[:it:Della Vittoria|Della Vittoria]])
*Q.XVI(16)[[モンテ・サクロ]] ([[:it:Monte Sacro (quartiere di Roma)|Monte Sacro]])
*Q.XVII(17)[[トリエステ (ローマのクアルティエーレ)|トリエステ]] ([[:it:Trieste (quartiere di Roma)|Trieste]])
*Q.XVIII(18)[[トール・ディ・クイント]] ([[:it:Tor di Quinto|Tor di Quinto]])
*Q.XIX(19)[[プレネスティーノ=チェントチェッレ]] ([[:it:Prenestino-Centocelle|Prenestino-Centocelle]])
*Q.XX(20)[[アルデアティーノ]] ([[:it:Ardeatino|Ardeatino]])
*Q.XXI(21)[[ピエトララータ]]([[:it:Pietralata (quartiere di Roma)|Pietralata]])
*Q.XXII(22)[[コッラティーノ]] ([[:it:Collatino|Collatino]])
*Q.XIII(23)[[アレッサンドリーノ]] ([[:it:Alessandrino (quartiere di Roma)|Alessandrino]])
*Q.XXIV(24)[[ドン・ボスコ (ローマのクアルティエーレ)|ドン・ボスコ]] ([[:it:Don Bosco (quartiere di Roma)|Don Bosco]])
*Q.XXV(25)[[アッピオ・クラウディオ]] ([[:it:Appio Claudio (quartiere di Roma)|Appio Claudio]])
*Q.XXVI(26)[[アッピオ・ピニャテッリ]] ([[:it:Appio Pignatelli|Appio Pignatelli]])
*Q.XXVII(27)[[プリマヴァッレ]] ([[:it:Primavalle|Primavalle]])
*Q.XXVIII(28)[[モンテ・サクロ・アルト]] ([[:it:Monte Sacro Alto|Monte Sacro Alto]])
*Q.XXIX(29)[[ポンテ・マンモロ]] ([[:it:Ponte Mammolo|Ponte Mammolo]])
*Q.XXX(30)[[サン・バジーリオ (ローマのクアルティエーレ)|サン・バジーリオ]] ([[:it:San Basilio (quartiere di Roma)|San Basilio]])
*Q.XXXI(31)[[ジュリアーノ・ダルマータ]] ([[:it:Giuliano Dalmata|Giuliano Dalmata]])
*Q.XXXII(32)[[エウローパ]] ([[:it:Europa (quartiere di Roma)|Europa]])
*Q.XXXIII(33)[[リード・ディ・オスティア・ポネンテ]] ([[:it:Lido di Ostia Ponente|Lido di Ostia Ponente]])
*Q.XXXIV(34)[[リード・ディ・オスティア・レヴァンテ]]([[:it:Lido di Ostia Levant|Lido di Ostia Levante]])
*Q.XXXV(35)[[リード・ディ・カステル・フザーノ]] ([[:it:Lido di Ostia Levante|Lido di Ostia Levante]])
{{colend}}
===隣接コムーネ===
隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。
{{colbegin|4}}
*[[アルバーノ・ラツィアーレ]]
*[[アングイッラーラ・サバーツィア]]
*[[アルデーア]]
*[[カンパニャーノ・ディ・ローマ]]
*[[カステル・ガンドルフォ]]
*[[カステル・サン・ピエトロ・ロマーノ]]
*[[チャンピーノ]]
*[[バチカン市国|チッタ・デル・ヴァティカーノ]] (SCV)
*[[コロンナ (イタリア)|コロンナ]]
*[[フィウミチーノ]]
*[[フォンテ・ヌオーヴァ]]
*[[フォルメッロ]]
*[[フラスカーティ]]
*[[ガッリカーノ・ネル・ラーツィオ]]
*[[グロッタフェッラータ]]
*[[グイドーニア・モンテチェーリオ]]
*[[マリーノ]]
*[[メンターナ]]
*[[モンテ・ポルツィオ・カトーネ]]
*[[モンテ・コンパトリ]]
*[[モンテロトンド]]
*[[パレストリーナ]]
*[[ポーリ]]
*[[ポメーツィア]]
*[[リアーノ]]
*[[サクロファーノ]]
*[[サン・グレゴーリオ・ダ・サッソラ]]
*[[ティーヴォリ]]
*[[トレヴィニャーノ・ロマーノ]]
*[[ザガローロ]]
{{colend}}
== 人口統計 ==
{| class="infobox" style="float:right text-align:center;"
|colspan=2| '''国別の海外出身者の人口'''<ref name="municipalitystat02">{{cite web |title=Popolazione straniera residente nel Comune di Roma al 01/01/2022 per sesso e nazionalità |url=https://www.tuttitalia.it/lazio/33-roma/statistiche/cittadini-stranieri-2022/ |url-status=live}}</ref>
|-
! 出身国 !! 人口 (2022)
|-
| {{flag|Romania}} ||74,930
|-
| {{flag|Philippines}} ||38,484
|-
| {{flag|Bangladesh}} ||32,963
|-
| {{flag|China}} ||17,244
|-
| {{flag|Ukraine}} ||13,533
|-
| {{flag|Peru}} ||11,344
|-
| {{flag|India}} ||10,653
|-
| {{flag|Poland}} ||8,771
|-
| {{flag|Sri Lanka}} ||8,719
|-
| {{flag|Albania}} ||6,858
|-
| {{flag|Moldova}} ||6,739
|-
| {{flag|Ecuador}} ||5,884
|-
| {{flag|Nigeria}} ||4,819
|-
| {{flag|Morocco}} ||4,797
|-
| {{flag|Spain}} ||4,154
|-
| {{flag|Brazil}} ||3,493
|-
| {{flag|France}} ||3,434
|-
| {{flag|Pakistan}} ||2,554
|-
| {{flag|Senegal}} ||2,409
|-
| {{flag|United Kingdom}} ||2,324
|-
| {{flag|Colombia}} ||2,233
|-
| {{flag|Tunisia}} ||2,156
|-
| {{flag|Bosnia and Herzegovina}} ||2,125
|-
| {{flag|Iran}} ||2,105
|-
| {{flag|Russia}} ||2,050
|}
現在ローマの人口はおよそ280万人で、イタリア最大の都市であり、[[ベルリン]]と[[マドリード]]に続く[[欧州連合]]で第3の都市。ローマには7万を超える大きなな[[ルーマニア人]]コミュニティがあり、ルーマニア外で一番最大のルーマニア人になる。その他にも[[アジア系]](おもに[[フィリピン人]]、[[バングラデシュ人]]、[[中国人]])が多い。ローマの人口は[[1907年]]に50万を超え、[[1934年]]に100万、[[1957年]]に200万を超えた。
== 歴史 ==
:''主要記事:[[:it:Storia di Roma|Storia di Roma]](伊語) [[w:History of Rome|History of Rome]] (英語)''
=== 起源 ===
[[File:Capitoline she-wolf Musei Capitolini MC1181.jpg|thumb|left|200px|狼の乳を吸う[[ロームルスとレムス]]の像]]
伝説によれば、ローマは[[紀元前753年]]4月21日に[[ギリシャ神話]]の英雄[[アイネイアス]]の子孫である、双子の[[ロームルス]]と[[レムス]]により建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる<ref name=MSM>[http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761572159_4/content.html 考古学 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト]</ref>。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族が[[テヴェレ川]]河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡は[[パラティーノの丘]]で発見された<ref name=MSM />。
他にも[[エスクイリーノ]]の丘や[[クイリナーレ]]の丘にも集落があったものと思われる<ref name=New30>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.30-31、丘の上に数千人の集落を構えていたローマ]]</ref>。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた<ref name=New30 />。
=== 発展 ===
紀元前7世紀頃には[[都市国家]]としての整備が進んだ。パラティーノの丘と[[カンピドリオの丘]]の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設[[フォロ・ロマーノ]]が作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘には[[ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿|ユピテル神殿]]が建設された<ref name=New32>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.32-33、先端技術を導入し、カピトリーノの丘の上に神殿をつくる]]</ref>。これら土木・建築様式は[[エトルリア]]や[[ギリシア]]の影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる<ref name=New32 />。
[[王政ローマ]]期に当たる紀元前6世紀の王[[セルウィウス・トゥッリウス]]の頃には、防衛の石垣[[セルウィウス城壁]]がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的に[[ガリア人]]がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.34-35、滅亡の危機に追い込まれたローマは、七つの丘を囲う城壁をつくった]]</ref>。
[[共和政ローマ]]期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場([[チルコ・マッシモ]])が建設されたのもこの頃と言われる<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.36-37、共和制期、ローマの街は七つの丘一帯に広がっていた]]</ref>。紀元前312年からは[[ローマ街道]]の敷設が<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.38-39、ローマから四方八方にのびる街道づくりにとりかかる]]</ref>、また同じ頃から水需要の増加に対応する[[ローマ水道]]の建設が始まった<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.40-41、山間部のきれいなわき水がローマの街を潤した]]</ref>。
=== ローマ帝国 ===
[[File:Forum Romanum Rom.jpg|thumb|250px|[[フォロ・ロマーノ]]は、[[古代ローマ]]の中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。]]
[[ローマ帝国]]の首都となり、皇帝[[アウグストゥス]]の時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.42-43、地中海世界の政治的中心地となったフォロ・ロマーノ]]</ref>。しかし皇帝[[ネロ]]統治時の64年に市域の1/3を焼失する[[ローマ大火]]が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.44-45、ローマ炎上!街の3分の1が灰と化す大惨事にみまわれた]]</ref>。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝[[ウェスパシアヌス]]在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能な[[コロッセオ]]は[[石灰石]]を用いた化粧が施され、[[剣闘士]]の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と[[火山灰]]を混ぜた[[ローマン・コンクリート]]が発明され、[[パンテオン]]など様々な建物が次々と建設され<ref>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.46-47、5万人が入れるコロッセオや巨大な神殿パンテオンが登場]]</ref>、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった<ref name=New48>[[#ニュートン (2003-9)|ニュートン2003年9月号、pp.48-49、大帝国の本拠地ローマの街は、かくして完成した]]</ref>。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している<ref name=New48 />。この栄華は皇帝[[ディオクレティアヌス]]が拠点を[[ニコメディア]]に移すまで続いた。
286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は[[西ローマ帝国]]に属したが、西ローマ皇帝は拠点を[[ミラノ]]や[[ラヴェンナ]]に置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。[[5世紀]]には[[西ゴート人]]や[[ヴァンダル人]]の掠奪を受けて衰微し、[[476年]]に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命された[[オドアケル]]や[[東ゴート王国|東ゴート王]]の支配下に入った。
[[6世紀]]中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が[[東ローマ帝国]]に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年の[[コンスタンス2世]]であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的には[[ラヴェンナ総督府]]の影響下にあった。
しかし、751年に[[ランゴバルド王国|ランゴバルド族]]の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇[[ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世]]は、教義問題で対立する東ローマ皇帝[[コンスタンティノス5世]]ではなく、[[フランク王国|フランク族]]の[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。
=== 文化の中心地 ===
この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば[[800年]]にカールにより[[ローマ教皇]]に寄進されたとされるが、この文書は今日では[[偽書]]とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、[[教皇領|ローマ教皇領]]の首都として栄え、ローマは[[ルネサンス]]文化の中心地となった。教皇[[ニコラウス5世]]の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマは[[フィレンツェ]]にかわってルネサンスの一大中心地となり、[[ミケランジェロ]]、[[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]などの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、[[ハプスブルク家]]の傭兵軍による、いわゆる「[[ローマ略奪|ローマ劫掠]]」によって、この都の[[盛期ルネサンス]]は終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇[[シクストゥス5世]]の時代で、[[ポポロ広場]]から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、[[フェリクス水道]]を修復した。[[サン・ピエトロ大聖堂]]の丸屋根が完成したのもこの時代である。
[[対抗改革]]期のローマを特徴づける[[バロック様式]]は、17世紀の建築物に多くみられる。[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]や[[ボロミーニ]]のような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。[[スペイン階段]]などにみられる18世紀前半の[[ロココ様式]]の建物は、やがて[[新古典主義]]の建物にかわった。1797年[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、[[ウィーン会議]]の後、ローマはふたたび教皇領となった。
=== 統一イタリアの首都 ===
ウィーン会議後の[[オーストリア帝国]]によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだ[[ナポレオン3世]]によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分は[[サヴォイア家]]のもとで統一をはたした([[イタリア統一運動|リソルジメント]])。教皇の本拠地だったローマは1870年、[[フランス第二帝政|フランス]]軍の撤退後、[[1871年]]に[[イタリア王国]]にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマは[[フィレンツェ]]に代わって統一イタリアの首都となった。
その後[[1930年代]]には[[ファシスト]]党の独裁者、[[ベニート・ムッソリーニ]]がローマ郊外にローマ[[万国博覧会]]のための新都市、[[エウローパ|EUR]](エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による[[第二次世界大戦]]へのイタリアの[[枢軸国]]としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。
[[1943年]][[6月5日]]、ローマに戦火が及ぶことを避けるため首都防衛を担ってきたドイツ軍がローマ郊外へ撤収<ref>独軍、ローマを撤収(昭和18年6月6日 朝日新聞『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p408 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。同年7月、ムッソリーニ政権が倒れて[[ピエトロ・バドリオ|バドリオ]]政権が誕生すると、秘密裏に連合国軍との間で停戦協定の交渉が始まった。その中でローマは[[無防備地域]]を宣言するものの連合国側には無視され、ローマは[[空爆]]された([[ローマ爆撃]])。同年9月8日、連合国軍側がイタリアとの休戦を発表。ローマは[[ファシスト]]が徹底抗戦を図るために建国した[[イタリア社会共和国]]の首都となった。
=== 現在 ===
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck on Vespa in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|[[ローマの休日]]にてローマ市内を[[ベスパ]]で走るシーン([[ヴェネツィア広場]]前のvia del plebiscitoを走行中)。]]
[[File:Roma dall'aereo.JPG|thumb|200px|現在のローマ]]
第二次世界大戦後には、[[航空機]]の発達により、[[日本]]をはじめとする[[アジア]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初期に文化の中心都市が[[ミラノ]]へ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。
現在は[[パリ]]や[[アテネ]]などと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で[[政治]]や[[経済]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]の中心地的存在であるとともに[[カトリック教会]]の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。一方で公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻になっている<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35127683.html イタリア・ローマの「劣化」に抗議、市民が大規模デモ] - CNN</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3194968 ローマのインフラ老朽化に抗議、数千人がデモ 写真11枚 国際ニュース] - AFPBB</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
{{Colbegin|2}}
*{{Flagicon|FRA}}[[パリ]]([[フランス共和国]] [[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地方]] [[パリ県]])1956年
*{{Flagicon|SRB}}[[ベオグラード]]([[セルビア共和国]] [[特別市]])
*{{Flagicon|RUS}}[[モスクワ]]([[ロシア連邦]] [[ロシアの連邦市|連邦市]])
*{{Flagicon|ARG}}[[ブエノスアイレス]]([[アルゼンチン共和国]] [[アルゼンチンの地方行政区画|ブエノスアイレス自治市]])
*{{Flagicon|ESP}}[[マルベージャ]]([[スペイン王国]] [[アンダルシア州]] [[マラガ県]])
*{{Flagicon|TUN}}[[チュニス]]([[チュニジア|チュニジア共和国]] [[チュニス県]])
*{{Flagicon|JPN}}[[東京都]]([[日本国]] [[関東地方]])
*{{Flagicon|KOR}}[[ソウル特別市|ソウル]]([[大韓民国]] [[ソウル特別市]])
*{{Flagicon|CHN}}[[北京市|北京]]([[中華人民共和国]] [[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]])
*{{Flagicon|USA}}[[ニューヨーク]]([[アメリカ合衆国]] [[ニューヨーク州]])
*{{Flagicon|BRA}}[[ブラジリア]]([[ブラジル連邦共和国]] [[ブラジリア連邦直轄区]])
*{{Flagicon|BOL}}[[:en:Achacachi|アチャカチ]]([[ボリビア多民族国]] [[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]])
*{{Flagicon|ALG}}[[アルジェ]]([[アルジェリア民主人民共和国]] [[アルジェ県]])
*{{Flagicon|EGY}}[[カイロ]]([[エジプト・アラブ共和国]] [[カイロ県]])
*{{Flagicon|UKR}}[[キーウ]]([[ウクライナ]] [[ウクライナの地方行政区画|キーウ特別市]])
*{{Flagicon|UK}}[[ロンドン]]([[イギリス|イギリス連合王国]] [[イングランド|イングランド国]] [[グレーター・ロンドン・オーソリティー|大ロンドン地方]] [[グレーター・ロンドン|グレーター・ロンドン州]])
*{{Flagicon|PAK}} [[ムルターン]]([[パキスタン・イスラム共和国]] [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]])
*{{Flagicon|ESP}}[[マドリード]]([[スペイン王国]] [[マドリード州]])
*{{Flagicon|IND}}[[ムンバイ]]([[インド共和国]] [[マハーラーシュトラ州]])
*{{Flagicon|CAN}}[[モントリオール]]([[カナダ連邦]] [[ケベック州]])
*{{Flagicon|BUL}} [[プロヴディフ]]([[ブルガリア共和国]] [[プロヴディフ州]])
*{{Flagicon|IND}}[[ニューデリー]]([[インド共和国]] [[デリー|デリー連邦直轄地]])
*{{Flagicon|AUS}}[[シドニー]]([[オーストラリア連邦]] [[ニューサウスウェールズ州]])
*{{Flagicon|ALB}}[[ティラナ]]([[アルバニア共和国]] [[ティラナ州]] [[ティラナ県]])
*{{Flagicon|BEL}}[[トンゲレン]]([[ベルギー王国]] [[フランデレン地域|フランデレン地方]] [[リンブルフ州]])
*{{Flagicon|USA}}[[ワシントンD.C.]]([[アメリカ合衆国]] コロンビア特別区)
{{colend}}
== 経済 ==
[[File: Palazzo Eni (Rome) in 2021.05.jpg|thumb|250px|[[エウローパ]] ビジネス地区にある Palazzo Eni は、世界の石油とガスの「[[スーパーメジャー]]」の 1 つと考えられている [[Eni]] の本社です。]]
2008年におけるローマの[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は1440億ドルであり、世界第43位である。
アメリカの[[ダウ・ジョーンズ]]らの2017年の調査によると、世界74位の[[金融センター]]と評価されており、イタリアでは[[ミラノ]]に次ぐ2位である<ref>[http://www.sh.xinhuanet.com/shstatics/images2013/IFCD2013_En.pdf Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index(2013)] 2013年9月15日閲覧。</ref>。
===第三次産業===
イタリアの首都であることから、[[政治]]の中心地であるが、ローマの経済は基本的に[[行政]]と[[観光]]によっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などの[[サービス]]業([[第三次産業]])に従事している。ローマには、イタリアの[[大企業]]本社や[[多国籍企業]]の本拠地、[[イタリア放送協会|国営放送局]] (RAI)、大手新聞社などの[[報道機関|マスコミ]]の本社、[[在外公館]]が集中し、また[[国際連合食糧農業機関]] (FAO)、[[国際農業開発基金]] (IFAD)、[[国際連合世界食糧計画]] (WFP) の本部がおかれている。また[[アパレル産業]]では、[[ブルガリ]]、[[フェンディ]]、[[ヴァレンティノ (ファッションブランド)|ヴァレンティノ]]等の創業地になる。ヴァレンティノは[[1971年]]に[[ミラノ]]に本店及び本社機能を移転した。
====商業====
; 大型店舗
{{Colbegin}}
* [[ガッレリア・アルベルト・ソルディ]]
* [[ラ・リナシェンテ]]([[:it:La Rinascente|La Rinascente]])
* [[コイン (イタリアのデパート)]]([[:it:Coin|Coin]])
{{colend}}
; スーパーマーケット
{{Colbegin}}
* [[スタンダ]]([[:it:Standa|Standa]])
* [[ウピム]]([[:it:Upim|Upim]])
* [[Sma]]([[エッセ・エンメ・アー]])([[:it:Supermercati Sma|Supermercati Sma]])
* [[エッセルンガ]]([[:it:Esselunga|Esselunga]])
* [[Conad]]([[:it:Conad|Conad]])
* [[スパー]]
* [[PAM]]([[(:it:Gruppo PAM|Gruppo PAM]])
* [[GS]]([[(:it:Supermercati GS|Supermercati GS]])
* [[:it:Coop Italia|Coop]]
{{colend}}
; 格安系スーパーマーケット
{{Colbegin}}
* [[リドル]]
* [[Penny Market]]([[:it:Penny Market|Penny Market]])
* [[LD Market]]([[:it:Gruppo Lombardini|LD Market]])
* [[In's Mercato]]([[:it:Gruppo PAM|In's Mercato]])
* [[Eurospin]]([[:it:Eurospin|Eurospin]])
{{colend}}
====観光業====
市内には古代遺跡や[[美術館]]などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特に[[ヴェネト通り]]や[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]周辺には高級[[ホテル]]や[[レストラン]]、[[ブティック]]が立ち並び一年中賑わいを見せている。
====映画産業====
郊外には独裁者[[ベニート・ムッソリーニ]]が作った世界的に著名な[[映画]]撮影所「[[チネチッタ]]」があり、[[フェデリコ・フェリーニ]]監督の『[[甘い生活 (映画)|甘い生活]]』や『[[インテルビスタ]]』など多数の名作が撮影された。イタリアの[[映画産業]]のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」
(邦題は『[[フェリーニのローマ]]』)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には『カサブランカ (映画)|』『シカゴ』など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、[[キネマ旬報]]ベストテン2位など名作映画として評価されている。
== 交通 ==
=== 道路 ===
[[File:Estradas consulares.svg|thumb|200px|他都市へのアクセス]]
[[File:Tracciato GRA nomisvincoli.svg|thumb|200px|GRA]]
*[[グランデ・ラッコルド・アヌラーレ]](GRA) - ローマを取り囲む周囲68.2kmの無料の環状[[高速道路]]([[アウトストラーダ]])。
{{See also|[[アウトストラーダ一覧]]}}
===公共交通===
[[File:Roma Metropolitana e Ferrovia 2015.png|thumb|200px|路線図(2015年完成予定)]]
;市内・郊外
[[トレニタリア|イタリア鉄道]](トレニタリア Trenitalia)が市内と郊外を結ぶ[[ローマ近郊鉄道]](FL線)を8路線運行している。イタリア鉄道の路線網は市内中心部の[[ローマ・テルミニ駅]]や[[ローマ・ティブルティーナ駅]]と旧市街外周部の[[ローマ・オスティエンセ駅]]など複数駅の[[ターミナル駅|分散ターミナル]]方式である。また、[[ATAC]]も都市鉄道を3路線運行し、[[オスティア]]などの郊外との間を結んでいる。市内の交通は[[ATAC]]が運営する[[ローマ地下鉄]]、[[トラム (ローマ)|トラム]]、[[バス (交通機関)|バス]]網が中心である。他にも[[タクシー]]が安価な交通手段として多用されている<ref>前掲 {{harv|昭文社|2012||loc=別冊2、p.3}}</ref>。なお、バスやトラムは[[信用乗車方式]]であるため、駅の券売機やキオスク等で事前に切符を購入しておく必要がある。
;長距離
長距離交通は、[[ローマ・テルミニ駅]]を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されている[[ユーロスター・イタリア]](ES*)や[[イタロ|Italo]]などの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離[[バス (交通機関)|バス]]などで結ばれている。
=== 航空 ===
日本を含む長距離国際線と[[欧州連合|EU]]内国際線、国内線は[[フィウミチーノ空港]](レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用するほか、EU内国際線と国内線は[[チャンピーノ空港]](ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)も使われる。フィウミチーノ空港まではテルミニ駅から直通列車「[[レオナルド・エクスプレス]]」が運航され、所要時間は30分ほどである。
{{Flagicon|JPN}}日本への就航都市
* 東京([[東京国際空港]])
**[[ITAエアウェイズ]]が運航している[[フィウミチーノ空港]]への直行便の他、欧州主要都市経由で行くことができる。以前は日本航空も直行便を運航していたがその後運休し、現在は運航していない。日本からローマへの直行便は、前述のITAエアウェイズによる羽田発の便のみである。
*大阪([[関西国際空港]])
**過去に[[アリタリア-イタリア航空]]がフィウミチーノ空港への直行便を就航していたが、現在は就航していない。
{{Gallery
|ファイル:NTV_.italo.jpg|[[Italo]]
|ファイル:Frecciarossa.JPG|[[ユーロスター・イタリア]]
|File:TAF.50.jpg|[[ローマ近郊鉄道]]
|File:Leonardo express 01.jpg|[[レオナルド・エクスプレス]]
|ファイル:RomemetroEmanuele.JPG|[[ローマ地下鉄]]
|ファイル:RomeTram.jpg|[[トラム (ローマ)]]
|ファイル:ATAC_Iveco_City_Class_(4297)_Roma,_Via_dei_Fore_Imperiali.jpg|[[ATAC]]
}}
==観光==
===観光スポット===
{{See also|ローマの観光}}
; 古代ローマ遺跡
{{Colbegin}}
* [[フォロ・ロマーノ]](フォルム・ロマヌム)
* [[フォロ・トライアーノ]]
* [[トラヤヌスの市場]]
* [[コロッセオ]]
* [[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]
* [[トッレ・アルジェンティーナ広場]]
* [[アウグストゥス廟]]
* [[チルコ・マッシモ]]
* [[ドムス・アウレア]]
* [[カラカラ浴場]]
*[[:it:Tempio di Adriano]]
* [[ローマ街道]]
* [[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]
** [[アウレリア街道]]
** [[アッピア街道]]([[アッピア街道州立公園]])
** [[フラミニア街道]]
{{colend}}
; 広場・公園
{{Colbegin}}
* [[ヴェネツィア広場]]
** [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂]]
* [[ナヴォーナ広場]]
* [[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]
* [[舟の噴水]]
* [[カンピドリオ広場]]
* [[バルベリーニ広場]] ([[:it:Piazza Barberini|Piazza Barberini]])
* [[ポポロ広場]]
* [[ボルゲーゼ公園]]
* [[カンポ・デイ・フィオーリ広場]]([[花の広場]])([[:it:Campo de' Fiori|Campo de' Fiori]])
* [[トレヴィの泉]]
* [[亀の噴水]]
* [[コロンナ広場]]
* [[クイリナーレ]]
{{colend}}
; ローマのオベリスク
{{Main|ローマのオベリスク}}
; 教会
{{Colbegin}}
* [[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]
* [[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]
* [[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]
* [[サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]
* [[サンタ・マリア・イン・コスメディン教会]]
**[[真実の口]]
* [[サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂]]
{{colend}}
; 宮殿
{{Colbegin}}
* [[パラッツォ・ファルネーゼ]]
* [[パラッツォ・バルベリーニ]]
* [[パラッツォ・ブランカッチョ]]
* [[ヴェネツィア宮殿]]
* [[クイリナーレ宮殿]]
* [[キージ宮殿]]
{{colend}}
; 美術館・博物館
{{Colbegin}}
* [[ボルゲーゼ美術館]]
* [[ローマ国立博物館]]
* [[ヴィラ・ジュリア国立博物館]]
* [[カピトリーノ美術館]]
* [[マリオ・プラーツ]]美術館
* [[パラッツォ・バルベリーニ|国立古典絵画館]]
* [[イタリア国立東洋博物館]](国立オリエント博物館)
* [[:it:Palazzo delle Esposizioni]]
{{colend}}
; その他の建造物
{{Colbegin}}
* [[サンタンジェロ城]]
* [[テルミニ駅]]
* [[ローマ歌劇場]]
* [[:it:Palazzo di Giustizia (Roma)]]
* [[フェリクス水道の泉]]
* {{仮リンク|パオラの泉|it|Fontana dell'Acqua Paola}}
*[[:it:Quartiere Coppedè]]と[[:it:Fontana delle Rane (Roma)]]
{{colend}}
; 市内の他の場所
{{Colbegin}}
* [[エウローパ|エウル]]
* [[チネチッタ]]
* [[ティベリーナ島]]
* [[オスティア]]
{{colend}}
; ローマの七丘
[[ローマの七丘]]とは、'''ローマ'''の市街中心部から[[テヴェレ川]]東に位置する[[古代ローマ]]時代の七つの丘のこと。
{{Colbegin}}
* [[アヴェンティーノ]]
* [[カンピドリオ]]
* [[チェリオ (イタリア)|チェーリオ]]
* [[エスクイリーノ]]
* [[パラティーノ]]
* [[クイリナーレ]]
* [[ヴィミナーレ]]
{{colend}}
; バチカン市国内の観光名所
{{Colbegin}}
* [[バチカン市国 (世界遺産)|バチカン市国]]
* [[バチカン美術館]]
* [[サン・ピエトロ大聖堂]]
* [[システィーナ礼拝堂]]
{{colend}}
; ローマ郊外の観光名所
{{Colbegin}}
* [[ティヴォリ]]
**[[ティヴォリのエステ家別荘]]
* [[オスティア]]
* [[カステッリ・ロマーニ]] ([[:it:Castelli Romani|Castelli Romani]])
* [[チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群]]
* [[ボーマルツォ]]
* [[チヴィタ・ディ・バーニョレージョ]]
* [[ボマルツォ]]
*[[ヴィルゴ水道]]
{{colend}}
{{Gallery
|File:Colosseo 2020.jpg|[[コロッセオ]]
|File:Piazza_Navona_1.jpg|[[ナヴォーナ広場]]
|File:Audrey_Hepburn_and_Gregory_Peck_in_Roman_Holiday_trailer_2.jpg|[[スペイン広場 (ローマ)]]
|File:Fontana_della_Barcaccia_restaurata,_guardando_verso_Piazza_Mignanelli.jpg|[[舟の噴水]]
|File:Panorama of Trevi fountain 2015.jpg|[[トレヴィの泉]]
|File:Italien_Rom_Piazza_del_Popolo_1.JPG|[[ポポロ広場]]
|File:Roma-piazza del popolo.jpg|[[双子教会]]([[サンタ・マリア・イン・モンテサント教会]]と[[サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会]])
|File:RomaCastelSantAngelo-2.jpg|[[サンタンジェロ城]]
|File:Pantheon rome 2005may.jpg|[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]
|File:Temple_of_Hadrian.jpg|[[:it:Tempio di Adriano]]
|File:Piazza Esedra 2022.jpg|[[共和国広場 (ローマ)|共和国広場]]
|File:Santa_Maria_in_Cosmedin,_Rione_XII_Ripa,_Roma,_Lazio,_Italy_-_panoramio.jpg|[[サンタ・マリア・イン・コスメディン教会]]
|File:Audrey_Hepburn_and_Gregory_Peck_at_the_Mouth_of_Truth_Roman_Holiday_trailer.jpg|[[真実の口]]
|File:Piazza_Navona_1.jpg|[[ナヴォーナ広場]]
|File:Roma-fontana_del_nettuno.jpg|[[ネプチューンの噴水]]([[:it:Fontana del Nettuno (Roma)|it]])
|File:Brunostatue.jpg|[[カンポ・デイ・フィオーリ広場]]([[花の広場]])([[:it:Campo de' Fiori|Campo de' Fiori]])
|File:Quirinale palazzo e obelisco con dioscuri Roma.jpg|[[クイリナーレ宮殿]]
|File:Roma.Piazza_Venezia.jpg|[[ヴェネツィア広場]]
|File:Altar_della_Patria_September_2015-1.jpg|[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂]]
|File:Santa_Maria_Sopra_Minerva_Rome.jpg|[[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]]
|File:San Giovanni in Laterano 2021.jpg|[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]
|File:Basilica di Santa Maria Maggiore - Roma.jpg|[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]
|File:Roma_San_Paolo_fuori_le_mura_BW_1.JPG|[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]
|File:Piazza_Colonna_Roma_(5251330336).jpg|[[コロンナ広場]]
|File:Fontána_tritonů_na_nám_Barberini_Roma_2011_4.jpg|[[バルベリーニ広場]]([[:it:Piazza Barberini|Piazza Barberini]])
|File:Piazza_di_porta_san_Paolo_102_2167.jpg|[[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]
|File:Piazza del Campidoglio.jpg|[[カンピドリオ]]とローマ市庁舎
|File:Sant'Ivo alla Sapienza -Rome.jpg|[[:it:Sant'Ivo alla Sapienza]]
|File:2013-04-11_Roma_Palazzo_delle_Esposizioni.jpg|[[:it:Palazzo delle Esposizioni]]
|File:Roma_2011_08_07_Palazzo_di_Giustizia.jpg|[[:it:Palazzo di Giustizia (Roma)]]
|File:Castro_Pretorio_-_teatro_dell'Opera_di_Roma_(Costanzi)_facciata_piacentini_1010030.JPG|[[ローマ歌劇場]]
|File:Palazzo_della_civiltà_del_lavoro_(EUR,_Rome)_(5904657870).jpg|[[エウローパ]](EUR)
|File:Roma-foroitalico5.jpg|[[:it:Stadio dei Marmi]]
|File:Saint_Peter's_Square_from_the_dome.jpg|[[バチカン]]
|File:Petersdom von Engelsburg gesehen.jpg|[[サン・ピエトロ大聖堂]]
|File:Quartiere_Coppedé_09.jpg|[[:it:Quartiere Coppedè]]と[[:it:Fontana delle Rane (Roma)]]
}}
== 文化 ==
=== 聖地 ===
{{Pie chart
|thumb = right
|caption = ローマの宗教 (2017年)<ref>{{cite web |url=http://www.catholic-hierarchy.org/diocese/droma.html |title=Diocese of Roma – Statistics |accessdate=2020-08-26}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.caritasroma.it/2014/01/luoghi-di-incontro-e-di-preghiera-degli-immigrati-a-roma/ |title=Luoghi di incontro e di preghiera degli immigrati a Roma |accessdate=2020-08-26}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.neodemos.info/articoli/roma-citta-italiana-presenza-musulmana/ |title=Roma prima città italiana per presenza Musulmana |accessdate=2020-08-26}}</ref><ref>{{cite web |url=https://ilmanifesto.it/la-comunita-ebraica-di-roma-oggi-al-voto/ |title=La comunità ebraica di Roma oggi al voto|accessdate=2020-08-26}}</ref>
|label1 = [[キリスト教]] (<small>[[カトリック教会]]82%、[[正教会]]4%、[[プロテスタント]]1%)</small>
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|label2 = [[イスラム教]]
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|label3 = [[ユダヤ教]]
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|label4 = [[インド発祥の宗教]] <small>([[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[シーク教]])</small>
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|label5 = [[無宗教]]/[[宗教一覧|その他の宗教]]
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}}
{{Main|バチカン市国 (世界遺産)|サン・ピエトロ大聖堂}}
ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつである[[バチカン|バチカン市国]]があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特に[[サン・ピエトロ広場]]は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている<ref name="mapple_it_p44">{{Citation|和書
|author=昭文社
|year=2012
|title=イタリア 2013
|page=44
|publisher=[[昭文社]]7
|quote=ヴァチカン市国
|ISBN=978-4398269591
}}</ref>。
=== 音楽 ===
ローマは、北イタリアの諸都市に比べると意外なほど[[オペラ]]は盛んではなく、[[ローマ歌劇場]]は[[2014年]]にいったん全従業員解雇が発表されたことがある(その後労使の妥協により撤回)。むしろイタリアには数少ない[[コンサート]][[オーケストラ]]の名門として、[[サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団]]が特筆すべき存在である。また、[[イ・ムジチ合奏団]]も同地が拠点である。
=== スポーツ ===
==== 国際大会 ====
ローマは[[1960年]]の[[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]開催地であり、同年には第1回[[1960年ローマパラリンピック|パラリンピック]]が開催された。また、[[2009年]]の[[世界水泳選手権]]もローマで開催された。さらに[[1987年]]の[[1987年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]の開催地であり、[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ]]が会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長の[[プリモ・ネビオロ]]により[[1980年]]に創設され、[[2010年]]以降は[[IAAFダイヤモンドリーグ]]の1大会に加わった陸上競技会、[[ゴールデンガラ]]もオリンピコを会場として行われている<ref>[http://www.diamondleague-rome.com/en/Meet-Info/Who-we-are/History/ History 1980-2011: three decades of Compeed Golden Gala] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120617145257/http://www.diamondleague-rome.com/en/Meet-Info/Who-we-are/History/ |date=2012年6月17日 }} Diamond League-Rome.com. 2011年7月31日閲覧</ref>。
[[ファイル:Francesco_Totti_Chelsea_vs_AS-Roma_10AUG2013.jpg|thumb|200px|[[ASローマ]]時代の[[フランチェスコ・トッティ]]]]
==== サッカー ====
{{Main|デルビー・デッラ・カピターレ}}
ローマで圧倒的に人気のある[[スポーツ]]は[[サッカー]]である。[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|スタディオ・オリンピコ]]では[[1990 FIFAワールドカップ]]決勝戦が行われ、現在は[[セリエA (サッカー)|セリエA]]屈指の強豪'''[[ASローマ]]'''および'''[[SSラツィオ]]'''の[[本拠地|ホームスタジアム]]として使用されている。ローマとラツィオ間には猛烈な[[ライバル]]意識が存在しており、地元民からは[[デルビー・デッラ・カピターレ|ローマ・ダービー]]は「試合以上の存在」と言われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2013/04/09/3889285/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%92%E5%89%8D%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%9F%E8%A1%9D%E7%AA%81-%EF%BC%98%E5%90%8D%E5%88%BA%E5%82%B7?source=breakingnews&ICID=HP_BN_1 |title=ローマダービーを前にまた衝突 8名刺傷 |publisher=Goal.com |date=2013-04-09 |accessdate=2013-04-11}}</ref>。
また、ローマのみならずイタリアを代表する[[アスリート]]として、[[フランチェスコ・トッティ]]、[[アレッサンドロ・ネスタ]]、[[ダニエレ・デ・ロッシ]]、[[アレッサンドロ・フロレンツィ]]などの有名な選手を輩出している。その中でもトッティは、およそ25年間にもわたって[[ASローマ]]一筋でプレーした[[リスト・オブ・ワン・クラブ・マン|ワン・クラブ・マン]]であり、同クラブの歴代最多得点(316得点)および歴代最多出場(786試合)の記録をもつ。
== 著名な出身者 ==
=== 出身者 ===
{{Main|ローマ出身の人物一覧}}
* [[ソフィア・ローレン]](女優) - ローマ生まれ、[[ナポリ]]近郊[[ポッツオーリ]]育ち。
=== 居住その他ゆかりある人物 ===
* [[ラウラ・アントネッリ]](女優)- 同地で死去。
* [[アルマンド・デュプランティス]](陸上選手)- 同地で行われた[[ゴールデンガラ]]の男子棒高跳にて世界記録を樹立した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=編集長:[[竹内均]]|year=2003|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]2003年9月号、雑誌07047-09|publisher=[[ニュートンプレス]] |ref=ニュートン (2003-9)}}
== 関連項目 ==
[[File:Nasone, Sant’Angelo, Roma, Italia Dec 05, 2020 02-11-03 PM.jpeg|thumb|ローマの{{仮リンク|ナゾーネ|it|Nasone}})]]
[[File:Doria Pamphili 6376.jpg|thumb|ローマを代表する木、[[イタリアカサマツ]](@[[:it:Villa Doria Pamphili]])]]
{{Wiktionary|ローマ}}
{{Wikiquote|ローマ}}
{{columns-list|3|
* [[共和政ローマ]]
* [[共和政ローマ執政官一覧]]
* [[ローマ帝国]]
* [[ローマ皇帝]]
* [[教皇領]]
* [[ローマを舞台とした作品一覧]]
* [[ローマのクアルティエーレ]]
* [[ASローマ]] - ローマを本拠地とする[[サッカー]]クラブチーム。
* [[SSラツィオ]] - ローマを本拠地とする[[サッカー]]クラブチーム。
* [[イタリア共和国]] - [[ラツィオ州]] - [[ローマ県]] - ローマ - {{仮リンク|ローマのムニチーピオ|it|Municipi di Roma}}
* [[テヴェレ川]] - ローマ市内を流れているイタリアで3番目に長い川。
* [[マーテル・マートゥータ]]([[:it:Mater Matuta|it]]) - ローマの[[女神]]
*[[ローマのオベリスク]]
*[[初期ローマの七丘]]
*[[イタリアカサマツ]]
*ローマ料理([[:it:Cucina romana]])
}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Roma|Rome}}
{{osm box|r|41485}}
{{Wikivoyage|it:Roma|ローマ{{it icon}}}}
'''公式'''
* [https://www.comune.roma.it/web/it/home.page ローマ市公式サイト] {{it icon}}
* [http://www.vatican.va/ バチカン公式サイト] {{en icon}}{{it icon}}
'''日本政府'''
* [https://www.it.emb-japan.go.jp/index_j.htm 在イタリア日本国大使館] {{ja icon}}
'''観光'''
* [http://turismoroma.it/lang/ja/ ローマ市公式観光サイト] {{ja icon}}
* [http://www.enit.jp/city/roma.html イタリア政府観光局 - ローマ] {{ja icon}}
* {{ウィキトラベル インライン|ローマ|ローマ}}
'''その他'''
* {{Kotobank|ローマ(市)}}
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[[Category:分割都市]] | 2003-03-04T11:27:11Z | 2023-12-28T16:34:17Z | false | false | false | [
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3,379 | シク教 | シク教(シクきょう、パンジャブ語: ਸਿੱਖੀ Sikkhī, スィッキー)は、15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。スィクはサンスクリット語の「シクシャー」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。
総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。寺院の周辺には大理石の板が敷き詰められていて寄進者の名前が刻印されている。経典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳され、インターネットでも公開されている。
グル、グラント、サーヒブはそれぞれ師匠、書物、様を意味している。シク教団第10祖グル・ゴービンド・シングには4人の息子がいたが、ムガール帝国との戦いで殺され子孫がいなくなり彼の遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言ったので『グル・グラント・サーヒブ』になった。
キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。
シク教の教義は宗教家であるグル・ナーナクによる『グル・グラント・サーヒブ』のほかそのなかに含まれる『ジャブジー』『アーサー・ディー・ヴァール』などの詩歌によって伝えられており、敬虔な教徒は毎日これらを朗踊する。グル・ナーナクはその作品を通じて、真の宗教は儀式や形式といった表面的なものへの執着を超えたところにあるとし、「イク・オンアカール (ik onakar)」(神は一つである)というメッセージを繰り返すことで神の不可分性を説いている。
神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。イスラム教の様なジハード(努力)も説いていない。但し、他宗教への批判を全くしないのではなく、ナーナクは、ヒンドゥー・イスラム両教の形骸化、形式、儀式、慣行、苦行は批判をしている。その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、宗教家・聖書解釈家によってつくられた二次宗教から離脱し、本来の教えに立ち帰るべきだとの信念を持っている。
シク教徒は常に神の本質および存在(ナーム)を思い起こし、家庭生活に結びつけることを要求される。儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ(ハタ・ヨーガの意味)、カースト、出家、迷信を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。戒律は開祖の時はなかったが、第10代グル・ゴーヴィンド・シングによってタバコ・アルコール飲料・麻薬が禁止された。肉食は本人の自由に任されている。寺院での食事は菜食主義者に敬意を表して肉は供されない。
シク教の最終目標は、輪廻転生による再生を繰り返した末に、神と合一するムクティである。ムクティに至れるかどうかは他人への奉仕とグルの恩寵にかかっており、ムクティと個人の性やカーストは無関係とされている。人の一生を精神の超越への行程と考えるヒンドゥー教に対し、自分の事ばかり考える人間は5つの煩悩(傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を真実の師(サット・グル)として仰ぐ。
教祖ナーナクが他宗教の影響をどれだけ受けたかという問題は、現在に至るまで議論が続いている。ナーナクはヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、カーストは完全否定している。これにはイスラームの影響もあると考えられている。この見解には宗教改革者カビールやラヴィダース(英語版)の影響と、北インドのイスラーム神秘主義であるスーフィズムの影響が考えられる。カビールの生没年ははっきりしていないが、1440年誕生1518年死亡説をとるなら、カビールおよびナーナクの両人の接触はあったとも考えられる。
思想の系譜としては、初めにラーマーヌジャがいて、その孫弟子にラーマーナンダが、その弟子にカビールがおり、その影響を受けたのがグル・ナーナクということになる。
特に重要な宗派として、以下の4つが挙げられている。
ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいる。
教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多い。とくにインドのパンジャーブ州ではインド国内のシク教徒の約4分の3、州人口の59.9%(2001年)を占め、多数派となっている。信徒数は約2400万人、日本には約2000人ほどが居住していると思われる。 インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。
シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。カールサーという信徒集団に所属しているメンバーは髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する習慣がある。そのため髭のあるターバンをつけたインド人男性はシク教徒だとわかる。ターバンの着用はヒンドゥー教徒などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由はシク教徒を参考)。
女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサーのメンバーは減り、半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしないサハジダリーと呼ばれる人が増えている。男性はシン(Singh,IPA: /ˈsɪŋ/=ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。
政治的にはアカリ・ダルという宗教政党を持つものの、インド国民会議派の支持者も多く、政治的に団結しているわけではない。この州の国民会議派は、マンモハン・シング首相など有力政治家を生んだ。アカリ・ダルはジャナ・サンガ党、およびその後身であるインド人民党と同盟関係にあり、国民会議派とほぼ交互に州政権を握っている。1997年にはアカリ・ダルが勝利して州の政権を奪取し、アカリ・ダル総裁のプラカーシュ・シン・バダルがパンジャーブ州知事に就任したものの、2002年には敗北して国民会議派に政権を譲った。
シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。
シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。
日本にあるシク教寺院としては、文京区と神戸市にグル・ナーナク・ダルバールがあり境町にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。
16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に北インド一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄していった。
第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた。
1574年には第4代 グル・ラーム・ダースが、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在のアムリトサル)を建設し、そこに黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した。
アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した。その後、ハルゴービンドはジャハーンギール帝によって一時拘束された。
第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールのバラモングループの助命嘆願をした罪により、デリーで処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である聖戦士(サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた。
17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団であるカールサーを組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つようになった。
ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教のミスル(英語版)(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた。
18世紀末にはミスルのひとつであるスケルチャキア・ミスル(Sukerchakia Misl)からランジート・シングが現れ、1801年には首都をラホールに定めてシク教国を建国した。ランジート・シングはサトレジ川以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならずムルターンやカシミールまで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきたイギリスがこの混乱を見て介入を開始した。
1845-46年の第一次シク戦争でシク教国は敗北し、ラホール条約によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には第二次シク戦争が勃発した。この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった。
英領となった後、セポイの乱においてシク教団はインドを植民地支配するイギリス政府に協力。以後、シク教徒は植民地政府からは事実上の中間支配層として扱われ、イギリスとの協調路線をとって繁栄していく事となった。1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ、シク教からの宗派代表選出に道が開かれた。1920年にはシク教の政治団体としてアカリ・ダルが結成された。第一次世界大戦後にヒンドゥー・イスラーム両教の対立が激しくなるとシク教も独立国「カーリスターン」の建国を望み、1940年及び1944年には正式にその要求がなされたものの、当時のパンジャーブ州の人口のうちシク教徒は10%未満にとどまっており、50%以上のムスリムや40%弱を占めるヒンドゥー教徒を無視して建国を行うことは不可能だった。結局1947年のインド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択したが、これはパンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が難民となってインドへと流入することとなった。また、開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった。
独立したインドはジャワハルラール・ネルーのもと政教分離を国是として掲げた。これはインドが多数の宗教をともかくも共存させる姿勢を取ったことを意味し、少数派たるシク教が迫害されるようなことはなかったが、一方でこれは宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味したため、独立国や自治権の拡大を望んだシク教徒の一部とは対立することとなった。また、英領インド時代には認められていたシク教徒への分離選挙も、1950年に施行されたインド憲法において撤廃された。
パキスタンから流入した大量のシク教徒難民は、主にこの地方から流出したムスリムが放棄した農地へと再定住が行われた。この結果、特にパンジャーブ州西部においてシク教徒の割合を急増させることとなり、同州におけるシク教徒の割合は35%にまで上昇した。これを受けて宗教政党のアカリ・ダルはインド全土に広がっていた言語州要求運動に加わり、パンジャブ語話者が多数を占める新州の設立運動を1951年に開始したが、インド政府はこれをシク教新州の設立運動とみなして警戒し、1956年に言語州への再編が行われたときもパンジャブの州再編は行われなかった。この言語州運動は1966年にようやく結実し、旧パンジャーブ州はヒンディー語話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部のハリヤーナー州と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割された。
パンジャブ州分割後、アカリ・ダルはヒンドゥー至上主義のインド大衆連盟(英語版)(ジャナ・サンガ)と連立して1967年に州政権を奪取したが、1971年には国民会議派に敗れ下野した。1977年には再びこの連立が州の与党となり、彼らはハリヤーナー州と共用していた州都チャンディーガルのパンジャブ州編入や水利権などの要求を中央政府に行った。しかしこの交渉が難航するなか、1970年代後半には急進派宗教指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが台頭して、シクの分離主義が急速に強まった。1980年代に入るとシク急進派は反対派に対するテロを頻発させるようになり、パンジャブの治安が悪化。これに対しインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移したが情勢は好転しなかったため、1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するためインド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した。
この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相が暗殺された。さらにこの暗殺はヒンドゥー教徒側を激怒させ、インド各地でシク教徒への迫害が行われた。その後もテロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒によるインド航空182便爆破事件が起こった。ラジーヴ・ガンディー首相は同年7月にアカリ・ダルと合意を行って直接統治を解除し、9月には再びアカリ・ダルの州政府が誕生したがテロの連鎖は続き、1987年には再度州の自治権が取り上げられて大統領直接統治下に戻った。1992年に直接統治は解除されたものの、選出された州首相は暗殺された。しかしこのころを最後に急進派のテロは沈静化し、パンジャブ州の治安は回復に向かった。パンジャーブ警察の署長の指示により過激派は全員射殺された。
1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野した。
2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の巡礼用に、同国中部のパンジャブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した 。ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするためであるが、着工式典でパキスタン陸軍参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、インド陸軍やインドのメディアがパキスタンを批判した。
今まではインド国境から約4kmの寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70km離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが、回廊が出来ビザ無しで巡礼できるようになった。
インド軍では通常の制帽の他、シク教徒の兵士用として「制式ターバン」が設定されている。 | [
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"text": "シク教(シクきょう、パンジャブ語: ਸਿੱਖੀ Sikkhī, スィッキー)は、15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。スィクはサンスクリット語の「シクシャー」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。",
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"text": "総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。寺院の周辺には大理石の板が敷き詰められていて寄進者の名前が刻印されている。経典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳され、インターネットでも公開されている。",
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"text": "グル、グラント、サーヒブはそれぞれ師匠、書物、様を意味している。シク教団第10祖グル・ゴービンド・シングには4人の息子がいたが、ムガール帝国との戦いで殺され子孫がいなくなり彼の遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言ったので『グル・グラント・サーヒブ』になった。",
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"text": "キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。",
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"text": "シク教の教義は宗教家であるグル・ナーナクによる『グル・グラント・サーヒブ』のほかそのなかに含まれる『ジャブジー』『アーサー・ディー・ヴァール』などの詩歌によって伝えられており、敬虔な教徒は毎日これらを朗踊する。グル・ナーナクはその作品を通じて、真の宗教は儀式や形式といった表面的なものへの執着を超えたところにあるとし、「イク・オンアカール (ik onakar)」(神は一つである)というメッセージを繰り返すことで神の不可分性を説いている。",
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"text": "神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。イスラム教の様なジハード(努力)も説いていない。但し、他宗教への批判を全くしないのではなく、ナーナクは、ヒンドゥー・イスラム両教の形骸化、形式、儀式、慣行、苦行は批判をしている。その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、宗教家・聖書解釈家によってつくられた二次宗教から離脱し、本来の教えに立ち帰るべきだとの信念を持っている。",
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"text": "シク教徒は常に神の本質および存在(ナーム)を思い起こし、家庭生活に結びつけることを要求される。儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ(ハタ・ヨーガの意味)、カースト、出家、迷信を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。戒律は開祖の時はなかったが、第10代グル・ゴーヴィンド・シングによってタバコ・アルコール飲料・麻薬が禁止された。肉食は本人の自由に任されている。寺院での食事は菜食主義者に敬意を表して肉は供されない。",
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"text": "シク教の最終目標は、輪廻転生による再生を繰り返した末に、神と合一するムクティである。ムクティに至れるかどうかは他人への奉仕とグルの恩寵にかかっており、ムクティと個人の性やカーストは無関係とされている。人の一生を精神の超越への行程と考えるヒンドゥー教に対し、自分の事ばかり考える人間は5つの煩悩(傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を真実の師(サット・グル)として仰ぐ。",
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"text": "教祖ナーナクが他宗教の影響をどれだけ受けたかという問題は、現在に至るまで議論が続いている。ナーナクはヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、カーストは完全否定している。これにはイスラームの影響もあると考えられている。この見解には宗教改革者カビールやラヴィダース(英語版)の影響と、北インドのイスラーム神秘主義であるスーフィズムの影響が考えられる。カビールの生没年ははっきりしていないが、1440年誕生1518年死亡説をとるなら、カビールおよびナーナクの両人の接触はあったとも考えられる。",
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"text": "思想の系譜としては、初めにラーマーヌジャがいて、その孫弟子にラーマーナンダが、その弟子にカビールがおり、その影響を受けたのがグル・ナーナクということになる。",
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"text": "特に重要な宗派として、以下の4つが挙げられている。",
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"text": "ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいる。",
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"text": "教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多い。とくにインドのパンジャーブ州ではインド国内のシク教徒の約4分の3、州人口の59.9%(2001年)を占め、多数派となっている。信徒数は約2400万人、日本には約2000人ほどが居住していると思われる。 インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。",
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"text": "シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。カールサーという信徒集団に所属しているメンバーは髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する習慣がある。そのため髭のあるターバンをつけたインド人男性はシク教徒だとわかる。ターバンの着用はヒンドゥー教徒などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由はシク教徒を参考)。",
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"text": "女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサーのメンバーは減り、半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしないサハジダリーと呼ばれる人が増えている。男性はシン(Singh,IPA: /ˈsɪŋ/=ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。",
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"text": "政治的にはアカリ・ダルという宗教政党を持つものの、インド国民会議派の支持者も多く、政治的に団結しているわけではない。この州の国民会議派は、マンモハン・シング首相など有力政治家を生んだ。アカリ・ダルはジャナ・サンガ党、およびその後身であるインド人民党と同盟関係にあり、国民会議派とほぼ交互に州政権を握っている。1997年にはアカリ・ダルが勝利して州の政権を奪取し、アカリ・ダル総裁のプラカーシュ・シン・バダルがパンジャーブ州知事に就任したものの、2002年には敗北して国民会議派に政権を譲った。",
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"text": "シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。",
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"text": "シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。",
"title": "教徒"
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"text": "日本にあるシク教寺院としては、文京区と神戸市にグル・ナーナク・ダルバールがあり境町にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。",
"title": "教徒"
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"text": "第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。",
"title": "歴代グル"
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"text": "16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に北インド一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄していった。",
"title": "歴史"
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"text": "第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた。",
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"text": "1574年には第4代 グル・ラーム・ダースが、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在のアムリトサル)を建設し、そこに黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した。",
"title": "歴史"
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"text": "アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した。その後、ハルゴービンドはジャハーンギール帝によって一時拘束された。",
"title": "歴史"
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"text": "第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールのバラモングループの助命嘆願をした罪により、デリーで処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である聖戦士(サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた。",
"title": "歴史"
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"text": "17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団であるカールサーを組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教のミスル(英語版)(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた。",
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"text": "18世紀末にはミスルのひとつであるスケルチャキア・ミスル(Sukerchakia Misl)からランジート・シングが現れ、1801年には首都をラホールに定めてシク教国を建国した。ランジート・シングはサトレジ川以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならずムルターンやカシミールまで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきたイギリスがこの混乱を見て介入を開始した。",
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] | シク教は、15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。スィクはサンスクリット語の「シクシャー」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。寺院の周辺には大理石の板が敷き詰められていて寄進者の名前が刻印されている。経典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳され、インターネットでも公開されている。 グル、グラント、サーヒブはそれぞれ師匠、書物、様を意味している。シク教団第10祖グル・ゴービンド・シングには4人の息子がいたが、ムガール帝国との戦いで殺され子孫がいなくなり彼の遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言ったので『グル・グラント・サーヒブ』になった。 キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。 | [[ファイル:Goldener Tempel Amritsar 2022-11-21 4.jpg|280px|right|thumb|[[アムリトサル]]の[[ハリマンディル・サーヒブ|黄金寺院]]]]
[[ファイル:Golden temple Shimmering in Golden Morning Amritsar.jpg|280px|right|thumb|アムリトサルの黄金寺院とシク教徒]]
'''シク教'''(シクきょう、{{lang-pa|ਸਿੱਖੀ}} ''Sikkhī'', スィッキー)は、[[16世紀|15世紀末]]に[[グル・ナーナク]]が[[インド]]で始めた[[宗教]]。'''スィク教'''、'''スィック教'''、あるいは'''シーク教'''とも呼ぶ。スィクは[[サンスクリット語]]の「シクシャー」に由来する語で、[[弟子]]を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している([[グル]]とは導師または聖者という意味である)。
[[総本山]]はインドの[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]の[[アムリトサル]]に所在する[[ハリマンディル]](ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。寺院の周辺には大理石の板が敷き詰められていて寄進者の名前が刻印されている。[[経典]]は『[[グル・グラント・サーヒブ]]』と呼ばれる1430ページの書物であり、[[英語]]に翻訳され、[[インターネット]]でも公開されている。
『グル・グラント・サーヒブ』の“グル”、“グラント”、“サーヒブ”という言葉は、それぞれ“師匠”、“書物”、“様”を意味している。シク教団第10祖グル・ゴービンド・シングには4人の息子がいたが、ムガール帝国との戦いで殺され子孫がいなくなり彼の遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言ったのでこの名になった。{{See|グル・グラント・サーヒブ}}
[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。[[インド系移民と在外インド人|印僑]]として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い<ref name="asahi20190110">{{Cite news |和書 |title=(世界発2019)シーク教の巡礼道、印パに新たな火種: パキスタン側へ4キロ、ビザ不要 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2019-01-10 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13842623.html |access-date=2019年1月16日 |agency=[[朝日新聞デジタル]] |at=国際面 |language=ja |quote=■着工式に独立派リーダー、インドは「策謀だ」 |edition=朝刊}}</ref>。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。
== 教義 ==
シク教の教義は宗教家であるグル・ナーナクによる『グル・グラント・サーヒブ』のほかそのなかに含まれる『ジャブジー』『アーサー・ディー・ヴァール』などの詩歌によって伝えられており、敬虔な教徒は毎日これらを朗踊する。グル・ナーナクはその作品を通じて、真の宗教は儀式や形式といった表面的なものへの執着を超えたところにあるとし、「イク・オンアカール (ik onakar)」([[神]]は一つである)というメッセージを繰り返すことで神の不可分性を説いている{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。
神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、[[教義]]の上では他宗教を排除することはない。[[イスラム教]]のような[[ジハード]]([[努力]])も説いていない。但し、他宗教への批判を全くしないのではなく、ナーナクは、[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]・イスラム両教の形骸化、形式、儀式、慣行、苦行は批判をしている。その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、宗教家・[[聖書]]解釈家によってつくられた二次宗教から離脱し、本来の教えに立ち帰るべきだとの信念を持っている。
シク教徒は常に神の本質および存在(ナーム)を思い起こし、家庭生活に結びつけることを要求される{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。[[儀式]]、[[偶像崇拝]]、[[修行|苦行]]、[[ヨーガ]]([[ハタ・ヨーガ]]の意味)、[[カースト]]、[[出家]]、[[迷信]]を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。[[戒律]]は開祖の時はなかったが、第10代グル・ゴーヴィンド・シングによって[[タバコ]]・[[アルコール飲料]]・[[麻薬]]が禁止された。肉食は本人の自由に任されている。寺院での食事は菜食主義者に敬意を表して肉は供されない。
シク教の最終目標は、[[輪廻転生]]による再生を繰り返した末に、神と合一するムクティである。ムクティに至れるかどうかは他人への奉仕とグルの恩寵にかかっており、ムクティと個人の性や[[カースト]]は無関係とされている。人の一生を精神の超越への行程と考える[[ヒンドゥー教]]に対し、自分の事ばかり考える人間は5つの[[煩悩]](傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を真実の師(サット・グル)として仰ぐ{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。
教祖ナーナクが他宗教の影響をどれだけ受けたかという問題は、現在に至るまで議論が続いている{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。ナーナクは[[ヒンドゥー教]]と同様に輪廻転生を肯定しているが、カーストは完全否定している。これには[[イスラム教|イスラーム]]の影響もあると考えられている。この見解には[[宗教改革]]者[[カビール]]や{{仮リンク|ラヴィダース|en|Ravidas}}の影響と、北インドの[[神秘主義|イスラーム神秘主義]]である[[スーフィズム]]の影響が考えられる。カビールの生没年ははっきりしていないが、1440年誕生1518年死亡説をとるなら、カビールおよびナーナクの両人の接触はあったとも考えられる。
[[思想]]の系譜としては、初めに[[ラーマーヌジャ]]がいて、その孫弟子に[[ラーマーナンダ]]が、その弟子に[[カビール]]がおり、その影響を受けたのが[[グル・ナーナク]]ということになる。
== 宗派 ==
特に重要な宗派として、以下の4つが挙げられている<ref>[https://www.britannica.com/topic/Sikhism/Sects-and-other-groups Sikhism - Sects and other groups] - Encyclopædia Britannica</ref>。
; {{仮リンク|シク教ニランカーリー派|en|Nirankari|redirect=1|label=ニランカーリー}} (Nirankari)
: [[19世紀]]に起きた宗教改革運動に起源を有する。運動を始めたダヤル・ダースは、瞑想の重要性を説き、パンジャブ地方北西部で勢力を拡大した。他のシク教徒と異なり、カールサーを支持しない。シク教の経典に基づいた、誕生や結婚、死にまつわる儀式の標準化に大きな貢献をした。
:{{See also|サント・ニランカーリー・ミッション}}
; アカンド・キールタニ・ジャタ (Akhand Kirtani Jatha)
:[[20世紀]]の初めに現れた。「ケスキ」という小さなターバンをかぶっている。「キールタン」([[讃美歌]]のようなもの)に重きを置いている。
; [[シク教ナームダリ派|ナームダーリー]] (Namdhari)
: [[19世紀]]に誕生した厳格な宗派で、神の名を繰り返し唱えること以外のいかなる宗教儀式も行わない。頭に[[ターバン]]を巻くという特徴的なスタイルを導入した。また、[[カールサー]]のメンバーとしてのアイデンティティーを強調している。他の宗派の人間とは結婚しない。
; 3HO (Healthy, Happy, Holy Organization)
:[[1971年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で設立。女性にもターバンの着用を義務付けている。信者の大半は白人のアメリカ人で、瞑想と[[クンダリニー・ヨーガ]]を重視している。クンダリニー・ヨーガはヒンドゥー教のものであり、シク教の教義にはない。異端と見る者もいる。
== 教徒 ==
{{main|シク教徒}}
{| class="sortable wikitable floatright"
|+ インドのシク教徒の州別割合(2011年)<ref name=census2011sikhs>[http://www.censusindia.gov.in/2011census/Religion_PCA.html Religion demographics: 2011 Census], Office of the Registrar General & Census Commissioner, Ministry of Home Affairs, Government of India</ref>
! 州 !! シク教 !! ヒンドゥー教 !! イスラム教
|-
|[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]|| 58% ||38.5% || 1.9%
|-
|[[チャンディーガル]]|| 13.1%|| 80.8%|| 4.9%
|-
|[[ハリヤーナー州]]|| 4.9% || 87.6% || 7.0%
|-
|[[デリー]]|| 3.4% || 80.7% || 12.9%
|-
|[[ウッタラーカンド州]]|| 2.3%|| 83.0%|| 14.0%
|-
|[[ジャンムー・カシミール州]]|| 1.9% || 28.4% || 68.3%
|-
|[[ラージャスターン州]]|| 1.3% || 88.5% || 9.1%
|-
|[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]|| 1.2%|| 95.2%|| 2.2%
|}
{| class="sortable wikitable floatright"
|+ 各国のシク教徒数
|-
! 国
! シク教徒数
! 国内の割合%
! シク教徒に占める割合%
|-
|[[アフガニスタン]]
|{{Sort|00003000|3,000}}
|{{Sort|00.01|0.01%}}
|{{Sort|00.01|0.01%}}
|-
|[[オーストラリア]]
|{{Sort|00125904|125,904}}<ref>[http://www.censusdata.abs.gov.au/CensusOutput/copsub2016.NSF/All%20docs%20by%20catNo/2016~Community%20Profile~036/$File/GCP_036.zip?OpenElement Census 2016, Community Profile (Australia)]. Australian Bureau of Statistics. Accessed 08 July 2017.</ref>
|{{Sort|00.54|0.54%}}
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|-
|[[オーストリア]]
|{{Sort|00002794|2,794}}<ref>{{cite web|url=http://unstats.un.org/unsd/demographic/products/dyb/dybcensus/V2_table6.pdf|title=UN census data|publisher=|accessdate=2019年4月20日}}</ref>
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|{{Sort|00.01|0.01%}}
|-
|[[バングラデシュ]]
|{{Sort|00023000|23,000}}<ref>[https://www.worldatlas.com/articles/countries-with-the-largest-sikh-populations.html Largest Sikh Populations] Retrieved March 23, 2018</ref>
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|-
|[[ベルギー]]
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|-
|-
|[[カナダ]]
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|-
|[[デンマーク]]
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|[[フィジー]]
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|[[フランス]]
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|[[ドイツ]]
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|[[ギリシャ]]
|{{Sort|00020000|20,000}}<ref>[http://www.athensnews.gr/athweb/nathens.prnt_article?e=C&f=13042&t=11&m=A14&aa=1 A gurdwara in Kranidi by Athens News] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070515200434/http://www.athensnews.gr/athweb/nathens.prnt_article?e=C&f=13042&t=11&m=A14&aa=1 |date=2007-05-15 }} and 6 others including in Tavros, Athens, Oropos, Inofita, Thiva, Kriti, etc.</ref>
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|[[アイスランド]]
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|[[インド]]
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|[[インドネシア]]
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|[[イラン]]
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|[[イタリア]]
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|[[タイ王国|タイ]]
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|[[イギリス]]
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|-
|[[アメリカ]]
|{{Sort|00700000|700,000}}<ref>{{cite web|title=Learn About Sikhs|url=http://saldef.org/archive/learn-about-sikhs/#.WaR7qyiGOM9|website=SALDEF|publisher=SALDEF|accessdate=28 August 2017}}</ref>
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|[[ザンビア]]
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|'''総計'''
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|
|
|}
[[ファイル:No weapons but kirpans.jpg|thumb|[[バンガロール]]の銀行の注意書き。武器の持ち込みを禁止するが、シク教徒の短刀は許可する]]
ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は[[改宗]]宗教であることから、[[異教徒]]やインド人以外に対しても[[布教]]が行われる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にも教徒がいる。
教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地である[[パンジャーブ|パンジャーブ地方]]に多い。とくにインドの[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]ではインド国内のシク教徒の約4分の3、州人口の59.9%(2001年)<ref>「世界地誌シリーズ5 インド」p89 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店</ref>を占め、多数派となっている。信徒数は約2400万人、日本には約2000人ほどが居住していると思われる。
インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。[[ムガル帝国]]時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。
シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、[[イギリス]]統治時代のインドでは[[公務員|官吏]]や[[軍人]]として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。カールサーという信徒集団に所属しているメンバーは髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する習慣がある。そのため髭のあるターバンをつけた[[インド人]]男性はシク教徒だとわかる。ターバンの着用は[[ヒンドゥー教徒]]などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由は[[シク教徒]]を参考)。
女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサーのメンバーは減り、半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしないサハジダリーと呼ばれる人が増えている。{{Anchors|シン|カウル}}男性はシン(Singh,IPA: /ˈsɪŋ/=ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。
政治的には[[アカリ・ダル]]という宗教政党を持つものの、[[インド国民会議派]]の支持者も多く、政治的に団結しているわけではない。この州の国民会議派は、[[マンモハン・シング]]首相など有力政治家を生んだ。アカリ・ダルはジャナ・サンガ党、およびその後身である[[インド人民党]]と同盟関係にあり、国民会議派とほぼ交互に州政権を握っている。1997年にはアカリ・ダルが勝利して州の政権を奪取し、アカリ・ダル総裁のプラカーシュ・シン・バダルが[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]知事に就任したものの、2002年には敗北して国民会議派に政権を譲った<ref name="名前なし-1">『シク教』 p107-108 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷</ref>。
=== 寺院 ===
シク教の[[寺院]]はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。
シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上に[[ハンカチ]]をのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の[[礼拝]]の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の[[供物]]を恭しく食べるが、これは日本で[[神社]]・[[仏壇]]の供えものを有難く頂戴するのと同種の[[習慣]]である。さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容は[[インド料理]]([[チャパティー]]、[[パコラ]])である。これは[[ヒンドゥー教徒]]が[[カースト]]が違う者と食事を共にしないことに対する批判である。
日本にあるシク教寺院としては、[[文京区]]と[[神戸市]]にグル・ナーナク・ダルバールがあり[[境町]]にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
== 歴代グル ==
* 第1代 [[グル・ナーナク]](1469年 - 1539年)
* 第2代 [[グル・アンガド]](1539年 - 1552年)
* 第3代 [[グル・アマル・ダース]](1552年 - 1574年)
* 第4代 [[グル・ラーム・ダース]](1574年 - 1581年)
* 第5代 [[グル・アルジュン]](1581年 - 1606年)
* 第6代 [[グル・ハルゴービンド]](1606年 - 1644年)
* 第7代 [[グル・ハル・ラーイ]](1644年 - 1661年)
* 第8代 [[グル・ハル・クリシャン]](1661年 - 1664年)
* 第9代 [[グル・テーグ・バハードゥル]](1664年 - 1675年)
* 第10代 [[グル・ゴービンド・シング]](1675年 - 1708年)
第10代教祖の4人の息子は[[ムガル帝国]]との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。
== 歴史 ==
=== グル・ナーナクの啓示から反ムガル帝国へ ===
16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に[[北インド]]一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容な[[アクバル]]の統治下で繁栄していった。
第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。
1574年には第4代 [[グル・ラーム・ダース]]が、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在の[[アムリトサル]])を建設し、そこに黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した<ref>『シク教』p40 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷</ref>。
アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。その後、ハルゴービンドは[[ジャハーンギール|ジャハーンギール帝]]によって一時拘束された。
第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールの[[バラモン]]グループの助命嘆願をした罪により、[[デリー]]で処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である[[聖戦士]](サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた{{sfn|ネズビット|2006|pp=66-71}}。
=== シク教国の建国からシク戦争へ ===
[[File:RanjitSingh by ManuSaluja.jpg|thumb|right|250px|[[ランジート・シング]]]]
{{main|シク教国|[[シク戦争]]}}
17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団である[[カールサー]]を組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『[[グル・グラント・サーヒブ]]』が中心的な権威を持つようになった<ref>『シク教』p62 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷</ref>。
ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教の{{仮リンク|ミスル (シク)|en|Misl|label=ミスル}}(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p250 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。
18世紀末にはミスルのひとつである[[スケルチャキア・ミスル]]([[:en:Sukerchakia Misl|Sukerchakia Misl]])から[[ランジート・シング]]が現れ、1801年には首都を[[ラホール]]に定めて[[シク王国|シク]]教[[シク王国|国]]を建国した。ランジート・シングは[[サトレジ川]]以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならず[[ムルターン]]や[[カシミール]]まで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきた[[イギリス]]がこの混乱を見て介入を開始した。
1845-46年の[[第一次シク戦争]]でシク教国は敗北し、[[ラホール条約]]によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には[[第二次シク戦争]]が勃発した。この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p288 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。
=== 英領時代 ===
英領となった後、[[セポイの乱]]においてシク教団はインドを[[植民地]]支配するイギリス政府に協力。以後、シク教徒は植民地政府からは事実上の中間支配層として扱われ、イギリスとの協調路線をとって繁栄していく事となった。1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p347 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>、シク教からの宗派代表選出に道が開かれた。1920年にはシク教の政治団体として[[アカリ・ダル]]が結成された<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)付録p44 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。[[第一次世界大戦]]後にヒンドゥー・イスラーム両教の対立が激しくなるとシク教も独立国「カーリスターン」の建国を望み、1940年及び1944年には正式にその要求がなされたものの、当時のパンジャーブ州の人口のうちシク教徒は10%未満にとどまっており、50%以上のムスリムや40%弱を占めるヒンドゥー教徒を無視して建国を行うことは不可能だった<ref>『シク教』 p81-84 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷</ref>。結局[[1947年]]の[[インド・パキスタン分離独立]]に際し、シク教団はインド帰属を選択したが、これはパンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が[[難民]]となってインドへと流入することとなった<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p423 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。また、開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった<ref name="名前なし-2">「インド現代史1947-2007 上巻」p153 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊</ref>。
=== インド独立からパンジャブ州分割 ===
独立したインドは[[ジャワハルラール・ネルー]]のもと[[政教分離]]を国是として掲げた。これはインドが多数の宗教をともかくも共存させる姿勢を取ったことを意味し、少数派たるシク教が迫害されるようなことはなかったが、一方でこれは宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味した<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p430-431 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>ため、独立国や自治権の拡大を望んだシク教徒の一部とは対立することとなった。また、英領インド時代には認められていたシク教徒への分離選挙も、[[1950年]]に施行された[[インド憲法]]において撤廃された<ref name=jjasas.2014.46>板倉和裕、[https://doi.org/10.11384/jjasas.2014.46 「インドの制憲政治とB・R・アンベードカル -指定カースト留保議席導入をめぐる政治過程を中心に-」] 『南アジア研究』 2014年 2014巻 26号 p.46-72, {{doi|10.11384/jjasas.2014.46}}</ref>。
パキスタンから流入した大量のシク教徒難民は、主にこの地方から流出したムスリムが放棄した農地へと再定住が行われた<ref name="名前なし-2"/>。この結果、特にパンジャーブ州西部においてシク教徒の割合を急増させることとなり、同州におけるシク教徒の割合は35%にまで上昇した<ref>「インド現代史1947-2007 上巻」p287 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊</ref>。これを受けて宗教政党のアカリ・ダルはインド全土に広がっていた言語州要求運動に加わり、[[パンジャブ語]]話者が多数を占める新州の設立運動を[[1951年]]に開始したが、インド政府はこれをシク教新州の設立運動とみなして警戒し<ref>『シク教』 p101 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社</ref>、1956年に言語州への再編が行われたときもパンジャブの州再編は行われなかった<ref name="名前なし-3">「世界地誌シリーズ5 インド」p5 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店</ref>。この言語州運動は1966年にようやく結実し、旧パンジャーブ州は[[ヒンディー語]]話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部の[[ハリヤーナー州]]と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャブ州]]へと分割された<ref name="名前なし-3"/>。
=== 黄金寺院事件 ===
{{Main|ブルースター作戦}}
パンジャブ州分割後、アカリ・ダルは[[ヒンドゥー至上主義]]の{{仮リンク|インド大衆連盟|en|Bharatiya Jana Sangh}}(ジャナ・サンガ)と連立して1967年に州政権を奪取したが、1971年には国民会議派に敗れ下野した<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p241 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。1977年には再びこの連立が州の与党となり、彼らはハリヤーナー州と共用していた州都[[チャンディーガル]]のパンジャブ州編入や水利権などの要求を中央政府に行った<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p242 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。しかしこの交渉が難航するなか、1970年代後半には急進派宗教指導者である[[ジャルネイル・シン・ビンドランワレ]]が台頭して、シクの分離主義が急速に強まった。1980年代に入るとシク急進派は反対派に対するテロを頻発させるようになり、パンジャブの治安が悪化。これに対しインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移した<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p247 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>が情勢は好転しなかったため、1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するため[[インド軍|インド政府軍]]を投入して[[ブルースター作戦]](黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p255 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。
この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、[[インディラ・ガンディー]]首相が暗殺された。さらにこの暗殺はヒンドゥー教徒側を激怒させ、インド各地でシク教徒への迫害が行われた<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p259-261 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。その後もテロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒による[[インド航空182便爆破事件]]が起こった。[[ラジーヴ・ガンディー]]首相は同年7月にアカリ・ダルと合意を行って直接統治を解除し、9月には再びアカリ・ダルの州政府が誕生した<ref>「インド現代史1947-2007 下巻」p267-268 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>がテロの連鎖は続き、1987年には再度州の自治権が取り上げられて大統領直接統治下に戻った。1992年に直接統治は解除されたものの、選出された州首相は暗殺された<ref name="名前なし-4">「インド現代史1947-2007 下巻」p337 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷</ref>。しかしこのころを最後に急進派のテロは沈静化し、パンジャブ州の治安は回復に向かった<ref name="名前なし-4"/>。{{要出典|範囲=パンジャーブ警察の署長の指示により過激派は全員射殺された|date=2023年9月}}。
=== 平和の回復 ===
[[ファイル:Indian_Air_Force-GoH.jpeg|サムネイル|[[インド空軍]]の[[栄誉礼]]。シク教徒はターバンを着用している。]]
1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野した<ref name="名前なし-1" />。
2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の[[巡礼]]用に、同国中部の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャブ州]]ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した
<ref>{{Cite web|和書|url=https://this.kiji.is/440671743066031201?c=39546741839462401|title=印パ、「回廊」建設工事開始 |publisher=共同通信社|date=2018-11-29|accessdate=2019-01-16}}</ref>。ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするためであるが、着工式典で[[パキスタン陸軍]]参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、[[インド陸軍]]やインドのメディアがパキスタンを批判した<ref name="asahi20190110"/>。
今まではインド国境から約4㎞の寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70㎞離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが、回廊が出来[[ビザ]]無しで巡礼できるようになった<ref>京都新聞2020年1月26日朝刊</ref>。
[[インド軍]]では通常の[[制帽]]の他、シク教徒の兵士用として「制式ターバン」が設定されている。
== 著名人 ==
* [[マンモハン・シン]](インドの首相)
* [[パーミンダ・ナーグラ]](イギリスの女優)
* [[チャダ]](インドの演歌歌手、音響機器会社の社長)
* [[タイガー・ジェット・シン]](プロレスラー)
* [[マダンジート・シン]](外交官、芸術家)
* [[ダレル・メヘンディ]](歌手)
* [[ミルカ・シン]](陸上競技選手)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2011年4月|section=1}}
* {{Cite book |和書 |author = クシワント・シン |translator = [[斎藤昭俊]]|title = インドのシク教 |year = 1980 |publisher = [[国書刊行会]] |isbn = 978-4-336-00077-4 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author = 那谷敏郎 |authorlink = 那谷敏郎 |title = インドの黄金寺院 |year = 1981 |publisher = [[平凡社]] |series= 平凡社カラー新書 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author = W.O. コウル |author2 = P.S. サンビー |translator = 溝上富夫 |title = シク教 教義と歴史 |year = 1986 |publisher = [[筑摩書房]] |isbn = 978-4480841674 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author = 保坂俊司 |authorlink = 保坂俊司 |title = シク教の教えと文化 |year = 1992 |publisher = [[平河出版社]] |isbn = 978-4892032165|ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author = N.G.コウル・シング |translator = 高橋堯英 |title = シク教 |year = 1994 |publisher = [[青土社]] |isbn = 4-7917-5301-1 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author = グリンダル・シン・マン |translator = [[保坂俊司]] |title = シク教 |year = 2007 |publisher = [[春秋社]] |series= 21世紀をひらく世界の宗教 |isbn = 9784393203194 |ref = harv }}
* {{Cite book ja-jp |和書 |author = エリナ・ネズビット |translator = [[松村一男]] |title = ヴィジュアル版 ケンブリッジ 世界宗教百科 |year = 2006 |chapter = シク教 |publisher = 原書房 |editor = [[ジョン・ボウカー]] |isbn = 4562040343 |ref = harv }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sikhism}}
* [[インド文化圏]]
* [[阿三]]
* [[ブルースター作戦]]
* [[ウィスコンシン州シク寺院銃乱射事件]] ([[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]]で発生した銃乱射事件)
== 外部リンク ==
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/chugai/21_amritsar/amritsar.htm アムリトサルの黄金寺院 (ハリ・マンディール) (日本語)]
*[https://sikhjapanese.blogspot.com/?m=1 在日シク教コミュニティ]{{en icon}}{{ja icon}}
* [http://bahrayn.blog.jp/ グル・グラント・サーヒブの抄訳]
* [https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=https://www.sikhs.org/english/frame.html&prev=search&pto=aue シク教経典『グル・グラント・サーヒブ』google自動日本語全訳1430ページ]
* {{Kotobank}}
{{Reli-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しくきよう}}
[[Category:シク教|*]]
[[Category:インドの宗教]]
[[Category:東洋文化]] | 2003-03-04T11:54:53Z | 2023-12-03T23:23:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AF%E6%95%99 |
3,380 | アッラーフ | アッラーフ (アラビア語:الله, Allāh, アッラー(フ)) 、イブラーヒームの宗教の唯一神ヤハウェに対するアラビア語呼称。
アッラーフ (الله, Allāh, アッラーフ、口語アラビア語発音:Allā, アッラー) は、「神」を意味するイラーフ (إله, ilāh, 「a god」の意) に定冠詞アル (ال, al, 英語のtheに相当) がついたアル=イラーフ (الإله, al-ilāh, 「the God」の意) の短縮形、あるいはなまったものである。
ユダヤ教では神をエロヒム、エルと呼ぶが、これらの発音が互いに似ているのはアラム語、ヘブライ語、アラビア語などが同じアフロ・アジア語族のセム語派だからである。
アラビア語圏の日常会話では文語休止形発音のアッラーフではなく Allā(アッラー)という口語発音が一般的であるため、アラブ世界内外において文語アラビア語に即した表記であるAllahとつづりながらも実際にはアッラーと発音されることの原因となっている。日本語におけるカタカナ表記でも口語発音由来のアッラーが標準的である。
Wikipediaでは討議の結果アッラーフを項目名として採用しているが実際には非常にまれなカタカナ表記となっているため、本項では以後便宜上アッラー表記で統一することとする。
かつて日本では「アラー」や「アラーの神」といった表現が広く流布しておりアニメや書籍などでも用いられていたが、訂正活動の結果イスラムはイスラーム、アラーはアッラー、マホメットはムハンマドとなっていき、現在では「アッラー」が一般化。神という名詞を添えた「アッラーの神」という言い回しもされなくなった。
なおアッラーの99の美名はこの唯一神アッラーの属性を別称として用いているものであり、神の呼称としては本項目のアッラーが基本的な名称となっている。
アッラーがクルアーンを授けたとされるムハンマド・イブン・アブドゥッラー(以下「ムハンマド」)は、神(アッラー)より派遣された大天使ジブリールから神(アッラー)の受託をアラビア語で語った使徒であり、最後にして最大の預言者とされる。
ムハンマドは飽くまで神(アッラー)から被造物である人類のために人類のなかから選ばれた存在に過ぎない。そもそもアッラー(神)自体が「生みもせず、生まれもしない」、つまり時間と空間を超越した絶対固有であるため、キリスト教神学におけるイエス・キリスト像のように、ムハンマドを「神(アッラー)の子」と見なすような信仰的・神学的位置付けもされていない。
全知全能唯一絶対であり、すべてを超越する。「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」とされる(精神だけの)存在であるため、あらゆる時にあらゆる場にあり得て(遍在)、絵画や彫像に表すことはできない。イスラーム教がイメージを用いた礼拝を、偶像崇拝として完全否定しているのも、このためである(バーミヤン仏教遺跡爆破事件)。世界のどこにいても、聖地メッカの方角を向いてその場で礼拝する定めになっている。
イスラームの教えは先行するユダヤ教・キリスト教を確証するものであるとされるため、アッラーはユダヤ教・キリスト教のヤハウェと同じであるとされる。一方でユダヤ教、キリスト教はこれを認めていない。神(アッラー)は六日間で天地創造しており、また最後の日には全人類を死者までも復活させ、最後の審判を行う「終末」を司る。
なお、一切を超越した全能の神(アッラー)が休息などするはずがない、という観点から、創造の六日間の後に神が休息に就いたことを否定するなど違いはある。これはイスラームがユダヤ教やキリスト教を同じ「啓典の宗教」として尊重しながらも、それらの教えに人為的改変あり、と見なしてきたことの顕著な例でもある。クルアーンが現在の形になったのはムハンマドの死後であるが、イスラーム教徒は神(アッラー)が遣わせた大天使ジブリールからムハンマドに言わせた言葉が現在のクルアーンに、完全に再現されていると考えている。
元来、アラビア語でアッラーは英語でいうGodである。そのため、現在ではアブラハムの一神教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の共通の唯一絶対神を指す。
ちなみにアラブ地域の聖書ではヤハウェを「アッラー」と表記している。例えば、東方正教会のアンティオキア総主教庁、アッシリア東方教会(ネストリウス派)、シリア正教会 (非カルケドン派)などでは、創造主を「アッラー」と訳している。
しかしながらマレーシアではイスラーム教徒以外が用いることが制限されており、同国でカトリック系新聞『ヘラルド』が掲載した際には、政府から使用禁止が命じられた。この使用禁止命令は、一時はマレーシアの高等裁判所により取り消され、使用を認める判決が下されたが、2013年10月14日、マレーシアの上訴裁判所は高裁判決を破棄して、イスラーム教徒でない人々が神を表す言葉として「アッラー」を使うことを禁じる判決を下した。その後、2021年3月10日、新たな判決により、イスラーム教以外の宗教が神の呼び名としてアッラーを使用することが認められた。
また、前述のとおりアッラーはアラビア語で特定の神を指し示す言葉であることから、イスラーム発祥当時のアラビア語を母語とするユダヤ教徒・キリスト教徒も唯一神であるヤハウェをさしてアッラーと呼んでいた。ムハンマドに啓示が下された後、イスラームにおいても万物を創造し、かつ滅ぼすことのできる造物主こそが唯一とされ、その超越性が強調されるようになった。
ただし、考古学的見地では、ヤハウェとイスラーム教の唯一神アッラーは別の起源であり、イスラーム教の唯一神アッラーは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。イスラーム教でいうジャーヒリーヤ(無明時代)に、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神がアッラーとされていた。
アッラーの下には、アッラート、マナート、アル・ウッザーの3女神が付き従っていたという。これらの女神はアラブの部族神であり広く信仰されていたが、クルアーンにおいて否定された。月からの隕石とされていたカアバの黒石は、アッラートの御神体とされていた。もちろん、偶像崇拝を禁じるイスラーム教では、信仰及び崇拝の対象になってはいないが、ハッジ(メッカへの巡礼)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされるとされている。
アラビア語圏を始めとするイスラーム諸国、イスラーム教徒家庭ならびにアラビア語圏のキリスト教徒など神をアッラーと呼ぶ共同体においては英語の「Oh my god(オー・マイ・ゴッド)」、「Oh my gosh!」に相当する複数の慣用表現にこの神の名前がしばしば登場する。アッラー単体に加えその他の語と組み合わせた文章も含めると非常に多数となる。
アラブ諸国の場合、方言差もあるが以下のような慣用表現がある。
اَلله(口語アラビア語発音:ʾallā, アッラー)
感嘆・称賛:へえ、すごい、わあ
驚嘆・悲嘆:なんてこった
اَلله اَلله(口語アラビア語発音:ʾallā ʾallā, アッラー・アッラー)
感嘆・称賛:へえ、すごい、わあ
驚嘆・悲嘆:なんてこった
اَلله اَلله اَلله(口語アラビア語発音:ʾallā ʾallā ʾallā, アッラー・アッラー・アッラー)
驚嘆・称賛:すごい、すばらしい(Wonderful!、How wonderful ◯◯ is!)
اَلله الله الله الله(口語アラビア語発音:ʾalla-lla-lla-lla, アッラ・ッラ・ッラ・ッラ)
神の名前を4つ並べる形ではあるが、短く詰まった発音で続ける。
【エジプト方言など】ショック・呆れ・信じがたい気持ち:なんとまあ、あらまあ、なんてこったい
يَا اللهُ(口語アラビア語発音:yā ʾallā, ヤー・アッラー)
直訳:ああ神様、おお神よ
意訳:ああ!(感情が高まった時などに)
*これを詰まった発音で「yalla(ヤッラ)」とすると物事を始める時・出かける際のかけ声・相手に促す呼びかけ「それ、さあ、ほら、ほら急いで」となる。
يَا إِلٰهِي(yā ʾilāhī, ヤー・イラーヒー)
*唯一神アッラーの名称から定冠詞アルを取って普通の名詞「神(god)」にした上で「私の~」という意味の人称代名詞接続形をつけたもの。
直訳:ああ、我が神よ
意訳:ああ、なんてこった(Oh my God) | [
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"text": "ユダヤ教では神をエロヒム、エルと呼ぶが、これらの発音が互いに似ているのはアラム語、ヘブライ語、アラビア語などが同じアフロ・アジア語族のセム語派だからである。",
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"text": "アラビア語圏の日常会話では文語休止形発音のアッラーフではなく Allā(アッラー)という口語発音が一般的であるため、アラブ世界内外において文語アラビア語に即した表記であるAllahとつづりながらも実際にはアッラーと発音されることの原因となっている。日本語におけるカタカナ表記でも口語発音由来のアッラーが標準的である。",
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"text": "Wikipediaでは討議の結果アッラーフを項目名として採用しているが実際には非常にまれなカタカナ表記となっているため、本項では以後便宜上アッラー表記で統一することとする。",
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"text": "かつて日本では「アラー」や「アラーの神」といった表現が広く流布しておりアニメや書籍などでも用いられていたが、訂正活動の結果イスラムはイスラーム、アラーはアッラー、マホメットはムハンマドとなっていき、現在では「アッラー」が一般化。神という名詞を添えた「アッラーの神」という言い回しもされなくなった。",
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"text": "アッラーがクルアーンを授けたとされるムハンマド・イブン・アブドゥッラー(以下「ムハンマド」)は、神(アッラー)より派遣された大天使ジブリールから神(アッラー)の受託をアラビア語で語った使徒であり、最後にして最大の預言者とされる。",
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"text": "ムハンマドは飽くまで神(アッラー)から被造物である人類のために人類のなかから選ばれた存在に過ぎない。そもそもアッラー(神)自体が「生みもせず、生まれもしない」、つまり時間と空間を超越した絶対固有であるため、キリスト教神学におけるイエス・キリスト像のように、ムハンマドを「神(アッラー)の子」と見なすような信仰的・神学的位置付けもされていない。",
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"text": "全知全能唯一絶対であり、すべてを超越する。「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」とされる(精神だけの)存在であるため、あらゆる時にあらゆる場にあり得て(遍在)、絵画や彫像に表すことはできない。イスラーム教がイメージを用いた礼拝を、偶像崇拝として完全否定しているのも、このためである(バーミヤン仏教遺跡爆破事件)。世界のどこにいても、聖地メッカの方角を向いてその場で礼拝する定めになっている。",
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"text": "イスラームの教えは先行するユダヤ教・キリスト教を確証するものであるとされるため、アッラーはユダヤ教・キリスト教のヤハウェと同じであるとされる。一方でユダヤ教、キリスト教はこれを認めていない。神(アッラー)は六日間で天地創造しており、また最後の日には全人類を死者までも復活させ、最後の審判を行う「終末」を司る。",
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"text": "なお、一切を超越した全能の神(アッラー)が休息などするはずがない、という観点から、創造の六日間の後に神が休息に就いたことを否定するなど違いはある。これはイスラームがユダヤ教やキリスト教を同じ「啓典の宗教」として尊重しながらも、それらの教えに人為的改変あり、と見なしてきたことの顕著な例でもある。クルアーンが現在の形になったのはムハンマドの死後であるが、イスラーム教徒は神(アッラー)が遣わせた大天使ジブリールからムハンマドに言わせた言葉が現在のクルアーンに、完全に再現されていると考えている。",
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"text": "しかしながらマレーシアではイスラーム教徒以外が用いることが制限されており、同国でカトリック系新聞『ヘラルド』が掲載した際には、政府から使用禁止が命じられた。この使用禁止命令は、一時はマレーシアの高等裁判所により取り消され、使用を認める判決が下されたが、2013年10月14日、マレーシアの上訴裁判所は高裁判決を破棄して、イスラーム教徒でない人々が神を表す言葉として「アッラー」を使うことを禁じる判決を下した。その後、2021年3月10日、新たな判決により、イスラーム教以外の宗教が神の呼び名としてアッラーを使用することが認められた。",
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"text": "また、前述のとおりアッラーはアラビア語で特定の神を指し示す言葉であることから、イスラーム発祥当時のアラビア語を母語とするユダヤ教徒・キリスト教徒も唯一神であるヤハウェをさしてアッラーと呼んでいた。ムハンマドに啓示が下された後、イスラームにおいても万物を創造し、かつ滅ぼすことのできる造物主こそが唯一とされ、その超越性が強調されるようになった。",
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"text": "ただし、考古学的見地では、ヤハウェとイスラーム教の唯一神アッラーは別の起源であり、イスラーム教の唯一神アッラーは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。イスラーム教でいうジャーヒリーヤ(無明時代)に、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神がアッラーとされていた。",
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"text": "アッラーの下には、アッラート、マナート、アル・ウッザーの3女神が付き従っていたという。これらの女神はアラブの部族神であり広く信仰されていたが、クルアーンにおいて否定された。月からの隕石とされていたカアバの黒石は、アッラートの御神体とされていた。もちろん、偶像崇拝を禁じるイスラーム教では、信仰及び崇拝の対象になってはいないが、ハッジ(メッカへの巡礼)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされるとされている。",
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"text": "アラビア語圏を始めとするイスラーム諸国、イスラーム教徒家庭ならびにアラビア語圏のキリスト教徒など神をアッラーと呼ぶ共同体においては英語の「Oh my god(オー・マイ・ゴッド)」、「Oh my gosh!」に相当する複数の慣用表現にこの神の名前がしばしば登場する。アッラー単体に加えその他の語と組み合わせた文章も含めると非常に多数となる。",
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"text": "意訳:ああ、なんてこった(Oh my God)",
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] | アッラーフ (アラビア語:الله, Allāh, アッラー) 、イブラーヒームの宗教の唯一神ヤハウェに対するアラビア語呼称。 | {{出典の明記|date=2023年9月}}
'''アッラーフ '''(アラビア語:{{rtl-lang|ar|الله}}, {{lang|ar-Latn|Allāh}}, アッラー(フ)) 、[[アブラハムの宗教|イブラーヒームの宗教]]<ref group="注釈">[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]。</ref>の唯一神[[ヤハウェ]]に対する[[アラビア語]]呼称。
== 名称 ==
[[ファイル:Allah3.svg|サムネイル|アッラーの名前を記した書道デザイン]]
=== 語源 ===
アッラーフ ('''{{rtl-lang|ar|الله}}''', {{lang|ar-Latn|Allāh}}, アッラーフ、口語アラビア語発音:Allā, アッラー) は、「神」を意味する'''イラーフ''' ({{rtl-lang|ar|إله}}, {{lang|ar-Latn|ilāh}}, 「a god」の意) に[[アラビア語の冠詞|定冠詞]]アル ({{rtl-lang|ar|ال}}, {{lang|ar-Latn|al}}, 英語のtheに相当) がついた'''アル=イラーフ''' ({{rtl-lang|ar|الإله}}, al-ilāh, 「the God」の意) の短縮形<ref>[[ハミルトン・ギブ|ハミルトン・A・R・ギブ]]『イスラム入門』[[加賀谷寛]]訳、[[講談社学術文庫]]、2002年、86頁。ISBN 4061595571。</ref>、あるいはなまったものである<ref>[[竹下政孝]]「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC-26092#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 アッラー]」『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』[[小学館]]、[[コトバンク]]</ref>。
ユダヤ教では神を[[エロヒム]]、[[エール (神)|エル]]と呼ぶが、これらの発音が互いに似ているのは[[アラム語]]、[[ヘブライ語]]、[[アラビア語]]などが同じ[[アフロ・アジア語族]]の[[セム語派]]だからである。
=== 発音と表記 ===
アラビア語圏の日常会話では文語休止形発音のアッラーフではなく Allā(アッラー)という口語発音が一般的であるため、アラブ世界内外において文語アラビア語に即した表記であるAllahとつづりながらも実際にはアッラーと発音されることの原因となっている。日本語におけるカタカナ表記でも口語発音由来のアッラーが標準的である。
Wikipediaでは討議の結果アッラーフを項目名として採用しているが実際には非常にまれなカタカナ表記となっているため<ref group="注釈">なお、[[日本ムスリム協会]]はアッラー表記を公式としている。[http://www.muslim.or.jp/jma%E3%81%A8%E3%81%AF/ 日本ムスリム協会とは]</ref>、本項では以後便宜上アッラー表記で統一することとする。
かつて日本では「アラー」や「アラーの神」といった表現が広く流布しておりアニメや書籍などでも用いられていたが、訂正活動の結果イスラムはイスラーム、アラーはアッラー、マホメットはムハンマドとなっていき、現在では「アッラー」が一般化。神という名詞を添えた「アッラーの神」という言い回しもされなくなった。
なお[[アッラーフの99の美名|アッラーの99の美名]]はこの唯一神アッラーの属性を別称として用いているものであり、神の呼称としては本項目のアッラーが基本的な名称となっている。
{{-}}
== イスラーム教におけるアッラー ==
アッラーが[[クルアーン]]を授けたとされる[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド・イブン・アブドゥッラー]](以下「ムハンマド」)は、神(アッラー)より派遣された大天使[[ガブリエル|ジブリール]]から神(アッラー)の受託を[[アラビア語]]で語った[[使徒]]であり、最後にして最大の[[預言者]]とされる。
ムハンマドは飽くまで神(アッラー)から[[被造物]]である人類のために人類のなかから選ばれた存在に過ぎない。そもそもアッラー(神)自体が「生みもせず、生まれもしない」、つまり時間と空間を超越した絶対固有であるため、[[キリスト教]]神学における[[イエス・キリスト]]像のように、ムハンマドを「神(アッラー)の子」と見なすような信仰的・神学的位置付けもされていない。
{{Cquote|言え、「かれは神、唯一の御方であられる。神(アッラー)は自存され、御産みなさらないし、御生まれになられたのではない、かれに比べ得る何もない。<ref group="注釈">「言え、」という部分は[[ガブリエル#イスラム教とガブリエル|大天使ジブリール]]がムハンマドに対して「言え」と命じているのである。</ref>」|4=『[[クルアーン]]』第112章1-4節|5=}}
全知全能唯一絶対であり、すべてを超越する。「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」とされる(精神だけの)存在であるため、あらゆる時にあらゆる場にあり得て(遍在)、絵画や彫像に表すことはできない。イスラーム教がイメージを用いた礼拝を、[[偶像崇拝]]として完全否定しているのも、このためである([[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群#ターリバーンによる破壊|バーミヤン仏教遺跡爆破事件]])。世界のどこにいても、聖地[[メッカ]]の方角を向いてその場で礼拝する定めになっている。
[[イスラーム]]の教えは先行する[[ユダヤ教]]・キリスト教を確証するものであるとされるため、アッラーはユダヤ教・キリスト教の[[ヤハウェ]]と同じであるとされる<ref>クルアーン第4章163-164節、クルアーン第46章12節</ref>。一方でユダヤ教、キリスト教はこれを認めていない。神(アッラー)は六日間で[[天地創造]]しており、また最後の日には全人類を死者までも復活させ、[[最後の審判]]を行う「[[終末]]」を司る。
なお、一切を超越した全能の神(アッラー)が休息などするはずがない{{Cite quran|2|255}}、という観点から、創造の六日間の後に神が休息に就いたことを否定するなど違いはある。これはイスラームがユダヤ教やキリスト教を同じ「[[啓典]]の宗教」として尊重しながらも、それらの教えに人為的改変あり、と見なしてきたことの顕著な例でもある。[[クルアーン]]が現在の形になったのはムハンマドの死後であるが、[[ムスリム|イスラーム教徒]]は神(アッラー)が遣わせた大天使ジブリールからムハンマドに言わせた言葉が現在のクルアーンに、完全に再現されていると考えている。
== アラビア語ならびに他宗教におけるアッラー ==
[[File:Istanbul, Hagia Sophia, Allah.jpg|thumb|left|アッラーの紋章(イスタンブール・[[アヤソフィア]])]]
元来、アラビア語でアッラーは[[英語]]でいうGodである。そのため、現在ではアブラハムの一神教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の共通の'''唯一絶対神'''を指す。
ちなみに[[アラブ世界|アラブ地域]]の[[聖書]]ではヤハウェを「アッラー」と表記している。例えば、[[東方教会|東方]][[正教会]]の[[アンティオキア総主教庁]]、[[アッシリア東方教会]]([[ネストリウス派]])、[[シリア正教会]] ([[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]])などでは、創造主を「アッラー」と訳している。
しかしながら[[マレーシア]]ではイスラーム教徒以外が用いることが制限されており、同国で[[カトリック教会|カトリック]]系新聞『ヘラルド』が掲載した際には、政府から使用禁止が命じられた<ref group="注釈">なおにマレーシアの裁判所は[[2009年]]末に「[[信教の自由]]」を根拠に政府の使用禁止命令を取り消し、「アッラー」の使用を認める判決を出した。政府は上訴している[https://web.archive.org/web/20100112061239/http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010010801000766.html 「アラー」使用許可に反発 マレーシア、教会放火・デモも]</ref>。この使用禁止命令は、一時はマレーシアの高等裁判所により取り消され、使用を認める判決が下されたが、2013年10月14日、マレーシアの[[上訴裁判所]]は高裁判決を破棄して、イスラーム教徒でない人々が神を表す言葉として「アッラー」を使うことを禁じる判決を下した<ref>{{cite news |title=イスラム教徒以外の「アッラー」使用禁じる マレーシア上訴裁 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-10-15|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/131015/asi13101520200003-n1.htm |accessdate=2013-10-16}}</ref>。その後、2021年3月10日、新たな判決により、イスラーム教以外の宗教が神の呼び名としてアッラーを使用することが認められた<ref>https://www.reuters.com/article/us-malaysia-allah-court-idUSKBN2B214U</ref>。
また、前述のとおりアッラーはアラビア語で特定の神を指し示す言葉であることから、イスラーム発祥当時のアラビア語を母語とするユダヤ教徒・キリスト教徒も唯一神であるヤハウェをさして'''アッラー'''と呼んでいた<ref>井筒俊彦『イスラーム生誕』中央公論社〈中公文庫〉、1990年、208頁</ref>。[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]に啓示が下された後、イスラームにおいても万物を創造し、かつ滅ぼすことのできる造物主こそが唯一とされ、その超越性が強調されるようになった。
ただし、考古学的見地では{{誰|date=2021年10月}}、ヤハウェとイスラーム教の唯一神アッラーは別の起源であり、イスラーム教の唯一神アッラーは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。イスラーム教でいう[[ジャーヒリーヤ]](無明時代)以前から、[[カアバ]]神殿に祭祀されていた360の神々の最高神がアッラーとされ、信仰の対象となっていた。<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=イスラム原理主義 |date=11/20 |year=2001 |publisher=(株)明石書店 |page= |isbn=9784750314969 |author=岡倉徹志 |pages=52-52}}</ref>
アッラーの下には、アッラーの娘たちとと呼ばれた[[アッラート]]、[[マナート]]、[[アル・ウッザー]]の3女神がいた。<ref name=":1" />これらの女神はアラブの部族神であり広く信仰されていたが、[[クルアーン]]において否定された。<ref name=":1" />月からの隕石とされていたカアバの[[黒石]]は、アッラートの[[御神体]]とされていた。もちろん、偶像崇拝を禁じるイスラーム教では、信仰及び崇拝の対象になってはいないが、[[ハッジ]](メッカへの巡礼)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされるとされている<ref group="注釈">ちなみに現在は、カアバ神殿の東南角に丁重にはめ込まれている</ref>。
== 日常会話における慣用句として ==
[[アラビア語]]圏を始めとするイスラーム諸国、イスラーム教徒家庭ならびにアラビア語圏のキリスト教徒など神をアッラーと呼ぶ共同体においては英語の「Oh my god(オー・マイ・ゴッド)」、「Oh my gosh!」に相当する複数の慣用表現にこの神の名前がしばしば登場する。アッラー単体に加えその他の語と組み合わせた文章も含めると非常に多数となる。
アラブ諸国の場合、方言差もあるが以下のような慣用表現がある。
=== 神の名前のみ口にする言い回し ===
==== アッラー(الله) ====
<span lang="ar" dir="rtl">اَلله</span>(口語アラビア語発音:ʾallā, アッラー)<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.livingarabic.com/en/search?q=%D8%A7%D9%84%D9%84%D9%87 |title=The Living Arabic Project - Classical Arabic and dialects الله |access-date=2023-10-09}}</ref>
感嘆・称賛:へえ、すごい、わあ
驚嘆・悲嘆:なんてこった
==== アッラー・アッラー(الله الله) ====
<span lang="ar" dir="rtl">اَلله اَلله</span>(口語アラビア語発音:ʾallā ʾallā, アッラー・アッラー)<ref name=":0" />
感嘆・称賛:へえ、すごい、わあ
驚嘆・悲嘆:なんてこった
==== アッラー・アッラー・アッラー(الله الله الله) ====
<span lang="ar" dir="rtl">اَلله اَلله اَلله</span>(口語アラビア語発音:ʾallā ʾallā ʾallā, アッラー・アッラー・アッラー)<ref name=":0" />
驚嘆・称賛:すごい、すばらしい(Wonderful!、How wonderful ◯◯ is!)
==== アッラ・ッラ・ッラ・ッラ(الله الله الله الله) ====
<span lang="ar" dir="rtl">اَلله الله الله الله</span>(口語アラビア語発音:ʾalla-lla-lla-lla, アッラ・ッラ・ッラ・ッラ)
神の名前を4つ並べる形ではあるが、短く詰まった発音で続ける。
【エジプト方言など】ショック・呆れ・信じがたい気持ち:なんとまあ、あらまあ、なんてこったい
=== 呼びかけ語との組み合わせ ===
==== ヤー・アッラー(يا الله) ====
<span lang="ar" dir="rtl">يَا اللهُ</span>(口語アラビア語発音:yā ʾallā, ヤー・アッラー)<ref name=":0" />
直訳:ああ神様、おお神よ
意訳:ああ!(感情が高まった時などに)
*これを詰まった発音で「yalla(ヤッラ)」とすると物事を始める時・出かける際のかけ声・相手に促す呼びかけ「それ、さあ、ほら、ほら急いで」となる。
==== ヤー・イラーヒー(يا إلهي) ====
<span lang="ar" dir="rtl">يَا إِلٰهِي</span>(yā ʾilāhī, ヤー・イラーヒー)<ref>{{Cite web |title=The Living Arabic Project - Classical Arabic and dialects إله |url=https://livingarabic.com/en/search |website=livingarabic.com |access-date=2023-10-09 |language=en |first=Living Arabic |last=Project}}</ref>
*唯一神アッラーの名称から定冠詞アルを取って普通の名詞「神(god)」にした上で「私の~」という意味の人称代名詞接続形をつけたもの。
直訳:ああ、我が神よ
意訳:ああ、なんてこった(Oh my God)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
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* [[クルアーン主義]]
* [[アッラーフの99の美名|アッラーの99の美名]]
* [[想起説]]
* [[アッラーフ・アクバル]]
* [[イランの国旗]]
* [[イランの国章]]
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[[Category:イスラム教]]
[[Category:唯一神]]
[[Category:アラビア神話の神]]
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3,381 | ゾロアスター教 | ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardošt、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、英語: Zoroastrianism)、祆教(けんきょう、拼音: xiān jiào シェンジャオ)または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教である。聖典は『アヴェスター』。
イラン高原に住んでいた古代アーリア人はミスラやヴァーユなど様々な神を信仰する多神教(原イラン多神教)であった。この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーを信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである。
紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている。これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。サーサーン朝期には聖典『アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア・中国へも伝播していった。
7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降、イギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ。聖地はイラン、ヤズド近郊に位置するチャクチャク。
ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、アヴェスタ語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。
その来世観・終末論がセム的一神教や仏教などに影響を与えたという説もある。善悪二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の一神教」とも言われることもある。
ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典『アヴェスター』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。
ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。
ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に平和と秩序をもたらすと考えられている。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる。ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む。ここでは清浄さが求められる。
7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する。
ゾロアスター教の守護霊は、善を表し、善のために働く「フラワシ」である。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている。
ゾロアスター教の礼拝は、「拝火神殿」と称される礼拝所で行われる。神殿は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる。
ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬・風葬である。この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある。この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている。ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている。
ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』のヴェンディダード(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である。世界は至高神アフラ・マズダー率いるスプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユ(アフリマン)、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と悪神群(ダエーワ)の両勢力が互いに争う場で、生命・光と死・闇との闘争とされる。
最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命・真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死・虚偽を選んだ。アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された。対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空・水・大地・植物・動物・人・火の順番で創成した、世界の創造者である。
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。
悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。
ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女ダエーナーに導かれて楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの徳(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。
ゾロアスター教は自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている
ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する。書籍化にあたり、古代アヴェスター語をパフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した。しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある。
メソポタミア神話・エジプト神話・ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった。
ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する
このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる
アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。
ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教(原イラン多神教)の祭司として『アヴェスター』で描かれる。この宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される。そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた。
メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる。そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。
「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教信仰告白「フラワラーネ」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた。すなわち、
である。
この5つに加え、アフラ・マズダーを創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。。
原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教がザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある
ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマやゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない。ザラスシュトラの誕生地は、アゼルバイジャン説・スィースターン説・中央アジア説などがある。活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した。
ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た。彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた。このような世界観は、一神教的二元論とも言われる
ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている。ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。
ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった。
その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない。
他宗教への影響と同様、ゾロアスター教の政治への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝下でゾロアスター教は常に国教的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している。
ギリシアの歴史家ヘロドトスによるとアーリア系のメディア王国(前715年頃 - 前550年頃)にはマゴス族とよばれる神官たちがいた。彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物(カエル・サソリ・ヘビなど)の殺害、最近親婚、牛の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。非インド・ヨーロッパ語族的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスはアゼルバイジャン付近の土着民族であったとする説もある。東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、爬虫類殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭も羊から牛に転換したとみられている。
メディア王家の血を引くペルシア王キュロス2世(大王、在位前550年 - 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)を建国した。キュロスは小アジアから中央アジアに至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原とメソポタミア平原の両方を支配した。
キュロス王家の信仰は不明なところが多い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇やキュロスの墓はバビロニア的要素が含まれているとされる。一方、キュロスの息子カンビュセス2世(在位前529年頃 - 前522年)は実姉アトッサや実妹ロクサーナと近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。また「マゴス神官団ガウマータ」が王族スメルディスに成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある。
ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスがバビロンを征服した紀元前536年には、バビロン捕囚にあっていたユダヤ人たちを解放している。また、進んだ文明を持つメソポタミアやエジプトの信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる。このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。この結果、シンクレティズムが促されてユダヤ教エッセネ派が隆盛し、キリスト教に継承されたとも言われる。アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団・オルフェウス教、さらにペルシャ高原東部では大乗仏教伝播にともなう弥勒菩薩信仰と結びつき、マニ教もゾロアスター教の影響を強く受けたとされる。イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。
キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、ダレイオス1世(在位前522年 - 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った
ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラム・メソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる
ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
ダレイオス1世の孫・アルタクセルクセス1世(在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる。この政策はアルタクセルクセス2世(在位前404年 - 前358年)の頃に変更され、アナーヒターやミスラへの崇拝も奨励されるようになった。アルタクセルクセス3世(在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された。
なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している。しかし、古代メソポタミアのイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、ギリシア文明・インド文明の影響とする説もある)。
紀元前4世紀後半、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王、在位前336年 - 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。またギリシア神話とアーリア人の宗教が混濁し、ゼウスとアフラ・マズダー、アポロンとミスラなどが同一視された。大王の死後、その王国は四分五裂し、セレウコス1世によって小アジアからペルシアに至るヘレニズム国家セレウコス朝シリア(前312年-前63年)が建国された。セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア人政治勢力の後退の歴史でもあった。なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという。
紀元前3世紀、ペルシア人と同系であるパルティア人の族長アルサケス1世がセレウコス朝の支配から自立し、ミフルダートキルト周辺にアルサケス朝パルティア(紀元前247年-紀元後226年)を建国した。5代目ミトラダテス1世のときに東西に領土を拡げ、共和政ローマの侵攻やマカバイ戦争に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だったセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した
パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる。アルサケス朝にはティリダテス、ミトラダデス、アルタバノスなど、それぞれ「水星」、「ミフル(ミスラ神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている
紀元前1世紀以降、アナトリアのカッパドキアやティアナなどで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込みミトラス教に発展した。
パルティアの宗教が隣国アルメニア王国では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていたアラマズド(アフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世(在位52年 – 58年、62年 - 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロ(在位54年 - 68年)と謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグン(ウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった。
青木健は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている。青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている。
4世紀にアルメニアはキリスト教合性論派(アルメニア使徒教会)を国教化して、アルメニア的ゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている。
ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であったサーサーンは、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子パーパクはパルティアに反乱を起こし、さらにその息子のアルダシール1世(在位226年 - 242年)はクテシフォンを征服してサーサーン朝ペルシア(226年-651年)を建国した。。
サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に正統性を求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語はパフラヴィー語に変質し、古代ペルシア語の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。この時代、隊商などペルシア商人の活発な活動で、中央アジア・中国へゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。
サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある。260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市エデッサを奪い取り、国内に多くのキリスト教徒を抱えた。キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。。このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでのキリスト教公認)以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。
サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族のシャーハンシャー、神々の末裔」と刻んだコインを発行したことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている。
アルダシール1世と大神官タンサールの元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される。
アルダシールの息子・シャープール1世(在位242年 - 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教・キリスト教・マンダ教・グノーシス主義といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアのセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを招き、彼らの宗教活動を容認した。
サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖レリーフを造り、叙任の儀式を行っていた。バハラーム1世のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。バハラーム2世の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ(ナルセ1世)らサーサーン家の面々と並び、神官に過ぎないカルティールが、それもかなり高い席次で描かれていた。このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒・仏教徒・ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教・ギリシア系キリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない。
ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた。
カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。9代目シャープール2世(在位309年 - 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝アヴェスターの結集と教義の確立が行われた。また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている。
ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神ズルワーンが崇拝されていた。このズルワーン教と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。インド思想カーラ、ギリシア思想アイオーンの影響も指摘される。完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する。
ジャーヒリーヤ時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアのゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰された魚の神、またはズルワーンがアラビア語で省略された形であるとみられる。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミア的ゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある。
サーサーン朝の分家クシャーノ・サーサーン朝では、シャーのバハラーム2世(在位360年頃)が「カイ・バハラーム・クーシャン・シャー」と刻んだコインを発行していた。「カイ」とは、『アヴェスター』に関する伝承に登場するザラスシュトラの庇護者カウィ王朝の中世ペルシア語である。このことから、クシャーノ・サーサーン朝では、ザラスシュトラ伝説を王権の正当性を支えるイデオロギーとして採用したと考えられている。
その後、本家サーサーン朝のヤズデギルド2世(在位438年 - 457年)も「マズダー崇拝の神たるカイ」と銘打ったコインを発行している。ヤズデギルドは東方遠征を繰り返したり、北魏(中国)に使節団を送って貿易を促進しようとするなど東方への関心が強かった。こうした中で、中央アジアに残されたザラスシュトラ伝説やクシャーノ・サーサーン朝の国家イデオロギーに触れたものと思われる。こうしてシャーハンシャーは神々の末裔を名乗ることを止め、ザラスシュトラの庇護者の末裔を称するようになった。
6世紀のサーサーン朝は、ビザンツ帝国に借金をして東方の遊牧国家エフタルに朝貢するほど国力が衰えた。カワード1世(在位488年 - 496年、498年 - 531年)はマズダク教を唱えたマズダクを宰相に登用して改革を試みた。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとして大きな反発を食らい、かえって混乱を深めた。
カワードの息子ホスロー1世(在位531年 - 579年)は税制・軍制改革に成功し、サーサーン朝の中興を果たした。ホスローのもとでキリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフレヴィー語注釈『ザンド』が書籍化された。さらに西方からギリシア哲学を、東方からインド哲学をゾロアスター教に取り入れ、知的水準においてもキリスト教会に対抗できる体制を整えた。
ホスロー1世の頃にゾロアスター教の一神教的要素(最高神としてのアフラ・マズダー、またはズルワーン)が排除され、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の対立を軸とした真の意味で二元論的な教義が確立したとみられている。ゾロアスター教神官団はこれによって悪の存在を説明でき、その点でセム的一神教に優位に立てると考えた。またズルワーン教の悲観的世界観・人間観から脱し、物質存在の肯定と楽観的な終末論が唱えられた。このような世界観は楽天的善悪二元論とも呼ばれ、台頭する一神教のキリスト教に対抗るするために、一神教要素を排除して二元論を強調したとする見方もある。
ソグディアナはザラスシュトラの出身地に近いと考えられており、ペルシアよりもその教えが古い形で残っていたと考えられている。また、ソグド語資料にはザラシュストラの物語が書かれており、『アヴェスター』の散逸部分のソグド語版である可能性もある。また、ソグド人はアフラ・マズダーやズルヴァーン、ミスラのほか、ヒンドゥー教の神々も祀っていた。
5世紀・6世紀頃、交易活動のために多数のペルシア人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へ渡り、華北の北周・北斉にゾロアスター教が広まったという。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された。「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細不明)を指導者とする教団も存在した。隋・唐の時代、薩宝(薩甫、薩保)は官職と認められ、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)に官位が授けられ、祆教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された。首都長安や洛陽・敦煌・涼州といった都市に寺院・祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったと言われている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったらしい。
唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有した。西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰された。
吐火羅・舎衛などのペルシア人が古代日本にも訪れており、なんらかの形での伝来が考えられている。松本清張は古代史ミステリーの代表的長編『火の路』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。イラン学者伊藤義教は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している。
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者だったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちには唐に亡命政府を樹立したサーサーン朝からの難民などが加わったものと思われる。
武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西域では11世紀 - 13世紀に西域のイスラム化が進行した。
宋の時代になると担い手の漢化が進み、「宋代漢民族的ゾロアスター教」ともいえる形態に変化した。
祆教は、14世紀ころまで開封・鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息は掴めていない。なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市郊外に波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、言語・形質面では漢族に同化しているが、イスラム教を奉じており回族と認定されている。彼らの宗教儀式にはゾロアスター教の名残がみられるともいわれる。
ホスロー1世の孫・ホスロー2世(在位590年、591年 - 628年)は国力に余裕のある状態でシャーハンシャーになることができた。しかし、即位当初から部下の反逆に遭い、求心力を高めるために新たな皇帝イデオロギーを創出する必要牲に迫られた。そこで彼はキリスト教国家東ローマ帝国と戦争(602年-628年)を開始し、エルサレム攻略によってイエス・キリストが磔刑に処せられたとされる「ゴルゴタの聖十字架」を奪取し、穀倉地帯エジプトも占領。首都コンスタンティノープル対岸のカルケドンまで進軍して東ローマ帝国を滅亡寸前に追いやった。この大勝利によってシャーハンシャーの威信は絶頂を迎え、ホスローがアフラ・マズダーよりも一段上位の台座に立つレリーフが建造された。
なお、この頃はゾロアスター教からキリスト教への改宗が相次いでいた。特にゾロアスター教から軽蔑されていた商人・職人層に顕著で、職人団体の長にもキリスト教徒が多かった。
東ローマ皇帝に即位したヘラクレイオス(在位610年 - 641年)は反転攻勢に出たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面に向かうことはせず、623年にタウルス山脈沿いに進軍してシーズを急襲。拝火壇は破壊され、「シーズの聖火」のみ辛うじてクテシフォン近郊に避難された。これによりサーサーン朝の威信は大いに揺らいだ。この戦争により両大国の力は消耗し周辺国では自立の動きが活性化した。国力を浪費させたホスローは皇太子によって暗殺され、内乱に陥った。
サーサーン朝の内乱を何とか平定したホスロー2世の孫ヤズデギルド3世(在位632年 - 651年)は、633年よりアラビア半島の新興世界宗教イスラム教を奉じるアラブ人の侵攻に直面した。サーサーン朝側は長年の内戦で疲弊しており、637年には首都クテシフォンを奪われた。ヤズデギルドは税収の3割を担っていたメソポタミアを放棄し、イラン高原で体制の立て直しを図った。イラン高原に進軍したイスラム軍は連戦を重ね、ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を打ち破った。この時、落馬して捕虜となれば身代金を払って解放されるという当時の慣例に従って多くの将兵(封建領主と自由農民から成る)がわざと落馬したが、アラブ人はこのルールを知らず、必要以上に多くのペルシア軍が虐殺された。これによってサーサーン朝の軍事組織とペルシア人の経済社会システムは崩壊し、サーサーン朝はイスラム勢力に抵抗する力を失った。ヤズデギルドは逃亡中の651年にメルブで殺され、キリスト教徒シーリーンの孫であることから現地民によってキリスト教式に埋葬されたという。ヤズデギルドの息子ペーローズ3世と孫ナルシエフは唐に逃れ、疾陵(所在不明)にサーサーン朝亡命政府を置くも、アラブ人イスラム教徒に占領され、ペルシア帝国復活の望みは完全に絶たれた。
アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を余儀なくされた。改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰はおおむね維持された。
サーサーン朝崩壊から8世紀までゾロアスター教に関する資料はほとんど残っていない。しかし8世紀になるとフーデーン・ペーショーバーイを中心とするゾロアスター教神官団たちがパフレヴィー語文献を精力的に執筆し、「パフレヴィー語文学ルネッサンス」と呼ばれる文化的発展期を迎えた。知られる限り最初のフーデーン・ペーショーバーイであるアードゥル・ファッローバイは、イラン高原全体のゾロアスター教徒を指導しており、『デーンカルド』最初の著者でもあった。彼の後継者たちも書簡集『リバーヤト』、『ブンダヒシュン』、『宗教問答集』など様々な文献を残している。10世紀になるとアラビア語文献でしかフーデーン・ペーショーバーイの名が知られなくなる。そして936年に処刑された祖父の跡を継いだエーメードを最後に、フーデーン・ペーショーバーイの記録は残っていない。
なお、9~10世紀の文献には二元論的ゾロアスター教の世界観が描かれており、5世紀まで外国語文献で度々描写されていたズルワーン崇拝に関する記述が存在しないため、様々な議論を呼んでいる。
ゾロアスター神官団を経済的に支えたのは、アルダフシール・ファッラフ-シーラーフを繋ぐ通商路であった。この地はサーサーン朝崩壊後に建てられた拝火神殿が連なり、神官団と商人たちによって共同管理されたとみられている。しかしこのルートがブワイフ朝の国家管理に置かれたことで寂れてしまい、10世紀後半の地震でシーラーフが壊滅したことによりとどめを刺された。かつての通商路には廃墟と化した拝火神殿が点在する不毛の地となり、経済的基盤を失ったゾロアスター教神官団は消滅した。それによりパフレヴィー語文学ルネッサンスは終焉を迎え、『アヴェスター』も大半が散逸した。
ウマイヤ朝からアッバース朝の転換期(アッバース革命)、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した。
反乱を起こしたイラン人にはホラーサーン周辺で原始的ゾロアスター教や太陽崇拝、マズダク教を旗頭にすることが多く、サーサーン朝崩壊後には様々なアーリア人の諸宗教が台頭していた可能性がある。しかし9世紀半ば以降は反イスラムを掲げた反乱も起こらなくなる。
イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブの一族と結婚したという説話を流布させた。ゴムではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された(イラン・イスラーム文化)。
近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。
イラン高原の政治勢力はインド亜大陸に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視しクシャトリヤから格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた
サーサーン朝滅亡後、イランのゾロアスター教徒にはインド西海岸グジャラートへ退避する集団があった。彼らをパールシー(「ペルシア人」の意)という。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4、5隻の船に乗りグジャラート南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたと言われている。
パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。彼らはイランでは多く農業を営んでいたと言われるが、移住を契機に商工業に進出し、土地の風習を採り入れてインド化していった。それに伴いグジャラート語を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教資料を読めなくなった。二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった。
パールシーはカースト制に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた。
ヤズィーディー教は原イラン多神教と12世紀にスーフィーの指導者アディー・イブン・ムサーフィル(英語版)が作ったアダウィーア教団の教えが融合したクルド人の宗教である。クルド人は言語学的に古代アーリア人の分派であり、ザラスシュトラ以前の教えを保存していると考えられている。ヤズィーディー教の聖典には原イラン多神教とよく似た教義や物語が多く登場するが、固有名詞がイスラム風のものに入れ替わっているものが少なくない。インドにおいては口伝の中にいくつも神々の名前を登場させ、改竄ができないよう注意を払われていたが、同じアーリア系でもイランではそのような注意を欠いていたことが原因であるとされている
近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。
近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった。
イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落した。今日、小規模の信徒共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれる。イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在する。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒とされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火神殿は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在は活用されず、観光施設として残されるにとどまる。
ゾロアスター教徒は近代化の進展によりムスリムと同等の法的権利を獲得したが、イスラム革命により再び隷属的地位におかれてしまう。
かつての世界宗教・ゾロアスター教はイスラーム教徒による宗教的迫害によって信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと後退した。現在、ゾロアスター教では信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
一方で、シーア派が政治権力を握り人々を抑圧しているにもかかわらず、多くのシーア派が水面下で棄教・改宗したとする調査もある。それによればイスラム教シーア派を自認する人は3分の1に満たず、国民の8%がゾロアスター教徒を自称した(イラン政府の公式発表では2万3000人)。彼らはイラン発祥のゾロアスター教に誇りを持ち、アラブ人が持ち込んだとしてイスラム教に反発する者もいる。また、火の回りで祈りをささげるゾロアスター式の結婚式が流行したため、当局によって禁止されている(2019年)。水面下ではキリスト教や非シーア派のイスラム教も拡大しており、イラン政府の厳格な宗教政策が却ってシーア派から人々を遠ざけているとみられている。
現在、インドはゾロアスター教徒数の最も多い国である。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドではペルシア人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している。少数ながら商業・貿易・知的職業に就く人が多く、裕福層や政治力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似し、インド2大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないと言われる。
神殿はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教共同体を作っている。神殿にはゾロアスター教徒のみが入ることができ、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての神殿にあり、ペルシアから運ばれた炎から分けられたものである。神殿内には偶像はなく、炎に礼拝する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも神殿があり、周辺に住む信者により運営されている。
一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
19世紀後半から20世紀前半にかけては上海・広州などにインド亜大陸から渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火神殿が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる。
近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している。
1990年代後半にプロの霊感占い師幹野秀樹によって日本ゾロアスター教団が設立されたが、2017年現在その活動は確認することが出来なくなっている。
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。
1990年、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルスにおいてゾロアスター教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された。ガーサーのみを聖典とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされている。
原始教団
以後、記録なし
大神官(サーサーン朝時代)
フーデーン・ペーショーバーイ(イスラム支配時代)
以後、記録なし | [
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"text": "ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardošt、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、英語: Zoroastrianism)、祆教(けんきょう、拼音: xiān jiào シェンジャオ)または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教である。聖典は『アヴェスター』。",
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"text": "イラン高原に住んでいた古代アーリア人はミスラやヴァーユなど様々な神を信仰する多神教(原イラン多神教)であった。この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーを信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである。",
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"text": "紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている。これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。サーサーン朝期には聖典『アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア・中国へも伝播していった。",
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"text": "7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降、イギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ。聖地はイラン、ヤズド近郊に位置するチャクチャク。",
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"text": "ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、アヴェスタ語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。",
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"text": "今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。",
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"text": "その来世観・終末論がセム的一神教や仏教などに影響を与えたという説もある。善悪二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の一神教」とも言われることもある。",
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"text": "ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典『アヴェスター』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。",
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"text": "ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。",
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"text": "ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に平和と秩序をもたらすと考えられている。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる。ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む。ここでは清浄さが求められる。",
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"text": "7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する。",
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"text": "ゾロアスター教の守護霊は、善を表し、善のために働く「フラワシ」である。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている。",
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"text": "ゾロアスター教の礼拝は、「拝火神殿」と称される礼拝所で行われる。神殿は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる。",
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"text": "ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬・風葬である。この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある。この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている。ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている。",
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"text": "ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』のヴェンディダード(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。",
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"text": "ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である。世界は至高神アフラ・マズダー率いるスプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユ(アフリマン)、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と悪神群(ダエーワ)の両勢力が互いに争う場で、生命・光と死・闇との闘争とされる。",
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"text": "最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命・真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死・虚偽を選んだ。アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された。対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。",
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"text": "アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空・水・大地・植物・動物・人・火の順番で創成した、世界の創造者である。",
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"text": "アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。",
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"text": "悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。",
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"text": "ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女ダエーナーに導かれて楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。",
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"text": "ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの徳(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。",
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"text": "ゾロアスター教は自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている",
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"text": "ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する。書籍化にあたり、古代アヴェスター語をパフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した。しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある。",
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"text": "メソポタミア神話・エジプト神話・ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった。",
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"text": "ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する",
"title": "歴史"
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"text": "このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる",
"title": "歴史"
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"text": "アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。",
"title": "歴史"
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"text": "ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教(原イラン多神教)の祭司として『アヴェスター』で描かれる。この宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される。そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた。",
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"text": "メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる。そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。",
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"text": "「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教信仰告白「フラワラーネ」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた。すなわち、",
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"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "歴史"
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"text": "この5つに加え、アフラ・マズダーを創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。。",
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"text": "原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教がザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある",
"title": "歴史"
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"text": "ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマやゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない。ザラスシュトラの誕生地は、アゼルバイジャン説・スィースターン説・中央アジア説などがある。活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した。",
"title": "歴史"
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"text": "ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た。彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた。このような世界観は、一神教的二元論とも言われる",
"title": "歴史"
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"text": "ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている。ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。",
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"text": "ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった。",
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"text": "その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない。",
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"text": "他宗教への影響と同様、ゾロアスター教の政治への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝下でゾロアスター教は常に国教的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している。",
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"text": "ギリシアの歴史家ヘロドトスによるとアーリア系のメディア王国(前715年頃 - 前550年頃)にはマゴス族とよばれる神官たちがいた。彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物(カエル・サソリ・ヘビなど)の殺害、最近親婚、牛の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。非インド・ヨーロッパ語族的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスはアゼルバイジャン付近の土着民族であったとする説もある。東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、爬虫類殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭も羊から牛に転換したとみられている。",
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"text": "メディア王家の血を引くペルシア王キュロス2世(大王、在位前550年 - 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)を建国した。キュロスは小アジアから中央アジアに至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原とメソポタミア平原の両方を支配した。",
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"text": "キュロス王家の信仰は不明なところが多い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇やキュロスの墓はバビロニア的要素が含まれているとされる。一方、キュロスの息子カンビュセス2世(在位前529年頃 - 前522年)は実姉アトッサや実妹ロクサーナと近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。また「マゴス神官団ガウマータ」が王族スメルディスに成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある。",
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"text": "ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスがバビロンを征服した紀元前536年には、バビロン捕囚にあっていたユダヤ人たちを解放している。また、進んだ文明を持つメソポタミアやエジプトの信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる。このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。この結果、シンクレティズムが促されてユダヤ教エッセネ派が隆盛し、キリスト教に継承されたとも言われる。アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団・オルフェウス教、さらにペルシャ高原東部では大乗仏教伝播にともなう弥勒菩薩信仰と結びつき、マニ教もゾロアスター教の影響を強く受けたとされる。イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、ダレイオス1世(在位前522年 - 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラム・メソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "ダレイオス1世の孫・アルタクセルクセス1世(在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる。この政策はアルタクセルクセス2世(在位前404年 - 前358年)の頃に変更され、アナーヒターやミスラへの崇拝も奨励されるようになった。アルタクセルクセス3世(在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している。しかし、古代メソポタミアのイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、ギリシア文明・インド文明の影響とする説もある)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "紀元前4世紀後半、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王、在位前336年 - 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。またギリシア神話とアーリア人の宗教が混濁し、ゼウスとアフラ・マズダー、アポロンとミスラなどが同一視された。大王の死後、その王国は四分五裂し、セレウコス1世によって小アジアからペルシアに至るヘレニズム国家セレウコス朝シリア(前312年-前63年)が建国された。セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア人政治勢力の後退の歴史でもあった。なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "紀元前3世紀、ペルシア人と同系であるパルティア人の族長アルサケス1世がセレウコス朝の支配から自立し、ミフルダートキルト周辺にアルサケス朝パルティア(紀元前247年-紀元後226年)を建国した。5代目ミトラダテス1世のときに東西に領土を拡げ、共和政ローマの侵攻やマカバイ戦争に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だったセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる。アルサケス朝にはティリダテス、ミトラダデス、アルタバノスなど、それぞれ「水星」、「ミフル(ミスラ神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "紀元前1世紀以降、アナトリアのカッパドキアやティアナなどで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込みミトラス教に発展した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "パルティアの宗教が隣国アルメニア王国では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていたアラマズド(アフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世(在位52年 – 58年、62年 - 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロ(在位54年 - 68年)と謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグン(ウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "青木健は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている。青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "4世紀にアルメニアはキリスト教合性論派(アルメニア使徒教会)を国教化して、アルメニア的ゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であったサーサーンは、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子パーパクはパルティアに反乱を起こし、さらにその息子のアルダシール1世(在位226年 - 242年)はクテシフォンを征服してサーサーン朝ペルシア(226年-651年)を建国した。。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に正統性を求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語はパフラヴィー語に変質し、古代ペルシア語の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。この時代、隊商などペルシア商人の活発な活動で、中央アジア・中国へゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある。260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市エデッサを奪い取り、国内に多くのキリスト教徒を抱えた。キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。。このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでのキリスト教公認)以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族のシャーハンシャー、神々の末裔」と刻んだコインを発行したことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "アルダシール1世と大神官タンサールの元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "アルダシールの息子・シャープール1世(在位242年 - 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教・キリスト教・マンダ教・グノーシス主義といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアのセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを招き、彼らの宗教活動を容認した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖レリーフを造り、叙任の儀式を行っていた。バハラーム1世のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。バハラーム2世の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ(ナルセ1世)らサーサーン家の面々と並び、神官に過ぎないカルティールが、それもかなり高い席次で描かれていた。このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒・仏教徒・ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教・ギリシア系キリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 65,
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"text": "カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。9代目シャープール2世(在位309年 - 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝アヴェスターの結集と教義の確立が行われた。また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 66,
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"text": "ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神ズルワーンが崇拝されていた。このズルワーン教と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。インド思想カーラ、ギリシア思想アイオーンの影響も指摘される。完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ジャーヒリーヤ時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアのゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰された魚の神、またはズルワーンがアラビア語で省略された形であるとみられる。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミア的ゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝の分家クシャーノ・サーサーン朝では、シャーのバハラーム2世(在位360年頃)が「カイ・バハラーム・クーシャン・シャー」と刻んだコインを発行していた。「カイ」とは、『アヴェスター』に関する伝承に登場するザラスシュトラの庇護者カウィ王朝の中世ペルシア語である。このことから、クシャーノ・サーサーン朝では、ザラスシュトラ伝説を王権の正当性を支えるイデオロギーとして採用したと考えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "その後、本家サーサーン朝のヤズデギルド2世(在位438年 - 457年)も「マズダー崇拝の神たるカイ」と銘打ったコインを発行している。ヤズデギルドは東方遠征を繰り返したり、北魏(中国)に使節団を送って貿易を促進しようとするなど東方への関心が強かった。こうした中で、中央アジアに残されたザラスシュトラ伝説やクシャーノ・サーサーン朝の国家イデオロギーに触れたものと思われる。こうしてシャーハンシャーは神々の末裔を名乗ることを止め、ザラスシュトラの庇護者の末裔を称するようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "6世紀のサーサーン朝は、ビザンツ帝国に借金をして東方の遊牧国家エフタルに朝貢するほど国力が衰えた。カワード1世(在位488年 - 496年、498年 - 531年)はマズダク教を唱えたマズダクを宰相に登用して改革を試みた。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとして大きな反発を食らい、かえって混乱を深めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "カワードの息子ホスロー1世(在位531年 - 579年)は税制・軍制改革に成功し、サーサーン朝の中興を果たした。ホスローのもとでキリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフレヴィー語注釈『ザンド』が書籍化された。さらに西方からギリシア哲学を、東方からインド哲学をゾロアスター教に取り入れ、知的水準においてもキリスト教会に対抗できる体制を整えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ホスロー1世の頃にゾロアスター教の一神教的要素(最高神としてのアフラ・マズダー、またはズルワーン)が排除され、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の対立を軸とした真の意味で二元論的な教義が確立したとみられている。ゾロアスター教神官団はこれによって悪の存在を説明でき、その点でセム的一神教に優位に立てると考えた。またズルワーン教の悲観的世界観・人間観から脱し、物質存在の肯定と楽観的な終末論が唱えられた。このような世界観は楽天的善悪二元論とも呼ばれ、台頭する一神教のキリスト教に対抗るするために、一神教要素を排除して二元論を強調したとする見方もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ソグディアナはザラスシュトラの出身地に近いと考えられており、ペルシアよりもその教えが古い形で残っていたと考えられている。また、ソグド語資料にはザラシュストラの物語が書かれており、『アヴェスター』の散逸部分のソグド語版である可能性もある。また、ソグド人はアフラ・マズダーやズルヴァーン、ミスラのほか、ヒンドゥー教の神々も祀っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "5世紀・6世紀頃、交易活動のために多数のペルシア人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へ渡り、華北の北周・北斉にゾロアスター教が広まったという。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された。「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細不明)を指導者とする教団も存在した。隋・唐の時代、薩宝(薩甫、薩保)は官職と認められ、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)に官位が授けられ、祆教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された。首都長安や洛陽・敦煌・涼州といった都市に寺院・祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったと言われている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったらしい。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有した。西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "吐火羅・舎衛などのペルシア人が古代日本にも訪れており、なんらかの形での伝来が考えられている。松本清張は古代史ミステリーの代表的長編『火の路』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。イラン学者伊藤義教は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者だったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちには唐に亡命政府を樹立したサーサーン朝からの難民などが加わったものと思われる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西域では11世紀 - 13世紀に西域のイスラム化が進行した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "宋の時代になると担い手の漢化が進み、「宋代漢民族的ゾロアスター教」ともいえる形態に変化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "祆教は、14世紀ころまで開封・鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息は掴めていない。なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市郊外に波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、言語・形質面では漢族に同化しているが、イスラム教を奉じており回族と認定されている。彼らの宗教儀式にはゾロアスター教の名残がみられるともいわれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ホスロー1世の孫・ホスロー2世(在位590年、591年 - 628年)は国力に余裕のある状態でシャーハンシャーになることができた。しかし、即位当初から部下の反逆に遭い、求心力を高めるために新たな皇帝イデオロギーを創出する必要牲に迫られた。そこで彼はキリスト教国家東ローマ帝国と戦争(602年-628年)を開始し、エルサレム攻略によってイエス・キリストが磔刑に処せられたとされる「ゴルゴタの聖十字架」を奪取し、穀倉地帯エジプトも占領。首都コンスタンティノープル対岸のカルケドンまで進軍して東ローマ帝国を滅亡寸前に追いやった。この大勝利によってシャーハンシャーの威信は絶頂を迎え、ホスローがアフラ・マズダーよりも一段上位の台座に立つレリーフが建造された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "なお、この頃はゾロアスター教からキリスト教への改宗が相次いでいた。特にゾロアスター教から軽蔑されていた商人・職人層に顕著で、職人団体の長にもキリスト教徒が多かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "東ローマ皇帝に即位したヘラクレイオス(在位610年 - 641年)は反転攻勢に出たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面に向かうことはせず、623年にタウルス山脈沿いに進軍してシーズを急襲。拝火壇は破壊され、「シーズの聖火」のみ辛うじてクテシフォン近郊に避難された。これによりサーサーン朝の威信は大いに揺らいだ。この戦争により両大国の力は消耗し周辺国では自立の動きが活性化した。国力を浪費させたホスローは皇太子によって暗殺され、内乱に陥った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝の内乱を何とか平定したホスロー2世の孫ヤズデギルド3世(在位632年 - 651年)は、633年よりアラビア半島の新興世界宗教イスラム教を奉じるアラブ人の侵攻に直面した。サーサーン朝側は長年の内戦で疲弊しており、637年には首都クテシフォンを奪われた。ヤズデギルドは税収の3割を担っていたメソポタミアを放棄し、イラン高原で体制の立て直しを図った。イラン高原に進軍したイスラム軍は連戦を重ね、ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を打ち破った。この時、落馬して捕虜となれば身代金を払って解放されるという当時の慣例に従って多くの将兵(封建領主と自由農民から成る)がわざと落馬したが、アラブ人はこのルールを知らず、必要以上に多くのペルシア軍が虐殺された。これによってサーサーン朝の軍事組織とペルシア人の経済社会システムは崩壊し、サーサーン朝はイスラム勢力に抵抗する力を失った。ヤズデギルドは逃亡中の651年にメルブで殺され、キリスト教徒シーリーンの孫であることから現地民によってキリスト教式に埋葬されたという。ヤズデギルドの息子ペーローズ3世と孫ナルシエフは唐に逃れ、疾陵(所在不明)にサーサーン朝亡命政府を置くも、アラブ人イスラム教徒に占領され、ペルシア帝国復活の望みは完全に絶たれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を余儀なくされた。改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰はおおむね維持された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝崩壊から8世紀までゾロアスター教に関する資料はほとんど残っていない。しかし8世紀になるとフーデーン・ペーショーバーイを中心とするゾロアスター教神官団たちがパフレヴィー語文献を精力的に執筆し、「パフレヴィー語文学ルネッサンス」と呼ばれる文化的発展期を迎えた。知られる限り最初のフーデーン・ペーショーバーイであるアードゥル・ファッローバイは、イラン高原全体のゾロアスター教徒を指導しており、『デーンカルド』最初の著者でもあった。彼の後継者たちも書簡集『リバーヤト』、『ブンダヒシュン』、『宗教問答集』など様々な文献を残している。10世紀になるとアラビア語文献でしかフーデーン・ペーショーバーイの名が知られなくなる。そして936年に処刑された祖父の跡を継いだエーメードを最後に、フーデーン・ペーショーバーイの記録は残っていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、9~10世紀の文献には二元論的ゾロアスター教の世界観が描かれており、5世紀まで外国語文献で度々描写されていたズルワーン崇拝に関する記述が存在しないため、様々な議論を呼んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ゾロアスター神官団を経済的に支えたのは、アルダフシール・ファッラフ-シーラーフを繋ぐ通商路であった。この地はサーサーン朝崩壊後に建てられた拝火神殿が連なり、神官団と商人たちによって共同管理されたとみられている。しかしこのルートがブワイフ朝の国家管理に置かれたことで寂れてしまい、10世紀後半の地震でシーラーフが壊滅したことによりとどめを刺された。かつての通商路には廃墟と化した拝火神殿が点在する不毛の地となり、経済的基盤を失ったゾロアスター教神官団は消滅した。それによりパフレヴィー語文学ルネッサンスは終焉を迎え、『アヴェスター』も大半が散逸した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ウマイヤ朝からアッバース朝の転換期(アッバース革命)、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "反乱を起こしたイラン人にはホラーサーン周辺で原始的ゾロアスター教や太陽崇拝、マズダク教を旗頭にすることが多く、サーサーン朝崩壊後には様々なアーリア人の諸宗教が台頭していた可能性がある。しかし9世紀半ば以降は反イスラムを掲げた反乱も起こらなくなる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブの一族と結婚したという説話を流布させた。ゴムではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された(イラン・イスラーム文化)。",
"title": "歴史"
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"text": "近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 93,
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"text": "イラン高原の政治勢力はインド亜大陸に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視しクシャトリヤから格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた",
"title": "歴史"
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"text": "サーサーン朝滅亡後、イランのゾロアスター教徒にはインド西海岸グジャラートへ退避する集団があった。彼らをパールシー(「ペルシア人」の意)という。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4、5隻の船に乗りグジャラート南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたと言われている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。彼らはイランでは多く農業を営んでいたと言われるが、移住を契機に商工業に進出し、土地の風習を採り入れてインド化していった。それに伴いグジャラート語を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教資料を読めなくなった。二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった。",
"title": "歴史"
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"text": "パールシーはカースト制に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "ヤズィーディー教は原イラン多神教と12世紀にスーフィーの指導者アディー・イブン・ムサーフィル(英語版)が作ったアダウィーア教団の教えが融合したクルド人の宗教である。クルド人は言語学的に古代アーリア人の分派であり、ザラスシュトラ以前の教えを保存していると考えられている。ヤズィーディー教の聖典には原イラン多神教とよく似た教義や物語が多く登場するが、固有名詞がイスラム風のものに入れ替わっているものが少なくない。インドにおいては口伝の中にいくつも神々の名前を登場させ、改竄ができないよう注意を払われていたが、同じアーリア系でもイランではそのような注意を欠いていたことが原因であるとされている",
"title": "歴史"
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{
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"text": "近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
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"text": "近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
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"text": "イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落した。今日、小規模の信徒共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれる。イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在する。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒とされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火神殿は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
"paragraph_id": 101,
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"text": "ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在は活用されず、観光施設として残されるにとどまる。",
"title": "現代のゾロアスター教"
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"text": "ゾロアスター教徒は近代化の進展によりムスリムと同等の法的権利を獲得したが、イスラム革命により再び隷属的地位におかれてしまう。",
"title": "現代のゾロアスター教"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "かつての世界宗教・ゾロアスター教はイスラーム教徒による宗教的迫害によって信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと後退した。現在、ゾロアスター教では信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。",
"title": "現代のゾロアスター教"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "一方で、シーア派が政治権力を握り人々を抑圧しているにもかかわらず、多くのシーア派が水面下で棄教・改宗したとする調査もある。それによればイスラム教シーア派を自認する人は3分の1に満たず、国民の8%がゾロアスター教徒を自称した(イラン政府の公式発表では2万3000人)。彼らはイラン発祥のゾロアスター教に誇りを持ち、アラブ人が持ち込んだとしてイスラム教に反発する者もいる。また、火の回りで祈りをささげるゾロアスター式の結婚式が流行したため、当局によって禁止されている(2019年)。水面下ではキリスト教や非シーア派のイスラム教も拡大しており、イラン政府の厳格な宗教政策が却ってシーア派から人々を遠ざけているとみられている。",
"title": "現代のゾロアスター教"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "現在、インドはゾロアスター教徒数の最も多い国である。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドではペルシア人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している。少数ながら商業・貿易・知的職業に就く人が多く、裕福層や政治力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似し、インド2大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないと言われる。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
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"paragraph_id": 106,
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"text": "神殿はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教共同体を作っている。神殿にはゾロアスター教徒のみが入ることができ、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての神殿にあり、ペルシアから運ばれた炎から分けられたものである。神殿内には偶像はなく、炎に礼拝する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも神殿があり、周辺に住む信者により運営されている。",
"title": "現代のゾロアスター教"
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"text": "一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
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"paragraph_id": 108,
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"text": "19世紀後半から20世紀前半にかけては上海・広州などにインド亜大陸から渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火神殿が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "1990年代後半にプロの霊感占い師幹野秀樹によって日本ゾロアスター教団が設立されたが、2017年現在その活動は確認することが出来なくなっている。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
"paragraph_id": 112,
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"text": "1990年、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルスにおいてゾロアスター教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された。ガーサーのみを聖典とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされている。",
"title": "現代のゾロアスター教"
},
{
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"text": "原始教団",
"title": "歴代指導者"
},
{
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"text": "以後、記録なし",
"title": "歴代指導者"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "大神官(サーサーン朝時代)",
"title": "歴代指導者"
},
{
"paragraph_id": 116,
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"text": "フーデーン・ペーショーバーイ(イスラム支配時代)",
"title": "歴代指導者"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "以後、記録なし",
"title": "歴代指導者"
}
] | ゾロアスター教、祆教または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教である。聖典は『アヴェスター』。 | {{特殊文字}}
{{Zoroastrianism}}
'''ゾロアスター教'''(ゾロアスターきょう、{{Lang-fa|دین زردشت}} {{unicode|Dîn-e Zardošt}}、{{Lang-de|die Lehre des Zoroaster/Zarathustra}}、{{Lang-en|Zoroastrianism}})、'''祆教'''(けんきょう、{{ピン音|xiān jiào|シェンジャオ}})または'''拝火教'''(はいかきょう)は、古代[[ペルシア]]発祥の{{要出典|歴史上最古の|date=2023年12月}}[[宗教]]である。[[聖典]]は『[[アヴェスター]]』。
== 概要 ==
[[ファイル:Fire altars.jpg|thumb|right|250px|聖火台跡(イラン)]]
[[ファイル:Chak Chak-Ardakan-Yazd-ID 2417- چکچک-پیر سبز-اردکان.jpg|250px|サムネイル|[[チャクチャク (ヤズド州)]]]]
[[イラン高原]]に住んでいた古代[[アーリア人]]は[[ミスラ]]や[[ヴァーユ]]など様々な[[神]]を[[信仰]]する[[多神教]](原イラン多神教<ref name=ADACHI>[http://www.jswaa.org/jswaa/JWAA_08_2007_011-033.pdf 原イラン多神教と嘴形注口土器]</ref>)であった<ref name=aoki30>[[#青木|青木(2008)p.30-36]]</ref>。この原イラン多神教を基に、'''[[ザラスシュトラ]]'''(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)が'''[[アフラ・マズダー]]'''を信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである<ref name=aoki31>[[#青木|青木(2008)p.31-38]]</ref>。
[[紀元前6世紀]]の[[アケメネス朝]][[ペルシア]]成立時、既に王家と王国の中枢をなす[[ペルシア人]]のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている<ref name=yamamoto>[[#山本2004|山本(2004)]]{{要ページ番号|date=2015-11-08}}</ref>。これに対し、3世紀の[[サーサーン朝]]成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある<ref name=aoki70>[[#青木|青木(2008)p.70-76]]</ref>。[[紀元前3世紀]]に成立した[[アルサケス朝]][[パルティア]]でも[[ヘレニズム]]の影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立した[[サーサーン朝]]ペルシアでは[[国教]]とされ、[[王権]]支配の正当性を支える重要な柱とみなされた<ref name=yamamoto/>。サーサーン朝期には[[聖典]]『'''[[アヴェスター]]'''』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって[[中央アジア]]・[[中国]]へも伝播していった。
[[7世紀]]後半以降、[[アラブ人]][[イスラム教徒]]の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心は[[インド]]に移った。[[17世紀]]以降、[[イギリス]]の[[アジア]]進出のなかで、[[イギリス東インド会社]]とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ<ref name=syukyo188>[[#宗教|渡辺(2005)pp.188-193]]</ref>。聖地はイラン、ヤズド近郊に位置する[[チャクチャク (ヤズド州)|チャクチャク]]<ref>{{Cite book |和書|author=田中真知|authorlink=田中真知 (作家)|year=2010 |title=決定版 世界の聖地FILE |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |page=105|isbn=9784054046702}}</ref>。
ゾロアスター教は[[光]](善)の象徴としての純粋な「[[火]]」([[アータル]]、{{lang-ae|ātar}})を尊ぶため、'''拝火教'''(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全[[神殿]]には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には[[偶像]]はなく、信者は炎に向かって礼拝する<ref name=syukyo188/>。中国では'''祆教'''(けんきょう)とも筆写され、[[唐]]代には「[[唐代三夷教|三夷教]]」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、[[アフラ・マズダー]]を信仰するところから'''マズダー教'''の呼称がある。ただし、アケメネス朝の[[宗教]]を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえば[[エミール・バンヴェニスト]])からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、[[インド亜大陸]]では「ペルシア」を意味する「[[パールシー]](パースィー、パーシー)」の語を用いて、'''パールシー教'''ないし'''パーシー教'''とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている<ref name=syukyo188/>。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。
その[[来世]]観・[[終末論]]が[[セム的一神教]]や[[仏教]]などに影響を与えたという説もある<ref name=kawase/>。[[善]][[悪]][[善悪二元論|二元論]]を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の[[一神教]]」とも言われることもある。
== 教義 ==
ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典『[[アヴェスター]]』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。
ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。
=== 儀式 ===
{{See also|ナオジョテ}}
ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのが[[ジャシャン]]である。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に[[平和]]と[[秩序]]をもたらすと考えられている<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教祭司は、[[白衣]]をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白い[[マスク]]をして儀式に臨む<ref name=syukyo188/>。ここでは清浄さが求められる。
7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「[[ナオジョテ]](ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は[[純潔]]と新生の象徴である白い[[糸]](クスティ)と神聖な[[肌着]](スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する<ref name=syukyo188/>。
=== 守護霊 ===
[[ファイル:Persepolis - carved Faravahar.JPG|left|thumb|220px|[[ペルセポリス]]にのこされたゾロアスター教の[[守護霊]]フラワシ像]]
ゾロアスター教の[[守護霊]]は、[[善]]を表し、善のために働く「[[フラワシ]]」である<ref name=syukyo188/>。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている<ref name=syukyo188/>。
=== 礼拝 ===
ゾロアスター教の[[礼拝]]は、「[[拝火神殿]]」と称される礼拝所で行われる。[[神殿]]は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、[[クスティ]]と呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる<ref name=syukyo188/>。
=== 葬送 ===
[[ファイル:Zoroastrians' Tower of Silence.jpg|thumb|200px|[[ヤズド]](イラン)の「沈黙の塔」]]
ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい[[鳥葬]]・[[風葬]]である<ref name=syukyo188/>。この葬送は、[[遺体]]を埋納せず野原などに放置し、[[風化]]ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための[[施設]]が設けられることもある<ref name=syukyo188/>。この施設は一般に「[[沈黙の塔]](ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている<ref name=syukyo188/>。ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている<ref name=syukyo188/>。
=== 最近親婚 ===
{{See also|フヴァエトヴァダタ}}
ゾロアスター教の聖典『[[アヴェスター]]』の[[ヴェンディダード]](除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる[[近親婚|最近親婚]]を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『[[アルダー・ウィーラーフの書]]』では、[[ニーシャープール]]の聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる<ref name=okada>[[#岡田|岡田(1988)p.93]]</ref>。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。
=== 善悪二元論とゾロアスター教の神々 ===
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、[[善悪二元論]]と[[終末論]]である<ref name=syukyo188/>。世界は至高神アフラ・マズダー率いる[[スプンタ・マンユ]]と悪の霊[[アンラ・マンユ]](アフリマン)、およびそれに率いられる善神群([[アムシャ・スプンタ]])と悪神群([[ダエーワ]])の両勢力が互いに争う場で、[[生命]]・[[光]]と[[死]]・[[闇]]との闘争とされる<ref name=syukyo188/>{{efn|なお、ゾロアスター教の影響を受けた[[マニ教]]も徹底した二元論的教義を有し、宇宙は光・善・[[精神]]と闇・悪・[[肉体]]の2つの[[原理]]の対立に基づき、それぞれ画然と分けられていた始原の[[宇宙]]への回帰と、マニ教独自の[[救済]]とを教義の核心とする<ref name=kamioka>[[#上岡|上岡(1988)pp.140-141]]</ref><ref name=kato>[[#加藤|加藤(2004)]]{{要ページ番号|date=2015-11-08}}</ref>。}}。
最初に2つの対立する[[霊]]があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主[[アフラ・マズダー]])が[[生命]]・[[真理]]などを選び、それに対してもう一方の対立霊([[アンラ・マンユ]])は[[死]]・虚偽を選んだ<ref name=yumi>[[#山本2006|山本(2006)]] {{要ページ番号|date=2015-11-08}}</ref>。アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された<ref name=yumi/>。対してアンラ・マンユは大地を[[砂漠]]に、大海を[[塩水]]にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、[[歴史]]を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。
==== アフラ・マズダーと善神群 ====
{{main|アフラ・マズダー|アムシャ・スプンタ}}
[[ファイル:Naqsh i Rustam. Investiture d'Ardashir 1.jpg|thumb|right|220px|アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝の[[アルダシール1世]](左)のレリーフ([[ナクシェ・ロスタム]])]]
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、[[空|天空]]・[[水]]・[[地|大地]]・[[植物]]・[[動物]]・[[人間|人]]・[[火]]の順番で創成した、世界の[[創造神|創造者]]である<ref name=syukyo188/>。
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。
* [[スプンタ・マンユ]] : 人類の守護神。「[[聖霊]]」を意味する。アフラ・マズダーと同一視されることもある<ref name=syukyo188/>。
* [[ウォフ・マナフ]] : 動物界の統治者。「善なる[[意思]]」を意味し、アフラ・マズダーの言葉を人類に伝達する役割。常に人間の行為を記録し、やがて訪れる「[[最後の審判]]」でその記録を詠みあげるとされる<ref name=syukyo188/>
* [[アシャ・ワヒシュタ]](アシャ) : 「聖なる火」の守護神。「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、[[天体]]の運行や[[季節]]の移り変わりを司る。虚偽の悪魔ドゥルジに対峙する<ref name=syukyo188/>。
* [[スプンタ・アールマティ]] : 大地の守護神。代表的な[[女神]](女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的調和や[[信仰心]]の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立する<ref name=syukyo188/>
* [[フシャスラ・ワルヤ|クシャスラ]](フシャスラ・ワルヤ) : [[金属]]・[[鉱物]]の守護神。「理想的な[[領土]]ないし[[統治]]」に由来し、「天の[[王権]]」を象徴する。アフラ・マズダーによる「善の[[王国]]」建設のために尽力する<ref name=syukyo188/>
* [[ハルワタート]] : 水の守護神。「[[完璧]]」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可分とされる<ref name=syukyo188/>
* [[アムルタート]] : 植物の守護天使。主神アフラ・マズダーの子。名は「不死」に由る。ハルワタートと力を合わせて地上に[[降雨]]をもたらす<ref name=syukyo188/>また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている
==== アンラ・マンユと悪神群 ====
----
悪神[[アエーシュマ]]の影響で成立したと考えられる。
善神と対峙する悪魔は、以下の通り。
* [[アンラ・マンユ]](別名:アフリマン、アーリマン) : ゾロアスター教における大魔王。虚偽・狂気・凶暴・[[病気]]など、あらゆる悪や害毒を創造する<ref name=syukyo188/>。
* [[アエーシュマ]] : 怒りと欲望を司り、人間を悪行にいざなう。天使[[スラオシャ]]とは対立関係にある<ref name=syukyo188/><ref group="注釈">アエーシュマは、『[[旧約聖書]]』に登場する[[アスモデウス]]の前身とも考えられる{{要出典|date=2015-11-08}}。</ref>
* [[アジ・ダハーカ]] : 3頭3口を有し、口からは毒を吐き出す。残忍でずる賢く、地上にあっては人間の姿をして善人をそそのかす悪魔である<ref name=syukyo188/>
* [[ジャヒー]] : 女悪魔で[[売春婦]]の支配者。婦人に[[月経]]の苦しみをあたえたとされる<ref name=syukyo188/>
* [[タローマティ]] : [[アヴェスター語]]で「背教」を意味する。女性天使アールマティと対立関係にある<ref name=syukyo188/>
* [[ドゥルジ]] : [[疫病]]をもたらす女の悪魔。天体運行をになうアシャとは対立関係にある<ref name=syukyo188/>
* [[パリカー]] : 女悪魔の総称。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三大パリカー」として恐怖の対象となった<ref name=syukyo188/>
=== 終末論と三徳 ===
ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して[[悪徳]]を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「[[チンワト橋]](選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女[[ダエーナー]]に導かれて<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)p.40]]</ref>楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、[[最後の審判]]で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる<ref name=syukyo188/>。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの[[徳]](三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は[[天国]]か[[地獄]]のいずれかへか旅立つと信じられた<ref name=syukyo188/>。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる<ref name=syukyo188/>。
=== 自然崇拝的要素 ===
ゾロアスター教は[[自然崇拝]]の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる<ref name=iwamura131>[[#岩村|岩村(1975)pp.131-1357]]</ref>。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた<ref name=iwamura131/>。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている<ref name=iwamura131/>
=== 教義史 ===
; 原ゾロアスター教の教義<ref name="名前なし-1"> 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)44-54ページ</ref>
: ザラスシュトラは[[アヴェスター語]]の口伝『アヴェスター』の『ガーサー』部分を遺しているが、その正確な意味は現在では失われている。また『ガーサー』は世界に秩序をもたらす呪文に過ぎず、まとまった思想内容を見出すのは困難である。以下にザラスシュトラが説いたと思われる思想を記述するが、これがどこまでザラスシュトラ本人によるものかは分からない。紀元前500年ごろ(アヴェスター語が口語として機能していたと考えられる最後の時期)、神官たちによって口伝アヴェスターが一貫したストーリーとして編集され、以下のストーリーを成立させたとする説もある
: 最高神[[アフラ・マズダー]]から善の霊[[スプンタ・マンユ]]と悪の霊[[アンラ・マンユ]]が生まれ、相争う。アフラ・マズダーは、混沌とした宇宙に秩序をもたらそうと苦労する存在として描かれ、スペンタとアンラの争いも傍観しているだけである。原イラン多神教の神々は善側と悪側に再編され、それぞれスペンタとアンラに仕える存在とさせられた。人間はそのどちらかにつく[[自由意志]]であり、善につけば天国、悪に就けば地獄へ死後向かうと定められた。
: なお、ザラスシュトラはアフラ・マズダーのみを崇める[[拝一神教]]的な教えを説いたが、弟子たちによって原イラン多神教の神々が取り入れられたとする説もある<ref name=aoki44/>。
; マゴス神官団の影響([[#マゴス神官団の台頭|後述]])
: イラン高原に住んでいた[[メディア王国]]では、[[マゴス族]](マゴス神官団)が祭儀を担っていた。[[ヘロドトス]]や[[ストラボン]]によるとマゴスは鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物の殺害、最近親婚など独自の儀式を持っていた。これらの教義がゾロアスター教に混入した可能性が指摘されている
; ズルワーン教の教義([[ズルワーン教|参照]])
: サーサーン朝時代には狭義のゾロアスター教(ザラスシュトラの教え)が国教となるが、外国語資料では[[ズルワーン]]が最高神として描かれる。アフラ・マズダーはスペンタ・マンユと混同し、善神オフルマズドとして悪神アフレマン(アンラ・マンユ)と同格になった。ズルワーン教には[[ヘレニズム]]やインド思想の影響が指摘されている。
; 二元論的ゾロアスター教の教義<ref name=aoki185> 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)185-220ページ</ref>
: 6~9世紀、ゾロアスター教から中立な最高神が消滅し、善なる最高神オフルマズドと悪の最高神アフレマンが並立する純粋な二元論が成立する。この教義は豊富なパフレヴィー語資料によって現代まで詳細が伝わっており、善悪二元論として一般的にイメージされるゾロアスター教もこれに近いと思われる。
: また、近年ではマニ教から二元論を取り入れたとする説もある<ref>[[青木健 (宗教学者)|青木健]]『[[マニ教]]』(講談社、2010年)158-163ページ。</ref>
== 聖典 ==
{{main|アヴェスター}}
ゾロアスター教の聖典は『[[アヴェスター]]』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する<ref name=syukyo188/><ref name=kawase/>。書籍化にあたり、古代[[アヴェスター語]]を[[パフラヴィー文字]]に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字や[[ギリシア文字]]を借用して、新たに'''[[アヴェスター文字]]'''が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのは[[パフラヴィー語]]の後塵を拝した<ref name=aoki107/>。しかし、『[[聖書]]』や『[[クルアーン]]』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある<ref name=aoki107>{{Cite book |和書 |author=青木健|authorlink=青木健 (宗教学者) |year=2008 |month=3 |title=ゾロアスター教 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |isbn=4062584085 |ref=青木 }}</ref>。
[[メソポタミア神話]]・[[エジプト神話]]・[[ギリシア神話]]の信仰が失われた今日、ゾロアスター教は[[ヒンドゥー教]]と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる<ref name=iwamura131/>。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった<ref name=aoki107/>。
== 歴史 ==
=== 資料 ===
ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する<ref name=青木1>{{Cite journal|和書|author=青木健 |url=https://doi.org/10.15083/00026906 |title=ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究1 : 『ウラマー・イェ・イスラーム』の写本蒐集と校訂翻訳 |journal=東洋文化研究所紀要 |ISSN=05638089 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |year=2010 |month=dec |volume=158 |pages=166-78 |naid=120002709997 |doi=10.15083/00026906}}</ref>
* [[#原ゾロアスター教|原ゾロアスター教]]時代(紀元前1000年前後数世紀) - 原始教団によって保存され、6世紀に文字化された『アヴェスター』(アヴェスター語)
* [[ズルワーン教]]時代(3〜5世紀) - 外部資料([[パフレヴィー語]]・[[アルメニア語]]・[[シリア語]]・[[アラビア語]])とわずかな内部資料(ペルシア語)
* 二元論的ゾロアスター教時代(6〜10世紀) - 豊富なパフレヴィー語資料
このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる<ref name=青木1/>
=== 分類 ===
アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている<ref name=aoki70/><ref name=aoki2007/><ref name=ADACHI/>。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+崇拝対象による分類
! 名称 !! 崇拝対象 !! 備考 !!出典
|-
! 原イラン多神教
| [[アフラ・マズダー]]<br>[[ミスラ]]<br>[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]など || 古代アーリア人によって信仰された宗教<br>マズダー教・原ゾロアスター教などの源流として想定されている || [[#原イラン多神教|後述]]
|-
! マズダー教
| アフラ・マズダー || アーリア人の宗教のうち、特にアフラ・マズダーを崇拝した宗教<br>原ゾロアスター教の源流としても想定される<br>アケメネス朝の国教とする説もある || <ref name=ADACHI/>
|-
! ミスラ教
| ミスラ || アーリア人の宗教のうち、特にミスラを崇拝した宗教<br>パルティア・アルメニアなどの国教とする説もある || [[#ミスラ崇拝の台頭|後述]]
|-
! [[ズルワーン教]]
| [[ズルワーン]] || アーリア人の宗教のうち、特にズルワーンを最高神として崇拝した宗教<br>サーサーン朝の国教とする説もある ||
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+地理・時代・民族による分類
! 名称 !! 崇拝対象 !! 備考 !!出典
|-
! 原ゾロアスター教
| アフラ・マズダー || ザラスシュトラによって開かれたゾロアスター教のルーツ<br>ナオラタ部族国家の国教<br>'''狭義のゾロアスター教'''はこの流れを汲む宗派のみを指す || [[#原ゾロアスター教|後述]]
|-
! [[アケメネス朝]]の国教
| アフラ・マズダー || アケメネス家に信仰されたマズダー教<br>狭義のゾロアスター教であるかは議論がある || [[#マズダー崇拝の台頭|後述]]
|-
! インドのイラン系宗教
| ミヒラ(ミスラ?)など || インドのイラン系アーリア人によって信仰された宗教<br>パールシー以前2、3の集団について記録が残っている || [[#パールシー|後述]]
|-
! [[パルティア]]の国教<br>パルティア的ゾロアスター教
| ミスラなど? || [[アルサケス家]]に信仰されたアーリア人の宗教<br>アルメニアの国教と近縁とされる<br>狭義のゾロアスター教であるかは議論がある || rowspan="2" |[[#ミスラ崇拝の台頭|後述]]
|-
! [[アルメニア王国|アルメニア]]の国教<br>アルメニア的ゾロアスター教
| ミスラなど || 前1世紀 - 後4世紀にアルメニアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教<br>ミスラの地位が高いため、ミスラ教ともされる<br>アルメニアの[[キリスト教]]化に伴い衰退
|-
! ミヒラ教
| ミヒラ(ミスラ?) || アーリア系[[遊牧国家]][[エフタル]]の王[[インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏|ミヒラクラ]]が信仰した宗教<br>太陽崇拝を伴うミスラ崇拝と思われる<br>インドに残った集団はガンダーラ・ブラーフマガと呼ばれた || <ref name=aoki76>[[#青木|青木(2008)p.76-80]]</ref>
|-
! [[サーサーン朝]]の国教<br>ペルシア的ゾロアスター教
| アフラ・マズダー || [[サーサーン家]]に信仰された狭義のゾロアスター教<br>ペルシアのイスラム化に伴い衰退 || [[#ゾロアスター教の国教化|後述]]
|-
! 二元論的ゾロアスター教
| オフルマズド || 一神教的要素を排除したゾロアスター教<br>善の最高神オフルマズド(アフラ・マズダー)を崇める<br>サーサーン朝後期に成立したと思われる || [[#善悪二元論とゾロアスター教の神々|後述]]
|-
! メソポタミア的ゾロアスター教
| ズール(ズルワーン?) || サーサーン朝期に[[メソポタミア]]で信仰されたと思われるゾロアスター教(ズルワーン教?)<br>ズールなる神に生贄を捧げる ||
|-
! ホラーサーン的ゾロアスター教
| || イスラム統治時代初期に[[ホラーサーン]]で信仰されたと思われるゾロアスター教<br>預言者も啓典もないとされるため、二元論的ゾロアスター教とは異なる || {{refnest|group="注釈"|イスラム統治時代初期の[[ホラーサーン]]では、イスラム教との比較で「我々には理性的に語る啓典も神から遣わされた預者者もない」と語るゾロアスター教徒の[[ヘラート]]貴族の発言が残されている(パフレヴィー語文献ではザラスシュトラが預言者とされている)。そしてホラーサーンから原ゾロアスター教とマゴス神官団の教えを峻別し、後者を禁じたベフ・アーフリードが登場する。さらに彼は『アヴェスター』の存在を無視して、それとは別の聖典を独自に書こうとしていた。これらのことから、『アヴェスター』を軸とした国教たるペルシア的ゾロアスター教はイラン高原南部でのみでしか浸透しておらず、ホラーサーンには独自の「ホラーサーン的ゾロアスター教」が存在していた可能性が指摘されている。<ref name=aoki2007/>。}}
|-
! [[パールシー]]
| アフラ・マズダー|| イスラムの支配を逃れインドに移ったゾロアスター教徒のグループ<br>狭義のゾロアスター教の国教の流れを汲む || [[#パールシー|後述]]
|-
! ソグド的ゾロアスター教
| || [[ソグド人]]に信仰されたアーリア人の宗教<br>中国では'''祆教'''と呼ばれた<br>中央アジアから唐代の中国まで広がった<br>中央アジアのイスラム化により衰退 || [[#ソグド的ゾロアスター教|後述]]
|-
! 宋代漢民族的ゾロアスター教
| || ソグド的ゾロアスター教が宋代までに漢化したもの<br>引き続き祆教と呼ばれた || [[#祆教|後述]]
|-
! クルド人的ゾロアスター教
| ||クルド人に信仰されていたアーリア人の宗教<br>詳細不明<br>後にイスラム教と混濁して[[ヤズィーディー]]に変化する || [[#ヤズィーディー教|後述]]
|}
=== 原イラン多神教 ===
{{also|イラン神話#古代アーリア人の神話}}
ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教('''原イラン多神教''')の祭司として『アヴェスター』で描かれる。この宗教は、「[[インド・イラン語派|インド・イラン人]]の宗教」や「[[アーリア人]]の宗教」、「[[ヴェーダ]]型の多神教」、「先[[ガーサー]]の宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、[[多神教]]で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される<ref name=ADACHI/>。そして「三大アフラ」として叡智の神[[アフラ・マズダー]]、火の神[[ミスラ]]、水の神[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]が存在していた{{refnest|group="注釈"|ゾロアスター教の至高神アフラ・マズダーは、[[バラモン教]]の聖典『[[リグ・ヴェーダ]]』で「アスラ(Asura)=主」と記された神で、『リグ・ヴェーダ』の詩句では、このミスラとヴァルナの下位の「主」は、次のような言葉で語りかけている。「''あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する''」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7)}}{{refnest|group="注釈"|青木健は、アフラ・マズダーをザラスシュトラが創案した神格であると述べている<ref name=aoki41>[[#青木|青木(2008)p.41]]</ref>。}}。
[[メアリー・ボイス]]によれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも[[石器時代]]に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)pp.14-15]]</ref>。そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。
「[[異教時代]]」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教[[信仰告白]]「[[フラワラーネ]]」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた{{refnest|group="注釈"|ヤスナに記されたフラワラーネは「''私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワを拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタを礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます''」というものである<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)pp.50-52]]。原出典は『アヴェスター』「ヤスナ」12:1</ref>。}}。すなわち、
# アフラ・マズダーを礼拝すること
# ゾロアスターの信奉者であること
# 好戦的で不道徳な神[[ダエーワ]]と敵対すること
# アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在[[アムシャ・スプンタ]](「聖なる不死者」)を礼拝すること
# すべての善をアフラ・マズダーに帰すること
である。
この5つに加え、[[アフラ・マズダー]]を[[創造主]]と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。{{refnest|group="注釈"|ボイスによれば、ゾロアスター教信仰告白において、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、異教時代のイラン人にとって創造主とみなされていたとは考えられない、という。もし異教時代のイラン人が、どれか1つの神に創造的な活動を担わせようとするならば、その神は三大アフラのなかでおそらくは最も遠く離れてある「叡智の主」の命令を実行する神ヴァルナであったろうというのがボイスの見解である。さらに、このことがゾロアスターの教義のなかでも際立った特徴のひとつであったとも指摘している<ref name="名前なし-2">[[#ボイス|ボイス(1983)p.52]]</ref>。}}。
原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教がザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝した'''マズダー教'''が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある<ref name=ADACHI/>
=== 原ゾロアスター教 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small; float:right"
|+原ゾロアスター教の最高神と二元論<ref name=青木3>{{Cite journal|和書|author=青木健 |url=https://doi.org/10.15083/00026882 |title=ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究3 : 『ウラマー・イェ・イスラーム』の写本蒐集と校訂翻訳 |journal=東洋文化研究所紀要 |ISSN=0563-8089 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |year=2011 |month=dec |volume=160 |pages=224-127 |naid=40019157018 |doi=10.15083/00026882}}</ref>
|-
|
<br>
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1 | | |,|-| BBB | BBB=善の霊[[スプンタ・マンユ]]}}
{{familytree|border=1 | AAA | | AAA=叡智の神'''[[アフラ・マズダー]]'''}}
{{familytree|border=1 | | |`|-| CCC | CCC=悪の霊[[アンラ・マンユ]]}}
{{familytree/end}}
<br>'''太字'''は最高神
|-
|中立的なアフラ・マズダーが宇宙を秩序化<br>その下で善の霊と悪の霊が争う
|}
{{main|ザラスシュトラ}}
[[ファイル:CIMRM 44-Mithraic pater (Dura Europos).jpg|right|thumb|120px|ザラスシュトラの肖像([[3世紀]])。「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その生涯は今となっては不明な部分も多い<ref name=syukyo188/><ref name=kawase>[[#川瀬|川瀬(2002)pp.58-59]]</ref>]]
ゾロアスター教の開祖'''ザラスシュトラ・スピターマ'''やゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない<ref name=kawase>[[#川瀬|川瀬(2002)pp.58-59]]</ref>。ザラスシュトラの誕生地は、[[アゼルバイジャン]]説・[[スィースターン・バルーチェスターン州|スィースターン]]説・[[中央アジア]]説などがある。活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した<ref name=ADACHI/>。
ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た<ref name=aoki38>[[#青木|青木(2008)p.38-40]]</ref>。彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた<ref name=yumi/>。このような世界観は、'''[[一神教]]的[[二元論]]'''とも言われる<ref>[[#青木2020|青木(2020)]]170-173p</ref>
ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている<ref name=aoki38/>。ゾロアスター教発祥の地と信じられている[[アフガニスタン]]北部の古代[[バルフ]](Balkh、[[ダリー語]]・[[ペルシア語]]:{{Lang|fa|بلخ}})に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。
ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった<ref name=aoki44>[[#青木|青木(2008)p.44-46]]</ref>。
その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない<ref name=aoki102>[[#青木|青木(2008)p.102]]</ref>。
=== アーリア人の諸宗教の展開 ===
他宗教への影響と同様、ゾロアスター教の[[政治]]への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝下でゾロアスター教は常に[[国教]]的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している<ref name=aoki104>[[#青木|青木(2008)pp.104-105]]</ref>。
==== マゴス神官団の台頭 ====
[[ギリシア]]の歴史家[[ヘロドトス]]によるとアーリア系の'''[[メディア王国]]'''(前715年頃 - 前550年頃)には'''[[マギ|マゴス族]]'''とよばれる神官たちがいた。彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物([[カエル]]・[[サソリ]]・[[ヘビ]]など)の殺害、最近親婚、[[牛]]の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。非[[インド・ヨーロッパ語族]]的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスは[[アゼルバイジャン]]付近の土着民族であったとする説もある。東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、[[爬虫類]]殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭も[[羊]]から牛に転換したとみられている<ref name="名前なし-1"/>。
メディア王家の血を引くペルシア王[[キュロス2世]](大王、在位前550年 - 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、'''[[アケメネス朝]][[ペルシア]]'''(前550年-前330年)を建国した。キュロスは[[小アジア]]から[[中央アジア]]に至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原とメソポタミア平原の両方を支配した<ref> 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)44-47ページ</ref>。
キュロス王家の信仰は不明なところが多い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇や[[パサルガダエ|キュロスの墓]]は[[バビロニア]]的要素が含まれているとされる。一方、キュロスの息子[[カンビュセス2世]](在位前529年頃 - 前522年)は実姉[[アトッサ]]や実妹[[ロクサーナ (キュロス2世の娘)|ロクサーナ]]と近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。また「マゴス神官団ガウマータ」が王族[[スメルディス]]に成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある<ref> 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)61-63ページ</ref>。
ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスが[[バビロン]]を征服した[[紀元前536年]]には、[[バビロン捕囚]]にあっていたユダヤ人たちを解放している。また、進んだ文明を持つメソポタミアや[[エジプト]]の信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる<ref> 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)63ページ</ref>。このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。この結果、[[シンクレティズム]]が促されてユダヤ教[[エッセネ派]]が隆盛し、[[キリスト教]]に継承されたとも言われる{{refnest|group="注釈"|ボイスによれば、キュロスの宗教的寛容策により、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)p.74]]</ref>。ただし、ボイスが自著でその前提条件に次の点を挙げた。ザラスシュトラ出生が紀元前1500年~1200年であること、キュロスがゾロアスター教徒であったこと、そしてこの時既にゾロアスター教救済主思想が成立していたことである<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)p.4およびpp.72-76]]</ref>。ただし、こうした前提条件は、見解の相違するところでもある。}}。アケメネス朝期のギリシアにおける[[ピタゴラス教団]]・[[オルフェウス教]]、さらにペルシャ高原東部では[[大乗仏教]]伝播にともなう[[弥勒菩薩]]信仰と結びつき、[[マニ教]]もゾロアスター教の影響を強く受けたとされる<ref group="注釈">こうした影響に関する最新の論文として Werner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, ''Journal of the Royal Asiatic Society '' vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。</ref>。[[イスラム教]]もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、[[啓典]]『[[クルアーン]]』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。
==== マズダー崇拝の台頭 ====
[[ファイル:Darius I the Great's inscription.jpg|thumb|right|220px|[[ダレイオス1世]]による[[ベヒストゥン碑文]]。自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている]]
キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、[[ダレイオス1世]](在位前522年 - 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)56‐63ページ</ref>
ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラや[[エラム]]・[[メソポタミア]]の神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)66-69ページ</ref>
ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
*ダレイオス1世は多くの[[碑文]]を残し、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と神権授受を意味する告知を記した<ref name=kawase/><ref name=yumi/><ref name=h59>[[#ハーツ|P・R.ハーツ(2004)p.59]]</ref>。
*[[ペルセポリス]]の宮殿にはアフラ・マズダーの[[シンボル]]やフラワシを刻んだ浮彫彫刻([[レリーフ]])が施された<ref name=kawase/><ref name=h59/>。
*「聖なる火」の祭壇の[[遺跡]]が多数存在する<ref name=kawase/>。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
* アケメネス朝の遺構・遺物は、ダレイオス1世がアフラ・マズダーを信仰する「マズダー教徒」だった証拠にはなっても、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない<ref name=kawase/>{{refnest|group="注釈"|ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある<ref name="名前なし-2"/>。マズダーはザラスシュトラ以前からアーリア人に信仰されており、マズダー崇拝だけではゾロアスター教徒と断定できない。またP・R.ハーツは、著書『ゾロアスター教』で、ダレイオス1世をゾロアスター教徒とみなしている。しかし、訳者の奥西俊介は「訳者あとがき」で次のように指摘している。現ゾロアスター教徒が自分たちの守護霊フラワシの像とみなしている有翼円盤人物像は、アケメネス朝の遺跡で多く確認される。しかし、多くの研究者は有翼円盤人物像をアフラ・マズダー像とみなしており、ダレイオス1世がマズダー信者だったとしても、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない<ref>[[#ハーツ|P・R.ハーツ(2004)pp.171-172]]</ref>。}}。
* 火の祭壇は、ザラスシュトラ以前から原イラン多神教で用いられる{{refnest|group="注釈"|ボイスは、ザラスシュトラ以前よりイラン人祭司は神々に対して礼拝式を捧げたが、火と水に対し決まった供物を捧げる儀礼自体は変わらなかったのではないかとしている<ref>[[#ボイス|ボイス(1983)p.18]]</ref>。}}。
* アケメネス朝の古代ペルシア語の碑文にはザラスシュトラの名が1度も現れない<ref>[[#ハーツ|P・R.ハーツ、奥西訳(2004)「訳者あとがき」pp.171-172]]</ref>
ダレイオス1世の孫・[[アルタクセルクセス1世]](在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる<ref>青木健『ペルシア帝国』([[講談社]]、2020年)76-77ページ。</ref>。この政策は[[アルタクセルクセス2世]](在位前404年 - 前358年)の頃に変更され、[[アナーヒター]]やミスラへの崇拝も奨励されるようになった<ref>前掲『ペルシア帝国』93ページ</ref>。[[アルタクセルクセス3世]](在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された<ref>前掲『ペルシア帝国』98ページ。</ref>。
なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は[[偶像]]をはじめ、神殿や[[祭壇]]を建てるという風習をもたない」と記している<ref name=yumi/>。しかし、[[古代メソポタミア]]の[[イシュタル]]信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまで[[竈]]の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、[[ギリシア文明]]・[[インド文明]]の影響とする説もある<ref name=yama>[[#山下|山下(2007)]] {{要ページ番号|date=2015-11-08}}</ref>)。
==== ミスラ崇拝の台頭 ====
[[ファイル:Coin of Mithradates I of Parthia, Seleucia mint.jpg|thumb|right|220px|名前にミスラを含むパルティア大王、[[ミトラダテス1世]]のコイン]]
{{See also|ミスラ|パルティア#パルティア時代のゾロアスター教に関する諸見解|アルメニア神話}}
紀元前4世紀後半、[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]](大王、在位前336年 - 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。また[[ギリシア神話]]とアーリア人の宗教が混濁し、[[ゼウス]]とアフラ・マズダー、[[アポロン]]とミスラなどが同一視された。大王の死後、その王国は四分五裂し、[[セレウコス1世]]によって[[小アジア]]からペルシアに至る[[ヘレニズム]]国家[[セレウコス朝]]シリア(前312年-前63年)が建国された。セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア人政治勢力の後退の歴史でもあった。なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)74-80ページ。</ref>。
[[紀元前3世紀]]、ペルシア人と同系であるパルティア人の族長[[アルサケス1世]]がセレウコス朝の支配から自立し、[[ニサ (トルクメニスタン)|ミフルダートキルト]]周辺に'''[[アルサケス朝]][[パルティア]]'''([[紀元前247年]]-[[226年|紀元後226年]])を建国した。5代目[[ミトラダテス1世]]のときに東西に領土を拡げ、[[共和政ローマ]]の侵攻や[[マカバイ戦争]]に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だった[[セレウキア]]の対岸に新首都[[クテシフォン]]を建設した<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)76-84ページ。</ref>
パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる<ref name=aoki88>[[#青木|青木(2008)pp.88-93]]</ref>。アルサケス朝には[[ティリダテス]]、ミトラダデス、[[アルタバノス]]など、それぞれ「[[水星]]」、「ミフル([[ミスラ]]神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)85-87ページ。</ref>
紀元前1世紀以降、アナトリアの[[カッパドキア]]や[[ニーデ|ティアナ]]などで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込み[[ミトラス教]]に発展した<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)92-95ページ。</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; float:right"
|+アルメニア的ゾロアスター教の神々
|-
|
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1 | PPP |y|アナヒット| PPP=すべての父[[アラマズド]]<br>([[アフラ・マズダー]])|アナヒット=貴婦人[[アナヒット]]<br>([[アナーヒター]])}}
{{familytree|border=1 | |,|-|^|.|}}
{{familytree|border=1 | RRR | | QQQ |QQQ='''ミフル'''<br>([[ミスラ]])|RRR=ナナイ<br>(ナネー) }}
<br>
{{familytree/end}}
'''太字'''は最高神
|-
|神々の家族関係が強調<br>特にミフルが崇められた
|}
パルティアの宗教が隣国'''[[アルメニア王国]]'''では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていた[[アラマズド]](アフラ・マズダー)と[[アナヒット]](アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王[[ティリダテス1世 (アルメニア王)|ティリダテス1世]](在位52年 – 58年、62年 - 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながら[[ローマ皇帝]][[ネロ]](在位54年 - 68年)と謁見したとき、跪いて[[ギリシア語]]でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末には[[ヴァン湖]]に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。[[ヴァハグン]](ウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった<ref name=aoki88/>。
[[青木健 (宗教学者)|青木健]]は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている<ref name=aoki88/>。青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。特に宗主国[[ローマ帝国|ローマ]]の皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「'''ミスラ教'''」と称すべき信仰であったと論じている<ref name=aoki88/>。
4世紀にアルメニアはキリスト教[[合性論]]派([[アルメニア使徒教会]])を国教化して、アルメニア的ゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている<ref name=aoki88/>。
==== ゾロアスター教の国教化 ====
[[ファイル:Tour nagsh-e-rostam iran.jpg|thumb|160px|right|[[ナクシェ・ロスタム]](イラン)に所在する「{{仮リンク|ゾロアスターのカアバ|en|Ka'ba-i Zartosht}}」と称される[[遺構]]。建物の用途は不明だが、下部の壁面に[[カルティール]]によって書かれた長大な[[パフラヴィー語]](中世ペルシア語)碑文がある]]
ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であった[[サーサーン]]は、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子[[パーパク]]はパルティアに反乱を起こし、さらにその息子の[[アルダシール1世]](在位226年 - 242年)はクテシフォンを征服して'''[[サーサーン朝]]ペルシア'''([[226年]]-[[651年]])を建国した<ref name=aoki2006>{{Cite journal|和書|author=青木健 |title=サーサーン王朝の皇帝イデオロギーとゾロアスター敎--アードゥル・グシュナスプ聖火とタフテ・タクディース玉座の檢討から (特集 宗敎と權力) |url=https://hdl.handle.net/2433/138201 |journal=東洋史研究 |publisher=東洋史研究会 |year=2006 |month=dec |volume=65 |issue=3 |pages=614-583 |naid=120002871249 |doi=10.14989/138201 |issn=03869059}}</ref>。。
サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に[[正統性]]を求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語は[[パフラヴィー語]]に変質し、[[古代ペルシア語]]の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。この時代、[[隊商]]などペルシア商人の活発な活動で、[[中央アジア]]・[[中国]]へゾロアスター教が伝播し、西方に対しては[[ローマ帝国]]など[[地中海]]世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。
サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある<ref>前掲『ペルシア帝国』151-155ページ。</ref>。260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市[[エデッサ (メソポタミア)|エデッサ]]を奪い取り、国内に多くの[[キリスト教徒]]を抱えた。キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。<ref name="名前なし-3">青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。</ref>。このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでの[[ミラノ勅令|キリスト教公認]])以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。
==== 皇帝崇拝の台頭 ====
[[Image:Naqsh-e Rajab - Kartir inscription.jpg|thumb|right|200px|ナクシェ・ラジャブ磨崖レリーフのカルティールの肖像]]
[[ファイル:Head of king Met 65.126.jpg|thumb|200px|right|70年に渡り君臨したシャープール2世の胸像]]
サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族の[[シャーハンシャー]]、神々の末裔」と刻んだコインを発行した<ref>前掲『ペルシア帝国』129-134ページ。</ref>ことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている<ref>前掲『ペルシア帝国』241ページ。</ref>。
アルダシール1世と大神官[[タンサール]]の元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する[[貨幣]]の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される<ref name=kawase/>。
アルダシールの息子・[[シャープール1世]](在位242年 - 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教・キリスト教・[[マンダ教]]・[[グノーシス主義]]といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアのセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後に[[マニ教]]と呼ばれる)の教祖[[マニ (預言者)|マニ]]を招き、彼らの宗教活動を容認した<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)150-153ページ。</ref>。
サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖[[レリーフ]]を造り、[[叙任]]の儀式を行っていた<ref name=aoki2006/>。[[バハラーム1世]]のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。[[バハラーム2世]]の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ([[ナルセ1世]])ら[[サーサーン家]]の面々と並び、神官に過ぎない[[カルティール]]が、それもかなり高い席次で描かれていた。このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒・仏教徒・ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教・ギリシア系キリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない<ref>前掲『ペルシア帝国』158-161ページ。</ref>。
ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた<ref>前掲『ペルシア帝国』162ページ。</ref>。
カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。9代目[[シャープール2世]](在位309年 - 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝[[アヴェスター]]の結集と教義の確立が行われた<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)179ページ。</ref>。また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている<ref>前掲『ペルシア帝国』178-181ページ。</ref>。
==== ズルワーン崇拝の台頭 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small; float:right"
|+ゾロアスター教ズルワーン主義の最高神と二元論<ref name=青木3/>
|-
|
<br>
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1 | | |,|-| BBB | |BBB=善神オフルマズド<br>{{small|([[アフラ・マズダー]])}}}}
{{familytree|border=1 | AAA | | AAA=時間の神'''[[ズルワーン]]'''}}
{{familytree|border=1 | | |`|-| CCC | CCC=悪神アフレマン<br>{{small|([[アンラ・マンユ]])}}}}
{{familytree/end}}
<br>'''太字'''は最高神
|-
|アフラ・マズダーが善神に降格<br>中立的な最高神ズルワーンのもと善神と悪神が争う
|}
{{See also|ズルワーン教}}
ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神[[ズルワーン]]が崇拝されていた。この'''[[ズルワーン教]]'''と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。インド思想[[カーラ]]、ギリシア思想[[アイオーン]]の影響も指摘される。完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する<ref name="名前なし-3"/>。
[[ジャーヒリーヤ]]時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアのゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰された[[魚]]の神、またはズルワーンがアラビア語で省略された形であるとみられる。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミア的ゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある<ref name=aoki2007>青木健、「[https://doi.org/10.20716/rsjars.81.3_653 イスラーム文献が伝える多様なゾロアスター教像: 六-八世紀のアラビア語資料のゾロアスター教研究への応用]」『宗教研究』 2007年 81巻 3号 p.653-674 , {{doi|10.20716/rsjars.81.3_653}} ,日本宗教学会</ref>。
==== ザラスシュトラ伝説の台頭 ====
[[File:Kushano-Sasanid realm based on coinage mint locations.jpg|thumb|300px|サーサーン朝(橙)とクシャーノ・サーサーン朝(青、紫)の領域]]
{{See also|ヤズデギルド2世}}
サーサーン朝の分家'''[[クシャーノ・サーサーン朝]]'''では、シャーのバハラーム2世(在位360年頃)が「カイ・バハラーム・クーシャン・シャー」と刻んだコインを発行していた。「カイ」とは、『アヴェスター』に関する伝承に登場するザラスシュトラの庇護者カウィ王朝の中世ペルシア語である。このことから、クシャーノ・サーサーン朝では、ザラスシュトラ伝説を王権の正当性を支えるイデオロギーとして採用したと考えられている<ref name="名前なし-4">前掲『ペルシア帝国』203-206ページ。</ref>。
その後、本家サーサーン朝の[[ヤズデギルド2世]](在位438年 - 457年)も「マズダー崇拝の神たるカイ」と銘打ったコインを発行している。ヤズデギルドは東方遠征を繰り返したり、[[北魏]](中国)に使節団を送って貿易を促進しようとするなど東方への関心が強かった。こうした中で、中央アジアに残されたザラスシュトラ伝説やクシャーノ・サーサーン朝の国家イデオロギーに触れたものと思われる。こうしてシャーハンシャーは神々の末裔を名乗ることを止め、ザラスシュトラの庇護者の末裔を称するようになった<ref name="名前なし-4"/>。
==== 二元論の確立 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small; float:right"
|+二元論的ゾロアスター教における最高神と二元論<ref name=青木3/>
|-
|
<br>
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1 | |,|-| BBB | |BBB=善の最高神'''オフルマズド'''<br>{{small|(元は[[アフラ・マズダー]]+[[ズルワーン]])}}}}
{{familytree|border=1 | |!| }}
{{familytree|border=1 | |`|-| CCC | CCC=悪の最高神'''アフレマン'''<br>{{small|(元は[[アンラ・マンユ]])}}}}
{{familytree/end}}
<br>'''太字'''は最高神
|-
|中立的な最高神が消滅<br>善の最高神と悪の最高神が争う
|}
6世紀のサーサーン朝は、ビザンツ帝国に借金をして東方の遊牧国家[[エフタル]]に朝貢するほど国力が衰えた。[[カワード1世]](在位488年 - 496年、498年 - 531年)は[[マズダク教]]を唱えた[[マズダク]]を宰相に登用して改革を試みた。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとして大きな反発を食らい、かえって混乱を深めた<ref name=aoki157/>。
カワードの息子[[ホスロー1世]](在位531年 - 579年)は税制・軍制改革に成功し、サーサーン朝の中興を果たした。ホスローのもとでキリスト教パフレヴィー文字を参考に[[アヴェスター文字]]が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフレヴィー語注釈『ザンド』が書籍化された。さらに西方からギリシア哲学を、東方からインド哲学をゾロアスター教に取り入れ、知的水準においてもキリスト教会に対抗できる体制を整えた<ref name=aoki157>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)157-168ページ。</ref>。
ホスロー1世の頃にゾロアスター教の一神教的要素(最高神としてのアフラ・マズダー、またはズルワーン)が排除され、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の対立を軸とした真の意味で二元論的な教義が確立したとみられている。ゾロアスター教神官団はこれによって悪の存在を説明でき、その点で[[セム的一神教]]に優位に立てると考えた。またズルワーン教の悲観的世界観・人間観から脱し、物質存在の肯定と楽観的な終末論が唱えられた<ref name=青木1/>。このような世界観は'''楽天的善悪二元論'''とも呼ばれ、台頭する一神教のキリスト教に対抗るするために、一神教要素を排除して二元論を強調したとする見方もある<ref>[[#青木2020|青木(2020)]]179-181p</ref>。
=== 東方での展開 ===
==== ソグド的ゾロアスター教 ====
[[ソグディアナ]]はザラスシュトラの出身地に近いと考えられており、ペルシアよりもその教えが古い形で残っていたと考えられている。また、ソグド語資料にはザラシュストラの物語が書かれており、『アヴェスター』の散逸部分のソグド語版である可能性もある。また、ソグド人はアフラ・マズダーやズルヴァーン、ミスラのほか、[[ヒンドゥー教]]の神々も祀っていた<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)220-235ページ。</ref>。
==== 祆教 ====
{{main|唐代三夷教}}
[[File:Sogdian-Zoroastrian Deities, Tunhwang.jpg|thumb|敦煌出土の{{仮リンク|粟特女神白画|label=祆教の女神像|zh-yue|粟特神祇白畫}}]]
[[5世紀]]・[[6世紀]]頃、[[交易]]活動のために多数の[[ペルシア人]]が[[トルキスタン]]から現在の[[甘粛省]]を経て中国へ渡り、[[華北]]の[[北周]]・[[北斉]]にゾロアスター教が広まったという<ref name=iwamura>[[#岩村|岩村(1975)pp.171-174]]</ref>。信者は相当数いたものと思われ、[[唐]]代には「'''祆教'''(けんきょう)」と称された<ref name=iwamura/>。「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細不明)を指導者とする教団も存在した<ref name=iwamura/>。[[隋]]・[[唐]]の時代、薩宝(薩甫、薩保)は[[官職]]と認められ、ペルシア人やイラン系の西域出身者([[ソグド人]]など)に官位が授けられ、祆教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された<ref name=iwamura/>。首都[[長安]]や[[洛陽]]・[[敦煌市|敦煌]]・[[涼州]]といった[[都市]]に[[寺院]]・[[祠]]が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の[[祆祠]](けんし)があったと言われている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったらしい<ref name=yamamoto/>。
唐においては、[[景教]]([[ネストリウス派]][[キリスト教]])・[[マニ教]]とあわせて[[三夷教]]、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有した。西北部に居住する[[トルコ族]]の国[[回鶻|ウイグル]](回鶻、現在の[[新疆ウイグル自治区]])では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰された。
[[吐火羅]]・[[舎衛]]などのペルシア人が古代日本にも訪れており、なんらかの形での伝来が考えられている。[[松本清張]]は古代史ミステリーの代表的長編『[[火の路]]』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。[[イラン]]学者[[伊藤義教]]は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、[[新義真言宗]]の作法や[[お水取り]]の時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している<ref name=itoh>[[#伊藤|伊藤(1980)]] {{要ページ番号|date=2015-11-08}}</ref>。
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者だったが、当初は隊商の[[商人]]が多数を占め、のちには唐に[[亡命政府]]を樹立したサーサーン朝からの[[難民]]などが加わったものと思われる<ref name=iwamura/>。
[[武宗 (唐)|武宗]]の廃仏([[会昌の廃仏]])のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西域では[[11世紀]] - [[13世紀]]に西域のイスラム化が進行した。
[[宋 (王朝)|宋]]の時代になると担い手の漢化が進み、「宋代漢民族的ゾロアスター教」ともいえる形態に変化した<ref name=aoki70/>。
祆教は、[[14世紀]]ころまで[[開封]]・[[鎮江]]などに残っていたと記録されているが、その後の消息は掴めていない<ref name=iwamura/>。なお、唐代から[[元 (王朝)|元]]代にかけて対外貿易港だった[[福建省]][[泉州市]]郊外に波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、言語・形質面では[[漢族]]に同化しているが、イスラム教を奉じており[[回族]]と認定されている。彼らの宗教儀式にはゾロアスター教の名残がみられるともいわれる{{要出典|date=2015年11月8日 (日) 13:17 (UTC)}}。
=== ゾロアスター教の衰退 ===
{{See also|イスラーム教徒のペルシア征服}}
ホスロー1世の孫・[[ホスロー2世]](在位590年、591年 - 628年)は国力に余裕のある状態でシャーハンシャーになることができた。しかし、即位当初から部下の反逆に遭い、求心力を高めるために新たな皇帝イデオロギーを創出する必要牲に迫られた。そこで彼はキリスト教国家[[東ローマ帝国]]と[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)|戦争]](602年-628年)を開始し、[[エルサレム]]攻略によって[[イエス・キリスト]]が[[磔|磔刑]]に処せられたとされる「[[ゴルゴタ]]の[[聖十字架]]」を奪取し、穀倉地帯エジプトも占領。首都[[コンスタンティノープル]]対岸の[[カルケドン]]まで進軍して東ローマ帝国を滅亡寸前に追いやった。この大勝利によってシャーハンシャーの威信は絶頂を迎え、ホスローがアフラ・マズダーよりも一段上位の台座に立つレリーフが建造された<ref name=aoki2006/>。
なお、この頃はゾロアスター教からキリスト教への改宗が相次いでいた。特にゾロアスター教から軽蔑されていた商人・職人層に顕著で、職人団体の長にもキリスト教徒が多かった<ref>前掲『ペルシア帝国』285-286ページ。</ref>。
東ローマ皇帝に即位した[[ヘラクレイオス]](在位610年 - 641年)は反転攻勢に出たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面に向かうことはせず、623年に[[タウルス山脈]]沿いに進軍してシーズを急襲。拝火壇は破壊され、「シーズの聖火」のみ辛うじてクテシフォン近郊に避難された。これによりサーサーン朝の威信は大いに揺らいだ<ref name=aoki2006/>。この戦争により両大国の力は消耗し周辺国では自立の動きが活性化した。国力を浪費させたホスローは皇太子によって暗殺され、[[サーサーン内乱 (628年‐632年)|内乱]]に陥った<ref>[[#青木|青木(2008)p.149-150]]</ref>。
サーサーン朝の内乱を何とか平定したホスロー2世の孫[[ヤズデギルド3世]](在位632年 - 651年)は、633年より[[アラビア半島]]の新興世界宗教[[イスラム教]]を奉じる[[アラブ人]]の侵攻に直面した。サーサーン朝側は長年の内戦で疲弊しており、637年には首都クテシフォンを奪われた。ヤズデギルドは税収の3割を担っていたメソポタミアを放棄し、イラン高原で体制の立て直しを図った。イラン高原に進軍したイスラム軍は連戦を重ね、[[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン朝を打ち破った。この時、落馬して捕虜となれば身代金を払って解放されるという当時の慣例に従って多くの将兵(封建領主と自由農民から成る)がわざと落馬したが、アラブ人はこのルールを知らず、必要以上に多くのペルシア軍が虐殺された。これによってサーサーン朝の軍事組織とペルシア人の経済社会システムは崩壊し、サーサーン朝はイスラム勢力に抵抗する力を失った。ヤズデギルドは逃亡中の651年に[[メルブ]]で殺され、キリスト教徒[[ホスローとシーリーン|シーリーン]]の孫であることから現地民によってキリスト教式に埋葬されたという。ヤズデギルドの息子[[ペーローズ3世]]と孫[[ナルシエフ]]は唐に逃れ、疾陵(所在不明)にサーサーン朝亡命政府を置くも、アラブ人イスラム教徒に占領され、ペルシア帝国復活の望みは完全に絶たれた<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)205-213ページ。</ref>。
==== 恭順 ====
アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を余儀なくされた。改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰はおおむね維持された<ref>[[#青木|青木(2008)p.154-157]]</ref>。
サーサーン朝崩壊から8世紀までゾロアスター教に関する資料はほとんど残っていない。しかし8世紀になると'''フーデーン・ペーショーバーイ'''を中心とするゾロアスター教神官団たちがパフレヴィー語文献を精力的に執筆し、「'''パフレヴィー語文学ルネッサンス'''」と呼ばれる文化的発展期を迎えた。知られる限り最初のフーデーン・ペーショーバーイであるアードゥル・ファッローバイは、イラン高原全体のゾロアスター教徒を指導しており、『[[デーンカルド]]』最初の著者でもあった。彼の後継者たちも書簡集『リバーヤト』、『[[ブンダヒシュン]]』、『宗教問答集』など様々な文献を残している。10世紀になるとアラビア語文献でしかフーデーン・ペーショーバーイの名が知られなくなる。そして936年に処刑された祖父の跡を継いだエーメードを最後に、フーデーン・ペーショーバーイの記録は残っていない<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)213-218ページ。</ref>。
なお、9~10世紀の文献には二元論的ゾロアスター教の世界観が描かれており、5世紀まで外国語文献で度々描写されていたズルワーン崇拝に関する記述が存在しないため、様々な議論を呼んでいる<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)143-144ページ。</ref>。
ゾロアスター神官団を経済的に支えたのは、[[:en:Firuzabad, Fars|アルダフシール・ファッラフ]]-[[シーラーフ]]を繋ぐ通商路であった。この地はサーサーン朝崩壊後に建てられた拝火神殿が連なり、神官団と商人たちによって共同管理されたとみられている。しかしこのルートが[[ブワイフ朝]]の国家管理に置かれたことで寂れてしまい、10世紀後半の地震でシーラーフが壊滅したことによりとどめを刺された。かつての通商路には廃墟と化した拝火神殿が点在する不毛の地となり、経済的基盤を失ったゾロアスター教神官団は消滅した。それによりパフレヴィー語文学ルネッサンスは終焉を迎え、『アヴェスター』も大半が散逸した<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)218-220ページ。</ref>。
==== 反乱 ====
[[ウマイヤ朝]]から[[アッバース朝]]の転換期([[アッバース革命]])、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した<ref>[[#青木|青木(2008)p.157-163]]</ref>。
反乱を起こしたイラン人にはホラーサーン周辺で原始的ゾロアスター教や太陽崇拝、マズダク教を旗頭にすることが多く、サーサーン朝崩壊後には様々なアーリア人の諸宗教が台頭していた可能性がある。しかし9世紀半ば以降は反イスラムを掲げた反乱も起こらなくなる<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)240-245ページ。</ref>。
==== 衰退 ====
イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が[[正統カリフ]]、[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]]の一族と結婚したという説話を流布させた。[[ゴム (イラン)|ゴム]]ではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された([[イラン・イスラーム文化]])<ref>[[#青木|青木(2008)p.163-171]]</ref>。
[[近代]]に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。
=== パールシー ===
[[ファイル:BombayTempleOfSilenceEngraving.jpg|150px|thumb|[[ムンバイ]](インド)に建設された「[[沈黙の塔]]」]]
{{main|パールシー}}
イラン高原の政治勢力は[[インド亜大陸]]に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視し[[クシャトリヤ]]から格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた<ref name=aoki76/>
* '''マガ・ブラーフマガ''' - 前1世紀頃、イラン高原東部からインドに移住。原イラン多神教の流れを汲むミスラ崇拝者と思われる
* '''ボージャカ''' - 6世紀前半-7世紀末にインド移住。原ゾロアスター教の流れを汲む。マガ・ブラーフマガと融合
* '''ガンダーラ・ブラーフマガ''' - 5世紀半ば-567年に北インドを支配した[[エフタル]]の「ミヒラ教」祭司集団の残党。マガ・ブラーフマガと同一集団?
サーサーン朝滅亡後、イランのゾロアスター教徒には[[インド]]西海岸[[グジャラート州|グジャラート]]へ退避する集団があった。彼らを'''[[パールシー]]'''(「ペルシア人」の意)という。[[:en:Qissa-i Sanjan|Qissa-i Sanjan]]の[[伝承]]では、[[ホラーサーン]]の{{仮リンク|サンジャーン (ホラーサーン)|en|Sanjan (Khorasan)|label=サンジャーン}}から、4、5隻の船に乗りグジャラート南部の{{仮リンク|サンジャーン (グジャラート州)|en|Sanjan (Gujarat)|label=サンジャーン}}にたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる<ref name=aoki224>[[#青木|青木(2008)p.224]]</ref>。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路[[イラン高原]]の[[ホラーサーン]]に派遣し、同地の[[アータシュ・バフラーム級聖火]]をサンジャーンに移転させたと言われている<ref name=aoki180/>。
パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。彼らはイランでは多く[[農業]]を営んでいたと言われるが、移住を契機に[[商工業]]に進出し、土地の[[風習]]を採り入れてインド化していった<ref name=yama/>。それに伴い[[グジャラート語]]を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教資料を読めなくなった。二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった<ref name=aoki180/>。
パールシーは[[カースト制]]に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた<ref name=aoki180>[[#青木|青木(2008)p.180-186]]</ref>。
=== ヤズィーディー教 ===
{{main|ヤズィーディー}}
[[ヤズィーディー教]]は原イラン多神教と[[12世紀]]に[[スーフィー]]の指導者{{仮リンク|アディー・イブン・ムサーフィル|en|Sheikh Adi ibn Musafir}}が作ったアダウィーア教団の教えが融合したクルド人の宗教である。[[クルド人]]は言語学的に古代アーリア人の分派であり、ザラスシュトラ以前の教えを保存していると考えられている。ヤズィーディー教の聖典には原イラン多神教とよく似た教義や物語が多く登場するが、固有名詞がイスラム風のものに入れ替わっているものが少なくない。インドにおいては口伝の中にいくつも神々の名前を登場させ、改竄ができないよう注意を払われていたが、同じアーリア系でもイランではそのような注意を欠いていたことが原因であるとされている<ref>[[#青木|青木(2008)p.93-99]]</ref>
== 現代のゾロアスター教 ==
=== 信者の分布 ===
[[ファイル:Ateshga general view, Tbilisi (Photo A. Muhranoff, 2011).jpg|right|thumb|230px|[[トビリシ]]([[グルジア|グルジア共和国]])のゾロアスター神殿]]
近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。
#[[イラン]]:かつてゾロアスター教を[[国教]]とした[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]の中心地。[[ヤズド]]を中心に信徒数3万~6万人<ref name=aoki248>[[#青木|青木(2008)p.248]]</ref>。
#[[インド]]:10世紀頃にイランを脱出したゾロアスター教徒が[[グジャラート州]]に移住。ペルシア人を意味する[[パールシー]](教徒)と呼ばれる。現在はパールシーの経済的中心地・ボンベイ([[ムンバイ]])を主たる拠点として、信徒数7万5千人<ref name=aoki248/>。
#[[パキスタン]]:[[イギリス領インド帝国|英領インド]]が[[インド|インド共和国]]と[[パキスタン]]に分離して[[国家|独立国]]となった際、2,500人から6,000人のパールシーがパキスタンの領域に住んでおり、パキスタン国民となった。中心地は[[カラチ]]である<ref name=aoki248/>。
#[[アゼルバイジャン]]・[[ジョージア (国)|ジョージア国]]・[[イラク]]:若干名
近代以降、多くのパールシー教徒が[[英語圏]]の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒が[[ドイツ]]に[[移民]]として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった<ref name=aoki248/>。
#[[イギリス]]:約5,000人<ref name=aoki248/>。
#[[北アメリカ大陸|北米大陸]]([[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]):約10,000人<ref name=aoki248/>。
#[[オーストラリア]]:約2,500人<ref name=aoki248/>。
#[[シンガポール]]・[[香港]]・[[日本]]・[[ドイツ]]:若干名<ref name=aoki248/>。
=== イラン ===
{{出典の明記|section=1|date=2015年11月8日 (日) 13:17 (UTC)}}
[[ファイル:Ateshkadeh yazd.jpg|thumb|230px|ヤズドのゾロアスター教神殿]]
イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落した。今日、小規模の信徒共同体が残存し、現代[[ペルシア語]]で「'''ゾロアスターの教え''','''ディーネ・ザルドゥシュト'''('''{{Lang|fa|دین زردشت}}''')」と呼ばれる。イラン中央部の[[ヤズド]]、南東部の[[ケルマーン州|ケルマン]]地区を中心に数万人の信者が存在する。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒とされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火神殿は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「[[三大聖火|聖火]]」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「[[沈黙の塔]]」)による[[鳥葬]]は、1930年代に[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・シャー]]により禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在は活用されず、観光施設として残されるにとどまる。
ゾロアスター教徒は近代化の進展によりムスリムと同等の法的権利を獲得したが、[[イラン革命|イスラム革命]]により再び隷属的地位におかれてしまう。
かつての世界宗教・ゾロアスター教は[[イスラーム教徒による宗教的迫害]]によって信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと後退した。現在、ゾロアスター教では信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
一方で、シーア派が政治権力を握り人々を抑圧しているにもかかわらず、多くのシーア派が水面下で棄教・改宗したとする調査もある。それによればイスラム教シーア派を自認する人は3分の1に満たず、国民の8%がゾロアスター教徒を自称した(イラン政府の公式発表では2万3000人)。彼らはイラン発祥のゾロアスター教に誇りを持ち、アラブ人が持ち込んだとしてイスラム教に反発する者もいる。また、火の回りで祈りをささげるゾロアスター式の結婚式が流行したため、当局によって禁止されている(2019年)。水面下ではキリスト教や非シーア派のイスラム教も拡大しており、イラン政府の厳格な宗教政策が却ってシーア派から人々を遠ざけているとみられている<ref>[https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/world/00322/ 厳格さがあだとなり信者減? イランのイスラム教シーア派](2021年5月7日閲覧)</ref>。
=== インドとパキスタン ===
{{main|パールシー}}
[[ファイル:Parsi-navjote-sitting.jpg|right|thumb|140px|インドにおけるパールシー入信の[[ナオジョテ]]の儀式{{refnest|group="注釈"|19世紀から続く神官一族ジャーマースプ・アーサー家の第6代カイ・ホスロウによる入信式<ref>[[#青木|青木(2008)p.253]]</ref>。}}]]
現在、インドはゾロアスター教徒数の最も多い国である。今日では同じ西海岸の[[マハーラーシュトラ州]][[ムンバイ]](旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドではペルシア人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している<ref name=iwamura131/>。少数ながら商業・[[貿易]]・知的職業に就く人が多く、裕福層や政治力をもった人々の割合が多い<ref name=iwamura131/>。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、[[シク教]]徒と類似し、インド2大財閥のひとつ[[タタ・グループ]]は、パールシーの[[財閥]]である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないと言われる<ref name=iwamura131/>。
神殿は[[マハラシュトラ州]]のムンバイと[[プネー]]にいくつかあり、ゾロアスター教共同体を作っている。神殿にはゾロアスター教徒のみが入ることができ、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての神殿にあり、ペルシアから運ばれた炎から分けられたものである。神殿内には偶像はなく、炎に礼拝する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住している。また[[グジャラート州]]の[[アフマダーバード]]や[[スーラト]]にも神殿があり、周辺に住む信者により運営されている。
一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主に[[カラチ]]一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
=== 東アジア ===
[[19世紀]]後半から[[20世紀]]前半にかけては[[上海]]・[[広州]]などにインド亜大陸から渡来したパールシー商人が、[[租界]]を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも[[香港]]には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、[[コーズウェイベイ]](銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火神殿が、[[ハッピーバレー]](跑馬地)に専用墓地が存在する。[[マカオ]]には現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる[[墓地]]があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる{{要出典|date=2015年11月8日 (日) 13:17 (UTC)}}。
近代の日本では、[[戦前]]から[[パールシー|インド・ゾロアスター教徒]]により、[[神戸]]在住の[[貿易商]]として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり[[日本文化]]にとけ込んでいるが、国籍は[[インド]]を維持し、祭祀の際などには[[ムンバイ]]に帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している<ref>[[#青木|青木(2008)pp.253-254]]</ref>。
1990年代後半にプロの霊感占い師幹野秀樹<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/uranaisi77 |title=電話占い幹野秀樹(@uranaisi77)さん |publisher=Twitter |accessdate=2019-06-29}}</ref>によって日本ゾロアスター教団<ref>{{Cite web |title=Japanese Zoroastrians Home Page |archiveurl=https://web.archive.org/web/19990428233648/http://www.win.or.jp:80/~ninja/index.html |url=http://www.win.or.jp/~ninja/index.html |archivedate=1999-04-28 |accessdate=2019-06-29}}</ref>が設立されたが、2017年現在その活動は確認することが出来なくなっている。
=== 欧米 ===
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主に[[シドニー]])には3,500人の信者が在住している。
1990年、アリー・A・ジャファリーによって、[[ロサンゼルス]]においてゾロアスター教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された<ref>{{Cite web |url=http://www.zoroastrian.org.uk/vohuman/Author/Jafarey,AliAkbar.htm |title=Jafarey, Dr. Ali Akbar |webiste=Zoroastrian Educational Institute |accessdate=2019-06-29}}</ref>。ガーサーのみを聖典とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされている<ref>{{Cite web |url=https://www.zoroastrian.org/info/index.htm |title=About the Assembly |website=The Zarathushtrian Assembly |accessdate=2019-06-29}}</ref>。
== 歴代指導者 ==
'''原始教団'''
# [[ザラスシュトラ]] - 教祖
# ジャーマースパ・フォーグワ - ザラスシュトラの娘婿
以後、記録なし
'''大神官'''(サーサーン朝時代)<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)176-177ページ。</ref>
* [[カルティール]] -
* アードゥルバード - [[シャープール2世]]時代
* ザルドシュルト - アードゥルバードの息子?
* アードゥルバード - ザルドシュルトの息子?。5世紀
* アードゥル・ファッローバイ - [[ヤズデギルド2世]]時代
* フダード - ヤズデギルド2世時代
* アードゥル・ボーセード
* マルドブード -[[ペーローズ1世]]時代
* アードゥルバード - マルドブードの息子
'''フーデーン・ペーショーバーイ'''(イスラム支配時代)<ref>青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)214-218ページ。</ref>
* アードゥル・ファッローバイ -[[アッバース朝]][[マアムーン]]時代
* ザルドシュルト - アードゥル・ファッローバイの息子。イスラム教に改宗
* ジュワーンジャム
* マヌシュチフル - ジュワーンジャムの息子
* エーメード - ジュワーンジャムの孫
* アードゥルバード
* エスファンディヤール - アードゥルバードの息子。アッバース朝[[ラーディー]]により936年処刑
* エーメード - エスファンディヤールの孫
以後、記録なし
== パールシー出身の著名人 ==
* [[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ]]([[イギリス]]の[[作曲家]])
* [[フレディ・マーキュリー]]([[ザンジバル]]生まれのイギリスの[[歌手]])
* [[ズービン・メータ]]([[インド]]人の[[指揮者]])
* [[ジャムシェトジー・タタ]]([[タタ・グループ]]の創始者)
* [[ラタン・タタ]]([[タタ・グループ]]の会長)
== 逸話 ==
* 日本では[[東芝]]が過去に[[電球]]や[[真空管]]などのブランド名として使用していた([[ライセンス生産|ライセンス]]元の[[ゼネラル・エレクトリック]]のブランド名でもある)「[[マツダ (電球)|マツダ]]」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304203238/http://www.toshiba.co.jp/elekitel/tec_review/2009/26/tec_26_b.htm|title=ゑれきてる~大原まり子のテクノロジー・レビュウ 心地よい照明を求めて(2)|author=大原まり子|publisher=東芝|archivedate=2016-03-04|url=http://www.toshiba.co.jp/elekitel/tec_review/2009/26/tec_26_b.htm|accessdate=2022-04-10}}</ref>。
* 日本の自動車メーカーである[[マツダ]]は、創業者の姓(松田)を冠しているとともに、その Mazda の綴りはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来している<ref name="Report 2015">{{Cite web|url=https://www.mazda.com/globalassets/ja/assets/csr/download/2015/2015_all.pdf|title=Mazda Sustainability Report 2015|format=PDF|page=2|accessdate=2017-08-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210704045606/https://www.mazda.com/globalassets/ja/assets/csr/download/2015/2015_all.pdf|archivedate=2021-07-04}}</ref>。
* [[フリードリヒ・ニーチェ]]『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』のツァラトゥストラは、ザラスシュトラのドイツ語読み。[[リヒャルト・シュトラウス]]作曲の[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|同名の交響詩]]も同様。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。また、参考にしたページ番号を脚注形式で本文中に明記して下さい-->
{{参照方法|date=2015年11月8日 (日) 13:17 (UTC) |section=1}}
* {{Cite book |和書 |author=青木健|authorlink=青木健 (宗教学者) |year=2008 |month=3 |title=ゾロアスター教 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社選書メチエ]] |isbn=4062584085 |ref=青木 }}<!--2008年8月14日 (木) 06:39 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=岩村忍|authorlink=岩村忍 |chapter= |editor= |year=1975 |month=1 |title=世界の歴史 5 - 西域とイスラム |series=[[中公文庫]] |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |isbn=978-4-12-200178-7 |ref=岩村 }}<!--2012年12月29日 (土) 14:32 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=伊藤義教|authorlink=伊藤義教 |translator= |year=1980 |month=3 |title=ペルシア文化渡来考 - シルクロードから飛鳥へ |publisher=[[岩波書店]] |id={{全国書誌番号|80021090}}、{{NCID|BN00317964}} |asin=B000J89KPO |ref=伊藤 }}<!--2008年7月21日 (月) 00:14 (UTC)-->
**改訂版『ペルシア文化渡来考』 [[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2001年4月。ISBN 978-4-480-08636-5。解説岡田明憲<!--2008年9月5日 (金) 02:40 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=上岡弘二|authorlink=上岡弘二 |chapter=マニ教 |editor=平凡社|editor-link=平凡社 |year=1988 |month=3 |title=[[世界大百科事典]]27 マク-ムン |series= |publisher=平凡社 |isbn=978-4-582-02200-1 |ref=上岡 }}
* {{Cite book |和書 |author=岡田明憲|authorlink=岡田明憲 |year=1988 |month=2 |title=ゾロアスターの神秘思想 |series=[[講談社現代新書]] |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-148888-5 |ref=岡田 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=加藤武|authorlink=加藤武 (宗教哲学者) |chapter=マニ教 |editor=小学館|editor-link=小学館 |year=2004 |month=2 |title=日本大百科全書 |publisher=[[小学館]] |series=スーパーニッポニカProfessional Win版 |isbn=978-4-09-906745-8 |ref=加藤 }}
* {{Cite book |和書 |author=川瀬豊子 |chapter=第1章 古代オリエント世界 |editor=永田雄三|editor-link=永田雄三 |title=西アジア史II イラン・トルコ |year=2002 |month=8 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-41390-0 |ref=川瀬 }}
* {{Cite book |和書 |last=ハーツ |first=P・R. |translator=奥西峻介 |year=2004 |month=12 |title=ゾロアスター教 |publisher=[[青土社]] |series=シリーズ世界の宗教 |isbn=978-4-7917-6091-6 |ref=ハーツ }}<!--2007年7月25日 (水) 12:37 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=メアリー・ボイス|authorlink=メアリー・ボイス |translator=[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]] |year=1983 |month=9 |title=ゾロアスター教 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4-480-84124-7 |asin=B000J7AZR2 |ref=ボイス }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
** 改訂版『ゾロアスター教』 山本由美子訳、[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、2010年2月。ISBN 978-4-06-291980-7。<!--2010年1月5日 (火) 18:12 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=山下博司 |editor=山下博司・岡光信子(共著) |title=インドを知る事典 |chapter=第II章 インドの歴史と宗教 |year=2007 |month=9 |publisher=[[東京堂出版]] |isbn=978-4-490-10722-7 |ref=山下}}<!--2008年7月21日 (月) 13:47 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=山本由美子 |chapter=ゾロアスター教 |editor=小学館 |year=2004 |month=2 |title=日本大百科全書 |publisher=小学館 |series=スーパーニッポニカProfessional Win版 |isbn=4099067459 |ref=山本2004 }}
* {{Cite book |和書 |author=山本由美子 |editor=合志太士 |title=週刊シルクロード紀行 - ヴァチカンから奈良まで全街道体験 18 ペルセポリス |chapter=ゾロアスター教 |year=2006 |month=2 |publisher=[[朝日新聞社]] |series=週刊朝日百科 |id={{全国書誌番号|20975500}} |asin=B006WWXAT8 |ref=山本2006 }}<!--2008年7月22日 (火) 14:20 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author= |chapter= |others=[[渡辺和子 (宗教学者)|渡辺和子]](監修)|title=もう一度学びたい 世界の宗教 |year=2005 |month=10 |publisher=西東社 |isbn=978-4-7916-1293-2 |ref=宗教 }}
* {{Cite book |和書 |author=伊藤義教 |title=ゾロアスター研究 |publisher=[[岩波書店]] |date=1979-04 |isbn=978-4-00-001219-5 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=ミルチア・エリアーデ |authorlink=ミルチア・エリアーデ |others=[[松村一男]]訳 |chapter=第13章 ザラスシュトラとイラン宗教 |title=世界宗教史 2|publisher=筑摩書房 |series=ちくま学芸文庫 |date=2000-04 |isbn=978-4-480-08562-7 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)。本文への加筆あり。投稿時に提示したISBN 4480085645は文庫第4巻だが第13章は収録されていない-->
** 元版:[[荒木美智雄]]ほか訳 『世界宗教史 1 - 石器時代からエレウシスの密儀まで』 筑摩書房、1991年6月。ISBN 978-4-480-34001-6。<!--2009年8月12日 (水) 08:47 (UTC)。本文への加筆無し。投稿時はISBNが文庫第4巻であるが単行本第1巻として情報追加-->
* {{Cite book |和書 |author=岡田明憲 |title=ゾロアスター教 - 神々への賛歌 |publisher=[[平河出版社]] |date=1982-10 |isbn=978-4-89203-053-6 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=岡田明憲 |title=ゾロアスター教の悪魔払い |publisher=平河出版社 |date=1984-09 |isbn=978-4-89203-082-6 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |last=バンヴェニスト |first=エミール |authorlink=エミール・バンヴェニスト |author2=ニョリ, ゲラルド |authorlink2=:it:Gherardo Gnoli |title=ゾロアスター教論考 |publisher=[[平凡社]] |series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] |date=1996-12 |isbn=978-4-582-80609-0 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=前田耕作|authorlink=前田耕作 |title=宗祖ゾロアスター |publisher=筑摩書房 |series=ちくま学芸文庫 |date=2003-07 |isbn=978-4-480-08777-5 }}<!--2005年8月17日 (水) 16:34 (UTC)-->
**旧版 『宗祖ゾロアスター』 筑摩書房〈[[ちくま新書]]〉、1997年5月、ISBN 978-4-480-05708-2。<!--2008年9月8日 (月) 17:48 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=青木健「第7章 ゾロアスター教とマニ教」- |year=2020 |month=2 |title=世界哲学史 2 古代Ⅱ |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま新書|isbn=978-4-480-07292-4 |ref=青木2020}}
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい-->
* [[青木健 (宗教学者)|青木健]] 「[https://hdl.handle.net/2261/1977 ゾロアスター教書籍パフラヴィー語文献『デーンカルド』第3巻訳注・その2]」『東洋文化研究所紀要』 東京大学東洋文化研究所、第146号、2004年12月、pp. 72-41、{{NAID|120000872491}}。2011年1月6日閲覧。
* 青木健 『ゾロアスター教の興亡 - サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』 刀水書房、2007年1月。ISBN 978-4-88708-357-8。<!--2007年1月22日 (月) 05:03 (UTC)--><!--外部リンクにあった「中世インドのイスラーム的ゾロアスター教 -アーザル・カイヴァーン学派の思想とサーサーン王朝時代ゾロアスター教からの連続性-」 (2002年) に加削修正をした本-->
* 青木健 『ゾロアスター教史 - 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』 刀水書房〈刀水歴史全書 79〉、2008年10月<!--2008年9月5日 (金) 02:40、投稿時は『ゾロアスター教の歴史』-->
**『新ゾロアスター教史』刀水書房〈刀水歴史全書 99〉、2019年3月。ISBN 978-4-88708-450-6。
* 伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 平河出版社、2001年10月。ISBN 978-4-89203-315-5。<!--2008年8月28日 (木) 07:00 (UTC)-->
*『ヴェーダ アヴェスタ』 伊藤義教訳、筑摩書房〈[[世界古典文学全集]] 3〉、1972年。ISBN 978-4-480-20303-8。::※原典の抄訳版<!--2008年9月5日 (金) 02:40 (UTC)-->
**『原典訳 アヴェスター』伊藤義教訳、筑摩書房〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2012年6月、ISBN 978-4-480-09460-5。
**:※1972年刊行の『ヴェーダ アヴェスター』から「アヴェスター」部分を抜粋<!--2012年9月19日 (水) 12:37 (UTC)-->
* [[妹尾河童]] 『河童が覗いたインド』 [[新潮社]]〈[[新潮文庫]]〉、1991年3月。ISBN 978-4-10-131103-6。<!--2005年10月30日 (日) 04:06 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=堀尾幸司 |title=キリスト殺しの真相 - ユダヤ・イエス・聖書 |publisher=文芸社 |date=2007-05 |isbn=978-4-286-02838-5 }}<!--2008年8月14日 (木) 06:42 (UTC)-->
* {{仮リンク|ミシェル・タルデュー|en|Michel Tardieu|label=タルデュー, ミシェル}} 『マニ教』 [[大貫隆]]・中野千恵美訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]] 848〉、2002年3月。ISBN 978-4-560-05848-0。<!--2007年7月25日 (水) 12:38 (UTC)-->
* 山本由美子 『マニ教とゾロアスター教』 山川出版社〈世界史リブレット 4〉、1998年4月。ISBN 978-4-634-34040-4。<!--2007年7月25日 (水) 12:34 (UTC)-->
* 山本由美子 「パルティアとゾロアスター教」『ヘレニズムと仏教 NHKスペシャル 文明の道 2』 NHK「文明の道」プロジェクト編、[[NHK出版]]、2003年7月。ISBN 978-4-14-080776-7。<!--2008年9月8日 (月) 17:48 (UTC)-->
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Zoroastrianism|Zoroastrianism}}
* [[ペルシア哲学]]
== 外部リンク ==
* [http://www.persiandna.com/links.htm PersianDNA-世界各地のゾロアスター教コミュニティへのリンク集]<!--2008年7月22日 (火) 14:20 (UTC)--> {{en icon}}
* [http://mazdayasnajapan.web.fc2.com/index.html マズダ・ヤスナの会]<!--2008年7月22日 (火) 14:20 (UTC)--> {{ja icon}}
* {{Kotobank}}
{{Zoroastrianism long}}
{{Authority control}}
{{デフォルトソート:そろあすたきよう}}
[[Category:ゾロアスター教|*]]
[[Category:イランの宗教]]
[[Category:ザラスシュトラ]] | 2003-03-04T12:14:07Z | 2023-12-02T02:44:50Z | false | false | false | [
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"Template:参照方法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 |
3,382 | シャハーダ | シャハーダ(信仰告白、アラビア語: شهادة Shahāda)は、イスラム教の五行のひとつで、
とアラビア語で唱えることである。
シャハーダは、「アッラーの他に神はなし」という部分と、「ムハンマドはアッラーフの使徒である」という前後ふたつの部分から成り立っている。
イスラームの法学的解釈によると、最初のシャハーダである「アッラーフ(神)の他に神はなし」の部分は、ユダヤ教やキリスト教なども含めた唯一神を信仰することを宣言している。なお、日本人ムスリムの中田考による説明によると、この文は、神は時間や空間上のどこにも存在しない、ということを前提とした上で、唯一神のアッラーだけに関しては例外である、という留保規定の文である。 ふたつめのシャハーダである「ムハンマドはアッラーフの使徒である」の部分は、ムハンマドがアッラーフによってアッラーフへの信仰(イスラーム)を確立するためにアラブ諸部族、ひいては人類全体に派遣された最後の預言者にして使徒(ラスール)であることを表明することであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒になることとは違い、特にこのふたつめのシャハーダによってイスラーム教徒(ムスリム)であることを強調して宣言する意味がある。 そのため、両者を併せて宣言することによってアッラーフのみを信仰する唯一神教であり、かつイスラーム教徒であるということを明確にする、まさに「信仰告白」として機能している。
ムスリム(イスラム教徒)の前で、多くの場合はモスクにおいて宗教指導者の前で、アラビア語でこれを唱えることが、ムスリムとなる最低限の条件である。イスラームに入信する場合、シャリーアによると、最低でも「敬虔かつ公正な男性イスラーム教徒」2名を証人として立ち会いのもと、
同化による実際の発音:アシュハド(ゥ)・アッラー・イラーハ・イッラ-ッラーフ・ワ・アシュハド(ゥ)・アンナ・ムハンマダッ・ラスール-ッラー(ヒ)
とアラビア語で唱えてシャハーダを行いさえすれば、その瞬間からムスリムとして認められ、イスラム共同体(ウンマ)の中に迎えられる。
この一文はサウジアラビアの国旗にも記されている。
イスラム圏の国や組織の旗や紋章には信仰告白が記されているものがいくつかある。なお、聖句であるという理由から、サウジアラビアの国旗は裏面がない(表面の国旗を2枚縫い合わせる)、縦掲揚時はシャハーダが正しい向きになった専用の旗を用いる、半旗にしないなどの独自の決まりを持っている。
上記はスンナ派におけるシャハーダの文言で、シーア派ではシャハーダやアザーンの際に以下の文言が足される。 | [
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"text": "イスラム圏の国や組織の旗や紋章には信仰告白が記されているものがいくつかある。なお、聖句であるという理由から、サウジアラビアの国旗は裏面がない(表面の国旗を2枚縫い合わせる)、縦掲揚時はシャハーダが正しい向きになった専用の旗を用いる、半旗にしないなどの独自の決まりを持っている。",
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"text": "上記はスンナ派におけるシャハーダの文言で、シーア派ではシャハーダやアザーンの際に以下の文言が足される。",
"title": "シーア派の場合"
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] | シャハーダは、イスラム教の五行のひとつで、 とアラビア語で唱えることである。 シャハーダは、「アッラーの他に神はなし」という部分と、「ムハンマドはアッラーフの使徒である」という前後ふたつの部分から成り立っている。 イスラームの法学的解釈によると、最初のシャハーダである「アッラーフ(神)の他に神はなし」の部分は、ユダヤ教やキリスト教なども含めた唯一神を信仰することを宣言している。なお、日本人ムスリムの中田考による説明によると、この文は、神は時間や空間上のどこにも存在しない、ということを前提とした上で、唯一神のアッラーだけに関しては例外である、という留保規定の文である。
ふたつめのシャハーダである「ムハンマドはアッラーフの使徒である」の部分は、ムハンマドがアッラーフによってアッラーフへの信仰(イスラーム)を確立するためにアラブ諸部族、ひいては人類全体に派遣された最後の預言者にして使徒(ラスール)であることを表明することであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒になることとは違い、特にこのふたつめのシャハーダによってイスラーム教徒(ムスリム)であることを強調して宣言する意味がある。
そのため、両者を併せて宣言することによってアッラーフのみを信仰する唯一神教であり、かつイスラーム教徒であるということを明確にする、まさに「信仰告白」として機能している。 ムスリム(イスラム教徒)の前で、多くの場合はモスクにおいて宗教指導者の前で、アラビア語でこれを唱えることが、ムスリムとなる最低限の条件である。イスラームに入信する場合、シャリーアによると、最低でも「敬虔かつ公正な男性イスラーム教徒」2名を証人として立ち会いのもと、 同化による実際の発音:アシュハド(ゥ)・アッラー・イラーハ・イッラ-ッラーフ・ワ・アシュハド(ゥ)・アンナ・ムハンマダッ・ラスール-ッラー(ヒ) とアラビア語で唱えてシャハーダを行いさえすれば、その瞬間からムスリムとして認められ、イスラム共同体(ウンマ)の中に迎えられる。 この一文はサウジアラビアの国旗にも記されている。 | {{出典の明記|date=2020-04-09}}
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[[File:Shahadah.ogg|210px|thumb|シャハーダ]]
{{Islam}}
'''シャハーダ'''('''信仰告白'''、{{lang-ar|'''شهادة'''}} {{lang|ar-Latn|Shahāda}})は、[[イスラム教]]の[[五行 (イスラム教)|五行]]のひとつで、「[[アッラー]]の他に[[神]]はなし。[[ムハンマド]]はアッラーの[[使徒]]である。」とアラビア語で唱えることである。
この一文は[[サウジアラビアの国旗]]にも記されている。
== 文の構成と訳 ==
<!-- アラビア語テキスト: {{rtl-lang|ar|لا إله إلا الله محمد رسول الله}} -->
{{シャハーダ}}
*<span lang="ar" dir="rtl">إِلَّا</span>(ʾillā, イッラー)語末の長母音は直後に<span lang="ar" dir="rtl">اَللهُ</span>(ʾallāhu, アッラーフ)が来るため短母音化し「ʾilla, イッラ」と読まれる。
*「イッラ・ッラーフ(ʾilla-llāhu)」と「ラスール・ッラーヒ(rasūlu-llāhi)」の「ッラーフ」「ッラーヒ」は唯一神の名称 <span lang="ar" dir="rtl">الله</span>(ʾallāh)から定冠詞同様に語頭の「ア」が脱落したものである。
== 概要 ==
シャハーダは、「アッラーの他に神はなし」という部分と、「ムハンマドはアッラーフの使徒である」という前後ふたつの部分から成り立っている。
イスラームの法学的解釈によると、最初のシャハーダである「アッラーフ(神)の他に神はなし」の部分は、ユダヤ教やキリスト教なども含めた[[唯一神]]を信仰することを宣言している。なお、日本人ムスリムの[[中田考]]による説明によると、この文は、神は時間や空間上のどこにも存在しない、ということを前提とした上で、唯一神のアッラーだけに関しては例外である、という留保規定の文である。
ふたつめのシャハーダである「ムハンマドはアッラーフの使徒である」の部分は、ムハンマドがアッラーフによってアッラーフへの信仰(イスラーム)を確立するためにアラブ諸部族、ひいては人類全体に派遣された最後の[[預言者]]にして使徒(ラスール)であることを表明することであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒になることとは違い、特にこのふたつめのシャハーダによってイスラーム教徒([[ムスリム]])であることを強調して宣言する意味がある。
== 信仰告白の文言として ==
両者を併せて宣言することによってアッラーフのみを信仰する[[唯一神教]]であり、かつイスラーム教徒であるということを明確にする、まさに「信仰告白」として機能している。
ムスリム(イスラム教徒)の前で、多くの場合は[[モスク]]において宗教指導者の前で、アラビア語でこれを唱えることが、ムスリムとなる最低限の条件である。イスラームに入信する場合、[[シャリーア]]によると、最低でも「敬虔かつ公正な男性イスラーム教徒」2名を証人として立ち会いのもと、
:「わたしは『アッラーフ(神)の他に神はない』と宣言する。また、『ムハンマドがアッラーフの使徒である』ことも宣言する」
:{{lang|ar|أَشْهَدُ أَنْ لَا إِلَٰهَ إِلَّا ٱللَّٰهُ وَأَشْهَدُ أَنَّ مُحَمَّدًا رَسُولُ ٱللَّٰهِ}}
:発音記号通り:{{transl|ar|ʾashhadu ʾan lā ʾilāha ʾilla-llāhu wa ʾashhadu ʾanna Muḥammadan rasūlu-llāh}}
:実際の発音:{{transl|ar|ʾashhadu ʾan ʾallā ʾilāha ʾilla-llāhu wa ʾashhadu ʾanna Muḥammadar rasūlu-llāh}}
:発音記号通りの発音:アシュハド(ゥ)・アン・ラー・イラーハ・イッラ-ッラーフ・ワ・アシュハド(ゥ)・アンナ・ムハンマダン・ラスール-ッラー(ヒ) 同化による実際の発音:アシュハド(ゥ)・アッラー・イラーハ・イッラ-ッラーフ・ワ・アシュハド(ゥ)・アンナ・ムハンマダッ・ラスール-ッラー(ヒ)
とアラビア語で唱えてシャハーダを行いさえすれば、その瞬間からムスリムとして認められ、[[イスラム共同体]]([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])の中に迎えられる。
== 信仰告白を使用した国旗・国章 ==
イスラム圏の国や組織の旗や紋章には信仰告白が記されているものがいくつかある。なお、聖句であるという理由から、サウジアラビアの国旗は裏面がない(表面の国旗を2枚縫い合わせる)、縦掲揚時はシャハーダが正しい向きになった専用の旗を用いる、[[半旗]]にしないなどの独自の決まりを持っている。
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Flag of Saudi Arabia.svg|[[サウジアラビアの国旗]]
Flag of Afghanistan.svg|[[アフガニスタンの国旗|アフガニスタン・イスラム共和国の国旗]]
Flag_of_the_Islamic_Emirate_of_Afghanistan.svg|[[アフガニスタンの国旗|アフガニスタン・イスラム首長国の国旗]]
Flag of Taliban.svg|[[ターリバーン]]の旗
Flag of Somaliland.svg|[[ソマリランドの国旗]]
AQMI_Flag_asymmetric.svg|[[アル・シャバブ (ソマリア)|ソマリアのアッ・シャバーブ]]の旗
Flag of Jihad.svg|[[ヒズブル・イスラム]]の旗
Shahadah Flag.svg|[[イスラム法廷会議]]の旗
Flag_of_the_Syrian_Salvation_Government.svg|{{ill2|シリア救国政府|en|Syrian Salvation Government}}の旗
</gallery>
== シーア派の場合 ==
上記はスンナ派におけるシャハーダの文言で、シーア派ではシャハーダやアザーンの際に以下の文言が足される。
:{{lang|ar|أَشْهَدُ أَنَّ عَلِيًّا وَلِيُّ اللهِ}}
:{{transl|ar|ʾashhadu ʾanna ʿalīyan walīyu-llāh(i)}}
:アシュハド(ゥ)・アンナ・アリーヤン・ワリーユ-ッラー(ヒ)
:「わたしはアリーがアッラーフのワリーであることを証言する」
==関連項目==
*[[信仰告白]]
*{{Commonscat-inline|Shahada}}
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[[Category:イスラム教]]
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3,383 | ジハード |
ジハード(جهاد jihād)は、アラビア語の語根 جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、自己犠牲して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。「大ジハード」と「小ジハード」がある。
「大ジハード」(内へのジハード)は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は異教徒に対しての戦いを指すため、一般的に「ジハード」というと後者を指す。イスラム法学上の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される。しばしば「聖戦」と和訳されるが、ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない。
ジハードは、『クルアーン(コーラン)』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada (ジャハダ、アラビア語: جهد)を語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。この語には本来「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていない。しかし、『クルアーン』においてはこの言葉が「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われており、このことから異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)をも指すようになった。したがって、「聖戦」という訳語は、ジハード本来の意味からすれば狭義の訳語ということができる。
奮闘努力の意味でのジハードは、ムスリムの主要な義務である五行に次いで「第六番目の行」といわれることがある。ジハードの重要性は、イスラームの聖典『クルアーン』が神の道において奮闘せよと命じていることと、あるいはまた、預言者(ムハンマド)と初期のイスラーム共同体(ウンマ)のあり方に根ざしている。
近現代におけるイスラームの反帝国主義・イスラーム復古主義・イスラーム原理主義においては、イスラーム世界防衛のため、「実際に武器を持って戦うジハード」が再び強調されている。 『世界大百科事典』では次の解説がある。
イスラームとならび「世界宗教」と称される仏教・キリスト教と比較した際の、イスラーム教の極だった特徴としては、政教一体の宗教共同体の存在があげられる。この宗教は、単なる個人的・内面的な信仰体系というにとどまらず、むしろひとつの確固たる共同体そのもの、ないし共同体的生活の全体なのであり、また、それを支える固有の法律、政府、社会制度を内的に規定しているのである。そして、預言者としてムスリムを指導したムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の預言者や宗教指導者にもまして、「神の道」にもとづく理想の国ウンマを建設しようという情熱と意欲に満ちあふれていた。
「ジャーヒリーヤ時代」(無知の時代、無明の時代)すなわちイスラーム成立以前のアラビア半島では、それぞれの部族は、血縁にもとづく連帯意識の強弱が各部族の命運を左右しており、人間の欲望にもとづく闘争(キタール)が繰り広げられていた。しかし、それはきびしい砂漠気候のなかでは自殺行為であった。イスラームは、この連帯意識を血族意識を基本としたものから「アッラーへの絶対帰依」という超血族意識を根幹としたものへと変革させたのであり、その変革の試みが成功したために世界宗教として歴史の表舞台に登場したということができる。血族的でない連帯意識を支えた「信仰生活」そのものは、血族意識にくらべればきわめて曖昧なものであり、それゆえ、唯一神アッラーから「六信五行」というシステムを平等に受け、日月や時間さえも同一にして、見えるかたちでの連帯意識・同胞意識の醸成を毎日はかることとしたのである。ジハードとは、こうして形成された宗教共同体を守ろうとする実践的な営為なのである。
イスラーム共同体の歴史は、それゆえ、ムハンマドの時代から現代にいたるまで、『クルアーン』のジハードに関する教えをその枠組みとして見てゆくことができる。『クルアーン』第49章「部屋の章」15節 には、
とあり、「ジハード」とはしたがって、ムスリムのあるべき姿を述べた、イスラームの代表的な言葉でもある。
『クルアーン』におけるジハードの教えは、ムスリムの人びとの自己認識、そして、唯一神アッラーを敬う心、共同体の動員・拡大・防衛などの諸点において、根本的に重要なものである。それは、ひとりの人間として善き人生を送ることは決して容易なことではなく、また、決して単純なことでもないという認識や思念に関わってくるからである。「神の道」にかなうような、道徳的で高潔な人となるためには、自らの内面に潜む悪と戦い、善行によって社会の改善に資するよう、真剣に奮闘努力しなければならない。
それにまた、ジハードは、その人の置かれた環境によっては、不正や抑圧に対する戦いという意味をもつこととなり、宣教と説得によって、また場合によっては、必要に応じては武器をとり、「聖なる戦い」を繰り広げることによって正しい社会をつくらなければならないという考えと結びつくのである。
ジハードは、六信五行というムスリムの信仰と義務の項目には含まれていないが、『クルアーン』では「奮闘努力」という非常に幅広い意味で登場し、したがって、その意味からも六信五行を越え、イスラームの信者として当然持たなければならない基本的な心構えとして、いっそう重要な命令と考えられている。
広い意味でのジハードには、次の2種類が存在するといわれている。
この2つについて、ムハンマドが実際の戦闘から日常生活に戻ったときに語ったと伝承される言葉が、その内実をよく説明している。その言葉とは、
というものである。
「大きなジハード」すなわち「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪や不正義、欲望、自我、利己主義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことであり、それだけに、いっそう困難で重要なものとされる。このことに関して、イスラーム共和制をとるイランでは、ラマダーンの期間、「ラマダーン月はジハードの月」などといった標語を掲げることによって、弛緩しがちなムスリムたちの規律を正し、イスラーム共和国の理想を思い起こさせるための行為という意味で「ジハード」の語が用いられる。イスラームが五行のひとつとして1ヶ月にわたる断食(サウム)を信徒に命じている理由は、人びとに食欲という本能を抑える訓練をさせることによって、精神は肉体よりも強固なものであると自覚させ、同時に食べものへの感謝の念を起こさせるためであるといわれている。
現在、多くの学者は「内へのジハード」を「大ジハード」(الجهاد الأكبر al-jihād l-akbar) と呼んでおり、それに対して「外へのジハード」を「小ジハード」(الجهاد الأصغر al-jihād l-asghar)と呼んでいる。どちらも、アッラーの命令を完遂できないような環境がつくられないための「奮闘努力」という点では共通している。
もっとも広い意味でのジハードは、すべてのムスリムに課される義務を指している。神の意志にしたがい、神の意志を実現して倫理的な生活を営むために、説教、教育、実例および文書などによってイスラーム共同体の拡大のため、ムスリム一人ひとりとしても、イスラーム共同体としても、おこなうべき義務なのである。また、「ジハード」には、イスラーム教とイスラーム共同体を外部からの攻撃から守る権利(実際には義務)という意味もある。20世紀後半にあっても、1978年からのソ連のアフガニスタン紛争において、アフガニスタンのムジャーヒディーン(後述)が、ソヴィエト連邦の占領に対し、10年におよぶ長いジハードを戦ってきた。
歴史的にみれば「大ジハード」は、平和主義と寛容さを旨とするイスラーム神秘主義の潮流のなかで特に支持されてきたものであり、その一方で、支配者・権力者は領土拡大や侵略の大義名分として「外へのジハード」を利用してきた。現代でもしばしば、テロリストと目される過激な集団が「外へのジハード」を大義名分として行動し、ムスリムの結集を呼びかけるために用いている。
「内へのジハード」は、非イスラーム圏ではあまり注目されていないが、イスラーム世界ではきわめて重要視されている概念である。これは通常、神の道を実現するために、各個人が自らの心のなかの堕落・怠惰・腐敗などの諸悪と戦う克己の精神を意味しており、強い意志で自分をよりよくしていこうという努力である。また、これらの悪を増長させる外来文化の導入などによる環境変化に対する抵抗もまた、「内へのジハード」としての戦いであると見なされる。『クルアーン』には、各所に「努力する者には神が報いてくださる」としか解釈できない句が数多く登場する。ムハンマド自身は、しばしば同時代のユダヤ人をその信仰において「形式主義者」と非難し、ムスリムに対しても、たとえば「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」と宣言したように、努力することそのものを重んじたのである。
「内へのジハード」は「大ジハード」と呼ばれ、社会の平和的な運営には欠くべからざるものとして法学者や為政者からも重視される。ジハードを「聖戦」と訳して、単なる戦いという意味でこの言葉を理解することは誤りであり、「布教のための戦い」と理解することもまた誤りであって、「戦い」の意味を有する場合でも、あくまでも「防衛戦」を指している。現代においては、多くのイスラーム諸国において為政者、法学者、知識人ともに「内へのジハード」を重視する傾向が強い。
「外へのジハード」は一般に「聖戦」と訳されるジハードであり、イスラーム共同体外部への侵略戦争、あるいはイスラーム共同体外部からイスラーム共同体を守るための戦いである。この戦いが「ジハード」の名で称されるためには、法的根拠を必要とする。
イスラーム法(シャリーア)は、正統カリフ時代のイスラーム共同体(ウンマ)からアラブ帝国(ウマイヤ朝)、イスラーム帝国(アッバース朝)へと発展していった8世紀から10世紀頃にかけて整備された。シャリーアは、初期イスラームの拡大戦争を支えたイデオロギーである「外へのジハード」を以下のような観念にまとめた。すなわち、
というものである。
伝統的なシャリーアの理念においては、イスラーム共同体の主権が確立され、シャリーアが施行される領域、"ダール・アル=イスラーム" دار السلام(「イスラームの家」=イスラーム世界)に全世界とその人民が包摂されていなければならない。しかし、現実には「イスラームの家」の外部には、イスラームの力がおよばない"ダール・アル=ハルブ" دار الحرب(「戦争の家」=非イスラーム世界)が存在する。したがって、「戦争の家」を「イスラームの家」に組み入れるための努力、すなわちジハードを行うことがムスリムの義務とされるのである。
上の定義から、イスラーム共同体の支配に服さない異教徒の討伐は原則として正しい行為であり、極端にいえば、イスラーム共同体は最終的には全世界を征服し、異教徒を屈服させなければならないという論理さえ導き出される。この論理の根拠としては、『クルアーン』第2章第193節にある「騒擾がすっかりなくなる時まで。宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼等(メッカの多神教徒)を相手に戦いぬけ」がある。 したがって二つの世界(家)の間は常に戦争状態にあり、ジハードがムスリムの永続的義務である以上、戦争状態がむしろ常態だとの指摘がある。
しかし同時に『クルアーン』は、戦争が正当なジハードたりうるのは異教徒が戦いを挑んできた場合に限られることも示しており、第2章第190節には、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」とある。加えて前述の第2章第193節後半部分に従えば、異教徒から挑まれた戦争であっても、相手がイスラーム共同体と和平を結び、「不義の戦争」を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も害意を捨てて和平に努めなければならない。つまりイスラーム共同体は、イスラームとの戦いを望まない「戦争の家」勢力とならば、条約を結び外交関係を樹立することが可能であると理解される。これら外交関係を取り結んだ諸国は「和平の家」と呼ばれ、「戦争の家」とは区別される。 こうしたことから、「戦争の家」観と好戦的ジハード思想は古典期に成立した法学思想に過ぎず、クルアーンの教えではないとの指摘がある。
もし、ある戦争行為を「ジハード」として遂行することが必要となった場合は、カリフはムフティーと呼ばれる宗教指導者に対し、その戦争がジハードとして認められるかどうかを諮問しなければならない。その結果、ムフティーが合法であるとするファトワーを発することで、統治者は「ジハード」を宣言することができる。
ジハードには、このような法的根拠が必要であり、その根拠のないものを「ジハード」とは呼べない。開戦が「防衛的ジハード」であり、法的根拠を有する場合は、全ムスリムは、国家や民族を超えて全イスラーム教徒が、直接的にであれ間接的にであれジハードに参加しなくてはならない。ただし、歴史的には当該統治者の臣民以外にジハード参加の強制力を及ぼすことは難しかった。これに対し、イスラーム共同体拡大のための侵略戦争の場合、参戦義務は統治者の家臣と臣民に限られる。
また、イスラームのジハード思想では、異教徒を討伐し、その結果として非ムスリムを服属させることは認められていても、征服地の異教徒に対する強制改宗は明確に否定されている。これは、『クルアーン』第2章256節の「宗教に無理強いは禁物」という句を根拠にしており、『クルアーン』では、信じるのも信じないのも本人の自由であることが強調されている。したがって、ジハードは布教のための戦争であってはならない。
さらにいえば、「イスラームの家」を拡大する行為とは必ずしも戦闘という手段に限定されない。中央アジアや東南アジアでの布教のように平和的な方法によって「イスラームの家」が拡大された例も少なくない。その担い手は、これらの地域に赴いたムスリム商人やイスラム神秘主義者(スーフィー)の聖人たちであった。また、「イスラームの家」の支配下に入った異教徒たちは、イスラームの主権下で一定程度の人権を保障された隷属民「ズィンミー」たることを強制され、差別待遇を甘受さぜるを得なかったが、信教の自由を認められるなど比較的寛大に扱われたことも少なくなかった。
また、時には、「戦争の家」に住む異教徒が、「イスラームの家」に対して戦争を仕掛けてくることも当然ありうる。このような場合、イスラーム共同体防衛のためのジハードがムスリムの義務となる。
防衛戦に従事する者(聖戦士)を、ムジャーヒド(単数形)およびムジャーヒディーン(複数形)という。彼らに対して、唯一神アッラーは『クルアーン』を通じて「神の道に戦うものは、戦死しても凱旋しても我らがきっと大きな褒美を授けよう」と教え、ジハードで戦死すれば殉教者として最後の審判ののち、必ず天国に迎えられると約束する。一方で、『クルアーン』は「敵に背を向けるものは、たちまち神の怒りを背負い込み、その行く先はジャハンナム(地獄)である」と語り、ジハードを怠ることを厳しく非難している。
イスラームでは、世界史において繰り広げられてきた普通の戦いを、ジハード(聖戦)とは明確に区別し、それを「キタール(قِتَال qitāl)」と呼称している。キタールとは、侵略戦争や領土拡大、戦利品や奴隷の獲得、資源確保、植民地確保など、人間のもつ単純な欲望にもとづいておこなわれる戦争のことであり、また、憎悪から生まれる行為や復讐の行為もキタールであって、いずれも否定されるべき行為とされている。
キタールは、アラビア語の「カタラ(殺した)」という言葉を語源としており、「世俗的な欲望にもとづいた戦争」を意味するのに対し、ジハードが想定している戦争は、あくまでも、ムスリムから見て正当な防衛戦争であり、イスラーム共同体(ウンマ)の利益になるものでなければならない。ゆえに、開戦に際しては宗教指導者の承認を必要とし、「アッラーの御名において」という呼びかけのもとにおこなわれるのである。
しかしながら、後述するように、時のムスリム政権がキタールをジハードと詐称して侵略戦争を行った例は多い。
ジハードは、イスラーム共同体を外からの攻撃から守ることだけではなく、内側に生じる崩壊の要因を除去するための奮闘努力を含んでいる。それを、「生命・財産を捧げてもおこなうべし」としたところから「戦い」の言葉で形容されているものと考えられる。
そのようにみるならば、ジハード(聖戦・奮闘努力)は、ムスリムにとって最も重要で基本的な命令ということができる。そのため、ムスリムは外の世界に対し封鎖的な環境をつくらざるを得なくなる。外からの異文化の導入や異質な世界との交流・接触、異なる価値観との対立から「アッラーの道」を守らなくてはならないからである。その結果、イスラーム世界が採用した方法は、周囲に対し、あたかも大きく高い塀を張り巡らすようなものであった、ということができる。イスラーム世界が今なお中世的な雰囲気を濃厚に有していると指摘されるのもそのためであるが、しかしだからといって、イスラーム世界が外界に対して完全に閉鎖的であるというわけではない。ハディースに「知を求めることはすべてのムスリムの義務である」「中国までも知を求めよ」とあるように、イスラーム世界を発展させるための知識の導入は歓迎されており、イスラーム世界を発展させることもまた、ジハードの目的だからである。
上述したように、「ジハード」は多義的なことばであり、イスラームの歴史にあってはそれが善用されることもあれば悪用されることもあった。
歴史的にみれば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、初期イスラームの時代のビザンツやペルシアへの侵略戦争であり、ジハード擁護論からした場合の、イスラームを広めるための聖なる戦い、である大征服時代、および中世ヨーロッパのキリスト教世界が、聖地イェルサレム奪回を目的として7回にわたって中東地域に派遣した十字軍との戦いの時代が代表例なものである。
イスラームの拡大しはじめた時期にあっては「アッラーへの道をはずれることなく」、イスラーム教徒にとっての異教徒と戦って死ぬことは殉教とされ、殉教者には天国が約束された。しかし、11世紀末に十字軍がエルサレム王国を建国し、キリスト教徒がパレスチナを占領したころにはジハードの理想はついえており、各所より散発的に、イスラームの君主たちの無気力を批判する声があがった。法学者のアッ=スラミーが聖戦を個人に課せられた義務であると主張して、これを呼びかけたのは、このときであった。この呼びかけに応えたのは当初はザンギー朝、その後はムスリムの英雄サラーフッディーン(サラディン)がこれに応えた。
第一次世界大戦の際には、同盟国側に立ったオスマン帝国が「ジハード」宣言を発しているが、しかし、ここではインドのムスリムの対英協力やアラブ人の反乱を食い止めることができなかった。とはいえ、一方では、19世紀以降、いわばイスラーム世界の「辺境」にあたる西アフリカ、マグリブ、スーダン、インドや東南アジアの地で「ジハード」が呼びかけられ、植民地主義と帝国主義に対する抵抗が繰り広げられたのも事実である。20世紀後半には、ユダヤ教の国イスラエルの拡大と戦うパレスティナのハマースやソヴィエト連邦の侵攻と戦うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの抵抗思想(「防衛ジハード」の思想)と同様の性格を見出すことができる。
このように、イスラーム的伝統のなかでジハードが重要な役割を果たしてきたのは事実であるが、近年では、イスラーム教の改革を推進するジハードに参加することは、真のイスラーム教徒のすべてにとって神聖な義務だと主張する人びともいる。このような立場に立って現代イスラーム社会とその周辺を見わたすと、そこには、腐敗した権威主義的政権が支配する世界や、みずからの経済的な成功・繁栄のみに関心が集中し、欧米社会の文化や価値観に染まった一握りのエリートだけが脚光を浴びる世界が立ち現れてくる、少なくとも、そのようにとらえるムスリムは少なくない。そして、欧米諸国が、民衆に対し抑圧的な態度をとるイスラームの政権を支え、地域の人材や天然資源を搾取し、イスラーム世界から文化を奪い、ムスリム自身が選んだ政権の下で公正な社会に生きる権利を奪っているように映じるのである。
イスラーム主義(イスラーム復興主義)に立つ活動家の多くは、ムスリムの力と繁栄をとりもどすには、「正しいイスラームの教え」に回帰することが重要と考えており、また、国家や社会のイスラーム化を強めるために政治改革・社会改革が必要だと考えている。このようなイスラーム回帰の思想は、近代においては、ワッハーブ運動やアフガーニーの改革運動を嚆矢としており、のちのサウジアラビア建国や汎アラブ主義の台頭の原動力となった。そして、一握りではあるが、そのなかの暴力的な方向性を是認する一部の過激派は、救世主的な世界観と攻撃性を組み合わせて国内外のイスラーム教を解放するためのジハードを呼びかけ、「神の軍隊」の創設を主張し、軍事的な動員をおこなっている。上述のように、ジハードは、侵略戦争を遂行してゆくために利用すべきものでは決してないが、それでも実際には、一部の支配者や政府、個人はそのようにジハードを利用している。たとえば、1991年の湾岸戦争の際のサッダーム・フセイン、アフガニスタンのターリバーン、また、ウサマ・ビンラーディンおよびアルカーイダなどがそれに相当する。
なお、古典的なシャリーアでは、ムスリムであってもイスラームの教えから逸脱する信条を抱くようになった者は不信心者(カーフィル)と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならないと規定している。16世紀から17世紀にかけて、互いに近接するスンナ派のオスマン帝国(トルコ)とシーア派のサファヴィー朝(ペルシャ)が領土をめぐって戦争するときは、お互いを「不信心者」と決め付けることによってその戦争を「ジハード」と位置付け、みずからの立場を正当化しようと図り、1980年から1988年までつづいたイラン・イラク戦争においてルーホッラー・ホメイニーを擁するイラン・イスラム共和国が「世俗主義」「脱宗教主義」を標榜するバアス党政権のイラクに対して激しい敵意と憎悪を示したのは、このような思想を背景とする。
上述のとおりアラビア語でのジハードは本来「奮闘する」「努力する」という意味の言葉であるため、イスラームの文脈を離れた世俗的意味でも用いられる。例を挙げると、「経済的発展を目指す努力」「政治的独立を目指す闘争」「社会改革への努力」「女性解放のための闘争」などにおいてである。
日本や多くのキリスト教圏の欧米の先進国においては、「ジハード」の語には異教徒に武力によって改宗を迫る行為(いわゆる「コーランか剣か」、「右手にコーラン、左手に剣」)のイメージが付きまとう。これは「聖戦」という訳語からの影響も大きい。しかし、少なくとも正確には「コーランか貢ぎ物か剣か」であり、強制改宗を含意する「コーランか剣か」は反イスラーム主義によるプロパガンダの性格が強く、誤解をまねく表現である。『クルアーン』では改宗の強制は否定されており、また、上述したように「ジハード」には「聖戦」以外の意味もある。
反イスラーム主義者は、しばしばムスリムに対し、ムスリムはタリバーンのアフガニスタンにおけるバーミヤーン大仏爆破にみられるように、攻撃してもいない仏教徒の信仰対象を勝手に破壊することをジハードとして正当化していながら、自分たちのモスクなどが攻撃を受けた場合はただちに武力闘争を開始し、その闘争を他宗教からの弾圧に対する抵抗、すなわちジハードとして規定する傾向にあると批判する。これは、「ジハード」の語を二重基準で用いることに対する批判である。ただし、一方では、こうした意見はムスリム全体とムスリムのなかの一勢力とを混同した結果であるとの見方もある。
しかしながら、2001年のウサマ・ビンラーディンによるアメリカ同時多発テロや、2003年のイラク戦争におけるサッダーム・フセインによる「ジハード宣言」は、改めて「イスラームは好戦的」「ムスリムは過激で暴力的」というネガティブイメージを、日本を含む国際社会に流布させる原因となっている。
トヨタ自動車のピックアップトラックが、過激派組織ISILに利用されている現状に、アメリカ合衆国の独立系保守報道機関「ザ・ブレイズ」が、パロディ広告の謳い文句(バクロニム)として「Toyota ISIS: We’re good for jihad !(トヨタ・アイシス:ジハードに相応しい車だ!)」とブラックジョークにして、Twitterに投稿された。
また、自らの宗教的思想と相反するものに対して殺人やテロさえも正当化する言葉であることからキリスト教における聖絶やオウム真理教のポア、連合赤軍における総括などと同一視するものもいる。 | [
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"text": "ジハード(جهاد jihād)は、アラビア語の語根 جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、自己犠牲して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。「大ジハード」と「小ジハード」がある。",
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"text": "「大ジハード」(内へのジハード)は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は異教徒に対しての戦いを指すため、一般的に「ジハード」というと後者を指す。イスラム法学上の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される。しばしば「聖戦」と和訳されるが、ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない。",
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"text": "ジハードは、『クルアーン(コーラン)』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada (ジャハダ、アラビア語: جهد)を語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。この語には本来「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていない。しかし、『クルアーン』においてはこの言葉が「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われており、このことから異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)をも指すようになった。したがって、「聖戦」という訳語は、ジハード本来の意味からすれば狭義の訳語ということができる。",
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"text": "奮闘努力の意味でのジハードは、ムスリムの主要な義務である五行に次いで「第六番目の行」といわれることがある。ジハードの重要性は、イスラームの聖典『クルアーン』が神の道において奮闘せよと命じていることと、あるいはまた、預言者(ムハンマド)と初期のイスラーム共同体(ウンマ)のあり方に根ざしている。",
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"text": "近現代におけるイスラームの反帝国主義・イスラーム復古主義・イスラーム原理主義においては、イスラーム世界防衛のため、「実際に武器を持って戦うジハード」が再び強調されている。 『世界大百科事典』では次の解説がある。",
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"text": "イスラームとならび「世界宗教」と称される仏教・キリスト教と比較した際の、イスラーム教の極だった特徴としては、政教一体の宗教共同体の存在があげられる。この宗教は、単なる個人的・内面的な信仰体系というにとどまらず、むしろひとつの確固たる共同体そのもの、ないし共同体的生活の全体なのであり、また、それを支える固有の法律、政府、社会制度を内的に規定しているのである。そして、預言者としてムスリムを指導したムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の預言者や宗教指導者にもまして、「神の道」にもとづく理想の国ウンマを建設しようという情熱と意欲に満ちあふれていた。",
"title": "ウンマ(イスラーム共同体)の歴史とジハード"
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"text": "「ジャーヒリーヤ時代」(無知の時代、無明の時代)すなわちイスラーム成立以前のアラビア半島では、それぞれの部族は、血縁にもとづく連帯意識の強弱が各部族の命運を左右しており、人間の欲望にもとづく闘争(キタール)が繰り広げられていた。しかし、それはきびしい砂漠気候のなかでは自殺行為であった。イスラームは、この連帯意識を血族意識を基本としたものから「アッラーへの絶対帰依」という超血族意識を根幹としたものへと変革させたのであり、その変革の試みが成功したために世界宗教として歴史の表舞台に登場したということができる。血族的でない連帯意識を支えた「信仰生活」そのものは、血族意識にくらべればきわめて曖昧なものであり、それゆえ、唯一神アッラーから「六信五行」というシステムを平等に受け、日月や時間さえも同一にして、見えるかたちでの連帯意識・同胞意識の醸成を毎日はかることとしたのである。ジハードとは、こうして形成された宗教共同体を守ろうとする実践的な営為なのである。",
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"text": "イスラーム共同体の歴史は、それゆえ、ムハンマドの時代から現代にいたるまで、『クルアーン』のジハードに関する教えをその枠組みとして見てゆくことができる。『クルアーン』第49章「部屋の章」15節 には、",
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"text": "とあり、「ジハード」とはしたがって、ムスリムのあるべき姿を述べた、イスラームの代表的な言葉でもある。",
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"text": "『クルアーン』におけるジハードの教えは、ムスリムの人びとの自己認識、そして、唯一神アッラーを敬う心、共同体の動員・拡大・防衛などの諸点において、根本的に重要なものである。それは、ひとりの人間として善き人生を送ることは決して容易なことではなく、また、決して単純なことでもないという認識や思念に関わってくるからである。「神の道」にかなうような、道徳的で高潔な人となるためには、自らの内面に潜む悪と戦い、善行によって社会の改善に資するよう、真剣に奮闘努力しなければならない。",
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"text": "それにまた、ジハードは、その人の置かれた環境によっては、不正や抑圧に対する戦いという意味をもつこととなり、宣教と説得によって、また場合によっては、必要に応じては武器をとり、「聖なる戦い」を繰り広げることによって正しい社会をつくらなければならないという考えと結びつくのである。",
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"text": "ジハードは、六信五行というムスリムの信仰と義務の項目には含まれていないが、『クルアーン』では「奮闘努力」という非常に幅広い意味で登場し、したがって、その意味からも六信五行を越え、イスラームの信者として当然持たなければならない基本的な心構えとして、いっそう重要な命令と考えられている。",
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"text": "広い意味でのジハードには、次の2種類が存在するといわれている。",
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"text": "この2つについて、ムハンマドが実際の戦闘から日常生活に戻ったときに語ったと伝承される言葉が、その内実をよく説明している。その言葉とは、",
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"text": "というものである。",
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"text": "「大きなジハード」すなわち「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある悪や不正義、欲望、自我、利己主義と戦って、内面に正義を実現させるための行為のことであり、それだけに、いっそう困難で重要なものとされる。このことに関して、イスラーム共和制をとるイランでは、ラマダーンの期間、「ラマダーン月はジハードの月」などといった標語を掲げることによって、弛緩しがちなムスリムたちの規律を正し、イスラーム共和国の理想を思い起こさせるための行為という意味で「ジハード」の語が用いられる。イスラームが五行のひとつとして1ヶ月にわたる断食(サウム)を信徒に命じている理由は、人びとに食欲という本能を抑える訓練をさせることによって、精神は肉体よりも強固なものであると自覚させ、同時に食べものへの感謝の念を起こさせるためであるといわれている。",
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"text": "現在、多くの学者は「内へのジハード」を「大ジハード」(الجهاد الأكبر al-jihād l-akbar) と呼んでおり、それに対して「外へのジハード」を「小ジハード」(الجهاد الأصغر al-jihād l-asghar)と呼んでいる。どちらも、アッラーの命令を完遂できないような環境がつくられないための「奮闘努力」という点では共通している。",
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"text": "もっとも広い意味でのジハードは、すべてのムスリムに課される義務を指している。神の意志にしたがい、神の意志を実現して倫理的な生活を営むために、説教、教育、実例および文書などによってイスラーム共同体の拡大のため、ムスリム一人ひとりとしても、イスラーム共同体としても、おこなうべき義務なのである。また、「ジハード」には、イスラーム教とイスラーム共同体を外部からの攻撃から守る権利(実際には義務)という意味もある。20世紀後半にあっても、1978年からのソ連のアフガニスタン紛争において、アフガニスタンのムジャーヒディーン(後述)が、ソヴィエト連邦の占領に対し、10年におよぶ長いジハードを戦ってきた。",
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"text": "歴史的にみれば「大ジハード」は、平和主義と寛容さを旨とするイスラーム神秘主義の潮流のなかで特に支持されてきたものであり、その一方で、支配者・権力者は領土拡大や侵略の大義名分として「外へのジハード」を利用してきた。現代でもしばしば、テロリストと目される過激な集団が「外へのジハード」を大義名分として行動し、ムスリムの結集を呼びかけるために用いている。",
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"text": "「内へのジハード」は、非イスラーム圏ではあまり注目されていないが、イスラーム世界ではきわめて重要視されている概念である。これは通常、神の道を実現するために、各個人が自らの心のなかの堕落・怠惰・腐敗などの諸悪と戦う克己の精神を意味しており、強い意志で自分をよりよくしていこうという努力である。また、これらの悪を増長させる外来文化の導入などによる環境変化に対する抵抗もまた、「内へのジハード」としての戦いであると見なされる。『クルアーン』には、各所に「努力する者には神が報いてくださる」としか解釈できない句が数多く登場する。ムハンマド自身は、しばしば同時代のユダヤ人をその信仰において「形式主義者」と非難し、ムスリムに対しても、たとえば「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」と宣言したように、努力することそのものを重んじたのである。",
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"text": "「内へのジハード」は「大ジハード」と呼ばれ、社会の平和的な運営には欠くべからざるものとして法学者や為政者からも重視される。ジハードを「聖戦」と訳して、単なる戦いという意味でこの言葉を理解することは誤りであり、「布教のための戦い」と理解することもまた誤りであって、「戦い」の意味を有する場合でも、あくまでも「防衛戦」を指している。現代においては、多くのイスラーム諸国において為政者、法学者、知識人ともに「内へのジハード」を重視する傾向が強い。",
"title": "内へのジハード(大ジハード)"
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"text": "「外へのジハード」は一般に「聖戦」と訳されるジハードであり、イスラーム共同体外部への侵略戦争、あるいはイスラーム共同体外部からイスラーム共同体を守るための戦いである。この戦いが「ジハード」の名で称されるためには、法的根拠を必要とする。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "イスラーム法(シャリーア)は、正統カリフ時代のイスラーム共同体(ウンマ)からアラブ帝国(ウマイヤ朝)、イスラーム帝国(アッバース朝)へと発展していった8世紀から10世紀頃にかけて整備された。シャリーアは、初期イスラームの拡大戦争を支えたイデオロギーである「外へのジハード」を以下のような観念にまとめた。すなわち、",
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"text": "というものである。",
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"text": "伝統的なシャリーアの理念においては、イスラーム共同体の主権が確立され、シャリーアが施行される領域、\"ダール・アル=イスラーム\" دار السلام(「イスラームの家」=イスラーム世界)に全世界とその人民が包摂されていなければならない。しかし、現実には「イスラームの家」の外部には、イスラームの力がおよばない\"ダール・アル=ハルブ\" دار الحرب(「戦争の家」=非イスラーム世界)が存在する。したがって、「戦争の家」を「イスラームの家」に組み入れるための努力、すなわちジハードを行うことがムスリムの義務とされるのである。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "上の定義から、イスラーム共同体の支配に服さない異教徒の討伐は原則として正しい行為であり、極端にいえば、イスラーム共同体は最終的には全世界を征服し、異教徒を屈服させなければならないという論理さえ導き出される。この論理の根拠としては、『クルアーン』第2章第193節にある「騒擾がすっかりなくなる時まで。宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼等(メッカの多神教徒)を相手に戦いぬけ」がある。 したがって二つの世界(家)の間は常に戦争状態にあり、ジハードがムスリムの永続的義務である以上、戦争状態がむしろ常態だとの指摘がある。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "しかし同時に『クルアーン』は、戦争が正当なジハードたりうるのは異教徒が戦いを挑んできた場合に限られることも示しており、第2章第190節には、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」とある。加えて前述の第2章第193節後半部分に従えば、異教徒から挑まれた戦争であっても、相手がイスラーム共同体と和平を結び、「不義の戦争」を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も害意を捨てて和平に努めなければならない。つまりイスラーム共同体は、イスラームとの戦いを望まない「戦争の家」勢力とならば、条約を結び外交関係を樹立することが可能であると理解される。これら外交関係を取り結んだ諸国は「和平の家」と呼ばれ、「戦争の家」とは区別される。 こうしたことから、「戦争の家」観と好戦的ジハード思想は古典期に成立した法学思想に過ぎず、クルアーンの教えではないとの指摘がある。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "もし、ある戦争行為を「ジハード」として遂行することが必要となった場合は、カリフはムフティーと呼ばれる宗教指導者に対し、その戦争がジハードとして認められるかどうかを諮問しなければならない。その結果、ムフティーが合法であるとするファトワーを発することで、統治者は「ジハード」を宣言することができる。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "ジハードには、このような法的根拠が必要であり、その根拠のないものを「ジハード」とは呼べない。開戦が「防衛的ジハード」であり、法的根拠を有する場合は、全ムスリムは、国家や民族を超えて全イスラーム教徒が、直接的にであれ間接的にであれジハードに参加しなくてはならない。ただし、歴史的には当該統治者の臣民以外にジハード参加の強制力を及ぼすことは難しかった。これに対し、イスラーム共同体拡大のための侵略戦争の場合、参戦義務は統治者の家臣と臣民に限られる。",
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"text": "また、イスラームのジハード思想では、異教徒を討伐し、その結果として非ムスリムを服属させることは認められていても、征服地の異教徒に対する強制改宗は明確に否定されている。これは、『クルアーン』第2章256節の「宗教に無理強いは禁物」という句を根拠にしており、『クルアーン』では、信じるのも信じないのも本人の自由であることが強調されている。したがって、ジハードは布教のための戦争であってはならない。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "さらにいえば、「イスラームの家」を拡大する行為とは必ずしも戦闘という手段に限定されない。中央アジアや東南アジアでの布教のように平和的な方法によって「イスラームの家」が拡大された例も少なくない。その担い手は、これらの地域に赴いたムスリム商人やイスラム神秘主義者(スーフィー)の聖人たちであった。また、「イスラームの家」の支配下に入った異教徒たちは、イスラームの主権下で一定程度の人権を保障された隷属民「ズィンミー」たることを強制され、差別待遇を甘受さぜるを得なかったが、信教の自由を認められるなど比較的寛大に扱われたことも少なくなかった。",
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"text": "また、時には、「戦争の家」に住む異教徒が、「イスラームの家」に対して戦争を仕掛けてくることも当然ありうる。このような場合、イスラーム共同体防衛のためのジハードがムスリムの義務となる。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "防衛戦に従事する者(聖戦士)を、ムジャーヒド(単数形)およびムジャーヒディーン(複数形)という。彼らに対して、唯一神アッラーは『クルアーン』を通じて「神の道に戦うものは、戦死しても凱旋しても我らがきっと大きな褒美を授けよう」と教え、ジハードで戦死すれば殉教者として最後の審判ののち、必ず天国に迎えられると約束する。一方で、『クルアーン』は「敵に背を向けるものは、たちまち神の怒りを背負い込み、その行く先はジャハンナム(地獄)である」と語り、ジハードを怠ることを厳しく非難している。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "イスラームでは、世界史において繰り広げられてきた普通の戦いを、ジハード(聖戦)とは明確に区別し、それを「キタール(قِتَال qitāl)」と呼称している。キタールとは、侵略戦争や領土拡大、戦利品や奴隷の獲得、資源確保、植民地確保など、人間のもつ単純な欲望にもとづいておこなわれる戦争のことであり、また、憎悪から生まれる行為や復讐の行為もキタールであって、いずれも否定されるべき行為とされている。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "キタールは、アラビア語の「カタラ(殺した)」という言葉を語源としており、「世俗的な欲望にもとづいた戦争」を意味するのに対し、ジハードが想定している戦争は、あくまでも、ムスリムから見て正当な防衛戦争であり、イスラーム共同体(ウンマ)の利益になるものでなければならない。ゆえに、開戦に際しては宗教指導者の承認を必要とし、「アッラーの御名において」という呼びかけのもとにおこなわれるのである。",
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"text": "しかしながら、後述するように、時のムスリム政権がキタールをジハードと詐称して侵略戦争を行った例は多い。",
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"text": "ジハードは、イスラーム共同体を外からの攻撃から守ることだけではなく、内側に生じる崩壊の要因を除去するための奮闘努力を含んでいる。それを、「生命・財産を捧げてもおこなうべし」としたところから「戦い」の言葉で形容されているものと考えられる。",
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"text": "そのようにみるならば、ジハード(聖戦・奮闘努力)は、ムスリムにとって最も重要で基本的な命令ということができる。そのため、ムスリムは外の世界に対し封鎖的な環境をつくらざるを得なくなる。外からの異文化の導入や異質な世界との交流・接触、異なる価値観との対立から「アッラーの道」を守らなくてはならないからである。その結果、イスラーム世界が採用した方法は、周囲に対し、あたかも大きく高い塀を張り巡らすようなものであった、ということができる。イスラーム世界が今なお中世的な雰囲気を濃厚に有していると指摘されるのもそのためであるが、しかしだからといって、イスラーム世界が外界に対して完全に閉鎖的であるというわけではない。ハディースに「知を求めることはすべてのムスリムの義務である」「中国までも知を求めよ」とあるように、イスラーム世界を発展させるための知識の導入は歓迎されており、イスラーム世界を発展させることもまた、ジハードの目的だからである。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "上述したように、「ジハード」は多義的なことばであり、イスラームの歴史にあってはそれが善用されることもあれば悪用されることもあった。",
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"text": "歴史的にみれば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、初期イスラームの時代のビザンツやペルシアへの侵略戦争であり、ジハード擁護論からした場合の、イスラームを広めるための聖なる戦い、である大征服時代、および中世ヨーロッパのキリスト教世界が、聖地イェルサレム奪回を目的として7回にわたって中東地域に派遣した十字軍との戦いの時代が代表例なものである。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"text": "イスラームの拡大しはじめた時期にあっては「アッラーへの道をはずれることなく」、イスラーム教徒にとっての異教徒と戦って死ぬことは殉教とされ、殉教者には天国が約束された。しかし、11世紀末に十字軍がエルサレム王国を建国し、キリスト教徒がパレスチナを占領したころにはジハードの理想はついえており、各所より散発的に、イスラームの君主たちの無気力を批判する声があがった。法学者のアッ=スラミーが聖戦を個人に課せられた義務であると主張して、これを呼びかけたのは、このときであった。この呼びかけに応えたのは当初はザンギー朝、その後はムスリムの英雄サラーフッディーン(サラディン)がこれに応えた。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の際には、同盟国側に立ったオスマン帝国が「ジハード」宣言を発しているが、しかし、ここではインドのムスリムの対英協力やアラブ人の反乱を食い止めることができなかった。とはいえ、一方では、19世紀以降、いわばイスラーム世界の「辺境」にあたる西アフリカ、マグリブ、スーダン、インドや東南アジアの地で「ジハード」が呼びかけられ、植民地主義と帝国主義に対する抵抗が繰り広げられたのも事実である。20世紀後半には、ユダヤ教の国イスラエルの拡大と戦うパレスティナのハマースやソヴィエト連邦の侵攻と戦うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの抵抗思想(「防衛ジハード」の思想)と同様の性格を見出すことができる。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このように、イスラーム的伝統のなかでジハードが重要な役割を果たしてきたのは事実であるが、近年では、イスラーム教の改革を推進するジハードに参加することは、真のイスラーム教徒のすべてにとって神聖な義務だと主張する人びともいる。このような立場に立って現代イスラーム社会とその周辺を見わたすと、そこには、腐敗した権威主義的政権が支配する世界や、みずからの経済的な成功・繁栄のみに関心が集中し、欧米社会の文化や価値観に染まった一握りのエリートだけが脚光を浴びる世界が立ち現れてくる、少なくとも、そのようにとらえるムスリムは少なくない。そして、欧米諸国が、民衆に対し抑圧的な態度をとるイスラームの政権を支え、地域の人材や天然資源を搾取し、イスラーム世界から文化を奪い、ムスリム自身が選んだ政権の下で公正な社会に生きる権利を奪っているように映じるのである。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "イスラーム主義(イスラーム復興主義)に立つ活動家の多くは、ムスリムの力と繁栄をとりもどすには、「正しいイスラームの教え」に回帰することが重要と考えており、また、国家や社会のイスラーム化を強めるために政治改革・社会改革が必要だと考えている。このようなイスラーム回帰の思想は、近代においては、ワッハーブ運動やアフガーニーの改革運動を嚆矢としており、のちのサウジアラビア建国や汎アラブ主義の台頭の原動力となった。そして、一握りではあるが、そのなかの暴力的な方向性を是認する一部の過激派は、救世主的な世界観と攻撃性を組み合わせて国内外のイスラーム教を解放するためのジハードを呼びかけ、「神の軍隊」の創設を主張し、軍事的な動員をおこなっている。上述のように、ジハードは、侵略戦争を遂行してゆくために利用すべきものでは決してないが、それでも実際には、一部の支配者や政府、個人はそのようにジハードを利用している。たとえば、1991年の湾岸戦争の際のサッダーム・フセイン、アフガニスタンのターリバーン、また、ウサマ・ビンラーディンおよびアルカーイダなどがそれに相当する。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、古典的なシャリーアでは、ムスリムであってもイスラームの教えから逸脱する信条を抱くようになった者は不信心者(カーフィル)と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならないと規定している。16世紀から17世紀にかけて、互いに近接するスンナ派のオスマン帝国(トルコ)とシーア派のサファヴィー朝(ペルシャ)が領土をめぐって戦争するときは、お互いを「不信心者」と決め付けることによってその戦争を「ジハード」と位置付け、みずからの立場を正当化しようと図り、1980年から1988年までつづいたイラン・イラク戦争においてルーホッラー・ホメイニーを擁するイラン・イスラム共和国が「世俗主義」「脱宗教主義」を標榜するバアス党政権のイラクに対して激しい敵意と憎悪を示したのは、このような思想を背景とする。",
"title": "外へのジハード(小ジハード)"
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"tag": "p",
"text": "上述のとおりアラビア語でのジハードは本来「奮闘する」「努力する」という意味の言葉であるため、イスラームの文脈を離れた世俗的意味でも用いられる。例を挙げると、「経済的発展を目指す努力」「政治的独立を目指す闘争」「社会改革への努力」「女性解放のための闘争」などにおいてである。",
"title": "世俗的意味でのジハード"
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"text": "日本や多くのキリスト教圏の欧米の先進国においては、「ジハード」の語には異教徒に武力によって改宗を迫る行為(いわゆる「コーランか剣か」、「右手にコーラン、左手に剣」)のイメージが付きまとう。これは「聖戦」という訳語からの影響も大きい。しかし、少なくとも正確には「コーランか貢ぎ物か剣か」であり、強制改宗を含意する「コーランか剣か」は反イスラーム主義によるプロパガンダの性格が強く、誤解をまねく表現である。『クルアーン』では改宗の強制は否定されており、また、上述したように「ジハード」には「聖戦」以外の意味もある。",
"title": "ジハードのイメージ"
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"text": "反イスラーム主義者は、しばしばムスリムに対し、ムスリムはタリバーンのアフガニスタンにおけるバーミヤーン大仏爆破にみられるように、攻撃してもいない仏教徒の信仰対象を勝手に破壊することをジハードとして正当化していながら、自分たちのモスクなどが攻撃を受けた場合はただちに武力闘争を開始し、その闘争を他宗教からの弾圧に対する抵抗、すなわちジハードとして規定する傾向にあると批判する。これは、「ジハード」の語を二重基準で用いることに対する批判である。ただし、一方では、こうした意見はムスリム全体とムスリムのなかの一勢力とを混同した結果であるとの見方もある。",
"title": "ジハードのイメージ"
},
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"text": "しかしながら、2001年のウサマ・ビンラーディンによるアメリカ同時多発テロや、2003年のイラク戦争におけるサッダーム・フセインによる「ジハード宣言」は、改めて「イスラームは好戦的」「ムスリムは過激で暴力的」というネガティブイメージを、日本を含む国際社会に流布させる原因となっている。",
"title": "ジハードのイメージ"
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"text": "トヨタ自動車のピックアップトラックが、過激派組織ISILに利用されている現状に、アメリカ合衆国の独立系保守報道機関「ザ・ブレイズ」が、パロディ広告の謳い文句(バクロニム)として「Toyota ISIS: We’re good for jihad !(トヨタ・アイシス:ジハードに相応しい車だ!)」とブラックジョークにして、Twitterに投稿された。",
"title": "ジハードのイメージ"
},
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"text": "また、自らの宗教的思想と相反するものに対して殺人やテロさえも正当化する言葉であることからキリスト教における聖絶やオウム真理教のポア、連合赤軍における総括などと同一視するものもいる。",
"title": "ジハードのイメージ"
}
] | ジハードは、アラビア語の語根 جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、自己犠牲して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。「大ジハード」と「小ジハード」がある。 「大ジハード」(内へのジハード)は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は異教徒に対しての戦いを指すため、一般的に「ジハード」というと後者を指す。イスラム法学上の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される。しばしば「聖戦」と和訳されるが、ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses}}
{{Islam}}
{{出典の明記|date=2019-03}}
'''ジハード'''({{rtl-lang|ar|جهاد}} {{lang|ar-Latn|jihād}})は、[[アラビア語]]の[[語根]] جهد(J-H-D、努力する)から派生した動詞جاهد(ジャーハダ、[[自己犠牲]]して戦う)の動名詞で、「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する<ref name="中田">{{cite news | author = 塚田 紀史 | url = https://toyokeizai.net/articles/-/64017 | title = イスラム教徒は、好戦的でも排他的でもない 中田考氏にイスラム教徒の死生観を聞く | language = [[日本語]] | newspaper = [[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン | date = 2015-03-28 | accessdate = 2020-09-23 }}</ref>。「大ジハード」と「小ジハード」がある。
「大ジハード」(内へのジハード)は個人の[[信仰]]を深める内面的努力を指す一方、「小ジハード」(外へのジハード)は[[異教徒]]に対しての戦いを指すため、一般的に「ジハード」というと後者を指す<ref>{{Cite web|和書|title=JIIA -日本国際問題研究所-研究活動|url=https://www2.jiia.or.jp/RESR/keyword_page.php?id=67|website=www2.jiia.or.jp|accessdate=2021-08-27}}</ref>。[[イスラム法学]]上の「ジハード」は、「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される<ref name="中田"></ref>。しばしば「[[聖戦]]」と和訳されるが、ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない<ref name="中田"></ref>。
== 概要 ==
ジハードは、『[[クルアーン]](コーラン)』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する[[動詞]]の語根 jahada (ジャハダ、{{lang-ar|جهد}})を[[語源]]としており、[[アラビア語]]では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である<ref name=esposito/>。この語には本来「神聖」ないし「[[戦争]]」の意味は含まれていない{{sfn|平凡社|2019a|p=ジハード}}。しかし、『クルアーン』においてはこの言葉が「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われており、このことから異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)をも指すようになった。したがって、「聖戦」という訳語は、ジハード本来の意味からすれば狭義の訳語ということができる<ref name=atsumi287>[[#渥美|渥美(1999)pp.287-291]]</ref><ref group="注釈">「聖戦」に相当する用法としては、『クルアーン』第9章第81節に「居残り組の者どもは、アッラーの使徒が(出征した)後に残されて大喜び。もともと、彼らとしては、己が財産と生命を擲ってアッラーの道に闘うのは嫌だと思っていた」の「闘う」の部分にジハードの動詞形の三人称複数活用形“{{lang|ar-Latn|yujāhidū}}"が用いられている。</ref>。
奮闘努力の意味でのジハードは、ムスリムの主要な義務である[[五行 (イスラム教)|五行]]に次いで「第六番目の行」といわれることがある<ref name=esposito>[[#エスポジト|エスポジト(2009)pp.198-200]]</ref>。ジハードの重要性は、[[イスラーム]]の[[聖典]]『クルアーン』が神の道において奮闘せよと命じていることと、あるいはまた、[[預言者]]([[ムハンマド]])と初期のイスラーム共同体([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])のあり方に根ざしている<ref name=esposito/>。
[[近現代]]におけるイスラームの[[反帝国主義]]・イスラーム[[復古主義]]・[[イスラーム原理主義]]においては、[[イスラーム世界]]防衛のため、「実際に[[武器]]を持って戦うジハード」が再び強調されている{{sfn|竹下|2019|p=ジハード}}。
『[[世界大百科事典]]』では次の解説がある{{sfn|平凡社|2019b|p=ジハード}}。
{{cquote|[[イスラム法]]の理念では,世界はイスラムの[[主権]]の確立されたダール・アルイスラームでなければならない。まだその主権が確立されていない世界は,ダール・アルハルブdār al‐ḥarb(戦争世界)と定義され,そこではイスラムの主権が確立されるまでジハードが必要となる{{sfn|平凡社|2019b|p=ジハード}}。}}
== ウンマ(イスラーム共同体)の歴史とジハード ==
イスラームとならび「[[世界宗教]]」と称される[[仏教]]・[[キリスト教]]と比較した際の、イスラーム教の極だった特徴としては、政教一体の[[宗教]][[共同体]]の存在があげられる<ref name=iwamura>[[#岩村|岩村(1975)pp.219-221]]</ref>。この宗教は、単なる個人的・内面的な[[信仰]]体系というにとどまらず、むしろひとつの確固たる共同体そのもの、ないし共同体的生活の全体なのであり、また、それを支える固有の[[法律]]、[[政府]]、[[社会制度]]を内的に規定しているのである<ref name="iwamura"/>。そして、[[預言者]]としてムスリムを指導した[[ムハンマド]]は、[[ユダヤ教]]や[[キリスト教]]の預言者や宗教指導者にもまして、「神の道」にもとづく理想の国[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]を建設しようという[[情熱]]と意欲に満ちあふれていた<ref>[[#藤本|藤本(1971)p.186]]</ref>。
「[[ジャーヒリーヤ時代]]」(無知の時代、無明の時代)すなわちイスラーム成立以前の[[アラビア半島]]では、それぞれの[[部族]]は、[[血縁]]にもとづく連帯意識の強弱が各部族の命運を左右しており、人間の[[欲望]]にもとづく闘争(キタール)が繰り広げられていた<ref name=atsumi287/>。しかし、それはきびしい[[砂漠気候]]のなかでは自殺行為であった。イスラームは、この連帯意識を[[血族]]意識を基本としたものから「アッラーへの絶対帰依」という超血族意識を根幹としたものへと変革させたのであり、その変革の試みが成功したために世界宗教として歴史の表舞台に登場したということができる<ref name=atsumi287/>。血族的でない連帯意識を支えた「信仰生活」そのものは、血族意識にくらべればきわめて曖昧なものであり、それゆえ、唯一神アッラーから「[[六信]][[五行 (イスラム教)|五行]]」というシステムを平等に受け、日月や[[時間]]さえも同一にして、見えるかたちでの連帯意識・同胞意識の醸成を毎日はかることとしたのである。ジハードとは、こうして形成された宗教共同体を守ろうとする実践的な営為なのである<ref name=atsumi287/>。
イスラーム共同体の歴史は、それゆえ、ムハンマドの時代から現代にいたるまで、『クルアーン』のジハードに関する教えをその枠組みとして見てゆくことができる<ref name=esposito/>。『クルアーン』第49章「[[部屋 (クルアーン)|部屋の章]]」15節<ref group = "クルアーン">第49章15節{{Cite web|和書| title = 部屋 | url = http://islaam.ninja-x.jp/quranjp/sura49.html | accessdate = 2017-05-23}}</ref> には、
{{quotation|本当に信者とは、一途にアッラーとその使徒を信じる者たちで、疑いを持つことなく、アッラーの道のために、財産と生命とを捧げて奮闘努力する者である。これらの者こそ真の信者である。}}
とあり、「ジハード」とはしたがって、ムスリムのあるべき姿を述べた、イスラームの代表的な言葉でもある<ref name=atsumi287/>。
『クルアーン』におけるジハードの教えは、ムスリムの人びとの自己認識、そして、唯一神[[アッラー]]を敬う心、共同体の動員・拡大・防衛などの諸点において、根本的に重要なものである<ref name=esposito/>。それは、ひとりの[[人間]]として善き[[人生]]を送ることは決して容易なことではなく、また、決して単純なことでもないという[[認識]]や思念に関わってくるからである<ref name=esposito/>。「神の道」にかなうような、[[道徳]]的で高潔な人となるためには、自らの内面に潜む[[悪]]と戦い、[[善|善行]]によって[[社会]]の改善に資するよう、真剣に奮闘努力しなければならない<ref name=esposito/>。
それにまた、ジハードは、その人の置かれた[[環境]]によっては、不正や抑圧に対する戦いという意味をもつこととなり、[[宣教]]と説得によって、また場合によっては、必要に応じては[[武器]]をとり、「聖なる戦い」を繰り広げることによって正しい社会をつくらなければならないという考えと結びつくのである<ref name=esposito/>。
== 2つのジハード ==
ジハードは、[[六信]][[五行 (イスラム教)|五行]]というムスリムの信仰と義務の項目には含まれていないが、『クルアーン』では「奮闘努力」という非常に幅広い意味で登場し、したがって、その意味からも六信五行を越え、イスラームの信者として当然持たなければならない基本的な心構えとして、いっそう重要な命令と考えられている<ref name=atsumi287/>。
広い意味でのジハードには、次の2種類が存在するといわれている<ref name=esposito/>。
* 個人の内面との戦い。内へのジハード。非暴力的なジハード
* 外部の不義との戦い。外へのジハード。暴力的なジハード
この2つについて、ムハンマドが実際の[[戦闘]]から日常生活に戻ったときに語ったと[[伝承]]される言葉が、その内実をよく説明している。その言葉とは、
{{quotation|私たちは小さなジハード(戦争)から大きなジハードに戻る。…}}
というものである<ref name=esposito/>。
「大きなジハード」すなわち「内へのジハード」は、個々人のムスリムの心の中にある[[悪]]や不正義、[[欲望]]、[[自我]]、[[利己主義]]と戦って、内面に[[正義]]を実現させるための行為のことであり、それだけに、いっそう困難で重要なものとされる<ref name=esposito/>。このことに関して、[[イスラム共和制|イスラーム共和制]]をとる[[イラン]]では、[[ラマダーン]]の期間、「ラマダーン月はジハードの月」などといった[[標語]]を掲げることによって、弛緩しがちなムスリムたちの[[規律]]を正し、イスラーム共和国の[[理想]]を思い起こさせるための行為という意味で「ジハード」の語が用いられる<ref group="注釈">ムハンマドは「ジハードをし、開放せよ。断食し、健康を得よ。旅に出て儲けよ」と述べている。[http://www.aii-t.org/j/ramadan/ramadan.htm アラブ・イスラーム学院「ラマダーンQ&A 」]</ref>。イスラームが[[五行 (イスラム教)|五行]]のひとつとして1ヶ月にわたる[[断食]](サウム)を信徒に命じている理由は、人びとに[[食欲]]という[[本能]]を抑える訓練をさせることによって、[[精神]]は[[肉体]]よりも強固なものであると自覚させ、同時に食べものへの感謝の念を起こさせるためであるといわれている<ref>[[#大島|大島(1981)pp.84-85]]</ref>。
現在、多くの学者は「内へのジハード」を「大ジハード」({{rtl-lang|ar|الجهاد الأكبر}} {{lang|ar-Latn|al-jihād l-akbar}}) と呼んでおり、それに対して「外へのジハード」を「小ジハード」({{rtl-lang|ar|الجهاد الأصغر }} {{lang|ar-Latn|al-jihād l-asghar}})と呼んでいる<ref name=esposito/>。どちらも、アッラーの命令を完遂できないような[[環境]]がつくられないための「奮闘努力」という点では共通している<ref name=atsumi287/>。
もっとも広い意味でのジハードは、すべてのムスリムに課される[[義務]]を指している<ref name=esposito/>。神の意志にしたがい、神の意志を実現して[[倫理学|倫理]]的な生活を営むために、[[説教]]、[[教育]]、実例および[[文書]]などによってイスラーム共同体の拡大のため、ムスリム一人ひとりとしても、イスラーム共同体としても、おこなうべき義務なのである。また、「ジハード」には、イスラーム教とイスラーム共同体を外部からの攻撃から守る[[権利]](実際には義務)という意味もある<ref name=esposito/>。20世紀後半にあっても、[[1978年]]からの[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガニスタン紛争]]において、[[アフガニスタン]]の[[ムジャーヒディーン]](後述)が、[[ソヴィエト連邦]]の[[占領]]に対し、10年におよぶ長いジハードを戦ってきた<ref name=esposito/>。
歴史的にみれば「大ジハード」は、[[平和主義]]と寛容さを旨とする[[イスラーム神秘主義]]の潮流のなかで特に支持されてきたものであり、その一方で、支配者・権力者は[[領土]]拡大や[[侵略]]の[[大義名分]]として「外へのジハード」を利用してきた。現代でもしばしば、[[テロリスト]]と目される過激な集団が「外へのジハード」を大義名分として行動し、ムスリムの結集を呼びかけるために用いている<ref name=esposito/>。
== 内へのジハード(大ジハード) ==
「内へのジハード」は、非イスラーム圏ではあまり注目されていないが、イスラーム世界ではきわめて重要視されている概念である<ref name=esposito/>。これは通常、神の道を実現するために、各個人が自らの心のなかの堕落・怠惰・腐敗などの諸悪と戦う克己の[[精神]]を意味しており、強い意志で自分をよりよくしていこうという努力である<ref name=esposito/><ref name=atsumi287/><ref name=lar>[[#ラルース|『ラルース 図説 世界人物百科I』(2004)pp.323-328]]</ref>。また、これらの悪を増長させる外来文化の導入などによる環境変化に対する抵抗もまた、「内へのジハード」としての戦いであると見なされる<ref name=atsumi287/>。『クルアーン』には、各所に「努力する者には神が報いてくださる」としか解釈できない句が数多く登場する<ref name=oshima96>[[#大島|大島(1981)p.96]]</ref>。ムハンマド自身は、しばしば同時代の[[ユダヤ人]]をその信仰において「[[形式主義]]者」と非難し、ムスリムに対しても、たとえば「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」と宣言したように、努力することそのものを重んじたのである<ref name=oshima96/>。
「内へのジハード」は「[[大ジハード]]」と呼ばれ、社会の平和的な運営には欠くべからざるものとして[[法学者]]や為政者からも重視される。ジハードを「聖戦」と訳して、単なる戦いという意味でこの言葉を理解することは誤りであり、「布教のための戦い」と理解することもまた誤りであって、「戦い」の意味を有する場合でも、あくまでも「防衛戦」を指している<ref name=atsumi287/>。現代においては、多くのイスラーム諸国において為政者、法学者、[[知識人]]ともに「内へのジハード」を重視する傾向が強い。
== 外へのジハード(小ジハード) ==
「外へのジハード」は一般に「聖戦」と訳されるジハードであり、イスラーム共同体外部への侵略戦争、あるいはイスラーム共同体外部からイスラーム共同体を守るための戦いである。この戦いが「ジハード」の名で称されるためには、法的根拠を必要とする<ref name=atsumi287/>。
=== 「外へのジハード」の古典的定義とその内容 ===
イスラーム法([[シャリーア]])は、[[正統カリフ]]時代のイスラーム共同体([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])からアラブ帝国([[ウマイヤ朝]])、[[イスラム帝国|イスラーム帝国]]([[アッバース朝]])へと発展していった[[8世紀]]から[[10世紀]]頃にかけて整備された。シャリーアは、初期イスラームの拡大戦争を支えた[[イデオロギー]]である「外へのジハード」を以下のような観念にまとめた。すなわち、
*「(外への)ジハードとは、イスラーム世界を拡大あるいは防衛するための行為、戦い」
というものである。
伝統的なシャリーアの理念においては、イスラーム共同体の[[主権]]が確立され、シャリーアが施行される領域、"'''ダール・アル=イスラーム'''" {{lang|ar|دار السلام}}(「イスラームの家」=イスラーム世界)に全世界とその人民が包摂されていなければならない。しかし、現実には「イスラームの家」の外部には、イスラームの力がおよばない"'''ダール・アル=ハルブ'''" {{rtl-lang|ar|دار الحرب}}(「戦争の家」=非イスラーム世界)が存在する。したがって、「戦争の家」を「イスラームの家」に組み入れるための努力、すなわちジハードを行うことがムスリムの義務とされるのである<ref name=atsumi287/>。
上の定義から、イスラーム共同体の支配に服さない異教徒の討伐は原則として正しい行為であり、極端にいえば、イスラーム共同体は最終的には全世界を征服し、異教徒を屈服させなければならないという[[論理]]さえ導き出される。この論理の根拠としては、『クルアーン』第2章第193節にある「騒擾がすっかりなくなる時まで。宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼等(メッカの多神教徒)を相手に戦いぬけ」がある<ref group = "クルアーン">第2章193節{{Cite web|和書| title = 雌牛 | url = http://islaam.ninja-x.jp/quranjp/sura2.html | accessdate = 2017-05-23}}</ref>。
したがって二つの世界(家)の間は常に戦争状態にあり{{sfn|島田|2016|p=139}}、ジハードがムスリムの[[永遠|永続]]的[[義務]]である以上、[[戦争]]状態がむしろ常態だとの指摘がある{{sfn|島田|2016|p=140}}。
しかし同時に『クルアーン』は、戦争が正当なジハードたりうるのは異教徒が戦いを挑んできた場合に限られることも示しており、第2章第190節には、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」<ref group = "クルアーン">第2章190節{{Cite web|和書| title = 雌牛 | url = http://islaam.ninja-x.jp/quranjp/sura2.html | accessdate = 2020-09-23}}</ref>とある。加えて前述の第2章第193節後半部分<ref group="注釈">「しかしもし向こうが止めたなら、(汝等も)害意を捨てねばならぬぞ、悪心抜き難き者どもだけは別として」</ref>に従えば、異教徒から挑まれた戦争であっても、相手がイスラーム共同体と[[和平]]を結び、「不義の戦争」を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も害意を捨てて和平に努めなければならない。つまりイスラーム共同体は、イスラームとの戦いを望まない「戦争の家」勢力とならば、[[条約]]を結び[[外交]]関係を樹立することが可能であると理解される。これら外交関係を取り結んだ諸国は「和平の家」と呼ばれ、「戦争の家」とは区別される<ref group="注釈">ただし、現実のイスラーム社会では、一回の[[休戦協定]]は10年以上の効力を有さないと考える法学者が多数派を占め、もし、その地に恒久的和平を確立していこうとするならば、条約の適宜更新が必要である。</ref>。
こうしたことから、「戦争の家」観と好戦的ジハード思想は[[イスラム教#ジハードとイスラム帝国の形成|古典期]]に成立した法学思想に過ぎず、クルアーンの教えではないとの指摘がある{{sfn|塩尻|2005|p=542}}。
もし、ある戦争行為を「ジハード」として遂行することが必要となった場合は、[[カリフ]]は[[ムフティー]]と呼ばれる宗教指導者に対し、その戦争がジハードとして認められるかどうかを[[諮問]]しなければならない。その結果、ムフティーが合法であるとする[[ファトワー]]を発することで、統治者は「ジハード」を宣言することができる。
ジハードには、このような法的根拠が必要であり、その根拠のないものを「ジハード」とは呼べない<ref name=atsumi287/>。開戦が「防衛的ジハード」であり、法的根拠を有する場合は、全ムスリムは、国家や[[民族]]を超えて全イスラーム教徒が、直接的にであれ間接的にであれジハードに参加しなくてはならない。ただし、歴史的には当該統治者の[[臣民]]以外にジハード参加の強制力を及ぼすことは難しかった。これに対し、イスラーム共同体拡大のための侵略戦争の場合、参戦義務は統治者の家臣と臣民に限られる<ref>[[#ケベル|ケベル(2006)pp.156-157]]</ref>。
また、イスラームのジハード思想では、異教徒を討伐し、その結果として非ムスリムを服属させることは認められていても、征服地の異教徒に対する強制[[改宗]]は明確に否定されている。これは、『クルアーン』第2章256節の「宗教に無理強いは禁物」という句を根拠にしており、『クルアーン』では、信じるのも信じないのも本人の[[自由]]であることが強調されている<ref>[[#大島|大島(1981)p.59]]</ref>。したがって、ジハードは布教のための戦争であってはならない<ref name=atsumi287/>。
さらにいえば、「イスラームの家」を拡大する行為とは必ずしも戦闘という手段に限定されない。[[中央アジア]]や[[東南アジア]]での布教のように平和的な方法によって「イスラームの家」が拡大された例も少なくない。その担い手は、これらの地域に赴いたムスリム[[商人]]やイスラム神秘主義者([[スーフィー]])の聖人たちであった。また、「イスラームの家」の支配下に入った異教徒たちは、イスラームの主権下で一定程度の[[人権]]を保障された隷属民「ズィンミー」たることを強制され<ref group="注釈">『クルアーン』第9章第5節には「だが、(4か月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうが良い。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待ち伏せよ。しかし、もし彼等が改悛し、礼拝の務めを果たし、喜捨も喜んで出すようなら、その時は遁がしてやるがよい」という文言、また第9章29節に「アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。またアッラーと使徒から、禁じられたことを守らず、啓典を受けていながら真理の教えを認めない者たちには、かれらが進んで税([[ジズヤ]])を納め、屈服するまで戦え」という文言があるように、当初、ムスリムとの戦いに敗れた[[多神教]]の信者は死か、改宗か、もしくは貢税を求められた。それに対し、「啓典の民」は服従と納税が強制された。また、「啓典の民」はのちに拡大解釈が行われ、特に[[ペルシャ]]や南アジアの諸地域では、[[ゾロアスター教]]や[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]を奉じる人びとまで一神教を奉じる民と同様に扱われるようになった。</ref>、[[差別]]待遇を甘受さぜるを得なかったが、[[信教の自由]]を認められるなど比較的寛大に扱われたことも少なくなかった。
また、時には、「戦争の家」に住む異教徒が、「イスラームの家」に対して戦争を仕掛けてくることも当然ありうる。このような場合、イスラーム共同体防衛のためのジハードがムスリムの義務となる。
防衛戦に従事する者(聖戦士)を、ムジャーヒド(単数形)および[[ムジャーヒディーン]](複数形)という。彼らに対して、唯一神アッラーは『クルアーン』を通じて「神の道に戦うものは、戦死しても凱旋しても我らがきっと大きな褒美を授けよう」と教え、ジハードで戦死すれば[[殉教者]]として[[最後の審判]]ののち、必ず[[天国]]に迎えられると約束する。一方で、『クルアーン』は「敵に背を向けるものは、たちまち神の怒りを背負い込み、その行く先はジャハンナム([[地獄]])である」と語り、ジハードを怠ることを厳しく非難している<ref group="注釈">『クルアーン』第8章15節「信仰する者よ、あなたがたが不信者の進撃に会う時は、決してかれらに背を向けてはならない」、および16節、「その日かれらに背を向ける者は、作戦上または(味方の)軍に合流するための外、必ずアッラーの怒りを被り、その住まいは地獄である。何と悪い帰り所であることよ」。</ref><ref group="注釈">ジハードにおける献身をたたえ、その忌避を戒める『クルアーン』の章句は、第47章4節「あなたがたが不信心な者と(戦場で)見える時は、(かれらの)首を打ち切れ。かれらの多くを殺すまで(戦い)、(捕虜には)縄をしっかりかけなさい。その後は戦いが終るまで情けを施して放すか、または身代金を取るなりせよ。もしアッラーが御望みなら、きっと(御自分で)かれらに報復されよう。だがかれは、あなたがたを互いに試みるために(戦いを命じられる)。およそアッラーの道のために戦死した者には、決してその行いを虚しいものになされない」、および第48章16節「あと居残った砂漠のアラブたちに言ってやるがいい。『今にあなたがたは、強大な勇武の民に対して(戦うために)召集されよう。あなたがたが戦い抜くのか、またはかれらが服従するかのいずれかである。だがこの命令に従えば、アッラーは見事な報奨をあなたがたに与えよう。だがもし以前背いたように背き去るならば、かれは痛ましい懲罰であなたがたを処罰されよう』」などもある。</ref>。
=== 「外へのジハード」とキタール ===
イスラームでは、世界史において繰り広げられてきた普通の戦いを、ジハード(聖戦)とは明確に区別し、それを「[[キタール]]({{rtl-lang|ar|قِتَال}} {{lang|ar-Latn|qitāl}})」と呼称している<ref name=atsumi287/>。キタールとは、[[侵略戦争]]や領土拡大、戦利品や奴隷の獲得、[[資源]]確保、[[植民地]]確保など、人間のもつ単純な[[欲望]]にもとづいておこなわれる戦争のことであり、また、[[憎悪]]から生まれる行為や[[復讐]]の行為もキタールであって、いずれも否定されるべき行為とされている<ref name=atsumi287/>。
キタールは、アラビア語の「カタラ(殺した)」という言葉を語源としており、「世俗的な欲望にもとづいた戦争」を意味するのに対し、ジハードが想定している戦争は、あくまでも、ムスリムから見て正当な防衛戦争であり、イスラーム共同体(ウンマ)の利益になるものでなければならない。ゆえに、開戦に際しては宗教指導者の承認を必要とし、「アッラーの御名において」という呼びかけのもとにおこなわれるのである<ref name=atsumi287/>。
しかしながら、後述するように、時のムスリム政権がキタールをジハードと詐称して侵略戦争を行った例は多い{{sfn|塩尻|2005|p=540}}。
=== イスラーム共同体と「ジハード」 ===
ジハードは、イスラーム共同体を外からの攻撃から守ることだけではなく、内側に生じる崩壊の要因を除去するための奮闘努力を含んでいる<ref name=atsumi287/>。それを、「生命・財産を捧げてもおこなうべし」としたところから「戦い」の言葉で形容されているものと考えられる<ref name=atsumi287/>。
そのようにみるならば、ジハード(聖戦・奮闘努力)は、ムスリムにとって最も重要で基本的な命令ということができる<ref name=atsumi287/>。そのため、ムスリムは外の世界に対し封鎖的な環境をつくらざるを得なくなる。外からの異文化の導入や異質な世界との交流・接触、異なる[[価値観]]との対立から「アッラーの道」を守らなくてはならないからである<ref name=atsumi287/>。その結果、イスラーム世界が採用した方法は、周囲に対し、あたかも大きく高い[[塀]]を張り巡らすようなものであった、ということができる<ref name=atsumi287/>。イスラーム世界が今なお中世的な雰囲気を濃厚に有していると指摘されるのもそのためであるが、しかしだからといって、イスラーム世界が外界に対して完全に閉鎖的であるというわけではない<ref name=atsumi287/>。ハディースに「知を求めることはすべてのムスリムの義務である」「[[中国]]までも知を求めよ」とあるように、イスラーム世界を発展させるための[[知識]]の導入は歓迎されており、イスラーム世界を発展させることもまた、ジハードの目的だからである<ref name=atsumi287/><ref>[http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/hadisu_3.html 鎌田繁著『イスラームの知とハディースの知』]</ref>。
=== 「外へのジハード」の実際 ===
上述したように、「ジハード」は多義的なことばであり、イスラームの歴史にあってはそれが善用されることもあれば悪用されることもあった<ref name=esposito/>。
歴史的にみれば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、初期イスラームの時代のビザンツやペルシアへの侵略戦争であり、ジハード擁護論からした場合の、イスラームを広めるための聖なる戦い、である大征服時代、および[[中世]]ヨーロッパのキリスト教世界が、聖地[[エルサレム|イェルサレム]]奪回を目的として7回にわたって[[中東]]地域に派遣した[[十字軍]]との戦いの時代が代表例なものである。
イスラームの拡大しはじめた時期にあっては「アッラーへの道をはずれることなく」、イスラーム教徒にとっての異教徒と戦って死ぬことは[[殉教]]とされ、殉教者には[[天国]]が約束された<ref name=lar/>。しかし、[[11世紀]]末に十字軍が[[エルサレム王国]]を建国し、キリスト教徒が[[パレスチナ]]を占領したころにはジハードの理想はついえており、各所より散発的に、イスラームの君主たちの無気力を批判する声があがった<ref name=lar/>。法学者の[[アッ=スラミー]]が聖戦を個人に課せられた義務であると主張して、これを呼びかけたのは、このときであった。この呼びかけに応えたのは当初は[[ザンギー朝]]、その後はムスリムの英雄[[サラーフッディーン]](サラディン)がこれに応えた<ref name=lar/>。
[[第一次世界大戦]]の際には、同盟国側に立った[[オスマン帝国]]が「ジハード」宣言を発しているが、しかし、ここでは[[インド]]のムスリムの対英協力や[[アラブ反乱|アラブ人の反乱]]を食い止めることができなかった。とはいえ、一方では、[[19世紀]]以降、いわばイスラーム世界の「辺境」にあたる[[西アフリカ]]、[[マグリブ]]、[[スーダン]]、インドや[[東南アジア]]の地で「ジハード」が呼びかけられ、[[植民地]]主義と[[帝国主義]]に対する抵抗が繰り広げられたのも事実である。[[20世紀]]後半には、ユダヤ教の国[[イスラエル]]の拡大と戦う[[パレスティナ]]の[[ハマース]]やソヴィエト連邦の侵攻と戦うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの抵抗思想(「防衛ジハード」の思想)と同様の性格を見出すことができる。
このように、イスラーム的[[伝統]]のなかでジハードが重要な役割を果たしてきたのは事実であるが、近年では、イスラーム教の改革を推進するジハードに参加することは、真のイスラーム教徒のすべてにとって神聖な義務だと主張する人びともいる<ref name=esposito/>。このような立場に立って現代イスラーム社会とその周辺を見わたすと、そこには、腐敗した[[権威主義]]的政権が支配する世界や、みずからの[[経済]]的な成功・繁栄のみに関心が集中し、[[欧米]]社会の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や[[価値観]]に染まった一握りの[[エリート]]だけが脚光を浴びる世界が立ち現れてくる、少なくとも、そのようにとらえるムスリムは少なくない<ref name=esposito/>。そして、欧米諸国が、[[民衆]]に対し抑圧的な態度をとるイスラームの政権を支え、地域の人材や[[天然資源]]を[[搾取]]し、イスラーム世界から[[文化_(代表的なトピック)|文化]]を奪い、ムスリム自身が選んだ[[政権]]の下で公正な社会に生きる権利を奪っているように映じるのである<ref name=esposito/>。
[[ファイル:Sayyid Dschamāl ad-Dīn al-Afghānī.jpg|right|thumb|150px|「汎イスラーム主義」を唱えて全ムスリムの団結を説いた[[アフガーニー]]]]
[[ファイル:Iraq, Saddam Hussein (222).jpg|right|thumb|150px|「脱宗教主義」「イラク民族主義」「イスラームの復興」など主張を二転三転させたイラクの[[サッダーム・フセイン]]]]
イスラーム主義(イスラーム復興主義)に立つ活動家の多くは、ムスリムの力と繁栄をとりもどすには、「正しいイスラームの教え」に回帰することが重要と考えており、また、[[国家]]や社会のイスラーム化を強めるために政治改革・社会改革が必要だと考えている<ref name=esposito/>。このようなイスラーム回帰の思想は、近代においては、[[ワッハーブ運動]]や[[アフガーニー]]の改革運動を嚆矢としており、のちの[[サウジアラビア]]建国や[[汎アラブ主義]]の台頭の原動力となった<ref name=syukyo>[[#世界の宗教|『もう一度学びたい世界の宗教』(2005)pp.84-85]]</ref>。そして、一握りではあるが、そのなかの暴力的な方向性を是認する一部の過激派は、[[救世主]]的な世界観と攻撃性を組み合わせて国内外のイスラーム教を解放するためのジハードを呼びかけ、「神の軍隊」の創設を主張し、軍事的な動員をおこなっている<ref name=esposito/><ref name=syukyo/>。上述のように、ジハードは、侵略戦争を遂行してゆくために利用すべきものでは決してないが、それでも実際には、一部の支配者や政府、個人はそのようにジハードを利用している<ref name=esposito/>。たとえば、[[1991年]]の[[湾岸戦争]]の際の[[サッダーム・フセイン]]、アフガニスタンの[[ターリバーン]]、また、[[ウサマ・ビンラーディン]]および[[アルカーイダ]]などがそれに相当する<ref name=esposito/>。
なお、古典的なシャリーアでは、ムスリムであってもイスラームの教えから逸脱する信条を抱くようになった者は不信心者(カーフィル)と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならないと規定している。[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて、互いに近接する[[スンナ派]]のオスマン帝国(トルコ)と[[シーア派]]の[[サファヴィー朝]]([[ペルシャ]])が領土をめぐって戦争するときは、お互いを「不信心者」と決め付けることによってその戦争を「ジハード」と位置付け、みずからの立場を正当化しようと図り、[[1980年]]から[[1988年]]までつづいた[[イラン・イラク戦争]]において[[ルーホッラー・ホメイニー]]を擁する[[イラン・イスラム共和国]]が「世俗主義」「脱宗教主義」を標榜する[[バアス党]]政権の[[イラク]]に対して激しい敵意と憎悪を示したのは、このような思想を背景とする。
;「外へのジハード」とテロリズム
:近年には、政治的動機による戦争や[[テロリズム]]を正当化する標語として「ジハード」の語が頻繁に用いられ、本来ジハードの宣言を行う資格のない者がジハードを唱える局面が増えつつある。「脱宗教主義」から「イラク民族主義」へと大きく方向転換したイラクのサッダーム・フセイン大統領は、[[1990年]]の[[クウェート]]占領に反対する[[アメリカ合衆国]]など西側諸国に対抗するため「異教徒に対するジハード」を呼号して[[1991年]]、[[湾岸戦争]]へと突入した。この時点ではイスラームに「回帰」したかにみえるフセインであったが、しかし、湾岸戦争後の国内でまず起こったのがイスラーム教[[シーア派]]の人びとによる[[暴動]]だったのである<ref>[[#石川|石川(1993)pp.91-95]]</ref>。
:「ジハード」を標榜する政治家や[[テロリスト]]の言葉が、ムスリムの人々の心をある程度は引きつけていることは事実である。これは、アメリカをはじめとする西側諸国がイスラエルに好意的で、パレスティナのムスリムを追いやり、弾圧していることに対する同情や、アフガニスタンやイラクに対する[[空爆]]が独裁政権や強権的な政府のみならず、ムスリムの民衆までをも死に追いやっていることに対する悲憤がある。被侵略者・被抑圧者としての怒りを多くのムスリムが共有しているため「いまこそがイスラーム共同体を防衛するためジハードを行うべきときである」という言葉に多かれ少なかれ共感をいだくのである。
:しかし、[[インドネシア]]や[[タイ王国|タイ]]、[[フィリピン]]、スーダンではイスラームの勢力拡大や非ムスリム弾圧、その他ムスリム社会の一部の権益擁護拡大のために利用できる場合に「ジハード」という言葉をテロリズムや武力闘争の正当化に利用している組織や政府がある。こういった過激派は、前述の和平を奨めるクルアーンの聖句を、イスラームの優越に屈服する限りに於いて和平を認めるというものだと解釈する傾向にある。そのため非ムスリムから「ムスリムは都合次第で殺戮をジハードとして正当化している」と批判される口実を与えることにもつながっている。
:さらに、[[エジプト]]の[[ジハード団]]のように、シャリーア以外の[[法 (法学)|法]]を施行する為政者はムスリムであろうと「不信心者」であり、ジハードによって排除しなければならないとして、要人クラスの[[暗殺]]やテロリズムをおこなう過激な組織もある。
;「外へのジハード」と天国
:上述のとおり、ジハードで戦死した者は、この世の終わりに[[最後の審判]]がなされた結果、[[天国]]にいけるとされている。イスラームにおける「天国」はアラビア語で({{rtl-lang|ar|'''جنّة'''}} {{lang|ar-Latn|jannah}}) と呼ばれ、『クルアーン』ではその様子が具体的に綴られているが、それによれば、緑なす木々に覆われ、[[果実]]は枝もたわわに実り、清らかな川が数多く流れて、快適な[[風]]がつねに吹きわたっている清浄なところであり、天国行きを許されたものに対しては、現世の[[酒]]とは異なり、いくら飲んでも酔わない美酒や最上の食べものがあたえられるという<ref>[[#大島|大島(1981)pp.78-79]]</ref>。『クルアーン』にはさらに、男性は天国で複数の処女([[フーリー]])を侍らせることができると説く<ref group="注釈">『クルアーン』第56章10節から24節「(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(かれらは[[絹織物|錦]]の織物を)敷いた寝床の上に、向い合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の[[真珠]]のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である」および56章27節から40節「右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。(かれらは)刺のない[[スィドラ]]の木、累々と実るタルフ木(の中に住み)、長く伸びる木陰の、絶え間なく流れる水の間で、豊かな果物が絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者。(これらは)右手の仲間のためである。昔の者が大勢いるが、後世の者も多い」。先頭のものとは最良のムスリム、右手の者とは一般のムスリムのことである。</ref>。これらは『クルアーン』においては抽象的表現にとどまるが、ハディースではより具体的に「フーリーは72人おり、望むだけ性交をできる」「彼女たちは何回[[性交]]におよんでも処女のままである」等と説くものも見られる<ref>イブン・カスィールによるクルアーン第55章及び第56章への言及</ref>。
:この「処女」の表現は、[[比喩]]的なものにすぎないという意見も多く、あるいはまた、実際は「処女」ではなく「白い果実」という意味であるという説もあるが、過激派組織が自爆テロの人員を募集する際に、年少の者などに対し、このような天国の描写を意図的に用いている場合が少なくないとされ、問題となっている<ref group="注釈">報道によれば、少年を勧誘するに当たり、「殉教すれば天国で72人の処女とセックスができる」と説いていた。[http://www.asahi.com/special/MiddleEast/TKY200403250189.html] [[朝日新聞]]「14歳が自爆テロ未遂、報酬2400円 パレスチナ」</ref>。
==世俗的意味でのジハード==
上述のとおりアラビア語でのジハードは本来「奮闘する」「努力する」という意味の言葉であるため、イスラームの文脈を離れた世俗的意味でも用いられる。例を挙げると、「経済的発展を目指す努力」「政治的独立を目指す闘争」「社会改革への努力」「女性解放のための闘争」などにおいてである。
== ジハードのイメージ ==
{{出典の明記|date=2016年12月|section=1}}
日本や多くのキリスト教圏の欧米の[[先進国]]においては、「ジハード」の語には異教徒に武力によって改宗を迫る行為(いわゆる「[[コーランか剣か]]」、「右手にコーラン、左手に剣」)のイメージが付きまとう。これは「聖戦」という訳語からの影響も大きい。しかし、少なくとも正確には「コーランか貢ぎ物か剣か」であり、強制改宗を含意する「コーランか剣か」は反イスラーム主義による[[プロパガンダ]]の性格が強く、誤解をまねく表現である。『クルアーン』では改宗の強制は否定されており、また、上述したように「ジハード」には「聖戦」以外の意味もある。
反イスラーム主義者は、しばしばムスリムに対し、ムスリムはタリバーンの[[アフガニスタン]]における[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤーン大仏]]爆破にみられるように、攻撃してもいない[[仏教徒]]の信仰対象を勝手に破壊することをジハードとして正当化していながら、自分たちの[[モスク]]などが攻撃を受けた場合はただちに武力闘争を開始し、その闘争を他宗教からの弾圧に対する抵抗、すなわちジハードとして規定する傾向にあると批判する。これは、「ジハード」の語を二重基準で用いることに対する批判である。ただし、一方では、こうした意見はムスリム全体とムスリムのなかの一勢力とを混同した結果であるとの見方もある。
しかしながら、[[2001年]]のウサマ・ビンラーディンによる[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]や、[[2003年]]の[[イラク戦争]]におけるサッダーム・フセインによる「ジハード宣言」は、改めて「イスラームは好戦的」「ムスリムは過激で暴力的」というネガティブイメージを、日本を含む国際社会に流布させる原因となっている。
[[トヨタ自動車]]の[[ピックアップトラック]]が、過激派組織[[ISIL]]に利用されている現状に、[[アメリカ合衆国]]の独立系保守報道機関「ザ・ブレイズ」が、パロディ広告の謳い文句([[バクロニム]])として「{{en|Toyota ISIS: We’re good for jihad !}}([[トヨタ・アイシス]]:ジハードに相応しい車だ!)」と[[ブラックジョーク]]にして、[[Twitter]]に投稿された<ref>{{cite news | author = Victor Reklaitis | url = http://jp.wsj.com/articles/SB11828848094781684513604581280681440845092 | title = ISはなぜトヨタ車を愛用するのか-米が説明要求 | language = [[日本語]] | newspaper = [[ウォール・ストリート・ジャーナル]] | date = 2015-10-09 | accessdate = 2016-10-22 }}</ref>。
また、自らの宗教的思想と相反するものに対して殺人やテロさえも正当化する言葉であることから[[キリスト教]]における[[聖絶]]や[[オウム真理教]]の[[ポア (オウム真理教)|ポア]]、[[連合赤軍]]における[[総括 (連合赤軍)|総括]]などと同一視するものもいる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|colwidth=30em|group=注釈}}
=== 参照 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
=== クルアーンの原典への参照 ===
{{Reflist|colwidth=30em|group="クルアーン"}}
== 出典==
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* 鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ オスマン帝国における諸民族の統合と共存』リブロポート、1993年
* 横田貴之「ジハード」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年
* [[池内恵]] 『アラブ政治の今を読む』[[中央公論新社]]、2004年 ISBN 4120034917
* [[三田了一]] 『日亜対訳注解聖クルアーン』
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|軍事史|[[File:Gladii.svg|35px]]}}
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*[[聖戦]]
*[[ジハード団]]
*[[ジハード主義]]
*[[ズィンミー]]
*[[クライザ族虐殺事件]]
*[[イスラーム教徒による宗教的迫害]]
*[[ムジャーヒディーン]]
*[[修行]]
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== 外部リンク ==
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* {{kotobank|2=[[日本大百科全書]](ニッポニカ}}
* [https://www.y-history.net/appendix/wh0501-025.html#:~:text=%E3%81%AA%E3%81%8A%E3%80%81%E3%80%8C%E5%8F%B3%E6%89%8B%E3%81%AB%E5%89%A3%E3%82%92,%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 ジハード/聖戦] < [https://www.y-history.net/index.html 世界史の窓]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89 |
3,386 | オリーブ・オイル |
オリーブ・オイル(英語: olive oil)、またはオリーブ油()は、オリーブの果実から得られる植物油である。
酸化されにくいオレイン酸を比較的多く含むため、他の食用の油脂に比べて酸化されにくく常温で固まりにくい性質を持つ(不乾性油)。ギリシア語での語源が「喜び」と共通することから正教会では斎の対象となる。
主に地中海に面した地域(イタリア、スペイン、ギリシャ、マシュリク、シチリアなど)で好んで使われる。これらの地方では単に油といえばオリーブ・オイルをさすことが多い。ギリシャでの消費量は世界一で、日常の食卓において様々な料理に使われており、日常生活に欠かせない食材である。イタリアなどでは毎年オリーブの収穫の季節に、ブルスケッタなどと一緒に絞りたてのオリーブ・オイルを賞味して収穫を祝う習慣がある。
主な生産国はスペイン (40.1%)、イタリア (19.5%)、ギリシャ (12.9%) などとなっている。
食用のほか、化粧品、薬品、また石けんなどの原料としても用いられる。
オリーブ・オイルは紫外線により劣化するが、紫外線は太陽光線のみならず電球や蛍光灯の光にも含まれているため、冷暗所で保存する。手に取りやすい食卓や台所に置く場合は黒い瓶やアルミホイルで覆った瓶により遮光すると同様の効果がある。
また、日本語や中国語ではオリーブ・オイルを橄欖油()と表現することがあるが、これはかつて橄欖の種子から油を絞っていたことから、オリーブを洋橄欖と記述したことから来ている。英語では、橄欖をChinese oliveとも呼んでいる。
オリーブ・オイルの抽出工程は、他の植物からの抽出と異なる利点を持つ。すなわち、生の果肉から非加熱で果汁を絞って放置しておくだけで、自然に果汁の表面に浮かび上がり、これを分離することで得ることが出来るのである。オリーブと同様に果肉から多量の油が得られるアブラヤシの果実からパーム油を採油する場合、原産地であり伝統的栽培地帯である西アフリカの熱帯雨林地帯における伝統的手法でも、パーム油は飽和脂肪酸を多く含むため常温では固形であり、砕いた果肉を煮沸しなければ抽出できないのとは大きな違いである。一般に種子や果実から採取される植物油の多くが、加熱工程や溶剤抽出工程を経て得られ、特にほとんどの場合植物組織から油を分離するのに加熱工程が不可欠であるのに対して、オリーブ・オイルのこの容易な抽出特性は最大の特性のひとつとなっている。これは、ワインが本来、限られた季節にしか得られないブドウの果汁を一年中飲むことが出来る保存果汁としたものとして発展したのと同様、オリーブ・オイルも同じ地中海文化の中で、正に油という形で保存された生の果汁として発展したと言える。オリーブ・オイルの性質は、食品化学的にも、文化的にも、このような歴史的背景を色濃く持っている。
収率向上のため、果実をすりつぶして絞った果汁を遠心分離機に掛け採油する。伝統と品質を重んじる採油所では、この果実のすりつぶしに伝統的な石臼が用いられているが、工業的に大量に処理する採油所では機械による粉砕が行われている。オリーブ絞り用の石臼は、東アジアの穀物粉砕用の石臼のように溝を切った二枚の石の円板が水平に重なり合って回転し、磨り合う形態ではなく、巨大な石の皿の上で垂直に立てられた石の円板が、車輪のように転がりながら円運動をする形態のものである。
果汁から遠心分離などの機械的処理のみで得られた油をヴァージン・オリーブ・オイルと呼び、その中でも風味官能検査で味や香りに欠陥がひとつもなく、酸度が 0.8% 以下のものを特にエクストラ・ヴァージン・オリーブ・オイルと呼ぶ。また、品質の悪いヴァージン・オリーブ・オイルを精製(脱酸・脱臭・脱色等)したもので、酸度が 0.3% 以下のものを精製オリーブ・オイルといい、この精製オイルと中程度の品質のヴァージン・オイルをブレンドし、酸度 1.0% 以下にしたものをオリーブ・オイル(日本ではピュア・オリーブ・オイル)と呼ぶ。ただし、これらの品質等級規格は国際オリーブ理事会(en:International Olive Council,IOC)の定めたもので、IOC に加盟していない日本ではこれらの品質等級規格に沿った製品表示でなくとも法的には何の問題もない。
果実に含まれる油を無駄なく回収するため、果汁を絞った絞りかすから再度遠心分離機や石油系有機溶剤を使って抽出したオイルを粗製オリーブ・ポマース・オイルと呼ぶ。オリーブ・ポマース・オイルは上記のオリーブ・オイルとは成分が異なるため、IOCの規定により「オリーブ・オイル」と表示してはいけないと定められており、食用ではなく工業用として扱われている。ただし、オリーブ・ポマース・オイルを精製し、酸度を 0.3% 以下にした精製オリーブ・ポマース・オイルは、その国の基準(日本であれば JAS法)をクリアしていれば、食用としての販売は可能である(その代わり、容器には「ポマース」と明確に表記しなければならない)。オリーブ・ポマース・オイルは精製オリーブ・ポマース・オイルにヴァージン・オリーブ・オイルをブレンドしたもので、格安のオリーブ・オイルとして出回っているものの多くはこのオリーブ・ポマース・オイルである。
オリーブの種子から溶剤抽出によって得られた油をオリーブ核油と呼んでいる。
オリーブ栽培とオリーブ・オイル発祥の地は地中海沿岸である。広く信じられている説では、オリーブ・オイルの使用はクレタ島で始まったという。オリーブ・オイルを貯蔵するための最古のアンフォラはここから出土しており、紀元前3500年ごろのものとみられる。もう一つの説では、カナン人が紀元前4500年ごろに初めてオリーブ・オイルを絞ったという。
宗教的な用途に用いられることもあった。キリスト教の祖イエスの名の称号「キリスト」は救世主を意味するが、原義は「油で聖別された者」の意で、聖別にオリーブ・オイルが使われたと見られるほか、聖書にオリーブ・オイルが頻繁に登場するのは古代のカナン地方(現パレスチナ)の文化にオリーブ・オイルが根付いていた証拠である。また、ギリシャなどの教会では灯火用にも用いる。
古代ローマでは不作の年に備えて公共の貯蔵庫を設け、祝賀の時には人々にふるまわれることもあった。カエサルがウティカの戦いで勝利を収めたときには軍の兵士に一人あたり2ガロンもの油が与えられたという。 マシュリクでは、美容と健康のためにそのまま飲むこともある。
育苗・栽培・製造方法の技術の発達により、アメリカ合衆国やオーストラリアなどの新世界から、非常に優れた品質のオリーブ・オイルが出荷されるようになった。オリーブのよく育つ環境はワイン用のブドウ(特にシラーやカベルネ種)が育つ環境と非常に似ているからである。風土や苗・製造方法、生産者の嗜好などにより、色や味に個性が出る。
1908年(明治41年)、魚の油漬け加工に必要なオリーブ・オイルの自給をはかるため、農商務省がアメリカ合衆国から導入した苗木を三重県、鹿児島県と香川県に試験的に植えた。香川県の小豆島に植えたオリーブだけが順調に育ち、大正時代の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された。小豆島では今でも島のあちこちにオリーブの樹が植えられており、国産のオリーブ・オイルが作られている。
小豆島で栽培されているものは、主に「ミッション」「マンザニロ」「ネバディロ・ブランコ」「ルッカ」の4種類。
近年は熊本県(荒尾市)がオリーブ/オリーブ・オイルの生産と特産品化に熱心に取り組んでおり、香川県に次いで、熊本県が全国2位の生産量となっている。
地中海食(南部のイタリア料理、スペイン料理、ギリシャ料理、トルコ料理、レバノン料理、フランスのプロヴァンス料理やバスク料理。また、地中海には面していないが、文化的に類似点の多いポルトガル料理)では、オリーブ・オイルが多く使われる。 | [
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] | オリーブ・オイル、またはオリーブ油は、オリーブの果実から得られる植物油である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{出典の明記| date = 2022年9月}}
{{Otheruses||その他|オリーブ・オイル (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Oliven V1.jpg|thumb|ボトルに入ったオリーブ・オイル(中央)とオリーブ]]
[[ファイル:Olive_niche.jpg|サムネイル|オリーブの木の分布。]]
'''オリーブ・オイル'''({{lang-en|olive oil}})、または{{読み仮名|'''オリーブ油'''|オリーブゆ}}は、[[オリーブ]]の[[果実]]から得られる[[植物油]]である。
== 概要 ==
[[ファイル:Italian olive oil 2007.jpg|thumb|120px|ボトルに入ったオリーブ・オイル。若い実を絞ったものは葉緑素が残り緑色になるが、苦みが強い。]]
[[酸化]]されにくい[[オレイン酸]]を比較的多く含むため、他の食用の油脂に比べて酸化されにくく常温で固まりにくい性質を持つ([[不乾性油]])。ギリシア語での[[語源]]が「喜び」と共通することから[[正教会]]では[[正教会#斎(ものいみ)について|斎]]の対象となる。
主に[[地中海]]に面した地域([[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ギリシャ]]、[[マシュリク|マシュリク、]][[シチリア]]など)で好んで使われる。{{要出典範囲|これらの地方では単に油といえばオリーブ・オイルをさすことが多い|date=2017年8月}}。ギリシャでの消費量は世界一で、日常の食卓において様々な料理に使われており、日常生活に欠かせない食材である。イタリアなどでは毎年オリーブの収穫の季節に、[[ブルスケッタ]]などと一緒に絞りたてのオリーブ・オイルを賞味して収穫を祝う習慣がある。
主な[[生産国]]はスペイン (40.1%)、イタリア (19.5%)、ギリシャ (12.9%) などとなっている。
食用のほか、[[化粧品]]、[[薬品]]、また[[石けん]]などの原料としても用いられる。
オリーブ・オイルは紫外線により劣化するが、紫外線は太陽光線のみならず[[電球]]や[[蛍光灯]]の光にも含まれているため、冷暗所で保存する。手に取りやすい食卓や台所に置く場合は黒い瓶や[[アルミ箔|アルミホイル]]で覆った瓶により遮光すると同様の効果がある<ref>{{Cite web|和書
|date=2005-03-02
|url=http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2005q1/20050302.html
|title=これが正解!オリーブオイル新調理術
|work=[[ためしてガッテン]]
|publisher=[[日本放送協会|NHK]]
|language=日本語
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070308151623/http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2005q1/20050302.html
|archivedate=2007-03-08
|accessdate=2010-12-17
}}</ref>。
また、日本語や中国語ではオリーブ・オイルを{{読み仮名|'''橄欖油'''|かんらんゆ}}と表現することがあるが、これはかつて[[カンラン (カンラン科)|橄欖]]の種子から油を絞っていたことから、オリーブを'''洋橄欖'''と記述したことから来ている。[[英語]]では、橄欖を{{En|Chinese olive}}とも呼んでいる。
== 製法と品質等級 ==
[[ファイル:Centrifuga verticale g1.jpg|thumb|left|抽出工程]]
オリーブ・オイルの抽出工程は、他の植物からの抽出と異なる利点を持つ。すなわち、生の果肉から非加熱で果汁を絞って放置しておくだけで、自然に果汁の表面に浮かび上がり、これを分離することで得ることが出来るのである。オリーブと同様に果肉から多量の油が得られる[[アブラヤシ]]の果実から[[パーム油]]を採油する場合、原産地であり伝統的栽培地帯である[[西アフリカ]]の[[熱帯雨林]]地帯における伝統的手法でも、パーム油は飽和[[脂肪酸]]を多く含むため常温では固形であり、砕いた果肉を煮沸しなければ抽出できないのとは大きな違いである。一般に[[種子]]や果実から採取される植物油の多くが、加熱工程や[[溶剤]][[抽出]]工程を経て得られ、特にほとんどの場合植物組織から油を分離するのに加熱工程が不可欠であるのに対して、オリーブ・オイルのこの容易な抽出特性は最大の特性のひとつとなっている。これは、[[ワイン]]が本来、限られた季節にしか得られない[[ブドウ]]の果汁を一年中飲むことが出来る保存果汁としたものとして発展したのと同様、オリーブ・オイルも同じ地中海文化の中で、正に油という形で保存された生の果汁として発展したと言える。オリーブ・オイルの性質は、食品化学的にも、文化的にも、このような歴史的背景を色濃く持っている。
[[ファイル:Klazomenai.jpg|thumb|150px|[[クラゾメナイ]]の[[古代ギリシア]]式の石臼]]
収率向上のため、果実をすりつぶして絞った果汁を遠心分離機に掛け採油する。伝統と品質を重んじる採油所では、この果実のすりつぶしに伝統的な[[石臼]]が用いられているが、工業的に大量に処理する採油所では機械による粉砕が行われている。オリーブ絞り用の石臼は、東アジアの穀物粉砕用の石臼のように溝を切った二枚の石の円板が水平に重なり合って回転し、磨り合う形態ではなく、巨大な石の皿の上で垂直に立てられた石の円板が、車輪のように転がりながら円運動をする形態のものである。
[[ファイル:Olive oil.jpg|thumb|150px|エクストラ・ヴァージン・オリーブ・オイル]]
果汁から遠心分離などの機械的処理のみで得られた油を'''ヴァージン・オリーブ・オイル'''と呼び、その中でも風味官能検査で味や香りに欠陥がひとつもなく、酸度が 0.8% 以下のものを特に'''エクストラ・ヴァージン・オリーブ・オイル'''と呼ぶ。また、品質の悪いヴァージン・オリーブ・オイルを精製(脱酸・脱臭・脱色等)したもので、酸度が 0.3% 以下のものを'''精製オリーブ・オイル'''といい、この精製オイルと中程度の品質のヴァージン・オイルをブレンドし、酸度 1.0% 以下にしたものをオリーブ・オイル(日本では'''ピュア・オリーブ・オイル''')と呼ぶ。ただし、これらの品質等級規格は国際オリーブ理事会([[:en:International Olive Council]],IOC){{#tag:ref|IOCはオリーブの栽培と生産の保護・開発のため、1959年に国際連合の後援のもと設立された、オリーブ業界における唯一の政府間国際機関。[[欧州連合|EU]]などが加盟している<ref>{{Cite news | title =国際オリーブ理事会、香川のオイル評価を国内初認定 | newspaper =日本経済新聞 | date =2018/12/7 | url =https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38639870W8A201C1LA0000/ | accessdate = 2020/03/06}}</ref><ref>{{Cite web|和書| author =香川県庁 | url =https://www.foods-ch.com/news/press_551113/ | title =IOC(国際オリーブ理事会)によるオリーブオイル官能評価研修について【香川県庁】| date =2017年12月12日 | website =フーズチャネル | accessdate = 2020/03/06}}</ref>。|group = 注釈}}の定めたもので、IOC に加盟していない日本ではこれらの品質等級規格に沿った製品表示でなくとも法的には何の問題もない。
果実に含まれる油を無駄なく回収するため、果汁を絞った絞りかすから再度遠心分離機や石油系有機[[溶剤]]を使って抽出したオイルを'''粗製[[ポマース#オリーブポマースの利用例|オリーブ・ポマース・オイル]]'''と呼ぶ。オリーブ・[[ポマース]]・オイルは上記のオリーブ・オイルとは成分が異なるため、IOC<ref>[http://www.internationaloliveoil.org/ International Olive Council]</ref>の規定により「オリーブ・オイル」と表示してはいけないと定められており、食用ではなく工業用として扱われている。ただし、オリーブ・ポマース・オイルを精製し、酸度を 0.3% 以下にした'''精製オリーブ・ポマース・オイル'''は、その国の基準(日本であれば [[日本農林規格|JAS法]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/jas/jas_kikaku/pdf/kikaku_01_syokyu_160224.pdf |title=食用植物油脂の日本農林規格 | publisher =[[農林水産省]] |accessdate=2020/03/09}}</ref>)をクリアしていれば、食用としての販売は可能である(その代わり、容器には「ポマース」と明確に表記しなければならない)。'''オリーブ・ポマース・オイル'''は精製オリーブ・ポマース・オイルにヴァージン・オリーブ・オイルをブレンドしたもので、格安のオリーブ・オイルとして出回っているものの多くはこのオリーブ・ポマース・オイルである。
オリーブの種子から溶剤抽出によって得られた油を'''オリーブ核油'''と呼んでいる。
{| class="wikitable"
|- bgcolor="#efefef"
| align=center|'''品質等級'''
| align=center|'''酸度(%)'''
| align=center|'''等級規格'''
| align=center|'''精度 (mg/kg)'''
|-
|エクストラ・ヴァージン・オリーブ・オイル
|≦ 0.8
|ヴァージン・オリーブ・オイルのうち風味官能検査で味や香りに欠陥がひとつもないもの
|≦ 250
|-
|ヴァージン・オリーブ・オイル
|≦ 2.0
|ヴァージン・オリーブ・オイルのうち風味官能検査で味や香りに若干の欠陥があるもの
|≦ 250
|-
|オーディナリー・ヴァージン・オリーブ・オイル
| ≦ 3.3
| ヴァージン・オリーブ・オイルのうち風味官能検査で味や香りに複数の欠陥があるもの(日本では非食用)
|≦ 300
|-
|ランパンテ・ヴァージン・オリーブ・オイル
|> 3.3
|ヴァージン・オリーブ・オイルのうち酸度が高く食用には不向きで、精製が必要なもの(非食用)
|≦ 300
|-
|精製オリーブ・オイル
|≦ 0.3
|ヴァージン・オリーブ・オイルを精製したもの
|≦ 350
|-
|(ピュア)オリーブ・オイル
|≦ 1.0
|精製オリーブ・オイルとヴァージン・オリーブ・オイルをブレンドしたもの
|≦ 350
|-
|精製オリーブ・ポマース・オイル
|≦ 0.3
|精製オリーブ・オイルの絞りかす(ポマース)からさらに抽出したもの
|> 350
|-
|オリーブ・ポマース・オイル
|≦ 1.0
|精製オリーブ・ポマース・オイルにヴァージン・オリーブ・オイルをブレンドしたもの
|> 350
|}
== 歴史 ==
[[ファイル:Picual_Jaén01.jpg|サムネイル|[[ハエン]]で育てられた[[ピクアル]]]]
オリーブ栽培とオリーブ・オイル発祥の地は[[地中海]]沿岸である。広く信じられている説では、オリーブ・オイルの使用は[[クレタ島]]で始まったという。オリーブ・オイルを貯蔵するための最古の[[アンフォラ]]はここから出土しており、[[紀元前3500年]]ごろのものとみられる。もう一つの説では、[[カナン人]]が[[紀元前4500年]]ごろに初めてオリーブ・オイルを絞ったという。
[[宗教]]的な用途に用いられることもあった。[[キリスト教]]の祖[[イエス・キリスト|イエス]]の名の称号「[[キリスト]]」は救世主を意味するが、原義は「油で[[聖別]]された者」の意で、聖別にオリーブ・オイルが使われたと見られるほか、[[聖書]]にオリーブ・オイルが頻繁に登場するのは古代の[[カナン]]地方(現[[パレスチナ]])の文化にオリーブ・オイルが根付いていた証拠である。また、ギリシャなどの教会では灯火用にも用いる。
[[古代ローマ]]では不作の年に備えて公共の貯蔵庫を設け、祝賀の時には人々にふるまわれることもあった。[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が[[ウティカの戦い]]で勝利を収めたときには軍の兵士に一人あたり2[[ガロン]]もの油が与えられたという。
[[マシュリク]]では、美容と健康のためにそのまま飲むこともある。
育苗・栽培・製造方法の技術の発達により、[[アメリカ合衆国]]や[[オーストラリア]]などの[[新世界]]から、非常に優れた品質のオリーブ・オイルが出荷されるようになった。オリーブのよく育つ環境はワイン用のブドウ(特に[[シラー (ブドウ)|シラー]]や[[カベルネ・ソーヴィニヨン|カベルネ]]種)が育つ環境と非常に似ているからである。風土や苗・製造方法、生産者の嗜好などにより、色や味に個性が出る。
==世界の生産==
<center>
{| class=wikitable style="text-align:center "
|+'''2000年から2014年までの世界のオリーブ・オイルの主な生産者(数百万キログラム)'''
!style="background:#008800" width="200" |国
!style="background:#008800" width="150" |2000
!style="background:#008800" width="90" |%
!style="background:#008800" width="150" |2005
!style="background:#008800" width="90" |%
!style="background:#008800" width="150" |2009
!style="background:#008800" width="90" |%
!style="background:#008800" width="150" |2014
!style="background:#008800" width="90" |%
|-
| {{ESP}} || 962.400 || 38,2 % || 819.428 || 32,1 % || 1.199.200 || 41,2 % || 1.775.800 || 54,3 %
|-----|style="background:#ccffff"
| {{ITA}} || 507.400 || 20,1 % || 671.315 || 26,3 % || 587.700 || 20,2 % || 461.000 || 14,1 %
|-----
| {{GRE}} || 408.375 || 16,2 % || 386.385 || 15,1 % || 332.600 || 11,4 % || 131.900 || 4,0 %
|-----
| {{TUR}} || 185.000 || 7,3 % || 115.000 || 4,5 % || 143.600 || 4,9 % || 190.000 || 5,8 %
|-----
| {{SYR}} || 165.354 || 6,6 % || 123.143 || 4,8 % || 168.163 || 5,8 % || 165.000 || 5,0 %
|-----
| {{TUN}} || 115.000 || 4,6 % || 210.000 || 8,2 % || 150.000 || 5,2 % || 70.000 || 2,1 %
|-----
| {{MAR}} || 40.000 || 1,6 % || 50.000 || 2,0 % || 95.300 || 3,3 % || 120.000 || 3,7 %
|-----
| {{DZA}} || 30.488 || 1,2 % || 34.694 || 1,4 % || 56.000 || 1,9 % || 44.000 || 1,3 %
|-----
| {{JOR}} || 27.202 || 1,1 % || 17.458 || 0,7 % || 16.760 || 0,6 % || 30.000 || 0,9 %
|-----
| {{POR}} || 25.974 || 1,0 % || 31.817 || 1,2 % || 53.300 || 1,8 % || 91.600 || 2,8 %
|-----
| {{ARG}} || 10.500 || 0,4 % || 20.000 || 0,8 % || 22.700 || 0,8 % || 30.000 || 0,9 %
|-----
| {{LBY}} || 6.000 || 0,2 % || 7.900 || 0,3 % || 15.000 || 0,5 % || 15.000 || 0,5 %
|-----
| {{LIB}} || 5.300 || 0,2 % || 6.800 || 0,3 % || 19.700 || 0,7 % || 20.500 || 0,6 %
|-----
| {{AUS}} || 500 || 0,02 % || 5.000 || 0,2 % || 15.000 || 0,5 % || 18.000 || 0,6 %
|-----
| 世界の合計 ||'''2.518.629''' || '''100,0 %''' || '''2.552.182''' || '''100,0 %''' || '''2.911.115''' || '''100 %''' || '''3.270.500''' || '''100 %'''
|-----
! colspan="7" |<small>''Fuentes: [[FAO]] ''</small>
|}
</center>
== 日本のオリーブ・オイル ==
[[1908年]](明治41年)、魚の油漬け加工に必要なオリーブ・オイルの自給をはかるため<ref>[http://www.shodoshima.com/ 小豆島情報サイト]</ref>、[[農商務省 (日本)|農商務省]]がアメリカ合衆国から導入した苗木を[[三重県]]、[[鹿児島県]]と[[香川県]]に試験的に植えた。香川県の[[小豆島]]に植えたオリーブだけが順調に育ち、[[大正時代]]の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された<ref>[http://www.olive-pk.jp/ 小豆島オリーブ公園]</ref>。小豆島では今でも島のあちこちにオリーブの樹が植えられており、国産のオリーブ・オイルが作られている。
小豆島で栽培されているものは、主に「ミッション」「マンザニロ」「ネバディロ・ブランコ」「ルッカ」の4種類<ref>[http://www.olive.or.jp/olive/ たまらなく小豆島 オリーブ探検隊 (小豆島町商工会)]</ref>。
近年は[[熊本県]]([[荒尾市]])がオリーブ/オリーブ・オイルの生産と特産品化に熱心に取り組んでおり、香川県に次いで、熊本県が全国2位の生産量となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20171223215940/https://www.nhk.or.jp/fukuoka-roku-blog/800/283629.html 豊かな香り 鮮度抜群!オリーブオイル ~熊本 荒尾~ NHK「ロクいち!福岡」2017年11月08日]</ref>。
== 用途 ==
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2023-5|正確性=2023-5}}
; [[食用油]]
: [[天ぷら]]油、[[炒め物]]、[[サラダ]]用などに使用。
; [[化粧品]]
: [[髪油]]、スキンオイルなど
; [[薬用]]
: [[日本薬局方]]に収載されており、他の薬効成分と配合して用いられる。
; [[工業]]用
; [[ヤールギュレシ|トルコ相撲]]
=== 料理の例 ===
[[ファイル:Olivares_de_la_campiña_estepeña.jpg|サムネイル|[[セビリア県]]エステーパのオリーブの木]]
[[地中海食]](南部の[[イタリア料理]]、[[スペイン料理]]、[[ギリシャ料理]]、[[トルコ料理]]、[[レバノン料理]]、フランスの[[プロヴァンス料理]]や[[バスク料理]]。また、地中海には面していないが、文化的に類似点の多い[[ポルトガル料理]])では、オリーブ・オイルが多く使われる。
* [[バター]]代わりにパンや野菜につけて食べる
* [[フムス]]
* [[サラダ]]
** [[サラダドレッシング]]
* [[パスタ]]料理の[[ソース (調味料)|ソース]]など。[[オイルソース]]の項に詳しい。[[ペスト・ジェノヴェーゼ]]にも欠かせない。
* [[マリネ]]
* [[ブルスケッタ]]
* [[バーニャ・カウダ]]
* [[アイオリソース]]
* [[魚介類]](主に[[イワシ]]や[[マグロ]])や果実の油漬け。
* 冷やして、または常温で食べる料理全般
* [[カトリック教会]]と[[正教会]]の[[大斎]]や[[小斎]]など動物性食品が制限される期間の料理
* [[アヒージョ]]
* [[カッサテッレ]](cassatelle) 生地にオリーブ油を混ぜ、リコッタチーズ[ホエーからつくるイタリアのフレッシュチーズ]を詰めたシチリア島の揚げ菓子<ref>{{Cite book|和書|title=オリーブの歴史|date=2016/4/27|publisher=原書房|page=15}}</ref>
* [[メロマカロナ]](melomakarona)
== 成分・栄養価 ==
=== 健康とオリーブ・オイル ===
<!-- 根拠の無い記述をコメントアウト {{要出典範囲|伝統的にオリーブ・オイルを大量に使う食習慣を持つギリシャの人々の心臓病の発生率が、他の欧米諸国の約1/3と低いことから、オリーブ・オイルが循環器系疾患のリスクを減らす可能性が注目されている。|date=2012年4月}}-->
* [[オレオカンタール]]は、特にエクストラ・ヴァージン・オイルに含まれている天然成分である。オレオカンタールは、[[風邪薬]]の中に入っている[[抗炎症剤]]である[[イブプロフェン]]に似た抗炎症作用を示す。オレオカンタールは、炎症作用を有する[[プロスタグランジン]]を[[アラキドン酸]]から合成する[[シクロオキシゲナーゼ]](COX)を阻害するのである。このことは、オリーブ・オイルからこの物質を長期間、少量摂取することが、地中海料理が[[心臓病]]の発生の予防に貢献しているかもしれないことを示唆しているものである<ref>[http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/agc/ishiura/ishiura.html 石浦博士のオドロキ生命科学][[東京大学]]教養学部進学情報センター</ref><ref>[http://www.hokuriku-u.ac.jp/yakugaku/chiryo/topic0903.html オリーブ油の苦み成分に鎮痛薬に似た薬理作用、米研究チームが発見][[北陸大学]]</ref>。
=== 一覧表 ===
{{栄養価 | name=オリーブ・オイル| water =0 g| kJ =3699| protein =0 g| fat =100 g| carbs =0 g| fiber =0 g| sugars =0 g| calcium_mg =1| iron_mg =0.56| magnesium_mg =0| phosphorus_mg =0| potassium_mg =1| sodium_mg =2| zinc_mg =0| manganese_mg =0| selenium_μg =0| vitC_mg =0| thiamin_mg =0| riboflavin_mg =0| niacin_mg =0| pantothenic_mg =0| vitB6_mg=0| folate_ug =0| choline_mg =0.3| vitB12_ug =0| vitA_ug =0| betacarotene_ug =0| lutein_ug =0| vitE_mg =14.35| vitD_iu =0| vitK_ug =60.2| satfat =13.808 g| monofat =72.961 g| polyfat =10.523 g| | float = left | source_usda=1 }}
{| class="wikitable" style="float:right; clear:right"
|+ オリーブ・オイル(100g中)の主な[[脂肪酸]]の種類と代表値<ref>[https://data.nal.usda.gov/dataset/usda-national-nutrient-database-standard-reference-legacy-release USDA National Nutrient Database]</ref>
|-
! 項目 !! 分量 (g)
|-
| [[脂肪]] || 100
|-
| [[飽和脂肪酸]] || 13.808
|-
| 16:0([[パルミチン酸]])|| 11.29
|-
| 18:0([[ステアリン酸]]) || 1.953
|-
| [[不飽和脂肪酸|一価不飽和脂肪酸]] || 72.961
|-
| 16:1([[パルミトレイン酸]]) || 1.255
|-
| 18:1([[オレイン酸]]) || 71.269
|-
| [[多価不飽和脂肪酸]] || 10.523
|-
| 18:2([[リノール酸]]) || 9.762
|}
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
ファブリーツィアー・ランツァ著、伊藤綺訳、『「食」の図書館 オリーブの歴史』原書房、2016/4/27、ISBN 978-4-562-05317-9
== 関連項目 ==
{{Commons|Olive oil}}
* [[植物油の一覧]]
* [[ごま油]]
* [[椿油]]
* [[アレッポ石鹸]]
* [[ナブルスのオリーブ石鹼]]
* [[速水もこみち]]
* [[ベリッシモ・フランチェスコ]]
== 外部リンク ==
*{{Hfnet|493|オリーブ(オレイフ)}}
{{化粧品}}
{{サラダドレッシング}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おりいふおいる}}
[[Category:ヨーロッパの食文化]]
[[Category:地中海の食文化]]
[[Category:中近東の食文化]]
[[Category:アフリカの食文化]]
[[Category:食用油脂]]
[[Category:植物性油脂]]
[[Category:モクセイ科]]
[[Category:ヘアケア]]
[[Category:化粧品]] | 2003-03-04T13:37:00Z | 2023-11-27T04:54:47Z | false | false | false | [
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3,387 | 小田急電鉄 |
小田急電鉄株式会社(おだきゅうでんてつ、英: Odakyu Electric Railway Co., Ltd.)は、日本の大手私鉄の一つで、東京都・神奈川県を中心に鉄道事業・不動産業などを営む会社である。略称は小田急(おだきゅう)で、小田急グループの中核企業である。
1949年5月に東京証券取引所一部上場。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社である。
1923年(大正12年)5月1日に旧会社である小田原急行鉄道が設立され、1941年(昭和16年)に親会社の鬼怒川水力電気がこれを合併して小田急電鉄となった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)5月1日に東京急行電鉄(いわゆる大東急)に統合されたが、戦後の1948年(昭和23年)、東京急行電鉄の再編成により、東京急行電鉄(現在の東急電鉄)、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)および新会社の小田急電鉄の4社に分離されて発足した。
新宿駅 - 小田原駅間を結ぶ小田原線など3路線・120.5 km(営業キロ)、計70駅を運営している。グループ企業が運行する箱根登山鉄道鉄道線のほか、東京メトロ千代田線などにも乗り入れ、首都圏鉄道ネットワークの一角をなしている。鉄軌道部門収益は1211億500万円で大手私鉄16社中5位であり、全事業収益に占める鉄軌道部門収益の割合は70.4%となっている(2020年3月31日時点)。グループ企業には、運輸、流通、不動産、ホテルなど94社ある(2020年8月1日現在)。小田急ポイントサービスの加盟店舗である。
グループ力を生かして2019年(令和元年)にMobility as a Service (MaaS) 事業にも進出し、そのためのモバイルアプリケーション「EMot」(エモット)を導入。2020年 - 2021年の新型コロナウイルス感染症による鉄道乗客減少への対応も兼ねて、EMotを使ったグループ・沿線の飲食・食品店でのサブスクリプション(定額制)による収益拡大を図っている。
小田急グループの経営理念は『小田急グループは、お客さまの「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」の実現に貢献します。』である。社会に対して事業を通じて果たすべき役割・責任や、企業市民として社会に存在する意義を表している。
社紋は1948年(昭和23年)に制定された。小田急の「小」を図案化したもので、中央の「工」は鉄道の象徴であるレール断面を、周囲の円は社内の輪を象徴している。
ブランドマークは2008年(平成20年)より使用を開始している。作成したのはランドーアソシエイツ。ロゴマークはアルファベットのOを図案化したマーク()と、小文字の「odakyu」ロゴの組み合わせで、「豊かな沿線環境のもとに、自然・歴史・都市文化の新しい融合、豊かな生活の創造、より多くの上質と感動を提供していく小田急グループ」を表現している。ブランドマークはodakyuとだけ記される「グループブランドマーク」、odakyuの下にELECTRIC RAILWAYと記される「コーポレートブランドマーク」、odakyuの下にGROUPと記される「グループ表示マーク」の3種類がある。
ブランドマークは導入とともに特急車両・一般車両にも掲出されている。従前から一般車両に付けられている「OER」の略称プレートも存置されたが、4000形以降の車両やリニューアル車両では省略している。
かつては、小田急ロマンスカーのエンブレムとして1700形から採用された「OER」の飾り文字と神奈川県の県花であるヤマユリの花を合わせたイラストデカールが3100形(NSE)・7000形(LSE)・10000形(HiSE)・20000形(RSE)の車内の自動ドアに貼付されていた。また、LSE(リニューアル車のみ)・HiSE・RSEには車体側面にも貼付されていた。
戦前の小田急は、星亨の側近利光鶴松が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社としていた。同社は明治43年(1910年)に資本金1350万円で設立された会社で、取締役社長に利光鶴松、専務取締役に小林清一郎、常務取締役に大塚常次郎が就き、取締役には後藤勝造、吉田幸作、藤江章夫、岩下清周、大田黒重五郎、安藤保太郎、渡辺亨、監査役に平沼専蔵、白杉政愛、木村省吾、須田宣が名を連ねた。
利光は郊外鉄道の将来性に着目し、東京市内の地下鉄網「東京高速鉄道」、山手線を外周する「東京山手急行電鉄」、城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画した。結局、実現したのは小田急線と井の頭線(渋谷急行計画の後身)だけであったが、東京高速鉄道は後に五島慶太らの手により実現した。
電力国家管理に伴う日本発送電への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併して電鉄会社となったが、中国・山東半島での鉱業に乗り出したのが裏目に出て同社の経営を圧迫した。そのため、利光は一切の事業を東京横浜電鉄の五島に移譲し、吸収合併されて東京急行電鉄(いわゆる大東急)となった。このため企業乗っ取りの歴史である大東急形成の中で、小田急だけは事情が異なるのだが、大東急解体の旗頭となったのは旧小田急関係者であった。
新生小田急は1948年6月、東京急行電鉄(東急)から6635万1000円で事業を譲り受けて発足した。この時、井の頭線は東急から京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移管され分離したが、その代わりに戦前は無関係であった箱根登山鉄道と元来は東京横浜電鉄の関連会社であった神奈川中央交通を東急から譲受して系列会社とした。また、やはり戦前は無関係だった江ノ島電鉄の持株の一部も東急から譲受し、後に買い増しを行い系列下に収めている。
他方で1951年には、東急の五島の指示で相模鉄道の株を大量に買い増して、筆頭株主(持株比率 約30%)になるという事象も発生した。相模鉄道が株式の第三者割り当てによる敵対的買収の阻止を行ったため、買収に至ることはなかった。また相模鉄道は公正取引委員会に審査を申し立て、1951年(昭和26年)9月12日に「小田急電鉄が相模鉄道の株を買い占める行為は、はなはだしく競争を制限する行為であるため、小田急が所有する相鉄の株式をただちに放出しなければならない。」という趣旨の裁定が下された。また10月には事態収拾のために国鉄総裁の長崎惣之助が仲裁に乗り出し、長崎と相模鉄道・小田急電鉄の3者間で、3カ条の覚書が交わされ、手打ちとなった。これら経緯から、今でも小田急は相模鉄道の純粋持株会社である相鉄ホールディングスの大株主となっている。その後、徐々に株式の売却を進め、2021年(令和3年)3月12日の株式の売却により筆頭株主から外れ、2022年3月時点の持株比率は4.39%(約430万株)となっている。小田急自身も相模鉄道を関連企業とはみなしていないことから、一般に相模鉄道は小田急グループには含まれていない。
近年、犬猿の仲と称された西武鉄道と営業資産の協力関係、共通商品の開発に乗り出して功を奏している。箱根地区を巡る西武鉄道グループとの確執については「箱根山戦争」の項を参照。
各ダイヤ改正の詳細は「小田急電鉄のダイヤ改正」を、下記年表にある車両基地等の新設・廃止は「小田急電鉄の車両検修施設」をそれぞれ参照。
小田急電鉄は以下の路線を営業している。小田急が営業している以下の路線、特に本線である小田原線は「小田急線」と呼ばれる。
過去には以下の路線を営業していた。
また、他の鉄道路線との連絡線として「その他の営業線」で述べる松田連絡線を保有しているほか、過去には「その他の廃止線」で挙げる連絡線を保有していた。
東京都新宿区の新宿駅から神奈川県小田原市の小田原駅までを結ぶ路線である。1927年(昭和2年)4月1日に全線開通した。東京圏の通勤路線としての性格と、有料特急ロマンスカーをはじめとする小田原・箱根方面への観光輸送の両面を持つ。
東京都区部やそれに近接する都下多摩地域・神奈川県東部を通る区間を中心にラッシュ時は混雑する。そのため、代々木上原駅 - 登戸駅間は輸送力増強および踏切解消のため連続立体交差化・複々線化事業が実施された。
若者の街として著名な下北沢、沿線有数の高級住宅街を擁する成城、大規模な住宅地および多摩地域有数の大規模繁華街を擁する町田、江ノ島線との交点であり運行の要所である相模大野、ベッドタウンとして発展している海老名市、県央地域最大の物流・産業拠点で厚木都市圏を形成している厚木市、東京都心部から行きやすく、登山者が多い大山・丹沢のある伊勢原市・秦野市や、海に面する歴史に満ちた城下町小田原を結ぶ、小田急を代表する路線である。
東京メトロ千代田線およびJR東日本常磐緩行線(常磐線各駅停車)と相互直通運転を行っており、小田急の車両は代々木上原駅から東京メトロ北綾瀬駅まで、さらに途中の綾瀬駅からJR常磐緩行線に乗り入れて、千葉県の松戸駅・柏駅・我孫子駅、茨城県の取手駅にまで足を伸ばす。2016年(平成28年)3月25日までは、小田急の車両は綾瀬駅までの運転で、東京メトロの車両のみが取手駅方面から千代田線・小田原線を経て多摩線唐木田駅へ直通運転されていたが、同年3月26日からは、小田急・東京メトロ・JR東日本の所属を問わず、関係する全ての車両(60000形およびJR東日本の209系1000番台を除く)が、小田急線・千代田線・常磐緩行線を通し運転するようになった。これにより小田急の車両が千葉県東葛地域や茨城県南地域に乗り入れることになった。
また、小田原駅から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで特急ロマンスカーおよび一部の各駅停車(上りのみ)が乗り入れている。2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正以前は急行・準急列車も箱根登山鉄道へ乗り入れていた。
特急「ふじさん」は新松田駅 - 松田駅間の連絡線(新松田駅の少し渋沢駅寄りにある)を経由して東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線御殿場駅まで直通運転を行っている。2018年(平成30年)3月16日までは「あさぎり」の愛称で運転されていた。1991年(平成3年)3月16日から2012年(平成24年)3月16日まではJR東海、小田急電鉄の双方の車両を使用して新宿駅 - 沼津駅間で運転されていたが、同年3月17日のダイヤ改正以降は、運転区間が新宿駅 - 御殿場駅間に短縮され、小田急電鉄の車両60000形「MSE」での運転となった。なお、関東地方の私鉄では唯一、営業路線がJR2社(JR東日本・JR東海)の在来線管内の駅を直接結んでおり、乗り換えることができる(JR東日本の新宿駅、登戸駅、町田駅、厚木駅や小田原駅とJR東海松田駅で、松田駅に関しては小田急は新松田駅)。そして日本全体の私鉄路線でも自社車両が異なるJR2社に直接車両が乗り入れるのも本路線が唯一である。
神奈川県相模原市の相模大野駅から神奈川県藤沢市の片瀬江ノ島駅間を結ぶ路線である。正確には相模大野駅から小田原駅方の地点に小田原線との分岐点「相模大野分岐点」があり、ここは運賃計算に反映されている。小田原線が開業して2年後の1929年(昭和4年)4月1日に全線開通した。
小田原線新宿駅・町田駅などから直通列車が運行されており、新宿駅から特急ロマンスカーのほか、快速急行が日中、毎時3本ほど運行されている。
神奈川県川崎市の新百合ヶ丘駅と東京都多摩市の唐木田駅を結ぶ路線である。東京メトロ千代田線と併せて東京都の都市計画9号線を実現する。
多摩ニュータウンへの連絡鉄道として建設された経緯がある。途中の小田急多摩センター駅まで開業した当時、そこより先を橋本駅まで京王相模原線と併走する計画であったが、京王相模原線と競合することや単純に旅客需要が見込めないことから取り下げ、唐木田駅を開業させ、併せて喜多見検車区唐木田出張所(唐木田車庫)を開設した。
今後は相模原市と東京都町田市が主導するかたちでJR横浜線相模原駅を経由してJR相模線上溝駅方面への延長も計画されており、相模原駅延伸への前提となる在日米軍相模総合補給廠の一部返還が事実上内定したことから実現されるかどうか注目されている。
開業当初から2002年(平成14年)までは線内折り返しがほとんどだったが、2018年(平成30年)3月17日現在は新宿直通の急行が日中に毎時3本運転されている。また、このほかに線内折り返しの各停が毎時6本運転されており、同線では最低でも毎時9本が確保されている。
急行は多摩線内では栗平駅、小田急永山駅、小田急多摩センター駅、唐木田駅に停車する。なお、以前は平日の夜間には新宿駅・北千住駅 - 唐木田駅間のロマンスカーホームウェイ・メトロホームウェイなども見られた(3本)が、2016年(平成28年)3月25日をもって多摩線内のロマンスカーの営業を終了した。2018年3月17日のダイヤ改正では、多摩急行、準急、千代田線直通の急行の廃止で、千代田線からの直通列車が下り1本のみに削減された。
JR御殿場線へ直通運転するために、小田原線新松田駅付近から御殿場線松田駅へ向かう単線の連絡線(通称「松田連絡線」)が存在する。定期列車では特急「ふじさん」が使用する。小田急の乗務員は松田駅到着まで乗務する。
小田急や小田原駅で接続する箱根登山鉄道と車両メーカーとの車両授受もこの連絡線を使用する(1994年(平成6年)より前までは小田原駅で行っていた)。車両メーカーとの甲種鉄道車両輸送はJR東海の御殿場線を経由して行われ、日本貨物鉄道(JR貨物)が機関車・運転士共に担当する。連絡線は小田急電鉄に属するため、JR貨物の運転士の運転は松田駅到着までであり、松田駅で小田急の運転士に交代する。列車は、そのまま連絡線を通って新松田駅まで運転を行い、機関車を切り離し単機で松田駅に戻る。小田急の運転士はこの連絡線運転のため、JR貨物で電気機関車EF65の訓練を受けており、運転の頻度は多くないものの、輸送に対応する必要に応じて2017年(平成29年)時点で小田急の全運転士の約4%にあたる23名が資格を保有している。
小田原線の向ヶ丘遊園駅から向ヶ丘遊園の近くの向ヶ丘遊園正門駅までの間1.1 kmを結んでいたモノレール路線。それまでの豆電車に代わって1966年(昭和41年)に開業した。独立した運賃体系となっていたほか、日本では数少ないロッキード式モノレールだった。
向ヶ丘遊園へのアクセス路線として機能していたが、2000年(平成12年)2月13日から行われた定期検査時にモノレールの台車に疲労亀裂があることが判明したため、運転再開が見送られた。改修費用の問題および遊園地の利用客減少に伴い2001年(平成13年)2月1日に正式廃止となり、向ヶ丘遊園自体も翌2002年(平成14年)3月いっぱいで閉園した(バラ苑のみ川崎市の管理で存続)。モノレールの各施設は全て撤去されたが、川崎市により廃線跡地の遊歩道整備などが行われた。
2006年以降のダイヤ改正は小田原線・多摩線が東京メトロ千代田線およびJR東日本の常磐緩行線(常磐線各駅停車)と相互直通運転を行い、小田原線の特急「ふじさん」が渋沢 - 松田間の連絡線経由でJR東海の御殿場線と直通運転を行っている関係で、一部の例外を除きJRグループのダイヤ改正と同じ日程で行われている。ただし2007年・2011年は実施されず、2010年は一部列車のダイヤ修正に留まっている。2012年にはロマンスカーの使用車両および運行系統・停車駅の変更などが大きく、JRグループのダイヤ改正と同日の3月17日に3年ぶりの大規模なダイヤ改正が実施された。
現有路線の節で述べた通り、2016年3月26日のダイヤ改正では、それまで千代田線綾瀬駅までの乗り入れであった小田急の車両もJR常磐緩行線への乗り入れが開始された。小田急の車両は自社路線のある東京都や神奈川県のほか、JR御殿場線への乗り入れで静岡県にも入っているが、同日より常磐緩行線への乗り入れで千葉県や、山梨県を除く関東地方で唯一大手私鉄の路線が存在せず、乗り入れてくる大手私鉄の車両もこれまで東京メトロのみであった茨城県南地域にも入るようになり、また小田急は複数のJRグループの会社の路線に乗り入れる大手私鉄となった(これにより小田急の車両は茨城県から静岡県までの広範囲で走行することとなった)。
小田急電鉄では、「ロマンスカー」と総称して呼ばれる有料特急列車を運行しており、系統・種類に応じて下記の愛称がある。全列車とも全座席指定で運行される。大手私鉄では近畿日本鉄道の「近鉄特急」と並ぶ看板列車であり、使用車両にブルーリボン賞受賞車が多い。
2008年3月15日からの東京メトロ千代田線乗り入れ開始に伴い次の愛称が登場した。同時に新設された後述のベイリゾート号以外は全て頭に「メトロ」がつく。これらはすべて60000形MSEにより運転される。
2018年3月17日のダイヤ改正で、次の愛称が新設された。
運行日が限定される列車
小田急電鉄の場合、2600形までの通勤形車両については制御装置等の英字による略称を内部用語として用いることがあり、趣味的にも流用される。また、その延長で3000形 (初代)に"Super Express(Car)"の略称である「SE」の通称を与え、以降特急形車両については内部または公募で愛称・略称が与えられている。前者は全電動車式高性能車の問題を、後者は小田急ロマンスカーを参照されたい。なお、京浜急行電鉄、京成電鉄や東京都交通局、名古屋市交通局、および阪神電気鉄道の昭和50年代までに落成した車両などと同様に「○○系(けい)」ではなく「○○形(がた)」と呼称される。また、特急形・通勤形とも固定編成を前提とした機器構成がなされているので、原則として編成替えは行われない。
技術面での評価は高く、1957年には3000形「SE車」が東海道本線にて当時の狭軌鉄道での最高速度世界記録 (145 km/h) を樹立した。その他、ブルーリボン賞、ローレル賞などの鉄道関係の賞を数多く受賞していた。しかし、近年では通勤形車両のみならず、特急形車両でも他社で実績のある技術や工法を多く取り入れ、50000形VSEを除いて独自性はない。
車両の製造メーカーは特急形が日本車輌製造と川崎重工業、通勤形は前記の2社と総合車両製作所横浜事業所(および前経営者の東急車輛製造)であったが、50000形VSE以降の特急形は日本車輌製造のみ、4000形(2代)は総合車両製作所横浜事業所(および東急車輛製造)とJR東日本新津車両製作所(現・総合車両製作所新津事業所)で製造している。車両更新・改修は車両製造メーカーまたはグループ企業の小田急エンジニアリング(過去には小田急車両工業)で施工される。制御装置の製造メーカーは60000形「MSE」までの特急形が東芝(現・東芝インフラシステムズ)、通勤形と70000形「GSE」・EXEαの特急形は三菱電機と分けられている。
火災防止のため、全ての通勤形車両で車両間にある仕切扉のドアストッパーを撤去した。また、在籍する営業用車両の集電装置は全てシングルアーム式パンタグラフを搭載している。これは大手私鉄では初めてである。
台車については、開業以来一部(ロマンスカー3000形SE車、国鉄タイプの1800形、旧型車の機器を流用した4000形 (初代)ほか)を除いて長い間住友金属工業(現・日本製鉄)製のもの(特に2200形から1000形までの新造通勤用車両やロマンスカー7000・10000・20000形はリンク式の一種であるアルストムリンク式と呼ばれる構造)が採用されていたが、ロマンスカーの50000形VSE以降は日本車輌製造製に、通勤用の3000形以降は東急車輛製造(→総合車両製作所)製に切り換えられている。ただし、新5000形は日車製のNS台車が採用されている。
2001年(平成13年)1月15日に「小田急研修センター(動力車操縦者養成所)」を開所した。鉄道係員養成のほか、グループ会社合同の研修で使用される。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のICカード利用時は一律50円)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む(小児IC運賃は対象外)。2023年(令和5年)3月18日改定。
大人料金(小児半額・10円未満の端数は切り上げ)。2022年10月1日改定。単位円。
小田急は沿線に、箱根や江の島・鎌倉、丹沢・大山、伊豆といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーパス」や「クーポン」を発売している。
一部のものは相模鉄道・西武鉄道でも販売しているので、両鉄道の各駅からも利用できる。
かつては西伊豆フリーパス、中伊豆フリーパス、南伊豆フリーパスも発売していた。
かつては箱根ベゴニア園・ひめしゃらの湯のクーポン、箱根ホテル小涌園 湯ったりクーポンも発売していた。
かつては足柄古道・万葉ハイキングパスも発売していた。
かつては御殿場往復割引きっぷ、小田急・世田谷線散策きっぷも発売していた。
2021年現在、駅構内の自動放送は上りホームを関根正明、下りホームを緒方智美が担当している。ただし、以下の駅は例外である。
車内自動放送は、日本語を西村文江、英語をクリステル・チアリが担当している。なお2018年3月17日のダイヤ改正時からは、新たに駅番号と次の停車駅の案内のパーツが追加されている。
鉄道事業者としては初めて「早期地震警報システム」を導入し、2006年8月1日に気象庁が特定事業者に向けて提供する高度利用者向け緊急地震速報の配信開始にあわせて運用している。
デジタル信号を用いた自動列車停止装置のD-ATS-Pを全線で使用している。D-ATS-Pは2012年3月に多摩線で導入し、以後、各線で導入が進められ、2015年9月12日に全線で導入が完了した。D-ATS-P導入前は変周式の自動列車停止装置 (OM-ATS) が全線で使用されていた。
小田急線内にある230余の全踏切に監視カメラ・集音マイク・スピーカーを設置(立体化によって廃止された踏切9個には監視カメラのみ設置)し、運輸司令所と隣接している電気司令所にて踏切の各動作(遮断機の動作、異常発生時の機器の状況)を監視するもので、踏切支障時の迅速な対応が可能になる。2005年から導入が始まり、2008年12月に全線で導入を完了した。
公式サイト、関東交通広告協議会および『東京都統計年鑑』『神奈川県統計要覧』より。
は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。
小田原線のターミナル駅である新宿駅の一日平均乗降人員は約31万人であるが、京王線新宿駅と比較すると19万人程度少ない。しかし、新宿駅の南側に位置する代々木上原駅で東京メトロ千代田線への相互直通運転を行っており、都心方面への利便性と輸送の冗長性に寄与している。同駅の一日平均乗降人員は約19万人であり、近年は増加傾向が続いている。
乗降人員が10万人を超える6駅は全て快速急行が停車する。特に横浜線と接続する町田駅は、新宿駅から30km程度離れているのにも関わらず一日平均乗降人員は約20万人であり、他の私鉄路線と比較しても突出して輸送人員が全体的に多い。また新宿駅から45km程度離れた本厚木駅は、他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が10万人に近い。小田原線はこれらの主要駅を利用する乗客を捌くために、優等列車を基軸としたダイヤが終日にわたって組まれている。朝のラッシュ時に運転される通勤急行は、登戸駅を通過する代わりに成城学園前駅に停車する千鳥停車を行い、快速急行に乗客が集中しないようなダイヤが組まれている。
江ノ島線で最も乗降人員が多い駅は藤沢駅であり、一日平均乗降人員は約12万人である。路線距離に対して比較的接続路線が多く、同駅と相模大野駅、大和駅、中央林間駅、湘南台駅の5駅は乗降人員が6万人を超えている。
多摩ニュータウンへのアクセス路線である多摩線は、他2路線と比較して輸送量が少ない。都心方面へは京王相模原線と競合しており、多摩急行の新設を機に小田原線への直通列車を増発した。輸送人員は年々増加傾向にあるものの、小田急多摩センター駅の乗降人員は京王多摩センター駅の6割程度である。
有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。 | [
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"text": "小田急電鉄株式会社(おだきゅうでんてつ、英: Odakyu Electric Railway Co., Ltd.)は、日本の大手私鉄の一つで、東京都・神奈川県を中心に鉄道事業・不動産業などを営む会社である。略称は小田急(おだきゅう)で、小田急グループの中核企業である。",
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"text": "1949年5月に東京証券取引所一部上場。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社である。",
"title": "概要"
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"text": "1923年(大正12年)5月1日に旧会社である小田原急行鉄道が設立され、1941年(昭和16年)に親会社の鬼怒川水力電気がこれを合併して小田急電鉄となった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)5月1日に東京急行電鉄(いわゆる大東急)に統合されたが、戦後の1948年(昭和23年)、東京急行電鉄の再編成により、東京急行電鉄(現在の東急電鉄)、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)および新会社の小田急電鉄の4社に分離されて発足した。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 4,
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"text": "新宿駅 - 小田原駅間を結ぶ小田原線など3路線・120.5 km(営業キロ)、計70駅を運営している。グループ企業が運行する箱根登山鉄道鉄道線のほか、東京メトロ千代田線などにも乗り入れ、首都圏鉄道ネットワークの一角をなしている。鉄軌道部門収益は1211億500万円で大手私鉄16社中5位であり、全事業収益に占める鉄軌道部門収益の割合は70.4%となっている(2020年3月31日時点)。グループ企業には、運輸、流通、不動産、ホテルなど94社ある(2020年8月1日現在)。小田急ポイントサービスの加盟店舗である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
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"text": "グループ力を生かして2019年(令和元年)にMobility as a Service (MaaS) 事業にも進出し、そのためのモバイルアプリケーション「EMot」(エモット)を導入。2020年 - 2021年の新型コロナウイルス感染症による鉄道乗客減少への対応も兼ねて、EMotを使ったグループ・沿線の飲食・食品店でのサブスクリプション(定額制)による収益拡大を図っている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "小田急グループの経営理念は『小田急グループは、お客さまの「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」の実現に貢献します。』である。社会に対して事業を通じて果たすべき役割・責任や、企業市民として社会に存在する意義を表している。",
"title": "経営理念"
},
{
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"text": "社紋は1948年(昭和23年)に制定された。小田急の「小」を図案化したもので、中央の「工」は鉄道の象徴であるレール断面を、周囲の円は社内の輪を象徴している。",
"title": "社紋・ブランドマーク"
},
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"text": "ブランドマークは2008年(平成20年)より使用を開始している。作成したのはランドーアソシエイツ。ロゴマークはアルファベットのOを図案化したマーク()と、小文字の「odakyu」ロゴの組み合わせで、「豊かな沿線環境のもとに、自然・歴史・都市文化の新しい融合、豊かな生活の創造、より多くの上質と感動を提供していく小田急グループ」を表現している。ブランドマークはodakyuとだけ記される「グループブランドマーク」、odakyuの下にELECTRIC RAILWAYと記される「コーポレートブランドマーク」、odakyuの下にGROUPと記される「グループ表示マーク」の3種類がある。",
"title": "社紋・ブランドマーク"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "ブランドマークは導入とともに特急車両・一般車両にも掲出されている。従前から一般車両に付けられている「OER」の略称プレートも存置されたが、4000形以降の車両やリニューアル車両では省略している。",
"title": "社紋・ブランドマーク"
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{
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"text": "かつては、小田急ロマンスカーのエンブレムとして1700形から採用された「OER」の飾り文字と神奈川県の県花であるヤマユリの花を合わせたイラストデカールが3100形(NSE)・7000形(LSE)・10000形(HiSE)・20000形(RSE)の車内の自動ドアに貼付されていた。また、LSE(リニューアル車のみ)・HiSE・RSEには車体側面にも貼付されていた。",
"title": "社紋・ブランドマーク"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "戦前の小田急は、星亨の側近利光鶴松が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社としていた。同社は明治43年(1910年)に資本金1350万円で設立された会社で、取締役社長に利光鶴松、専務取締役に小林清一郎、常務取締役に大塚常次郎が就き、取締役には後藤勝造、吉田幸作、藤江章夫、岩下清周、大田黒重五郎、安藤保太郎、渡辺亨、監査役に平沼専蔵、白杉政愛、木村省吾、須田宣が名を連ねた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "利光は郊外鉄道の将来性に着目し、東京市内の地下鉄網「東京高速鉄道」、山手線を外周する「東京山手急行電鉄」、城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画した。結局、実現したのは小田急線と井の頭線(渋谷急行計画の後身)だけであったが、東京高速鉄道は後に五島慶太らの手により実現した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "電力国家管理に伴う日本発送電への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併して電鉄会社となったが、中国・山東半島での鉱業に乗り出したのが裏目に出て同社の経営を圧迫した。そのため、利光は一切の事業を東京横浜電鉄の五島に移譲し、吸収合併されて東京急行電鉄(いわゆる大東急)となった。このため企業乗っ取りの歴史である大東急形成の中で、小田急だけは事情が異なるのだが、大東急解体の旗頭となったのは旧小田急関係者であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "新生小田急は1948年6月、東京急行電鉄(東急)から6635万1000円で事業を譲り受けて発足した。この時、井の頭線は東急から京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移管され分離したが、その代わりに戦前は無関係であった箱根登山鉄道と元来は東京横浜電鉄の関連会社であった神奈川中央交通を東急から譲受して系列会社とした。また、やはり戦前は無関係だった江ノ島電鉄の持株の一部も東急から譲受し、後に買い増しを行い系列下に収めている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "他方で1951年には、東急の五島の指示で相模鉄道の株を大量に買い増して、筆頭株主(持株比率 約30%)になるという事象も発生した。相模鉄道が株式の第三者割り当てによる敵対的買収の阻止を行ったため、買収に至ることはなかった。また相模鉄道は公正取引委員会に審査を申し立て、1951年(昭和26年)9月12日に「小田急電鉄が相模鉄道の株を買い占める行為は、はなはだしく競争を制限する行為であるため、小田急が所有する相鉄の株式をただちに放出しなければならない。」という趣旨の裁定が下された。また10月には事態収拾のために国鉄総裁の長崎惣之助が仲裁に乗り出し、長崎と相模鉄道・小田急電鉄の3者間で、3カ条の覚書が交わされ、手打ちとなった。これら経緯から、今でも小田急は相模鉄道の純粋持株会社である相鉄ホールディングスの大株主となっている。その後、徐々に株式の売却を進め、2021年(令和3年)3月12日の株式の売却により筆頭株主から外れ、2022年3月時点の持株比率は4.39%(約430万株)となっている。小田急自身も相模鉄道を関連企業とはみなしていないことから、一般に相模鉄道は小田急グループには含まれていない。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "近年、犬猿の仲と称された西武鉄道と営業資産の協力関係、共通商品の開発に乗り出して功を奏している。箱根地区を巡る西武鉄道グループとの確執については「箱根山戦争」の項を参照。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "各ダイヤ改正の詳細は「小田急電鉄のダイヤ改正」を、下記年表にある車両基地等の新設・廃止は「小田急電鉄の車両検修施設」をそれぞれ参照。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "小田急電鉄は以下の路線を営業している。小田急が営業している以下の路線、特に本線である小田原線は「小田急線」と呼ばれる。",
"title": "路線"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "過去には以下の路線を営業していた。",
"title": "路線"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、他の鉄道路線との連絡線として「その他の営業線」で述べる松田連絡線を保有しているほか、過去には「その他の廃止線」で挙げる連絡線を保有していた。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "東京都新宿区の新宿駅から神奈川県小田原市の小田原駅までを結ぶ路線である。1927年(昭和2年)4月1日に全線開通した。東京圏の通勤路線としての性格と、有料特急ロマンスカーをはじめとする小田原・箱根方面への観光輸送の両面を持つ。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "東京都区部やそれに近接する都下多摩地域・神奈川県東部を通る区間を中心にラッシュ時は混雑する。そのため、代々木上原駅 - 登戸駅間は輸送力増強および踏切解消のため連続立体交差化・複々線化事業が実施された。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "若者の街として著名な下北沢、沿線有数の高級住宅街を擁する成城、大規模な住宅地および多摩地域有数の大規模繁華街を擁する町田、江ノ島線との交点であり運行の要所である相模大野、ベッドタウンとして発展している海老名市、県央地域最大の物流・産業拠点で厚木都市圏を形成している厚木市、東京都心部から行きやすく、登山者が多い大山・丹沢のある伊勢原市・秦野市や、海に面する歴史に満ちた城下町小田原を結ぶ、小田急を代表する路線である。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "東京メトロ千代田線およびJR東日本常磐緩行線(常磐線各駅停車)と相互直通運転を行っており、小田急の車両は代々木上原駅から東京メトロ北綾瀬駅まで、さらに途中の綾瀬駅からJR常磐緩行線に乗り入れて、千葉県の松戸駅・柏駅・我孫子駅、茨城県の取手駅にまで足を伸ばす。2016年(平成28年)3月25日までは、小田急の車両は綾瀬駅までの運転で、東京メトロの車両のみが取手駅方面から千代田線・小田原線を経て多摩線唐木田駅へ直通運転されていたが、同年3月26日からは、小田急・東京メトロ・JR東日本の所属を問わず、関係する全ての車両(60000形およびJR東日本の209系1000番台を除く)が、小田急線・千代田線・常磐緩行線を通し運転するようになった。これにより小田急の車両が千葉県東葛地域や茨城県南地域に乗り入れることになった。",
"title": "路線"
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"tag": "p",
"text": "また、小田原駅から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで特急ロマンスカーおよび一部の各駅停車(上りのみ)が乗り入れている。2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正以前は急行・準急列車も箱根登山鉄道へ乗り入れていた。",
"title": "路線"
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"text": "特急「ふじさん」は新松田駅 - 松田駅間の連絡線(新松田駅の少し渋沢駅寄りにある)を経由して東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線御殿場駅まで直通運転を行っている。2018年(平成30年)3月16日までは「あさぎり」の愛称で運転されていた。1991年(平成3年)3月16日から2012年(平成24年)3月16日まではJR東海、小田急電鉄の双方の車両を使用して新宿駅 - 沼津駅間で運転されていたが、同年3月17日のダイヤ改正以降は、運転区間が新宿駅 - 御殿場駅間に短縮され、小田急電鉄の車両60000形「MSE」での運転となった。なお、関東地方の私鉄では唯一、営業路線がJR2社(JR東日本・JR東海)の在来線管内の駅を直接結んでおり、乗り換えることができる(JR東日本の新宿駅、登戸駅、町田駅、厚木駅や小田原駅とJR東海松田駅で、松田駅に関しては小田急は新松田駅)。そして日本全体の私鉄路線でも自社車両が異なるJR2社に直接車両が乗り入れるのも本路線が唯一である。",
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"text": "神奈川県相模原市の相模大野駅から神奈川県藤沢市の片瀬江ノ島駅間を結ぶ路線である。正確には相模大野駅から小田原駅方の地点に小田原線との分岐点「相模大野分岐点」があり、ここは運賃計算に反映されている。小田原線が開業して2年後の1929年(昭和4年)4月1日に全線開通した。",
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"text": "小田原線新宿駅・町田駅などから直通列車が運行されており、新宿駅から特急ロマンスカーのほか、快速急行が日中、毎時3本ほど運行されている。",
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"text": "神奈川県川崎市の新百合ヶ丘駅と東京都多摩市の唐木田駅を結ぶ路線である。東京メトロ千代田線と併せて東京都の都市計画9号線を実現する。",
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"text": "多摩ニュータウンへの連絡鉄道として建設された経緯がある。途中の小田急多摩センター駅まで開業した当時、そこより先を橋本駅まで京王相模原線と併走する計画であったが、京王相模原線と競合することや単純に旅客需要が見込めないことから取り下げ、唐木田駅を開業させ、併せて喜多見検車区唐木田出張所(唐木田車庫)を開設した。",
"title": "路線"
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"text": "今後は相模原市と東京都町田市が主導するかたちでJR横浜線相模原駅を経由してJR相模線上溝駅方面への延長も計画されており、相模原駅延伸への前提となる在日米軍相模総合補給廠の一部返還が事実上内定したことから実現されるかどうか注目されている。",
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"text": "開業当初から2002年(平成14年)までは線内折り返しがほとんどだったが、2018年(平成30年)3月17日現在は新宿直通の急行が日中に毎時3本運転されている。また、このほかに線内折り返しの各停が毎時6本運転されており、同線では最低でも毎時9本が確保されている。",
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "急行は多摩線内では栗平駅、小田急永山駅、小田急多摩センター駅、唐木田駅に停車する。なお、以前は平日の夜間には新宿駅・北千住駅 - 唐木田駅間のロマンスカーホームウェイ・メトロホームウェイなども見られた(3本)が、2016年(平成28年)3月25日をもって多摩線内のロマンスカーの営業を終了した。2018年3月17日のダイヤ改正では、多摩急行、準急、千代田線直通の急行の廃止で、千代田線からの直通列車が下り1本のみに削減された。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "JR御殿場線へ直通運転するために、小田原線新松田駅付近から御殿場線松田駅へ向かう単線の連絡線(通称「松田連絡線」)が存在する。定期列車では特急「ふじさん」が使用する。小田急の乗務員は松田駅到着まで乗務する。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "小田急や小田原駅で接続する箱根登山鉄道と車両メーカーとの車両授受もこの連絡線を使用する(1994年(平成6年)より前までは小田原駅で行っていた)。車両メーカーとの甲種鉄道車両輸送はJR東海の御殿場線を経由して行われ、日本貨物鉄道(JR貨物)が機関車・運転士共に担当する。連絡線は小田急電鉄に属するため、JR貨物の運転士の運転は松田駅到着までであり、松田駅で小田急の運転士に交代する。列車は、そのまま連絡線を通って新松田駅まで運転を行い、機関車を切り離し単機で松田駅に戻る。小田急の運転士はこの連絡線運転のため、JR貨物で電気機関車EF65の訓練を受けており、運転の頻度は多くないものの、輸送に対応する必要に応じて2017年(平成29年)時点で小田急の全運転士の約4%にあたる23名が資格を保有している。",
"title": "路線"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "小田原線の向ヶ丘遊園駅から向ヶ丘遊園の近くの向ヶ丘遊園正門駅までの間1.1 kmを結んでいたモノレール路線。それまでの豆電車に代わって1966年(昭和41年)に開業した。独立した運賃体系となっていたほか、日本では数少ないロッキード式モノレールだった。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "向ヶ丘遊園へのアクセス路線として機能していたが、2000年(平成12年)2月13日から行われた定期検査時にモノレールの台車に疲労亀裂があることが判明したため、運転再開が見送られた。改修費用の問題および遊園地の利用客減少に伴い2001年(平成13年)2月1日に正式廃止となり、向ヶ丘遊園自体も翌2002年(平成14年)3月いっぱいで閉園した(バラ苑のみ川崎市の管理で存続)。モノレールの各施設は全て撤去されたが、川崎市により廃線跡地の遊歩道整備などが行われた。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2006年以降のダイヤ改正は小田原線・多摩線が東京メトロ千代田線およびJR東日本の常磐緩行線(常磐線各駅停車)と相互直通運転を行い、小田原線の特急「ふじさん」が渋沢 - 松田間の連絡線経由でJR東海の御殿場線と直通運転を行っている関係で、一部の例外を除きJRグループのダイヤ改正と同じ日程で行われている。ただし2007年・2011年は実施されず、2010年は一部列車のダイヤ修正に留まっている。2012年にはロマンスカーの使用車両および運行系統・停車駅の変更などが大きく、JRグループのダイヤ改正と同日の3月17日に3年ぶりの大規模なダイヤ改正が実施された。",
"title": "ダイヤ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現有路線の節で述べた通り、2016年3月26日のダイヤ改正では、それまで千代田線綾瀬駅までの乗り入れであった小田急の車両もJR常磐緩行線への乗り入れが開始された。小田急の車両は自社路線のある東京都や神奈川県のほか、JR御殿場線への乗り入れで静岡県にも入っているが、同日より常磐緩行線への乗り入れで千葉県や、山梨県を除く関東地方で唯一大手私鉄の路線が存在せず、乗り入れてくる大手私鉄の車両もこれまで東京メトロのみであった茨城県南地域にも入るようになり、また小田急は複数のJRグループの会社の路線に乗り入れる大手私鉄となった(これにより小田急の車両は茨城県から静岡県までの広範囲で走行することとなった)。",
"title": "ダイヤ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "小田急電鉄では、「ロマンスカー」と総称して呼ばれる有料特急列車を運行しており、系統・種類に応じて下記の愛称がある。全列車とも全座席指定で運行される。大手私鉄では近畿日本鉄道の「近鉄特急」と並ぶ看板列車であり、使用車両にブルーリボン賞受賞車が多い。",
"title": "有料特急列車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日からの東京メトロ千代田線乗り入れ開始に伴い次の愛称が登場した。同時に新設された後述のベイリゾート号以外は全て頭に「メトロ」がつく。これらはすべて60000形MSEにより運転される。",
"title": "有料特急列車"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で、次の愛称が新設された。",
"title": "有料特急列車"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "運行日が限定される列車",
"title": "有料特急列車"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "小田急電鉄の場合、2600形までの通勤形車両については制御装置等の英字による略称を内部用語として用いることがあり、趣味的にも流用される。また、その延長で3000形 (初代)に\"Super Express(Car)\"の略称である「SE」の通称を与え、以降特急形車両については内部または公募で愛称・略称が与えられている。前者は全電動車式高性能車の問題を、後者は小田急ロマンスカーを参照されたい。なお、京浜急行電鉄、京成電鉄や東京都交通局、名古屋市交通局、および阪神電気鉄道の昭和50年代までに落成した車両などと同様に「○○系(けい)」ではなく「○○形(がた)」と呼称される。また、特急形・通勤形とも固定編成を前提とした機器構成がなされているので、原則として編成替えは行われない。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "技術面での評価は高く、1957年には3000形「SE車」が東海道本線にて当時の狭軌鉄道での最高速度世界記録 (145 km/h) を樹立した。その他、ブルーリボン賞、ローレル賞などの鉄道関係の賞を数多く受賞していた。しかし、近年では通勤形車両のみならず、特急形車両でも他社で実績のある技術や工法を多く取り入れ、50000形VSEを除いて独自性はない。",
"title": "車両"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "車両の製造メーカーは特急形が日本車輌製造と川崎重工業、通勤形は前記の2社と総合車両製作所横浜事業所(および前経営者の東急車輛製造)であったが、50000形VSE以降の特急形は日本車輌製造のみ、4000形(2代)は総合車両製作所横浜事業所(および東急車輛製造)とJR東日本新津車両製作所(現・総合車両製作所新津事業所)で製造している。車両更新・改修は車両製造メーカーまたはグループ企業の小田急エンジニアリング(過去には小田急車両工業)で施工される。制御装置の製造メーカーは60000形「MSE」までの特急形が東芝(現・東芝インフラシステムズ)、通勤形と70000形「GSE」・EXEαの特急形は三菱電機と分けられている。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "火災防止のため、全ての通勤形車両で車両間にある仕切扉のドアストッパーを撤去した。また、在籍する営業用車両の集電装置は全てシングルアーム式パンタグラフを搭載している。これは大手私鉄では初めてである。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "台車については、開業以来一部(ロマンスカー3000形SE車、国鉄タイプの1800形、旧型車の機器を流用した4000形 (初代)ほか)を除いて長い間住友金属工業(現・日本製鉄)製のもの(特に2200形から1000形までの新造通勤用車両やロマンスカー7000・10000・20000形はリンク式の一種であるアルストムリンク式と呼ばれる構造)が採用されていたが、ロマンスカーの50000形VSE以降は日本車輌製造製に、通勤用の3000形以降は東急車輛製造(→総合車両製作所)製に切り換えられている。ただし、新5000形は日車製のNS台車が採用されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)1月15日に「小田急研修センター(動力車操縦者養成所)」を開所した。鉄道係員養成のほか、グループ会社合同の研修で使用される。",
"title": "研修センター"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のICカード利用時は一律50円)。鉄道駅バリアフリー料金制度による料金10円の加算を含む(小児IC運賃は対象外)。2023年(令和5年)3月18日改定。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "大人料金(小児半額・10円未満の端数は切り上げ)。2022年10月1日改定。単位円。",
"title": "特急料金"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "小田急は沿線に、箱根や江の島・鎌倉、丹沢・大山、伊豆といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーパス」や「クーポン」を発売している。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "一部のものは相模鉄道・西武鉄道でも販売しているので、両鉄道の各駅からも利用できる。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "かつては西伊豆フリーパス、中伊豆フリーパス、南伊豆フリーパスも発売していた。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "かつては箱根ベゴニア園・ひめしゃらの湯のクーポン、箱根ホテル小涌園 湯ったりクーポンも発売していた。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "かつては足柄古道・万葉ハイキングパスも発売していた。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "かつては御殿場往復割引きっぷ、小田急・世田谷線散策きっぷも発売していた。",
"title": "フリーパス・クーポン"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、駅構内の自動放送は上りホームを関根正明、下りホームを緒方智美が担当している。ただし、以下の駅は例外である。",
"title": "設備"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "車内自動放送は、日本語を西村文江、英語をクリステル・チアリが担当している。なお2018年3月17日のダイヤ改正時からは、新たに駅番号と次の停車駅の案内のパーツが追加されている。",
"title": "設備"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "鉄道事業者としては初めて「早期地震警報システム」を導入し、2006年8月1日に気象庁が特定事業者に向けて提供する高度利用者向け緊急地震速報の配信開始にあわせて運用している。",
"title": "設備"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "デジタル信号を用いた自動列車停止装置のD-ATS-Pを全線で使用している。D-ATS-Pは2012年3月に多摩線で導入し、以後、各線で導入が進められ、2015年9月12日に全線で導入が完了した。D-ATS-P導入前は変周式の自動列車停止装置 (OM-ATS) が全線で使用されていた。",
"title": "設備"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "小田急線内にある230余の全踏切に監視カメラ・集音マイク・スピーカーを設置(立体化によって廃止された踏切9個には監視カメラのみ設置)し、運輸司令所と隣接している電気司令所にて踏切の各動作(遮断機の動作、異常発生時の機器の状況)を監視するもので、踏切支障時の迅速な対応が可能になる。2005年から導入が始まり、2008年12月に全線で導入を完了した。",
"title": "設備"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "公式サイト、関東交通広告協議会および『東京都統計年鑑』『神奈川県統計要覧』より。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "小田原線のターミナル駅である新宿駅の一日平均乗降人員は約31万人であるが、京王線新宿駅と比較すると19万人程度少ない。しかし、新宿駅の南側に位置する代々木上原駅で東京メトロ千代田線への相互直通運転を行っており、都心方面への利便性と輸送の冗長性に寄与している。同駅の一日平均乗降人員は約19万人であり、近年は増加傾向が続いている。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "乗降人員が10万人を超える6駅は全て快速急行が停車する。特に横浜線と接続する町田駅は、新宿駅から30km程度離れているのにも関わらず一日平均乗降人員は約20万人であり、他の私鉄路線と比較しても突出して輸送人員が全体的に多い。また新宿駅から45km程度離れた本厚木駅は、他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が10万人に近い。小田原線はこれらの主要駅を利用する乗客を捌くために、優等列車を基軸としたダイヤが終日にわたって組まれている。朝のラッシュ時に運転される通勤急行は、登戸駅を通過する代わりに成城学園前駅に停車する千鳥停車を行い、快速急行に乗客が集中しないようなダイヤが組まれている。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "江ノ島線で最も乗降人員が多い駅は藤沢駅であり、一日平均乗降人員は約12万人である。路線距離に対して比較的接続路線が多く、同駅と相模大野駅、大和駅、中央林間駅、湘南台駅の5駅は乗降人員が6万人を超えている。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "多摩ニュータウンへのアクセス路線である多摩線は、他2路線と比較して輸送量が少ない。都心方面へは京王相模原線と競合しており、多摩急行の新設を機に小田原線への直通列車を増発した。輸送人員は年々増加傾向にあるものの、小田急多摩センター駅の乗降人員は京王多摩センター駅の6割程度である。",
"title": "一日平均乗降人員上位25駅"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。",
"title": "労働組合"
}
] | 小田急電鉄株式会社は、日本の大手私鉄の一つで、東京都・神奈川県を中心に鉄道事業・不動産業などを営む会社である。略称は小田急(おだきゅう)で、小田急グループの中核企業である。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 小田急電鉄株式会社
|英文社名 = Odakyu Electric Railway Co., Ltd.<ref name="en">小田急電鉄株式会社 定款 第1章第1条</ref><!-- Wikipediaのページは(どの言語版であろうと)出典になりません。-->
|ロゴ = {{Multiple image
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|画像 = Shinjuku-Daiichi-Life-Building-01.jpg
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|画像説明 = [[小田急第一生命ビルディング]](新宿本社事務所)
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.odakyu.jp/company/csr/management/ 社会から信頼されるための取り組み] - 小田急電鉄株式会社</ref>
|市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9007 | 1949年5月16日}}
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|代表者 = 代表取締役[[社長]] [[星野晃司]]<br />代表取締役[[役員 (会社)#副社長|副社長]] [[小川三木夫]]
|資本金 = 603億5900万円<ref name="yuho">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/ir/securities/o5oaa1000001yi8e-att/100yuuhou.pdf|format=PDF|title=第100期(2021年3月期)有価証券報告書|publisher=小田急電鉄株式会社|date=2021-06-29|accessdate=2021-11-16}}</ref>
|発行済株式総数 = 3億6849万7717株<br />(2021年3月31日現在<ref name="yuho" />)
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|純利益 = 連結:△402億7200万円<br />単独:△197億200万円<br />(2021年3月31日現在<ref name="EDINET_100">{{Cite web|和書|url=https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/download?1636696312679&uji.bean=ee.bean.parent.EECommonSearchBean&uji.verb=W0EZA104CXP001003Action&SESSIONKEY=1636696312242&s=S100LTWH|format=PDF|pages=3-|title=有価証券報告書 - 第100期(2020年4月1日-2021年3月31日)|publisher=小田急電鉄株式会社|work=[[EDINET]]|date=2021-06-29|accessdate=2021-11-12}}</ref><ref name="yuho" />)
|純資産 = 連結:3524億5600万円<br />単独:3148億1600万円<br />(2021年3月31日現在<ref name="yuho" />)
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|決算期 = [[3月31日]]
|会計監査人 = [[EY新日本有限責任監査法人]]
|主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 9.85%<br />[[第一生命保険]] 5.55%<br />[[日本生命保険]] 4.59%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口)4.46%<br />日本マスタートラスト信託銀行(退職給付信託口・[[三菱電機]]口) 3.53%<br />[[明治安田生命保険]] 2.10%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.57%<br />[[住友生命保険]] 1.50%<br />STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234 1.49%<br />日本カストディ銀行(信託口5) 1.34%<br />(2021年3月31日現在<ref name="yuho" />)
|主要子会社 = [[小田急バス]] 100%<br />[[小田急百貨店]] 100%<br />[[小田急不動産]] 100%<br />[[小田急箱根ホールディングス]] 100%<br />[[江ノ島電鉄]] 100%<br>[[白鳩_(インターネット通販)|白鳩]] 40.2%<ref name="yuho" /><br>その他企業は[[小田急グループ]]を参照
|関係する人物 = [[利光鶴松]]<br />[[五島慶太]]<br />[[安藤楢六]]
|外部リンク = {{URL|https://www.odakyu.jp/}}
|特記事項 = 当時の[[東急|東京急行電鉄]]から分離する形で、新設の当社が[[陸上交通事業調整法]]による合併前の旧小田急線を引き継いだ。なお、当社鉄道事業を創業した会社の設立(創立)は[[1923年]]([[大正]]12年)[[5月1日]](小田原急行鉄道株式会社)。
}}
'''小田急電鉄株式会社'''(おだきゅうでんてつ、{{Lang-en-short|Odakyu Electric Railway Co., Ltd.}}<ref name="en" />)は、[[日本]]の[[大手私鉄]]の一つで、[[東京都]]・[[神奈川県]]を中心に[[鉄道事業者|鉄道事業]]・[[不動産|不動産業]]などを営む会社である。略称は'''小田急'''(おだきゅう)で、[[小田急グループ]]の中核企業である<ref>[https://www.odakyu.jp/company/group/ 企業情報 > 小田急グループ] 小田急電鉄(2021年6月17日閲覧)</ref>。
== 概要 ==
[[1949年]][[5月]]に[[東京証券取引所]]一部上場。[[日経平均株価|日経225(日経平均株価)]]の構成銘柄の一社である。
[[1923年]]([[大正]]12年)[[5月1日]]に旧会社である小田原急行鉄道が設立され、[[1941年]]([[昭和]]16年)に親会社の鬼怒川水力電気がこれを合併して小田急電鉄となった。[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]](昭和17年)5月1日に[[東急|東京急行電鉄]](いわゆる[[大東急]])に統合されたが、戦後の[[1948年]](昭和23年)、東京急行電鉄の再編成により、東京急行電鉄(現在の[[東急電鉄]])、[[京浜急行電鉄]](京急)、京王帝都電鉄(現在の[[京王電鉄]])および新会社の小田急電鉄の4社に分離されて発足した。
[[新宿駅]] - [[小田原駅]]間を結ぶ[[小田急小田原線|小田原線]]など3路線・120.5 km([[営業キロ]])、計70[[鉄道駅|駅]]を運営している。グループ企業が運行する[[箱根登山鉄道鉄道線]]のほか、[[東京メトロ千代田線]]などにも乗り入れ<ref>[https://www.odakyu.jp/company/railroad/about/ 当社路線の概要] 小田急電鉄(2021年6月17日閲覧)</ref>、[[首都圏 (日本)|首都圏]]鉄道ネットワークの一角をなしている。鉄軌道部門収益は1211億500万円で[[大手私鉄]]16社中5位であり、全事業収益に占める鉄軌道部門収益の割合は70.4%となっている(2020年3月31日時点)<ref>{{PDFlink|[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/20databook_full.pdf 大手民鉄の素顔]}} - 日本民営鉄道協会2020年度版</ref>。グループ企業には、運輸、流通、不動産、ホテルなど94社ある(2020年8月1日現在)<ref name="about">[https://www.odakyu.jp/company/about/ 会社概要] - 小田急電鉄(2022年1月7日閲覧)</ref>。[[小田急ポイントカード|小田急ポイントサービス]]の加盟店舗である。
グループ力を生かして[[2019年]]([[令和]]元年)に[[Mobility as a Service]] (MaaS) 事業にも進出し、そのための[[モバイルアプリケーション]]「EMot」(エモット)を導入。2020年 - 2021年の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス感染症による鉄道乗客減少]]への対応も兼ねて、EMotを使ったグループ・沿線の飲食・食品店での[[サブスクリプション]](定額制)による収益拡大を図っている<ref>「小田急、沿線でサブスク拡充 カフェやパン店、対象50店超に」『[[日経MJ]]』2021年6月11日ライフスタイル面</ref>。
== 経営理念 ==
小田急グループの経営理念は'''『小田急グループは、お客さまの「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」の実現に貢献します。』'''である<ref>{{Cite news |title=グループ経営理念・長期ビジョン2020|newspaper=小田急電鉄 |date=2020-9-7 |url=https://www.odakyu.jp/company/philosophy/ |agency=小田急電鉄 |accessdate=2020-9-7}}</ref>。社会に対して事業を通じて果たすべき役割・責任や、企業市民として社会に存在する意義を表している。
== 社紋・ブランドマーク ==
社紋は1948年(昭和23年)に制定された。小田急の「小」を図案化したもので、中央の「工」は鉄道の象徴であるレール断面を、周囲の円は社内の輪を象徴している<ref name=symbol>{{Cite web|和書|date=2014-05|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/bKqkUDYuGNho.pdf|author=小田急電鉄|title=小田急グループのブランドマーク|work=『SUBWAY 日本地下鉄協会報』第201号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-10-05|pages=55-57}}</ref>。
ブランドマークは2008年([[平成]]20年)より使用を開始している。作成したのは[[ランドーアソシエイツ]]<ref>[https://landor.com/ja/work/odakyu 小田急グループ]([[ランドーアソシエイツ]] 実績紹介)2021年4月14日閲覧</ref>。ロゴマークはアルファベットの[[O]]を図案化したマーク([[ファイル:OdakyuGroup_logo2.svg|20px|O]])と、小文字の「odakyu」ロゴの組み合わせで、「豊かな沿線環境のもとに、自然・歴史・都市文化の新しい融合、豊かな生活の創造、より多くの上質と感動を提供していく小田急グループ」を表現している。ブランドマークはodakyuとだけ記される「グループブランドマーク」、odakyuの下にELECTRIC RAILWAYと記される「コーポレートブランドマーク」、odakyuの下にGROUPと記される「グループ表示マーク」の3種類がある<ref name=symbol/>。
ブランドマークは導入とともに特急車両・一般車両にも掲出されている<ref>{{Cite press release |和書 |title=「小田急グループ ブランドマーク」を制定 |publisher=小田急電鉄 |date=2008-02-08 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3353_1782322_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100215040557/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3353_1782322_.pdf |archivedate=2010-02-15}}</ref>。従前から一般車両に付けられている「OER」の略称プレートも存置されたが、[[小田急4000形電車 (2代)|4000形]]以降の車両やリニューアル車両では省略している。
かつては、[[小田急ロマンスカー]]のエンブレムとして[[小田急1700形電車|1700形]]から採用された「OER」の飾り文字と神奈川県の[[県花]]である[[ヤマユリ]]の花を合わせたイラストデカールが[[小田急3100形電車|3100形(NSE)]]・[[小田急7000形電車|7000形(LSE)]]・[[小田急10000形電車|10000形(HiSE)]]・[[小田急20000形電車|20000形(RSE)]]の車内の自動ドアに貼付されていた。また、LSE(リニューアル車のみ)・HiSE・RSEには車体側面にも貼付されていた。
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Odakyu Logo 1948.svg|社紋
Odakyu electric railway company logos.svg|グループブランドマーク
OdakyuGroup logo.svg|グループ表示マーク
小田急 ロゴマーク(大).jpg|車両側面に掲出されたブランドマーク
File:Odakyu 7000 series Emblem "Yamayuri" (Lilium auratum).jpg|かつて小田急ロマンスカーで使用されていたヤマユリのシンボルマーク([[小田急7000形電車|7000形(LSE)]](リニューアル車)、車体側面)
LSE Emblem.JPG|かつて小田急ロマンスカーで使用されていたヤマユリのシンボルマーク(7000形(LSE)、車内の自動ドア)
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== 歴史 ==
[[画像:Odakyu_Headquarters_Building.jpg|thumb|[[南新宿駅]]の近くに残る旧本社社屋(現・小田急南新宿ビル)。[[商業登記]]上の[[本店]]所在地である<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=1011001005060 小田急電鉄株式会社の情報]([[国税庁]][[法人番号]]公表サイト)</ref>)。]]
[[戦前]]の小田急は、[[星亨]]の側近[[利光鶴松]]が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社としていた。同社は[[明治]]43年(1910年)に[[資本金]]1350万円で設立された会社で、[[取締役]][[社長]]に利光鶴松、[[専務取締役]]に[[小林清一郎]]、[[常務取締役]]に[[大塚常次郎]]が就き、取締役には[[後藤勝造]]、[[吉田幸作]]、[[藤江章夫]]、[[岩下清周]]、[[大田黒重五郎]]、[[安藤保太郎]]、[[渡辺亨]]、[[監査役]]に[[平沼専蔵]]、[[白杉政愛]]、[[木村省吾]]、[[須田宣]]が名を連ねた<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=11750&query=&class=&d=all&page=3 明治43年(1910)7月15日] 小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12) 2021年6月17日閲覧</ref>。
利光は郊外鉄道の将来性に着目し、[[東京市]]内の地下鉄網「[[東京高速鉄道]]」、[[山手線]]を外周する「[[東京山手急行電鉄]]」、城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画した。結局、実現したのは小田急線と[[京王井の頭線|井の頭線]](渋谷急行計画の後身)だけであったが、東京高速鉄道は後に[[五島慶太]]らの手により実現した。
電力国家管理に伴う[[日本発送電]]への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併して電鉄会社となったが、中国・[[山東半島]]での鉱業に乗り出したのが裏目に出て同社の経営を圧迫した。そのため、利光は一切の事業を[[東京横浜電鉄]]の五島に移譲し、吸収合併されて[[東急|東京急行電鉄]](いわゆる[[大東急]])となった。このため企業乗っ取りの歴史である大東急形成の中で、小田急だけは事情が異なるのだが、大東急解体の旗頭となったのは旧小田急関係者であった。
新生小田急は[[1948年]]6月、東京急行電鉄(東急)から6635万1000円で事業を譲り受けて発足した。この時、井の頭線は東急から京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])に移管され分離したが、その代わりに戦前は無関係であった[[箱根登山鉄道]]と元来は東京横浜電鉄の関連会社であった[[神奈川中央交通]]を東急から譲受して系列会社とした。また、やはり戦前は無関係だった[[江ノ島電鉄]]の持株の一部も東急から譲受し、後に買い増しを行い系列下に収めている。
他方で[[1951年]]には、東急の五島の指示で[[相模鉄道]]の株を大量に買い増して、筆頭株主(持株比率 約30%)になるという事象も発生した。相模鉄道が株式の第三者割り当てによる敵対的買収の阻止を行ったため、買収に至ることはなかった。また相模鉄道は[[公正取引委員会]]に審査を申し立て<ref>『[https://www.sotetsu.co.jp/group/history/ 相鉄グループ100年史]』(相鉄ホールディングス 、2018年12月)42ページ</ref>、[[1951年]](昭和26年)[[9月12日]]に「小田急電鉄が相模鉄道の株を買い占める行為は、はなはだしく競争を制限する行為であるため、小田急が所有する相鉄の株式をただちに放出しなければならない。」という趣旨の裁定が下された。また10月には事態収拾のために国鉄総裁の[[長崎惣之助]]が仲裁に乗り出し、長崎と相模鉄道・小田急電鉄の3者間で、3カ条の覚書<ref group="注釈">合併を含む提携強化を図る、小田急が所有する株数は相鉄の発行済み株式の16%まで、小田急出身の役員を2人受け入れの3つが定められた。ただし合併を含む提携強化については、実施されなかった。</ref>が交わされ、手打ちとなった<ref>神奈川サンケイ新聞社 編『ヨコハマ再開発物語』([[日刊工業新聞社]]、1982年1月、ISBN 4-8191-0510-8)89-99ページ</ref>。これら経緯から、今でも小田急は相模鉄道の[[純粋持株会社]]である[[相鉄ホールディングス]]の大株主となっている。その後、徐々に株式の売却を進め、[[2021年]](令和3年)[[3月12日]]の株式の売却<ref>小田急電鉄「小田急電鉄株式会社 変更報告書 No.2」『EDINET』 金融庁、2021年3月19日</ref>により筆頭株主から外れ、2022年3月時点の持株比率は4.39%(約430万株)となっている。小田急自身も相模鉄道を関連企業とはみなしていないことから、一般に相模鉄道は小田急グループには含まれていない。
近年、犬猿の仲と称された[[西武鉄道]]と営業資産の協力関係、共通商品の開発に乗り出して功を奏している。[[箱根]]地区を巡る[[西武グループ|西武鉄道グループ]]との確執については「[[箱根山戦争]]」の項を参照。
各ダイヤ改正の詳細は「[[小田急電鉄のダイヤ改正]]」を、下記年表にある[[車両基地]]等の新設・廃止は「[[小田急電鉄の車両検修施設]]」をそれぞれ参照。
=== 年表 ===
* [[1910年]]([[明治]]43年)[[10月1日]] '''鬼怒川水力電気株式会社'''<ref>[{{NDLDC|780123/179}} 『日本全国諸会社役員録.明治44年』]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>創立。
* 1922年(大正11年)5月29日 東京高速鉄道に対して鉄道免許状下付([[東京市]][[四谷区]][[新宿]]三丁目-神奈川県[[足柄下郡]][[小田原町]]間)<ref>[{{NDLDC|2955065/10}} 「鉄道免許状下付」『官報』1922年6月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>([[東京メトロ銀座線]]の一部となった五島慶太による[[東京高速鉄道]]とは別)。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[5月1日]] <ref>[{{NDLDC|1190630/32}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>'''小田原急行鉄道株式会社'''<ref>[{{NDLDC|936463/140}} 『日本全国諸会社役員録. 第32回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 創立。資本金1350万円。取締役社長に[[利光鶴松]]が就任。本社事務所を東京[[丸の内]]の三菱仲3号館に開設。[[File:Odawara Express Logo.svg|thumb|right|150px|小田原急行鉄道の社紋]]
* 1926年(大正15年)10月4日 鉄道免許状下付(神奈川県[[高座郡]][[大野村 (神奈川県)|大野村]]-同郡[[藤沢市|藤沢町]]間)<ref>[{{NDLDC|2956387/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年10月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[1月15日]] 小田原急行土地株式会社を合併。資本金3000万円<ref name="OER-50">{{Cite web|和書|url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=11750 | title=小田急五十年史 | publisher=小田急電鉄 | year=1980 | accessdate=2019-07-26}}(渋沢社史データベース)</ref>。
** [[4月1日]] 一部単線で[[小田急小田原線|小田原線]]全線を開業<ref>[{{NDLDC|2956539/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年4月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。初乗旅客運賃は大人5[[銭#日本|銭]]、小児3銭。[[新宿駅]] - [[小田原駅]]間の運賃は1円36銭<ref name="OER-50" />。当時の駅数は38駅。同時に[[向ヶ丘遊園地]]を開園<ref name="OER-50" />。
** [[6月14日]] 稲田登戸駅(現・[[向ヶ丘遊園駅]]) - 向ヶ丘遊園地間で豆汽車を開業<ref name="OER-50" />。
** [[10月15日]] 小田原線の全線[[複線]]開通。[[急行列車|急行]]運転を開始する<ref name="OER-50" />。
** [[12月27日]] 本社社屋(現・小田急南新宿ビル)落成。本社事務所移転<ref name="OER-50" />。
** 12月27日 鉄道免許状下付(高座郡藤沢町[[大字]][[鵠沼]]-[[鎌倉郡]][[片瀬町|川口村字片瀬]]間)<ref>[{{NDLDC|2956767/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年1月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1929年]](昭和4年)
** 4月1日 [[小田急江ノ島線|江ノ島線]]全線開業。当時の駅数は13駅<ref>[{{NDLDC|2957144/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。新宿駅 - [[片瀬江ノ島駅]]間の運賃は95銭<ref name="OER-50" />。
** 11月 [[南林間]]都市の土地分譲事業開始。
* [[1930年]](昭和5年)[[11月14日]] 相模厚木駅(現・[[本厚木駅]]) - [[東北沢駅]]間にて[[砂利]]輸送開始<ref name="OER-50" />。
* [[1934年]](昭和9年)[[11月1日]] 砂利採取販売開始<ref name="OER-50" />。
* [[1935年]](昭和10年)[[6月1日]] 新宿駅 - 小田原駅間ノンストップの週末温泉[[特急列車|特急]]運行開始<ref name="OER-50" />。
* [[1936年]](昭和11年)[[9月21日]] - 南武鉄道(現・JR東日本[[南武線]])と砂利輸送列車の相互乗り入れを開始<ref name="OER-50" />。
* [[1938年]](昭和13年)
** 4月1日 [[通行税]]改定に伴う旅客運賃改定。51キロ以上移動をした場合に限り、通行税2銭が運賃に加算される<ref name="OER-50" />。
** 6月1日 [[バス (交通機関)|バス]]事業開始。士官学校前駅(現・[[相武台前駅]]) - 南林間都市駅(現・[[南林間駅]])間ほか3路線開設<ref name="OER-50" />。
* [[1940年]](昭和15年)
** 4月1日 通行税改定に伴う旅客運賃改定。41キロ以上81キロ未満移動をした場合は、通行税2銭が、81キロ以上移動した場合は、通行税15銭が運賃に加算される<ref name="OER-50" />。
** 5月1日 帝都電鉄を合併して帝都線(現・[[京王井の頭線]])を加える。資本金4280万円<ref name="OER-50" />。
* [[1941年]](昭和16年)
** [[3月1日]] 親会社に当たる鬼怒川水力電気株式会社への合併に伴い、小田原急行鉄道株式会社解散。鬼怒川水力電気株式会社は'''小田急電鉄株式会社'''と改称して新発足。資本金8780万円、取締役社長に利光鶴松が就任<ref name="OER-50" />。<!-- 小田急電鉄で正当 参照→http://www.odakyu-co.com/history75/contents/found/ -->
** 6月28日 利光鶴松取締役社長辞任。翌7月4日、利光学一が就任<ref name="OER-50" />。
** 9月20日 利光学一取締役社長辞任。[[五島慶太]]が就任<ref name="OER-50" />。
** 10月1日 電力設備一切を[[日本発送電|日本発送電株式会社]]へ譲渡し、発送電事業から撤退<ref name="OER-50" />。
* [[1942年]](昭和17年)
** 4月1日 通行税改定に伴う旅客運賃改定。41キロ以上81キロ未満移動をした場合は、通行税5銭が、81キロ以上移動した場合は、15銭が運賃に加算される<ref name="OER-50" />。
** 5月1日 [[陸上交通事業調整法]]の趣旨に則り、[[東京横浜電鉄]]に[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]と共に吸収合併され、'''東京急行電鉄株式会社'''([[大東急]])となり、小田急電鉄株式会社解散<ref name="OER-50" />。局制を敷き、新宿営業局の所管となる。帝都線を井の頭線と改称。
* [[1944年]](昭和19年)
** 4月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人10銭、小児5銭。同時に、通行税が改定され、21キロ以上キロ当たり5厘の通行税が運賃に加算される<ref name="OER-50" />。
** [[5月31日]] 陸上交通事業調整法により、京王電気軌道も東京急行電鉄に統合される<ref name="OER-50" />。
* [[1945年]](昭和20年)
** 3月14日 営業局を廃止して管理部制を実施。新宿管理部の所管となる、
** 4月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** 6月 井の頭線が渋谷管理部の所管になる。
* [[1946年]](昭和21年)
** 3月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人20銭、小児10銭に。
** 8月1日 管理部制を廃止して支社制を実施。新宿支社の所管となる。
* [[1947年]](昭和22年)
** 3月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人50銭、小児30銭に。
** 7月7日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人1円、小児50銭に。
* [[1948年]](昭和23年)
** 5月18日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人2円、小児1円に。
** 6月1日 東京急行電鉄から分離し、京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])、[[京浜急行電鉄]]と共に'''小田急電鉄株式会社'''として再発足。資本金1億円。その際、井の頭線は京王帝都電鉄の所属になる。同時に[[箱根登山鉄道]]と神奈川中央乗合自動車(現在の[[神奈川中央交通]])を関係会社に加える。
** [[7月18日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人3円、小児2円に。同時に、通行税が改定され、キロ当たり運賃の2割が加算される。
** [[10月16日]] 復興整備車により、[[戦後]]初めて新宿駅 - 小田原駅間のノンストップ特急運転開始。
** [[10月]] 新宿駅西口に案内所(現在のロマンスカー営業センター)開設。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[2月16日]] 運転整理指令所を[[経堂]]に開設。
** [[5月]] [[東京証券取引所]]に上場。
** [[5月5日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人5円、小児3円に。
** [[9月17日]] 特急列車の毎日運行開始。それに伴い初の特急専用車として[[小田急1900形電車|1910形]]が就役。
* [[1950年]](昭和25年)
** 4月1日 通行税廃止に伴う、旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** 5月12日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** [[8月1日]] [[箱根登山鉄道鉄道線]][[箱根湯本駅]]乗り入れ開始。
* [[1951年]](昭和26年)
** [[2月1日]] 本格的[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]として[[小田急1700形電車|1700形]]が就役。
** [[2月2日]] バス事業廃止許可([[南林間駅]] - [[相武台前駅]]、相武台前駅 - 座間・新戸 - 相武台前駅循環)<ref>「小田急電鉄株式会社申請による一般乗合旅客自動車運送事業の廃止(一部)許可について」1927年2月2日(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>
** [[6月19日]] バス事業廃止許可([[小田急相模原駅]] - [[国立病院機構相模原病院|国立病院]]間)<ref>「小田急電鉄株式会社申請による一般乗合旅客自動車運送事業の廃止許可について」1927年6月19日(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>
** [[8月20日]] 特急列車の全席指定制が導入される。
** 11月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人10円、小児5円に。
** 12月1日 砂利事業を小田急砂利株式会社(後の小田急建材株式会社、1987年3月1日解散)へ譲渡。
* [[1952年]](昭和27年)4月1日 向ヶ丘遊園が有料となる。
* [[1953年]](昭和28年)
** 1月15日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** 4月1日 江ノ島鎌倉観光(現在の[[江ノ島電鉄]])を関係会社に加える。
* [[1954年]](昭和29年)[[9月10日]] [[立川バス]]を関係会社に加える。
* [[1955年]](昭和30年)
** [[3月28日]] [[国際観光]]を関係会社に加える。
** 10月1日 [[松田駅]] - [[新松田駅]]間連絡線開通により、[[日本国有鉄道|国鉄]][[御殿場線]]直通[[準急列車]] [[ふじさん|「銀嶺(ぎんれい)」「芙蓉(ふよう)」]]の運行を開始。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[2月12日]] [[大山観光電鉄]]を関係会社に加える。
** [[4月12日]] 経堂鉄道教習所が、運輸大臣指定[[動力車操縦者]]養成所として認可される。
** [[6月22日]] [[小田急3000形電車 (初代)|ロマンスカー3000形「SE」車]]就役。
* [[1958年]](昭和33年)
** [[5月23日]] 向ヶ丘遊園に「ばら苑」を開設。
** [[6月20日]] ロマンスカー3000形「SE」車が第1回鉄道友の会[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[1月29日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** [[5月20日]] 初の無人[[変電所]]となる足柄変電所を開設。
* [[1960年]](昭和35年)[[9月7日]] [[箱根ロープウェイ]] [[大涌谷駅]] - [[桃源台駅]]間開通に伴い、箱根ゴールデンコースが完成。[[File:箱根ゴールデンコース.jpg|thumb|箱根ゴールデンコース(1960年開業)]]
* [[1961年]](昭和36年)
** 4月1日 極超短波無線中継線全線完成。
** [[7月21日]] [[鵠沼プールガーデン]]開業。
* [[1962年]](昭和37年)
** [[10月19日]] 大野工場開設。経堂・相武台の両工場を閉鎖。
** 11月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
* [[1963年]](昭和38年)[[3月16日]] [[小田急3100形電車|ロマンスカー3100形「NSE」]]就役。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[2月17日]] 新宿駅改良工事完成。小田急初の地上・地下の2層式の駅となる。
** [[11月5日]] 急行列車の8両編成運転を開始する。
** [[11月7日]] 社内電話の全線自動化完成。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[1月20日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人20円、小児10円に。
** 4月1日 全ての特急列車の[[列車無線]]使用開始。
** [[4月23日]] [[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|向ヶ丘遊園モノレール線]]開業。
** 7月31日 [[喜多見駅|喜多見]] - [[多摩センター駅|多摩]] - 津久井郡[[城山町 (神奈川県)|城山町]](現・相模原市[[緑区 (相模原市)|緑区]]) 地方鉄道敷設免許([[未成線|構想路線]])<ref name="OER-50" /><ref group="注釈">多摩線開通までの計画変遷については[[小田急多摩線#歴史|多摩線]]の記事を参照。翌1967年6月に喜多見 - 多摩間の免許廃止ならびに[[百合ヶ丘駅|百合ヶ丘]](後に[[新百合ヶ丘駅|新百合ヶ丘]]に変更) - 多摩間の敷設免許を申請し、同年12月に認可されたことで喜多見からの新線計画は放棄された。</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)
** 3月5日 「箱根フリーパス」発売開始<ref name="OER-50" />。
** 11月6日 新宿駅 - 向ヶ丘遊園駅間などの[[各駅停車]]および準急列車の大型(20m車両)6両[[編成 (鉄道)|編成]]運転開始<ref name="OER-50" />。
** 11月21日 新宿西口駅ビル完成<ref name="OER-50" />。
** 12月14日 喜多見 - 多摩間の免許廃止、百合ヶ丘 - 多摩間の鉄道敷設認可<ref name="OER-50" /><ref group="注釈">多摩 - 城山間の免許は存置されたが、後に失効した。</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** 3月1日 大野給電所新設に伴い、全変電所の集中制御を開始。
** [[7月1日]] 国鉄御殿場線の[[鉄道の電化|電化]]に伴い、[[気動車]]の運行を廃止し、ロマンスカー3000形「SE」短縮改造車による乗り入れ開始。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[6月]] 新宿 - [[桃源台駅|桃源台]]および新宿 - [[元箱根]]間で自動車業営業を開始。
** [[7月16日]] [[自動列車停止装置|ATS]]施設工事完成に伴い、全線で使用開始。
* [[1970年]](昭和45年)
** 4月1日 [[小田急花鳥山脈]]が開業。
** [[8月]] 向ヶ丘遊園駅 - [[生田駅 (神奈川県)|生田駅]]間に初の[[ロングレール]](800m軌条)施設。
** [[10月5日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人30円、小児15円に。[[自動改札機]]を[[玉川学園前駅]]に試験導入。
* [[1971年]](昭和46年)4月16日 [[東海自動車]]を傘下に収める。
* [[1972年]](昭和47年)[[12月18日]] 海老名電車基地開設。
* [[1973年]](昭和48年)
** 5月 全線の[[踏切]]に保安設備を設置。小田急における第4種踏切の消滅。
** 9月8日 運輸指令所を相模大野に移設。
* [[1974年]](昭和49年)
** 4月16日 全列車の列車無線使用開始。
** 6月1日 [[小田急多摩線|多摩線]] [[新百合ヶ丘駅]] - [[永山駅 (東京都)#小田急電鉄(小田急永山駅)|小田急永山駅]]間開業。5駅開設。初乗旅客運賃は多摩線内に限り、大人40円、小児20円に。
** 7月20日 旅客運賃改定。小田原線・江ノ島線は初乗旅客運賃が大人40円、小児20円に。多摩線は変わらず。
** 11月15日 [[小田急御殿場ファミリーランド]]開業。
* [[1975年]](昭和50年)[[File:Odakyu Electric Railway Head Office.jpg|thumb|180px|新宿駅の近くにある小田急明治生命ビル(現・小田急明治安田生命ビル)]]
** 4月23日 多摩線が[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]まで延伸。
** [[8月18日]] 本社事務所を新宿駅西口の小田急明治生命ビル(現・小田急明治安田生命ビル)に移転。
** 12月13日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は大人60円、小児30円に。
* [[1976年]](昭和51年)[[10月28日]] 小田急箱根アスレチックガーデン開業。
* [[1977年]](昭和52年)7月1日 新宿駅 - 本厚木駅間の急行10両運転開始。
* [[1978年]](昭和53年)[[3月31日]] [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]との[[直通運転|相互直通運転]]開始。同時に準急10両運転開始。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[1月8日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は小田原線・江ノ島線が大人70円、小児40円、多摩線が大人80円、小児40円に。
** [[2月27日]] [[高速バス]]と特急券の座席予約・販売にオンラインシステムを導入。
** 4月1日 「江ノ島・鎌倉フリーパス」発売開始(江ノ島線開業50周年を記念したもの)。
* [[1980年]](昭和55年)12月27日 [[小田急7000形電車|ロマンスカー7000形「LSE」]]就役。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[5月6日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は小田原線・江ノ島線が大人80円、小児40円、多摩線が大人100円、小児50円に。
** [[9月18日]] ロマンスカー7000形「LSE」が鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。
* [[1982年]](昭和57年)
** 4月1日 新宿駅改良工事が完成し、全面使用開始。
** [[7月12日]] [[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山線]]に大型(20m車)6両編成乗り入れ開始。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[1月25日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は小田原線・江ノ島線が大人90円、小児50円、多摩線が大人110円、小児60円に。
** [[3月21日]] 全線の荷貨物営業を廃止。
** 11月6日 「南伊豆フリーパス」発売開始。
* [[1985年]](昭和60年)[[7月20日]] 「丹沢・大山フリーパス」発売開始。
* [[1986年]](昭和61年)[[10月4日]] ロマンスカーに[[列車電話|車内電話]]を設置。
* [[1987年]](昭和62年)
** 7月1日 全てのロマンスカーに[[禁煙]]車を設置。
** 10月1日 全駅で、朝7時 - 9時30分・夕方17時 - 19時30分の間を「禁煙タイム」とし、一部時間の駅構内禁煙化が行われる。
** [[12月23日]] [[小田急10000形電車|ロマンスカー10000形「HiSE」]]就役。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月22日]] [[オールステンレス車両|ステンレスカー]]・[[VVVFインバータ制御|VVVF制御]]車[[小田急1000形電車|1000形]]就役。各駅停車の8両運転開始。
** [[5月18日]] 特定都市鉄道整備積立金制度の適用により、旅客運賃改定。初乗旅客運賃、小田原線・江ノ島線は、大人100円、小児50円。多摩線は、大人120円、小児60円に。
** 10月1日 プリペイドカード「[[ロマンスカード]]」発売開始。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 4月1日 [[消費税]]の導入により、旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** 7月20日 小田原線[[喜多見駅]] - [[和泉多摩川駅]]間[[複々線]]化工事着工。
* [[1990年]](平成2年)
** [[3月27日]] 多摩線が[[唐木田駅]]まで延伸。
** [[4月20日]] 『小田急時刻表』創刊。
* [[1991年]](平成3年)
** [[1月16日]] [[自動改札機|自動改札]]システムを暫定的に新宿駅西口地下、[[百合ヶ丘駅]]、[[愛甲石田駅]]に設置。
** 3月16日 「土休日ダイヤ」導入。[[小田急20000形電車|ロマンスカー20000形「RSE」]]就役。同時に[[東海旅客鉄道]](JR東海)御殿場線と相互直通運転を開始<ref>[https://trafficnews.jp/post/38600 【今日は何の日?】小田急RSE、JR東海371系、デビュー] 乗りものニュース(2015年3月16日)2021年6月17日閲覧</ref>。
** [[11月20日]] 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は小田原線・江ノ島線が大人110円、小児60円、多摩線が大人120円、小児60円に。
* [[1992年]](平成4年)
** 3月28日 全通勤型車両に[[優先席|シルバーシート]]設置<ref>{{Cite news |title=東急、終電繰り下げ 小田急も実施 全通勤車にシルバー席 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-11 |page=1 }}</ref>。
** [[5月21日]] 「西伊豆フリーパス」と「中伊豆フリーパス」発売開始。
* [[1993年]](平成5年)5月1日 全駅で終日禁煙を実施(ただし、喫煙コーナーは設置)<ref>{{Cite news |title=小田急全駅終日禁煙に |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1993-04-06 |page=4 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** 3月27日 喜多見電車基地使用開始。経堂電車基地は閉鎖。
** [[12月20日]] 小田原線[[世田谷代田駅]] - 喜多見駅間の複々線化工事着工。
* [[1995年]](平成7年)9月1日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は小田原線・江ノ島線が大人130円、小児70円、多摩線が大人140円、小児70円に。窓口端末更新開始。
* [[1996年]](平成8年)
** [[3月23日]] [[小田急30000形電車|ロマンスカー30000形「EXE」]]就役。
** [[7月15日]] 小田急ボイスセンター開設(2004年12月に「小田急お客様センター」へ改称)。
** 10月1日 公式[[ウェブサイト|サイト]]「online Odakyu」開設。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月1日 全駅に自動改札機設置完了<ref>[https://web.archive.org/web/19980614142103/http://www.odakyu-group.co.jp/topics/jikai.htm 小田原線・江ノ島線・多摩線の全駅(69駅)への自動改札機設置が平成9年3月1日(土)に完了しました](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref>。
** 4月1日 消費税率引き上げに伴い、旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず。
** [[6月23日]] 小田原線喜多見駅 - 和泉多摩川駅間複々線化完成、使用開始。
** 9月1日 小田原線開業70周年記念列車「ゆめ70」運行開始<ref>[https://web.archive.org/web/19980614135333/http://www.odakyu-group.co.jp/topics/97yume70.htm 小田急開業70周年記念。イベント特急「ゆめ70」が平成9年9月1日(月)から運転開始。特急ロマンスカー3100形(NSE車)1編成の内・外装をリニューアル](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)</ref>。
** [[11月24日]] 小田急箱根アスレチックガーデン閉鎖。
** 12月28日 旅客運賃改定。初乗旅客運賃は変わらず<ref>[https://web.archive.org/web/19980210000609/http://www.odakyu-group.co.jp:80/topics/97kaitei.htm 鉄道旅客運賃の改定について](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref>。
* [[1998年]](平成10年)
** 3月8日 小田急花鳥山脈が閉鎖<ref>[https://web.archive.org/web/19980210000644/http://www.odakyu-group.co.jp/topics/97ksfinalevent.htm 花鳥山脈「謝恩イベント」のご案内。平成10年3月8日(日)をもって営業を終了いたします。長い間ご愛顧ありがとうございました。](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref>。
** 3月21日 全線の踏切が第1種甲踏切となる。
** [[8月22日]] 全線急行10両運転開始<ref>{{Cite news |title=全線で急行10両化 小田急電鉄 設備改良工事終了で 22日から |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-10 |page=3 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** 4月1日 フェアースルーシステム(不正乗車防止システム)導入。
** [[7月17日]] 特急列車の乗車改札を廃止。
** [[9月5日]] 「小田急御殿場ファミリーランド」閉鎖。
* [[2000年]](平成12年)
** [[2月13日]] 向ヶ丘遊園モノレール線運行休止(2001年2月1日に廃止)。
** 8月頃 全駅・全[[小田急トラベル]]で窓口端末更新終了。および、特急券の全磁気化完了(一部除く)。
** [[9月3日]] 鵠沼プールガーデン閉鎖<ref name="odakyu2003-1">[https://web.archive.org/web/20031006100500/http://www.d-cue.com/program/info/PG02348.pl?key=38&info_kubun=co&mode=online 「くげぬまプールガーデン」営業終了のお知らせ](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>。
** [[10月14日]] 共通乗車カードシステム「[[パスネット]]」導入。
** 小田原線開業70周年記念列車「ゆめ70」運行終了<ref>[https://web.archive.org/web/20031006081424/http://www.d-cue.com/program/info/PG02348.pl?key=27&info_kubun=co&mode=online 小田急の開業70周年記念車両ロマンスカー「ゆめ70」が 4月26日(水)に現役引退](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** 4月1日 バス事業を[[小田急箱根高速バス]]に分社化。
** 7月15日 特急チケットレス乗車サービス「ロマンスカー@クラブ」導入<ref>[https://web.archive.org/web/20041211051326/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=208&info_kubun=co&mode=online インターネット対応の携帯電話を特急券がわりに乗車できる特急チケットレス乗車サービスを7月15日(日)から開始](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。
** [[9月28日]] [[大原さやか]]による[[駅自動放送]]を[[登戸駅]]を皮切りに 、新宿・小田原・唐木田・[[藤沢駅|藤沢]]・片瀬江ノ島の各駅を除く下り線全駅に導入するものの、2004年に順次終了<ref>[https://web.archive.org/web/20160828125244/http://www.sayaka-ohara.jp/list06.html 出演作品:小田急電鉄(下り線アナウンス)]大原さやか公式サイト「大原省」の[[インターネットアーカイブ]](2021年6月17日閲覧)</ref>。
** [[10月27日]] 公式サイトからの特急券予約サービス開始<ref>[https://web.archive.org/web/20040502052319/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=292&info_kubun=co&mode=online ホームページからの特急券予約サービスを平成13年10月27日(土)より開始](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。
* [[2002年]](平成14年)
** 1月15日 一般認定鉄道事業者に認定される。
** 3月23日 [[湘南急行]]・[[多摩急行]]新設。
** 10月15日 日本鉄道賞表彰選考委員会により、「第1回[[鉄道の日#日本鉄道賞|日本鉄道賞]] 情報化への貢献部門 日本鉄道賞表彰選考委員会特別賞」を受賞。
* [[2003年]](平成15年)
** 3月30日 小田原駅改良工事([[橋上駅舎]]化)が完成し、使用開始。および、特急列車の座席番号方式変更。この日から窓口端末を全駅・全小田急トラベルで更新。
** 5月1日 全駅の全面禁煙化実施<ref>[https://web.archive.org/web/20040502030519/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=669&info_kubun=co&mode=online 平成15年5月1日(木)より、小田急線全駅を全面禁煙化します](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。
** 8月1日 箱根登山鉄道を完全子会社化。
* [[2004年]](平成16年)
** 10月1日 箱根地区の事業各社を統括する持株会社[[小田急箱根ホールディングス]]発足。
** [[12月11日]] 湘南急行を廃止し、[[快速急行]]・[[準急列車|区間準急]]新設。同日、「小田急東京メトロパス」発売開始。
* [[2005年]](平成17年)
** [[3月19日]] [[小田急50000形電車|ロマンスカー50000形「VSE」]]就役。サルーン席の営業を開始。
** [[3月20日]] 旅客運賃改定<ref name="OdakyuUnchin">[https://web.archive.org/web/20051213224042/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=953&info_kubun=d-cue&mode=online&ft=html 鉄道旅客運賃の変更について](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)。</ref>。初乗旅客運賃は大人120円、小児60円に<ref name="OdakyuUnchin"/>。従来あった多摩線加算運賃制度は廃止<ref name="OdakyuUnchin"/>。なお、定期運賃は同年4月1日に改正<ref name="OdakyuUnchin"/>。
** 6月 創業一族の[[利光國夫]]が有価証券偽造報告の責任を取り会長兼グループ[[最高経営責任者]] (CEO) を辞任。
** [[8月12日]] ロマンスカー10000形「HiSE」2編成を[[長野電鉄]]へ譲渡(長野電鉄では特急「ゆけむり」として2006年12月より運転開始)。
** [[9月30日]] [[ケーブルテレビ]]事業の子会社[[ジェイコムせたまち|小田急情報サービス]](現・J:COMせたまち)の全株式を[[ジュピターテレコム]]に譲渡。
** 10月 小田急カード株式会社を吸収合併。
* [[2006年]](平成18年)
** 1月 ロマンスカー50000形「VSE」が[[グッドデザイン賞]]を受賞。
** [[2月23日]] 主要13駅に[[自動体外式除細動器]] (AED) を設置(その他の駅にも2012年4月までに全駅に順次設置)<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061011183654/http://www.d-cue.com/program/info/data.info/1434_1220673_.pdf 2月23日(木)小田急線主要13駅にAED(自動体外式除細動器)を設置します ]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
** [[6月16日]] ロマンスカー50000形「VSE」が鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。
** 7月 [[海老名駅]]自由通路整備事業の工事開始。
** 10月1日 全係員の[[制服]]を一新。[[駅員]]・[[乗務員]]は15年振り、技術係員は20年振りの変更となった。
* [[2007年]](平成19年)[[ファイル:OER-3474-80th.jpg|thumb|180px|開業80周年[[デカール|ステッカー]]を運転台後に貼付した3000形]]
** [[3月18日]] ICカード乗車券[[PASMO]]を導入。同時に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)などが発行するICカード乗車券[[Suica]]と相互利用を開始。ロマンスカー全面禁煙化化<ref name="OdakyuNoSmoking">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070320141323/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/2213_4250235_.pdf 2007年3月18日(日)から特急ロマンスカーを終日全面禁煙化します]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。
** [[9月22日]] 東京メトロ千代田線への相互直通運転用通勤車両[[小田急4000形電車 (2代)|4000形(2代)]]就役。
** 10月14日 [[インターネット]]上に[[小田急バーチャル鉄道博物館]]開館。
** 10月15日 5分以上の遅延が発生した時に、公式サイトから[[遅延証明書]]をダウンロードができるサービスを開始。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月15日]] 小田急グループの[[#社紋・ブランドマーク|ブランドマーク]]の使用開始。[[小田急60000形電車|ロマンスカー60000形「MSE」]]が就役し、東京メトロ千代田線・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]への乗り入れ開始。一部を除き新宿 - 小田原間の急行を10両編成化。ロマンスカーを除き、箱根登山線内を運行する車両を全て4両編成化。
** [[10月22日]] 全てのロマンスカーに自動体外式除細動器 (AED) の設置完了。
* [[2009年]](平成21年)4月1日 西武鉄道などと共に関東大手私鉄では初めて[[スルッとKANSAI]]協議会と提携。同日より同協議会と連携して資材の共同購入が実施される。
* [[2012年]](平成24年)3月16日 5000形(初代)・10000形「HiSE」・20000形「RSE」が運用終了。スーパーシート・グリーン席の営業を終了。
* [[2013年]](平成25年)3月23日 東京都市計画都市高速鉄道事業第九号線に基づき、小田原線の東北沢 - 世田谷代田間を含む区間を地下化<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/01/20n1v200.htm 小田急小田原線(下北沢駅付近)の踏切を3月に除却!] - 東京都 (平成25年1月31日)</ref>。同日、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始により[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2014年]](平成26年)
** 1月 小田急グループの箱根登山鉄道・箱根ロープウェイ・[[箱根観光船|箱根海賊船]]とともに、全駅に[[駅ナンバリング]]を順次導入<ref name="odakyu20131224">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。
** 4月1日 消費税率引き上げに伴い、旅客運賃改定<ref name="odakyu20140304">{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8076_3371004_.pdf 鉄道旅客運賃の変更について]}}</ref>。初乗旅客運賃は切符購入の場合は大人130円、小児70円、ICカード利用の場合は1円単位となり大人124円、小児62円に。
* [[2015年]](平成27年)
** [[9月11日]] 新型[[自動列車停止装置]] ([[自動列車停止装置#D-ATS-P(デジタルATS-P)形|D-ATS-P]]) の全線設置が完了<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8317_2581772_.pdf 新型自動列車停止装置(D-ATS-P)の全線設置が完了]}} - 小田急電鉄、2015年9月11日</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日 東京メトロ千代田線経由で小田急の車両(4000形)がJR東日本[[常磐緩行線]]に、JR東日本の車両([[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]])が小田急小田原線に、それぞれ乗り入れ開始。区間準急を廃止。
** [[9月27日]] [[タイ王国|タイ]]の首都[[バンコク]]に駐在員事務所を開設<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8475_8353503_.pdf タイ・バンコクにおける駐在員事務所の開設について]}} - 小田急電鉄、2016年9月1日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** 3月1日 ロマンスカー30000形をリニューアルした「EXEα」の運転開始<ref>[http://railf.jp/news/2017/03/02/170000.html 小田急ロマンスカー「EXEα」が営業運転を開始] - [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp 鉄道ニュース、2017年03月02日掲載</ref>。
** 6月7日 公式[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリ]]「小田急アプリ」([[Android (オペレーティングシステム)|Android]], [[iPhone]]) 配信開始<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8606_5258528_.pdf 公式スマートフォンアプリ「小田急アプリ」を配信]}} - 小田急電鉄、2017年6月2日</ref>。
** 9月10日 小田原線[[参宮橋駅]] - [[代々木八幡駅]]間沿線のボクシングジムで火災があり、緊急停車した本厚木発新宿行き各駅停車(3000形8両編成)の新宿側から2両目(7号車)の屋根にその火が燃え移る。乗客約300人は線路に降りて避難し、けが人なし<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG11H99_R10C17A9CN0000/ 「電車の屋根燃え乗客避難 小田急沿線火災」]『[[日本経済新聞]]』2017年9月11日(2021年6月17日閲覧)</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** 2月1日 [[フランス]]・[[パリ]]に駐在員事務所を開設<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8698_7554265_.pdf フランス・パリにおける駐在員事務所の開設について]}} - 小田急電鉄、2017年10月30日</ref>。
** [[2月18日]] [[鉄道事業者|鉄道業界]]として初となる「プラチナ[[くるみん]]認定」を取得<ref>{{PDFlink|[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000017sqh-att/o5oaa10000017sqo.pdf 鉄道業界初!厚生労働大臣より 「プラチナくるみん認定」を受けました]}} - 小田急電鉄、2018年3月23日</ref>。
** [[3月3日]] 小田原線[[代々木上原駅]] - [[梅ヶ丘駅]]間が複々線化<ref>{{PDFlink|[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000005sd3-att/8732_1784221_.pdf 2018年3月3日初電から、代々木上原駅~梅ヶ丘駅間において複々線での運転を開始します]}} - 小田急電鉄、2017年12月15日</ref>。同時に登戸駅の4線化も完了し、代々木上原 - 登戸間の複々線が完成。
** [[3月17日]] [[小田急70000形電車|ロマンスカー70000形「GSE」]]就役<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8724_3273227_.pdf 特急ロマンスカー・GSE(70000形)誕生]}} - 小田急電鉄、2017年12月5日</ref>。JR御殿場線に乗り入れる特急ロマンスカーの愛称名を「あさぎり」から「ふじさん」に変更<ref name="odakyu20171215" />。通勤急行・通勤準急を新設し、多摩急行を廃止。運転士・車掌・駅係員の制服を12年ぶりに刷新し、[[小篠ゆま]]デザインによる特急ロマンスカー乗務員専用の制服を使用開始<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8702_6612484_.pdf 運転士・車掌・駅係員の制服を一新します!]}} - 小田急電鉄、2017年11月1日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8725_0568117_.pdf 2018年3月のダイヤ改正にあわせて特急ロマンスカー専用の新制服を使用開始]}} - 小田急電鉄、2017年12月5日</ref><ref group="注釈">特急ロマンスカーでは50000形「VSE」に限り担当乗務員専用の制服を着用していたが、以降は車種にかかわらずロマンスカー乗務員専用の制服を着用するようになる。</ref>。
**[[7月10日]] ロマンスカー7000形「LSE」が定期運用終了<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/07/1_3012.html 【小田急】7000形"LSE"車 定期運行終了] - 鉄道ホビダス RMニュース、2018年7月12日</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** 7月1日 [[国際連合]]の[[持続可能な開発目標]] (SDGs) 推進のため、神奈川県と連携協定を締結<ref>[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001l5kj-att/o5oaa1000001l5kq.pdf 神奈川県と小田急電鉄 SDGs推進に係る連携と協力に関する協定を締結] 小田急電鉄プレスリリース(2019年7月1日)2019年7月21日閲覧。</ref>。
** 10月1日 [[江ノ島電鉄|江ノ島電鉄株式会社]]を完全子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001j6de-att/o5oaa1000001j6dl.pdf|title=簡易株式交換による江ノ島電鉄株式会社の完全子会社化に関するお知らせ|format=PDF|date=2019-04-26|accessdate=2019年4月27日|publisher=小田急電鉄}}</ref>。消費税率引き上げに伴い、旅客運賃改定<ref name="odakyu20190905" />。初乗旅客運賃は切符購入の場合は変わらず、ICカード利用の場合は大人126円、小児63円に。
** 10月7日 [[スマートフォン]]用[[Mobility as a Service|MaaS]]アプリ「EMoT」(エモット)とそれを使った実証実験の計画を発表<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50702410X01C19A0TJ1000/ 「小田急、タクシーなど含め経路検索 MaaSアプリ実験 新宿や箱根で/他社利用も見据える」] 日本経済新聞ニュースサイト(2019年10月7日)2019年10月20日閲覧</ref>。
** 11月8日 [[QRコード]]による運行情報サイトへの誘導を開始<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51898740X01C19A1L83000/ 「小田急の運行情報サイト QRコードで誘導 車両・駅に掲示」]『日本経済新聞』朝刊2019年11月8日(首都圏経済面)2019年12月25日閲覧</ref>。
** 12月10日 地域密着型サービスプラットフォーム「[https://one-odakyu.com/ ONE(オーネ)]」リリース<ref>{{Cite press release|和書|title=「ONE(オーネ)」 を12月10日(火) 運用開始|publisher=小田急電鉄|date=2019-12-09|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001ntsw-att/o5oaa1000001ntt3.pdf|format=PDF|accessdate=2021-06-15}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** 3月26日 通勤車両5000形(2代)就役<ref name="odakyu20190426">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001j5x8-att/o5oaa1000001j5xf.pdf|title=「より広く、より快適」な通勤環境を追求した先進車両 新型通勤車両「5000形」を導入 12年ぶりの新型通勤車両が2019年度デビュー|format=PDF|date=2019-04-26|accessdate=2019年4月27日|publisher=小田急電鉄}}</ref><ref>[https://railf.jp/news/2020/02/07/064500.html 「小田急5000形, 3月26日から営業運転を開始」] 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース(2020年2月7日掲載)2021年6月17日閲覧</ref>。
** 3月31日 普通[[回数乗車券]]の販売を終了。翌4月1日より企画回数券「[[小田急チケット10]]」の発売を開始<ref name="odakyu20191223">{{Cite press release|和書|format=PDF|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001nzon-att/o5oaa1000001nzou.pdf|title=回数乗車券に代わる、新たな企画回数券が誕生!「小田急チケット10」3種を2020年4月1日(水)から発売します|publisher=小田急電鉄|date=2019-12-23|accessdate=2022-07-19}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** 3月13日 ダイヤ改正を実施し、このダイヤ改正から冊子の「ポケット時刻表」の配布を廃止<ref>[https://nordot.app/778159339905597440 ポケット時刻表が相次ぎ廃止、なぜ?] 47NEWS、2021年6月21日閲覧。</ref>。
** [[4月19日]] 同社初の屋内常設展示施設「[[ロマンスカーミュージアム]]」が開業<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP4M6R9ZP4MULOB00B.html 「ロマンスカーミュージアム、出発進行 実物11両を展示」][[朝日新聞デジタル]](2021年4月19日)2021年6月17日閲覧</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001w6wx-att/o5oaa1000001w6x4.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210308060204/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001w6wx-att/o5oaa1000001w6x4.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ロマンスカーミュージアム開業日が4月19日に決定! カフェ「ROMANCECAR MUSEUM CLUBHOUSE」も同時オープン!|publisher=小田急電鉄|date=2021-03-08|accessdate=2021-03-08|archivedate=2021-03-08}}</ref>。
** 8月6日:[[小田急線刺傷事件]]が発生。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月11日:ロマンスカー50000形「VSE」の定期運行をこの日で終了<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年3月11日(金)、特急ロマンスカー・VSEの定期運行を終了|publisher=小田急電鉄|date=2021-12-17|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214su-att/o5oaa100000214t1.pdf|format=PDF|accessdate=2022-01-16}}</ref>。
** 3月12日:小児運賃を一部改定し、ICカード利用時に限り全区間一律50円とする。小児通学定期乗車券も全区間一律金額に値下げ<ref name="odakyu20220111" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/support/o5oaa10000021e5p-att/information_1.11_1-4.pdf |format=PDF |title=「小児旅客運賃の一部改定」および「よくある質問」について |publisher=小田急電鉄 |date=2022-01-11 |accessdate=2022-01-16}}</ref>。
** 4月1日:「小田急おでかけポイント」導入<ref name="odakyu20220308">{{Cite press release|和書|title=4月1日、「小田急おでかけポイント」をサービスイン|publisher=小田急電鉄|date=2022-03-08|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000022i0l-att/o5oaa10000022i0s.pdf|format=PDF|access-date=2022-05-27}}</ref>。
** 7月31日:「小田急チケット10」の販売を終了<ref name="odakyu20220701">{{Cite press release|和書|format=PDF|url=https://www.odakyu.jp/support/d9gsqg0000000jlp-att/chike10.pdf|title=「小田急チケット10」の発売終了について|publisher=小田急電鉄|date=2022-07-01|accessdate=2022-07-19}}</ref><ref name="odakyu20220308" />。
* [[2023年]](令和5年)[[File:ViNA GARDENS OFFICE.jpg|thumb|180px|[[海老名駅]]の近くにあるViNA GARDENS OFFICE]]
** 2月20日:社屋の老朽化などのため本社を移転し、海老名と新宿の2拠点体制化<ref>{{Cite news|title=小田急海老名本社 2月20、27日稼働 新宿と2拠点化|newspaper=カナロコ|date=2023-01-20|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/article-963668.html|accessdate=2023-02-23|publisher=神奈川新聞社}}</ref>。神奈川県海老名市めぐみ町2番2号(ViNA GARDENS OFFICE)に設置した海老名本社に交通サービス事業部を移転<ref name="odakyu20220428">{{Cite press release|和書|title=本社移転および固定資産の譲渡に関するお知らせ|publisher=小田急電鉄|date=2022-04-28|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000023a7x-att/o5oaa10000023a84.pdf|format=PDF|language=日本語|access-date=2022-04-28}}</ref><ref name="odakyu20230120">{{Cite press release|和書|title=海老名本社移転日のお知らせ|publisher=小田急電鉄|date=2023-01-20|url=https://www.odakyu.jp/news/dq40940000000vsx-att/dq40940000000vt4.pdf|format=PDF|access-date=2023-02-23}}</ref>、27日には経営企画本部やまちづくり事業本部が海老名本社に移転(一部部署は新宿本社に機能分割)<ref name="odakyu20230120" />。
** 8月21日:新宿本社の一部部署を東京都新宿区西新宿2丁目7番1号([[小田急第一生命ビルディング]])に移転、28日には新宿本社の全部署を小田急第一生命ビルディングに移転<ref name="odakyu20220720">{{Cite press release|和書|title=新宿本社移転日のお知らせ|publisher=小田急電鉄|date=2023-07-20|url=https://www.odakyu.jp/news/dq40940000002uuz-att/dq40940000002uv6.pdf|format=PDF|language=日本語|access-date=2023-08-29}}</ref>。
<!-- ダイヤ改正について書く場合は、その内容を1-2行程度に要約して書くこと。「ダイヤ改正」だけはNG。細かなことや長くなる場合は[[小田急電鉄のダイヤ改正]]や関係各路線記事の運行形態や歴史に記述を。時刻修正だけなど特記するべき変更内容がない場合は無理にここに書かなくても結構です。-->
=== 歴代社長 ===
{|class="wikitable" style="width:80%; font-size:100%; white-space:nowrap" rules="all"
!法人
!代
!氏名
!在任期間
!出身校
!備考
|-
!rowspan="1"|小田原急行鉄道
!初
|[[利光鶴松]]
|1923年 - 1941年
|[[明治法律学校]]
|
|-
!rowspan="3"|小田急電鉄<br />(旧法人)
!初
|利光鶴松
|1941年3月20日 - 7月3日
|明治法律学校
|
|-
!2
|[[利光學一]]
|1941年7月4日 - 9月19日
|[[東京大学|東京帝国大学]]
|戦後、[[神奈川中央交通]]取締役会長
|-
!3
|[[五島慶太]]
|1941年9月20日 - 1942年
|東京帝国大学[[法学部]]
|
|-
!style="white-space:nowrap" rowspan="5"|東京急行電鉄<br />(大東急)
!初
|五島慶太
|1942年 - 1944年
|東京帝国大学法学部
|
|-
!2
|[[篠原三千郎]]
|1944年 - 1945年
|東京帝国大学法学部
|
|-
!3
|[[平山孝]]
|1945年 - 1946年
|東京帝国大学法学部
|
|-
!4
|[[小林中]]
|1946年 - 1947年
|[[早稲田大学政治経済学部]]中退
|[[日本政策投資銀行|日本開発銀行]]初代[[総裁]]
|-
!5
|[[井田正一]]
|1947年 - 1947年
|東京帝国大学法学部{{sfn|人事興信所|1948|loc=イ3頁|ref=jinji-15-jo}}
|
|-
!style="white-space:nowrap" rowspan="9"|小田急電鉄<br />(現法人)
!初
|[[安藤楢六]]
|1948年 - 1969年
|東京帝国大学
|旧小田急電鉄出身、[[東京急行電鉄]]取締役副社長
|-
!2
|[[広田宗]]
|1969年 - 1981年
|[[東京商科大学]](一橋大学)
|[[三菱銀行]]出身
|-
!3
|[[利光達三]]
|1981年 - 1991年
|[[立教大学]]
|
|-
!4
|[[滝上隆司]]
|1991年 - 1997年
|[[早稲田大学大学院商学研究科・商学部|早稲田大学商学部]]{{sfn|人事興信所|1995|loc=た254頁|ref=jinji-38-ge}}
|
|-
!5
|[[北中誠]]
|1997年 - 2003年
|[[一橋大学商学部]]
|
|-
!6
|[[松田利之]]
|2003年 - 2005年
|[[法政大学]][[経済学部]]
|
|-
!7
|[[大須賀頼彦|大須賀賴彦]]
|2005年 - 2011年
|早稲田大学政治経済学部
|
|-
!8
|[[山木利満]]
|2011年 - 2017年
|[[東京都立大学 (1949-2011)|東京都立大学]]法学部
|[[2017年]][[5月26日]]から[[日本民営鉄道協会]][[会長]]
|-
!9
||[[星野晃司]]
|2017年 - 現職
|早稲田大学政治経済学部
|
|-
|}
== 路線 ==
小田急電鉄は以下の路線を営業している。小田急が営業している以下の路線、特に本線である小田原線は「'''小田急線'''」と呼ばれる。
{| class="wikitable sortable"
|-
!記号
!style="width: 4em"|路線名
!class="unsortable"|区間
!style="width: 4em"|キロ程
!class="unsortable"|備考
|-
|style="text-align:center;"|[[File:Odakyu odawara.svg|18px|OH]]
|data-sort-value="おだわら"|[[小田急小田原線|小田原線]]
|[[新宿駅]] - [[小田原駅]]間
|style="text-align:right;"|82.5 km
|
|-
|style="text-align:center;"|[[File:Odakyu enoshima.svg|18px|OE]]
|data-sort-value="えのしま"|[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|[[相模大野駅]] - [[片瀬江ノ島駅]]間
|style="text-align:right;"|27.6 km
|相模大野分岐点からは27.4 km
|-
|style="text-align:center;"|[[File:Odakyu tama.svg|18px|OT]]
|data-sort-value="たま"|[[小田急多摩線|多摩線]]
|[[新百合ヶ丘駅]] - [[唐木田駅]]間
|style="text-align:right;"|10.6 km
|
|}
過去には以下の路線を営業していた。
* [[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|向ヶ丘遊園モノレール線]]:[[向ヶ丘遊園駅]] - [[向ヶ丘遊園正門駅]]間 (1.1 km)
* [[小田急向ヶ丘索道線|向ヶ丘遊園索道線]]:遊園正門前駅 - 見晴台駅間 (0.245 km)
また、他の鉄道路線との[[連絡線]]として「[[#その他の営業線|その他の営業線]]」で述べる松田連絡線を保有しているほか、過去には「[[#その他の廃止線|その他の廃止線]]」で挙げる連絡線を保有していた。
[[File:Odakyu Electric Railway Linemap.svg|thumb|none|600px|路線図]]
=== 現有路線 ===
==== 小田原線 ====
[[ファイル:小田急衛星画像025.jpg|thumb|300px|right|小田急電鉄路線の[[ランドサット]]衛星写真。橙線が小田原線、水色線が多摩線、赤線が江ノ島線。]]
{{Main|小田急小田原線}}
[[東京都]][[新宿区]]の[[新宿駅]]から[[神奈川県]][[小田原市]]の[[小田原駅]]までを結ぶ路線である。[[1927年]](昭和2年)[[4月1日]]に全線開通した。[[東京圏]]の通勤路線としての性格と、[[特別急行列車|有料特急]][[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]をはじめとする[[小田原市|小田原]]・[[箱根町|箱根]]方面への[[観光]]輸送の両面を持つ。
[[東京都区部]]やそれに近接する都下[[多摩地域]]・神奈川県東部を通る区間を中心に[[ラッシュ時]]は混雑する。そのため、[[代々木上原駅]] - [[登戸駅]]間は輸送力増強および[[踏切]]解消のため[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化・[[複々線]]化事業が実施された。
若者の街として著名な[[下北沢]]、沿線有数の高級住宅街を擁する[[成城]]、大規模な住宅地および多摩地域有数の大規模繁華街を擁する[[町田市|町田]]、江ノ島線との交点であり運行の要所である[[相模大野]]、[[ベッドタウン]]として発展している[[海老名市]]、県央地域最大の物流・産業拠点で[[厚木都市圏]]を形成している[[厚木市]]、東京都心部から行きやすく、登山者が多い[[大山 (神奈川県)|大山]]・[[丹沢山地|丹沢]]のある[[伊勢原市]]・[[秦野市]]や、海に面する歴史に満ちた[[城下町]]小田原を結ぶ、小田急を代表する路線である。
[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ千代田線|千代田線]]およびJR東日本[[常磐緩行線]](常磐線各駅停車)<!-- 各駅停車は列車(の種別)、走行するのは線路(常磐線、緩行線) -->と[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、小田急の車両は代々木上原駅から東京メトロ[[北綾瀬駅]]まで、さらに途中の[[綾瀬駅]]からJR常磐緩行線に乗り入れて、千葉県の[[松戸駅]]・[[柏駅]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]、茨城県の[[取手駅]]にまで足を伸ばす。[[2016年]](平成28年)3月25日までは、小田急の車両は綾瀬駅までの運転で、東京メトロの車両のみが取手駅方面から千代田線・小田原線を経て[[小田急多摩線|多摩線]][[唐木田駅]]へ直通運転されていたが、同年[[3月26日]]からは、小田急・東京メトロ・JR東日本の所属を問わず、関係する全ての車両(60000形およびJR東日本の[[JR東日本209系電車#1000番台|209系1000番台]]を除く)が、小田急線・千代田線・常磐緩行線を通し運転するようになった。これにより小田急の車両が[[千葉県]][[東葛地域]]や[[茨城県南地域]]に乗り入れることになった。
また、小田原駅から[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]][[箱根湯本駅]]まで特急ロマンスカーおよび一部の各駅停車(上りのみ)が乗り入れている。2008年(平成20年)3月15日のダイヤ改正以前は急行・準急列車も箱根登山鉄道へ乗り入れていた。
[[特別急行列車|特急]]「[[ふじさん]]」は[[新松田駅]] - [[松田駅]]間の連絡線(新松田駅の少し[[渋沢駅]]寄りにある)を経由して[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[御殿場線]][[御殿場駅]]まで[[直通運転]]を行っている。2018年(平成30年)3月16日までは「あさぎり」の愛称で運転されていた。1991年(平成3年)3月16日から2012年(平成24年)3月16日まではJR東海、小田急電鉄の双方の車両を使用して新宿駅 - [[沼津駅]]間で運転されていたが、同年3月17日のダイヤ改正以降は、運転区間が新宿駅 - 御殿場駅間に短縮され、小田急電鉄の車両[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]での運転となった。なお、[[関東地方]]の私鉄では唯一、営業路線がJR2社(JR東日本・JR東海)の在来線管内の駅を直接結んでおり、乗り換えることができる(JR東日本の新宿駅、登戸駅、町田駅、厚木駅や小田原駅<ref group="注釈">小田原駅で乗り換えできるJR線は、在来線の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]はJR東日本だが、[[東海道新幹線]]はJR東海の路線である。小田原駅と同等のケースは[[京急本線|京急線]]の[[品川駅]]が該当する。</ref>とJR東海松田駅で、松田駅に関しては小田急は新松田駅)。そして日本全体の私鉄路線でも自社車両が異なるJR2社に直接車両が乗り入れるのも本路線が唯一である<ref group="注釈">JR2社の在来線管内を直接結んでいる私鉄は小田急電鉄のほか大手私鉄では[[近畿日本鉄道]]、[[第三セクター鉄道]]では[[えちごトキめき鉄道]]がある。だが、近鉄はJR線との直通運転は行っておらず、えちごトキめき鉄道はJRの特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」が乗り入れるのみでえちごトキめき鉄道の車両はJRには乗り入れない。</ref>。
<!-- ここは、あくまで路線の解説のダイジェスト。詳細は路線・列車の記事に記述を-->
==== 江ノ島線 ====
{{Main|小田急江ノ島線}}
[[神奈川県]][[相模原市]]の[[相模大野駅]]から神奈川県[[藤沢市]]の[[片瀬江ノ島駅]]間を結ぶ路線である。正確には相模大野駅から[[小田原駅]]方の地点に小田原線との分岐点「相模大野分岐点」があり、ここは運賃計算に反映されている。[[小田急小田原線|小田原線]]が開業して2年後の[[1929年]](昭和4年)[[4月1日]]に全線開通した。
小田原線[[新宿駅]]・[[町田駅]]などから直通列車が運行されており、新宿駅から特急ロマンスカーのほか、[[快速急行]]が日中、毎時3本ほど運行されている。
==== 多摩線 ====
{{Main|小田急多摩線}}
神奈川県[[川崎市]]の[[新百合ヶ丘駅]]と[[東京都]][[多摩市]]の[[唐木田駅]]を結ぶ路線である。東京メトロ千代田線と併せて東京都の都市計画9号線を実現する。
[[多摩ニュータウン]]への連絡鉄道として建設された経緯がある。途中の[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]まで開業した当時、そこより先を[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]まで[[京王相模原線]]と併走する計画であったが、京王相模原線と競合することや単純に旅客需要が見込めないことから取り下げ、唐木田駅を開業させ、併せて喜多見検車区唐木田出張所(唐木田車庫)を開設した。
今後は相模原市と東京都[[町田市]]が主導するかたちでJR[[横浜線]][[相模原駅]]を経由してJR[[相模線]][[上溝駅]]方面への延長も計画されており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/toshikotsu/20804/22611/001662.html|title=小田急多摩線の延伸の促進|accessdate=2017-11-08 |work=相模原市 }}</ref>、相模原駅延伸への前提となる[[在日米軍]][[相模総合補給廠]]の一部返還が事実上内定したことから実現されるかどうか注目されている。
開業当初から[[2002年]](平成14年)までは線内折り返しがほとんどだったが、2018年(平成30年)3月17日現在は新宿直通の[[急行列車|急行]]が日中に毎時3本運転されている。また、このほかに線内折り返しの[[各駅停車|各停]]が毎時6本運転されており、同線では最低でも毎時9本が確保されている。
急行は多摩線内では[[栗平駅]]、[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]、小田急多摩センター駅、唐木田駅に停車する。なお、以前は平日の夜間には新宿駅・[[北千住駅]] - 唐木田駅間のロマンスカー[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]・メトロホームウェイなども見られた(3本)が、2016年(平成28年)3月25日をもって多摩線内のロマンスカーの営業を終了した。2018年3月17日のダイヤ改正では、多摩急行、準急、千代田線直通の急行の廃止で、千代田線からの直通列車が下り1本のみに削減された。
==== その他の営業線 ====
JR[[御殿場線]]へ直通運転するために、[[小田急小田原線|小田原線]][[新松田駅]]付近から御殿場線[[松田駅]]へ向かう[[単線]]の連絡線(通称「'''松田連絡線'''」)が存在する。[[ダイヤグラム#定期列車・定期便|定期列車]]では特急「[[ふじさん]]」が使用する。小田急の乗務員は松田駅到着まで乗務する。
小田急や小田原駅で接続する箱根登山鉄道と車両メーカーとの車両授受もこの連絡線を使用する(1994年(平成6年)より前までは[[小田原駅]]で行っていた)。車両メーカーとの[[車両輸送|甲種鉄道車両輸送]]はJR東海の御殿場線を経由して行われ、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が機関車・運転士共に担当する。連絡線は小田急電鉄に属するため、JR貨物の運転士の運転は松田駅到着までであり、松田駅で小田急の運転士に交代する。列車は、そのまま連絡線を通って新松田駅まで運転を行い、機関車を切り離し単機で松田駅に戻る。小田急の運転士はこの連絡線運転のため、JR貨物で電気機関車[[国鉄EF65形電気機関車|EF65]]の訓練を受けており、運転の頻度は多くないものの、輸送に対応する必要に応じて2017年(平成29年)時点で小田急の全運転士の約4%にあたる23名が資格を保有している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-434/ 鉄道トリビア(434) 小田急電鉄には、JR貨物の電気機関車も運転できる運転士がいる] - [[マイナビニュース]]、2017年12月9日</ref>。
=== 廃止路線 ===
==== 向ヶ丘遊園モノレール線 ====
{{Main|小田急向ヶ丘遊園モノレール線}}
小田原線の[[向ヶ丘遊園駅]]から[[向ヶ丘遊園]]の近くの[[向ヶ丘遊園正門駅]]までの間1.1 kmを結んでいた[[モノレール]]路線。それまでの豆電車に代わって[[1966年]](昭和41年)に開業した。独立した運賃体系となっていたほか、日本では数少ない[[モノレール#ロッキード式|ロッキード式モノレール]]だった。
向ヶ丘遊園へのアクセス路線として機能していたが、[[2000年]](平成12年)[[2月13日]]から行われた定期検査時にモノレールの[[鉄道車両の台車|台車]]に疲労亀裂があることが判明したため、運転再開が見送られた。改修費用の問題および遊園地の利用客減少に伴い[[2001年]](平成13年)[[2月1日]]に正式廃止となり<ref>[https://web.archive.org/web/20001204010600fw_/http://www.odakyu-co.com/news/0011/0011_01.html 向ヶ丘遊園モノレール線の廃止について](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2000年時点の版)。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010422100330/http://www.d-cue.com/program/info/PG02348.pl?key=120&info_kubun=co 向ヶ丘遊園モノレール線の廃止予定日繰り上げについて](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2001年時点の版)。</ref>、向ヶ丘遊園自体も翌[[2002年]](平成14年)3月いっぱいで閉園した(バラ苑のみ[[川崎市]]の管理で存続)。モノレールの各施設は全て撤去されたが、川崎市により廃線跡地の遊歩道整備などが行われた。
==== その他の廃止線 ====
* '''[[小田急向ヶ丘索道線|向ヶ丘索道線]]''':向ヶ丘遊園内で運行されていた[[日本の索道|普通索道]]([[索道|ロープウェイ]])である。
* '''新宿省社連絡線''':[[1944年]](昭和19年)8月、小田原線下り線路と国鉄[[中央・総武緩行線|中央緩行線]]下り線路の間に造られた連絡線。戦時中は、国鉄から小田急への車輛貸し出しに使われた線路であった。戦後は深夜1回の[[貨車]]受け渡しのほか、[[1951年]](昭和26年)2月に小田急で行われた[[カルダン駆動]]の電車の走行テストを相武台にて実施する試験車両が、この線路を通ったほか、機材輸送のため、国鉄[[東京総合車両センター|大井工場]] - 小田急経堂工場間に[[特殊列車#配給列車|配給電車]]や[[日本車輌製造]]蕨工場にて作られた新造車の搬入もこの線路が使われた。その後、[[1960年]](昭和35年)2月に[[小田原急行鉄道1形電車|1100形]]の4両を[[日立電鉄]]へ譲渡した際に使われたのを最後に、連絡線は使われなくなり、[[1963年]](昭和38年)[[7月7日]]に撤去となった。
* '''[[代田連絡線]]''':[[大東急]]時代に設置された小田原線と井の頭線を結んでいた線路。大東急解体後は、京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])所有となった。
* '''南武連絡線''':[[1935年]](昭和10年)9月に小田原急行鉄道と南武鉄道(現・[[南武線]])の間で協定が結ばれ、作られた連絡線。主に、小田急の座間駅(現・[[相武台前駅]])にて集荷した砂利を横浜・川崎方面に輸送するために設けられた線路で、[[1936年]](昭和11年)初頭に設けられた。連絡線は、砂利輸送を目的とするものであったが、電車のやりとりも行われた。しかし、1944年に南武鉄道が[[戦時買収私鉄|国有化]]され南武線となると電車のやりとりはなくなり、[[稲城長沼駅]]付近にあった弾薬庫からの輸送のため、小田急(当時は、大東急)所有の[[無蓋車|無蓋貨車]]がこの線路を使い貸し出され南武線を走った。戦後は、[[1947年]](昭和22年)5月に小田急の[[小田急1600形電車|1600形]]が南武線に貸し出される際に使用されるなどしたが、その後使われなくなり、[[1961年]](昭和36年)に川崎市が[[市町村道|市道]]を造成することとなったことから、[[1967年]](昭和42年)3月、廃止された。
* '''砂利軌道・砂利側線''':[[相模川]]で採取した砂利を運搬するためにかつて存在していたいくつかの路線のうち、762mm軌間の[[小田急砂利軌道|2つの軌道]]は小田急が保有・運行(後に別会社に委託)していたものであり、座間駅(現・相武台前駅)から新磯鉱区へ至るものと、座間市新田宿付近から新田宿鉱区へ至るものであった。後に前者は相模線相武台下駅から新磯鉱区まで、後者は同じく入谷駅から新田宿鉱区までの区間に変更されている。また、[[螢田駅]]から[[酒匂川]]の河岸へ、[[新松田駅]]から川音川の河岸への砂利運搬用の[[側線]]がそれぞれ敷設されていた。
=== 計画・工事路線 ===
* 複々線化(登戸駅 - 新百合ヶ丘駅) … [[運輸政策審議会答申第18号]](2000年)、[[交通政策審議会答申第198号]](2016年)にて複々線化が答申されている区間。登戸駅 - 向ヶ丘遊園駅間は[[川崎市]]の土地区画整理に合わせ整備予定とされ、[[2009年]]に上り2線・下り1線の暫定3線化が完了している。一方、向ヶ丘遊園駅 - 新百合ヶ丘駅間について小田急は「当社単独による整備は事業採算上極めて厳しい」としており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kanagawa.jp/docs/gd6/cnt/f7140/kentesu-youboukaitou-2017.html |title=平成29年度の要望及び鉄道事業者からの回答 |publisher=[[神奈川県]] |accessdate=2019-04-04}}</ref>、着手に至っていない。
<!-- (出典不足および現況との不一致からコメントアウト)
* 複々線化(町田駅 - 相模大野駅) … 江ノ島線と小田原線の列車が重複して輸送量が逼迫している町田 - 相模大野間を先行して複々線化する計画。小田急としては、小田原線・多摩線・江ノ島線・東京メトロ千代田線の各方面への列車が重複する代々木上原 - 相模大野間を複々線化するのが基本構想とされる。行幸道路跨線橋から[[相模大野分岐点]]付近までは[[1998年]]に完成した[[相模大野駅]]改良工事の際に複々線化を視野に入れた構造とされたが[[町田駅]]付近は高架や[[切通し]]が存在し、また沿線の宅地化が進んでいて用地がなく、輸送量の減少もあり具体化には至っていない。
* [[相模鉄道]]乗り入れ … 相模鉄道の終点駅である[[海老名駅]]から[[本厚木駅]]方面へ乗り入れを復活させる計画。[[2006年]](平成18年)4月16日に、厚木ロイヤルパークホテル(現:レンブラントホテル厚木)でシンポジウムが行われたが、両線の過密ダイヤ、保安装置の違いなど、課題が多数ある。さらには、海老名駅の大規模改良工事を開始したために、現実性に乏しいものとなっている。
-->
* 多摩線延伸 … 唐木田駅からJR[[横浜線]][[相模原駅]]を経て[[上溝駅]]への延伸計画。長年、困難だと思われてきたが、相模原駅東側にある[[在日米軍]][[相模総合補給廠]]の一部 (2[[ヘクタール|ha]]) が鉄道・道路用地として返還されることになり、具体的な構想に至った。相模原市によると中間駅を1 - 3駅設置することを想定している。[[第三セクター]]を設立し国と県、市の3者で事業費を3分の1ずつ負担することが検討されている。運転などは小田急電鉄に委託する構想である。
=== 未成路線 ===
* [[喜多見駅]] - 稲城本町駅 (9.4 km) … 1967年12月14日免許失効。多摩線の当初計画<ref name="moriguchi-p186">森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』(JTB、2001年)p.186</ref>。
* 稲城本町駅 - [[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]] (5.0 km) … 1967年12月14日免許失効<ref name="moriguchi-p186" />。
* 小田急多摩センター駅 - 城山駅 (16.7 km) … 1987年3月9日免許失効。唐木田方面への延長に変更<ref name="moriguchi-p186" />。
* [[内藤新宿]] - 大塚町 (14.7 km) … 1924年9月2日免許失効<ref name="moriguchi-p186" />。
== ダイヤ ==
{{Main|小田急電鉄のダイヤ改正}}
[[ファイル:Odakyu-linemap.svg|thumb|none|800px|小田急電鉄・路線図(箱根登山線の一部区間を含む)]]
2006年以降のダイヤ改正は小田原線・多摩線が[[東京メトロ千代田線]]およびJR東日本の[[常磐緩行線]](常磐線各駅停車)と相互[[直通運転]]を行い、小田原線の特急「ふじさん」が渋沢 - 松田間の連絡線経由でJR東海の[[御殿場線]]と直通運転を行っている関係で、一部の例外を除き[[JR|JRグループ]]のダイヤ改正と同じ日程で行われている。ただし2007年・2011年は実施されず、2010年は一部列車のダイヤ修正に留まっている。2012年にはロマンスカーの使用車両および運行系統・停車駅の変更などが大きく、JRグループのダイヤ改正と同日の3月17日に3年ぶりの大規模なダイヤ改正が実施された。
[[#小田原線|現有路線の節]]で述べた通り、2016年3月26日のダイヤ改正では、それまで千代田線綾瀬駅までの乗り入れであった小田急の車両もJR常磐緩行線への乗り入れが開始された。小田急の車両は自社路線のある[[東京都]]や[[神奈川県]]のほか、JR御殿場線への乗り入れで[[静岡県]]にも入っているが、同日より常磐緩行線への乗り入れで[[千葉県]]や、[[山梨県]]を除く関東地方で唯一大手私鉄の路線が存在せず、乗り入れてくる大手私鉄の車両もこれまで東京メトロのみであった[[茨城県南地域]]にも入るようになり、また小田急は複数のJRグループの会社の路線に乗り入れる大手私鉄となった(これにより小田急の車両は茨城県から静岡県までの広範囲で走行することとなった)。
== 有料特急列車 ==
{{See also|小田急ロマンスカー}}
小田急電鉄では、「[[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]」と総称して呼ばれる有料[[特別急行列車|特急列車]]を運行しており、系統・種類に応じて下記の愛称がある。全列車とも全座席指定で運行される。大手私鉄では[[近畿日本鉄道]]の「[[近鉄特急]]」と並ぶ看板列車であり、使用車両に[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞車が多い。
=== 現在の愛称 ===
* '''「[[はこね (列車)|はこね]]」''':[[小田急小田原線|小田原線]]系統の列車で、[[箱根登山鉄道鉄道線]]に乗り入れ、[[箱根湯本駅]]まで運行する列車。
* '''「[[はこね (列車)|スーパーはこね]]」''':小田原線系統の列車で、新宿駅 - 小田原駅間無停車であり、箱根湯本駅まで乗り入れ運行する列車。
* '''「[[はこね (列車)|さがみ]]」''':小田原線系統の列車で、箱根登山鉄道線に乗り入れないもの。基本的には小田原駅発着だが、入出庫の都合で区間運行の列車も存在する。1999年に「サポート」という愛称に変更されたが2004年12月のダイヤ改正で再度「さがみ」に改称された。
* '''「[[えのしま (列車)|えのしま]]」''':[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]系統の列車。
* '''「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」''':新宿駅を18時以降に発車する下り列車。JRでの「[[ホームライナー]]」に相当し、該当する時間帯は「スーパーはこね」「はこね」「さがみ」「えのしま」系統の全ての列車がこの愛称となる。通勤時間帯での運行となるため、日中に比べ多少時間が掛かることが多い。2016年3月までは平日に限り[[小田急多摩線|多摩線]]直通の列車も存在していた。
2008年3月15日からの東京メトロ千代田線乗り入れ開始に伴い次の愛称が登場した。同時に新設された後述のベイリゾート号以外は全て頭に「メトロ」がつく。これらはすべて60000形MSEにより運転される。
* '''「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|メトロホームウェイ]]」''':夕方18時以降に千代田線から小田急線に乗り入れる下り列車(平日5本、土休日1本)。
* '''「[[はこね (列車)|メトロはこね]]」''':千代田線と箱根湯本駅間を運転する列車(平日上り1本・下り1本、土休日上り2本・下り2本)。
2018年3月17日のダイヤ改正で、次の愛称が新設された<ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年3月、新ダイヤでの運行開始 |publisher=小田急電鉄 |date=2017-11-01 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-02}} </ref><ref name="odakyu20171215">{{Cite press release |和書 |title=新ダイヤでの運行開始日を決定! |publisher=小田急電鉄 |date=2017-12-15 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8731_0522542_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-12-15}} </ref>。
* '''「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|モーニングウェイ]]」''':午前9時30分までに新宿駅に到着する従来の「さがみ」から改称された。
* '''「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|メトロモーニングウェイ]]」''':午前9時30分までに千代田線[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]に到着する従来の「メトロさがみ」から改称された。
* '''「[[えのしま (列車)|メトロえのしま]]」''':千代田線と江ノ島線とを結ぶ列車。「メトロはこね」と連結して土・休日に定期運行。
* '''「[[ふじさん]]」''':JR[[御殿場線]]に乗り入れ、[[御殿場駅]]まで運行する列車。担当車両は60000形MSE。
運行日が限定される列車
* '''「[[ニューイヤーエクスプレス]]」''':2001年12月31日運行開始。[[大晦日]]夜から翌年1月1日早朝([[元旦]])までの[[終夜運転]]に合わせて運行される臨時特急である。この列車は、初詣号の頃から[[明治神宮]]への[[初詣]]客のために、普段は各駅停車しか停まらない[[参宮橋駅]]に一部列車が停車する。
=== 過去の愛称 ===
* '''「[[はこね (列車)|サポート]]」''':1999年に「あしがら」と「さがみ」を統合して登場。2004年12月のダイヤ改正で「さがみ」の復活に伴い消滅。
* '''「[[はこね (列車)|あしがら]]」''':1999年に廃止。小田原線系統で箱根登山線へ乗り入れていた。「はこね」より停車駅の多い列車として設定。
* '''「[[ベイリゾート]]」''':2008年5月3日運行開始。土休日に小田急線と東京メトロ有楽町線新木場駅間を結ぶ臨時列車(土休日上り1本、下り1本)。2012年より運行を中止している。<!-- 公式に廃止とは発表されていないため、この表記とします。 -->
* '''「[[はこね (列車)|メトロさがみ]]」''':2008年3月15日ダイヤ改正より設定。朝方に小田急線から千代田線に乗り入れる上り列車。2018年3月17日のダイヤ改正で新設の「メトロモーニングウェイ」に統合され、設定が無くなった。
* '''「[[ふじさん|あさぎり]]」''':JR御殿場線に乗り入れ、御殿場駅まで運行する列車。2018年3月17日のダイヤ改正で「ふじさん」に改称された。
== 車両 ==
{{Main|小田急電鉄の鉄道車両}}
小田急電鉄の場合、[[小田急2600形電車|2600形]]までの[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]]については制御装置等の英字による略称を内部用語として用いることがあり、趣味的にも流用される。また、その延長で[[小田急3000形電車 (初代)|3000形 (初代)]]に"Super Express(Car)"の略称である'''「SE」'''の通称を与え、以降[[特急形車両]]については内部または公募で愛称・略称が与えられている。前者は[[小田急2400形電車#登場の経緯|全電動車式高性能車の問題]]を、後者は[[小田急ロマンスカー#車両|小田急ロマンスカー]]を参照されたい。なお、[[京浜急行電鉄]]、[[京成電鉄]]や[[東京都交通局]]、[[名古屋市交通局]]、および[[阪神電気鉄道]]の昭和50年代までに落成した車両などと同様に「○○系(けい)」ではなく「○○形(がた)」と呼称される。また、特急形・通勤形とも固定編成を前提とした機器構成がなされているので、原則として編成替えは行われない。
技術面での評価は高く、[[1957年]]には[[小田急3000形電車 (初代)|3000形「SE車」]]が[[東海道本線]]にて当時の狭軌鉄道での最高速度世界記録 (145 km/h) を樹立した。その他、[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]、[[ローレル賞]]などの鉄道関係の賞を数多く受賞していた。しかし、近年では通勤形車両のみならず、特急形車両でも他社で実績のある技術や工法を多く取り入れ、[[小田急50000形電車|50000形VSE]]を除いて<!--車体傾斜と高位置空気ばね支持方式自体は1960年代にすでに有していた技術-->独自性はない。
車両の製造メーカーは特急形が[[日本車輌製造]]と[[川崎車両|川崎重工業]]、[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]は前記の2社と[[総合車両製作所]]横浜事業所(および前経営者の[[東急車輛製造]])であったが、50000形VSE以降の特急形は日本車輌製造のみ、[[小田急4000形電車 (2代)|4000形(2代)]]は総合車両製作所横浜事業所(および東急車輛製造)とJR東日本[[新津車両製作所]](現・[[総合車両製作所新津事業所]])で製造している。車両更新・改修は車両製造メーカーまたはグループ企業の[[小田急エンジニアリング]](過去には[[小田急車両工業]])で施工される。制御装置の製造メーカーは[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]までの特急形が[[東芝]](現・[[東芝インフラシステムズ]])、通勤形と[[小田急70000形電車|70000形「GSE」]]・[[小田急30000形電車#リニューアル|EXEα]]の特急形は[[三菱電機]]と分けられている。
[[火災]]防止のため、全ての通勤形車両で車両間にある[[貫通扉|仕切扉]]のドアストッパーを撤去した。また、在籍する営業用車両の[[集電装置]]は全てシングルアーム式[[集電装置|パンタグラフ]]を搭載している。これは大手私鉄では初めてである<ref group="注釈">かつて非シングルアームパンタの車両が在籍していた会社で、現在営業用車両がすべてシングルアームパンタ搭載車となった大手私鉄は、他に[[京王電鉄]]がある。[[JR]]の電車では、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]と[[東海旅客鉄道|JR東海]]の車両が全てシングルアームパンタである。</ref>。
[[鉄道車両の台車|台車]]については、開業以来一部(ロマンスカー3000形SE車、国鉄タイプの[[小田急1800形電車|1800形]]、旧型車の機器を流用した[[小田急4000形電車 (初代)|4000形 (初代)]]ほか)を除いて長い間[[住友金属工業]](現・[[日本製鉄]])製のもの(特に2200形から1000形までの新造通勤用車両やロマンスカー7000・10000・20000形はリンク式の一種である[[アルストム#アルストムリンク式台車|アルストムリンク式]]と呼ばれる構造)が採用されていたが、ロマンスカーの50000形VSE以降は日本車輌製造製に、通勤用の[[小田急3000形電車 (2代)|3000形]]以降は東急車輛製造(→総合車両製作所)製に切り換えられている。ただし、新5000形は日車製の[[N-QUALIS#台車|NS台車]]が採用されている。
=== 現有車両 ===
==== 特急形車両 ====
* [[小田急70000形電車|70000形 GSE]]
* [[小田急60000形電車|60000形 MSE]]([[東京地下鉄]]〈東京メトロ〉・[[東海旅客鉄道]]〈JR東海〉直通仕様特急車両)
* [[小田急30000形電車|30000形 EXE]](2017年から「[[小田急30000形電車#リニューアル|EXEα]]」に順次リニューアル)
<gallery>
Odakyu 70000 series GSE Haruhino Station 20180208.jpg|70000形 GSE
Odakyu-Type60000-MSE-Hakone.jpg|60000形 MSE
Odakyu-Type30000-EXEa-Hakone.jpg|30000形 EXEα
Odakyu-EXE-30000.jpg|30000形 EXE
</gallery>
==== 通勤形車両 ====
* [[小田急5000形電車 (2代)|5000形(2代)]]
* [[小田急4000形電車 (2代)|4000形(2代)]](東京メトロ千代田線・JR[[常磐緩行線]]直通対応車両<ref name="jre20130327">{{Cite press_release |date=2013-03-27 |url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20130311.pdf |title=小田急線 千代田線 JR常磐線(各駅停車) の相互直通運転に向けた準備を開始します〜小田急・JR東日本車両も3線直通可能な車両にしていきます〜 |format=PDF |publisher=小田急電鉄・[[東日本旅客鉄道]] |accessdate=2013-10-08 }}</ref>)
* [[小田急3000形電車 (2代)|3000形(2代)]]
* [[小田急2000形電車|2000形]]
* [[小田急1000形電車|1000形]]
* [[小田急8000形電車|8000形]]
<gallery>
ファイル:Odakyu 5000 Series (2 Generations) 5051F ver.2.jpg|5000形(2代)
ファイル:OER-4553.jpg|4000形(2代)
ファイル:Odakyu-Type3000-3259F.jpg|3000形(2代)
ファイル:小田急2000形 2056F.jpg|2000形
ファイル:小田急電鉄1000形.jpg|1000形
ファイル:小田急電鉄8000形.jpg|8000形
</gallery>
==== 鉄道事業用車 ====
* [[小田急クヤ31形電車|クヤ31(TECHNO-INSPECTOR)]]
<gallery>
Odakyu-Kuya31.jpg|クヤ31
</gallery>
=== 除籍車両 ===
==== 特急形車両 ====
* [[小田急50000形電車|50000形「VSE」]]
* [[小田急7000形電車|7000形「LSE」]]
* [[小田急20000形電車|20000形「RSE」]](JR御殿場線直通特急向け車両。1編成が[[富士急行]]に譲渡された)
* [[小田急10000形電車|10000形「HiSE」]](2編成が[[長野電鉄]]に譲渡された)
* [[小田急3100形電車|3100形「NSE」]]
* [[小田急3000形電車 (初代)|3000形「SE」「SSE」]]
<gallery>
Odakyu.type50000.jpg|50000形「VSE」
小田急7000形LSE車.jpg|7000形「LSE」
OdakyuSeries20000Resort Super Express.jpg|20000形「RSE」
OdakyuSeries10000HighDeckerSuperExpress.JPG|10000形「HiSE」
Odakyu-3100.jpg|3100形「NSE」
ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|3000形「SE」・「SSE」
</gallery>
==== 特急形気動車 ====
* [[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形・5100形]]
==== 特急形車両として登場後通勤形車両に格下げされた車両 ====
* [[小田急2300形電車|2300形]]
* [[小田急1700形電車|1700形]]
* [[小田急1900形電車|1910形]]
* [[小田急2320形電車|2320形]]([[準特急]]用)
==== 通勤形車両 ====
* [[小田急5000形電車 (初代)|5000形(初代)・5200形]](一部の6両編成は4両化<ref>「Topic Photos 小田急5200形5256Fを4連化」『[[鉄道ピクトリアル]]』2008年3月号(通巻801号)83頁、電気車研究会</ref>)
* [[小田急9000形電車|9000形]](初代千代田線乗り入れ用車両・[[ローレル賞]]受賞車両)
* [[小田急4000形電車 (初代)|4000形(初代)]](元[[吊り掛け駆動方式|釣り掛け車]]。のちに2400形の機器流用)
* [[小田急2600形電車|2600形]](初の大型鋼製車両)
* [[小田急2400形電車|2400形]]
* [[小田急2200形電車|2220形]]
* [[小田急2200形電車|2200形]](初の高性能車)
* [[小田急2100形電車|2100形]]
* [[小田急1900形電車|1900形]]
* [[小田急1800形電車|1800形]]([[国鉄63系電車|63系]]などを改造)
* [[小田急1600形電車|1600形]]
* [[小田急1500形電車|1500形]]([[帝都電鉄]]モハ200形→小田急デハ1500形/帝都電鉄クハ500形→小田急クハ1550形)
* [[小田原急行鉄道201形電車|1400形]]
* [[小田原急行鉄道151形電車|1300形]](小田原急行151形・大東急→小田急1250形)
* [[小田原急行鉄道101形電車|1200形]](小田原急行101形・121形・131形・大東急1200形)
* [[小田原急行鉄道1形電車|1100形]](小田原急行1形・大東急→小田急1150形)
<gallery>
Model 5000-Fifth of Odakyu Electric Railway.JPG|5000形・5200形
Odakyu9000-1.JPG|9000形
Odakyu4000.jpg|4000形(初代)
Odakyu-2200.jpg|2200形
OER-1406.jpg|1400形
OER-1303.jpg|1300形
Odakyu-Moha-1.JPG|小田原急行1形(1100形)
</gallery>
==== モノレール ====
* [[小田急500形電車|500形]]
<gallery>
Odakyu-500.jpg|500形
</gallery>
=== その他 ===
* [[小田急電鉄の荷物電車]]
** [[小田原急行鉄道モニ1形電車|モニ1→モユニ1→デユニ1000→デニ1000]]
** [[小田原急行鉄道1形電車#デニ1101|デニ1100]]
** [[小田原急行鉄道151形電車#デニ1300|デニ1300]]
* [[小田急電鉄の電気機関車]]
* [[小田急デト1形電車]]
* [[移動変電所#小田急電鉄|イヘ900形・イヘ910形]]([[移動変電所]]車両)
<!-- このほか、1940年代から1950年代までにかけて、東海道本線不通時の代替路線としての検討として国鉄の蒸気機関車[[国鉄C58形蒸気機関車|C58]]などの試運転が行われたほか、逼迫した輸送需要や東海道線不通への対応として、20m級の[[国鉄40系電車|40系]]や17m級の[[国鉄30系電車|30系]]電車などが入線し、試運転や営業運転に供された。また、パイオニア台車試験のため、東急より[[東急7000系電車 (初代)|7000系(初代)]]を借用し、小田原線で試験走行を実施したこともあった。-->
== 車両基地・検修施設 ==
{{See|小田急電鉄の車両検修施設}}
== 乗務員区所 ==
* 喜多見電車区
** 新宿出張所<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/csr/safety/safety_report/2011/3/ |title=安全マネジメント体制の推進 |access-date=2023-01-28 |publisher=小田急電鉄株式会社 |date=2011-03}}</ref>
* 喜多見車掌区
** 新宿出張所<ref name=":1" />
* 大野電車区
* 大野車掌区
* 海老名電車区
* 海老名車掌区
* 足柄電車区
* 足柄車掌区
== 研修センター ==
[[2001年]]([[平成]]13年)[[1月15日]]に「小田急研修センター([[動力車操縦者養成所]])」を開所した<ref>小田急電鉄『ODAKYU 会社要覧 2017』p.33</ref>。鉄道係員養成のほか、グループ会社合同の研修で使用される。
* 所在地:[[東京都]][[世田谷区]][[喜多見]]9丁目25番10号([[喜多見駅]]から徒歩5分)
== 運賃 ==
大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のICカード利用時は一律50円<ref name="odakyu20220111" />)。[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金10円の加算を含む(小児IC運賃は対象外)。2023年(令和5年)3月18日改定<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道駅バリアフリー料金収受開始に伴う運賃改定について |publisher=小田急電鉄 |url=https://www.odakyu.jp/support/dq40940000000vud-att/bariunchin.pdf |format=PDF |date=2023-1-23 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
!rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程
!style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円)
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! ICカード !! 切符利用 !! ICカード !! 切符利用
|-
|初乗り3km||style="text-align:right;"|136||style="text-align:right;"|140||38 - 41||style="text-align:right;"|472||style="text-align:right;"|480
|-
|4 - 6||style="text-align:right;"|167||style="text-align:right;"|170||42 - 46||style="text-align:right;"|513||style="text-align:right;"|520
|-
|7 - 9||style="text-align:right;"|199||style="text-align:right;"|200||47 - 51||style="text-align:right;"|555||style="text-align:right;"|560
|-
|10 - 13||style="text-align:right;"|230||style="text-align:right;"|230||52 - 56||style="text-align:right;"|607||style="text-align:right;"|610
|-
|14 - 17||style="text-align:right;"|261||style="text-align:right;"|270||57 - 61||style="text-align:right;"|649||style="text-align:right;"|650
|-
|18 - 21||style="text-align:right;"|293||style="text-align:right;"|300||62 - 66||style="text-align:right;"|692||style="text-align:right;"|700
|-
|22 - 25||style="text-align:right;"|324||style="text-align:right;"|330||67 - 71||style="text-align:right;"|743||style="text-align:right;"|750
|-
|26 - 29||style="text-align:right;"|356||style="text-align:right;"|360||72 - 76||style="text-align:right;"|796||style="text-align:right;"|800
|-
|30 - 33||style="text-align:right;"|387||style="text-align:right;"|390||77 - 81||style="text-align:right;"|848||style="text-align:right;"|850
|-
|34 - 37||style="text-align:right;"|429||style="text-align:right;"|430||82 - 83||style="text-align:right;"|901||style="text-align:right;"|910
|}
* 小田原線小田急相模原駅以西の各駅と江ノ島線東林間駅以南の各駅相互間の運賃は相模大野駅 - [[相模大野分岐点]]間のキロ程を含めずに算出する。
* 小田原線小田急相模原駅以西の各駅と江ノ島線東林間駅以南の各駅相互間で、町田駅乗り換えで特急に乗車した場合(ただし新宿駅 - 町田駅間での乗車は除く)は、町田駅 - 相模大野分岐点間のキロ程を含めずに算出する<ref>[https://www.odakyu.jp/romancecar/booking/ 特急券の予約・購入方法] - 小田急電鉄、2023年12月1日閲覧。</ref>。
* 2022年3月12日からは、子育て世代応援施策として小児[[運賃#IC運賃|IC運賃]]を一律50円とする、全国初の取り組みを実施した<ref>{{Cite press release|和書|title=子育てしやすい沿線の実現に向け、小田急は走り出します! 子育て応援ポリシーを定め、「こどもの笑顔をつくる子育てパートナー」であることを宣言 全国初!「小児IC運賃を全区間一律50円」として、子育て世代を応援|publisher=小田急電鉄|date=2021-11-08|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000020qp8-att/o5oaa10000020qpf.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211108084239/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000020qp8-att/o5oaa10000020qpf.pdf|archivedate=2021-11-08}}</ref><ref name="odakyu20220111">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000021e9a-att/o5oaa10000021e9h.pdf|title=3月12日、小児IC運賃等の低廉化をスタートします|publisher=小田急電鉄|date=2022-01-11|accessdate=2022-01-15|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220111053135/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000021e9a-att/o5oaa10000021e9h.pdf|archivedate=2022-01-11|url-status=live}}</ref>。合わせて小児通学定期運賃(IC・磁気)も、区間に関わらず1か月800円・3か月2,280円・6か月4,320円に統一している<ref name="odakyu20220111"/>。
; 回数券
: 終日利用可能な11券片の特殊割引[[回数乗車券|回数券]](放送大学通学用・通信教育高校通学用・障害者用一種介助同伴)が発売されている。
: かつては普通回数券(11券片)・時差回数券(12券片)・土休日回数券(14券片)を発売していたが、2020年3月31日をもって発売終了<ref name="odakyu20191223"/>。これに代わる企画回数券として10券片の「[[小田急チケット10]]」(レギュラー・オフピーク・ホリデーの3券種、有効期間2か月)が発売されたが、2022年7月31日をもって発売終了した<ref name="odakyu20220701" /><ref name="odakyu20220308" />。
== 特急料金 ==
大人料金(小児半額・10円未満の端数は切り上げ)。2022年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.odakyu.jp/support/d9gsqg0000000uwe-att/RCryoukin.pdf |title=特急ロマンスカーの特別急行料金の改定について |accessdate=2022-10-24 |publisher=小田急電鉄 |date=2022-08-15}}</ref>。単位円。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
!キロ程!!特急料金
|-
|1 - 35||500
|-
|36 - 50||650
|-
|51 - 75||750
|-
|76 - 83||1000
|}
* オンラインサービスで電子特急券を購入した際は50円引き(チケットレス特急料金)
* 車内で特急券を購入する場合は250円加算
== 乗車券類の発売 ==
<!-- 機器類の整備状況は、この後の[[#駅の設備]]の節に記述を。-->
* 特急券のモバイル購入システム「ロマンスカー@クラブ」を導入している。[[クレジットカード]]情報を登録の上、パソコンおよび携帯電話から予約・決済が可能(携帯電話の画面によるチケットレス乗車も可能)。取扱区間は、小田急線・東京メトロ線の各駅相互間。なお、「[[ふじさん]]」の松田駅 - [[御殿場駅]]間は空席照会のみ利用可能。登録可能なクレジットカードは自社が発行する[[小田急ポイントカード#クレジットカード|OPクレジット]]のほか、[[Visa]]、[[マスターカード]]、[[ジェーシービー]]、[[アメリカン・エキスプレス|アメリカンエキスプレス]]カード、[[ダイナースクラブ|ダイナースクラブカード]]。
* 駅の窓口・多機能[[自動券売機|券売機]]では定期券、普通乗車券(連絡乗車券は除く)、特急券、フリーパス類をクレジットカードで購入することができる。利用可能なクレジットカードは自社が発行するOPクレジットのほかに、VISA、マスターカード、ジェーシービー、アメリカンエキスプレスカード。
* 一部を除く乗車券・特急券・フリーパスは主な[[旅行会社]]でも購入可能であるが、[[小田急トラベル]]以外は非磁気券になるので有人改札対応になる。[[エイチ・アイ・エス|HIS]]など、鉄道を扱ってない旅行会社は購入不可。
== フリーパス・クーポン ==
小田急は沿線に、[[箱根町|箱根]]や[[江の島]]・[[鎌倉市|鎌倉]]、[[丹沢山地|丹沢]]・[[大山 (神奈川県)|大山]]、[[伊豆半島|伊豆]]といった有名観光地があり、観光客向けに「フリーパス」や「クーポン」を発売している。
一部のものは[[相模鉄道]]・[[西武鉄道]]でも販売しているので、両鉄道の各駅からも利用できる。
{{Main2|詳細は [http://www.odakyu.jp/train/couponpass/ おとくなきっぷのご案内(小田急電鉄公式サイト)] を}}
=== フリーパス ===
* [[箱根フリーパス]]
* [[江の島・鎌倉フリーパス]]
* [[江の島1dayパスポート]]
* [[丹沢・大山フリーパス]]
* [[伊東観光フリーパス]]
* [[東京メトロ24時間券#東京メトロパス|小田急東京メトロパス]]
* 1日全線フリー乗車券
かつては[[西伊豆フリーパス]]、[[中伊豆フリーパス]]、[[南伊豆フリーパス]]も発売していた。
; 発売額
: 出発駅から以下の駅までのキロ程を下表に当てはめて算出
:* 箱根フリーパスは小田原駅まで
<!--:* 小田急東京メトロパスは代々木上原駅まで-->
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;"
|-
!rowspan="2" style="width:6em;"|キロ程
!colspan="2"|箱根フリーパス
!小田急メトロ
|-
!2日間!!3日間!!
|-
| - 3km||5180||5580 ||
|-
|4 - 6||5220||5630 ||
|-
|7 - 9||5270||5670 ||
|-
|10 - 13||5310||5710 ||
|-
|14 - 17||5350||5750 ||
|-
|18 - 21||5390||5790 ||
|-
|22 - 25||5480||5880 ||
|-
|26 - 29||5530||5930 ||
|-
|30 - 33||5580||5980 ||
|-
|34 - 37||5640||6040 ||
|-
|38 - 41||5700||6100 ||
|-
|42 - 46||5750||6150 ||
|-
|47 - 51||5830||6230 ||
|-
|52 - 56||5890||6290 ||
|-
|57 - 61||5940||6340 ||
|-
|62 - 66||6000||6400 ||
|-
|67 - 71||6050||6450 ||
|-
|72 - 76||6100||6500 ||
|-
|77 - 81||6100||6500 ||
|-
|82 - 83||6100||6500 ||
|-
|小児(一律)||1100||1350|| 350
|-
|rowspan="2"|(参考)<br>単独購入
|colspan="2"|小田原発
|東京メトロ<br>24時間券
|-
|5000||5400|| 600
|}
=== クーポン・パス・割引きっぷ ===
==== 温泉クーポン ====
; 日帰り温泉 箱根湯寮クーポン
: 小田急電鉄線発駅から箱根登山鉄道線箱根湯本駅までの往復割引乗車券(途中下車可)および箱根湯寮内の大浴場「本殿 湯楽庵 大湯」入湯券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。
; 箱根小涌園ユネッサン 湯遊びクーポン
: 小田急電鉄線発駅から箱根登山鉄道線強羅駅までの往復割引乗車券(途中下車可)、箱根登山バス指定区間往復乗車券(途中下車可)および[[箱根小涌園|小涌園ユネッサン]]の入湯券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。なお、出発日が4月30日 - 5月5日および7月31日 - 8月31日の場合、料金が増額。
; 「湯の里 おかだ」温泉三昧クーポン
: 小田急電鉄線発駅から箱根登山鉄道線箱根湯本駅までの往復割引乗車券(途中下車可)および箱根湯本「湯の里 おかだ」入湯券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。
; 箱根野天風呂クーポン 天山湯治郷
: 小田急電鉄線発駅から箱根登山鉄道線箱根湯本駅までの往復割引乗車券(途中下車可)および天山湯治郷割引入湯券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。
; 小田急箱根レイクホテル(日帰り)入湯クーポン
: [[小田急箱根高速バス]]の新宿 - 箱根レイクホテル間往復割引乗車券および箱根レイクホテル天然温泉シャクナゲの湯割引入湯休憩券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて1日間。
; 箱根仙石入湯クーポン
: 小田急箱根高速バスの新宿 - 仙郷楼前間往復割引乗車券および南甫園割引入園券がセットになったクーポン券。有効期間は、使用開始日を含めて1日間。現在、発売休止中。
かつては'''箱根ベゴニア園・ひめしゃらの湯のクーポン'''、'''箱根ホテル小涌園 湯ったりクーポン'''も発売していた。
==== ハイキングパス ====
; 宮ヶ瀬ダムハイキングパス
: 小田急電鉄線発駅から本厚木駅までの往復割引乗車券(途中下車可)および[[神奈川中央交通]]バスの指定区間に乗降自由のフリーパスがセットになった券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。
かつては'''足柄古道・万葉ハイキングパス'''も発売していた。
==== その他のパス・きっぷ ====
; 彫刻の森美術館クーポン
: 小田急電鉄線発駅から箱根登山鉄道線[[彫刻の森駅]]・[[強羅駅]]までの往復割引乗車券(途中下車可)および[[箱根 彫刻の森美術館]]割引入場券がセットになった券。有効期間は、使用開始日を含めて2日間。
; 箱根旧街道・1号線きっぷ
: 小田急電鉄線発駅から小田原駅までの往復割引乗車券と箱根登山鉄道線小田原駅 - 小涌谷駅間および箱根登山バス小田原駅 - 元箱根港・箱根町間に乗降自由のフリーパスがセットになった券。有効期限は、使用開始日を含めて1日間。日本初の[[カーボンオフセット]]を導入した周遊券。2008年9月1日発売開始、同年10月1日利用開始。これの発売に伴い1988年3月から発売されていた「箱根旧街道ハイキングパス」廃止。
; [[小江戸・川越フリークーポン]]
かつては'''御殿場往復割引きっぷ'''、'''小田急・世田谷線散策きっぷ'''も発売していた。
== 設備 ==
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2020年5月|独自研究=2020年5月}}
=== 駅の設備 ===
[[ファイル:Platform ticket Haruhino Sta.jpg|thumb|200px|改札鋏の例(はるひ野駅)]]
* 小田急では2005年を除き年2回[[社債]]を1月(愛称「小田急箱根ゆけむりボンド」)と7月(愛称「小田急箱根あじさいボンド」)に[[野村證券]]、[[大和証券]]などで一般投資家向けに起債している。この資金などで各駅の[[バリアフリー]]化、待合室の設置などを行っている。
* 新宿駅、小田原駅、藤沢駅、片瀬江ノ島駅、新百合ヶ丘駅(多摩線)、唐木田駅(以上は全て路線の起終点駅または[[スイッチバック]]構造の駅)、代々木八幡駅、東北沢駅、下北沢駅、世田谷代田駅(東北沢、下北沢、世田谷代田の3駅については、[[小田急小田原線|小田原線]]の[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化・[[複々線]]化事業の着手前はいずれも相対式ホームであった)をのぞいた全ての駅で上下別々の[[相対式ホーム]]を使用している。かつては梅ヶ丘駅において上下で[[島式ホーム]]1面を共用していたが、その後相対式ホームへ改良された。下北沢駅は当初は上下共用の島式ホームで、その後ホーム増設が行なわれたが、地下化に伴い島式ホームとなっている。また代々木八幡駅は対向式ホームであったが、急カーブの改良工事完了後に島式ホームとなっている。
* 沿線における戦後の急速な人口増加を見極め切れず、新宿駅の大改良では短期間での再工事を行わざるを得なかった。
* [[自動券売機]]などの更新には積極的で、早い時期に1万円札まで対応の券売機が全駅に設置されている。[[自動改札機]]の導入も全駅で完了しているが、有人改札口では[[改札|改札鋏]]が引き続き使用されていた。改札鋏は、2016年11月末で廃止され、日付の入ったスタンプ式となった。改札鋏の鋏痕は各駅で異なっており、これを利用して、通常は部外秘である各駅の鋏痕を公開しただけでなく、1985年春には全駅の改札鋏を集めて回る「ぱちんぱっちん 68駅パンチめぐり」、1986年春には全駅の改札鋏とスタンプを集めて回る「ぺたんぱっちん 68駅スタンプ・パンチめぐり」といったイベントが行なわれた。
* 2006年から主要駅構内に[[自動体外式除細動器]] (AED) が設置され、2012年4月に全駅への設置が完了した。また、2008年3月から運転を開始したロマンスカー60000形MSEには日本で初めて列車内にAEDが設置され、同年内に他のロマンスカー全編成にも設置された。
==== 駅名標 ====
* [[2002 FIFAワールドカップ|2002年サッカーワールドカップ]]での旅客輸送などに対応するために、[[2001年]]頃から[[中国語]]・[[朝鮮語]]による案内を導入した。これは、[[横浜国際総合競技場]]方面(JR[[横浜線]])への乗換駅である[[町田駅]]までの案内のためで、[[駅名標]]には英字に加えて[[ハングル]](一部には中国語[[簡体字]]・[[繁体字]])の併記も行われている。ただし一部の主要駅のみにとどまっており、それ以外の駅では中国語と朝鮮語の表記は無い。2001年以降に新設・交換された駅名標などのサイン類は、主要駅においてはハングル(一部は中国語簡体字)表記がなされたもので製作されているが、それ以外の駅では従来通り日本語と英字のみである。
* [[2014年]][[1月]]より[[駅ナンバリング]]を導入している<ref name="odakyu20131224"/>。
* 小田急の[[#社紋・ブランドマーク|ブランドマーク]]の導入の前後から[[ユニバーサルデザイン]]の[[ピクトグラム]]がほぼ全駅で導入されている。[[2011年]]以降に交換された駅名標などの案内サイン類は、全て新型のデザインであるほか[[LED照明]]付きのもので製作されている。
* [[2021年]][[4月1日]]より[[経堂駅]]で、[[東京農業大学]]が開学130周年を迎えたことから、地域の賑わい創出に貢献するために小田急で初めて、「東京農業大学 最寄駅」の副駅名看板を掲出した。
<gallery widths="200">
OER Fujisawa station Signboard.jpg|日本語・英語・ハングル併記の駅名標(藤沢駅)
厚木駅駅標.png|所在地名入りで日本語と英字のみの駅名標。厚木駅は海老名市に在するため、厚木市街地方面との混乱を生まないようJR東海の駅名標と似た地名の入ったデザインとなっている。(厚木駅)
Odakyu-electric-railway-OE02-Chuo-rinkan-station-sign-20190420-122648.jpg|新型駅名標(中央林間駅)
</gallery>
==== 発車標 ====
[[ファイル:Odakyu Shunjuku Sta Information Board.jpg|thumb|200px|フルカラーLED式の発車標(新宿駅)]]
* [[発車標]]については[[発光ダイオード|LED]]式のものが主に使われており、近年はフルカラー式の表示に更新が始まっており、[[液晶ディスプレイ|LCD]]式のものが使用されている駅もある。特急列車の空席案内ではLCD式のものが使われており、使用車両もわかる表示になっている。特に新宿駅のホームの発車標は乗車位置の表示(一般列車)や特急列車の使用車両や空席状況も表示されている。
=== アナウンス(自動放送) ===
2021年現在、駅構内の自動放送は上りホームを[[関根正明]]、下りホームを[[緒方智美]]が担当している。ただし、以下の駅は例外である。
*[[経堂駅]]の下り急行線ホーム(2番ホーム)と[[成城学園前駅]]の下り緩行線ホーム(1番ホーム)、および[[新百合ヶ丘駅]]の4番ホームは関根が担当。
*経堂駅・成城学園前駅・[[登戸駅]]・[[向ヶ丘遊園駅]]の上り緩行線ホーム(経堂駅では3番ホームのみ)、および[[小田原駅]]・[[藤沢駅]]・[[片瀬江ノ島駅]]・[[唐木田駅]]のすべてのホームは緒方が担当。
*新宿駅はすべてのホームを長塚みどりが担当<ref>{{Cite web|和書|title=長塚 みどり|url=https://www.joystaff.jp/talent/179/|publisher=JOYSTAFF|accessdate=2019-11-09}}</ref>。
[[車内放送|車内自動放送]]は、日本語を[[西村文江]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/|title=鉄道トリビア(105) 車内放送に意外な有名人が関わっている |website=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2011-07-02|accessdate=2020-05-07}}</ref>、英語を[[クリステル・チアリ]]が担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/christelle-ciari.html|title=クリステル チアリ |publisher=株式会社青二プロダクション|accessdate=2020-05-07}}</ref>。なお2018年3月17日のダイヤ改正時からは、新たに駅番号と次の停車駅の案内のパーツが追加されている。
=== 線路 ===
* 安全面としては、[[脱線防止ガード]]を半径400m以下のカーブに設置している。
* 複々線区間などの一部の軌道には[[ラダー軌道]](ラダー[[枕木]])など最新の軌道技術を採用し、乗り心地にも配慮している。
* 東京都[[世田谷区]]を中心とする沿線地主・支援者の反対運動などもあって、複々線化工事は遅れていたが、2018年3月、代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線完成による新ダイヤにより、ラッシュ時の混雑緩和や列車の遅延減少などが実現した。なお、2004年11月に梅ヶ丘駅 - 和泉多摩川駅まで複々線が完成。引き続き梅ヶ丘駅 - 東北沢駅間(代々木上原駅 - 東北沢駅間は一旦完成していたが下北沢駅周辺の整備との関係で再工事、2018年3月完成)と和泉多摩川駅 - 向ヶ丘遊園駅間([[川崎市]]による周辺地域の区画整理の遅れのため2009年3月に暫定的に3線化で完成)の複々線化工事が行われた。また、梅ヶ丘駅以西の高架複々線化が完成するまで、世田谷区内の沿線には、「高架複々線建設反対」「地下複々線化の実現を」などといった立て看板が多数設置されていた。しかし、[[経堂]]地区で高架複々線促進協議会が発足していたなど、世田谷区内の沿線では高架複々線化推進の動きもあった<ref>{{PDFlink|[http://www.eng.kagawa-u.ac.jp/~doi/lab/work-PDF/(7)/7-1.pdf 都市基盤整備におけるコンフリクト予防のための計画プロセスの手続的信頼性に関する考察]}}</ref>。
*[[代々木八幡駅]]や[[東北沢駅]]など一部の例外を除き、待避のない中間駅は基本的に相対式でカーブのない直線ホームを使用している。
=== 早期地震警報システム ===
鉄道事業者としては初めて「[[早期地震警報システム]]」を導入し、[[2006年]][[8月1日]]に[[気象庁]]が特定事業者に向けて提供する[[緊急地震速報#「高度利用者向け」緊急地震速報|高度利用者向け緊急地震速報]]の配信開始にあわせて運用している。
=== 自動列車停止装置 ===
デジタル信号を用いた[[自動列車停止装置]]のD-ATS-Pを全線で使用している。D-ATS-Pは[[2012年]][[3月]]に多摩線で導入し、以後、各線で導入が進められ、[[2015年]][[9月12日]]に全線で導入が完了した<ref>{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/43033/|title=どう変わる? 小田急、新型ATS導入完了|date=2015-09-12|accessdate=2017-01-29|publisher=乗りものニュース}}</ref>。D-ATS-P導入前は変周式の自動列車停止装置 (OM-ATS) が全線で使用されていた。
=== 踏切集中監視システム ===
小田急線内にある230余の全[[踏切]]に監視カメラ・集音マイク・スピーカーを設置(立体化によって廃止された踏切9個には監視カメラのみ設置)し、運輸司令所と隣接している電気司令所にて踏切の各動作([[遮断機]]の動作、異常発生時の機器の状況)を監視するもので、踏切支障時の迅速な対応が可能になる。[[2005年]]から導入が始まり、[[2008年]][[12月]]に全線で導入を完了した。
== 一日平均乗降人員上位25駅 ==
[https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ 公式サイト]、[http://www.train-media.net/index.html 関東交通広告協議会]および『[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]』『[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県統計要覧]』より。
{{↑}}{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。
{|class="wikitable" style="font-size:88%; text-align:right;"
|-style="text-align:center;"
!style="width:1em;"|順位
!style="width:11em;"|駅名
!style="width:6em;"|路線名
!style="width:11em;"|所在地
!style="width:6em;"|2020年度
!style="width:6em;"|2015年度
!style="width:6em;"|2010年度
!style="width:6em;"|2005年度
!style="width:6em;"|2000年度
!特記事項
|-
!1
|style="text-align:left;"|[[新宿駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線|小田原線]]
|style="text-align:left;"|[[東京都]][[新宿区]]
|{{↓}} 317,845
|{{↑}} 492,234
|{{↓}} 476,773
|{{↓}} 486,765
|495,438
|style="text-align:left;"|社内単一路線かつ他社線との相互直通がない私鉄ターミナル駅として最多。各社局線総合では世界一
|-
!2
|style="text-align:left;"|[[町田駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都[[町田市]]
|{{↓}} 200,781
|{{↑}} 291,911
|{{↑}} 290,621
|{{↑}} 281,280
|277,304
|style="text-align:left;"|
|-
!3
|style="text-align:left;"|[[代々木上原駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都[[渋谷区]]
|{{↓}} 190,176
|{{↑}} 251,439
|{{↑}} 224,032
|{{↑}} 182,257
|171,288
|style="text-align:left;"|[[東京メトロ千代田線]]との直通人員を含む。
|-
!4
|style="text-align:left;"|[[藤沢駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|style="text-align:left;"|[[神奈川県]][[藤沢市]]
|{{↓}} 122,034
|{{↑}} 162,345
|{{↑}} 154,045
|{{↑}} 142,109
|142,096
|style="text-align:left;"|
|-
!5
|style="text-align:left;"|[[登戸駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[川崎市]][[多摩区]]
|{{↓}} 117,994
|{{↑}} 161,548
|{{↑}} 151,662
| 134,448
|
|style="text-align:left;"|
|-
!6
|style="text-align:left;"|[[海老名駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[海老名市]]
|{{↓}} 102,399
|{{↑}} 143,629
|{{↓}} 131,505
|{{↑}} 133,132
|128,427
|style="text-align:left;"|
|-
!7
|style="text-align:left;"|[[本厚木駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[厚木市]]
|{{↓}} 97,984
|{{↑}} 152,467
|{{↑}} 141,839
|{{↓}} 141,390
|145,001
|style="text-align:left;"|他路線と接続しない私鉄の駅として日本一。
|-
!8
|style="text-align:left;"|[[新百合ヶ丘駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線<br />{{Color|#2288CC|■}}[[小田急多摩線|多摩線]]
|style="text-align:left;"|神奈川県川崎市[[麻生区]]
|{{↓}} 91,516
|{{↑}} 124,747
|{{↑}} 121,119
|{{↑}} 106,525
|99,791
|style="text-align:left;"|
|-
!9
|style="text-align:left;"|[[大和駅 (神奈川県)|大和駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}江ノ島線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[大和市]]
|{{↓}} 90,097
|{{↑}} 116,042
|{{↑}} 111,481
|{{↓}} 102,765
|105,975
|style="text-align:left;"|
|-
!10
|style="text-align:left;"|[[相模大野駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線<br />{{Color|#2288CC|■}}江ノ島線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]]
|{{↓}} 87,835
|{{↑}} 129,015
|{{↑}} 119,166
|{{↑}} 113,093
|106,000
|style="text-align:left;"|
|-
!11
|style="text-align:left;"|[[下北沢駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都[[世田谷区]]
|{{↓}} 82,821
|{{↓}} 114,118
|{{↑}} 131,992
|{{↓}} 127,048
|132,404
|style="text-align:left;"|
|-
!12
|style="text-align:left;"|[[中央林間駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}江ノ島線
|style="text-align:left;"|神奈川県大和市
|{{↓}} 73,239
|{{↑}} 97,382
|{{↑}} 89,892
|84,104
|
|style="text-align:left;"|
|-
!13
|style="text-align:left;"|[[湘南台駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}江ノ島線
|style="text-align:left;"|神奈川県藤沢市
|{{↓}} 65,612
|{{↑}} 90,208
|{{↑}} 82,948
|{{↑}} 76,247
|58,557
|style="text-align:left;"|
|-
!14
|style="text-align:left;"|[[成城学園前駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都世田谷区
|{{↓}} 58,614
|{{↑}} 88,516
|{{↑}} 84,182
|{{↓}} 77,911
|85,386
|style="text-align:left;"|
|-
!15
|style="text-align:left;"|[[経堂駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都世田谷区
|{{↓}} 57,253
|{{↑}} 74,691
|{{↑}} 67,541
|{{↑}} 65,916
|63,785
|style="text-align:left;"|
|-
!16
|style="text-align:left;"|[[鶴川駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都町田市
|{{↓}} 46,377
|{{↑}} 69,261
|{{↑}} 68,188
|66,647
|
|style="text-align:left;"|
|-
!17
|style="text-align:left;"|[[千歳船橋駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都世田谷区
|{{↓}} 44,739
|{{↑}} 57,112
|{{↑}} 51,663
|{{↑}} 47,256
|47,009
|style="text-align:left;"|
|-
!18
|style="text-align:left;"|[[小田急相模原駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県相模原市南区
|{{↓}} 43,632
|{{↑}} 56,293
|{{↑}} 55,034
|54,477
|
|style="text-align:left;"|
|-
!19
|style="text-align:left;"|[[小田原駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[小田原市]]
|{{↓}} 41,803
|{{↑}} 64,580
|{{↑}} 64,685
|{{↓}} 63,600
|66,220
|style="text-align:left;"|[[箱根登山鉄道鉄道線]]との直通人員を含む。
|-
!20
|style="text-align:left;"|[[向ヶ丘遊園駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県川崎市[[多摩区]]
|{{↓}} 41,442
|{{↑}} 65,774
|{{↑}} 64,199
|{{↓}} 60,741
|63,106
|style="text-align:left;"|
|-
!21
|style="text-align:left;"|[[狛江駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都[[狛江市]]
|{{↓}} 36,661
|{{↑}} 45,650
|{{↑}} 42,738
|41,997
|
|style="text-align:left;"|
|-
!22
|style="text-align:left;"|[[伊勢原駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県[[伊勢原市]]
|{{↓}} 36,216
|{{↑}} 51,733
|{{↑}} 49,703
|50,170
|
|style="text-align:left;"|
|-
!23
|style="text-align:left;"|[[愛甲石田駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|神奈川県厚木市
|{{↓}} 34,670
|{{↑}} 51,341
|{{↑}} 47,460
|45,686
|
|style="text-align:left;"|
|-
!24
|style="text-align:left;"|[[祖師ヶ谷大蔵駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}小田原線
|style="text-align:left;"|東京都世田谷区
|{{↓}} 33,774
|{{↑}} 47,857
|{{↑}} 42,856
|{{↑}} 38,689
|33,654
|style="text-align:left;"|
|-
!25
|style="text-align:left;"|[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]
|style="text-align:left;"|{{Color|#2288CC|■}}多摩線
|style="text-align:left;"|東京都[[多摩市]]
|{{↓}} 31,339
|{{↑}} 49,809
|{{↑}} 46,984
|{{↑}} 36,493
|32,290
|style="text-align:left;"|
|-
|}
小田原線のターミナル駅である新宿駅の一日平均乗降人員は約31万人であるが、京王線新宿駅と比較すると19万人程度少ない。しかし、新宿駅の南側に位置する代々木上原駅で東京メトロ千代田線への相互直通運転を行っており、都心方面への利便性と輸送の冗長性に寄与している。同駅の一日平均乗降人員は約19万人であり、近年は増加傾向が続いている。
乗降人員が10万人を超える6駅は全て快速急行が停車する。特に横浜線と接続する町田駅は、新宿駅から30km程度離れているのにも関わらず一日平均乗降人員は約20万人であり、他の私鉄路線と比較しても突出して輸送人員が全体的に多い。また新宿駅から45km程度離れた本厚木駅は、他路線と接続しない単独駅でありながら一日平均乗降人員が10万人に近い。小田原線はこれらの主要駅を利用する乗客を捌くために、優等列車を基軸としたダイヤが終日にわたって組まれている。朝のラッシュ時に運転される通勤急行は、登戸駅を通過する代わりに成城学園前駅に停車する千鳥停車を行い、快速急行に乗客が集中しないようなダイヤが組まれている。
江ノ島線で最も乗降人員が多い駅は藤沢駅であり、一日平均乗降人員は約12万人である。路線距離に対して比較的接続路線が多く、同駅と相模大野駅、大和駅、中央林間駅、湘南台駅の5駅は乗降人員が6万人を超えている。
多摩ニュータウンへのアクセス路線である多摩線は、他2路線と比較して輸送量が少ない。都心方面へは[[京王相模原線]]と競合しており、多摩急行の新設を機に小田原線への直通列車を増発した。輸送人員は年々増加傾向にあるものの、小田急多摩センター駅の乗降人員は京王多摩センター駅の6割程度である。
== 金融・与信事業 ==
[[File:Bank of Yokohama Station ATM.jpg|thumb|180px|小田急線の駅構内に設置された横浜銀行ATM]]
* [[2003年]][[10月24日]]に[[横浜銀行]]と連携し、全駅に[[現金自動預け払い機|ATM]]設置を開始し、[[2005年]][[4月1日]]に全駅でATMを稼働させた。日本の鉄道会社の中では初の試み。利用可能時間は、年数回の特定日を除き、毎朝6時から深夜0時までとなっており、預金通帳の利用も可能。
* 小田急電鉄は、国際ブランド([[Visa]]・[[マスターカード|MasterCard]])の[[クレジットカード]]を「OPクレジット」として自社で発行している<ref>{{Cite web|和書|title=OPクレジット(JCB/Visa/Mastercard®) |url=https://www.odakyu-card.jp/create/line_up/op.html |website=小田急ポイントカード[OPカード] |access-date=2023-09-24}}</ref>。元々は子会社の「小田急カード株式会社」が発行していたが、2005年に同社を小田急電鉄が吸収合併して以降、自社での直接発行となった。自社でクレジットカードを発行している鉄道会社は、日本では[[2017年]]4月時点で小田急電鉄のほか、[[J-WESTカード]]を発行している[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の2社のみ<ref group="注釈">かつてはJR東日本も自社発行であったが、[[2009年]][[10月]]にカード部門を完全子会社「株式会社[[ビューカード]]」として分社化している(ブランド供給会社は[[クレディセゾン]]のUCカードと、JCBのブランド供給会社扱いで発行している)。</ref>。VISAとMasterCardのブランド供給会社は[[三菱UFJニコス]]の[[MUFGカード]](カード裏面に表記あり)。このほか、JCBブランドのカードは[[ジェーシービー]]が[[提携カード]]として発行している(2023年8月までは、Visa/Master同様に小田急電鉄が発行元となり、ジェーシービーへ業務委託するという扱いであった)。
== 広報 ==
=== キャッチコピー ===
* きょう、ロマンスカーで。
* 小田急は、次へ。 - 2008年のテレビCMでは、[[ハンバート ハンバート]]が[[コマーシャルソング|CM曲]]「待ちあわせ」を担当<ref name=":0">{{Cite web|title=PROFILE|url=http://www.humberthumbert.net/profile/|website=ハンバート ハンバート オフィシャルウェブサイト|accessdate=2020-08-05|publisher=}}</ref>。
* 世界に一つの日々と
* HELLO NEW ODAKYU! - 代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線化周知の際に使用。
=== 広報誌 ===
; [[おだきゅう]]
: 1987年から2008年3月まで発行されていた広報誌。
; ODAKYU VOICE(オダキュウボイス)
: 2008年4月から発行を開始した広報誌。2013年からはWeb版も開始された<ref>{{Cite web|title=PROFILE|url=https://insights.amana.jp/article/27590/|website=「Webと紙には全く別の価値がある」小田急電鉄のオウンドメディア戦略とは|accessdate=2021-10-15|publisher=amanaINSIGHTS}}</ref>。
=== マスコットキャラクター ===
; もころん
: 子どもに親しみがある[[ウサギ]]をモチーフにした小田急電鉄の子育て応援マスコットキャラクター<ref name="mokoron">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/dq4094000000366s-att/dq4094000000366z.pdf|title=子育て応援マスコットキャラクター「もころん」デビュー|publisher=小田急電鉄|date=2023-08-23|accessdate=2023-12-24|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231015065222/https://www.odakyu.jp/news/dq4094000000366s-att/dq4094000000366z.pdf|archivedate=2023-10-15|url-status=live}}</ref>。これまで、関東の大手私鉄の中では唯一、広報活動用のマスコットキャラクターが存在しなかったが<ref group="注釈">グループ会社では[[江ノ島電鉄]]の「えのんくん」や[[小田急バス]]の「きゅんた」などが存在する。</ref>、2021年11月に掲げた「子育て応援ポリシー」におけるPRの一環として2023年8月23日にデビューし、ブランドカラーのブルーを基調に、特急ロマンスカーの伝統色であるオレンジを手足やしっぽにあしらったデザインとなっている<ref name="mokoron" />。同年12月4日からは、車両前頭部にもころんのデザインを施した「もころん号」と称した[[ラッピング車両]]が期間限定で運行を開始した<ref>{{Cite web |title=「もころん号」運行してます! |url=https://www.odakyu.jp/oyako/topic/11408/ |website=小田急の子育て応援ナビ FunFanおだきゅう |date=2023-11-24 |access-date=2023-12-13 |language=ja}}</ref>。
=== ファン向けサービス ===
* 毎年10月の休日に、[[鉄道の日]]にちなみ、海老名電車基地と[[ビナウォーク]]で「[[小田急ファミリー鉄道展]]」を開催している(2019年は5月下旬開催、2020年は開催中止)。鉄道グッズ・食品の販売、鉄道模型の展示、鉄道車両の撮影会が実施されているほか、他社の鉄道イベントにも随時出店している。
* 「小田急グループ 親子体験イベント」の一環として、小田急沿線に住む親子を対象に「ファミリー鉄道教室」を開催している。運転士・車掌の仕事や電車が動く仕組みについて学び、車両洗浄などの見学を行う。
* 2007年の小田急線開業80周年を記念して、公式サイトに「[[小田急バーチャル鉄道博物館]]」を開設している。
* 2012年3月24日・25日に同年3月16日のダイヤ改正で営業運転を終了した5000形およびロマンスカー10000形・20000形のお別れイベント「The Last Greeting 〜想いは、引き継がれる。〜」を開催した。毎年行われるファミリー鉄道博の内容に加え、前記3車種の車内撮影などが行われた。
* 2008年以降、子会社の[[箱根登山鉄道]]とのつながり([[全国登山鉄道‰会|全国登山鉄道パーミル会]])で関西圏の[[南海電気鉄道]]のイベントでも出店を行い、関西圏でのPRを展開している。また南海電鉄もファミリー鉄道展でほぼ毎年出店を行っている。
=== その他 ===
* [[1970年代]]前後には多くのテレビドラマの舞台として電車が登場し、沿線ドラマは全国に知れ渡るところとなった(代表例:[[ウルトラシリーズ]]、[[ケンちゃんシリーズ]]など)。
* [[藤子不二雄]]の作品との関係
** 『[[オバケのQ太郎]]』の命名の経緯として、作者が小田急で通勤していたので小田急からオバQになったという説がある。
** 『[[ドラえもん]]』に「小羽急百貨店」が登場する。「のび太特急と謎のトレインハンター」では取材に協力し、歴代の小田急車両が劇中で多数登場した。
** 『[[笑ゥせぇるすまん]]』の喪黒福造は、小田急線沿線に在住しているという設定で、作品内に小田急線が度々登場する。
* [[テレビ東京]]『[[日経スペシャル カンブリア宮殿]]』2017年5月4日の放送分にて、小田急電鉄の事業戦略について放送した<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/2017/0504/ 2017年5月4日放送 小田急電鉄 会長 山木 利満(やまき としみつ)氏] - テレビ東京</ref>。
* [[湘南海岸|江の島海岸]]において清掃活動を行う「小田急クリーンキャンペーン」を毎年実施し、グループ社員や沿線住民が参加している。
== スポーツとの関係 ==
* [[1949年]][[11月27日]]付の『[[朝日新聞]]』朝刊に、[[日本プロ野球|プロ野球]]に関する記事があり、その中に「新リーグの一つは名称[[セントラル・リーグ|セントラルリーグ]]<!-- 引用元の原文では「・」が書かれていないのでしょう。-->で、[[読売ジャイアンツ|巨人]]・[[阪神タイガース|阪神]]・[[中日ドラゴンズ|中日]]・大陽<ref group="注釈">1949年のシーズンまで「大陽ロビンズ」(1948年に太陽ロビンズから改称)と名乗っていた[[松竹ロビンズ]]のこと。</ref> の既成球団と、[[マルハ|大洋漁業]]・[[西日本新聞社|西日本新聞]]・'''小田急'''の八チーム」とあり、この時点では小田急はプロ野球球団の所有を計画していた<ref group="注釈">他には[[山陽電気鉄道]]がプロ野球球団の所有を企図し、一時期2軍チームの[[山陽クラウンズ]]を所有している。</ref>。しかし球団所有が具体化しつつあったものの、結局は球団所有を断念した。「[[プロ野球再編問題 (1949年)]]」も参照。
* 過去に女子[[バレーボール]]チーム[[小田急ジュノー]]を所有していた。[[丸山由美]]を初代監督に招いて1986年に発足したが、[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ]]所属時の1998年限りで休部した。現在、小田急は丸山を主任講師としたバレーボールクリニックを世田谷区などで開催している。
* 東京都[[町田市]]が本拠地のプロサッカークラブ[[FC町田ゼルビア]]のトップパートナー(スポンサー)としてユニフォームの背中部分にodakyuの広告を掲出し、町田市内にある小田急線の駅構内に掲示板を設置して試合告知や試合結果を貼りだしたり、ホームゲーム開催週には小田急線車内に試合告知のための中吊り広告ポスターを掲出したりしている。シーズン中のFC町田ゼルビアのホームゲームの一部の試合では、「小田急」マッチを開催<ref>{{PDFlink|[https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001azzq-att/o5oaa1000001azzx.pdf FC町田ゼルビア×小田急 共同企画 - 小田急電鉄]}}</ref> し、その試合関連イベント運営にも協力している。
== 労働組合 ==
[[有価証券報告書]]によれば、労働組合の状況は以下の通り<ref name="yuho" />。
{| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1"
|-
!名称
!上部組織
|-
|小田急労働組合
|[[日本労働組合総連合会]]・[[日本私鉄労働組合総連合会]]
|}
== その他 ==
* 株式会社[[日本格付研究所]]による[[信用格付け|格付け]]は、「'''AA-'''」となっている(2021年5月14日時点)<ref>{{PDFlink|[https://www.jcr.co.jp/download/13be60bfbcadc1104142d54e19edc4d26000909b44ab36f46a/21d0138.pdf 株式会社日本格付研究所による格付け(2021年5月14日)]}}</ref>。
* 安藤記念奨学財団と小田急電鉄事業団を前身とする[[財団法人|公益財団法人]]小田急財団を通して社会還元を行っている。[[安藤楢六]]は小田急中興の祖である。
* [[成城学園前駅]]付近の地下区間上のスペースを利用した貸し農園の経営も行っている。
* [[日本映画]]の[[主題歌]]第一号となった『[[東京行進曲]]』(作詞:[[西條八十]]、[[1929年]])に当時急速に発展していた新宿の代名詞の一つとして「いっそ小田急で逃げましょか」というフレーズが歌い上げられており、その部分は[[日本における検閲|検閲]]を恐れて原案の歌詞を差し替えた経緯があり、当時から「小田急」という名称が浸透していたことがわかる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="odakyu20190905">{{Cite press release |和書 |title=鉄道旅客運賃の変更認可および改定について |publisher=小田急電鉄 |date=2019年9月5日 |url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001m385-att/o5oaa1000001m38c.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-01}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|authorlink = | translator = | title = 人事興信録 第15版 上| publisher = 人事興信所| series = | volume = | edition = | date = 1948| pages = | url = {{NDLDC|2997934}}| doi = | id = | isbn = | ncid = |ref = jinji-15-jo}}
* {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|authorlink = |translator = |title = 人事興信録 第38版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 1995|pages = |url = https://books.google.co.nz/books?id=0PBMAQAAIAAJ|doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = jinji-38-ge}}
* 『東京急行電鉄50年史』
* 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2004年9月号 特集:東京メトロ([[交友社]])
* JTBキャンブックス『小田急電鉄の車両』(編者・著者 大幡哲海、出版・発行 [[JTB]] 2002年)ISBN 4533044697
* [[カラーブックス]]『768 日本の私鉄 小田急』(編者・著者 [[生方良雄]]・[[諸河久]]、出版・発行 [[保育社]] 1988年)ISBN 4586507683
* カラーブックス『902 日本の私鉄 小田急』(編者・著者 生方良雄・諸河久、出版・発行 保育社 1997年)ISBN 4586509023
* 『MY LINE 東京時刻表』各号([[交通新聞社]])
* 『小田急時刻表』各号(交通新聞社)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Odakyu Electric Railway}}
{{Wikinewscat|小田急電鉄}}
* [[小田急電鉄直営事業]]
* [[小田急ポイントカード]]
* [[小田急沿線新聞]]
* [[林間都市]]
* [[グーパス]]
* [[小田急ピポーの電車]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/ 小田急電鉄公式サイト]
* {{Facebook|romancecar|小田急ロマンスカー}}
* {{YouTube|channel = UCf06zwF878TfyMOgUOx1Klw|OdakyuMovie}}
* {{Twitter|odakyuline_info|小田急線列車運行状況}}
*[https://twitter.com/ONE_20191210 ONE(オーネ)【公式・小田急】](ONE20191210)-[[Twitter]]
* 「[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0494.pdf 小田原急行鉄道の開通と今後の事業]」『土木建築工事画報』 第3巻 第5号 工事画報社 昭和2年5月発行
* 「[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/03-05/03-05-0495.pdf 小田原急行鉄道工事概要]」『土木建築工事画報』第3巻 第5号 工事画報社 昭和2年5月発行
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[[Category:日本のクレジットカード事業者]] | 2003-03-04T14:05:11Z | 2023-12-24T03:43:38Z | false | false | false | [
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3,388 | 猫部ねこ | 猫部 ねこ(ねこべ ねこ、1967年10月19日 - )は、日本の漫画家。女性。静岡県浜松市出身。
中学生の頃から少女漫画誌『なかよし』(講談社)への投稿を開始し、シルバー賞やゴールド賞などを獲得していた。
1986年、『なかよしデラックス』(講談社)8月号に掲載された「FIRST DATE」でデビュー。デビュー当初のペンネームは「猫部ねこ♡」と、ハートマークがついていた。
1989年から『なかよし』にて連載された、空を飛ぶ金魚「ぎょぴちゃん」などが繰り広げるドタバタコメディ『きんぎょ注意報!』が大ヒット。東映動画(現 東映アニメーション)制作で1991年から1992年にかけてテレビアニメ化、1992年4月には劇場版『きんぎょ注意報!』が公開された。また2005年にコミックス新装版およびDVD-BOXが発売され、『なかよし』誌上に「きんぎょ注意報!特別編」が掲載された。2019年にはBlu-ray BOXが発売された。
一時期『Amie』(講談社)に移ったこともあるが、その後『なかよし』に復帰した。猫部と同期で、共に1990年代前半の『なかよし』を支えてきた武内直子と秋元奈美も、一度『なかよし』を離れたのち出戻った経緯がある。
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] | 猫部 ねこは、日本の漫画家。女性。静岡県浜松市出身。 | {{特殊文字}}
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'''猫部 ねこ'''(ねこべ ねこ、[[1967年]][[10月19日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。女性。[[静岡県]][[浜松市]]出身。
== 経歴 ==
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[[1986年]]、『なかよしデラックス』(講談社)8月号に掲載された「FIRST DATE」でデビュー。デビュー当初の[[ペンネーム]]は「猫部ねこ{{JIS2004フォント|♡}}」と、[[ハートマーク]]がついていた。
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一時期『[[Amie]]』(講談社)に移ったこともあるが、その後『なかよし』に復帰した。猫部と同期で、共に[[1990年代]]前半の『なかよし』を支えてきた[[武内直子]]と[[秋元奈美]]も、一度『なかよし』を離れたのち出戻った経緯がある。
[[ネコ|ねこ]]や[[イヌ|犬]]など動物を飼うのが好き。<!-- 最近では健康に気をつけているらしい。 -->
== 作品リスト ==
* [[どっきんタイムトリップ]]([[なかよし]]、[[講談社]]) ISBN 4-06-178623-7
** このこねこのこ
** サンタさんのSOS
* [[きんぎょ注意報!]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/103083/|title=きんぎょ注意報! : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2023-01-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/movie/103124/|title=劇場版 きんぎょ注意報! : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2023-01-01}}</ref>(なかよし)
** HINAKO(『きんぎょ注意報!』5巻に収録)
** ムーンライトマジック その2(同上)
* [[ペンギン探偵団]](なかよし) ISBN 4-06-178655-5
** 双子のドロップ
** 気になるメモリー
** ムーンライト☆マジック
* [[きらら音符|きらら音符(ノート)]](なかよし) ISBN 4-06-178804-3
* [[あいりんドリーム]](なかよし)
** 猫にゃんにゃん(『あいりんドリーム』1巻に収録)
* 愛は惜しみなく奪うモノ([[Amie]]、講談社、単行本未出版)
* [[呪ってあっこちゃん|呪って{{JIS2004フォント|♡}}あっこちゃん]](なかよし) ISBN 4-06-178925-2
* [[どこでもハムスター]](なかよし、なかよし増刊) ISBN 4-06-334534-3
* [[どーなつプリン]](なかよし)
* ぴよっこガーデン([[なかよしラブリー]]、講談社、単行本未出版)
* 君はワンドル!(なかよし、なかよしラブリー掲載、単行本未出版)
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20120531144150/http://games.nakayosi-net.com/mfile/mangaka/nekobe.html デジなか-まんが家情報] - 講談社によるページ。プロフィールを掲載(インターネットアーカイブ)
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3,389 | バチカン | バチカンとは、バチカン市国とカトリックの総本山の総称である。国家としてのバチカン市国(バチカンしこく、ラテン語: Status Civitatis Vaticanae、イタリア語: Stato della Città del Vaticano)は、1929年にラテラノ条約により独立国となった南ヨーロッパに位置する国家で、その領域はローマ市内にある。国土面積は世界最小である。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカン、ヴァティカーノとも表記される。
バチカンはローマ教皇(聖座)によって統治される国家であり、カトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「#国民と国籍」節で後述)。
ローマ教皇庁の責任者は国務長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。
教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務長官はイタリア人のピエトロ・パロリン枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はスペイン出身のフェルナンド・ベリゲス・アルサガ(英語版、イタリア語版)枢機卿が務めている。
バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。
公用語はラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。警護に当たるスイス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語・ポルトガル語・英語も常用されている。
バチカンを支える数千人の職員の大半はイタリア国内に居住しており、体裁上国外から通勤する形となっている。
バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「ネクロポリス」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた。326年にコンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。
やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、752年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。
教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年のアヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。
教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年にイタリア王国が成立すると教皇領の大部分を占める北部地域の教皇領が接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。
1870年に普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。
このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。
1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、信教の自由を考慮して修正された。
法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳未満の枢機卿(すうききょう)たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は、男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。
主権国家としてのバチカン市国と主権実体としての聖座及び教皇庁は同義のようだが同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Città del Vaticano) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。
委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生すると、カメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい教皇が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。
バチカン市国は、一切の軍隊を保持していない。警察力も永世中立国であるスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。
イタリアとの入出国は自由。国境もガードレール風の柵があるだけで、国境検問所の類いは一切無く、よって出入国管理体制もない。国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳や貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上の国内警備につながった。
教皇の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世の神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、その身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。衛兵はスイスでカトリック教会からの推薦を受けた、カトリック信徒の男性が選ばれている。
衛兵の制服は、一説にはミケランジェロのデザインとも言われるが、1914年に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろランツクネヒトを彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵である。1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。
かつては、スイス人衛兵だけでなく、教皇騎馬衛兵や宮殿衛兵といわれる衛兵隊が存在していたが、形式的なものになっていたためパウロ6世によって1970年に廃止された。
日本の外務省は、ローマ教皇を国家元首とする独立国家をバチカン市国と呼び、その聖俗両面の総称をバチカンとしている。
日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は、1981年のヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。また「教える」という意味を含む「教皇」が、より職務を表していると考えた。
以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、東京都千代田区にある「ローマ法王庁大使館」においても、これにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本国政府から「日本における各国公館の名称変更は、クーデターなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称を使用していた。(官報や外務省の公文書でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本国政府の用いる公式名称であるとみなされていた)このような経緯もあって、マスメディアでは長らく「教皇」と「法王」の呼称が混用されていた。
2018年2月9日、衆議院予算委員会で立憲民主党の山内康一がこの件で質問を行っている。事前通告されたのを受けて、外務省が当事者である駐日大使館及びバチカン市国へ問い合わせを行ったところ、いずれも名称変更(=「教皇」への訳語統一)を求めていないと回答された。しかし外務大臣河野太郎は、2015年に表記変更を行ったジョージアの例を上げつつ、要望があれば対応することを表明した。
2019年11月20日、第266代教皇フランシスコの来日を目前にして、日本国政府及び外務省は「ローマ教皇」に呼称を変更した。外務省は変更の理由を、カトリック関係者ほか一般的に「教皇」を使用する場合が多いこと、また日本国政府がバチカン市国側に呼称の変更が問題ないことが確認できたため、と説明した。政府の名称変更に合わせ産経新聞や日本放送協会ほかメディアも呼称を変更した。
バチカン市国が成立した1929年以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてバチカンの外交使節が各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった。2011年現在、バチカンは174カ国と国際連合およびマルタ騎士団の特命全権大使を受け入れており、179の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している。
正式な外交関係を維持しているのはバチカン市国ではなくローマ法王庁である。
現在、教皇庁は 184 の主権国家と外交関係を維持しており、教皇庁が関係を確立した最後の国は、2023 年のオマーンとなっている。
一方、前述のように事実上イタリアとの国境管理がされていないことに加え、狭いバチカン市国内では各国が大使館を構えるだけの敷地が現実的に取れないという事情もあり、バチカンと外交関係を有するほとんどの国は国内に大使館を設置せず、ローマの在イタリア大使館がバチカンを兼務している。ただし、イタリアと外交関係を有しない中華民国はその例外としてバチカン国内に大使館を設置している。
日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは第二次世界大戦中の1942年で、このとき相互に公使館を設置したが、戦後連合国軍の占領下で一旦引き上げて、1952年に再設置した。日本は1958年に駐バチカン日本公使館を大使館に格上げし(バチカン側が駐日ローマ法王庁公使館を大使館に格上げしたのは1966年)現在に至っている。
日本国大使館(正式名称:在バチカン日本国大使館(ポーランド語版))は隣国イタリア・ローマにおかれている(なお、バチカンと外交関係を有する国家のうち約100カ国は兼轄であり、常駐の特命全権大使を派遣しているのは、日本を含めて80カ国弱である)。なお、東京都にあるバチカン大使館の正式名称は「ローマ法王庁大使館(イタリア語: Nunzio apostolico in Giappone)」である。
イギリスとは、ヘンリー8世の離婚問題、国王至上法によってイギリス国教会が設立されてからローマ教皇がイギリス王を破門するかたちで断絶が続いていた。以来、イギリス国王とローマ教皇は没交渉であったが1914年に交渉が回復した。バチカン市国が建国され、主権国家として外交関係が樹立されたのは1982年のヨハネ・パウロ2世のイギリス司牧の旅以降である。2010年にはベネディクト16世が国賓としてイギリスを訪問。その答礼として2014年にエリザベス2世、エジンバラ公フィリップがバチカンを訪問した。しかしベネディクト16世の頃は、彼の超保守的な思想やカトリック聖職者の性的虐待問題でイギリス国民が、次のフランシスコのときは彼がアルゼンチン出身であること、フォークランド諸島で紛争を抱えるイギリス政府が、態度を硬化させている。
前身となるソビエト社会主義共和国連邦とはロシア革命以降外交関係を持っていなかったが、1990年3月15日に外交関係が樹立された。ソ連崩壊後、後継となるロシア連邦ではバチカン市国との外交関係を有していなかったことから、外交関係再設定への動きが進み、2009年12月3日に大統領ドミートリー・メドヴェージェフが、バチカン市国を訪問して教皇ベネディクト16世と会談を行い、国交が樹立された。翌年の2010年には正式に大使が交換されている。ウラジーミル・プーチンは大統領・首相として通算4度バチカンを訪れ、時の教皇と会談している。
キューバは1935年に国交を樹立してから、キューバ革命後も関係が継続している。なお、キューバは社会主義者による革命が起きたにも関わらず国交断絶しなかった唯一の社会主義国である。
2011年時点で、バチカンと外交関係が樹立されていない国は16カ国である。主な国家としては、宗教の存在を否定する共産党の一党独裁国家で社会主義国の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナム、ラオスと、イスラム国家のサウジアラビア、アフガニスタン、ソマリア、ブルネイなどがある。ただし同じイスラム国家でも首長国のアラブ首長国連邦や王制のヨルダン、イランなどとは外交関係がある。
中華人民共和国は信教の自由がなく、カトリック教会を政府の管理下に置き続ける上、キリスト教関係者を逮捕、追放するなど弾圧を続けていることを理由に、1949年10月1日の中華人民共和国の建国以来、国交を持っていない。なお宗主国との条約の下で一国二制度の下、本土とは別制度が採られる香港とマカオの両司教区(カトリック香港教区およびカトリックマカオ教区)は、イギリスとポルトガルの植民地時代からローマ教皇庁の直接管轄であり、中華人民共和国政府の影響を受けていない本来のカトリックに属する。
国交はないものの、バチカンと中華人民共和国は「司教の任命権」の問題など多くの困難な問題を抱えながらも、外交関係の再設定を目指して水面下での協議を続けてきた。例えば1979年には、中華民国台北市派遣の外交官レベルを臨時代理大使に格下げし、中華人民共和国との関係改善への意欲を見せていた。2015年9月28日には、教皇フランシスコ自らが中華人民共和国政府との接触を認めており、バチカンの国務長官ピエトロ・パロリンは中華人民共和国との国交樹立の意向を明言している。2018年9月22日、バチカンと中華人民共和国は、長年対立していた司教の任命権を巡る協議について、中華人民共和国はローマ教皇の国内における地位を認める代わりに、バチカンは中華人民共和国が独自に任命した司教を認めるという内容で、暫定的な合意に達したと発表した。これに関して、バチカンと中華民国は、両国の外交関係には何ら影響を与えるものではないとそれぞれコメントしている。なお香港のカトリック香港教区は、1997年の香港返還後もローマ教皇庁の直轄教区である。
2020年2月14日には、ドイツのミュンヘンで王毅外務大臣とポール・リチャード・ギャラガー(英語版)外務局長による初の外相会談が行われた。だが、中華人民共和国が共産主義国として、中国共産党の傘下にない宗教を規制するという問題は、何ら解決されないという現実がある。
また、バチカンからの「教皇使節」(Apostolic delegate)が、1932年に独立した満州国に派遣され、政府の式典などに参列していたが、「教皇使節」は現地のカトリック信徒のために派遣されるもので、外交的な意味を持たない。2022年現在でもベトナムなどのように、共産主義国でバチカンと外交関係を樹立していないにも関わらず、宗主国の関係上カトリック教徒が多いなど歴史的背景から教皇使節が派遣されている国々がある。その証拠に教皇使節の派遣を管轄するのはバチカンにおいて宗教業務を担当する福音宣教省であって、外交を司る総理省ではない。
国際連合には、長らく「恒久的オブザーバー」という形式で代表を派遣していたが、2004年7月に、投票以外の全ての権利を持った代表となった。投票権を行使しないのは、政治的中立を維持するためであり、当時の国連バチカン代表であったチェレスティーノ・ミリオーレ(英語版、イタリア語版)大司教も「投票権を持たないことは、私たち自身の選択です」と語っている。
バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿って引かれている。面積は約0.44kmと独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド(約0.52km)よりも小さく、天安門広場(約0.40km)とほぼ同じくらいであり、皇居(約1.15km)のおよそ8分の3。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。
またラテラノ条約の取り決めに従って、国外のいくつかの区域(イタリア・ローマ南東約20kmにあるカステル・ガンドルフォの教皇別荘であるガンドルフォ城、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの大バジリカ、教皇庁事務所など)でもバチカンの主権が認められている(バチカンの行政区画も参照)。
これらの中にはバチカン放送の建物も含まれているが、短波ラジオ送信所は国外のイタリア・ローマ郊外にあり、その敷地内にはバチカンの治外法権が認められている。
外国人観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂、バチカン美術館周辺のみで、その他の場所は一般人立入禁止区域となっている。
バチカン市国の気候はローマの気候と同じで、地中海性気候の区域に属している。5月から9月は乾季にあたって少雨高温であり、10月から5月は雨季で冬は冷え込む。以下、ローマの気候図を示す。
バチカンの「国家予算」は2003年のデータで歳入が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、モザイク製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence)として知られる世界中のカトリック信徒からの募金、切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などによるものである。
第二次世界大戦中の1942年に、ピウス12世によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「バチカン銀行」とも呼ばれる)が、各国の民間の投資銀行を通じて投資運用し資金調達を行っている。上記の「国家予算」には、「宗教事業協会」の投資運用による利益は入っていない。
1980年代前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務はイタリア国立労働銀行の子会社のアンブロシアーノ銀行が行っていたが、1982年に、同協会のポール・マルチンクス大司教と、「教皇の銀行家」と呼ばれていた、アンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取のもとで起こった、マフィアや極右秘密結社であるロッジP2が絡んだ、多額の使途不明金と資金洗浄に関わった不祥事の影響を受け、同行が破綻し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が暗殺されて以降は、ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行などが行っている。また、この事件は、アメリカ映画「ゴッドファーザー PART III」でも取り扱われている。
宗教事業協会は度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も2009年11月と2010年9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている。
2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した。2013年6月28日には、現金4千万ユーロ(約52億円)を無申告でスイスからイタリアに運ぼうとしたとして、スカラーノ司祭がイタリア警察に逮捕された。2013年7月1日には、幹部2人が辞任に追い込まれた。
バチカン職員の給与水準は、イタリア・ローマの平均給与よりもやや良いといわれている。独自通貨をつくらないため、以前はリラが用いられていたが、イタリアがユーロに通貨を変更した2002年1月1日以降、バチカンでもユーロが流通するようになった。なお、バチカン発行のユーロ通貨は、ユーロ圏ならどこでも使用することが可能であるが、切手はバチカン専用で、バチカンでイタリアの切手は使えない。
ローマ教皇庁が所有する自動車は「SCV」というナンバーがつく。この3文字の意味は「Stato della Città del Vaticano(バチカン市国)」の略である。
かつては、バチカンを取り囲むように古い住宅がごみごみと立ち並んでいたが、1920年代にイタリアの実権を握ったベニート・ムッソリーニは、ラテラノ条約によるカトリック教会との和解を世界にアピールしようと、サン・ピエトロ大聖堂正面の家屋を大胆に撤去し、広い街路を敷いた。これが「和解の道 (Via della Conciliazione)」といわれる、バチカン市国前のメインストリートである。
空港はないが、中型ヘリコプターが発着可能なヘリポートが一つある。鉄道は、イタリアのサンピエトロ駅から分岐してバチカン駅へ向かう863メートル(うち国内は227メートル)の鉄道路線がある。現在は定期旅客列車は走っておらず、たまに貨物列車が入線するのみで、旅客輸送は行っていない。この鉄道路線はイタリア国内分も含めてバチカン国有のものであるが、列車の運行はイタリア国鉄が代行している。
郵便局と電話局が一つある。
ローマ市民たちは国際郵便を出す場合、イタリアの郵便局(ポステ・イタリアーネ)を通すよりも、バチカン市国内にあるPoste Vaticaneの郵便ポストから投函するほうが、格段に早くかつ確実に郵便物が到着することを知っているため、少し歩いてでも越境してバチカン内から投函する者も多い。ただし、この場合イタリア発行の切手は通用しないため、バチカン市国発行の切手を貼付する必要がある。
バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿・司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外(すなわちイタリア)に居住し、そこから通勤している。またスイス人衛兵もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外に住居を持って通勤している衛兵もいる。
聖座の外交官や各省庁の官職にある者は、教皇庁の公用の必要がある場合に、バチカン市国のパスポートを取得することができる。いわゆる外交パスポートに相当するものは、青色の表紙をしている。なお、一般のバチカン市国住民には市国パスポートは発給されない。イタリアとの間の移動、イタリアなどシェンゲン協定国間の移動にはパスポートは不要であるため、欧州連合内は自由に移動できる。
2003年末の時点で、バチカンの「居住権」(いわゆる「市民権」あるいは「国籍」)を保持する者は552名に及ぶ。そのうち61人が枢機卿、346名が司教、司祭などの聖職者である。101名がスイス人衛兵、44人が一般の職員である。全ての者がバチカンの居住権と併せて、従来の国籍も保持している(二重国籍)。
バチカン居住権は聖職者も含め、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられる。教皇庁の職員の多数を占めるイタリア人職員たちには外交業務などにおいて特に必要がないかぎり、居住権は与えられない。また、バチカンの市民権は上記のように職務に対応する特殊な地位であるため、たとえバチカン市国内で出生しても出生地主義による国籍の取得はできない。
バチカン市庁における女性職員は600人程度で、カトリック信徒であることが必須であるが、初の女性職員は、1934年に採用されたフランクフルト出身のユダヤ教徒、ヘルミーネ・シュパイアーであった。2020年1月には教皇庁外務局次官にフランチェスカ・ディジョバンニが起用され、教皇庁において副大臣級初の女性起用となった。
バチカン市国は、国家自体が世界文化遺産の宝庫である。サン・ピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂など、ボッティチェッリ、ベルニーニ、ミケランジェロといった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ちあふれている。また、バチカン美術館とバチカン文書資料館には歴史上の貴重なコレクションが大量に納められている。なお、バチカンは1984年に世界遺産にも登録されている。
バチカンに定住している人々は、カトリック教会の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために、二つの女子修道会が支部を置いている。バチカンで働く聖職者たちは、枢機卿などの高位聖職者を除けばほとんどが修道会員である。
バチカンは聖地であるため服装規定がある。特に女性は観光客であっても、聖堂内に入るときなどに服装に気をつかうこと(ノースリーブの服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止など)が求められる。
バチカンは巡礼者のみならず全世界から訪れる観光客でいつもにぎわっている。教皇は世界から訪れる信徒のために毎週日曜日には彼らの前でミサを執り行い、平日にも信徒と共に行う信心業や謁見(通常は毎週水曜)を行っている。復活祭などの特別な祝日には、サン・ピエトロ広場に姿を見せて世界に挨拶を送るのがならわしとなっている。
バチカン市国ではサッカーが最も人気のスポーツであり、1972年にサッカーリーグのバチカン市国選手権(英語版)が創設され、主に州の省庁を代表する労働者で構成されている。サッカーバチカン代表は、バチカン国籍を有する聖職者会議の議員や、バチカン美術館の警備員、スイス人衛兵などでチームは形成される。ちなみにバチカンはFIFAやUEFAには加盟しておらず、ワールドカップや欧州選手権には出場できない。
2019年5月、初の女性チームが組織され、主にバチカン職員と職員の妻や娘で構成された。同月、彼らはローマ市のチームと対戦し、10ゴール対ゼロで敗北した。
2019年1月10日、バチカンにおける最初の公認スポーツ協会である「アスレティカ・バチカーナ」の設立が発表された。チームは教皇庁職員および、さまざまな年齢・性別・国籍の人々から構成される。アスレティカ・ヴァチカーナは、教皇庁国務省の支援と、イタリア陸上競技連盟(FIDAL)に加盟し公認されているイタリア国内オリンピック委員会との二国間協定により設立され、競技の機会が与えられることになる。イタリアでもヨーロッパでも。アスレティカ・ヴァチカーナの最初の競技は、2019年1月20日にローマのコルサ・ディ・ミゲルの10kmレースで行われた。
2021年10月28日、国際自転車競技連合は、アスレティカ・バチカーナの一部門である「バチカンサイクリング」の連合への加盟を認めた。20 世紀以来、サイクリストと教皇は絶えず友好的なアプローチをとっており、すでに1948年に教皇 ピウス12世はマドンナ・デル・ギザッロをサイクリストの普遍的な守護聖人として宣言した。マドンナ・デル・ギザッロ教会は、自転車界の聖地とみなされているコモ県マグレーリオにある。
2013年10月22日、サン・ペトロ・クリケットクラブが教皇庁文化評議会の後援のもと発足した。これは、世界の多くの国(105か国)で楽しまれているスポーツであるクリケットを通じて、異なる文化や宗教との対話を強化する事を目的としており、その対象には、英国国教会、イスラム教、ヒンドゥー教、シク教、仏教などが含まれる。
新聞として「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙がある。これは教皇庁の公式紙であり、イタリア語版が日刊で、英語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、ポルトガル語版が週刊で、ポーランド語版が月刊で発行されている。さらに国営放送といえるバチカン放送や、公式ウェブサイト、ツイッターアカウント(後述)がある。
バチカンのニュースサービスが、それぞれ専用アカウントを保持している。
2012年12月4日、ベネディクト16世が自身のTwitterアカウント「@Pontifex」を開設したが、2013年2月28日の教皇の退位と同時に閉鎖されることになった。しかし実態としてはツイート全削除(別途アーカイブは残される)の上でユーザー情報の書き換えが行われたのみで、アカウント自体は存置され、使徒座空位を表わす「傘と天国の鍵の紋章」と「Sede Vacante」の表示のある状態となった。
2013年3月13日に、コンクラーヴェでフランシスコが新教皇に就任すると、「三重冠と天国の鍵の紋章」に戻り「我らフランキスクス(フランシスコ)を得たり」("Habemus Papam Franciscum") とのラテン語のツイートがなされ、その後フランシスコが使用することとしたためリニューアルされた。すなわち、「@Pontifex」のアカウントは「教皇専用」であるのみで、代が変わっても同一アカウントをそのまま用い続けることが示された。「@Pontifex」を使うかどうかは、教皇の意向次第となる。 | [
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"text": "バチカンとは、バチカン市国とカトリックの総本山の総称である。国家としてのバチカン市国(バチカンしこく、ラテン語: Status Civitatis Vaticanae、イタリア語: Stato della Città del Vaticano)は、1929年にラテラノ条約により独立国となった南ヨーロッパに位置する国家で、その領域はローマ市内にある。国土面積は世界最小である。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカン、ヴァティカーノとも表記される。",
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"text": "バチカンはローマ教皇(聖座)によって統治される国家であり、カトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「#国民と国籍」節で後述)。",
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"text": "ローマ教皇庁の責任者は国務長官(Cardinal Secretary of State, 通常は枢機卿)、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。",
"title": "概要"
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"text": "教皇は2013年3月13日に選出されたアルゼンチン出身のフランシスコが務めている。国務長官はイタリア人のピエトロ・パロリン枢機卿、行政庁長官兼市国委員長はスペイン出身のフェルナンド・ベリゲス・アルサガ(英語版、イタリア語版)枢機卿が務めている。",
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"text": "バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったためである。",
"title": "概要"
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"text": "公用語はラテン語であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においてはイタリア語が話されている。また、外交用語としてフランス語が用いられている。警護に当たるスイス人衛兵たちの共通語はドイツ語である。この他、日常業務ではスペイン語・ポルトガル語・英語も常用されている。",
"title": "概要"
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"text": "バチカンを支える数千人の職員の大半はイタリア国内に居住しており、体裁上国外から通勤する形となっている。",
"title": "概要"
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"text": "バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「ネクロポリス」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた。326年にコンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。",
"title": "歴史"
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"text": "やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、752年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にあるラテラノ宮殿に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、1309年から1377年のアヴィニョン捕囚時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に竣工した。",
"title": "歴史"
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"text": "教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、イタリア統一運動の活発化に伴い1860年にイタリア王国が成立すると教皇領の大部分を占める北部地域の教皇領が接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1870年に普仏戦争の勃発によって教皇領の守備に当たっていたフランス軍が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌1871年には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇ピウス9世はこれを拒否し、「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立はローマ問題と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。",
"title": "歴史"
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"text": "このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、信教の自由を考慮して修正された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "法的にはバチカンの政体は非世襲の首長公選制であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず聖座全体におよぶものである。教皇は80歳未満の枢機卿(すうききょう)たちの選挙(コンクラーヴェ)によって選ばれる。教会法において教皇に必要な資格は、男性のカトリック信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。",
"title": "政治"
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"text": "主権国家としてのバチカン市国と主権実体としての聖座及び教皇庁は同義のようだが同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 (Governatorato dello Stato della Città del Vaticano) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 (Cardinal Secretary of State) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命によるバチカン市国委員会 (Pontifical Commission for Vatican City State) が持っている。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生すると、カメルレンゴと首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい教皇が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "バチカン市国は、一切の軍隊を保持していない。警察力も永世中立国であるスイスからの傭兵である「市国警備員(スイス人衛兵)」が担当している。",
"title": "軍事・警察"
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"text": "イタリアとの入出国は自由。国境もガードレール風の柵があるだけで、国境検問所の類いは一切無く、よって出入国管理体制もない。国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から首脳や貴賓が参列した2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上の国内警備につながった。",
"title": "軍事・警察"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "教皇の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日に教皇ユリウス2世により創設され、1527年、ローマがカール5世の神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、その身を犠牲にしてクレメンス7世の避難を助けた。衛兵はスイスでカトリック教会からの推薦を受けた、カトリック信徒の男性が選ばれている。",
"title": "軍事・警察"
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"text": "衛兵の制服は、一説にはミケランジェロのデザインとも言われるが、1914年に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろランツクネヒトを彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に儀仗兵である。1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。",
"title": "軍事・警察"
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"tag": "p",
"text": "かつては、スイス人衛兵だけでなく、教皇騎馬衛兵や宮殿衛兵といわれる衛兵隊が存在していたが、形式的なものになっていたためパウロ6世によって1970年に廃止された。",
"title": "軍事・警察"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "日本の外務省は、ローマ教皇を国家元首とする独立国家をバチカン市国と呼び、その聖俗両面の総称をバチカンとしている。",
"title": "日本語での名称について"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は、1981年のヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。また「教える」という意味を含む「教皇」が、より職務を表していると考えた。",
"title": "日本語での名称について"
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"text": "以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、東京都千代田区にある「ローマ法王庁大使館」においても、これにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本国政府から「日本における各国公館の名称変更は、クーデターなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称を使用していた。(官報や外務省の公文書でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本国政府の用いる公式名称であるとみなされていた)このような経緯もあって、マスメディアでは長らく「教皇」と「法王」の呼称が混用されていた。",
"title": "日本語での名称について"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2018年2月9日、衆議院予算委員会で立憲民主党の山内康一がこの件で質問を行っている。事前通告されたのを受けて、外務省が当事者である駐日大使館及びバチカン市国へ問い合わせを行ったところ、いずれも名称変更(=「教皇」への訳語統一)を求めていないと回答された。しかし外務大臣河野太郎は、2015年に表記変更を行ったジョージアの例を上げつつ、要望があれば対応することを表明した。",
"title": "日本語での名称について"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2019年11月20日、第266代教皇フランシスコの来日を目前にして、日本国政府及び外務省は「ローマ教皇」に呼称を変更した。外務省は変更の理由を、カトリック関係者ほか一般的に「教皇」を使用する場合が多いこと、また日本国政府がバチカン市国側に呼称の変更が問題ないことが確認できたため、と説明した。政府の名称変更に合わせ産経新聞や日本放送協会ほかメディアも呼称を変更した。",
"title": "日本語での名称について"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "バチカン市国が成立した1929年以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてバチカンの外交使節が各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった。2011年現在、バチカンは174カ国と国際連合およびマルタ騎士団の特命全権大使を受け入れており、179の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "正式な外交関係を維持しているのはバチカン市国ではなくローマ法王庁である。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "現在、教皇庁は 184 の主権国家と外交関係を維持しており、教皇庁が関係を確立した最後の国は、2023 年のオマーンとなっている。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "一方、前述のように事実上イタリアとの国境管理がされていないことに加え、狭いバチカン市国内では各国が大使館を構えるだけの敷地が現実的に取れないという事情もあり、バチカンと外交関係を有するほとんどの国は国内に大使館を設置せず、ローマの在イタリア大使館がバチカンを兼務している。ただし、イタリアと外交関係を有しない中華民国はその例外としてバチカン国内に大使館を設置している。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは第二次世界大戦中の1942年で、このとき相互に公使館を設置したが、戦後連合国軍の占領下で一旦引き上げて、1952年に再設置した。日本は1958年に駐バチカン日本公使館を大使館に格上げし(バチカン側が駐日ローマ法王庁公使館を大使館に格上げしたのは1966年)現在に至っている。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本国大使館(正式名称:在バチカン日本国大使館(ポーランド語版))は隣国イタリア・ローマにおかれている(なお、バチカンと外交関係を有する国家のうち約100カ国は兼轄であり、常駐の特命全権大使を派遣しているのは、日本を含めて80カ国弱である)。なお、東京都にあるバチカン大使館の正式名称は「ローマ法王庁大使館(イタリア語: Nunzio apostolico in Giappone)」である。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "イギリスとは、ヘンリー8世の離婚問題、国王至上法によってイギリス国教会が設立されてからローマ教皇がイギリス王を破門するかたちで断絶が続いていた。以来、イギリス国王とローマ教皇は没交渉であったが1914年に交渉が回復した。バチカン市国が建国され、主権国家として外交関係が樹立されたのは1982年のヨハネ・パウロ2世のイギリス司牧の旅以降である。2010年にはベネディクト16世が国賓としてイギリスを訪問。その答礼として2014年にエリザベス2世、エジンバラ公フィリップがバチカンを訪問した。しかしベネディクト16世の頃は、彼の超保守的な思想やカトリック聖職者の性的虐待問題でイギリス国民が、次のフランシスコのときは彼がアルゼンチン出身であること、フォークランド諸島で紛争を抱えるイギリス政府が、態度を硬化させている。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "前身となるソビエト社会主義共和国連邦とはロシア革命以降外交関係を持っていなかったが、1990年3月15日に外交関係が樹立された。ソ連崩壊後、後継となるロシア連邦ではバチカン市国との外交関係を有していなかったことから、外交関係再設定への動きが進み、2009年12月3日に大統領ドミートリー・メドヴェージェフが、バチカン市国を訪問して教皇ベネディクト16世と会談を行い、国交が樹立された。翌年の2010年には正式に大使が交換されている。ウラジーミル・プーチンは大統領・首相として通算4度バチカンを訪れ、時の教皇と会談している。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "キューバは1935年に国交を樹立してから、キューバ革命後も関係が継続している。なお、キューバは社会主義者による革命が起きたにも関わらず国交断絶しなかった唯一の社会主義国である。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "2011年時点で、バチカンと外交関係が樹立されていない国は16カ国である。主な国家としては、宗教の存在を否定する共産党の一党独裁国家で社会主義国の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナム、ラオスと、イスラム国家のサウジアラビア、アフガニスタン、ソマリア、ブルネイなどがある。ただし同じイスラム国家でも首長国のアラブ首長国連邦や王制のヨルダン、イランなどとは外交関係がある。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "中華人民共和国は信教の自由がなく、カトリック教会を政府の管理下に置き続ける上、キリスト教関係者を逮捕、追放するなど弾圧を続けていることを理由に、1949年10月1日の中華人民共和国の建国以来、国交を持っていない。なお宗主国との条約の下で一国二制度の下、本土とは別制度が採られる香港とマカオの両司教区(カトリック香港教区およびカトリックマカオ教区)は、イギリスとポルトガルの植民地時代からローマ教皇庁の直接管轄であり、中華人民共和国政府の影響を受けていない本来のカトリックに属する。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "国交はないものの、バチカンと中華人民共和国は「司教の任命権」の問題など多くの困難な問題を抱えながらも、外交関係の再設定を目指して水面下での協議を続けてきた。例えば1979年には、中華民国台北市派遣の外交官レベルを臨時代理大使に格下げし、中華人民共和国との関係改善への意欲を見せていた。2015年9月28日には、教皇フランシスコ自らが中華人民共和国政府との接触を認めており、バチカンの国務長官ピエトロ・パロリンは中華人民共和国との国交樹立の意向を明言している。2018年9月22日、バチカンと中華人民共和国は、長年対立していた司教の任命権を巡る協議について、中華人民共和国はローマ教皇の国内における地位を認める代わりに、バチカンは中華人民共和国が独自に任命した司教を認めるという内容で、暫定的な合意に達したと発表した。これに関して、バチカンと中華民国は、両国の外交関係には何ら影響を与えるものではないとそれぞれコメントしている。なお香港のカトリック香港教区は、1997年の香港返還後もローマ教皇庁の直轄教区である。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "2020年2月14日には、ドイツのミュンヘンで王毅外務大臣とポール・リチャード・ギャラガー(英語版)外務局長による初の外相会談が行われた。だが、中華人民共和国が共産主義国として、中国共産党の傘下にない宗教を規制するという問題は、何ら解決されないという現実がある。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "また、バチカンからの「教皇使節」(Apostolic delegate)が、1932年に独立した満州国に派遣され、政府の式典などに参列していたが、「教皇使節」は現地のカトリック信徒のために派遣されるもので、外交的な意味を持たない。2022年現在でもベトナムなどのように、共産主義国でバチカンと外交関係を樹立していないにも関わらず、宗主国の関係上カトリック教徒が多いなど歴史的背景から教皇使節が派遣されている国々がある。その証拠に教皇使節の派遣を管轄するのはバチカンにおいて宗教業務を担当する福音宣教省であって、外交を司る総理省ではない。",
"title": "国際関係"
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"text": "国際連合には、長らく「恒久的オブザーバー」という形式で代表を派遣していたが、2004年7月に、投票以外の全ての権利を持った代表となった。投票権を行使しないのは、政治的中立を維持するためであり、当時の国連バチカン代表であったチェレスティーノ・ミリオーレ(英語版、イタリア語版)大司教も「投票権を持たないことは、私たち自身の選択です」と語っている。",
"title": "国際関係"
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"text": "バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿って引かれている。面積は約0.44kmと独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド(約0.52km)よりも小さく、天安門広場(約0.40km)とほぼ同じくらいであり、皇居(約1.15km)のおよそ8分の3。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。",
"title": "地理"
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"text": "またラテラノ条約の取り決めに従って、国外のいくつかの区域(イタリア・ローマ南東約20kmにあるカステル・ガンドルフォの教皇別荘であるガンドルフォ城、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの大バジリカ、教皇庁事務所など)でもバチカンの主権が認められている(バチカンの行政区画も参照)。",
"title": "地理"
},
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"text": "これらの中にはバチカン放送の建物も含まれているが、短波ラジオ送信所は国外のイタリア・ローマ郊外にあり、その敷地内にはバチカンの治外法権が認められている。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "外国人観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、サン・ピエトロ大聖堂、バチカン美術館周辺のみで、その他の場所は一般人立入禁止区域となっている。",
"title": "地理"
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"tag": "p",
"text": "バチカン市国の気候はローマの気候と同じで、地中海性気候の区域に属している。5月から9月は乾季にあたって少雨高温であり、10月から5月は雨季で冬は冷え込む。以下、ローマの気候図を示す。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "バチカンの「国家予算」は2003年のデータで歳入が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、モザイク製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence)として知られる世界中のカトリック信徒からの募金、切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などによるものである。",
"title": "経済"
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"text": "第二次世界大戦中の1942年に、ピウス12世によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「宗教事業協会」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「バチカン銀行」とも呼ばれる)が、各国の民間の投資銀行を通じて投資運用し資金調達を行っている。上記の「国家予算」には、「宗教事業協会」の投資運用による利益は入っていない。",
"title": "経済"
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"text": "1980年代前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務はイタリア国立労働銀行の子会社のアンブロシアーノ銀行が行っていたが、1982年に、同協会のポール・マルチンクス大司教と、「教皇の銀行家」と呼ばれていた、アンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取のもとで起こった、マフィアや極右秘密結社であるロッジP2が絡んだ、多額の使途不明金と資金洗浄に関わった不祥事の影響を受け、同行が破綻し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が暗殺されて以降は、ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行などが行っている。また、この事件は、アメリカ映画「ゴッドファーザー PART III」でも取り扱われている。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "宗教事業協会は度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も2009年11月と2010年9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した。2013年6月28日には、現金4千万ユーロ(約52億円)を無申告でスイスからイタリアに運ぼうとしたとして、スカラーノ司祭がイタリア警察に逮捕された。2013年7月1日には、幹部2人が辞任に追い込まれた。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "バチカン職員の給与水準は、イタリア・ローマの平均給与よりもやや良いといわれている。独自通貨をつくらないため、以前はリラが用いられていたが、イタリアがユーロに通貨を変更した2002年1月1日以降、バチカンでもユーロが流通するようになった。なお、バチカン発行のユーロ通貨は、ユーロ圏ならどこでも使用することが可能であるが、切手はバチカン専用で、バチカンでイタリアの切手は使えない。",
"title": "経済"
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{
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"text": "ローマ教皇庁が所有する自動車は「SCV」というナンバーがつく。この3文字の意味は「Stato della Città del Vaticano(バチカン市国)」の略である。",
"title": "交通"
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{
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"text": "かつては、バチカンを取り囲むように古い住宅がごみごみと立ち並んでいたが、1920年代にイタリアの実権を握ったベニート・ムッソリーニは、ラテラノ条約によるカトリック教会との和解を世界にアピールしようと、サン・ピエトロ大聖堂正面の家屋を大胆に撤去し、広い街路を敷いた。これが「和解の道 (Via della Conciliazione)」といわれる、バチカン市国前のメインストリートである。",
"title": "交通"
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"tag": "p",
"text": "空港はないが、中型ヘリコプターが発着可能なヘリポートが一つある。鉄道は、イタリアのサンピエトロ駅から分岐してバチカン駅へ向かう863メートル(うち国内は227メートル)の鉄道路線がある。現在は定期旅客列車は走っておらず、たまに貨物列車が入線するのみで、旅客輸送は行っていない。この鉄道路線はイタリア国内分も含めてバチカン国有のものであるが、列車の運行はイタリア国鉄が代行している。",
"title": "交通"
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"text": "郵便局と電話局が一つある。",
"title": "通信"
},
{
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"text": "ローマ市民たちは国際郵便を出す場合、イタリアの郵便局(ポステ・イタリアーネ)を通すよりも、バチカン市国内にあるPoste Vaticaneの郵便ポストから投函するほうが、格段に早くかつ確実に郵便物が到着することを知っているため、少し歩いてでも越境してバチカン内から投函する者も多い。ただし、この場合イタリア発行の切手は通用しないため、バチカン市国発行の切手を貼付する必要がある。",
"title": "通信"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿・司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外(すなわちイタリア)に居住し、そこから通勤している。またスイス人衛兵もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外に住居を持って通勤している衛兵もいる。",
"title": "国民と国籍"
},
{
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"tag": "p",
"text": "聖座の外交官や各省庁の官職にある者は、教皇庁の公用の必要がある場合に、バチカン市国のパスポートを取得することができる。いわゆる外交パスポートに相当するものは、青色の表紙をしている。なお、一般のバチカン市国住民には市国パスポートは発給されない。イタリアとの間の移動、イタリアなどシェンゲン協定国間の移動にはパスポートは不要であるため、欧州連合内は自由に移動できる。",
"title": "国民と国籍"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "2003年末の時点で、バチカンの「居住権」(いわゆる「市民権」あるいは「国籍」)を保持する者は552名に及ぶ。そのうち61人が枢機卿、346名が司教、司祭などの聖職者である。101名がスイス人衛兵、44人が一般の職員である。全ての者がバチカンの居住権と併せて、従来の国籍も保持している(二重国籍)。",
"title": "国民と国籍"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "バチカン居住権は聖職者も含め、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられる。教皇庁の職員の多数を占めるイタリア人職員たちには外交業務などにおいて特に必要がないかぎり、居住権は与えられない。また、バチカンの市民権は上記のように職務に対応する特殊な地位であるため、たとえバチカン市国内で出生しても出生地主義による国籍の取得はできない。",
"title": "国民と国籍"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "バチカン市庁における女性職員は600人程度で、カトリック信徒であることが必須であるが、初の女性職員は、1934年に採用されたフランクフルト出身のユダヤ教徒、ヘルミーネ・シュパイアーであった。2020年1月には教皇庁外務局次官にフランチェスカ・ディジョバンニが起用され、教皇庁において副大臣級初の女性起用となった。",
"title": "国民と国籍"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "バチカン市国は、国家自体が世界文化遺産の宝庫である。サン・ピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂など、ボッティチェッリ、ベルニーニ、ミケランジェロといった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ちあふれている。また、バチカン美術館とバチカン文書資料館には歴史上の貴重なコレクションが大量に納められている。なお、バチカンは1984年に世界遺産にも登録されている。",
"title": "文化"
},
{
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"text": "バチカンに定住している人々は、カトリック教会の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために、二つの女子修道会が支部を置いている。バチカンで働く聖職者たちは、枢機卿などの高位聖職者を除けばほとんどが修道会員である。",
"title": "文化"
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{
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"text": "バチカンは聖地であるため服装規定がある。特に女性は観光客であっても、聖堂内に入るときなどに服装に気をつかうこと(ノースリーブの服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止など)が求められる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "バチカンは巡礼者のみならず全世界から訪れる観光客でいつもにぎわっている。教皇は世界から訪れる信徒のために毎週日曜日には彼らの前でミサを執り行い、平日にも信徒と共に行う信心業や謁見(通常は毎週水曜)を行っている。復活祭などの特別な祝日には、サン・ピエトロ広場に姿を見せて世界に挨拶を送るのがならわしとなっている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "バチカン市国ではサッカーが最も人気のスポーツであり、1972年にサッカーリーグのバチカン市国選手権(英語版)が創設され、主に州の省庁を代表する労働者で構成されている。サッカーバチカン代表は、バチカン国籍を有する聖職者会議の議員や、バチカン美術館の警備員、スイス人衛兵などでチームは形成される。ちなみにバチカンはFIFAやUEFAには加盟しておらず、ワールドカップや欧州選手権には出場できない。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "2019年5月、初の女性チームが組織され、主にバチカン職員と職員の妻や娘で構成された。同月、彼らはローマ市のチームと対戦し、10ゴール対ゼロで敗北した。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2019年1月10日、バチカンにおける最初の公認スポーツ協会である「アスレティカ・バチカーナ」の設立が発表された。チームは教皇庁職員および、さまざまな年齢・性別・国籍の人々から構成される。アスレティカ・ヴァチカーナは、教皇庁国務省の支援と、イタリア陸上競技連盟(FIDAL)に加盟し公認されているイタリア国内オリンピック委員会との二国間協定により設立され、競技の機会が与えられることになる。イタリアでもヨーロッパでも。アスレティカ・ヴァチカーナの最初の競技は、2019年1月20日にローマのコルサ・ディ・ミゲルの10kmレースで行われた。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "2021年10月28日、国際自転車競技連合は、アスレティカ・バチカーナの一部門である「バチカンサイクリング」の連合への加盟を認めた。20 世紀以来、サイクリストと教皇は絶えず友好的なアプローチをとっており、すでに1948年に教皇 ピウス12世はマドンナ・デル・ギザッロをサイクリストの普遍的な守護聖人として宣言した。マドンナ・デル・ギザッロ教会は、自転車界の聖地とみなされているコモ県マグレーリオにある。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2013年10月22日、サン・ペトロ・クリケットクラブが教皇庁文化評議会の後援のもと発足した。これは、世界の多くの国(105か国)で楽しまれているスポーツであるクリケットを通じて、異なる文化や宗教との対話を強化する事を目的としており、その対象には、英国国教会、イスラム教、ヒンドゥー教、シク教、仏教などが含まれる。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "新聞として「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」紙がある。これは教皇庁の公式紙であり、イタリア語版が日刊で、英語版、スペイン語版、フランス語版、ドイツ語版、ポルトガル語版が週刊で、ポーランド語版が月刊で発行されている。さらに国営放送といえるバチカン放送や、公式ウェブサイト、ツイッターアカウント(後述)がある。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "バチカンのニュースサービスが、それぞれ専用アカウントを保持している。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2012年12月4日、ベネディクト16世が自身のTwitterアカウント「@Pontifex」を開設したが、2013年2月28日の教皇の退位と同時に閉鎖されることになった。しかし実態としてはツイート全削除(別途アーカイブは残される)の上でユーザー情報の書き換えが行われたのみで、アカウント自体は存置され、使徒座空位を表わす「傘と天国の鍵の紋章」と「Sede Vacante」の表示のある状態となった。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2013年3月13日に、コンクラーヴェでフランシスコが新教皇に就任すると、「三重冠と天国の鍵の紋章」に戻り「我らフランキスクス(フランシスコ)を得たり」(\"Habemus Papam Franciscum\") とのラテン語のツイートがなされ、その後フランシスコが使用することとしたためリニューアルされた。すなわち、「@Pontifex」のアカウントは「教皇専用」であるのみで、代が変わっても同一アカウントをそのまま用い続けることが示された。「@Pontifex」を使うかどうかは、教皇の意向次第となる。",
"title": "メディア"
}
] | バチカンとは、バチカン市国とカトリックの総本山の総称である。国家としてのバチカン市国は、1929年にラテラノ条約により独立国となった南ヨーロッパに位置する国家で、その領域はローマ市内にある。国土面積は世界最小である。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカン、ヴァティカーノとも表記される。 | {{redirect|バチカン市国|ユネスコの世界遺産|バチカン市国 (世界遺産)}}
{{独自研究|date=2017年9月}}
{{基礎情報 国
|略名 = バチカン
|日本語国名 = バチカン市国
|公式国名 = '''{{lang|la|Status Civitatis Vaticanae}}'''{{Smaller|(ラテン語)}}<br/>'''{{lang|it|Stato della Città del Vaticano}}'''{{Smaller|(イタリア語)}}
|国旗画像 = Flag of Vatican City State - 2023 version.svg
|国旗幅 = 100
|国章画像 = [[File:Coat of arms of Vatican City State - 2023 version.svg|80px|バチカンの国章]]
|国章リンク = ([[バチカンの国章|国章]])
|標語 = 無し
|国歌 = [[賛歌と教皇の行進曲]][[File:United States Navy Band - Inno e Marcia Pontificale.ogg]]
|位置画像 = Vatican City in Europe (zoomed).svg
|公用語 = [[ラテン語]]<ref group="注釈">[[イタリア語]]が常用される。</ref>
|首都 = バチカン([[都市国家]])
|最大都市 = バチカン(都市国家)
|元首等肩書 = [[教皇]]
|元首等氏名 = [[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]
|首相等肩書 = [[国務省長官 (ローマ教皇庁)|国務長官]]
|首相等氏名 = [[ピエトロ・パロリン]]
|他元首等肩書1 = [[バチカン市国委員会|市国委員会]]議長
|他元首等氏名1 = {{ill2|フェルナンド・ベリゲス・アルザガ|en|Fernando Vérgez Alzaga}}
|面積順位 = 244
|面積大きさ = 1 E5
|面積値 = 0.44
|水面積率 = 極僅か
|人口統計年 = 2020
|人口順位 = 196
|人口大きさ = 1 E2
|人口値 = 615
|人口密度値 = 1398
|GDP統計年 =
|GDP順位 =
|GDP値 =
|GDP/人 =
|建国形態 = [[独立]]
|確立形態1 = [[ラテラノ条約]]締結
|確立年月日1 = [[1929年]][[2月11日]]
|確立形態2 = [[ラテラノ条約]]批准
|確立年月日2 = [[1929年]][[6月7日]]
|通貨 = [[ユーロ]] (€)
|通貨コード = EUR
|通貨追記 = <ref group=注釈>[[1999年]]以前の通貨は[[イタリア・リラ]]、[[バチカン・リラ]]。</ref><ref group=注釈>[[バチカンのユーロ硬貨]]も参照。</ref>
|時間帯 = +1
|夏時間 = +2
|ISO 3166-1 = VA / VAT
|ccTLD = [[.va]]
|国際電話番号 = 379
|注記 = <references/>
}}
{{Infobox
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{{Location map | Roma città#Vatican
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| lat_deg = 41 | lat_min = 54 | lat_sec = 9 | lat_dir = N
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'''バチカン'''とは、バチカン市国とカトリックの総本山の総称である<ref name=":0">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vatican/data.html 日本国外務省・バチカン(Vatican)基礎データ]</ref>。国家としての'''バチカン市国'''(バチカンしこく、{{lang-la|Status Civitatis Vaticanae}}、{{lang-it|Stato della Città del Vaticano}})は、1929年に[[ラテラノ条約]]により独立国となった南ヨーロッパに位置する国家で、その領域は[[ローマ]]市内にある<ref name=":1">[http://visitaly.jp/unesco/la-citta-del-vaticano イタリア政府観光局(ENIT)公式サイト「ヴァティカン市国」]</ref>。国土面積は世界最小である<ref group=注釈>ただし、バチカンは国際連合に加盟していないため、国際連合加盟国に限る場合は[[モナコ]]が国土最小国に該当する。</ref>。'''ヴァチカン'''や'''バティカン'''、'''ヴァティカン'''、'''ヴァティカーノ'''とも表記される。
== 概要 ==
バチカンは[[聖座|ローマ教皇(聖座)]]によって統治される国家であり<ref>バチカン市国基本法第一条</ref>、[[カトリック教会]]と[[東方典礼カトリック教会]]の中心地、いわば「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる(「[[#国民と国籍]]」節で後述)。
ローマ教皇庁の責任者は[[国務長官]](Cardinal Secretary of State, 通常は[[枢機卿]])、実際の統治はバチカン市国行政庁長官兼バチカン市国委員会委員長(Governor of Vatican City and President of the Pontifical Commission for Vatican City State 通常は枢機卿)が務めている。
教皇は2013年3月13日に選出された[[アルゼンチン]]出身の[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が務めている。国務長官はイタリア人の[[ピエトロ・パロリン]]枢機卿、行政庁長官兼市国委員長は[[スペイン]]出身の{{仮リンク|フェルナンド・ベリゲス・アルサガ|en|Fernando Vérgez Alzaga|it|Fernando Vérgez Alzaga}}枢機卿が務めている。
バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) からとられている。ここに教会が建てられ、やがてカトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖[[ペトロ]]が殉教したという伝承があったためである。
[[公用語]]は[[ラテン語]]であり公式文書に用いられる。ただし、通常の業務においては[[イタリア語]]が話されている。また、外交用語として[[フランス語]]が用いられている。警護に当たる[[バチカンのスイス衛兵|スイス人衛兵たち]]の共通語は[[ドイツ語]]である。この他、日常業務では[[スペイン語]]・[[ポルトガル語]]・[[英語]]も常用されている。
バチカンを支える数千人の職員の大半はイタリア国内に居住しており、体裁上国外から通勤する形となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-19 |url=https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-vaccine-vatican-idJPKBN2AJ0O5 |title=バチカンが釈明、ワクチン接種拒否への解雇法令に批判集まる |publisher=ロイター |accessdate=2021-02-21}}</ref>。
== 歴史 ==
バチカンの地は古代以来[[ローマ]]の郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。約3000年前には「[[ネクロポリス]]」(古代の死者の街)として埋葬地として使用され、その後もローマ人の共同墓地として使用されていた<ref>徳安茂『なぜローマ法王は世界を動かせるのか』PHP研究所、第1版第1刷、2017年3月1日。28-29頁。ISBN 978-4-569-83268-5。</ref>。[[326年]]に[[コンスタンティヌス1世]]によって聖[[ペトロ]]の墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。
=== 教皇領 ===
{{Main|教皇領}}
やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、[[752年]]から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。
教皇は当初はバチカンではなく、ローマ市内にある[[ラテラノ宮殿]]に4世紀から1000年にわたって居住していたものの、[[1309年]]から[[1377年]]の[[アヴィニョン捕囚]]時代にラテラノ宮殿が2度の火災によって荒廃したため、ローマに帰還した教皇は[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]に一時居住した後、現在のバチカン内に教皇宮殿を建設しここに移り、以後バチカンが教皇の座所となった。[[1506年]]には2代目である現[[サン・ピエトロ大聖堂]]が着工し、[[1626年]]に竣工した。
教皇は19世紀中盤までイタリア半島中部に広大な教皇領を保持していたものの、[[イタリア統一運動]]の活発化に伴い[[1860年]]に[[イタリア王国]]が成立すると教皇領の大部分を占める北部地域の教皇領が接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶した。この時点では教皇領南部のローマ市およびラティウム地方は教皇の手に残っていた。
=== バチカンの囚人 ===
{{Main|{{仮リンク|バチカンの囚人|en|Prisoner in the Vatican}}|第1バチカン公会議}}
[[1870年]]に[[普仏戦争]]の勃発によって教皇領の守備に当たっていた[[フランス軍]]が撤退すると、イタリア軍が残存教皇領もすべて接収し、バチカンはイタリア領となった。翌[[1871年]]には、イタリア政府は教皇にバチカンおよびラテラノ宮殿の領有を認めたものの、教皇[[ピウス9世]]はこれを拒否し、「{{仮リンク|バチカンの囚人|en|Prisoner in the Vatican}}」([[1870年]] - [[1929年]])と称してバチカンに引きこもった。この教皇庁とイタリア政府の対立は[[ローマ問題]]と呼ばれ、以後50年以上にわたって両者間の断絶を引き起こした。
=== バチカン市国 ===
このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、[[1929年]][[2月11日]]になってようやく教皇[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]の全権代理ガスパッリ枢機卿と[[ベニート・ムッソリーニ]][[首相]]との間で合意が成立し、3つの[[ラテラノ条約]]が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。
{{Main|ライヒスコンコルダート|ルートヴィヒ・カース}}
{{Main|第2バチカン公会議}}
[[1984年]]になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が、[[信教の自由]]を考慮して修正された。
== 政治 ==
[[ファイル:St. Peter's Basilica Facade, Rome, June 2004.jpg|right|thumb|200px|[[サン・ピエトロ大聖堂]]]]
法的にはバチカンの政体は[[選挙君主制|非世襲の首長公選制]]であるとみなされる。首長である教皇の権威はバチカン市国のみならず[[聖座]]全体におよぶものである。教皇は80歳未満の[[枢機卿]](すうききょう)たちの[[選挙]]([[コンクラーヴェ]])によって選ばれる。[[教会法]]において教皇に必要な資格は、[[男性]]の[[カトリック教会|カトリック]]信徒であるということだけであるが、実質上は80歳未満の枢機卿たちの互選になっている。
主権国家としてのバチカン市国と主権実体としての[[聖座]]及び[[ローマ教皇庁|教皇庁]]は同義のようだが同義でない。例えばバチカン市国の最高責任者として行政庁長官 ({{la|Governatorato dello Stato della Città del Vaticano}}) が存在するが、教皇庁の実質的な責任者は国務長官がつとめている。国務長官 ({{en|Cardinal Secretary of State}}) はバチカン市国の外交部門の最高責任者でもある。立法権は教皇の任命による[[バチカン市国委員会]] ({{en|Pontifical Commission for Vatican City State}}) が持っている。
委員会のメンバーの任期は5年となっている。しかし使徒座空位が発生すると、[[カメルレンゴ]]と首席枢機卿以外の省庁の長官や評議会の議長は自動的に(一旦)解職される。新しい教皇がコンクラーヴェで選ばれるまでの間はカメルレンゴを長とした枢機卿団がバチカンを管理する。そして新しい教皇が選ばれると、新教皇は使徒座空位前に務めていた各長官・議長に対して当面の間職務を続けるよう命じ、業務が再開されることとなる。もちろん新教皇が長官・議長だった場合は就いていたポストに後任が割り当てられることとなる。直近の例は2005年のベネディクト16世の選出時で、彼が教理省長官に就いていたため、後任がほどなく選ばれている。<!--ラテン語かイタリア語の方が良い?-->
== 軍事・警察 ==
[[ファイル:Pontifical Swiss Guards in their traditional uniform.jpg|right|200px|thumb|スイス人衛兵]]
バチカン市国は、一切の[[軍隊]]を保持していない。[[警察力]]も[[永世中立国]]である[[スイス]]からの[[傭兵]]である「市国警備員([[バチカンのスイス衛兵|スイス人衛兵]])」が担当している。
イタリアとの入出国は自由。[[国境]]もガードレール風の[[柵]]があるだけで、[[国境検問所]]の類いは一切無く、よって[[出入国管理]]体制もない。国内は、公開の区域に限り入場は自由で、イメージとしては街中にある教会堂とその敷地に近い。そのため、各国から[[首脳]]や[[賓客|貴賓]]が参列した[[2005年]]の教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の[[葬儀]]では、国境の外側を取り囲むイタリア側が警備を行ったことで、事実上の国内警備につながった。
教皇の衛兵として、スイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。[[1505年]][[1月22日]]に教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]により創設され、[[1527年]]、ローマが[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の[[神聖ローマ皇帝]]軍に侵攻された際([[ローマ略奪]])、その身を犠牲にして[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]の避難を助けた。衛兵はスイスで[[カトリック教会]]からの推薦を受けた、カトリック[[信徒]]の[[男性]]が選ばれている。
衛兵の[[制服]]は、一説には[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の[[デザイン]]とも言われるが、[[1914年]]に制定されたものである。その派手なデザインは、伝統的なスイス傭兵というよりも、むしろ[[ランツクネヒト]]を彷彿とさせる。スイス人衛兵たちは一応武器の携行はしているものの、本質的に[[儀仗兵]]である。[[1981年]]、[[ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)#1981年5月13日の事件|ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件]]以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは[[催涙スプレー]]を常時携行するようになったという。
かつては、スイス人衛兵だけでなく、[[教皇騎馬衛兵]]や[[宮殿衛兵]]といわれる衛兵隊が存在していたが、形式的なものになっていたため[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]によって[[1970年]]に廃止された。
{{Wide image|Vatican StPeter Square.jpg|850px|サン・ピエトロ広場と大聖堂。撮影者はイタリアを背にして国境線の真上に立ち、バチカンの方を向いている}}
== 日本語での名称について ==
日本の[[外務省]]は、ローマ教皇を国家元首とする独立国家を'''バチカン市国'''と呼び、その聖俗両面の総称を'''バチカン'''としている<ref name="mofa">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vatican/data.html バチカン 基礎データ] 外務省</ref>。
日本のカトリック教会の中央団体である[[カトリック中央協議会]]は、[[1981年]]のヨハネ・パウロ2世の来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。また「教える」という意味を含む「教皇」が、より職務を表していると考えた<ref name=mainichi20191120>{{Cite web|和書|title=外務省、「ローマ教皇」に呼称変更 安倍首相と25日に会談|publisher=毎日新聞|date=2019-11-20|url=https://mainichi.jp/articles/20191120/k00/00m/010/333000c|accessdate=2019-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191120120350/https://mainichi.jp/articles/20191120/k00/00m/010/333000c|archivedate=2019-11-20}}</ref>。
以降、日本のカトリック教会の公式な表記では「法王」でなく「教皇」が用いられている。このとき、[[東京都]][[千代田区]]にある「[[駐日本国ローマ法王庁大使館|ローマ法王庁大使館]]」においても、これにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、[[日本国政府]]から「日本における各国公館の名称変更は、[[クーデター]]などによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称を使用していた。([[官報]]や外務省の[[公文書]]でも「ローマ法王」の語が用いられているため、これが日本国政府の用いる公式名称であるとみなされていた)このような経緯もあって、[[マスメディア]]では長らく「教皇」と「法王」の呼称が混用されていた。
2018年2月9日、[[衆議院]][[予算委員会]]で[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]の[[山内康一]]がこの件で質問を行っている。事前通告されたのを受けて、外務省が当事者である駐日大使館及びバチカン市国へ問い合わせを行ったところ、いずれも名称変更(=「教皇」への訳語統一)を求めていないと回答された。しかし[[外務大臣]][[河野太郎]]は、2015年に表記変更を行った[[ジョージア (国)|ジョージア]]の例を上げつつ、要望があれば対応することを表明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119605261X00920180209|title=衆議院会議録情報 第196回国会 予算委員会 第9号|accessdate=2018-07-11|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。
2019年11月20日、[[フランシスコ (ローマ教皇)|第266代教皇フランシスコ]]の来日を目前にして、日本国政府及び外務省は「ローマ教皇」に呼称を変更した<ref name=mainichi20191120 />。外務省は変更の理由を、カトリック関係者ほか一般的に「教皇」を使用する場合が多いこと、また日本国政府がバチカン市国側に呼称の変更が問題ないことが確認できたため、と説明した<ref>{{Cite web|和書|title=政府、「ローマ教皇」に呼称変更|publisher=[[時事通信]]|date=2019-11-20|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019112000814&g=pol|accessdate=2019-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191121031424/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019112000814&g=pol|archivedate=2019-11-21}}</ref>。政府の名称変更に合わせ産経新聞<ref>{{Cite web|和書|title=【おことわり】「ローマ教皇」に表記を変更します|publisher=[[産経新聞]]|date=2019-11-22|url=https://www.sankei.com/entertainments/news/191122/ent1911220008-n1.html|accessdate=2019-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191122061904/https://www.sankei.com/entertainments/news/191122/ent1911220008-n1.html|archivedate=2019-11-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ローマ法王」が「ローマ教皇」に変更 政府発表で割れるメディアの対応|publisher=J-CASTニュース |date=2019-11-22|url=https://www.j-cast.com/2019/11/22373392.html?p=all|accessdate=2019-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191123132625/https://www.j-cast.com/2019/11/22373392.html?p=all|archivedate=2019-11-23}}</ref>や[[日本放送協会]]<ref>{{Cite web|和書|title=【お知らせ】今後は「ローマ教皇」とお伝えします |publisher=[[日本放送協会]]|date=2019-11-22|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186861000.html|accessdate=2019-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191123131836/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186861000.html|archivedate=2019-11-23}}</ref>ほかメディアも呼称を変更した。
== 国際関係 ==
{{main|en:Foreign relations of the Holy See}}
[[File:Holy See relations.svg|thumb|right|400px|バチカン市国と外交関係を有する国]]
[[ファイル:Dmitry Medvedev in the Vatican City 3 December 2009-1.jpg|250px|サムネイル|右|2009年、バチカンを訪問するロシアのメドベージェフ大統領(当時)。]]
[[File:Pope Francis Visits the United States Capitol (22153720701).jpg|thumb|right|250px|2015年、アメリカ合衆国議会で演説する教皇フランシスコ。]]
バチカン市国が成立した[[1929年]]以降、国際法上の主権国家となったことにあわせてバチカンの外交使節が各国に派遣され、同時に各国の外交使節を受け入れるようになった。2011年現在、バチカンは174カ国と[[国際連合]]および[[マルタ騎士団]]の[[特命全権大使]]を受け入れており、179の国と地域に大使あるいは外交使節を派遣している<ref name="mofa" />。
正式な外交関係を維持しているのはバチカン市国ではなくローマ法王庁である。
現在、教皇庁は 184 の主権国家と外交関係を維持しており、教皇庁が関係を確立した最後の国は、2023 年の[[オマーン]]となっている。
一方、前述のように事実上イタリアとの国境管理がされていないことに加え、狭いバチカン市国内では各国が大使館を構えるだけの敷地が現実的に取れないという事情もあり、バチカンと外交関係を有するほとんどの国は国内に大使館を設置せず、ローマの在イタリア大使館がバチカンを兼務している。ただし、イタリアと外交関係を有しない[[中華民国]]はその例外としてバチカン国内に大使館を設置している<ref>中華民国は、ヨーロッパ全域において外交関係を有する国が唯一バチカンのみであるため、同国のヨーロッパ全体の外交・政治活動の拠点ともなっている</ref>。
=== 日本 ===
日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]で、このとき相互に公使館を設置したが、戦後[[連合国軍]]の占領下で一旦引き上げて、[[1952年]]に再設置した。日本は[[1958年]]に駐バチカン日本公使館を大使館に格上げし(バチカン側が駐日ローマ法王庁公使館を大使館に格上げしたのは[[1966年]])<ref>[http://www.vatican.va/holy_father/paul_vi/apost_letters/documents/hf_p-vi_apl_19660614_communi-cum_lt.html NUNTIATURA APOSTOLICA IN IAPONIA ERIGITUR]</ref>現在に至っている。
日本国大使館(正式名称:{{仮リンク|在バチカン日本国大使館|pl|Ambasada Japonii przy Stolicy Apostolskiej}})は隣国イタリア・ローマにおかれている(なお、バチカンと外交関係を有する国家のうち約100カ国は兼轄であり、常駐の[[特命全権大使]]を派遣しているのは、日本を含めて80カ国弱である)。なお、東京都にあるバチカン大使館の正式名称は「ローマ法王庁大使館({{lang-it|Nunzio apostolico in Giappone}})」である。{{See also|日本とバチカン市国の関係}}
===イギリス===
[[イギリス]]とは、[[ヘンリー8世]]の離婚問題、[[国王至上法]]によって[[イギリス国教会]]が設立されてからローマ教皇がイギリス王を破門するかたちで断絶が続いていた。以来、イギリス国王とローマ教皇は没交渉であったが1914年に交渉が回復した。バチカン市国が建国され、主権国家として外交関係が樹立されたのは1982年のヨハネ・パウロ2世のイギリス司牧の旅以降である。2010年にはベネディクト16世が国賓としてイギリスを訪問。その答礼として2014年にエリザベス2世、エジンバラ公フィリップがバチカンを訪問した。しかしベネディクト16世の頃は、彼の超保守的な思想やカトリック聖職者の性的虐待問題でイギリス国民が、次のフランシスコのときは彼が[[アルゼンチン]]出身であること、[[フォークランド諸島]]で[[フォークランド紛争|紛争]]を抱えるイギリス政府が、態度を硬化させている。
===ロシア===
前身となる[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]とは[[ロシア革命]]以降外交関係を持っていなかったが、[[1990年]][[3月15日]]に外交関係が樹立された。[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊後]]、後継となる[[ロシア|ロシア連邦]]ではバチカン市国との外交関係を有していなかったことから、外交関係再設定への動きが進み、2009年12月3日に大統領[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]が、バチカン市国を訪問して教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]と会談を行い、国交が樹立された。翌年の2010年には正式に大使が交換されている。[[ウラジーミル・プーチン]]は大統領・首相として通算4度バチカンを訪れ、時の教皇と会談している。
===キューバ===
[[キューバ]]は1935年に国交を樹立してから、[[キューバ革命]]後も関係が継続している。なお、キューバは[[社会主義|社会主義者]]による[[革命]]が起きたにも関わらず国交断絶しなかった唯一の社会主義国である<ref>{{cite news|title=キューバ見つめて バチカン、50年の外交努力|date=2014-12-24|author=|url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/14895/20141224/cuba-vatican-50-pope-francis.htm|accessdate=2014-12-25|publisher=|language=}}</ref>。
===外交関係の無い国===
2011年時点で、バチカンと外交関係が樹立されていない国は16カ国である。主な国家としては、宗教の存在を否定する[[共産党]]の[[一党独裁]]国家で[[社会主義国]]の[[中華人民共和国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)、[[ベトナム]]、[[ラオス]]と、[[イスラム国家]]の[[サウジアラビア]]、[[アフガニスタン]]、[[ソマリア]]、[[ブルネイ]]などがある。ただし同じイスラム国家でも[[首長国]]の[[アラブ首長国連邦]]や王制の[[ヨルダン]]、[[イラン]]などとは外交関係がある。
中華人民共和国<ref>{{Cite news |url=http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007111501000289.html |title=中国が初の政党白書 一党独裁の正当性強調 |newspaper=47ニュース |agency=共同通信 |publisher=共同通信社 |date=2007-11-15 |accessdate=2013年12月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224114523/http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007111501000289.html|archivedate=2013-12-24}}</ref>は[[信教の自由]]がなく<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/091017/amr0910171912007-n1.htm|title=「中国政府は言論・宗教を抑圧」 米国が中国人権報告書発表|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2009-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091025075008/http://sankei.jp.msn.com/world/america/091017/amr0910171912007-n1.htm|archivedate=2009年10月25日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、[[中国天主教愛国会|カトリック教会を政府の管理下に置き続ける上]]<ref>{{Cite news |url=http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2053086/526712 |title=政府の教会統制策、バチカンの許可なく司祭叙階 - 中国 |newspaper=AFPBB News |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2006年5月3日}}</ref>、キリスト教関係者を逮捕、追放するなど[[中国のキリスト教|弾圧を続けていること]]<ref>[http://www.docstoc.com/docs/20626523/Restriction-and-Suppression-of-Religious-Freedom-in-China/ Restriction and Suppression of Religious Freedom in China] [[ボイス・オブ・アメリカ]]2006年5月17日</ref>を理由に、[[1949年]]10月1日の中華人民共和国の建国以来、国交を持っていない<ref>{{Cite news |url=http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2039872/431452?pageID=2 |title=バチカンとの国交樹立を妨げるもの - 中国 |newspaper=AFPBB News |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2006年3月26日}}</ref>。なお[[宗主国]]との条約の下で[[一国二制度]]の下、本土とは別制度が採られる[[香港特別行政区|香港]]と[[マカオ特別行政区|マカオ]]の両司教区([[カトリック香港教区]]および[[カトリックマカオ教区]])は、[[イギリス]]と[[ポルトガル]]の[[植民地]]時代からローマ教皇庁の直接管轄であり、中華人民共和国政府の影響を受けていない本来のカトリックに属する。
国交はないものの、バチカンと中華人民共和国は「司教の任命権」の問題など多くの困難な問題を抱えながらも、外交関係の再設定を目指して水面下での協議を続けてきた。例えば[[1979年]]には、[[中華民国]][[台北市]]派遣の外交官レベルを臨時代理大使に格下げし、中華人民共和国との関係改善への意欲を見せていた。[[2015年]]9月28日には、教皇フランシスコ自らが中華人民共和国政府との接触を認めており<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20151018/ddm/007/030/055000c |title=中国と協議 関係改善へ 法王、訪中の意向 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2015-10-18|accessdate=2016-09-22}}</ref>、バチカンの国務長官[[ピエトロ・パロリン]]は中華人民共和国との国交樹立の意向を明言している<ref>{{Cite news|url=http://en.radiovaticana.va/news/2016/08/27/vatican_sec_of_state_hopes_for_improved_relations_with_china/1254058 |title=Vatican Sec of State hopes for improved diplomatic relations with China |newspaper=[[バチカン放送]] |date=2016-08-27|accessdate=2016-09-22}}</ref>。2018年9月22日、バチカンと中華人民共和国は、長年対立していた司教の任命権を巡る協議について、中華人民共和国はローマ教皇の国内における地位を認める代わりに、バチカンは中華人民共和国が独自に任命した司教を認めるという内容で、暫定的な合意に達したと発表した。これに関して、バチカンと中華民国は、両国の外交関係には何ら影響を与えるものではないとそれぞれコメントしている。なお[[香港]]の[[カトリック香港教区]]は、[[1997年]]の[[香港返還]]後も[[ローマ教皇庁]]の直轄[[教区]]である。
2020年2月14日には、ドイツのミュンヘンで[[王毅]]外務大臣と{{仮リンク|ポール・リチャード・ギャラガー|en|Paul Gallagher (bishop)}}外務局長による初の外相会談が行われた。だが、中華人民共和国が[[共産主義]]国として、[[中国共産党]]の傘下にない[[宗教]]を規制するという問題は、何ら解決されないという現実がある。
また、バチカンからの「[[教皇使節]]」(Apostolic delegate)が、1932年に独立した[[満州国]]に派遣され、政府の式典などに参列していたが、「教皇使節」は現地のカトリック信徒のために派遣されるもので、外交的な意味を持たない。2022年現在でもベトナムなどのように、共産主義国でバチカンと外交関係を樹立していないにも関わらず、[[宗主国]]の関係上カトリック教徒が多いなど歴史的背景から教皇使節が派遣されている国々がある<ref>[[上野景文]]『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92</ref>。その証拠に教皇使節の派遣を管轄するのはバチカンにおいて宗教業務を担当する[[福音宣教省]]であって、外交を司る総理省ではない。
[[国際連合]]には、長らく「恒久的[[国際連合総会オブザーバー|オブザーバー]]」という形式で代表を派遣していたが、[[2004年]]7月に、[[投票]]以外の全ての権利を持った代表となった。[[投票権]]を行使しないのは、[[政治的中立]]を維持するためであり、当時の国連バチカン代表であった{{仮リンク|チェレスティーノ・ミリオーレ|en|Celestino Migliore|it|Celestino Migliore}}大司教も「投票権を持たないことは、私たち自身の選択です」と語っている。
== 地理 ==
{{main|バチカンの地理}}
=== 国土 ===
[[ファイル:Vatican City map EN.svg|thumb|200x200px|バチカンの詳細地図]]
バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、[[テベレ川]]の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿って引かれている。面積は約0.44[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]と[[独立国]]としては世界最小で、[[東京ディズニーランド]](約0.52km<sup>2</sup>)よりも小さく、[[天安門広場]](約0.40km<sup>2</sup>)とほぼ同じくらいであり、[[皇居]](約1.15km<sup>2</sup>)のおよそ8分の3。その狭い領土の中に[[サン・ピエトロ大聖堂]]、[[バチカン宮殿]]、[[バチカン美術館]]、[[サン・ピエトロ広場]]などが肩を並べている。
また[[ラテラノ条約]]の取り決めに従って、国外のいくつかの区域(イタリア・ローマ南東約20kmにある[[カステル・ガンドルフォ]]の教皇別荘である[[ガンドルフォ城]]、[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]、[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]などの大バジリカ、[[教皇庁]]事務所など)でもバチカンの主権が認められている<ref>「ビジュアルシリーズ 世界再発見1 フランス・南ヨーロッパ」p114 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷</ref>([[バチカンの行政区画]]も参照)。
これらの中には[[バチカン放送]]の建物も含まれているが、[[短波]][[ラジオ]][[送信所]]は国外のイタリア・ローマ郊外にあり、その敷地内にはバチカンの[[治外法権]]が認められている。
外国人観光客が入れる場所は、サン・ピエトロ広場、[[サン・ピエトロ大聖堂]]、バチカン美術館周辺のみで、その他の場所は一般人[[立入禁止]]区域となっている。
{{Panorama
|image = File:Vatican panorama from St. Peters Basilica.jpg
|height = 240
|alt = サン・ピエトロ大聖堂の展望台からバチカン庭園の全景および幾つかの建物を望む。
|caption = {{Center| サン・ピエトロ大聖堂の展望台からバチカン庭園の全景を望む。}}
}}
=== 気候 ===
バチカン市国の気候はローマの気候と同じで、[[地中海性気候]]の区域に属している。5月から9月は[[乾季]]にあたって少雨高温であり、10月から5月は[[雨季]]で冬は冷え込む。以下、ローマの気候図を示す。
{{Infobox Weather
|metric_first= Yes
|single_line= Yes
|location = ローマ
|Jan_Hi_°C = 11.8
|Feb_Hi_°C = 13.0
|Mar_Hi_°C = 15.2
|Apr_Hi_°C = 18.1
|May_Hi_°C = 22.9
|Jun_Hi_°C = 27.0
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|Jan_Lo_°C = 2.7
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== 経済 ==
=== 国家予算 ===
バチカンの「[[国家予算]]」は[[2003年]]のデータで[[歳入]]が約277億円で歳出290億円となっている。主な産業として出版業、[[モザイク]]製作などがある。バチカンは国家というにはあまりに特殊な存在であり、(下記にある「宗教活動協会」の投資運用は除き)利益追求の産業活動は行っていないため、歳入は「聖ペトロの献金」(Peter's Pence)として知られる世界中のカトリック信徒からの[[募金]]、[[切手]]の販売、[[バチカン美術館]]の入場料収入、出版物の販売などによるものである。
=== 宗教活動協会 ===
[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]に、[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]によってそれまでの「宗務委員会」から改組され設立された、バチカンの国家財政管理を行う組織である「[[宗教事業協会]]」(Instituto per le Opere di Religioni/ IOR、「[[バチカン銀行]]」とも呼ばれる)が、各国の民間の[[投資銀行]]を通じて投資運用し資金調達を行っている。上記の「国家予算」には、「宗教事業協会」の投資運用による利益は入っていない。
[[1980年代]]前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務は[[イタリア国立労働銀行]]の子会社の[[アンブロシアーノ銀行]]が行っていたが、[[1982年]]に、同協会の[[ポール・マルチンクス]][[大司教]]と、「[[教皇]]の銀行家」と呼ばれていた、アンブロシアーノ銀行の[[ロベルト・カルヴィ]]頭取のもとで起こった、[[マフィア]]や極右[[秘密結社]]である[[ロッジP2]]が絡んだ、多額の使途不明金と[[資金洗浄]]に関わった[[不祥事]]の影響を受け、同行が[[破綻]]し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が[[暗殺]]されて以降は、[[ロスチャイルド]]銀行と[[ハンブローズ銀行]]などが行っている。また、この事件は、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]「[[ゴッドファーザー PART III]]」でも取り扱われている。
=== 不正行為の疑い ===
宗教事業協会は度々[[資金洗浄|マネーロンダリング]]などの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も[[2009年]]11月と[[2010年]]9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100922/erp1009221931006-n1.htm |title=バチカン銀行の資金押収 「闇」の解明なるか |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2010-09-22 |accessdate=2011-01-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100925072035/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100922/erp1009221931006-n1.htm |archivedate=2010年9月25日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
2013年5月22日、独立機関の聖座財務情報監視局は、2012年の金融取引において6件のマネーロンダリングの疑いがあると発表した<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/international/update/0526/TKY201305250396.html |title=バチカン、金融取引で資金洗浄か 監視局、6件を認定 |newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013-5-26 |accessdate=2013-5-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130525221031/http://www.asahi.com/international/update/0526/TKY201305250396.html|archivedate=2013-05-25}}</ref>。2013年6月28日には、現金4千万ユーロ(約52億円)を無申告でスイスからイタリアに運ぼうとしたとして、スカラーノ司祭がイタリア警察に逮捕された。2013年7月1日には、幹部2人が辞任に追い込まれた<ref>{{cite news |title=バチカン銀行幹部を事実上の更迭 法王が経営透明化本腰 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2013-7-2 |url=http://www.asahi.com/international/update/0702/TKY201307020020.html |accessdate=2013-8-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130705210947/http://www.asahi.com/international/update/0702/TKY201307020020.html|archivedate=2013-07-05}}</ref>。
=== その他 ===
バチカン職員の給与水準は、イタリア・ローマの平均給与よりもやや良いといわれている。独自通貨をつくらないため、以前は[[イタリア・リラ|リラ]]が用いられていたが、イタリアが[[ユーロ]]に通貨を変更した[[2002年]][[1月1日]]以降、バチカンでもユーロが流通するようになった。なお、バチカン発行のユーロ通貨は、[[ユーロ圏]]ならどこでも使用することが可能であるが、[[切手]]はバチカン専用で、バチカンでイタリアの切手は使えない。
== 交通 ==
[[ファイル:St peters vat distance.jpg|thumb|right|200px|イタリア・[[ローマ市]]の「和解の道」からバチカン中心部を望む。]]
{{see also|バチカン市国の鉄道}}
[[ローマ教皇庁]]が所有する自動車は「'''SCV'''」というナンバーがつく。この3文字の意味は「{{la|'''S'''tato della '''C'''ittà del '''V'''aticano}}(バチカン市国)」の略である。
かつては、バチカンを取り囲むように古い住宅がごみごみと立ち並んでいたが、[[1920年代]]にイタリアの実権を握った[[ベニート・ムッソリーニ]]は、[[ラテラノ条約]]による[[カトリック教会]]との和解を[[世界]]にアピールしようと、[[サン・ピエトロ大聖堂]]正面の家屋を大胆に撤去し、広い街路を敷いた。これが「和解の道 ({{it|Via della Conciliazione}})」といわれる、バチカン市国前のメインストリートである。
[[空港]]はないが、中型ヘリコプターが発着可能な[[ヘリポート]]が一つある。[[バチカン市国の鉄道|鉄道]]は、イタリアの[[サンピエトロ駅]]から分岐して[[バチカン駅]]へ向かう863メートル(うち国内は227メートル)の鉄道路線がある。現在は定期旅客列車は走っておらず、たまに[[貨物列車]]が入線するのみで、[[旅客輸送]]は行っていない。この鉄道路線はイタリア国内分も含めてバチカン国有のものであるが、列車の運行は[[イタリア国鉄]]が代行している<ref>[http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/railway.html#04 バチカン市国国鉄 変わりダネ国際列車]</ref>。
== 通信 ==
[[郵便局]]と[[電話局]]が一つある。
ローマ市民たちは[[国際郵便]]を出す場合、イタリアの郵便局([[ポステ・イタリアーネ]])を通すよりも、バチカン市国内にあるPoste Vaticaneの[[郵便ポスト]]から投函するほうが、格段に早くかつ確実に郵便物が到着することを知っているため、少し歩いてでも越境してバチカン内から投函する者も多い<ref>{{cite news | author = デノーラ砂和子 | url = https://allabout.co.jp/gm/gc/78028/2/ | title = 天使が配達?!絵葉書送るならバチカン郵便局 | newspaper = all about | date = 2008-10-31 | accessdate = 2017-10-23 }}バチカンの郵便ポストに手紙を投函するときは、うっかりイタリアの切手を貼らないように注意しましょう。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=辻田希世子 |url=http://www.cafeglobe.com/news/dailynews/dn20020401-01.html |title=劣悪イタリア郵便事情の改善に 日本人が立ち上がった! |work=Cafeglobe.com |publisher=カフェグローブ・ドット・コム |date=2002-04-01 |accessdate=2011-01-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020612095808/http://www.cafeglobe.com/news/dailynews/dn20020401-01.html |archivedate=2002年6月12日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。ただし、この場合イタリア発行の切手は通用しないため、バチカン市国発行の[[切手]]を貼付する必要がある。
== 国民と国籍 ==
バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/vt.html#People CIA - The World Factbook -- Holy See (Vatican City)]</ref>であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、[[枢機卿]]・[[司祭]]などの[[聖職者]]と、[[叙階]]されていない[[修道士|修道士・修道女]]がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外(すなわちイタリア)に居住し、そこから通勤している。また[[バチカンのスイス衛兵|スイス人衛兵]]もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外に住居を持って通勤している衛兵もいる。
聖座の外交官や各省庁の官職にある者は、教皇庁の公用の必要がある場合に、バチカン市国のパスポートを取得することができる。いわゆる外交[[パスポート]]に相当するものは、青色の表紙をしている。なお、一般のバチカン市国住民には市国パスポートは発給されない。イタリアとの間の移動、イタリアなど[[シェンゲン協定]]国間の移動にはパスポートは不要であるため、[[欧州連合]]内は自由に移動できる。
[[2003年]]末の時点で、バチカンの「居住権」(いわゆる「[[市民権]]」あるいは「[[国籍]]」)を保持する者は552名に及ぶ。そのうち61人が[[枢機卿]]、346名が[[司教]]、[[司祭]]などの聖職者である。101名がスイス人衛兵、44人が一般の職員である。全ての者がバチカンの居住権と併せて、従来の国籍も保持している([[二重国籍]])。
バチカン居住権は[[聖職者]]も含め、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられる。教皇庁の職員の多数を占めるイタリア人職員たちには外交業務などにおいて特に必要がないかぎり、居住権は与えられない。また、バチカンの[[市民権]]は上記のように職務に対応する特殊な地位であるため、たとえバチカン市国内で出生しても[[出生地主義]]による国籍の取得はできない。
バチカン市庁における女性職員は600人程度で、カトリック信徒であることが必須であるが、初の女性職員は、1934年に採用された[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]出身の[[ユダヤ教]]徒、ヘルミーネ・シュパイアーであった。2020年1月には教皇庁外務局次官にフランチェスカ・ディジョバンニが起用され、教皇庁において副大臣級初の女性起用となった。
== 文化 ==
{{See also|バチカン市国 (世界遺産)}}
バチカン市国は、[[国家]]自体が[[世界文化遺産]]の宝庫である。[[サン・ピエトロ大聖堂]]や[[システィーナ礼拝堂]]など、[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]、[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]といった美術史上の巨匠たちが存分に腕をふるった作品で満ちあふれている。また、[[バチカン美術館]]とバチカン文書資料館には歴史上の貴重なコレクションが大量に納められている。なお、バチカンは[[1984年]]に[[世界遺産]]にも登録されている。
バチカンに定住している人々は、[[カトリック教会]]の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために、二つの[[女子修道会]]が支部を置いている。バチカンで働く聖職者たちは、枢機卿などの高位聖職者を除けばほとんどが[[修道士|修道会員]]である。
バチカンは聖地であるため服装規定がある。特に女性は観光客であっても、聖堂内に入るときなどに服装に気をつかうこと([[ノースリーブ]]の服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止など)が求められる。
バチカンは巡礼者のみならず全世界から訪れる観光客でいつもにぎわっている。教皇は世界から訪れる信徒のために毎週日曜日には彼らの前で[[ミサ]]を執り行い、平日にも信徒と共に行う信心業や謁見(通常は毎週水曜)を行っている。[[復活祭]]などの特別な[[祝日]]には、サン・ピエトロ広場に姿を見せて世界に挨拶を送るのがならわしとなっている。
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style=
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
|[[1月1日]]||元日(神の母聖マリアの祭日)|| lang="la"| ||
|-
|[[1月6日]]||主の公現(祭日)|| lang="la"| ||
|-
|[[2月11日]]||[[ラテラノ条約]]締結記念日|| lang="la"| ||
|-
|[[3月19日]]||聖ヨセフ(祭日)|| lang="la"| ||
|-
|3月-4月||[[復活祭|復活の主日(祭日)]]|| lang="la"| ||移動祝日
|-
|[[5月1日]]||労働者聖[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]](記念日)|| lang="la"| ||
|-
|5月||[[キリストの昇天|主の昇天(祭日)]]|| lang="la"| ||移動祝日
|-
|6月||[[キリストの聖体]](祭日)|| lang="la"| ||移動祝日
|-
|[[6月29日]]||聖[[ペトロ]]・聖[[パウロ]](祭日)|| lang="la"| ||
|-
|[[8月15日]]||[[聖母の被昇天]](祭日)|| lang="la"| ||
|-
|[[11月1日]]||[[諸聖人の日]](祭日)|| lang="la"| ||
|-
|[[12月8日]]||[[無原罪の御宿り|無原罪の聖マリア(祭日)]]|| lang="la"| ||
|-
|[[12月24日]] - [[12月25日]]||[[クリスマス|主の降誕(祭日)]]|| lang="la"| ||
|-
|[[12月31日]]||[[年越し]]|| lang="la"| ||
|}
== スポーツ ==
=== サッカー ===
バチカン市国では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]であり、[[1972年]]にサッカーリーグの{{仮リンク|バチカン市国選手権|en|Vatican City Championship}}が創設され、主に州の省庁を代表する労働者で構成されている。[[サッカーバチカン代表]]は、バチカン[[国籍]]を有する聖職者会議の議員や、[[バチカン美術館]]の[[警備員]]、[[スイス傭兵|スイス人衛兵]]などでチームは形成される。ちなみにバチカンは[[国際サッカー連盟|FIFA]]や[[欧州サッカー連盟|UEFA]]には加盟しておらず、[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]や[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]には出場できない。
2019年5月、初の女性チームが組織され、主にバチカン職員と職員の妻や娘で構成された。同月、彼らはローマ市のチームと対戦し、10ゴール対ゼロで敗北した<ref>{{Cite web |title=El debut del equipo de fútbol femenino del Vaticano - Vatican News |url=https://www.vaticannews.va/es/vaticano/news/2019-05/debut-equipo-futbol-femenino-vaticano-mensaje-papa-parolin.html |website=www.vaticannews.va |date=2019-05-27 |access-date=2023-06-07 |language=es}}</ref>。
[[File:2017 Vatican City Jersey.jpg|thumb|right|公式シールドが付いた2017年のサッカー男子チームのTシャツ。]]
=== [[陸上競技]] ===
2019年1月10日、バチカンにおける最初の公認スポーツ協会である「アスレティカ・バチカーナ」の設立が発表された。チームは教皇庁職員および、さまざまな年齢・性別・国籍の人々から構成される<ref>{{Cite web |title=Athletica Vaticana |url=http://www.cultura.va/content/cultura/en/dipartimenti/sport/risorse/athletics.html |website=www.cultura.va |access-date=2023-06-08}}</ref>。アスレティカ・ヴァチカーナは、教皇庁国務省の支援と、イタリア陸上競技連盟(FIDAL)に加盟し公認されているイタリア国内オリンピック委員会との二国間協定により設立され、競技の機会が与えられることになる。イタリアでもヨーロッパでも。アスレティカ・ヴァチカーナの最初の競技は、2019年1月20日にローマのコルサ・ディ・ミゲルの10kmレースで行われた。
=== [[サイクリング]] ===
2021年10月28日、[[国際自転車競技連合]]は、アスレティカ・バチカーナの一部門である「バチカンサイクリング」の連合への加盟を認めた<ref>{{Cite web |title=La Santa Sede, nuevo miembro de la Unión Ciclista Internacional - Vatican News |url=https://www.vaticannews.va/es/vaticano/news/2021-10/la-santa-sede-nuevo-miembro-de-la-union-ciclista-internacional.html |website=www.vaticannews.va |date=2021-10-28 |access-date=2023-06-08 |language=es}}</ref>。20 世紀以来、サイクリストと教皇は絶えず友好的なアプローチをとっており、すでに1948年に教皇 [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]はマドンナ・デル・ギザッロをサイクリストの普遍的な[[守護聖人]]として宣言した。[[マドンナ・デル・ギザッロ教会]]は、自転車界の聖地とみなされている[[コモ県]][[マグレーリオ]]にある。
=== クリケット ===
2013年10月22日、サン・ペトロ・クリケットクラブが教皇庁文化評議会の後援のもと発足した。これは、世界の多くの国(105か国)で楽しまれているスポーツである[[クリケット]]を通じて、異なる文化や宗教との対話を強化する事を目的としており、その対象には、[[イングランド国教会|英国国教会]]、[[イスラム教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[シク教]]、[[仏教]]などが含まれる<ref>{{Cite web |title=Comunicado Prensa |url=http://www.theologia.va/content/cultura/es/dipartimenti/sport/risorse/cricket/ohiggins1.html |website=www.theologia.va |access-date=2023-06-08}}</ref><ref>{{Cite web |title=La selección de críquet vaticana ya es oficial: seminaristas británicos, curas de India, Pakistán... |url=https://www.religionenlibertad.com/vaticano/992416830/seleccion-criquet-vaticana-oficial-seminaristas-britanicos-curas-india-pakistan.html |website=https://www.religionenlibertad.com |date=2023-01-28 |access-date=2023-06-08 |language=es |last=ReL}}</ref>。
== バチカンが舞台の作品 ==
{{Main|Category:バチカンを舞台とした作品}}
== メディア ==
[[新聞]]として「[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]」紙がある。これは[[教皇庁]]の公式紙であり、[[イタリア語]]版が日刊で、[[英語]]版、[[スペイン語]]版、[[フランス語]]版、[[ドイツ語]]版、[[ポルトガル語]]版が週刊で、[[ポーランド語]]版が月刊で発行されている。さらに[[国営放送]]といえる[[バチカン放送]]や、公式ウェブサイト、ツイッターアカウント(後述)がある。
=== ツイッター===
バチカンのニュースサービスが、それぞれ専用アカウントを保持している。
2012年12月4日、[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が自身の[[Twitter]]アカウント「@Pontifex」を開設したが、2013年2月28日の教皇の退位と同時に閉鎖されることになった。しかし実態としてはツイート全削除(別途アーカイブは残される)の上でユーザー情報の書き換えが行われたのみで、アカウント自体は存置され、[[使徒座空位]]を表わす「傘と天国の鍵の紋章」と「Sede Vacante」の表示のある状態となった。
2013年3月13日に、コンクラーヴェで[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が新教皇に就任すると、「三重冠と天国の鍵の紋章」に戻り「我ら[[フランキスクス]](フランシスコ)を得たり」({{la|'''"Habemus Papam Franciscum"'''}}) との[[ラテン語]]のツイートがなされ<ref>{{cite_web|url=http://www.bbc.com/news/world-europe-21777494 |title=Argentina's Jorge Mario Bergoglio elected Pope Francis |publisher=[[英国放送協会|BBC]] |date=2013-03-14 |accessdate=2017-06-19}}</ref><ref>{{cite_web|url=https://edition.cnn.com/2013/03/13/world/europe/vatican-pope-selection/index.html |title=Pope Francis, the pontiff of firsts, breaks with tradition |author1=Chelsea J. Carter |author2=Hada Messia |author3=Richard Allen Greene |publisher=CNN |date=2013-03-14 |accessdate=2017-06-19}}</ref>、その後フランシスコが使用することとしたためリニューアルされた。すなわち、「@Pontifex」のアカウントは「教皇専用」であるのみで、代が変わっても同一アカウントをそのまま用い続けることが示された。「@Pontifex」を使うかどうかは、教皇の意向次第となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 上野景文、『バチカンの聖と俗 日本大使の1400日』、かまくら春秋社、2011年
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|バチカン関係記事の一覧|en|Index of Vatican City–related articles}}
* [[ローマ教皇の一覧]]
* [[カトリック教会]]
* [[バチカン放送]]
* [[サッカーバチカン代表]]
* [[ラジオ・ベリタス・アジア]]([[バチカン放送]]とは友好関係にある)
* [[ミニ国家]]
* [[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]
* [[バチカン市国 (世界遺産)]]
* [[日本とバチカンの関係]]
* [[駐日本国ローマ法王庁大使館]]
* {{仮リンク|テウトニコ墓地|en|Teutonic Cemetery}}
== 外部リンク ==
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'''公式'''
* [https://www.vaticanstate.va バチカン市国政府] {{it icon}}{{en icon}}
* [https://w2.vatican.va バチカン公式サイト] {{it icon}}{{en icon}}
* {{Twitter|pontifex|Pope Francis}}
'''日本政府'''
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vatican/ 日本外務省 - バチカン]
'''その他'''
* [https://www.vaticannews.va/ja.html バチカンニュース] {{ja icon}}
* [https://www.cbcj.catholic.jp/faq/popeofrome/ カトリック中央協議会 -「ローマ法王」「ローマ教皇」という二つの呼称について]
* {{Kotobank|バチカン市国}}
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3,390 | 五感 | 五感(ごかん)とは、動物やヒトが外界を感知するための多種類の感覚機能のうち、古来の分類による5種類、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をさす。この伝統的な分類を前提として、人間の感覚全体を指すために「五感」という表現が用いられる場合もある(「五感を鋭くする」など)。
自衛隊のレンジャー訓練などでも用いられている。
この五感という分類の仕方は、もともとは古代ギリシャのアリストテレスによる分類に端を発しており、それが様々な文化に引き継がれ、現在でも小学校などでも教えられており、広く通念ともなっている。
現在はヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、とする説明もある。
触覚と呼ばれているものは、生理学的には体性感覚と呼ばれるものにほぼ相当すると思われるが、体性感覚は決して単純に皮膚の感覚を脳に伝えるものなどではなく、表在感覚(触覚、痛覚、温度覚)、深部覚(圧覚、位置覚、振動覚など)、皮質性感覚(二点識別覚、立体識別能力など)など多様な機能を含んでいる。
それ以外にも、感覚には内臓感覚、平衡感覚などが存在する。
庭園の種類にはセンソリー・ガーデン/センサリー・ガーデンと呼ばれる、五感で感じる庭、感覚で鑑賞する庭がある。これは訪問者が様々な感覚体験を楽しむことができる自己完結型の庭園エリアのことである。庭園は利用者が通常遭遇しないような方法で、個別にも組み合わせにも感覚を刺激する機会を提供するよう設計されている。
こうした五感の庭は学校教育やレクリエーションに幅広く応用されているほか、自閉症の人々など特別支援教育の生徒の教育で活用されている。園芸療法の一形態として、認知症の人のケアで役に立つように、セラピーガーデンの役割を担う場合もある。
五感を刺激する庭は、身体障害のある人とない人の両方がアクセス可能で楽しめるように設計することもできる。例えば、香りのある植物や食べられる植物、彫刻や彫刻を施した手すり、音を出して手の上で遊ぶように設計された水場、手触りのよいタッチパッド、拡大鏡のスクリーン、点字や音声による誘導ループによる説明など、障害者がアクセスできる機能を盛り込むことが可能。利用者によっては、音や音楽をより中心的にして、若い利用者の遊びのニーズと感覚のニーズを結びつけるような設備を備える庭もある。
通常、車椅子でのアクセスやその他のアクセシビリティへの配慮がなされ、デザインやレイアウトは、五感を刺激するレジャーを提供し、意識を高め、ポジティブな学習体験をもたらすものである。
香りに特化したものは「香りの庭」、音楽・音響に特化したものは「音の庭」などと呼ばれ、発達や学習、教育の成果を戦略的に高める機会を提供するために設備で2重化がなされている。知る区ロード#オアシスも参照。 | [
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] | 五感(ごかん)とは、動物やヒトが外界を感知するための多種類の感覚機能のうち、古来の分類による5種類、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をさす。この伝統的な分類を前提として、人間の感覚全体を指すために「五感」という表現が用いられる場合もある(「五感を鋭くする」など)。 自衛隊のレンジャー訓練などでも用いられている。 | {{Otheruses|感覚|製菓業者|五感 (製菓業者)|[[ハンス・マカルト]]の絵画|五感 (マカルト)}}
{{出典の明記|date=2011年9月}}
[[File:Five senses.jpg|thumb|right|200px|[[視覚]]、[[聴覚]]、[[触覚]]、[[味覚]]、[[嗅覚]]のそれぞれを感知するために使われる器官]]
'''五感'''(ごかん)とは、[[動物]]や[[ヒト]]が[[外界]]を[[感知]]するための多種類の[[感覚]][[機能]]のうち、'''古来の[[分類]]による5種類'''、すなわち[[視覚]]、[[聴覚]]、[[触覚]]、[[味覚]]、[[嗅覚]]をさす。この伝統的な分類を前提として、人間の感覚全体を指すために「五感」という表現が用いられる場合もある(「五感を鋭くする」など)。
自衛隊のレンジャー訓練などでも用いられている。
== この分類方法の起源 ==
[[File:Makart Fuenf Sinne.jpg|thumb|right|200px|[[ハンス・マカルト|マカルト]]の絵画『{{仮リンク|五感 (マカルト)|label=五感|fr|Les Cinq Sens (Makart)}}』]]
この五感という分類の仕方は、もともとは[[古代ギリシャ]]の[[アリストテレス]]による分類に端を発しており、それが様々な[[文化_(代表的なトピック)|文化]]に引き継がれ、現在でも[[小学校]]などでも教えられており、広く通念ともなっている。
== 実際の感覚の数 ==
{{Main|感覚#ヒトの感覚分類}}
現在はヒトの感覚は5つ以上あることがわかっている。細かく分類すれば20余りある、とする説明もある。
触覚と呼ばれているものは、[[生理学]]的には[[体性感覚]]と呼ばれるものにほぼ相当すると思われるが、体性感覚は決して単純に[[皮膚]]の感覚を[[脳]]に伝えるものなどではなく、[[表在感覚]](触覚、[[痛覚]]、[[温度覚]])、[[深部感覚|深部覚]]([[圧覚]]、[[位置覚]]、[[振動覚]]など)、[[皮質性感覚]]([[二点識別覚]]、[[立体識別能力]]など)など多様な機能を含んでいる。
それ以外にも、感覚には[[内臓感覚]]、[[平衡感覚]]などが存在する。
== 五感で感じる庭 ==
[[Image:Blindengarten.jpg|thumb|[[ブレーメン]]にあるSensory_gardenの入口。[[:de:Knoops Park|Knoops Park]]にある「盲人の庭」(''Blindengarten'')は、[[視覚障害者]]が補助なしで庭を回り、その特徴を体験できるよう設計されている<ref>{{cite web |title=ブレーメンの盲人の庭 |url=https://www.lesum.de/vereine/blindengarten/index_en.htm |website=www.lesum.de |archive-url=https://web.archive.org/web/20190912215558/https://www.lesum.de/vereine/blindengarten/index_en.htm |archive-date=12 September 2019 |language=en|accessdate=2023-04-11}}</ref>]]
[[庭園]]の種類にはセンソリー・ガーデン[https://www.harunire.or.jp/mourai/file/171226150828.pdf][http://www.rehab.go.jp/application/files/6315/8752/3059/bora202004.pdf]/センサリー・ガーデン[https://www.jht-assc.jp/wp-content/uploads/vol.11_1.pdf][https://korekara-pj.net/design/design_27/]と呼ばれる、五感で感じる庭、感覚で鑑賞する庭がある。これは訪問者が様々な感覚体験を楽しむことができる自己完結型の[[庭園]]エリアのことである<ref name=sensorytrust>{{Cite web|和書|title=Sensory garden design advice 1. センサリートラスト|url=http://www.sensorytrust.org.uk/information/factsheets/sensory-garden-1.html |website=www.sensorytrust.org.uk |access-date=15 June 2018 |language=en-gb |date=21 February 2003}}</ref>。庭園は利用者が通常遭遇しないような方法で、個別にも組み合わせにも感覚を刺激する機会を提供するよう設計されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://gardeningsolutions.ifas.ufl.edu/design/types-of-gardens/sensory-gardens.html|title=Sensory Gardens - Gardening Solutions - University of Florida, Institute of Food and Agricultural Sciences|website=gardeningsolutions.ifas.ufl.edu|language=ja|access-date=2018-03-20}}</ref>。
{{main|:en:Sensory_garden}}
こうした五感の庭は[[学校教育]]や[[レクリエーション]]に幅広く応用されているほか<ref name=sensorytrust/>、[[自閉症]]の人々など[[特別支援教育]]の生徒の教育で活用されている<ref>{{cite journal |last1=Hussein |first1=H |title=Sensory Garden in Special Schools: The Issues, Design and Use |journal=Journal of Design and Built Environment |date=December 2009 |volume=5 |issue=1 |pages=77-95 |url=http://ajba.um.edu.my/index.php/jdbe/article/view/4974 |access-date=15 June 2018 |language=ja |issn=2232-1500}}</ref>。[[園芸療法]]の一形態として、[[認知症]]の人のケアで役に立つように、[[セラピーガーデン]]の役割を担う場合もある<ref name=Gonzalez2014>{{cite journal|vauthors=Gonzalez MT, Kirkevold M|title=Benefits of sensory garden and horticultural activities in dementia care: a modified scoping review|journal=Journal of Clinical Nursing|volume=23|issue=19-20|pages=2698-715|date=October 2014|pmid=24128125|doi=10.1111/jocn.12388 }}</ref>。
五感を刺激する庭は、[[身体障害]]のある人とない人の両方が[[アクセス]]可能で楽しめるように設計することもできる。例えば、[[香り]]のある[[植物]]や食べられる植物、[[彫刻]]や彫刻を施した[[手すり]]、音を出して手の上で遊ぶように設計された水場、手触りのよいタッチパッド、拡大鏡のスクリーン、点字や音声による誘導ループによる説明など、障害者がアクセスできる機能を盛り込むことが可能。利用者によっては、音や音楽をより中心的にして、若い利用者の遊びのニーズと感覚のニーズを結びつけるような設備を備える庭もある。
通常、[[車椅子]]でのアクセスやその他のアクセシビリティへの配慮がなされ、デザインやレイアウトは、五感を刺激するレジャーを提供し、意識を高め、ポジティブな学習体験をもたらすものである。
香りに特化したものは「香りの庭」、音楽・音響に特化したものは「音の庭」などと呼ばれ、発達や学習、教育の成果を戦略的に高める機会を提供するために設備で2重化がなされている。[[知る区ロード#オアシス]]も参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|}} -->
* [[感覚]]
* [[第六感]]
* [[日本官能評価学会]]
* [[感覚ミュージアム]]
== 外部リンク == <!-- {{Cite web}} -->
{{節スタブ}}
{{DEFAULTSORT:こかん}}
[[Category:感覚]]
[[Category:名数5|かん]]
[[en:5 senses]] | 2003-03-04T14:18:48Z | 2023-11-12T09:47:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%84%9F |
3,392 | オリーブ | オリーブ(阿利襪、阿列布、橄欖、英: olive [ˈɒlɨv]、学名: Olea europaea)は、モクセイ科の常緑高木。実が食用油(オリーブ・オイル)の原料や食用になるため、広く栽培されている。
果実は油分を多く含み、主要な食用油の一つであるオリーブ・オイルの原料である。 古代から重要な油糧作物として知られている。また原産地が西洋文明の発祥区域であった地中海沿岸であるため、旧約聖書で鳩がオリーブ(זַיִת zayit)の葉をくわえて帰ってきたのを見てノアは洪水が退いたことを知った(『創世記』8章11節)という記述をはじめ多くの文化的記録が残っている。葉が小さくて硬く、比較的乾燥に強いことからスペインやイタリアなどの地中海地域で広く栽培されている。
紀元前700年頃から古代ギリシアはオリーブの栽培によって国力を蓄え、今日の産油国のように繁栄を迎えた。オリーブには希少価値があり、ヘロドトスは紀元前5世紀頃に「アテナイを除き、世界のどこにもオリーブの木は存在しない」と記述している。ギリシアが地中海各地に植民市を建設するとともに、オリーブの木も移植され広まっていった。紀元前370年頃にイタリア半島へ移植され、やがてオリーブの主要生産地の一つとなった。
古代ギリシア語ではἐλαία (「エライアー」、オリーブの木やオリーブの実を指す)、あるいはἔλαιον (「エライオン」、オリーブ・オイルを指す)。前者は古くἐλαίϝα(「エライワー」)のように発音されており、それをラテン語に借用した形がŏlīva(「オリーワ」)である。ロマンス諸語のイタリア語oliva、スペイン語oliva、フランス語oliveはいずれもラテン語に由来する。英語のoliveは古フランス語からの借用である。なおオリーブ・オイルを指すἔλαιονの方はラテン語に借用されてoleumとなり、イタリア語olio、フランス語huile、英語oil(いずれも「油」を意味する)はいずれもこのラテン語に由来する。
日本語では基本的には英語やフランス語を音写した「オリーブ」と呼ばれ、まれに「橄欖(かんらん)」と呼ばれることもあるが、橄欖は本来オリーブとは全く異なるカンラン科の常緑高木である(カンラン (カンラン科)参照)。これは、オリーブに似た緑色の鉱物オリビン(olivine)を和訳する際に、まったく違う樹木である橄欖の文字を誤って当てて「橄欖石(かんらんせき)」と名づけてしまい、植物のほうも同様に誤字が流布してしまった結果であるという説がある。ただし、明治初期に和訳された新約聖書『マタイによる福音書』の中に「橄欖山の垂訓」があり、当時はオリーブを用法の似た「かんらん」と混同ないし、同一視されていたため、鉱物の誤訳説には疑問がある。また別の説では、カンランの果実を塩蔵したものを英語で chinese olive と称したことによるとも言われる。
オリーブの果実は油を搾るほか食用にされる。そのまま生食すると苦味が強いが、加熱すると苦味がやわらぐため、ピクルスやピザの材料としたり、塩漬けにしてカクテルのマティーニに添えられたりする。また種子からも油が取れるが、これはオリーブ核油といい、オリーブ油よりも品質が劣る。
日本国内の産地である香川県では、飼料にも使われている。葉の粉末入りの餌を与えた養殖ハマチはさっぱりした味わいになるという。搾油後の果実は食用の豚、牛、地鶏に与えられている。
オリーブの木材は硬く(爪の先で押してもほとんど傷つかない)重く(比重は約0.9)緻密で、油分が多く耐久性がある。このため装飾品や道具類、特にまな板、すり鉢・すりこぎ、スプーン、調理用へらなどの台所用品を作るのによく用いられる。木製品としてはかなり高価である。日本では印鑑の材料にされることもある。辺材は黄白色、心材は黄褐色で、褐色の墨流しのような不規則なしま模様がある。オリーブ材の加工はフランスやイタリアなどで盛んだが、ヨーロッパのオリーブは幹が細いものが多く、加工用のオリーブ材はチュニジアなどのアフリカ産が多い。日本でも小豆島でオリーブ材をわずかに生産している。
4月頃から先端が青虫に食害されることが多い。これを防ぐためにフェニトロチオン等の乳剤の希釈液を幹にだけ塗布する樹幹散布が行われる。日本での栽培においては日本の固有種オリーブアナアキゾウムシによる被害が大きい。このゾウムシは成虫は体長15mm、体幅6mm程度で体色は黒褐色をしており、幼虫は幹に穴を開けながら食べ続け、成虫も樹皮を食害する。成虫はオリーブの根本で越冬し、落ち葉や雑草が多くなるほど数が増える。
オリーブは重要な商品作物である。国際連合食糧農業機関(FAO)の統計資料によると、98%以上の生産国は地中海に面し、そのうち、2/3がヨーロッパ州に集中している。
2002年のオリーブの実の生産量は1398万トンであり、全体の30.8%をスペインが生産(430万トン)していた。生産上位10カ国は、スペイン、イタリア(19.5%)、ギリシャ(14.3%)、トルコ(10.7%)、シリア(7.1%)、モロッコ(3.0%)、ポルトガル、エジプト、アルジェリア、ヨルダンである。
1960年には年産400万トンだったが、1990年に1000万トンを超えた。2002年までの10年間に生産量が著しく増加した国は、スペイン(140万トン)、シリア(80万トン)、トルコ(70万トン)、エジプト(30万トン)。ギリシャ(20万トン)、ヨルダン(15万トン)である。逆に、減少が著しい国はイタリア(50万トン)、チュニジア(20万トン)である。
2002年時点で、地中海に面した国のうちオリーブ生産量(果実)が少ないのはアルバニア(2.7万トン)、キプロス(1.8万トン)、フランス(2万トン)、マルタのみである。地中海以外であっても、地中海性気候に属する地域を含む国ではオリーブは生産されている。例えば、イラン(4万トン)である。中央アジアでもわずかに生産されているが統計データとしてはごく少量である。
北米大陸では、カナダ南部ソルトスプリング島でも生産されるようになっている。
日本では江戸時代に平賀源内がホルトノキをオリーブと誤認して栽培に取り組んだ。明治維新後、殖産興業をめざす明治政府は海外の有用動植物を移入して国内での繁殖・栽培を試み、暖地性作物については1878年に神戸に3000坪の園地を設け、ゴムノキのほかオリーブを植えた。当時は「神戸阿利襪(オリーブ)園」と書き、現在の神戸北野ホテル近くにあった。主導したのは、フランス留学時に多くの植物を持ち帰った薩摩藩出身の前田正名である。1882年には実の塩蔵品とオリーブ・オイルを生産するに至り、その味はフランス出身のお雇い外国人ボアソナードが絶賛する程であった。西南戦争で財政難に陥った明治政府はオリーブ園の売却を決め、1888年に前田に払い下げ、前田は後に川崎正蔵(川崎造船所創業者)に売った。日露戦争を機に日本が北洋漁業を拡大したため缶詰用オリーブ・オイルの需要が増えため、1905年から神戸市農会が諏訪山に残っていた300本を管理したが、神戸市街の拡大に伴い1908年にオリーブ園事業は完全に中止された。神戸市内の湊川神社にあるオリーブは、神戸オリーブ園由来の古木である。続いて政府がオリーブ栽培地として目を付けたのが小豆島で、神戸で園長を務めた福羽逸人が搾油の指導に当たった。神戸でのオリーブ栽培はその後に途絶えたが、現在は神戸市となっている押部谷町で2018年に「神戸オリーブ園復活プロジェクト」が始まり、オリーブ油が生産されている。
小豆島での栽培は1910年頃に初めて成功した。現在は香川県を含む四国全域、岡山県、広島県、兵庫県、九州、関東地方、中部地方、東北地方など全国各地で栽培されている。宮城県石巻市が東日本大震災からの復興の一環として、「北限のオリーブ」栽培に取り組んでいる。2015年からはさらに北方の北海道豊浦町でも栽培が行われている。
日本で新たな品種も育成されており、香川県が開発した「香オリ3号」「香オリ5号」が日本発で初めて品種登録に至った。
なお、果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。
程度差はあるが自家不和合性が有るため同一品種の花粉では結実し難い。
日本の平成20年度税制改正において、法人税等の「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば平成20年4月1日以後開始する事業年度にかかるオリーブ樹の法定耐用年数は25年となった。 | [
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"text": "オリーブは重要な商品作物である。国際連合食糧農業機関(FAO)の統計資料によると、98%以上の生産国は地中海に面し、そのうち、2/3がヨーロッパ州に集中している。",
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"text": "小豆島での栽培は1910年頃に初めて成功した。現在は香川県を含む四国全域、岡山県、広島県、兵庫県、九州、関東地方、中部地方、東北地方など全国各地で栽培されている。宮城県石巻市が東日本大震災からの復興の一環として、「北限のオリーブ」栽培に取り組んでいる。2015年からはさらに北方の北海道豊浦町でも栽培が行われている。",
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"text": "日本の平成20年度税制改正において、法人税等の「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば平成20年4月1日以後開始する事業年度にかかるオリーブ樹の法定耐用年数は25年となった。",
"title": "生産について"
}
] | オリーブは、モクセイ科の常緑高木。実が食用油(オリーブ・オイル)の原料や食用になるため、広く栽培されている。 | {{Otheruses}}
{{生物分類表
|名称 = オリーブ
|色 = lightgreen
|画像= [[ファイル:Olea europaea subsp europaeaOliveTree.jpg|250px]]
|画像キャプション = オリーブの樹
|界 = [[植物界]] [[:w:Plantae|Plantae]]
|門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||angiosperms}}
|綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||eudicots}}
|亜綱階級なし =
|下綱階級なし = [[キク類]] {{Sname||asterids}}
|上目階級なし =
|目 = [[シソ目]] {{Sname||Lamiales}}
|科 = [[モクセイ科]] [[:w:Oleaceae|Oleaceae]]
|属 = [[オリーブ属]] ''[[:w:Olea|Olea]]''
|種 = '''オリーブ''' ''O. europaea''
|学名 = ''Olea europaea''
|和名 = オリーブ
|英名 = Olive
|生息図=[[file:Olea europaea range.svg|250px]]
|生息図キャプション=本種および亜種の原生地
}}
[[File:Olivesfromjordan.jpg|250px|thumb|オリーブの果実と葉。果実は色が緑から紫を経て黒に変わっていくがどちらも利用できる。緑のものをグリーンオリーブと呼び加工用にされる。黒のものをブラックオリーブと呼び生食にもされる。]]
'''オリーブ'''(阿利襪<ref>[[松村明]]編 「オリーブ」『大辞林 4.0』 [[三省堂]]、2019年。</ref>、阿列布、橄欖<ref group="注">橄欖([[カンラン (カンラン科)|カンラン]])は別の[[植物]]のことを指し、オリーブに当てる用法は本来では誤りである。</ref>、{{lang-en-short|olive}} {{IPA-en|ˈɒlɨv|}}、[[学名]]: ''Olea europaea'')は、[[モクセイ科]]の[[常緑]][[高木]]。実が[[食用油]]([[オリーブ・オイル]])の原料や食用になるため、広く栽培されている。
== 概要 ==
果実は油分を多く含み、主要な[[食用油]]の一つである[[オリーブ・オイル]]の原料である。
古代から重要な[[油糧作物]]として知られている。また原産地が西洋文明の発祥区域であった[[地中海]]沿岸であるため、[[旧約聖書]]で[[鳩]]がオリーブ({{lang|he|זַיִת}} zayit)の[[葉]]をくわえて帰ってきたのを見て[[ノア (聖書)|ノア]]は[[大洪水|洪水]]が退いたことを知った(『[[創世記]]』8章11節)という記述をはじめ多くの文化的記録が残っている。葉が小さくて硬く、比較的乾燥に強いことから[[スペイン]]や[[イタリア]]などの[[地中海世界|地中海地域]]で広く栽培されている。
[[紀元前700年]]頃から[[古代ギリシア]]はオリーブの栽培によって国力を蓄え、今日の[[産油国]]のように繁栄を迎えた。オリーブには希少価値があり、[[ヘロドトス]]は紀元前5世紀頃に「[[アテナイ]]を除き、世界のどこにもオリーブの木は存在しない」と記述している。ギリシアが地中海各地に[[古代の植民都市#古代ギリシアの植民地|植民市]]を建設するとともに、オリーブの木も移植され広まっていった。紀元前370年頃に[[イタリア半島]]へ移植され、やがてオリーブの主要生産地の一つとなった<ref>ビル・ローズ著 柴田譲治訳『図説:世界史を変えた50の植物』([[原書房]]、2012年)pp.140-143</ref>。
[[古代ギリシア語]]では{{lang|grc|ἐλαία}} (「エライアー」、オリーブの木やオリーブの実を指す)、あるいは{{lang|grc|ἔλαιον}} (「エライオン」、オリーブ・オイルを指す)。前者は古く{{lang|grc|ἐλαίϝα}}(「エライワー」)のように発音されており、それを[[ラテン語]]に借用した形がŏlīva(「オリーワ」)である<ref>{{cite book|author=Palmer, L. R.|title=The Latin Language|publisher=University of Oklahoma Press|year=1987|origyear=1954|isbn=080612136X|pages=50,215,220}}</ref>。[[ロマンス諸語]]のイタリア語oliva、スペイン語oliva、フランス語oliveはいずれもラテン語に由来する。英語のoliveは[[古フランス語]]からの借用である。なおオリーブ・オイルを指す{{lang|grc|ἔλαιον}}の方はラテン語に借用されてoleumとなり、イタリア語olio、フランス語huile、英語oil(いずれも「油」を意味する)はいずれもこのラテン語に由来する<ref group=注>{{lang-es|óleo}}もラテン語oleumに由来するが、この語は通常油絵の油を指し、油一般を意味する語はaceite([[アラビア語]]由来)である。</ref>。
[[日本語]]では基本的には英語やフランス語を音写した「オリーブ」と呼ばれ、まれに「橄欖(かんらん)」と呼ばれることもあるが、[[橄欖]]は本来オリーブとは全く異なる[[カンラン科]]の常緑高木である([[カンラン (カンラン科)]]参照)。これは、オリーブに似た緑色の鉱物オリビン(olivine)を[[和訳]]する際に、まったく違う樹木である橄欖の文字を誤って当てて「[[カンラン石|橄欖石]](かんらんせき)」と名づけてしまい、植物のほうも同様に誤字が流布してしまった結果であるという説がある。ただし、[[明治]]初期に和訳された[[新約聖書]]『[[マタイによる福音書]]』の中に「[[橄欖山の垂訓]]」があり、当時はオリーブを用法の似た「かんらん」と混同ないし、同一視されていたため、鉱物の誤訳説には疑問がある。また別の説では、カンランの果実を塩蔵したものを英語で chinese olive と称したことによるとも言われる。
== 利用 ==
オリーブの果実は油を搾るほか食用にされる。そのまま生食すると[[苦味]]が強いが、加熱すると苦味がやわらぐため、[[ピクルス]]や[[ピザ]]の材料としたり、[[塩漬け]]にして[[カクテル]]の[[マティーニ]]に添えられたりする。また種子からも油が取れるが、これはオリーブ核油といい、オリーブ油よりも品質が劣る。
[[日本]]国内の産地である[[香川県]]では、[[飼料]]にも使われている。葉の粉末入りの餌を与えた[[養殖]][[ハマチ]]はさっぱりした味わいになるという<ref>[http://www.kagyoren.jf-net.ne.jp/kansui/hamachi/trait/ さぬきオリジナル オリーブハマチ](2018年9月27日閲覧)。</ref>。搾油後の果実は食用の[[豚]]、[[牛]]、[[地鶏]]に与えられている<ref>[https://www.sankei.com/west/news/180423/wst1804230053-n1.html 「オリーブ地鶏」食べて/香川、「牛」「豚」に続き販売開始] [[産経新聞|産経WEST]](2018年4月23日)2018年9月27日閲覧。</ref>。
オリーブの[[木材]]は硬く([[爪]]の先で押してもほとんど傷つかない)重く([[比重]]は約0.9)緻密で、油分が多く耐久性がある。このため装飾品や道具類、特に[[まな板]]、[[すり鉢]]・[[すりこぎ]]、[[スプーン]]、調理用[[へら]]などの台所用品を作るのによく用いられる。木製品としてはかなり高価である。日本では[[印鑑]]の材料にされることもある。辺材は黄白色、心材は黄褐色で、褐色の墨流しのような不規則なしま模様がある。オリーブ材の加工はフランスやイタリアなどで盛んだが、ヨーロッパのオリーブは幹が細いものが多く、加工用のオリーブ材は[[チュニジア]]などの[[アフリカ]]産が多い。日本でも[[小豆島]]でオリーブ材をわずかに生産している。
== 害虫 ==
4月頃から先端が[[アオムシ|青虫]]に食害されることが多い。これを防ぐために[[フェニトロチオン]]等の乳剤の希釈液を幹にだけ塗布する樹幹散布が行われる。日本での栽培においては日本の固有種<ref name=中山玲""/>[[オリーブアナアキゾウムシ]]による被害が大きい。この[[ゾウムシ]]は成虫は体長15mm、体幅6mm程度で体色は黒褐色をしており<ref name="">{{cite|url=https://www.pref.kagawa.lg.jp/noshishozu/noshi_olive/saibai.html |title=香川県農業試験場小豆オリーブ研究所: オリーブの栽培条件と管理 |accessdate=2023-09-12}}</ref>、幼虫は幹に穴を開けながら食べ続け<ref name=中山玲""/>、成虫も樹皮を食害する<ref name=中山玲"">{{Cite journal|和書|url=https://hdl.handle.net/2241/0002006899 |author=中山玲, 川添航, 鈴木修斗, 薄井晴, 坂本優紀, 王倚竹, 付凱林, 劉逸飛, 綾田泰之, 杉谷大樹, 松井圭介 |date=2023 |title=小豆島におけるオリーブ産業の存続要因 |journal=筑波大学人文地理学研究 |publisher=筑波大学地球科学系 |volume=41 |pages=11-26 |hdl=2241/0002006899 |CRID=1050577386786913408}}</ref>。成虫はオリーブの根本で越冬し、落ち葉や雑草が多くなるほど数が増える<ref>{{Cite journal|和書 |author=市川俊英, 岡本秀俊, 内海与三郎, 川西良雄, 壺井洋一 |date=1991 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010472035 |title=オリーブアナアキゾウムシ成虫の越冬場所 |journal=日本応用動物昆虫学会誌 |ISSN=0021-4914 |publisher=日本応用動物昆虫学会 |volume=35 |issue=3 |pages=181-187 |doi=10.1303/jjaez.35.181 |CRID=1390001206448618496}}</ref>。
== 生産について ==
[[ファイル:Olive_niche.jpg|サムネイル|オリーブの生産地]]
オリーブは重要な[[商品作物]]である。[[国際連合食糧農業機関]](FAO)の統計資料によると、98%以上の生産国は地中海に面し、そのうち、2/3がヨーロッパ州に集中している。
2002年のオリーブの実の生産量は1398万トンであり、全体の30.8%を[[スペイン]]が生産(430万トン)していた。生産上位10カ国は、スペイン、イタリア(19.5%)、ギリシャ(14.3%)、[[トルコ]](10.7%)、[[シリア]](7.1%)、[[モロッコ]](3.0%)、[[ポルトガル]]、[[エジプト]]、[[アルジェリア]]、[[ヨルダン]]である。うちトルコにおける「オリーブの栽培に関する伝統的な知識、方法と慣行」は2023年に[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]の緊急指定リストに登録された<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Traditional knowledge, methods and practices concerning olive cultivation |url=https://ich.unesco.org/en/USL/traditional-knowledge-methods-and-practices-concerning-olive-cultivation-01983 |website=ich.unesco.org |access-date=2023-12-08 |language=en}}</ref>。
1960年には年産400万トンだったが、1990年に1000万トンを超えた。2002年までの10年間に生産量が著しく増加した国は、スペイン(140万トン)、シリア(80万トン)、トルコ(70万トン)、エジプト(30万トン)。ギリシャ(20万トン)、ヨルダン(15万トン)である。逆に、減少が著しい国はイタリア(50万トン)、チュニジア(20万トン)である。
2002年時点で、地中海に面した国のうちオリーブ生産量(果実)が少ないのは[[アルバニア]](2.7万トン)、[[キプロス]](1.8万トン)、フランス(2万トン)、[[マルタ]]のみである。地中海以外であっても、[[地中海性気候]]に属する地域を含む国ではオリーブは生産されている。例えば、[[イラン]](4万トン)である。[[中央アジア]]でもわずかに生産されているが統計データとしてはごく少量である。
[[北米大陸]]では、[[カナダ]]南部[[ソルトスプリング島]]でも生産されるようになっている<ref>[https://www.oliveoiltimes.com/ja/business/odds-first-olive-oil-canada/56898 エミリー・オルセン「すべてのオッズに対して:カナダからの最初のオリーブオイル」]Olive Oil Times(2017年6月16日)2020年2月8日閲覧</ref>。
=== 日本では ===
日本では[[江戸時代]]に[[平賀源内]]が[[ホルトノキ]]をオリーブと誤認して栽培に取り組んだ{{要出典|date=2021年12月}}。[[明治維新]]後、[[殖産興業]]をめざす[[明治政府]]は海外の有用動植物を移入して国内での繁殖・栽培を試み、暖地性作物については1878年に[[神戸市|神戸]]に3000[[坪]]の園地を設け、[[ゴムノキ]]のほかオリーブを植えた。当時は「神戸阿利襪(オリーブ)園」と書き、現在の神戸北野ホテル近くにあった。主導したのは、[[フランス]]留学時に多くの植物を持ち帰った[[薩摩藩]]出身の[[前田正名]]である。1882年には実の塩蔵品とオリーブ・オイルを生産するに至り、その味はフランス出身の[[お雇い外国人]][[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]が絶賛する程であった。[[西南戦争]]で財政難に陥った明治政府はオリーブ園の売却を決め、1888年に前田に払い下げ、前田は後に[[川崎正蔵]]([[川崎造船所]]創業者)に売った。[[日露戦争]]を機に日本が[[北洋漁業]]を拡大したため[[缶詰]]用オリーブ・オイルの需要が増えため、1905年から神戸市[[農会]]が[[諏訪山公園|諏訪山]]に残っていた300本を管理したが、神戸市街の拡大に伴い1908年にオリーブ園事業は完全に中止された。神戸市内の[[湊川神社]]にあるオリーブは、神戸オリーブ園由来の古木である。続いて政府がオリーブ栽培地として目を付けたのが[[小豆島]]で、神戸で園長を務めた[[福羽逸人]]が搾油の指導に当たった<ref>中西テツ([[神戸大学]]名誉教授)「[https://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=2&ng=DGKKZO55086100R30C20A1BC8000&scode=2613 オリーブ園 神戸で再び芽◇140年前に国営で開園も20年で閉園 国内初の油生産にも貢献◇]」『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年2月3日(文化面)2020年2月8日閲覧</ref>。神戸でのオリーブ栽培はその後に途絶えたが、現在は神戸市となっている[[押部谷町]]で2018年に「神戸オリーブ園復活プロジェクト」が始まり、オリーブ油が生産されている<ref>「神戸オリーブ 復活の芽吹き/国内最古の産地 3年前に栽培朝鮮/初出品オイル 国際コンテストで銀賞」『日本農業新聞』2021年7月7日12面</ref>。
小豆島での栽培は1910年頃に初めて成功した。現在は香川県を含む[[四国]]全域、[[岡山県]]、[[広島県]]、[[兵庫県]]、[[九州]]、[[関東地方]]、[[中部地方]]、[[東北地方]]など全国各地で栽培されている。[[石巻市|宮城県石巻市]]が[[東日本大震災]]からの復興の一環として、「北限のオリーブ」栽培に取り組んでいる<ref>{{Cite news|url=http://m-nkaigi.sub.jp/wadai/20160520/20160520_ishinomaki.pdf/|title=北限のオリーブ栽培実験の取組創設|work=|publisher=石巻市|date=2016-05-20}}</ref>。2015年からはさらに北方の[[北海道]][[豊浦町]]でも栽培が行われている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55284850V00C20A2L41000/ 北海道に「北限のオリーブ」出現、商業生産へ始動]『日本経済新聞』電子版2020年2月5日(2020年2月8日閲覧)</ref>。
日本で新たな品種も育成されており、香川県が開発した「香オリ3号」「香オリ5号」が日本発で初めて品種登録に至った<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJB199PS0Z10C21A3000000/ 「香川県開発のオリーブ、日本初の品種登録」]日本経済新聞ニュースサイト(2021年3月22日配信)2021年4月8日閲覧</ref>。
なお、果実から種を取り出すための専用器具も販売されている。
程度差はあるが[[自家不和合性 (植物)|自家不和合性]]が有るため同一品種の花粉では結実し難い<ref>大場和彦、下高敏彰、泉哲也、中道隆広「[http://id.nii.ac.jp/1101/00000016/ 長崎県におけるオリーブ栽培適地性の農業気象学的解析] 」『[[長崎総合科学大学]]紀要』2012, No.52</ref>。
==== 耐用年数について ====
日本の[[平成]]20年度税制改正において、[[法人税]]等の「[[減価償却資産の耐用年数等に関する省令]]」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば[[2008年|平成20年]][[4月1日]]以後開始する[[事業年度]]にかかるオリーブ樹の[[法定耐用年数]]は25年となった。
=== ギャラリー ===
<gallery>
ファイル:Illustration Olea europaea0.jpg|'''オリーブ'''''Olea europaea'' 中央は花を付けたオリーブの枝。左上はつぼみ、花びらを4枚付けた花、開花後の[[萼|がく]]、左下はオリーブの種子と綿。右上は2本の楕円形の[[おしべ]]、右中央は花の側断面図、右下は紫黒色に熟したオリーブの実と側断面図。
ファイル:Olive kobe minatogawa jinja.jpg|[[湊川神社]]にあるオリーブの木。[[パリ万国博覧会 (1878年)|明治十一年パリ万国博覧会]]日本館長[[前田正名]]がフランスから持ち帰ったもので、日本最初のオリーブの木とされる。
ファイル:NrAlhama.jpg|スペインの[[アンダルシア州]]におけるオリーブの[[プランテーション]]。
ファイル:Shodoshima Olive Park Shodo Island Japan12bs3.jpg|[[小豆島オリーブ公園|小豆島オリーブ園]]
ファイル:Olives au marche de Toulon p1040238.jpg|フランスの市場で売られる、様々なオリーブの実。
</gallery>
== 象徴としてのオリーブ ==
{{出典の明記|section=1|date=2021年12月}}
{{雑多|section=1|date=2021年12月}}
* オリーブは[[ヘラクレス]]によって極北にある理想郷[[ヒュペルボレイオス]]の国から[[オリンピア]]に持ち込まれたという伝説がある<ref name="sanada" />。
* [[古代ギリシャ]]では、子ども達が羊毛、果実、菓子、油壷などをオリーブの小枝に吊り下げたもの(エイレシオネ)をかついで家々を回りプレゼントを集めて回る習慣があった<ref name="sanada" />。このエイレシオネは戸口に飾られたが、富や豊穣を呼び込むという意味があった<ref name="sanada" />。
* [[古代オリンピック]]では優勝者にオリーブの葉冠(オリーブ冠)が授与された<ref name="sanada">{{Cite journal|和書|author=真田久, 宮下憲, 嵯峨寿 |date=2005-03 |url=https://hdl.handle.net/2241/11385 |title=アテネオリンピック 2004の文化的側面 (<特集 アテネオリンピック・パラリンピック>) |journal=体育科学系紀要 |ISSN=03867129 |publisher=筑波大学体育科学系 |volume=28 |pages=129-139 |hdl=2241/11385 |CRID=1050282677523573504 |accessdate=2022-09-13|}}</ref>。古代には四大競技祭など特定の競技会で優勝者に[[月桂樹]]や[[セロリ]]などで作られた葉冠が授与され「神聖競技会」として特別視されており、賞金や高価な品物が授与される賞金競技会とは区別されていた<ref name="sanada" />。なお、[[月桂冠]]が授与されていたのは古代の四大競技祭のうち[[デルポイ|デルフォイ]]で行われる[[ピューティア大祭|ピュティア競技祭]]であり、古代オリンピックで授与されていたのはオリーブの葉冠である<ref name="sanada" />。オリーブの木の幹で作られた葉冠には月桂樹の小枝を飾りに付けたものもある<ref name="sanada" />。
* オリーブの樹は「太陽の樹」とも呼ばれる。オリーブの樹や枝は「太陽の象徴」(または「金星の象徴」)である。
* [[古代エジプト]]では、女神[[イシス]]がオリーブの栽培と利用を教えたとされる。[[ラムセス3世]]は[[太陽神]][[ラー]]に神殿の灯油のためのオリーブ畑を捧げたとされる。
* [[ホメーロス]]はオリーブ・オイルを「液体の黄金」と謳った。オリーブ・オイルは古代地中海貿易の主要商品の一つであった。オリーブは「豊穣・富の象徴」とされる。
* 多くの詩人や科学者、芸術家、歴史学者がオリーブの木を称え、この果実に西洋世界の真の象徴という地位を与えてきた<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=オリーブの歴史|date=2016年4月27日|publisher=株式会社原書房|page=8}}</ref>。
* オリーブは[[フクロウ]]とともに、女神[[アテーナー]]に付随するシンボルである。[[アテナイ]]の発行した4[[ドラクマ]]銀貨は、表に女神アテーナー、裏にフクロウとオリーブの枝と[[三日月]]が刻印されていた。
* オリーブは「[[生命の木]]」の一つとされる。生命の木は神話上の概念であるが、そこに具体的な植物を当てはめようとしたとき、[[ナツメヤシ]]、[[イチジク]]、[[ボダイジュ]]、オリーブ、[[オーク]]、[[トネリコ]]、[[キスカヌ]]や、[[クリスマスツリー]]にも使われる[[スギ]]、[[モミ]]、[[トウヒ]]、[[マツ]]などの生命力溢れる常緑樹(evergreen tree)が、生命の木の候補とされる。[[タケ]]など生長が早い植物も、生命の樹といえる。
* オリーブの木の下で生まれることは、神聖な血統の証だった。神の血を引くアルテミスとアポロンも、ロムルスとレムスも、オリーブの木の下で生まれている<ref name=":0" />。
* [[ギリシア神話]]では、女神アテーナーは海神[[ポセイドーン]]と[[アッティカ]]の領有権を争い、どちらが市民に役立つ贈り物をするかを競い、ポセイドーンは塩水の湧き出る泉もしくは戦に役立つ馬を、アテーナーは食用となる実とオリーブオイルの採れるオリーブの樹(の森)を贈り、アテーナーはアッティカの守護女神に選ばれ、アッティカの中心となる[[ポリス]]は「アテナイ」と呼ばれるようになった。
* [[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]では、オリーブオイルは[[戴冠式]]や[[聖別]]などの宗教儀礼での「[[メシア|聖油]]」としても用いられる。
* [[オリーブの枝]]は、[[鳩]]とともに「[[平和の象徴]]」となっている。これは『[[旧約聖書]]』[[ノアの箱舟]]のくだりで「[[神]]が起こした[[大洪水]]のあと、陸地を探すために[[ノア (聖書)|ノア]]の放った鳩が、オリーブの枝をくわえて帰ってきた。これを見たノアは、水が引き始めたことを知った」との一節(『[[創世記]]』8章8-12節)に基づいている。斜に構えた見方をすれば、オリーブや鳩の象徴する「平和」とは、「(神罰・[[最後の審判|世界の終末]]による)大災厄により、ほとんどの(悪しき)人間が滅びた後の、「新世界」における平和」ともいえる。
* 旧約聖書やギリシヤ神話の故事から、オリーブの[[花言葉]]は「平和」「安らぎ」「知恵」「勝利」である。
* 聖書は、[[イエス・キリスト]]は普段から[[オリーブ山]]のふもとの[[ゲッセマネ]](「オリーブの油搾り」)の園で祈ることを好み<ref>『[[ルカによる福音書]]』 22:40</ref>、[[最後の晩餐]]の後もゲッセマネの園で最後の祈り([[ゲツセマネの祈り]])を捧げた<ref>『ルカによる福音書』22:43~44</ref>、と伝えている。
* [[ヨハネの黙示録]]11:4に、オリーブの木が登場する。「彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリーブの木、また、二つの燭台である。」この2本のオリーブの木は太陽と金星を象徴している。
* オリーブの枝は、[[ベネディクト会]]のシンボルであり、同会は「オリーブ会」とも呼ばれる。
* オリーブの枝は、[[国際連合の旗]](これを[[アカシア]]の葉とする説もある)や、いくつかの国の[[国旗]]や[[国章]]にも使われている。
* オリーブは、ギリシャ(国樹)、[[イスラエル]](国樹)、[[ポルトガル]](国花)の、国樹・[[国花]]である。
* [[イタリア]]の[[政党連合]]にも「[[オリーブの木]]」というのがあった。
* [[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]紙幣に描かれた[[ハクトウワシ]]の右脚には「オリーブの枝」、左脚には「[[矢]]」が握られている。
* 日本では、[[香川県]]の県の木、県の花に指定されている。
<gallery>
ファイル:Flag_of_the_United_Nations.svg|[[国際連合の旗]]
ファイル:Italy-Emblem.svg|[[イタリア]]の国章
ファイル:Coat_of_arms_of_Israel.svg|[[イスラエルの国章]]
</gallery>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Olive}}
* [[オリーブ色]]
* [[オリーブの枝請願]]
* [[ピアス病菌]]
* [[ホルトノキ]] - オリーブに似ているが類縁のない、日本在来樹木。オリーブと混同され「ポルトガルの木」の意味で命名されたといわれている。
* [[ナブルスのオリーブ石鹼]]
== 外部リンク ==
* {{Hfnet|493|オリーブ(オレイフ)}}
* [http://www.pref.kagawa.lg.jp/content/etc/subsite/noshi_olive/index.shtml 農業試験場小豆オリーブ研究所]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おりいふ}}
[[Category:モクセイ科]]
[[Category:シンボル]]
[[Category:果物]]
[[Category:油糧作物]]
[[Category:地中海の食文化]]
[[Category:無形文化遺産]]
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[[Category:盆栽に使われる植物]]
[[Category:地中海性気候の木]]
[[Category:1753年に記載された植物]] | 2003-03-04T14:57:29Z | 2023-12-08T08:56:23Z | false | false | false | [
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3,393 | 三越 | 三越(みつこし、英: Mitsukoshi)は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店である。
また、株式会社三越(英: Mitsukoshi, Limited)は、2011年3月31日までこれを運営していた会社である。
商号の「三越」は、三井財閥の創業者である三井家の「三井」と創業時の日本橋の呉服店「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定されている。現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」「This is Japan」。
江戸時代の1673年(延宝元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・東京都中央区日本橋室町の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。店舗入り口にあるライオン像が特徴的。
「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。
直営店は東京都心にある日本橋本店・銀座店の2店舗のみである。名古屋三越や福岡三越などは三越伊勢丹ホールディングス傘下の地域子会社が、地区ごとに運営を行っている。2003年9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。2010年に伊勢丹傘下だった岩田屋と福岡三越(いずれも福岡市)が合併し、「株式会社岩田屋三越」が誕生した。残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。
1970年代には小売業で売上高日本一の地位であったが、売上高営業利益率はグループ連結で1.09 %、百貨店事業単独で0.799 %と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。最終的には同じく老舗百貨店の伊勢丹に救済されることとなり、2008年4月1日に「三越伊勢丹ホールディングス」を設立して伊勢丹と経営統合した。株式交換比率は伊勢丹株1に対し三越株0.34である。三越と伊勢丹の経営統合は、三越の長期低迷に危機感を持っていた三井住友銀行が三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)を通じて伊勢丹側に持ちかけたとされる。
三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって1673年(延宝元年)江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業。1683年(天和3年)には、駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へさらに営業を拡大させ移転。同時に両替店を開設し、この両替店は現在の「三井住友銀行」へと発展することになる。 そして駿河町に店を構えると江戸中に札(広告)を配り、下記のような当時では画期的な商法を次々と打ち出し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
呉服店から百貨店への移行期の三越の広告は、時代の最先端なものとして 広告史上忘れてはならないものとして語り継がれている。
大丸のディオール・サロンに対抗して、三越もパリのオートクチュール・メゾンと提携した。
かつてはテレショップも手がけていた。1970年、日本初の通販番組フジテレビの「東京ホームジョッキー」(運営はディノス。1972年から「リビング11」に改称)開始。この番組は1983年に終了するが、スタッフ、キャストがテレビ東京で、三越一社提供番組「レディス4」を開始することになった。同番組は2012年から「L4 YOU!」と改題されたが、「L4 YOU!」は2017年3月31日をもって終了したと同時に三越はテレショップから撤退した。当初は全国ネットだったが、ネット局は年々減少していき、末期は関東ローカルのみでの放送となっていた。
この番組の他、ミニ番組「三越テレショップ」も1988年に開始されたが、こちらも2015年9月30日をもって全局終了した。商品紹介はスタジオアルタのディレクターが担当していた。
「三越テレショップ」最終回を放送したテレビ局は以下の通り。
オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。
三越と大塚家具は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。
その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「IDC大塚家具新宿ショールーム」を賃貸入居させた。
その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。
協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。
2000年よりそごうから権利を引継ぎ、読売ジャイアンツのリーグ優勝および日本シリーズ優勝(または敗退)時に「ジャイアンツフェスタ」を実施していた。読売ジャイアンツの商標を使用してのセールには、読売新聞社への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目博品館前までのコースを辿る。
そごうの優勝セールはそごう東京店が1957年から有楽町の読売会館に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになった。その縁で三越は読売新聞社からプランタン銀座(現:マロニエゲート)の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。マロニエゲートも読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居していることから巨人の優勝セールを実施する。
三越の実施店舗は全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれていた。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることがある。
2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。
三越伊勢丹における巨人の優勝セールは2014年が最後となり、2019年以降はブランドイメージ戦略から優勝セールの開催を見送っている。また、イトーヨーカ堂・セブン-イレブンも同時に優勝セールから撤退したことから、これ以降百貨店・GMSでの巨人の優勝セールは行われていない。2019年以降、複数店舗で巨人の優勝セールを行っている小売業者は家電量販店のビックカメラのみとなっている。
日本橋三越の屋上には、三井家の守り神である三囲神社が祀られている。
2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹ニッコウトラベル(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された東京モーターショーで日野自動車が展示した参考出品車、セレガプレミアムを営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りのリクライニングシートを備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は東京ヤサカ観光バスが担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらはケイエム観光バスが担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスとアイビーエスが担当する。
三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と猪熊弦一郎にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。
この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。 ただし、現在のロゴになってから数年間はブックカバーや箱物で別の青のデザインのものを採用していたこともある。(CMの最後のロゴ表示もそれを使用していた)
1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めてのエスカレーターが導入。アメリカ・オーチス社製、45m/分、20馬力(15kW)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため関東大震災によって焼失したが、現在は三菱電機が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。
同時に、エレベーターもオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年王子製紙十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草凌雲閣(関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の白木屋日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。
またエレベーターガールを最初に採用したのは1929年の松坂屋上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋髙島屋などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台(この2台手動である)のみと限定的な運用となっている。 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。
三越のシンボル的存在である。1914年に本店玄関に設置されたライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越(2009年閉店)の像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納された。他に2015年日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。
1930年日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「御子様洋食」が登場した。そのメニューは富士山に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にあった大食堂「ランドマーク(2020年1月7日閉店)」で「お子様ランチ」として提供されていた。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができた。
現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにあるパイプオルガンは、1930年に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として2009年には中央区民有形文化財に登録された。
このパイプオルガンは、カトリック教会に設置されているものとは異なり、主に無声映画や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも幅広いジャンルの音楽を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円である。
まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人日本放送協会では、演奏を聞かせるラジオのレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。
1935年の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、チューブラーベルや鈴、ウッドブロック、大太鼓や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、大東亜戦争中に供出されてしまった。
現在でも金曜日、土曜日、日曜日の午前10時・正午・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。
日本橋三越本店のパイプオルガンで、開店時に「お江戸日本橋」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は1951年12月31日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では1954年7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある東北放送ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来1989年12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である。
2016年度・店別売上高も付記。
2017年3月の千葉店閉店(後述)をもって、直営の百貨店店舗は都内の2店舗(日本橋・銀座)のみとなった。
通称:日本橋三越本店。三越の旗艦店。東京メトロ銀座線「三越前駅」に直結しており、本館と新館で構成される。元々三井越後屋があった場所であり、東京において、江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、当店と松坂屋上野店だけである。本館の道路を挟んで北隣には、三井財閥の本拠だった三井本館がある。本館 49,000m+新館15,000m=64,000m。本館6階には三越劇場がある。
売上高は1,144億円(2021年 外商などを含む)。店舗別年間売上高において国内6位に位置する。売上高では髙島屋日本橋店(1,239億円 全国4位)の方が大きい。
長い歴史を待つ老舗として高いブランド力を誇り、取締役といった国内の富裕中高年や全国の法人外商に強みを持っており、叙勲・褒章を受けた人物向けのサービスなども行っている。
本館は「我が国における百貨店建築の発展を象徴するものとして価値が高い」(意匠的に優秀なもの・歴史的価値の高いもの)として、百貨店建築としては日本橋高島屋本館に次いで2例目の国の重要文化財に指定されている(指定番号:02645)。1920年代から30年代にヨーロッパで流行したアール・デコ様式が取り入れ、内装には一部大理石が用いられている。1932年の東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)開通にあたっては三越前駅の建設費用を負担した。 1935年には増築改修が行なわれ、五層吹抜けのパイプオルガンを設置した中央大ホール、人気の「特別食堂」が設置された。現在でも毎日、無料のパイプオルガンの定期演奏が行われている。 1960年、三越創立50周年を記念して、日本橋本店本館の中央ホールに、佐藤玄々(さとうげんげん)制作の巨大木彫『天女像 まごころ』が設置され、現在は日本橋三越本店における象徴的存在である。
2016年5月、総額200億円を投じる改装計画が発表された。デザイナーには建築家の隈研吾を起用した。
2020年には改装の一環として、新館6階に三越として初となる家電量販店であるビックカメラがテナントとして入居した。店員は三越ではなくビックカメラの社員が担当するが、ビックカメラの赤いベストではなくスーツを着用して接客を行う。百貨店業界としても珍しい取り組みであり、普段のビックカメラでは取り扱えなかったような富裕層向けの高級家電を販売するとともに、三越としてはマーチャンダイジング(MD)の拡充を狙っている。
2013年度から中央(三越伊勢丹HDS)による企画・統制に変更された。これは、都市部では生活行動圏が狭くなり、一方地方部では百貨店空白エリアが広がった現状に対応して市場開拓を行うためで、情報・ノウハウの共有化を図る狙いがある。中期目標では、店舗面積50〜200坪クラスの店を新規出店数150〜200店、売上高500億円規模、営業利益25億円以上を目指している。店舗のタイプは3種類で外商拠点を兼ねた従来型のサテライト=三越○○、中分類切り出し型=イセタンミラー、アウトレット店などとなっている。
HDS傘下の三越系列
北千住駅西口再開発事業(現・千住ミルディス)の核テナントとして出店表明。千住を創業地とする東武鉄道子会社の東武百貨店、そごう、イトーヨーカ堂系のロビンソン百貨店と地元を巻き込んで激しく争ったが、深刻な亀裂を恐れた足立区の最終判断により、丸井に決着した。
岐阜市のJR岐阜駅前。1990年に名古屋三越百貨店(当時の正式社名)が出店を表明するものの、1992年にバブル崩壊の影響で辞退した。三越グループと業務提携を行っていた岐阜近鉄百貨店の移転計画も出たが、柳ヶ瀬商店街の政治工作で実現せず、岐阜シティ・タワー43が2007年に完成した。
2001年、奈良そごう跡地に、多摩センターと同様に大塚家具と共同での出店を表明したが、同年中に撤回。2003年7月イトーヨーカドーが出店した。現在のミ・ナーラ。
旧大阪鉄道管理局庁舎跡地に大阪店を移転する形で出店予定だった。当社の落札が有力視されたものの、パルコと共に失敗した。ヨドバシカメラが落札し、ヨドバシ梅田となる。
戦前に南海ビルディングへの出店を検討していたが、条件面で折り合わず、髙島屋が南海髙島屋をオープンさせた。その後、同社は近接していた大阪店(長堀店または大阪長堀店とも呼称)を閉店させたため、現在は旧・南海髙島屋が髙島屋大阪店(本店)となっている。
当初は、そごうの経営難の時にそごう大阪店を解体し、跡地を三越に売却する予定であった。しかし、和田繁明の方針転換により、白紙となった。2005年にそごう心斎橋本店が開業したが、業績不振で2009年に閉鎖された。大丸心斎橋店北館となり、2021年からは大半のフロアが心斎橋パルコとして営業している。
戦前に阪神三宮駅の三宮阪神ビルへの進出を検討していたが、結局そごうが2号店としてそごう神戸店を開店させた。その後、2017年にエイチ・ツー・オー・リテイリング(阪急阪神東宝グループ)に譲渡され、2019年9月30日に同店は閉店。10月5日より阪急百貨店の神戸阪急として営業している。また、戦後の1967年(昭和42年)にも神戸支店の事業を立て直すため、三宮エリアの別の場所への移転を計画した。しかし、こちらも地元商店街が中央政界までも巻き込んで反対したため、実現に至らなかった。
兵庫県西宮市は大阪市と神戸市に挟まれた立地であり、両市はもとより、隣の尼崎市に西武百貨店つかしん店、芦屋市に大丸芦屋店、宝塚市に宝塚阪急が出店したにもかかわらず、21世紀になるまで百貨店が一切なかった。県内第3位の人口を有するため、バブル期には後に進出する阪神百貨店や阪急百貨店のほか、髙島屋による西宮マリナシティへの進出計画もあった。
当社も1992年(平成4年)6月に兵庫県再進出を狙い、西宮市の苦楽園地区(樋ノ口町)で酒造メーカー「白鷹」の社長、辰馬博男が所有する26000平方メートルの土地に計画されている商業施設への出店を申し出たことが報道された。住居専用地域のため、2,3階建ての延床面積は3万数千平方メートルの店舗となる予定だった。土地管理会社「北辰馬」は、西宮市民が百貨店を望んでいるため、高級イメージのある三越がテナントの第一候補であると考えていた。しかし、バブル崩壊などの環境の変化で当社や髙島屋の出店は実現しなかった。同市には2000年代に進出した阪神百貨店、阪急百貨店(西宮阪急)が立地しており、いずれもエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪急阪神百貨店が運営している。
本来、日本の百貨店はチェーンストアとー異なり、本部集中仕入はせず、各店舗が独立して運営する形態のものだった。 1970年代、総合スーパーの台頭に対抗し、三越も中央仕入機構「三越ジョイントバイインググループ」を主催、一般向けには単純に「三越グループ」もしくは「三越提携店」と呼ばれていた。
業務提携内容は以下の3本を柱としていた。
三越の系列店政策は、同じ市場で競合しないための紳氏協定的(他百貨店グループと重複加盟をしない排他的)な要素が強く、三越は札幌、仙台、高松、松山には古くから直営店を出店していたため、これらの都市を本拠とする地方百貨店の参加はなかった。
戦略的拠点と位置づけられた一部の地域では、資本を注入し直営化を図った例もあるが、基本的には加盟店の自立を支援し、従来からの「のれん」を残したケースの方が多い。このスタンスは、ネットワーク拡大を優先しM&Aを仕掛けたダイエーやセゾングループとは大きく異なるものだった。
しかし、1990年代には日本百貨店協会の「全国百貨店共通商品券」が登場し、協会加盟百貨店であればどこでも商品券が使えるようになり、グループに加盟する意義の一角が崩れていくことになる。
また、三越自身が1995年に大丸と上記にあげた3本の業務提携を行ったり、2000年には髙島屋と物流・情報システムや用度品の共同購入を行ったり(現在はどちらも提携解消)したことによりグループの再編は加速した。
2008年の三越・伊勢丹の経営統合により、伊勢丹が中心になって主催してきたA・D・Oに加盟する企業もあったが、「三越提携(の地方)百貨店」という概念は「沖縄三越」以外に存在しなくなり、呼称も使用されなくなった。
1970年 - 1980年代の三越グループ加盟店は、以下の各店。
(他に大沼がADOのまま三越と提携していた時代があった)
2018年4月現在、全国の三越がNCR製から富士通製に戻している。
三越伊勢丹システム・ソリューションズが4U Applicationsとオープンリソースとともに開発し、内製化した、新POSシステムの導入が検討されている。(2022年5月現在、イセタンミラーやラシックに先行して導入されている。) | [
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"text": "江戸時代の1673年(延宝元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・東京都中央区日本橋室町の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。店舗入り口にあるライオン像が特徴的。",
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"title": "通信販売"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。",
"title": "通信販売"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "三越と大塚家具は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。",
"title": "大塚家具と協調販売"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「IDC大塚家具新宿ショールーム」を賃貸入居させた。",
"title": "大塚家具と協調販売"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。",
"title": "大塚家具と協調販売"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。",
"title": "大塚家具と協調販売"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2000年よりそごうから権利を引継ぎ、読売ジャイアンツのリーグ優勝および日本シリーズ優勝(または敗退)時に「ジャイアンツフェスタ」を実施していた。読売ジャイアンツの商標を使用してのセールには、読売新聞社への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目博品館前までのコースを辿る。",
"title": "読売ジャイアンツの優勝セール"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "そごうの優勝セールはそごう東京店が1957年から有楽町の読売会館に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになった。その縁で三越は読売新聞社からプランタン銀座(現:マロニエゲート)の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。マロニエゲートも読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居していることから巨人の優勝セールを実施する。",
"title": "読売ジャイアンツの優勝セール"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "三越の実施店舗は全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれていた。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることがある。",
"title": "読売ジャイアンツの優勝セール"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。",
"title": "読売ジャイアンツの優勝セール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "三越伊勢丹における巨人の優勝セールは2014年が最後となり、2019年以降はブランドイメージ戦略から優勝セールの開催を見送っている。また、イトーヨーカ堂・セブン-イレブンも同時に優勝セールから撤退したことから、これ以降百貨店・GMSでの巨人の優勝セールは行われていない。2019年以降、複数店舗で巨人の優勝セールを行っている小売業者は家電量販店のビックカメラのみとなっている。",
"title": "読売ジャイアンツの優勝セール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本橋三越の屋上には、三井家の守り神である三囲神社が祀られている。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹ニッコウトラベル(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された東京モーターショーで日野自動車が展示した参考出品車、セレガプレミアムを営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りのリクライニングシートを備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は東京ヤサカ観光バスが担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらはケイエム観光バスが担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスとアイビーエスが担当する。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と猪熊弦一郎にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。 ただし、現在のロゴになってから数年間はブックカバーや箱物で別の青のデザインのものを採用していたこともある。(CMの最後のロゴ表示もそれを使用していた)",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めてのエスカレーターが導入。アメリカ・オーチス社製、45m/分、20馬力(15kW)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため関東大震災によって焼失したが、現在は三菱電機が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "同時に、エレベーターもオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年王子製紙十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草凌雲閣(関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の白木屋日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "またエレベーターガールを最初に採用したのは1929年の松坂屋上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋髙島屋などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台(この2台手動である)のみと限定的な運用となっている。 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "三越のシンボル的存在である。1914年に本店玄関に設置されたライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越(2009年閉店)の像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納された。他に2015年日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1930年日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「御子様洋食」が登場した。そのメニューは富士山に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にあった大食堂「ランドマーク(2020年1月7日閉店)」で「お子様ランチ」として提供されていた。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができた。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにあるパイプオルガンは、1930年に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として2009年には中央区民有形文化財に登録された。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "このパイプオルガンは、カトリック教会に設置されているものとは異なり、主に無声映画や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも幅広いジャンルの音楽を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円である。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人日本放送協会では、演奏を聞かせるラジオのレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1935年の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、チューブラーベルや鈴、ウッドブロック、大太鼓や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、大東亜戦争中に供出されてしまった。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "現在でも金曜日、土曜日、日曜日の午前10時・正午・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本橋三越本店のパイプオルガンで、開店時に「お江戸日本橋」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は1951年12月31日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では1954年7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある東北放送ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来1989年12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である。",
"title": "特色"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2016年度・店別売上高も付記。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2017年3月の千葉店閉店(後述)をもって、直営の百貨店店舗は都内の2店舗(日本橋・銀座)のみとなった。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "通称:日本橋三越本店。三越の旗艦店。東京メトロ銀座線「三越前駅」に直結しており、本館と新館で構成される。元々三井越後屋があった場所であり、東京において、江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、当店と松坂屋上野店だけである。本館の道路を挟んで北隣には、三井財閥の本拠だった三井本館がある。本館 49,000m+新館15,000m=64,000m。本館6階には三越劇場がある。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "売上高は1,144億円(2021年 外商などを含む)。店舗別年間売上高において国内6位に位置する。売上高では髙島屋日本橋店(1,239億円 全国4位)の方が大きい。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "長い歴史を待つ老舗として高いブランド力を誇り、取締役といった国内の富裕中高年や全国の法人外商に強みを持っており、叙勲・褒章を受けた人物向けのサービスなども行っている。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "本館は「我が国における百貨店建築の発展を象徴するものとして価値が高い」(意匠的に優秀なもの・歴史的価値の高いもの)として、百貨店建築としては日本橋高島屋本館に次いで2例目の国の重要文化財に指定されている(指定番号:02645)。1920年代から30年代にヨーロッパで流行したアール・デコ様式が取り入れ、内装には一部大理石が用いられている。1932年の東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)開通にあたっては三越前駅の建設費用を負担した。 1935年には増築改修が行なわれ、五層吹抜けのパイプオルガンを設置した中央大ホール、人気の「特別食堂」が設置された。現在でも毎日、無料のパイプオルガンの定期演奏が行われている。 1960年、三越創立50周年を記念して、日本橋本店本館の中央ホールに、佐藤玄々(さとうげんげん)制作の巨大木彫『天女像 まごころ』が設置され、現在は日本橋三越本店における象徴的存在である。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2016年5月、総額200億円を投じる改装計画が発表された。デザイナーには建築家の隈研吾を起用した。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2020年には改装の一環として、新館6階に三越として初となる家電量販店であるビックカメラがテナントとして入居した。店員は三越ではなくビックカメラの社員が担当するが、ビックカメラの赤いベストではなくスーツを着用して接客を行う。百貨店業界としても珍しい取り組みであり、普段のビックカメラでは取り扱えなかったような富裕層向けの高級家電を販売するとともに、三越としてはマーチャンダイジング(MD)の拡充を狙っている。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2013年度から中央(三越伊勢丹HDS)による企画・統制に変更された。これは、都市部では生活行動圏が狭くなり、一方地方部では百貨店空白エリアが広がった現状に対応して市場開拓を行うためで、情報・ノウハウの共有化を図る狙いがある。中期目標では、店舗面積50〜200坪クラスの店を新規出店数150〜200店、売上高500億円規模、営業利益25億円以上を目指している。店舗のタイプは3種類で外商拠点を兼ねた従来型のサテライト=三越○○、中分類切り出し型=イセタンミラー、アウトレット店などとなっている。",
"title": "直営店舗"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "HDS傘下の三越系列",
"title": "グループ企業店舗"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "北千住駅西口再開発事業(現・千住ミルディス)の核テナントとして出店表明。千住を創業地とする東武鉄道子会社の東武百貨店、そごう、イトーヨーカ堂系のロビンソン百貨店と地元を巻き込んで激しく争ったが、深刻な亀裂を恐れた足立区の最終判断により、丸井に決着した。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "岐阜市のJR岐阜駅前。1990年に名古屋三越百貨店(当時の正式社名)が出店を表明するものの、1992年にバブル崩壊の影響で辞退した。三越グループと業務提携を行っていた岐阜近鉄百貨店の移転計画も出たが、柳ヶ瀬商店街の政治工作で実現せず、岐阜シティ・タワー43が2007年に完成した。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2001年、奈良そごう跡地に、多摩センターと同様に大塚家具と共同での出店を表明したが、同年中に撤回。2003年7月イトーヨーカドーが出店した。現在のミ・ナーラ。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "旧大阪鉄道管理局庁舎跡地に大阪店を移転する形で出店予定だった。当社の落札が有力視されたものの、パルコと共に失敗した。ヨドバシカメラが落札し、ヨドバシ梅田となる。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "戦前に南海ビルディングへの出店を検討していたが、条件面で折り合わず、髙島屋が南海髙島屋をオープンさせた。その後、同社は近接していた大阪店(長堀店または大阪長堀店とも呼称)を閉店させたため、現在は旧・南海髙島屋が髙島屋大阪店(本店)となっている。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "当初は、そごうの経営難の時にそごう大阪店を解体し、跡地を三越に売却する予定であった。しかし、和田繁明の方針転換により、白紙となった。2005年にそごう心斎橋本店が開業したが、業績不振で2009年に閉鎖された。大丸心斎橋店北館となり、2021年からは大半のフロアが心斎橋パルコとして営業している。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "戦前に阪神三宮駅の三宮阪神ビルへの進出を検討していたが、結局そごうが2号店としてそごう神戸店を開店させた。その後、2017年にエイチ・ツー・オー・リテイリング(阪急阪神東宝グループ)に譲渡され、2019年9月30日に同店は閉店。10月5日より阪急百貨店の神戸阪急として営業している。また、戦後の1967年(昭和42年)にも神戸支店の事業を立て直すため、三宮エリアの別の場所への移転を計画した。しかし、こちらも地元商店街が中央政界までも巻き込んで反対したため、実現に至らなかった。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "兵庫県西宮市は大阪市と神戸市に挟まれた立地であり、両市はもとより、隣の尼崎市に西武百貨店つかしん店、芦屋市に大丸芦屋店、宝塚市に宝塚阪急が出店したにもかかわらず、21世紀になるまで百貨店が一切なかった。県内第3位の人口を有するため、バブル期には後に進出する阪神百貨店や阪急百貨店のほか、髙島屋による西宮マリナシティへの進出計画もあった。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "当社も1992年(平成4年)6月に兵庫県再進出を狙い、西宮市の苦楽園地区(樋ノ口町)で酒造メーカー「白鷹」の社長、辰馬博男が所有する26000平方メートルの土地に計画されている商業施設への出店を申し出たことが報道された。住居専用地域のため、2,3階建ての延床面積は3万数千平方メートルの店舗となる予定だった。土地管理会社「北辰馬」は、西宮市民が百貨店を望んでいるため、高級イメージのある三越がテナントの第一候補であると考えていた。しかし、バブル崩壊などの環境の変化で当社や髙島屋の出店は実現しなかった。同市には2000年代に進出した阪神百貨店、阪急百貨店(西宮阪急)が立地しており、いずれもエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪急阪神百貨店が運営している。",
"title": "出店中止"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "本来、日本の百貨店はチェーンストアとー異なり、本部集中仕入はせず、各店舗が独立して運営する形態のものだった。 1970年代、総合スーパーの台頭に対抗し、三越も中央仕入機構「三越ジョイントバイインググループ」を主催、一般向けには単純に「三越グループ」もしくは「三越提携店」と呼ばれていた。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "業務提携内容は以下の3本を柱としていた。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "三越の系列店政策は、同じ市場で競合しないための紳氏協定的(他百貨店グループと重複加盟をしない排他的)な要素が強く、三越は札幌、仙台、高松、松山には古くから直営店を出店していたため、これらの都市を本拠とする地方百貨店の参加はなかった。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "戦略的拠点と位置づけられた一部の地域では、資本を注入し直営化を図った例もあるが、基本的には加盟店の自立を支援し、従来からの「のれん」を残したケースの方が多い。このスタンスは、ネットワーク拡大を優先しM&Aを仕掛けたダイエーやセゾングループとは大きく異なるものだった。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "しかし、1990年代には日本百貨店協会の「全国百貨店共通商品券」が登場し、協会加盟百貨店であればどこでも商品券が使えるようになり、グループに加盟する意義の一角が崩れていくことになる。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、三越自身が1995年に大丸と上記にあげた3本の業務提携を行ったり、2000年には髙島屋と物流・情報システムや用度品の共同購入を行ったり(現在はどちらも提携解消)したことによりグループの再編は加速した。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2008年の三越・伊勢丹の経営統合により、伊勢丹が中心になって主催してきたA・D・Oに加盟する企業もあったが、「三越提携(の地方)百貨店」という概念は「沖縄三越」以外に存在しなくなり、呼称も使用されなくなった。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1970年 - 1980年代の三越グループ加盟店は、以下の各店。",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "(他に大沼がADOのまま三越と提携していた時代があった)",
"title": "系列店政策"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2018年4月現在、全国の三越がNCR製から富士通製に戻している。",
"title": "POSシステム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "三越伊勢丹システム・ソリューションズが4U Applicationsとオープンリソースとともに開発し、内製化した、新POSシステムの導入が検討されている。(2022年5月現在、イセタンミラーやラシックに先行して導入されている。)",
"title": "POSシステム"
}
] | 三越は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店である。 また、株式会社三越は、2011年3月31日までこれを運営していた会社である。 | {{Otheruses|日本の百貨店|三越(さんえつ)と呼ばれる日本の地域名|越国}}
{{Pathnav|三越伊勢丹ホールディングス|三越伊勢丹|frame=1}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社三越
| 英文社名 = Mitsukoshi, Limited
| ロゴ = [[File:MITSUKOSHI logo.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Mitsukoshi Nihonbashi main store 4.jpg|300px]]
| 画像説明 = 日本橋室町の本店本館(国の[[重要文化財]]:2018年撮影)
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = {{上場情報 | 東証1部 | 2779 | 2003年9月1日 | 2008年3月26日}}{{上場情報 | 大証1部 | 2779 | 2003年9月1日 | 2007年12月21日}}{{上場情報 | 名証1部 | 2779 | 2003年9月1日 | 2008年3月26日}}{{上場情報 | 東証1部 | 8231(旧法人) | 1949年5月16日 | 2003年8月26日}}
| 略称 = MITSUKOSHI
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 103-8001
| 本社所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋室町]]一丁目4番1号
| 設立 = [[2003年]]([[平成]]15年)[[9月1日]]<br />(創業:[[1673年]]([[延宝]]元年))
| 業種 = 小売業
| 事業内容 = 百貨店業ほか
| 代表者 = 代表取締役会長・中村胤夫<br />代表取締役社長兼営業企画本部長・石塚邦雄
| 資本金 = 374億404万円(2008年2月28日現在)
| 売上高 = 単体7293億円<br />連結7739億円<br />(2008年2月期)
| 総資産 = 単体5042億円<br />連結5707億円<br />(2008年2月期)
| 従業員数 = 単体6,713人<br />連結9,405人<br />(2007年8月31日現在)
| 決算期 = 毎年2月末
| 主要株主 = [[三越伊勢丹ホールディングス]] 100%
| 主要子会社 = 株式会社[[スタジオアルタ]]<br />株式会社三越友の会
| 関係する人物 = [[三井高利]](越後屋創業)<br />[[日比翁助]](三越百貨店創業)<br />[[猪熊弦一郎]](デザイナー)<br />[[やなせたかし]](元社員)<br />[[岡田茂 (三越)|岡田茂]](元社長)<br />[[市原晃]](元社長)<br />[[中村胤夫]](元社長)<br />[[井上和雄 (実業家)|井上和雄]](元社長)<br/>[[竹久みち]]
| 外部リンク = [https://mitsukoshi.mistore.jp/store/ mitsukoshi.mistore.jp/store]
| 特記事項 = 2003年9月1日に旧三越([[1904年]][[12月6日]]設立)と系列会社による新設合併で設立。2011年4月1日に伊勢丹と合併し、株式会社[[三越伊勢丹]]に商号変更。
}}
'''三越'''(みつこし、{{Lang-en-short|Mitsukoshi}})は、[[三越伊勢丹ホールディングス]]傘下の'''[[三越伊勢丹]]'''が運営する[[呉服店]]を起源とする日本の[[老舗]][[百貨店]]である。戦前の[[三井財閥]]及び、現在[[三井グループ]]の源流。
また、'''株式会社三越'''({{Lang-en-short|Mitsukoshi, Limited|links=no}})は、[[2011年]][[3月31日]]までこれを運営していた会社である。
== 概要 ==
[[商号]]の「三越」は、[[三井財閥]]の創業者である[[三井家]]の「'''三'''井」と創業時の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[呉服商|呉服店]]「'''越'''後屋」からとったもので、[[1904年]]に「[[合名会社]]三井呉服店」から「[[株式会社]]三越呉服店」へ改称した際からのものである。[[三越日本橋本店]]は日本の百貨店の始まりとされる。[[1935年]]に竣工した日本橋本店の本館は、国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>平成28年7月25日文部科学省告示第102号。</ref><ref>[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016052002.html 重要文化財(建造物)の指定について](文化庁サイト)</ref>。現在の同店のキャッチフレーズは、「'''飾る日も 飾らない日も 三越と'''」「'''This is Japan'''」。
[[江戸時代]]の[[1673年]]([[延宝]]元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋室町]]の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀[[買掛金|掛値]]無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業<ref name="コトバンク">{{Cite web|和書|author=[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]ほか |date=2019 |url=https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%B1%8B-36710 |title=越後屋 |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]]・[[CARTA HOLDINGS|VOYAGE GROUP]] |accessdate=2020-03-20}}</ref>。現在では当たり前になっている[[正札]]販売を世界で初めて実現し、当時[[富裕層]]だけのものだった呉服を、ひろく[[庶民|一般市民]]のものにした。[[1928年]]には「株式会社三越」となった。店舗入り口にある[[三越のライオン像|ライオン像]]が特徴的。
「三越」改称の案内の際に「'''[[デパートメントストア]]宣言'''」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い<ref name="sengen">1904年12月20日顧客らに送った書状。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれるこの文書「米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現致すべく候」翌日の12月21日、三越呉服店は日本初のデパートとして営業を開始した。{{cite news | url = http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2007121902073370.html | title = 「あの日から 日本経済の転機」 1904年12月20日 デパートメントストア宣言 近代百貨店の産声 | newspaper = [[東京新聞]] | date = 2007-12-19 | accessdate = 2017-05-12 }}</ref>(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は[[日本の百貨店#歴史|日本の百貨店の歴史]]参照)。また[[三井財閥]](現[[三井グループ]])のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「[[三井財閥]](現[[三井グループ]])の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「[[合名会社]]三井呉服店」として分離したのが始まりである。
直営店は東京[[都心]]にある日本橋本店・銀座店の2店舗のみである。[[名古屋三越]]や[[福岡三越]]などは[[三越伊勢丹ホールディングス]]傘下の地域子会社が、地区ごとに運営を行っている。[[2003年]][[9月1日]]に、当時の「株式会社三越」とその[[子会社]]である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が[[合併 (企業)#吸収合併・新設合併|新設合併]]し、新「株式会社三越」が設立された。2010年に伊勢丹傘下だった[[岩田屋]]と[[福岡三越]](いずれも[[福岡市]])が合併し、「'''株式会社[[岩田屋三越]]'''」が誕生した。残った店舗については、2011年4月1日に[[伊勢丹]]と合併して発足した「'''株式会社[[三越伊勢丹]]'''」の運営となった。また、同日には、[[札幌丸井今井]]と[[札幌三越]]の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「'''株式会社[[札幌丸井三越]]'''」が発足している。
[[1970年代]]には小売業で売上高日本一の地位であったが、[[利益#売上高営業利益率|売上高営業利益率]]はグループ連結で'''1.09 %'''、百貨店事業単独で'''0.799 %'''と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、[[2008年]]9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で[[関東地方|関東]]以外の店舗を分離した。最終的には同じく老舗百貨店の[[伊勢丹]]に救済されることとなり、2008年4月1日に「三越伊勢丹ホールディングス」を設立して伊勢丹と経営統合した。[[株式交換]]比率は伊勢丹株1に対し三越株0.34である。三越と伊勢丹の経営統合は、三越の長期低迷に危機感を持っていた[[三井住友銀行]]が三菱東京UFJ銀行(現・[[三菱UFJ銀行]])を通じて伊勢丹側に持ちかけたとされる。
{{quotation|「'''三越呉服店'''」
発祥は延宝元年(1673年)、伊勢松坂の商人三井高利(1622 - 1694)が、日本橋に開いた呉服店越後屋。大衆相手の店たな前さき売りの商法で繁盛し、江戸時代最大の呉服商といわれた。明治37年(1904年)、株式会社三越呉服店となった。「三越呉服店」の朱印の一部と、広報誌『時好』(4巻4号 1906年4月刊)の表紙の一部が書き写されている。|清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「三越呉服店」より抜粋<ref name="tokyomeibutsu-hyakunin">清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「三越呉服店」国立国会図書館蔵書、2018年2月8日閲覧</ref>}}
== 沿革 ==
{{Vertical_images_list
|幅=200px|枠幅=200px
|1=えちご屋広告チラシ.JPG
|2=ゑちご屋チラシ
|3=Echigo-Ya Signboard.JPG
|4=越後屋 復元看板<br />(三井越後屋ステーションにて)
|5=Hiroshige, Sugura street.jpg|6=名所江戸百景 駿河町([[歌川広重]])<br />越後屋の暖簾を見ることができる{{efn|2023年現在、奥に伸びる道路を挟んで左側の一角は[[三越日本橋本店]]本館、右側の一角は[[三井本館]]となっている。}}。
|7=
|8=三越絵葉書明治大正時代
|9=Ousuke Hibi.jpg
|10=三越百貨店創業者・[[日比翁助]]
}}
=== 越後屋・三井呉服店時代 ===
*[[1673年]] - [[伊勢商人]]・[[三井家]]の[[三井高利]]が[[日本橋本石町|江戸本町]]一丁目(現在の[[日本銀行]]辺り)に、呉服店「'''越後屋'''」を開業(間口9尺の小さな借り店舗)。
*[[1683年]] - 大火にあい、本町から[[日本橋室町|駿河町]]に移転し、両替店(現在の[[三井住友銀行]])を併置。
*[[1691年]] - 大坂・[[高麗橋]]一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設。
*[[1837年]] - [[大塩平八郎の乱]]で大坂店が襲撃され全焼。
*[[1872年]] - 三井大元方(三井家全事業の統括機関)から分離して、新たに名目上の一家「'''三越家'''」名義で経営。[[三井高信|三井得右衛門]]が三越得右衛門と改姓。大隈重信、渋沢栄一、井上馨らから呉服店の分離を迫られ、'''三越家'''の設立<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%B1%8B-36710 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)-越後屋]</ref>。
*[[1875年]] - 大坂店が規模を縮小し高麗橋三丁目に移転。
*[[1888年]] - 駿河町に「'''三越洋服店'''」開店。
*[[1893年]][[9月7日]] - 越後屋を「'''合名会社三井呉服店'''」に改組。
*[[1894年]] - 大阪店が高麗橋二丁目堺筋角に復帰。
*[[1895年]] - [[三井高堅]]が社長に就任。[[益田孝]]が相談役に就任。[[高橋義雄 (茶人)|高橋義雄]]が理事に就任。大元方の監督下入りし、経営の大改革に着手。11月には土蔵造り2階の大広間を打ち抜き陳列場として帳場座売りを廃止。
*[[1900年]] - 座売りを全廃。階下の座売場も陳列場となり全館開場。開店から客が流れ込み午前10時には表戸を閉切りにする程の盛況。女子社員の採用開始。
=== 株式会社三越呉服店時代 ===
[[ファイル:Mitsukoshi dry goods store.jpg|thumb|200px|明治時代の三越百貨店]]
[[ファイル:Inside mitsukoshi deppartment store.jpg|thumb|200px|フロアカウンター。明治時代]]
[[ファイル:Mitsukoshi deppartment store bamboo room.jpg|thumb|200px|三階休憩室の「竹の間」。煤竹の腰羽目に、竹が描かれた絹貼りの壁。休憩室は各階にあり、一、二階はヨーロッパ調。和洋折衷の竹の間は三越が装飾を手掛けた在仏日本大使館の「竹の間」と同じ意匠<ref>[https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/17800.pdf 三越の近代化と森鷗外一家──デパートの幕開] [[和田博文]](東洋大学)、[[東洋通信]] 2015年12月号</ref>。明治時代]]
[[ファイル:Nihonbashi aerial photo.jpg|thumb|200px|空から見た三越日本橋店(上部の建物)。昭和初期]]
*[[1904年]][[12月6日]] - 「'''株式会社三越呉服店'''」を設立。本店東京、資本金50万円。初代専務に'''[[日比翁助]]'''が就任。12月21日開業。
*: 顧客や取引先に三井・三越の連名で、三越呉服店が三井呉服店の営業をすべて引き継いだ案内と、今後の方針として「'''デパートメントストア宣言'''」を行い、日本初の百貨店となる。
*[[1905年]] - 年に主要新聞や雑誌等に「デパートメントストア宣言」広告掲載。
** 日本初の自動車(配達用)を導入。
** 店頭に大イルミネーションが設置。
** 化粧品、帽子の販売を開始。
** 「光琳遺品展覧会」を開催。
*[[1906年]] - [[朝鮮]][[京城府|京城]](現・韓国ソウル)に出店。
*[[1907年]] - 日本橋本店内に食堂と写真室を開設。
** 鞄、履物、洋傘等の取扱品目を追加。
** 旧越後屋跡地に大阪店開店。
** 「新美術部」を開設(大阪店9/15、日本橋店12/1)。
*[[1909年]] - 少年音楽隊、メッセンジャーボーイが編成される。1915年「三越音楽隊」に改称、1925年解散。「日常的に店内で演奏するほか、三越のさまざまな催し物に出演した。また外部からの出演依頼にも応じた」<ref>玉川裕子「西洋・日本・アジア――三越百貨店の音楽活動にみる音楽文化の西洋化と国民意識の形成――」[[日本独文学会]]『ドイツ文学』第132号、2006、78-98頁。引用は84頁。</ref>。
*[[1911年]] - ポスターの図案を懸賞公募。
** 写真室にカラー写真導入。
** 電話による注文受付開始。
** 大阪店 木造30mの飾り窓付き2階建新館が落成。
*[[1913年]] - [[帝国劇場]]のパンフレットに広告。「'''今日は帝劇、明日は三越'''」のコピーが流行。
*[[1914年]] - 日本橋本店 [[ルネッサンス様式]]の新館 落成<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|author= 金山正好、金山るみ|title=中央区史跡散歩|publisher=学生社|page=9|year=1993}}</ref>。鉄筋地上5階・地下1階建てで「<!--当時、今に見る上海外灘(上海バンド)の高層建築群は未竣工-->[[スエズ運河]]以東最大の建築」と称され、[[アール・デコ]]調の内装と合わせ建築史上に残る傑作といわれた。
** 新築から後の昭和の増改築まで[[横河建築設計事務所|横河工務所]]が一貫して行い、その多くは[[中村伝治]]が主担当であった<ref>[http://pdf.irpocket.com/C3099/VuON/D7q6/Kzbr.pdf 三越日本橋本店 重要文化財指定へ] 株式会社 [[三越伊勢丹ホールディングス]] 2016/05/20</ref>。
** 日本初の[[エスカレーター]]と、[[エレベーター]]、[[スプリンクラー]]、全館暖房などの最新設備が備えられた。
** 屋上庭園、茶室、音楽堂、正面玄関に「ライオン像」などを設置。
** 「第一回再興院展」を開催。
*[[1916年]] - 金字塔に天気予報信号旗を掲揚。テレスコープ設置。
*[[1917年]] - 大阪店新館が開店し地下1階地上7階の大阪最大のルネッサンス式建物となる。
** 日本橋本店の中央ホールに巨大扇風機が設置される。
*[[1920年]] - 大阪店が東館完成により全館開店。
*[[1921年]] - 大阪店、西日本の百貨店では初の下足預かり廃止。
*[[1923年]]8月5日 - 日本橋店にて日本初のデパートのバーゲンセール開催。
** [[関東大震災]]により日本橋本店と丸ノ内別館 焼失。
*[[1925年]] - 大阪店屋上にて大阪放送局(現[[NHK大阪放送局]])が仮放送開始。
*[[1927年]] - 日本橋本店に三越ホール(現三越劇場)を開設。
** 日本初のファッションショー開催。美容室設置。
=== (初代)株式会社三越時代 ===
[[ファイル:View of Ginza in 1930s.jpg|200px|thumb|[[銀座四丁目交差点]]で向かい合う[[服部時計店]](現・[[和光 (商業施設)|和光]])と三越銀座店(1933年10月)]]
*[[1928年]][[6月1日]] - 商号を「'''株式会社三越'''」に改める。
*[[1929年]] - 新宿店開店。
*[[1930年]] - 銀座店開店。
** 本店食堂に「お子様洋食」登場。
** 京城支店開店。
*[[1931年]] - 高松店開店。
*[[1932年]] - 三越が建設資金を負担し[[東京地下鉄道]]「[[三越前駅]]」が開業。日本橋本店地下売場と連絡。
** 札幌店開店。
*[[1933年]] - 仙台店開店。
*[[1935年]] - 日本橋本館の増築改修工事が完了。中央ホールが完成。地上7階地下2階建て。完成した中央ホールに[[パイプオルガン]]が設置される。
*[[1937年]] - 大阪店改修工事が完成し新式冷房装置を新設。
*[[1943年]] - [[岩瀬英一郎]]が社長就任。岩瀬(1894-1963、神奈川県出身)は、[[三井銀行]]ニューヨーク支店長・専務、[[東京電燈]]取締役を経て三越社長となり、戦後の三越再建を牽引した<ref>[https://journal.rikunabi.com/work/manegement/manegement_vol09.html 岩瀬英一郎氏]針木康雄、リクルート、2010年4月19日</ref><ref>『時代を変えた「同級生」たち 週刊文春 シリーズ昭和(5)世代論篇』文藝春秋, 2017/12/18 , p109</ref>。
*[[1944年]] - 本店に結婚式場開設。
*[[1946年]] - 戦後初の出店となる松山店開店。
*[[1947年]] - 財団法人三越診療所(現・三越厚生事業団)設立。
*[[1950年]] - 日本橋本店で、戦後初のファッションショー開催。同年、《マッカーサー元帥胸像》の除幕式を行う。
*[[1951年]] - [[猪熊弦一郎]]のデザインによる包装紙「華ひらく」を全店で使用開始。
** 12月18日 - 日本の百貨店で初の[[ストライキ]]。「三越にはストもございます」と話題になる<ref>[https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/research/dglb/rn/rn_list/rn1953-275.pdf 日本労働年鑑第25集「三越の争議」] [[法政大学大原社会問題研究所]]</ref><ref>[http://showa.mainichi.jp/comeback/2009/12/post-b21d.html 昭和26年12月18日 三越でスト 百貨店で初] - 昭和毎日</ref>。
*[[1954年]] - 「第一回無形文化財日本伝統工芸展」を開催。
*[[1956年]] - 日本橋本店で、パリー展開催。
*[[1957年]] - 日本橋本店屋上に<!-- 4月30日から6月2日の期間限定で -->、アメリカの[[ディズニーランド]]を模した屋上遊園地を期間限定で開園する<ref>{{Cite news|和書|title=ディズニーランド大人気|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1957-05-04|edition=東京版朝刊|page=8}}</ref>。詳細は[[こどもの夢の国!楽しいディズニーランド]]を参照。
*[[1958年]] - 日本橋本店の第2期増改築工事が完成、全国一の規模となる。
*[[1960年]]4月19日 - 三越創立50周年を記念して、日本橋本店中央ホールに、[[佐藤玄々]]製作の「天女像(まごころ)」設置。当日は、除幕式には各界名士、報道関係者など500人が招かれた。
*[[1963年]] - [[松田伊三雄]]、社長就任。
*[[1967年]] - 高松店 戦災による改築のため一時閉店。
*[[1968年]] - 銀座店新築開店。枚方店開店。高松店が営業再開。
*[[1970年]] - 「大越百貨店」グループ入りにより、「[[沖縄三越]]」に社名変更
*[[1971年]] - 日本の小売業として初めて売上高が1000億円を突破。
** 海外第一号店、パリ三越開店([[2区 (パリ)|パリ2区]])。
** 銀座店内に[[日本マクドナルド|マクドナルド]]の日本1号店が開店。
** 札幌店新築オープン。
** 「奈良屋」(千葉)と合弁にて「ニューナラヤ」を設立。
** 「丸屋」(鹿児島)と業務提携。
*[[1972年]] - 創業300年記念式典を[[日本武道館]]で開催。[[岡田茂 (三越)|岡田茂]]、社長就任。
*[[1973年]] - 広島店開店。
*[[1974年]] - 大阪店新館増築完成。
*[[1975年]] - 「[[オリエンタル中村百貨店]]」(名古屋)と業務提携。
** ローマ三越開店。
*[[1976年]] - 大阪店全館改装オープン。
*[[1978年]] - 「小林百貨店」(新潟)と業務提携。
*[[1979年]] - ロンドン三越、デュッセルドルフ三越、ニューヨーク三越、ハワイ三越開店。
*[[1980年]] - 倉敷店開店。
** 「オリエンタル中村百貨店」を「名古屋三越百貨店」、「小林百貨店」を「新潟三越百貨店」へ改称。
*[[1981年]] - 香港三越開店、フランクフルト三越、サンシャインシティ三越開店。
*[[1982年]] - [[三越事件]]発生。取締役会で[[岡田茂 (三越)|岡田茂]]社長(当時)の代表取締役および社長解任を決定。[[市原晃]]、社長就任。
** フロリダ・ディズニーワールド三越開店。
*[[1983年]] - テレビショッピング新番組『[[レディス4]]』開始。
*[[1984年]] - 「ニューナラヤ」を「千葉三越」に、「丸屋」を「鹿児島三越」へ改称。
** 香港三越九龍店開店。
*[[1986年]] - 英国のチャールズ皇太子・ダイアナ妃(当時)が日本橋本店に来店。[[坂倉芳明]]、社長就任。
*[[1988年]] - 三越洋服100年記念舞踏会開催。
*[[1991年]] - 台湾の新光集団と[[新光三越]]を設立。第一号店が台北に開店。
*[[1992年]] - パリ三越エトワール美術館を開館。
*[[1994年]] - 恵比寿店開店。
*[[1995年]] - 大阪店が[[阪神・淡路大震災]]により被災。被災した旧館部分を取り壊す。
*[[1996年]] - 三井住友カードとの提携により「三越カード」(旧・三越カード)誕生。
** インターネット上に三越のホームページを開設。阪神大震災で被災した旧館跡地に新館をオープン。
*[[1997年]] - [[福岡三越]]開店。[[坂倉芳明]]ゴルフ場事件(ゴルフ場開発で莫大な損益を出し社長を引責辞任)<ref>『時代を変えた「同級生」たち 週刊文春 シリーズ昭和(5)世代論篇』文藝春秋, 2017/12/18 , p108-110</ref>。[[津田尚二]]、社長就任。
*[[1998年]] - 「顧客第一主義」の実現をめざし、営業本部制を導入。
*[[1999年]] - [[井上和雄 (実業家)|井上和雄]]、社長就任。
*[[2000年]] - [[読売ジャイアンツ]]優勝記念セールを初めて全店で開催。
*[[2002年]] - 札幌アルタと恵比寿店「グラススクエア」が開店。[[中村胤夫]]、社長就任。
=== (2代目)株式会社三越時代 ===
[[ファイル:Mitsukoshi Nihonbashi main store 3.jpg|250px|thumb|日本橋三越本店新館(2018年撮影)]]
* [[2003年]][[9月1日]] - 子会社4社(千葉三越、名古屋三越、福岡三越、鹿児島三越)と[[合併 (企業)|合併(新設合併)]]により、(2代目)株式会社三越が誕生。
* [[2004年]] - デパートメントストア宣言から100年。日本橋本店に新・新館が完成。
* [[2005年]] - 名古屋栄店の隣接地に専門館「[[ラシック]]」開店。[[石塚邦雄]]、社長就任(戦後三越初の慶応卒以外の社長)。
** [[5月]] - 「メセナアワード2005」メセナ大賞を受賞。
** 5月5日 - 三越大阪店、枚方店、横浜店、倉敷店閉店。
* [[2006年]] - 初の郊外型店舗、武蔵村山店開店。(2009年3月1日閉店)
** [[日本郵政公社]]と各種物流における業務提携等及び新商品の共同開発を締結。
** 「[[三越ゆめカード]]」店頭取扱終了。
* [[2007年]] - 鹿児島店に[[ナムコ]]との共同プロデュースで百貨店初の[[フードテーマパーク]]「三越スイーツ庭園 in Kagoshima」を7階にオープン。
** 2011年の大阪駅ビル内の出店に向けて、[[新梅田シティ]]に「新店準備室大阪事務所」と「大阪ギフトサロン」(2011年1月10日に閉店)を開設。
* [[2008年]] - 伊勢丹との共同[[持株会社]][[三越伊勢丹ホールディングス]]を設立。同社の完全子会社となる。
** [[11月24日]] - 8月24日に閉店した仙台店隣の旧[[ファッションドーム141]]跡地の改装を行い、新たに定禅寺通り館としてオープン。これにより仙台店は仙台本館へと名称を変更。
* [[2009年]] - [[猪熊弦一郎]]画伯デザインの紙袋が全店で使用終了し、新デザインへ移行完了。
* [[2010年]]4月1日 - 地方直営店の大半を分社化。
** 4月 - [[エムアイカード]]発行の「三越 M CARD」、「MI CARD」(新・三越カード)が誕生。
** 9月11日 - 銀座店増床オープン。
* [[2011年]]4月1日 - 当社を存続会社として伊勢丹を吸収合併し、'''株式会社三越伊勢丹'''に商号変更。
{{Main2|合併後の沿革については「[[三越伊勢丹ホールディングス]]」または「[[三越伊勢丹]]」を}}
== 三井高利と越後屋 ==
[[File:Interior in Mitsui Echigoya at Suruga-chō.jpg|thumb|300px|[[歌川豊春]]『浮絵駿河町呉服屋図』。江戸有数の大店として繁盛した越後屋の店内が[[浮絵]]様式で効果的に描写された作品で、手前両側の柱には「現金かけねなし」の文句が掲げられ、天井からは着物の見本や売り場の担当店員の名を記した幕が下がる<ref>[https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/83010046697.htm 「浮絵駿河町呉服屋図」] - [[三重県総合博物館]]、2021年6月29日閲覧。</ref>。]]
[[三井家]]([[三井財閥]])の元祖である[[三井高利]]によって[[1673年]]([[延宝]]元年)江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業。[[1683年]]([[天和 (日本)|天和]]3年)には、駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へさらに営業を拡大させ移転。同時に両替店を開設し、この両替店は現在の「[[三井住友銀行]]」へと発展することになる。
そして駿河町に店を構えると江戸中に札([[広告]])を配り、下記のような当時では画期的な商法を次々と打ち出し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
; 店前現銀売り(たなさきげんきんうり)
: 現金をたてまえとした店頭販売の実現。当時、あらゆる商売は、得意先に行って注文を聞き、あとから品物を持って行く「見世物商い(みせものあきない)」か、直接商品を得意先に持って行く「屋敷売り」(これは現在でも「外商」として残っている)が普通だった。得意先は大名、武家、大きな商家で、支払いは年に一度の「極月払い」か、年に二回の「節季払い」だった。資金の回転がなく、回収不能など危険負担が大変大きかった。
; 現銀掛値無し(げんきんかけねなし)
: 当時、値切られることを考慮して客に最初に提示する値段を実際の売値より高く提示し、客によって値段を上げ下げするのが慣習だったが、「正札販売」、つまり値段を札に書いて商品につけて実際のその価格で販売。「正札付き現銀掛値なし」として[[定価]]販売を世界で初めて実現した。
; 小裂何程にても売ります(こぎれなにほどにてもうります―切り売り)
: 呉服屋では、反物単位の販売しか行なわなかったが、客の需要に応じての切り売りは一般庶民から大好評を博し「[[日本永代蔵]]」で「[[ビロード|ビロウド]]一寸四方でも売っている〜一寸四方も商売の種〜」と描写される。
== 歴史に残る広告 ==
呉服店から百貨店への移行期の三越の広告は、時代の最先端なものとして
広告史上忘れてはならないものとして語り継がれている。
* 1905年「'''デパートメントストアズ宣言'''」は元旦の全国主要新聞に掲載した全面広告。
**「''当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候''」
** 従来の呉服屋を廃して、何でも揃うアメリカン・スタイルの百貨店を目指すことを宣言したもの。従来、老舗呉服店は、極限られた富裕層を対象にしたものだったのに対し、広く一般大衆に向けて、百貨店での買い物は遊園地のように楽しく「消費は美徳である」というイメージを植えつけていく戦略をとっていった。
* 1911年「'''春の売り出し用ポスター図案懸賞募集'''」実施。1等賞金は当時としては破格の1,000円。300人応募の中から[[橋口五葉]]の「此美人」が選ばれた。
* 1913年「'''今日は帝劇、明日は三越'''」 - 東宝が日本初の西洋式の劇場として[[帝国劇場]]を開設。来場客に無料で配付した一枚刷りの「筋書き」(プログラム)に掲載された広告のキャッチ・フレーズ。「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は当時の有閑富裕階級の女性を象徴する一般庶民の憧れだと鮮烈に印象付けた。コピーライターは浜田四郎(三越の広告担当)。ポスター用の婦人画は[[竹久夢二]]だった。
* 1915年「'''春の売り出し'''」ポスター[[杉浦非水]]の「'''エンゼル'''」を採用。大胆な色彩と蝶の羽をつけた女性のイラストで、[[アール・ヌーヴォー]]風の画風が話題になった。非水は1934年まで三越の広告宣伝物の図案に携わっている。
* 1927年9月、日本初の'''[[ファッションショー]]'''を開催。[[水谷八重子 (初代)]]、東日出子、小林延子の当時人気の三女優を「染織逸品会」の新衣装で登場させた。<ref>[http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_37_01_01.pdf women on town 三越とパルコ、花開く消費文化]</ref>
* しかし、1970年代以降、斬新な広告は[[伊勢丹]]、[[丸井]]、[[パルコ]]といったより若い層にターゲットにした店に取って代わられるようになる。三越はCMキャラクターに当時、東宝の看板女優だった[[栗原小巻]]を起用。「'''贈り物は、やっぱり三越'''」と謳っていた。これは、「他の新しい百貨店とかスーパーなどではなく、ステータスの高い三越の包み紙で[[中元]]・[[歳暮]]は贈りましょう」というメッセージである。
== 海外デザイナーとの提携 ==
[[大丸]]の[[ディオール]]・サロンに対抗して、三越もパリの[[オートクチュール]]・メゾンと提携した。
* 1963年、'''ギィ・ラロッシュ'''(イブ・サンローラン、ピエール・カルダンと並ぶディオールの弟子3プリンス)- 型を輸入して自社サロンで製造する方式だったが一着15万円前後と高価なものだった。
* 1977年、'''[[アンドレ・クレージュ]]''' -[[プレタポルテ]]を直輸入して販売するスタイルとしたが、やはり10万円前後と、一般大衆には手の届かないものだった。
* 同時期に[[アメリカンカジュアル]]とも提携。'''[[オスカー・デ・ラ・レンタ]]'''、'''ビル・カイザーマン'''などニューヨーク・ファッションを取り入れた。これらは女性の社会進出に伴って、急増するニーズに応えるためのブランドだった。<ref>[http://www.smrj.go.jp/keiei/dbps_data/_material_/common/chushou/b_keiei/keieiseni/pdf/45880-26.pdf 中小企業基盤整備機構]</ref>
== 通信販売 ==
* 1899年、[[郵便為替]]制度が制定されたのに対応し、地方の顧客からの手紙による注文を取り扱う「外売り係り通信部」を開始。これは[[髙島屋]]に続いて日本の百貨店として2番目の取り組み。
* 1903年、カタログ誌「時好」発行。
* 1910年、「時好」を「三越タイムズ」に改称。カタログ配布先名簿に登録された顧客数30万人、毎日の発送は1,000件を超え三越は[[通信販売]]業界1位となった。発送先には[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[日本統治時代の台湾|台湾]]も含まれていた。
* 1911年、電話注文を開始。
* 1924年、「'''三越カタログ'''」(総合)発行を開始<ref>[http://www.waseda.jp/sem-domon01/members/2005/kase.pdf 通信販売に関する 考察]</ref>。同カタログのほか現在「'''定番物語'''」「'''美味通信'''」「'''快適生活人'''」などをテーマを絞った種類のものを多数出している。
* 1999年の[[お歳暮|歳暮]]期から[[コンビニエンスストア]]'''[[ファミリーマート]]'''と提携しギフトの受付を開始。<ref>[http://www.family.co.jp/company/news_releases/2005/1999/990902a.html 三越・ファミリーマート ギフト商品販売提携のお知らせ1999.09.02]</ref> 定番カタログの他、「'''[[ハロッズ]]'''」、「'''ケーファー'''」、「'''ペニンシュラホテル'''」など三越独占取り扱いブランド商品が含まれており、三越のギフトセンターまで出かけなくとも近所のコンビニで申し込めるようになった<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4194585/ マイライフ手帳@ニュース 2009.06.09]</ref>。2013年現在の取り扱い品目330品目。ファミリーマート店舗は9,500。これによりギフトショップ・スタイルの小型店を自前で展開する必然性・意義も少なくなることになった。
* 2011年、通信販売事業部は「'''株式会社三越伊勢丹通信販売'''」として独立した。新事業として食品宅配事業「'''エムアイデリ'''」を開始。年配者の世帯。育児世代に加え、40-50代のミセスをコア・ターゲットにしている。{{efn|三井広報委員会}}
** この会社とは別にノベルティや香典返し、輸入ブランド品などのカタログ販売を行う「'''株式会社 三越伊勢丹ギフト・ソリューションズ'''」(2012年「レオドール貿易」から社名変更)も存在。同社では[[日本郵便]]との提携で国内郵便局からギフトの申し込みができる他、[[中華人民共和国|中国]]でも事業を展開している。
** ※注)両社ともかつて通販事業を営んでいた「二光」(現.[[西友リテールサポート]])とは無関係。(三越系食料品小売業の「二幸」は「三越伊勢丹フードサービス」に改称)
=== テレショップ ===
かつてはテレショップも手がけていた。1970年、日本初の通販番組[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の「東京ホームジョッキー」(運営は[[ディノス]]。1972年から「[[リビング11]]」に改称)開始。この番組は1983年に終了するが、スタッフ、キャストが[[テレビ東京]]で、三越一社提供番組「[[レディス4]]」を開始することになった。同番組は2012年から「[[L4 YOU!]]」と改題されたが、「L4 YOU!」は2017年3月31日をもって終了したと同時に三越はテレショップから撤退した。当初は全国ネットだったが、ネット局は年々減少していき、末期は関東ローカルのみでの放送となっていた。
この番組の他、ミニ番組「三越テレショップ」も1988年に開始されたが、こちらも2015年9月30日をもって全局終了した<ref>[http://www.bunkatsushin.com/news/article.aspx?id=106565 テレ東等「三越テレショップ」9月で終了] 文化通信.com 2015年9月4日閲覧。</ref>。商品紹介は[[スタジオアルタ]]のディレクターが担当していた<ref>[https://www.studio-alta.co.jp/news/news.jsp?id=34033 「三越テレショップ」最後の収録です。]スタジオアルタ 2015年9月4日</ref>。
「三越テレショップ」最終回を放送したテレビ局は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 番組終了時点で放送していたテレビ局
|-
! 放送対象地域 !! 放送局 !! 系列 !! 放送時間 !! 備考
|-
| [[関東地方|関東広域圏]] || [[テレビ東京]](TX) || テレビ東京系列 || 月 - 金曜 13:32 - 13:35 ||
|-
| [[福島県]] || [[テレビユー福島]](TUF) || TBS系列 || 月 - 金曜 15:52 - 15:55 ||
|-
| [[新潟県]] || [[新潟テレビ21]](UX) || テレビ朝日系列 || 月 - 金曜 11:57 - 12:00 || 『[[ワイド!スクランブル]]・第1部』(テレビ朝日制作)のローカル枠で放送
|-
| [[長野県]] || [[信越放送]](SBC) || TBS系列 || 月 - 金曜 15:55 - 16:00 ||
|-
| [[静岡県]] || [[静岡朝日テレビ]](SATV) || テレビ朝日系列 || 月 - 金曜 15:47 - 15:50 ||
|-
| [[広島県]] || [[広島ホームテレビ]](HOME) || テレビ朝日系列 || 火 - 金曜 15:30頃 - 15:33頃 ||
|-
| [[愛媛県]] || [[南海放送]](RNB) || 日本テレビ系列 || 月 - 金曜 15:50 - 15:53 || 南海放送での[[レディス4]]打ち切りに伴い、2005年4月ネット開始。<br>最後の3回に限り、『[[news every.]]』月 - 木曜日第1部(日本テレビ制作)<br>の[[番組販売|番販ネット]]開始に伴い、16:00頃 - 16:10頃の間のCM枠にて放送。
|-
| [[長崎県]] || [[長崎放送]](NBC) || TBS系列 || 月 - 金曜 18:52 - 18:55 ||
|-
| [[熊本県]] || [[熊本放送]](RKK) || TBS系列 || 月 - 金曜 14:55 - 15:00 ||
|}
オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。
==== 過去に放送した局 ====
* TBC/[[東北放送]](TBS系列)
* KKB/[[鹿児島放送]](テレビ朝日系列) - 2005年ごろまで放送、平日13:55 - 13:58
* MBC/[[南日本放送]](TBS系列) - 2014年10月1日~2015年3月31日 平日14:55 - 15:00(編成の都合上、最初の3回のみ14:50から放送)
== 大塚家具と協調販売 ==
三越と[[大塚家具]]は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。
その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「'''IDC大塚家具新宿ショールーム'''」を賃貸入居させた。
その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。
協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/082/82971.html 日経BPnet1999.9.28]</ref>
== 読売ジャイアンツの優勝セール ==
2000年より[[そごう]]から権利を引継ぎ、[[読売ジャイアンツ]]のリーグ優勝および日本シリーズ優勝(または敗退)時に「ジャイアンツフェスタ」を実施していた。読売ジャイアンツの商標を使用してのセールには、[[読売新聞社]]への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目[[博品館]]前までのコースを辿る。
そごうの優勝セールはそごう東京店が1957年から有楽町の[[読売会館]]に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになった。その縁で三越は読売新聞社から[[プランタン銀座]](現:[[マロニエゲート]])の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。マロニエゲートも読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居していることから巨人の優勝セールを実施する。
三越の実施店舗は全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれていた。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることがある。
2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。
三越伊勢丹における巨人の優勝セールは2014年が最後となり、2019年以降はブランドイメージ戦略から優勝セールの開催を見送っている。また、[[イトーヨーカ堂]]・[[セブン-イレブン]]も同時に優勝セールから撤退したことから、これ以降百貨店・GMSでの巨人の優勝セールは行われていない。2019年以降、複数店舗で巨人の優勝セールを行っている小売業者は家電量販店の[[ビックカメラ]]のみとなっている<ref>前述の読売会館のそごう跡にビックカメラが入居したことによる。</ref>。
== 特色 ==
日本橋三越の屋上には、[[三井家]]の守り神である[[三囲神社]]が祀られている。
=== オリジナル観光バス ===
2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹ニッコウトラベル(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された[[東京モーターショー]]で[[日野自動車]]が展示した参考出品車、[[日野・セレガ|セレガプレミアム]]を営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りの[[リクライニングシート]]を備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は[[ヤサカグループ|東京ヤサカ観光バス]]が担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらは[[ケイエム観光バス]]が担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスと[[アイビーエス]]が担当する。
<gallery>
Yasaka mitsukoshi premium cruiser HINO selega PKG-RU1ESAA.jpg|東京ヤサカ観光バス 「三越プレミアムクルーザー」
Km mitsukoshi premium cruiser HINO selega LKG-RU1ESBA.jpg|ケイエム観光バス 「三越プレミアムクルーザー」
IBS Isetan Mitsukoshi Grand Cruiser Selega SHD.jpg|アイビーエス「三越伊勢丹グランドクルーザー」
</gallery>
=== 包装紙と紙袋 ===
三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と[[猪熊弦一郎]]にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していた[[やなせたかし]]が猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「'''mitsukoshi'''」の[[レタリング]]を入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。
この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。
ただし、現在のロゴになってから数年間はブックカバーや箱物で別の青のデザインのものを採用していたこともある。(CMの最後のロゴ表示もそれを使用していた)
=== 日本初のエスカレーターと、エレベーターの設置 ===
1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めての[[エスカレーター]]が導入<ref name="名前なし-1"/>。アメリカ・[[日本オーチス・エレベータ|オーチス]]社製、45m/分、20馬力(15kW)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため[[関東大震災]]によって焼失したが、現在は[[三菱電機]]が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。
同時に、[[エレベーター]]もオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年[[王子製紙]]十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草[[凌雲閣]](関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の[[白木屋 (デパート)|白木屋]]日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/034.pdf ロープ式エレベーター技術の発展と系統化調査(国立科学博物館産業技術史資料)]</ref>
また[[エレベーターガール]]を最初に採用したのは1929年の[[松坂屋]]上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋[[髙島屋]]などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台(この2台手動である)のみと限定的な運用となっている。<ref>[http://biz-kahoku.jp/depart/blog/2010/04/post-9.html 河北Bizナビ2010年4月20日]</ref> 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110306000153 四国新聞2011/03/06 ]</ref>
=== ライオン像 ===
三越のシンボル的存在である。[[1914年]]に本店玄関に設置されたライオン像は、[[関東大震災]]や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。[[ロンドン]]の[[トラファルガー広場]]にある[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる<ref name="yomiuri19940320">「読売新聞」1994年3月20日 東京朝刊25面</ref>、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越([[2009年]]閉店)の像は、三越と縁の深い[[三囲神社]]に奉納された。他に2015年[[日本体育大学]]世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。
{{Main|三越のライオン像}}
<gallery>
Mitsukoshi-Honten Lion statue.jpg|ライオン像(写真は日本橋本店正面入口
Mitsukoshi Nihonbashi-1.jpg|正面玄関両側のライオン像(2018年2月6日撮影)
</gallery>
=== 御子様洋食 ===
[[1930年]]日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「[[お子様ランチ|御子様洋食]]」が登場した。そのメニューは[[富士山]]に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にあった大食堂「ランドマーク(2020年1月7日閉店)」で「[[お子様ランチ]]」として提供されていた。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができた。
=== パイプオルガン ===
現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにある[[パイプオルガン]]は、[[1930年]]に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として[[2009年]]には[[中央区 (東京都)|中央区]]民有形文化財に登録された。
このパイプオルガンは、[[カトリック教会]]に設置されているものとは異なり、主に[[無声映画]]や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、[[ポピュラー音楽]]でも[[クラシック音楽]]でも幅広いジャンルの[[音楽]]を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]、今の貨幣価値に換算すると約2億[[円 (通貨)|円]]である。
まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人[[日本放送協会]]では、演奏を聞かせる[[ラジオ]]のレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。
[[1935年]]の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、[[チューブラーベル]]や鈴、ウッドブロック、大[[太鼓]]や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、[[大東亜戦争]]中に供出されてしまった。
現在でも[[金曜日]]、[[土曜日]]、[[日曜日]]の午前10時・[[正午]]・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。
=== お江戸日本橋 ===
日本橋三越本店の[[パイプオルガン]]で、開店時に「[[お江戸日本橋]]」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は[[1951年]]12月31日、ラジオ東京(現・[[TBSラジオ]])で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では[[1954年]]7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある[[東北放送]]ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来[[1989年]]12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である<ref>出典:「懐かしのせんだいCM大百科」付属ブックレット</ref>。
== 直営店舗 ==
2016年度・店別売上高<ref>[https://www.imhds.co.jp/company/img/2017_DB.pdf 三越伊勢丹グループ各店・各社情報](三越伊勢丹ホールディングス)</ref>も付記。
=== 百貨店 ===
2017年3月の千葉店閉店(後述)をもって、直営の百貨店店舗は都内の2店舗(日本橋・銀座)のみとなった。
==== 日本橋本店 ====
{{商業施設
|書式 = 三越
|名称 = 日本橋三越本店
|外国語表記 = {{lang|en|Nihombashi Mitsukoshi Main Store}}<ref>[https://cp.mistore.jp/global/en/nihombashi.html Nihombashi Mitsukoshi Main Store](三越伊勢丹)</ref>
|画像= File:Mitsukoshi Nihonbashi main store 5.jpg
|画像サイズ= 300px
|画像説明= 日本橋本店本館
|地図=
|正式名称= 三越伊勢丹 三越日本橋本店
|店舗数=
|所在地郵便番号=103-8001
|所在地= [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋室町]]1-4-1<ref name ="accessinfo_nihombashi">[https://www.mistore.jp/store/nihombashi/access.html アクセス](日本橋三越本店)</ref>
|緯度度 = 35 |緯度分 = 41 |緯度秒 = 07.9 |N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 139 |経度分 = 46 |経度秒 = 24.3 |E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = NO
|地図国コード = JP
|商業施設面積=
|延床面積=
|駐車台数=
|施設所有者= [[三越伊勢丹]]
|施設管理者=
|前身 = 三井越後屋
|開業日=[[1904年]][[12月6日]]
|営業時間=10:30 - 19:00(レスト新ラン街除く)
|最寄駅= [[三越前駅]]<br>[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]<br />[[新日本橋駅]]<ref name ="accessinfo_nihombashi"></ref>
|最寄IC=
|外部リンク=[https://www.mistore.jp/store/nihombashi.html 日本橋三越本店]
}}
通称:'''日本橋三越本店'''。三越の旗艦店。[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ銀座線|銀座線]]「[[三越前駅]]」に直結しており、本館と新館で構成される。元々三井越後屋があった場所であり、東京において、[[江戸時代]]から現在まで同一の場所で続く[[百貨店]]は、当店と[[松坂屋]]上野店だけである。本館の道路を挟んで北隣には、三井財閥の本拠だった[[三井本館]]がある。本館 49,000[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]+新館15,000m<sup>2</sup>=64,000m<sup>2</sup>。本館6階には[[三越劇場]]がある。
売上高は1,144億円(2021年 外商などを含む)。店舗別年間売上高において国内6位に位置する<ref name="MJ20220824">{{Cite news| 和書| title=| newspaper=[[日経MJ]]|date=2022-08-24| issue = 6884| edition= | page= 1}}</ref>。売上高では[[髙島屋#日本橋店|髙島屋日本橋店]](1,239億円 全国4位)の方が大きい<ref name="MJ20220824"></ref>。
長い歴史を待つ老舗として高いブランド力を誇り、取締役といった国内の富裕中高年や全国の法人[[外商]]に強みを持っており、[[叙勲]]・[[褒章]]を受けた人物向けのサービスなども行っている<ref>[https://www.mistore.jp/store/nihombashi/service/conferment.html 叙勲・褒章 | サービス | 日本橋三越本店]</ref>。
本館は「我が国における百貨店建築の発展を象徴するものとして価値が高い」(意匠的に優秀なもの・歴史的価値の高いもの)として、百貨店建築としては日本橋[[髙島屋|高島屋]]本館に次いで2例目の国の[[重要文化財]]に指定されている(指定番号:02645)<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/00004877 三越日本橋本店]([[文化庁]] 国指定文化財等データベース)</ref>。1920年代から30年代にヨーロッパで流行した[[アール・デコ]]様式が取り入れ、内装には一部大理石が用いられている。[[1932年]]の[[東京地下鉄道]](現在の[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ銀座線|銀座線]])開通にあたっては[[三越前駅]]の建設費用を負担した。 [[1935年]]には増築改修が行なわれ、五層吹抜けの[[オルガン|パイプオルガン]]を設置した中央大ホール、人気の「特別食堂」が設置された。現在でも毎日、無料のパイプオルガンの定期演奏が行われている。 [[1960年]]、三越創立50周年を記念して、日本橋本店本館の中央ホールに、佐藤玄々(さとうげんげん)制作の巨大木彫『天女像 まごころ』が設置され、現在は日本橋三越本店における象徴的存在である<ref>{{Cite web|和書|title=重要文化財 三越日本橋本店 {{!}} 東京とりっぷ|url=https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0346/|website=tokyo-trip.org|date=2017-01-14|accessdate=2020-08-15|language=ja}}</ref>。
[[2016年]][[5月]]、総額200億円を投じる改装計画が発表された。[[デザイナー]]には[[建築家]]の[[隈研吾]]を起用した<ref name="news">{{Cite news|url = http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160523-00010000-fashions-life| title =三越日本橋本店が隈研吾を起用し全館リモデル 18年春に向け120億円投資|publisher =Fashionsnap.com|date=2016年5月23日}}</ref>。
[[2020年]]には改装の一環として、新館6階に三越として初となる家電量販店である[[ビックカメラ]]がテナントとして入居した<ref>{{Cite web|和書|title=ビックカメラ 日本橋三越 {{!}} 日本橋三越本店 {{!}} 三越 店舗情報|url=https://www.mitsukoshi.mistore.jp/nihombashi/event_calendar/biccamera.html|website=www.mitsukoshi.mistore.jp|accessdate=2020-08-15|language=ja}}</ref>。店員は三越ではなくビックカメラの社員が担当するが、ビックカメラの赤いベストではなくスーツを着用して接客を行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.ryutsuu.biz/report/m020416.html/amp%3Fusqp%3Dmq331AQRKAGYAeCmpbaf2vKCsQGwASA%253D|title=ビックカメラ/「日本橋三越」に出店、富裕層向けプレミアム家電強化|accessdate=2020/08/15|publisher=流通ニュース}}</ref>。百貨店業界としても珍しい取り組みであり、普段のビックカメラでは取り扱えなかったような富裕層向けの高級家電を販売するとともに、三越としては[[マーチャンダイジング]](MD)の拡充を狙っている。
{{Main|三越日本橋本店}}
{{Commonscat|Mitsukoshi Nihonbashi|日本橋三越本店}}
<gallery>
File:Mitsukoshi Nihonbashi main store 2.jpg|日本橋三越本店新館
File:Mitsukoshi Nihonbashi Atrium 201505.jpg|本館内部
Mitsukoshi Nihonbashi Level 1 after renovation 201912.JPG|本店が隈研吾を起用し全館リモデル
Mitsukoshi Nihonbashi Theatre 201912.JPG|三越劇場
Mitsukoshi Nihonbashi Roof Garden 201912.JPG|屋上花園
File:Mitsukoshi (8619735965).jpg|本館エントランス
</gallery>
==== 銀座店 ====
{{商業施設
|書式 = 三越
|名称 = 銀座三越
|外国語表記 = {{lang|en|Ginza Mitsukoshi}}<ref>[https://cp.mistore.jp/global/en/ginza.html Ginza Mitsukoshi](三越伊勢丹)</ref>
|画像= File:Ginza Mitsukoshi 2018.jpg
|画像サイズ= 300px
|画像説明= 銀座三越
|地図=
|正式名称= 三越伊勢丹 三越銀座店
|店舗数=
|所在地郵便番号=104-8212
|所在地= [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]4-6-16<ref name ="accessinfo_ginza">[https://www.mistore.jp/store/ginza/access.html アクセス](銀座三越)</ref>
|緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 17 |N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 139 |経度分 = 45 |経度秒 = 56.7 |E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = NO
|地図国コード = JP
|商業施設面積=
|延床面積=
|駐車台数=
|施設所有者= [[三越伊勢丹]]
|施設管理者=
|前身 =
|開業日=
|営業時間=10:30 - 20:00(レスト新ラン街除く)
|最寄駅= [[銀座駅]]<br>[[銀座一丁目駅]]<br />[[東銀座駅]]<ref name ="accessinfo_ginza"></ref>
|最寄IC=
|外部リンク=[https://www.mistore.jp/store/ginza.html 銀座三越]
}}
:通称「銀座三越」
:東京都中央区[[銀座]]4-6-16(東京メトロ「[[銀座駅]]」9番出口)1930年開店。43,111m<sup>2</sup> : 810億円。[[銀座四丁目交差点]]に位置し、中央通りを挟んで銀座[[和光 (商業施設)|和光]]の目の前にある。
:売上高は565億円(2021年)で、銀座地区の百貨店において、[[松屋 (百貨店)|松屋]](544億円 2021年)を抑えて最多の売上を誇る<ref name="MJ20220824"></ref>。
<gallery>
Ginza Mitsukoshi-1.jpg|銀座三越旧館と新館(2010年9月11日撮影)
Ginza Mitsukoshi-2.jpg|晴海通りからの新館入口(2010年9月11日撮影)
Ginza Mitsukoshi-3.jpg|1階のカフェ(2010年9月11日撮影)
Ginza Mitsukoshi-4.jpg|屋上庭園(2010年9月11日撮影)
Ginza Mitsukoshi-5.jpg|屋上庭園(2010年9月11日撮影)
</gallery>
==== 専門館事業部 ====
;原宿アルタ
:東京都渋谷区神宮前1丁目16-4
;[[新宿アルタ]]
:ヤングファッション特化タイプ
:東京都新宿区新宿3-24-3 ([[東日本旅客鉄道|JR線]]・[[東京メトロ丸ノ内線]]他「新宿」駅東口)
;[[サンシャインシティ・アルタ]]
:東京都豊島区東池袋3-1-3 池袋[[サンシャインシティ]] ([[東京メトロ有楽町線]]「東池袋」駅前) : 1981年「サンシャインシティ三越」として開店した施設のうち、1984年に「三越YOU館」となった店舗部分が、2003年9月に現名称に改称。
:ネイバーフッドタイプ
=== 小型店舗事業部 ===
2013年度から中央(三越伊勢丹HDS)による企画・統制に変更された。これは、都市部では生活行動圏が狭くなり、一方地方部では百貨店空白エリアが広がった現状に対応して市場開拓を行うためで、情報・ノウハウの共有化を図る狙いがある。中期目標では、店舗面積50〜200坪クラスの店を新規出店数150〜200店、売上高500億円規模、営業利益25億円以上を目指している。店舗のタイプは3種類で外商拠点を兼ねた従来型のサテライト=三越○○、中分類切り出し型=イセタンミラー、アウトレット店などとなっている。<ref>[http://www.wwdjapan.com/business/2013/03/08/00003240.html 流通ニュースWWD JAPAN 2012.11.13]</ref><ref>[http://www.imhds.co.jp/ir/pdf/news_release/hd/2013/130307_news01.pdf 三越伊勢丹HDS報道関係資料2013.3.7]</ref>
* 北海道:三越釧路
* 宮城県:三越大河原、三越石巻、三越富沢
* 福島県:三越いわき
* 茨城県:三越水戸、三越つくば、三越牛久、三越古河、三越鹿島(神栖市)
* 栃木県:三越小山
* 群馬県:三越伊勢崎、三越館林、三越桐生
* 埼玉県:三越浦和、三越新所沢、三越春日部、三越久喜、三越深谷
* 千葉県:三越五井(市原市)、三越ユーカリが丘(佐倉市)、三越臼井(佐倉市)、三越成田、三越東金、三越旭、三越木更津、三越茂原、三越館山
* 東京都:三越馬事公苑(世田谷区)
* 香川県:三越坂出、三越丸亀、三越観音寺
* 徳島県:[[三越徳島]]
;エムアイプラザ(現在80店舗展開している小型店事業を、2016年度内には150店舗体制まで拡充する計画である。<ref>http://pdf.irpocket.com/C3099/h8MH/LuOP/NIgc.pdf </ref>
* エムアイプラザ厚木 - 2014年4月26日開店。三越厚木がアミューあつぎ内に移転し、MD変更。
* エムアイプラザ羽生 - 2014年10月6日開店。三越羽生のMD変更。
* エムアイプラザ川越 - 2015年3月13日開店。三越川越がウニクス川越に移転開業。
* エムアイプラザ旭川 - 2015年3月27日開店。[[イオンモール旭川駅前]]開業に伴い新規出店。
* エムアイプラザ富士見 - 2015年4月10日開店。[[ららぽーと富士見]]開業に伴い新規出店。
* エムアイプラザレイクタウン - 2015年4月24日開店。
* エムアイプラザ釧路 - 2014年10月3日開店。イオン釧路昭和店に開業。
;三越大阪ギフトサロン(2代目)
: 2015年4月2日開店。[[大阪ステーションシティ]][[ノースゲートビルディング]]11階サポートプラザ内。
: [[ルクア1100|JR大阪三越伊勢丹]]閉店後の旧大阪店以来からの三越の暖簾を愛用している顧客向けにギフト関連商品に特化した店舗である。日本橋本店から商品を取り寄せている<ref>[http://pdf.irpocket.com/C3099/QPg3/hP4p/Vm52.pdf#search='%E4%B8%89%E8%B6%8A%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%82%AE%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%B3' 三越大阪ギフトサロン開店報道資料]</ref>。
: 運営は[[ジェイアール西日本伊勢丹]]ではなく[[三越伊勢丹]]直営である。
: マークはお馴染みの'''○に越'''である。
: 初代は [[新梅田シティ]] [[梅田スカイビル|スカイビル]]に2007年5月から2011年1月10日の期間限定で営業していた。
: 当時も旧大阪店から引き継いだ外商の顧客へのサービス拠点であると共に「新店(JR大阪三越伊勢丹)準備室大阪事務所」を併設し情報発信もしていた。
== グループ企業店舗 ==
=== 国内店舗 ===
HDS傘下の三越系列
;株式会社[[札幌丸井三越]]([[札幌三越]])
:北海道[[札幌市]]中央区南1条西3丁目8 (札幌市営地下鉄 [[大通駅]]) : 1932年5月1日 三越札幌店として開店。20,577m<sup>2</sup> : 263億円。
: ※ 2011年4月1日に[[札幌丸井今井]]と経営統合。
;株式会社仙台三越([[仙台三越]])
:宮城県[[仙台市]]青葉区[[一番町 (仙台市)|一番町]]4-8-15(仙台市地下鉄 [[勾当台公園駅]]) : 1933年4月1日 三越仙台店として開店。2009年、再開発ショッピングセンター「141」を統合(地下の食品は三越がテナントで入っていた)し「定禅寺通り館」として増床。31,059m<sup>2</sup>: 336億円。
;[[名古屋三越|株式会社名古屋三越]]
: ※ 1977年[[オリエンタル中村百貨店]]に資本参加。1980年名古屋三越に改称(一旦直営化したが、再び分離)。
:*'''栄店(名古屋栄三越、名古屋三越栄統括店)'''[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]]3-5-1([[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]・[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] [[栄駅 (愛知県)|栄駅]])49,827m<sup>2</sup>: 479億円{{efn|name="nagoya"|名古屋栄三越・星ヶ丘三越共に地下鉄東山線ならびに[[愛知県道60号名古屋長久手線]]([[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]・[[東山通 (名古屋市)|東山通]])沿線に店舗を構える。}}。
:*'''星ヶ丘店(星ヶ丘三越)'''愛知県名古屋市[[千種区]][[星が丘元町]]14-14(名古屋市営地下鉄東山線 [[星ヶ丘駅 (愛知県)|星ヶ丘駅]])23,618m<sup>2</sup>: 190億円{{efn|name="nagoya"}}。
:*'''[[ラシック]]'''(名古屋三越栄統括店 ラシック事業部) 愛知県名古屋市中区栄3-6-1(栄店の南隣) 29,000m<sup>2</sup>: 258億円。
:*なお、かつて名古屋市北区浪打町1-52に存在したOSセンター内に食品専門の「名古屋三越 生鮮壱番館」を設けていた。
;株式会社広島三越([[広島三越]])
:広島県[[広島市]]中区胡町5-11中国新聞文化事業社ビル(広島電鉄 [[胡町停留場|胡町電停]]前)1973年4月8日開店。広島市中心部の[[紙屋町・八丁堀]]地区に位置する。14,979m<sup>2</sup>: 155億円。
;株式会社高松三越([[高松三越]])
:香川県[[高松市]]内町7-1(高松琴平電鉄 [[片原町駅]])1931年3月17日開店。22,474m<sup>2</sup>: 230億円。
;株式会社松山三越([[松山三越]])
:愛媛県[[松山市]]一番町3-1-1 (伊予鉄道城南線 [[大街道停留場|大街道電停]]前) : 1946年開店。20,107m<sup>2</sup>: 141億円。
;株式会社[[岩田屋三越]]([[福岡三越]])
:福岡県[[福岡市]]中央区天神2-1-1 [[ソラリアターミナルビル]]([[西鉄福岡(天神)駅]]ビル)1997年10月1日開店。37,064m<sup>2</sup>: 294億円。
:三越初のターミナルデパート。[[西日本鉄道]](西鉄)が駅の再開発を行うパートナーとして三越を選定し、合弁会社を設立した(三越8:西鉄2)。一旦直営化された後、2010年10月1日より、HDS地域分社の方針の則り[[岩田屋]]と経営統合した(岩田屋再建がセット)。
<gallery>
Sapporo Mitsukoshi 20070603-001.jpg|札幌三越
Sendai Mitsukoshi Departmentstore.jpg|仙台三越
View of Nagoya-Sakae Mitsukoshi and Sakae Intersection, Nishiki Naka Ward Nagoya 2022.jpg|名古屋栄三越
ファイル:LACHIC 2017.jpg|名古屋三越ラシック店
Hoshigaoka Mitsukoshi 20150527.JPG|星ヶ丘三越
Hiroshima mitsukoshi 201109.JPG|広島三越
Takamatsu-Mitsukoshi.JPG|高松三越
Ug090117 Miytsukoshi.jpg|松山三越
Solaria Terminal Building 20130718.jpg|福岡三越
</gallery>
=== 海外店舗 ===
;新光三越百貨股份有限公司([[中華民国]]([[台湾]]))
:{{Main2|詳細は[[新光三越]]を}}
:1991年、新光グループとの合弁により設立。日本スタイルの百貨店として現地の人たちに支持され、最も成功している事例。
:[[台北市|台北]]・[[桃園県|桃園]]・[[台中市|台中]]・[[嘉義市|嘉義]]・[[台南市|台南]]・[[高雄市|高雄]]など。
;花園飯店(上海)三越ショップ(業務受託店)
:[[中華人民共和国|中国]] [[上海市]]茂名南路58号 花園飯店([[ホテルオークラ|オークラ]]ガーデンホテル)上海1F。地下鉄1号線 [[陝西南路駅]] 徒歩3分。
:1989年10月15日ソフトオープン、1990年3月20日グランドオープン
:1998年、2000年、2007年にリニューアルを実施。
:ギフトショップ・スタイルの小型店で、「シルク絨毯」「中国伝統工芸品」「シノワズリ雑貨」「キオスク」「日本ファッション」「欧州インポート雑貨」の全6ショップで構成されている。キヨスクでは清涼飲料やスナック菓子から新聞雑誌、薬といったコンビアイテムも販売している。
:花園飯店は1920年代に建てられた租界時代の象徴ともいえる旧フランス倶楽部の由緒ある建物で「優秀歴史建築」に指定されている。
;オーランド三越
:[[アメリカ合衆国]]現地法人:Mitsukoshi (U.S.A.) Inc.(オフィスは[[ニューヨーク]])
:1982年 フロリダ州[[オーランド]]市 [[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]] [[エプコット]]ワールド・ショーケース日本館内に出店。
== 過去に存在した店舗 ==
=== 国内百貨店 ===
{{Vertical_images_list |幅=220px|枠幅=200px
|1=Mitsukoshi Ikebukuro.jpg|2=池袋三越
|3=Yokohama Mitsukoshi.JPG|4=横浜三越
|5=Chiba Mitsukoshi.jpg|6=千葉三越
}}
;新宿店・新宿アルコット店
:東京都新宿区[[新宿]]3-29-1 自社ビル。1929年開店。
:* 本館: 2005年 ファッションビル「新宿アルコット店」に業態転換。2012年3月31日 閉店。2012年7月ビックカメラが10年賃貸契約で入居。現在「[[ビックロ]]」<ref>[https://www.fashionsnap.com/article/2012-03-31/mitsukoshi-alcott-close/ Fashion News]</ref>。閉店後の三越伊勢丹の新宿地区での営業拠点は、[[伊勢丹#新宿店|伊勢丹新宿店]]が担っている。
:* 南館: 1991年10月10日開店。最上階は'''三越美術館'''。本館閉店に先立って、美術館も併せて1999年8月閉館。<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/052/52536.html 日経BP1999.3.10]</ref>「IDC大塚家具新宿ショールーム」」に賃貸。※詳細は「大塚家具と協調販売」の項を参照。
:{{Main2|本館閉店後の詳細は[[ビックロ]]を}}
:
;池袋店
:東京都豊島区[[東池袋]]1-5-7([[池袋駅]]東口)
:1957年開店-2009年5月6日閉店。[[東武百貨店]]・[[西武の店舗一覧#池袋本店|西武池袋本店]]との競合で厳しい事業環境に置かれ、売上が低迷していた<ref name="fashionsnap20090506">[https://www.fashionsnap.com/article/2009-05-06/mitsukoshi-ikebukuro-close/ 開業51年の三越池袋店と三越鹿児島店が閉店](2009年05月06日 [[Fashionsnap.com]])</ref>。閉店後シンプレクス・リート投資法人へ約750億円で売却。2009年10月30日「[[ヤマダ電機]]LABI1日本総本店池袋」開店。
:
;横浜店(横浜三越)
:神奈川県横浜市西区[[北幸]]1-2-7 : [[横浜駅]]西口 [[学校法人岩崎学園|岩崎学園]]ビル
:1973年11月23日開店-2005年5月5日閉店。2005年11月18日[[ヨドバシ横浜]]開店。
:開業以前に[[相模鉄道]]から横浜駅ビルへの出店要請があったが、辞退した。戦前の難波出店計画と同様に、のちに出店表明した[[髙島屋]]が開業して旗艦店を構える形となってしまった。
:{{Main|横浜三越}}
:
;上大岡店(横浜三越・上大岡三越)
:神奈川県横浜市港南区[[上大岡]]西1-18-3
:* 旧館:1980年「上大岡三越エレガンス」として、[[東急ストア]]跡地(オサダビル)に開店。後に、「上大岡三越サンプラザ」に改称。新館に移転後、解体。
:* 新館:1996年 隣地「新オサダビル(現:ミオカリスト館)」に拡張移転し「上大岡三越ガーデンスクエア」3,401m<sup>2</sup>となる。2003年12月31日閉店。三越撤退後、専門店ビル化([[リストガーデンスクエア]])。2010年4月16日、旧館跡に新築された再開発ビル「[[ミオカ]]」と一体化し、「ミオカリスト館」となる。
:{{Main2|閉店後の詳細は[[ミオカ]]を}}
:
;千葉店(千葉三越)
:千葉県千葉市中央区富士見2-6-1([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]「[[千葉駅]]」前)中規模店。27,177m<sup>2</sup>:126億円
:※1972年、地場百貨店の[[奈良屋 (百貨店)|奈良屋]]と合弁で「ニューナラヤ」を設立。1984年「株式会社千葉三越」に改称。2003年直営化された。[[2017年]][[3月20日]]をもって閉店。三越撤退後、同店の建物と敷地を保有していた[[塚本總業|塚本総業]]は同社が手がける再開発に協力する意向を示したファーストコーポレーションに跡地を売却。建物を解体した上で下層階に公共・商業施設、上層階に分譲マンションとする複合施設の建設を予定している<ref>{{Cite web|和書|title=三越千葉店跡地に複合施設検討 建て替え、上層に分譲マンション|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/733103|website=千葉日報|accessdate=2020-10-21|publisher=|date=2020-10-20}}</ref>。
:
;新潟店(新潟三越伊勢丹)
:新潟県[[新潟市]]中央区[[西堀通]]5番町866 (新潟交通 [[古町 (新潟市)|古町]]バス停前) : 20,596m<sup>2</sup>: 137億円。2020年[[3月22日]]閉店<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL26HT0_W8A920C1000000/ 三越伊勢丹、傘下の3店舗を閉鎖 新潟三越も] [[日本経済新聞]] 2018年9月26日 (2018年9月26日閲覧。)</ref>。
: ※ 1978年小林百貨店に資本参加。1980年株式会社新潟三越に改称。名古屋三越に併合後、直営化されたが、2010年4月1日地域別再編のため分離し新潟伊勢丹と経営統合した。閉店後に跡地を購入した廣瀨と[[東京建物]]は地上30階建て以上の高層ビルの建設を検討していることを2022年12月に明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|title=新潟三越跡に30階超複合ビル |url=https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/145708 |website=新潟日報 |access-date=2022-12-13 |date=2022-12-02}}</ref>。
:
;金沢店・名古屋三越金沢店
:* 初代:石川県金沢市武蔵町15-1 : [[武蔵ヶ辻]]。1930年「三越金沢店」開店。1935年閉店。閉店後、ビル所有者が「[[丸越]]」(現:[[金沢丸越百貨店|金沢エムザ]])を開業。
:* 2代目:石川県金沢市昭和町540 : 金沢駅前[http://www.dai-ichi-building.co.jp/company/buillding/pdf/bld5/00230.pdf ヴィサージュ](株式会社第一ビルディング)。1990年5月開店。1999年10月31日閉店。2フロアの小型店だった。撤退後のテナントは様々。
:
;大阪店
:大阪府大阪市中央区[[高麗橋]]1-7-5
:1691年、越後屋の出店として開設。1917年本館開店。[[Osaka Metro堺筋線|地下鉄堺筋線]]の[[北浜駅 (大阪府)|北浜駅]]直結。[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]で、震源のあった兵庫県に立地しないにもかかわらず、旧館にひびが入ったことが発覚した。旧館は取り壊し、平屋建ての新館に建て替えた。本館と合わせた営業面積が半分以下に減少し、赤字幅が拡大した。下記JR大阪駅への出店が具体化したこともあり、2005年5月5日閉店。[[白木屋 (デパート)|白木屋]]撤退後、[[船場 (大阪市)|船場]]地区最後の百貨店であった。
:[[超高層マンション|タワーマンション]]を中心とする複合ビル[[The Kitahama]]が建設されて、商業ゾーンには小型百貨店として北浜[[阪急百貨店|阪急]]の入居計画もあった。しかし、京都に本社を置くスーパーマーケット[[フレスコ (スーパー)|フレスコ]]を核とする「[http://thekitahamaplaza.com/ ザ・北浜プラザ]」が開設された。
:
;JR大阪三越伊勢丹
:[[西日本旅客鉄道|JR]][[大阪駅|大阪駅ビル]]([[大阪ステーションシティ]]・[[ノースゲートビルディング]])内。
:2011年5月4日開店。2015年4月1日、売上不振により閉店。[[ジェイアール西日本伊勢丹]]による運営。2015年4月2日、JR大阪三越伊勢丹から[[ファッションビル]]の[[ルクア1100|ルクア1100(イーレ)]]に転換し、ルクア1100内の「isetan LUCUA 1100 store」として販売形態、売場面積、店舗ブランド変更、規模を大幅縮小した上でリニューアルオープン。元々伊勢丹色が強い店舗であったが、リニューアルにより三越としては完全に無くなった。店舗案内についても伊勢丹サイトにて引き続き記載されているが、三越サイトではルクア1100は記載されていない。
:
;枚方店
:大阪府[[枚方市]]岡東町18-20 枚方中央ビル
:1968年7月13日開店。周囲のビルに店舗を拡張して、三越提携店でもある[[枚方T-SITE#近鉄百貨店枚方店|枚方近鉄百貨店]]と激しい競争を行った。当初は三越が高級品を扱い、ひらかた丸物→枚方近鉄がセールを繰り返していたが、近鉄側の改善で今度は三越がセールを濫発して売場を埋める状況に陥ってしまい、1989年時点で既に周囲のビルは返還して縮小していた<ref name="yumekakumei">流通研究グループ編、「近鉄百貨店グループ夢革命」、[[ジャック・メディア・キャピタル|オーエス出版]]、1989年3月17日</ref>。デパ地下の営業をやめて[[大近|ラッキー]]が入居するなどのてこ入れ策を取ったが、2005年5月5日に大阪店とともに閉店。閉店後は「ラッキー」が営業を続けるほか、[[TSUTAYA]]枚方駅前本店物販館・[[スターバックス]]・[[ABCクラフト]]・が入居。
:なお、枚方近鉄百貨店は1998年に[[近鉄百貨店]]が直営する枚方店となった後もしばらく黒字店舗だったが、2000年代後半に赤字転落した。1990年代に開店した[[京阪百貨店]]ひらかた店との競争の激化、[[リーマン・ショック]]による消費低迷が理由とされている。2012年2月末で閉店して[[枚方T-SITE]]へ建て替えられた。
:
;神戸店・パルパローレ三越神戸元町
:* 初代:[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[元町通]]6-2-12
:1926年に、地元資本の「元町デパート」を買収して開店。[[神戸高速鉄道]]に出資して[[西元町駅]]との直結を図ったが、[[神戸阪急#そごう神戸店|そごう神戸店]]や[[大丸]]神戸店との競争に負けて、1984年2月に閉店して解体された。跡地には[[ホテルシェレナ]]が建設されたが、阪神大震災で被災して休業した。別々に売却されてマンションが立てられている。
:* 2代目:兵庫県神戸市中央区元町通3-9-8 パルパローレ元町<br />1984年6月「パルパローレ三越」 1,049m<sup>2</sup> 開店。2004年1月31日閉店<ref>[http://www.imhds.co.jp/ir/pdf/news_release/mitsukoshi/2003/03_08_news_m.pdf 小型店2店舗の閉鎖を決定]</ref>。2004年9月マスヤ株式会社・本社ビル「パルパローレ」リニューアルオープン<ref>[http://www.masuya.ne.jp/history.html マスヤ株式会社 沿革]</ref>。
:{{Main|三越神戸支店}}
:
;倉敷店
:[[岡山県]][[倉敷市]]阿知1-7-1 : 倉敷駅前 倉敷開発ビル。16.211m<sup>2</sup><ref>[https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/Kensei/jyutaku/jirei/011kurashikiekimae.pdf 国土交通省中国地方整備局]</ref>
:1980年開店-2005年5月5日閉店。2008年3月29日 [[天満屋]]倉敷店が移転入居。
:{{See Also|くらしきシティプラザ}}
:
;鹿児島店(旧:丸屋)
:[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[呉服町 (鹿児島市)|呉服町]]33 : [[天文館]]地区
:丸屋(呉服太物商)1892年創業。1961年「丸屋デパート」開店。1983年7月資本提携により商号変更「'''株式会社鹿児島三越'''」。1984年「株式会社丸屋本社」発足。2003年鹿児島三越を吸収合併し「[[三越鹿児島店]]」となる。2009年閉店<ref name="fashionsnap20090506"></ref>。2010年、ビルを所有していた丸屋本社がテナントビル「[[マルヤガーデンズ]]」を開業。<ref>[http://www.maruya-gardens.com/company/ 株式会社丸屋本社 会社概要]</ref>
=== 専門館 ===
;[[二幸|二幸食品店]]
:「海の幸、山の幸」から命名された東京新宿の食料品専門店。その後、現在の[[新宿アルタ]]になった。
;三越ハウス館
:1984年、東京池袋のサンシャインシティ三越に「三越ハウス館」として開業。家具などを扱ったが、後に閉店。1996年7月に現在の[[ナンジャタウン|ナムコ・ナンジャタウン]]になった。
;[[札幌アルタ]]
:2010年8月に閉店し、跡地の一部は[[丸ヨ池内]]となった。
;中洲三越エレガンス・三越福岡天神 ティファニー館
:* 初代:福岡県福岡市博多区中洲2-6-7 : 1982年「中洲三越エレガンス」開店。1986年閉鎖。<ref>[https://www.iwataya-mitsukoshi.co.jp/company/index.html 岩田屋三越会社概要]</ref>
:* 2代目:福岡県福岡市中央区天神2-7-8 : 1992年「三越福岡天神 ティファニー館」開店。1997年 現在の福岡三越(岩田屋三越)開店に伴い閉店。{{Main2|詳細は[[福岡三越]]を}}
;[[新潟アルタ]]
:新潟県新潟市中央区万代1-3-30 [[万代シティ]] : シルバーホテルビル地下1〜地上2階 ([[新潟交通]]「[[万代シテイバスセンター]]」前)
:旧.三越エレガンス。「三越万代店」改称後、ターゲットを若年層に変更し「アルタ」に業態転換した。2019年3月24日閉店。
;恵比寿店(恵比寿三越)
:東京都渋谷区恵比寿4-20-7 [[恵比寿ガーデンプレイス]]内(JR山手線・[[東京メトロ日比谷線]]「恵比寿」駅前) : [[1994年]]開店。売上高の低迷により[[2021年]]2月に閉店<ref>{{Cite web|和書|title=三越恵比寿店が来年2月に閉店か、基幹店の経営に注力|url=https://www.fashionsnap.com/article/2020-03-25/mitsukoshi-ebisu-close-rumor/|website=FASHIONSNAP.COM [ファッションスナップ・ドットコム]|date=2020-03-25|accessdate=2020-03-26|language=ja|last=FASHIONSNAP.COM}}</ref>。
=== 小型店舗 ===
{{Vertical_images_list |幅=200px|枠幅=200px
|1=Former Mitsukoshi Kichijoji (Now Yodobashi camera).jpg|2=吉祥寺三越
|3=COCOLIA Tama Center.JPG|4=多摩センター三越
}}
;吉祥寺店
:東京都武蔵野市[[吉祥寺本町]]1-19-1 近鉄百貨店東京店ビル
:2001年開店-2006年5月7日閉店。[[近鉄百貨店#東京店|近鉄百貨店東京店]]の閉店後に近鉄百貨店からの賃貸で入居するも、営業期間わずか5年での撤退。3番目の短命店舗となった。共同出店した大塚家具を増床する計画を近鉄側が拒否したため白紙撤回、全館閉館した。建物は近鉄百貨店から投資ファンドに売却されて、改修。2007年6月29日に「ヨドバシ吉祥寺」が開店した。
:{{Main2|閉店後の詳細は[[ヨドバシ吉祥寺]]を}}
:
;多摩センター店(多摩センター三越)
:東京都多摩市落合1-46-1 [[ココリア多摩センター]] (京王・小田急・[[多摩都市モノレール]]「[[多摩センター駅|多摩センター]]」駅前) : 2000年11月開店。[[多摩そごう]]の閉店跡に出店した。当初は「[[大塚家具]]」との共同出店だったが、大塚家具は2010年12月に髙島屋立川店(現在の立川髙島屋S.C.)へ移転した。2017年3月20日閉店。
:
;武蔵村山三越
:東京都武蔵村山市榎1-1-3 ダイヤモンドシティ・ミュー ノースタワー<br />2006年11月18日開店-2009年3月1日閉店。三越初の郊外型SCへの出店。新しいビジネス・モデルとして郊外への店舗展開を模索していた三越にとって、[[イオン (企業)|イオン]]との連携は、時間短縮やコスト面での利点が多いと考え、ストアコンセプトを『Hand In Hand -手に手をとって』とした。同じスタイルで宮城県名取市でも共同出店を試みた。しかし売上は目標を大きく下回り 7億円の赤字が発生したため、わずか2年半で営業終了。名取店ともども短命に終った。撤退にあたっては、本来三越はイオンに対して莫大な違約金を支払う必要があったが、話し合いの結果、当初契約期間の賃貸料と原状回復費用の支払いのみで折り合いをつけることができた。閉店後ノースタワーはフロアごとにフラクサス、ヴィクトリア、[[ノジマ]]が入居した。{{Main2|閉店後の詳細は[[イオンモールむさし村山]]を}}
:
;名取三越
:宮城県名取市杜せきのした5-3-1「ダイヤモンドシティ・エアリ」内
:2007年2月28日開店-2009年3月1日閉店。営業期間わずか2年という最短命店舗となってしまった。{{Main2|閉店後の詳細は[[イオンモール名取]]を}}
;駒沢三越エレガンス 三越迎賓館シルバーハウス
: 東京都[[世田谷区]]深沢6-8-18
: 1972年、創業300年記念事業として建築。近代数寄屋造りの巨匠[[吉田五十八]]設計。江戸時代からの三越関連資料を扱う2層の展示室、ロビーやサロン、食堂といった迎賓関係諸室から構成され日本庭園もあった。また、店舗の一部に[[自動車ディーラー]]「三越ワールドモーターズ・[[ユーノス]]駒沢店」が併設されていた。
: 1999年閉店。駒澤三越エレガンスは2005年解体され、2006年三越迎賓館を活用して[[駒澤大学]]深沢校舎が建設された。
;洗足三越バラエティストア・洗足三越エレガンス
: 東京都目黒区[[洗足]]2-1446-7 : 配送所跡を利用して出店した生活密着型サテライト・ショップ1号店。
: 1F食料品、2F衣料とギフト。 2005年閉店。店舗解体後、マンション「プラウド目黒洗足」が建設された。
;滝山三越エレガンス
: 東京都[[東久留米市]]滝山4-1-32 滝山団地中央
: 1960年代に造成されたマンモス団地内の生活密着型店舗。1F食料品、2F寝具・インテリア売場。
: 2001年閉店。後継「[[マツモトキヨシ]]滝山団地店」も閉店。2012年現在空き店舗。
;習志野台三越エレガンス
: 千葉県船橋市[[習志野台]]3-2-1 UR[[習志野台団地]]内 きたならエール : 新京成・東葉高速[[北習志野駅]]前、793m<sup>2</sup>。
: 1967年12月開店。生活密着型店舗。千葉店より歴史が古い日本橋本店のサテライト。
: 2003年8月31日閉店。後継は「新鮮館魚次」が入居。<ref>[http://www.imhds.co.jp/ir/pdf/news_release/mitsukoshi/2003/03_0715_news_m.pdf 三越 小型店舗5店の閉鎖について(2003)]</ref>
;花見川三越エレガンス
: 千葉市[[花見川区]]花見川3-18-101 UR花見川団地内 : 577m<sup>2</sup>
: 1968年9月開店。生活密着型店舗。千葉店より歴史が古い、日本橋本店のサテライト。
: 2003年8月31日閉店。後継は「TESCO花見川店」を経て現在は「アコレ花見川店」および「オリジン弁当花見川店」。
;大船三越ファニチャーセンター・大船三越エレガンス・鎌倉三越
: 神奈川県鎌倉市[[大船]]6-1-1 松竹ショッピングセンター([[松竹大船撮影所]]跡)
: 1974年11月から1979年10月まで、家具・インテリア中心の「大船三越ファニチャーセンター」として撮影所構内で営業<ref name="kanagawaNP810602">{{Cite news|和書 |title=”大船商戦”激化へ あす「松竹ショッピングセンター」開店 |newspaper=神奈川新聞 |date=1981-06-02 |edition=横須賀・湘南版12面}}</ref>。
: 「大船三越エレガンス」に業態転換し、新築された松竹ショッピングセンターB棟1階に移転・賃貸入居。(A棟は[[イトーヨーカドー]]大船店)。1981年6月2日<ref name="kanagawaNP810602" />開店。2,504m<sup>2</sup><ref name="kanagawaNP810602" />。衣料品や食料品も扱った。「鎌倉三越」改称後は所得の高い高齢者層に絞った品揃えをしてきた。
: 2009年3月1日閉店。9月からは、B棟 1Fに[[ブックオフコーポレーション|BOOK OFF]]スーパーバザー鎌倉大船店、2Fに[[大創産業|ザ・ダイソー]]、[[サイゼリヤ]]などが入居。<ref>湘南経済新聞 2008/10/3</ref>
: なお、その12年後の[[2021年]][[7月15日]]には、[[大船駅]]笠間口にある大型複合施設『GRAND SHIP』内の1階と2階に『FOOD & TIME ISETAN OFUNA』が開店している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ofuna.foodtime-isetan.com/ |title=food & time isetan ofuna – 食から広がる発信型ライフ ... |accessdate=2021-07-15 |publisher=三越伊勢丹ホールディングス }}</ref>。
;三越丸の内売店
:([[新丸の内ビルヂング]])73m<sup>2</sup>。1953年3月開店。2004年1月31日閉店。
;三越お台場
:([[アクアシティお台場|アクアシティ]]) 112m<sup>2</sup>。2000年4月開店。2004年2月閉店。
;三越羽田空港売店
:2005年閉店。
;三越成田空港第一ビル売店
:195m<sup>2</sup>、1978年5月開店、2004年1月閉店。
;三越成田空港第二ビル売店
:18m<sup>2</sup>、2010年3月閉店。
;三越昭島・三越秦野・三越狭山・三越飯能・三越栃木
:2007年1月閉店。
;三越君津
:97m<sup>2</sup>、2010年3月閉店。
;三越銚子
:181m<sup>2</sup>、2010年3月閉店。
;三越四街道
:320m<sup>2</sup>、2010年3月閉店。
;三越羽生
:2014年10月6日にエムアイプラザ羽生としてMD変更。
;三越川口
:2008年11月13日にララガーデン川口内テナントとして開店。2015年1月18日閉店。
;三越川越
:2015年3月1日閉店。ウニクス川越内にエムアイプラザ川越として2015年3月13日移転開業。
;三越厚木
:エムアイプラザ厚木としてアミューあつぎに移転。
;三越長野
: [[長野県]][[長野市]]南千歳町1-12-7 新正和ビル。887m<sup>2</sup>。
: 1991年10月開店。2004年2月一旦閉店。その後同一場所で復活するも2007年1月14日閉店。
;三越小田原ギフトサロン
: [[神奈川県]][[小田原市]]栄町1-1-9 JR小田原駅ビル[[ラスカ]]5F : 159m<sup>2</sup>。2005年6月開店、2010年3月閉店。
;ニューヨークランウェイ・バイ・ミツコシ
: 兵庫県神戸市[[北区 (神戸市)|北区]]上津台7-3 215区 [[神戸三田プレミアム・アウトレット]]内 : 201m<sup>2</sup>。
: 2007年7月6日開店。インポート・カジュアルウェア扱う三越内自主運営[[セレクトショップ]]の最終販売ルートとしてオープン。2010年3月閉店。
;三越函館
:430m<sup>2</sup>。1986年7月開店、2005年2月28日閉店。食料品、婦人服とギフトを扱っていた。外商事務所のみ「五稜郭フコク生命ビル」に移転<ref>函館新聞2005/2/26</ref>。2019年6月9日、十字屋ホテルとしてオープン<ref>[https://digital.hakoshin.jp/business/consumer/49107 三越跡に「十字屋ホテル」9日開業] 函館新聞2019年6月3日閲覧。</ref>。
;三越苫小牧
:320m<sup>2</sup>。2010年2月21日閉店。外商出張所へ転換。
;三越新千歳空港売店
:210m<sup>2</sup>。2011年5月31日閉店。年商は10億円で土産物店としてはトップクラスだったが、ターミナルビル増築後の賃料値上げにより撤退を決意。[[新千歳空港]]には[[丸井今井]]も出店しているため経営統合後の競合を避けることにした。<ref>日本経済新聞2010/7/10 </ref>
;三越盛岡ギフトショップ
:1981年開店。1990年移転。2009年3月閉店。
;三越秋田
:198m<sup>2</sup>。1979年秋田市中通に開店、1987年同市山王に移転<ref name="sakigake20100302">恩田真太郎「30年の歴史にピリオド 秋田市山王 三越秋田店が閉店」『秋田魁新報』2010年3月2日、4面。</ref>。2010年3月1日閉店<ref name="sakigake20100302"/>。婦人服や食器、かばん、ギフト商品などを取り扱った<ref name="sakigake20100302"/>。2003年度売上1億9,300万円が、2008年度売上1億3,200万円まで落ち込み業績低迷していた。<ref name="sakigake20100302"/>。
;三越柏崎
:73m<sup>2</sup>。2010年2月閉店。'''長岡外商出張所''' 2010年3月営業終了。
; 祇園三越エレガンス
: [[京都府]][[京都市]][[東山区]]祇園町北側268 ヤサカ祇園ビル
:1,369m<sup>2</sup>。
: 1977年12月1日開店。1981年閉店。売上高935百万円(1981年)
;三越明石
:305m<sup>2</sup>。1986年10月開店。2004年1月閉店。
;高松三越エレガンス→高松YOU三越
: [[香川県]][[高松市]]田町1-1 [[高松東宝会館]]地下1階 - 2階 : 761m<sup>2</sup>
: 1978年12月「三越エレガンス」開店。1989年に若者にターゲットを絞ったファッション・モール「YOU三越」に業態転換。
: 2004年2月29日閉店。
;三越小豆島ギフトショップ
:299m<sup>2</sup> 1991年2月開店。2005年2月閉店。食料品、婦人服とギフトを扱った
;高松空港三越売店
:1989年の現[[高松空港]]開港とともに開業。2018年の高松空港民営化で退去させられ、2019年3月3日閉店。
;三越伊予三島・三越宇和島・大洲外商出張所
:214m<sup>2</sup>、194m<sup>2</sup>。2010年3月閉鎖。
;三越西条・三越枕崎
:2005年閉店。
=== 海外店 ===
{{Vertical_images_list |幅=200 px|枠幅=200 px
|1=Mitsukoshi Department Store, Keijō.jpg|2=日本統治時代の三越百貨店京城支店
|3=Shinsegae Department Store in Seoul.jpg|4=新世界百貨店本店(2014年)
}}
; 京城店(けいじょうてん)
: [[大韓帝国]] - [[日本統治時代の朝鮮]]
: [[京城府]]本町1-52(現[[ソウル特別市]]中区忠武路52) : [[大韓民国|韓国]]を代表する繁華街[[明洞]](ミョンドン)と[[南大門市場]]の中間に位置した。
: 1906年、本町通り [[カネボウ (1887-2008)|鐘紡]]売店所在地に「京城出張所」として開店。
: 1908年、隣接する[[三井物産]]跡地を買収し、建物を併合。2階建て50坪。
: 1916年、3階建て200坪の建物を増設。店員も50人に増員し、百貨店形式を整えた。
: 1928年、「京城支店」に昇格。
: 1930年、鉄筋コンクリート造 4階建てに改築。設計:三越建築事務所、施工:多田工務店。[[朝鮮半島]]各地の物産を集めて販売。現地在住邦人に人気の店となった。
: この時代、[[京城府|京城]]では三越の他に、[[丁子屋百貨店|丁子屋]]、[[和信百貨店|和信]]、[[三中井百貨店|三中井]]、[[平田百貨店|平田]]の五大百貨店が競い合っていた。
: 1941年、東京、大阪についで3位の売り上げとなった。
: 1945年、終戦により撤退。その後、建物はそのままに韓国資本の「'''東和百貨店'''」(トンファペックァジョム)となる。
: 1963年、[[サムスングループ]]傘下となり(1997年離脱)、一般公募により「'''[[新世界百貨店]]'''」(シンセゲ・ペックァジョム)と改称。2007年本館をリニューアルしたが、外観は三越当時の雰囲気をそのまま残している。
; 豊原店(とよはらてん)
: [[樺太庁]][[豊原市]](現[[ロシア|ロシア連邦]][[サハリン州]][[ユジノサハリンスク]]市)豊原大通り(現レーニナ通り)および真岡通り(現サハリーンスカヤ通り)が交差する角地に立地。地上4階・地下1階があり<ref>{{Cite web|和書|url= http://usakh.com/page/navigation/ |title=НАВИГАТОР(フロアマップ)|publisher=УНИВЕРМАГ САХАЛИН(サハリンデパート)|archiveurl= https://web.archive.org/web/20190115005718/http://usakh.com/page/navigation/|archivedate=2019-01-15|accessdate=2023-08-30}}</ref>、総床面積は4,000 ㎡。建物は新古典主義建築で、二つの目貫通りに面してL字状に建てられている。
: 1945年8月、[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄し[[ソ連対日参戦|対日参戦]]したソ連に[[占領]]され同建物も接収。「'''[[サハリンデパート]]'''<ref>{{Cite web|url=http://usakh.com/|title=УНИВЕРМАГ САХАЛИН – УНИВЕРСАЛЬНЫЙ МАГАЗИН НАШЕГО ГОРОДА!|publisher=УНИВЕРМАГ САХАЛИН(サハリンデパート)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180121205256/http://www.usakh.com/|archivedate=2018-01-21|accessdate=2023-08-30}}</ref>」として現在に至る。
: 1990年代前半頃、[[市場経済|市場型経済]]への急激な移行でロシア経済が混乱していた影響で経営を立て直す必要に迫られ、旧ソ連時代の都市によく見られた[[子供百貨店]]「タヴァールィ・ドリャー・ヂェチェイー(ТОВАРЫ ДЛЯ ДЕТЕИ、「子供用品」のロシア語訳)」として経営されていた期間もあった。
: 2020年1月時点の写真では、交差点角の入り口上の[[ディスプレイデバイス|ディスプレイ装置]]や、建物裏の駐車場などが確認できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200221064244/http://usakh.com/photogallery/#prettyPhoto|title=ФОТОГАЛЕРЕЯ(フォトギャラリー)|publisher=УНИВЕРМАГ САХАЛИН(サハリンデパート)|archiveurl= https://web.archive.org/web/20190115005718/http://usakh.com/page/navigation/ |archivedate=2019-01-15|accessdate=2023-08-30}}</ref>。土地が不足している都心部という事もあり、60台程しか駐車出来ない。[[大衆食堂]]形式の飲食店は地階に配置されている。
:[https://www.google.co.jp/maps/@46.9640314,142.7286398,3a,75y,132.46h,105.62t/data=!3m6!1e1!3m4!1sGT8Vpuw2aSVppTJZZFwz0Q!2e0!7i13312!8i6656 グーグル・ストリートビュー画像]
: サハリンデパートのフロア構成は下記の通り。
{| class="wikitable"
! 階!!フロア概要
|-
!4F
|[[理髪店]]、他複数テナント店、店内[[調光]]管理室、支配人室
|-
!3F
|観光ガイド映像TV、最新アパレル店、レース加工品店、針刺し店、[[宝石店]]、サロン型[[家具店]]、他複数テナント店
|-
!2F
|[[書店]]、[[写真スタジオ]]、[[手芸品店]]、[[衣料品店]]、[[キーロフ]]産専門[[毛皮店]]、[[記念品店]]および[[画廊]]、他複数テナント店
|-
!1F
|[[薬局]]、[[花屋]]、[[時計修理屋]]、[[靴屋]]、[[カメラ店]]、鉢植え園芸店、小サイズ靴店、リボン店、両替店、他複数テナント店
|-
!B1F
|[[食品スーパー]]、[[スタローヴァヤ|スタローヴァヤ(ロシア風大衆食堂)]]、他複数テナント店
|}
;大連店
: 旧[[満州国]][[大連市|大連]]常磐町(中国 [[遼寧省]]大連市中山区中山路108号) : [[大連駅]]前 青泥窪橋商業区。
: 1937年開店。鉄筋コンクリート造5階建て塔屋つき。1,000m<sup>2</sup>。設計:西村大塚聯絡建築事務所、施工:高岡組。
: 1945年、終戦により撤退。その後、ソ連・ロシア系の百貨店として使用されていた。
: 1998年10月29日、建物はそのままに外壁がピンクに塗られて「'''[[秋林集団#支店|大連秋林女店]]'''」(ターリェン・チューリン Churin Lady's Shop)という美容室やレストランを併設した女性のためのファッション専門店ビルになった。
: 2011年リニューアル。
:2016年、もとの薄灰色に塗り変えられて、「[[ZARA]]店」になった。
;香港三越 銅鑼湾店
: [[香港]]現地法人:三越企業有限公司(100 %子会社)
: [[銅鑼湾|銅鑼灣]](コーズウェイベイ)店 : 興利中心(ヘネシーセンター)1981年8月<ref name="yano-news-1988-8-27">“繊維・アパレルを取りまく構造変化と輸入急増 アジアNIESの追い上げと輸出停滞”. ヤノニュース 消費財・サービスの調査レポート 1988年8月5日号 ([[矢野経済研究所]]) (1988年8月5日).pp27</ref>26日開店。2006年9月17日閉店。10,200m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: [[尖沙咀|尖沙嘴]](チムサアチョイ)店 : [[九龍]]地区広東道太陽広場(サニー・プラザ)7,800m<sup>2</sup>。
: 2006年2月決算では77億円の売上を記録。これは日本の小売企業の海外店舗総売上の約40%を占めていた。
: 現地における不動産価格の高騰に伴い、家賃が急上昇、存続が困難になり、移転先も見つからなかったため撤退した。
: 香港では、[[伊勢丹]]と[[松坂屋]]が1996年、[[大丸]]が1998年、[[東急百貨店]]1999年、[[そごう]]が2001年に撤退し、三越は最後の日系百貨店だった。※スーパーのイオン、[[ユニー]](アピタ)は存続している。<ref>[http://nna.jp/free/tokuhou/051229_tyo/hkg/1229e.html NNA.Asia2005年10大ニュース:香港]</ref>
: 現地在住者にも人気が高かったため、再出店の噂(根拠なし)が度々取り沙汰されることがある。
;パリ三越
: [[フランス]]現地法人:Mitsukoshi France, s.a.s.
: 1971年(昭和46年)6月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。2010年9月30日閉店。
: 1,726m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 日本の百貨店として初の欧州進出店舗。オペラ座に近く日本人観光向けバスの発着場して有名だった。
: 1996年には年間売上高57億円を記録したが、2001年の米中枢同時多発テロやユーロ高などで旅行客が減少。リピーターもブランド店に直接足を運ぶようになり、赤字が続いていた。<ref>共同ニュース2010/10/01</ref>
: パリの日系百貨店は大丸が1998年、松坂屋が2005年に閉店。最後に残った[[髙島屋]]も2011年に撤退した。
;;三越エトワール(美術館)
: 1992年6月開館。2011年3月25日閉館。
: [[エトワール凱旋門]]広場の一角「元帥の館」に立地。日本の伝統美術や工芸を中心に質の高い作品群を紹介してきた。
;デュッセルドルフ三越
: [[ドイツ]]現地法人:Mitsukoshi Deutschland GmbH
: 1979年(昭和54年)3月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 1,264m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 日本企業連合による[[デュッセルドルフ]]中央駅前インマーマン通り再開発で誕生。[[JALホテルズ|ホテルニッコー]]・デュッセルドルフ内にあった。隣地の独日センターには、日本国総領事館、日本商工会議所等があり日本人街を形成していた。
: 2009年6月30日閉店。会社は清算された。ユーロ高<ref>[http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5070.html 対ユーロ為替レートの推移]</ref>による日本人渡航者激減などが原因。
: 支店として'''フランクフルト三越'''(1981年開店)、'''ミュンヘン三越''' もあったが、デュッセルドルフに先立って2008年12月31日で閉店。'''ベルリン三越'''は1990年代にごく短い期間の出店だった。
;マドリード三越
: [[スペイン]]現地法人:Mitsukoshi espana s.a.
: 1979年開店。 2009年12月31日閉店。支店として'''バルセロナ三越'''もあった。
;ニューヨーク三越
: 1979年(昭和54年)3月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。2006年に閉店。
:: 426m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
;[[ディズニーワールド]]日本館
: 1982年(昭和57年)10月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 2,059m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
;ハワイ三越
: Mitsukoshi (U.S.A.) Inc.
: 1979年(昭和54年)6月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。2006年に閉店。
:: 175m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 観光のメッカ[[ハワイ州]][[ホノルル]]、ワイキキ・ビーチのメインストリートである[[カラカウア]]アベニューに立地していた。
: ハワイの日系百貨店は[[横浜岡田屋]]がやはり2004年に閉店しているが、[[白木屋 (デパート)|白木屋]]([[アラモアナセンター]]内)は現地法人によって今も営業を続けている。
;ロンドン三越
:[[イギリス|英国]]現地法人:Mitsukoshi (uk) Ltd.
:1979年(昭和54年)3月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 1,742m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
:[[ロンドン]]の中心地 地下鉄ピカデリー・サーカス駅ロウワー・リージェント・ストリート出口のまん前に立地。日本で言えば銀座三丁目に相当する場所で、現地路線バスの起終点になっている。
:当初、オールバニー・アパートへの出店計画を発表したところ、住人団体に反対された。元駐日大使フレッド・ワーナーが、住民に「英国のハロッズに相当する日本の最高級百貨店」であること等を説明し、1年越しで理解を得られたという経緯がある。<ref>[https://web.archive.org/web/20100808152431/http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008123001000130.html 共同通信2008/12/30 ]</ref>
:ギフトショップ・スタイルの小型店で [[バーバリー]]、[[ダンヒル]]、[[アクアスキュータム]]、[[ウェッジウッド]]、[[ピーターラビット]]グッズほか、日本未発売の欧州ブランド商品を多数取り揃えている。日本人観光客向けに免税手続きや、荷物の一時預かりなどを行っている<ref>[http://www.funlondon.net/companyHP/shop/shop_department_mitsukoshi.html F&I Internationalロンドン観光ガイド2013]</ref>。ヨーロッパでは加盟店が殆どない[[ジェーシービー|JCB]]カードも取り扱い、[[JTB]]のデスクもあり、店頭が日本人向けのツアー・バスの集合場所になっている。また、日本人の他に台湾人店員もいる。
:1985年 地階に「レストラン三越」を併設。和食、ラーメンや焼酎が楽しめる。
:尚、三越のシンボルであるライオン像は、ピカデリーのトラファルガー広場にあるランドシィーア作ライオン像を模したもの。
:5年間の黒字継続と経営状態は良好であったが、2013年9月7日をもって、入居するビルの再開発のため閉店、移転後再開の予定だったが、閉店のまま撤退となった。<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2013090800173 34年の歴史に幕=ロンドン三越閉店-再出店検討]([[時事通信社]] 2013/9/8 17:00)</ref>。
;ローマ三越
:[[イタリア]]現地法人:Mitsukoshi Italia s.p.a.
: 1975年(昭和50年)6月開店<ref name="yano-news-1988-8-27" />。
: 2,256m<sup>2</sup><ref name="yano-news-1988-8-27" />。
:[[ローマ]] 地下鉄A線 <!--レプブリカ-->[[レプッブリカ駅 (ローマ地下鉄)|レプッブリカ駅]]([[共和国広場 (ローマ)|共和国広場]])<!--駅-->すぐ。
:1階と地下フロアのみ。[[フェラガモ]]、[[フェンディ]]、[[ブルガリ]]、[[ミッソーニ]]等高級な欧州ブランド商品を中心に取り扱う、エレガンス・スタイルの小型店。クロネコ・ヤマトのカウンターがあった。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]を受けて主な顧客である観光客が激減したため[[2021年]][[7月10日]]をもって閉店<ref name="kyodo20210711">{{Cite news|url=https://nordot.app/786741550272839680|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210711001923/https://nordot.app/786741550272839680|title=ローマ三越、コロナで閉店 観光客減、46年の歴史に幕|newspaper=共同通信|date=2021-07-11|accessdate=2021-07-11|archivedate=2021-07-11}}</ref>。
=== 提携百貨店 ===
;株式会社沖縄三越 ([[沖縄三越]])
:[[沖縄県]][[那覇市]]牧志2-2-30 11,784m<sup>2</sup>:91億円。
:1957年「大越百貨店」として開店。1970年提携により「沖縄三越」に改称。名前は子会社のようだが業務提携のみの店。いわばフランチャイジー。※注)[[沖縄返還]]は1972年。[[2014年]][[9月21日]]閉店。
=== 資本提携店 ===
; 株式会社プランタン銀座 ([[プランタン銀座]])
:東京都中央区銀座3-2-1 読売銀座ビル
:1984年、オ・プランタン(フランス)と[[ダイエー]]の合弁により開店。ダイエーの業績悪化に伴い、全株式を[[読売新聞東京本社]]に売却。内30%を三越が入手(70%は読売が保有)。株式会社三越伊勢丹の持分法適用関連会社となり、[[日本百貨店協会]]に加盟した。2016年末をもってて業務提携・資本提携を終了し現在は同じ読売系の([[マロニエゲート]])に統合されている。
<gallery>
Mitsukoshi Keijo.jpg|「京城三越」
Mitsukoshi Department Store Keijo Branch and Chosen Savings Bank.JPG|「京城三越」と[[朝鮮貯蓄銀行]]
Shinsegae Department Store in Seoul.jpg|現在の新世界百貨店本店(旧・京城三越)
Dairenmitukoshi01.JPG|「大連三越」(現:秋林百貨)
Mitsukoshi Paris.JPG|「パリ三越」
Okinawa mitsukoshi.jpg|「沖縄三越」
</gallery>
== 出店中止 ==
===北千住三越===
[[北千住駅]]西口再開発事業(現・[[千住ミルディス]])の核テナントとして出店表明。千住を創業地とする[[東武鉄道]]子会社の[[東武百貨店]]、[[そごう]]、[[イトーヨーカ堂]]系の[[ロビンソン百貨店]]と地元を巻き込んで激しく争ったが、深刻な亀裂を恐れた[[足立区]]の最終判断により、[[丸井]]に決着した。
===岐阜三越===
[[岐阜市]]の[[岐阜駅|JR岐阜駅前]]。[[1990年]]に[[オリエンタル中村百貨店|名古屋三越百貨店]](当時の正式社名)が出店を表明するものの、[[1992年]]に[[バブル崩壊]]の影響で辞退した。三越グループと業務提携を行っていた[[岐阜近鉄百貨店]]の移転計画も出たが<ref name="chunichin-np-1994-12-06">1994年12月06日 中日新聞 朝刊 1面 01頁 JR駅西地区への移転 岐阜近鉄百貨店が検討 市と交渉 再開発計画に弾み</ref>、[[柳ヶ瀬 (岐阜市)|柳ヶ瀬商店街]]の政治工作で実現せず、[[岐阜シティ・タワー43]]が[[2007年]]に完成した。
===奈良三越===
2001年、[[イトーヨーカドー奈良店#概要|奈良そごう]]跡地に、多摩センターと同様に大塚家具と共同での出店を表明したが、同年中に撤回。2003年7月[[イトーヨーカドー奈良店|イトーヨーカドー]]が出店した。現在の[[ミ・ナーラ]]。
===梅田三越===
旧[[JR西日本本社ビル|大阪鉄道管理局庁舎]]跡地に大阪店を移転する形で出店予定だった。当社の落札が有力視されたものの、[[パルコ]]と共に失敗した。[[ヨドバシカメラ]]が落札し、[[ヨドバシ梅田]]となる。
===難波三越===
戦前に[[南海ビルディング]]への出店を検討していたが、条件面で折り合わず、[[髙島屋]]が南海髙島屋をオープンさせた。その後、同社は近接していた大阪店(長堀店または大阪長堀店とも呼称)を閉店させたため、現在は旧・南海髙島屋が髙島屋大阪店(本店)となっている。
===心斎橋三越===
当初は、[[そごう]]の経営難の時に[[そごう心斎橋本店|そごう大阪店]]を解体し、跡地を三越に売却する予定であった<ref>2000年 6月20日 日本経済新聞 朝刊 p11</ref>。しかし、[[和田繁明]]の方針転換により、白紙となった<ref>2000年 8月1日 日経流通新聞 p1</ref>。2005年にそごう心斎橋本店が開業したが、業績不振で[[2009年]]に閉鎖された。大丸心斎橋店北館となり、[[2021年]]からは大半のフロアが[[パルコ|心斎橋パルコ]]として営業している。
===三宮三越===
戦前に[[三宮駅|阪神三宮駅]]の三宮阪神ビルへの進出を検討していたが、結局[[そごう]]が2号店として[[神戸阪急#そごう神戸店|そごう神戸店]]を開店させた。その後、[[2017年]]に[[エイチ・ツー・オー・リテイリング]]([[阪急阪神東宝グループ]])に譲渡され、[[2019年]][[9月30日]]に同店は閉店。[[10月5日]]より[[阪急百貨店]]の[[神戸阪急]]として営業している。また、戦後の[[1967年]](昭和42年)にも神戸支店の事業を立て直すため、三宮エリアの別の場所への移転を計画した。しかし、こちらも地元商店街が中央政界までも巻き込んで反対したため、実現に至らなかった<ref name="asahi-np-1983-08-24-3">{{Cite news |title =三越、神戸支店を閉鎖 来年二月末 赤字、好転望めず 戦後初の店舗閉鎖_デパート |newspaper = [[朝日新聞]] 東京版 |location = 朝日新聞社 |page = 3 |date = 1983-08-24-3}}</ref>。
===西宮三越===
[[兵庫県]][[西宮市]]は大阪市と神戸市に挟まれた立地であり、両市はもとより、隣の[[尼崎市]]に[[西武の店舗一覧|西武]]百貨店[[つかしん]]店、[[芦屋市]]に大丸芦屋店、[[宝塚市]]に宝塚阪急が出店したにもかかわらず、21世紀になるまで百貨店が一切なかった。県内第3位の人口を有するため、バブル期には後に進出する[[阪神百貨店]]や[[阪急百貨店]]のほか、[[髙島屋]]による[[西宮マリナパークシティ|西宮マリナシティ]]への進出計画もあった。
当社も[[1992年]](平成4年)6月に兵庫県再進出を狙い、[[西宮市]]の[[苦楽園]]地区(樋ノ口町)で酒造メーカー「[[白鷹 (企業)|白鷹]]」の社長、辰馬博男が所有する26000平方メートルの土地に計画されている商業施設への出店を申し出たことが報道された。住居専用地域のため、2,3階建ての延床面積は3万数千平方メートルの店舗となる予定だった。土地管理会社「北辰馬」は、西宮市民が百貨店を望んでいるため、高級イメージのある三越がテナントの第一候補であると考えていた<ref name="asahi-np-1992-06-17">{{Cite news |title =百貨店が進出競争 西宮・芦屋で三越と大丸が計画 【大阪】 |newspaper = [[朝日新聞]] |location = 朝日新聞社 |page = 1(夕刊) |date = 1992-09-17}}</ref>。しかし、バブル崩壊などの環境の変化で当社や髙島屋の出店は実現しなかった。同市には2000年代に進出した[[阪神百貨店]]、[[阪急百貨店]]([[西宮阪急]])が立地しており、いずれもエイチ・ツー・オーリテイリング傘下の阪急阪神百貨店が運営している。
== 系列店政策 ==
=== 三越ジョイントバイインググループ ===
本来、[[日本の百貨店]]は[[チェーンストア]]とー異なり、本部集中仕入はせず、各店舗が独立して運営する形態のものだった。
1970年代、[[総合スーパー]]の台頭に対抗し、三越も中央仕入機構「'''三越ジョイントバイインググループ'''」<ref>百貨店戦国時代: 塗り替えられる業界地図、教育社新書 産業界シリーズ</ref>を主催、一般向けには単純に「'''三越グループ'''」もしくは「'''三越提携店'''」と呼ばれていた。
業務提携内容は以下の3本を柱としていた。
* 三越ライセンス・ブランド品の供給
* 中元・歳暮期ギフトの共同企画・共同配送
* グループ内共通商品券・ワイシャツ券等の発行
三越の系列店政策は、同じ市場で競合しないための紳氏協定的(他百貨店グループと重複加盟をしない排他的)な要素が強く、三越は札幌、仙台、高松、松山には古くから直営店を出店していたため、これらの都市を本拠とする地方百貨店の参加はなかった。
戦略的拠点と位置づけられた一部の地域では、資本を注入し直営化を図った例もあるが、基本的には加盟店の自立を支援し、従来からの「のれん」を残したケースの方が多い。このスタンスは、ネットワーク拡大を優先し[[M&A]]を仕掛けた[[ダイエー]]や[[セゾングループ]]とは大きく異なるものだった。
しかし、1990年代には[[日本百貨店協会]]の「全国百貨店共通商品券」が登場し、協会加盟百貨店であればどこでも商品券が使えるようになり、グループに加盟する意義の一角が崩れていくことになる。
また、三越自身が1995年に[[大丸]]と上記にあげた3本の業務提携を行ったり、2000年には[[髙島屋]]と物流・情報システムや用度品の共同購入を行ったり(現在はどちらも提携解消)<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/news/070322_saihen/index2.html 日経BP]</ref>したことによりグループの再編は加速した。
2008年の三越・伊勢丹の経営統合により、伊勢丹が中心になって主催してきた[[全日本デパートメントストアーズ開発機構|A・D・O]]に加盟する企業もあったが、「三越提携(の地方)百貨店」という概念は「沖縄三越」以外に存在しなくなり、呼称も使用されなくなった。
1970年 - 1980年代の三越グループ加盟店は、以下の各店。
;直営化店
:* '''[[奈良屋 (百貨店)|ニューナラヤ]]'''(三越千葉店、2017年閉店)
:* '''[[オリエンタル中村百貨店]]'''(現:名古屋三越)
:* '''[[小林百貨店]]'''([[新潟三越伊勢丹#新潟三越|新潟三越]]、2020年閉店。◇一時期:名古屋三越新潟店)
:* '''丸屋'''(後の[[三越鹿児島店|鹿児島三越]]、現:[[マルヤガーデンズ]])
:
;資本参加店
:* '''[[岡島百貨店|岡島]]'''(甲府):1960年代頃から業務提携。2002年業績不振からの再建のため役員の派遣など、救済的に提携を強化した。A・D・Oには非加盟。
:* '''[[一畑百貨店]]'''(松江市):1958年、[[一畑電気鉄道]]と三越が出資して設立。A・D・Oには非加盟。
:
;A・D・O移籍店
:* '''[[さいか屋]]'''(川崎・横須賀・藤沢):1974年、藤沢再開発ビル出店に際して合弁会社「藤沢さいか屋」を設立するも、その後三越の出資は減少。藤沢は本体に吸収合併。筆頭株主は[[京浜急行電鉄]]([[京急百貨店]]もA・D・O加盟店)。
:* '''[[井筒屋]]'''(小倉・若松・博多・久留米・大牟田・飯塚他)/'''[[ちまきや]]'''(現:[[山口井筒屋]]):2003年、伊勢丹の小倉進出に際し合弁会社「[[コレット (百貨店)|小倉伊勢丹]]」を設立し、伊勢丹系列に変更。現在は伊勢丹資本も入ってはいない。筆頭株主は[[西日本鉄道|西鉄]]。
(他に[[大沼 (百貨店)|大沼]]がADOのまま三越と提携していた時代があった)
:
;グループ離脱店
:* '''[[棒二森屋]]'''(函館):1981年、ダイエーと提携してグループ離脱。ダイエー系列の[[中合]]運営を経て、2019年1月末に閉店した。
:* '''[[近鉄百貨店]]''':[[あべのハルカス近鉄本店|阿倍野]]・[[近鉄百貨店#上本町店|上本町]]・[[近鉄百貨店奈良店|奈良]]・[[近鉄百貨店#橿原店|橿原]]・[[近鉄百貨店#東京店|東京/吉祥寺]](2001-2005年は三越吉祥寺店)・[[京都ファミリー|西京都]]
:**'''中部近鉄百貨店''':[[近鉄百貨店四日市店|四日市]]・[[近鉄百貨店名古屋店|名古屋]]
:**'''京都近鉄百貨店''':旧・'''[[丸物]]'''。[[近鉄百貨店京都店|京都]]・[[京都近鉄百貨店岐阜店|岐阜]]◇2007年までに全店閉店{{efn|丸物時代には1950年代から池袋で競合したが、1969年に東京丸物が[[パルコ]]に業態転換し、三越も2008年に撤退した。また、先述のように岐阜へは三越自身の出店計画もあった。}}
:**'''[[枚方T-SITE#近鉄百貨店枚方店|枚方近鉄百貨店]]''':旧・ひらかた丸物◇2012年閉店{{efn|枚方のみバッティングした唯一の例外。これは既に三越のあった枚方に、後から近鉄グループの一員として丸物が出店したため。最終的には三越が店舗縮小した後、先に撤退している。}}
:**'''和歌山近鉄百貨店''':2009年より'''[[近鉄百貨店和歌山店]]'''
:**'''[[近鉄松下百貨店]]''':周南◇2013年閉店
:**'''[[別府近鉄百貨店]]''':旧・中村百貨店◇1994年閉店
:**'''[[三交百貨店]]''':松阪・伊勢◇2006年までに閉店
:*:旧三越大阪店(北浜)が集客に不利なビジネス街に立地していたため、大阪ミナミのターミナルに立地し、京都・奈良・和歌山・三重といった近畿一円にネットワークを持つ近鉄流通グループは最も有力な提携先だった。1995年、三越が大丸と提携した際に提携関係が解消された。翌年の1996年、伊勢丹が[[阪急百貨店]]と提携(2007年解消)したため、A・D・O移籍という選択肢も無かった。その後、阪急百貨店などを運営する[[エイチ・ツー・オー リテイリング]]とのシステム共同開発、地方百貨店に呼びかけた通販サイト共同運営などスポット提携を行っている{{efn|[[近鉄百貨店草津店|草津]]・[[アントレいこま|生駒]]・桃山店(2013年閉店)は1997年開業で、三越提携店だった時代はない。}}。
:
;倒産により消滅
:* '''[[前三百貨店]]'''(前橋):1985年に閉店。後継として'''[[スズラン百貨店]]'''が加盟(A・D・Oにも重複加盟)。
:* '''[[大洋デパート火災#大洋デパート|大洋デパート]]'''(熊本・八代):1973年倒産。
:*:1980年代以降、[[上野百貨店]](宇都宮)、[[矢尾百貨店]](秩父◇旧:[[日本百貨店経営協議会|JMA]])、[[梅屋 (神奈川県)|梅屋]](平塚◇旧:JMA)、[[松菱]](浜松◇旧:A・D・O加盟店)、[[津松菱]](旧:A・D・O加盟店)など、従来他系列と考えられた店も一時的に加入した。
=== 救済支援店 ===
:業績悪化により破綻した企業の再生パートナーとして、従来系列外だった以下の各店とも資本提携や経営者の派遣などを行っている。
:*'''[[うすい百貨店]]'''(郡山◇無系列):2003年資本提携。2005年[[産業再生機構]]から株式の譲渡を受け、持分法適用会社となった。A・D・Oには非加盟。資本提携してから日本百貨店協会に加盟。
:* '''[[まるみつ百貨店]]'''(旧:諏訪[[長野そごう|丸光]]◇旧:A・D・O加盟店):2004年三越が支援するも、2011年閉店。
=== イオン系百貨店とのコラボレーション ===
:ジャスコ(現:[[イオン (企業)|イオン]])傘下となった百貨店と中元・歳暮期のギフト商品を「共同企画」と銘打って販売促進も行っているが、「三越グループ店」としてはカウントしていない。近年、イオンは百貨店事業からは撤退する意向でもある。
:* [[ボンベルタ百貨店]](成田) :1990年に設立。百貨店協会非加盟店。
:* ボンベルタ[[伊勢甚]](水戸・日立):ボンベルタの母体となった企業だが、2005年までに全店閉店し百貨店業を廃業した。
:* ボンベルタ[[橘百貨店|橘]](宮崎):百貨店協会離脱店。2007年にイオングループを離脱し、2021年に[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]傘下となりドン・キホーテを核店舗とする商業施設に業態転換した。
:* [[中三]](青森など):2009年にイオングループを離脱した。2011年に倒産後、百貨店協会を退会して経営再建中。
== POSシステム ==
*[[販売時点情報管理|POS]]システムは現在、大半は[[日本NCR]]製に切り替わっているが、一部で[[富士通]]製を併用。
*2010年3月31日に通常よりも早く閉店したのは、POSシステムを富士通製からNCR製に入れ替える作業を全国一斉に行ったためである。
2018年4月現在、全国の三越がNCR製から富士通製に戻している。
三越伊勢丹システム・ソリューションズが4U Applicationsとオープンリソースとともに開発し、内製化した、新POSシステムの導入が検討されている。(2022年5月現在、イセタンミラーやラシックに先行して導入されている。)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
* {{cite book|和書|title=[[江戸名所図会]]|id={{NDLJP|1174130/37}}|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=一|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之二 天枢之部 駿河町 三雄呉服店|pages=56-61}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{Commonscat|Mitsukoshi}}
{{Commonscat|Mitsukoshi Nihonbashi main store|日本橋三越本店}}
{{Commonscat|Ginza Mitsukoshi|銀座三越}}
*[[スタジオアルタ]]
*[[三越前駅]]
*[[三越事件]]
*[[三越劇場]]
*[[三越映画劇場]]
**[[東映]]
*[[三越ゆめカード]]
*[[日比翁助]]
*[[萬龍]]
*[[大阪2011年問題]]
*[[ヤマト運輸]] - 宅急便事業を開始する1970年代まで専属運送提携をしていた。
*[[山おんな壁おんな]] - ドラマ版で主人公達が勤めているデパートは『丸越』であり、三越銀座店において撮影している。
*[[ロイヤルホールディングス]] - 外食事業子会社「セントレスタ」に資本参加。なおロイヤルHDは伊勢丹グループの「アールアンドアイダイニング」にも出資していたがセントレスタに吸収統合されている。
*[[4M1T]]
*[[三田会]]
== 外部リンク ==
*{{Official website}}
*[https://www.asahi.com/articles/ASN3Q7SQWN3PUOHB008.html 113年営業の三越、最後の日に密着 売り場に人だかり (朝日新聞デジタル記事2020年3月23日)] ※ 小林呉服店時代から113年目の新潟三越の閉店を伝える記事。
{{Normdaten}}
{{三越伊勢丹}}
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{{三井グループ}}
{{スタジオアルタ}}
{{東映}}
{{デフォルトソート:みつこし}}
[[Category:三越|*]]
[[Category:三越伊勢丹ホールディングス|*]]
[[Category:三井グループ]]
[[Category:東京都中央区の企業]]
[[Category:皇室御用達の業者]]
[[Category:17世紀の日本の設立]]
[[Category:1673年設立]]
[[Category:日本橋 (東京都中央区)]]
[[Category:2003年の合併と買収]]
[[Category:2008年の合併と買収]] | 2003-03-04T15:02:05Z | 2023-12-27T11:46:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A |
3,394 | ケン・トンプソン | ケネス・レイン・トンプソン(Kenneth Lane Thompson、1943年2月4日 - )はコンピュータサイエンティストのパイオニアでアメリカ人。ハッカー仲間からはケン・トンプソン (Ken Thompson) と呼ばれている。長年ベル研究所に勤め、オリジナルのUnixを開発した。またC言語の前身であるB言語を開発し、Plan 9の初期の開発者の1人だった。2006年からGoogleで勤務しており、Goを共同開発した。
他の主な業績として、正規表現、テキストエディタQEDとed、UTF-8コードの定義に加え、チェスの終盤定跡データベースやチェスマシンBelleの開発などコンピュータチェスへの貢献がある。1983年に彼の長年の同僚であるデニス・リッチーと共にチューリング賞を受賞した。
アメリカ合衆国のルイジアナ州ニューオーリンズで生まれる。15人の有名プログラマのインタビューをまとめた Coders at Work で、インタビュアーの Peter Seibel から「どうやってプログラムを学んだのですか?」と質問され、「私はいつも論理に魅了されていて、小学生のころ既に二進法などの算数問題を解いていた。それは単に私が魅了されていたからだ」と答えた。
カリフォルニア大学バークレー校で電子工学および計算機科学の学士号 (1965) と修士号 (1966) を取得。修士課程の指導教官はエルウィン・バーレカンプ。
大学卒業後の1966年にAT&Tのベル研究所へ就職。1960年代当時、べル研ではトンプソンとデニス・リッチーがMulticsシステムの計画に参加していた。トンプソンはMulticsの開発中にプログラミング言語のBonを開発した。またスペース・トラベルというビデオゲームも開発した。その後ベル研はMulticsから撤退。ゲームを遊び続けるため、トンプソンは古いPDP-7を発掘してスペース・トラベルを作り直した。このときトンプソンが開発したツールがUnixになった。PDP-7を使い、トンプソンとリッチーが主導するベル研のチームは、ラッド・カナディと共に、階層型ファイルシステム、プロセス、デバイスファイルの概念を発明し、コマンドライン、プロセス間通信を容易にするパイプ、複数の小さなユーティリティプログラムを開発した。 1970年にブライアン・カーニハンの提案で、MulticsからのダジャレであるUnixという名前になった。初期のUnixが完成すると、トンプソンはシステム開発向けの言語が必要だと考えるようになり、B言語を開発し、それを元にしてリッチーがC言語を開発した。
1960年代に正規表現を開発。CTSS上で動作するテキストエディタのQEDを開発し、文字列の検索に正規表現を使うことができた。QEDと、後に開発したUnixの標準エディタedは正規表現の普及に大きく貢献した。以降に開発されたほぼ全ての正規表現プログラムはトンプソンの表記法がベースとなっている。以前は理論言語学者など限られた間での専門的な記法であった正規表現(日本ではそういった専門分野では正則表現と訳すことがある)は、コンピュータのユーザに身近な頻用されるものとなった。またマッチングを高速化するため、正規表現を非決定性有限オートマトンに変換する「トンプソンの構築アルゴリズム」を発明した。
トンプソンとリッチーは1970年代の間ずっとUnixを共同で開発していた。2人はResearch Unixの研究チームで精力的に活動しており、ダグラス・マキルロイは「ほとんど全てのコードにリッチーとトンプソンの名前が残されていると考えて間違いない」と後に書いている。トンプソンは2011年のインタビューで、Unixの初期バージョンは自分が開発したものであり、後にリッチーが応援を始め、開発を手伝ったと話している。
最初のバージョン3くらいまではUNIXを1人で作りました。デニスがエバンジェリストになりました。それからC言語の元になった高級言語で書き直しました。彼は主に言語とI/Oシステムを担当し、私はOSのそれ以外の部分を全部担当しました。PDP-11用でしたが、これは偶然にも大学で広く普及したコンピュータでした。
トンプソンはUnixの開発にC言語を使うことで言語の熟成に貢献した。C言語はOSを書き直す最中で育ち、OSを書くのに最適な言語になったと後にトンプソンは語った。
1975年にトンプソンはベル研を休職し、母校のカリフォルニア大学バークレー校に登校し、Unixバージョン6をPDP-11/70にインストールする作業を手伝った。バークレー校のUnixは後にバークレーソフトウェアディストリビューション(BSD)として知られる独自のOSとしてメンテナンスされるようになった。
1976年の初めにトンプソンはカリフォルニア大学バークレー校電気工学部コンピューターサイエンス学科でバークレー・パスカルの初期バージョンを開発した(同年後半にビル・ジョイ、チャールズ・ヘイリー、ファカルティアドバイザーのスーザン・グラハムが大幅な改良を加えた)。
1971年にUnixでchessという名前のチェスのプログラムを開発。後にジョセフ・コンドンと共に専用のハードウェアアクセラレーターを搭載したBelleを開発し、コンピュータチェスの世界チャンピオンとなった。また4、5、6駒の終盤の局面全てで、完全な定跡パターンを列挙するプログラムを作成した。これによりプログラムは、一度終盤の定跡に到達すれば、以降は完璧なゲームを進めることができた。終盤の定跡に詳しいチェスの専門家であるジョン・ロイクロフトが後に協力し、終盤定跡データベースをCD-ROM化して配布した。2001年にICGA Journalはケン・トンプソンのコンピューターチェスへの様々な貢献を表彰した。
1983年にトンプソンとリッチーは、「汎用的なオペレーティングシステム理論の開発、特にUNIXオペレーティングシステムの実装に対して」チューリング賞を共同受賞した。授賞式でのスピーチで話した「Reflections on Trusting Trust(信用を信頼することについての考察)」は、現在はトンプソンハックやTrusting Trust攻撃として知られており、これ自体がセキュリティに関する重要な研究成果と認められている。
トンプソンとリッチーは1980年代を通じてResearch Unixのアップデートを続け、バージョン8、バージョン9、バージョン10でBSDコードベースを採用した。1980年代中頃に、Unixの設計思想を受け継ぎながらも全面的に作り変えられた後継OSであるPlan 9の開発がベル研で始まった。mkやrcなど、後のResearch Unixに組み込まれた一部のプログラムも、Plan 9で開発された。
トンプソンはビャーネ・ストロヴストルップが開発したC++の初期バージョンを試験的に使ったが、バージョンアップの度に互換性が失われたため使用を断念した。2009年のインタビューでトンプソンはC ++を批判し、「色々なことが中途半端で、それは多くのことを半分うまくやっており、排他的なアイデアのゴミの山だ」と話した。
1992年にロブ・パイクと共同で文字コードのUTF-8を開発。UTF-8はインターネットで広く普及し、2019年には全Webページの90%以上を占めている。
1990年代にポータブルなバーチャルマシンをベースにした研究用オペレーティングシステムであるInfernoの開発を開始。トンプソンとリッチーはベル研の他の研究者と共同でInfernoのコラボレーションを続けた。
2000年後半にベル研を退職。彼は2006年までEntrisphere, Inc.でフェローとして働き、その後Googleで名誉エンジニアとして所属。最近の業績にはプログラミング言語Goの共同設計などがある。自分を含むGoの開発者たちについて次のように述べている。
私たち3人(トンプソン、ロブ・パイク、ロバート・グリシーマー)は純粋な研究として開発を始めました。3人が集まり、C++が嫌いだということで意気投合しました(笑)。(...Goに話を戻すと)、3人とも言語の全ての機能について説明が求められるという考えでスタートしましたので、いかなる理由があっても言語にゴミを入れませんでした。
2009年のインタビューによると、トンプソンは現在Linuxベースのオペレーティングシステムを使用している。
ケン・トンプソンは既婚者で息子が1人いる。 | [
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"text": "他の主な業績として、正規表現、テキストエディタQEDとed、UTF-8コードの定義に加え、チェスの終盤定跡データベースやチェスマシンBelleの開発などコンピュータチェスへの貢献がある。1983年に彼の長年の同僚であるデニス・リッチーと共にチューリング賞を受賞した。",
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] | ケネス・レイン・トンプソンはコンピュータサイエンティストのパイオニアでアメリカ人。ハッカー仲間からはケン・トンプソン と呼ばれている。長年ベル研究所に勤め、オリジナルのUnixを開発した。またC言語の前身であるB言語を開発し、Plan 9の初期の開発者の1人だった。2006年からGoogleで勤務しており、Goを共同開発した。 他の主な業績として、正規表現、テキストエディタQEDとed、UTF-8コードの定義に加え、チェスの終盤定跡データベースやチェスマシンBelleの開発などコンピュータチェスへの貢献がある。1983年に彼の長年の同僚であるデニス・リッチーと共にチューリング賞を受賞した。 | {{Infobox Scientist
| name = Ken Lane Thompson<br>ケネス・レイン・トンプソン
| image = Ken-Thompson-2019.png
| image_size = 200px
| caption = ケネス・トンプソン(2019)
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| death_date =
| death_place =
| nationality = {{USA}}
| field = [[計算機科学]]
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}}
'''ケネス・レイン・トンプソン'''(Kenneth Lane Thompson、[[1943年]][[2月4日]] - )は[[計算機科学|コンピュータサイエンティスト]]のパイオニアでアメリカ人。ハッカー仲間からは'''ケン・トンプソン''' (Ken Thompson) と呼ばれている<ref>{{Cite web |title=ken |url= http://www.catb.org/jargon/html/K/ken.html |publisher=The [[ジャーゴンファイル|Jargon File]] (version 4.4.7) |accessdate=2012-08-19}}</ref>。長年[[ベル研究所]]に勤め、オリジナルの[[UNIX|Unix]]を開発した。また[[C言語]]の前身である[[B言語]]を開発し、[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]の初期の開発者の1人だった。2006年から[[Google]]で勤務しており、[[Go (プログラミング言語)|Go]]を共同開発した。
他の主な業績として、[[正規表現]]、テキストエディタ[[QED (テキストエディタ)|QED]]と[[Ed (テキストエディタ)|ed]]、[[UTF-8]]コードの定義に加え、チェスの終盤定跡データベースやチェスマシンBelleの開発など[[コンピュータチェス]]への貢献がある。1983年に彼の長年の同僚である[[デニス・リッチー]]と共に[[チューリング賞]]を受賞した。
== 青少年時代 ==
[[アメリカ合衆国]]の[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]で生まれる。15人の有名プログラマのインタビューをまとめた ''Coders at Work'' で、インタビュアーの Peter Seibel から「どうやってプログラムを学んだのですか?」と質問され、「私はいつも論理に魅了されていて、小学生のころ既に二進法などの算数問題を解いていた。それは単に私が魅了されていたからだ」と答えた{{Sfn|Seibel|2009|p=450}}。
[[ファイル:Pdp7-oslo-2005.jpeg|サムネイル| [[Unix]]が最初に動作したDEC [[PDP-7]]。]]
[[カリフォルニア大学バークレー校]]で[[電子工学]]および[[計算機科学]]の学士号 (1965) と修士号 (1966) を取得。修士課程の指導教官は[[エルウィン・バーレカンプ]]<ref>{{Cite web|url=http://math.berkeley.edu/~berlek/students.html|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/http://math.berkeley.edu/~berlek/students.html|archivedate=2021-10-21|accessdate=2021-12-31|title=Thesis Students|website=Elwyn Berlekamp's Home Page|publisher=University of California, Berkeley Department of Mathematics}}</ref>。
== 職歴と研究 ==
大学卒業後の1966年にAT&Tの[[ベル研究所]]へ就職<ref>{{Cite web|url=http://www.linfo.org/thompson.html|title=Ken Thompson: developed UNIX at Bell Labs|accessdate=2016-10-31}}</ref>。1960年代当時、べル研ではトンプソンと[[デニス・リッチー]]が[[Multics]]システムの計画に参加していた。トンプソンはMulticsの開発中にプログラミング言語のBonを開発した<ref>{{Cite web|author=Thompson|first=K. L.|title=Bon User's Manual|url=http://people.csail.mit.edu/saltzer/Multics/MHP-Saltzer-060508/filedrawers/180.btl-misc/Scan%204.PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210214210534/https://people.csail.mit.edu/saltzer/Multics/MHP-Saltzer-060508/filedrawers/180.btl-misc/Scan%204.PDF|archivedate=2021-10-21|website=Multics History Project|publisher=MIT Computer Science & Artificial Intelligence Lab|accessdate=18 March 2021|page=1|date=1969}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html|title=The Development of the C Language|publisher=[[Bell Labs]]|accessdate=2016-10-31|first=Dennis|author=Ritchie}}</ref>。また[[スペース・トラベル (ビデオゲーム)|スペース・トラベル]]というビデオゲームも開発した。その後ベル研はMulticsから撤退<ref>{{Cite book|last=J. Stanley Warford|title=Computer Systems|publisher=Jones & Bartlett Publishers|year=2009|page=460|url=https://books.google.com/books?id=PERY_m5yyl4C&pg=PA460|isbn=978-1-4496-6043-7}}</ref>。ゲームを遊び続けるため、トンプソンは古い[[PDP-7]]を発掘してスペース・トラベルを作り直した<ref name="BL">{{Cite web|url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/spacetravel.html|title=Space Travel: Exploring the solar system and the PDP-7|first=Dennis M.|author=Ritchie|authorlink=Dennis Ritchie|publisher=[[Bell Labs]]|date=2001|accessdate=2016-02-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151226030544/https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/spacetravel.html|archivedate=2015-12-26}}</ref>。このときトンプソンが開発したツールが[[UNIX|Unix]]になった。[[PDP-7]]を使い、トンプソンとリッチーが主導するベル研のチームは、ラッド・カナディと共に、[[ファイルシステム|階層型ファイルシステム]]、[[プロセス]]、[[デバイスファイル]]の概念を発明し、[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドライン]]、プロセス間通信を容易にする[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]、複数の小さなユーティリティプログラムを開発した。 1970年に[[ブライアン・カーニハン]]の提案で、MulticsからのダジャレであるUnixという名前になった<ref name="Evolution">{{Cite web|first=Dennis M.|author=Ritchie|title=The Evolution of the Unix Time-sharing System|url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/hist.html|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/hist.html|archivedate=2021-10-21|accessdate=2016-10-31}}</ref>。初期のUnixが完成すると、トンプソンはシステム開発向けの言語が必要だと考えるようになり、[[B言語]]を開発し、それを元にしてリッチーが[[C言語]]を開発した<ref>{{Cite web|title=The Development of the C Language|author=Dennis M. Ritchie|publisher=Bell Labs/Lucent Technologies|url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/chist.html|accessdate=2016-10-31}}</ref>。
1960年代に[[正規表現]]を開発。[[CTSS]]上で動作するテキストエディタの[[QED]]を開発し、文字列の検索に正規表現を使うことができた。QEDと、後に開発したUnixの標準エディタedは正規表現の普及に大きく貢献した。以降に開発されたほぼ全ての正規表現プログラムはトンプソンの表記法がベースとなっている。以前は[[理論言語学]]者など限られた間での専門的な記法であった正規表現(日本ではそういった専門分野では正則表現と訳すことがある)は、コンピュータのユーザに身近な頻用されるものとなった。またマッチングを高速化するため、正規表現を[[非決定性有限オートマトン]]に変換する「トンプソンの構築アルゴリズム」を発明した<ref>{{Cite web|url=http://swtch.com/~rsc/regexp/regexp1.html|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/http://swtch.com/~rsc/regexp/regexp1.html|archivedate=2021-10-21|title=Regular Expression Matching Can Be Simple And Fast|first=Russ|author=Cox|accessdate=2016-10-30}}</ref>。
=== 1970年代 ===
[[ファイル:Ken_Thompson_(sitting)_and_Dennis_Ritchie_at_PDP-11_(2876612463).jpg|サムネイル|[[PDP-11]]で作業するトンプソン(座席)とリッチー。]]
[[ファイル:Version_6_Unix_SIMH_PDP11_Emulation_KEN.png|サムネイル| SIMH [[PDP-11]]シミュレータで動作しているUnixバージョン6。"/usr/ken"がまだ存在している。]]
トンプソンとリッチーは1970年代の間ずっとUnixを共同で開発していた。2人は[[Research Unix]]の研究チームで精力的に活動しており、ダグラス・マキルロイは「ほとんど全てのコードにリッチーとトンプソンの名前が残されていると考えて間違いない」と後に書いている。トンプソンは2011年のインタビューで、Unixの初期バージョンは自分が開発したものであり、後にリッチーが応援を始め、開発を手伝ったと話している<ref name="dr_dobbs_2011">{{Cite web|url=http://www.drdobbs.com/open-source/interview-with-ken-thompson/229502480|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/http://www.drdobbs.com/open-source/interview-with-ken-thompson/229502480|archivedate=2021-10-21|title=Dr. Dobb's: Interview with Ken Thompson|date=2011-05-18|accessdate=2014-11-10}}</ref>。
<blockquote>
最初のバージョン3くらいまではUNIXを1人で作りました。デニスがエバンジェリストになりました。それからC言語の元になった高級言語で書き直しました。彼は主に言語とI/Oシステムを担当し、私はOSのそれ以外の部分を全部担当しました。PDP-11用でしたが、これは偶然にも大学で広く普及したコンピュータでした。
</blockquote>
トンプソンはUnixの開発にC言語を使うことで言語の熟成に貢献した。C言語はOSを書き直す最中で育ち、OSを書くのに最適な言語になったと後にトンプソンは語った<ref name="dr_dobbs_2011"/>。
1975年にトンプソンはベル研を[[サバティカル|休職]]し、母校の[[カリフォルニア大学]][[バークレー校]]に登校し、[[Version 6 Unix|Unixバージョン6]]を[[PDP-11|PDP-11/70]]にインストールする作業を手伝った。バークレー校のUnixは後に[[Berkeley Software Distribution|バークレーソフトウェアディストリビューション]](BSD)として知られる独自のOSとしてメンテナンスされるようになった<ref name="penguin7">{{Cite book|first=Peter H.|last=Salus|author-link=Peter H. Salus|title=The Daemon, the Gnu and the Penguin|chapter=Chapter 7. BSD and the CSRG|chapter-url=http://www.groklaw.net/article.php?story=20050505095249230|publisher=[[Groklaw]]|year=2005}}</ref>。
1976年の初めにトンプソンはカリフォルニア大学バークレー校電気工学部コンピューターサイエンス学科でバークレー・[[Pascal|パスカル]]の初期バージョンを開発した(同年後半に[[ビル・ジョイ]]、チャールズ・ヘイリー、ファカルティアドバイザーのスーザン・グラハムが大幅な改良を加えた)。
1971年にUnixでchessという名前のチェスのプログラムを開発<ref name="ritchie01">{{Cite journal|last=Dennis Ritchie|author-link=Dennis Ritchie|date=June 2001|title=Ken, Unix and Games|url=https://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/ken-games.html|journal=[[ICGA Journal]]|volume=24|issue=2|accessdate=March 5, 2020}}</ref>。後にジョセフ・コンドンと共に専用のハードウェアアクセラレーターを搭載したBelleを開発し、[[コンピュータチェス]]の世界チャンピオンとなった<ref name="obituary">{{Cite journal|year=2013|title=Joe Condon (obituary)|journal=Physics Today|DOI=10.1063/PT.4.1752}}</ref>。また4、5、6駒の終盤の局面全てで、完全な定跡パターンを列挙するプログラムを作成した。これによりプログラムは、一度終盤の定跡に到達すれば、以降は完璧なゲームを進めることができた。終盤の定跡に詳しいチェスの専門家であるジョン・ロイクロフトが後に協力し、終盤定跡データベースを[[CD-ROM]]化して配布した。2001年に''[[ICGAジャーナル|ICGA Journal]]''はケン・トンプソンのコンピューターチェスへの様々な貢献を表彰した<ref name="ritchie01" />。
=== 1980年代 ===
[[ファイル:Plan_9_from_Bell_Labs_(with_acme).png|右|サムネイル|[[Plan 9 from Bell Labs|ベル研のPlan 9]]。テキストエディタの[[Acme (テキストエディタ)|acme]]とシェルの[[Rc (シェル)|rc]]が動作している。]]
1983年にトンプソンとリッチーは、「汎用的なオペレーティングシステム理論の開発、特にUNIXオペレーティングシステムの実装に対して」[[チューリング賞]]を共同受賞した。授賞式でのスピーチで話した「Reflections on Trusting Trust(信用を信頼することについての考察)」は、現在はトンプソンハックやTrusting Trust攻撃として知られており、これ自体がセキュリティに関する重要な研究成果と認められている<ref>{{Cite journal|last=Thompson|first=Ken|year=1984|title=Reflections on trusting trust|journal=[[Communications of the ACM]]|volume=27|issue=8|pages=761–763|DOI=10.1145/358198.358210}}</ref>。
トンプソンとリッチーは1980年代を通じてResearch Unixのアップデートを続け、バージョン8、バージョン9、バージョン10でBSDコードベースを採用した。1980年代中頃に、Unixの設計思想を受け継ぎながらも全面的に作り変えられた後継OSである[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]の開発がベル研で始まった。[[Make (UNIX)|mk]]や[[Rc (シェル)|rc]]など、後のResearch Unixに組み込まれた一部のプログラムも、Plan 9で開発された。
トンプソンは[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]が開発した[[C++]]の初期バージョンを試験的に使ったが、バージョンアップの度に互換性が失われたため使用を断念した。2009年のインタビューでトンプソンはC ++を批判し、「色々なことが中途半端で、それは多くのことを半分うまくやっており、排他的なアイデアのゴミの山だ」と話した{{Sfn|Seibel|2009|p=475}}。
=== 1990年代 ===
1992年に[[ロブ・パイク]]と共同で文字コードの[[UTF-8]]を開発<ref>{{Cite web|url=http://www.cl.cam.ac.uk/~mgk25/ucs/utf-8-history.txt|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/http://www.cl.cam.ac.uk/~mgk25/ucs/utf-8-history.txt|archivedate=2021-10-21|accessdate=2021-12-31|title=UTF-8 history|first=Rob|author=Pike|date=April 30, 2003}}</ref>。UTF-8は[[World Wide Web|インターネット]]で広く普及し、2019年には全Webページの90%以上を占めている<ref>{{Cite web|url=https://w3techs.com/technologies/details/en-utf8/all/all|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/https://w3techs.com/technologies/details/en-utf8/all/all|archivedate=2021-10-21|title=Usage Statistics and Market Share of UTF-8 for Websites, June 2019|website=w3techs.com|accessdate=2019-06-09}}</ref>。
1990年代にポータブルな[[仮想機械|バーチャルマシン]]をベースにした研究用オペレーティングシステムである[[Inferno (オペレーティングシステム)|Inferno]]の開発を開始。トンプソンとリッチーはベル研の他の研究者と共同でInfernoのコラボレーションを続けた<ref>{{Cite web|url=https://www.unixmen.com/ken-thompson-unix-systems-father/|archiveurl=https://ghostarchive.org/archive/20211021/https://www.unixmen.com/ken-thompson-unix-systems-father/|archivedate=2021-10-21|title=Ken Thompson UNIX systems father|publisher=Unixmen|first=M.el|author=Khamlichi|accessdate=2016-10-31}}</ref>。
=== 2000年代 ===
2000年後半にベル研を退職。彼は2006年までEntrisphere, Inc.で[[フェロー]]として働き、その後[[Google]]で名誉エンジニアとして所属。最近の業績にはプログラミング言語[[Go (プログラミング言語)|Go]]の共同設計などがある。自分を含むGoの開発者たちについて次のように述べている<ref name="dr_dobbs_2011"/>。
<blockquote>
私たち3人(トンプソン、[[ロブ・パイク]]、ロバート・グリシーマー)は純粋な研究として開発を始めました。3人が集まり、C++が嫌いだということで意気投合しました(笑)。(…Goに話を戻すと)、3人とも言語の全ての機能について説明が求められるという考えでスタートしましたので、いかなる理由があっても言語にゴミを入れませんでした。
</blockquote>
2009年のインタビューによると、トンプソンは現在[[Linux]]ベースのオペレーティングシステムを使用している{{Sfn|Seibel|2009|p=479}}。
== 受賞歴 ==
* 1980年 - [[全米技術アカデミー]]フェロー<ref>{{Cite web |url= http://www.nae.edu/MembersSection/Directory20412/28454.aspx |title=Dr. Ken Thompson |publisher=National Academy of Engineering |accessdate=2012-08-19}}</ref>
* 1983年 - [[チューリング賞]]。リッチーと共同受賞。「汎用オペレーティングシステム理論の発展への貢献と、特にUNIXオペレーティングシステムの実装に対して」。この時の受賞記念講演で述べたのが "Reflections on Trusting Trust"<ref>{{Cite web|url= http://cm.bell-labs.com/who/ken/trust.html |title=Reflections on Trusting Trust |first=Ken |last=Thompson |accessdate=2012-08-19}}</ref>、後に ''Thompson hack'' と呼ばれるようになる、loginプログラムに[[バックドア]]を仕組むようなコンパイラを作るようコンパイラのバイナリを仕組み、その痕跡をコンパイラのソースからは消す、という驚異的な技巧の解説で、しかも実際にいくつかのシステムに仕込まれていたとする衝撃的なもの<ref group="注釈">[[ジャーゴンファイル]]( http://catb.org/jargon/html/B/back-door.html )では、トンプソンはベル研の外部には、その仕掛けのあるコンパイラが配布されたことは一切無い(never distributed)と言っていると書いた後、編者([[エリック・レイモンド]])は独立した2人の情報提供者から不審なログインに関する示唆を得ているとも書いており、その他の状況も併せ実際には外部にも出ていたものとみる論もある(『Unix考古学』を参照)。</ref>であった。この講演だけで独立した[[コンピュータセキュリティ]]に対する重要な指摘(仮にコンパイラの全ソースをチェックしても、それだけでは安全ではないかもしれない)とされている<ref group="注釈">直接の主題ではないが、最後に警鐘として、講演した内容が示すように、原理的に、コンピュータのセキュリティには根源的な所に「信用を信用する」しかないという危うさがあるのだから、(こんにちで言う[[スクリプトキディ]]に相当するような)セキュリティを脅かしている子供たちを、「天才ハッカー少年」などとマスコミがそやすことは、将来の禍いの元である、といったことも述べている。これは技術的な本筋とはあまり関係ないのだが、映画『[[ウォー・ゲーム (映画)|ウォー・ゲーム]]』の公開などでコンピュータの一般への爆発的普及とセキュリティについて関心が高まっていた時期であったため、学会誌上で[[リチャード・ストールマン]]らと議論になった。</ref>。また、講演の本題に入る前に、自分が書いたプログラムの話をする枕として「私はプログラマです。フォーム1040(米国の税金の書類、[[:en:IRS tax forms#1040]])に私の職業としてそう書いています。」(I am a programmer. On my 1040 form, that is what I put down as my occupation.)と話している。
* 1990年 - [[IEEE]][[ハミングメダル]]。リッチーと共同受賞。「UNIXオペレーティングシステムとCプログラミング言語の開発に対して」<ref>{{Cite web |url= http://www.ieee.org/documents/hamming_rl.pdf |title=IEEE Richard W. Hamming Medal Recipients |publisher=[[IEEE]] |accessdate=2011-05-29}}</ref>。
* 1997年 - [[コンピュータ歴史博物館#フェロー|コンピュータ歴史博物館フェロー]]
* 1999年 - 98年度の[[アメリカ国家技術賞]]をリッチーと共同受賞。「情報技術の発展に多大な影響を与えたUNIXオペレーティングシステムとC言語の発明に対して。また、情報化時代におけるアメリカのリーダーシップを強固なものにした産業全体の成長をもたらした」(原文<ref>https://www.uspto.gov/learning-and-resources/ip-programs-and-awards/national-medal-technology-and-innovation/recipients/1998</ref>は For their invention of UNIX® operating system and the C programming language, which together have led to enormous growth of an entire industry, thereby enhancing American leadership in the Information Age. であり、どこにも「情報技術の」という表現に対応する部分は無いが)<ref name="NationalMedalAnnouncement">{{Cite web |url= http://www.bell-labs.com/news/1998/december/9/1.html |title=Ritchie and Thompson Get National Medal of Technology |publisher=Bell Labs |date=December 8, 1998 |accessdate=2012-08-19}}</ref><ref name="NationalMedalPressRelease">{{Cite web |url= http://www.bell-labs.com/news/1999/april/28/1.html |title=Ritchie and Thompson Receive National Medal of Technology from President Clinton |publisher=Bell Labs |date=April 27, 1999 |accessdate=2012-08-19}}</ref>。
* 1999年 - IEEE [[:en:Tsutomu Kanai Award|Tsutomu Kanai Award]]。「過去数十年に渡って分散システムの重要な基盤となったUNIXオペレーティングの開発に果たした役割に対して」<ref name="Kanai">{{Cite web|url= http://www.bell-labs.com/news/1999/march/25/1.html |title=Ken Thompson Receives Kanai Award for Impact of UNIX System |publisher=Bell Labs |date=March 25, 1999 |accessdate=2012-08-19}}</ref>。
* 2011年 - [[日本国際賞]]。リッチーと共同受賞。「UNIXオペレーティングシステム開発における貢献に対して」<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.japanprize.jp/data/press/2011/PressRelease_J.pdf|title=2011年(第27回)日本国際賞受賞者決まる|publisher=国際科学技術財団|accessdate=2011-01-25}}</ref><ref>{{Cite news| url= http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2011/01/24/BUTI1HDJSA.DTL#ixzz1C5LtXdf3 | work=The San Francisco Chronicle | first=Benny | last=Evangelista | title=Ken Thompson, Dennis Ritchie win Japan Prize | date=January 25, 2011}}</ref>。
* 2019年 - [[全米発明家殿堂]]。リッチーと共同で選出。
== プライベート ==
ケン・トンプソンは既婚者で息子が1人いる<ref>{{Cite web|url=http://www.linfo.org/thompson.html|title=Ken Thompson: A Brief Introduction|website=The Linux Information Project|date=August 24, 2007|accessdate=March 5, 2020}}</ref><ref name="ritchie01"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[オペレーティングシステム]]
* [[C言語]]
* [[プログラミング言語]]
* [[デニス・リッチー]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ken Thompson}}
* [http://www.technogallery.com/nec_c-and-c/1nen-no-ayumi/1985-1989/37.pdf 略歴・業績]
* [http://www.cs.bell-labs.com/who/ken/ Ken Thompson Bell Labs page]
* [http://cm.bell-labs.com/who/ken/trust.html Reflections on Trusting Trust] 1983 [[チューリング賞|Turing Award]] Lecture
* [http://www.linfo.org/thompson.html Ken Thompson: A Brief Introduction] The Linux Information Project(LINFO)
* Computer Chess Comes of Age: [http://www.computerhistory.org/chess/viewAll.php?sec=thm-42eeabf470432&sel=thm-42f15c52333a3&table=item_still_image# Photos] [http://www.computerhistory.org Computer History Museum]
* Computer Chess Comes of Age: [http://www.computerhistory.org/chess/viewAll.php?sec=thm-42eeabf470432&sel=thm-42f15c52333a3&table=item_oral_history Video of Interview with Ken Thompson] [http://www.computerhistory.org Computer History Museum]
* [http://doc.cat-v.org/bell_labs/reading_chess/ Reading Chess paper by HS Baird and Ken Thompson] on [[光学文字認識|optical character recognition]]
* {{Wikicite|ref={{harvid|Seibel|2009}}|reference=Seibel, Peter(2009). ''[[Coders at work|Coders at Work – Reflections on the Craft of Programming]]'' ([https://archive.org/details/B-001-000-162 online]). New York: [[Apress]]. {{ISBN2|978-1-4302-1948-4}}(pbk.){{ISBN2|978-1-4302-1949-1}}(electronic)}}
{{チューリング賞}}
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3,396 | デニス・リッチー | デニス・マカリスター・リッチー(Dennis MacAlistair Ritchie、1941年9月9日 - 2011年10月12日)は、アメリカ合衆国の計算機科学者。
コンピュータ言語のC言語を開発し、ケン・トンプソンと共にオペレーティングシステム(OS)であるUNIX、Multicsなどの開発者として知られる。2007年に引退するまで、ルーセント・テクノロジーズのシステムソフトウェア研究部門を指揮していた。技術的なコミュニティの中では、彼を指して "dmr"(ベル研究所におけるアカウント名)と呼ぶことがある。
1941年9月9日、ニューヨークブロンクヒルに生まれる。父親のアリステア・E・リッチーはベル研究所の研究者で、スイッチング回路理論(英語版)に関する共著書 The Design of Switching Circuits がある。子どものころ家族に連れられニュージャージー州サミット(英語版)に移り、サミットの高校に進学した。
ハーバード大学で物理学と応用数学の学位を得た後、1967年、ベル研究所の計算機科学研究センターに勤務を始める。その後1968年ハーバード大学でパトリック・C・フィッシャー(英語版)の指導により、計算機科学の博士号を取得した。博士論文のテーマは "Program Structure and Computational Complexity"(プログラム構造と計算複雑性)であった。
1969年ごろ、リッチーはケン・トンプソンと共に、ベル研究所で放置の状態にあったPDP-7上で独自のオペレーティングシステムを作り始める。これが後にUNIXと呼ばれるOSの原型となった。UNIXは1969年に原型が出来上がり、1971年に PDP-11/20 に移植された。このUNIX上で動作するアプリケーションを作るために、トンプソンによってB言語が開発され、リッチーがこれにデータ型と新しい文法等を追加しC言語が出来上がった。当初はアプリケーションを作成するために作られたC言語であったが、 1973年に、それまでアセンブリ言語で書かれていたUNIXをC言語で書き換えることに応用され、実際に移植は成功した。この頃のUNIXは文書マシンとして使われており、主にベル研究所の特許事務に用いられていた。
当初はPDP-11のアーキテクチャーに依存する側面が大きかったUNIXとC言語であったが、徐々にPDP-11への依存性を減少させていき、1978年にDEC製以外のコンピュータへのUNIXの移植に成功した。 C言語の開発は、リッチーのUNIXへの最大の貢献のうちの一つである。
1983年、UNIX開発の功績により、ケン・トンプソンと共にチューリング賞を受賞している。21世紀初頭現在でさえ、C言語は組み込みシステムからスーパーコンピュータまであらゆるタイプのプラットフォーム上で用いられており、彼の業績は非常に大きい。
晩年は、引き続きベル研究所にて、1995年に発表されたオープンソース版の分散システム用オペレーティングシステムであるPlan 9や、1996年に公表された分散システム用オペレーティングシステムの Inferno とその言語 Limbo の開発に携わった。
1983年、ケン・トンプソンと共にチューリング賞を受賞。受賞理由は「汎用オペレーティングシステム理論の発展への貢献、特にUNIXオペレーティングシステムの実装への貢献に対して」 (英文:"for their development of generic operating systems theory and specifically for the implementation of the UNIX operating system") 。リッチーの受賞講演の演題は"Reflections on Software Research"。1990年、ケン・トンプソンと共にIEEEよりIEEEハミングメダルを受賞。受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムとC言語の開発」(英文:"for the origination of the UNIX operating system and the C programming language")。
1997年、トンプソンと共にコンピュータ歴史博物館フェローに選ばれた。選定理由は「UNIXオペレーティングシステムの共同開発とC言語の開発を称えて」。
1999年4月21日、ケン・トンプソンと共にビル・クリントン大統領より1998年アメリカ国家技術賞を受賞。 受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムとC言語を共同開発し、コンピュータハードウェア、ソフトウェア、ネットワークシステムに多大な発展をもたらし、全産業の成長を刺激し、これにより情報時代におけるアメリカのリーダーシップを拡大したこと」(英文:"for co-inventing the UNIX operating system and the C programming language which together have led to enormous advances in computer hardware, software, and networking systems and stimulated growth of an entire industry, thereby enhancing American leadership in the Information Age")。
2005年、Industrial Research Institute がUNIX開発による科学技術および社会への貢献を称えて Achievement Award を授与した。
2011年、ケン・トンプソンと共に日本国際賞を受賞。受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムの開発」(英文:"for the pioneering work in the development of Unix operating system")。
2011年10月12日、1人住まいのニュージャージー州バークレーハイツの自宅で亡くなっているのが発見された。70歳没。死去の第一報は、以前の同僚であり現在はGoogleに勤務するロブ・パイクによってGoogle+上で発表された。彼は長い闘病(前立腺癌と心血管疾患)の末に、亡くなったという。その死はスティーブ・ジョブズの訃報の約1週間後だったが、ジョブズほど大きく報道されることはなかった。コンピュータの歴史家 Paul E. Ceruzzi はリッチーの死について「リッチーはレーダーの下にいた。彼は有名人というわけでは全くないが、...あなたが顕微鏡でコンピュータの中を見ることができたなら、彼の仕事をあらゆる箇所で見つけるだろう」と述べている。
リッチーの死後間もなく行われたインタビューで長年の同僚だったブライアン・カーニハンは、リッチーはC言語がこれほど重要なものになるとは全く思っていなかったと述べている。カーニハンは、CとUNIXがiPhoneなどの後世の重要プロジェクトでいかに大きな役割を果たしたかを述べている。
他にもリッチーの後世への影響について、様々なことが言われている。
Fedora 16 というLinuxディストリビューションはリッチーの死後1カ月ほどでリリースされており、リッチーへの献辞が添えられていた。2012年1月12日にリリースされた FreeBSD 9.0 にもリッチーへの献辞が添えられている。 | [
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] | デニス・マカリスター・リッチーは、アメリカ合衆国の計算機科学者。 コンピュータ言語のC言語を開発し、ケン・トンプソンと共にオペレーティングシステム(OS)であるUNIX、Multicsなどの開発者として知られる。2007年に引退するまで、ルーセント・テクノロジーズのシステムソフトウェア研究部門を指揮していた。技術的なコミュニティの中では、彼を指して "dmr"(ベル研究所におけるアカウント名)と呼ぶことがある。 | {{Infobox scientist
| name = デニス・マカリスター・リッチー<br/><small>Dennis MacAlistair Ritchie</small>
| image = Dennis Ritchie 2011.jpg
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| caption = デニス・リッチー(1999年)
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}}
'''デニス・マカリスター・リッチー'''(''Dennis MacAlistair Ritchie''、[[1941年]][[9月9日]] - [[2011年]][[10月12日]]<ref name="obituary">{{Cite web|url= http://br-linux.org/2011/dennis-ritchie-1941-2011/|title=Dennis Ritchie, 1941 - 2011|date=2011-10-12|accessdate=2011-10-13|author=Augusto Campos}}</ref><ref name="NYTimes">{{Citation| last = Lohr| first = Steve| title = Dennis Ritchie, Programming Trailblazer, Dies at 70| newspaper=The New York Times| date = October 12, 2011| url = http://www.nytimes.com/2011/10/14/technology/dennis-ritchie-programming-trailblazer-dies-at-70.html?hp| quote = Dennis M. Ritchie, who helped shape the modern digital era by creating software tools that power things as diverse as search engines like Google and smartphones, was found dead on Wednesday at his home in Berkeley Heights, N.J. He was 70. Mr. Ritchie, who lived alone, was in frail health in recent years after treatment for prostate cancer and heart disease, said his brother Bill.| accessdate = 2011-10-13}}</ref><ref name="BBC">{{Cite web| url= http://www.bbc.co.uk/news/technology-15287391 | title=Unix creator Dennis Ritchie dies aged 70 | date=October 13, 2011 | accessdate=2011-10-14 |publisher=BBC News | quote = Pioneering computer scientist Dennis Ritchie has died after a long illness. ... The first news of Dr Ritchie's death came via Rob Pike, a former colleague who worked with him at Bell Labs. Mr Ritchie's passing was then confirmed in a statement from Alcatel Lucent which now owns Bell Labs. }}</ref><ref name=RobPike>{{Citation| author=[[ロブ・パイク|Rob Pike]] | title = (untitled post to Google+) | date = October 12, 2011 | url = https://plus.google.com/u/0/101960720994009339267/posts/ENuEDDYfvKP?hl=en#101960720994009339267/posts/ENuEDDYfvKP | quote = I just heard that, after a long illness, Dennis Ritchie (dmr) died at home this weekend. I have no more information. | accessdate = 2011-10-14 }}</ref><ref name="Guardian">{{Citation| last = Campbell-Kelly| first = Martin| title = Dennis Ritchie obituary| newspaper=The Guardian| date = October 13, 2011| url = http://www.guardian.co.uk/technology/2011/oct/13/dennis-ritchie| quote = Dennis MacAlistair Ritchie, computer scientist, born 9 September 1941; died 12 October 2011| accessdate = 2011-10-13}}</ref>)は、アメリカ合衆国の[[計算機科学|計算機科学者]]。
コンピュータ言語の[[C言語]]を開発し、[[ケン・トンプソン]]と共に[[オペレーティングシステム]](OS)である[[UNIX]]、[[Multics]]などの開発者として知られる<ref name=NYTimes/>。2007年に引退するまで、[[ルーセント・テクノロジーズ]]の[[システムソフトウェア]]研究部門を指揮していた。技術的なコミュニティの中では、彼を指して "dmr"(ベル研究所におけるアカウント名)と呼ぶことがある。
== 若年期 ==
1941年9月9日、[[ニューヨーク]]ブロンクヒルに生まれる。父親のアリステア・E・リッチーは[[ベル研究所]]の研究者で、{{仮リンク|スイッチング回路理論|en|switching circuit theory}}に関する共著書 ''The Design of Switching Circuits'' がある。子どものころ家族に連れられ[[ニュージャージー州]]{{仮リンク|サミット (ニュージャージー州)|en|Summit, New Jersey|label=サミット}}に移り、サミットの高校に進学した<ref>Keill, Liz. [http://www.nj.com/independentpress/index.ssf/2011/02/japan_prize_for_unix_was_a_sur.html "Berkeley Heights man wins Japan Prize for inventing UNIX operating system"], ''Independent Press'', February 1, 2011. Accessed October 17, 2011. "Ritchie, 69, has lived in Berkeley Heights for 15 years. He was born in Bronxville, New York, grew up in Summit and attended Summit High School before going to Harvard University."</ref>。
== 経歴 ==
{{seealso|C言語|UNIX}}
ハーバード大学で[[物理学]]と[[応用数学]]の学位を得た後、[[1967年]]、ベル研究所の計算機科学研究センターに勤務を始める。その後1968年ハーバード大学で{{仮リンク|パトリック・C・フィッシャー|en|Patrick C. Fischer}}の指導により、計算機科学の博士号を取得した。博士論文のテーマは "Program Structure and Computational Complexity"(プログラム構造と計算複雑性)であった<ref>{{MathGenealogy|id=155881}}</ref>。
[[ファイル:Ken Thompson and Dennis Ritchie.jpg|left|thumb|ケン・トンプソン(左)とデニス・リッチー(右)]]
1969年ごろ、リッチーは[[ケン・トンプソン]]と共に、ベル研究所で放置の状態にあった[[PDP-7]]上で独自の[[オペレーティングシステム]]を作り始める。これが後に[[UNIX]]と呼ばれるOSの原型となった。UNIXは1969年に原型が出来上がり、1971年に [[PDP-11]]/20 に移植された。このUNIX上で動作するアプリケーションを作るために、トンプソンによってB言語が開発され、リッチーがこれにデータ型と新しい文法等を追加しC言語が出来上がった。当初はアプリケーションを作成するために作られたC言語であったが、
1973年に、それまでアセンブリ言語で書かれていたUNIXをC言語で書き換えることに応用され、実際に移植は成功した。この頃のUNIXは文書マシンとして使われており、主にベル研究所の特許事務に用いられていた。
当初はPDP-11のアーキテクチャーに依存する側面が大きかったUNIXとC言語であったが、徐々にPDP-11への依存性を減少させていき、1978年にDEC製以外のコンピュータへのUNIXの移植に成功した。
C言語の開発は、リッチーのUNIXへの最大の貢献のうちの一つである<ref>{{Cite news |url= http://online.wsj.com/article/SB10001424052970204774604576629354123067080.html |title=Pioneer Programmer Shaped the Evolution of Computers |publisher= Wall Street Journal |date= 2011-10-14 |page=A7}}</ref>。
1983年、UNIX開発の功績により、ケン・トンプソンと共に[[チューリング賞]]を受賞している。21世紀初頭現在でさえ、C言語は[[組み込みシステム]]から[[スーパーコンピュータ]]まであらゆるタイプのプラットフォーム上で用いられており、彼の業績は非常に大きい。
晩年は、引き続きベル研究所にて、1995年に発表されたオープンソース版の分散システム用[[オペレーティングシステム]]である[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]や、1996年に公表された分散システム用オペレーティングシステムの [[Inferno (オペレーティングシステム)|Inferno]] とその言語 [[Limbo (プログラミング言語)|Limbo]] の開発に携わった。
== 受賞歴 ==
[[File:Dennis_Ritchie_(right)_Receiving_Japan_Prize.jpeg|thumb|150px|[[日本国際賞]]を受賞するリッチー(右)(2011年、[[ニュージャージー州]][[マレーヒル]]の[[ベル研究所]]本部にて)。]]
[[1983年]]、[[ケン・トンプソン]]と共に[[チューリング賞]]を受賞。受賞理由は「汎用オペレーティングシステム理論の発展への貢献、特にUNIXオペレーティングシステムの実装への貢献に対して」 (英文:"for their development of generic operating systems theory and specifically for the implementation of the UNIX operating system") 。リッチーの受賞講演の演題は"Reflections on Software Research"<ref>{{Citation| last = Ritchie | first = Dennis M. | title = ACM Turing Award Lectures: Reflections on Software Research | publisher = Addison-Wesley Publishing Company | series = ACM Press Anthology Series | year = 1987 | chapter = 1983 Turing Award Lecture: Reflections on Software Research | chapterurl = http://awards.acm.org/images/awards/140/articles/2898606.pdf | accessdate = 2012-01-30 | pages = 163–169 }}</ref>。[[1990年]]、ケン・トンプソンと共に[[IEEE]]より[[ハミングメダル|IEEEハミングメダル]]を受賞。受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムとC言語の開発」(英文:"for the origination of the UNIX operating system and the C programming language")<ref>{{cite web|url= http://www.ieee.org/documents/hamming_rl.pdf |title=IEEE Richard W. Hamming Medal Recipients |publisher=[[IEEE]] |accessdate=2011-05-29}}</ref>。
1997年、トンプソンと共に[[コンピュータ歴史博物館]]フェローに選ばれた。選定理由は「UNIXオペレーティングシステムの共同開発とC言語の開発を称えて」。
[[1999年]][[4月21日]]、ケン・トンプソンと共に[[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]より1998年[[アメリカ国家技術賞]]を受賞。 受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムとC言語を共同開発し、コンピュータハードウェア、ソフトウェア、ネットワークシステムに多大な発展をもたらし、全産業の成長を刺激し、これにより情報時代におけるアメリカのリーダーシップを拡大したこと」(英文:"for co-inventing the UNIX operating system and the C programming language which together have led to enormous advances in computer hardware, software, and networking systems and stimulated growth of an entire industry, thereby enhancing American leadership in the Information Age")<ref name="NationalMedalAnnouncement">''[http://www.bell-labs.com/news/1998/december/9/1.html Ritchie and Thompson [to] Get National Medal of Technology] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060327052807/http://www.bell-labs.com/news/1998/december/9/1.html |date=2006年3月27日 }}'' Bell Labs pre-announcement</ref><ref name="NationalMedalPressRelease">''[http://www.bell-labs.com/news/1999/april/28/1.html Ritchie and Thompson Receive National Medal of Technology from President Clinton] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20031011075017/http://www.bell-labs.com/news/1999/april/28/1.html |date=2003年10月11日 }}'' Bell Labs press release</ref>。
2005年、[[:en:Industrial Research Institute|Industrial Research Institute]] がUNIX開発による科学技術および社会への貢献を称えて [[:en:IRI Achievement Award|Achievement Award]] を授与した<ref>[http://www.alcatel-lucent.com/wps/portal/!ut/p/kcxml/04_Sj9SPykssy0xPLMnMz0vM0Y_QjzKLd4x3cg_SL8h2VAQAv8HY9g!!?LMSG_CABINET=Docs_and_Resource_Ctr&LMSG_CONTENT_FILE=News_Releases_LU_2005/LU_News_Article_005372.xml "Dennis Ritchie, Bell Labs Researcher and Co-Inventor of Unix, Receives 2005 Industrial Research Institute Achievement Award"], Alcatel/Lucent Press Release, Nov. 15, 2005, accessed Feb. 8, 2012.</ref>。
[[2011年]]、ケン・トンプソンと共に[[日本国際賞]]を受賞。受賞理由は「UNIXオペレーティングシステムの開発」(英文:"for the pioneering work in the development of Unix operating system")<ref>Evangelista, Benny, [http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2011/01/24/BUTI1HDJSA.DTL#ixzz1C5LtXdf3 "Ken Thompson, Dennis Ritchie win Japan Prize"], ''San Francisco Chronicle'', January 25, 2011</ref>。2019年[[全米発明家殿堂]]選出。
== 死と後世への影響 ==
2011年10月12日、1人住まいの[[ニュージャージー州]]バークレーハイツの自宅で亡くなっているのが発見された<ref name="obituary"/><ref name=NYTimes/>。{{没年齢|1941|9|9|2011|10|8}}。死去の第一報は、以前の同僚であり現在は[[Google]]に勤務する[[ロブ・パイク]]によってGoogle+上で発表された<ref name="BBC"/><ref name=RobPike/>。彼は長い闘病([[前立腺癌]]と[[心血管疾患]])の末に、亡くなったという<ref>[http://www2.alcatel-lucent.com/blogs/corporate/2011/10/dennis-ritchie-1941-2011-message-from-jeong-kim/ Dennis Ritchie 1941-2011: Message from Jeong Kim | Alcatel-Lucent - The Blog - Alcatel-Lucent]</ref><ref name=NYTimes/><ref name="BBC" /><ref>{{Cite web |last=Gallagher |first=Sean |title=Dennis Ritchie, Father of C and Co-Developer of Unix, Dies |url=http://www.wired.com/wiredenterprise/2011/10/dennis-ritchie/ |publisher=[[WIRED (雑誌)|Wired magazine]] |accessdate=2011-10-13 |date=October 13, 2011 |archiveurl=https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.wired.com%2Fwiredenterprise%2F2011%2F10%2Fdennis-ritchie%2F&date=2012-01-27 |archivedate=2012年1月27日 }} </ref><ref>{{Cite web |last=Binstock |first=Andrew |title=Dennis Ritchie, in Memoriam |url=http://drdobbs.com/cpp/231900742?cid=DDJ_nl_upd_2011-10-13_h |work=Dr. Dobb's Journal |publisher=Dr. Dobb's Journal |accessdate=2011-10-14 |archiveurl=https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fdrdobbs.com%2Fcpp%2F231900742%3Fcid%3DDDJ_nl_upd_2011-10-13_h&date=2012-01-27 |archivedate=2012年1月27日 }} </ref>。その死は[[スティーブ・ジョブズ]]の訃報の約1週間後だったが、ジョブズほど大きく報道されることはなかった<ref name=Humphrey>{{Cite news |last=Humphrey |first=Michael |title=The Inevitable Steve Jobs vs. Dennis Ritchie Discussion |url= http://www.forbes.com/sites/michaelhumphrey/2011/10/14/the-inevitable-steve-jobs-vs-dennis-ritchie-discussion/ |accessdate=2011-10-14 |newspaper=Forbes |date=2011-10-14}}</ref><ref name=Mearian>{{Cite news |last=Mearian |first=Lucas |title=Dennis Ritchie and Steve Jobs – quite the juxtaposition |url= http://blogs.computerworld.com/19097/dennis_ritchie_and_steve_jobs_quite_the_juxtaposition |accessdate=2011-10-14 |newspaper=Computer World |date=October 13, 2011}}</ref>。コンピュータの歴史家 [[:en:Paul E. Ceruzzi|Paul E. Ceruzzi]] はリッチーの死について「リッチーはレーダーの下にいた。彼は有名人というわけでは全くないが、…あなたが顕微鏡でコンピュータの中を見ることができたなら、彼の仕事をあらゆる箇所で見つけるだろう」と述べている<ref>{{Cite news |last=Langer |first=Emily |title=Dennis Ritchie, founder of Unix and C, dies at 70 |url=http://www.washingtonpost.com/local/obituaries/dennis-ritchie-founder-of-unix-and-c-dies-at-70/2011/10/13/gIQAXsVXiL_story.html |accessdate=2011-11-03 |newspaper=Washington Post |date=October 14, 2011 |archiveurl=https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.washingtonpost.com%2Flocal%2Fobituaries%2Fdennis-ritchie-founder-of-unix-and-c-dies-at-70%2F2011%2F10%2F13%2FgIQAXsVXiL_story.html&date=2012-01-28 |archivedate=2012年1月28日 }}
</ref>。
リッチーの死後間もなく行われたインタビューで長年の同僚だった[[ブライアン・カーニハン]]は、リッチーはC言語がこれほど重要なものになるとは全く思っていなかったと述べている<ref name=ForbesKernighanInterview2011-11-04>{{Cite news| url = http://forbesindia.com/interview/special/brian-kernighan-no-one-thought-c-would-become-so-big/29982/1| title = No one thought 'C' would become so big: Brian Kernighan| publisher = Forbes India| date = 2011-11-04| accessdate = 2011-11-28| quote = Q Did Dennis Ritchie or you ever think C would become so popular? [Kernighan] I don't think that at the time Dennis worked on Unix and C anyone thought these would become as big as they did. Unix, at that time, was a research project inside Bell Labs.| author = Shishir Prasad| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fforbesindia.com%2Finterview%2Fspecial%2Fbrian-kernighan-no-one-thought-c-would-become-so-big%2F29982%2F1&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref>。カーニハンは、CとUNIXが[[iPhone]]などの後世の重要プロジェクトでいかに大きな役割を果たしたかを述べている<ref>{{Cite news| url = http://www.deccanherald.com/blog/?p=220| title = Myths of Steve Jobs| publisher = Deccan Herald| date = 2011-11-28| accessdate = 2011-11-28| quote = Dennis Ritchie, the inventor of the C language and co-inventor of the Unix operating system, died a few days after Steve Jobs. He was far more influential than Jobs.| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.deccanherald.com%2Fblog%2F%3Fp%3D220&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref><ref>{{Cite news| url = http://www.thehindu.com/news/states/karnataka/article2622056.ece| title = The tale of three deeply different technologists| publisher = The Hindu| date = 2011-11-14| accessdate = 2011-11-28| author = Subhajit Datta| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.thehindu.com%2Fnews%2Fstates%2Fkarnataka%2Farticle2622056.ece&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref>。
他にもリッチーの後世への影響について、様々なことが言われている<ref>{{Cite news| url = http://www.extremetech.com/computing/102835-dennis-ritchie-creator-of-c-bids-goodbye-world| title = Dennis Ritchie, creator of C, bids "goodbye, world"| publisher = Extreme Tech| date = 2011-11-02| accessdate = 2011-11-28| quote = The book came off the shelf in service of teaching another generation a simple, elegant way to program that allows the developer to be directly in touch with the innards of the computer. The lowly integer variable—int—has grown in size over the years as computers have grown, but the C language and its sparse, clean, coding style live on. For that we all owe a lot to Dennis Ritchie.| author = David Cardinal| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.extremetech.com%2Fcomputing%2F102835-dennis-ritchie-creator-of-c-bids-goodbye-world&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref><ref name=TheEconomist>{{Cite news| url = http://www.economist.com/node/21536536| title = Dennis Ritchie and John McCarthy: Dennis Ritchie and John McCarthy, machine whisperers, died on October 8th and 24th respectively, aged 70 and 84| publisher = [[エコノミスト|The Economist]]| date = 2011-11-05| accessdate = 2011-11-28| quote = NOW that digital devices are fashion items, it is easy to forget what really accounts for their near-magical properties. Without the operating systems which tell their different physical bits what to do, and without the languages in which these commands are couched, the latest iSomething would be a pretty but empty receptacle. The gizmos of the digital age owe a part of their numeric souls to Dennis Ritchie and John McCarthy.| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.economist.com%2Fnode%2F21536536&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref><ref>{{Cite news| url = http://www.newswise.com/articles/the-strange-birth-and-long-life-of-unix| title = The Strange Birth and Long Life of Unix| publisher = Newswise| date = 2011-11-23| accessdate = 2011-11-28| quote = Four decades ago, Ken Thompson, the late Dennis Ritchie, and others at AT&T's Bell Laboratories developed Unix, which turned out to be one of the most influential pieces of software ever written. Their work on this operating system had to be done on the sly, though, because their employer had recently backed away from operating-systems research.| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.newswise.com%2Farticles%2Fthe-strange-birth-and-long-life-of-unix&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日}}
</ref><ref>{{Cite news| url = http://www.ciol.com/News/News/News-Reports/The-forgotten-tech-luminaries/156641/0/| title = The forgotten tech luminaries: The new generation of the digital age owe a part of their numeric souls to Dennis Ritchie and John McCarthy| publisher = cybermedia| date = 2011-11-01| accessdate = 2011-11-28| quote = UNIX, to the development of which Ritchie greatly contributed, and whose C made it possible it to be ported to other machines, is, even today, in its different avatars, the de-facto OS for anything that is mission critical. Solaris, AIX, HP-UX, Linux—all these are derived from UNIX.| author = Shyamanuja Das| archiveurl = https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.ciol.com%2FNews%2FNews%2FNews-Reports%2FThe-forgotten-tech-luminaries%2F156641%2F0%2F&date=2012-01-28| archivedate = 2012年1月28日| deadurldate = 2017年9月}}
</ref>。
[[Fedora]] 16 という[[Linuxディストリビューション]]はリッチーの死後1カ月ほどでリリースされており、リッチーへの献辞が添えられていた<ref name="F16Phoronix">{{Cite web| url= http://www.phoronix.com/scan.php?page=news_item&px=MTAxMjg | title=Red Hat Releases Fedora 16 "Verne" | author=Phoronix | accessdate=2011-11-08 }}</ref>。2012年1月12日にリリースされた [[FreeBSD]] 9.0 にもリッチーへの献辞が添えられている<ref name="FreeBSD">{{Cite web|url= http://www.freebsd.org/releases/9.0R/announce.html |title=FreeBSD-9.0 Announcement | author=The FreeBSD project | accessdate=2012-01-12}}</ref>。
== 主な著書 ==
* ''Unix Programmer's Manual'' ([[1971年]])
* [[プログラミング言語C]] - ''The C Programming Language'' ("K&R") ([[1978年]]、共著: [[ブライアン・カーニハン]]、日本語訳: [[石田晴久]])
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[C言語]]
* [[ケン・トンプソン]]
== 外部リンク ==
{{Commons category|Dennis Ritchie}}
{{Wikiquote|デニス・リッチー}}
* [http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/index.html Dennis Ritchie Home Page]
* [http://www.ijinden.com/_c_03/Dennis_M_Ritchie.html デニス・リッチー] - ちえの和webページ
* [http://www.technogallery.com/nec_c-and-c/1nen-no-ayumi/1985-1989/36.pdf 略歴・業績]
* [http://cm.bell-labs.com/cm/cs/bib2html/dmr.html デニス・リッチーの主著論文]
* [http://doc.cat-v.org/inferno/4th_edition/limbo_language/limbo The Limbo Programming Language by Dennis M. Ritchie]
* [http://www.gotw.ca/publications/c_family_interview.htm "The C Family of Languages: Interview with Dennis Ritchie, Bjarne Stroustrup, and James Gosling" – article in Java Report, 5(7), July 2000 and C++ Report, 12(7), July/August 2000]
* [http://www.linux-mag.com/id/801/ "The Guru" – article in Linux Magazine, June 2001]
* [http://abcnews.go.com/Technology/video/unix-starting-point-personal-computer-13869282?tab=9482931§ion=1206840&playlist=11496627&page=1 Dennis Ritchie's video interview June 2011]
* {{Worldcat id|lid=ccn-n77-18721}}
* {{Find A Grave|78320781}}
{{チューリング賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りつち てにす}}
[[Category:デニス・リッチー|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の計算機科学者]]
[[Category:アメリカ合衆国のプログラミング言語設計者]]
[[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]]
[[Category:チューリング賞受賞者]]
[[Category:日本国際賞受賞者]]
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[[Category:1941年生]]
[[Category:2011年没]] | 2003-03-04T15:36:02Z | 2023-12-01T12:34:57Z | false | false | false | [
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3,397 | ブライアン・カーニハン | ブライアン・カーニハン (英: Brian Wilson Kernighan、1942年1月1日 - ) は、ベル研究所に在籍していたカナダ出身の計算機科学者である。C言語やUNIXの開発者であるデニス・リッチー、ケン・トンプソンと共に、C言語およびUNIXに対する多くの研究開発結果による貢献で知られている。
デニス・リッチーと共著の『プログラミング言語C』(通称:K&R)は、C言語の規格化が成されるまで事実上の規格書的な扱いを受けていた。現在でも古典的な教科書の一つである。
現在は、計算機科学部教授としてプリンストン大学に在籍している。
トロント大学で物理工学に関する学位を得た後、プリンストン大学で電子工学に関する研究で博士号を得た。
多くのプログラミング言語入門書で、最初のプログラムとして書かれる Hello world は、彼がベル研究所で書いたB言語に対するチュートリアルで初めて使われたものである。
いわゆる『K&R』のKとして広く知られているが、2003年の本人インタビューによると、C言語の設計にカーニハンは全く関わっていない(完全なるデニス・リッチーの仕事)であるという。
また UNIX 上で開発されたプログラミング言語 AWK 名前の「K」は彼の名前の頭文字である。 | [
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] | ブライアン・カーニハン は、ベル研究所に在籍していたカナダ出身の計算機科学者である。C言語やUNIXの開発者であるデニス・リッチー、ケン・トンプソンと共に、C言語およびUNIXに対する多くの研究開発結果による貢献で知られている。 デニス・リッチーと共著の『プログラミング言語C』は、C言語の規格化が成されるまで事実上の規格書的な扱いを受けていた。現在でも古典的な教科書の一つである。 現在は、計算機科学部教授としてプリンストン大学に在籍している。 | {{Infobox scientist
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| caption = ブライアン・カーニハン(2012年)
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'''ブライアン・カーニハン''' ({{lang-en-short|Brian Wilson Kernighan}}、[[1942年]][[1月1日]] - ) は、[[ベル研究所]]に在籍していたカナダ出身の[[計算機科学者]]である。C言語やUNIXの開発者である[[デニス・リッチー]]、[[ケン・トンプソン]]と共に、[[C言語]]および[[UNIX]]に対する多くの研究開発結果による貢献で知られている。
[[デニス・リッチー]]と共著の『[[プログラミング言語C]]』(通称:K&R)は、[[C言語]]の規格化が成されるまで事実上の規格書的な扱いを受けていた。現在でも古典的な教科書の一つである。
現在は、[[計算機科学|計算機科学部]]教授として[[プリンストン大学]]に在籍している。
==経歴(若年期)==
トロント大学で物理工学に関する学位を得た後、プリンストン大学で電子工学に関する研究で博士号を得た。
{{節スタブ}}
==功績==
多くのプログラミング言語入門書で、最初のプログラムとして書かれる {{lang|en|[[Hello world]]}} は、彼がベル研究所で書いたB言語に対するチュートリアルで初めて使われたものである<ref>[http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/btut.html {{lang|en|A TUTORIAL INTRODUCTION TO THE LANGUAGE B}}] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150203071526/http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/btut.html |date=2015年2月3日 }}</ref>。
いわゆる『[[プログラミング言語C|K&R]]』のKとして広く知られているが、2003年の本人インタビューによると、C言語の設計にカーニハンは全く関わっていない(完全なる[[デニス・リッチー]]の仕事)<ref>{{cite web|title={{lang|en|Interview with Brian Kernighan}}|url=http://www.linuxjournal.com/article/7035|accessdate=2003年7月29日|publisher={{lang|en|[[Linux Journal]]}}}}</ref>であるという。
また {{lang|en|[[UNIX]]}} 上で開発された[[プログラミング言語]] {{lang|en|[[AWK]]}} 名前の「K」は彼の名前の頭文字である。
==著書==
{|class=wikitable
!日本語題!!原題(英語)!!出版年!!共著者!!日本語版訳者
|-
|ソフトウェア作法||{{lang|en|Software Tools}}||[[1976年]]||P. J. プローガ||木村泉
|-
|プログラミング言語C||{{lang|en|The C Programming Language}}||[[1978年]]||[[デニス・リッチー]]||[[石田晴久]]
|-
|プログラム書法||{{lang|en|The Elements of Programming Style}}||[[1982年]]||P. J. プローガ||木村泉
|-
|{{lang|en|UNIX}}プログラミング環境||{{lang|en|The Unix Programming Environment}}||[[1984年]]||[[ロブ・パイク]]||石田晴久
|-
|プログラミング言語{{lang|en|AWK}}||{{lang|en|The AWK Programming Language}}||[[1988年]]||ピーター・J. ワインバーガー<br>[[アルフレッド・エイホ|アルフレッド・V. エイホ]]||足立高徳
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|プログラミング作法||{{lang|en|The Practice of Programming}}||[[1999年]]||ロブ・パイク||福崎俊博
|-
|プログラミング言語Go||{{lang|en|The Go Programming Language}}||[[2015年]]||アラン・ドノバン||柴田芳樹
|}
==脚注==
<references />
==外部リンク==
*[http://www.cs.princeton.edu/~bwk/ {{lang|en|Brian Kernighan's Home Page}}]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かあにはん ふらいあん}}
[[Category:カナダの計算機科学者]]
[[Category:カナダのプログラマ]]
[[Category:C言語]]
[[Category:カナダのプログラミング言語設計者]]
[[Category:UNIXに関係する人物]]
[[Category:ベル研究所の人物]]
[[Category:全米技術アカデミー会員]]
[[Category:プリンストン大学の教員]]
[[Category:デニス・リッチー]]
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[[Category:存命人物]]
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3,398 | ベル研究所 | ベル研究所(ベルけんきゅうじょ、Bell Laboratories)は、アメリカ合衆国の通信研究所である。もともとベルシステムの研究開発部門として設立された研究所であり、現在はノキアの子会社である。「ベル電話研究所」、略して「ベル研(Bell Labs)」とも。
ベル研究所とは、ベル・システム社が1920年代に設立した研究所であり、その起源はグラハム・ベルが1880年にボルタ賞の賞金で設立したボルタ研究所に遡る。現在はノキアの子会社である。「Bell Laboratories」の名前は、電話の発明者Bell(グラハム・ベル)に由来するといわれている。 ニュージャージー州マレーヒルを本拠地とし、その研究施設は世界中に点在する。
ベル研究所は、電話交換機から電話線のカバー、トランジスタまであらゆるものの開発を行ってきた。おおまかにいうと、研究、システム工学、開発の3つに分けることができた。
研究としては主に電気通信の基礎技術に関するものであったが、数学、物理学、人間行動科学、材料科学、コンピュータープログラミング理論などについて行っていた。この基礎研究に優れていることが、ベル研究所のひとつの大きな特徴であったが、2002年にヘンドリック・シェーンによる科学における不正行為事件が発覚。2008年に親会社によって「基礎研究から撤退する」という発表がなされる、という結果となった。
システム工学に関しては電気通信の分野で非常に複雑なシステムを作り上げている。開発としては通信網の構築に必要としたものよりも遥かに多くのものをハードウェア、ソフトウェアどちらの分野でも開発した。
1925年に当時のAT&T社長ウォルター・グリフォードが独立事業としてベル研究所を設立した。もともとはウェスタン・エレクトリック社の研究部門とAT&Tの技術部門を引き継いだもので、AT&Tとウェスタン・エレクトリック社がそれぞれ50%ずつ出資した。最初の研究所長は Frank B. Jewett で、1940年まで所長を務めた。電話交換機など、AT&T向けにウェスタン・エレクトリックが製造する装置の設計とサポートを主な業務としていた。電話会社向けのサポート業務としては、包括的な技術マニュアル(手引書)のシリーズ en:Bell System Practices (BSP) の執筆と保守がある。親会社に対するコンサルタント業務も行った。また、プロジェクト・ナイキやアポロ計画などアメリカ政府の仕事も請け負った。基礎研究に携わる人員はごく一部だが、ノーベル賞受賞者を何人か輩出したこともあって、特に注目を浴びた。1940年代までベル研究所の本拠地はニューヨーク市内のビルを中心として点在していたが、そのほとんどはニューヨーク郊外のニュージャージー州に移転された。
ニュージャージー州内のベル研究所の所在地としては、マレーヒル(英語版)、ホルムデル(英語版)(en:Bell Labs Holmdel Complex)、クロフォードヒル(英語版)、Deal Test Site、フリーホールド、リンクロフト、ロングブランチ、ミドルタウン、プリンストン、ピスカタウェイ、レッドバンク、ホイッパニーがある。このうち、クロフォードヒルとホイッパニーの研究所は現存している。エーロ・サーリネンが設計したニュージャージー州ホルムデルの建物(en)は、現在は売却されて無人のまま放置されているが、複合商業施設に改装される予定。従業員が多いのはイリノイ州シカゴ近郊の Naperville や Lisle のあたりで、2001年までは最も集中していた(約1万1000人)。他に従業員が集中していた地域として、オハイオ州コロンバス、マサチューセッツ州ノースアンドーバー、ペンシルベニア州アレンタウン、ペンシルベニア州レディング、ペンシルベニア州ブレイングスビル、コロラド州ウェストミンスターなどがある。これらは2001年以降には規模が縮小されるか、完全に閉鎖された。
ベル研究所の絶頂期には、その施設は当時としては最先端であり、様々な革新的技術(電波望遠鏡、トランジスタ、レーザー、情報理論、UNIXオペレーティングシステム、C言語など)を開発していた。ベル研究所での研究により、これまでに7つのノーベル賞を獲得している。
1924年、ウォルター・A・シューハートが製造工程の統計的管理手法として管理図を提案。シューハートは翌年設立されるベル研究所で引退するまで研究に従事した。シューハートの手法は統計的プロセス制御の基盤となった。これはシックス・シグマなどの現代的品質管理の先駆けである。
運営開始の初年には、よそで発明されたファクシミリの世界初の公開デモンストレーションを行った。1926年、世界初のトーキー(音声と映像の同期)システムを発明した。
1927年、テレビの長距離送受信実験として、アメリカ合衆国商務長官ハーバート・フーヴァーの動画をワシントンからニューヨークに転送する実験を成功させた。1928年、ジョン・B・ジョンソンとハリー・ナイキストが初めて熱雑音を発見し、理論的分析を行った(このため「ジョンソン・ノイズ」とも呼ぶ)。
1920年代には、Gilbert Vernam と Joseph Mauborgne がベル研究所でワンタイムパッド式暗号を発明している。ベル研究所のクロード・シャノンが後にこの暗号が破れないことを証明した。
1931年、カール・ジャンスキーはベル研究所で長距離通信時における定常雑音を調査し、ノイズの原因となる電波が銀河系の中心から出ていることを突き止めた。これは電波望遠鏡に通じる発見で、のちに電波天文学の始まりとなったが、通信に関する問題ではないのであまり集中して行うことはなかった。1933年、ステレオ音声信号をフィラデルフィアからワシントンD.C.に生中継した。1937年、ホーマー・ダッドリー(英語版)が世界初の電子音声合成器ヴォーダー(英語版)を発明し、デモンストレーションを行った。ベル研究所の研究員クリントン・デイヴィソンは、ジョージ・パジェット・トムソンと共に電子回折現象を発見し、ノーベル物理学賞を受賞した。これは、後のソリッドステート電子工学の基盤となった発見である。
1940年代初め、Russell Ohl が光電セルを開発した。1943年、世界初のデジタル式音声暗号化システム SIGSALY を開発。これが第二次世界大戦中に味方同士の通信に利用された。また、真空管の6AK5はレーダーシステムに広く利用された。1947年、ジョン・バーディーン、 ウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッテンがトランジスタを発明した(1956年、ノーベル物理学賞を受賞)。ベル研究所の最重要発明品と言われている。同年、リチャード・ハミングが誤り検出訂正のためのハミング符号を発明。特許が確定する1950年までその成果は公表されなかった。1948年、クロード・シャノンが情報理論の基礎を築いた "A Mathematical Theory of Communication" (通信の数学的理論)を Bell System Technical Journal に発表。ベル研究所の先達であるハリー・ナイキストやラルフ・ハートレーの業績を踏まえつつ、それらを大幅に発展させた。シャノンは1949年の論文 Communication Theory of Secrecy Systems で現代暗号論の基礎を築いた。
ベル研究所では、ジョージ・スティビッツらが1940年代にリレーを使った計算機をいくつも開発した。
1950年代は、本来の電話事業の技術的サポートにおける改良が主で、マイクロ波中継、オペレーターを介さない自動即時通話、中継局、電話通信用継電器 (wire spring relay)、新型交換機(5XB)などが登場した。1953年、モーリス・カルノーがカルノー図を開発。ブール代数式を扱いやすくするツールとして重宝された。1954年、世界初の実用的な太陽電池を開発した。1956年に敷設された初の大西洋横断海底ケーブル TAT-1(スコットランド-ニューファンドランド島間)は、AT&T、ベル研究所、イギリスとカナダの電話会社が関与した。1957年、マックス・マシューズが電子音楽演算用コンピュータプログラムMUSICを開発した。MUSICシリーズは現在の多くのコンピュータミュージックプログラムの基礎となった。ロバート・C・プリムとジョゼフ・クラスカル(英語版)が新たな貪欲法アルゴリズムを開発し、コンピュータネットワーク設計を進化させた。1958年、アーサー・ショーローとチャールズ・タウンズの学術論文で初めて「レーザー」なるものが紹介された。
1960年代には、ダウォン・カーンとMartin Atallaが金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ(MOSFET)を発明。MOSFETは、今日の情報社会を支える大規模集積回路 (LSI) の基盤となっている。1960年12月、A.Javanらは初めての気体レーザーであるヘリウムネオンレーザーの発振に成功。1962年、Gerhard M. Sessler と James E.M. West がエレクトレットマイクを発明。1964年、Kumar Patel が炭酸ガスレーザーの発生装置を発明。1965年には、アーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンが、宇宙マイクロ波背景放射を発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞。1966年、R.W. Chang が無線通信サービスの重要な技術である直交周波数分割多重方式 (OFDM) を開発し、特許を取得した。1968年、J.R. Arthur と A.Y. Cho が分子線エピタキシー法を開発。1969年には、デニス・リッチーとケン・トンプソンがUNIXの開発を開始した。ウィラード・ボイルとジョージ・E・スミスが電荷結合素子 (CCD) を発明したのも1969年である。
1970年代以降、ベル研究所でも世の流れに乗って、コンピュータ関連の発明が多くなってくる。 1971年、コンピュータを使った電話交換機用のタスク優先度制御システムを Erna Schneider Hoover が開発し、世界初のソフトウェア特許を取得した。 1972年、デニス・リッチーがインタプリタ型言語Bの代わりにコンパイル型言語Cを開発し、UNIXのより良い書き直しのために採用された。 1976年、ジョージア州で世界初の光ファイバー通信システムの試験を行った。 1978年、デニス・リッチーとブライアン・カーニハンがC言語の事実上の規格書『プログラミング言語C』を出版。 1980年、世界初のワンチップ32ビットマイクロプロセッサ BELLMAC-32A がデモンストレーションで動作した(製品化は1982年)。
1970年代には、それまでリレーやトランジスタで構成されていた交換機から、ベル研究所が開発したTTL集積回路を使ったプログラム内蔵式の交換機へとテクノロジーが進化した。新型交換機はイリノイ州の Naperville にあるベル研究所の施設と Lisle にあるウェスタン・エレクトリックの施設で製造された。これにより交換機設置に要する床面積が劇的に減少した。また、新型交換機には自動診断ソフトウェアが搭載され、保守要員を減らすことに寄与した。これらの技術については、Bell Labs Technical Journals などでよく紹介されていた。
1980年代には、TDMAおよびCDMAという携帯電話で使われる技術の特許を取得。1982年、ホルスト・シュテルマーと、ベル研究所研究員だったロバート・ラフリンとダニエル・ツイが、分数量子ホール効果を発見(1998年にノーベル賞を受賞)。1983年、ビャーネ・ストロヴストルップがC言語を拡張したC++を開発。これもベル研究所で生まれた。
1984年、Auston らがピコ秒電磁放射の光伝導アンテナを世界で初めてデモンストレーションした。これは今では、テラヘルツ時間領域分光の重要な部分を担っている。1984年、数学者ナレンドラ・カーマーカーがカーマーカー線形計画法を開発した。同じく1984年、アメリカ連邦政府がAT&Tの分割を決定した。分割された地域ベル電話会社のために、ベル研究所から Bellcore(現 Telcordia Technologies)が分離。AT&T本体は、ベル研究所に関する部分でのみ伝統的なベルのマークを使えるという制限を受けた。これまで正式名称は Bell Telephone Laboratories, Inc. だったが、AT&T Bell Laboratories, Inc. に改称され、ウェスタン・エレクトリックが改称してできたAT&Tテクノロジーズの100%子会社となった。このころ新世代の交換機(5ESS Switch)を開発している。1985年、スティーブン・チューのチームがレーザー冷却により原子を捕獲する技術を開発した。同じく1985年、UNIXの後継として Plan 9オペレーティングシステムの開発を開始。1988年、大西洋横断海底ケーブルとして初めて光ファイバーを使った TAT-8 が敷設された。
1990年、世界初の無線LAN WaveLAN を開発。無線LAN技術は1990年代末ごろまで広まらず、最初にデモンストレーションしたのは1995年だった。1991年、Nuri Dağdeviren と彼のチームが56Kモデムの技術を開発し、特許を取得した。1994年、フェデリコ・カパッソ(英語版)、アルフレッド・チョー、Jerome Faist らが量子カスケードレーザーを発明し、後に Claire Gmachl が更なる技術革新による改良を施した。同じく1994年、Peter Shor が量子因数分解アルゴリズムを考案。1996年、Lloyd Harriott と彼のチームがマイクロチップ上に原子幅の形を印刷するSCALPEL電子リソグラフィを発明した。デニス・リッチーらはLimboという新たな言語を使い、Plan 9 を元にして Inferno オペレーティングシステムを制作した。また、高性能データベースエンジン (Dali) を開発し、DataBlitz という名称で製品化した。
AT&Tはベル研究所を含めたAT&Tテクノロジーズを独立させ、ルーセント・テクノロジーズとした。その際、一部の研究者を引き抜き、新たにAT&T研究所を創設した。1997年、世界最小の実用的トランジスタ(60ナノメートル、原子182個ぶん)を作り出した。1998年、世界初の光ルーターを完成させ、音声とデータを同時に IPネットワーク上で転送する技術も開発した。
2000年はベル研究所にとって忙しい年になった。まず、DNAマシン(英語版)のプロトタイプを開発。3次元CGを使った広範囲な通信を可能にする漸近的ジオメトリ圧縮アルゴリズムを開発。7月には世界初の電気で発生する有機レーザーを発明(後に捏造と判明)。宇宙の暗黒物質の分布を表す大規模な地図を作成。プラスチックトランジスタを可能にする有機素材 F-15 を発明。
2002年、ヘンドリック・シェーンが超伝導に関する研究において実験データを繰り返し改竄していたこと(科学における不正行為を行っていたこと)(いわゆる「シェーン・スキャンダル(英語版)」)を理由として、解雇。ベル研究所において初めて発覚した大規模な詐欺行為であり、組織運営や他の研究員らの活動にも大きな影響を及ぼした。
2003年、マレーヒルに New Jersey Nanotechnology Laboratory を創設。
2005年、ルーセントの光ネットワーク部門の担当重役だった Jeong H. Kim が学界から戻り、ベル研究所の所長となった。
2006年4月、親会社のルーセント・テクノロジーズはアルカテルとの合併に合意した。2006年12月1日、アルカテル・ルーセントが業務を開始。ベル研究所はアメリカの国防関係の研究開発にも関わっていたため、この合併に対して合衆国政府は懸念を抱いた。ベル研究所およびルーセントとアメリカ政府との間の国家機密に関わる契約を扱うため、アメリカ人のみで構成される取締役会の別会社 LGS が創設された。
2007年12月、ルーセントのベル研究所とアルカテルの研究開発部門が合併し、新たなベル研究所となることが発表された。それまで長期にわたってベル研究所はスピンオフや解雇で人員を削減され続けていたが、この機会に久しぶりの成長を遂げた。
しかし2008年7月時点で、科学雑誌「ネイチャー」は、(ベル研で)物理学の基礎研究を行っている科学者は4人しか残っていない、と指摘した。
2008年8月28日、アルカテル・ルーセントは、ベル研究所について、基礎科学、物性物理学、半導体研究といった分野からは手を引き、ネットワーク、高速電子工学、無線ネットワーク、ナノテクノロジー、ソフトウェアといった収益に結びつきやすい分野に注力すると発表した。
2015年4月、ノキアはアルカテル・ルーセントを$166億で買収することに合意した。2016年1月14日、アルカテル・ルーセントとベル研究所は正式にノキアの傘下となった。 | [
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"text": "1924年、ウォルター・A・シューハートが製造工程の統計的管理手法として管理図を提案。シューハートは翌年設立されるベル研究所で引退するまで研究に従事した。シューハートの手法は統計的プロセス制御の基盤となった。これはシックス・シグマなどの現代的品質管理の先駆けである。",
"title": "発明と発見の歴史"
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"text": "運営開始の初年には、よそで発明されたファクシミリの世界初の公開デモンストレーションを行った。1926年、世界初のトーキー(音声と映像の同期)システムを発明した。",
"title": "発明と発見の歴史"
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"text": "1927年、テレビの長距離送受信実験として、アメリカ合衆国商務長官ハーバート・フーヴァーの動画をワシントンからニューヨークに転送する実験を成功させた。1928年、ジョン・B・ジョンソンとハリー・ナイキストが初めて熱雑音を発見し、理論的分析を行った(このため「ジョンソン・ノイズ」とも呼ぶ)。",
"title": "発明と発見の歴史"
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"text": "1920年代には、Gilbert Vernam と Joseph Mauborgne がベル研究所でワンタイムパッド式暗号を発明している。ベル研究所のクロード・シャノンが後にこの暗号が破れないことを証明した。",
"title": "発明と発見の歴史"
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"text": "1931年、カール・ジャンスキーはベル研究所で長距離通信時における定常雑音を調査し、ノイズの原因となる電波が銀河系の中心から出ていることを突き止めた。これは電波望遠鏡に通じる発見で、のちに電波天文学の始まりとなったが、通信に関する問題ではないのであまり集中して行うことはなかった。1933年、ステレオ音声信号をフィラデルフィアからワシントンD.C.に生中継した。1937年、ホーマー・ダッドリー(英語版)が世界初の電子音声合成器ヴォーダー(英語版)を発明し、デモンストレーションを行った。ベル研究所の研究員クリントン・デイヴィソンは、ジョージ・パジェット・トムソンと共に電子回折現象を発見し、ノーベル物理学賞を受賞した。これは、後のソリッドステート電子工学の基盤となった発見である。",
"title": "発明と発見の歴史"
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"text": "1940年代初め、Russell Ohl が光電セルを開発した。1943年、世界初のデジタル式音声暗号化システム SIGSALY を開発。これが第二次世界大戦中に味方同士の通信に利用された。また、真空管の6AK5はレーダーシステムに広く利用された。1947年、ジョン・バーディーン、 ウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッテンがトランジスタを発明した(1956年、ノーベル物理学賞を受賞)。ベル研究所の最重要発明品と言われている。同年、リチャード・ハミングが誤り検出訂正のためのハミング符号を発明。特許が確定する1950年までその成果は公表されなかった。1948年、クロード・シャノンが情報理論の基礎を築いた \"A Mathematical Theory of Communication\" (通信の数学的理論)を Bell System Technical Journal に発表。ベル研究所の先達であるハリー・ナイキストやラルフ・ハートレーの業績を踏まえつつ、それらを大幅に発展させた。シャノンは1949年の論文 Communication Theory of Secrecy Systems で現代暗号論の基礎を築いた。",
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"text": "ベル研究所では、ジョージ・スティビッツらが1940年代にリレーを使った計算機をいくつも開発した。",
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"text": "1950年代は、本来の電話事業の技術的サポートにおける改良が主で、マイクロ波中継、オペレーターを介さない自動即時通話、中継局、電話通信用継電器 (wire spring relay)、新型交換機(5XB)などが登場した。1953年、モーリス・カルノーがカルノー図を開発。ブール代数式を扱いやすくするツールとして重宝された。1954年、世界初の実用的な太陽電池を開発した。1956年に敷設された初の大西洋横断海底ケーブル TAT-1(スコットランド-ニューファンドランド島間)は、AT&T、ベル研究所、イギリスとカナダの電話会社が関与した。1957年、マックス・マシューズが電子音楽演算用コンピュータプログラムMUSICを開発した。MUSICシリーズは現在の多くのコンピュータミュージックプログラムの基礎となった。ロバート・C・プリムとジョゼフ・クラスカル(英語版)が新たな貪欲法アルゴリズムを開発し、コンピュータネットワーク設計を進化させた。1958年、アーサー・ショーローとチャールズ・タウンズの学術論文で初めて「レーザー」なるものが紹介された。",
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"text": "1960年代には、ダウォン・カーンとMartin Atallaが金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ(MOSFET)を発明。MOSFETは、今日の情報社会を支える大規模集積回路 (LSI) の基盤となっている。1960年12月、A.Javanらは初めての気体レーザーであるヘリウムネオンレーザーの発振に成功。1962年、Gerhard M. Sessler と James E.M. West がエレクトレットマイクを発明。1964年、Kumar Patel が炭酸ガスレーザーの発生装置を発明。1965年には、アーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンが、宇宙マイクロ波背景放射を発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞。1966年、R.W. Chang が無線通信サービスの重要な技術である直交周波数分割多重方式 (OFDM) を開発し、特許を取得した。1968年、J.R. Arthur と A.Y. Cho が分子線エピタキシー法を開発。1969年には、デニス・リッチーとケン・トンプソンがUNIXの開発を開始した。ウィラード・ボイルとジョージ・E・スミスが電荷結合素子 (CCD) を発明したのも1969年である。",
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"text": "1970年代以降、ベル研究所でも世の流れに乗って、コンピュータ関連の発明が多くなってくる。 1971年、コンピュータを使った電話交換機用のタスク優先度制御システムを Erna Schneider Hoover が開発し、世界初のソフトウェア特許を取得した。 1972年、デニス・リッチーがインタプリタ型言語Bの代わりにコンパイル型言語Cを開発し、UNIXのより良い書き直しのために採用された。 1976年、ジョージア州で世界初の光ファイバー通信システムの試験を行った。 1978年、デニス・リッチーとブライアン・カーニハンがC言語の事実上の規格書『プログラミング言語C』を出版。 1980年、世界初のワンチップ32ビットマイクロプロセッサ BELLMAC-32A がデモンストレーションで動作した(製品化は1982年)。",
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"text": "1970年代には、それまでリレーやトランジスタで構成されていた交換機から、ベル研究所が開発したTTL集積回路を使ったプログラム内蔵式の交換機へとテクノロジーが進化した。新型交換機はイリノイ州の Naperville にあるベル研究所の施設と Lisle にあるウェスタン・エレクトリックの施設で製造された。これにより交換機設置に要する床面積が劇的に減少した。また、新型交換機には自動診断ソフトウェアが搭載され、保守要員を減らすことに寄与した。これらの技術については、Bell Labs Technical Journals などでよく紹介されていた。",
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"text": "1980年代には、TDMAおよびCDMAという携帯電話で使われる技術の特許を取得。1982年、ホルスト・シュテルマーと、ベル研究所研究員だったロバート・ラフリンとダニエル・ツイが、分数量子ホール効果を発見(1998年にノーベル賞を受賞)。1983年、ビャーネ・ストロヴストルップがC言語を拡張したC++を開発。これもベル研究所で生まれた。",
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"text": "1984年、Auston らがピコ秒電磁放射の光伝導アンテナを世界で初めてデモンストレーションした。これは今では、テラヘルツ時間領域分光の重要な部分を担っている。1984年、数学者ナレンドラ・カーマーカーがカーマーカー線形計画法を開発した。同じく1984年、アメリカ連邦政府がAT&Tの分割を決定した。分割された地域ベル電話会社のために、ベル研究所から Bellcore(現 Telcordia Technologies)が分離。AT&T本体は、ベル研究所に関する部分でのみ伝統的なベルのマークを使えるという制限を受けた。これまで正式名称は Bell Telephone Laboratories, Inc. だったが、AT&T Bell Laboratories, Inc. に改称され、ウェスタン・エレクトリックが改称してできたAT&Tテクノロジーズの100%子会社となった。このころ新世代の交換機(5ESS Switch)を開発している。1985年、スティーブン・チューのチームがレーザー冷却により原子を捕獲する技術を開発した。同じく1985年、UNIXの後継として Plan 9オペレーティングシステムの開発を開始。1988年、大西洋横断海底ケーブルとして初めて光ファイバーを使った TAT-8 が敷設された。",
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"text": "1990年、世界初の無線LAN WaveLAN を開発。無線LAN技術は1990年代末ごろまで広まらず、最初にデモンストレーションしたのは1995年だった。1991年、Nuri Dağdeviren と彼のチームが56Kモデムの技術を開発し、特許を取得した。1994年、フェデリコ・カパッソ(英語版)、アルフレッド・チョー、Jerome Faist らが量子カスケードレーザーを発明し、後に Claire Gmachl が更なる技術革新による改良を施した。同じく1994年、Peter Shor が量子因数分解アルゴリズムを考案。1996年、Lloyd Harriott と彼のチームがマイクロチップ上に原子幅の形を印刷するSCALPEL電子リソグラフィを発明した。デニス・リッチーらはLimboという新たな言語を使い、Plan 9 を元にして Inferno オペレーティングシステムを制作した。また、高性能データベースエンジン (Dali) を開発し、DataBlitz という名称で製品化した。",
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"text": "AT&Tはベル研究所を含めたAT&Tテクノロジーズを独立させ、ルーセント・テクノロジーズとした。その際、一部の研究者を引き抜き、新たにAT&T研究所を創設した。1997年、世界最小の実用的トランジスタ(60ナノメートル、原子182個ぶん)を作り出した。1998年、世界初の光ルーターを完成させ、音声とデータを同時に IPネットワーク上で転送する技術も開発した。",
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"text": "2000年はベル研究所にとって忙しい年になった。まず、DNAマシン(英語版)のプロトタイプを開発。3次元CGを使った広範囲な通信を可能にする漸近的ジオメトリ圧縮アルゴリズムを開発。7月には世界初の電気で発生する有機レーザーを発明(後に捏造と判明)。宇宙の暗黒物質の分布を表す大規模な地図を作成。プラスチックトランジスタを可能にする有機素材 F-15 を発明。",
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"text": "2002年、ヘンドリック・シェーンが超伝導に関する研究において実験データを繰り返し改竄していたこと(科学における不正行為を行っていたこと)(いわゆる「シェーン・スキャンダル(英語版)」)を理由として、解雇。ベル研究所において初めて発覚した大規模な詐欺行為であり、組織運営や他の研究員らの活動にも大きな影響を及ぼした。",
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"text": "2003年、マレーヒルに New Jersey Nanotechnology Laboratory を創設。",
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"text": "2005年、ルーセントの光ネットワーク部門の担当重役だった Jeong H. Kim が学界から戻り、ベル研究所の所長となった。",
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"text": "2006年4月、親会社のルーセント・テクノロジーズはアルカテルとの合併に合意した。2006年12月1日、アルカテル・ルーセントが業務を開始。ベル研究所はアメリカの国防関係の研究開発にも関わっていたため、この合併に対して合衆国政府は懸念を抱いた。ベル研究所およびルーセントとアメリカ政府との間の国家機密に関わる契約を扱うため、アメリカ人のみで構成される取締役会の別会社 LGS が創設された。",
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"text": "2007年12月、ルーセントのベル研究所とアルカテルの研究開発部門が合併し、新たなベル研究所となることが発表された。それまで長期にわたってベル研究所はスピンオフや解雇で人員を削減され続けていたが、この機会に久しぶりの成長を遂げた。",
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"text": "しかし2008年7月時点で、科学雑誌「ネイチャー」は、(ベル研で)物理学の基礎研究を行っている科学者は4人しか残っていない、と指摘した。",
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"text": "2008年8月28日、アルカテル・ルーセントは、ベル研究所について、基礎科学、物性物理学、半導体研究といった分野からは手を引き、ネットワーク、高速電子工学、無線ネットワーク、ナノテクノロジー、ソフトウェアといった収益に結びつきやすい分野に注力すると発表した。",
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"text": "2015年4月、ノキアはアルカテル・ルーセントを$166億で買収することに合意した。2016年1月14日、アルカテル・ルーセントとベル研究所は正式にノキアの傘下となった。",
"title": "発明と発見の歴史"
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] | ベル研究所は、アメリカ合衆国の通信研究所である。もともとベルシステムの研究開発部門として設立された研究所であり、現在はノキアの子会社である。「ベル電話研究所」、略して「ベル研」とも。 | {{Infobox 研究所
| 名称 = ベル研究所<!--無記入であれば記事名が自動的に表示される-->
| Width = 250
| 画像 = Alcatel-Lucent Murray Hill.JPG
| 脚注 = ベル研究所(ニュージャージー州マレーヒル)
| 画像2 = Lucent HQ.gif
| 脚注2 = 同上
| 正式名称 = Nokia Bell Labs
| 英語名称 =
| 略称 = ベル研、Bell Labs
| 組織形態 =
| 本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK-->
| 所在国 = {{USA}}
| 所在地郵便番号 =
| 所在地 = [[ニュージャージー州]]マレーヒル
| 位置 = {{coord|40|41|00|N|74|24|03|W|display=inline,title}}
| 予算 =
| 人数 =
| 代表 =
| 所長 =
| 理事長 =
| 代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入-->
| 代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入-->
| 活動領域 =
| 設立年月日 = [[1925年]]
| 前身 =
| 設立者 =
| 廃止年月日 =
| 後身 =
| 上位組織 = [[ノキア]]
| 所管 =
| 下位組織 =
| 関連組織 =
| 拠点 =
| 保有施設 =
| 保有装置 =
| 保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など-->
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| 保有物分類2 =
| 保有物名称2 =
| 保有物分類3 =
| 保有物名称3 =
| 提供サービス =
| プロジェクト =
| 参加プロジェクト =
| 発行雑誌 =
| 出版物 =
| 特記事項 =
| ウェブサイト = http://www.bell-labs.com/
}}
[[File:Bell_Labs_Holmdel.jpg|thumb|right|200px|Bell Labs Holmdel Complex]]
'''ベル研究所'''(ベルけんきゅうじょ、Bell Laboratories)は、[[アメリカ合衆国]]の通信[[研究所]]である。もともと[[ベルシステム]]の[[研究開発]]部門として設立された研究所であり、現在は[[ノキア]]の子会社である。「'''ベル電話研究所'''」、略して「'''ベル研'''(Bell Labs)」とも。
== 概説 ==
ベル研究所とは、ベル・システム社が1920年代に設立した研究所であり、その起源は[[アレクサンダー・グラハム・ベル|グラハム・ベル]]が1880年に[[:en:Volta Prize|ボルタ賞]]の賞金で設立した[[:en:Volta Laboratory and Bureau|ボルタ研究所]]に遡る。現在は[[ノキア]]の子会社である。「Bell Laboratories」の名前は、電話の発明者Bell([[グラハム・ベル]])に由来するといわれている。
[[ニュージャージー州]][[マレーヒル]]を本拠地とし、その研究施設は世界中に点在する。
ベル研究所は、[[電話交換機]]から電話線のカバー、[[トランジスタ]]まであらゆるものの開発を行ってきた。おおまかにいうと、[[研究]]、[[システム工学]]、[[開発]]の3つに分けることができた。
研究としては主に[[電気通信]]の基礎技術に関するものであったが、[[数学]]、[[物理学]]、[[行動科学|人間行動科学]]、[[材料科学]]、[[プログラミング|コンピュータープログラミング]]理論などについて行っていた。この基礎研究に優れていることが、ベル研究所のひとつの大きな特徴であったが、2002年に[[ヘンドリック・シェーン]]による[[科学における不正行為]]事件が発覚。2008年に親会社によって「基礎研究から撤退する」という発表がなされる、という結果となった。
システム工学に関しては電気[[通信]]の分野で非常に複雑なシステムを作り上げている。開発としては通信網の構築に必要としたものよりも遥かに多くのものを[[ハードウェア]]、[[ソフトウェア]]どちらの分野でも開発した。
== 起源と所在地の変遷 ==
{{See also|en:Volta Laboratory and Bureau}}
[[1925年]]に当時の[[AT&Tコーポレーション|AT&T]]社長ウォルター・グリフォードが独立事業としてベル研究所を設立した。もともとは[[ウェスタン・エレクトリック]]社の研究部門とAT&Tの技術部門を引き継いだもので、AT&Tとウェスタン・エレクトリック社がそれぞれ50%ずつ[[出資]]した。最初の研究所長は [[:en:Frank B. Jewett|Frank B. Jewett]] で、1940年まで所長を務めた。[[電話交換機]]など、AT&T向けにウェスタン・エレクトリックが製造する装置の[[設計]]とサポートを主な業務としていた。電話会社向けのサポート業務としては、包括的な技術[[マニュアル]](手引書)のシリーズ [[:en:Bell System Practices]] (BSP) の執筆と保守がある。親会社に対する[[コンサルティング|コンサルタント業務]]も行った。また、[[ナイキミサイル|プロジェクト・ナイキ]]や[[アポロ計画]]などアメリカ政府の仕事も請け負った。基礎研究に携わる人員はごく一部だが、[[ノーベル賞]]受賞者を何人か輩出したこともあって、特に注目を浴びた。[[1940年代]]までベル研究所の本拠地は[[ニューヨーク]][[市街地|市内]]の[[オフィスビル|ビル]]を中心として点在していたが、そのほとんどはニューヨーク[[郊外]]の[[ニュージャージー州]]に移転された。
ニュージャージー州内のベル研究所の所在地としては、{{仮リンク|マレーヒル|en|Murray Hill, New Jersey}}、{{仮リンク|ホルムデル|en|Holmdel Township, New Jersey}}([[:en:Bell Labs Holmdel Complex]])、{{仮リンク|クロフォードヒル|en|Crawford Hill}}、Deal Test Site、フリーホールド、リンクロフト、[[ロングブランチ (ニュージャージー州)|ロングブランチ]]、[[ミドルタウン (ニュージャージー州)|ミドルタウン]]、[[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]、ピスカタウェイ、レッドバンク、ホイッパニーがある。このうち、クロフォードヒルとホイッパニーの研究所は現存している。[[エーロ・サーリネン]]が設計した[[ニュージャージー州]][[ホルムデル]]の建物([[:en:Bell Labs Holmdel Complex|en]])は、現在は売却されて無人のまま放置されているが、複合商業施設に改装される予定。従業員が多いのは[[イリノイ州]][[シカゴ]]近郊の Naperville や Lisle のあたりで、2001年までは最も集中していた(約1万1000人)。他に従業員が集中していた地域として、[[オハイオ州]][[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]、[[マサチューセッツ州]]ノースアンドーバー、[[ペンシルベニア州]][[アレンタウン (ペンシルベニア州)|アレンタウン]]、ペンシルベニア州[[レディング (ペンシルベニア州)|レディング]]、ペンシルベニア州ブレイングスビル、[[コロラド州]][[ウェストミンスター (コロラド州)|ウェストミンスター]]などがある。これらは2001年以降には規模が縮小されるか、完全に閉鎖された。
== 発明と発見の歴史 ==
ベル研究所の絶頂期には、その施設は当時としては最先端であり、様々な革新的技術([[電波望遠鏡]]、[[トランジスタ]]、[[レーザー]]、[[情報理論]]、[[UNIX]][[オペレーティングシステム]]、[[C言語]]など)を開発していた。ベル研究所での研究により、これまでに7つの[[ノーベル賞]]を獲得している<ref>[http://www.alcatel-lucent.com/wps/portal/BellLabs/AwardsandRecognition#tabAnchor2 List of Awards]</ref>。
* 1937年、[[クリントン・デイヴィソン]]は(レスター・ジャマーと共に)物質波の性質を確認したことでノーベル物理学賞を受賞。
* 1956年、[[ジョン・バーディーン]]、 [[ウィリアム・ショックレー]]、[[ウォルター・ブラッテン]]は、[[トランジスタ]]の発明でノーベル物理学賞を受賞。
* 1977年、[[フィリップ・アンダーソン]]は、ガラスや磁性物質の電子構造の研究についてノーベル物理学賞を共同受賞。
* 1978年、[[アーノ・ペンジアス]]と[[ロバート・ウッドロウ・ウィルソン|ロバート・W・ウィルソン]]は、[[宇宙マイクロ波背景放射]]を発見し、ノーベル物理学賞を受賞。
* 1997年、[[スティーブン・チュー]]は、[[レーザー冷却]]により原子を捕獲する技術の開発でノーベル物理学賞を受賞。
* 1998年、[[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー|ホルスト・シュテルマー]]、[[ロバート・B・ラフリン|ロバート・ラフリン]]、[[ダニエル・ツイ]]は、[[量子ホール効果|分数量子ホール効果]]の発見により、ノーベル物理学賞を受賞。
* 2009年、[[ウィラード・ボイル]]と[[ジョージ・E・スミス]]は、[[チャールズ・K・カオ]]と共にノーベル物理学賞を共同受賞。ボイルとスミスの受賞理由は、撮像半導体回路である[[CCDイメージセンサ]]の発明。
=== 1920年代 ===
1924年、[[ウォルター・A・シューハート]]が製造工程の統計的管理手法として[[管理図]]を提案。シューハートは翌年設立されるベル研究所で引退するまで研究に従事した。シューハートの手法は[[統計的プロセス制御]]の基盤となった。これは[[シックス・シグマ]]などの現代的品質管理の先駆けである。
運営開始の初年には、よそで発明された[[ファクシミリ]]の世界初の公開デモンストレーションを行った。1926年、世界初の[[トーキー]](音声と映像の同期)システムを発明した<ref>[http://www.britannica.com/eb/article-9015241 Encyclopædia Britannica Article]</ref>。
1927年、[[テレビ]]の長距離送受信実験として、[[アメリカ合衆国商務長官]][[ハーバート・フーヴァー]]の動画をワシントンからニューヨークに転送する実験を成功させた。1928年、ジョン・B・ジョンソンと[[ハリー・ナイキスト]]が初めて[[熱雑音]]を発見し、理論的分析を行った(このため「ジョンソン・ノイズ」とも呼ぶ)。
1920年代には、Gilbert Vernam と Joseph Mauborgne がベル研究所で[[ワンタイムパッド]]式[[暗号]]を発明している。ベル研究所の[[クロード・シャノン]]が後にこの暗号が破れないことを証明した。
=== 1930年代 ===
[[ファイル:Green Banks - Jansky Antena.jpg|thumb|カール・ジャンスキーが研究に使ったアンテナのレプリカ]]
1931年、[[カール・ジャンスキー]]はベル研究所で長距離通信時における定常雑音を調査し、ノイズの原因となる[[電波]]が[[銀河系]]の中心から出ていることを突き止めた。これは[[電波望遠鏡]]に通じる発見で、のちに[[電波天文学]]の始まりとなったが、通信に関する問題ではないのであまり集中して行うことはなかった。1933年、[[ステレオ]]音声信号を[[フィラデルフィア]]から[[ワシントンD.C.]]に生中継した。1937年、{{仮リンク|ホーマー・ダッドリー|en|Homer Dudley}}が世界初の電子[[音声合成]]器{{仮リンク|ヴォーダー|en|Voder}}を発明し、デモンストレーションを行った。ベル研究所の研究員[[クリントン・デイヴィソン]]は、[[ジョージ・パジェット・トムソン]]と共に[[電子回折]]現象を発見し、ノーベル物理学賞を受賞した。これは、後の[[ソリッドステート]]電子工学の基盤となった発見である。
=== 1940年代 ===
[[ファイル:Replica-of-first-transistor.jpg|thumb|left|1947年、ベル研究所で発明された点接触型[[ゲルマニウム]][[トランジスタ]]。この画像はレプリカ]]
1940年代初め、Russell Ohl が[[光起電力効果|光電セル]]を開発した。1943年、世界初のデジタル式[[音声暗号化|音声暗号化システム]] [[SIGSALY]] を開発。これが第二次世界大戦中に味方同士の通信に利用された。また、真空管の[[6AK5]]はレーダーシステムに広く利用された。1947年、[[ジョン・バーディーン]]、 [[ウィリアム・ショックレー]]、[[ウォルター・ブラッテン]]が[[トランジスタ]]を発明した(1956年、ノーベル物理学賞を受賞)。ベル研究所の最重要発明品と言われている。同年、[[リチャード・ハミング]]が[[誤り検出訂正]]のための[[ハミング符号]]を発明。特許が確定する1950年までその成果は公表されなかった。1948年、[[クロード・シャノン]]が[[情報理論]]の基礎を築いた "A Mathematical Theory of Communication" ([[通信の数学的理論]])を ''Bell System Technical Journal'' に発表。ベル研究所の先達である[[ハリー・ナイキスト]]や[[ラルフ・ハートレー]]の業績を踏まえつつ、それらを大幅に発展させた。シャノンは1949年の論文 ''Communication Theory of Secrecy Systems'' で現代暗号論の基礎を築いた。
ベル研究所では、[[ジョージ・スティビッツ]]らが1940年代に[[継電器|リレー]]を使った計算機をいくつも開発した。
* モデルI - Complex Number Calculator。1940年1月完成。[[複素数]]の計算ができる。
* モデルII - Relay Calculator または Relay Interpolator。1943年9月。高射砲の照準計算用。
* モデルIII - Ballistic Computer。1944年6月。弾道計算用。
* モデルIV - Bell Laboratories Relay Calculator。1945年3月。Ballistic Computer の後継機。
* モデルV - Bell Laboratories General Purpose Relay Calculator。1946年7月と1947年2月に2台制作。リレー式の汎用プログラマブル計算機。
* モデルVI - 1950年11月。モデルVの拡張版。
=== 1950年代 ===
1950年代は、本来の電話事業の技術的サポートにおける改良が主で、[[マイクロ波]]中継、オペレーターを介さない自動即時通話、[[中継局]]、電話通信用[[継電器]] (wire spring relay)、新型交換機(5XB)などが登場した。1953年、モーリス・カルノーが[[カルノー図]]を開発。[[ブール代数]]式を扱いやすくするツールとして重宝された。1954年、世界初の実用的な[[太陽電池]]を開発した<ref name="NREL_SiCellHistory">[http://www.nrel.gov/docs/fy04osti/33947.pdf John Perlin, The Silicon Solar Cell Turns 50]</ref>。1956年に敷設された初の大西洋横断[[海底ケーブル]] TAT-1(スコットランド-ニューファンドランド島間)は、AT&T、ベル研究所、イギリスとカナダの電話会社が関与した。1957年、[[マックス・マシューズ]]が電子音楽演算用コンピュータプログラム[[MUSIC-N|MUSIC]]を開発した。MUSICシリーズは現在の多くの[[コンピュータ音楽|コンピュータミュージック]]プログラムの基礎となった。[[ロバート・C・プリム]]と{{仮リンク|ジョゼフ・クラスカル|en|Joseph Kruskal}}が新たな[[貪欲法]]アルゴリズムを開発し、[[コンピュータネットワーク]]設計を進化させた。1958年、[[アーサー・ショーロー]]と[[チャールズ・タウンズ]]の学術論文で初めて「[[レーザー]]」なるものが紹介された。
=== 1960年代 ===
1960年代には、[[ダウォン・カーン]]とMartin Atallaが金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ([[MOSFET]])を発明。MOSFETは、今日の情報社会を支える大規模[[集積回路]] (LSI) の基盤となっている。1960年12月、A.Javanらは初めての[[気体レーザー]]である[[ヘリウムネオンレーザー]]の発振に成功。1962年、[[:en:Gerhard M. Sessler|Gerhard M. Sessler]] と [[:en:James Edward Maceo West|James E.M. West]] が[[マイクロフォン#エレクトレットコンデンサマイク|エレクトレットマイク]]を発明。1964年、[[:en:C. Kumar N. Patel|Kumar Patel]] が[[炭酸ガスレーザー]]の発生装置を発明。1965年には、[[アーノ・ペンジアス]]と[[ロバート・ウッドロウ・ウィルソン|ロバート・W・ウィルソン]]が、[[宇宙マイクロ波背景放射]]を発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞。1966年、R.W. Chang が無線通信サービスの重要な技術である[[直交周波数分割多重方式]] (OFDM) を開発し、特許を取得した。1968年、J.R. Arthur と A.Y. Cho が[[分子線エピタキシー法]]を開発。1969年には、[[デニス・リッチー]]と[[ケン・トンプソン]]が[[UNIX]]の開発を開始した。[[ウィラード・ボイル]]と[[ジョージ・E・スミス]]が[[CCDイメージセンサ|電荷結合素子]] (CCD) を発明したのも1969年である。
=== 1970年代 ===
1970年代以降、ベル研究所でも世の流れに乗って、コンピュータ関連の発明が多くなってくる。
1971年、コンピュータを使った[[電話交換機]]用のタスク優先度制御システムを Erna Schneider Hoover が開発し、世界初の[[ソフトウェア特許]]を取得した。
1972年、[[デニス・リッチー]]がインタプリタ型言語[[B言語|B]]の代わりにコンパイル型言語[[C言語|C]]を開発し、[[UNIX]]のより良い書き直し<ref>worse is better rewrite</ref>のために採用された。
1976年、[[ジョージア州]]で世界初の[[光ファイバー]]通信システムの試験を行った。
1978年、デニス・リッチーと[[ブライアン・カーニハン]]がC言語の事実上の規格書『プログラミング言語C』を出版。
1980年、世界初のワンチップ[[32ビット]][[マイクロプロセッサ]] BELLMAC-32A がデモンストレーションで動作した(製品化は1982年)。
1970年代には、それまでリレーやトランジスタで構成されていた交換機から、ベル研究所が開発したTTL集積回路を使ったプログラム内蔵式の交換機へとテクノロジーが進化した。新型交換機はイリノイ州の Naperville にあるベル研究所の施設と Lisle にある[[ウェスタン・エレクトリック]]の施設で製造された。これにより交換機設置に要する床面積が劇的に減少した。また、新型交換機には自動診断ソフトウェアが搭載され、保守要員を減らすことに寄与した。これらの技術については、Bell Labs Technical Journals などでよく紹介されていた{{要出典|date=2009年8月}}。
=== 1980年代 ===
1980年代には、[[時分割多元接続|TDMA]]および[[符号分割多元接続|CDMA]]という携帯電話で使われる技術の特許を取得。1982年、[[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー|ホルスト・シュテルマー]]と、ベル研究所研究員だった[[ロバート・B・ラフリン|ロバート・ラフリン]]と[[ダニエル・ツイ]]が、[[量子ホール効果|分数量子ホール効果]]を発見(1998年にノーベル賞を受賞)。1983年、[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]がC言語を拡張した[[C++]]を開発。これもベル研究所で生まれた。
1984年、Auston らがピコ秒電磁放射の[[光伝導アンテナ]]を世界で初めてデモンストレーションした。これは今では、[[テラヘルツ時間領域分光]]の重要な部分を担っている。1984年、数学者[[ナレンドラ・カーマーカー]]が[[カーマーカーのアルゴリズム|カーマーカー線形計画法]]を開発した。同じく1984年、アメリカ連邦政府がAT&Tの分割を決定した。分割された[[地域ベル電話会社]]のために、ベル研究所から Bellcore(現 Telcordia Technologies)が分離。AT&T本体は、ベル研究所に関する部分でのみ伝統的なベルのマークを使えるという制限を受けた。これまで正式名称は '''Bell Telephone Laboratories, Inc.''' だったが、'''AT&T Bell Laboratories, Inc.''' に改称され、[[ウェスタン・エレクトリック]]が改称してできたAT&Tテクノロジーズの100%子会社となった。このころ新世代の交換機(5ESS Switch)を開発している。1985年、[[スティーブン・チュー]]のチームが[[レーザー冷却]]により原子を捕獲する技術を開発した。同じく1985年、[[UNIX]]の後継として [[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]オペレーティングシステムの開発を開始。1988年、大西洋横断海底ケーブルとして初めて光ファイバーを使った TAT-8 が敷設された。
=== 1990年代 ===
1990年、世界初の[[無線LAN]] WaveLAN を開発。無線LAN技術は1990年代末ごろまで広まらず、最初にデモンストレーションしたのは1995年だった。1991年、Nuri Dağdeviren と彼のチームが56K[[モデム]]の技術を開発し、特許を取得した。1994年、[[フェデリコ・カパッソ]]、[[アルフレッド・チョー]]、Jerome Faist らが[[量子カスケードレーザー]]を発明し、後に Claire Gmachl が更なる技術革新による改良を施した。同じく1994年、Peter Shor が量子因数分解アルゴリズムを考案。1996年、Lloyd Harriott と彼のチームがマイクロチップ上に原子幅の形を印刷するSCALPEL[[フォトリソグラフィ|電子リソグラフィ]]を発明した。デニス・リッチーらは[[Limbo (プログラミング言語)|Limbo]]という新たな言語を使い、Plan 9 を元にして [[Inferno (オペレーティングシステム)|Inferno]] オペレーティングシステムを制作した。また、高性能データベースエンジン (Dali) を開発し、DataBlitz という名称で製品化した。
AT&Tはベル研究所を含めたAT&Tテクノロジーズを独立させ、[[ルーセント・テクノロジーズ]]とした。その際、一部の研究者を引き抜き、新たにAT&T研究所を創設した。1997年、世界最小の実用的トランジスタ(60[[ナノメートル]]、原子182個ぶん)を作り出した。1998年、世界初の[[光ルーター]]を完成させ、音声とデータを同時に [[IPネットワーク]]上で転送する技術も開発した。
=== 2000年代 ===
2000年はベル研究所にとって忙しい年になった。まず、{{仮リンク|DNAマシン|en|DNA machine}}のプロトタイプを開発。3次元CGを使った広範囲な通信を可能にする漸近的ジオメトリ圧縮アルゴリズムを開発。7月には世界初の電気で発生する[[色素レーザー|有機レーザー]]を発明<ref>{{cite journal
|author1=J. H. Schön |author2=Ch. Kloc |author3=A. Dodabalapur |author4=B. Batlogg |year=2000
|title=An Organic Solid State Injection Laser
|journal=Science
|volume=289 |issue=5479 |pages=599–601
|bibcode=2000Sci...289..599S
|doi=10.1126/science.289.5479.599
|pmid=10915617
}}</ref><ref>これに関しては [http://optipedia.info/laser-handbook/laser-handbook-ex-section/yu/organic-semiconcluctor-laser/ その真偽に関する調査がおこなわれた]</ref>(後に捏造と判明)。宇宙の[[暗黒物質]]の分布を表す大規模な地図を作成。[[有機半導体|プラスチックトランジスタ]]を可能にする有機素材 F-15 を発明。
2002年、[[ヘンドリック・シェーン]]が[[超伝導]]に関する研究において実験データを繰り返し改竄していたこと([[科学における不正行為]]を行っていたこと)(いわゆる「'''{{仮リンク|シェーン・スキャンダル|en|Schön scandal}}'''」)を理由として、解雇。ベル研究所において初めて発覚した大規模な詐欺行為であり、組織運営や他の研究員らの活動にも大きな影響を及ぼした。
2003年、マレーヒルに New Jersey Nanotechnology Laboratory を創設<ref>[http://www.njnano.org/resources/index.shtml New Jersey Nanotechnology Consortium. Profile] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080530113227/http://www.njnano.org/resources/index.shtml |date=2008年5月30日 }}</ref>。
2005年、ルーセントの光ネットワーク部門の担当重役だった Jeong H. Kim が学界から戻り、ベル研究所の所長となった。
2006年4月、親会社のルーセント・テクノロジーズは[[アルカテル・ルーセント|アルカテル]]との合併に合意した。2006年12月1日、[[アルカテル・ルーセント]]が業務を開始。ベル研究所はアメリカの国防関係の研究開発にも関わっていたため、この合併に対して[[アメリカ合衆国連邦政府|合衆国政府]]は懸念を抱いた。ベル研究所およびルーセントとアメリカ政府との間の国家機密に関わる契約を扱うため、アメリカ人のみで構成される取締役会の別会社 [http://www.lgsinnovations.com LGS] が創設された。
2007年12月、ルーセントのベル研究所とアルカテルの研究開発部門が合併し、新たなベル研究所となることが発表された。それまで長期にわたってベル研究所はスピンオフや解雇で人員を削減され続けていたが、この機会に久しぶりの成長を遂げた。
しかし<u>2008年7月時点で、科学雑誌「[[ネイチャー]]」は、(ベル研で)物理学の基礎研究を行っている科学者は4人しか残っていない、と指摘した</u><ref>{{cite web|url= http://www.nature.com/news/2008/080820/full/454927a.html |title=Access : Bell Labs bottoms out : Nature News |publisher=Nature.com |author=Geoff Brumfiel |date= |accessdate=2008-09-14}}</ref>。
2008年8月28日、アルカテル・ルーセントは、ベル研究所について、<u>基礎科学、物性物理学、半導体研究といった分野からは手を引き</u>、ネットワーク、高速電子工学、無線ネットワーク、ナノテクノロジー、ソフトウェアといった収益に結びつきやすい分野に注力すると発表した<ref>{{cite web |url= http://blog.wired.com/gadgets/2008/08/bell-labs-kills.html |first=Priya |last=Ganapati |title=Bell Labs Kills Fundamental Physics Research |date=2008-08-27 |accessdate=2008-08-28 |work=[[WIRED (雑誌)|Wired]] }}</ref>。
=== 2010年代 ===
2015年4月、[[ノキア]]はアルカテル・ルーセントを$166億で買収することに合意した<ref>[http://company.nokia.com/en/news/press-releases/2015/04/15/nokia-and-alcatel-lucent-to-combine-to-create-an-innovation-leader-in-next-generation-technology-and-services-for-an-ip-connected-world Nokia and Alcatel-Lucent to Combine to Create an Innovation Leader in Next Generation Technology and Services for an IP Connected World]</ref><ref>[http://www.nytimes.com/2015/04/16/business/dealbook/nokia-and-alcatel-lucent-takeover-deal-announced.html Nokia Agrees to $16.6 Billion Takeover of Alcatel-Lucent]</ref>。2016年1月14日、アルカテル・ルーセントとベル研究所は正式にノキアの傘下となった。
== 関連項目 ==
*[[ノキア]] - 親会社
*[[アルカテル・ルーセント]] - かつての親会社
*[[ルーセント・テクノロジー]] - かつての親会社
*[[ウォルター・A・シューハート]] - ベル研究所の技術者 - 「統計的品質管理の父」
*[[ジョージ・スティビッツ]] - ベル研究所の技術者 - 「デジタルコンピュータの父」
*[[ウォレンサック]] - 同社製の[[高速度撮影]]用カメラはベル研究所が開発したものである。
*[[トーキー]] - ベル研究所では、トーキーシステム ''Westrex'' も開発した。
*[[テルスター衛星]]
*[[ヘンドリック・シェーン]]- ベル研究所の元技術者
== 脚注・出典 ==
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Bell Labs}}
* [http://www.bell-labs.com/ Bell Labs]
* {{Twitter|belllabs}}
* {{Facebook|belllabs}}
* {{Instagram|belllabsnokia}}
* [http://www.bell-labs.com/about/history/timeline.html Timeline of discoveries as of 2006]
* [http://www.bell-labs.com/org/1133/Research/Acoustics/AnechoicChamber.html Bell Labs' Murray Hill anechoic chamber]
* [http://www.porticus.org/bell/bell.htm Bell System Memorial]
{{Normdaten}}
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[[Category:ベル研究所|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の研究所]]
[[Category:コンピュータ史]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 |
3,399 | アメリカ合州国 | 『アメリカ合州国』(アメリカがっしゅうこく)は、本多勝一の1970年の著書。また、この本の社会的反響によって広まったアメリカ合衆国に対する呼称でもある。英語の正式名称である“the United States of America”に、より近い訳語として提唱された。合衆国も参照。
朝日新聞に連載された本多勝一の記事をまとめて1970年に朝日新聞社から出版された単行本。1981年には文庫版が朝日文庫より出版された。1994年には『本多勝一集』第12巻として朝日新聞社より出版された。
ベトナム戦争当時、朝日新聞記者だった本多がアメリカ合衆国を黒人・先住民インディアンを中心に取材したもの。差別や貧困などを通じて、アメリカ社会の深層をえぐりだしたルポルタージュであるとして、日本で大きな反響を引き起こした。著者は本書にて「アメリカという国家は、それぞれの人種(衆)が溶け合って一つの社会を築いているとは言い難い。人種(衆)は分離され不平等なままである。単に州が寄り集まっただけである。」として、「アメリカ合衆国」でなく「アメリカ合州国」という表記を用い、一定の認識が与えられた。
本多勝一『アメリカ合州国』
齊藤毅『明治のことば 東から西への架け橋』(講談社学術文庫、2005年)によれば、「合衆国」は中国語に熟達した清代の外国人通訳官がUnited Statesの直訳として案出した訳語であり、その意味は「独立して自治権を持った各邦が一致協力して経営する国家」であるという。この説が正しいとすれば「合衆」を「人種(衆)が溶け合って一つの社会を築いている」と解釈すること自体が語源を無視した誤りであることになる。
同様の研究に、宮澤俊雅「「US漢号」覚書:「合衆国」考」や、千葉謙悟「the United States と合衆國」があり、「合衆国」と表記する説の優位性を示している。 | [
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] | 『アメリカ合州国』(アメリカがっしゅうこく)は、本多勝一の1970年の著書。また、この本の社会的反響によって広まったアメリカ合衆国に対する呼称でもある。英語の正式名称である“the United States of America”に、より近い訳語として提唱された。合衆国も参照。 | {{Otheruses|[[本多勝一]]の著書|国家|アメリカ合衆国}}
『'''アメリカ合州国'''』(アメリカがっしゅうこく)は、[[本多勝一]]の1970年の著書。また、この本の社会的反響によって広まった[[アメリカ合衆国]]に対する呼称でもある。[[英語]]の正式名称である“the United States of America”に、より近い訳語として提唱された。[[合衆国]]も参照。
== 本多勝一著『アメリカ合州国』 ==
[[朝日新聞]]に連載された[[本多勝一]]の記事をまとめて[[1970年]]に[[朝日新聞社]]から出版された単行本。1981年には文庫版が朝日文庫より出版された。1994年には『本多勝一集』第12巻として朝日新聞社より出版された。
[[ベトナム戦争]]当時、[[朝日新聞]]記者だった本多が[[アメリカ合衆国]]を[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]・先住民[[インディアン]]を中心に取材したもの。[[差別]]や[[貧困]]などを通じて、アメリカ社会の深層をえぐりだした[[ルポルタージュ]]であるとして、日本で大きな反響を引き起こした。著者は本書にて「アメリカという国家は、それぞれの人種(衆)が溶け合って一つの社会を築いているとは言い難い。人種(衆)は分離され不平等なままである。単に州が寄り集まっただけである。」として、「アメリカ合衆国」でなく「アメリカ合州国」という表記を用い、一定の認識が与えられた。
=== 書誌情報 ===
本多勝一『アメリカ合州国』
* 朝日新聞出版、1970年、{{国立国会図書館書誌ID|R100000002-I000001184090-00}}
* 朝日新聞社出版局、朝日文庫、1981年、{{ISBN2|978-4022608031}}
* 『本多勝一集』第12巻、朝日新聞社、1994年、{{国立国会図書館書誌ID|R100000001-I089722755-00}}
== 異論 ==
[[齊藤毅]]『明治のことば 東から西への架け橋』(講談社学術文庫、2005年)によれば、「[[合衆国]]」は中国語に熟達した清代の外国人通訳官がUnited Statesの直訳として案出した訳語であり、その意味は「独立して自治権を持った各邦が一致協力して経営する国家」であるという<ref>{{Cite web|和書|author=松永英明 |url=https://www.kotono8.com/2004/06/17united-states.html |title=アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集 |website=絵文録ことのは |date=2004-06-17 |accessdate=2022-11-17}}</ref>。この説が正しいとすれば「合衆」を「人種(衆)が溶け合って一つの社会を築いている」と解釈すること自体が語源を無視した誤りであることになる。
同様の研究に、[[宮澤俊雅]]「「US漢号」覚書:「合衆国」考」や<ref>{{Cite journal|和書|author=宮澤俊雅 |title=「US漢号」覚書 : 「合衆国」考 |date=2003-02-28 |publisher=北海道大学文学研究科 |journal=北海道大学文学研究科紀要 |volume=109 |hdl=2115/34040 |pages=101-157}}</ref>、[[千葉謙悟]]「the United States と合衆國」があり<ref>{{Cite journal|和書|author=千葉謙悟 |title=the United Statesと「合衆國」-中西言語文化接触の視点から- |year=2003 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |journal=英文学フランス文学ドイツ文学ロシヤ文学中国文学 |volume=49 |issn=1341-7525 |hdl=2065/8485 |pages=217-227}}</ref>、「合衆国」と表記する説の優位性を示している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:あめりかかつしゆうこく}}
[[Category:アメリカ合衆国に関する書籍]]
[[Category:日本のノンフィクション書籍]]
[[Category:1970年の書籍]]
[[Category:朝日新聞出版]] | 2003-03-04T15:54:32Z | 2023-10-07T02:03:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E5%B7%9E%E5%9B%BD |
3,400 | 英祖 (琉球国王) | 英祖(えいそ、1229年(紹定2年)? - 1299年8月31日(大徳3年8月5日)?)は、『中山世鑑』や『中山世譜』などの琉球王国の歴史書に登場する王である。神号は英祖日子(ゑぞのてだこ)。
なお、歴史上国号が「琉球国中山」に定まるのは中国(明)に朝貢した1372年以降の事であり、これは史書による追封号と言う事になる。
史書によると、英祖は沖縄本島で最初に王朝を築いた神の子の王統とされる天孫氏の最後の王、思金松兼王(25代目)の四男・西原王子(思次良金)の世子である伊祖城の恵祖世主(浦添按司)の子であり、舜天王統の義本からの禅譲を受けた事で5代の国王が90年間にわたり英祖王統系図となった。英祖王統の基礎を作った国王とされる。また、彼の生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ(太陽の子、の意)」とも呼ばれたという。
「古琉球三山由来記集」によれば仲昔中山英祖王の称号であり親の恵祖世主はやはり天孫氏後裔と伝わる。第一尚氏が興るまでの古琉球三山の按司豪族の多くが英祖に連なると伝わる。
『おもろさうし』巻十二・六七一では、「伊(ゑ)祖の戦思(も)ひ」と記されているが、この「いくさもい(イクサモヒ)」とは英祖の若い頃の尊称であり(『おもろさうし』の原注に記述あり)、「戦いに勝れた人」の意である。
なお、英祖在位中の13世紀半ば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧を称した。英祖はその徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立、琉球における仏教の始まりとされている。(『琉球国由来記巻十』・「琉球国諸寺旧記序」)
浦添市にある浦添ようどれは英祖の存在を示す数少ない史跡である。
「日本への二度の元寇で日本上陸に失敗した元軍は1291年に沖縄への上陸を試みて沖縄へと攻め入ってきたが英祖が撃退した」と言われる事があるが、1291年に元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、この逸話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想であるとの説がある。
(系譜は伝記による) | [
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}
] | 英祖は、『中山世鑑』や『中山世譜』などの琉球王国の歴史書に登場する王である。神号は英祖日子(ゑぞのてだこ)。 なお、歴史上国号が「琉球国中山」に定まるのは中国(明)に朝貢した1372年以降の事であり、これは史書による追封号と言う事になる。 | {{単一の出典|date=2014年3月2日 (日) 16:41 (UTC)|ソートキー=人1299年没}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = 英祖
| 各国語表記 =
| 君主号 = [[琉球国王|琉球国中山王]]
| 画像 =
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| 画像説明 =
| 在位 = 1260年-1299年
| 戴冠日 =
| 全名 = 英祖
| native_lang1=[[神号]]
| native_lang1_name1=英祖日子
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| native_lang2_name1=[[浦添城]]
| 出生日 = [[1229年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1299年]][[8月31日]]
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| 埋葬日 =
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| 継承者 = [[大成 (琉球国王)|大成]]
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| 配偶者1 =
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| 子女 =
| 王家 =
| 王朝 = [[英祖王統]]
| 父親 = [[恵祖世主]]
| 母親 =
}}
'''英祖'''(えいそ、[[1229年]]([[紹定]]2年)? - [[1299年]][[8月31日]]([[大徳 (元)|大徳]]3年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])?)は、『[[中山世鑑]]』や『[[中山世譜]]』などの[[琉球王国]]の歴史書に登場する王である<ref>[http://www.okinawainfo.net/rekisi/syunten.htm 沖縄の歴史 舜天・英祖王統]</ref>。神号は英祖日子(ゑぞのてだこ)<ref>{{Cite journal|和書|author=池宮正治 |date=2005-03 |url=https://hdl.handle.net/20.500.12000/2396 |title=琉球国王の神号と『おもろさうし』 |journal=日本東洋文化論集 |ISSN=1345-4781 |publisher=琉球大学法文学部 |issue=11 |pages=1-27 |id={{CRID|1050292726807403776}} |hdl=20.500.12000/2396}}</ref>。
なお、歴史上国号が「琉球国中山」に定まるのは中国([[明]])に[[朝貢]]した[[1372年]]以降の事であり、これは史書による追封号と言う事になる。
== 概要 ==
=== 系譜 ===
史書によると、英祖は[[沖縄本島]]で最初に王朝を築いた神の子の王統とされる[[天孫氏]]の最後の王、思金松兼王<ref group="注釈">'''恩'''金松兼王とも</ref>(25代目)の四男・西原王子(思次良金)の[[世子]]である[[伊祖城]]の'''恵祖世主'''(浦添按司)の子であり、[[舜天]]王統の[[義本]]からの[[禅譲]]を受けた事で5代の国王が90年間にわたり[[英祖王統]]系図となった。英祖王統の基礎を作った国王とされる。また、彼の生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ(太陽の子、の意)」とも呼ばれたという。
「古琉球三山由来記集」によれば'''仲昔中山英祖王'''の称号であり親の恵祖世主はやはり天孫氏後裔と伝わる。[[第一尚氏]]が興るまでの古琉球三山の按司豪族の多くが英祖に連なると伝わる<ref name="名前なし-1">東江長太郎「古琉球三山由来記集」(1989年) 那覇出版社、通俗琉球北山由来記の系譜</ref>。
近年、漢文學者いしゐのぞむは、福建漢字音で英祖が「あんず」(按司)、汪英紫氏が「おんあんじすい」(大按司添)、汪應祖が「おんあんず」(大按司)であるとして、古琉球の諸王について新解釋を試みてゐる<ref>令和四年二月二十日、二十七日、三月六日、八重山日報、談話連載「小チャイナと大世界」[https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0220220.html 111],[https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0220227.html 112],[https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0220306.html 113]。</ref>。
=== 治世 ===
『[[おもろさうし]]』巻十二・六七一では、「伊(ゑ)祖の戦思(も<!-- 「おもい」ではなく、「もひ」 -->)ひ」と記されているが、この「いくさもい(イクサモヒ)」とは英祖の若い頃の尊称であり(『おもろさうし』の原注に記述あり)、「戦いに勝れた人」の意である<ref>[[角田文衛]] [[上田正昭]] 監修 『古代王権の誕生 Ⅰ 東アジア編』 [[角川書店]] 2003年 p.128.</ref>。
なお、英祖在位中の[[13世紀]]半ば、[[咸淳]]年間([[1265年]]~[[1274年]])に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は[[補陀落渡海|補陀落]]僧を称した。英祖はその徳を重んじ[[浦添城]]の西に補陀落山極楽寺を建立、[[琉球]]における仏教の始まりとされている。(『[[琉球国由来記]]巻十』・「琉球国諸寺旧記序」)
[[浦添市]]にある[[浦添ようどれ]]は英祖の存在を示す数少ない史跡である<ref>沖縄門中大辞典・那覇出版社</ref>。
「日本への二度の[[元寇]]で日本上陸に失敗した[[元 (王朝)|元軍]]は[[1291年]]に[[沖縄]]への上陸を試みて沖縄へと攻め入ってきたが英祖が撃退した」と言われる事があるが、[[1291年]]に[[元 (王朝)|元軍]]が襲撃した「瑠求」は[[台湾]]のことであり、この逸話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想であるとの説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=小玉正任 |date=2012-03 |title=琉球と沖縄という名称の由来 |journal=[https://www.gakushikai.or.jp/magazine/bulletin/893.html 学士会会報] |publisher=学士会 |volume=2012 |issue=2 (No.893) |page=70 |id={{CRID|1522262180762278528}}}}</ref>。
== 家族、係累 ==
(系譜は伝記による<ref name="名前なし-1"/>)
* 父:恵祖世主(浦添按司・伊祖城主)
* 母:不詳
* 妃:不詳
* 世子:[[大成 (琉球国王)|大成]](二代目国王)
* 次男:[[湧川王子]](今帰仁城主、北山王(北山世主))
** 孫:湧川按司<small>(長子、今帰仁城主、北山王(北山世主))</small>
*** 曽孫:今帰仁按司<small>(長子、今帰仁城主、北山王)</small>
**** 玄孫:仲昔今帰仁按司<small>(今帰仁城主、丘春)</small>
***** 来孫:今帰仁仲宗根若按司<small>(今帰仁城主、[[怕尼芝]]との戦いの末に戦死)</small>
****** 昆孫:今帰仁王子<small>(後の[[伊覇按司]]一世)</small>
*** 曽孫:湧川按司二世<small>(次男)</small>
**** 玄孫:[[怕尼芝]]<small>(羽地按司、初代後北山王)</small>
***** 来孫:[[珉]]<small>(2代目 後北山王)</small>
****** 昆孫:[[攀安知]]<small>(3代目 後北山王)</small>
*三男:中城王子
*四男:北谷王子
**孫:北谷按司
*五男:大里王子
**孫:大里按司
***曽孫:大里按司<small>(島尻世主)</small>
****玄孫:南山大里王<small>(南山王)</small>
*****来孫:[[承察度]]<small>(南山王)</small>
****玄孫:大里按司
*****来孫:島添大里按司
****玄孫:越来按司
****玄孫:[[汪英紫]]<small>(大城按司、南山王)</small>
*****来孫:[[汪応祖]]<small>(南山王)</small>
******昆孫:[[他魯毎]]<small>(南山王)</small>
******昆孫:南風原按司
******昆孫:具志頭按司
******昆孫:兼城按司
******昆孫:識名按司
******昆孫:越来按司
*****来孫:越来按司
*****来孫:瀬長按司
*****来孫:達勃期
******昆孫:佐久間王子
******昆孫:豊見城按司
******昆孫:照屋按司
*****来孫:大城按司
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[琉球国王の一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{琉球国王}}
{{琉球の摂政}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えいそ}}
[[Category:琉球の君主]]
[[Category:13世紀アジアの君主]]
[[Category:1229年生]]
[[Category:1299年没]] | 2003-03-04T15:55:02Z | 2023-11-08T06:45:11Z | false | false | false | [
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"Template:基礎情報 君主"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%A5%96_(%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B) |
3,408 | パンジャーブ | パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。
パンジャーブの語源は、ペルシア語で「5つの水」を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、この地を潤す5つの河川、北から順にインダス川とその4つの大きな支流、ジェルム川、シェナブ川、ラーヴィー川(英語版)、サトレジ川に由来する。パンジャーブはこれらの大河に囲まれた地域で、灌漑によって小麦・米の生産力に優れた豊かな農地となっており、インド・パキスタン両国にとっては重要な穀倉地帯である。
現在の行政区分では、パンジャーブ州(インド、パキスタン)、ハリヤーナー州、ヒマーチャル・プラデーシュ州付近にあたる。
先史時代、インダス文明がパンジャーブにも及び、当時の都市遺跡・ハラッパーなどの痕跡を後世に残した。
古代にはガンダーラ(紀元前6世紀 - 11世紀)が栄え、中心都市はペシャーワル(現カイバル・パクトゥンクワ州)、チャールサダ(英語版)(現カイバル・パクトゥンクワ州)、タクシラ(現パンジャーブ州 (パキスタン))、フント(英語版)(現カイバル・パクトゥンクワ州)などに移り変わった。
また、紀元前6世紀以来、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の版図はインダス川流域付近まで及んでいたが、紀元前4世紀にアレクサンドロス3世(大王)率いるマケドニア王国(アルゲアス朝)軍はペルシャ王ダレイオス3世を破った後インドに侵入し、紀元前326年のヒュダスペス(ジェルム)河畔の戦いが行われた。当時、東部パンジャーブのジェルム川からシェナブ川に至る地域はパウラヴァ族(Paurava)の王であったポロスの領土となっていた。
紀元前4世紀末頃から、インダス流域を含む北西インド地方は、マウリヤ朝(マガダ国)のチャンドラグプタの版図に含まれた。紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃まで、インド・グリーク朝の治世となっていた。
1757年、マラーターのインド北西部征服(英語版)でパンジャーブが占領される。
1761年、第三次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とアワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラーター同盟に勝利。パンジャーブの領土を拡張した。
現在のヒマーチャル・プラデーシュ州付近には、Chamba、Bilaspur、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。グルカ戦争(1814年 - 1816年)を経てBritish India領となった。
1823年、ノウシェーラの戦い(英語版)でドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。
シク戦争(1845年 - 1849年)では、第一次シク戦争でラホール条約を締結しカシミール地方をイギリスに譲渡(ジャンムー・カシミール藩王国の成立)、第二次シク戦争で敗れ併合され、British Indiaのパンジャーブ州(英語版)となり、マリー(英語版)(Murree)が夏の首都となった。
1858年にイギリス領インド帝国が成立。1864年、シムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。
パンジャーブ人、en:Arain、ジャート族、en:Chamar、en:Scheduled Castes and Scheduled Tribes、ラージプート、en:Malik Jat clan、en:Khatri、en:Aheer、en:Gurjar。
住民の宗教は、イスラーム教、シク教、ヒンドゥー教の3宗教によって大別される。各宗教の信者はイギリス統治期には入り混じって暮らしていたが、現在ではおおむね前者がパキスタン領、後二者がインド領に分かれている。 | [
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] | パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。 | {{Otheruseslist|地域としてのパンジャーブ|インドの州|パンジャーブ州 (インド)|パキスタンの州|パンジャーブ州 (パキスタン)|その他の用例|パンジャーブ (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2013年6月}}
[[ファイル:Punjab_1909.jpg|thumb|1909年のパンジャーブ地図]]
[[ファイル:Red_Fort_2.jpg|thumb|赤い城(デリー)]]
[[ファイル:Clock_Tower_Faisalabad_by_Usman_Nadeem.jpg |thumb|時計塔([[ファイサラーバード]])]]
'''パンジャーブ'''('''Punjab'''あるいは'''Panjab'''、パンジャブとも)は、[[インド]]北西部から[[パキスタン]]北東部にまたがる[[地域]]。[[インド・パキスタンの分割]]の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。
== 地理 ==
パンジャーブの[[語源]]は、[[ペルシア語]]で「5つの水」を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、この地を潤す5つの河川、北から順に[[インダス川]]とその4つの大きな支流、[[ジェルム川]]、[[シェナブ川]]、{{仮リンク|ラーヴィー川|en|Ravi River}}、[[サトレジ川]]に由来する。パンジャーブはこれらの大河に囲まれた地域で、[[灌漑]]によって[[コムギ|小麦]]・[[米]]の生産力に優れた豊かな農地となっており、インド・パキスタン両国にとっては重要な[[穀倉地帯]]である。
現在の行政区分では、パンジャーブ州([[パンジャーブ州 (インド)|インド]]、[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パキスタン]])、[[ハリヤーナー州]]、[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]付近にあたる。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|パンジャーブの歴史|en|History of the Punjab}}}}
先史時代、[[インダス文明]]がパンジャーブにも及び、当時の都市遺跡・[[ハラッパー]]などの痕跡を後世に残した。
古代には[[ガンダーラ]]([[紀元前6世紀]] - [[11世紀]])が栄え、中心都市は[[ペシャーワル]](現[[カイバル・パクトゥンクワ州]])、{{仮リンク|チャールサダ|en|Charsadda}}(現[[カイバル・パクトゥンクワ州]])、[[タキシラ|タクシラ]](現[[パンジャーブ州 (パキスタン)]])、{{仮リンク|フント (パキスタン)|en|Hund (village)|label=フント}}(現[[カイバル・パクトゥンクワ州]])などに移り変わった。
また、[[紀元前6世紀]]以来、[[ペルシア帝国|ペルシャ帝国]]([[アケメネス朝]])の版図はインダス川流域付近まで及んでいたが、[[紀元前4世紀]]に[[アレクサンドロス3世]](大王)率いる[[マケドニア王国]]([[アルゲアス朝]])軍はペルシャ王[[ダレイオス3世]]を破った後インドに侵入し、[[紀元前326年]]の[[ヒュダスペス河畔の戦い|ヒュダスペス(ジェルム)河畔の戦い]]が行われた。当時、東部パンジャーブのジェルム川からシェナブ川に至る地域は[[プール族|パウラヴァ族(Paurava)]]の王であった[[ポロス (古代インドの王)|ポロス]]の領土となっていた。
[[紀元前4世紀]]末頃から、インダス流域を含む北西インド地方は、[[マウリヤ朝]]([[マガダ国]])の[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]の版図に含まれた。[[紀元前2世紀]]頃から西暦後[[1世紀]]頃まで、[[インド・グリーク朝]]の治世となっていた。
{{節スタブ}}
[[1757年]]、{{仮リンク|マラーターのインド北西部征服|en|Maratha conquest of North-west India}}で'''パンジャーブ'''が占領される。
[[1761年]]、[[第三次パーニーパットの戦い]]で[[ドゥッラーニー朝]]と[[アワド太守]]などのムスリム同盟軍が、[[ヒンドゥー教]]の[[マラーター同盟]]に勝利。[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ]]の領土を拡張した。
現在の[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]付近には、[[:en:Chamba, Himachal Pradesh|Chamba]]、[[:en:Bilaspur, Himachal Pradesh|Bilaspur]]、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。[[グルカ戦争]]([[1814年]] - [[1816年]])を経て[[:en:Presidencies and provinces of British India|British India]]領となった。
[[1823年]]、{{仮リンク|ノウシェーラの戦い|en|Battle of Nowshera}}でドゥッラーニー朝が[[シク王国]]に敗北し、[[ペシャーワル]]一帯の領土を失い、[[カイバル峠]]を越えて撤退した。
[[シク戦争]]([[1845年]] - [[1849年]])では、[[第一次シク戦争]]で[[ラホール条約]]を締結し[[カシミール]]地方をイギリスに譲渡([[ジャンムー・カシミール藩王国]]の成立)、[[第二次シク戦争]]で敗れ併合され、[[:en:Presidencies and provinces of British India|British India]]の{{仮リンク|パンジャーブ州 (英領インド)|label=パンジャーブ州|en|Punjab Province (British India)}}となり、{{仮リンク|マリー (パキスタン)|en|Murree|label=マリー}}({{lang|en|Murree}})が夏の首都となった。
[[1858年]]に[[イギリス領インド帝国]]が成立。[[1864年]]、[[シムラー (インド)|シムラー]]が[[イギリス領インド帝国]]の夏の首都となる。
{{節スタブ}}
== 住民 ==
=== 民族 ===
[[パンジャーブ人]]、[[:en:Arain]]、[[ジャート族]]、[[:en:Chamar]]、[[:en:Scheduled Castes and Scheduled Tribes]]、[[ラージプート]]、[[:en:Malik Jat clan]]、[[:en:Khatri]]、[[:en:Aheer]]、[[:en:Gurjar]]。
=== 言語 ===
* [[パンジャーブ語]]
=== 宗教 ===
住民の宗教は、[[イスラーム教]]、[[シク教]]、[[ヒンドゥー教]]の3[[宗教]]によって大別される。各宗教の信者は[[イギリス]]統治期には入り混じって暮らしていたが、現在ではおおむね前者がパキスタン領、後二者がインド領に分かれている。
== 画像 ==
<gallery>
File:Badshahi Mosque July 1 2005 pic32 by Ali Imran (1).jpg|[[バードシャーヒー・モスク]]
File:FaizMahal.jpg|ファイズ・マハル
File:Bathinda_fort_view.jpg|バティンダの砦
File:Goldener Tempel Amritsar 2022-11-21 4.jpg|[[ハリマンディル・サーヒブ]]
</gallery>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Punjab region}}
* {{仮リンク|パンジャーブ地方 (イギリス領インド帝国)|en|Punjab Province (British India)|label=パンジャーブ地方}}
* [[パンジャーブ州 (インド)]]
* [[パンジャーブ州 (パキスタン)]]
* [[ハリヤーナー州]]
* [[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]
{{Authority control}}
{{Coord|31|74|scale:3000000|display=title}}
{{デフォルトソート:はんしやあふ}}
[[Category:パンジャーブ|*]]
[[Category:インドの地理]]
[[Category:インドの歴史]]
[[Category:パキスタンの地理]]
[[Category:南アジアの地理]]
[[Category:分割地域]] | 2003-03-04T17:49:09Z | 2023-09-29T09:46:52Z | false | false | false | [
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"Template:Lang",
"Template:Commonscat",
"Template:Coord",
"Template:Otheruseslist",
"Template:出典の明記",
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"Template:節スタブ",
"Template:Authority control"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96 |
3,409 | からっ風 | からっ風(空っ風、からっかぜ)とは、主に山を越えて吹きつける下降気流のことを指す。
山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となる。
特に群馬県で冬に見られる北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられている。また、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれる。 | [
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] | からっ風(空っ風、からっかぜ)とは、主に山を越えて吹きつける下降気流のことを指す。 山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となる。 特に群馬県で冬に見られる北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられている。また、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれる。 | '''からっ風'''(空っ風、からっかぜ)とは、主に[[山]]を越えて吹きつける[[下降気流]]のことを指す。
{{File clip | Geofeatures_map_of_Japan_ja.svg | width = 200 | 52 | 42 | 35 | 48 | w = 2322 | h = 2107 | 群馬県へその北から西の山地から風が吹き下ろす}}
山を越える際に[[温度]]、[[気圧]]ともに下がることで[[空気]]中の[[水蒸気]]が[[雨]]や[[雪]]となって山に降るため、山を越えてきた風は[[乾燥]]した状態となる。
特に[[群馬県]]で冬に見られる北西風は「[[上野国|上州]]のからっ風」として有名で、「[[赤城颪|赤城おろし]]」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられている。また、[[浜松市]]などの[[静岡県]]西部でも冬に北西風が強まり、「[[遠江国|遠州]]のからっ風」と呼ばれる<ref>浜松市公式ホームページ [http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/square/intro/shizen01.htm 「浜松市の紹介 自然・人口」]</ref>。
== 影響 ==
* 強風により看板が飛ばされるなどの被害がある。
* [[フェーン現象]]により冷え込みが抑えられるため、周辺に比べて降積雪の量が少なくなる。ただし強風による[[体感温度]]の低下({{仮リンク|ウインドチル|en|Wind chill}})がある。
* 群馬県[[尾島町]](現[[太田市]])は、[[大和いも]]の産地であり[[1970年代]]には約280haに及ぶイモ畑が町内に広がっていた。冬場はからっ風で畑の土ぼこりが広範囲に巻き上がり、洗濯物が外で乾せないばかりか、窓や戸の隙間から土ぼこりが侵入して住民が苦労していた<ref>町内総出でほこり退治『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月1日朝刊、11版、9面</ref>。
== 利活用 ==
* 強風を利用して、[[風力発電]]などが行われる。
* 乾燥・強風を利用した「天日干し」により農作物や魚などを[[干物]]に加工した[[食品工業]]が発達する。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[風]]
* [[広戸風]]
* [[やまじ風]]
* [[清川だし]]
* [[颪]]
* [[ボーラ]]
* [[ミストラル]]
* [[フェーン現象]]
* [[地球科学に関する記事の一覧]]
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[[Category:風]]
[[Category:日本の気候]]
[[Category:群馬県の地理]]
[[Category:茨城県の地理]]
[[Category:静岡県の地理]]
[[Category:冬の季語]] | null | 2023-05-04T14:26:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A3%E9%A2%A8 |
3,410 | 住民基本台帳ネットワークシステム | 住民基本台帳ネットワークシステム(じゅうみんきほんだいちょうネットワークシステム)、通称住基ネット(じゅうきネット)とは、日本において、個々の住民情報が分かれていた全国市区町村の地方公共団体と都道府県・全国センターとを専用回線で結び、住民票の4情報(氏名・生年月日・性別・住所)、住民票コードと変更情報(出生、転居などの異動事由と異動年月日)からなる「本人確認情報」により、住民の利便性の向上と国及び地方公共団体の行政の合理化に資する、居住関係を公証する住民基本台帳をネットワーク化し、全国共通の本人確認ができるシステム地方公共団体間共同システム。
各地方自治体ごとに全く別であった基本台帳事情報を全国統一規格化することで業務の効率化、その後の12桁であるマイナンバー制度に繋がる日本における国民識別番号制度の基盤となった。市区町村や都道府県間において、全国共通の本人確認が可能になり、市区町村の住民基本台帳を元に記載者に全国一律の11桁の住民票コードが割り当てられた。施行準備期間の間に総務省によるe-Japan重点計画の一環と位置付けられて稼働開始した。希望者に配布された確定申告など各電子申請に利用できた住民基本台帳カード(略称住基カード)は身分証明書機能の有無を選べた。
市区町村、都道府県、全国センター、および行政機関を結ぶ形で構成される。全国センターは指定情報機関である地方公共団体情報システム機構が運営している。
コミュニケーションサーバ(CS)という中継用のサーバが設置され、既存の業務ネットワークと住基ネット回線にそれぞれ個別のファイアウォールを介して接続する。既存の住民記録システムとは業務ネットワーク側のファイアウォールを通して通信を行う。また、CS端末と呼ぶ検索用端末があり、CSと通信して住基ネット上の情報を検索・表示することができる。CS端末はCSと同一のネットワークセグメントに置く場合と、業務ネットワーク内に置いてファイアウォール経由でCSにアクセスする場合と、両方ある。
都道府県サーバが設置されており、ファイアウォールを介して住基ネット回線に接続する。
業務/DBサーバと情報提供サーバが設置されている。業務/DBサーバは、住民票コードを割り当てられた者全ての情報を保持するものであり、情報提供サーバは行政機関からの検索に対して情報提供するものである。住基ネット回線と行政機関との通信回線の双方にファイアウォールを設置。なお、全国センターの所在地は地方公共団体情報システム機構の住所地が事務局として公にされているが、データセンターはこれとは別に2006年(平成18年)度の時点で東京都内に設置されている。セキュリティ上の観点から外観からは一切判らないようになっており、住所も非公開である。
住基ネットの回線は専用回線であるとされている。具体的には専用線ではなく、IP-VPNが今のところ用いられている。
住基ネット上には、住民基本台帳の4情報(氏名・生年月日・性別・住所)、個人番号、住民票コードとこれらの変更年月日と変更理由を含む変更情報が記録される 。
本人確認情報の開示請求や訂正の申出は、都道府県知事または指定情報処理機関に対して行うものとされている。
なお、住民票コードを民間が利用することは、法律で禁止されている。
住基ネットは既存のインターネットと同一の技術で構成されていながらも、かなりの精度で孤立したコンピュータネットワークとなっているが、導入に前後して、セキュリティやプライバシーの懸念から批判的にばかりクローズアップされた。田中康夫長野県知事は「ネットワークへの侵入実験を実施し、侵入可能である」と公表したが、実際に侵入できたのは住基ネットに接続されている庁舎内ネットワークからで当然のことであった。しかし、以後もネガティブな印象が先行し、法的に関連する個人情報保護法関連五法が成立するまでは施行を「違法」ととらえ接続しない自治体が発生し、反対運動も起きた。最終的には未接続の自治体も順次接続していき、2015年(平成27年)3月30日に福島県東白川郡矢祭町が住基ネットにまつわるセキュリティ事故はほとんど起きていないことを認め、マイナンバー制度に対応するために接続したのを最後に、全自治体の接続が完了した。
以下のような事件(主に運用面)が起きている。
これまで、住基ネットを巡って各地で憲法訴訟が提起されたほか、関係経費の費用返還を求める住民監査請求、個人情報を外部に提供しないよう求める提供中止請求、個人個人に割り当てられた住民票コードの削除請求などの行政訴訟などが提起されていた。これに対し、後述のとおり、2008年3月6日、最高裁判所第一小法廷は、住基ネットを管理、利用等する行為は憲法13条に違反しないとの判決を行った。 最高裁判決を含む住基ネットに関する訴訟の概要は以下のとおりである。
2008年(平成20年)3月6日、最高裁判所第一小法廷(涌井紀夫裁判長)は、住基ネットを管理、利用等する行為は、日本国憲法第13条に違反しないとして、大阪訴訟の高裁判決を破棄するとともに、石川訴訟他3件の上告を棄却したが、その理由の要旨は以下のとおりである。 | [
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"text": "業務/DBサーバと情報提供サーバが設置されている。業務/DBサーバは、住民票コードを割り当てられた者全ての情報を保持するものであり、情報提供サーバは行政機関からの検索に対して情報提供するものである。住基ネット回線と行政機関との通信回線の双方にファイアウォールを設置。なお、全国センターの所在地は地方公共団体情報システム機構の住所地が事務局として公にされているが、データセンターはこれとは別に2006年(平成18年)度の時点で東京都内に設置されている。セキュリティ上の観点から外観からは一切判らないようになっており、住所も非公開である。",
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"text": "住基ネットの回線は専用回線であるとされている。具体的には専用線ではなく、IP-VPNが今のところ用いられている。",
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"text": "住基ネット上には、住民基本台帳の4情報(氏名・生年月日・性別・住所)、個人番号、住民票コードとこれらの変更年月日と変更理由を含む変更情報が記録される 。",
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"text": "本人確認情報の開示請求や訂正の申出は、都道府県知事または指定情報処理機関に対して行うものとされている。",
"title": "構成"
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"text": "なお、住民票コードを民間が利用することは、法律で禁止されている。",
"title": "手続・方法"
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"text": "住基ネットは既存のインターネットと同一の技術で構成されていながらも、かなりの精度で孤立したコンピュータネットワークとなっているが、導入に前後して、セキュリティやプライバシーの懸念から批判的にばかりクローズアップされた。田中康夫長野県知事は「ネットワークへの侵入実験を実施し、侵入可能である」と公表したが、実際に侵入できたのは住基ネットに接続されている庁舎内ネットワークからで当然のことであった。しかし、以後もネガティブな印象が先行し、法的に関連する個人情報保護法関連五法が成立するまでは施行を「違法」ととらえ接続しない自治体が発生し、反対運動も起きた。最終的には未接続の自治体も順次接続していき、2015年(平成27年)3月30日に福島県東白川郡矢祭町が住基ネットにまつわるセキュリティ事故はほとんど起きていないことを認め、マイナンバー制度に対応するために接続したのを最後に、全自治体の接続が完了した。",
"title": "住基ネットに対する反対運動の発生から消滅まで"
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"text": "以下のような事件(主に運用面)が起きている。",
"title": "住基ネットに対する反対運動の発生から消滅まで"
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"text": "これまで、住基ネットを巡って各地で憲法訴訟が提起されたほか、関係経費の費用返還を求める住民監査請求、個人情報を外部に提供しないよう求める提供中止請求、個人個人に割り当てられた住民票コードの削除請求などの行政訴訟などが提起されていた。これに対し、後述のとおり、2008年3月6日、最高裁判所第一小法廷は、住基ネットを管理、利用等する行為は憲法13条に違反しないとの判決を行った。 最高裁判決を含む住基ネットに関する訴訟の概要は以下のとおりである。",
"title": "訴訟と最高裁合憲判決"
},
{
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"text": "2008年(平成20年)3月6日、最高裁判所第一小法廷(涌井紀夫裁判長)は、住基ネットを管理、利用等する行為は、日本国憲法第13条に違反しないとして、大阪訴訟の高裁判決を破棄するとともに、石川訴訟他3件の上告を棄却したが、その理由の要旨は以下のとおりである。",
"title": "訴訟と最高裁合憲判決"
}
] | 住民基本台帳ネットワークシステム(じゅうみんきほんだいちょうネットワークシステム)、通称住基ネット(じゅうきネット)とは、日本において、個々の住民情報が分かれていた全国市区町村の地方公共団体と都道府県・全国センターとを専用回線で結び、住民票の4情報(氏名・生年月日・性別・住所)、住民票コードと変更情報(出生、転居などの異動事由と異動年月日)からなる「本人確認情報」により、住民の利便性の向上と国及び地方公共団体の行政の合理化に資する、居住関係を公証する住民基本台帳をネットワーク化し、全国共通の本人確認ができるシステム地方公共団体間共同システム。 各地方自治体ごとに全く別であった基本台帳事情報を全国統一規格化することで業務の効率化、その後の12桁であるマイナンバー制度に繋がる日本における国民識別番号制度の基盤となった。市区町村や都道府県間において、全国共通の本人確認が可能になり、市区町村の住民基本台帳を元に記載者に全国一律の11桁の住民票コードが割り当てられた。施行準備期間の間に総務省によるe-Japan重点計画の一環と位置付けられて稼働開始した。希望者に配布された確定申告など各電子申請に利用できた住民基本台帳カード(略称住基カード)は身分証明書機能の有無を選べた。 | {{Law}}
'''住民基本台帳ネットワークシステム'''(じゅうみんきほんだいちょうネットワークシステム)、通称'''住基ネット'''(じゅうきネット)とは、[[日本]]において、個々の住民情報が分かれていた全国[[市区町村]]の[[地方公共団体]]と都道府県・全国センターとを専用回線で結び、[[住民票]]の4情報(氏名・生年月日・性別・住所)、[[住民票コード]]と変更情報(出生、転居などの異動事由と異動年月日)からなる「本人確認情報」により、'''住民の利便性の向上と国及び地方公共団体の行政の合理化に資する、居住関係を公証する住民基本台帳をネットワーク化し、全国共通の本人確認ができるシステム地方公共団体間共同システム'''<ref>{{Cite web|和書|title=マイナンバーと住基ネットの関係って何?|url=https://biz.moneyforward.com/mynumber/basic/my-number-resident-registration-network/|website=マイナンバーの基礎知識|マネーフォワード クラウドマイナンバー|date=2015-09-11|accessdate=2021-03-21|language=ja}}</ref>。
'''各地方自治体ごとに全く別であった基本台帳事情報'''を全国統一規格化することで業務の効率化、その後の12桁である[[個人番号|マイナンバー制度]]に繋がる日本における[[国民識別番号|国民識別番号制度]]の基盤となった。市区町村や都道府県間において、'''全国共通の本人確認が'''可能になり、市区町村の[[住民基本台帳]]を元に記載者に全国一律の11桁の[[住民票コード]]が割り当てられた。施行準備期間の間に[[総務省]]による[[e-Japan|e-Japan重点計画]]の一環と位置付けられて稼働開始した。希望者に配布された[[確定申告]]など各電子申請に利用できた'''[[住民基本台帳カード]]'''(略称''住基カード'')は身分証明書機能の有無を選べた<ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステム|url=https://www.city.chiba.jp/shimin/shimin/kusei/juukinetnituite.html|website=千葉市|accessdate=2020-05-19|language=ja|last=千葉市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステム|url=https://www.pref.kanagawa.jp/docs/v2x/cnt/f6832/index.html|website=神奈川県|accessdate=2020-05-19|language=ja|last=神奈川県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステム|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0105/juki-net/index.html|website=埼玉県|accessdate=2020-05-19|language=ja|last=埼玉県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステムとは|url=https://www.city.suginami.tokyo.jp/guide/koseki/juminhyo/1004495.html|website=杉並区公式ホームページ|accessdate=2020-05-19|language=ja|last=すぎなみ区役所}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住基ネット 習志野市ホームページ|url=https://www.city.narashino.lg.jp/kurashi/todokede/juminhyo/jukinet.html|website=www.city.narashino.lg.jp|accessdate=2020-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステム {{!}} 高崎市|url=http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013122600803/|website=www.city.takasaki.gunma.jp|accessdate=2020-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット) - 茅野市ホームページ|url=https://www.city.chino.lg.jp/soshiki/shimin/663.html|website=www.city.chino.lg.jp|accessdate=2020-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=総務省|住基ネット|住基カードについて知りたいのですが。|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/juuki07.html|website=総務省|accessdate=2020-05-19|language=ja}}</ref><ref name=":0">[https://www.fujitsu.com/jp/documents/about/resources/publications/magazine/backnumber/vol68-4/paper01.pdf マイナンバー制度の本質と今後の展望 - Fujitsu] 富士通総研経済研究所 榎並利博</ref>。
== 構成 ==
市区町村、[[都道府県]]、全国センター、および[[行政機関]]を結ぶ形で構成される<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/juuki01.html|title = 「住基ネット」って何?|publisher = 総務省|accessdate = 2014-09-08}}</ref>。全国センターは指定情報機関である[[地方公共団体情報システム機構]]が運営している<ref name="jnet_faq">{{Cite web|和書|url = https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/juuki09.html|title = その他のFAQ|publisher = 総務省|accessdate = 2014-09-08}}</ref>。
=== 市区町村 ===
コミュニケーションサーバ(CS)という中継用の[[サーバ]]が設置され、既存の業務ネットワークと住基ネット回線にそれぞれ個別の[[ファイアウォール]]を介して接続する<ref name="jnet_gaiyou">{{Cite web|和書|url = https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/old/shousai/02sec2.pdf|title = 「住民基本台帳ネットワークシステム」の概要|publisher = 住民基本台帳ネットワークシステム全国センター|accessdate = 2014-09-08}}</ref>。既存の[[住民記録システム]]とは業務ネットワーク側のファイアウォールを通して通信を行う<ref name="jnet_gaiyou" />。また、CS端末と呼ぶ検索用端末があり、CSと通信して住基ネット上の情報を検索・表示することができる<ref name="jnet_gaiyou" />。CS端末はCSと同一のネットワークセグメントに置く場合と、業務ネットワーク内に置いてファイアウォール経由でCSにアクセスする場合と、両方ある。
=== 都道府県 ===
都道府県サーバが設置されており、ファイアウォールを介して住基ネット回線に接続する<ref name="jnet_gaiyou" />。
=== 全国センター ===
業務/DBサーバと情報提供サーバが設置されている<ref name="jnet_gaiyou" />。業務/DBサーバは、住民票コードを割り当てられた者全ての情報を保持するものであり、情報提供サーバは行政機関からの検索に対して情報提供するものである<ref name="jnet_gaiyou" />。住基ネット回線と行政機関との通信回線の双方にファイアウォールを設置<ref name="jnet_gaiyou" />。なお、全国センターの所在地は地方公共団体情報システム機構の住所地が事務局として公にされているが、データセンターはこれとは別に2006年(平成18年)度の時点で[[東京都]]内に設置されている。セキュリティ上の観点から外観からは一切判らないようになっており、住所も非公開である。
=== 回線 ===
住基ネットの回線は専用回線であるとされている<ref name="jnet_gaiyou" />。具体的には[[専用線]]ではなく、[[Virtual Private Network#IP-VPN|IP-VPN]]が今のところ用いられている。
=== 記録される情報 ===
住基ネット上には、住民基本台帳の4情報([[氏名]]・[[生年月日]]・[[性別]]・[[住所]])、[[個人番号]]、[[住民票コード]]とこれらの変更年月日と変更理由を含む変更情報が記録される<ref name="jnet_faq" /><ref>{{Cite web|和書|title=JLIS 住民基本台帳ネットワークシステム|url=https://www.j-lis.go.jp/juki-net/cms_14.html|website=地方公共団体情報システム機構|accessdate=2020-06-18|language=ja}}</ref> 。
本人確認情報の開示請求や訂正の申出は、都道府県知事または指定情報処理機関に対して行うものとされている。
== 手続・方法 ==
* [[住民基本台帳]]に記録されている者であれば、特段の事前手続きなく基本的に誰でも利用できるもの。
** [[日本国旅券]]申請や[[国民年金]]・[[厚生年金]]の請求、各種検定試験の申し込みに[[住民票]]の写しの添付が不要となる(年間約460万件の添付が省略されている。平成20年度(2008年度)実績。総務省公表値<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/juuki08.html 電子政府・電子自治体における住基ネットの役割]</ref>)。
** [[老齢基礎年金]]受給者が、年1回生存している事の証明の捺印を市区町村の窓口で貰い、葉書で[[社会保険庁]](現在は[[日本年金機構]])に返信していた「年金受給権者現況届」(現況届)が[[2006年]](平成18年)12月から不要となる<ref group="注">加給年金額、加算額、加給金など加給年金額などを受け取る人(受給権者)の「生計維持確認届」と「障害状態確認届」については従来通り、はがきなどの返信方式で行う。</ref>(年間約3600万人分の現況届が省略されている。2008年(平成20年)度実績。総務省公表値)。ただし、住民基本台帳ネットワークシステムを利用して社会保険庁が確認を行うことから<ref group="注">住民基本台帳法第30条の7第3項の規定に基づき社会保険庁が行う。</ref>、住民(受給権者)の住所地市区町村が住民基本台帳ネットワークシステムに参加していないような場合には行えなかった<ref group="注">年金受給権の現況を誕生月の末日までに社会保険庁が把握できない、または各種の現況届に記入漏れがあった場合は、年金の支給が一時止まることがある。</ref><ref group="注">また「年金受給権者現況届」(現況届)が送付され返信しなければならないのは次のような場合:住基ネットに加入していない市区町村へ転出、他の市区町村に転入したが転入手続きを行っていない、外国へ転出したなど。</ref>。
** この住民基本台帳ネットワークシステムは、[[公的年金]]である[[国民年金]]および[[厚生年金]]や[[厚生年金基金]]の[[年金記録問題]]などの解決のための照合又は突合せ作業に使用される。ただし、住民である[[年金]]加入者および年金[[受給]]者の住所地市区町村が、住基ネットに参加していなければ、その作業は行えなかった。
** 居住地以外でも、住民票の写しの交付を受けることができる([[住民基本台帳カード]]・個人番号カード・[[運転免許証]]・[[日本国旅券]]など、[[官公庁]]が発行した[[証明写真]]付きの証明書が必要)。
* '''[[住民基本台帳カード]](個人番号カード)'''の交付を受けると利用できるもの
** [[身分証明書]]としての利用。 住民基本台帳カードは、氏名のみが印字されたAバージョンと、顔写真と氏名・生年月日・性別・住所を印字したBバージョンがあり、希望のカードを選択することができた。'''顔写真付きの住民基本台帳カード'''(Bバージョン)は、市町村長が交付する公的な[[身分証明書]]として使え、[[運転免許証]]や[[健康保険証]]などがなくても[[本人確認]]が行えた。このことから、高齢者が運転免許証を返上すると、特典として[[無料]]で交付される自治体もあった。
** [[転出届]]を転出先市区町村に予め郵便で届出する(付記転出届)ことにより、窓口での手続きを転入時の1回で済ませることができる(付記転入届)
** [[公的個人認証サービス]]の[[電子証明書]]・[[秘密鍵]]の保存用カードとなる([[日本の行政機関|行政機関]]および[[地方公共団体]]へのあらかじめ定められた届出や申請などにおいて、[[印鑑]]と紙の[[印鑑証明書]]の組み合わせによる個人認証に変えて、電子証明書を用いることで[[インターネット]]経由での届出・申請などを行うことができるようになる)。
* ただし、これらは住民票コードの割り当てを受けていない者や、市区町村のサーバが接続されていない市区町村に居住している者とそこへの転入者は、住基ネットを利用できないため、サービスを受けることができなかった。
なお、[[住民票コード]]を民間が利用することは、[[法律]]で禁止されている<ref name="jnet_faq" />。
== 住基ネットに対する反対運動の発生から消滅まで ==
住基ネットは既存のインターネットと同一の技術で構成されていながらも、かなりの精度で孤立した[[コンピュータネットワーク]]となっているが、導入に前後して、[[情報セキュリティ|セキュリティ]]や[[プライバシー]]の懸念から批判的にばかりクローズアップされた。[[田中康夫]]長野県知事は「ネットワークへの[[侵入実験]]を実施し、侵入可能である」と公表したが、'''実際に侵入できたのは住基ネットに接続されている庁舎内ネットワークからで当然のこと'''であった。しかし、以後もネガティブな印象が先行し<ref>{{Cite web|和書|url = https://internet.watch.impress.co.jp/static/column/jiken/2004/01/21/|title = 「住基ネット侵入実験」をめぐる総務省と長野県の知られざる暗闘|author = 佐々木俊尚|publisher = INTERNET Watch|date = 2004-01-21|accessdate = 2014-09-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=住基カードには,いったいどんなメリットがあるのか|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/OPINION/20070322/265903/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2020-05-19|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>、法的に関連する[[個人情報保護法関連五法]]が成立するまでは施行を「違法」ととらえ接続しない自治体が発生し、反対運動も起きた。最終的には未接続の自治体も順次接続していき、2015年(平成27年)3月30日に[[福島県]][[東白川郡]][[矢祭町]]が住基ネットにまつわるセキュリティ事故はほとんど起きていないことを認め、マイナンバー制度に対応するために接続したのを最後に、全自治体の接続が完了した<ref name="ITpro" /><ref>{{Cite news|date=2015-03-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150320-OYT1T50015.html|title=住基ネット、最後の未接続自治体が30日接続へ|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|accessdate=2015-03-20}}</ref>。
* 住民票の写しの取得は頻繁に利用されるようなサービスではなく、全国共通にするシステムを構築するメリットがあるか。住基ネット導入後は全国どこでも住民票の写しを取得できるとされるが、遠隔地から住民票を取得できることがメリットとなり得るか。
** 住基ネットのメリットは住民票の写しの取得に限定されたものではない。出張や転勤、引っ越しなど、他自治体へ移住・転居をする場合に導入の恩恵がある<ref name=":0" />。
* [[住民基本台帳カード|住基カード]]は市町村単位の発行であるため、転居時などに転出元への返還・転入先での新規取得を要した。そのため、住居異動の多い人にとって住基カードは、[[パスポート]]や[[運転免許証]]と違い、一度取得しても移住ごとの更新手続きの必要性があったため、身分証明書としてのメリットが少なかった<ref name=":1" />。
** 総務省はこの批判に応え、[[2009年]](平成21年)1月、一度取得すれば、転出入の際に内容と住所表記を書き換えることによって全国で通用するよう、法令を改める方針を決めた<ref name=":1">『住基カード、転居後もそのまま 総務省、法改正へ』 2009年1月19日 アサヒコム</ref>。更に[[2012年]](平成24年)[[7月9日]]より、転入届を提出した日の90日以内に所定の窓口に提出し、住所表記を書き換えることで、従前の住基カードを引き続き使用できるようになった。
以下のような事件(主に運用面)が起きている。
* [[2002年]](平成14年)[[12月26日]]、福島県[[岩代町]](現在の[[二本松市]])でバックアップ用の個人情報と住民基本台帳システム稼働用のプログラムの一部が入った磁気テープの盗難事件が発生した。[[総務省]]によれば、暗号化された情報を解読・利用するのは不可能であり、個人情報被害は無かった。
* 2006年(平成18年)[[10月21日]]に、[[東京都]][[足立区]]が住基ネットの取り扱い窓口業務16種類を、足立区の独自の判断で、民間の人材派遣会社に[[アウトソーシング]]させる予定だったことが判明した。[[総務省]]はこの対応に対し「民間委託は想定外だ」とし、[[厚生労働省]] はこの扱いについて足立区に対し説明を求め、検討の段階で民間委託を中止させた<ref>読売新聞2006.10.25 住基ネット窓口の民間委託、足立区が来年度実施を断念</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[12月]]、[[京都府]][[京都市]]在住の当時17歳の[[女子高生]]が、住基カードの交付申請書に当時同居していた19歳の姉の名前や生年月日を記入し、写真添付欄に自分の写真を張って、身分証明として'''顔写真のない保険証'''で同市東山区役所の窓口に提出することで成り済まして住基カードを取得し、同市[[祇園]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で、[[ホステス]]として働いていたことが、翌2009年(平成21年)12月になって判明。[[京都府警察|京都府警]]は、この女子高生を[[文書偽造の罪#私文書偽造等罪|有印私文書偽造・同行使]]などの容疑で[[逮捕]]したが、同市では顔写真のない本物の保険証を身分証明証として提出出来る年齢の近い同性の人物が、必要書類を揃えて申請に来た場合、防ぎようが無いとしており、新たな問題点として浮上している。京都市の担当者は、「家族や同居人による不正は想定外で、見分けるのは困難」とコメントしている。[[総務省]]は「本人確認を徹底する以外に無い」としており、住基カード作成時に必要となる身分証明を顔写真のある免許証やパスポートに限定して保険証を除外する策は取らないとしている<ref>[http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091210k0000e040078000c.html 不正住基カード:女子高生、姉名義を入手 祇園でホステス] 毎日新聞 2009年12月10日</ref><ref>『姉装い住基カード、祇園のホステスに…女子高生逮捕』読売新聞社、2009年12月10日。</ref>。
*[[兵庫県]][[加古川市]]において、同市の環境部の40代運転士と50代主査、現総務部嘱託と元市教委職員ら4人が探偵業者に2011年度と2012年度から6人分の計7件の住民基本台帳に記載された住民情報を[[探偵]]業者に漏洩して、現金を受け取っていたことを[[2013年]](平成25年)を明らかになった。警察は地方公務員法違反で捜査を開始し、市は運転士と主査らを懲戒処分する方針を示した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20130528k0000m040068000c.html 兵庫県加古川市:職員が探偵業者に住民情報漏えい 処分へ] 毎日新聞 2013年5月28日</ref>。
=== 接続反対した自治体とその後 ===
* [[神奈川県]][[横浜市]]は、将来は段階的に住基ネットに参加することを前提にする市民選択制度をとっていた。しかし、2006年(平成18年)[[5月10日]]、住基ネットの総合的な安全性が確認できたとして、2006年(平成18年)7月から全ての住民の本人確認情報を住基ネットに送信する全面参加に移行することを発表した。
* [[兵庫県]][[宝塚市]]は、2006年(平成18年)4月の市長選で「住基ネット凍結」を主張していた元[[衆議院議員]]の[[阪上善秀]]が当選したことから、同市が住基ネットを切断するのではないかと言う見方があったが、結局、市長当選後も離脱しなかった。
* [[長野県]]は、当時の[[知事]]であった[[田中康夫]]が費用対効果や安全性に対して疑問を主張し接続していなかった。その後、知事が[[村井仁]]に交替し、2008年(平成20年)1月7日、市町村からの要望などを踏まえ、32の[[法律]]に係わる事務処理のうち、5つの法律に係わるものから利用を開始。最終的に利用状況を見ながら事務の利用の拡大を計り、導入された。
* [[2010年]](平成22年)1月、愛知県名古屋市の[[河村たかし]]市長(当時)が「住基ネットの安全性に対する懸念を理由に、[[名古屋市]]を離脱させる意向である」との主張が報じられ、[[1月19日]]に[[原口一博]][[総務大臣]](当時)に対し、ネット切断を含めた対応を検討中であることを伝えたが、同年[[2月2日]]には1年間かけて安全性などを検証・議論し、離脱はしない方針を表明した。
*裁判までは起こさなかったが、プライバシー侵害について、神奈川県[[藤沢市]]と東京都[[目黒区]]の[[個人情報保護審査会]]では選択制の導入などを求める答申が出された。ただし答申だけで、その後に住基ネットは導入された。
* 東京都[[杉並区]] は、[[山田宏]]区長(当時)が[[個人情報保護法]]の成立後に横浜方式の市民選択制度を求めていたが実現しなかったため、法の下の平等に反するなどとし、[[2004年]] (平成16年)[[8月24日]] に国および東京都に対して訴えを起こした。2008年(平成20年)7月8日、区が国に求めていた「区民選択方式」の上告が[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]] で却下され、区の全面敗訴が確定した。これを受けて、杉並区は住基ネットへの全面参加を明らかにし、2009年(平成21年)1月5日から業務を開始した。これにより、東京都[[国立市]]と[[福島県]][[東白川郡]][[矢祭町]]の2自治体のみが不参加となった。
* 東京都国立市が接続していないことに起因する市の経費支出について、国立市民が市長に対する住民訴訟を起こしており<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0127/TKY201101270158_01.html 「住基ネット離脱 是非再燃――「共通番号制度」めぐり」]{{Ja icon}}『朝日新聞』2011年1月27日付夕刊、第3版、第15面</ref>、[[2011年]](平成23年)[[2月4日]]、東京地裁は、住基ネットからの離脱は違法と指摘した上で、一部経費の支出差し止めと支出の一部を市に返還することを市長に命じた<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0204/TKY201102040360.html 「国立市の住基ネット離脱に違法判決 東京地裁」]{{Ja icon}} asahi.com 2011年2月5日。</ref>。2012年(平成24年)2月、国立市が約9年間ぶりに再接続した。これにより、不参加の自治体は矢祭町のみとなった<ref>[http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/shomei/5393/005394.html 住民基本台帳カード(住基カード)の発行、平成24年2月1日からサービス開始をします] 国立市 2012年(平成24年)1月27日</ref><ref>2012年2月1日 接続再開 [http://sankei.jp.msn.com/life/news/120201/trd12020109310008-n1.htm 住基ネットを再接続 9年間にわたり離脱の東京・国立市] 産経ニュース 2012年2月1日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月30日、住基ネットに13年間で唯一未接続だった矢祭町は「セキュリティに関する不安が完全に払拭されたわけではないが、住基ネットにまつわるセキュリティ事故はほとんど起きていない。住基ネットは、マイナンバー制度施行後に町が行う法定受託事務の前提になる。接続しないという選択肢はなかった」と住基ネットへ接続。これをもって全ての自治体が住基ネットワークに接続することになった<ref name="ITpro">{{Cite news|author=清嶋 直樹|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/watcher/14/334361/050100262/|title=マイナンバーで遂に住基ネット接続、国に反旗を翻した東北の町の13年|newspaper=ITpro|publisher=[[日経BP]]|date=2015-05-11|accessdate=2015-05-14}}</ref><ref>{{Cite news|date=2015-03-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150320-OYT1T50015.html|title=住基ネット、最後の未接続自治体が30日接続へ|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|accessdate=2015-03-20}}</ref>。
== 訴訟と最高裁合憲判決 ==
これまで、住基ネットを巡って各地で[[憲法訴訟]]が提起されたほか、関係経費の費用返還を求める[[住民監査請求]]、個人情報を外部に提供しないよう求める提供中止請求、個人個人に割り当てられた住民票コードの削除請求などの[[行政訴訟]]などが提起されていた<ref name=":0" />。これに対し、後述のとおり、2008年3月6日、最高裁判所第一小法廷は、住基ネットを管理、利用等する行為は憲法13条に違反しないとの判決を行った。
最高裁判決を含む住基ネットに関する訴訟の概要は以下のとおりである。
* 2004年(平成16年)[[2月27日]]、[[プライバシー]]侵害として慰謝料を求めていた裁判で、[[大阪地方裁判所]]は原告敗訴判決を行った(原告の一部は[[控訴]]している)。
* [[2005年]](平成17年)[[5月30日]]、[[金沢地方裁判所]]は、住基ネットは[[プライバシー]]の保護を保障した[[日本国憲法第13条]]に違反する、と判断した。一方、翌5月31日、名古屋地方裁判所は、住基ネットはプライバシーの侵害を容易に引き起こす危険なシステムとは認められない、との判断を下した。相次いで相反する二つの判断が下された形となり、住基ネットの法的な位置づけの難しさが浮き彫りとなった。なお、石川県・愛知県の訴訟ともほぼ共通の訴えとなっており(細部では異なる部分もある)、「住民基本台帳ネットワークシステムはプライバシーの権利などを侵害し憲法違反である」などとして、石川県のケースでは同県の[[市民団体]]メンバー28人が、愛知県のケースでは住民13人が、それぞれ国や県・市などに個人情報削除や損害賠償などを求めた訴訟である。
** 2006年(平成18年)[[12月11日]]、[[名古屋高等裁判所金沢支部]]は、正当な理由による[[公共の福祉]]による制限として許されると判示し、2005年(平成17年)[[5月30日]]の[[金沢地方裁判所]]の判決を取り消し、[[原告]]の請求を棄却した。
* 2006年(平成18年)[[11月30日]]、前記の大阪訴訟の控訴審判決として[[大阪高等裁判所]]は、住基ネットは個人情報保護対策に欠陥があり、拒否する人への運用はプライバシー権を著しく侵害し憲法13条に違反する、として[[箕面市]]、[[守口市]]、[[吹田市]]に原告の[[住民票コード]]の削除を命じる[[原告]]勝訴判決を言い渡した。なお、同訴訟の裁判長を務めた[[竹中省吾]][[判事]](当時)は、同年[[12月3日]]、自宅で[[首吊り自殺]]をしているところを発見された。
** うち箕面市は2006年(平成18年)[[12月7日]]に箕面市議会で、[[上告]]を断念したと[[藤沢純一]]市長が表明し、[[12月15日]]0時、箕面市に対して判決が確定した。
*** これにより箕面市は[[判決 (日本法)|判決]]に従って勝訴した[[原告]](1人)の[[住民票コード]]を削除する「為す給付債務」を負うことになった。箕面市役所の総務部情報政策課では、[[アイネス]]が提供する現行システムでは[[データ]]を削除できるのは[[住民]]が[[死亡]]した場合か、[[日本国籍]]を離脱した場合だけであるところ、どちらの入力もないまま1人少ないデータで府のサーバと交信すると、市のサーバがダウンしてしまうおそれがある。また、市のサーバ内のデータだけでなく、府や国のサーバ内のデータも削除する必要がある。さらに、削除できたとしても、その後の運用方法は原告のデータを削除して原告だけ文書で管理するか、原告を除く全市民のシステムを作り直し改めて接続する、の2通りであり、前者では[[住民票]]や納税通知書の交付について原告の分だけ手作業で行う必要があるし、後者ではシステム再構築に1500万円から3500万円の費用が発生する、と主張している([[読売新聞]]12月9日)。なお、藤沢市長は[[12月12日]]に、高裁判決後、原告とは別の市民2人からコード削除を求められていることを明らかにしたうえで「こうした人たちの意に沿うため選択制導入の可能性について検討したい」と述べた([[読売新聞]] 2006年12月12日)。
*** 2006年(平成18年)[[12月28日]]から2007年(平成19年)[[3月30日]]までの間、「平成18年度箕面市[[一般会計]]」[[予備費]]の充当により、[[江澤義典]][[関西大学]][[教授]]、[[秋田仁志]][[弁護士]]、[[園田寿]]弁護士・[[甲南大学]][[法科大学院]]教授、[[黒田充]]自治体情報政策研究所代表による住民基本台帳ネットワークシステム検討専門員が設置され、原告の[[住民票コード]]の削除方法、原告以外の住民からの削除要求への対応が2007年(平成19年)[[3月31日]]までをめどに調査された。
*** 2007年(平成19年)[[3月5日]]、[[原告]]らの呼びかけに応じた市民8人から[[個人情報保護条例]]に基づき[[住民票コード]]の削除が請求され、藤沢は「これは『ためにする請求』。当惑している」と報道された。その後箕面市は、高裁判決の効力は判決を得た市民1人のみにしか及ばないとして当該8人からの削除請求を認めない「非削除」の決定をしている。
*** 2007年(平成19年)[[3月7日]]の住民基本台帳ネットワークシステム検討専門員合議で、原告の[[住民票]]の職権消除と、住基ネットの選択制が検討されていることが報道され、2007年(平成19年)[[3月30日]]開催の専門員合議において、「[[控訴]]人について、[[住民票]]を改製し住民票コードを削除する」「控訴人に係る本人確認情報に異動事由として「[[職権消除]]コード」を記録し、当該コードを含む本人確認情報を、住基ネットにより[[大阪府]]サーバに送信するとともに、住民票コード削除に係る本人確認情報を「文書」により府[[知事]]に通知する」「住基ネットでの自己情報の運用を希望しない他の住民についても、控訴人と同一の方法により、住民票コードを削除する」とする、原告以外からの削除要求についても受け入れ、全国初の選択制を導入するよう市長に答申された。
*** 答申を受けて藤沢純一市長は、2007年(平成19年)[[5月29日]]、箕面市役所内での[[記者会見]]において、2007年(平成19年)11月に実施される予定の[[RKK情報サービス]]の提供する新住基システムへの移行時を期に住基ネット参加の選択制を導入すると表明した。実際は新住基システムの移行が遅れ、納税記録情報の紛失事故が発生するなど、選択制の導入は見送られた。
*** 2007年(平成19年)[[6月12日]]開催の箕面市議会総務常任委員会において[[日本共産党]]議員から、先の記者会見での選択制導入報道と5月29日実施の議会各会派への説明内容との齟齬および会見内容の真否についての質問に対し、藤沢は「否定も肯定もしない」、「議員はどういう報道になれば納得するのか」と答弁した。
*** 2007年(平成19年)[[9月6日]]、[[大阪府知事]]から、[[住民基本台帳法]]第31条第2項の規定により、箕面市長に対し、「[[住民票コード]]を削除すること、すなわち住民票コードの記載を住民の選択に委ねることについては、住民基本台帳法第7条第13号の規定に違反するものである」「現に区域内に住所を有する住民の[[住民票]]を、改製と称して職権で消除することは、住民基本台帳法第3条第1項及び第8条に違反するものである。さらに、府知事に対し、職権で消除した旨を住民基本台帳ネットワークシステムにより通知するとともに、[[本人確認]]情報から[[住民票コード]]を削除したものを文書により通知することは、住民基本台帳法第30条の5第1項及び第2項に違反する」「[[住民基本台帳]]事務を適正に執行するよう法第31条第2項の規定により[[勧告]]する」と3項目の勧告がされた。
*** 2007年(平成19年)[[12月20日]]、箕面市議会は、最高裁判所において[[大阪高等裁判所]]判決が見直される公算が大きいこと、[[顧問]][[弁護士]]らが[[住民票コード]]削除の実施は最高裁判決まで待つよう求めていることなどから、最高裁判決まで「選択制」を進めないことを求める「住民基本台帳ネットワークシステムの適正な運営を求める決議」(自民党同友会、民主・市民クラブ、公明党の3会派の議員が提出)を賛成多数で採択した(市民派ネット・日本共産党が反対)。
*** 2008年(平成20年)[[2月14日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判決を待たずに、原告の[[住民票]]を[[磁気ディスク]]から、書面による住民票に「改製」し、[[住民票コード]]を削除を実施したと発表した。
*** 2008年(平成20年)[[2月18日]]、住民基本台帳ネットワークシステム検討[[専門委員|専門員]]から、紙改製は違法であり、判決の履行に当たらない。答申に基づき、職権消除手法による[[住民基本台帳ネットワーク]]から原告の[[本人確認]]情報の削除を実施しろとの意見書が藤沢純一に出されたと発表された。
** 守口市と吹田市は最高裁判所に上告した。
*** 2007年(平成19年)[[11月16日]]の新聞各紙に、吹田市・守口市の上告審について、最高裁判所が弁論期日を2008年(平成20年)[[2月7日]]に指定したことが報道された。判決の見直しに必要な[[弁論]]が開かれ、[[法令]]について[[違憲判決|違憲]]の判決を出すための[[大法廷]]への回付が行われなかったため、違憲判決が行われず、原判決破棄・原告敗訴が濃厚となった。
*** 2008年(平成20年)[[2月7日]]の最高裁判所で、吹田市、守口市の[[上告審]]の[[弁論]]が行われ、同日弁論終結した。2008年(平成20年)[[3月6日]]、第1[[小法廷]]は、「法令等の根拠」に基づき、正当な「行政目的の範囲内」で行われて、「具体的な危険」が生じていないとの要件を示し、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を有するものの、当該個人がこれに同意していないとしても、憲法13条により保障された自由を侵害するものではないとし、『住民基本台帳ネットワークは憲法に違反しない』と初の合憲判断を下した。その上で二審の[[大阪高等裁判所]]の判決を破棄し、訴訟原告(被上告人)の請求を棄却した。
* 2008年(平成20年)[[8月28日]]、[[埼玉県]]民5人が求めた[[個人情報]]削除や[[損害賠償]]を[[さいたま地方裁判所|さいたま地裁]]の「情報漏洩に危険はなく、ネットワークのサービスも正当な[[行政]]の範囲」とした判決を[[東京高等裁判所|東京高裁]]が支持、原告の[[控訴]]を棄却した。
=== 最高裁判決 ===
2008年(平成20年)3月6日、最高裁判所第一小法廷([[涌井紀夫]]裁判長)は、住基ネットを管理、利用等する行為は、[[日本国憲法第13条]]に違反しないとして、大阪訴訟の高裁判決を破棄するとともに、石川訴訟他3件の上告を棄却したが、その理由の要旨は以下のとおりである。
* '''憲法第13条は、国民の私生活上の自由が公権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものであり、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を有する'''。
* 住基ネットによって管理、利用等される本人確認情報は、[[氏名]]、[[生年月日]]、[[性別]]及び[[住所]]から成る4情報に、[[住民票コード]]及び変更情報を加えたものにすぎない。このうち4情報は、人が社会生活を営む上で一定の範囲の他者には当然開示されることが予定されている個人識別情報であり、変更情報も、転入、転出等の異動事由、異動年月日及び異動前の本人確認情報にとどまるもので、これらはいずれも、個人の内面に関わるような'''秘匿性'''の高い情報とはいえない。住民票コードは、住基ネットによる本人確認情報の管理、利用等を目的として、都道府県知事が無作為に指定した数列の中から市町村長が一を選んで各人に割り当てたものであるから、上記目的に利用される限りにおいては、その'''秘匿性の程度'''は本人確認情報と異なるものではない。
* 住基ネットによる本人確認情報の管理、利用等は、'''法令等の根拠'''に基づき、住民サービスの向上及び行政事務の効率化という正当な'''行政目的の範囲内'''で行われているものということができる。住基ネットのシステム上の欠陥等により外部から不当にアクセスされるなどして本人確認情報が容易に漏洩する'''具体的な危険'''はないこと、受領者による本人確認情報の目的外利用又は本人確認情報に関する秘密の漏洩等は、懲戒処分又は刑罰をもって禁止されていること、住基法は、都道府県に本人確認情報の保護に関する審議会を、指定情報処理機関に本人確認情報保護委員会を設置することとして、本人確認情報の適切な取扱いを担保するための制度的措置を講じていることなどに照らせば、住基ネットにシステム技術上又は法制度上の不備があり、そのために本人確認情報が法令等の根拠に基づかずに又は正当な行政目的の範囲を逸脱して第三者に開示又は公表される'''具体的な危険'''が生じているということもできない。
* また、行政機関個人情報保護法8条2項2号、3号によれば、行政機関の裁量により利用目的を変更して個人情報を保有することが許容されているし、行政機関は、法令に定める事務等の遂行に必要な限度で、かつ、相当の理由のあるときは、利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供することができるとしているが、'''住基法30条の34等の本人確認情報の保護規定は行政機関個人情報保護法に優先して適用される'''し、'''システム上、住基カード内に記録された住民票コード等の本人確認情報が行政サービスを提供した行政機関のコンピュータに残る仕組みになっておらず'''、データマッチングは[[懲戒処分]]、[[刑事罰]]の対象となり、現行法上、本人確認情報の提供が認められている行政事務において取り扱われる個人情報を一元的に管理することができる機関又は主体は存在しないことなどにも照らせば住基ネットにより、個々の住民の多くのプライバシー情報が住民票コードを付されてデータマッチングされ、本人の予期しないときに予期しない範囲で行政機関に保有され、利用される具体的な危険が生じているとはいえない。
* したがって、'''行政機関が住基ネットにより住民の本人確認情報を管理、利用等する行為は、個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表するものということはできず、当該個人がこれに同意していないとしても、憲法13条により保障された上記の自由を侵害するものではなく'''、自己のプライバシーに関わる情報の取扱いについて、自己決定する権利ないし利益が違法に侵害されたとする被上告人ら(原告ら)の主張にも理由がない。
== 住基ネットに関する年表 ==
* 2002年(平成14年)
** [[8月5日]] - '''第一次稼動'''
*** 住民への住民票コード通知開始。
*** 住民基本台帳ネットワークシステムが稼動し、行政機関への本人確認情報の提供が開始された。これにより、従来必要とされた住民票の写しの添付が省略できるようになった。
** [[8月30日]] - [[総務省]]により住民基本台帳ネットワークシステム調査委員会が設置された。
* [[2003年の日本|2003年]](平成15年)
** [[6月7日]] - [[行政手続オンライン化関係三法]]が閣議決定され、その後可決成立した。
** [[8月5日]] - [[長野県]]と[[総務省]]で住民基本台帳ネットワークシステム公開討論会が行われた。
** [[8月25日]] - '''第二次稼動'''('''本格稼動''')
*** [[住民基本台帳カード]](住基カード)の発行が開始された。
*** 住民票の写しを全国どこの自治体でも取れるサービスや、住所移転時の転入転出手続の簡素化などのサービスが受けられるようになった。
* 2004年(平成16年)[[1月29日]] - 公的個人認証サービス開始。希望者には500円で[[公的個人認証サービス]]に利用できる電子証明書が交付できるようになった。
** 公的個人認証サービスは住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)を基にしており、現時点で利用できるカードは市区町村が発行している住基カードに限定されている。
* 2006年(平成18年)10月 - 社会保険庁が住基ネットを活用した年金受給者の現況確認を開始。これにより、毎年、誕生月に提出が必要であった年金受給権者現況届(いわゆる「現況届」)の提出が原則不要となった[http://www.sia.go.jp/topics/2006/n1120.html]。
*2013年(平成25年)8月 - 住基カードの(最初で最後の)更新が行われる。
* 2015年(平成27年)
**3月30日、全自治体が住基ネットワークに接続した。
**12月31日、[[マイナンバーカード]]制度により、住基カードの新規発給及び更新受付が終了。
*2025年(令和7年) - 住基カードがこの年限りで全て無効となる。
== 関係省庁 ==
* [https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12251721/www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/index.html 高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部](IT推進本部){{Ja icon}} - [[e-Japan]]計画を推進。2021年8月31日廃止。同年9月1日、[[デジタル庁]]にデジタル社会推進会議が設置。
* [[経済産業省]]
* [[総務省]]
* [[財務省]]
* [[厚生労働省]]
* [[警察庁]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite book |和書|last =水町 |first =雅子 |date =2017-11-15 |title =逐条解説マイナンバー法 |edition =1 |publisher =(株)商事法務 |location =東京都中央区日本橋茅場町 |isbn =978-4-7857-2567-9 |ref =harv }}
== 関連項目 ==
* [[電子政府]]
*[[国民識別番号]]
*[[リテラシー|ICTリテラシー]]
* [[ワン・ストップ・サービス]]
* [[住基ネット統一文字]]([[住民基本台帳ネットワーク統一文字]]、[[住基統一文字]])
==外部リンク==
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/daityo/index.html 総務省|住基ネット]
{{住基ネット}}
{{デフォルトソート:しゆうみんきほんたいちようねつとわあくしすてむ}}
[[Category:市民登録]]
[[Category:情報システム]]
[[Category:日本の年金]]
[[Category:国民識別番号]] | 2003-03-04T22:32:45Z | 2023-11-13T14:23:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E6%B0%91%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%8F%B0%E5%B8%B3%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0 |
3,412 | 総務省 | 総務省(そうむしょう、英: Ministry of Internal Affairs and Communications、略称: MIC)は、日本の行政機関のひとつ。行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など国家の基本的諸制度を所管している。
総務省設置法第3条第1項に規定する任務を達成するため、行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など、国家の基本的な仕組みに関わる諸制度、国民の政治活動・経済活動・社会活動を支える基本的なシステムを所管する。2001年(平成13年)の中央省庁等改革によって、総務庁、郵政省、自治省が統合されて設置された。「総務省」の名称は、戦後にGHQによる解体・廃止の危機に瀕した内務省が、組織解体を阻止するために考案した新名称案の一つである。国家行政組織法別表第1では、総務省が各省の筆頭に掲げられ、閣僚名簿も原則として総務大臣は内閣総理大臣の次に列する。総務省は全国の地方公共団体に対して強い影響力を保持し、2020年(令和2年)10月1日現在で都道府県庁に部長級以上を44名うち副知事が9名、次長などを7名、課長などを59名出向させ、市町村に部長級以上を77名うち副市長が27名、次長などを6名、課長などを18名出向させている。2023年現在、全国の都道府県知事のうち12名が自治省・総務省出身である。
設置当初、英文正式名称は「Ministry of Public Management, Home Affairs, Posts and Telecommunications」(公共管理・内務・郵便・遠隔通信省)、英文略称は「MPHPT」であったが、2004年(平成16年)9月10日から、現在の英文正式名称「Ministry of Internal Affairs and Communications」(内務・通信省)、英文略称「MIC」にそれぞれ変更された。「長すぎて分かりにくい」とする意見や組織の一体性などを勘案した。
2005年(平成17年)4月1日から、省の理念アピールおよび職員の一体感を目的にシンボルマーク、「実はここにも総務省」のキャッチフレーズをそれぞれ策定した。シンボルマークはヴィヴィッドオレンジを用い、四角形で日本の国土を、飛び出す球体は総務省の姿をそれぞれ表現している。2014年(平成26年)1月21日にキャッチフレーズを「くらしの中に総務省」に更新した。広報誌「総務省」を月刊で発行している。
2022年(令和4年)現在、総務省の総合職事務系職員(キャリアの事務官)の採用は一本化されておらず、「行政管理・評価」(旧総務庁)、「地方自治」(旧自治省)、「情報通信 (ICT)」(旧郵政省)の3つの区分に分かれている。総務事務次官は旧自治省出身者が最も多く就いている。
総務省の設置に関与した元内閣官房副長官の石原信雄は、総務省は巨大組織の官庁で「戦前の内務省を彷彿とさせる」などの見解に、「戦前の内務省は、ずば抜けた権限を持つマンモス官庁だったが、(中略)なかでも警察力を握っていることがスーパー官庁としての決定的な要素だった」と総務省は旧内務省のようなパワー官庁ではないと語る。政治学者の飯尾潤は、総務省を「自治省が単独での生き残りが難しいと判断して、総務庁という弱小省庁を吸収してできた省庁」と語る。
上記の総務省設置法第3条第1項に規定する任務を達成するため、同法第4条第1項は計96号の所掌事務を規定している。具体的には以下の通りである。
一般に、総務省の内部組織は法律の総務省設置法、政令の総務省組織令、省令の総務省組織規則が階層的に規定している。
総務省の地方支分部局には以下の4つがある。
前身は管区行政監察局。国の行政機関の政策評価、業務実施状況の評価および監視、独立行政法人、地方公共団体の法定受託事務の実施状況の調査、各行政機関・地方公共団体の業務に関する苦情の申出についてのあっせん、行政相談委員、地方自治および民主政治の普及徹底、国と地方公共団体および地方公共団体相互間の連絡調整など、総務省設置法第4条に列記された所掌事務のうち、第16号から第22号までに掲げる事務を所掌する。
前身は地方電波管理局(1985年から地方電気通信監理局)。不法無線局の取締り(無線局の周波数逸脱運用を含む。ただし職員は特別司法警察職員ではないので、日本の警察と共同で取締る)や無線局・放送局・有線放送の許認可および検査、電波伝搬(伝播)路指定の許認可、高周波ウェルダーなどの高周波利用設備の許可、無線従事者免許証や無線局免許状の発給、インターネットサービスプロバイダーなどの電気通信事業者に係る許認可、地方公共団体の情報通信インフラ整備の支援、情報通信分野の研究開発や同分野に関わるベンチャー企業の支援、信書便事業の民間開放に伴う許認可など、総務省設置法第4条に列記された所掌事務のうち、第57号から第66号まで、第68号から第70号まで、第75号、第91号および第96号に掲げる事務を所掌する。
独立行政法人(計4法人)
特殊法人(計7法人)
特別民間法人(計4法人)
地方公共団体が主体となって業務運営を行う法人(計3法人)
国及び地方公共団体が共同して運営する法人(計1法人)
共済組合類型の法人(計17法人)
警察共済組合は警察庁が、公立学校共済組合は文部科学省がそれぞれ所管する。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における総務省所管歳出予算は、16兆8625億1025万4千円である。組織別の内訳は、総務本省が16兆8308億9486万6千円、管区行政評価局が72億315万2千円、総合通信局が115億2425万2千円、公害等調整委員会が5億5934万4千円、消防庁が123億2864万円となっている。本省予算のうち地方交付税交付金が16兆1822億7565万8千円、地方特例交付金が2169億円と大半を占める。
総務省は、内閣府および財務省と交付税及び譲与税配付金特別会計を共管する。国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省および防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、総務省全体で4,569人(男性3,461人、女性1,108人)である。本省および外局別の人数は本省が4,238人(男性3,155人、女性1,083人)、公害等調整委員会33人(男性24人、女性9人)、消防庁170人(男性152人、女性18人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた総務省の定員は特別職1人を含めて4,786人(2023年9月30日までは4,821人)であり、うち公害等調整委員会の定員(事務局職員の定員)は、36人となっている。公害等調整委員会を除く、本省および消防庁の定員は省令の総務省定員規則に定められており、本省4,576人(2023年9月30日までは4,611人)、消防庁174人となっている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職25人、一般職4,785人の計4,810人である。機関別内訳は総務省本省が2,677人、管区行政評価局723人、総合通信局1,196人、公害等調整委員会40人、消防庁174人となっている。特別職について、予算定員と行政機関職員定員令の定員に大きな差異があるのは、行政機関職員定員令の定員には、大臣、副大臣、大臣政務官、公害等調整委員会委員、地方財政審議会委員などを含まないためである。
総務省の一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として、国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。消防庁の職員も団結権を否認されていない。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体2、支部17となっている。組合員数は1,309人、組織率は35.7%。主な労働組合は総務省人事・恩給局職員組合、全行管職員組合(全行管)、全自治職員組合、全情報通信労働組合(全通信)および統計職員労働組合(統計職組)である。人事・恩給局および統計局が旧総理府の系譜を引くことから、人事・恩給局職組と統計職組は内閣府の旧総理府関係組合とともに連合体である総理府労連を形成している。総理府労連、全行管および全通信は国公労連(全労連系)に加盟している。
一般職の幹部は以下のとおりである。 | [
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] | 総務省は、日本の行政機関のひとつ。行政組織、地方自治、地方公務員制度、選挙、政治資金、情報通信、郵便、統計、消防など国家の基本的諸制度を所管している。 | {{Otheruseslist|現在の日本の行政官庁|その前身の行政官庁のひとつ|総務庁|オランダの総務省|総務省 (オランダ)}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 総務省
|公用語名 = そうむしょう
|英名 = Ministry of Internal Affairs and Communications
|紋章 =MIC logo-1.svg
|紋章サイズ = 230px
|画像 = Government Office Complex 2 of Japan 2009.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 総務省が設置される[[中央合同庁舎第2号館]]
|主席閣僚職名 = [[総務大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[松本剛明]]
|次席閣僚職名 = [[総務副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[渡辺孝一]]<br/>[[馬場成志]]
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|補佐官氏名 = [[小森卓郎]]<br/>[[長谷川淳二]]<br/>[[船橋利実]]
|次官職名 = [[総務省#総務事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[内藤尚志]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]
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|下部組織概要1 = [[総務省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[行政管理局]]<br/>[[行政評価局]]<br/>[[自治行政局]]<br/>[[自治財政局]]<br/>[[自治税務局]]<br/>[[国際戦略局]]<br/>[[情報流通行政局]]<br/>[[総合通信基盤局]]<br/>[[統計局]]<br/>[[政策統括官 (総務省)|政策統括官]]<br/>[[サイバーセキュリティ統括官]]
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|下部組織概要6 = [[公害等調整委員会]]<br/>[[消防庁]]
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|位置 = {{Coord|35.675366|139.7511182|type:landmark_region:JP|display=inline,title|name=MIC}}
|定員 = 4,786人(2023年9月30日までは4,821人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 16兆8625億1025万4千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[総務省設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[総務庁]]<br/>[[郵政省]]<br/>[[自治省]]<!-- 現在の中央官庁の建制順が「内閣府本府→宮内庁→内閣府外局→デジタル庁→復興庁→各省」であるのと同様に、中央省庁等改革以前の中央官庁の建制順は「総理府本府→総理府外局→各省」であり、また、改革以前の各省の建制順は法務→外務→大蔵→文部→厚生→農林水産→通商産業→運輸→郵政→労働→建設→自治であるから、総務庁を筆頭とし、続けて郵政省、自治省の順で並べるのが妥当である。総務省公式ウェブサイト掲載の「総務省への組織再編について 1. はじめに」(https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/saihen/infomation_0.html)においても同様の順で並んでいる。 -->
|ウェブサイト = [https://www.soumu.go.jp/ 総務省]
|その他 =
}}
'''総務省'''(そうむしょう、{{lang-en-short|Ministry of Internal Affairs and Communications}}、[[略称]]: '''MIC'''{{Efn|2004年9月までの英文正式名称および英文略称については[[総務省#概説|概説]]を参照。}})は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[行政機関#日本法上の行政機関概念|行政組織]]、[[地方自治#日本における地方自治|地方自治]]、[[地方公務員|地方公務員制度]]、[[日本の選挙|選挙]]、[[政治資金]]、[[電気通信|情報通信]]、[[郵便#日本|郵便]]、[[統計#日本の公的統計|統計]]、[[日本の消防|消防]]など国家の基本的諸制度を所管している{{Efn|「行政の基本的な制度の管理及び運営を通じた行政の総合的かつ効率的な実施の確保、地方自治の本旨の実現及び民主政治の基盤の確立、自立的な地域社会の形成、国と地方公共団体及び地方公共団体相互間の連絡協調、情報の電磁的方式による適正かつ円滑な流通の確保及び増進、電波の公平かつ能率的な利用の確保及び増進、郵政事業の適正かつ確実な実施の確保、公害に係る紛争の迅速かつ適正な解決、鉱業、採石業又は砂利採取業と一般公益又は各種の産業との調整並びに消防を通じた国民の生命、身体及び財産の保護を図り、並びに他の行政機関の所掌に属しない行政事務及び法律(法律に基づく命令を含む。)で総務省に属させられた行政事務を遂行すること」([[総務省設置法]]第3条第1項)}}。
==概説==
[[ファイル:Kimiaki Matsuzaki Toru Kikawada and Ryo Shuhama 201109.jpg|thumb|left|200px|総務副大臣、総務大臣政務官の記者会見。バックパネルにシンボルマークが描かれている。]]
[[総務省設置法]]第3条第1項に規定する任務を達成するため、[[行政機関#日本法上の行政機関概念|行政組織]]、[[地方自治#日本における地方自治|地方自治]]、[[地方公務員|地方公務員制度]]、[[日本の選挙|選挙]]、[[政治資金]]、[[電気通信|情報通信]]、[[郵便#日本|郵便]]、[[統計#日本の公的統計|統計]]、[[日本の消防|消防]]など、国家の基本的な仕組みに関わる諸制度、国民の政治活動・[[経済活動]]・[[社会活動]]を支える基本的なシステムを所管する。[[2001年]](平成13年)の[[中央省庁再編|中央省庁等改革]]によって、[[総務庁]]、[[郵政省]]、[[自治省]]<!-- 現在の中央官庁の建制順が「内閣府本府→宮内庁→内閣府外局→デジタル庁→復興庁→各省」であるのと同様に、中央省庁等改革以前の中央官庁の建制順は「総理府本府→総理府外局→各省」であり、また、改革以前の各省の建制順は法務→外務→大蔵→文部→厚生→農林水産→通商産業→運輸→郵政→労働→建設→自治であるから、総務庁を筆頭とし、続けて郵政省、自治省の順で並べるのが妥当である。総務省公式ウェブサイト掲載の「総務省への組織再編について 1. はじめに」(https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/saihen/infomation_0.html)においても同様の順で並んでいる。 -->が統合されて設置された。「総務省」の名称は、[[戦後]]に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による解体・廃止の危機に瀕した[[内務省 (日本)|内務省]]が、組織解体を阻止するために考案した新名称案の一つである{{Efn|その他の新名称案として「公共省」「民政省」があった。その後、内務省はGHQによって解体・廃止された。}}。[[国家行政組織法]][[s:国家行政組織法#t1|別表第1]]では、総務省が各省の筆頭に掲げられ、[[国務大臣|閣僚]]名簿も原則として[[総務大臣]]は[[内閣総理大臣]]の次に列する。総務省は全国の[[地方公共団体]]に対して強い影響力を保持し、2020年(令和2年)10月1日現在で[[都道府県|都道府県庁]]に部長級以上を44名うち[[副知事 (日本)|副知事]]が9名、次長などを7名、課長などを59名出向させ、[[市町村]]に部長級以上を77名うち[[副市町村長|副市長]]が27名、次長などを6名、課長などを18名出向させている<ref>{{Cite web|和書|title=国と地方公共団体との間の人事交流の実施状況(令和3年3月10日)|url=https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/jkj_kt_jissi_r030310.pdf|format=PDF|publisher=内閣官房内閣人事局|accessdate=2021-04-20}}</ref>。2023年現在、全国の[[都道府県知事]]のうち12名が自治省・総務省出身である。
設置当初、英文正式名称は「{{en|Ministry of Public Management, Home Affairs, Posts and Telecommunications}}」(公共管理・内務・郵便・遠隔通信省)、英文略称は「{{en|MPHPT}}」であったが<ref>{{Cite web|和書|title=再編後の所在地、連絡先等|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/saihen/infomation_7.html|publisher=[[郵政省]]|date=2000-11|accessdate=2020-10-1}}</ref>、[[2004年]](平成16年)9月10日から、現在の英文正式名称「{{en|Ministry of Internal Affairs and Communications}}」(内務・通信省)、英文略称「{{en|MIC}}」にそれぞれ変更された<ref>{{WAP|pid=283520|url=www.soumu.go.jp/s-news/2004/040910_7.html|title=総務省の英語表記を変更|date=2009年1月13日}}</ref>。「長すぎて分かりにくい」とする意見{{Efn|ちなみに、英国には「[[デジタル・文化・メディア・スポーツ省]]」という4分野を所管する行政官庁がある。なお、2008年以降の日本の国土交通省の英文正式名称は「Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism」であり、総務省の旧英文正式名称と同様に、名称に4分野を含んでいる。}}や組織の一体性などを勘案した。
[[2005年]](平成17年)4月1日から、省の理念アピールおよび職員の一体感を目的に[[シンボルマーク]]<ref>{{WAP|pid=283520|url=www.soumu.go.jp/s-news/2005/050401_1.html|title=総務省(報道資料)|date=2009年1月13日}}</ref>、「実はここにも総務省」の[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]をそれぞれ策定した<ref>{{WAP|pid=283520|url=www.soumu.go.jp/s-news/2005/050401_2.html|title=総務省のキャッチフレーズを策定|date=2009年1月13日}}</ref>。シンボルマークはヴィヴィッドオレンジを用い、四角形で日本の国土を、飛び出す球体は総務省の姿をそれぞれ表現している。2014年(平成26年)1月21日にキャッチフレーズを「くらしの中に総務省」に更新した<ref>{{Cite web|和書|title=【お知らせ】|url=https://www.facebook.com/MICJAPAN.gov/posts/529093743854531/|publisher=総務省|date=2014-1-21|accessdate=2020-10-1}}</ref>。広報誌「総務省」を月刊で発行している<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/kouhoushi/koho/index.html 総務省広報誌]</ref>。
[[2022年]](令和4年)現在、総務省の総合職事務系職員([[キャリア (国家公務員)|キャリア]]の[[事務官]])の採用は一本化されておらず、「行政管理・評価」(旧総務庁)、「地方自治」(旧自治省)、「情報通信 (ICT)」(旧郵政省)の3つの区分に分かれている<ref>{{Cite web|和書|title=総務省|採用情報|総合職事務系|url=https://www.soumu.go.jp/menu_syokai/saiyou/jsougou.html|publisher=総務省|accessdate=2022-3-30}}</ref>。[[#総務事務次官|総務事務次官]]は旧自治省出身者が最も多く就いている。
総務省の設置に関与した元[[内閣官房副長官]]の[[石原信雄]]は、総務省は巨大組織の官庁で「[[戦前]]の[[内務省 (日本)|内務省]]を彷彿とさせる」などの見解に、「戦前の内務省は、ずば抜けた権限を持つマンモス官庁だったが、(中略)なかでも[[日本の警察|警察]]力を握っていることがスーパー官庁としての決定的な要素だった」と総務省は旧内務省のようなパワー官庁ではない<ref>[[石原信雄]] 『官かくあるべし 七人の首相に仕えて』 [[小学館文庫]] p197</ref>と語る。[[政治学者]]の[[飯尾潤]]は、総務省を「自治省が単独での生き残りが難しいと判断して、総務庁という弱小省庁を吸収してできた省庁」<ref>飯尾潤著「政局から政策へ―日本政治の成熟と転換」(2008)P179</ref>と語る。
== 沿革 ==
<ref>{{PDFlink|[http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/enkaku_H.pdf 官制沿革表]}}、国立国会図書館。</ref><ref>[https://www.digital.archives.go.jp/hensen/hensen-index.html 省庁組織変遷図]、国立公文書館。</ref>
* [[1873年]]([[明治]]{{0}}6年)11月10日:[[内務省 (日本)|内務省]]が設置される。
* [[1885年]](明治18年)12月22日:[[逓信省]](第1期)が設置される。
* [[1920年]]([[大正]]{{0}}9年){{0}}5月15日:[[鉄道省]]が設置される。
* [[1943年]]([[昭和]]18年)11月{{0}}1日:逓信省(第1期)および鉄道省が統合され、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]が設置される。
* [[1945年]](昭和20年){{0}}5月19日:運輸通信省が廃止され、逓信院および[[運輸省]]が設置される。
* [[1946年]](昭和21年)10月28日:内閣に[[行政調査部]]が設置される。
* 1946年(昭和21年){{0}}7月{{0}}1日:逓信院が廃止され、逓信省(第2期)が設置される。
* [[1947年]](昭和22年){{0}}5月{{0}}3日:内閣に総理庁が設置される。
* 1947年(昭和22年){{0}}7月{{0}}1日:総理庁に'''[[公正取引委員会]]'''が設置される。
* 1947年(昭和22年)12月31日:内務省が廃止される。
* [[1948年]](昭和23年){{0}}1月{{0}}1日:内閣に[[内事局]]が設置される。旧内務省地方局および同警保局消防課の所掌事務が内事局に移管され、内事局官房自治課および同第一局消防課となる。
* 1948年(昭和23年){{0}}1月{{0}}7日:内閣に[[地方財政委員会#第一期|地方財政委員会(第1期)]]が設置される。内事局官房自治課の所掌する地方財政関係事務が地方財政委員会(第1期)に移管される。旧内務省地方局財政課の職員が地方財政委員会(第1期)事務局に異動する。
* 1948年(昭和23年){{0}}3月{{0}}7日:内事局が廃止される。旧内事局官房自治課および同職制課の所掌事務が総理庁に移管され、総理庁官房自治課となる。総理庁に[[国家公安委員会]]が設置される。[[消防組織法]]が施行され、国家公安委員会に国家消防庁が設置される。
* 1948年(昭和23年){{0}}7月{{0}}1日:行政調査部が廃止され、総理庁に[[行政管理庁]]が設置される。
* [[1949年]](昭和24年){{0}}6月{{0}}1日:総理庁が廃止され、[[総理府]]が設置される。地方財政委員会(第1期)が廃止され、総理府の[[外局]]として地方自治庁が設置される。郵電分離により、逓信省(第2期)が廃止され、'''[[郵政省]]'''および'''[[電気通信省]]'''が設置される。
* [[1950年]](昭和25年){{0}}5月30日:総理府に[[地方財政委員会#第二期|地方財政委員会(第2期)]]が設置される。地方自治庁の所掌事務の一部が地方財政委員会(第2期)に移管される。
* 1950年(昭和25年){{0}}6月{{0}}1日:総理府の外局として[[電波監理委員会]]が設置される。電気通信省の所管する通信・放送行政のうち監督行政が電波監理委員会に移管される。
* [[1952年]](昭和27年){{0}}8月{{0}}1日:国家消防庁が廃止され、国家公安委員会に国家消防本部が設置される。電波監理委員会が廃止され、その監督行政が電気通信省の所管する振興行政と共に郵政省に移管される。地方自治庁および地方財政委員会(第2期)が廃止され、総理府の外局として自治庁が設置される。電気通信省が廃止され、'''[[日本電信電話公社]]'''が設立される。
* [[1960年]](昭和35年){{0}}7月{{0}}1日:自治庁が廃止され、'''[[自治省]]'''が設置される。国家消防本部が廃止され、自治省の外局として'''[[消防庁]]'''が設置される。
* [[1972年]](昭和47年){{0}}7月{{0}}1日:土地調整委員会および中央公害審査委員会が統合され、総理府の外局として'''[[公害等調整委員会]]'''が設置される。
* [[1984年]](昭和59年){{0}}7月{{0}}1日:総理府の内部部局の大部分および行政管理庁が統合され、総理府の外局として'''[[総務庁]]'''が設置される。
* [[1985年]](昭和60年){{0}}4月{{0}}1日:[[三公社五現業|三公社]][[民営化]]および[[通信自由化]]により、日本電信電話公社が解散して、'''[[日本電信電話|日本電信電話株式会社]]'''が設立される。
* [[2001年]]([[平成]]13年){{0}}1月{{0}}6日:[[中央省庁再編|中央省庁等改革]]により、総務庁、郵政省、自治省<!-- 現在の中央官庁の建制順が「内閣府本府→宮内庁→内閣府外局→デジタル庁→復興庁→各省」であるのと同様に、中央省庁等改革以前の中央官庁の建制順は「総理府本府→総理府外局→各省」であり、また、改革以前の各省の建制順は法務→外務→大蔵→文部→厚生→農林水産→通商産業→運輸→郵政→労働→建設→自治であるから、総務庁を筆頭とし、続けて郵政省、自治省の順で並べるのが妥当である。総務省公式ウェブサイト掲載の「総務省への組織再編について 1. はじめに」(https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/saihen/infomation_0.html)においても同様の順で並んでいる。 -->が統合され、'''総務省'''が設置される<ref name="2001houritsu">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/h145091.htm|title=総務省設置法|accessdate=2023-06-27}}</ref>。総務省の内部部局として[[総務省大臣官房|大臣官房]]、[[人事・恩給局]]{{Efn|総務庁人事局および同恩給局が統合された。}}、[[行政管理局]]{{Efn|総務庁行政管理局が移行した。}}、[[行政評価局]]{{Efn|総務庁行政監察局が改称された。}}、[[自治行政局]]{{Efn|自治省行政局が改称された。}}、[[自治財政局]]{{Efn|自治省財政局が改称された。}}、[[自治税務局]]{{Efn|自治省税務局が改称された。}}、[[情報通信政策局]]{{Efn|郵政省通信政策局および同放送行政局が統合された。}}、[[総合通信基盤局]]{{Efn|郵政省電気通信局が改称された。}}、郵政企画管理局{{Efn|郵政省郵務局、同貯金局、同簡易保険局の政策部門が統合された。}}、[[統計局]]{{Efn|総務庁統計局が移行した。}}、[[政策統括官 (総務省)|政策統括官]]、郵政公社統括官が設置される<ref>[https://search.kanpoo.jp/r/20000607g111p22-5/ 平成12年(2000年)6月7日付官報号外第111号22頁 総務省組織令公布]</ref>。総務省の外局として公正取引委員会{{Efn|総理府の外局から移行した。}}、公害等調整委員会{{Efn|総理府の外局から移行した。}}、'''[[郵政事業庁]]'''{{Efn|郵政省郵務局、同貯金局、同簡易保険局の現業部門が統合された。}}、消防庁{{Efn|自治省の外局から移行した。}}が設置される<ref name="2001houritsu"/>。総務省の地方支分部局として[[管区行政評価局]]{{Efn|総務庁の管区行政監察局が改称された。}}、[[総合通信局]]{{Efn|郵政省の地方電気通信監理局が改称された。}}が設置される<ref name="2001houritsu"/>。
* [[2003年]](平成15年){{0}}4月{{0}}1日:郵政企画管理局および郵政公社統括官が廃止され、[[郵政行政局]]が設置される<ref>[https://search.kanpoo.jp/r/20030328g66p7-4/ 平成15年(2003年)3月28日付官報号外第66号7頁 総務省組織令の一部を改正する政令公布]</ref>。郵政事業庁が廃止され、'''[[日本郵政公社]]'''が設立される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15420020731097.htm|title=日本郵政公社法|accessdate=2023-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15420020731098.htm|title=日本郵政公社法施行法|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* 2003年(平成15年){{0}}4月{{0}}9日:公正取引委員会が電気通信事業、放送事業の所管官庁である総務省の外局となっていることの問題に対応するため、公正取引委員会が総務省の外局から[[内閣府]]の外局に移行する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15620030409023.htm|title=公正取引委員会を内閣府の外局に移行させるための関係法律の整備に関する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年){{0}}4月{{0}}1日:[[日本学術会議]]が総務省の[[特別の機関]]から内閣府の特別の機関に移行する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15920040414029.htm|title=日本学術会議法の一部を改正する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)10月{{0}}1日:[[郵政民営化#日本|郵政民営化]]により、日本郵政公社が解散して、'''[[日本郵政|日本郵政株式会社]]'''および日本郵政グループの4社('''[[郵便局 (企業)|郵便局株式会社]]'''、'''[[郵便事業|郵便事業株式会社]]'''、[[ゆうちょ銀行|株式会社ゆうちょ銀行]]、[[かんぽ生命保険|株式会社かんぽ生命保険]])が設立される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021097.htm|title=郵政民営化法|accessdate=2023-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021098.htm|title=日本郵政株式会社法|accessdate=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021100.htm|title=郵便局株式会社法|accessdate=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021099.htm|title=郵便事業株式会社法|accessdate=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021102.htm|title=郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年){{0}}4月{{0}}1日:特別の機関として[[政治資金適正化委員会]]が設置される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16820071228135.htm|title=政治資金規正法の一部を改正する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* 2008年(平成20年){{0}}7月{{0}}4日:情報通信政策局が廃止され、[[情報流通行政局]]が設置される<ref name="2008soshikirei">[https://search.kanpoo.jp/r/20080702g142p2-3/ 平成20年(2008年)7月2日付官報号外第142号2頁 総務省組織令及び郵政行政審議会令の一部を改正する政令公布]</ref>。総合通信基盤局国際部が廃止され、[[情報通信国際戦略局]]が設置される<ref name="2008soshikirei"/>。郵政行政局が廃止され、情報流通行政局[[郵政行政部]]が設置される<ref name="2008soshikirei"/>。
* [[2012年]](平成24年)10月{{0}}1日:郵政民営化見直し法により、郵便局株式会社および郵便事業株式会社が統合され、'''[[日本郵便|日本郵便株式会社]]'''が設立される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18020120508030.htm|title=郵政民営化法等の一部を改正する等の法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年){{0}}5月30日:人事・恩給局が廃止される<ref name="2014seirei">[https://search.kanpoo.jp/r/20140529g117p11-8/ 平成26年(2014年)5月29日付官報号外第117号11頁 国家公務員法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備等に関する政令公布]</ref>。その所掌事務の大部分が'''[[内閣官房]][[内閣人事局]]'''に移管され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18620140418022.htm|title=国家公務員法等の一部を改正する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>、残った恩給行政等が政策統括官(恩給担当)に移管される<ref name="2014seirei"/>。
* [[2017年]](平成29年){{0}}9月{{0}}1日:情報通信国際戦略局が廃止され、[[国際戦略局]]が設置される<ref name="2017soshikirei">[https://search.kanpoo.jp/r/20170901h7094p2-a/ 平成29年(2017年)9月1日付官報本紙第7094号2頁 総務省組織令の一部を改正する政令公布]</ref>。情報通信国際戦略局情報通信政策課の所掌事務が情報流通行政局に移管される<ref name="2017soshikirei"/>。
* [[2018年]](平成30年){{0}}7月20日:政策統括官(情報セキュリティ担当)が廃止され、[[サイバーセキュリティ統括官]]が設置される<ref>[https://search.kanpoo.jp/r/20180713g154p20-d/ 平成30年(2018年)7月13日付官報号外第154号20頁 総務省組織令の一部を改正する政令公布]</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]{{0}}3年){{0}}9月{{0}}1日:行政管理局の所掌する電子政府関係事務が'''[[デジタル庁]]'''に移管される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/20420210519036.htm|title=デジタル庁設置法|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
* [[2022年]](令和{{0}}4年){{0}}4月{{0}}1日:デジタル社会形成整備法による[[個人情報の保護に関する法律|個人情報保護法]]、[[行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律|行政機関個人情報保護法]]、[[独立行政法人等の保有する個人情報の保護に関する法律|独立行政法人等個人情報保護法]]の統合により、行政管理局の所掌する個人情報保護関係事務が'''[[個人情報保護委員会]]'''に移管される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/20420210519037.htm|title=デジタル社会の形成を図るための関係法律の整備に関する法律|accessdate=2023-06-27}}</ref>。
== 所掌事務 ==
上記の総務省設置法第3条第1項に規定する任務を達成するため、同法第4条第1項は計96号の所掌事務を規定している。具体的には以下の通りである<ref name="設置法120627">{{Egov law|411AC0000000091 「総務省設置法(平成11年法律第91号)」(令和3年法律第37号による改正、令和4年4月1日施行)}}</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[恩給]](第1号、第2号)
* 行政制度一般に関する基本的事項の企画及び立案(第3号)
* 行政機関の運営に関する企画及び立案並びに調整(第4号)
* [[市場化テスト|公共サービス改革]]基本方針の策定、官民競争入札の監理(第5号)
* [[独立行政法人]]、[[国立大学法人]]、[[大学共同利用機関法人]]及び[[日本司法支援センター]]に関する共通的な制度(第6号)
* 独立行政法人等の新設、改廃に関する審査(第7号)
* 特殊法人及び特別民間法人等の新設、改廃に関する審査(第8号)
* [[政策#関連項目|政策評価]]に関する基本的事項並びに各府省及びデジタル庁の事務の総括(第9号)
* 各府省及びデジタル庁の政策についての統一的又は総合的な評価(第10号)
* 行政機関、独立行政法人、特殊法人等の業務の実施状況の評価及び監視(行政評価)(第11号~第13号)
* 各行政機関の業務、第十二号に規定する業務及び前号に規定する地方公共団体の業務に関する苦情の申出についての必要なあっせん(第14号)
* [[行政相談委員]](第15号)
* [[地方自治]]及び民主政治の普及徹底(第16号)
* 国と[[地方公共団体]]及び地方公共団体相互間の連絡調整(第17号)
* 地方公共団体の求めに応じて当該地方公共団体の行政及び財政に関する総合的な調査を行うこと(第18号)
* 地方自治に係る政策で地域の振興に関するもの(第19号)
* 豪雪地帯の雪害の防除及び振興(第20号)
* [[公有地の拡大の推進に関する法律]]の規定による土地開発公社及び土地の先買いに関する事務(第21号)
* 地方自治に影響を及ぼす国の施策に関し、必要な意見を関係行政機関の長に述べること(第22号)
* 地方公共団体の組織及び運営の合理化について必要な助言その他の協力を行うこと(第23号)
* 地方自治の調査及び研究(第24号)
* 地方公共団体の組織及び運営に関する制度(第25号)
* [[日本の市町村の廃置分合|市町村の合併]]、広域行政その他地方公共団体の機能の充実に関する政策(第26号)
* [[住民基本台帳]](第27号)
* [[個人番号]]の指定及び通知並びに[[個人番号カード]]の交付に関すること(第28号)
* 署名用電子証明書及び利用者証明用電子証明書(第29号)
* [[住居表示]](第30号)
* [[行政書士]](第31号)
* [[地方公務員]]制度(第32号)
* 地方公共団体の人事行政(第33号)
* 地方公務員の[[共済組合|共済]]制度及び災害補償制度(第34号)
* [[公職選挙法]]に基づく[[日本の選挙|選挙]]並びに[[最高裁判所裁判官国民審査|国民審査]]及び[[国民投票|投票]]の制度の企画及び立案並びに施行の準備、普及及び宣伝(第35号~第38号)
* [[日本の政党|政党]]その他の政治団体、[[政治資金]]及び[[政党交付金|政党助成]](第39号)
* 地方公共団体の財政に関する制度の企画及び立案(第40号)
* 地方公共団体の負担を伴う法令案並びに国の歳入歳出及び国庫債務負担行為の見積りについて、関係各大臣に対して意見を述べること(第41号)
* 地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)第七条に規定する翌年度の地方団体の歳入歳出総額の見込額(第42号)
* 後進地域その他の特定の地域に対する国の財政上の特別措置(第43号)
* [[地方交付税]](第44号)
{{Col-2}}
* [[地方債]](第45号)
* 地方公共団体の財政資金の調達に関するあっせん、助言その他の協力(第46号)
* [[当せん金付証票]](第47号)
* [[地方競馬]]、[[競輪|自転車競走]]及び[[モーターボート競走]]を行うことができる市町村の指定(第48号)
* [[地方公営企業|地方公共団体の経営する企業]](第49号)
* 地方財政(第50号~第52号)
* [[地方税]]及び特別法人事業税(第53号~第55号)
* 地方揮発油譲与税、石油ガス譲与税、自動車重量譲与税、特別とん譲与税及び航空機燃料譲与税(第56号)
* 国有資産等所在市町村交付金、国有資産等所在都道府県交付金及び国有提供施設等所在市町村助成交付金(第57号)
* 情報の電磁的流通の規律及び振興(第58号~第60号)
* 電気通信業及び放送業の発達、改善及び調整(第61号)
* [[日本放送協会]](第62号)
* 非常事態における重要通信の確保(第63号)
* 周波数の割当て及び[[電波]]の監督管理(第64号)
* 電波の監視及び電波の質の是正並びに[[不法無線局|不法に開設された無線局]]及び不法に設置された高周波利用設備の探査(第65号)
* 電波が無線設備その他のものに及ぼす影響による被害の防止又は軽減(第66号)
* 電波の利用の促進(第67号)
* 周波数標準値の設定、[[標準電波]]の発射及び標準時の通報(第68号)
* [[有線電気通信]]設備及び[[無線設備]]に関する技術上の規格(第69号)
* 情報の電磁的流通及び電波の利用に関する技術の研究及び開発(第70号)
* 情報通信の高度化に関する事務のうち情報の電磁的流通に係るもの(第71号)
* 宇宙の開発に関する大規模な技術開発であって、情報の電磁的流通及び電波の利用に係るもの(第72号)
* 情報の電磁的流通及び電波の利用に関する国際的取決めを協議し、及び締結すること並びに国際電気通信連合等と連絡すること(第73号)
* [[郵政事業]](第74号~第76号)
* [[郵便]]に関する国際的取決めを協議し、及び締結すること並びに[[万国郵便連合]]等と連絡すること(第77号)
* 公的[[統計]](第78号~第83号)
* [[公益信託]]の監督(第84号)
* [[引揚者]]等に対する特別交付金(第85号)
* [[平和条約国籍離脱者]]等で戦没者遺族等に対する弔慰金等(第86号)
* 旧[[日本赤十字社]]救護看護婦及び旧陸海軍[[従軍看護婦]]に対する慰労(第87号)
* 一般戦災死没者に対して追悼の意を表す事務(第88号)
* 静穏を保持することが必要である政党事務所周辺地域の指定(第89号)
* [[重要施設の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律|ドローン等規制法]]に基づく対象政党事務所等の指定(第90号)
* 所掌事務に係る一般消費者の利益の保護(第91号)
* 所掌事務に係る国際協力(第92号)
* 地方公務員に対する地方自治に関する高度の研修(第93号のイ)
* 公務員に対する統計に関する研修(第93号のロ)
* [[公害等調整委員会]]の事務(第94号)
* [[日本の消防|消防]](第95号)
* 他の行政機関の所掌に属しない事務及び法律で総務省に属させられた事務(第96号)
{{Col-end}}
== 組織 ==
一般に、総務省の内部組織は法律の[[総務省設置法]]、政令の総務省組織令、省令の総務省組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* [[総務大臣]](国家行政組織法第5条、法律第5条)
* [[総務副大臣]]2名(国家行政組織法第16条)
* [[総務大臣政務官]]3名(国家行政組織法第17条)
* [[大臣補佐官|総務大臣補佐官]]1名(国家行政組織法第17条の2。必置ではない)
* [[#総務事務次官|総務事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[総務審議官]]3名(法律第7条)
* [[秘書官|総務大臣秘書官]](国家行政組織法第19条)
=== 内部部局 ===
* '''[[総務省大臣官房|大臣官房]]'''(政令第2条)
** 秘書課(政令第20条)
** 総務課
** 会計課
** 企画課
** 政策評価広報課
* '''[[行政管理局]]''' - 中央省庁の業務の改善、独立行政法人および特殊法人の新設・改廃の審査、独立行政法人の評価、情報公開の推進などに関する事務を所掌。
** 企画調整課(政令第36条)
** 調査法制課
** 管理官8名
* '''[[行政評価局]]''' - 政策評価制度、行政相談などに関する事務を所掌。
** [[行政評価局#総務課|総務課]]
** 企画課
** 政策評価課
** 行政相談企画課
** 評価監視官7名
** 行政相談管理官1名
* '''[[自治行政局]]''' - 地方行政制度、地方公務員制度、選挙制度に関する事務を所掌。
** [[自治行政局#行政課|行政課]](政令第45条)
** 住民制度課
** 市町村課
** 地域政策課
** 地域自立応援課
** 参事官1名
** 公務員部(政令第2条第2項)
*** 公務員課(政令第45条第2項)
*** 福利課
** 選挙部
*** 選挙課(政令第45条第3項)
*** 管理課
*** [[選挙部政治資金課|政治資金課]]
* '''[[自治財政局]]''' - 地方財政制度、地方交付税制度、地方債制度など地方公共団体の財源の保障および調整に関する事務を所掌。
** 財政課(政令第55条)
** 調整課
** 交付税課
** 地方債課
** 公営企業課
** 財務調査課
* '''[[自治税務局]]''' - 地方税制度に関する事務を所掌。
** 企画課(政令第62条)
** 都道府県税課
** 市町村税課
** 固定資産税課
* '''[[国際戦略局]]''' - 総務省の所管行政全体の国際戦略に関する事務を所掌。
** 国際戦略課
** 技術政策課
** 通信規格課
** 宇宙通信政策課
** 国際展開課
** 国際経済課
** 国際協力課
** 参事官1名
* '''[[情報流通行政局]]''' - 情報(コンテンツ)の流通・利用、[[日本放送協会]]の適正な運営、放送事業などに関する事務を所掌。郵政行政部は[[日本郵政|日本郵政グループ]]の適正な運営、[[信書便]]事業などに関する事務を所掌。
** 総務課(政令第76条)
** 情報通信政策課
** 情報流通振興課
** 情報通信作品振興課
** 地域通信振興課
** [[情報流通行政局#放送政策課|放送政策課]]
** 放送技術課
** 地上放送課
** 衛星・地域放送課
** 参事官1名
** [[郵政行政部]](政令第2条第2項)
*** 企画課(第76条第2項)
*** 郵便課
*** 信書便事業課
* '''[[総合通信基盤局]]''' - 電気通信事業、電波の利用などに関する事務を所掌。
** 総務課(政令第91条)
** 電気通信事業部(政令第2条第2項)
*** 事業政策課(政令第91条第2項)
*** 料金サービス課
*** データ通信課
*** 電気通信技術システム課
*** 安全・信頼性対策課
*** 基盤整備促進課
*** 利用環境課
** 電波部
*** 電波政策課(政令第91条第3項)
*** 基幹・衛星移動通信課
*** 移動通信課
*** 電波環境課
* '''[[統計局]]''' - 公的統計制度に関する事務を所掌。
** 総務課(政令第110条)
** 事業所情報管理課
** 統計情報利用推進課
** 統計情報システム管理官1名
** 統計調査部(政令第2条第2項)
*** 調査企画課(政令第110条第2項)
*** 国勢統計課
*** 経済統計課
*** 消費統計課
* '''[[政策統括官 (総務省)|政策統括官(統計制度担当、恩給担当)]]'''{{Efn|政策統括官1名が2つの担務を兼務している。}}
** 統計企画管理官1名
** 統計審査官3名
** 統計調整官1名
** 国際統計管理官1名
** 恩給管理官1名
* '''[[サイバーセキュリティ統括官]]'''
** 参事官2名
=== 審議会等 ===
* [[恩給審査会]](法律第8条)
* [[地方財政審議会]](法律第8条)
* [[行政不服審査会]]([[行政不服審査法]]第67条第1項、法律第8条第2項)
* [[国地方係争処理委員会]]([[地方自治法]]第250条の7、法律第8条第2項)
* [[電気通信紛争処理委員会]]([[電気通信事業法]]第144条、法律第8条第2項)
* [[統計委員会]]([[統計法]]第44条、法律第8条第2項)
* [[電波監理審議会]]([[電波法]]第99条の2、法律第8条第2項)
* [[独立行政法人評価制度委員会]]([[独立行政法人通則法]]、法律第12条)
* [[国立研究開発法人審議会]]
* [[政策評価審議会]](政令第121条)
* [[情報通信審議会]](政令第121条)
* [[情報通信行政・郵政行政審議会]](政令第121条)
* [[官民競争入札等監理委員会]](競争の導入による公共サービスの改革に関する法律第37条)
* [[情報公開・個人情報保護審査会]]([[情報公開・個人情報保護審査会設置法]])
=== 施設等機関 ===
* [[自治大学校]](政令第126条)
* [[情報通信政策研究所]](政令第126条)
* [[統計研究研修所]](政令第126条)
=== 特別の機関 ===
* [[中央選挙管理会]](政令第22条)
* [[政治資金適正化委員会]](政治資金規正法第19条の29、政令第22条第2項)
* [[自治紛争処理委員]](地方自治法第251条)
=== 地方支分部局 ===
総務省の地方支分部局には以下の4つがある。
* [[管区行政評価局]](法律第24条)
* [[総合通信局]](法律第24条)
* 沖縄行政評価事務所(法律第24条第2項)
* [[沖縄総合通信事務所]](法律第24条第2項)
==== 管区行政評価局 ====
前身は管区行政監察局。[[日本の行政機関|国の行政機関]]の[[政策]]評価、業務実施状況の評価および監視、[[独立行政法人]]、[[地方公共団体]]の法定受託事務の実施状況の調査、各[[行政機関]]・地方公共団体の業務に関する苦情の申出についてのあっせん、[[行政相談委員]]、[[地方自治]]および[[民主主義|民主政治]]の普及徹底、国と地方公共団体および地方公共団体相互間の連絡調整など、総務省設置法第4条に列記された所掌事務のうち、第16号から第22号までに掲げる事務を所掌する。
* 北海道管区行政評価局(政令第133条)
* 東北管区行政評価局
* 関東管区行政評価局
* 中部管区行政評価局
* [[近畿管区行政評価局]]
* 中国四国管区行政評価局
* 九州管区行政評価局
==== 総合通信局 ====
前身は地方電波管理局(1985年から地方電気通信監理局)。不法無線局の取締り(無線局の周波数逸脱運用を含む。ただし職員は特別司法警察職員ではないので、日本の警察と共同で取締る)や無線局・放送局・有線放送の許認可および検査、電波伝搬(伝播)路指定の許認可、高周波ウェルダーなどの高周波利用設備の許可、無線従事者免許証や無線局免許状の発給、インターネットサービスプロバイダーなどの電気通信事業者に係る許認可、地方公共団体の情報通信インフラ整備の支援、情報通信分野の研究開発や同分野に関わるベンチャー企業の支援、信書便事業の民間開放に伴う許認可など、総務省設置法第4条に列記された所掌事務のうち、第57号から第66号まで、第68号から第70号まで、第75号、第91号および第96号に掲げる事務を所掌する。
* [[北海道総合通信局]](政令第138条)
* [[東北総合通信局]]
* [[関東総合通信局]]
* [[信越総合通信局]]
* [[北陸総合通信局]]
* [[東海総合通信局]]
* [[近畿総合通信局]]
* [[中国総合通信局]]
* [[四国総合通信局]]
* [[九州総合通信局]]
=== 外局 ===
* [[公害等調整委員会]](国家行政組織法第3条第2項、法律第30条)
* [[消防庁]](国家行政組織法第3条第2項、法律第30条)
== 所管法人 ==
[[独立行政法人]](計4法人)<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>
* 単独主管(計3法人。独立行政法人統計センターは[[独立行政法人#行政執行法人|行政執行法人]]であり、役職員は[[国家公務員]]の身分を有する)
** [[情報通信研究機構|国立研究開発法人情報通信研究機構]]
** [[統計センター|独立行政法人統計センター]]
** [[郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構|独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構]]
* 他官庁との共管(計1法人)
** [[宇宙航空研究開発機構|国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構]]([[内閣府]]、[[文部科学省]]、[[経済産業省]]と共管)
[[特殊法人]](計7法人)<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>
* 単独主管(計6法人。日本放送協会を除き、すべて[[株式会社]]の形態で設立された特殊法人([[特殊会社]])である)
** [[日本電信電話|日本電信電話株式会社]]{{Efn|いわゆる「[[NTTグループ]]」に属する会社には、他に[[NTTコミュニケーションズ|エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ株式会社]]、[[NTTデータ|株式会社エヌ・ティ・ティ・データ]]、[[NTTドコモ|株式会社NTTドコモ]]等があるものの、そのいずれも特殊法人の形態をとっておらず、特殊法人であるのはこれら3社だけである。}}
*** [[東日本電信電話|東日本電信電話株式会社]]
*** [[西日本電信電話|西日本電信電話株式会社]]
** [[日本放送協会]]
** [[日本郵政|日本郵政株式会社]]{{Efn|いわゆる「日本郵政グループ」に属する会社には、他に[[ゆうちょ銀行|株式会社ゆうちょ銀行]]、[[かんぽ生命保険|株式会社かんぽ生命保険]]があるものの、そのいずれも特殊法人の形態をとっておらず、特殊法人であるのはこれら2社だけである。}}
*** [[日本郵便|日本郵便株式会社]]
* 他官庁との共管(計1法人)
** [[放送大学学園]](文部科学省と共管)
[[特別民間法人]](計4法人)<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>
* 日本消防検定協会
* [[危険物保安技術協会]]
* 消防団員等公務災害補償等共済基金
* [[日本行政書士会連合会]]
[[地方共同法人|地方公共団体が主体となって業務運営を行う法人]](計3法人)
* [[地方公務員災害補償基金]]
* [[地方公共団体金融機構]]
* [[地方税共同機構]]
国及び地方公共団体が共同して運営する法人(計1法人)
* [[地方公共団体情報システム機構]]([[デジタル庁]]と共管)
[[共済組合|共済組合類型の法人]](計17法人)
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[地方公務員共済組合連合会]]
* [[全国市町村職員共済組合連合会]]
* [[地方職員共済組合]]
* [[東京都職員共済組合]]
* 札幌市職員共済組合
* 横浜市職員共済組合
* 川崎市職員共済組合
* 名古屋市職員共済組合
* 京都市職員共済組合
{{Col-2}}
* 大阪市職員共済組合
* 神戸市職員共済組合
* 広島市職員共済組合
* 北九州市職員共済組合
* 福岡市職員共済組合
* 都道府県議会議員共済会
* 市議会議員共済会
* 町村議会議員共済会
{{Col-end}}
[[警察共済組合]]は[[警察庁]]が、[[公立学校共済組合]]は文部科学省がそれぞれ所管する。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における総務省所管歳出予算は、16兆8625億1025万4千円である<ref name="予算" />。組織別の内訳は、総務本省が16兆8308億9486万6千円、管区行政評価局が72億315万2千円、総合通信局が115億2425万2千円、公害等調整委員会が5億5934万4千円、消防庁が123億2864万円となっている。本省予算のうち[[地方交付税|地方交付税交付金]]が16兆1822億7565万8千円、[[地方特例交付金]]が2169億円と大半を占める。
総務省は、内閣府および財務省と[[交付税及び譲与税配付金特別会計]]を共管する。国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省および防衛省所管{{Efn|国の予算を所管するすべての機関である。なお、人事院は予算所管に関しては内閣に属するのでここにはない。}}の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、総務省全体で4,569人(男性3,461人、女性1,108人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。本省および外局別の人数は本省が4,238人(男性3,155人、女性1,083人)、公害等調整委員会33人(男性24人、女性9人)、消防庁170人(男性152人、女性18人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた総務省の定員は特別職1人を含めて4,786人(2023年9月30日までは4,821人)であり<ref name="定員令" />、うち公害等調整委員会の定員(事務局職員の定員)は、36人となっている。公害等調整委員会を除く、本省および消防庁の定員は省令の総務省定員規則に定められており、本省4,576人(2023年9月30日までは4,611人)、消防庁174人となっている<ref name="定員規則">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000008004 総務省定員規則(平成13年1月6日総務省令第4号)最終改正:令和5年3月30日総務省令第25号)]</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職25人、一般職4,785人の計4,810人である<ref name="予算" />。機関別内訳は総務省本省が2,677人、管区行政評価局723人、総合通信局1,196人、公害等調整委員会40人、消防庁174人となっている。特別職について、予算定員と行政機関職員定員令の定員に大きな差異があるのは、行政機関職員定員令の定員には、大臣、副大臣、大臣政務官、公害等調整委員会委員、地方財政審議会委員などを含まないためである。
総務省の一般職職員は非現業の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は[[労働組合]]として、国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。消防庁の職員も団結権を否認されていない。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は単一体2、支部17となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は1,309人、組織率は35.7%。主な労働組合は総務省人事・恩給局職員組合、全行管職員組合(全行管)、全自治職員組合、全情報通信労働組合(全通信)および統計職員労働組合(統計職組)である。人事・恩給局および統計局が旧総理府の系譜を引くことから、人事・恩給局職組と統計職組は内閣府の旧総理府関係組合とともに連合体である総理府労連を形成している。総理府労連、全行管および全通信は[[日本国家公務員労働組合連合会|国公労連]]([[全国労働組合総連合|全労連]]系)に加盟している。
== 幹部 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000875091.pdf|title=総務省幹部職員名簿 令和5年7月7日現在|publisher=総務省|accessdate=2023年7月9日}}</ref>。
* 総務事務次官:[[内藤尚志]]
* 総務審議官(行政制度担当):[[堀江宏之]]
* 総務審議官(郵政・通信担当):[[竹内芳明]]
* 総務審議官(国際担当):[[吉田博史]]
* 大臣官房長:[[竹村晃一]]
* 行政管理局長:[[松本敦司]]
* 行政評価局長:[[菅原希]]
* 自治行政局長:[[山野謙]]
* 自治財政局長:[[大沢博 (総務官僚)|大沢博]]
* 自治税務局長:池田達雄
* 国際戦略局長:田原康生
* 情報流通行政局長:小笠原陽一
* 総合通信基盤局長:[[今川拓郎]]
* 統計局長:[[岩佐哲也]]
* 政策統括官(統計制度担当、恩給担当):阪本克彦
* サイバーセキュリティ統括官:山内智生
* 公害等調整委員会事務局長:山内達矢
* 消防庁長官:[[原邦彰]]
=== 総務事務次官 ===
{| class="wikitable" style="width:125%; font-size:80%"
|-
! 代
! 氏名
! 出身
! 前職
! 在任期間
! 退任後の役職
|-
| 1
| [[嶋津昭]]
| 自治省
| 自治省財政局長
| 2001年(平成13年)1月6日-<br />2002年(平成14年)1月8日
| [[全国知事会]][[事務総長]]、[[地域総合整備財団]]理事長、市町村職員中央研修所(市町村アカデミー)学長、[[ラグビーワールドカップ2019]]組織委員会事務総長
|-
| 2
| [[金澤薫]]
| 郵政省
| 総務審議官
| 2002年(平成14年)1月8日-<br />2003年(平成15年)1月17日
| [[日本電信電話]][[代表取締役]]副社長、同顧問、財団法人日本ITU協会理事長、財団法人国際通信経済研究所理事長、財団法人[[日本データ通信協会]]理事長、財団法人郵便貯金振興会理事長、財団法人海外通信・放送コンサルティング協力理事長
|-
| 3
| style="white-space:nowrap" |西村正紀
| style="white-space:nowrap" |[[行政管理庁]]
| 総務審議官
| 2003年(平成15年)1月17日-<br />2004年(平成16年)1月6日
| [[会計検査院]]長、[[城西大学]]監事
|-
| 4
| 香山充弘
| 自治省
| 総務審議官
| 2004年(平成16年)1月6日-<br />2005年(平成17年)8月15日
| [[自治医科大学|学校法人自治医科大学]]理事長、財団法人[[自治体国際化協会]]理事長、一般財団法人[[地方債協会]]会長、[[日本赤十字社]]理事
|-
| 5
| 林省吾
| 自治省
| [[消防庁長官]]
| style="white-space:nowrap" | 2005年(平成17年)8月15日-<br />2006年(平成18年)7月21日
| [[地域創造|財団法人地域創造]]理事長、市町村職員中央研修所(市町村アカデミー)学長、はごろもフーズ株式会社監査役
|-
| 6
| 松田隆利
| 行政管理庁
| style="white-space:nowrap" |行政改革推進本部<br />事務局長
| 2006年(平成18年)7月21日-<br />2007年(平成19年)7月6日
| 国家公務員制度改革推進本部事務局次長、[[内閣官房長官]][[大臣補佐官|補佐官]]、[[公害等調整委員会]]委員
|-
| 7
| [[瀧野欣彌]]
| 自治省
| 総務審議官
| 2007年(平成19年)7月6日-<br />2009年(平成21年)7月14日
| [[内閣官房副長官]](事務)、[[地方公共団体金融機構]]理事長、[[渥美坂井法律事務所・外国法共同事業]]客員[[弁護士]]
|-
| 8
| [[鈴木康雄]]
| 郵政省
| 総務審議官
| 2009年(平成21年)7月14日-<br />2010年(平成22年)1月15日
| 株式会社[[損害保険ジャパン]]顧問、 一般財団法人日本ITU協会理事長、[[日本郵政]]取締役兼[[代表執行役]]上級副社長、[[日本郵便]]取締役
|-
| 9
| [[岡本保]]
| 自治省
| 総務審議官
| 2010年(平成22年)1月15日-<br />2012年(平成24年)9月11日
| [[野村資本市場研究所]]顧問、一般財団法人[[自治体国際化協会]]、(クレア)理事長
|-
| 10
|style="white-space:nowrap" | [[小笠原倫明]]
| 郵政省
| 総務審議官
| 2012年(平成24年)9月11日-<br />2013年(平成25年)6月28日
| 一般財団法人日本ITU協会理事長、一般社団法人[[ドローン操縦士協会]]理事、株式会社[[大和証券グループ本社]]取締役、株式会社[[スカパーJSATホールディングス]]取締役、[[住友商事]]株式会社顧問、株式会社[[大和総研]]顧問、[[損害保険ジャパン日本興亜]]株式会社顧問、一般社団法人世界貿易センター東京理事、一般社団法人日本ミャンマー協会理事
|-
| 11
| 岡崎浩巳
| 自治省
| 消防庁長官
| 2013年(平成25年)6月28日-<br />2014年(平成26年)7月22日
| [[地方公務員共済組合連合会]]理事長、一般社団法人地方公務員共済組合協議会理事、[[セガサミーホールディングス]]株式会社顧問、株式会社[[野村総合研究所]]顧問、日本インバウンド連合会顧問
|-
| 12
| [[大石利雄]]
| 自治省
| 消防庁長官
| 2014年(平成26年)7月22日-<br />2015年(平成27年)7月31日
| 一般財団法人[[地方財務協会]]理事長、学校法人自治医科大学理事長、公益財団法人地域社会振興財団理事長、[[みずほ総合研究所]]顧問、[[金山町 (山形県)|金山町]]政策顧問
|-
| 13
| [[桜井俊]]
| 郵政省
| 総務審議官
| 2015年(平成27年)7月31日-<br />2016年(平成28年)6月17日
| [[電通グループ]]代表取締役副社長、一般財団法人[[マルチメディア振興センター]]理事長、一般財団法人全国地域情報化推進協会理事長、地域IoT官民ネット共同代表、[[三井住友信託銀行]]株式会社顧問、[[毎日新聞社]]毎日ユニバーサル委員会委員
|-
| 14
| [[佐藤文俊 (総務官僚)|佐藤文俊]]
| 自治省
| 総務審議官
| 2016年(平成28年)6月17日-<br />2017年(平成29年)7月11日
| 株式会社[[野村総合研究所]]顧問、[[郡山市]]財政・地域振興アドバイザー<ref> {{WAP|pid=11664039|url=www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/1/0118_zaisei.pdf|title=株式会社野村総合研究所顧問 佐藤文俊氏に郡山市財政・地域振興アドバイザーを委嘱します 平成31年1月18日郡山市財務部財政課|date=2021年4月12日}}</ref>、[[地方公共団体金融機構]]理事長
|-
|15
|安田充
|自治省
| style="white-space:nowrap" |自治行政局長
|2017年(平成29年)7月11日-<br />2019年(令和元年)7月5日
|[[みずほ総合研究所]]株式会社顧問
|-
|16
|[[鈴木茂樹 (官僚)|鈴木茂樹]]<ref name="令和元年12月20日付">{{Cite web|和書|title=令和元年12月20日付 総務省人事|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000660795.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2020-4-8}}</ref>
|郵政省
| style="white-space:nowrap" |総務審議官
|2019年(令和元年)7月5日-<br />2019年(令和元年)12月20日
| 辞職(停職3月)、横須賀テレコムリサーチパーク代表取締役社長、一般社団法人[[CRM協議会]]副会長、[[国立情報学研究所]]研究戦略室[[特任研究員]]、[[早稲田大学理工学術院]]総合研究所客員上級研究員、早稲田大学理工学術院[[客員講師]]、[[開志専門職大学]][[客員教授]]<ref>[https://crma-j.org/introduce/introduce_01.html 一般社団法人 CRM協議会の組織体制と役員 第十三期(2021/4/1 -- 2022/3/31)] CRM協議会</ref><ref>[https://www.nii.ac.jp/faculty/list/project-profs/ 特任研究員等] 国立情報学研究所</ref><ref>[https://www.waseda.jp/fsci/wise/about/researcher/ 非常勤研究員(客員上級・客員主任・客員次席)Guest Senior]早稲田大学</ref>、[[情報経営イノベーション専門職大学]]超客員教授<ref> {{Wayback|url=https://www.i-u.ac.jp/academic/people/detail.php?id=432|title=鈴木 茂樹|情報経営イノベーション専門職大学【iU】|ICTで、まだない幸せをつくる。|date=20210617032004}}</ref>、[[新潟総合学院]]顧問・学長アドバイザー<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/houkoku_r031221_siryou.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく国家公務員の再就職状況の報告(令和3年7月1日~同年9月30日分)]}} 2021年12月21日 内閣官房内閣人事局</ref>
|-
|17
|style="white-space:nowrap" |[[黒田武一郎]]<ref name="令和元年12月20日付" />
|自治省
| style="white-space:nowrap" |総務審議官
|style="white-space:nowrap"|2019年(令和元年)12月20日-<br />2022年(令和4年)6月28日
|
|-
|18
|[[山下哲夫]]
|総理府
|総務審議官
|2022年(令和4年)6月28日-<br />2023年(令和5年)7月7日
|
|-
|19
|[[内藤尚志]]
|自治省
|総務審議官
|2023年(令和5年)7月7日 -
|
|}
== 関連紛争や諸問題 ==
=== 関連紛争 ===
* [[地方交付税]] - [[地方分権]] - [[三位一体の改革]]
* [[郵政民営化]]における[[かんぽの宿#2009年の一括売却検討|かんぽの宿売却問題]]
* [[電波利用料#電波オークション|電波オークション]] - [[放送利権]]
* [[情報銀行]]([[信託#日本における信託|個人情報を企業に信託するパーソナルデータ・サービス]]) - 第二期[[電子政府|政府共通]][[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]の[[外資]]系[[Amazon Web Services]]上での運用問題<ref>{{Wayback|url=https://jp.techcrunch.com/2020/10/08/aws-soumu-japan-pf/|title=総務省による第二期政府共通プラットフォームがAWS上で運用開始、行政サービスのDX加速 {{!}} TechCrunch Japan|date=20201013091440}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://diamond.jp/articles/-/241959?page=2 |title=アマゾンに政府基盤システムを発注して大丈夫?情報保護、障害、コスト… |author=沼澤典史 |publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]] |date=2020-07-02 |accessdate=2021-03-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020092600003.html |title=佐藤章ノート アマゾンに日本政府のIT基盤を丸投げする菅政権~NTTデータはなぜ敗北したのか 菅政権「デジタル改革」の罠(2)|author=[[佐藤章 (ジャーナリスト)|佐藤章]] |work=[[論座]] |publisher=[[朝日新聞出版]] |date=2020-09-28 |accessdate=2021-03-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01869/112400002/ |title=マルチクラウド」の準備足りないデジタル庁、AWS・Google以外の選択肢は増えるか |author=玄忠雄 |publisher=日経クロステック / [[日経コンピュータ]] |date=2021-11-29 |accessdate=2022-05-17}}</ref>{{Efn|[[デジタル庁#関連紛争や諸問題]]も参照。}} - [[LINE (アプリケーション)#問題点|LINEの個人情報漏洩や中国・韓国などへの情報漏洩問題]]<ref>{{Cite news|url=https://www.fnn.jp/articles/-/157015 |title=「本当に怖い」LINEの個人情報が中国で閲覧可能だった…首相や閣僚の重要情報のやり取りも見られた? |work=[[Live News イット!|イット!]] |publisher=[[フジニュースネットワーク|FNNプライムオンライン]] |date=2021-03-17|accessdate=2021-03-18}}</ref>
=== 不祥事 ===
*2005年、[[鈴木康雄]][[郵政行政局]]長(のちに総務事務次官)が、[[総合通信基盤局]]電気通信事業部長時代に[[許認可]]権限で[[利害関係者]]にあたる[[NTTコミュニケーションズ]]から[[接待]]を受けタクシー券を束で受け取っていたことが明らかになり、[[国家公務員倫理法]]の倫理規定に違反したとして[[戒告]]の[[懲戒処分]]<ref>{{Cite web|和書|title=首相の天領、総務省接待事件の源流は「菅総務相」時代の人事私物化 |url=https://diamond.jp/articles/-/264715?page=4 |author=[[山田厚史]] |website=[[ダイヤモンド・オンライン]] |date=2021-03-06 |accessdate=2021-03-08 |language=ja}}</ref>。
*2019年12月20日、[[鈴木茂樹]][[総務省#総務事務次官|総務事務次官]]が、[[かんぽ生命保険]]不正販売問題による[[日本郵政]]に対する[[行政行為|行政処分]]案の検討状況を、日本郵政副社長鈴木康雄元総務事務次官らに漏洩したとして[[停職]]の懲戒処分。鈴木茂樹次官は同日付で辞職<ref>{{Cite web|和書|title=日本郵政に処分内容漏洩 総務次官が辞任 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53616720Q9A221C1EE8000/|website=[[日本経済新聞]] |date=2019-12-20 |accessdate=2021-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=先輩によかれと思って情報提供? 総務前次官の漏洩問題 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN5T6789N5TULFA00H.html |website=[[朝日新聞]] |author=藤田知也 |date=2020-05-26 |accessdate=2021-03-08 |language=ja}}</ref>。
*2021年2月24日、[[菅義偉]][[内閣総理大臣]]の長男[[菅正剛]]が勤務する[[東北新社]]から13人の職員が接待を受けた問題で国家公務員倫理法の倫理規定に違反したとして、[[谷脇康彦]]・[[吉田眞人]]両[[総務審議官]]・[[秋本芳徳]][[局長]]以下9人を[[減給]]などの懲戒処分、一部を更迭し、[[山田真貴子]]前総審も引責辞任。{{see also|東北新社役職員による総務省幹部接待問題}}
*同年3月5日、上記東北新社接待問題に絡み、「東北新社[[外資規制]]放送法違反問題」が、[[予算委員会#参議院|参議院予算委員会]]において、元総務官僚で立憲民主党議員[[小西洋之]]より指摘された。東北新社は、[[日本における衛星放送|BS]][[4K 8Kテレビ放送|4K]]の[[衛星基幹放送事業者]]に認定された2か月後の2017年3月に外資比率が21%に達していた。[[放送法]]第103条第1項で、外資規制に反することになった時にはその認定を取り消さなければならないが、総務省は認定を取り消さなかった<ref>{{Cite web|和書|title=東北新社 外資規制で放送法違反 共同通信 |url=https://jp.reuters.com/article/idJP2021030501002375 |website=[[ロイター通信]] |work= |date=2021-03-05 |accessdate=2021-03-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東北新社の違反疑惑「決裁は山田氏」の答弁にどよめく(一部記事引用) |url=https://www.asahi.com/articles/ASP355WNBP35UTFK029.html |website=朝日新聞 |date=2021-03-05 |accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>。認定が取り消されず、半年後に東北新社は[[子会社]]を作って[[事業承継]]させていた。これについて小西は、放送法違反を脱法する違法行為だと指摘している。その際、事業承継を最終決済したのが当時[[情報流通行政局]]長の山田真貴子前内閣広報官だった<ref>{{Cite web|和書|title=東北新社 外資規制違反の可能性も認定取り消されず |url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/55069.html |work=NHK政治マガジン |website=[[日本放送協会|NHK]] |date=2021-03-05 |accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>。<br />[[電波法]]や[[放送法]]では、[[基幹放送#外資規制|基幹放送事業者への外資規制を実施]]し、[[外国人]]が業務を執行する[[役員]]に就任することおよび5分の1(20%)以上の[[株主の議決権|株式議決権]]を保有することを制限している。外資規制に絡む問題では、2011年に[[フジテレビ抗議デモ]]などがあったが、同2021年3月には、[[フジテレビジョン]]と[[日本テレビ放送網]]が、[[2010年代]]を通じて外国人の株主議決権比率が外資規制に違反した状態にあったことが同東北新社の問題に続いて発覚した。これに対して、[[武田良太]]総務大臣は、過去の件だとして何らの処分をしない旨を明らかにしたが、一方の東北新社がBS4Kで免許を取り消され、他方のフジテレビと日本テレビが処分を見逃されている点で、[[法の下の平等]]、公平性、公正性、明確性などの観点から疑義が呈されている<ref>{{ウェブアーカイブ
|deadlink=no |title=「フジと日テレ」の外資比率が、東北新社を超えても許される理由 平井宏治 2021年4月2日 ダイヤモンドonline |url=https://diamond.jp/articles/-/267285 |date=2021年04月02日 (UTC) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210429083231/https://diamond.jp/articles/-/267285 |archiveservice=[[ウェイバックマシン]] |archivedate=2021-04-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/82541|title=東北新社とフジテレビの「放送法違反」をマスコミがまともに報じないウラ事情|accessdate=2021-11-07|publisher=[[現代ビジネス]]|date=2021-04-27}}</ref>{{Efn|なお、現行法では、[[スポンサー]]を募り制作される[[CM]]や[[番組]]内容に対する外資規制は為されていない。}}。
*鈴木茂樹総務審議官(当時)、谷脇康彦総務審議官(当時)、山田真貴子総務審議官(当時)、秋本芳徳電気通信事業部長(当時)、[[金杉憲治]][[外務審議官]](当時)、[[野田聖子]][[総務大臣]](当時)、[[高市早苗]]総務大臣(当時)、[[坂井学]][[総務副大臣]](当時)、[[寺田稔]]総務副大臣(当時)、[[新谷正義]]総務副大臣の秘書(当時)、その他[[新藤義孝]]と[[佐藤勉]]ら総務大臣・副大臣・[[総務大臣政務官|大臣政務官]]など経験者が、[[日本電信電話|NTT]]からの出捐を得て、高額な会食を行っていたことを2021年3月3日から3月10日にかけての週刊文春の報道などで発覚<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210310/k00/00m/010/227000c 高市早苗氏と野田聖子氏、総務相在任中にNTT側と会食 文春報道] 毎日新聞 2021/3/10</ref><ref>{{Wayback|url=https://bunshun.jp/articles/-/43953|title=内部文書入手 NTTが総務大臣、副大臣も接待していた {{!}} 文春オンライン|date=20210310070222}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.msn.com/ja-jp/news/national/自民・野田幹事長代行、nttからの接待を否定「プライベートな会合」/ar-BB1et8YH|title=自民・野田幹事長代行、NTTからの接待を否定「プライベートな会合」|date=20210311065449}}</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20210315/dde/001/010/055000c 秋本前局長も接待 NTT、鈴木前次官が同席]毎日新聞 2021/3/15</ref><ref>{{Wayback|url=https://bunshun.jp/articles/-/43785|title=一人10万円超も NTTが山田前広報官と谷脇総務審議官に高額接待 {{!}} 文春オンライン|date=20210303070359}}</ref>。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ministry of Internal Affairs and Communications}}
* [[内務省 (日本)|内務省]]
* [[総務庁]] - [[郵政省]] - [[自治省]](直接の前身の行政官庁)
* [[地方交付税]]
* [[連邦通信委員会]]([[アメリカ合衆国|米国]]における情報通信業の規制機関)- [[Ofcom]]([[イギリス|英国]]における情報通信業の規制機関)- [[視聴覚最高評議会]]([[フランス]]における情報通信業の規制機関)
* [[個人番号]] - [[住民基本台帳ネットワークシステム]] - 2020年[[特別定額給付金]]
* [[マイナポイント事業]]の委託、再委託などの流れ
** [[環境共創イニシアチブ]] - [[電通]](代表取締役に元次官[[桜井俊]]ら)- [[電通ライブ]]、[[電通国際情報サービス]]など - [[トランスコスモス]]など<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/36004 総務省の事業も電通に再委託 ポイント還元事業めぐり] [[東京新聞]] 2020年06月17日 07時11分</ref>
* [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] - [[準キャリア]]
** [[管理官#総務省行政管理局における「管理官」|総務省行政管理局管理官]]は、[[人事院#事務総局|人事院給与局給与第二課長]]と共に財務官僚の指定席であり、[[主計官]]や[[参事官#種類|内閣法制局参事官]]などと同様に官僚組織内で強い権限を有する。
* [[日本の行政機関]]
* [[総務]] - [[総務部]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* [https://www.soumu.go.jp/ 総務省]
{{中央省庁}}
{{総務省}}
{{総務省所管の資格・試験}}
{{通信と放送に関する制度}}
{{日本のサイバー犯罪対策}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:そうむしよう}}
[[Category:総務省|*]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:2001年設立の政府機関]] | 2003-03-04T23:10:11Z | 2023-12-17T01:04:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8B%99%E7%9C%81 |
3,413 | 財務省 | 財務省(ざいむしょう、英: Ministry of Finance、略称: MOF)は、日本の行政機関のひとつ。健全財政の確保、公平な課税の実現、国庫の管理、税関業務の運営、通貨に対する信頼の維持等を所管する。
財務省設置法第3条の任務を達成するため、財務省は国の予算、決算、会計、租税、通貨制度、日本国債、財政投融資、国有財産、外国為替、酒類、たばこ、塩事業に関することなどを司る。たばこ および酒類関連の製造、販売事業は、たばこ税および酒税の関係で管轄している。また、日本たばこ産業、日本郵政および日本電信電話など、国が筆頭株主となっている特殊会社の多くを所管する。
2001年(平成13年)1月6日に、中央省庁等改革基本法により大蔵省を改編改称して発足した。金融行政は、内閣府の外局として新設された金融庁に全面的に移管された。
財務省が編著者となる白書はない。定期刊行の広報誌には月刊の「ファイナンス」がある。大臣官房文書課が編集発行をつかさどり、日経印刷が販売元となっている。2010年3月号までは、大蔵財務協会が販売していた。ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.mof.go.jp」。他に国税庁が「www.nta.go.jp」、関税局、税関が「www.customs.go.jp」と、独自のドメイン名を持っている。英語略表記のMOFからモフと呼ばれることがある。大手金融機関には、財務省とのコネクションを保ち、業務に資する情報を財務省官僚から取得するMOF担と呼称される担当者が存在していたが、金融機関の監督官庁が金融庁となったことに伴い消滅した。
財務省設置法4条は65号にわたって所掌する事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
財務省の内部組織は一般的に、法律の財務省設置法、政令の財務省組織令及び省令の財務省組織規則が階層的に規定している。
過去の大蔵大臣および財務大臣は日本の大蔵大臣・財務大臣一覧を参照。
財務省の地方支分部局には財務局と税関、沖縄地区税関の3種類がある(法律第12条)。沖縄県における財務局の業務は、内閣府沖縄総合事務局財務部が行っている。
独立行政法人(2023年4月1日現在、計3法人)
財務省が主管していた日本万国博覧会記念機構は、2014年4月1日に解散し、公園事業については大阪府が、基金事業については公益社団法人関西・大阪21世紀協会が承継した。
特殊法人(2023年4月1日現在、計5法人。すべて株式会社の形態で設立された特殊会社)
特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、2023年4月1日現在)
認可法人
共済組合
特別の法律により設立される法人
財務省が主管する地方共同法人は存在しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における財務省所管の歳出予算は35兆4762億7965万6千円である。2022年当初予算31兆1688億3965万8千円に比較して、4兆3074億3999万8千円の増加となっている。増加の大部分は、防衛力整備計画対象経費の財源に充てるための防衛力強化資金への繰入れ分である約3兆3千億円である。前年度5兆円を計上した新型コロナウイルス感染症対策予備費は、引き続き「新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費」として4兆円、「ウクライナ情勢経済緊急対応予備費」として1兆円を計上することとなった。
組織別の内訳では財務本省が34兆6796億1587万8千円と全体の約97.8%を占めており、以下、財務局が568億8214万8千円、税関が981億2992万4千円、国税庁が6416億5170万6千円となっている。本省予算のうち25兆2503億4024万9千円が国債費、4兆円が新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費、1兆円がウクライナ情勢経済緊急対応予備費、5000億円が予備費である。
歳入予算は111兆3333億6275万円と国全体の歳入予算(114兆3812億3556万9千円)のうち約97%を所管しているが、これは財務省が内国税の徴収や国債発行、国有財産の管理など国の歳入となる主要な事務をすべて所掌しているためである。主な内訳は「租税及印紙収入」が69兆4400億円、「公債金」が35兆6230億円、雑収入の「防衛力強化特別会計受入金」が3兆7319億1724万7千円となっている。
財務省は、地震再保険特別会計、国債整理基金特別会計及び外国為替資金特別会計の3つの特別会計を所管しており、また内閣府及び総務省と交付税及び譲与税配付金特別会計を、国土交通省と財政投融資特別会計を共管している。さらに、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、財務省全体で70,727人(男性53,012人、女性17,715人)である。うち、本省(税関、財務局を含む)が15,808人(男性11,910人、女性3,898人)、国税庁54,919人(男性41,102人、女性13,817人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた財務省の定員は特別職1人を含めて72,879人(2023年9月30日までは、73,827人)。本省及び各外局別の定員は省令の財務省定員規則が、本省16,894人(2023年9月30日までは、16,922人)、国税庁55,985人(2023年9月30日までは、56,905人)と規定する。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職72,460人の計72,467人である。ほかに、特別会計の予算定員は、地震再保険特別会計が6人、外国為替資金特別会計が49人、財政投融資特別会計(財務省所管分)が354人などとなっている。
一般会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財務本省が1,861人、財務局が4,436人、税関が10,178人、国税庁が55,985人である。なお、適用される俸給表別にみると、税務職俸給表がもっとも多く54,570人、続いて行政職俸給表(一)が16,946人となっている。各税関で船舶職員も任用している関係から、海事職俸給表(一)の35人、海事職俸給表(二)の104人をそれぞれ措置されている。また、財務本省、税関、国税局の診療所には医療従事者の職員も任用されているため、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が23人、医療職俸給表(二)が25人、医療職俸給表(三)が52人、それぞれ措置されている。特別会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財政投融資特別会計(財務省所管分)に財務局が248人含まれている以外は本省である。
職員の競争試験による採用は主に国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、財務専門官採用試験、国税専門官採用試験及び税務職員採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。
財務省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は連合体18、単一体17、支部671となっている。組合員数は2万6809人、組織率は44.5%となっている。職員団体の登録数、組織人員ともに日本の行政機関(13府省庁2院)のなかで最も大きい。組織率は13府省2院の平均である37.0%を7.5ポイント上回っている。
現在、財務省本省においては財務省職員組合(財務職組)、財務局においては全財務労働組合(全財務)、税関においては日本税関労働組合(税関労組)及び全国税関労働組合(全税関)、国税庁においては国税労働組合総連合(国税労組)及び全国税労働組合(全国税)が活動している。財務職組、全財務、税関労組および国税労組は連合の国公単産である国公連合に加盟している。また、国立印刷局の全印刷、造幣局の全造幣、酒類総研労組および日本たばこ産業の全たばこ労組とともに、財務省関係機関労組の協議会として全大蔵労働組合連絡協議会(全大蔵労連)を構成している。全税関と全国税はともに少数派組合であり、全労連傘下の国公労連に加盟している。全大蔵労連に相当する組織として大蔵国公を構成する。
一般職の幹部は以下のとおりである。
歴代の財務事務次官等は財務事務次官#歴代の財務事務次官を参照。大蔵次官が1949年6月1日、長沼弘毅の在任中に国家行政組織法が施行されたため、大蔵事務次官に改称した。2001年1月6日、武藤敏郎の在任中に中央省庁再編により、大蔵事務次官から財務事務次官に改称された。財務事務次官は主計局長から昇任する場合が多いが、国税庁長官や主税局長から昇任した事例もある。2000年6月の武藤敏郎の次官就任以降は主計局長からの任用が続いていたが、2016年6月に佐藤慎一が主税局長から昇任した。これは、主計局長以外からの昇任としては1999年7月の薄井信明以来17年ぶり、主税局長からの昇任としては1981年6月の高橋元以来35年ぶりのことである。
政府は、赤字国債の発行を抑えるため、自動車損害賠償保障事業特別会計(当時)から、1994(平成6)年と1995(平成7)年の2年間で約1兆1200億円を一般会計に繰り入れた。2003(平成15)年度までに一部が返済されたが、未だ約6000億円が返済されていない。
未返済の6,000億円は、自動車ユーザーが支払ってきた自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)の積立金である。
この積立金は保険金の支払いとは別に、ひき逃げ事故などにより後遺障害を負った被害者の救済や交通事故の防止対策などに使われている。
国交省は財務省に貸し付けた資金とは別に、約1500億円を運用して被害者救済を行っているが、その運用益は年間約30億円。不足する金額は、運用元本となる1500億円を取り崩して補填している。そのため、財務省から国交省への返済が実施されなければ、元本が枯渇する事態に陥っていた。
2022年6月9日、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の仕組みを変更する改正法が、衆議院本会議で賛成多数により可決した。
改正法の成立を受け、政府は2023年度、保険料を車1台当たり最大150円値上げする方針だが、自賠責保険料値上げの一因は被害者救済事業の原資の枯渇にある。自賠責保険料の値上げの前に6,000億円の返済が先ではないかという自動車ユーザーの当然の不満があり、解決が望まれている。
2018年3月2日、朝日新聞は、財務省が作成した土地取引に関わる決裁文書が契約当時の文書と後に開示された文書とで内容が異なることを指摘し、文書が「(森友学園)問題発覚後に書き換えられた疑い」があると報じた。12日まで財務省内で調査が行われ、同日国会に対し改竄の事実が報告された。また、麻生太郎財務大臣がメディアの取材において、「理財局の一部の職員が書き換えた」ものであり、最終責任者は当時の理財局長だった佐川宣寿前国税庁長官であるとの説明がなされた。
7日、近畿財務局職員である赤木俊夫が一連の改ざんに関わったことを苦に自殺。2020年3月18日には、赤木俊夫の妻が国と佐川を相手にした裁判を起こし、27日にはchange.orgにて首相宛の赤木俊夫の自殺をめぐる実態調査のための署名活動を起こした。4月1日ではこの署名数が26万人になり、日本最多最速記録となった。4月17日には30万人を突破した。
赤木の上司は「(改ざんの詳細を記して職場に残したとされるファイルに)赤木さんがきちっと整理している。前の文書や修正後の文書などがファイリングされていて、これを見たら、われわれがどういう過程でやったのかが全部わかる」と音声データに語っているが、国はファイルの確認を拒否して訴訟で争われた。
2018年4月9日の参議院決算委員会で、財務省は森友学園側に「口裏合わせ」の依頼をしていたことを認め、理財局長の太田充は「大変恥ずかしい、大変申し訳ない、深くおわびします」と謝罪した。
2018年5月23日、衆院予算委員会理事懇談会で、財務省は組織的な隠蔽を目的とした森友学園との交渉記録の破棄を認めた。公表された資料は、1,000ページ近い交渉記録と約3,000ページにも及ぶ決裁文書だが、2014年4月28日の学園側と財務局側との打ち合わせが抜けおちているのではないかという批判があがり、再調査となった。
骨太方針2015に判りにくい表現で財務省が埋め込んだ「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限が1000億円」は、安倍内閣から岸田内閣まで気付かないままでいた。 すなわち、5ページも離れたページにある下記の2つの文章を組み合わせないと気付かないようにする細工と、骨太方針2015を後続の各骨太方針でも継続的に引き継いでいる事も判りにくくして、「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限(キャップ)が1000億円=(1.6兆円ー1.5兆円)」とされていることに、内閣のどの大臣も認識できない状態を実現していた。
【骨太方針2015での問題の記述】
【骨太方針2022まで骨太方針2015の上記1000億円隠しキャップを継承させている仕組み】
骨太方針2022の第36ページに「令和5年度予算において、本方針及び骨太方針2021に基づき、経済・財政一体改革 を着実に推進する。」との文言を設定。
骨太方針2021の第37ページに「2022年度から2024年度までの3年間について、これまでと同様の歳出改革努力を継続する」との文言を設定し、このページの脚注153にて「これまで」とは、「2019年度から2021年度までの3年間の基盤強化期間」であると定義した。
骨太方針2019の第75ページに「令和2年度予算は、骨太方針2018及び本方針に基づき、経済・財政一体改革を着 実に推進するとともに、引き続き、新経済・財政再生計画で定める目安に沿った予算編成を行う。」との文言を設定。
骨太方針2018の第52ページに「基盤強化期間内に編成される予算については、以下の目安に沿った予算編成を行う。」としたうえで脚注175にて「これまで3年間と同様の歳出改革努力を継続する。」との文言を設定して、骨太方針2015の第30ページと第25ページの記述につないだ。
2022年10月26日に、自民党の政調全体会議において補正予算の規模などを討議していた最中に、財務省(午後2時39分、鈴木俊一財務相、財務省の茶谷栄治事務次官、新川浩嗣主計局長。)が岸田首相を訪問して、岸田首相に対して「経済対策の規模は一般歳出で25.1兆円。与党とも合意がとれている」との嘘の報告をするという偽計を用いて、岸田首相を騙して補正予算規模を縮小しようとした。しかし、2022年10月26日の自民党の政調全体会議の最中に、岸田首相が萩生田政調会長に対して電話をして、「(経済対策について)財務省が与党と一致したと報告しに来たけど、政調会長は知っているの?」と状況を確認した。萩生田政調会長は、「まだ中身を議論しているのに、規模が決まるわけがない。」と岸田首相に返答した。 財務省の行為は、自民党の政調全体会議に出席して審議している国会議員の業務と内閣の業務に対する妨害行為にもなっている。 | [
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"text": "財務省(ざいむしょう、英: Ministry of Finance、略称: MOF)は、日本の行政機関のひとつ。健全財政の確保、公平な課税の実現、国庫の管理、税関業務の運営、通貨に対する信頼の維持等を所管する。",
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"text": "財務省設置法第3条の任務を達成するため、財務省は国の予算、決算、会計、租税、通貨制度、日本国債、財政投融資、国有財産、外国為替、酒類、たばこ、塩事業に関することなどを司る。たばこ および酒類関連の製造、販売事業は、たばこ税および酒税の関係で管轄している。また、日本たばこ産業、日本郵政および日本電信電話など、国が筆頭株主となっている特殊会社の多くを所管する。",
"title": "概説"
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"text": "2001年(平成13年)1月6日に、中央省庁等改革基本法により大蔵省を改編改称して発足した。金融行政は、内閣府の外局として新設された金融庁に全面的に移管された。",
"title": "概説"
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"text": "財務省が編著者となる白書はない。定期刊行の広報誌には月刊の「ファイナンス」がある。大臣官房文書課が編集発行をつかさどり、日経印刷が販売元となっている。2010年3月号までは、大蔵財務協会が販売していた。ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.mof.go.jp」。他に国税庁が「www.nta.go.jp」、関税局、税関が「www.customs.go.jp」と、独自のドメイン名を持っている。英語略表記のMOFからモフと呼ばれることがある。大手金融機関には、財務省とのコネクションを保ち、業務に資する情報を財務省官僚から取得するMOF担と呼称される担当者が存在していたが、金融機関の監督官庁が金融庁となったことに伴い消滅した。",
"title": "概説"
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"text": "財務省設置法4条は65号にわたって所掌する事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。",
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"text": "財務省の内部組織は一般的に、法律の財務省設置法、政令の財務省組織令及び省令の財務省組織規則が階層的に規定している。",
"title": "組織"
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"text": "過去の大蔵大臣および財務大臣は日本の大蔵大臣・財務大臣一覧を参照。",
"title": "組織"
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"text": "財務省の地方支分部局には財務局と税関、沖縄地区税関の3種類がある(法律第12条)。沖縄県における財務局の業務は、内閣府沖縄総合事務局財務部が行っている。",
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"text": "独立行政法人(2023年4月1日現在、計3法人)",
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"text": "財務省が主管していた日本万国博覧会記念機構は、2014年4月1日に解散し、公園事業については大阪府が、基金事業については公益社団法人関西・大阪21世紀協会が承継した。",
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"text": "特殊法人(2023年4月1日現在、計5法人。すべて株式会社の形態で設立された特殊会社)",
"title": "所管法人"
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"text": "特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人、2023年4月1日現在)",
"title": "所管法人"
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"text": "認可法人",
"title": "所管法人"
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"text": "共済組合",
"title": "所管法人"
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"text": "特別の法律により設立される法人",
"title": "所管法人"
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"text": "財務省が主管する地方共同法人は存在しない。",
"title": "所管法人"
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における財務省所管の歳出予算は35兆4762億7965万6千円である。2022年当初予算31兆1688億3965万8千円に比較して、4兆3074億3999万8千円の増加となっている。増加の大部分は、防衛力整備計画対象経費の財源に充てるための防衛力強化資金への繰入れ分である約3兆3千億円である。前年度5兆円を計上した新型コロナウイルス感染症対策予備費は、引き続き「新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費」として4兆円、「ウクライナ情勢経済緊急対応予備費」として1兆円を計上することとなった。",
"title": "財政"
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"text": "組織別の内訳では財務本省が34兆6796億1587万8千円と全体の約97.8%を占めており、以下、財務局が568億8214万8千円、税関が981億2992万4千円、国税庁が6416億5170万6千円となっている。本省予算のうち25兆2503億4024万9千円が国債費、4兆円が新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費、1兆円がウクライナ情勢経済緊急対応予備費、5000億円が予備費である。",
"title": "財政"
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"text": "歳入予算は111兆3333億6275万円と国全体の歳入予算(114兆3812億3556万9千円)のうち約97%を所管しているが、これは財務省が内国税の徴収や国債発行、国有財産の管理など国の歳入となる主要な事務をすべて所掌しているためである。主な内訳は「租税及印紙収入」が69兆4400億円、「公債金」が35兆6230億円、雑収入の「防衛力強化特別会計受入金」が3兆7319億1724万7千円となっている。",
"title": "財政"
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"text": "財務省は、地震再保険特別会計、国債整理基金特別会計及び外国為替資金特別会計の3つの特別会計を所管しており、また内閣府及び総務省と交付税及び譲与税配付金特別会計を、国土交通省と財政投融資特別会計を共管している。さらに、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、財務省全体で70,727人(男性53,012人、女性17,715人)である。うち、本省(税関、財務局を含む)が15,808人(男性11,910人、女性3,898人)、国税庁54,919人(男性41,102人、女性13,817人)となっている。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "行政機関職員定員令に定められた財務省の定員は特別職1人を含めて72,879人(2023年9月30日までは、73,827人)。本省及び各外局別の定員は省令の財務省定員規則が、本省16,894人(2023年9月30日までは、16,922人)、国税庁55,985人(2023年9月30日までは、56,905人)と規定する。",
"title": "職員"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職72,460人の計72,467人である。ほかに、特別会計の予算定員は、地震再保険特別会計が6人、外国為替資金特別会計が49人、財政投融資特別会計(財務省所管分)が354人などとなっている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "一般会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財務本省が1,861人、財務局が4,436人、税関が10,178人、国税庁が55,985人である。なお、適用される俸給表別にみると、税務職俸給表がもっとも多く54,570人、続いて行政職俸給表(一)が16,946人となっている。各税関で船舶職員も任用している関係から、海事職俸給表(一)の35人、海事職俸給表(二)の104人をそれぞれ措置されている。また、財務本省、税関、国税局の診療所には医療従事者の職員も任用されているため、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が23人、医療職俸給表(二)が25人、医療職俸給表(三)が52人、それぞれ措置されている。特別会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財政投融資特別会計(財務省所管分)に財務局が248人含まれている以外は本省である。",
"title": "職員"
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"text": "職員の競争試験による採用は主に国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、財務専門官採用試験、国税専門官採用試験及び税務職員採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "財務省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は連合体18、単一体17、支部671となっている。組合員数は2万6809人、組織率は44.5%となっている。職員団体の登録数、組織人員ともに日本の行政機関(13府省庁2院)のなかで最も大きい。組織率は13府省2院の平均である37.0%を7.5ポイント上回っている。",
"title": "職員"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "現在、財務省本省においては財務省職員組合(財務職組)、財務局においては全財務労働組合(全財務)、税関においては日本税関労働組合(税関労組)及び全国税関労働組合(全税関)、国税庁においては国税労働組合総連合(国税労組)及び全国税労働組合(全国税)が活動している。財務職組、全財務、税関労組および国税労組は連合の国公単産である国公連合に加盟している。また、国立印刷局の全印刷、造幣局の全造幣、酒類総研労組および日本たばこ産業の全たばこ労組とともに、財務省関係機関労組の協議会として全大蔵労働組合連絡協議会(全大蔵労連)を構成している。全税関と全国税はともに少数派組合であり、全労連傘下の国公労連に加盟している。全大蔵労連に相当する組織として大蔵国公を構成する。",
"title": "職員"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "歴代の財務事務次官等は財務事務次官#歴代の財務事務次官を参照。大蔵次官が1949年6月1日、長沼弘毅の在任中に国家行政組織法が施行されたため、大蔵事務次官に改称した。2001年1月6日、武藤敏郎の在任中に中央省庁再編により、大蔵事務次官から財務事務次官に改称された。財務事務次官は主計局長から昇任する場合が多いが、国税庁長官や主税局長から昇任した事例もある。2000年6月の武藤敏郎の次官就任以降は主計局長からの任用が続いていたが、2016年6月に佐藤慎一が主税局長から昇任した。これは、主計局長以外からの昇任としては1999年7月の薄井信明以来17年ぶり、主税局長からの昇任としては1981年6月の高橋元以来35年ぶりのことである。",
"title": "幹部"
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"text": "政府は、赤字国債の発行を抑えるため、自動車損害賠償保障事業特別会計(当時)から、1994(平成6)年と1995(平成7)年の2年間で約1兆1200億円を一般会計に繰り入れた。2003(平成15)年度までに一部が返済されたが、未だ約6000億円が返済されていない。",
"title": "関連紛争や諸問題"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "未返済の6,000億円は、自動車ユーザーが支払ってきた自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)の積立金である。",
"title": "関連紛争や諸問題"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この積立金は保険金の支払いとは別に、ひき逃げ事故などにより後遺障害を負った被害者の救済や交通事故の防止対策などに使われている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "国交省は財務省に貸し付けた資金とは別に、約1500億円を運用して被害者救済を行っているが、その運用益は年間約30億円。不足する金額は、運用元本となる1500億円を取り崩して補填している。そのため、財務省から国交省への返済が実施されなければ、元本が枯渇する事態に陥っていた。",
"title": "関連紛争や諸問題"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "2022年6月9日、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の仕組みを変更する改正法が、衆議院本会議で賛成多数により可決した。",
"title": "関連紛争や諸問題"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "改正法の成立を受け、政府は2023年度、保険料を車1台当たり最大150円値上げする方針だが、自賠責保険料値上げの一因は被害者救済事業の原資の枯渇にある。自賠責保険料の値上げの前に6,000億円の返済が先ではないかという自動車ユーザーの当然の不満があり、解決が望まれている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
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"text": "2018年3月2日、朝日新聞は、財務省が作成した土地取引に関わる決裁文書が契約当時の文書と後に開示された文書とで内容が異なることを指摘し、文書が「(森友学園)問題発覚後に書き換えられた疑い」があると報じた。12日まで財務省内で調査が行われ、同日国会に対し改竄の事実が報告された。また、麻生太郎財務大臣がメディアの取材において、「理財局の一部の職員が書き換えた」ものであり、最終責任者は当時の理財局長だった佐川宣寿前国税庁長官であるとの説明がなされた。",
"title": "不祥事など"
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"text": "7日、近畿財務局職員である赤木俊夫が一連の改ざんに関わったことを苦に自殺。2020年3月18日には、赤木俊夫の妻が国と佐川を相手にした裁判を起こし、27日にはchange.orgにて首相宛の赤木俊夫の自殺をめぐる実態調査のための署名活動を起こした。4月1日ではこの署名数が26万人になり、日本最多最速記録となった。4月17日には30万人を突破した。",
"title": "不祥事など"
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"text": "赤木の上司は「(改ざんの詳細を記して職場に残したとされるファイルに)赤木さんがきちっと整理している。前の文書や修正後の文書などがファイリングされていて、これを見たら、われわれがどういう過程でやったのかが全部わかる」と音声データに語っているが、国はファイルの確認を拒否して訴訟で争われた。",
"title": "不祥事など"
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"text": "2018年4月9日の参議院決算委員会で、財務省は森友学園側に「口裏合わせ」の依頼をしていたことを認め、理財局長の太田充は「大変恥ずかしい、大変申し訳ない、深くおわびします」と謝罪した。",
"title": "不祥事など"
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"text": "2018年5月23日、衆院予算委員会理事懇談会で、財務省は組織的な隠蔽を目的とした森友学園との交渉記録の破棄を認めた。公表された資料は、1,000ページ近い交渉記録と約3,000ページにも及ぶ決裁文書だが、2014年4月28日の学園側と財務局側との打ち合わせが抜けおちているのではないかという批判があがり、再調査となった。",
"title": "不祥事など"
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{
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"tag": "p",
"text": "骨太方針2015に判りにくい表現で財務省が埋め込んだ「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限が1000億円」は、安倍内閣から岸田内閣まで気付かないままでいた。 すなわち、5ページも離れたページにある下記の2つの文章を組み合わせないと気付かないようにする細工と、骨太方針2015を後続の各骨太方針でも継続的に引き継いでいる事も判りにくくして、「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限(キャップ)が1000億円=(1.6兆円ー1.5兆円)」とされていることに、内閣のどの大臣も認識できない状態を実現していた。",
"title": "不祥事など"
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"text": "【骨太方針2015での問題の記述】",
"title": "不祥事など"
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"text": "【骨太方針2022まで骨太方針2015の上記1000億円隠しキャップを継承させている仕組み】",
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"tag": "p",
"text": "骨太方針2022の第36ページに「令和5年度予算において、本方針及び骨太方針2021に基づき、経済・財政一体改革 を着実に推進する。」との文言を設定。",
"title": "不祥事など"
},
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "骨太方針2021の第37ページに「2022年度から2024年度までの3年間について、これまでと同様の歳出改革努力を継続する」との文言を設定し、このページの脚注153にて「これまで」とは、「2019年度から2021年度までの3年間の基盤強化期間」であると定義した。",
"title": "不祥事など"
},
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"text": "骨太方針2019の第75ページに「令和2年度予算は、骨太方針2018及び本方針に基づき、経済・財政一体改革を着 実に推進するとともに、引き続き、新経済・財政再生計画で定める目安に沿った予算編成を行う。」との文言を設定。",
"title": "不祥事など"
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"text": "骨太方針2018の第52ページに「基盤強化期間内に編成される予算については、以下の目安に沿った予算編成を行う。」としたうえで脚注175にて「これまで3年間と同様の歳出改革努力を継続する。」との文言を設定して、骨太方針2015の第30ページと第25ページの記述につないだ。",
"title": "不祥事など"
},
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"text": "2022年10月26日に、自民党の政調全体会議において補正予算の規模などを討議していた最中に、財務省(午後2時39分、鈴木俊一財務相、財務省の茶谷栄治事務次官、新川浩嗣主計局長。)が岸田首相を訪問して、岸田首相に対して「経済対策の規模は一般歳出で25.1兆円。与党とも合意がとれている」との嘘の報告をするという偽計を用いて、岸田首相を騙して補正予算規模を縮小しようとした。しかし、2022年10月26日の自民党の政調全体会議の最中に、岸田首相が萩生田政調会長に対して電話をして、「(経済対策について)財務省が与党と一致したと報告しに来たけど、政調会長は知っているの?」と状況を確認した。萩生田政調会長は、「まだ中身を議論しているのに、規模が決まるわけがない。」と岸田首相に返答した。 財務省の行為は、自民党の政調全体会議に出席して審議している国会議員の業務と内閣の業務に対する妨害行為にもなっている。",
"title": "不祥事など"
}
] | 財務省は、日本の行政機関のひとつ。健全財政の確保、公平な課税の実現、国庫の管理、税関業務の運営、通貨に対する信頼の維持等を所管する。 | {{otheruses|日本の財務省|他国の財務省}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 財務省
|公用語名 = ざいむしょう
|英名 = Ministry of Finance
|紋章 = Ministry of Finance (Japan) Text Logo.svg
|紋章サイズ = 200px
|画像 = Ministry-of-Finance-Japan-03.jpg
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 財務省庁舎
|主席閣僚職名 = [[財務大臣 (日本)|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[鈴木俊一 (衆議院議員)|鈴木俊一]]
|次席閣僚職名 = [[財務副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[矢倉克夫]]<br/>[[赤沢亮正]]
|補佐官職名 = [[財務大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[瀬戸隆一]]<br/>[[進藤金日子]]
|次官職名 = [[財務事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[茶谷栄治]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構] 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[財務省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[主計局]]<br/>[[財務省主税局|主税局]]<br/>[[関税局]]<br/>[[理財局]]<br/>[[財務省国際局|国際局]]
|下部組織2 = [[審議会|審議会等]]
|下部組織概要2 = [[財政制度等審議会]]<br/>関税・外国為替等審議会<br/>関税等不服審査会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[財務総合政策研究所]]<br/>会計センター<br/>関税中央分析所<br/>税関研修所
|下部組織4 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要4 = [[財務局]]<br/>[[税関]]<br/>[[沖縄地区税関]]
|下部組織5 = [[外局]]
|下部組織概要5 = [[国税庁]]
|下部組織6 =
|下部組織概要6 =
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8940<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]三丁目1番1号
|位置 = {{coord|35.672538|139.749075|scale:10000|display=inline,title}}
|定員 = 72,879人(2023年9月30日までは、73,827人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 35兆4762億7965万6千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[財務省設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[大蔵省]]
|ウェブサイト = {{official website|name=財務省}}
|その他 =
}}
[[File:Ministry of Finance.jpg|thumb|財務省正門]]
'''財務省'''(ざいむしょう、{{lang-en-short|Ministry of Finance}}、[[略語|略称]]:{{Lang|en| '''MOF'''}})は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>{{コトバンク}}</ref>。[[健全財政]]の確保、公平な[[日本の租税|課税]]の実現、[[国庫]]の管理、[[税関#日本の税関|税関]]業務の運営、[[通貨]]に対する信頼の維持等を所管する<ref group="注釈">「健全な[[財政]]の確保、適正かつ公平な[[日本の租税|課税]]の実現、[[税関#日本の税関|税関]]業務の適正な運営、[[国庫]]の適正な管理、[[通貨]]に対する信頼の維持及び[[外国為替]]の安定の確保を図ること」([[財務省設置法]]第3条)[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=411AC0000000095&openerCode=1 財務省設置法]</ref>。
==概説==
[[財務省設置法]]第3条の任務を達成するため、財務省は国の予算、決算、会計、租税、[[通貨]]制度、[[日本国債]]、[[財政投融資]]、[[国有財産]]、外国為替、[[アルコール飲料|酒類]]、[[タバコ|たばこ]]、[[塩]]事業に関することなどを司る。たばこ および酒類関連の製造、販売事業は、[[たばこ税]]および[[酒税]]の関係で管轄している。また、[[日本たばこ産業]]、[[日本郵政]]および[[日本電信電話]]など、国が筆頭株主となっている[[特殊会社]]の多くを所管する。
[[2001年]](平成13年)[[1月6日]]に、[[中央省庁等改革基本法]]により[[大蔵省]]を改編改称して発足した。金融行政は、[[内閣府]]の[[外局]]として新設された[[金融庁]]に全面的に移管された<ref>[[百科事典マイペディア]] 財務省(ざいむしょう)</ref>。
財務省が編著者となる[[白書]]はない。定期刊行の広報誌には月刊の「ファイナンス」がある<ref>「[https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/index.htm 財務省広報誌「ファイナンス」:財務省]」財務省</ref>。大臣官房文書課が編集発行をつかさどり、日経印刷が販売元となっている。2010年3月号までは、大蔵財務協会が販売していた。ウェブサイトの[[URL]]の[[ドメイン名]]は「<code>www.mof.go.jp</code>」。他に国税庁が「<code>www.nta.go.jp</code>」、関税局、税関が「<code>www.customs.go.jp</code>」と、独自のドメイン名を持っている。英語略表記のMOFからモフと呼ばれることがある。大手[[金融機関]]には、財務省とのコネクションを保ち、業務に資する情報を財務省官僚から取得する[[MOF担]]<ref group="注釈">なお、省庁再編に伴い金融機関の監督官庁は金融庁(Financial Services Agency)となり、現状はFSA担と呼称される。</ref>と呼称される担当者が存在していたが、金融機関の監督官庁が金融庁となったことに伴い消滅した。
== 所掌事務 ==
財務省設置法4条は65号にわたって所掌する事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
{{div col}}
* 国の[[予算]]・[[決算]]及び会計(1・2号)
* [[予備費]]の管理(3号)
* 決算調整資金の管理(4号)
* 国税収納金整理資金の管理(5号)
* 各省各庁の予算執行の承認及び認証(6号)
* 各省各庁の出納官吏及び出納員の監督(7号)
* 予算執行に関する報告の徴取・実地監査及び指示(8号)
* 各省各庁の[[歳入]]の徴収及び収納の管理(第9号)
* 物品及び国の債権の管理(10号)
* 国の貸付金の管理(11号)
* 政府関係機関の予算・決算及び「会計(12号)
* [[国家公務員]]の[[旅費]]その他実費弁償制度(13号)
* [[共済組合|国家公務員共済組合]]制度(14号)
* [[地方公共団体]]の歳入及び歳出に関する事務(15号)
* 租税制度及び租税収入の見積り(16号)
* 内国税の賦課及び徴収(17号)
* [[税理士]](18号)
* [[酒税]]・酒類業(19号)
* [[醸造]]技術の開発研究並びに酒類の品質及び安全性の確保(20号)
* [[国税庁]]職員の職務に関する[[犯罪]]の取締り(21号)
* [[収入印紙|印紙]]形式の企画・立案及びその模造の取締り(22号)
* [[法人番号]]の指定、通知、公表(23号)
* [[関税]]・[[とん税]]等(24・25号)
* 関税法令による輸出入貨物・船舶・航空機及び旅客の取締り(26号)
* 保税制度の運営(27号)
* [[通関]]業・[[通関士]](28号)
* 国庫収支及び国内資金運用の調整(29号)
* [[国庫制度]]・[[通貨]]制度(30号)
* 国庫金の出納・管理及び運用(31号)
* 国債(32号)
* 債券及び借入金に係る債務について国が債務を負担する保証契約(33号)
* [[地方債]](35号)
* [[貨幣]]・[[紙幣]]の発行及び取締り並びに紙幣類似証券及び[[すき入紙製造取締法|すき入紙製造の取締り]](36号)
* [[日本銀行券]](37号)
* [[財政投融資]](38・39号)
* 政府関係金融機関(40号)
* 地震再保険事業(41号)
* たばこ事業及び塩事業(42号)
* [[国有財産]](43号)
* 普通財産の管理および処分(44号)
* [[官舎|国家公務員宿舎]](45号)
* 庁舎等の取得・処分に関する計画(46号)
* 外国為替制度(47号)
* 外国為替相場資金(48号)
* [[国際収支統計|国際収支]]の調整(49号)
* 金の政府買入れ及び輸出入規制(50号)
* 国際通貨制度(51号)
* 国際開発金融機関(52号)
* 技術導入契約の締結等および[[直接投資|対内直接投資]]等の管理・調整(53号)
* 本邦からの海外投融資(54号)
* 金融破綻処理制度および[[金融危機]]管理(55号)
* [[預金保険機構]]および[[農水産業協同組合貯金保険機構]](56号)
* 保険契約者保護機構(57号)
* 投資者保護基金(58号)
* [[日本銀行]](59号)
* [[準備預金制度]](60号)
* [[金融機関]]の金利調整(61号)
{{div col end}}
== 組織 ==
財務省の内部組織は一般的に、法律の財務省設置法、政令の財務省組織令及び省令の財務省組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* [[財務大臣 (日本)|財務大臣]]([[国家行政組織法]]第5条、法律第2条第2項)
* [[財務副大臣]](国家行政組織法第16条)(2人)
* [[財務大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(2人)
* [[大臣補佐官|財務大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2) - (1人、必置ではない)
* [[財務事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[財務官 (日本)|財務官]](法律第5条)
* [[秘書官|財務大臣秘書官]]
過去の大蔵大臣および財務大臣は[[財務大臣 (日本)|日本の大蔵大臣・財務大臣一覧]]を参照。
=== 内部部局 ===
{{div col}}
* [[財務省大臣官房|大臣官房]](政令第2条)
** 秘書課(政令第13条)
** 文書課
** 会計課
** 地方課
** [[財務省大臣官房#総合政策課|総合政策課]]
** 政策金融課
** 信用機構課
** 厚生管理官
* [[主計局]]
** 総務課(政令第22条)
** 司計課
** 法規課
** 給与共済課
** 調査課
** [[主計官]](11人)
** 主計監査官
* [[財務省主税局|主税局]]
** 総務課(政令第30条)
** 調査課
** 税制第一課
** 税制第二課
** 税制第三課
** 参事官
* [[関税局]]
** 総務課(政令第37条)
** 管理課
** 関税課
** 監視課
** 業務課
** 調査課
* [[理財局]]
** 総務課(政令第45条)
** 国庫課
** 国債企画課
** 国債業務課
** 財政投融資総括課
** 国有財産企画課
** 国有財産調整課
** 国有財産業務課
** 管理課
** 計画官(2人)
* [[財務省国際局|国際局]]
** 総務課(政令第56条)
** 調査課
** 国際機構課
** 地域協力課
** 為替市場課
** 開発政策課
** 開発機関課
{{div col end}}
=== 審議会等 ===
* [[財政制度等審議会]](法律第6条第1項)
* [[関税・外国為替等審議会]](法律第6条第1項)
* 関税等不服審査会(政令第65条)
=== 施設等機関 ===
* [[財務総合政策研究所]](政令第66条)
* 会計センター
* 関税中央分析所
* 税関研修所
=== 地方支分部局 ===
財務省の[[地方支分部局]]には[[財務局]]と[[税関]]、[[沖縄地区税関]]の3種類がある(法律第12条)。沖縄県における財務局の業務は、[[内閣府]][[沖縄総合事務局]]財務部が行っている。
{{div col|3}}
* [[財務局]]
** [[財務支局]](法律第14条)
** [[財務事務所]](法律第15条)
*** [[出張所]]
* [[税関]]
** [[支署]](法律第17条)
** 出張所
** [[監視署]]
* 沖縄地区税関
** 支署(法律第17条)
** 出張所
** 監視署
{{div col end}}
{{div col|2}}
==== 財務局 ====
* [[北海道財務局]](政令第80条)
* [[東北財務局]]
* [[関東財務局]]
* [[北陸財務局]]
* [[東海財務局]]
* [[近畿財務局]]
* [[中国財務局]]
* [[四国財務局]]
* [[九州財務局]]
** [[福岡財務支局]]
==== 税関 ====
* [[函館税関]](政令第84条)
* [[東京税関]]
* [[横浜税関]]
* [[名古屋税関]]
* [[大阪税関]]
* [[神戸税関]]
* [[門司税関]]
* [[長崎税関]]
{{div col end}}
=== 外局 ===
* [[国税庁]](国家行政組織法、法律第18条)
** 国税審議会(法律第21条)
** [[国税不服審判所]](法律第22条)
** [[国税局]](法律第23条第1項)
** [[沖縄国税事務所]](法律第23条第2項)
== 所管法人 ==
[[独立行政法人]](2023年4月1日現在、計3法人<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
*単独主管
**[[酒類総合研究所]]
*[[独立行政法人#行政執行法人|行政執行法人]]、役職員は国家公務員の身分を有する。
**[[造幣局 (日本)|造幣局]]
**[[国立印刷局]]
*他省庁との共管
**[[農林漁業信用基金]]([[農林水産省]]と共管)
**[[住宅金融支援機構]]([[国土交通省]]と共管)
**[[国際協力機構]]([[外務省]]と共管)
財務省が主管していた[[日本万国博覧会記念機構]]は、2014年4月1日に解散し、公園事業については大阪府が、基金事業については[[社団法人#公益社団法人|公益社団法人]][[関西・大阪21世紀協会]]が承継した。
特殊法人(2023年4月1日現在、計5法人。すべて[[株式会社 (日本)|株式会社]]の形態で設立された[[特殊会社]]<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
*[[日本たばこ産業]](JT)
*[[日本政策金融公庫]]
*[[日本政策投資銀行]]
*[[輸出入・港湾関連情報処理センター]](NACCSセンター)
*[[国際協力銀行]]
[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人、2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
*[[日本税理士会連合会]]
[[認可法人]]
*単独主管
**[[日本銀行]]
*他省庁との共管
**[[預金保険機構]](金融庁と共管)
**銀行等保有株式取得機構(金融庁と共管)
**[[農水産業協同組合貯金保険機構]](農林水産省と共管)
[[共済組合]]
* [[国家公務員共済組合連合会]]
[[特別の法律により設立される法人]]
* [[生命保険契約者保護機構]](金融庁と共管)
財務省が主管する[[地方共同法人]]は存在しない。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における財務省所管の歳出予算は35兆4762億7965万6千円<ref name="予算" />である。2022年当初予算31兆1688億3965万8千円に比較して、4兆3074億3999万8千円の増加となっている。増加の大部分は、防衛力整備計画対象経費の財源に充てるための防衛力強化資金への繰入れ分である約3兆3千億円である。前年度5兆円を計上した新型コロナウイルス感染症対策予備費は、引き続き「新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費」として4兆円、「ウクライナ情勢経済緊急対応予備費」として1兆円を計上することとなった。
組織別の内訳では財務本省が34兆6796億1587万8千円と全体の約97.8%を占めており、以下、財務局が568億8214万8千円、税関が981億2992万4千円、国税庁が6416億5170万6千円となっている。本省予算のうち25兆2503億4024万9千円が国債費、4兆円が新型コロナウイルス感染症及び原油価格・物価高騰対策予備費、1兆円がウクライナ情勢経済緊急対応予備費、5000億円が予備費である。
歳入予算は111兆3333億6275万円と国全体の歳入予算(114兆3812億3556万9千円)のうち約97%を所管しているが、これは財務省が内国税の徴収や国債発行、国有財産の管理など国の歳入となる主要な事務をすべて所掌しているためである。主な内訳は「租税及印紙収入」が69兆4400億円、「公債金」が35兆6230億円、雑収入の「防衛力強化特別会計受入金」が3兆7319億1724万7千円となっている。
財務省は、地震再保険特別会計、[[国債整理基金特別会計]]及び[[外国為替資金特別会計]]の3つの[[特別会計]]を所管しており、また内閣府及び総務省と[[交付税及び譲与税配付金特別会計]]を、国土交通省と[[財政融資資金特別会計|財政投融資特別会計]]を共管している。さらに、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、財務省全体で70,727人(男性53,012人、女性17,715人)である<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表](令和4年7月1日現在)</ref>。うち、本省(税関、財務局を含む)が15,808人(男性11,910人、女性3,898人)、国税庁54,919人(男性41,102人、女性13,817人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた財務省の定員は[[特別職]]1人を含めて72,879人(2023年9月30日までは、73,827人)<ref name="定員令" />。本省及び各[[外局]]別の定員は省令の財務省定員規則が、本省16,894人(2023年9月30日までは、16,922人)、国税庁55,985人(2023年9月30日までは、56,905人)と規定する<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000040003 財務省定員規則(平成13年1月6日財務省令第3号)]」(最終改正:令和5年3月30日財務省令第3号)</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職72,460人の計72,467人である<ref name="予算" />。ほかに、特別会計の予算定員は、地震再保険特別会計が6人、外国為替資金特別会計が49人、財政投融資特別会計(財務省所管分)が354人<ref name="特会予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>などとなっている。
一般会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財務本省が1,861人、財務局が4,436人、税関が10,178人、国税庁が55,985人である。なお、適用される俸給表別にみると、税務職俸給表がもっとも多く54,570人、続いて行政職俸給表(一)が16,946人となっている。各税関で船舶職員も任用している関係から、海事職俸給表(一)の35人、海事職俸給表(二)の104人をそれぞれ措置されている。また、財務本省、税関、国税局の診療所には医療従事者の職員も任用されているため、医療職俸給表(一)の適用を受ける定員が23人、医療職俸給表(二)が25人、医療職俸給表(三)が52人、それぞれ措置されている。特別会計の予算定員(一般職)機関別内訳は財政投融資特別会計(財務省所管分)に財務局が248人含まれている以外は本省である。
職員の競争試験による採用は主に国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、財務専門官採用試験、国税専門官採用試験及び税務職員採用試験の合格者の中から行われる。いずれも人事院が実施する。
財務省職員は一般職の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち[[争議権]]と[[団体交渉|団体協約締結権]]は[[国家公務員法]]により認められていない。[[団結権]]は保障されており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は連合体18、単一体17、支部671となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は2万6809人、組織率は44.5%となっている。職員団体の登録数、組織人員ともに[[日本の行政機関]](13府省庁2院)のなかで最も大きい。組織率は13府省2院の平均である37.0%を7.5ポイント上回っている。
現在、財務省本省においては財務省職員組合(財務職組)、財務局においては全財務労働組合(全財務)、税関においては日本税関労働組合(税関労組)及び全国税関労働組合(全税関)、国税庁においては[[国税労働組合総連合]](国税労組)及び[[全国税労働組合]](全国税)が活動している。財務職組、全財務、税関労組および国税労組は[[日本労働組合総連合会|連合]]の国公単産である[[国公連合]]に加盟している。また、国立印刷局の全印刷、造幣局の全造幣、酒類総研労組および[[日本たばこ産業]]の全たばこ労組とともに、財務省関係機関労組の協議会として全大蔵労働組合連絡協議会(全大蔵労連)を構成している。全税関と全国税はともに少数派組合であり、[[全国労働組合総連合|全労連]]傘下の[[国公労連]]に加盟している。全大蔵労連に相当する組織として大蔵国公を構成する。
== 幹部 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{PDFlink|[https://www.mof.go.jp/about_mof/introduction/personnel/transfers/meiboR041118.pdf 財務省幹部名簿(令和4年11月18日現在)財務省]}}</ref>。
{{div col}}
* 事務次官:[[茶谷栄治]]
* 財務官:[[神田眞人]]
* 大臣官房長:[[宇波弘貴]]
* 総括審議官:[[坂本基]]
* 主計局長:[[新川浩嗣]]
* 主税局長:[[青木孝徳]]
* 関税局長:[[江島一彦]]
* 理財局長:[[奥達雄]]
* 国際局長:[[三村淳]]
* 財務総合政策研究所長:[[渡部晶]]
* 国税庁長官:[[住澤整]]
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歴代の財務事務次官等は[[財務事務次官#歴代の財務事務次官]]を参照。[[大蔵次官]]が1949年6月1日、[[長沼弘毅]]の在任中に国家行政組織法が施行されたため、大蔵事務次官に改称した。2001年1月6日、[[武藤敏郎]]の在任中に中央省庁再編により、大蔵事務次官から財務事務次官に改称された。財務事務次官は主計局長から昇任する場合が多いが、国税庁長官や主税局長から昇任した事例もある。2000年6月の武藤敏郎の次官就任以降は主計局長からの任用が続いていたが、2016年6月に[[佐藤慎一 (官僚)|佐藤慎一]]が主税局長から昇任した。これは、主計局長以外からの昇任としては1999年7月の[[薄井信明]]以来17年ぶり、主税局長からの昇任としては1981年6月の[[高橋元]]以来35年ぶりのことである。
== 財務省庁舎 ==
[[ファイル:Zaimusho1.jpg|thumb|財務省発足時の銘板]]
* 本省の庁舎は大蔵省から引き継がれた、[[昭和]][[戦前]]期竣工の6階建て庁舎である。1934年に着工、[[戦争]]のため工事が一時中断し、1943年に一応完成した(1939年に仮竣工とする資料もある)。[[第二次世界大戦]]後、1955年まで[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の接収を受けた<ref>[http://www.mlit.go.jp/gobuild/gobuild_fr6_000025.html 国土交通省官庁営繕]</ref>{{refnest|group="注釈"|この間、旧[[新宿区立四谷第三小学校]]を四谷仮庁舎として使用した{{refnest|{{Wayback|url=https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/national_property_followup/proceedings/material/20061207/zaimu.pdf|title=国有財産の有効活用・フォローアップ有識者会議 資料|date=20130127150948}}}}。}}。
* 老朽化のため官公庁の耐震基準を下回っており、2007年には政府の有識者会議(後述)が、[[国有財産]]の有効活用の観点から財務省庁舎と[[中央合同庁舎第4号館]]を1棟の[[超高層建築物|高層ビル]]に集約して[[合同庁舎]]にする案を提言していた。当初は2014年に建て替え工事に着工する予定であり、総工費は577億円を見込んでいたが、2011年当時は[[東日本大震災]]の復興費用確保のために10兆円規模の大型増税を検討している最中であり、国民感情を考慮して庁舎の建て替えは先送りとなり、耐震化工事により対応することになった<ref name="庁舎">{{Wayback|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LS3WBZ0YHQ0X01.html|title=築68年の財務省庁舎、建て替え先送り-財政難の中、改修工事で対応へ|date=20140415181305}} [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] 2011年09月28日 14:54 JST</ref>。2013-2014年度に耐震改修のための設計を行い、2015年10月に着工し、2020年1月に竣工した<ref>[https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202004/202004h.html 財務省本庁舎耐震改修工事を終えて~耐震改修工事終了に至るまで~]</ref><ref>[http://www.kentsu.co.jp/webnews/html_top/130904500048.html 財務省本庁舎の耐震改修] 建通新聞 2013年9月4日</ref>。
* 財務省の「国有財産に関する検討・フォローアップ有識者会議」<ref group="注釈">座長・[[伊藤滋]][[早稲田大学]]特命教授。</ref>の案では、老朽化した財務省庁舎と中央合同庁舎第4号館を、1棟の高層合同庁舎に建て替えて、[[海上保安庁]][[海洋情報部]]や[[総務省]][[統計局]]なども集約させた合同庁舎にする計画だった<ref name="庁舎2">[http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-26455120070615 財務省庁舎を高層化、庁・宿舎など売却収入1.6兆円見込む] [[ロイター]] 2007年06月15日 13:59 JST</ref>。
* [[千代田区]]は「戦中・戦後を生き延びた都内の代表的な近代建築の1つ」として、財務省庁舎の維持を求めており<ref name="庁舎" />、千代田区の「美観地区ガイドラインプラン」では、財務省庁舎を「日本の近代建築史において重要な位置を占める歴史的建築物」としている<ref name="庁舎2" />。
* 財務省本省内にある[[コンビニエンスストア]]([[共済組合]]の[[売店]])で[[土産|土産物]]として「お札サブレ」という[[菓子]]を発売している。紙幣をデザインした[[サブレー]]である<ref>[http://www.osatsu.jp/osatsu.html 鳳産業株式会社(発売元)HP 商品紹介 お札サブレ]</ref>。
* 初代財務大臣の[[宮澤喜一#揮毫|宮澤喜一]]は、財務省玄関の[[銘板]]に揮毫を依頼されたが固辞した。代わって、宮澤が選定した[[コンピュータ]]の[[楷書体]]の文字が使われた<ref>{{Cite web|和書|title=武藤事務次官記者会見の概要|url=https://www.mof.go.jp/kaiken/jimu/jim049.htm|date=2000-12-21|publisher=財務省|accessdate=2007年6月30日|deadlinkdate=2017年9月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051130114223/http://www.mof.go.jp/kaiken/jimu/jim049.htm|archivedate=2005年11月30日}}</ref>。その後、庁舎の耐震化工事に伴い従来の銘板が視認できなくなることから、[[2016年]]6月に[[麻生太郎]]の揮毫による新しい銘板が設置された<ref>{{Cite news|title=財務省、新しい看板に 麻生氏が揮毫|publisher=産経ニュース|date=2016-06-06|url=https://www.sankei.com/article/20160606-WGIFNBC3QJOUVGDQYLD4RXN75Y/|accessdate=2021-05-08}}</ref>。
== 出身著名人 ==
{{See|大蔵省#大蔵省出身の著名人(財務省も含む)}}
== 関連紛争や諸問題 ==
=== 関連紛争 ===
{{See also|大蔵省#関連紛争や諸問題}}
*[[日本の財政問題#日本の財政問題に関する議論|日本の財政問題に関する議論]] - [[財政再建#財政再建に関する議論|日本の財政再建に関する議論]] - [[借金#政府の借金|国の借金(政府の借金)]] - [[失われた20年]] - [[失われた30年]]
=== 政治との関係 ===
==== 消費税 ====
{{See also|日本の消費税議論|法人税#日本の法人税}}
*財務省高官による[[消費税]]に関する「ご説明」というものがあり、発信力の高い個人や、大学、NPO、地方の経済団体に対象を広げた活動を展開している<ref>[http://synodos.jp/economy/7700 検証! 財務省のメディア戦略と消費税増税ロジック] [[シノドス]] 2014年4月1日</ref>。<br />「[[社会保障費|社会保障]]が膨れ上がる中、消費税率がこんなに低いのは、国民を甘やかすことになる。経済が厳しくても10%に上げるべきだ」として、[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員に「ご説明」に回ったが、これに対して官邸サイドは、「増税容認」で固めてしまおうとする動きだとして激怒し、当時の[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]]が[[衆議院解散]]・[[第47回衆議院議員総選挙]]を決意した遠因になったとされる<ref>[http://www.sankei.com/politics/news/141117/plt1411170054-n1.html 消費税率再引き上げ 財務省「予定通り」に固執し、官邸激怒] [[産経新聞]] 2014年11月17日</ref>。
*2014年4月、消費税が5%から8%に引き上げられた際、[[政府広報]]ポスターのフレーズには''「消費税率の引き上げ分は、'''全額'''、社会保障の充実と安定化に使われます」''と書かれていた。この増税3%分を利用すれば、[[大学教育]]の無償化や[[医療]]・[[介護]]の負担軽減などに繋げることが可能であったとの指摘がされていたなか、実際の消費増税分のうち8割は国の借金の穴埋めに回され、残りの2割弱が医療・介護・[[年金]]・[[子育て]]という社会保障関係費に広く薄く用いられただけであったとされている<ref>{{Cite web|和書|title=前回の消費増税分は8割が借金の返済ー「増税分は全額社会保障に使います」のウソとこれからの増税議論ー(一部改変引用) |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190129-00112772/ |author=[[藤田孝典]] |work= |website=[[Yahoo!ニュース]] |date=2019-01-29 |accessdate=2021-02-04
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190227214931/https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190129-00112772/ |archivedate=2019-02-27 |language=ja}}</ref>。
==== 森友学園問題その他 ====
*[[森友学園問題]]では、地方の財務局OB6名が実名を公表した上で政府関係者と本省を批判する事態となった<ref>[https://archive.is/CTeHn 財務省OBらが実名で森友問題の真相究明訴え] ANN 2018年10月25日</ref>。とくに財務大臣の[[麻生太郎]]に対しては、元理財局長の[[佐川宣寿]]を「有能だった」と述べたことに対して厳しい批判をした<ref>[https://archive.is/cbFYZ 財務省OBから批判、麻生大臣「そういった意見も」] ANN 2018年10月26日</ref>。
*財務省が管理している国有地が評価額の8分の1の価格で[[学校法人日本航空学園|日本航空学園]]に売却されている事が発覚した<ref name="mainichi20180108">[https://mainichi.jp/articles/20180108/ddm/003/010/067000c?ck=1 山梨県の国有地 放置のち「たたき売り」 算定額、財務省次第] 毎日新聞</ref>。これに対し毎日新聞は、ずさんな管理、値引き幅は森友学園問題に匹敵、財務省の方針に反する、怠慢である、と批判している<ref name="mainichi20180108"/>。
==== 自賠責保険の積立金6,000億円の未返済問題 ====
政府は、赤字国債の発行を抑えるため、自動車損害賠償保障事業特別会計(当時)から、1994(平成6)年と1995(平成7)年の2年間で約1兆1200億円を一般会計に繰り入れた。2003(平成15)年度までに一部が返済されたが、未だ約6000億円が返済されていない<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sankei.com/article/20140129-S7KYWDADOBLSZJQKBGXOXOUTGQ/|title=「財務省は6000億円返せ」自賠責積立金からの借金滞納で国交省 |date= 2014-01-29|accessdate= 2022-06-10|publisher=[[産経新聞]] }}</ref>。
未返済の6,000億円は、自動車ユーザーが支払ってきた[[自動車損害賠償責任保険]](自賠責保険)の積立金である。
この積立金は保険金の支払いとは別に、ひき逃げ事故などにより後遺障害を負った被害者の救済や交通事故の防止対策などに使われている。
[[国交省]]は財務省に貸し付けた資金とは別に、約1500億円を運用して被害者救済を行っているが、その運用益は年間約30億円。不足する金額は、運用元本となる1500億円を取り崩して補填している。そのため、財務省から国交省への返済が実施されなければ、元本が枯渇する事態に陥っていた<ref>{{Cite web|和書|url= https://trafficnews.jp/post/112482 |title=「返して」みんなが払った自賠責の運用益6000億円どうなる?財務省の借金 迫る期限 |date=2021-11-12|accessdate= 2022-06-10|publisher=[[乗りものニュース]]}}</ref>。
2022年6月9日、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の仕組みを変更する改正法が、[[衆議院]]本会議で賛成多数により可決した。
改正法の成立を受け、政府は2023年度、保険料を車1台当たり最大150円値上げする方針だが、自賠責保険料値上げの一因は被害者救済事業の原資の枯渇にある。自賠責保険料の値上げの前に6,000億円の返済が先ではないかという自動車ユーザーの当然の不満があり、解決が望まれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://smart-flash.jp/sociopolitics/185657/1/ |title= 財務省、ドライバーが積み立てた6000億円踏み倒して「自賠責」値上げ…SNS紛糾「カネ返せ!」の声|date=2022-06-10|accessdate= 2022-06-10|publisher=[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]}}</ref>。
=== 民間との関係 ===
==== 天下り ====
*旧[[日本政策投資銀行]]や旧[[日本政策投資銀行|日本開発銀行]]の総裁職は、旧[[大蔵省]]事務次官経験者の指定席だったが、日本政策投資銀行発足後の2007年、[[天下り]]批判が高まったため、元[[伊藤忠商事]]社長の[[室伏稔]]が社長に就任した。以降は民間出身者や生え抜き組が社長を務めている<ref name="kudachan">{{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=eco&rel=j7&k=2016020200470|title=室伏稔氏死去=伊藤忠・政投銀社長歴任、84歳|date=20160206125259}} 時事通信 2016年2月2日</ref><ref name="amachan">[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO87627850T00C15A6EE8000/ 政投銀、民営化へ生え抜き社長 副社長に木下前財務次官 ] 日本経済新聞 2015年6月3日</ref>。その一方で[[日本政策金融公庫]]や[[国際協力銀行]]は近年財務省OBが総裁職に就任している<ref name="amachan"/>。2015年6月26日に発足した日本政策投資銀行の新体制では、元財務事務次官の[[木下康司]]が副社長に就任した<ref name="amachan"/>。木下は、2014年7月の次官退任後には財務省事務所のあるニューヨークで[[コロンビア大学]]のポストを得ていた<ref>[http://www.j-cast.com/2014/09/25216709.html 高橋洋一の霞ヶ関ウォッチ 「天下り規制」でもタダでは転ばない 財務省次官OBと某マスコミの関係] j-cast 2014年9月25日</ref>。
*消費税増税のレールを敷いた<ref name="shi"/>元財務事務次官の[[勝栄二郎]]が[[読売新聞東京本社]]非常勤監査役に<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/houkoku_h260919_siryou.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく国家公務員の再就職状況の報告(平成26年4月1日~同年6月30日分)]}}</ref>、前財務事務次官で[[弁護士]]の[[真砂靖]]が[[日本テレビホールディングス]]と[[日本テレビ放送網]]の社外取締役に就任しているが<ref name="shi">[http://president.jp/articles/-/13020 元財務高官が続々天下る読売・日テレの狙いは] PRESIDENT 2014年8月4日</ref>、読売新聞は[[軽減税率]]導入前に財務省側が還付制度を提案した際に猛反発し批判を展開した。新聞各社は消費税率の引き上げで経営に大きなダメージを受けるとみられたため、読売のほか[[産経新聞]]、[[毎日新聞]]が、財務省の還付案を[[社説]]で批判し還付案の撤回と「本来の軽減税率制度」の導入を要求した<ref>[http://www.data-max.co.jp/271106_11_os_03/ 財務省・佐藤慎一主税局長の蹉跌(後)] Net IB News 2015年11月6日</ref><ref>[http://www.j-cast.com/2015/09/18245719.html?p=all 新聞業界、軽減税率適用に必死 財務省「還付案」を各紙が批判、キャンペーンも] [[J-CASTニュース]] 2015年9月18日 18:58</ref>。
==== 租税回避問題 ====
*[[ソフトバンクグループ]](SBG)は、買収した[[ARMホールディングス]](アームHD)や[[ソフトバンク・ビジョン・ファンド]](SVF)など[[グループ企業]]の株をグループ内だけで移動させる[[会計]]処理の手法を複数組み合わせることで、[[損失]]として[[決算]]に計上し巨額の利益を相殺、[[法人税]]の大幅圧縮に成功してきた。SBGの営業利益は、18年3月期が1.3兆円・19年3月期が2.3兆円に対して、法人税は両期とも500万円(SBG単体)であった。[[企業の社会的責任|社会的責任を負うべき大企業]]による「[[違法]]ではないが不適切な」この手の会計処理の手法に対し、2020年度[[税制]]改正大綱で政府・財務省が打ち出した対策が「子会社を買った時の[[簿価]]の1割を超える配当を出した場合は、その分だけ簿価を下げる」というものであった<ref>{{Cite web|和書|title=2兆円稼いで法人税500万ってなぜ? ソフトバンクグループ「租税回避」の手口を誰でも分かる徹底解説!(一部改変引用) |url=https://dot.asahi.com/articles/-/129914#referrer=https://www.google.com&csi=0 |author=朝日新聞記者・松浦新 |work=[[AERA dot.]] |website=[[AERA]] |date=2020-02-07 |accessdate=2021-02-04 |language=ja}}</ref>。また、[[トヨタ自動車]]は受取配当等の益金不算入(外国子会社配当益金不算入を含む)、欠損金の繰越控除、外国税額控除、試験研究費の特別控除等を利用し、租税回避を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ自動車が税金負担を抑えられたワケ|url=http://www.toratani-kaikei.jp/14727034772755|website=虎谷会計事務所(京都市中京区)|accessdate=2021-10-23|language=ja}}</ref>。
=== 外国との関係 ===
==== 外為法 ====
*[[朝鮮民主主義人民共和国に対する制裁|北朝鮮に対する経済制裁]]([[経済制裁#現在経済制裁を受けている国|現在経済制裁を受けている国]]も参照) - [[瀬取り#朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による瀬取り|北朝鮮による瀬取り等制裁回避問題]]
== 不祥事など ==
=== 森友学園問題 ===
; 決裁文書改ざん問題
2018年3月2日、[[朝日新聞]]は、財務省が作成した土地取引に関わる決裁文書が契約当時の文書と後に開示された文書とで内容が異なることを指摘し、文書が「(森友学園)問題発覚後に書き換えられた疑い」があると報じた<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL317533L31UTIL060.html 「森友文書、財務省が書き換えか 「特例」など文言消える」] [[朝日新聞]] 2018/03/02</ref>。12日まで財務省内で調査が行われ、同日[[国会]]に対し改竄の事実が報告された<ref>[https://www.sankei.com/article/20180317-LAA7L63DOJMP7DWOPSCULLRME4/2/ 「財務省局長「佐川氏は改竄知っていた」 野党が審議復活、国会で追及」] [[産経デジタル|産経ニュース]] 2018.3.17 00:04</ref>。また、[[麻生太郎]][[財務大臣 (日本)|財務大臣]]がメディアの取材において、「[[理財局]]の一部の職員が書き換えた」ものであり、最終責任者は当時の理財局長だった[[佐川宣寿]]前国税庁長官であるとの説明がなされた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28009870S8A310C1CC1000/ 「「一部の職員が」強調 麻生氏、火消し躍起 森友書き換え」] [[日本経済新聞]] 2018/3/12 20:26</ref>。{{main|森友学園問題#文書改竄問題}}
7日、[[近畿財務局]]職員である[[赤木俊夫]]が一連の改ざんに関わったことを苦に自殺<ref name=osad>[https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200402/20200402022.html 森友事件 「再調査で真相解明を」 妻ネットで呼掛け] [[大阪日日新聞]]</ref>。2020年3月18日には、赤木俊夫の妻が国と佐川を相手にした裁判を起こし、27日には[[change.org]]にて首相宛の赤木俊夫の自殺をめぐる実態調査のための署名活動を起こした<ref name=osad/><ref>[https://www.change.org/p/%E8%A1%86%E5%8F%82%E4%B8%A1%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7-%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3-%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E%E8%B2%A1%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3-%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%A4%AB-%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E4%BF%8A%E5%A4%AB%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%87%AA%E6%AD%BB%E3%81%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%89%E8%AD%98%E8%80%85-%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB-%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%95%99%E6%8E%88-%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%8C%BB%E7%AD%89-%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%A7%8B%E6%88%90%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E7%AB%8B%E3%81%A1%E4%B8%8A%E3%81%92?recruiter=1063098716&utm_source=share_petition&utm_medium=copylink&utm_campaign=share_petition 私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施して下さい!] [[change.org]]</ref>。4月1日ではこの署名数が26万人になり、日本最多最速記録となった<ref name=osad/>。4月17日には30万人を突破した<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2020041701002241.html 森友調査求め、電子署名30万筆 自殺した財務省職員の妻が感謝] [[東京新聞]]</ref>。
赤木の上司は「(改ざんの詳細を記して職場に残したとされるファイルに)赤木さんがきちっと整理している。前の文書や修正後の文書などがファイリングされていて、これを見たら、われわれがどういう過程でやったのかが全部わかる」と音声データに語っているが、国はファイルの確認を拒否して訴訟で争われた<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201014/k10012662001000.html 財務省改ざん訴訟 “ファイルはある”上司の音声データ提出へ] [[日本放送協会|NHK]] 2020年10月14日</ref>。
; 口裏合わせの依頼
2018年4月9日の参議院決算委員会で、財務省は森友学園側に「口裏合わせ」の依頼をしていたことを認め、理財局長の太田充は「大変恥ずかしい、大変申し訳ない、深くおわびします」と謝罪した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29140960Z00C18A4CC0000/ 財務省「口裏合わせ」 委員会室にどよめき ] 日本経済新聞 2018年4月9日</ref>。
; 文書の隠蔽
2018年5月23日、衆院予算委員会理事懇談会で、財務省は組織的な隠蔽を目的とした森友学園との交渉記録の破棄を認めた<ref>{{Wayback|url=https://jp.reuters.com/article/idJP2018052301001242|title=隠蔽目的で森友記録を廃棄|date=20180525133508}} [[ロイター]] 2018年5月23日</ref>。公表された資料は、1,000ページ近い交渉記録と約3,000ページにも及ぶ決裁文書だが、2014年4月28日の学園側と財務局側との打ち合わせが抜けおちているのではないかという批判があがり、再調査となった<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201805/CK2018052502000129.html 昭恵氏写真 提示記録なし 森友交渉文書 財務省「再調査する」] 東京新聞 2018年5月25日</ref>。
=== 骨太方針への1000億円隠しキャップ継続設定事件 ===
[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2015/2015_basicpolicies_ja.pdf 骨太方針2015]に判りにくい表現で財務省が埋め込んだ「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限が1000億円」は、安倍内閣から岸田内閣まで気付かないままでいた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=nqEpzjmno_o&t=2288s |title=「積極財政政策をめぐる党内議論ふり返りと今後の活動への期待」講師:元内閣総理大臣 安倍 晋三氏 明治学院大学客員教授 本田 悦朗氏 責任ある積極財政を推進する議員連盟 第8回勉強会 |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=aJ-6mR6Lshc |title=総理を欺いてまで実現させた?!財務省の欺瞞工作とは(三橋貴明) |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=qbqtsUj58Ko |title=安倍総理激怒 官邸を7年間欺し続けた財務省の卑劣な手口 [2022 7 25放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=IlMad6fPLOg&t=1057s |title=【三橋貴明の緊急講義】ついに暴かれた財務省の緊縮トリック|日本の経済停滞の原因は全部〇〇だった!|メディアが報じない経済の真実 |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=Q9O7Q_3iIbY |title=【大スクープ】自民党・積極財政派が暴いた財務省のスキャンダル〜PB黒字化目標に隠された罠(城内実議員・中村裕之議員・三橋貴明) |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref> すなわち、5ページも離れたページにある下記の2つの文章を組み合わせないと気付かないようにする細工と、骨太方針2015を後続の各骨太方針でも継続的に引き継いでいる事も判りにくくして、「社会福祉予算以外の一般歳出予算の3年間の増分の上限(キャップ)が1000億円=(1.6兆円ー1.5兆円)」とされていることに、内閣のどの大臣も認識できない状態を実現していた。
'''【骨太方針2015での問題の記述】'''
* [https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2015/2015_basicpolicies_ja.pdf#page=36 骨太方針2015の第30ページ]には、次の記述がある。「'''安倍内閣のこれまで3年間の経済再生や改革の成果と合わせ、社会保障関係費の実質的な増加が高齢化による増加分に相当する伸び'''('''1.5兆円程度''')となっていること、経済・物価動向等を踏まえ、'''その基調を2018年度(平成30年度)まで継続していくことを目安とし'''、効率化、予防等や制度改革に取り組む。この点も含め、2020年度(平成32年度)に向けて、社会保障関係費の伸びを、高齢化による増加分と消費税率引上げとあわせ行う充実等に相当する水準におさめることを目指す。」
* [https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2015/2015_basicpolicies_ja.pdf#page=31 骨太方針2015の第25ページ]の脚注には次の記述がある。「国の一般歳出の水準の目安については、'''安倍内閣のこれまでの3年間の取組では一般歳出の総額の実質的な増加が''' '''1.6兆円程度'''となっていること、経済・物価動向等を踏まえ、'''その基調を 2018年度(平成30年度)まで継続させていくこととする'''。地方の歳出水準については、国の一般歳出の取組と基調を合わせつつ、交付団体をはじめ地方の安定的な財政運営に必要となる一般財源の総額について、2018年度(平成30年度)までにおいて、2015年度地方財政計画の水準を下回らないよう実質的に同水準を確保する。」
'''【骨太方針2022まで骨太方針2015の上記1000億円隠しキャップを継承させている仕組み】'''
[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2022/2022_basicpolicies_ja.pdf#page=40 骨太方針2022の第36ページ]に「令和5年度予算において、本方針及び骨太方針2021に基づき、経済・財政一体改革 を着実に推進する。」との文言を設定。
[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2021/2021_basicpolicies_ja.pdf#page=42 骨太方針2021の第37ページ]に「2022年度から2024年度までの3年間について、これまでと同様の歳出改革努力を継続する」との文言を設定し、このページの脚注153にて「これまで」とは、「2019年度から2021年度までの3年間の基盤強化期間」であると定義した。
[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2019/2019_basicpolicies_ja.pdf#page=81 骨太方針2019の第75ページ]に「令和2年度予算は、骨太方針2018及び本方針に基づき、経済・財政一体改革を着 実に推進するとともに、引き続き、新経済・財政再生計画で定める目安に沿った予算編成を行う。」との文言を設定。
[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2018/2018_basicpolicies_ja.pdf#page=58 骨太方針2018の第52ページ]に「基盤強化期間内に編成される予算については、以下の目安に沿った予算編成を行う。」としたうえで脚注175にて「これまで3年間と同様の歳出改革努力を継続する。」との文言を設定して、[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2015/2015_basicpolicies_ja.pdf 骨太方針2015]の第30ページと第25ページの記述につないだ。
=== 政調会長25兆円了承との首相への嘘報告事件 ===
2022年10月26日に、自民党の政調全体会議において補正予算の規模などを討議していた最中に、財務省(午後2時39分、鈴木俊一財務相、財務省の茶谷栄治事務次官、新川浩嗣主計局長。)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15457013.html?iref=pc_rensai_long_256_article |title=首相動静 |access-date=2022-12-2 |publisher=朝日新聞社}}</ref>が岸田首相を訪問して、岸田首相に対して「経済対策の規模は一般歳出で25.1兆円。与党とも合意がとれている」との嘘の報告をするという偽計を用いて、岸田首相を騙して補正予算規模を縮小しようとした。しかし、2022年10月26日の自民党の政調全体会議の最中に、岸田首相が萩生田政調会長に対して電話をして、「(経済対策について)財務省が与党と一致したと報告しに来たけど、政調会長は知っているの?」と状況を確認した。萩生田政調会長は、「まだ中身を議論しているのに、規模が決まるわけがない。」と岸田首相に返答した。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=TzJmcY-d8WI |title=「禁じ手には禁じ手で」自民党vs財務省 経済対策をめぐる攻防(2022年11月4日) |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=1xuoMnFMTls&t=1680s |title=【幼稚で嘘つき】財務省の禁じ手晒す!財務省打ち負かした萩生田&世耕両氏の最強タッグに防衛費増期待!西村幸祐×長尾たかし×吉田康一郎×さかきゆい×T【こーゆーナイト第61夜】 10/29土22-23時 |access-date=2022-11-18 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=8aZI9P9fFIw&t=920s |title=【批判続出】謀略がバレ、慌てふためく財務省。 #627-①【怒れるスリーメン】西岡×阿比留×千葉×加藤 |access-date=2022-12-9 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=ZwKP7F7afKQ&t=161s |title=【ニューソク】※政界の闇※安倍元総理も気が付かなかった、財務省のとんでもない罠がとんでもなくヤバかった・・・ 【財務省 補正予算 岸田政権 城内実 中村裕之 自民党 積極財政派 ニュー速切り抜き】 |access-date=2022-12-9 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=Sonm-HTwE-k |title=【ニューソク通信】自民党・萩生田政調会長がある男からの電話でブチギレる・・・。「俺の目の黒いうちは絶対に認めない」 【萩生田光一 はぎうだ光一 財務省 岸田総理 岸田首相 ニューソク切り抜き】 |access-date=2022-12-9 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=9SntZvTcFYA |title=【ニューソク通信】自民党・萩生田政調会長が財務省にブチギレる・・・。「財務省が出過ぎたマネをするな」 【萩生田光一 はぎうだ光一 財務省 岸田 岸田総理 岸田首相 ニューソク切り抜き】 |access-date=2022-12-9 |publisher=Youtube}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=aH3tRVZyPb0 |title=【萩生田政調会長】財務省をボコる!!財務省が画策した姑息な手口に萩生田政調会長が激怒!!ケンカ上手の「禁じ手には禁じ手」で対抗!!財務省の増税工作は多方面へ!!【メディアが報じない保守系News】 |access-date=2022-12-9 |publisher=Youtube}}</ref> 財務省の行為は、自民党の政調全体会議に出席して審議している国会議員の業務と内閣の業務に対する妨害行為にもなっている。
=== その他の不祥事など ===
*2007年10月、主計局の[[事務官]]2人が集団による[[性的暴行]]容疑で逮捕された<ref>[https://www.j-cast.com/2007/10/26012613.html?p=all 財務省主計局職員2人を集団強姦容疑で逮捕 警視庁] [[J-CAST ニュース]]、2007年10月26日</ref>。
*2018年4月、[[福田淳一]]事務次官に[[テレビ朝日]]女性記者に対する[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]疑惑(さらにテレ朝自体による[[パワーハラスメント|パワハラ]]疑惑)が報じられるなか、福田は辞職。その後、当初口をつぐんでいた[[矢野康治]]官房長・[[伊藤豊 (財務・金融官僚)|伊藤豊]]官房秘書課長らは、急転直下、十分な反論・反証がなされていないとして前次官によるセクハラ行為を認定して調査を打ち切った。福田は退官後、[[SBI大学院大学]]講師、[[SBIホールディングス]]取締役等に就任。
*2022年5月、事務次官候補の[[財務省総括審議官|総括審議官]]職にある[[キャリア (国家公務員)|キャリア]]事務官が、電車内で酒に酔って乗客に暴行した現行犯で逮捕された<ref>[https://www.fnn.jp/articles/-/362844 財務省“エース”が暴行で逮捕 事務方トップ 次官候補の1人] [[FNNプライムオンライン]]、2022年5月20日</ref>。
*その他[[国税庁]]については[[国税庁#不祥事]]を参照。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ministry of Finance (Japan)}}
* [[財政政策]]
* [[概算要求基準]]
* [[日本の行政機関]]
* [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] - [[準キャリア]]
** [[主計局]]の[[主計官]]は、財務官僚の指定席たる[[人事院#事務総局|人事院給与局給与第二課長]]と[[管理官#総務省行政管理局における「管理官」|総務省行政管理局管理官]]、ほかに[[参事官#種類|内閣法制局参事官]]等と同様に官僚組織内で強い権限を有する。
* [[アジア開発銀行]]
== 外部リンク ==
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[[Category:財務省 (日本)|**]]
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3,414 | 内閣府 |
内閣府(ないかくふ、英語: Cabinet Office、略称: CAO)は、日本の行政機関のひとつ。内閣官房を助けて内閣の重要政策に関する企画・調整を行い、内閣総理大臣が担当することがふさわしい行政事務等を所管する。
2001年(平成13年)の中央省庁再編で誕生した首相直属の機関であり、首相及び内閣官房を補佐する。複数の省庁にまたがる重要な政策を総合調整し、行政各部の統一を図るための企画立案を任されるため、他の12省庁よりも上位に位置付けられた。
内閣府は、皇室、栄典及び公式制度に関する事務、男女共同参画社会の形成の促進、消費生活及び市民活動に関係する施策を中心とした国民生活の安定及び向上、沖縄の振興及び開発、北方領土問題の解決の促進、災害からの国民の保護、国の治安の確保、金融の適切な機能の確保、政府の施策の実施を支援するための基盤の整備並びに経済その他の広範な分野に関係する施策などを所管している。
内閣総理大臣は自らを助けるものとして内閣府に内閣府特命担当大臣を置くことができる。なお、「沖縄及び北方対策担当」、「金融担当」、「消費者及び食品安全担当」並びに「少子化担当」の特命担当大臣は必置である。内閣官房長官は国家公安委員会や内閣府特命担当大臣の所掌を除く内閣府の事務の総括整理を担当し(同法第8条第1項)、内閣官房副長官は特定事項に係るものに参画する(同2項)。
当初は行政事務を分担管理する組織であり、内閣自体の組織ではないため、名称を「内閣府」とするのは適切ではないと疑問視されていた。
国家行政組織法は適用されず、必要な事項はすべて内閣府設置法に規定されている。
重要な政策課題の多くが府省横断的な対応を要することから、内閣府設置以降、多くの業務が集中している。 認定こども園の制度を所管するようになるなど、存在感を増す一方で、その肥大化も指摘されるようになった。内閣府設置当初6名だった特命担当大臣も、2020年9月現在、10名となり、国務大臣20名の半数となっている。2015年に第3次安倍内閣において業務の見直しとして「内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律」を成立させ、今後の各省庁への事務移管等が定められた。
内閣府の内部組織は、一般に、法律の内閣府設置法、政令の内閣府本府組織令及び内閣府令の内閣府本府組織規則が階層的に規定している。
内閣府の組織の多くは東京都千代田区永田町一丁目6-1の内閣府庁舎及び中央合同庁舎第8号館に所在する。ただし、地方分権改革推進室、消費者委員会事務局、国際平和協力本部事務局等は千代田区霞が関三丁目1-1の中央合同庁舎第4号館に、大臣官房番号制度担当室等は千代田区霞が関二丁目1-2の中央合同庁舎第2号館に、地方創生推進事務局等は千代田区永田町一丁目11-39の永田町合同庁舎に所在し、その他にも大手町合同庁舎第3号館や経済産業省別館、民間ビル等に分かれて所在している。
内閣府の広報誌としては、「広報ぼうさい」(政策統括官(防災担当))、「学術の動向」(日本学術会議)などが部局ごとに存在する。
宮内庁は、旧総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法第48条)。官報では内閣府のみ「外局」の区分表記を「外局等」とし、宮内庁をその区分内の筆頭に記載する形をとっている。
同じく旧総理府の外局であった公正取引委員会は、2001年の中央省庁再編により総務省の外局に移行されたが、2003年に内閣府の外局に移行された。
かつては防衛庁も内閣府の外局であったが、2007年1月9日に防衛省に移行し、廃止された。
内閣府本府が所管する独立行政法人は、2023年4月1日現在、国立公文書館、北方領土問題対策協会、日本医療研究開発機構(AMED)の3法人である。国立公文書館は行政執行法人であり、役職員は国家公務員の身分を有する。
その他に、外局である消費者庁が国民生活センターを、こども家庭庁が、福祉医療機構(厚生労働省との共管。主管は厚生労働省)及び日本スポーツ振興センター(文部科学省との共管。主管は文部科学省)をそれぞれ所管している。
所管する特殊法人は、2023年4月1日現在、沖縄振興開発金融公庫及び沖縄科学技術大学院大学学園の2法人である。沖縄科学技術大学院大学の前身は独立行政法人の沖縄科学技術研究基盤整備機構であった。
所管する認可法人は、2023年4月現在、原子力損害賠償・廃炉等支援機構の1法人である。
2022年4月1日現在、内閣府本府が所管する特別民間法人は存在しない。外局である国家公安委員会の特別の機関である警察庁が自動車安全運転センターを、外局である金融庁が日本公認会計士協会を、それぞれ所管している。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における内閣府所管予算は、4兆8959億5748万7千円である。組織別の内訳は、内閣本府が3700億6536万6千円、地方創生推進事務局が1046億3518万2千円、知的財産戦略推進事務局が2億1860万4千円、科学技術・イノベーション推進事務局が575億9885万2千円、健康・医療戦略推進事務局が2億5378万8千円、宇宙開発戦略推進事務局が199億6854万4千円、北方対策本部が17億146万7千円、総合海洋政策推進事務局が52億3522万4千円、国際平和協力本部が6億8254万7千円、日本学術会議が9億4868万9千円、官民人材交流センターが2億5136万8千円、沖縄総合事務局が106億401万6千円、宮内庁が115億7744万2千円、公正取引委員会が111億3198万4千円、警察庁が2901億6851万1千円、個人情報保護委員会が34億2451万1千円、カジノ管理委員会が36億2464万1千円、金融庁が231億9308万円、消費者庁が115億9281万3千円、こども家庭庁が3兆9690億8085万8千円となっている。
内閣府は、総務省及び財務省と交付税及び譲与税配付金特別会計を、文部科学省、経済産業省及び環境省とエネルギー対策特別会計を、厚生労働省と年金特別会計を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、内閣府全体で14,559人(男性12,005人、女性2,554人)である。本府及び外局別の人数は本府が2,392人(男性1,844人、女性548人)、宮内庁966人(男性750人、女性216人)、公正取引委員会771人(男性566人、女性205人)、国家公安委員会(警察庁)8,343人(男性7,222人、女性1,021人)、個人情報保護委員会162人(男性115人、女性47人)、カジノ管理委員会138人(男性109人、女性29人)、金融庁1,522人(男性1,162人、女性360人)、消費者庁365人(男性237人、女性128人)となっている。なお、2023年4月に設置されたこども家庭庁は、行政機関職員定員令の定員は、430人となっているが、2022年7月1日現在の在職者数には含まれない。
行政機関職員定員令に定められた内閣府の定員は、特別職63人を含めて15,325人(2023年9月30日までは15,372人)。宮内庁及び各外局別の定員も同政令に定められており、宮内庁:1,045人(2023年9月30日までの間は1,072人)、 公正取引委員会:924人(事務総局職員)、 国家公安委員会:8,026人(警察庁職員)、 個人情報保護委員会:221人(事務局職員)、 カジノ管理委員会:164人(事務局職員)、 金融庁:1,644人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:430人となっている。警察庁の定員のうち、2,291人は警察官の定員とされている。内閣府本府の定員は、個別の規定がないが、内閣府全体の定員から宮内庁及び各外局別の定員を控除して算出することができ、2,466人となっている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職123人、一般職15,783人の計15,906人である。機関別内訳は内閣府本府が1,354人、地方創生推進事務局7人、知的財産戦略推進事務局2人、科学技術・イノベーション推進事務局67人、健康・医療戦略推進事務局2人、宇宙開発戦略推進事務局18人、北方対策本部12人、総合海洋政策推進事務局7人、国際平和協力本部23人、日本学術会議50人、官民人材交流センター17人、沖縄総合事務局872人、宮内庁:1,052人、公正取引委員会:929人、警察庁:8,662人、個人情報保護委員会:226人、カジノ管理委員会:169人、金融庁:1,649人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:383人となっている。特別職について、予算定員と行政機関職員定員令の定員に大きな差異があるのは、公正取引委員会等の独立行政委員会の場合、行政機関職員定員令の定員は事務(総)局(国家公安委員会の場合は警察庁)の定員であり、委員会の委員を含まないこと、宮内庁の場合、行政機関職員定員令の定員は長官、侍従長等を含まないのに対し、予算定員にはこれらの者を含むためである。また行政機関職員定員令の国家公安委員会(警察庁職員)の定員と予算定員の警察庁の定員の差異は、地方警務官の定員は、警察法第57条第1項に基づき警察法施行令第6条により631人と定められており、これが予算定員にのみ含まれていることが主な原因である。
内閣府の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。ただし、警察庁の警察職員は団結権も否定されており、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(同条第5項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は、単一体団体1、支部等団体1となっている組合員数は146人、組織率は2.4%。
特殊な職員として、報道で披露される元号や官記などの揮毫を専門とする辞令専門官(官邸書家)が人事課に所属している。これとは別に宮内庁でも天皇・皇后の親書などを代筆する文書専門員(祐筆)がいる。
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"text": "国家行政組織法は適用されず、必要な事項はすべて内閣府設置法に規定されている。",
"title": "組織"
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{
"paragraph_id": 7,
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"text": "重要な政策課題の多くが府省横断的な対応を要することから、内閣府設置以降、多くの業務が集中している。 認定こども園の制度を所管するようになるなど、存在感を増す一方で、その肥大化も指摘されるようになった。内閣府設置当初6名だった特命担当大臣も、2020年9月現在、10名となり、国務大臣20名の半数となっている。2015年に第3次安倍内閣において業務の見直しとして「内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律」を成立させ、今後の各省庁への事務移管等が定められた。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "内閣府の内部組織は、一般に、法律の内閣府設置法、政令の内閣府本府組織令及び内閣府令の内閣府本府組織規則が階層的に規定している。",
"title": "組織"
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{
"paragraph_id": 9,
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"text": "内閣府の組織の多くは東京都千代田区永田町一丁目6-1の内閣府庁舎及び中央合同庁舎第8号館に所在する。ただし、地方分権改革推進室、消費者委員会事務局、国際平和協力本部事務局等は千代田区霞が関三丁目1-1の中央合同庁舎第4号館に、大臣官房番号制度担当室等は千代田区霞が関二丁目1-2の中央合同庁舎第2号館に、地方創生推進事務局等は千代田区永田町一丁目11-39の永田町合同庁舎に所在し、その他にも大手町合同庁舎第3号館や経済産業省別館、民間ビル等に分かれて所在している。",
"title": "組織"
},
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"paragraph_id": 10,
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"text": "内閣府の広報誌としては、「広報ぼうさい」(政策統括官(防災担当))、「学術の動向」(日本学術会議)などが部局ごとに存在する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "宮内庁は、旧総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法第48条)。官報では内閣府のみ「外局」の区分表記を「外局等」とし、宮内庁をその区分内の筆頭に記載する形をとっている。",
"title": "組織"
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"text": "同じく旧総理府の外局であった公正取引委員会は、2001年の中央省庁再編により総務省の外局に移行されたが、2003年に内閣府の外局に移行された。",
"title": "組織"
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"text": "かつては防衛庁も内閣府の外局であったが、2007年1月9日に防衛省に移行し、廃止された。",
"title": "組織"
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"text": "内閣府本府が所管する独立行政法人は、2023年4月1日現在、国立公文書館、北方領土問題対策協会、日本医療研究開発機構(AMED)の3法人である。国立公文書館は行政執行法人であり、役職員は国家公務員の身分を有する。",
"title": "所管法人"
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"text": "その他に、外局である消費者庁が国民生活センターを、こども家庭庁が、福祉医療機構(厚生労働省との共管。主管は厚生労働省)及び日本スポーツ振興センター(文部科学省との共管。主管は文部科学省)をそれぞれ所管している。",
"title": "所管法人"
},
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"text": "所管する特殊法人は、2023年4月1日現在、沖縄振興開発金融公庫及び沖縄科学技術大学院大学学園の2法人である。沖縄科学技術大学院大学の前身は独立行政法人の沖縄科学技術研究基盤整備機構であった。",
"title": "所管法人"
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"text": "所管する認可法人は、2023年4月現在、原子力損害賠償・廃炉等支援機構の1法人である。",
"title": "所管法人"
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"text": "2022年4月1日現在、内閣府本府が所管する特別民間法人は存在しない。外局である国家公安委員会の特別の機関である警察庁が自動車安全運転センターを、外局である金融庁が日本公認会計士協会を、それぞれ所管している。",
"title": "所管法人"
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における内閣府所管予算は、4兆8959億5748万7千円である。組織別の内訳は、内閣本府が3700億6536万6千円、地方創生推進事務局が1046億3518万2千円、知的財産戦略推進事務局が2億1860万4千円、科学技術・イノベーション推進事務局が575億9885万2千円、健康・医療戦略推進事務局が2億5378万8千円、宇宙開発戦略推進事務局が199億6854万4千円、北方対策本部が17億146万7千円、総合海洋政策推進事務局が52億3522万4千円、国際平和協力本部が6億8254万7千円、日本学術会議が9億4868万9千円、官民人材交流センターが2億5136万8千円、沖縄総合事務局が106億401万6千円、宮内庁が115億7744万2千円、公正取引委員会が111億3198万4千円、警察庁が2901億6851万1千円、個人情報保護委員会が34億2451万1千円、カジノ管理委員会が36億2464万1千円、金融庁が231億9308万円、消費者庁が115億9281万3千円、こども家庭庁が3兆9690億8085万8千円となっている。",
"title": "財政"
},
{
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"text": "内閣府は、総務省及び財務省と交付税及び譲与税配付金特別会計を、文部科学省、経済産業省及び環境省とエネルギー対策特別会計を、厚生労働省と年金特別会計を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "財政"
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{
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、内閣府全体で14,559人(男性12,005人、女性2,554人)である。本府及び外局別の人数は本府が2,392人(男性1,844人、女性548人)、宮内庁966人(男性750人、女性216人)、公正取引委員会771人(男性566人、女性205人)、国家公安委員会(警察庁)8,343人(男性7,222人、女性1,021人)、個人情報保護委員会162人(男性115人、女性47人)、カジノ管理委員会138人(男性109人、女性29人)、金融庁1,522人(男性1,162人、女性360人)、消費者庁365人(男性237人、女性128人)となっている。なお、2023年4月に設置されたこども家庭庁は、行政機関職員定員令の定員は、430人となっているが、2022年7月1日現在の在職者数には含まれない。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "行政機関職員定員令に定められた内閣府の定員は、特別職63人を含めて15,325人(2023年9月30日までは15,372人)。宮内庁及び各外局別の定員も同政令に定められており、宮内庁:1,045人(2023年9月30日までの間は1,072人)、 公正取引委員会:924人(事務総局職員)、 国家公安委員会:8,026人(警察庁職員)、 個人情報保護委員会:221人(事務局職員)、 カジノ管理委員会:164人(事務局職員)、 金融庁:1,644人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:430人となっている。警察庁の定員のうち、2,291人は警察官の定員とされている。内閣府本府の定員は、個別の規定がないが、内閣府全体の定員から宮内庁及び各外局別の定員を控除して算出することができ、2,466人となっている。",
"title": "職員"
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{
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"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職123人、一般職15,783人の計15,906人である。機関別内訳は内閣府本府が1,354人、地方創生推進事務局7人、知的財産戦略推進事務局2人、科学技術・イノベーション推進事務局67人、健康・医療戦略推進事務局2人、宇宙開発戦略推進事務局18人、北方対策本部12人、総合海洋政策推進事務局7人、国際平和協力本部23人、日本学術会議50人、官民人材交流センター17人、沖縄総合事務局872人、宮内庁:1,052人、公正取引委員会:929人、警察庁:8,662人、個人情報保護委員会:226人、カジノ管理委員会:169人、金融庁:1,649人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:383人となっている。特別職について、予算定員と行政機関職員定員令の定員に大きな差異があるのは、公正取引委員会等の独立行政委員会の場合、行政機関職員定員令の定員は事務(総)局(国家公安委員会の場合は警察庁)の定員であり、委員会の委員を含まないこと、宮内庁の場合、行政機関職員定員令の定員は長官、侍従長等を含まないのに対し、予算定員にはこれらの者を含むためである。また行政機関職員定員令の国家公安委員会(警察庁職員)の定員と予算定員の警察庁の定員の差異は、地方警務官の定員は、警察法第57条第1項に基づき警察法施行令第6条により631人と定められており、これが予算定員にのみ含まれていることが主な原因である。",
"title": "職員"
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"text": "内閣府の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国家公務員法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。ただし、警察庁の警察職員は団結権も否定されており、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(同条第5項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は、単一体団体1、支部等団体1となっている組合員数は146人、組織率は2.4%。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "特殊な職員として、報道で披露される元号や官記などの揮毫を専門とする辞令専門官(官邸書家)が人事課に所属している。これとは別に宮内庁でも天皇・皇后の親書などを代筆する文書専門員(祐筆)がいる。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部"
}
] | 内閣府は、日本の行政機関のひとつ。内閣官房を助けて内閣の重要政策に関する企画・調整を行い、内閣総理大臣が担当することがふさわしい行政事務等を所管する。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses||日本以外の内閣府}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = {{big|{{ruby-ja|内閣府|ないかくふ}}}}
|公用語名 =
|英名 = Cabinet Office
|紋章 = CAO_Logo.svg
|紋章サイズ = 250px
|画像 = Cabinet Office Government Buildings.jpg
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 内閣府庁舎
|主席閣僚職名 = [[内閣総理大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[岸田文雄]]
|次席閣僚職名 = [[内閣官房長官]]<br />[[内閣府特命担当大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[林芳正]]<br />[[鈴木俊一 (衆議院議員)|鈴木俊一]]<br />[[齋藤健]]<br />[[伊藤信太郎]]<br />[[河野太郎]]<br />[[松村祥史]]<br />[[加藤鮎子]]<br />[[新藤義孝]]<br />[[高市早苗]]<br />[[自見英子]]
|三席閣僚職名 = [[内閣府副大臣|副大臣]]
|三席閣僚氏名 = [[石川昭政]]<br />[[井林辰憲]]<br />[[工藤彰三]]<br />[[古賀篤]]<br />[[岩田和親]]<br />[[上月良祐]]<br />[[堂故茂]]<br />[[滝沢求]]<br />[[鬼木誠 (1972年生の政治家)|鬼木誠]]
|補佐官職名 = [[内閣府大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[土田慎]]<br />[[神田潤一]]<br />[[古賀友一郎]]<br />[[平沼正二郎]]<br />[[吉田宣弘]]<br />[[石井拓]]<br />[[加藤竜祥]]<br />[[国定勇人]]<br />[[三宅伸吾]]
|次官職名 = [[内閣府事務次官]]
|次官氏名 = [[田和宏]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[内閣府大臣官房|大臣官房]]<br />[[政策統括官|内閣府政策統括官]] <br />・[[内閣府政策統括官(経済財政運営担当)|経済財政運営担当]]<br />・[[内閣府政策統括官(経済社会システム担当)|経済社会システム担当]]<br />・経済財政分析担当<br />・[[内閣府政策統括官(防災担当)|防災担当]]<br />・[[内閣府政策統括官(原子力防災担当)|原子力防災担当]]<br />・沖縄政策担当<br />・政策調整担当<br />・重要土地担当<br />・経済安全保障担当<br />独立公文書管理監<br />[[賞勲局]]<br />[[男女共同参画局]]<br />[[沖縄振興局]]
|下部組織2 = [[重要政策に関する会議|重要政策に<br />関する会議]]
|下部組織概要2 = [[経済財政諮問会議]]<br />[[総合科学技術・イノベーション会議]]<br />[[国家戦略特別区域#諮問会議|国家戦略特別区域諮問会議]]<br />[[中央防災会議]]<br />[[男女共同参画会議]]
|下部組織3 = [[審議会|審議会等]]
|下部組織概要3 = [[宇宙政策委員会]]<br />[[民間資金等活用事業推進委員会]]<br />[[日本医療研究開発機構審議会]]<br />[[食品安全委員会]]<br />[[土地等利用状況審議会]]<br />[[休眠預金等活用審議会]]<br />[[公文書管理委員会]]<br />[[障害者政策委員会]]<br />[[原子力委員会]]<br />[[地方制度調査会]]<br />[[選挙制度審議会]]<br />[[衆議院議員選挙区画定審議会]]<br />[[国会等移転審議会]]<br />[[公益認定等委員会]]<br />[[再就職等監視委員会]]<br />[[退職手当審査会]]<br />[[新技術等効果評価委員会]]<br />[[消費者委員会]]<br />[[沖縄振興審議会]]<br />[[規制改革推進会議]]<br />[[政府税制調査会|税制調査会]]
|下部組織4 = [[施設等機関]]
|下部組織概要4 = [[経済社会総合研究所]]<br />[[迎賓館]]
|下部組織5 = [[特別の機関]]
|下部組織概要5 = [[地方創生推進事務局]]<br />[[知的財産戦略推進事務局]]<br />[[総合科学技術・イノベーション会議#事務局|科学技術・イノベーション推進事務局]]<br />[[健康・医療戦略推進事務局]]<br />[[宇宙開発戦略推進事務局]]<br />[[北方対策本部]]<br />[[総合海洋政策推進事務局]]<br />[[金融危機対応会議]]<br />[[民間資金等活用事業推進会議]]<br />[[高齢社会対策会議]]<br />[[中央交通安全対策会議]]<br />[[犯罪被害者等施策推進会議]]<br />[[消費者政策会議]]<br />[[国際平和協力本部]]<br />[[日本学術会議]]<br />[[官民人材交流センター]]<br />[[食品ロス削減推進会議]]<br />[[原子力立地会議]]
|下部組織6 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要6 = [[沖縄総合事務局]]
|下部組織7 = [[外局]]等
|下部組織概要7 = [[宮内庁]]<br />[[公正取引委員会]]<br />[[国家公安委員会]]<br />[[個人情報保護委員会]]<br />[[カジノ管理委員会]]<br />[[金融庁]]<br />[[消費者庁]]<br />[[こども家庭庁]]
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|所在地 = {{color|red|〒}}100-8914<br />[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]1-6-1<br />{{coord|35.672970|139.745279|scale:10000|display=inline,title}}
|定員 = 15,325人(2023年9月30日までは15,372人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref><br/>- 内閣府本府:2,466人<br />- 宮内庁:1,045人(2023年9月30日までは1,072人)<br/>- 公正取引委員会:924人(事務総局職員)<br />- 国家公安委員会:8,026人(警察庁職員)<br />- 個人情報保護委員会:221人(事務局職員)<br />- カジノ管理委員会:164人(事務局職員)<br />- 金融庁:1,644人<br />- 消費者庁:405人<br />- こども家庭庁:430人
|年間予算 = 4兆8959億5748万7千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[内閣府設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[総理府]]<br />[[経済企画庁]]<br />沖縄開発庁<br />等
|ウェブサイト = {{Official website|name=内閣府}}
|その他 =
}}
[[Image:Central Common Government Offices No.8 20150327.jpg|thumb|250px|内閣府大臣官房総務課などが所在する<br />中央合同庁舎第8号館<br />(左奥は内閣府庁舎)]]
[[Image:Central-Government-Building-4-01.jpg|thumb|250px|内閣府国際平和協力本部事務局などが所在する中央合同庁舎第4号館]]
'''内閣府'''(ないかくふ、{{lang-en|Cabinet Office}}、略称: '''CAO''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[内閣官房]]を助けて[[内閣 (日本)|内閣]]の重要政策に関する企画・調整を行い、[[内閣総理大臣]]が担当することがふさわしい[[行政|行政事務]]等を所管する<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』</ref>。
==概要==
[[2001年]]([[平成]]13年)の[[中央省庁再編]]で誕生した首相直属の機関であり、[[首相]]及び[[内閣官房]]を補佐する<!-- 出典先の表記として「首相」と書かれているため、改変しないこと -->。複数の省庁にまたがる重要な政策を総合調整し、行政各部の統一を図るための企画立案を任されるため、他の12省庁よりも上位に位置付けられた<ref>『現代社会用語集』山川出版社、2020年12月31日、P.145。ISBN 978-4-634-05525-4。</ref>。
内閣府は、[[皇室]]、[[栄典]]及び公式制度に関する事務、[[男女共同参画社会]]の形成の促進、[[消費生活]]及び[[市民活動]]に関係する施策を中心とした[[国民生活]]の安定及び向上、[[沖縄]]の振興及び開発、[[北方領土問題]]の解決の促進、[[災害]]からの国民の保護、国の[[治安]]の確保、[[金融]]の適切な機能の確保、政府の施策の実施を支援するための基盤の整備並びに経済その他の広範な分野に関係する施策などを所管している<ref name="kotobank" />。
== 組織 ==
内閣総理大臣は自らを助けるものとして内閣府に[[内閣府特命担当大臣]]を置くことができる。なお、「沖縄及び北方対策担当」、「金融担当」、「消費者及び食品安全担当」並びに「少子化担当」の特命担当大臣は必置である。[[内閣官房長官]]は[[国家公安委員会]]や内閣府特命担当大臣の所掌を除く内閣府の事務の総括整理を担当し(同法第8条第1項)、[[内閣官房副長官]]は特定事項に係るものに参画する(同2項)<ref name="kotobank" >[https://kotobank.jp/word/内閣府-176331 内閣府] コトバンク 2021年3月27日閲覧。</ref>。
当初は行政事務を分担管理する組織であり、内閣自体の組織ではないため、名称を「内閣府」とするのは適切ではないと疑問視されていた<ref> [https://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku/980428sorifu.html 行政改革会議 総理府説明資料(6月25日)]</ref>。
[[国家行政組織法]]は適用されず、必要な事項<ref group="注釈">例えば命令制定権。</ref>はすべて内閣府設置法に規定されている。
重要な政策課題の多くが府省横断的な対応を要することから、内閣府設置以降、多くの業務が集中している。 [[認定こども園]]の制度を所管するようになるなど、存在感を増す一方で、その肥大化も指摘されるようになった<ref>{{Cite report|和書|title=内閣官房・内閣府の業務のスリム化|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2015pdf/20150512003.pdf|author=瀬戸山順一|publisher=参議院事務局企画調整室|year=2015|month=5|page=3|accessdate=2019-04-27|format=PDF}}</ref>。内閣府設置当初6名だった特命担当大臣も、2020年9月現在、10名となり、国務大臣20名の半数となっている<ref>{{Cite web|和書|title=大臣・副大臣・大臣政務官|url=https://www.cao.go.jp/minister/index.html|publisher=内閣府|accessdate=2019-10-01}}</ref>。2015年に[[第3次安倍内閣]]において業務の見直しとして「内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律」を成立させ、今後の各省庁への事務移管等が定められた<ref>{{Cite web|和書|title=内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律(平成27年法律第66号)|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18920150911066.htm|publisher=衆議院|date=2015-09-11|accessdate=2020-01-25}}</ref>。
内閣府の内部組織は、一般に、[[法律]]の内閣府設置法、[[政令]]の内閣府本府組織令及び[[内閣府令]]の内閣府本府組織規則が階層的に規定している。
内閣府の組織の多くは[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]一丁目6-1の内閣府庁舎及び[[中央合同庁舎第8号館]]に所在する。ただし、[[地方分権|地方分権改革推進室]]、[[消費者委員会]]事務局、[[国際平和協力本部]]事務局等は千代田区[[霞が関]]三丁目1-1の[[中央合同庁舎第4号館]]に、[[内閣府大臣官房|大臣官房]][[マイナンバー制度|番号制度担当室]]等は千代田区霞が関二丁目1-2の[[中央合同庁舎第2号館]]に、[[地方創生推進事務局]]等は千代田区永田町一丁目11-39の永田町合同庁舎に所在し、その他にも[[大手町合同庁舎]]第3号館や[[経済産業省]]別館、民間ビル等に分かれて所在している。
内閣府の広報誌としては、「広報ぼうさい」(政策統括官(防災担当))、「学術の動向」([[日本学術会議]])などが部局ごとに存在する。
=== 幹部 ===
* 内閣総理大臣(内閣府設置法第6条)
* 内閣官房長官(同法第8条第1項)
* 内閣官房副長官(同条第2項) - 3人
* 内閣府特命担当大臣(同法第9条第1項)
* [[内閣府副大臣]](同法第13条第1項) - 3人{{Efn|加えて、他省の[[副大臣]]を内閣府副大臣併任とすることができる。同条第2項。}}
* [[内閣府大臣政務官]](同法第14条第1項) - 3人{{Efn|加えて、他省の[[政務官]]を内閣府政務官併任とすることができる。同条第2項。}}
* [[大臣補佐官|内閣府大臣補佐官]](同条第2項) - 6人以内(必置ではない)
* [[事務次官等の一覧#内閣府事務次官|内閣府事務次官]](同法第15条第1項)
* [[内閣府審議官]](同法第16条) - 2人
=== 内部部局等 ===
* [[内閣府大臣官房]](内閣府本府組織令第1条、第10条)
** 総務課
** 人事課
** 会計課
** 企画調整課
** 政策評価広報課
** 公文書管理課
** 政府広報室
* [[統括官|政策統括官]](9名)
** [[内閣府政策統括官(経済財政運営担当)|経済財政運営担当]]<ref group="注釈">[[局長]]級[[分掌官]]。</ref>
** [[内閣府政策統括官(経済社会システム担当)|経済社会システム担当]]
** 経済財政分析担当
** [[内閣府政策統括官(防災担当)|防災担当]]<ref group="注釈">旧国土庁防災局。</ref>
** [[内閣府政策統括官(原子力防災担当)|原子力防災担当]]
** 沖縄政策担当
** 政策調整担当
** 重要土地担当
** 経済安全保障担当
* [[独立公文書管理監]](同令第1条)
* [[賞勲局]](同令第1条、第21条)
** 総務課
* [[男女共同参画局]](同令第1条、第24条)
** 総務課
** 推進課
** 男女間暴力対策課
* [[沖縄振興局]](同令第1条、第28条)
** 総務課
=== 重要政策に関する会議 ===
{{Main|重要政策に関する会議}}
* [[経済財政諮問会議]](内閣府設置法第18条第1項)
* [[総合科学技術・イノベーション会議]](同項)
* [[国家戦略特別区域#諮問会議|国家戦略特別区域諮問会議]]([[国家戦略特別区域法]])
* [[中央防災会議]]([[災害対策基本法]])
* [[男女共同参画会議]]([[男女共同参画社会基本法]])
=== 審議会等 ===
* [[宇宙政策委員会]](内閣府設置法第37条第1項)
* [[民間資金等活用事業推進委員会]]([[民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律]])
* [[日本医療研究開発機構審議会]]([[国立研究開発法人日本医療研究開発機構法]])
* [[食品安全委員会]]([[食品安全基本法]])
* [[土地等利用状況審議会]]([[重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律]])
* [[休眠預金等活用審議会]]([[民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律]])
* [[公文書管理委員会]]([[公文書等の管理に関する法律]])
* [[障害者政策委員会]]([[障害者基本法]])
* [[原子力委員会]]([[原子力基本法]]、[[原子力委員会設置法]])
* [[地方制度調査会]]([[地方制度調査会設置法]])
* [[選挙制度審議会]]([[選挙制度審議会設置法]])
* [[衆議院議員選挙区画定審議会]]([[衆議院議員選挙区画定審議会設置法]])
* [[国会等移転審議会]]([[国会等の移転に関する法律]])
* [[公益認定等委員会]]([[公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律]])
* [[再就職等監視委員会]]([[国家公務員法]])
* [[退職手当審査会]]([[国家公務員退職手当法]])
* 新技術等効果評価委員会([[産業競争力強化法]])
* [[消費者委員会]]([[消費者庁及び消費者委員会設置法]])
* [[沖縄振興審議会]]([[沖縄振興特別措置法]])
* [[規制改革推進会議]](内閣府本府組織令第31条)
* [[政府税制調査会|税制調査会]](同条)
=== 施設等機関 ===
* [[経済社会総合研究所]](内閣府本府組織令第34条)
* [[迎賓館]](同条)
=== 特別の機関 ===
* [[地方創生推進事務局]](内閣府設置法第40条第1項)
* [[知的財産戦略推進事務局]](同項)
* [[科学技術・イノベーション推進事務局]](同項)
* [[健康・医療戦略推進事務局]](同項)
* [[宇宙開発戦略推進事務局]](同項)
* [[北方対策本部]](同項)
* [[総合海洋政策推進事務局]](同項)
* [[金融危機対応会議]](同項)<ref group="注釈">会議の庶務は金融庁が担当(金融危機対応会議令第3条)。</ref>
* [[民間資金等活用事業推進会議]](民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)
* [[高齢社会対策会議]]([[高齢社会対策基本法]])
* [[中央交通安全対策会議]]([[交通安全対策基本法]])
* [[犯罪被害者等施策推進会議]]([[犯罪被害者等基本法]])
* [[消費者政策会議]]([[消費者基本法]])<ref group="注釈">会議の庶務は消費者庁が担当。</ref>
* [[国際平和協力本部]]([[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律]])
* [[日本学術会議]]([[日本学術会議法]])
* [[官民人材交流センター]](国家公務員法)
* [[食品ロス削減推進会議]]([[食品ロスの削減の推進に関する法律]])
* [[原子力立地会議]]([[原子力発電施設等立地地域の振興に関する特別措置法]])
=== 地方支分部局 ===
* [[沖縄総合事務局]](内閣府設置法第43条第1項、内閣府本府組織令第54条第3項)
** 総務部
** 財務部
** 農林水産部
** 経済産業部
** 開発建設部
** 運輸部
=== 外局等 ===
* [[宮内庁]]([[宮内庁法]])
* [[公正取引委員会]]([[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]])
* [[国家公安委員会]]([[警察法]])
* [[個人情報保護委員会]]([[個人情報の保護に関する法律|個人情報保護法]])
* [[カジノ管理委員会]]([[特定複合観光施設区域整備法|カジノ実施法]])
* [[金融庁]]([[金融庁設置法]])
* [[消費者庁]]([[消費者庁及び消費者委員会設置法]])
* [[こども家庭庁]]([[こども家庭庁設置法]])
宮内庁は、旧総理府の[[外局]]であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法第48条){{Sfn|山本淳|小幡純子|橋本博之|2011|pp=23–24}}。[[官報]]では内閣府のみ「外局」の区分表記を「外局等」とし、宮内庁をその区分内の筆頭に記載する形をとっている。
同じく旧総理府の外局であった公正取引委員会は、2001年の[[中央省庁再編]]により総務省の外局に移行されたが、2003年に内閣府の外局に移行された<ref>公正取引委員会を内閣府の外局に移行させるための関係法律の整備に関する法律(平成15年4月9日法律第23号)</ref>。
かつては防衛庁も内閣府の外局であったが、[[2007年]]1月9日に[[防衛省]]に移行し、廃止された。
== 内閣府特命担当大臣 ==
{| class="wikitable"
| [[内閣府特命担当大臣(金融担当)|金融担当]]||[[鈴木俊一 (衆議院議員)|鈴木俊一]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済財政政策担当]]||[[新藤義孝]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)|原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当]]||[[齋藤健]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(原子力防災担当)|原子力防災担当]]||[[伊藤信太郎]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災担当]]||rowspan="2"|[[松村祥史]]
|-
| [[総合海洋政策本部#歴代の副本部長|海洋政策担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(規制改革担当)|規制改革担当]]||[[河野太郎]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)|少子化対策担当]]||rowspan="4"|[[加藤鮎子]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画担当]]
|-
| [[こども家庭庁|子ども政策担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(若者活躍担当)|若者活躍担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(知的財産戦略担当)|知的財産戦略担当]]||rowspan="5"|[[高市早苗]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)|科学技術政策担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(宇宙政策担当)|宇宙政策担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(経済安全保障担当)|経済安全保障担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(クールジャパン戦略担当)|クールジャパン戦略担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策担当]]||rowspan="4"|[[自見英子]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(地方創生担当)|地方創生担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)|消費者及び食品安全担当]]
|-
| [[内閣府特命担当大臣(アイヌ施策担当)|アイヌ施策担当]]
|}
== 所管法人 ==
内閣府本府が所管する[[独立行政法人]]は、2023年4月1日現在、[[国立公文書館]]、[[北方領土問題対策協会]]、[[日本医療研究開発機構]](AMED)の3法人である。国立公文書館は[[独立行政法人#行政執行法人|行政執行法人]]であり、役職員は[[国家公務員]]の身分を有する。
その他に、外局である消費者庁が[[国民生活センター]]を<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>、こども家庭庁が、[[福祉医療機構]]([[厚生労働省]]との共管。主管は厚生労働省)及び[[日本スポーツ振興センター]]([[文部科学省]]との共管。主管は文部科学省)をそれぞれ所管している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cfa.go.jp/about/agency|title=所管の法人|こども家庭庁|publisher=こども家庭庁|accessdate=2023-04-03}}</ref>。
所管する[[特殊法人]]は、2023年4月1日現在、[[沖縄振興開発金融公庫]]及び[[沖縄科学技術大学院大学|沖縄科学技術大学院大学学園]]の2法人である<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。沖縄科学技術大学院大学の前身は独立行政法人の[[沖縄科学技術研究基盤整備機構]]であった。
所管する[[認可法人]]は、2023年4月現在、[[原子力損害賠償・廃炉等支援機構]]の1法人である<ref>{{Cite web|和書|title=施設等機関・所管の法人等|url=https://www.cao.go.jp/kikan/kikan.html|publisher=内閣府|accessdate=2022-12-09}}</ref>。
2022年4月1日現在、内閣府本府が所管する[[特別民間法人]]は存在しない。外局である国家公安委員会の[[特別の機関]]である[[警察庁]]が[[自動車安全運転センター]]を、外局である金融庁が[[日本公認会計士協会]]を、それぞれ所管している<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における内閣府所管予算は、4兆8959億5748万7千円である<ref name="予算"></ref>。組織別の内訳は、内閣本府が3700億6536万6千円、地方創生推進事務局が1046億3518万2千円、知的財産戦略推進事務局が2億1860万4千円、科学技術・イノベーション推進事務局が575億9885万2千円、健康・医療戦略推進事務局が2億5378万8千円、宇宙開発戦略推進事務局が199億6854万4千円、北方対策本部が17億146万7千円、総合海洋政策推進事務局が52億3522万4千円、国際平和協力本部が6億8254万7千円、日本学術会議が9億4868万9千円、官民人材交流センターが2億5136万8千円、沖縄総合事務局が106億401万6千円、宮内庁が115億7744万2千円、公正取引委員会が111億3198万4千円、警察庁が2901億6851万1千円、個人情報保護委員会が34億2451万1千円、カジノ管理委員会が36億2464万1千円、金融庁が231億9308万円、消費者庁が115億9281万3千円、こども家庭庁が3兆9690億8085万8千円となっている。
内閣府は、総務省及び財務省と[[交付税及び譲与税配付金特別会計]]を、文部科学省、経済産業省及び環境省と[[エネルギー対策特別会計]]を、厚生労働省と[[年金特別会計]]を共管している。また、[[国会]]、[[裁判所]]、[[会計検査院]]、内閣、内閣府、[[デジタル庁]]、[[復興庁]]、[[総務省]]、[[法務省]]、[[外務省]]、[[財務省]]、[[文部科学省]]、[[厚生労働省]]、[[農林水産省]]、[[経済産業省]]、[[国土交通省]]、[[環境省]]及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお[[人事院]]は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
[[一般職]]の在職者数は2022年7月1日現在、内閣府全体で14,559人(男性12,005人、女性2,554人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。本府及び外局別の人数は本府が2,392人(男性1,844人、女性548人)、宮内庁966人(男性750人、女性216人)、公正取引委員会771人(男性566人、女性205人)、国家公安委員会(警察庁)8,343人(男性7,222人、女性1,021人)、個人情報保護委員会162人(男性115人、女性47人)、カジノ管理委員会138人(男性109人、女性29人)、金融庁1,522人(男性1,162人、女性360人)、消費者庁365人(男性237人、女性128人)となっている。なお、2023年4月に設置されたこども家庭庁は、行政機関職員定員令の定員は、430人となっているが、2022年7月1日現在の在職者数には含まれない。
行政機関職員定員令に定められた内閣府の定員は、[[特別職]]63人を含めて15,325人(2023年9月30日までは15,372人)<ref name="定員令"></ref>。宮内庁及び各外局別の定員も同政令に定められており、宮内庁:1,045人(2023年9月30日までの間は1,072人)、 公正取引委員会:924人(事務総局職員)、 国家公安委員会:8,026人(警察庁職員)、 個人情報保護委員会:221人(事務局職員)、 カジノ管理委員会:164人(事務局職員)、 金融庁:1,644人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:430人となっている。警察庁の定員のうち、2,291人は[[日本の警察官|警察官]]の定員とされている。内閣府本府の定員は、個別の規定がないが、内閣府全体の定員から宮内庁及び各外局別の定員を控除して算出することができ、2,466人となっている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職123人、一般職15,783人の計15,906人である<ref name="予算"></ref>。機関別内訳は内閣府本府が1,354人、地方創生推進事務局7人、知的財産戦略推進事務局2人、科学技術・イノベーション推進事務局67人、健康・医療戦略推進事務局2人、宇宙開発戦略推進事務局18人、北方対策本部12人、総合海洋政策推進事務局7人、国際平和協力本部23人、日本学術会議50人、官民人材交流センター17人、沖縄総合事務局872人、宮内庁:1,052人、公正取引委員会:929人、警察庁:8,662人、個人情報保護委員会:226人、カジノ管理委員会:169人、金融庁:1,649人、 消費者庁:405人、こども家庭庁:383人となっている。特別職について、予算定員と行政機関職員定員令の定員に大きな差異があるのは、公正取引委員会等の独立行政委員会の場合、行政機関職員定員令の定員は事務(総)局(国家公安委員会の場合は警察庁)の定員であり、委員会の委員を含まないこと、宮内庁の場合、行政機関職員定員令の定員は長官、侍従長等を含まないのに対し、予算定員にはこれらの者を含む{{efn|予算定員においては警察庁に、国会公安委員会委員を含めている。}}ためである。また行政機関職員定員令の国家公安委員会(警察庁職員)の定員と予算定員の警察庁の定員の差異は、[[地方警務官]]の定員は、[[警察法]]第57条第1項に基づき警察法施行令第6条により631人<ref>{{Cite web|和書|title=警察法施行令 {{!}} e-Gov法令検索 |url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=329CO0000000151 |website=elaws.e-gov.go.jp |access-date=2023-04-01}}</ref>と定められており、これが予算定員にのみ含まれていることが主な原因である。
内閣府の一般職の職員は非現業の国家公務員なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。[[労働基本権#日本における労働基本権|団結権]]は認められており、職員は[[労働組合]]として国家公務員法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国家公務員法第108条の2第3項)。ただし、警察庁の[[警察職員]]は団結権も否定されており、職員団体を結成し、又はこれに加入してはならない(同条第5項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は、単一体団体1、支部等団体1となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>組合員数は146人、組織率は2.4%。<!--最近の資料が得られないので、非表示とします
主な職員団体には、内閣府職員労働組合、沖縄総合事務局開発建設労働組合(開建労)、沖縄国家公務員労働組合、宮内庁職員組合、公正取引委員会職員組合および金融庁職員組合がある{{要出典|date=2019-04}}。内閣府職員労組と公取職組は旧総理府・総務庁関係機関の他労組と連合体である総理府労連を形成している{{要出典|date=2019-04}}。さらに、総理府労連は[[日本国家公務員労働組合連合会]]([[全国労働組合総連合|全労連]]傘下)に加盟している<ref>{{Cite web|title=各単組の紹介|url=http://kokkororen.com/list.php|publisher=日本国家公務員労働組合連合会|accessdate=2020-1-10}}</ref>。金融庁職員組合は[[国公関連労働組合連合会]]([[日本労働組合総連合会|連合]]傘下)に加盟している<ref>{{Cite web|title=国公連合構成組織紹介|url=https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/jinji_toukei.html|publisher=国公関連労働組合連合会|accessdate=2020-1-10}}</ref>。宮内庁職組は中立系{{要出典|date=2019-04}}。-->
特殊な職員として、[[報道]]で披露される[[元号]]や官記などの[[揮毫]]を専門とする[[辞令専門職|辞令専門官]]<ref>{{Cite web|和書|title=これまでの功績、これからの重責への思いを筆に込めて|url=https://www.jinji.go.jp/sousai/018/katou.html|publisher=人事院|accessdate=2019-04-27}}</ref>(官邸[[書家]]<ref>{{Cite web|和書|title=Furoshiki@Kanteiについて|url=https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/furosiki.html|publisher=[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]|accessdate=2019-04-27}}</ref>)が人事課に所属している<ref group="注釈" name=":0">試験採用ではなく[[河東純一]]のような書家が任命される。</ref>。これとは別に宮内庁でも天皇・皇后の親書などを代筆する文書専門員([[祐筆]])がいる<ref>{{Cite web|和書|title=第74回日書展受賞者 佐伯司朗先生 インタビュー│サンスターストーリー│サンスター製品情報サイト|url=https://jp.sunstar.com/story/csr/culturaldev/interview11/index.html|website=サンスター|accessdate=2021-03-02|language=ja}}</ref><ref name=":0" group="注釈" />。
== 幹部 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{Cite web|和書|title=幹部名簿 - 内閣府 |url=https://www.cao.go.jp/about/meibo.html |website=内閣府ホームページ |access-date=2023-07-04 |language=ja}}</ref>。
* 事務次官:[[田和宏]]
* [[内閣府審議官]]:[[大塚幸寛]]
* 内閣府審議官:井上宏之
* [[内閣府大臣官房|大臣官房]]長:原宏彰
* [[内閣府政策統括官(経済財政運営担当)|政策統括官(経済財政運営担当)]]:木村聡
* [[内閣府政策統括官(経済社会システム担当)|政策統括官(経済社会システム担当)]]:林幸宏
* 政策統括官(経済財政分析担当):[[林伴子]]
* [[内閣府政策統括官(防災担当)|政策統括官(防災担当)]]:高橋謙司
* [[内閣府政策統括官(原子力防災担当)|政策統括官(原子力防災担当)]]:松下整
* 政策統括官(沖縄政策担当):水野敦
* 政策統括官(政策調整担当):笹川武
* 政策統括官 (重要土地担当) :[[宮坂祐介]]
* 政策統括官 (経済安全保障担当) :泉恒有
* 独立公文書管理監:森本加奈
* [[賞勲局]]長:伊藤信
* [[男女共同参画局]]長:岡田恵子
* [[沖縄振興局]]長:望月明雄
* [[経済社会総合研究所]]長:[[村山裕]]
* [[迎賓館]]長:三上明輝
* 地方創生推進事務局長:市川篤志
* [[知的財産戦略推進事務局]]長:[[奈須野太]]
* 科学技術・イノベーション推進事務局長:[[松尾泰樹]]
* 科学技術・イノベーション推進事務局統括官:渡邊昇司
* 健康・医療戦略推進事務局長:中石斉孝
* 宇宙開発戦略推進事務局長:風木淳
* 総合海洋政策推進事務局長:[[村田茂樹 (国土交通官僚)|村田茂樹]]
* [[国際平和協力本部]]事務局長:[[加納雄大]]
* [[日本学術会議]]事務局長:相川哲也
* [[官民人材交流センター]]官民人材交流副センター長<ref group="注釈">センター長は国家公務員法第18条の7第3項により内閣官房長官を充てることになっているため副センター長が事務方のトップになる。</ref>:松本淳司
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=山本淳|author2=小幡純子|author3=橋本博之|title=行政法|date=2011|publisher=有斐閣|isbn=9784641121898|series=有斐閣アルマ|edition=第2版補訂|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[経済白書]]
* [[政府広報]]
* [[内閣官房]]
* [[日本の行政機関]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|name=内閣府ホームページ}}
* [https://nettv.gov-online.go.jp/ 政府インターネットテレビ]
{{中央省庁}}
{{内閣府}}
{{原子力人材育成ネットワーク}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ないかくふ}}
[[Category:内閣府|*]]
[[Category:永田町]]
[[Category:霞が関]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:2001年設立の政府機関]] | 2003-03-04T23:51:45Z | 2023-12-14T13:04:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E5%BA%9C |
3,415 | 文部科学省 |
文部科学省(もんぶかがくしょう、英: Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology、略称: MEXT)は、日本の行政機関のひとつ。教育、学術、スポーツ、文化および科学技術の振興、宗教事務等を所管する。日本語略称・通称は、文科省(もんかしょう)。
中央合同庁舎第7号館東館に所在している。2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)1月までの期間、新庁舎への建替え・移転のため丸の内の旧三菱重工ビルを「文部科学省ビル」と改称して仮庁舎としていた。
2008年の新庁舎建て替えに伴い、制定された羅針盤をモチーフにしたシンボルマークは勝井三雄のデザインである。
上記の文部科学省設置法第3条に示された任務を達成するため、文部科学省は、教育、科学技術、学術、文化、および健常者スポーツ(障害者スポーツは厚生労働省の所管)の振興に関する事項をつかさどる。
2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編に伴い、学術・教育・学校等に関する行政機関だった旧文部省と、科学技術行政を総合的に推進する行政機関で旧総理府の外局だった旧科学技術庁とが統合されて誕生した(歴代の文部大臣、歴代の科学技術庁長官を参照)。
科学技術庁は、長官に国務大臣が充てられる大臣庁であり、府省庁の垣根を超えた横断的な行政機関として機能し、他府省庁からの出向者も多かった。また、他府省庁の各専門機関の予算調整等の役割を担うこともあった。文部科学省はそうした性格であった大臣庁と省が統合された異例の再編であった。
旧科学技術庁の調整機能は内閣府に移管されたが、原子力行政に代表されるように、特定の行政機能がこの統合・再編で各府省庁にいびつに分散、または文部科学省に集中した。分散の代表が原子力行政であるとすれば、集中の代表は独立行政法人の研究機関であると言える。
文部科学省設置法第4条は計97号に及ぶ所掌事務をつかさどると規定している。具体的には以下に関することなどがある。
文部科学省の内部組織は一般的に、法律の文部科学省設置法、政令の文部科学省組織令および省令の文部科学省組織規則が重層的に規定している。
文部科学省は他省の「○○地方~局」に相当する、全国を分割網羅する地方支分部局を持たない。かつて、地方にある大学や地方教育委員会の施設整備に関する補助金交付事務を行う「○○地方工事事務所」が国立大学の敷地内に存在したが、国立大学の法人化に伴い廃止された。補助金交付事務は本省で行えば足り、教育行政は完全な地方分権であるため必要がないというのが理由である。元科学技術庁の機関であった水戸原子力事務所が唯一の地方支分部局であったが原子力規制委員会設置法(平成24年法律第47号)により平成25年3月31日に廃止された。
特別の法律により設立される民間法人、特別の法律により設立される法人および認可法人は所管しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における文部科学所管の歳出予算は5兆2941億3824万8千円である。組織別の内訳では文部科学本省が5兆1498億504万6千円、文部科学本省所轄機関が44億9374万円、スポーツ庁が322億8694万2千円、文化庁が1075億5252万円となっている。本省予算のうち義務教育費国庫負担金が1兆5215億5300万円、国立大学法人運営費が1兆783億5305万4千円と大きな比重をしめる。本省所轄機関とは国立教育政策研究所、科学技術・学術政策研究所、日本学士院をさす。
文部科学省は、内閣府、経済産業省及び環境省とエネルギー対策特別会計を共管 する。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管 の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、文部科学省全体で2,115人(男性1,510人、女性605人)。機関別内訳は本省が1,724人(男性1,232人、女性492人)、文化庁282人(男性199人、女性83人)、スポーツ庁109人(男性79人、女性30人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた文部科学省の定員は特別職1人を含めて2,162人(2023年9月30日までは、2,178人)。本省および各外局別の定員は省令の文部科学省定員規則により、本省1,752人(2023年9月30日までは、1,768人)、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職2,141人の計2,148人である。機関別内訳は特別職7人は、すべて本省であり、一般職は本省が1,546人、文部科学本省所轄機関185人、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている。他に東日本大震災復興特別会計において本省に20人の予算定員がある。
文部科学省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち、争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体は存在しない。2005年度以降、組織率が数パーセントの状況が続き、2011年度にはついに0%となった。かつては国公労連加盟の文部省職員労働組合が活動していたが、2011年3月31日をもって解散した。
文部科学省が編集する白書には「文部科学白書」及び「科学技術白書」があり、後者は科学技術基本法の規定により、政府が毎年国会に提出する「政府が科学技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」(年次報告書、同法第8条)を収録している。
文部科学省が発行または編集する広報誌としては、本省の『文部科学広報』(月刊)、文化庁の『月刊文化財』、日本学士院の『日本学士院ニュースレター - 明六社だより』(年2回刊)、地震調査研究推進本部の『地震本部ニュース』(月刊)、などがある。『月刊文化財』の発行主体は第一法規株式会社で、文化庁は監修に携わっている。かつては、ぎょうせい発行の『文部科学時報』(月刊)があったが、2012年3月10日号をもって終刊となった。文化庁の『文化庁月報』(月刊)も2014年3月号をもって終刊となり、不定期のウェブ広報誌『ぶんかる』として発刊している。
ウェブサーバー名は「www.mext.go.jp」。他に文化庁は「www.bunka.go.jp」、日本学士院は「www.japan-acad.go.jp」、地震調査研究推進本部は「www.jishin.go.jp」、国立教育政策研究所は「www.nier.go.jp」、科学技術・学術政策研究所は「www.nistep.go.jp」等と一部の機関は独自のドメイン名を持つ。
2017年に発覚した組織的な天下りのあっせん(文部科学省天下り問題)への対策として、2019年4月から国立大学法人へ理事として出向する文科省幹部を半減させる事になった。文科省は運営費交付金を出すなど、大学に対して大きな権限を持つ。加計学園問題で注目された前川喜平は次官として天下りあっせんで処分されており、加計学園理事であった木曽功も元国際統括官である。
あいちトリエンナーレ2019に対する補助金不交付問題にからんで、2019年10月1日に文化庁が取り組む「アートプラットフォーム事業」のメンバーから撤回を求める声明文が出され、副座長が辞表を提出した。
前身の文部省・科学技術庁出身者を含む。
一般職の幹部は以下の通りである。 | [
{
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"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
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"text": "文部科学省(もんぶかがくしょう、英: Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology、略称: MEXT)は、日本の行政機関のひとつ。教育、学術、スポーツ、文化および科学技術の振興、宗教事務等を所管する。日本語略称・通称は、文科省(もんかしょう)。",
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},
{
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"text": "中央合同庁舎第7号館東館に所在している。2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)1月までの期間、新庁舎への建替え・移転のため丸の内の旧三菱重工ビルを「文部科学省ビル」と改称して仮庁舎としていた。",
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{
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"text": "2008年の新庁舎建て替えに伴い、制定された羅針盤をモチーフにしたシンボルマークは勝井三雄のデザインである。",
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},
{
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"text": "上記の文部科学省設置法第3条に示された任務を達成するため、文部科学省は、教育、科学技術、学術、文化、および健常者スポーツ(障害者スポーツは厚生労働省の所管)の振興に関する事項をつかさどる。",
"title": "概説"
},
{
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"text": "2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編に伴い、学術・教育・学校等に関する行政機関だった旧文部省と、科学技術行政を総合的に推進する行政機関で旧総理府の外局だった旧科学技術庁とが統合されて誕生した(歴代の文部大臣、歴代の科学技術庁長官を参照)。",
"title": "概説"
},
{
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"text": "科学技術庁は、長官に国務大臣が充てられる大臣庁であり、府省庁の垣根を超えた横断的な行政機関として機能し、他府省庁からの出向者も多かった。また、他府省庁の各専門機関の予算調整等の役割を担うこともあった。文部科学省はそうした性格であった大臣庁と省が統合された異例の再編であった。",
"title": "概説"
},
{
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"text": "旧科学技術庁の調整機能は内閣府に移管されたが、原子力行政に代表されるように、特定の行政機能がこの統合・再編で各府省庁にいびつに分散、または文部科学省に集中した。分散の代表が原子力行政であるとすれば、集中の代表は独立行政法人の研究機関であると言える。",
"title": "概説"
},
{
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"text": "文部科学省設置法第4条は計97号に及ぶ所掌事務をつかさどると規定している。具体的には以下に関することなどがある。",
"title": "所掌事務"
},
{
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"text": "文部科学省の内部組織は一般的に、法律の文部科学省設置法、政令の文部科学省組織令および省令の文部科学省組織規則が重層的に規定している。",
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},
{
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"text": "文部科学省は他省の「○○地方~局」に相当する、全国を分割網羅する地方支分部局を持たない。かつて、地方にある大学や地方教育委員会の施設整備に関する補助金交付事務を行う「○○地方工事事務所」が国立大学の敷地内に存在したが、国立大学の法人化に伴い廃止された。補助金交付事務は本省で行えば足り、教育行政は完全な地方分権であるため必要がないというのが理由である。元科学技術庁の機関であった水戸原子力事務所が唯一の地方支分部局であったが原子力規制委員会設置法(平成24年法律第47号)により平成25年3月31日に廃止された。",
"title": "組織"
},
{
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"text": "特別の法律により設立される民間法人、特別の法律により設立される法人および認可法人は所管しない。",
"title": "所管法人"
},
{
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"text": "",
"title": "所管法人"
},
{
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における文部科学所管の歳出予算は5兆2941億3824万8千円である。組織別の内訳では文部科学本省が5兆1498億504万6千円、文部科学本省所轄機関が44億9374万円、スポーツ庁が322億8694万2千円、文化庁が1075億5252万円となっている。本省予算のうち義務教育費国庫負担金が1兆5215億5300万円、国立大学法人運営費が1兆783億5305万4千円と大きな比重をしめる。本省所轄機関とは国立教育政策研究所、科学技術・学術政策研究所、日本学士院をさす。",
"title": "財政"
},
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"text": "文部科学省は、内閣府、経済産業省及び環境省とエネルギー対策特別会計を共管 する。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管 の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
"title": "財政"
},
{
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、文部科学省全体で2,115人(男性1,510人、女性605人)。機関別内訳は本省が1,724人(男性1,232人、女性492人)、文化庁282人(男性199人、女性83人)、スポーツ庁109人(男性79人、女性30人)となっている。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "行政機関職員定員令に定められた文部科学省の定員は特別職1人を含めて2,162人(2023年9月30日までは、2,178人)。本省および各外局別の定員は省令の文部科学省定員規則により、本省1,752人(2023年9月30日までは、1,768人)、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職2,141人の計2,148人である。機関別内訳は特別職7人は、すべて本省であり、一般職は本省が1,546人、文部科学本省所轄機関185人、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている。他に東日本大震災復興特別会計において本省に20人の予算定員がある。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "文部科学省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち、争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体は存在しない。2005年度以降、組織率が数パーセントの状況が続き、2011年度にはついに0%となった。かつては国公労連加盟の文部省職員労働組合が活動していたが、2011年3月31日をもって解散した。",
"title": "職員"
},
{
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"text": "文部科学省が編集する白書には「文部科学白書」及び「科学技術白書」があり、後者は科学技術基本法の規定により、政府が毎年国会に提出する「政府が科学技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」(年次報告書、同法第8条)を収録している。",
"title": "広報"
},
{
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"text": "文部科学省が発行または編集する広報誌としては、本省の『文部科学広報』(月刊)、文化庁の『月刊文化財』、日本学士院の『日本学士院ニュースレター - 明六社だより』(年2回刊)、地震調査研究推進本部の『地震本部ニュース』(月刊)、などがある。『月刊文化財』の発行主体は第一法規株式会社で、文化庁は監修に携わっている。かつては、ぎょうせい発行の『文部科学時報』(月刊)があったが、2012年3月10日号をもって終刊となった。文化庁の『文化庁月報』(月刊)も2014年3月号をもって終刊となり、不定期のウェブ広報誌『ぶんかる』として発刊している。",
"title": "広報"
},
{
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"text": "ウェブサーバー名は「www.mext.go.jp」。他に文化庁は「www.bunka.go.jp」、日本学士院は「www.japan-acad.go.jp」、地震調査研究推進本部は「www.jishin.go.jp」、国立教育政策研究所は「www.nier.go.jp」、科学技術・学術政策研究所は「www.nistep.go.jp」等と一部の機関は独自のドメイン名を持つ。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "2017年に発覚した組織的な天下りのあっせん(文部科学省天下り問題)への対策として、2019年4月から国立大学法人へ理事として出向する文科省幹部を半減させる事になった。文科省は運営費交付金を出すなど、大学に対して大きな権限を持つ。加計学園問題で注目された前川喜平は次官として天下りあっせんで処分されており、加計学園理事であった木曽功も元国際統括官である。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "あいちトリエンナーレ2019に対する補助金不交付問題にからんで、2019年10月1日に文化庁が取り組む「アートプラットフォーム事業」のメンバーから撤回を求める声明文が出され、副座長が辞表を提出した。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
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"text": "前身の文部省・科学技術庁出身者を含む。",
"title": "文部科学省出身の著名人"
},
{
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"text": "一般職の幹部は以下の通りである。",
"title": "幹部"
}
] | 文部科学省は、日本の行政機関のひとつ。教育、学術、スポーツ、文化および科学技術の振興、宗教事務等を所管する。日本語略称・通称は、文科省(もんかしょう)。 中央合同庁舎第7号館東館に所在している。2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)1月までの期間、新庁舎への建替え・移転のため丸の内の旧三菱重工ビルを「文部科学省ビル」と改称して仮庁舎としていた。 2008年の新庁舎建て替えに伴い、制定された羅針盤をモチーフにしたシンボルマークは勝井三雄のデザインである。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{行政官庁
|国名={{JPN}}
|正式名称={{big|{{ruby-ja|文部科学省|もんぶかがくしょう}}}}
|英名=Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology
|紋章=Symbol of Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology of Japan.svg
|紋章サイズ=220px
|画像=Kasumigaseki-Common-Gate-01.jpg
|画像サイズ=220px
|画像説明=文部科学省が入居する[[霞が関コモンゲート]]東館<br>(中央合同庁舎第7号館)
|主席閣僚職名=[[文部科学大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名=[[盛山正仁]]
|次席閣僚職名=[[文部科学副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名=[[阿部俊子]]<br/>[[今枝宗一郎]]
|補佐官職名=[[文部科学大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名=[[安江伸夫]]<br/>[[本田顕子]]
|次官職名=[[文部科学省#歴代事務次官|事務次官]]
|次官氏名=[[藤原章夫]]
|上部組織=上部組織
|上部組織概要=[[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.jbaudit.go.jp/jbaudit/target/01.html 国会、裁判所、内閣、内閣府ほか11省等] 会計検査院 2021年1月8日閲覧</ref>
|下部組織1=[[内部部局]]
|下部組織概要1=[[文部科学省大臣官房|大臣官房]]<br>[[総合教育政策局]]<br>[[初等中等教育局]]<br>[[高等教育局]]<br>[[科学技術・学術政策局]]<br>[[研究振興局]]<br>[[研究開発局]] <br>[[国際統括官 (文部科学省)|国際統括官]]
|下部組織2=[[審議会#行政庁|審議会等]]
|下部組織概要2=科学技術・学術審議会<br>[[国立大学法人評価委員会]]<br>[[中央教育審議会]]<br>教科用図書検定調査審議会<br>[[大学設置・学校法人審議会]]<br>国立研究開発法人審議会<br>[[原子力損害賠償紛争審査会]]
|下部組織3=[[施設等機関]]
|下部組織概要3=[[国立教育政策研究所]]<br>[[科学技術・学術政策研究所]]
|下部組織4=[[特別の機関]]
|下部組織概要4=[[日本学士院]]<br>[[地震調査研究推進本部]]<br>[[日本ユネスコ国内委員会]]
|下部組織6=[[外局]]
|下部組織概要6=[[スポーツ庁]]<br>[[文化庁]]
|所在地={{color|red|〒}}100-8959<br>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]<br>三丁目2番2号
|位置={{coord|35.671306|139.748598|scale:10000|display=inline,title}}
|定員=2,162人(2023年9月30日までの間は2,178人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年12月9日政令第374号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref><br>本省1,752人(2023年9月30日までの間は1,768人)、スポーツ庁110人、文化庁300人<ref name="定員規則" />
|年間予算=5兆2941億3824万8千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[文部科学省設置法]]|設置年月日=[[2001年]]([[平成]]13年)1月6日
|改称年月日=
|前身=[[文部省]]<br>[[科学技術庁]]
|ウェブサイト = {{Official website|name=文部科学省}}
|その他=
}}
'''文部科学省'''(もんぶかがくしょう、{{lang-en-short|Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology}}、[[略称]]: '''MEXT''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://kotobank.jp/word/文部科学省-176332 文部科学省] コトバンク 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[教育]]、[[学術]]、[[スポーツ]]、[[文化]]および[[テクノロジー|科学技術]]の振興、[[宗教]]事務等を所管する。[[日本語]]略称・通称は、'''文科省'''(もんかしょう)。
[[中央合同庁舎第7号館]]東館に所在している。2004年(平成16年)1月から2008年(平成20年)1月までの期間、新庁舎への建替え・移転のため[[丸の内]]の旧[[三菱重工業|三菱重工]]ビルを「'''文部科学省ビル'''」と改称して仮庁舎としていた{{refnest|group="注釈"|その後、同ビルは[[丸の内二丁目ビル]]に改称され、[[みずほフィナンシャルグループ]]の本社を経て、[[2015年]]から[[2018年]]11月まで[[東京商工会議所]]が使用していた<ref>{{Cite press release|和書|title=本部事務所仮移転のお知らせ|publisher=東京商工会議所|date=2015-01-05|url=http://www.tokyo-cci.or.jp/page.jsp?id=41638|accessdate= 2016-04-30}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=新ビルでの本部業務開始について|publisher=東京商工会議所|date=18/11/26
|url=https://www.tokyo-cci.or.jp/page.jsp?id=1009930|accessdate= 2019/4/15}}</ref>。現在は一般の貸しビルとして使用されている。}}。
2008年の新庁舎建て替えに伴い、制定された羅針盤をモチーフにしたシンボルマークは[[勝井三雄]]のデザインである<ref>{{Cite web|和書|title=知っていますか? 文部科学省のシンボルマーク - きょういくじん会議 - 明治図書オンライン「教育zine」 |url=https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/kaigi/?id=20070384 |website=www.meijitosho.co.jp |access-date=2023-10-06}}</ref>。
==概説==
[[File:Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology.jpg|thumb|250px|文部科学省への入口]]
[[ファイル:Former Monbushō Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology building 2010.jpg|thumb|250px|旧文部省庁舎(手前のレンガ色の建物)<br>現在も改装され文化庁庁舎として使用されている。]]
{{wikisource portal}}
上記の[[文部科学省設置法]]第3条に示された任務を達成するため、文部科学省は、[[教育]]、[[テクノロジー|科学技術]]、[[学術]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]、および[[健常者]][[スポーツ]]([[障害者]]スポーツは[[厚生労働省]]の所管)の振興に関する事項をつかさどる。
2001年(平成13年)1月6日、[[中央省庁再編]]に伴い、学術・教育・学校等に関する行政機関だった旧'''[[文部省]]'''と、科学技術行政を総合的に推進する[[行政機関]]で旧[[総理府]]の[[外局]]だった旧'''[[科学技術庁]]'''とが統合されて誕生した([[文部大臣|歴代の文部大臣]]、[[科学技術庁長官|歴代の科学技術庁長官]]を参照)。
科学技術庁は、[[長官]]に[[国務大臣]]が[[充て職|充てられる]][[大臣庁]]であり、府省庁の垣根を超えた横断的な行政機関として機能し、他府省庁からの出向者も多かった。また、他府省庁の各専門機関の[[予算]]調整等の役割を担うこともあった。文部科学省はそうした性格であった大臣庁と[[省]]が統合された異例の再編であった。
旧科学技術庁の調整機能は[[内閣府]]に移管されたが、[[原子力]]行政に代表されるように、特定の行政機能がこの統合・再編で各府省庁にいびつに分散、または文部科学省に集中した。分散の代表が原子力行政であるとすれば、集中の代表は[[独立行政法人]]の[[研究機関]]であると言える{{refnest|group="注釈"|研究機関の名称からは、どの[[省庁]]の所管か分からないものが多い<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/link/1294888.htm 科学技術・学術(独立行政法人)] - 文部科学省ホームページ</ref>。}}。
:{{main|科学技術庁}}
==沿革==
*1871年9月2日(明治4年7月18日)- '''[[文部省]]'''設置
*1950年(昭和25年)8月29日 - 文部省の外局として、[[文化財保護委員会]]設置
*1956年(昭和31年)5月19日 - '''[[科学技術庁]]'''設置
*1968年(昭和43年)6月15日 - 文化財保護委員会を廃止して、文部省の外局として[[文化庁]]を設置
*2001年(平成13年)1月6日 - [[中央省庁再編]]により文部省と科学技術庁を廃止した後、これらを統合した'''文部科学省'''を設置
*2012年(平成24年)9月19日 - [[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]の設置により、原子力安全に係る事務が原子力規制委員会に移管
*2015年(平成27年)2月6日 - 文部科学大臣補佐官が置かれ、初代補佐官として[[鈴木寛]]が任命<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/2015/kakugi-2015020601.html|title=平成27年2月6日(金)定例閣議案件|accessdate=2021/01/26|publisher=首相官邸}}</ref>
*2015年(平成27年)10月1日 - 文部科学省の外局として[[スポーツ庁]]設置
*2018年(平成30年)10月1日 - 文化庁の組織改正により、長官官房及び部が廃止され、次長2名、文化財鑑査官1名が各課(9課)の事務を分担
*2018年(平成30年)10月16日 - [[生涯学習政策局]]を総合教育政策局に改組、文教施設企画部を文教施設企画・防災部に改組等の組織改正実施
*2021年(令和3年)10月1日 - [[初等中等教育局]]及び科学技術系部局再編
==所掌事務==
文部科学省設置法第4条は計97号に及ぶ所掌事務をつかさどると規定している。具体的には以下に関することなどがある。
{{div col}}
*[[教育改革]](第1号)
*[[生涯学習]](第2号)
*地方[[教育行政]]の企画・指導(第3号)
*地方教育費(第4号)
*[[地方公務員]]である[[教育関係職員]]の人事行政(第5~6号)
*[[初等中等教育]](第7~9号)
*[[教科用図書検定]](第10号)
*[[教科用図書]]の発行及び無償措置(第11号)
*[[学校保健]]・学校安全・[[学校給食]]及び災害共済給付(第12号)
*教員養成(第13号)
*海外子女教育および帰国・[[外国人]]児童生徒教育(第14号)
*[[大学]]及び[[高等専門学校]](第15~18号)
*[[大学受験|大学入試]]・学位授与(第19号)
*奨学・厚生補導(第20号)
*外国人留学生(第21~22号)
*[[専修学校]]及び[[各種学校]](第23~24号)
*[[国立大学]](第25号)
*国立高等専門学校(第26号)
*[[宇宙航空研究開発機構]](第27号)
*[[私立学校]](第28~30号)
*私立学校教職員の共済制度(第31号)
*[[社会教育]](第32~33号)
*青少年の団体宿泊施設・訓練(第34号)
*[[通信教育]]及び[[視聴覚教育]](第35号)
*[[日本語教育]](第36号)
*[[家庭教育]](第37号)
*文教施設(第38・39号)
*学校施設及び教育用品(第40・41号)
*青少年健全育成(第42号)
*体力の保持及び増進(第43号)
*科学技術政策(第44号)
*研究開発の計画(第45号)
*学術振興(第48号)
*研究者養成(第49号)
*技術者養成(第50号)
*[[技術士]](第51号)
*研究開発の環境整備(第52~54号)
*研究開発の成果の普及・活用(第55号)
*[[発明]]・[[実用新案]](第56号)
*科学技術知識の普及(第57号)
*研究開発が経済社会に及ぼす影響の評価(第58号)
*[[基礎研究]](第59号)
*[[理化学研究所]](第62号)
*[[放射線]]利用(第63号)
*宇宙の開発及び利用(第64・65号)
*[[原子力]]に関する科学技術・研究開発(第64・68・69号)
*資源の総合的利用(第67号)
*原子力損害の賠償(第70号)
*スポーツ振興(第76~80号)
*文化振興(第81・82号)
*[[劇場]]・[[音楽堂]]・[[美術館]]等(第83号)
*展示会・講習会(第84号)
*[[国語]]の改善・普及(第85号)
*[[著作権]]の保護・利用(第86号)
*[[文化財]]の保存・利用(第87号)
*[[アイヌ文化]](第88号)
*[[宗教法人]](第89号)
*国際文化交流(第90号)
*[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]活動(第91号)
*[[文化功労者]](第92号)
*教育関係者に対する管轄分野の指導助言(第93・94号)
{{div col end}}
==組織==
文部科学省の内部組織は一般的に、法律の文部科学省設置法、政令の文部科学省組織令および省令の文部科学省組織規則が重層的に規定している。
===幹部===
*[[文部科学大臣]](法律第2条第2項)
*[[文部科学副大臣]]([[国家行政組織法]]第16条)(2名)
*[[文部科学大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(2名)
*[[大臣補佐官|文部科学大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2) (1名、必置ではない)
*[[#歴代事務次官|文部科学事務次官]](国家行政組織法第18条)
*[[文部科学審議官]](法律第5条)(2名)
*[[秘書官|文部科学大臣秘書官]]
===内部部局===
<!-- 官職は政令に規定されているもの以上を記述しています。 -->
{{div col}}
*[[文部科学省大臣官房|大臣官房]](政令第2条第1項)
**人事課(政令第16条第1項)
**総務課
**会計課
**政策課
**国際課
**文教施設企画・防災部(政令第2条第2項)
***施設企画課(政令第16条第2項)
***施設助成課
***計画課
***参事官
*[[総合教育政策局]]
**政策課(政令第25条)
**調査企画課
**教育人材政策課
**国際教育課
**生涯学習推進課
**地域学習推進課
**男女共同参画共生社会学習・安全課
*[[初等中等教育局]]
**初等中等教育企画課(政令第33条)
**財務課
**教育課程課
**児童生徒課
**幼児教育課
**特別支援教育課
**修学支援・教材課
**教科書課
**健康教育・食育課
**参事官
*[[高等教育局]]
**高等教育企画課
**大学教育・入試課
**専門教育課
**医学教育課
**学生支援課
**国立大学法人支援課
**参事官(国際担当)
**私学部(政令第2条第2項)
***私学行政課(政令第44条第2項)
***私学助成課
***参事官
*[[科学技術・学術政策局]]
**政策課(政令第54条)
**研究開発戦略課
**人材政策課
**研究環境課
**産業連携・地域支援課
**参事官
*[[研究振興局]]
**振興企画課(政令第61条)
**基礎·基盤研究課
**大学研究基盤整備課
**学術研究助成課
**ライフサイエンス課
**参事官 (2)
*[[研究開発局]]
**開発企画課(政令第70条)
**地震・防災研究課
**海洋地球課
**環境エネルギー課
**宇宙開発利用課
**原子力課
**参事官
*[[国際統括官 (文部科学省)|国際統括官]]
{{div col end}}
===審議会等===
*[[科学技術・学術審議会]](法律第6条第1項)
*[[国立大学法人評価委員会]]([[国立大学法人法]]、法律第6条第2項)
*[[中央教育審議会]](政令第75条)
*教科用図書検定調査審議会
*[[大学設置・学校法人審議会]]
*国立研究開発法人審議会
*[[原子力損害賠償紛争審査会]]([[原子力損害の賠償に関する法律]])
<!-- [[調査研究協力者会議]]は懇談会の一種、宇宙開発委員会は平成24年7月12日に廃止 -->
===施設等機関===
*[[国立教育政策研究所]](政令第80条第1項)
*[[科学技術・学術政策研究所]](政令第80条第2項)
===特別の機関===
*[[日本学士院]](法律第9条第1項)
*[[地震調査研究推進本部]]([[地震防災対策特別措置法]]、法律第9条第2項)
*[[日本ユネスコ国内委員会]]([[ユネスコ活動に関する法律]]、法律第9条第2項)
===地方支分部局===
文部科学省は他省の「○○地方~局」に相当する、全国を分割網羅する地方支分部局を持たない。かつて、地方にある大学や地方教育委員会の施設整備に関する補助金交付事務を行う「○○地方工事事務所」が国立大学の敷地内に存在したが、国立大学の法人化に伴い廃止された。補助金交付事務は本省で行えば足り、[[教育行政]]は完全な[[地方分権]]であるため必要がないというのが理由である。元科学技術庁の機関であった水戸原子力事務所が唯一の地方支分部局であったが原子力規制委員会設置法(平成24年法律第47号)により平成25年3月31日に廃止された。
===外局===
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*[[スポーツ庁]](国家行政組織法、法律第13条)
**政策課(政令第85条)
**健康スポーツ課
**地域スポーツ課
**競技スポーツ課
**参事官
**スポーツ審議会(政令第92条第1項)
*[[文化庁]](国家行政組織法、法律第13条)
** 政策課(政令第96条)
** 企画調整課(政令第97条)
** 文化経済・国際課(政令第98条)
** 国語課(政令第99条)
** 著作権課(政令第100条)
** 文化資源活用課(政令第101条)
** 文化財第一課(政令第102条)
** 文化財第二課(政令第103条)
** 宗務課(政令第104条)
** 参事官
**[[文化審議会]](法律第20条第1項)
**[[宗教法人審議会]](法律第20条第2項)
**[[日本芸術院]](法律第23条)
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==所管法人==
*文部科学省が主管する[[独立行政法人]](2023年4月1日現在、計22法人<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
**[[国立特別支援教育総合研究所]]
**[[大学入試センター]]
**[[国立青少年教育振興機構]]
**[[国立女性教育会館]]
**[[国立科学博物館]]
**[[物質・材料研究機構]]
**[[防災科学技術研究所]]
**[[量子科学技術研究開発機構]]
**[[国立美術館]]
**[[国立文化財機構]]
**[[教職員支援機構]]
**[[科学技術振興機構]]
**[[日本学術振興会]]
**[[理化学研究所]]
**[[宇宙航空研究開発機構]]
**[[日本スポーツ振興センター]]
**[[日本芸術文化振興会]]
**[[日本学生支援機構]]
**[[海洋研究開発機構]]
**[[国立高等専門学校機構]]
**[[大学改革支援・学位授与機構]]
**[[日本原子力研究開発機構]]
*[[国立大学法人]]:全国85法人
*[[大学共同利用機関法人]](計4法人)
**[[人間文化研究機構]]
**[[自然科学研究機構]]
**[[高エネルギー加速器研究機構]]
**[[情報・システム研究機構]]
*主管する[[特殊法人]](2023年4月1日現在、計2法人<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>)
**[[日本私立学校振興・共済事業団]]
**[[放送大学学園]]([[総務省]]と共管)
[[特別の法律により設立される民間法人]]<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>、[[特別の法律により設立される法人]]および[[認可法人]]は所管しない。
==財政==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における文部科学所管の歳出予算は5兆2941億3824万8千円である<ref name="予算" />。組織別の内訳では文部科学本省が5兆1498億504万6千円、文部科学本省所轄機関が44億9374万円、スポーツ庁が322億8694万2千円、文化庁が1075億5252万円となっている。本省予算のうち[[義務教育費国庫負担]]金が1兆5215億5300万円、国立大学法人運営費が1兆783億5305万4千円と大きな比重をしめる。本省所轄機関とは国立教育政策研究所、科学技術・学術政策研究所、日本学士院をさす。
文部科学省は、内閣府、経済産業省及び環境省と[[エネルギー対策特別会計]]を共管<ref group="注釈">電源開発促進勘定のみ関係する。</ref> する。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref> の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
==職員==
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、文部科学省全体で2,115人(男性1,510人、女性605人)<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。機関別内訳は本省が1,724人(男性1,232人、女性492人)、文化庁282人(男性199人、女性83人)、スポーツ庁109人(男性79人、女性30人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた文部科学省の定員は特別職1人を含めて2,162人(2023年9月30日までは、2,178人)<ref name="定員令" />。本省および各外局別の定員は省令の文部科学省定員規則により、本省1,752人(2023年9月30日までは、1,768人)、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている<ref name="定員規則">{{Egov law|413M60000080017|文部科学省定員規則(平成13年文部科学省令第17号)(最終改正:令和5年3月30日文部科学省令第13号)}}</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職2,141人の計2,148人である<ref name="予算" />。機関別内訳は特別職7人は、すべて本省であり、一般職は本省が1,546人、文部科学本省所轄機関185人、スポーツ庁110人、文化庁300人となっている。他に東日本大震災復興特別会計において本省に20人の予算定員がある<ref name="tokkai">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>。
文部科学省職員は一般職の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち、争議権と団体協約締結権は[[国家公務員法]]により認められていない。[[団結権]]は認められており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体は存在しない<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2021年3月31日現在。]}}</ref>。2005年度以降、組織率が数パーセントの状況が続き、2011年度にはついに0%となった。かつては[[日本国家公務員労働組合連合会|国公労連]]加盟の文部省職員労働組合が活動していたが、2011年3月31日をもって解散した<ref name="ohara2010">大原社会問題研究所 「主要な労働組合の現状」『日本労働年鑑. 第80集(2010年版)』 旬報社、2010年6月、p.438。2010年3月末現在。</ref>。
==広報==
文部科学省が編集する[[白書]]には「文部科学白書」及び「[[科学技術白書]]」があり、後者は[[科学技術基本法]]の規定により、政府が毎年[[国会 (日本)|国会]]に提出する「政府が科学技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」(年次報告書、同法第8条)を収録している。
文部科学省が発行または編集する[[機関誌|広報誌]]としては、本省の『文部科学広報』(月刊)、文化庁の『月刊文化財』、[[日本学士院]]の『日本学士院ニュースレター - 明六社だより』(年2回刊)、地震調査研究推進本部の『地震本部ニュース』(月刊)、などがある。『月刊文化財』の発行主体は第一法規株式会社で、文化庁は監修に携わっている。かつては、[[ぎょうせい]]発行の『文部科学時報』(月刊)があったが、2012年3月10日号をもって終刊となった。文化庁の『文化庁月報』(月刊)も2014年3月号をもって終刊となり、不定期のウェブ広報誌『ぶんかる』として発刊している。
ウェブサーバー名は「<code>www.mext.go.jp</code>」。他に文化庁は「<code>www.bunka.go.jp</code>」、日本学士院は「<code>www.japan-acad.go.jp</code>」、地震調査研究推進本部は「<code>www.jishin.go.jp</code>」、国立教育政策研究所は「<code>www.nier.go.jp</code>」、科学技術・学術政策研究所は「<code>www.nistep.go.jp</code>」等と一部の機関は独自のドメイン名を持つ。
==関連紛争や諸問題==
===教育全般に関わる問題===
* [[同和教育]] - [[人権教育]]
===外国との関係===
* [[歴史教科書問題]]
===民間との関係===
====天下り問題====
2017年に発覚した組織的な天下りのあっせん([[文部科学省天下り問題]])への対策として、2019年4月から[[国立大学法人]]へ理事として出向する文科省幹部を半減させる事になった。文科省は運営費[[交付金]]を出すなど、大学に対して大きな権限を持つ。[[加計学園問題]]で注目された[[前川喜平]]は次官として[[天下り]]あっせんで処分されており、加計学園理事であった[[木曽功]]も元国際統括官である<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190215/k00/00m/040/094000c 文科省幹部の国立大理事としての出向を半減へ 天下りあっせんが問題化] [[毎日新聞]] 2019年2月15日</ref>。
====アートプラットフォーム関係者の抗議、辞任====
[[あいちトリエンナーレ2019]]に対する[[補助金]]不交付問題にからんで、2019年10月1日に[[文化庁]]が取り組む「アートプラットフォーム事業」のメンバーから撤回を求める声明文が出され、副座長が辞表を提出した<ref>[https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20652 「文化庁アートプラットフォーム事業」メンバーからも撤回求める声。文化庁の補助金不交付決定で] [[美術手帖]] 2019年10月1日</ref>。
===不祥事や疑惑など===
* 1989年 - [[リクルート事件]]。[[高石邦男]]元文部次官が収賄容疑で逮捕された。
* 2008年 - [[文部科学省施設整備汚職事件]]。企画部長が収賄で逮捕。
*2017年 - [[文部科学省天下り問題]]。組織的な[[天下り]]斡旋事件が発覚し、62件の[[国家公務員法]]違反が確認されたとして、2017年3月30日付で歴代事務次官8人のOBを含む幹部37人に停職や減給等の処分を実施している<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO14735960R30C17A3CC1000/|title=文科省天下りで37人処分 最終報告、違法事案62件に|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2017-03-31|accessdate=2017-06-15 }}</ref>。
* 2018年 - [[文部科学省汚職事件]]。科学技術・学術政策局長、国際統括官が相次いで収賄で逮捕。
* 2019年5月 - [[初等中等教育局]]の男性参事官補佐(44歳)が[[覚醒剤取締法|覚せい剤取締法]]違反(所持)、[[大麻取締法]]違反(所持)容疑で[[関東信越厚生局]][[麻薬取締部]]に逮捕される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/20513|title=文科省キャリア逮捕 覚醒剤と大麻所持疑い|accessdate=2020年8月15日|publisher=[[東京新聞]] 2019年5月29日 02時00分}}</ref>。「[[霞ヶ関]]」の[[薬物]]事件は、2018年年末の[[外務省]]([[外務省#関連紛争や諸問題]]参照)、2019年5月の[[経済産業省]]([[経済産業省#不祥事など]]参照)に続く3例目であった。
*令和元年度の教科書検定について産経新聞及び関連のサイトは下記の主張をしている<ref name="sankei">「教科書の従軍慰安婦削除を」『産経新聞』2021年1月21日</ref>。
**[[山川出版]]の中学校用教科書に「[[従軍慰安婦]]」が復活。本文で「(外国人が)徴用され、鉱山や工場などで過酷な条件の下での労働を強いられた」と記述し、注記で「戦地に設けられた『慰安施設』には、朝鮮・中国・フィリピンなどから女性が集められた(いわゆる従軍慰安婦)」と補足する。要するに、過酷な条件で労働を強いられた一つに集められた従軍慰安婦があった、と読める。従軍慰安婦は戦後30年の造語である。約半数を占めていた日本が抜けている。「閣議決定等政府の統一的な見解又は最高裁の判例に基づいた記述がされていること」の検定基準に違反している。平成19年の閣議決定「強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」、平成28年国会答弁「性奴隷の事実はない」、最高裁判決の、朝日新聞記者による”慰安婦強制連行記事”は捏造とするのが相当である、との令和2年(2020年)判決、それぞれに反している。河野談話は、より上位の閣議決定等で上書きされている。上記諸点で不適切な記述の教科書を、文科省は合格にしている<ref name="sankei"/>また、外国人徴用工と日本人徴用工の待遇が同じだったこともわかっている。台湾出身で三菱重工長崎造船所で働いた徴用工・鄭新発には、給与以外に団体出勤賞や賞与金、生産増進慰労金まで支払われている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=hqpVLyWNYsc NHKは私の真意を歪めた] 「給与 + ボーナス 30分辺り」チャンネル正論 2020年10月29日</ref>。
*2020年3月10日の[[参議院]][[文教科学委員会]]で[[松沢成文]][[参議院議員|参議員]]が教科書検定一発不合格問題を質した。「以前の教科書認定で用いられた記述と同じ記述が、今回はどういう理由か分からないけれども否定されている。これも複数箇所あるんですよね。これは、教科書認定制度を実行している文科省としては、これが発覚したらやっぱりおかしいですよね。そういうこともあり得るんですか。以前はこれはオーケーだった、全く同じ文章なのに今回は駄目だ。そりゃ歴史がすごく変わったり状況が変わったりしたら別ですよ。だって、昔の出来事のことを同じ表現でしていて、今回は駄目だ。これは、教科書認定制度としてこういうことをやるのは不正じゃないですか、欠陥じゃないですか。どうですか。」これに対して文部科学省(大臣官房総括審議官 串田 俊巳)は、「検定の一般論といたしまして、以前の検定で合格した教科書の記述とたとえ同じ表現であったといたしましても、学習指導要領の改訂あるいは学説状況の変化といったものがあった場合、記述の文脈が変わった場合などについては、いわゆる欠陥箇所として指摘するということは十分あり得ることでございます。また、教科書検定につきましては、学習指導要領あるいは教科用図書検定基準などの規則に基づきまして、教科用図書検定調査審議会の学術的、専門的な審議により執り行われているものでございまして、審議は申請者の名前を明かさずに行っていることからいたしましても、全く同じ記述について特定の教科書についてのみ欠陥を指摘するといったことは考えにくいものと認識しております。」と答弁した。さらに松沢議員は「今回のつくる会のこの記者発表を見ていても、報道を見ていても、どう見ても今回のやり方は異常ですよ。四百五件と、があっと増やしているんです。これどうして増やしたかというと、一発で不合格にしたいからと思われても仕方がないでしょう。実はこれが三百五十以下ぐらいの欠陥箇所だと反論権が与えられて、そこから交渉が始まって、また教科書、よし、ここの、この辺りを直したならばいいでしょうといって教科書として検定が合格できる可能性もあるのに、それをさせない分量までがあっと積み上げているんですよね。」「過去通っているのが今回は駄目だ、ほかの教科書でオーケーなのがこの教科書だけは駄目だ、こんな不公平な検定をやるような文科省の検定制度を我々国民は検定しなきゃいけないんですよ。おかしいでしょう。」と発言した<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=120115104X00220200310¤t=1 第201回国会 参議院 文教科学委員会 第2号 令和2年3月10日]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Q2v5-k7Y5NI こんなやり方有りますか、ひどいもんです] 「極めて不正と思われる手段で潰しにかかる文科省」松沢しげふみ!チャンネル 2020年03月11日</ref>
* 2020年 - 週刊アサヒ芸能、産経新聞は下記の記事を掲載した。
**「[[北朝鮮工作員|北朝鮮スパイ]]リスト」を[[韓国]]警察が押収。中身は一般人に身分を偽装した[[スパイ|工作員]]のリストで、[[慰安婦問題]]など負の歴史を通じ[[反日思想]]を刷り込む工作などに関わっていた。リストに名前が載るNは文部科学省の[[:Category:教科書調査官|教科書調査官]]で、令和3年度(2021年)から使われる中学歴史教科書の検定に、主任として関わっていたことが分かった<ref>「北朝鮮スパイリストに文科省調査官」 [[週刊アサヒ芸能]] 2020年7月30日号</ref>。[[産経新聞]]によると、Nが「[[従軍慰安婦]]」記述を復活させ、[[左翼]]が忌み嫌う「[[新しい歴史教科書をつくる会]]」の[[教科用図書検定|教科書を検定]]不合格にした張本人だという。韓国での講師経験しかない、[[毛沢東思想|毛沢東礼賛]]本しか書いていないNが、なぜ「教授、准教授の経歴またはそれに準じる高度に専門的な学識」を有する者と認められ、調査官に任命されたのか。しかも学位を法学で取得したNに地理歴史科の調査官を任せるなど、"文科省の闇" が指摘されている<ref>「教科書調査官と北朝鮮の闇」 [[産経新聞]] 2020年7月28日</ref>。
* 2021年 - 当時文部科学副大臣だった[[亀岡偉民]]と官房長だった[[藤原誠]]が、国から補助金を受けている[[学校法人]]から繰り返し接待を受けていたと、[[しんぶん赤旗]]が報じた<ref>{{Cite news|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2021-03-22/2021032201_01_1.html|title=本紙スクープ/文科省接待の記録/亀岡副大臣(当時)・次官らを複数回/豊栄学園 補助金2400万円|publisher=[[しんぶん赤旗]]|date=2021-03-22|accessdate=2021-05-04 }}</ref>。文部科学大臣の[[萩生田光一]]は、しんぶん赤旗の報道翌日の会見で、補助金を受けている学校法人との会合に藤原氏が同席したことを認めた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/affairs/news/210323/afr2103230012-n1.html|title=学校法人の副大臣接待報道、事務次官同席認める 萩生田文科相|publisher=[[産経新聞]]|date=2021-03-23|accessdate=2021-05-04 }}</ref>。
* 2022年8月 - [[全日本私立幼稚園連合会]]をめぐる業務上横領事件に関連し、供応接待を受けるなど国家公務員法や倫理規程違反があったとして、[[矢野和彦]]官房長ら6人を減給とする懲戒処分を発表した<ref>{{Cite news|url= https://www.jiji.com/sp/article?k=2022082600451&g=soc|title=官房長ら6人を懲戒処分 幼稚園連合事件めぐり接待など―文科省|newspaper=時事ドットコム|date=2022-08-26|accessdate=2022-09-04}}</ref>。
===その他===
*[[文化庁]]については「[[文化庁#関連紛争や諸問題]]」を参照。
==歴代事務次官==
{| class="wikitable" style="width:125%" style="font-size:80%"
|-
! 代
! 氏名
! 出身
! 前職
! 在任期間
! 最終学歴
! 退任後の役職
|-ぬ
|{{0}}1
|[[小野元之]]
|文部省
|文部省大臣官房長
|2001年(平成13年){{0}}1月06日-<br>2003年(平成15年){{0}}1月10日
|[[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都大学法学部]]卒
|[[日本学術振興会]]理事長<br>[[学校法人城西大学]]理事長代理<br>[[教育再生会議]]委員
|-
|{{0}}2
|御手洗康
|文部省
|文部科学審議官
|2003年(平成15年){{0}}1月10日-<br>2005年(平成17年){{0}}1月11日
|[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]卒
|[[放送大学学園]]理事長<br>[[学校法人共立女子学園]]理事長
|-
|{{0}}3
|[[結城章夫]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2005年(平成17年){{0}}1月11日-<br>2007年(平成19年){{0}}7月{{0}}6日
|[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]]卒
|[[山形大学]]学長<br>[[学校法人富澤学園]]副理事長
|-
|{{0}}4
|[[銭谷真美|銭谷眞美]]
|文部省
|初等中等教育局長
|2007年(平成19年){{0}}7月{{0}}6日-<br>2009年(平成21年){{0}}7月14日
|[[東北大学教育学部]]卒
|[[東京国立博物館]]館長<br>[[日本博物館協会]]会長<br>[[ベルマーク教育助成財団]]理事長
|-
|{{0}}5
|[[坂田東一]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2009年(平成21年){{0}}7月14日-<br>2010年(平成22年){{0}}7月30日
|[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学大学院工学系研究科]]修士課程修了
|[[ウクライナ]]特命全権大使<br>一般社団法人[[日本原子力産業協会]]特任フェロー
|-
|{{0}}6
|[[清水潔 (文部官僚)|清水潔]]
|文部省
|文部科学審議官
|2010年(平成22年){{0}}7月30日-<br>2012年(平成24年){{0}}1月{{0}}6日
|東京大学法学部卒
|[[明治大学]]研究・知財戦略機構特任教授<br>[[早稲田大学]][[教職大学院|大学院教職研究科]]客員教授<br>[[京都工芸繊維大学]]顧問<br>[[弁護士#日本の弁護士|弁護士]](みのり総合法律事務所)
|-
|{{0}}7
|[[森口泰孝]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2012年(平成24年){{0}}1月{{0}}6日-<br>2013年(平成25年){{0}}7月{{0}}8日
|東大大学院工学系研究科修了
|[[東京理科大学]]特命教授を経て副学長<br>科学技術広報財団理事長<br>日本工学教育協会会長
|-
|-
|{{0}}8
|[[山中伸一]]
|文部省
|文部科学審議官
|2013年(平成25年){{0}}7月{{0}}8日- <br>2015年(平成27年){{0}}8月{{0}}4日
|東京大学法学部卒
|[[ブルガリア]]特命全権大使<br>[[学校法人角川ドワンゴ学園]]理事長
|-
|{{0}}9
|[[土屋定之]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2015年(平成27年){{0}}8月{{0}}4日- <br>2016年(平成28年){{0}}6月17日
|[[北海道大学]]大学院環境科学研究科修了
|[[ペルー]]特命全権大使<br>[[広島県]]公立大学法人理事長<br>[[広島大学]]学長参与、[[北里大学]]参与、[[国立サンマルコス大学]]名誉博士
|-
|10
|[[前川喜平]]
|文部省
|文部科学審議官
|2016年(平成28年){{0}}6月17日- <br>2017年(平成29年){{0}}1月20日
|東京大学法学部卒
|[[日本大学]]非常勤講師
|-
|11
|[[戸谷一夫]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2017年(平成29年){{0}}1月20日- <br>
|[[東北大学大学院工学研究科・工学部|東北大学工学部]]卒
|材料科学技術振興財団理事長<br>[[玉川大学]]教授<br>[[半導体エネルギー研究所]]取締役<br>[[高砂熱学工業]]顧問
|-
|colspan=4|藤原誠文部科学省大臣官房長による事務代理<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35610690R20C18A9CC0000/ 官房長が次官事務代理に文科省 2018/9/21 11:39(日経新聞)]</ref>。
|2018年(平成30年){{0}}9月21日- <br>2018年(平成30年)10月16日
|東京大学法学部卒
|
|-
|12
|[[藤原誠 (文部官僚)|藤原誠]]
|文部省
|大臣官房長
|2018年(平成30年)10月16日-
2021年(令和3年)9月21日
|東京大学法学部卒
|東京国立博物館館長
|-
|13
|[[義本博司]]
|文部省
|総合教育政策局長
|2021年(令和3年)9月21日-
2022年(令和4年)9月1日
|京都大学法学部卒
|
|-
|14
|[[柳孝]]
|科学技術庁
|文部科学審議官
|2022年(令和4年)9月1日-
2023年(令和5年)8月8日
|[[立命館大学法学部]]卒
|
|-
|15
|[[藤原章夫]]
|文部省
|初等中等教育局長
|2023年(令和5年)8月8日-
|東京大学法学部卒
|
|}
==文部科学省出身の著名人==
前身の文部省・科学技術庁出身者を含む。
*[[木場貞長]] - 元文部次官、元[[行政裁判所 (日本)|行政裁判所]]評定官、元図書編纂審査会委員長、貴族院議員、正三位、勲一等、[[錦鶏間祗候]]
*[[濱尾新]] - [[東京藝術大学|東京美術学校]]初代校長、元文部省[[専門学務局]]長、[[東京大学|東京帝大]]第三代・第八代総長
*[[菊池大麓]] - 元文部次官、東京帝大第五代総長、[[学習院]]院長、[[京都大学|京都帝大]]第三代総長、元[[文部大臣]]、[[理化学研究所|理研]]初代所長
*[[岡田良平]] - 元文部次官、京都帝大第二代総長、元文部大臣
*[[澤柳政太郎]] - 元文部次官、[[東北大学|東北帝大]]初代総長、京都帝大第五代総長、[[大正大学]]初代学長、[[学校法人成城学園|成城学園]]創立者
*[[上田萬年]] - 東京帝大国語研究室初代主任教授、元文部省専門学務局長、[[臨時仮名遣調査委員会]]委員
*[[南弘]] - 元文部次官、元[[内閣書記官長]]、元[[台湾総督]]、元[[逓信大臣]]、元[[国語審議会]]会長
*[[内藤誉三郎]] - 元文部事務次官、元文部大臣 / [[放送大学]]創設に関わった
*[[天城勲]] - 元文部事務次官 / のちの[[大学審議会]]設置に連なった
*[[木田宏]] - 元文部事務次官、元[[臨時教育審議会]]第一部会委員
*[[遠山敦子]] - 元[[文化庁長官]]、元[[文部科学大臣]] / 女性文部官僚の草分け。1962年組では[[坂本春生]](通産省)がいる。
*[[高石邦男]] - 元文部事務次官
*[[寺脇研]] - 元文科省大臣官房広報調整官、[[コメンテーター]] / [[ゆとり教育]]推進者のひとり
*[[井上啓次郎]] - 元科学技術事務次官、元[[技術院]]参技官 / [[むつ (原子力船)|原子力船むつ]]の基本設計に関わる
*[[伊原義徳]] - 元科学技術事務次官、元[[経済産業省|通産]][[技官]]官僚
*[[生田豊朗]] - 元[[科学技術庁]]原子力局長、[[日本原子力産業協会|原産会議]]常任理事、元通産官僚
*[[尾身幸次]] - 元科学技術庁総務課長、元[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]。元通産官僚 / [[科学技術基本法]]策定に関わる
<!--*[[筑紫磐井]] - 元科学技術政策研究所長、俳人-->
== 幹部 ==
一般職の幹部は以下の通りである<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki2/kanbumeibo.htm 職員名簿(文部科学省)(令和5年7月4日現在)] 文部科学省</ref>。
{{div col}}
* [[事務次官]]:[[藤原章夫]]
* 文部科学審議官(文教):[[藤江陽子]]
* 文部科学審議官(科学技術):[[増子宏]]
* 大臣官房長:井上諭一
* 総括審議官:井上諭一
* サイバーセキュリティ・政策立案総括審議官:[[長野裕子]]
* 大臣官房文教施設企画・防災部長:笠原隆
* 総合教育政策局長:望月禎
* 社会教育振興総括官:里見朋香
* 初等中等教育局長:矢野和彦
* 教育課程総括官:滝波泰
* 高等教育局長:池田貴城
* 高等教育局私学部長:茂里毅
* 科学技術・学術政策局長:柿田恭良
* 科学技術・学術総括官:山下恭徳
* 研究振興局長:塩見みづ枝
* 研究開発局長:千原由幸
* もんじゅ・ふげん廃止措置対策監:二村英介
* 国際統括官: 渡辺正実
* [[スポーツ庁長官]]:[[室伏広治]]
* [[文化庁長官]]:[[都倉俊一]]{{div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
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===出典===
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== 関連項目 ==
*[[教育委員会]]
*[[大学国際戦略本部強化事業]]
*[[国際化拠点整備事業]]
*[[先端融合領域イノベーション創出拠点形成プログラム]]
*[[世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラム]]
*[[日本の行政機関]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|name=文部科学省ホームページ}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:文部科学省|*]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:1932年竣工の日本の建築物]]
[[Category:西洋館]]
[[Category:日本のアール・デコ建築]]
[[Category:2001年設立の政府機関]]
[[Category:19世紀の日本の設立]] | 2003-03-04T23:58:05Z | 2023-12-14T11:18:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%83%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9C%81 |
3,416 | 厚生労働省 | 厚生労働省(こうせいろうどうしょう、英: Ministry of Health, Labour and Welfare、略称: MHLW)は、日本の行政機関のひとつ。健康、医療、福祉、介護、雇用、労働、および年金に関する行政ならびに復員、戦没者遺族等の援護、旧陸軍、海軍の残務整理を所管する。日本語略称・通称は、厚労省(こうろうしょう)。
2001年(平成13年)1月の中央省庁再編により、厚生省と労働省を統合して誕生した。予算規模は中央省庁の中で最大である。
厚生労働省設置法第4条は計118項目の所掌する事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
内部組織は一般的に、法律の厚生労働省設置法、政令の厚生労働省組織令及び省令の厚生労働省組織規則が階層的に規定している。
当省の施設等機関は以下の7区分がある。国立児童自立支援施設(現在はこども家庭庁に移管)および国立障害者リハビリテーションセンターは慣例上、「国立更生援護機関」と総称される。
厚生労働省検疫所は以下の13検疫所の下に14支所と80出張所が置かれている。FORTH(厚生労働省検疫所)も参照。
地方支分部局は地方厚生局と都道府県労働局の2区分がある。都道府県労働局は47各都道府県に1つ設置されている。
太字は人事ブロック基幹局(北海道・宮城・埼玉・東京・新潟・愛知・大阪・広島・香川・福岡)
各都道府県知事、市区町村の区役所管轄である(参考)
各都道府県知事、市区町村の区役所や保健所等において地域の医療サービスを連携させるのが目的の部署。名称は必ずしも「地域連携室」ではなく、厚生労働省の機関ではない。
主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、以下に示す通り、中期目標管理法人10、国立研究開発法人7の計17法人である。また、国土交通省主管の水資源機構は、水路事業部を厚生労働省、農林水産省、経済産業省とともに共管している(健康局水道課)。行政執行法人は所管しない。
国立病院機構は、以前は役職員が国家公務員である「特定独立行政法人(現・行政執行法人)」であったが、独立行政法人通則法の改正法(平成26年6月13日法律第66号)施行に伴い、2015年(平成27年)4月1日から中期目標管理法人となり、役職員は国家公務員ではなくなった。
主管する特殊法人は2023年(令和5年)4月1日現在、日本年金機構(年金局)のみである>。旧社会保険庁の後身にあたる。
特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)には2023年(令和5年)4月1日現在、以下の10法人である。以前は労働基準局所管の鉱業労働災害防止協会(略称:鉱災防)があったが、2014年(平成26年)3月31日に解散した。
特別の法律により設立される法人には健康保険組合連合会(保険局)、全国健康保険協会(保険局)、国民年金基金連合会(年金局)及び船員災害防止協会(労働基準局)の4法人がある。船員災害防止協会は国土交通省との共管である。任意団体には総合型健康保険組合の連合体である総合健康保険組合協議会がある。
他、社会福祉協議会 、日本赤十字社 、日本社会事業大学 は厚生労働省管轄の公設民営機関とされている。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における厚生労働省所管の歳出予算は33兆1686億2352億7千円である。歳出予算全体の(114兆3812億3556万9千円)のおよそ3割を占め、国の行政機関(13府省2庁2院)の中で最大である。
機関別の内訳は以下のとおりである。
主管する一般会計の歳入予算は9515億7159万4千円であり、その大部分は弁償及返納金7396億677万7千円である。
厚生労働省は労働保険特別会計を所管し、内閣府と年金特別会計を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
労働保険特別会計は、労災勘定、雇用勘定及び徴収勘定に、年金特別会計は基礎年金勘定、国民年金勘定、厚生年金勘定、健康勘定、子ども・子育て支援勘定及び業務勘定に区分して経理されている。
一般職の在職者数は、2022年7月1日現在で32,219人(男性21,344人、女性10,875人)である。内訳は、本省が32,129人(男性21,278人、女性10,851人)、中央労働委員会は90人(男性66人、女性24人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた定員は、特別職1人を含めて 33,517人である。本省および各外局別の定員は省令の厚生労働省定員規則に定められており、本省33,418人、中央労働委員会99人(事務局職員)と規定している。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職が21人、一般職が23,835人の計23,856人である。これとは別に特別会計の予算定員として労働保険特別会計に9,312人(厚生労働本省 - 223人、都道府県労働局 - 9,089人)、年金特別会計業務勘定に369人(厚生労働本省 - 173人、地方厚生局 - 196人)が措置されている。一般会計予算定員の機関別内訳は以下の通りである。
職員の競争試験による採用は、国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、労働基準監督官採用試験及び食品衛生監視員採用試験の合格者の中から行われる。
一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は連合体7、単一体6、支部52となっている。組合員数は16,776人、組織率は59.7%となっている。この組織率は13府省庁2院の中では農林水産省(66.6%)の次に大きい。全厚生職員労働組合(全厚生)、全日本国立医療労働組合(全医労)、全労働省労働組合(全労働)、東京職業安定行政職員労働組合(東京職安労組)、大阪労働局職業安定行政職員労働組合、沖縄非現業国家公務員労働組合労働支部、および中央労働委員会事務局労働組合(中労委労組)などが現存する。全厚生と全医労は「厚生省労働組合共闘会議」を形成している。また以上2労組と全労働は国公労連(全労連傘下)に加盟している。中労委労組は中立系である。
中央官庁で勤務する官僚は、国会対応に追われ、連日の泊まり込みや、過労死ラインを超える月150時間ほどの残業が常態化している。中でも年金・保険・労働政策を所管する職員は、他省庁よりも残業時間が長く「強制労働省」や「拘牢省」などと揶揄されているが、一般職(事務職)の国家公務員に対して労働基準法や労働安全衛生法は拘束力がなく、厚労省の出先機関である労働基準監督署による立ち入り調査もない。近年では、長時間労働を抑制する働き方改革に乗り出している。
東京大学医科学研究所公共政策研究分野教授の武藤香織によれば、新型コロナウイルス感染症の流行において、日本国政府の情報発信が遅れた理由として、厚労省のマンパワーが常態的に不足するなか、各種の対応で職員の仕事量が許容量を超え、情報発信に手が回らなかったことが原因としている。
過酷な業務に耐えかねた若手や中堅のキャリア官僚が退職し人手不足が深刻化したことから、2022年には総合職の課長補佐級を中途採用すると発表した。
一般職の幹部は以下のとおりである。
厚生労働省が執筆・編集する白書など年次報告書には、「厚生労働白書」、「労働経済白書」、「海外情勢報告」、「働く女性の実情」、「母子家庭の母の就業の支援に関する年次報告」、「ものづくり基盤技術の振興施策」(ものづくり白書)がある。ものづくり白書はものづくり基盤技術振興基本法8条にもとづき、国会に報告する「ものづくり基盤技術の振興施策」を収録した法定白書であり、経済産業省・文部科学省とともに執筆している。広報誌には月刊の『厚生労働』がある。2009年度(平成21年度)までは厚生労働問題研究会が発行主体であったが、2009年(平成21年)3月31日をもって解散したため、2009年(平成21年)4月号からは中央法規出版が編集・発行元となった。さらに、2012年(平成24年)4月号からは、日本医療企画が編集・発行元となった。
前身の厚生省・労働省、両省の出身者を含む。 | [
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"text": "一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は認められており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は連合体7、単一体6、支部52となっている。組合員数は16,776人、組織率は59.7%となっている。この組織率は13府省庁2院の中では農林水産省(66.6%)の次に大きい。全厚生職員労働組合(全厚生)、全日本国立医療労働組合(全医労)、全労働省労働組合(全労働)、東京職業安定行政職員労働組合(東京職安労組)、大阪労働局職業安定行政職員労働組合、沖縄非現業国家公務員労働組合労働支部、および中央労働委員会事務局労働組合(中労委労組)などが現存する。全厚生と全医労は「厚生省労働組合共闘会議」を形成している。また以上2労組と全労働は国公労連(全労連傘下)に加盟している。中労委労組は中立系である。",
"title": "職員"
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{
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"text": "中央官庁で勤務する官僚は、国会対応に追われ、連日の泊まり込みや、過労死ラインを超える月150時間ほどの残業が常態化している。中でも年金・保険・労働政策を所管する職員は、他省庁よりも残業時間が長く「強制労働省」や「拘牢省」などと揶揄されているが、一般職(事務職)の国家公務員に対して労働基準法や労働安全衛生法は拘束力がなく、厚労省の出先機関である労働基準監督署による立ち入り調査もない。近年では、長時間労働を抑制する働き方改革に乗り出している。",
"title": "職員"
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"text": "東京大学医科学研究所公共政策研究分野教授の武藤香織によれば、新型コロナウイルス感染症の流行において、日本国政府の情報発信が遅れた理由として、厚労省のマンパワーが常態的に不足するなか、各種の対応で職員の仕事量が許容量を超え、情報発信に手が回らなかったことが原因としている。",
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"text": "過酷な業務に耐えかねた若手や中堅のキャリア官僚が退職し人手不足が深刻化したことから、2022年には総合職の課長補佐級を中途採用すると発表した。",
"title": "職員"
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"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部職員"
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"text": "厚生労働省が執筆・編集する白書など年次報告書には、「厚生労働白書」、「労働経済白書」、「海外情勢報告」、「働く女性の実情」、「母子家庭の母の就業の支援に関する年次報告」、「ものづくり基盤技術の振興施策」(ものづくり白書)がある。ものづくり白書はものづくり基盤技術振興基本法8条にもとづき、国会に報告する「ものづくり基盤技術の振興施策」を収録した法定白書であり、経済産業省・文部科学省とともに執筆している。広報誌には月刊の『厚生労働』がある。2009年度(平成21年度)までは厚生労働問題研究会が発行主体であったが、2009年(平成21年)3月31日をもって解散したため、2009年(平成21年)4月号からは中央法規出版が編集・発行元となった。さらに、2012年(平成24年)4月号からは、日本医療企画が編集・発行元となった。",
"title": "刊行物"
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{
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"tag": "p",
"text": "前身の厚生省・労働省、両省の出身者を含む。",
"title": "著名な出身者"
}
] | 厚生労働省は、日本の行政機関のひとつ。健康、医療、福祉、介護、雇用、労働、および年金に関する行政ならびに復員、戦没者遺族等の援護、旧陸軍、海軍の残務整理を所管する。日本語略称・通称は、厚労省(こうろうしょう)。 2001年(平成13年)1月の中央省庁再編により、厚生省と労働省を統合して誕生した。予算規模は中央省庁の中で最大である。 | {{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = {{big|{{ruby-ja|厚生労働省|こうせいろうどうしょう}}}}
|公用語名 =
|英名 = Ministry of Health, Labour and Welfare
|紋章 = Mhlw textlogo.svg
|紋章サイズ = 230px
|画像 = GovernmentOfficeComplexNo5.jpg
|画像サイズ = 220px
|画像説明 = 厚生労働省本省庁舎([[中央合同庁舎第5号館]])
|主席閣僚職名 = [[厚生労働大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[武見敬三]]
|次席閣僚職名 = [[厚生労働副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[濱地雅一]]<br/>[[宮崎政久]]
|補佐官職名 = [[厚生労働大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[塩崎彰久]]<br/>[[三浦靖]]
|次官職名 = [[厚生労働事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[大島一博]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構]}} 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[厚生労働省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[医政局]]<br/>[[健康局|健康・生活衛生局]]<br/>[[医薬・生活衛生局|医薬局]]<br/>[[労働基準局]]<br/>[[職業安定局]]<br/>[[雇用環境・均等局]]<br/>[[社会・援護局]]<br/>[[老健局]]<br/>[[保険局]]<br/>[[年金局]]<br/>政策統括官<br/>[[人材開発統括官]]
|下部組織2 = [[審議会|審議会等]]
|下部組織概要2 = [[社会保障審議会]]<br/>厚生科学審議会<br/>[[労働政策審議会]]<br/>[[医道審議会]]<br/>薬事・食品衛生審議会<br/>がん対策推進協議会<br/>肝炎対策推進協議会<br/>中央最低賃金審議会<br/>[[労働保険審査会]]<br/>[[中央社会保険医療協議会]]<br/>[[社会保険審査会]]<br/>疾病・障害認定審査会<br/>援護審査会<br/>国立研究開発法人審議会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[検疫所]]<br/>[[国立ハンセン病療養所]]<br/>[[国立医薬品食品衛生研究所]]<br/>[[国立保健医療科学院]]<br/>[[国立社会保障・人口問題研究所]]<br/>[[国立感染症研究所]]<br/>[[国立障害者リハビリテーションセンター]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = [[自殺総合対策会議]]<br/>[[死因究明等推進本部]]<br/>中央駐留軍関係離職者等対策協議会
|下部組織5 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要5 = [[地方厚生局]]<br/>[[都道府県労働局]]
|下部組織6 = [[外局]]
|下部組織概要6 = [[中央労働委員会]]
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8916<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1-2-2
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 40 | 緯度秒 = 22.8 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 45 | 経度秒 = 10.8 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|定員 = 33,517人<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 33兆1686億2352万7千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[厚生労働省設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[厚生省]]<br/>[[労働省]]
|ウェブサイト = {{official website|name=厚生労働省}}
|その他 =
}}
'''厚生労働省'''(こうせいろうどうしょう、{{lang-en-short|Ministry of Health, Labour and Welfare}}、略称: '''MHLW''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/厚生労働省/ 厚生労働省の意味] goo辞書 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[日本の健康|健康]]、[[日本の医療|医療]]、[[日本の福祉|福祉]]、[[介護]]、[[雇用]]、[[労働]]、および[[日本の年金|年金]]に関する[[行政]]<ref>{{Cite web|和書|title=分野別の政策一覧 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/index.html |website=www.mhlw.go.jp |access-date=2023-06-10 |language=ja}}</ref>ならびに[[復員]]、[[戦没者]][[遺族]]等の援護、旧[[大日本帝国陸軍|陸軍]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]の残務整理を所管する<ref group="注釈">「国民生活の保障及び向上を図り、並びに[[経済]]の発展に寄与するため、[[社会福祉]]、[[社会保障]]及び[[公衆衛生]]の向上及び増進並びに[[労働条件]]その他の[[労働者]]の働く環境の整備及び職業の確保を図ること」([[厚生労働省設置法]]第3条第1項)、「引揚援護、戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族等の援護及び旧陸海軍の残務の整理を行うこと」(同法第3条第2項)</ref>。[[日本語]]略称・通称は、'''厚労省'''(こうろうしょう)。
[[2001年]]([[平成]]13年)1月の[[中央省庁再編]]により、[[厚生省]]と[[労働省]]を統合して誕生した。予算規模は中央省庁の中で最大である。
{{TOC limit|3}}
== 沿革 ==
* [[内務省 (日本)|内務省]]の[[社会局]]・[[衛生局]]が前身。
* [[1938年]]([[昭和]]13年)[[1月11日]] - 厚生省官制(昭和13年勅令第7号)により厚生省を設置。
* [[1946年]](昭和21年)[[3月1日]] - 労働組合法(昭和20年法律第51号)により中央労働委員会を設置。
* [[1947年]](昭和22年)[[9月1日]] - 労働省設置法(昭和22年法律第97号)により労働省を設置。
* [[1948年]](昭和23年)[[5月31日]] - 引揚援護庁設置令(昭和23年政令第124号)により、厚生省の外局として引揚援護庁を設置。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]] - 厚生省設置法(昭和24年法律第151号)施行、厚生省官制を廃止。
* [[1954年]](昭和29年)[[4月1日]] - 厚生省設置法改正により、引揚援護庁を廃止。
* [[1962年]](昭和37年)[[7月1日]] - 厚生省設置法改正により、厚生省の外局として[[社会保険庁]]を設置。
* [[2001年]](平成13年)[[1月6日]] - 厚生労働省設置法(平成11年法律第97号)により設置、厚生省および労働省を廃止。
* [[2010年]](平成22年)[[1月1日]] - [[社会保険庁]]を廃止。
* [[2015年]](平成27年)[[10月1日]] - 内部部局である健康局の生活衛生課と水道課を、医薬食品局に移管するとともに医薬食品局を「医薬・生活衛生局」に改称した。
* [[2016年]](平成28年)[[4月1日]] - 内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律(平成27年9月11日法律第66号)による[[自殺対策基本法]]の改正により、自殺対策の総合調整を行う[[特別の機関]]の[[自殺総合対策会議]]が、[[内閣府]]から厚生労働省に移管された。
* [[2017年]](平成29年)7月 - [[雇用均等・児童家庭局]]は廃止、[[雇用環境・均等局]]と[[子ども家庭局]]に分割。[[職業能力開発局]]は廃止、[[人材開発統括官]]に変更。[[医務技監]]{{efn|次官級ポストと報道された<ref>{{Cite web|和書|title=省庁の幹部人事決定 厚生次官に蒲原氏|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDF04H06_U7A700C1EAF000/|website=[[日本経済新聞]]|date=2017-07-04|accessdate=2019-06-18|language=ja|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190618092530/https://r.nikkei.com/article/DGXLASDF04H06_U7A700C1EAF000?s=0|archivedate=2019-6-18}}</ref>。事務次官が指定職俸給法8号俸、厚生労働審議官が指定職俸給表7号俸であるのに対し、医務技監は、指定職俸給表6号俸であり当省の局長が指定職俸給表5号俸(一部指定職俸給表4号俸)よりは上位であるが、基本的に外局長官級(ほとんどが指定職俸給表6号俸)<ref>{{Cite web|和書|title= 指定職俸給表の適用を受ける職員の号俸の定め並びに職務の級の定数の設定及び改定に関する意見(令和2年度)|url=https://www.jinji.go.jp/gaisannkyuubetu/2teisuuhyou.pdf|website=[[人事院]]|date=|accessdate=2021-04-16|language=ja|format=PDF}}</ref>であったが、令和3年度においては、厚生労働審議官と同じ指定職俸給表7号俸になった<ref>{{Cite web|和書|title= 指定職俸給表の適用を受ける職員の号俸の定め並びに職務の級の定数の設定及び改定に関する意見(令和3年度)|url=https://www.jinji.go.jp/gaisannkyuubetu/3teisuuhyou.pdf|website=[[人事院]]|date=|accessdate=2021-04-16|language=ja|format=PDF}}</ref>。}}を新設。
* [[2023年]](令和5年)4月1日 - 子ども家庭局を廃止し、業務を[[こども家庭庁]]に移管。あわせて、国立児童自立支援施設も移管された。
* [[2023年]](令和5年)9月1日 - 健康局及び医薬・生活衛生局を改組し、健康・生活衛生局及び同局感染症対策部並びに医薬局を新設。
== 所掌事務 ==
厚生労働省設置法第4条は計118項目の所掌する事務を列記している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
{{div col||20em}}
* [[社会保障]]政策(1号)
* [[少子高齢社会]]への対応(2号)
* 疾病の予防及び治療に関する研究(3号)
* [[労働組合]](5号)
* [[労働基本権]]の保障(6号)
* 労働関係の調整(7号)
* 人口政策(8号)
* 医療の普及・向上及び指導・監督(9、10号)
* [[医師]]及び[[歯科医師]](12号)
* [[水道]](29号)
* [[国立ハンセン病療養所]](30号)
* [[麻薬]]等の取締り(32号)
* 毒物及び劇物の取締り(33号)
* [[公衆衛生]]の向上及び増進(40号)
* [[労働条件]](41号)
* [[労働安全衛生|産業安全・労働衛生]](44、45号)
* 労働基準の監督(46号)
* [[労働者災害補償保険]]事業(47号)
* 政府の行う職業紹介および職業指導(54号)
* [[雇用保険]]事業(61号)
* 職業の安定(62号)
* [[公共職業訓練]](63号)
* 女性労働問題(72、73号)
* 児童・児童のある家庭及び妊産婦その他母性の福祉の増進(77号)
* [[福祉#社会福祉|社会福祉]]事業の発達・改善(81号)
* [[生活保護]](82号)
* [[消費生活協同組合]](84号)
* [[国民生活]]の保護および指導(86号)
* [[障害者福祉]](87、88号)
* [[高齢者福祉|老人福祉]](90、91号)
* [[介護保険]]事業(93号)
* [[医療保険]](93~97号)
* [[年金保険]](98~101号)
* [[社会保険労務士]](102号)
* 引揚援護(103号)
* 戦傷病者・戦没者遺族等の援護(104号)
* 旧[[日本軍|陸海軍]]の残務の整理(105号)
* [[人口]]動態統計及び毎月勤労統計調査(第106号)
{{div col end}}
== 組織 ==
内部組織は一般的に、法律の厚生労働省設置法、政令の厚生労働省組織令及び省令の厚生労働省組織規則が階層的に規定している。
=== 幹部 ===
* [[厚生労働大臣]]([[国家行政組織法]]第5条、法律第2条第2項)
* [[厚生労働副大臣]](国家行政組織法第16条)(2人)
* [[厚生労働大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(2人)
* [[大臣補佐官|厚生労働大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2)(1人、必置ではない)
* [[厚生労働事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[医務技監]](法律第5条)
* [[厚生労働審議官]](法律第5条)
* [[秘書官|厚生労働大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
* [[厚生労働省大臣官房|大臣官房]](政令第2条第1項)
** 総括審議官(2人)(政令第18条第1項)
** 危機管理・医務技術総括審議官(1人)
** 政策立案総括審議官(1人)
** 公文書監理官(1人)
** サイバーセキュリティ・情報化審議官(1人)
** 高齢・障害者雇用開発審議官(1人)
** 年金管理審議官(1人)
** 審議官(1人)
** 参事官(9人)(政令第19条第1項)
** 人事課(政令第20条第1項)
** 総務課
** 会計課
** 地方課
** 国際課
** 厚生科学課
* [[医政局]]
** 総務課(政令第31条)
** 地域医療計画課
** 医療経営支援課
** 医事課
** 歯科保健課
** 看護課
** 経済課
** 研究開発振興課
* [[健康・生活衛生局]](旧[[健康局]])
** 総務課(政令第40条)
** 健康課
** がん・疾病対策課
** 難病対策課
** 生活衛生課
** 水道課
** 食品基準審査課
** 食品監視安全課
** 感染症対策部(政令第2条第2項)
*** 企画・検疫課(政令第40条2項)
*** 感染症対策課
*** 予防接種課
:2015年(平成27年)10月1日以前は総務課、がん対策・健康増進課、疾病対策課、結核感染症課、生活衛生課及び水道課の6課体制であったが、2015年(平成27年)10月1日の改正により、生活衛生課と水道課は医薬・生活衛生局{{Efn|移管前の名称は医薬食品局。}}に移管され、残りの4課は現在の5課に再編・改称された。
:2023年(令和5年)9月1日、感染症対策部が設置され、企画・検疫課、感染症対策課及び予防接種課の3課を置く。健康局結核感染症課並びに医薬・生活局生活衛生・食品安全企画課及び検疫所業務課は振替廃止。生活衛生課、水道課、食品基準審査課、食品監視安全課を医薬・生活衛生局から移管。生活衛生課と水道課は、8年ぶりに戻ったことになった
* [[医薬局]](旧[[医薬・生活衛生局]]、旧[[医薬食品局]])
** 総務課(政令第49条第1項)
** 医薬品審査管理課
** 医療機器審査管理課
** 医薬安全対策課
** 監視指導・麻薬対策課
** 血液対策課
: 医薬品・医療機器等の承認審査や安全対策、薬物乱用対策などを所管。生活衛生・食品安全部は食品安全、健康食品、水道などについての事務のほか、検疫所を所管。もとは医薬食品局という名称だったが、2015年(平成27年)10月1日に健康局の生活衛生課と水道課を食品安全部に移管して改称するとともに、食品安全部も生活衛生・食品安全部に改称した。
: 2016年(平成28年)6月21日に審査管理課が医療品審査管理課に改称するとともに、「医療機器審査管理課」が新設され、そこに医療機器などの審査管理事務が旧審査管理課より移管された。2017年(平成29年)8月1日に生活衛生・食品安全企画課、食品基準審査課、食品監視安全課、生活衛生課、水道課の上に置かれていた「生活衛生・食品安全部」が廃止され、5課は医薬・生活衛生局に直属する課となった。
: 2021年([[令和]]3年)9月14日、検疫所業務課を新設。
:2023年(令和5年)9月1日、生活衛生課、水道課、食品基準審査課、食品監視安全課を[[健康・生活衛生局]]{{Efn|移管前の名称は健康局。}}に移管。衛生・食品安全企画課及び検疫所業務課は振替廃止となり、新設の健康・生活衛生局感染症対策部企画・検疫課に移管。
* [[労働基準局]]
** 総務課(政令第59条第1項)
** 労働条件政策課
** 監督課
** 労働関係法課
** 賃金課
** 労災管理課
** 労働保険徴収課
** 補償課
** 労災保険業務課
** 安全衛生部(政令第2条第2項)
*** 計画課(政令第59条第2項)
*** 安全課
*** 労働衛生課
*** 化学物質対策課
: 2014年(平成26年)7月11日に労災管理課、労働保険徴収課、補償課、労災保険業務課の上に置かれていた「労災補償部」が廃止され、4課は労働基準局に直属する課となった。2016年(平成28年)6月21日には労働関係法課と賃金課が新設された。
* [[職業安定局]]
** 総務課(政令第73条第1項)
** 雇用政策課
** 雇用保険課
** 需給調整事業課
** 外国人雇用対策課
** 雇用開発企画課
** 高齢者雇用対策課
** 障害者雇用対策課
** 地域雇用対策課
: 2019年(令和元年)4月1日に雇用開発企画課、高齢者雇用対策課、障害者雇用対策課、地域雇用対策課の上に置かれていた「雇用開発部」が廃止され、4課は職業安定局に直属する課となった。
* [[雇用環境・均等局]]
** 総務課
** 雇用機会均等課
** 有期・短期間労働課
** 職業生活両立課
** 在宅労働課
** 勤労者生活課
* [[社会・援護局]]
** 総務課(政令第100条第1項)
** 保護課
** 地域福祉課
** 福祉基盤課
** 援護企画課
** 援護課
** 業務課
** 障害保健福祉部(政令第2条第2項)
*** 企画課(政令第100条第2項)
*** 障害福祉課
*** 精神・障害保健課
:生活保護制度や災害救援などの社会福祉、および中国残留邦人や戦没者遺族などに対する援護を所管。
* [[老健局]]
** 総務課(政令第112条)
** 介護保険計画課
** 高齢者支援課
** 認知症施策・地域介護推進課
** 老人保健課
:介護保険制度など高齢者の健康・福祉に係る事務を所管。
* [[保険局]]
** 総務課(政令第118条)
** 保険課
** 国民健康保険課
** 高齢者医療課
** 医療介護連携政策課
** 医療課
** 調査課
:医療保険制度を所管。診療報酬や薬価の設定も行う。
* [[年金局]]
** 総務課(政令第124条)
** 年金課
** 国際年金課
** 資金運用課
** 企業年金・個人年金課
** 数理課
** 事業企画課
** 事業管理課
:公的年金制度及び企業年金制度を所管。
* [[人材開発統括官]]
* [[政策統括官]](総合政策担当)
* [[政策統括官]](統計・情報政策担当)
: 政策統括官は「政策統括官(社会保障担当)」「政策統括官(労働担当)」の2人が置かれていたが、2016年(平成28年)6月21日に所掌事務が変更され、現状になった。
=== 審議会等 ===
* [[社会保障審議会]](法律第6条第1項)
* 厚生科学審議会
* [[労働政策審議会]]
* [[医道審議会]]
* 薬事・食品衛生審議会
* がん対策推進協議会([[がん対策基本法]]、法律第6条第2項)
* アレルギー疾患対策推進協議会([[アレルギー疾患対策基本法]]、法律第6条第2項)
* 肝炎対策推進協議会([[肝炎対策基本法]]、法律第6条第2項)
* 循環器病対策推進協議会(健康寿命の延伸等を図るための脳卒中、心臓病その他の循環器病に係る対策に関する基本法、法律第6条第2項)
* 医薬品等行政評価・監視委員会([[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]]、法律第6条第2項)
* 中央最低賃金審議会([[最低賃金法]]、法律第6条第2項)
* 過労死防止対策推進協議会([[過労死等防止対策推進法]]、法律第6条第2項)
* [[労働保険審査会]](労働保険審査官及び労働保険審査会法、法律第6条第2項)
* 特定石綿被害建設業務労働者等認定審査会(特定石綿被害建設業務労働者等に対する給付金等の支給に関する法律、法律第6条第2項)
* アルコール健康障害対策関係者会議([[アルコール健康障害対策基本法]]、法律第6条第2項)
* [[中央社会保険医療協議会]](社会保険医療協議会法、法律第6条第2項)
* [[社会保険審査会]](社会保険審査官及び社会保険審査会法、法律第6条第2項)
* ハンセン病元患者家族補償金認定審査会([[ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律]]、法律第6条第2項)
* 国立研究開発法人審議会(政令第132条){{Efn|厚生労働省所管の国立研究開発法人の目標・評価等に関して、厚生労働大臣が意見を聴取する審議会である。独立行政法人通則法における「研究開発に関する審議会」にあたる(同法第35条の4)。以前は独立行政法人通則法により独立行政法人評価委員会が設置され、当省の所管する全ての独立行政法人の業務の実績に関する評価などを行っていた。独立行政法人通則法の改正法(平成26年6月13日法律第66号)の施行(2015年〈平成27年〉4月1日)により、独立行政法人評価委員会は廃止され、国立研究開発法人審議会が設置された。}}
* 疾病・障害認定審査会
* 援護審査会
=== 施設等機関 ===
当省の[[施設等機関]]は以下の7区分がある。国立児童自立支援施設(現在はこども家庭庁に移管)および国立障害者リハビリテーションセンター{{Efn|国立光明寮、国立保養所、国立知的障害児施設。}}は慣例上、「国立更生援護機関」と総称される。
* [[検疫所]](法律第16条)
* [[国立ハンセン病療養所]]
* [[国立医薬品食品衛生研究所]](政令第135条)
* [[国立保健医療科学院]]
* [[国立社会保障・人口問題研究所]]
* [[国立感染症研究所]]
* [[国立障害者リハビリテーションセンター]]
==== 検疫所 ====
[[検疫所|厚生労働省検疫所]]は以下の13検疫所の下に14支所と80出張所が置かれている。FORTH(厚生労働省検疫所)も参照。
{{Columns-list|2|
* 小樽検疫所(省令第76条別表第1)
* 仙台検疫所
* 成田空港検疫所
* 東京検疫所
* 横浜検疫所
* 新潟検疫所
* 名古屋検疫所
* 大阪検疫所
* 関西空港検疫所
* 神戸検疫所
* 広島検疫所
* 福岡検疫所
* 那覇検疫所
}}
==== 国立ハンセン病療養所 ====
{{Columns-list|2|
* [[国立療養所松丘保養園]](省令第474条別表第3)
* [[国立療養所東北新生園]]
* [[国立療養所栗生楽泉園]]
* [[国立療養所多磨全生園]]
* [[国立駿河療養所]]
* [[国立療養所長島愛生園]]
* [[国立療養所邑久光明園]]
* [[国立療養所大島青松園]]
* [[国立療養所菊池恵楓園]]
* [[国立療養所星塚敬愛園]]
* [[国立療養所奄美和光園]]
* [[国立療養所沖縄愛楽園]]
* [[国立療養所宮古南静園]]
}}
==== 国立障害者リハビリテーションセンター ====
* 管理部(省令第625条)
**総務課
**会計課
**医事管理課
* 企画・情報部
**企画課
**情報システム課
**高次脳機能障害情報・支援センター
**発達障害情報・支援センター
* 自立支援局
**総合相談支援部
**第一自立訓練部
**第二自立訓練部
**理療教育・就労支援部
** [[国立光明寮]]
*** 函館視力障害センター(省令第651条)
*** 塩原視力障害センター
*** 神戸視力障害センター
*** 福岡視力障害センター
** [[国立保養所]]
*** 伊東重度障害者センター(省令第658条)
*** 別府重度障害者センター
** [[国立知的障害児施設]]
*** 秩父学園(省令第665条)
** 病院
** 研究所
** 学院
=== 特別の機関 ===
* [[自殺総合対策会議]](自殺対策基本法第23条)
* [[死因究明等推進本部]](死因究明等推進基本法第20条)
* 中央駐留軍関係離職者等対策協議会(駐留軍関係離職者等臨時措置法、法律附則2)
=== 地方支分部局 ===
[[地方支分部局]]は地方厚生局と都道府県労働局の2区分がある。都道府県労働局は47各都道府県に1つ設置されている。
* [[地方厚生局]] (法律第17条) - 健康福祉部(政令第153条)、麻薬取締部、地方厚生支局(法律第19条)、地方麻薬取締支所(法律第20条)
* [[都道府県労働局]] - [[労働基準監督署]](法律第22条)(341署)、[[公共職業安定所]](法律第23条)(477所)、地方労働審議会(第156条の2)、地方最低賃金審議会(最低賃金法第20条)、紛争調整委員会(個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律第6条)
==== 地方厚生局 ====
* [[北海道厚生局]](法律第152条)
* [[東北厚生局]]
* [[関東信越厚生局]]
* [[東海北陸厚生局]]
* [[近畿厚生局]]
* [[中国四国厚生局]] - [[四国厚生支局]](政令第154条)
* [[九州厚生局]] - 九州厚生局沖縄麻薬取締支所(政令第155条)
==== 都道府県労働局 ====
'''太字'''は人事ブロック基幹局'''(北海道・宮城・埼玉・東京・新潟・愛知・大阪・広島・香川・福岡)'''
{{columns-list|7.6em|
* '''[[北海道労働局]]'''
* '''[[宮城労働局]]'''
* [[青森労働局]]
* [[岩手労働局]]
* [[秋田労働局]]
* [[山形労働局]]
* [[福島労働局]]
* '''[[埼玉労働局]]'''
* [[茨城労働局]]
* [[群馬労働局]]
* [[栃木労働局]]
* [[長野労働局]]
* '''[[東京労働局]]'''
* [[千葉労働局]]
* [[神奈川労働局]]
* [[山梨労働局]]
* '''[[新潟労働局]]'''
* [[富山労働局]]
* [[石川労働局]]
* [[福井労働局]]
* '''[[愛知労働局]]'''
* [[岐阜労働局]]
* [[静岡労働局]]
* [[三重労働局]]
* '''[[大阪労働局]]'''
* [[滋賀労働局]]
* [[京都労働局]]
* [[奈良労働局]]
* [[兵庫労働局]]
* [[和歌山労働局]]
* '''[[広島労働局]]'''
* [[鳥取労働局]]
* [[島根労働局]]
* [[岡山労働局]]
* [[山口労働局]]
* '''[[香川労働局]]'''
* [[徳島労働局]]
* [[愛媛労働局]]
* [[高知労働局]]
* '''[[福岡労働局]]'''
* [[佐賀労働局]]
* [[長崎労働局]]
* [[大分労働局]]
* [[熊本労働局]]
* [[宮崎労働局]]
* [[鹿児島労働局]]
* [[沖縄労働局]]
}}
=== 外局 ===
* [[中央労働委員会]](国家行政組織法第3条第2項、労働組合法第19条の2、法律第25条) - 事務局(労働組合法第19条の11第1項)
** 事務局 - 総務課(政令第158条)、審査課、調整第一課、調整第二課、調整第三課
***地方事務所(労働組合法第19条の11第2項) 西日本地方事務所が設置されている。
=== 介護施設 ===
各都道府県知事、市区町村の区役所管轄である(参考)
*[[特別養護老人ホーム]]
*[[介護老人保健施設]]
*[[介護医療院]]([[介護療養型医療施設]])
*[[ケアハウス]]
=== 地域連携室 ===
各都道府県知事、市区町村の区役所や保健所等において地域の医療サービスを連携させるのが目的の部署。名称は必ずしも「地域連携室」ではなく、厚生労働省の機関ではない。
== 所管法人 ==
主管する[[独立行政法人]]は2023年4月1日現在、以下に示す通り、[[独立行政法人|中期目標管理法人]]10、[[国立研究開発法人]]7の計17法人である<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在) |url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf |format=PDF |publisher=総務省 |accessdate=2023-04-04}}</ref>。また、[[国土交通省]]主管の[[水資源機構]]は、水路事業部を厚生労働省、[[農林水産省]]、[[経済産業省]]とともに共管している(健康局水道課)。[[独立行政法人|行政執行法人]]は所管しない。
国立病院機構は、以前は役職員が[[国家公務員]]である「特定独立行政法人(現・行政執行法人)」であったが、[[独立行政法人通則法]]の改正法(平成26年6月13日法律第66号)施行に伴い、2015年(平成27年)4月1日から中期目標管理法人となり、役職員は国家公務員ではなくなった。
;中期目標管理法人
* [[勤労者退職金共済機構]](労働基準局)
* [[高齢・障害・求職者雇用支援機構]](職業安定局)
* [[福祉医療機構]](社会・援護局)
* [[国立重度知的障害者総合施設のぞみの園]](社会・援護局)
* [[労働政策研究・研修機構]](政策統括官)
* [[労働者健康安全機構]](労働基準局)
: 2016年(平成28年)4月に「独立行政法人に係る改革を推進するための厚生労働省関係法律の整備等に関する法律」(平成27年5月7日法律第17号)が施行され、独立行政法人労働安全衛生総合研究所(労働基準局)が廃止されるとともに、前身の労働者健康福祉機構がその事業・組織を引き継ぎ、現行に改称した。
* [[国立病院機構]](医政局)
* [[医薬品医療機器総合機構]](医薬・生活衛生局)
* [[地域医療機能推進機構]](医政局)
* [[年金積立金管理運用独立行政法人]](年金局)
;国立研究開発法人
* [[医薬基盤・健康・栄養研究所]](大臣官房)
: 独立行政法人医薬基盤研究所と独立行政法人国立健康・栄養研究所(大臣官房)を統合して、2015年(平成27年)4月1日に設立された。
*[[国立高度専門医療研究センター]]の6法人
** [[国立がん研究センター]]
** [[国立循環器病研究センター]]
** [[国立精神・神経医療研究センター]]
** [[国立国際医療研究センター]]
** [[国立成育医療研究センター]]
** [[国立長寿医療研究センター]]
主管する特殊法人は2023年(令和5年)4月1日現在、[[日本年金機構]](年金局)のみである<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>>。旧[[社会保険庁]]の後身にあたる。
[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人)には2023年(令和5年)4月1日現在、以下の10法人である<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。以前は労働基準局所管の[[鉱業労働災害防止協会]](略称:鉱災防)があったが、2014年(平成26年)3月31日に解散した。
*[[社会保険診療報酬支払基金]](保健局)
*[[建設業労働災害防止協会]](労働基準局)
*[[陸上貨物運送事業労働災害防止協会]](労働基準局)
*[[林業・木材製造業労働災害防止協会]](労働基準局)
*[[港湾貨物運送事業労働災害防止協会]](労働基準局)
*[[中央職業能力開発協会]](人材開発統括官)
*[[中央労働災害防止協会]](労働基準局)
*企業年金連合会(年金局)
*石炭鉱業年金基金(年金局)
*[[全国社会保険労務士会連合会]](労働基準局)
[[特別の法律により設立される法人]]には[[健康保険組合連合会]](保険局)、[[全国健康保険協会]](保険局)、[[国民年金基金連合会]](年金局)及び[[船員災害防止協会]](労働基準局)の4法人がある。船員災害防止協会は国土交通省との共管である。任意団体には総合型健康保険組合の連合体である総合健康保険組合協議会がある。
他、[[社会福祉協議会]] 、[[日本赤十字社]] 、[[日本社会事業大学]] は厚生労働省管轄の公設民営機関とされている。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における厚生労働省所管の歳出予算は33兆1686億2352億7千円である<ref name="予算"></ref>。歳出予算全体の(114兆3812億3556万9千円)のおよそ3割を占め、国の行政機関(13府省2庁2院)の中で最大である<ref group="注釈">2位は財務省の35兆4762億7965万6千円である。</ref>。
機関別の内訳は以下のとおりである。
* 厚生労働本省 - 32兆9777億4991万7千円
* 検疫所 - 242億3308万円
* 国立ハンセン病療養所 - 315億582万4千円
* 厚生労働本省試験研究機関 - 150億609万1千円
* 国立障害者リハビリテーションセンター - 76億7250万4千円
* 地方厚生局 - 173億9662万3千円
* 都道府県労働局 - 935億6643万4千円
* 中央労働委員会 - 14億9305万4千円
* 円
主管する一般会計の歳入予算は9515億7159万4千円であり、その大部分は弁償及返納金7396億677万7千円である。
厚生労働省は[[労働保険特別会計]]を所管し、内閣府と[[年金特別会計]]を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
労働保険特別会計は、労災勘定、雇用勘定及び徴収勘定に、年金特別会計は基礎年金勘定、国民年金勘定、厚生年金勘定、健康勘定、子ども・子育て支援勘定及び業務勘定に区分して経理されている。
{{Seealso|日本の医療#財政|日本の福祉#財政}}
== 職員 ==
[[一般職]]の在職者数は、2022年7月1日現在で32,219人(男性21,344人、女性10,875人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和3年7月1日現在)</ref>。内訳は、本省が32,129人(男性21,278人、女性10,851人)、中央労働委員会は90人(男性66人、女性24人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた定員は、[[特別職]]1人を含めて 33,517人<ref name="定員令" />である。本省および各外局別の定員は省令の厚生労働省定員規則に定められており、本省33,418人、中央労働委員会99人(事務局職員)と規定している<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000100003 厚生労働省定員規則(平成13年1月6日厚生労働省令第3号)]」(最終改正:令和5年3月30日厚生労働省令第42号)
9日厚生労働省令第166号)</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職が21人、一般職が23,835人の計23,856人である<ref name="予算"></ref>。これとは別に特別会計の予算定員として労働保険特別会計に9,312人(厚生労働本省 - 223人、都道府県労働局 - 9,089人)、年金特別会計業務勘定に369人(厚生労働本省 - 173人、地方厚生局 - 196人)<ref name="特会予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>が措置されている。一般会計予算定員の機関別内訳は以下の通りである。
* 厚生労働本省 - 3,946人(うち、特別職19人)
* 検疫所 - 1,483人
* 国立ハンセン病療養所 - 2,670人
* 厚生労働本省試験研究機関 - 1,089人
* 国立障害者リハビリテーションセンター - 601人
* 地方厚生局 - 1,679人
* 都道府県労働局 - 12,287人
* 中央労働委員会 - 101人(うち、特別職2人)
職員の競争試験による採用は、国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、国家公務員採用総合職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(大卒程度試験)、国家公務員採用一般職試験(高卒程度試験)、労働基準監督官採用試験及び[[食品衛生監視員]]採用試験の合格者の中から行われる。
一般職職員は非現業の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は[[国家公務員法]]により認められていない。[[団結権]]は認められており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は連合体7、単一体6、支部52となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和2年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は16,776人、組織率は59.7%となっている。この組織率は13府省庁2院の中では[[農林水産省]](66.6%)の次に大きい。全厚生職員労働組合(全厚生)、[[全日本国立医療労働組合]](全医労)、全労働省労働組合(全労働)、東京職業安定行政職員労働組合(東京職安労組)、大阪労働局職業安定行政職員労働組合、沖縄非現業国家公務員労働組合労働支部、および中央労働委員会事務局労働組合(中労委労組)などが現存する。全厚生と全医労は「厚生省労働組合共闘会議」を形成している。また以上2労組と全労働は[[国公労連]](全労連傘下)に加盟している。中労委労組は中立系である。
中央官庁で勤務する官僚は、[[国会 (日本)|国会]]対応に追われ、連日の泊まり込みや、[[過労死ライン]]を超える月150時間ほどの残業が常態化している<ref>{{Cite web|和書|title=官僚だってツラい!? 残業は時給200円、仮眠室に幽霊…官僚OB政治家が叱咤とエール|url=https://nikkan-spa.jp/1469810|website=日刊SPA!|date=2018-04-17|accessdate=2021-04-20|language=ja|last=河野嘉誠}}</ref>。中でも年金・保険・労働政策を所管する職員は、他省庁よりも残業時間が長く「'''[[強制労働]]省'''」や「'''拘牢省'''」などと揶揄されているが、一般職(事務職)の[[国家公務員]]に対して[[労働基準法]]や[[労働安全衛生法]]は拘束力がなく、厚労省の出先機関である[[労働基準監督署]]による立ち入り調査もない<ref>{{Cite web|和書|title=霞ヶ関官僚が読む本 知られざる法案作成業務の実態 霞が関の隠れたベストセラーとは|url=https://www.j-cast.com/trend/2013/01/17161459.html|website=J-CAST トレンド|date=2013-01-17|accessdate=2021-04-20|language=ja}}</ref>。近年では、[[長時間労働]]を抑制する[[働き方改革関連法|働き方改革]]に乗り出している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL705KK4L70UTFK014.html 「強制労働省」過酷な現実 厚労省、ICTで効率化模索] - [[朝日新聞]]</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190902-OYT1T50000/ 人生の墓場・拘牢省・強制労働省…省内環境改善へ] - [[読売新聞]]</ref>。
[[東京大学医科学研究所]]公共政策研究分野教授の[[武藤香織]]によれば、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]において、[[日本国政府]]の情報発信が遅れた理由として、厚労省のマンパワーが常態的に不足するなか、各種の対応で職員の仕事量が許容量を超え、情報発信に手が回らなかったことが原因としている<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200228-00010003-bfj-soci 「今はまだ諦める時期じゃない」「一斉休校は議論していない」 新型コロナ専門家会議の委員が協力を呼びかけること(BuzzFeed Japan)] - [[Yahoo!ニュース]]</ref>。
過酷な業務に耐えかねた若手や中堅の[[キャリア官僚]]が退職し人手不足が深刻化したことから、2022年には総合職の課長補佐級を中途採用すると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「仕事が回らない」 厚労省が「キャリア官僚」募集 若手らの離職で:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQCC5D7VQCCUTFL00H.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2022-11-11 |access-date=2022-11-11 |language=ja}}</ref>。
== 幹部職員 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{Cite web|和書|title=厚生労働省幹部名簿|url=https://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/kanbumeibo/index.html|publisher=厚生労働省|accessdate=2023-9-01}}</ref>。
* 事務次官:[[大島一博]]
* 厚生労働審議官:[[田中誠二 (厚生労働官僚)|田中誠二]]
* 医務技監:[[迫井正深]]
* 大臣官房長:[[村山誠]]
** 総括審議官:[[黒田秀郎]]
** 総括審議官(国際担当):[[富田望]]
** 危機管理・医務技術総括審議官:[[森光敬子]]
* 医政局長:[[浅沼一成]]
* 健康・生活衛生局長:[[大坪寛子]]
** 感染症対策部長:佐々木昌弘
* 医薬局長:[[城克文]]
* 労働基準局長:[[鈴木英二郎]]
** 安全衛生部長:美濃芳郎
* 職業安定局長:[[山田雅彦]]
* 雇用環境・均等局長:[[堀井奈津子]]
* 社会・援護局長:[[朝川知昭]]
** 障害保健福祉部長:辺見聡
* 老健局長:[[間隆一郎]]
* 保険局長:[[伊原和人]]
* 年金局長:[[橋本泰宏]]
* 人材開発統括官:[[岸本武史]]
* 政策統括官(総合政策担当):[[鹿沼均]]
* 政策統括官(統計・情報システム管理、労使関係担当):[[森川善樹]]
* 中央労働委員会事務局長:[[奈尾基弘]]
== 刊行物 ==
厚生労働省が執筆・編集する[[白書]]など年次報告書には、「厚生労働白書」、「労働経済白書」、「海外情勢報告」、「働く女性の実情」、「母子家庭の母の就業の支援に関する年次報告」、「ものづくり基盤技術の振興施策」(ものづくり白書)がある。ものづくり白書は[[ものづくり基盤技術振興基本法]]8条にもとづき、国会に報告する「ものづくり基盤技術の振興施策」を収録した法定白書であり、[[経済産業省]]・[[文部科学省]]とともに執筆している。広報誌には月刊の『厚生労働』がある<ref>[http://www.mhlw.go.jp/wp/publish/mag/index.html 厚生労働案内] 厚生労働省</ref>。2009年度(平成21年度)までは厚生労働問題研究会が発行主体であったが、2009年(平成21年)3月31日をもって解散したため、2009年(平成21年)4月号からは[[中央法規出版]]が編集・発行元となった。さらに、2012年(平成24年)4月号からは、日本医療企画が編集・発行元となった。
== 著名な出身者 ==
前身の[[厚生省]]・[[労働省]]、両省の出身者を含む。<!-- 特定人物のみ掲載の基準が明確でない→著名、つまりその時代時代の目立った経歴や、エポックメイキングな背景がある人たち。-->
* [[安井誠一郎]] - 元厚生事務次官、元[[東京都知事]]
* [[東龍太郎]] - 元厚生省[[医務局]]長、元東京都知事。[[都立高等学校]]への[[学校群制度]]制定時の都知事。
* 中野徹雄 - 元厚生省[[医薬食品局|薬務局]]長。薬務局長在任中、[[水俣病]]に取り組む
* [[吉村仁 (官僚)|吉村仁]] - 元厚生事務次官。[[日本の医療|医療制度改革]]を進める
* [[持永和見]] - 元厚生省薬務局長。[[薬害エイズ事件]]時代の薬務局長
* 松下廉蔵 - 元厚生省薬務局長、元[[ミドリ十字]]社長
* [[岡光序治]] - 元厚生事務次官。[[介護保険法]]などの策定に中心的に関わる。[[特別養護老人ホーム汚職事件]]で逮捕され実刑の[[確定判決]]。
* [[翁久次郎]] - 元厚生事務次官、元[[内閣官房副長官]](事務担当)
* [[横尾和子]] - 元[[社会保険庁長官]]、元[[最高裁判所裁判官]]
* [[羽毛田信吾]] - 元厚生事務次官、元[[宮内庁|宮内庁長官]]
* [[浅野史郎]] - 元厚生省[[健康局|生活衛生局]]企画課長、元[[宮城県知事一覧|宮城県知事]]、[[コメンテーター]]
* [[宮本政於]] - 元厚生省[[検疫所|横浜検疫所]]課長、元[[医務官|医系技官]]、作家
* [[山川菊栄]] - 初代労働省[[雇用均等・児童家庭局|婦人少年局]]長(1947年 - 1951年)。評論家、作家、[[日本の女性解放運動|婦人運動家]]
* [[斎藤邦吉]] - 元労働事務次官、元[[自由民主党幹事長]]
* [[道正邦彦]] - 元労働事務次官、元内閣官房副長官(事務担当)
* [[高橋久子]] - 元労働省婦人少年局長、元最高裁判所裁判官
* [[佐藤ギン子]] - 元労働省婦人局長、元駐ケニア大使、元[[証券取引等監視委員会]]委員長
* [[松原亘子]] - 元労働事務次官、元駐伊大使。[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]、育児休業法及び介護休業法(現在の[[育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律|育児介護休業法]])などの策定に中心的に関わった。官界初の女性次官
* [[渡邉芳樹]] - 元厚生労働省年金局長、元社会保険庁長官、元駐スウェーデン大使
* [[村木厚子]] - 元厚生労働事務次官。[[障害者郵便制度悪用事件]]で[[逮捕]]されるも無罪の確定判決。のち2人目の女性次官に。
* [[定塚由美子]] - 元厚生労働省官房長。2019年、[[毎月勤労統計調査#統計不正調査問題|毎月勤労統計調査における統計不正問題]]で、国会での不正確な答弁等が問題となり、官房長から格下ポストの[[人材開発統括官]]に異動となり、事実上更迭され退官。
<!--* [[木村盛世]] - 元[[厚生労働技官]]→勤務経験はあるが、現時点で「著名人の枠」に入る理由がないのでは?-->
<!--* [[秋野公造]] - 元厚生労働省東京空港検疫所支所長、公明党参議院議員、元環境・内閣府大臣政務官 →政治家ではあるが、現時点で「著名人の枠」に入る理由がないのでは?-->
{{See also|Category:日本の厚生労働官僚|Category:日本の厚生労働技官}}
== 関連紛争や諸問題 ==
=== 諸問題 ===
* [[日本の少子化]] - [[産児制限#日本における産児制限運動|日本における産児制限]] - [[新エンゼルプラン]]<ref group="注釈">[[非正規雇用#日本での経緯|日本における非正規雇用の経緯]]、[[事実婚#事実婚における問題点|日本における事実婚の問題点]]も参照。</ref>
* [[日本の年金#課題|日本の年金問題]] - [[年金積立金管理運用独立行政法人に関する政策]]
* [[医療崩壊#日本における医療崩壊|日本における医療崩壊問題]] - [[旭川医科大学#新型コロナウイルス感染症に関する吉田晃敏学長の言動に関する騒動|旭川医科大学における新型コロナ騒動]] - [[医療崩壊|世界最多規模の病床数を有するなか]]新型コロナ対応の受診・病床提供拒否蔓延の問題及び[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|就労制限など緊急事態宣言等]]の発動を求める[[日本医師会]]の問題<ref>[https://president.jp/articles/amp/53857?page=1#aoh=16552313823600&csi=1&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s コロナ患者を拒否しつつ「病床が足りない」と叫ぶ日本医師会は、だれのための組織なのか 医療提供体制を整える気はあるのか] 笹井恵里子 [[PRESIDENT Online]] 2022年1月18日</ref><ref>[https://president.jp/articles/-/48777?page=1 橋下徹「コロナ禍1年半でコロナ病床はなぜ増えないか」 必要なのは国民の行動制限ではない] [[橋下徹]] PRESIDENT Online 2021年8月18日</ref><ref group="注釈">2019年末に中国[[武漢市|武漢]]で新型コロナウィルスが発生以来、世界各国とも強力な就労や移動制限を伴う"[[ゼロコロナ政策]]" を採ってきたが、2021年半ば以降、より強力な[[SARSコロナウイルス2-デルタ株|デルタ株]]の流行により、各国とも行動制限を伴わない"[[ゼロコロナ政策#発生後|ウィズコロナ政策]]" に政策転換している。</ref>
* [[公害病#四大公害病|四大公害病]] - [[森永ヒ素ミルク中毒事件]] - [[サリドマイド#薬害サリドマイド禍|薬害サリドマイド禍]] - [[薬害肝炎]]
* [[日本のハンセン病問題]]
* [[新型コロナウイルス接触確認アプリ|新型コロナウイルス接触確認アプリCOCOAの不具合]]
* [[遺伝子組み換え作物]] - グリホサート含有除草剤[[ラウンドアップ]]問題 - [[モンサント (企業)|モンサント]](現在は[[バイエル (企業)|バイエル]]に統合し消滅)
* [[中国残留日本人#問題|中国残留邦人帰国者問題]]
=== 不祥事等 ===
* [[薬害エイズ事件]]
* [[特別養護老人ホーム汚職事件]]
* [[公的年金流用問題]]:公的年金のお金が別の用途に流用されていた問題。
* [[障害者郵便制度悪用事件]]
* [[情報漏洩#事例|情報漏洩]]<ref>[https://eset-info.canon-its.jp/malware_info/special/detail/200324.html Googleドライブなどのクラウドストレージを使う際のセキュリティ対策 | サイバーセキュリティ情報局] キヤノンマーケティングジャパン株式会社</ref><ref group="注釈">2013年7月、[[環境省]]、[[復興庁]]、[[農林水産省]]、[[国土交通省]]、厚生労働省でクラウドストレージにおけるファイル共有設定のミスにより、内部のメールやファイルが誰でも見られる状態となっていた。これらの情報には各省庁の機密データだけでなく、医療機関の患者情報など、個人情報も含まれていたことが当時、問題視された。
</ref>
* [[厚生労働省パワハラ相談員パワハラ事件]]
* [[毎月勤労統計調査#統計不正調査問題|統計不正調査問題]]:[[毎月勤労統計調査]]にて不適切な手法を用い、対応をしていた問題。
* [[障害者雇用水増し問題]]:当省だけでなく行政機関、立法機関、司法機関、独立行政法人、地方公共団体等で起きた、資格を満たさない者を[[障害者]]と認定していた問題。
* 職員暴行事件:韓国に旅行にいった課長(当時)が[[金浦空港]]にて泥酔状態で搭乗をしようとしたが拒否され空港職員2人を暴行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/posts/00414591CX|title=韓国の空港で職員に暴行 厚労省課長を“更迭”|accessdate=2019年3月26日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3R35VZM3RUHBI00N.html|title=大韓航空労組、厚労省課長の謝罪と賠償要求 空港で暴行|accessdate=2019年3月26日|publisher=}}</ref>、一時拘束されるも釈放されたが自身のSNSにて「何故か拘束された」「韓国の警察はおかしい」と投稿<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.minyu-net.com/newspack/KD2019032001001817.php|title=厚生労働省課長、韓国でトラブル|accessdate=2019年3月26日|publisher=}}</ref>、事実確認をし2019年(令和元年)3月20日付けで課長を更迭した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/posts/00414591CX|title=韓国の空港で職員に暴行 厚労省課長を“更迭”|accessdate=2019年3月26日|publisher=[[FNNプライムオンライン]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190325214110/https://www.fnn.jp/posts/00414591CX|archivedate=2019-03-25|deadlinkdate=2021-10-09}}</ref>。帰国後の取材に前課長は「お酒は飲んでいない、もみ合いの後謝罪をした」と答えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190323/k10011858401000.html|title=大韓航空の労組 厚労省前課長に謝罪と賠償を求める声明|accessdate=2019年3月26日|publisher=}}</ref>、この職員は私的な海外渡航を上司よりするなと命じられていたが無断で渡航していた。2019年(令和元年)8月19日、問題を起こした職員に対し国家公務員法の信用失墜行為の禁止違反より停職1か月の懲戒処分とした。時間がかかったことに対し職員の体調悪化だと明かした。この事件で前課長は韓国警察に暴行の疑いで立件された<ref>{{Cite web|url=http://japan.hani.co.kr/arti/politics/33061.html|title=酒に酔った日本の厚労省官吏、金浦空港で航空会社職員に暴行|accessdate=2019年3月26日|publisher=}}</ref>が、被害者および労働組合に謝罪し、同年4月26日に示談が成立したため不起訴となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48719000Z10C19A8000000/|title=厚労省元課長を停職1カ月 韓国空港で飲酒トラブル|accessdate=2019年9月14日|publisher=日本経済新聞}}{{リンク切れ|date=2021年10月}}</ref>。
*深夜まで送別会を開いたことにより[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]のクラスター(集団感染)が発生した疑い:[[老健局]]の職員23人は、[[東京都]]が午後9時までの営業時間短縮を要請していた2021年(令和3年)3月24日に東京・銀座で送別会を開催した。送別会は午後11時50分ごろまで続けられた。その後、老健局で新型コロナウイルスへの感染が相次いで判明し、送別会に参加した12人を含め、29人の感染が確認された。
* 旧[[社会保険庁]]によるものは[[社会保険庁#不祥事|社会保険庁の不祥事]]を参照。
=== その他 ===
* [[新潟日赤センター爆破未遂事件]] - [[在日朝鮮人の帰還事業]]
* [[元厚生事務次官宅連続襲撃事件]]
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ministry of Health, Labour and Welfare}}
* [[日本の福祉]]([[社会保障]]あるいは[[社会福祉]] + [[公衆衛生]]〈社会保健〉)
** [[生活保護]]
*** [[生活困窮者自立支援法]]([[2019年コロナウイルス感染症の流行に対する日本の行政の対応]]に伴う住居確保給付金等については公式ホームページ参照)
** [[:Category:労働]]
*** [[:Category:労働問題]] - [[労働基準監督署]] - [[労働条件]] - [[公共職業安定所]](ハローワーク)
** [[日本の年金]]
*** [[日本年金機構]] - [[年金積立金管理運用独立行政法人|年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)]]
** [[日本の少子化#対策|日本における少子化対策]]
** [[日本の医療]]
** 公衆衛生
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* [[民生委員]] - [[児童委員]]
* [[日本赤十字社]] - [[社会福祉協議会]] - [[日本社会事業大学]]
* [[厚生労働省省内事業仕分け]]
* [[福祉国家論]]
* [[キャリア (国家公務員)|キャリア]]・[[準キャリア]]・[[技官]]
** [[厚生労働技官]] - [[労働基準監督官]] - [[麻薬取締官]]
* [[日本の行政機関]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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3,417 | 経済産業省 | 経済産業省(けいざいさんぎょうしょう、英: Ministry of Economy, Trade and Industry、略称: METI)は、日本の行政機関のひとつ。経済および産業の発展ならびに鉱物資源およびエネルギー資源の供給に関する行政を所管する。日本語略称・通称は、経産省(けいさんしょう)。
経済産業省設置法第3条の定める任務である「民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギー資源の安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」を達成するため、マクロ経済政策、産業政策、通商政策、貿易管理業務、産業技術政策、流通政策、エネルギー政策などを所管する。
1949年(昭和24年)5月25日から2001年(平成13年)1月5日まで通商産業省(つうしょうさんぎょうしょう、英: Ministry of International Trade and Industry、略称: MITI、日本語略称: 通産省〈つうさんしょう〉)が設置されていたが、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編によって、通商産業省を改組及び改称する形で経済産業省が設置された。
かつて、前身の通産省は、日本経済ないし「日本株式会社」の総司令塔たる「経済参謀本部」として高度経済成長の牽引役とされた。米国をはじめ諸外国においても「Notorious MITI」ないし「Mighty MITI」と呼ばれたように、その名は日本官僚の優秀さ(ないし脅威)の代名詞として広く知られていた。その持てる許認可及び行政指導をあまねく駆使し、政府系金融機関の割り当て融資(財政投融資)、予算手当て、補助金などを力の源泉として主に産業政策を掌った。それ以外にも、技術革新に応じた科学技術研究開発、貿易、特許、エネルギー政策、中小企業政策など幅広い権限を保持していたほか、日本銀行政策委員会に複数の委員を送り出すなど、事実上、金融政策にも関与していた。
しかし、日本の高度経済成長期が終わると、幅広い権限を保持する割りに、「現業官庁」など他省庁と比較して許認可行政・補助金行政ができないことから、否応なしに単発の政策アイディアが主なものとなった。毎年5・6月頃から様々な新政策のアドバルーンを打ち上げてくる。このため、財務省が財政政策、予算査定、税制を通して依然として広く政策決定に関与する「総合官庁」であるのに対して、経産省はほとんどの産業を所管する「行政のデパート」であるも「限定された総合官庁」であると評されている。
経産省(通産省)の中から選ばれた一部の中堅官僚は、諸外国の日本貿易振興機構を拠点とし、産業調査員としての各種調査事務に従事している。
経産省(通産省)は、自由な気風や業界との交流の多さも後押しし、実業界など経済界に人材を数多く輩出してきた。一方、通産省時代には「政治家を出せない役所」とも言われており、事実、戦前の商工省出身の者には岸信介や椎名悦三郎がいたものの、戦後の通産省出身の者としては林義郎が目立つくらいで、大蔵省や旧内務省系官庁など出身の者に比して見劣りがした。しかし、80年代頃から若手の通産官僚の政界入りが相次ぎ、現在の国会では党派を超えた一大勢力となっている。
また、大分県知事の平松守彦(在任1979年~2003年)以降、都道府県知事にも経産省(通産省)出身の者が次第に増え、旧内務省の流れを汲み、伝統的に多くの知事を輩出してきた総務省(自治省)に次ぐ勢力になっており、2020年7月には全国の都道府県知事のうち8名が経産省(通産省)出身だった。経産省(通産省)出身の都道府県知事が増えた理由について、経産省は「企業誘致に経産省時代に培った企業人脈が生きている。産業振興による税収増への期待もあるのだろう」と分析しているが、対する総務省からは「経産省は規制緩和で仕事が減り、知事志向が強まっているのでは」と皮肉る声も出ている。
近年、経産省の規制権限は縮小傾向にあり、地域経済振興に活躍の場を求めているという事情もある。また、経産省への移行後は、内閣府などとともにマクロ経済政策を担う官庁として重要な役割を果たすようになってきている。
前身の通商産業省は、1949年5月25日、商工省を改組して発足した。その際、旧商工省の外局であった貿易庁及び石炭庁は廃止され、新たに資源庁、工業技術庁及び特許庁の3つの外局が設けられた。1948年8月1日に旧商工省の外局として設置された中小企業庁は、引続き、通商産業省の外局となった。貿易庁は本省の内部部局に、石炭庁は資源庁に移行した。
本組織を考えたのは白洲次郎といわれる。発足当初の通商産業省には、吉田茂 - 白洲 - 牛場信彦らの「外交派」・「通商派」ラインとして、時に「永山天皇」と呼ばれた永山時雄初代官房長らがおり、主流である「産業派」・「統制派」には岸信介 - 椎名悦三郎 - 美濃部洋次 - 山本高行ラインとして、玉置敬三や平井富三郎、佐橋滋、今井善衛などが名を連ね、その他「商務派」には豊田雅孝らがいた。その後も、「資源派」・「国際派」と「国内派」との対立軸など、現在に至るまで省内における政策対立ないし派閥争いには事欠かないことでも知られている。
1952年に資源庁と工業技術庁が廃止され、外局は特許庁と中小企業庁の2つになった。
1972年に田中角栄が通商産業大臣から内閣総理大臣に就任した時、小長啓一から通商産業省出身者が内閣総理大臣秘書官を担当するようになった。これが前例となり、後の内閣も通商産業省から出向で内閣総理大臣秘書官を担当するようになり、首相への通商産業省の影響度が大きくなった。1973年に新たな外局・資源エネルギー庁を設置。
2001年1月の中央省庁再編に伴い、経済産業省に名称変更された。発足当初、経済産業省は「経済省」という略称を用いていたが、全く定着せず、マスコミなどからは経産省と略される。
2011年3月に福島第一原子力発電所事故が起きると、原子力安全・保安院を所管していたことから、事故の発生とその対応について責任を問われ、事務次官、資源エネルギー庁長官及び原子力安全保安院長に事実上の更迭がなされた。
2012年9月19日、原子力規制委員会設置法の施行により、原子力安全・保安院に関する事務が環境省に移管された。原子力安全・保安院(資源エネルギー庁)は廃止され、組織は原子力規制委員会(環境省)に移行した。また、旧保安院の産業保安系5課(保安課、ガス安全課、液化石油ガス保安課、電力安全課、鉱山保安課)は商務情報政策局の3組織(保安課、電力安全課、鉱山・火薬類監理官付)に、産業保安監督部は本省の地方支分部局に再編された。
上記の経済産業省設置法3条に示された任務を達成するため、同法4条は計60号にわたって所掌事務を規定する。具体的には以下などに関することがある。
経済産業省の内部組織は一般的には、法律の経済産業省設置法、政令の経済産業省組織令及び省令の経済産業省組織規則が階層的に規定している。なお、他の省の外局の多くや経済産業省でも資源エネルギー庁や特許庁はそれぞれの省の設置法に規定されているが、中小企業庁は中小企業庁設置法という個別の法律に基づいている。
経済産業省の地方支分部局には以下の3区分がある。
産業保安監督部と那覇産業保安監督事務所を総称して産業保安監督部等という(法律12条見出し)。那覇産業保安監督事務所をのぞいてその庁舎は、経済産業局と同じ場所に位置する。管轄区域は経済産業局1つないし2つ分の管轄区域と同じである。
2023年4月1日現在、経済産業省が所管する独立行政法人は下記のとおりである。下記のうち、行政執行法人は製品評価技術基盤機構で、役職員は国家公務員の身分を有する。
経済産業省が所管する特殊法人は、2023年4月1日現在、次の3法人である。すべて株式会社の形態で設立された特殊会社である。
経済産業省が所管する特別の法律により設立される民間法人は、2023年4月1日現在、次の9法人である。
特別の法律により設立される法人。
認可法人は以下。
地方共同法人は所管しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における経済産業省所管歳出予算は8808億9356万8千円である。組織別の内訳は経済産業本省が2345億9991万6千円、経済産業局が145億2364万7千円、産業保安監督官署が27億2040万8千円、資源エネルギー庁が5403億6977万6千円、中小企業庁が886億7982万1千円となっている。特許庁は一般会計予算を所管せず、特許特別会計が経費を負担する。特許特別会計予算は1454億2133万4千円であり、わずかな一般会計からの繰り入れ(18億4536万1千円)と前年度剰余金(646億3875万円)を除く主要な歳入は特許料等収入(1514億4395万5千円)である。
共通費を除いた主な予算項目(100億円以上)としては、本省所管では「国立研究開発法人産業技術総合研究所運営費」が618億円、「情報処理・サービス・製造産業振興費」が333億4613万2千円、「独立行政法人日本貿易振興機構運営費」が265億7000万円、「国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構運営費」が144億4780万円、「対外経済政策推進費」が164億319万6千円、「独立行政法人情報処理推進機構運営費」が101億788万9千円である。資源エネルギー庁では「石油石炭税財源燃料安定供給対策及エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計への繰入」に3868億3100万円、「電源開発促進税財源電源立地対策及電源利用対策費エネルギー対策特別会計への繰入」が1445億7100万円となっている。中小企業庁では「中小企業政策推進費」に679億3654万6千円、「独立行政法人中小企業基盤整備機構運営費」に183億4522万7千円がある。
歳入予算は2699億4300万6千円である。特有の歳入科目としては「特定アルコール譲渡者納付金」の105億2018万円、「防衛力強化弁償及返納金」の235億1300万円がある。
経済産業省は、特許特別会計を所管し、内閣府・文部科学省及び環境省と、エネルギー対策特別会計を共管する。また国会・裁判所・会計検査院・内閣・内閣府・デジタル庁・復興庁・総務省・法務省・外務省・財務省・文部科学省・厚生労働省・農林水産省・経済産業省・国土交通省・環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。以前所管していた貿易再保険特別会計は、貿易保険制度の改正に伴い2016年度限りで廃止された。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、経済産業省全体で7,633人(男性5,576人、女性2,057人)である。うち本省が4,349人(男性3,026人、女性1,323人)、資源エネルギー庁が423人(男性338人、女性85人)、特許庁が2,674人(男性2,056人、女性618人)、中小企業庁187人(男性156人、女性31人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた経済産業省の定員は特別職1人を含めて8,001人(2023年9月30日までは、8,036人)。本省および各外局別の定員は省令の経済産業省定員規則が、本省4,544人(2022年9月30日までは、4,564人)、資源エネルギー庁が445人、特許庁が2,794人、中小企業庁197人と規定されている。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職5,134人の計5,141人である。一般会計予算定員の機関別内訳は、本省2,540人、経済産業局1,691人、産業保安監督官署314人、資源エネルギー庁398人、中小企業庁198人である。
ほかに、特別会計の予算定員は、特許特別会計が2,816人(経済産業局20人、特許庁2,796人)、エネルギー対策特別会計(経済産業省所管分)が50人(すべて資源エネルギー庁)となっている。
職員の競争試験による採用は人事院の実施する国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、総合職試験(大卒程度試験)、一般職試験(大卒程度試験)、一般職試験(高卒者試験)及び一般職試験(社会人試験(係員級))などの合格者から行われる。
経済産業省職員のうち、一般職の給与は一般職の職員の給与に関する法律(一般職給与法)によって規律される。俸給表は基本的に行政職俸給表、専門行政職俸給表、専門スタッフ職俸給表、指定職俸給表が適用される。特許庁の職員の多くは専門行政職俸給表が適用され、2022年7月1日現在、2,189人が適用となっている。これは全省庁の一般職全体の専門行政職俸給表適用職員8,149人の26.9%を占め、国土交通省(本省)の4,091人に次ぐ多さであるとともに、特許庁全体の職員2,674人の81.9%が専門行政職俸給表を適用されている。
経済産業省職員のうち一般職の国家公務員は、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体2、支部1となっている。組合員数は629人、組織率は9.8%となっている。組織率は13府省2院の平均である37.0%を27ポイント以上下回っている。
主な職員団体は全経済産業省労働組合(全経済)で、経済産業省内では本省、地方支分部局及び特許庁などに組織をおく。産別は国公労連(全労連系)に加盟している。
電力業界を管轄しているため、電力会社・原子力関連企業は早期退職した経済産業省の幹部職員の主要な再就職先の一つであった。福島第一原子力発電所事故以降、この天下り慣行は資源エネルギー庁(旧・原子力安全・保安院)による原子力発電所の安全規制を形骸化させる背景として批判にさらされた(現在は環境省に事務を移管)。
経済産業省の所管する統計調査のうち、経済産業省生産動態統計、ガス事業生産動態統計、石油製品需給動態統計、商業動態統計調査、経済産業省特定業種石油等消費統計、経済産業省企業活動基本統計及び鉱工業指数の7統計が総務大臣により基幹統計に指定されている。定期的に実施している所管統計の分野別一覧は以下の通りである。
経済産業省が毎年、執筆・編集する白書には「通商白書」、「製造基盤白書」(ものづくり白書)、「中小企業白書」および「エネルギー白書」がある。通商白書を除いて、法律に基づき政府が国会に提出する年次報告書から構成された法定白書である。具体的には、製造基盤白書は「政府がものづくり基盤技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」(ものづくり基盤技術振興基本法8条)が、中小企業白書は「中小企業の動向及び政府が中小企業に関して講じた施策に関する報告」(中小企業基本法第11条1項)及び「中小企業の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」(2項)、エネルギー白書は「エネルギーの需給に関して講じた施策の概況に関する報告」(エネルギー政策基本法11条)がそれぞれ収録される。特許庁は閣議案件外の『特許行政年次報告書』を公表している。
「不公正貿易報告書―WTO協定及び経済連携協定・投資協定から見た主要国の貿易政策」は、経済産業大臣の諮問機関である産業構造審議会に設置された通商・貿易分科会不公正貿易政策・措置小委員会によって取りまとめられた年次報告書であり、1992年以来、毎年公表されており2022年で31度目の公表となっている。WTO協定をはじめとする国際的に合意されたルールを基準として、主要国の貿易政策・措置の問題点を指摘し、撤廃や改善を促することを目的とする
定期刊行の広報誌としては、隔月刊で『METI Journal : 経済産業ジャーナル』が電子媒体により発行されている。編集発行の事務は大臣官房政策評価広報課が所掌する。継続前誌は月刊の『経済産業ジャーナル』で、経済産業調査会が発行所(大臣官房広報室が編集協力)であったが、2008年8月号をもって休刊し、2008年11月・12月号から現在のタイトル、刊行頻度及び発行主体に改められた。紙媒体での発行は2011年5月・6月号をもって終了し、ウェブサイトから電子ファイルを配信する形式に切り替えられた。
ウェブサイトのドメイン名は「www.meti.go.jp」。また、各経済産業局、産業保安監督部及び外局も独自のドメイン名をもつ。エネルギー庁は「www.enecho.meti.go.jp」、特許庁は「www.jpo.go.jp」、中小企業庁は「www.chusho.meti.go.jp」となっている。
原則、政治家は除く。なお前身の商工省、軍需省、通産省時代を含む。
一般職の幹部は以下のとおりである。
原子力発電を推進する資源エネルギー庁と、規制する原子力安全・保安院とが同じ経済産業省内にあったことが、2011年3月11日に起きた福島第一原子力発電所事故の原因の一つと考えられた。そのため翌2012年、原子力安全・保安院は廃止され環境省外局の原子力規制委員会が設置された。
2017年2月より実施された働き方改革と連携した個人消費喚起キャンペーン。委託事業として、博報堂がプレミアムフライデー推進協議会の事務局運営事業を受託している。
上記概要の項で既述のように、産業政策では10年毎に発行された「通商産業ビジョン」で見られる、その時代毎の先見性の高さから、今日の産業が通商産業省(現在の経済産業省)の行政指導の下で驚異的に発展していき、通産省の威光は計り知れないほど大きかった。
こうした官民一体となって日本の産業を支えてきた通産省の威光も、1980年代以降から徐徐に陰りを見せ始めた。経済産業省と改称後もその存在意義が問われる現代、直轄・委託等を問わず様々な事業の試みが為されている。古賀茂明は、そうした中身が無くても中身があるモノのように見せたり、立派に、面白そうに見せるために、電通など広告代理店が介在し、中身がないものを“お化粧”した事業の失敗例として、サービスデザイン推進協議会が受託した「おもてなし規格認証」、「クールジャパン」、そして「プレミアムフライデー」を挙げている。
日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響により、2020年持続化給付金事業を緊急支援的に実施するにあたり、経済産業省にはいくつかの選択肢があった。いずれも予算手当てをつけて行う直轄事業、独立行政法人による実施事業、地方自治体による実施事業、委託事業、そして補助金事業の5つである。このうち委託事業以外は、いずれも緊急支援的な同事業実施にあたり不適切で、なじまないものであった。さらに、コロナ禍により今後も過去最大級の景気対策が求められるため、委託事業の形によるとはいえ新規事業の創出をアピールしやすい状況があったという。バブル崩壊後、「官から民へ」の旗印の下、中央省庁再編等一連の行政改革で、国家公務員数はこの20年で6割減の30万人に、また民主党政権の下、事業仕分けにより独立行政法人による受注が削られ多くの業務で民間委託が進んだ。国土交通省などの現業官庁のような政策実行の手足となる出先機関の乏しい経産省では民間との分業が必須になった。こうしたなかで電通が経産省など公共政策に関わる官公庁事業で売り上げを伸ばした。のみならず、経産省にとって切れない存在にまでなった足下を見る形で、環境共創イニシアチブはじめ諸トンネル法人を通し、2015年度からの6年間で再委託事業数72件、事務委託費計1585億円の89%に相当する再委託額1415億円もの多額の公金ないし税金が、実態の裏付けの乏しい事業で、あるいは実体の無い事業で電通とそのグループ会社に流れた。
当時の中小企業庁長官であった前田泰宏と、委託先のサービスデザイン推進協議会業務執行理事平川健司(前電通社員)との親密な関係が疑念を持たれて週刊文春で報じられたように、再委託ないし丸投げに関する制約がなく、経産省側に大きな裁量があったことと、経産省のルールが他省庁に比べて企業・団体側に有利になっていることが明らかとなった。つまり、事実上の丸投げやピンハネなどを招きやすい仕組みであり、裏返せば官製談合を疑われるコネや癒着の温床となりやすい構図であった。その際に担当者レベルから外部有識者に至るチェック機能が働いていなかった制度的要因が指摘されている。
2008年施行の公益法人制度改革により、内閣府の監督下にある公益社団法人に対して、一般社団法人に監督官庁はなく、情報公開の対象も法令上、社員と債権者に限られていることが制度的要因に挙げられている。これにより、実態を外部から把握できない「見えない政府」が現出し、憲法が定める財政民主主義の精神が骨抜きにされている点が指摘されている。この一般社団法人が担う国の予算執行の規模は、2015-2018年度の間、経済産業省が突出して高く、同省のそれが一般社団法人に依存していることが明らかとなっている。 | [
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"text": "経済産業省(けいざいさんぎょうしょう、英: Ministry of Economy, Trade and Industry、略称: METI)は、日本の行政機関のひとつ。経済および産業の発展ならびに鉱物資源およびエネルギー資源の供給に関する行政を所管する。日本語略称・通称は、経産省(けいさんしょう)。",
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"text": "経済産業省設置法第3条の定める任務である「民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギー資源の安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」を達成するため、マクロ経済政策、産業政策、通商政策、貿易管理業務、産業技術政策、流通政策、エネルギー政策などを所管する。",
"title": "概説"
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"text": "1949年(昭和24年)5月25日から2001年(平成13年)1月5日まで通商産業省(つうしょうさんぎょうしょう、英: Ministry of International Trade and Industry、略称: MITI、日本語略称: 通産省〈つうさんしょう〉)が設置されていたが、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編によって、通商産業省を改組及び改称する形で経済産業省が設置された。",
"title": "概説"
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"text": "かつて、前身の通産省は、日本経済ないし「日本株式会社」の総司令塔たる「経済参謀本部」として高度経済成長の牽引役とされた。米国をはじめ諸外国においても「Notorious MITI」ないし「Mighty MITI」と呼ばれたように、その名は日本官僚の優秀さ(ないし脅威)の代名詞として広く知られていた。その持てる許認可及び行政指導をあまねく駆使し、政府系金融機関の割り当て融資(財政投融資)、予算手当て、補助金などを力の源泉として主に産業政策を掌った。それ以外にも、技術革新に応じた科学技術研究開発、貿易、特許、エネルギー政策、中小企業政策など幅広い権限を保持していたほか、日本銀行政策委員会に複数の委員を送り出すなど、事実上、金融政策にも関与していた。",
"title": "概説"
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"text": "しかし、日本の高度経済成長期が終わると、幅広い権限を保持する割りに、「現業官庁」など他省庁と比較して許認可行政・補助金行政ができないことから、否応なしに単発の政策アイディアが主なものとなった。毎年5・6月頃から様々な新政策のアドバルーンを打ち上げてくる。このため、財務省が財政政策、予算査定、税制を通して依然として広く政策決定に関与する「総合官庁」であるのに対して、経産省はほとんどの産業を所管する「行政のデパート」であるも「限定された総合官庁」であると評されている。",
"title": "概説"
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"text": "経産省(通産省)の中から選ばれた一部の中堅官僚は、諸外国の日本貿易振興機構を拠点とし、産業調査員としての各種調査事務に従事している。",
"title": "概説"
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"text": "経産省(通産省)は、自由な気風や業界との交流の多さも後押しし、実業界など経済界に人材を数多く輩出してきた。一方、通産省時代には「政治家を出せない役所」とも言われており、事実、戦前の商工省出身の者には岸信介や椎名悦三郎がいたものの、戦後の通産省出身の者としては林義郎が目立つくらいで、大蔵省や旧内務省系官庁など出身の者に比して見劣りがした。しかし、80年代頃から若手の通産官僚の政界入りが相次ぎ、現在の国会では党派を超えた一大勢力となっている。",
"title": "概説"
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"text": "また、大分県知事の平松守彦(在任1979年~2003年)以降、都道府県知事にも経産省(通産省)出身の者が次第に増え、旧内務省の流れを汲み、伝統的に多くの知事を輩出してきた総務省(自治省)に次ぐ勢力になっており、2020年7月には全国の都道府県知事のうち8名が経産省(通産省)出身だった。経産省(通産省)出身の都道府県知事が増えた理由について、経産省は「企業誘致に経産省時代に培った企業人脈が生きている。産業振興による税収増への期待もあるのだろう」と分析しているが、対する総務省からは「経産省は規制緩和で仕事が減り、知事志向が強まっているのでは」と皮肉る声も出ている。",
"title": "概説"
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"text": "近年、経産省の規制権限は縮小傾向にあり、地域経済振興に活躍の場を求めているという事情もある。また、経産省への移行後は、内閣府などとともにマクロ経済政策を担う官庁として重要な役割を果たすようになってきている。",
"title": "概説"
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"text": "前身の通商産業省は、1949年5月25日、商工省を改組して発足した。その際、旧商工省の外局であった貿易庁及び石炭庁は廃止され、新たに資源庁、工業技術庁及び特許庁の3つの外局が設けられた。1948年8月1日に旧商工省の外局として設置された中小企業庁は、引続き、通商産業省の外局となった。貿易庁は本省の内部部局に、石炭庁は資源庁に移行した。",
"title": "沿革"
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"text": "本組織を考えたのは白洲次郎といわれる。発足当初の通商産業省には、吉田茂 - 白洲 - 牛場信彦らの「外交派」・「通商派」ラインとして、時に「永山天皇」と呼ばれた永山時雄初代官房長らがおり、主流である「産業派」・「統制派」には岸信介 - 椎名悦三郎 - 美濃部洋次 - 山本高行ラインとして、玉置敬三や平井富三郎、佐橋滋、今井善衛などが名を連ね、その他「商務派」には豊田雅孝らがいた。その後も、「資源派」・「国際派」と「国内派」との対立軸など、現在に至るまで省内における政策対立ないし派閥争いには事欠かないことでも知られている。",
"title": "沿革"
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"text": "1952年に資源庁と工業技術庁が廃止され、外局は特許庁と中小企業庁の2つになった。",
"title": "沿革"
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"text": "1972年に田中角栄が通商産業大臣から内閣総理大臣に就任した時、小長啓一から通商産業省出身者が内閣総理大臣秘書官を担当するようになった。これが前例となり、後の内閣も通商産業省から出向で内閣総理大臣秘書官を担当するようになり、首相への通商産業省の影響度が大きくなった。1973年に新たな外局・資源エネルギー庁を設置。",
"title": "沿革"
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"text": "2001年1月の中央省庁再編に伴い、経済産業省に名称変更された。発足当初、経済産業省は「経済省」という略称を用いていたが、全く定着せず、マスコミなどからは経産省と略される。",
"title": "沿革"
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"text": "2011年3月に福島第一原子力発電所事故が起きると、原子力安全・保安院を所管していたことから、事故の発生とその対応について責任を問われ、事務次官、資源エネルギー庁長官及び原子力安全保安院長に事実上の更迭がなされた。",
"title": "沿革"
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"text": "2012年9月19日、原子力規制委員会設置法の施行により、原子力安全・保安院に関する事務が環境省に移管された。原子力安全・保安院(資源エネルギー庁)は廃止され、組織は原子力規制委員会(環境省)に移行した。また、旧保安院の産業保安系5課(保安課、ガス安全課、液化石油ガス保安課、電力安全課、鉱山保安課)は商務情報政策局の3組織(保安課、電力安全課、鉱山・火薬類監理官付)に、産業保安監督部は本省の地方支分部局に再編された。",
"title": "沿革"
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"text": "上記の経済産業省設置法3条に示された任務を達成するため、同法4条は計60号にわたって所掌事務を規定する。具体的には以下などに関することがある。",
"title": "所掌事務"
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"text": "経済産業省の内部組織は一般的には、法律の経済産業省設置法、政令の経済産業省組織令及び省令の経済産業省組織規則が階層的に規定している。なお、他の省の外局の多くや経済産業省でも資源エネルギー庁や特許庁はそれぞれの省の設置法に規定されているが、中小企業庁は中小企業庁設置法という個別の法律に基づいている。",
"title": "組織"
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"text": "経済産業省の地方支分部局には以下の3区分がある。",
"title": "組織"
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"text": "産業保安監督部と那覇産業保安監督事務所を総称して産業保安監督部等という(法律12条見出し)。那覇産業保安監督事務所をのぞいてその庁舎は、経済産業局と同じ場所に位置する。管轄区域は経済産業局1つないし2つ分の管轄区域と同じである。",
"title": "組織"
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"text": "2023年4月1日現在、経済産業省が所管する独立行政法人は下記のとおりである。下記のうち、行政執行法人は製品評価技術基盤機構で、役職員は国家公務員の身分を有する。",
"title": "所管法人"
},
{
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"text": "経済産業省が所管する特殊法人は、2023年4月1日現在、次の3法人である。すべて株式会社の形態で設立された特殊会社である。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "経済産業省が所管する特別の法律により設立される民間法人は、2023年4月1日現在、次の9法人である。",
"title": "所管法人"
},
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"text": "特別の法律により設立される法人。",
"title": "所管法人"
},
{
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"text": "認可法人は以下。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "地方共同法人は所管しない。",
"title": "所管法人"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における経済産業省所管歳出予算は8808億9356万8千円である。組織別の内訳は経済産業本省が2345億9991万6千円、経済産業局が145億2364万7千円、産業保安監督官署が27億2040万8千円、資源エネルギー庁が5403億6977万6千円、中小企業庁が886億7982万1千円となっている。特許庁は一般会計予算を所管せず、特許特別会計が経費を負担する。特許特別会計予算は1454億2133万4千円であり、わずかな一般会計からの繰り入れ(18億4536万1千円)と前年度剰余金(646億3875万円)を除く主要な歳入は特許料等収入(1514億4395万5千円)である。",
"title": "財政"
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{
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"text": "共通費を除いた主な予算項目(100億円以上)としては、本省所管では「国立研究開発法人産業技術総合研究所運営費」が618億円、「情報処理・サービス・製造産業振興費」が333億4613万2千円、「独立行政法人日本貿易振興機構運営費」が265億7000万円、「国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構運営費」が144億4780万円、「対外経済政策推進費」が164億319万6千円、「独立行政法人情報処理推進機構運営費」が101億788万9千円である。資源エネルギー庁では「石油石炭税財源燃料安定供給対策及エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計への繰入」に3868億3100万円、「電源開発促進税財源電源立地対策及電源利用対策費エネルギー対策特別会計への繰入」が1445億7100万円となっている。中小企業庁では「中小企業政策推進費」に679億3654万6千円、「独立行政法人中小企業基盤整備機構運営費」に183億4522万7千円がある。",
"title": "財政"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "歳入予算は2699億4300万6千円である。特有の歳入科目としては「特定アルコール譲渡者納付金」の105億2018万円、「防衛力強化弁償及返納金」の235億1300万円がある。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "経済産業省は、特許特別会計を所管し、内閣府・文部科学省及び環境省と、エネルギー対策特別会計を共管する。また国会・裁判所・会計検査院・内閣・内閣府・デジタル庁・復興庁・総務省・法務省・外務省・財務省・文部科学省・厚生労働省・農林水産省・経済産業省・国土交通省・環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。以前所管していた貿易再保険特別会計は、貿易保険制度の改正に伴い2016年度限りで廃止された。",
"title": "財政"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、経済産業省全体で7,633人(男性5,576人、女性2,057人)である。うち本省が4,349人(男性3,026人、女性1,323人)、資源エネルギー庁が423人(男性338人、女性85人)、特許庁が2,674人(男性2,056人、女性618人)、中小企業庁187人(男性156人、女性31人)となっている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "行政機関職員定員令に定められた経済産業省の定員は特別職1人を含めて8,001人(2023年9月30日までは、8,036人)。本省および各外局別の定員は省令の経済産業省定員規則が、本省4,544人(2022年9月30日までは、4,564人)、資源エネルギー庁が445人、特許庁が2,794人、中小企業庁197人と規定されている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職5,134人の計5,141人である。一般会計予算定員の機関別内訳は、本省2,540人、経済産業局1,691人、産業保安監督官署314人、資源エネルギー庁398人、中小企業庁198人である。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ほかに、特別会計の予算定員は、特許特別会計が2,816人(経済産業局20人、特許庁2,796人)、エネルギー対策特別会計(経済産業省所管分)が50人(すべて資源エネルギー庁)となっている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "職員の競争試験による採用は人事院の実施する国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、総合職試験(大卒程度試験)、一般職試験(大卒程度試験)、一般職試験(高卒者試験)及び一般職試験(社会人試験(係員級))などの合格者から行われる。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "経済産業省職員のうち、一般職の給与は一般職の職員の給与に関する法律(一般職給与法)によって規律される。俸給表は基本的に行政職俸給表、専門行政職俸給表、専門スタッフ職俸給表、指定職俸給表が適用される。特許庁の職員の多くは専門行政職俸給表が適用され、2022年7月1日現在、2,189人が適用となっている。これは全省庁の一般職全体の専門行政職俸給表適用職員8,149人の26.9%を占め、国土交通省(本省)の4,091人に次ぐ多さであるとともに、特許庁全体の職員2,674人の81.9%が専門行政職俸給表を適用されている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "経済産業省職員のうち一般職の国家公務員は、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体2、支部1となっている。組合員数は629人、組織率は9.8%となっている。組織率は13府省2院の平均である37.0%を27ポイント以上下回っている。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "主な職員団体は全経済産業省労働組合(全経済)で、経済産業省内では本省、地方支分部局及び特許庁などに組織をおく。産別は国公労連(全労連系)に加盟している。",
"title": "職員"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "電力業界を管轄しているため、電力会社・原子力関連企業は早期退職した経済産業省の幹部職員の主要な再就職先の一つであった。福島第一原子力発電所事故以降、この天下り慣行は資源エネルギー庁(旧・原子力安全・保安院)による原子力発電所の安全規制を形骸化させる背景として批判にさらされた(現在は環境省に事務を移管)。",
"title": "職員"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "経済産業省の所管する統計調査のうち、経済産業省生産動態統計、ガス事業生産動態統計、石油製品需給動態統計、商業動態統計調査、経済産業省特定業種石油等消費統計、経済産業省企業活動基本統計及び鉱工業指数の7統計が総務大臣により基幹統計に指定されている。定期的に実施している所管統計の分野別一覧は以下の通りである。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "経済産業省が毎年、執筆・編集する白書には「通商白書」、「製造基盤白書」(ものづくり白書)、「中小企業白書」および「エネルギー白書」がある。通商白書を除いて、法律に基づき政府が国会に提出する年次報告書から構成された法定白書である。具体的には、製造基盤白書は「政府がものづくり基盤技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」(ものづくり基盤技術振興基本法8条)が、中小企業白書は「中小企業の動向及び政府が中小企業に関して講じた施策に関する報告」(中小企業基本法第11条1項)及び「中小企業の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」(2項)、エネルギー白書は「エネルギーの需給に関して講じた施策の概況に関する報告」(エネルギー政策基本法11条)がそれぞれ収録される。特許庁は閣議案件外の『特許行政年次報告書』を公表している。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "「不公正貿易報告書―WTO協定及び経済連携協定・投資協定から見た主要国の貿易政策」は、経済産業大臣の諮問機関である産業構造審議会に設置された通商・貿易分科会不公正貿易政策・措置小委員会によって取りまとめられた年次報告書であり、1992年以来、毎年公表されており2022年で31度目の公表となっている。WTO協定をはじめとする国際的に合意されたルールを基準として、主要国の貿易政策・措置の問題点を指摘し、撤廃や改善を促することを目的とする",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "定期刊行の広報誌としては、隔月刊で『METI Journal : 経済産業ジャーナル』が電子媒体により発行されている。編集発行の事務は大臣官房政策評価広報課が所掌する。継続前誌は月刊の『経済産業ジャーナル』で、経済産業調査会が発行所(大臣官房広報室が編集協力)であったが、2008年8月号をもって休刊し、2008年11月・12月号から現在のタイトル、刊行頻度及び発行主体に改められた。紙媒体での発行は2011年5月・6月号をもって終了し、ウェブサイトから電子ファイルを配信する形式に切り替えられた。",
"title": "広報"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ウェブサイトのドメイン名は「www.meti.go.jp」。また、各経済産業局、産業保安監督部及び外局も独自のドメイン名をもつ。エネルギー庁は「www.enecho.meti.go.jp」、特許庁は「www.jpo.go.jp」、中小企業庁は「www.chusho.meti.go.jp」となっている。",
"title": "広報"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "原則、政治家は除く。なお前身の商工省、軍需省、通産省時代を含む。",
"title": "経産省出身の著名人等"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部職員"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "原子力発電を推進する資源エネルギー庁と、規制する原子力安全・保安院とが同じ経済産業省内にあったことが、2011年3月11日に起きた福島第一原子力発電所事故の原因の一つと考えられた。そのため翌2012年、原子力安全・保安院は廃止され環境省外局の原子力規制委員会が設置された。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2017年2月より実施された働き方改革と連携した個人消費喚起キャンペーン。委託事業として、博報堂がプレミアムフライデー推進協議会の事務局運営事業を受託している。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "上記概要の項で既述のように、産業政策では10年毎に発行された「通商産業ビジョン」で見られる、その時代毎の先見性の高さから、今日の産業が通商産業省(現在の経済産業省)の行政指導の下で驚異的に発展していき、通産省の威光は計り知れないほど大きかった。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
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"tag": "p",
"text": "こうした官民一体となって日本の産業を支えてきた通産省の威光も、1980年代以降から徐徐に陰りを見せ始めた。経済産業省と改称後もその存在意義が問われる現代、直轄・委託等を問わず様々な事業の試みが為されている。古賀茂明は、そうした中身が無くても中身があるモノのように見せたり、立派に、面白そうに見せるために、電通など広告代理店が介在し、中身がないものを“お化粧”した事業の失敗例として、サービスデザイン推進協議会が受託した「おもてなし規格認証」、「クールジャパン」、そして「プレミアムフライデー」を挙げている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響により、2020年持続化給付金事業を緊急支援的に実施するにあたり、経済産業省にはいくつかの選択肢があった。いずれも予算手当てをつけて行う直轄事業、独立行政法人による実施事業、地方自治体による実施事業、委託事業、そして補助金事業の5つである。このうち委託事業以外は、いずれも緊急支援的な同事業実施にあたり不適切で、なじまないものであった。さらに、コロナ禍により今後も過去最大級の景気対策が求められるため、委託事業の形によるとはいえ新規事業の創出をアピールしやすい状況があったという。バブル崩壊後、「官から民へ」の旗印の下、中央省庁再編等一連の行政改革で、国家公務員数はこの20年で6割減の30万人に、また民主党政権の下、事業仕分けにより独立行政法人による受注が削られ多くの業務で民間委託が進んだ。国土交通省などの現業官庁のような政策実行の手足となる出先機関の乏しい経産省では民間との分業が必須になった。こうしたなかで電通が経産省など公共政策に関わる官公庁事業で売り上げを伸ばした。のみならず、経産省にとって切れない存在にまでなった足下を見る形で、環境共創イニシアチブはじめ諸トンネル法人を通し、2015年度からの6年間で再委託事業数72件、事務委託費計1585億円の89%に相当する再委託額1415億円もの多額の公金ないし税金が、実態の裏付けの乏しい事業で、あるいは実体の無い事業で電通とそのグループ会社に流れた。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "当時の中小企業庁長官であった前田泰宏と、委託先のサービスデザイン推進協議会業務執行理事平川健司(前電通社員)との親密な関係が疑念を持たれて週刊文春で報じられたように、再委託ないし丸投げに関する制約がなく、経産省側に大きな裁量があったことと、経産省のルールが他省庁に比べて企業・団体側に有利になっていることが明らかとなった。つまり、事実上の丸投げやピンハネなどを招きやすい仕組みであり、裏返せば官製談合を疑われるコネや癒着の温床となりやすい構図であった。その際に担当者レベルから外部有識者に至るチェック機能が働いていなかった制度的要因が指摘されている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "2008年施行の公益法人制度改革により、内閣府の監督下にある公益社団法人に対して、一般社団法人に監督官庁はなく、情報公開の対象も法令上、社員と債権者に限られていることが制度的要因に挙げられている。これにより、実態を外部から把握できない「見えない政府」が現出し、憲法が定める財政民主主義の精神が骨抜きにされている点が指摘されている。この一般社団法人が担う国の予算執行の規模は、2015-2018年度の間、経済産業省が突出して高く、同省のそれが一般社団法人に依存していることが明らかとなっている。",
"title": "関連紛争や諸問題"
}
] | 経済産業省は、日本の行政機関のひとつ。経済および産業の発展ならびに鉱物資源およびエネルギー資源の供給に関する行政を所管する。日本語略称・通称は、経産省(けいさんしょう)。 | {{Redirect|通商産業省|シンガポールの通商産業省|通商産業省 (シンガポール)}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 経済産業省
|公用語名 = けいざいさんぎょうしょう
|英名 = Ministry of Economy, Trade and Industry
|紋章 =経済産業省ロゴ.svg
|紋章サイズ = 280px
|画像 = 経済産業省総合庁舎.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 経済産業省総合庁舎(本館)
|主席閣僚職名 = [[経済産業大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[齋藤健]]
|次席閣僚職名 = [[経済産業副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[岩田和親]]<br />[[上月良祐]]
|補佐官職名 = [[経済産業大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[吉田宣弘]]<br />[[石井拓]]
|次官職名 = [[経済産業事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[飯田祐二]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構]}} 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[経済産業省大臣官房|大臣官房]]<br />[[経済産業政策局]]<br />[[通商政策局]]<br />[[貿易経済協力局]]<br />[[産業技術環境局]]<br />[[製造産業局]]<br />[[商務情報政策局]]
|下部組織2 = [[審議会#行政庁|審議会等]]
|下部組織概要2 = [[産業構造審議会]]<br />[[消費経済審議会]]<br />[[日本産業標準調査会]]<br />計量行政審議会<br />中央鉱山保安協議会<br />[[電力・ガス取引監視等委員会]]<br />国立研究開発法人審議会<br />輸出入取引審議会<br />化学物質審議会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[経済産業研修所]]
|下部組織4 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要4 = [[経済産業局]]<br />[[産業保安監督部]]<br />那覇産業保安監督事務所
|下部組織5 = [[外局]]
|下部組織概要5 = [[資源エネルギー庁]]<br />[[特許庁]]<br />[[中小企業庁]]
|下部組織6 =
|下部組織概要6 =
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8901<br />[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]一丁目3番1号
|位置 = {{coord|35|40|20|N|139|45|3|E|type:landmark_region:JP|display=inline,title|name=METI}}
|定員 = 8,001人(2023年9月30日までは、8,036人)<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 8808億9356万8千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|根拠法令=[[経済産業省設置法]]|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[農商務省 (日本)|農商務省]]<br />[[商工省]]<br />[[軍需省]]<br />通商産業省<br />[[経済企画庁]]
|ウェブサイト = {{official website|name=経済産業省}}
|その他 =
}}
'''経済産業省'''(けいざいさんぎょうしょう、{{lang-en-short|Ministry of Economy, Trade and Industry}}、略称: '''METI''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://kotobank.jp/word/経済産業省-176326 経済産業省] コトバンク 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[日本の経済|経済]]および[[産業]]の発展ならびに[[資源#鉱物資源|鉱物資源]]および[[日本のエネルギー資源|エネルギー資源]]の供給に関する行政を所管する<ref group="注釈">「民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギー資源の安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」([[経済産業省設置法]]第3条)</ref>。[[日本語]]略称・通称は、'''経産省'''(けいさんしょう)。
== 概説 ==
[[経済産業省設置法]]第3条の定める任務である「民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする[[日本の経済|経済]]及び[[産業]]の発展並びに[[資源#鉱物資源|鉱物資源]]及び[[日本のエネルギー資源|エネルギー資源]]の安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」を達成するため、[[マクロ経済学|マクロ経済政策]]、[[産業政策]]、[[:Category:通商政策|通商政策]]、[[貿易]]管理業務、[[産業技術環境局|産業技術政策]]、[[流通]]政策、[[エネルギー政策]]などを所管する。
[[1949年]](昭和24年)[[5月25日]]から[[2001年]](平成13年)[[1月5日]]まで'''通商産業省'''(つうしょうさんぎょうしょう、{{lang-en-short|'''M'''inistry of '''I'''nternational '''T'''rade and '''I'''ndustry}}、略称: '''MITI'''、[[日本語]]略称: '''通産省'''〈つうさんしょう〉)が設置されていたが、[[2001年]](平成13年)[[1月6日]]の[[中央省庁再編]]によって、通商産業省を改組及び改称する形で経済産業省が設置された。
かつて、前身の通産省は、[[日本の経済|日本経済]]ないし「[[日本株式会社]]」の総司令塔たる「経済[[参謀本部]]」として[[高度経済成長]]の牽引役とされた。米国をはじめ諸外国においても「Notorious MITI」{{Efn|ノートリアス・ミティ、日本語では悪名高い通産省。}}ないし「Mighty MITI」{{Efn|マイティ・ミティ、日本語では力強い通産省。}}と呼ばれたように、その名は日本[[官僚]]の優秀さ(ないし脅威)の代名詞として広く知られていた<ref>[[:en:Ezra Vogel|Vogel, Ezra Feivel]] (1979) '' Japan As Number One: Lessons for America'', Cambridge: Harvard University Press. / [[エズラ・ボーゲル]]、[[広中和歌子]]・木本彰子翻訳 『[[ジャパン・アズ・ナンバーワン]]―アメリカへの教訓』([[阪急コミュニケーションズ|TBSブリタニカ]], 1979年)では通産省を行政の中心に描いている。「[[ジャパンバッシング]]」も参照。</ref><ref>[[:en:Chalmers Johnson|Johnson, Chalmers A.]] (1983) ''Miti and the Japanese Miracle: The Growth of Industrial Policy, 1925-1975'', Stanford Univ Press. / [[チャルマーズ・ジョンソン]]、[[矢野俊比古]]監訳 『通産省と日本の奇跡』(TBSブリタニカ、1982年)</ref>。その持てる許認可及び[[行政指導]]をあまねく駆使し、政府系金融機関の割り当て[[融資]]([[財政投融資]])、[[予算]]手当て、[[補助金]]などを力の源泉として主に[[産業政策]]を掌った。それ以外にも、[[イノベーション|技術革新]]に応じた[[テクノロジー|科学技術]]研究開発、[[貿易]]、[[特許]]、[[エネルギー]]政策、[[中小企業]]政策など幅広い権限を保持していたほか、[[日本銀行政策委員会]]に複数の委員を送り出すなど、事実上、[[金融政策]]にも関与していた。
しかし、日本の高度経済成長期が終わると、幅広い権限を保持する割りに、「[[現業]]官庁」など他省庁と比較して許認可行政・補助金行政ができないことから、否応なしに単発の政策アイディアが主なものとなった<ref name=oomiya>大宮知信 『世紀末ニッポンの官僚たち』([[三一書房]]、1991年) P54~</ref>。毎年5・6月頃から様々な新政策の[[アドバルーン]]を打ち上げてくる<ref name=oomiya />。このため、[[財務省]]が[[財政政策]]、予算査定、税制を通して依然として広く政策決定に関与する「総合官庁」であるのに対して、経産省はほとんどの産業を所管する「行政のデパート」であるも「限定された総合官庁」であると評されている<ref>[[川北隆雄]] 『通産省』([[講談社現代新書]]、1991年3月) P110~</ref>。<!-- とりあえず一般的な書籍が出典になっています。三一など発行出版元はいわゆる“左”がかったところかもしれませんが、もっとも、他に専門書も含めた最適な一般書があれば出典として付け足すなり、書き換えるなり‥してくれるよう、どなた様か宜しくお願い致します。また、この節は、沿革の項目へ移動すべき箇所かもしれません。 -->
経産省(通産省)の中から選ばれた一部の中堅官僚は、諸外国の[[日本貿易振興機構]]を拠点とし、産業調査員{{Efn|いわゆる「産調」}}としての各種調査事務に従事している。
経産省(通産省)は、自由な気風や業界との交流の多さも後押しし、実業界など経済界に人材を数多く輩出してきた。一方、通産省時代には「政治家を出せない役所」とも言われており、事実、戦前の[[商工省]]出身の者には[[岸信介]]や[[椎名悦三郎]]がいたものの、戦後の通産省出身の者としては[[林義郎]]が目立つくらいで、[[大蔵省]]や旧[[内務省 (日本)|内務省]]系官庁など出身の者に比して見劣りがした。しかし、80年代頃から若手の通産官僚の政界入りが相次ぎ、現在の[[国会 (日本)|国会]]では党派を超えた一大勢力となっている<ref>[[八幡和郎]] 『さらば!霞が関』(1998年、PHP)。21世紀以降の有力国会議員として、尾身幸次、細田博之、町村信孝、岡田克也、江田憲司、西村康稔、後藤祐一など。</ref>。
また、大分県知事の[[平松守彦]](在任1979年~2003年)以降、[[都道府県知事]]にも経産省(通産省)出身の者が次第に増え、旧内務省の流れを汲み、伝統的に多くの知事を輩出してきた[[総務省]]([[自治省]])に次ぐ勢力になっており<ref name="読売">{{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/local2007/news/20070409ia02.htm|title=旧通産・旧自治「2強時代」…官僚出身知事は6割超す|date=20131214143950}} [[読売新聞オンライン]] 2007年4月9日</ref><ref>[http://digital.asahi.com/articles/DA3S11672245.html (2015統一地方選)現職9人、官僚出身 知事選立候補、4人が4選目指す]{{リンク切れ|date=2019年2月}} [[朝日新聞デジタル]] 2015年3月31日</ref>、2020年7月には全国の都道府県知事のうち8名が経産省(通産省)出身だった。経産省(通産省)出身の都道府県知事が増えた理由について、経産省は「企業誘致に経産省時代に培った企業人脈が生きている。産業振興による税収増への期待もあるのだろう」と分析しているが、対する総務省からは「経産省は[[規制緩和]]で仕事が減り、知事志向が強まっているのでは」と皮肉る声も出ている<ref name="読売"/>。
近年、経産省の規制権限は縮小傾向にあり、[[地域おこし|地域経済振興]]に活躍の場を求めているという事情もある<ref name="産経">[[産経新聞]] 2015年4月13日</ref>。また、経産省への移行後は、[[内閣府]]などとともに[[マクロ経済学|マクロ経済政策]]を担う官庁として重要な役割を果たすようになってきている。
== 沿革 ==
前身の通商産業省は、[[1949年]][[5月25日]]、[[商工省]]を改組して発足した。その際、旧商工省の[[外局]]であった[[貿易庁]]及び[[石炭庁]]は廃止され、新たに[[外局#過去に存在した外局等|資源庁]]、[[産業技術総合研究所|工業技術庁]]及び[[特許庁]]の3つの外局が設けられた。[[1948年]][[8月1日]]に旧商工省の外局として設置された[[中小企業庁]]は、引続き、通商産業省の外局となった。貿易庁は本省の内部部局に、石炭庁は資源庁に移行した。
本組織を考えたのは[[白洲次郎]]といわれる。発足当初の通商産業省には、[[吉田茂]] - 白洲 - [[牛場信彦]]らの「外交派」・「通商派」ラインとして、時に「永山天皇」と呼ばれた[[永山時雄]]初代官房長らがおり、主流である「産業派」・「統制派」には[[岸信介]] - [[椎名悦三郎]] - [[美濃部洋次]] - [[山本高行]]ラインとして、[[玉置敬三]]や[[平井富三郎]]、[[佐橋滋]]、[[今井善衛]]などが名を連ね、その他「商務派」には[[豊田雅孝]]らがいた<ref>[[松本清張]]『現代官僚論』(1963 - 1966年、[[文藝春秋|文藝春秋新社]])より一部引用抜粋。</ref>。その後も、「資源派」・「国際派」と「国内派」との対立軸など、現在に至るまで省内における政策対立ないし派閥争いには事欠かないことでも知られている。
[[1952年]]に資源庁と工業技術庁が廃止され、外局は特許庁と中小企業庁の2つになった。
[[1972年]]に[[田中角栄]]が通商産業大臣から[[内閣総理大臣]]に就任した時、[[小長啓一]]から通商産業省出身者が[[内閣総理大臣秘書官#事務担当首相秘書官|内閣総理大臣秘書官]]を担当するようになった。これが前例となり、後の内閣も通商産業省から出向で内閣総理大臣秘書官を担当するようになり、首相への通商産業省の影響度が大きくなった。[[1973年]]に新たな外局・[[資源エネルギー庁]]を設置。
[[2001年]]1月の[[中央省庁再編]]に伴い、'''経済産業省'''に名称変更された。発足当初、経済産業省は「経済省」という略称を用いていたが<ref>{{WAP|pid=3486530|url=www.meti.go.jp/speeches/data_ed/ed010106j.html|title=大臣初閣議後記者会見の概要 平成13年1月6日(土)|date=2012-3-6}}</ref>、全く定着せず、マスコミなどからは'''経産省'''と略される。
[[2011年]]3月に[[福島第一原子力発電所事故]]が起きると、[[原子力安全・保安院]]を所管していたことから、事故の発生とその対応について責任を問われ、事務次官、資源エネルギー庁長官及び原子力安全保安院長に事実上の更迭がなされた。
[[2012年]]9月19日、原子力規制委員会設置法の施行により、原子力安全・保安院に関する事務が[[環境省]]に移管された。原子力安全・保安院(資源エネルギー庁)は廃止され、組織は[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]](環境省)に移行した。また、旧保安院の産業保安系5課(保安課、ガス安全課、液化石油ガス保安課、電力安全課、鉱山保安課)は商務情報政策局の3組織(保安課、電力安全課、鉱山・火薬類監理官付)に、産業保安監督部は本省の地方支分部局に再編された<ref>経済産業省商務情報政策局商務流通保安グループ「{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/policy/safety_security/industrial_safety/oshirase/2012/09/240919-1.pdf 【事務連絡】経済産業省 産業保安各課の組織移行について]}}」2012年9月19日</ref>。
== 所掌事務 ==
上記の経済産業省設置法3条に示された任務を達成するため、同法4条は計60号にわたって所掌事務を規定する。具体的には以下などに関することがある<ref name="経産省設置法120822">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=411AC0000000099 経済産業省設置法(平成11年7月16日法律第99号)](最終改正:令和2年6月12日法律第49号)</ref>。
{{div col}}
* 経済構造改革の推進(1号)
* [[経済財政諮問会議]]による企画及び立案への参画(2号)
* [[産業構造]]の改善(3号)
* 企業間関係その他の産業組織の改善(4号)
* 市場における経済取引に係る準則の整備(5号)
* [[工業所有権]]の保護及び利用(6号)
* 民間に技術開発に係る環境整備(7号)
* 業種に普遍的な産業政策(8号)
* 産業立地(9号)
* [[工業用水道]]事業の助成及び監督(9号)
* 地域における商鉱工業一般の振興(11号)
* 通商に関する政策及び手続(12号)
* 通商に関する協定又は取決めの実施(13号)
* 通商経済上の国際協力(14号)
* 輸出入の増進(15号)
* 通商政策上の関税に関する事務(16号)
* 通商に伴う[[外国為替]]の管理(17号)
* [[貿易保険]](18号)
* 条約に基づいて日本国に駐留する外国[[軍隊]]、在留[[外国人]]に対する物資・役務の供給(19号)
* 通商一般(20号)
* 鉱工業の科学技術の進歩及び改良並びにこれらに関する事業(21~24号)
* 地質の調査(25号)
* [[工業規格|工業標準]]の整備及び普及(26号)
* [[計量]]の標準の整備及び適正な計量の実施の確保(27号)
* 産業[[公害]]の防止(28号)
* 資源の有効利用(29号)
* 商鉱工業等(30・31号)
* 鉄鋼、非鉄金属、化学工業品、機械器具、鋳造品、鍛造品、繊維工業品、雑貨工業品、鉱物等の物資の輸出、輸入、生産、流通(32号)
* 工業塩の流通及び消費(33号)
* [[肥料#化学肥料|化学肥料]]の輸出、輸入及び生産(34号)
* [[鉄道車両]]、[[鉄道信号]]保安装置、自動車用代燃装置、[[軽車両]]、[[船舶]]、船舶用機関及び船舶用品の輸出及び輸入(35号)
* [[化学物質]]の管理(36号)
* [[競輪|自転車競走]]及び[[オートレース|小型自動車競走]]の施行(37号)
* [[宇宙開発]]に関する大規模技術開発(38号)
* デザインに関する指導及び奨励並びにその盗用の防止(39号)
* 物資の流通の効率化及び適正化(40号)
* 商品市場における取引及び商品投資の監督(41号)
* 通商に関する参考品等の収集及び展示紹介(42号)
* 一般[[消費者]]の利益の保護(43号)
* 火薬類の取締り、[[高圧ガス保安法#高圧ガスの定義|高圧ガス]]の保安、鉱山における保安(44号)
* 情報処理の促進(45号)
* 情報通信の高度化に関する事務のうち情報処理に係るもの(46号)
* 鉱物資源及びエネルギーに関する総合的な政策(47号)
* 省エネルギー及び新エネルギーに関する政策(48号)
* [[石油]]、可燃性[[天然ガス]]、[[石炭]]、[[亜炭]]その他の鉱物等並びにこれらの製品の安定的かつ効率的な供給の確保(49号)
* [[パイプライン輸送|石油パイプライン]]事業(50号)
* [[鉱害]]の賠償(51号)
* 電気、ガス及び熱の安定的かつ効率的な供給の確保(52号)
* 電源開発に関する基本的な政策の企画及び立案並びに推進(53号)
* エネルギーに関する原子力政策(54号)
* エネルギーとしての利用に関する原子力の技術開発(55号)
* [[弁理士]](56号)
* [[中小企業]]の育成及び発展(57号)
* 所掌事務に係る[[国際協力]]に関すること(58号)
* [[文教研修施設]]において、鉱山における保安に関する技術及び実務の教授並びに所掌事務に関する研修を行うこと(59号)
* その他法律{{Efn|法律に基づく命令を含む。}}に基づき経済産業省に属させられた事務(60号)
{{div col end}}
== 組織 ==
経済産業省の内部組織は一般的には、法律の[[経済産業省設置法]]<ref name="経産省設置法120822" />、政令の経済産業省組織令<ref name="経産省組織令130315">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=412CO0000000254 経済産業省組織令(平成12年6月7日政令第254号)]」(最終改正:令和2年9月16日政令第286号)</ref>及び省令の経済産業省組織規則が階層的に規定している<ref>「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000400001 経済産業省組織規則 (平成13年1月6日経済産業省令第1号)]」(最終改正:令和2年9月16日経済産業省令第75号)</ref>。なお、他の省の外局の多くや経済産業省でも資源エネルギー庁や特許庁はそれぞれの省の設置法に規定されているが、中小企業庁は[[中小企業庁#概要|中小企業庁設置法]]<ref name="中小企業庁設置法1948">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000083 中小企業庁設置法 (昭和23年7月2日法律第83号) ](最終改正:平成26年6月13日法律第67号))</ref>という個別の法律に基づいている。
=== 幹部 ===
* [[経済産業大臣]]([[国家行政組織法]]第5条、法律2条2項)
* [[経済産業副大臣]](国家行政組織法16条)(2人)
* [[経済産業大臣政務官]](国家行政組織法17条)(2人)
* [[大臣補佐官|経済産業大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2)(1人、必置ではない)
* [[経済産業事務次官]](国家行政組織法18条)
* [[経済産業審議官]](法律5条1項)
* [[秘書官|経済産業大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
{{div col}}
* [[経済産業省大臣官房|大臣官房]](政令2条1項)
** 総括審議官(政令12条1項)
** 政策立案総括審議官
** サイバーセキュリティ・情報化審議官
** 地域経済産業審議官
** 技術総括・保安審議官
** 審議官(19人)
** 参事官(政令13条)(14人)
** 秘書課(政令14条)
** 総務課
** 会計課
** 業務改革課
** 調査統計グループ
** 福島復興推進グループ
* [[経済産業政策局]]
** 総務課(政令21条)
** 調査課
** 産業構造課
** 産業組織課
** 産業創造課
** 産業資金課
** 企業行動課
** 産業人材課
**地域経済産業グループ
*** 地域経済産業政策課
**** 地域経済産業調査室
**** 地方調整室
*** 地域企業高度化推進課
**** 地域未来投資促進室
*** 地域産業基盤整備課
**** 統括地域活性化企画官
**** 地域活性化企画官
**** 中心市街地活性化室
* [[通商政策局]]
** 総務課(政令35条1項)
** 国際経済課
** 経済連携課
** 米州課
** 欧州課
** 中東アフリカ課
** アジア大洋州課
** 北東アジア課
** 通商機構部(政令2条2項)
*** 参事官(政令35条2項)(3人)
* [[貿易経済協力局]]
** 総務課(政令45条1項)
** 通商金融課
** 貿易振興課
** 技術・人材協力課
** 投資促進課
** 貿易管理部(政令2条2項)
*** 貿易管理課(政令45条2項)
*** 貿易審査課
*** 安全保障貿易管理政策課
*** 安全保障貿易管理課
*** 安全保障貿易審査課
* [[産業技術環境局]]
** 総務課(政令55条)
** 技術振興・大学連携推進課
** 研究開発課
** 基準認証政策課
** 国際標準課
** 国際電気標準課
** 環境政策課
** 資源循環経済課
* [[製造産業局]]
** 総務課(政令66条)
** 金属課
** 化学物質管理課
** 素材産業課
** 生活製品課
** 産業機械課
** 自動車課
** 航空機武器宇宙産業課
* [[商務情報政策局]]
** 総務課(政令80条)
** 情報経済課
** サイバーセキュリティ課
** 情報技術利用促進課
** 情報産業課
** コンテンツ産業課
**商務・サービスグループ
***参事官(3人)
***消費・流通政策課
***商取引監督課
***サービス政策課
***クールジャパン政策課
***ヘルスケア産業課
***生物化学産業課
** 産業保安グループ
***保安課
*** 電力安全課
*** 鉱山・火薬類監理官
*** 製品安全課
{{div col end}}
=== 審議会等 ===
* [[産業構造審議会]](法律6条1項)
* [[消費経済審議会]]
* [[日本産業標準調査会|日本工業標準調査会]]([[産業標準化法|工業標準化法]]、法律6条2項)
* 計量行政審議会([[計量法]]、法律6条2項)
* 中央鉱山保安協議会([[鉱山保安法]]、法律6条2項)
* 輸出入取引審議会(政令98条)
* 国立研究開発法人審議会
* 化学物質審議会
* [[電力・ガス取引監視等委員会]]([[電気事業法]]66条の2)
=== 施設等機関 ===
* [[経済産業研修所]](政令101条)
=== 地方支分部局 ===
経済産業省の地方支分部局には以下の3区分がある。
* [[経済産業局]](法9条1項)(8)
** 支局(法11条1項)(1)
** 通商事務所(法11条1項)(3)
** アルコール事務所(法11条1項)(2021年1月現在、設置されていない)
** 石炭事務所(法11条1項)(2021年1月現在、設置されていない)
* [[産業保安監督部]](法9条1項)(5)
** 支部(法13条1項)(3)
** 産業保安監督署(法13条1項)(2)
* 那覇産業保安監督事務所(法9条2項)
==== 経済産業局 ====
* 北海道経済産業局(政令102条)([[札幌市]])
* 東北経済産業局([[仙台市]])
* 関東経済産業局([[さいたま市]])
* 中部経済産業局([[名古屋市]])
** 電力ガス事業北陸支局(規則249条)([[富山市]])
* 近畿経済産業局([[大阪市]])
* 中国経済産業局([[広島市]])
* 四国経済産業局([[高松市]])
* 九州経済産業局([[福岡市]])
:※[[甲信越地方]]及び[[静岡県]]は関東経済産業局管轄、[[福井県]]は近畿経済産業局管轄である(ただし[[長野県]]・静岡県及び福井県の一部業務は中部経済産業局、[[新潟県]]の一部業務は東北経済産業局のそれぞれ管轄(電力関係など))。
:※九州経済産業局の管轄に[[沖縄県]]は含まれない([[内閣府]]の地方支分部局である[[沖縄総合事務局]]経済産業部が担当する)。
==== 産業保安監督部等 ====
産業保安監督部と那覇産業保安監督事務所を総称して産業保安監督部等という(法律12条見出し)。那覇産業保安監督事務所をのぞいてその庁舎は、経済産業局と同じ場所に位置する。管轄区域は経済産業局1つないし2つ分の管轄区域と同じである。
* 北海道産業保安監督部(政令103条の3)
* 関東東北産業保安監督部
** 東北支部(規則254条の9)
* 中部近畿産業保安監督部
** 近畿支部
* 中国四国産業保安監督部
** 四国支部
* 九州産業保安監督部
* 那覇産業保安監督事務所(法律9条2項)(位置:那覇市)
=== 外局 ===
{{div col}}
* [[資源エネルギー庁]](国家行政組織法3条2項、法律14条1項)
** 長官官房(105条)
** 省エネルギー・新エネルギー部
** 資源・燃料部
** 電力・ガス事業部
** 総合資源エネルギー調査会(法律18条1項)
** 調達価格等算定委員会([[電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法]])
* [[特許庁]]
** 総務部(政令135条)
** 審査業務部
** 審査第ー部
** 審査第二部
** 審査第三部
** 審査第四部
** 審判部
** 工業所有権審議会(政令144条1項)
* [[中小企業庁]](国家行政組織法3条2項、[[中小企業庁設置法]]、法律14条2項)
** 長官官房(政令147条)
** 事業環境部
** 経営支援部
** 中小企業政策審議会([[中小企業基本法]]、中小企業庁設置法)
{{div col end}}
== 所管法人 ==
<!-- 特例民法法人の記述は、制度自体が期限切れで消滅しているので削除しています。 -->
2023年4月1日現在、経済産業省が所管する[[独立行政法人]]は下記のとおりである<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。下記のうち、[[独立行政法人#行政執行法人|行政執行法人]]は[[製品評価技術基盤機構]]で、役職員は[[国家公務員]]の身分を有する。
*経済産業省単独(2023年4月1日現在、計9法人)
**[[経済産業研究所]]
**[[工業所有権情報・研修館]]
**[[産業技術総合研究所]]
**[[製品評価技術基盤機構]]
**[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]]
**[[日本貿易振興機構]]
**[[情報処理推進機構]]
**[[エネルギー・金属鉱物資源機構]]
**[[中小企業基盤整備機構]]
*他省庁と共管する独立行政法人
**[[水資源機構]]([[厚生労働省]]・[[農林水産省]]・[[国土交通省]]と共管)
経済産業省が所管する[[特殊法人]]は、2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>、次の3法人である。すべて[[株式会社]]の形態で設立された[[特殊会社]]である。
*[[日本アルコール産業]]
*[[日本貿易保険]]
*[[商工組合中央金庫]]
経済産業省が所管する[[特別民間法人|特別の法律により設立される民間法人]]は、2023年4月1日現在<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>、次の9法人である。
*[[日本商工会議所]]
*[[全国商工会連合会]]
*[[日本弁理士会]]
*[[全国中小企業団体中央会]]
*[[東京中小企業投資育成]]
*[[名古屋中小企業投資育成]]
*[[大阪中小企業投資育成]]
*[[高圧ガス保安協会]]
*[[日本電気計器検定所]]
[[特別の法律により設立される法人]]<ref>[https://www.meti.go.jp/intro/koueki_houjin/a_index_08.html 経済産業省所管の特別の法律により設立される法人について] 経済産業省</ref>。
*単独所管(2法人)
**全国石油商業組合連合会
**[[原子力発電環境整備機構]]
*他省庁との共管
**[[日本商品先物取引協会]]([[農林水産省]]と共管)
[[認可法人]]は以下。
*[[原子力損害賠償・廃炉等支援機構]]([[内閣府]]及び[[文部科学省]]と共管)
[[地方共同法人]]は所管しない。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における経済産業省所管歳出予算は8808億9356万8千円<ref name="予算" />である。組織別の内訳は経済産業本省が2345億9991万6千円、経済産業局が145億2364万7千円、産業保安監督官署が27億2040万8千円、資源エネルギー庁が5403億6977万6千円、中小企業庁が886億7982万1千円となっている。特許庁は一般会計予算を所管せず、特許特別会計が経費を負担する。特許特別会計予算は1454億2133万4千円であり、わずかな一般会計からの繰り入れ(18億4536万1千円)<ref group="注釈">特別会計に関する法律第196 条の規定による登録免許税の納付の確認並びに課税標準及び税額の認定の事務に要する経費に充てるため必要な財源の一般会計からの繰り入れ。</ref>と前年度剰余金(646億3875万円)を除く主要な歳入は特許料等収入(1514億4395万5千円)である<ref name="tokkai" />。
共通費を除いた主な予算項目(100億円以上)としては、本省所管では「国立研究開発法人産業技術総合研究所運営費」が618億円、「情報処理・サービス・製造産業振興費」が333億4613万2千円、「独立行政法人日本貿易振興機構運営費」が265億7000万円、「国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構運営費」が144億4780万円、「対外経済政策推進費」が164億319万6千円、「独立行政法人情報処理推進機構運営費」が101億788万9千円である。資源エネルギー庁では「石油石炭税財源燃料安定供給対策及エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計への繰入」に3868億3100万円、「電源開発促進税財源電源立地対策及電源利用対策費エネルギー対策特別会計への繰入」が1445億7100万円となっている。中小企業庁では「中小企業政策推進費」に679億3654万6千円、「独立行政法人中小企業基盤整備機構運営費」に183億4522万7千円がある。
歳入予算は2699億4300万6千円である。特有の歳入科目としては「特定アルコール譲渡者納付金」の105億2018万円、「防衛力強化弁償及返納金」の235億1300万円がある。
経済産業省は、特許特別会計を所管し、[[内閣府]]・[[文部科学省]]及び[[環境省]]と、[[エネルギー対策特別会計]]を共管する。また[[国会 (日本)|国会]]・[[日本の裁判所|裁判所]]・[[会計検査院]]・[[内閣 (日本)|内閣]]・[[内閣府]]・[[デジタル庁]]・[[復興庁]]・[[総務省]]・[[法務省]]・[[外務省]]・[[財務省]]・[[文部科学省]]・[[厚生労働省]]・[[農林水産省]]・経済産業省・[[国土交通省]]・[[環境省]]及び[[防衛省]]所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお[[人事院]]は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。以前所管していた貿易再保険特別会計は、貿易保険制度の改正に伴い2016年度限りで廃止された。
== 職員 ==
<!-- 職員数、任用、給与、職員団体、退職の順に記述しています。 -->
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、経済産業省全体で7,633人(男性5,576人、女性2,057人)である<ref name="houkyu">{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。うち本省が4,349人(男性3,026人、女性1,323人)、資源エネルギー庁が423人(男性338人、女性85人)、特許庁が2,674人(男性2,056人、女性618人)、中小企業庁187人(男性156人、女性31人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた経済産業省の定員は特別職1人を含めて8,001人(2023年9月30日までは、8,036人)<ref name="定員令" />。本省および各外局別の定員は省令の経済産業省定員規則が、本省4,544人(2022年9月30日までは、4,564人)、資源エネルギー庁が445人、特許庁が2,794人、中小企業庁197人と規定されている<ref name="定員規則">「[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000400004 経済産業省定員規則(平成13年1月6日経済産業省令第4号)]」(最終改正:令和4年3月31日経済産業省令第22号)</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職7人、一般職5,134人の計5,141人である<ref name="予算" />。一般会計予算定員の機関別内訳は、本省2,540人、経済産業局1,691人、産業保安監督官署314人、資源エネルギー庁398人、中小企業庁198人である。
ほかに、特別会計の予算定員は、特許特別会計が2,816人(経済産業局20人、特許庁2,796人)、エネルギー対策特別会計(経済産業省所管分)が50人(すべて資源エネルギー庁)<ref name="tokkai">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>となっている。
職員の[[公務員試験#国家公務員試験|競争試験]]による採用は人事院の実施する国家公務員採用総合職試験(院卒者試験)、[[総合職]]試験(大卒程度試験)、一般職試験(大卒程度試験)、一般職試験(高卒者試験)及び一般職試験(社会人試験(係員級))などの合格者から行われる。
経済産業省職員のうち、[[一般職]]の[[給与]]は[[一般職の職員の給与に関する法律]](一般職給与法)によって規律される。俸給表は基本的に行政職俸給表、専門行政職俸給表、専門スタッフ職俸給表、指定職俸給表が適用される。特許庁の職員の多くは専門行政職俸給表が適用され、2022年7月1日現在、2,189人が適用となっている<ref name="houkyu" />。これは全省庁の一般職全体の専門行政職俸給表適用職員8,149人の26.9%を占め、国土交通省(本省)の4,091人に次ぐ多さであるとともに、特許庁全体の職員2,674人の81.9%が専門行政職俸給表を適用されている。
経済産業省職員のうち一般職の[[国家公務員]]は、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。[[労働基本権#日本における労働基本権|団結権]]は保障されており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は単一体2、支部1となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]}}</ref>。組合員数は629人、組織率は9.8%となっている。組織率は13府省2院の平均である37.0%を27ポイント以上下回っている。
主な職員団体は全経済産業省労働組合(全経済)で、経済産業省内では本省、地方支分部局及び特許庁などに組織をおく。産別は[[日本国家公務員労働組合連合会|国公労連]]([[全国労働組合総連合|全労連]]系)に加盟している。
電力業界を管轄しているため、電力会社・原子力関連企業は早期退職した経済産業省の幹部職員の主要な再就職先の一つであった。[[福島第一原子力発電所事故]]以降、この[[天下り]]慣行は[[資源エネルギー庁]](旧・[[原子力安全・保安院]])による原子力発電所の安全規制を形骸化させる背景として批判にさらされた(現在は[[環境省]]に事務を移管)。
== 統計 ==
経済産業省の所管する統計調査のうち、経済産業省生産動態統計、ガス事業生産動態統計、石油製品需給動態統計、商業動態統計調査、経済産業省特定業種石油等消費統計、経済産業省企業活動基本統計及び[[鉱工業指数]]の7統計が[[総務大臣]]により基幹統計に指定されている<ref> {{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000472737.pdf 令和3年1月1日現在:53統計]}}</ref>。定期的に実施している所管統計の分野別一覧は以下の通りである。
{{div col}}
* 全産業
** 加工統計調査
***全産業活動指数
***全産業供給指数
* 企業活動
** 基幹統計調査
***経済産業省企業活動基本調査
***経済センサス活動調査
** 一般統計調査
***外資系企業動向調査
***海外事業活動基本調査
***海外現地法人四半期調査
***経済産業省企業金融調査(旧経済産業省設備投資調査)
***工場立地動向調査
***情報処理実態調査
** 加工統計
***産業向け財・サービスの内外価格調査
* 中小企業
** 一般統計調査
***中小企業実態基本調査
** 加工統計
***規模別製造工業生産指数(中小企業製造工業生産指数)
***規模別輸出額・輸入額
***規模別国内企業物価指数 (規模別国内CGPI)
***倒産の状況
***信用保証協会の業務状況
***中小企業の企業数・事業所数
* 鉱工業
** 基幹統計調査
***工業統計調査
***経済産業省生産動態統計調査
** 一般統計調査
***製造工業生産予測調査
***鉄鋼需給動態統計調査
***鉄鋼生産内訳月報
***機能性化学品動向調査
***砕石等動態統計調査
***生コンクリート流通統計調査
***建設機械動向調査
***金属加工統計調査
***繊維流通統計調査
***本邦鉱業のすう勢調査
** 加工調査
***[[鉱工業指数]]
***鉱工業出荷内訳表
***鉱工業総供給表
* 資源・エネルギー
** 基幹統計調査
***経済産業省特定業種石油等消費統計
***石油製品需給動態統計調査
***埋蔵鉱量統計調査
***ガス事業生産動態統計調査
** 一般統計調査
***エネルギー消費統計
***石油輸入調査
***石油設備調査
***灯油及びプロパンガス消費実態調査
***非鉄金属等需給動態統計調査
***貴金属流通統計調査
***非鉄金属海外鉱等受入調査
** 加工統計
***総合エネルギー統計
** 業務統計
***電力調査統計
***石油備蓄の現況
***LPガス備蓄の現況
* 商業
** 基幹統計調査
***商業統計
***商業動態統計調査
* サービス業
** 一般統計調査
***特定サービス産業動態統計調査
**加工統計調査
***[[第3次産業活動指数]]
* 情報通信業
** 一般統計調査
***情報通信業基本調査
* 環境・産業保安
** 一般統計調査
***公害防止設備投資調査
***水質汚濁物質排出量総合調査
***容器包装利用・製造等実態調査
** 業務統計
***電気保安統計
***鉱山保安統計月報
* 工業所有権
** 一般統計調査
***知的財産活動調査
** 業務統計
***特許行政年次報告書(統計・資料編)
* [[産業連関表]]
** 一般統計調査
***鉱工業投入調査
***商品流通調査
***資本財販売先調査
** 加工統計
***延長産業連関表
***簡易延長産業連関表
***地域間産業連関表
***国際産業連関表
{{div col end}}
== 広報 ==
経済産業省が毎年、執筆・編集する[[白書]]には「通商白書」、「製造基盤白書」(ものづくり白書)、「中小企業白書」および「エネルギー白書」がある。通商白書を除いて、法律に基づき[[日本国政府|政府]]が[[国会 (日本)|国会]]に提出する年次報告書から構成された法定白書である。具体的には、製造基盤白書は「政府がものづくり基盤技術の振興に関して講じた施策に関する報告書」([[ものづくり基盤技術振興基本法]]8条)が、中小企業白書は「中小企業の動向及び政府が中小企業に関して講じた施策に関する報告」([[中小企業基本法]]第11条1項)及び「中小企業の動向を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」(2項)、エネルギー白書は「エネルギーの需給に関して講じた施策の概況に関する報告」([[エネルギー政策基本法]]11条)がそれぞれ収録される。特許庁は閣議案件外の『特許行政年次報告書』を公表している。
「不公正貿易報告書―[[世界貿易機関|WTO]]協定及び経済連携協定・投資協定から見た主要国の貿易政策」は、経済産業大臣の諮問機関である[[産業構造審議会]]に設置された通商・貿易分科会不公正貿易政策・措置小委員会によって取りまとめられた年次報告書であり、1992年以来、毎年公表されており2022年で31度目の公表となっている。WTO協定をはじめとする国際的に合意されたルールを基準として、主要国の貿易政策・措置の問題点を指摘し、撤廃や改善を促することを目的とする<ref>[https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/tsusho_boeki/fukosei_boeki/report_2022/index.html 「2022年版不公正貿易報告書」及び「経済産業省の取組方針」]</ref>
定期刊行の広報誌としては、隔月刊で『METI Journal : 経済産業ジャーナル』が電子媒体により発行されている。編集発行の事務は大臣官房政策評価広報課が所掌する。継続前誌は月刊の『経済産業ジャーナル』で、[[経済産業調査会]]が発行所(大臣官房広報室が編集協力)であったが、2008年8月号をもって休刊し、2008年11月・12月号から現在のタイトル、刊行頻度及び発行主体に改められた。紙媒体での発行は2011年5月・6月号をもって終了し、ウェブサイトから電子ファイルを配信する形式に切り替えられた。
[[ウェブサイト]]の[[ドメイン名]]は「<code>www.meti.go.jp</code>」。また、各経済産業局、産業保安監督部及び外局も独自のドメイン名をもつ。エネルギー庁は「<code>www.enecho.meti.go.jp</code>」、特許庁は「<code>www.jpo.go.jp</code>」、中小企業庁は「<code>www.chusho.meti.go.jp</code>」となっている。
== 経済産業省総合庁舎 ==
{{建築物
|名称 = 経済産業省総合庁舎本館
|旧名称 =
|画像 = [[File:Ministry-of-Economy-Trade-and-Industry-02.jpg|200px|経済産業省総合庁舎本館]]
|用途 = 庁舎
|旧用途 =
|設計者 = 建設省大臣官房官庁営繕部
|構造設計者 =
|施工 = [[大林組]]、[[奥村組]]、[[淺沼組]]
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 = [[経済産業省大臣官房]]
|構造形式 = [[鉄骨構造|S造]](一部[[鉄筋コンクリート構造|RC造]])<ref name="kannriunnei">経済産業省大臣官房情報システム厚生課厚生企画室「{{PDFlink|[https://www5.cao.go.jp/koukyo/jigyou/shinprocess/youkou/9/9-1.pdf 経済産業省庁舎の管理・運営業務民間競争入札実施要項(案)]}}」([https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCM1040&id=595210026&Mode=2 パブリックコメント 経済産業省庁舎の管理・運営業務 民間競争入札実施要項(案)に関するご意見の募集について 案件番号595210026]) 電子政府の総合窓口[[e-Gov]]、2010年9月</ref>
|敷地面積 = 24533.05
|建築面積 = 2146.43
|延床面積 = 52959.72
|階数 = 地上18階、地下3階
|高さ =
|着工 =
|竣工 = 1984年
|開館開所 =
|改築 =
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1丁目3番1号
|所在地郵便番号 =
|備考=敷地面積は別館含む
}}
{{建築物
|名称 = 経済産業省総合庁舎別館
|旧名称 =
|画像 = [[ファイル:経済産業省総合庁舎別館.JPG|200px|経済産業省総合庁舎別館]]
|用途 = 庁舎
|旧用途 =
|設計者 = 建設省大臣官房官庁営繕部
|構造設計者 =
|施工 =
|建築主 =
|事業主体 =
|管理運営 = 経済産業省大臣官房
|構造形式 = [[鉄骨鉄筋コンクリート構造|SRC造]]<ref name="kannriunnei" />
|敷地面積 = 24533.05
|建築面積 = 4524.05
|延床面積 = 58535.35
|階数 = 地上11階、地下2階
|高さ =
|着工 =
|竣工 = 1973年
|開館開所 =
|改築 =
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1丁目3番1号
|所在地郵便番号 =
|備考=敷地面積は本館含む
}}
* 本省庁舎は千代田区霞が関1丁目3番1号の「経済産業省総合庁舎本館」と「経済産業省総合庁舎別館」で、地下に連絡通路がある。本館の南側には[[日本郵政|日本郵政株式会社]]旧本社が、北東側には東京メトロ千代田線の[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]が隣接し、桜田通りを挟んで西側に[[財務省]]庁舎がある。
* 大臣等幹部や大半の内部部局の執務スペースは本館に置かれ、別館には産業技術環境局と3つの外局と所管独法の[[経済産業研究所]]と[[産業技術総合研究所]]が入居している。
* 別館の方が古く1973年に竣工し、1984年に現在の本館が竣工するまで、通産省の本庁舎として使用された。敷地内のオープンスペースと緑地の確保のため、本館は[[中央合同庁舎第5号館]]に続く地上18階、地下3階の[[超高層建築物|超高層]]庁舎として建設された。
* 省エネルギーの工夫の一つとして開口部を壁面より内側に後退させ、[[庇]]と同様に日射を軽減するデザインを採用している<ref>[https://www.mlit.go.jp/gobuild/gobuild_fr6_000023.html 官庁営繕>経済産業省総合庁舎] [[国土交通省大臣官房]]官庁営繕部、2015年5月4日閲覧。</ref>。地下1階には厚生施設として[[スターバックス|スターバックスコーヒー]]経済産業省店が2006年より営業していた。別館は1期工事として南側半分が1968年に完成、5年後の1973年に残り北側半分の2期工事が完成し竣工した。2008年には免震レトロフィット工法による[[耐震工事]]を実施し、防災拠点施設として必要な耐震性能を確保した。
== 経産省出身の著名人等<!--著名人でもない若手等の人物が入っているので「等」を付加--> ==
原則、政治家は除く<!--選挙目的等-->。なお前身の商工省、軍需省、通産省時代を含む。
*[[木戸幸一]] - [[内大臣府|内大臣]] / [[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])時の[[昭和天皇]]の最側近<!--政府、府中の政治家ではなく宮中の制官外にいたので掲載した。-->
*[[植村甲午郎]] - [[日本経済団体連合会#人事一覧|経済団体連合会会長]]、[[企画院]]次長
*[[岸信介]] - [[内閣総理大臣]] / 「[[満州人脈]]」の代表格。[[安倍晋三]]・[[岸信夫]]の祖父
*[[椎名悦三郎]] - [[自由民主党副総裁]] / 「満州人脈」の一人で後の「[[椎名裁定]]」が知られている
*[[美濃部洋次]] - [[日本評論社|日本評論新社]]社長 / 「満州人脈」の一人で[[革新官僚]]の代表格の一人
*[[玉置敬三]] - [[東芝]]社長、会長
*[[稲山嘉寛]] - 経済団体連合会会長、[[新日本製鐵]](現[[日本製鉄]])初代社長
*[[永山時雄]] - [[昭和シェル石油]]会長
*[[平井富三郎]] - 新日本製鐵(現日本製鉄)社長、[[日本サッカー協会]]会長
*[[佐橋滋]] - [[余暇開発センター]]理事長 / 下記両角良彦らとの[[特定産業振興臨時措置法案|特振法案]]で知られる『[[官僚たちの夏]]』の主人公
*[[今井善衛]] - [[新日本石油化学|日本石油化学]]社長 / 上記佐橋滋の同期ライバル
*[[吉國一郎]] - [[コミッショナー (日本プロ野球)|プロ野球コミッショナー]]、[[内閣法制局長官]]
*[[山本重信]] - [[トヨタ自動車]]副会長、[[日野自動車]]会長
*[[両角良彦]] - [[電源開発]]総裁、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]研究家
*[[赤澤璋一]] - [[富士通]]副会長、[[日本貿易振興機構|ジェトロ]]理事長
*[[山下英明]] - [[三井物産]]副会長
*[[天谷直弘]] - [[臨時教育審議会]]第一部長、[[電通総研]]所長
*[[岸田文武]] - 衆議院議員 / [[岸田文雄]]の父
*[[平松守彦]] - [[大分県知事一覧|大分県知事]]、[[マグサイサイ賞]]受賞
*[[内田元亨]] - [[技術コンサルタント]]、元通産省[[技官]]官僚
*[[小長啓一]] - [[富士石油|AOCホールディングス]]会長、[[アラビア石油]]社長 / 『[[日本列島改造論]]』
*[[並木信義]] - 評論家、経済学者、[[亜細亜大学]]教授
*[[黒田眞]] - [[三菱商事]]副社長 / 1987年[[日米貿易摩擦|日米半導体交渉]]にて「タフ・[[ネゴシエーター]]」の異名
*[[石井威望]] - [[評論家]]、[[東京大学]]名誉教授。元通産省技官官僚
*[[棚橋祐治]] - [[石油資源開発]]会長 / [[畠山襄]]らと[[日米構造協議]]に関わった
*[[堺屋太一]] - 作家、[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]]([[民間人閣僚]])
*[[内藤正久]] - [[伊藤忠商事]]副会長 / 「[[通産省4人組事件]]」と巷間言われた派閥争いで[[次官]]昇格前に退官
*[[坂本春生]] - [[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]事務総長、副会長 / 女性通産官僚の草分け(1962年組には文部省の[[遠山敦子]]がいる)。1964年入省の蒲よし子(夭折)に次ぎ[[川口順子]]は女性キャリア3人目の入省者。
*[[黒田直樹]] - [[国際石油開発帝石]]会長 / [[日米貿易摩擦|日米自動車交渉]]の最前線で関わった
*[[一柳良雄]] - コメンテーター、[[経営コンサルタント]]
*[[八幡和郎]] - 評論家、歴史作家、[[徳島文理大学]]教授
*[[太田房江]] - 参議院議員、[[タレント]]、[[大阪府知事]](2000-2008年) / 女性初の[[知事]]
*守谷治 - [[日本アルコール販売]]取締役、日本合成アルコール・日伯エタノール社長 / [[守谷慧]]の父
*[[古賀茂明]] - コメンテーター、元[[国家公務員制度改革推進本部]]事務局審議官
*[[川本明]] - 評論家、[[投資ファンド]]経営者
*[[今井尚哉]] - [[安倍晋三]][[内閣総理大臣秘書官#政務担当首相秘書官(首席秘書官)|内閣総理大臣首席秘書官]]・[[内閣総理大臣補佐官]] / 上記今井善衛及び[[今井敬]]の甥
*[[村上世彰]] - [[村上ファンド]]代表
*[[岸博幸]] - コメンテーター、タレント、[[内閣官房参与]]、[[慶應義塾大学]]大学院教授
*[[中野剛志]] - 評論家・[[経済評論家]]、[[京都大学大学院工学研究科・工学部|京都大学大学院工学研究科]]准教授
*[[朝比奈一郎]] - 青山社中株式会社代表
*[[石坂弘紀]] - [[LDH (持株会社)|LDH]]社長
*[[星島郁洋]] - [[高松ファイブアローズ]]社長兼GM
== 幹部職員 ==
一般職の幹部は以下のとおりである<ref>{{Cite web|和書|title=幹部名簿 (METI/経済産業省) |url=https://www.meti.go.jp/intro/data/index_leaders.html |website=www.meti.go.jp |access-date=2023-07-05}}</ref>。
{{div col}}
* 事務次官:[[飯田祐二]]
* 経済産業審議官:[[保坂伸]]
* 大臣官房長:藤木俊光
** 総括審議官:南亮
** 政策立案総括審議官:龍崎考嗣
* 経済産業政策局長:[[山下隆一]]
* 通商政策局長:松尾剛彦
** 通商機構部長:[[柏原恭子]]
* 貿易経済協力局長:福永哲郎
** 貿易管理部長:猪狩克郎
* 産業技術環境局長:畠山陽二郎
* 製造産業局長:伊吹英明
* 商務情報政策局長:野原諭
* [[電力・ガス取引監視等委員会]]事務局長:新川達也
* 資源エネルギー庁長官:[[村瀬佳史]]
* 特許庁長官:[[濱野幸一]]
* 中小企業庁長官:[[須藤治]]
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== 関連紛争や諸問題 ==
=== 貿易紛争・通商問題 ===
* [[日米繊維交渉]] - [[日米貿易摩擦]] - [[ジャパンバッシング]]([[東芝機械ココム違反事件]]等) - [[日米構造協議]]([[BTRON#通商問題]]等) - [[日米貿易交渉 (2018年-2019年)|日米貿易交渉(2018年-2019年)]] - [[日本のTPP交渉及び諸議論]]([[投資家対国家の紛争解決|ISDS条項]]等)
* [[東シナ海ガス田問題]] - [[希土類元素#中国依存の問題|中国によるレアアース対日禁輸措置]] - [[地域的な包括的経済連携協定|RCEP]] - 中台分業体制(チャイワン)企業([[フォックスコン]]、[[TSMC]])や[[華僑]]資本の販路干渉妨害による[[シャープ]]等外国企業買収問題
* [[朝鮮民主主義人民共和国に対する制裁|北朝鮮に対する経済制裁]]([[経済制裁#現在経済制裁を受けている国|現在経済制裁を受けている国]]も参照) - [[瀬取り#朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による瀬取り|北朝鮮による瀬取り等制裁回避問題]] - [[日韓貿易紛争]]([[フッ化水素#輸出管理|フッ化水素の輸出管理]])
=== 産業政策に関わる問題 ===
* [[特定産業振興臨時措置法案]]
* [[YXX]] - [[YSX]] - [[Mitsubishi SpaceJet|MSJ]](旧MRJ)
* [[Σプロジェクト]]
* 日本版[[中小企業技術革新研究プログラム|中小企業技術革新研究プログラム(SBIR)]]については、[[中小企業庁#SBIR制度]]を参照。
* [[国際原子力開発]] - [[東芝#重電機|東芝のウェスティングハウス買収に伴う巨額負債]]
=== 福島第一原発事故における問題 ===
{{Main|原子力規制委員会 (日本)#概要|原子力規制委員会 (日本)#原子力規制庁職員に対する規制}}
[[原子力発電]]を推進する[[資源エネルギー庁]]と、規制する[[原子力安全・保安院]]とが同じ経済産業省内にあったことが、[[2011年]][[3月11日]]に起きた[[福島第一原子力発電所事故]]の原因の一つと考えられた。そのため翌[[2012年]]、原子力安全・保安院は廃止され[[環境省]][[外局]]の[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]が設置された。
=== プレミアムフライデー ===
{{Main|プレミアムフライデー#課題と現状}}
[[2017年]]2月より実施された[[働き方改革関連法|働き方改革]]と連携した[[消費|個人消費]]喚起[[キャンペーン]]。[[委託]]事業として、[[博報堂]]がプレミアムフライデー推進協議会の事務局運営事業を受託している<!--参照 conference20170329.pdf-->。
上記概要の項で既述のように、[[産業政策]]では10年毎に発行された「通商産業ビジョン」で見られる、その時代毎の先見性の高さから、今日の産業が通商産業省(現在の経済産業省)の[[行政指導]]の下で驚異的に発展していき、通産省の威光は計り知れないほど大きかった<ref name="morin">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/76444?page=3 |archivedurl= |title=経産省、世紀の大失策…無茶苦茶なコロナ対策のせいで、日本は衰退へ もはや通産省時代の栄光にすがるのみ |author=[[森永卓郎]] |work=[[週刊現代|現代ビジネス]] |publisher=[[講談社]] |date=2020-10-18 |accessdate=2020-10-19}}</ref>。
こうした官民一体となって日本の産業を支えてきた通産省の威光も、[[1980年代]]以降から徐徐に陰りを見せ始めた。経済産業省と改称後もその存在意義が問われる現代、直轄・委託等を問わず様々な事業の試みが為されている。[[古賀茂明]]は、そうした中身が無くても中身があるモノのように見せたり、立派に、面白そうに見せるために、[[電通]]など[[広告代理店]]が介在し、中身がないものを“お化粧”した事業の失敗例として、[[サービスデザイン推進協議会]]が受託した「[[おもてなし]]規格認証」、「[[クールジャパン]]」、そして「[[プレミアムフライデー]]」を挙げている<ref name="morin" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.nifty.com/article/domestic/government/12136-701401/ |archivedurl= |title=古賀茂明氏が経産省と電通の闇をズバリ指摘「元凶は3チャラ政治」 |author=[[日刊ゲンダイ#日刊ゲンダイDIGITAL(旧称ゲンダイネット)|日刊ゲンダイDIGITAL]] |publisher=[[ニフティ|@niftyニュース]] |date=2020-06-21 |accessdate=2020-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/yajiuma/1249536.html |archivedurl= |title=やじうまWatch もはや風前の灯、毎月最終金曜日の「プレミアムフライデー」このまま自然消滅か? |author= |publisher=INTERNET Watch |date=2020-04-27 |accessdate=2020-08-06}}</ref>。
=== 委託事業に関わる問題 ===
; [[電通]]による[[丸投げ]]問題
[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響]]により、2020年[[持続化給付金]]事業を緊急支援的に実施するにあたり、経済産業省にはいくつかの選択肢があった。いずれも[[予算]]手当てをつけて行う直轄事業、[[独立行政法人]]による実施事業、[[地方公共団体|地方自治体]]による実施事業、委託事業、そして[[補助金]]事業の5つである。このうち委託事業以外は、いずれも緊急支援的な同事業実施にあたり不適切で、なじまないものであった。さらに、コロナ禍により今後も過去最大級の[[景気対策]]が求められるため、委託事業の形によるとはいえ新規事業の創出をアピールしやすい状況があったという<ref name="takat">{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/36229 |archivedurl= |title=元経産省職員が解説「霞が関が"丸投げ委託"を続ける根本原因」 なぜ電通との取引を優先するのか |author=高辻成彦 |work=[[プレジデント社|プレジデントオンライン]](一部改変引用) |publisher=[[プレジデント社]] |date=2020-06-15 |accessdate=2020-07-18}}</ref>。<br />[[バブル崩壊]]後、「官から民へ」の旗印の下、[[中央省庁再編]]等一連の[[行政改革]]で、国家公務員数はこの20年で6割減の30万人に、また[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]政権の下、[[事業仕分け (行政刷新会議)|事業仕分け]]により独立行政法人による受注が削られ多くの業務で[[民間委託]]が進んだ。[[国土交通省]]などの[[現業]]官庁のような政策実行の手足となる[[出先機関]]の乏しい経産省では民間との[[分業]]が必須になった{{Efn|実際には、国土交通省といわず、[[財務省]]外局[[国税庁]](ないし[[日本税理士会連合会]])を利用すれば、電通や[[パソナ]]などに委託するよりはるかに安全でスムーズに業務が行えたはずで、[[持続化給付金]]業務に適しているとは決して言えない電通などがうけとった769億円の事務委託費は、本来まったく不要なものであった。しかし、自分の[[縄張り]]を他省庁に取られることになるので、これは絶対にやらない…などと指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mag2.com/p/news/455149 |archivedurl= |title=元国税が暴露。電通「中抜き」問題と官僚天下り問題との深い関係 |author= |date=2020-06-18 |accessdate=2020-11-19 |website=[[まぐまぐ|MAG2NEWS]](一部改変引用)}}</ref>。}}。こうしたなかで[[電通]]が経産省など[[公共政策]]に関わる官公庁事業で売り上げを伸ばした。のみならず、経産省にとって切れない存在にまでなった足下を見る形で、[[環境共創イニシアチブ]]はじめ諸[[丸投げ|トンネル法人]]を通し、2015年度からの6年間で再委託事業数72件、事務委託費計1585億円の89%に相当する再委託額1415億円もの多額の[[公金]]ないし[[税金]]が、実態の裏付けの乏しい事業で、あるいは実体の無い事業で電通とそのグループ会社に流れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/37899 |archivedurl= |title=「持続化給付金」再委託問題 浮かび上がった4つの論点とは |author=桐山純平、森本智之、皆川剛、大島宏一郎 |publisher=[[東京新聞社]] |date=2020-06-26 |accessdate=2020-08-24 |work=[[東京新聞]](一部改変引用)}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/49678 |archivedurl= |title=電通への再委託額は計1415億円 過去6年間で72件 |author=桐山純平 |work=東京新聞 |publisher=東京新聞社 |date=2020-08-19 |accessdate=2020-08-24}}</ref>。
当時の中小企業庁長官であった[[前田泰宏]]と、委託先の[[サービスデザイン推進協議会]]業務執行理事平川健司(前電通社員)との親密な関係が疑念を持たれて[[週刊文春]]で報じられたように、再委託ないし[[丸投げ]]に関する制約がなく、経産省側に大きな裁量があったことと、経産省のルールが他省庁に比べて企業・団体側に有利になっていることが明らかとなった。つまり、事実上の丸投げや[[ピンハネ]]などを招きやすい仕組みであり、裏返せば[[入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律|官製談合]]を疑われる[[コネ]]や[[癒着]]の温床となりやすい構図であった。その際に担当者レベルから外部有識者に至るチェック機能が働いていなかった制度的要因が指摘されている<ref name="takat" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7T6WR6N7PULFA028.html |archivedurl= |title=テーマ特集:経産省の民間委託 民間委託で丸投げ、中抜き…経産省の独自ルールに問題か |author=箱谷真司、新宅あゆみ、高木真也 |publisher=[[朝日新聞社]] |work=[[朝日新聞デジタル]] |date=2020-07-26 |accessdate=2020-08-01}}</ref>。
2008年施行の[[公益法人制度改革]]により、[[内閣府]]の監督下にある[[公益社団法人]]に対して、[[一般社団法人]]に監督官庁はなく、[[情報公開]]の対象も法令上、社員と債権者に限られていることが制度的要因に挙げられている。これにより、実態を外部から把握できない「見えない政府」が現出し、憲法が定める[[財政民主主義]]の精神が骨抜きにされている点が指摘されている{{refnest|group="注釈"|蛇足として、官界や大企業などでは、[[政策]]の間違いを間違いと認めない、あるはずもないものとする「[[無謬]]性神話」が蔓延っている点も従来より指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/37899 |archivedurl= |title=【室伏謙一】霞ヶ関、永田町に蔓延る「無謬性の神話」が日本をダメにする |author=室伏謙一 |publisher=[[「新」経世済民新聞]] |date=2019-05-28 |accessdate=2020-11-19 |work= }}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/49678 |archivedurl= |title=なぜ政治・政策はゆっくり・少しずつしか変わることができないのか? -官僚の無謬性神話- |author=[[おときた駿]] |work= |publisher=[[ハフィントンポスト]] |date=2015-10-18 |accessdate=2020-11-19}}</ref>。}}。この一般社団法人が担う国の予算執行の規模は、2015-2018年度の間、経済産業省が突出して高く、同省のそれが一般社団法人に依存していることが明らかとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20201013/k00/00m/020/300000c |archivedurl= |title=一般社団に支出1.3兆円、最多は電通系3708億円 支出元は経産省突出 15{{~}}18年度予算 |author=三沢耕平 |work=[[毎日新聞]] |publisher=[[MSN|MSNニュース]] |date=2020-10-13 |accessdate=2020-10-19}}</ref>。
; 主な委託事業等の例
* [[クールジャパン]]の事業実施主体等の流れ
** [[海外需要開拓支援機構]] - [[電通]]([[AKB48]]も参照)
* [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|2019年新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行]]に伴う[[中小企業庁]]による[[持続化給付金]]の事業委託、再委託等の流れ
** [[サービスデザイン推進協議会]] - 電通([[前田泰宏#報道等]]を参照。[[キャッシュレス推進協議会]]、[[自由民主党 (日本)#問題]]も参照。)
* 同2019年新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行に伴う中小企業庁による家賃支援給付金事業の受託をめぐる[[独占禁止法]]違反・[[下請代金支払遅延等防止法|下請法]]違反問題
** [[電通#家賃支援給付金事業の受託をめぐる問題]]を参照。
=== その他 ===
* [[通産省4人組事件]]
* [[特許庁#関連紛争や諸問題]]
* [[資源エネルギー庁#諸問題]]
=== 不祥事など ===
* [[経済産業省審議官インサイダー取引事件]]
* 2018年4月11日、経産省情報システム厚生課係長が、偽造の[[健康保険証]]を示して携帯電話を購入し現金をだまし取ったとして、[[詐欺罪|詐欺]]容疑で警視庁捜査2課に逮捕された。2016年9月下旬から同年12月中旬ごろにかけて、品川区内にある携帯電話販売店で、身分確認の際に偽造の健康保険証を提示し、携帯電話6台を詐取。携帯電話の購入契約に伴うキャッシュバック特典を利用することで、現金計約23万円をだまし取ったとしている<ref>{{Cite web|和書|title=経産省係長、携帯電話6台など詐取容疑で逮捕 キャッシュバック特典悪用か|url=https://www.sankei.com/affairs/amp/180411/afr1804110024-a.html|work=産経新聞|date=2018-04-11|accessdate=2021-08-22}}</ref>。
* 2019年5月8日、経産省製造産業局自動車課の課長補佐が[[麻薬特例法]]違反(規制薬物としての所持)容疑で[[警視庁]][[組織犯罪対策部|組織犯罪対策5課]]に逮捕された。後に[[覚醒剤取締法]]違反(密輸、使用)などで[[執行猶予]]判決が下された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5853GYM58UTIL038.html |title=経産省キャリア、省内で覚醒剤使用か 注射器を押収 |accessdate=2020-12-05|arthor= |publisher=朝日新聞 |date=2019-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9B4VXWM9BUTIL02L.html |title=元経産省キャリアに猶予判決 覚醒剤使用で東京地裁判決 |accessdate=2020-12-05 |arthor=阿部峻介 |publisher=朝日新聞 |date=2019-09-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://finders.me/articles.php?id=1225 |title=文科省キャリア、覚せい剤事件。官僚を堕落させた省内の陰湿な職場イジメ【連載】阿曽山大噴火のクレージー裁判傍聴(4) |accessdate=2020-12-05|author=[[阿曽山大噴火]] |publisher=FINDERS |date=2019-08-20}}</ref><ref group="注釈">2018年年末には[[外務省]]([[外務省#関連紛争や諸問題]]参照)<!--https://www.asahi.com/articles/ASM2Q5HGYM2QUTFK01M.html-->、2019年5月28日には[[文部科学省]]でも同種の[[薬物]]事件が起きた([[文部科学省#不祥事や疑惑など]]参照)。</ref>。
*2021年4月23日、経済産業省大臣官房総務課国会連絡室の係長が、[[通常国会]]開会中の4月23日夕方、[[国会議事堂]][[衆議院]]本館2階の女子トイレ個室を使用中だった女性を[[盗撮]]。[[警視庁]][[麹町警察署]]が捜査し、男性職員は犯行を認めた。衆議院はこの男性職員が国会内の通行証を持っているが、院内への立ち入りを認めないことを明らかにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/112776|title=国会内の女性トイレで盗撮、経産省職員が犯行認める|accessdate=2021-06-27|publisher=東京新聞 |date=2021-06-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news24.jp/articles/2021/06/25/07895774.html|title=経産省職員”盗撮”認める 国会トイレで…|accessdate=2021-06-27|publisher=日テレNEWS24 |date=2021-06-25}}</ref><ref name=sankei20210819>{{Cite web|和書|title=国会内盗撮で経産省職員を書類送検 捜査難航に議事堂の「特殊性」|url=https://www.sankei.com/article/20210819-PMMS75IUQBKBLB3MY3P4PM2X2U/|work=産経新聞|date=2021-08-19|accessdate=2021-08-22}}</ref>。同年8月19日、警視庁はこの職員を東京都[[迷惑防止条例]]違反容疑で書類送検した<ref name=sankei20210819 />。経済産業省はこの職員を停職9月の懲戒処分とした<ref>[https://www.meti.go.jp/press/2021/12/20211201003/20211201003.html 懲戒処分を行いました] 経済産業省 2021年12月1日</ref>。
* 2021年6月25日、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|2019年新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行]]の影響で売り上げが減少した個人事業主らを対象とする、国の家賃支援給付金、約550万円を詐取したとして、経産省経済産業政策局産業資金課係長と同局産業組織課員の2人が詐欺容疑で警視庁[[刑事部|捜査2課]]に逮捕された<ref>{{Cite news|title=コロナ対策給付金を詐取容疑、経産省キャリア2人逮捕|url=https://www.asahi.com/articles/ASP6T5QW5P6TUTIL02V.html|newspaper=朝日新聞|date=2021-06-25|accessdate=2021-07-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210627053409/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021062700172|title=「相談してやった」 経産キャリア2人容疑認める―コロナ給付金詐取・警視庁|accessdate=2021-06-27|publisher=時事通信 |date=2021-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=経産省キャリア2人逮捕 コロナ関連給付金詐欺疑い|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE256C90V20C21A6000000/|work=日本経済新聞|date=2021-06-25|accessdate=2021-08-22}}</ref>。2名は、更に複数の[[ペーパーカンパニー]]を駆使し、その他余罪や持続化給付金も詐取していた容疑が報じられている{{refnest|group="注釈"|2人とも[[慶應義塾高等学校]]の同級生であり、一方は3浪で東大入学後東大法科大学院を経て、他方は[[みずほ銀行]]を経て入省していた<ref>{{Citenews|title=経産省キャリアの給付金詐欺 別の会社でも家賃支援給付 |url=https://www.sankeibiz.jp/business/news/210703/bse2107030614001-n1.htm |newspaper=[[産経新聞|SankeiBiz]] |date=2021-07-03 |accessdate=2021-07-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210711230952/https://www.sankeibiz.jp/business/news/210703/bse2107030614001-n1.htm |archivedate=2021-07-11}}、{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/tv/2021/07/01415138.html?p=all |title=「経産省詐欺官僚」金銭トラブル常習だった!ウソ投資話・借金踏み倒し...役所は身上調査したのか?――ほか3編 |date=2021-07-01 |accessdate=2021-07-03|publisher= [[ジェイ・キャスト|J-CASTテレビウォッチ]]}}</ref>。}}。同年7月19日、捜査2課は新たに家賃支援給付金約600万円をだまし取った、詐欺の容疑で2人を再逮捕した<ref>{{Cite web|和書|title=経産省キャリア2人を再逮捕 詐欺容疑、総額1千万円超|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7M62PYP7MUTIL004.html|work=朝日新聞デジタル|date=2021-07-19|accessdate=2021-07-24}}</ref>。同年12月21日、[[東京地方裁判所]]は元係長に懲役2年6カ月の実刑、元課員に懲役2年執行猶予4年を言い渡した<ref>{{Cite web|和書|title=経産省元キャリアに実刑判決 「華美な生活改められず」 給付金詐欺|url=https://www.asahi.com/articles/ASPDP465PPDPUTIL00M.html|work=朝日新聞デジタル|date=2021-12-21|accessdate=2022-01-03}}</ref>。
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ministry of Economy, Trade and Industry}}
* [[商工省]](1943年11月1日に廃止され以下に分割された。1945年8月26日に再度商工省に復した。)
** [[軍需省]](商工省の大半と[[企画院]]を統合)
** [[農商務省 (日本)#農商省|農商省]](軽産業行政を[[農林水産省|農林省]]に移管)
** [[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]](倉庫行政を移管)
** [[大東亜省]]([[大東亜共栄圏]]内の[[交易]]行政を移管)
* [[国際協力銀行|旧・日本輸出入銀行]](輸銀に対する輸入割当融資の権限により通産省のプレゼンスは高まった。)
* [[日本政策投資銀行|旧・日本開発銀行]]・[[中小企業金融公庫|旧・中小企業金融公庫]](輸銀と共に「体制金融」を担った通産省関連[[財政投融資|財投]]機関。なお、輸銀・開銀については[[池田勇人#生涯]]も参照。)
* [[大学発ベンチャー1000社計画]]
* [[経済産業省アイディアボックス]]
* [[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]
* [[不正競争防止法]](現状では、[[警察署]]や[[税務署]]、あるいは[[麻薬取締部]]のような[[執行機関]]を持たない。)
* 2020年[[持続化給付金]] - [[Go To キャンペーン|Go To イベント]]([[Go To キャンペーン]]) - [[事業復活支援金]]
* [[日本の行政機関]]
* [[キャリア (国家公務員)|キャリア]] - [[準キャリア]]<!--特許庁や中小企業庁等の採用者-->
* [[官僚たちの夏]]
<!--* [[海外産業人材育成協会]]→掲載意図が不明確-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|30em}}
===出典===
{{Reflist|25em}}
== 外部リンク ==
* {{official website|name=経済産業省}}
* {{Twitter|meti_NIPPON}}
* {{Twitter|keizaikaiseki|経済解析室}}
* {{Twitter|openmeti|経済産業省DXオフィス}}
* {{Twitter|openmeti_e|IT Prj Office, Japan}}
* {{Twitter|kochijiko|リコール・製品事故情報(経産省)}}
* {{Twitter|shienteam|福島復興推進グループ/原子力被災者生活支援チーム}}
* {{Twitter|psawardmeti|製品安全対策優良企業表彰}}
* {{Facebook|meti4students|経済産業省(学生向け)}}
* {{YouTube|user=metichannel}}
{{中央省庁}}
{{経済産業省}}
{{原子力人材育成ネットワーク}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:けいさいさんきようしよう}}
[[Category:経済産業省|*]]
[[Category:日本の国際通商]]
[[Category:化学安全]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:1949年設立の政府機関|つうしようさんきようしよう]]
[[Category:2001年設立の政府機関]] | 2003-03-05T00:22:07Z | 2023-12-14T17:18:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%94%A3%E6%A5%AD%E7%9C%81 |
3,418 | 環境省 | 環境省(かんきょうしょう、英: Ministry of the Environment、略称: MOE)は、日本の行政機関のひとつ。環境の保全・整備、公害の防止、原子力安全政策を所管する。
環境省設置法に定められた上記の任務を達成するため、同法第4条は環境省がつかさどる事務を計26号にわたって規定している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
環境省の内部組織は一般的に、法律の環境省設置法、政令の環境省組織令及び省令の環境省組織規則が階層的に規定している。 本省内部部局は、中央合同庁舎第5号館3階及び22階から26階に所在している。
地方支分部局として地方環境事務所をおく(法律第12条)。
環境省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、国立環境研究所、環境再生保全機構の2法人である。
環境省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、中間貯蔵・環境安全事業株式会社のみである。これは、株式会社の形態で設立された特殊会社である。
環境省が主管する特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない。
環境省が主管する認可法人、地方共同法人及び特別の法律により設立される法人は存在しない。
2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における環境省所管の歳出予算は3257億5415万7千円である。組織別の内訳は本省が2704億8671万5千円、地方環境事務所が75億910万4千円、原子力規制委員会が477億5833万8千円となっている。共通費を除く主な科目は「石油石炭税財源エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(本省)が1290億500万円、「廃棄物処理施設整備費」(本省)が376億437万4千円、「電源開発促進税財源原子力安全規制対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(原子力規制委員会)が335億3500万円などとなっている。
歳入予算は30億7778万2千円で、全額が雑収入である。
環境省は、内閣府、文部科学省及び経済産業省とエネルギー対策特別会計を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、環境省全体で2,946人(男性2,344人、女性523人)である。うち、本省(地方環境事務所を含む)が1,980人(男性1,534人、女性446人)、原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む。)966人(男性810人、女性156人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた環境省の定員は特別職1人を含めて3,336人である。本省および各外局別の定員は省令の環境省定員規則が、本省2,215人、原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関の職員の定員)1,121人、合計3,336人と規定する。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職17人、一般職2,064人の計2,081人である。一般会計の予算定員の機関別内訳は環境省本省が1,057人、地方環境事務所638人 原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む)386人である。特別会計の予算定員は、エネルギー対策特別会計(環境省所管分)が740人(すべて原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関))、東日本大震災復興特別会計(環境省所管分)が531人(すべて地方環境事務所)である。
環境省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体1となっている。組合員数は8人、組織率は0.3%となっている。組織率は13府省2院の平均である38.3%を38ポイント下回っている。2000年代は2009年度末まで職員団体の組織率が2割程度で推移していたが、2010年度、一挙に0%になっている。過去にあった労組は全環境省労働組合(略称:全環境)で、連合・全労連いずれにも属さない中立系組合であった。その後再度組織されたが極めて弱小である。
環境省の編集する白書には「環境白書」、「循環型社会白書」、「生物多様性白書」の3つがあり、それぞれ、環境基本法、循環型社会形成推進基本法および生物多様性基本法の規定により、毎年、政府が国会に提出することが定められた報告書と今後の施策文書を収録している。その内「環境白書」には環境基本法第12条に定められた「環境の状況及び政府が環境の保全に関して講じた施策に関する報告」と「環境の状況を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。循環型社会白書と生物多様性白書も同様の形式である。以前はそれぞれ市販本が発行されていたが、2009年(平成21年)版から3白書の市販版は合冊となっている。
ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.env.go.jp」である。定期刊行の広報誌としては、隔月刊の「エコジン」がある。2007年6月以前はぎょうせい発行の『かんきょう』が刊行されていたが、2007年7月から社団法人時事画報社発行で、隔月刊の「エコジン」に更新され、現在は環境省が発行し、株式会社文化工房が編集となっている。
一般職の幹部は以下のとおりである。
2018年8月28日、菅義偉内閣官房長官は、中央省庁の障害者雇用の水増し数を発表、全省庁水増し3,460人中、環境省は48人不足していた。
2022年4月5日、当省は「リバウンド警戒期間中」だった3月28日に環境経済課の職員12人が東京都内の飲食店で開催した懇親会で、うち20~30代の9人が新型コロナウイルス感染症に感染し、クラスターが発生したと発表した。 | [
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"text": "環境省が主管する独立行政法人は2023年4月1日現在、国立環境研究所、環境再生保全機構の2法人である。",
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"text": "環境省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、中間貯蔵・環境安全事業株式会社のみである。これは、株式会社の形態で設立された特殊会社である。",
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"text": "環境省が主管する特別の法律により設立される民間法人(特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない。",
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"text": "環境省が主管する認可法人、地方共同法人及び特別の法律により設立される法人は存在しない。",
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"text": "2023年度(令和5年度)一般会計当初予算における環境省所管の歳出予算は3257億5415万7千円である。組織別の内訳は本省が2704億8671万5千円、地方環境事務所が75億910万4千円、原子力規制委員会が477億5833万8千円となっている。共通費を除く主な科目は「石油石炭税財源エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(本省)が1290億500万円、「廃棄物処理施設整備費」(本省)が376億437万4千円、「電源開発促進税財源原子力安全規制対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(原子力規制委員会)が335億3500万円などとなっている。",
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"text": "環境省は、内閣府、文部科学省及び経済産業省とエネルギー対策特別会計を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管の東日本大震災復興特別会計を共管する。",
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"text": "一般職の在職者数は2022年7月1日現在、環境省全体で2,946人(男性2,344人、女性523人)である。うち、本省(地方環境事務所を含む)が1,980人(男性1,534人、女性446人)、原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む。)966人(男性810人、女性156人)となっている。",
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"text": "行政機関職員定員令に定められた環境省の定員は特別職1人を含めて3,336人である。本省および各外局別の定員は省令の環境省定員規則が、本省2,215人、原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関の職員の定員)1,121人、合計3,336人と規定する。",
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"text": "2023年度一般会計予算における予算定員は特別職17人、一般職2,064人の計2,081人である。一般会計の予算定員の機関別内訳は環境省本省が1,057人、地方環境事務所638人 原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む)386人である。特別会計の予算定員は、エネルギー対策特別会計(環境省所管分)が740人(すべて原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関))、東日本大震災復興特別会計(環境省所管分)が531人(すべて地方環境事務所)である。",
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"text": "環境省職員は一般職の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。",
"title": "職員"
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"text": "2022年3月31日現在、人事院に登録された職員団体の数は単一体1となっている。組合員数は8人、組織率は0.3%となっている。組織率は13府省2院の平均である38.3%を38ポイント下回っている。2000年代は2009年度末まで職員団体の組織率が2割程度で推移していたが、2010年度、一挙に0%になっている。過去にあった労組は全環境省労働組合(略称:全環境)で、連合・全労連いずれにも属さない中立系組合であった。その後再度組織されたが極めて弱小である。",
"title": "職員"
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{
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"text": "環境省の編集する白書には「環境白書」、「循環型社会白書」、「生物多様性白書」の3つがあり、それぞれ、環境基本法、循環型社会形成推進基本法および生物多様性基本法の規定により、毎年、政府が国会に提出することが定められた報告書と今後の施策文書を収録している。その内「環境白書」には環境基本法第12条に定められた「環境の状況及び政府が環境の保全に関して講じた施策に関する報告」と「環境の状況を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。循環型社会白書と生物多様性白書も同様の形式である。以前はそれぞれ市販本が発行されていたが、2009年(平成21年)版から3白書の市販版は合冊となっている。",
"title": "広報"
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"text": "ウェブサイトのURLのドメイン名は「www.env.go.jp」である。定期刊行の広報誌としては、隔月刊の「エコジン」がある。2007年6月以前はぎょうせい発行の『かんきょう』が刊行されていたが、2007年7月から社団法人時事画報社発行で、隔月刊の「エコジン」に更新され、現在は環境省が発行し、株式会社文化工房が編集となっている。",
"title": "広報"
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"text": "一般職の幹部は以下のとおりである。",
"title": "幹部"
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"text": "2018年8月28日、菅義偉内閣官房長官は、中央省庁の障害者雇用の水増し数を発表、全省庁水増し3,460人中、環境省は48人不足していた。",
"title": "不祥事"
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"text": "2022年4月5日、当省は「リバウンド警戒期間中」だった3月28日に環境経済課の職員12人が東京都内の飲食店で開催した懇親会で、うち20~30代の9人が新型コロナウイルス感染症に感染し、クラスターが発生したと発表した。",
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}
] | 環境省は、日本の行政機関のひとつ。環境の保全・整備、公害の防止、原子力安全政策を所管する。 | {{otheruses}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 環境省
|公用語名 = かんきょうしょう
|英名 = Ministry of the Environment
|紋章 = Logo of MOE.svg
|紋章サイズ = 240px
|画像 = Central Gov't Bldg. No.5.jpg
|画像サイズ = 230px
|画像説明 = 環境省が設置される[[中央合同庁舎第5号館]]
|主席閣僚職名 = [[環境大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[伊藤信太郎]]
|次席閣僚職名 = [[環境副大臣|副大臣]]
|次席閣僚氏名 = [[八木哲也]]<br/>[[滝沢求]]
|補佐官職名 = [[環境大臣政務官|大臣政務官]]
|補佐官氏名 = [[朝日健太郎]]<br/>[[国定勇人]]
|次官職名 = [[環境省#環境事務次官|事務次官]]
|次官氏名 = [[和田篤也]]
|上部組織 = 上部組織
|上部組織概要 = [[内閣 (日本)|内閣]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/satei_01_05_3.pdf 我が国の統治機構] 内閣官房 2022年3月22日閲覧。</ref>
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[環境省大臣官房|大臣官房]]<br/>[[総合環境政策統括官]]<br/>[[地球環境局]]<br/>[[水・大気環境局]]<br/>[[自然環境局]]<br/>[[環境再生・資源循環局]]
|下部組織2 = [[審議会等]]
|下部組織概要2 = [[中央環境審議会]]<br/>公害健康被害補償不服審査会<br/>有明海・八代海総合調査評価委員会<br/>国立研究開発法人審議会
|下部組織3 = [[施設等機関]]
|下部組織概要3 = [[環境調査研修所]]
|下部組織4 = [[特別の機関]]
|下部組織概要4 = 公害対策会議
|下部組織5 = [[地方支分部局]]
|下部組織概要5 = [[地方環境事務所]]
|下部組織6 = [[外局]]
|下部組織概要6 = [[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]
|所在地 = {{color|red|〒}}100-8975<br/>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]1-2-2<br/>中央合同庁舎第5号館
|位置 = <small>{{coord|35.673386|139.753148|scale:10000|display=inline,title}}</small>
|定員 = 3,336人<ref name="定員令">{{Egov law|344CO0000000121|行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)(最終改正、令和5年3月30日政令第90号)}}</ref>
|年間予算 = 3257億5415万7千円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref>
|会計年度 = 2023
|設置年月日 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]
|改称年月日 =
|前身 = [[総理府]]環境庁
|ウェブサイト = {{Official website|name=環境省}}
|その他 =
}}
'''環境省'''(かんきょうしょう、{{lang-en-short|Ministry of the Environment}}、略称: '''MOE''')は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ<ref>[https://www.goo.ne.jp/green/business/word/ecoword/E00331.html 環境省とは] 緑のgoo 2021年3月27日閲覧。</ref>。[[環境]]の保全・整備、[[公害]]の防止、[[原子力]]安全政策を所管する<ref group="注釈">「[[地球]]環境保全、[[公害]]の防止、[[自然環境]]の保護及び整備その他の[[環境]]の保全(良好な環境の創出を含む)並びに[[原子力]]の研究、開発及び利用における安全の確保を図ること」([[環境省設置法]]第3条)</ref>。
== 所掌事務 ==
[[環境省設置法]]に定められた上記の任務を達成するため、同法第4条は環境省がつかさどる事務を計26号<ref group="注釈">第1号から第25号までであるが、第4号は削除、枝番号として第19号の2及び第24号の2があるため、26号となる。</ref>にわたって規定している。具体的には以下の事項に関する事務がある。
{{div col}}
*[[環境政策学|環境保全政策]](第1号)
*環境の保全に関する関係行政機関の事務の調整(第2号)
*地球環境保全に関する行政機関の経費および試験研究委託費の配分計画(第3号)
*国土利用計画の環境保全分野(第5号)
*特定有害廃棄物等の輸出入・運搬および処分の規制(第6号)
*[[南極]]地域の環境保護(第7号)
*[[環境基準]]の設定(第8号)
*[[公害]]防止のための規制(第9号)
*公害に係る健康被害の補償および予防(第10号)
*公害の防止のための事業に要する費用の事業者負担に関する制度(第11号)
*自然環境が優れた状態を維持している地域における当該自然環境の保全(第12号)
*自然公園および[[温泉]]の保護・整備(第13号)
*[[名勝|景勝地]]および[[国民休養地|休養地]]ならびに[[自然公園|公園]]の整備(第14号)
*[[皇居外苑]]、[[京都御苑]]および[[新宿御苑]]ならびに[[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]の維持および管理(第15号)
*野生動植物・鳥獣の保護および狩猟の適正化その他[[生物多様性]]の確保(第16号)
*人の飼養に係る動物の愛護ならびに当該動物による人の生命、身体および財産に対する侵害の防止(第17号)
*自然環境の健全な利用のための活動の増進(第18号)
*廃棄物の排出の抑制および適正な処理ならびに清掃(第19号)
*[[原子力事故|原子炉事故]]により放出された放射性物質による環境の汚染への対処(第19号の2)
*[[石綿]]による健康被害の救済(第20号)
*第1号から第20号に規定するほか、専ら環境の保全を目的とする事務および事業(第21号)
*[[温室効果ガス]]排出の抑制、オゾン層の保護(第22号イロ)
*工場立地・化学物質・農薬の規制(第22号ホヌヲ)
*[[放射性物質]]の監視および測定(第22号チ)
*原子力利用の安全確保に関すること(第24号)
{{div col end}}
== 沿革 ==
* [[1956年]]([[昭和]]31年)5月1日 - [[水俣病]]正式発見。
* [[1964年]](昭和39年)3月27日 - [[閣議 (日本)|閣議]]決定により、公害対策推進連絡会議を設置。
* [[1967年]](昭和42年)8月3日 - 公害対策基本法が公布・同日施行。
* [[1970年]](昭和45年)7月31日 - [[内閣 (日本)|内閣]]に'''公害対策本部'''を設置。
** 11月24日 - 召集の第64回国会において公害対策関連14法案が成立。この[[国会 (日本)|国会]]は[[公害国会]]の異名をとった<ref>{{ja icon}} {{Cite web|和書
| title = [[環境白書]] (4) 環境庁の設置 ア 公害対策本部の設置と公害国会
| publisher = 環境省
| url = https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/honbun.php3?kid=211&bflg=1&serial=10932
| date =
| accessdate = 2015-07-24 }}</ref>。
** 12月28日 - [[佐藤栄作]][[内閣総理大臣|首相]]が環境保護庁(仮称)の新設を裁定。
* [[1971年]](昭和46年)1月8日 - '''環境庁'''の新設を閣議了解。
** 7月1日 - [[総理府]]の外局として環境庁が発足<ref>{{ja icon}} {{Cite web|和書
| title = 昭和46年(1971)7月 環境庁が発足する 日本のあゆみ
| publisher = 国立公文書館
| url = https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s46_1971_01.html
| date =
| accessdate = 2020-12-17 }}</ref>。[[内閣官房|内閣公害対策本部]]([[総理府]]公害対策室を含む)、[[厚生省]]([[厚生労働省大臣官房|大臣官房]]国立公園部、[[医薬・生活衛生局|環境衛生局]]公害部)、[[経済産業省|通商産業省]]([[産業技術環境局|公害保安局]]公害部)、[[経済企画庁]]([[国民生活局]]の一部)、[[林野庁]](指導部造林保護課の一部)などの環境関係部署が統合した。
* [[2001年]]([[平成]]13年)1月6日 - [[中央省庁再編]]により環境庁を改組し、'''環境省'''設置。厚生省より、廃棄物処理行政を移管した。
* [[2005年]](平成17年)10月1日 - [[内部部局]]として「[[水・大気環境局]]」(環境管理局を改組)を、[[地方支分部局]]として「[[地方環境事務所]]」{{Efn|[[自然保護事務所]]と地方環境対策調査官事務所を統合。}}を設置。
* [[2012年]](平成24年)9月19日 - 原子力規制委員会設置法が施行され、任務に「原子力の研究、開発及び利用における安全の確保」が加わる。対応する組織として、[[外局]]の[[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]]を設置。同委員会には事務局として[[原子力規制委員会 (日本)#原子力規制庁|原子力規制庁]]が置かれた。
* [[2013年]](平成25年)7月 - [[情報漏洩]]事件発生{{refnest|group="注釈"|2013年7月、環境省、[[復興庁]]、[[農林水産省]]、[[国土交通省]]、[[厚生労働省]]でクラウドストレージにおけるファイル共有設定のミスにより、内部のメールやファイルが誰でも見られる状態となっていた。これらの情報には各省庁の機密データだけでなく、医療機関の患者情報など、個人情報も含まれていたことが当時、問題視された<ref>[https://eset-info.canon-its.jp/malware_info/special/detail/200324.html Googleドライブなどのクラウドストレージを使う際のセキュリティ対策 | サイバーセキュリティ情報局] キヤノンマーケティングジャパン株式会社</ref>。}}。
* [[2017年]](平成29年)7月14日 - [[総合環境政策局]]の廃止及び環境保健部の[[環境省大臣官房|大臣官房]]への移管、大臣官房廃棄物・リサイクル対策部の廃止、[[環境再生・資源循環局]]の新設などを柱とした組織改編を行う。
== 組織 ==
[[ファイル:Act No88 of 1971.jpg|thumb|200px|環境庁設置法(昭和46年法律第88号)御署名原本。]]
環境省の内部組織は一般的に、法律の環境省設置法、政令の環境省組織令及び省令の環境省組織規則が階層的に規定している。 本省内部部局は、[[中央合同庁舎第5号館]]3階及び22階から26階に所在している。
=== 幹部 ===
* [[環境大臣]](法律第5条)
* [[環境副大臣]]([[国家行政組織法]]第16条)(2人)
* [[環境大臣政務官]](国家行政組織法第17条)(2人)
* [[大臣補佐官|環境大臣補佐官]](国家行政組織法第17条の2)(1人以内、必置ではない)
* [[環境省#環境事務次官|環境事務次官]](国家行政組織法第18条)
* [[地球環境審議官]](法律第6条)
* [[秘書官|環境大臣秘書官]]
=== 内部部局 ===
{{div col}}
* [[環境省大臣官房|大臣官房]](政令第2条第1項)
** 秘書課(政令第12条第1項)
** 総務課
** 会計課
** 政策立案総括審議官
** サイバーセキュリティ・情報化審議官
** 審議官(6)
** 参事官(3)
** 環境保健部
*** 環境保健企画管理課
*** 環境安全課
*** 参事官
* [[地球環境局]]
** 総務課(政令第26条)
** 地球温暖化対策課
** 国際連携課
** 参事官
* [[水・大気環境局]]
** 総務課(政令第30条)
** 海洋環境課
** 環境管理課
** モビリティ環境対策課
* [[自然環境局]]
** 総務課(政令第36条)
** 自然環境計画課
** 国立公園課
** 自然環境整備課
** 野生生物課
*[[環境再生・資源循環局]]
**次長
**審議官(2)
**総務課
***リサイクル推進室
***[[循環型社会]]推進室
**廃棄物適正処理推進課
***浄化槽推進室
***放射線物質汚染廃棄物対策室
**廃棄物規制課
**参事官(4)
* [[総合環境政策統括官]]
** 総合政策課
** 環境経済課
** 環境影響評価課
{{div col end}}
=== 審議会等 ===
* [[中央環境審議会]](地球環境法、法律第7条)
* 公害健康被害補償不服審査会(公害健康被害の補償等に関する法律)
* 有明海・八代海総合調査評価委員会(有明海及び八代海等を再生するための特別措置に関する法律)
* 国立研究開発法人審議会
* 臨時水俣病認定審査会(政令第41条)
=== 施設等機関 ===
* [[環境調査研修所]](政令第42条)
=== 特別の機関 ===
* 公害対策会議(環境基本法、法律第11条)
=== 地方支分部局 ===
地方支分部局として[[地方環境事務所]]をおく(法律第12条)。
* [[北海道地方環境事務所]](政令第43条)
* [[東北地方環境事務所]]
* [[福島地方環境事務所]]
* [[関東地方環境事務所]]
* [[中部地方環境事務所]]
* [[近畿地方環境事務所]]
* [[中国四国地方環境事務所]]
* [[九州地方環境事務所]]
=== 外局 ===
* [[原子力規制委員会 (日本)|原子力規制委員会]](国家行政組織法、原子力規制委員会設置法)
** 原子炉安全専門審査会(第13条第1項)
** 核燃料安全専門審査会
** 放射線審議会(放射線障害防止の技術的基準に関する法律、同条第2項)
** 国立研究開発法人審議会
** [[原子力規制庁]](第27条第1項)(原子力規制委員会の事務局)
** [[原子力安全人材育成センター]](原子力規制委員会の施設等機関)
== 所管法人 ==
環境省が主管する[[独立行政法人]]は2023年4月1日現在、[[国立環境研究所]]、[[環境再生保全機構]]の2法人である<ref>{{Cite web|和書|title=独立行政法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871325.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。
環境省が主管する特殊法人は2023年4月1日現在、[[中間貯蔵・環境安全事業]]株式会社のみである<ref>{{Cite web|和書|title=所管府省別特殊法人一覧(令和5年4月1日現在)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000876791.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。これは、[[株式会社]]の形態で設立された[[特殊会社]]である。
環境省が主管する[[特別の法律により設立される民間法人]](特別民間法人)は2023年4月1日現在、存在しない<ref>{{Cite web|和書|title=特別の法律により設立される民間法人一覧(令和5年4月1日現在:34法人)|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000871326.pdf|format=PDF|publisher=総務省|accessdate=2023-05-05}}</ref>。
環境省が主管する[[認可法人]]、[[地方共同法人]]及び[[特別の法律により設立される法人]]は存在しない。
== 財政 ==
2023年度(令和5年度)[[一般会計]]当初予算における環境省所管の歳出予算は3257億5415万7千円である<ref name="予算" />。組織別の内訳は本省が2704億8671万5千円、地方環境事務所が75億910万4千円、原子力規制委員会が477億5833万8千円となっている。共通費を除く主な科目は「石油石炭税財源エネルギー需給構造高度化対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(本省)が1290億500万円、「廃棄物処理施設整備費」(本省)が376億437万4千円、「電源開発促進税財源原子力安全規制対策費エネルギー対策特別会計へ繰入」(原子力規制委員会)が335億3500万円などとなっている。
歳入予算は30億7778万2千円で、全額が雑収入である。
環境省は、[[内閣府]]、[[文部科学省]]及び[[経済産業省]]と[[エネルギー対策特別会計]]を共管している。また、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、デジタル庁、復興庁、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省所管<ref group="注釈">国の予算を所管するすべての機関である。なお人事院は予算所管では内閣に属するのでここにはない。</ref>の[[東日本大震災復興特別会計]]を共管する。
== 職員 ==
一般職の在職者数は2022年7月1日現在、環境省全体で2,946人(男性2,344人、女性523人)である<ref>{{PDFlink|[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/joukin_toukei.pdf 一般職国家公務員在職状況統計表]}}(令和4年7月1日現在)</ref>。うち、本省(地方環境事務所を含む)が1,980人(男性1,534人、女性446人)、原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む。)966人(男性810人、女性156人)となっている。
行政機関職員定員令に定められた環境省の定員は特別職1人を含めて3,336人である<ref name="定員令"></ref>。本省および各外局別の定員は省令の環境省定員規則が、本省2,215人、原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関の職員の定員)1,121人、合計3,336人と規定する<ref name="定員規則">{{Egov law|424M60001000028|環境省定員規則(平成24年9月21日環境省令第28号)]」(最終改正:令和4年3月25日環境省令第13号)}}</ref>。
2023年度一般会計予算における予算定員は特別職17人、一般職2,064人の計2,081人である<ref name="予算"></ref>。一般会計の予算定員の機関別内訳は環境省本省が1,057人、地方環境事務所638人 原子力規制委員会(原子力規制庁及び施設等機関を含む)386人である。特別会計の予算定員は、エネルギー対策特別会計(環境省所管分)が740人(すべて原子力規制委員会(事務局(原子力規制庁)及び施設等機関))、東日本大震災復興特別会計(環境省所管分)が531人(すべて地方環境事務所)<ref name="tokkai">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202312001.pdf 令和5年度特別会計予算]}} 財務省</ref>である。
環境省職員は一般職の[[国家公務員]]なので、[[労働基本権]]のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。[[団結権]]は保障されており、職員は[[労働組合]]として国公法の規定する「[[職員団体]]」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。
2022年3月31日現在、[[人事院]]に登録された職員団体の数は単一体1となっている<ref>[https://www.jinji.go.jp/hakusho/pdf/1-3-6.pdf 令和3年度 年次報告書(公務員白書) 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況。2022年3月31日現在。]</ref>。組合員数は8人、組織率は0.3%となっている。組織率は13府省2院の平均である38.3%を38ポイント下回っている。2000年代は2009年度末まで職員団体の組織率が2割程度で推移していたが、2010年度、一挙に0%になっている<ref>原田久 「公務員労働組合の機能」『最新 : 公務員制度改革』 学陽書房、2012年1月。</ref>。過去にあった労組は全環境省労働組合(略称:全環境)で、連合・全労連いずれにも属さない中立系組合であった。その後再度組織されたが極めて弱小である。
== 広報 ==
環境省の編集する[[白書]]には「[[環境白書]]」、「循環型社会白書」、「生物多様性白書」の3つがあり、それぞれ、環境基本法、循環型社会形成推進基本法および生物多様性基本法の規定により、毎年、[[日本国政府|政府]]が国会に提出することが定められた報告書と今後の施策文書を収録している。その内「環境白書」には環境基本法第12条に定められた「環境の状況及び政府が環境の保全に関して講じた施策に関する報告」と「環境の状況を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書」が収録される。循環型社会白書と生物多様性白書も同様の形式である。以前はそれぞれ市販本が発行されていたが、2009年(平成21年)版から3白書の市販版は合冊となっている。
[[ウェブサイト]]の[[Uniform Resource Locator|URL]]の[[ドメイン名]]は「<code>www.env.go.jp</code>」である。定期刊行の広報誌としては、隔月刊の「エコジン」がある。2007年6月以前は[[ぎょうせい]]発行の『かんきょう』が刊行されていたが、2007年7月から[[時事画報社|社団法人時事画報社]]{{Efn|2009年に事業停止。}}発行で、隔月刊の「エコジン」に更新され、現在は環境省が発行し、[[文化工房|株式会社文化工房]]が編集となっている。
== 歴代事務次官 ==
=== 環境事務次官 ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
|-
! 氏名
! 前職
! 在任期間
! 退任後の役職
|-
! colspan="4" | 環境事務次官(環境庁)
|-
| [[梅本純正]]
| 厚生事務次官
| [[1971年]](昭和46年)7月1日<br /> -[[1973年]](昭和48年)7月27日
| 内閣官房副長官、武田薬品工業社長
|-
| [[船後正道]]
| 企画調整局長
| [[1973年]](昭和48年)7月27日<br /> -[[1975年]](昭和50年)7月8日
| 中小企業金融公庫総裁
|-
| 城戸謙次
| 企画調整局長
| [[1975年]](昭和50年)7月8日<br /> -[[1978年]](昭和53年)6月23日
| 公害防止事業団理事長
|-
| 信澤清
| 企画調整局長
| [[1978年]](昭和53年)6月23日<br /> - [[1979年]](昭和54年)7月6日
| 公害防止事業団理事長
|-
| 上村一
| 企画調整局長
| [[1979年]](昭和54年)7月6日<br /> -[[1980年]](昭和55年)6月17日
| 社会福祉・医療事業団理事長、<br />医薬品副作用被害救済・研究振興基金理事長
|-
| [[金子太郎 (大蔵官僚)|金子太郎]]
| 企画調整局長
| [[1980年]](昭和55年)6月17日<br /> -[[1981年]](昭和56年)7月10日
| 丸三証券会長
|-
| [[藤森昭一]]
| 企画調整局長
| [[1981年]](昭和56年)7月10日<br /> -[[1982年]](昭和57年)11月27日
| 内閣官房副長官、宮内庁長官、<br />日本赤十字社社長
|-
| style="white-space:nowrap" |([[清水汪]])
|
| [[1982年]](昭和57年)11月27日<br /> -[[1982年]](昭和57年)11月30日<br /><small>企画調整局長による事務代理</small>
|
|-
| [[清水汪]]
| 企画調整局長
| style="white-space:nowrap" |[[1982年]](昭和57年)11月30日<br /> -[[1984年]](昭和59年)9月4日
| 農林中金総合研究所理事長<br>(財)地球・人間環境フォーラム理事長
|-
| 正田泰央
| 企画調整局長
| [[1984年]](昭和59年)9月4日<br /> -[[1985年]](昭和60年)9月3日
| 環境事業団理事長
|-
| 山崎圭
| 企画調整局長
| [[1985年]](昭和60年)9月3日<br /> -[[1986年]](昭和61年)9月5日
| [[バイエル薬品]]会長
|-
| [[岡崎洋]]
| 企画調整局長
| [[1986年]](昭和61年)9月5日 <br /> -[[1987年]](昭和62年)10月9日
| 神奈川県知事
|-
| 加藤陸美
| 企画調整局長
| [[1987年]](昭和62年)10月9日<br /> -[[1988年]](昭和63年)7月15日
| 社会福祉・医療事業団理事長
|-
| [[森幸男]]
| 企画調整局長
| [[1988年]](昭和63年)7月15日<br /> - [[1990年]](平成2年)7月10日
| 東宮大夫、宮内庁次長
|-
| [[安原正]]
| 企画調整局長
| [[1990年]](平成2年)7月10日<br /> -[[1991年]](平成3年)7月9日
| 農林漁業金融公庫副総裁、山種証券会長
|-
| 渡辺修
| 企画調整局長
| [[1991年]](平成3年)7月9日<br /> - [[1993年]](平成5年)6月29日
| 環境事業団理事長
|-
| [[八木橋惇夫]]
| 企画調整局長
| [[1993年]](平成5年)6月29日<br /> - [[1994年]](平成6年)7月15日
| 商工組合中央金庫副理事長、日本酒類販売副社長、<br />沖縄振興開発金融公庫理事長
|-
| [[森仁美]]
| 企画調整局長
| [[1994年]](平成6年)7月15日<br /> - [[1995年]](平成7年)7月4日
| 年金福祉事業団理事長、年金資金運用基金理事長
|-
| [[石坂匡身]]
| 企画調整局長
| [[1995年]](平成7年)7月4日<br /> - [[1996年]](平成8年)7月5日
| 自動車保険料率算定会副理事長、石油公団副総裁、<br />(社)日本損害保険協会副会長、(財)大蔵財務協会理事長
|-
| 大西孝夫
| 企画調整局長
| [[1996年]](平成8年)7月5日<br /> -[[1998年]](平成10年)1月9日
| (財)休暇村協会理事長
|-
| 田中健次
| 企画調整局長
| [[1998年]](平成10年)1月9日<br /> -[[1999年]](平成11年)7月27日
| 環境再生保全機構理事長
|-
| [[岡田康彦]]
| 企画調整局長
| [[1999年]](平成11年)7月27日<br /> - [[2001年]](平成13年)1月5日
| 住宅金融公庫副総裁、(社)全国労働金庫協会理事長
|-
! colspan="4" | 環境事務次官(環境省)
|-
| 太田義武
| 企画調整局長
| [[2001年]](平成13年)1月6日<br /> -[[2002年]](平成14年)1月8日
| みずほコーポレート銀行顧問
|-
| [[中川雅治]]
| 総合環境政策局長
| [[2002年]](平成14年)1月8日<br /> - [[2003年]](平成15年)7月1日
| 参議院議員、[[環境大臣]]兼[[内閣府特命担当大臣(原子力防災担当)]]
|-
| 炭谷茂
| 総合環境政策局長
| [[2003年]](平成15年)7月1日<br /> -[[2006年]](平成18年)9月5日
| (財)休暇村協会理事長、社会福祉法人恩賜財団済生会理事長
|-
| [[田村義雄]]
| 総合環境政策局長
| [[2006年]](平成18年)9月5日<br /> -[[2008年]](平成20年)7月22日
| 在クロアチア特命全権大使
|-
| [[西尾哲茂]]
| style="white-space:nowrap" |総合環境政策局長
| [[2008年]](平成20年)7月22日<br /> -[[2009年]](平成21年)7月14日
| [[明治大学]]教授
|-
| [[小林光 (1949年生)|小林光]]
| 総合環境政策局長
| [[2009年]](平成21年)7月14日<br /> -[[2011年]](平成23年)1月7日
| [[慶應義塾大学]]教授
|-
| [[南川秀樹]]
| [[地球環境審議官]]
| [[2011年]](平成23年)1月7日<br /> -[[2013年]](平成25年)7月2日
| 福島中間貯蔵等連絡調整推進本部本部長<br>一般財団法人[[日本環境衛生センター]]理事長
|-
| [[谷津龍太郎]]
| 地球環境審議官
| [[2013年]](平成25年)7月2日<br /> -[[2014年]](平成26年)7月8日
| [[中間貯蔵・環境安全事業]]株式会社代表取締役社長
|-
| [[鈴木正規]]
| [[環境省大臣官房|官房長]]
| [[2014年]](平成26年)7月8日<br /> -[[2015年]](平成27年)7月31日
| [[イオン (企業)|イオン]]株式会社執行役総合金融事業担当、[[イオン銀行]]代表取締役会長、[[イオンフィナンシャルサービス]]代表取締役会長、[[イオンクレジットサービス]]取締役、[[AFSコーポレーション]]代表取締役会長<ref>[http://www.aeonfinancial.co.jp/corp/exec/exec_01.html 会社情報 役員]</ref>
|-
| [[関荘一郎]]
| 地球環境審議官
| [[2015年]](平成27年)7月31日<br /> -[[2016年]](平成28年)6月17日
| 公益財団法人[[日本産業廃棄物処理振興センター]]理事長<br>東京大学国際高等研究所サステイナビリティ学連携研究機構特任研究員<br>中央大学研究開発機構客員教授
|-
| [[小林正明 (環境官僚)|小林正明]]
| 地球環境審議官
| [[2016年]](平成28年)6月17日<br /> -[[2017年]](平成29年)7月14日
| 中間貯蔵・環境安全事業社長<ref>[https://www.env.go.jp/press/105476.html 中間貯蔵・環境安全事業株式会社の人事について(お知らせ)]</ref>
|-
| [[森本英香]]
| 官房長
| [[2017年]](平成29年)7月14日<br /> - [[2019年]](令和元年)7月9日
| 一般財団法人持続性推進機構理事長
|-
| [[鎌形浩史]]
| 官房長
| [[2019年]](令和元年)7月9日<br /> - [[2020年]](令和2年)7月21日
|
|-
| [[中井徳太郎]]
| style="white-space:nowrap" |総合環境政策統括官
| [[2020年]] (令和2年) 7月21日<br /> - [[2022年]] (令和4年) 7月1日
|
|-
| [[和田篤也]]
| 総合環境政策統括官
| [[2022年]] (令和4年) 7月1日<br />
|
|}
== 幹部 ==
一般職の幹部は以下のとおりである。
* 事務次官:[[和田篤也]]
* 地球環境審議官:松澤裕
* 大臣官房長:上田康治
* 大臣官房政策立案総括審議官:[[大森恵子]]
* 大臣官房環境保健部長:神ノ田昌博
* 総合環境政策統括官:[[鑓水洋]]
* 地球環境局長:秦康之
* 水・大気環境局長:土居健太郎
* 自然環境局長:白石隆夫
* 環境再生・資源循環局長:前仏和秀
* 同次長:角倉一郎
== 不祥事 ==
; 障害者雇用水増し
2018年8月28日、[[菅義偉]][[内閣官房長官]]は、中央省庁の障害者雇用の水増し数を発表、全省庁水増し3,460人中、環境省は48人不足していた。 {{main|障害者雇用水増し問題}}
; 懇親会でクラスター発生
2022年4月5日、当省は「リバウンド警戒期間中」だった3月28日に環境経済課の職員12人が東京都内の飲食店で開催した懇親会で、うち20~30代の9人が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]に感染し、クラスターが発生したと発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20220405080322/https://nordot.app/883985536612466688?c=39550187727945729 「環境省職員9人、懇親会でクラスター」]【共同通信】2022年4月5日付</ref><ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/765780 「環境省懇親会でクラスター 9人、感染対策不十分」]【京都新聞】2022年4月5日付</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|25em}}
===出典===
{{reflist|25em}}
== 関連項目 ==
{{div col}}
* [[日本の行政機関]]
* [[クールビズ]]
* [[日本の音風景100選]]
* [[レッドデータブック (環境省)|レッドデータブック]]
* [[日本の国立公園]]
* [[君野イマと君野ミライ]]
* [[国民公園]]
* [[エコチル調査]]
* [[清掃工場]]
* [[下水処理場]]
* [[最終処分場]]
* [[エネファーム]]
* [[バイオ燃料]]
* [[グッドライフアワード]]
{{div col end}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|name=環境省}}
* {{Twitter|Kankyo_Jpn}}
* {{Facebook|KankyoJpn.gov}}
* {{YouTube|user=kankyosho}}
{{中央省庁}}
{{環境省}}
{{原子力人材育成ネットワーク}}
{{公害}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かんきようしよう}}
[[Category:環境省 (日本)|*]]
[[Category:環境省]]
[[Category:化学安全]]
[[Category:環境安全]]
[[Category:原子力安全]]
[[Category:災害対策基本法指定行政機関]]
[[Category:2001年設立の政府機関]] | 2003-03-05T00:27:32Z | 2023-12-30T05:44:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E7%9C%81 |
Subsets and Splits
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